私は今、目の前の食材と睨み合っている。特に嫌いなものというわけでもない。だが、それを食すわけにもいかないのも事実だったのだ。横では我が妻が狂気を含んだ愛の眼差しを向けている。彼女の服の腹の辺りは血塗れている。それこそが、今私がこうしている原因でもあるのだ。
嗚呼、どうしてこのようになってしまったのだろうか。私は目を閉じ、ここまでのことを振り返る。
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元々私は人里のそこそこ有名な農家の長男として生まれた。本家の次期家督となることから、寺子屋に優先的に行き、成績優秀な生徒として卒業した。
寺子屋最後の日の帰り道、私は人里に合わない華麗な服を着た女性に出会った。彼女は私に「医者にならないかしら」と問いかけた。私は何の考えも無しにはいと答えてしまった。次の瞬間、頑張りなさいと言う彼女の声は歪み、私はどこかわけのわからぬ場所に放り出された。そこは所謂人間界、すなわち外の世界であった。
私が放り出されたのはマンションと呼ばれる集合住宅の一室だった。生活に必要な家具はすべて揃っていた。それぞれの家具には使い方が書かれた紙が貼ってあった。私が見たこともないものも多かったが、使い始めてみるとそれらはとても便利であった。
次に私は机の上に置いてあった封筒を開けた。中には私の身分証などが入っていた。もちろん全て偽造である。私に与えられた名前と地位は、前野良太、某総合大学の学生だ。「前野良太」は外科医を目指しているらしく、専門書が本棚に並んでいた。
わけのわからぬままに大学へ通い、わけのわからぬままに大学院へ進学し、とうとう医師の資格を取ることに成功した。もちろん、勉強はした。資格を取得するのに妥当な実力はあるが、これをどうすれば良いのかわからなかった。資格証明を貰った帰りに、あの女が現れ、再び幻想郷に帰ることになった。彼女曰く、学ぶべきことは学んだからそれで良いとのことだが、私も友人や知り合い、彼女といった多くの人に別れの挨拶をする暇もなく、送還されてしまった。
帰ってきてすぐ、私は実家に帰った。しかしそこには別の家族が住んでいた。懐かしき隣の八百屋によると、3年ほど前に分家と相続で争って一家全員が人里から追い出されたらしい。しかもその分家は本家の男を悉く殺害し、そして殺しそびれた私を今も捜しているという。私は没落した家の長男に今までと同じように親切に対応してくれた八百屋に感謝し、人里を去った。
人里では刺客の危険があったが、そもそもここは幻想郷。人里以外の多くの場所は夜になれば妖怪が跋扈する。昼過ぎの今も私は路頭に迷っていた。ただ足元の石を川に投げるが、全く良い考えは浮かばなかった。
「あら、帰れなかったみたいね。」
「貴女は…」
あの女だ。私は憎しみを込めて彼女を睨んだ。
「そんなに睨みつけないでくれるかしら。」
そうは言いながら身動ぎ一つせず、微笑みながら私の前に立つ彼女は神か何かのようにしか見えない。思えばそうだ、私の人生は彼女に狂わされたのだ。しかしまた別の見方をすると、彼女のおかげで災厄を受けずに済んだこともあり、命の恩人でもある。私は黙って俯いた。
「落ち着いたみたいね。このまま貴方を死なせるわけにはいかないから、私の方で手を打つわ。」
ついてきなさい、と彼女は私に手を差し伸べた。一瞬ためらったが、これに縋る以外に生き残る術は無い。私は彼女の手を強く握った。
「着いたわ」
3回目でも全く慣れない彼女の能力を使用した移動で着いたのは永遠亭だった。かつて私も来たことがある。門を開けて出迎えてきた兎にも見覚えがあった。
「あっ、師匠を呼んできます。」
彼女が建物に戻ってしばらくして、師匠と呼ばれるらしい別の女性が出てきた。見覚えのある顔だが名前を思い出せない。
「あら、ようやく『完成』かしら。」
「ええ。人里に放り込んでおけば良いかと思ったけど、彼の家は潰れちゃったみたい。悪いけど、そっちで何とかしてくれるかしら。」
「わかったわ。そこの君、来なさい」
私は会話の意味もわからぬまま永遠亭の「師匠」についていった。玄関を上がる時、振り返って見るとあの女は居なくなっていた。
「さてと、名前がわからないとどうしようもないわね。私は八意永琳よ。ここで薬師をしているわ。貴方は?」
そうだ、八意先生だ。置き薬を作っていたあの人だ。
「前野良太です。」
「前野君ね。今度からマエノと呼ぶわ。よろしくね、マエノ」
「よろしくお願いします、八意先生。」
その日の晩は永遠亭の世話になった。ここの主の姫は『竹取物語』の香久耶姫本人らしく、蓬莱山輝夜と普段は名乗っているらしい。見覚えのある出迎えの兎は鈴仙=優曇華院=イナバ、如何にも小賢しそうな兎は因幡てゐと言うらしい。案の定因幡の方からは落とし穴の洗礼を受けることとなった。もちろん、それ相応の報復をしたが。
翌朝から、永遠亭の敷地内に私の家を建てる工事が始まった。労働力はいずれも兎で、本当に建つのか心配であったが、一週間ほどで竹林の中に昔ながらの造りの家が建った。八意先生曰く、ここで外科医の仕事ができるように少し広めに造ったらしい。次の日には荷物を運び込み、開業の準備を始めた。
永遠亭の協力もあり、引越しから開業までひと月もかからなかった。外科医の仕事が比較的少ない幻想郷では、人間界で言うところの内科以外の診療を行うことになった。後でわかったことだが、八意先生は外科的な治療もでき、技量はあるらしいのだが、前々から助手が欲しかったらしい。それをあの女-八雲紫というらしい-に漏らしたところ、ちょうど気分で外界留学させられていた私が選ばれたということのようだ。理不尽なことではあったが、これが皮肉にも私一人をこの世に残す原因となったのだ。運命の悪戯を感じずにはいられなかった。
瞬く間に私の存在は人里の保守的かつ排他的な社会に知れ渡った。八意先生のお墨付きということで、専門外の仕事でも八意先生が多忙で手がつけられないときは私が担当することになった。診療所に行列ができることはなかったが、それでも下手な藪医者から反感を買うほどに多くの人がここに来るのだった。
ところで、ここの主人のかぐや姫は八意先生の過保護さゆえかあまり外に出ない。しかし、たまに夜になると外に出ては傷だらけになって帰ってくるのだった。
「姫様、大丈夫ですか!」
「この程度なら大丈夫よ。」
私が慌てていると、八意先生が来て言った。
「蓬莱人は不死だから、どんな傷を受けても死ぬことはない。私が何もしなくても、きっと明日の朝には元通り。気にしなくてもいいわ。」
蓬莱人の話は聞いたことがある。とは言っても、大学での一般教養講義中の話であり、教授が妙に熱を込めて言っていたことしか覚えていない。
「お前ら、蓬莱人になるってことはな、死んだも一緒なんだよ。わかるか?周りの仲良い友人ばかりが死んでいくんだ。寂しいなんてものじゃないだろうし、周りの人からは白い目で見られる。本当に不死が良いのか、この登場人物たちは考え直したのだろう。だから、不死の薬は富士の山で焼いて正解だったんだよ。」
その憂さ晴らしにどこかで派手に戦ってきているのだろうが、職業柄あの傷を放っておくのも心が痛む。とはいえ、姫様は放っておいてほしいと仰る。もやもやしたまま私は寝床についた。
翌朝廊下ですれ違った姫様は、本当に元通りになっていた。流石に服は元に戻らないらしく、ボロボロの服を畳んだものを持っていた。
「姫様、本当に大丈夫ですか?」
「いつものことよ。」
ただそれだけ言って、八意先生の部屋にお行きになった。私にはいったい何がどうなったら一晩で傷が治るのかわからなかった。現実に存在した蓬莱人、彼女たちはどのような思いで生活し、あるいは戦っているのだろうか。時がたっても解することはできまい。それだけはわかった。
診療所を開いてからはや一月、幼少期は関わらないようにしていた紅魔館から医学書を譲り受けた。医学典範や解体新書などの旧い書物は役には立たないが、それをもとに施術内容を説明することが多かったため、非常に助かった。紅魔館の人間メイドである十六夜咲夜の検診も受け持つことになり、幼少期に忌避していたのが嘘のように親しく付き合うようになった。
何もかもが順風満帆で、充実した日々を送っていたある日、私は八意先生から一人の女性を紹介された。藤原妹紅、後に我が妻となる女性だ。八意先生は、人間の一生は限られているのだから、そろそろ身を固めた方が良いということで、お見合いさせるつもりだったらしいが、八意先生にはどこか裏があるような気がした。無論、唐突な話を即決で進めるわけにはいかないので、まずは交際なら、と紹介を受けた。
妹紅とは少しずつ打ち解けていった。最初はとてもぎこちなく接していたが、次第に滑らかに、そしてお互いの考えが言葉にせずとも伝わるようになっていった。私が空腹を感じた時、妹紅はさっと差し入れを持ってくる。妹紅が疲れていると見える時には私は的確にマッサージをする。知らないうちに、私たちは一心同体となっていた。だから、結ばれるにはさほど時間はかからなかった。
春の博麗神社で婚姻して、私は妻の家から永遠亭へ出勤する形となった。当然、通勤するのだから道中に妖怪が出現することもある。時に猛獣や、人型の人食い妖怪など、命に関わるものまで出てくるのだから、私のような一般人が一人で行き来するわけにはいかない。だから、我が妻が毎日私を送迎してくれた。今日は何があり、どうするのか、また何があってどうなったのか、そういうことを話しながら歩いていくのは楽しかった。密かな楽しみであった。
ところで、私は目を背けてきたことがある。寿命の差だ。これは蓬莱人とそうでない者が関係を持つ以上、避けられない問題だった。人間は約130年ほど生きられる生物らしいが、それだけ生きたところで、永遠を生きたとは言えない。勿論、現在の私が永遠に生きることは理論的には可能だ。いわゆる不老不死の薬を飲むか、蓬莱人の肝、すなわち我が妻の肝臓を食べれば可能である。しかし、前者は八意先生だから作れるものであり、そう簡単には作ってくれないだろう。そもそも、姫様が現在地球にいるのは、姫様が蓬莱の薬を飲んだ罪で月から追放されたからで、それが罪になるのであれば、やはり不老不死の存在は増えるべきではないのだろう。後者に至っては、我が妻の腹を切り裂き、その肝を抜き取り、それを喰らうということになる。妻はきっと受け入れてくれるだろうが、それ以前に私は医者である。健康な人の身体を切り裂き、しかも健康な臓器を取り出し、食べるだなどできるはずがない。私の医者としての沽券に関わる。そう、私はヒトとしての一生を全うする他の選択はできなかったのだ。そして、できたところでしなかっただろう。
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3年ほど経って一月ほど前、遂に契りを結んだ。蓬莱人に子ができるのかは謎だが、とにかく契りを結んだ。事後、私たちは遂に問題に向き合うことになった。
「いつかは死ぬの?」
「ああ。それにいかに接するか、それが私の医者としての仕事だ。」
私は肌蹴た服を整え、布団から出た。曇り空で、外は殆ど見えないが、近くの川には蛍が飛んでいる。何を迷ったのか、水辺にいるはずの蛍が水などないはずのこちらへ飛んでくる。それは私の手にとまると、そのまま光らなくなった。
「どうにか…できないの?」
「できない。医者にできることは延命だ。不老不死にすることはできない。できたとしても、医者としてして良いこととしてはいけないことがある。それが、医療倫理というやつだ。」
大学に通っていたころ、西洋倫理を専攻する友人がいた。理系の私にも、彼の説明はわかりやすく、また同意できるものだった。
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「倫理というのは、ヒトとしてではなく人として生きていく方法を考える学問なんだ。君たち医者を目指す者は我々をヒトとして見る。けれど、俺たちは我々を人として見る。言い方を変えると、『できる事』と『して良い事』の違いを考える学問なんだ。例えばES細胞。そうだろ?」
なるほど、と私は頷いた。ES細胞は確かにあらゆる体細胞に分化できる魔法のような細胞だ。けれど、その素材は受精卵であり、受精卵ということはすでに存在する生命である。だから、それを壊して素材にすることは、見方を変えれば殺人にすらなり得る。技術的には「できる事」でも、人間としては「できない事」だ。
「ヒトが人であるということは、そういう倫理があるからじゃないかな。」
「ヒトが人である…」
「倫理がなければそいつは霊長類というだけでただの猿。知識と思考に強いオランウータンなんだ。」
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そう、私はオランウータンではない。だから私は蓬莱人になるわけにはいかない。全てはそこにある。
「頼むから…置いていかないで」
私は布団に再び引きずり込まれた。その後、妻は泣き出してしまった。ただひたすら、「置いていかないで」と繰り返すだけだった。一晩中、慟哭する妹紅の背中をさすり続けた。
翌朝、私はいつも通りに出勤した。いつもは話しながら歩くのだが、この日は無言だった。永遠亭の前では姫様が待っていた。結婚してから知ったのだが、動機からしていつも妻の方から喧嘩を仕掛けているのかと思っていたが、姫様も大概で、妻を見かける度に罵声を浴びせる。この日もきっとそうだと思っていたのだが、私たちを見て何かを悟ったのか、「気をつけなさい」とだけ言って奥に戻っていった。私に言ったのか、妻に言ったのかはわからない。少なくとも、今の私たちが異常に映るということだけはわかった。
職業柄失敗は許されない。いつも以上に気をつけて1日を乗り切った。迎えに来た妻は既に落ち着いていて、帰りはいつも通り談笑しながら歩いた。夕食もいつも通りで、特にこれといったことは起きなかった。就寝前に、また妻は泣き出した。
「置いていかないで…寂しいから…」
「人間だからそういうわけにもいかない。本当なら置いて行きたくない。」
できることなら、いつまでも妹紅と一緒に居たい。できることなら、4人目の蓬莱人として永遠を共有したい。しかし、それはしてはならないこと。わかりきっていることだ。だから、もちろん私はヒトとして、また人として一生を終えたかった。
「そうか…それなら…私の肝を食べれば良いんだ。」
妹紅は私を突き飛ばし、台所へと駆けていった。包丁を腹に刺し、そして切り裂いた。傷口からは血が流れるが、躊躇うことなく片手を突っ込んだ。苦痛に歪む妹紅の顔は見るに堪えなかった。ここで私はすぐに包丁を取り上げるべきだったが、その壮絶な状況に、棒立ちのままだった。今後もこのようなシーンに直面することは無いだろう、そう思えるほどに衝撃的だった。
やがてモノを探し当てたのか、包丁を入れ、そしてブチッという音が聞こえた。次の瞬間、傷口からは見慣れた臓器が出てきた。
「さあ…食べて…」
気づけば床は血の海になっていた。一般人なら間違いなく致死量だ。これが、不老不死の力…私の中に、妹紅の肝を貪り食べて不老不死になりたいという欲望が芽生えた。私は没落した家の長男だ。いつ殺されるかわからないのだから、食べておいたほうが良い。それに、妹紅も望んでいる。私は左手を差し出し、肝を受け取った。
しかし、受け取ってから理性が戻ってくる。確かに不老不死になれば闇討ちや不慮の事故、そして妹紅を悲しませることを避けられる。だがそれ以前に私は人だ。人には人の寿命がある、そしてそれを全うするのが私だ。
「何がお前を縛るかはわからないけど、でも…頼むから、食べて…」
生暖かい肝からは血が垂れる。一思いに食らえばすぐに終わる。注射のようなものだ。簡単な話だが、私は断り、肝を庭に投げた。
「やっぱり私にはできない。人として生きる、それが私の倫理だ。妹紅、おいで…」
血濡れた服を脱がすと、すでに傷口は塞がっていた。蓬莱人のおそるべき回復力の力だ。プラナリアの比では無い。昨日と同じように背中をさすって落ち着かせた。
翌朝は何事もなかったかのように起きて朝食を取り、身支度を整えて出勤した。いつものように談笑しながら歩いた。帰りもいつもと同じだった。以前と同じ生活が返ってきた。
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しかし、私はやはり妻を苦しめていたようだ。今日は帰るなりすぐに風呂を勧められた。我が家は先に夕食派で、少し違和感を感じたが、私は言われた通りに先に風呂に入った。
風呂から出て、居間に入る。私は亭主関白が嫌いで、積極的に家事は手伝うようにしているが、夕食だけはなぜか手伝わせてくれなかった。今日もいつものようにちゃぶ台の前で待った。今晩は何だろうか。そろそろ裏の小川に鮭が上ってくる頃だ。イクラを食べられるかもしれない。一人で頷き、ニヤニヤしながら待った。
しかし、出てきたのはイクラではなかった。白い皿に載る赤いもの、それは一月前に見たそれと全く同じだった。
「さあ、食べて…食べて!」
そういうわけで、今私は皿の上の肝を睨んでいる。血塗られた妹紅の服、そして今後も続くであろう永遠の命、私の倫理観、あらゆるものが頭の中を駆け巡る。前と同じように庭に捨てようと肝を持った。しかし、同時に一月前の、妹紅の苦痛に歪む顔を思い出す。
「きっと…同じか…」
私が何度拒絶しようと何度でも妹紅は肝を出すだろう。その度に、苦痛を味わうことになる。蓬莱人にはそれを避ける術は無い。何度も苦痛を与えることは医者の私にはできない。矛盾する理論が展開された。
私は妹紅の医者になる。人の医者であることはやめる。私は覚悟した。肝を掴み、一気に飲み込んだ。吐き気が襲ってきた。私の身体の、人としての最後の抵抗かもしれない。必死で我慢し、大量の水で流しこんだ。次第に落ち着いてきたところで、私は妹紅を抱きしめた。
「ごめんよ…ごめんよ…」
「良いの…良いのよ…」
「寂しかっただろう…これからは、私も居るからな…」
迷いの竹林の一角では、一晩中男女がすすり泣く声が聞こえたという。
泣き疲れて寝てしまったのか、気がつくと妻の上で寝ていた。慌てて飛び起きると、妻に毛布を掛け、朝食の支度を始めた。
いつも通りの朝を迎え、またいつも通り出勤する。一つだけ違うのは、私の髪も白くなったことだ。永遠亭に着くと、門前で掃除していた優曇華院が青ざめた顔で私の方へ駆け寄ってきた。
「前野さん、まさか…」
「ああ。私は医者を辞めようと思う。」
「…わかりました、ついてきてください。」
妻と別れて永遠亭に入った。八意先生は調合を終えたところらしく、私たちが戸を叩くとすぐに出てきた。八意先生は顔色一つ変えずに、入りなさいと一言だけ言った。
「本当に、蓬莱人になったのね。」
「はい。そして私は医者を辞めようと思います。医療倫理を犯した以上、医者を続けるわけにはいきません。」
八意先生は腕を組んで俯いた。最善を尽くそうと考えているようだ。
「わかったわ。マエノがそうしたいならそうしなさい。でも、混乱が起きないよう、あと一月は続けなさい。」
「…そうします。ありがとうございました、八意先生。」
そして私は、自分の仕事場へ入った。患者には一月後には医者を辞めると伝えた。驚く患者や悲しむ患者、そして怒る患者もいたが、私は淡々と伝えた。診療は八意先生に引き継いでもらうと約束した。
閉院時間になった。今日は帰る前に、患者のカルテを引き継ぐために八意先生の部屋に立ち寄ることにした。部屋の中では八意先生と姫様が話をしていた。嬉々として話す姫様と、冷静に話す八意先生が対照的であった。嬉しい話は私も聞きたいので、恥ずかしながら立聞きさせてもらうことにした。
「蓬莱人になったから、医者を辞めるねえ…」
「全て姫の希望通りになりました。」
全て姫の希望通り…だと?
「4人で仲良く永遠を生きる、友達が増えて良いわ。それにしても、妹紅の旦那への依存は想像以上だったわ。たった3年で肝を食べさせるなんて。」
「姫、それは私が予想していたではありませんか。」
「そういえばそうね。給金は増やしておくわ。受け取りなさい。」
「いえ、その分はイナバにお願いします。」
「そう言うなら、そうするわ。」
私は絶句した。全て姫様の希望通りで、それに手を貸した八意先生の計画通りに進んでいたということだ。結局、私たち夫婦は、姫様の手のひらの上で踊らされていただけだった。もちろん、妻…妹紅への気持ちは偽りではない。人を辞めて蓬莱人へなったのも、全ては妹紅のためだった。しかし私を蓬莱人にすることを仕組んだのは運命でも、妹紅の意思でもなく、姫様だった。同胞を増やすために私を姫様の婿にするわけでもなく、わざわざ妹紅の婿としてから蓬莱人へ仕立てる。なんとも回りくどく、狡猾なやり方だ。私はとうとう部屋へ入った。
「あらマエノ、入る時にはノックくらいしなさい。」
私は二人を見てから、姫様を平手で、八意先生を拳で打った。
「私はあなた方の遊び道具だったのですか、玩具だったのですか?」
腹の底から出た声は自分でも驚くほどに大きかった。
「いいえ、貴方は妹紅の旦那。だから玩具なんかではないわ。」
「マエノ、立聞きは良くないわ。」
「違う!問題は、私が蓬莱人になった経緯だ!」
表面的に見れば、私は寂しがる妹紅のために蓬莱人になったことになる。しかし実際は、姫様が仲間を増やすための工程に過ぎなかった。それも、私の人としての尊厳を踏みにじるものだった。
「でも、これで貴方も不老不死だから、いつまでも妹紅と一緒にいられるわよ。何が不満なの?」
「私の気持ちも知らず…お前に何がわかる!」
乱暴な言葉も躊躇いなく吐ける自分にぞっとした。私は所詮その程度の人だったのだ。
「さあ、知らないわ。これで遊び相手が増える、ただそれだけが嬉しいわ。さて、妹紅に報告してこよう。」
反省の色すら見せないまま、姫様は部屋を出た。姫様が出た後、私は八意先生の胸ぐらをつかんだ。
「一番悪いのは八意先生、アンタだよ!医者なんだろ?薬師なんだろ?どうしてこんな道を外れたことができるんだよ。アンタは悪魔だ!」
私は八意先生を突き飛ばし、部屋の出口へ向かった。背後から消されるのではないかと思ったが、いつまでも何も飛んで来なかった。
「八意先生、私は貴女を師だと思っていた。まさか…悪魔に師事していたとは思わなかったよ!でも…先生、お願いですから、私の患者たちの診療を引き継いでください。彼らには、何の罪も無いのです。ここであったことは知らせないでください。」
私は荷物を纏め、永遠亭の玄関に立った。
「前野さん!」
「おや、優曇華院…」
「全て聞いていました…私が師匠を止めれば良かったのです。私を責めてください!」
「…悪くない者を責めるわけにはいかない。優曇華院は最良の選択をした。」
「ですが!」
「…もう良いんだ。優曇華院、医者や薬師をするのだったら、相手の心情を気遣うんだぞ。できることと、して良いことは違う。それを忘れないでくれ…」
私は優曇華院に私が着ていた白衣を着せ、永遠亭を出た。背後から泣き声が聞こえてくるが、私は振り返らずに前へ歩いた。私もまた、頬を濡らしていた。
気づけば今日は一人で帰って来ていた。姫様と喧嘩をしたのだろう、あたりの竹が折れている。私は縁側から自宅に入った。蹲って泣いている妻が目に入った。
「妹紅…」
「すまない…私が…」
抱き合って、声を上げて泣き叫んだ。夜の雨降る竹林で、雨が降る音をかき消すほどの泣き声だった。私たちは夜が明けると、荷物を持って家を出た。どちらから言い出すこともなく、家を出た。
「行こう。私たちはすることがある。私は妹紅の医者だ。」
「それじゃあ…行こうか。」
私は妹紅の医者だ。不死の病を治すことを目標にしている。魂をも焼く地獄の業火、魂を破壊する死神の鎌、他にもあらゆる伝承がある。もう一度輪廻転生に帰ることができるかどうかもわからないし、そもそも「死ぬ」ことができるかもわからない。それでも、目標としては十分だ。幻想郷を脱出し、あらゆるところをまわっている。白熊歩く寒冷地から灼熱の砂漠まで、神話や伝承を聞いては探す、それをひたすら繰り返している。
私は妹紅の医者だ。不死の病を治すために、今日も旅を続けている。
書き終えて思ったのですが、登場人物は本当にこんなこと言うのかなと思っています。(特に輝夜)
今後同じような物を書くかはわかりません。
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