真・恋姫†無双 ~天命之外史~ (夢月葵)
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始めに

「真・恋姫†無双 ~天命之外史~」をお読みいただき、ありがとうございます。

 

この作品は、「小説家になろう」で連載している同名作品と同じです。内容は変わりません。あらすじにも書いていますが、この作品はPCやPSPなどでリリースされている「恋姫シリーズ」の一つ、「真・恋姫†無双」を元にしています。

元々は「モバゲータウン」で書き始めた本作ですが、そこで書き続ける事が難しくなった事から小説投稿サイトを探し、その結果「小説家になろう」に移転しました。当時はまだ二次創作に規制は無かったと思います。

そこからとてつもなく不定期に連載を続け、一年以上空いて更新したりもしています。幸いにも、少なからず応援してくださる読者さんがいらっしゃるので、それが書き続ける活力になっています。

 

「小説家になろう」は、一部の二次創作は許可されていますが、基本はオリジナル小説向けのサイトです。恋姫二次創作スレなどでも、新作や話題になる作品は大体この「ハーメルン」からで、他のサイトからは余り話題になっていません。

恋姫シリーズから三国志にハマるという変わった道を辿っている自分としては、それが切欠で始めた作品をもっと多くの人に読んでほしいと思った次第です。

こちらに掲載する際に、文章や台詞の書き直しも考えましたが、どうせなら昔と今の文章や知識についての差を見てもらった方が良いだろうという事で、オリジナルのまま掲載しています。お陰で、文章は下手だし、三国志の知識もどこかおかしかったりしますが、そこはご愛敬。

 

作品について補足しますと、ゲームの主人公である「北郷一刀」は出ません。少なくとも今の所出す予定はありません。主人公はオリジナルキャラです。

ベースが「真」なので、最近のシリーズに登場してるキャラは出ませんし、出ていても性格や真名が違う別人なのでお気をつけください。

 

こちらの仕様等にまだ慣れていないのもあり、掲載は少し遅れるかも知れません。特にルビについて今調べています。

また、オリジナルにも誤字・脱字があるので、そちらを修正してからこちらに掲載します。なので、全部を掲載するまでは暫くかかると思います。

 

また、これからも「小説家になろう」での更新はする予定で、そちらは今まで通り一話を書いている途中でも掲載して、続きは随時更新、こちらは一話書き上げてから更新という感じにしたいと思います。

 

こちらでも、マイペースに更新するので、気が向いたら読みに来る感じで良いかもしれません。皆さんの暇潰しになれば幸いです。

 

ではでは。



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オリジナルキャラ設定

主人公や史実武将について簡単なプロフィールを書いておきます。

年齢は初登場時(名前だけの時も含む)のもの。
CVはこんな感じの声というイメージですので、あくまで参考程度にしてください。


なお、ここに武将が追加されるのは不定期です。



2017年6月7日更新開始。
2018年11月28日更新。


名前.清宮涼(きよみや・りょう)

CV.吉野裕行

性別.男

年齢.17歳

武器.靖王伝家(せいおうでんか)(予備)+雌雄一対(しゆういっつい)の剣(蒼穹・紅星)→雌雄一対の剣

備考.聖フランチェスカ学園二年生・桃園兄妹の長子・義勇軍副将→連合軍総大将→徐州州牧補佐

 

 桃香、愛紗、鈴々の義兄。

 

 21世紀の日本に暮らす高校二年生の少年。

 何故か「三国志演義」を基にした世界に飛ばされ、以後は「天の御遣い」として劉備(桃香)達と行動を共にする。

 義勇軍では桃香の補佐(実質的には総大将)をし、連合軍では総大将を務める。

 歴史好きが高じて三国志の知識が豊富で、古代中国史や日本史も得意。

 

 一人称は「俺」。かしこまった場では「自分」も使う。

 

 

 

 

 

名前.?(?・?・?)

真名.?

CV.水樹奈々

性別.女

年齢.?

出身地.

備考.占い師

 

 

 

 

 

名前.徐庶元直(じょ・しょ・げんちょく)

真名.雪里(しぇり)

CV.中原麻衣

性別.女

年齢.16歳

武器.武器じゃないけど大きな中華鍋

備考.義勇軍筆頭軍師→連合軍筆頭軍師→徐州軍筆頭軍師

 

 黄巾党討伐の為の軍師として、涼達と共に戦う。

 元々は徐福(じょふく)と名乗っていたが、涼達と同行する際に名を改めた。

 

 外見は、膝元ある長い銀髪に、野球帽の様な黄色い鍔付き帽子。

 自信に満ちた大きな金色の瞳。

 身長は鈴々より頭一つ大きい。胸は大きくないが小さくもなく、普通より少し大きいくらい。

 首元には羽ばたく二つの羽根をあしらった首飾り。

 服は帽子と同じ黄色を基調としたワンピースで、その左胸には白い羽根をあしらったワンポイントが有り、羽根のデザインが好き。

 足は白いオーバーニーソックスと、革靴の様な紺色の靴。

 

 一人称は「私」。

 涼に対する呼び方は「清宮殿」。

 

 

 

 

 

名前.張世平(ちょう・せいへい)

真名.葉(よう)

CV.林原めぐみ

性別.女

年齢.17歳

備考.馬商人→徐州軍武具担当

 

 

 桃香達に馬や資金を調達した商人。

 元々は中山(ちゅうざん)の豪商だったが、黄巾党に家族を殺された為に馬商人に身を窶していた。

 女性にしては背が大きく、背丈は涼と余り変わらない。

 普段の服装は、黒を基調としたノースリーブにホットパンツという軽装。

 

 男っぽい性格からか、一人称は「あたい」。

 涼に対する呼び方は「あんた」、もしくは「大将」。

 

 

 

 

 

名前.蘇双(そ・そう)

真名.景(けい)

CV.下田麻美

性別.女

年齢.14歳

備考.馬商人→徐州軍武具担当

 

 張世平の従姉妹。

 大人しく冷静な口調で話す、女の子らしい女の子。

 

 小柄でツインテールの髪型をしている。

 普段の服装は、白を基調とした長袖の服にロングスカートという装い。

 

 「吉川英治版三国志」や「横山光輝版三国志」等では、張世平の甥となっていたので、今作では姪にしようと思ったが、そうすると張世平を「少女」にするのが面倒なので従姉妹に変更したらしい←

 

 一人称は「私」。

 涼に対する呼び方は「御主人様」、「清宮様」。

 

 

 

 

 

名前.盧植子幹(ろ・しょく・しかん)

真名.翡翠(ひすい)

CV.冬馬由美

性別.女

年齢.32歳

武器.鉄扇「花鳥風月(かちょうふうげつ)」、鉄斧「千差万別(せんさばんべつ)」

備考.劉備と公孫賛の恩師

 

 劉備や公孫賛を始めとした多くの者から慕われている儒学者。

 また、政治家や将軍としても有能であり、その手腕は敵味方問わず認められており、あの曹操も敬語を使って話す程。

 

 一人称は「私」。

 涼に対する呼び方は「涼様」「清宮様」。

 

 

 

 

 

名前.田豫国譲(でん・よ・こくじょう)

真名.時雨(しぐれ)

CV.浅川悠

性別.女

年齢.16歳

出身地.幽州魚陽郡雍奴県

武器.大剣「竜王護旋(りゅうおうごせん)」

備考.義勇軍第三部隊隊長→連合軍第三部隊隊長→徐州軍第五部隊隊長

 

 男勝りな武将。

 桃香の幼馴染みで、戦う力が無い桃香や雫を護ってきた。

 

 一人称は「俺」。

 涼に対する呼び方は「清宮」。

 

 

 「三国志」「三国志演義」では物語の序盤で劉備から離れる事になる。

 

 

 

 

 

名前.簡雍憲和(かん・よう・けんわ)

真名.雫(しずく)

CV.堀江由衣

性別.女

年齢.16歳

出身地.幽州琢郡

武器.

備考.義勇軍副軍師→連合軍副軍師補佐→徐州軍

 

 駆け出しの文官で軍師。

 桃香とは幼馴染みであり、桃香を始めとした親しい女友達は皆ちゃん付けで呼んでいる。

 

 一人称は「私」。

 涼に対する呼び方は「清宮様」。

 

 

 「三国志演義」では劉備に長きに渡って仕える。中々ユーモアが有る人物だったらしい。

 長坂の戦いでは負傷して動けなくなるが、趙雲に助けられて一命を取り留めている。

 

 

 

 

 

名前.孫堅文台(そん・けん・ぶんだい)

真名.海蓮(かいれん)

CV.久川綾

性別.女

年齢.37歳

出身地.揚州呉郡富春県

武器.直刀「南海覇王(なんかいはおう)」

備考.孫策、孫権、孫尚香の母。

 

 孫軍総大将。

 普段は物静かな妙齢の女性だが、いざ戦いになると人が変わったかの様に好戦的になる。

 

 一人称は「私」。

 涼に対する呼び方は「清宮さん」、「清宮殿」、「婿殿」。

 

 

 「三国志」「三国志演義」では「江東の虎」と呼ばれる程の豪傑として描かれている。

※「英雄譚」などに登場する孫堅(炎蓮)とは別人です。御了承ください。

 

 

 

 

 



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第一部・桃園結義編
序 章 日常


「早く帰ってレッドクリフのDVD観よう♪」


2009年8月26日更新。
2009年8月28日最終更新。

2017年4月2日掲載(ハーメルン)


「えっと……パンフレットにキーホルダーに、ストラップに……。」

 

 閑静な住宅街を、一人の少年が歩いている。

 肩にかけたバッグの中身を確かめながら、ゆっくりと帰路についている。

 

「あとは……何と言ってもこの図録だな!」

 

 厚さ三cmはある本を取り出し、外だと言う事も構わずにページを開き、読んでいく。

 その本の表紙には、「三国志の時代・信念を持った勇士達の記録」と箔押しされたタイトルが記載されていた。

 

「やっぱり、日本も外国もこういった時代の方が歴史としては面白いよなあ。」

 

 少年は読みながら歩き続けていた。

 前から来る通行人が自ら避けてくれていたから、ぶつかる事は無い。

 自動車に関しても、少年が歩いているのはきちんと舗装されている歩道であり、更にここは時速三十kmの速度規制が設けられている為、余程の事が無い限り交通事故は起きない、比較的安全な場所だった。

 

(しょく)劉備(りゅうび)()孫策(そんさく)、そして何より()曹操(そうそう)! この面子はやっぱり凄いよなあ。」

 

 三国志を詳しく知らない人でも、一度は聞いた事のある登場人物の名前を挙げながら、少年は歩き続ける。

 と、そこに、若い女性の声がどこからともなく聞こえてきた。

 

「そこの読書家なお兄さん、ちょっと良いですか?」

「ん?」

 

 「読書家」と言われて、少年は頭を上げた。

 読書家と解るには本を読んでいる姿を見ないといけないが、こんな道端で本を読んでいるのは自分くらいだという事は、流石に少年でも理解していたらしい。

 その少年が頭を上げた先、つまり左前方には一人の少女が立っていた。

 少女は一見すると不思議な格好をしている。

 白いノースリーブに薄紅色のプリーツスカート、それ自体は不思議でも何でもない。

 黒いオーバーニーソックスや水色のシューズも同様。

 只一つ普通と違った格好は、灰色のつばなし帽子から、顔を覆い隠す様にして、白と黒が混じったヴェールを頭に被っている事だった。その為、年若い少女という事は何となく判っても、どんな顔かはよく判らなかった。

 

(……何だろ?)

 

 変に思いつつも、少年は少女に近付き話を聞く事にした。

 すると少女はこう続ける。

 

「……お兄さんには、これから大変な運命が待ってます。それも、沢山の人々の運命をも巻き込む程の大きな運命。その人々を幸福にするか、不幸にするか、それはお兄さんの決断次第。……占っておいて何ですが、大変ですねえ。」

「はあ……。」

 

 そう応えてみたものの、少年には少女が何を言っているのかサッパリ解らなかった。

 唯一解ったのは、少女の占いが本当だった場合、何だか面倒な事になりそうだという事だった。

 

「おや? おやおやぁ? ……ひょっとしてお兄さん、私の言う事を信じていませんね?」

「そりゃあ、ねえ……。」

 

 見知らぬ少女に突然占われて、ハイそうですかと信じる程単純では無いと、少年は自負している。

 

「成程。まあ、それも当然でしょう。ならば、私の占いが本物だと言う証を見せましょう。」

「証?」

 

 まさか水晶玉でも出すのか? と、少年は思いながら、少女の行動を待った。

 すると少女は、水晶玉を取り出すでもタロットカードを取り出すでも無く、只、少しの言葉を紡いだだけだった。

 

「……貴方の名前は、“清宮涼(きよみや・りょう)”。年齢は十七歳で、聖フランチェスカ学園に在籍している高校二年生。家族構成は両親と妹が二人。但し離れて暮らしている為に現在は一人暮らし、と。……まあ、こんな所ですかね。」

「……!?」

 

 少女の言葉を聞いていた少年――清宮涼は絶句した。

 何故なら、今少女が語った事は全て間違いの無い事実だったからだ。

 

「何でそんな事迄……。」

「占い師ですから♪」

 

 いやいや、答えになってないから。

 涼はそう思ったが、何故か口には出せなかった。

 それよりも、少女が涼の事をピタリと言い当てた事で、涼の胸中は一瞬にして不安で一杯になっていた。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。私は怪しい者ではありませんから。」

「いや、充分怪しいから。」

 

 流石にそこはツッコミをいれないとダメだと思ったらしい。

 

「手厳しいですねえ。まあ、余り深く考えない方が良いですよ。“いつも通り”にいけば大丈夫です。」

「そ、そうなんだ……。」

 

 そう言って少女の言葉に応えつつも、涼は新しい疑問に対して自問自答を始めた。

 

(“いつも通り”の俺って、どういう事だ!? この子は俺の性格迄占いで知ってるって事か!?)

 

 混乱しつつ目の前の少女を再び見るが、やはりヴェールの所為でよく見えない。

 只、微かに見えた表情は悪くなかった様に思えた。

 

「……ところで。」

「な、何?」

 

 反射的に身構える涼。

 甘く可愛い声の少女に恐れるというのも滑稽だが、現状では仕方ないか。

 

「今日は帰ってから観たい物が有るのでは無いですか?」

「え?」

 

 予想外の言葉を聞いて、一瞬何を言われたのか解らなかった涼だが、やがてその意味を理解して叫んだ。

 

「あっ! た、確かにそうだっ!」

 

 涼は慌てながら、持っていた図録をバッグに入れる。

 

「そ、それじゃあ俺はこれでっ!」

「ええ、ごゆっくり♪」

 

 そう言葉を交わして、涼は自宅へと駆け出した。

 少女は笑みを浮かべながらその様子を眺めている。

 ずっと、ずっと。

 そんな事に気付かない涼は、駆けながら考えていた。

 

(……何であの子、俺の事知っていたんだ? 個人情報が漏れているのか?)

 

 振り返ってみようとしたが、その時間すら惜しい現状に改めて気付き、止める。

 

(……まあいっか。それより早く帰って、今日買ってきた“レッドクリフ”のDVDを観ようっと♪)

 

 博物館の売店で売っていた、「三国志」を元にした大作映画のDVD。

 既に単品では二作共持っていたが、二作が一緒になっているBOX版は持っていなかったので、迷わず買っていた。

 ……普通は迷いそうだが。

 そんな風に浮かれていたので、涼は気付かなかった。

 先程の少女が、いつの間にか姿を消していた事に。

 この街は勿論、既にこの世界から居なくなっていた事に。




皆さん初めまして、またはお久し振りです。

最近(2012年11月14日現在)は余り更新出来ていなかったのですが、少しずつ再開していきます。
で、その際に更新済みの部分の誤字脱字修正をしてみたのですが、今回後書きを追加してみようと思いました。
元々連載していたモバゲーには後書き機能が無かったので、今迄使ってなかった訳ですが、折角あるのだから使ってみようと思った訳です。
これから各章の誤字脱字を修正していく際に、後書きを追加する予定なので、楽しみにして下さいね←

で、序章の後書きですが、この頃は「真・恋姫†無双」の二次創作を書こうと意気込んでいた時なので、勢いだけで書いてますね(笑)
恋姫世界に行く前の主人公、清宮涼について軽く書いておいて、次への場面転換に備えています。
謎の美少女の正体は現在も明かしていませんが、幾つか伏線を張っているので既に解っている方もいるでしょうね。
「レッドクリフ」を出したのは、当時テレビか映画で観たからだと思います。同時に、主人公が「三国志」バカなのも表現出来たかと思います。

取り敢えずこんな感じですね。上手く書けたかな?
次は一章を修正してから書きますね。


2012年11月14日更新。

2017年4月2日掲載(ハーメルン)


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第一章 三人の英傑と天の御遣い

三人が出会ったのは天命なのか。
ならば、三人が彼と出会ったのも天命なのだろうか。



2009年8月28日更新開始。
2009年9月14日最終更新。

2017年4月2日掲載(ハーメルン)


 とある街の風景。

 それなりに活気に溢れた街ではあるが、皆どこかピリピリしており、落ち着きが無い。

 武器を売る店では品物が飛ぶ様に売れている。

 買っていくのは若い男性だけでなく、老人や女性もが皆、矛や槍を手に帰路についていく。

 本来、争いとは無縁の筈の民衆が武器を必要とするのには、ちゃんとした訳があった。

 国中を荒らす集団、「黄巾党(こうきんとう)」の存在だ。

 この黄巾党、元々は腐敗した漢王朝に対して反乱を起こしていた集団なのだが、その規模が大きくなるにつれ単なる暴徒の集まりと化してしまった。

 今では、当初の大義名分を掲げる者は少なくなり、私利私欲に走る者ばかりになっている。

 その黄巾党はこの街にも度々現れ、略奪や誘拐を幾度となく繰り返していた。

 通常なら、街の平和を守る立場である「県令」という役職の役人が居るのだが、その県令も所詮は今の漢王朝から派遣された人間であり、殆ど役にたっていない。

 酷い所だと、役目を放棄して洛陽に逃げていたりもするので、民衆は自衛しなければならなくなっている。

 そしてこの街でも、いつそうなっても大丈夫な様に義勇兵を募っていた。

 街の広場にはそれを知らせる立て札が立っている。

 

『我こそはと思う者、武器を取りて平和の守り手とならん。尚、性別、年齢は不問とす。』

 

 と、立て札に書かれている。

 性別も年齢も問わない事が、事の重大さを物語っていた。

 その立て札を暫くの間見続けていた少女は、やがて大きく一つ溜息をついた。

 

「……ふう。」

 

 腰迄ある桃色の長い髪が風に揺られ、つられて豊かな胸も揺れる。

 この街の一般的な、質素な衣服を身に纏う少女の瞳は、何かに対して逡巡している様だった。

 

桃香(とうか)お姉ちゃん、何してるのだ?」

「あ、鈴々(りんりん)ちゃん。うん……あれを見ていたの。」

 

 通りがかった小さな少女から「桃香」と呼ばれた少女は、小さな少女を「鈴々」と呼びながら正面に在る立て札を指差した。

 鈴々はその立て札を見る。

 

「あー、義勇兵を募集している立て札だね。」

「うん。……それでね鈴々ちゃん、私はこの義勇兵になろうと思うんだ。」

「ふーん…………ええええっっ!?」

 

 図らずも綺麗なノリツッコミとなった鈴々の驚く声に、今度は桃香が驚いた。

 

「り、鈴々ちゃん、そんなに驚かなくても良いんじゃない?」

「驚くに決まってるのだ! だって、桃香お姉ちゃんは武器を持った事無いでしょ!?」

「本物の剣くらい持った事は有るよー。……一度だけだけど。」

 

 ついこの前の出来事を思い出しながら、桃香は答える。

 

「持っただけじゃダメなのだ! ちゃんと扱える様にならなきゃ、戦場で死んじゃうのだ‼」

「……だよねぇ。」

 

 鈴々に言われて、苦笑いをする桃香。

 桃香は、幼い頃に父を亡くし、母と二人暮らしだった。

 十三歳の時に、儒学者の廬植(ろしょく)の許で学問を学んでおり優秀な成績を残していたが、対照的に武術の方は余り得意では無かった。

 

「けど、同窓生だった白蓮(ぱいれん)ちゃんは今立派に跡を継いで、黄巾党征伐をしてるし、私も何かしないと……。」

「それはその人が戦えるから出来る事なのだ。戦えない桃香お姉ちゃんじゃ、直ぐに殺されちゃうに決まってるのだ。」

「うう……そう何度もハッキリ言わないでよぅ。」

 

 だが、当たってるだけに何も言えない桃香だった。

 

「だから、お姉ちゃんは諦めて別の方法で人助けする方が良いと思うのだ。」

「でも……。」

 

 それでも桃香は諦めきれないらしく、困った顔のまま立て札を見続ける。

 鈴々は、そんな桃香を暫く眺めてから明るく言った。

 

「なら、鈴々も一緒に行くのだ!」

「えっ……?」

「鈴々が桃香お姉ちゃんを守って、ついでに黄巾党もぶっ飛ばしてやるのだ!」

「鈴々ちゃん……有難うっ!」

 

 鈴々の優しさや心意気に感激した桃香は、嬉しさの余り鈴々をぎゅっと抱きしめていた。

 

「く……苦しいのだっ、桃香お姉ちゃんっ。」

 

 桃香の豊か過ぎる胸に挟まれ、息が苦しくなる鈴々。

 ……有る意味羨ましい状況ではあるが。

 

「あっ、ゴメンゴメン。」

 

 そう言って鈴々を解放する桃香。

 鈴々は「苦しかったのだー。」と言いながら、今迄自分の顔があった部分を見つめていた。

 

「……? 鈴々ちゃん、どうかした?」

「桃香お姉ちゃんは胸がおっきくて羨ましいのだ。」

「えっ!? ちょっと鈴々ちゃん、急にどうしたの?」

 

 桃香にとっては何の脈絡も無く言われたので、目を丸くしながらも聞いてみた。

 

「鈴々はぺったんこだから、桃香お姉ちゃんが羨ましいのだ。どうしたらそんなにおっきくなるのだ?」

「え、えーっと……ご飯を沢山食べるとか?」

「ご飯なら毎日沢山食べてるのだ。」

「じゃ、じゃあ、運動をするとか?」

「武術の練習は毎日してるから、運動もちゃんとしてるのだ。」

「だ、だよねえ……。」

 

 そう反論されて、他に理由が思い付かない桃香は言葉に詰まった。

 そもそも、胸が大きくなる方法なんて桃香は勿論、誰も知らないだろう。

 

「だ……大丈夫だよっ、鈴々ちゃんはこれから大きくなるからっ。」

「そうだと良いんだけど……。」

 

 桃香の言葉を聞いて自らの胸を撫でる鈴々。

 年齢的に平均より僅かに大きい身長と、平均より遥かに大きい胸を持つ桃香と比べて、平均より遥かに小さい身長と胸を持つ鈴々。

 一見すればかなり歳が離れている様に見える二人だが、実際にはそんなに離れていなかったりする。

 それだけに鈴々が不安になるのも解らないでもない。

 

「そ、それより鈴々ちゃんっ。一緒に義勇兵になってくれるんだよね?」

 

 困った桃香は無理矢理話を戻した。

 

「うん、桃香お姉ちゃんと一緒に悪い奴等をぶっ飛ばしてやるのだっ。」

 

 そしてそれに見事にのる鈴々。桃香は鈴々の性格を把握していて話を戻したのだろうか。

 

「それは嬉しいんだけど、私もちゃんと戦うよ。そうじゃないと参加する意味が無いし。」

「んー、それはそうだけど、桃香お姉ちゃんは先ず武器を扱える様にならないと。武器は持ってるんだよね?」

「うん。実はこの間、お母さんから剣を貰ったんだ。」

「桃香お姉ちゃんのお母さんから?」

「そうだよ。少し長くなるから、詳しくは帰ってから話すね。」

 

 そう言って桃香は鈴々を連れて自宅へと帰っていった。

 桃香の自宅は街の中心部からさほど離れていない。自宅には母が居て、草鞋(わらじ)を作っていた。その手を休め、桃香と鈴々にお茶を出してくれた。

 縁側に座った桃香と鈴々は、それを美味しそうに飲んでいる。

 その最中、桃香は先程の話の続きを話し始めた。

 

「実はね、この間お母さんに言われたの。貴女は“中山靖王”“劉勝”の末裔だって。」

「“ちゅーざんせーおー”? “りゅーしょー”? それって一体何なのだ?」

「んー。解り易く言うと、“劉勝”ってのは昔の漢の皇族の人の名前。“中山靖王”ってのはその人が王様をしてた時の呼び名みたいなもんかな。」

「ふえー、そうなのかー。」

 

 お茶を飲み終え、ビックリした様に目を丸くしながら桃香を見る鈴々。

 と、そこで、疑問が湧き上がったらしく、桃香に尋ねる。

 

「そんなに凄い家柄なら、どうして桃香お姉ちゃん達はこんな所に住んでいるのだ? 王様は洛陽の宮殿に住んでる筈なのだ。」

「んー、何か御先祖様に色々あって没落したんだって。だから今はこんな暮らし。まあ、亡くなったお父さんの遺産や、草鞋を作って売ってるから、それなりに生活出来てるんだけどね。」

 

 そう言った桃香は、ゆっくりと立ち上がり、座敷へと向かった。

 そこには一差しの剣が飾られており、桃香はそれを両手で恭しく持ち上げ、縁側へと戻ってきた。

 

「これがこの間お母さんから貰った、我が家に伝わる宝剣、“靖王伝家”。この剣が、私が漢王朝の末裔って証になるんだって。」

「“せいおーでんか”……何だかカッコイイ名前の剣なのだ!」

 

 桃香が持つその剣は、黄緑色を基調とし、金色で縁取りされている鞘に納められている。形から察するに、両刃の剣の様だ。

 その鍔は金色の円形、柄は黒を基調に金の線が等間隔に有り、底には丸い宝玉が付いていた。

 

「実は、お母さんにはもう義勇兵の事は話したの。」

「当然、桃香お姉ちゃんのお母さんは反対したんでしょ?」

「それがね、『貴女は一度決意したら決してその信念を曲げない娘。だから心配だけど反対はしないわ。しっかりと頑張りなさい。』って言われたの。」

「ふえー、凄いお母さんなのだ。」

「ホントだね。で、その後に家系の事を教えてくれて、この剣もくれたって訳。」

 

 言いながらゆっくりと、鞘から剣を抜く。

 銀色の刀身は、長い年月を経たとは思えない程に光り輝いていた。

 

「いつでも使える様に、先祖代々手入れをしていたんだって。昔はお父さんが、お父さんが亡くなってからはお母さんがしていたみたい。」

「それでこんなに綺麗なんだね。」

「うん。」

 

 暫くの間剣を見てから、再び鞘に納めた。

 その直後に鈴々が尋ねる。

 

「桃香お姉ちゃんは、その剣を持って義勇兵になるの?」

「そうだよ。あと、服も用意してるの。」

 

 そう言って指差した先には、仕立てたばかりと見られる真新しい服が掛けられていた。

 中々用意が良い桃香である。

 

「そっか。じゃあ、明日から鈴々が稽古をつけてあげるのだ!」

「ホントに!? わー、嬉しいなあっ♪」

 

 鈴々の申し出に桃香は心から喜び、再び鈴々を抱き締めた。

 大きな胸に挟まれた鈴々が再び苦しがったのは言う迄もない。

 それから暫くの間談笑してから、鈴々は帰って行った。

 

「桃香お姉ちゃん、また明日なのだっ。」

「うん。またね、鈴々ちゃん。」

 

 空は夕焼けに染まっていた。

 

 

 

 

 

 数日後。

 

「うぅ〜、疲れたよぅ〜。」

「桃香お姉ちゃん、しっかりするのだっ。はい、お酒。」

「有難う〜、鈴々ちゃん〜。」

 

 そう言って鈴々からお酒が入った猪口を受け取った桃香は、グイッと豪快に飲み干した。

 ここは街の酒場。夕方になり、一仕事を終えた老若男女で賑わっている。

 因みに、二人は未成年に見えるが、この時代は十代でもお酒が飲めるので問題は無い。

 勿論、これを読んでる未成年の人は飲んじゃダメだよ。

 

「それにしても、桃香お姉ちゃんの武術は大分上手くなったのだ。」

「そうかなあ? だとしたら鈴々ちゃんの教え方が上手いからだよ。」

 

 あれから桃香は、時間が有れば毎日鈴々と武術の稽古をしている。

 毎日している所為か、始めは何とも危なっかしかった桃香も、何とかそれなりに武器を扱える様になっていた。

 それでも、実戦で戦うにはまだまだではあるが。

 

「ふう……。早く皆の為に戦いたいな。」

「焦っちゃダメなのだ。焦ったら、確実に死んじゃうのだ。」

「それはそうかも知れないけど……。」

 

 反論しようとした桃香だが、後ろから別の声が割って入ってきた。

 

「その子の言う通りです。焦りは禁物ですよ。」

 

 二人が振り返ると、そこには旅人らしき風貌の黒髪の少女が立っていた。

 

「貴女は……?」

 

 桃香が尋ねる。

 

「これは失礼。私は旅の武芸者で、関雲長(かん・うんちょう)と申す者。何やら溜息を吐いておられたので、少し気になって聞き耳を立てておりました。」

「聞き耳を立てるなんて、悪趣味なのだ。」

「鈴々ちゃんっ!」

 

 鈴々の発した言葉に桃香が慌てふためく。

 

「いえ、その子の言う通りでしょう。謝ります。」

「そんなっ、あの、別に気にしてませんから貴女も気にしないで下さい。」

 

 丁寧に頭を下げる関雲長という名の少女に対し、慌てて声をかける桃香。

 関雲長は、それを聞いてからゆっくりと顔を上げた。

 

「有難うございます。……どうでしょう、折角ですから私にも話を聞かせてくれませんか?」

「えっ、私達の話をですか?」

 

 関雲長の思い掛けない提案に、驚く桃香。

 

「はい。どうやら貴女達は何やらお困りの様子。私に話して下されば、何か解決の糸口が見つかるかも知れません。」

「うーん、でも……。」

「それに、私も気になってしまったので、是非とも訳を知りたいのですよ。」

「そういう事でしたら……良いよね、鈴々ちゃん?」

「桃香お姉ちゃんが良いなら、鈴々は構わないのだっ。」

「良かった。じゃあ、関雲長さん、そちらにお座り下さい。」

「はい。」

 

 桃香に促され、関雲長は桃香達と同じ卓を囲んだ。

 椅子に座った関雲長は、自らの得物を右に置き、纏っていた羽織を脱いだ。

 

「では、改めて自己紹介させて頂きます。私の姓は“関”、名は“()”、字は“雲長”。“関羽(かんう)”と呼んで下さい。」

「解りました。なら次は私達ね。私の姓は“劉”、名は“備”、字は“玄徳(げんとく)”。“劉備(りゅうび)”って呼んで下さいね。」

「鈴々の姓は“張”、名は“飛”、字は“翼徳(よくとく)”。“張飛(ちょうひ)”って呼んで欲しいのだっ。」

 

 三人が三人共自己紹介を終えると、改めて先程の話を始めた。

 

「……つまり、劉備殿は義勇兵になる為に張飛殿に稽古をつけて貰っているものの、未だ実戦に出られる実力が無い為に焦っておられる、と、そういう訳ですね?」

「は……はい、お恥ずかしい限りで……。」

 

 関羽の確認に、桃香は俯きながら肯定する。

 だが関羽は、

 

「いえ、恥ずかしくは無いでしょう。最近は漢王朝だけでなく、漢王朝を打倒するべく立ち上がった筈の黄巾党迄もが私利私欲に走っています。」

 

そう言って話し始めた。

 

「今、時代は乱世の兆しを見せています。このまま漢王朝や黄巾党が残るにしろ滅ぶにしろ、世の中が乱れるのは最早必至。」

「……うん。」

 

 関羽の語り口調は普通だが、所々のトーンは重く、また表情も真剣で、桃香は思わず緊張の面もちになってしまっていた。

 

「そうなれば、他者より自分の事を優先する者ばかりが現れるでしょう。いや、既にそうした者達が大多数を占め始めている。」

「……そうかも知れないのだ。」

 

 鈴々ですら言葉少なく、そして真剣に聞いていた。

 

「その様な時勢の中で、他者を助けたいと願い行動する。それは誰しもが一度は思いながらも、中々実現出来ない事です。そんな貴女の行動を立派と思う人は居れど、馬鹿にする人は決して居りません。もっと自分に自信を持って下さい、劉備殿。」

「そ、そうかな? あ、有難う関羽さん。」

 

 関羽に誉められ、桃香は頬を赤く染めた。

 

「けど、武術が強くならないと、結局何も出来ないのだ。」

「ハッキリ言わないでよ、鈴々ちゃん……。」

「ですが、事実です。」

「関羽さん迄……うぅ〜。」

 

 軽くヘコんだ桃香を見た鈴々と関羽は、思わず吹き出していた。

 

 

 

 

 

 それから約二時間後。

 桃香達はすっかり意気投合してお酒を飲み交わし、勘定を済ませて店を後にした。

 外は夜の帳が降りきっており、空には三日月と沢山の星が輝いている。

 

「関羽さんはこれからどちらへ?」

 

 かなり酔っぱらってはいるものの、何とか歩いている桃香が、比較的平然と歩いている関羽に尋ねる。

 因みに、鈴々は酔いつぶれて桃香の背中で寝息をたてていた。

 

「そうですね、適当な宿を見付けて泊まろうかと思ってますが。」

 

 関羽は羽織を纏いながらそう答える。

 

「なら、未だ宿をとってないんだね? だったら家に泊まったら良いよ。」

「えっ? それは嬉しい申し出ですが、お家の方に御迷惑がかかるのでは……?」

 

 桃香の申し出に対して、関羽は僅かに喜びの表情を浮かべながらそう尋ねる。

 桃香は答えた。

 

「大丈夫っ。私の家はお母さんと二人暮らしだし、そのお母さんもお客さんは大歓迎っ! って人だから。」

「そ、そうですか。……なら、お言葉に甘えるとしましょう。」

「良かったー♪」

 

 桃香は、関羽が自分の申し出を受けてくれたのが嬉しくて、満面の笑みを浮かべた。

 折角だから、鈴々もこのまま泊まらせようと思いながら。

 桃香がそんな事を思っている時、関羽は前方が騒がしい事に気付いた。

 

「何の騒ぎでしょう?」

「酔っぱらいさんが喧嘩してるのかなあ?」

 

 確かにこの時間になると、酔っぱらった人達の間で喧嘩が起きる事がある。

 だが、今回はどうやらそれとは違う様だ。

 何故なら、前から血相変えて走ってきた男性が周りに向かってこう叫んでいたからだ。

 

「黄巾党の奴等が来たぞーっ‼」

「「!!!」」

 

 その瞬間、辺りは緊張に包まれた。

 周りの家々からは武器を手にした老若男女が飛び出し、騒ぎの元へと向かっていく。

 

「黄巾党が……! 関羽さん‼」

「ええ‼」

 

 街に黄巾党が現れたと知り、桃香と関羽は現場に向かって走り出した。

 因みに鈴々は未だ桃香の背中で眠っている。

 しかも自分の得物を握ったまま。

 鈍感なのか大物なのかよく判らない少女である。

 そんな鈴々を背負いながら桃香は走っている為、どうしても関羽より遅れてしまっていた。

 

「関羽さん速いなあ……。」

 

 いや、鈴々を背負って走っている桃香が遅いんだが。

 まあ、多分鈴々を背負っていなくても、関羽の方が速い様な気がするのだが。

 

「……私も早く行かなきゃね。」

 

 一方その頃、関羽は既に現場に到着していた。

 そこでは、黄色の布を頭に巻いた集団、つまり黄巾党と街の人間による戦闘が起きていた。

 数はざっと見た所、黄巾党は十人ちょっと。一方の街の人間は二十人以上がその場に居た。

 数では街の人間の方が勝っているが、何故か数的有利を全く生かせていない。

 逆に数的不利である筈の黄巾党は、そんな状況でも全く恐れる事無く矛や槍を奮っている。

 

(やはり、こうなるか……。)

 

 関羽は予測通りになっている現状を見て、思わず舌打ちをする。

 街の人間と黄巾党との違い。それがこの差を生んでいた。

 その違いとは、「人を斬った事が有るか無いか」、只それだけ。

 それだけだが、それを経験してるかどうかで大きく違う。

 人を斬った事が無い人間は、いざ人を斬ろうとする時、どうしても躊躇してしまう。

 人を斬るという事は、人を殺すという事。

 それ迄生きていた人間の「生」を奪い、「死」という終わりを与えるという事。

 人を斬った事が無い人間はその事に恐怖し、まともに武器を振れないのだ。

 だが、黄巾党は全く違う。

 何の躊躇いも無く武器を奮い、目の前に居る人間の「生」を奪おうとしていた。

 恐らく、今ここに居る黄巾党の人間は全員人を斬った事があるのだろう。

 一度斬ってしまえば、二度斬るのも三度斬るのも同じ。

 人を斬った事が無い頃には二度と戻れない。

 故に、そうした人間は躊躇わない。後悔もしない。

 そんな人間を相手に、人を斬った事が無い人間が勝つのは難しい。

 幸い、今は未だ死人は出ていないが、このままではそれも時間の問題だ。

 黄巾党が少人数で街に来たのも、この人数で充分と思ったからだろう。事実、今迄は彼等の予測通りだった。

 そう、今迄は。

 

「はああああーっ‼」

 

 凛とした声が辺りに轟く。

 その声を発した「少女」は、走りながら得物である偃月刀を構える。

 街の人間はその迫力に恐れをなして少女の進路を空ける。

 だが、黄巾党の人間は動じる事無く、近付いてくる少女に向かって矛を、槍を振り回した。

 

「そんな太刀筋で、私を殺れると思うな!」

 

 少女はそう叫んで偃月刀を豪快に振り回す。

 それだけで、目の前に居た黄巾党の人間達は地面に倒れた。

 断末魔をあげる事も無く、三人が絶命していた。

 その場には三人分の血溜まりが出来、少女の偃月刀の刃先には、相手の命を奪った証である血がベットリと付いていた。

 これには黄巾党の男達も流石に驚いたらしく、残った者達は皆真剣な表情で武器を構え直した。

 

「徒党を組み、他者から奪う事しか出来ぬ賊共よ! 天に代わってこの関雲長が成敗してくれる‼」

 

 関羽は黄巾党の男達に向かってそう叫んで名乗りをあげると、自分の偃月刀を片手で回してから再び黄巾党に向けた。

 それに対し黄巾党の男達は、関羽の迫力に圧されながらも直ぐに斬りかかった。

 だが、

 

「はぁっ!」

 

一閃、

 

「たあっ‼」

 

また一閃と関羽が偃月刀を振る度に、黄巾党の男達の数はみるみる減っていく。

 その分だけ周りには、頭に黄色の布を巻いた死体が増えていく。

 今や残っている黄巾党の男達は三人。

 最早勝負は決した。

 関羽も黄巾党の男達も、そして周りで見守っている街の人々も、誰もがそう思った。

 その時、

 

「関羽さーんっ。」

 

関羽の後方二十メートル先から、子供をおんぶした桃色の髪の少女が走ってきた。

 

「劉備殿!?」

「はあっ……はあっ……やっと追いついた…………って、きゃあっ‼」

 

 桃香は鈴々を背負いながらここ迄走ってきた。

 そして漸く関羽に追いついたものの、そこで見た物は桃香にとって衝撃的な物だった。

 

「人が……死んでる…………っ!」

 

 桃香は、目の前に在る幾つもの死体を見て、体を硬直させた。

 今迄死体を見た事が無い訳では無い。

 盗賊に襲われたり、狩りに行って逆にやられて死んだ人々の死体は、今迄何回も見た事がある。

 だが、つい数分前迄生きて動いていた筈の人間の死体、つまり「新しい死体」というのは、今迄見ていない。

 

「あ……ああ…………っ!」

 

 義勇兵になれば、そんな死体を沢山見る事になる。それは理解していた。

 だが、実際に「新しい死体」を間近で見た桃香は、頭では理解していても体が言う事を利かず、只震えて立ちすくむしか出来なかった。

 例え目の前のそれが、街を襲った黄巾党の男達の死体だと解っていても。

 桃香は動く事が出来なかった。

 そしてそれを、黄巾党の男達は見逃さなかった。

 

「……! しまった‼」

 

 標的を関羽から桃香へと変えた黄巾党の男達三人は、関羽を素通りし、一斉に桃香へと襲い掛かった。

 

「逃げるのです、劉備殿!」

「あ……ああ…………っ!」

 

 関羽は黄巾党の男達を追い掛けながら桃香に向かって叫んだ。

 だが、それでも桃香は動けなかった。

 その間にも、黄巾党の男達はみるみる迫ってきていた。

 桃香は宝剣「靖王伝家」を腰に携えていた。

 その為、自分の身を守る事が出来ない訳では無い。

 だが、鈴々を背負い、更に死体を見て精神状態が不安定になった今の桃香に、そんな事が出来る筈は無かった。

 

「死ねーっ‼」

「っ‼」

 

 目の前に来た黄巾党の一人が、桃香に向かって剣を振り上げた。

 

「劉備殿っ‼」

 

 関羽は一番後ろに居た黄巾党の男を斬り捨てながら、桃香に向かって叫ぶ。

 だが二人の距離は遠く離れており、間に合いそうにない。

 そして、焦る関羽を嘲笑うかの様に、無常にも剣は振り下ろされた。

 

「…………っ‼」

 

 桃香は反射的に目を瞑った。どうやら、体は動かせなくても目は動かせるらしい。

 だが、いつ迄経っても痛くはならなかった。

 ひょっとして、もう死んじゃったから痛くないのかな? なんて思いながら、桃香はゆっくりと目を開けた。

 そこには、

 

「ぎゃあぎゃあ五月蝿いのだ。眠れないじゃないかあ。」

 

自らの矛を振り上げ、黄巾党の男による剣の一撃を防ぐ鈴々の姿があった。

 

「鈴々ちゃん…いつの間に!?」

 

 確かめて後ろを見てみると、桃香の背中には誰も居ない。

 目の前に居るのは本物の鈴々だった。

 

「何だか五月蝿くなったから目が覚めたのだ。こいつ等が暴れてる所為で五月蝿いんだね、桃香お姉ちゃん?」

「う…うん……。」

 

 それを聞いた鈴々は、矛を振って黄巾党の男の剣を弾くと、矛を向けて牽制する。

 

「みんなを苦しめる黄巾党は鈴々が倒すのだ。桃香お姉ちゃんは下がっていて。」

「で、でも鈴々ちゃんも危険だよっ。」

「平気なのだっ。」

 

 桃香の制止も聞かず、鈴々は矛を振り黄巾党の男に向かっていく。

 

「でりゃりゃりゃりゃーっ‼」

 

 鈴々は何度も矛を振り、黄巾党の男は辛うじてそれを防いでいた。

 だが、いつ迄も防ぎきれる訳が無く、遂には斬り伏せられる。

 うつ伏せに倒れた黄巾党の男は、斬られた場所から血を流し、呻き、やがて絶命した。

 鈴々は顔に付いた返り血を左腕で拭い、矛を振って血を払う。

 鈴々の表情は常の明るい表情ではなく、かといって人を斬った事による高揚感も無い。

 僅かに悔恨の表情を浮かべていたが、それも直ぐに消えた。

 

「り…鈴々ちゃん、大丈夫!?」

「大丈夫なのだ。鈴々は怪我してないのだっ。」

「それは解るけど……その、あの…………。」

 

 桃香は何かを聞こうとして中々聞けないでいる。

 

「……鈴々なら大丈夫なのだ。もう、慣れてるから。だから、桃香お姉ちゃんは気にしないでほしいのだ。」

「……! 鈴々ちゃん……解った…………。」

 

 鈴々が人を斬った姿を、桃香は初めて見た。

 鈴々が人を斬った事があるのを、知らなかった訳では無い。鈴々から直接聞いていたから知っていた。

 それでも、自分より年下で、体もまるで子供の様に小さい鈴々が、敵とはいえ人を斬って心が無事でいられるのか、心配していた。

 だから、今の鈴々の言葉を聞いた桃香は、自分なりの納得をしつつ、これからも鈴々と共に居たいと思った。

 

「ひ……ひええーっ‼」

 

 最後に残った黄巾党の男が、関羽や鈴々の強さに恐れをなし、一目散に逃げていく。

 

「待てっ!」

「待つのだーっ!」

 

 逃がす訳にはいかないと判断した関羽と鈴々は、獲物を構えながら追走する。

 

「わわっ、二人共待ってよーっ!」

 

 漸く落ち着いてきて体が動くようになった桃香も、慌てて二人を追い掛ける。

 そうして三人が駆けていた、その時だった。

 

「なっ!?」

「一体何なのだっ!?」

「ま、眩しい〜っ!」

 

 今は夜だというのに、まるで太陽が昇ったかの様に急に明るくなったのは。

 それ迄暗かった空が急に明るくなったので、関羽達は勿論、街の人々や逃げていた黄巾党の男も、余りの眩しさで目が眩み、その場から動けなくなっていた。

 その光は硬質な音と共に暫く続き、やがて消えていった。

 とは言え、眩しさで目が眩んだ為に、皆暫くは目を開けられないでいる。

 その中で最初に目を開けたのは桃香だった。

 

「な、何だったのかな、今の光……って、ええっ!?」

 

 目を擦りながら辺りを見回していた桃香は、ある一点を見た途端に大声をあげて驚いた。

 

「と、桃香お姉ちゃん、どうしたのだっ!? ……はにゃ?」

「劉備殿、いかがなされた!? ……何と!?」

 

 続けて目を開けた鈴々と関羽も、桃香と同じ場所を見て驚く。

 

「いてて……一体何だったんだ、今のは?」

 

 桃香達が見ている場所には、彼女達と同年代と思われる少年が座っていた。

 「少年が座っている」だけなら未だ良いのだが、少年の服装や持ち物は、桃香達が見た事の無い物ばかりだった。

 何より一番おかしいのは、少年がその場所に居る事だ。

 街の出入り口へと続くその道には、先程迄は誰も居なかった。

 辺りには民家も隠れる場所も無いのに、何故か少年は今そこに居る。

 まるで、急に現れたかの様に突然現れていた。

 

「……ここはどこだ? 俺、さっき迄家に居て、これから外出しようとしてた筈なのに……。」

 

 周りを見ながらそう呟いていた少年は、目の前に居る人物を見て動きを止める。

 その人物は頭に黄色い布を巻いた中年の男。右手には剣を握っており、その刀身は銀色に光っている。

 

「何だてめえ? どけっ‼」

 

 その男はそう叫びながらその剣を振り上げる。

 少年は何が起こっているのか解らず、只立ち尽くしていた。

 そして、その男は剣を振り下ろした。

 少年は反射的に体を後ろに動かし、その剣をかわす。だが、少年の前髪が数本空に散った。

 

「な……なっ、何だよそれっ!? ……まさか、本物の剣なのかっ!?」

 

 少年は、髪や顔、体を触りながら自分の無事を確かめる。

 だが、無事と解っても直ぐに恐怖心が少年の心を捉えた。

 少年にとって「現実」とは受け入れ難い、目の前の「現実」は、少年の体を動けなくするには充分だった。

 そんな少年に対して、黄巾党の男は再び剣を振り上げる。

 

「危ないっ!」

 

 その時、少年の前方、つまり黄巾党の男の後方から、柔らかくも意志の強い声が聞こえてきた。

 

「えーいっ!」

 

 その声の主である桃色の髪の少女は、走りながら腰に有る鞘から剣を抜き、黄巾党の男に向かって斬りかかった。

 だが黄巾党の男がかわした為に剣は空を斬り、少女は体勢を崩す。

 黄巾党の男はその隙を見逃さず、逆に少女に向かって斬りかかった。

 

「桃香お姉ちゃん!」

「劉備殿!」

 

 鈴々と関羽が同時に叫ぶ。

 その少女――桃香は咄嗟に剣を盾にして防ぐが、力量の差は明らかだった。

 鈴々と関羽が救援に向かうが、距離的に間に合うか微妙だ。

 このままでは間違いなく桃香は殺される。

 鈴々や関羽は勿論、桃香自身もそう感じていた。

 その時、

 

「てえりゃああっ‼」

 

そんな雄叫びと共に、少年が黄巾党の男目掛けて跳び蹴りをした。

 突然の事だったので、黄巾党の男は防ぐ事が出来ず、そのままゴロゴロと転がる様に吹っ飛ばされた。

 

「何だかよく解んねえけど、お前が悪い奴だってのは解ったぜ!」

 

 そう言いながら少年は桃香を庇う様にして前に立つ。

 その桃香は、助ける筈が逆に助けられたのが恥ずかしいのか、顔を真っ赤にして俯いていた。

 

「この野郎、よくもやったな!」

 

 黄巾党の男が立ち上がろうとしながらそう叫ぶ。

 だが、その動作は途中でピタリと止まった。

 

「悪いが、そこ迄だ。」

「大人しくするのだ!」

 

 黄巾党の男の首筋に、二つの刃がピタリとついている。

 右側に関羽の偃月刀の刃先、左側に鈴々の矛の刃先。少しでも動けば、間違いなく絶命する。

 つまり、王手をかけられている。

 それを察した黄巾党の男は、抵抗を止めてガックリとうなだれる。

 その後、やってきた街の人々によって拘束された黄巾党の男は、そのままどこかへと連れて行かれた。

 恐らく、尋問をされるのだろう。

 

「やれやれ、これにて一件落着なのだ!」

「そうだな。劉備殿も少年も、怪我はありませんか?」

 

 事件の解決を確認した関羽が、桃香達の許に駆け寄る。

 

「私は大丈夫だよ、関羽さん。見たところ、この人も怪我してないみたいだし。」

 

 そう言って二人は互いの無事を喜んでいた。

 鈴々はというと、少年を珍しそうに見ている。

 

「あのー……。」

「「はい?」」

 

 そんな中、少年は桃香達に話し掛けた。

 それも、どこか驚いた表情で。

 

「さっきから“劉備”とか、“関羽”とか聞こえるんだけど……それって君達のニックネームなのかな?」

「にっくねえむ? 何それ?」

「……えっ?」

 

 桃香の言葉を聞いた少年が、更に驚いた表情になって呟いた。

 

「えっと……ニックネームを知らないの? ニックネームってのは、つまりは愛称みたいなものの事なんだけど……。」

「……私達の名前が愛称だと仰るのですか?」

「う、うん。」

 

 ニックネームの説明をすると、急に関羽の表情が険しくなった。

 少年もその異変に気付いたらしく、言葉が一瞬詰まる。

 

「貴方が何故そう思うのか解りませんが、我が名“関羽”は父母より頂いた大切な名前。愛称等の軽い物ではありません。」

 

 凛とした声で重々しく語る関羽。その表情はしっかりと少年を睨みつけていた。

 

「そ、そっか……。……じゃあ、君の(あざな)は“雲長”?」

「なっ!? 何故貴方が私の字を知っている!?」

 

 初対面の相手に自分の字を言われた関羽は、驚きと共に警戒感を表し、手に持つ槍に力を込めた。

 そんな関羽の警戒感に気付いているのかいないのか解らないが、少年は桃香の方を振り返って話し続ける。

 

「まあ、色々とね。で、君が劉備って事は、字は“玄徳”かな?」

「は、はいっ、当たってますっ!」

「やっぱり。なら……。」

 

 少年は関羽の右斜め後ろに居る小さな少女を見る。

 

「劉備と関羽ときたから……まさかと思うけど、君が“張翼徳”?」

「そうだよー。けど、何でまさかなのだ?」

「いや、あの張飛がこんな小さい女の子なんて思わなくて。」

 

 そもそも、三国志の英傑達が女の子なんて、とも思ったが、話が更にややこしくなりそうだったので言わなかった。

 

「小さいは余計なのだ! 小さくても鈴々は強いのだ!」

「だろうね。君が張飛ならそりゃ強いだろう。」

 

 少年はそう言いながら、自分が知る張飛の活躍を思い出していた。

 虎牢関(ころうかん)の戦いや長坂(ちょうはん)の戦いでの張飛の活躍は凄まじい。

 劉備と関羽が来る迄はあの呂布(りょふ)と一騎打ちしてたり、長坂橋を背にして、追撃して来る曹魏(そうぎ)の軍勢と対峙したりと、その戦い振りは正に一騎当千。

 

(それがこんな小さい女の子なんて言われて、戸惑わない方が変だろ……。)

 

 鈴々が持っている武器は、形状からして「蛇矛(だぼう)」だろう。それはまさしく張飛の武器だ。

 

(長さとかも合ってるみたいだし、それに……。)

 

 さっきの男が持っていた剣は真剣だった。

 なら、この娘達の武器も本物の武器なのだろう。

 少年はそう結論付けた。

 そうなると、ここが何処なのか、何故此処に自分が居るのか、解らない事だらけになった。

 

(どっかのコスプレ会場に、無意識の内に迷い込んだって方が未だマシだけど……。)

 

 だが、今自分が居るのは何処かの建造物の中では無く、見知らぬ風景が広がる街の中。

 それも、明らかに現代の街とは思えないくらい質素な建物が並んでいる。

 道は舗装されていないし、街灯や自動販売機、信号も電柱も何も無い。

 少年が住んでいる現代では、こんな場所はもう世界中探しても数が少ない筈だ。

 少なくとも、少年の故郷である「日本」には、どんな田舎でも一通りのインフラは整っている。

 

「何が何やらサッパリだな……。」

「それはこちらの台詞です。」

 

 混乱しつつある自分に対して呟いた一言に、凛とした声が応えた。

 

「何故貴様は私達の名前を知っている?」

「そうだよねー。初めて会った筈の私や関羽さん、それに鈴々ちゃんの名前を当てるなんて、ちょっと考えられないよ。」

 

 不思議に思った関羽と桃香は率直な疑問を投げかける。

 

「それは君達の名前が“三国志”の英傑達と同じ名前だからさ。」

「さんごくし? 何それ?」

「……またかよ。」

 

 桃香達の疑問に答えたものの、その桃香達は「三国志」を知らないらしい。

 何でその名前で知らないのかとツッコミを入れたかったが、知らないのなら仕方ないとも思った。

 それよりも、少し気になった事が有るからだ。

 

「あの……。」

「なあに?」

 

 少年は桃香達に尋ねる。

 

「さっきから何回か聞く“りんりん”って、一体何の事?」

「あ。」

「なっ!?」

「はにゃ?」

 

 少年がそう言葉を発した時、桃香達の表情が瞬時に変わった。

 桃香は「ありゃ。」という表情に、

 関羽は「何て事を。」という表情に、

 そして、当の鈴々は「あーあ。」という表情になっている。

 次の瞬間、関羽の偃月刀が少年の喉元に突きつけられていた。

 少年は、何故こんな事になったのか解らないといった表情を浮かべながら固まっている。

 

「貴様! 初対面の人間が張飛殿の“真名”を呼ぶなど、一体何のつもりですかっ!?」

「な、何の事だよっ!?」

「とぼけないで戴きたいっ! この国の人間が“真名”を知らない訳が無いでしょうっ‼」

「そう言われても、知らないもんは知らないよっ!」

 

 相変わらず偃月刀は突きつけられていたが、少年は必死にそう叫び続けた。

 

「ならば貴様は、この国の人間では無いとでも言うのか!?」

「た、多分、この国の人間じゃ無いと思うけど……。」

「…………え?」

 

 それは関羽にとって予想外の言葉だったのか、思わず偃月刀を引いた。

 それは桃香や鈴々達も同じだったらしく、ポカンとした表情を浮かべている。

 

「えっと……な、なら、貴方は外国の人って事?」

「まあ……そうなるかな。」

 

 少年は桃香にそう答えながら、何故言葉が通じるのか解らないけど、とも思ったが、やはりややこしくなりそうなので言わなかった。

 

「では、貴様は何処から来たというのだ? “南蛮(なんばん)”や“五胡(ごこ)”から来たとでも言うのか?」

 

 そう尋ねる関羽の声は、心なしか先程よりトーンが落ちている様に感じる。

 外国の人間なら「真名」を知らないのも仕方無いと思ったのだろうか。

 

(確か、“南蛮”は劉備没後に実質的指導者となった諸葛亮が平定した場所で、“五胡”は華北に居る民族の事だよな。)

 

 関羽の質問に答える前に、少年は南蛮と五胡についての知識を頭の中で再生した。

 どちらも三国志に登場する単語だが、勿論少年はその何れの生まれでは無い。

 

「違うよ。俺は日本から来たんだ。」

「にほん?」

 

 この感じ、早くも何回目だろう? と思いつつも、取り敢えず説明を始める少年。

 

「この大陸の東の果て、海を隔てた先に在る島国だよ。ひょっとしたら、今の国名は“倭国(わこく)”かも知れないけど。」

 

 少年は薄々感じていた。ここが、現代のどこでもない別の世界じゃないかと。

 だからそんな訳の分からない説明になってしまったが、下手に考えるより話すのが良いと思い、話し続けた。

 

「多分君達にとっては訳の分からない事を言っていると思う。まあ、正直言って、俺自身も現状はよく解ってないんだけどね。」

「よく解ってないとは?」

「気付いたらここに居たんだ。さっき迄家に居たのにね。」

 

 少年はさっき迄の事を説明していった。当然の事ながら桃香達は困惑していたが、暫くすると桃香がハッとしながら呟いた。

 

「もしかして……“天の御遣い”……?」

「てんのみつかい?」

 

 桃香が発した言葉を、少年は疑問符を浮かべながら繰り返した。

 すると、桃香が説明を始めた。

 

「えっとね、私の友達に“管輅(かんろ)”ちゃんっていう占い師が居てね。その娘が言っていたの、『もうすぐ、この大陸に“天の御遣い”が現れる。』って。」

「管輅!?」

 

 その名前を聞いた少年は驚いた。

 管輅と言えば、三国志に登場する占い師で、人の寿命や様々な戦の予言をピタリと当て、自らの寿命迄も知っていたという稀代の天才占い師だ。

 

(けど、管輅と劉備が友達だったとは書いてなかった筈……。単なる俺の見落としか、それともここではそれが普通なのか?)

 

 少年は暫しの間考えていたが、管輅の占いが気になったので考えるのを止め、桃香に話を続けてもらった。

 

「管輅ちゃんの占いはこんなだったよ。『黒天を切り裂いて、天より飛来する一筋の流星。その流星は天の御使いを乗せ、乱世を沈静す。』、だって。」

「つまりは、どういう意味なのだー?」

「要するに、天から遣わされた人物がこの大陸に平和をもたらす、という事でしょう。」

「うん。管輅ちゃんに詳しく聞いたらそう言ってた。」

 

 桃香がそう言うと、桃香、関羽、鈴々の三人はほぼ同時に少年を見た。

 

「で、この者がその“天の御遣い”だと?」

「きっとそうだよ。だって、ピカーッて光ったら突然現れたし、私達の字をピタリと当てたんだもん。」

「それはそうですが……。」

 

 桃香が力説するも、関羽は納得しきれていない様だ。

 

「それにほら、この人の服装とか見た事無いじゃない。」

「確かにそうなのだー。」

 

 いや、君達の格好も、余り見た事無いよ? と、少年は思ったが、結局はお互い様だという事なので口には出さなかった。

 

「劉備殿の仰る事は理解出来ますが、私は未だ納得出来かねます。」

「うーん、関羽さんは慎重なんだね。」

 

 桃香はそう言って関羽の顔を覗き込んだ。

 まあ、普通なら関羽の反応が正しいのだろう。

 

「それで、お兄ちゃんはこれからどうするのだー?」

「んー……どうしよっか。」

 

 鈴々の質問に対して、少年は他人事の様にそう答えた。

 だがそれも仕方無いだろう。何せ見た事も無い場所に突然飛ばされたのだ。しかも、三国志の登場人物と同じ名前を持つ少女達が目の前に居るという不思議な状況。

 これでは、投げやりな気持ちになっても仕方がない。

 

「行く当ては無いんですか?」

「まあ、見知らぬ土地だから知り合いも居ないしね。」

 

 ここが日本でなく、更には元居た世界でもないのなら、少年は文字通り世界で一人ぼっちの存在だ。

 今の少年は、誰にも頼れない、まさに孤独な存在。

 

「だったら、今日はうちに泊まりませんか?」

「……えっ?」

「なっ!?」

「はにゃっ?」

 

 そんな少年に向けた劉備の提案は、少年だけでなく関羽と鈴々も驚かせた。

 

「りゅ、劉備殿っ!? い、一体何を考えているのですかっ!?」

「何って……行く当ての無い御遣い様をうちに泊めようかと。」

 

 慌てて尋ねる関羽に対し、桃香は平然と答えた。

 それが関羽の焦りを助長させたのか、関羽は更に早口になってまくしたてた。

 

「年頃の娘である劉備殿が、そんな簡単に自分の家に男性を泊まらせるものではありませんっ!」

「けどほら、困った時はお互い様って言うじゃない。」

「しかしっ‼」

「大丈夫だよ。御遣い様は優しそうだし、うちにはお母さんも居るし。それに今夜は、関羽さんも泊まってくれるんでしょ?」

「そ、それはそうですが……。」

「だったら、何かあっても助けてくれるって信じてるから。私は安心だよ。」

 

 だが、桃香の言う事もまた正しいし、それに笑顔でそう言われては余り強くは言えない。

 それにしても、どうやら桃香は、関羽も桃香と同年代の少女だという事を忘れている様な気がする。

 

「鈴々ちゃんも泊まっていくよね?」

「当然なのだっ。桃香お姉ちゃんと一緒の布団で寝たいのだー。」

「うん、私も鈴々ちゃんと久し振りに一緒に寝たいよ。」

 

 そう言って盛り上がる二人。関羽や少年が複雑な表情をしている事等気付いてないし。

 

「じゃあ御遣い様、行きましょう。」

「う、うん。けどその前にさ。」

「何ですか?」

 

 桃香に連れられる前に、少年はある頼み事をした。

 

「その“御遣い様”って呼び方、何か堅苦しいから止めてほしいな。」

「えっ? でも……。」

 

 その頼み事に戸惑う桃香。彼女にとって少年は天から来た凄い人なのだから、そう言われて戸惑うのも仕方がないのだが。

 

「良いから良いから。それより俺の事は名前で呼んで。俺の名前は“清宮涼”。“涼”って呼んでくれよ。」

「“きよみやりょう”? 珍しい名前なんですね。」

 

 少年――「清宮涼」が言った名前を繰り返しながら、桃香は思ったままの感想を告げた。

 と、そこに、関羽も名前の確認に話しかけてくる。

 

「となると、“清”が姓で“宮”が名、“涼”が字ですか?」

「いや、“清宮”が姓で“涼”が名前。字は無いんだ。」

「字が無い? それもまた珍しいですね。」

「まあ、国が違うしね。」

 

 そんな事を話しながら、四人は桃香の家へと向かっていった。




皆さんこんにちは、またはこんばんは。
第一章「三人の英傑と天の御遣い」の後書きです。

序章と打って変わって、いきなり恋姫世界の話です。ここでは、今作での桃園三姉妹の設定の説明をさせていただきます。

先ず、桃香は母親と共に村に住んでいます。アニメ版と似た設定ですが、執筆当時はアニメ版「真・恋姫†無双」は未だ放送前だったので、自分は「横山光輝三国志」を参考に書きました。
なので桃香の母親はアニメ版みたいな性格ではありません。多分←

愛紗はアニメ版「恋姫†無双」の設定を参考にしました。史実でも関羽は旅をしていたという説がありますから、ピッタリかと思います。

鈴々は親の設定はゲーム版「恋姫†無双」の鈴々拠点を参考にし、そこに桃香と幼馴染みという、独自設定を組み合わせました。

冒頭は「三国志演義」や「横山光輝三国志」を参考にして作りました。それからはゲームともアニメとも違う流れにしています。
主人公が急に現れた展開はゲーム版の一刀、それも今思えば呉ルートを参考にしてますね。

尚、今回修正するにあたって名前や固有名詞に読み仮名を付けました。「恋姫」も「三国志」も知らない人も少しは読み易くなったかと思います。
次は第二章修正後にお会いしましょう。


2012年11月15日更新。

2017年4月2日掲載(ハーメルン)


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第二章 桃園の誓い・1

桃の花が咲き乱れ、風と共に散っていく。
それはまるで、淡い紅色の吹雪の様だった。



2009年9月14日更新開始。
2009年10月12日最終更新。

2017年4月4日掲載(ハーメルン)


 翌日。

 「天の御遣い」の少年、清宮涼(きよみや・りょう)桃香(とうか)の家に居た。

 昨夜、桃香に連れられて桃香宅に着き、そこで様々な説明や自己紹介をした後、就寝となった。

 起きたのは未だ陽が昇って間もなくの時。

 時計もテレビも無いので正確な時間は解らないが、起きるには早過ぎた時間だというくらいは解った。

 腕時計は有るものの、そこに表示されている時間は元の世界のものなので、こちらの時間と合っている訳では無い。

 この世界の日付や時間が解らないので、時計を合わせる事も出来ない。

 よって、太陽が高く昇っている今が、昼前だという事くらいしか解らなかった。

 

「……本当に別世界に来ちゃったんだなあ。」

 

 縁側の柱に体を預けたまま座っている涼が、空を見ながらそう呟いた。

 昨夜、そして今朝交わした会話から、ここが涼の住んでいた世界とは違う世界だという事が解った。

 しかも、どうやらこの世界は「三国志」に良く似た世界だという事も解った。

 今は黄巾党(こうきんとう)の乱が起き、大陸の各地で乱世の兆しが見え始めているという。

 

(て事は、曹操(そうそう)孫策(そんさく)董卓(とうたく)袁紹(えんしょう)が勢力を伸ばしている頃か。いや、孫堅(そんけん)は未だ生きているかな。公孫賛(こうそん・さん)袁術(えんじゅつ)も居るだろうし……。)

 

 自分が知っている「三国志」の知識から、今の時代に該当する人物を思い浮かべる。

 そこで、一つの疑問が浮かんだ。

 涼の世界の「三国志」では、劉備(りゅうび)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)は男性だ。

 だがこの世界の劉備、関羽、張飛は女性、しかも涼と余り変わらない年齢だ。

 

(て事は、曹操や孫策達も女性の可能性が有るって事か……。)

 

 劉備達がそうだった以上、曹操達もそうなる可能性は充分に有る。

 

(……どんなキャラになってるのか、不安でもあるし楽しみでもあるな。)

 

 劉備達があんなキャラになっているのだから、そう思うのも仕方無いだろう。

 と、そこに凛とした声が届いた。

 

「こんな所で何をしているのですか?」

「ん……関羽さんか。」

 

 見上げると、そこには長い黒髪を左側で纏めている少女が立っていた。

 

「“さん”付けはしなくて良いと申し上げた筈ですよ、涼殿。」

「それなら、俺も“殿”は付けなくて良いって言った筈だよ。」

 

 涼の隣に座りながらそう言った関羽に対して、涼も同じ様な答えを返す。

 

「それもそうでしたね。ですが、貴方が“天の御遣い”なら呼び捨てにする訳にはいかないのですよ。」

「“天の御遣い”ねえ……。」

 

 そう呟くと、再び空を見上げる。

 

「未だ御自覚が無いので?」

「そりゃ、今迄普通の学生やってた人間が、急に“天の御遣い”とか祭り上げられても戸惑うだけさ。」

 

 関羽の問いに答えてから、涼が逆に問い掛ける。

 

「それに、関羽さんも俺が“天の御遣い”だって事に納得してなかったんじゃない?」

「それはそうですが……昨夜の話や、“けーたいでんわ”なる天の絡繰り等を見せられては、ある程度納得せざるを得ませんからね。」

 

 そう言って関羽は少し困った顔をした。

 昨夜、少年は自分が別の世界から来た証拠として、持っていたバッグから色々な物を取り出して見せ、説明していった。

 携帯電話が遠くの人と話せたり、写真を撮ったり出来る道具だと説明した時には、皆目を丸くしていた。

 携帯ゲームを遊んでみせた時は鈴々(りんりん)が一番興味を持っていた。

 携帯型音楽プレーヤーを操作して聴かせた時は、桃香も関羽も驚きつつ楽しんでいた。

 

「あー……まあ、それもそうだな。」

 

 携帯電話もゲームもプレーヤーも、この世界が三国志を基にした世界なら有る訳が無い。

 それを持っている涼を別の世界、つまり天の世界の人間と認識するのは当然かも知れない。

 

「……それに、貴方が本当に“天の御遣い”かどうかは、正直どうでも良いのです。」

「……え?」

 

 思いも寄らない言葉に、涼は思わず聞き返した。

 すると、関羽は涼の顔を見ながらこう答える。

 

「貴方が天からこの大陸に遣わされ、平和に導く人間だという噂が、劉備殿を始めとする人々に希望を持たせるんです。」

「あー……つまりは、風評や大義名分が得られれば良いって事か。」

「そういう事です。ですから、余り肩に力を入れなくて大丈夫ですよ。」

 

 そう関羽に言われ、涼は一つの事例を思い浮かべた。

 つまり、自分は「錦の御旗」になれば良いと言う事だな、と。

 幕末、戊辰戦争で優勢だった反幕府軍を更に勢い付けたのは、天皇が率いる軍の証である「錦の御旗」を得た事だった。

 「錦の御旗」を持つ軍に刃を向ける事は、天皇の敵、つまり朝敵になるという事。

 もし朝敵になってしまったら、仮に戦争で勝っても民衆の支持を受ける事は無い。

 民衆に支持されない集団が天下を穫れる訳もない。だからこそ、旧幕府軍の戦意は落ち、戦いは反幕府軍改め新政府軍の勝利へと繋がっていった。

 涼は、その「錦の御旗」になれば良いらしい。

 自分なんかが「錦の御旗」になれるのだろうか? という疑問は残るが、では他に何が出来るか? と聞かれたら、何も出来ないとしか言い様がない。

 

「まあ、俺に出来る事なら何でもするさ。」

「その意気です、涼殿。」

 

 涼の決意に、関羽は笑みを浮かべながら応えた。

 それから暫くして、二人は桃香達の(もと)へ向かった。

 桃香と鈴々は今、義勇兵の集まりに参加し、これから近くに居る黄巾党の根城に向かう所だった。

 

「あっ、涼さん。」

「お兄ちゃーん、関羽お姉ちゃーん、こっちなのだーっ。」

 

 老若男女が集まる義勇兵の集団の中から、一際明るく声を上げる二人の少女の姿が見える。

 これから戦いに行くというのに、これ程緊張感が無いのも珍しい。

 

「遅れて済みません。少し、涼殿と話をしていまして。」

「良いよー、気にしなくて。それより、涼さんも義勇兵に参加するんだよね?」

「ああ。戦った事は無いけど、かといってあのまま家に居るのも性に合わないしな。」

 

 そう言って関羽と共に二人と合流した涼は、左腰に有る剣を軽く叩いた。

 当然ながら、この剣は涼が元々持っていた物ではなく、昨夜、涼達の話を聞いていた桃香の母から借り受けた物だ。

 どうやら桃香の剣「靖王伝家(せいおうでんか)」の予備の剣みたいな物らしく、大きさが一回り小さい事と装飾が少ない事以外は、殆ど同じだった。

 因みに、名前は無いらしく、涼は取り敢えず「靖王伝家(予備)」と名付けた。

 

「とは言え、武器を使えぬ者が戦場に出ては足手纏いになります。余り、前線には出ない様、御気を付けて下さい。」

「う、うん。解ってるよ。」

 

 死にたくはないしね、と思いながら涼は身をすくめた。

 辺りを見回すと、武具に身を包んだ老若男女が数え切れない程居る。

 この街はそんなに大きく見えないが、予想以上に人口が多いらしい。

 一通り見終わると、次に桃香達を見た。

 目の前に居る桃香は、桃色の長い髪を白い羽根が付いた髪留めで左右に纏めたストレートヘア。

 白と緑を基調とした服は、どこかの学校の制服にも見える。襟元に紅いリボンが有るから尚更だ。

 まあ、肩が見える制服なんて余り無いだろうけど。

 袖等には金色のラインが有り、両袖には羽根をあしらった金色の刺繍。ヒラヒラした紅いスカートの端には白いフリルみたいな物が見える。

 靴は膝上迄有る長く白いブーツ。

 今更ながら、コスプレみたいな服装だなと、涼は思った。

 続いて、桃香の左隣に居る鈴々。

 短い赤毛には、コミカルな虎の顔の髪飾りを付けている。

 気の所為か、その表情が時々変わる様な……。

 暫くして気の所為だと結論付けた涼は、観察を続ける。

 短めのインナーシャツとスパッツは同じ紺色で、どちらも下部に金色のラインが入っている。因みにかなりのヘソ出しルックだが、寒くは無いだろうか?

 金色の首輪に、黄色を基調として茶色のラインや葉っぱの様なデザインが有る上着。両肩には白と黒で構成される陰陽のマークっぽいのが有る。

 そのマークはベルトのバックルにも有り、ベルトは二つのベルトをクロスさせて使っている様だ。

 両手には紅い手甲が付いた手袋をはめている。色はやはり紺色で、指先は空いている。

 右腕は肘迄やはり紺色で覆われている。手袋の延長だろうか。

 靴は履いて無く、指先と踵が無い靴下を履いている。色やデザインはスパッツ等と同じだ。

 忘れていけないのは、首に巻いている紅いマフラーだ。

 まるで何処かの仮面のヒーローの様に、パタパタと風に揺れている。

 もし現代に皆と戻って、その仮面のヒーローの映像を見せたらどんな反応をするだろう。少し楽しみではある。

 最後は、涼の左隣に居て、桃香の右隣に居る関羽。

 黒く艶やかな黒髪を左側で纏め、紅いリボンが付いた金色の輪で留めている。

 白と緑を基調とした服は桃香の服と似ており、金色のラインや肩を出している所も同じだ。

 服の下部は花びらの様なデザインになっており、後ろは前より長くなっている。

 その下には黒いプリーツスカートに茶色のオーバーニーソックス、革靴の様な黒い靴。

 やっぱりコスプレっぽいし、部分的にはどこかの学校の制服に見えなくもない。

 とまあ、三人の服装に関して涼はそんな感想を抱いていた。

 

(それにしても……これって今から戦うにしては軽装過ぎないか?)

 

 周りの義勇兵は鎧兜に身を包んでいたり、最低でも胸当て等の防具を身に着けている。

 だがこの三人は普段着みたいな服装でいる。

 桃香と関羽の豊かな胸が一目で解る程だ。

 因みに別の意味で鈴々の胸も一目で解るが、それはおいておく。

 

(まあ、俺も劉備達の事は言えないけどさ。)

 

 そう自嘲気味に心の中で呟いた涼は、自分の姿に目を向ける。

 基本的には昨日と同じTシャツにジーパンという服装だが、今日はそれに白いフード付きコートが加わっていた。

 涼が居た現代は、未だ秋の中頃といった時季だったので、コートを着るには少し早いのだが、どうやら、寒くなる前に買っておいたコートをバッグに入れっぱなしにしていたらしい。

 なので、普通なら未だ着ない筈のコートだが、こちらの今の季節は春先でしかも肌寒い為、寒さから身を守るのに丁度良かった。

 

(他にも色々バッグに入れてたからなあ……お陰で少しは楽出来そうだけど。)

 

 そのバッグは今背中に背負っている。

 このバッグは汎用性が高く、本来は肩にかけて使う大きなバッグだが、少し手を加えるとこの様に背中に背負う事も出来る。

 因みに、剣はズボンのベルトを通す所に鞘の紐を通して固定している。

 

「あ、どうやら指揮官の方々が来た様です。」

 

 関羽の声に涼や桃香、鈴々が反応し、関羽が見ている方向に目をやる。

 そこには、甲冑を身に纏った中年の男と、涼達と同年代と思われる少女が立っていた。

 暫くの間、二人による話が続いたが、どうやらそれによると中年の男が指揮官で、少女は軍師らしい。

 涼は指揮官の名前は知らなかったが、軍師の少女の名前は聞き覚えが有った。

 

「今度は徐福(じょふく)か……。」

 

 涼は目の前の少女を見ながら呟いた。

 徐福とは、「三国志」で劉備に仕えた軍師の一人で、物語序盤で劉備達と共に活躍した人物だ。

 とある出来事により劉備達の許から離れるが、劉備に対する恩義や忠義は忘れる事が無かったという。

 

「その徐福がここで登場……か。」

 

 そう呟きながら、涼はどこか安心した心地になっていた。

 

「……? 涼殿は、徐福殿を御存知で?」

「いや、会った事は無いけど解る。彼女はきっと優秀だよ。」

「はあ……。」

 

 涼の言葉に関羽は怪訝な顔をしていたが、その徐福が話し始めたので視線を戻した。

 徐福は野球帽の様な黄色い鍔付き帽子を深く被り、銀色の髪は膝元迄ある長さ。

 身長は鈴々より頭一つ大きい様だ。因みに鈴々は小学生みたいに小さい。

 胸は大きくないが小さくもなく、普通より少し大きいくらい。

 首元には羽ばたく二つの羽根をあしらった首飾り。服は帽子と同じ黄色を基調としたワンピースで、その左胸には白い羽根をあしらったワンポイントが有り、どうやら羽根のデザインが好きな様だ。

 足は白いオーバーニーソックスと、革靴の様な紺色の靴を履いている。

 大きな金色の瞳は自信に満ちていて、見ているこっちも自信に満ち溢れる様な気になってくる。

 因みに、桃香の瞳は水色、関羽の瞳は金色、鈴々の瞳は紺色だ。

 

「昨夜、劉玄徳(りゅう・げんとく)さん達が捕縛した黄巾党の男から、色々と情報を聞き出せました。……劉玄徳さん、関雲長(かん・うんちょう)さん、張翼徳(ちょう・よくとく)さん、そして清宮涼殿、お手柄でしたね。」

「あ、いえ、どう致しまして。」

 

 徐福に誉められ、周りの人々から注目される中、昨夜は実質的に何もしてない桃香が、四人を代表して、少し慌てながら応えた。

 関羽と鈴々の提案もあり、昨夜の事件は関羽、鈴々に加えて桃香、涼の合計四人の手柄になっていた。

 殆ど活躍していない桃香や涼は当然嫌がったが、あの場に居た事と戦った事は事実だし、その方が後々役に立つからという事で何とか納得した。

 因みに、涼が“天の御遣い”だという事は既に街の人々に知らせてある。

 勿論、皆が皆それを信じている訳では無いが、昨夜の光と黄巾党の事件を知っている為、街の人々の大半は涼を“天の御遣い”として認めていた。

 お陰で明け方、劉備宅の周りに野次馬が沢山居たのを見た涼も桃香も物凄く驚いていたが。

 

「その情報を基に斥候を放った結果、情報通りの場所に黄巾党の根城が在るのを確認しました。私達はこれからそこへ向かうのです。」

 

 これからの事を力強く説明しながら、集まった義勇兵達を鼓舞する徐福。

 隣に居る指揮官の存在理由が無いのではないかと思う程に、徐福は皆を引っ張っていた。

 

「それでは皆さん、私達について来て下さいっ!」

 

 徐福の号令に義勇兵達は威勢の良い声で応え、目的地へと出発した。

 涼以外の桃香達三人もそれに続いて歩き出す。



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第二章 桃園の誓い・2

 車もバイクも無いこの世界の地上での交通手段は、馬か徒歩しかない。

 この行進も一部の人間を除き、皆徒歩だ。

 目的地は近くの山間に在るらしく、パッと見は近いのだが、いざ歩くとなるとかなりの時間がかかる。

 しかも、それなりの人数で行進している為、勝手に速度を上げたり落としたり出来ず、休憩も勝手に出来ない為にかなり辛い。

 調練された兵士なら兎も角、ここに居るのは殆どが農民なので、この様な行進に慣れていなかった。

 当然ながら、それは桃香も同じだ。

 

「あう〜、疲れたよぉ〜。」

「桃香お姉ちゃん、もう直ぐ着くから頑張るのだ。」

「その前に小休止があと一回は有るでしょう。頑張って下さい、劉備殿。」

「そんなぁ〜。」

 

 出発から約二時間、幾つかの小休止を挟みながら、桃香達義勇兵は行進を続けていた。

 

「……涼さんは良いなあ。馬に乗ってるから楽だろうし。」

 

 そう言って桃香は遥か前方に居る筈の涼を探す。

 探す相手は馬に乗っているから探し易い筈だが、この人混みでは意外と見つけるのが難しかった。

 

「涼殿は“天の御遣い”ですからね。流石に、その方を皆と同じ様に歩かせるという訳にはいかないと、徐福殿は判断されたのでしょう。」

「それはまあ、解るんだけどさあ〜。」

 

 関羽の言葉に同意しつつも、何処か羨ましそうな返事をする桃香。

 出発前、徐福の号令が義勇兵を鼓舞していた時、涼達の前に一人の兵士がやってきた。

 その兵士は涼に対して「徐福様が呼んでいます。」と伝え、涼は兵士に案内されるまま徐福の許へと向かった。

 その後、涼を待とうとした桃香達だが、程なくして皆が行進を始めた為、仕方なく行進に加わっていると、前方で徐福と指揮官の間に居る涼の姿が見えた。

 しかも、多少おぼつかない腕ながら馬に乗っている姿が。

 

「それに劉備殿、馬に乗るというのも、それなりに疲れるものなのですよ。」

「そうなの?」

「ええ、常に落ちない様に気を付けなければいけませんからね。お陰で、慣れない内は筋肉痛になり易いんですよ。」

「へえ〜。けど、それでも馬に乗りたーい。」

「まったく、桃香お姉ちゃんは忍耐力が足りないのだ。」

「その様ですね。」

「うぐぅ。」

 

 二人にそう言われ、落ち込む桃香であった。

 一方、桃香達がそんな会話をしている頃、前方で馬に乗っている涼は徐福と話をしていた。

 

「清宮殿、大分馬の扱いに慣れてきた様ですね。」

「まあね。昔の勘を取り戻したから何とか乗れてるよ。」

 

 昔、乗馬クラブに入っていたのが役に立ったなと思いながら、涼は徐福と話をしていた。

 涼の両親は共に乗馬が趣味で、小さい頃からよく乗馬をさせられ、一時期乗馬クラブに入らされていた。

 嫌いではなかったが、友達と遊ぶ時間が無くなる為に余り長く続かなかった。

 だが、子供の頃覚えた事は成長した今も覚えているらしく、暫く乗っているといつの間にか勘を取り戻していた。

 

「それにしても、馬より簡単に乗れる乗り物や速い乗り物が有るとは、流石は天の国ですね。私もその“じてんしゃ”や“ばいく”、“じどうしゃ”とやらに乗ってみたいものです。」

 

 徐福は目を輝かせながらそう言った。

 馬に乗る前に涼に説明された天の国の乗り物に、彼女は強い興味を持った様だ。

 まあ、どんな時代のどんな人間も、未知の事に興味を持つのは当然だろう。

 

「……それは楽しみだろうけど、今は黄巾党を倒す事に集中しないと。何か策でも有るの?」

 

 そんな徐福の願いを叶える事が出来ない涼は、それとなく話を戻した。

 すると徐福は自信満々に答える。

 

「勿論有りますわ。もっとも、黄巾党相手に手の込んだ策を弄する必要性は感じないのですが。」

「けど、黄巾党は結構数も多いし、都の兵士達も手を焼いていると聞くけど?」

「それは、都の兵士が無能なのと、相手を賊と思って侮っているからです。黄巾党は農民出身が殆どなのですから、霊帝(れいてい)大将軍(だいしょうぐん)何進(かしん)がもっと早く本腰を入れていれば、既に事態は沈静化している筈ですから。」

 

 徐福は、黄巾党の乱における現状と感想を苦々しい顔をしながら語った。

 彼女の話によれば、霊帝によって何進が大将軍に任じられ、黄巾党討伐に本腰を入れたのはつい最近の事らしい。

 霊帝は体が弱く、中常侍(ちゅうじょうじ)と呼ばれる側近達が霊帝を助けていたらしいが、その実はそうして権力を手に入れ、自分達の思うがままに政をしてきた。

 そしてそれが漢王朝を衰退させ、黄巾党が出現した最大の要因らしい。

 

「けど、霊帝と何進が本腰をあげたのなら、この乱もじきに治まるんじゃないのか?」

 

 涼は徐福にそう尋ねた。

 この黄巾党の乱の後に待っている新たな戦いを知っているのに、それでも敢えて尋ねてみた。

 

「ええ、“この乱”はじきに治まります。ですが、こちらの様な地方に討伐軍が来るには未だ時間がかかるでしょう。ですから、この様な義勇兵が必要なのです。」

 

 徐福は後ろに続いている義勇兵の面々を見ながらそう答えた。

 つられて涼も振り返れば、その中に見知った三人の姿を見つける。かなり疲れている様だな、と感じる。

 特に桃香が。

 

「そろそろ小休止をとりましょうか。目的地は近いですから、疲れをとっておかないと戦いになりませんからね。」

 

 そう言ったのは徐福。どうやら彼女も、義勇兵達が疲れているのに気付いた様だ。

 直後に小休止をとると指揮官や徐福が告げると、皆ホッとした表情になっていった。

 小休止は近くの小川の側でとる事にした。

 小川に着くと、皆その水で顔を洗い、汗を拭き、喉の渇きを潤していた。

 桃香、関羽、鈴々の三人も例外ではなく、特に桃香は先程迄とはうって変わって元気を取り戻していた。

 そんな三人を見ながら、涼も自らの顔や腕の汗を洗い流していた。

 比較的寒かったり、馬に乗っているとはいえ、二時間以上も移動していればそれなりに汗をかくし喉も渇く。

 出発前に貰った竹製の水筒に入れていた水は既に飲み尽くしていたので、喉を潤すには川の水を飲むしかない。

 涼は今迄川の水を飲んだ事は無いが、水道や自動販売機等が無い以上、水を得るには仕方がない。

 それに、この川の水はとても澄んでいて、小魚が気持ち良さそうに泳ぐ姿がそこかしこに見えた。

 

(それだけ、俺の世界の川が汚れているって事か。)

 

 この世界の川は、コンクリートで護岸が固められていたり、転落防止の柵が有ったりしない。

 川へと降りる道が階段になってる事は少ないし、蛇等の獣に注意する様促す看板も無い。

 けど、そんな風景がどこか温かいなと、涼は感じていた。

 きっとこれが、自然の在るべき姿なんだと。

 そう思いながら、ゆっくりと両手で水を掬い、口に運ぶ。

 

「……おいしい。」

 

 川の水ってこんなに美味いものなのか、と思いながら二度、三度口に運ぶ。

 そうして涼は、何度も冷たくて心地良い水を堪能していった。

 

「清宮殿、ここに居ましたか。」

 

 喉を潤した涼の側に、徐福が立っていた。

 それに気付いた涼は、顔を拭きながら応える。

 

「あ、徐福さん。俺を捜していたの?」

「ええ。実は黄巾党との戦いについて少し……。」

 

 そんな風に話をきりだしてから徐福は説明を始めた。

 

「……つまり、俺と劉備がそれぞれ部隊を率いるって訳か。」

「はい。片や“天の御遣い”、片や“劉勝(りゅうしょう)の末裔”。これ等の肩書きは充分に兵の士気を上げ、敵の士気を下げます。」

「けど、俺も劉備も実戦経験は殆ど無いぞ。」

 

 謙遜ではなく事実をありのままに話す涼。

 

「それはこの際構いません。お二人には後方で味方を鼓舞して貰えれば良いのですから。」

「けど、それって何か皆に悪い気がするなあ。」

「では、前線に出て斬られてきますか?」

「……それも嫌だけどさ。」

 

 誰が好き好んで死にに行きたいだろうか。

 勿論、涼もそんな人間じゃない。

 

「……清宮殿はお優しい方ですね。」

「そうかな。」

 

 今度は謙遜じみた話し方をする。

 そんな涼に対して、徐福は少し声を低くし、更に真剣な表情でこう続けた。

 

「ええ、とてもお優しいです。ですが、それだけではダメなんです。」

「……どういう事?」

 

 怪訝に思った涼は、自らも真剣な表情になって聞き返した。

 

「清宮殿は、皆を鼓舞するだけでなく、自ら先頭に立って指揮をしながら戦う人間になりたい、と、そう思っているのではありませんか?」

「まあ……そうかな。」

 

 そんな風になれれば、傷付く人を少しでも減らせる筈だから。

 単純にそう思って言葉に出した。

 

「やはり。確かに、その様な将が味方に居れば兵達は心強いでしょう。」

「だろ?」

「ええ。……ですが!」

 

 突然、徐福は涼の胸を人差し指で軽く突きながら語気を強め、涼にだけ聞こえる声量で話し続ける。

 

「そういった事は、力をつけてから言い、実行するものです! 力無き者が理想を語っても、それは単なる理想のまま。悪く言えば世迷い事でしかないのです!」

「……っ!」

 

 徐福が言った言葉に、涼は反論出来なかった。

 その言葉は全て正しく、何一つ間違っていない。

 力が有るから戦いに勝てる訳だし、民や兵もついて来る。勿論、ある程度の人徳も必要だが。

 理想を語るなら、それ相応の力を得ないといけない。だが、今の涼にはその力が無い。

 有るのは、「天の御遣い」という、人を集めるのに適した肩書きだけだった。

 そんな現状ですら理解出来ず、脳天気に答えていた自分が恥ずかしい。

 少し考えれば、これくらいは直ぐに解る事なのに。

 涼はそう思いながら俯き、額に手をやる。今の情けない表情を見られない様にする為だ。

 多分、今の顔は誰にも見られたくない表情だと思うから。

 そんな涼に対して、徐福がさっきより小さな声で話し掛ける。

 それに気付いた涼が軽く視線を向けると、何故か彼女も帽子の鍔を右手で押さえながら、少しだけ俯いていた。

 

「……勿論、理想を持つ事が悪いと言っている訳では無いのですよ。その点は、どうか誤解しないで下さいね。」

 

 そう言うと徐福は振り返り、元来た道を戻っていく。

 一人取り残された涼は、徐福の言葉を何度も心の中で繰り返しながら、自問自答を始めていた。

 自分に出来る事、やるべき事は何が有るのか、と。

 

(……そりゃあ、ずーっと肩書きだけの存在で良い訳が無いよな。……けど、だったらどうすれば強くなれるんだろう……?)

 

 理想を成すには強くならなければならない、それは解る。

 だが、どうすれば皆を守れるだけの強さを得る事が出来るのか、平和な現代で生きてきた涼には想像出来なかった。

 それから暫くして、行進を再開した義勇兵達は漸く目的地に着いた。

 再び斥候を放ち、様子を見る徐福達。

 その結果、黄巾党の根城には予想以上に多くの人数が居る事が解った。

 

「賊の数は私達より若干多い様ですが、これくらいの差なら策で何とでもなりますね。」

 

 徐福は軍議の場でそう自信満々に告げた。

 因みに、その場所には他に指揮官や各小隊長に任命された者、そして桃香と関羽、鈴々と涼の姿があった。

 

「何とでもなるとは言うが、具体的にはどうするのだ?」

 

 岩に広げられた地形図を見ていた関羽が、徐福を見ながらそう尋ねる。

 

「そうですね……相手の方が数が多い場合、幾つかの方法が考えられます。援軍を呼んだり、火矢を使った奇襲等ですね。」

「けど、援軍は当てが無いし……。」

「火矢にしても、こんな山の中で使ったら山火事になって、こっちにも被害が出てしまうのだ。」

 

 徐福の提案に、桃香と鈴々がそれぞれ意見を述べる。

 だが、徐福はそれをお見通しらしく、全く動じていない。

 

「お二人の言う通りでしょうね。義勇軍である我々は、そう簡単に兵数を増やせませんし、火矢にしても使うには場所が余り良くありませんから。」

 

 黄巾党の根城は山間に在り、正面以外の三方を崖に囲まれている。

 山の中だから周りには木々も沢山在るので、下手すれば山火事になるだろう。

 そうなればこちらも巻き込まれる危険性が高くなる。

 

「それに、弱いとは言え今は向かい風が吹いています。火矢を使うには適していません。」

 

 火矢を使うのは追い風の時というのは、先述の理由からも解る様に、軍略における常識だ。

 よって火矢は使えない。

 

「なら、どうするんだ?」

 

 涼が尋ねると、徐福は直ぐに答えた。

 

「相手はその殆どが農民の出です。まともな調練を受けた者はかなり少ない筈。また、奴等は自分達より弱い者しか襲っていない……つまり、数に頼っただけの暴徒共でしかありません。」

「ふむ。……それで?」

 

 徐福の説明の先を促す関羽。

 

「こちらの人数が少ないと見れば、奴等は意気込んで襲いかかってくる筈。なので、先ずこちらは少人数で奴等の前に現れるのです。」

「あの根城から誘い出すって訳か。」

「はい。そして、充分に誘い出した後、残りの人数全てを奴等に見せつけるのです。」

「けど、それでもこっちの人数は黄巾党より少ないのだ。それはどうするのだー?」

 

 徐福の説明に涼と鈴々はそれぞれ反応するが、当の徐福は相変わらず自信に満ちた表情のまま説明を続ける。

 

「確かに、数的不利という状況は変わりません。ですが、こちらの方が黄巾党より人数が多い様に見せる事は可能です。」

「……?? どういう事なのだー?」

 

 徐福の説明を聞いた鈴々だが、余り理解出来なかった様で、頭の上に疑問符を浮かべている。

 だが涼は、徐福の意図を理解していた。

 

(……成程ね。)

 

 だが、それを口にはしなかった。

 それを説明するのは、この場の主役である徐福の役目だと思ったからだ。

 そんな涼の考えを知ってか知らずか、徐福は鈴々や桃香を見ながら尚も説明を続けていく。

 

「つまりですね、先程も言った通り、相手は弱い相手としか戦っていません。恐らく、相手が官軍か只の義勇兵かというだけでなく、相手の人数を判断材料にしていると考えられます。」

「まあ、そう考えるのが妥当だろうな。」

 

 徐福の考えに関羽が同意する。

 

「ええ。ならば、もしこちらの人数が黄巾党より多かったら、奴等はどう行動すると思いますか?」

「それは……多分逃げちゃうんじゃないかな? 勝てる見込みが無いと判断すると思うよ。」

 

 暫く口元に手を当てながら考えていた桃香が、冷静に答えを口にする。

 徐福はその答えを頷きながら聞き、言葉を繋いだ。

 

「だと思います。ですが、そうなると私達の目的を達成する事が難しくなります。」

「何でなのだ?」

 

 またも鈴々が疑問符を頭に浮かべながら尋ねた。徐福はその答えを直ぐに口にする。

 

「私達の目的は黄巾党を追い払うのではなく、殲滅する事にあります。何故なら、追い払うだけではまたいつ戻ってくるか判りませんし、追い払った黄巾党の奴等が他の街や(むら)を襲う危険性もあるからです。」

「だから殲滅するって訳か。」

 

 その意図を理解している涼が答える。

 

「はい。それに、上手く殲滅出来れば、黄巾党の他の部隊がこちらに来るのを防ぐ事が出来る筈です。何せ、奴等は弱い相手としか戦いませんからね。」

 

 そこ迄言ってから、徐福は小さな黄色い旗が付いた木片を、周辺の地形を記した地図の上に置いた。

 そこは、目的地である黄巾党の根城が在る場所を指し示していた。どうやらこれは黄巾党を表す物らしい。

 また、その下の森林部分には、小さな青い旗が付いた木片が置かれている。どうやら、こっちは涼達義勇軍を表す物の様だ。

 因みにこの世界の地図も、特に表記がない場合は上が北を指し示しているらしい。

 

「そして、その為には先ず奴等に動いてもらわなければなりません。そこで、先ずは少数で敵前に布陣。その後、応戦しながら後退し、敵を引きつけます。」

 

 そう言いながら徐福は青い旗を上に、黄色い旗を下に動かし、それから二つを同時に下に動かした。

 

「そして、充分に引きつけてから残りの兵を黄巾党の奴等の前に展開します。」

「だから、それが問題なのだっ。少ない人数をどうやって多くするのだ?」

 

 鈴々は早く答えを知りたいらしく、手をバタバタ振りながら促した。

 

「実際に増やすのは不可能ですね。ですが、こちらの兵を多く見せる事は可能です。……虚兵を使ってね。」

「きょへい?」

 

 鈴々は、キョトンとしながら徐福が言った言葉を繰り返した。どうやら、よく解っていない様だ。

 一方、関羽は即座に解ったらしく静かに頷いており、桃香は暫く考えてから意図に気付いた様だ。

 また、涼は予想通りだったらしく、関羽同様静かに徐福の話を聞いていた。

 

「虚兵とは、即ち偽りの兵。それを多用する事で奴等の目を欺き、一気呵成に攻め立てる事が可能なんです。」

 

 徐福は、常と変わらない自信に満ちた表情のまま説明を続ける。

 

「虚兵の絡繰りはこうです。先ず、旗手を通常の倍……いえ、三倍用意して下さい。」

「旗手を三倍?」

 

 関羽が確認の為に聞き返す。

 

「ええ。そして、いざ黄巾党の前に残りの全軍で現れる際に、その旗手達に旗を思いっきり派手に振らせて下さい。序でに私達全員がいつも以上に大声を出すの。それで奴等はこちらが大軍だって誤認する筈よ。」

「成程ねー。けど、もしその策が上手くいかなかったらどうするの?」

 

 徐福の説明を聞いていた桃香が、少し不安な表情をしながら尋ねる。

 

「上手くいかない? 恐らく、それは無いですね。」

「どうしてそう言いきれるんだ?」

 

 疑問に思った涼が、徐福に尋ねる。

 

「そんな思慮深い人間が黄巾党の中に居るのなら、先日の様な少人数での街の襲撃はしないでしょう。もっと大人数で計画的に攻め、街の被害を甚大なものにしていた筈です。」

「成程ね。」

 

 徐福の説明に納得した涼は、昨夜の黄巾党による襲撃事件を思い出していた。

 涼がいつの間にか居たあの街は、小さいながらも義勇兵を募っていただけあり、攻めるにはそれなりの人数が必要な筈だ。

 だが、奴等は十人程度という少ない人数で襲撃してきた。

 結果、幾人かの負傷者と建物が多少損壊したものの、死者は一人も出ず、物品を奪われる事もなかった。

 勿論、関羽と鈴々の活躍があった事も大きいが、それを差し引いても昨夜の襲撃は無謀だったと考えられる。

 

「そんな相手ですから、この策で充分です。それに、念の為の策はちゃんと用意していますから、皆さん御安心下さい。」

 

 徐福は自信満々に話していたが、皆の不安を察したらしく最後に一言付け加えた。

 それで軍議は終了となり、各自の持ち場へと戻っていく。

 涼は桃香、関羽、鈴々、そして徐福と共に本隊へと歩いていた。

 

「さっきの話だけど、本当に予備の策を考えているのか?」

「それはまあ、一応は。」

「一応かい。」

 

 涼は苦笑しながら徐福にツッコミをいれた。

 

「軍師の仕事は策を練り上げ、指揮官を支え、軍を統率する事。そして、最終的には軍を勝利に導く事です。その為なら、策の十や二十を考えておくのは当然ですよ。」

「いやいや、十や二十を考えられる軍師はそう居ないだろ。」

 

 それが普通かの様に話す徐福に、涼は驚きと呆れが混じった表情で再びツッコミをいれた。

 

「そうですか? 私の知り合いの子達なんて、私なんかより凄く沢山の策を瞬時に考え出しますよ。」

「……どんな奴等なんだよ、そいつ等は……。」

 

 策を一つ考えるだけでも凄いと思うのに、それを沢山考えつくなんてどんな頭をしてるんだ。

 涼は頭の中で呆れながら天を見上げていた。

 それから約半刻(約一時間)後、涼達は戦場に居た。

 と言っても、涼や桃香、徐福は戦線の遥か後方に居り、関羽や鈴々の二人が前線で戦っている。

 関羽と鈴々がかなりの実力者とみた徐福によって、前線で戦う小隊長となった二人は前曲の一角を担う事になった。

 今は作戦通り黄巾党を引っ張り出している所で、しかも予想以上に上手くいっていた。

 

「……黄巾党って、本当に考えなしなんだな。」

 

 暫く攻勢に出た後、打ち合わせ通りに後退してみれば、果たして徐福の予想通りに黄巾党の集団がついて来た。

 都合が良過ぎるくらいに策が機能しているのを、遠くの高台から眺めている涼は、同じく眺めている桃香と共にそんな感想を呟いた。

 

「私の予想通り、いえ、予想以上の展開ですね。」

 

 徐福はその光景を眺めながら、口元を緩める。

 何故か右手に大型の中華鍋を持ちながら。

 その中華鍋は何? 持ってきていたのか? 等の疑問が思い付くものの、今は聞く雰囲気では無いので聞くのを止める涼だった。

 

「徐福、未だ出ないのか?」

「未だですよ、清宮殿。もう少し引き付けないと、賊を殲滅するのは難しいです。」

 

 高台から身を屈めながら戦況を伺う涼達は、策の仕上げにかかるタイミングを図る。

 一分……、

 五分……、

やがて十分が経過しようとした時、徐福が高台に居る部隊に合図を送る。

 

「今です!」

 

 大型中華鍋を銅鑼代わりに思いっきり叩いて味方を前進させ、同時に黄巾党を怯ませる事に成功する。

 その隙を逃さず、全ての旗手が旗を思いっきり振りながら大声を張り上げる。

 左右に在る高台から沢山の兵と旗が現れ、兵の声は木霊となって山中に響いていく。

 木霊が策をより効果的にしたのか、黄巾党の士気はかなり低下している。

 そして追い打ちをかける様に、中央の高台から二人の男女が味方を鼓舞する。

 

「黄巾党を討伐せんと集まった勇者達よ! 今こそ反撃の好機だ‼ 怖いだろうが、恐れるな! 君達には天の加護があるのだから‼」

「さあ皆! このまま一気に敵をやっつけるよ‼ 全軍、突撃ーっ‼」

 

 二人の檄を受け、待機していた義勇兵全員が雄叫びをあげながら坂を下り、黄巾党目掛けて突撃する。

 対する黄巾党は既に浮き足立っており、慌てながら後退していく。

 また、黄巾党を引きずり出した関羽と鈴々も、本隊と合流して再び攻勢に転じている。

 こうなれば、この戦いの決着は着いたも同然だ。

 

「お二人共、お見事です。これでこの戦いは私達の勝ちですね。」

 

 高台で戦況を見ながら、徐福は鼓舞した二人--涼と桃香を労う。

 

「そうは言ってもねえ……。」

「俺達は味方を鼓舞しただけで、戦ってはいないしなあ……。」

 

 だが、戦っていない二人は複雑な表情を浮かべながらそう呟いた。

 

「清宮殿、先程言った事をまた言わせるつもりですか?」

 

 徐福が先程と同じ様に険しい表情をしながらそう言うと、涼は苦笑いをしながら答えた。

 

「大丈夫、解ってるよ。只……。」

「只?」

 

 徐福は疑問符を浮かべながら涼の言葉を待つ。

 暫しの沈黙の後、涼は声を絞り出した。

 

「……無力な自分に腹がたってるだけだ。」

 

 そう言うと、涼は視線を空に向けた。

 それから暫くして、関羽達が勝ち鬨をあげているのが聞こえてきた。



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第二章 桃園の誓い・3

 その夜、街は黄巾党討伐を祝って祭りの様に盛り上がった。

 勿論、死傷者が全く出なかった訳では無いが、遺族は死者を誇りに思い、彼等をあの世に送り出す意味も込めて勝利を祝った。

 既に酒樽は幾つも空になり、皿に盛られる食べ物は食卓に並べられると直ぐに無くなっていった。

 そうした祝福ムードの一団から少し離れた所に、涼は一人で居た。

 

「皆よく食べるなあ……。」

 

 キャンプファイヤーの様に燃え盛る炎を中心にして座り、飲めや歌えの大合唱をしている義勇兵達。

 そんな彼等を遠目に見ながら、涼は一人で小さな丘に座って食事をしていた。

 初めの内は涼が「天の御遣い」と言う事もあって皆と一緒に勝利を祝っていたが、酒を勧められそうになるとこう言ってその場から逃げた。

 

『この勝利は君達あっての勝利だ。ならば、このお酒を飲むのは君達が最も相応しい。俺に遠慮せずに沢山飲んでくれ。』

 

 そう言うと義勇兵達は感動したらしく、涼を讃えながら食べ物や酒を口へと運んでいった。

 涼はその光景を暫く見た後、その場から離れた。

 本来どんちゃん騒ぎは嫌いでは無いのだが、何故か今日は思いっきり騒ぐという気分にはならなかった。

 実は、涼はその理由を解っていた。

 自身は戦っていないが、戦場に立ち、沢山の人間が殺し殺されていく光景を目にした。

 殺す人間の雄叫びや表情、殺される人間の悲鳴や形相。

 それ等が目に焼き付き、耳にこびり付いて離れない。

 あれが、戦い。

 あれが、この世界の現実。

 それ等の事実が、涼の心に深く突き刺さる。

 

(……解ってはいたけど、結構キツいな……。)

 

 敵であれ味方であれ、人が殺され、死んでいく様を見て平気でいられる筈がない。

 少なくとも、平和な世界で生きてきた涼は平気ではなかった。

 だから、折角の戦勝祝いの宴にも積極的に参加する気にはなれず、適当な理由をそれらしく言ってその場から離れた。

 その方が、場の雰囲気を壊さずに済むと思ったから。

 暫く一人で考えてみたいと思ったから。

 そうしてこの場所を見つけ、今に至っている。

 

「結局、覚悟が足りないって事か……。」

 

 涼はそう呟くとお茶をグイッと飲み干す。

 普段、余り考え事をしないからか、中々考えが纏まらない。

 それでも何とか考えようとしていると、こちらに近付く足音が耳に入ってきた。

 

「清宮殿、ここに居ましたか。」

 

 そう言ったのは徐福だった。

 

「徐福、何故ここに?」

 

 突然の訪問者である徐福に対して、少し驚きながら尋ねる。

 

「“天の御遣い”である清宮殿の姿が何処にも見当たらなかったので、心配になって探しておりました。」

「心配?」

「ええ。……人の死を間近で見て怖くなったのではないかと。」

 

 徐福は涼の正面に腰を下ろしながらそう答えた。

 涼は自分の心を見透かされた様で驚いたが、今更取り繕うのもなんなので正直に話した。

 

「……徐福の言う通りだよ。今日の戦いを見て怖くなった。」

「……そうですか。」

 

 予想通りの答えが返ってきたので、表情を暗くし俯く徐福。

 だが、涼はそんな徐福の表情を一変させる言葉を繋げた。

 

「……けど、逃げるつもりは無いよ。」

「え?」

 

 思わず顔を上げる徐福。

 その眼に映った涼は、どこか寂しそうな表情だったが、同時に何かを決意しようとしている瞳をしていた。

 

「確かに怖いけど、だからって逃げても何にもならないからね。」

「それはそうですが……ならば、これからどうするのです?」

「そうだな……まあ、“天の御遣い”として大陸が平和になる様に頑張るだけだよ。」

「……それが、辛く困難な道だとしてもですか?」

 

 徐福は涼の眼を見ながら尋ねる。

 涼は徐福の真剣な表情に少し戸惑いながらも、ゆっくりと自分の思いを語り続けた。

 

「ああ。勿論、不安ではあるんだけど、俺は一人じゃないから。劉備や関羽、張飛が居てくれる。皆が“天の御遣い”である俺を頼ってくれる。なら、俺は俺に出来る事をするだけだよ。」

 

 そう言い終わると、どこか清々しい気持ちになったのか、涼の表情は先程迄と違って明るさを取り戻していた。

 

「……解りました。」

 

 涼の言葉を聞いた徐福は、一度眼を閉じ、暫く考える様に静かにしてから口を開く。

 

「ならば、私は貴方の生き方を支持します。私に出来る事が有れば、力になりましょう。」

「有難う、徐福。」

 

 徐福の言葉に涼は有りの儘の気持ちを口にして返す。

 すると、何故か徐福は顔を耳迄真っ赤にし、慌てて帽子を深く被って顔を隠してしまった。

 だが、耳は隠していない為に真っ赤な姿を露わにしている。

 因みに、涼は徐福が何故そうなったのか気付いていない様で、徐福の突然の変化に戸惑っていた。

 そうして涼がどうすれば良いか解らず慌てていると、先程徐福が来た方向から三人の少女の声が聞こえてきた。

 

「涼さーん、どこー?」

「涼殿、何処にいらっしゃるのですか?」

「どこなのだー?」

 

 二人が声のする方向を見ると、そこには桃香、関羽、鈴々の姿があった。

 涼は手を振って桃香達に自分達の居場所を知らせる。

 

「あっ、居たっ。」

 

 それに気付いた桃香達が、駆け足で近付いてくる。

 

「涼さんも徐福ちゃんも、こんな所に居たんですね。」

「ああ、俺はお酒飲めないから、ここでゆっくりしてたんだ。」

「私は清宮殿を探して先程ここに来たところです。」

 

 桃香が尋ねると、涼と徐福はそう答えた。

 涼は何気なく三人の顔を見る。

 三人共、少なからず顔を赤らめており、ほんの少しだけ酒の匂いがした。

 

「お兄ちゃんお酒飲めないのかー。情けないのだー。」

「そう言われてもなあ。俺の国では、二十歳にならないとお酒を飲んじゃいけないんだよ。」

「なんと、天の国ではその様な決まり事が有るのですか。」

「うん。だから十七歳の俺はお酒を飲んだ事が無いんだ。」

「そうだったのかー。」

 

 涼が関羽や鈴々に現代でのお酒に関する話をしていると、徐福がゆっくりと立ち上がりながら涼達に告げた。

 

「では、私はこれで失礼します。」

「えっ? 今さっき来たばかりじゃないか。」

 

 驚いた涼がそう言うが、当の徐福は帰る気でいる。

 

「私は、清宮殿がお元気かどうかを確かめに来ただけですから。それに、清宮殿だけでなく劉備殿達迄が宴に参加していないのなら、私くらいは参加しないといけませんからね。」

 

 そう言って徐福は元来た道を戻っていく。

 

「それでは皆さん、また明日。」

 

 手を振りながら去っていく徐福は、やがて夜の闇に消えていった。

 徐福が帰った後、桃香達は暫くその場で食べたり飲んだりしていった。

 やがて、粗方食べ終わった涼達は宴を楽しんでいる街の人達を丘から眺めていく。

 この光景は、戦いに勝ったから見られたのだと思うと、誇らしい気持ちになる。

 だけど、敵も味方も傷付き死んでいった人も居るという事を忘れてはいけない。

 涼は今日何度目か解らない思いを胸に刻んだ。

 

「……これからも、頑張らなくてはいけませんね。」

 

 関羽がそう呟くと、涼や桃香、鈴々がゆっくりと頷く。

 それは四人共同じ気持ちだという事だった。

 暫くの間、宴の光景を見ている四人。

 その状態は、涼が口を開く迄続いた。

 

「……少し冷えて来たな。場所を変えようか。」

「それなら、鈴々が良い場所を知ってるのだっ。」

 

 鈴々はそう言うと同時に駆け出し、涼達は慌てて後を追った。

 途中で追い付いた涼達は、鈴々を先頭にして丘から街に降り、道を歩く。

 途中、陽気に酔っ払った人達から声を掛けられ、少し話をした。

 お酒を勧められたりもしたが、何とか理由をつけて断っている。

 やがて、大きな屋敷の門前で鈴々は立ち止まり、後ろを振り返って元気よく涼達に告げた。

 

「ここなのだっ!」

「ここって……鈴々ちゃんの家だね。」

 

 鈴々に連れられた大きめの屋敷は、桃香が言うには鈴々の家らしい。

 立派な門と壁に囲まれた屋敷は緑も溢れており、恐らく庭もかなりの大きさなのだと想像出来る。

 

「張飛の家って大きいんだな。」

 

 涼がそんな呟きを口にしていると、鈴々が門を開け、桃香達を家に入れていた。

 

「どうしたのだ? お兄ちゃんも早く入るのだー。」

「ん、ああ、今行くよ。」

 

 鈴々に促され、涼も家へと入っていく。

 そのまま家の中に入るのかと思ったが、鈴々は桃香達を庭へと案内している。

 なので涼もそれについて庭へと向かう。

 その庭は予想通り広く、そして素晴らしい光景が広がっていた。

 

「綺麗だ……。」

 

 涼の目に飛び込んできたのは、淡い紅色や白色、濃い紅色の花を咲かせている沢山の木々。

 風が吹く度に、花が吹雪の様に舞っていく。

 

「相変わらず綺麗な桃園だね。」

「ほう……張飛殿はこの様な庭を持っていたのですか。見事なものですね。」

「えへへー♪」

 

 桃香達は目の前に広がる絶景を見ながら、顔をほころばせている。

 涼も同様の表情になっていたが、ふとある事に気付いた。

 

(張飛の庭……それに桃園……これってもしかして……?)

 

 涼の頭の中に、「三国志演義」でも一、二を争う人気エピソードが思い浮かぶ。

 劉備、関羽、張飛の三人が、桃園でする事と言えばあれしかない。

 

「それじゃあ、お酒と食べ物を持ってくるから、ちょっと待っててねー。」

 

 そんな涼の思考を遮るかの様に、鈴々の元気な声が耳に入ってくる。

 声がした方に振り向くと、その鈴々が家に入っていくのが見えた。

 

「張飛は元気だねえ。」

「本当ですね。」

 

 涼の言葉に関羽も同意する。二人や桃香は、鈴々が居る方向を見ながら微笑んでいた。

 

「けど、こんな時間に騒いだらお家の人に迷惑じゃないのかな。」

 

 何気なく涼はそう呟いた。

 すると、何故か桃香の表情が急に曇った。

 場の空気が変わった事に涼も関羽も気付き、ゆっくりと桃香を見る。

 

「劉備、どうかしたのか?」

「…………。」

 

 涼が尋ねても、桃香は直ぐに答えなかった。

 その表情は何か困っている様で、また、迷っている様にも見える。

 そうして逡巡した結果、桃香は口を開いた。

 

「……実は、鈴々ちゃんには御両親が居ないの。」

「「えっ……?」」

 

 桃香が語った事実に、涼と関羽は同時に絶句した。

 

「鈴々ちゃんが幼い頃、御両親が戦に巻き込まれて……。それ以来、鈴々ちゃんはこの家に一人で暮らしているの。勿論、私達も力になっているんだけどね……。」

「そうだったのか……。」

 

 こんな大きな屋敷に、小さな頃から一人で居るなんて、どれだけ大変だっただろうか。

 自分がそんな立場だったらどうだろう。

 多分、ちゃんと生きて行くのは無理だろうな。

 自分の境遇を呪って、周りに当たり散らしたりしていたかも知れない。

 そう考えると、明るく生きている様に見える張飛は凄いと、涼は心から敬意を表した。

 

「あの、二人共この事は……。」

「解ってる、聞いた事は秘密にするよ。」

「勿論、私もです。」

 

 涼と関羽がそう約束すると、桃香は頭を下げて感謝を示した。

 それから暫くして、鈴々が食べ物とお酒を沢山持って駆けてきた。

 よくそんなに持てるなと思うくらいに沢山だったので、涼は今更ながらに戸惑っていたが。

 

「それじゃあ、早速始めるのだっ。」

 

 鈴々が庭に在る木製のテーブルに食べ物とお酒を置くと、宴の二次会開始の音頭をとる。

 だが、

 

「その前にちょっと良いかな?」

「はにゃ?」

 

 桃香が鈴々に待ったをかけた。

 鈴々は何かなと不思議そうに桃香を見つめ、涼と関羽も同様にしている。

 そんな涼達の視線を受けながら、桃香は口を開く。

 

「私は、涼さんと関羽さんに私達の“真名(まな)”を預けようと思うんだ。鈴々ちゃんはどう?」

「“真名”を? 鈴々もさんせーなのだっ。」

 

 桃香の提案に、鈴々は即座に同意する。

 それを聞いていた涼は、少し驚きながら桃香に尋ねた。

 

「良いのか? 確か“真名”って大切なものなんだろ?」

「うん。だけど、涼さんと関羽さんは大切な人だから、是非預けたいんだ。」

「そっか。なら、受け取らせて貰うよ。」

「良かったー。関羽さんはどう?」

「私も涼殿と同じです。」

「じゃあ、決まりだね。」

 

 涼と関羽が了承したのを確認した桃香は、喜びながら二人を見て言葉を紡いだ。

 

「それじゃあ、改めて自己紹介するね。私は、姓は“劉”、名は“備”、字は“玄徳”、真名は“桃香”です。ヨロシクね。」

 

 桃香はそう言うと、両手を前で組んで笑顔のまま二人を見ている。

 続いて、その左隣に居る鈴々が元気よく自己紹介を始めた。

 

「鈴々は、姓は“張”、名は“飛”、字は“翼徳”、真名は“鈴々”なのだっ。よろしくなのだー♪」

 

 言い終わると、両手を頭の後ろに組んでニカッと笑う。その顔は元気な子供そのものだ。

 桃香と鈴々の自己紹介が終わると、今度は桃香の正面に居る関羽が姿勢を正して話し始めた。

 

「では、私も改めて自己紹介を。私の姓は“関”、名は“羽”、字は“雲長”、真名は“愛紗”です。皆さん、宜しくお願いします。」

 

 そう言って関羽――愛紗は涼達に向かって一礼する。

 桃香、鈴々、そして愛紗が改めて自己紹介をしたので、愛紗の左隣に居る涼も同様に姿勢を正し、桃香達を見ながら自己紹介を始めた。

 

「じゃあ、俺も皆に倣って、と。俺の姓は“清宮”、名は“涼”。字と真名は無いから、好きな様に呼んでくれ。」

「解りましたっ。これからもヨロシクお願いしますね、御主人様♪」

「ああ宜しく……って、御主人様?」

 

 普通に応えようとした涼だが、現代で聞くにはメイド喫茶にでも行かないと聞けない単語が聞こえた為、思わず聞き返す。

 

「はい♪ 涼さんは“天の御遣い”ですから、私達はそう呼んだ方が良いかなあと。」

「俺、そういった堅っ苦しいのは苦手だって、言わなかったっけ?」

 

 昨夜初めて会った時も、桃香の家に着いてからもそう伝えた筈だが。

 

「確かにそう仰っていましたね。ですが、“天の御遣い”という立場を最大限に利用するには、劉……いえ、桃香殿の判断は間違っていないかと。」

「関……じゃなかった、愛紗迄そう言うの?」

 

 真名を呼び慣れていない所為か、共に一度言い直しながら話を続ける愛紗と涼。

 

「ええ。桃香殿や涼殿がこれから成そうとしている事を考えれば、私達が涼殿を“御主人様”と呼び慕うのは理に適っています。」

「えーと……つまり?」

 

 イマイチ、ピンとこない涼は愛紗に聞き返す。

 

「つまり、この大陸を平和に導く“天の御遣い”に私達が仕えているという事を周りに示し、涼殿の存在をより大きくする、という事です。」

「成程。“天の御遣い”の存在を皆に示す為にも、俺に敬称を付けて呼ぶって訳か。」

「その通りです。」

 

 虚勢を張ると言うか、見栄を張ると言うか、兎に角大事になってきたなと、今更ながらに思う涼だった。

 

「まあ、それは解るけど、普段はもう少し砕けた感じで話しかけてくれよ。」

「うーん、じゃあ、出来るだけそうしますね。」

「頼むよ。」

 

 涼の申し出に桃香が了承すると、その後に愛紗と鈴々も同様に了承した。

 すると、今度は愛紗が杯を取りながら一つの提案をする。

 

「それでは、我等の結束を固める為にも、一つ誓いをたてませんか?」

「誓い?」

 

 頭に疑問符を浮かべた鈴々が聞き返す。

 

「これから先は、困難な事も多々有るでしょう。ですが、そんな時も我等が力を合わせれば必ず解決出来る筈。その為の誓いです。」

「成程ー。うん、良いと思うよ。」

 

 愛紗の説明を聞いた桃香が笑顔で同意して杯を手にし、愛紗の杯に酒を注いだ。

 鈴々も同様に杯を手にし、桃香の杯に酒を注ぐ。

 その間、涼は内心で複雑な表情を浮かべていた。

 

(これってやっぱりあの“誓い”だよなあ……。この場面に俺が居て良いんだろうか……。)

 

 涼が思い浮かべるあの「誓い」は本来、劉備、関羽、張飛の三人が誓うもので、他には誰も居なかった。

 だからこそ涼は、この場面に参加して良いのか迷っている。

 

「お兄ちゃん?」

「えっ?」

 

 そんな涼の思考を、鈴々が遮った。

 その顔は不思議そうに涼を見ている。

 

「どうしたのだ? お兄ちゃんも早く杯を取るのだ。」

「あ、ああ。」

 

 鈴々に促されて杯を手にする涼。それと同時に鈴々の杯に酒を注ぐ。

 

(まあ、いっか。)

 

 それを見ながら、涼はそう思った。

 考えても始まらないし、何より場の雰囲気を壊したくない。

 こんな風に、深く考え過ぎないのが、涼の長所であり短所でもある。

 

「涼殿、お酒を飲んだ事無いと仰ってましたが、これは大丈夫ですか?」

 

 徳利を手にした愛紗が、心配そうに尋ねる。

 

「これくらいなら、多分大丈夫だよ。日本にも、御神酒とかは子供でも一口は飲めるし。」

「そうなんですね。それは良かった。」

 

 そう言って愛紗が涼の杯に酒を注ぐ。

 話し方が余り変わらないのは、涼の意見を聞き入れたからだろう。

 

「これでお酒は皆に行き渡ったかな?」

「はい。」

「それじゃあ、早速誓いを始めるのだっ。」

 

 桃香が確認し、愛紗がそれに答える。

 鈴々は早くしたいらしくニコニコ顔で、涼はそんな彼女達を見て内心で微笑んでいた。

 

「そうだね。それじゃあ……。」

 

 桃香がそう言って杯を掲げ、それに愛紗、鈴々、涼が続く。

 

「我等四人。」

「姓は違えども、兄妹姉妹の契りを結びしからは。」

「心を同じくして助け合い、困窮する者達を救わん。」

「上は国家に報い、下は民を安んずる事を誓う。」

「同年、同月、同日に生まれる事を得ずとも。」

「願わくば、同年、同月、同日に死せん事を。」

 

 四人がそれぞれ言葉を口にし、最後に四人の杯を合わせる。

 そしてその杯に注がれている酒を、同時に一気に飲み干す。

 

「これで私達は、義兄妹(きょうだい)義姉妹(しまい)だね♪」

「ですね。」

「て事は、一番上がお兄ちゃんで、それから桃香お姉ちゃん、愛紗お姉ちゃん、そして鈴々の順番かあ。」

「俺が長兄って訳か。なら、しっかりしないとな。」

「うん、期待してるよ、涼兄さん♪」

 

 桃香が笑顔でそう言うと、愛紗と鈴々も同様の笑顔を向ける。

 桃香達から笑顔を向けられ、涼は顔を赤くした。

 すると桃香達が笑いだし、つられて涼も笑う。

 四人の宴は、これからだった。




「桃園の誓い」編をお読み下さって有難うございます。

今回は前章で登場した黄巾党の本隊を倒し、涼達が誓いを立てる所を書きました。
原作には出ていない三国志のキャラ、徐福を登場させました。一応、原作では名前だけ出ているのですが、お菓子作りが好きといった情報くらいしか無いので、結構好きにデザインしました。
真名や服装、武器については朱里や雛里を参考にしています。帽子が野球帽なのは、真桜の服の元ネタが某球団からきているそうなので、ならもう一チーム必要だなと思い、デザインした次第です。
この頃は未だ三国志に詳しくなかったので、色々設定がヘンだったりします。「三国志序盤に仲間」「徐福」とか、ちょっと変ですよね。「三国志中盤」「単福」といった方が良かったと思います。
今回、修正にあたってその部分を書き直す事も考えましたが、良い勉強になったと思ってそのままにしました。

戦闘については「無印恋姫」を参考にしています。戦闘描写が簡素なのは実力不足だからです。結構難しいです。

「桃園の誓い」は原作と「横山光輝三国志」を参考にしています。
原作より「義兄弟・義姉妹」っぽくするのはこの時考えていましたが、桃香からの呼称が「御主人様」なのは未だハッキリと呼称を決めていなかったからでしょうね。

取り敢えず、今回はこんな所でしょうか。ではまた次の修正時にお会いしましょう。


2012年11月22日更新。

2017年4月6日掲載(ハーメルン)


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第三章 旅立ち・1

沢山の人に見送られ、旅立つ。

寂しさを心に秘めたまま、前に進んでいく。
それでも涙は、いつの間にか出てしまうのだった。



2009年10月12日更新開始。
2009年12月7日最終更新。

2017年4月6日掲載(ハーメルン)


「ん…………。」

 

 鳥のさえずりと陽の光を受けて、(りょう)はゆっくりと目を覚ました。

 目の前には、見慣れない天井。

 そう言えば昨日もそんな風に思ったっけ、と思いながら、一つ欠伸をする。

 

「もう少し寝ようかな……。」

 

 そう呟いて目を瞑り、左に寝返りをうつ。

 すると、心地良い香りが鼻に伝わり、次いで誰かの寝息が聞こえてきた。

 

「え…………?」

 

 ゆっくりと目を開けると、そこには見知った人の寝顔がある。

 穏やかな顔で定期的に呼吸をし、安眠しているのがよく解った。

 

(な、何で桃香(とうか)が俺の隣に寝てるんだ!?)

 

 突然の事にドギマギする涼。

 二人の距離は30センチも離れていない。

 

(えーっと……昨夜は“桃園の誓い”の後に宴をして……。)

 

 そこから先が思い出せない。

 酒は誓いの時の一杯しか飲んでいない。ひょっとしたら、その一杯だけで酔い潰れたのだろうか。

 

(この状況はヤバいって! まさか俺、酔って桃香と……!?)

 

 頭の中で桃色な妄想を浮かべながら、同時に慌てふためく。

 それでも状況を確認する為に自分や桃香を見ると、二人共寝間着に着替えている。

 が、桃香の寝間着は寝相で着崩れし、目のやり場に困った。

 

(うわあ……間近で見ると本当に大きいな……って、何を考えてるんだ俺は!)

 

 慌てて目を逸らすが、直ぐに目線が元に戻る。

 やっぱり涼は男の子なのだ。

 

(ノーブラ……? いや、ブラって寝る時は外すんだっけ? ……そもそもこの世界の下着ってどんななのかな……?)

 

 桃香の豊かな胸から目を離せない涼は、チラチラ見ながらそんな事を考えている。

 

(……ハッ! だから、こんな事しちゃいけないんだって‼)

 

 再び目を逸らした涼は、その勢いのまま目を瞑って反対方向に寝返りをうった。

 すると、

 

「すぅ……すぅ……。」

 

といった寝息が前から聞こえてきた。

 まさか、と思いながら目を開けると、そこにはやはり見知った黒髪の少女がスヤスヤと寝ている。

 しかもまたかなり近い距離に二人は居るので、香りや寝息が直ぐに伝わった。

 

(あ、愛紗(あいしゃ)迄ここに!? ま、まさか俺は二人と!?)

 

 再び涼の頭の中で、桃色の妄想が脳内絶賛放映中になる。

 よく見れば、愛紗の寝間着も着崩れして胸がはだけている。

 桃香には負けるものの、愛紗もかなり大きい胸の持ち主なので、目のやり場に困るのは変わらない。

 と言うより、涼は目を離せないでいた。

 

(愛紗も中々大きいな……。形も良いし、張りも良さそう……。)

 

 何だか、段々と涼の理性が無くなってきている気がする。

 まあ、二人の美少女(しかも巨乳)が隣で寝ていて、しかも肌を露わにしていれば、そうなるのも理解出来るが。

 因みに、二人共大事な部分はちゃんと寝間着に隠れています。

 それでも十代の思春期真っ盛りな少年には、目の前の光景がかなり刺激的なものなのは間違いない。

 

(…………ハッ! だから落ち着け俺! 未だそうと決まった訳じゃ無いんだからっ‼)

 

 慌てて頭を振り、落ち着こうとする涼。

 

(先ずは、現状認識から始めないと……。)

 

 そう心の中で呟くと、ゆっくりと起き上がって周りを見る。

 この部屋は八畳くらいの畳張りの部屋。

 その真ん中に布団が二組敷いてあり、涼の布団には桃香が一緒に寝ており、その右隣には愛紗の布団がピッタリとくっ付いて敷いてある。

 

(ん?)

 

 よく見ると、愛紗の右隣に小さな女の子がやはり寝間着を乱した姿で寝ている。

 

(あれは……鈴々(りんりん)か。まさか俺は鈴々とも……な訳無いか。鈴々は子供だしなあ。)

 

 本人が聞いたら怒りそうな失礼な事を、涼は頭の中で呟いた。

 

(まあそれは置いといて……。)

 

 置いとくのかよ。

 

(俺の体の感じからすると、どうやら二人とそういった事はしてないみたいだ。……ホッとしたやら残念やら……。)

 

 やはり鈴々は除外されている。

 本人が知ったら、間違いなく蛇矛(だぼう)で殴られるだろう。

 流石に斬られる事は無い……筈。

 ……その前に、涼が思った事をちゃんと理解しているかが疑問だが。

 

(じゃあ何で俺達は一緒に寝てるんだろ……ん?)

 

 考えていると、桃香が涼の手を掴んで抱き寄せる様に引っ張った。

 目が覚めたのかと思って顔を見ると、相変わらずの穏やかな寝顔がそこにある。

 

(ね、寝相なのか? てか、桃香、その位置はマズいって!)

 

 抱き寄せているので、涼の手は桃香の豊かな胸に挟まれている。

 なので、柔らかな感触がダイレクトに伝わってくる。

 それを感じて平常でいられる思春期の男子は、そうそう居ない。

 

(これって、嬉しいけど有る意味拷問だ〜っ!)

 

 涼は頭の中でそう叫んだ。

 とは言え、無理に引っ張ったら起こしてしまうかも知れないので余り動けないし、かと言ってこのままでは涼の理性が飛ぶのは時間の問題。

 と、その時、後ろから声が聞こえてきた。

 

「……御主人様、一体何をしているのですか?」

 

 凛とした声が、いつもより低い声で涼の耳に入ってくる。

 

「あ、愛……紗…………?」

 

 恐る恐る振り向くと、そこには満面の笑みの愛紗が立っていた。

 だが、その笑顔とは裏腹に、ゴゴゴゴ……といった恐い擬音が似合いそうな雰囲気を出している。

 

「あの、これはその、誤解で……っ。」

「ほぅ、桃香様の胸を触っているのが誤解なのですか。」

「触ってるのは確かだけど、俺から触った訳じゃなくて……。」

 

 表情は相変わらず笑顔のままだが、段々と声がトゲトゲしくなってきた。

 

「あの……愛紗さん?」

「何でしょうか?」

 

 涼は思い切って言ってみた。

 

「誤解なんだから、見逃してくれないかな?」

「それは勿論……ダメに決まっているでしょう‼」

 

 そう叫ぶと、愛紗はいつの間にか手にしていた自分の武器を大きく振り上げる。

 

「ちょ、ちょっと待って! 話せば解るからっ‼」

「問答無用っ‼」

 

 涼の懇願を愛紗は聞き入れず、武器を思いっきり振った。

 

「ぎゃーーーーーっ‼」

 

 その結果、涼は壁に激突して気絶。代わりに、衝撃音に驚いた桃香と鈴々が目を覚ました。

 十数分後。

 

「御主人様、申し訳ございません‼」

 

 先程の部屋には、桃香と鈴々に頭や背中を冷やして貰っている涼と、その涼に対して深々と頭を下げている愛紗が居た。

 

「いやまあ、誤解が解けたみたいだからもう良いよ。」

 

 涼はそう言って愛紗の頭を上げさせようとするが、当の愛紗は中々頭を上げようとはしなかった。

 

「いえ……私は、主である涼殿の言い分を聞かず、感情のまま武を奮い、怪我をさせてしまいました。……この関雲長(かん・うんちょう)、どの様な罰も受けさせて頂きますっ!」

「困ったなあ……。」

 

 その言葉通りに困った涼は、隣に居る桃香や鈴々に助けを求めようとするが、二人からは「頑張って♪」とのアイコンタクトが返ってくるのみだった。

 結局、涼は困ったまま考えるしかなかった。

 そもそも、何故誤解が解けたかと言うと、話は今から数分前に遡る。

 目が覚めた桃香と鈴々が、気絶している涼と怒っている愛紗を見ると、何が起きたのか愛紗に聞いた。

 怒りによる興奮覚めやらぬ愛紗が、怒気をはらんだまま説明していくと、突然鈴々が桃香を見ながら苦笑し、こう言った。

 

「あちゃー……桃香お姉ちゃん、またやっちゃったみたいだねー。」

 

 すると桃香も、

 

「うん……やっちゃったみたいだねー。」

 

と、やはり苦笑しながら応えた。

 そのやり取りの意味が解らない愛紗は、キョトンとしたまま二人を見ている。

 そんな愛紗に気付いた桃香が、少し顔を紅くして俯きながら口を開く。

 

「実は私…………抱きつく癖があるんだ。」

「…………はい?」

 

 桃香の言葉の意味が解らないのか、愛紗は珍しく間の抜けた声を出してしまっていた。

 

「時々だけどね、寝癖で布団とか枕を抱きしめているんだ。」

「鈴々も、桃香お姉ちゃんと一緒に寝ると、よく抱きつかれるのだっ。」

 

 そう言った鈴々だが、嫌では無いらしく、満面の笑みを浮かべている。

 一方、二人の話を聞いていた愛紗の表情は、物凄い速さで青くなっていった。

 

「で……では、涼殿が誤解だと仰っていたのは…………。」

「うん、多分本当だよ。だって、涼兄さんが私を困らせる様な事はしないと思うし。」

「ごっ……御主人様ーーーーーっ‼」

 

 桃香が断言すると、愛紗は慌てながら依然気絶中の涼の(もと)に駆け寄っていった。

 それから間もなく涼が気が付くと、愛紗は土下座をするかの如く頭を下げ、何度も謝り続けた。

 そして今に到る。

 あれから何度言っても愛紗は納得せず、涼からの罰を受けようとしている。

 それは彼女が人一倍真面目な性格だからだ。決してそうした趣味が有る訳では無い。勘違いしない様に。

 それを理解した涼は、やれやれといった表情のまま、愛紗に告げる。

 

「……じゃあ、愛紗には罰を受けて貰う。」

「兄さん!?」

「お兄ちゃん!?」

 

 涼のその言葉に桃香と鈴々は驚きの声をあげ、発言の撤回を求めようとする。

 だが、

 

「二人共黙って。理由はどうあれ、罰を与えないと愛紗は納得しないみたいだから。」

「はい……。」

「解ったのだ……。」

 

 そう言われて二人は渋々ながら納得した。

 そんな二人を一度見てから、涼は愛紗の前に片膝を着いて座り話しかける。

 

「愛紗。」

「……はっ。」

 

 愛紗は俯いたまま涼の裁きを待つ。

 そんな愛紗に涼はゆっくりと罰の内容を告げる。

 

「君への罰は…………自分自身をもっと大切にする事だ。」

「…………えっ?」

 

 予想外の言葉に思わず顔を上げる愛紗。

 そんな愛紗を見ながら、涼が更に続ける。

 

「今、これが何故罰なのかって思っただろ?」

「は、はい……。」

 

 愛紗は戸惑いつつも涼の問いに答える。

 そんな愛紗に涼は説明を始めた。

 

「愛紗は、俺達と義兄妹(きょうだい)義姉妹(しまい)の契りを交わした。そして、俺達四人の中で今まともに戦えるのは、愛紗と鈴々だけだ。」

 

 涼の言葉を黙って聞き続ける愛紗。

 また、桃香と鈴々も同様に静かに聞いている。

 

「そうなると、必然的に俺と桃香は守られる立場になる。一応俺達は“天の御遣い”と“劉勝(りゅうしょう)の末裔”だしね。」

 

 苦笑しながら自分や桃香の肩書きを述べる涼。

 

「だから、愛紗と鈴々は自分より俺や桃香を優先しているんじゃないか? 特に愛紗は、君の性格を考えるとそういった気持ちが強い感じがするし。」

「そんな事は……っ。」

「無いって言い切れる?」

「う……。」

 

 愛紗は言葉に詰まった。

 涼が愛紗達と出会って未だ二日しか経っていないが、その性格は段々と解っていた。

 桃香はのんびり屋だが確固とした信念を持っており、その意志は簡単に挫けない。

 鈴々は見た目も考え方も子供っぽいが、戦いに関する覚悟は誰よりも強い。

 そして愛紗は真面目で、こんな風に融通が利かない事もあるが、人一倍他者を思いやる心を持っている。

 けど、だからこそ自分を省みていない様な気がしてならなかった。

 もしそうなら、少しずつで良いから自分を大切にしてほしい。

 だからこんな罰を与えるんだ、と思いながら、涼は愛紗を優しく抱き締める。

 

「ご、御主人様っ!?」

 

 突然の事に愛紗は驚き、上擦った声をあげる。

 桃香と鈴々も驚いてはいるが、それを止める様子は無く、顔を紅らめながらその光景を眺めていた。

 

「俺達は義兄妹になったんだろ? なら、無理はしないでよ。兄妹なら兄妹らしく、助け合える筈だからさ。」

「御主人様……。」

「まあ、それには俺が強くならないといけないんだけどさ。」

 

 そう自嘲しながら、ゆっくりと愛紗から離れる涼。

 

「いえ……そのお気持ちだけで私には充分ですよ。」

 

 愛紗は顔を少し紅らめながらそう言うと、表情を引き締め、姿勢を正してから涼に告げた。

 

「御主人様からの罰、謹んでお受けします。必ずや、御主人様が納得する結果を出して見せます。」

「うん。大変だけど頑張って。」

 

 そう言って涼は愛紗に笑顔を向ける。

 愛紗も、多少顔を紅らめながら笑顔を返した。

 そんな二人を、羨ましそうに桃香と鈴々が見ている事には、二人共中々気付かなかった。

 その後、二人が散々冷やかされたのは言う迄もない。

 それから、朝食をとりながら何故四人が一緒の部屋に寝ていたのか皆で考えた。

 その結果、涼は自身の予想通り最初の一口だけで酔い潰れたらしく、一番最初にあの部屋に向かい、着替えて布団を敷いて寝たらしい。

 続いて酔い潰れたのが桃香で、やはり着替えて寝たのだが、酔っ払っていた所為か涼が寝ている布団にそのまま寝てしまったらしい。

 その後、愛紗と鈴々が酔い潰れて部屋に来て、布団を敷いて寝たらしい。勿論、ちゃんと着替えてから。

 

「酔い潰れていたのにちゃんと着替えているなんて、有る意味凄いな、俺達。」

「本当ですね、兄さん。」

 

 普通は、酔い潰れていたら着の身着のままで寝ているだろうし、布団だって敷いていないだろう。

 変な所で規則正しい生活をしている涼達だった。

 

「それで御主人様、今日はどの様に過ごされるのですか?」

 

 味噌汁を飲み干した愛紗が涼に尋ねる。

 

「そうだな……いつ迄もここに居る訳にもいかないし、旅の準備をしないとな。」

「旅って?」

 

 涼の言葉に、鈴々が疑問符がついた表情で尋ねる。

 

「世直しの旅さ。」

 

 涼はそう言って、朝食をどんどん食べていく。

 今日から忙しくなるぞ、と思いながら。



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第三章 旅立ち・2

 朝食後、鈴々と一旦別れた涼達は桃香の家へ帰って行った。

 すると、桃香の母から「徐福(じょふく)さんが来ているわよ。」と告げられ、涼達は徐福が居る部屋へと向かった。

 

「おや、皆様方。お帰りなさいませ。」

 

 涼達が入って来たのを確認すると、徐福は飲んでいたお茶から口を離してそう言った。

 

「ただいま。……って、今日はどうしたの? また黄巾党(こうきんとう)が現れたのか?」

 

 涼がそう尋ねると、隣に居る桃香と愛紗の表情が険しくなる。

 だが徐福は普通の表情のまま答える。

 

「いえ、街は今至極平和です。それに、もし黄巾党が現れたのなら、ここでのんびりとお茶を飲んでおらずに皆様方を探していますよ。」

「そ、それもそうだね。」

 

 ホッとしながら三人は徐福の側に座る。

 

「なら、何の用で家に来たの? 徐福ちゃんが只遊びに来たって訳じゃ無いんでしょ?」

 

 徐福を見ながら、桃香が尋ねる。

 

「ええ。先ずは皆様方にはこれに目を通して戴こうかと。」

「これは?」

 

 服の内側にポケットでも有るのか、徐福は数枚の紙をそこから取り出し、涼達に渡す。

 受け取った涼はそれが何かよく解らなかったが、次の言葉で理解した。

 

「先日の戦いの報告書です。」

 

 そう言われて紙に目を通すと、「死傷者数」「捕縛数」等の文字と、それ等の横に漢数字が記載されていた。

 因みに、この世界の文字の読み方が解らない涼は、取り敢えず読める文字だけを読んでいる。

 

(皆と話す事は普通に出来るのに、何で読む事は出来ないんだろ。……何だか理不尽だ。)

 

 そんな事を涼が頭の中で愚痴っていると、徐福が報告書の説明を始めた。

 

「そこに書いてある通り、昨日の掃討戦でこの辺りに居た黄巾党は壊滅しました。また、捕縛した黄巾党の人間から、色々と有益な情報を手に入れる事も出来ました。残念ながら、首領である張角(ちょうかく)の情報は有りませんでしたが……。」

 

 始めはテンポよく話していた徐福だが、最後の部分は良い情報では無かったからか、声のトーンが若干下がっていた。

 

(張角か……。確か、三国志演義では黄巾党の乱の最中に病死したんだよな。情報が無いって事は、こっちの張角も既に死んでいるのか?)

 

 報告書を取り敢えず読みながら、涼は情報を整理していた。

 これからも戦うであろう当面の敵、黄巾党について。

 一通りの説明が終わり、涼や愛紗、桃香との意見交換を終えると、徐福は再びお茶を飲み始めた。

 

「ところで、皆様方はこれからどうするおつもりなのですか?」

 

 お茶を飲み終えると、徐福は涼達を見ながらそう尋ねた。

 それに対し、三人を代表して涼が答える。

 

「成程、黄巾党を殲滅させる為に旅立ちますか。」

「ああ。」

 

 強い意志がこもった声でハッキリと答える涼を、徐福は感心した様に見ながら暫く考える。

 

「で、具体的にはどうするのですか?」

「それは未だ決めてない。」

「…………は?」

 

 予想外の応えに、徐福は思わず目を点にしながら、間の抜けた声を出してしまった。

 

「取り敢えず、義勇兵を集めていこうとは思ってるんだけど。」

「……では、その義勇兵を集める為の資金は有るのですか?」

「無い。けど、何とかなるでしょ。」

「…………。」

 

 遂に反応出来なくなったのか、徐福は口を開けたまま黙ってしまった。

 涼はその様子に怪訝な表情をしているが、隣に居る桃香と愛紗は徐福の異変に気付いたらしく、無意識の内に座ったまま後退りしていた。

 それに気付かない涼は、徐福に声をかけようとする。

 すると、

 

「……貴方は何を考えているのですかっ‼」

「わっ!?」

 

メチャクチャ大きな声で怒鳴られたのだった。

 

「目標を持ったのは良しとしましょう。ですが、その為の指針が何も無いというのはどういう訳ですかっ‼」

「ちょっ、徐福!?」

 

 怒りで興奮している徐福が涼に詰め寄る。

 余りの迫力に思わず後退る涼だが、徐福はその分も詰め寄っていく。

 

「これでは、感心した私がバカみたいではないですかっ!」

 

 遂には、涼の襟元を両手で掴んでしまう徐福。

 流石に桃香と愛紗も止めようとしたが、徐福に睨まれるとそれ以上動けなかった。

 あの関羽を威圧するとは……徐福、恐るべし。

 

「まあまあ、落ち着いて。」

「これが落ち着いていられますかっ!」

 

 涼の制止の言葉にも、耳を貸そうとしない徐福。

 だが、それでも涼は言葉を繋いでいく。

 

「確かに今はお金が無いよ。けど、当てが無い訳じゃ無いんだ。」

「……と、言いますと?」

 

 またも予想外の言葉を聞いた徐福は、ピタッと怒りを鎮めて涼の話を聞きだした。

 まあ、依然として襟元を掴んだままだが。

 

「お金が無いなら何とかして増やせば良い。例えば、何かを売るとかね。」

「それはそうですが、それなりの物で無ければ、売っても二束三文にしかなりませんよ。」

「うん、確かにそれなりの物じゃないとね。……徐福、俺の肩書きは何か言ってみて。」

清宮(きよみや)殿の肩書きですか? それは勿論“天の御使い”……あっ!」

 

 何かに気付いた徐福が涼を見つめる。

 

「もしや、天の国の物を売るのですか!?」

「御名答♪ 俺の世界じゃありふれた物でも、この世界じゃ物珍しい筈。なら、結構良い値で売れると思うんだけど、どうかな?」

「それは……確かに……。」

 

 涼の説明を聞いた徐福が右手を口元に当てながら考え込む。

 やはり依然として襟元は掴んだままだが。

 

「天の国の道具を好事家(こうずか)に見せれば、ひょっとしたら物凄い額になるかも知れません。」

「だろ?」

 

 徐福が賛同したので、涼は笑顔で徐福、桃香、愛紗に顔を向ける。

 それを見て、桃香や愛紗もホッとしたのか笑顔になった。

 だが、徐福はそんな雰囲気を壊す一言を放つ。

 

「ですが、清宮殿の計画に相当する好事家を探すのは簡単じゃないですよ。」

「え?」

 

 途端に涼達の表情が曇る。

 

「確かに好事家は欲しい物珍しい物を手に入れる為なら、お金に糸目は付けません。……が、義勇兵を雇い装備も調えられる額を出せる好事家は、そうそう居ないでしょう。」

「幾ら好事家と言っても、当然ながら資金には限りがあるからな。」

「ええ。清宮殿が義勇兵をどれだけ集める気か解りませんが、かなりの額が必要になるのは明らかですからね。」

 

 徐福が冷静にそう言うと、涼は困った顔をしながら頬をかく。

 

「うーん……良いアイデアだと思ったんだけどなあ。」

「あいであ?」

 

 聞き慣れない単語を耳にして、思わず聞き返す徐福。

 

「天の国の言葉で、考えや思いつきって意味だよ。」

「成程。確かに清宮殿の“あいであ”は良いと思います。後は、その大金を出せる好事家が居るかどうかだけです。」

 

 涼の説明を聞いた後、徐福はそう言って涼の「あいであ」を認めた。

 だが、かといって問題が解決した訳では無いので、涼達四人は揃って頭を抱えてしまった。

 この時になって漸く、徐福は自分が涼の襟元を掴んだままなのに気付き、慌てて手を離し涼に謝罪する。

 だが、涼はさほど気にしてなかったのか別段咎めはしなかった。

 そんな事もありながら考えていると、不意に桃香が手を挙げながら提案した。

 

「えっと……取り敢えず、ここで考えていても好事家が見つかる訳じゃ無いから、外に行ってみない?」

 

 それは凄く単純だが、だからこそ皆が失念していた事だった。

 

「そうだな。確かに桃香の言う通り、ここでウンウン唸ってたって好事家は見つからないしな。」

「でしょ? 愛紗ちゃんはどう?」

「私も、桃香様や御主人様が仰る通りだと思います。」

 

 桃香の提案に、涼と愛紗は直ぐ様同意した。

 なので、そのまま出掛けようとした涼達だったが、何故か徐福がキョトンとしていたので、涼達は立ち上がったまま徐福に話し掛けた。

 

「徐福、どうしたの?」

「……ああ、いえ、何でもありません。」

「何でもないって表情じゃ無かったよー。」

 

 徐福は平静を装うものの、桃香に突っ込まれて思わず俯いてしまう。

 それから暫く考えてから徐福は尋ねた。

 

劉備(りゅうび)殿達は、お互いの真名(まな)を預けたのですか?」

「うん、昨夜の宴の中でね。」

 

 徐福の質問に桃香が答える。

 

「そうでしたか。皆さんは昨日、お互いを姓名で呼んでいたので、今の会話は少々驚きました。」

「そうか?」

「ええ。……もしや、皆さんは既に閨を共にする仲になっているのですか?」

「「ぶっ‼」」

 

 徐福がそう発言した途端、桃香と愛紗は殆ど同時に顔を真っ赤にし、慌てふためいた。

 だが只一人、涼だけはキョトンとしていた。

 

「なあ愛紗、“ねや”って何の事だ?」

「なっ!?」

 

 涼に尋ねられて、紅かった顔が更に紅くなる愛紗。

 尋ねられてない桃香も、心なしか紅くなっている様だ。

 

「えっと……それはですね…………。」

 

 愛紗は律儀に答えようとするが、慌てふためいていて中々答えられないでいた。

 そんな愛紗を見かねてか、代わりに桃香が答えようとする。

 もっとも、その桃香も未だ顔を紅くしているのだけど。

 

「りょ、涼兄さん、本当に閨を知らないの?」

「知らないけど……ひょっとしてその言葉って、知ってて常識だったりする?」

「えっと……この場合の意味は子供は知らないかも知れないけど、私達くらいの歳の人なら、大体の人は知ってると思いますよ。」

「??」

 

 桃香の説明を聞いても、涼はイマイチピンとこなかったらしい。

 と、そんな時、徐福がクスクス笑いながら涼に対して詳しく説明を始めた。

 

「清宮殿、閨とは寝床の事。特に、夫婦や恋人同士が共に寝る寝床の事をそう言うのです。」

「……な、成程、そうだったんだ……。」

 

 理由は解った涼だが、その所為で急に変な汗をかき始めていた。

 

(夫婦や恋人が寝る寝床ってわざわざ言うって事は……つまりは、“ああいう事”をする寝床って意味だよな……。)

 

 流石に、高校生である涼は彼女達の言わんとする事を理解している。

 なので、桃香と愛紗が顔を紅くした理由も(ようや)くだが理解していた。

 

「ところで清宮殿。」

「何?」

「先程、劉備殿が清宮殿の事を“涼兄さん”と呼んでいましたが、それはどういう意味なのでしょうか?」

「ああ、それは……。」

 

 徐福に尋ねられた涼は、隣に居る二人に話して良いか確認してから、昨夜の事を話し始めた。

 

「……成程、皆さんは義兄妹・義姉妹の契りを結んだのですか。」

「ああ。差し詰め、“桃園の誓い”ってとこだな。」

 

 三国志演義における、人気エピソードのタイトルをそのまま告げる涼。

 

「“桃園の誓い”、ですか。中々雅な例えですね。」

「本当だねー。」

「確かに。」

 

 どうやら、涼が考えたオリジナルの名前だと思ったらしい。

 まあ、三国志演義を知らないのだから当たり前ではあるが。

 説明するのも面倒なので、それについて涼は何も言わなかった。

 

「それじゃ、改めて行こうか。」

 

 涼がそう言うと、四人は今度こそ部屋を出た。

 街に出た涼達は、手分けして好事家を探し始めた。

 とは言うものの、やはりそう簡単に見つかる筈もなく、涼達は休憩をとりながら探し続けている。

 

「中々見つからないねー。」

「そうだな。」

「やっぱり、徐福ちゃんが言ってた通り、簡単にはいかないのかなあ。」

「かもな。」

 

 街を歩き回りながらそんな会話を続けているのは、桃香と涼の二人。

 愛紗と徐福は、鈴々を迎えに行ってから、そのまま探しに行くと言っていた。

 その言葉通りに探しに行ったのか、愛紗達は未だ涼達と合流していない。

 

「うーん……。」

「どうした?」

 

 そんな中、気が付くと桃香がこちらを見ながら唸っていた。

 

「涼兄さん、好事家さんが見つからないのに全然焦っていませんよね。」

「そう見えるか?」

「うん。」

 

 そう言って桃香はさっきより強く見つめてくる。

 だが涼は素知らぬ顔で歩き続ける。

 その内心では、桃香の事を意外と鋭いなと思っていた。

 

(昨夜、俺達が桃園の誓いをした事で、この世界が三国志の世界、それも三国志演義を元にした世界だと確信出来た。)

 

 「桃園の誓い」は、正史の「三国志」には無い「三国志演義」の創作である。

 正史の「三国志」が歴史に忠実に描かれているのに対し、「三国志演義」は劉備や諸葛亮(しょかつりょう)を主人公にしている為か、創作部分がかなり多い。

 「桃園の誓い」以外にも、「赤壁の戦い」における諸葛亮の活躍等も幾つかは創作だと言われている。

 勿論、創作がダメだというのではないので、誤解しないでほしい。

 兎に角、この世界が「三国志演義」がベースになった世界なら、涼達が旅立つ為の準備が出来る様になる筈だ。

 だが、

 

(だとすれば、この場面では当然あの二人が出て来る筈だけど……。)

 

果たして本当に出て来るのか、不安が無い訳でも無かった。

 

「大丈夫大丈夫。心配しないで良いって」

「涼兄さんがそう言うなら、私も気にしないけど……。」

 

 だが、その不安を桃香に悟られない様に、涼は努めて明るく振る舞っていた。

 と、そんな時だった。

 

「あんたが清宮様と劉備様かい?」

 

 二人は後ろから声をかけられた。

 急に声をかけられた事に少し驚きながら、涼と桃香は同時に振り返る。

 そこには小柄なツインテールの少女と、涼と同じくらいの身長の少女が立っていた。

 

「そうですけど……貴女達は?」

 

 桃香がそう答えながら逆に問い掛ける。

 

「あたいは馬商人の張世平(ちょう・せいへい)。こっちは私の従姉妹で相棒の……。」

蘇双(そそう)と申します。どうかお見知り置きを。」

 

 桃香の問いに対して、比較的長身の少女が張世平と名乗ると、続けて小柄なツインテールの少女が蘇双と名乗った。

 

(来たか……。しかし、やっぱりこの二人も女の子なんだな。)

 

 涼は張世平と蘇双を見ながら、この世界に来て何度目か解らない感想を呟く。

 しかし、いつ迄もそう思う訳にもいかないので、取り敢えず二人の話を聞く事にした。

 すると、二人は涼達が好事家を探している事を人伝に聞いたらしく、涼達の力になれると言ってきた。

 それを聞いた桃香は素直に喜んだものの、自分達が必要としている額を考えると、途端に不安になってしまった。

 

「涼兄さん、どうしましょうか?」

「取り敢えず、もう少し話を聞いてみようよ。」

 

 涼がそう言うと、桃香は静かに頷いて話を続けた。

 すると、彼女達が出せる金額は涼達が必要としている金額以上だった。

 思わず桃香が尋ねる。

 

「馬商人って、そんなに儲かるものなんですか?」

「あたい達は元々、中山(ちゅうざん)の豪商だったからね。かなりの数の好事家と繋がりが有るのさ。」

「元々?」

 

 桃香が何気なく呟くと、二人は表情を暗くして話し始めた。

 

「……あたい達の家族は、黄巾党の奴等に殺されたんだ。」

「……!」

 

 静かに告げられた事実に、思わず絶句する涼と桃香。

 

「あたい達は何とか生き延びられたから、家族の仇を討ちたい。」

「けど、私達には力がありません。ですから、私達の願いを聞き届けてくれる人を探していたのです。」

 

 そう話す二人の瞳には、悔しさと悲しさ、そして希望が同居していた。

 そんな二人を、涼と桃香が放っておける筈がない。

 涼と桃香は二人の申し出を受ける事にした。

 それでも、一応確認したい事が有ったので、涼は二人に問い掛ける。

 

「何故、俺達なんだ? ここに来る迄にも、有力な将や太守は沢山居たんじゃないのか?」

 

 「三国志演義」を知っている涼には聞く必要が無い質問なのだが、それでもここは異世界なので、聞いておきたかった様だ。

 

「確かに、ここに来る迄に沢山の人に会ったよ。けど、その殆どが私利私欲にまみれた奴ばっかで、あたい達が望む人物は一人も居なかった。」

「そんな中でこの街に着くと、お二人の噂を耳にしたので、私達の願いを託そうと思ったのです。」

「噂を聞いただけで決めて良いのか? 実際には、俺達も私利私欲にまみれた奴かも知れないのにさ。」

 

 涼は敢えて自分達を卑下した物言いをしてみる。

 

「勿論、人の噂は当てにならない事も多くあります。」

「だけど、あんた達を見て確信したよ。あんた達は、あたい達が望んだ人物だ。」

「何でそう言い切れるんですか?」

 

 自信満々に話す張世平に対し、桃香が問い掛ける。

 すると、張世平は涼と桃香を見ながら答える。

 

「瞳さ。」

「「瞳?」」

 

 張世平の言葉を、涼と桃香の二人は同時に繰り返した。

 

「あんた達の瞳は、他の奴等とは違う。確固とした意志や信念を持っている。それは、今の時代に必要なものだよ。」

「それが無い者に、私達の願いを預けたりはしませんから。」

 

 張世平、そして蘇双はそう言って、涼と桃香を見つめる。

 二人の眼には、先程と比べて涼達に対する信頼が多く溢れていた。

 それを感じた涼と桃香は思った。

 二人の、いや、沢山の人々の期待に応えられる様に、精一杯頑張らないといけないな、と。

 そう決意した涼達は、話の続きは場所を移してからする事にした。

 その場所は、愛紗達との合流場所でもある鈴々の家である。

 鈴々の家に着くと、そこには鈴々と愛紗、そして徐福が居た。

 どうやら、三人はこれから涼達と合流しようとしていた様だ。

 何でも、鈴々を起こしてから好事家を探しに行ったものの見つからず、前もって決めていた合流場所であるここに一旦戻ってみたが、涼と桃香も未だ戻っていないので、暫く休憩していたら涼と桃香が戻ってきた、という感じらしい。

 その涼と桃香が、見知らぬ二人の少女と一緒だったので、愛紗達は一瞬だけ怪訝な表情をしたが、直ぐ様表情を明るくして涼に尋ねた。

 

「御主人様、もしや?」

「ああ。探していた好事家本人じゃないけど、その好事家と繋がりがある馬商人の、張世平さんと従姉妹の蘇双さんだ。」

 

 涼がそう紹介すると、徐福は二人をジッと見始めた。

 二人は大きさや色が違うものの、基本的なデザインが同じ服を着ている。見た感じ、余り高い服には見えない。

 簡単に言うと、張世平は黒を基調としたノースリーブにホットパンツ。蘇双は白を基調とした長袖にロングスカートという格好だ。

 そんな二人に徐福は、

 

「馬商人ですか。失礼ですが、余り儲かっている様には見えないのですが。」

 

と、先程の桃香と同じ様な事を言った。

 思わず噴き出しそうになった涼達だが、それを何とか堪え、経緯を簡単に説明する。

 そうして徐福が納得したところで、涼達は商談を始めた。

 と言っても、売り物は涼が持っている「天の国の道具」くらいしか無いのだが。

 

「それで、一体何を売ってくれるんだい?」

 

 張世平が涼に尋ねた。

 尋ねられた涼はバッグを開け、そこから細い棒を取り出し張世平に見せる。

 

「それは何ですか?」

 

 恐らく、涼以外の全員が思っていた事を、まるで代表するかの様に愛紗が尋ねた。

 涼はその棒を指先で回転させながら答える。

 

「これは“ボールペン”っていう、俺の国の筆記用具の一つだよ。」

 

 そう言って涼は「ボールペン」の説明をしていった。

 墨を使わず、キャップという蓋を外せば直ぐに文字が書けると知ると、桃香達は皆一様に驚いていた。

 勿論、説明しただけで売れるとは思っていないので、ちゃんと実演もしてみせる。

 この世界では紙は貴重品なので、実演には持っていたメモ帳を使った。

 

「わあっ。」

「凄いのだー。」

 

 自分の名前「清宮涼」をメモ帳にスラスラッと書くと、桃香達は皆、さっきの説明を聞いていた時よりも大きく驚いていた。

 やがて、自分達も書いてみたくなったのか、皆一様にボールペンを凝視している。

 その雰囲気に押されたのか、涼は少しだけ、という条件をつけてボールペンを手渡した。

 

「これが“ぼぅるぺん”……何とも珍妙な名前の筆記用具ですね。」

 

 ボールペンを手に取った愛紗がそう呟く。

 そして、同じく手渡したメモ帳に「関羽雲長 愛紗」と書くと、

 

「ほお……こんな小さな物がこれ程書き易いとは……やはり天の国とは凄い国なのですね。」

 

と感嘆の声を上げた。

 桃香達も早くボールペンを手に取りたい様だが、愛紗は熱中しているのかそれに気付かない。

 鈴々に取られそうになって、漸く気付いたくらいだ。

 そんな光景を見ながら、涼は張世平に尋ねる。

 

「どう? これは好事家が欲しがると思う?」

 

 多分大丈夫だろうと思いつつも、少し不安にも思いながら答えを待つ。

 すると、

 

「欲しがるも何も、(むし)ろこれを欲しがらない人間が居たら見てみたいね。」

 

というお墨付きを貰った。

 それから涼は、桃香達全員が試し書きを終えたのを確認してからボールペンを回収し、張世平に渡して代金を貰った。

 その金額は、百人以上の兵を集められる程の大金だった。

 それから数日は、旅の準備でてんてこ舞いだった。

 同行してくれる義勇兵を集め、武具を揃え、馬を揃える。

 まあ、馬に関しては張世平、蘇双がサービスとしてくれたので楽だったが。

 もっとも、大変だったのは桃香達で、涼は何もしなかった。

 いや、出来なかったというのが正しいか。

 

「お兄ちゃん、大丈夫ー?」

「な、何とかね……。」

 

 今、涼は布団に寝ており、鈴々に看病されていた。

 この状態が、かれこれ三日も続いている。

 この間の涼は、腹痛で寝込んでいた。

 かといって何かの病気という訳ではない。単に腹を壊しているだけなのだ。

 前日、前々日は何とも無かったが、張世平達との商談を終えた日の夜から体調を崩し、桃香達の勧めもあって休んでいる。

 異世界に来て、食べ物や飲み物が体に合わなかったのが原因と思われるが、初日や二日目は何ともなかったので、腹痛の時間差攻撃に涼は想像以上にまいっていた。

 何せ、現代と違って腹痛を治す薬が簡単に手に入る訳では無いし、トイレも洋式で無ければウォシュレットも当然無い。

 今更ながら、涼は異世界に来ている事を実感していた。

 結局、涼が全快したのは旅立つ準備が終わる前日の事だった。



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第三章 旅立ち・3

 涼の体調が良くなり、旅立ちを翌日に控えた夜、涼達は桃香の家に集まっていた。

 

「今更ながら確認するけど、皆俺に付いて来てくれるんだね?」

「当然です。私達は義兄妹・義姉妹なのですから、常に一緒です。」

「もし鈴々達を置いてったら、直ぐに追い掛けるのだっ。」

「そうだね。涼兄さん、私達を置いて行っちゃダメですからね。」

 

 愛紗、鈴々、そして桃香の三人は微笑みながらそう告げる。

 

「解ってるよ。……三人共、有難う。」

 

 涼はそんな三人に深く感謝しながら頭を下げた。

 

「桃香達はこう言ってるけど、君達はどうなんだい?」

 

 続いて、桃香達の反対側に座っている三人に確認をとる。

 

「私は、先日の黄巾党討伐の時から清宮殿について行くと決めていました。失礼ながら、この街の義勇兵の隊長では、私の実力を発揮出来ない様ですしね。」

 

 イタズラっぽい笑みを浮かべながら、徐福も同行すると宣言する。

 

「勿論、あたい達もあんたについて行くよ。何せ、あんた達はあたい達の希望だからな。」

「うん……頑張って下さい。」

 

 続けて、張世平と蘇双の二人も同行すると宣言した。

 すると、彼女達の視線は自然と涼に集まっていた。

 皆の視線を受けた涼は、全員をゆっくりと見渡してから告げる。

 

「皆、本当に有難う。心強い仲間が出来て、俺はとても嬉しく思ってるよ。」

 

 そして深々と頭を下げ、感謝の意を示す。

 すると、涼が頭を下げたので、桃香達も同様にして頭を下げた。

 そうして互いに顔を見合わせると、柄にもない事をした所為か自然と噴き出してしまった。

 

「まあ、固っ苦しい挨拶はこれくらいにして、これから頑張っていこう。勿論、俺も頑張るからさ。」

「解りました。我が青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)に誓って御主人様をお守り致します。」

「鈴々も、丈八(じょうはち)蛇矛に誓うのだっ。」

「わ、私も靖王伝家(せいおうでんか)に誓うもんっ。」

 

 固っ苦しい挨拶は無しと言った傍から誓いだす三人。

 しかし、その気持ちは嬉しいので素直に受け取る涼だった。

 

「三人共有難う。けど、俺もいつか皆を守れる様に強くなるからね。」

「うん、期待してるよ、涼兄さん。」

「ですが、我等が主は行き当たりばったりな上に、直ぐ体調を崩される様ですからな。今は私達が主を守らなければいけないのが現状ですね。」

「まったくです。」

「……それを言うなよ。」

 

 折角の決意が揺らぎそうな事を言う徐福と愛紗であった。

 

「さて、では私からも一つ申し上げても宜しいでしょうか?」

「……何?」

 

 涼が軽くへこんでいるのを知ってか知らずか、徐福はマイペースに尋ね、そして話し出す。

 

「実は先程、清宮殿にお仕えするにあたり、名を改めたのです。」

「えっ、名前を!?」

 

 淡々と喋った割には内容が予想外だった為、涼だけでなく桃香達も驚いた。

 そんな涼達に対し、徐福はあくまでマイペースに話し続ける。

 

「はい。兼ねてから、仕えるべき主が現れた時に名を改めようと思っていましたので。」

「そうだったのか。それで、何て名前にしたの?」

 

 先程は忘れていたので驚いたが、「三国志演義」を知っている涼は勿論その名前を知っている。

 だが、当然ながら桃香達は知らないので一応聞いてみた。

 

「徐福の“福”を“庶”に改め、“徐庶(じょしょ)”にしました。」

「徐庶ちゃんかあ、良い名前だねっ。」

 

 笑顔を浮かべた桃香が、徐福改め徐庶を見つめる。

 

「有難うございます、劉備殿。……折角ですから改めて自己紹介をしましょうか。私の姓は“徐”、名は“庶”、字は“元直(げんちょく)”、真名は“雪里(しぇり)”と申します。以後、お見知り置きを。」

 

 そう言って徐庶は深々と頭を下げる。

 

「ああ、こちらこそ宜しく、雪里。」

 

 涼は早速徐庶を真名で呼び、改めて挨拶を交わした。

 

「それじゃあ、あたい達も改めて自己紹介しとくか。」

「ええ。」

 

 雪里に触発されたのか、張世平と蘇双も自己紹介を始めた。

 

「あたいの姓は“張”、名は“世平”、真名は(よう)”だ。宜しくな。」

「私の姓は“蘇”、名は“双”、真名は“(けい)”です。宜しく。」

 

 そう言って頭を下げる張世平と蘇双。

 そうして二人の自己紹介が終わると、桃香達も改めて自己紹介をして親睦を深めていった。

 

「それじゃあ、心機一転した徐庶や、張世平達が真名を預けてくれたお祝いに、今夜は宴なのだーっ。」

「これ鈴々っ。確かに雪里殿達の事は目出度い事だが、今日宴を開くなら、それは主に我等が主の出立を祝ってだろう。」

「あ、そうだったのだ。」

 

 楽しそうに提案するも、愛紗に注意されてハッとする鈴々。

 

「まあまあ、今日はお母さんが腕によりをかけて料理を振る舞うって言ってたから、楽しくいこうよ♪」

 

 桃香がそう言うと、鈴々は子供の様にはしゃいだ。

 ……まあ、見た目も子供ではあるが。

 結局その日は、涼達の旅立ちを祝って盛大な宴が夜遅く迄続いた。

 

「ん…………。」

 

 宴が終わり、今は誰もが寝静まっている真夜中。

 そんな時間に、涼は不意に目が覚めた。

 

「うぅ……頭が痛い…………。」

 

 どうやらまた酔い潰れたらしいと思いながら、額を抑え、そのまま辺りを見回した。

 今居るのは先程迄皆で御馳走を食べていた部屋。

 涼自身は毛布一枚かけていただけで、着ている服は寝間着ではなく普段着のままだった。

 

「……またかよ。」

 

 よくよく見れば、部屋には愛紗、鈴々、雪里、葉、景の五人が毛布にくるまって寝ている。

 何だか最近見た光景だなあと思いながら、涼はゆっくりと立ち上がり部屋を出た。

 別に何かしたくて部屋を出た訳では無い。

 只、女の子が寝ている部屋に居るのが少しばかり居心地悪かっただけだ。

 

(また誤解されても困るからなあ。)

 

 そう思いながら自然と体が震える。

 どうやら、愛紗の一撃は体が覚える程に痛かったらしい。

 

(ん……?)

 

 そんな事を考えながら廊下を歩いていると、とある部屋から人の話し声が聞こえてきた。

 

(この声は……桃香か?)

 

 そう言えばさっきの部屋には居なかったなと思いながら、涼は声がする部屋に近付いていった。

 

「……遂に、この日がやってきたのですね。」

 

 続いて聞こえてきたのは、桃香の母の声だった。

 

「劉勝の末裔である貴女は、いつかは国の為民の為に立ち上がらなければなりませんでした。その為に私は、貴女に人として王としての生き方を教えてきたのです。」

「そうだったんだ……。けど、人としては兎も角、王としての生き方は教えて貰ってない気がするんだけど?」

 

 桃香は母に尋ねた。

 確かに、桃香が自分自身を劉勝の末裔だと知ったのは最近の事であり、それ迄は普通の少女として育ってきた筈だった。

 

「そんな事は有りませんよ。……桃香や、王に必要なものが何か解りますか?」

「王に必要なもの? ……う〜ん……やっぱり、誰にも負けない強さと、類い希な精神力とかじゃないかなあ?」

 

 強くなければ敵から国や民を守れないし、精神力もプレッシャー等に打ち勝つ為に必要だ。

 

「確かにそれも大事です。ですが、強さや精神力だけでは駄目なのです。」

「じゃあ、何が必要なの?」

 

 暫く考えていた桃香だったが、結局解らなかったらしく答えを求めた。

 桃香の母は答える。

 

「それは、民を思う心と、民に愛される事です。」

「民を思う心と、民に愛される事……。」

 

 桃香は母の言葉を反芻(はんすう)した。

 

「国とは民あってのものであり、決して王だけのものではありません。それを忘れてしまっては、王たる資格はありません。……残念ながら、今の漢王朝はその事を忘れています。」

 

 だからこそ漢王朝は腐敗し、そして黄巾党が現れた。

 それからの事は皆が知る通り。

 黄巾党の乱を鎮圧すべき官軍は頼りにならず、本来は国や民の為に立ち上がった筈の黄巾党は、単なる賊に成り下がった。

 そして、そんな世の中を変えようと沢山の人々が立ち上がっている。

 

「貴女を、儒学者の廬植(ろしょく)先生の許で学ばせたのも、その事を知ってもらいたかったからです。」

「確かに、廬植先生には色んな事を教わりました。……それに、掛け替えのない友達も出来ました。」

 

 母の言葉を聞いて当時を思い出したのか、桃香は微笑んだ。

 涼はそんな桃香の声を聞きながら考える。

 

(桃香の親友……劉備が廬植の許で学んでいた時に知り合った人物と言えば、やっぱり公孫賛(こうそん・さん)の事だろうな……。)

 

 公孫賛、字は伯珪(はくけい)

 史実や演義で、旧知の仲である劉備を迎えた武将で、北方の勇である袁紹(えんしょう)と戦った歴戦の勇士である。

 

「伯珪ちゃんの事ですね。彼女も今は幽州(ゆうしゅう)太守として活躍している様です。」

「はい、私も白蓮(ぱいれん)ちゃんの噂はよく聞いています。」

 

 桃香の母が伯珪ちゃんと呼ぶ。やはり、公孫賛も女の子の様だ。

 

「何れは、伯珪ちゃんと共に戦うのも良いでしょう。あの娘は中々利口な娘でしたからね。」

「ええ。私も、白蓮ちゃんと一緒に戦えたら良いなって思います。」

 

 そう話す桃香の声はとても明るく、それだけで公孫賛の人柄がよく解った。

 

「ならば、先ずは伯珪ちゃんが居る城を目指すと良いでしょう。その道中に居る黄巾党を倒していけば貴女達の評判も上がり、伯珪ちゃんも温かく迎えてくれる筈です。」

「はい、解りました。絶対に白蓮ちゃんの所に行きます。」

 

 そう言って桃香は母に頭を下げる。

 そこ迄聞いてから、涼は踵を返した。

 

(これ以上盗み聞きは出来ないな。……戻ろう。)

 

 本当は盗み聞き自体が駄目なのは涼も解っているが、何だか聞き入ってしまっていた。

 多分、暫くの間離れ離れになる親子の会話に興味があったのだろう。

 それは、無意識の内に自分自身の家族の事を思っていたからかも知れない。

 涼もまた、家族と離れ離れの身なのだから。

 涼はその後、部屋に戻って再び寝る事にした。

 女の子が雑魚寝している部屋に戻るのは少し気が引けたが、ここで別室に移っても却って誤解されそうな気がしたので、結局そのまま寝る事にした。

 一応、少し離れてはみた様だが。

 

(それにしても……。)

 

 再び毛布にくるまりながら涼は思う。

 

(皆、ちょっと無防備過ぎるよなあ。ひょっとして、俺が男だって事を忘れてるんじゃないか?)

 

 そう思いつつ周りを見る。

 そこに居る愛紗達は皆酔い潰れたらしく、着の身着のままの姿で寝ていた。

 毛布にくるまっているとはいえ、寝相で毛布がはだけ、胸元や足が見えたりしている娘も居る。

 涼は思春期真っ盛りの男の子であり、そんな光景を見せられてはかなり困ってしまうのだが。

 

(まあ、それだけ信頼してくれてるって事かな。……うん、そう思う事にしよう。)

 

 余り考え過ぎてもいけないな、と結論付ける。

 考えても答えが出ると限らない場合は、下手に考えない方が良い。

 今迄そうしてきたので、これからもそうするだろう。

 そう思いながら、涼は再び眠りにつく。

 暫くして、誰かが涼の隣に寝たのだが、その頃には熟睡していたので気付かなかった様だ。

 翌朝、涼が目覚めた時には既に全員が目覚めていた。

 

「お早いお目覚めですね。」

 

 と、雪里に言われたりもした。

 よっぽど遅く迄寝ていたのかと思ったが、丁度朝食の時間だったのでそんなに遅い訳ではない。

 だから何でそんな風に言われたのか、涼には解らなかった。

 皆で集まって朝食をとると、何とお風呂が用意されていた。

 この世界は毎日お風呂に入れる訳ではない。

 現代みたいに蛇口を捻って水を汲む訳ではないし、お湯を沸かす為にガスを使う訳でもない。

 自ら水を汲んで風呂桶を満たし、薪を焚いてお湯を沸かす。その行程はかなり大変だし、水が貴重な世界だから週に一回入れれば良い方だ。

 夏だと川で水浴びとか出来るらしいけど、今は未だ季節じゃないから無理だし。

 そんな貴重なお風呂に入る事が出来る。

 勿論、一度に入る訳じゃ無いので、入る順番を決めないといけない。

 桃香達は主である涼が先に入るべきだと主張し、その涼は女の子が先に入るべきと主張した。

 どちらも譲らないまま数分が経過した所で、雪里が多数決を提案した。

 

「こら待てっ。それは……!」

「清宮殿が最初だと思う方は挙手を。」

 

 勿論、結果は涼が入る事になった。

 

「多数決が数の暴力とは、よく言ったものだよ。」

 

 風呂から上がり、取り敢えず寝間着に着替えた涼は、縁側に座りながらそう呟いた。

 涼の後に桃香が入り、以降は愛紗、鈴々、雪里、葉、景の順番で入っていった。

 そうして皆が風呂に入っている間に、桃香の母によって服は洗濯されている。

 洗濯機も乾燥機も無い世界で、あの人数分の衣服の洗濯は大変だろう。

 なので、涼達も手伝うと申し出たが、旅立つ前に疲れる事はしなくて良いと言われ、断られている。

 今日は天気も良いし風も適度に吹いている。これなら、昼過ぎには乾くだろう。

 衣服が乾く迄の間、涼達は当面の基本方針を話し合った。

 義勇軍を旗揚げするとはいえ、人数は百人ちょっと。しかもその殆どが、実戦経験が余り無い農民達だ。

 ちゃんと行動しないと、あっという間に全滅してしまう。

 

「そこで、私の出番という訳です。」

 

 いつもの様に自信満々に話し出したのは、涼率いる義勇軍唯一の軍師、徐庶こと雪里だった。

 

「清宮殿達には、先日捕縛した黄巾党の男から有益な情報を得た事は話しましたよね? 実はその情報には、幽州に点在する黄巾党の拠点や人員等の詳細が含まれていたのですよ。」

「それは凄いな。なら、人数が少ない所から叩いていけば……。」

「黄巾党の数は減り、我等は名声を得る事になりますね。」

「そしてそうなれば、自然と人や物が集まってくる、と。」

「そう上手くいくかは解らないけど、可能性は高いと思います。」

 

 雪里の報告を聞くと、涼達の話は一気に盛り上がっていった。

 

「けど、ずっと戦っていたら疲れるしご飯も無くなるのだ。鈴々達だけじゃ、その内お腹が減って戦えなくなるよ?」

「ああ、その点なら大丈夫だよ。」

 

 鈴々が疑問を口にすると、桃香が笑顔を鈴々に向けながら話し出した。

 それは昨夜、桃香と桃香の母が話していた内容だった。

 

「幽州の太守は公孫賛って人なんだけど、この人は私の幼馴染みなの。だから、戦功を挙げていればきっと快く受け入れてくれると思うんだ。」

「ですが、いくら友達とは言え相手は太守です。そう易々と受け入れてくれるかどうか……。」

 

 桃香の説明を聞いていた愛紗が不安を口にする。

 だが桃香は、そんな愛紗の不安を無くすかの様に、笑顔を向けて話していく。

 

「大丈夫だよ、愛紗ちゃん。白蓮ちゃんは優しくて良い娘だから、きっと私達を受け入れてくれるよー。」

 

 義姉(あね)である桃香にそう迄言われては、義妹(いもうと)である愛紗はそれ以上何も言えなかった。

 

「……解りました。では御主人様、私達の当面の目標は、公孫賛殿が居る城に向かいつつ黄巾党を討つ……で、宜しいでしょうか?」

「ああ、それで良いよ。」

 

 愛紗が確認すると、涼はあっさりと決めた。

 難しい事が苦手なのと、当初の目的としては充分だと思っていたので、反対する理由が無いからでもある。

 それから詳細を決めていき、終わった時には丁度昼食の時間になった。

 これが、桃香にとって一先ず最後になる母の手作りご飯。

 次に食べられるのは何年後になるか解らない。

 だからだろうか、桃香は一口一口を噛み締める様に食べていった。

 勿論、その様子を皆に悟られない様に、出来る限り普通に振る舞っていた。

 昼食を終えた頃、洗濯していた衣服が乾いた。この季節にしては暑かったのが早く乾いた要因らしい。

 涼達は直ぐに着替え、続けて武器や道具を身に付けていく。

 桃香は宝剣「靖王伝家」を、

 愛紗は大薙刀「青龍偃月刀」を、

 鈴々は長矛「丈八蛇矛」を、

 武器を持たない雪里は「大きな中華鍋」、

 葉は「巨大算盤」、

 景は「巨大巻き尺」をそれぞれ携える。

 そして涼はと言うと、旅の準備中に街の鍛冶屋に造らせた、外見が全く同じ二振りの剣、所謂「雌雄一対の剣」と、借りていた「靖王伝家(予備)」を持つ事になった。

 本当は「雌雄一対の剣」が出来た時に「靖王伝家(予備)」は返すつもりだったのだが、桃香の母が、

 

『未だ返さなくて良いですよ。武器は使われてこそ意味が有りますから。』

 

と言い、桃香も、

 

『何だかお揃いみたいで嬉しいですっ。』

 

と笑顔で言っていたので、何となく返しそびれていた。

 そのお陰で、涼は三つもの剣を持つ事になってしまっている。

 

「外見だけは立派な剣士ですな、清宮殿。」

「どうせ俺は弱いですよー。」

 

 桃香を除いた残りの全員は今、桃香の家の門前に集合し、そんな事を話して待っていた。

 やがて、家の中から桃香と母が出て来る。

 

「それじゃあ……行ってきます。」

「ええ……気を付けるのですよ。」

 

 短く言葉を交わすと、桃香は深々と御辞儀をし、涼達の許に向かった。

 涼達は桃香が合流すると同時に、桃香の母に向かってやはり深々と御辞儀をする。

 

「皆さんも、どうか無事に帰ってきて下さいね。」

 

 涼達は、桃香の母にそう言われて送り出された。

 桃香の母に見送られた涼達は、一路街の広場へと向かう。

 そこには、涼達と共に義勇軍に参加する者達が主の到着を待っていた。

 集まった義勇兵は百人以上。殆どは農民や商人の次男や次女だが、中には先の黄巾党征伐に参加した軍人も居り、涼達に対する期待の大きさが窺える。

 涼達が広場に着くと、到着を待ちわびていた人々から大きな拍手が巻き起こった。

 

「す、凄いな……!」

「う、うんっ……!」

「お二人共、何を驚いているのですか。」

 

 拍手に驚いている涼と桃香を、雪里が窘める。

 

「先日の黄巾党征伐の時には、もっと沢山の兵が居たではないですか。」

「それはそうなんだけど……。」

「この人達全員が俺達が率いる兵だと思うと、何だかプレッシャーが……。」

「ぷれっしゃあ?」

 

 涼が言った言葉の意味が解らず、キョトンとした顔で聞き返す雪里。

 

「えっと……つまりは“精神的重圧”って事。」

「成程。しかし、これからは何千何万もの兵を率いる事もあるのですよ。これくらいの事で萎縮していては困ります。」

「そりゃあそうなんだけどさあ……。」

 

 戦争の無い国で生まれ育った涼には、些か荷が重い状況だろう。

 

「大丈夫ですよ、御主人様、桃香様。私達もついているのですから、御安心下さい。」

 

 そんな涼と桃香を愛紗が励ますと、鈴々達も同意するかの様に頷く。

 その様子を見ていた雪里は、はあ、と溜息をつきながら愛紗に言う。

 

「愛紗殿達は、直ぐにそうやって清宮殿と桃香様を甘やかす。」

 

 だが、愛紗も負けずに言い返す。

 

「そうか? 私には、雪里が少しばかり厳しい様に見えるがな。」

「軍師とは、主に媚びへつらうだけでは意味がありませんからね。これは性分みたいなものです。」

 

 愛紗の指摘にも表情一つ変えずに答える雪里。

 それを見た愛紗は、納得した様な表情を浮かべながら言葉を続ける。

 

「成程。まあ、私もお二人が今のままで良いとは思っていない。少しずつでも我等が主として成長してもらわないとな。」

 

 そう言うと、愛紗は二人の主にそれぞれ目をやる。

 その視線が鋭かったからか、涼と桃香はビクッとしながら声を発した。

 

「えっと……頑張ります。」

「わ、私も頑張るよっ。」

 

 そう答えながら、情けないなあと思う二人だった。

 

「では、参りましょうか。皆がお二人のお言葉を待っています。」

 

 愛紗に促され、涼達は前に進んだ。

 左右に分かれた義勇兵達の間を、涼と桃香を先頭にして、続けて愛紗、鈴々、雪里、葉、景の順に歩いていく。

 進んだ先には、直方体の台座が設置してあった。

 数日前には無かったので、今日の為に作ったのだろう。

 その台座に、涼達は義勇兵達から見て左から景、葉、鈴々、桃香、涼、愛紗、雪里の順に並んでいく。

 そうして並び終わると、涼は改めて辺りを見渡す。

 目の前には武装した義勇兵約百人。そしてその後方には、その様子を見ている街の人や旅人の姿がある。

 その表情には、涼達に対する期待と、子供や友達を送り出す不安が同居していた。

 

(もしかしたらこれが今生の別れになるかも知れないんだから、当たり前だよな……。)

 

 愛紗にああ言った手前、頑張らないといけないのだが、責任の重さが急激に襲いかかってくるのを涼は感じていた。

 普通の高校生が他人の命を預かる事等は先ず無いのだから、その事で不安になるのは仕方ないだろう。

 

「……さんっ。涼兄さんっ。」

「えっ?」

 

 声を掛けられている事に気付き、涼はハッとする。

 

「大丈夫ですか? 何だか急に暗い表情になっていましたけど……。」

 

 声を掛けていたのは、隣に立つ桃香だった。

 心配そうに見つめる桃香を安心させないといけないと思った涼は、表情を取り繕って答える。

 

「大丈夫だよ、ちょっと考え事をしてただけだから。」

「それだけには見えなかったんだけど……」

 

 尚も心配する桃香。そんな桃香の気を逸らそうと、涼は話題を変える事にした。

 

「それよりほら、愛紗が皆に話しているんだから、ちゃんと聴こうよ。」

 

 涼がそう言う様に、今は愛紗が義勇兵達に対して義勇軍の心構えを説明していた。

 

「我等義勇軍には黄巾党という無法者共とは違い、鉄壁の規則が有る。私がこれから言う規則を、皆は守れるか?」

 愛紗の問いに、義勇兵達は雄叫びで答えた。

 

「良かろう、では……。」

 

 愛紗はコホンと咳払いをしてから、規則を一つ一つを凛とした声でハッキリと説明していく。

 

「一つ、将の命令を守る事! 一つ、目の前の利益に惑わされずに大志を抱く事! 一つ、自らより国を思う事! 一つ、略奪や弱者を傷付ける事は禁止! 一つ、軍規を乱す者は追放! ……以上だ‼」

 

 愛紗が規則を言い終わると、暫くの間辺りに静寂が訪れたが、やがて、先程よりも大きな雄叫びが湧き起こった。

 雄叫びがあがったという事は、どうやらここに居る義勇兵は皆規則を守れるという事らしい。

 

「では桃香様、皆に一言お願いします。」

「えっ、私っ!?」

 

 尚も雄叫びが続く中、急に話を振られた桃香は驚いた。

 自分には無理だと言って断っていたが、桃香も義勇軍の指揮官の一人なので、結局話さなければならなくなった。

 

「落ち着いていけば大丈夫だよ、桃香。」

「う、うんっ。」

 

 涼に励まされて少し緊張がほぐれた桃香は、ゆっくりと前に立ち、義勇兵達の雄叫びが止むのを待ってから語りかけた。

 

「えっと……殆どの人はこの街の人だから私の事を知っていると思うけど、一応自己紹介しますね。私の名前は劉備玄徳、中山靖王劉勝の末裔です。」

 

 桃香がそう言うと、結構大きなどよめきが起きた。

 考えてみれば、桃香自身も自分の出自を最近知った訳で、それからも殊更に話し回ってはいなかった。

 先日の黄巾党征伐の折に少し話してはいたものの、参加していない人に迄は余りその出自が知られていなかった様だ。

 

「今の世の中は間違っています。ほんの一握りの人達だけが我が物顔で暮らしていて、それ以外の多くの人達は苦しい日々を送っています。」

 

 初めは緊張気味だった桃香だが、話している内に緊張がほぐれてきたらしく、段々と饒舌になっていった。

 

「私は、この世の中を変えたい。誰もが笑顔で生きていける世の中にしたい。……けど、幾ら私に中山靖王の血が流れていても、一人では何も出来ない。」

 

 桃香はそう言うと一度目を瞑り、両手を胸に添えながら話を続ける。

 

「けど、私には仲間が居る。私と義姉妹の契りを交わした関雲長ちゃんに張翼徳(ちょう・よくとく)ちゃん、とっても頼りになる軍師の徐元直ちゃん、いつも元気で明るい商人の張世平ちゃんに蘇双ちゃん、そして……。」

 

 そこで一旦言葉を区切ると、後ろに居る人物に向かって振り返り、その手をとった。

 

「そして、そんな私の……ううん、私達の力になってくれる人。その人がこの、“天の御遣い”こと清宮涼さんっ。」

 

 桃香に引っ張られる様にして前に出た涼は、躓きそうになるも何とか耐えた。

 そして感じた。皆の注目が、桃香から自分へと移っていったのを。

 そんな視線を交わす様に、涼は小声で桃香と話す。

 

「桃香、俺を紹介するのは良いけど、急に引っ張らないでくれよ。」

「ゴメンね、涼兄さん。一人じゃこれ以上耐えられそうになくて……。」

「そうは見えなかったけど……。」

「けどそうなのっ。」

 

 桃香はそう言うと、何故か顔を紅くしてそっぽを向いた。

 未だ何か言おうとした涼だったが、義勇兵達に向かって桃香が再び話し始めたので、結局言えなかった。

 

「知っている方も多いでしょうが、清宮涼さんはこの大陸に平和をもたらす為に、天から遣わされたのです。そして先日の黄巾党討伐で、早速私達を勝利に導いてくれましたっ。」

(いや、あれは別に俺は何もしていない様なものだけど……。)

 

 涼はそう思ったが、義勇兵や街の人達は桃香の話を鵜呑みにしたらしく、涼に対して歓声を送っていた。

 

(いやいや、この中にはあの時参加してた人も居るよね?)

 

 そんな涼の心のツッコミも、義勇兵達には当然聞こえない訳で。

 その歓声は暫くの間止む事は無かった。

 

「私達は、そんな御遣い様と共に立ち上がるのです。そして、いつか必ず平和を取り戻し、家族や友が待つこの街に戻ってきましょう!」

 

 右手を高々と上げてそう言うと、義勇兵達は更に大きな歓声で応えた。

 桃香はそんな義勇兵達を心強いと思いながら、隣へと視線を移す。

 

「それじゃあ涼兄さん、最後に一言お願いします。」

「やっぱり?」

「うん♪」

 

 笑顔で答える桃香に涼は何も言えなかった。

 立場上何か言わないといけないとは解っていたものの、沢山の聴衆の前で話した経験が殆ど無い涼は、何を話したら良いか解らなかった。

 と、そこで、義勇兵達がざわついているのに気付いた。

 聞こえてくる声から察するに、涼の服装や剣に注目している様だ。

 この世界の人間は誰もコートやジーパンなんて見た事無いだろうから、それは仕方ないだろう。

 しかも、腰の左右には雌雄一対の剣を下げ、背中には靖王伝家(予備)を背負っている。

 その姿と先程の桃香のスピーチで、涼がかなりの実力者だと思っているのかも知れない。

 実際には未だ一人も斬った事が無いというのに。

 

「えっと、皆さん初めまして。只今、劉玄徳から紹介された清宮涼です。」

 

 取り敢えず涼は、挨拶から始めてみる。

 

「彼女が言った通り、俺はこの世界の人間ではありません。だから、天の御遣いという説明は解り易いとは思っています。」

 

 そう言うと表情を引き締め、前を見据える。

 

「けど、だからと言って俺は万能じゃ無い。何でも出来るなら黄巾党は勿論、あらゆる悪党をとっくに殲滅している訳だしね。」

 

 そう言った瞬間、義勇兵達はざわめいた。どうやら、涼が不思議な能力を持っていると思っていた者が多かった様だ。

 

「けど、俺が皆に無い能力(ちから)を持っているのは確かだ。それはここに居る義勇兵や後ろで聴いている人達、そしてここに居る劉玄徳達は勿論、この世界の誰も持っていない能力だ。」

 

 能力と言ってはいるものの、ファンタジーによくある魔法の様な不思議な能力じゃない。

 天界ーーつまり現代の知識や道具を使えるに過ぎない。

 だが、そんな事ですらこの世界の人々は驚いてしまう。それは以前、桃香達に携帯電話や携帯ゲームを操作してみせた時に実感していた。

 だから、涼にとっては当たり前の事でも、この世界の人々にとっては不思議な事なのだ。

 

「俺はその能力を皆の為に使う。そして、より効果的にする為には皆の協力が必要なんです。」

 

 そこ迄言うと、ふうと息を吐き呼吸を整える。

 

「皆さん、どうか俺達に力を貸して下さい! そして、先程劉玄徳も言った様に、いつか必ず平和を取り戻し、俺達と共にこの街に戻りましょう‼」

 

 涼は拳を握り締めながらそう言った。

 そして暫くの沈黙の後、桃香の時よりも大きな歓声が辺りを包んだ。

 その歓声が、涼達に対する期待の表れだというのは解る。

 だが、自分の言葉に何故こんな風に反応してくれたのか、涼自身はよく解っていなかった。

 力強くは無く、頼りにもならない言葉だったんじゃないかと思っていたのに。

 それなのに、目の前では皆が手を天に突き上げて涼達の名を叫び、絶叫にも似た歓声があがっている。

 涼にとってその光景は、まったく現実感がない光景に感じていた。

 

「それだけ、皆が世の中を憂いているという訳ですよ。」

 

 隣に立つ愛紗が、前を見据えたまま呟く様に話し掛ける。

 

「苦しいからこそ、自分達を助けてくれる人を求めているのです。」

「俺は……俺達は、彼等の期待に応えられるのかな。」

「何を今更言うのですか。」

 

 名前を呼ばれた愛紗は義勇兵達に手を振りながら、視線だけを涼に向けて話す。

 

「たった今、御主人様は皆に約束したのですよ。“皆で平和を取り戻してここに戻ってこよう”、と。」

「……そうだったな。」

 

 前から考えていた言葉ではない。直前に桃香が言っていたから、心に残っていたのかも知れない。

 だけど、言ったのは間違いなく清宮涼本人であり、それは変えようのない事実だ。

 だったら、自分の言葉に責任を持たないといけない。

 少なくとも、精一杯頑張って結果を出せる様にしないと駄目だ。

 

「……愛紗、これから宜しくな。」

「それこそ今更ですよ、義兄上(あにうえ)。」

 

 愛紗は微笑みながらそう答える。

 その笑顔に思わず赤面してしまう涼。

 普段の凛とした表情も可愛いのだから、笑顔も可愛いのは当然ではある。

 多分、普通の感性を持つ男性なら皆、この笑顔にクラッとくるだろう。

 ……いや、下手をしたら女性もクラッとくるかも知れない。

 

「そ、それもそうだな、愛紗。」

 

 平静を装いつつ、前を向いて義勇兵達の声援に応える涼。

 顔が紅くなっているのを自覚しつつ、何とか気付かれない様にしていく。

 幸いにも、愛紗には気付かれずに済んだらしく、その場はそれで終わった。

 只一人だけ、そんな涼の様子に気付いていた人物は居たのだが。

 それから涼達は義勇兵達を各部隊に振り分けた。

 因みに部隊は涼や桃香達を守る部隊、愛紗が率いる部隊、鈴々が率いる部隊、雪里が率いる部隊、の四つだ。

 振り分けが終わると、涼達と一部の義勇兵達は馬に乗って行進を始めた。それ以外の義勇兵達は、勿論徒歩での行進となる。

 本当は全員分の馬を用意したかったのだが、葉達のサービスを含めても流石に全員分の馬を調達する事は出来なかった。

 馬を用意するだけなら何とかなるが、馬の飼料代とかを考えると予算を大きくオーバーしてしまうのだ。

 生き物を飼うって結構大変なんだよね、これが。

 そうして隊列を成した涼達は今、街の大通りを通り街の外に向かっていた。

 隊列の先頭には、異なる旗を持った二人の男性――つまり旗手が並んで歩いている。

 旗の一つは緑と白を基調とし、中央の丸の中には黒い筆文字で「劉」の一文字。

 もう一つの旗は青と白を基調とし、中央の丸の中に黒い筆文字で「清」の一文字が入っている。

 どちらもこの数日の間に作った旗の一つ。因みにこの二つは大将旗なので、普通の旗より一回り大きく作られている。

 その後ろには三列になって進む歩兵が居て、少し後ろに涼と桃香が馬に乗って並んで進んでいた。

 

「玄徳ちゃん、しっかりねー。」

「あ、有難うございまーす♪」

「御遣い様、どうかこの国をお願いします。」

「はい、任せて下さい。」

 

 道行くすがら、集まった人々から声を掛けられる一同。

 その声一つ一つに、丁寧に応えていく涼達。

 そうしてゆっくりと行進する隊列の真ん中に、愛紗と鈴々が馬に乗って進んでいる。

 愛紗は姿勢を正しくして真っ直ぐ前を見ている。

 だが、鈴々はキョロキョロと辺りを見回していて落ち着きが無い。

 その様子に気付いた愛紗が声を掛けた。

 

「どうした、鈴々?」

「な、なんでもないのだっ。」

 

 鈴々はそう答えるも、やはり周りをキョロキョロし続ける。

 

「寂しいのか?」

「そ、そんな事無いのだっ。……ただ……。」

「ただ?」

「おばちゃんと離れ離れになるのが、ちょっと嫌なのだ。」

 

 そう言うと、鈴々はあからさまに表情を暗くした。

 幼い頃に両親を亡くしている鈴々にとって、おばちゃんーー桃香の母は母親代わりだ。

 そんな大切な人と離れるのだから、寂しくない訳がない。

 

「大丈夫だ、私達が功を上げれば呼び寄せる事も出来る。直ぐに会えるさ。」

「……うんっ。」

 

 愛紗が言った一言で鈴々は少しだけ元気になる。

 功を上げる事が簡単じゃないのは鈴々も解っているが、それでも元気になる理由には充分だった。

 だから、潤んだ瞳を腕で拭って前を見る。

 情けない姿を見せたら、心配させてしまうから。

 それだけは絶対にしたくなかった。

 そんな二人の少し後ろには雪里が、その後ろには葉と景が並んで馬に乗って進んでいる。

 また、その少し後ろには、「関」「張」「徐」の旗を持った騎手が並んで進んでいる。

 因みに「張」は張飛ーー鈴々の旗で、張世平の旗ではない。

 張世平ーー葉と蘇双ーー景は戦いに参加しないので旗は作っていないのだ。

 それから三列に並んで歩いている歩兵が続き、最後尾を騎兵が二列になって進んでいく。

 百名程の義勇兵達だが、皆が武装し行進している姿はそれなりに迫力がある。

 だからだろうか、街の人達の声援は止む事が無い。

 そんな声援を受けながら、涼と桃香は街と外を区別する門を潜る。 桃香はその瞬間、何気なく振り返った。

 それは、暫く離れる事になるから最後に一目だけでも、と思って振り返っただけだった。

 けど、桃香は振り返って良かったと思った。

 桃香の視線の先に、よく見知った姿があったからだ。

 その姿は、大通りに集まった人達の中にあったのではない。近くに在る丘にあった。

 勿論、遠くてハッキリと見える訳じゃない。

 だが、そこに居るのは一人の大人の女性で、何より髪型、服装、佇まい。そのどれもがあの人と同じだった。

 

(お母さん……っ!)

 

 思わず泣きそうになったが、何とか堪えた。

 鈴々と同じで、情けない姿は見せたくないから。

 例え、遠くて涙が見えなくても、泣く訳にはいかなかった。

 

「桃香、大丈夫か?」

 

 桃香の異変に気付いた涼が声を掛ける。

 それに対し、桃香は零れかけた涙を手で拭って答えた。

 

「……大丈夫だよ。覚悟はしていたし、それにこれが今生の別れって訳じゃ無いんだから。」

 

 そう言うと、表情を引き締めて前を見据える。

 涼はそんな桃香を見て、それ以上何も言わなかった。

 下手に言っても逆効果になるし、何より掛ける言葉が思い付かない。

 涼自身も親と離れているし、自由に帰る事が出来ない状況だから。

 

(……俺はいつ帰れるんだろう? この大陸が平和になったら帰れるのか? けど、だったら……。)

 

 一体何年掛かるんだろう、と不安になる涼。

 この世界が「三国志」や「三国志演義」を基にした世界なら、大陸が平和になる迄何十年も掛かるんじゃないだろうか。

 「三国志」や「三国志演義」に詳しい涼は、そんな事を考える。

 

(ま、深く考えても仕方ないか。なる様になるさ。)

 

 そう思い直し、涼は馬を進める。

 これが、長く厳しい旅の始まりだった。




第三章「旅立ち」を読んでいただき、有難うございます。

今回はタイトル通り、涼達の旅立ち迄のお話です。
原作では未登場の張世平、蘇双を登場させたり、徐福を徐庶に改名させたりと、「三国志演義」や「横山光輝三国志」を参照にしたエピソードを出しました。
張世平と蘇双の出番がこれ以来殆ど無いのは誤算でした。ホントは色々活躍させる予定だったのですが。近い内に再登場させたいです。

それにしても、ルビ打ちは結構大変ですね。どれに振れば良いか迷います。
次は第四章の編集終了後にお会いしましょう。


2012年11月26日更新。

2017年4月7日掲載(ハーメルン)


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第二部・義勇連合軍編
第四章 黄巾党征伐・前編・1


黄巾党は、元は単なる農民達。
気高い志を持って立ち上がった筈の人々。

それがいつの間に、単なる賊に成り下がったのか。
それは最早、黄巾党すら解っていないのだろう。



2009年12月7日更新開始。
2010年1月10日最終更新。

2017年4月8日掲載(ハーメルン)


 (りょう)達が旅立って一ヶ月が経った。

 その間に何度か黄巾党(こうきんとう)と戦い、全てに勝利している。

 雪里(しぇり)が得た情報が正確だったので、当初の目的通りに小規模の所から攻めたのが要因の一つだ。

 とは言え、黄巾党の根城をどんどん潰しているのは事実なので、その噂は瞬く間に広まっていった。

 すると、義勇兵の志願者や資金・兵糧等の援助者が次々と現れ、義勇軍はその規模をどんどん大きくしていった。

 初めは百名程だった義勇軍も、今では三千近い人数を誇る大部隊に成長している。

 それだけ規模が大きくなると色々と問題も起きるが、そうした事には愛紗(あいしゃ)と雪里が対応していった。

 愛紗は真面目で何より強いので、軍の空気を引き締めるのに一役買っている。

 雪里はその頭脳で臨機応変に対応し、規則を守らない者には厳しい罰を与えた。

 その為、今義勇軍に居る兵達は心身共にかなり鍛えられた者ばかり。

 単に徒党を組んで辺りを荒らすしか能のない黄巾党が、今の義勇軍に勝てる筈もなく、今では「劉備(りゅうび)清宮(きよみや)軍」の名前を聞いただけで震え上がり、まるで蜘蛛の子を散らすかの様に逃げていくのだった。

 そして今日も、涼達は黄巾党を倒す為に出陣し、目的の場所に向かっていた。

 

「すっかり大軍になったなあ。」

 

 後ろに続く軍勢を見ながら、涼は呟いた。

 

「本当ですよね。一ヶ月前とは比べ物にならない人数ですよ。」

 

 その呟きに、隣に居た桃香(とうか)が応える。

 

「これも御主人様や桃香様の人徳のお陰でしょう。」

「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、すっかり人気者になったのだっ。」

 

 二人の後ろに続く愛紗と鈴々(りんりん)も続いて話に参加する。

 

「ですが、これでは未だ未だです。何れは何万何十万といった大軍を率いてもらわないと。」

 

 そんな風に厳しい声を出しながら、雪里も会話に参加した。

 

「何十万て……。今は三千弱の軍を率いるだけで精一杯なのに、無茶言うなよ。」

「勿論、今直ぐという訳では有りません。ですが、気構えくらいは持ってもらわないと困ると言っているのです。」

「うぅ……雪里ちゃん、相変わらず厳しいよぅ。」

 

 更に厳しい口調で喋る雪里に、涼と桃香はタジタジになっていく。

 

「そりゃ、この“劉備・清宮軍”を率いる一人として、それなりの自覚は有るさ。けど、戦い始めて一ヶ月くらいじゃそんな気構えは持てないよ。」

「まったく……。」

 

 涼の答えに雪里は呆れつつも、それ以上は何も言わなかった。

 雪里が話し終わったのを確認してから、再び桃香が涼に話し掛ける。

 

「ねえ、涼兄さん。私達義勇軍の名前、変えちゃダメ?」

「その話は散々しただろ? だからダーメ。」

「えー。」

 

 提案を即座に却下され、頬を膨らませる桃香。

 それでも負けずに言葉を繋いでいく。

 

「だけど、私なんかより涼兄さんの名前だけの方がしっくりくると思うんだけどなあ。」

「そうかな? 俺としては“劉備軍”だけの方が良いと思うんだけど。」

「「それはダメですっ!」」

 

 涼の言葉に桃香と愛紗が同時に反対する。

 

「お兄ちゃんの名前は無いといけないと思うのだ。」

「我が軍は、清宮殿と桃香様の二枚看板で成り立っているのですよ。それをお忘れにならないで下さい。」

 

 更に鈴々と雪里も、二人と同じく反対の言葉を続ける。

 涼は皆の言葉を苦笑しながら聞いてから、口を開いた。

 

「解ってるって。だから折衷案として“劉備・清宮軍”って名前にしたんじゃないか。」

「だったら、せめて“清宮・劉備軍”に……。」

「ダーメ、これ以上は譲歩しないって何度も言っただろ?」

「それはそうだけど……雪里ちゃーんっ。」

 

 反論に困った桃香は雪里に助けを求める。

 

「桃香様、時には諦める事も必要かと。」

「そんなーっ。」

 

 雪里にあっさりと断られ、桃香は悲しい表情になって声を上げた。

 冷たい様に感じるが、あっさりと断ったのには理由が有る。

 実は義勇軍の挙兵以来、既にこの会話は何回も繰り返されている。

 挙兵後、軍の正式な名前を決める事になったのだが、その時に「清宮軍」にするか「劉備軍」にするかでちょっと揉めた。

 桃香や愛紗は「清宮軍」にすると拘ったが、逆に涼は「劉備軍」にすると拘った。

 雪里は両者の言い分を公平に聞き、鈴々はよく解らなかったのでどっちにもつかなかった。

 そんな感じで収拾がつきそうになかったので、涼は二人の名前を入れた「劉備・清宮軍」という名称を提案した。

 すると桃香と愛紗は「清宮・劉備軍」にという案を出したが、「劉備・清宮軍」じゃないと自分の名前を入れるのは反対と言ったので、仕方なく涼の案を受け入れたという経緯が有る。

 だが、やっぱり涼を立てたい桃香や愛紗は、それから何度も変更を申し出たが、今みたいに簡単にあしらわれている。

 多分、未だ暫くは続くのだろう。

 

「ほら、早く行くよ。」

 

 涼は苦笑しながら、皆に先を急ぐ様促した。

 

「ところでお兄ちゃん、鈴々達はこれからどこに行くんだっけ?」

 

 鈴々の何気ない一言に、涼達は馬上でずっこけた。

 

「鈴々ちゃん、何処に行くか知らないで進んでいたのっ!?」

「そうなのだっ。」

「威張るなっ。」

 

 元気良く答える鈴々に、桃香と愛紗は呆れてしまった。

 同様に呆れつつも、雪里は簡潔に説明した。

 

「これから行くのは、広宗(こうそう)(現在の山東省(さんとんしょう))で黄巾党と戦っている官軍の董卓(とうたく)将軍の陣営です。」

「官軍……なら苦戦しているだろうな。」

 

 雪里の説明を聞いた愛紗が重い口調でそう呟く。

 この時代の官軍は堕落した漢王朝に仕えている為、殆どが戦える実力を持ってない上に覇気も無い。

 そんな人間ばかりだから、殆どが農民の黄巾党にさえ勝てない部隊が多いのだ。

 

(董卓……か。三国志でも演義でも物凄い悪役だけど、この世界でもやっぱり悪役なのかな。)

 

 雪里達の会話を聞いていた涼は、董卓について考え始めた。

 董卓と言えば三国志は勿論、歴史上でも有数の悪役として知られている。

 十常侍(じゅうじょうじ)抹殺による混乱の後、帝を勝手に替え、暴政を強く等して大陸中を大混乱に陥れたという。

 その暴政は、董卓が暗殺される迄長く続いた。

 そんな人物の救援をしなければならないのは、涼としても不本意なのだが、今の董卓は未だ一武将であり黄巾党と戦う官軍なので、彼等が苦戦していると知った以上、行かなくてはならなかった。

 

(あと、多分……いや、絶対女の子なんだろうな。それでいて悪役なら、性格が悪いとか太ってるとか、そんな感じなんだろうか。)

 

 この世界の董卓について色々と想像してみたが、ゲームや演劇に出てくる董卓を女にしただけの醜い姿しか思い付かなかった。

 

(……やーめた。想像したって何の得にもならないしな。)

 

 想像するのを止めた涼は、少し行軍速度を上げる様に指示し、目的地へと急いだ。

 数刻後、董卓軍陣営に着いた涼達は、董卓に会う為に本陣に向かって歩いていた。

 

「……怪我人が多いな。」

「それだけ苦戦しているという事でしょう。」

 

 その途中、陣内のあちらこちらに包帯を巻いた兵達の姿を見掛けた。

 腕や足は言うに及ばず、頭や体にも巻いている兵が多く居る。

 

「覇気は勿論、数でも黄巾党が圧倒していますからね。こうなってしまうのは必然かと。」

 

 目線だけを左右に動かして状況を確認しながら、雪里がそう分析する。

 桃香も周りを見ながら暫く考え、そして雪里に尋ねる。

 

「ねえ雪里ちゃん、董卓さんが今相手にしてるのって、黄巾党の主力部隊なんだっけ?」

「ええ。農民が中心の黄巾党ですが、戦いを重ねる内に実力をつける者も多数居ます。そうした者を集めた部隊が、この辺りにも現れた様です。」

「厄介極まりないな。」

 

 雪里の説明を聞いた涼がそう呟く。

 今迄も何度か黄巾党と戦ってきたが、一人一人はそれ程強くない。

 だが、如何せん数が多いので正面から戦うと被害が大きい。

 なので、いつも雪里の策を用いて被害を最小限に抑えてきた。

 その黄巾党の中でも、腕に覚えのある者ばかりが集まっている部隊が、今回の敵なのだ。厄介極まりないという言葉は、決して過言では無いだろう。

 

「雪里、何か良い策は思い付いたか?」

「幾つかは。ですが、先ずは董卓将軍に会わなければ策を弄する事も出来ません。」

「そりゃそうだ。」

 

 今度の敵の数は、涼達だけで戦って勝てる人数じゃない。

 涼達よりも遥かに多い人数の董卓軍ですら、この有り様なのだから。

 

「じゃあ、先ずは董卓さんを捜さないと。どこかなー?」

 

 そう言って桃香は辺りを見回した。

 だが、その動きは直ぐに止まった。

 

「……桃香?」

 

 その事に気付いた涼が声を掛けるも、返事は無い。よく見ると、桃香の視線は一点に集中していた。

 その表情も、いつも以上に明るくなっている。

 かと思うと、桃香は視線の先へと向かって突然走り出した。

 

「ちょっ、桃香!?」

 

 涼は驚きつつも後を追った。愛紗と雪里もそれに続く。

 涼達は、桃香が走り出した理由が解らなかった。

 だが、自軍の陣内でないここで何かあったらいけない。

 だから必死に追い掛けた。

 だが桃香は止まらず、尚も走り続ける。

 そして、

 

「先生っ!」

 

そう叫んで、一人の妙齢の女性の前で止まった。

 先生と呼ばれた女性は、何事かという表情で振り返ったが、桃香の姿を見るとその表情を明るくして近付いた。

 

「貴女はもしや玄徳(げんとく)! 劉玄徳ではありませんか?」

「はい! 御久し振りです、先生!」

 

 そう会話を交わすと、二人とも笑顔を浮かべながら手を握る。

 愛紗と雪里は、桃香と話している女性は誰かと思いながら見ていたが、涼だけはその正体に気付いていた。

 

(この時期に桃香が先生と呼ぶ人物って事は、恐らく……てか、やっぱり女性なんだな。)

 

 涼がそう思っている間も、桃香は先生と呼んだ女性と親しげに話している。

 まあ、話している相手が桃香の先生なら、親しいのは当たり前ではあるが。

 

「こうして会うのは三年振りですね、玄徳。息災そうで何よりです。」

「先生こそ、お元気そうで嬉しいです。」

 

 桃香は女性との話に夢中で、涼達に気付いていない様だ。

 

「貴女が天の御遣いと共に義勇軍を旗揚げし、活躍している事は聞いていましたよ。」

「いえ、私なんて未だ未だで……。皆が居なかったら、義勇軍を旗揚げする事は出来ませんでした。」

 

 そう言った所で漸く涼達に気付いたらしく、慌てて涼達の自己紹介を始めた。

 

「先生、この方がその天の御遣いの清宮涼(きよみや・りょう)さん。そして、その左隣に居る黒髪の女の子が武将の関雲長(かん・うんちょう)ちゃんで、右隣に居る銀髪の女の子が軍師の徐元直(じょ・げんちょく)ちゃんです。」

 

 桃香の紹介を受けて、涼達は丁寧に挨拶を交わす。

 その挨拶が終わると、今度は女性が柔らかい物腰で自己紹介を始めた。

 

「皆さん初めまして。私は、かつて劉玄徳の先生をしていた盧植(ろしょく)と申します。」

 

 その名前を聞いた愛紗は、盧植を単なる桃香の師として認識したが、対照的に雪里はかなり驚いていた。

 

「貴女があの高名な盧植先生ですか。是非一度お目にかかりたいと思っていました。」

 

 そう言った雪里は口調こそ常の冷静さを保っているものの、その瞳は眩しい程キラキラと輝いており、まるで憧れの人に会ったかの様だ。

 いや、普段クールな雪里がこんな反応を示しているのだから、本当にそうなのかも知れない。

 そんな雪里を盧植は真っ直ぐ見つめ、微笑みながら言った。

 

「有難うございます。でも、私はしがない儒学者ですよ。」

 

 それが謙遜して言っている事は、雪里の反応を見る迄もなく解る。

 涼に至っては、「三国志」の知識を知っているのだから、盧植がしがない儒学者だけでない事くらい解っていた。

 

「そして、政治家であり将軍でもある、でしょ?」

 

 そんな中、涼達の前方から女の子の声が聞こえ、そう言葉を紡いだ。

 涼達はその声の主を注視し、盧植は振り返ってやはり微笑みながら声の主に応える。

 

「私にとって、それ等は副業でしかありませんよ、賈駆(かく)。」

 

 賈駆と呼ばれた少女は、やれやれといった表情を浮かべながら更に言葉を紡ぐ。

 

「それだけ才能が有るのに、政治家や将軍が副業とはね。天も時々気紛れが過ぎるわ。」

 

 そう言うと、賈駆は視線を涼達に向けた。

 

「で、貴方達は?」

「この方達は劉備・清宮軍の劉玄徳と清宮涼さん、関雲長さんに徐元直さんですよ。」

 

 賈駆の質問に涼達が答える前に、盧植が答えてくれた。

 

「最近噂に聞く、あの義勇軍の? ふーん……。」

 

 賈駆はそう言って、涼達を値踏みする様に見つめる。

 女の子に見つめられて、ちょっと恥ずかしくなる涼だったが、それでも賈駆を観察する事は出来た。

 賈駆は、緑色の長い髪を細い三つ編みにし、その上には黒を基調とした四角い帽子を被っている。帽子の前両端には糸を束ねた様な装飾があり、それはブーツにも施されていた。

 金色に光る大きな瞳は鋭く、紅色フレームの上部分の縁が無い眼鏡をかけていた。

 白を基調とした服の袖口は黒く、その両端に白いラインが入っている。また、胸元には紅いリボンが付いていた。

 肩には、黒いケープみたいな羽織を身に着けていて、端は波の様な形の白い模様になっている。

 指の部分が無いタイプの黒い手袋を填めていて、細い指先が露わになっている。

 黒が好きなのか、プリーツスカートもタイツもブーツも黒を基調としていた。

 身長は小さいが、鈴々よりは大きい。

 

(同じ小さいでも、かなりの差が有るもんだな。)

 

 そう思いながら、一瞬だけその部分を見る。

 小さい外見ながら、その体が女性だと如実に示す部分−つまり胸は意外と大きい。

 少なくとも、鈴々よりは遥かに大きかった。

 

(ここに鈴々が居なくて良かったよ。あれで結構コンプレックスみたいだし。)

 

 因みにその鈴々は、部隊と共に留守番をしていて、何故かこの時クシャミをしていた。

 

「……ボクの顔に何か付いてる?」

 

 ジッと見過ぎていたのだろうか、賈駆は涼を睨み付ける様に見ながらそう尋ねる。

 余りに強く睨んでいたので、近くに居る桃香が竦み上がってしまったくらいだ。

 だが、涼はそんな賈駆にたじろぎもせず、微笑みながら答える。

 

「綺麗な眼が二つに、鼻と口が一つずつ。あ、細い眉毛も二つ有るね。」

「……誉めてるのかケンカ売ってるのか、どっちかしら?」

 

 賈駆は顔を赤らめつつも機嫌を悪くするという、器用な表情をしながら言った。

 

「ケンカは売ってないよ。ちょっとした冗談さ。」

「良い性格してるわね。」

「そりゃどうも。」

「言っとくけど、誉めてないわよっ。」

 

 賈駆はさっきより機嫌を悪くしながらそう言った。

 

「ゴメンゴメン、機嫌を直してよ。」

 

 そう言って微笑みながら賈駆の頭を撫でる。

 途端に賈駆の顔が紅く染まった。

 

「な、何やってんのよアンタっ!」

「何って、機嫌を直してもらおうと思って……。」

「だからって人の頭を撫でるんじゃないっ!」

 

 顔を紅くしたまま、涼の手を振り払う賈駆。

 そんな賈駆の様子を、涼は頭に疑問符を浮かべながら見つめていた。

 

(変だなあ、桃香はこうすると機嫌が直るんだけど。)

 

 涼はそんな風に思いながら、疑問符を更に増やしていった。

 皆がそれで機嫌が直る訳では無いという事を、誰かが涼に教えた方が良い様だ。

 

「……御主人様、遊んでいる暇は有りませんよ。」

 

 愛紗が、凛とした常の声をいつも以上に低くして涼に話し掛ける。

 涼は反射的に体を硬直させながら、首を何度も縦に振っていた。

 

「わ、解ってるってっ。えっと……ここの指揮官に会いたいんだけど、何処に居るのか教えてくれるかな?」

「……ここの指揮官は董卓将軍よ。……こっちへ。」

 

 未だ少し朱に染まっている顔を若干伏せながら涼達に背を向けると、賈駆はスタスタと歩き出す。

 涼達は慌ててそれについて行った。

 それから数分後、涼達は一際大きな天幕へと辿り着いていた。

 因みに、盧植もついて来ていて、さっきから何故か微笑みながら涼達を見ている。

 

「この中に董卓将軍がいらっしゃるわ。……くれぐれも、失礼の無い様にしなさいよ。」

「解ってる。」

 

 賈駆の忠告を涼はしっかりと受け止める。

 何せ相手はあの董卓だ。今は未だ官軍の将軍とはいえ、どんな性格か解ったもんじゃない。

 下手に怒らせたら命が幾つ有っても足りないだろう。

 

「それじゃあ……失礼します。」

 

 賈駆が天幕に入ると、涼達も後に続いた。

 天幕の中には数人の兵士が左右に均等に配置されていて、中央の椅子に座っている人物の警護は万全の様だ。

 涼は椅子に座っている人物に目を向け、そして驚いた。

 そこに座っているのは、やはり女性だった。それも、かなり若い。ひょっとしたら涼と同じ位か年下かも知れない。

 それだけでも充分驚きなのだが、もっとも驚いたのはその容姿だ。

 背は賈駆より小さく、肌は透き通る様に白い。

 緩やかなウェーブ状の薄銀色の髪は肩迄伸び、ふんわりとしている。

 そして何より、紫色の大きな瞳はとても澄んでいて、見る者を穏やかな気持ちにさせてくれた。

 

(この子が董卓……? 本当に……!?)

 

 余りにも想像と違っていたので、別人じゃないかと思ったが、天幕の中には他にそれらしい格好をした者は居なかった。

 目の前に居る少女は、黒と薄紫を基調とした宮廷装束に身を包み、帯は花魁の様な大きい紫色のリボン状になっていた。

 ファーの様にもこもことした物を肩から掛けて腕に巻いており、優雅かつ華麗な姿に拍車がかかっている。

 紫色のスカートは地面に着く程長く、どんな靴を履いているか判らない。

 黒と白を基調とした四角い帽子の左右には、鍔が付いていて、その先には小さな宝石が幾つか連なって吊り下げられていた。

 額には紅い水滴状の宝石が付いた飾りを巻いていて、帽子から降りている蝶々結びの細く紅いリボンと長いベールが表情を隠し、神秘的な印象すら感じさせる。

 

(こんな格好の子が一般兵な訳は無いし、ならやっぱりこの子が董卓なのか?)

 

 そう結論付けようとするも、やはりイメージとかけ離れている為か、中々判断出来ない。

 だが、まるでそんな涼に答えを突きつけるかの様に目の前の少女が立ち上がり、言葉を紡いだ。

 

「……皆さん初めまして。私が、この部隊の指揮官である董卓です。」

 

 目の前の少女自身がそう言ったので、涼は認めざるを得なかった。

 だがそれでも、涼は中々言葉を紡ぐ事が出来なかった。

 けどそれも、仕方が無い事だろう。

 現実世界に伝わる董卓は、悪逆非道の限りを尽くした人間で、ゲームや演劇等では、太っていたり醜い容姿をしていたりする。

 そんな董卓が、この世界では虫も殺せない様な可愛い女の子なのだから、余りの落差に思考が停止したりもするだろう。

 

「あの……?」

 

 董卓はそんな涼の様子に気付いたらしく、怪訝な表情をしながら尋ねた。

 すると涼は、董卓を見ながら呟いた。

 

「可愛い……。」

「へぅっ!?」

「なあっ!?」

「あらあら♪」

「涼兄さん!?」

「御主人様っ!?」

「やれやれ……。」

 

 董卓を見た涼が感想を正直に口にしたら、その場に居た武将や軍師達が三者三様の反応を見せた。

 賈駆は暫く口をパクパクさせてから、董卓に駆け寄って涼から離す様に立ち、桃香は何度も涼の名前を呼びながらその体を揺さぶり、愛紗は笑顔のまま青龍偃月刀(せいいりゅうえんげつとう)を持つ手に力を込め、雪里は呆れながらその光景を眺め、盧植は温かい眼差しで涼達を見守り、そして董卓は頬に手を当て、白い肌を朱に染めていた。

 

「えっと……皆どうしたの?」

 

 周りが急に騒がしくなったので呆気にとられていた涼が、皆を見回しながらそう尋ねた。

 すると、賈駆が顔を真っ赤にして怒りながら迫っていった。

 

「“どうしたの?” じゃないわよっ! ボクの前で月を(たぶら)かそうなんて良い度胸してるわ‼」

「誑かすなんて人聞きが悪いな。俺は思った事をそのまま言っただけで、別にそんなつもりじゃあ……。」

「それが誑かしてるって言うのよ‼」

 

 そう怒鳴ると、賈駆は董卓の(もと)に戻ってその手をとり、涼から更に距離をとる様に動いていった。

 納得いかない表情の涼は、不満を露わにしながら反論する。

 

「えー。だって可愛い子に“可愛い”って言っただけじゃんか。」

「月が可愛いのは当たり前よっ!」

 

 さっきより大きな声で怒鳴ると、賈駆は董卓を椅子に座らせ、まるで守る様に董卓の前に立った。

 そんな賈駆を苦笑しながら観察しつつ、涼は賈駆が言った「月」という言葉について考えていた。

 

(賈駆がさっきから言ってる“ゆえ”って、多分董卓の真名(まな)の事だよな。外見だけでなく真名迄可憐とは、尚更可愛いな。)

 

 そんな風に考えていたので、涼の顔は自然と綻んでいた。

 だからだろうか、涼は後ろに居る二人の只ならぬ気配に、全く気付いていなかった。

 

「……御主人様。」

「涼兄さん……。」

 

 一つは常より低く、一つは悲しみを含んだ口調で涼に話し掛ける。

 その瞬間になって、涼は漸く事態を把握した。

 すると、涼の体中から突然冷たい汗が大量に流れ始めた。

 

「な、何かな?」

 

 平静を装いながら、ゆっくりと振り返る。

 

「会ったばかりの女性を口説くとは、随分と余裕が出て来た様ですね?」

「……涼兄さんって、意外と女好きですよね。」

 

 そこに居たのは満面の笑みを浮かべる愛紗と、困った顔の桃香だった。

 

「え、えーっ!? いや、それは物凄い誤解で……っ。」

「だまらっしゃい‼」

 

 否定して弁解しようとした涼だが、愛紗の一喝に遮られてしまう。

 

「これから黄巾党と戦うという大事な時に、女性を口説くとは言語道断! 今日という今日は許しませんよっ‼」

「だから口説いていないって! 只、感想を口にしただけだしっ‼」

「問答無用っ‼」

 

 愛紗は青龍偃月刀を思いっきり振り上げる。

 涼は既視感を感じたが、それ以上考える事は無かった。

 涼がどうなったかは、言う迄も無い。



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第四章 黄巾党征伐・前編・2

「それでは、現状についての確認から始めましょうか。」

 

 あれから暫くして、涼達は軍議を始めていた。

 涼は何故か体中を痛がっているが、それについては誰も気にしない様にしている。

 よっぽど恐い物でも見たのだろうか。

 何はともあれ、軍議は進んでいた。

 

「ボク達董卓軍には、現在五万の兵が居るわ。もっとも、そこから傷兵(しょうへい)を差し引くと……動かせる兵の数は四万三千といった所かしら。」

「傷兵が七千もですか。」

「これでも少ない方よ。近くで戦っている皇甫嵩(こうほ・すう)将軍や朱儁(しゅしゅん)将軍の部隊は、これより多い傷兵を抱えている様だから。」

「私の部隊も、董卓将軍の部隊と同じ位の傷兵を抱えているわ。」

 

 賈駆や盧植の説明を聞きながら、雪里は頭を捻っていた。

 そんな雪里の様子を見ながら、桃香が尋ねる。

 

「そう言えば、敵将は誰なんですか?」

張角(ちょうかく)の妹の張宝(ちょうほう)よ。」

「ほう、地公将軍(ちこう・しょうぐん)自ら出陣ですか。これはまた大物が出て来たものですね。」

(張宝が妹って事は、張角も女性なのかな?)

 

 敵将が黄巾党の中核である張宝と知って苦い顔をする雪里と、またも女性になっている事に少しだけ驚いた涼。

 事柄は同じでも、考える事は違う二人だった。

 そんな二人とは別に、桃香達もそれぞれ対策を考える。

 だが中々妙案は浮かばず、出るのは溜息ばかりだった。

 

「主力とは聞いていたが、よりにもよって張宝自らが率いているとはな……。」

「今迄にない苦戦になるのは必至でしょう。ですが……。」

「ここで勝てれば黄巾党に大打撃を与える事が出来る、か……。」

 

 そんな中、愛紗と雪里、そして涼が感想を述べ、何とか場の空気を変えようとする。

 すると賈駆が、はあ、と溜息をつきながら口を開いた。

 

「確かにそうだけど、そう簡単にはいかないわよ。」

「だよなあ……。そういや、敵の数はどのくらいなんだ?」

 

 涼が尋ねると、賈駆は表情を更に暗くし、言葉を絞り出す様にして言った。

 

「……およそ二十五万。」

「に、二十五万!?」

 

 こっちの兵数を遥かに超える大軍に、涼は勿論桃香達全員が大きく驚いた。

 

「勿論、この全てが相手では無いわ。現在、皇甫嵩将軍の部隊と朱儁将軍の部隊がそれぞれ四万ずつ、盧植将軍の部隊が二万を相手にしているから、ボク達の相手は残りの十五万。」

「それでも軽く三倍以上じゃんか。」

 

 数が十万少なくなっても、圧倒的不利な状況には変わらなかった。

 董卓軍が四万三千。そこに涼達義勇軍三千が加わっても総数は四万六千で、十五万の黄巾党とは十万四千もの大差がついている。

 兵法では、相手より多くの兵を揃える事が勝つ為の大前提だ。

 残念ながら、今の涼達はその前提通りの状況を作り出せていなかった。

 

「け、けど、それだけの大軍を相手に、今迄持ちこたえていられるなんて凄いですね。」

 

 桃香が場の空気を変えようとしてそう言うと、賈駆は冷静に分析して説明した。

 

「まあね。どうやら、敵は主力とは言っても兵法に通じている者はそう居ないみたい。只数に任せて闇雲に押し寄せてくるだけだから、策を用いれば結構何とかなるのよ。」

「けど、兵力差が明らかなら、怖じ気付いて逃げだす兵も多いんじゃないのか?」

「……死んだ兵の殆どは、そうして逃げだした時に後ろからやられてるわ。だから、逃げても死ぬだけだから最後迄諦めずに戦えって命令はしてるけど……。」

 

 そう言うと、賈駆は今迄以上に表情を暗くしてしまった。

 

「当たり前だけど、それでも戦死者は出るわ。……軍師だから解ってはいるけど、そんな命令を出すしかないのって結構辛いのよ……。」

「詠ちゃん……。」

 

 董卓は心配そうな表情をしながら、賈駆を「えいちゃん」と呼んだ。

 恐らく、「詠」とは賈駆の真名なのだろう。

 

「……なら、次の戦いでは賈駆殿はお休みになられていたら良いかと思います。」

「えっ?」

 

 突然の提案に驚いた賈駆は、思わず間の抜けた声を出しながら声の主の方を見る。

 そこには、静かにお茶を飲んでいる雪里が居た。

 

「……ボクに休んでろって、どういう事かしら?」

「軍師たる者、時には非情な策も講じなければなりません。勿論、それに伴う心の痛みに耐えながら、ね。」

 

 そう言うと再びお茶を飲み始める。

 

「ボクだってそんなの解ってるし、ちゃんとやってるわ。」

「ですが、辛いのでしょう? ならば、後の事は同じ軍師である私に任せ、お休みになられた方が宜しいかと思った迄です。」

 

 言い終わると湯飲みを置き、賈駆に視線を向ける。

 一方の賈駆も負けずに、視線を雪里に向けたままだ。

 

「徐元直、アンタは随分と自信がある様ね。」

「当然です。軍師が自信を無くしては、主君に勝利を捧げる事等出来ませんからね。」

 

 何だか、段々と互いの言葉に棘が出てきている。

 そんな二人を、涼も董卓もヒヤヒヤしながら見ていた。

 

「え、詠ちゃん、徐庶さんは心配してくれてるんだよ。」

「うんうん、そうそうっ。」

 

 董卓も涼も焦りながら賈駆を宥め、また涼は目線を雪里に向けて注意をする。

 雪里は軽く息を吐いてから頷き、賈駆は暫く雪里を睨みつけてからやはり息を吐いた。

 

「まあ良いわ。ボクも、噂に聞く義勇軍の軍師がどんな実力の持ち主か気になるしね。」

 

 賈駆はそう言うと椅子に腰を降ろし、お茶に口を付ける。

 その様子を暫く見てから、雪里は淡々と言葉を紡いだ。

 

「御期待に沿える様、頑張りますよ。」

 

 瞬間、「別に期待してないわよ」と言いたげな表情を見せた賈駆だが、董卓が相変わらず困っていたからか何も言わなかった。

 それから、改めて黄巾党について話し合った。

 涼達が戦う十五万の黄巾党だが、その全てを張宝が率いている訳では無い。

 馬元義(ば・げんぎ)丁峰(ていほう)程遠志(てい・えんし)鄧茂(とうも)といった者が前線で各部隊を率い、それ等を張宝が纏めているという事らしい。

 

「ならば、各個撃破していって数を減らしましょう。」

「簡単に言うね。」

 

 雪里の提案に、涼は少し呆れながらツッコミをいれた。

 

「数で押すしか能が無い相手等、策を使えば簡単に倒せますよ。」

「それは遠回しにボクを馬鹿にしてるのかしら?」

 

 賈駆が眉をピクピクさせながら、棘を含んだ言葉で尋ねる。

 その瞬間、再び場の空気が悪くなる。

 

「そんなつもりはありませんが、そう聞こえましたか?」

「聞こえなくはなかったわね。」

 

 そう言って賈駆が雪里を睨むと、雪里もまた賈駆に視線を向ける。

 マンガだと、視線と視線がぶつかり合い、バチバチと火花が散っているといった、そんな感じだろう。

 

「……雪里。」

「解っています。」

「詠ちゃん……。」

「月ぇ、そんな顔しないでよう……。」

 

 涼と董卓が静かに注意すると、それぞれ素直に従った。

 それから更に作戦の細部を話し合おうとした時、天幕の入り口から声が聞こえた。

 

「お兄ちゃん、お姉ちゃん、大変なのだ!」

「鈴々!?」

「一体どうしたの!?」

 

 少し慌てながら天幕に入ってきたのは、今や義勇軍の将になった鈴々。

 そんな鈴々に、「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ばれた涼と桃香が駆け寄る。

 その途中、鈴々は蛇矛を担ぎながら、真剣な表情で言った。

 

「黄巾党が攻めてきたのだっ!」

「なっ!?」

「黄巾党が!?」

 

 鈴々の言葉に天幕に居た全員が驚いた。

 

「敵の数は!?」

 

 賈駆が鈴々に近付きながら尋ねる。

 鈴々は一瞬答えて良いのか解らなかったが、涼と桃香が頷いているのを確認すると、将らしく引き締まった表情で答えた。

 

「敵の数は約八万らしいのだ。」

「八万……ボク達が戦う相手の約半数か。」

「旗には何と書いてありましたか?」

 

 鈴々の報告を受けた賈駆が考え込み始めると、雪里が椅子に座ったまま尋ねた。

 

「えっと……確か“馬”と“丁”だったのだ。」

「ならば、相手は馬元義と丁峰ですね。他の旗は有りませんでしたか?」

「無かったのだ。」

「成程。……清宮殿、桃香様、急いで迎撃しましょう。」

 

 鈴々からの報告を聞いた雪里は暫く考えた後、二人を見ながらそう進言する。

 勿論、それ自体に異論は無いのだが、何しろ戦力差が有り過ぎる。迎撃に出るだけでは勝つのは難しいだろう。

 

「どうする気なんだ?」

「簡単です。この辺りは平地で、地形を使った策は余り使えません。ですから、方形陣で一撃を防いだ後、中央を後退させて相手を引き寄せて挟撃、しかる後に後退した部隊も反転攻勢に出るのです。」

「基本だけど良い策ね。けど、それだけで敵を殲滅出来るかしら?」

 

 雪里が提案した策を聞いていた賈駆が疑問を投げかける。

 すると雪里は、賈駆に向き直りながら冷静に答えた。

 

「今回の戦で殲滅させるのは難しいでしょうね。ですが、持ちこたえる事は出来るでしょう?」

「当然よ。」

「ならば問題無いわ。今回は防戦にまわり、次の戦いで馬元義と丁峰の部隊を殲滅します。」

 

 雪里がそう宣言すると、愛紗と鈴々は頷き、部隊を指揮する為に天幕を出て行った。

 それを見届けると、今度は涼と桃香に向き直って言葉を紡いだ。

 

「清宮殿、桃香様、お二人の指揮にも期待していますよ。」

「解った。」

「任せといて♪」

 

 そう言って涼と桃香も天幕を出て行く。

 残った雪里は、董卓と賈駆に向かって言葉を投げ掛ける。

 

「それではお二人共。先程話した通り、私が部隊の総指揮をしても宜しいですね?」

「はい……お願いします。」

「大言壮語じゃないと良いけどね。」

 

 董卓と賈駆がそれぞれ答えると、雪里は帽子を被り直しながら宣言した。

 

「まあ、見ていて下さい。今回と次の戦いで馬元義と丁峰を討ちとれるでしょうから。」

 

 雪里はそう言うとゆっくりと天幕を出て行く。

 その後ろ姿は、自信に満ち溢れていた。

 結果、その日は無事黄巾党を追い払う事に成功した。

 勿論犠牲もそれなりに出たが、それ以上に黄巾党に与えた損害は大きかった。

 

「こちらの戦死者が約七百、負傷者が約九百。対する黄巾党は戦死者が約三万八千、投降者が約七千ですか。」

「実質的に、今回襲ってきた敵の半数以上を倒したと言う事だな。」

 

 再び董卓の天幕に集まった涼達は、先程終わった戦いについての報告を兼ねた軍議を行っていた。

 

「黄巾党なんて大した事無いのだ。あのままなら一気に倒せた筈なのだっ。」

「無茶を言うな鈴々。全ての兵がお前の様に戦える訳では無いのだぞ。」

 

 血気盛んな鈴々を愛紗が窘める。

 鈴々は頬を膨らませて不満を露わにするが、桃香が宥めると少しだけ機嫌を直した様だ。

 雪里はそんな三人を微笑ましく思いつつも、それを表情に出さず軍議を続けた。

 

「義勇軍も董卓軍も精鋭揃いなだけあって、こちらの被害はかなり少なくて済みました。これなら、無事に次の戦いに臨めます。」

「けど、具体的にどう戦うの? 雪里ちゃんの事だから、策も無しに只突撃ーっ、て事はしないんでしょ?」

「当たり前です。策を用いない軍師等軍師ではありませんからね。」

 

 雪里が桃香に向かってそう言うと、台に広げられている地図を指差しながら、説明を始めた。

 

「恐らく、敵は今回の敗戦を受けて後方に居る味方に救援を頼むでしょう。ですが、後方部隊には守るべき張宝が居ますから、援軍は余り送れない筈です。」

「そりゃあ、幾ら敵を倒しても自軍の大将が討ちとられては意味が無いからね。」

 

 雪里の説明を聞きながら、賈駆が呟く様に言葉を紡ぐ。

 

「ええ。ですが仮に張宝自らが全軍を率いて合流した場合、敵の総数は約十万。対してこちらは約四万四千、投降してきた黄巾党を自軍に加えたとしても約五万で、依然として数的不利な状況には変わりありません。」

「そんな相手に正面からぶつかるのは愚策中の愚策。なら、当然何か策を練る必要が有るけど……一体、どうする気なんだ?」

 

 涼が尋ねると、雪里は帽子の鍔を摘みながら言った。

 

「それは考えていますが……董卓殿、暫く天幕から離れても宜しいですか?」

「えっ? ……は、はい、良いですよ。」

 

 突然の申し出に董卓は戸惑いつつも了承する。

 

「有難うございます。では清宮殿、桃香様、お手数ですが御同行願えますか?」

「ん? ああ。」

「良いよ。」

 

 董卓同様、突然話を振られた二人は少し戸惑いながらも了承し、揃って天幕を出た。

 賈駆は何か言いたそうだったが、董卓が了承した以上異議を唱える訳にもいかず、只三人を見送るしかなかった。

 

「……それで、鈴々達は何をすれば良いのだ?」

「……取り敢えず、御主人様達が戻られるのを待つとしよう。」

 

 残された愛紗と鈴々は、やはり戸惑いながらも着席し、少し冷えたお茶を口にする。

 そんな二人の呟きは、陣地を歩く雪里達には当然聞こえる筈は無かった。

 それから数分後、涼達は陣地の外れ迄来ていた。

 

「なあ、何処迄行くんだ? このままじゃ陣地を出るぞ。」

「そのつもりですから問題ありません。」

「そのつもりって……何をするの?」

 

 雪里の後を行く涼と桃香は、相変わらず戸惑いながら尋ねる。

 だが雪里は曖昧な答えを返すに止まり、スタスタと歩き続けていた。

 そうして遂に陣地を出たが、それでも雪里は足を止めなかった。

 

「雪里、本当に何処迄行くんだ? このままじゃ陣地から離れ過ぎるぞ。」

「……もう直ぐです。」

 

 涼の更なる問いかけにも一言で返した雪里が漸く足を止めたのは、先程の戦った場所が見渡せる小さな丘だった。

 

「着きました。」

「……此処が何なんだ?」

 

 先程迄居た戦地を一望出来る場所で立ち止まった雪里に、怪訝な表情の涼が尋ねた。

 何故なら、目の前に広がる平原には沢山の死体が未だに残っているからだ。

 大敗した黄巾党の兵士は勿論、勝利した劉備・清宮・董卓連合軍の兵士の死体も未だ野晒しになっている。

 また、折れた剣や矢がそこかしこに散らばり、血溜まりが地面に染み込んでいた。

 

「……っ!」

 

 それは涼も桃香も既に見慣れた光景だが、未だ直視出来ないらしく無意識に目を逸らす。

 雪里もそれに気付いているが、特に注意はせず、右手を前に伸ばして話を続けた。

 

「我が軍と黄巾党の進路を予測した結果、この先が次の戦場になると予想されます。」

「まあ、そうだろうな。」

 

 雪里が指差す方向には、先程の戦場とは違って、一面に腰の高さ迄伸びた長い草が覆い茂っており、その先に黄巾党の物と思われる天幕が幾つか点在していた。

 

「この地形を見て、何か思いませんか?」

「えっ? うーん……。」

 

 雪里に尋ねられた涼と桃香は、目の前に広がる風景を見る。

 雪里が何を言いたいのか解らない涼と桃香は、随分と長い間思案顔のままでいた。

 

「…………あっ、解ったあっ!」

 

 まるで叫ぶ様に言いながら、笑顔のまま右手を高々と挙げたのは桃香だった。

 

「おや、清宮殿が先に気付くかと思いましたが、桃香様が先に気付かれるとは意外ですね。」

「……雪里ちゃん、何気に酷い事言うね。」

 

 歯に衣着せぬ物言いの雪里に向かって、桃香は頬を膨らませながら落ち込んだ。何とも器用な事をやるものだ。

 

「これは失礼しました。それで、桃香様は何が解ったのですか?」

「この地形と黄巾党が居る場所。そこから一つの策が導き出せたんだよ。」

「……ああ、そっか!」

 

 桃香がそう言うと、涼は合点がいった表情を浮かべながら声をあげた。

 

「ほう、清宮殿もお気付きになられましたか。」

「まあね。」

 

 「それが桃香と同じかは解らないけどね。」と、付け加えながら涼は桃香を見る。

 それが何を意味するのか、桃香と雪里には解らなかったが、余り深く考えずに話を続けた。

 

「それでは桃香様、その策について御説明下さい。」

「うん、あのね……。」

 

 雪里に促された桃香は、慣れない口調と身振り手振りで、必死に説明をしていった。

 

「……という策なんだけど、どうかな?」

 

 説明を終えた桃香は不安な表情で雪里を見る。

 一方の雪里は暫く黙考した後、笑みを浮かべて桃香を見据えた。

 

「お見事です、桃香様。それは私が考えていた策と殆ど同じ策ですよ。」

「ホント!?」

 

 雪里に誉められた桃香は、満面の笑みを浮かべて両手を合わせた。

 一応、これでも義勇軍の指揮官の一人である。

 

「因みに清宮殿は、どの様な策を考えていましたか?」

 

 クスクスと笑いながら雪里は涼に尋ねる。

 話を振られた涼は、暫く考えてから口を開いた。

 

「そうだな……大体は桃香と同じだけど、他には……。」

 

 涼はそう言って桃香の策に付け加えた。

 

「流石です、清宮殿。先程の桃香様の策と合わせれば、私が考えていた策と全く同じになります。」

「そうか。」

 

 雪里の言葉を聞いた涼は、笑みを浮かべつつも冷静に接していた。

 「三国志」や「三国志演義」を知っている涼にとって、黄巾党の乱における劉備達の戦い方は一通り理解しているからだ。

 

「なら、決行は今夜か?」

「ええ。ですから兵の皆さんには今の内に休んで貰いましょう。」

 

 雪里はそう言うと(きびす)を返し、本陣へと戻っていく。

 勿論、涼と桃香もその後に続いていった。

 丁度その頃、涼達が居た場所から少し離れた場所に、新しく陣を張っている部隊が有った。

 この部隊は、劉備・清宮軍では勿論無いし、また董卓軍でも無い。

 更に、盧植軍でも無ければ皇甫嵩軍や朱儁軍でも無いし、ましてや黄巾党でも無かった。

 

「――様、部隊の確認は全て終わりました。いつでも出撃可能です。」

「……そう。」

 

 その陣内で、フードを被った少女が、金色の巻き髪を左右に分けている少女に報告すると、金髪の少女は彼方を見つめたまま応えた。

 

「どうかされましたか?」

「私が何を考えているか、貴女なら解るでしょう?」

 

 金髪の少女はそう言うと、ゆっくりとフードの少女に向き直りながら、妖しい笑みを浮かべる。

 笑みを向けられたフードの少女は、何故か顔を紅らめながら答えた。

 

「……はっ。我が軍は精鋭揃いながら、人数では圧倒的に不利。賊が相手なので普通に戦っても勝利は確実ですが、この戦いは如何に兵を損じる事無く勝つかが重要かと。」

「その通りよ。こんな所で苦戦する様では、覇道を歩む事等出来はしないわ。」

 

 フードの少女と自分の考えが同じだと確認した金髪の少女は、遥か彼方を見つめながらそう言葉を紡いだ。

 そんな金髪の少女を、フードの少女は相変わらず顔を紅らめながら見つめ、やがて表情を正しながら口を開いた。

 

「先程戻った物見によりますと、数刻前に劉備・清宮軍と董卓軍が共闘し、黄巾党の馬元義と丁峰が率いる部隊を敗走させたとの事です。」

「劉備に清宮に董卓? どれも知らない武将ね。」

 

 金髪の少女がそう言うと、フードの少女が説明を始めた。

 

「劉備と清宮は共に涿県(たくけん)楼桑村(ろうそうそん)から、董卓は涼州(りょうしゅう)から出てきた武将です。劉備と清宮は未だ義勇軍の将でしかありませんが、董卓は漢王朝の信頼を得る程の急成長を見せている様です。」

「私とした事が知らなかったわ。……それで、その者達は強いのかしら?」

 

 金髪の少女は自分の不勉強を嘆きながら、直ぐ様情報収集を始める。

 

「全て伝え聞いた事でしかありませんが……董卓には賈駆という軍師が居り、その実力は大陸中の軍師の中でもかなりのものと。董卓の急成長には、賈駆の活躍があったのは間違いありません。」

「成程。では、劉備や清宮はどうなの?」

「劉備と清宮は旗揚げから共に戦っていて、義勇軍ながら優秀な武将と軍師が居るらしく、幽州各地で数々の武功を挙げている様です。」

 

 説明を聞いていた金髪の少女は、義勇軍の活躍に興味を持ったらしく、急に目の色が変わった。

 

「義勇軍にそれ程の者が居るの?」

「はっ。名前は未だ知られていませんが、何れも腕の立つ武将と頭の切れる軍師の様です。」

 

 始めは半信半疑だった金髪の少女も、フードの少女の説明を聞く内にその表情が変わっていった。

 そして暫く考えた後、おもむろに口を開いた。

 

「その者達、欲しいわね……。」

「ええっ!?」

 

 金髪の少女の一言に、フードの少女は大袈裟過ぎる程に驚いた。

 そんな少女に対して、金髪の少女は笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。

 

「何を驚いているの? 優秀な将や軍師を欲しがるのは当然じゃない。」

「そ、それはそうですが……。」

「まあ、それは黄巾党を殲滅してからの話ね。……全軍に通達。我が軍は劉備・清宮・董卓軍の動きに合わせて進軍する!」

「は……はっ!」

 

 金髪の少女の命を受けたフードの少女は、恭しく一礼してから、命令を伝える為にその場を離れた。

 その後、金髪の少女は空を見上げて微笑んだ。一体、何を思っているのだろう。

 そんな少女の側で翻る牙門旗には、「曹」の一文字が大きく記されていたのだった。



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第四章 黄巾党征伐・前編・3

 それから数刻後。

 太陽はとうの昔に地に沈み、世界には夜の(とばり)が降りていた。

 この日の夜空は一面を雲が覆っていて、月の光は地上に届いていない。

 その為、辺りは漆黒の闇に包まれており、黄巾党の天幕の周りに立てられた篝火による明かりだけが、この闇夜に浮かんでいた。

 見張りに立っている黄巾党の男達は、余程眠いのか先程から欠伸を繰り返している。

 だがそれも無理は無い。現在の時刻は、現代でも未だ草木も眠る丑三つ時と呼ばれる深夜。つまり、午前二時半なのだから。

 この場に居る黄巾党は四万弱。その九割九分が既に眠りについており、残りの一分が見張りについていた。

 更にその一分の八割が睡魔に襲われている中で、異変は起こった。

 

「な、何だあれは!?」

 

 黄巾党の見張りの一人が、とある方向を指差しながら叫んだ。

 その指の先には、漆黒の闇に浮かぶ幾つもの鬼火。その数は百や千では追い付かず、万を軽く超えていた。

 

「何なんだよ、あの鬼火は……! ま、まさか……‼」

「か、官軍の総攻撃だあっ‼」

 

 鬼火を見ていた見張りの一人がそう叫ぶと、黄巾党の男達は味方を起こしに走ったり武器を手に取ったりと、右往左往していった。

 深夜に奇襲を受けた黄巾党は、次第に混乱の度合いを深めていった。

 そこへ、更なる混乱の火種が文字通り飛んできた。

 漆黒の闇夜を切り裂く様に放物線を描き、それは黄巾党の陣内に雨の様に降り注ぐ。

 そして、動きが止まると同時に草や天幕を燃やし始め、瞬く間に一面を火の海に変える。

 起きたばかりで満足に動けない黄巾党は、何が起きたのか理解する間も無く炎に包まれていく。

 

「う、うわああぁっ‼」

「熱い、熱いいぃっ‼」

「た、助けてくれええぇっ‼」

 

 轟々と燃える炎の音と、助けを求めて叫ぶ黄巾党の声が辺りに響く。

 だが、彼等を助ける者は誰一人として居らず、その殆どが炎の中に消えていった。

 辛うじて後方に脱出した者も居たが、その数は微々たるもの。

 また、混乱して方向を間違えたのか、後方以外の方向に逃げた者も居たが、その者達には沢山の矢と剣と槍が襲いかかった。

 命辛々逃げてきた黄巾党だったが、逃げ出すのに体力を使い果たした者が多く、武器も持たないで逃げてきた者も数多く居たので、誰もその攻撃を防ぐ事が出来なかったのだ。

 結局、炎や攻撃によって死んだ黄巾党の数は三万人を遥かに超えていた。

 それから更に数刻の時が流れた。

 燃やす物が無くなった炎は次第に勢いを弱め、やがて鎮火した。

 草木は燃え尽き、天幕は焼け落ち、数刻前迄黄巾党だった者は黒焦げになって固まっていた。

 

「うっ……!」

 

 涼は思わず手で鼻と口を塞いだ。

 馬に乗ってその場に近付くにつれて、草木が燃えた臭いと、肉が焼けた臭いが風に乗って漂ってきたからだ。

 

「酷い臭いだ……。出来れば、二度と嗅ぎたくは無いな。」

「そう願いたいのだ……。」

 

 涼と同じく馬に乗って近付いた愛紗と鈴々も、手で鼻と口を塞ぐ。

 

「ですが、火計は見ての通り、使い様によっては非常に有効な策です。戦場に身を置く限り、いつかはまた経験するでしょう。」

「そうね。……まあ、この臭いが生理的に嫌なのはボクも同意見だけど。」

 

 やはり馬に乗って近付いてきた雪里と賈駆も、同様に鼻と口を塞いでいた。

 

「……へうっ!」

「……きゃあっ!」

 

 董卓と桃香も馬に乗って近付き、やはり鼻と口を塞いでいたのだが、そこかしこに転がっている黄巾党の焼死体が目に入る度に、小さく悲鳴をあげていた。

 慌てて目を逸らすが、その先にも焼死体が有るので、悲鳴は中々止まなかった。

 何とか臭いや光景に慣れてきた涼達は、兵を動員して黄巾党の生き残りの捜索や、この先に居る筈の張宝の動きの監視、そして黄巾党及び連合軍の戦死者の弔いをそれぞれ行った。

 

「それにしても、こんなに上手くいくとはな……。」

 

 埋葬される黄巾党の遺体に手を合わせながら、涼はそう呟いた。

 心なしか、その表情には陰りがある。

 

「大勝の直後にその表情……もしやそれは、罪悪感ですか?」

 

 涼の右隣に立って同じ様に手を合わせながら、雪里が尋ねる。

 

「そりゃあ……幾ら敵でも、こんな光景を見ちゃったらな……。……悪いか?」

「いえ。……(むし)ろ、その罪悪感は持ち続けた方が良いかと。」

「……どういう事だ?」

 

 疑問に思った涼が尋ねると、雪里は背を向けて話し始めた。

 

「……間接的にとは言え、清宮殿が沢山の人間を殺した事に変わりはありません。」

「……ああ。」

「ですが、清宮殿は今、戦場に身を置いています。その様な状況で、戦う度に罪悪感に囚われていては、何れ心を壊してしまうでしょう。」

「つまり、割り切れ……って事だよな。」

「そうです。」

 

 弱々しく呟いた涼に対して、雪里は冷たく、そしてハッキリと言い切った。

 今更ながら、涼は自分の決意が甘く弱い事を痛感していた。

 平和な現代の日本で生まれ育ったのだから、戦いに対する考え方は比較的普通なのだが、この世界で生きて行くには普通ではいけない。

 解っているのに、解りたくなかった。

 それは、未だ自らの手を血で染めていない事からも、充分過ぎる程に表れている。

 

「ですが……時々は割り切らなくても良いと、私は思います。」

「えっ……?」

 

 驚いた涼が顔を上げると、背を向けていた筈の雪里はこちらを向いて微笑んでいた。

 

「割り切る事は大切です。一軍の指揮官なら尚更に。ですが、余りにも割り切り過ぎると人間としての大切な物……“心”を何れ失ってしまうでしょう。」

「心を失う……。」

 

 雪里の言葉を涼が反芻すると、雪里は一度空を見上げ、言葉を紡いだ。

 その内容は、独裁によって多くの民を犠牲にした始皇帝についてだった。

 

「……歴史上、この国を初めて統一した(しん)始皇帝(しこうてい)は、(まつりごと)に関してはとても優れた人物だったと伝えられています。ですが、優れ過ぎていた為か国の事ばかりを考え、民の事は蔑ろにしました。……結果、世は乱れ、劉邦(りゅうほう)項羽(こうう)といった英雄が世に出る事になったのです。」

「劉邦は解るけど、項羽も英雄と言って良いのか?」

 

 雪里の言葉に違和感を感じた涼が、そう尋ねる。

 

「清宮殿は高祖(こうそ)・劉邦と項羽について御存知なので?」

「まあ、少しは。」

 

 軽く驚いた表情をしながら雪里が聞き返すと、涼は平然と答えた。

 実は涼が子供の頃、三国志に関する書物を読み漁っていた際、項羽と劉邦に関しても興味を持ち、そのまま読破したという経緯があったので、それなりに知識は有るのだ。

 そんな事は当然知らない雪里は、多少疑いながらもそれ以上追及せず、項羽についての自らの考えを口にした。

 

「確かに、漢王朝の礎を築いた高祖・劉邦と、戦上手ながら傲慢で人心を得ようとしなかった項羽を較べては、同じ英雄という言葉を使って良いのか躊躇うのは解ります。ですが……。」

 

 一旦言葉を区切ると、帽子を取って長い銀髪を風に靡かせながら、再び言葉を紡いだ。

 

「項羽も元は、暴政を強いた秦に抵抗していた武将であり、その強さは一騎当千、国士無双。歴史にもしもは有りませんが、もしも項羽が人心を得る術を持っていたら、漢王朝では無く楚王朝がこの国を治めていたでしょう。そうした事から、項羽も英雄だと評したのです。」

 

 負ける事が多かった劉邦と、戦いの殆どを勝ってきた項羽。

 戦いの実績では圧倒的に項羽が優れていたが、最終的に勝利したのは劉邦だった。

 

「始皇帝と項羽……共に類い希なる才を持ちながら、最も大切な“人心”を得なかった為に破滅へと突き進んでいってしまった……。始皇帝は、折角統一した王朝の寿命を縮め、項羽は天下を統一出来る実力を持ちながらその機を得る事が出来なかった。……ここ迄言えば、私が先程言った事の意味は解りますよね?」

 

 帽子を両手で持ちながら、雪里は真っ直ぐに涼を見つめ、尋ねた。

 

「……普段は敵を殺した事を気に病まずにいても良いけど、それに慣れて人を殺す心の痛みを忘れてはいけない……。」

「……その通りです。」

 

 涼の答えに満足したのか、雪里は微笑みながら帽子を被り直した。

 

「人を殺す事は、この戦乱の世で生き抜く為に必要な事です。ですが、だからといって人を殺す事に何の躊躇いも無くなってしまっては、その者は鬼畜にも劣る愚かな存在になり果てるでしょう。……私は、貴方や桃香様にそんな道を歩いてほしくありません。」

「……解った。有難う、雪里。そうならない様に気を付けるよ。」

「頼みますね。」

 

 涼と雪里は互いにそう言葉を交わし、笑みを浮かべた。

 その直後、一足早く陣営に戻って軍議をしていた筈の桃香が、馬に乗ってやってきた。

 何故かその表情は少し慌てている様だ。

 

「どうした?」

 

 疑問に思った涼と雪里が駆け寄ると、桃香は下馬して報告を始めようとする。

 だが桃香は息を切らしており、話し出す迄数十秒を要した。

 

「えっと……愛紗ちゃんと董卓さん達と軍議をしていたんだけど、急にお客さんがやってきて……。」

「お客さん?」

 

 自分の陣営に戻っていた盧植が来たのかと思った涼だが、それならば桃香がこんなに慌てる必要は無い。

 そう思うと一体何があったのか不安になる涼と雪里だったが、その不安が収まらない内にその声が耳に届いてきた。

 

「貴方がもう一人の指揮官?」

 

 声のした方を見ると、見知らぬ二人の少女が馬に乗って近付いていた。

 一人はフードを被った小さな少女、もう一人は今声を掛けてきた金髪の小さな少女だ。

 

「そうだけど……君は?」

「あら、失礼したわね。」

 

 そう言うと金髪の少女は下馬し、フードの少女も倣って下馬した。

 

「私の名は曹孟徳(そう・もうとく)、曹軍の指揮官よ。」

 

 金髪の少女は堂々とそう名乗った。

 その名前を聞いた涼は一瞬思考が停止したが、やがて思考が元に戻ると、驚きながら尋ねた。

 

「曹孟徳って……君があの曹操(そうそう)なのか!?」

「えっ? ええ……そうだけど……。」

 

 驚きながら尋ねた所為か、曹操は戸惑いながら答えた。

 

(鈴々の時も驚いたけど、まさかあの曹操迄こんなに小さい女の子になってるとはね……。)

 

 曹操と名乗った金髪の少女は、涼より遥かに背が低く、鈴々よりは明らかに大きいという具合の背丈だった。

 もっとも、三国志における曹操も比較的背は低かったという記述が有るのを涼は知っているので、何処かで納得していたりもする。 納得しながら、涼は曹操を見続けた。

 髪型は、髑髏の髪飾りで左右に纏めた所謂ツインテールで、その金髪はクルクルとした巻き髪になっている。

 碧い眼は大きく、強い意志が見てとれた。

 ノースリーブの服は胸元が開いているが、胸は余り大きくない。それでも鈴々よりは大きい様だ。因みに配色は服の上部が白色、襟元と胸から下は黒色、白いフリルがついたミニスカートは薄紫色という感じ。

 また、腹部には紫色の鎧、その下には鬼の顔の様な形の腰当てを付けている。

 二の腕から伸びている袖には、やはり白いフリルがついている。袖の色は黒色で、二の腕には銀色の腕当てを付けていた。

 足には白いオーバーニーソックスと黒いブーツ。太腿と足首には紫色と銀色で構成されている足当てを付けていた。

 

(小さい娘だけど、格好や雰囲気は確かに曹操らしいな。……しかし、髑髏ってまるっきり悪役じゃん。)

 

 そう思いながら、「三国志演義」では劉備が正義で曹操が悪という構図になっていたので、有る意味納得していた。

 そんな事を思っていると、フードの少女が突然、

 

「ちょっとアンタっ! 義勇軍の大将如きが華琳(かりん)様を呼び捨てにするなんて生意気よ! それと、華琳様が美しいからってジロジロ見ないでよ、穢らわしいっ‼」

 

と、涼を物凄く罵倒をした。

 涼は目を丸くしながら声の主に目を向ける。

 すると今度は、

 

「何よ、男如きがこっちを見ないでよ! 妊娠しちゃうじゃない‼」

「するかっ‼」

 

と、更に突拍子もない事を言ったので、涼は思わずツッコミをいれた。

 一応説明するが、人間は見られただけで妊娠したりしない。

 

「お止めなさい、桂花(けいふぁ)。」

「ですが華琳様っ!」

「……桂花。」

「は……はい。」

 

 曹操が窘めると、フードの少女は途端に大人しくなった。

 まあ、曹操の部下が曹操の命令に逆らえる訳は無いので、当然ではある。

 

「失礼したわね。あの娘は優秀な軍師なのだけど、私の事になると少し冷静さを欠いてしまうのよ。」

(少し……か?)

 

 戸惑いながらもその疑問は口にしなかった。

 

「まあ、確かにビックリしたけど、曹操に謝られたから気にしない事にするよ。」

「助かるわ。」

 

 涼の言葉を受けた曹操は笑みを浮かべた。

 一方、フードの少女は罵詈雑言こそしなくなったものの、さっきからジーッと涼を睨みつけていた。

 目を合わせたらどうなるか解らないと察した涼は、余り目を合わさない様にしながらその少女を観察した。何とも器用だ。

 その少女は、肩に付かない長さの、ふんわりとした栗色の髪を、猫耳みたいな形の黄緑色のフードで隠している。

 碧色の瞳は今鋭く光っているが、本来はもう少し穏やかなんだろう。多分。

 首元には碧色の丸い宝石をあしらった黒いリボン。服はフードと同じ色で、袖にはやはり同色のフリル。

 上着は薄紫のコートっぽい服。両方の二の腕辺りが楕円形に空いており、そこには黒い紐が×字状に結んである。

 その×字状の紐は上着を留める為にも使われているらしく、ボタンやチャック代わりにしている様だ。

 ズボンは所謂かぼちゃパンツ……なのか? 因みに色は黒色。

 靴下は履いておらず、素足に栗色の靴を履いていた。

 

「えっと……ビックリして言い忘れたけど、改めて自己紹介するね。俺は清宮涼、一応この義勇軍の指揮官の一人だ。」

「そして、“天の御遣い”でもある、でしょ?」

 

 曹操はニヤリとしながら涼の言葉に付け加えた。

 

「まあね。」

「……確かに服は見た事の無い生地を使っている様だし、雰囲気も違うけど、それだけでは信じられないわね。」

 

 曹操は涼の全身を見回しながらそう言った。

 涼の服装は明らかにこの世界には無い物だが、それだけなら外国の服と見る事も出来るだろう。

 

「まあ、そうだろうね。……そういや、君の名前は?」

 

 涼はフードの少女を見ながら尋ねる。

 やはりと言うか、フードの少女は不機嫌な表情をして口を開いた。

 

「……何でアンタなんかに言わなきゃいけないのよ。」

「だって、名前解らないと呼べないから。さっき曹操が言った名前は真名だろうから言えないし。」

「残念。うっかり言えば遠慮無く殺せるのに。」

「恐い事を言うね。」

「神聖な真名を勝手に呼ばれたら相手を殺しても良いのだから、これくらい普通よ。」

「……ホント、凄い世界だな。」

 

 そう呟きながら、この世界に来たばかりの頃を思い出した。

 知らなかったとはいえ、張飛の真名を呼んだ為に、愛紗に青龍偃月刀を向けられた時は、正直生きた心地がしなかった。

 それだけ、この世界では真名が大切な物だという事だ。

 

「仕方ない。教えてくれないのなら、君の名前を当てるとするか。」

「えっ?」

 

 涼の言葉に、フードの少女は小さく声をあげて驚いた。また、曹操や桃香、雪里も同様に驚いている。

 

「何人か候補は居るんだけど……多分、荀彧(じゅんいく)かな?」

「なっ!?」

「……凄いわね、当たりよ。」

 

 名前を当てられたフードの少女――荀彧は目を見開いて驚き、曹操も冷静な表情のまま驚きを口にした。

 

「そっか、君が荀彧か。なら曹操が優秀だと評するのも解るよ。」

 

 涼は納得しながら二人を見る。

 相変わらず驚いているが、ピタリと当てた所為かその表情には不審の色が混じっていた。

 

「アンタ……一体何者?」

「何者って……一応天の御遣いの清宮涼、それ以上でもそれ以下でも無いよ。」

 

 睨みつけながら尋ねる荀彧に対し、涼はどこかで聞いた事があるフレーズを、飄々とした口振りで言って答えにする。

 勿論それで納得はしなかったが、涼がそれ以上言うつもりが無いと解ると追及しなかった。

 

「そういや、曹操達がここに来たのは何か用が有るからじゃないのか?」

「え、ええ。すっかり忘れていたわ。」

 

 涼の言葉で本来の目的を思い出したらしい曹操は、小さく咳払いをしてから本題に入った。

 

「今回の策、見事だったわ。数的不利のあの状況では、草が多いこの地形を利用した火計は最善策よ。この策を考えたのは誰かしら?」

「ああ、それは……。」

「劉玄徳様と清宮涼様のお二人です。」

「「えっ!?」」

 

 曹操の質問に涼が答えようとすると、その前に雪里が答えてしまった。

 しかもその答えが涼や桃香とは違っていた為、二人は同時に驚きながら雪里を見た。

 

「雪里ちゃん、それは違うでしょっ。」

「違わないと思いますが?」

「確かにあの策は俺達も考えたけど、雪里は既にその策を考えていただろ。」

「確かに私はそう言いました。ですが、その際に自らの口で策の詳細を言っていないので、やはりこれはお二人の策かと思います。」

 

 そう言って雪里は、帽子の唾を摘んで笑みを浮かべる。

 それを見た涼は、何かに気付いたらしく雪里に近付いて尋ねた。

 

「……謀ったな、雪里?」

「何の事でしょうか?」

 

 未だに笑みを浮かべたままの雪里に対し、涼は小声で言葉を繋いだ。

 

「俺達に策を考えさせる事で、俺と桃香の名声をより高めようって事だろ?」

「……御名答。」

「けどこれは、一つ間違えば指揮官か軍師のどちらか、もしくは双方の名が落ちる。違うか?」

「……違いませんね。」

 

 適切な策を思いつく指揮官は名が上がるが、指揮官に献策出来ない軍師は名が落ちる。

 また、見る人間によっては同じ策を考えられる、優れた人物ばかりと評される可能性があるが、逆に、同じ策しか考えつかない平凡な人物ばかりだと評される危険性もある。

 

「それが解っていて何故……。」

「……時には賭けに出る事も必要だという事ですよ。」

 

 そう言って帽子を被り直すと、雪里は曹操の前に出た。

 

「それで曹操殿は、策を考えた人物に何か訊きたい事があるのですか?」

 

 そうして曹操と話し始めたので、涼はそれ以上何も言えなかった。

 

「ええ、誰がどういった策を考えたのか、とだけね。」

「成程。では桃香様、清宮様。折角ですから曹操殿に説明してさしあげましょうか。」

「あ、ああ。」

「う、うん……。」

 

 結局、涼と桃香は最後迄雪里の勢いに押されたままだった。

 その後、焼死体の臭いが残る場で話し続けるのはどうかという事もあって、全員天幕に戻る事になった。

 今は天幕への道すがら、各員馬に乗って移動している。

 

「……それで、それからどうなったのかしら?」

「えっと、確か……。」

 

 先頭を行く涼と桃香に挟まれて進む曹操が、右隣を進む桃香に尋ねる。

 それを受けた桃香は、昨日の会話を思い出しながら説明していった。

 

『黄巾党の数は私達より多いから、まともに攻めるよりは奇襲が一番成功すると思うの。それも夜遅くにね。』

『成程。ですが、それだけでは少し弱いですね。』

 

 桃香の案に雪里は頷きながら、後一押しを催促した。

 

『うん。だから、千人くらいの兵隊さん達に、十把を一つにした松明を持たせて、その人達を先頭にして進軍するの。』

『ふむ……松明の火でこちらが大軍だと錯覚させる訳ですね?』

『そう。深夜なら判断力は鈍るだろうし、誰か一人でも誤認して騒いだら一気に大混乱になるかなあって。』

『恐らく……いえ、間違いなく大混乱に陥るでしょう。相手は只の賊の集まりでしかありませんから、一度混乱すれば収拾はつかないでしょうね。』

『良かったあ……。名付けて“夜叉行進の計”という策なんだけど、どうかな?』

 

 そこ迄が、桃香が考えた策だった。

 

「ふむ……訓練を受けている部隊には通用しないでしょうけど、黄巾党相手ならそれで充分でしょうね。」

「あはは……手厳しいね。」

 

 曹操の評価に桃香は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

「フフ……それで、次は貴方の番という訳ね。」

 

 曹操は桃香のそんな表情を、微笑みながら見てから涼に向き直り、話の続きを促した。

 

「そうだな。確か……。」

 

 そう言って涼は話し始めた。

 

『黄巾党が陣を張っている辺りには、長い草が深く覆い茂っている。これを利用するのが一番だ。』

『ふむ……では、具体的にはどの様にするのですか?』

『単純にあの草を燃やせば良いよ。草は枯れてはいないけど、この辺りは最近晴天に恵まれて乾燥している様だし、一ヶ所でも火が付けば一気に火が回るだろう。何なら、油が入った瓶を投げ込むのも良いかもな。』

 

 涼の説明を聞いた雪里は暫くの間考えた。

 

『火矢を使って草を燃やし、火の勢いが足りなければ油瓶を投げ込む。成程、悪くないですね。』

『その口振りからすると、未だ足した方が良いかな?』

『ええ、未だ足す余地は有りますよ。』

 

 笑みを浮かべながら答える雪里と、それを受けて考え込む涼。

 だが、考える時間は一分にも満たない程短かった。

 

『なら、桃香の策を実行する前に敵陣の両翼に部隊を展開しておこう。』

『具体的には?』

『右翼には愛紗を、左翼には鈴々と雪里を配置して、火計から逃れ陣地から出て来た黄巾党を討ってもらう。因みに俺と桃香は、松明隊とその後方に配置する部隊の指揮かな。』

『私を鈴々殿と同じ部隊に配置する理由は?』

『左右に展開する部隊は、敵に気取られない様に静かに速く移動しないといけない。愛紗は安心して任せられるけど、鈴々はあの性格上ちょっと心許ないし。』

『つまり私は、鈴々殿のお守りをすれば良いのですね?』

『まあ、そんな所。』

 

 涼は苦笑しながら頷いた。

 説明を聞き終えた雪里は暫く考え、やがて満足した様な笑みを浮かべて口を開く。

 

『流石です、清宮殿。先程の桃香様の策と合わせれば、私が考えていた策と全く同じになります。』

 

 それが、昨日あの場所で話した内容だった。

 

「……って感じで策を考えて、陣地に戻ってからは攻撃部隊を弓兵中心にするとか、詳細を詰めていったんだ。」

「成程……ね。」

 

 涼の説明を聞き終えた曹操は、暫く考えてから後方に居る軍師を見る。

 但し見ていたのは荀彧ではなく、雪里だった。

 

「中々優秀ね、貴方達は。」

「有難う。」

 

 涼がそう言った所で、丁度本陣に着いた。

 それから涼達は、今後についての軍議を開いた。

 今回の奇襲で死んだ黄巾党の遺体を調べた結果、敵将らしき者は居なかったという。

 つまり、あの陣地に居た敵将は逃げ失せたという事。涼達連合軍は四方中三方に陣取っていた為、逃げた先は残りの一方である後方、つまり張宝が居る本陣に逃げたと推測出来る。

 張宝がどう出るかは解らないが、ここで逃がす訳にはいかない。

 

「私達曹軍も連合軍に参加するわ。」

 

 曹操がそう言うと、涼達は驚きながらも歓迎した。

 曹操軍が加わった事で、連合軍の数は張宝率いる黄巾党と互角以上の数になった。

 

「次で、決めよう。」

 

 涼が皆に向かってそう言うと、桃香達は勿論、董卓達や曹操達も頷き、軍議は終了した。

 決戦は、近い。




第四章「黄巾党征伐・前編」をお読みいただき、有難うございます。

今回は月と詠、華琳と桂花の原作キャラに加え、盧植といった未登場キャラも登場させました。
尚、自分は基本的に携帯から投稿しているので、携帯では表示されない環境依存文字には代用漢字を用いています。例えば荀「彧」なら、似た漢字の「或」をあてる、という具合です。御了承下さい。
展開は今回も「横山光輝三国志」を参考にしています。お陰で桃香が原作より頭良かったり(笑)
この作品は原作よりシリアス分を多めにする予定で書いているのですが、ラブコメやドタバタもちゃんと入れないといけないよなあと思い、時々入れています。上手く書けてるかは判りませんが←

うろ覚えですがパロディネタ。
「何者って……一応天の御遣いの清宮涼、それ以上でもそれ以下でも無いよ。」→「私の名はクワトロ・バジーナ、それ以上でもそれ以下でもない。」
ガンダムシリーズに登場する赤い何とかさんが四つ目の名前の時に言った台詞ですね。恋姫自体パロディネタの宝庫ですから、これからも
こうしたネタは仕込んでいく予定です。

因みにこの章の執筆時は次の章の様な展開は考えていませんでした。次はどんななのか、未読の方はごゆっくりお楽しみ下さい。
では、第五章編集終了後にお会いしましょう。


2012年11月26日更新。

その後、スマホの普及によって名前は可能な限り原作に合わせる事ができる様になりました。
2017年4月9日掲載(ハーメルン)


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第五章 黄巾党征伐・後編・1

黄巾党の首領、天公将軍・張角には二人の妹が居る。

一人は地公将軍・張宝。

一人は人公将軍・張梁。

その内の一人である張宝が、まさに今、涼達率いる連合軍の前に立ちふさがろうとしていた。

数では両者共ほぼ互角。
激闘は避けられそうに無かった。



2010年1月10日更新開始。
2010年2月15日最終更新。

2017年4月10日掲載(ハーメルン)


 翌日、出陣の準備を終えた(りょう)達連合軍は張宝(ちょうほう)率いる黄巾党(こうきんとう)の本陣が在る山へと向かった。

 昨日の夕方迄に合流した曹操(そうそう)軍は約五千。更に兵を補充した盧植(ろしょく)軍約一万も合流した為に、連合軍の総数は七万を超えている。

 

(ゆえ)ぇ、本当に総大将にならなくて良かったの?」

「うん……私は余り戦いに向いてないし、だったら清宮(きよみや)さんや曹操さんに任せた方が良いと思う……。」

「折角の名を上げる好機なのになあ……。」

 

 その先頭集団の中程で並んで進む董卓(とうたく)賈駆(かく)は、そんな会話をしていた。

 昨日の軍議で、総大将を決める事になった。

 最後に合流した盧植は早々と辞退したが、桃香(とうか)達は涼を、荀彧(じゅんいく)は曹操を、そして賈駆は董卓を推薦した。

 

徐庶(じょしょ)はボク達との約束を守れずに敵将を討てなかったんだから、ここは辞退しなさいよっ。』

『私の落ち度は清宮様の落ち度ではありません。混同されては困りますね。』

『あら、軍師の実力を見極められない指揮官なんて、無能では無いの?』

『確かに。……では、荀彧殿の実力を見極められなければ、曹操殿も同じく無能という訳ですね。』

『な……な……何ですってーっ‼』

 

 こんな感じの口喧嘩が四半刻も続いた。

 結局、仲違いを好まない董卓が辞退すると、次いで曹操も連合軍に参加したばかりと言う事で辞退し、残るは涼だけになった。

 慌てた涼は桃香に替わって貰おうとしたが、当然ながら桃香が首を縦に振る筈は無く、そのまま涼が総大将の任に就く事になった。

 

「まあ……“天の御遣い”が総大将って事で、兵の士気はかなり高まっているけどね。」

 

 賈駆は、連合軍の士気が今迄になく高まっているのを感じながら、涼が総大将になったのも悪くは無いと思っていた。

 一方、曹操と荀彧、そして盧植は董卓達より少し先を進んでいた。

 

「……華琳(かりん)様ぁ〜。」

「総大将の件ならさっき言った通りよ。」

「そんなあ……。」

 

 荀彧の言葉を曹操が切って捨てると、荀彧は悲しげな声を出した。

 曹操が総大将を辞退した事は、荀彧にとってかなりのショックだったらしく、それから何度も考え直す様に言ってきた。

 だが、一度辞退したものをやっぱりやってみたい等とは、曹操が言う筈もない。

 なので、曹操は荀彧の話が総大将の件と解ると、今みたいに直ぐ話を終わらせている。

 また、曹操が総大将を辞退したのは、連合軍に参加したばかりという理由以外にもあった。

 

(フフ……噂の“天の御遣い”の実力、見せて貰うわよ……。)

 

 曹操は涼の実力を見る為に辞退していた様だ。

 それが何を意味するかは、曹操以外誰も知らない。

 

「……という訳だから、ちゃんと涼の命令を聞くのよ。」

「そ、そんなっ! 華琳様ぁっ!」

 

 荀彧が涙を浮かべながら懇願するも、曹操はそれ以上何も言わなかった。

 

「華琳ちゃんは相変わらずね。」

 

 そう言ったのは、少し前を進んでいた妙齢の女性だった。

 

「……ちゃん付けは止めて下さいと、以前にも申した筈ですよ、翡翠(ひすい)様。」

「あら、そうだったわね。ごめんなさい、華琳ちゃん。」

「……はあ。」

 

 言った側からちゃん付けされたので、曹操は溜息しか出なかった。

 

「ふふ……。それで、曹操さんはこれからどうするのかしら?」

「どうするも何も、天の御遣いの采配通りに動くだけですよ、盧植様。」

 

 曹操は前を向いたまま、翡翠――盧植の問いに答える。

 曹操の視線の先には、部下である関羽達と共に進む天の御遣いの姿があった。

 この世界には無い生地で出来ている白い衣服に身を包み、背中に一つ、左腰に二つの剣を差している天の御遣い――清宮涼の姿が。

 

「ふふ……華琳ちゃんが力になるのなら、清宮様も心強いでしょうね。」

「……翡翠様は、涼についてどう思っているのですか?」

「あら、もしかして清宮様は華琳ちゃんの好み?」

「違いますっ! 私は只、翡翠様が天の御遣いをどう評価しているのか知りたいだけですっ!」

「あら、そうだったの。……ふふ。」

 

 曹操はからかわれていると理解しながらも、必死になって反論した。

 盧植はそんな曹操を見ながら、口元を袖で隠して笑みを浮かべる。

 

「そうね……。今は未だ経験に乏しく、護られるだけの存在。けど、少しは兵法に通じている様だし、これからの成長に期待出来る程の大きな可能性を秘めている、と、私は見ているわ。」

「……そうですか。」

 

 曹操はやはりという様な表情をして呟いた。

 盧植が自分と同じ様な評価をしているのを知って、嬉しくもあり複雑でもあった。

 

「涼は張宝を討てるでしょうか?」

「大丈夫でしょう。彼には優秀な仲間が居ますし、華琳ちゃんも居ますから。」

「あ、いえ、私が聞きたいのは……。」

 

 曹操は一度口を閉じ、暫く迷ってから尋ね直した。

 

「涼が、その手で張宝を殺せるか、という事です。」

 

 曹操達がそんな話をしている頃、先頭を行く涼と桃香は一言も口にせずに進んでいた。

 

「……清宮殿、気持ちは解りますが、もう少し落ち着かれては如何ですか?」

「そ、そんな事言ったって……。」

 

 そう言った涼の声は少し震えていた。

 馬上の涼は姿勢正しく座っており、真っ直ぐ前方を見つめている。

 一見とても落ち着いている様だが、実際はそうではなかった。

 

「俺なんかが董卓達を差し置いて総大将になるなんて、やっぱり無理だよ。」

 

 その声はとても弱々しく、とても総大将の言葉とは思えない。

 それでいて体はガチガチで、緊張しまくっている。

 

「そ、そんな事無いよ。涼兄さんならちゃんと出来るからっ。」

 

 その緊張が隣を行く桃香にも移ったのだろうか、何故か桃香の口調も若干震えている。

 

「やれやれ……。」

 

 そんな二人を見ながら、雪里(しぇり)は小さく嘆息していた。



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第五章 黄巾党征伐・後編・2

 それから数刻後、連合軍は山の麓に到着した。

 ここからは山を登る事になる為、連合軍は小休止をとる事にした。

 長い行軍から解放された兵士達は、思い思いの休息を取り始める。

 勿論、涼達は只休んでいる訳にはいかない。

 小休止の時間を使って、張宝戦の軍議を開いた。

 台の上に山の地図を開き、それを囲み見る様に涼達は立っている。

 

「この山には何万もの人間が通れる大きな道はここしか無く、ここを押さえておけば黄巾党を逃がす事は無いでしょう。」

「勿論、バラバラに動くなら逃げ道は幾つか有りますが。」

 

 荀彧と雪里が、張宝が陣取っているこの山について説明をする。

 

「なら、ここを死守しつつ張宝を討つという方針で行けば良いと思うけど……涼はどう思う?」

「りょ、涼っ!?」

 

 曹操が涼に尋ねると、突然桃香が驚きの声を上げた。

 曹操は桃香が驚いた理由に心当たりが有るのか、口元を緩ませて桃香を見つめる。

 

「どうしたの、劉備(りゅうび)?」

「な、何で曹操さんが涼兄さんを呼び捨てにしてるんです!?」

「涼だって私を“曹操”と呼び捨てにしているわよ。なら、私が涼を呼び捨てにしても構わないでしょ?」

「そ、それは……兄さ〜んっ!?」

 

 言い返せなくて困った桃香は涼に助けを求める。

 

「まあ、別に良いんじゃないか?」

「兄さ〜んっ。」

 

 涼は特に気にしていないのか平然と答え、桃香を尚更困らせただけだった。

 また、荀彧も似た様な理由で涼を睨んでいるのだが、涼は敢えてスルーしている。

 

「まあ、それは良いとして」

 

 数名は「良くない!」という表情をしたが、やはりスルーした。

 

「俺達はこれから山を登る訳だけど、山を登りながら攻めるのは難しいんじゃないか?」

「その通りです。」

 

 涼が疑問を投げ掛けると、雪里が肯定しながら簡単に説明を始めた。

 

「攻城戦において守る側が有利な様に、山攻めもまた上に居る側が有利です。」

「岩や大木を落としたり、矢を降らせたり出来るからな。」

「はい。」

 

 涼の言葉を雪里は再び肯定する。

 

「それに、今回はもう一つ懸案事項が有るわ。」

 

 そこに、賈駆が神妙な面持ちで口を開いた。

 自然と皆が賈駆に注目する。

 

「懸案事項って?」

「張宝の妖術よ。」

「ようじゅつ?」

 

 現実離れした単語に思わず聞き返す涼。

 まあ、そんな事を言ったらこの世界や桃香達の存在もかなり現実離れしているのだが。

 

「張宝は妖術を使うのか?」

「らしいわよ。以前、朱儁(しゅしゅん)将軍がこの先の“鉄門峡(てつもんきょう)”を攻めた時、張宝の妖術で散々な目にあったらしいから。」

「妖術ねえ……この世界って、妖術を使う人は多いのか?」

「多くは無いでしょうね。現に私も桂花(けいふぁ)も妖術を使えないしね。」

 

 涼の問い掛けに曹操が答えると、董卓達も同様に答えていった。

 

「なら、その妖術が本物か判らないんじゃないか?」

「確かにそうだけど、妖術の被害にあったって言われているのも本当だから、厄介なのよ。」

「厄介って?」

 

 涼が尋ねると、賈駆の代わりに荀彧が答えた。

 

「妖術という常人には抗い難い現象で部隊が被害を受けてると言われているのよ。そんな事を知ったら、幾ら兵士とはいえ普通は恐れて近付きたくないと思うでしょ。」

「ああ、成程な。」

 

 未知の現象に対する畏怖はどんな時代の人間も持っている。特に、この世界の人間はそういった事により敏感に反応するだろう。

 

「恐怖を取り除く事が出来ればその問題は解決するけど……。」

「そう簡単にはいかないでしょうね。」

「だよなあ……。」

 

 涼がそう呟くと、即座に曹操が否定の言葉を返したので涼は軽くうなだれた。

 考えながら涼は鉄門峡の方向に目を向ける。

 両崖はとても硬そうな岩で出来ていて、その傾斜はとても急だ。

 空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だ。

 それ以上に何か出て来そうな感じもする。その所為だろうか、妖術が現実味を帯びていた。

 

「因みに、張宝がどんな妖術を使ったのかは判る?」

 

 涼が尋ねると、賈駆は即座に答えた。

 

「話によると、物凄い逆風が吹いて前に進む事が出来なくなって、その後に矢や岩が色んな所から飛んで来たらしいわよ。」

「成程……。」

 

 話を聞いた涼は考え込んだ。

 賈駆の話は三国志演義でもあった話だから、対応策が無い訳では無い。

 只、今の状況は涼が良く知る三国志演義と似て非なるもの。果たして同じ様にしても良いのだろうか。

 そうして散々考えた結果、先ずは軍師達に尋ねる事にした。

 幸い、今この場には徐庶、賈駆、荀彧といった、三国志でも有数の名軍師達が居るのだ。頼らない手はない。

 

「取り敢えず、軍師達の意見を聞いてみたいんだけど、何か考えは有る?」

 

 涼がそう尋ねると、軍師達は既に考えていたらしく順々に答えていった。

 

「妖術の真偽が判らない以上、只この場に留まるだけでは意味が有りません。有る程度は危険を承知で前に進む事も必要かと。」

「ボクとしては、妖術云々は兎も角、何らかの罠が仕掛けられている危険性が高い以上、全軍をもって進むのは反対ね。物見を放って様子を見るのが先決だと思うけど。」

 

 雪里と賈駆はそれぞれ異なる見解を示した。

 涼は雪里の考えに若干の違和感を感じたが、今は全員の意見を聞くべきと判断し、気にしない事にした。

 

「荀彧は何か無いの?」

 

 三人の軍師の中で、未だ考えを言っていない荀彧に尋ねる。

 

「何でアンタなんかの為に献策しなくちゃいけないのよ。」

「何でって……一応、俺はこの連合軍の総大将だし。」

 

 喧嘩腰になって睨む荀彧に対し、涼は平然と答える。それが気に食わなかったのか、荀彧は尚更強く睨んだ。

 そんな風に荀彧が睨んでいると、今度は愛紗(あいしゃ)鈴々(りんりん)が荀彧を睨み始めた。

 桃香と董卓はオロオロしだし、賈駆は頭を押さえて溜息を吐き、盧植はそんな彼女達を静かに見守っている。

 

「桂花。」

「……解りましたぁ。」

 

 場の空気を読んだのか、曹操が静かかつ強い口調で荀彧を諭す。

 曹操に睨まれた荀彧は、肩を落としながら渋々涼に考えを述べ始めた。

 

「戦いにおいて、情報は必要不可欠。先程賈駆殿も仰られた様に、先ずは物見を放って敵の様子を探り、それから行動に移した方が被害も少なくて宜しいかと。」

「つまり、進軍が一人、様子見が二人か。」

 

 結局、涼は賈駆と荀彧の提案を採用した。

 物見を放って二刻後、無事物見が帰ってきた。

 大軍が通れる道は一つしか無いが、一人二人が通れる道は他にも在る。また、道無き道も、物見なら通る事は不可能ではなかったのだ。

 

「物見の報告によると、鉄門峡には落石の罠や弓兵隊が配置されている様です。」

「また、その先には張宝らしき女性の指揮官が居たとの報告も有ったわ。」

「そっか……。」

 

 再び軍議が開かれ、雪里と賈駆が物見から受けた情報を皆に報告する。

 敵の罠の確認が出来たのは良いが、張宝らしき人物がその先に居る事も判明した為、これからの行動が難しくなった。

 

「敵の罠を凌いで張宝を討つ……って、言うのは簡単だけど、実際はそう簡単にはいかないよなあ。」

「でしょうね。こちらの数が圧倒的なら力押しも不可能では無いけど、現在の戦力差はほぼ互角……。」

「この状況で戦えば、例え勝てても甚大な被害は免れないでしょうね。」

 

 涼の言葉に、曹操と盧植がそれぞれの考えを述べる。

 現状では、被害を覚悟して前進するのは下策でしかないが、このままでは進展は無い。

 

「どこかに道が在れば、この問題は解決するんだけどな……。」

 

 涼は溜息をつきながらそう呟いた。

 

「道が無いなら造れば良いのだっ。」

 

 そんな時、鈴々の元気な声が涼達の耳に届いた。

 一同が鈴々に注目する中、涼が尋ねる。

 

「道を造るって、具体的にはどうするんだ?」

「そんなの簡単なのだ。あそこを登れば良いのだっ。」

 

 元気にそう言いながら鈴々が指差したのは、右後方に聳える断崖絶壁だった。

 

「まさかあの崖を登ると言うの?」

 

 荀彧が驚きながら尋ねると、鈴々は笑顔で肯定した。

 驚いたのは荀彧だけではない。曹操も盧植も董卓も、その場に居る殆どの者が驚いていた。

 

「これだから義勇軍の武将は……。いい? あんな崖を何万人もの兵が登れるのなら苦労はしないし、もし登れるのなら張宝だってあそこに兵を配置して守っているわ。けどあの崖を登るのは不可能だし、それが解っているから張宝も兵を配置していないのよ。」

「けど、登れそうな所から登っても意味が無いのだ。だからもし、鈴々達があの崖を登って攻めたら、きっと黄巾党は慌てると思うのだ。」

 

 荀彧の反論にたじろぎもせず、鈴々は逆に反論していく。

 その言葉には説得力が有ったのか、荀彧も多少慌てるが、負けずに崖を登る危険性の高さと成功率の低さを論じていった。

 そんな論戦が暫く続いていると、おもむろに涼が口を開いた。

 

「……確かに無理かもな。」

 

 その言葉で鈴々の表情は曇り、荀彧は複雑な笑みを浮かべる。

 納得がいかないのか、鈴々は涼の(もと)に駆け寄った。

 

「お兄ちゃんもあの崖を登るのは無理だって思うの?」

 

 さっき迄の元気が嘘の様に、鈴々の声は弱々しかった。

 涼は鈴々を真っ直ぐ見ながら言った。

 

「ああ。……全員はな。」

 

 その言葉に鈴々は勿論、曹操達も疑問符を浮かべた表情になった。

 

「どういう事? ……まさか!?」

 

 荀彧は涼に尋ね、そして理解した。

 

「アンタまさか、少人数なら可能だとか言うんじゃないでしょうね!?」

「残念ながら、そのまさかだよ。」

 

 荀彧にそう答えると、涼は皆を見回してから言葉を紡いだ。

 

「全員が崖を登る事は出来なくても、少人数……少なくとも五百人が登れたら、奇襲は成功する筈だ。」

「馬鹿言わないでっ! あんな断崖絶壁、幾ら少人数で良いといっても不可能よ! こんな危険な事に華琳様の兵を使わせられないわ‼」

「解ってる。だからこの策は義勇軍の兵だけでやるよ。その間、曹操達にはここで敵の注意を引きつけておいてほしいんだ。」

 

 涼は、あくまで反対する荀彧に冷静に対応し、曹操達に指示を出していく。

 尚も反対しようとする荀彧だったが、そこに涼が言葉を繋いで遮った。

 

「それに、俺の世界じゃ、ああいった崖を登るスポーツがある。」

「すぽーつ?」

「えっと……運動競技って言えば良いかな? まあ兎に角、遊びで登る人も居るって事。それも、あれより大きな崖をね。」

 

 その言葉に全員驚き戸惑ったが、同時に、策が成功するのではという思いも出始めていた。

 

「……解ったわ。なら、詳細を詰めていきましょう。」

「か、華琳様っ!?」

 

 曹操もその一人だったらしく、その表情は自信に満ち溢れている。

 勿論、荀彧は慌てて曹操に考え直す様に言ったが、結局曹操が考えを変える事は無かった。

 その後、盧植や董卓も涼の考えに賛同したので、崖を登る人員は直ぐに決まった。

 大半は涼達義勇兵で占められたが、曹操軍、董卓軍、盧植軍からも数名から数十名が選ばれた。

 義勇兵が中心という事もあって、奇襲部隊の指揮官には愛紗、鈴々に決まった。

 そこで終わりかと思われたが、二人の言葉で軍議は更に長引く事になる。

 

「言い忘れたけど、俺も行くよ。」

「も、勿論私もっ。」

 

 二人がそう言った瞬間、その場に居る全員が驚いたが、その中でも愛紗と鈴々が特に驚いていた。

 

「二人共、本気なのですか!?」

「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、無理しちゃダメなのだっ。」

 

 そんな風に慌てる二人だが、当の二人――涼と桃香は実にあっけらかんとしている。

 

「本気だよ。俺は鈴々の提案に乗ったんだし、最終的には俺が決めたんだ。なら、俺も行かないとダメだろ?」

「私も、涼兄さんと同じ義勇軍の指揮官だから一緒に行くよ。」

 

 二人の決意は固いらしく、その瞳には迷いが無い。

 それに気付いた愛紗と鈴々、そして曹操達は引き留めるのを止めた。

 すると、涼はそんな彼女達の前に出る。

 

「董卓と曹操、そして盧植さんにはここに残って本隊の指揮をお願いします。」

「解りました。」

「解ったわ。」

「お任せ下さい。」

 

 そう言って董卓達に本隊を任せると、義勇軍の中核で唯一ここに残る彼女に向き直った。

 

「雪里、君にはここで皆の補佐を頼みたい。」

「解りました。……皆さん、お気をつけ下さい。」

「ああ。」

 

 最後に雪里にそう指示すると、涼は桃香達と共に奇襲部隊へと向かった。

 鉄門峡の戦いは、こうして始まった。



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第五章 黄巾党征伐・後編・3

 崖を登る部隊は、総勢五百余名。

 当然だが、その殆どが身のこなしが軽い者ばかりだ。

 とは言え、それだけで全員が断崖絶壁を登れるとは限らない。

 そこで涼は、この中で特に崖登りに自信がある者を数名選ぶと、彼等に太く長い縄を渡して登ってもらった。

 断崖絶壁とはいえ、幸いその角度は九十度を超えておらず、またでっぱりも沢山在るので登れなくはない。それでも普通は登ろうと思わないくらいの急な崖ではあるが。

 所々に在る大きなでっぱりで休息しながら、彼等は無事崖を登りきった。

 次に彼等は、渡された縄を繋いで更に長くし、一端を近くの大木に巻き付けてからその縄を下に降ろす。

 繋げた縄は地面に着いても余る程長く、籠を繋げても余裕だった。

 籠には新たな縄を複数入れ、登頂に居る彼等はその籠を引き上げた。

 引き上げた籠の中の縄は繋いで別の大木に巻き、最初の縄や籠と共に下に降ろす。

 その縄にも籠が繋げられ、やはり複数の縄が入れられた。

 そうして引き上げたり降ろしたりを繰り返した結果、現在の崖には幾つもの縄が垂れ下がっている。

 そして今は、剣や槍を束ねてその縄に巻き、登頂に引き上げる作業に移っていた。

 また、引き上げたのは武器だけでなく、松明や太鼓、銅鑼といった物も有った。

 そうして一通りの物資を引き上げ終わると、いよいよ次は奇襲部隊そのものの番である。

 彼等は垂れ下がった縄の先を輪にし、その中に入ってから縄を掴み、登り始めた。

 縄の両端がしっかりと巻かれていれば、登る際に解けて落ちる事も無い。

 奇襲部隊はこうやって次々と断崖絶壁を登りきり、残すは涼、桃香、愛紗、鈴々だけになった。

 

「……ゴクッ。」

 

 桃香はこれから登る崖を見上げ、その高さに思わず唾を飲み込む。

 

「大丈夫か?」

「だ、大丈夫だよっ。」

 

 心配する涼を不安がらせない様に笑顔を見せながら、桃香は縄を掴んだ。

 縄の輪に体を通し、縄を引っ張りながら足を崖に着ける。

 崖を歩くかの様に、かつ慎重に足を動かし、少しずつ登っていく。

 

「ほらっ……涼兄さんも早く早くっ。」

「ああ。」

 

 桃香に促され、涼も同じ様に縄に手を伸ばす。

 よく見れば、愛紗と鈴々も既に登り始めていた。

 そうして慎重に、でも出来るだけ速く登り続け、全員が無事に崖を登りきった。

 

「……大丈夫か?」

「わ……私は平気……。」

 

 桃香は息を切らせながら答えた。

 勿論、息を切らしているのは桃香だけではない。

 桃香の隣に座っている涼もそれなりに息が乱れているし、愛紗や鈴々も同じだった。

 

(やれば出来るもんだな……ロッククライミングやフリークライミングの知識は有っても、やった事は無かったのに……。)

 

 涼がそう思うと、何故だか手足が震えているのに気付いた。

 今更ながらに恐怖を感じているのかも知れない。

 

(かなり無茶したな……けど、これで奇襲が出来る筈だ。)

 

 涼は震える手足を気力で抑え、しっかりと立ち上がった。

 崖下からは、連合軍が鳴らす銅鑼や太鼓の音が鳴り響いてくる。

 黄巾党が奇襲に気付かない様に、本隊が注意を引きつけているのだ。

 

「董卓達も上手くやってる様だし、俺達も早く支度をしよう。」

 

 呼吸を整えながら、奇襲部隊に指示を出す。

 それを受けて各員は武器を手にし、銅鑼や太鼓を持つ。

 

「よし、それじゃ……。」

「あ、涼兄さん、ちょっと待ってくれる?」

 

 出撃の号令を出そうとした涼だったが、そこに桃香が割って入った。

 

「どうした?」

「戦う前に、ちょっとね。愛紗ちゃん、小さい火を焚いてくれる?」

「火、ですか? それは構いませんが……。」

「折角回り込めるのに、何をするのだ?」

「まあ、見ててよ。」

 

 鈴々の疑問に桃香は曖昧に答え、愛紗は枯れ木や落ち葉を集めて火を点ける。

 やがて小さな焚き火が燃え始めると、桃香はその前に立って靖王伝家(せいおうでんか)をゆっくりと鞘から抜いた。

 愛紗や鈴々、そして奇襲部隊の面々は桃香が何をするのか判らないまま、その様子を後ろから見ている。だが只一人、涼だけは桃香の行動に心当たりがあった。

 そんな涼も静かに桃香を見守る。

 桃香は靖王伝家を両手で持ち、目の前で真っ直ぐに立てる。

 それからゆっくりと目を閉じ、何かを呟き始めた。その声は小さくてよく聞き取れないので、何と言っているかは解らない。

 暫くしてその呟きが終わると、閉じていた目を開いて靖王伝家を左上から右下、右上から左下へと振り、再び目の前に立てると浅く御辞儀をし、やはりゆっくりと鞘に収めた。

 一連の動作が終わると桃香は小さく息を吐き、奇襲部隊の面々に向き直った。

 

「皆、今のはちゃんと見ていた?」

 

 桃香の問いに全員が頷いて答える。

 それを確認した桃香は微笑みながら言った。

 

「今のは破邪の祈祷。私の御先祖様、中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)より伝わる由緒正しい祈祷だよ♪」

(破邪の祈祷? ……成程。)

 

 愛紗は桃香の意図に気付いた様だが、敢えて何も言わずに桃香を見守る。

 一方、鈴々は未だよく解っていないらしく、首を傾げていた。

 

「この祈祷で、張宝さんの妖術は効力を失いました。もう、皆が怯える事はありません。」

 

 桃香がそう言うと、それ迄どこか暗かった兵達の表情が明らかに明るくなっていった。

 元々、張宝の妖術を避ける為に集められた奇襲部隊だが、彼等もやはり人間。恐怖が無いと言えば嘘になった。

 

「皆、空を見て。下に居た時に見た空は曇っていたのに、今はこうして青空が見えている。これが、張宝さんの妖術の効力が無くなった何よりの証ですっ。」

 

 笑みを浮かべながら高々と空に向かって指差す桃香の姿は、そんな彼等を勇気付けるのに充分だった。

 今の兵士達には、恐怖という感情は微塵も見られない。

 

(三国志演義でも、劉備が破邪の祈祷を行って兵の不安を取り除いている。女の子になっていても、桃香はやっぱり劉備玄徳なんだな。)

 

 涼は桃香達を見ながらそう思う。

 

「それじゃあ、今度こそ行こうか。」

「うん!」

 

 そして、程良く場が温まった所で改めて号令し、皆と共に進み出した。

 涼達が張宝の本陣に向かっていた時、その反対側の森の中では別の一団が動いていた。

 短い髪の少女が木々の間を縫う様に走る。

 その先の茂みには、四人の少女が身を屈めて辺りを窺っていた。

 その中の一人、眼鏡の少女が走ってきた少女に小さく声をかける。

 

「黄巾党の様子はどうでした?」

「官軍と対峙したままだな。」

「つまり、官軍は未だ動いておらぬのか?」

 

 走ってきた少女が答えると、今度は白い衣服の少女が尋ねた。

 

「攻め倦ねてるって感じじゃないけど、未だ攻撃していないな。」

「成程ね……ねえ、貴女はどう思う?」

 

 走ってきた少女の報告を聞いていた長い黒髪の少女は暫く考え込み、次いで左隣に居る長い金髪の少女に尋ねる。

 

「すぴー……。」

 

 だがその長い金髪の少女は寝息をたてて眠りこけていた。

 

「寝るんじゃないっ!」

「……おおっ!?」

 

 それを見た長い黒髪の少女は、思わず左手で長い金髪の少女の後頭部を軽く叩く。

 

「いや〜、(りん)ちゃんと違って結構痛いですね〜。」

「今ので痛いのなら、誰が叩いても痛いわよ。」

 

 長い金髪の少女は頭をさすりながら、ヒラヒラと手を振る長い黒髪の少女をジッと見ていた。

 

「そんな事はどうでも良いから、(しずく)(ふう)、稟。これからどうするか決めてくれ。」

 

 走ってきた少女は長い黒髪の少女、長い金髪の少女、そして眼鏡の少女をそれぞれ雫、風、稟と呼びながら尋ねた。

 

「そう言われてもねー。時雨(しぐれ)ちゃんだって、どうしたら良いかは解っているんでしょ?」

「解ってはいるが、軍師であるお前達なら何か策を考えられるかと思ってな。」

 

 雫は走ってきた少女を時雨ちゃんと呼んだ。ちゃん付けした所を見ると、二人はかなり仲が良いらしい。

 そんな中、その時雨を見ながら軍師組の二人が口を開いた。

 

「……時雨さんは軍師を何か勘違いしているのでは……。」

「軍師にだって、出来る事と出来ない事が有るのですよ〜。」

 

 二人は呆れながらそれぞれそう言った。

 軍師組の残る一人である雫も、深く溜息を吐いてから意見を述べる。

 

「ここは、黄巾党が官軍の攻撃を受けて混乱する迄待つべきよ。」

「何だ、雁首揃って俺とそんなに変わらない考えなのか。」

「そう言うな時雨。こちらは五人しか居ないのだ、仕方あるまい。」

 

 雫の提案に時雨は落胆するが、すかさず白い衣服の少女が窘める。

 

「お前は何とも思わないのか、(せい)?」

 

 時雨は白い衣服の少女を星と呼んだ。

 すると、星と呼ばれたその少女は時雨に向き直り、不敵な笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。

 

「……大軍相手に一人で立ち向かうというのも、確かに悪くない。」

「だろ? なら……。」

「だが、こんな所で命を散らす訳にはいかぬ。我々には、それぞれやるべき事が有るのだからな。」

「くっ……!」

 

 未だ何か言いたかった時雨だが、星の言葉も理解出来る為、結局二の句が継げなかった。

 時雨は無意識に手のひらを堅く閉じ、力を入れた。力を入れ過ぎて、手の甲の血管が浮き出た程だ。

 

「時雨ちゃん、私達がここに来た目的は忘れていないよね?」

 

 そんな時雨を案じる雫が、時雨の右手を両手で包みながら尋ねる。

 突然の事に戸惑いながら、時雨は呟く様に言った。

 

「世を乱す黄巾党を倒す事と、劉玄徳……桃香の力になる事だ。」

「うん。なら、桃香ちゃんの為にも今は様子を見ようよ。ね?」

「……解った。まったく、雫には適わないな。」

 

 苦笑しながら雫の頭を乱暴に撫で、時雨は風の左隣に腰を下ろした。

 暫しの休息に入る時雨達。だが、彼女達が再び動き出す迄、そう時間はかからなかった。

 涼達や時雨達が動く少し前、鉄門峡の前では連合軍が先に動きを見せていた。

 

「良い? 銅鑼と太鼓は思いっきり鳴らすのよ!」

「最前線の部隊は、私の合図と共に前進し、敵の動きに合わせて後退を。決して前に出過ぎないで下さい。」

 

 賈駆と雪里はそれぞれ馬上で前線の兵に指示を出し、同時に辺りに注意を払った。

 

「……敵の動きが無いわね。」

「そうね……私達が此処に攻めてきたのは判ってる筈だし、あちらも様子見という事かしら。」

 

 二人の少し後方では、馬に乗った曹操と盧植が並んでその様子を見ていた。

 そこに、曹操の命令を後方部隊に伝えに行っていた荀彧が戻り、話に参加する。

 

「この場に居るのは黄巾党の主力部隊。幾ら賊でも用心深くなっているという事でしょうか。」

「恐らくね。」

 

 荀彧もやはり馬に乗っていたが、曹操の近くに来ると即座に下馬し、身を屈める。

 どうやら、主従関係をハッキリさせている様だ。

 

「曹操さん。」

「どうしたの、董卓?」

 

 次に曹操に声をかけたのは董卓だった。

 初めは曹操達と共に前線の指揮をしていた董卓だが、奇襲部隊が気になっていたらしく、途中で指揮を賈駆に任せて後方に下がっていた。

 因みに、勿論董卓も馬に乗っている。

 董卓は盧植の隣で馬を止め、そのまま言葉を紡いだ。

 

「つい先程、清宮さんの部隊が全員崖を登りきりました。」

「本当に? ……やるわね。」

「ふふ。流石は天の御遣いさんといった所かしらね。」

「只の偶然ではないですか?」

 

 董卓の報告を受け、三者三様に感想を口にする曹操達。

 

「それじゃあ、そろそろかしらね。」

「だと思います。」

「なら、一度部隊を纏めましょうか。華琳ちゃんはどう思う?」

「私も同意見です、翡翠様。」

 

 盧植と曹操の意見は直ぐに一致した。

 

「良かった。なら、戻ってきたばかりで悪いけど、桂花ちゃんは前線の徐庶ちゃん達にこの事を伝えてきてくれるかしら?」

「了解しました。」

 

 盧植の命を受け、荀彧は再び騎乗し前線へと進む。

 それから暫くして、雪里と賈駆は部隊を纏めて後退してきた。

 

「あとは、涼達の働き次第ね。」

「清宮さん達なら、きっとやってくれますよ。」

 

 曹操と董卓は、共に崖の上を見ながらそう言った。

 奇襲部隊が上手く事を運べば、直ぐに戦いが始まる。

 そして、敵将張宝を討てば、黄巾党は弱体化する。

 その為の時を曹操達は待っていた。



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第五章 黄巾党征伐・後編・4

 そんな連合軍を前にして、黄巾党は動けずにいた。

 山の上に陣取り、数も互角。普通に戦えば負ける事は先ず無い。

 だが、それは調練された兵を擁する軍同士の戦いなればこそ。

 きちんとした調練を受けず、只闇雲に人を殺してきた賊である黄巾党の人間には、そんな技術も度胸も無かった。

 数日前なら、数に任せた戦いが出来ていた。

 だが、この数日で何万もの仲間がやられた結果、数的有利の状況は瞬く間に消えて無くなり、今迄通りにはいかなくなった。

 山に陣取り、罠を仕掛けていても有利な気には全くなれず、更にはその罠すら連合軍には通じていない。

 それどころか、いつ総攻撃を仕掛けられるかとビクビクしているくらいだ。

 

「状況はどうなってるの!?」

 

 そんな黄巾党の本陣に、フードが付いた黄色い羽織りを纏った少女の声が響く。

 少女は苛立ちを隠さずに、目の前に並ぶ黄巾党の男達を睨んでいた。

 

「官軍はこちらの罠を警戒しているのか、依然として鉄門峡の手前に陣取ったままです。」

 

 一人の男がそう答えると、少女は苛立ったまま尚も尋ねる。

 

「弓矢は撃てないの?」

「残念ながら、射程範囲外です。」

 

 男は申し訳なさそうに答えた。

 

「……援軍は来そう?」

張角(ちょうかく)様、張梁(ちょうりょう)様共に官軍と交戦中らしく、恐らく援軍は見込めないかと……。」

「そう……。」

 

 男の言葉を聞いた少女は男達に背を向け、思案を巡らせる。

 

(官軍なんて以前は簡単に倒せたのに……このままじゃ、ヤバいじゃない……っ。)

 

 好転どころか悪化しつつある状況に、張宝は焦りを感じていた。

 そんな時、少女達が居る本陣の後方から人の叫び声や騒音が聞こえてきた。

 

「一体何の騒ぎ!?」

 

 騒ぎがする方に向かって声をあげると、その方向から一人の男がフラフラになりながら走ってきた。

 男は少女の近く迄来ると倒れ込む様にひれ伏し、報告を始める。

 その背中には、無数の矢が刺さっていた。

 

「た、大変です……こ、後方から攻撃を……っ!」

「何ですって!?」

 

 報告を聞いた少女及び周囲の者達は驚き、言葉を失った。

 

「……後方には崖しか無い。なら、裏切り者が出たと言う事か!?」

「お、恐らく……。」

 

 暫くして少女の側に居る男が報告してきた男に尋ね、報告してきた男はそれを肯定した。

 

「こんな時に裏切りなんて……。」

 

 少女は苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべ、後方に目をやった。

 

「……裏切り者の数は解る?」

 

 後方に目をやったまま、少女は尋ねる。

 

「ハッキリとした数は判りません……。只、自分が攻撃を受けた際は……少なくとも五百は居ました……。今はもっと増えている可能性もあります……。」

 

 男は苦しみ、言葉を途切らせながらも何とか答えきった。

 そんな男に温かな笑みを向けながら、少女は言った。

 

「……報告を有難う。休んで良いわよ。」

「は……はい……っ。」

 

 男はそう答えて目を閉じた。

 二度と覚めない深い眠りに落ちたのだ。

 少女達は男に感謝の意を示した後、近くに居た兵を呼んで男を運ばせた。

 運ばれていく男を見ながら、少女達は話し始めた。

 

「……どうします?」

「……裏切り者を説き伏せるわ。私が行けば反乱は収まる筈だし。」

「しかし、危険です!」

「そんなの解ってるわ。でもね、アンタ達は私が誰だか忘れてない?」

 

 少女は笑みを浮かべながら男達に尋ねた。

 

「私は……ちぃは皆の妹、地和(ちいほう)ちゃんよ。ちぃが話して言う事をきかない黄巾党員は居ないんだからっ。」

 

 そう叫ぶと、近くに繋いでいた馬に飛び乗り、陣の後方へと向かう。

 男達は慌ててその後を追い掛けた。

 その黄巾党本陣の後方では、涼率いる奇襲部隊が黄巾党に対して攻撃を仕掛けていた。

 

「皆、後少しだよ! 頑張って‼」

「ここが正念場だ! 一瞬たりとも気を抜くな‼」

「「「「「おおーっ‼」」」」」

 

 桃香と涼の檄を受けた兵士達の咆哮が、辺りに響き渡る。

 否応無しに士気が上がる奇襲部隊に対し、黄巾党は混乱し士気が著しく低下していた。

 人が来る筈が無い断崖絶壁を背にしていた彼等は、有り得ない筈の後方からの攻撃を受けて只逃げ惑うしか出来なかった。

 そんな中誰かが、「裏切り者が出た!」と叫びだした。

 確証は何も無いが、まさか崖を登って来たとは考えない彼等はそう結論付け、いつの間にか「裏切り者」が存在している事になった。

 すると、程なくしてそこかしこで同士討ちが始まった。

 結果、黄巾党は涼達奇襲部隊だけでなく、味方である筈の者達とも戦わなくてはならなくなったのだ。

 

「御主人様。」

「どうした、愛紗?」

 

 指揮をとる涼の許にやってきたのは、「別行動」をしていた愛紗だった。

 愛紗は青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を利き手に持ちながら報告を始める。

 

「鉄門峡に配置してあった“罠の排除”、完了しました。」

「……そうか。疲れているとこ悪いけど、このまま攻撃に参加してくれるか?」

「勿論です。それに、疲れる程動いてはいませんので大丈夫です。」

 

 愛紗はそう言って青龍偃月刀を構え、前へ出る。

 

「……解った。なら、頼むよ。」

「承知しました、御主人様。」

 

 愛紗は涼に頷いてから前へと駆け出した。

 依然として混乱しつつも、涼達に気付いて攻撃を仕掛ける黄巾党も少なからず居る。

 そんな敵を、愛紗は一刀のもとに斬り捨てる。

 黄巾党が反撃してきても、剣や槍での攻撃は勿論、弓矢による攻撃をも完璧に防いだ。

 そうして防御に徹した後は、直ぐ様攻撃に転じてその数を減らした。

 相手が二人掛かりや三人掛かりでも怯む事無く、愛紗は青龍偃月刀を振って敵を確実に仕留めていった。

 始めの内はその威勢を若干取り戻していた黄巾党も、愛紗の強さにその勢いを削がれると、次々と背を向けて後ろへと駆け出した。

 勿論そんな好機を見逃す愛紗ではない。

 

「弓兵隊、構えっ!」

 

 凛とした声で味方にそう命じると、兵達は瞬時に弓に矢をつがえる。

 

「撃てーっ‼」

 

 その声と同時に放たれた矢は、次々と黄巾党の体に命中し、その命を奪っていった。

 丁度その頃、鉄門峡の前に陣取っていた連合軍に動きがあった。

 

「憂いは絶たれた! 今こそ賊共を討ち滅ぼす時‼」

「全軍、突撃っ!」

 

 曹操と盧植の号令が連合軍全体に響き渡ると、兵士達はいつも以上に気合いの入った雄叫びをあげながら駆け出し、山道を埋め尽くす程の兵士達の足音が、途切れる事無く大地を揺らしていった。

 

「先ずは、幸先が良いという所かしら。」

「そうですね。奇襲で敵を混乱させるだけでなく、罠を排除してくれるとは、意外とやります。」

 

 兵士達と共に進軍しながら、盧植と曹操はそう話した。

 そう、連合軍の懸案事項だった鉄門峡の罠は既に無い。

 この少し前に罠は、いや、罠を担当していた黄巾党は全て排除されていた。

 涼は黄巾党本陣に攻撃を仕掛ける際、奇襲部隊を二つに分けていた。

 一つは、本陣に向かう涼達が率いる本隊。もう一つは、愛紗率いる遊撃隊だ。

 遊撃隊の使命は、鉄門峡守備隊の殲滅。

 気付かれない様に近付いた愛紗達は、罠担当の黄巾党を矢で排除していき、討ち漏らした分は愛紗達が自ら得物を振るって倒していった。

 そうして罠の場所に居た黄巾党を全て倒した愛紗達は、崖下の曹操達に向かって叫んだ。

 

『落石の罠も、弓矢を撃つ黄巾党も最早居ない! 安心して進まれよ‼』

 

 だが、連合軍は張宝の妖術を恐れているのか中々進もうとしなかった。

 そこで愛紗は、青龍偃月刀を天高く掲げながらこう続けた。

 

『皆の不安の原因、それは恐らく張宝の妖術だろう。……だが、その心配は無用だ。全員、空を見よ!』

 

 愛紗の迫力に圧されたのか、兵士達は皆素直に空を見上げた。

 

『張宝の妖術は、劉玄徳が行った破邪の祈祷によって打ち消された! 先程迄曇っていた空が、今は青蒼と晴れているのがその証だ!』

 

 愛紗の言う通り、先程迄曇っていた空は、今やその大半が澄み切った青で構成されている。

 それを見た兵士達は、妖術の心配が無くなったと捉えたらしく、表情がどんどん明るくなり、士気が高まっていった。

 そこに再び、愛紗の凛とした声が響き渡る。

 

『黄巾党を倒すべく集まった勇士達よ! この機を逃さず、前へ進めっ‼ 我等には清宮殿の天の加護と、劉備殿の天分の才が有る事を忘れるなっ‼』

 

 その言葉が決定打となって、兵士達が持っていた恐怖心は完全に無くなった。

 それから曹操達の檄が入り、今に至る。その間も士気は上がり続けていた。

 士気が上がり続ける連合軍は、何の抵抗も受けないまま山道を登り続けた。

 また、黄巾党の本陣が在ると思われる方角からは、剣と剣がぶつかる音や人の叫び声が聞こえてくる。

 どうやら、今まさに奇襲が行われているらしい。なら、一刻も早く合流しなければならない。

 進軍速度は否応無く上がっていった。

 

(それにしても、涼だけでなく劉備にも戦いの才が有るとはね……。)

 

 そんな中、曹操は涼と桃香について考えていた。

 嘘か真か知らないが、天の国から来たという少年、清宮涼。

 その涼を慕い、共に義勇軍の大将を務め、漢王朝の血をひくという少女、劉備玄徳。

 二人共、見た目は強そうに見えないが、人望を集める徳を持っている。

 曹操は二人を徳だけの人間かと思っていたが、その二人がそれぞれ崖に登って奇襲を行い、不安で一杯の兵士達の士気を上げている。

 

(これは、二人の評価を改めないといけないかもね……。)

 

 兵士達を鼓舞しながら曹操はそう思う。

 これから先、共に戦う事も有れば敵対する事も有るだろう。その際に相手の力を見極めておく事は大切だ。

 そう思っていると、何故だか曹操は自然と笑みを浮かべていた。

 そうして曹操達が山道を進んでいる間、涼達は黄巾党の本陣に向かっていた。

 

「でやあああぁぁーっ‼」

 

 愛紗の青龍偃月刀が舞う度に、

 

「うりゃりゃりゃりゃーっ‼」

 

そして、鈴々の丈八蛇矛(じょうはちだぼう)が空を切る度に、黄巾党の命と勢いが次々と消え去っていった。

 そうして愛紗と鈴々が部隊を率いて戦っている間、涼と桃香もまた自らの部隊を率いて戦っていた。

 

「建物は全て火を点けるんだ! 松明や火矢を放てっ‼」

「風向きには気をつけてね!」

 

 涼と桃香の指示を受けた奇襲部隊の面々は、直ぐ様松明や火矢を辺りの建物に向かって投げ入れ、放っていく。

 木造の小屋や食料庫はたちまち燃え盛り、炎や煙が辺りを包み、そこかしこから悲鳴が聞こえてくる。

 

「……っ!」

「……気にすんな、とは言えないけど、気に病み過ぎるなよ。」

「うん……。」

 

 辛い表情の桃香に声をかける涼。

 敵とは言え、人が苦しみ死んでいく様を見るのは心苦しいのだろう。

 勿論、いつ迄もそんな事を言っていられる訳じゃ無い事は、桃香も涼も理解していた。

 そんな中、聞き慣れない少女の声が涼達の耳に届く。

 

「アンタ達、暴れるのもいい加減にしなさいよね!」

 

 声に気付いた涼達は、その方向に向き直る。

 そこには、馬に乗った少女を先頭に、十数人の黄巾党が居た。

 

「官軍の大軍を前にして臆病風に吹かれるのも解るけど、だからってこんな事したって意味無いわよ!」

 

 馬上の少女は涼達に向かってそう叫んだ。

 だが、当の涼達には彼女が何を言っているのか解らなかった。

 

「……涼兄さん、意味解る?」

「よく解らん。」

「だよねー。私も解らないし。」

 

 涼と桃香、そしてそれぞれの部隊の兵士達は少し混乱しつつも、馬上の少女の言葉の意味を考え始めた。

 考えながら、涼は馬上の少女を見た。

 瞳は紺色、髪型は水色の髪を葉っぱの様な十字形の髪飾りで左に纏めたサイドテール。

 肩やお腹を大胆に露出した白い服と袖。露出の割に胸は小さい。

 二の腕には蕾の形をした緑色の腕輪、よく見ると髪飾りの形を少し変えただけにも見える。

 胸の真ん中で分かれている胸当ても緑色で、中央には桃色の花が描かれている。

 黄色のプリーツスカートに重ねるように白い布を巻き、白と黄色で構成されたロングブーツを履いている。

 左手にはさっき迄着ていたのか黄色い羽織を抱え、右手首には蝶結びにした黄色い布を巻いていた。

 

(可愛い女の子だけど……こんな所に居るって事は、もしかしてこの娘が……?)

 

 涼は馬上の少女を観察し終えると、一歩前に出て尋ねる。

 

「君が張宝か?」

 

 尋ねられた馬上の少女は、一瞬戸惑った表情になるも、直ぐに気を取り直して答えた。

 

「当たり前でしょ。アンタ、黄巾党の一員のクセにちぃの顔を知らないワケ?」

 

 その声は少し不満げだ。

 だが、その言葉で涼や桃香は勿論、部隊の兵士達も漸く、馬上の少女−ちぃこと張宝が先程言った言葉の意味を理解した。

 張宝は、涼達を反乱を起こした黄巾党の一員だと勘違いしている。

 だからこそあんな物言いだったのか、と思いながら、涼は言葉を紡ぐ。

 

「悪いけど知らないよ。」

「……失礼な奴ね。まあ、黄巾党も沢山居るから、ちぃの顔をちゃんと見れてない人や、天和お姉ちゃんや人和の方が好きって人も居るだろうけど……。」

 

 張宝がそこ迄言った時、後ろに居た黄巾党の一人が焦りながら張宝に近付き、耳打ちした。

 

「あの……何か様子が変です。」

「変って? 確かにちぃの顔を知らないのは変だけど……。」

「……その答えは、あれかも知れません。」

 

 男はそう言って或る場所を指差す。

 その先には涼の部隊が在り、その中の一人が大きな旗を持っていた。

 その旗に書かれている文字は、「清宮」。

 

「……“清宮”? そんな名前の指揮官、ウチに居たっけ?」

「……居ません。」

 

 男がそう断言すると、張宝は漸く慌てだした。

 

「えっ!? それって一体……!? ちょっとアンタ、名を名乗りなさい‼」

 

 慌てながら怒り、涼に名前を言う様に命令する張宝。

 涼は黄巾党の一員では無いので、答える義務は無いが、一応答えた。

 

「俺の名前は清宮涼。官軍の総大将だ。」

 

 涼が冷静かつ自信満々にそう言うと、張宝を始めとした黄巾党は驚き戸惑い始めた。

 

「清宮涼って、最近ウチの各部隊を倒してきた義勇軍の指揮官の一人の名前じゃない!」

「まあ、その本人だからねえ。」

 

 慌てふためく張宝に対し、涼はあっけらかんと言った。

 その言葉で、黄巾党の動揺は更に大きくなっていった。

 

「……本人だったとして、どうやって此処に来たのよ? 鉄門峡は未だ破られていないのに……。」

「簡単だよ、そこの崖を登っただけだから。」

「な、なんですってーーっ!?」

 

 驚いた張宝の声が辺りに響く。

 また、黄巾党の動揺も計り知れない程だった。

 

「バ、バカ言わないでっ! あんな崖を登れる訳が無いじゃないっ‼」

「それが登れるんだよ。……俺は天の御遣いだからね。」

 

 動揺する張宝達を見据えながら、涼は涼しげにそう言った。

 涼の言葉を聞き、目の前の現実を見た張宝達は信じられないといった表情で涼を見て、無意識に後退りしようとする。

 それを見た涼は冷静な表情を崩さず、張宝達を見据え続けた。

 

(……このハッタリで降伏してくれると良いけど……無理かなあ。)

 

 涼は内心こんな事を思っていた。

 そう、張宝に言った「天の御遣いだから出来る」発言は、単なるハッタリに過ぎない。

 この世界の人間が、不可思議な事に特別な畏怖の感情を持っているという事を涼は知っている。

 だからこそ、このハッタリは有効だと思い、言ってみた。

 果たしてその効果は――。

 

「……君達が降伏し武装解除してくれたら、黄巾党の身の安全は保障する。」

 

 念の為、もう一言付け加えた。

 

「……本当に?」

「俺は総大将だ。それ位は出来る。」

 

 張宝は明らかに動揺しながら、涼の提案を受け入れようとしている。

 

「ちぃは……どうなるの?」

 

 続けて、少し声を震わせながらそう尋ねた。

 

「……君は黄巾党の乱の首謀者である張三姉妹の一人だ。全くの無事って訳にはいかないだろう。勿論、寛大な処置を願ってはみるけど……。」

 

 涼もまた、少し表情を曇らせながら答えた。

 こればかりは、流石に涼の一存で決める事は難しい。

 

「解った……なら……。」

 

 暫く考えていた張宝が、そう呟きながら下馬しようとする。

 だが、

 

「ダメだ、地和ちゃん!」

 

周りに居る黄巾党の一人が突然そう叫んだ。

 

「俺達は地和ちゃん達に惹かれてついて来たんだ! なのに地和ちゃんが居なくなったら、俺達が助かっても意味は無い‼」

「そうだ! 俺達は最後迄地和ちゃんを守るぞ‼」

 

 その一人の言葉から、黄巾党は堰を切った様に声を上げていく。

 そこには、涼を畏れ戸惑っていた先程迄の黄巾党の姿は微塵も無かった。

 そんな光景を見ながら、涼は一つ溜息を吐く。

 

「……交渉決裂、かな?」

「そうみたいね。……アンタ達、ちぃの敵をやっつけちゃって‼」

「「「おおおぉぉーーっ‼」」」

 

 張宝の号令に、黄巾党は雷鳴の様な声をあげて応えた。

 

「仕方ない……皆、黄巾党を倒すぞ! 但し、張宝は生け捕るんだ‼」

「「「はっ‼」」」

 

 涼もまた部隊に号令をかけ、兵士達が黄巾党と戦い始めた。



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第五章 黄巾党征伐・後編・5

 その様子を見ながら、涼はゆっくりと抜刀する。

 「雌雄一対の剣」の一振りである「蒼穹(そうきゅう)」は、もう一振りの剣「紅星(こうせい)」と同じく日本刀の形状をしている。

 この世界には当然ながら日本刀は無く、その材料も無かったが、涼が鍛冶屋の女主人に事細かに説明した結果、何とか出来上がった。

 材料が違う為、日本刀本来の切れ味は無いかも知れないが、軽くて使い易い。

 もっとも、未だ人を斬った事は無いのだが。

 

「桃香。」

「解ってる。私も覚悟はとっくにしてるから。」

 

 隣に居る桃香に声を掛け、共に構える。

 二人共、手や足が震えているのが解っていた。

 それでも、やらないといけない。いつ迄も兵士達だけに任せる訳にはいかないから。

 

「頼りない兄だけど、俺から離れるなよ。」

「はいっ。」

 

 桃香の返事を待ってから、涼は黄巾党に向かって駆け出し、桃香も離れない様に走る。

 目指すは張宝只一人。

 余計な殺生はしたくないし、戦う回数が増えればそれだけ命の危機も増える。

 戦い方を知っていても、今迄それを実践する機会が無かった二人にとって、戦う回数は少ない方が良いに決まっていた。

 幸い、兵士達と黄巾党が入り乱れている中で、張宝迄の道が拓けた。

 涼と桃香はそこを見逃さず走っていく。

 当の張宝は馬に乗ったまま黄巾党を鼓舞しており、涼達の接近に気付いていない。

 

(このまま、張宝を捕らえる!)

 

 そう思いながら、涼は張宝に向かって剣を振るった。

 怪我させない様に、ちゃんと峰打ちにして。

 だが、涼の剣は張宝に当たる事は無かった。

 

「地和ちゃんは殺らせないっ!」

「ちぃっ!」

 

 黄巾党の男が涼の前に立ちはだかり、自らの剣で涼の剣による攻撃を防いだ。

 その男はさっき張宝に向かって叫び、投降を思いとどまらせた一人だった。

 

「邪魔するなっ!」

 

 涼は一旦間合いをとって再び剣を振るう。

 だが男はそれを軽く避けていく。

 

「どうしたあ!? 天の御遣い様の太刀筋ってのは、こんな物か!? ……こんなんでこの馬元義(ば・げんぎ)様を殺れると思うなっ‼」

 

 男はそう叫びながら剣を振り回す。

 

(こいつが馬元義……。そう言えば、この世界だと未だ馬元義が居るんだな。あと、登場人物が必ず女になってる訳じゃ無いみたいだ。)

 

 涼は、馬元義の攻撃を必死にかわしながらそう思った。

 その割には意外と余裕が有る様だ。

 一度も戦った事が無い涼がこれだけ動けるのは、涼の「戦いの先生」達のお陰だろう。

 

(そう言えば、桃香はどうした!?)

 

 そんな中、涼はハッと思い出す。

 涼と共に張宝を攻撃しようとした桃香だが、今は近くに居ない。

 不安になった涼は、攻撃をかわしながら辺りを見回す。

 すると、桃香は涼の左前方約十メートル先に居り、そこで黄巾党の一人と打ち合っていた。

 

丁峰(ていほう)さん、剣を退いて下さいっ! 私達は無益な争いを望んでいません‼」

「俺達の仲間を殺しておいて、今更何を言いやがる!」

 

 桃香は宝剣「靖王伝家」を両手で構え、丁峰と呼んだ黄巾党に呼び掛けながら何度も剣を振るっている。

 桃香が黄巾党の男の名前を知っているのは、恐らく先程の馬元義と同じ様に名乗ったのだろう。

 

「桃香……っ!」

「戦いの最中に、何余所見してやがる!」

 

 思わず駆け寄ろうとする涼だが、馬元義の攻撃がその進路を阻む。

 

「くっ……!」

 

 涼は馬元義に斬りかかりながら、桃香の方に目をやる。

 今の所は何とかなっているが、元来戦いに向いていない桃香が長く保つとは思えない。

 もっとも、戦いに向いていないのは涼自身もなのだが。

 

(邪魔するなっ‼)

 

 涼は急に湧き出た怒りに任せて剣を振るうと、運良く馬元義の剣を弾き飛ばす事が出来た。

 そのまま馬元義に向かって剣を振り下ろそうとした涼だったが、何故かその手は途中で止まった。

 

(くっ……!)

 

 涼は止まった手が震えているのが解った。

 決心していた筈なのに、いざ人を斬るとなると躊躇ってしまう様だ。

 そうして動けない涼を、馬元義は見逃さなかった。

 

「おらっ‼」

「うわっ!」

 

 馬元義の左キックが涼の脇腹を狙い、涼はガードする間も無く蹴り飛ばされた。

 涼は何とか受け身をとる事が出来たが、その間に馬元義は自分の剣を取り戻し、そのまま涼に向かってきた。

 

「死ねえっ‼」

 

 涼は、マンガとかでよく聞く台詞だなと思いながら攻撃を必死に避け、立ち上がって剣を構える。

 だが、その剣は依然として震えていた。

 

(……くそっ! 震えるなよ、震えるなって‼)

 

 涼は必死に震えを止めようとするが、止まる気配は全く無かった。

 相手が恐くて震えている訳では無い。相手を斬ることに怖れて震えているのだ。

 そして、この震えを収める術が一つしか無いのを、涼は理解していた。

 だが、「それ」が出来ないから困っている訳で。

 

「おりゃああっ‼」

「くっ!」

 

 攻撃を避けながら、「それ」をしないといけないと思いつつ出来ないジレンマに苦しんでいた。

 

(早く桃香の援護に行かないといけないのに……!)

 

 焦る気持ちをつのらせながら、涼は剣を振った。

 だがその動きは遅く弱く、とてもじゃないが当たる様な一撃では無い。

 涼の攻撃を何の苦も無く避けた馬元義は、逆に斬りかかって涼を追い詰めた。

 馬元義の剣の腕は、ハッキリ言って良くは無い。それは、戦いの素人である涼が動きを見切れている事からも解る。

 だが、涼と馬元義では決定的に違う事が有る。

 それは、

 

“人を斬った事が有るか無いか”

 

の一言に尽きる。

 馬元義は今迄何人も斬ってきたのだろう。剣を振るう動きに迷いが無い。

 だが、涼は違う。

 平和な世界に生まれ育ち、今この乱世の世界に生きていても、ずっと仲間達に守られてきて未だ一人も斬った事が無い。

 斬らないで済むなら一番良いが、それが簡単な事では無いのも解っている。

 斬らなければ自分が斬られると解っていても、最後の決断に踏み込めない。

 それは普通の人間として当然の事だった。

 いざ剣を振るって斬ろうとすると、手が止まって剣が震える。

 仮に振れたとしてもその速度は遅く、簡単にかわされる。

 これでは、例え百万回チャンスが有っても成功はしないだろう。

 

(俺は……負ける訳にはいかないのに……っ!)

 

 焦って剣を振るうも、やはり当たる筈も無く、運良く当たろうとすると手が止まった。

 そんな繰り返しが何度も続き、気付けば涼は孤立していた。

 周りには味方である連合軍奇襲部隊も、敵である黄巾党主力部隊も居ない。

 よく見れば、涼の遥か前方で彼等の戦いは続いていた。

 幸い、桃香は無事の様だが、桃香が戦っていた相手である丁峰もまた無事だった。

 

「味方は来ねえみたいだな、天の御遣いさんよぉ!」

「ちぃっ!」

 

 馬元義もまた周りをよく見ていたらしく、そう叫びながら剣を振り回す。

 その攻撃も難無くかわす涼だったが、バックステップでかわした後、背中に何かが当たった。

 

(木!? しかも結構大きい‼)

 

 涼の背後には樹齢何十年になるか解らない大木が在った。

 その為、これ以上下がる事は出来ない。

 

「もらったあっ‼」

 

 下がる事が出来ない涼に、馬元義は左から右への斬撃を放った。

 次の瞬間、キィン! という甲高い金属音が鳴り響いた。

 涼の剣が、左から迫ってきた馬元義の剣を防いだからだ。

 だが、ギリギリで防いだ為、僅かに剣の刃先が涼の肩に触れていた。

 防ぐのが後少し遅かったら、間違いなく肩を切り裂かれていただろう。

 

「……はあ……はあ…………っ‼」

 

 涼は殺されそうになった恐怖の余り、呼吸が必要以上に荒くなっている。

 また、目の焦点は合っておらず、体温は急激に下がっている様に感じていた。

 

「ちっ、運の良い奴め。ならばもう一度……!」

 

 馬元義はそう言いながら剣を引こうとした。

 だが、剣は涼の後ろに在る大木に刺さっていて中々抜けない。

 

「……くない。」

 

 涼は、目の焦点が合わないまま何かを呟いた。

 

「ああ!?」

 

 中々剣が抜けない馬元義は苛立っている。

 

「……たくない…………。」

 

 再び呟く涼。

 その時、少しずつ馬元義の剣が大木から抜けてきた。

 

「よし、このまま……!」

 

 それによって馬元義の苛立ちは収まりつつあり、攻撃も間も無く再開されようとしていた。

 その時、

 

「…………死にたく、ないっ‼」

 

涼はそう叫びながら剣を動かし、自らも右前方へと踏み出した。

 数秒後、涼は剣を右手に持ち、相変わらず目の焦点が定まらないまま立っていた。

 近くの大木の根元には、一人の男が俯せに倒れている。

 男は首の右側から腰の左側にかけて刀傷が有り、そこから紅い液体が流れ出ていた。

 大木にもその液体が飛び散っており、また、その木に留まっていた小さな虫も真っ赤に染まっている。

 

「はあ……はあ……っ。」

 

 涼は荒い呼吸を繰り返す。

 手は震え、それによって剣がカタカタと音を立てて震えていた。

 白いコートは左側が紅く染まっている。勿論、涼の顔にも紅い液体が飛び散っていた。

 涼は手を震わせながらゆっくりと振り向いた。

 視界に入ってきたのは、紅く染まっている大木と、その根元に倒れている一人の男。

 

「…………っ‼」

 

 男はピクリとも動かない。呼吸もしていない。

 男が倒れている場所には紅い水溜まりが出来ており、男が頭に巻いている黄色い布も、今ではその半分以上を紅く染めていた。

 

「俺が……っ。」

 

 涼は、弱々しく声を震わせながら呟く。

 

「俺が……馬元義を殺した…………!?」

 

 戸惑いながらそう呟いた涼の剣からは、馬元義を斬った時に付いた血が滴り落ちていた。

 涼は信じられないといった表情をしていた。

 だが、馬元義を斬った感触は確かに有る。

 今迄経験した事の無い、肉が裂け、骨が砕ける、あの感触。

 それを思い出した瞬間、涼は激しい嘔吐感に襲われた。

 

「うっ……ぐぅっ…………!」

 

 だが涼は必死になって吐くのを我慢した。酸っぱい液体が胃に戻っていくのを感じる。

 我慢した理由は、連合軍の総大将として、ここで吐く訳にはいかないと思ったからだ。

 

(これで……後戻りは出来ないな…………。)

 

 元々逃げるつもりは無かったが、人を斬った事で尚更逃げる事が出来ないと悟った。

 手の震えは、いつの間にか治まっている。

 人を斬った事で、「人を斬る恐怖」が無くなったからだろう。

 実際、涼は未だ自分のした事を直視出来ないでいるが、人を斬る事に対する躊躇いは無くなろうとしていた。

 

(どんな理由があれ、本当は人を殺しちゃいけない。……だけど、この世界ではそうも言っていられない……。)

 

 剣を握る手に、自然と力が入る。

 

(けど……それを言い訳にして人を殺すのを正当化したくない。だから……だから、この気持ちは絶対に忘れない!)

 

 涼はそう固く決意すると、桃香の援護に向かった。

 先程迄居た場所に戻ると、そこでは尚も戦いが続いていた。

 先程より黄巾党の数は増えているが、連合軍奇襲部隊にも、罠の事後処理を終えた愛紗の部隊が合流している。

 兵の数では負けてはいないし、愛紗や鈴々が農民上がりの黄巾党に負ける筈も無い。

 そんな戦いの中、涼は桃香の姿を確認した。

 愛紗達とは少し離れた所にへたり込む様に座っていて、側には靖王伝家が落ちている。

 そして、桃香の前には一人の男が倒れていた。

 

「桃香!」

 

 慌てて駆け寄るが、桃香は前を見たまま反応しない。

 それに、まるで先程迄の涼の様に、目の焦点が合っていない。

 そこで涼は気付いた。桃香の前に倒れている男が血を流して死んでいる事。

 そして、桃香の剣である靖王伝家に血が付いている事に。

 

「わ……私……っ!」

 

 桃香は声を震わせていた。

 

「戦っている時に転んじゃって……そしたら丁峰さんが私に斬りかかったから、私……私…………っ!」

「……もう良いから。」

 

 涼は桃香を抱き寄せて、必死に落ち着かせようとした。

 だが、それでも桃香は落ち着かず、声だけでなく体迄も震わせている。

 それを見た涼は、先程迄の自分を見ているかの様に錯覚した。

 

「咄嗟に剣を突き出したら……丁峰さんの体に刺さって……それから……それから…………っ!」

 

 尚も落ち着かずにいる桃香は、いつの間にか涙を流していた。

 

「覚悟していた筈なのに……解っていた筈なのに……っ! 結局、私は何も解っていなかったんだ…………っ!」

 

 涙を拭く事すら忘れ、自分がした事とその結果に恐怖し、自我を保てなくなっている。

 この世界で生まれ育った人間でも、皆が皆人を殺すのに慣れている訳では無い。寧(むし)ろ、涼の世界と同様に人を殺した事が無い人の方が多いのだ。

 だから桃香のこの反応は自然なものであり、決しておかしくはない。

 義勇軍の指揮官としてはおかしいかも知れないが、桃香はついこの間迄普通の女の子として育ってきたのだから、仕方が無いだろう。

 

「大丈夫……解っていなかったのなら、これからちゃんと解れば良いだけだ。俺も一緒だから、心配するな。」

 

 涼は子供をあやす様に桃香を抱き締めながら、柔らかな口調で語り掛ける。

 すると、桃香は少しずつ落ち着きだし、目の焦点も合ってきた。

 

「涼……兄さん…………?」

 

 涼を見ながら漸く気付いたかの様に呟くと、安心したのか体の震えが治まってきた。

 

「涼兄さん……。」

 

 もう一度呟いてから涼に向き直り、涙を拭う。

 そこで初めて、涼の服や顔に血が着いているのに気付いた。

 桃香は驚きつつも目を逸らさず、そのまま涼に尋ねる。

 

「涼兄さん……もしかして……。」

「ああ……さっき、斬った。」

 

 靖王伝家を拾いながら、淡々と答える涼。

 その剣をブンッと振って、剣に着いた血を地面に飛ばし、桃香に渡す。

 暫くの間手に取るのを躊躇した桃香だが、やがてしっかりと剣の柄を握り、そのまま目の前で倒れている男−丁峰に目をやった。

 

「ごめんなさい……。」

 

 そう呟くと、ゆっくりと立ち上がる。

 

「……でも、貴方を殺した事を無意味にはしません。約束します。」

 

 物言わぬ骸と化した丁峰にそう誓うと、表情を引き締めて涼に向き直った。

 

「行きましょう、涼兄さん。少しでも早くこの戦いを終わらせないと!」

「ああ!」

 

 そう言葉を交わした二人は、愛紗達が居る前線へと走る。

 涼も桃香も、動揺が完全に無くなった訳じゃ無い。

 だが、いつ迄もそのままではいられない。

 怖れ、悔やみ、泣くのは戦いが終わってからで良い。

 涼と桃香はそう思いながら剣を構え直した。



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第五章 黄巾党征伐・後編・6

 張宝は焦っていた。

 当初は劣勢だった黄巾党も、援軍の到着によって一時は立場が逆転した筈だった。

 だが、今現在優勢なのは連合軍。そう、張宝の敵の方だった。

 更に、悪い事は重なる物らしい。

 

『馬元義将軍が討たれました!』

『丁峰将軍、戦死!』

 

 戦いの最中、部下が伝えてきた二つの凶報。

 張宝率いる黄巾党第三部隊の主力が二人も討ち死にした事は、張宝だけでなく黄巾党全体に大きな衝撃を与えた。

 張宝の檄によって上がっていた士気も、今では著しく低下しており、それによって次々と部下が討たれている。

 

(こんな……こんな事って無いっ‼)

 

 慌てる張宝の耳に聞こえてくるのは、士気高らかに進む連合軍の兵の声と、地面に倒れ死んでいく黄巾党の兵の断末魔。

 今や味方の兵は三十にも満たず、対する連合軍は数百を超えている。

 勢いでも数でも負けていては、勝てる筈が無い。

 

(嫌よ……こんな所で死にたくないっ!)

 

 逃げたいと思う張宝だが、部下を見捨てて逃げる訳にはいかない。

 だが、このままここに居ては間違いなく殺される。

 選択肢は限り無く少なくなっていた。

 そんな時、張宝の近くに居た部下の一人が矢を受けて倒れた。

 部下は張宝に逃げる様言いながら死んでいった。

 張宝は慌てて矢が飛んできた方向を見る。

 そこには、桃色の長髪を靡かせ、大きな胸を揺らしながら弓矢を構えている少女が居た。

 そしてその少女の近くには、「劉」と書かれた旗が風に(なび)いている。

 

(“劉”の旗……! それって、天の御遣いと共に戦ってる指揮官の名前と同じ……っ! 名前は確か、劉備玄徳……‼)

 

 張宝は、以前張梁から聞いた情報を思い出しながら劉備――桃香を見続けた。

 先程の矢は、部下を狙ったものではない。矢は確実に張宝に向かって飛んできていた。

 それが部下に当たったのは、部下が身を挺して張宝を守ったからに他ならない。

 

(……天和(てんほう)お姉ちゃんみたいな大きな胸と、ノンビリしてそうな顔をしてるくせに、意外とやるじゃない……。流石は義勇軍の指揮官って訳……?)

 

 張宝は考えようとした。が、考える暇が有る様な状況では無くなっていた。

 残った部下が、身を挺して戦っていた。

 張宝の前に壁になる様に並び、斬られても射られても直ぐには倒れない。

 そして皆口々にこう叫んでいた。

 

地和ちゃん、逃げろ……!

 

 いつの間にか、張宝は馬を後方に向けて走らせていた。

 少女が立ち塞がる黄巾党の最後の一人を斬り倒すと、少女は兵に向かって大声をあげた。

 

「張宝を逃がすなっ! 弓兵隊はどうしたっ!?」

「駄目ですっ! 馬が速く、既に射程外です!」

 

 兵の報告を聞いた少女は、無意識に歯軋りをした。

 

「ならばこちらから距離を詰めるだけだっ!」

「し、しかし、人間の足では馬に適いませんっ!」

「そんな事は百も承知! だが、だからと言ってここに留まっていても、射程外のままだ!」

 

 少女は長い黒髪を揺らしながら、兵達に向かってそう叫ぶ。

 

「敵将をここ迄追い詰めておきながら逃げられては、我等義勇軍の沽券に関わる! 総員、我に続けーっ‼」

 

 自身の得物、青龍偃月刀を掲げながら、少女は張宝に向かって走り出す。

 少女の気迫に圧されたのか、兵達も大声を上げながらついて行った。

 その様子を、別の部隊の兵が小さな少女に伝える。

 

関羽(かんう)将軍の部隊は張宝を追う様です。我が隊はどうします?」

「愛紗が行くなら、鈴々も行くのだっ。あ、念の為何人かはお兄ちゃん達についていてほしいのだ。」

「解りました、張飛(ちょうひ)将軍。」

 

 張飛――鈴々は、関羽――愛紗が張宝を追い掛けたと知ると瞬時に指示を出した。

 

「それじゃ皆、鈴々に続くのだーっ!」

 

 丈八蛇矛を掲げた鈴々が走りながら号令を出すと、鈴々の部隊もまた張宝を追って走り出した。

 その様子を見ながら、涼と桃香は自分の部隊に指示を出していた。

 

「負傷者はここに残って治療を受けて下さい。無事な人は私達と一緒に張宝さんを追い掛けますっ。」

「情報を得る為にも、出来れば張宝は生け捕りにしたい。けど、それが出来そうに無いなら無理はしないで良いから。」

 

 指示を受けた兵達はそれぞれの役目を果たすべく動き出した。

 少なからず負傷者は居るし、死者も居る。

 崖を登った時は五百人居た奇襲部隊も、今では四百五十人前後になっている。

 その内の約半数が愛紗と鈴々の部隊の為、ここに居るのは残りの約二百人。それは決して多い人数では無かった。

 

「……涼兄さん。」

「どうした?」

 

 そんな部隊の確認をしていた涼に、桃香が声をかけてきた。その声は何故か沈んでいる。

 

「あの……さっきはごめんなさい。」

「さっき?」

 

 桃香は涼に対して謝ったが、涼は何故謝られているのか全く解らなかった。

 

「その……張宝さんの居る方向に向かって、私が矢を放った事です。」

「ああ、あれか。」

 

 確かあれは、張宝の側に居た黄巾党に当たったなと涼は思い返した。

 

「……勿論、私は張宝さんを狙った訳じゃないの。近くに居た黄巾党を狙ったら、その射線上に張宝さんが居て……。生け捕りにする筈なのに、殺そうとしてごめんなさい……。」

「そっか……。まあ、幸い張宝は未だ無事だから余り気にするな。」

「うん……。」

 

 未だ若干複雑な表情ながらも、少しホッとする桃香。

 

「けど、何で弓矢を使ったんだ?」

「それは、相手がちょっと遠くに居たんで、落ちていた弓矢を拾って攻撃したの。……あの弓矢、誰のだったのかな?」

 

 落ちていたって事は、戦死した連合軍の兵士か黄巾党の兵士の物だろう。

 生きているなら武器を落としたままにはしないだろうから。

 

(張宝は、史実だと皇甫嵩(こう・ほすう)に、演義だと朱儁に敗れて戦死している。小説とかだと張宝を討ったのは劉備で、しかも弓矢を使っていた。だから、桃香が弓矢を使ってもおかしくは無いな。)

 

 とは言え、普段の桃香が弓矢を使うのはやっぱり違和感が有るなと涼は思った。

 涼は取り敢えず、慣れない武器は使わない方が良いんじゃないかと桃香に助言してから張宝を追った。

 張宝は必死に馬を走らせていた。

 本陣には数万の味方が居る。

 彼等と合流すれば、数百しか居ない敵兵なんて簡単に倒せると、そう思っていた。

 だが、その思惑は脆くも崩れ去る事になる。

 

「何……これ…………!?」

 

 本陣に辿り着いた張宝の視界に入ってきたのは、黄巾党と連合軍の戦いだった。

 しかも連合軍の数は黄巾党を圧倒しており、旗色は明らかに悪かった。

 

「地和……ちゃん……。」

 

 その光景を前に呆然としている張宝の前に、黄巾党の一人がふらついた足取りでやってきた。

 

「一体……何があったの!?」

「鉄門峡前に居た……連合軍が雪崩込んできて……この有り様です……!」

「鉄門峡って……あそこに配置していた部隊は何やってたのよっ!?」

「どうやら……全滅した様です。恐らく……先程の裏切り者達が倒したのかと……!」

「そ、そんな……っ!」

 

 張宝は絶望的な状況を悟り戦慄していた。

 数で互角になっていた黄巾党が連合軍に勝つ為には、この山の地形を生かした戦いをしなければならなかった。

 だが、最早それが可能な状況では無い。

 張宝は、自分の命運が尽きようとしている事に、今迄感じた事の無い恐怖を感じていた。

 

「地和ちゃん……逃げてくれ……っ! 俺達はもう駄目だが、地和ちゃんが……天和ちゃんや人和(れんほう)ちゃんと合流出来れば、黄巾党は未だ……っ‼」

 

 男の言葉はそこで途切れた。

 男はその場に倒れる。背中には無数の矢が刺さっていた。

 

「……っ‼」

 

 張宝は一瞬息をするのを忘れた。

 目の前で部下が死ぬのは何回も見ているが、今は状況が状況だけにその恐ろしさは計り知れないものになっている。

 遠くで張宝の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 そのトーンは決して友好的なものでは無い。

 張宝が声のした方向に目をやると、そこには「曹」や「董」、「盧」の旗が揺れていた。どれも連合軍の武将の旗だ。

 

(ちぃ……死ぬの…………!?)

 

 張宝の体は震えていた。

 次々と倒れていく部下達。雷鳴の様な大声を上げながら近付いてくる連合軍。そのどれもが恐怖の対象でしかない。

 そんな状況に置かれた少女が冷静で居られる筈は無く、少女は只一目散に逃げ出した。

 そこに居たのは黄巾党の指揮官である張宝では無く、普通の少女である張宝だった。

 数刻後、この山に居た黄巾党は殆どが討たれ、残った者は皆投降した。

 只、指揮官である張宝は遂に見つからなかった。



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第五章 黄巾党征伐・後編・7

 黄巾党が敗北する少し前、張宝は山の中をさまよっていた。

 

「……こんな……こんな筈じゃ無かったのに…………。」

 

 張宝は泣いていた。

 負けた事を悔やんで泣いていた訳では無く、恐怖の余りに泣いていたのだ。

 山の中を無我夢中で逃げ回った為、体中に枝や葉によるひっかき傷が出来ており、勿論服もボロボロで、馬もまた疲れ果てている。

 そんな張宝に、更なる災難が降り懸かった。

 

「もらったあっ‼」

「えっ!?」

 

 突然木の陰から一人の少女が飛び出し、張宝に斬りかかってきた。

 咄嗟に体が動いた為に避ける事が出来たが、弾みで馬からは落ちてしまった。

 

「痛っ!」

 

 落ちた場所は草が被い茂っていたので怪我はしなかったが、それでもそれなりの痛みが体に伝わってきた。

 

「いたた……っ‼」

 

 張宝が体を起こそうとすると、その喉元に大剣が突きつけられた。

 

「確認するが……お前が張宝だな?」

 

 張宝が目線だけを上げると、短い髪の少女が大剣を手にしたまま彼女を見下ろしている。

 その表情は冷たく今にも張宝を殺しそうだが、だとしたら確認をとらずに斬り殺しているだろう。

 直ぐに殺さないのは、何か理由が有るのだろうか。

 

「捕らえたのか、時雨殿?」

 

 近くから別の少女の声が聞こえてくる。

 その少女は白を基調とした服を着ており、水色の髪に白い肌。そして手には装飾豊かな槍を持っていた。

 

「一応な。今確認している所だ。」

 

 白い服の少女に「時雨」と呼ばれた大剣の少女は、張宝を見据えたまま白い服の少女の問いに答えた。

 

「あちらは大勢が決した様だ。早くしないと、そなた達が合流出来なくなると思うが?」

「解ってる! ……ん? 星よ、お前達は共に行かないのか?」

「私達はもう少し旅を続けるつもりだ。やはり、自分が仕える主はきちんと見極めたいのでな。」

「お前らしい考えだな。」

 

 相変わらず大剣を突きつけたまま会話を続ける時雨。

 その時雨は、白い服の少女を「星」と呼んだ。

 

「……私を、どうするつもり?」

 

 張宝は俯いたまま尋ねる。

 それに対して、時雨と星は張宝を見ながら口を開いた。

 

「知れた事。お前が張宝本人なら、その首を貰う。」

「もっとも、嘘をついても意味は無いぞ。捕虜に聞けば貴公が張宝かそうでないかは直ぐに判るからな。」

 

 それを聞いた張宝は、表情をまったく変えずに、心の中で二人に向かって小さく舌を出した。

 

(皆に聞いたって、皆がちぃの事をバラす訳無いじゃない。コイツ等……バカ?)

 

 張宝がそう思う様に、黄巾党の人間は張三姉妹を心酔している。

 実は今迄、張三姉妹の実態はよく判っていなかったのだが、それは黄巾党が鉄の結束とも言うべき団結力で、張三姉妹の事を秘密にしてきたからだ。

 だから、今回も誰も口を割らないだろう。それ程皆、口が固いのだ。

 そう結論付け、安心した張宝はつい言ってしまった。

 

「黄巾党の皆が、私の事を話す訳が無いじゃない。」

 

 それを聞いた時雨と星は唖然とした。

 暫くの間、辺りに沈黙が流れる。

 

「……な、何よ?」

「いや……。」

「まさか、自分から正体をバラすとは思わなかったのでな。」

「えっ……? …………ああっ‼」

 

 漸く自身の失態に気付いた張宝は、大声を上げて落胆した。

 黄巾党は口が固いが、肝心の張宝自身は口が軽かった様だ。

 

「うぅ……。」

「まあ……手間が省けたと思えば良いか。」

「そうだな。」

 

 そう言って互いに顔を見合わせ、それぞれの得物を握り直す。

 

「可哀想だとは思うが……覚悟!」

 

 時雨と星、二人の少女が得物を振り上げ、張宝に向かって振り下ろそうとした。

 その時、

 

「わーっ! その娘を斬るのはちょっと待ってーっ‼」

 

緊迫した場面に似合わない高く甘い声が、かなり慌てたトーンで辺りに響き渡った。

 何事かと思った二人が辺りを見渡すと、後ろから一人の少女が息を切らせながら走ってきた。

 

「と、桃香っ!?」

「えっ? ……あっ、時雨ちゃんだあ。」

 

 時雨は驚きながら少女の真名(まな)を口にした。すると、真名を呼ばれた少女もまた時雨をちゃん付けで呼んだ。

 

「時雨殿、もしや彼女が?」

 

 張宝が逃げない様に目を光らせながらその様子を見ていた星が、時雨に確認をとる。

 

「ああ。コイツが、俺と雫が合流しようとしていた相手の劉玄徳だ。」

「えっ、雫ちゃんも一緒なの?」

 

 時雨が星の問いに答えると、桃香は時雨の答えの中に出て来た固有名詞に反応を示した。

 

「ああ、今は近くで仲間達と一緒に待っているぞ。」

「そうなんだあ。早く会いたいなあ♪」

 

 時雨から説明を受けた桃香は、満面の笑みを浮かべながらそう言った。

 どうやら、桃香と時雨、そして雫は仲が良い間柄の様だ。

 

「劉玄徳殿、お仲間と戯れるのも結構ですが、一つ尋ねても宜しいですかな?」

 

 そんな中、星が口を開いた。

 

「何ですか?」

「先程、貴女は張宝を斬るのを待てと仰ったが、それは如何なる理由があっての事ですかな?」

「ああ、それはですね……。」

「それについては、俺が説明するよ。」

 

 星の質問に桃香が答えようとすると、桃香が来た方向から少年の声が聞こえ、ゆっくりとした足取りで一人の少年が現れた。

 

「貴公は?」

「俺は清宮涼。桃香と共に義勇軍の指揮官を務めています。」

 

 星がその少年――涼を見据えながら尋ねると、涼は丁寧な物腰で自分の名前を名乗った。

 

「ほう……では貴公が噂の“天の御遣い”殿か。」

「まあ、一応ね。」

 

 涼が天の御遣いだと解ると、星は涼を値踏みするかの様に見つめる。

 余りにジロジロ見つめるので、涼は何だか恥ずかしくなってしまった。

 

「それで、張宝を斬るなという理由は何だ?」

 

 そこに、何故か不機嫌な表情の時雨が尋ねてきた。

 その疑問は星も同じだった様で、途端に表情を引き締める。

 涼は、時雨の側で俯き涙を流している少女――張宝を一瞥してから口を開いた。

 

「張宝を斬るなって言ったのは、彼女を殺さないからさ。」

 

 涼のその言葉に、時雨達は唖然となった。

 暫くの沈黙の後、最初に口を開いたのは時雨だった。

 

「お前、何を言っている!? まさか、相手が女だから殺すのが惜しくなったとでも言うのか!?」

「そりゃあ、見た所可愛い娘だし、そういった感情が無いと言えば嘘になるけど。」

「涼兄さんっ。」

 

 嘘偽り無く正直に話す涼に、桃香は思わず注意する。

 その光景を見て、時雨が困惑した表情を浮かべながら尋ねた。

 

「……桃香、今こいつの事を“涼兄さん”って呼んだか?」

「うん、呼んだよ。」

「……何で?」

「だって私達、義兄妹(きょうだい)だもん♪」

 

 桃香はそう言いながら笑みを浮かべ、涼の腕に抱きついた。

 すると辺りに、いや、時雨の周りにだけ再び沈黙が流れた。

 そして、

 

「な、なんだとーーーっ!?」

 

枝に留まっていた鳥や、草に隠れていた動物が一斉に逃げ出す程の、悲鳴にも似た大声があがった。

 勿論、その声の主は時雨である。

 

「と、桃香っ! 何でこんな奴と義兄妹の契りを交わしたんだっ‼」

「こんな奴って……。」

「お前は黙ってろ!」

「……けど俺、無関係じゃないよね?」

「五月蝿いっ‼」

 

 すっかり頭に血が上っている時雨は、涼の言葉に耳を貸そうとしなかった。

 

「時雨ちゃん、何でそんなに怒ってるの?」

「怒ってないっ!」

 

 とは言うものの、どう見ても時雨は怒っている。

 そんなに暑くも無いのに顔が真っ赤な事からも、それは明らかだ。

 

「……話を戻して良いか?」

 

 そこに、星が口を挟んできた。

 話が逸れてきたので、流れを断とうとしたらしい。

 

「しかし、星っ!」

「今は張宝の処遇についての理由を聞くのが最優先であろう?」

「くっ……!」

 

 正論を言われて反論出来ず、言葉に詰まる時雨。そのまま諦めたらしく、そっぽを向いた。

 だが、その直前に涼を睨んだ事に、涼自身が気付いた。

 とは言え、それに反応したら繰り返しになってしまうので、涼は何も言わなかった。

 

「張宝を殺さないのには、ちゃんとした理由が有るよ。」

 

 そう言って話を再開する涼。

 

「それは、張宝を殺した場合の黄巾党の反応を危惧したからさ。」

「黄巾党の反応だと? 奴等はほぼ全滅した様だが?」

 

 時雨がそう言うと、張宝はビクッと体を震わせた。

 

「それは張宝が率いていた部隊だろ? けど、首領の張角や妹の張梁が率いている部隊は健在だ。もし、張宝が殺されたと彼女達が知ったら……。」

「恐らく、仇討ちと称して今迄以上に暴れ回るだろう。」

「ああ。だから彼女達は捕らえるにしても殺すにしても、三人一緒じゃないと駄目だ。」

「……求心力になる存在が無くなれば、奴等は力を失うという訳だな。」

「その通り。」

 

 元々、張三姉妹を中心として集まった農民達で結成されたのが黄巾党だ。

 もし旗頭である張三姉妹が居なくなる様な事があれば、黄巾党は内部崩壊を起こし、簡単に鎮圧されるだろう。

 

「理由は解った。だが、ならば張宝はどうするのだ?」

「勿論、逃がすよ。」

「……だと思った。」

 

 時雨は呆れながら言った。

 

「だが、一体どうやって逃がすつもりだ? 鉄門峡は連合軍が抑えているんだぞ。例え変装させたとしても、お前が見知らぬ女を連れていれば、誰かが気付く。そうすれば全ては終わりだ。」

「時雨殿の言う通りだ。戦場に武将でも軍師でも無い少女が居ては、明らかに怪しまれる。」

 

 時雨の意見に星も同意する。

 だが涼は、二人の意見にも全くたじろぐ様子も無く、寧ろ冷静に言葉を紡いだ。

 

「確かに、普通なら怪しまれるだろうね。けど、この場所に君達が居た事で、作戦は比較的成功すると思ってるんだ。」

「私達が居た事で、」

「作戦が成功するだと?」

 

 星と時雨は涼の言葉を繰り返した。

 桃香もよく解っていないのか、キョトンとした顔のまま涼を見つめている。

 

「本当は、この先に在る獣道を張宝一人で通ってもらう予定だったんだ。」

「獣道? そんなものが在るのか?」

「ああ。うちの軍師が集めた情報で、さっき愛紗……関羽にその道が麓に続いているのを確認してもらった。」

「ちょっと険しいけど、普通の女の子一人でも充分降りられる道だって言ってたよ。」

 

 桃香は張宝をみつめながら、涼の話を補足する様に言った。

 一瞬だけ目が合ったが、張宝は直ぐに目を逸らした。

 

「けど、本来なら連合軍と黄巾党以外は居ない筈のこの山に君達が居た。なら、これを利用しない手はない。」

「……まさか、張宝を我等の仲間として扱うつもりか?」

 

 涼の説明の意図に気付いた星が尋ねる。すると、涼は首を縦に振って肯定した。

 

「この山にも数人ずつなら登れる小さな道は幾つか在るらしいから、君達の存在もそんなに不自然じゃないし。それに、君が桃香の知り合いなのも成功率を上げる要因になる。」

 

 涼はそう言って時雨に向き直る。

 

「張宝を桃香の友達の娘って扱いにし、桃香に会う為に仲間と旅をしていたって事にすれば、武将でも軍師でも無くても怪しまれない筈だ。」

「いざという時には、時雨殿や私が守ってきた事にすれば良い訳ですからな。」

「ああ。」

 

 涼の説明に星は頷きながら確認をとる。

 時雨は少し納得していない様だが、黙って話を聞いていた。

 

「幸い、張三姉妹についての情報は連合軍でも不足しているから、誰も張宝の顔は知らない。」

「先の戦いで顔を見られたのでは?」

「その可能性は有るけど、それは変装して尚且つ他人への露出を少なくすれば危険性は減る筈だ。」

「もしもの時は、間違って襲われたって言えば良いしね。」

 

 星と涼がそう話していると、再び桃香が補足する様に話した。

 それから暫くの間、星は静かに考え込み、やがて涼を見ながら口を開いた。

 

「……確かに成功率は意外と高いかも知れんな。……だが清宮殿、解っているのか?」

「何がだい?」

「貴公は敵を助けようとしている。それがどんな意味を持つのか、まさか解らない訳ではあるまい?」

「……解ってる。もしバレたら、俺や桃香だけでなく義勇軍全体が逆賊として狙われるだろうね。」

 

 真面目な表情で尋ねる星に対し、涼もまた表情を引き締めながら答えた。

 星は尚も尋ねる。

 

「それ程の危険を冒して迄、張宝を助ける理由は?」

「……今回の戦いで、沢山の人が死んだ。連合軍の兵士も、黄巾党の兵士も、沢山……。」

 

 表情を曇らせながら、涼は言葉を紡いでいく。

 

「死んだ人は生き返る事は無い。……だから、一人でも多く生き残ってほしい。」

「だが、張宝が張角達と合流すれば、黄巾党の勢力が再び強くなるかも知れん。そうなれば、もっと多くの人が傷つき、死んでいくかも知れぬぞ。」

「勿論それも考えた。けど、ここで殺して火に油を注ぐよりはマシだと、俺は思う。」

 

 星の指摘はもっともだった。

 張宝は黄巾党の指揮官の一人であり、その影響力は黄巾党という反乱勢力が出来上がった事からも実証済みだ。

 黄巾党の怒りを買っても、張宝を殺した方が結果的に良いと思うのも仕方がない。

 だが涼は、それでも意思を曲げそうに無く、星と真っ直ぐに向き合っていた。

 

「……とんだ甘ちゃんだな。」

 

 そこに、時雨が呆れながら声を出した。

 その目には怒りが表れており、ジッと涼を睨みつけると、そのままゆっくりと近付いていった。

 

「世の中は、そんなに甘くねえんだよっ!」

 

 そして次の瞬間、涼の服の襟を掴んで激昂した。

 突然の事に桃香は慌てふためき、張宝も驚いている。

 だが、星は何の反応も示さず、目の前で起きている事態を静かに見守っていた。

 

「……黄巾党が今迄何人殺したか知ってるのか!? 殺された人の殆どは何の落ち度も無い、普通の人達だった! それを……それをこいつの仲間は、自分達の欲望の為に殺したんだっ‼」

 

 空いている手で張宝を指差しながら、時雨は叫んだ。

 その張宝は、時雨の迫力に圧されたのか自責の念に囚われたのか判らないが、震えながら再び涙を流しだした。

 

「それなのにこいつを逃がすだと! 人を斬った事も無い甘ちゃんらしい、反吐の出る理想論だな‼」

「……っ!」

 

 時雨がそう罵ると、涼は自分の襟を掴んでいる時雨の手を掴みながら言った。

 

「なら……これを見ろよ……。」

 

 ゆっくりと腰に有る剣に手を伸ばす。

 それを見た時雨は、今も握ったままの大剣の柄に力を込める。

 一触即発。いつの間にかそんな空気が立ちこめていた。

 それでも涼は剣の柄を握り、鞘から少しだけ抜く。

 すると、それを見ていた時雨の表情が変わった。

 

「お前……。」

 

 それを見た時雨は、いつの間にか涼の襟から手を離していた。

 

「……これで解ったか?」

 

 そう言って涼は抜きかけていた剣を鞘に収める。

 

「……お前、人を斬った事あったんだな……。」

 

 時雨はそう呟きながら涼を見つめる。

 先程時雨が見たのは、剣の刃に残っていた紅い血の跡。

 それは、少なくとも生き物を斬ったという証だった。

 今の涼は、トレードマークとも言うべき白いコートを着ていない。

 何故着ていないかというと、先程の戦いで返り血を浴びて汚れた為に脱いでいたのだ。

 もしそのコートを着たままならば、時雨はそのコートに着いた返り血を見て、涼が人を斬っている事に気付いていただろう。

 因みに現在の涼はTシャツにジーパンといったラフな格好。それだけでは締まりが無いという事で、雪里が仕立てた青色を基調とした羽織りをその上に着ていた。

 

「俺は人を斬った上でこの決断を下した……。勿論、人を斬る苦しみも意味も知っている。」

 

 服を整えながら、涼は静かに言葉を紡ぐ。

 

「甘い考えかも知れないけど……それでも、理想を捨てる気も諦める気も無いよ。」

 

 そう言った涼の瞳には、一寸の迷いも無かった。

 そんな瞳を見せられては、時雨は何も言えなかった。

 

「お主の負けだな、時雨殿。」

 

 涼と時雨の衝突を見ていた星が、軽く笑いながら言った。

 当の時雨はと言うと、星の言葉が図星だったのか何も言い返さないでいる。

 そんな時雨を見てから、涼は未だに座り込んだままの張宝の前にゆっくりと進み、その身を屈めた。

 

「取り敢えず、俺からの提案は以上なんだけど……どうかな?」

 

 涼は張宝に尋ねた。

 今迄張宝の処遇について散々議論してきたが、肝心の張宝自身には全くと言って良い程訊かなかった。

 だから涼は、確認の意味を込めて尋ねているのだ。

 張宝自身はこれからどうしたいのか、と。

 暫くの沈黙の後、張宝は口を開いた。

 

「……今の話、本気で言ってるの?」

「うん。」

「……こんな事して、アンタに何の得が有るのよ?」

「君を助けられるっていう自己満足かな?」

「助ける振りして、後で殺すとかじゃないわよね?」

「違うから安心して。」

「じゃあ……ちぃの体が目当てとか?」

「えっ!? ……えっと、君は可愛いけど、流石にそんな卑劣な事はしないよ。」

「ふーん……。」

 

 いつの間にか、張宝の表情から陰が無くなっていた。

 その張宝は暫く涼を見つめると、笑みを浮かべながら言った。

 

「解ったわ。どのみち選択の余地は無いみたいだし、アンタの言う通りにしてあげる。」

「有難う、張宝。」

 

 張宝の返事を受けて、涼は笑みを返しながら手を差し出す。

 張宝がその手を掴むと、涼はゆっくりと引っ張って張宝を立たせた。

 すると、張宝は涼の腕に抱きついてきた。

 

「えっ!?」

「ちょ、張宝さんっ!?」

 

 突然の事に涼と桃香は驚き、時雨と星も唖然としている。

 

「どうせなら彼女っぽくした方が怪しまれないでしょ♪」

「ええっ!?」

「さっ、早く私を変装させてよ、涼♪」

「また呼び捨てっ!?」

 

 まるで恋人の様に涼に密着する張宝と、曹操と同じ様にいきなり涼を呼び捨てにする張宝に驚く桃香。

 涼は戸惑い焦り、時雨は呆れ、星は笑うのを堪えていた。

 

「え、えっと……それじゃ桃香、俺は一旦愛紗達と合流するから後をお願いっ。」

「えっ!? ちょっと涼、待ちなさいよっ。」

「解りました涼兄さん。さあ張宝さん、変装しに行きましょう♪」

 

 涼が逃げる様にその場を去ると、そこには何故かホッとする桃香や不満げな張宝、笑っている星と呆れる時雨が残された。




第五章「黄巾党征伐・後編」を読んでいただいて有難うございます。

余りのボリュームに前・後編に分けましたが、何とか収まりました。
構成としては、今回も「横山光輝三国志」を参考にしています。崖を登ったり祈祷したりはそこからです。

この作品で主人公を原作の「北郷一刀」にしなかった理由である、「主人公が人を斬る」シーンがこの章で初登場します。
個人的に、一刀が直接戦う描写のイメージが湧かなかったんですよね。けど、主人公にも少しは活躍してほしいなと思い、オリジナル主人公「清宮涼」を作りました。
かといって、無敵の強さをもつ、なんて設定じゃ愛紗達の存在意義が薄れるので、涼はあくまで「愛紗達のお陰で少しだけ戦える強さ」を持つ主人公にしています。これは基本的に変えません。間違っても、呂布(恋)とタイマンはれる強さにはなりませんので御安心を(笑)

作中の「演義」説明の部分には、多分に小説の要素が含まれています。これは、執筆当時の資料が「横山光輝三国志」しかなく、更にそれが吉川英二の小説を元にしている事を知らなかった為のミスだったりします。

新キャラも何人か出てきましたが、この時点では皆真名しか表記していないので、原作キャラは兎も角、オリジナル武将は誰か判らないですね。一応わざとぼかしているのですが、不親切な部分ではありますね。
この章の一番の誤算は張宝こと地和の扱いです。この時点ではああなる予定はまったくありませんでした。最初は普通に逃がして、三姉妹の再会に繋げる予定だったんですけどね。

さて、次ではいよいよあのキャラが出てきます。お楽しみに♪

2012年11月27日更新。

2017年4月15日掲載(ハーメルン)


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第六章 戦いが終わり、戦いが始まる・1

黄巾党との戦いは一先ず終わった。

だが、これで全てが終わった訳では無い。

寧ろ、これから始まるのだと、何人が気付いていたのだろうか。
気付いても気付かなくても、時は流れていった。



2010年2月15日更新開始。
2010年4月1日最終更新。

2017年4月16日掲載(ハーメルン)


「皆、お疲れ様。」

 

 張宝(ちょうほう)率いる黄巾党(こうきんとう)を倒したその夜、連合軍の本陣では戦勝を祝した宴が開かれようとしていた。

 名目上とは言え総大将を務めた(りょう)が正面中央の席に着き、その右隣に桃香(とうか)、左隣には曹操(そうそう)が座っている。

 更に桃香の右隣には董卓(とうたく)が、曹操の左隣には盧植(ろしょく)が座り、連合軍の各指揮官が一列に座っていた。

 その他の武将や軍師達は、涼達から見て正面左右に在る席に座り、総大将である涼の言葉を聴いている。

 

「苦しい戦いの中、皆よく頑張ってくれた。残念ながら敵将張宝は捕り逃してしまったが、今回の敗戦で黄巾党の勢いは大きく失われるだろう。」

 

 愛紗(あいしゃ)鈴々(りんりん)雪里(しぇり)達が頷く。

 

「勿論、未だ黄巾党の全てを倒した訳では無いから油断は出来ない。けど、今日は皆で勝利を祝い、疲れを癒してくれ。」

 

 そう言うと涼は杯を手に取り、掲げながら宣言した。

 

「では、戦勝を祝して、乾杯!」

「乾杯!」

「御遣い様に乾杯!」

 

 涼の音頭をキッカケに皆思い思いの言葉を言いながら、杯に注がれていたお酒を飲んでいった。

 因みに、未成年の涼はお酒の代わりにお茶を飲んでいる。

 この世界ではお茶も高級品なので、宴で飲んでいてもおかしくはない。

 とは言え、こうした席では通常お酒を飲むものだから、お茶を飲むのは珍しい事でもある。

 

「涼、折角の宴なのだからお茶ではなくお酒を飲みなさいよ。」

 

 そう言ったのは曹操だ。

 手にはお酒が入った徳利を持っており、涼に勧めようとしている。

 

「有難う曹操。けど俺、未成年だし。」

「未成年って……確か、貴方は十七歳だって言ってなかったかしら?」

「そうだよ。この国じゃどうか知らないけど、俺の国では成人は二十歳からなんだよ。それ迄は飲酒も喫煙も禁止されているんだ。」

「だから飲まないと言うの?」

「ああ。」

「真面目なのね、貴方。」

「どうだろ? ただ、ルール……規則を破って迄する事じゃ無いと思っただけさ。」

 

 涼は苦笑しながらそう言うと茶碗を手にし、グイッとお茶を飲み干す。

 

「ここは貴方が居た世界では無いのに?」

 

 曹操はそう言いながら、いつの間にか持っていた水差で涼の茶碗にお茶を注いだ。

 

「あ、有難う曹操。それじゃ……。」

 

 涼はお茶のお返しとして曹操の杯にお酒を注ぐ。

 

「有難う、涼。」

 

 その杯を丁寧に口に運び、静かに飲み干していく曹操。

 片手でグイッと飲む涼とは対照的に優雅な仕草だ。

 

「例え住む場所が変わっても、それ迄の習慣ってそう簡単には変わらないだろ? お酒に関してもそれと同じさ。」

 

 涼は先程の問い掛けに答えながら、宴の為に振る舞われた料理を口にする。

 肉料理も野菜料理もバランス良く配膳されているが、皆肉が好きらしく出席者の大半は肉ばかりを食べている。

 因みに涼も肉料理を少し多く食べていた。

 

「まあ、一理有るわね。」

 

 曹操は笑みを浮かべながら料理に手をつけた。

 やはり静かに優雅に食べていく。

 因みに涼は普通の食べ方なので、特に優雅でも無いし、また汚くも無かった。

 

清宮(きよみや)様。」

「何ですか、盧植さん?」

 

 そんな中、盧植が涼に声をかけてきた。

 涼は一旦箸を休め、口の中に有る食べ物を胃の中に送り込んでいく。

 

「先程も言いましたが、改めて戦勝おめでとうございます。」

「有難うございます。けど、さっきも言った通りこれは俺だけの手柄ではありません。皆さんのお陰で手にする事が出来た勝利です。」

 

 盧植の祝辞を素直に受けつつ、同時に盧植達を労う涼。

 因みに二人が言っている「先程」や「さっき」とは、涼が張宝を保護した後、山頂で盧植達と合流した時の事を指している。

 山頂での戦いが一段落した頃、真っ先に涼と桃香の(もと)にやって来たのは雪里だった。

 雪里は涼の顔やコートに着いた血を見て一瞬驚いたが、直ぐに落ち着いて涼に手拭いと羽織を手渡した。

 

『この場に居る黄巾党は、その殆どが討ち取られるか投降しています。ですから顔に着いた返り血を拭き、お召し物を着替えても宜しいかと思います。』

 

 そう言って促された涼は、雪里の言う通りに返り血を拭い、コートを脱いで代わりに羽織を羽織った。

 その後、愛紗と鈴々が部隊を引き連れて合流すると、涼は自分の考えを三人に打ち明けた。

 当然の如く驚き反対されたが、共に戦い始めて約一ヶ月。涼の性格を熟知している三人は意外と簡単に同意した。

 それから、愛紗は雪里が戦術の為に手に入れていた情報に有った道の確認に行き、鈴々と雪里は各部隊の状況確認をし、涼と桃香は張宝の探索に向かった。

 その後、無事張宝を保護した涼は桃香や(せい)達に張宝を預け、部隊に戻った。

 その時には完全に戦闘が終わっており、曹操達が部隊に合流していた。

 

『清宮様、戦勝おめでとうございます。』

 

 そこで涼に対して祝辞を述べたのが盧植であり、また、曹操達もそれに倣っていった。

 

「けど、貴方や劉備が奇襲攻撃を仕掛けなければ勝つ事は難しかったし、例え勝てても甚大な被害を被っていた筈。だから、今回の一番の功労者は貴方よ。」

 

 二人の話を聞いていた曹操がそう言うと、涼は照れながら言った。

 

「それなら、桃香達もその中に加えてくれよ。俺なんかよりずっと頑張ってくれたんだから。」

「確かに、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)、そして徐庶(じょしょ)の活躍には目を引くわね。でも……。」

 

 曹操は涼の顔を、そして手を見つめると、顔を近付けて小さな声で言った。

 

「人を斬った事が無かった貴方が人を斬った。それだけでも、やっぱり貴方が功労者だと思うのだけど?」

「……俺が人を斬った事が無かったって、何故解ったんだ?」

「そりゃ解るわよ。貴方にはそんな雰囲気が無かったし、それに……。」

「それに?」

「それに、戦場で白い服を着るなんて普通しないしね。」

 

 返り血を浴びる可能性が高いのだから、その意見はもっともだ。

 現代でも、白い服は汚れが目立つという理由で敬遠される事が有る。

 

「まあ、あの服は俺が違う世界から来たって証みたいなものだしなあ。」

 

 涼はそう言うと再びお茶を飲む。因みに、理由はそれだけでは無いのだが。

 

「それに、人を初めて斬ったのは俺だけじゃない。桃香……劉備(りゅうび)も同じだしね。」

「どうやらその様ね。あの娘も少し雰囲気が変わったみたいだし。」

 

 そう言うと、涼の右隣に居る桃香を見る。

 桃香は隣に居る董卓と話が弾んでいるらしく、笑顔を浮かべながら食事をしていた。

 だが曹操は気付いていた。その笑顔の中に有る「陰」に。

 

(まあ、これは戦いに身を投じた人間全てにかかる病気みたいなもの。これに勝てないのなら、戦場に身を置くべきではないわ……。)

 

 戦いを続ける以上、これからも人を斬る事が有るだろう。

 その度に落ち込んでいては、何れその心身を壊してしまう。

 

(劉備……そして清宮涼。貴方達はどうなるかしらね。)

 

 それとなく二人を見ながら、曹操は思った。

 どうせなら、強くなってその姿を私に見せろ、と。

 何れ敵対するかも知れない相手に対してついそう思ってしまうのは、曹操の悪い癖である。

 曹操がそんな事を思っているとは涼や桃香は露程にも思っておらず、曹操は勿論、董卓や盧植、更には愛紗達と飲み交わしている。

 そこに、二人の少女がやってきた。

 

「清宮、見回り終わったぞ。」

「今の所、異常は有りません。」

 

 涼の前に並んで立つ二人は、対照的な外見と雰囲気を持っていた。

 

「二人共お疲れ様。ゆっくり休みながら宴の料理を堪能していってね。」

「有難うございます、清宮様。」

「よしっ、俺もう腹ペコなんだよな。(しずく)、早く食いに行こうぜ。」

「ちょっと時雨(しぐれ)ちゃんっ、ちゃんと清宮様達に挨拶しないとっ。……ああもうっ!」

 

 丁寧に挨拶した少女――雫に対し、もう一人の少女――時雨は挨拶もそこそこにして空いている席に向かった。

 残された雫は、困りながらもきちんと涼達に挨拶してからその後を追った。

 

「あの……清宮さん、あの人達は?」

 

 そんな二人を見ていた董卓が、涼に向き直りながら尋ねる。

 

「ああ、彼女達はさっき仲間になった娘達だよ。」

「さっきって事は……投降した黄巾党の兵なのかしら?」

 

 曹操も董卓と同じく気になっていたらしく、推測を述べてみる。

 

「いや、二人は桃香の友達なんだ。」

「劉備の? ならあの二人は義勇軍に入ったの?」

 

 曹操のもっともな疑問を受け、涼と桃香は説明を始めた。

 時雨達は、黄巾党の殲滅と桃香との合流を目的として旅をしていた事。

 戦場となったあの山に、連合軍とは反対側の小道から登った事。

 そして戦いの最中に偶然出会い、そのまま仲間になった事等を簡潔に説明していった。

 

「……それじゃあ、その方達全員が義勇軍に参加したって事ですか?」

 

 説明が終わると、董卓が確認の為の質問をした。

 

「いや、少なくとも三人は未だ旅を続けるらしいよ。仕える主を見極めたいってさ。」

「つまり、私達じゃ仕えるに値しないって事かしら?」

 

 涼が董卓にそう答えると、曹操が不満そうに言った。

 

「そうじゃないと思うけど。多分、簡単に決めたくないんじゃないかな?」

「ふうん……。まあ良いわ。それで、その残りの娘達はどこに居るのかしら?」

「皆この中に居る筈だよ。……ああ、さっきの二人と一緒みたいだね。」

 

 涼が時雨達の居る方を指差すと、曹操だけでなく董卓や盧植も目を向けた。

 そこには確かに時雨と雫が並んで座っていた。

 そして、時雨の右側にセミロングの茶髪の少女と水色の髪の少女、雫の左側に眼鏡の少女と長い金髪の少女が同じ列に並んでおり、仲良く食事をしていた。

 

「皆さん仲が良いんですね。」

「一緒に旅する様になって、それなりの時間が経っているみたいだからね。けど、何だかずっと前からの知り合いみたいだ。」

 

 時雨達の様子を見た董卓が、微笑みながら言った。それは涼も同じ感想だった。

 何よりも驚いたのは、“その場に居る張宝”迄もが何の違和感無く時雨達と接していたからだ。

 

(まあ、変にビクビクして怪しまれるよりマシか。)

 

 張宝を宴に参加させるのは流石に反対意見も多かったが、「木を隠すなら森の中」という理由から最終的には皆納得した。

 勿論、涼の性格から仕方無くといった感じもあったが。

 

「成程ね……。後で勧誘してみようかしら。」

「するのは勝手だけど、彼女達の意思も尊重してやりなよ?」

「解っているわよ、それくらい。」

 

 当然の事を注意されたからか、曹操は少し機嫌を悪くした様だ。

 なので涼は話を変える事にした。

 

「ところで、これからの事なんだけど。」

「何?」

「張宝の部隊は倒せたけど、黄巾党には未だ張角(ちょうかく)張梁(ちょうりょう)の部隊が残っている。だからこれからも戦いは続く筈だよな?」

「そうね。」

 

 曹操は涼の話に乗ってくれたのか、真剣な表情になって聞きだした。

 

「なら、俺達はこれからどう戦うかの指針を決めないといけない。」

「……つまり、このまま連合を続けるかどうかという事かしら?」

「ああ。」

「私としては、このまま連合を組んでも良いのだけど……。」

「何か問題でも有るの?」

 

 口籠もった曹操に違和感を感じた涼は、曹操を見つめながら尋ねる。

 曹操は暫く間を置いてから答えた。

 

「私の軍の兵数は連合軍の中で二番目に少ない。このままでは、余り戦力になりそうも無いわ。」

「そんな事言ったら、義勇軍の数は三千弱だから連合軍の中で一番少ないんだけど。」

「けどそっちには関羽と張飛という武将に、徐庶という軍師が居る。それに比べたら、こっちは軍師の桂花(けいふぁ)くらいしか連れてきていないから、どうしても見劣りするわ。」

 

 そう言うと曹操は杯を口に着け、お酒を飲み干した。

 

「……だから、一旦連合軍から離れて部隊を再編成し、それから改めて合流したいのだけど……どうかしら?」

「良いんじゃない? 連合軍としても、戦力が増強されるのは心強いし。」

「有難う、助かるわ。」

 

 涼から了承を得た曹操は笑みを浮かべながら再びお酒を飲み、そして左隣に居る盧植に向き直った。

 

翡翠(ひすい)様はどうなさいますか?」

 

 話を振られた盧植はお酒を飲んでいたので、一旦杯を置いてから質問に答えた。

 

「私はこのまま連合軍に残る予定ですよ。……董卓さんはどうします?」

 

 盧植は、曹操の問い掛けに簡潔に答えると、続けて董卓に質問を投げかけた。

 急に話を振られた董卓だが、慌てる素振りは全く無く、常の静かな口調で答えていった。

 

「……元々、連合軍は私達の軍と清宮さんの義勇軍が手を取り合って出来たものです。その結果、この様な大勝に繋がったのですから、私達はこの共闘を止めるつもりはありません。」

「なら、後は涼がどうしたいかで方針は決まるわね。」

 

 董卓が答え終わると、曹操が涼を見ながら言った。

 それにより、皆の視線が自然と涼に向けられる。

 

「さっき曹操にも言ったけど、連合軍の中では俺達義勇軍が一番兵数が少ない。だから寧(むし)ろ、連合軍に参加し続けるのをこちらから求めたいくらいだよ。桃香も、それで良いよね?」

「うん。私も、涼兄さんと同じ考えだよ。」

「なら、決まりですね。」

 

 涼や桃香の言葉を聴いた董卓が、両手を合わせながら微笑む。

 曹操は一時的に離脱するものの、最終的には戦力を増強して合流する。

 なら、負ける事は無い筈。

 董卓の笑みは、戦いの終わりが見えた為の笑みだった。

 連合軍の指針が定まると、涼達は再び宴会モードに戻っていった。



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第六章 戦いが終わり、戦いが始まる・2

 そうして宴は夜更け迄続き、やがて解散した。

 

「うーん、頭が痛いよー。」

「飲み過ぎだよ、桃香。」

 

 顔を紅らめ、フラフラになりながら歩く桃香を支えながら、涼は自分達の天幕に向けて戻っていた。

 途中迄同じ道なので、董卓や曹操、盧植も同行している。

 

「フフ……玄徳(げんとく)は昔からはしゃぎ過ぎる傾向にありましたが、今も変わらない様ですね。」

「うう……面目無いですぅ……。」

 

 盧植に言われてうなだれる桃香。それを見て笑う涼達。

 宴の余韻もあって、皆朗らかな気分になっていた。 そんな中、一人の兵士が息を切らせて涼達の許にやってきた。

 

「どうかした?」

 

 一応、今日一杯は未だ連合軍の総大将である涼が兵士に尋ねる。

 兵士は息を整える事もせずに答えた。

 

「はっ! さ、先程っ、洛陽(らくよう)からの官軍が参りまして、盧植将軍に話が有るとの事でしたっ。」

「私に?」

 

 突然の事に盧植は少し戸惑いながら声を出した。

 

「ひょっとして、今回の勝利に対する恩賞かな?」

「まさか。今日の勝利の報が洛陽に届いたとしても、その返事がこんなに早く来る筈が無いわ。」

「それに、もし今回の勝利に対する恩賞なら、盧植さんだけというのはおかしいです。」

 

 桃香は笑みを浮かべながら推測するも、曹操と董卓によってそれは否定された。

 涼が居た世界なら、情報の伝達は数秒も有れば可能だが、この世界にはインターネットといった便利な物は疎か、電話すら無い。

 交通の手段にしても、飛行機は疎か電車も自動車も無い。

 そんな世界では遠くの街に情報が届くのに時間が掛かるし、当然ながら返事も遅くなる。

 因みに、現在涼達は広宗(こうそう)の南西に居るが、ここから洛陽迄はどんなに馬を飛ばしても一日で往復出来る距離では無い。

 また、黄巾党との戦いに勝利した事による恩賞だとしても、盧植だけというのは確かにおかしい。

 少なくとも、奇襲部隊を率いた涼や劉備に無いのは変だし、盧植と共に本隊を率いた董卓と曹操に無いのも不自然だ。

 なので、洛陽から来たその官軍が恩賞を届ける為に来た訳では無いのは確実だ。

 

「一体何の用かしら……? 皆さん、済みませんが私は一足先に帰らせてもらいますね。」

「解りました。では盧植さん、お休みなさい。」

「お休みなさい。」

 

 そう言って涼達は盧植と別れ、各々の天幕へと戻っていった。

 翌朝、昨日の疲れもあって天幕の中に在るベッドで熟睡していた涼は、桃香に強引に起こされようとしていた。

 

「ん……あと五分……。」

 

 未だ寝足りない涼はそんな呑気かつ定番の言葉を口にする。

 だが、この後に桃香が言った言葉によって、そんな眠気は一瞬にして吹き飛んだ。

 

「涼兄さん、早く起きて下さい! 先生が……盧植先生が捕まりそうなんですっ‼」

「……何っ!?」

 

 予想外の事に驚いて飛び起きた涼は、桃香に詳しい事情を訊こうとするも、慌てている所為か説明がよく解らなった。

 

「と、兎に角早く来て下さいっ‼」

 

 そう言って桃香は涼の手を引っ張って天幕から連れ出そうとするが、寝間着姿の涼は着替える時間をくれと言って天幕から出るのを躊躇った。

 

「直ぐ着替えて下さいねっ!」

 

 桃香はそう言って天幕を出て行った。流石に着替えの最中迄天幕の中に居るつもりは無かった様だ。

 桃香が出て行った後、涼は急いで着替えを済ませた。時間がかかっては桃香が戻ってくるかも知れなかったし、何より涼自身も焦っていたからだ。

 着替えを終えた涼が天幕を飛び出すと、直ぐ側で桃香が待っており、彼女に案内されて盧植の許に向かった。

 桃香に連れられてやってきたのは、それぞれの陣からの合流地点となっている広場。

 そこには各陣営の武将や軍師、兵士達が多数集まっていた。

 

「ですから何故、盧植将軍が捕まらないといけないのですか‼」

 

 そんな中、洛陽から来た官軍の兵士達に向かって、一人の少女が凄い剣幕でまくし立てていた。

 膝迄有る長い銀髪に野球帽の様な橙色の帽子を被り、黄色いワンピースを着ているその少女は、涼がよく知る人物だった。

 

「雪里、落ち着け。」

 

 そう言って雪里――徐庶に声をかける涼。

 だが雪里の怒りは一向に治まる気配は無い。

 

「これが落ち着いていられますかっ‼」

 

 雪里は振り向き様に涼に向かって大声をあげる。その形相は普段の冷静な雪里とは、余りにもかけ離れていた。

 涼はその迫力に圧されるも、何とか平静さを保ちながら尋ねる。

 

「そう言っても、俺はさっき起きたばかりで事態を把握していないんだ。済まないが説明してくれないか?」

 

 涼がそう言うと、雪里は怒りを治めないまま説明を始めた。

 

「どうもこうもありませんっ! 洛陽の連中は、盧植将軍を職務怠慢という有り得ない容疑で逮捕するつもりなんですっ‼」

「先生が職務怠慢だなんて、絶対に有り得ません‼」

 

 雪里の説明を聴いていた桃香が否定の声をあげる。すると、その場に居た連合軍の人間全てが頷いた。

 

「ですが、洛陽の連中はそう思っていない様です。彼等を派遣したのがその証拠!」

 

 雪里は視線だけを洛陽からの兵士達に向けた。その視線には明らかに殺意が籠もっており、眼力だけで人が殺せそうな感じだ。

 

「落ち着きなさい、徐庶。」

 

 そんな彼女に、一人の女性が優しく、かつ諫める口調で話し掛けてきた。

 

「先生!」

「盧植殿‼」

 

 桃香と雪里を始めとして、その場に居た連合軍の人間全てが盧植に目を向けた。

 盧植はストレートヘアに常の服装である和服とドレスを足して二で割った感じの服を着ていたが、その手には枷が填められていた。

 その姿を見た桃香達は嘆きの表情を浮かべ、ある者は涙を流し、またある者はいたたまれなくなって視線を逸らした。

 

「先生……!」

 

 桃香と雪里、そして涼が盧植の許に向かう。盧植の周りには洛陽からの兵士が居て、彼等を疎んでいる様だった。

 その直後に董卓や曹操迄も現れると、尚更その雰囲気は強くなったが、誰もそんな事を気にはしなかった。

 

「玄徳、そう嘆く必要は有りません。」

「でも……。」

 

 盧植に心配されるも、やはり表情は曇ったままの桃香。そんな桃香の手を握りながら盧植は続ける。

 

「私は何も(やま)しい事はしていません。ですから、何れ誤解は解けるでしょう。」

 

 そう言われて少しだけホッとした表情になる桃香。

 勿論、そう簡単にいかない事は桃香もよく解っていたが、それは表情に出さない様にしている。

 

「ですが、この状況で盧植殿が居なくなっては、兵達の士気に係わります。」

「でしょうね。でも、それを解決する為の手は有ります。」

 

 雪里に指摘された盧植は、そう言うとゆっくりと涼を見据えた。

 急に視線を向けられた涼は、何事かと思い緊張する。

 

「清宮様、貴方に私の軍全てを委ねます。」

「えっ!?」

 

 突然の事に驚く涼。

 それは桃香達も同じだったらしく、皆驚きながら涼と盧植を交互に見つめた。

 

「貴方は天の御遣いであり、昨日の戦いではその知略と行動力を私達に見せてくれました。そんな貴方になら、安心して兵達を預けられます。」

「……解りました。未だ未だ若輩者ですが、謹んでその申し出をお受け致します。」

「有難うございます、清宮様。」

 

 安心した盧植は頭を下げて感謝を示した。

 

「でも、一つだけ良いですか?」

「何でしょう?」

「俺はあくまで盧植さんの兵士達を預かるだけです。盧植さんが戻ってきたら、その時はきちんと兵士達をお返しします。」

「……解りました。これ以上は気を使わせるだけの様ですし、それで構いませんよ。」

 

 今度は逆に、涼からの申し出を受ける盧植。

 盧植はその優しさに微笑み、口を開いた。

 

「では、清宮様には兵達だけでなく私の真名(まな)も預けましょう。」

「良いのですか?」

「ええ。これは私の信頼の証と思って下さい。」

「解りました。」

 

 涼が承諾すると、盧植は姿勢を正してから改めて自己紹介を始めた。

 

「私は、姓は“盧”、名は“植”、字は“子幹(しかん)”、真名は“翡翠”。この真名、貴方に預けます。」

「丁重にお受けします、翡翠さん。俺には真名が無いので、これからは名前の“涼”でお呼び下さい。」

「解りました、涼様。」

「あの、“様”は別に付けなくて良いですから……。」

「フフ……これも私なりの信頼の証ですから、お気になさらぬ様に。」

「わ、解りました。」

 

 悪戯っぽく微笑む盧植――翡翠に対して、涼は苦笑しながら承諾した。

 一連の話が終わると、洛陽からの兵士達が翡翠を急かし始めた。一応今迄待っていた様だ。

 

「解っています。……董卓さん、連合軍を頼みますね。」

「はい、盧植様。どうか御安心下さい。」

 

 董卓は表情を引き締めて翡翠に応える。

 

「華琳ちゃん、皆さんと力を合わせ、この戦いを一日でも早く終わらせてね。」

「解っています、翡翠様。……今暫くの辛抱ですから。」

 

 曹操は怒りを押し殺した表情のままそう言った。

 

「徐庶さん、貴女は軍師です。ならばその本分……忘れてはなりませんよ。」

「はっ……しかと心に刻み付けておきます……っ。」

 

 雪里は必死に涙を堪えながら頭を下げた。

 

「玄徳……涼様や皆と力を合わせるのですよ。そうすれば、皆が望む平和な世の中に必ず戻るのですから。」

「はいっ……先生……っ‼」

 

 桃香は涙を堪える事が出来ず、遂に翡翠に抱きついて声をあげて泣いた。

 抱き締める事が出来ない翡翠は、優しい言葉をかけて桃香を宥めていった。

 

「では涼様……後を頼みます。」

「はい、翡翠様。」

 

 涼は恭しく頭を下げて返事とした。

 その後、翡翠は洛陽からの兵士達に連れられて連合軍から去っていった。

 翡翠が連合軍を去った後、兵士達は動揺していたが、涼達の指導によって何とか落ち着きを取り戻した。

 また、翡翠から涼に託された盧植軍の兵士達は前もって伝えられていたらしく、大きな混乱は無くそのまま義勇軍に組み込まれた。

 本来なら大軍である盧植軍に義勇軍が組み込まれそうだが、その辺りも翡翠がちゃんと指示していた様で、盧植軍の兵士達は誰一人として不満を口にしなかった。

 その後、曹軍は軍備増強の為連合軍から離脱するも、周辺地域に住む若者達が参加した為、兵の数はさほど変わらなかった。



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第六章 戦いが終わり、戦いが始まる・3

 こうして再編成と休息を終えた連合軍は進軍を再開した。

 広宗に残る旧張宝軍と対峙していた皇甫嵩(こうほ・すう)将軍や朱儁(しゅしゅん)将軍率いる部隊と合流し、旧張宝軍を撃破。

 その後、皇甫嵩将軍と朱儁将軍が豫州(よしゅう)に向かうと、連合軍は荊州(けいしゅう)南陽(なんよう)へ向かった。

 連合軍はそこで張曼成(ちょう・まんせい)趙弘(ちょうこう)韓忠(かんちゅう)孫夏(そんか)といった黄巾党南陽部隊と交戦。四ヶ月もの長き戦いの末、これに勝利する。

 これ程時間がかかったのは、敵が苑城(えんじょう)に立て籠もって籠城戦に持ち込んだ為である。

 だが、孫堅(そんけん)を始めとした部隊が朱儁将軍から派遣されると、彼等の活躍もあって均衡が崩れ、遂に勝利を収めたのだった。

 その後、各地での官軍の勝利が伝えられる様になった。黄巾党の勢いは完全に無くなっていたのだ。

 そんな中、荊州・苑城にて周辺地域の安定に努めている連合軍に、ある一報が届いた。

 

「どうやら曹操が、張角・張梁を討ったらしい。」

 

 その報せを受けた涼が、連合軍の軍議で発表した。

 因みに、翡翠や曹操が連合軍を去ってからも涼が連合軍の総大将を務めている。

 

「では、黄巾党は壊滅したという事かしら?」

 

 先の戦いから連合軍に参加している孫堅が尋ねる。涼の予想通り、孫堅も女性だった。

 孫堅は、桃色の長髪を結い上げた所謂ポニーテールの髪型をしており、服装は深紅のチャイナドレスを大胆に加工した物を着ている。

 年齢は涼より一回り以上上の筈だが、その美貌や色香は年齢を感じさせない程若々しい。

 その隣には孫堅と似た姿と服装の少女が座っている。

 彼女の名は孫策(そんさく)。孫堅の娘であり、後継者と目されている人物。孫堅の若い頃はこんなだったのかなと思わせる程、二人は良く似ていた。

 

「実質的にはそうなるね。張角と張梁が討たれ、残る張宝は依然として行方不明だ。もし張宝が再起したとしても、以前の様に混乱が広がる事は無いだろう。」

 

 涼は孫堅達を見ながら言った。

 百戦錬磨の豪傑と言われるが、今はそんな雰囲気を微塵も感じさせず、柔らかな物腰の孫堅と、常に殺気立たせている孫策。

 二人は良く似た姿をしているが、印象は全く違っていた。

 

「けど、残党は居るんでしょ? だったら戦いは未だ終わらないわ。」

 

 孫策は刺々しい口調でそう言った。

 確かに残党は居る。涼達連合軍が苑城に留まっているのも、先の戦いで投降せず逃げ出した黄巾党を討伐し、地域の治安回復を図る為だ。

 

「確かにね。だから今情報収集をしている所だよ。それが終わったら作戦を練って……。」

「遅い! それでは奴等を逃がすだけよ‼」

 

 涼の言葉を遮って孫策が叫んだ。

 その瞬間、その場に居た全員に緊張が走る。

 因みにここには、上座に涼と桃香、雪里が、涼から向かって左側に董卓と賈駆(かく)、そして旧盧植軍の武将と軍師が一人ずつ。右側に孫堅と孫策、そして孫堅の右腕たる武将、程普(ていふ)といったメンバーが居た。

 その程普が孫策に言った。

 

「若君様、少し落ち着かれると宜しいかと存じます。」

 

 孫策を見ずに静かな口調で言った程普を、孫策はキッと睨み付ける。

 因みに、やはり程普も女性だった。

 

「何よ、泉莱(せんらい)は私より清宮の味方をするつもり?」

 

 程普の真名と思われる名前を呼びながら、孫策は程普の前に立った。

 場の空気がより一層張り詰めていく。

 涼を始めとしたメンバーは皆どうするべきか悩んでいるが、孫堅は悩むどころか一向に動こうとしなかった。

 

「そうですね……今の若君様よりかは、総大将の味方をするでしょうね。」

「……孫家を裏切るつもり?」

「ふむ……若君様はもう少し言葉の勉強をなされた方が宜しいようですな。私は、若君様よりは総大将と言いましたが、殿より総大将とは一言も言っておりませぬよ。」

 

 段々と語気が強くなっていく孫策に対し、相変わらず冷静な口調と態度のままの程普。

 その態度が気に障ったのか、孫策は益々苛立っていく。

 

「……つまり、私は清宮より劣っていると言うの?」

「さて、それくらいは御自身でもお分かりになるのでは有りませんか?」

 

 程普のその一言で、孫策の堪忍袋の緒がバッサリと切れた。

 程普の真名を叫びながら、孫策は座ったままの程普の左側頭部に向けて右足を蹴り上げた。

 だが、程普は左手を瞬時に動かして孫策の右足首を楽々と掴んだ。お陰で孫策は動けなくなった。

 すると、程普がそのまま立ち上がったので、足を掴まれたままの孫策はバランスを崩して床に倒れた。

 孫堅と同じく大胆な露出が有るチャイナドレスを着ている孫策は、倒れた際に下着を露出させている。

 幸い、この場に居る男は涼一人だったので、恥ずかしさは少ないかも知れない。

 

「二人共、そこ迄よ。」

 

 そう言ったのは、今迄静観していた孫堅だった。

 途端に程普は手を離し、孫策もハッとして孫堅を見た。

 孫堅の表情は先程迄とは打って変わって、厳しく険しいものになっている。

 

「これ以上軍議を乱し、私の顔に泥を塗るつもりなら……幾ら愛娘や戦友とは言え、容赦はしないわよ。」

「承知致しました。」

「わ、解ったわよ……。」

 

 孫堅は氷の様に冷たい口調で喋り、まるで見た者を射殺す様な眼を二人に向けた。すると、先程迄あれ程怒っていた孫策が、瞬時に大人しくなった。

 孫策が席に戻るのを確認すると、孫堅は涼に向き直って口を開いた。

 

「お騒がせしたわね。軍議を続けてちょうだい。」

「あ、ああ。」

 

 そう言った孫堅の口調と表情はとても穏やかなものだった。激昂していた孫策を瞬時に萎縮させた人と同一人物とは、とても思えない。

 その後再開された軍議では、情報収集を進める事、食糧危機に陥っている民の為に食糧を分け与える事、そして、治安回復の為に連合軍の各部隊を周辺に配置する事が決まった。

 軍議終了後、孫策が軍議中の振る舞いについて涼に謝罪した。

 勿論涼は許したが、孫策は簡単に許された事を意外に思ったらしく、暫く涼を見つめていた。

 

「……貴方、変わってるわね。」

 

 孫策はそう言って退室した。

 

「……変わってるかなあ?」

 

 涼のそんな呟きに対し、雪里と賈駆は「変わっている」との評を下したのだった。



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第六章 戦いが終わり、戦いが始まる・4

 その後、各部隊の視察や街の様子の確認等をした涼は、疲れながら城へと戻った。

 城に在る広場の一つに足を運ぶと、そこでは孫策と程普が斬り合っていた。

 軍議中の事もあったので一瞬仲間割れかと思った涼だったが、直ぐ傍で孫堅が二人の戦いを見ていた為、それが模擬戦だと解った。

 

「随分本格的な鍛練だね。」

 

 涼がそう声をかけながら近付くと、二人は一旦手を止めて涼に挨拶をする。

 忘れてるかも知れないが、涼は連合軍の総大将なので、彼女達の上官なのだ。

 

「これぐらいやらないと身に付かないからね。」

 

 孫堅が涼に近付きながら言った。

 

「孫堅さん。」

「私は今貴方の部下なのだから、さん付けは要らないと言った筈だけど?」

「済みません。けど、これが俺のやり方なんで。」

 

 苦笑しながら涼が言うと、つられたのか孫堅も笑った。

 

「やっぱり貴方、変わってるわ。」

 

 孫策に言われた事と同じ事を孫堅にも言われた涼だった。

 その為改めて苦笑していると、孫策が近付きながらこう言った。

 

「丁度良いわ。私と手合わせしてくれないかしら?」

「えっ!?」

 

 突然の申し出に涼は困惑した。

 

「幸い今はあの五月蠅い関羽も居ないし……良い機会だと思ったんだけど?」

「そうかも知れないけど、わざわざ手合わせしなくても結果は見えてるよ。」

 

 涼は自分より孫策の方が強い事を解っていたので、苦笑しながらそう言った。

 だが、孫策はそれを違う意味にとったらしい。

 

「ふうん……そんなに腕に自信が有るのなら、尚更手合わせしたいわね。」

「……え?」

 

 全く想像していなかった言葉を聞いた涼は、苦笑する事さえ出来ずに思考が停止してしまった。

 そして思考が再び活動を始めると、涼は現状を理解した。

 

(もしかして孫策さん、すっごい誤解をしているのか!?)

 

 どうやら孫策は、涼が言った「結果は見えてるよ」を「自分(涼)が勝つ」という意味に捉えたらしい。

 

「いや、俺は別に強くないから。」

「強くもないのに連合軍の総大将をやれる訳無いじゃない。」

「それがやれてるんだよなあ……。」

 

 慌てて否定するも、孫策は全く信じようとしない。それどころか、総大将である以上はそれなりの実力が有ると考えている様だ。

 

「それに、本当に実力が無いのなら、私は貴方に従うつもりは無いわ。」

「困ったなあ……。」

 

 急に冷たい口調になった孫策は、殺気立った雰囲気になって涼を見据える。

 凄まじい殺気が涼を襲うが、数ヶ月間戦場に居るだけあって、涼はたじろぐ事すらしなかった。

 だが、それが却って孫策に戦う興味をそそらせる事になってしまった。

 

「三つも剣を持っているんだし、それなりに強いんでしょ? だったらその実力を私に見せてよ。」

「うーん……多分見せる間も無く終わっちゃうと思うよ。」

 

 涼はあっという間に自分が負けるだろうという意味で言った。

 だが、またも孫策は違う意味に捉えてしまった。

 

「つまり……私なんか簡単に倒せるって事かしら?」

「何でそうなるんだっ!?」

 

 二度も勘違いされて、思わずツッコミを入れる涼。

 だが、そのツッコミすら今の孫策の耳には届いていない様だ。

 

「ゴチャゴチャうるさいっ! そっちが来ないなら、私から行くわよっ!」

「ええっ!? ちょっと、二人共見てないで孫策さんを止めて下さいよっ!」

 

 剣を構える孫策を見た涼は、慌てて周りで静観している孫堅と程普に助けを求める。

 だが孫堅は、

 

「頑張りなさい♪」

 

と言って手を振り、また程普は、

 

「お気をつけ下さい。」

 

とだけ言って、助けようとはしなかった。

 

「ちょっと二人共ーっ!」

「余所見するとは余裕ねっ!」

 

 涼が孫堅と程普に文句を言おうとしていると、孫策が剣を構えたまま走ってきた。

 涼は慌てて雌雄一対の剣の一振り、「紅星(こうせい)」を抜いて構える。

 その間にも孫策は剣を右上に振り上げながら近付き、やがて振り下ろした。

 

「くっ!」

 

 キィン! という金属音が辺りに響き渡ると、そこには剣と剣を交えている涼と孫策の姿があった。

 

(何て重い一撃だよ……普通に受け止めてたら剣が折れたんじゃないか?)

(へえ……受ける際に剣を斜めにして衝撃を逃がした……。やっぱり、結構楽しめそうね。)

 

 涼は、孫策が振り下ろした剣に対して自分の剣を垂直に構え、更に剣と剣が当たる瞬間に斜めに倒した。

 そうする事で剣や自分に対する衝撃を和らげる事が出来る。まともにぶつかるのは、体にも剣にも良くないのだ。

 暫くそのままの姿勢で互いに剣を押し合い、次の一手を探っていた両者だったが、先に動いたのは孫策だった。

 

「はあっ!」

「ぐっ……!」

 

 孫策は剣を押し付けたまま蹴りを放ち、涼の左脇腹を抉った。

 内蔵が揺れる感触を初めて感じる。斬られる痛みより、ある意味苦しい痛みが涼を襲った。

 痛みの余りバランスを崩して倒れそうになる涼。そしてそんな涼に向かって剣を振り下ろす孫策。

 涼は痛みを堪えながら倒れ込む様に前に進み、孫策の足下に転がり込む。

 そうやって孫策の一撃が涼では無く地面に直撃すると同時に、涼は孫策の左足を掴んで力任せに引っ張った。

 

「きゃあっ!?」

 

 突然の事に立つ事が出来なくなった孫策は、剣を掴んだまま後ろに倒れた。

 だが、流石は孫策と言うべきか、この突然の事態にも孫策はきちんと受け身をとってダメージを最小限に抑えている。

 更に、掴まれていない右足を動かして涼を蹴りつけようとしていた。

 だが、その蹴りは目標に当たる事無く空を切った。

 

「……っ!」

「……っ。」

 

 涼は仰向けに倒れた孫策に馬乗りになり、その喉元に剣を突き付けていた。

 孫策を地面に倒した直後、涼は孫策がどう反撃するか予測した。

 倒れている人間が立っている相手に対してとる攻撃手段は限られている。

 テレビで観た総合格闘技等では、倒れた選手が立っている選手の足を蹴ってダメージを与えていた。涼はそれを思い出し、先に動いたのだ。

 

「……斬らないの?」

「仲間を斬る必要は無いだろ。」

 

 孫策の問い掛けにそう答えると、涼はそのままの体勢で剣を納め始めた。

 

「……未だ終わってないわよ。」

「え?」

 

 涼が疑問符を口にすると、孫策は涼の服の襟を掴んで力一杯投げ飛ばした。いつの間にか自分の剣を手離していた様だ。

 

「うわああっ‼」

 

 投げ飛ばされながらそんな悲鳴にも似た声をあげた涼は、孫策と違って上手く受け身を取れなかった。その為、固い土の上に叩きつけられた涼は一瞬呼吸が出来なくなり、やがて咳き込んだ。

 

「戦いは、相手を殺すか完全に屈服させる迄続くものよ。そんな事も解らないのなら貴方……死ぬわ。」

 

 そう言って孫策は立ち上がり、剣を掴んだ。

 涼は漸く立ち上がるが、剣を抜こうとはしない。

 

「……そんな事は解ってる。けど、今は殺し合いをしていた訳じゃないだろ。」

「まあね。……けど、私は言ったわよね? 自分より弱い相手に従う気は無いって。」

「……確かに、そんな事を言ってたね。」

 

 痛むのか、蹴られた左脇腹を右手で押さえながら会話を続ける涼。

 孫策が言っている事は間違っていない。寧ろ正しいだろう。

 この世界は乱世の兆しを見せている。そんな中では強い者が民や兵を率いるのが普通だ。

 それなのに、弱い者が“天の御遣い”というだけで総大将になっている。それが孫策には気に入らないのだろう。

 

(まあ……部隊の指揮は上手いし、ちゃんと自らも戦っている姿勢は認めるけど。)

 

 孫策は涼を睨み付けながらそうも思う。

 

(けど、だからといって今のままじゃ私の気が収まらないのよね。)

 

 認める所は有っても納得出来ない事も有る様だ。

 

(……だから、少し怪我するかも知れないけど、我慢しなさいよね。仮にも貴方は、私達の総大将なんだからっ!)

 

 心の中でそう語り掛けながら、孫策は涼に向かって走り出した。

 その頃城の廊下では、董卓が軍師であり親友である少女に話し掛けていた。

 

(えい)ちゃん、街の様子はどうだった?」

「大分安定してきたわ。これなら、近い内に洛陽に凱旋出来そうね。」

 

 それに対し、「詠」という真名を呼ばれた親友、賈駆は簡潔に感想を述べた。その顔には少し疲れが見えている。

 

「詠ちゃん、少し休んだ方が良いよ。何だか顔色が悪いみたい……。」

「有難う、(ゆえ)。けど、これくらいで休んでいたら、アイツに何言われるか解ったもんじゃないし。」

「アイツって……雪里さんの事?」

 

 董卓を真名である「月」と呼んだ賈駆は、「アイツ」と言いながら顰めっ面になった。そんな賈駆に対して、董卓は疑問符を浮かべながら徐庶の真名を口にした。

 

「そう! アイツったら、連合軍の筆頭軍師だからか知らないけど大きな顔してるし、何だか癇に障るのよ。」

「けど詠ちゃん、筆頭軍師を決める時に辞退したのは誰だったかな?」

「それは……ボクだけど……。けどそれは、月が連合軍の総大将じゃないから辞退しただけだし……。」

「けど辞退しちゃったんだよね?」

「う、うん……。」

 

 笑顔のまま確認する董卓に、賈駆は口ごもりつつ答える。

 

「だったら少しは我慢しないとね。それに、雪里さんは悪い人じゃ無いよ。」

「月は優し過ぎるのよ。……あの男にだって優しいし……。」

「あの男?」

 

 賈駆の言葉が誰を指すのか解らない董卓は、賈駆の言葉を繰り返した。

 

「うちの総大将の清宮涼の事よ。」

「あ、ああ……。」

 

 言われて漸く気付いたらしく、董卓は途端に焦りの表情を見せる。

 そんな董卓を複雑な表情で見つめながら、賈駆は話を続けた。

 

「……確かにアイツはうちの総大将だけど、実績で言ったら未だ未だ月の方が上なんだからね。今からでも役職を取り替えたって良いと思うわよ?」

「だ、駄目だよ詠ちゃんっ。そんな事したら連合軍が分裂しちゃって大変だよぅ。……それに、私より清宮さんの方が指揮は上手いじゃない。」

「……そうなのよねぇ。徐庶が上手く補佐しているからだろうけど、指揮や鼓舞に無駄が無い。」

「あと、私と違って一人でも戦える。」

「総大将が自ら前線に赴くのはどうかと思うけど、実際、意外とやるのよね。これも関羽や張飛のお陰かしら。」

 

 この会話から察すると、どうやら董卓と賈駆は涼を認めている様だ。

 まあ、賈駆は何だか釈然としていない様だが。

 

「愛紗さんと鈴々ちゃん、それに今は時雨さんも清宮さんの武術の先生だもんね。」

「天の国じゃ武器を持った事すら無かったらしいけど、今じゃ黄巾党みたいな賊くらいなら簡単に倒せる腕前になってるみたいよ。」

 

 董卓が笑顔のまま話すと、賈駆もつられて微笑みながら応えた。

 二人が言う通り、涼は義勇軍結成以来ずっと愛紗と鈴々に武術の稽古をつけて貰っている。また、最近では時雨も稽古に加わっており、涼の実力は飛躍的に向上している。

 因みに、桃香も一緒に稽古をしているのだが、涼の様には強くなっていなかったりする。

 

「うん。だからやっぱり私より清宮さんが総大将に合ってるんだよ。」

「……まあ、月がそう言うなら良いけどさ。」

 

 相変わらず笑顔のままの董卓にそう言った賈駆だったが、暫く考えてから話し出した。

 

「そう言えば、月は関羽達とは真名を預け合ってるんだよね?」

「うん。皆さんとはもう長い付き合いだしね。」

 

 董卓達が涼達と出会い、義勇軍を結成してから、間も無く五ヶ月になろうとしていた。

 その間に兵士達は勿論、武将や軍師、指揮官も皆交流し、親交を深めていた。

 董卓が関羽達の真名を呼んでいるのがその証だ。

 

「……それなら、ね。」

「……何?」

 

 賈駆が歯切れが悪そうに話した事に気付いたのか、董卓は不安な表情になって聞き返した。

 賈駆はそんな董卓の眼を見ながら言葉を繋ぐ。

 

「……何で清宮には真名を預けていないの?」

「え……ええっ!?」

 

 思いも寄らない質問だったのか、董卓は大声をあげて驚いた。

 何故か顔が真っ赤になっている董卓は、焦りながら賈駆の問いに答える。

 

「そ、それは……っ。」

「それは?」

「えっと……ほら、清宮さんは“天の御遣い”だから、畏れ多いし……。」

「けど、関羽達は真名を預けているわよ?」

「へぅ……けどほら、愛紗さん達は義勇軍結成時からの仲間だし……。」

「張宝軍との戦いの後に仲間になったあの二人は真名を預けているみたいだけど?」

「へぅぅ……。」

 

 賈駆に言い負かされた董卓は、焦りと落ち込みを同時に表した器用な表情になって俯いた。

 それを見て意地悪し過ぎたかと感じた賈駆は、董卓の髪を軽く撫でると、優しく、それでいて複雑な気持ちを内包した声で言った。

 

「……何が有ったか知らないけど、ボクはいつだって月の味方だよ。だから、もし相談したくなったら遠慮無く言ってね。」

「うん……有難う、詠ちゃん。」

 

 董卓はそう言って笑顔を見せた。

 だが、それを見た賈駆は表面上は笑顔を返したものの、心の中では董卓に謝っていた。

 

(……ゴメンね、月。本当は、貴女の悩みが何なのか判ってるんだ。)

 

 賈駆は董卓と知り合って長い。それだけに彼女の事は誰よりも理解している。ひょっとしたら、董卓の家族より理解しているかも知れない。

 だから、賈駆は董卓が涼に真名を預けていない「本当の理由」にも、何故そうなったかも見当がついていた。

 だが、賈駆はそれを董卓に言うつもりは無い。

 

(いつか月が自分から言ってくれる迄待つ。それが、ボクの答え。……まあ、複雑な心境なのは変わりないんだけどね。)

 

 自分の為、そして何より親友の為に、今は深く追及しない事にした。

 そんな賈駆と董卓の耳に、一人の少女と一人の少年の声が聞こえてきた。

 

「はああああっ‼」

「くうっ!」

 

 しかもその声は、話し声という類のものでは無い。

 

「な、何よ今の!?」

「今の声……孫策さんと清宮さん!?」

 

 まるで戦っているかの様な二人の声に驚き、戸惑いながらも、董卓と賈駆はその声の許へと向かった。

 涼と孫策の声は、城の中に在る広場の一つから聞こえている。

 その広場に着いた二人は、見たくない光景を目にした。

 

「なっ!?」

「清宮さん! 孫策さん‼」

 

 二人の目に映ってきたのは、涼に斬りかかる孫策と、それを紙一重で避け続ける涼という光景だった。

 

「邪魔しちゃ駄目よ、董卓さん、賈駆さん。」

 

 慌てて止めようとした二人にそう言ったのは、孫策の母であり孫軍の大将である孫堅だった。

 更に孫堅の正面約十五メートル先には程普が座っており、二人共、涼と孫策の「戦い」を静観している。

 そんな二人に対し、董卓は困惑しながらも出来るだけ毅然とした態度で尋ねた。

 

「孫堅さん、これは一体どういう事なんですかっ!?」

「どういう事って……見ての通り、うちの孫策と総大将殿の模擬戦よ。」

 

 だが、孫堅はそんな董卓に微笑みながら答えた。

 続けて、賈駆が尋ねる。

 

「とても模擬戦には見えないんだけど?」

「うちはいつもこんな感じよ。ねえ?」

「はい。」

 

 孫堅と程普が平然とそう言った事で董卓は困惑し、賈駆は疑惑の目を向けた。

 現状を把握しきれない董卓は、オロオロしながら孫堅達と涼達を交互に見るしか出来なかった。

 そんな董卓の両肩を掴みながら、賈駆は励ます様に言葉を紡いだ。

 

「月、落ち着いてっ! 混乱するのは解るけど、今はボク達に出来る事をしましょう!」

「私達に出来る事……?」

 

 未だ困惑している董卓だが、賈駆が何度も励ましていくと落ち着きを取り戻していった。

 

「……私は邪魔しちゃ駄目って言った筈だけど?」

 

 そんな二人に、孫堅は涼達の「模擬戦」を見ながら再び忠告する。

 だが、賈駆はその忠告を毅然とした態度ではね退けた。

 

「悪いけど、ボク達が貴女の言う通りにする必要は無いわ。」

「ふうん……どうしてかしら?」

 

 強気な賈駆に孫堅は視線だけを向けたが、その口元は少しだけ綻んでいた。

 賈駆が孫堅のそんな表情の変化に気付いたかは解らないが、先程の孫堅の問いには答えていった。

 

「月……董卓は連合軍の副将で、ボクは副軍師。一方、貴女達は一軍の将とは言え、立場は劉備・清宮軍や董卓軍より下になっている。解っているでしょうけど、指揮系統の確立や軍律の遵守は、組織を保つ為に必要不可欠なもの。なら、立場が上であるボク達が貴女達に従う必要は無いわ。違う?」

 

 そこ迄言うと、賈駆は孫堅と程普を交互に見据えた。

 だが孫堅も程普も表情や姿勢を崩さず、静かに賈駆の次の言葉を待っていた。

 どんな組織にも役職が有る様に、連合軍にもまた役職が有る。

 連合軍結成当初は、総大将以外は各部隊毎に動いていたが、盧植や曹操の離脱や連合軍の規模の拡大、戦いの長期化といった経緯を辿った結果、明確な役職や厳格な軍律が決められた。

 その結果決まった主な役職は次の通り。

 

『総大将・清宮涼(きよみや・りょう)

『副将・董仲穎(とう・ちゅうえい)

『副将補佐・孫文台(そん・ぶんだい)

『筆頭軍師・徐元直(じょ・げんちょく)

『副軍師・賈文和(か・ぶんわ)

『副軍師補佐・簡憲和(かん・けんわ)

『部隊統括・劉玄徳(りゅう・げんとく)

『第一部隊隊長・関雲長(かん・うんちょう)

『第二部隊隊長・張翼徳(ちょう・よくとく)

『第三部隊隊長・田国譲(でん・こくじょう)

『第四部隊隊長・劉徳然(りゅう・とくぜん)

『第五部隊隊長・孫伯符(そん・はくふ)

『第六部隊隊長・程徳謀(てい・とくぼう)

 

 勿論、未だ役職は有るが今回は割愛する。

 因みに部隊の数字が小さい順に立場が上になっており、緊急時等の指示の優先順位も上になっている。

 その為、愛紗は部隊長の筆頭であり、孫策や程普の立場は愛紗より低い事になる。

 

「……軍律を乱したらどうなるか、孫文台ともあろう者が解らない筈無いわよね?」

「まあね。」

 

 賈駆の質問を、孫堅はやはり視線だけを向けて答えた。

 

「なら、副軍師として警告するわ。今直ぐ孫策を止めないと、貴女達全員の命が無いわよ。」

「うーん、未だ死にたくは無いわねえ。」

 

 状況は決して良いと言えないのに、何故か孫堅は軽く答える。程普に至っては先程から微動だにしていない。

 

「けどまあ、折角だから最後迄続けましょうよ。」

「……本気で言ってるの?」

「勿論本気よ。」

 

 そう言った孫堅は満面の笑みを浮かべていた。

 

「……仕方無いわね。」

 

 賈駆は孫堅の真意を測りきれないまま嘆息し、眼鏡の位置を整えながら言った。

 

「このまま見過ごす訳にはいかないわ。……月、ボク達は関羽達を探しに行くわよ。」

「う、うん。でも……。」

 

 董卓は、依然として孫策の攻撃を避けている涼を見ながら躊躇う。

 

「……残念だけど、ボク達じゃあの二人を止められない。アイツを助けたいなら、少しでも早く関羽達を見つけないと。」

「うん……っ。清宮さん、もう少しだけ待っていて下さいっ!」

 

 董卓と賈駆はそう会話を交わすと、今来た道を引き返し、やがて二手に分かれた。

 邪魔しちゃ駄目と言っていた孫堅はそんな二人を止めようとはせず、只静かに見送っていた。

 

「……良いのですか?」

 

 じっとしたままの程普が、姿勢を崩さずに尋ねる。

 

「良いんじゃない? あの娘達が関羽達を連れてくる頃には決着してるかも知れないし。」

「……了解しました。」

 

 孫堅の答えを聞いた程普はそう言って再び沈黙した。

 それが程普の常なのか、孫堅は何も言わない。

 孫堅はそのまま涼と孫策の「模擬戦」に目を向ける。

 相変わらず、涼は孫策の攻撃を避け続け、孫策は避けられても追撃し続ける。両者共に体力が尽きてきたのか息が荒くなっているが、それでも動きは止まらない。

 また、涼は先程納刀して以来一度も抜刀していない。つまり反撃してもパンチやキックしかしていない事になる。

 

(……抜刀して反撃しないのは、雪蓮が本気じゃないと思っているから? それとも、さっき言った様に戦う必要が無いと思っているから? ……どちらにしても、この時代にそぐわない甘い考えね。)

 

 避け続ける涼を見ながら、孫堅はそう思った。

 

(けど……その信念を貫き通せるなら、それは大きな力になる。そうなったら、私達にとって吉となるか凶となるか……楽しみね。)

 

 将来敵対するかも知れないと思いながら、孫堅は笑みを浮かべていた。



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第六章 戦いが終わり、戦いが始まる・5

「何だと!?」

「お兄ちゃんが孫策に殺されるかも知れないのか!?」

「そんな……涼兄さん……っ。」

「わっ! 桃香様、お気を確かにっ!」

 

 不測の事態に驚き戸惑う面々。因みにこれ等の台詞は、愛紗、鈴々、桃香、雪里のものだ。

 愛紗達を見つけたのは賈駆だった。

 愛紗と鈴々は城の西に在る広場で兵士達の調練に勤しんでいて、桃香と雪里は街の視察から帰った序でに愛紗達の調練の様子を見に来ていた。

 その後休憩していた愛紗達を賈駆が見つけ、今起きている事を伝え、冒頭の台詞に繋がる。

 

「孫堅達め……義兄上(あにうえ)を手にかけようとは、一体どういうつもりだ……!」

「お兄ちゃんに何かあったら、鈴々がぶっとばしてやるのだっ!」

 

 愛紗と鈴々は自身の得物を手に怒りを露わにしている。この場に孫堅達が居たら、間違い無く斬りかかっているだろう。

 

「冷静に……と言っても無駄の様ですね。なら、早く清宮殿の許に向かいましょう。」

 

 そう言って冷静に努めようとする雪里ですら、こめかみがピクピクと動いていた。

 

「涼兄さん……!」

 

 桃香は先を行く愛紗達の後ろ姿を見ながら、胸の鼓動が速くなるのと、その奥がチクリと痛むのを感じていた。

 途中で、時雨達を連れた董卓と運良く合流した賈駆は、そのまま涼の許に向かった。

 だがそこには、賈駆達が思いも寄らなかった光景が広がっていた。

 

「なっ……!?」

「清宮さん……!?」

 

 その光景を見た賈駆達は思わず立ち止まる。

 

「ぐっ……!」

「……今度こそ勝負有りだね?」

 

 悔しそうな声を出す孫策と、勝ち誇っている涼。

 涼は地面に倒れている孫策の体に跨り、その首筋に手刀を添えている。

 また、孫策の右手に有った剣は孫策の後方の地面に垂直に突き刺さっていた。

 先程迄劣勢だった涼が何故優位に立っているのか解らない董卓と賈駆は、その光景を見て唖然としている。それは、賈駆から「涼が殺されそう」と聞いていた桃香達も同じだった。

 

「……何だか、話が違うみたいだけど。」

「う、うん……ボクも驚いてる。」

 

 戸惑いながら答えた賈駆は、さり気なく孫堅と程普に目をやった。

 二人共先程と同じ場所に居たが、その表情は明らかに驚いている。彼女達もこの状況は予期していなかった様だ。

 

「……孫堅さん、一体何があったんですか?」

 

 そんな中、董卓が孫堅に近付き尋ねる。

 その問いに孫堅は自分の髪を触りながら答えた。

 

「伯符が清宮殿に対して一方的に攻撃していたのは見ていたわよね?」

「はい。」

 

 董卓は孫堅を見ながら頷いた。

 

「それはほんの少し前迄続いていたの。だけど……。」

「突然、総大将殿は避けるのを止め、若君様に向かって行ったのです。」

 

 孫堅が言葉に詰まると、代わりに程普が説明しだした。

 

「それって、抜刀して向かったって事ですか?」

「いえ、納刀したままでした。」

「無茶するわね……。」

 

 董卓の問いに程普が答えると、説明を聞いていた賈駆は額を押さえながら呟いた。

 だが、桃香達は賈駆とは違う反応を見せていた。

 

「そっかあ、だったらこうなったのも解るね。」

「ええ。」

「解るのだー。」

「確かに。」

 

 桃香達は皆納得した表情で感想を述べ、それは董卓と一緒に来た時雨達も同じだった。

 その事を疑問に思いながらも、董卓は程普に説明を続ける様に促した。

 

「総大将殿がそう動くと、若君様は一瞬戸惑いました。」

「何故ですか?」

「元々、若君様は総大将殿を斬るつもりが無かったからです。」

「あんなに殺気立っていたのにですか?」

「若君様は戦の天才です。殺気だけを発する事くらい、雑作もありません。」

 

 程普がそう断言すると、董卓は依然として涼に手刀を突きつけられたままの孫策を見た。

 先の黄巾党南陽部隊との攻城戦で、孫策はその類い希なる戦闘能力を敵味方問わず見せ付けていた。

 たった一人で五十人以上の黄巾党を瞬時に斬り伏せ、遂には当時の敵将・韓忠を一刀の許に斬り捨てた。

 その後、黄巾党は新たに孫夏を大将に据えると、今度は孫堅と共に孫夏を討ち取る等、その武勇は瞬く間に連合軍全体に広がっていった。

 そんな孫策なら、実際に斬る気が無くても殺気を発する事が出来るかも知れない、と、董卓はそう結論付けた。

 

「それで、どうなったのですか?」

「斬るつもりが無い相手が接近してきたので、若君様の剣は止まりました。すると、総大将殿は若君様の懐に飛び込んでその剣を蹴り飛ばし、その勢いのまま身を屈め、若君様の足を蹴り、地面に倒したのです。」

「そして、倒れた孫策に清宮が馬乗りになり、首筋に手刀をあてがった、と言う訳ね。」

「はい。」

 

 程普の説明が終わりに近付いたとみて賈駆が結末を先に言うと、程普はそれを肯定した。

 

「……正直言って、伯符が負けるとは思わなかったから、この結果に驚いているわ。」

 

 孫堅は涼と孫策を見ながら言った。

 その言葉は嘘偽りの無いものだろう。表情に驚きを隠せていない。

 そんな孫堅の心中を察しているかどうかは知らないが、涼は未だに孫策に馬乗りになったままだった。

 

「どうするんだ、孫策?」

「……解ったわよ。」

 

 涼の問いに孫策は観念した様に呟き、それを聞いた涼は手刀を離した。

 

「やれやれ……。」

 

 涼はホッとした様に呟き、孫策から離れようと立ち上がりかけた。

 

「ちょっと待って。」

「ん?」

 

 だが、孫策が引き止めた為、涼はその動きを止めなければならなくなった。

 

「私を倒せる力が有るなら、何故最初から見せなかったの?」

「見せたくても、俺にそんな力は無いよ。」

「なら、今私が地に倒れているのは何故かしら?」

 

 孫策の問いに涼は正直に答えたが、孫策は納得していない。

 仕方無く、涼は説明を続けた。

 

「先ず、君が俺を斬る気が無かったのが勝因の一つかな。」

「……気付いていたの?」

「最初は気付かなかったけどね。俺が君の攻撃をあんなに避けられる筈無いから、そこで気付いたんだ。」

 

 戦い始めて数ヶ月の人間が、ずっと昔から戦ってきた人間に勝つのは難しいだろう。

 今迄涼が勝てていたのは、相手である黄巾党が元農民の集まりで、一人一人はそれ程強く無かったからだ。

 

「だから、俺が君の攻撃範囲にわざと入ったら、間違い無く動きが止まる。そこが狙い目だったんだ。」

「……成程。そうして動きが止まった時に接近して攻撃、って訳ね。」

「そういう事。」

 

 孫策が分析すると、涼は軽く笑みを浮かべて肯定した。

 

「けど、それは危険な賭けじゃない? 私が剣を止められなかったら、貴方は死んでいるわよ。」

「そうだね。けど、俺は余り不安に思わなかったよ。」

「どうして?」

 

 孫策が疑問に思うと、涼は殆ど間を置かずに答えた。

 

「孫伯符が失敗するとは思わなかったから、かな。」

「……っ!」

 

 涼は他意も無く正直に答えた為、自然と笑顔になって孫策を見つめていた。

 涼と目が合った孫策は何故か言葉に詰まり、涼から目を離せないでいる。

 だが、涼は孫策の様子に気付かず、尚も見つめ続けていた。

 

「……どうした?」

「な、何でも無いわ。」

 

 漸く気付いた涼が尋ねるも、孫策は目を逸らしながらはぐらかす。

 

「……変なの。」

 

 暫く考えてからそう呟き、涼は今度こそ孫策から離れようとした。

 

「……待って。」

「未だ何か有るのか……っ!?」

 

 孫策が再び呼び止めた為、涼はまたも動きを止めなくてはならなくなった。

 すると、孫策は涼の顔を両手で掴み、自分の顔に近付けた。

 

「な、何……?」

「……そんなに信頼してくれるのなら、私もそれに応えないとね……。」

 

 そう言って孫策は目を瞑り、自分の唇を涼の唇に重ねた。

 

「……っ!?」

 

 突然の事にどう反応して良いのか解らない涼は、全く動けずに只されるがままでいる。

 周りに居た桃香達は皆呆気にとられたまま二人の口付けに見入り、孫堅と程普もまた驚きながらその様子を眺めていた。

 やがて、孫策は唇をゆっくりと離した。

 

「……っ。異性にはこれが初めてなんだから、少しは喜びなさいよ。」

「あ……うん。…………異性には初めて……?」

 

 顔を赤らめながらそう言った孫策を見ながら、涼は疑問符を浮かべた。

 

「それはまた後で話すわ。それより、もう退いて良いわよ?」

「あ、ゴメンっ。」

 

 そう言われて涼は慌てて孫策から離れた。

 よくよく考えてみれば、年頃の女性に馬乗りになっていたなんて、かなり大胆だったなと、今更ながらに照れている。

 

「雪蓮よ。」

「え?」

 

 立ち上がり、服や髪に着いた土や砂を払いながら、何気なく孫策は言った。

 

「私の真名、“雪蓮(しぇれん)”を貴方に預けるわ。」

「良いのか?」

「当然よ。貴方の力量は解ったし、何より、私達は接吻した仲だしね♪」

 

 そう言うと孫策――雪蓮は涼に抱きついてきた。

 涼はまたも突然の事に戸惑い、されるがままになっている。

 

「ちょっ……孫策っ、苦しいって……っ。」

「ちゃんと真名で呼ばないと離さないわよ♪」

「しぇ、雪蓮……苦しいから少し離れて……。」

「うーん、涼が初めて真名を呼んでくれたから、もう少しこのままで♪」

「おいこら、話が違……っ。」

 

 反論しようとした涼だったが、その口は雪蓮の胸で塞がれてしまった。

 雪蓮は母親である孫堅同様、抜群のスタイルを誇っている。

 やはり抜群のスタイルを誇る桃香や愛紗でさえも、つい魅入ってしまう程のプロポーションだ。

 そんな彼女に抱き締められるとは、何て羨ましいんだ。

 まあ、そんな状況だと、

 

「涼兄さんっ!」

「総大将なのですから、もう少ししっかりして下さいっ‼」

 

当然ながら、桃香や愛紗といった義妹達がしゃしゃり出て来る訳だが。

 その後、一悶着あったものの何とか事態は終息した。

 敢えて言うなら、桃香や愛紗は涼が女性にだらしないと叱ったり、

 雪里や賈駆は自業自得と呆れていたり、

 雪蓮や孫堅はそんな風に言われる涼を、面白そうに見ていたりしたくらいだ。

 

「疲れた……。」

「孫策の色香等に惑わされているからです。」

「それは関係無いんじゃ……。」

 

 定時会議の時間が迫っていたので、皆一旦自室へと戻る事になった。

 その最中、涼は尚も愛紗から諫められている。

 そんな中、桃香は自身の胸の内に生まれた気持ちに戸惑っていた。

 

(何なのかな……このモヤモヤとした感じ……。)

 

 そう思いながら桃香は自身の豊かな胸に手を当てる。

 

(涼兄さんの周りに女の子が居るのは、今に始まった事じゃ無いのに……。私、心が狭いのかな……?)

 

 そう自己嫌悪しながら、桃香は涼の後ろ姿を見続けていた。

 一方、董卓と賈駆は桃香達の少し後方を歩きながら話している。

 

「……先、越されちゃったわね。」

「うん……。」

 

 一体何の先を越されたのか、主語や述語を言わなくても解る二人だ。

 

「それで……どうするの?」

「……言うよ。もう決めたから。」

「そっか……。」

 

 親友の決意に、賈駆は一瞬複雑な表情を浮かべるも、直ぐに表情を引き締め、先程と同じ様に応援する。

 先程の会話と今の会話の両方共、何をするのかはハッキリ言わなかったが、最早言わなくても解る事だった。

 

「……頑張ってね、月。」

「有難う、詠ちゃん……。」

 

 賈駆が最後に改めて言葉をかけると、董卓は笑顔を浮かべて応え、そして視線を移す。

 その視線の先に居るのは、連合軍の若き総大将の姿だった。



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第六章 戦いが終わり、戦いが始まる・6

 その夜、涼は自室で仕事を片付けていた。

 連合軍の総大将ともなると、報告書の類の処理だけでも膨大な時間が掛かる。

 昼間は雪里や賈駆といった軍師達に手伝ってもらったりしているが、流石に夜中に呼びつける訳にはいかない。

 涼は男で雪里達は女だから、有らぬ噂が立ったり間違いが起こってはいけないからだ。

 但し、今からこの部屋に来る人物だけは例外だ。

 部屋の扉が二度ノックされる。

 本来この世界にノックという風習は無いのだが、涼は総大将という立場を利用し、天界の風習として全員に徹底させていた。

 結構好評なのか、今では皆違和感無くやっている。

 

「どうぞ。」

 

 涼の声を合図に、ゆっくりと扉が開いた。

 

「劉徳然、入ります。」

 

 そう言って入ってきたのは、水色の髪の少女だった。

 少女は扉がきちんと閉まったのを確認してから、ゆっくりと涼の前に進んだ。

 因みにこの部屋には机とベッドとテーブルと箪笥が在り、涼は今机に向かって仕事をしている為、少女とは机を挟んで対峙している。

 

「いつもこんな時間に呼び出して悪いな。」

「いえ、事情は解っていますから。」

 

 そう言葉を交わした後、涼は椅子を勧め、少女はそれに従った。

 それから暫くは取り留めない会話をしていたが、やがて涼は腕時計に目をやり、時間を確かめてから言った。

 

「……そろそろ良いかな。いつも通りに戻って良いよ、“地和(ちいほう)”。」

「ふーっ。やっと楽出来る〜。」

 

 そう言って両手を組んで上げ、伸びをする劉徳然。

 そんな彼女を、涼は「地和」と呼んだ。

 

「ゴメンな、いつも堅苦しい思いをさせて。」

「ううん、気にしないで。これも、ちぃを守る為に涼がしてくれてる事だから、そんなに堅苦しくないわ。」

「そっか。流石に、連合軍内で張宝って名乗る訳にはいかないからな。」

「まあね。」

 

 そう、先程劉徳然と名乗った少女の正体は、張三姉妹の次女、張宝だったのだ。

 涼が張宝を匿うと決めた後、外見は髪型を変えたり服装を整えたりして何とか誤魔化す事が出来たが、名前をどうするかは決めていなかった。

 すると桃香が、

 

『じゃあ、“劉徳然”って名乗ったら良いよ♪』

 

と言ってきた。

 桃香によると、劉徳然という名前は桃香の従姉妹の名前で、現在は桃香の生まれ故郷である楼桑村(ろうそうそん)の隣村に住んでいるという。

 その者の名を借り、時雨達と共に桃香に会いに来たという設定にすれば、張宝がこの場に居ても不自然じゃないという事だ。

 因みに本物の劉徳然の真名は「梨香(りか)」と言うが、流石に真名迄借りるのは気が引けたらしいので、涼が張宝の真名である「地和」と、本物の劉徳然の真名「梨香」から一字ずつとって、「地香(ちか)」という真名を作って与えている。

 

「……それで、話は何?」

「うん……。」

 

 張宝――地和が尋ねると、涼は一瞬目を逸らしてから言った。

 

「……今日、広宗の官軍から報告書が届いた。……曹操が黄巾党広宗部隊を征伐したらしい。」

「え……。」

 

 そう聞かされた地和は、まるで言葉を失ったかの様に絶句した。

 やがて、手や体が震えだし、目の焦点も定まらなくなっている。

 

「嘘……よね……?」

 

 地和は声を震わせながら、絞り出す様にそう言った。

 瞳は潤んでおり、いつ決壊して涙が零れ落ちてもおかしくない。

 

「……こんな嘘を言う程、俺は意地悪じゃないよ。」

「……っ!」

 

 涼の言葉によって、地和の瞳の堤防は呆気なく決壊した。

 涙はとめどなく流れ出し、地和が両手で抑えても塞ぎきれない。

 

「……お姉ちゃんや……人和(れんほう)はどうなったの……?」

 

 涙を流しながら地和は尋ねる。

 因みにお姉ちゃんとは張三姉妹の長女である張角の事で、人和とは張三姉妹の末妹である張梁の真名だ。

 

「……報告書には、張角・張梁共に討ちとったとあった。そうして指揮官を失った広宗の黄巾党は、呆気なく全滅したらしい……。」

「そう……なんだ……。」

 

 涙の量が更に増える。

 血を分けた姉妹を失ったのだから、その悲しみや辛さは相当なものだろう。

 

「どうして、こんな事に……ちぃ達は、只三人で歌っていたかっただけなのに……。」

「地和……。」

 

 涼は泣き続ける地和に近付いて、まるで子供をあやす様にそっと抱き締める。

 髪や背中を撫で、落ち着かせようとするが、その優しさが却って地和の涙腺を緩くし、泣き声は激しい嗚咽へと変わった。

 どれだけの間泣き続けただろうか。

 地和の嗚咽は漸く沈静化し始めていた。

 

「……落ち着いた?」

「うん……。」

 

 涼の胸元に顔を埋めたまま、地和は力無く答えた。

 そんな地和を、涼は優しく撫で、更に落ち着かせていく。

 

「ゴメン……。」

「……どうして涼が謝るの?」

「……俺が部隊を広宗に残していれば、張角と張梁も匿えたり逃がせたり出来たかも知れないから……。」

「有難う……。けど、あの状況じゃそれは出来なかったでしょ?」

「うん……。」

 

 涙を拭きながら地和が言うと、涼もまた力無く答えた。

 広宗の旧張宝軍を倒した後、涼達連合軍は南陽に向かった。

 涼はそのまま残って張角と張梁を探したかったが、南陽黄巾党が依然として勢力を誇っていた為、その討伐に連合軍があてがわれた。

 南陽は広宗からかなり離れた場所の為、涼は皇甫嵩将軍と朱儁将軍に頼もうとしたが、二人は豫州に向かう事になっており、また、広宗に残っていた張角軍と張梁軍には洛陽から派遣された何進の部隊が対処する事になっていた。

 実はこれは、張宝を討った連合軍に張角や張梁迄討たれては大将軍としての立場が危ういと考えた何進(かしん)による措置だった。

 何進とは、洛陽の街を取り締まる大将軍という役職を務める女性だ。

 元々は洛陽に在る肉屋の女主人だったが、何進の妹が時の帝である霊帝(れいてい)の后に召し抱えられた為、その威光によって大将軍に任命された。

 その様な経緯から、何進は実績を欲していた。

 今のままでは、妹――何后(かごう)の存在だけで大将軍という地位に居るだけである。

 それでは何れ、帝や何后に何か有った場合に追いやられてしまうだろう。

 何進が広宗に来たのは、張宝が討ち取られて士気が落ちているであろう張角軍・張梁軍を討つ事で実績を得ようとしていた訳だ。

 だが、張宝を討たれたと思っていた張角軍・張梁軍は弔い合戦と意気込んでおり、何進は苦戦を強いられた。

 そこに、軍を再編した曹操軍が援軍として現れ、何進を援護。遂には張角・張梁を討ち取ってしまった。

 何進は大将軍としての面目を潰してしまったが、かと言って曹操を非難する訳にはいかず、曹操に恩賞を与えている。

 この様な経緯があった為、涼達連合軍は南陽に進軍しなければならなかった。

 大将軍である何進の命に従わなかったら、逆賊として討たれる危険性も有った。それだけは、どうしても避けなければならかったのだ。

 

「……涼は連合軍の総大将。だから、連合軍を危険に曝す訳にはいかなかったでしょ?」

「それはそうだけど……他に何か出来たんじゃないかって……。」

 

 地和を抱き締めながら、涼は自らを非難していく。

 この世界に来る迄は、こんなに考え込む事は殆ど無かったのだが、今や一軍の指揮官を務める身。そんな状況では、考え込まない方がおかしいだろう。

 地和はそんな涼を見つめると、今迄とは逆に涼を抱き締めた。

 

「確かに、何か方法は有ったかも知れない……。けど、涼が頑張っていたって事、ちぃは知ってるよ。」

「地和……。」

「だから……余り考え込まないで。涼が辛そうにしてると、ちぃはもっと辛くなるから……。」

 

 そう言いながら、地和は涙を流した。

 だがそれは、先程の様な沢山の大粒の涙ではなく、頬を伝う一筋の涙だった。

 

「地和……解った……。」

 

 涼はそう言って地和を抱き締め直す。すると、地和も再び涼を抱き締めた。

 気がつけば、互いの首に手を回し、互いの呼吸が感じ取れる距離に二人は居る。

 地和の、それ程大きくない胸も涼の体に当たっている。

 当然ながら、涼がそれに気付かない訳が無い。

 心臓の鼓動が自然と速くなる。

 地和の翡翠色の瞳は、涙によるものとは違う潤いに満ち溢れていた。

 涼はその瞳に惹き込まれ、目を離せなくなった。

 それと同時に、昼間の雪蓮とのキスを思い出す。

 突然の事だったとは言え、あの時の感触は今でもハッキリと覚えている。

 柔らかい唇と、透き通る様な蒼い瞳。

 思い出すと、心臓の鼓動は更に速くなった。

 雰囲気としては、このまま地和とキスしてもおかしくない。

 地和もその雰囲気を感じているらしく、頬に紅が差している。

 

(……こんな時に、良いのかな……。)

 

 涼は雰囲気や地和の態度から、キスしても良い様な気がしていた。

 だが、キスとは本来恋人同士がするものであり、涼と地和は恋人同士ではない。

 雪蓮とも恋人同士ではないのだが、何故かキスをされた。

 

(だから、俺と地和がキスしてもおかしくはないけど……。)

 

 一日の内に二人の女の子とキスをして良いのか、それに何より、地和の姉と妹が討たれたと告げた時にキスをして良いのだろうか。

 そう迷っていると、地和が尋ねてきた。

 

「……涼は、ちぃを一人にしないわよね?」

「そんなの、当たり前だろ。」

「だったら……ちぃにその証拠を見せて……。」

「えっ……!?」

「……ちぃは、寂しいのが一番嫌い……。だから、涼はちぃを寂しくさせないで……。そうしたら、きっと地和は頑張れると思うから……。」

「地和……。」

 

 再び、涙を流す地和。

 そんな地和を見て、涼は気付いた。

 地和は姉妹の死から立ち直っていない。そんな当たり前の事に、気付いていなかった。

 泣き止んだから大丈夫だとでも思ったのか、自分を異性として意識していたから大丈夫だとでも思ったのか。

 どちらにしても、人は身内を亡くして直ぐに立ち直れる程強くはない。

 そう、強くはないのだ。

 だったら、少しでも強くなれる様、力になりたい。

 涼はそう思った。

 

「地和……。」

「涼……。」

 

 涼は地和を抱き寄せ、その瞳を見つめる。

 暫くの間二人は見つめ合っていたが、やがて地和はゆっくりと瞳を閉じた。

 それに合わせて、涼は唇を重ねようと顔を動かしながら目を閉じる。

 そうして唇と唇が重なろうとした瞬間、

 

ギシッ。

 

と、いう、床が軋む音が部屋の入口付近から聞こえてきた。

 意外と大きな音だったので、涼は動くのを止めて目を開け、地和もまた閉じていた瞳を開けた。

 触れ合う程近い距離で見つめ合う二人。

 二人はそこで、今しようとした事を思い出し、瞬時に顔を真っ赤に染めた。

 

(……今、絶対にキスだけで終わる雰囲気じゃ無かったよな……。)

(……ちぃったら、な、何考えてたんだろ……っ。)

 

 涼も地和も、あのままだったらキスより先の事をしただろうと確信した。

 互いにチラチラ見ながら、更に紅く染まる二人の顔。

 暫くの間そのままジッとしていたかったが、先程の音の正体を確かめなければならなかった。

 涼がゆっくりと立ち上がると、地和も立ち上がろうとしたが、もしもの事が有ったらいけないという涼の説得を受けてその場に留まった。

 涼は入口に近付いた。

 今は真夜中で殆どの人間が眠りについている。

 起きているのは涼の様に仕事をしているか、見回りをしている兵士くらいだ。

 だから、本来なら気にする必要は無いのだが、足音が一度しか聞こえなかったのが気になった。

 近付く音なら聞き逃した可能性が有るが、立ち去る音を聞き逃した可能性は低い。

 何故ならあの音に気付いてからは、赤面しながらもずっと集中したので、僅かな物音も聞き逃していないのだ。

 だから、音の主が未だ居る可能性が高い。

 涼はそっと扉に手をかけた。

 同時に剣の柄に手を置き、不測の事態に備える。

 自然と息を潜め、生唾を飲み込む。

 地和も同様に息を殺し、扉を見ながら護身用の剣の柄に手を置いた。

 涼は一拍だけ息を吐くと、一気に扉を開けた。夜中なので大きな音を立てない様にしながらという、何とも器用な開け方だった。

 瞬時に辺りを緊張感が包む。

 が、また瞬時に緊張感が消えていった。

 何故なら扉の先に居たのは、不審者等では無かったからだ。

 

「こ……こんばんは……。」

「あ、ああ……こんばんは。」

 

 そこに居た人物の一人が慌てながらも挨拶してきたので、涼は丁寧に挨拶を返した。

 

「な、何挨拶してるのよっ。」

「だ、だって、私達見つかっちゃったし……。」

「えーっと……。」

 

 扉の先に居る人物達の会話を聞きながら、涼は現状の分析をした。

 また、地和も状況が変化しているのを理解しつつも、緊急事態では無い様なので涼の言い付け通りに待ち、微かに聞こえる声の主が誰か考えながら座っている。

 やがて、涼は目の前に居る人物達に声をかけた。

 

「取り敢えず、廊下に突っ立っているのも何だから、中に入らない?」

「えっ?」

「……変な事をするつもりじゃないわよね?」

「違うってっ。」

 

 涼は苦笑しながら答えた。

 つい数分前迄、地和と「変な事」をしようとしていた涼だが、当然ながらそれを言う訳は無く、平静に努めながら二人を招き入れた。

 

「あ……誰かと思ったら月と賈駆だったのね。」

「地香さん……。」

 

 二人の姿を見た地和は、二人の真名と姓名を言った。

 一方、董卓は地和を偽名である劉徳然の真名を呼んだ。地和として名乗っていないので当然だ。

 暫くの間沈黙が流れたが、やがて董卓は意を決して二人に対し話し始めた。

 

「あの……済みませんが、二人のお話を聞かせて貰いました。」

「……可愛い顔して盗み聞きとは意外とやるわね。」

劉燕(りゅうえん)……いえ、張宝! 貴女に月を非難する権利は無い筈よ!」

 

 董卓の問いに地和が皮肉を込めて言うと、賈駆が怒気をはらみながら言い返した。

 

「賈駆、今は夜中だから少し声を抑えて。」

「アンタねえ……!」

「取り敢えず、ちゃんと説明するから暫く我慢してくれ。頼む。」

 

 怒りを隠さない賈駆に対して、涼は頭を下げて事態の収拾を図った。

 

「し、仕方無いわね……。なら、ちゃんと話してもらうわよっ。」

 

 それが効いたのか、賈駆は瞬時に怒りを収めてくれた。

 

「ああ、ちゃんと話すよ。」

 

 そう言って、涼と地和はこれ迄の経緯を話し始めた。

 それによると、張三姉妹は元々、三人で歌を唄う事で生計を立てていた事。

 余り人気は無かったが、その最中、旅人から貰った「太平要術(たいへいようじゅつ)」という書に書かれていた術を使って興行をすると、たちまち人気が出た事。

 そうして集まった若者達がいつしか暴走し、「黄巾党」という集団になった事。

 彼等を止める為に三姉妹もそれぞれ将軍を名乗り、何とか暴走を止めてきた事。

 だが、遂には漢王朝に目を付けられてしまい、仕方無く戦っていた事。

 大義名分として、腐敗した漢王朝を打倒して新しい世の中を作るというスローガンを掲げていたが、本心では上手くいくとは余り思っていなかった事。

 そして遂に連合軍の前に敗れた時に、涼が助けた事。

 その後、桃香と涼から新しい名前と真名を貰い、連合軍に同行していたという事。

 簡単に言うとこの様な流れになる。

 

「……で、張宝がここに居るって訳ね。」

「ああ。もっとも、最初は隙を見て地和を張角や張梁の許に帰す予定だったんだけど……。」

「その機会が無くて、結局地香さんを連れているって訳なんですね?」

「そうなんだよ。あはは……。」

 

 涼は苦笑しながら答える。

 そんな涼に呆れつつ、賈駆は真面目な表情で言った。

 

「……けど、これってバレたら洒落にならないわよ。幾らアンタが天の御遣いでも、流石に問題になると思うんだけど。」

「解ってる。……だから、二人にも黙っていてほしいんだ。」

「……どうしようかしらねえ。」

「詠ちゃんっ。」

 

 賈駆が涼の頼みを意地悪な表情をしながら答えると、直ぐ様董卓が注意した。

 注意された賈駆は慌てながら答える。

 

「わ、解ってるわよっ。今のは冗談なんだから、そんなに怒らないでっ。」

「まったく……。清宮さん、地香さん、私達はこの事を口外しないので御安心下さい。」

「良かった〜。二人共、有難う。」

「月、賈駆、有難うっ。」

 

 董卓が秘密を守ると約束すると、涼が喜んだのは勿論の事ながら、渦中の地和は二人に抱き付く程に喜んでいた。

 

「じゃあ、今みたいに周りに誰も居ない時は、本当の真名の“地和”って呼んでね。」

「はい、解りましたっ。」

「勿論、賈駆もそう呼んでね。」

「ボクも良いの? なら、ボクも真名を預けないとね。」

 

 賈駆はそう言うと、董卓と涼をチラッと見た。

 

「そうだわ、(つい)でにアンタにも真名を預けてあげる。」

 

 賈駆は暫く考えた後にそう言った。すると、言われた涼だけでなく董卓も驚いていた。

 

「良いのか?」

「ええ。図らずも長い付き合いになったし、アンタの実力も認めないといけないからね。」

 

 賈駆はそう言いながら、隣に居る董卓に目配せをした。

 董卓は、始めの内はその意味を理解していなかったが、賈駆が董卓と涼を交互に見ている事に気付くと、漸く賈駆が意図している事を理解した。

 

「あの……清宮さん。」

「ん?」

 

 直ぐ様董卓は行動に移った。

 だが、涼の顔を見ると言葉に詰まってしまう。

 それから何度か言葉を言おうとして、やはり言えないという状況が続いた。

 時間にして、二分弱。

 その間、涼は董卓の意図に気付かなかったが、地和は直ぐに気付いていた。

 だが、敢えて何も言わなかった。

 何故そうしたのかは地和にしか解らない。

 いや、ひょっとしたら地和にも解らないかも知れない。

 只、今はそうするのが一番だという確信は有った様だ。

 そうして地和や賈駆が見守る中、董卓は漸くその言葉を口にした。

 

「あの……清宮さんっ。私の……私の真名を貴方に預けます……っ。」

 

 そう言った董卓は、まるで告白した少女の様に顔を紅らめていた。

 いや、彼女にとって、これは正に告白と同じ事なのだろう。

 そして、その告白は未だ終わっていない。

 

「わ、私の姓は“董”、名は“卓”、字は“仲穎”、真名は“月”。……この真名を、貴方に預けます……。」

 

 董卓――月が涼の目を見ながらそう言うと、涼は笑みを浮かべながらその真名を受け取った。

 瞬時に月の表情が明るくなる。

 それは祝福すべき光景。それなのに、賈駆は何故か複雑な心境で見ていた。

 

「……じゃあ、次はボクの番ね。」

 

 そんな心境を払拭する様に、賈駆は居住まいを正して涼達に向き直り、言葉を紡いだ。

 

「ボクの姓は“賈”、名は“駆”、字は“文和”、真名は“詠”。この真名、アンタ達に預けるわ。」

 

 賈駆――詠は、涼と地和を見ながら自己紹介をし、自身の真名を預けた。

 

「最後はちぃの番だね。」

 

 地和は月と詠に向き直り、以前と同じ様に言った。

 

「ちぃの姓は“張”、名は“宝”、字は“明専(めいせん)”、真名は“地和”。この真名、月と詠に預けるわ。」

 

 地和は改めて本当の真名を二人に預けた。

 こうして、涼達は真名と秘密を共有する事になった。

 

「ふふ……♪」

 

 その帰り道、月はいつになく御機嫌だった。

 漸く想いを伝え、そして受け入れられた少女の様に、その表情は晴れ晴れとしていた。

 

「良かったわね、月。」

「うん♪」

 

 詠が声をかけると、月の明るい声が返ってきた。

 黄巾党の乱が起きて以来、乱の鎮圧に一生懸命だった月は、余り笑顔を見せなくなっていった。

 だが、涼と出会ってからは少しずつ笑顔を見せる様になり、今では以前と同じ様に笑える様になっている。

 

(……アイツのお陰ってのは癪だけど、月が喜んでくれるなら良しとするわ。)

 

 相変わらず複雑な表情と気持ちのまま、詠は月と並んで歩いていく。

 

「ねえ、詠ちゃん。」

「なあに、月?」

 

 月が詠を見ながら話し掛ける。その表情はやはり笑顔だ。

 

「色々有ったけど、今日は私達にとって良い一日だったね。」

「そうね。ボクもそう思うわ。」

 

 笑顔の月を見ながら、詠はそう言った。

 

(……ん? “私達”ってどういう事かしら?)

 

 詠は、月だけでなく自分にとっても良い一日だとも言われた事を疑問に思った。

 だが、幾ら考えても答えは出なかった。

 詠がその答えを知るのは、未だ先の事である。

 一方、涼と地和もそれぞれの自室に戻っていた。

 地和は未だ涼と居たがっていたが、月達の存在や良い雰囲気では無くなっていた為に、結局諦めた様だ。

 涼は、まるで確認する様に、月達に地和の事について念を押してから、三人に「お休みなさい。」と挨拶して自室のベッドに潜った。

 月や詠、そして地和にとって今日色々有った様に、涼にとっても色々有った。

 孫策との対決と突然のキス、そして孫策が雪蓮という自身の真名を預けた事。

 地和に彼女の姉妹の最期を伝え、慰めていたら良い雰囲気になってキスやそれ以上の事をしようとした事。

 劉徳然と名乗っていた地和の正体を董卓と賈駆に知られるも、彼女達が秘密を守ると約束してくれた事。

 更に、董卓は月と、賈駆は詠という自身の真名を預けてくれた事。

 どれも、涼にとって大きな出来事だった。

 

(地和とあんな風になるなんて、思いもしなかったな。……俺は、地和をどう思っているんだろう?)

 

 涼は考えた。

 地和を好きなのは間違い無い。だが、それは友達や仲間としてであり、恋人としてではなかった筈だ。

 

(それとも……本当はそうなのか?)

 

 涼は更に考えた。

 そしてそのまま眠りについていった。



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第六章 戦いが終わり、戦いが始まる・7

 黄巾党の乱は、首領の張角と末妹の張梁が討たれ、残る張宝は行方不明という事で、終息に向かっていた。

 涼達連合軍は荊州の残党を制圧し、治安を回復させてから洛陽への凱旋の旅路についた。

 また、当然ながらそうした功績を挙げているのは連合軍だけでは無い。

 荊州刺史である丁原(ていげん)は、「神速」と謳われる張遼(ちょうりょう)や養子である呂布(りょふ)を引き連れ、連合軍の管轄外に居る黄巾党を討ち倒した。

 袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)といった、名門と謳われる袁家もまた、圧倒的な軍事力を以て乱を鎮圧している。

 また、張角・張梁を破った曹操は、その戦いの最中に従姉妹である夏侯惇(かこう・とん)夏侯淵(かこう・えん)を迎えており、更に残党や周辺地域の若者を引き入れて、軍備を増強していった。

 この様に、様々な武将達が黄巾党を討ち倒しており、その武勇は大陸全土に広がっていった。

 当然ながら、漢王朝は彼等に恩賞を与えていった。

 連合軍も恩賞を貰ったが、月達と違って劉備達は何の身分も無かった為、中々恩賞が与えられなかった。

 月や曹操、そして罪が間違いと判って解放された盧植達の取りなしが無ければ、更に時間が掛かっただろう。

 そうして皆に恩賞が行き渡ると、洛陽では黄巾党の乱鎮圧を祝って宴が催された。

 宴が催されて数日になるが、街では今日もまた花火が打ち上げられ、そこかしこで人々の歓声が上がっていた。

 

「綺麗……。」

「本当だな……。」

 

 次々と打ち上げられる花火を見ながら、桃香と涼はそう呟いた。

 今、涼達は洛陽に在る盧植の屋敷に居る。そこでは、街の宴を楽しみながら独自の宴が開かれていた。

 表向きは盧植の復帰祝いなのだが、実際には、余り朝廷に行きたくないという理由が有った。

 涼達は人々と漢王朝の為に戦ってきたが、現在の漢王朝には朝廷を我が物顔で歩いている十常侍(じゅうじょうじ)という者達が蔓延(はびこ)っており、彼等とは余り接したくないので極力出掛けていなかった。

 その思いは皆同じであるらしく、今この場には涼達以外にも沢山の武将達が居る。因みに連合軍の面々は皆ここに居る。

 

「皆の歓声を聞くと、私達が戦ってきた甲斐が有りますね。」

「ああ。皆、お疲れ様。」

「どうって事無いのだっ。」

 

 涼と桃香の周りには愛紗と鈴々も居り、酒やお茶を飲みながら歓談していた。

 

「随分と賑やかね。」

 

 そこにそう言って現れたのは曹操だった。

 一時的とは言え、曹操も連合軍に参加していた為に盧植の屋敷に来ているのだ。

 

「翡翠さんとの話は終わったのかい?」

「ええ。当たり前の復帰を祝っただけだから、そんなに時間はかからなかったわ。」

 

 曹操は涼の質問に答えながら、空いている席に座った。

 

「嘘の報告による冤罪だもんな。まったく、酷い事をする奴が居るもんだ。」

 

 涼がそう言いながらお茶をおかわりしようとすると、涼の代わりに曹操が注いでくれた。

 

「それが今の漢王朝の実状……いえ、未だこれは可愛い方かしらね。」

「……十常侍の事か。」

「そうよ。奴等は帝を蔑ろにして、政治を自分達の思い通りに取り仕切っている。その結果、苦しむのは十常侍とそれに与する者以外の人間……つまり民達よ。」

 

 自らはお酒を飲みながら、曹操は深刻な顔をして話した。

 

「だったら、その十常侍さん達をやっつけちゃえば、問題は解決するんですよね?」

 

 桃香が尋ねると、曹操は静かに頷いた。

 

「けど、そう簡単に出来る事じゃないわ。奴等はこの国の実権を握っている……下手をすれば、間違い無く殺されるわね。」

「けど、曹操は諦めていないよな。」

「……どうしてそう思うのかしら?」

「曹操の眼は、諦めている人間の眼じゃ無いからな。」

「……流石は天の御遣いね。人をよく見ているわ。」

「いやいや、そんなに大した事はしてないよ。」

 

 誉められるのは素直に嬉しいが、実際に大した事をしていないと思う涼は思わず苦笑する。

 そんな涼に、突然誰かが後ろから抱きついてきた。

 抱きついてきたその人物は、イタズラっぽい笑みを浮かべながら明るく言った。

 

「お待たせ、涼♪」

「ビックリした……。遅かったね、雪蓮。何かあった?」

「ゴメンゴメン。母様達についていたら、結構時間がかかっちゃったのよ。」

「そっか。……まさか、抜け出してきたんじゃないよな?」

「そうしたいのはやまやまだけど、それやったらあの鬼婆に殺されちゃうし。」

 

 涼が苦笑しながら言うと、抱きついたままの人物――雪蓮は妖艶な笑みを浮かべながら話していった。

 そんな二人を見た曹操は暫くの間唖然としていたが、やがて平静さを取り戻すと小さく一つ咳払いをしてから尋ねた。

 

「……涼は、孫策を真名で呼んでいるのね。」

「ん? ああ、荊州で一緒に戦った仲だしね。」

 

 涼がそう言うと、雪蓮は不満げに言った。

 

「確かに一緒に戦った仲だけど……それだけじゃ無いでしょ♪」

「……へえ。」

 

 雪蓮がそう言うと、曹操は不敵な笑みを見せながら涼を見つめた。

 

「ひょっとして、二人は夜伽(よとぎ)をした仲なのかしら?」

「なっ!?」

「そうなの、涼兄さん!?」

 

 曹操の言葉に、涼より早く愛紗と桃香が反応する。

 涼は苦笑しながら桃香達を宥めた。そう言えばさっきから苦笑しっぱなしである。

 

「えっと……取り敢えず、夜伽はしてないから二人共落ち着いて。」

「本当に!?」

「本当だよ。」

「……良かった〜。」

 

 涼の言葉を信じたのか、桃香達はその豊かな胸を撫で下ろす。

 が、

 

「あら、私と涼が夜伽をしていないと何故“良かった”になるのかしら?」

「「どきっ!」」

「……どきって口で言う人、初めて見たよ。しかも一度に二人も。」

 

雪蓮に指摘された二人は慌てる。

 そして、そんな二人に冷静にツッコミを入れる涼。

 因みに曹操はそんな涼達のやりとりを面白そうに眺めている。

 

「桃香も愛紗も、涼の“義妹(いもうと)”じゃなかったかしら? 妹が兄の色恋に口出しするのはどうかと思うわよ?」

 

 雪蓮はニヤニヤと笑みを浮かべながらそう言った。

 その二人はというと、何か反論しようとするものの、結局反論出来ずに落ち込んでしまっている。

 そこに、翡翠や月達がやってきた。

 

「あらあら、ここも賑やかですね。」

「あ、翡翠さんに月、詠。あっちの方は良いんですか?」

「はい、一通りのお客様に挨拶しましたから、大丈夫でしょう。」

「そうですか。……って、そろそろ離れてよ雪蓮。」

「えー。」

 

 不満げな雪蓮は、渋々離れると直ぐ近くの席に着いた。

 続けて月達も空いている席に座り、最後に翡翠が座ると、彼女は桃香を見ながら言った。

 

「そう言えば玄徳、貴女にお客さんが来ていますよ。」

「お客さん、ですか?」

 

 桃香がそう言うと、翡翠達が来た方向から赤毛をポニーテールにしている少女がやってきた。

 少女は桃香に近付きながら声をかける。

 

「久し振りだな、桃香。」

「あっ、白蓮(ぱいれん)ちゃんだー。」

 

 少女の真名らしき名前を口にしながら、桃香は立ち上がった。

 その表情が明るく笑顔になっている事から、相手の少女は桃香にとって大切な人物なのだろう。

 

「白蓮ちゃんも、先生の復帰祝いに来たの?」

「それもだけど、一応黄巾党征伐の恩賞を頂きにな。」

「そっかあ。白蓮ちゃん、幽州(ゆうしゅう)の太守さんだもんねー♪」

 

 桃香は少女の活躍を心から喜んでいる様だ。

 

(幽州の太守で、桃香――劉備の知り合い……そうか、この子が以前桃香とお母さんの話に出て来た公孫賛(こうそんさん)なのか。)

 

 涼はそう思いながら、公孫賛と思われる少女を見た。

 長い赤毛は白い髪留めで纏めており、眼は金色。健康的で穏やかな表情はとても好感がもてる。

 紅いノースリーブの服に黒いヒラヒラのミニスカート、白を基調とした鎧には金色の線による模様が描かれている。

 腕には服と同じ紅い布を巻いており、その上にはやはり鎧と同じ材質と模様の篭手を付け、手には指が出せる黒い手袋をしている。

 白いニーソックスの上部には桃色のラインが有り、紅いロングブーツを履いていた。

涼が一通り少女の観察を終えると、少女と桃香は涼を見ていた。どうやら桃香が涼の事を話した様だ。

 それを察した涼は、ゆっくりと立ち上がって少女に向き直った。

 

「初めまして。俺は連合軍の総大将を務めていた清宮涼と言います。」

「ああ、今桃香から聞いたよ。私の名は公孫賛伯珪(はくけい)、真名は白蓮。桃香とは盧植先生の私塾で知り合って以来の仲だ。」

 

 やはり少女は、涼の予想通り公孫賛だった。

 少女――公孫賛はいきなり真名を預けてきた。

 

「いきなり真名を? 良いのか?」

「ああ、清宮殿の評判は聞いているし、何より桃香の義兄(あに)だし、それなら私も信頼出来るからな。」

「そっか。俺には真名が無いから、好きな様に呼んでくれ。」

「解った。」

 

 こうして涼と公孫賛――白蓮の挨拶が終わると、白蓮もまた空いている席に座った。

 それからは、皆で改めて盧植の復帰を祝ったり、各々の思い出や自慢話を語っていった。

 皆の話の合間も、夜空には花火が上がり続ける。

 街の人々の歓声もまだまだ止みそうにない。

 そうして夜は更けていき、宴は寝る迄続いた。

 翌日、涼と翡翠以外のメンバーは皆二日酔いだった。

 涼はお酒を飲んでいなかったから当然だが、皆と同じ様に飲んでいた翡翠がケロッとしてるのは凄いとしか言えない。

 

「曹操、大丈夫か?」

「だ、大丈夫よ……私がこれくらいで……うぅ……。」

 

 朝、食堂に現れた一同に声をかけている涼が曹操にも声をかけると、曹操は強がってみせるが、やはり二日酔いには勝てない様だ。

 

「はい、お茶。」

「あ、有難う……。」

 

 涼がお茶を渡すと、曹操は頭を押さえながらお茶を受け取り、一気に飲み干した。

 

「……私が二日酔いになるなんて不覚をとったわ……。」

「不覚って、そんな大袈裟な。」

 

 涼は苦笑したが、当の曹操は至って真面目な表情だった。

 

「……大袈裟ではないわよ。こんな状態では、刺客に襲われた時に応戦出来ないわ。」

「刺客って……狙われる覚えが有るのか?」

「当然よ。私は今回、黄巾党の人間を沢山を殺した。其奴等(そいつら)の仲間や遺族には、相当怨まれているでしょうね。」

「そうか……。」

 

 それなら自分も同じだと、涼は思った。

 そしてそれは自分だけではない。桃香も愛紗も鈴々も、この屋敷に居る武将や軍師達が皆、直接間接問わず黄巾党の人間を殺している。

 涼はそんな当たり前の事を忘れていた自分を、恥ずかしく思った。

 そして、常に身の危険を感じながら生きている曹操に、何か言わないといけないと感じた。

 

「……けどさ、ここは翡翠さんのお屋敷だよ。そんなに気を張らなくても良いんじゃないかな。」

「翡翠様が良い人なのは解っているわ。けど、翡翠様の仲間や知人が、私の事をどう思っているのかは解らない。」

「だから、気を張り続けるのか?」

「そうよ。」

「……なら、何か遭ったら俺が助けてやるよ。」

「えっ……?」

 

 涼のその言葉に、曹操は小さく声をあげて驚いた。

 

「そんなに驚くなよ。仲間なんだから当然だろ。」

 

 涼は微笑みながらそう言った。

 すると曹操は、

 

「仲間……ね……。」

 

と呟いた。

 

「どうかした?」

「いえ……考え方が甘いわ、と思ってね。」

「それは自覚してる。けど、これが俺のやり方だから。」

「……そう。」

 

 涼がそう答えると、曹操は思案顔になって暫く沈黙した。

 

華琳(かりん)よ。」

「え?」

 

 そして突然、涼に向かってそう言った。

 

「私の真名よ。翡翠様や孫策だけでなく、董卓や賈駆、それに知り合ったばかりの公孫賛も貴方に真名を預けている様だし、私だけ預けないのもおかしいでしょ。」

「そんな理由で良いの?」

「良いのよ。それに、天の御遣いに真名を呼ばれるっていうだけで、私にとっては充分過ぎるわ。」

「あー……成程ね。」

 

 天の御遣いと呼ばれる涼は、民だけでなく色んな武将や軍師達からも一目置かれている。

 今回恩賞を受け取る際にも、高官達は初め素っ気なかったのに、月達の進言で涼が天の御遣いと解った途端、手のひらを返して接してきた人物は一人二人では無かった。

 つまり、涼と親しく接している人物は「天の御遣いの威光」を得たも同然に見られるのだ。

 

「……案外、董卓や公孫賛達も同じ理由かもね。」

 

 曹操はニヤリとしながら言った。

 

「そう決め付けるのは良くないよ。それに、月達はそんな思惑を持ってないと思うし。」

「どうしてそう思うの?」

「どうしてって……勘かな?」

 

 反論する涼も確たる証拠は無く、只そう思っただけなので他に言い様が無かった。

 そんな涼を見ながら、曹操はクスリと笑う。

 

「本当に甘いわ。……けどまあ、それが貴方の良い所なんでしょうね。」

 

 誉めてるのか貶してるのかよく解らない物言いをする曹操だった。

 困惑する涼を後目に、曹操は居住まいを正して言葉を紡ぐ。

 

「では、改めて自己紹介をしましょうか。……私の姓は“曹”、名は“操”、字は“孟徳(もうとく)”、真名は“華琳”。この真名を、貴方に預けます。」

「ああ、確かに預かったよ。宜しく、華琳。」

 

 曹操から華琳という真名を受け取った涼は、微笑みながら手を差し出す。

 曹操――華琳はその手を見て戸惑ったが、やがてその手を握った。

 華琳と握手をした涼は、それから幾つか話しながら朝食に向かった。

 涼達の洛陽滞在も今日で終わる。

 皆で一緒にとる食事は、恐らくこれが最後になるだろう。

 朝食を終えると、涼達はそれぞれ旅立ちの準備を始めた。

 月と詠は涼州(りょうしゅう)、曹操は陳留(ちんりゅう)へ、孫策達は豫州へ戻り、盧植はこのまま洛陽で黄巾党の乱の事後処理をする様だ。

 涼達は恩賞を貰ったとはいえ、その中身は戦功に見合ったものでは無かった。

 涼が天の御遣いと解ると、高官達は慌てて恩賞を変えようとしたが、涼は辞退して最初の恩賞のままにした。

 只、その恩賞だけでは三千人の義勇兵を養っていく事が出来ない為、涼達は当初の予定通り幽州に行き、公孫賛の世話になる事にした。

 

「急な話でゴメンね、白蓮ちゃん。」

「気にするなよ、桃香。実は、数ヶ月前に桃香の母上から手紙が来ていてな、それで桃香達が何れ来るだろうってのは解っていたんだ。」

「そうだったんだ……。」

「ああ。けど、ちっとも来ないから心配したぞ。」

「ご、ゴメンね、白蓮ちゃんっ。」

 

 出発前、桃香達はこんな話をしてリラックスしていた。

 

「清宮さん、皆さん、また会いましょうね。」

「せいぜい死なない様にね。」

「次会う時は、敵かもね。」

「今度は負けないからっ。」

「皆さん、道中気を付けるのですよ。」

「皆、またなっ。」

 

 各々そう言って帰路についた。




第六章「戦いが終わり、戦いが始まる」をお読みいただき、有難うございます。

今回は、盧植の逮捕や孫堅の活躍以外はオリジナル展開が多くなっています。
また、修正中に文章が抜けている部分が有るのに気付き、即座に修正しました。御迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。

孫堅については、公式絵師さんのイラストの存在を知らなかった為、オリジナル設定となっています。知ってたら少しは違っていたでしょう。
孫策(雪蓮)については、基本的には原作そのままですが、未だ孫堅が存命していて家督を継いでいない為、幼さや経験の浅さからあんなキャラだという設定にしています。
程普はクールな副臣ってイメージです。因みにオリジナル武将の真名はイメージや語感の響きから付けています。

地和の設定はいきあたりばったりに決まりました。
前章を執筆後、この章を書くにあたり、無事に逃がすのは難しいんじゃないかと思い、偽名や変装して皆の中に隠れている事にしたのですが、その際にどんな偽名や立場なら比較的安全か考えた結果、劉備の従兄弟といわれている劉徳然の存在を思い出し、それを地和の変装に使おうと思い至りました。
この設定は個人的に良かったと思っているのですが、最近ウィキペディアを見直してみると、劉徳然は公孫賛の学友だったらしいんですよね。……どうしよ(笑)
因みに張宝は字が伝わっていない為、今作ではオリジナルの字を付けています。字の付け方とか解らないので、完全に直感ですが、どうか御了承下さい。次女だから、「仲」をつけるべきだったかな?ひょっとした変更するかも知れませんね。

次は短い章ですが、あのキャラが出て来ます。お楽しみに。


2012年11月27日更新。


この辺りからオリジナルの字を付けたりと、独自設定が増えていった気がします。
2017年4月22日掲載(ハーメルン)


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断章一 とある会話

世界の何処かに在る場所。

そして、その世界の人間は知る事が出来ない場所。

そこに、数人の老若男女が集まっていた。



2010年4月1日更新開始。
2010年4月2日最終更新。

2017年4月23日掲載(ハーメルン)


 靴音が暗闇に響く。

 何処からか風が吹くと、柱に取り付けてある松明の炎が、ゆらゆらと揺らめいた。

 

「只今戻りました。」

 

 そう言ったのは、足音の主である眼鏡を掛けている青年。

 左右に分けた黒髪、黒を基調とした道士服に、白と緑のケープ状の上着を重ねて着ているその青年は、目の前の円卓を囲んでいる人達に声をかけた。

 

「遅かったな。」

「少し想定外の事態が起きましてね、その状況を観察していましたので時間が掛かりました。」

 

 その中で一番の年長者と思われる老人男性が、青年に尋ねる。青年は苦笑しながら経緯を説明していく。

 

「想定外の事態とは?」

「……張宝(ちょうほう)劉備(りゅうび)軍と行動を共にしています。」

「……何だと?」

 

 青年の報告に、尋ねた老人だけでなく、円卓を囲んでいる全員が驚きの声を上げた。

 まるで幼子の様な容姿ながら達観した口調の男女、十代中盤から後半の容姿ながら幼い口調の男女、二十代から三十代と、各年代の男女が居るが、皆普通の雰囲気ではない。

 

「……今回も、張宝等が生き残ったか。しかも今回は曹操(そうそう)ではなく劉備についたとはね。」

「正確には、劉備ではなく清宮涼(きよみや・りょう)についている様ですがね。」

「どちらでも構わん。問題は、流れが大きく変わっている事なのだからな。」

 

 そう言ったのは幼い容姿の女の子。だが、口調も声質も、外見からは想像出来ない程に落ち着き払っていた。

 因みに、多少の差違は有るが皆同系統の道士服を着ている。

 

「今迄も厄介だったが……今回のファクターは奴では無いのだろう? なのに何故また同じ事が起こっているのだ?」

「ファクターが誰であれ、存在する限り変化が起きる、という事なのだろうな。」

 

 二十代の容姿の男性が老人の様な口調で疑問を口にすると、円卓を囲む道士達の後方から、一人の青年が歩きながら呟く様にそう言った。

 

「どういう事じゃ?」

「異物が入ればそれに対処する。その結果、適応した姿になるという事だ。」

 

 外見も口調も老人の女性が、振り向きながら青年に尋ねると、その問いに青年は低い声で静かに答えた。

 青年もまた眼鏡の青年や他の人物同様、黒い道士服と白いケープ状の上着を着ている。

 但し、ケープ状の上着は逆三角形の形をしており、他の人物とは明らかに形状が違っている。青年の拘りなのだろうか。

 薄茶色の髪は短く、額には何かのまじないなのか、紅い印が描いてある。

 眼は鋭く、眼鏡の青年の温和な表情とは対照的だ。

 

「では、また前と変わらないという事?」

 

 外見も口調も十代の少女が、薄茶色の髪の青年に尋ねる。

 

「その可能性が高いのは確かだが、未だそうなると決まった訳でも無い。」

「つまり、やり直せる可能性も残されている、という訳ですね?」

「そうだ。」

 

 幼い容姿と、その外見から少しだけ成長した人間の口調と声質の少年が確認する様に尋ねると、薄茶色の髪の青年は短くハッキリと答えた。

 

「なら、この件は今回も二人に任せる。くれぐれも、失敗しない様に。」

 

 眼鏡の青年と最初に話していた老人がそう言うと、円卓を囲んでいた道士服の集団はゆっくりと立ち上がった。

 

「そっちもしくじらない様にするんだな。」

「ふっ……。」

 

 薄茶色の青年が老人に対して吐き捨てる様に言うと、老人は小さく笑いながら文字通り姿を消した。

 他の道士達も、それを見ながら一人、二人と消えていく。

 円卓の周りに残ったのは、眼鏡の青年と薄茶色の髪の青年だけになった。

 

「まったく……御老体達に何て口の聞き方をするんですか。」

「立場は変わらん。只、奴等の方が長く存在しているだけだ。」

「それはそうですが……。」

「それより、今度のファクターは今何をしている?」

「今は幽州(ゆうしゅう)公孫賛(こうそん・さん)(もと)で義勇兵を集めたり、兵の調練に勤しんでいる様ですね。」

「ほう……公孫賛も人が良いものだな。自分の領内で兵を集めさせるとは。」

「公孫賛と劉備は親友ですから、軽い気持ちで承諾したのでしょう。……もっとも、公孫賛も今は少し後悔しているかも知れませんが。」

「どういう事だ?」

 

 薄茶色の髪の青年の問いに、眼鏡の青年は苦笑しながら答えた。

 

「義勇軍に参加する人間が想像以上に多く、幽州の人材が根刮ぎ持って行かれる勢いなんです。」

(ひさし)を貸したら母屋(おもや)迄取られそうな訳か。」

 

 薄茶色の髪の青年は、いい気味だという表情をして笑った。

 笑い終えると、表情を戻して尋ねた。

 

「ところで、アイツの姿が見えなかった様だが?」

「アイツ……ああ、彼女の事ですか。そう言えば居ませんでしたね。」

「また何処かに行っているのか。」

「恐らく。」

「こんな時に何をしているんだ、アイツは!」

 

 どうやら誰か来ていなかったらしく、薄茶色の髪の青年はその事で苛立っている様だ。

 やがて、二人も先の道士達と同様に消えていった。




断章一「とある会話」を御覧いただき、有難うございます。

「断章」の意味もよく解らずに書いた章です(笑)
確か「灼眼のシャナ」を読んで断章を知ったのかな?で、何かカッコ良さそうだから書いてみたという←
まあ、深く考えないで下さい。

今回名前は出していませんが、恋姫ファンならこの章の登場人物が何となく解ったのではないでしょうか。
この設定に関しては色々な御意見があるでしょうね。これがこれからどう展開していくか、楽しみにして下さると助かります。

次からは新章に移ります。
黄巾の乱の次は……そう、あの話です。
どう展開していくか、ごゆっくりお楽しみ下さい。


2012年11月27日更新。

2017年4月23日掲載(ハーメルン)


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第三部・十常侍誅殺編
第七章 戦乱の火種・1


黄巾党が居なくなり、世の中は平和になった。

だが、黄巾党が居なくなっても悪人が居なくなった訳では無い。

新たな戦乱は、直ぐそこに迄近付いていた。



2010年4月2日更新開始。
2010年5月2日最終更新。

2017年4月23日掲載(ハーメルン)


 (りょう)達義勇軍が幽州(ゆうしゅう)に到着して、約二ヶ月。

 その間に義勇軍の規模は三倍以上に膨れ上がり、若くて優秀な人材が集まっていた。

 余りにも急激な増加に公孫賛(こうそん・さん)は一時頭を抱えたが、元来のお人好しさも相まって強く言えなかった様だ。

 因みに、盧植(ろしょく)から預かった兵士はちゃんと返したが、その中から義勇軍に参加した者も少なからず居た。

 そうして今の義勇軍は一万を超す大軍へと成長し、それに伴って部隊の再編が行われた。

 

『総大将・劉玄徳(りゅう・げんとく)

『副将・清宮涼(きよみや・りょう)

『筆頭軍師・徐元直(じょ・げんちょく)

『副軍師・簡憲和(かん・けんわ)

『第一部隊隊長・関雲長(かん・うんちょう)

『第二部隊隊長・張翼徳(ちょう・よくとく)

『第三部隊隊長・田国譲(でん・こくじょう)

『第四部隊隊長・劉徳然(りゅう・とくぜん)

 

 基本的には連合軍の役職をそのまま受け継いでいるが、連合軍では部隊統括の任に就いていた桃香(とうか)が総大将になって涼が副将になっていたり、軍師も役職変更があったりしている。

 桃香は当然ながら総大将になるのを拒んでいたが、将来何が起きるか判らない現状では、桃香にも総大将を経験してもらう事が重要だと説明し、渋々ながら了承してもらっている。

 

『というか、桃香も義勇軍の中心人物だろ。』

 

 というツッコミも涼は忘れなかった。

 公孫賛及び劉備(りゅうび)清宮(きよみや)の三名に対して洛陽(らくよう)からの使者がやってきたのは、軍の再編と調練を一通り終えた時だった。

 

白蓮(ぱいれん)ちゃん、洛陽からの使者さんは一体何を伝えに来たのかな?」

「解らん。だが、私だけでなく桃香や清宮迄も呼ばれたとなると、只事じゃ無いかも知れない。」

「……だろうな。」

 

 謁見の間へと向かう道すがら、桃香と白蓮は使者の目的について話し合っていた。

 だが、涼はこの使者が何を伝えに来たのかという大体の予想はついていた。

 

黄巾党(こうきんとう)の乱が終わったら、次に起きるのはあの事件……そしてあの戦いか……。)

 

 何故かは判らないが、この世界は三国志演義を基にした世界である。

 そして、涼はこの世界の人間ではなく、また、普通の人間より三国志演義に関する知識が豊富だった。

 

「……? 涼兄さん、どうかしました?」

「いや……悪い知らせじゃなければ良いなと思ってな。」

「そうだよね、折角黄巾党の乱を鎮圧して世の中が平和になったのに、また戦いが起きたら大変だもん。」

「まったくだ。」

 

 涼は心配する桃香を気遣い、それとなく誤魔化す。

 だが、桃香の危惧が現実になる事を知っている涼は、心苦しくなっていた。

 謁見の間に着くと、そこには見知らぬ二人の少女が居た。

 一人は黒髪おかっぱ頭の大人しそうな少女、もう一人は緑のショートヘアが外向きにはねていて、紺色のバンダナを巻いている活発そうな少女だ。

 

「お前達が使者だったのか。」

「はい、御久し振りです白蓮様。」

 

 白蓮が使者に向かって喋ると、おかっぱ頭の少女が挨拶をし、続けて隣に居るバンダナの少女も挨拶をした。

 白蓮の口調や、使者の少女が公孫賛を真名(まな)で呼んでいる事から、白蓮と彼女達は顔見知りの様だ。

 

「お前達が来たという事は、麗羽(れいは)が何か言ってきたという訳か。」

「そーなんですよ白蓮様。しかも今回は、何進(かしん)大将軍も一緒なんです。」

「何進が? 一体何が有ったんだ?」

 

 バンダナの少女が何進の名前を出すと、白蓮は怪訝な表情になった。

 また、涼達にとっては黄巾党の乱でしゃしゃり出られた経緯が有る為、それなりに思う所は有る。

 

「重要な事ですから口にする訳にはいきませんので、詳しくはこの封書を御覧下さい。また、読んだ内容は信頼出来る人にだけ伝えて下さい。」

 

 おかっぱ頭の少女が懐から封書を取り出すと、白蓮の部下がその封書を預かり、白蓮の(もと)へと持ってきた。

 

「封書は確かに受け取った。」

 

 白蓮は封書を手にすると、それを懐に入れた。

 

「二人共長旅で疲れているだろう、今日はこの城で休んでいくといい。」

「有難うございます、白蓮様。」

「流石、白蓮様は麗羽様と違って常識が有るなあ。」

「文ちゃんってば、麗羽様に怒られても知らないわよ。」

「どうせ聞こえないんだから大丈夫さ♪」

 

 おかっぱ頭の少女が注意をするも、バンダナの少女はそう言ってケラケラと笑っていた。

 その光景を見た白蓮は苦笑していたが、そこに涼が尋ねてきた。

 

「なあ、白蓮。」

「ん? 何だ、清宮?」

「今更だが、この二人は何進と誰からの使者なんだ? さっきから白蓮やこの娘達が言っている名前は真名だろうから、俺は判らないし。」

「それは済まなかった。麗羽ってのは袁紹(えんしょう)の真名で、この二人はその袁紹の部下だ。」

「成程、袁紹のね……。」

 

 白蓮から、おかっぱ頭の少女とバンダナの少女について教えられてる間、当の二人は涼をジッと見ていた。

 

「という事は、緑の髪の娘が文醜(ぶんしゅう)で、黒髪の娘が顔良(がんりょう)なのかな?」

「えっ!?」

「何であたい達の名前を知ってるんだ!?」

 

 涼が発した言葉に使者の少女達は驚いた。

 実は先程の挨拶では、二人は名前を言っていない。白蓮とは顔見知りの様なので、名前を言うのを省いたのだろう。

 それなのに、涼は二人の名前をピタリと言い当てた。驚くのも無理は無い。

 桃香や白蓮もやはり驚いており、涼を凝視している。

 その空気を読んだ涼は理由を話し出した。

 

「理由は簡単だ。さっきその娘が君の事を“文ちゃん”って言っただろ? だから君の名前が文醜だって解ったのさ。」

「ああ〜、成程〜。」

 

 バンダナの少女――文醜は涼の説明に納得しそうになる。

 だが、おかっぱ頭の少女――顔良は納得していないらしく、文醜に今の説明の疑問点を述べていく。

 

「文ちゃんっ、今の説明で納得しちゃ駄目だよぅっ。」

「え、何で?」

「何で? じゃ無いよぅ……。あのね、文ちゃん、今の説明だと、文ちゃんの“文”って姓は解るけど、“醜”って名は判らないでしょ?」

「……ああー、本当だーっ!」

 

 (しばら)く考えてから(ようや)く意味を理解したらしく、文醜は大きな声を上げた。

 

「それに、私は姓も名も喋ってないよ。」

「だよな。おい、何であたいだけでなく斗詩の名前を知ってるんだよ!」

 

 文醜はまるで敵を威嚇する様に、涼を睨みながら言った。

 一瞬にして場の空気が変わる。

 使者である文醜達は今謁見中の為に武器を持っていないが、何か有れば殴りかかってきそうな雰囲気だ。

 仕方無く、涼は改めて理由を述べた。

 

「何でって……まあ、名前を知っていたから、かな。」

「……はあ?」

 

 涼がそう答えると、文醜は間の抜けた声を出した。

 顔良も言葉の意味を測りかねており、桃香と白蓮もキョトンとしている。

 

「袁紹軍の二枚看板と言えば顔良と文醜だろ。だから名前を知っていただけさ。」

「あー、確かにあたい等は袁紹軍の二枚看板ってよく言われるし、それなら納得。斗詩もそう思うよな?」

「う、うん。」

 

 顔良は未だ少し疑問に思っている様だが、追及はしなかった。

 桃香や白蓮も納得したらしく、ホッとした表情を浮かべている。

 

(実は別世界から来たから知っているとか言ったって、理解されないだろうしな……。)

 

 涼は心の中で苦笑した。事情を話してる桃香達でさえ、ちゃんと把握はしていないかも知れない。

 何せ涼は天の御遣いにされているくらいだから。

 涼はそんな大層な存在では無いと自覚しているが、その名称の効果が有る間は、別に構わないと思っている様だ。

 

「そう言えば、あんた誰だ?」

 

 文醜は今気付いたかの様なトーンで尋ねる。顔良もまた同じ様なリアクションをとって涼を見つめた。

 

「そう言えば自己紹介が未だだったね。俺は清宮涼、義勇軍の副将を務めている者です。」

「あー、あんたがあの“天の御遣い”とか言われてる人か。」

「という事は、貴女が劉玄徳さんなんですね?」

 

 涼が「天の御遣い」と判った文醜はマジマジと涼を見つめ、顔良はその天の御遣いと共に戦っている桃香を見つめながら尋ねた。

 

「はい、義勇軍の総大将を務めている劉玄徳です。」

「と言うか、俺達三人を呼んだんだから、そっちは俺達の名前を知っているべきなんじゃないか?」

「それはそうなんですが、私達の名前を当てられて動揺してしまい、つい失念してしまいました。」

「ゴメンよ、御遣いのアニキ。」

 

 涼のツッコミに対して顔良は真面目に謝り、文醜は軽く謝った。勿論直ぐに顔良に叱られている。

 

「ま、まあ、良いじゃんか斗詩。それより、あたい達も御遣いのアニキ達に自己紹介した方が良いんじゃないか?」

「あっ、それもそうね。」

 

 文醜がそう提案すると、顔良はそれに同意して居住まいを正した。

 

「じゃあ、あたいから。あたいの姓は“文”、名は“醜”、字は“伸緑(しんりょく)”、真名は“猪々子(いいしぇ)”。宜しくなっ。」

 

 文醜はそう言って笑顔で手を振る。

 だが、文醜以外の全員は驚いて反応出来ないでいた。

 暫くして最初に反応したのは顔良だった。

 

「ちょっと文ちゃんっ、いきなり真名を預けるなんてどうしたのっ!?」

「いーじゃんか、斗詩。気にしなーい気にしない♪」

「気にするってばあっ。」

 

 文醜はケラケラと笑っているが、顔良の言う事はもっともだ。

 真名は神聖なものであり、呼ぶのを許可していない者が勝手に呼んだら首をはねられても文句は言えない程、大切なもの。

 それだけに、真名を呼ぶのを認める時は、相手を心から信頼しているという証になっている。

 だから、会ったばかりの涼に真名を預けた文醜の行動は、普通は有り得ない事なのだ。

 

「斗詩〜そんなに心配しなくたって大丈夫だって。あたいだってちゃんと考えてるからさあ。」

「……例えば?」

 

 心配する顔良に、文醜は耳打ちする様に顔を近付けて言った。

 

「天の御遣いと仲良くなってれば、姫も喜んでくれるんじゃないかと思ったんだよ♪」

「麗羽様が喜ぶ?」

「そっ♪ あたい等が天の御遣いと仲良くなっていれば、姫が天の御遣いに認められたって噂が立つかも知れないじゃんか。」

「成程……って、珍しく文ちゃん冴えてるね。」

「珍しくってなんだよーっ。」

 

 顔良の指摘に文醜は頬を膨らませるが、本気で怒ってはいない様だ。

 

「だからさ、斗詩も真名を預けなよ。」

「う……うん、そうするね。」

 

 文醜と顔良は一連の会話を声を潜めて話している。

 

「……随分と大きなヒソヒソ話だな。」

「ですね……あはは……。」

 

 だが、顔良は兎も角文醜の声は結構大きく、涼達は苦笑しながらその会話を見守っていた。

 やがて、会話を終えた二人は涼達に向き直って話しだした。

 

「えっと……兎に角そういう訳だから、あたいの事は真名で呼んでくれ。」

「ああ、解った。」

(って、どういう訳か説明してないじゃんか。)

 

 涼は心の中でそう突っ込んだ。

 それは桃香や白蓮だけでなく顔良も同じだった様で、文醜を見ながら苦笑している。

 その顔良は暫くして表情と居住まいを正し、涼達に自己紹介をした。

 

「私の姓は“顔”、名は“良”、字は“青恵(せいけい)”、真名は“斗詩(とし)”。お二人共、これから宜しくお願いします。」

 

 顔良はそう言うと、左手の掌に右手の拳を当てて平伏の姿勢をとる。

 

「ああ。君の真名、確かに預かったよ。」

「猪々子さん、斗詩さん、これから宜しくお願いしますね。」

 

 涼と桃香は共に笑顔で二人にそう言い、斗詩と猪々子も笑顔で応えた。

 こうして、涼達は顔良の真名「斗詩」と、文醜の真名「猪々子」をそれぞれ預かった。

 真名を預かった涼は、改めて斗詩と猪々子の姿を見る。

 斗詩の髪型は黒いおかっぱ頭で、瞳は薄い紅。

 紺に白のラインが入った服に白いミニスカート、紫のニーソックスを履き、服やニーソックスの上には金に黒いラインが入った鎧や籠手、足当てを身に付けていた。

 また、長い緑の布を首元と腰に巻いており、腰の布は蝶結びになっている。

 一方の猪々子は、髪型は外向きにはねた緑のショートヘアでバンダナを巻き、瞳は碧。

 服装は、基本的に斗詩と似た様な服や鎧を身に付けている。

 違いと言えば、指先や足も防具を身に付けている斗詩と違い、猪々子は胸と肩、そして籠手だけしか防具を身に付けていない事。

 ニーソックスは白で、更にガーターベルトらしき物が付いている事。

 服の色が緑で、腰の布は赤紫、首元の布は青だという事だ。

 

(大人しそうな感じの斗詩に、ボーイッシュな猪々子か……。)

 

 観察を終えた涼は、外見や口調がとても対照的な二人だなあという感想を、頭の中で述べていった。

 

「それでは白蓮様、私達はお言葉に甘えて休ませて貰います。」

「ああ、ゆっくり休んでくれ。」

 

 そう言うと白蓮は侍女を呼び、斗詩と猪々子を客室へと案内させてから、涼達を連れて執務室へと向かった。



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第七章 戦乱の火種・2

 数分後、執務室には涼達三人の他に愛紗(あいしゃ)雪里(しぇり)、そしてもう一人の軍師である小さな少女が集まっていた。

 

「それで白蓮殿、袁紹と何進の手紙には一体何と書かれていたのです?」

 

 愛紗が白蓮に尋ねる。

 因みに、この二ヶ月の間に愛紗達は白蓮と真名を預け合っていた。

 

「それなんだが、簡単に言えば十常侍(じゅうじょうじ)を倒す手伝いをしてほしいそうだ。」

「十常侍を?」

「ああ。皆、十常侍の悪評は知っているよな?」

「ええ。帝が病弱で政治に疎いのを良い事に、好き勝手にやっているそうですね。」

 

 白蓮が涼達に確認すると、雪里は帽子の鍔を摘みながら言った。

 

「そうだ。お陰で今の漢王朝は腐敗しきっている。例えば、何もしなくても十常侍に賄賂を贈れば、簡単に昇進出来るくらいにな。」

「逆に十常侍に睨まれれば、例え戦功を上げていても左遷させられ、下手をすれば処刑されるそうです。」

「そんな……!」

 

 補足した雪里の言葉に、桃香は絶句する。

 涼も、判っていた事とは言え、実際に事実を耳にして少なからず動揺した。

 

「残念だけど、事実だよ桃香ちゃん。先の黄巾党の乱において、戦功をあげていた皇甫嵩(こうほ・すう)将軍は益州(えきしゅう)太守に、朱儁(しゅしゅん)将軍は車騎将軍(しゃきしょうぐん)として河南(かなん)の長官になったものの、その後賄賂を拒んだ為に左遷されたという話らしいし。」

「皇甫嵩将軍と朱儁将軍が!?」

 

 もう一人の軍師である小さな少女がそう言うと、桃香は驚きを隠さずに、怒りを含みながら声を震わせた。

 愛紗もまた驚きながら言葉を紡ぐ。

 

「あの二人も、我々連合軍に劣るとはいえ、かなりの戦功をあげていた筈。それなのに左遷とは、何と酷い……。」

「それが現実、か……。白蓮、君はどうするんだ?」

 

 重苦しい空気の中、涼は白蓮に尋ねた。

 

「麗羽の頼みをきくのはちょっと癪だけど、かと言って十常侍を放っておく訳にはいかないな。」

「じゃあ、決まりだね。」

 

 桃香はそう言って纏めようとした。

 だがその時、誰かが執務室の扉を開けて入ってきた。

 

伯珪(はくけい)殿、私抜きで軍議を始めるとはひどいではないですか。」

 

 入ってきた人物は、そう言って白蓮の前に立った。

 

「仕方ないだろ。呼ぼうと思った時に居なかったお前が悪い。」

「少しは探してくれても良いのではないですかな?」

「どうせまた、メンマを食べに拉麺(らーめん)屋に行ったのだろう?」

「失礼な、ちゃんと拉麺も食べていますぞ。」

「当たり前だ。拉麺屋で拉麺を残したら失礼だろ。」

 

 何だか、喧嘩してるのか漫才をしてるのか判らない感じになってきた。

 とは言え、このままでは話がややこしくなりそうなので、涼はその人物を宥め始めた。

 

「まあまあ、白蓮も悪気が有った訳では無いんだし、そう目くじらたてるなよ、(せい)。」

「……清宮殿がそう仰るなら、今日の所はここ迄にしておきましょう。」

「やれやれ……。」

 

 その人物――星は涼の説得に応じて身を引いてくれた。

 だが、その表情からは元々そんなに怒ってもいなかった様に見えていたので、放っておいても大丈夫だったかも知れない。

 

「それで、軍議の内容は一体何だったのですかな?」

 

 星は周りを見ながら尋ね、雪里がそれに応えた。

 

「成程、十常侍誅殺の要請でしたか。」

「ああ、私達はその要請を受ける事にした。星も来てくれるよな。」

 

 白蓮は星に確認する様に言った。言わなくてもついてくると思っていたが、一応礼儀として尋ねていた。

 だが、星は神妙な顔になって考え込んだ。

 

「……妙ですな。」

「何がだ?」

「悪政を強いる十常侍を倒すのは当然でしょう。ですが、袁紹は三公を輩出した名門袁家の出身で従姉妹には袁術(えんじゅつ)も居る。それに何より、何進は名目上とは言え洛陽を統べる大将軍。彼等の軍勢だけでも充分に十常侍を倒す事が出来る筈なのに、我々に迄出陣を要請するとは少々下せぬと思いましてな。」

 

 星はそこ迄言うと、まるで涼達の反応を見る様に周りを見た。

 それに応える様に、愛紗が言葉を紡ぐ。

 

「万全を期して、という事ではないのか? 十常侍の影響力は我々の想像以上なのかも知れないではないか。」

「だと良いのだがな……。」

「それじゃあ、星はここで留守番でもしておくかい?」

「御冗談を。天下の一大事になるかも知れない時に留守番等、この趙子龍(ちょう・しりゅう)に出来る筈が無いではありませんか。」

 

 尚も神妙な顔の星に涼がからかい気味に尋ねると、星――趙雲(ちょううん)は不敵な笑みを浮かべながら答えた。

 

「それなら、最初から参加すると言えば良いだろ。」

「だよな。」

 

 白蓮と涼は苦笑しながらそう話し、軍議はこれで終わった。

 翌日、白蓮から返事の手紙を受け取った斗詩と猪々子は、一足早く洛陽へと帰っていった。

 一方の涼達は、幽州でそれぞれ部隊の編成をし、二日後に洛陽に向けて出撃した。

 洛陽は幽州から見て南南西に位置する漢王朝の首都である。

 首都だけあって人口が多く、また貴族達が多数住んでいる街である。

 一方で、貧民層も少なからず存在しており、貧富の差の解消は漢王朝の至上命題であった。

 だが、政治を取り仕切る宦官……特に十常侍にとって貧民層の人間等は問題にする事も無く、ひたすら自分達の栄華の為の政策を執り続けた。

 その結果、貧富の差は拡大し、人々の不満は増大していく。そして起こったのが黄巾党の乱なのだ。

 

「……しかし、未だに奴等は危機感が無い様だな。」

「だからこそ、何進や袁紹は十常侍を討とうとしてるんだろう。」

 

 食事をしながら、愛紗と白蓮はそう言った。

 今、涼達は洛陽迄あと半日という距離を残して夜営をしている。

 無理をすれば夕刻には到着したのだが、不測の事態に備えて休息をとる事にした。

 

「御主人様。」

「どうしたの、(しずく)?」

 

 もう一人の軍師である小さな少女――雫が、涼に向かって恭しく告げる。

 

「はい。念の為に放っておいた斥候(せっこう)が、先程戻ってきました。」

「そうか。何か変わった様子は有った?」

「いえ、特に何も無い様です。只……。」

「只……何だい?」

「強いて言うならば、いつもよりは静かだったとの事。その者は洛陽出身ですから、そこが気になった様です。」

「解った。斥候の人達には労いの言葉とゆっくり休む様伝えてくれ。」

「御意。」

 

 涼への報告が終わると、雫は一礼してから来た道を戻っていった。

 

「……どう思う?」

 

 涼が周りに居る面々に尋ねる。

 因みに、今この場に居るのは涼の他に桃香、愛紗、白蓮、星、そして短髪の少女の五人だ。

 

「やはり、洛陽が静かだというのは気になりますね。」

「つい先日迄大乱があったとは言え、洛陽はこの国の首都。それが静かとは、少し変ですな。」

「なら、明日の進軍は必要以上に気をつけていくべきだな。」

「だが、変に気を張ると敵に気取られるかも知れないぞ。」

「けど、だからと言って無防備なままで進むのは危険だと思うよ、時雨(しぐれ)ちゃん。」

 

 皆の意見は纏まりそうで纏まらない。

 自分一人だけなら多少の無茶も出来るだろうが、今の彼等は義勇軍と幽州軍合わせて約五万の大軍を統べる将と指揮官。彼等の判断一つで五万人の命、そしてその家族の運命が決まってしまうのだから、慎重になるのは仕方なかった。

 食事をしながらの軍議は長引きそうな雰囲気だったが、軍議は唐突に終わった。

 

「軍議並びにお食事中失礼します、清宮殿。」

 

 そう言って近付いてきたのは、義勇軍筆頭軍師の雪里だった。

 

「どうした?」

「……清宮殿に客人です。」

「客人?」

 

 どこか歯切れが悪い雪里の物言いと、「客人」というこの場に相応しくない単語に、涼は違和感を覚えた。

 そこに、一際明るい声が聞こえてきた。

 

「涼〜、久し振り〜♪」

 

 聞き覚えのあるその声は、真っ直ぐ涼に近付いてくる。

 まさかと思いながら声がする方に顔を向けると、やはりそこには見知った顔があった。

 

雪蓮(しぇれん)!?」

「ふふ♪ 三ヶ月振りね、涼♪」

 

 そう言いながら雪蓮は涼に抱きついた。お陰で涼の顔には雪蓮の豊かな胸が押し付けられている。

 

「ちょっ、苦しいよ雪蓮。」

「あら、気持ち良いの間違いじゃないの?」

 

 涼も男だ。美少女に抱きつかれて、しかも胸を押し付けられたら気持ち良いに決まっている。

 だが、この場でそんな事を言ったらどうなるか簡単に想像出来る。

 

(愛紗のあの一撃は痛いからなあ……。)

 

 過去の痛みを思い出して、心の中で肩をすくめる涼だった。

 

「と、取り敢えず離れてくれよ。これじゃ雪蓮の顔を見ながら話が出来ないからさ。」

「あら、上手い言い訳ね。」

 

 雪蓮は、艶っぽい笑みを浮かべながらゆっくりと涼から離れた。

 ホッとする涼だが、周りの視線が痛いのを感じたので、振り向かない様にする。

 空気が悪くなる前に涼は尋ねた。

 

「えっと、雪蓮はどうして此処に?」

「多分、涼達と同じ理由よ。」

「て事は、雪蓮も何進と袁紹の要請を受けたのか。」

「ええ、既に母様は洛陽に入っているわ。」

「あれ? 何で一緒じゃないの?」

「私もずっと母様と一緒って訳じゃないわよ。……それに、万が一って事も有るから、私達は遅れて来るように言われていたし。」

「万が一?」

 

 涼が疑問に思いながら呟くと、雪蓮は洛陽が在る方角を見ながら言った。

 

「……十常侍の奴等に察知されていたら、返り討ちに遭う危険性が有るからよ。」

 

 その表情には、先程迄の明るさや艶やかさは無い。

 そこに居たのは、孫家の武人・孫伯符(そん・はくふ)だった。

 

「……もし何かあっても、雪蓮が居れば立て直せるって訳か。」

「ええ。私達が生き残っていれば、孫家の血は絶えない。母様はそれを見越して、私達に遅れて来るように言ったのよ。」

 

 これから戦いが起こるのだから、そうした備えは必要だろう。

 平和な今の日本では余り考えられないが、この世界ではそれも普通の事なのかも知れない。

 

「……だから、ね。」

「ん?」

 

 雪蓮の口調と雰囲気が元に戻ったな、と、涼が思った時には再び抱きつかれていた。

 

「しぇ、雪蓮っ!?」

「だから……いっその事、涼と子供作ろっかなあって考えたんだけど、どうかしら?」

「どうかしら? じゃないよっ! そういうのは結婚相手としなさいっ!」

「だから、涼と結婚したいなあって、遠回しに言ってるんじゃない。」

「遠回しな上にいきなり過ぎるよっ!」

「いきなりじゃないなら良いの?」

「そういう意味でも無いからっ!」

 

 雪蓮は涼に抱きついたまま、本気なのか、からかっているのか、よく判らない口調で話し続ける。

 因みにこの間、桃香達は呆気にとられていた。

 やがて、桃香が最初に正気に戻った。

 

孫策(そんさく)さんっ! 涼兄さんを誘惑しないで下さいっ‼」

「あら、恋愛に妹の許可は要らない筈よ。」

「涼兄さんの場合は要るんですっ!」

「初耳だっ!」

 

 自分の恋愛が許可制だった事に驚き、思わず声を上げる涼だった。

 やがて、順次正気に戻っていき、それぞれ雪蓮に詰め寄っていく。

 

「孫策殿、少しは場をわきまえて頂きたい!」

「あら……ひょっとして貴女、妬いてるの?」

「なっ!? ち、違うぞっ! 私は兵達に示しがつかなくなってしまうから言っているのだっ‼」

 

 愛紗もまた、桃香と同じく雪蓮に詰め寄るが、逆にからかわれて赤面する始末。

 短髪の少女――時雨は喧嘩口調で雪蓮に殴りかかろうとするも、雪蓮には掠りもしなかった。因みに雪蓮は涼に抱きついたままだったので、涼も一緒に動いていた。

 白蓮は何とか場を落ち着けようとするが結局駄目で、雪里は諦めた様に溜息をついている。また、星に至っては一連の騒動を面白そうに見物していた。

 そんなこんなで収拾がつかなくなってきた時、聞き覚えの無い二つの声が涼達の耳に届いた。

 

「何をしているんですか、姉様!」

「悪戯が過ぎるわよ、雪蓮。」

 

 声のした方向に顔を向けると、そこには雪蓮と似た外見の少女と、長い黒髪の女性が並んで立っていた。



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第七章 戦乱の火種・3

 雪蓮はその二人を見ながら、キョトンとしたまま声をかける。

 

蓮華(れんふぁ)冥琳(めいりん)。二人共どうしたの?」

「どうしたの? ではありません! ちょっと挨拶しに行くと言ったっきり帰ってこないから、一体何をしているのかと思えば……!」

「楽しいわよ♪ 蓮華も一緒にする?」

「しませんっ‼」

 

 雪蓮がからかう様に言うと、雪蓮と似た外見の少女――蓮華は顔を真っ赤にしながら拒否した。

 ひょっとしたら、蓮華はこういった話は苦手なのかも知れない。

 

「雪蓮、貴女の行動一つで我々の評価が決まるのよ。少しはそれを自覚して欲しいものね。」

「解ってるって冥琳。それくらいちゃんと自覚してるわよー。」

「……自覚してこれなら尚更困るのだがな。」

 

 黒髪の女性――冥琳は、やれやれといった感じで溜息をつきながらそう言った。

 どうやらかなり苦労しているらしい。

 

「あの……雪蓮、この二人は?」

 

 雪蓮に抱きつかれたまま涼は尋ねる。

 

「そう言えば涼は初対面よね。この二人は私の妹の孫権(そんけん)と、親友で軍師の周瑜(しゅうゆ)よ。」

 

 雪蓮の紹介により、蓮華と呼んでいた少女が孫権、冥琳と呼んでいた女性が周瑜と判った。

 

「成程、この二人が孫仲謀(そん・ちゅうぼう)周公瑾(しゅう・こうきん)なのか。」

 

 涼は二人を見ながら何気なく言った。

 だが、言われた方は何故か驚いている。

 

「なっ!?」

「……何故、私達の(あざな)を知っている!?」

 

 そう、雪蓮は勿論二人も喋っていないそれぞれの字を、涼はピタリと言い当ててしまったのだ。

 

「それは知っていて当然ですよ。なんたって涼兄さんは天の御遣いなんですから。」

 

 と、桃香が笑顔で言うが、

 

「いや、その理屈はおかしい。」

「ちゃんとした理由が無ければ納得は出来んな。」

 

と言われ、桃香は困ってしまった。

 とは言え、実際の所桃香が言った事は(あなが)ち間違っていないので、涼も説明し難かったりする。

 

「まあまあ、そんな細かい事、別に良いじゃない。」

「細かくありませんっ!」

「初対面の相手に字を当てられては、少なからず警戒するものだ。」

 

 雪蓮が取りなそうとしても、二人は納得しなかった。

 かと言って、元の世界……この世界で言う天界の事や自分の事を説明するのは難しい。それに、その事は余り言ってはいけない気がしていた。

 何故いけないかは、涼自身にもよく解らないのだが。

 

「ちゃんと説明してあげたいけど、上手く説明出来ないんだ。それと、桃香……劉備が言った事も間違ってはいないからね。」

「それで納得しろと?」

 

 涼が雪蓮から離れながらそう言っても、孫権は不満らしく、軽く涼を睨みながら語気を強めて言った。

 その態度が気に障ったのか、愛紗達もまた孫権を睨み始める。

 段々と場の空気が悪くなっていくのを、涼や雪蓮、そして周瑜は感じ取っていた。

 

「えっと……そう言えば雪蓮、孫権と周瑜の二人はこの間は一緒じゃなかったよね?」

「え? ええ、二人には私達の本拠地である豫州(よしゅう)を守って貰っていたのよ。そうよね、蓮華、冥琳?」

「え? ……ええ、その通りです。」

「我等の主たる海蓮(かいれん)様と雪蓮の二人が豫州を離れている間、黄巾党が攻め込んでこないとも限らんのでな。念の為私達は、小蓮(しゃおれん)様と共に豫州の守りに徹していたのだ。」

 

 場の空気を変えようと涼が雪蓮に話を振ると、雪蓮もそれを察してくれたらしく話に乗ってくれた。

 その為、孫権も話に乗らなければならず、周瑜に至っては積極的に話を展開していった。

 結果、場の空気は何とか保たれたのだった。

 

「……で、雪蓮は只挨拶しに来ただけじゃないんだろ?」

 

 場の空気が安定した所で、涼は話を戻す為に雪蓮に話し掛けた。

 

「まあね。こうして涼と仲良くしたりとか……。」

「それは解ったから、真面目に話してよ。」

 

 再び抱きつこうとしてきた雪蓮をかわしながら、涼は話を促す。

 

「これも真面目な話なんだけどなー。」

「……それはそれで色々と困るから勘弁してくれ。」

 

 涼がそう言うと、雪蓮はまるで拗ねた子供の様に頬を膨らませていたが、孫権や周瑜が諭したら苦笑しながら大人しくなった。

 どうやら、この二人には頭が上がらないらしい。

 

「まあ、簡潔に言うなら、この前みたいにまた一緒に戦いましょうって事よ。」

 

 真面目な表情になった雪蓮が、涼達を見ながらそう言った。

 涼は、雪蓮がそう提案すると解っていたのか、余り驚かずに応える。

 

「それはこっちとしても異存は無いよ。雪蓮達の軍の強さは連合軍で目の当たりにしてるからね。」

「涼ならそう言ってくれると思ったわ♪」

 

 涼が快諾すると、(あらかじ)めそう応えると解っていたのか、雪蓮は笑顔で抱きついてきた。

 その結果、桃香達と雪蓮達との間で再び揉めたのは、言う迄もない。

 それから、互いの親睦を深める意味を込めて、雪蓮達も涼達と一緒に食事をとる事になり、義勇軍陣内は暫くの間賑やかだった。

 そして食事を終えた雪蓮達は今、自陣に戻ってきている。

 

「まったく……姉様はもう少し総大将としての自覚を持ってもらわないと困ります。」

 

 その自陣の奥に在る一番大きな天幕の中で、孫権は溜息混じりにそう言った。

 因みに今、その天幕の中には孫権、雪蓮、周瑜の三人しか居らず、護衛の兵士達は出入り口に立っている。

 

「そう言われてもねー。母様と合流したら、私は副将に戻る訳だし。」

「それでも、今のこの軍は姉様の軍なのです。ですから、姉様は総大将としてしっかりしてもらわないと……。」

 

 相変わらず軽い口調の雪蓮に、孫権は説教をする様に言葉を紡いでいく。

 時々、雪蓮は助けを求めるかの様にチラッと周瑜を見るが、その周瑜は気付かない振りをして二人のやり取りを見続けていた。

 

「姉様は孫家の後継者なのですよ。その自覚を持ってこれからは……。」

「けど、私に何かあったら、蓮華が後継者よね?」

「っ!?」

 

 孫権の言葉を遮って雪蓮がそう言うと、不意をつかれた孫権は絶句してしまった。

 孫権は無意識の内に生唾を飲み込み、目の前に座っている姉を見る。

 姉の表情は、先程迄見せていたいつもの明るくて人懐っこい表情ではない。

 武人として、孫家の後継者としての、凛々しく、どんな相手でも萎縮させる覇気を持った、「孫伯符」がそこに居た。

 その「孫伯符」が、表情を変えずに孫権に問い掛ける。

 

「母様に何かあったら私が、私に何かあったら貴女が、そして、もし貴女に何かあったらあの子が後継者になるのよ。それは解っているのかしら?」

「……解っています。ですから、今回の出陣に“シャオ”を連れてこなかったのですよね?」

「そうよ。勿論、豫州を空にする訳にいかないって理由も有るけどね。」

 

 「シャオ」という、恐らく二人と親しい者の名前もしくは愛称を口にしながら、二人の会話は続く。

 

「ええ。黄巾党が居なくなったとはいえ、豫州を狙う者がいつ現れるか判りませんから。」

「だから豫州にシャオを残す事で両方を守るのよ。勿論、シャオを守る事が最優先なのは間違いないけどね。」

「はい。……つまり、私達にも後継者としての自覚を持てと仰りたいのですね?」

「そうよ。……母様だって、そうしてきたのだから。」

 

 雪蓮がそう言うと、孫権は勿論ながら、周瑜も神妙な面もちになって僅かに俯いた。

 

「父様が急死されて以来、母様は孫家の当主として頑張ってきたわ。……まあ、ちょーっと頑張り過ぎな時もあったけど。」

 

 幼い頃、自身が体験した「或る事」を思い出したのか、雪蓮は苦笑しながらそう言った。

 

「だから……私達にも自覚を、という訳ですね……。」

「そうよ。……だから、私が涼と仲良くなるのも当然なのよ。」

「はい……って、ええっ!?」

 

 思わず肯定するも、内容がおかしい事に気付き、驚く孫権。

 目の前に座っている姉の表情は、いつの間にか明るく人懐っこい表情になっていた。

 また、周瑜はというと、やれやれといった表情を浮かべながら軽く溜息をついている。最早何か言うのは諦めたのだろうか。

 

「姉様、何故あの男と仲良くなる事が当然なのですか!?」

「だって、涼は“天の御遣い”なのよ?」

「その様な肩書き、戯れ言に違い有りません!」

「そうかしら? 涼の衣服はこの国で見た事が無いし、それに、初対面の貴女達の字を言い当てたわ。」

「そ、それは確かにそうですが……。」

 

 先程の事を思い出しながら、孫権は言葉に詰まった。

 

「……それに、もし涼が天の御遣いじゃなくても構わないのよ。」

 

 困惑している孫権に、更に困惑する様な言葉を紡ぐ雪蓮。

 そして、やはり孫権は更に困惑しながら尋ねる。

 

「ど、どういう事ですか!?」

「黄巾党の乱での活躍もあって、民衆の大多数は涼を“天の御遣い”と認識しているわ。勿論、蓮華の様に疑っている者も多数居る。」

「それはそうでしょう。皆が皆同じ意見になる事等、有り得ません。」

「ええ。だけど、人は流され易い生き物よ。肯定派が多数を占めていれば、少数の否定派から肯定派に移る者が出る。」

「そして、物事は基本的に多数派の意見が通ります。つまりこの場合、“清宮涼は天の御遣いである”という意見が多数を占めている現状では、余程の反対意見や証拠が無い限り、否定しても意味は有りません。」

 

 雪蓮、そして周瑜がゆっくりと孫権に説明をしていく。

 その説明を聞いていく内に、いつの間にか孫権は冷静になっており、先程迄の困惑した表情は消え失せていた。

 

「ならば、“天の御遣いである清宮涼”と親睦を深める方が良いでしょう。ひょっとしたら、“孫軍が天の御遣いに認められた”という噂が流れるかも知れません。」

 

 そこ迄言うと、周瑜はまるで答えを促す様に孫権を見た。

 

「……つまり、“天の御遣い”の威光を得る、という事ですか?」

「まあね。」

 

 孫権の答えに、雪蓮は満足した様に頷きながら肯定する。それは周瑜も同じ様だ。

 

「十常侍によって政治は腐敗し、黄巾党の乱で漢王朝の国力は更に低下した。今更十常侍を討っても、直ぐに漢王朝が立ち直れる訳は無いわ。」

「そうなると、先ず間違い無く天下を取ろうとする者が現れるでしょう。つまり、戦乱の世が続くのです。」

「その時に少しでも優位な立場に立つ為に、清宮を利用する訳ですか?」

 

 孫権が確認する様に尋ねると、雪蓮と周瑜は殆ど同時に頷いた。

 

「清宮と劉備には人を惹き付ける人徳が有ります。余程の失態や醜態が無い限り、民衆は彼等を支持するでしょう。」

「なら、涼達と仲良くしていれば孫家にとって有益になるでしょ?」

「確かに……。」

 

 二人の説明を受けた孫権は納得し、また、自分の浅慮と姉や軍師の深慮を比べ、自己嫌悪に陥っている。

 そんな孫権を見ながら、雪蓮が明るく告げた。

 

「……まあ、そんなのは関係無く、涼の事を気に入っているんだけどね♪」

「姉様!?」

「だって、涼って結構良い男よ。」

「顔が良ければ良い訳ではありませんっ!」

 

 戸惑っていた孫権が、顔を真っ赤にしながら断言する。

 

「勿論よ。涼は顔だけでなくちゃんと実力も有るわ。」

「そんなの信じられません!」

「……けど、私は涼に負けたのよねー。」

「なっ!?」

 

 雪蓮の言葉に絶句する孫権。

 暫くして「そんなの嘘です」と言おうと口を動かし始めた時、周瑜が告げた。

 

「驚くのも無理はありませんが本当です、蓮華様。先の戦いで孫軍が連合軍に参加していた時、雪蓮は清宮に一騎打ちを申し込み、返り討ちにあったと泉莱(せんらい)様が仰られてました。」

「そんな……。」

 

 姉が負けていた事がショックだったらしく、今迄で一番動揺している。

 

「まあ、信じられないなら、その目で見極めれば良いわ。これから暫くは一緒に居るんだからね。」

「……はい。」

 

 落ち込んでいる孫権を励まそうとしたのか、雪蓮はそう言って微笑んだ。

 それから、幾つかの話をして三人は各々の天幕へと戻っていった。

 だが、孫権だけは心の中に(もや)がかかったままでいた。

 結局、その靄は孫権が眠りに就く迄消える事は無く、翌朝目が覚めると再び現れたのだった。



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第七章 戦乱の火種・4

「孫権、その顔どうしたの? ひょっとして寝不足?」

「……少しね。」

 

 翌日の朝、軍議と朝食を兼ねて集合した涼達と雪蓮達。

 そこで見た孫権の顔には隈があり、涼は心配になって声を掛けたのだった。

 

「大丈夫? 無理はしない方が良いよ。」

「……解ってるわ。」

 

 素っ気なく返事をし、所定の椅子に座る孫権。

 その態度に愛紗達は不快感を露わにするが、涼は何とか落ち着く様に宥める。

 

「雪蓮。」

 

 そこに、一人遅れていた周瑜が到着する。その手には竹簡(ちくかん)が握られていた。

 因みに竹簡とは、竹の板を紐で纏めた物で、紙が貴重なこの世界では一般的な書写の材料である。

 

「なに?」

「今、洛陽の海蓮様から連絡があった。」

 

 周瑜はそう言って竹簡を雪蓮に手渡す。

 受け取った雪蓮は竹簡を開いて内容を確認する。

 

「…………これは……。」

 

 そう呟くと、真面目な表情のまま読み続ける。

 

「姉様、一体何があったのですか?」

 

 座っていた孫権も、その雰囲気から心配しながら立ち上がり声をかける。

 また、涼も軍師二人と共に雪蓮の側に立ち、彼女の言葉を待っていた。

 

「何進と袁紹が、十常侍の蹇碩(けんせき)誅殺(ちゅうさつ)したそうよ。」

 

 雪蓮が発した言葉に、孫権達は驚きを隠せなかった。

 

「なら、十常侍を全て討ったのですか?」

「いや、竹簡に蹇碩の名前が書かれているのなら違うと思う。もし十常侍全てを討ったのなら、“十常侍を討った”とだけ書かれているだろうからね。」

 

 孫権が雪蓮に尋ねると、雪蓮が答える前に涼が推測を述べた。

 すると雪蓮は、小さく笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。

 

「涼の言う通りよ。……これによると、蹇碩は何進を暗殺しようとしていたらしいけど、それが何進にバレたのね。で、何進は先手を打って蹇碩を討ったんだけど、その直後に妹の何大后(かたいごう)に説得され、兵を退いたみたいね。」

「馬鹿な! そこ迄きて兵を退く等有り得ません‼」

「私も蓮華と同意見よ。そして、それは母様達も同じみたい。今、袁紹や盧植達と共に、再び十常侍を討つ様に何進を説得しているそうよ。」

 

 雪蓮はそう言って竹簡を涼に手渡した。

 涼は竹簡を開いて内容を確認する。因みに、涼はこの世界に来てほぼ毎日勉強をしていた(させられていた)為、今や文字を読む事に支障は無い。

 

「孫堅さんは何進への説得の意味を込めて、雪蓮にも洛陽に入る様言ってきてるね。」

「そうなのよ。まあ、要は数に任せて脅かしちゃえって事よね。」

「身も蓋もない言い方だな。」

 

 涼が苦笑しながら言うと、雪蓮はケラケラと笑いながら言った。

 

「だって事実だしねー。……で、私としては涼にも来て欲しいんだけど、どうかしら?」

「元々そのつもりで洛陽迄来た訳だし、構わないよ。雪里と雫もそれで良いよね?」

 

 涼は雪蓮に答えてから二人の軍師に向き直る。

 

「はい。今、十常侍を倒さないと、この国が立ち直る機会は遠退いてしまうでしょう。ここは同行するべきです。」

「また、万が一の時の為に、愛紗さんと時雨ちゃんを護衛につけておく事をお勧めします。」

徐庶(じょしょ)簡雍(かんよう)の二人がそう言うと、安心するわね。」

 

 二人が太鼓判を押したので、雪蓮は笑みを浮かべて周瑜に向き直り、これからについて話を始めた。

 因みに、簡雍とは義勇軍の副軍師を務めている小さな少女――雫の事だ。

 鉄門峡(てつもんきょう)の戦いの後に、地香(ちか)(地和(ちいほう))達と共に義勇軍に参加した彼女は、主に雪里の補佐をしている。

 その為、連合軍で一緒だった雪蓮は彼女の実力をよく知っており、どうやら認めている様だ。

 雪蓮が周瑜と話してる間に、涼は軍師達の提案を吟味し、結論を出す。

 

「……よし、なら愛紗と時雨と雪里、それと五百の兵に同行してもらう。桃香と雫、鈴々と地香はここに残って義勇軍の指揮と防衛を頼む。」

「五百しか連れて行かなくて良いの? もう少し多い方が、脅しになるんじゃないかしら?」

「いや、ここは敢えて少なく見せるべきだよ。」

「清宮、どうしてそう思う?」

 

 雪蓮の疑問に涼が答えると、孫権がその理由を聞いてきた。

 涼は孫権達を見ながら説明を始める。

 

「何進が十常侍の誅殺を止めたのは、妹に説得されただけじゃないと思うんだ。」

「と言うと?」

「さっき孫権が言った様に、幾ら説得されたとは言え、普通に考えるとこの状況で兵を退くのは考えられない。それでも退いたのは、何進が戦いを恐れたからじゃないかと思うんだ。」

「馬鹿な。仮にも何進は大将軍だぞ? 戦いを恐れる等……。」

「けど確か、何進は元々軍人じゃなく、妹が皇后になった事で軍人になった人間。なら、戦いの経験は少ない筈だ。」

「それに、広宗(こうそう)の一件を見る限り、余り実力も無い様です。ならば、清宮殿の考えも強ち間違っていないと思います。」

 

 始めは否定的な孫権だったが、涼と雪里の説明を聞く内に少しずつ納得していった。

 

「何進についての清宮の見解は解った。だが、それと少数の兵を連れて行く事の関連性は何だ?」

 

 孫権は腕を組みながら尋ねる。

 涼はそんな孫権を見ながら説明を続けた。

 

「臆病な人間は、普通なら脅かせば簡単に屈服するだろう。だけど、人によっては意固地になって屈服させるのに時間がかかる事もある。」

「確かに。」

「既に孫堅さん達が沢山の兵を引き連れて洛陽に居るみたいだし、何進にかかっている重圧はかなりのものだろう。」

「……成程、何進を疑心暗鬼にさせる訳か?」

 

 何かに気付いたらしく、周瑜が笑みを浮かべながら涼を見据えた。

 

「流石は周瑜さん、その通りです。今の状況で俺が少数の兵を連れて行ったら、何進は一旦安心するでしょう。ですが、直ぐに何故俺の兵が少数なのか疑問に思う筈です。」

「仮にも大将軍である何進が天の御遣いである涼の現状を知らない筈は無いし、今迄の流れと違う展開になったら疑問に思うわね。」

 

 雪蓮がそう言うと、涼は頷きながら説明を続けた。

 

「ああ。そして俺はそこで普通に接するだけで良い。臆病な人間は同時に深読みし易いから、少数の兵が実は精鋭中の精鋭なんて勘違いをするかも知れない。」

「直接脅すより、間接的に脅した方が効果的って訳ね。まったく、涼ってば考えが結構エグいわね。」

「脅すとかエグいとか言うなよ……まあ、実際そうなんだけどさ。」

 

 涼は雪蓮にからかわれながらもその言葉を肯定し、皆に意見を求める。

 すると、皆涼の考えに同意したらしく、反論は全く無かった。

 そうして皆に囲まれている涼を、孫権は静かに見つめ、やがて呟いた。

 

「……冥琳。」

「何でしょうか?」

「清宮の実力は未だ判らないわ。……けど、少なくとも今迄の評価を改める必要はありそうね。」

「……そうかも知れませんね。」

 

 周瑜は孫権と雪蓮、そして涼を見ながら優しい声で応える。

 だが、再び涼を見る周瑜の眼は、一瞬だけ鋭く光っていた。

 当然ながら涼はそれに気付かず、話しかけてきた白蓮達の応対をしていた。

 

「白蓮と星は幽州軍だけど、本当に俺が決めて良いのか?」

「清宮は連合軍の総大将を務めていたんだし、私は構わないぞ。」

「伯珪殿の客将である私も異存ありません。」

 

 二人にそう言われた涼は、暫く考えてから告げる。

 

「なら、ここで桃香達と共に待機してて。もし何かあったら、皆と共に対応してくれ。」

「解った。」

「承知しました。では。」

 

 白蓮と星はそう言うと幽州軍の指揮に戻っていき、涼もまた雪蓮達と一旦別れ、義勇軍に指示を出しに向かった。

 

「……姉様。」

「なに?」

 

 その直後、孫権が雪蓮に話し掛ける。その表情にはどこか迷いが見えた。

 

「……私も洛陽に行っては駄目でしょうか?」

「ダメ。」

「やっぱりですか……。」

「当然よ。けど、理由が解っているのに何故訊いたの?」

「それは……。」

 

 言い澱んだ孫権は、義勇軍の方をチラッと見る。

 雪蓮はその仕草を見逃さず、暫く考えてから笑みを浮かべながら尋ねる。

 

「……なあに? ひょっとして、涼に惚れた?」

「ち、違いますっ!」

「じゃあ何で涼が居る方角を見たの?」

「そ、それは……。」

 

 雪蓮の追及に孫権は思わず言い澱み、俯いてしまうが、孫権はその理由を解っていた。

 清宮涼を見極めたいが、認めるのが恐い。もし認めたら、何かが変わってしまう気がした。

 何が変わるのか迄は、ハッキリと解らなかったが。

 

「……まあ良いわ。今は興味無くても、何れ好きになれば良いんだし。」

「…………はい?」

 

 雪蓮の思わぬ言葉に、孫権は間の抜けた声を出した。

 

「姉様……それってどういう意味ですか……?」

 

 雪蓮の言葉の意味を測りかねた孫権が、恐る恐る尋ねる。

 そんな妹の態度に気付いてるのか気付いていないのか解らないが、雪蓮は明るく言い切った。

 

「どういう意味って、そのままよ。貴女が涼を好きになって、子供を作ってくれないかなあって事♪」

「…………えーーーーーっ‼」

 

 雪蓮はサラッととんでもない事を言い、孫権は言葉の意味を理解した瞬間、人目もはばからずに大声をあげて驚いた。

 

清宮涼と自分が、子供を作る。

 

 それはつまり、二人がとても「親密な関係」になるという訳で。

 「親密な関係」が何を意味するのか、十代半ばの孫権には当然ながら解っている訳で。

 その状況を安易に想像する事もまた、簡単だった訳で。

 

「な、な、何を仰っているのか解っているのですか、姉様っ‼」

 

 だからこそ、孫権はその褐色の肌を、普段では有り得ない程に紅潮させている訳だった。

 

「当然解っているわよ〜♪ 孫家に“天の御遣い”の血を入れる、って事でしょ♪」

「で、ですからっ! それがどういう事か解っているのかと訊いているんですっ‼」

「ああ、涼と“まぐわう”って事?」

「そ、そうですっ! 姉様は、私にあの男とまぐわえと!?」

「勿論、無理強いはしないわよ。けど、そうなったら良いなとは思っているわ。」

 

 話が話だけに、孫権は声を潜める様にして尋ねていく。

 それにつられたのか、雪蓮も若干声量を落として話を続けた。

 

「何故そんな事を……。」

「昨夜言ったでしょ、天の御遣いの威光を借りるって。これもその一つよ。」

「それにしても、子供なんて未だ私には……。」

 

 孫権は真っ赤になった端正な顔を俯かせながら、小さな声で反論する。

 

「何言ってんの。私は今十九歳で貴女は十六歳。シャオは十三歳だから未だちょっと早いけど、私達は充分子供を作れる年齢よ。」

「それはそうですが……。」

 

 だからと言って、好きでもない相手を好きになれとか、子供を作れとか言われて、納得出来る訳が無い。

 雪蓮の言い分が理解出来るだけに、孫権は納得しきれなかった。

 

「まあ、私達三人の内、誰かが涼と子供を作れば良いんだし、深く考えない方が良いわよ♪」

「無理です!」

 

 孫権は真っ赤な顔のままそう言った。

 その後、話は一部始終を見ていた周瑜に「いい加減にしなさい!」と注意される迄続いた。

 

「お待たせー……って、何かあったの?」

 

 涼は、目の前の光景に戸惑いながら尋ねた。

 雪蓮と孫権が並んで地面に正座させられ、周瑜に説教されているのだから、戸惑うのも無理はない。

 

「気にするな、ちょっと常識について説教していただけだ。」

「常識って……雪蓮は兎も角、孫権も常識について怒られるなんて意外だな。」

「涼〜、それはちょっと酷いんじゃない?」

 

 流石に雪蓮が文句を言ってくるが、直ぐ様周瑜が窘めてきたのでそれ以上は言わなかった。

 一方、孫権は静かに正座したまま反論しようとはしない。

 姉妹なのにこうも違うものかと、涼は驚きながら二人を交互に見ていった。

 

「よく解らないけど、こっちは準備出来たし、二人を解放してやってくれないか?」

「仕方ないな。」

 

 周瑜は涼の頼みを聞き入れ、最後に一言念を押す様に言ってから二人を解放した。

 雪蓮はお礼がてら涼に抱きつこうとしたが、最早慣れてる涼は簡単にかわしていく。

 その度に雪蓮は文句を言ってくるが、やはり周瑜に宥められてそれ以上は言わなかった。

 この様に色々あったものの、涼達は漸く進み始めた。

 倒さなければならない相手である十常侍が居る、洛陽へ。




第七章「戦乱の火種」をお読みいただき、有難うございます。

今回は十常侍を倒す為の前段階となっています。
幽州での暮らしから一気に舞台が洛陽に移りますので、この章は比較的短く纏められました。
斗詩と猪々子の字も、顔良と文醜の字が伝わっていないので、便宜上勝手に付けました。御了承下さい。

今回、漸く「雫」が「簡雍」だと明かせました。特に秘密にする理由は無く、三国志に詳しい方なら予想出来たでしょうが、果たして当たった方は居るのでしょうか?
そういや、もう一人もこの時点では未だ明かしていませんでしたね。

今回で漸く、恋姫シリーズの人気キャラの蓮華と、無印ではボスキャラの一人だった冥琳が登場しました。
彼女達は当然ながら物語の中心人物の一人なので、扱いには細心の注意を払わなければなりません。蓮華はいつデレるんでしょうね←

今回のパロディネタ。
「いや、その理屈はおかしい。」→「いや、そのりくつはおかしい。」
国民的マンガ、「ドラえもん」でのドラえもんの台詞の一つです。因みにてんとう虫コミックス第6巻に収録されています。
「ドラえもん」は全巻読破している自分ですが、執筆当時は全くパロディとして書いておらず、後日、この台詞がAA(アスキーアート)される程のネタになっている事を知ったくらいです。以前読んでいた記憶が自然と台詞に現れたのかも知れませんね。

次はいよいよ洛陽に入ります。第八章編集終了後にお会いしましょう。


2012年11月28日更新。

2017年4月26日掲載(ハーメルン)


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第八章 十常侍の暗躍・1

漢は高祖劉邦によって作られ、光武帝劉秀によって再建された統一国家。

前漢・後漢併せて約四百年続く漢王朝も、今や落日の兆しが見えている。

その原因の一つが、ほんの一握りの宦官によるものだとは、劉邦も劉秀も予期出来なかっただろう。



2010年5月2日更新開始。
2010年7月11日最終更新。

2017年4月26日掲載(ハーメルン)


 自陣を出て約半刻後、(りょう)洛陽(らくよう)の城壁を見上げていた。

 古代中国の街はその(ほとん)どが城壁都市だったと言われており、「三国志」の世界と似たこの世界もまた、殆どの街が城壁に囲まれている。

 少なくとも、桃香(とうか)の故郷である楼桑村(ろうそうそん)を始めとして、涼が今迄訪れた街は全て城壁都市だった。

 勿論それは漢王朝の首都である洛陽も例外では無く、(むし)ろ最大規模の大きさの城壁に囲まれていた。

 

「どうしたの?」

「いや……本当にでっかいなあと思ってさ。」

 

 初めて見た訳でもないのに、そんな感想しか出てこない。

 現代ではもっと大きな建造物が在るし、見た事もある。

 それでも目の前の城壁を驚いて見上げてしまうのは、この世界でもこんな建造物が造れるという驚きと、その迫力によるものだろう。

 

「確かに大きいわね。……でも、大きいだけじゃ意味は無いわ。」

「まあな。」

 

 雪蓮(しぇれん)はそう言って馬を洛陽の入口である正門に進める。

 城壁が大きいだけに門もそれなりに大きい。横に三十人並んでも余裕があるくらいだ。

 

「これから先は何があるか判らないわ。……覚悟は良い?」

「ああ、大丈夫だよ雪蓮。」

 

 そう答えて涼は馬を進め、分厚い門を潜っていった。

 洛陽の街は静けさに包まれていた。

 十常侍(じゅうじょうじ)の一人が殺された事が住人に伝わっているのか、涼達を見る人々の目には警戒心が強く表れていた。

 

「巻き添えにならないか不安なんでしょ。」

 

 そんな住人達を見ていた涼に、雪蓮はそう言った。

 言われてみれば、力を持たない住人にとって、兵を引き連れている自分達は争いの種である事は間違い無い、と涼は認識した。

 

「……巻き込まない様にしないとな。」

「ええ。」

 

 二人はそう言って目的地へと急いだ。

 目的地は、洛陽中心部にほど近い場所に在る大きな屋敷。

 以前洛陽に来た際にも滞在した屋敷に、今回も向かう。

 

義兄上(あにうえ)、どこに十常侍の刺客が居るか判りません。充分に御注意下さい。」

「お前に何かあったら桃香が悲しむからな。取り敢えず守ってやるよ。」

 

 愛紗(あいしゃ)時雨(しぐれ)がそう言いながら涼の隣に並び、辺りに目を光らせる。

 その雰囲気は、何人たりとも涼に近寄らせないという感じだ。

 

「あら、泉莱(せんらい)が居るわ。」

 

 そんな中、雪蓮が進行方向に居る泉莱――程普(ていふ)を見つけ、馬を進めた。

 すると程普もゆっくりと雪蓮達に近付いてこう言った。

 

「若君様、総大将、お待ちしていました。」

 

 雪蓮達を出迎えた程普は、以前連合軍に参加していた時と同じ漆黒のコートの様な長袖の衣服を身に纏っていた。

 その為、紅く長い髪がより映えて見える。(ちな)みに、雪蓮や孫権(そんけん)周瑜(しゅうゆ)達と同じ褐色の肌なので、尚更強調されていた。

 

「御久し振りです、程普さん。……未だ“総大将”って呼び方なんですね。」

「連合軍での活躍を見た者なら、皆そう呼ぶかと存じます。」

「そ、そうかなあ……?」

 

 涼は戸惑いながら答え、程普の案内通りに馬を進めた。勿論、その隣には愛紗と時雨が並んでいる。

 暫く進むと、見覚えのある屋敷が視界に入ってきた。

 

「こちらで、殿や盧植(ろしょく)様がお待ちです。」

「案内有難う、泉莱。そう言えば、何進(かしん)も居るの?」

「何進様は先程迄居られましたが、一度御自宅へ戻られました。」

「十常侍の恨みを買っている時に単独行動なんて、大丈夫なの?」

「まあ、念の為、護衛は付けている様ですし問題無いかと存じます。」

「だと良いんだけど……。」

 

 不安な表情になる雪蓮達だったが、大将軍である何進に意見出来る立場では無いので、気持ちを切り替える事にした。

 目の前に在る屋敷で、早急に話をしなければならないのだから。

 屋敷に入った涼達を真っ先に出迎えたのは、この屋敷の主人だった。

 

清宮(きよみや)様、御久し振りです。」

「御久し振りです、翡翠(ひすい)さん。お元気そうで何よりです。」

 

 涼が翡翠と呼んだ屋敷の主人は、名を盧植という。

 後漢末期を代表する学者であり文官であり武将でもある盧植――翡翠は、柔らかな表情で涼達を見つめている。

 

玄徳(げんとく)伯珪(はくけい)は一緒じゃないのですね。」

「桃香と白蓮(ぱいれん)には、洛陽の外で万一に備えて貰ってます。」

「この状況ですから、それが良いでしょうね。」

 

 翡翠はそう言って涼達を屋敷の奥へと招き入れた。

 以前来た事があるので、屋敷の構造は大体覚えていた。

 入口から真っ直ぐ進み、突き当たりを右に。そのまま真っ直ぐ行くと、沢山の人数が集まる事が出来る広い部屋に着く。

 現代で言うなら「リビング」にあたるだろう。

 その「リビング」には、先程程普が言った様に、先客が居た。

 

「久し振りね、涼。」

 

 部屋に入ってきた涼を見ながら、最初にそう言ったのは金髪の巻き毛の少女。

 見かけは小さいながらも、彼女が持つ雰囲気は限り無く大きな感じがする。

 そんな少女に涼は挨拶を返した。

 

「久し振りだな、華琳(かりん)。元気だったか?」

「ええ、病気になる暇が無い程忙しかったからかしら、元気に過ごせたわ。」

「それは良かった。」

 

 華琳は笑みを浮かべながらそう応え、涼もまた微笑みながらそう言った。

 因みに華琳とは真名(まな)であり、彼女の名は曹操(そうそう)と言う。

 「三国志」における三英雄の一人、もしくは最大の敵である人物と同じ名を持つ少女も、今は未だ名が売れてきた武将の一人でしかなかった。

 そして、そんな彼女の傍らにはネコミミフードの少女――荀彧(じゅんいく)が居る。

 華琳の軍師である彼女の真名は桂花(けいふぁ)と言い、華琳は勿論ながら涼もその名を呼ぶ事を許されている。

 

「桂花も久し振りだな。」

「ふん、馴れ馴れしく真名を呼ばないでくれる? 孕んじゃうじゃない。」

「呼んだだけで孕むか!」

 

 ……許されているのだが、どうやら彼女は極度の男嫌いらしく、涼に対していつもこんな感じだったりする。

 それなのに何故真名を許されているかというと、華琳が自身の真名を涼に預けた後、半ば強制的に桂花も自身の真名を涼に預けさせられたのだ。

 勿論、桂花は物凄く嫌がっていたが、華琳が真名を預けている事もあって結局は預けた。

 ……一番の理由は、華琳が「命令したから」だったりするのだが。

 

「華琳様、只今戻りました。」

 

 と、そこに、右目が水色の髪で隠れている少女と、長い黒髪をオールバックにした少女がそう言いながら現れた。

 二人は殆ど同じデザインだが色違いの、チャイナ服の様な肩出し袖有りの服を着ており、その上には主に体の左側を、または体の右側を守る紫色の胸当てをそれぞれ着けていた。

 因みに、水色の髪の少女の服は青色、黒髪の少女の服は赤色で、色以外の違いは服の留め具が前者は右肩の位置に、後者は左肩の位置に有る事だ。

 また、細長い髑髏の腕当てをそれぞれ左腕と右腕に付け、足には黒いニーソックスと黒い靴を履いている。

 とまあ、二人はこの様に対称的な姿形をしていた。

 そんな二人に対して、華琳は真剣な表情で尋ねる。

 

「お帰りなさい、秋蘭(しゅうらん)春蘭(しゅんらん)。……それで、どうだったの?」

 

 すると、秋蘭と呼ばれた水色の髪の少女と、春蘭と呼ばれた黒髪の少女はそれぞれこう報告した。

 

「はい、今の所は十常侍達に動きはありません。」

「何進も今は自宅で休んでいる様です。」

 

 報告を受けた華琳は(しばら)く考えてから二人に指示を出す。

 

「そう……なら、二人は何か起きた時の為に、暫くの間休んでいて。」

「はっ。……ですが、我々は華琳様の護衛をしなくても良いのでしょうか?」

「心配しなくても大丈夫よ。ここには孫堅(そんけん)孫策(そんさく)といった名だたる武将が居るし、勿論私も戦える。それに……涼も居るわ。」

「えっ?」

 

 華琳の言葉に驚いたのか、春蘭と呼ばれた少女はそう言って振り返り、涼を見た。すると、何故か瞬時に嫌な顔になった。

 

「なんだ貴様、居たのか。」

「ご挨拶だな、春蘭。俺は最初から居たぞ。」

「嘘をつくな。私は気付かなかったぞ、なあ秋蘭?」

「いや、私は気付いていたぞ姉者。」

「しゅ〜ら〜んっ。」

 

 秋蘭と呼ばれた少女が同意しなかったからか、春蘭と呼ばれた少女は、それ迄の威勢の良さが全く無い声を出した。

 涼はそんな二人を苦笑しながら見つめ、声をかける。

 

「二人共相変わらずだね。まあ、あれから三ヶ月しか経ってないから仕方ないか。」

「ええ、仕方ないわね。」

 

 涼の言葉に華琳が同意すると、春蘭と呼ばれた少女は更にヘコんでいく。

 一方、秋蘭と呼ばれた少女はそんな光景を見て微笑んでいた。何故だろう?

 

「フフ……春蘭、いつまでもヘコんでないで早く秋蘭と一緒に休んできなさい。」

「は、は〜い……。」

 

 春蘭と呼ばれた少女は未だヘコんでいたが、やがて秋蘭と呼ばれた少女と共に部屋を出て行った。

 

夏侯惇(かこう・とん)夏侯淵(かこう・えん)、共にまた強くなった様ですね。」

 

 それを見ていた愛紗は、春蘭と呼ばれた少女を夏侯惇、秋蘭と呼ばれた少女を夏侯淵と呼んだ。どうやらそれが彼女達の名前であり、春蘭や秋蘭とはやはり真名だった様だ。

 

「流石は関羽(かんう)、見ただけで相手の実力を見極められるのね。」

「これくらい、武人として当然です。それが出来なければ、戦いで命を落としかねませんからね。」

 

 愛紗がそう言うと、華琳は何故か満足した様に微笑んだ。

 

「良いわね……益々欲しくなったわ。」

「……それについては既に返答した筈ですが。」

「そうね。……けど、私は簡単に諦める様な人間じゃないのよ。」

 

 華琳はそう言いながら、愛紗と涼を見ていった。

 涼はやれやれと苦笑しながら華琳に向き直る。

 

「華琳、義勇軍の筆頭武将であり俺の義妹(いもうと)である愛紗を、俺の目の前で引き抜こうとするなよ。」

「あら、貴方の目の前だからこそ、引き抜こうとしているのよ。」

「……このドSめ。」

 

 小悪魔の様な笑みを浮かべる華琳を見ながら、涼は小さな声で感想を漏らした。

 小さな声で言ったのは聞こえない様に気をつけたからだが、仮に聞こえても意味は解らないだろう。

 

「……涼、何か言ったかしら?」

「さてね。」

 

 どうやら聞こえたらしいが、大して興味が無かったのか直ぐに話題を愛紗に戻した。

 

「……まあ良いわ。兎に角、先の黄巾党(こうきんとう)の乱で敵将の程遠志(てい・えんし)趙弘(ちょうこう)を討ち取ったその実力を、私は認め、欲しいと思っているのよ。」

「そう仰って下さるのは有り難いのですが……私は涼様や桃香様の義妹であり臣下。お二方以外の将に仕える気は毛頭ありません。」

 

 華琳は愛紗を褒め称え、自軍に引き入れようとするも、肝心の愛紗は全く聞き入れなかった。

 流石に華琳の機嫌が悪くなるんじゃないかと涼は焦ったが、その華琳は逆に満足した様な表情を浮かべていた。

 

「……断られてるのにご機嫌だな?」

「それはそうよ。簡単に寝返る様な兵なら却って要らないけど、関羽の様に忠誠心に溢れる兵なら沢山欲しいもの。」

「つまり、愛紗は合格って事か。」

「その通りよ。」

 

 涼と愛紗は殆ど同時に溜息を吐いた。

 華琳の諦めの悪さは、良くも悪くも彼女の特徴である。

 その事は知っていたが、改めて思い知らされた二人だった。

 

(この間ここで断られてるのに、ポジティブかつアクティブな奴だな。)

 

 涼は、自信に満ち溢れた表情を浮かべる華琳を見ながら、そう思った。

 三ヶ月前、洛陽で何日にも渡って戦勝祝いの祭りが繰り広げられた中で、華琳は愛紗を勧誘していた。

 更に鈴々(りんりん)雪里(しぇり)、時雨、(しずく)と、義勇軍の主力を次々と勧誘していったのだから、涼や桃香にとっては堪らなかっただろう。

 まあ、皆断ったので事なきを得たのだが。

 因みに地香(ちか)(地和(ちいほう))は、万が一の場合を考えて余り華琳と接触させなかったからか、勧誘されなかった。

 

「……まあ良いわ、今は退いてあげる。……けど、諦めた訳じゃ無いから覚悟しておく事ね。」

「はあ……。」

 

 不敵な笑みを浮かべる華琳に、愛紗は溜息混じりの返答をするしか出来なかった。



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第八章 十常侍の暗躍・2

「なあに、いつの間にか賑やかになっているじゃない。」

「あ、母様。」

 

 そこに、孫堅を始めとした数人の女性が現れた。

 その中には、孫堅以外にも涼が見知った人物が二人居た。

 

「あ、清宮様。」

「あっ、アニキ。意外と早かったじゃん。」

 

 黒いおかっぱ頭の大人しそうな少女と、緑のツンツン頭の元気一杯そうな少女は、涼に気付くと殆ど同時に声をあげた。

 

斗詩(とし)猪々子(いいしぇ)、久し振りだな。二人がここに居るって事は、袁紹(えんしょう)も居るのか?」

「はい、この方が……。」

 

 涼の問い掛けに斗詩が答えようとした時、隣に居た金髪縦ロールの少女が突然叫びながら涼に詰め寄ってきた。

 

「ちょっとそこの貴方!」

「お、俺っ!?」

「そうですわよ! 顔良(がんりょう)さんと文醜(ぶんしゅう)さんの真名を気安く呼ぶ様な世間知らずさんが、他に居ますの!?」

 

 物凄い剣幕でまくし立てるその少女は、腰に下げている剣の柄にいつの間にか手をかけてた。

 それに気付いた涼は、反射的に両手を上げながら必死に落ち着かせようとする。

 

「いや、気安く呼んだ訳じゃ……。」

「お黙りなさいっ! どこの馬の骨かは存じませんが、二人の神聖なる真名を勝手かつ気安く呼んだ貴方は、この袁本初(えん・ほんしょ)が直々に手打ちにして差し上げますわっ‼」

 

 だが、金髪の少女――袁紹は涼の言い分を聞こうともせずに抜刀し、涼に斬りかかった。

 ……が、近距離から急に斬りかかられたにも係わらず、涼は難無くかわせた。

 

(……遅っ!)

 

 紙一重でかわした訳でも無く、剣先がかすめた訳でも無い。

 剣を持つ武将とは思えない程、袁紹の動きが遅かっただけなのだ。

 

「何で避けますのっ!?」

「避けないと死ぬだろうがっ‼」

 

 無茶苦茶な事を言う袁紹に対し、涼は少し我慢しつつ反論する。

 だが、袁紹はやはり聞く耳持たずに二の太刀をあびせようと剣を振るう。

 だが、遅い太刀筋を読みかわすのは今の涼にとって苦では無く、袁紹が何度斬りかかってきても簡単に避けられた。

 そうして袁紹が数度剣を振るっていたが、途中でその剣は高い金属音をあげながら宙を舞い、床に転がった。

 

「な……っ!?」

 

 袁紹は暫くの間何が起きたのか解らなかったが、やがて涼の隣に居た黒髪の少女が、手にしている武器を振るって自分の剣を弾き飛ばした事に気付いた。

 

「な、何をしますの、貴女は!?」

「主が身の危険に晒されようとしていたので、助けた迄です。」

 

 そう言って涼を守る様に立ち、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)の刃先を袁紹に向ける愛紗。

 袁紹はたじろぎながらも虚勢を張り、後ろに居る二人に命じる。

 

「顔良さん、文醜さん、二人共何をしてますの!? 早くこの人達を懲らしめてやりなさい‼」

「懲らしめろって言われても……ねえ?」

「だよなあ。」

 

 だが、その二人――斗詩と猪々子の反応は、袁紹の予想とは対照的に鈍かった。

 

「二人共何でそんなに覇気が無いんですの!? 貴女達の真名を勝手に言われたんですのよ!?」

「姫ぇ……だからその前提が間違ってるんですってばあ。」

「…………えっ?」

 

 猪々子の言葉に驚いたのか、袁紹は間の抜けた声を出した。

 そんな袁紹に斗詩が説明していく。

 

「私達、清宮様に真名を預けてるんですよ。この間そう報告したじゃないですかぁ。」

「…………あ。」

 

 どうやら完全に失念していたらしく、呟いたかと思うと途端に表情が焦りの色に変わっていった。

 

「……じゃあ、このどこの馬の骨かも解らない人が、あの清宮涼ですの?」と呼んでいた。因みに猪々子は、涼の事を「アニキ」と呼んでいた。

 袁紹は暫く考えていたが、ついさっきの事なので容易に思い出す事が出来たらしい。

 

「ま……まあ、間違いは誰にでもありますわ。そう、名門袁家の生まれのこの私にもありますわ!」

「……何でこいつは偉そうに言ってんだ……?」

 

 思い出した結果、勘違いしたのに開き直った袁紹の態度に、涼は只脱力するしかなかった。

 

「まったく、貴女は相変わらず馬鹿ね。」

 

 一連の様子を見ていた華琳が、そう嘲笑した。

 当然ながら、袁紹はその言葉に反応する。

 

「……あーら、華琳さん、居たんですのね。相変わらず背も胸も小さいから、私まったく気付きませんでしたわ。」

「……さっき迄会っていた私に気付かないなんて、麗羽は記憶力が無いのかしら? まあ、頭が悪いからそれも仕方無いわね。」

 

 袁紹のあからさまな挑発に、華琳は一瞬カチンときた表情を浮かべたが、直ぐに冷静な表情になって挑発しかえした。

 当然、罵り合いになる訳で、場の空気はさっきより悪くなる。

 

「……なあ斗詩、ひょっとしてこの二人っていつもこんななのか?」

「はい……麗羽(れいは)様、あ、麗羽というのは袁紹様の真名なんですけど、その麗羽様と華琳様は長い付き合いでお互い真名で呼んでいる仲ではあるんですが、麗羽様は華琳様に並々ならぬ対抗心を抱いていて……。」

「要するに、ケンカ友達って奴だよ、アニキ。」

 

 斗詩が詳しく説明していると、猪々子が簡潔に言い表した。

 

(ケンカは兎も角、友達なのかなあ……?)

 

 目の前で繰り広げられている口喧嘩に嘆息しながら、涼はそう思っていた。

 二人の口喧嘩が長くなりそうだったので、涼は他の人に話し掛けた。

 

「孫堅さん、お久し振りです。」

「ええ、久し振りね。……婿殿。」

「…………はい?」

 

 孫堅が言ったとある単語に、涼は違和感と不安を覚え、絶句した。

 

「あら、愛娘の“初めて”を奪ったんだから、当然責任はとってくれるのですよね?」

「…………えーっ!?」

 

 そう言った孫堅は笑顔だった。余りにも良い笑顔だったので、却って怖く見えたくらいだ。

 そんな孫堅を見ていると、後ろから雪蓮が抱きついてきた。

 

「あら、涼はもしかして責任とらないつもりだったの?」

「……責任をとるもとらないも、そもそも何の事か解らないんだけど?」

 

 涼が溜息を吐きながらそう言うと、雪蓮はニヤニヤしながら耳元で囁いた。

 

苑城(えんじょう)で私の“初めて”を奪ったのを忘れたの? だったら悲しいなあー。」

「わざとらしいくらい棒読みだな。てか、苑城での“初めて”って、キス……接吻の事じゃないか?」

「あ、覚えていてくれたんだ? 嬉しい♪」

「俺の記憶が確かなら、あれは“俺が奪った”んじゃなくて、“雪蓮が奪った”んじゃなかったか?」

「んー? そうだったかしら?」

 

 雪蓮は、先程の孫堅と同じ様に良い笑顔で惚けている。

 

「やれやれ……。本当に責任をとらないといけない事をしたら勿論そうするけど、今はその必要は無いよな?」

 

 そう言いながら涼は雪蓮を離した。雪蓮は離れたくなかった様だが、それでは話が先に進まないので無視する。

 孫堅も同じ様に残念そうな表情をしているが、やはり対応したらキリが無いので話を変える事にした。

 

「ところで、後ろに居る二人はどなたなんですか?」

 

 涼は、孫堅の後ろに居る小さな少女と、その傍らに立つ少女を見ながら訊ねた。

 

「ああ、この二人は袁術(えんじゅつ)とその側近の張勲(ちょうくん)よ。」

「ん? なんじゃ? (わらわ)に何か用なのかえ?」

美羽(みう)様、どうやら噂の天の御遣いが美羽様と話したいみたいですよ。」

 

 孫堅が二人に振り返りながら説明すると、袁術と張勲と呼ばれた二人の少女がこちらを見ながらそう言った。

 どうやら、一見すると小学生の様に小さい少女が袁術で、軍服を着たバスガイドの様な姿の少女が張勲らしい。

 

(まさか袁術がこんな子供とは……。史実や演義だと袁紹の弟か従兄弟だったから、この世界だと妹か従姉妹かな?)

 

 涼は袁術を見ながらそう思った。

 只、よく見れば確かに袁術は袁紹と似ている所が有る。

 例えば、袁紹は腰迄ある長い金髪の縦ロールで袁術は腰迄ある長い金髪のストレートだが、毛先は同じ様に縦ロールになっている。

 また、瞳の色も同じ碧色だし、何だか雰囲気も似ている。

 勿論、違う所だって沢山有る。

 例えば、袁紹は斗詩達と似たデザインの紅い服と白いミニスカート、白い手袋と腿迄の黒いストッキングに白いロングブーツといった服装。

 それ等の上に金と黒という配色の胸当てや肩当て、篭手や足当てを身に付け、腰には青と金という配色の剣を下げている。

 一方の袁術はと言うと、ヒラヒラとしたドレスの様な服を着ている。

 配色は黄色と白色がメインで、腰から伸びている細長い前掛けみたいな布は紫色に葉っぱの様な形の金色の刺繍、その上に薄紫色の帯を巻き、先端には前掛けと同じ様な十字と十文字型の葉っぱの刺繍がやはり金色で描かれている。

 肩と胸元は露出しており、姫袖にロングスカート、僅かに見える足下には、紫と黒という配色の先端が上向いている靴。

 頭には小さな銀色の王冠、頭の後ろには大きな紫色のリボン、耳には紅いイヤリング、そして首には青色のネックレスを付けている。

 武将としての装いの袁紹に対し、普通のお姫様の様な格好の袁術。

 更にこの年代の女子の平均身長(だと思われる)の袁紹と、小学生の様な身長の袁術。

 そして、そうした身長差からくるスタイルの違い。

 二人は姉妹もしくは親戚とは言え結局は他人なのだから、似た所と違う所が有るのは当然ではある。

 

「そなたがあの天の御遣いとやらかえ?」

 

 その袁術が、トテトテと歩きながら涼に近付き、そう尋ねた。

 

「まあね。」

「……思っていたのと違うのじゃ。」

「違うって、どう違ったの?」

 

 涼が疑問を口にすると、袁術は涼を見ながら答えた。

 

「黄巾党をあっと言う間に倒したと聞いていたから、もっとゴツい男かと思っていたのじゃ。」

「そ、そっか……。と言うか、別にあっと言う間に倒してはいないし。」

「そうなのかえ?」

 

 涼の言葉に、袁術はキョトンとしながら呟いた。

 一体誰がそんな風に言ったんだと思った涼だったが、袁術の傍らに居る少女が涼を見ながら微笑んだのに気付き、あっと言う間に見当がついた。

 

「成程、貴女が袁術に過剰な説明をしたんですね。張勲さん?」

「さあ〜、何の事でしょうか〜? 私にはちょっと解らないですね〜。」

 

 そう答えた張勲だったが、その口調はわざとらしいくらいに棒読みっぽかった。

 絶対にすっ惚けているなと確信した涼だが、下手に追及して揉めるのは避けようと判断し、何も言わなかった。

 そんな涼が改めて張勲を見てみると、やっぱり軍服を着たバスガイド、もしくはスチュワーデスって感じの格好だと思っていた。

 何故そう見えたかと言うと、頭に有る白と紺を基調とした小さな帽子が、いかにもそれっぽい帽子だからだ。

 また、軍服っぽい服は半袖で、両肩には黒い紐が蝶結びになって付いている。因みに配色はというと、服の左右は白、真ん中や襟、袖等は青紫で構成されている。

 他には、首元に薄紫色のスカーフ、白い手袋に赤紫のプリーツスカートに黒いニーソックス、白い編み上げブーツを身に着けており、左腕には黄色地に黒字で「袁」と書かれた腕章を巻き、腰には黒い鞘に納められている剣を下げていた。

 紺色の短い髪は左から右に分けており、四つ葉型の髪留めで留めている。

 瞳は紫色で大きく、背は袁紹と同じくらい。(つい)でに言うと、胸も同じくらいか少し小さいくらいに大きかった。

 

(一見おっとりして優しそうだけど……何だろう、油断出来無い気がする。)

 

 目の前に居る張勲は笑顔だし、物腰も柔らかい。

 それなのに涼がそう思ったのは、その笑顔や口調がわざとらしく感じたからだろうか。

 

(まあ……取り敢えず今は注意しておくだけで良いかな。それより、今は確認しないといけない事が有るし。)

 

 そう思った涼は一旦張勲から目を離すと、翡翠や華琳達に目を向けながら訊ねた。

 

「ちょっと聞きたいのですが、洛陽は昨日静かだったそうですね。……何かあったのですか?」

「……昨日? ……ああ、多分あの事ね。」

「あの事?」

 

 華琳と袁紹は未だ口論していたが、涼の質問に気付くと途端に二人共口論を止め、袁紹は沈黙し、華琳は神妙な面持ちでそう呟いた。

 その様子に涼は勿論、愛紗や時雨、そして雪蓮も怪訝な表情を浮かべる。

 そんな涼達を見ながら、華琳は重々しく告げた。

 

「……帝は今、病に伏せっておられるのよ。」

「えっ……?」

 

 思い掛けない言葉に涼達は絶句する。

 華琳は尚も続けた。

 

「……宦官(かんがん)共はその事を伏せていたんだけど、どこからか漏れたらしくてね。その噂が街に広まったのが昨日って訳よ。」

「……そうだったのか。」

 

 華琳の説明を聞いた涼は静かにそう呟く。

 昨夜の謎は解けたものの、涼達は重苦しい空気に包まれていた。

 帝の容態によっては、民衆が混乱しかねないからだ。

 

「……帝の容態はそんなに悪いのか?」

 

 そんな中、暫く俯いていた時雨が華琳に訊ねると、華琳の代わりに翡翠が答えた。

 

「噂ではその病状はかなり重く、明日をも知れぬ命だそうです……。」

「……っ! そんなに酷いのですか……。」

 

 想像以上の現実を知らされ、時雨は息を詰まらせた。

 約四百年続く漢王朝の帝の命の灯が、まさに今、消えようとしている。

 幸い、跡を継ぐ皇子は居るが、二人の皇子はどちらも未だ幼い。

 つまり、このまま帝が死ぬと、この国は間違い無く混乱する。

 そして、その時に十常侍が存在していたら、その混乱は更に大きくなり、黄巾党の乱以上の大乱が起きてしまうかも知れない。

 それが解ったからこそ、時雨は絶句しているのだ。

 

「……我々に出来る事は、天に祈る事だけか……。」

 

 悔しそうに愛紗が呟く。

 華琳達は勿論、涼や時雨もまた愛紗と同じ様に悔やみ、天に祈った。

 だが、涼は天に祈りつつも、帝が助からないと思っていた。

 何故なら、涼はこの世界の元というべき「三国志」を知っているからだ。

 

(……「三国志演義」だと、病に倒れた帝……霊帝(れいてい)はそのまま亡くなる。そして、十常侍はその死を隠して何進を宮中に呼び出して暗殺しようとするが、逆に何進に気取られて蹇碩等が殺された……。)

 

 涼は神妙な面持ちのまま、自分が知っている「三国志」に関する知識を頭の中で再生していく。

 

(でも、この世界では帝の存命中に蹇碩が殺されている……。まあ、雪里……徐庶(じょしょ)が既に仲間になってたり、地和……張宝(ちょうほう)が生きて俺達と一緒に居たりする訳だから、まるっきり同じって訳じゃないみたいだけど……。)

 

 その知識とこの世界の出来事との違いを考え、涼は少し悩んだ。

 それでも涼は、帝――霊帝の死は免れないだろうと確信していた。

 

「失礼っ!」

 

 そこに、凛とした声の少女が豪快に扉を開き、息を切らせて入ってきた。

 突然の事に涼達は驚き、その少女に目を向ける。

 

「何をそんなに慌てておるのじゃ、瑠衣(るい)?」

紀霊(きれい)さん、はい、お水。」

「な、七乃(ななの)殿……(かたじけ)ない……。」

 

 袁術と張勲が、その少女をそれぞれ「瑠衣」「紀霊」と呼び、その少女――紀霊は張勲から渡された水を一気に飲み干していく。

 そして紀霊は、深呼吸してから言った。

 

「……先程、帝がお亡くなりになりました。」

「っ!?」

 

 紀霊が発した言葉に、その場に居た全員が息を飲む。

 

「……ま、間違いないのかえ、瑠衣?」

「残念ながら……。」

 

 恐る恐る確認する袁術に、紀霊は俯きながら答えた。

 

「紀霊さん、その話は誰から聞いたんですか?」

「何進大将軍の補佐をしている張遼(ちょうりょう)殿からです。」

「張遼さん……ああ〜確か、丁原(ていげん)さんの所に居る武将で、今回の檄に応えた丁原さんの命で、先に張遼さんが来ていたんでしたっけ。」

 

 張勲は、両手を軽く合わせながら、まるで誰かに説明する様に言った。

 涼はその説明と紀霊が告げた事を頭の中で反芻(はんすう)し、同時に紀霊の姿を見た。

 紀霊は、短い黒髪をきちんと整えており、寝癖の様な乱れは一切無い。

 衣服は左肩から服の右下を境に、右側が黄色で左側が黒のノースリーブ。黒いミニスカートを履いているが、その下には黒いスパッツらしきものも履いている。

 足には白いニーソックスと、スポーツシューズの様な黒い靴。

 防具の類は、銀色の肩当てと胸当て、それと足当てを付けているだけで、猪々子に近い格好をしている。

 そして背中には、白銀に輝く大剣を背負っていた。

 

「……強そうですね。」

 

 涼の右隣に居る愛紗が、涼にだけ聞こえる様な声量で呟く。

 その視線の先には、紀霊の姿が在る。

 

「ああ、今は味方みたいなものだけど、いつかは敵対するかも知れない。その時は充分に気をつけてくれ。」

「解りました。」

「時雨も、良いね?」

「解っている。」

 

 涼もまた、愛紗と同じ様な声量で愛紗と時雨に忠告する。

 そう、今は未だ誰も敵では無い。

 だが、いつかは敵になるかも知れない。

 少なくとも、「三国志」を知っている涼は、普段の性格と違って楽観出来なかった。

 

「ところで紀霊殿、帝が亡くなられたと知った何進殿は、今どうしています?」

「何進殿は帝の姻戚(いんせき)でありますから、その死を誰よりも悼み落ち込まれている様です。」

 

 孫堅の問いに、紀霊は背筋をピンと立て、丁寧な口調で答えていった。

 何進の妹が帝の后になっていたので、何進は帝の義姉(あね)にあたり、帝は何進の義弟(おとうと)にあたる。

 それだけに、何進が悲しむのも無理は無いだろう。

 そこに突然、

 

「失礼するで!」

 

と言う少女の言葉が聞こえてきた。

 声がした方を見ると、入り口の扉を豪快に開けた紫色の髪の少女が立っていた。

 涼は一瞬「デジャヴ?」と思う程、その光景を遂最近見た様な気がした。

 

「おや、張遼殿ではないですか。どうしました?」

 

 先程、その光景の中心だった紀霊が、入り口に居る少女を張遼と呼びながら近付いていく。

 するとその少女――張遼は、神妙な面持ちのまま口を開いた。

 

「……何進が何太后(か・たいごう)に呼び出されたんや。」

 

 張遼のその言葉に、紀霊は勿論ながら、その場に居た殆どの人間が驚きを隠せなかった。

 そんな表情のまま、雪蓮が訊ねる。

 

「ちょっと、それって本当なの?」

「残念ながらホンマや。」

「……呼び出された理由は何かしら?」

「蹇碩が殺された事や、各地の兵がこの洛陽に集まってる事で何太后が不安になり、何かが起きる前に相談したいというのが理由やけど……。」

「そんなの、十常侍が作りあげた嘘に決まってるわ。」

 

 続いて華琳が訊ね、張遼が答えると、即座に断言した。

 張遼も同意見だったらしく、小さく頷くと話を続けた。

 

「ウチもそう思う。このままじゃ何進は間違いなく十常侍の奴等に殺されるで。」

「そこ迄解っていて、どうして止めなかったのじゃ?」

 

 袁術がもっともな質問をぶつける。何故か張勲は驚いていた。

 

「勿論ウチ等は止めたで。そやけど、何進は蹇碩を殺した事で十常侍がビビってると高を(くく)って、ウチ等の話を聞かんかったんや。」

 

 張遼は頭を押さえながら言った。

 その表情からは、何進のそうした行動が一度や二度じゃ無いと想像出来た。

 

「兎に角、それなら急いで何進を追い掛けた方が良いと思う。」

「涼の言う通りね。どうせ涼達が来たら何進の所に行くつもりだったし、早速行きましょう。」

 

 涼の提案に華琳が同意し、皆もそれに倣う。

 袁紹や袁術が何か言っていたが、何故か無視された。

 そうして涼達は、案内役の張遼を先頭にして宮中へと向かった。



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第八章 十常侍の暗躍・3

 華琳や袁紹等は宮中への道筋を知っているが、話の流れから自然と張遼が先頭を走っていた。

 宮中の門前に到着すると、そこには既に兵士達を引き連れた武将達が居た。武将達は皆少女であり、どうやら張遼や華琳達の知り合いらしい。

 華琳達が彼女達と話している間、涼は宮中の門扉を見た。

 宮中の門は鉄で出来ていて重くて厚く、そして大きい。それに伴って石造りの塀も大きくて高い為、建物がよく見えなかった。

 この先にあの十常侍達が居ると思うと、涼は緊張して息を飲み、剣の柄を握っていた。

 そんな涼達の動きを、宮中の高見から見下ろしている人物が居た。

 

「やれやれ……相変わらず騒がしい連中だね。」

 

 まるで下界を眺める神の様に窓から下を眺めるその者は、少女の様に小さいが、少年の様な声を発した。

 短い銀髪が太陽の光を浴びて輝く。

 朱い眼は見える者を侮蔑し、口は嘲笑する形に歪んでいる。

 前述の通り背は高くないが、その身から感じる気迫は他者を圧倒している。

 袖が白い朱色の礼服を身に纏い、頭には宦官の特徴たる小さな帽子を被っていた。

 

張譲(ちょうじょう)!」

 

 そこに、小さな少年もしくは少女と殆ど同じ服装の男性が慌てながらやってきた。

 年齢は二十代前半くらいで、金髪をリーゼントにしているその男性は、小さな少年もしくは少女を、張譲と呼んだ。

 

趙忠(ちょうちゅう)、そんなに慌ててどうしたんだい?」

「どうしたって……慌てるに決まっているだろう!?」

 

 張譲は男性を趙忠と呼びながらゆっくりと体ごと振り向き、趙忠と呼ばれた男性は、リーゼントの金髪を乱しながら言葉を紡いでいく。

 

「蹇碩を斬った連中がまたやってきたんだぞ! 慌てない方がどうかしている‼」

「ふむ……なら僕は、どうかしてるのかな?」

「何……?」

 

 趙忠が戸惑いながら声を出した。

 そんな趙忠を見ながら、張譲は淡々と話す。

 

「何故かは解らないんだけどね、僕は今、不思議と慌てていないんだ。……ひょっとしたら、死を覚悟して安らかな気持ちになっているのかな?」

「……貴様はそれで良いかも知れんが、俺や郭勝(かくしょう)達は違う! 未だ死ぬつもりは微塵も無いんだよ‼」

 

 笑う余裕が未だ有る張譲と比べ、趙忠はリーゼントの頭をかきむしって髪型を乱す等して、余裕が全く無い。

 張譲はそんな趙忠を見ながら先程とは違った笑みを浮かべ、口を開いた。

 

「勿論僕だって死にたくは無いさ。……だから、その為の策は既に講じているよ。」

「……策だと?」

「ああ。先ずは……何進は既に殺したよね?」

「勿論だ。今部下に首を刎ねさせている。」

「なら、その首を門前の奴等に投げつけてやると良い。それだけで、奴等は恐怖におののく筈だ。」

「……そう上手くいくだろうか? 奴等は黄巾党の乱で活躍した武将達だぞ?」

 

 趙忠はもっともな疑問を口にした。歴然の武将達が、生首を見ただけで驚く筈が無い。

 

「大丈夫だよ。何進はあれでも一応大将軍、門前の雑兵達とは位が違うんだからね。」

「……つまり、大将軍である何進の命を俺達が奪う事で、奴等の生殺与奪(せいさつよだつ)を俺達が握っていると認識させる訳か。」

「その通り。後は、士気が落ちて退却する奴等を追撃すれば……。」

「簡単に倒せる……か。よし、早速やってみるぜ!」

 

 趙忠は、入ってきた時とは真逆の表情になって部屋を出ていった。

 足音があっと言う間に遠ざかり、部屋には静寂が訪れる。

 

「……馬鹿だね。今の奴等にそんな事が通じる訳無いのに。」

 

 張譲は静かに笑いながら、再び窓から下を眺めた。

 そこには一人の男性が居た。服装から察するに十常侍の誰かの様で、何かを持って門に向かっている。

 

「何進の首を投げる役は郭勝か。ふん……気弱なくせに時々目立ちたがる彼にはピッタリの役だな。」

 

 そう言ってカーテンを閉め、ゆっくりと部屋を見回した後、机の下に置いていたバッグの様な物を持ち上げ、肩にかけた。

 何が入っているのか解らないが、かなりの大きさだ。

 

「趙忠……君は良い手駒だったけど、君が馬鹿だったのがいけないんだよ。」

 

 張譲はそう嘲笑しながら懐から一冊の本を取り出し、部屋を後にする。

 その後、他の十常侍達が張譲の姿を見る事は二度と無かった。

 誰かが門の上に立ち、何かを言った。

 服装から察するに十常侍の一人らしいその男は、まるでゴミでも投げ捨てるかの様に、手にしていた物を涼達に向かって投げた。

 

「ひっ!」

「ひゃあぁっ! な、七乃ーっ‼」

 

 袁紹と袁術がその正体に気付いて後退りする。

 

「な……っ!」

「あれは……!」

「チッ……マジかよ……!」

 

 涼達もその正体に気付き、絶句した。

 数度だけしか見た事は無いが、それは間違いなく何進の生首だった。

 転がっているその生首は、長い銀髪に整った顔をしているが、眼はまるで鬼の様にカッと見開いてこちらを見ていた。

 黄巾党の乱の最中、広宗(こうそう)に現れた何進によって南陽(なんよう)に向かう事になった涼達。

 その時は地和の事もあって多少恨みもしたが、その何進が既にこの世のもので無い現実にぶつかり、涼の心情は憐れみと虚しさに変わっていく。

 

「……遅かった、ですね。」

「……ああ。」

 

 帽子を摘んで俯く雪里が静かに呟き、涼もまた小さく呟いた。

 門の上では、何進の首を投げた男がまた何か言っている。

 「これに懲りたらさっさと帰れ!」や、「帝に弓引く逆賊等、直ぐに成敗してくれる‼」と、随分と好き勝手言っている。

 当然ながら涼達が懲りる筈は無く、また、逆賊は紛れもなく十常侍達の方である。

 

「……随分と五月蝿(うるさ)(はえ)ね。秋蘭!」

「はっ!」

「目の前に居る蠅を撃ち落として頂戴。」

「御意!」

 

 華琳が秋蘭にそう命じると、秋蘭は流れる様な動きで矢をつがえ、放った。

 

「ぐふっ……!」

 

 秋蘭が放った矢は、門の上の十常侍らしき男の喉を貫き、その命を瞬時に奪った。

 門の向こうに男が落ちていく。宮中に居る兵達は、それによって混乱し騒然となった。

 

「流石だな、秋蘭。」

「なに、止まっている的を射抜いただけだ、大した事はないさ。」

 

 涼が褒め称えても、秋蘭はいつもの様に涼しい顔で謙遜した。

 その間に、何とか冷静を取り戻した袁紹が猪々子と斗詩に指示を出す。

 

「……ぶ、文醜さん、顔良さん、あの門を壊しなさいっ!」

「わっかりましたーっ!」

「了解です!」

 

 袁紹の指示に応えた猪々子と斗詩が、それぞれの得物を構える。

 

(何度見てもでっかい武器だなあ……。)

 

 涼は二人の武器を見ながらそう思う。

 猪々子は自身の背丈と余り変わらぬ長さの大剣を、斗詩は人間の胴体を遥かに上回る太さの先端部を持つ巨大槌を武器にしている。

 先に動いたのは猪々子だった。

 

「あたいの斬山刀の一撃、喰らいやがれっ‼」

 

 猪々子はそう叫びながら門に向かって大剣を振り下ろす。

 すると、鉄で出来ている筈の門に大きな亀裂が走った。

 

「ちぇーっ、一発じゃ壊せなかったかあ。」

(いやいや、鉄の門をあんなに斬り裂いただけでも凄いだろ。)

 

 悔しがる猪々子を見ながら、涼は心の中でツッコミを入れた。

 

「まあ良いや。斗詩ー、あとお願いー。」

「解ったよ、文ちゃん。」

 

 猪々子が下がると、入れ替わりに斗詩が門の前に立つ。

 そして、自身の得物を軽々と振り上げながら、口を開く。

 

「右手に天国、左手に地獄! 光になりなさぁぁぁぁーいっ‼」

「どこの勇者王だっ!?」

 

 今度は思わず口に出してツッコミを入れたが、そのツッコミは門が粉砕された時の轟音にかき消された。

 まあ、聞こえても誰も意味を理解出来なかっただろうが。

 轟音が鳴り終わっても、辺りには門の崩壊によって生じた粉塵が舞っていたが、それもやがて消えていく。

 攻撃後も武器を構えている斗詩は、目の前の門が無くなり、敵兵の反撃も無いのを確認してから振り向いて言った。

 

「麗羽様、終わりました!」

「二人共お見事ですわ! ならこのまま、全軍をもって何進さんの仇を取りに参りますわよ‼」

「「はいっ‼」」

 

 袁紹の号令に斗詩と猪々子は同時に応え、また、袁紹軍の兵士達も同様に応えていく。

 斗詩と猪々子が先頭に立ち、袁紹軍の兵士達が雄叫びを上げながら宮中へ突撃する。

 

「袁紹達に遅れをとるな! 我等曹操軍も進むのだ‼」

「孫家も行くぞ! 総員、我に続けーっ‼」

「れ、麗羽姉様の軍に遅れてはならぬ! 七乃、瑠衣、総員を引き連れて十常侍共をやっつけてまいれ‼」

 

 また、華琳、孫堅、袁術も同様に自軍を鼓舞し、宮中に向かった。

 

「それじゃ、俺達も行こうか。」

「……やはり義兄上も行かれるのですね。」

 

 雌雄一対の剣の一振り、「紅星(こうせい)」をゆっくりと抜刀した涼に向かって、愛紗が不安そうな顔で呟く。

 

「心配してくれて有難う。けど、桃香が洛陽の外に居る以上、俺迄この場に留まる事は出来ない。」

「はあ……義兄上も義姉上(あねうえ)と同じで、意外と頑固ですよね。」

「愛紗にだけは言われたくないなあ。」

「まったくだ。」

「なっ!?」

 

 涼と時雨にそう言われ、戸惑う愛紗。

 何故かここだけ緊迫感が無い感じになっていた。

 

「あっ、義兄上!? 私は義兄上の為を思ってですねっ‼」

「解ってるよ、愛紗。」

 

 顔を真っ赤にして怒る愛紗に、涼は笑みを浮かべながら応える。

 

「愛紗が俺達の事を思って苦言を呈してくれてるのは、皆知ってるから。」

 

 涼がそう言うと、時雨や雪里、そして、近くで涼達を見守っていた翡翠も笑みを浮かべながら頷いた。

 それを見た愛紗も自然と笑みが零れる。

 

「知っててそう言うなんて、意地悪ですね?」

「まあ、たまには良いじゃん。」

 

 涼がそう言うと、愛紗達は勿論、義勇軍の兵士達や盧植軍の兵士達も声を出して笑った。

 そうして一頻(ひとしき)り笑った後、涼達全員が顔を引き締め、得物を構える。

 

「それじゃ……改めて行こうか。」

「はい!」

「ああ!」

 

 その顔には、先程迄の穏やかな雰囲気は微塵も無い。

 

「雪里、百人程残しておくから、十常侍達が逃げてきたら対応しといて。」

「御意です。」

 

 雪里にそう命じると、涼は息を整えて叫んだ。

 

「全ての民の為に義勇軍は戦う! 突入部隊、俺達に続けーっ‼」

「「「「「おおおおおーーーーーっ!!!!!」」」」」

 

 洛陽全域に轟く様な雄叫びと共に、涼達は宮中に突撃していった。



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第八章 十常侍の暗躍・4

 涼達が突撃して半刻後、宮中は怒号と悲鳴がそこかしこから聞こえていた。

 

「十常侍の一人である孫璋(そんしょう)は、曹操軍の武将であるこの夏侯惇が討ち取ったぞ!」

「十常侍の畢嵐(ひつらん)は、孫堅軍の副将である私、孫伯符(そん・はくふ)が討ち取った!」

「十常侍の段珪(だんけい)は、袁紹軍武将の文醜が討ち取ったぜ!」

「十常侍が一人である栗嵩(りつすう)、袁術軍の武将である紀霊が討ち取ったり!」

 

 それに伴うかの様に、至る所で武勲を誇る声が上がっていく。

 涼はそれ等を聞きながら敵兵を倒しつつ、呑気な声を出した。

 

「やっぱり、皆凄いね。」

「感心してる場合ですか!」

「宮中に居る部隊で十常侍を討ってないのは、うちと盧植軍くらいの様だぞ。」

 

 涼と同じ様に敵兵を倒しながら、愛紗と時雨が言った。

 

「うーん……十常侍を倒せるなら、俺は誰が討ち取っても構わないんだけど……。」

「義勇軍全体を考えると、そうもいきません。」

「だよねー。」

 

 愛紗が冷静に窘めると、涼は再認識しながら苦笑した。

 皆が十常侍を倒しているのは、世の中を正す為だけでなく、そうする事で名声を得る為でもある。

 名声が有れば志願兵や支援者が増えて楽になるが、名声が無ければ何も増える事は無い。

 その為にも、涼達自身で十常侍を討つ必要が有るのだった。

 

「どうやら、残る十常侍は後僅か。ここは別々に行動した方が良いと思うが?」

「それはそうだが……しかし、義兄上を一人にする訳には……!」

 

 時雨は剣を振って付着した血を飛ばしながら、そう提案する。

 どうやら愛紗も同意見の様だが、涼を護れなくなる事が心配らしい。

 

「俺なら大丈夫。戦ってみて解ったけど、ここの兵士達は弱い。黄巾党の奴等の方がよっぽど強かったよ。」

「それは……確かに。」

「乱を起こして日々戦っていた黄巾党の奴等と、乱の最中も都でぬくぬくと過ごしていた連中とでは、実力が違うのは当然だな。」

 

 三人の意見は一致している。

 ここ迄涼達は何人もの兵士達を斬ってきたが、その殆どが打ち合う事無く斬り捨てる事が出来た。

 ハッキリ言って、義勇軍を立ち上げて以来黄巾党と戦い続けてきた涼達にとって、宮中の兵士達は相手にならなかった。

 

「ああ。それに愛紗達に鍛えて貰ってるから、尚更そんな相手に負けないよ。だから、愛紗達は安心して他の場所に行ってくれ。」

「……解りました。でも、充分気をつけて下さいね。」

「解ってるって。……それじゃ、二人も気をつけて。」

「はい!」

「ああ!」

 

 三人はそう言ってそれぞれの兵士達を引き連れ、別々の方向に走っていった。

 それから暫くの間、涼と兵士達は敵兵を倒し続けた。

 だが、肝心の十常侍は見つけられないでいる。

 

(見付からないなあ……ひょっとして、皆が全員討ったのかな?)

 

 そう思いながら、目の前の敵兵の攻撃を避け、薙ぎ払う。

 つい数ヶ月前迄、武器すら持った事が無かった少年が、今三振りの剣を携えて人を斬っている。

 

(……ホント、人って慣れるものだなあ……。)

 

 涼は自分の適応能力に驚きながら剣を振るう。

 自分がしている事が、現代では決してしてはいけない事なのは忘れていない。それは決して忘れてはいけない事だから。

 だが、この世界ではそれをしなければ生きていけない事も解っていた。

 自分がしている事が恐ろしくなり、震え、涙を流したのは一度や二度では無い。

 その度に愛紗達に支えられて何とかやってきている。

 仲間が居る素晴らしさを感じながら、涼は剣を振るい続ける。

 そして、皆の期待に応える為に人一倍頑張っていく。

 清宮涼とは、そんな少年なのだ。

 そんな涼の視界に、見知った顔が入ってきた。

 すると、瞬時に涼の足はその人物の方に向かう。

 何故なら、その人物は一人で複数の敵を相手にしていたから。

 

「でやあああっ‼」

 

 涼は雄叫びと共に剣を振るった。

 その人物の周りに居た敵兵達は、突然の乱入者に驚き戸惑い、為す術も無く倒れていく。

 そうして敵兵を全て倒した後、涼は仲間の兵士達に指示を出しながらその人物に声をかける。

 

「大丈夫、華琳?」

「……ええ、大丈夫よ。」

 

 その人物――華琳は、左手に持っている鎌を下ろし、乱れた呼吸を整えながら応えた。

 見た所怪我はしてないらしく、涼はホッと胸をなで下ろす。

 

「……何故助けてくれたの?」

「華琳は仲間なんだし、助けるのは当然だろ?」

 

 そっぽを向いたまま尋ねる華琳に対し、涼はサラッと応えた。

 

「仲間……ね。」

「ああ。それに、前にこの洛陽で言っただろ? 何か遭ったら助けてやるって。」

「そう言えばそうね……。けど……。」

「けど?」

 

 何を言おうとしているのか解らない涼に対し、華琳は語気を強めて言った。

 

「……貴方はどうして上から目線な物言いなのかしら? 流石は天の御遣い様って事かしらね?」

「えっ? ええっ!?」

 

 思い掛けない皮肉混じりの言葉と迫力に涼は戸惑い、少し後ずさる。

 

「いや、そんなつもりは無かったんだけど……そう聞こえた?」

「ええ。“助けてやる”って、どう聞いても上から目線だと思うのだけど……?」

「確かに……。けど、他意は無かったんだよ。」

「ふーん……。」

「えっと……その……ゴメン。」

「解れば良いのよ。」

 

 華琳の迫力に圧され、結局涼は謝った。

 下手に言い訳を続けるより、謝った方が良いと判断したからだ。

 と、そこで、涼は気付いた事を訊ねる。

 

「そう言えば、華琳は何故一人で居るんだ?」

 

 本来なら、夏侯惇か夏侯淵のどちらかは必ず側に居る筈だと涼は思った。

 少なくとも、以前洛陽で会った時は殆どいつも二人が側についていた。

 

「春蘭と秋蘭は別々に行動してるわ。その方が十常侍を倒す確率が高くなるからね。」

「けど、それで華琳が危機に陥っていたら本末転倒だな。」

「う、うるさいわねっ。」

 

 華琳は顔を紅くしながら再びそっぽを向いた。自身の失策を余り認めたくないのかも知れない。

 

「まあ、俺も来たし少しは安心しろよ。」

「……やっぱり上から目線ね。」

 

 華琳はジトッとした眼をして涼を見る。

 先程の事もあるので、涼は苦笑いをしたが、今度は先程と違って追及されなかった。

 

「……まあ良いわ。十常侍配下の兵士達の数と実力を見誤って、護衛の兵士達を沢山失ってしまったのは事実だし、ここは貴方の力を借りるしか無い様ね。」

 

 どうやら、自身の失策を素直に認め、状況の打開に乗り出そうとしている様だ。

 

「じゃあ……取り敢えず、春蘭達との合流を目指しつつ十常侍を捜すってのでどうだ?」

「ええ、それで構わないわ。」

 

 涼の提案を華琳が承諾すると、涼は兵士達にもそう指示を出してから華琳と共に十常侍探索を再開した。

 それから数分後、涼達の行く先々には沢山の死体が転がっていた。

 殆どは十常侍の兵士達の死体だが、涼達、所謂「諸侯連合」の兵士達の死体も多々あった。

 

「結構苦戦してる様だな。」

「さっきも言ったけど、十常侍の事だから、兵士の数だけは多く揃えていた様ね。」

 

 華琳は表情を暗くしながらそう言った。未だ先程の事を気にしている様だ。

 

「華琳……ん?」

 

 何か声を掛けようとした涼だったが、進行方向から聞こえてきた音と声に気付き、注意をそちらに向けた。

 

「誰か戦っている様ね。」

 

 華琳もそれに気付き、同様に注意を向ける。

 音は武器と武器がぶつかり合う金属音で、声は打ち合う時の気合いが入った声だ。

 涼達の進行方向には二つの道が在る。

 一つはこのまま直進する道。もう一つは右に曲がる道。その音と声は右に曲がる道から聞こえてくる。

 

「戦っているって事は友軍が居るって事だよな。」

「そうね。どうやら春蘭達じゃないみたいだけど、流石に見過ごす訳にはいかないわね。」

 

 涼と華琳は互いに顔を見合わせて意思を確認すると、兵士達と共に右へと進んだ。

 するとそこには、偃月刀を振るいながら沢山の敵兵と戦っている一人の少女の姿があった。

 

「ん……? なんや、誰かと思うたら、曹軍と義勇軍それぞれの大将やない……かっ!」

 

 少女は後ろから来た涼達をチラリと確認しながら、偃月刀を振るって敵兵を一撃で薙ぎ倒した。

 よく見れば、少女の周りには敵兵の死体だけが山の様に転がっている。

 

「……どうやら、助太刀の必要は無さそうね。」

「そういうこっちゃ!」

 

 少女は華琳の呟きにそう答えながら、またも敵兵を一撃で仕留めた。

 敵兵は未だ十人以上残っているが、少女との実力差があり過ぎる上に士気も低い様だ。

 

(そりゃま、たった一人にこれだけやられたら士気を保っていられないよなあ……。)

 

 涼はそう思いながら床に転がっている敵兵を数える。

 簡単に数えたから正確ではないが、五十人くらいは転がっている様だ。

 最初から一人で戦っているのか、途中で味方と交代したのかは解らないが、敵兵の怯え方から察すると恐らく最初から一人で戦っているのだろう。

 そんな相手を前にして、敵兵達が平静を保てる筈は無い。

 

「う、うわああーーっ‼」

「た、助けてくれーーっ‼」

 

 そんな悲鳴と共に、十人以上残っていた兵士達は蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。

 只一人残ったのは、矢でも受けたのか足を怪我している礼服の人物。

 

「十常侍……!」

「どうやら、敵兵がここに居たのはあの動けない十常侍を護っていた様ね。でも……。」

「その護衛ももう居ない。」

 

 戦う事も、逃げる事もままならない十常侍に、涼は少しだけ同情した。

 その十常侍に、少女はゆっくりと歩み寄る。

 右手には偃月刀がしっかりと握られ、その刃先からは血が滴り落ちていた。

 

「やあっと捕まえたで……覚悟せい、高望(こうぼう)!」

「ま、待てっ! 話せば解る……!」

「問答無用やっ‼」

 

 少女はそう叫ぶと同時に偃月刀を左上に振り上げ、十常侍の首を斬り落とした。

 首から上を無くした十常侍の体は、真っ赤な噴水を撒き散らしながらゆっくりと床に転がっていく。

 少女はその噴水の勢いが無くなってから十常侍の首を拾い、偃月刀を掲げながら叫ぶ。

 

「十常侍の高望は、丁原の武将にして何進の補佐であるこの張遼が討ち取ったで!」

 

 その声はとてもよく通り、宮中全体に轟いたのではないかと思える程だった。

 

「良かったわね、張遼。これで少しは楽になったのではないかしら?」

 

 少女――張遼に近付きながら、華琳が話しかけた。

 張遼は難しい顔のまま答える。

 

「……どうやろな? コイツ等を殺しても、何進を殺された失態は消えへん。」

「確かにそうね。でも、十常侍を討つ事でその失態も帳消しとはいかなくても、少しは(そそ)げた筈よ。違うかしら?」

 

 華琳は張遼に対して穏やかな眼差しを向けながら話していく。

 だが、張遼は尚も難しい顔をしたまま俯いている。

 そんな張遼を見た涼は、無意識の内に口を開いていた。

 

「張遼、俺も華琳と同意見だ。」

「……え?」

 

 そのまま張遼に近付くと、真っ直ぐに彼女の眼を見ながら語り掛けた。

 

「確かに失態が完全に消える事は無いし、殺された何進は生き返らない。だけど張遼、君は生きているんだからこれから幾らでもやり直せるだろ?」

「やり直せる……。」

 

 張遼は涼の言葉を反芻しながら、ジッと涼の眼を見返した。

 因みにその間の華琳は、黙って二人を交互に見ている。

 やがて、張遼は一度眼を閉じてからゆっくりと口を開いた。

 

「……そやな。確かに後悔ばかりしても、それで何進が生き返る訳でも、丁原の旦那が許してくれる訳や無い。それに、いつ迄もウジウジすんのはウチの性に合わんしな。」

 

 そう言った張遼が自然に笑みを浮かべてると、涼もつられて微笑んでいた。

 

「どうやら、問題は解決したみたいね。……私達は引き続き十常侍達を捜すけど、貴女はどうする? 一緒に来るなら大歓迎だけど。」

「そやなあ……確かにアイツ等をもっと叩きのめしたいところやけど、この首を持ってって何進の部下達に詫びてこなあかんし、遠慮するわ。」

「そう……残念だわ。もう少し貴女の武を見ていたかったのだけど。」

「その内、そんな機会も有るやろ。ほなな!」

 

 張遼はそう言って偃月刀を持つ手を振りながら、出入り口が在る方へ去っていった。

 張遼と別れた後、涼と華琳は兵士達を引き連れて十常侍探索を再開した。

 だがその間、涼は張遼の事を考えていた。

 

(張遼……史実通りなら、(いず)れは戦う事になるんだよな……。)

 

 涼は隣に居る華琳を横目で見ながら、そう思う。

 

(さっきの戦いを見る限り、史実通りに強いみたいだし、手強そうだな……出来れば戦いたくないや。)

 

 心の中で溜息をつく涼。

 恐らくだが、さっきの敵兵の死体の山は張遼一人で作り上げている。

 幾ら敵兵の練度が低いといっても、何十人もの相手をたった一人で倒すなど、普通は出来ない。

 だが、彼女は涼の世界の「三国志」に登場する名将、張遼と同じ名前を持ち、その名に恥じない実力を敵兵と涼達に見せつけた。

 

(けど、今の所基本的には史実通りに話が進んでる……なら、やっぱり避けられないのかな……。)

 

 なまじ「三国志」に詳しいだけに、涼は頭を抱えている。

 因みに、張遼については強さ以外でも頭を抱えそうだが。

 

(……何でサラシに羽織袴なんだろう?)

 

 張遼の外見を思い出しながら、涼は顔を紅くする。

 張遼は胸にサラシを巻いて青い羽織を肩から羽織り、黒い袴に下駄を履いていた。

 そんな服装なので、肌の露出度はかなり高い。

 涼と同年代らしい彼女は胸も結構大きいので、思春期真っ只中の涼は目のやり場に困っていた。

 

(出来るだけ意識しない様にしてたけど、居なくなってから余計に意識するなんて……何やってんだ、俺。)

 

 そう自己嫌悪しながらも、涼は表面上は平静を保っていた。

 因みに、張遼の外見について補足すると、腕に朱色のベルトの様な物を交叉状に巻き、手には同色の篭手型指抜き手袋をはめ、紫の長髪は前髪の真ん中を逆立て、後ろ髪はトゲ付きの大きな輪っかで逆立てる様に留めていた。

 何だか任侠映画に出てきそうな格好だった。

 

(あと、何故張遼は関西弁を話してたんだ? ……まあ、それを言ったら文章は漢文なのに日本語が通じてるのも変だけど……。)

 

 涼は今更ながらの疑問を思い浮かべ、口元に手を当てながら考え込む。

 基本的には楽天家な分、一度気になるととことん気になる様だ。

 だがそれも、元気が良過ぎる声が聞こえた事で強制終了となった。

 

「あ、おーい、アニキーっ!」

「文ちゃん、緊張感無さ過ぎだよう……。」

 

 声がする方を見ると、豪快に手を振る猪々子と溜息をつく斗詩の姿があった。



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第八章 十常侍の暗躍・5

 袁紹の部下である二人を見た華琳は余り良い顔をしなかったが、涼が二人の許へと歩を進めた為に仕方無くついていった。

 涼と華琳もそうだが、猪々子と斗詩の二人もまた衣服に血が付いていた。

 だがそれは怪我をしたからではなく、敵兵の返り血を浴びたからである。

 

「猪々子、斗詩、こんな所で突っ立ってて何してんだ?」

 

 涼がそう訊ねると、猪々子は先程とは対照的な表情になり、いつの間にか斗詩も真剣な表情になっていた。

 

「それが……。」

「見つからないんです。」

「見つからないって、十常侍が?」

 

 涼がそう言うと、斗詩は「それもありますが……。」と答え、暫く俯いてから話を続けた。

 

「何太后とその御子息であらせられる弁皇子(べん・おうじ)、そして亡き王美人(おう・びじん)の遺児であらせられる協皇子(きょう・おうじ)。この御三方の御姿が見えないんです。」

「……それ、本当なの?」

 

 涼達の会話を静かに聞いていた華琳が、驚いた表情のまま斗詩に訊ねる。

 その問いに斗詩はコクンと頷いて答えると、真剣な表情のまま二人に向かい、話を続けた。

 

「猪々子が十常侍を討ちに行っている間、私は御三方を捜していたのですが、宮中のどこにもいらっしゃらないんですよ。」

「宮中の全てを調べたの?」

「流石に全部って訳じゃないですけど……(あらかじ)め麗羽様から聞いていた場所は、全て調べました。」

 

 司隷校尉(しれい・こうい)という役職に就いている袁紹は、それなりに宮中の事に詳しい。

 因みに司隷校尉とは、元々は皇帝の親族を含めた朝廷内の大臣を監察する役職の事であり、現在ではそれに加えて帝都(現在は洛陽を指す)周辺の守備及び行政を担当する様になっている。

 

「麗羽が伝え忘れている場所が在ったりしないわよね?」

「無い……と思いますけど……多分。」

 

 華琳の質問に苦笑しながら答える斗詩。

 涼は「多分じゃダメだろう」とツッコミたい気持ちを抑えながら、斗詩に提案する。

 

「なら、袁紹本人に訊くのが良いと思うけど? ……袁紹は未だ正門前に?」

「麗羽様なら……。」

「私がどうかしまして?」

 

 涼の問いに斗詩が答えようとすると、涼達の後ろから袁紹の声が聞こえてきた。

 驚いて振り返ると、そこには兵士達を引き連れた袁紹の姿があった。

 よく見ると、近くには寡黙そうな雰囲気を漂わせる長身の少女を伴った袁術の姿も見える。

 

「……二人共、何故ここに?」

 

 正門前に留まっていた筈の二人を見ながら涼は訊ねた。

 

「そんなの決まってますわ。顔良さんからの伝令が、火急の用が出来たので直ぐに来て下さいと伝えてきたので、部下想いの私が飛んできましたのよ。おーーほっほっほっ!」

「妾は七乃達が心配なので来たのじゃ!」

 

 自慢げに高笑いをする袁紹と、訊かれる前に明るく答える袁術に、涼は軽い頭痛を覚えていた。

 因みに、隣に居る華琳も同様に頭を押さえている。

 

「ま、まあ……来てくれたのは助かるよ。……斗詩、あとお願い。」

「あはは……お疲れ様です。」

 

 涼は匙を投げて斗詩に託す。

 斗詩もまた苦笑していたので悪いとは思ったが、慣れない自分が対応するよりは、いつも側に居る斗詩の方がスムーズに話が進むと思っていたのも事実である。

 そしてその期待通りに、斗詩は袁紹に事の次第を説明し、袁紹の協力を得る事に難無く成功する。

 

「宮中には、万が一に備えての抜け道が在りますわ。全ての出入り口に兵士を配置しているのに発見報告が無いのでしたら、十常侍達は何太后達を連れてそこを通ったに違いありませんわね。」

 

 というのが、斗詩の説明を受けた袁紹の言葉だった。

 先程高笑いをしていた人物とは思えない程、今は真剣な表情になっている。

 

(そんな顔が出来るなら、最初っからやれば良いのに……。)

 

 涼は袁紹を見ながらそう思った。

 因みに袁術はよく解っていないのか、長身の少女が事細かに説明しているのを黙って聞いていた。

 

「けど、何太后達を連れて逃げるとなれば馬車が必要でしょう? その抜け道はそんなに広いの?」

「帝や皇族の為の抜け道ですもの、馬車が通れるくらい大きいのは当然ですわ。」

 

 華琳の疑問に袁紹がふんぞり返って答える。「何故お前が威張る?」と言うツッコミをしたくなった涼だが、何とか我慢して話の先を促した。

 

「なら、急いだ方が良いんじゃないか?」

「そうね。……麗羽、その抜け道は何処に在って何処に通じているの?」

「抜け道の入り口は裏庭の一角に在って、洛陽の外……確か北西の山中に通じていた筈ですわ。」

 

 華琳の再びの質問に、袁紹は記憶を探りながら答えた。

 この時代に馬車で通り抜けられる程の大規模な抜け道が在る事に、涼は内心驚いている。

 

(けどまあ、ここは俺が居た世界とは違う世界だし、元の世界と同じ様に考えるのは間違ってるのかもな。)

 

 そう結論付けた涼は伝令に馬を連れてくる様に命じ、追跡開始迄暫く休む事にした。

 数分後、伝令を受けた雪里が涼達の馬を連れてやってきた。

 涼は雪里から馬を受け取ると直ぐに騎乗し、華琳達も残りの馬に跨っていった。

 

「有難う、助かるよ。」

「いえ。それよりも早く追撃に向かって下さい。宮中の探索は私が引き継ぎます。」

「なら、秋蘭を置いておくから好きに使ってちょうだい。」

 

 雪里が馬上の涼と話していると、やはり馬上の華琳が雪里にそう提案する。

 驚いた雪里は暫く考えてから尋ねる。

 

「……良いのですか、曹操殿?」

「ええ。貴女の実力は知っているけど、優秀な人材が居なければその才を十二分に発揮出来ないでしょう?」

「……解りました。では、序でに荀彧殿もお借りして宜しいでしょうか?」

「勿論構わないわ。私の右腕であるあの子を驚かせるくらいに、その実力を発揮してちょうだい。」

「解りました。」

 

 雪里はそう言うと華琳に向かって平伏して正門へと戻ろうとし、華琳は伝令に今決まった事を秋蘭と桂花に伝える様指示を出した。

 これで何太后達と十常侍達の探索に移れる、と、誰もが思っていた。

 

「なら、芽依(めい)も一緒に連れて行くと良いのじゃ!」

 

 袁術が脳天気な声でそう言う迄は。

 

「……えっと……誰を連れて行けと仰ったのでしょうか、袁術殿?」

 

 雪里は小さく溜息をついてから振り返り、出来るだけ笑顔で袁術に訊ねた。

 

「じゃから芽依を連れて行けと言っておるじゃろ?」

「あの……真名で言われても私には誰の事か解らないのですが。」

「おお、それもそうじゃな。では芽依、自己紹介をせい。」

「はい……。」

 

 袁術に促されて、芽依と呼ばれた長身の少女がゆっくりと前に出る。

 その後、雪里にだけ聞こえる声量で「済みません。」と言ってから、少女は自己紹介を始めた。

 

「私が“芽依”こと橋蕤(きょうずい)、字は士保(しほう)です。袁術軍では張勲と共に袁術様の補佐をしています。」

「……御丁寧にどうも。私は徐庶、字は元直(げんちょく)。劉備・清宮軍で軍師を務めています。」

 

 長身の少女――橋蕤が自己紹介をしたので、雪里も簡単に自己紹介をした。

 その際に雪里が橋蕤の顔を見てみると、何だか申し訳無さそうな表情をしていた。

 自身より遥かに背が高いのに、全く威圧感が無いなと雪里は思った。

 

(……唯一迫力が有るのは胸だけですか。)

 

 表情には覇気が無く、体格は細身だが、胸は存在感を示すかの様に高くそびえていた。

 

(桃香様より少し小さいけど……これは。)

 

 雪里は目の前の少女と自身の胸を見比べ、色々と思う。

 因みに、橋蕤の外見を更に詳しく言うと、紅く長い髪は膝迄伸びており、左耳には蒼いピアス。

 眼の色は茶色で、少し伏せ眼がち。

 ちゃんと運動しているのか疑問に思う程、肌は白く、腕も足も腰も細い。

 服装は肌の色と対照的な黒一色のツーピース。スカートの下にはやはり黒のガーターベルトとニーソックス。靴は張勲と同じ白いブーツを履いていた。

 左腰にはやはり張勲と同じデザインの剣を下げているが、少し長い様だ。

 

(武器を持っているという事は武官なんでしょうか? ……全然武官っぽく見えませんが。)

 

 観察を終えた雪里は、橋蕤についての感想を心の中でそう述べた。

 その後、袁術に「芽依は役にたつぞよ。」と太鼓判を押された橋蕤を連れながら、雪里は正門へ戻っていった。

 

「……じゃあ、そろそろ行こうか。」

 

 雪里達が戻っていくのを確認しながら、涼は誰に向けるでもなくそう言った。

 溜息をつきながら華琳達がそれに同意し、馬を進める。

 いつの間にか、宮中は静かになっている。

 一部を除き、それに気付いた者は皆、再び溜息をついた。

 左右に斗詩と猪々子を連れた袁紹が先頭を進む。この中で抜け道を知っているのは袁紹だけなので、当然ではあるが。

 だが、斗詩を除いた袁紹達や袁術達以外は、半ば諦めた表情になっていた。

 

「時間がかかり過ぎたな……。」

「そうね……馬を連れてくるのにかかった時間は兎も角、その後の橋蕤の件は要らなかったわ。」

 

 袁紹達の後方を走る涼がそう呟くと、併走している華琳も同意する。

 その後ろでは、袁術を前に乗せた張勲が馬を走らせている。何だか御機嫌そうである。

 

「ほん……っと、袁家の人間は碌な事しないわね。」

「アハハ……まあ、今更言っても仕方無いよ。今は兎に角急ごう。」

「……そうね。」

 

 華琳はそう言うと、馬の速度を速めようとして手綱を握り直した。

 その時、進行方向の物陰から武器と武器がぶつかり合う金属音と、それに伴う戦士達の咆哮が聞こえてきた。

 

「この声は……愛紗達!?」

「春蘭の声もするわ!」

 

 仲間の声を聞いた涼と華琳は、直ぐ様馬を走らせ、前を行く袁紹達を追い抜いていく。

 そのままの勢いで角を曲がると、そこには十常侍の兵達と戦っている時雨、翡翠、春蘭、そして愛紗の姿があった。

 涼達が着いた場所は広くて緑が多い庭で、愛紗達の兵士と十常侍達の兵士が入り乱れて戦っていた。

 時雨は四方から斬りかかってきた敵兵を大剣の一振りで薙ぎ倒し、春蘭もまた、片刃の大剣を振り下ろして周りに居る敵兵を次々と一刀両断にしている。

 愛紗は愛紗で、自身の身長を超える長さの偃月刀を片手で軽々と扱いながら右へ左へと動き回り、次々と敵兵を斬り捨てていった。

 

「皆、大丈夫か!?」

 

 聞かなくても解るが、涼はそう言いながら馬を進め、敵兵を斬り倒す。

 

「あ、義兄上!?」

「遅いぞ! ……って、何故曹操が一緒に居るんだ!?」

「何、華琳様だと!? 華琳様、ここは危険ですからお下がり下さい‼」

 

 涼達に気付いた愛紗達は、皆一様に驚きながらも、目の前や周りに居る敵兵を確実に倒していく。

 

「気遣いは無用よ春蘭。これしきの相手を倒せなくて、曹家を継ぐ者と言えようか!」

(……さっき苦戦してたのはどこのどいつだよ?)

 

 春蘭にそう言いながら敵兵を斬り倒す華琳に、涼は心の中で突っ込んだ。

 わざわざ言う事では無かったから口に出さなかったのだが、本当に言ったら華琳に斬られそうな気がしていたというのも理由ではある。

 その証拠に、殺意がこもった華琳の視線が涼の背中に突き刺さっている。

 更に、今は春蘭も居るのだから、下手したら大怪我じゃ済まないかも知れない。

 十常侍を倒すのが先決なのに、味方同士で争う訳にはいかないので、涼の判断は正しいだろう。

 

「覚悟っ!」

 

 そう思っていると、進行方向奥から翡翠の声が聞こえてきた。いつもの穏和な声とは違う、どこか凄みのある声だが、間違いなく翡翠の声だった。

 涼が目を向けると、そこには大きな斧を振り上げた翡翠の姿がある。

 

「ひいっ!」

 

 悲鳴をあげたのは十常侍だった。あれから大分時間が経っているのに、未だ宮中に残っていた事に涼は驚いている。

 だがそれ以上に、あの翡翠が自身の上半身と同じ大きさの刃を持つ斧を軽々と扱っている事に、一番驚いた。

 

ズシャッ。

 

 その斧で十常侍の首が斬り落とされる。肉が切り裂かれる音が聞こえた。首の骨が砕ける音が聞こえなかったのは、首の関節を綺麗に斬ったからか、斧が地面に着いた時の衝撃音が打ち消したからだろうか。

 いずれにしても、十常侍の一人はたった今討ち取られた。

 

「十常侍の一人、張恭(ちょうきょう)は盧植軍の大将である私、盧植が討ち取りましたわ!」

 

 翡翠は斬った十常侍の首を掴んで近くに居た部下に渡すと、涼達に向かって叫んだ。

 

「清宮様、華琳さん、残りの十常侍は二人の皇子と共に、この先の抜け道を通って行きました! ここは私達に任せて、急いで追い掛けて下さい‼」

「解りました! 行くよ、華琳‼」

「ええ‼」

 

 そう言って涼と華琳は共に馬を走らせ、翡翠の前方に在る抜け道と思われる地下道へと向かって行った。

 

「ちょっと、清宮さんに華琳さん! ここ迄案内した私達を置いていくなんて許しませんわよ! 顔良さん、文醜さん、私達も行きますわよ‼」

「あ、麗羽さん達はここに残ってくれませんか?」

「えっ!? な、何故ですの、翡翠様!?」

 

 涼達を追いかけようとして馬の手綱を握り直した袁紹だったが、翡翠の思い掛けない要請に戸惑い、危うく落馬しそうになった。

 

「麗羽さんは司隷校尉という役職に就いていますよね? ですから、ここに残って私と共に今回の事後処理を手伝って下さい。」

「で、ですが、黄巾党の乱で北中郎将(ほく・ちゅうろうじょう)として活躍し、現在は尚書(しょうしょ)という役職にある翡翠様なら、私が手伝わなくとも……。」

「けど、今は少しでも人手が欲しいんですよ。……駄目でしょうか?」

 

 翡翠は温かい笑顔を袁紹に向けながら頼み込む。

 数多く居る官軍の将の中でも、実績・名声共に抜きん出ている盧植――翡翠に懇願されて、断れる者はそう居ない。

 「翡翠」という盧植の真名を呼ぶ事を許されている袁紹なら、尚更断れないだろう。

 更に翡翠は、切り札というべき言葉を投げ掛ける。

 

「それに、先程保護した何太后は帝に続いて姉を失った事で憔悴しておられます。そんな何太后を元気付けてあげられるのは、何進大将軍の友人であった麗羽さんだけなんです。」

「何太后は御無事なんですの!? ……解りました、ならば私、袁本初は盧植将軍の要請を受けさせて貰いますわ。」

「頼りにしてますよ、袁紹殿。」

 

 翡翠がそう言うと、袁紹は下馬して翡翠に対して恭しく平伏し、斗詩と猪々子もそれに倣った。

 それから、翡翠の指揮の下、盧植軍と袁紹軍の兵士達は共闘して十常侍の兵士達を倒した。

 また、その間に袁紹達が乗ってきた馬は愛紗、時雨、春蘭が乗る事になり、三人は直ぐ様涼達の後を追い掛けて行った。

 因みに、袁術は敵味方の死体を沢山見た為に卒倒し、張勲によって宮中へと戻されていた。

 彼女達は一体何をしに来ていたんだろうか。



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第八章 十常侍の暗躍・6

 袁術達がそんな状態の頃、涼と華琳の二人は必死に馬を走らせ、抜け道を駆けていた。

 抜け道は、上下左右が石畳や石壁になっており、長い間使われていなかったからか、空気は湿っていた。

 只、壁に付けてある松明には火が灯っており、暗い抜け道を朧気に照らしていた。

 逃げている十常侍達に火を灯す暇があったのか疑問だが、どうやら松明の一つに火を点けると全ての松明に火が点く仕掛けになっている様だ。

 もっとも、涼達がそれを知るのは暫く後の事になるのだが。

 

「……あれだっ!」

「思ったより離れていなかったわね。きっと、翡翠様達が足止めしてくれたお陰ね。」

 

 前方を行く馬車と護衛の騎馬兵達の姿を確認し、涼と華琳は馬の速度を更に速める。

 馬車は馬に車を引かせる乗り物だから、馬に直接乗っている涼達と比べたら明らかに速度が落ちる。

 その分、二頭で一台の馬車を引いているが、それでも複数の人間が乗っている分どうしても遅くなってしまうのだ。

 そんな中、護衛の騎馬兵達がこぞって反転し、涼達に向かって突進してきた。

 

「……! こっちに来るぞ!?」

「どうやら足止めと始末に来た様ね。気をつけなさい、涼!」

「お前もな、華琳!」

 

 二人はそう言いながら、自身の武器を構える。

 それから暫くの間、辺りに金属音が響き渡った。

 実力で勝る涼達によって、敵兵は次々と倒されていく。

 それでも涼達の表情は曇っていた。

 

「ちぃ……っ! 未だ居るのかよ‼」

「本当に兵の数だけは多いわね……。」

 

 共に馬上で武器を構え、目の前の敵と対峙する涼と華琳。

 その二人の周りには、物言わぬ敵兵達が無造作に転がっている。その数は十や二十では足りない。

 だが、目の前に迫ってくる敵兵はそれよりも多かった。

 

「でええいっ‼」

 

 それでも涼は剣を振るって敵に向かい、

 

「はああっ‼」

 

華琳は鎌を振るって敵に立ち向かう。

 敵の返り血で顔や服が汚れても気にせず、只敵を倒し続けた。

 だが、数的不利の状況では疲労が溜まっていき、段々と動きが鈍くなっていく。

 

「くっ……! 華琳、一端下がるぞっ! このままじゃやられちまうっ‼」

「馬鹿を言わないで! ここで退いたら私達は逆賊に仕立て上げられるのよ‼」

 

 涼の提案を一蹴しながら武器を振り続ける華琳だが、その額からは汗が流れ落ち、呼吸も乱れている。

 それは涼も同じで、流れる汗は拭っても拭っても乾く事は無い。

 

「そんな事は解ってる! けど、死んだら何にもならないだろ‼」

「ならば貴方一人で逃げなさい! 私は、敵に後ろを見せるくらいなら誇り有る死を選ぶわ‼」

 

 敵兵を斬りながら華琳はそう言い切った。

 涼はそんな華琳の決意を聞きながら、複雑な表情を浮かべる。

 確かに、惨めに生きるより志に殉じる方が良いという考え方もあるだろう。例えば、日本も武士や侍が居た時代は、まさにそんな考え方が普通だった。

 だが、涼は武士や侍が居た時代の人間ではなく、平和な、そして自由な時代の人間だ。

 だから、華琳の意志を理解する事は出来ても、同意する事は出来ない。

 

「……きゃっ!」

 

 そう思いながら敵を倒していた涼に、華琳の悲鳴が聞こえてきた。

 見ると、華琳は落馬している。

 彼女が乗っていた馬は顔や首に矢を受けており、よろめきながらゆっくりと倒れた。

 どうやら、馬が矢を受けた事で暴れた為にバランスを崩し、落馬してしまった様だ。

 だが、流石は華琳と言うべきか、落馬による負傷はしていない。

 もっとも、確実に着地する為に武器を手放してしまったらしく、今の華琳は丸腰だった。

 そんな状態の華琳を、敵兵が見逃す筈も無かった。

 敵兵の刃が華琳に迫る。

 着地したばかりな上に丸腰の華琳には、防ぐ事も避ける事も出来ない。

 迫り来る死に、華琳は思わず目を閉じた。

 

(ここ迄、か……無様ね……。)

 

 華琳は自嘲しながら死を受け入れようとする。

 

(…………?)

 

 だが、彼女がいつ迄待っても死は訪れない。

 代わりに聞こえてくるのは、剣と剣がぶつかる音と敵兵達の断末魔。

 華琳は恐る恐る目を開ける。

 そこには、馬上で剣を振るって敵兵を薙ぎ倒す涼の姿が在った。

 

「……じゃないか。」

「え……?」

 

 涼が不意に呟いた言葉を聞き取れず、華琳は聞き返す。

 すると涼は、一瞬だけ華琳を見てから迫り来る敵兵を斬り倒しながら答える。

 

「誇り有る死を選ぶとか言っても、本当は死にたく無いんじゃないか?」

「そんな事は……!」

「なら、何で今お前は目を閉じていたんだよ? 死ぬのが嫌だから、直視出来なかったんじゃないか?」

「……っ!」

 

 涼は敵兵を倒しながら、後ろに居る華琳に対して段々と語気を強めながら訊ねる。

 そんな涼に華琳は何も言い返せず、只目を逸らす事しか出来なかった。

 その時、華琳の遥か後方から、複数の馬が走ってくる音が聞こえてきた。

 

「後ろから!? 一体誰が……っ!?」

「少しは落ち着けよ、華琳。」

 

 指摘されて動揺しているのか、華琳は振り返りながら慌てて武器を拾う。

 そんな華琳に苦笑しながら、涼は冷静に言った。

 

「後ろから来るって事は……味方って事さ。」

 

 笑みを浮かべながらそう言うと、それを証明するかの様に声が届く。

 

「義兄上、御無事ですか!?」

「桃香が悲しむから、死んでても死ぬな‼」

「華琳様ーーーっ‼」

 

 声の主である愛紗、時雨、春蘭の三人がそれぞれ馬に乗って駆けながら二人に近付いてくる。

 そしてそのまま、涼と華琳に襲いかかっている敵兵達に向かって叫んだ。

 

「我が義兄にして我が主に刃を向けるとは言語道断! 我が青龍偃月刀で、その罪ごと叩き斬ってくれようぞ‼」

「コイツに何かあったら桃香が悲しむんだ。だから、間接的とは言え桃香を悲しませようとしたお前達は、俺がぶっ倒してやるぜ‼」

「華琳様の敵は全てこの私、夏侯元譲(かこう・げんじょう)が地獄に叩き落としてくれるわ! 貴様等全員、そこになおれいっ‼」

 

 愛紗達の叫びが抜け道中に響き渡り、敵兵達を萎縮させていく。

 たった三人の増援だが、敵兵達の勢いを削ぐには充分だった。

 結果的には、勢いを削ぐどころか殆ど全滅させていた。

 

「華琳様、御無事ですか!?」

「ええ、涼のお陰で命拾いしたわ。」

 

 そんな彼女達は今、短い休息を兼ねて互いの無事を確認している。

 

「そうでしたか……。清宮、よく華琳様を助けてくれた。礼を言わせてくれ。」

「そんな、大した事じゃないよ。仲間を助けるのは当然だしさ。」

「だが、当然の事が出来ない者も居るのにそれを出来るのは、充分に大した事だと思うぞ。」

 

 春蘭が真面目な顔でそう言ったので、涼は素直にその礼を受けた。

 

「義兄上、そろそろ追撃を再開しないと逃げられます。」

 

 会話が一通り終わると、愛紗が急かす様に言ってきた。

 実際、皇子達と共に逃げた十常侍の馬車が視界から消えて久しい。

 急がなければ逃げられてしまうのは明白だった。

 

「関羽の言う通りね。涼、貴方は関羽、田豫(でんよ)と共に先に行って頂戴。」

「それは構わないけど……華琳達はどうするんだ?」

「私も行きたいけど……。」

 

 涼が尋ねると、華琳は表情を曇らせながら右足首を見せた。

 見ると、右足首は真っ赤に腫れ上がっていた。

 

「着地の際に挫いていた様ね……。今頃になって痛んできたわ。」

 

 華琳はそう言うと、腫れている右足首を優しく撫でた。

 因みに春蘭はそんな華琳を心配してオロオロしている。

 

「……解った。俺達は先に行くよ。」

「頼むわ。私も手当てをして動ける様なら直ぐに追いつくから。」

「ああ。けど、無理をするのは良くないぞ。」

「心配してくれるのなら、無理しないといけない状況にはしないでほしいわね。」

「そうするよ。……それじゃ、愛紗、時雨、行くよ!」

「「はっ‼」」

 

 笑顔で華琳に応えた涼は、瞬時に表情を引き締めて騎乗すると、愛紗と時雨――田豫を引き連れて駆け出していった。

 華琳と春蘭は、そんな涼達の姿が見えなくなる迄見送った。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 暫くして、春蘭が心配そうな表情で尋ねた。

 

「ええ、痛むけど何とか歩く事は出来るわ。」

「いえ、勿論足の具合も心配ですが、今のはそちらではなく……。」

「?」

 

 華琳は春蘭が何を言いたいのか解らず、キョトンとした表情でその顔を見返す。

 

「……清宮達に手柄を譲らなければならなくなった事です。」

「ああ……。」

 

 華琳は春蘭が言いたい事を漸く理解した。

 ここで手柄を立てると立てないでは、大きく意味が違うからだ。

 

「もし華琳様が残りの十常侍を倒し、二人の皇子を助けだしたなら、今回集まった諸侯の中で一番の評価を受けていた筈です。」

「そうね……それについては確かに残念だわ。……でもね。」

 

 春蘭の言葉を肯定しつつも、華琳の声や表情は毅然としており、足を痛めているのに立ち居振る舞いも崩れていない。

 

「これはたかが一度の好機を逃しただけ。未だ私の……私達の名を上げる機会は何れ必ず来るわ。」

「華琳様……。」

 

 華琳は涼達が進んだ暗闇の先を見据えながらそう言い、春蘭はそんな華琳をウットリとした目で見ている。

 

「それにしても……まさか春蘭に指摘されるとは思わなかったわ。」

「わ、私だって曹軍の武将ですから、それくらいは出来ますっ。」

「フフ……解ってるわよ、春蘭。」

 

 妖しい笑みを浮かべながら、華琳は春蘭の頬を撫でる。

 その結果、既に紅潮していた春蘭の頬は、更に赤味を増した。

 

「……そう言えば、私が乗ってきた馬は死んでしまったのよね。春蘭が乗ってきた馬に乗せてくれるかしら?」

「も、勿論です華琳様!」

 

 その後、華琳は春蘭が乗ってきた馬に乗せてもらい、来た道を戻っていった。



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第八章 十常侍の暗躍・7

 その頃、涼達は漸く十常侍が乗っている馬車を捉えた。

 

「やっと追い付いた……このまま一気に行くぞ!」

「「はっ‼」」

 

 涼は併走する愛紗と時雨に声を掛けると同時に、手綱を上手く捌いて馬を速め、馬車との距離を詰める。

 馬車の周りに居る兵の数は余り多くなく、こちらに向かってくる者も居ない。

 そんな中、馬車の前方から突然光が漏れてきた。

 

「……出口か!?」

「どうやらその様です。……まずい!」

「彼奴等、出口を塞ぐ気か!?」

 

 馬車が光の先へ進むと、残った二人の敵兵が出口を閉じ始めた。

 このままでは閉じ込められて、追撃出来なくなるのは確実だ。

 

「そうは……させねーぜ!」

 

 時雨はそう叫びながら、自身の大剣を前に向かって思いっきり投げ飛ばした。

 

「ぐわっ!」

 

 その大剣は残っている敵兵の一人の体に突き刺さり、命を奪った。

 

「やるな時雨! ……ならばっ‼」

 

 時雨に刺激されたらしい愛紗もまた、もう一人の敵兵に向かって偃月刀を投げ飛ばす。

 

「がは……っ!」

 

 そして、その偃月刀もまた、もう一人の敵兵の喉笛を貫き、その命を絶つ。

 これにより、涼達は閉じ込められる危機を脱する事が出来た。

 

「先に行ってるよ!」

 

 倒した敵兵に刺さったままの武器を回収する愛紗と時雨を横目に、涼は出口に飛び込んでいく。

 

「……っ。」

 

 出口はどこかの山道に通じていた様だが、暗闇から急に明るい場所に出た為に眩しく感じた涼は、思わず目を閉じる。

 それでも馬を走らせ続けられたのは訓練の賜物(たまもの)であり、十常侍を逃がさないという意思の表れだった。

 そのお陰か、涼の目が光に慣れてきたのとほぼ同時に、十常侍の馬車を再び視界に捉えた。

 そんな涼に気付いた敵兵達は、慌てながら馬車の中に居る十常侍に報告をしている。

 

「趙忠様、未だ追っ手が来ています!」

「くっ……しつこい奴等だ! 今来ているのはどんな奴だ!?」

「頭巾が付いた白き衣を身に纏った、黒髪の少年です!」

「何っ!?」

 

 兵からの報告を受けた十常侍――趙忠は驚きを隠せないらしく、慌てながら再び確認する。

 

「そ、そいつはもしや、噂に聞く“天の御遣い”とやらか!?」

「お、恐らくそうかと……。」

「お、終わった……。」

 

 再確認の末、趙忠は絶望した。

 十常侍の一人である趙忠は、「天の御遣い」である清宮涼が、黄巾党の乱を鎮めた立役者の一人である事を知っている。

 また、只強いだけでなく公明正大で、不正は絶対に許さないらしい。

 約三ヶ月前、黄巾党の乱鎮圧における各武将達の戦功を讃え、恩賞を与える際に、十常侍達は涼達を過小評価していた。

 その為、恩賞を与える役目の高官達に命じて、恩賞を与える順番を後回しにしていたのだが、その事に曹操や董卓(とうたく)、更には盧植迄もが異を唱えた為に、慌てて恩賞を与え、その際に恩賞も良いものに変更しようとした。

 だが、涼はそんな高官達の態度が気に入らなかったのか、恩賞の交換には頑として応えなかった。

 また、個人の武力だけでなく統率力も有るらしく、義勇軍はその殆どが農民の集まりであるにも拘わらず、兵の損耗率は低く、また実力も兼ね備えていた。

 勿論それは、関羽、張飛(ちょうひ)、田豫といった武将、徐庶、簡雍(かんよう)といった軍師を、劉備(りゅうび)劉燕(りゅうえん)といった劉勝(りゅうしょう)の末裔と共に纏めているからではあるが、裏を返せばそれだけ人望が有るという事だ。

 そんな人物が今、自分達を追撃している。

 仮に涼を倒せても、彼の部下である関羽達が黙っていないだろう。

 その為、趙忠に出来る事は、只ひたすらに逃げる事しか残されていない。

 だが、事態はそれすらも出来ない状況になっていた。

 

「に、逃げろーっ!」

「た、助けてくれーっ!」

 

 突然、護衛の兵士達が悲鳴を上げながら逃げていく。

 それにつられてか、馬車を動かしていた兵士も逃げる兵士の馬に飛び乗って一緒に逃げだす。

 

「ま、待てっ! 貴様等戻らんかっ‼」

 

 趙忠は慌てながらそう叫ぶが、護衛の兵士達は止まる事も振り返る事もせず一目散に逃げていった。

 馬を操る者が居なくなった馬車は、暴走するしかない。

 悪い事は続くもので、二頭の内の一頭を繋いでいた縄が切れ、そのまま逃走。今迄二頭で動かしていた馬車を一頭だけで走らせられる訳もなく、また慣性の法則も加わって馬車は更に暴走。

 遂には馬車の車輪の一つが脱輪し、馬車は横転した。

 

「し、死んでたまるか……!」

 

 趙忠は倒れた馬車から這い出て必死に逃げようとする。

 だが、そんな趙忠の前に、馬に乗って武器を構える少年が立ち塞がる。

 

「……どこに行くつもりかな?」

「げえっ、御遣い!?」

 

 趙忠はそう叫びながら、尻餅をついて後退りする。その表情は絶望感に支配されていた。

 涼は「関羽相手みたいに言うなよ」と思ったが、多分言っても意味が無いだろうから言わなかった。

 

「漢王朝を腐敗させ、国を乱し、沢山の人々を苦しめ、更には皇子達をも連れ去ろうとしたその罪、お前の命一つで償える程軽くは無いが、かと言って見逃す訳にはいかない。……悪いが、ここで死んでもらう。」

 

 涼は相手を威圧する為に凄んでみせる。

 涼を知っている人間が聞いたら思わず吹き出しそうな台詞回しだが、涼の名前と風評しか知らない趙忠には効果覿面だった。

 

「ひいいっ! た、頼むっ、殺さないでくれっ‼」

「……そうやって命乞いをした人達を、貴様等は何人殺してきた? 随分と都合が良い物言いだな。」

 

 趙忠はとても情けなく、保身にしか考えが回っていない。

 十常侍として権力をほしいままにしてきた人間が、いざ我が身の危険に苛まれるとこの有り様だ。

 そんな趙忠は涼が一番嫌いなタイプであり、見ていると段々と腹が立ち、演技をしなくても自然と言葉や態度に凄みが出る様になった。

 

「そ、それは全部張譲の指図だったんだ! 俺は悪くねえ‼」

「悪くない? 張譲に荷担して人々を苦しめ、殺めた人間が全く悪くないだって? ……ふざけるなっ‼」

「ひっ‼」

「張譲の指示に何の疑問も持たず、人々を苦しめ続けた貴様は罰せられるべきだ‼」

 

 余りにも自己中心的な趙忠の態度を見た涼は、最早我慢の限界だった。

 下馬して剣を向けながら近付き、その剣を喉元に突き付ける。

 

「……殺す前に言っておく。殺した人達に詫びろ。」

「な、何故俺がそんな事をしなければならな……。」

 

 趙忠がそう言いかけると、涼は黙ったまま剣を少し前に突き出した。

 

「わ、解った! 悪かったと思ってる、本当だっ‼」

「……良いだろう。なら次は、張譲の居場所を教えろ。」

「し、知らんっ!」

 

 趙忠がそう言うと、涼は更に剣を前に突き出した。

 

「ほ、本当に知らないんだっ! 彼奴、俺達に何進の首を投げれば諸侯は逃げるとかデタラメ言ったかと思ったら、そのまま居なくなりやがったんだよっ‼」

「……何だって?」

 

 張譲が居ない。その事に涼は途轍もない違和感を感じた。

 

(張譲が居ないだって……? “三国志演義”だと十常侍の筆頭で、二人の皇子を連れて逃げた筈。ひょっとしてこの世界じゃ違うのか……?)

 

 涼は暫く考え込んだ。考え込み過ぎて、趙忠がゆっくりと後退りしているのに気付かない程に。

 そうして一定距離をとると、趙忠はあっという間に逃げ出し、涼から離れていった。

 

「……あっ!」

 

 涼が気付いた時には、趙忠はかなり離れた場所を走っていた。

 慌てて後を追いかけようとするが、馬に乗ってからのほうが良い事に気付き、騎乗してから追い掛ける。

 人の速度と馬の速度、速いのはどちらかと考える迄も無い訳で、その距離はみるみる縮まっていく。

 それでも趙忠は必死に逃げていたが、突然その走りを止め、立ち尽くした。

 

「あっ……。」

 

 涼は思わず声を出した。

 よく見ると、趙忠の体には見知った武器が突き刺さっている。

 その武器は偃月刀。涼の義妹にして大切な仲間の武器だった。

 

「義兄上、止めを!」

 

 涼を「義兄上」と呼ぶ少女――愛紗。その隣にはやはり仲間の少女である時雨が居る。

 涼は愛紗達に頷き返すと、剣を構えながら趙忠に近付く。

 趙忠は、体に青龍偃月刀が刺さったままにも拘わらず、倒れず立っていた。

 もっとも、傷口からは大量失血しており、致命傷なのは間違い無い。放っておいても何れ死ぬだろう。

 

「た、助け……っ。」

 

 趙忠は首だけ動かして涼に助けを求めた。

 その姿は余りにも哀れで、とても今迄権力を握っていた人物とは思えない。

 涼はそんな哀れな男に対し、無言で剣を振り抜いた。

 次の瞬間、趙忠の首が飛び、それによって出来た新たな傷口から勢い良く血が飛び出る。

 趙忠の体はゆっくりと倒れ、二つの傷口から血溜まりを作っていく。

 やがて、体内の血液の殆どを出し終えた趙忠の体は完全に生き物としての活動を停止した。

 それを確認した愛紗は、未だに趙忠の体に刺さったままの青龍偃月刀を引き抜き、刃に付いた血を振り落とす。

 それから時雨と共に下馬し、揃って涼の前に来ると跪いて平伏し、涼に向かって恭しく言った。

 

「逆賊の討伐達成、おめでとうございます。これで義兄上の評判、ひいては劉備・清宮軍全体の評判が上がる事でしょう。」

「どうなる事かと思ったが、よくやったじゃねえか。流石は桃香の義兄だな。」

「……ああ。けど、これも二人の、そして宮中や洛陽の外で頑張っている皆のお陰だよ。本当に有難う。」

 

 愛紗に続いて時雨が誉めた後、涼は一瞬反応が遅れたものの直ぐに表情を正し、二人に向かって微笑みながらそう答える。

 だが、愛紗はそんな涼の態度を見逃さなかった。

 

「……どうかなされましたか、義兄上? 何だか不安そうなお顔をなされていますが……。」

「……実は。」

 

 涼は張譲の事を二人に話した。

 

「……つまり、張譲を見付けないとこの戦いは終わらない、と、義兄上は思っているのですね?」

 

 説明を聞いた愛紗が真剣な表情で確認し、涼は静かに頷いた。

 因みに、元の世界での張譲については話していない。混乱する事を避ける為と、何よりここ迄展開が違うと却って話さない方が良い気もしている様だ。

 その後、二人の皇子を助ける為に時雨を馬車に向かわせた。

 数分後、帰ってきた時雨の両隣には、未だ幼い二人の男の子が居た。

 一人は泣きべそをかいていたが、もう一人は毅然とした態度を保っていた。

 見たところ、二人共怪我はしていない様だ。

 趙忠の死体や首を見た時は流石に二人共驚いていたが、涼達が経緯を話している内に落ち着きを取り戻していった。

 因みに、泣きべそをかいていたのが弁皇子で、毅然とした態度を保っていたのが協皇子だ。

 霊帝が崩御した今、次の帝は兄である弁皇子がなるのだが、風格等は弟である協皇子の方が上だ。

 「三国志」についての知識が豊富な涼は複雑な思いで二人を見つめ、だが何も言わずに二人を連れて洛陽への帰路についた。

 張譲の行方は気掛かりなままだが、今は皇子達を洛陽に戻す事が先決だと判断した結果だった。

 

 

 

 

 

 その頃、その張譲はとある山の中に居た。

 そこには、張譲以外にも一人、怪しげな雰囲気を漂わせた人物が一緒だった。

 

「……そうですか、趙忠が死にましたか。」

「ええ、これで十常侍は貴方を除いて全員が死亡し、邪魔者が居なくなった訳です。これからの貴方の働きに期待してますよ。」

「御期待に応えられる様、尽力します。于吉(うきつ)様。」

 

 張譲は、隣に居る眼鏡を掛けた導師服の男――于吉に対して恭しく平伏する。どうやら張譲の仲間、それも上司にあたる人物の様だ。

 

「それで、これからどうするつもりです?」

「僕としては、こちらの兵をなるべく損耗したくないので、“新しい兵”を使う予定です。」

「ほう……そしてそれがあの部隊と言う訳ですか。」

 

 于吉は張譲の視線の先に目を向ける。

 そこは張譲達が居る山の麓の街道であり、そこには洛陽に向かって悠然と進む大部隊が在った。

 

「ですが……果たしてそう上手くいきますかね?」

「御心配無く。既に準備を進めていますから問題有りませんよ。」

 

 張譲は自信たっぷりにそう言うと、再び麓を進む大部隊に目を向ける。

 その大部隊が掲げている旗には、「董」の文字が記されていた。




第八章「十常字の暗躍」、お読みいただき、有難うございます。

という訳で十常侍の誅殺は成功したのですが、何やら不穏な動きがありますねえ。
既に大まかなプロットは出来ているのですが、筆者が遅筆なもので中々そこ迄進みません。申し訳ないです。

張譲については、外見はアニメ版を踏襲していますが、最後の会話で解る様に、立場は逆です。まあ、アニメ版も結局は同じでしたが。

断章に登場したキャラの一人の名前を今回明かしました。多分、皆さんの予想通りだったと思います。
原作未登場で無印とアニメに出ている珍しい立場のキャラ(他には大喬、小喬等。)ですが、今作ではどういった動きをするでしょうね。

十常侍についてですが、今回確認しててちょとしたミスに気付きました。涼達に次々と討たれる十常侍ですが、何人かは「三国志演義」に登場していないのです。栗嵩や孫璋が該当します。
ホントにちょっとしたミスですが、一応、演義ベースの世界ですから
気をつけたいと思います。


今回のパロディネタ。修正していて気付きましたが、何だか今回は多かったです。
「趙忠……君は良い手駒だったけど、君が馬鹿だったのがいけないんだよ。」→「ガルマ……君は良い友人だったが、君のお父上がいけないのだよ。」
再び赤い人の台詞から。ちょっと苦しいかな?

「右手に天国、左手に地獄! 光になりなさぁぁぁぁーいっ!!」→「ヘルアンドヘブン、光になれえええええっ!」
戦う勇者王の必殺技台詞であり、原作での斗詩の必殺技台詞より。原作に勇者王の中の人が居るのは確信犯なんだろうなあ。

「ま、待てっ! 話せば解る……!」→「話せば解る。」
日本の総理大臣を務め、五・一五事件で暗殺された犬養毅氏の言葉より。実際には落ち着いたまま言ったそうです。

「げえっ、御遣い!?」→「げえっ、関羽!?」
御存じ「横山光輝三国志」から、関羽登場に驚く曹操の台詞。やはり三国志ものにはこのパロディがないとね。

「俺は悪くねえ!!」→「俺は悪くねぇっ!」
テイルズシリーズ10周年記念作品の主人公の台詞より。因みに筆者は3DS版を買いましたが、いまだにこの台詞の所には進んでいません(笑)

次回は今回のエピローグです。比較的短いですが、お楽しみ下さい。
ではまた。

2012年11月29日更新。

2017年5月2日掲載(ハーメルン)


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第九章 宴と少女・1

董卓。真名は月。

涼の世界に居た董卓とは違い、この世界の董卓は虫さえも殺せない可憐な少女。

そんな彼女に涼は心を許していた。恐らく、彼女−月も同じだった筈だ。

多分、今もそれは同じ――。



2010年7月11日更新開始。
2010年8月8日最終更新。

2017年5月3日掲載(ハーメルン)


 (りょう)趙忠(ちょうちゅう)を討ち取って数刻後、洛陽(らくよう)では二人の皇子の帰還と十常侍(じゅうじょうじ)討伐、それぞれの立役者達の功績を讃え祝賀会が開かれていた。

 十常侍を討った各武将達には恩賞が与えられ、特に、趙忠を討って皇子達を助け出した涼には格別の恩賞が与えられた。

 もっとも、涼はその事に対して複雑な思いでいた。

 

「なあ、愛紗(あいしゃ)。」

「どうしました?」

「趙忠に致命傷を与えたのは愛紗なんだから、これは愛紗が受け取るべきじゃないのかな?」

「何を仰います。義兄上(あにうえ)が止めを刺されたのは間違い無いのですから、ここは素直に受け取るべきですよ。」

 

 苦笑しながら愛紗はそう言って、涼の背中を軽く叩いた。

 宮中での祝賀会は、場合が場合だけに簡素なものだが、それでも十常侍の(ほとん)どを倒せたので、この国を立て直す機会を得る事が出来たのは確かな為、かなり盛り上がっていた。

 洛陽の外で待機していた桃香(とうか)白蓮(ぱいれん)達も今は合流し、雪蓮(しぇれん)華琳(かりん)達と共に談笑している。

 そんな中、雪里(しぇり)が一つの知らせを持ってやってきた。

 

「先程、(ゆえ)様が到着された様です。」

 

 そう言われて涼が出入口に目をやると、黄巾党(こうきんとう)征伐時に共に戦った董卓(とうたく)――月が賈駆(かく)――(えい)と共に近付いて来るのが見えた。

 

「御久し振りです、皆さん。」

 

 涼達の(もと)にやってきた月は、いつもの優しげな笑顔を浮かべながらそう話し掛けてきた。

 

「久し振りだね、月。詠も元気そうで何よりだよ。」

「……有難う。」

 

 詠もいつも通り無愛想に返事をする。

 月には優しく接しているのに、他人には厳しいのは何故だろうと思う涼だった。

 

「皆様の御活躍は先程お聞きしました。特に清宮(きよみや)さんは趙忠を討っただけでなく、二人の皇子も同時に助け出したとか。」

「それも皆が頑張ってくれた結果さ。たまたま俺が手柄を取れただけだよ。」

「ふふっ、相変わらず謙虚なんですね。」

 

 口元に手を当てながら月は笑みを浮かべ、暫くの間涼を見つめた。

 十代の少年である涼は月のその仕草にドキリとし、顔を紅くする。

 だが同時に、涼は違和感を感じていた。

 

(……何だろう。月は前と変わらない筈なのに、どこか変に感じる……?)

 

 だが、その違和感が何か判らなかった涼は、結局深く考える事はしなかった。

 その間に、月と詠は桃香達とも話していき、やがて苦笑しながら言った。

 

「私達も、間に合えば皆さんのお力になれたのですが……遅れてしまい申し訳ありませんでした。」

「仕方ないよ、月ちゃんは私達の中では一番遠い所に居たんだし、それに異民族と戦っていたんでしょ?」

「地理的にも状況的にも不利だったのなら、遅れるのは仕方ないと思うわ。」

 

 桃香と雪蓮が月をフォローする。が、そんな行為を無にするかの様に、華琳は意地悪な表情になって話し出した。

 

桂花(けいふぁ)に聞いたのだけど、今の董卓軍は確か二十万の大軍なのよね? それだけの軍勢が居れば、楽出来たでしょうね。」

「ここに連れてきたのは十五万程だけど、確かに曹操の言う通りだったでしょうね。」

 

 それに対して、詠が敢えて皮肉を受けながら答える。

 当然ながら場の空気は悪くなるので、慌てて桃香や白蓮がフォローに回った。

 一方、雪蓮はそうして慌てる二人を見ながらお酒を飲み、華琳はその様子を楽しむかの様に眺めている。

 そんなちょっとしたドタバタ騒動は、折角の祝賀会で喧嘩になっては困ると感じた涼が止める迄続いた。

 

「あー、()った居った。」

 

 そこに、何処かで聞いた事のある関西弁が聞こえてくる。

 この世界で関西弁とはおかしいが、実際に話しているのだから仕方が無い。

 

張遼(ちょうりょう)、お疲れ様。」

「おおきに。まあ、お互い様やけどな。」

 

 張遼も涼と同じく、十常侍討伐で功績をあげている。

 そうした意味で「お互い様」と言ったのだろう。

 

「そうだね。それより、俺を捜していたみたいだけど、何かあったの?」

「ああ、ウチの大将が会ってみたいらしくてな。少し時間ええか?」

「大丈夫だよ。張遼の大将って……確か丁原(ていげん)って人だったよね?」

「せや。丁原の旦那には色々助けて貰うてな、その恩を返す為にウチは部下になってるんや。」

 

 張遼は真面目な表情でそう言った。

 そんな張遼の過去を涼が気になっていると、そこに低く威厳の有る声が聞こえてきた。

 

「儂は大した事はしてないから気にするなと、いつも言っておるんじゃがな。」

 

 声の主は白髪が多めの頭髪をした初老の男性だった。また、その傍らには色黒で紅い髪の少女が居る。

 

「せやけど、あの時旦那に助けて貰わんかったら、ウチは今頃どうなっとったか解らへんのやし、気にするなってのが無茶ですわ。」

「相変わらずだな、(しあ)。まあ、儂としてもお主が居てくれた方が助かるし、娘が増えた様で楽しいがの。」

 

 初老の男性は、そう言ってカラカラと笑う。

 つられて張遼も笑ったが、紅い髪の少女は無表情のままだった。

 そんな紅い髪の少女の様子も気になる涼だったが、その前に確認しなければならない事が有るので後回しにする。

 

「張遼、ひょっとしてその人が……。」

「ああ、放っておいてスマンかったな。察しの通り、この爺さんがウチの大将であらせられる丁建陽(てい・けんよう)や。」

「爺さんで悪かったの。……さて、挨拶が遅れて済まんかったのう。儂が荊州(けいしゅう)刺史(しし)の丁原、(あざな)は建陽じゃ。」

「御丁寧にどうも。自分は劉備(りゅうび)・清宮軍の副将を務めています、清宮涼です。」

 

 張遼に紹介された初老の男性――丁原が挨拶してきたので、涼は平伏しながらそう答えた。

 すると丁原は、怪訝な表情になりながら訊ねてきた。

 

「副将? 確か黄巾党征伐時のお主は、連合軍の総大将を務めていたと記憶しておるが。」

「あれはあくまで一時的なものです。本来は劉玄徳(りゅう・げんとく)が大将で、自分はその補佐が役目ですから。」

 

 涼は謙遜する様に言った。それが、桃香が居たら間違い無く即座に否定しそうな事だったのは、今更言う迄も無い。

 丁原が涼の言葉をどう受け取ったか判らないが、暫くして先程の様にカラカラと笑いだした。

 

「今時珍しい謙虚な男じゃな。……じゃが、それでいて隙を見せぬとは、流石じゃの。」

「そんな……買い被り過ぎですよ。」

 

 いきなり高評価を得た涼は照れながら謙遜した。

 だが丁原は、そんな涼に対して尚も評価を述べていく。

 

「義勇軍とは言え、一万を超える大軍の補佐となれば、誰にでも出来る事ではない。……それでいて、儂等の事を探ろうと目を光らせておる。じゃから流石じゃと申した迄よ。」

(……読まれてたか。)

 

 涼は内心で小さく舌を出した。

 「三国志」に詳しい涼だが、その知識をそのままこの世界で使えるとは限らない。

 何しろ、大半の武将・軍師が女になっている世界だ。勿論、今涼の目の前に居る丁原の様に、男性のままという場合もあるが。

 そうした事情から、涼は情報を得る事を最優先にしている。とは言っても、あくまで自分自身にとっての情報だが。

 

「俺は、俺に出来る事をしているだけですよ。」

「ふむ……“天の御遣いは公明正大で思慮深く、それでいて謙虚だ”という噂は、間違っておらぬ様じゃの。……どうじゃ、お主さえ良ければ、うちの霞と(れん)を嫁にくれても良いのじゃがの?」

「なあっ!?」

「……義父上(ちちうえ)、急過ぎる。」

 

 涼は余りの急展開に苦笑しつつも、初めて喋った紅い髪の少女を見ていた。

 丁原が恋と呼んだ紅い髪の少女は、ボーっとした表情をしている。

 紅く短い髪は前後に鋭く伸び、上部には二本の長い髪がまるで触角の様に伸びている。

 燃える様な深紅の瞳は大きくて、髪の色と相まって自然と見る者を惹きつけていく。

 色黒の肌の肩や腹部には、黒い線状の模様が有る。刺青(いれずみ)かボディペインティングだろうか。

 服は真ん中のファスナーらしき物を境に右が黒、左が白に分かれているタンクトップみたいな襟付きの服で、真ん中のファスナーらしき物の左右に一本ずつ、左胸の辺りに曲線を重ねた様な金色の刺繍がそれぞれ施してあった。

 肩先から有る袖は腰と同じ赤茶色のベルトで固定。色は服と同じで右が黒、左が白で、肩口と袖先に三角形の金色の刺繍が有る。

 また、首元には赤紫色の布をマフラーの様に巻いており、その布は地面に着くんじゃないかと思う程長い。実際に着いているのか、布の先は所々に穴が空いていた。

 白いプリーツスカートの上にはボロボロの黒い布を巻き、赤茶色のベルトで固定している。

 黒いオーバーニーソックスと赤茶色を基調とした、登山靴の様な厚底靴の様な靴を履いており、只でさえスタイルの良い体型が、更に綺麗に映えていた。

 

「……ふむ、どうやら清宮殿は恋が気になる様じゃの。」

「えっ!?」

 

 丁原がそう言った時、涼は何を言われたか解らず慌てて声を出した。

 どうやら、丁原が勘違いする程に紅い髪の少女――恋を凝視していた様だ。

 

「……恋、オマエの妻になるの?」

「いやいや、決まってないからっ。」

 

 恋は相変わらずボーっとしたままそんな事を言い、慌てて涼が否定した。イマイチよく解らない娘である。

 

「……義兄上。」

 

 そこに、凛とした声が冷たさを含んで聞こえてきた。

 聞き覚えが有り過ぎるその声を聞いた瞬間、涼は背筋が凍ったかと錯覚した。

 それから涼は恐る恐る振り返り、そこに居た愛紗を確認する。清々しいくらいの笑顔なのに、涼は何故かそれを恐いと感じていた。

 

「……相変わらずおモテになりますねえ、義兄上。」

「そんな事は……無いと思うよ、うん。」

 

 涼は所々言葉に詰まりながらそう答える。

 その間に、雪蓮や華琳、月達もやってきた。

 

「あらら、競争相手がまた増えたのねー。」

「……本当に人気があるわね、涼。」

「へう……。」

 

 約一名を除き、彼女達は皆ジトッとした目を涼に向ける。

 

(な……何か、皆の視線が痛い!)

 

 涼は愛紗達の冷ややかな視線にたじろぎながら、どうやってこの場をやり過ごそうか思案する。

 だがそこに、丁原の笑い声が聞こえてきた。

 

「いやはや、流石は清宮殿じゃな。自軍の者だけでなく、他軍の者迄惹きつけるとはのう。」

「いえ……そんなつもりは無いんですが。」

 

 丁原のその言葉に苦笑しながら涼は答える。

 また、愛紗達も丁原にそう言われて冷静になったのか、はたまた却って焦り始めたのか、少なくとも涼へのジトッとした視線は無くなった。

 

「これは負けておられぬな、恋、霞。」

「うん……負けない。」

呂布(りょふ)っち、意味解っとるか?」

 

 紅い髪の少女に張遼が冷静にツッコミを入れる。

 それを聞いた涼は、納得しながらも内心で少し驚いていた。

 

(さっき、丁原を“義父上”って呼んだからもしかしてとは思ったけど……この娘がこの世界の呂布なのか……。)

 

 涼はそう思いながら再び紅い髪の少女――呂布を見る。

 呂布と言えば、三国志史上最強と謳われる武将である。

 何せ、「三国志演義」における虎牢関(ころうかん)の戦いではたった一騎で連合軍を蹴散らし、迎撃にあたった劉備・関羽(かんう)張飛(ちょうひ)の三人が連携して戦っても勝てなかった程だ。

 因みに、その戦いの場面は「三英戦呂布」と呼ばれている。

 

(けど、この娘は強いって言うより可愛いって感じだなあ……。)

 

 涼は呂布を見ながらそう思った。もし口に出して言っていたら、愛紗達のあの視線をまた受ける事になっていただろう。

 そんな事を考えない涼は、結局いつも通りの事をするだけだった。

 

「まあ……結婚とかは兎も角、これからも宜しくね、張遼、呂布。」

 

 涼はそう言いながら右手を差し出した。

 

「そやな。ウチは未だ結婚する気無いから、変に期待せんといてなー♪」

「……宜しく。」

 

 張遼と呂布はそう言いながら涼と握手を交わす。

 それから二人は居住まいを正し、笑みを浮かべながら次の様に続けた。

 

「ほなら、改めて自己紹介や。ウチの姓は“張”、名は“遼”、字は“文遠(ぶんえん)”、真名は“霞”や。」

「……じゃあ恋もする。……姓は“呂”、名は“布”、字は“奉先(ほうせん)”、真名は“恋”。……宜しく。」

 

 名前だけでなく真名(まな)迄言ってきた二人に、涼は少なからず驚いた。

 

「今のって……真名を呼ぶ事を許してくれたって受け取って良いんだよね?」

「せや。」

「……うん。」

「この世界では真名は神聖な物と聞いてるけど?」

「その通りや。そやから、ウチはアンタの事を認めたっちゅう事や。」

「……恋はオマエの事よく解らないけど、義父上が認めてるから、構わない。」

「そ、そうなんだ。」

 

 聞き間違いでは無かった事を確認した涼は、多少戸惑いながらも、やがて自らも居住まいを正して言った。

 

「じゃあ、俺も改めて自己紹介を。姓は“清宮”、名は“涼”。字と真名は無いから好きに呼んでくれ。」

「了解や、涼。」

「……解った、涼。」

 

 その言葉を受けて、張遼――霞と呂布――恋はそれぞれ、目の前に居る「天の御遣い」と呼ばれる少年を涼と呼んだ。

 それを見ていた愛紗達は再びジトッとした視線を送ったが、やがていつもの事だからと諦めたらしく、彼女達も霞達と普通に接し始める。

 そうなると後は早いもので、涼達は段々と和気藹々とした雰囲気になっていった。



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第九章 宴と少女・2

 だが、そんな涼達とは違い、何だか重苦しい雰囲気の一団が居た。

 

「……気に入りませんわ。」

「はい?」

「どうしたんですか、姫ー?」

 

 金髪の巻き髪をした少女がそう呟くと、おかっぱ頭の少女とツンツン髪の少女は、キョトンとした顔でそう応えた。

 

「どうしたんですか、じゃありませんわよ文醜(ぶんしゅう)さん! 貴女はあれを見て何とも思いませんの!?」

「んー……アニキ達が仲良く喋っているなあと思います。」

「……それだけですの!?」

 

 文醜と呼んだツンツン髪の少女の答えが不満だったのか、姫と呼ばれた金髪巻き髪の少女は文醜を睨み付ける。

 因みにおかっぱ頭の少女は、姫と呼ばれた金髪巻き髪の少女が何を言いたいのか解った様だが、何故か小さく溜息をついていた。

 

「えーっと……豪華な顔触れだなあ、と……。」

「まあ……華琳様や白蓮様、それに孫策(そんさく)さん、董卓さんに丁原さん達が一緒だからね。」

 

 文醜の答えにおかっぱ頭の少女も続いて答えた。すると、姫と呼ばれた金髪巻き髪の少女は、右手人差し指で文字通り二人をビシッと指差しながら、強めの語気を更に強めた。

 

「そう! そこですのよ文醜さん、顔良(がんりょう)さん‼ ……何故、四代に渡って三公を輩出した名門袁家の当主である私、袁本初(えん・ほんしょ)ではなく、“天の御遣い”という胡散臭い肩書きのあの男がチヤホヤされていますの!?」

「あー……成程。だから麗羽(れいは)様の機嫌が悪いのか。」

「いつもの事なんだから早く気付こうよ、文ちゃん。」

 

 そう話す文醜――猪々子(いいしぇ)とおかっぱ頭の少女――顔良――斗詩(とし)は、金髪巻き髪の少女――袁紹(えんしょう)――麗羽を見ながら、深々と溜息をついた。

 

「……二人共何ですの、その疲れた表情は。」

「そりゃ疲れますよ……。」

「文ちゃんっ。……あ、あの麗羽様、今回ばかりは清宮様があの様に褒め称えられるのは仕方が無いかと……。」

「どうしてですの?」

「清宮様は十常侍の一人であった趙忠を討っただけでなく、連れ去られた二人の皇子を助け出しました。ですから、清宮様が高評価を得るのは当然だと思いますよ。」

 

 誰が見ても当然な結果に納得がいかない麗羽に対し、斗詩は簡潔且つ丁寧に説明をした。

 普通ならこれで理解する筈だ。

 だが、やはりと言うか麗羽は違った。

 

「そんなのは言われなくても解ってますわ。……ですが、だからと言って私が(ないがし)ろにされる理由にはなっていませんわ。何しろこのわ・た・く・しは! 大陸屈指の名門、袁家の当主なのですから‼」

「「…………。」」

 

 余りにもいつも通りな主人に、呆れて何も言えない斗詩と猪々子。

 そう、麗羽こと袁本初は、世界は自分を中心に回っていると思っているだろうなと他人が思う程、自意識過剰な少女なのだ。

 

「……そもそも、これでは当初の計画とかけ離れ過ぎですわっ!」

「……当初の計画?」

「文ちゃん忘れたの? 本来なら麗羽様と何進(かしん)様の軍だけで十常侍を誅殺(ちゅうさつ)出来たのに、そうしなかったのは……。」

「ああ、最近力を付けてきた諸侯の軍を使って十常侍の兵を削って、良い所だけかっさらおうってやつだよな。」

「……言葉は悪いけど、そうだね。」

 

 斗詩は今日何度目か解らない溜息を、やはり深々とついた。

 これ等の話から解る様に、麗羽は自軍の損耗を避けつつ諸侯を損耗させ、手柄を得ようとしていた。

 その為に何進を説得して諸侯を呼び寄せたのだが、その何進が十常侍に討たれたり、一番の手柄を他軍に取られたりと誤算続きだった。

 名門だなんだ威張っている割にセコい手を使うから、そんな結果になるのだろう。

 もし、猪々子が段珪(だんけい)を討っていなかったら、麗羽は今以上に機嫌が悪くなっていた筈だ。

 

「……あ、麗羽様、あれを見て下さい。」

「何ですの?」

 

 小さく驚いた斗詩が指差す方向に、麗羽は目をやる。

 そこには、歓談中の涼に近付く見知った顔が有った。

 

美羽(みう)さんがどうかしまして?」

「えっと、多分なんですが……。」

 

 斗詩が自分の考えを麗羽に伝えている間に、美羽こと袁術(えんじゅつ)は涼に声をかけていた。

 

「これ、清宮とやら。」

「ん?」

 

 後ろから少女に声を掛けられた涼は直ぐに振り返る。

 が、そこには誰も居なかった。

 

「あれ、居ない?」

「どこを見ているのじゃ? (わらわ)はここじゃ。」

 

 やはり振り向いた方向から少女の声は聞こえてくるが、何故か涼の視界には誰も居ない。

 

「声はすれども姿は見えず……。」

「なっ!? 失礼じゃぞっ‼」

 

 少女の声は少し不機嫌さを含み始めた。

 

「……どこ?」

「……仕方の無い奴じゃ。……見ー下ーげてーごらんー♪」

「ん?」

 

 涼が「新喜劇?」と思いながら言われた通りに目線を下げると、そこには今日会ったばかりの少女が居た。

 

「確か君は、袁術だよね?」

「そうじゃ、妾は名門袁家の一人、袁公路(えん・こうろ)じゃ♪ ……って、誤魔化すでない! 妾の姿を見つけられぬとは失礼であろう!」

 

 袁術は自身の背の低さをからかわれた様に感じたらしく、頬を膨らませながら涼に怒っている。

 だが、怒られてるにも拘わらず、涼は平然としながらこんな事を思っていた。

 

(怒ってるけど、いかにも子供の癇癪って感じで可愛いもんだな。)

 

 涼は袁術を普通の子供の様に見ていた。事実、この袁術の年齢は未だ十一歳だったりする。

 

「コラッ、そちは妾の話をちゃんと聞いておるのかや?」

「勿論、ちゃんと聞いてるよ。」

 

 だからだろうか、涼はそう言いながら袁術の頭を撫でていた。

 

「にゃっ!?」

 

 すると何故か、袁術は驚いた猫の様な声を出した。

 

「どうした?」

「きゅ……急に妾の髪を撫でるでない!」

 

 袁術は頭や顔を両手で隠しながら僅かに後ずさる。

 その反応を見た涼は、「あれっ?」という表情を浮かべながら考え込んだ。

 

(おかしいなあ……鈴々(りんりん)(しずく)はこうすると直ぐ機嫌を直してくれるんだけど。)

 

 何気なく自分の掌を見ながら、涼はどうしたら袁術の機嫌を直せるか考え続けた。

 その間、袁術は俯きながら顔を真っ赤にしていた。

 もっとも、袁術が両手で頭や顔を隠していた為、涼はその表情を確認出来なかったが。

 

「……仕方無いのじゃ。」

「えっ?」

 

 暫しの間沈黙していた袁術がそう呟くと、ゆっくりと手を下ろし、涼を見ながら言った。

 

「妾は心が広いから、先程の無礼な振る舞いは水に流してやるのじゃ。有り難く思うのじゃぞ♪」

「う、うん。有難う?」

 

 袁術の表情の変化に涼は少し戸惑いながらも、どこかホッとしていた。

 

(マセた事言ってるけど、やっぱり子供だなあ。直ぐに機嫌が直ったよ。)

 

 そう思いながら、自然と微笑む涼。

 そんな涼を見て、袁術も更に微笑む。何故か顔を紅らめながら。

 

「と、ところで清宮よ、名前は何と言ったかえ?」

「涼だよ。」

「涼かえ。なら、字と真名は何なのじゃ?」

「俺はこの国の人間じゃないから、字も真名も無いよ。」

「そう言えばお主は“天の御遣い”じゃったの。……で、では、どう呼べば良いのかの?」

 

 袁術は何故か口ごもりながら訊ねる。

 それを涼は袁術が遠慮してるのかと思いながら、笑顔のまま答えた。

 

「袁術が好きに呼ぶと良いよ。」

「そ、そうかえ? ……な、なら、涼と呼ぶ事にするのじゃ!」

 

 袁術は右手を挙げながら、笑顔でそう宣言する。

 だが直ぐにまた口ごもりながら、上目遣いで続けた。

 

「な、なら……妾の事も真名で呼んで良いのじゃ。」

「良いの?」

「妾が良いと言っておるのじゃから、勿論良いのじゃ♪」

「解った。じゃあ改めて自己紹介を頼むよ。」

 

 涼がそう言うと、袁術は笑顔になって居住まいを正し、言葉を紡いだ。

 

「妾の姓は“袁”、名は“術”、字は“公路”、真名は“美羽”なのじゃ! 気軽に美羽様と呼ぶが良いぞ♪」

「解った。宜しくね、美羽ちゃん。」

 

 涼が袁術――美羽に笑顔でそう言うと、美羽もまた頬を朱に染めた笑顔を返してきた。

 と、そこに、聞いた事のある間延びした声が聞こえてきた。

 

「御嬢様〜どこですか〜?」

 

 涼と美羽が声がした方を見ると、そこには張勲(ちょうくん)の姿があった。どうやら美羽を捜しているらしい。

 

七乃(ななの)ー、妾はここじゃー。」

 

 美羽が右手を振りながら呼び掛けると、張勲は直ぐ気付き、小走りで駆け寄ってきた。

 

「捜しましたよ、美羽様〜。迷子になったのかと思って心配してました〜。」

「それは悪かったの、七乃。……そうじゃ、折角じゃから七乃も涼に自己紹介すると良いのじゃ。」

「自己紹介、ですか?」

 

 美羽にそう言われた張勲は、キョトンとしながら美羽と涼を交互に見る。

 

「そうじゃ♪ 因みに妾は真名を涼に預けた故、七乃も預けると良いのじゃ。」

「はあ、真名を預ける、ですか……って、ええっ!? 美羽様、清宮さんに真名を預けたんですかっ!?」

「だからそう言っておるではないか。聞こえてなかったのかえ?」

 

 美羽はそう言いながら呆れた様な表情で張勲を見る。

 その張勲はと言うと、苦笑しながら二人の顔を交互に見続けていた。

 

「聞こえていたからビックリしたんですよ〜。……けど美羽様、そんな簡単に真名を預けちゃって良かったんですか?」

「涼は妾が認めた人物じゃから構わないのじゃ。」

「なら良いんですけどね〜。」

 

 そう言って張勲はチラッと涼を見る。

 視線に気付いた涼は何故か苦笑していた。

 

「えっと……無理に真名を預けてくれなくても良いですよ。この国の人間じゃない俺でも、真名がどういうものかは解っていますから。」

 

 涼が苦笑していた理由は、単に張勲に気を遣っていたからだった。

 それに気付いた張勲は、不意に可笑しくなった。

 「天の御遣い」と呼ばれ、義勇軍の象徴であり、今回最大の功労者である涼が、美羽の側近とは言え今回手柄らしい手柄を得ていない自分を気遣っている事が、何故か可笑しかったのだ。

 そして、同時に理解した。そんな涼だからこそ美羽が真名を預けたのだと。

 

(まあ、勢いで預けた可能性も有りますけどねー。)

 

 ……(むし)ろ、そっちの方が可能性が高いかも知れない。

 とは言え、張勲の心は既に決まっていた。

 

「美羽様が真名を預けていらっしゃるのに、家臣の私が預けない訳にはいきませんよ。」

「良いんですか?」

「はい、良いんですよ。」

 

 涼が確認すると、張勲はニッコリと微笑みながら答えた。

 

「解りました。では、自己紹介をお願いします。」

「はい。私の姓は“張”、名は“勲”、字は“玲源(れいげん)”、真名は“七乃”。我が主袁術共々、宜しくお願いします。」

 

 自己紹介をしながら軽く会釈をする張勲――七乃に対し、涼もまた改めて自己紹介をした。

 それから三人は、暫くの間歓談した。何の変哲もない話から、それぞれの価値観やら何やらを話していった。

 難しい話になると美羽の頭に「?」マークが浮かんでいたが、涼達は構わず続けた。

 どうやら、涼も七乃も美羽で遊んでいた様だ。

 その様子を見ていた三人――袁紹、斗詩、猪々子は三者三様の反応を見せる。

 

「……み、美羽さんは何をしていますの!? あんな簡単に真名を預けるなんて‼」

「ですから、さっき説明したじゃないですかあ。“天の御遣い”である清宮さんと、繋がりを持ちたいんじゃないかって。」

「ほえー、アニキって本当に人気なんだなあ。あの美羽様がすっかり懐いてるよ。」

 

 猪々子が感心した様な声を出している隣で、袁紹は斗詩に詰め寄りながら説明を受けている。

 やがて、斗詩が何度も説明して漸く理解したのか、袁紹は難しい顔をして考え込んだ。

 

「むむむ……美羽さんがそんな事を考えていたなんて……やりますわね。」

「何がむむむですか……。兎に角、麗羽様も清宮さんに真名を預けた方が良いかと思いますよ。」

「嫌ですわ!」

「即答ですか!?」

「名門袁家の当主たるこの私が、あんな男に何故真名を預けなければならないのです?」

「ですからそれは、さっき説明したじゃないですかあ。」

「そうでしたわね。ですが、理解はしましたけど、納得はしていませんわ!」

「そんなあ……。」

 

 袁紹がそう断言すると、斗詩は頭を押さえながら深々と溜息をついた。

 周りの者が皆、「天の御遣い」の威光を利用しようとしている中、袁紹だけが利用しないのは明らかに間違っている。

 これから先、何が起こるか解らないのだから、保身の為の手段は取れるだけ取っておくべきだ。

 斗詩はそれが解っているだけに、憂鬱な表情を浮かべる。

 

(私、益々苦労しそうだなあ……。)

 

 その内、胃に穴が開きそうな程苦労性な斗詩だった。



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第九章 宴と少女・3

 結局、祝勝会は夜遅く迄続いた。

 そんな時間になっても、涼の周りには「天の御遣い」の威光を得ようとする者や、単に傍に居たいという者がひっきりなしに現れる。

 お陰で、祝勝会が終わった時の涼の顔には疲労の色が出ていた。

 そうして祝勝会が終わり、涼達が祝勝会会場を出た時、月と詠が涼達に話しかけてきた。

 どうやら二人も帰るところらしく、涼達は話しながら歩いていった。

 

「……では、清宮さん達は明日にはもうお帰りになるのですか?」

「ああ。未だ張譲(ちょうじょう)が見つかっていないとはいえ、十常侍は事実上居なくなった。なら、後は洛陽に駐留する軍だけで何とか出来る筈だからね。」

「……そうですね。それに清宮さんは徐州(じょしゅう)州牧(しゅうぼく)になる訳ですし、これから忙しくなりますものね。」

「あー……その事なんだけど……。」

 

 月がそう言うと、涼は何故か口ごもった。

 頬を人差し指でポリポリと掻きながら、暫く中空に視線を漂わせ、やがて月と詠を交互に見ながら小声で言った。

 

「これは内緒なんだけど……実は、州牧になるのは俺じゃなくて桃香なんだ。」

「えっ?」

「……何でそうなってる訳?」

 

 内緒と言われたからか、月と詠も小声になっていた。

弁皇子(べん・おうじ)……いや、もう即位されたから少帝(しょうてい)陛下だね。その少帝は今回の恩賞として俺を州牧にしてくれるって仰って下さったけど、俺はそれを断ったんだ。」

「ええっ!?」

「月っ、声が大きいわよっ。」

 

 詠に言われて、慌てて月は両手で口を塞いだ。

 幸いにも、今涼達の近くには誰も居ない。

 最も話を聞かれてはいけない桃香達は、涼達の前方、少し離れた所に固まって歩いている。

 涼が月と詠と話し始めた時、桃香達は空気を読んで少しだけ前を歩き始めた。

 内心は色々と複雑だっただろうが、義兄(あに)、もしくは主君や友人の邪魔はしたくないという気持ちが僅かに勝った様だ。

 勿論、護衛の任は忘れておらず、愛紗や鈴々、そして時雨(しぐれ)達は桃香の護衛をしつつ、涼に不審者が近付いてこないか警戒している。

 そんな中、愛紗は月の声に反応して振り向いたが、話の最中だと確認すると再び前を向いて歩き出した。

 涼達はそれを確認してから話を再開する。

 

「……それで、辞退したのはどういう訳なの?」

「理由は簡単、義勇軍の総大将は桃香だからさ。なので、俺じゃなくて桃香――劉玄徳を州牧にして貰う様に頼んだんだ。」

「そして、少帝陛下はそれを認められたのですね?」

「ああ。そもそも桃香は中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の末裔だから、自分より州牧に相応しいだろうしね。」

「天の御遣いだって相応しいでしょうに。」

「それに、何だかめんどくさそうだし。」

「それが本音か!」

 

 涼の一言に的確なツッコミを入れる詠と、苦笑する涼。

 月はそんな二人を見ながら微笑んでいた。その笑みに僅かに影が差していたのは、月自身は勿論、涼と詠も気付かなかった。

 やがて、月と詠の宿舎前に着いた。涼達の宿舎はこの先に在るので、月達とはここで別れる事になる。

 

「結果的に送って貰っちゃいましたね。皆さん、有難うございます。」

「どう致しまして♪ まあ、どうせ通り道なんだし、気にしないで良いよ。」

 

 涼が笑顔でそう返すと、月もまた笑顔を見せる。

 それと同時に、愛紗達や詠が少しだけ不機嫌になるのは、最早日常茶飯事にも等しくなっていた。

 

「それでは皆さん、お休みなさい。」

「ああ、お休み。また明日ね。」

 

 涼と月、そして各々がそれぞれ挨拶を交わし、涼達は再び帰路に就く。

 月と詠は、涼達の後ろ姿を見送ってから宿舎に入っていった。

 その途中、二人は何か話していたが、その会話を聞いた者は誰も居なかった。

 翌日、宿舎に居た涼達は幽州(ゆうしゅう)への帰り支度をしていた。

 

「何か、お手伝いしましょうか?」

 

 そこにそう言いながら現れたのは、私服姿の月だった。

 いつもの服装とは違い、白と淡い桃色で構成された長袖ロングスカートのワンピースを着ている。

 

「有難う、月。でも殆ど終わってるから大丈夫だよ。」

「そうですか……なら、少し早めに来れば良かったですね。」

 

 月はそう言いながら微笑んだ。

 その笑みは美しく、涼は思わず見とれてしまいそうだったが、どこか違和感を感じてもいた。

 それが何か考えていると、そこに、やはり私服姿の詠がやってきた。

 

「月、やっぱりここに居たのね。」

 

 そう言った詠の私服は月と同じ色の長袖のワンピースだが、スカートが黒のミニスカートになっている。

 どうやら走ってきたらしく、詠の息は少し乱れていた。

 

「あっ、詠ちゃん。ひょっとして、何かあったの?」

「別に何も無いけど……出掛ける時はちゃんと言付けてからにしてよね。急に居なくなったから、心配したじゃないの。」

「へぅ……ゴメンね、詠ちゃん。」

 

 詠に注意された月は、俯きながら謝った。すると今度は、詠が慌てながら月を元気付けだした。

 

(本当に詠は月に弱いなあ。)

 

 と、涼が思いながら見ていると、それに気付いた詠が慌てて居住まいを正し冷静さを保とうとした。

 今更手遅れなのは誰が見ても判るのだが。

 その後、帰り支度を終えた涼達は休憩がてら少し話をした。

 その内容は、お互い時間が出来たらゆっくりと遊びたいという、たわいもない話。

 そう、たわいもない話の筈だった。少なくとも涼にとっては。

 十数分後、休憩を終えた涼達は、部隊に洛陽の正門に先行する様指示してから、少帝に別れの挨拶をする為に宮中に向かう準備をした。

 

「じゃあ月、詠、また今度ね。」

「はい。清宮さん達もどうかお元気で。」

「ま、無事を祈っておいてあげるわ。」

 

 涼は二人と別れの挨拶を交わしてから、桃香達と共に宮中へと向かった。

 月と詠は涼達が見えなくなる迄見送ってから、ゆっくりと帰り出す。

 その最中、詠が静かに口を開いた。

 

「良かったわね、月。」

「うん……最後に私服姿を見て貰えて、本当に良かった。でも……。」

「……でも?」

 

 俯く月に詠が訊ねると、月は一度目を閉じてから呟く様に答えた。

 

「……出来れば、このまま残って私を……“殺してほしかった”な……。」

 

 月がそう呟いてから約半刻後、少帝への別れの挨拶を済ませた涼達は洛陽を離れた。

 その少帝との面会時に、州牧になるのが桃香だとバレてしまったが、少帝の決定に桃香が口を出せる訳が無く、その場は大人しくしていた。

 結局、涼は幽州への帰路に就いてからずっと、桃香の恨み節を聞き続ける事になる。

 因みに、涼の様に洛陽から本拠地へと直ぐ戻ったのは、華琳と孫堅・雪蓮の二組。

 袁紹や美羽、そして遅れてきた丁原や月達は、そのまま残って張譲や十常侍派を掃討する為に兵を動かしている。

 黄巾党の乱、十常侍誅殺と続いた動乱も、(ようや)く終わろうとしていた。

 一方、幽州に戻った涼達は義勇軍を解散させていた。

 これは、義勇軍の総大将である桃香が徐州の州牧になる為、今迄の様に幽州で暮らすか、各々の地元に戻るか、桃香達について徐州に来るかの判断を任せる為である。

 その結果、殆どの者が桃香達についてくる事になり、その後、幽州での引き継ぎを終えた涼達は、一万二千以上の兵やその家族を伴う事になった。

 

「気を付けてな、桃香。」

「有難う♪ 白蓮ちゃんも元気でね!」

 

 涼達は白蓮とその部下達に見送られ、新天地である徐州へと向かっていった。




第九章「宴と少女」をお読みいただき、有難うございました。

今回は今まで以上にタイトル通りのお話でした。それにしても袁家のキャラは使い易さに差があり過ぎるなあ。単に自分の実力不足なだけでしょうが。
前回の霞に続き、今回は恋が登場しました。陳宮が居ないのはとある理由からなので、音々音ファンの方は今しばらく御待ち下さい。

七乃の字と月と詠の私服は自分のイメージから作ったので、多分元ネタは無い筈。単に忘れただけかも←
最後の月の台詞がどう繋がるのかお楽しみに。


今回のパロディネタ

「声はすれども姿は見えず……。」「……仕方の無い奴じゃ。……見ー下ーげてーごらんー♪」→「声はすれども姿は見えず。」「見ー下ーげてーごらんー♪」
吉本新喜劇で御馴染の池野めだかさんの持ちネタより。元ネタはこの後泣くんですが、流石にそれはやめました。

「むむむ……美羽さんがそんな事を考えていたなんて……やりますわね。」
「何がむむむですか……。兎に角、麗羽様も清宮さんに真名を預けた方が良いかと思いますよ。」→「むむむ……。」「何がむむむだ!」
「横山光輝三国志」ネタ。「むむむ……。」は、「項羽と劉邦」「殷周伝説」等でも使われていますが。

次回から徐州編に入ります。暫く戦闘シーンはありませんので、退屈かも知れませんが、宜しければ御付き合い下さい。
ではまた。


2012年11月29日更新。

2017年5月5日掲載(ハーメルン)


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第四部・徐州牧、劉玄徳編
第十章 徐州の日々・1


義勇軍の大将から正規軍の大将へ。

図らずも州牧になった桃香――劉備は、仲間と共に政務に取り組んでいた。

だが、彼女達には様々な問題があった。

その一つは……。



2010年8月8日更新開始。
2010年10月3日最終更新。

2017年5月6日掲載(ハーメルン)


 徐州(じょしゅう)幽州(ゆうしゅう)の南東、豫州(よしゅう)の北東、そして洛陽(らくよう)の遥か東に在る州である。

 東には海が在り、周りを他州に囲まれているものの、平原の中に丘陵が点在している為、古くから要害の地として数多の戦乱に巻き込まれてきた。

 また、漢王朝の初代皇帝、劉邦(りゅうほう)の故郷である沛県が在り、その宿敵、項羽(こうう)の本拠地、彭城(ほうじょう)は徐州のかつての名前でもあった。

 その徐州の州牧(しゅうぼく)となった劉備玄徳(りゅうび・げんとく)――桃香(とうか)は、軍師達に助けられながら慣れない州牧の仕事をこなしていた。

 

「桃香様、次はこの書簡に目を通して下さい。」

「桃香ちゃん、これが住民からの要望を纏めた書簡。後で見ておいてね。」

「桃香様、兵士達の調練について一つ案が有るのですが……。」

「桃香、この間討伐した賊が持っていた宝物の扱いなんだが……。」

「桃香お姉ちゃん、たまには街に行ってみるのだー。」

 

 だが、ひっきりなしに仕事が舞い込んでくるので、毎日目を回していたりする。

 

「……そう言えば、(りょう)義兄(にい)さんはどうしたの?」

清宮(きよみや)様なら、陶謙(とうけん)様からの引き継ぎの仕上げをしています。」

「そっかあ……引き継ぎって未だ終わってなかったんだよね。」

 

 腕と背筋を伸ばしながら、桃香は呟く様に言った。

 陶謙とは前徐州牧を務めた人物で、自身が高齢だった事と適格な後継者が居なかった事もあり、少帝(しょうてい)(劉弁(りゅうべん))の勅書(ちょくしょ)が届けられると徐州を快く桃香に譲った男性である。

 陶謙は善政を行っていた為に民に慕われており、今も尚その引退を惜しむ声は多い。

 その為、桃香は陶謙以上の政治をしなければならないという重圧がのしかかっている。

 そんな桃香の負担を減らすべく、涼や愛紗(あいしゃ)雪里(しぇり)達は皆力を合わせて頑張っているのだ。

 その甲斐あってか、徐州に来てから未だ約二週間だが、少しずつ民達の信頼を得てきている。

 

「ただいま。」

 

 噂をすれば影とやらで、涼が桃香達の居る執務室に戻ってきた。

 

「涼義兄さん、お帰りなさい。陶謙さんからの引き継ぎは終わったの?」

「ああ。雪里、一応確認はしたけど念の為見ておいてくれないか。」

「解りました、では早速取り掛かります。」

 

 涼から引き継ぎに関する書簡を受け取った雪里は、涼と桃香に一礼してから執務室を後にした。

 

「お疲れ様、今お茶淹れるね。」

「有難う、桃香。」

 

 そう言って桃香は茶棚から茶器を取り出し、火鉢の上に置いていた薬缶のお湯を湯飲みに注いだ。

 二人はそのお茶を飲みながら話し出した。

 

「ふう〜最近仕事が山積みで肩が凝ってキツいから、こうして休憩しながらお茶を飲んでると、心がすっごく落ち着くんだよねえ。」

「桃香の肩が凝ってるのは、別の理由も有るんじゃないか?」

「……涼義兄さんのスケベ。」

 

 次の瞬間、二人は殆ど同時に笑い出した。

 仕事続きで緊張しまくっている桃香に、こんなフランクな物言いが出来るのは、桃香の義兄(あに)であり州牧補佐の任に就いている涼だからこそだろう。

 まあ、余りやり過ぎるとセクハラになるが、この世界にそんな概念が有るかは涼も知らない。

 

「それで、陶謙さんは何て仰ってたの?」

「自分も出来る事が有ったら力になるので、遠慮無く言って下さい、だってさ。」

「そっかあ。実際、まだまだ陶謙さんにも助けて貰わないといけないし、そう言って貰うと助かるよね。」

 

 桃香は飲み干した湯飲みを台に置きながらそう言った。

 陶謙は実質的に引退したものの、前述の通り影響力は大きい。

 そこで、自分達で徐州を治めきる迄は陶謙の助力を得る事にした。

 本当なら最初から自分達でやるべきだが、如何せん涼達には未だ人材が足りていない為、余り勝手な事は出来ないでいる。

 

「それで、これからの方針としては、人材確保が急務……なんだよね?」

「ああ。武将としては愛紗達が、軍師としては雪里達が居るけど、まだまだ足りない。義勇軍のままならまだしも、徐州軍としてだと今の人数じゃ話にならないかな。」

「そうなんだよねえ……私達、正式な軍隊なんだよねえ……。」

 

 桃香が徐州の州牧になった為、桃香についてきた旧義勇軍はそのまま徐州軍に編入された。

 その結果、元々居た徐州軍と合わせて兵数は五万を超えたが、元々から将や軍師の数は少なく、また質も余り高くなかったらしく、陶謙の意向もあって徐州軍の編成は旧義勇軍を中心に行われた。

 なので、現在の徐州軍は旧義勇軍の時と同じく筆頭武将を愛紗が、筆頭軍師を雪里が務めている。

 

「少しは良い人材が居るかと思ったんだけどな。」

「愛紗ちゃんも雪里ちゃんも、余り良い顔はしてなかったもんねー。」

「ああ。さて、どうやって人材を集めるかな……。」

 

 涼はそう呟きながら残ったお茶を飲み干す。

 残っていた茶渋も口に入ったので、思わず苦い表情になったが、それは図らずも現在の心境とリンクしていた。

 州牧補佐である涼にとっても、問題解決は急務なのだ。

 数分後、休憩を終えた涼は桃香に労いの言葉を掛けてから執務室を出ると、その足で人材確保について相談する為、雪里達が居る軍師室に向かった。

 

(まあ、そんな良策が有るならとっくにやってるだろうけどね。)

 

 そう考えながら涼は軍師室の扉を開く。

 中では雪里と(しずく)、二人の軍師が、先程涼から受け取った書簡の確認をしていた。

 

「あっ、清宮様。」

「どうかなさいましたか? 陶謙殿の書簡についてなら、只今確認中ですが……。」

「いや、その事じゃないんだ。その……人材について、ね。」

「ああ……成程。」

 

 雪里は涼のその言葉だけで意味を理解したらしく、読んでいた書簡を置いて涼の話を聞く事にした。

 

「結論から言えば、人材確保の為の有効な手段と言うのは有りません。」

「いきなり落胆する事を言うね。」

「事実ですから仕方有りません。」

 

 話の始めからそう言われて、涼は苦笑するしかなかった。

 

「勿論、出来る限りの事は全てやっています。ですが、善政をしていた陶謙殿の許(もと)にさえ余り良い人材が居なかった事を考えると、楽観視は出来ないと思います。」

(だよなあ……。“本当なら居る筈の人材”も何故か居なかったし……。)

 

 涼が知っている三国志の通りなら、この徐州に数人は良い人材が居る筈だ。

 只、そもそもここは涼が知っている世界とは違うので、居るべき人材が居ないのも納得出来なくははない。

 ひょっとしたら、何れ見つかるかも知れないが。

 

(そもそも、本来なら劉備が徐州に来るのは反董卓連合(はん・とうたく・れんごう)の後だしな……。まあ、この世界の董卓……(ゆえ)が悪い事をする訳無いし、この流れは正しいんだろうな。)

 

 そう考えながら、涼は雪里と共に人材確保の為の良策が無いか話し合った。

 勿論そう簡単に見付かる訳は無く、気付けば数刻の時間が過ぎ去っていた。

 

「あ、いつの間にかこんな時間か。」

 

 涼は左手首に付けている腕時計を見ながら呟く。

 この世界に正しい時間を計る時計は無く、この腕時計に今表示されている時刻も元の世界のものだが、時間経過は判るので意外と重宝している。

 因みにこの腕時計は太陽光による充電が可能なので、電気が無いこの世界でも電池切れを起こす事は無い。(つい)でに言うと完全防水なので濡れても平気だ。

 

「結局、清宮殿の世界に在る“はろーわーく”の様に求人募集をするしか手は無い様ですね。」

「だな。……それしか思い付かなくてゴメンな。」

「いえ、求人募集や職の斡旋を専門とする組織を作るという“あいであ”だけで充分ですよ。」

「そうなのか?」

「ええ。これが上手くいけば人材の確保だけでなく、“はろーわーく”に勤める者が生活の糧を得る事も出来ます。また、職にあぶれる者も減りますし、それによって治安も安定するでしょう。今迄私がしてきた人材確保の策より、一石何鳥にもなる良策ですよ。」

「そう言われると何だか照れるな。」

 

 雪里が笑みを浮かべながらそう言ったので、涼は思わず照れ笑いをする。

 そしてそのまま「ハローワーク」や元の世界について考えた。

 涼の世界の「ハローワーク」は雪里が言う程万能では無いだろうが、それなりに機能しているし、実際に治安は先進国の中ではダントツに良い。

 そうした事例を鑑みると、雪里の喜び様は間違っていないのだろう。

 

「じゃあ、“ハローワーク”については後で詳しく説明するから、施設の建築や人員については雪里と雫に任せても良い?」

「はい。」

「大丈夫です。」

 

 涼の問いに、雪里と雫は同時に頷きながら答えた。

 

「ですが、天界の名前のままでは私達は兎も角、民に解り難いでしょう。何か別の名前を付けなくては。」

「それもそうだな。この国には横文字が無い訳だし。」

「横文字……?」

 

 横文字という聞き慣れない言葉に二人はキョトンとした。

 だが、横文字が所謂天界の言葉だと説明されると、納得した表情になった。

 

「では清宮殿、“はろーわーく”の此処での名前は何にします?」

「そんな事を急に言われても、良い名前が思い付かないよ。」

「それもそうですね。……雫、貴女は何か思いついたかしら?」

「いえ、私も何も……只……。」

 

 話を振られた雫は申し訳なさそうに俯きながら答えたが、その口からは未だ続きが有る様だ。

 

「只……何かしら?」

「変に奇異を(てら)った名前にするより、先例に(なら)った名前にした方が却って良いと思うのです。」

「それもそうね。なら……“招賢館(しょうけんかん)”と言う名前はどうでしょうか?」

「“招賢館”……何だか聞いた事が有る名前だな。」

「清宮殿は“楚漢戦争(そかん・せんそう)”についての知識もお持ちでしたね。でしたら当然知っておいでの筈です。」

「“楚漢戦争”……ああ、“韓信(かんしん)”のあれか。」

 

 「楚漢戦争」と言われて、涼は(ようや)く思い出した。

 楚漢戦争、つまり漢王朝成立前の統一戦争で漢軍の大元帥として活躍したのが「韓信」だった。

 韓信は元は漢の敵国である楚の一軍人だったが、楚の覇王項羽はその才を正当に評価せず、更には楚の軍師・范増(はんぞう)によって殺されようとしていた。

 そこで韓信は楚の都尉(とい)である陳平(ちんぺい)や漢の軍師である張良(ちょうりょう)の助けを借りて一足早く楚を離れ、漢が当時統治していた(しょく)へと亡命する。

 その地で「招賢館」という才有る人物を求める施設を見つけた韓信は、張良から渡されていた割符(わりふ)を見せて簡単に重職に就く事を一時止め、自らの手で才を認めて貰う事にした。

 

「……そして、招賢館の責任者である夏侯嬰(かこう・えい)が口に出した書の文を一字一句間違えずに答えて夏侯嬰を驚かせ、翌日会った丞相(じょうしょう)蕭何(しょうか)をも感服させた。……で、良いんだよね?」

「はい。その後、漢の大元帥となった韓信は楚軍を(ことごと)く打ち破り、漢王朝成立の立役者となったのです。」

 

 だがその後、韓信はその戦功を認められながらも良い晩年を送れなかったらしい。

 なお、上記の事は一部を除いて創作である。

 

「雪里は韓信の様な逸材が来る事を願って、招賢館と名付けたいのか?」

「韓信の様な逸材中の逸材はそう現れないでしょうが、験を担ぐ意味ではその通りですね。」

「ですがその名前だと、求人は兎も角、職の斡旋もする施設とは思われないのではないですか?」

「それは、施設の入り口前に説明文を書いた立て札を立てる事で解決出来るわ。」

「成程。」

「じゃあ、決まりかな?」

 

 涼が確認を込めてそう言うと、雪里と雫は頷いて答えた。

 それからの二人の行動は素早かった。

 徐州軍の武器・資材調達兼土木官となっていた(よう)(けい)に命じ、「はろーわーく」こと「招賢館」の建築を始めさせる。

 勿論、施設が直ぐに出来上がる訳では無いので、暫くは今迄通りのやり方で人材を探していった。

 そして約一ヶ月後、遂に招賢館が完成した。

 木造二階建てのこの施設は、大まかに言うと一階が一般的な仕事を斡旋する場所、二階が軍の求人募集の場所になっている。

 一階には、涼が居た世界の様にパソコンで仕事を検索する等は出来ない為、街のあちこちで募集している仕事の内容を纏めて書いた竹簡を台の上に並べている。

 勿論、専門の人間を待機させて相談を受けたりアドバイスをしたりもしている。

 二階は基本的に複数の担当者を待機させて、希望者が来た場合は直ぐに面接を行っていく。

 そうして良い人材が見付かれば登用し、もし不合格だった場合には、一階で他の仕事を見つける様に促した。

 そうして、更に一ヶ月が過ぎていった。



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第十章 徐州の日々・2

「それじゃあ、次は人材についての報告をお願いします。」

 

 軍議室で各々からの報告を受けている桃香が次の報告者を指名し、その報告者――雪里がゆっくりと立ち上がる。

 雪里は手元に有る竹簡(ちくかん)を時々見ながら、ハッキリとした声で話し始めた。

 

「はい。私達が徐州に来て以来、軍の再編成及び新人の登用や育成を行って来ました。その甲斐あって徐州軍の兵数は七万を超え、それ等を率いる将や補佐する文官の数も順調に増えています。」

「ほう。これはやはり、招賢館が機能しているという事なのか?」

「はい。愛紗殿の仰る通り、招賢館が出来る前後で登用した人材の数が大きく違います。また、それに伴って労働者の殆どがきちんと仕事に就いている為、民の生活が安定し、結果的に治安も良くなっています。」

「お陰で鈴々(りんりん)は暇なのだ。」

「だが、俺達が暇なのは良い事だぞ。」

「それは解ってるのだ。けど、暇過ぎてお腹があんまり減らないのだ。」

「それで何であんなに食べられるのよ……。」

 

 鈴々の言葉に時雨(しぐれ)地和(ちいほう)がそれぞれ反応する。

 因みに、鈴々と時雨、地和の三人は徐州軍の部隊だけでなく、街の警邏(けいら)も担当している。それだけ人材が居なかったのだ。

 人材が増えてきた今は鈴々達が警邏をしなくても良いのだが、まだまだ安心出来ないのか、はたまた街のおじちゃんやおばちゃんがくれる点心が目当てなのか、鈴々は警邏を続けている。

 その為、必然的に時雨と地和も警邏を続ける事になった。

 

「……まあ、それは確かに良い事なのですが……。」

「何か問題が有るの?」

 

 桃香が訊ねると、雪里は頷きながら竹簡に目を落とし、話を再開した。

 

「確かに人材は集まりましたが、私は余り納得していません。」

「ふむ……何故だ?」

「将にしろ文官にしろ、最低限の能力を持った者ばかりで、飛びっきり優秀な人材は残念ながら未だ登用出来ていないからです。」

 

 雪里がそう言うと、愛紗を始めとした将や文官達は皆一様に表情を暗くした。

 どうやら、皆も同じ感想を抱いていた様だ。

 

「……まあ、こればっかりはどうしようも無いからなあ。」

「清宮殿の仰る事も解りますが、やはりもう少し優秀な人材が欲しいところです。」

「これから先の事を考えると、人材はどれだけ居ても多過ぎる事は無いですし、優秀なら尚良いですからね。」

 

 雫がそう言うと、やはり皆一様に頷いた。皆も同じく優秀な人材が欲しいのだ。

 

「涼義兄さん、何か良い方法って無いかなあ?」

 

 桃香は左隣に居る涼に訊ねる。すると涼は、難しい表情のまま髪を掻きながら答えた。

 

「有ったらとっくにやってるよ。まあ……敢えて言うなら、宣伝をする事かな。」

「宣伝?」

 

 涼の言葉に桃香はキョトンとしながら聞き返す。

 涼はそんな桃香と、涼に注目している愛紗達を見ながら説明を始めた。

 

「要するに、俺達が人材を求めているって事を徐州全体は勿論、豫州や青州(せいしゅう)といった他州に広めるんだ。そうすれば、他州に活躍の場が無い人材がこちらに流れて来る可能性が高くなる。」

「ですが、その様な人材はやはり余り優秀な人材では無いのでは? また、我々が人材を集めている事を他州の州牧達が知ったら、却って人材を穫られてしまうのではないですか?」

「確かに愛紗の言う通りだと思う。けど、徐州内の人材だけで足りないのなら、余所からも捜すしか無いよ。」

 

 涼のその言葉に愛紗は勿論、雪里達も頷くしか無かった。

 結局、人材確保については招賢館と他州からの来訪に頼るという方針に決まった。

 

 

 それから数日後、桃香と涼が居る執務室に雪里が訪れた。

 

「実は、少しお暇を戴きたいのですが。」

 

 雪里がそう話を切り出したので、桃香は涙目になりながら慌てて言った。

 

「わ、私、何か雪里ちゃんに酷い事したかな!? もししてたなら謝るから、どこにも行かないで〜っ‼」

「えっ? ……ああ、いえ、そうではなくてですね、人材を捜しに旅に出たいと思いまして、お暇を戴きたいと申しただけで……。」

 

 雪里が説明すると、桃香は自分の勘違いに気付き顔を真っ赤にした。

 涼はそんな桃香を見てから、雪里に訊ねる。

 

「捜しに行くって言うけど、当ては有るのかい?」

「はい、荊州(けいしゅう)隆中(りゅうちゅう)に私と同じ私塾に通っていた者が居ます。その者なら、必ずや桃香様や清宮殿のお役に立てる筈です。」

「けど、荊州ってかなり遠いよ? 何人くらい兵の皆さんを連れて行くつもりなの?」

「いえ、一人旅の予定ですが。だからお暇を貰いたいと申した訳ですし。」

「ええっ!?」

 

 あっけらかんと言った雪里に対し、桃香は大袈裟過ぎる程に驚いた。

 だが涼は比較的冷静に雪里の言葉を受け取り、向き直って再び訊ねる。

 

「まあ、桃香が驚くのも解るけど、雪里の事だから無事に戻って来れる自信が有るんだよな?」

「勿論です。お忘れかも知れませんが、私は皆さんと行動を共にする前は一人旅をしていたのですよ。」

「そ、それはそうだけど、雪里ちゃんは武将じゃなくて文官だし……。」

「御安心下さい。私とて身を護る術は心得ていますし、実際に人を斬った事も一度や二度ではありませんから。」

「そ、そうなんだ……。」

 

 またも衝撃的な事をサラッと言う雪里に、桃香は苦笑するしか出来ないでいる。

 だが涼はやはり比較的冷静に受け止めていた。勿論、「三国志」を知っているからの冷静さなのは間違いない。

 

「……解った、雪里の一人旅を許可しよう。」

「涼義兄さん!?」

「大丈夫だよ、桃香。雪里は無謀な事を言い出す様な()じゃない。ちゃんと無事に帰って来るよ。」

「涼義兄さんがそう言うなら……。けど雪里ちゃん、幾ら慣れていても絶対に無茶しちゃダメですからね!」

「はい、肝に命じておきます。」

 

 涼と桃香の許可を貰った雪里は、恭しく平伏してから退室し、旅支度をしに自室へと戻っていった。

 そして翌日の早朝、雪里は涼達に挨拶をしてから荊州へと旅立った。

 真面目な彼女らしく、前日迄に残っていた仕事は全て片付けていた。

 一時的とは言え筆頭軍師が居ないので、その間は副軍師の雫が筆頭軍師代理となり、政務や招賢館に来る人材の面接を取り仕切った。

 

 

 そんなある日、招賢館に二人の少女が訪れてきた。

 

「暫く離れている内に、色々と変わっているみたいね。」

「そうね。そもそも、州牧からして違うし……。」

「まあ、善政を行ってくれるのなら、誰が州牧でも構わないけど。」

「フフ……貴女らしいわね。」

 

 その二人の少女は、招賢館の待合室の椅子に座りながら談笑をしている。

 前の人の面接が未だ終わらない為、空いた時間を使って喋っている様だ。

 そうしてると、面接を受けていた人物が面接室から出て来た。

 溜息を吐いている事から察するに、芳しくない結果だったらしい。

 

「それでは次の方、どうぞ。」

 

 その面接室から一人の女性が出て来て、次に面接を受ける者を呼んだ。

 

「あの、私達姉妹なんで出来れば一緒に面接して頂けないでしょうか?」

「……通常は一人ずつ面接をしているのですが……少々お待ち下さい、面接官に伺ってきます。」

 

 女性はそう言って面接室に戻り、それから一分もしない内に戻ってきた。

 

「二人でも大丈夫だそうです。どうぞ中へ。」

 

 女性がそう言うと、二人の少女はゆっくりと面接室に入っていく。

 中には面接官の雫が一人座って待っていた。

 

「どうぞお掛け下さい。」

 

 雫が目の前に在る二つの椅子に手を向けながらそう言うと、二人の少女は一礼してから着席した。

 

「では、先ずはお二人の名前と出身地をお聞かせ下さい。」

「はい。私の名前は糜竺(びじく)、字は子仲(しちゅう)東海郡(とうかい・ぐん)の出身です。」

「自分の名前は糜芳(びほう)、字は子方(しほう)。姉である糜竺と同じく、東海郡の生まれです。」

「糜竺さんに糜芳さんですね。……あれ、ひょっとしたらお二人は、前徐州牧の陶謙殿に仕えていた糜姉妹ですか?」

 

 雫が面接用の竹簡に二人の名前を書いていると、途中で何かに気付いたらしく、二人の少女――糜竺と糜芳に尋ねた。

 すると、姉である糜竺が居住まいを正しながら答えた。

 

「はい、確かに私達は以前陶謙殿にお仕えしておりました。」

「やはりですか。……以前、陶謙殿が仰っていました。『糜姉妹が残って居れば、劉備殿もきっと喜ばれた事でしょう。それだけあの姉妹は優秀でしたから。』と。」

「勿体無いお言葉です。」

 

 雫の言葉を聞いた糜竺は恭しく平伏した。

 まるで目の前に陶謙が居るかの様だ。

 

「確か、黄巾党征伐後に軍を辞めて旅に出たと聞きましたが、何故また徐州軍に?」

「元々、ある程度見聞を得る事が出来たら戻るつもりでした。勿論、一度軍を辞めている訳ですから、一からやり直す覚悟は出来ています。」

 

 雫が尋ねると、糜竺は真っ直ぐに雫を見つめながら、淀みの無い口調でそう言い切った。

 次に雫は、糜芳の考えを知る為に向き直って尋ねてみた。

 

「成程……姉君はこう仰っていますが、糜芳さんはどう思っているのですか?」

「個人的には、元徐州軍の一員だったって事で、また一武将として用いて貰いたいんですが……。」

「私達は一度軍から離れた身なのですよ。それを忘れてまた武将として取り立てて貰う等、厚かましいにも程があります。」

「……と言っている姉の意見は(もっと)もだと思うので、自分も姉と同じで良いです。」

 

 糜芳は苦笑しながらそう答えると、頬をポリポリと掻き始めた。

 雫はそんな糜芳と糜竺を見比べながら考えを巡らす。

 

(……対照的な姉妹ですね。個人的には糜竺さんだけを採用したい気もしますが……今は一人でも多くの人材が欲しい時。贅沢は言っていられませんね。)

 

 結局、雫は糜竺と糜芳を二人共採用した。

 

 

 糜竺と糜芳が徐州軍に採用された翌日、招賢館に新たな人材が現れた。

 

「……陳珪(ちんけい)さんに陳登(ちんとう)さんですか。」

 

 雫は、目の前に居る妙齢の女性――陳珪から受け取った書簡を見ながら、確認する様に呟く。

 

「はい。私達は以前陶謙殿にお仕えしておりましたが、私は病気になったので療養の為に、この娘は私の看病の為にそれぞれ軍を辞めたのです。」

「成程……。それがこうして招賢館に来られたという事は、お身体の方は心配無いと考えて良いのですね?」

「はい。私は復調する迄長く掛かると思っていたのですが、華佗(かだ)という旅の医者に診て貰ったところ、直ぐに良くなりました。」

「へえ……それ程の名医ならば、我が軍で取り立てたいですね。」

 

 陳珪の話を聞いて興味を持った雫は何気なく、だが本気でそう思った。

 名医が一人でも多く居れば、君主や将兵の病気や怪我の治療は勿論、街で流行り病が起きた時に、いち早く対処出来るからだ。

 

「そうですね。……ですが恐らく、登用する事は出来ないでしょうね。」

「何故です?」

「あの医者は、出来るだけ沢山の患者を助ける為に旅をしていると仰っていましたから、一ヶ所に留まる様な事はしないと思いますよ。」

 

 陳珪がそう言うと、雫は残念そうな顔をしながら諦めた。

 話を聞く限り、華佗は是非とも欲しい人材だが、だからといって無理矢理登用する訳にはいかない。

 世の中には無理矢理登用する者も居るが、雫は勿論ながら桃香や涼もそんな事はしない人間だ。

 

「それなら仕方有りませんね。……話を戻しますが、お二人は一度辞めていますから、役職についてはこちらで決めて構いませんか?」

「勿論です。丁度良い機会ですから、これを機に心機一転頑張っていきたいと思ってます。」

「解りました。陳登さんも宜しいですか?」

 

 確認の為、陳珪の隣に立つ陳登に話し掛ける雫。

 

「はい、私も母上と同じ気持ちです。」

「成程、よく解りました。では、お二人共採用しますので、明日改めて登城して下さい。」

「はい。」

「親子共々、宜しくお願いします。では……。」

 

 陳珪と陳登の親子はそう言ってから一礼し、面接室を出て行った。

 それから暫くは面接者が来る予定が無い為、雫は案内役の人に休憩をとらせ、一人思案に暮れた。

 

(少しずつですが、人材が集まってきましたね。……けど、未だ足りない……。)

 

 徐州軍の人材不足は、完全には解決していなかった。



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第十章 徐州の日々・3

 更に数日後、徐州の城下町を鈴々、時雨、そして地和の三人が歩いていた。

 勿論、只歩いている訳では無く、街の警邏中である。

 

「今日の点心も美味しいのだ!」

「……お前は警邏と食べ歩き、どっちをしているんだ?」

「両方なのだ!」

「……頼むから、そんなに元気良く言い切らないでよね……。」

 

 溜息を吐く時雨と地和の気も知らず、鈴々は袋一杯に点心が入った袋を左手に抱えながら、パクパクと点心を食べ続けている。

 因みに、時雨と地和の二人は何も食べていない。三人は食べ歩きをしているのではなく警邏をしているのだから、三人共何かを食べていたら警邏中という説得力に欠けるからだ。

 

「まったく……何度も言うけど、ちぃ達がしっかりしないとダメね。」

「そうだな……。って、口調や態度が素に戻っているぞ、“地香(ちか)”。」

「あっ……と、いけないいけない。」

 

 時雨に小声で指摘され、「地和」は慌てて口調や態度を「地香」に直す。

 生きる為に「張宝(ちょうほう)」という本来の名前や性格を封印した地和は、「劉燕(りゅうえん)」という新たな名前や性格を演じている。

 だが、時々今の様に素に戻ってしまうので、その際は周りからフォローされている。

 地和自身、いつまでもそんなんじゃいけないと解っているので頑張ってはいるのだが、如何せん他人になりきるなんてそう簡単に出来る訳では無い。

 とは言え、公務や部隊を指揮している時は殆ど素に戻っていない。素になるのは地和の素性を知っている仲間だけで居る時や、自室に一人で居る時が多い。

 そう考えると、余り深く考えなくても良い気もする。

 今もまた、そんな風に思っていたのだが、その思考は突然の言葉によって遮られた。

 

「……地香、気を付けるのだ。」

「きゅ、急にどうしたのよ、鈴々?」

 

 それ迄ののんびりした雰囲気から一変し、鈴々の表情や声は真剣なものに変わっていた。

 

「さっきから誰か附けて来てるのだ。」

「えっ!?」

 

 思わず振り返って確認しようとした地和だったが、右側に居る時雨が地和と肩を組んでそれを遮る。

 

「馬鹿、振り向いたら感付かれる。落ち着いて前を向いたまま、歩調を変えずに歩け。」

「う、うん……。」

 

 時雨に言われた通り、前に向き直って歩く地和。

 附けられている、と鈴々が言い、先程の台詞から察すると恐らく時雨も気付いていた様だ。

 だが、地和はその何者かの尾行に全く気付いていなかった。

 

(ちぃは全然気付かなかった……そりゃ、ちぃは元々武将じゃないから、気付かなくて当然なのかも知れないけど……。)

 

 地和は表情を崩さずに、心の中だけで悔やんでいた。

 黄巾党(こうきんとう)では大部隊を率いていたとは言え、兵を鼓舞するくらいしかしておらず、実質的には単なるお飾りでしかなかった。

 歌を唄いながら旅をしていた三姉妹が、とある事情から人気を博し、ファンの集まりがいつしか黄巾党になった。

 単なる「ファン」の集まりが、何故「暴徒」になったのか、地和には心当たりが有った。と言うより、他に思いつかなかった。

 「それ」が有ったから自分達の歌が認められ、あれだけの人が集まった。

 だから、「それ」が無ければ、自分達に人を集める程の魅力も才能も無い。

 地和はそう思っていた。

 

(ひょっとしたら、お姉ちゃんや人和(れんほう)には有ったのかも知れないけど……ちぃには……。)

 

 考えれば考える程、地和の心は沈んでいく。

 だから、自分が曲がり角を右に曲がった事すらも気付かなかった。

 勿論、鈴々と時雨も一緒に曲がっており、尾行している何者かから、少しの間姿を消す事に成功する。

 結果、鈴々達を尾行している何者かは焦って歩を速めた。

 

(ちょ、ちょっと待って!)

 

 前方に居た三人が曲がり角を右に曲がった為、「追跡者」は慌てて駆け出した。

 とは言え、元々はこんな尾行みたいな真似をするつもりは無かったらしい。

 だが、擦れ違った人物に思わず見とれ、自然とその人物の後を附いていっていた。

 自分でも変だとは思っている。こんな気持ちになったのは、「あの方」に初めて会った時以来だ、と。

 だが、「あの方」はもう居ない。戦いに敗れ、死んだと聞いている。

 だからだろうか、「追跡者」が「あの方」と似た雰囲気を持つ「彼女」の後を附いていったのは。

 

「ちょっと話を……あれ?」

 

 曲がり角を曲がった「追跡者」は思わずキョトンとした。

 何故なら、「彼女」達が曲がった筈の道には誰一人として居なかったから。

 「追跡者」は怪訝な表情をしながら辺りを見回し、ゆっくりと前に進む。

 その時、「追跡者」目掛けて物陰から大剣が飛び出てきた。

 

「わっ!?」

 

 何とか避けるも、今度は反対側の物陰から矛が同じ様に飛び出てきた。

 

「ひゃっ!?」

 

 連続して攻撃され、「追跡者」はバランスを崩し、地面に倒れる。

 そんな「追跡者」の首筋に、大剣と矛の刃先があてがわれた。

 

「俺達に何の用だ?」

「コソコソするなんて、怪しい女の子なのだ。」

 

 大剣の持ち主である時雨と、矛の持ち主である鈴々が、「追跡者」に武器を突きつけ、睨みながらそう言った。

 鈴々が言った通り、「追跡者」は女の子だった。しかも、鈴々より少し年上くらいの外見をした女の子だった。

 

「……。」

 

 「追跡者」こと女の子は、二人を交互に見ながら黙っている。

 刃を向けられて怯えているのか、若干震えている様にも見える。黙っているのは、恐怖によるものかも知れない。

 

「……二人共、殺しちゃダメよ。私達に附いてきた訳を訊かないといけないんだから。」

「解っています、劉燕様。」

「鈴々達に任せるのだっ。」

 

 時雨が隠れていた場所から、ゆっくりと地和が現れ、毅然とした口調でそう言った。

 地和の言葉遣いは「張宝」ではなく「劉燕」を演じている為であり、時雨と鈴々もそれに合わせて対応していた。

 劉燕は劉備の従姉妹である為、必然的に劉燕である地和の立場も高くなっている。

 つまり、立場で言えば劉燕=地和は鈴々と時雨の上官になる。

 尤も、それは外交等の対外的な立場でという側面が大きく、軍では二人より下の立場になっていた。

 そんな複雑な立場の劉燕――地和は、鈴々達に武器を向けられている女の子を見据えた。

 

「私達に附いてきた理由を話してくれない? その理由によっては、このまま貴女を解放するわよ。」

「……。」

 

 女の子はやはり黙ったままだった。只、震えはいつの間にか消え、視線は地和に固定されていた。

 そんな女の子を見据えてると、地和は或る事に気付いた。

 女の子の右手首に、懐かしい巻き方をした布が巻かれていたのだ。

 

「貴女……。」

「……お前、黄巾党か?」

 

 その布や巻き方について地和が訊ねようとすると、先に時雨が訊ねた。

 しかも、地和が訊ねようとした内容より直接的な文言で。

 

「……元、ね。黄巾党はもう無くなったんだし、私はもう悪い事はしてないわよ。」

 

 それ迄黙っていた女の子が、時雨を睨み付けながら口を開いた。

 それを聞いた時雨は、一瞬だけ視線を地和に向けてから再び女の子を睨み付けながら言葉を紡ぐ。

 

「なら何でそんな黄色い布を巻いている? 黄色い布は黄巾党を指すから、今でも身に付ける者は少ないぞ。」

 

 時雨の言う通り、黄色い布を身に付けている為に黄巾党に間違われ、捕まった者は少なくない。

 徐州では居ないが、他州ではその為に殺された者も居るという。

 冤罪で殺されては堪らないので、今では民の衣服に黄色い布は殆ど使われなくなっている。

 この女の子がそれを知らないとは考え難く、知っていて尚黄色い布を身に付けているのは、未だ黄巾党として悪事を働いているのではないかと、時雨は考えた。

 

「そんな事は百も承知してるわ。けど……。」

「けど、なんなのだ?」

 

 鈴々が話を促すと、女の子は俯きながら声を絞り出した。

 

「……天和(てんほう)ちゃんも人和ちゃんも、そして地和ちゃんも居ない今、私一人くらいあの方達を想って黄色い布を巻いていても良いでしょ? 私にとって張三姉妹は、命を救ってくれた恩人なんだから……。」

「恩人?」

 

 時雨が気になった言葉を繰り返す様に呟くと、女の子は俯いたまま話し始めた。

 

「……漢王朝が腐敗していた為に、私が住んでいた(むら)は重税を課せられ、その日食べる物にすら困っていたわ。けど、そんな窮状から助けてくれたのが、張三姉妹率いる黄巾党だったの。」

「黄巾党がお前の村を助けただと!?」

 

 時雨は驚いて聞き返した。

 彼女にとっての黄巾党は倒すべき敵だったのだから、この反応は当然だろう。

 

「おかしい? 元々黄巾党は、腐敗した漢王朝から民を救う為に出来た組織なんだから、私達を助けてもおかしくは無い筈よ。」

「それはそうだが……。」

 

 確かに、女の子が言う様に黄巾党は元々義によって作られた組織だった。

 

「蒼天已死 黄天富立 歳在甲子 天下大吉」

 

 これは、黄巾党が使っていた旗に記されていた文字であり、また、彼等のスローガンであった。

 訳すれば、「蒼天(そうてん)(すで)に死す、黄天(こうてん)富に立つべし。歳は甲子にありて、天下大吉。」となる。

 「蒼天」は漢王朝を指し、「黄天」は黄巾党を指していると思われる。「甲子(きのえね、こうし、かっし)」とは干支の組み合わせの一番目であり、その年に黄巾党が天下を治めるという意味合いになる。

 この文は陰陽五行思想に基づいており、その思想の「木火土金水」の順に当てはめると黄色は「土」を表し、「火」の王朝である漢王朝に代わるという意味が有り、先の文とも符号している。

 只、それだと「蒼天」が漢王朝を指すのは合わない気がするが、理由を知っている地和からすれば何の問題も無かった。

 

(“赤天”より“蒼天”の方が言い易いし格好良いから、なんて誰も思わないわよね……。)

 

 地和は、スローガンを決める時にそう言った姉の姿と声を頭の中で再生した。

 その姉の隣には、苦笑する末妹の姿も在る。

 だが、二人共もうこの世に居ない。

 その事実を初めて知った時、涼の胸で散々泣き尽くした。

 それからも、二人の事を忘れた事は一度も無いし、忘れるつもりも無い。

 だが、今の地和は「張宝」ではなく「劉燕」だから悲しむ訳にはいかない。

 地和は泣きそうになるのを堪えて、言葉を紡いだ。

 

「……話を続けて。」

「あ、はい。……そんな時でした。邑を含めた辺り一帯を統治していた官軍が黄巾党に討たれ、その黄巾党が邑に食料を分け与えてくれたのは。」

(あっ……。)

 

 それを聞いた地和の脳裏に、一つの光景が映し出される。

 あれは未だ黄巾党が逆賊ではなく、義勇軍の様に扱われていた時だった。

 末妹である人和――張梁(ちょうりょう)から、近くの邑や街が飢えに苦しんでいるらしいと聞いた長姉であり黄巾党の首領、天和――張角(ちょうかく)は直ぐ様行動を開始した。

 すると、呆気ないくらいに官軍は敗れ、彼等が違法裏に貯め込んでいた沢山の食糧を手に入れた。

 すると張角は、そこから黄巾党の分を差し引いた食糧の残り全てを、辺りの邑や街に配っていった。

 

「……そのお陰で、私達は誰一人として飢える事無く過ごせました。私は、その恩に報いる為に黄巾党の一員になったんです。」

 

 女の子の話はそこで終わった。

 地和は女の子の眼をジッと見た。

 栗色の髪とお揃いの色の眼は、黄巾党で「悪い事」をしていたとは思えない程澄んでいて、今迄の話が嘘でない事を物語っている。

 何より、彼女は正体を知らないとはいえ張飛(ちょうひ)田豫(でんよ)の二人に武器を突きつけられた状態で嘘を言える程、この女の子の肝が座っているとは思えない。

 先程の時雨に対する強気な弁は、嘘偽りが無いと自負しているからだろう。

 

「……貴女、名前は?」

 

 「劉燕」らしく厳かな口調で地和が訊ねる。

 

「……廖淳(りょうじゅん)、字は元倹(げんけん)。」

 

 女の子もまた、地和の眼を見ながら廖淳と名乗った。

 地和はその名前を、記憶している黄巾党の人間の名前に当てはめる。

 黄巾党は殆どが男性で構成されていたので、廖淳の様な女性は少なかった。だから、地和の脳内検索の結果は直ぐに出た。

 

「では廖淳、詳しい話を訊く為に貴女を連行するわ。一応言っておくが、逃げようとしたら命は無いと思いなさい。」

 

 地和は、黄巾党第二部隊に居た廖淳を連れていく事にした。



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第十章 徐州の日々・4

「元・黄巾党の女の子?」

「ええ、以前ちぃの部隊に所属していた娘よ。」

 

 城の執務室で、先程連れてきた女の子――廖淳について涼に報告する地和。

 室内に居るのは地和の事を知っている者だけなので、地和は「劉燕」ではなく「張宝」の口調で喋っていた。

 

「その者は強いのか?」

「うーん……どうだったかしら? 目立った戦功が有るならちぃの所に報告に来てただろうけど、覚えが無いわね。」

「単に忘れてるだけじゃないのかー?」

 

 愛紗の質問に記憶を探りながら答えると、鈴々がケラケラ笑いながら言った。

 

「それは無いわね。黄巾党に居たのは殆どが男性だったから、女性が戦功の報告に来てたら記憶に残ってるわよ。」

「実力は未知数……か。如何致します、桃香様?」

 

 暫しの思案の後、結論を桃香に託す愛紗。

 託された桃香は、常の笑顔で皆を見ながら答えた。

 

「今は少しでも人材が欲しい時だし、地和ちゃんが薦めてくれたんだもの、断る理由は無いよ。勿論、本人の意思次第だけどね。」

「……解りました。では地和、廖淳の勧誘についてはお前に一任する。頼んだぞ。」

「まっかせといて♪ じゃあ、早速行ってくるねー♪」

 

 涼が教えたピースサインをしながら、笑顔で執務室を出て行く地和。

 執務室を出た瞬間に表情が「劉燕」になって瞬時に公私の切り替えをしたのは、流石としか言い様がない。

 

「……納得出来ないって顔だね、愛紗ちゃん。」

 

 地和が出て行ってから暫くして、桃香はそう言った。

 愛紗は直ぐに応えなかったが、やがてゆっくりと振り返り、険しい表情のまま言葉を紡いだ。

 

「個人的な事を言わせて頂けるならば……私は廖淳の勧誘に反対です。」

「元とは言え、黄巾党の一員だったから?」

「はい。」

 

 桃香の質問に、即座に答える愛紗。その口調には迷いも澱みも無い。

 

「けど、それを言ったら地和ちゃんだってそうだよ? しかも指揮官だったし。」

「地和については、義兄上(あにうえ)が保護すると決められたので、私から言う事はありません。」

(……確かに、愛紗はあの時も反対してたなあ。)

 

 地和は黄巾党の中心人物の一人であり、匿ったのがバレたら涼達も逆賊として処断されていただろう。

 だからこそ、愛紗を始めとした当時の義勇軍の武将や軍師達は保護に反対していたのだが、涼の意志が固いと知ると諦め、「張宝」を「劉燕」にするという手段をとったのだ。

 

「ですが、地和はあれから自分自身を押し殺して生きています。我々と一緒の時だけは素に戻りますが、それがどれだけ大変な事か……。そこに新たに元・黄巾党の人間である廖淳が加わって、地和の正体がバレないとも限りませぬ。また、廖淳自身にもその出自によって周りから疎まれる危険性が……。」

 

 と、愛紗が反対理由を述べていると、桃香がクスクスと笑い出した。

 

「……桃香様、私が真剣に話しているのに何故笑われるのですか?」

「ご、ごめんなさい愛紗ちゃん。でも、それだけ可笑しいんだもの。」

「何が可笑しいのですか?」

 

 不謹慎な、と思いながら愛紗が桃香に訊ねると、桃香は笑い声こそ押し殺すも笑顔を保ったまま言葉を紡いだ。

 

「だって愛紗ちゃん、何だかんだ言っても、地和ちゃんと廖淳ちゃんの事心配してるんだもの。」

「なっ!?」

 

 桃香がそう言うと、愛紗は途端に顔を紅くして口ごもる。

 それを見ていた涼も笑いを堪えながら言葉を紡いだ。

 

「俺も、愛紗は元・黄巾党の人間が入る事による軍の風評より、彼女達個人に対する風評を気にしている様に見えたな。」

「そ、それは……。」

 

 反論出来ないのか、愛紗は俯いてしまった。

 暫くの間その状態が続いたが、やがて意を決した様に愛紗が顔を上げると、顔を真っ赤にして言った。

 

「そうですよ! 義兄上達の仰る通りですっ‼ 私が彼女達の心配をして悪いのですかっ!?」

「逆ギレ!?」

 

 愛紗の剣幕に涼は思わずそう突っ込むが、逆ギレというには余りにも可愛らしい怒り方だった。

 

「悪くないと思うよー。愛紗ちゃんって、いつも厳しい事言うけど本当はすっごく優しいもん。」

「〜〜〜〜っ!」

「……あんまりフォローになってない気がするぞ、桃香。」

 

 変わらずのニコニコ顔でそう言葉を紡ぐ桃香に、愛紗は顔を更に真っ赤にして言葉すら出せなくなった。

 義妹(いもうと)二人のやりとりに、涼は苦笑しながらそう言ったが、桃香達はフォローの意味が解らないのでポカンとしている。

 涼がフォローの意味を二人に教えると、桃香達は納得と尊敬の眼差しと声をあげた。

 それから、コホンと咳払いをした愛紗が相変わらず顔を赤らめたまま二人に忠告する。

 

「と、兎に角、義姉上(あねうえ)達は徐州の州牧になられたのですから、もう少し危機感を持って物事に接して下さい!」

「はーいっ。」

「りょーかい♪」

 

 危機感の欠片(かけら)も無い返事をする二人であった。

 

 

 

 

 

「私を、徐州軍にですか?」

 

 一方その頃、下邳城の一室に連れて来られた廖淳は、椅子に座ったまま間の抜けた声でそう言った。

 

「ええ。桃香……劉備様と清宮様の許可は得たから、後は貴女の意思次第ね。」

 

 そう言ったのは、廖淳と机を挟んで対面している地和。

 因みにこの部屋には他に鈴々と時雨も居り、地和と鈴々が来る迄は時雨が廖淳と話していた。

 つまりは「取り調べ」をしていた訳だ。

 だからこそ廖淳の反応は当然だ。今迄「敵」扱いしていた人間を勧誘する等、普通は考えられない。

 しかも廖淳は元とは言え黄巾党の一員だ。疎まれるのが普通であり、味方に引き入れて得が有るとは思えなかった。

 

「本気、ですか?」

「本気よ。ああ、劉備様も清宮様も出自は問わない方だから、黄巾党の一員だった事は気にしないで良いわよ。」

「はあ……。」

 

 そう言われても、廖淳は簡単には信じられなかった。

 今迄経験した事を考えれば、何か裏があるのではと思い、思案する為に視線を下げた。

 そんな廖淳の視界に、良く見知った物が映る。

 

「それって……。」

 

 廖淳は、地和の右手首に巻かれている黄色い布を見ながら、机越しに立っている地和を見つめた。

 

「私も、貴女と同じで元は黄巾党の一員だったの。」

 

 さっきは巻いていなかった黄色い布を見ながら、地和はそう言って笑みを浮かべ、ゆっくりと座る。

 当然ながら、地和は「劉燕」になって以来、黄巾党時代の服は着ていない。

 今着ている服は、桃香が着ている服を基にして地和なりにアレンジしたもの。

 何故桃香の服を基にしたかというと、劉燕は桃香――劉備の従姉妹なので、服も似た服にした方が良いという桃香の提案によるものだ。

 桃香の服は長袖にフリル付きスカートだが、地和はそれを肩出しヘソ出しルックにし、プリーツスカートの上に白い布を巻いている。

 服の基調となる色は白と薄緑で、スカートは本来の髪の色である水色にした。

 本来の髪の色と言う様に、今の地和の髪は茶色に染めており、髪型もサイドテールからストレートに変えていた。

 黄色は服にも装飾にも使っていないが、実は一人の時には今みたいに黄色い布を巻いていたりする。

 それは、別に黄巾党に未練が有るからという訳ではなく、単に黄色が好きな色であり、亡き姉と妹を忘れない為の行為だった。

 

「そんな私でも、ここでは将として認められてる。だから、貴女も心配しなくて良いわよ。」

 

 地和が廖淳を見つめながら優しい口調でそう言うと、廖淳は目を離せずに只地和を見つめるしか出来なかった。

 

「……地和ちゃん…………。」

 

 暫くして廖淳が口にしたのは、劉燕になっている張宝の本当の真名(まな)だった。

 それを聞いた鈴々と時雨は、表情は変わらぬものの内心で驚いていた。

 二人は、劉燕の正体がバレたのかと焦り、また、地和が動揺していないかと思い、それとなく彼女を見る。

 だが、その地和は、

 

「……地和ちゃんと離れ離れにした事、許してね。」

 

と、返していた。

 その言葉に一番驚いたのは廖淳だった。

 目の前に居る「劉燕」という少女が元は黄巾党の一員だと言われて、思わず口に出た言葉が「地和ちゃん」だった。

 劉燕の姿は、廖淳が知る地和とは全く違う。だが、瞳は地和と同じ碧眼だ。

 勿論、碧眼の持ち主は他にも沢山居る。有名な人物としては、黄巾党の乱や十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)で活躍した孫堅(そんけん)とその娘の孫策(そんさく)が居るし、噂では孫策の二人の妹もそうらしい。

 だから、目の前の「劉燕」が「張宝」と似た瞳をしているからといって、同一人物とは限らない。

 それでも、劉燕の笑顔は限り無く張宝――地和ちゃんとそっくりだと、廖淳は思った。

 

「いえ……地和ちゃんは黄巾党の中心人物の一人でしたから……貴女方に非は有りません。」

「……有難う。」

 

 廖淳が俯きながらそう言うと、地和は複雑な表情をしながらも廖淳の髪を撫でる。

 

「え……。」

「悲しい事を思い出させてゴメン。黄巾党と戦った私達と居たら、もっと貴女を悲しませちゃうわね。」

 

 そう言いながら、今度は廖淳の頬を親指で撫でる地和。

 廖淳の眼からはいつの間にか涙が流れ落ちており、地和はそれを拭っていた。

 それに気付いた廖淳は慌てて自らも涙を拭う。

 

「……これ以上、貴女を悲しませるつもりは無いわ。さっきも言ったけど、うちの州牧様は出自を気にしないし、貴女は悪い事をするつもりが無いみたいだからこのまま帰れるわ。落ち着いたら、この二人に門迄送らせるわね。」

 

 そう言って地和は立ち上がり、扉へと向かう。

 そうして扉を開けようと手を掛けた時、後ろからガタッという音と共に廖淳の声が聞こえてきた。

 

「あ、あの……っ! ……私を徐州軍に入れて下さいっ‼」

 

 地和が振り返ると、そこには再び涙を流しながらも、しっかりと地和を見つめる廖淳の姿があった。

 地和は姿勢を正してから、廖淳に訊ねる。

 

「……良いの? さっきも言ったけど、貴女を疎んじる者が居るかも知れないわよ? ……まあ、私みたいに出自を劉備様達だけに打ち明ける様にすれば、大丈夫だとは思うけど……。」

「やっぱり、劉燕様も隠されているんですね。」

「ええ。劉備様達が、その方が私の為だって仰って下さったから。」

 

 実際には少し違うのだが、それを話す訳にはいかないので話を合わせる地和。

 

「桃香達が気にしなくても、兵達は気にするかも知れないしな。」

「隠し事するのは気が引けるかも知れないけど、皆で仲良くするには仕方ないのだ。」

 

 そこに、それ迄沈黙していた時雨と鈴々が、地和をフォローする様に言葉を紡いでいく。

 彼女達が何度も言う様に、黄巾党に居たという事でトラブルになる危険性は否定出来ない。

 幾ら桃香や涼が出自を問わないと言っても、兵の中には家族や友人を黄巾党に殺された者も居る。

 だからこそ、出自を隠すのはトラブルを避ける為に必要なのだ。

 もっとも、桃香も涼も、いつまでもそれで良いとは思っていないが。

 

「……それは解ります。だから私も、皆さんに迷惑を掛けるつもりは有りません。」

「……つまり、貴女も出自を隠すという事ね?」

「はい。」

「……出自を隠しても、貴女の想像以上の事が有るかも知れないわよ?」

「解っています。」

 

 廖淳は、確認する地和を真っ直ぐ見つめながら答える。

 その眼に迷いは無く、真水の様に澄みきっていた。

 

「……どうやら、本当に覚悟したみたいね。なら、私達は貴女を歓迎するわ。」

 

 地和はそう言いながら右手を差し出し、言葉を紡ぐ。

 

「私の名前は劉燕、字は徳然(とくぜん)、真名は地香よ。これから宜しくね、廖淳。」

「ふむ、地香が真名を預けたのなら俺も預けよう。俺の名前は田豫、字は国譲(こくじょう)、真名は時雨だ。宜しく頼む。」

「鈴々の名前は張飛、字は翼徳(よくとく)、真名は鈴々なのだ。宜しくなのだっ。」

 

 地和が自己紹介をすると、時雨と鈴々もそれに続いた。

 三人が自己紹介でいきなり真名を預けてきた事に、廖淳は驚きを隠せないでいた。

 

「わ、私なんかに真名を預けて頂けるなんて……。」

「仲間なんだから、当然でしょ?」

 

 地和が微笑みながらそう言うと、廖淳はそんな地和の右手を両手で包みながら、自己紹介の言葉を紡ぐ。

 

「姓は“廖”、名は“淳”、字は“元倹”、真名は“飛陽(ひよう)”です!」

 

 こうして、廖淳は徐州軍の一員となった。



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第十章 徐州の日々・5

 そうして廖淳が徐州軍の一員になった頃、招賢館に一人の少女が現れた。

 少女は笑顔のまま軽く会釈すると、懐から一通の手紙を取り出した。

 少女はその手紙を雫に手渡すと後ろに一歩下がり、雫は受け取った手紙を見ながら少女に訊ねた。

 

「これは……紹介状ですか?」

「はい。それは前徐州牧、陶謙様からの紹介状です。」

 

 陶謙の名前が出たので、雫はその手紙を隅々迄読んだ。

 そこには、鄭玄(ていげん)という学者が一人の文官を推挙してきたのだが、自分の所より劉備の所に居た方がその文官にも劉備にも良いと判断し、こちらに寄越したと書かれていた。

 

「……成程、解りました。陶謙様の紹介となれば安心して採用出来ます。」

「有難うございます。」

「ですが一応、改めて自己紹介をして貰いましょうか。ここは本来、面接する場ですからね。」

 

 雫がそう言うと、少女は先程と変わらぬ笑顔のまま自己紹介を始めた。

 

「解りました。私の名前は孫乾(そんかん)、字は公祐(こうゆう)と申します。」

「紹介状には文官と書かれていましたが、どういった分野が得意ですか?」

「どういった分野というより、文官の仕事、つまり政治全般に通じていると自負しています。」

 

 笑顔のままそう断言した少女――孫乾を見ながら、雫は再び訊ねる。

 

「……随分と自身の才能に自信が有る様ですね。」

「自分に自信を持たずに生きていける程、今の世は優しく有りませんからね。勿論、自身の力を過信する気はありませんよ。」

 

 やはり変わらず笑顔のまま喋る孫乾は、放っておいたら鼻歌を歌いそうなくらい明るい表情だった。

 雫は、そんな孫乾を見ても不思議と嫌悪感を抱かなかった。

 雫は本来、自分の才能を過剰にひけらかす人物は余り好きではない。

 自身が余り積極的な性格でない事もあって、そうした人物とは出来るだけ関わりたくないと思っている。

 勿論、だからといって他人の才能や実績を認めないという事はない。

 雫が本当に嫌いな人間は、才能が有るのに何もしない怠惰な人間だ。

 実際、単なる怠惰な人間より、才能が有るのに怠惰な人間の方が質が悪い。

 何故なら、単なる怠惰な人間は何も成せないので有る意味諦めがつくが、才能が有るのに怠惰な人間は、何かを成せるのに何もしないのだから。

 勿論これは極論ではあるが、雫としてはそんな人間は登用したくない。

 そして幸いにも、目の前に居る孫乾はそんな人物ではなかった。

 勿論、雫は孫乾について、紹介状の記述と今の会話でしか知らない。初対面なのだから当然だ。

 それなのに、雫は何故か目の前に居る少女を信頼していた。

 何故かはよく解らない。只の勘、としか言い様が無い。

 軍師が勘に頼るのはどうかと雫も思うが、たまには良いかとも思っていた。

 

「……解りました。紹介状はちゃんとしてますし、何より貴女の自信の持ちようが良い。徐州軍はそんな貴女を歓迎します。」

「有難うございます。……ですが、一つ良いですか?」

「なんですか?」

 

 任命の木簡(もっかん)を渡しながら、配属先の希望かと思いつつ、雫は応える。

 結果的に、孫乾の言葉は、ある意味で配属先に関わる事だった。

 

「私は今回文官として紹介されましたが、少しは武官としても働けます。どうかその事を心に留め置いて下さい。」

「成程、武官としても働けるのですか。解りました、しっかりと覚えておきましょう。」

「お願いします。」

 

 雫の答えを聞いた孫乾は、一礼してから面接室を出て行った。

 一人残った雫は天井を見ながら呟く。

 

「これは……良い人材がやってきたみたいだよ、桃香ちゃん。」

 

 そんな雫の表情は、子供の様に無邪気な笑顔だった。

 この様に、着々と戦力を増強していく徐州軍だったが、愛紗や鈴々の様な強者は中々現れなかった。

 まあ、あの二人と肩を並べられる様な武将がそうそう居る訳も無く、勿論涼達もそれは解っているのだが、それでも無い物ねだりをしてしまうのだった。

 そんなある日、招賢館に一人の人物が訪ねてきた。

 

「まさか貴女が此処に来るとは思っていませんでした。」

 

 雫は、目の前に立っている人物を見ながらそう言った。

 雪里は未だ旅から帰っておらず、招賢館の責任者は引き続き雫が担っている。

 

「そうか? 噂の州牧様の治世がどうなっているか気になるのは、至極当然であろう?」

 

 雫と話しているその人物は、朱い瞳を細め、口許を不敵に緩めながら言葉を紡ぐ。

 

「相変わらずですね。……それにしても、よく白蓮(ぱいれん)さんが貴女を手放しましたね。」

「元々、伯珪(はくけい)殿の所には客将として身を置いていただけ。時機が来れば別の場所に行くというのは、(かね)てより取り決めていたのだ。まあ、伯珪殿が未練タラタラなのは丸判りだったがな。」

(……それが判っていて出て行くのはどうなのかなあ。)

 

 雫はそう思いながら、目の前の人物――(せい)こと趙雲(ちょううん)を見つめた。

 加えて、今頃、白蓮さんは星さんの抜けた穴を埋める為に大変な苦労をしてるんだろうなあ、と思いながら、雫は確認の為に訊ねる。

 

「それで、ここに来たという事はうちに仕官しに来たととって宜しいのですか?」

「うむ、そろそろ私も腰を落ち着けようと思ってな。」

「それはつまり、貴女が桃香様と清宮様を真に仕えるべき主と認めたという事ですか?」

「そうだ。……まあ、そもそも、今の世の中で英雄と呼べる人物は五指も居ない。」

 

 星はそう言いながら右手の指を、一つずつゆっくりと立てていく。

 そうして言葉通り、親指以外の四指を立てた所で、星は雫を見た。

 

「……群雄割拠の時代になりかけている今、早々に判断するのはどうかと思いますが?」

「ふむ……経験は不足しているとは言え、流石は軍師。自身の心情とは真逆の言葉で私を試しますか。」

「それが私の仕事ですから。」

 

 雫は星の指摘に「相変わらず鋭い方だ」と思いながら、表情を全く変えずに答える。

 そんな雫を何故か満足そうに見ながら、星は再び言葉を紡ぐ。

 

「確かに、漢王朝が力を失いかけている今、大陸各地に力を持った諸侯が現れている。その事実に関しては異存は無い。」

 

 そう話し始めた星に、雫は首肯して先を促す。

 

「だが、その中で大陸に平穏を齎し、維持する事が出来る者が何人居るだろうか。残念ながら、殆どの者は私利私欲に塗れた愚者でしかない。自覚しているか、無自覚かは別にしてな。」

「そうですね。」

 

 雫は星が言う愚者が誰かは訊かなかった。

 訊かなくても大体は判るし、何より、他者の評価を鵜呑みにするつもりが無かったからだ。

 とは言え、誰を英雄と評しているのかに関しては興味があった。

 これも恐らくは自分と同じだろうと思いながら訊ねる。

 

「では、貴女が思う英雄とは誰なのですか?」

 

 すると星は、真面目な表情になって答えた。

 

「先ずは曹操(そうそう)だな。あの者の持つ覇気は誰よりも大きい。また、人を使う事に長け、尚且つ信賞必罰をきちんとしている事も、人の上に立つ者に相応しい行いだろう。」

 

 それは雫も同感だった。彼女は桃香達と比べれば、曹操――華琳(かりん)とは短い時間しか会った事は無い。

 だが、その短い時間でも、華琳が持つ覇気や言動の端々に強さが込められている事は十二分に判った。

 ……序でに、常に人材を求めているという事も。

 

「……では、他には誰が居るのですか?」

 

 更に訊ねる雫に対し、星は一瞬だけ視線を中空に彷徨わせてから口を開く。

 

「他にはそう……孫策だな。」

「孫堅ではなく、その娘なのですか。」

「意外か?」

「いいえ。」

 

 星の問いに雫は即答した。

 確かに、今の孫軍は孫堅が指揮しているが、何れは娘達の誰かが継ぐだろう。

 勿論、孫堅は未だ若く実力も衰えていないので、それはまだまだ先の事だろうが、曹操と同年代――正確には孫策の方が少し年上――という事を考えれば、英雄と呼ぶのは孫策の方が合っているかも知れない。

 

「母親譲りの武に、部下を統率する力、どちらも英雄と呼ぶに相応しい。一時は若さ故の血気盛んさが目に付いていた様だが、今ではそれも少し落ち着いている様だしな。」

「ええ……。」

 

 星の言葉に、何故か雫は力無い声を漏らす。

 それは、孫策が落ち着きを得た理由を知っているが故の声だった。

 その理由を知らない、もしくは察している星は、妖しげな微笑を浮かべて雫を見やる。

 その視線が何となく嫌だったので、雫は話の先を促した。

 

「そ、それで、他には誰が居るのですか?」

「……雫なら、言わずとも解るであろう?」

 

 星は変わらずの表情のままそう言った。

 

「……確かに。ですが私は、星さん自身の口から聞きたいのです。」

「ふむ……まあ良かろう。残りの人物は、ここの州牧である劉備殿と、その補佐を努める清宮殿だ。」

 

 星がそう言うと、雫は内心満足しながらも、表情は冷静さを保ったまま更に訊ねる。

 

「その理由は?」

「先ずは二人の肩書きが万民を惹き付ける。片や“劉勝(りゅうしょう)の末裔”、片や“天の御遣い”。肩書きの真偽は兎も角、これを聞いて興味を持たぬ者等、この国には居りませぬ。」

 

 星が言った事に間違いは無い。

 劉勝は漢王朝の初代皇帝・劉邦の子孫の一人である。つまり、現皇帝である少帝と桃香は血縁関係になる訳だ。

 天の御遣いという言葉も、下手をしたら占いで政治を決める者も居るこの世界では、敬意と畏怖のどちらか、若しくは両方の感情を込めて注目を集めているだろう。

 事実、桃香も涼も、十常侍誅殺後の宴で高官達から引っ張りだこにされかけた。

 その度に華琳や美羽(みう)が話し掛けてきて、その場から連れ出してくれたのだが、それがなかったらどんな話を聞かされていたかは、想像に難くない。

 

「それでいて名声にかまけず、きちんと善政を敷いている。それはまさしく英雄の証だ。」

「善政を敷いていると、何故判るのです?」

 

 雫は答えが解っている疑問をぶつける。

 すると星は、やはり妖しげな笑みを見せながら答えた。

 

「私を見くびってもらっては困る。ここに来たばかりとは言え、街の人々の表情を見れば善政を敷いているか否かは一目瞭然。前任者である陶謙が善政を敷いていたのだから、それより悪い政治を行っていれば、街の人々の表情は暗くなっているのが自然だからな。」

 

 星の答えは雫の予想通りであり、事実だった。

 初めの内は前任者である陶謙の治世を懐かしんでいた住人達も、桃香達の政治やその人柄に触れていく内に段々と桃香達を認めていった。

 そして、軍備拡張だけでなく、一部の税の緩和と治安の安定等の政策が上手くいくと、最早桃香達を受け入れない住人は一人も居なかった。

 

「成程。では何故、星さんは曹操や孫策ではなく、我等が主たる劉玄徳(りゅう・げんとく)と清宮涼を選んだのですか?」

 

 華琳達は勿論、自らの主君の敬称すらも略して訊ねる。

 それは、この場で星の結論を聞く為にした事だった。

 

「曹操の所は百合百合しくて適わぬし、孫策の所は身内意識が強い。そして残ったのはここだと言うだけだ。」

「……それは、消去法で止む無しに、という事ですか?」

「止む無しに、という訳では無いが、消去法なのは確かだな。勿論、それ以外にも理由は有るが。」

「私としては、それ以外の理由について知りたいのですが……まあ、良しとします。」

 

 雫は、ふうと溜息を吐きながらそう言うと、一度目を閉じてから暫く考え、再び星を見ながら言葉を紡いだ。

 

趙子龍(ちょう・しりゅう)殿、貴女を徐州軍の一員として迎え入れます。これからは劉玄徳様と清宮涼様、そして民の為にその力を奮って下さい。」

「はっ。この趙子龍、我が命有る限り、主と共に戦う事を誓います。」

 

 雫が仰々しく任命すると、星もまた恭しく左手を右手で包み、平伏して拝命した。

 そうして暫くの間、真面目な表情でいた二人だったが、やがて殆ど同時に笑い出した。

 

「では、早速行ってくるとしよう。」

 

 暫く話した後、星はそう言って招賢館を出て行った。

 その手には、招賢館の仕事が残っている雫から受け取った任命の木簡が有る。

 

(さて……二人が私が思った通りの人物かどうか、見極めさせて貰うとするか。……ふふっ。)

 

 星こと趙雲は、今迄感じた事が無い程の高揚感のまま城へと向かって行った。

 

 

 

 

 

 その頃、徐州から遠く離れた荊州に徐庶――雪里は居た。

 

「……はあ。」

 

 周りを見ながら溜息を一つ。

 この旅に出てから何度同じ溜息を吐いたか解らない。

 再び周りを見る雪里。

 何度見ても、そこには賊しか居なかった。因みに全て男だ。

 

「……面倒ですね。」

 

 賊には聞こえない声量で呟く。

 別に聞こえても構わないが、賊を必要以上に刺激するつもりは無い。

 只でさえ賊は、女である雪里を見ながらニヤニヤと笑い、誰が最初に行くかと話している。

 勿論それが、二つの意味を持つ言葉だという事は雪里にも解っている。

 この世界で女の一人旅をしていれば、こうなるのはよくある事だ。大して珍しくもない。

 だからこそ、雪里の溜息は止まらなかった。

 

「はあ……。」

 

 その溜息を、観念したという意味にとったのか、賊の一人がやはりニヤニヤしながら近付いてくる。

 その手には剣を持っており、脅しの意味が有るのは明白だった。

 雪里はその賊にゆっくりと近付く。賊の男は、雪里が観念したとみている為、全く警戒していない。

 

「……邪魔です。」

 

 雪里がそう言った次の瞬間、賊は体から紅い液体を撒き散らしながら地面に倒れた。

 賊の男は地面に倒れると、そのまま息絶えた。

 突然の事に賊達は暫くの間呆気にとられていたが、やがて雪里が武器を手にしているのに気付くと、賊達は慌てて抜刀した。

 雪里が手にしている武器は、剣と言うには短く、かといって短剣と言うには長いという長さの両刃刀だった。

 雪里はそれを逆手に持ち、正面に構えると周りを軽く見回し、走り出した。

 雪里は先ず、近くに居た賊に斬りかかった。勿論賊も防御しようと剣を動かすが、それより早く雪里の剣が賊の喉笛を切り裂いた。

 更に雪里はそのまま体を回転させ、たった今倒した賊の左側に居る賊を一刀両断に斬り倒した。

 この時、他の賊達は雪里に向かって斬りかかってきていたが、連携も何も無い只の突撃をかわして反撃に転じるのは、雪里にとって何の苦にもならなかった。

 数分後。

 辺りには物言わぬ屍と化した賊達の死体が転がっている。

 全員が一撃で倒されており、その傷口からは(おびただ)しい量の血液が流れ出し、土や草を朱に染め上げていた。

 

「……さて、行きますか。」

 

 顔や服に付いた返り血を拭い、連れている馬に騎乗した雪里はそう言って馬を走らせる。

 彼女の目的地迄は、あと一日という距離だった。




第十章「徐州の日々」をお読みいただき、有難うございます。

今回は、徐州組のオリジナル武将の登場がメインでした。後は、次章に繋がる雪里の旅立ちですね。要するにコーエーの「三国志」シリーズだxと内政のターンですね。やった事無いけど←
あと、名前だけですが久々に登場した葉と景にも注目←
「招賢館」の件については、横山光輝版「項羽と劉邦」を参考にしています。この時代の資料が他にはやはり横山光輝版「史記」しかないという←

雪里の強さは、演義等に記されている事柄からイメージしてみました。とはいえ、愛紗達に比べたら弱い方ですが。

この章から、涼に対する桃香の呼称が「義兄さん」になりました。今迄「御主人様」「兄さん」とバラバラでしたが、今回からきちんと統一する様にしました。「御主人様」は場合によっては使うでしょうけどね。

次章はいよいよあのキャラの登場です。お楽しみに。
ではまた。


2012年11月29日更新。


登場人物の言葉遣いや字の文の表現などを若干加筆修正しました。
今回登場したオリジナル武将(史実武将)は、この先も準レギュラーとして登場予定です。

2017年5月10日掲載(ハーメルン)


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第十一章 旧友と新友・1

徐州軍がより良い人材を得る為、単身旅に出た雪里。

時々危険な目に遭いながらも、漸く目的地に辿り着く。

そこに居る人材は、雪里が知る限り最高の人材。

何としても徐州に連れて行くと決意し、雪里は馬から下りた。



2010年10月3日更新開始。
2010年12月5日最終更新。

2017年5月11日掲載(ハーメルン)


 荊州(けいしゅう)北部の街、襄陽(じょうよう)から西に約二十里先に、隆中(りゅうちゅう)という小さな村が在る。

 黄巾党(こうきんとう)の乱から続く戦乱とは無縁だったのか、隆中の地は豊かな大地のままであり、ここに住む人々の表情もまた穏やかなものだ。

 雪里(しぇり)は村の入り口で下馬し、そんな村の様子をゆっくり見ながら進んでいた。

 

「良くも悪くも変わってないわね。」

 

 そう呟いた雪里の表情は温かな笑みに溢れている。

 何故ならそれは、道行く村人の穏やかな表情を確認したからだ。

 戦乱の世になろうとしている今、こんなにも表情が明るい人が多い事は、それだけで充分凄い事である。

 

「あら元直(げんちょく)ちゃん、久し振りね。」

 

 と、そこに一人の中年女性が、雪里に対して気さくに声を掛けてきた。

 雪里はその女性と二言三言、言葉を交わした後、手を振って別れた。

 

(長い間会っていないのに、ちゃんと覚えててくれるなんて、おばさんも変わりないみたいね。)

 

 雪里はそう心の中で呟くと、更に笑顔になった。

 今迄の雪里の言葉等で解る様に、彼女はこの村に以前来た事がある。

 実は、今回連れて帰る予定の人物と雪里は、同じ私塾の同窓生なのだ。

 

「……あの子との話も、今みたいに上手くいけば良いけど。」

 

 そう呟くと、雪里は急に暗い表情になった。

 ここに居る人物を連れて帰ると決めてはいるが、無理矢理連れて行く訳にはいかない。

 きちんと話をし、相手に納得してもらった上で徐州(じょしゅう)に来てもらう。それが理想であり、それ以外の手は使いたくない。

 

「とは言っても、私も余り長くは此処に居られないし……。」

 

 そう呟いた時、雪里は目的地に着いた。

 雪里の目の前には、この村の中では比較的大きい屋敷が在る。

 

「さて……行きますか。」

 

 そう呟いて屋敷に入ろうとした時、後ろから声を掛けられた。

 

「あっ……雪里お姉ちゃん?」

「ん……? あら、久し振りね緋里(ひり)。お姉ちゃんは居る?」

 

 振り返って声の主を確認すると、雪里はその声の主を緋里と呼び、話し始めた。

 緋里は小さな女の子で、身長は鈴々(りんりん)より更に小さい。

 

「はい、居ますよ。今はきっと、最近入手した“孫子(そんし)”と“九章算術(きゅうしょうさんじゅつ)”を読んでいると思います。」

「あら? あの子は確か、その二冊を持っていたと思うけど……無くしたの?」

「いえ、注釈等が違う本だったので買ったみたいです。」

「……相変わらず本の虫なのね。」

 

 緋里の説明を聞いた雪里は、苦笑しながらそう言った。

 それから雪里は、緋里に案内されて屋敷へと入っていった。

 

「雪里お姉ちゃんの顔を見たら、お姉ちゃんは凄く喜びますよ。」

「だと良いけどね。」

 

 笑顔で話す緋里に対して、雪里は笑みを向けながら、努めて明るく答えた。

 緋里が言う「お姉ちゃん」こそが、雪里が連れて行こうとする人物だ。

 つまり、雪里は緋里から姉を奪っていこうとしている。それが判った時、緋里は今みたいに明るく雪里と接するだろうか。

 普通なら有り得ない。

 姉と引き離されるだけでなく、姉を戦地に連れて行こうとしているのだから。

 

「……ん? 話し声?」

 

 そんな事を考えながら部屋に近付いていると、聞こえてくる声が二つ有る事に気付く。

 そのもう一つの声も、雪里が知っている女の子の声だった。

 

「お姉ちゃん、お客様だよー。」

 

 緋里はそう言って扉を開けた。

 

「お客様……? あっ!?」

「雪里ちゃん!?」

 

 部屋の中に居た二人の少女は、扉の先に居る人物を見て驚きの声を上げる。

 そんな少女達に対し、雪里は笑顔を見せながら挨拶をした。

 

「久し振りね、朱里(しゅり)雛里(ひなり)。」

 

 雪里がそう言いながら部屋に入ると、朱里と雛里と呼ばれた少女が駆け寄ってきた。

 

「久し振りね、じゃないよっ! ずーっと音沙汰無かったから、私達がどれだけ心配したか……。」

「もしかしたら……って思って、泣いたりもしたんだよ……。」

 

 二人はそう言いながら雪里に抱きつく。

 二人は雪里より小さい為、二人の顔は自然と雪里の胸にうずまっている。

 その光景は、さながら姉に泣きつく妹達という感じだ。

 

「……ゴメンね。ここ一年、余りに忙しくて連絡出来なかったの。」

 

 雪里は二人の髪を撫でながらそう謝る。

 すると、雪里の右側に抱きついている、朱里と呼ばれた少女が雪里を見上げた。その拍子に、首元に有るアクセサリーの二つの鈴が、小さく鳴る。

 そんな朱里の大きく朱い瞳はどことなく潤んでいて、首迄の長さの薄い金髪と共に輝いていた。

 朱色の長袖の上着の下に白色の服を着ており、その服は青紫色のプリーツスカートに重なり、その先は花びらの様に広がっている。

 また、それ等の服は黄緑色のリボン状の帯で巻いて留めていた。

 白いオーバーニーソックスはスカートの中に隠れる他長く、素足は全く見えない。

 近くの床には上着と同じ朱色のベレー帽が置いて有り、そのベレー帽もまた、帯と同じ色と形のリボンが付いていた。

 

「……忙しいって、何してたの?」

「……今日はそれに関する話をしに来たのよ。」

 

 雛里の質問に対して、雪里は二人の髪を撫でながら、優しい口調でそう答えた。

 その言葉に、二人は若干の違和感を感じた。そして、二人がそう感じた事に気付いたのか、雪里は尚も優しく二人の髪を撫で続ける。

 雪里の左側に抱きついている、雛里と呼ばれた少女は、そんな雪里を見上げながら思案を巡らす。

 そんな雛里の瞳は大きく穏やかな緑色の瞳で、まるで見る者の庇護欲をかき立てる様だ。

 薄紫色の髪は朱里と違って長く、両耳の後ろで綿の様な髪留めを使ってツインテールにしていた。

 雛里の服装は、簡単に言うと朱里の服装と色違いのデザインになっている。具体的には、朱里の上着の色である朱色がスカートの色に、朱里のスカートの色である青紫色が上着の色になっていた。

 色以外では、白服の花びらの様な形の部分の折り目が多くなっていたり、首元のアクセサリーが髪留めと同じ様な素材で出来た、二つの丸い綿になっている、という違いが有る。

 他には、朱里が白いオーバーニーソックスを穿いているのに対し、雛里は素足に白く短い靴下といった所が目に見える違いだろうか。

 そしてやはり帽子を被っているらしく、近くには緑色のリボンが付き、上着と同じ青紫色の魔女帽が置いてある。

 勿論、「魔女」なんて言葉を知らない雪里達は、その帽子を「魔女帽」とは呼ばないだろうが。

 因みに緋里はと言うと、朱里と同じ薄い金髪を肩迄伸ばし、眼もやはり朱里と同じ朱い瞳をしている。

 服装は、朱里の服を小さく簡素にした感じだ。色も、薄めの朱色を基調としている。

 今は帽子を被っていないので帽子を持っているかは判らないが、姉である朱里の物と思われる帽子が有る事を考えると、妹である緋里も持っていると考えるのが自然だろう。

 

「それじゃあ、私はお茶淹れてくるね。」

「あっ、お構いなく〜。」

 

 緋里が笑顔でそう言って部屋を出て行くと、雪里は二人の髪を撫でながら明るく返した。

 緋里の足音が遠ざかっていき、部屋には沈黙が訪れる。

 すると、雪里はゆっくりと二人から離れて座り、正座の姿勢になった。

 突然の事に戸惑う朱里と雛里を見上げながら、雪里は静かに言葉を紡ぐ。

 

「朱里、雛里。……いえ。」

 

 一度言葉を切り、言い直す雪里。

 

諸葛孔明(しょかつ・こうめい)殿、そして鳳士元(ほう・しげん)殿。私、徐元直(じょ・げんちょく)は貴女達の力を借りに来ました。」

 

 雪里に「諸葛孔明」と呼ばれた朱里と、「鳳士元」と呼ばれた雛里は、雪里が何を言ったのか理解出来なかった。

 本来の彼女達は、先程迄の様にお互い真名(まな)で呼び合っているのに、今の雪里は二人を姓と(あざな)で呼んでいる。

 

「えっと……。」

「雪里ちゃん、詳しく話してくれる?」

 

 未だに困惑しつつも、二人は思考を巡らせながら雪里と同じ様に正座の姿勢をとりながら訊ねる。

 雪里はそんな二人から目を離さずに、ゆっくりと、だがハッキリと言葉を紡いでいく。

 

「さっき、私が今何してるか聞いたわよね?」

「う、うん。」

「その答えはね……“徐州軍筆頭軍師”って事よ。」

「「…………えっ!?」」

 

 雪里の言葉に、朱里と雛里は暫く反応出来ず、間が抜けた声を出すしか出来なかった。

 漸く思考が停止していた二人だったが、やがて無事に再開したらしく、真面目な表情になって確認する。

 

「雪里ちゃんが……徐州軍の筆頭軍師……?」

「す、凄いよ雪里ちゃんっ。以前朱里ちゃんが言っていたみたいに、出世してるんだねっ。」

「まあ、そうなるのかしらね。」

 

 目を丸くしている朱里と興奮している雛里を見ながら、雪里は苦笑しつつ言った。

 以前、雪里達が同じ私塾に通っていた時、親友同士で集まって甘味を食したりお茶を飲んだりした事があった。

 その時、朱里が親友達を見ながら、将来についてまるでそれが正解かの様に断言した。

 

『雛里ちゃんは、最低でも中郎将(ちゅうろうじょう)は固いね。』

『雪里ちゃんは、州刺史(しゅう・しし)か郡太守になれるよ。』

 

 親友達に対して次々と、余りにも堂々と言うものだから、皆驚きながらも朱里の言葉を信じていった。

 そんな中、雪里が朱里に訊ねた。

 

『なら朱里、貴女は?』

『さあ? ……ふふっ。』

 

 だが、いざ自分の事となると朱里は意味ありげな笑みを一つするだけで、何も答えなかった。

 

「朱里、貴女はあの時、自分の事は何も言わなかったわね。勿論今更、何故言わなかったのか訊くつもりは無いけど、その時に私が貴女の事をどう思ったのかは、教えてあげる。」

「……どう思ったの?」

 

 雪里が昔の事を思い出しながらそう言うと、朱里は暫くの間何かを考えてから訊ねた。

 

「……貴女は、私達とは比べ物にならない程大きな事を成せる人間。州刺史とか郡太守なんて生温い役職ではなく、もっともっと上の役職に就くだろう、ってね。」

「買い被り過ぎだよ、雪里ちゃん。」

 

 そう言った朱里は顔を紅くしながら目の前で両手を振り、口をぱくぱく動かしていった。

 先程は姓と字で朱里達を呼んでいた雪里は、今はちゃんと真名で呼んでいる。あの言い方は、ある種の意思表示みたいなものだったのだろうか。

 

「そんな事は無いわ。貴女は私達の中で一番優秀だったし、水鏡(すいきょう)先生も期待していらしたじゃない。」

「私も雪里ちゃんと同じ様に思ってるよ。」

「雛里ちゃんまで……。」

 

 雪里だけでなく、もう一人の親友である雛里にもそう言われた朱里は、思わず苦笑してしまう。

 

「私はそう思ったからこそ、貴女に会いに来たの。それに、雛里も一緒に居たのはラッキーだったわね。」

「「らっきぃ?」」

 

 聞き慣れない言葉に反応した朱里と雛里は、同時に聞き返した。

 それを見た雪里は、小さく「あっ」と声を出してから二人に説明を始める。

 

「ゴメンゴメン。“ラッキー”って言葉は、天の国の言葉で“幸運”とか“僥倖”って意味よ。」

「天の国……。それじゃあやっぱり、徐州州牧補佐の清宮涼(きよみや・りょう)という人物は、噂通り“天の御遣い”なの?」

 

 雪里の説明を聞いた雛里が、確認する様に訊ねると、雪里は小さく頷いて答えた。

 

「少なくとも、清宮殿がこの国の人間では無い事は確かね。私達の知らない言葉や知識を使うし、服装とか持ち物も全然違うわ。因みに、清宮殿と接してるお陰で私も時々だけど、今みたいに天の国の言葉を使う様になったわ。」

 

 補足する様にそう言うと、雪里は今日何度目かの苦笑をした。

 彼女の主の一人である清宮涼は、桃香(とうか)達の前では極力「天の国の言葉」を使わない様にしているが、最早日本語と化した外国語、つまり外来語を全く使わないでいるのはかなり難しい。

 何せ、扉は「ドア」、厠は「トイレ」と言う様に、外来語を使うのが普通になっている為、言葉選びに細心の注意を払ってもつい使ってしまうのは仕方ないだろう。

 

「それで、そんな清宮涼殿と劉玄徳(りゅう・げんとく)様が居る徐州に、貴女達を連れて行きたいのよ。」

 

 そんな雑談の中でサラッと今回の旅の目的を話すと、朱里と雛里の表情が瞬時に曇った。

 

「……私達を、徐州軍に?」

「そうよ。……今の徐州軍には優秀な人材が足りないの。勿論、そこそこやれる人材は居るけど、一軍を率いる武将や内政を任せられる文官が少ない。」

「だから、私や朱里ちゃんに徐州軍で手伝って欲しいって事なの?」

「ええ。勿論、今直ぐなんて言わないわ。出来るだけ早く来て欲しいのは確かだけど、色々と準備も必要だろうし。」

 

 雪里は二人に要望を述べながら、気遣っていく。

 親しき仲にも礼儀あり、という意味での気遣いだが、実際には一日でも早く来て欲しいという気持ちが強いのは丸解りだった。

 

「…………い。」

「え? 朱里、今何て言ったの?」

 

 暫くの間、部屋を沈黙が支配していたが、朱里が何かを呟いた事でその沈黙は破られた。

 

「……悪いけど、雪里ちゃんの要請には応えられない。」

 

 朱里はしっかりと雪里を見据えながら、そう断言した。



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第十一章 旧友と新友・2

 雪里は朱里の言葉に驚いている。今の朱里の言葉が、単なる「拒否」ではなく、「拒絶」に近い言い方だったからだ。

 

「……理由を聞かせてくれるかしら?」

 

 だが、雪里はその驚きを極力隠しながら、表面的には冷静にして訊ねる。

 対する朱里も、その幼さの残る顔を引き締めながらハッキリと理由を述べる。

 

「一言で言えば、戦には関わりたくない。只、それだけだよ。」

「……それは解るけど、貴女が手伝ってくれたらその戦を早く終わらせられるし、そもそも戦を起こさずに済むかも知れないのよ。」

 

 雪里は少し苛つきながら言葉を紡いだ。

 彼女は、昔馴染みの親友に断られる確率は低いと思っていた。

 だが、実際には朱里は雪里の要請を頑なに拒否している。

 その事実に雪里は違和感を感じるが、一番の違和感は「あの朱里が何故、世の為に動こうとしないのか」という事だった。

 学生時代、朱里は同級生の中で、いや、その私塾で学んだ全ての生徒の中で一番の秀才だった。

 真綿が真水を吸い込む様に知識を得ていき、尚且つ誰も考えつかない応用を瞬時に閃く。

 雪里は朱里のその才を、周の文王(ぶんおう)に認められた古の賢者である太公望(たいこうぼう)や、高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)に仕えた名軍師・張良(ちょうりょう)に勝るとも劣らないと思っていた。

 そんな朱里が、今の世を憂いていない筈が無い。世の中を正す為なら、絶対に力を貸してくれる筈だと思ったからこそ、断られる確率は低いと思っていたのだ。

 朱里は、学問を役立てず、学問の為に学問をする無能者達や、論議の為に論議をする曲学阿世(きょくがくあせい)の人間とは違う筈だから。

 

「朱里、貴女は一生その才を埋もれさせたまま、この隆中で過ごすつもり?」

「……うん、そうだよ。」

 

 そう訊かれた朱里は僅かの間考えたが、彼女が出した答えは雪里を落胆させるものだった。

 

(どうして……? どうしてあの聡明な朱里が、こんな馬鹿な判断をしているの?)

 

 雪里は、朱里を見つめたまま呆然としている。

 そして朱里は、そんな雪里をジッと見据えていた。いや、半ば睨んでいたと言った方が正しいだろうか。

 

「……朱里ちゃん、せめてちゃんとした理由を言わないと、雪里ちゃんは納得しないと思うよ。」

 

 そんな二人を静かに見守っていた雛里が、オドオドしながらそう言った。

 すると朱里は、それ迄の固い表情を和らげ、ふうっと一つ息を吐いた。

 

「……そうだよね。有難う、雛里ちゃん。」

「ううん、良いよ。」

 

 朱里の表情が和らいだのを見て、雪里は一体何を話すのか気になった。

 先程迄睨んでいた表情が、瞬時に穏やかな表情に変わったのだから、その戸惑いは仕方ない。

 そんな雪里の戸惑い等関係なく、朱里はその表情をやや厳しくして、真っ直ぐに雪里を見つめ直すと、ゆっくりと、だがハッキリとした口調で話し出した。

 

「……雪里ちゃん、私が何故雪里ちゃんの誘いを断るのか、その訳を教えるね。」

「う、うん……。」

 

 真剣な朱里の表情と口調に、雪里は無意識に唾を飲み込む。

 そして朱里は言葉を紡いだ。

 

「……実はね、黄巾党の乱が起きてた頃、叔父夫婦が亡くなったの。」

「えっ……!?」

 

 予想外の告白に、雪里は絶句するしか出来なかった。

 朱里の両親は、朱里が幼い頃に二人共他界しており、朱里達四姉妹は父が生前娶った後妻と共に、江東の叔父夫婦の(もと)に身を寄せていた。

 その後、朱里の姉の諸葛瑾(しょかつ・きん)は長子としての責任を全うして一家の計を立てる為、義母と末妹と共に揚州(ようしゅう)(呉)に移り住み、そこで功を挙げると単身豫州へ移り、孫堅(そんけん)に仕官して家族に仕送りをし始めた。

 それから数年後、成長した朱里は妹の緋里と共にここ隆中に移り住み、育ててくれた叔父夫婦に恩返しをする為に書を書いて生計を立てていた。

 

「ま、まさか、黄巾党に……!?」

「ううん。……朱皓(しゅこう)っていう人と争いになって、戦死したの。」

 

 元黄巾党の人間が徐州軍に居る事もあり、雪里はもしそうだったならどうしようと気が気でなかったが、違うと判ると安心し、同時に自己嫌悪に陥った。

 朱里の話によると、何でも朱里の叔父である諸葛玄(しょかつ・げん)は、袁術(えんじゅつ)によって豫章(よしゅう)の太守を命じられたが、同時期に朝廷から豫章を治めよとの辞令を受けた朱皓がやってきた為に対立。

 その結果起きた戦争で叔父夫婦は戦死し、朱里と緋里は最近迄鬱ぎ込んでいたらしい。

 

(まったく……あのおチビちゃんは何をやってんのかしら。)

 

 朱里から話を聞いた雪里が最初に思ったのは、溜息混じりの様なそんな一言だった。

 本来、太守を任命出来るのは朝廷、つまり漢王朝だけである。

 だが、黄巾党の乱は勿論、それ以前から続く乱れた世の中では、地方の豪族は朝廷の命を待たずに勝手に決めてきた。

 今回の事件は、そうした先例に則った袁術が勝手に決めた為に起こった悲劇だった。

 

(……もっとも、どうせ張勲(ちょうくん)とかがはやし立てるとかして、袁術を(そそのか)したんだろうけど。)

 

 そう考えると、袁術も被害者だなと、雪里は思う。

 だが、そのお陰で朱里を連れて行く事が出来なくなりそうになってるので、同情はしなかった。

 

「……つまり、朱里は戦に係わりたくないから徐州に行きたくない、という訳ね?」

「うん……。」

 

 雪里は、朱里の話から導き出した答えを、それが正しいか確認する様に訊ねる。

 その問いに朱里は只の一言で返すと、俯いたまま口を閉じた。

 そんな朱里を見ながら、雪里は溜息を吐いて髪をかきあげた。

 

(……今日は駄目みたいね。)

 

 雪里はそう思いながら雛里にも訊ねてみたが、彼女もやはり要請を断った。

 雛里が断った理由は、朱里と同様に戦に係わりたくないという事だったが、その表情からは、今の朱里を置いていけないという理由も有る様だった。

 徐州軍の軍師としては無理矢理にでも二人を連れて行きたい雪里だったが、彼女は二人の親友でもある為、それを出来ないでいる。

 

「……解ったわ。」

 

 雪里はそう言うと、小さく息を吐きながらゆっくりと立ち上がり、入ってきた扉に向かいながら話し掛ける。

 

「取り敢えず、今日は帰るわね。」

「何度来たって、私の答えは変わらないよ。」

 

 朱里は俯いたまま即答する。雛里はオロオロし続け、雪里は振り返らずにそのまま扉を開け、部屋を出た。

 扉を閉めて歩き出すと、雛里が朱里に対して何かを言っているのが聞こえた。だが、雪里は足を止めず歩き続ける。

 廊下を歩いていると、四人分のお茶と甘味が乗ったお盆を持った緋里と出会った。

 

「あれ、雪里お姉ちゃんどうしたの?」

「……ちょっとね。」

 

 余程難しい表情をしていたのか、緋里は(いぶか)しげに訊ね、雪里ははぐらかす様に答える。

 幼いとはいえ諸葛瑾と朱里を姉にもつ緋里である。雪里のその答えだけで、二人に、若しくは三人に何かあったと察した様だ。

 

「……解りました。また来て下さいね。」

「ありがと、緋里。」

 

 二人はそう言葉を交わすと、それぞれの行く先へと向かった。

 

「お姉ちゃん、蒼詩(そうし)さんが……。」

 

 緋里は、朱里達が居る部屋の扉を開けながら何かを伝えていたが、雪里は歩き続けていたので最後迄聞こえなかった。

 雪里が玄関を出ると、そこには一人の少女が立っていた。

 紅く長い髪に健康的に焼けた肌。大きな碧眼に活発そうな表情、子供特有の八重歯が特徴的だ。

 背丈は朱里や雛里と同じくらいで、服装は白を基調としたノースリーブに黒いホットパンツ。靴下は履いておらず、素足に紅いサンダルを履いている。

 雪里が少女に一礼すると、少女も同様に返し、朱里の屋敷へと入っていった。

 

(……朱里の友達かしら?)

 

 そう思いながら、乗ってきた馬に騎乗し、ゆっくりと走らせる。

 段々と遠ざかる朱里の屋敷を一瞥し、これからの事を考えた。

 

(さて……大見得をきったのに手ぶらで帰るのも何だし、取り敢えず兵だけでも集めてこないとね。)

 

 雪里はそう思いつつ、気持ちを切り替えて徐州へと帰って行った。

 因みに、帰還時に雪里が集めてきた兵数は、軽く二万を超えていたらしい。



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第十一章 旧友と新友・3

 朱里と雛里の勧誘に失敗した雪里は、徐州に帰還すると直ぐに桃香と涼に事の次第を報告し、朱里と雛里の代わりに得た二万を超える兵達を徐州軍に組み入れる了承を得た。

 そしてその兵達の調練を、調練場に居る愛紗(あいしゃ)に頼もうとすると、そこで思い掛けない人物と出会った。

 

「……貴女が来ていたとは。いつ此処に?」

「三週間程前に。今ではこうして兵の調練を任されている。」

 

 その人物は白を基調とした振り袖の様な衣服を身に纏い、頭には両端に紅い飾り紐が付いた白いナースキャップの様なものを付けている。

 衣服について詳しく言うと、帯の色は濃紺、袖には黄色い蝶の羽根が大きく描かれている。

 また、胸元はその豊満な胸を強調するかの様に開いており、長く伸びてミニスカートの役割も兼ねている衣服の下から覗く太股と共に、妖しい色気を漂わせている。

 その太股には白のニーソックスを履いており、上部には紫色の三角形が連なる様に幾つも付いている。

 靴は、薄紫色の厚底下駄になっていて、全体的に和装っぽい服装だ。

 水色の髪は左右が長く、他は首に掛かる程度。但し真後ろの髪だけは細く長く伸ばしている。

 朱い瞳を持つその人物の名前は趙雲(ちょううん)、真名を(せい)と言う。

 

「そうでしたか。星殿なら安心して調練を任せられます。」

「ふふ、世辞でも嬉しいものだな。しかし、私が徐州軍に参加した事を筆頭軍師殿が知らなかったのは少し拙いのではないか?」

「私は先程帰還し、桃香様と清宮殿に今回の旅の報告をしただけで、(しずく)達からの報告は未だ受けていませんから。何せ一刻も早く、あの者達の調練を始めてもらいたかったので。」

 

 雪里はそう言いながら、調練場に並ぶ二万以上の兵達に目をやる。

 星も其方に目をやり、雪里が集めてきた兵達を吟味するかの様に見ていった。

 

「とは言え、知らなかったのは事実ですから。どう言われても仕方がないのですけどね。」

「ふっ……知らなかったのなら、知れば良いだけではないか。」

 

 冗談めかして雪里が言うと、星もまた、口元に指を置き、妖しい笑みを浮かべながら返した。

 

「……それもそうですね。では、兵の調練は星殿に任せて私は報告書を読んでくるとしますか。」

「ああ、それが良いだろう。武官は調練に、文官は報告書に、正に適材適所だ。」

「まったくです。」

 

 雪里はそう言って星に一礼すると、同じく調練場に居た愛紗と鈴々にも挨拶をしてから、自室へと戻っていった。

 雪里が自室に入ると、そこには大量の書簡が有った。

 旅に出る前に、残っていた仕事は全て片付けていたものの、二ヶ月程留守にしていたので、当然ながらその間の仕事が溜まっていた。

 勿論、急を要する案件は雫達が処理しているので、此処に置いてあるのはそれ程急がなくても良い案件ばかりだ。

 

「覚悟はしてましたが……これは骨が折れますね。」

 

 机の上は勿論、食卓や寝台の上に迄置かれている書簡を見ながら、雪里は溜息を吐いた。

 それから暫く目をつぶると、意を決した様に表情を引き締め、書簡の山に取り掛かった。

 筆頭軍師を務めているだけあって、雪里の処理能力は高い。一刻も経たない内に、机の上に山の様に積まれてあった書簡は無くなった。

 

「取り敢えず、これで良しとしますか。」

 

 そう呟くと、書簡の山とは離して机の上に置いてあった報告書を手に取る。報告書と言っても、竹の板を使った竹簡だが。

 

「……糜竺(びじく)糜芳(びほう)の姉妹に陳珪(ちんけい)陳登(ちんとう)の母娘。元黄巾党の廖淳(りょうじゅん)に、文武両道の孫乾(そんかん)。そして、恐らく愛紗殿や鈴々殿と同じくらいの実力の持ち主である趙雲殿。ふむ……私が居ない間に、随分と色んな人材が集まったものですね。」

 

 報告書には、雪里が不在の間に徐州軍の一員になった者達の一覧が書かれており、その中でも比較的優秀な者達については、別の書簡に名前と詳細なプロフィールが書かれていた。

 その数は十や二十では足りない程だった。

 

「人材の質は兎も角、数は揃ってきましたね。」

 

 それが、報告書を読み終えた雪里の感想だった。

 正直に言えば、もっと色んな人材が欲しいと思っているが、桃香が州牧になって数ヶ月でこれなら充分だとも思っていた。

 雪里はプロフィールが書かれている書簡を懐に入れると、ゆっくりと立ち上がり部屋を出た。

 

「先ずは、直接会ってみますか。」

 

 そう呟きながら、雪里は城内を歩き始めた。

 帰還した時は、報告を済ませようという気持ちが強かった為に気付かなかったが、改めて城内を見渡すと見慣れぬ顔が増えているのに気付かされる。

 女性が多いのはこの世界では普通だから気にする事ではないが、器量が良い女性が多いのはちょっと気になった。

 

「早くも英雄の片鱗……という訳では無いでしょうけど、ね。」

 

 苦笑しながら辺りを見渡すと、目的の人物達を見つけた。訓練の帰りなのか、それぞれ武器を携帯している。

 

「歓談中申し訳ありませんが、少し宜しいですか?」

「はい、何ですか?」

 

 その中の一人が応えると、雪里は先ず自己紹介を始めた。

 

「私は、徐州軍筆頭軍師の徐元直と申します。失礼を承知で訊ねますが、貴女方は糜竺将軍と糜芳将軍、それと廖淳将軍と陳登将軍ではありませんか?」

「はい。ああ、貴女が噂に聞く筆頭軍師殿なのですね。」

 

 四人の中で一番年長者っぽい落ち着きさをはらった少女が応対すると、他の三人も雪里を見つめ始めた。

 

「ええ。私はつい先程帰還したばかりなので、貴女方についてよく知らないのです。それで、宜しければ少しお話をさせて戴ければと思いまして。」

「それは勿論構いませんが、私達に対してその様にへりくだる必要はございません。どうか、いつも通りにして下さい。」

「これがいつも通りなのですが……解りました、善処しましょう。」

 

 雪里がそう応えると、五人は話をする為に場所を移した。

 その途中で、雪里以外の四人もそれぞれ簡単な自己紹介をした。

 落ち着きはらった年長者の少女は「糜竺」、その糜竺にどことなく外見が似ている少女は「糜芳」、明るい雰囲気で栗色の髪と瞳を持つ少女は「廖淳」、四人の中で一番背が小さな少女は「陳登」と名乗った。

 歓談室に着いた五人は、小さな円卓を中心にして座り、話を始めた。

 話していくにつれて、雪里は四人の人柄について把握していった。

 先ず、四人の中で最年長――と言っても未だ十八歳なのだが――の糜竺は兎に角礼儀正しい。

 凜として尚且つ透き通る声で紡がれる口調は丁寧だし、所作は貴族のそれと変わらないのではないかと思う程だ。

 聞いてみると、糜家は代々裕福な家系らしく、それに伴って礼儀作法も身に付いたらしい。

 外見を詳しく見ると、胸の辺り迄伸びている黒髪は艶やかで、窓から差し込む陽の光を受けてキラキラと輝いている。

 髪の色と同じ黒い瞳は見る者の心を捉える様だし、白を基調としたワンピースタイプのゆったりとした服の上からも判る胸の膨らみも相俟って、清楚ながらに少なからず妖艶さも持ち合わせている。

 スカートの丈は膝下迄の長さで、短めの青い靴下と茶色のブーツタイプの靴を履いている。

 装飾品は余り付けておらず、緑色の宝石がはめ込まれたブレスレットを右手首にしているくらいだ。

 武器は背中に大型の弓矢を背負っており、左腰には短剣も所持している。こっちは恐らく護身用だろう。

 

「得物は弓矢なんですね。」

「ええ。(もっと)も、妹と違って私は将として部隊を率いた事は、未だ一度も無いのですが。」

「けど、姉の弓矢の腕は確かですよー。軍師殿もビックリするかも知れませんねー。」

 

 糜竺が困った様に答えると、右隣に座っている少女が明るくそう話す。

 その口調がどこか軽かった所為か、糜竺はその少女を窘める。

 窘められた少女の名前は糜芳。糜竺を「姉」と呼んだ事から解る様に、彼女は糜竺の妹である。

 確かに外見はどことなく似ている。髪や瞳の色は同じだし、身長も同じくらいだ。

 だが、その口調や所作は姉とは対照的に軽く、雑だ。

 服装にしても、基本的に白だけで構成している糜竺と違い、糜芳の服装は黒やら赤やら青やらと、カラフルな色合いになっている。

 スカートも、糜竺がロングなのに対してミニスカート。色は前述の黒。

 白のオーバーニーソックスにスニーカーの様な黄色い靴を履いており、姉と比べたら活発的な格好だ。

 装飾品も、ブレスレット一つだった糜竺とは違い、ブレスレットにネックレス、アンクレットと沢山身に着けている。

 只、それだけ着けても派手さが抑えられているのは、糜芳の顔立ちや体型がボーイッシュだからかも知れない。

 豊満な胸を持つ姉と違い、彼女の胸は同年代の平均より少し小さい。勿論、大きければ良い訳では無いが。

 髪は首迄のショートヘア、ラフなTシャツタイプの服、武器は腰に下げている剣。年齢は十六歳。

 それが糜芳という少女である。

 

椿(つばき)お姉ちゃんは、いつも山茶花(さざんか)お姉ちゃんに怒られてるよねー。」

 

 ケラケラと笑いながら、子供特有の甲高い声でそう言うのは、雪里の左隣に座っている小さな少女だった。

 名前は陳登、年齢は十三歳で、この場に居る五人の中では最年少だ。

 年齢の割には小柄なその少女は、顔つきも体型も幼く、十歳やそれ以下の年齢と言ってもおかしくはない。

 栗色のショートの髪はふんわりとしており、丸顔によく合っている。

 丸く大きな碧色の瞳に薄い唇、短い手足に僅かに膨らんだ胸と、いかにも子供らしい体型だ。

 頭には赤いワンポイントが有る白いベレー帽。Tシャツっぽい赤い服の上には白いジャケットを羽織り、プリーツスカートも白と、服装は殆ど白で構成されている。勿論、靴下も靴も白だ。

 武器は腰の真後ろで横一文字に下げている長剣の様だ。下手したら身長と余り変わらない長さに見えるが、ちゃんと扱えるのだろうか。

 

「まあ、椿さんだから仕方ないですね。」

「そうだねー♪」

「残念ですが……。」

「お姉ちゃんも皆も酷いーっ。」

 

 栗色の髪と瞳を持つ少女――廖淳が言ったのを皮切りに、陳登や糜竺が椿――恐らく糜芳の真名だろう――をからかう様に言葉を紡ぐ。

 からかわれた糜芳はそんな三人を見ながら怒っているが、その表情は笑っていた。どうやら本気で怒ってはいない様だ。

 廖淳は地和の副官として街の警邏をしているらしく、今では街の事を知り尽くしているらしい。

 年齢は十四歳で、背は雪里と同じか少し大きいくらい。胸もそんなに変わらない大きさの様だ。

 栗色の髪には黄緑色のバンダナを巻いて、ポニーテールにしている。本当は黄色いバンダナを巻きたいのだが、勿論、雪里達はそれを知らない。

 服装は黄緑色を基調としたノースリーブに黒いホットパンツと、運動に最適な格好をしている。

 本来は黄色い布を巻いていた右手首には、空の様に澄みきった青い布が巻いてあり、ポニーテールのバンダナと共に装飾品代わりになっていた。

 靴下やニーソックスは履かず、素足に青いスニーカータイプの靴を履いている。

 武器は黄緑色の鞘に納められた剣で、左腰に下げている。

 見た所真新しい様なので、最近手に入れた剣なのかも知れない。

 それから半刻の間、五人は軍について政治について、更には雪里と四人は初対面だというのに、プライベートについても大いに語り合った。

 それは雪里の真面目な人柄が、四人に安心感を与えたからかも知れない。

 その雪里が四人と話してみて解った事は、彼女達は少なくとも悪い人間では無いという事だった。

 性格的に気になる人間は居たが、それは軍に悪影響を与える程では無い。

 話しただけなので実力については解らないが、調練や政務の様子を見て判断すれば良いので後回しにする事にした。

 

「それでは皆さん、これから宜しくお願いしますね。」

 

 話の最後に雪里がそう言うと、四人もまた同じ様に応え、平伏しながら雪里を見送った。

 因みに、雪里は四人から真名を預けてもらい、自分の真名も預けている。

 四人の真名はそれぞれ、糜竺が「山茶花」、糜芳が「椿」、陳登が「羅深(らしん)」、廖淳が「飛陽(ひよう)」といった。



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第十一章 旧友と新友・4

 四人と別れた雪里は、その足で残りの二人――陳珪と孫乾に会いに行った。

 

(陳珪殿は羅深殿の母親ですし、孫乾殿については雫からの手紙も有りましたし、楽しみですね。)

 

 雪里はそう思いながら二人を捜し続けた。

 その二人は中庭に居た。書簡に書かれたプロフィール通りの外見の二人は、何やら立ったまま話しており、口調には熱がこもっている。

 とは言え口論している訳では無い様なので、雪里は普通に近付いて声を掛けた。

 

「随分と白熱していますね。」

 

 雪里がそう声を掛けると二人は話すのを止め、雪里に向かって振り返った。

 だが、二人はそこに居たのが見慣れない少女だった為、その少女が誰かと考えている間、言葉を失った。

 

「えっと……貴女は?」

 

 やがて、妙齢の女性が訊ねると、雪里は恭しく居住まいを正しながら自己紹介を始めた。

 

「申し遅れました。私は徐州軍筆頭軍師、徐元直と申します。」

「ああ、貴女が噂の軍師さんなのね。私は陳漢瑜(ちん・かんゆ)、兵糧管理を担当しています。」

「お噂はかねがね聞いておりますよ。私は孫公祐(そん・こうゆう)、書簡整理等を担当しています。」

 

 二人は雪里を見ながらそう返す。

 すると、雪里は先程から感じていた疑問を口にした。

 

「……先程、陳登殿達と話していた時も私の噂を聞いていると言っていました。一体、どんな噂を聞いているのですか?」

「あら、噂の当人は知らないのですね。」

 

 そう言ったのは、陳漢瑜こと陳珪。

 娘の陳登と同じく白を基調とした服装だが、ジャケットでは無く、和服とドレスを足して二で割った様な、袖とスカートの丈が長い服を身に纏っている。

 娘と同じ栗色の髪は首の後ろで紅い布を巻いて纏めており、髪の長さは背中迄ある。

 左耳には翡翠色の宝石が付いたピアス、首にはやはり翡翠色の宝石が付いたネックレスといった装飾品を身に付けていた。

 身長は雪里より頭一つ分高く、胸はこの歳の女性の平均より明らかに大きい。勿論、全体のスタイルも良い。

 殆どスカートに隠れているが、靴は黒いロングブーツを履いている。

 文官だからか城の中だからかは判らないが、武器は何も携帯していない。

 

「噂とはそんなものでしょう。」

 

 そう言ったのは、孫公祐こと孫乾。

 何か可笑しいのか、微笑みながら雪里を見ている。

 薄紅色の髪は短く、前髪は目にかかっていない。

 服は、紺色のノースリーブの上にデニムの様な生地だが赤い長袖の上着、紺色のホットパンツの上に白いミニスカートといった格好。

 素足にやはり紺色のスニーカーを履いており、見た感じは余り文官らしくない。

 因みに装飾品は無く、武器も持っていなかった。

 雪里はそんな孫乾を見ながら、雫の書簡には自信家だとあったなと思い出し、どれくらい自信家なのかより注意を払いながら訊ねた。

 

「それで、その噂とはどの様な内容なのですか?」

 

 雪里は孫乾をじっと見据える。

 その孫乾は相変わらず笑みを浮かべながら、まるでありきたりな話をするかの様に、噂について説明し始めた。

 

「なに、特に面白くも何ともない事です。“徐元直は公私共に厳しく、桃香様は勿論、清宮様も頭が上がらない”と。」

「なっ!?」

 

 思わず驚きの声をあげる雪里。

 そんな風に思われては不本意だと、雪里は二人に反論するが、

 

「ですが、厳しい軍律を作ったのは事実ですよね?」

「それは、まあ……。」

 

 そう孫乾に指摘されると、不服ながらも肯定した。

 確かに、涼達が徐州に来てから、雪里が軍律を改めたのは事実だった。

 だが、雪里だけでなく雫や地和、桃香に涼も加わって話し合い、決めていたので、決して雪里一人で決めた訳ではない。

 尤も、涼達の意見を取り纏めたのは雪里なので、雪里が責任者という事にはなるだろうが。

 

「だからと言って、私が清宮殿達を言いくるめているかの様に言われるのは心外です。」

「まあまあ。確かに嫌な噂ですが、真に受けている者は殆ど居ませんから御安心下さい。」

「少しでも居る事が問題なのですが……まあ、極力気にしない事にするわ。」

 

 孫乾に宥められた雪里は、渋々ながら身を引く事にした。ここで二人に文句を言っても、問題が解決する訳では無いのだから。

 それから雪里は、先程の四人と同じ様にこの二人とも色々話していった。

 そうして話した感じでは、陳珪は穏和で常識人。いかにもあの無邪気な羅深の母親らしいなと、雪里は思う。

 只、話を聞いていると時々否応無しに背筋がピンと張り詰めていくのを感じたのは、少なからず疑問に思った。

 

(何なんでしょう……このそこはかとない不安は。)

 

 雪里は頭を振って不安を振り払った。

 一方の孫乾はと言うと、雫の手紙に書いてあった通りの自信家だった。

 初めは只の自信過剰な人間かと思ったが、どうやらそうではなく、きちんとした理由が有る様だ。

 

(まあ……自信の無い人間よりはマシですしね。)

 

 それが孫乾に対する雪里の感想である。

 因みに、雪里はこの二人とも真名を預け合った。

 陳珪の真名は「羽稀(うき)」、孫乾の真名は「霧雨(きりゅう)」と言った。

 雪里は二人との話を終えると、残った仕事を片付ける為に自室へと戻った。

 不在の間、自分の代理として頑張ってくれた雫に助けて貰ったりしながら、少しずつ片付けていく。

 そうして数日かけて全ての仕事を片付けたある日、雪里の部屋を桃香が訪れた。

 

「これは桃香様、わざわざお越しになられたという事は、何か急用ですか?」

 

 寝台で横になって休んでいた雪里は、君主の来訪と同時に気を引き締め直しながら、部屋に入った桃香に椅子を勧める。

 

「ううん、別に急用じゃないんだけど、聞きたい事があって。」

「聞きたい事、ですか?」

 

 椅子に座りながら桃香がそう言うと、雪里は円卓を挟んで対面に座りながら再び訊ねる。

 

「うん。諸葛亮(しょかつ・りょう)さんと鳳統(ほうとう)さんについて詳しく教えて欲しいんだ。」

「朱里と雛里について、ですか。」

 

 雪里が確認すると、桃香は笑みを浮かべながら頷いた。

 それを見た雪里は疑問に思った。

 二人については帰還した時にも説明している。それなのに今また話を聞きたいとは、どういった意図が有るのだろうか。

 とは言え、君主が訊ねてきたのに答えない訳にはいかず、きちんと答えていった。

 翌日、その桃香が居なくなっていた。



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第十一章 旧友と新友・5

『ちょっと諸葛亮さんと鳳統さんの所に行ってきます。護衛には愛紗ちゃんと鈴々ちゃんを連れて行くから心配しないでね。 桃香』

 

 そう書かれた手紙を読んだ雪里は、目の前に居る人物に目を向けながら訊ねた。

 

「……これが、桃香様の部屋に置かれていたのですか?」

「……ああ。因みにこれは、愛紗と鈴々の部屋に有った置き手紙だ。」

 

 雪里の目の前に居る人物――涼は、そう言いながら机の上に二枚の手紙を並べる。

 因みに此処は執務室であり、この場には他に地和(ちいほう)時雨(しぐれ)、雫、星が居る。

 

『義兄上、済みませんが暫くの間留守にします。理由は……もうお分かりでしょうが、荊州へ行かれる桃香様の護衛です。

徐州軍筆頭という大任を任されていながら、その徐州から離れる事は心苦しいのですが、私には桃香様の熱意に抗う術を持ちませんでした……。もし、軍の事に関して何かあった場合には、星や時雨に聞いて下さい。

ああ、桃香様が呼んでいるので文はここ迄にします。……では、行ってきます。 愛紗』

『ちょっと荊州へ行ってくるのだー♪ 鈴々』

 

 何ともまあ、二人の性格が如実に表れた手紙である。

 雪里は二人の手紙を読み終えると、盛大な溜息を吐いた。

 

「何故昨日、朱里と雛里の事を聞いてこられたかと思えば……こういった理由でしたか。」

 

 雪里は額を押さえながらそう呟いた。どうやら今回の件に関して責任を感じている様だ。

 

「桃香ちゃんって、普段はのんびり屋さんだけど、時々大胆な行動をとるんだよね〜。」

「そうだな。俺達も子供の頃から何度驚かされたか。」

 

 一方、雫と時雨の二人はこの状況に慣れているのか、言葉の割には余り驚きもせず、(むし)ろ笑みを浮かべながらそんな事を話している。

 

「何ともはや……どうやらここでは、思ったより楽しい日々が過ごせそうですな。」

 

 そう言ったのは星。君主が突然旅に出るというハプニングに戸惑う涼達を、心底楽しそうに眺めている。

 

「はあ……ある意味、天和(てんほう)姉さんより自由人だわ。」

 

 溜息を吐きながらそう呟いたのは地和。どうやら姉である張角(ちょうかく)を思い出している様だ。

 

「……取り敢えず、桃香達の事は今更どうしようもないから、これからの事を考えようか。」

 

 涼は皆を見ながらそう言った。

 城門の警備兵の話によると、桃香達は昨夜の内に荊州へ向かったらしく、今から追い掛けても追い付けず、下手に騒げば要らぬ混乱を招く事になってしまう。

 桃香達は城門の警備兵達に「急用が出来たので私達は荊州へ向かいます。後の事は御遣い様に任せてあるので、ご安心下さい。」と言って出て行ったらしい。

 警備兵達は、天の御遣いが残るなら心配無いと思ったらしく、今朝方涼達が桃香達の不在に気付いて警備兵達に訊きに来る迄何もしていなかった。

 

「いくらなんでも、たった三人で徐州から荊州に行くのがおかしいと思わないのかなあ。」

「……まあ、私が先日迄一人旅をしていましたからね。」

 

 涼が疑問を口にすると、雪里が苦笑しながらそう言った。

 確かに、雪里はたった一人でここ徐州から荊州に行き、無事に戻ってきている。しかも沢山の兵を手土産にして。

 警備兵達はそういった事実を知っていたからこそ、たった三人で徐州へ向かうという桃香達を止めなかったのだろう。

 

「先程清宮殿も仰られた様に、過ぎた事を言っても仕方ありません。取り敢えず、州牧代理は清宮殿に、その補佐は地和さんに任せます。」

「えっ? 涼は解るけど、何でちぃがその補佐なの?」

「桃香様が居ない今、その代わりが出来るのは二人しか居ません。“天の御遣い”である清宮殿と、“劉玄徳の従姉妹”である地香(ちか)さんだけです。」

「ああ、成程ね。」

 

 雪里の説明を受けて、自分が対外的には「劉玄徳の従姉妹」として名が通っている事を思い出し、納得する地和。

 ここに居る者達は皆、地和が黄巾党の「張宝(ちょうほう)」だと知っているが、他の者達、つまりは徐州に来てからの者達は皆、地和を桃香の従姉妹である「劉徳然(りゅう・とくぜん)」と認識している。

 星は仲間になったのは徐州に来てからだが、地和の処遇について話し合ったあの場に居た為、地和の事を知っていた。

 そうした事情もあり、地和は今回の人選には欠かせない人材なのだ。

 

「はい、そういう事です。」

「だが、桃香様の不在を羽稀殿達にはどう伝えるつもりだ?」

 

 頷く雪里に対してそう訊ねたのは星。付き合いが長く、桃香達の人格や性格を知っている彼女達と違い、羽稀達は知り合ってから未だ日が浅い。

 そんな彼女達がこの事を知ったらどんな反応をするか。大混乱に陥ったり、下手をしたら反発を招くかも知れない。

 それを承知の上の涼は、雪里が星に答える前に決断した。

 

「……どう取り繕ったって、何れは本当の事が知られるだろう。人の口に戸は立てられないからね。」

「……それはつまり、初めから本当の事を知らせるべきという事ですか?」

 

 涼の言葉を先回りするかの様に、結論を確認する雪里。

 涼はそれに頷いて答えると、皆の顔を見ながら自分の考えを述べ始めた。

 

「勿論、混乱や反発は考えられるけど、桃香が徐州の州牧である限り、こんな事がまた起きないとは限らない。なら、ここで隠すよりは話した方がマシかと思うんだ。」

「確かに、桃香ちゃんならまた何かしそうだよね。」

「あいつは何に関しても一途だからな。それが良い事と判断したら、間違いなくまたやるだろう。」

 

 涼の説明を聞いていた雫と時雨が、納得した様に首を縦に振りながら言葉を紡ぐ。

 

「幼馴染みである時雨達がそう言うのであれば、間違いなかろう。地和はどう考える?」

「ちぃも、涼や雫達と同意見かな。桃香って、自分の事より他人が優先って考えだから、多分またこんな事をしそうだもんね。」

 

 星に話を振られた地和は、義理の従姉妹でもある桃香をそう評した。

 その答えに星は苦笑するも、決して否定的ではなかった。

 漢王朝が衰退し、黄巾党の乱や十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)等により、世の中は乱れ始めている。

 そんな世の中において、自分より他人を思いやる事が出来る桃香を、星はとても好ましく思っていた。

 だからこそ、ともすれば無責任かつ無謀な今回の桃香の行動も、余り大した事ではないとさえ思っている。

 確かに、桃香は一時的とは言え州牧という職務を放棄している。だが、それは部下、いや、桃香の言い方で言えば仲間や友達である雪里の失敗を補おうとしての行動だ。

 一時的に放棄している州牧の仕事も、事後報告とは言えちゃんと託している。まあ、了承を得る事はしていないが。

 護衛に関しても、義妹(いもうと)である愛紗や鈴々の武はよく知っているので問題は無い。

 大軍に包囲されては流石に危険だろうが、野党くらいなら例え百人居ても二人には勝てないだろう。

 そうした事を考えた末に、星もまた涼の考えに同意した。

 残る雪里はと言うと、皆の発言に耳を傾けながら、事実を隠した場合と明らかにした場合の損得勘定を頭の中で考えていた。

 どちらの場合でも損得は有る。実際、世の中の物事は損しかない、得しかないという方が少ないだろう。

 そうして考えた結果、雪里もまた涼達と同じ答えに辿り着いていた。

 

「……どうやら、皆は清宮殿に賛成の様ですね。」

「おや、軍師殿は反対なのか?」

 

 自分とは違う意見を口にした雪里を、意外そうに見ながら星は訊ねた。

 だが雪里は、単に反対する為にそう言ったのでは無かった。

 全員が何の不満も言わずに安易に賛成しては、いざという時に誰かから反対意見が出た場合に、ちゃんとした判断を下せない危険性がある。

 そうならない為に、一応は意見を述べ、判断能力を養っておこうと思っていたのだ。

 

「反対と言う訳ではありませんが、皆さんが余りにも楽観的な様でしたのが少し気になりましてね。」

 

 そして、その為に直接的な物言いはしない雪里。

 

「うっ……。」

「……そう見えた?」

「ええ。」

 

 また、その為には少しくらい意地悪な役目も進んでやるのが、徐元直こと雪里という少女だった。

 そうして話し合った結果、涼達は羽稀達を呼ぶ事にした。

 主要メンバーが揃うと、涼は桃香達が急用の為に荊州へ向かった事、その間の代理を涼、補佐に地香、軍部筆頭代理と補佐はそれぞれ星と時雨が務める事を伝えた。

 突然の事に皆、多少は動揺していたものの、涼達が危惧していた混乱や反発は起きなかった。

 皮肉にも、警備兵達が思っていた「天の御遣いが居れば大丈夫」という考えを、どうやら羽稀達も持っていた様だ。

 なんだかんだで、徐州は平和である。

 

 

 

 

 

 そんな平和な徐州から遠く西方に在る都、洛陽(らくよう)

 言わずとしれた漢王朝の首都。そこに在る屋敷の一つでは、今まさに事件が起きていた。

 

「……義父上(ちちうえ)、何故!?」

 

 紅い髪の少女は、目の前に居る初老の男性を戸惑いの眼で見ながら、そう叫んだ。

 紅い髪の少女が「義父上」と呼ぶ初老の男性は、紅い髪の少女の問いに答えながら抜き身の剣を振り上げた。

 

「お前は生きていてはいけないのじゃ……呂布(りょふ)!」

 

 初老の男性は呂布と呼んだ紅い髪の少女に向かって、手にした剣を振り下ろす。

 呂布はそれを難なくかわすが、初老の男性は二撃三撃と追撃してくる。

 その太刀筋はどれも呂布にとってはかわすのに何の苦も無いのだが、相手が義父なだけに反撃が出来ないでいた。

 

(れん)が……生きていちゃいけない……?」

「そうじゃ! じゃから、お主の義父であるこの儂、丁原(ていげん)自らが殺してやろう‼」

 

 初老の男性――丁原はそう叫びながら、呂布――恋に向かって容赦なく剣を振り続ける。

 勿論恋にその攻撃は当たらないが、反撃出来ない恋に対して攻撃が止む事は無い。

 そうして暫くの間同じ事の繰り返しになっていたが、突然恋は何かに足をとられて転んでしまった。

 

「……っ!」

 

 だが、そんな不意の出来事にも瞬時に受け身をとり、床への直撃を避ける恋。

 それと同時に周りを見ると、空の酒瓶がコロコロと恋の足下を転がっている。どうやらこれに足を乗っけてしまった為に、倒れてしまった様だ。

 丁原の攻撃を避けている内にいつの間にか厨房に来ていたらしく、周りには転倒の衝撃で落ちたのか割れた皿の破片や包丁が散乱している。

 と、呑気に観察している時間は恋には無かった。

 

「死ねええっ‼」

 

 受け身をとっているとはいえ、床に倒れている事に変わりがない恋を見据えながら、丁原は剣を振り上げる。

 だが、その剣が振り下ろされる事は無かった。

 

「ぐっ……っ!」

 

 丁原が剣を振り下ろすより速く、恋は近くに落ちていた包丁を手に取ると、それを丁原の腹部に突き刺した。

 

「あ……っ!?」

 

 恋は包丁を手にしたまま小さく呟き、だが表情は常と違って大きく変化した。

 どうやら、自分がした事に驚いている様だ。

 先に攻撃を仕掛けたのは丁原だ。だが、だからと言って恋は義父に刃を向ける事が出来ない。

 涼の世界に伝わる呂布なら兎も角、ここに居る呂布――は本来、心優しい少女なのだから。

 それなのに今、恋は丁原を刺している。何故か?

 丁原が恋に向かって剣を振り下ろそうとする直前、恋はその意識とは無関係に体が動いていた。

 それは戦いの中で鍛え上げられた、類い希なる反射神経が自分の身を守ろうとした結果によるもので、そこに恋の意思は無い。

 だからこそ、恋は現状を把握するにつれて包丁を持つ手が震えていった。

 戦場では、初陣の時でさえ武器を持つ手が震えなかったというのに。

 

「ち……義父上…………っ!」

 

 恋は手だけでなく声も震わせながら反射的に包丁を抜き、床に放り投げると、丁原から目を逸らさずにゆっくりと後ずさった。

 

「……この、親……殺しめ…………ぐふっ!」

「……っ‼」

 

 丁原は恋を睨みながらそう言葉を絞り出すと吐血し、呆然とする恋の前にドサッと倒れた。

 恋が恐る恐る近付いて確認すると、丁原はカッと目を見開いたまま、ピクリとも動かない。既に事切れているのだ。

 腹部から流れ出る血は瞬く間に床を朱に染めていき、辺りを血の海に変えた。

 恋は呆然としたまま、座り込んでしまっていた。

 

「一体何の騒ぎやっ! ……っ!?」

 

 と、そこへ、騒ぎに気付いた少女が厨房へと駆け込んできた。

 少女の髪は紫色で所々逆立っており、その瞳は鋭く力強い。

 

「…………(しあ)。」

 

 恋はその紫色の髪の少女を霞と呼んだ。だがその言葉には力が無く、視線も安定していない。

 

「旦那っ! ……恋、一体何があったんや!?」

 

 霞は丁原の死を確認すると、その傍で呆けている恋の肩を揺さぶりながら訊ねる。

 恋は目の前に居る霞にすら焦点を合わせられないまま、まるで独り言の様に呟いていった。

 

「義父上が……急に斬りかかってきて……恋は生きていちゃいけないから……転んだら斬られそうになって…………刺した…………。」

 

 そこ迄言うと、恋は俯いたまま黙り込んでしまった。

 霞はそんな恋と丁原の死体を見ながら、心の中で叫んだ。

 

(何でや!)

 

 それは疑問。

 

(何で丁原の旦那が恋を殺そうとするんや‼)

 

 それは有り得ない事が起きた事に対する、疑問と怒り。

 

(あんなに仲が良かったやないか……。血が繋がってるとか繋がってないとか関係なく、“親子”しとったやないかっ‼)

 

 在りし日の丁原の姿と、その隣で表情は余り変わらなくても楽しそうに過ごしている恋の姿を思い出しながら、その疑問は絶叫となって心の中に轟いていった。

 そうして心の中で絶叫と思考を終えた霞は、未だに放心状態の恋へと向き直った。

 

「……恋、しっかりするんや。」

「…………。」

「受け入れ難いんはよう解る。せやけど、今はそないのんびりされては困るんや。」

「…………。」

 

 恋が反応しないのも構わず、霞は話し続ける。

 

「事情はどうあれ、丁原の旦那は死んだ。なら、今のウチ等には旦那の跡を継ぐ人間が必要や。」

「…………。」

「そしてそれは、旦那の娘である恋、アンタしか居らんのや。」

「…………でも、恋は義父上を殺した。……恋にそんな資格は無い……。」

 

 漸く恋は口を開いた。その口調は弱々しく、相変わらず眼に力は無かったが、さっきよりは一歩前進したと見た霞は更に話を続ける。

 

「自分の欲の為に旦那を斬ったのなら兎も角、乱心した旦那を斬ったのやから資格が無い訳や無い。」

「でも……。」

「さっきも言うたけど、今の丁原軍を纏められる人間は恋以外に居らへん。選択肢は無いのや。」

「霞が居る……。」

「アカンアカン。確かにウチは部隊の指揮は出来るし旦那への恩義も有る。けど、恋を差し置いて跡を継ぐ事は出来へんのや。それこそ、資格が無いんやからな。」

 

 霞がそう言って断ると、恋は今迄とは別の意味を持つ悲しい表情で霞を見つめた。

 そんな顔が出来る程落ち着いたんか、と思いながら霞は気を引き締め、言葉を紡ぐ。

 

「……覚悟を決めとき。勿論、ウチも力を貸すし、恋は恋らしくしとるだけでええんや。」

「恋、らしく……。」

「そうや。旦那の娘として、今迄通りに、な。」

「……………………解った。」

 

 逡巡の末、恋は決意し、ゆっくりと立ち上がった。

 

「なら、得物を持って中庭に来てや。そこで恋が跡を継いだ事を兵士達に知らせるんやから。」

「うん……。」

 

 霞にそう言われた恋は、未だ少しフラフラしながら厨房を出て行った。

 その後ろ姿を見送ると、霞は一つ息を吐く。

 

「誰か()るか!」

 

 それから大声で呼ぶと、兵士が一人やってきた。

 その兵士は丁原の死体を見て驚いていたが、霞の説明を受けて幾分か落ち着きを取り戻した。

 霞の指示を受けた兵士が走り去るのを見てから、霞は改めて床に倒れている「主」に語り掛ける。

 

「……本当に、何があったんや。」

 

 勿論、その答えが得られる事は無かった。

 丁原軍の大将が恋になり、「呂布軍」と生まれ変わるのはその一刻後の事である。




第十一章「旧友と新友」をお読みいただき、有難うございます。

初めに言いますと、タイトルの「新友」は誤字ではありません。「旧友」との対比に使った言葉です。まあ、普通に「しんゆう」と打っても変換はされないですが。

今回は「横山光輝三国志」の、徐庶が劉備軍を離れて諸葛亮の家に行く話を元にして、この様な勧誘シーンを書いてみました。恋姫の諸葛亮が勧誘を断るには、何か理由が必要だなと思い書いたのですが、予想以上に重い話になってしまいましたね。
で、桃香自身が荊州に行くという話になっちゃいました。果たしてどうなる事やら。

最後のシーンは言うまでもなくフラグですが、これの回収は未だ先ですので、のんびりと御待ち下さい。

次はいよいよあのエピソードです。ごゆっくりお楽しみ下さい。
ではまた。


2012年11月30日更新。

2017年5月15日掲載(ハーメルン)


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第十二章 三顧の礼・1

人材を得る為に、州牧自ら赴く。

普通なら有り得ないだろう。事実、呆れかえる人も居た。

だが、その評価が正しいかは誰も知らない。

もっとも、他人の評価を気にしないのが桃香の良い所でもあるのだが。



2010年12月6日更新開始。
2011年2月10日最終更新。

2017年5月16日掲載(ハーメルン)


「良い天気だねー。」

「本当ですね……雲一つ有りません。」

「とっても晴れ晴れで愉快なのだっ。」

 

 三人の少女が、それぞれの馬に乗って進んでいる。

 空を見上げながら、最初に言葉を発した長い桃色の髪の少女の名は劉備(りゅうび)真名(まな)桃香(とうか)

 徐州(じょしゅう)州牧(しゅうぼく)という立場に居るのだが、そうは見えない。誰に対してもフレンドリー過ぎるからだろうか。

 その桃香の声に応えた黒髪サイドテールの少女の名は関羽(かんう)、真名は愛紗(あいしゃ)

 徐州軍筆頭を務める程の実力の持ち主であるクールな彼女は、桃香の義妹(いもうと)でもある。

 最後に明るく応えた赤い髪の少女の名は張飛(ちょうひ)、真名は鈴々(りんりん)

 徐州軍では愛紗に次ぐ立場である彼女も桃香の義妹であり、愛紗の義妹でもある。パッと見は元気一杯な小さい女の子だが、その実力は愛紗に勝るとも劣らないらしい。

 彼女達が居るのは隆中(りゅうちゅう)という小さな村。未だ陽は高く、周りに目をやれば畑仕事に精を出す人々の姿が見てとれる。

 

「……と、現実逃避してみたけど、これからどうしよっか?」

 

 何故か急にテンションが下がった桃香が愛紗に訊ねる。

 

「私に聞かれても困ります。……それに、どうするも何も、既にお決めになられているのではありませんか?」

「まあ、そうなんだけどねー。」

 

 桃香はそう言うと再び空を見上げ、溜息を一つ吐いた。

 

「まさか、留守だとは思わなかったからなあ〜。」

「仕方ありませんよ。先方には、私達が訪ねる事を知らせていないのですから。」

 

 愛紗がそう応えると、鈴々も言葉を繋ぐ。

 

「それに、あの女の子は結構おっかなかったのだ。」

「そうだったね〜。最初は笑顔だったのに、私達が徐州から訪ねてきたって知ると、凄い剣幕で怒ったし……。あの子、何て名前だったっけ?」

「確か、“黄月英(こう・げつえい)”と名乗ってましたね。あの様子だと、どうやら諸葛亮(しょかつりょう)殿の親友の様です。」

 

 つい先程の出来事を思い出しながら、三人は馬の歩を進める。

 諸葛亮の家に着いて門から声をかけると、玄関から鈴々と余り背丈の変わらない一人の少女が現れた。

 紅く長い髪に健康的に焼けた肌、大きな碧眼に活発そうな雰囲気の少女は、突然の来訪者を最初は訝しがりながらも、やがてきちんと笑顔で応対していた。

 勿論愛想笑いだろうが、その時に見えた八重歯が可愛いなと、桃香は思っていた。

 だが、その笑顔は怒りの表情へと豹変する。

 

『また徐州からなの!? 朱里(しゅり)ちゃんは居ないから帰って!!』

 

 桃香が『私は漢の別部司馬(べつぶ・しば)、領は徐州の牧、下邳(かひ)劉備玄徳(りゅうび・げんとく)です。』と自己紹介をした途端に、少女の顔から笑みが消え、烈火の如く怒りだしたのである。

 突然の事に驚き戸惑いながらも、桃香達は何とか話をしようとした。

 だが、少女はそんな桃香達の言葉には耳を貸さず、

 

『この黄月英が居る限り、朱里ちゃんには指一本触れさせないんだからっ‼』

 

と叫びながら、何処からか取り出した短剣を振り上げた。

 これには桃香は勿論、愛紗達も驚き、慌てて馬に乗ってその場から離れた。

 そして今に至る。

 

「あんな恐い女の子が居るなんて、雪里(しぇり)ちゃんは言わなかったのになあ。」

「雪里の性格なら、知っていれば教えたでしょう。……命に関わりますし。」

「本当に危なかったのだー。」

 

 そう言いながら桃香は勿論、愛紗と鈴々も冷や汗を浮かべていた。

 

「けど……折角ここ迄来たのに、諦める訳にはいかないよね。」

「何せ、義兄上(あにうえ)達には内緒で出て来ましたからね。」

 

 桃香の言葉に愛紗が応える。その口調は、元来真面目な愛紗らしくない、少し意地悪な感じだった。

 

「うぅ……このままじゃ(りょう)義兄(にい)さん達にすっごく怒られちゃうだけだよー。」

「だったら、何回も訪ねて行ったら良いのだっ。そうすれば、その内に孔明(こうめい)とも会えるかも知れないのだっ。」

 

 鈴々がそう言うと、落ち込んでいた桃香の表情が一気に明るくなっていった。

 

「そ、そうだよねっ。元々そのつもりだったし……よーし、愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、諸葛亮さんと会う迄頑張ろうねっ。」

「はい、頑張りましょう。」

「頑張ろー、なのだっ!」

 

 元気になった桃香が右手を高々と突き上げながらそう言うと、愛紗と鈴々もそれぞれ手を上げて応えた。

 そうして先程迄の暗い雰囲気から完全に脱却した桃香達は、そのまま宿へと馬を走らせる。

 そんな中、愛紗は笑顔の桃香と鈴々を見ながら一人思案に耽っていた。

 

(しかし……先程の少女が言った様に、諸葛亮殿は本当に留守だったのだろうか?)

 

 今来た道を振り返りながら、愛紗は考えを続ける。

 

(もし、本当に留守だったのだとしたら、家人が居ない家に何故あの少女が居たのだ? 留守番を頼まれた、という事も考えられるが、普通に考えれば居留守を使った、と考えるべきであろうな。)

 

 そこ迄考えて、引き返すべきか迷ったが、今戻っても同じ事の繰り返しだろうと判断する。

 どうやら、またあの少女に襲われるのは嫌な様だ。

 

「愛紗ちゃーんっ、何してるのー?」

「あ、はい、今行きますっ。」

 

 いつの間にか遥か前方に居る桃香が、馬を止めて愛紗に向かって手を振っている。

 愛紗は馬を走らせ、距離を詰める。

 愛紗が隣に来るのを確認すると、桃香と鈴々は再び馬を進めた。

 一先ず今日は帰ろう、と改めて桃香が言うと三人は頷き、その場から離れていった。



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第十二章 三顧の礼・2

 翌日、愛紗は一人で襄陽(じょうよう)の街を歩いていた。

 かと言って、只ふらついている訳ではなく、きちんとした目的を持って歩いている。

 

「確かこの辺りだと聞いたのだが……。」

 

 宿の主人から聞いた目的地に向かいながら、呟く愛紗。

 道行く人々をそれとなく見ると、どの人も楽しそうに微笑みながら歩いている。それにつられて愛紗も微笑んだ。

 襄陽の街は荊州(けいしゅう)の治所に定められている事もあって人通りも多く、活気に満ち溢れている。

 元々、襄陽は漢水(かんすい)の中流域に当たり南岸にあっては樊城(はんじょう)と対峙していたり、古来より関中(かんちゅう)中原(ちゅうげん)長江(ちょうこう)中流域といった地域を結ぶ要の地であった。

 そうした事情もあり、漢水沿岸では最大の都市であるこの地は、交通の要衝として栄えているのである。

 また、栄えているという事は人が多いだけでなく物も多いという事であり、愛紗の目的にとっても丁度良かった。

 

「ああ、在った在った。」

 

 その目的地を見つけると、愛紗は心做しかホッとしていた。

 だが愛紗はその事に気付かぬまま、そこに在る建物に入ろうとした。

 

「……げっ。」

 

 が、その建物から出て来た人物が愛紗を見た途端にそんな声を出すと、愛紗は思わず足を止めた。

 目の前に居るその人物は、よく知ると迄はいかないが忘れられない人物だった。

 

「黄月英殿? こんな所で会うとは奇遇ですね。」

「……そうね。」

 

 比較的冷静に振る舞う愛紗と違い、黄月英は明らかに愛紗を敵視して睨みつけている。

 

 昨日の様に怒らないのは、ここが沢山の人が通る天下の往来だからだろうか。もしここが昨日と同じ場所なら、また短剣を振り上げていたかも知れない。

 

「……? 蒼詩(そうし)ちゃん、どうしたの?」

 

 と、そこに、黄月英が出て来た建物から、彼女と似た背丈の少女が現れた。

 手には紙袋を抱えており、買い物を済ましたのだろうと推測出来る。

 

「しゅ、朱里っ!? な、何でも無いから別に気にしなくて良いわよっ。」

 

 黄月英は慌てながらその少女を「朱里」と呼んだ。

 愛紗はその少女――朱里を見ながら、以前雪里から聞いた事を思い出す。

 それによると、雪里の親友である二人の少女、諸葛亮と鳳統(ほうとう)の真名はそれぞれ「朱里」と「雛里(ひなり)」といった。

 

(……つまり、この少女が諸葛亮殿か。)

 

 愛紗は目の前に居る少女をジッと見ながら、思案に耽る。

 雪里より背が小さく、顔は幼さを残している。パッと見は鈴々と変わらない程幼いこの少女が、雪里が太鼓判を押す程優れているとは思えなかった。

 勿論、人は見かけによらないという事は鈴々の義姉(あね)である愛紗がよく知っている。それでもそう疑問に思ってしまう程、少女は幼く見えたのだった。

 

「……貴女は?」

 

 その少女が愛紗に訊ねる。

 それに気付いた瞬間、愛紗は反射的に身構えようとした。

 先程迄少女から感じていた穏やかさは最早無く、感じるのは全てを見通そうかという視線と威圧感。

 雪里の話から察するに、恐らく武の心得は無い筈のその少女は、今確かに愛紗を、関雲長(かん・うんちょう)を圧倒していた。

 

(これは……っ! ……フッ、どうやら私はまだまだ修行が足らんという事か。)

 

 愛紗は少女の威圧を受け止めながらそう自嘲する。

 そうして愛紗が少女の威圧に耐えると、何事も無かったかの様な表情で答えた。

 

「私の名は関雲長。我が義姉劉玄徳と、義妹である張翼徳(ちょう・よくとく)と共に、とある人物を訪ねる為、遙々徐州からやってきた次第です。」

「徐州からとある人物に……ですか。宜しければ、その人の名前を教えていただけませんか?」

「“臥龍(がりゅう)”こと諸葛孔明(しょかつ・こうめい)殿と、“鳳雛(ほうすう)”こと鳳士元(ほう・しげん)殿です。」

 

 少女の問いに迷う事無く愛紗が答えると、少女の表情が一瞬だけ、ほんの僅かだけ変わった。

 その一秒も無い変化を愛紗は見逃さない。既に雪里や黄月英の言葉から、この少女が諸葛亮だと確信していた。

 そしてそれは、他ならぬ少女自身によってより強固なものへと変わったのだった。

 少女も自分の失態に気付いたのか、その口元が小さく歪む。今度は隠そうとはしなかった様だ。

 

「……会えると良いですね。」

「ええ。」

 

 互いに目線を離さぬまま、言葉を交わす二人。

 武と文。対極たる二つの分野をそれぞれ極めつつある二人は静かに、だが熱く視線を交えていた。

 

「……で、そのアンタが何でここに居るのよ?」

 

 そんな空気を嫌ったのか、黄月英は少女を庇う様に前に出ながら、愛紗に訊ねる。

 その問いに、愛紗は若干表情を暗くして答えた。

 

「実は桃香様……劉玄徳様が昨夜熱を出されてな。宿に有った薬は余り効かなかったので、薬を買いに来たのだ。」

「熱冷ましの薬、ですか……。」

 

 愛紗の話を聞いた少女と黄月英は、何故か互いに顔を見合わせ、やがてしかめた。

 そんな二人の行動に、愛紗は怪訝な表情を浮かべる。

 

「……どうした?」

「……実は、この店にはもう熱冷ましの薬は無いんです。」

「なっ!?」

 

 少女の言葉に驚いた愛紗は、思わず少女の両肩を掴む。

 

「ど、どういう事だっ!?」

「はっ、はわわっ!?」

 

 愛紗は少女の肩を揺さぶりながら訊ねる。

 その表情はそれ迄の柔らかさを残した表情とは違い、武人・関雲長の形相になっていた。

 そんな愛紗に揺さぶられ続ける少女は、目を回しながら可愛らしい声を上げている。

 

「ちょっと! そんなに動かしたら朱里が倒れちゃうじゃない‼」

 

 黄月英が怒りながら少女と愛紗の間に割って入り、少女の身を愛紗から離した。

 

「あっ……す、済まない。」

「はわわ〜……。」

 

 すっかり目を回した少女は、相変わらず可愛らしい声を出しながら目を回し続けている。

 そうして少女の目が回り続けている間、愛紗は黄月英に怒られ続けた。

 その黄月英も、正気を取り戻した少女から注意を受けていた。

 

「……つまり、貴殿の妹君と黄月英殿のお父上が発熱したので、熱冷ましの薬を買ったという訳か?」

「はい。その……済みません……。」

 

 それから、少女達から説明を受けた愛紗が状況を把握し、少女は申し訳なさそうに俯いた。

 

「謝る必要は無い。私が桃香様を大切に想っている様に、貴殿等も家族を大切に想っているのだろうからな。」

「はい。」

 

 少女の二度目の「はい」はハッキリと、力強く口にした。家族を想う気持ちはちゃんと表明しないといけないと思ったのだろう。

 

「……さて、ならば私は他の薬屋を探すとするか。」

 

 愛紗はそう言って二人に背を向ける。瞬間、その二人が同時に「あっ」と声を出した。

 

(この街に薬屋は他にも在る……。けど、そのどこにも熱冷ましの薬は、無い……。)

 

 少女は自分が知る事実を胸中で呟く。

 

(知らせないとこの方が徒労に終わるけど、知らせたらきっと悲しむ……なら……。)

 

 少女は暫く考えていたが、やがて意を決すると、愛紗に向き直って言葉を紡いだ。

 待って下さい、という少女の声に気付いた愛紗が足を止めて振り向くと、少女は手元の紙袋から小さな袋を取り出して言った。

 

「あの……全部は渡せませんが、少しなら……。」

「だが、それでは……。」

「元々、予備を含めて多めに買っていたのでこれ一つ無くても構わないんです。それより、今は早く薬が必要なんですよね?」

 

 少女はそう言いながら、小さな袋を愛紗の目の前に差し出す。

 愛紗はその小さな袋を暫くの間見つめたままだったが、やがて小さく息を吐くとゆっくりとそれを手に取った。

 

「感謝する。」

「どう致しまして。」

 

 愛紗は一礼して感謝を述べ、代金を渡して小さな袋を仕舞うと再び感謝の意を示してから宿へと戻っていった。

 その後ろ姿を見送った後、黄月英がポツリと呟く。

 

「……予備なんか買ってないくせに。」

「あはは……。」

 

 少女は苦笑いするしかなかった。

 実は、少女は熱冷ましの薬を買ってはいたが、予備は買っていなかった。

 

「あんな奴ほっとけば良いのに……薬足りるの?」

「ちゃんと足りるから大丈夫だよ。……それと蒼詩ちゃん、いくら私を連れて行きたい人の仲間でも、困っていたら助けないとダメだよ。」

「それは解るけど……朱里はお人好しだと思うわ。」

 

 そう言った後、続けて、だから私がシッカリしないと、と小さく呟いたのを少女は聞き逃さなかった。

 その後、二人は薬を持ってそれぞれの家へと帰って行った。



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第十二章 三顧の礼・3

 それから三日後。

 

「桃香様、本当に大丈夫なのですか?」

「大丈夫大丈夫♪ もう熱は下がってるし、そんなにノンビリしてられないしね。」

 

 隆中への道を桃香、愛紗、鈴々の三人が馬に乗って進んでいる。

 桃香を真ん中にして、その両隣を愛紗と鈴々が守る様に馬を寄せていた。

 

「けど、無理して倒れたら大変なのだ。孔明の家に行くのは鈴々達に任せて、桃香お姉ちゃんは宿で休んでいたら良いと思うのだ。」

「有難う鈴々ちゃん。でも、それはダメだよ。諸葛亮さんを説得する為に来たのに、私が出向かなかったら意味が無いもの。」

「かといって、訪問先で倒れたりしたら先方に迷惑をかけてしまいますよ。」

「うぅ……それを言われると困っちゃうよぅ。」

 

 気遣う鈴々に対しては確固とした意志を持って話していた桃香だったが、その意志は愛紗に対しては弱かったらしい。

 うなだれる桃香に苦笑しながら、愛紗はフォローをいれた。

 

「まあ、その誠実さと行動力は桃香様の美点ですから、そんなに落ち込む事は無いかと思います。」

「愛紗ちゃん……っ。」

 

 途端に笑顔になって愛紗を見つめる桃香。心做しか、瞳がいつもよりキラキラしている。

 何ともテンションの差が激しいものだ。

 

「ええーっ! 諸葛亮さん、また留守なんですか!?」

 

 三人のやり取りの後、隆中の諸葛亮宅に着いた桃香達に待っていたのは、またしてもそんな事実だった。

 今回桃香達の応対をしたのは黄月英ではなく、諸葛均(しょかつ・きん)と名乗る小さな少女だった。どうやら諸葛亮の妹らしい。

 

「済みません。姉は今朝、蒼詩さんと紺杜(こんと)さん……黄月英さんと崔州平(さい・しゅうへい)さんといった友人達と出掛けたんです。」

「どこに行ったか解りますか?」

「いえ……。姉は好奇心が旺盛で、湖に船を浮かべる事もあれば山寺に登る事もあります。ですから、妹である私も行く先迄は解らないんです。」

「そうですか……。」

 

 諸葛均の説明を聞いた桃香は、誰が見ても解るくらいに落ち込んだ。

 説得したい相手が不在というのだから当たり前だが、実はそれだけでは無かった。

 彼女は、自分の為に薬を分け与えてくれた事に対して、お礼が言いたかったのだ。

 しかも、愛紗の推測によれば予備の分を買っていると嘘をついて迄、その薬を分けてくれたらしい。

 推測なので実際はどうか判らないが、もし本当にそうならちょっと悪い事をした気になる。

 

「じゃあ、また明日来ます。」

「いえ、姉は今回の様に友人と外出すると中々帰らない事もありますから、明日居るとは限りませんよ。」

「うーん……じゃあ、諸葛亮さんに手紙を残したいので紙と筆を貸してくれますか?」

「構いませんよ。では、こちらへどうぞ。」

 

 諸葛均は桃香の頼みを聞き入れ、三人を応接室へと招き入れた。

 暫くして紙と筆が用意されると、桃香は諸葛均に一礼してから椅子に座り、机に向かって筆を手に取った。

 

(只の手紙じゃ、きっと諸葛亮さんには伝わらない……だから、この手紙は誠心誠意を込めて書かないと。)

 

 桃香はそう思いながら筆を進める。

 一字一字に想いを込め、言葉を選び、相手に自分の気持ちが伝わる様に願いながら書いていく。

 だからだろうか、同室で待つ鈴々は待ちくたびれたらしい。

 

「桃香お姉ちゃん、詩でも書いてるのー? 早くしてなのだ〜。」

 

 近くの長椅子に座っている鈴々は、足をバタバタさせながらそう言った。

 

「こら鈴々、桃香様の邪魔をするでない。」

「えー、だって退屈なんだもーん。」

「アハハ……鈴々ちゃん、もう少しだけ待っててね。」

 

 共に長椅子に座っている愛紗に窘められるも、鈴々は不満を露わにし続ける。

 そんな二人に苦笑しつつ、桃香は尚も筆を進めた。

 

「……これでよし、と。」

 

 暫くして手紙を書き終えた桃香は、大きく伸びをしてから手紙を纏め、ゆっくりと立ち上がると諸葛均の(もと)へと向かう。

 因みに諸葛均は、同室に在るもう一つの長椅子に座り、愛紗達と対面していた。

 

「それじゃあ諸葛均さん、この手紙を諸葛亮さんに渡して下さい。」

「解りました。」

 

 諸葛均は桃香から手紙を受け取ると、大事そうに懐に仕舞った。未だ幼いのに、しっかりしている様だ。

 その諸葛均は、桃香達にお茶や甘味を振る舞ったり、愛紗に訊かれた際に「孫子(そんし)」の書き出し文から数ページ分を暗唱したりと、流石は噂の諸葛亮の妹という人物だった。

 桃香はそんな諸葛均も連れて行きたくなったが、諸葛亮すら連れて行けるか解らないのに欲を出しては駄目だと自制し、口には出さなかった。

 そうして暫くの間話をしてから、桃香達は宿へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 その夜、諸葛亮こと朱里は、黄月英こと蒼詩と共に帰ってきた。

 その為、劉備達にああ言っていた諸葛均こと緋里は、彼女達に悪かったかなと思った。

 因みに、崔州平こと紺杜は疲れたらしく、ここには寄らずに自宅に帰っていた。

 

「お姉ちゃん、これ。」

「……手紙?」

 

 食事を終えた朱里が一息ついていると、緋里は懐から手紙を取り出し、朱里に手渡した。

 

「劉玄徳さんから、お姉ちゃんへの手紙だよ。」

 

 緋里がそう言うと、お茶を飲もうとした蒼詩の手が止まる。

 

「あいつ等、またやってきたの!?」

「うん。お姉ちゃんが不在だと伝えると物凄く落ち込んでたよ。」

「そりゃ、あいつ等の目的は朱里を連れ去る事だもん。居なかったらガッカリするわよ。」

「連れ去るって……アハハ……。」

 

 蒼詩の言葉に苦笑する緋里。勿論、劉備達が朱里を無理矢理連れて行くつもりが無いのを緋里や朱里は知っていたし、恐らく蒼詩も解ってはいるのだろう。

 だが、朱里を大切に想っている蒼詩にとっては、朱里が連れて行かれる事自体が許されない事なのだ。

 しかも、それによって戦に巻き込まれるのなら尚更だ。

 

「……けど、手紙を読まないのは失礼だよね。」

 

 朱里が呟く様に言うと、蒼詩は何か言いたそうな表情になったが、それから暫くの間煩悶すると溜息を一つ吐いてお茶に手を伸ばした。

 そんな蒼詩を穏やかな表情で見つめてから、朱里は手紙に向き直り封を解いた。

 

『私、劉玄徳は筆頭軍師、徐元直(じょ・げんちょく)の推薦もあり、徐州牧の任を一時的とは言え義兄(あに)に委ね、この隆中迄参上仕りました。』

 

 手紙はその様な書き出しで始まっていた。

 

『ですが、残念ながら御不在の様で、私は虚しさを抱えたまま、一旦宿のある襄陽に帰ります。』

 

 続いて、自身の心情と居場所を告げる。

 

『先年に起こった黄巾党(こうきんとう)の乱、そして十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)と、国は乱れました。それは朝廷の権威が無くなり、綱紀が乱れ、逆賊が君を侮る有様だからです。私はそれを見ると心が張り裂けるかの様な思いになるのです。』

 

 そして、この国の現状とそれに対する自身の思いを手紙越しに述べていた。

 思ったより達筆なその文章は、その一文字一文字から切実さを直に訴えてくる様だった。

 

『私はこの国を救おうと思いながら、その策を知らず、今先生におすがりする次第です。』

 

 自分の事を「先生」と呼ばれた朱里は、顔を真っ赤にしながらも手紙を読み続けた。

 

『願わくば、先生の優れた才能を天下国家の為に使って戴ければ、これ以上の幸せは有りません。後日、私の気持ちを述べに参りたいと思っていますが、取り敢えず今のこの気持ちをお手紙にしたためておきます。 劉玄徳』

 

 朱里は手紙を読み終えると、暫くの間手紙に目を落としたまま何かを考えていた。

 蒼詩と緋里はそんな朱里を見詰めながら、彼女の次なる行動、言動を待つ。

 

「……劉玄徳さんと会ってみるね。」

 

 暫くして朱里が発した言葉は、二人にとって予想通りの言葉であり、蒼詩にとっては聞きたくない言葉だった。

 

「……理由は? まさか、徐州に行きたくなったとか言わないわよね?」

「それは判らないよ、蒼詩ちゃん。」

「朱里っ!」

 

 朱里の答えを聞いた蒼詩は思わず立ち上がった。慌てて緋里が宥めるが、それでも蒼詩は着席しようとはしない。

 そんな蒼詩を見詰めながら、朱里はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

 

「勘違いしないで、蒼詩ちゃん。雪里ちゃんに対する答えと、先日の劉玄徳さん達の訪問に対して居留守を使った事。そうした言動と行動の根底である“戦いへの拒絶”は、今でも私の中に確かに有るよ。」

「それなら、どうして……?」

 

 戸惑い気味に訊ねる蒼詩に、朱里は答えとなる言葉を発した。

 

「一つは、州牧という立場でありながら、遠く徐州からこの隆中迄、私を訪ねてくれた事に対する礼かな。」

「……他には?」

「純粋に、劉玄徳という人と会って話がしたいから。この手紙を書いた人と話す事で、私は何を為すのが正しいか知る事が出来る。そんな気がしてきたの。」

 

 勿論、だからといって徐州に行くとは限らないけどね、と付け加える。

 だが、そう言った朱里の表情は雪里の要請を断った時とも、劉玄徳の訪問時に居留守を使った時とも、薬を買いに行って関雲長と会ってしまった時とも違う、比較的穏やかな表情だった。

 それに気付いた蒼詩は半ば諦めの表情を浮かべる。

 確かに、朱里は徐州に行くと言っていない。だが、あれ程忌避していた州牧との面会を望む様になっただけで、朱里の心境が大きく変化したのは誰の目にも明らかだった。

 そして、そんな朱里を何とか引き留めたいと思っていても、今の朱里の心を変えるのが困難だという事も知っている。

 朱里は柔軟な思考の持ち主ではあるが、一度決意した事はそう簡単に曲げない性格の持ち主でもあった。

 その為、蒼詩は何も言えなかった。

 その日はそのままお開きとなり、朱里達はそれぞれ床に就いた。

 因みに、蒼詩はいつもの様に泊まっていった。



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第十二章 三顧の礼・4

 それから三日後、桃香達は諸葛亮の屋敷を三度(みたび)訪れていた。

 

「……やはり、貴女が諸葛亮殿でしたか。」

「はい。その……先日は失礼しました。」

 

 応対した諸葛均によって連れられた部屋に居た諸葛亮と対面した愛紗は、柔らかい笑みを浮かべながらそう言い、一方の諸葛亮は名乗らなかった非礼を詫びた。

 

「お気になさらずに。貴女のお陰で義姉上の熱は下がったのです。礼こそすれ、非難する事は有りません。それに……。」

「それに?」

「私達は雪里から貴女の名前や特徴等を聞いていました。勿論、貴女の真名も。」

「つまり、蒼詩ちゃん……黄月英が私の真名を呼んだ時に、私の正体に気付いていたという事ですか。」

「ええ。」

 

 愛紗の説明を受けた諸葛亮は、困った様にふうと息を吐いたが、一転して笑みを浮かべ、愛紗や鈴々、そして桃香を見て呟いた。

 

「……“大夢、誰か先ず覚む。平生、我自ら知る。草堂に春睡足りて、窓外に日は遅々たり”……ですか。」

「えっ?」

 

 諸葛亮の呟きが聞き取れなかった桃香は、思わず聞き返した。

 

「ああ、お気になさらずに。今のは、今朝方目覚めた時にふと思い付いた詩ですから。」

「詩、ですか。」

 

 諸葛亮がそう言うと、桃香はキョトンとしたまま呟き返した。

 諸葛亮と違って桃香は余り詩を嗜む事が無い為、興味が無いのかも知れない。

 だから、その詩がこの時の諸葛亮の新たな気持ちを表していたとか、色々な意味が含まれていたとかには気付かなかった。

 

「桃香様、世間話も宜しいのですが……。」

「あ、うん、そうだね。……諸葛亮さん、私の話を聞いて頂けますか?」

「はい、もとよりそのつもりでしたから。……ですが、一つ条件が有ります。」

「何ですか?」

 

 居住まいを正しながら諸葛亮がそう言ったので、桃香達も同じ様に居住まいを正しながら聞く体勢になった。

 それを見てから諸葛亮は口を開く。

 

「話は私と劉玄徳さんの二人だけで。つまり、他の方には御退室をお願いします。」

 

 諸葛亮の言葉を聞いた愛紗と鈴々は少なからず驚いた。もっとも、鈴々は余り話し合いに興味が無いのか、直ぐに笑顔になっていた。

 また、桃香はそれを望んでいたのか、余り表情を変えていない。

 そして数分後、部屋には諸葛亮と桃香だけが残っていた。

 

「……一対一で話したい等と我が儘を言ってしまい、申し訳ありません。」

「いえ、元々私達が押し掛けて来ているんですから、気にしないで下さい。」

 

 二人きりとなった諸葛亮の部屋で最初に交わされた会話は、そんな謝罪の言葉だった。

 

「この間残していかれたお手紙、拝見しました。」

「有難うございます。」

「貴女が民を想い、国を思う気持ちがひしひしと伝わり、同時に感服しました。ですが……。」

 

 そこ迄言うと諸葛亮は一旦言葉を切り、数秒間瞑目してから再び言葉を紡いだ。

 

「ですが私は御覧の通りの若輩者の上、浅学です。恐らく貴女の御期待には応えられません。」

「いえ、それは御謙遜です。貴女をよく知る雪里ちゃんの言葉に誤りは無い筈です。」

「雪里ちゃんは黄巾党の乱が起きて以来、劉備・清宮軍の軍師として活躍してきたと聞いています。ですが、私は勉学に励むしか能の無い、只の少女でしかありません。そんな私が何故、州牧である貴女と天下の(まつりごと)を談じる事が出来るでしょうか。」

 

 諸葛亮は桃香が言葉を紡ぐと直ぐ様反論した。

 その弁舌はまさに立て板に水。盧植(ろしょく)門下生で優等生だった桃香でさえ、その滑らかさに目を見張っていた。

 だが、それでも桃香は盧植門下生の意地でも有るのか必死に食らいついていった。

 

「貴女の行動は、玉を捨てて石を拾う様なものです。」

「い、石を玉と見せようとしてもダメな様に、玉を石と言われても誰もそうは思いません。」

 

 桃香は多少どもりながらも、最後は強い口調で言い切った。

 

「先生は十年に一人……いえ、百年に一人出るかどうかという程の天才。それなのに世の為に動かずに山村に身を潜めていては、忠孝の道に背くのではないでしょうか?」

「忠孝の道に背く……。」

「今は国乱れ民安からぬ日。あの孔子(こうし)でさえ民衆の中に立ち、諸国に教えを広めました。今はその時代よりも国が乱れようとしています。それなのに一人山に籠もって一身の安泰を図って良いものでしょうか。」

 

 話していく内に、段々と桃香の口調も滑らかになっていく。

 一方の諸葛亮は、そんな桃香の言葉を静かに聞いていた。

 

「今こそ、先生の様な優れた人が必要とされているんです。民衆はそれを待ち望んでいます。」

 

 そう言うと、桃香はゆっくりと立ち上がり、しっかりと諸葛亮の顔を見ながら言葉を紡いだ。

 

「先生、どうか私達と共に立ち上がって下さい。」

 

 そう言った桃香を、諸葛亮はジッと見据える。

 そうして暫く見つめ合ったまま時が流れたが、やがて諸葛亮が口を開いた。

 

「……劉玄徳様、貴女のお力でも国を救う事は出来ます。」

「私の力で……? 確かに、国を思い民を想う気持ちは誰にも負けないつもりです。けど力では、袁紹(えんしょう)さんや袁術(えんじゅつ)ちゃん達に遠く及びません。」

「では、その解決方法をお教えします。」

「えっ?」

「私の様な少女に三顧(さんこ)の礼を尽くして下さったお礼です。」

 

 諸葛亮はそう言うと、優しげな笑みを桃香に向けた。

 桃香は何か言いたくなったが、結局言葉が出ずにゆっくりと座るしか出来なかった。

 それを見てから諸葛亮は言葉を紡ぎ出した。

 

「確かに、今の袁紹、袁術が相手では勝つのは難しいでしょう。また、孫堅(そんけん)曹操(そうそう)といった勢力も着々と力をつけていると聞きます。漢王朝の力が衰えた今、彼等が覇権を穫る為に争うのは誰の目にも明らかです。」

「はい……。」

「ならば天下は名門と呼ばれ、大きな戦力を持つ袁家によって二分され、孫堅や曹操達は彼等に組みするしかないのか。それとも四つ巴や五つ巴となるのか。何れにせよ、平和な時代が来るのは未だ先でしょう。」

 

 諸葛亮の言葉を、桃香はジッと聞き続ける。

 

「では、乱世を少しでも早く治める方法とは何か。単純な事です、他者より早く勢力を伸ばせば良いだけですから。」

「それはそうですけど、具体的にどうすれば……。」

「人材を集め、民心を掴み、領土を拡大する事。高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)は勿論、春秋戦国(しゅんじゅう・せんごく)時代や殷周(いん・しゅう)時代の頃から使われてきた、戦の基本を行えば可能です。」

「ですが、先程仰られた様に袁紹さん達は強いんですよ。そんな中で、どうやって領土を拡大すれば良いんですか?」

 

 桃香の質問は(もっと)もである。

 桃香達が居る徐州は大陸の東端に在り、北には青州(せいしゅう)、西には兗州(えんしゅう)豫州(よしゅう)、南には揚州(ようしゅう)、東には東海(とうかい)と四方を囲まれており、それ等を治める者の中には先程名前が上がった曹操や孫堅といった面々が居るのだ。

 

「……徐州に居るままでは難しいかも知れませんね。ここは思い切って、別の場所から始めるのも手かと思います。」

「えっ!?」

 

 思わぬ発言に驚く桃香。

 だが、そんな桃香には構わず諸葛亮は話を続けた。

 

「徐州の北に在る青州は、黄巾党が特に暴れまわった地域であり、黄巾党が滅んだ現在も依然として治安が良くないと聞いています。」

「はい……青州に程近い臨沂(りんし)東莞(とうかん)等では、度々黄巾党の残党による被害が報告されています。」

 

 桃香は悲痛な面持ちになって、以前受けた報告を述べる。

 

「やはり……。ですから、仮に劉玄徳様が北伐を行って青州を得たとしても、治安や経済を回復させるには時間が掛かるでしょう。ひょっとしたら、黄巾党の残党によって青州は今以上に疲弊するかも知れません。」

「そして私達も今より弱体化する危険性が……。」

「はい。それに青州を得た場合、冀州(きしゅう)と隣接します。そうなると、袁紹とも対立する危険性が出てきます。失礼ながら、今の徐州に袁紹、曹操、孫堅と戦って勝てる程の戦力が有りますか?」

「それは……。」

 

 無い、としか言えないだろう。

 どこか一勢力だけなら勝てる可能性は未だ有る。だが、一対二や一対三となってしまうと、総兵力が十万に満たない徐州軍では太刀打ち出来ないだろう。

 何せその相手は、陳留(ちんりゅう)を中心とした兗州を治める曹操。

 豫州と建業(けんぎょう)を中心とした揚州北部を治める孫堅。

 そして南皮(なんぴ)を中心とした冀州を治める袁紹といった面々なのだから。

 もし、現有戦力でこれ等の勢力に勝てたら、それは奇跡としか言えないだろう。

 

「劉玄徳様がこの国の明日を望んでいるのであれば、一日でも早く体制を整え、不足の事態に備えるべきです。」

「……その為なら、徐州を捨てる事も必要だと言うんですか?」

「はい。」

 

 桃香が確認する様に訊くと、諸葛亮は即座に答えを返した。

 すると桃香は暫くの間諸葛亮を見つめ、やがてゆっくりと立ち上がった。

 

「諸葛亮さん、今日は有難うございました。」

「おや、もう宜しいのですか?」

 

 桃香の突然の行動にも、諸葛亮は平然としたまま対応する。

 

「はい。」

「そうですか。……では、返事をするとしましょうか。」

「いえ、その必要は有りません。」

「……と言うと?」

 

 諸葛亮は眼を細めながら桃香を見た。

 そこには、怒りを押し殺しながらも隠しきれていない桃香の表情があった。

 

「……私は、雪里ちゃんや義兄から諸葛亮さんの話を聞いて、貴女が志操の高い人だと思ってました。けど貴女は、民を捨てるという人の信頼を裏切る事を平然と言いました。……私は、そういった人は好きになれません。」

 

 桃香はそう言うと諸葛亮に背を向けた。

 徳と義を重んじる桃香にとって、徐州を捨てる=民を捨てるという考えは端から無い。

 そんな桃香に民を捨てろと言うのは、彼女の生き方を否定するのと同じである。

 だから桃香はそう言った諸葛亮から離れ、この部屋から出る為に出入口へと向かっていった。



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第十二章 三顧の礼・5

「ふふふ……。」

 

 そして出入口の戸に手をかけようとした時、小さく笑う諸葛亮の声が聞こえてきた。

 

「ふふ……あははっ。」

「……何がそんなに可笑しいんですか?」

 

 尚も笑い続ける諸葛亮に向き直り、桃香は怒りを含んだ質問をする。

 諸葛亮は、そんな桃香を見ながら尚も笑い続けていたが、やがて笑みを含んだ真面目な表情になって言葉を紡いだ。

 

「どうやら劉玄徳様は、噂通りの仁君の様ですね。」

「えっ?」

「お怒りになるのはごもっとも。ですが今のは私の本心ではありません。失礼ながら、貴女の心を試させて貰いました。」

「試す……?」

 

 諸葛亮の思わぬ言葉に、桃香は今迄の怒りを忘れたのかキョトンとした表情になっていた。

 そんな桃香を見詰めながら、諸葛亮は言葉を紡ぎ続ける。

 

「はい。実は雪里ちゃんが誘いに来たあの日から、少しではありますが貴女や徐州、そして、“天の御遣い”と呼ばれている清宮涼様の事を調べさせてもらいました。」

「私達の事を?」

 

 桃香は少なからず驚いた。

 何故なら、雪里が諸葛亮の屋敷を訪れたのは約一ヶ月前の事。それからの僅かな期間で情報を集めたというのだから。

 涼が居た現代と比べれば、当然ながらこの世界は交通の便が余り良くない。

 また、本が手に入る機会も多くない、インターネットも無いというこの世界では、同じ州は勿論、遠くの州の事を個人で知るのは難しいのだ。

 

「はい。そして手に入れた情報は、そのどれもが貴女や天の御遣いを誉め讃えるものでした。ですから、その情報が正しいかを確かめる為に、貴女が怒る様な事をわざと言ってみたんです。」

「そ、そうだったんですか……。」

 

 そう説明すると、諸葛亮は桃香を見詰めながらニコリと微笑んだ。

 最早すっかり毒気を抜かれた様に呆けている桃香は、そう返しながら再び席に着くしか出来なかった。

 

「お気を悪くなされたでしょうが、どうかお許し下さい。」

「あ、いえっ、こちらこそ失礼な事を言ってしまって……。」

 

 二人は互いに頭を下げながら謝り、苦笑した。

 

「……ですが、貴女がこの国の為に動いていく内に、先程の様な決断をしなければならなくなるかも知れません。それは覚えていて下さい。」

「は、はい。」

 

 再び真面目な表情になった諸葛亮に、桃香は戸惑いながら頷き、暫くの間考えてから言葉を紡いだ。

 

「あの、先生。」

「ふふ、先生なんてよして下さいよ。私は見ての通りの若輩者ですし。」

「なら、諸葛亮さん……いえ、孔明さん。今の私達に出来る事は無いのでしょうか?」

「そんな事はありません。今の劉玄徳様……いえ、玄徳(げんとく)様にも出来る事は充分にあります。」

「本当ですか!? なら、それは一体何なんですか?」

 

 互いに(あざな)で呼ぶ様になった二人は、それぞれの瞳をジッと見詰めながら言葉を交わしていく。

 そして、桃香の問いに諸葛亮――孔明はさほど時を置かずに答えた。

 

「簡単な事です。青州を穫れば良いんですよ。」

「えっ? でもさっき、青州を穫っても余り意味が無いって……。」

「只穫るだけでしたら、ね。」

 

 驚き戸惑う桃香に対して、孔明は微笑みながら一言付け加えて立ち上がると、近くの本棚から一つの巻物を取り出して戻ってきた。

 その巻物を台の上に広げると、それには桃香もよく知る図が描かれていた。

 

「これって、この国の地図……。」

「はい。司隸(しれい)を始めとする漢国十三州に、五胡(ごこ)南蛮(なんばん)を加えた地図です。」

 

 桃香はその地図を見て思わず息を飲んだ。徐州の城に有る地図と、精度が余り変わらないからだ。

 桃香が何故そんなに驚いたかと言うと、勿論それにはちゃんとした理由がある。

 地図は単なる図ではなく、その国や地域に在る街の位置や地形が描かれている物である。

 それはつまり、重要な情報が書かれているのと同じであり、軍事衛星による偵察等が出来ないこの世界に於いては、精度が高い地図は軍事機密として扱われていてもおかしくないのである。

 

「この地図は、私の師である司馬徽(しばき)先生……一般的には“水鏡(すいきょう)先生”の呼び名で知られている方なんですが、その方が開かれている“水鏡女学院”という私塾を卒業した際に貰った物なんです。」

 

 まるで桃香の心を読んだかの様に説明する孔明に驚く桃香。

 そんな桃香にやはり微笑みながら、孔明は言葉を紡ぐ。

 

「顔に出てましたよ、何でこんなに精度が高い地図が有るんだろう? って。」

「あう……。」

 

 悪戯を見つかった子供の様に、バツが悪い表情になる桃香だった。

 

「そ、それで、青州を穫ると良い理由は何なんですか?」

「はい。この地図を見るとよく解りますが、徐州は四方を囲まれていますよね。」

 

 誤魔化す様に話を進める桃香に、孔明は一度微笑んでから地図上の徐州とその周辺を指差した。

 

「徐州は東に東海、南に揚州、西に豫州と兗州、そして北に青州と、海と陸によって囲まれています。」

「はい。」

「注目すべきは東に在る東海です。これにより東から襲われる危険性は先ずありませんが、それは同時に、東への退路が無いのと同じです。」

 

 孔明は地図上の徐州の東に広がる海の部分を指差しながら、説明を続ける。

 孔明は海から襲われる危険性は余り無いと言ったが、勿論この世界にも船は有る。

 だが、この世界の船は基本的には河を進む為の物であり、海を進む為の大型船は余り無い。

 必然的に、大軍を擁せる軍船を保持している諸侯は皆無と言える。

 そうした事を踏まえると、孔明の説明に間違いは無いのである。

 

「そうなると、少なくとも南北や西の何処かに退避出来る場所を得ておく必要があります。」

「あの……始めから負けるのを前提で考えないといけないんですか?」

「当然です。勝つ事しか想定していなければ、負けた時の被害は甚大なものになります。ですが、負けた場合を想定していれば、その被害を最小限に抑える事が可能になるのです。」

 

 孔明はそう言うと再び地図に目をやり、説明を続ける。

 桃香は、先程孔明が言った東海の事で頭が一杯になりそうだったが、何とか孔明の説明に集中する事が出来た。

 因みに、何故そうなりそうだったかと言えば、東海について或る人物が興味深い事を言っていたからだが、桃香がそれを今の孔明に話す事は出来なかった。

 

「……そして、青州はその退避場所に適任なのです。」

「青州は実質的に空白地帯だし、他の州には強そうな人が居るからですか?」

「はい。袁紹は勿論、曹操や孫堅と事を構える必要はありませんし。」

「けど、さっきの話じゃ青州を穫ったら袁紹さんと対立するんじゃ……。」

「恐らくは。なので、その為に此処に手伝って貰うのです。」

 

 そう言うと、孔明はその小さな指を地図の上部分、つまり大陸北部が描かれている場所へと滑らせる。

 

「……幽州(ゆうしゅう)?」

 

 桃香はそれを見て疑問符が付いた呟きを漏らす。

 

「はい。現在幽州を治めているのは鮮卑(せんぴ)烏桓(うがん)の侵攻を防ぎ、自身の愛馬と同じ白馬ばかりで構成された騎兵部隊“白馬義従”を率い、“白馬長史”と讃えられている公孫賛(こうそん・さん)。また、東海恭王(とうかいきょうおう)劉彊(りゅうしょう)の子孫である劉虞(りゅうぐ)がその補佐をしています。」

「あれ? 劉虞さんって確か、白蓮(ぱいれん)ちゃん……公孫賛と仲が悪いって聞いてたけど……。」

「確かにそうですね。ですが、つい最近話し合った結果二人は和解し、それ以来二人で協力して幽州を治めている様です。」

 

 孔明の説明を聞いた桃香は少なからず驚いた。

 以前白蓮から聞いた話だと、異民族への対応が正反対だとかなんとか色々あって折り合いがつかず、これからどうすれば良いか解らずに頭を痛めているという事だったからだ。

 

「その劉虞さんは東海恭王・劉彊の子孫ですから、中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の子孫である玄徳様とは同族になりますね。」

 

 劉彊は後漢王朝の初代皇帝である光武帝(こうぶてい)(劉秀(りゅうしゅう))の長男であり、当初は皇太子とされた人物だ。

 その光武帝は高祖劉邦の子孫にあたり、やはり劉邦の子孫である劉勝と劉彊は同族になるのである。

 

「そうなりますね。なら、私も劉虞さんと仲良くなれるかなあ。」

「その可能性は有りますね。人間は、少なからず同族意識を持っていますから。それに……。」

「それに?」

「玄徳様が劉虞さんと仲良くなれば、幽州との協力体制を築き易くなります。」

 

 孔明は微笑みながらそう言うと、地図と桃香を交互に見ながら話を続けた。

 

「玄徳様と公孫賛は、盧植さんの許で共に勉学に励んだ仲だと聞いています。」

「はい、それ以来白蓮ちゃんとは親しくさせてもらってます。」

「それはとても良い事ですね。……そして、その人脈が幽州との“同盟”を結ぶ為に有効になります。」

「同盟……もしかして、白蓮ちゃんを使って袁紹さんを牽制するんですか?」

「はい。」

 

 桃香の問いにそう答えた孔明は一旦庭に出て石を持って来ると、それ等を地図の上に置きながら説明していく。

 

「青州を得た場合、隣接する冀州を治める袁紹から攻められる危険性が出てきます。ですが、もし私達が公孫賛達と同盟を組んでいれば、袁紹は北への防備を考えなければならなくなり、迂闊に動く事は出来ません。」

 

 孔明は説明しながら地図上の冀州に置いていた大きな石を徐州に向けて少し動かし、同時に幽州に置いていた楕円形の石を冀州に向けて動かす。

 

「もし、袁紹がそのまま軍を動かした場合、公孫賛に范陽(はんよう)易京(えききょう)から(とう)廬奴(ろど)を目指して貰います。一方の徐州は、楽安郡(らくあん・ぐん)済南国(せいなん・こく)といった冀州との隣接地点で防戦し、袁紹が撤退するのを待つのです。」

「けど、袁紹さんが他州に援軍を要請したらどうするんですか?」

 

 桃香の疑問は尤もだ。自分達が同盟を結ぶ以上、相手も誰かと同盟を結んだり援軍を要請する可能性は充分にある。

 だが、孔明はそんな桃香に微笑むと、地図上の四角い石を置いている場所と三角の石を置いている場所をそれぞれ指差した。

 

「そこで、この方達とも同盟、若しくは“不可侵条約”を結んでおくのです。」

「成程、華琳(かりん)さんと雪蓮(しぇれん)さんですか……。」

 

 桃香は孔明が指差す地図上の「兗州」と「豫州」及び「揚州」を見ながら呟いた。

 兗州は冀州の南に在り、徐州の西に在る。

 豫州はその兗州の南に在り、やはり徐州の西に在る。また、揚州は徐州の南だ。

 それぞれ曹操と孫堅が治めており、軍事力は勿論ながら、その統治も評価が高い。

 もし、袁紹を倒す事に正当な大義名分が有れば、彼女達から助力を得られるのは勿論だが、それはつまり他州の民からの支持を得られる事でもある。

 孔明はそこ迄考えてからこう告げた。

 

「玄徳様の義兄であり、徐州の州牧補佐をしている“天の御遣い”こと清宮涼様。その方は曹操及び孫堅、そしてその娘である孫策にも一目置かれていると聞きます。ですから、清宮様御自ら彼女達にこの話を持って行けば、まず間違い無く成功するでしょう。」

「えっ!? 涼義兄さんを同盟の使者に、ですか?」

「はい。この場合、徐州は兗州や豫・揚州の助力を得たいと思ってますが、彼女達もまた、“天の御遣い”の名声を得たいのです。ですから、清宮様自らが使者に赴く事で両者と手を結ぶ可能性を高められるのです。」

 

 そう言って、孔明は地図上の冀州に向けて四角い石と三角の石を動かした。

 いつの間にか、冀州は四つの石に囲まれている。

 北は幽州の楕円形の石。

 南には兗州の四角い石と豫州・揚州の三角の石。

 そして東には青州と徐州の丸い石が在る。

 西の并州(へいしゅう)や南西の司隸には石が置かれてないが、司隸には首都・洛陽(らくよう)が在り、首都を混乱させる訳にはいかないので逃げられず、必然的に并州しか逃げ道は無い。

 幾ら袁紹が大軍を擁していようとも、逃げ道も補給路も無ければまともに戦えない。

 北の鮮卑や烏桓を頼る可能性は有るが、そうなれば袁紹は完全に漢王朝の臣では無くなる。帝自ら袁紹征伐の勅命(ちょくめい)を下すかも知れない。

 そうして作られた反袁紹連合は更に大軍となり、袁紹は滅びるだろう。

 その後は冀州を得るだけだが、連合を組んでいた以上分割される可能性が高い。

 勿論、冀州を丸々得る策も孔明は考えているのだが。

 

「ですが、この同盟はあくまで徐州軍が袁紹軍とほぼ互角に戦えないと意味がありません。同盟や不可侵条約は、状況によっては何の意味も無くなってしまうものですから。」

「そう……ですね。」

 

 孔明はそう言って桃香を見据え、桃香もまた同じ様に孔明を見据えた。

 孔明が言う様に、同盟や不可侵条約は互いの利が一致して、初めて成立するものである。

 それは、涼の世界の歴史を見ればよく解る。

 例えば明治時代の日本は、清や朝鮮半島の利権を巡ってロシアと対立。

 対抗手段として、ロシアの南下を阻止したいという思惑があったイギリスと日英同盟を結び、日露戦争に踏み切って勝利した。

 また、第二次世界大戦ではヨーロッパ戦線を戦うドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結び、ソビエトとは日ソ不可侵条約を結んだ。これにより日本は中国戦線と太平洋戦線に集中する事が出来たのである。

 だが、敗戦濃厚となった終戦間際、ソビエトは不可侵条約を一方的に破棄し、日本に侵攻している。

 三国志の世界に合わせるなら、曹操軍の南下を阻止したい劉備と孫権が手を組んでいるし、高祖劉邦の時代には秦打倒を目的とした反秦連合や、楚漢戦争(そかん・せんそう)に於ける漢連合の例も有る。

 どれも互いに利が有る内は上手くいっていたが、その利が無くなればそうはいかなかった。

 同盟や不可侵条約は外交に於いて重要なものだが、使い所を間違えると痛い目に遭う危険性を伴うのである。

 つまり、今回の話の様に桃香達徐州軍が袁紹軍と戦う為に公孫賛、曹操、孫堅と同盟や不可侵条約を結んだとしても、戦況が悪化すればそうした盟約も破棄される恐れが出てくる。

 最悪の場合、彼女達全員が敵に回るかも知れない。

 だからこそ孔明は、徐州軍の力を今以上に強化するべきだと、暗に言っているのだ。

 弱いままで同盟を結んでも、後には手痛い「ツケ」が残るものなのだから。

 

「先ずはそうして領土を拡大し、勢力を伸ばすのが肝要かと思います。」

「……はい。」

 

 孔明の話を聞き終えた桃香は、彼女に対して心の底から感服していた。

 雪里達から話を聞いていたとは言え、実際に会って話をしてみれば噂以上の人物だと感じたのだから、それは当然だろう。

 だからこそ、桃香はそのままではいられなかった。

 

「えっ……!? げ、玄徳様、一体何をっ!?」

 

 桃香が突然とったその行動に孔明は驚き、思わず立ち上がって桃香を見下ろしながら慌てふためいた。



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第十二章 三顧の礼・6

 桃香は体を折り曲げて額を床に擦り付け、両手を頭の両端近くに置いている。

 それは所謂「土下座」の姿勢になっていた。

 この時代に土下座という行為と言葉があるかは不明だが、とにかく桃香はその姿勢のまま話し始める。

 

「……私は、孔明さんに謝らなければなりません。ですから、こうして床に膝を着け、頭を下げているのです。」

「私に……謝る?」

 

 孔明は桃香が何を言っているのか理解出来ないでいた。

 先程迄、あれだけ知略や弁舌を披露していた孔明が、目の前に居るたった一人の少女の思考を読む事が出来ないのである。

 孔明は、桃香が自分に対して何を謝ろうとしているのか考えた。そんな孔明の頭の中に真っ先に浮かんだのは、桃香達が自分を徐州に連れて行こうとしている事だった。

 だが、それは桃香達の旅の目的であり、今こうして話しているのもその為である。

 それなのに謝るというのは不自然だ。謝るくらいなら初めから話し合いをする必要は無いのだから。

 それからも孔明は幾つか心当たりを思い浮かべたが、どれも謝るという程のものではない。

 結局、理由が思い付かなかった孔明は桃香に訊ねた。

 桃香は顔を伏せたまま答える。

 

「……実は、私が孔明さんと話した内容の大半は、私自身の言葉では無いんです。」

「……どういう事ですか?」

 

 孔明は戸惑いながら桃香の独白を聞く事にした。

 

「私は、私の義兄……清宮涼からの助言をそのまま口にしたに過ぎないんです。」

「そのまま……?」

「はい。例えば、孔明さんが“玉を捨てて石を拾う様なもの”と言ってきたら、“石を玉と見せようとしてもダメな様に、玉を石と言われても誰もそうは思いません”と答えると良い、と言われたので、私はその通りに喋っただけんです。」

「……つまり、清宮涼さん、いえ、“天の御遣い”は私がどう考え、どう話すか(あらかじ)め読んでいたという事ですか?」

「そうかも知れません。私も、今日孔明さんと話す迄は半信半疑でしたけど、孔明さんの言葉の中に幾つも“聞いていた言葉”が出て来た時は、やっぱり義兄さんは天の御遣いなんだなあと再認識しました。」

 

 依然として顔を伏せたままだが、その声からは誇らしげに微笑んでいる表情が容易に思い浮かぶ。

 そんな桃香を見下ろしながら、孔明は思案に耽っていた。

 

(どういう事……? 確かに、相手の行動を読むのは兵法にも有る。だけど、見ず知らずの人間の言葉を予測するなんて事、普通は出来る筈が無い……。噂通り、天から来た人物だから出来たという事なの?)

 

 孔明の疑問は尤もだ。幾ら雪里から話を聞いているとしても、一度も会った事が無い人物の思考だけでなく発言迄予測する事等、不可能と言って良い。

 これが、相手を少しでも知っているのならば未だ理解出来る。

 例えば、兵法書で有名な孫子(孫武(そんぶ)、場合によっては孫臏(そんぴん)も含む)の言葉に、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とある。この言葉は「敵の情報だけでなく、味方の情報も知っていれば、何回戦っても負けはしない」という意味だ。

 その言葉通り、(せい)の軍師となった孫臏は()の大将軍で同門の鳳絹(ほうけん)と対立した際、鳳絹や魏の兵士達の性格や気性を把握した上で策を練り、見事討ち取っている。

 だが、清宮涼は孔明と会った事も話した事も無く、雪里の話だけで孔明の行動や言動を予測している。

 「孫子」「呉子(ごし)」「六韜(りくとう)」「三略(さんりゃく)」「山海経(せんかいきょう)」「呂氏春秋(りょし・しゅんじゅう)」「九章算術(きゅうしょう・さんじゅつ)」「司馬法(しば・ほう)」「尉繚子(うつりょう・し)」といった兵法書や地理書、農学書や数学書を沢山読み覚えてきた孔明でも、そんな事は出来ないというのに。

 いや、恐らくこの国に居る誰であろうとこんな事は無理だろう。

 尤も、天の御遣いこと清宮涼がこんな予測を立てられるのは、「三国志」に関する様々な書物から得た知識が有るからである。

 勿論、そんな事を孔明は知らないし、桃香も知らないのだが。

 だが、そうした事実は孔明の知的好奇心を揺さぶるのに充分だった。

 

(……この国の様々な書物を読んで、知識を頭の隅々迄記憶する様に勉強してきたつもりですが……世の中には、まだまだ私の知らない事が沢山有るのですね。)

 

 先程迄戸惑っていた孔明の口許が、いつの間にか綻んでいる。

 解らない事に対する恐怖心は残っているし、戦争に対する忌避はまだあるが、それ以上に、知らない事を知りたいという探究心が彼女の心を突き動かしている。

 

(それに……。)

 

 孔明は未だに顔を伏せたままの桃香に目をやる。

 

(私を連れて行きたいのに、わざわざ言わなくても良い事を正直に話してくれた玄徳様。私は、玄徳様のその素直で正直な性格にも惹かれ始めている……。)

 

 孔明はしゃがみ込んで桃香の手をとる。

 

「玄徳様、どうかお顔をお上げ下さい。そうしてもらわなければ、私はどうして良いのか解らなくなります。」

「ですが……。」

「玄徳様、先程の会話の中に玄徳様御自身による言葉は有りましたか?」

「はい、勿論有りました。流石に、涼義兄さんも会話の全てを予測する事は出来ない様でしたから。」

 

 そう言いながら桃香は僅かに頭を上げる。

 

「でしたら、玄徳様は御自身の言葉で私を説得しています。なので、頭を下げる必要はないのです。」

「孔明さん……。」

 

 そこで漸く、桃香は頭を上げた。

 それと殆ど同時に孔明は桃香の手を両手で握り直し、その瞳を見詰め続け言葉を紡ぐ。

 

「玄徳様の人を想うその気持ちに、私は心をうたれました。そして、そんな玄徳様の義兄であり“天の御遣い”である清宮様にも、興味が出ています。」

「え……それじゃ……?」

 

 孔明の言葉を聞いた桃香の表情が、まるで花が咲いた様にパッと明るくなった。

 そんな桃香を見詰めながら孔明は頷き、言葉を続ける。

 

「はい。大した力も無い私ですが、共に国事に尽くしましょう。」

「あ……有難うございます、孔明さんっ!」

「“朱里”、です。」

「えっ?」

「私の真名です。これからお仕えする方に真名を預けるのは当然ですから。」

「なら、私の事も真名の桃香と呼んで下さい、朱里さん。」

「はい、桃香様。」

 

 桃香はそう言うと孔明――朱里の手を握り返してニッコリと微笑み、朱里も同じ様に微笑んだ。

 これが、後に名軍師と謳われる諸葛孔明が世に出た瞬間だった。



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第十二章 三顧の礼・7

 桃香と朱里の二人が部屋に残って約四半刻の時間が流れた。

 その間、桃香のお供である愛紗と鈴々、朱里の妹である諸葛均、そして先程来たばかりの朱里の友達の黄月英と鳳統は、大広間で二人を待っていた。

 その中の一人、黄月英は愛紗と鈴々を睨み付けながら、心の中では深々と溜息を吐いていた。

 

(出遅れたわね……まあ、最初から居ても多分、朱里の気持ちを変える事は出来なかっただろうけど……。)

 

 黄月英はそう思いながら、今度は本当に溜息を吐く。

 朱里が桃香の手紙を読んだあの日から、黄月英は毎日この屋敷に来ている。

 それは大切な友達と会う為であり、守る為だった。

 自分が傍に居れば、朱里は徐州に連れて行かれない、と、半ば本気で思っていた。いや、思いたかった。

 幾ら大切な友達を守る為とは言え、本人の意思を無視して迄引き留める事は出来ない事くらい、彼女だって解っている。

 只、解っている事と納得する事は似ている様で違う。

 彼女は、黄月英は諦めたくなかったのだ。

 大切な友達が、遠くに行ってしまわない様に願っていた。

 だが、朱里が桃香と並んで部屋に入って来た瞬間に、その願いが叶わなかった事を、黄月英は悟ったのだった。

 二人はまるで長年の親友かの様に笑いあいながら、大広間へと入ってきたのだ。

 その様子に、黄月英だけでなく愛紗達も驚いている。

 愛紗達からすれば、難航すると思われていた交渉相手が仲良く義姉と一緒に入ってきた事に、諸葛均達からすれば、初めはあんなに拒否していた相手と談笑している事に。

 この僅かな時間で、一体何があったのか。当事者である桃香と朱里以外の全員がそう思っていた。

 

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、お待たせー♪」

「あっ、蒼詩ちゃん達も来ていたんだね。」

 

 共に明るい口調で言ったそれが、大広間に入ってきた二人の第一声だった。

 それから二人はそれぞれの大切な人達、義妹だったり実妹だったり、親友だったりと話していく。

 その中で、朱里が桃香の求めに応じた事が告げられた。

 

「お姉ちゃん、世の中の為に動く決心がついたんだね。」

「うん。桃香様は大した才能も無いこの身に対して三顧の礼を尽くし、私を招いてくれた。私はそんな桃香様を支えたい。何れ、功なり名を遂げたら緋里(ひり)ちゃんを呼べると思う。だからそれ迄、この家を守っていて。」

「解ったよ、お姉ちゃん。徐州でも頑張ってきてねっ。」

 

 諸葛均は笑顔でそう言うと、目の前に居る姉に抱きついた。

 朱里は妹が自分の胸に顔を埋め、鼻を啜っているのに気付くと、優しくそっと抱き締める。

 利発な子ではあるが、未だ幼いのも事実。本当なら一緒に連れて行きたいのだが、これから仕える相手にそんな我が儘は言えなかった。

 

「……蒼詩ちゃん、私が居ない間、緋里の事お願い。それと……ゴメンね。」

 

 諸葛均を抱き締めたまま、朱里は蒼詩にそう言った。

 

「……謝るくらいなら行かないでよ。……まあ、緋里の事は心配しなくて良いわ。毎日遊びに来てあげるから。」

「有難う、蒼詩ちゃん……。」

 

 涙を瞳に溜めながら言った蒼詩に、朱里もまた同じ様に涙を溜めた笑みを返す。

 乱世の兆しを見せるこの時代では、下手をすれば二度と会えなくなるかも知れない。

 特に朱里は、これから軍に属する事になる。ひょっとしたら戦死するかも知れないし、仕事の量が多過ぎて体を壊し、そのまま亡くなってしまうかも知れない。

 朱里は勿論、黄月英もそれを承知の上で言葉を交わしていく。

 やがて、黄月英も静かに朱里に抱きつき、諸葛均と同じ様に鼻を啜った。

 朱里はそんな大切な友達を感謝しながら抱き締める。

 暫くして二人は朱里から離れ、涙を拭くと再び笑顔を作った。

 姉の、友達の門出をこれ以上湿っぽくしたくないという二人の気持ちに、朱里は感動しながらも笑顔を絶やさなかった。

 そうして二人と話した後、朱里はもう一人の友達に向き直る。

 

「……雛里ちゃん。」

「……朱里ちゃん。」

 

 互いに友達の名前を口にしながら、見つめ合う二人。

 殆ど同じ背丈と体型、ほぼ同じデザインで色違いの服装。知らない人に「この二人は姉妹です。」と言ったら、かなりの確率で真に受けられそうな程、二人は仲が良く、知り合って以来ずっと傍に居た。

 そんな二人が、今別れの挨拶を交わそうとしている。

 先程、諸葛均や黄月英と言葉を交わした時に思った様に、これが最後の会話になるかも知れない。

 そう思いながら、朱里は口を開く。

 

「私、行ってくるね。」

「うん……。」

 

 紡いだ言葉は短く簡潔。言い訳めいた事も何も無い、それは言わば決意表明。

 そんな言葉に、鳳統もまた頷きながら短く応える。

 朱里は、頷いたままの友達を見て、やはり謝るべきかと迷い始めた。

 

「……でもね、朱里ちゃん。」

 

 そんな朱里をチラリと見ていた鳳統が、静かに言葉を紡ぐ。

 鳳統の言葉に気付いた朱里が彼女に目を向け直すと、目の前に居る少女はニッコリと微笑んでいた。

 

「私にも、生き方を選ぶ権利は有るよね?」

「えっ?」

 

 鳳統が言った言葉に朱里はキョトンとするが、鳳統はそんな朱里の横を通り過ぎると、自分達とは反対側に居る一団の前で足を止める。

 

「貴女は……ひょっとして鳳統さん?」

「はい。お初にお目にかかります、劉備様。私の名前は鳳統、字は士元と申します。」

「あっ、御丁寧にどうも。私の名前は劉備、字は玄徳です。」

 

 丁寧に御辞儀をしながら自己紹介をする鳳統に、桃香もまた丁寧に御辞儀を返す。

 因みに室内だからか、普段は帽子を被っている鳳統や朱里は今、帽子を被っていない。

 まあ、帽子は本来日差しから頭を守る為の道具であり、屋内で被る物では無いのだからそれが当たり前なのだが。

 

「朱里ちゃんの事、任せて大丈夫ですよね?」

「あ、はい、安心して下さい。」

「そうですか……なら。」

 

 桃香の答えを聞いた鳳統は一度眼を瞑ってから何かを考え、それから目を開くと意を決したかの様に桃香を見つめた。

 

「……劉備様、私も朱里ちゃんと同じ様に、貴女の麾下(きか)に加えて下さいっ。」

「「…………ええっ!?」」

 

 桃香と朱里は、図らずも同時に声をあげた。

 突然の事に桃香は慌てふためきながらも愛紗達と相談し始め、朱里もまた慌てながら鳳統に駆け寄っていく。

 

「ひ、雛里ちゃんっ、一体どうしてっ!?」

「そんなの決まってるよ、朱里ちゃん。私も世の中を良くしたいと思ったからだよ。」

 

 朱里の疑問に鳳統は微笑みながら答える。

 

「で、でもっ、雪里ちゃんが誘った時は断ったじゃない。」

「あの時は朱里ちゃんが断っていたからだよ。……もし、あの時朱里ちゃんが雪里ちゃんの誘いを受けていたら、多分私もそうしてたよ。」

「っ! ……それって……。」

 

 鳳統の言葉にピンときた朱里はジッと鳳統の眼を見ながら、彼女の次の言葉を待つ。

 

「うん。私は朱里ちゃんと一緒に、この世の中を変えていきたい。朱里ちゃんは私にとって大切なお友達だもの。協力したいって思うのは、当然でしょ?」

「雛里ちゃん……っ。」

 

 朱里は感極まって鳳統の右手を両手で握り、鳳統もまた空いている左手を朱里の両手に重ねた。

 同じ私塾に通っていた親友は、互いを想い、切磋琢磨しここ迄きた。

 きっとそれは、これからも変わらないのだろう。

 二人はそう確信しながら見つめ合い、やがて微笑みながらゆっくりと離れた。

 鳳統は改めて桃香に向き直る。その瞳は真っ直ぐに桃香を捉えており、それに気付いた桃香は表情を引き締めて鳳統に向き直り、厳かに訊ねた。

 

「鳳統さん、先程の言葉は貴女の本心ですか?」

「勿論です。あの……私が徐州軍に入るのは駄目ですか?」

「そんな事ありませんっ。元々、朱里ちゃんの説得が終わったら結果がどうあれ、鳳統さんにも会うつもりでしたし。」

「なら、問題ありませんね。朱里ちゃん共々、これから宜しくお願いします。」

「あ、はい。こちらこそ宜しくお願いします。」

 

 再び御辞儀をする鳳統につられて御辞儀をする桃香。

 こうして、桃香は呆気ない程簡単に鳳統を得た。

 朱里を得る為に必死になって説得した桃香は、鳳統も同じ様にしないと難しいだろうと覚悟していた。

 それが、論戦どころか自己紹介と少しのお喋りだけで麾下に入りたいと言ってきた。

 ハッキリ言って拍子抜けだが、あの緊張感はそう何度も味わいたくないとも思っていたので、ホッとしているのもまた事実だった。

 何はともあれ、「臥龍」と「鳳雛」はこうして徐州軍の一員となったのである。

 その日はその後、皆で歓談をしてから解散となり、夜には朱里と鳳統の送別会が開かれた。

 実は二人共既に旅支度を済ませており、直ぐにでも徐州へ向かうつもりだったのだが、桃香は流石に気が引けたらしく、出発は明日にという事になった。

 今は食事を終え、朱里、鳳統――雛里、諸葛均――緋里、そして黄月英――蒼詩の四人は二つの長椅子に二人ずつ座って対面しながら話をしている。

 話の内容はたわいない世間話に昔話と、いつもと同じ談笑。

 だが、今夜ばかりはそればかりでいられない事を、この場に居る四人は気付いている。

 そして、話の雰囲気を変えたのは、この屋敷の家主である朱里だった。

 

「……緋里、蒼詩ちゃん。我が儘言ってゴメンね。」

「お姉ちゃん、それはもう良いよ。それより、劉備様や御遣い様の許で頑張ってきてね。」

「うん、お姉ちゃん頑張るからね。」

「……まあ、朱里が徐州に行くのは何となく予想していたから良いわよ。……けど、まさか雛里迄とはねー。」

「あ、あわわっ。」

 

 蒼詩にジト目を向けられた雛里が、慌てながら目を伏せる。

 そんな雛里を隣に座っている朱里が落ち着かせ、蒼詩にはやはり隣に座っている緋里が宥めていった。

 

「蒼詩お姉ちゃんはお姉ちゃんの事になると、周りが見えなくなるからねー。雛里お姉ちゃんがどうしたいか気付かなかったのは無理無いよ。」

「えっ? て事は緋里は気付いていたの?」

「うん。雛里お姉ちゃんはいつもお姉ちゃんと一緒だから、お姉ちゃんが徐州に行く事になったら絶対に一緒に行くんだろうなと思っていたよ。」

 

 緋里は笑顔でそう言いながら、朱里と雛里、そして蒼詩を見ていく。

 蒼詩はそんな緋里を見ながら、やっぱり朱里の妹だなと感心していた。

 

(……ううん、私が凡人なだけ。朱里も雛里も、そして緋里も才能があるし。…………なんだ、そうだったのか。)

 

 その最中、蒼詩は朱里達を見ながら気付いた。

 

(我が儘を言っているのは、朱里でも雛里でも、勿論緋里でもない。私だったんだ……。)

 

 愕然としながらも、蒼詩はその表情を平静に保っている。

 折角の門出なのに雰囲気を暗くする訳にはいかない。なにより、その事実に負けたくなかった。

 

(……そうよ。今は朱里達の傍に居るのが相応しくなくても、いつかきっと相応しい人間になってみせるわっ!)

 

 蒼詩は心の中でそう固く決意し、親友との暫しの別れを受け入れたのだった。

 

 

 

 

 

 翌日、朱里と鳳統の旅立ちの見送りには諸葛均や黄月英だけでなく、崔州平を始めとした水鏡女学院の同窓生達も来ていた。

 朱里と鳳統はその彼女達と話しており、少し離れた所で桃香達がその様子を微笑ましく、そして少し申し訳無さそうに見守っている。

 そんな中、鳳統は朱里が手にしている物に気付いた。

 

「朱里ちゃん、それって……。」

「うん、卒業の時に水鏡先生から戴いた“羽毛扇(うもうせん)”だよ。」

 

 朱里の手に有るのは、白い羽で作られている扇。

 涼が居た世界の諸葛孔明のトレードマークでもあるその「羽毛扇」は、こちらの世界の諸葛孔明である朱里も持っていた様だ。

 

「いつか、こうして世に出る時に持って行こうと思っていたの。……大分遅れたけど、漸く、その時が来たよ。」

 

 そう言った朱里の表情は、嬉しさと申し訳無さが同居していた。

 恐らく、恩師の教えを生かそうとせずにこの隆中で晴耕雨読の生活しかしなかった事を悔いているのだろう。

 叔父夫婦への恩返しや、その叔父夫婦を亡くした事による悲しみの所為とは言え、自身が学び得た事を世の為に役立てなかった事もまた事実。

 だからこそ、旅立てる今日という日をとても嬉しく感じているのだ。

 

「うん、やっぱり朱里ちゃんは世に出ていくのが一番だよ。なんたって、水鏡女学院始まって以来の秀才なんだし。」

「雛里ちゃんだって、水鏡先生に認められていたじゃない。」

 

 あはは、と、二人を中心とした一団の明るい声が響いた。

 だが、そんな一時にも終わりはやって来る。

 朱里と鳳統は、同窓生達に一礼すると、桃香達の許に向かった。

 

「お待たせしました、桃香様。では、参りましょうか。」

「もう良いの?」

「はい、余り長く話していても別れが辛くなるだけですから。」

「……そっか。」

 

 朱里と鳳統の表情から彼女達の心境を察した桃香は、諸葛均達に一礼し、愛紗達と共に木々に繋いでいる馬達の許に向かう。

 そんな桃香達に向かって、「宜しくお願いします」や「頑張れーっ」といった声が掛けられる。

 よく見れば、あんなに徐州行きを反対していた黄月英でさえ、笑顔で手を振っている。

 そこに嘘や我慢が無く、心からの行動なのは表情や声から解った。

 だから、二人はそんな家族や友達に向かって手を振りながら、笑顔でこう応えるだけで良かった。

 

「「みんな……行ってきますっ。」」

 

 こうして、臥龍鳳雛は歴史の表舞台に出たのだった。




第十二章「三顧の礼」をお読みいただき、有難うございます。

今回は、タイトル通り三顧の礼についてのお話でした。
繰り返しになりますが、自分は「横山光輝三国志」くらいしか三国志に関する本は持っておらず、書き始めてから幾つかの本は買いましたが、物語として書かれている本は未だありません。
その為、今回でいえば桃香と朱里の話し合いは殆どそのまま引用するしかありませんでした。単なるコピペと指摘されたら、言い返せませんね。
勿論、実際の隆中対とは違う書き方をしなければいけませんから(現時点では曹操による巨大勢力はありませんからね)、色々整合性をとれる様頑張りましたよ。
そうそう、序盤の桃香の自己紹介の矛盾についてはスルーして下さい(笑)
なんにせよ、何とか三顧の礼を書いて臥竜と更には鳳雛をゲットした桃香達。毎回思いますが、こんなに早く諸葛亮や鳳統が仲間になる蜀はチートだよね。

次からは新章に移ります。
この新章がこんなに長くなるとは思わなかった←
良かったらこれからもお読みくださいね。


2012年11月30日更新。


上記の矛盾点や一部の文章を加筆修正しました。
それでも横山光輝三国志の影響は多分に残っていますが。

2017年5月22日掲載(ハーメルン)


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第五部・青州動乱編
第十三章 青州からの使者・1


青州は混乱していた。

本来居る筈の州牧は居らず、全国的には滅んだ筈の黄巾党はこの地では未だに健在していたからである。

だが、人々は希望を捨てていなかった。それには理由が二つあった。

一つは、州牧代わりに活躍している孔子の子孫である孔融の存在。

そしてあと一つは……。


2011年2月10日更新開始。
2011年7月13日最終更新。

2017年5月23日掲載(ハーメルン)


「今ですっ! 関羽(かんう)隊は右翼から、糜竺(びじく)隊と糜芳(びほう)隊は左翼から攻めあがって下さいっ‼」

「「「応っ‼」」」

 

 軍師の指示を受けた関羽――愛紗(あいしゃ)、糜竺――山茶花(さざんか)、糜芳――椿(つばき)はそれぞれの部隊を率いて、目の前で自分達に背を向けている「敵」に向かって突撃を開始する。

 その敵は、後方に在る丘の向こうから現れた「新手」に対して動揺するばかりであり、今迄追いかけていた「獲物」を追う事すら出来なかった。

 その獲物――田豫(でんよ)隊は、敵が混乱したのを確認すると偽りの逃走を止め、反転して敵に向かっていく。

 田豫――時雨(しぐれ)の部隊が自分達に向かって来ているのに気付いた敵は、後方から来る三部隊に応戦しながら、更に一部隊とも戦わなくてはならなくなった。

 つい先程迄は倍の戦力をもって相手を圧していた敵は、今では逆に三倍から四倍の戦力を相手にしている。

 正規兵ならまだしも、農民上がりで何の訓練も受けていない彼等に、この状況を覆せる力は無かった。

 結局、それから半刻もしない内に敵は壊滅した。

 後方で戦況を見守っていた少女がそれを確認すると、隣に居る軍師に話し掛ける。

 

「これで、この辺りの黄巾党(こうきんとう)は倒せたかな?」

 

 その問いに、軍師の少女は微笑みながら答えた。

 

「はい、これで青州(せいしゅう)の半分は解放出来たと言って良いでしょう。先ずはおめでとうございます、桃香(とうか)様。」

「有難う。けどこれは、実際に黄巾党と戦った愛紗ちゃん達や、策を考えてくれた朱里(しゅり)ちゃんのお陰だよ。有難うね。」

「勿体無い御言葉です。」

 

 軍師の少女――朱里は、隣に立つ少女――桃香の謝辞に顔を赤らめながら頷くと、羽毛扇(うもうせん)で火照る顔を覆った。

 実際、今回朱里が執った策はそれ程大した事ではない。

 先ず、囮となる部隊が黄巾党と戦い、わざと負ける。

 その部隊はそのまま敵を引き付けながら敗走し、兵を潜ませている丘を横目に突き進む。

 そうして敵が丘を通り過ぎてから伏兵を動かして、敵の背後を衝く。

 後方からの攻撃に敵全体が混乱した所で、囮部隊を反転させて反撃に移る。

 前後からの挟撃に黄巾党が対応出来る訳は無く、簡単に壊滅する。

 正規兵相手なら、多少は抵抗されたり、そもそも策にかからないかも知れない、基本的な策。

 勿論、それを実行出来る将兵が居なければ策に意味は無く、愛紗達はそれを見事にやってくれている。

 それにより、最小限の被害で最大限の成果を出せたのである。

 

「それで、これからどうするんだっけ?」

北海国(ほっかい・こく)平寿(へいじゅ)に向かいましょう。現在、暫定的に青州を治めている孔融(こうゆう)さんと合流するんです。既に私達を受け入れるという返事は貰っていますし、一度兵を休ませる必要もありますから。」

 

 桃香は朱里の提案を採用し、兵を纏めて小休止をとってから平寿へと向かった。

 今居る場所から平寿迄は、兵を率いて移動しても半日もかからない。

 今から移動すれば、夕刻には到着するだろう。

 

「……(りょう)義兄(にい)さんは、上手くやってるかな。」

 

 平寿への移動中、桃香は何気なくそう呟いた。

 

「大丈夫ですよ、桃香様。護衛には鈴々(りんりん)が居ますし、(しずく)霧雨(きりゅう)が補佐についていますから弁舌で負ける事も無いでしょう。」

「そ、そうだね。」

 

 桃香を護る為に隣を進む愛紗の言葉に、多少どもりながら返事をする桃香。

 

(まあ、身の安全や交渉についてはそんなに心配してないんだよね……。じゃあ、私は何について不安なんだろう……。)

 

 漠然とした不安を胸に抱いたまま、桃香は平寿に着いた。

 未だ続く戦いに備えて休息をとる為に。

 その前に、徐州牧(じょしゅう・ぼく)である桃香が青州に居る事の説明が必要だろう。

 話は、三ヶ月前に遡る。



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第十三章 青州からの使者・2

「着いたーっ。」

「のだーっ。」

 

 隆中(りゅうちゅう)を出てから約一週間後、本拠地である下邳(かひ)に着くと、桃香と鈴々は安堵の声を上げた。

 

「二人共、何を呑気に言っているのです。早く義兄上(あにうえ)達に報告に行きますよ。」

「……やっぱり、行かないとダメ?」

「当たり前です。」

 

 先程と違って、何故か気乗りしない桃香を軽く睨む愛紗。

 桃香はその眼力にビクッと肩を震わせると、苦笑しながら言葉を紡ぐ。

 

「わ、解ってるよう。ちゃんと報告して……怒られてきます。」

「そうして下さい。私達も一緒に叱られますから。」

「鈴々もなのかー?」

「当然だ。」

 

 愛紗に断言されて、鈴々も桃香と同じくうなだれる。

 州牧と将軍が揃って落ち込んでいる姿というのも、中々シュールな光景だ。

 因みに、朱里と鳳統(ほうとう)はそんな三人を見ながら戸惑っていた。

 

「あわわ……大丈夫なのかな。」

「はわわ……た、多分……。」

 

 この時、二人は徐州に来たのをちょっとだけ後悔していたのかも知れない。まあ、そんな自覚はない様だが。

 その後、桃香達は愛紗に促されながら城の中へと入っていった。

 これからの事を考えると逃げたくなったが、勿論逃げられる訳は無いのだった。

 

「「「…………えっ?」」」

「はわわっ!?」

「あわわっ!?」

 

 執務室にやってきた桃香達は、そこに広がっている光景を見て絶句した。

 

「ぐー……。」

「すやすや……。」

 

 普段は桃香が座っている執務用の机の側に在る長椅子に、二人の人物が穏やかな寝息をたてて眠っている。

 一人は元黄巾党ナンバー2で、今は桃香の従姉妹という設定の張宝(ちょうほう)。またの名を劉燕(りゅうえん)真名(まな)地和(ちいほう)()しくは地香(ちか)。今は劉燕の姿なので地香と言うべきか。

 そしてもう一人は桃香の義兄(あに)にして、天の御遣いである清宮涼(きよみや・りょう)

 まあ、ただ眠っているだけなら、それ程驚く事ではない。何故なら、この長椅子は疲れた時の仮眠用として使う事も多々あるからだ。

 だが、二人はただ眠っているだけではない。

 涼は仰向けに寝ており、その上に地香が俯せに寝ている。

 しかも涼の左手は地香の腰に回っており、心做しか二人の服装や髪が乱れている様に見える。

 勿論、二人共ちゃんと服は着ているのだが、状況が状況だけに、少しの乱れも目につき、何かあったのではないかとの疑念が出て来る。

 そこに、

 

「ふむ、昨夜の主は地香と一緒だった様ですな。」

 

という声が桃香達の後ろから聞こえてきた。

 

「せ、(せい)さんっ!?」

「これはこれは桃香様。どうやら、仕事を放り出して迄行った人材獲得は上手くいった様ですな。」

「うぅ……星さんが意地悪する〜。」

 

 桃香達の後ろに居たのは趙雲(ちょううん)、真名を星という少女だった。

 その星の皮肉にうなだれる桃香だが、愛紗はそんな彼女の肩に手を当てながら非情な言葉を紡ぐ。

 

「仕方ありません。仕事を丸投げしたのは事実なのですから。」

「愛紗ちゃ〜んっ。」

 

 厳しい義妹(いもうと)の言葉に、桃香はやはりうなだれるしか出来なかった。

 

「ん……何の騒ぎ〜?」

 

 と、そこに、涼に抱きかかえられる様にして寝ていた地香が、そう言いながらゆっくりと起き上がった。

 

「あっ、桃香お帰りー。」

「た、ただいま地香ちゃん……。」

 

 寝ぼけ眼の地香は、目を擦りながら桃香達を確認すると「地香」の姿になっているのを忘れているらしく、口調は「地和」のままだった。

 それに気付いた桃香は地和に近付き、朱里と鳳統に聞こえない程度の小声で指摘する。

 途端に地香の表情が引き締まり、雰囲気が「地和」から「地香」へと変わっていく。

 

「そ、それで、勧誘は上手くいったの?」

「う、うん。ほら、この二人がそうだよ。」

 

 未だ若干「地香」を演じきれていない様だが、それをフォローするかの様に桃香が話を合わせる。

 その後、桃香から地香について説明された二人は、執務室に入った時と変わらず慌てたまま自己紹介をしていく。

 

「はわわっ。は、初めましてっ、私は諸葛孔明(しょかつ・こうめい)と言いましゅっ。」

「あわわっ……。は、初めましてっ、私は鳳士元(ほう・しげん)と言いましゅ……っ。」

「……何この可愛い生き物達。」

 

 噛み噛みに自己紹介する、見た目は幼い少女達。

 地香はそんな二人に見とれながら、「そのままの姿勢」で改めて自己紹介を返した。

 余りにも自然にしているので朱里達もそのまま話し続けたが、やはり不自然さは否めない。仕方無いので、桃香が地香に訊ねる事にした。

 

「あ、あのね地香ちゃん。」

「なあに?」

「……なんで、そこで寝ていたのかな?」

「そこ?」

 

 桃香が何を言っているのか疑問に思った地香だったが、その視線が自分の足下にあると気付くと、そのまま目線を下げていく。

 するとそこには、有る筈の寝台の敷布は無く、何故か涼が寝ていた。

 

「…………えっ、ええぇぇっ!?」

 

 予想外の事態に驚いた地香は、悲鳴と共に涼から飛び降りていった。

 

「いて……っ。何だよ一体……。」

 

 地香が飛び降りる際に腹部を踏んだらしく、その痛みで目が覚めた涼はお腹を手で押さえながら、ゆっくりと起き上がった。

 

「ん……? ああ、お帰り桃香。」

「た、ただいま。」

 

 先程の地香と同様に、未だ寝ぼけ眼のまま桃香を確認する涼。

 次いで、愛紗、鈴々、地香と確認していき、二人の少女の所で目が止まる。

 

「桃香、もしかしてこの子達が?」

「うん、諸葛孔明ちゃんと鳳士元ちゃんだよ。」

 

 桃香に名前を言われた朱里と鳳統は、やはり噛み噛みのまま自己紹介をしていく。

 涼もまた地香と同じ感想を抱いたが、違う感想も抱いていた。

 

雪里(しぇり)から聞いていたとはいえ、本当に小さい女の子なんだな。けど、三国志でも有数の名軍師であり、“臥龍(がりゅう)”と“鳳雛(ほうすう)”の異名を持つあの諸葛亮(しょかつ・りょう)と鳳統なんだから、きっと凄いんだろうな……。)

 

 涼はそう思いながら居住まいを正す。寝起きなのでイマイチ締まらないのだが。

 

「お二人共初めまして。こんな格好で悪いけど自己紹介させてもらうよ。俺がこの徐州の州牧補佐を務めている、清宮涼です。暫くは慣れないかも知れないけど、解らない時は遠慮なく俺達に聞いてね。」

 

 そう言って、涼は朱里と鳳統の前に右手を差し出す。

 二人は暫くの間その手をジッと見つめていたが、やがてゆっくりと手を伸ばし、それぞれ握手を交わした。

 

「よ、宜しくお願いしましゅっ。」

「お願いしましゅっ。……あわわ、また噛んじゃった……。」

 

 握手しながら言った朱里と鳳統の言葉は、やはり噛み噛みだった。

 最早噛むのは彼女達のデフォルトだなと思いつつ、涼は二人と会話をしていく。

 その中で、雪里の事が出て来ると二人共嬉しそうな表情になった。同じ私塾に通っていた仲間であり親友なのだから、その反応は当然だろう。

 

「積もる話も有るだろうけど、取り敢えず、二人共荷物を置いてくると良いよ。鈴々、帰ってきたばかりで悪いけど、二人をこの部屋に案内してやって。」

「解ったのだっ。」

 

 涼から部屋の場所が記された竹簡(ちくかん)を受け取った鈴々は、朱里と鳳統を連れて執務室を出て行った。

 執務室に残ったのは、涼、桃香、愛紗、星、地香の五人。

 涼は桃香と愛紗に対して、旅から無事に帰ってきた事を喜び、諸葛亮と鳳統を連れてきた事を誉め、黙って旅に出た事を叱った。

 とは言え、その声には義妹達を見守る義兄らしい温かさがあった。

 それを感じ取った桃香と愛紗は、義兄の優しさに感謝しつつ謝った。後で鈴々も謝らせようと思いながら。

 そうして涼の話が一通り終わると、桃香と愛紗は一度顔を見合わせてから涼と地香に向き直り、先程から思っていた疑問を投げかけた。

 

「……義兄上。」

「ん?」

「義兄上は何故、地香と一緒に寝ていたのですか?」

「えっ?」

「……っ。」

 

 愛紗が訊ねた瞬間、地香の顔が焦りの表情に変わる。

 だが、涼は間の抜けた声を出して愛紗と桃香、そして地香を見るだけだった。

 

「えっと……何の事?」

「っ! ……惚けるつもりですか?」

「いや、惚けるも何も俺は徹夜で政務をやっていただけだし。それが終わったのが明け方で、部屋に戻るのもキツかったからここで寝たんだ。」

「……一人で、ですか?」

「一人で、だよ。」

 

 そう答えた涼を暫く見つめていた愛紗と桃香だったが、その視線はやがて涼の後ろに立つ地香へと向けられた。

 それに気付いた涼も同じ様に地香に目を向ける。何故か地香は目を合わせようとしていなかった。

 

「……地和?」

 

 涼が彼女の本当の真名を呼ぶ。

 地香の正体を知っている者だけの時も余り言わなくなった、その真名を。

 久し振りに聞く自分の本当の真名にピクリとする地香。だがそれでも彼女は目を逸らし続ける。

 

「地和、愛紗が言ってる事は本当なのか?」

「そ、それは……。」

「正直に言わないなら、今日の政務を全部やってもらうよ。」

「そ、それは……っ。」

 

 涼がそう言って圧力をかけると、地香は更に焦っていく。

 それから暫くの間、地香は涼達の視線に曝されながらも沈黙し続けたが、やがて観念したかの様に溜息を吐くと、ゆっくりと涼達に向き直った。

 

「……愛紗が言った通りよ。ちぃは涼に抱きついて寝てたわ。」

「何でそんな事を……。」

「言わなきゃ解らない?」

 

 先程迄と違い、落ち着いた表情と声で涼を見詰めながら言った地香に戸惑っているのか、涼は勿論ながら桃香達も言葉を返せなかった。

 地香はそんな涼達を見回してから息を吐き、言葉を続ける。

 

「……まあ、今は言わないでおくわ。何せ、ここにはお喋りな人が居るからね。」

 

 地香はそう言って一人の少女に目を向けた。

 

「おや、心外ですな。私のどこがお喋りだと?」

 

 振り袖の様な白い服を着こなしているその少女は、不敵な笑みを浮かべながらそう答える。

 だが、この時実は涼達も地香と同感だった。

 白い服の少女――星は基本的には真面目なのだが、時々不真面目になる。いや、ひょっとしたら不真面目な時が多いかも知れない。

 その不真面目な面が出るのが調練の時ではなく、味方の私事の時ばかりというのは幸いではあるが。

 ただ、私事とは言え、ちょっかい出される方からしてみれば、迷惑な事に変わりはなく、それ故に皆注意をしていたりする。

 

「まったく……どの口がそれを言うのか知らないけど、ちぃはこの前の事を忘れてないわよ。」

「この前……? はて、どれの事を仰っているのかな?」

「そんなの、“あの歌”の事に決まっているじゃない!」

 

 地香は星に向かってそう叫ぶ。

 だが、話の内容が解らない涼達はキョトンとしていた。

 

「「「……あの歌?」」」

「あ。」

 

 奇しくも三人の声が揃った事で、地香の熱くなっていた思考が瞬時に冷えていく。

 あたふたとしながら言い訳をする地香。そんな彼女を星がニヤニヤしながらと見つめている事に地香も気付いたが、それに抗議する事すら出来ない程、慌てふためいている。

 結局、「あの歌」について知られたくないらしい地香は、それ以上追及出来なかった。



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第十三章 青州からの使者・3

 一体どんな歌なのか気になった涼だったが、地香に睨まれると直ぐに諦めた。触らぬ神に祟り無し、である。

 その地香がこの場から早く離れたがっているのに気付いた涼は、諸葛亮や鳳統を皆に紹介しようと提案し、その場は解散となった。

 

(うぅ……ちょっとだけと思って抱きついていたら、そのまま眠っちゃうなんて……ちぃとした事がしくじったわ。)

 

 執務室から一旦自室へと戻る道すがら、地香はそんな事を思っていた。

 地香が心中で呟いている通り、始めはちょっとした出来心だった。

 桃香が荊州(けいしゅう)に行って以来、州牧代理となった涼とその補佐を任された地香は、毎日政務に勤しんでいた。

 この世界の人間ではない涼は勿論、黄巾党時代は優秀な妹が居た地香もまた、こうした頭脳労働は余り得意ではない。

 一応、立場上ずっと桃香を補佐してきた涼は少なからず出来るが、それでも州牧の桃香や文官筆頭の雪里と比べたら大きく落ちる。

 桃香はいつも大変そうにしながら政務をしていたが、盧植(ろしょく)(もと)で学んでいただけあって、実は結構飲み込みが良かったりする。

 州牧代理やその補佐という立場になって初めて、涼達は桃香の凄さを思い知ったのだった。

 そう思いながら二人は政務をこなしていったが、慣れない仕事や自身の許容量を超える書簡(しょかん)の数に、若くて体力に自信のある二人も数日で疲労困憊になっていく。

 その為、休み休みに仕事をしていったが、やむを得ず徹夜になる事も勿論あった。

 昨夜も二人は徹夜する筈だったが、地香の疲れが目に見えていた為に涼はその仕事を一手に引き受けた。

 勿論、地香は大丈夫だと反論したが、最後は州牧代理命令だと言われてしまい、仕方無く自室にて睡眠をとる事にした。翌朝、早くに起きて手伝おうと思いながら。

 普段は早起きが苦手な地香だが、今朝はちゃんと起きる事が出来た。

 起きると直ぐに身支度を整え、執務室へ向かう。

 徹夜したであろう涼がそこに居るか、自室に戻ったかは判らなかったが、どっちでも良かった。どっちにしろ、政務に取り掛かる予定だったのだから。

 執務室の扉をノックする。寝ている場合の事を考えて控えめに。

 返事は無かった。居ないのかと思いながらゆっくりと扉を開くと、長椅子に寝ている涼の姿が目に入ってきた。

 机の上の書簡を見ると、その殆どが処理されていた。今日の分はこれから届けられるだろうが、どうやら今は何もしなくて良い様だ。

 折角張り切って来たのに意味無かったかな、と、思いながら、地香は何気なく涼を見た。

 よっぽど疲れているのか、地香が来た事に気付いて起きる気配は無い。

 だからだろうか、地香はちょっと大胆になってみた。

 その行動に若干の後ろめたさを感じながら、地香は涼の顔にそっと手を当てる。

 起きる気配はやはり無い。続けて、上半身だけ体を預ける。

 涼の温もりと鼓動を感じると、自分の体温が上がり、鼓動が速くなっていくのを感じた。

 年齢的及び精神的に大人と少女の狭間の地香でも、何故そうなっているかの理由は解っている。

 それがどういった感情によるものか、この次はどうしたいかも解っている。

 だが、だからこそ地香は躊躇う。

 こんな事をして良いのか? “あの子”は今居ないのに。

 恐らく、自分と同じ想いを抱いているであろう少女の顔を思い浮かべながら、地香は涼の顔を覗く。

 結局、ちょっとだけ誘惑が勝った。

 彼女が本来望んでいる事は勿論しないものの、涼が起きていたら多分してくれない事はやってみたい。

 だから、上半身だけでなく体全体を涼に預けてみた。

 ほんの少しだけ、と思いながらしたその行動が、先程の騒動の原因になったのだった。

 

(まさか、あのまま寝ちゃうなんて……。しかも、そんな時に限って桃香達が帰ってくるし……。)

 

 感じた温もりや鼓動が心地良くて、つい二度寝をしてしまった。

 それ自体はそれ程後悔していないが、その場面を桃香達に見られた事は後悔している様だ。

 

(後で何か言われるわよね……。まあ、遅かれ早かれこんな日が来るのは解っていたけどね……。)

 

 地香は髪を梳きながらそう覚悟を決めると、衣服を整えてから自室を出た。

 だが、結果的にはその覚悟は要らなかった。何故なら、

 

「彼女達が、新しく私達の仲間になった軍師の諸葛亮ちゃんと鳳統ちゃんだよ。」

「しょ、諸葛孔明でしゅっ。」

「ほ、鳳統でしゅっ。あう、また噛んじゃった……。」

 

というやりとり、所謂、自己紹介が玉座の間であった為に、桃香による詰問は無かった。

 因みに、朱里と鳳統を見た諸将の感想は、往々にして先程の地香や涼と同じだったらしい。

 勿論、二人の容姿からその実力を疑問視する者も居たが、隆中で朱里が桃香に対して行った献策――青州獲得とそれに伴う同盟の構築――を改めて涼に語り、鳳統が徐州軍の改善策を述べるのを見ると、皆一様にその認識を改めていった。

 彼女達の自己紹介が終わった後に詰問されるかと思っていた地香は、結局その後も何も言われなかった事に拍子抜けしたが、いつ詰問されても良い様に身構えてはいた。

 (もっと)も、桃香はそんな事をしている暇が無かったのだが。

 桃香が不在の間、涼や地香が代理を務めていたとは言え、桃香が州牧の仕事を放棄してきた事に変わりはない。

 よって、桃香はその間の仕事の内容を頭に叩き込む必要があった。

 

「はい、じゃあ次はこの書簡に目を通してくれ。」

「あの……。」

「桃香様、その次はこちらをお願いします。」

「えっと……。」

「「……何か?」」

「何でもありません……。」

 

 桃香は何も言い返せずに執務室でうなだれた。

 結局、彼女はこの日から三日三晩、涼と雪里によって選別された必要最低限の量の書簡を読まされる事となった。

 因みに地香は、桃香が帰ってきた事によって州牧代理補佐の任から解放されている為、本来の仕事に戻っていた。

 その為、桃香が半ば軟禁状態で政務をしていたとは知らなかったのだ。

 地香がそれを知ったのは、全ての書簡に目を通して解放された桃香が、フラフラになっている所に出くわして話を聞いた時になる。

 この時、仕事に忙殺されていた桃香は涼と地香の一件を忘れていた。それどころでは無かったのだから、仕方ないのだが。

 そんな訳で、地香は追及される事無く、無事に日々を過ごしていった。

 青州から一人の傷だらけの将がやってきたのは、そんな時だった。



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第十三章 青州からの使者・4

「雪里、彼女の具合は?」

「はい。怪我してはいましたが、幸い命に別状は無い様です。」

「只、青州から休み無しに馬を走らせて来たのか、かなりの疲労が溜まっていた様で、今はグッスリ眠ってますね。」

「じゃあ、話を訊くのは未だ暫く無理なんだね。」

「そうなりますね。」

「けど、早く訊かないといけない気がするのだ。」

 

 執務室には涼や桃香を始めとした、徐州軍の諸将達が集まっていた。厳密には、その中で旧徐州軍や霧雨達を除き、星と飛陽(ひよう)、朱里と鳳統を加えた面々だ。

 彼等の今の議題は、その青州から来た少女への対応と、その後にどう行動するかだった。

 

「何せ、“青州を助けて下さい”、ですからね……。」

「恐らく、黄巾党を倒してほしいという事でしょう。青州は黄巾党の残党に苦しめられていますから。」

「青州黄巾党か……。」

 

 涼はそう呟くと一人静かに思案に耽る。

 涼が知る歴史では、青州黄巾党はその名の通り青州で暴れまわっていたが、最後は曹操(そうそう)によって討伐されている。

 更に曹操はその大半を麾下(きか)に加える事によって、戦力を増強した。

 それを自分達がやる事になるかも知れないと思うと、涼は若干の戸惑いを覚える。

 

(けど、やらないと苦しむ人が増え続けるよなあ……。)

 

 曹操――華琳(かりん)が将来手にするであろう手柄を奪う事になるのは気が引けるが、だからといって今現在困ってる人を放ってはおけない。

 それは彼女も同じだったらしく、皆を見ながら口を開いた。

 

「……私は、青州の人達を助けに行きたいと思ってる。助けてって声を無視する事なんて、出来ないよ。」

「桃香……。」

 

 涼はそう言った少女――桃香を見詰める。

 

「それに、どうせ青州には行く予定だったんだし、良いよね?」

「それは……まあ。」

「ですが、その予定はきちんと計画を立ててから動く予定でした。計画も無く急に動くのは危険です。」

「そ、それは……。」

 

 桃香が確認すると涼は同意したが、すかさず雪里が口を挟む。

 慌てて涼を見る桃香だが、その涼が困ってるのに気付くと、途端に自身の言葉に自信を持てなくなっていった。

 彼女は人材を得る為に荊州迄勧誘に行くくらいなので、決して意志薄弱では無いのだが、同時に周りの人々に対して優し過ぎる。

 その為、今みたいに反対されると困惑してしまうのだ。

 

「……勘違いしていらっしゃる様ですが、青州出兵自体は賛成です。それに、一応この様な時の為の対策は練ってあります。」

「へっ? な、なら何で……。」

 

 雪里の言葉にキョトンとする桃香。そんな彼女に、雪里は事も無げに言葉を紡いでいく。

 

「桃香様が荊州に旅立たれた際に清宮殿達に申し上げたのですが、常に全員が賛成していては、いざという時の為になりませんので。」

「そうなんだあ〜。有難う、雪里ちゃん。」

「勿体無い御言葉です。……朱里、雛里、昨日纏めた青州出兵に関する案を述べて頂戴。」

「「うん。」」

 

 雪里は桃香に対して恭しく平伏すると、朱里と鳳統に説明をする様に促す。

 二人はそう言われるのが解っていたらしく、直ぐ様説明を始めた。

 

「本来の計画では、周辺の諸侯に対して青州出兵の正当性を伝え、同時に不可侵条約若しくは同盟を結び、それから青州へ出兵する筈でした。」

「……ですが、時間的余裕が無くなった今、そうはいきません。」

 

 そう言って策を述べ始めた二人は、目の前に在る大きな机の上に、徐州と青州を中心とした地図を広げながら説明を続ける。

 

「あの子が青州からの救援要請の使者と仮定して話しますが、だとすると、今の青州は存亡の危機に瀕している事になります。」

「……だとしたら事は一刻を争います。……ですから、私達は青州に兵を進めながら、同時に周辺の諸侯との同盟等を結んでいくしかありません。」

「まあ、それしかないか。」

 

 二人の説明に涼はそう言って同意を示した。

 最終的な決定は州牧である桃香が下すが、その桃香も涼と同意見なのか、涼を見ながら頷いている。

 他の者も涼達と同意見らしく、反論は無い。その様子を見てから鳳統が説明を再開する。

 

「……問題は、この策を遂行する為に、桃香様と清宮様のお二人に動いてもらわなければならないという事です。」

「片方は青州への部隊の指揮だよね……もう片方は?」

「曹操さん、孫策(そんさく)さんとの同盟締結です。」

「……こちらには、お二人と仲が良いという清宮様に動いてもらった方が良いと思いましゅ……あぅ。」

 

 桃香の疑問に朱里と鳳統が答えるが、鳳統はまたも噛んでしまい小さく俯いてしまった。

 そんな鳳統を微笑ましく見詰めつつ、声は常の冷静さを保ったままの星が訊ねる。

 

「主が曹操や孫策の所に行くのはまだ解るが、桃香様自ら青州へ赴かれる必要があるのか? 黄巾党の討伐だけなら、州牧である桃香様が行く必要はなかろう。」

「……確かに、討伐だけなら必要ないかも知れません。」

 

 真面目な質問を受けて落ち着いたらしい鳳統は、帽子の唾を両手で動かして帽子の位置を整えると、少し口調を早めて言葉を紡ぎ出した。

 

「ですが、先程述べた様に、今回は黄巾党の討伐と諸侯との同盟を同時にやらなければなりません。その為には、桃香様自ら指揮を執ってもらう必要があります。それに……。」

「それに?」

「青州の北、幽州(ゆうしゅう)には桃香様の親友である公孫賛(こうそん・さん)さんが居ます。黄巾党討伐の為に桃香様自ら青州に来ていると知れば、あちらから接触を図ろうとすると思います。」

「もし接触が無かったとしても、青州から使者を出せば、徐州から使者を出すよりは返事を貰う迄の時間を短縮出来ます。」

 

 鳳統、そして朱里の説明と補足を聞くと、星は勿論ながら、桃香や愛紗達も納得していった。

 と、その時、バンッという音と共に勢いよく扉が開いた。

 

「青州を助けて下さいっ! ……いてて。」

 

 そう叫びながら執務室に飛び込んできたのは、一人の少女だった。

 頭や左腕に包帯を巻き、頬には軟膏を塗った布を貼っている。

 一見すると重傷者の様だが、肌の血色は良いし、何よりここ迄走ってきたみたいだから、それ程大きな怪我ではないのかも知れない。

 

「し、子義(しぎ)さん、未だ無理しちゃダメなのですよーっ。」

 

 そう言いながら、わふわふと息を切らせ、白い衣服を身に纏った小柄な少女が執務室に入ってくる。

 少女の名は陳登(ちんとう)、真名を羅深(らしん)という。

 

「あー……羅深、お疲れ様。」

「あっ、清宮様っ。突然の入室、失礼しましたっ。」

「気にしないで。それより……彼女は目が覚めたんだね。」

 

 涼は羅深を労いつつ、目の前に居る少女に目をやった。

 肩迄ある瑠璃色の髪に金色に光る瞳、涼と同じくらいの背丈に透き通る様に白い肌、若干幼さを残しつつも大人へと成長している凛々しい表情と、桃香と同じくらいに大きい胸。

 そんな少女は涼の視線に気付くと声をかけてきた。

 

「あの……貴方は?」

「ああ、そう言えば自己紹介が未だだったね。俺は徐州牧補佐の清宮涼。で、隣に居る彼女が徐州牧の劉玄徳(りゅう・げんとく)だ。」

「こんにちは、私が州牧の劉玄徳です。」

「あ、貴方達が……し、失礼しましたっ。」

 

 二人が目の前の少女に対して丁寧に自己紹介をすると、少女は恐縮したのか慌てて頭を下げた。

 先程涼が言った様に、少女とはきちんと自己紹介をしていない。

 何せ、桃香達の前に案内された時の少女はフラフラの状態であり、「青州を助けて下さいっ!」と叫ぶと同時に体力が限界を超え、そのまま眠ってしまったのだから。

 その為、少女が涼と桃香の事を知って驚くのは当然だった。

 その後、執務室に居る面々から自己紹介をされた少女は、居住まいを正して自らも自己紹介をする。

 

「私の名は太史慈(たいし・じ)(あざな)は子義と申します。実質的な青州牧、孔融の命を受けて皆様方に救援要請に参りました。」

 

 少女――太史慈は表情を引き締め、真っ直ぐに涼達を見詰めながら、凛とした声でそう言った。

 涼達は、太史慈の目的が自分達の予想通りだと知ると、彼女を安心させる意味も込めて青州出兵の旨を伝える。

 その瞬間、感謝された太史慈から抱き締められる事になり、涼や桃香達が驚いたり慌てたりするちょっとしたハプニングもあったが、それ以外はさほど問題無く話が進み、それから二日が経った。



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第十三章 青州からの使者・5

「青州遠征及び、南方外交遠征の部隊構成が決まりました。」

「そっか、じゃあ早速発表してくれるかな。」

 

 二日前と同じメンバーが集まっている執務室で、軍議が行われている。

 その中で雪里の発言の番になり、先程の様に言ってから報告を始めた。

 

「では、先ずは青州遠征の陣容から。第一陣を愛紗さんの関羽隊、第二陣を山茶花さんの糜竺隊、第三陣を椿さんの糜芳隊、第四陣を朱里の諸葛亮隊、本隊である第五陣を桃香様の劉備(りゅうび)隊、そして後詰めの第六陣を時雨さんの田豫隊に、それぞれ担当してもらいます。」

「結構多いな。兵数はどれくらい連れて行くんだ?」

「関羽隊が二万五千、糜竺隊と糜芳隊が一万ずつ、諸葛亮隊が五千、本隊が三万三千、田豫隊が一万七千。合計十万ですね。」

 

 涼の問いに雪里は即座に答える。

 すると今度は、兵数を聞いて驚いた桃香が訊ねた。

 

「徐州軍の約半数になる程の兵士さん達を連れて行くの?」

「本当はもっと多い方が良いんですけどね。何せ、太史慈さんの報告によれば青州黄巾党の数は十万を軽く超えている様ですから。」

 

 雪里は軽く溜息を吐きながらそう答える。相変わらず黄巾党の数が多いので、辟易している様だ。

 

「そっかあ……けど、これ以上増やすと徐州の守りが手薄になっちゃうし……。」

「その通りです。まあ、黄巾党といえど所詮は賊ですから、余程の事が無ければ少しくらいの数的不利があっても、負けはしないでしょうが。」

 

 雪里は自信あり気げな表情でそう言い切った。

 地香と飛陽が複雑な表情をしているのは、勿論気付いている。

 この場に居る者は皆、二人が元・黄巾党だと知っている。最近来た朱里と雛里には、涼と桃香、地香の判断で事実を教えている。勿論驚かれたが、桃香たちならそういう事もするだろうと納得していた。

 なので多少なりとも気を遣っているのだが、雪里は敢えて気を遣わない様だ。

 それは、二人が黄巾党と決別していると知っているから。

 今の二人は黄巾党の張宝や廖淳(りょうじゅん)ではなく、徐州軍の劉燕と廖淳なのだから、気を遣い過ぎると却って変だと思っていた。

 だからこそ、雪里は普段と変わらずに接している。

 地香と飛陽の二人もそれに気付いているのか、そんな雪里に対して特に反応していなかった。

 そんな訳なので話が滞る事無く、軍議は続いていく。

 

「それに、清宮殿の部隊にも兵を割かなければなりません。」

「けど、俺への兵はそんなに要らないんじゃないか?」

「何を仰います。清宮殿は徐州軍の州牧補佐、そして何より“天の御遣い”なのですから、兵は絶対に多く必要です。」

「そうだよ涼義兄さん。涼義兄さんに何かあったら大変なんだから、護衛の兵士さんは沢山居ないとダメだよ。」

「まったく、相変わらず義兄上は御自身の立場を理解しておられませんね。」

「お兄ちゃんはバカなのだ。」

「それ、鈴々にだけは言われたくないんだが。」

 

 義妹達から散々に言われた涼がツッコミを入れると、鈴々がふてくされてしまい、次いで桃香達から笑いが起きる。

 それから暫しの間、執務室に笑い声が響いた。

 やがて軍議が再開されると、議題は先程少し話した外交遠征に関する事に移っていった。

 

「南方外交遠征の部隊の内訳ですが、第一陣は鈴々の張飛(ちょうひ)隊、第二陣は雫の簡雍(かんよう)隊、第三陣は本隊の清宮隊、そして後詰めの第四陣は霧雨さんの孫乾(そんかん)隊です。」

「四部隊か……兵数は?」

「こちらは戦をしに行く訳では無いので少なめです。張飛隊が千、簡雍隊、孫乾隊はそれぞれ五百、本隊の清宮隊が二千ですね。」

「合計四千か……。確かに青州への部隊と比べると少ないけど、話し合いに行くにしては少し多くないか?」

「確かに。ですが、道中で賊に襲われる危険性はありますし、曹操や孫策が敵対しないとも限りませんから。」

「賊は兎も角、今は華琳や雪蓮(しぇれん)と敵対しないと思うけどなあ……。」

 

 そう言いながら涼は、二人ともいつかは敵対する事になるだろうなと思っていた。

 今は友好的とは言え、彼女達が「曹操」と「孫策」である事に変わりはない。

 「三国志」に登場する英雄達の中でも類い希な才能を持ち、三国で一番多くの領土を獲得し、結果的には()王朝の礎を作った曹操。

 一方、孫堅の跡を継いで江東を統治し、やはり後々の()王朝の礎を作った孫策。

 それぞれ、存命中には建国していないものの、その功績は息子の曹丕(そうひ)、または弟の孫権(そんけん)が受け継ぎ、「魏」と「呉」が建国された。

 そこに劉備が建国した「(しょく)」を加えて、漸く三国が揃う事になる。

 二人はその英雄と同じ名前を持ち、その名に恥じない実力を持っている、と、涼はそう思っていた。

 因みに、建国の順番としては「魏」の建国に対抗する様にして「蜀」が建国され、「呉」の建国はその二ヶ国より少し遅れて行われた。

 「三国志」と言っても、実際に三国が出来たのは物語のかなり後であり、また、三国が揃っていた期間も意外と短かった。

 涼がそんな事を考えていると、やれやれといった表情の雪里が言葉を紡ぎ出した。

 

「確かに、あの二人が今の私達と明確に対立してくる事は無いでしょう。ですが、清宮殿を拉致して私達を脅したり、自分達の御輿として担いだりする可能性が無いとは言い切れません。」

「まさか。」

 

 雪里が言った仮定に対し、涼はそんな事は有り得ないと笑い飛ばす。

 

「……若しくは、色仕掛けで籠絡しにくるかも知れませんね。」

「「「っ!?」」」

「ま、まさかぁ。」

 

 雪里が続けて言った思い掛けない言葉に一同が絶句し、涼もまた先程とは違って弱々しく否定する。

 だが、涼は否定しつつもどこか納得していた。

 

(華琳は兎も角、雪蓮はそうする可能性が有るのは確かだよなあ……。何せ、結婚したいとか言ってたし……。)

 

 黄巾党討伐の際、真名を許されたあの一件以来、雪蓮は何かと涼にアプローチしてきた。

 それが単純に恋愛感情によるものか、政治的目的によるものか、はたまたその両方かは判らないが、少なくとも雪蓮が涼に対して必要以上の好意を見せていたのは確かだった。

 

(キス……しちゃったしな……。)

 

 正確には、したというよりされたと言うのが正しいのだが、キス自体は本当なので、その事を思い出した涼の顔は自然と紅くなった。

 

「……何で顔が紅くなってるんですか、涼義兄さん?」

「えっ……?」

 

 左隣から聞こえてきた声に驚きながら振り返ると、そこには頬を膨らませた桃香が居た。

 

「恐らく、曹操殿や孫策殿の事でも考えていたのでしょう。」

「えーっと……。」

 

 更に、右隣には仏頂面のまま涼を睨み付けている愛紗。

 

「まったく……涼、素直に言いなさいっ。」

「えっと、その……。」

 

 そして、桃香の左隣に居る地香が明らかに不満な表情のまま、ビシッと右手の人差し指を涼に向けて突き出していた。

 その仕草や口調は、地香というより地和に戻っているのだが、今の涼にそれを指摘する余裕は無かった。

 二人の義妹と義従妹(いとこ)に追及され、言葉に詰まる涼。天の御遣いと呼ばれ、民から慕われ、敵からは畏怖されている彼も、彼女達に対しては弱いらしい。

 因みに雪里達はというと、いつもの事だからと特に止める事も無く、只静かに見守っていた。

 というか、何人かは面白がっていた様な気がする。

 

「取り敢えず、部隊に関しては以上です。呼ばれなかった人は徐州の守りや内政をしてもらいたいのですが。」

「賊を倒したい気が無い訳では無いが、私はそれで構わぬぞ。」

「ちぃ……私も構わないわ。また、桃香姉さんの代わりをやってれば良いんだしね。」

 

 星と地香がそれぞれ了承し、それが居残り組全員の総意となった。

 これで軍議は終わりかと思われたが、朱里が静かに手を挙げると、地香と飛陽を交互に見ながら静かに言葉を紡いだ。

 

「誰も……雪里ちゃんも訊かないので私が訊ねます。……地香さん、飛陽さん。」

「何かしら?」

「何です?」

 

 真名で呼ばれた二人が真剣な表情になって朱里に向き直る。

 因みに、朱里は徐州軍の主要メンバーとは真名を預け合っている。

 

「青州黄巾党の首領、管亥(かんがい)について知っている事があるなら、教えて頂けませんか。」

 

 紡がれた言葉は、まるで機械が発したかの様に冷たく、平淡だった。

 だがそれは、本来なら真っ先に二人に訊ねられるべき事柄である。

 それなのに、何故か今迄誰もそうしなかった。

 二人を気遣っての事か? いや、流石にこれは気遣って良い事ではない。

 

 なら何故?

 

 そう疑問に思ったからこそ、朱里は訊ねたのだった。

 

「管亥……ね。」

「……? どうかした? もし知らないのなら、そう言ってくれて構わないよ。」

「いえ、知らない訳じゃないわ。ただ……。」

 

 何故か歯切れが悪い地香に対して、疑問の表情を浮かべる涼達。

 そんな地香に代わって、飛陽が言葉を継いだ。

 

「出来れば、管亥の事は余り思い出したくないんです。」

 

 飛陽がそう言うと、地香は静かに頷いた。

 

「えっと……それって、どういう事?」

「皆さんは、黄巾党の実態を御存知なんですよね?」

「実態って……黄巾党の中心が、実は張三姉妹の追っ掛けばかりだったって事?」

「はい。」

 

 皆を代表した形になった涼の答えに、肯定の意を返す飛陽。

 涼達は地香が未だ地香という名前を使う前、つまり地和の時に黄巾党の実態について彼女から直接聞いている。

 正確には、聞いたというよりは愚痴として聞かされた、というべきだが。

 その地和曰く、

 

『ちぃ達は只、三人で大陸を旅をしながら歌を唄っていただけ。』

 

 曰く、

 

『偶然手に入れた“太平要術(たいへいようじゅつ)”を使ったら沢山人が集まった。』

 

 曰く、

 

『やがて大きな集団となったが、その中には血の気が多い人も沢山も居たので、彼等を纏める為にちぃ達が首領になった。』

 

 曰く、

 

『やがて、その集団は“黄巾党”という名前の賊になっていき、段々とちぃ達でも制御出来なくなっていった。』

 

 曰く、

 

『集団が肥大化したのは、多分“太平要術の書”が原因だと思うけど、それは妹の張梁(ちょうりょう)に渡していたので、その後の行方も効果についても解らない。』

 

との事だった。

 尤も、これはあくまで地和の考えなので、実際は少し違うかも知れない。

 

「あの黄巾党の乱で暴れていたのは、殆どが元々賊として暴れていた奴等。張三姉妹の本来の取り巻きは、そいつ等に影響されて暴れていたんだよな。」

「そうよ。まあ、だからと言って黄巾党が被害者とは言わないわ。どんな理由があれ、黄巾党が人々を苦しめた事に変わりないし……。」

 

 そう言うと、地香は神妙な顔をして俯いた。

 彼女は黄巾党の中心人物だった訳だから、申し訳無い気持ちがあるのだろう。

 自然と空気が重くなる。が、それを察した涼が飛陽に話しかけ、空気を変えていく。

 

「それで、管亥についてなんだけど……。」

「あっ、そうでしたね。……管亥は元々、その取り巻きを纏める張三姉妹親衛隊の一人だったんです。」

「親衛隊の一人“だった”……?」

 

 星が「だった」を強調すると、飛陽は星を見ながら頷いた。

 

「管亥は……あいつは、親衛隊を辞めたんです。……人殺しを楽しむ為に。」

「……闇に堕ちた、と言う訳か。」

 

 星が目を閉じながらそう言うと、地香と飛陽は神妙な顔のまま同時に頷いた。

 

「……以前の管亥は、張三姉妹の親衛隊として皆を纏める優等生だったわ。けど、悪い奴等の影響を受けて残忍な男になってしまった……。」

「私の村を助けてくれた一員でもあったんですが……そんな優しかった面影は無くなりました。そして、管亥の一番の悪事は……親衛隊員であった管亥が率先して暴れる様になった為に、他の黄巾党員も皆それに倣っていった事です。」

 

 地香と飛陽が喋り終わると、数秒間の静寂が辺りを包んだ。

 さっきより重苦しい空気に包まれたまま、愛紗が口を開く。

 

「……上が悪事を働いているのだから、下も悪事を働く、か。」

「管亥は悪い見本になったって訳だな。」

「ええ。後は、皆が知っている通りの黄巾党が出来上がったわ。……張三姉妹が居ても、その暴走を制御しきれないくらいの賊がね。」

 

 愛紗の言葉に涼が続くと、地香が更に続いて自嘲気味に言った。

 実際、今の地香はその当時の事を思い出していた。

 暴走する黄巾党員に対して虚勢を張りつつも、内心では怖いと思っていた、張宝だった頃の自分自身を。

 少なくなったとはいえ、未だまともな黄巾党員が居なかったら、自分達の命も危なかっただろう。

 ひょっとしたら、命を落とす前に生き地獄を味あわされたかも知れない。

 そう思った地香の体は自然と震え、次いで自らの体を抱き締める。

 その様子に気付いた涼が、またも飛陽に話し掛けて先を進めた。

 管亥について話す飛陽もまた辛そうだった。かつての恩人を倒そうとしているのだから、それも仕方無いのだが。

 

「管亥の部隊は、今迄皆さんが相手にしてきた黄巾党とは違います。恐らく、黄巾党の中で一番残虐で、一番強く、一番倒さなくてはいけない相手です。」

 

 だが、そんな飛陽が表情を引き締めて話の最後にそう言うと、皆もまた気を引き締めた。

 一番倒さないといけないという事は、絶対に倒さないといけないという事。

 張三姉妹が居なくなって瓦解した黄巾党だが、残党である青州黄巾党は張三姉妹が居なくても勢力を維持し、暴れている。

 言わば、青州黄巾党は鎖が外れた狂犬。血に飢えた獣と同義。だからこそ、一刻も早く倒さないといけない。

 涼達はそう決意をし、互いに確認するとその日の軍議を終え、青州北伐と外交遠征の準備に戻っていった。



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第十三章 青州からの使者・6

 翌日。

 徐州軍の約半数にあたる十万四千もの兵士達が、下邳城外に整然と並んでいた。

 その内の十万は、青州黄巾党を討つべく集められた精鋭達。

 桃香達が義勇軍だった頃からの面々も多数組み込まれており、その実力は疑いようがない。

 しかも、彼等を率いる武将の筆頭は愛紗こと関雲長(かん・うんちょう)。徐州牧である桃香やその義兄の涼の義妹にして、黄巾党討伐や十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)に於いて活躍した、徐州軍随一の武将である。

 更に、遠征には州牧自らも赴くとあって、兵士達の士気は大いに高くなっていた。

 一方、残りの四千は南方外交に於ける護衛部隊。

 護衛と称するには(いささ)か多い気もするが、賊との遭遇や交渉先での不測の事態に備える為には、多過ぎるという事は無い。

 そんな護衛部隊を率いる武将の筆頭は鈴々こと張飛。関羽と共に徐州軍を代表する武将の一人であり、見た目に反する実力を敵味方問わず見せつけてきた。

 そんな人物が護衛に附くのだから、例え寡兵であってもその強さは推して知るべしというもの。

 まあ、彼等の任務は万が一の為の護衛であり、戦いに行く訳では無いのだが。

 そんな兵士達が整列したままでいるのは、この場に彼等の指揮官が未だ来ていないからだった。

 では、どこに居るのかと言うと、二人共下邳城内の執務室に居た。

 

「どうしても、ダメ?」

「「ダメ。」」

 

 因みに執務室には地香も居り、先程の疑問系の「ダメ」は彼女の言葉である。

 そして、否定系の「ダメ」を同時に言ったのは涼と桃香。今回の二つの遠征、それぞれの総大将によるものだった。

 

「だって、今度の相手は青州黄巾党なんでしょ。だったら、ちぃが行って黄巾党のケリをつけないと……。」

「気持ちは解るけど……。」

「地香はこのまま下邳に残って、俺達の代わりに内政をやってほしいんだ。」

「ちぃ、内政得意じゃないわよ。」

「私が荊州に行ってた時は、ちゃんとやってくれたじゃない。」

「あの時はちぃだけじゃなく、涼も居たし……。」

 

 何やら地香がぐずっている。涼と桃香はそれを宥めている様だ。

 

「今回は雪里だけじゃなく雛里も居るから、心配は要らないよ。」

「だったら、ちぃが居なくても……。」

「私も義兄さんも徐州を離れるんだから、地香ちゃんには残ってほしいの。」

「……今の私は“劉徳然(りゅう・とくぜん)”だから?」

「う、うん……。」

 

 尚も引き下がらない地香だったが、桃香が発した言葉に反応し、顔を曇らせていく。

 仕方がないとはいえ、本当の自分を表せない事は少なからず苦痛なのだろう。

 例えそれが、彼女自身を守る為だとしても。

 

「それに、青州黄巾党の首領、管亥は張三姉妹の親衛隊だったんだろ? だったら、そいつに地香の正体を見破られてしまうかも知れない。」

「それは……。」

 

 涼にもっともな指摘をされた地香は言葉に詰まり、僅かに俯いた。

 今の地香は、黄巾党時代とは違う髪型や服装をしており、髪に至っては染めてもいる。

 とは言え、瞳の色や輪郭、声や体型を変える事は当然ながら出来ない。一応、声は多少低くしているが。

 その為、見る者が見たら地香の正体を悟られる危険性がある。かつて、張宝率いる黄巾党第二部隊に所属していた飛陽が未だに気付いていないのは、単に運が良いだけに過ぎないのだ。

 

「雪里も、それを危惧して遠征から地香を外したみたいだな。」

「私達も、もしもの事態は避けたいし……。」

「解ったわよ……。」

 

 尚も言葉を続ける二人に対し、地香は仕方無いという表情をしてそう口にした。

 依然として納得はしていないが、かといって更に駄々をこねる程子供でもない。

 正体がバレた時の事を考えれば、その判断は当然だった。

 黄巾党の、しかも「地公将軍」という黄巾党ナンバー2の肩書きを持っていた張宝――地和を匿い、更に「劉燕徳然」という名前と、「地香」という新しい真名を与えてくれた涼と桃香。

 そして、そんな自分を受け入れてくれた愛紗や鈴々達。

 地香は彼等に、どれだけ感謝してもし足りない程の恩義がある。だからこそ、余計な心配や迷惑をかける訳にはいかなかった。

 

「けどその代わり、桃香は青州黄巾党を討って、涼は外交を成功させて、無事に戻ってくる事。良い?」

「ああ。」

「解ってるよ、地香ちゃん♪」

 

 先程迄と違い、地香は努めて明るい表情を浮かべながらそう尋ねる。

 その問いに涼は頷きながら、そして桃香は抱きつきながら応えた。

 お陰で、地香の顔は桃香の豊かな胸に包まれる事になる。

 その様子を見ていた涼が若干羨ましくしていたのは、未だ十代の少年の反応としては至極当然の事だった。

 それに対する義妹と義従妹の反応は別として。

 暫くの間、涼は二人から非難されたり、からかわれたりしたが、それは何かを思い出した桃香の一言で終息した。

 

「そう言えば涼義兄さん、地香ちゃんに“それ”を渡すんじゃなかったっけ?」

 

 涼の背中に有る一振りの「剣」を指差しながら、桃香は尋ねた。

 すると、涼はそうだったと言いながら、背中に有る剣を鞘に付けたたすき掛けのベルトごと外し、それを両手で胸元の高さに持ち上げ、地香を見詰めながら厳かに言葉を紡いだ。

 

「劉徳然将軍。」

「は、はいっ。」

 

 真名ではなく、姓と字で呼ばれた地香は反射的に敬語になって返事をした。

 

「自分達が暫くの間徐州を離れる事、及び、将軍の今迄の功績を称え、この“靖王伝家(せいおうでんか)”を与える。」

「……え、ええっ!?」

 

 厳かに告げられた言葉に、地香は驚くばかりだった。

 

「まあ、これは靖王伝家の予備だけどな。」

「それは解ってるけど……それでも、それが劉家に伝わる宝剣には変わりないでしょ? 一体何を考えて私に……。」

「なんだ、地香ちゃんも解ってるんじゃない。」

「え?」

 

 突然の事に困惑している地香に、桃香が更なる困惑の言葉を投げ掛ける。

 

「地香ちゃん、今言ったよね。“靖王伝家は劉家に伝わる宝剣”って。」

「言ったけど……?」

「だったら、劉家の一員である地香ちゃんが持っていてもおかしくはないよ。そうでしょ、劉徳然?」

「それはそうだけど……。」

 

 地香は応えながら、それってどうなんだろう? と思った。

 確かに、今の彼女は桃香が言った様に劉徳然という名前であり、劉徳然は桃香――劉備の従姉妹だ。

 つまり地香は劉家の人間であり、そうした事を考えるならば、彼女が靖王伝家を持っていてもおかしくはない。

 だが、本当の地香は地和――張宝であり、劉家の人間ではない。

 その事を地香が指摘すると、

 

「それを言ったら、俺だって劉家の人間じゃないぞ。桃香の義兄だから、その点では劉家の人間だけど。」

 

と返された。しかも笑顔で。

 どうやら、地香が「靖王伝家(予備)」を受け取るのは決定事項の様だ。

 

「……仕方無いわね。」

 

 地香はそう苦笑しながら、涼達の申し出を受ける事にした。そうしないと話が先に進まない気もしたからだ。

 地香は涼の前で片膝を着いて平伏の姿勢をとると、僅かに頭を下げ、劉徳然としての口調を更に恭しくして言葉を紡いでいく。

 

「徐州軍第四部隊隊長、劉徳然。お二人の申し出を、謹んでお受けします。」

「うむ。徐州牧補佐、清宮涼。只今より、靖王伝家を劉徳然に託す。」

 

 涼もまた、先程以上に厳かに言葉を紡ぎ、「靖王伝家(予備)」を地香に手渡す。

 地香はその宝剣を両手で恭しく受け取ると、そのまま胸元に抱き寄せ、まるで愛しい我が子を見つめる母親の様に宝剣を見つめた。

 それが何を意味するかは、地香にしか解らない。

 その後、地香がその宝剣「靖王伝家(予備)」を腰に付けると、それ迄静かに見守っていた桃香が笑みを浮かべながら、だがどこか厳かに告げた。

 

「徐州牧、劉玄徳。宝剣授与の儀を確かに見届けました。」

 

 涼と地香を平等に見守る様に立っていた桃香は、この一連の儀式とも言うべきやり取りを、言葉通り見届けたのだった。

 こうして地香とのやり取りを終えた涼と桃香は、両手を天へと伸ばし、ふうと息を吐いた。

 

「さて……あんまり待たせると愛紗が怒りそうだし、そろそろ行くか。」

「だね。地香ちゃん、徐州の事ヨロシクね。」

「まっかせといて♪ まあ、困った時は雪里達に丸投げするから安心して。」

「「こら。」」

 

 その直後、執務室に三人の笑い声が響いた。

 これから先、桃香は青州黄巾党の討伐に、涼は華琳や雪蓮との外交に臨む。

 戦に赴く桃香は勿論、場合によっては涼も命の危険に晒されるだろう。

 だからこそ、三人は笑っていた。

 今生の別れになっても悔やまない為に。

 そうして一頻り笑うと、三人共表情を引き締め、下邳城外で待つ将兵達の許へ向かった。

 が、城外へと通じる正門の前で、涼達は足を止める事になる。

 

「随分とお早いお越しですね、御主人様? 桃香様?」

「「うっ……。」」

 

 そこに居たのは、まるでここから先には通さないという様に腕を組んで門前に立ち、その利き手には自身の得物である青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を持つ黒髪の少女。

 即ち、愛紗こと関雲長が満面の笑顔を浮かべながら、目の前の二人に向かってそう言った。

 目の前の二人、即ち涼と桃香は、笑顔の愛紗を見て何故か背筋を冷やしていた。

 それは、二人を見送りに来ていた地香も同じ、いや、ひょっとしたらそれ以上だったかも知れない。

 

「え、えっとね。愛紗ちゃん、これには訳が……。」

「あるのでしょうねえ……まあ、それは後で訊く事にしましょう。幸いにも、桃香様の行く先は私と同じ青州ですからね……。」

 

 弁解しようとする桃香の言葉を遮った愛紗は、常の凛とした声を意図的に低くし、喜悦と怒気を孕んだ口調でそう言った。

 堪らず、桃香は後ろに居る涼と地香に顔を向けて助けを求める。

 だが、徐州軍の筆頭武将に二人が敵う筈はない。

 なので二人の答えは、必然的に桃香の期待を裏切る事になる。

 

「ゴメン、無理。」

「桃香姉様、頑張って♪」

「涼義兄さんと地香ちゃんの薄情者ーっ。」

 

 あっさりと自分を見捨てた義兄と義従妹に対し、涙目になりながら恨み節をぶつける桃香だったが、不意にその首根っこを掴まれた。

 再び背筋に冷たい物が伝う様に感じながら、桃香はゆっくりと振り向く。

 そこには、先程と変わらぬ笑顔の愛紗が居た。

 

「さあ、桃香様。皆が待っていますから早く行きましょう。」

「あ、愛紗ちゃん、解ったから離してくれないかなー?」

「駄目です。」

 

 ちょっと愛紗ちゃーんっ、と叫ぶ桃香の首根っこを掴んだまま、愛紗は正門へと向かう。

 その結果、桃香はわたわたと後ろ向きに歩く事になったのだが、愛紗はそんな事はお構い無しに歩を進める。

 仮にも州牧である桃香を、筆頭武将とは言え桃香の部下である愛紗が文字通り引っ張っていく。それだけで愛紗が怒っているのは充分に解る。

 まあ、予定時刻から半刻近くも遅れればそりゃ怒るだろう。

 因みに、桃香は正門が開かれる前に解放された。

 愛紗も流石に、桃香の惨めな姿を将兵達に晒す訳にはいかないと思った様だ。



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第十三章 青州からの使者・7

 そんなハプニングもありながら、涼達は何とか将兵達の前に出た。

 涼達が遅れた為、その間もずっと立って待っていたのだろうが、将兵達の表情には疲労や不満の色は見えない。

 それは愛紗達による調練の賜物であり、徐州軍の将兵の統制の良さや練度の高さを表していた。

 徐州軍は元々大した実力は無かった。勿論、賊を討伐するくらいは出来たが、近年力を付けてきている諸侯の軍隊、例えば曹操や袁紹(えんしょう)等の軍隊が押し寄せていたら恐らく一溜まりもなかったであろう。

 前徐州牧である陶謙(とうけん)は、そうした危機が遠からず訪れる事を予期していた。

 だが、陶謙は既に高齢であり、自ら動くのは困難。また、部下達が調練を強化しようとしても、彼等の才では高が知れていた。

 洛陽(らくよう)の帝から、「次期徐州牧は劉玄徳とする。」という勅命(ちょくめい)が届いたのは、そんな折だった。

 突然の勅命に、徐州は少なからず混乱した。何せ、陶謙は年老いたといえ未だ政治は行えていたし、任を解かれる様な落ち度も無かったからだ。

 だが、陶謙は勅命に従う事にした。それが徐州の為だと思った故の判断だった。

 尤も、漢王朝の忠臣である陶謙に、勅命に逆らうという選択肢は最初から無いというのもあるが。

 若い頃は色々無茶をした陶謙も、徐州牧になってからは名君と呼ばれる治世を行ってきた。

 それでも限界はあり、自分ではこれ以上の発展は見込めないと判断した。

 そして今、勅命に従って跡を譲った事が正しかったという事が、強化された徐州軍により証明されている。

 軍が強化されるという事は人口が増え、物資が豊富になっているという事でもある。例外として、軍だけが豊かになる事もあるが、勿論桃香達はそんな事はしていない。

 そうして強化された徐州軍が今、涼達の目の前に存在している。

 陶謙の苦悩を知り、尚且つこの場に居る者達――孫乾、糜竺、糜芳、陳珪(ちんけい)、陳登といった忠臣達の想いは、恐らく陶謙と同じだろう。

 だからこそ、彼女達はこう思っている。

 

『この遠征は、絶対に成功させなければならない。』

 

 徐州軍の新たな一歩。その一歩を踏み外す訳にはいかない。

 踏み外したが最後、待っているのは底が見えない奈落のみ。

 そうなってしまっては、全てが無駄になってしまう。

 それを防ぐ為に、彼女達は全力で事にあたるだろう。青州組も南進組も、そして勿論居残り組も。

 そんな彼女達の決意を知る桃香が今、将兵達に向かって言葉を述べていた。

 

「恐らく、今回の出兵に関して疑問に思っている方も居るでしょう。何故、徐州軍が青州の為に動かなければならないのか、と。」

 

 用意されていた台の上に立つ桃香が、目の前に並び立つ十万四千もの徐州兵達に訊ねる様に、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 

「確かに、今現在苦しんでいるのは青州の人々です。彼等を助け、守るのは本来青州軍の役目でしょう。」

 

 ゆっくりと、だが力強く紡ぎ続ける。

 

「ですが、青州黄巾党の数は思ったより多く、青州軍だけでは倒すのに時間がかかっているのが実状です。」

 

 そう言うと少しだけ顔を俯かせる桃香だが、直ぐにその顔を上げる。

 

「それに、青州を助ける事は私達の為でもあるのです。皆さんも知っての通り、青州黄巾党はこの徐州にもその魔の手を伸ばしています。」

 

 桃香がそう言うと、徐州兵達が息を飲む音がそこかしこから聞こえてきた。

 

「幸いにも、州境の警備隊によってその被害は最小限に抑えられていますが、それでも犠牲者が出ているのもまた、残念ながら事実です。」

 

 桃香は真っ直ぐに徐州兵達を見据え、宣言する。

 

「ですから、この遠征はその悲劇を終わらせる為のもの。必要な事なんです‼」

 

 桃香は力強くそう言うと、更に語気を強めて言葉を続けた。

 

「私達の遠征の目的は、黄巾党に苦しめられている人達は勿論、黄巾党の呪縛に囚われたままの人達を助ける事です。……ですから決して……決して、相手を殺す事に囚われないで下さい。そうなってしまっては、兵士ではなく、只の血に飢えた獣と変わりませんから。」

 

 前半は熱く、勢いがあったが、後半は一転して冷静に、宥める様に言葉を紡ぐ桃香。

 それにより、只熱いだけだった兵士達の士気が、冷静さを含んだ熱気となって拡散していく。

 

「私は皆さんの強さを知っています。徐州の兵士として、一人の人間としての誇りを忘れずに戦ってくれると思っています。」

 

 桃香はそう言うと胸元で両手を握りしめ、瞑目してから右手を前に伸ばす。

 そのまま真っ直ぐに兵士達を見詰めながら、誓いを立てる様に言葉を紡ぐ。

 

「その誇りを保ったまま青州の人達を助け、皆でここに戻ってきましょう。大切な家族や仲間が居る、この徐州に!」

 

 桃香が言い終わると、数秒の静寂が辺りを包み、そして十万を超す兵士達の歓声が一気に轟いた。

 その咆哮にも似た歓声は、下邳城全体に響き渡ったのだった。

 桃香の檄が終わって暫く経った。今は各部隊が行軍の為に整列し直している所だ。

 そんな兵達の様子を見ながら、桃香が深く溜息を吐く。

 

「はあ……。」

「相変わらず慣れないか?」

「うん……だって、どんなに最善を尽くしても必ず誰かは犠牲になる。私は、皆にそれを強いているんだもん……。」

 

 涼の問いに桃香は、俯きがちになって小さな声でそう答えた。

 涼と桃香は、兵達から離れた場所で、最後の打ち合わせと称する雑談をしている。

 勿論、打ち合わせも嘘では無いが、大半は互いを気遣う言葉で占められている。

 今、気遣われているのは桃香だった。

 

「犠牲者の居ない戦いは無いからな。昔も、今も。」

「うん……。でも、覚悟はしないといけないって事も解ってるつもりだよ。……でないと、死んでいった兵士さん達や、殺した人達に悪いから。」

「……そうだな。」

 

 桃香は再び兵達を見ながらそう言った。桃香の表情には先程とは打って変わって、強い意思が感じられる。

 涼はそんな桃香の頭にポンと手を乗せると、そのまま優しく撫で始めた。

 突然の事に驚き、涼に視線を向けた桃香だったが、結局そのまま撫でられ続ける。その姿はまるで猫の様だ。

 涼は桃香の、可愛い義妹の精神的な強さを愛おしく思った。だからこうして頭を撫でている。

 勿論、それが強がりなのも解っていた。

 桃香の意志は強く、固い。かといって、その為に何でも出来るという程非情にはなれない。

 だからこそ今の様に弱気になったりするのだが、それをフォローするのは義兄である涼の役目だった。

 その結果が今の状態であり、桃香もまたそれを解った上で受け入れている。

 その姿は、仲の良い兄妹(きょうだい)というよりは恋人同士に見えた。

 勿論、二人はそんな関係では無いのだが。

 暫くすると、ゴホン、という愛紗の咳払いが聞こえた。

 どうやら、二人の行為がエスカレートしない様に釘を刺そうとした様だ。

 慌てて二人は離れる。兄妹とは言え、二人に、正確には愛紗や鈴々を含めた四人に血縁関係は無い。

 「桃園の誓い」によって義兄妹(きょうだい)義姉妹(しまい)という関係になっているだけなのだ。

 だから将来、涼が桃香達と恋人の関係になってもおかしくはない。勿論、儒教の考えや倫理観といった、様々な理由や問題が無い訳では無いが。

 

「お二人共、仲が宜しいのは結構ですが、そろそろ出立しませんと。」

「あ、ああ。」

「わ、解ってるよ、愛紗ちゃんっ。」

 

 愛紗に睨まれたからか、二人は多少言葉に詰まってしまった。

 それから暫くして、二人は自分の馬に跨っていた。

 二人はそのまま互いを見詰める。それぞれの後ろには青州へ向かう十万の兵士達と、南方に向かう四千の兵士達が整列している。愛紗や鈴々といった武将達も既に列んでいた。

 そんな中、桃香がゆっくりと口を開く。

 

「気をつけてね、涼義兄さん。……鈴々ちゃん、雫ちゃん、霧雨ちゃん。涼義兄さんと兵士さん達をヨロシクね。あと、鈴々ちゃん達も気をつけて。」

「わかったのだーっ。」

「が、頑張るねっ。」

「任されました。」

 

 桃香は涼だけでなく、鈴々達や兵士達も気遣った。

 それを見た涼は、いかにも桃香らしいなと思いながら、自身も口を開いた。

 

「桃香も気をつけてな。……愛紗、時雨、山茶花、椿、朱里。桃香と兵士達を頼む。勿論、愛紗達も気をつけてくれよ。」

「はっ。」

「まあ、俺に任せておけ。」

「清宮様もどうかお気をつけて。」

「りょーかーいっ♪」

「はわわっ、あ、有難うございますっ。」

 

 涼は桃香と愛紗達に、先程の桃香と同じ様な言葉をかけた。

 次いで城門前に居る一団に目を向ける。

 桃香も殆ど同時に目を向け、涼の言葉を待った。

 二人の視線の先には、居残り組である雪里、星、雛里、羽稀(うき)、羅深、飛陽、そして地香の姿があった。

 

「雪里、雛里(ひなり)を頼んだよ。」

「解りました。お二方が戻られる迄、精一杯雛里を鍛えておきましょう。」

「あわわ……。」

 

 涼の頼みを雪里は満面の笑みで承諾し、雛里は困った様な表情になっていた。

 雛里は極度の人見知りである。

 朱里の様に昔からの親友や、知り合ったばかりでも桃香の様に同性の者なら余り問題はない。

 だが、当然ながらこの世は雛里と同じ性、つまり女性ばかりではない。

 徐州軍での雛里の役職は「副軍師補佐」。同じ時に副軍師に任命された朱里のサポート役である。

 サポート役とは言え、軍師である事に変わりはなく、場合によっては副軍師や筆頭軍師の役目を担う事もあるかも知れない。

 そんな立場の人物が、人見知りなので指示を出せません、ではいざという時に困る。非常に困る。

 なので、朱里が居なくなる遠征の間、雪里が雛里の人見知りを直す特訓をする事になっている。雪里は乗り気だが、雛里は不安そうだ。

 雛里が今回の遠征のどちらにも参加しないのは、そうした事情からである。

 その後、星や羽稀達と言葉を交わし、徐州の事を託す涼と桃香。

 そして最後に、二人は地香に向き直る。

 

「俺達の代わりに徐州を頼んだよ、地香。」

「任せて下さい、お二人の留守は皆と共に守ります。」

 

 地香は劉燕としての口調、所作で応対する。

 素の地香を知っている涼達はつい吹き出しそうになるが、何とか堪える。

 

「それじゃあ、太子慈さん。道案内を頼みますね。」

「了解しました。」

 

 桃香が太子慈を見ながらそう言うと、太子慈は桃香に一礼し、隊の先頭集団を務める関羽隊へと馬を進めた。

 下邳に来た時は怪我や空腹でボロボロだった太子慈だが、今はそんな面影は無い。驚異的な回復力と言えるだろう。

 

「じゃあ……。」

「ああ、またな。」

 

 桃香と涼が笑みを浮かべながら言葉を交わす。

 ひょっとしたら、こうして言葉を交わすのは最後になるかも知れない。

 だからだろうか、旅立ちの時は笑顔でいた方が良いと、鈴々が言っていた。

 二人はその通りにした。次いで、愛紗や鈴々も、雪里や地香も皆。

 そして、「劉」「関」「糜」「田」「諸葛」の旗は北に。

 「清宮」「張」「孫」「簡」の旗は南に。

 それぞれの目的と共に、動き始めた。



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第十三章 青州からの使者・8

 そうして涼達と別れた桃香達は、下邳から一路青州を目指した。

 十万という大軍の為、進軍速度は遅かったが、それでも可能な限り急いだ。

 彭城(ほうじょう)蘭陵(らんりょう)開陽(かいよう)を通り、青州の城陽郡(じょうよう・ぐん)東武(とうぶ)へと向かう桃香達。この進路にしたのは、開陽・東武間が徐州と青州を結ぶ主要交易路だからだ。

 この交易路に賊が居ては、人や物の出入りが滞ってしまう。それを防ぐ為にも、交易路の安全を確保しながら賊――青州黄巾党を倒すという方針になっている。

 勿論、青州黄巾党も黙っておらず、開陽・東武間に在る徐州と青州の州境で、青州黄巾党との最初の戦闘が起きた。

 敵の数は約三万。青州遠征軍の第一陣である関羽隊は約二万五千。兵数では僅かに負けている。

 とは言え、農民上がりの青州黄巾党と正規兵である関羽隊では、実力差があり過ぎた。

 半刻の戦闘の末、青州黄巾党は五千の数的優位を活かす事無く敗走。それを見た関羽隊は、後続から合流した第二陣の糜竺隊、第三陣の糜芳隊と共に追撃し、瞬く間にその全てを討ち取り、または捕縛した。

 この時、実質的に初陣だった糜竺――山茶花が緊張の余り弓矢を落としたりしたが、優秀な部下達のフォローもあって無事に戦闘を終えている。

 因みに、「実質的に初陣」とはどういう事かと言うと、山茶花は今迄賊の討伐等で戦場に出た事はあるが、それ等は全て一兵士としての参戦であり、部隊を率いる指揮官としては初めてだという意味である。

 そうして初戦を制した桃香達は、その勢いを殺さずに東進した。

 東武から不其(ふき)(てい)へ進み、そこで一度大休止をとる。

 青州に入って以来、各地から志願兵が集まっていた。

 その中には不覚にも青州黄巾党に敗れ、敗走中だった青州軍の部隊もあった。朱里はその部隊から様々な情報を聞き、対策を講じていった。

 元々朱里は、徐州に居た時から雪里達と色々な策を練ってきていた。

 それだけでも充分だったのに、今は実際に戦った人達の意見を聞く事が出来ている。

 「孫子(そんし)」という世界的にも歴史的にも有名な兵法書に、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」とある様に、敵と味方、両方の情報を知る事は、戦いに於いて重要な事である。

 様々な兵法書を読んできた朱里はその事をよく理解しており、情報を得るとそれを踏まえて策を練り直し、味方への被害を最小限にしながら敵への損害を最大限にしていった。

 その甲斐あって、青州遠征軍の東進は難無く進んだ。

 挺での大休止を終えた青州遠征軍は、昌陽(しょうよう)東牟(とうぼう)牟平(ぼうへい)と、海岸線に沿う様に反時計回りに進軍した。

 青州黄巾党の主力が包囲しているという州都・臨淄(りんし)から離れている所為か、各地に散らばっている青州黄巾党を倒すのは、思った程手こずらなかった。

 牟平で二度目の大休止を終え、そこから北西に在る東莱郡(とうらい・ぐん)(こう)を解放すると、桃香達は部隊を二つに分けた。

 一つは桃香や愛紗といった主力部隊が中心となり、もう一つは残った時雨や山茶花の部隊を中心にして、それぞれ(えき)膠東(こうとう)即墨(そくぼく)に向かう事にした。

 これは、同時に攻める事で一日でも早く青州から黄巾党を排除する為である。

 本当は昌陽・東牟・牟平の三ヶ所を解放する際もそうしたかったのだが、その時は十万の兵を三つに分ける事のメリットより、デメリットの方を重視していた。

 太子慈の話によれば、青州黄巾党の数は十万を超えており、その総数は恐らく数十万に上る。

 幾ら兵の精度で勝っているとはいえ、無闇に戦力を分散させる事は出来なかった。

 だが、今は青州各地から何万人もの志願兵が集まっており、そのお陰で戦力の分散が可能になっていた。

 その為、今回は部隊を分けて同時に攻める事に関しては不安は全く無い。

 不安があるとすれば、それは混成部隊の弱点と言える連携不足だろうか。

 当然ながら、所属する州や郡、県が違えば調練は違ってくるし、それによって兵士達の練度も違ってくる。

 練度が違えば連携に響くし、そうした小さな綻びが大きな綻びに繋がる事は決して珍しくはない。

 勿論、「臥竜」と呼ばれる諸葛亮はその事に気付いており、既に対策を練っていた。

 その対策はと言うと、連携がとれないのなら下手にとらなくて良い、というもの。

 果たしてそれが対策と言えるかどうかは微妙だが、時間がかけられない現状ではそれが最良なのもまた確かだった。

 詳しく説明すると、徐州軍は徐州軍の兵だけで構成し、青州軍は青州軍の兵だけで構成する。

 戦闘になった際は基本的な策に従いつつ、各自の判断で行動するという事にした。

 徐州軍の中に青州軍の兵を組み込んで戦うよりかは、別々にした方が綻びは小さくて済む。時間が無い中ではそうするしか無かった。

 そうして二手に分かれた青州遠征軍は、それぞれの目的地へと軍を進める。

 二手に分かれたとは言え、その兵力はそれぞれ八万を超えていた。

 州都に近付くにつれ、青州黄巾党も少しずつ強くなってきていたが、未だ噂程の数や実力は無く、八万以上の大軍である青州遠征軍の敵では無かった。

 掖と膠東、更に即墨といった三ヶ所を難無く解放した桃香達は、膠東で部隊を再編成し、西に在る北海国を次の目的地と決めて進軍した。

 その途中で幾度か戦闘になるも、既に兵数が二十万を超えていた青州遠征軍には大きな被害は無かった。

 そんな中、桃香達は部隊を幾つかに分け、周辺地域の平定に向けた。

 その為、味方が少ない時に戦闘になる事もあったが、(あらかじ)め朱里が対応策を考えていた事もあって、さほど問題無く進んだ。

 そして今、桃香達は北海国の平寿に到着していた。

 此処には、黄巾党の乱等の影響で州牧不在の中、実質的にその仕事をしている孔融が居る。

 州都である臨瑙で青州を治めていた孔融は、州都が青州黄巾党に狙われている事を知ると、太子慈に徐州への救援要請を託した後、民を密かに臨瑙から脱出させてから応戦していた。

 だが、多勢に無勢だと覚っていた孔融の部下は隙を見て孔融を逃がした。

 勿論、実質的な州牧である孔融は部下の進言を素直に聞かなかった為、半ば無理矢理に逃がされたのだが。

 その孔融は、桃香達が青州に来たのを知ると、直ぐ様桃香達と連絡をとる為に使者を送り、対黄巾党について連携をとろうとした。

 だが、桃香達の進軍速度が孔融の予想より速かったり、黄巾党の残党に邪魔されたりで中々連絡がとれなかった。

 漸く連絡がとれたのは、ほんの一週間前の事だ。

 そうして合流し、桃香達と会談した孔融は、州都から共に逃げてきた兵士達と、避難先で集めた兵士達の大半を預けると申し出、桃香はそれを受け入れた。

 その後、桃香達は今後の目標を決める為に軍議を開いた。

 勿論、その目標は州都である臨瑙なのだが、ただ闇雲に進軍するだけでは、幾ら黄巾党とは言え数十万を超える相手には簡単に勝てないだろう。

 だが、軍師の朱里は慌てる事無く瞑目していた。

 

「朱里ちゃん、何か良い策でもあるの?」

「はい。策という程の物ではありませんが、大軍に対して効果的な方法があります。」

 

 自信に満ちた表情の朱里は、桃香の問いにそう答えると、机の上に広げてある地図のとある場所を静かに指差した。

 

「私達のとるべき策は――。」

 

 静かに語り出す朱里。

 それを聞き終えた時の桃香達の表情は皆、朱里と同じ様に自信に満ちていた。




第十三章 青州からの使者(劉備の北伐、清宮の南進・前編を2014年2月24日に改題)をお読みいただき有難うございます。

この章は前回のエピローグと新展開のプロローグを兼ねています。この時は出来るだけ簡潔に書いていく予定だったのですが、現実は未だに青州編が終わってません(笑)
こうなったら、とことん書いていこうと思います。原作では比較的簡単に流されている青州編を、ここまで長く書いてる方は居ないだろうなあ。

この章では太子慈を登場させました。個人的に魯粛と共に原作で何故外されたか、というキャラです。出来るだけ活躍させたいけど、上手くいくかなあ。

次は涼の出番です。外交を書くのは難しい。
ではまた。


2012年12月3日更新。


朱里たちが地香の事を知っている一文などを追加しました。

2017年5月30日掲載(ハーメルン)


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第十四章 江東の虎達・1

戦いとは武器を振るうだけではない。時にはその舌や態度でもって戦う事もある。

この時の清宮涼の戦いは後者であった。

だがこれは、決して油断出来ない戦いなのである。


2011年7月13日更新開始。
2013年9月25日最終更新。

2017年5月31日掲載(ハーメルン)


 桃香(とうか)達が北で活躍している頃、(りょう)は南で活躍していた。

 涼が最初に目指したのは揚州(ようしゅう)建業(けんぎょう)だった。

 本当は先に、青州(せいしゅう)と隣接している兗州(えんしゅう)陳留(ちんりゅう)へ行きたかったが、陳留へ行ってから建業へ行き、それから下邳(かひ)に戻るのは移動や時間の大幅なロスになる。

 時間が掛かれば、それだけ状況が悪化するかも知れないのだから、そうしたロスは可能な限り避けたい。

 その為、先ずは南下して孫堅(そんけん)孫策(そんさく)――雪蓮(しぇれん)との会談を成功させるべきと判断した。

 建業へは、泗水(しすい)に沿って南東に進み、泗水と淮水(わいすい)の合流地点である広陵郡(こうりょうぐん)淮陰(わいいん)から州境の高郵(こうゆう)を通り、揚州へと入った。

 そこから広陵に入り、江水(こうすい)を渡って武進(ぶしん)に進んだ。ここ迄で一週間を要している。

 翌日、その武進から西に在る建業へ向かっていた所、とある一団と遭遇した。

 その一団は商人でもなければ賊でもない、軍旗を掲げた正規の軍勢だった。

 その軍勢の先頭の旗は「甘」と「凌」、少し遅れて「黄」の旗が有った。

 突然現れた軍勢に、驚き戸惑う徐州(じょしゅう)軍。

 だが、軍師である簡雍(かんよう)――(しずく)は冷静だった。

 

清宮(きよみや)様、どうします?」

「俺達は戦いに来たんじゃない。けど念の為、油断しない様に皆に伝えて。」

「解りました。」

 

 雫はそう言って一礼すると、後ろで待機している兵士達に涼の指示を伝えに行った。

 その間、涼は前方一里(約四百メートル)で止まった一団に目をやった。

 

(“甘”に“凌”に“黄”か……。凌がどっちの武将の旗かは判らないけど、あとの二つは多分あの武将の旗だろうな。)

 

 次いで、やっぱり女なんだろうな、と付け加えながら思案に耽る涼。

 そうしている内に、その一団から三人の女性が馬から降りて近付いてきた。

 それを見た涼も馬から降り、彼女達を待つ。

 同じ様に降りて涼の隣に居る鈴々(りんりん)は自然と身構えるが、涼に制されると僅かに蛇矛(だぼう)を下げた。

 それでも、万一に備えて蛇矛を握る力は緩めなかった。

 やがて、涼達との距離が十メートルになった所で女性達は足を止め、次いで三人の中で一番年長者らしい褐色の肌の女性が声を発した。

 

「儂の名は黄蓋(こうがい)、右に居るのが甘寧(かんねい)、左に居るのが凌統(りょうとう)。我等は孫堅様の名代(みょうだい)として貴殿等を迎えに参った。貴殿が徐州軍の清宮殿で相違ないか?」

「え、ええ。清宮涼は自分です。それと、左の子は張飛(ちょうひ)、後ろの二人は右が簡雍、左が孫乾(そんかん)です。」

 

 黄蓋と名乗った女性の声に、涼は若干怯んだ。

 別に黄蓋は涼を睨んだりしていない。(むし)ろ、穏やかな表情を向けているといって良い。

 それなのに涼の背筋には今、汗が流れている。

 

(流石は孫呉の宿将、黄蓋の名を持つだけはあるな……愛紗(あいしゃ)(せい)が訓練の時に見せるのと同じ……いや、それ以上の気迫だ……っ!)

 

 涼は内心ヒヤリとしながら気持ちを立て直し、黄蓋を見返す。

 黄蓋の髪は薄紫色で、頭の後ろで結い上げてそのまま腰迄伸ばしている。

 細い濃紺の瞳は穏やかであり、鋭くもある。

 小豆色のチャイナドレスみたいな服により、肩や太股は大胆に露出している。胸元が空いているので、谷間も見える。

 その胸は、男なら誰もが凝視してしまうであろうと簡単に予想出来る程豊かな胸。豊か過ぎる気もする。少し垂れ気味なのは歳の所為か。

 背中には大きな弓矢を背負っており、それが黄蓋の武器の様だ。

 その証拠に、腕には弓使いが使う弓篭手(ゆごて)と呼ばれる長手袋を身に付けている。

 太股には薄桃色のガーターベルトらしきものが有り、同じ色のニーソックスみたいな物と繋がっている。

 靴は濃い小豆色の短いブーツっぽい靴で、全体的に同系色を中心とした服装は色合いのバランスがとれている様に見えた。

 と、涼が黄蓋を一通り観察し終えると、今度はその黄蓋が涼を見ながら口を開いた。

 

「ふむ……策殿からは白い服か青い服を着ている黒髪の少年、と聞いておったが、今日は青……浅葱色の服であったか。」

 

 そう言った黄蓋は涼をじっくりと見据えている。

 確かに、今の涼はこの世界に来た時の服、つまりコートを着ていない。

 今の服装は、浅葱色の羽織りにジーンズといった格好だ。

 

「袖の模様が策殿の服の袖の模様と似ているのは、策殿を意識しての事かの?」

「いえ、特にそんなつもりは無いです。単にこの服が俺の国で有名な服ってだけですよ。」

 

 確かに、涼が今着ている服は涼の国、つまり日本で有名な服だ。

 袖と裾に白い山形の模様、俗に言うダンダラ模様を染め抜いた浅葱色の羽織。

 それは、日本の幕末に名を馳せた剣客集団、「新撰組」の羽織と同じデザインだ。

 鉄門峡(てつもんきょう)の戦いの後、涼は返り血が付いたコートの代わりに、青を基調とした羽織を羽織っていた。

 この羽織はその時の羽織を見た涼が、折角だから作ってみようと思い、後に徐州の町の仕立屋に依頼して作った物だ。

 因みに、これとは別に背に「誠」の一文字を白く大きく染め抜いた羽織もある。

 一応言っておくと、孫策――雪蓮の袖の模様はダンダラ模様ではなく、薄桃色の花びらである。

 

「ふむ、まあ良い。……確認するが、貴殿の目的は堅殿との会談じゃな?」

「はい、孫文台(そん・ぶんだい)さんと有意義な話をしに来ました。」

「有意義とな? それは貴殿等にとってか?」

「俺達は勿論ですが、そちらにとっても有意義な話になる筈ですよ。」

 

 涼が笑みを浮かべながらそう断言すると、黄蓋はその涼の顔を暫く間見つめ、やがてフッと笑った。

 

「有意義かどうかを決めるのは堅殿じゃ。貴殿が堅殿を納得させる事が出来るかどうか、楽しみじゃな。」

「自分もです。」

 

 涼がそう言うと、黄蓋はまたも笑い、その表情のまま背を向けた。

 

「では、儂等の後についてきてまいれ。建業迄御案内しよう。」

「解りました。」

 

 それから、黄蓋と涼はそれぞれの部隊に命令を出し、行軍を再開した。

 案内は護衛も兼ねているらしく、黄蓋達の部隊は涼達を囲む様に展開した。

 旗で位置を表すと、先程と違って「黄」の部隊が先頭になり、その後ろに「清宮」を中心とした徐州軍。

 その右から後ろにかけて「凌」、左から後ろにかけて「甘」の部隊がそれぞれ進んでいる。

 完全に包囲されているので、徐州軍の兵士達は常に緊張しているが、時々涼達が声を掛けていったので、何とか緊張の糸が切れずに済んだ。

 やがて、陽が高く昇った頃に一行は建業に到着した。

 建業は下邳や彭城(ほうじょう)とは比べ物にならない程大きく堅固な城壁に囲まれており、その城門には「孫」の牙門旗が威風堂々と掲げられている。

 城門を潜ると、二人の少女が涼の前に現れ、平伏しながら口を開いた。

 

「お待ちしていました、御遣い様っ。」

「孫堅様より話は聞いております。これより先は私、蒋欽(しょうきん)と、」

周泰(しゅうたい)が御案内致しますっ。」

 

 地面に着くかと思う程長い黒髪の元気溌剌(げんきはつらつ)な少女――周泰と、肩迄満たない程短い栗色の髪の少女――蒋欽の二人によって、涼達はこの建業で一番大きな屋敷に案内されていく。

 その様子を黄蓋、甘寧、凌統の三人は表面上は穏やかに見守っている。

 やがて、涼達が視界から遠く離れるのを確認すると、黄蓋が二人に向かって話し掛けた。

 

「お主等、あの孺子(こぞう)をどう思う?」

「……ハッキリ言って、噂の様な人物には見えません。」

「ちっ……興覇(こうは)と同意見なのは癪ですが、自分もそう思います。少なくとも、武力は無いかと。」

「お主等もそう思ったか。……じゃがの、堅殿と策殿があの者をお認めになられているのも事実じゃ。何も仰られておらぬが、恐らく権殿も同じじゃろう。」

蓮華(れんふぁ)様も、ですか……。」

冥琳(めいりん)様と泉莱(せんらい)様はなんと?」

「二人も似た様なもんじゃ。冥琳の場合は、『出来れば敵に回したくない』とも言っておったの。」

「なんと……“孫軍の柱石”と呼ばれる周公謹(しゅう・こうきん)殿が仰られるのなら、それなりの人物なのでしょう。」

「ちっ……遺憾ながら、自分も興覇と同意見です。」

 

 またも舌打ちしながら答える凌統に黄蓋は呆れつつ、二人に注意する。

 

「……お主等、いい加減仲良うせんか。」

「そう仰られましても……。」

「興覇と仲良く等、一生無理です!」

「……だそうです。」

「ハア……。」

 

 とりつく島もない凌統の頑なな態度を前に、黄蓋は深々と溜め息を吐く。

 だが、それ以上は何も言わない。凌統が甘寧を嫌っている理由を知っているからだ。

 とは言え、いつまでもこのままで良いと思っている訳でも無い。

 時間はかかるだろうが、いつかは和解してもらわなければならない。

 

「ふう……。」

 

 黄蓋はもう一度溜め息を吐き、内と外の問題に頭を悩ませた。



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第十四章 江東の虎達・2

 黄蓋がそんな風に悩んでいる頃、涼達は孫家の屋敷に到着していた。

 余り装飾が無い朱色の門を潜ると、そこから広大な庭と、それを包み込む様に存在している堂々とした屋敷が一同の目に入ってきた。

 

「清宮様とお付きの方々はこちらへどうぞ。」

 

 屋敷に見とれていた涼達を、蒋欽と名乗った少女の声が現実へと引き戻す。

 蒋欽の要請に従い、涼達は孫堅に面会する組と部隊を指揮する組に分かれた。

 詳しく説明すると、面会組は涼、鈴々、霧雨(きりゅう)の三人。指揮組は残った雫一人で、彼女が兵達を指定の場所に連れて行く事になった。

 涼達は、周泰と名乗った少女に案内されて孫堅との面会に向かった。

 涼達は、先程声をかけてきた蒋欽が案内するものとてっきり思っていたが、その蒋欽は周泰に涼達の案内を任せると雫と軽く自己紹介を交わし、そのまま雫と共に涼達とは逆方向へ歩いていった。

 

「ささっ、皆さんこちらへどうぞ。」

 

 笑顔の周泰が涼達に声をかけて会見場へと先導すると、涼達はほぼ一列になって彼女の後に付いて行った。

 その道中、涼の後ろを歩く霧雨が、周泰を注視しながら涼に囁く様に告げる。

 

「……清宮様、お気をつけ下さい。」

「……えっ?」

 

 突然の事に驚きながらも、霧雨が声を潜めているのに合わせて涼も声を小さくして応えた。

 

「どうやら孫堅殿は、この機会に私達の戦力を調べたい様です。」

「それはまあ、覚悟してたけど……何故そう思ったの?」

「簡単な事ですよ。蒋欽殿が私達の案内ではなく、兵士達の移動の手伝いに行ったのが理由です。」

「と、言うと?」

「兵士の移動という雑務は、そこらの兵士に任せれば済む事です。それなのに、蒋欽殿は自らその雑務に向かった。それはつまり……。」

「自分の眼で徐州軍の力量を確かめる為、か。」

「恐らく。」

 

 そこ迄話すと、二人は静かに前を向きながら考え込む様に口を閉じた。

 蒋欽――三国志を知る涼はその名をよく知っており、今の彼は蒋欽について自身が知る限りの事を思い浮かべていた。

 蒋欽、字は公奕(こうえき)。周泰伝によれば共に孫策に仕え、数々の反乱を鎮圧し功績を残している。

 演義では何故か周泰と共に水賊をしていた事になっていたり、劉備(りゅうび)孫夫人(そん・ふじん)追跡に参加していたりする。

 

(確か蒋欽って、孫権(そんけん)に諭されて呂蒙(りょもう)と共に勉学に励んだ結果、賛嘆されたんだっけ。もしこっちの蒋欽も同じなら、確かに油断ならないな……。)

 

 涼はそう思いながら歩き続けた。

 だからだろうか、前を行く周泰が僅かに涼達を見た事に気付かなかった。

 

 

 

 

 

 屋敷内の廊下を歩く涼達は、左側に中庭を望みながら進んでいた。

 その最中、中庭を挟んだ反対側の一室に見知った顔を見つけた。

 いや、正確には見知った顔を見かけた気がしたというのが正しいだろう。

 何故そんなに曖昧な表現かと言えば、その人物が「有り得ない」姿と仕草をしていたからに他ならない。

 常の服装である、露出過多な深紅のチャイナドレスっぽい服ではなく、足下迄すっぽり隠れるロングスカートタイプのドレスっぽい服装。色は薄紅色。

 スカートの前面部分には深紅の花柄が刺繍されており、その柄は常の服装のと似ている。

 服とは離れている袖部分や、僅かに見える足には薄絹を纏っており、どこか物静かで神秘的な装いにも見える。

 だが一番の違いは、髪や首、手首や足首に瞳と同じ紺色の装飾品を身に付けている事だろう。

 彼女とて女性であり、装飾品の一つや二つ、身に付けていなかった訳では無いが、今の彼女は些か装飾過多と思える程、沢山身に付けていた。

 

「しぇれ……ん?」

 

 なので、涼の呟きが疑問系になるのも仕方ないのである。

 その呟きは涼が思っていたより声量が大きかったらしく、前後を歩く周泰や霧雨達が足を止めて涼に注目し、更には反対側の部屋に居る雪蓮らしき女性もが涼に気付いた。

 その女性は涼を視界に捉えると僅かに口を開き、利き腕を上げかけたが、結局は微笑を浮かべながら会釈をするに止まった。

 そうした一連の行動は、涼が知る雪蓮とは明らかに違う。雪蓮は明るくて行動的で、いつも涼や周瑜(しゅうゆ)達と楽しげに過ごしていた。

 少なくとも涼は、今みたいにお淑やかな仕草の雪蓮を見た事が無い。それだけに、雪蓮らしき女性はやっぱり他人の空似かと思ってしまう。

 とは言え、そのそっくりさは他人の空似で片付けられるレベルでは無いのは明らかで、雪蓮に一卵性双生児の姉妹でも居ない限り、今、涼が見ている女性は十中八九、雪蓮本人に間違いなかった。

 

海蓮(かいれん)様と雪蓮様は今、大事な会談中なのです。」

 

 雪蓮らしき女性を見ながらそう言ったのは周泰であり、お陰で、(ようや)く雪蓮らしき女性が雪蓮本人だと確定した。

 

「会談……? 差し支えなければ、会談相手を教えてもらえるかな?」

 

 涼の問いに周泰はやや表情を険しくしながら、静かに答える。

 

「……山越(さんえつ)の使者です。」

 

 先程会ってから今迄、殆ど笑顔しか見せていなかった周泰が渋面を見せる。それがどんな意味を持つのか、「山越」に関する知識を持ち合わせている涼にはよく解った。

 山越とは、後漢(ごかん)から(とう)の時代にかけて史書(ししょ)に登場する中国南東部の少数民族の事だ。

 正確には、単独の民族の名前ではなく、幾つかの少数民族の総称を山越と呼ぶ。

 その一部は春秋戦国(しゅんじゅう・せんごく)時代(紀元前770年〜紀元前221年。(しゅう)洛邑(らくゆう)に遷都してから(しん)による統一迄。)に会稽(かいけい)付近に存在した越国(えつこく)の末裔と言われている。

 山越は三国時代、地理的関係上、主に()と争っており、山越対策は呉にとって重要課題だった。

 因みに、「呉越同舟」という言葉の「越」は越国を指しており、「呉」も春秋戦国時代の呉を指している。

 三国時代の呉と山越は、その時代からの対立を引き摺っている訳だ。

 (もっと)も、この言葉の本来の意味は「深く対立する者達も、共通の危機の際には遺恨を忘れて協力する筈」という事なのだが。

 少なくとも、周泰の表情を見る限りは山越との関係は上手くいっていない様だ。

 

「成程。差し詰め、この会談はお互い暫く戦わないって事を取り決める為のものかな?」

「……その通りです。」

 

 涼の問いに短く答えると、前を向いて再び歩き出す周泰。涼達はそれについて行き、話は歩きながらする事になった。

 

「誤解の無い様に(あらかじ)め申し上げておきますが、山越如きに私達孫軍が後れをとる事はありません。ですが……。」

「今、山越との戦いが起きたら袁術(えんじゅつ)辺りに狙われるかも知れない、かな?」

「は、はい……。」

 

 周泰の言葉を繋ぐ様に涼が話すと、周泰は多少驚きながらも冷静に話し続けた。

 

十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)以降、彼等に気を遣わなくて済む様になった袁術が、この地を狙っているらしいという情報を得ています。ですが、未だに袁術が行動に出ないのは、孫堅様や孫策様がしっかりと守り、袁術に睨みをきかせているからなのです。」

「だろうね。」

 

 数々の武勇を誇る「江東の虎」と「江東の麒麟児」を相手に戦うのは、可能な限り避けたいだろう。

 例えそれが、沢山の将兵を有する名門袁家の一つ、袁術であってもそれは変わらない。

 将兵の総数では袁術に分があるが、孫堅、孫策とまともに戦えば損害は小さくない。

 損害を少なくし、成果を多くしなければ、戦をする意味が無いのだから、袁術が今戦わないのは賢明な判断だろう。

 尤も、その判断が袁術自身によるものなのかは疑わしいが。

 ここで、現在の孫軍、袁術軍、そして山越に関して説明しよう。

 孫軍の領土は豫州(よしゅう)全域と、十常侍誅殺の恩賞で賜った揚州の北中部、厳密に言えば南昌(なんしょう)南城(なんじょう)建安(けんあん)のライン迄。そこから南は袁術の領土の一部になっている。

 その袁術は、前述の部分と荊州(けいしゅう)全域を自らの領土としている。

 単純に領土の広さで比べれば豫州と揚州の大半を持つ孫軍が有利だが、袁術は名門の出という事もあって沢山の人材を抱えており、また、それ等を維持し増やす為の財力を持っているので、人口は袁術の領土の方が多い。

 最後に山越の領土だが、揚州の東から東南にかけて、つまりは永寧(えいねい)羅陽(らよう)辺りが該当する。

 領土としては三勢力の中で一番小さく、周りは孫軍の領土の為、一見すると大した事が無い相手に見える。

 だが、彼等の領土の殆どは険しい山々であり、いざ戦うと地の利を活かされて大苦戦になる事が多い。

 大軍を擁し、時間をかければ討伐は可能だろうが、袁術という憂いがある以上、孫軍は今動く事が出来ないのである。

 

(その為の会談か……何だかうちと似ているな。)

 

 涼はそう思いながら歩を進めていき、奥の一室へと通された。



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第十四章 江東の虎達・3

 それから、半刻(約一時間)以上の時が過ぎた。

 涼と霧雨は、その部屋に置いてあった本を読んだり窓からの景色を見たりして静かに待っていたが、鈴々は退屈そうに手足をブラブラと動かしていた。

 因みにその間、周泰は出入り口の前にジッと立って三人の様子を眺めていた。

 涼達から話し掛けられればきちんと応えるが、彼女の方から話し掛ける事は一度も無かった。

 

「お待たせしました。準備が出来ましたので御案内致します。」

 

 孫家の侍女が涼達を呼びに来たのは、そんな時だった。

 侍女に案内された先は、先程、雪蓮達が山越の使者と会談していた部屋だった。

 そしてその部屋では、雪蓮、孫堅、孫権、程普(ていふ)、周瑜の五人が二つの長椅子にそれぞれ座って待っていた。

 

「久し振りね、涼。」

 

 雪蓮は笑顔のまま椅子から立ち上がると、開口一番にそう言った。山越の使者との応接時に見せていた作り笑顔とは違う、涼が知るいつもの雪蓮の笑顔だ。

 

「久し振り、雪蓮。孫堅さん達もお元気そうで何よりです。」

「私もまだまだ娘達に負けていられぬからな。それより、私の事は“お義母(かあ)さん”と呼んでくれて構わないわよ。」

「そ、それはまた今度という事で……。」

「照れなくても良いのに。ねえ、雪蓮?」

「ねえ。」

 

 そう言いながら笑顔で顔を見合わせる孫堅と雪蓮。どうあっても涼を婿入りさせたい様だ。

 

(まあ、それも視野には入れてるけどね……。)

 

 涼は頭の中でそう呟くと、孫堅に促されながら空いている長椅子へと腰掛け、自己紹介をした。

 長椅子は三つ在り、入り口から見ると正方形の木製の台を中心にして、カタカナの「コ」を左へ90度傾けた形に配置されている。

 左側の長椅子には右から霧雨、涼、鈴々が。真ん中の長椅子には右から周瑜、程普が。右側の長椅子には右から雪蓮、孫堅、孫権がそれぞれ座っている。

 因みに、周泰は座らずに雪蓮達の後ろに立っている。

 暫くすると、雫と蒋欽がやってきてそれぞれの主の許へ行ってから、改めて自己紹介をした。

 その直後、今度は黄蓋と甘寧と凌統、そして見知らぬ三人の女性が入ってきた。

 

「遅かったわね、(さい)。」

「済まぬ堅殿。こ奴等を探すのにちと手間取っての。」

 

 「祭」と呼ばれた黄蓋が、後ろに居並ぶ甘寧達をチラリと見る。

 黄蓋の直ぐ後ろに居る二人は黄蓋と歳が近い様に見えるが、一番後ろに居る残りの一人は、甘寧や凌統と同じ十代の少女の様だ。

 涼が彼女達を注意深く見つめていると、黄蓋がそれに気付いたらしく、涼に対して彼女達を紹介していった。

 

「こ奴等の名前は後ろの二人が右から韓当(かんとう)祖茂(そも)、その後ろの甘寧と凌統の間に居る胸の大きい娘は陸遜(りくそん)じゃ。」

 

 余りにもサラッと言ったので、涼は驚くのに時間がかかった。

 

(韓当に祖茂に陸遜だって!?)

 

 涼が驚くのも無理はない。

 韓当と祖茂と言えば、黄蓋、程普と共に孫堅四天王と言われる程の武将である。

 世界が違うとはいえ、同じ名前を持つ四人が目の前に居るのだ。驚かない方がおかしいだろう。

 また、陸遜もやはり孫軍の名将としてその名を歴史に刻んでいる。尤も、登場し活躍した時代は孫堅の時代ではなく孫権の時代になるのだが。

 

(まあ、諸葛亮(しょかつりょう)鳳統(ほうとう)が十常侍誅殺後に登場する世界だし、少しくらいズレてもおかしくないか。)

 

 涼はそう思いながら心を落ち着かせた。三国志の武将の殆どが女性になっているこの世界が一番おかしいのだが、最早それには違和感を感じなくなっている様だ。

 簡単な自己紹介の後、黄蓋は程普の隣の空いていた席に座り、韓当と祖茂はその後ろに立った。

 それと同じ様に、甘寧達は雪蓮達の後ろに立った。

 

「未だ来てない者も居るけど、待つ時間が惜しいから始めましょうか。」

 

 孫堅がそう言って会談が始まった。

 とは言え、涼達にしてみればこの状況での会談はやり難い事この上ない。

 何せ、目の前に居る会談の相手は仲間を十人以上連れており、更にはその殆どが武官という構成だ。

 これが涼達に対する威圧なのは、涼は勿論ながら鈴々ですら解った。尤も、鈴々は何故孫堅達が威圧しているのか迄は解らなかった様だが。

 そんな周りの様子を見ながら、涼が小さく呟いた。

 

「予想していたとはいえ、やっぱりこちらにプレッシャーをかけてきたなあ。」

「ぷれっしゃあ?」

 

 隣に座る霧雨が、聞き慣れぬ言葉に興味を持った。

 

「えっと……心理的圧迫とでも言えば良いのかな?」

「成程。まあ、会談を自分達に有利に進める為には、こうした手を使って相手に“ぷれっしゃあ”をかけてくるのは当然でしょう。」

 

 霧雨は早速、覚えたばかりの新しい言葉を使いながら、冷静に状況を分析していった。

 

「兎に角、この雰囲気に呑まれない様にお気をつけ下さい。何しろこの会談の結果によって、徐州全体は勿論、清宮様御自身にも大きな影響を与える事になるのですから。」

 

 その言葉を聞いた涼は無意識の内に唾を飲み込んだ。

 徐州で雪里達と打ち合わせをした時に、今回の会談がどれだけ重要なのかは散々言い含められていたし、理解もしていた。

 だが、実際にその場に来て、いざ会談となると心臓の鼓動が速くなる。緊張しているのだ。

 仕方の無い事とは言え、涼は自分自身が情けなくなった。

 そうして一通り自己嫌悪してから、軽く深呼吸をし、真っ直ぐに相手を見据えながら口を開く。

 

「俺達がここに来た理由は先触(さきぶ)れから御存知かと思いますが、改めて申し上げます。」

 

 普段は使わない堅苦しい口調で話す涼。

 

「俺達徐州軍は青州からの要請を受け、黄巾党(こうきんとう)の残党を倒すべく十万を超す部隊を青州に派兵しました。」

「……! 十万……。」

 

 涼が発した「十万」という兵数に思わず声を詰まらせる孫権。

 だが、雪蓮や孫堅は孫権程の反応は見せず、他の武将達の反応もまたそれぞれに違っていた。

 そんな様子を見ながら話を続ける涼。

 

「これだけの大軍を派兵をしたのは、黄巾党の乱を再び引き起こしてはならないからです。その為、討伐軍は桃香……劉玄徳(りゅう・げんとく)自らがその指揮を執り、関雲長(かん・うんちょう)を始めとした主力部隊で構成しています。」

「へえ〜、あの子が自らねえ。ちょっと意外かも。」

「そうかしら? あの子は意外としっかりしてるわよ。」

 

 涼の説明を聞いた雪蓮と孫堅のこの様な会話があると、

 

「ふむ、討伐軍には関羽(かんう)殿が居るのか。ふっ……黄巾党に同情してあげるべきかも知れぬな。」

「お主が前に話しておった武人じゃな。それ程の強者(つわもの)なのか?」

 

という程普と黄蓋の会話が続いた。

 雪蓮、孫堅、程普の三人は黄巾党の乱の最中に涼達と共闘しており、桃香や愛紗の人柄や実力については孫軍で一番詳しい。

 厳密に言えば、孫権と周瑜の二人も十常侍誅殺の時に涼達と共闘しており、それなりには知っている。

 だが、雪蓮達が数ヶ月一緒に居たのに対し、二人は一日くらいしか一緒に居なかった。

 その為、雪蓮達と孫権達とでは桃香達に対する認識に差があるのである。

 桃香達と長く過ごした雪蓮と孫堅の意見が違うのは、経験の差によるものだろう。

 その後暫くの間、黄蓋達自領残留組が雪蓮達共闘組の話を聞いていたが、やがて結論が出たらしく、涼に話を続ける様促した。

 涼は続けた。

 

「相手の青州黄巾党は万を超す大軍ですが、所詮は賊。徐州軍が負ける筈がありません。」

 

 自信たっぷりな涼の言葉に周瑜が反応し、

 

「ほう、大層な自信だな。」

 

と言うと涼は、

 

「みんな、鍛えてますから。」

 

と、体を鍛えて仮面のヒーローになった青年の様に爽やかに答える。

 勿論、直ぐに表情を引き締めて言葉を紡ぎ直す。

 

「問題は、十万という大軍を動かす以上、空き巣が徐州に来る危険性が出て来るという事です。その危険性を無くす、もしくは少なくする為に……。」

「私達と同盟を結びたい、という訳なのよね。」

 

 話の先を言った雪蓮の言葉に、涼は頷いて答えた。

 それから暫くの間、黄蓋達の間でざわめきを伴った意見交換が交わされていった。

 それも仕方無いだろう。涼が言っている事は、彼等、つまり徐州にとって都合が良い話でしかない。

 

『徐州が何の憂いも無く戦える様に、協力してほしい』

 

 涼の言葉を要約すれば、こうなる。勿論、協力自体は孫軍としても異存は無いだろう。

 徐州軍が出撃した大義名分は「青州黄巾党の討伐」であり、先年に起きた黄巾党の乱が、どれだけの被害と混乱を招いたか考えれば、協力しない方がおかしいと言える。

 だが、協力した場合の見返りが何なのか、それが未だ提示されていない。

 孫軍が袁術や山越と対立関係にある事は既に触れた。

 その為、孫軍は協力したいが簡単には出来ないというジレンマを抱えている。

 そんな孫軍の内情を予め知っていたのか、霧雨が懐から一枚の書簡を取り出す。

 

「これを御覧下さい。」

 

 そう言って霧雨が差し出したその書簡を周瑜が手に取り、孫堅の許可を得て読み出した。

 すると、見る見るうちに周瑜の表情が驚きに変わっていく。

 何事かと思った孫堅と雪蓮がその書簡を読むと、二人もまた同じ様に表情を変えていった。

 書簡の内容を要約して箇条書きにすると、

 

『有事の際(正確には青州遠征時の有事に限定)の兵糧(ひょうろう)金子(きんす)の六割は徐州が負担する』

『その際に孫軍領が外敵の侵攻を受けた場合、徐州は可能な限りの援軍を送る』

『青州遠征後も、徐州と孫軍との同盟関係を続け、共に平和の為に行動する』

 

という内容になる。

 兵糧・金子の件はもとより、援軍や同盟維持等、大いに孫軍に配慮した内容に孫堅を始めとした孫軍諸将は安堵し、感心していった。

 だがそれでも、一部の将は不満げな表情をしており、孫堅・雪蓮の両名も内容に満足しながら、あと一声という表情をしていた。

 その「あと一声」が何なのかは、涼は勿論解っている。

 この世界で涼だけが使えるカード、切り札、アドバンテージ。涼がそれを使う事を二人は望んでいる。

 だが涼は迷っていた。このカードをきれば、間違いなく同盟は結ばれるだろう。だが、それだけに安売りして良いのか判断に苦しんでいる。

 そして何より、涼自身の気持ちが定まっていなかった。

 こんな重大な事を打算で決めて良いのか。大切なのは心じゃないのか。

 心さえ有れば、最悪の展開にはならないんじゃないか。例えばそう、以前交際していた彼女との関係みたいに。

 そうして煩悶した末、涼は決断した。それが個人的に正しい判断かは兎も角、少なくとも徐州を運営する一人としては正しい判断だと信じて。

 

「……そこには書いてありませんが、数年以内に雪蓮との結婚を考えています。」

 

 涼がそう言うと、孫堅と雪蓮は満足した用に笑みを浮かべ、諸将はざわめき、孫権は急な展開に驚き顔を赤らめた。

 ざわめきが止まぬ中、孫堅は笑みを浮かべたまま訊ねる。

 

「……雪蓮と結婚したいと言ってくれるのは嬉しいけど、何故直ぐに結婚しないのかしら?」

「言わなくても解っているのではありませんか?」

「と言うと?」

「御存知の通り、俺は徐州を治めている劉玄徳の補佐をしており、その劉玄徳の義兄(あに)でもあります。ですから、ここに婿入りする事は出来ません。」

「残念だけど、そうなるわね。」

「となると、残りは雪蓮がこちらに嫁入りするしかない訳ですが、そちらの事情を考えればそれもまた難しい筈。」

「……続けて。」

 

 一旦話をきった涼に対し、孫堅は話の先を促す。

 

「これは自分の想像ですが、孫堅さんは雪蓮を後継者にするべく、様々な事を教えてきたと思います。今思えば、苑城(えんじょう)での一件もそうではないかと。」

「よく覚えているわね。確かにその通りよ。何せあの頃の雪蓮は、只血の気の多い娘でしかなかったから。」

「母様も涼も、そんな昔の事を蒸し返さないでよ。」

 

 過去の自分の事を言われた雪蓮は、顔を赤らめながら二人に文句を言った。

 涼が言う苑城での一件とは、以前触れた黄巾党討伐時の事である。

 当時、桃香等と共に義勇軍を率いていた涼は曹操(そうそう)軍、董卓(とうたく)軍、盧植(ろしょく)軍と共に黄巾党討伐にあたっていた。

 だが、盧植が讒訴(ざんそ)により討伐の任を解かれ、曹操が増兵の為に連合から離れた後、入れ替わる様にして孫堅軍が加わった。

 涼は連合軍結成当時から総大将を務めており、孫堅軍が合流してもその任は変わらなかった。

 雪蓮はそれが我慢ならなかった。大して強くもない人物が、「天の御遣(みつか)い」というだけで総大将になり、自分達に命令する。そんな馬鹿な事があって良いのか、と。

 その為、反発して軍議を乱したり、果ては涼に真剣で斬りかかったりと、当時の雪蓮は孫堅が言う様に「血の気の多い娘」でしかなかった。

 そんな雪蓮に対して孫堅は、彼女が軍議を乱しても直ぐには咎めず、ある程度時が経ってから行動に移した。また、涼に斬りかかった際も止めようとはせず、只傍観していた。

 そうした一連の行動を見ると、孫堅は涼という人物を雪蓮を使って見極めようとしていた節がある。

 自分の娘である雪蓮より若い少年が総大将を務める事に、孫堅自身も若干の不満があっただろうという事は想像に難くない。

 そこで、未だ血気盛んな愛娘の雪蓮を通して涼を観察し、あわよくば雪蓮の精神面も一緒に鍛えてみたかったのではないか。

 と涼は推察し、先の質問に至った。

 果たして推察通りの答えが返ってきた事に涼は満足し、孫堅もまた、改めてこの「婿殿」を気に入ったのだった。

 一方、昔の恥ずかしい話を蒸し返された雪蓮は不機嫌そうにしている。

 

「母様もあの時不満だったのなら、何故そう言わなかったのよー。」

「当時の連合は既に劉備・清宮、董卓、盧植の三軍の結束が固かったのよ。外様の私達がわざわざ文句を言って対立しても、得する物は何も無いわ。」

 

 孫堅がそう言うと、雪蓮は不満げながらも納得せざるを得なかった。

 それから話は戻る。

 互いにすぐの婿入り、嫁入りが出来ない以上、取り敢えず婚約だけしておくという事で話は進み、双方の軍師・文官を交えて同盟の最終確認をしていく。

 そうした一連の作業が終わり、同盟締結の一文を誓紙に記そうとした時、作業中は(ほとん)ど話さなかった雪蓮が口を開いた。

 

「婚約の件なんだけど……。」

 

 そう言った雪蓮を、涼や孫堅を始めとした室内のメンバー全員が見つめる。

 その殆どが、雪蓮が婚約について早くも不安になった、所謂マリッジブルーになったのかと思ったのである。

 だが、そんな一同の予想は真っ向から覆された。

 

「私だけじゃなく、蓮華やシャオも候補者にしといてくれない?」

 

 そう言った雪蓮の表情は満面の笑みだった。

 それとは対照的に涼達は驚き固まっていたが。



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第十四章 江東の虎達・4

 前段落で「涼達は驚き固まっていた」と書いたが、それは正確ではない。孫軍諸将も驚いていたし、恐らく一番驚いていたのは、突然名前を挙げられた蓮華こと孫権だろう。

 それを裏付けるかの様に、孫権は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、雪蓮に向かって抗議の声をあげ始めた。

 

「ね、姉様っ! 同盟締結という大事な席で、何をふざけているのですかっ!!」

「ふざけてなんかいないわよ。寧ろ本気。」

「尚更悪いです!」

 

 感情的になって話す孫権と、明るく軽めに返す雪蓮。

 姉のそうした態度に孫権は過剰に反応し、更に感情的になっていく。

 只の姉妹喧嘩ならこれもまた一つの姉妹の光景だが、今この場はそんな事をして良い場所と雰囲気ではない事を、孫権は口論していく内に失念してしまった様だ。

 そんな口論が暫く続いた後、

 

伯符(はくふ)仲謀(ちゅうぼう)。じゃれ合いはそこ迄にしなさい。」

 

孫堅が静かに、だが威圧する様に力強く言葉を発した。

 瞬間、雪蓮と孫権は表情を強ばらせ、声の主である孫堅に目を向ける。

 孫堅は、自分の左右に居る二人の娘を一瞥しただけで特に何もしない。

 だがそれでも威圧だけはしているらしく、二人は勿論、孫軍諸将も皆気圧されていた。

 味方である孫軍諸将でさえ威圧されてるのだから、当然ながら涼達も威圧されている。

 涼は愛紗達との鍛錬で気圧されない様にしている為、未だ耐えられるが、少しでも気を抜けば(たちま)ち耐えられなくなってしまうだろう。

 一方、文官である雫と霧雨は既に耐えられそうではなくなっている。霧雨は多少なりとも武の心得が有るとは言え、愛紗達みたいな耐性は無い。

 鈴々は武官である為、三人と比べれば平然と耐えている様に見える。

 だが、よく見ればそんな鈴々の額や頬にうっすらと汗が浮かび、流れている。

 表情も笑みを浮かべながらどこか強ばっており、それに気付いた涼は「燕人(えんひと)張飛」と呼ばれる鈴々ですらそうなのかと思い、安心と恐怖が同時にやって来るのを感じていた。

 そんな驚異の威圧は唐突に終わった。

 瞬間、両軍諸将がまるで計ったかの様に同時に息を吐く。呼吸が荒くなっている者だけでなく、冷や汗を流している者も何人か居る。孫権に至っては若干顔色が悪くなっている様に見えた。

 

「雪蓮、貴女の考えをきちんと説明しなさい。そうしなければ蓮華は勿論、清宮殿達や皆が納得しないわ。」

 

 孫堅は声音と表情を戻し、温和な笑み迄浮かべながらそう言った。

 雪蓮は孫堅に何か言いたそうにしたが結局何も言わず、周りを見てから涼に向き直り、自分の考えを口にした。

 

「私は、孫家の後継者としてこの母、孫文台に厳しく育てられたわ。そりゃあもう、子供の頃から戦場に連れて行かれるくらい、厳しくね。」

 

 そう言ってジト目を孫堅に向ける雪蓮。だが孫堅は全く意に介さず、静かに話を聞いている。

 雪蓮は続ける。

 

「そのお陰か知らないけど、私は生まれ育ったこの孫家を愛している。母様や妹達は勿論、亡くなった父様も、祭や冥琳を始めとした将兵を含めた“孫家”を大切に思っているわ。」

 

 雪蓮のその言葉に、孫軍諸将は皆少なからず感動した。

 直接名前を挙げられた祭――黄蓋と冥琳――周瑜は特に感動してても良いが、見た目からはそう感じない。

 だが勿論、二人は心の中で深く感動しており、感謝していた。

 

「その孫家の為に、私は今の提案、つまりは涼と私の婚約を、涼と孫家三姉妹との婚約に変更したいの。」

「ですから、何故そうなるのですか。」

 

 実の姉にジトっとした目を向ける孫権。だが雪蓮は微笑みながら対応する。

 

「だからそれを今から説明するってば。せっかちな女は嫌われるわよ、蓮華。」

 

 それがまるでからかう様な言い方だったので、孫権は思わず立ち上がって雪蓮と向き合う。

 が、孫堅が無言で窘めると、忽ち孫権はシュンとなって座り直した。

 一方の雪蓮は、何事も無かったかの様に話を進めた。

 

「私が涼の妻になって同盟を結べば、徐州と揚州、そして清宮家と孫家が共に繁栄する可能性は高いわ。けど、同盟の条件が私が涼の妻になる、というだけでは孫家の為にはならない。……蓮華、何故だか解る?」

「それが解らないから訊いたのです。」

「ふふっ、そうだったわね。その理由はね……。」

 

 雪蓮はそこで一旦言葉を切ると、それ迄の軽めの表情から瞬時に引き締め、声も若干低くして答えを告げる。

 

「私が、いつ死ぬか分からないからよ。」

 

 その瞬間、室内の空気は重く張り詰めていった。

 孫権に至っては狼狽し、常の真面目で堅いその表情が一際固くなっている。

 

「ね、姉様、何を縁起でもない事を言っているのですか!?」

「だって、人間なんていつ死ぬか分からないじゃない。父様の事忘れたの?」

「そ、それは……。」

 

 雪蓮の言葉に孫権は何も言い返せず、諸将もまた同じだった。

 雪蓮達の父であり孫堅の夫は既に他界している。

 当然ながら、涼は雪蓮達の父親について、詳しくは知らない。黄巾党征伐時に連合で一緒だった時に少し聞いた話だと、「戦死した」という事だった。

 名前も聞いたが、涼は知らない名前だった。この世界では殆どの武将の性別が逆転している為、この世界の孫堅の夫は、涼の世界の孫堅の妻が該当すると考えられる。

 だが、古代中国の女性の名前は余り現代に伝わっていない。「○夫人」や「○皇后」として伝わっているものが殆どであり、孫堅の妻も「呉夫人」としてしか伝わっていない。

 因みに涼が聞いた雪蓮達の父親の名は呉○ではなく、孫○という名前だったが、詳しく覚えていない。

 現代に伝わる名前なら諸葛亮の妻の「黄月英(こう・げつえい)」や、劉備の妻の「孫尚香(そん・しょうこう)」等が居るじゃないかという意見もあるが、これ等の名前は史書には無く、京劇等で付けられた名前という場合が多い。

 三国志の時代で言えば、馬超(ばちょう)を撃退した女傑「王異(おうい)」や、数奇な運命の才女「蔡文姫(さい・ぶんき)」等が、きちんと名前が伝わっている少ない例と言えるだろう。

 

「そう言えば、雪蓮は以前似た事を言ってたね。“私達が生き残っていれば、孫家の血は絶えない”って。これもそれと同じ考えって事だよね?」

「十常侍を討つ前の話ね。よく覚えてるわね。」

 

 雪蓮が感心した様に涼を見ると、椅子に座り直して再び話しだした。

 

「涼の推測通りよ。私は自分なりに考えて、孫家にとってこれが一番良いと判断したの。」

「だ、だからと言って、私やシャオに何の相談も無く決められては困りますっ!」

「あら、二人に相談したらシャオは兎も角、貴女は反対したでしょ?」

「それは……っ!」

 

 反論しようとして、言い淀む孫権。雪蓮の考えには「私」の孫権としては反対だが、「公」の孫権としては賛成するしかない。

 そうした事から、「公私」で相反する答えに悩む。彼女も姉と同じく孫家の将来を第一に考えているのだから、それもまた当然の事だろう。

 

「まあ、そんなに深く考え込まなくて良いわよ。あくまで私に何かあった場合、なんだから。」

「それはそうですが……。」

「勿論、貴女が涼に惚れたり、涼が私達三姉妹を全員嫁にしたいって言ったらその限りじゃ無いけどね♪」

「なっ!?」

 

 またもや雪蓮がからかう様に言うと、孫権は呆気にとられ、次いで涼を睨んだ。この原因が涼にあるからだろう。

 その涼は孫権の迫力に思わず怯み、苦笑するのであった。

 取り敢えず涼は、三姉妹を一度に妻にするつもりは今のところ無いと説明する事で、孫権の怒りをなんとか鎮める事に成功した。

 因みに、涼に万が一の事があった場合は同盟がどうなるか聞いてみると、同盟の条件が無くなるので同盟関係は無くなるとの事だった。

 

(元々死ぬつもりは無いけど、尚更死ねなくなったなあ。)

 

 と、涼は緊張した表情をしながらも、その頭の中は緊張感がないのか、のんびりとしていた。

 それから両者は、改めて誓紙に同盟についての文言を書き記した。

 涼と孫堅、双方の総大将が内容を確認し、更に文官にも確認させてからそれぞれが印璽(いんじ)をしっかりと押す。

 こうして徐州と揚州の同盟、ひいては清宮家と孫家の縁談は纏まった。

 と、そこに一人の少女が、

 

「ごっめーん、遅くなっちゃったー。」

 

という、場にそぐわない一際明るい声を出しながらやってきた。

 皆の視線がその少女に集まる。が、少女はその視線の矢を受けても平然としている。

 只一人、

 

「尚香、客人の前でその態度は何? 私の顔に泥を塗りたいのかしら?」

「う、ううんっ! ご、ごめんなさいっ!」

 

孫堅の鋭い視線と言葉には、この明るい少女も勝てなかった様だ。

 来た時とは打って変わってしおらしくなった少女だったが、この場に居る唯一の男性である涼を見つけると、瞬時に先程迄の明るさを取り戻した。

 そうなると行動は早い。

 涼の側に近付き、声をかける。その行動を後ろに居る孫権が注意するが、残念ながらその声は彼女の耳に届いていない様だ。

 

「あなたが徐州牧の清宮涼さん?」

「確かに俺は清宮涼だけど、徐州牧じゃなくてその補佐だよ。徐州牧は劉玄徳だ。」

「そうなの? けど前に雪蓮お姉ちゃんに訊いた時は、あなたが州牧だって言ってたよ。」

「……雪蓮?」

 

 少女の話を聞いた涼がその視線を雪蓮に向けると、雪蓮は苦笑で応えた。

 それを見た涼はやれやれと小さく嘆息する。

 そんな二人を見ながら、少女が誰にともなく声をかける。

 

「それで、会談は終わったの?」

 

 それに応えたのは周瑜だった。

 

「ええ。徐州との同盟は無事結ばれ、雪蓮と清宮殿との婚約も正式に決まりました。」

「そっかあ♪ ……あ、じゃあ、お姉ちゃんはお嫁に行っちゃうの?」

 

 すると今度は雪蓮本人がそれに応える。

 

「直ぐって訳じゃないけどね。貴女や蓮華に色々教えないといけないし。それに……。」

「それに?」

「この婚約には、私だけじゃなく蓮華や貴女も含まれているのよ。」

「えっ?」

 

 雪蓮の発した言葉に少女は驚き、次いで周りを見た。

 頷く者、目を逸らす者、苦笑する者と反応は様々だが、それ等は全て、雪蓮の言葉に嘘が無いという証だった。

 

「つまり、シャ……私も清宮様と結婚するって事?」

「そうよ。まあ、今直ぐって訳じゃないから安心しなさい。」

「う、うん。」

 

 雪蓮に確認し、間違いがないと確信した少女は僅かに頬を朱に染め、涼の姿をチラリと見る。

 口調が変わったのは、結婚するかも知れない相手に対して、失礼にならない様にと思ったからだろうか。

 その後、少女は雪蓮に促されて涼に自己紹介をした。

 

「改めましてこんにちは、清宮様。私は孫文台が三女にして末子、姓名は孫貞(そんてい)(あざな)は尚香、真名は小蓮(しゃおれん)。シャオとお呼び下さい。」

「御丁寧に有難う、シャオ。俺は徐州牧補佐の清宮涼。字や真名は無いから、好きに呼んで良いよ。けど、“様”ってのは何か固っ苦しいから、出来れば普通に呼んで欲しいな。」

 

 涼も改めて自己紹介をし、その際にもっと軽めに、要はフレンドリーに接して欲しいという事を目の前の少女――シャオにお願いした。

 シャオは直ぐにその申し出を受けようとしたが、何かを思い出したのか一度伺う様に孫堅を見た。

 その孫堅が頷いたのを見てから、シャオは涼の申し出を受け、常の表情と口調へと戻る。

 

「じゃあ、改めてヨロシクね、涼♪」

「ああ、宜しく、シャオ。」

 

 シャオと涼は改めて挨拶をし、笑顔を見せる。

 その様子を見た孫権が、何故か驚いたり不機嫌だったりしていたが何故だろうか。

 それからは雑談となり、最近あった事や、互いの州の事を話し合ったりしていった。



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第十四章 江東の虎達・5

 そんな中、孫堅が一つの提案をした。

 

「婿殿が今日から正式に婿殿になったのですから、私は真名を預けようと思います。祭達も良いわね?」

「堅殿、それは儂等の真名もこの孺子に預けよ、という事ですかな?」

「そうよ。……嫌かしら?」

「いえ。儂もこの孺子が気に入りました。これだけの人数を前にして、平然としているのですからな。」

「平然となんてしていませんよ。これでも緊張してますから。」

 

 涼の世界では「孫呉の宿将」と伝わる黄蓋が、涼を見据えながら孫堅に答える。

 黄蓋は普通に答えたが、「真名を預けよ」という命令はひょっとしたらこの世界で一番強い命令かも知れない。

 何せ、勝手に呼ばれたら殺しても良いと言うのが真名である。

 それを他人に預けろというのは、取りようによっては屈辱を受けろと言っている様なものだろう。

 だが、黄蓋はそれをあっさりと受け入れた。勿論、黄蓋自身が納得していたというのもあるだろうが、それでも自分で預けるのと他人に促されるのでは気持ちの上で大きく違うだろう。

 そうした事を考えると黄蓋の器の大きさがよく解るし、無茶な命令をさらりと命じられる孫堅も凄いと言える。

 

「そうは見えんがの。……まあよい、では儂から預けるとしよう。儂の名は黄蓋、字は公覆(こうふく)、真名は祭。宜しく頼むぞ、清宮。」

「はい、こちらこそ宜しくお願いします。」

 

 黄蓋から真名を預けられた涼はそう答え、自分の呼び方は好きな様に呼んでほしいと続けた。

 黄蓋こと祭の番が終わると、次はその隣に居る程普が涼に向き直った。涼に近い順番に進むのだろうか。

 程普は常の冷静な表情のまま、静かに口を開いた。

 

「私の名は程普、字は徳謀(とくぼう)、真名は泉莱。改めて宜しくお願いします、総大将。」

 

 表情だけでなく、口調迄もが常と変わらない程普こと泉莱だった。

 涼も改めて自己紹介をし、次に備えた。

 順番で言えば次は周瑜であり、その通りになった。

 

「次は私だな。私の名は周瑜、字は公瑾、真名は冥琳(めいりん)。改めて雪蓮共々宜しく頼む。」

「こちらこそ宜しく、冥琳。」

 

 二人はそう言って会釈し、少しの雑談を交わした。二人は十常侍誅殺の時に会ったのが最初であり、今回はそれ以来の再会となるので互いにそれ程知っている仲という訳では無いが、“共通の話題”がある為か意外と話が合っていた。

 その際に、何故か雪蓮がむくれていたり、いじけたりしたが、些細な事なのか二人共スルーしていた。

 そうして雪蓮が不貞腐(ふてくさ)れたまま、尚も雑談は続いた。

 周瑜――冥琳は、愛紗の様に艶のある黒髪を長く伸ばしている。

その長さは腰より下迄伸びており、先端で桃色の細い布を巻いて纏めている。

 服装は赤紫色のドレスの様な服で、肩や胸元や腹部が大胆に露出しており、目のやり場に困る。尤も、ここ揚州は緯度で言えば日本の九州と余り変わらず、比較的温暖な気候の土地である為、薄着の人が多いのは仕方ないのだろう。

 黒い長手袋とストッキング、そして靴は白いハイヒール。全体的に寒色のコーディネートは彼女の褐色の肌によく似合っている。

 冥琳の左の目元にはホクロがある。所謂泣きぼくろというものだ。その所為か、只でさえ色気がある冥琳が尚更美しく妖艶に見える。

 物語では「美周郎(びしゅうろう)」と呼ばれ、京劇では二枚目の役者が演じる役とされる周瑜だけあって、その容姿は性別が変わっても凛としており、思わず溜息が出そうになる。

 そんな彼女は視力が悪いのか眼鏡を掛けている。長方形のレンズに紅い上縁が無い眼鏡で、現代ではハーフフレームと呼ばれる物だ。

 三国志や日本史に詳しい涼でも、眼鏡については流石に詳しくない。

 レンズ等を使って物を拡大して見る行為は紀元前の昔からあった様だが、「眼鏡」という物に限定すると、13世紀のヨーロッパで発明される迄待たねばならない。そうした歴史を知っていると、この時代に眼鏡があるのはおかしいのだが、他にも色々とおかしいこの世界では些末な事である。

 そんな冥琳との雑談、つまりは雪蓮いじりもやがて終わり、次の自己紹介へと移った。

 次は誰かと涼は思ったが、後ろに居る韓当が口を開いた。

 

「私の名前は韓当、字は義公(ぎこう)、真名は(かい)。清宮殿、これから宜しくお願いします。」

 

 韓当は真っ直ぐに涼を見詰めながら、丁寧な口調でそう名乗った。

 韓当は長いストレートの金髪を首の後ろで纏め、それをマフラーの様に右肩にかけている。そんなに長い髪を巻いて暑くないのだろうか。とは言え、この場には実際にマフラーみたいな布を首に巻いている者も居るので、その辺はよく判らない。

 一つだけ確かなのは、この揚州は漢大陸の中でも温暖な気候だという事だけだ。

話を韓当に戻す。

 韓当の瞳は燃える様な紅であり、孫呉の人間の殆どがそうである様に彼女の肌も褐色だ。

 年齢は孫堅四天王の一人だけあって、同じ四天王の泉莱や祭と近い筈だが、涼が見る限りは四天王の中で一番若く見える。

 服装はこの場に居る孫呉のメンバーの中では比較的地味と言える。地味というか、露出が少ないと言った方が正しいか。

 前述の通り、揚州は温暖な気候である為、薄着の者が多い。この場にも、雪蓮を筆頭に何人も薄着の者が居る。

 薄着でない者は韓当の他には、今日も以前と同じ漆黒のコートタイプの長袖の衣服を身に着けている泉萊くらいだ。

 韓当は泉莱程ではないが、孫呉のメンバーの中では厚着の方であり、胸元は疎か足も殆ど露出していない。それでも彼女の胸が大きいのはよく判るし、全体でもバランスのとれたスタイルの持ち主だと判る。

 衣服の基調は橙色であり、長袖の側面、肩から袖にかけて黒い線が三本引いてある。それを見た涼は片仮名五文字の某スポーツブランドを思い出した。

 下はスカートではなくズボンであり、そちらも橙色を基調とし、やはり側面に三本の黒線が引いてある。

 要するにジャージに近いのだが、そう見えないのは衣服の材質の違いの他に、衣服の上下に非対称に刺繍された(からす)の意匠や、着る者の雰囲気といった様々な事によるものが大きいだろう。

 他には、左耳に紅いピアスをしている事と、靴が白いハイヒールというのが彼女の服装に関する情報だ。

 

(韓当は弓術や馬術に優れてて、演義だと太刀を使う武人だけど、この世界だとどうなのかな?)

 

 涼は韓当と挨拶しながらそう思った。

 韓当は関羽や張飛等と比べれば地味で知名度も無いが、映画の題材にもなった「赤壁の戦い」では黄蓋の命を救ったり、夷陵(いりょう)の戦いで活躍する等、かなりの名将である。

 尤も、日本で三国志といえば劉備や諸葛亮(しょかつ・りょう)の蜀、というイメージが強く、その次に近年その墓が見つかったと言われた曹操の魏、最後に孫策や周瑜が活躍した呉という順の人気や知名度なので、孫呉の将兵が地味になってしまうのは仕方無いかも知れない。

 世界中で公開された映画「レッドクリフ」で周瑜や孫権の名は広く知られただろうが、黄蓋の見せ場がカットされたり、甘寧と思われるキャラが話の都合上とはいえ架空の人物に置き換えられていたりと、優遇されているのか不遇なのかよく解らない演出をされていた。因みにその役を演じたのは日本人であり、序でに言えば諸葛亮を演じたのも日本人――正確に言えば日本人と台湾人のハーフ――である。

 韓当との挨拶が終わると、次はその隣の女性の番となった。

 

「我が名は祖茂、字は大栄(だいえい)、真名は(たい)。童よ、宜しく頼む。」

 

 そう名乗った女性――祖茂は涼を「わらべ」と呼んだ。確かに、壮齢の女性から見れば、未だ十代の涼は童子と同じだろう。

 それを理解している涼は特に不快には思わず、挨拶を交わした。

祖茂の外見はというと、年齢は前述の通り泉莱達と近い様だ。四天王全員に言える事だが、年齢より若く見えるのは何故だろう。

 そもそも、妙齢の娘を持つ孫堅も、年齢より遥かに若く見える。しかも三人の子持ちでこれだから尚凄い。この世界の人は某戦闘民族の様に若い時代が長く、老化の時期が遅いのだろうか。勿論そんな訳は無いのだが、そう思う程に若々しかった。

 余談になるが、この後の会食後に涼がその事を雪蓮に語った所、『あんなの単に若作りしているだけよ』と返された。本人達に聞かれたらどうするのだろうか。

 祖茂の髪は黒く、長さは孫堅と同じくらいの長さ、髪型もどこか似ている。見た感じは身長も似ている様だ。

 似ていると言えば、スタイルもそうであった。何を食べたらそんなに大きくなるのかという胸に、どう動けばそこ迄引き締まるのかという腰等も、孫堅と似ていた。

 無論、顔や雰囲気は全く似ていない。肌の色はやはり褐色だが、瞳の色は孫堅の碧眼では無く茶色である。

 服装に関しても、基調となる色は似ているがチャイナ服を大胆に加工している孫堅とは違い、水色のタンクトップに赤いジャケットタイプの服を羽織っている。

 下は足首迄隠れる程の長いスカート、色はやはり赤。靴は黒いハイヒールで、ヒールはそれ程高くない。

 そうした外見の祖茂こと黛だが、涼は彼女を見ながら心の中でツッコミを入れていた。

 

(既に紅い頭巾を被っているのかい。)

 

 確かに、黛は紅い頭巾を被っている。頭巾というよりバンダナの様だが、何れにしても頭に何か被っているのは間違いなかった。

 何故涼がこの様なツッコミを入れているのかと言えば、正史及び演義で伝えられている祖茂に関する記述によるものである。

 孫堅がある戦いに参加した時、当然ながら祖茂も従軍した。だが、その戦いで孫堅が大敗し敗走している時、祖茂は孫堅が被っていた頭巾を被って自らが囮となり、その為に孫堅は助かったという。

 実は、祖茂に関する記述は正史も演義もこの戦いに関する事しか記されていない。更に言えば、演義ではこの後に華雄(かゆう)を倒そうとするも返り討ちにあって戦死している。正史ではそうした記述が無いので、生死不明である。

 演義では孫堅四天王の一人として登場しているにも係らず、その記述の量は他の三人より遥かに少ない。それが長い歴史の中で散逸した為に少なくなったのか、元々少なかったのかは判らないが、正史で現在伝わっているのは三国志「孫堅伝」のこの部分だけなのである。

 三国志に詳しい涼は当然その事を知っており、だからこそこの格好にツッコミを入れざるをえなかった。

 とは言え、それを本人に言う訳にはいかないので、心の中だけに留めたが。

 尤も、黛はそんな涼の様子に気付いた様で首を傾げていたが、敢えて追求はしなかった。



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第十四章 江東の虎達・6

 黛との挨拶が終わると、今度は正面に視線を移す事になった。そこには右から雪蓮、孫堅、孫権、そして小蓮が座っており、その後ろに甘寧、陸遜、凌統、蒋欽、周泰が立っている。気の所為か、陸遜は笑顔を引き攣らせている様だ。

 

(まあ、甘寧と凌統に挟まれてたらそうなるよなあ。)

 

 涼は何となく事情を察し、事実その通りだった。

 それは兎も角、自己紹介は続いた。

 前と後ろのどっちからかなと涼は思ったが、前列の四人は既に顔見知りであり、その内の二人からは真名を預かっているのもある為、後ろの五人の番となった。

 その中で最初に自己紹介を始めたのは、左端に居る少し小柄で長い黒髪の少女だった。

 

「私の名前は周泰、字は幼平(ようへい)、真名は明命(みんめい)と申します。御遣い様、若輩者ですが宜しくお願いしますっ。」

 

 明るくハキハキと名乗る周泰こと明命に、涼は好感を持った。

 この屋敷に来た時に接客したのはこの明命と、その隣に居る蒋欽である。勿論、そこには少なからず(はかりごと)が有ったのだろうが、屈託の無い笑顔を向ける彼女を見ると本当にそうだったのかなと思う程だ。

 そんな彼女の外見は、繰り返しになるが長い黒髪が特徴的だろう。

 どれくらい長いかといえば、彼女の膝下よりも長い。ひょっとしたらもっと長いかも知れない。

 彼女も他の将と同じく褐色の肌だが、この活発そうな表情を見ると元々の肌の色というより、動きまわって日焼けしたのではないかと思ってしまう。

 まあ、日焼け止めクリームとかは無い世界だから、それも間違いでは無いのだろうが。

 服装は表現するなら小豆色の忍者服、それも所謂「くノ一」と呼ばれる者が着ている様な服という表現がピッタリな服であり、袖は短く足も大胆に露出している。

 とは言え、先程の快活さも相まって、露出の割には色気が無い。どちらかと言えば「美しい」と言うより「可愛い」という言葉がよく似合う。

 あと、この中では明命の胸が比較的小さいのも、少なからず関係しているのかも知れない。というか、他がでか過ぎるのだが。

 そもそも、胸の大きさで女性の価値は決まらないのだから、大小をどうこう言っても仕方が無い。……誰に対するフォローではない。断じて違う。

 話を戻そう。明命は前述の通りに明るく活発そうな少女であり、その様子から察するに彼女は活動的な人物なのだろう。彼女は「周泰」の名を持つのだから当然武官だろうし、その実力も確かな筈だ。

 とは言え、今目の前に居る彼女はそこ迄の手練れとは見えない。

 勿論武将である分、実力者なのは確かであり、涼よりは遥かに強いだろう。そもそも涼は、戦えるとはいえ強くはない。彼が戦えるのはあくまで黄巾党の様な賊レベルの強さしかない相手だけであり、周泰の様な将クラスの強さを持つ者が相手では数合もしない内に負けると思われる。

 あくまで、この場に居る将の中では手練れではないというだけで、彼女の実力は折り紙付きに違いない。そんな風には見えない程のあどけなさを、明命は持っていた。

 あと、外見について補足するなら、素足にサンダルのような靴を履いている事くらいか。

 涼は明命にも今迄と同じ対応をし、好きな様に呼んで良いと答えた。

 すると明命は花が咲いた様な笑顔で「宜しくお願いします、涼様!」と言った。御遣い様という堅苦しい呼び方ではなくなった分、涼は嬉しく思った。

 続いて自己紹介を始めたのは、明命の隣に立つ蒋欽だった。

 

「私の名前は蒋欽、公奕、真名は美怜(みれい)と申します。私も明命同様若輩者ですが、宜しくお願いします。」

 

 蒋欽こと美怜は落ち着き払った口調で名乗り、恭しく礼をした。

 その際に肩にも満たない程短い栗色の髪がさらりと揺れ、漆黒の瞳が真っ直ぐに涼を見詰めていた。

 その口調が示す様に、彼女の所作はゆっくりで、かつ優雅だ。生まれ育ちが良いのか、様々な事を学ぶ内に身に付いたのかは判らないが、少なくともその所作が好意的にとられるのは間違いない。

 自身の所作に合わせる様に、服装もキッチリしている。

 緑を基調としたその服は、涼の世界では「唐装」と呼ばれる服の一種であり、その名から唐の時代の服と連想されるが、一説には清末の服装とも言われており、更に広義では単に中国の服、つまりはチャイナ服と呼ばれる事も多い。

 とは言え、今彼女が着ている服は日本人がイメージする一般的なチャイナ服、つまりは胸元が空いていたり深いスリットがある物では無く、子供が着ている様な露出が無い服であり、昔流行った映画、何とか道士のヒロインが着ていた服をイメージすれば良いだろう。

 異世界とはいえ、後漢末の時代に唐代や清末の服が何故あるのかという疑問が出て来るが、この世界ではそうした事は些末な事だろう。何せ、本来なら未だ火薬が貴重な時代なのに花火が普通に打ち上げられているのだから。

 また話が逸れてきたので、元に戻そう。

 彼女の服は前述の通り緑を基調としているが、袖や襟の部分は深紅となっている。また、下の部分には鴬の絵が幾つか刺繍されている。

 唐装の特性上、靴は服に隠れていて見えないが、恐らく唐装に合う靴を履いていると考えられる。

 既に触れたが、正史の蒋欽は呂蒙と共に勉学に励み、孫権に賛嘆された程の努力家である。周泰だけでなく何気に呂蒙とも縁があり、二人が亡くなった時期も近い。ともすれば蒋欽も呂蒙同様にあの「呪い」によって亡くなったと言えるかも知れない。

 涼はそうした事を知っている為に少し気になったが、この場でそれを言っても仕方ないので、明命達と同じ様に普通に接した。

 また、涼は先程、美怜が明命と共に自分達に接してきた為に二人を一纏めにして意識しており、活発そうな明命と冷静そうな美怜をコンビとして認識している。

 実はその認識は間違っておらず、孫軍では若手であるこの二人はよく二人一組で行動している。尤もそれは、若手の育成に時間をかけずに済むという理由もあるのだが。

 そうして美玲との挨拶が終わると、順番通りというか凌統が口を開いた。

 

「自分の名前は凌統、字は公績(こうせき)、真名は莉秋(りしゅう)。先の二人同様、宜しく頼みます。」

 

 鋭い眼つきとは違い、丁寧かつ温和な声で自己紹介をする凌統こと莉秋。何故か雪蓮を始めとした数人が笑いを堪えている。

 莉秋はその反応を見て僅かに顔を赤らめ、コホンと咳払いをした。その際、笑っていない甘寧をひと睨みしたのは何故だろう。因みにその甘寧は意に介していない様だ。

 

(この世界でも甘寧と凌統は仲が悪いのかな。)

 

 二人の様子を見た涼はそう思った。

 涼の世界の正史では、甘寧と凌統は不仲であったと伝えられている。

 それは、甘寧がかつて江夏(こうか)太守(たいしゅ)だった黄祖(こうそ)の部下だった事に由来している。黄祖はとある事情から孫家にとって憎んでも憎みきれない敵であり、結果として孫権に敗れ戦死している。

 或る時、孫権率いる孫軍と黄祖が戦った時、部下である甘寧も孫軍に対して戦った。

 黄祖は敗れて敗走し、その殿を甘寧が務めた。当然ながら追撃があったが、甘寧はよく戦い、追撃隊の将を討ち取るといった活躍を見せた。その将の名は凌操(りょうそう)といい、凌統の父である。

 つまり、凌統にとって甘寧は父親の仇であり、可能なら討ち取りたいと思うのは当然だった。事実、何度か二人は一触即発の状態となっており、孫権や呂蒙といった周りの人々の制止がなければ先ず間違いなく殺し合いになっていただろう。

 尚、演義においても両者は仲が悪いが、とある戦いを切欠に和解するというエピソードがある。正史にはその記述が無いので、演義の創作とされている。

 ここで凌統こと莉秋の外見について述べよう。

 胸は余り大きくなく、服は青を基調とした袖無しミニスカワンピースの様な服で、スカート部分は薄水色。両手首と足首には緑色の布をリストバンドや靴下の様に巻いており、靴は明命の様なサンダルタイプで色は黄色。

 揚州人特有なのかは判らないが彼女も褐色の肌である。茶色の髪は肩より少し下迄の長さで、瞳は金色。小顔な童顔だが、鼻が高いからか少し大人びた雰囲気もある。

 先程の自己紹介を聞く限り、莉秋は大人しく真面目という印象を涼達は受けた。だが、その際に雪蓮達が笑いを堪えていたのも気になっている。

 公式な会談は既に終わり、今は歓談をしている面々だが、自己紹介という真面目な場面で苦笑される事は普通は無いだろう。

 その理由を訊くべきか涼は一瞬迷ったが、訊く事で莉秋が困るんじゃないかと思い、止めた。

 続いて自己紹介は陸遜の番となった。

 

「わたしの名前は陸遜、字は伯言(はくげん)、真名は(のん)と申します~。宜しくお願いしますね、御遣い様~。」

 

 陸遜こと穏はにこやかに微笑みながら、間延びした口調でそう言った。

 彼女はこの場に居る孫軍諸将の中では珍しく、白い肌の持ち主である。珍しいといえば、彼女の衣服は布の面積が大きく、温暖な揚州の気候からすれば暑くないのかと思う程だ。

 尤も、その分という訳では無いだろうが、胸元は大きく開いている。その為、彼女の大き過ぎる胸が露わとなっている。

 何度も触れているが、孫軍は平均的に大きな胸の持ち主が多い。穏はその中でも特に大きく、また、若いという事もあって張り艶があり、若い涼にとって抗い難い光景と言えた。

 

(この土地で採れる作物には、巨乳になる成分でもあるのか?)

 

 と、思ってしまったくらいに内心では動揺し、平静に努めようとした程である。

 なお、当然ながらその様な成分は無いし、巨乳じゃない者も居る。

 穏の外見について更に補足しよう。

 先ず、彼女の髪は緑色である。

 涼の世界では緑色の髪は染めなければ見る事は出来ないが、この世界では普通にあるらしい。まあ、他にも色々な色の髪を持つ人が居るのだから、余り大した事では無いのだろう。

 その緑色の髪は、左右にふんわりと広がっており、何らかの整髪料で固めているのか、重力を無視した髪型になっている。頭には黄色い長方形の冠の様な物を乗せているが、官位を示すのかファッションかは判らない。

 目が悪いらしく眼鏡をかけているが、そのサイズはとても小さく、鼻にちょこんと乗せているだけであり、果たしてちゃんと見えるのか疑問だが、わざわざ伊達眼鏡をかけているとも考え難いので、恐らく見えているのだろう。因みに瞳は紺色だ。

 服や袖は朱色であり、前述の通り布面積が大きい。尤も、その大部分は長く大きな袖になるのだが。

 そして、これも前述の通り、胸元は大きく開いている。序でに言えばおへそも見えている。そうした所を見ると、結局は薄着になっていると言える。

 足にはニーソックスの様なものを穿いており、それは内側から外に向かって上がっているデザインで、お陰で内太腿が綺麗に見える。勿論、涼がまじまじと見る訳は無いが。

 そんな風に魅力的な外見を持つ少女ではあるが、彼女も「三国志」に名を残す名将と同じ名というのを忘れてはいけない。

 

(口調はのんびりしてるけど、仮にも陸遜の名を持ってるんだからきっと優秀なんだろうな。)

 

 それを忘れていなかった涼は、穏を見ながらそう思った。

 陸遜は、正史では「呉郡の四姓」と呼ばれる有力豪族の一つ、陸家の一員と記されており、孫権に仕えて孫呉の重臣としてその実力を発揮している。

 だが、演義では何故か初め無名の将として登場し、最初はその才能を疑われている。また、周瑜の様に美男子という記述があり、一部の創作作品を除き、後の時代に作られた三国志の作品では美形に描かれている。

 それに関連しているのかは判らないが、目の前に居る「陸遜」こと「穏」は美少女である。しかも巨乳である。

 

(……うん。気をつけよう、色々と)

 

 涼は正史での陸遜の活躍が、結果として劉備達に大きな影響を与えた事を思いつつ、同時に穏という少女の別の要素についても注意をする事を心に決めた。

 続いて、後列最後の人物の自己紹介に移った。

 

「私の名は甘寧、字は興覇、真名は思春(ししゅん)。君命によって真名を預ける。」

「こちらこそ宜しく。」

「……宜しくするかは、これからの貴様次第だがな。」

 

 甘寧こと思春は静かに目をとじると、冷たく言った。

 どうやら思春はクールな性格なんだな、と、涼は思いつつ、今迄と同じ様にそれとなく観察する。

 彼女の髪は黒っぽい紺色で長い。明命程では無いが、結構長い。その髪を頭の後ろで布を巻いて纏めているらしく、白い布で髪を包み込み、紅い紐で結んでいる。

 服装は赤いチャイナ服の服の部分に白い長袖を足した様な服。上半身の露出度は他の呉将と比べて高くは無いが、下半身は靴下代わりに布で巻かれた部分と靴以外は何も穿いていない様に見えるので、逆に高くなっている。

 因みに、下着代わりに褌をしているので、角度によっては丸見えだ。

 他には、手首を中心にして腕にも布を巻いており、手は黒い指貫き手袋。首には黒いマフラーの様な厚手の布を首に巻いている。

 

「……他に何かあるのか?」

 

 観察しているのがバレたのか、涼をギロリと睨む思春。それに対して涼は苦笑するしか出来ない。約二年、戦乱の世を生きて来たとはいえ、元の世界では普通の高校生だった少年には、呉を代表する武将と同じ名前を持つ少女に抗う術は無いに等しい。

 思春が涼を睨んだ事で若干場の空気が悪くなったが、孫権が思春を窘めた事と涼が気にしていない事等で大事にはならなかった。

 残るは孫家の四人だが、先程自己紹介をした小蓮と、以前から真名を預けている雪蓮は簡単な自己紹介をするに留まった。

 続いて名乗ったのは、孫家の家長であり孫軍の総大将である孫堅だった。涼は姉妹の中で唯一自己紹介をしていない孫権の番かと思っていたが、その予想は外れた。また、孫権自身も自分の番と思っていたらしく、先に孫堅が自己紹介をすると言った時は驚いていた。

 

「私の名は孫堅、字は文台、真名は海蓮。改めて宜しくしますね、婿殿。」

 

 孫堅こと海連は、両腕と両足を組みながらそう名乗った。

 雪蓮と似た様な服裝である海連は、年齢を感じさせない若々しさと妖艶さを持ち併せており、その仕草に涼も一瞬ドキリとした程である。

 その瞬間、複数の鋭い視線を感じたのはまた別の事だが。

 一方、最後に自己紹介をする事になった孫権こと蓮華は、少なからず緊張していた。

 彼女と涼は今回が初対面では無い。十常侍誅殺の時に会ってはいるが、前述の通り涼達が長く洛陽に滞在しなかった事もあって、それ程の交流は無かった。

 「天の御遣い」という胡散臭い肩書きを持つ、自分と然程変わらぬ年齢の少年に対し、元来真面目な彼女は警戒の色を隠さなかった。

 そうした感情には、姉である雪蓮が涼を評価しているのが、信じられなかったというのもある。彼女にとって雪蓮は母・海蓮と共に目標としている人物であり、その姉が傍目からは頼りにならなそうな優男を評価し、果ては婚約するという事が、孫家の為と頭では理解出来ても納得は出来ないのである。

 とは言え、既に同盟は結ばれ、涼と雪蓮の縁談も纏まっている。ひょっとしたらその縁談によって自分も結婚させられるかも知れないという状態で、自分だけ自己紹介をしないというのは、下手をすれば同盟や縁談が白紙に戻ってしまうかも知れない。

 孫家の一員として、それは出来なかった。

 蓮華は孫権であり、正史での孫権は孫堅から「仲謀は只者では無い、貴人の相をしている」と言われ、孫策からは「才能ある者を用い、江東を保っていくことについては、私はお前に及ばない」と評された人物である。

 この世界の孫権である蓮華もまた、その才能を持っていると思われ、実際に三姉妹の中では一番の良識持ちである。

 まあ、姉や妹が豪快過ぎるとも言えるが。

 彼女は孫家の事を思い、自身の不安や戸惑い、苛立ちをグッと抑えて心を整理し、表情を出来るだけ柔らかくした。

 それでも若干固かったのは、真面目な彼女の愛嬌と言えるだろう。

 

「……私の名は孫権、字は仲謀、真名は蓮華。雪蓮姉様や妹の小蓮共々、宜しく頼むわね。」

 

 そう言った蓮華の表情は前述の通り若干固く、彼女が彼女なりに作り出した笑顔は誰から見ても無理してると判るものの、元来が整った顔立ちの為とても美しく、同年代の涼が暫しの間思わず見とれてしまう程である。

 隣に居る霧雨がコホン、と咳払いをしたので涼は我に返り、無事に蓮華との挨拶を終えた。

 こうしてこの場に居る孫軍全ての自己紹介が終わると、そのまま雑談へと移っていった。

 その内容は、互いの近況や統治している州での政治経済といった、プライベートな話からシリアスな話迄多岐に渡る。

 その際に、当然の様に色恋の話もあり、雪蓮だけでなく小蓮迄もが涼を誘惑しようとし、蓮華がそれに過剰反応を示すなど色々あった。



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第十四章 江東の虎達・7

 そうして会談と雑談が終わり、一同は部屋を出た。

 外を見ると、陽が少し西の彼方に向かって傾き始めている。随分と長い事話し込んでいた様だ。

 散々述べているが、揚州は温暖な気候である。その為、日没が近くなっている現在でもそれなりに暑さを感じている。

 

「そろそろ夜になるわね。婿殿は今日、泊まっていくのでしょう?」

 

 涼がそんな揚州の景色と気温を感じていると、後ろから海蓮が話し掛けてきた。

 

「出来ればそうしたいですね。兵達を休ませないといけませんし。」

「ならば丁度良い。貴方達の歓迎の宴を用意しているから、思う存分食べて疲れをとるといいわ。勿論、兵達の分も用意しているから安心しなさい。」

「有難うございます。」

「なに、義息子(むすこ)の為だし気にしないで。」

「ハハハ……。」

 

 どうやら、海連の中では二人は既に義親子(おやこ)関係になった様だ。尤も、以前から涼を「婿殿」と呼んでいた彼女にとっては今更かも知れない。

 その後、何人かの孫軍の将は持ち場に帰ったらしく、今涼の周りに居るのは鈴々達を除けば孫家の四人。冥琳、穏の軍師コンビ。祭と思春、莉秋の出迎え組に明命、美鈴の案内コンビだけだ。

 この面子で宴が行われる場所へと移動中、涼は気になった事を何気なく訊ねた。

 

「そう言えば、呂蒙(りょもう)が居なかったけど、用事で居なかったのかな?」

 

 だが、その涼の質問に孫軍一同がキョトンとした反応を見せる。

 涼はその雰囲気を感じ取りながら振り返ると、皆一様に不可思議な物を見た様な表情をし、涼を見詰めていた。

 

「もしかして……呂蒙って未だ居ない、のかな?」

 

 戸惑いながらそう言うと、皆を代表するかの様に雪蓮が頷いた。

 

呂範(りょはん)なら居るけど、呂蒙って子はうちには居ないわね。冥琳は知ってる?」

「残念ながら私も知らぬ名だな。……清宮、その呂蒙とやらが何故ここに居ると思った?」

「えっと、それは……。」

 

 冥琳の質問に涼はどう答えようか迷った。天の知識だと言って納得してくれれば良いが、これから先ずっと天の知識を当てにされたら色々と困る気がする。

 涼は暫く考えた。その間も一同の視線が涼に集まるが、気にしていたら限りが無い。

 とは言え、既に呂蒙という人名を口にし、ここに居るかの様に訊ねてしまっている。ここで下手に言い訳をしても、却って状況が悪くなってしまうのではないか。

 だったら、多少言葉を濁すのは仕方無いとしても、正直に言った方が良いのではないかとの結論になった。

 そう決めてからの涼の思考は早かった。

 涼は、一旦口の中を湿らせてから呂蒙に関する知識を思い出し、言葉を紡ぐ。

 

「呂蒙は、近い将来この孫軍の一員になる人だよ。字は子明(しめい)。性別は判らないけど、多分女性で、住まいは多分……汝南郡(じょなんぐん)富陂(ふうは)だと思う。」

「なに……?」

 

 涼の言葉に冥琳は一瞬驚いた表情を作った。それも当然であろう。涼が言った事は呂蒙という人物の詳細であり、普通なら知る筈が無い情報である。しかも、徐州に居る者が、だ。

 冥琳はジッと涼を見据えながら、利き手の中指で眼鏡を上げ、その類稀なる思考能力を駆使しつつ、再び訊ねる。

 

「……先程の質問の答えを未だ聞いていないが。」

「それは……ゴメン、言えないんだ。敢えて言うなら、俺が“天の御遣い”だから、としか言えない。」

「それで納得しろと……。」

 

 当然ながら冥琳は納得せず、追求しようとしたが、それを止める人物が居た。雪蓮である。

 

「まあまあ、良いじゃない。涼が言っている事が本当なら、私達にとって有益なんだし、もし違っていても損は無いでしょ?」

「それはそうだが……。」

「それより、今はその呂蒙って子を探す事を優先しましょ。汝南郡富陂なら、私達の領土内だし、探すのは簡単でしょ。」

「その通りだが……探すのか?」

「さっき言ったでしょ、どっちにしろ損はしないって。……涼、他にその子に関する情報は無いの?」

 

 未だに思案顔の冥琳とは違い、雪蓮は興味津々といった表情で涼に訊ねる。涼はそんな雪蓮の様子に多少戸惑いながらも、彼女の要請に応えた。

 

「他は……義理の兄か姉に鄧当って人が居るかも知れない。その人はひょっとしたら既に雪蓮の部下になってるかもね。それと、家は余り裕福じゃないと思う。後、家族思いの人、くらいかな。」

「成程ね。……幼平!」

「はっ!」

 

 涼の話を聞いていた時とは打って変わって真面目な表情となった雪蓮は、後ろに居る明命の字を呼び、次の指示を出した。

 

「貴女の部下も使って、呂蒙を探しなさい。見つけたら力尽くでもここに連れて来る様に厳命するのよ。」

「解りました!」

 

 明命は両手をつけて平伏しながらそう応えると、一瞬の内に居なくなった。

 

「消えた!?」

「慣れないとそう見えるわよね。私も前はそうだったわ。」

 

 そう言いながら雪蓮は右後方に視線を向けた。その視線の先には、小さな黒い影が屋敷の屋根を駆けて行くのが見える。

 涼が雪蓮の視線に気付いた時は、既に見えなくなっていた。

 念の為辺りを見回すが、勿論明命の気配はどこにも無かった。

 

「彼女の部隊なら、明日明後日迄には見付けて来ると思うわ。幸い、ここから汝南迄はそう遠くないし。」

 

 と、雪蓮は事も無げに言うが、実際はそんな簡単なものではない。

 汝南は豫州の西に在って荊州に近い為、ここ建業からはかなりの距離がある。飛行機どころか新幹線や電車が無く、自動車すら無いこの世界では往復だけでも時間が掛かる。そこに人探しが加わるのだから、短時間では終わらないと考えるのが普通だろう。

 そんな不安が表情に表れていたのか、雪蓮は涼に対して「まあ、見てなさいよ♪」と笑顔で言った。

 結局、呂蒙についてはそれで終わりになった。冥琳や穏といった軍師組は未だ納得していなかった様だが、孫軍の次期後継者と目されている雪蓮がそれ以上追求しなかった事、現指揮官の海蓮も同様に何も言わなかった為、それに倣って追求をしなかった。

 

(……“天の御遣い”か。本当に呂蒙とやらが居たら、その二つ名も強ち間違いでは無いのかも知れんな。)

 

 親友と並んで歩く年下の少年を見据えながら、後の世に「大都督」と呼ばれる冥琳こと周瑜は一人思案に耽っていった。



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第十四章 江東の虎達・8

 その日の宴は滞り無く行われた。

 涼が海蓮、雪蓮、祭から酒を勧められて困ったり、小蓮が年齢の割に妖艶に迫ってきたり、互いの義姉や主君の優秀さを巡って鈴々と思春が一色触発の状況になったが、それ等はほんの些末な事だ。うん。

 宴が終わった時は、下弦の月が頭上にある程に夜が更けていた。酒を飲んだ者は勿論、素面の者ですら睡魔に襲われる時間である。

 涼達は宛てがわれた部屋でそれぞれ休息をとり、旅の疲れを癒していった。尤も、涼は直ぐには眠れなかったが。

 

「……何してんの、雪蓮?」

「夜這いに来たの♪」

 

 涼が寝台に横になって暫くした後、浅い眠りに入った時に何者かの気配を感じて目を開けると、自分に覆い被さる様にしている雪蓮が居た。

 涼が元の世界から何故か持ってきていたバッグに、何故か入っていた寝間着に着替えている様に、彼女も着替えていた。その服は、昼間に見たドレスの様な形の服である。

 生地が薄いのか、服の下にある彼女の肢体が薄っすらと月夜に浮かぶ。有る筈の下着が足りない様な気がする。

 

「いやいや、夜這いと言われても困るんだけど……。」

「良いじゃない、正式に婚約したんだし。」

「それはそうだけど……。」

「こんな美人と一夜を共に出来るんだから、もっと喜びなさいよー。」

「わーい。」

「……ちょっと。」

「……ゴメン。」

 

 冗談が通じず、ジト目で睨まれる涼。

 だがその後、雪蓮は急に表情を悲しげに変えて、呟く様に口を開いた。

 

「……やっぱり、私との婚約は嫌だった?」

 

 衣服同様、月夜に浮かぶ雪蓮の表情は、普段の彼女からは想像が出来ない程にしおらしく、乙女と言って過言でない。実際に女性なのだから乙女で間違いないのだが。

 涼はそんな彼女をジッと見つめた。海の色をした瞳が、どことなく潤んでいる様に見える。そんな彼女の頬を撫でながら、涼は微笑み、雪蓮の不安を無くす様に言葉を紡ぐ。

 

「こんな美人と婚約出来て、嫌な訳ないよ。」

「だったら、ここは直ぐに抱きしめてって流れになるんじゃないの?」

「まあ……そうなんだけど……。」

 

 涼も年頃の少年であり、成人に近い年齢である。涼の言葉にある様に、雪蓮の様な美人に迫られて嬉しくない筈がない。

 それでも涼が躊躇してしまうのは、この婚約が政治的要因を多分に含んでいる為だ。

 政略結婚と聞いてマイナスイメージを持つ者は少なくない。涼もその一人である。

 現代では表向き、余り政略結婚は行われていない。実際はどうか判らないが。

 日本史では、織田信長の妹、お市と浅井長政との政略結婚が有名だろう。また、豊臣秀吉も妹の朝日姫(旭姫)を徳川家康に嫁がせている。

 だが、浅井長政は同盟関係にあった朝倉義景と共に信長を裏切った末、姉川の戦い、小谷城の戦いに敗れ、滅亡。豊臣秀吉も自身の死後に徳川家康によって嫡男の秀頼が自害に追い込まれており、政略結婚が必ずしも成功するとは限らない。

 また、三国志で政略結婚と言えば、劉備と孫夫人が有名だろう。

 孫夫人は孫策、孫権の妹であり、孫権や周瑜の様々な思惑によって三十以上も年上の劉備と結婚させられた。「横山光輝三国志」では、この時の孫夫人は十代後半とされている。

 正史と演義では両者の仲は正反対に伝えられており、物語では仲睦まじい夫婦になっている事が多い。

 そんな二人だが、正史、演義共に謀略によって離れ離れとなる。正史ではその後の同行について記述が無いものの、演義では夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を受けた孫夫人は絶望し、長江に身投げしてしまった。

 物語とはいえ、やはりここでも悲劇が起きている様だ。

 勿論、政略結婚でも仲が良かったという話もあるし、政略結婚が悪いという事は無い。それでも、涼のイメージはどちらかと言えば悪かった。

 その為、雪蓮との婚約の際も中々吹っ切れなかったし、そもそも自分は雪蓮を一人の女性として愛しているのか、という根本的な悩みが涼にはあった。

 今はその悩みはある程度解消されているものの、雪蓮の誘いに乗れない所を見ると未だ少し悩んでいる様だ。

 

「……雪蓮はこれで良いの?」

「……。」

 

 雪蓮は涼の問いに答えなかった。代わりに、その柔らかな唇を涼の唇に重ねた。

 涼はそれに対して何もせず、只彼女のしたいようにさせた。

 

「……涼が言いたい事は解っているつもりよ。でもね……。」

 

 そう言うと雪蓮は自身の体を涼に預け、ギュッと抱きしめた。そして、涼の首筋にキスをし、そのままの姿勢で話を続けた。

 

「好きでも無い相手に体を預ける趣味は、私は持ってないわ。」

 

 そう言って再び涼を抱きしめると、顔を少し涼に向けて静かに目を閉じた。この状況でそれが意味する事に気付かない程、涼は鈍感ではない。

 雪蓮を抱き寄せ、その唇を塞ぐ。さっきの雪蓮とは違い、何度も重ねていく。

 そのまま、涼の手がゆっくり動く。

 だが、豊かな胸の前でその動きは止まる。何度もしていたキスもそこで終わる。

 「それから先」に進む事は、やはり出来ない様だ。

 

「……しないの?」

「……ゴメン。」

「女に恥をかかせないで欲しいんだけどなあ。」

「ゴメン。」

「……政略結婚の事以外にも、理由は他にあるみたいね。良かったら教えてくれる?」

 

 涼はどうしようかと迷ったが、理由を言う事も拒否するのは流石に悪いと思い、「どうなるか未だ判らないけど」と前置きしてから言葉を紡いだ。

 

「これから先、大きな戦が起きるかも知れない。その時に、雪蓮が居てくれると凄く心強い。」

「大きな戦、ね……。」

 

 涼が発した「戦」という言葉に、流石の雪蓮も少なからず動揺した。

 先の黄巾党の乱や十常侍誅殺等、世の中が乱れ、戦いが起きている以上、また戦いが起きる可能性は充分にある。

 今の漢王朝に諸侯を統べる力が無いのは、前述の件でも解るし涼が今この揚州に居るのも、周辺情勢が不安定だからである。

 青州では未だに黄巾党が暴れ回っており、その賊を倒す為に徐州軍が遠征をしている。涼の揚州外交の目的は、この青州遠征を切欠に同盟関係を結び、今迄以上の友好関係を構築したいからだ。

 言ってしまえば、雪蓮との婚約は、同盟を結ぶ為の手段でしかない。それは雪蓮も理解してはいるが、彼女も一人の女性であり、複雑な心境になってしまうのは仕方無い。

 だが、今の雪蓮には婚約よりも戦の事が気になる。

 

「何故、戦が起きると思うの?」

「それは……ゴメン、言えないんだ。」

「……呂蒙の事もそうだけど、涼って言えない事が多いわよね。」

「……本当にゴメン。」

 

 涼は苦しそうな表情で謝り続けた。

 彼が何故本当の事を言えないのか、雪蓮には判らない。徐州軍の機密なのだろうかという推測は出来るが、どうも違う様だなとも思っていた。

 普通ならいい加減不信感を募らせるところだが、雪蓮はそうした感情にならなかった。数ヶ月という短期間だが、寝食を共にしてきた仲であり、涼の人となりは彼女なりに理解しているつもりだ。

 だからこそ、彼が口を閉ざすのはそれなりに理由があるのだろうと思っている。勿論、知りたいという好奇心は有る。

 だが、今深く追求して涼を困らせるのはいけないとも思っていた。彼なら何れ理由を言ってくれる筈だから、と。彼女の勘がそう告げていた。

 

「……まあ良いわ。要は、その時に私が身重だったら困るからって事ね。」

「うん……。それに、今桃香達は青州で黄巾党と戦っている。そんな中で雪蓮と、ってのは気がひけるしね。だから、凄く勝手なのは解っているけど、どうか今回は俺の頼みをきいてほしい。」

「うーん……。」

 

 雪蓮はそこで。小さく唸った。

 先の理由から、このまま涼の願いを受け入れても良かったのだが、無条件で受け入れるのは幾ら婚約者と言えども譲歩し過ぎではないかと思った。

 少しの嗜虐心も湧いて出たし、女としてこのままでは終われないというプライドもあっただろう。

 

「……そういう事なら仕方無いわね。解ったわ。」

「……! 有難う、雪蓮。」

「た・だ・し。」

 

 涼の口許に利き手の人差し指を当てながら、ゆっくりとかつ妖艶に言葉を紡ぐ。

 

「今夜はこのまま一緒に寝させて。そして、私が満足する迄、楽しませて。」

 

 それが、彼女が今出来る我が儘だった。

 色々思う所はあるが、今は涼と正式に婚約出来ただけで良しとする。そう、雪蓮は思い、納得しようとした。その、納得する為の理由付けが涼との同衾(どうきん)だ。

 繰り返すが、涼も年頃の男性だ。雪蓮の様な美人と一緒に寝ていて、果たして理性を保てるだろうか。

 理性を保てるのなら自制が利く人間という事で、改めて涼が誠実な人間だと認識出来るし、保てなかったのならそのまま既成事実を起こせば良いだけである。

 

「え、えっと……。解った。」

「ありがと♪」

 

 涼の答えを聞くと同時に再び唇を重ねる雪蓮。涼も先程と同じ様に反応し、今度は雪蓮の胸などを触っていき、約束通りに彼女を楽しませようとしていった。

 そうして暫くの間、二人は逢瀬を楽しんだ。それでも、結局二人が最後の一線を超える事はなかった。涼の理性やら何やらが危ない場面は何度もあったが、何とか耐え抜いた。その為、雪蓮の表情は複雑なものになっていたが。

 因みに、二人はそのまま寝たので、翌日の朝になって涼を起こしに来た雫や、雪蓮が居ない事に気付いてもしやと思い探しに来た冥琳に同衾している様が見つかってしまい、涼は誤解を解こうと慌てながらも説明し、一方の雪蓮は冥琳に事の次第を報告し、上手くいかなかった愚痴を零すのだった。

 

「……涼って、男色じゃないよね?」

「今話した事が本当なら、違うだろう。その趣味の男が女性の胸に興味は持つまい。」

「それもそうね。」

 

 親友の言葉に少なからず安堵した雪蓮は、昨夜の涼の行動、テクニックを思い出し、体が熱くなるのを感じた。

 彼女は男性との経験は無いが、同姓との経験は少なからずある。それだけに男女による行為の仕方の違いを知る事が出来た。

 だが、その為に一つの疑問が出て来た。

 

(……涼が私とするのを避けているのは、昨夜涼が言った、桃香達が戦っている時には出来ないって事だけじゃなく、ひょっとしたら経験が無いのを悟られたくなかったから、と思ったんだけど……あの技術を見る限りは、経験が無いって訳じゃなさそうなのよねえ……。)

 

 そう思うと、更に体が熱くなっていった。

 涼が最後迄いかなかったのは、その現象が起きなかった事で判っている。だが雪蓮はというと、涼のテクニックで何度か達してしまっていた。

 男性のそれと違い、女性はその現象が目に見えなくても達する事が出来る。その為、涼が彼女のそれに気付いたかはどうかは判らない。一応、それなりの反応を見せるので全く判らないという事は無いだろうが、昨夜の涼はその事を指摘しなかった。気付かなかったのか敢えて言わなかったかは判らない。

 何れにせよ、昨夜の事で涼が経験が無いという事は無いだろうと雪蓮は結論付けた。そうすると自然に新たな疑問が出てくる。涼がいつ、誰とその行為に及んだか、だ。

 そう思った時、最初に思い浮かべたのは桃香の顔だった。

 

(兄妹とは言え義理だし、あの二人は仲良いしね。……けど。)

 

 仲が良いからこそそこから進展するのは難しいのでは、とも思う。それに、あの思っている事が表情に出易い彼女が涼と恋仲になっていたら、自分はその変化に気付くのではないか。勿論、最後に会ってからかなりの月日が流れている事を考えれば、その間にとも考えられるが、今や徐州牧である彼女の日々は忙しいだろうし、そうした関係になる暇も無いのではないか、と結論付けた。

 その後も、愛紗や鈴々といった少女の顔が浮かんでは消えたが、どの少女も決定打に欠けていた。鈴々に至っては、末妹の小蓮と余り変わらぬ年齢ではないか。

 と、そこで、今迄考えつかなかった可能性を思い付いた。涼の元の世界の女性だ。

 余りにも馴染んでいるのでつい忘れがちになるが、涼はこの世界の人間では無い。こことは違う別の世界から来たと言う。

 (にわか)には信じられない話だが、涼が本来着ていた服や持ち物を見た事がある雪蓮は、それらに使われている材料や技術がこの世界、少なくとも漢王朝によって一応統治されているこの国では、絶対に作れないものだという事はよく解った。

 となれば、必然的に涼はこことは違う国から来たという事になる。仮にそうでなくても、涼がこの国に来る迄の年月は十数年もあるのだ。その間に恋人の一人くらい居たとしてもおかしくない。

 そして、その女性と経験をしたという事も充分に考えられる。十代半ばにもなれば、それくらいしているだろう。

 雪蓮はそこで、ひょっとしたら婚約者が居たのでは? と考えた。この世界の男女は結婚が早い。十代前半で結婚し、子を成している場合も多い。その例から言うと、二十歳を過ぎている雪蓮は行き遅れという事になるが。

 尤も、婚約していたかもという雪蓮の不安は杞憂である。涼は元の世界に居た時、現役の高校生であり、日本の一般的な高校生は未婚である。勿論、涼も例外では無い。

 只、恋人の有無については彼女の不安通りであるのだが、その答えを知るのは未だ先の事である。

 

(ま、今はこれで良しとしますか。例え涼に恋人や婚約者が居たとしても、今の婚約者は私なんだから。)

 

 雪蓮はそう思いながら小さく微笑んだ。側に居た冥琳は、今迄愚痴を零していた雪蓮が微笑んでいるのを怪訝に思ったが、彼女なりに何か納得したのだろうと思い、追及はしなかった。



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第十四章 江東の虎達・9

 そんな感じで、涼の滞在時は色々なドタバタがついて回った。

 お陰で余り休息にならなかった気もするが、後になって振り返れば、間違いなく休息になったと言える。

 涼達の建業滞在は、計四日になった。本当はもう少し早く旅立ちたかったが、兵達の休養に時間を要した事、孫一家による接待等で遅れてしまった。

 それと、もう一つの理由がある。

 

「涼、呂蒙を連れて来たわよー。」

「……えっ?」

 

 兗州の曹操こと華琳の許へと出立する日の朝、雪蓮はそう言って一人の少女を連れて来た。その少女は黒に近い茶髪を三つ編みの様に二つのお団子ヘアにしている、どこか気弱そうな子だ。

 

「えっ? えっ?」

「何をそんなに驚いているのよ。」

「いや、だって呂蒙が居るって事は、明命が汝南迄行って帰って来たって事だろ? 幾ら何でも早過ぎない?」

「普通ならね。けど、明命なら可能なのよ。ね、明命。」

 

 そう言うと、雪蓮の視線が涼の後ろに向かう。それに気付いた涼が後ろを向くと、そこにはいつの間にか明命が立っていた。涼は驚いた。

 そう、涼が今日迄ここに留まっていた理由は、明命が呂蒙を連れて来るから暫くここで待っていてほしいという雪蓮の頼みをきいたからだ。

 本来なら、涼達の用事を早く済ませないといけないので断っても良かったのだが、涼は雪蓮の情事の誘いを断っていたので後ろめたい気持ちがあり、彼女の誘いをこれ以上断る事は難しかった。

 それに、雪蓮が言うには明日、つまり今日中には来るだろうという事だったので、それくらいなら待とうと思った。もし、一週間待って、と言われていたら流石に待てなかっただろう。寧ろ、地理的にはこちらから行った方が早いかも知れない。

 とは言え、涼は常識的に考えて車も飛行機も無いこの世界で、四日で呂蒙を探し出し、往復する事は不可能だと考えていた。だが、今目の前には呂蒙らしき少女が居る。

 雪蓮の性格を考えれば、わざわざ赤の他人を呂蒙と偽って連れて来ないだろう。となれば、この少女は呂蒙本人だと考えられる。

 

「……何か怯えている様に見えるけど、何かした?」

「何もしてないわよ。ちょっと説得して、無理矢理来てもらったくらいよ。」

「それ、充分酷いからっ!」

 

 涼は雪蓮に怒りながら呂蒙と思われる少女に謝った。まさかこんな強引な手に出るとは思いもよらなかった様だ。

 思い返してみれば、あの時雪蓮は「見つけたら力尽くでもここに連れて来る様に」と言っていた。

 涼は頭を抱えながら、今は取り敢えず呂蒙についてどうにかしなければならない。

 図らずも、自分の言動の所為で彼女はここへ連れて来られたのだ。彼女へのケアは出来るだけ自分がしなければと思った。

 

「えっと、初めまして。俺の名前は清宮涼、徐州の州牧補佐をしている。……君が呂子明で間違いないのかな?」

「は……はい、私の名前は呂蒙、字は子明、です……。…………きよみや、りょう、さん?」

 

 呂蒙は涼の問いに答えると、俯けていた顔を上げ、涼の顔を見た。

 その瞬間、怯え、震えていた彼女の表情は一変した。

 驚き、涼の顔を凝視する呂蒙の頬は段々と紅が差しており、朱色の両眼はキラキラと輝き、右眼はモノクルを付けている事もあって特に光っている。

 服は平民の物で、現代風に言うなら小豆色のワンピースの腰の部分に緑色の帯を巻いている様な感じ。そこから伸びる白い手足はスラっとしていて、だが細過ぎず、バランスのとれた体躯をしている。

 胸は一見小さく見えるが、実際はそんな事は無く平均かそれ以上の大きさなのだが、孫軍の面々の殆どが規格外の大きさの胸の持ち主という事もあってか感覚がおかしくなっている様だ。

 その呂蒙が、ジーっと涼を見詰めている。

 涼は何故こんなにも見詰められているのか判らなかったが、暫くして彼女が口にした言葉で納得した。

 

「あ……あの、きよみや、りょうさんとは、あの“天の御遣い”と呼ばれている“清宮涼”様の事ですか?」

 

 所々詰まりながらも、そう言った呂蒙。身長の関係上上目遣いになって可愛いなと涼は思ったりしたが、それは置いといて彼女の質問に答えた。

 

「一応、そうかな。自分ではあんまり自覚無いけど。」

「や……やっぱり! あ、あの、失礼しましたっ‼」

 

 頬を人差し指で搔きながら、照れる様に言った涼。それに対して呂蒙は、再び驚くと慌てて両手を平伏時の形に組み、体ごと頭を下げて、まるで皇帝陛下に拝謁するかの様に恭しくなった。

 

「知らなかったとは言え、劉弁(りゅうべん)陛下と陳留王(ちんりゅうおう)劉協(りゅうきょう)様の御信頼厚き御方の御前で何たる無礼を……! どうかお許しください!」

「え、えーっと……。」

 

 呂蒙の行動に戸惑う涼。こんな時は何て返せば良いのか判らない。笑えば良いのだろうか。

 

「これが貴方に対する一般人の認識よ。少しは解ったかしら?」

「う、うん。充分過ぎる程に。」

 

 涼は尚も戸惑いながら対応を考えつつ、そう答えた。

 まさか、自分に対してここ迄恭しく接する人が居るとは思いもよらなかった。

 勿論、今迄も自分に対して恭しく接する人が居なかった訳ではない。だが、自分自身が元々普通の一般人であり、堅苦しいのが嫌だという事もあって、周りの人は比較的普通に接してくれた。それは、徐州の州牧補佐となった今も変わらず、桃香達と共に政治を行っている下邳や、隠居した陶謙が居て第二の州都とも言える彭城の民も、最初はそれなりに恭しく接していたものの今では比較的フレンドリーに接してくれている。勿論、それでも州牧補佐や「天の御遣い」として接しているが。

 そんな風に暮らしてきた為、目の前の呂蒙の様に多少大袈裟とも言える対応をされると涼は非常に困ってしまう。

 彼はこの世界に来てそれなりの月日を過ごしてきたが、今も普通の高校生という気分で居るのだから。

 その為、涼は何とか現状を変えようと動く。

 

「と、取り敢えず、そんなに畏まらなくて良いですから、顔を上げてください、子明さん。」

「あ、亞莎(あーしぇ)です!」

「えっ?」

「私の真名です! どうか受け取ってください!」

「……え、ええええっ!?」

 

 だが、呂蒙の発言で現状は更に混乱する事になった。

 彼女は自身の真名を涼に預けると言った。真名というこの国、若しくはこの世界独特の文化、風習がどういった意味を持つかを、こことは異なる世界から来た涼でもよく知っている。

 真名は神聖なものであり、その名を口にして良いのは本人から認められた者のみ。それ以外の者が口にした場合は、殺されても文句は言えない。

 その真名を預けられるという事の重大さを知っている涼は、呼吸を整えてから呂蒙に訊き返す。

 

「し、子明さん。急に真名を預けるなんてどうしたんですか!?」

「そ、それは……一つは、先程の無礼に対する謝罪の意味を込めていまして……。」

「そんなに気にしないで良いですよ。寧ろ、気にされ過ぎるとこっちが困ってしまいます。」

「す、すいませんっ。け、けど、も、勿論、それだけでは無いのでしゅっ。」

 

 涼の気遣いに却って畏まってしまった様で、呂蒙は言葉を噛んでしまった。それを見た涼は、徐州で留守番をしている鳳統こと雛里を思い出した。

 呂蒙は言葉を噛んだ事で赤かった顔が更に赤くなったが、何とか落ち着きを取り戻して言葉を紡ぐ。

 

「あ、あの……先程御遣い様を見た時、私は今迄に無い感覚に陥ったのです。」

「今迄に無い感覚?」

「はい。御遣い様のお顔を見た時、何故か私は動けなくなりました。勿論、その時間は短かったのですが、動ける様になってからも私は中々動けず、只々御遣い様を見詰める事しか出来なかったのです。」

「そうだったのか。不思議な事もあるもんだな。」

「子明さんの身に起きた現象は一体何なのでしょう……。」

(おいおい。)

 

 涼、呂蒙、明命の三人の会話を聞いていた雪蓮は呆れながら心の中でツッコミを入れた。普段は冥琳の役目である。

 

(どう考えたって、それって彼女が涼に“一目惚れ”したって事じゃない! 年頃の男女が三人も居て、どうしてそこに考えが到らないの!?)

 

 雪蓮は「年頃の男女」である涼達を見ながら人知れず溜息を吐く。幾ら世の中が乱れているとはいえ、恋愛に疎い人物が身近に三人も居るとは思わなかった。しかも、その内の一人は自分の婚約者であり、少しばかり体を重ねた相手である。

 

(……涼って、時々解らないわ。)

 

 清宮涼。異世界から来たという、雪蓮より年下の少年。年齢で言えば妹の蓮華の方が釣り合いがとれるだろう。実際、先の同盟締結の場で蓮華や末妹の小蓮との結婚を可にしているのは、そうした事も考えた結果だった。

 これ迄の経緯を考えると、涼の恋愛経験はそれなりにあるのだろう。少なくとも、年上の女性を何度も満足させる技術を得るくらいには。

 それなのに、今の涼は目の前に居る少女の反応が、特別な好意だという事にすら気付いていない。当の少女本人が自身の気持ちに気付いていないのも要因かも知れないが、それにしても鈍い。

 

(これだと、蓮華を焚きつけるだけじゃなく、涼も蓮華を意識させるしか無いわね。)

 

 涼に関しては孫家の事を考えてそう思った雪蓮だが、同時に呂蒙については敢えて教えない方が良いとも思った。

 何せ、彼女の一目惚れの相手は、今日にも此処を発つのである。好きになったその日に逢えなくなるというのはかなりの悲劇ではないだろうか。

 あと、立場の問題もある。幾ら涼自身が否定しても、この世界に於ける彼の立場は下手をすれば皇帝とほぼ同じである。少なくとも、一般の人々の認識は先程の呂蒙の反応と同じといって良いだろう。

 そんな人物に対して、王族でも無ければ貴族でもない、これといって地位が無い平民の少女が恋に悩んだらどうなるか。只でさえ萎縮している彼女が、更に萎縮し心身を壊してしまうのではないだろうか。

 そうなっては、折角涼が教えてくれた人材を失ってしまう。それは呂子明という人材を失うというだけでなく、孫家にとって大きな痛手になってしまうかも知れない。未だ会って僅かな時間しか経っていないが、雪蓮はそう思った。彼女得意の勘というやつかも知れない。

 

(まあ、取り敢えずは彼女の実力を見ましょう。全てはそれからね。)

 

 相変わらず続いている三人のツッコミ不在の寸劇を見ながら、後に「江東の小覇王」と呼ばれる事になる孫策こと雪蓮はこれからの事を考えていた。



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第十四章 江東の虎達・10

 それから数刻後。

 涼を総大将とする徐州軍外交部隊、総勢四千は整然と隊列を作り、建業の大通りを進んでいた。

 先頭部隊にはこの部隊の総大将である清宮涼と、護衛の張飛こと鈴々が進み、その周りを孫家の四人が馬を並べている。勿論、彼女達はこの部隊の一員ではなく、涼達の見送りに来ている訳だ。

 孫家の周りには孫堅四天王の内、程普こと泉莱と黄蓋こと祭、それに若手武官から甘寧こと思春と凌統こと莉秋がそれぞれ左右に散っている。

 その後も孫軍の文武百官が徐州軍と共に行進していく。殿には徐州軍から簡雍こと雫が、孫軍からは孫堅四天王の残る二人、祖茂こと黛と韓当こと快が並んで進んでいる。

 これだけの人数が徐州軍と共に行進しているのは、勿論見送りの為だけでも無ければ護衛の為だけでもない。建業に住む人々や、此処へ来た旅人達に孫軍と徐州軍の繋がりの強さを主張し、更には孫家の三姉妹と「天の御遣い」との関係も周知させる為である。

 そして、その目論見は今の所成功していると言って良い。

 四千を超える一団を見ている市井の人々、旅人達は皆口々に涼と雪蓮達について思い思いの言葉を発していた。

 今回の会談は勿論機密扱いなのだが、涼と雪蓮、両者の仲については以前から豫州、揚州の人々の間で噂になっていた事もあって、仲睦まじく歓談している二人の姿を見てその関係について確信した者も多い。中には不敬とも言える会話をした者も居たが、隊列に居た兵士達の中でそれを咎める者は居なかった。意図的に放置していたのか、兵士達もそう思っていたのか。恐らくその両方だろう。

 先頭を行く涼はそんな事等露知らず、雪蓮達と会話をしながらゆっくりと馬を進めていた。

 

「凄い人出だなあ。建業の人々が全員出て来たみたいだ。」

「強ち当たってるかもね。元々人が多い街だけど、こんなに多いのは私も初めて見るわ。」

 

 涼の隣で、雪蓮が周りを見ながらそう言った。

 現代に伝わる資料によると、三国時代の揚州の人口は最大で四百万人を超えていたと言われている。この世界の揚州の人口が何万人かは判らないが、涼の視界に映る建業の人々の数は何千、何万と見えた。

 涼達の今現在の本拠地である下邳も何万人もの人々が住んでいる。

 先の遠征式の際には沢山の住人達が見送りに出ていた。勿論それは、愛する家族や友人の見送りであり、ひょっとしたらもう二度と逢えないかも知れないからだが。

 それを考慮すれば、今此処に集まっている人々は戦争という憂慮とは関係が無く、ただ単に興味を持って集まっている野次馬なのだ。そう言うと建業の人々の印象が悪くなるが、実際その様なものだから仕方が無い。

 戦争というものが身近にある世界に生きているからこそ、平時の行動はそれぞれが思った通りの行動をとるのである。後悔をしない為に。

 とは言え、今此処に居る人々がそこ迄深く考えているかは解らないが。

 

「にぎやかで良い街でしょー♪ 涼もこのままここに住んじゃえば良いのに♪」

 

 涼を挟んで雪蓮の反対側に居る小蓮が、カラカラと明るい口調で涼に言ってくる。尚、彼女は雪蓮達とは違って馬に乗っていない。白虎に乗っている。

 白虎とは文字通り白い虎の事であり、本来は中国の伝説上の神獣を指す。只、現代ではホワイトタイガーという虎の白化型が一般的であり、それを白虎と称する事も多い。

 恐らくこの虎もホワイトタイガーなのだろうと思いながら、涼は小蓮に対する返事をした。

 

「それはそれで確かに楽しいだろうけど、今は無理かな。未だ徐州でやらないといけない事が沢山あるし。」

「ぶー。つまんなーい。」

 

 期待した答えが返って来なかったからか、小蓮は頬をハムスターの様に膨らませて不満を露わにする。

 だが、始めから良い返事が来るとは思っていなかったらしく、直ぐに表情を明るくし、次の話題へと移ろうとする。

 

「俺が此処に居るのも良いけど、その内シャオも下邳においでよ。歓迎するからさ。」

「えっ……? う、うん…………えへへ。」

 

 が、涼が言った一言で小蓮は言葉を飲み込み、次いで頬を紅くして微笑んだ。

 既に前を向いていた涼はそれに気付かなかったが、愛娘の会話を聞いていた海蓮、小蓮の反対側に居た雪蓮、そしてそんな彼女達を後ろから見ていた蓮華は気付いていた。

 三人はそれぞれ、幼いながらに女の顔になった娘、または妹をそれとなく見る。

 涼の意思とは関係なく、その言葉によって喜んでいる小蓮の姿は微笑ましくあった。

 

(流石は婿殿。無自覚に自然と女性を口説くとは英雄の素質有り、かな。尤も、今のを口説き文句というには多少強引だが。)

 

 彼女の母である海連はそう思い、

 

(シャオはやっぱり放っといても涼と仲良く出来そうね。まあ、あの子が大人しくしている訳は無いけど。……それにしても、他家の令嬢を自分の所に呼ぶなんて相当な事なんだけど、涼はそれに気付いているのかしら?)

 

 彼女の姉である雪蓮はそう思い、

 

(シャオったら浮かれ過ぎよ。涼は別に深い意味があって言った訳じゃないのに。)

 

 彼女のもう一人の姉である蓮華はそう思った。

 三者三様の考えに当の小蓮が気付く訳も無く、今も涼と歓談している。その時間も、余り長くは無い。

 

「そう言えば蓮華。」

「な、何かしら!?」

 

 急に話を振られた蓮華は思わず、言葉に詰まる。

 

「孫軍の事に口出しするのはいけないとは思うんだけど、亞莎は君の許につけてもらえないかな?」

「……どういう事?」

「彼女は何れきっと孫軍の中心に居る。それだけの才能がある筈だ。そして、その才を十二分に発揮するのは孫仲謀、君の軍師としてだと思う。」

「……それも貴方の、天の知識によるものかしら?」

「そうだよ。例によって追及は無しで。」

「……解ったわ。伯言!」

「は~~い♪」

 

 逡巡の後、蓮華は自分の後ろを進んでいた陸遜こと穏を呼んでいた。穏はゆっくりと馬を進めて蓮華の隣につける。

 

「あの呂子明という子の教育係を貴女に頼みたいの。受けてくれるかしら?」

「勿論ですよ~。私もあの子は才能があると思ってましたから。」

「お願いね。」

 

 は~い、という間延びした返事を聞きながら、蓮華は呂子明こと亞莎の事を考えていた。

 彼女はこの場には居ない。幾ら涼の推薦とは言え、来たばかりの人物をこの巨大な宣伝戦、所謂プロパガンダに参加させる訳にはいかなかった。不測の事態が起きてからでは遅いのだ。

 蓮華の一存としては、彼女の気持ちを考えれば参加させてやりたかった。姉や妹に比べて色恋に疎い彼女でさえ、亞莎の気持ちが誰に向いているのかは一目で解った。

 その証拠に、彼女は既に真名を涼に預けている。これから仕える主である孫堅やその娘である孫策よりも先に、である。

 更には、涼が今日揚州を離れると知った時の動揺振りからも彼女の好意が解る。尤も、亞莎自身は未だハッキリと認識していない様だが。

 そんな彼女に対し、涼はまたの再会を約束して亞莎と別れた。彼も彼女の好意に気付いていないのが事態をややこしくしているのだが、それを教えた所で今から出立する涼に何が出来る訳でも無い。それを考えれば、約束を交わした事は最良の手段だったのかもしれない。

 それにしても、この清宮涼という人物は何処迄知っているのだろうか。

 先程、この出立式というべき行列が動く前に蓮華は訊いてみた。すると涼は、

 

『何でも知っている訳じゃないよ。俺は、自分が知っている事を知っているだけさ。』

 

と苦笑しながら返している。

 そんなのは当たり前ではないのか、と彼女は思ったが、その時周りに居た冥琳や穏といった軍師、文官にとっては琴線に触れる何かがあったらしく、感心した様に頷いていた。

 蓮華は考えた。涼の方が年上ではあるが、それ程差は無い。寧ろ、ここ数日での会話や行動を見る限り、彼の方が年下なのではないかと思うくらい、幼い面が目立った。

 それに関しては仕方無いところだ。幾らこの世界で長く暮らしているとは言え、涼は基本的に現代で十数年間暮らしてきた。しかも、世界的にも治安が良い国である日本で。

 そうした平和な世界で生きていれば、精神年齢が幼くなるのも当然だ。実際、半世紀前の十代と今の十代では、外見も考え方も大きく違う筈だ。蓮華が涼を幼いと思っても不思議ではない。

 だが、そうかと思えば前述の様に様々な事を知っていたりする。お陰で、蓮華にとって清宮涼という人物はよく分からない、でも油断出来ないという評価になっている。

 

(姉様や母様が涼を評価している理由は解る。……けど、本当に彼を信頼して良いのかしら?)

 

 元々、姉である雪蓮から、「真面目で堅物」という評価をされている蓮華である。周りが簡単に――実際はそうでもないのだが――涼を信頼し、同盟を組んだので、必然的に彼女は慎重にならざるを得ないのだ。

 勿論、他にも冥琳などはそれなりに涼を警戒しているのだが、蓮華からすればそれは警戒しているとは言えない。彼女にとっての警戒とは、警戒に警戒を重ねるくらい慎重にという事である。

 正史に於ける孫権は、その生涯で内政の手腕は高く評価されている。また、外交も時には劉備と、時には曹操と組む等、強かな面を見せている。それは、自身が先代の兄孫策、先々代の父孫堅より劣っていると思っていたからかも知れない。

 勿論、孫権の実績を見れば決して劣ってはいないのだが、先の二人が武勇に優れていた事と比べれば孫権は少し劣るかも知れない。

 孫権も合肥の戦い等で陣頭指揮を執るなどの武勇があるのだが、いささか血気に逸って死にかける事も多々有ったという。

 また、晩年の孫権は猜疑心の固まりになって多数の肉親、部下を死に至らしめている。正史の著者である陳寿は、「万人に優れ傑出した人物」と評しつつ、晩年の行為については「子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは謂い難い」と切り捨てている。

 そうした事が、この世界の孫権である蓮華にも影響しているのかも知れない。尤も、それについては蓮華は勿論、三国志を知る涼も知らない。

 彼女がそんな悩みを抱えている時、一団の前方から一人、馬に乗った女性が近付いて来るのが見えた。

 不審者か。暗殺者か。すわ集中する鈴々を始めとする徐州軍。だが、一方の孫軍は慌てる事無く、その人物の接近を待っている。

 それを見た涼は鈴々達に、警戒したまま様子を見る様に厳命した。

 やがて、その人物は涼達の、というより海蓮達の前に着くと即座に下馬し、平伏の姿勢をとった。

 

「海蓮様。諸葛子瑜(しょかつ・しゆ)、只今帰還しました。」

「荊州への長旅、御苦労であった。報告は後で良いから、取り敢えず婿殿に御挨拶だけでもしておきなさい。」

 

 海連は彼女――諸葛瑾(しょかつ・きん)を労うと、後ろに居る涼を見る。

 諸葛瑾は涼の姿を伺うと恭しく近付き、先程海連にしたように平伏し、名乗った。

 

「御初に御目に掛かります、清宮様。私は徐州琅邪郡陽県生まれ、漢の諸葛豊(しょかつ・ほう)が子孫、諸葛珪(しょかつ・けい)が子。姓は諸葛、名は瑾、字は子瑜、真名は紅里(くり)と申します。どうかお見知り置きを。」

 

 涼は、諸葛瑾の透き通る様な声から紡がれた丁寧な名乗りに驚きながら、自分もきちんと名乗り返した。

 

「子瑜さん、御丁寧にありがとう。俺は徐州軍州牧補佐の清宮涼。一応、天の御遣いなんて呼ばれているけど、そう気にしないで良いから。」

「そうはおっしゃいますが、清宮様の御活躍は妹から伝え聞いていますし、そんな訳には……。」

 

 どうやら、彼女はかなり真面目な性格らしく、涼の気遣いに対しても畏まっていて中々その厚意を受け取ろうとしない。

 それを見かねた海蓮が、諸葛瑾に言った。

 

「紅里、婿殿を余り困らせないで。彼が良いと言っているのだから、その通りにしなさい。」

「……成程。確かにそうですね。失礼しました、清宮様。」

「ううん、さっきも言ったけど気にしてないから。」

 

 そう言われた諸葛瑾はホッとしたのか、安堵の笑みを浮かべる。

 その際、涼はさり気なく彼女の容姿を観察した。

 腰迄ある長い金髪、真名の様に紅い瞳、妹と同じ様に幼い顔。スラリと伸びた手足、出るとこは出て、引っ込む所は引っ込んでいて、女性にしては高い身長。やはり妹と似たデザインで、紺色を基調とした服裝、ベレー帽を被っている妹と同じ様に、彼女はストローハット、要は麦藁帽子を被っている。

 姉妹だけあって雰囲気は似ているが、外見は結構違うな、というのが涼の感想だ。

 

「妹さんといえば、朱里には徐州の仕事で色々助けてもらっているよ。優秀な妹さんだね。」

「有難うございます。あの子は、私達姉妹の中でも特に優秀ですから。私なんか足元にも及びません。」

「ご謙遜を。子瑜さん……いや、紅里さんも相当な実力者でしょう。朱里が言ってましたよ。“お姉ちゃんは私達を助ける為に遠く揚州に仕官しに行って、そこで活躍しています。自慢の姉です。”って。」

「あ、あの子ったら、何だか恥ずかしいわね。」

 

 涼から聞いた妹の言葉に照れているのか、紅里はその真名の様に顔を紅くする。

 涼が言った様に、朱里こと諸葛亮は優秀な人物で、正史でも優れた人物で政治の腕が凄かったと伝わっている。

 演義だとそこに「天才軍師」の肩書きが加わり、更に妖術やら祈祷やらが使える完璧超人みたいな扱いになっているが、実際は勿論そんな事は無く、軍事にもある程度精通した政治家というのが現代における諸葛亮の評価だ。

 その兄である諸葛瑾は、現代日本では余り知られていないが、彼も優秀な人物だ。

 「左氏春秋」「尚書」等を読んで学問を極め、孫権の許でその才能を発揮。様々な戦果を上げ、孫呉の大将軍に迄なっている。

 また、諸葛亮の兄という事や、夷陵の戦いで講和の使者になっていたりするので勘違いされがちだが、諸葛瑾は武官である。政治家としての才能もあったが、「呉主伝」によると前述の事を理由に一度孫権の要請を黙殺している。

 その様な事を涼は知っている為、この世界の「諸葛瑾」も優秀な人物だろうと思っている。

 その考えは当たっている。紅里は先程の海蓮の言葉から、荊州へ行っていた事が解る。この世界では今荊州は袁術の統治下にある。そこに行ってきたというのは、当然ながら単なるお使いでは無い。その内容を涼が知る事は無いが。

 まあ、涼もそんな事を気にする性格では無いので問題は無いが。

 

「と、兎に角、妹に会ったら私はいつも貴女達を想ってますよ、と宜しくお伝えください。勿論こちらからも手紙は出しますが。」

「構いませんよ。これから兗州に行くので、帰るのは未だ先になりますが、必ず伝えます。」

 

 涼がそう言うと、紅里は再び平伏の姿勢をとり何度もお礼を言った。

 その後、海蓮の計らいで紅里も行列に参加し、建業を出る涼達を見送った。徐州軍が全員建業から出ると、城壁に居た兵士達が、海蓮の指示によって様々な楽器による演奏を行い、壮大な送別となった。

 尚、帰り際に涼が雪蓮に頬ではあるがキスされた事で、一悶着あったのだがそれは割愛する。どうせいつもの事なので。

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなで徐州軍が建業から離れ終わると、孫軍の一同は一仕事終えたからか大きく息を吐いた。

 

「……それで、母様は兵士達の選抜をどうする気なの?」

 

 雪蓮は前を向いたまま、隣に居る海連に訊ねる。

 

「気が早いわね。未だ要請は来ていないわよ。」

「戦いの場所は青州か徐州になるのよ。要請が来てから準備していたんじゃ、間に合わないわ。」

「まあ、ね。かと言って、余り大軍を派兵する事は出来ないわよ。解っているでしょ?」

「解っているから訊いているのよ。荊州の袁術、南の南越、どちらも警戒を怠れない。どっちも、隙を窺っているのは明白。」

「そうね。……けど、だからこそ好機とも言える。」

「どういう事?」

 

 雪蓮は海連が言いたい事が解らず、思わず訊き返した。

 

「あら、解っているんじゃなかったの?」

「ぐっ……解らない事もあるわよ。別に良いでしょ!」

「あらあら。」

 

 ふくれる愛娘を見て、海連は子供をからかうのは楽しいと再認識した。とんでもない母親である。

 

「恐らく、海蓮様は将兵を鍛える好機とおっしゃいたいのでしょう。」

「鍛える?」

「流石ね、公瑾。伯符とは大違いね。」

「そりゃ、知力じゃ冥琳に勝てないわよ。冥琳が剣で私に勝てないのと同じ。それより冥琳、解り易く説明してよ。教えて冥琳♪」

「そうは言うが、ある程度は理解しているのだろう?」

「まあね。将兵を鍛えるには、先ず調練。けど、実戦に優るものは無い。だから、いざ戦いになり、それを生き残った将兵は自身でも考えられない程に成長している。」

「そう。どんな将兵も、始めは弱く名も知られていない。戦いの中で生き残り、経験を積み、強くなり、やがて歴史に名を残す名将となる。劉邦に仕えてその才を発揮した大元帥・韓信の様に。」

 

 前漢の三傑の一人、韓信の名を挙げて説明をする冥琳。尤も、韓信は項羽に採り立てられなかった事以外は殆ど挫折しなかった様だが。

 

「そして、その実戦の舞台は今三つ在る。南越、袁術、そして青州・徐州。ここに若手将兵を投入し、経験を積ませるつもりなのよ。」

「それが好機? それくらいなら私も考えたけど……。」

「海蓮様のお考えはそこに付け足しがあるのよ。……蓮華様と小蓮様の指揮官としての経験を積ませるという、ね。」

「なっ!?」

「え?」

 

 急に名前を呼ばれて慌てる蓮華と、呼ばれたけど何かな? というくらいに落ち着いている小蓮。そんな二人を見て、雪蓮は納得し、同時に何かに気付いた様だ。

 

「……成程ね。冥琳、理由ってそれにもう一つあるんじゃない?」

「ほう……? 雪蓮は何だと思う?」

「私達が徐州や青州に行く事で涼と過ごす時間を増やす、って事でしょ?」

「その通りだ。黄巾党の戦いで一緒だった雪蓮と違い、御二方は清宮と余り一緒には居られていないからな。」

「将来を考えて二人も涼と結婚出来る様にしたのに、シャオは兎も角、蓮華は殆ど話さなかったみたいだし。」

 

 蓮華は、自分の事をまるで意気地無しか無愛想の様に言われて思わず口を出しそうになるが、当たらずとも遠からずというのが実情なので、結局言い返せなかった。

 

「まあ、蓮華様は雪蓮とは違うからな。慌てずとも良いが、少しでも慣れてもらわねば孫家の為にならない事も事実。……それはお解りですね、蓮華様?」

「……っ! わ、解っているわ、それくらい。」

「なら良いのです。」

「そ、それより、私は一つ気になったのだけれど。」

「何でしょう?」

 

 蓮華が訊ねてきたので、冥琳は姿勢を蓮華に向けて話を聞く体勢にした。それを見てから連華は疑問をぶつける。

 

「さっき冥琳が言った事が正しいとすれば、私だけでなくシャオも指揮官の訓練をするという事でしょう? こう言ってはなんだけど、普段の勉強も四風(しふう)から逃げているシャオには荷が勝ち過ぎていると思うわ。」

「お姉ちゃんの言い方には反論したいけど、シャオもちょっと無理だと思う。」

「まあ、それは私も思うわよ。シャオは私達に何かあった場合の最後の切り札なんだし、無茶はさせたくないわ。」

「ならば何故……。」

「今言ったでしょ? シャオは私達に何かあった時の切り札だって。けど、切り札なのに何も出来ない只のお姫様じゃ、これから先やっていけないわ。」

「けど、その時は涼と結婚すれば良いんじゃないの?」

「その時も涼が居るとは限らないでしょう? 元の世界に戻っているかも知れないし、死んでいるかもしれない。そもそも、生きていても同盟関係が続いているとは限らない。その時に私達が居なかったら、シャオは何が出来るの?」

 

 雪蓮に言われて、小蓮は何も言い返せなかった。

 彼女は二人の姉と比べて決して劣っている訳では無い。只、年齢の所為か末妹だからか、彼女は自由奔放に生きている。自由奔放で言えば雪蓮も負けていないが、彼女は長姉という立場でもある為、一応自制が出来ている。それでも周りは大変な目に合うのだが。

 自由奔放で余り勉強をせず、かと言って武芸に打ち込むという訳でも無い。演義では「弓腰姫」と渾名され、夫である劉備は勿論、孫呉の将兵達からも恐れられた孫夫人だが、この世界の孫夫人こと孫尚香こと小蓮は未だそれ程の実力は無い様だ。

 

「だから、今の内に経験を積んでおく必要があるのよ。勿論、きちんと護衛を付けた上でね。」

「本当ならば、護衛なんて要らないと言いたい所だけど……。」

「今のシャオ達じゃ、護衛無しは難しいかな。」

「そうそう、せめて私くらいにはならないと。」

「いや、雪蓮も護衛を付けてほしいのだがな。」

 

 冷静にそう言った冥琳に対し雪蓮は文句を言ったが、彼女自身が孫家の跡取りの第一候補である事を改めて告げると言い返せなくなった。

 

「兎に角、要請が来たら私達が援軍に向かう、将兵は若手中心、って事ね。南越や袁術への備えは母様達がするの?」

「ええ。私達が一睨みすれば南越は震え上がり、袁術は漏らしてしまうかも知れないわね。」

 

 そう言うと、海連は小さく笑った。周りに居る孫堅四天王もそれに倣って笑う。

 実際に、この面子が前線に出れば味方の士気は大いに上がり、敵は恐れ(おのの)くだろう。それだけの実績と実力、そして迫力が彼女達にはある。

 

「まあ、そうした戦いとか関係なく清宮と逢えれば一番だがな。」

「まったくね。」

 

 冥琳と雪蓮はそう言って苦笑する。

 涼との、徐州軍との同盟によって互いの背中を預ける事が出来た。当然それにより新たな責任が生じたが、それはこの際些細な事だ。

 そう、敵を倒す事が出来るのならば。




漸く書き終わりました。
纏めようとしても纏まらず、時間がかかってしまい、申し訳ありませんでした。次はもっと早く書ける様にします。
さて、今回はオリジナル武将を沢山出しました。名前だけの武将も居ますが、そのキャラも何れ出るでしょう。このオリキャラを沢山出したのが遅れた要因の一つではありますが。
さて、次はいよいよ華琳編です。と、なると、原作のあのキャラが出てくるかも?既に大筋の話は出来上がっているので、そんなに遅れる事は無いと思います。多分。


今回のパロディネタ。
「みんな、鍛えてますから。」→「鍛えてますから。」
「仮面ライダー響鬼」の主人公、ヒビキの口癖より。主人公は明日夢かも知れないけど、やはり仮面ライダーなので、筆者はこの様に認識しています。

「肩から袖にかけて黒い線が三本引いてある。それを見た涼は片仮名五文字の某スポーツブランドを思い出した。」→「アデ◯ダス」
自分はこのスポーツブランドをよく使います。

「某戦闘民族の様に若い時代が長く、老化の時期が遅いのだろうか。」→「サイヤ人は戦闘民族だから、若い時期が長いんだ。」
最近、新作映画が公開されたドラゴンボールの原作最終回のベジータの台詞より。
若い時期長過ぎです(笑)

「何でも知っている訳じゃないよ。俺は、自分が知っている事を知っているだけさ。」→「知らぬさ!所詮人は己の知ることしか知らぬ!」
「機動戦士ガンダムSEED」のラウ・ル・クルーゼの台詞より。
色々言われた作品だけど、あの最終決戦は良かったと思う。


では、次回の華琳編でまた会いましょう。

2013年9月25日更新。

少し加筆修正をしました。
2017年6月9日掲載(ハーメルン)


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第十五章 再会と決意・1

黄巾党の残党が居るのは青州だけではない。
解ってはいたが、その事実に涼はどう向き合うのか。

そして、仲間との再会、新たな人物との出会いはこの世界に何をもたらすのか。


2013年9月25日更新開始。
2014年2月5日最終更新。

2017年6月10日掲載(ハーメルン)


 揚州(ようしゅう)建業(けんぎょう)での会談により、徐揚同盟(じょよう・どうめい)、またの名を清孫同盟(せいそん・どうめい)は無事締結され、(りょう)は肩の荷が一つ降りた気がしていた。

 (もっと)も、その同盟締結の為にきったカードの代償について、帰ったら色々言われるだろうなあと、少なからず不安になっていたりもするのだが。

 それは兎も角として、涼に課せられた二つの同盟締結という使命の内の一つが成せたのは確かであり、このまま曹軍(そう・ぐん)との同盟も無事結べたら良いなと思っている様だ。

 現在、涼達徐州(じょしゅう)軍の外交部隊約三千五百は、曹操(そうそう)こと華琳(かりん)が居る兗州(えんしゅう)陳留(ちんりゅう)を目指して進軍していた。

 そのルートは建業から長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))を渡って豫州(よしゅう)合肥(がっぴ)寿春(じゅしゅん)を通り、そこからまた船に乗って北西の(ちん)に到り、そこから更に北上して陽夏(ようか)扶楽(ふらく)を抜けて兗州・扶溝(ふこう)に、そして北北東に在る雍丘(ようきゅう)、最後に北北西に進んで(ようや)く陳留へと到る。

 この部隊の総数は当初は約四千だった。

 居なくなった約五百の兵は、先日締結した孫軍との同盟文書を徐州に逸早(いちはや)く届ける為に、簡雍(かんよう)こと(しずく)と共に徐州への帰還の途についている。

 孫軍との同盟締結が徐州に伝われば、少なくとも南方へ注意を向ける必要は無くなる。

 主力がごっそり居なくなっている今の徐州を狙う輩が居ないとは限らない以上、戦力の分散は出来るだけ避けたい。その為に少しでも早く同盟の成否を伝え、防備を整えなくてはならないのだ。

 そうした理由から部隊を再編した涼達は、既に建業を経ってから十日が経過しており、今朝早くには雍丘を経っている。どんなに遅くとも明日には陳留に着くだろう。

 現在、部隊は小さな山間を進んでおり、間もなく平原に出るという位置に居る。

 

「このまま何事も無ければ、いよいよ明日は曹操殿との会談です。……清宮(きよみや)様、お覚悟を。」

 

 行軍中の馬上で隣に居る涼に対してそう言ったのは、孫乾(そんかん)こと霧雨(きりゅう)。雫が居なくなったので、この外交部隊の文官は彼女一人だけである。

 

「お、脅かすなよ。」

「脅かしてなどいませんよ。曹操殿は、雪蓮(しぇれん)殿達と比べれば清宮様とそれ程友好的ではありませんから。」

「そうかなあ? 黄巾党(こうきんとう)の乱や十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)で一緒に戦ったし、そんなに変わらない気がするけど。」

「……それはそうかも知れませんが、婚約する程仲は宜しいですか?」

「た、確かにそこ迄じゃ無いけど。」

 

 ニヤニヤしながら霧雨がそう言うと、涼はたじろぎながら答え、それを見た霧雨は更にニヤニヤした。

 雪蓮とは宛城(えんじょう)での一件以来、何かと好意を持たれ、遂には先日正式に婚約した程の仲だが、華琳とはそうした仲になっていない。

 かといって仲が悪い訳では決して無く、良いか悪いで言えば間違いなく良い。

 そんな両者との関係の差を考えると、長い時間を共に過ごしたかどうかの差でしか無いと推察出来る。

 例えば、両者と共に戦った事がある黄巾党の乱の時は、雪蓮とは数ヶ月間を共に過ごしたが、華琳とは戦後を合わせても数日しか一緒ではなかった。

 当然ながら、たった数日で親密な仲になるのは難しく、長い時間を共に過ごせば誰でも少なからず好意を持つのもまた当然であり、そうした事を考えると、やはり共に過ごした時間の差が両者との親密さの違いなのだろう。

 涼もまたそう結論付け、話を戻した。

 

「婚約する様な仲じゃなくても、普通に話せる仲だし問題無い気がするけど。」

「それもそうですが、曹軍も清宮様との婚約を同盟の条件にしてきたらどうするおつもりですか?」

「うっ……。」

 

 霧雨の指摘に涼は返す言葉を持たなかった。

 そう、可能性は低いがこの指摘は全く有り得ない話ではない。

 孫軍が雪蓮との婚約を暗に求めていたのは、孫家に天の御遣(みつか)いの血を入れるという事とその威光を手にしたいからである。

 黄巾党の乱、十常侍誅殺で活躍した「天の御遣い・清宮涼(きよみや・りょう)」の名は、この漢大陸の隅々に迄知れ渡っている。

 何せ、少帝(しょうてい)(劉弁(りゅうべん))の勅命(ちょくめい)を受けた涼達が徐州に本拠を移して以来、その徐州から遠く西方の涼州(りょうしゅう)、または南西の益州(えきしゅう)から使者がやってきて貢物や美辞麗句を並べ立てたり、はたまた涼に縁談を持ち込んだりと様々あった程だ。

 尤も、縁談に関しては雪里(しぇり)達が「清宮様は今は誰とも結婚する気が無い」とか、「既に席が埋まっている」とか言って断っている。

 (ちな)みにこの事は長く涼の耳に入る事は無かったが、涼がそうした事実を知ってからも縁談に関しては雪里達に任せている。

 そうした事情もあった為、先の雪蓮との婚約は涼が使えるカードとしては最大級のものだった。そう何回も使っていいカードではない。

 だがもし、華琳がそのカードをきる事を要求してきたら?

 涼はその問いに暫し考えこみ、苦笑しながら答えた。

 

「……そうなったらその時に考えるよ。」

 

 その答えに、霧雨はわざとらしく溜息を吐いて返す。

 丁度その時、山を下り終えて平原に出る所だった涼は霧雨に何か言おうとしたが、その涼の耳に鈴々(りんりん)の声が届いた。何やら驚いている様だ。

 声につられて鈴々を見て、次いで彼女が指差す方向を見ると、涼は瞬時にその表情を険しくした。

 前方約十里(古代中国の一里は約四百メートル)先に在る小さな集落から、黒い煙が上がっているのが見えた。しかもその数や大きさは尋常ではない。

 涼は思わず息を飲んでから、隣に居る霧雨に問いかける。

 

「霧雨、あれって……!」

「……十中八九、賊の襲撃を受けていますね。しかもこの煙の大きさから察するに、ひょっとしたら既に……。」

 

 霧雨は最後まで口にしなかったが、彼女が何を言いたいのかは言わなくても解った。

 だから涼は直ぐ様、鈴々に対して適切と思われる指示を出す。

 

「鈴々、部隊を率いてあの集落に向かってくれ! 俺達も直ぐに行くから!」

「わかったのだ! 張飛(ちょうひ)隊のみんな、悪いやつをやっつけに行くから、全速力でついてきて‼」

 

 鈴々がそう叫ぶと、張飛隊の兵士達は気合が入った声で返事をし、既に駈け出している鈴々を追って馬を走らせていった。

 涼はその様子を見ながら部隊を整え、指示を飛ばし、部隊と共に集落へ向けて駆けて行った。霧雨の孫乾隊は輜重(しちょう)隊も兼ねている為、それ以外の兵を集めてから集落へと向かった。

 集落に近付くにつれ、被害の大きさが目の当たりとなってきた。

 既に触れたが、古代中国の街は基本的に城塞都市である。

 それはどんな小さな集落でもそうであり、そうでない集落は少ない。これは、外敵から生命、財産を守る為の方法として導き出された答えであり、広大な土地を持ち、隣町迄の距離が長い古代中国ならではの知恵である。

 眼前に迫った集落もやはり城塞都市の様だが、出入り口となる門は無残な姿を露呈し、その近くには門番らしき男性の死体が二つ転がっていた。

 涼はその二つの遺体に哀悼の意を表しながら、集落の中へ駆けて行った。

 そこには破壊と死しか無かった。

 建物は壊され、人は斬られて息をしておらず、炎は燃え盛り、人も物も焼き尽くさんばかりに広がっていた。

 凄惨な現場を目の当たりにし、吐き気を催す涼。この世界に来る前の涼ならば、間違いなく嘔吐するか失神しているだろう。

 幸か不幸か、今の涼はこうした場面に慣れている。吐き気はしても、実際に吐く事は殆ど無い。

 だからと言って、この惨状を見て何とも思わない程感情が無い訳では当然ない。

 涼は腰に提げている二振りの刀の内、青い(つば)の「蒼穹(そうきゅう)」を抜刀し、自分の部隊に向かって号令を発した。

 

「あの声を聞く限り、張飛隊は右側に展開している。なら俺達は左側に居ると思われる要救助者の捜索、そして賊の掃討をする。……全員、気を抜かずに進め‼」

 

 清宮隊は「応!」と応え、集落の左側に向かった。



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第十五章 再会と決意・2

 その集落の左側の最奥に在る建物の中に、数十名の村人が隠れていた。

 (ほとん)どが女、子供や老人であり、若い男性は数える程しか居ない。その男性達も、体の何処かに傷を負っており、健康な者は一人も居なかった。

 そんな集団の中で、数人の少女が武装していた。どうやら、ここに居る人々の護衛をしている様だ。

 その中の一人、銀髪の少女の(もと)に、栗色の髪を右側でサイドテールっぽい三つ編みにしている少女がやってきた。

 

沙和(さわ)、怪我をした人達の様子はどうだ?」

「殆どの人は命に別状は無いけど、一人だけ早くちゃんとした治療をしないと危ない人が居るの。」

 

 「沙和」と呼ばれた三つ編みの少女は、そう言うとちらりと後ろを振り返り、奥に寝かされている兵士らしき男性に目をやる。

 銀髪の少女もそちらを見て、険しい表情を更に険しくした。

 視線の先に居る男性は、頬や腹部から出血しており、傷口を覆う包帯は真っ赤に染まっている。

 頬の出血は兎も角、腹部の出血は早めに治療しなければ死に至る。この世界は外科治療が未発達であり、医師であってもそれがきちんと出来る者は数少ない。

 そもそも、この時代において医師というのは社会的地位が低い。それが医師の少なさと優れた医師が少ない事に関係している。

 だが、今そんな事を言っても医師が増える訳では無く、現実に出来る事をするしかない。

 

「沙和、兎に角止血を最優先でやってくれ。このままでは失血死してしまう。」

「それは解っているけど、傷口が深いから縫わないと止血出来ないと思うの。」

「沙和は縫えるか?」

「そんなの無理に決まってるの。(なぎ)ちゃんは?」

「私も出来ない。仮にやってみても、素人の自分がやっては、却って悪化させてしまうかも知れない。……どれくらい保ちそうだ?」

「このままじゃ、多分一刻くらいだと思うの。」

「一刻か……。この村の医師が生きていれば……。」

「……けど、そんな事を言っても仕方ないの。」

「……そうだな。」

 

 沙和から「凪」と呼ばれた銀髪の少女は、沈痛の表情をしながらそう呟いた。

 賊がこの村に侵入してから、既に沢山の人が殺された。男女も老若も職業も関係なく殺され、その中には医師も居た。

 小さなこの村には医師が一人しか居らず、だが小さいからこそ一人だけで充分だった。

 しかし今は、医師が一人しか居なかった為に、救えるかも知れない命が救えないかも知れないという状況に陥っている。

 どうすれば良いのか悩む凪達の許に、部屋の奥から一人の小さな少女がやってきた。

 その少女は腰は疎か膝近く迄あるウェーブ状の金髪を靡かせ、何故か頭に小さな人形らしき物を乗せていた。

 

文謙(ぶんけん)ちゃん、少し冷静になった方が良いのですよ~。」

仲徳(ちゅうとく)殿。しかし、このままでは……。」

「あの声が聞こえませんか?」

「あの声?」

 

 凪が「仲徳」と呼んだ少女からそう言われ、「文謙」こと凪と沙和は耳を澄ました。

 相変わらず戦闘は起きているが、さっき迄とは何かが違っていた。

 

「……賊が混乱している?」

真桜(まおう)ちゃん達が上手くやったのかな?」

 

 沙和がそう言うと、凪は一瞬納得しかけたが、現実的に考えてそれは恐らく難しいだろうと結論付けた。

 因みに沙和が口にした「真桜ちゃん」とは、二人の仲間の事である。

 

「それもあるでしょうが、どうやら援軍が来たみたいですねえ。」

「援軍、ですか?」

「それって、陳留から曹操様の軍が来たって事なのかな?」

「かも知れないな。…………仲徳殿。」

「何でしょうか~?」

 

 凪は表情を引き締めて仲徳に向き直り、言葉を紡いだ。

 

「ここは“お二人”にお任せしても宜しいでしょうか?」

「構いませんよ~。うって出るんですね?」

「はい。誰かは判りませんが、賊が混乱しているのならば、この機を逃す事はありません。」

「体力は戻りましたか?」

「七割程は。これならまた戦えます。……沙和はどうだ?」

「沙和は六割くらいなの~。けど、真桜ちゃんもそろそろ限界だろうから、弱音吐いてなんていられないのっ。」

 

 沙和はそう言うと、腰に有る二つの鞘から剣を二振り抜いて両手に構え、心身共に戦闘態勢に入る。どうやら彼女は双剣使いの様だ。

 一方の凪は、武器らしい武器は何も持っていない。胸当てや手甲等は身に着けているが、剣を収める鞘も、矢を撃つ為の弓も無い。どうやって戦うのだろうか。

 先程の会話から察するに、武装している二人がこの建物に居る理由は、避難民を守る為と、先程迄戦闘に参加していたので、その疲労回復の為に休んでいたという事だろう。

 その二人がこの建物を出るという事は、ここを守る人が居なくなるという事であり、凪の確認はそれでも良いかという意味でもある。

 

「大丈夫ですよ、少しくらいなら持ち堪えられます。」

 

 そう言ったのは仲徳ではなく、部屋の奥、つまりは先程仲徳が出て来た場所と同じ所からやって来た少女だった。

 

戯志才(ぎ・しさい)殿。」

 

 凪はその少女を見ながら「戯志才」と呼んだ。

 戯志才は仲徳より背が高く、スタイルもそれなりに良い。近視なのか眼鏡を掛けており、その所為かどこか知的に見える。茶色の髪は比較的短く見えるが、後ろで編み込んでいる部分があるので意外と長いかも知れない。

 戯志才はそのまま仲徳の隣に立つ。お陰で二人の身長差、スタイルの違いがよく解るが、勿論今はそんな事は重要ではない。

 

「しかし、貴女方は軍師(ぐんし)志望の筈。戦闘に関しては本当に大丈夫なのですか?」

「ご心配なく。(せい)殿……子龍(しりゅう)殿と別れてからここ迄は(ふう)と二人で旅を続けてきたのです。身の守り方は幾つかありますよ。」

「そうまで仰られるのなら……。」

 

 凪はそれ以上言わずに沙和と共に出入り口へと向かう。

 

「私達が出たら直ぐに扉を閉めて下さい。あと、真桜が戻って来たらお願いします。」

「解りました。……ご武運を。」

 

 戯志才の言葉に頷いて応える凪と沙和。

 それから一拍程間が空いてから、ほぼ同時に二人は飛び出し、戦いへと戻っていった。

 二人が瓦礫の向こうに消えて行ったのを確認してから、戯志才は扉を閉め、念の為に支え棒を立て掛けた。例え賊がやってきても、これで少しは時間を稼げる筈だ。

 

(りん)ちゃんは嘘を吐くのが上手いですねえ。」

「いきなり何よ。」

 

 仲徳に「稟ちゃん」と呼ばれた戯志才は、先程「風」と呼んだ仲徳を見下ろしながら応えた。



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第十五章 再会と決意・3

「風達が戦えるなんて言うからですよ。剣すら握った事が無いのに。」

「……ああでも言わなければ、あの二人は中途半端な気持ちのまま戦場に行かなければなりませんでした。それでは、賊相手でも不覚をとってしまうかも知れません。」

「それはそうなんですけどねえ。もし、その賊さんがこちらに来たらどうするんです?」

「建物を利用して、援軍が来るまで上手く守ります。……火を使われたらどうしようもありませんが。」

「随分と運頼みの軍師志望さんですねえ。」

「軍師を志す者として、こんな策しか使えないのは情けないと思っているわよ。けど、今の状況で他に何か策があるの?」

「無いですねえ。人員も籠城する場所も問題ありありですから。」

「なら文句言わないで。……それより風、貴女は援軍が誰か判る?」

 

 稟は表情を引き締めながらそう訊ねた。

 一方の風は変わらずにのんびりした口調で答える。

 

「先ず、曹操軍では無いでしょうね。こちらが送った救援の使者は今陳留に着いた頃でしょうし。」

「運良くこの近くに来ていた、なんて事が無い限りはそうでしょうね。」

「なら、考えられるのは……思いつきませんねえ。」

 

 風はそう言うと小首を傾げる。何故か頭上の人形も同じ様なポーズをとっている。(しば)し考えを巡らせるが、やはり答えは出てこない。

 だが、不意に妙案が浮かんだのか両手をポンと叩き、近くの窓へと向かった。

 

「ちょっと外を見てみましょうか。」

「風!?」

 

 稟は驚いて止めようとする。ここの窓は中が見えない様に板等で塞いでいる。だが、一足早く風はその板を取って外を見た。

 

「……成程、そういう事でしたか。」

 

 風は外を見ると瞬時に現状を理解し、自然と笑みを浮かべていた。

 稟はそんな風を訝しげに見ていたが、風に手招きされて窓の外を見ると、彼女も風が笑った理由が解った。

 

「あれは“清宮”の旗……援軍の正体は徐州軍でしたか。」

「その様ですねえ。……おや、あれに見えるはお兄さんじゃないですか。」

「……相変わらず、総大将自ら前線に立っているのですね。」

「十常侍誅殺でもそうだった様ですし、意外とお兄さんは武将に向いているのかも知れませんねえ。」

()項羽(こうう)みたいな事をしなくても良いでしょうに……。」

 

 楽しげに見る風と違い、稟は溜息混じりに外を見ている。

 稟が発した「楚の項羽」とは、この時代から約四百年程昔に活躍した武将の事であり、「反秦戦争(はんしん・せんそう)」では後に漢王朝の初代皇帝となる劉邦(りゅうほう)と共に(しん)を倒し、その劉邦と天下を争った「楚漢戦争(そかん・せんそう)」では約五年もの間戦い続けた楚の覇王である。

 この時代は総大将自ら前線で戦う事が基本であり、項羽もその様に戦った。それでも稟が項羽を例えに出したのは、項羽の武力が桁外れだったからであり、総大将の一騎駆けの代名詞に使われているからである。

 

「まあ、お兄さんの性格を考えたらこうなるのは当然だとは思いますけどね。」

「確かに。」

 

 風の一言に稟も同調し、クスリと笑った。

 ほんの僅かな期間ではあるが、二人は涼と行動を共にした事がある。その時に互いに自己紹介をし、その人となりを知った。

 「天の御遣い」という胡散臭い肩書きを持つ者だから、当初は二人もそれなりに警戒していたのだが、実際に会って話してみると何のことはない、普通の少年だった。

 数日を共に過ごした後、二人は涼達と別れ、それ迄と同じ様に子龍こと趙雲(ちょううん)と共に旅を再開した。その趙雲とも豫州で別れ、以後は二人で旅を続け、ここ兗州に辿り着いた。

 そろそろ旅を終え、主を見つけてその人の為に自分達の力を振るいたい。そう思ってここ迄来た矢先、賊の襲撃に巻き込まれた。

 幸い、それなりに戦える人が何人か居た為、被害を最小限に抑えられている。

 それでも、賊の方が数が多い為、劣勢なのは変わらなかった。そこに現れたのが涼達徐州軍である。

 二人にとっては、いや、この村の人々にとってはこれ程頼もしいものはないだろう。事実、ここが正念場と判断した凪達は疲労が残る体を押して出撃している。

 

「これなら、何とかなりそうですね。」

「そうですねえ~。けど、気を抜いたらダメですよ、稟ちゃん。」

「解っているわよ。」

 

 相変わらずの間延びした口調と眠そうな表情で言う風に対し、稟は短く答えながら風を見た。

 

(見た目だと、貴女の方が気を抜いてる様に見えるわよ。)

 

 心中でそう苦笑しつつ、稟は視線を再び窓の外に向けた。見ると、以前は見なかった「孫」の旗を掲げる一団が涼に合流し、残敵の掃討に移っていた。

 

「“孫”……誰でしょうか? まさか揚州の孫家では無いでしょうし。」

「そうですけど、全く有り得ないという事もないでしょうねえ。何せ黄巾党の乱で共闘して以来、孫家はお兄さんと仲が良いという噂ですし。」

「……天の知識を得ようという所でしょうか。いえ、ひょっとしたらその血を……?」

「恐らくそうでしょうね。もしそうなったら、天の血筋と孫子の血筋が合わさりますねえ。」

「孫家のそれは自称でしょう。」

「それを言ったら、お兄さんのも自称なのです。」

 

 それもそうですね、と言いながら、稟は外の様子を注視する。

 涼は騎馬を巧みに操り、賊を一人、一人と斬り捨てていく。その近くには薄紅色の短髪を靡かせながら賊を倒す少女が居る。周りに居る兵士達とは格好が違うので、恐らく彼女が「孫」の旗を掲げる武将なのだろう。

 華奢な見かけと違い、その太刀筋は確かで鋭く、それを見た人は彼女が基本的には文官として働いているとは思いもしないだろう。

 

(……どうやら、あの孫家の人間ではない様ですね。)

 

 稟は少女の瞳を見てそう判断した。

 噂によると、孫家の人間は皆碧眼の持ち主だという。だが、今稟が見ている少女の瞳は碧眼には見えない。

 遠くだからハッキリとは判断できないが、それでも青系の色では無いのは判った。

 その見当は当たっている。その少女――孫乾こと霧雨の瞳の色は栗色である。

 因みに霧雨は、名前が似ているのでよく親類と間違われるが、瞳の色が違う事で揚州の孫家とは関係が無い事を証明してきたという逸話があるのだが、当然ながら稟達はその事を知らない。

 

「おや、いつの間にか文謙ちゃん達もお兄さんと共闘してますねえ。」

 

 風の声が聞こえた稟は、視線を霧雨から涼へと戻す。

 すると確かに、先程出て行った凪達が涼達と連携して戦っているのが見えた。

 凪達と入れ替わりに出ていたもう一人の少女、沙和が「真桜」と呼んでいた少女も居る。見たところ、大きな怪我はしていない様だ。



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第十五章 再会と決意・4

 そうこうしている内に、窓から見える範囲での戦闘は終わった。涼達が一方的に攻撃しているだけだったが、正規兵と農民崩れの賊が戦えばこうなるのは当然だろう。

 

「こちらに来る様ですね。」

 

 稟がそう呟いた様に、涼と霧雨は凪達に案内されてこの建物に向かっている。

 恐らく、怪我人を助けてほしいと頼んだのだろう。涼が一人の兵士に指示をすると、その兵士は来た方向へと戻っていき、残りの兵士達は周辺の捜索と涼達の護衛に割り振られた様だ。

 やがて、建物の前で下馬した涼と霧雨は凪に先導されてゆっくりと入っていった。

 

「こんにちはです、お兄さん。」

「お久し振りです、清宮殿。」

程立(ていりつ)? それに戯志才も。」

 

 涼は見知った二人に驚きながら挨拶を交わした。

 そんな涼の様子を見ていた霧雨が話し掛ける。

 

「お知り合いですか?」

「ああ、黄巾党の乱の時に知り合った程立と戯志才だ。二人とはあの時以来会ってなかったから、一年以上振りになるのかな?」

「そうなりますねえ。いやはや、その間に徐州のお偉いさんになるとは、流石は天の御遣いさんです。」

「俺は別に大した事してないけどな。というか、程立はその肩書きを丸っきり信用してなかっただろ。」

「清宮殿は、二人の皇子をお救いしたのも大した事じゃないとでも?」

「俺一人でしたなら大した事だろうけど、実際には愛紗(あいしゃ)達の活躍が大きいからなあ。」

「用兵に長ける事も総大将として大切な事だと思いますよ、清宮様。」

 

 昔話に花を咲かせる、という程昔の話をしている訳ではないが、やはり知り合いと会うとそれなりに話が弾むのだろう。(しばら)くの間、霧雨を交えた四人の会話が続いた。

 その会話は、凪が申し訳なさそうに会話に入ってくる迄続いた。

 

「そうだった。霧雨、頼む。」

(かしこ)まりました。」

 

 涼の命を受けた霧雨が、凪に案内されて怪我人の所に向かう。少し遅れて涼達も向かった。

 その部屋には怪我人が沢山居た。皆若い男性で、その中の一人は兵士らしき格好のまま寝かされ、包帯が赤く染まっていた。

 

「失礼します。」

 

 霧雨はそう言ってその男性の治療を始めた。と言っても、彼女は医師では無いので出来る事は凪達と大差無い。

 そんな中、建物の出入り口の方から一人の若い男性の大きな声が聞こえてきた。

 

「患者が居るのはここか!?」

「だ、誰なの!?」

 

 男性の声に驚いた沙和が振り向きながら訊ねた。

 男性は近付きながら経緯を話し始めた。

 

「そう警戒しないでくれ、俺は旅の医者だ。たまたまこの村の近くを通った所、何やら大事が起きていると思い、門の近くに居た兵士に訊ねると賊に襲われたと言うではないか。なら怪我人が居るだろうと思い、微力ながら治療に来たという訳だ。」

「……よく、その兵士は貴殿を村に入れましたね。未だ戦闘は完全には終わっておらず、貴殿の身元も判らぬというのに。」

 

 稟が眼鏡の位置を直しながらその男性を見据え、当然の疑問を口にする。

 

「俺も思ったよりすんなりと入れたのは驚いたが、患者の命を救うには少しの時間も無駄に出来ないからお陰で助かった。一応、何人か兵士もここ迄一緒に来たしな。……それよりも、その男性が一番の重傷者の様だな。」

「ええ。」

 

 霧雨は短く答えると直ぐにその場から離れ、医者と名乗った男性に場所を譲った。

 男性は今迄霧雨が居た場所に腰を下ろすと患者の傷口や体温、脈拍等を診ていき、次いで腰に有る袋から更に小さな袋を取り出した。

 

「それは?」

 

 その袋を見た涼が何気なく疑問を口にする。

 すると、男性は患者を見たまま説明を始めた。

 

「これは“麻沸散(まふつさん)”という薬で、これを使えば患者は痛みを一切感じなくなる。この患者を救うには外科治療が必要なので、今からこれを患者に投与し、それから手術をするんだ。」

「成程、つまりそれは麻酔薬か。……って、“麻沸散”!? ……もしかして貴方は、名医と謳われる華佗(かだ)じゃないですか!?」

「ん? よく俺の名前を知っているな。確かに俺は華佗だが、名医じゃない。まだまだ学ぶ事の多い只の医者だよ。」

 

 華佗はそう言いながら麻沸散を投与し、手術器具らしき物を出して手術の準備を始めた。

 その様子を見ながら、霧雨が小声で涼に話し掛ける。

 

「清宮様、華佗と言えば確か以前、羽稀(うき)殿が休職中に診てもらった旅の医者の名前が華佗だったかと。」

「うん。羽稀さんからも、その話を聞いた雫からも聞いたから間違いないね。」

 

 徐州軍の陳珪(ちんけい)こと羽稀は、涼達が徐州に来る前に病気で一度軍を辞めている。

 その病気は治るのに時間が掛かるかと思われていたが、旅の医者に診てもらい治療を受けた所、予想より早く治り、そのまま復職出来たという。

 その旅の医者の名前が華佗であり、同じ名前の旅の医者が居ない限り、今目の前に居る男性がその時の医者と言う事になる。

 因みに、「華佗」という名前は「先生」を意味するとも言われており、三国志に「注」を付した裴松之(はい・しょうし)によれば華佗の本名は彼の(あざな)と関連していると言われている。

 

(それにしても、華佗は男なんだな。今迄も陶謙(とうけん)さんや丁原(ていげん)さんみたいに男性のままの人は居たけど……何か法則でもあるのかな?)

 

 涼は外科治療を始めようとする華佗を見ながらそう思った。三国志の登場人物の殆どが女性になっているこの世界では、華佗の様に男性のままというのは珍しい。

 それだけに涼は華佗に興味を持ったが、外科治療が始まった為にその場から離れた。人を斬る事に慣れてきているとはいえ、やはり内蔵を直接見るのは辛いらしい。

 涼と同じなのか、沙和と真桜も涼の後について行く。尚、霧雨と凪は華佗に手伝って欲しいと頼まれ、患者の体を固定したり手術器具を渡したりしている。

 涼はそのまま建物を出た。そこに、先程命じた兵士がやってきたので、彼が連れてきた軍医に建物の中に居る華佗を手伝う様命じ、兵士には自身の護衛を命じた。

 直後に、涼達が戦った辺りの賊は全て討ち取り、または捕縛したとの報告が伝令から伝えられた。同時に、鈴々率いる張飛隊も賊の殆どを討ち取っており、制圧も時間の問題だという事も伝えられた。

 その報告を受けた涼は鈴々の様子を見るのと同時に要救助者を保護する為、直ぐ様行動に移った。その際、沙和と真桜もついて行きたいと言ったので、涼は快く了承した。



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第十五章 再会と決意・5

「いやー、まさか同行を許されるとは思わんかったわ。」

「ホントなのー。」

「何言ってんの。部外者は俺達の方だし、少しでも早くこの戦いを終わらせる為にも、二人の……李典(りてん)于禁(うきん)の力が必要なんだよ。」

「そう言うてくれるんは嬉しいけど、うちらもこの村の人間やないから部外者やで。」

「そうなの。沙和達はこの近くの村の住人で、ここには陳留への出稼ぎに行く途中で寄っただけなの。」

 

 涼はそうなのか、と走りながら答え、その後も真桜こと李典、沙和こと于禁と話していった。走りながら話すとは結構器用である。

 二人とは、正確には凪を含めた三人とは先程の戦闘の時に簡単に自己紹介をしている。

 涼が徐州の州牧(しゅうぼく)補佐で「天の御遣い」だと知った時の三人は、恐縮して固まりそうになっていたが、未だ戦闘中だったのと、涼自身が固っ苦しいのが嫌だと言ったので、凪以外の二人は比較的早くに順応していった。

 尚、凪が順応出来ないのは生来の生真面目さの所為であり、二人と比べれば遅いが少しずつ順応していっている。

 

「それで、今も戦っているっていうあと二人はどんな子なんだ?」

「二人共この村の女の子で、沙和達は仲康(ちゅうこう)ちゃんと仲颯(ちゅうそう)ちゃんって呼んでるの。」

「……仲康? ひょっとして、その子の名前は許緒(きょちょ)って言うんじゃ?」

「そ、そうなの! 会った事も無いのに名前を当てるなんて、やっぱり御遣い様は凄いの!」

「そ、そうかな?」

 

 涼は照れた振りをしながら、今得た情報を整理していく。

 その間にも戦場へ近付いているので、残り時間は少ない。

 

(仲康が許緒の字ってのは、三国志を知っている人なら常識だから間違いはない。けど、仲颯ってのは誰だ?)

 

 一部、涼の認識と世間の常識がかけ離れている内容があるが、許緒の名前については確かに間違っていない。……どれだけ三国志に関する知識があるのやら。

 普通の人からすれば驚き、ともすれば呆れる程の情報量だが、幼少の頃からそれらの書物を文字通り山程読み漁ってきた涼にとっては、日本人が桃太郎や浦島太郎を知っているのと同じくらいの常識なのだ。

 

(古代中国じゃ“仲”って字は次男に付けるって法則があるから、この世界じゃ次女、()しくは二番目に生まれた子に付けているんだろう。だとすると、仲颯って子もそれに当て嵌まるんだけど……該当する人が居ない。)

 

 涼は頭の中の三国志人名辞典を引っ張りだし、片っ端から検索した。だが、「仲」が付く武将や文官は居ても、「仲颯」という字を持つ武将や文官は一人も居なかった。

 そこで、涼はもう一人の「仲」の名を持つ少女、許緒から何か手掛かりは無いかと考え、その瞬間に一つの仮説に思い至った。

 何故、許緒と一緒に名前が出た時に気付かなかったのか、と自嘲したくなった程だ。

 涼はそんな気持ちを落ち着けてから、沙和に訊ねる。

 

「じゃあ……もう一人は典韋(てんい)、かな?」

「そ、その通りなの!」

 

 推測を述べた涼の言葉に対し、沙和は先程より驚きながらそれを肯定した。それはつまり、涼の推理が当たった事を意味している。

 許緒と典韋。この二人は共に曹操に仕え、共に剛勇で名を馳せた武将である。

 正史ではこの二人の組み合わせはそれ程印象にないが、演義では許緒が曹操に仕える際に一騎討ちをし、互角に戦ったとされ、曹操軍の豪傑二枚看板としての印象が強調されている。

 

「その二人なら、幾ら賊が多くても安心できるかな。」

「なんでや?」

「まあ……勘、かな。」

「なんやそれ。」

「なんやそれ、と言われても、そうとしか言い様がないしなあ。」

 

 本当の事を言う訳にいかない涼は、苦笑しながらそう言って誤魔化した。

 やがて、戦場に着いた。

 とは言え、殆ど戦闘は終わっていた。賊の大半は討ち取られ、降伏する者も相次いでいる様だ。

 涼達は辺りに敵が居ないか気を付けながら走り、途中で倒れている人が居れば応急処置を行い、賊が現れれば即座に斬り捨てた。

 やがて、半壊した建物の向こうから少女の声が二つ聞こえてきた。どちらも幼さを残した声音でありながら、発している声は平時のものではない。明らかに戦闘時に発する声だった。

 

「仲康ちゃんと仲颯ちゃんの声なの!」

 

 沙和が涼に知らせる様に叫ぶ。涼は沙和と真桜、そして兵士達と顔を見合わせると、声がした方へ駆け出した。



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第十五章 再会と決意・6

 そこは少し拓けた場所だった。

 もう殆ど居ないと思われた賊が、ここには未だ数十人は居る。

 だが、対する徐州軍はその数倍の人数を擁し、鈴々こと張飛が兵を鼓舞しながら賊を斬り倒している。

 最早大勢は決している。それでも戦闘が続いているのは、賊達が降伏をしないという意思表示でもしたのだろう。幾ら賊相手とはいえ、無用な戦闘は禁じている為、この状況で戦闘が続いているのはそれしか考えられない。

 涼は左右を見回し、先程の声の主を探した。

 簡単に見つかった。何故なら、この場に居る少女は沙和と真桜を除けば、鈴々を含めて三人しか居なかったから。

 只、どちらが許緒で、どちらが典韋か迄は流石に判らなかったので沙和に訊いて確認した。

 一人は、桃色の髪を特徴的なツインテール、薄紅色のヘソ出しノースリーブ、といった格好で、背丈は鈴々と同じくらい。

 もう一人は緑色の髪の少女で、その前髪に大きなリボン、先程の少女と同じ様にヘソ出しノースリーブだが、ノースリーブは袖無しジャケットっぽいデザイン。下はローライズのスパッツといった格好。やはり背丈は鈴々と同じくらいだ。

 その二人はそれぞれ特徴的な武器を使っている。桃色の髪の少女はトゲが沢山付いている鉄球をけん玉の様に、緑色の髪の少女は紐が付いた太鼓みたいな物をヨーヨーの様にそれぞれ振り回して戦っている。

 小学生くらいの背丈の少女が、自分達の頭より大きな得物を楽々と振り回し、賊をバッタバッタとなぎ倒していくという光景は何ともシュールだが、この世界に来て一年以上になる涼にとっては極々ありふれた光景だった。

 

「鈴々が三人居るみたいだなあ。」

 

 この場に居るもう一人の少女である鈴々と同じ様に活躍する少女達を見て、涼は苦笑しながらそう呟いた。

 このまま見物していても戦闘は難なく終わりそうだったが、少しでも早く戦闘を終わらせる為に涼達も加勢する事にした。

 戦況を見た結果、余裕がある鈴々の部隊には沙和が、少し疲れている様に見える桃色の髪の子には真桜が、一番疲れている様に見える緑色の髪の子には涼がそれぞれ兵士達と共に向かった。

 鈴々の部隊には加勢は必要無かったかな、と思いながら、涼は緑色の髪の少女の(もと)へと駆ける。

 涼は先程、その少女を一番疲れている様だと判断したが、それでもバテバテという程疲れてはいない。単に三人の中で一番疲れている様に見えただけであり、その証拠に少女は今もまた一人、賊を倒した。

 まるで巨大なヨーヨーを振り回しているかの様に動く少女を見て、涼は不意にヨーヨーで遊びたくなった。昔、現代的なヨーヨーが流行っていた時に涼も少しばかり遊んでいたのだ。

 勿論、今は遊んでいる暇は無く、そもそも、ヨーヨーが無い為に遊ぶ事は出来ないのだが。

 涼は緑色の髪の少女に近付くと、警戒されない様に優しい声音で訊ねた。

 

「君が仲颯ちゃんだね?」

「……そうですが、貴方は?」

 

 緑色の髪の少女――仲颯は、前方に居る賊から一瞬だけ視線を向けながら訊ね返した。

 賊が一気に間合いを詰めようとしないのは、仲颯の武器を警戒しているからだろう。更に今は涼達も加わったのだから、彼等の警戒レベルは最大と言っていい筈だ。

 

「俺は清宮涼。徐州の州牧補佐をしている。」

「っ!? それでは、貴方は張飛さんの……し、失礼しましたっ‼」

「気にしなくて良いよ。それより今は、彼奴等をやっつける事に集中しよう。」

「は、はいっ!」

 

 涼が仲颯の隣に立ちながらそう言うと、仲颯は前を向いて武器を構え直し、大きな金色の瞳で賊を睨んだ。

 族にとってはこの時が降伏、若しくは逃走の最後のチャンスだったと言えるかも知れない。

 だが、賊はそのどちらも選ばず、戦う事を選んだ。自分達の目の前に居るのが、かつての黄巾党の乱で活躍した清宮涼であり、三国志演義では(いん)の時代の猛将の名をあだ名にされる程の豪傑、典韋だという事を知らなかったのが彼等の不幸だった。

 最初に動いたのは仲颯だった。

 手にしている武器を振り回し、敵を二人吹き飛ばす。

 敵が怯んだ所に涼が斬りこみ、一人を斬り倒す。

 残った敵は当然の様に涼を狙うが、そこに仲颯の援護攻撃が入ってまた一人倒し、涼は目の前に居る敵を斬り、返す刀でもう一人を斬り倒す。

 まるで何度も練習したかの様な連携攻撃により、みるみるうちに敵の数を減らしていく。勿論、二人が練習をしていた訳は無く、寧ろ初対面なのだが。

 それでここ迄連携がとれているのは、二人の才能の成せる技か、それとも運か。なんにせよ、たかが賊程度ではこの二人を止める事は出来ない。

 それに気付いた者はここにきて漸く逃げ出したが、時既に遅し。周りに散っていた兵士達に各個撃破されていき、それは涼が降伏するなら命はとらないと発する迄続いた。

 だが、中にはそれでも降伏しない者が居り、彼等はせめて一矢でも報いろうと攻めかかる。

 そんな賊の標的は仲颯だった。涼と比べれば子供に見える彼女に狙いを定めるのは間違っていないが、それでも相手が悪いとしか言い様が無いのもまた事実だった。

 一斉に仲颯に向かう賊達。

 それに気付いた涼は仲颯の援護に向かおうとするが、残った賊が前を塞ぎ先へ進めない。

 仕方無く賊を斬り倒すが、その分だけ仲颯に近付くのが遅れる。涼は少しだけ、焦った。

 だが、焦る必要は全く無かった。

 仲颯は落ち着いて得物を引き戻しながらバックステップで間合いをとると、得物を時計回りに力一杯に振り回す。仲颯に攻めかかろうとしていた賊の大半がこれをまともに喰らい、戦闘不能に陥った。

 それでも数人の賊が残ったが、仲颯にとっては僅かな時間を作れればそれで充分だった。

 何故なら、その時間だけで「味方」の動く時間には充分だったから。

 突如、仲颯に向かっていた賊の一人が、呻き声と共に倒れた。

 他の賊が振り返ると、そこには体中に返り血を浴びている涼が右手に刀を握ったまま立っていた。

 驚いた賊が涼の後ろを見ると、そこには涼に斬られた賊達が何人も倒れている。

 絶命した者、未だ息がある者の両方が居たが、生きている者も腕や足に深い傷を負っており、最早戦う事は難しいと思われる。

 涼の姿を見た賊達は、思わず後退りした。

 彼等は賊に落ちぶれてから今迄、弱者を斬り、その財を奪う事しかしてこなかった。

 今回この村に来たのも小さくて襲い易いと思ったからで、事実そうだった。

 彼等にとっての誤算は、この村に許緒や典韋といった小さくとも強い少女が居た事、旅の終わりに立ち寄った軍師志望の戯志才と程立、出稼ぎに来ていた楽進と李典と于禁という三人の武将達。そして何より、三千を超す兵と共に徐州軍の将軍の張飛と文官の孫乾、「天の御遣い」こと清宮涼が現れたという、誤算というには余りにも大き過ぎる障害がある事を知らなかった事である。

 風の噂で知っていた「天の御遣い」という存在。どうせ眉唾物だと彼等は思っていた。

 もし本当にそんな存在が居るのなら、何故俺達は賊なんて身に落ちぶれているんだ、と自分達の境遇を嘆きながら嘲笑っていた。

 確かに、彼等の境遇には同情してしまう。

 漢王朝が十常侍を中心とした宦官達によって私物化され、政治が腐敗し、その為に民衆が虐げられていたのは事実であり、生きる為には賊にならなければならなかった者も居ただろう。

 だが、民衆の大半は賊になっていないのも事実であり、賊になる事の正当性は無い。

 時代が悪いからといって人を殺して良い訳ではなく、賊にならずに生活する方法は沢山ある。

 それでも賊になったのは個々人に様々な理由があるとは言え、結局は自身が選んだ事であり、今更責任転嫁してもそれは自分勝手過ぎる。

 だが、賊にはそれが解らない。解らないから結局は世の中が悪いと決めつけ、自分達のしてきた事を正当化する。

 間違いを認めず、正そうともしないから、彼等は再び人を襲い、物を奪い、罪を重ねていく。

 勿論、中には自分の罪を自覚し更生する者も居るが、そうした者は残念ながら少ない。殺人や強盗という重罪に対する刑が命をもって償うものが殆どなのも、更生者が少ない遠因だろう。

 賊は命を惜しむ。誰でも命は惜しいが、賊は他者の命を奪っているだけに余計に自身の命を惜しむのだ。

 そして、今、涼達の前に居る賊達も自分の命を惜しんでいる。そうでなければ心身を恐怖に囚われたりはしないだろう。

 彼等は、生きる為に目の前の障害にどう対処するか考えた。その結果、彼等は障害から逃げるのではなく、倒す事を選んだ。逃げても殺されるだけなら、その前に殺してやるという事なのだろう。

 だが、その判断は間違いだった。

 賊は、近くに居た仲颯に斬りかかった。先程の圧倒的な攻撃を見てもなお、彼女の方が倒し易いと判断したのか。

 勿論そんな筈はなく、その賊は仲颯によって倒された。また、残りの賊も仲颯や涼、兵士達によって討たれ、捕縛されていった。

 その頃には他の所でも賊の掃討が終わっており、戦いが終わった事に気付いた者は皆一様に安堵し、息を吐いていた。

 

「……どうやら、終わったみたいだな。」

「そう……みたいですね。」

 

 涼と仲颯は、周りを見ながら小さく呟いた。

 兵士達は倒した賊を一ヶ所に集め始めており、捕縛した賊に対しては別の場所に移して尋問の準備を始めていた。

 見れば、鈴々と沙和、仲康と真桜が近く迄戻って来ている。皆、顔や体に返り血を浴びているが、怪我らしい怪我はしていない様だ。



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第十五章 再会と決意・7

 それを見た涼と仲颯は計らずも同時にホッと息を吐いた。仲間や友が無事でいるのだから、その反応は当然だろう。

 鈴々達も涼達に気付くと手を挙げ、笑みを浮かべながら近付いてくる。涼達も顔を見合わせ、彼女達に近付こうとした。

 その時、涼達の後ろから微かに物音が聞こえた。が、丁度沙和の声が聞こえてきた為に涼達には聞こえなかった。

 それがいけなかった。物音の元は負傷していた黄巾党の賊だった。その男は一見して最早助からないであろうという程の深手を負っていたが、そんな見た目とは違ってその動きは素早かった。最後の力を振り絞ったのだろう。

 男は武器を振り上げ、大声を上げながら仲颯へと向かっていく。仲颯や涼、そして鈴々達は声に気付いて振り向く。

 仲颯は直ぐ様武器を持ち直し、迎撃態勢に移ろうとした。が、一度緊張から解き放たれた心身を再び戦闘状態にするというのは難しい。

 事実、仲颯が構えようとした時、彼女は自身の得物を落としてしまった。元々大きなヨーヨーの様な得物であり、小柄な彼女の得物にしては大き過ぎる。その為落としても不思議では無いが、そのタイミングが悪過ぎる。

 仲颯は慌てて得物を拾おうとするが、拾ってから応戦するには時間が足りなさ過ぎた。

 そこで、彼女は得物を拾わず回避行動を採る事にした。この判断は正しかった。

 何せ、相手は瀕死の重傷である。まともに動き続けられる筈が無く、ほぼ無傷の彼女なら簡単に逃げきれる。そして、その通りになった。

 男の最後の一撃は虚しく空を切った。そして次の瞬間、涼の一太刀によって致命傷を負った男はそのまま倒れ、二度と動く事は無かった。

 

「だ、大丈夫か、仲颯?」

 

 涼は剣を振って血を飛ばしてから納刀すると、そう言って彼女を見た。見たところ、怪我はしていない様だ。

 

「は、はい……ん……っ!」

「どうした?」

 

 涼に返事をしようとした仲颯の表情が一瞬歪んだ。

 

「……ちょっと、足を捻ったみたいです。さっきのはホントに咄嗟の事でしたから……。」

「ちょっと見せて。」

 

 そう言って涼はその場に仲颯を座らせ、痛めたという右足首を見た。腫れ上がってはいないが、触ってみると若干の熱を帯びている。痛めたというのは間違いないようだ。

 

「怪我したなら早く治療しないと。幸い、医者は何人か居るし、旅の医者も居るから直ぐ治せるよ。」

「そんな、大袈裟にしなくても大丈夫ですよ。」

「いや、捻挫を甘くみちゃダメだよ。悪化させたら日常生活に支障が出る。……また今日みたいな事があっても戦えないよ?」

「それは……困ります。ここは清宮様の言う通りにします。」

「それが良い。あと、様付けはしなくて良いよ。どうもそういった堅苦しいのは苦手でね。」

 

 そう言って涼は仲颯の体を抱き上げる。小柄な体躯らしく、とても軽い。それであの得物を使っているのだから、凄いなと涼は思った。

 

「あ、あの……そこ迄してもらわなくても大丈夫ですよ。」

「遠慮しなくて良いよ。さっきも言ったけど、捻挫は甘くみちゃいけないし。」

 

 涼はそう言いながら彼女を連れて行く。その格好は所謂「お姫様抱っこ」というもので、女性はある種の憧れを抱く様だが、実際にされると結構恥ずかしい。事実、今の仲颯は顔を真っ赤にしていた。

 尚、それを見ていた他の面々はというと、

 

「……サラッと凄い事をやっていくの。」

「流石は“天の御遣い”やな。」

「お兄ちゃんはあれが普通なのだ。」

 

と、沙和、真桜、鈴々の三人は。率直な感想を述べた。果たして会話が噛み合っているかは解らない。

 涼が仲颯を華佗の許に連れて行った時、既に手術は終わっていた。この短時間で重傷者の手術を終わらせ、止血その他の処理を完璧に終わらせているとは、流石は華佗と涼は思った。

 

「成程、捻挫か。ここ迄彼女を歩かせなかった清宮殿の判断は正しい。今診てみたが、これは意外と重症になったかも知れない。」

 

 手術終わりで疲れているかと思ったが、華佗は仲颯の診察をしてくれた。寧ろ、彼女が負傷したと知ると積極的に診てくれた。

 

「捻挫ってのは、簡単に言うと関節を損傷している事で、患部が炎症を起こしているんだ。この状態で無理をすれば、幾ら捻挫でも完治に時間がかかる。日常生活に戻りたいなら、無理はしない事をお勧めする。」

 

 真剣な表情で言う華佗の迫力に負けたのか、仲颯は彼の助言を素直に受け、安静にする事にした。適切な治療が行われた為、無理をしなければ悪化する事は無いだろう。

 それにしても、と思いながら涼は周りを見回した。

 文字通り野戦病院と化していたこの小屋には、今も負傷者が沢山居る。

 だが、その殆どは適切な治療を受けており、快方に向かっている。流石は三国志で名医と謳われた華佗と同じ名を持つだけはあると言う事か。

 涼は、仲颯と華佗にそれぞれ一言声をかけてから自分の仕事に戻った。

 比較的小規模とは言え、戦闘が行われたのだ。敵味方の死傷者数と、被害を受けた人々に対して何が出来るか、といった事を今直ぐに把握しておかねばならない。補佐とは言え、涼は徐州の重職に就いており、何よりも彼は「天の御遣い」という肩書きを持っており、ある意味今の皇帝である劉弁(りゅうべん)(少帝(しょうてい))よりも民衆に知られているかも知れない。

 小屋から少し離れた所で、霧雨が各部隊長からの報告を受けていた。涼が彼女達に近付くと霧雨達も涼に気付き、上官に対する仕草をして彼に向き直った。

 開口一番、霧雨が先程の戦闘の詳細を告げてきた。聞く前から答える所が、彼女の優秀さを表している。

 

「戦死者は出ていませんが、負傷者が数十名程出ています。ですが、華佗殿の治療のお陰でその者達も命に別状はありません。」

 

 涼は、戦死者が居ない事と負傷者も大事ない事を聞いて安堵した。

 まあ、普通に考えれば農民上がりの賊に正規兵が負ける訳は無いのだが。

 涼は各々に食料支援等の指示を出すと、周りを見渡した。

 賊が襲ってきただけあって、民家は壊され燃やされ、そこかしこから煙が上がっている。

 壁や地面には沢山の血の跡があり、壊れた武具の残骸が落ちている。

 負傷者の救助を優先している為、未だ遺体の回収は済んでいない。この集落の住人だった遺体も、賊の遺体もその無残な姿を晒していた。

 涼はその場を離れた。

 暫く行くと小さな川が流れていた。子供が水遊びをするには最適な、小さな川だが、ここでも戦闘が行われたらしく、辺りで血の跡が散見された。

 涼は黙って川の中に手を入れた。ゴシゴシと手を洗う。手に付いていた血が流れていき、いつもの手に戻ってからも、涼は手を洗い続けた。

 

「そんな事をしても、その汚れは落ちないわよ。」

 

 凛とした、懐かしい声が涼の耳に届く。

 声のした方を振り向くと、そこにはやはり見知った顔があった。以前と同じく、いや、以前よりも凛々しく、強く、美しくなっているその少女の名を、涼は口にする。

 

「そんな事は解っているよ、華琳。」

 

 それは強がりなのかも知れない、出任せなのかも知れない。

 だが、涼の瞳には確かな意志の光が灯っていた。

 その少女――華琳は、満足そうに微笑んだ。



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第十五章 再会と決意・8

 黒系を基調とした衣服と甲冑を身に纏った少女は、涼がハンカチで手を拭いているのを見ながら近付いて来た。

 

「華琳は何故ここに?」

「貴方達を迎えに来ていたのよ。まあ、本来は別の目的があって出ていたのだけど、途中で貴方の先触れと会って、今日はこの辺りに来るって聞いたから、進路を変えて来てみたらこの有り様で驚いたわ。」

「そういや、先触れを出していたっけ。」

 

 涼は先日の孫軍との会談に際しても先触れを出しており、それによって会談の日程がスムーズにいっている。現代の様に電話やメールで気軽に連絡する事が出来ない為、この様な場合は先触れと呼ばれる者を先に派遣して大まかな目的を伝えるのがここでは一般的になっている。急に来られても困るしね。

 

「まあ、私達が来る前に賊の討伐は終わっているみたいだけど……この賊は黄巾党の残党かしら?」

「どうだろう? 確かに、中には黄巾党の目印である黄色い布を巻いている奴も居たけど、全員じゃないし、混成部隊とみた方が良いかもな。」

「私の統治下で未だこんな賊が未だ居たなんて。……一度、桂花(けいふぁ)と賊対策を練り直す必要があるわね。」

 

 そう言って華琳は暫し呟き続けた。

 華琳の沈思黙考が終わるのを待って、涼は彼女と共に皆の所に戻っていった。途中、桂花の乱入でうるさくなったりもしたが、華琳と居ればいつもの事だと割りきっていた涼は意に介さず華琳と話をしていった。

 

「青州の黄巾党を討伐するという話だったけど、上手くいきそうなのかしら? こちらが得た情報では、青州黄巾党はかなりの大軍だそうだけど。」

「まあ、正直言って数的不利は否めないかな。だからこそ華琳には、余計な邪魔が入らない様に協力してほしいんだけど。」

「この集落の惨状を見れば、余計に貴方の提案に乗ってあげたい所だけど……。」

「見返りがほしい、という事かな?」

「ハッキリ言うとそうなるわね。いくら私でも、何の見返りも保証も無しに軍を動かす事は出来ないわよ。それが解っているから、貴方自身が出て来たのでしょう?」

「流石、華琳には何でもお見通しか。」

 

 涼は苦笑しながら見返りについて話す。

 基本的には孫軍との会談での内容と変わらない。金銭、食料、同盟維持等、今回の青州遠征を成功させる為には必要な事を提示していく。

 それに対し華琳は一つ一つ質問をし、答えを得ると隣の桂花に意見を訊き、その結果了承していく、という流れとなった。

 その桂花は涼の提案を聞いて何か文句を言おうと思ったが、その提案が文句をつけられない内容だったので、内心悔しがっていた様だ。相変わらず彼女の華琳様愛は凄まじい。

 華琳は涼の提案を全て了承したが、一つだけ、彼女の方からの提案があった。

 

「陛下への奏上(そうじょう)?」

「ええ、貴方の実績と桃香の立場を考えれば簡単でしょ?」

「簡単かなあ……?」

 

 涼はそう言いながら思案に耽る。

 華琳が言う涼の実績とは、先の十常侍誅殺における皇太子救出の事だというのは、涼も理解していた。実際、あの日の皇太子、現在の劉弁皇帝と陳留王(ちんりゅうおう)劉協(りゅうきょう)は涼に感謝し、暗殺された何進(かしん)に替わって大将軍にしようか、いやいや、新設予定の部隊の指揮官にしようか、等と言って感謝の意を示していた。

 流石にそれは断ったが、代わりに桃香を州牧にするという事で謝意を受け取った。だが、この兄弟はそれでも感謝し足りなかった様で、他にも欲しいものは無いか? と訊ねてきた。

 然程(さほど)物欲も権力欲も無い涼は丁重に断り、かつ二人の顔を潰さない為に、何かあったらその時お願いします、と言っておいた。

 華琳にはその事を詳しく話していないが、涼が二人を助けた事実から多少の無茶は通るだろうと踏んでいる様だ。

 一方、桃香もその立場では涼と同じかそれ以上と言える。

 桃香の先祖は前漢(ぜんかん)の皇族である中山精王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)であり、その為、同じく前漢の皇族の末裔である光武帝(こうぶてい)劉秀(りゅうしゅう)を先祖に持つ二人とは血縁関係となる。

 勿論、皇帝一族と没落した皇族の末裔ではその立場は比べるべくもないが、この漢大陸では「劉」姓は特別な一族として認識されており、現代においても中国の五大姓の一つとされている。尚、五大姓の他の四つは「李」「王」「張」「趙」である。

 そうした理由もあって、劉氏である桃香は漢王朝でも一目置かれる存在となっている。(むしろ)を売っていたという彼女の出自を気にしている者も居るが、黄巾党征伐や十常侍誅殺などで副将、総大将として活躍した事もあって邪険に扱う訳にもいかず、彼女を徐州の州牧にするという劉弁の決定に異を唱える事が出来なかった。

 以上の事から、華琳が涼に奏上を頼むというのはある意味当然であり、恐らく効果はあるだろう。

 涼は思案の末、彼女の頼みを引き受ける事にした。

 同盟または不可侵条約の締結の為には必要な事であり、涼としては本来華琳の手柄になる筈だった青州黄巾党征伐を涼達がしている、という負い目も多少ある。

 本来なら、曹操が青州黄巾党を討伐し、その残党約百三十万を降伏させ、その中から選抜した者達を自軍に組み入れ、精強な「青州兵」が誕生する。

 その結果、曹操軍の実力は飛躍的に上がり、大国「()」の礎になったと言っても過言では無い。

 つまり、涼達が青州黄巾党を討つ事で、この世界の曹操こと華琳が名を上げる機会を奪っている訳で、涼としては心苦しいところがある。そうした気持ちを少しでも緩和する為に、奏上を引き受けるという訳だ。

 そんな大事な話を、小さな集落、しかも賊の襲撃を受けた所の単なる道を歩きながら行っているというのは中々にシュールだ。

 

「おー。お兄さん、どこに行ったかと思えば、曹操様とご一緒でしたか。」

 

 外に出ていた仲徳が涼の姿を捉え、華琳と桂花を見ながらそう言った。

 

「ああ、そこで会ってな。程立は二人と会ったのか?」

「はいー。風も何かお手伝いが出来ないか外に出た時に、丁度曹操様の一団が現れたのですよー。」

「そっか。戯志才達は?」

「稟ちゃんは華佗さんのお手伝いを、文謙ちゃん達は残党が居ないか確認しに、公祐さんと翼徳(よくとく)ちゃんはお兄さんの部隊に指示を出しに、仲康ちゃんは仲颯ちゃんの傍に、それぞれ行ってます。」

「そっか。そう言えば、華琳の部隊はどうしてるんだ?」

「私の部隊はここに着いてから、貴方の部隊と共同でこの集落の警邏(けいら)や救助をしているわ。公祐が上手く部隊を振り分けてくれたから、来たばかりの私達でも円滑に動けている。……欲しいわね。」

「華琳様!?」

「だから、うちの人材を欲しがらないでくれ。」

 

 桂花は本気で驚き、涼は苦笑しながらそう言った。華琳が人材を求めるのは最早彼女の癖の様なもので、余り本気にしなくても良さそうだが、目の前で引き抜かれるかもと思うとやはり気が気でならないものだ。

 事実、桂花は「ぐぬぬ」と言いながらも華琳に反対出来ずにいる。彼女は華琳に心酔しており、可能ならば華琳の側近は自分一人で良いと思っている。だが、実際問題としてそんな事が出来る筈は無く、諦めてはいるのだが、それでも華琳が人材を求めるとこの様な反応を示してしまうのだ。

 

「優秀な人材を得ようとするのは統治者として当然の行為よ。獲られたくないのなら、部下が離れたくないと思う程の行動を見せ、実績を作る事ね。」

「御忠告、感謝するよ。」

 

 涼はやはり苦笑したままそう答えた。確かに、統治者の行動としては、彼女が言っている事は基本的に正しい。

 現に涼も徐州に来てから「招賢館(しょうけんかん)」といった人材獲得の為の施設を造ったりしているので、彼女の言っている事は理解出来ている。

 だが、だからと言って涼は「引き抜き」をやろうとは思わなかった。それは、彼が「三国志」を知っている事も少なからず関係しているだろう。

 例えば、劉備には関羽(かんう)、張飛、諸葛亮(しょかつ・りょう)が居るのが普通であり、孫策には周瑜や太史慈(たいし・じ)が居なければならないという固定観念がある。その例でいけば、曹操には夏侯惇(かこう・とん)夏侯淵(かこう・えん)荀彧(じゅんいく)が居るのが絵になる。もし、この中から一人でも居なくなれば、「曹操軍」の絵は評価が下がってしまうだろう。

 涼は、心のどこかでそう思っている。だからこそ、史実や演義に沿った人材確保は積極的にするが、それ以外の事は余りしないでいた。まあ、本来なら歴史の表舞台から去っている筈の張宝(ちょうほう)が自軍に居る時点で、その気遣いは余り意味が無いのだが。

 だが、「三国志」を知らない、というか当事者である曹操こと華琳はそんな事お構いなしに人材確保に動く。当たり前の行為であるそれを涼が非難する事は出来ないし、もしすれば華琳は間違いなく涼も引き抜きをすれば良いと言うだろう。

 そこには、部下が引き抜かれない自信が表れているし、仮に引き抜かれてもそれは自分の信望がまだまだだという事であり、何れ引き抜き返すと息巻くかも知れない。

 曹操という人物は、現代に於いて評価が大きく変わってきた人物である。

 かつては、「主人公」の劉備陣営に立ちはだかる「悪役」の曹操陣営というのが一般的であり、日本において演義を下敷きにした物語が多く作られた事からもそれは伺える。

 だが、曹操が行った様々な改革、実力主義は歴史の再評価によって賞賛され、後の魏王朝の礎になった事は最早周知の事実となった。

 そもそも、正史において魏王朝は後漢王朝の後継王朝として認められており、その点を考えれば再評価は遅過ぎたといえるだろう。

 日本の英雄で曹操と似た評価がされているのが織田信長(おだ・のぶなが)だ。

 彼は、戦国乱世にあって徹底した改革、実力主義を貫いており、農民出身の木下藤吉郎(きのした・とうちきろう)(後の豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし))等を抜擢しており、信長がした事は後の豊臣政権、そして徳川政権の下敷きになっている。悪役が似合う人物で、後に再評価されているというのも曹操と似ている。

 涼は三国志が好きな日本人で、日中双方の歴史に詳しい分、その構図に手を加える事に迷ってしまう。

 それを克服しなければ、何れ自分達が苦境に立たされると解っているのに。

 涼達が戻ると、稟達と話していた華佗がそちらに気付いた。

 

「あ、清宮殿。丁度良い所に。」

「どうかしましたか?」

「いや、大した事じゃないんだが、賊の治療をしたくてな。」

「はあっ!? 何言ってんのよアンタ! 賊の治療なんてしたら、ここの住民の反感を買うわよ!」

 

 華佗の発言に真っ先に反応したのは桂花だった。

 確かに、沢山の死傷者を出した要因である賊の治療をここの住民が受け入れるとは思えない。彼等が居なければ、住民達が死ぬ事は無かったのだから。

 だが、華佗は医者である。現代において医者には敵味方の区別は無い。この時代は医者の数が少なく、地位も低いので華佗の様な考えの人間は少ないだろうが、現代出身の涼は彼の気持ちがよく解った。

 

「……許可します。但し、名目として彼等が何故ここを襲ったのか調べる為に治療をする、という事にしておきます。」

「……解った。寛大な判断に感謝する。」

 

 華佗は涼に一礼すると、直ぐ様治療の為にその場を離れ、華琳はそんな華陀と涼を交互に見ながら呟いた。

 

「……まあ、妥協点としては今のが正解ね。」

「……そうですね。」

 

 先程華陀の言動に噛み付こうとした桂花も華琳に同意を示した。

 本来なら、賊を治療するという事は桂花が言った様に住民の反発を招きかねない為、許可するべきではないだろう。

 だが、華陀には住民や自軍の兵士の治療をしてもらったという経緯がある。そんな彼の申し出を無碍(むげ)に断るのは双方にとって良くない。

 そうした事情を考えれば、先の涼の返答になるのは必然であった。そうする事で、華陀は負傷者の治療を行う事が出来、ひいては彼への感謝にもなる。住民の反発は多少あるだろうが、名目上、今回の事件の詳細を知る為となっている為、大きく非難は出来ない。何より今は、住民達は支援が無ければ何も出来ない。わざわざ支援者の機嫌を損ねる行為はしないだろう。

 涼は住民達が自分達を恐れるかも、という事迄は考えが回らなかった。幾らこの世界に適応してきているとはいえ、彼は現在の一般的な日本人の性格をしている。

 だが、華琳は違った。涼がそこ迄思案が及んでいない事迄は流石に解らなかったが、彼女は前述の様に考え、納得していた。

 恐らくそれが、清宮涼と曹孟徳の決定的な違いなのだろう。

 勿論そんな事は、当人達も気付いていないが。

 その後、涼達は曹操軍と協力して集落の再建の為に助力した。とは言え、集落の再建には時間がかかり、涼達はいつ迄もここに居られない為、彼は可能な限りの資金、食料、医薬品の提供をする事を軍議で提案し、了承された。

 その日は清宮、曹操軍共に集落に残り、治安維持に努めた。流石に軍が駐留している集落に襲いかかる賊は居らず、住人は亡くなった人々を想いながらも、それ以上の悲しみや不安に苛まれる事無く、一夜を過ごしていった。



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第十五章 再会と決意・9

 翌日、華琳は自軍から百名程を選抜して治安維持等の任務を与え、自身は涼達と共に本拠地である陳留への帰還を決定する。

 同日夕刻、涼達は陳留へと到着した。

 その日は涼達の到着を歓迎する為の祝宴(しゅくえん)が開かれた。先の賊の一件があったのでそれ程乗り気にはなれなかったが、断るのは失礼になる為、可能な限り楽しんだ。

 尤も、それ以外にも理由はあるのだが。

 

「あの……私達がこの場に居て良いのでしょうか?」

「華琳が良いって言ってるし、良いんじゃない?」

「随分と曖昧なの~。」

「せやかて、御遣い様の言うてる事も一理あるで。孟徳(もうとく)様が許可してるんやし、堂々としとこうや。」

「真桜ちゃんは呑気なの~。」

「沙和にだけは言われとうないわ。」

「二人共、少しは緊張感を持て。」

 

 真桜こと李典と沙和こと于禁が漫才の様なやりとりをし、凪こと楽進が呆れて溜息を吐いている。

 彼女達が居るのは陳留の曹操の屋敷である。陳留を治めているだけあってそれなりに壮麗かつ華美な建物であるが、大きさは孫家のものと比べれば少し小さい。これは、両者の立場が現時点では孫家が上だという事に起因しているだろう。

 だが、それでも庭に植えてある木々や花々のセンスはこちらの方が高く、また、家具、調度品の質や実用性も上の様だ。

 

「文謙ちゃん達は仲が良いですねえ。」

「それは認めますが、もう少し現状把握をしてもらいたいですね。」

 

 凪達の様子を見ながら、風と稟はその様に感想を口にする。

 

「ね、ね。ボク達はこれから何をすればいいのかな?」

「わたしに聞かれても困るわよ。……兄様、どうしたら良いでしょうか?」

 

 年少組とも言える許緒と仲颯もまた、先の凪達と同じ様に困惑している。

 だがそれも当然だろう。彼女達は涼と違って無官の、言わば平民である。そんな人物が曹操の屋敷に連れて来られて緊張しない方がおかしいだろう。

 一見、何の変化も無い風でさえ、頭の上の人形が項垂(うなだ)れている所を見ると、それなりに緊張している様だ。……人形の仕組みについては言及しない方が良さそうだ。

 涼は、ここに集められた面々が皆、ここに居て当然の人物だと知っている為、彼女達と比べて驚いてはいない。

 彼女達……凪、沙和、真桜、風、稟、仲康、仲颯はそれぞれ、楽進、于禁、李典、程立、戯志才、許緒、典韋という名前を持つ。それは皆、正史において曹操の旗の許に集った勇士達の名前である。

 曹操の旗揚げ時から居る者、曹操の頭脳となって神算鬼謀を張り巡らす者、武器を持たずとも大軍を相手に曹操を守った者、等々、その名は「三国志」にしっかりと刻みこまれている。

 この世界の曹操である華琳が彼女達を屋敷に招いたのは、先日起きた賊の集落襲撃の際に抵抗し、被害を最小限に抑えた功績を称えるという名目によるものだ。

 だが、華琳の性格を知っている涼は、その際に彼女達をスカウトするだろうと思っている。他陣営に所属している者に対して積極的に引き抜きを行う彼女が、無所属の者に対して勧誘しない訳が無い。

 そして彼女達は皆、華琳こと曹操が得て当然の人材ばかりなのだから、これは歴史の必然とも言える。

 勿論、華琳も凪達も、そんな事は知らない。だから、彼女達は彼女達の日常を続けているだけに過ぎない。

 暫くして、涼達が居る一室の扉が開かれた。入ってきたのは、左右に夏侯姉妹を従えた華琳だった。

 

「待たせたわね。」

 

 華琳はそう言いながら自身の座るべき席に座り、その左右やや後方にはやはり夏侯姉妹が護衛として立っている。

 

「始めに、涼。悪いけど先にこの娘達の要件を済ませたいの。良いかしら?」

「構わないよ。」

 

 華琳の申し出を涼はあっさりと認めた。何人かはその事に驚いていたが、文官である霧雨や、文官希望の風や稟、そして他ならぬ華琳自身は驚いていなかった。

 既に前日の会話で今回の会談の目的の大半は達成されている。あくまで口約束の為、正式には決まっていないが、彼女にも涼に頼み事をしている以上、正式な取り決めも直ぐ済むと思われる。

 

「では、早速だけど……。」

 

 華琳は自身の視界に居る少女達を見る。彼女の希望した面々が殆ど居る事を確認し、納得と残念さを併せ持った表情で呟く。

 

「出来れば、この場に華侘も居て欲しかったのだけどね。」

 

 その一言は何気ないが、彼女の後ろに居る夏侯姉妹には衝撃的だったのか、驚きながら互いに顔を見合わせた。

 凪達は何故夏侯姉妹が驚いているのか解らないが、短い間とはいえ華琳と一緒に過ごした涼にはよく解った。

 華琳は人材コレクターではあるが、基本的にその対象は女性、それも美人が多く選ばれている。その為、今の様に男性を選ぶのは稀有であると言って良い。

 因みに、女性が多く選ばれているとはいえ、男性が全く居ない訳では無い。尤も、割合としては女性九に対して男性一といったところであり、一般兵に下がって漸く比率が逆転するという具合だ。

 

「まあ、華侘の考えも解るし、仕方無いわね。」

 

 華琳はそう言うと改めて一同を見渡した。

 涼と鈴々、霧雨以外は皆先日の集落に居た在野の者達だ。つまり、登用の誘いをすれば麾下に加える事が出来る可能性が高い面々という事である。

 彼女達の才は先日の賊との戦いで十二分に解っている。華琳自身は戦闘時の彼女達の働きぶりを見ていないが、戦闘後の処理を見るだけで文官希望の風達の力量は解るし、武官と言える凪達の強さは、夏侯惇こと春蘭が彼女達の姿を見るだけで把握出来る為問題はない。

 後は、自分自身が彼女達を説得すれば良いだけである。そして華琳には絶対の自信がある。

 

「単刀直入に言うわ。貴女達……私の部下になりなさい。」

「「「「「「「!!??」」」」」」」

 

 三者三様ならぬ、七者七様の反応を示す凪達。

 だがそれも仕方無いだろう。彼女達の中には、風や稟の様にどこかの勢力に仕官したいと志している者も居るが、凪や仲颯等はそんな事を考えずに日々を過ごして来たのである。それなのに急に、曹操に部下にならないかと誘われたのだ。驚かない方がおかしいだろう。

 そうした動揺の中で一番最初に我に返り、言葉を発したのは仲颯だった。

 

「あの、孟徳様。何故私達を召し抱えようとなさるのですか?」

「それは当然、昨日の賊に対する皆の働きを知ったからよ。」

「ですが、私達は皆平民です。」

「それがどうかして? 私は才能、実力があれば平民でも取り立てるし、逆に才能も実力も無ければ、例え王侯貴族でも要らないわ。」

 

 仲颯の言葉に華琳はそう答え、自身の考えを述べた。その内容は、才能を重視し、家柄や過去にこだわらず、身分の低い専門職の人々も厚く用いる、という、涼の世界の曹操も行った所謂「唯材是挙(ゆいざいぜきょ)」の事だった。

 現代の考えからすれば普通過ぎて何て事は無いのだが、この世界は階級社会であり、王侯貴族による支配が成り立っている。尤も、先の黄巾党の乱等で若干揺らいではいるが。

 そんな世の中でありながら、曹操や華琳がこの様な方針を執ろうとしているのは、曹操や華琳が置かれた環境が関係している。

 ここからは華琳に統一する。

 彼女は自身の勢力を拡大したいと考えていた。だが、この時既に袁紹や袁術といった大勢力が居り、名門曹家の人間である彼女でもそう簡単にはいかない。それぞれの袁家には人材が豊富に揃っており、本来なら是非とも麾下に加えたい者も居るが、今の華琳の権力、財力では強大な袁家に太刀打ち出来ない。

 華琳の従姉妹である春蘭・秋蘭の夏侯姉妹や、彼女の実力に惚れぬいている桂花等は率先して華琳の許に居るが、まだまだ知名度が低い華琳には先に挙げた二つの袁家に人材での質は兎も角、数で負けている。その現状を打破する為に、今回の事件で解決に尽力した人物を加える事、更には広く人材を求める事で戦力強化を計りたいのだ。

 どの世界、時代もそうだが、一国における王侯貴族の割合は一般人より少ない。将来を見据えるなら、そうした特権階級だけに縛られずに将兵を集め、鍛える事が得策なのは、人類の歴史が証明している。

 劉邦しかり、劉秀しかり、織田信長しかり。

 日本の戦国時代の武将である織田信長を、華琳が知る術は勿論無いが、劉邦、劉秀といった漢の皇帝については博識な彼女はよく知っている筈で、それに倣った可能性は高い。

 何にせよ、華琳はなりふり構わず、と迄はいかずとも、選り好み出来る状況では無いのである。

 華琳の発言から暫くの間、凪達はその真意を図るかの様にざわめき、稟が発言する迄それは続いた。

 

「孟徳様が身分に拘らないというのは解りました。ですが、私達は殆どが実績もありません。その様な者を登用するのは、流石に無謀かと……。」

「あら、実績なら昨日の件があるじゃない。」

「しかしそれは、清宮殿が来られた僥倖によるものが大きく……。」

「それに、あなたと仲徳は鉄門峡の戦いの後、連合軍に加わっていたでしょ。それも立派な実績よ。」

「……覚えておいででしたか。」

「当然よ。尤も、私はあの後連合軍を離れたから、貴女達がいつ迄残り、どんな活躍をしたのか迄は知らないけどね。」

 

 そう言うと、華琳は目線を涼に向けた。彼女がどの様に凪達を口説くのか興味があった涼は華琳を見ていた為、図らずも視線が合う。

 華琳の紺色の瞳は美しく、そして鋭かった。

 瞬間、涼は萎縮した。

 現時点での涼と華琳、二人の立場は若干ながら涼が上である。それは前述の十常侍誅殺の恩賞によるものであり、華琳もまた恩賞を得ている。

 そうした立場の差はあるものの、やはり生まれながらの武将である華琳と、平和な現代日本の高校生だった涼とは、どうしても迫力や威厳に差が生まれる。

 涼自身はそれをよく理解しており、当然だと思っているが、そうした事を知らない人間が見たら、「曹孟徳は“天の御遣い”の清宮涼をも圧倒する」と思われるだろう。

 事実、この場に居る者達のうち、数名は二人の行動、反応に気付いており、両者の格や質を見極めようとしていた。

 その一人、程仲徳こと風が場にそぐわないのんびりした口調で声をあげる。

 

「成程~。孟徳様は風達を高く評価しておられるのですね、ありがたい事です。稟ちゃん、折角ですからこのお話をお受けしたらどうでしょう?」

「風、そんな簡単に決めるものでは無いでしょう。これは私達の将来に関わる事よ。」

「そうですねえ~。でも、今迄各地を回ってきて、仕官先の候補は片手で数えられるだけになりました。そろそろ決める頃ね、と稟ちゃんも言っていたではないですか~。」

「それはそうだけど……。」

「なら、うちに決めなさい。それとも……。」

 

 華琳はそう言うと、先程と同じ様に涼を一瞥し、

 

「涼の方が良いのかしら?」

 

と稟に問い掛けた。

 問い掛け、とはいうが、実質的には踏み絵を踏ませているに等しい。今この場でどちらに付くか決めさせ、間接的に他の者にも踏み絵を促しているのである。

 もしここで稟が華琳に付くと言えば、他の者もそれに倣う可能性が高まる。逆に涼に付くと言えば、やはりそれに倣って涼に付く可能性が高くなるかも知れない。

 だが、華琳はその可能性を低く見ている。

 今、涼達が居るのは陳留の華琳の屋敷である。つまりは華琳の本拠地であり、この場でハッキリと涼に味方する事は難しい。

 仮に涼に味方したとしても、華琳はそれを咎めないだろう。仕官するのはその者の自由であり、断るのもまた自由である。

 だが、華琳の本拠地であるここ陳留で、しかも華琳本人からの誘いである。これを断る事が出来るだろうか? そして、仮に受けるにしてもその際は涼に気を遣うのは必然である。

 事実、稟は返答に困っていた。

 先程、華琳が言った様に、稟は以前連合軍に居た。居たと言ってもほんの数日だが、居た事には変わりない。

 その間の衣食住、身の安全を保証してくれたのは間違いなく涼であり、その時の連合軍諸将である。華琳も居たが、前述の通り連合を離れたので、その点ではやや弱い。

 だが、今、稟達を保護しているのは涼達徐州軍であり、華琳達陳留軍、ひいては兗州軍である。そしてここは兗州・陳留。現時点では華琳に分がある。

 だからこそ稟は悩んでいた。風にはああ言ったものの、個人的には今この場で決めても良いと思っている。だが、即答しては涼の顔を潰してしまう。両者に恩義を感じている為、それも出来ない。

 それは、稟以外の者も同じだった。

 この場に居る者達は皆、少なからず涼と華琳に恩義がある。

 黄巾党から守ってくれたり、賊を倒してくれたりと理由は様々だが、恩義があるのは変わらない。だからこそ、即答は避けたい。

 そして稟は、即答を避けた。

 

「此度のお招き、光栄にして恐悦至極。しかしながら、この様な大事を即決するのは私の主義ではありません。暫くの間、思案させていただきとうございます。」

 

 稟がその言葉を紡いだ時、彼女は緊張していた。その時の彼女の心臓の鼓動が驚くべき速さだった事に、稟自身ですら後になって気付いた程だ。

 だが、肝心の華琳はと言えば、微笑を浮かべながら「それもそうね。」と一言言っただけで、特に反応は無かった。だが、

 

(まあ、それが最善の答えよね。けど、それで良いのよ、戯志才。貴女はよくやってくれたわ。)

 

 彼女の心の中では、表情以上の笑みを浮かべて稟を見詰めていた。

 華琳が稟に期待していた事。それは、この場に居る在野の者達に曹孟徳のプレッシャーを感じさせる事。それは稟が何かをするというのではなく、只、華琳の誘いに応えるだけで良かった。それも、彼女が即答しないと計算しての事だ。

 稟がこの場で華琳を選べばそれで良し、仮に選ばなくても、拒否では無く保留を選ぶ可能性が高い。しかも、その際は思案の為に時間がかかるだろうから、その間に華琳は稟をジッと見詰めるだけで良い。それだけで、華琳は自身の「格」というものを見せつける事が出来る。

 事実、この場に居る在野の者、凪達は皆華琳から目を離せないでいる。それが華琳の狙い通りかは兎も角、彼女の策は成功したと見て良いだろう。

 そして、この事態を目の当たりにしながら何も出来ない事に歯痒い思いをしている人物が居る。

 徐州軍の文官、孫乾こと霧雨である。

 彼女は、報告の為に先に徐州へと戻った簡雍こと雫の分迄、任務を果たす必要がある。

 幸いにも主目的は果たせそうだが、だからと言ってこの状況を良しとはしていない。

 

(マズいですね……これでは、清宮殿の格が低く見られてしまうかも知れません。)

 

 そう思い、隣に座っている当人をチラリと見る。目の前の光景を興味深そうに見ている涼の姿が映り、心中で嘆息する。

 

(まあ、清宮殿ならこの反応も致し方なし、ですが、少しは危機感を持っていただきたいですね。)

 

 霧雨は涼の事を理解しているつもりであり、それはある意味で正しい。だが、当然ながら他人である彼女が涼の全てを理解している訳では無く、涼が今何を考えているかは判らない。

 勿論、全てを理解する必要は無く、また、全てを理解しないといけないのなら人間社会は成り立たない。ましてや、霧雨は涼の許に来て未だ日が浅い方である。この反応は当然で、仕方ない。

 涼のこうした反応が、三国志を知るが故という事等、知らないのだから。

 結果として、この勧誘は皆保留という事でお開きとなった。

 稟の様に暫く考えたいという者、自分はそんな柄じゃないと謙遜する者、事態をよく飲み込めていない者等、その理由は様々だ。

 だが、唯一全員に共通している事がある。それは、華琳こと曹操の存在の大きさである。

 皆一様にその器の大きさを感じ、同時に恐怖した。涼に対しても器の大きさを感じているが、恐怖してはいない。それはそれで良いのだが、時として恐怖心は人を纏める力にもなる。特にこの時代はそうして一団を率いる事も珍しくない。

 涼は生来の性格上、そうした事には恵まれていない。勿論、それが間違っているという訳でも無いが。

 果たして、彼女達がどの様な判断を下すのか、それは誰にも判らない。

 只一人、三国志を知る涼だけがそれを知っている。だからこそ、この勧誘劇をゆったりと見ていたのであり、それが霧雨には危機感が無い様に見えていた。



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第十五章 再会と決意・10

 その後、凪達を別室に移してから華琳との会談が始まった。

 と言っても、大体の事は既に昨日の内に話し合っており、今回はその確認と少しの補足と調整、そして調印とスムーズに進み、比較的短時間で終わった。

 これで涼は外交遠征という役目を終えた事になる。だが、だからといって直ぐに帰る事は出来ない。

 先の戦いで負傷した者が居り、そうでなくても揚州から兗州への移動で皆の疲労が溜まっている。その回復の為、数日は滞在する必要がある。

 幸い、華琳がその為の援助をしてくれるというので涼はその言葉に甘える事にした。

 陳留に滞在中、宴会やら引き抜きやら色々あったが、基本的には親交を深める事が出来たと言って良いだろう。

 先の集落襲撃の際は余りゆっくり話せなかった稟と風の二人、凪、真桜、沙和の三人、仲康と仲颯の二人とも色々な事を話し、自然と真名を呼ぶ事も許された。

 その間も、彼女達はそれぞれ考えていた。勿論それは、華琳の誘いを受けるかどうかである。

 彼女達は皆、自分にそれなりの自信を持っているが、かといってあの曹操の許に居るのが当然と思う程自惚れてはいない。

 曹操は今現在でこそその勢力はまだまだ小規模だが、彼女自身が持つ独特の雰囲気、高貴な家柄、それでいてそれを鼻にかけない性格等から高い評価を受けており、少しずつだがその勢力は大きくなっている。

 その総大将自ら誘われたのだから、即答しても良いくらいだが、前述の通り即答は出来ない。尤も、お陰で考える時間が出来たとも言える。

 だがそれも、あと一日となった。涼達が約一週間の滞在を終え、明日の午前中に徐州へ戻る事が決まったのだ。

 そして今、涼達の送別会という名の宴会が行われている。

 華琳の屋敷で行われている為、余計なゴマすりや何かは無く、純粋に彼等の送別会となっている。

 まあ、華琳の引き抜きはあるのだが。

 

「しつこいのだ。鈴々はお兄ちゃんと桃香お姉ちゃんとずっと一緒なのだ。」

「それは残念ね。」

 

 今も鈴々を勧誘していた。それも、鈴々が好きそうな食べ物を山程持ってきて。

 鈴々はその食べ物の山を、ヨダレを垂らしながら見ていたが、華琳の誘いには断固として乗らなかった。

 華琳は言葉では残念がっていたが、この結果は想定内だったらしく、表情はそれ程残念がってはいない。その証拠というか、彼女は断られても食べ物を持って帰る事は無く、そのまま鈴々に渡した。

 流石は華琳様、という声が夏侯惇こと春蘭、荀彧こと桂花から聞こえてきたが、元々この宴会は涼達の送別会であり、そう考えれば当然の事であり大した事ではない。それに、華琳自身も断られたからといって、人にあげる筈だった食べ物を取り上げる様な狭量ではない。

 そんな光景を見ながら、涼は稟達と話していた。

 

「成程、今の青州はその様な状況なのですか。」

「お兄さんが自ら外交に来ているのも納得なのです。」

 

 尤も、その内容は至って真面目なものだが。

 文官として仕官するのが目標である稟と風は、この国の政治や経済、更には戦争について詳しく、興味がある。

 涼は彼女達と話すにあたって、機密以外は包み隠さず話した。機密でない事は、いくらこの世界でも遅かれ早かれ彼女達に伝わるので、隠さないのは当然と言える。

 

「まあね。けど、青州黄巾党との戦いが終われば、恐らく民衆蜂起は一先ず終わると見ているから、ここが踏ん張りどころなんだ。」

「確かに、先の戦いで張三姉妹が討たれて以降、黄巾党は鳴りを潜めていましたからね。青州黄巾党が、最後の抵抗と見て宜しいかと。」

「ですが、それだけに対応を誤ると被害が拡大してしまうかも知れないのです。果たして、十万の軍勢で数十万と言われる大軍に勝てるのでしょうか。」

 

 風はそう言って懸念を示すが、声のトーンや表情からは不安がっている様子は全く無い。

 だが、それも当然の事だろう。

 黄巾党は先の戦いで旗頭であった張三姉妹を失い、瓦解している。例え残党と言えども、最早、往時の勢いは無いと考えられ、どれだけ数を集めても烏合の衆では統制はとれず、正規兵である徐州軍の敵ではない。

 その例がこの国の歴史の中にある。「昆陽(こんよう)の戦い」と呼ばれる戦いがそれだ。

 約二百年前、当時は前漢(ぜんかん)が滅び「(しん)」の時代になっていた。

 だが、新が行った政策は当時においても遥か昔の王朝である「(しゅう)」に倣ったものであり、当然ながら時代にそぐわないものだった。現代日本で例えれば、平安時代の政策を平成時代にする様なもので、その不合理性がよく解るだろう。

 当然ながら民衆は反発し、各地で反乱が起こった。

 その反乱軍の中に、後に「光武帝」と呼ばれる事になる武将が居た。劉秀という名の、武将にしては小柄な人物だったという。

 その劉秀は高祖・劉邦の子孫と言われており、劉邦の様に人を惹き付け、劉邦とは違いとてつもなく武勇に優れ、皇帝になってからは政治もそつなくこなす完璧な人物である。

 その劉秀と新軍が昆陽で激突した。新軍は号数百万、それに対し、劉秀が所属していた更始軍(こうし・ぐん)は数千から一万五千という数。数の上では話にならないくらい差があった。新軍の実数は四十万という説もあるが、それでも戦力差はまだまだ開いている。

 だが、結果は更始軍の圧勝に終わっている。

 確かに新軍は大軍だった。数百人の兵法家全てを軍師とし、輜重隊の隊列は千里を越え、精鋭の兵士に猛獣使い迄居た。

 一方、更始軍はその大軍を見て戦意喪失していた。

 だがそれも無理は無い。百倍の戦力にどうやって立ち向かえるというのか。現代と違い、戦争は兵の数によってその勝敗がほぼ決まっていた時代である。

 だが、そんな中で劉秀は諦めてはいなかった。昆陽城を脱出し、その周辺に居た将兵を集め、昆陽に戻って決戦に望んだ。

 それでも、集まった数は数千。とても勝ち目は無い。それが普通だった。

 だが、劉秀はその勝ち目がない戦いで勝利を収めたのである。

 敵が寡兵と知って油断した新軍の大将、王邑(おうゆう)王尋(おうじん)はこの時、約一万の兵を送った。それだけで事足りると踏んだのだろう。だが、これが致命的な失敗だった。

 大軍故の油断で接敵に時間をかけた新軍に対し、劉秀達は電光石火の如く斬りかかり、瞬く間に千を超える敵を討った。そして、その後数度行われた戦闘でも同様に敵を討っていった。

 寡兵である筈の劉秀達の強さを大いに恐れた新軍には、いつの間にか厭戦気分が漂っていた。そこに、「劉縯(りゅうえん)(えん)を落とし、そのまま昆陽に向かっている」との報せが舞い込んできた。

 劉縯とは劉秀の兄で、更始軍の将の一人である。

 劉秀同様、彼も名の知れた武将である。寧ろ、当時は彼の方が武勇に優れていると認識されていただろう。

 その劉縯が昆陽に向かっているという。

 依然として大軍を擁している新軍だが、劉秀隊との戦闘は連戦連敗。その為に士気が大いに低下しており、新軍は混乱した。

 実はその報せは劉秀による偽報であり、劉秀は敵が混乱している間に別働隊約三千を率いて城を迂回し、それ迄とは違う方向から攻め始める。

 偽報によって混乱していた新軍はその別働隊を「劉縯の部隊」と勘違いし、大混乱に陥った。劉秀はその隙を突いて新軍総大将、王尋を討ち取る。

 昆陽城に立て籠もっていた更始軍はこうした敵の混乱、味方の活躍に気付き、王常(おうじょう)王鳳(おうほう)等が出撃。新軍を挟撃した。

 これだけでも新軍は甚大な被害を被ったが、更に悪天候による暴風雷雨で川が氾濫。また、連れて来ていた猛獣が逃げ出した為に混乱に拍車がかかり、新軍は潰走した。

 新軍の戦死者は数万にのぼった。百万の大軍の割には少ない戦死者だが、それは新軍に戦意が無く、皆敗走した為と考えられる。王邑が洛陽に戻った時、連れていた兵は数千だけだったという。

 この戦いに勝った劉秀の名は一躍有名になり、後に沢山の将がその名声を頼って劉秀の許に集い、漢王室を再興し、天下を統一するのである。

 この様に、数的不利であっても勝てない訳では無い。

 しかも、今の徐州軍は黄巾党の乱、十常侍誅殺といった戦いを潜り抜けてきた名将達の集まりである。余程の事が無い限り、負けはしない。

 

「大丈夫さ。」

 

 涼は只一言、そう言って風に答えた。

 風はそんな涼をジッと見詰める。

 彼女が涼と過ごした日々は、今回を合わせても二週間程である。当然ながらその様な短期間では人となりを知る事は難しい。

 その為、風は完全には涼の真意を計りかねていた。確かに、徐州軍が黄巾党に遅れをとる事は無いだろう。だが、それにしても、彼の安心の具合はとても少し前迄、戦争とは無縁の世界に生きていたとは思えない。

 風の疑問はそれだけではない。華琳が積極的に行っている引き抜きや勧誘を見て、焦らないのだろうか。

 引き抜かれないという絶対の自信があるのなら、この反応は当然だろう。だが、目の前で戦力補強が行われているのに、何も反応しないのは少々のんびりとしてはいないか。

 勿論、反応したからといって華琳に文句を言う事は出来ないし、仮にしても華琳がそれらの行為を止める筈は無い。

 そう考えれば、涼が何もしないのは普通だが、それでもこの危機感の無さには驚くばかりだろう。

 風と同じ事は、やはり文官志望の稟も思っていた。同時に、自分の目に自信を無くしかけた。

 彼女が涼と出会ったのは、風と同じく鉄門峡である。

 旅をしていた彼女達が、当時同行していた田豫(でんよ)こと時雨(しぐれ)、簡雍こと雫の要請もあって連合軍に合流する事になり、やはり当時同行していた趙雲こと星の助けも借りて、連合軍の進軍先である鉄門峡へと向かい、そこで出会った。

 彼女もまた、風と同じ期間しか涼と接していない。その為、彼女が持つ涼についての情報もほぼ同じである。

 情報が同じなら、推測や感想も似通ってしまう。結果として、彼女も風と似た疑問を持った。

 

(清宮殿は、曹操殿や噂に聞く孫策殿と同じ様に才能があると思っていましたが……私の見込み違いだったのでしょうか?)

 

 稟はそう思いつつ、涼の横顔を見る。

 外交という目的を達成したからだろうか、その表情には緊張というものが殆ど無く、皆と談笑し緩みきっている。見方を変えれば、美少女に囲まれて鼻の下を伸ばしているともとれる。

 果たして、自分は間違っているのか? その答えは、稟ですら簡単に見つけられそうにない。



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第十五章 再会と決意・11

 そこへ、華琳がやってきた。例によって春蘭・秋蘭の夏侯姉妹と桂花を伴っている。

 

「お楽しみの所、邪魔するわね。」

 

 彼女はそう言って涼の前に立つ。周りに居た風達は恐縮しつつ、二人に一礼してからその場を離れる。

 

「少し話があるの、良いかしら?」

「もちろん。」

 

 短く言葉を交わすと、二人は庭へと出る。涼の護衛である鈴々、華琳の護衛である夏侯姉妹は同行しない様それぞれ告げる。

 池や草木が適度に主張している庭は広く、現代ならバーベキューが出来そうな程だ。

 二人は庭の奥に在る池の前迄移動すると、そこで話し始めた。

 

「話ってのは同盟の事……だけじゃ無さそうだね。」

「その通りよ。」

 

 そう言って始まった二人だけの話は、同盟についての話や、互いのプライベートな事を話していった。

 そうして暫しの時間を過ごした後、華琳が本題をきりだした。

 

「涼。貴方、私と共に歩む気は無いかしら?」

「……えっ。」

 

 涼は華琳が紡いだ言葉を一瞬理解出来なかったが、やがてその意味を知るとコホンと咳払いをしてから訊ねた。

 

「それって、どういう意味だ?」

「そのままの意味よ。私と共に、これから来るであろう乱世を乗り越えようとは思わないかしら?」

「乱世、ね……。」

 

 涼は華琳の蒼い双眸(そうぼう)を見詰めながら、小さく呟く。

 黄巾党の乱、十常侍誅殺と続いた世の乱れは、今の所落ち着いている。だが、一度乱れたもの、起こった流れが止まる事は無い。

 歴史を紐解けば、()が乱れれば殷が建ち、殷が乱れた時には周が興って天下を成し、その周が力を失えば戦国乱世の末に秦が建ち、秦が乱れれば後に雌雄を決した漢が治めてきた。

 その漢も一度新によって滅ばされ、漢の血を引く新たな漢、所謂後漢が成立し今に至る。

 そして、後漢も成立して約二百年が経とうとしている。前漢を合わせれば約四百年の長きに渡ってこの国は漢が支配しており、この国の歴史を見れば、そろそろ新しい統治者が現れてもおかしくはない。

 実際、今この国にはその可能性を秘めた者が乱立している。

 名門貴族の袁紹とその従姉妹の袁術。江東を拠点とする孫家。そして、徐州を治める劉備とその義兄、清宮涼と、兗州を治める曹操が有力候補と言って良い。

 とは言え、総合的な面では袁紹が頭一つ二つ抜けている。袁家の財力・権力はそれ程強大だと言う事だ。

 その袁家に勝つ、少なくとも互角になる為には、優秀な将を増やし、兵の練度を上げ、大衆の支持を得る事が必要だ。

 そして、その為に手っ取り早い方法が、今華琳が言った事である。

 

「俺を味方につければ、間接的とはいえ愛紗達を部下に出来る、って事か。」

「その通りよ。」

 

 涼が華琳の考えを読むと、彼女は穏やかに微笑みながら肯定した。

 

「貴方達の部下を手に入れる事が困難な事は以前から解っていたけど、今回改めて思い知ったわ。旗揚げ時から居る張飛だけでなく、貴方達が徐州に移ってからの部下である公祐でさえ、私の誘いを断ったわ。……自慢では無いけど、貴方の部下以外には殆ど断られていないのよ、私は。」

 

 自慢に聞こえるが、それはスルーしつつ涼は華琳の言葉に耳を傾け続ける。

 

「貴方の部下は皆、貴方と桃香を信頼してついてきている。そして、それは桃香も同じ。だったら、貴方をこちらに引き込めば良い。……清宮涼、私のものになりなさい。」

「……断ったら?」

「同盟の話は無しにさせてもらうわ。」

 

 涼の問いに対し、華琳は即座に、それ迄とは真逆の冷たい口調と表情で断言した。

 その表情からは、彼女の真意は全く読めない。そもそも、この世界の人間では無い涼が、こうした腹の探り合いに長けている訳では無いのだが。

 だからだろうか、涼は軽く息を吐いた後、軽い口調で言った。

 

「それは嘘だな。」

「……どうしてそう思うのかしら?」

「それは君が曹孟徳だからさ。曹孟徳はこんな事はしない。」

「……随分と私を買ってくれているのね。」

 

 そう言いながらも、華琳の表情は先程から変わらない。僅かに頬が紅を差している様に見えなくもないが、彼女は涼と違って酒を飲んでいたので、これが酒によるものか否かは判らない。

 

「これでも一緒に戦った仲だからな。華琳がどんな人間かはそれなりに理解しているつもりだ。」

「一緒に居たのはほんの数日じゃない。」

「けど、その数日の内容が濃かったから、それだけで華琳を知るには充分だったよ。」

「……なら、貴方は私をどう理解しているのかしら?」

 

 やはり変わらずに涼を見つめ続け、彼の答えを待つ。涼はそんな華琳を一度見詰めてから夜空を見上げ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「そうだな……先ず、大将だから当たり前だけど、策を重要視する。けど、その際も決して卑怯な手は使わない。それで勝っても多分華琳は喜ばない。ひょっとしたら、怒ったり悲しんだりするんじゃないかな。」

「……そう。」

「そして、人々の事をちゃんと考えている。だから、華琳が同盟の話を無しにするとは思えない。無しにすればそれは青州の人々を、ひいてはこの国の人々を見捨てる事だから。」

「……続けて。」

 

 華琳も涼の視線の先を見詰め、その蒼い双眸に星々を映す。

 

「あとは……そうだな、これは俺の勘だけど、華琳は結構虚勢を張っている気がするな。」

「……へえ? 貴方には私が弱い人間に見えるの。」

 

 妖しい笑みを浮かべ、華琳は涼を睨め上げながらそう言った。正史の曹操は背が低い事で有名だが、この世界の曹操である華琳もまた背が低い。華琳が少女というのもあるだろうが。

 

「何となく、ね。華琳は名門曹家の出だけど、色々あったみたいだから虚勢を張るしかなかったんじゃないかなあ、と。」

「……それ、貴方に話した覚えは無いのだけど。」

 

 華琳は怪訝な表情をしてそう言ったが、直ぐに表情を戻した。特に隠していない自分の出自など、調べれば簡単に解ると思ったからだ。現に、それを理由に彼女を馬鹿にするものが今だに居る。

 華琳の母の名は曹嵩(そうすう)、祖父の名は曹騰(そうとう)。それぞれ、太尉(たいい)大長秋(だいちょうしゅう)といった高位の役職に就いていた。

 それで何故華琳が馬鹿にされるかと言うと、それは祖父・曹騰が宦官だからである。

 宦官とは、去勢を施された官吏の事で、皇帝や後宮に仕える事が多い。その為、権力と結びつく事も多い。

 歴史を見れば、強盛を誇った秦が滅んだきっかけは宦官の趙高(ちょうこう)の増長であり、後漢でも十常侍の専横があったばかりである。宦官が良く思われないのは当然かも知れない。

 そして、華琳の祖父はその宦官の曹騰であり、夏侯氏である曹嵩を養子にしている。曹嵩は夏侯惇、夏侯淵の叔母でもある。その為、華琳と春蘭・秋蘭の姉妹は従姉妹という訳だ。

 宦官とはいえ、曹騰は大長秋という宦官の最高位に就いていた。大長秋は皇后府を取り仕切る事が出来、皇帝や皇后の信用が厚くなければ務まらない。それを曹騰はやりとげ、現在は隠居している。

 曹嵩もまた、司隷校尉(しれいこうい)大司農(だいしのう)大鴻臚(だいこうろ)などを経て、最終的に太尉に上り詰めている。太尉とは三公の一つで軍事担当の最高位であり、現代なら国防大臣の様なものと考えて良いだろう。主に文官から選ばれており、曹嵩の来歴を見る限り彼女は優秀で、この昇進は当然と言って良いだろう。

 そんな優秀な家族を持っていても、陰口を叩く人が居るというのだから、狭量の輩は何時の世も同じ様に居る様だ。

 尤も、華琳はそうした雑音を意に介していない様だが。

 

「まあ、そこら辺は色々とね。兎に角、そんな訳で俺は華琳を信頼している。……ってのじゃ、理由にならないかな?」

「…………。」

 

 涼は理由を言い切った。理由としては些か弱い気もするが、これは彼の偽らざる本心であり、彼に出来る精一杯の行動だった。

 幾ら周りから鍛えられているとはいえ、先日の孫家との交渉に続く交渉は色々とキツい。しかも相手はあの曹操である。三国志の登場人物の中でもトップクラスの実力を持つ相手に、只の高校生だった少年が太刀打ち出来るとは思えない。

 孫家の時は、以前からの友好関係や様々な思惑が合致した為に上手くいったのであり、その事を涼はよく解っていた。

 華琳とは雪蓮ほど親密では無いとはいえ、涼は前述の理由からこの交渉は上手くいくと思っている。その自信は今も変わらないが、真っ直ぐに自分を見据える華琳を見ていると、その自信が消え去りそうな錯覚に陥ってしまう様だ。

 長い沈黙と静寂が涼を包む。未だ宴は続いている筈だが、その喧騒は全く聞こえてこない。少し離れているとはいえ、ここは宴が開かれている場所の庭だ。聞こえない筈は無いのに、全く聞こえてこない。

 周りの音が聞こえない程、涼が緊張しているのだろうか。

 

「……良いわ。貴方達との同盟、結びましょう。」

 

 だからだろうか、華琳がそう言ってからも、涼は暫く言葉を返せなかった。



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第十五章 再会と決意・12

 宴はその夜遅く迄続いた。

 酔いつぶれる者も多数居たが、全員自力で寝室へと戻る事が出来た。程立こと風もその一人である。

 尤も、彼女は一滴も酒を飲んでいない。飲めない訳では無い様だが、飲んでいない。

 

「やれやれ、稟ちゃんはよく寝ているです。」

 

 隣ですやすやと寝息をたてている親友を横目に、風は寝間着に着替え、床につく。

 

「……明日は、とうとう風達の未来を決める日です。長かった様な、短かった様な……。」

 

 就寝中の親友に向けてか、只の独り言か判らないが、風はそう呟いてから目を閉じ、間もなく深い眠りについた。

 彼女は夢を見始めた。幼い頃より何度も見ている夢だった。

 

(ああ……。またこれですか……。)

 

 夢の中の風は苦笑した。もう何回も何回も、この夢を見ている。内容は、泰山に登り両手で太陽を掲げるという夢である。

 「西漢演義(せいかんえんぎ)」という楚漢戦争を題材とした物語に、赤い服を着た少年が太陽を掲げるという場面があるが、風が見ている夢はそれと内容が酷似している。

 それは日本の漫画「項羽と劉邦」にも採用されており、秦の始皇帝や項羽がその夢を見ている。

 尤も、「西漢演義」は(そう)(げん)の時代に作成されたと言われており、後漢時代を生きる風が知っている筈は無い。

 

(太陽を頂く夢……風はこれを天下を獲る人物を支える事と思っています。そしてその太陽は……。)

 

 曹孟徳。風の結論はそうだった。

 母に太尉の曹嵩、祖父に大長秋の曹騰という名門曹家の後継者であり、未だ未だ実力を発揮しているとは言い難いものの、少しずつ力をつけており、その名声は日に日に高まっている。

 そしてそれは、この数日で確信に近付いていった。容姿も立ち居振る舞いも、人を惹きつける魅力も、風が今迄出会った名のある人物の中で最上位と言って過言ではない。

 だから、風はこの夢の指し示す様に誰かを支え、つまりは曹操を支えていくのだと、思っていた。今、夢の中の風もこの夢を見ながら確信しようとしていた。

 そんな風の心を知ってか知らずか、夢は「いつも通り」に進んでいく。間もなく、夢の中の風が太陽を掲げる場面になる。

 だが、ここで夢の中の風はその動きを止めた。

 夢を見ている風は、その様子を見て首を傾げる。

 

(……? 何かあったのでしょうか。……変ですね、今迄はこんな事は無かったのですが。)

 

 怪訝に思いながら夢の中の風を見ている風。やがて、夢の中の風が驚きながら空を見上げた。

 

(えっ……?)

 

 夢を見ている風もまた驚き、視線を動かす。

 夢の中の風と夢を見ている風。その二人が見ているものは同じ、空に浮かぶ太陽。ただ、今迄と違うのは、その太陽が「二つ」有るという事だ。

 

(ど、どういう事でしょう? 太陽が二つ現れたという事は、何か意味があると思うのですが……。)

 

 二人の風が考えている間、二つの太陽はゆっくりと夢の中の風の前に降りてきた。そこで風は、初めて太陽を直視する事が出来た。太陽を直視する等、普通なら危険だが、夢だから問題ない。

 

(おや……この太陽、大きさや明るさが微妙に違いますね。)

 

 二つの太陽は、風が心の中で言った様に少し違っていた。

 向かって右の太陽は小さいが、時々明るさが左の太陽より輝いている。

 一方、その左の太陽は大きさも輝きも右の太陽よりも勝っている。

 

(……どうやら、私がいつも見ていた太陽は左の太陽の様ですね。)

 

 軍師志望なだけあって、記憶力は自信がある風である。

 二つの太陽の微妙な違いに気付き、改めて二つの太陽を交互に見る二人の風。

 そうして暫くの間考えた末、夢を見ている風は一つの結論に達した。

 

(……恐らく、二つの太陽の内一つは孟徳殿を表しているのでしょう。では、このもう一つの太陽は……。)

 

 誰なのか? とは考える迄もなかった。風がここ陳留に来てこの夢を見るのは今回が初めてで、前にこの夢を見た時から今日迄で変わった事といえば、曹操こと華琳と再会した事。そして、

 

(お兄さん、ですか……。)

 

 「お兄さん」こと、清宮涼と再会した事である。

 

(という事は、お兄さんは孟徳殿と同じ様に天下を穫れる、という事なのでしょうか。……そうは思えませんが。)

 

 中々厳しい風である。

 とは言え、彼女も涼の実力は認めている。つい先日その戦いぶりを見たばかりだし、部下である張飛こと鈴々や孫乾こと霧雨に慕われているのもよく見た。そうした事を考えれば、確かに有力候補ではあるだろう。涼自身がどう思っているかは別にして。

 

(他に候補者は居ませんし……。敢えて挙げるなら、お兄さんと一緒に居る玄徳さんや、仲が良いと噂されている伯符さんくらいですか。)

 

 そう思い、風は暫く思案に耽る。

 だが、その思案は比較的短く済んだ。風は既にその二人について得た情報を精査し、結論を出していた。だからこそ、徐州や揚州ではなく、ここ兗州に来ているのだ。

 二人への評価は悪くなく、寧ろ良い方だ。だが、それでも彼女にとっては曹操こと華琳以下なのである。

 では、涼は華琳以上か以下か同等か。結論を言えば、以上ではないし同等とも言えない。以下というのが妥当だろう。

 世間の評判は、「天の御遣い」という呼び名もあって涼の方が現時点では上だが、風の評価はそうした事は余り考慮せず、あくまで実力と将来性に比重を傾けての評価だ。その為に世間との齟齬が生じるが、風にとっては何の意味も無い。

 だからこそ、風は今のこの状況がどういった意味を持つのか考えている。たかが夢じゃないか、と一笑に付す事も出来るが、こうした事例が今迄無い以上、夢だからといって楽観は出来ない。

 既に風の決意は九分九厘固まっていた。そこにこの夢である。何かの予兆や忠告と捉えてもおかしくない。

 

(この夢は、お兄さんと一緒に行くべきという事なのでしょうか? それとも、只の夢なのでしょうか?)

 

 そう思いながらも、只の夢という考えは捨てた。

 今迄ずーっと同じ内容だったのに、今回だけ違うのだ。なら、それが意味する事は一つしかない。

 

(お兄さんと一緒、ですか……。それはそれで面白いでしょうが、ならば何故、以前は夢に変化が起きなかったのでしょう?)

 

 風は疑問に思い、その理由を考えてみた。幾つか考えられたが、結論としては以前と比べ、涼が成長したから、と考えられる。だとすれば、これは凄い事だ。以前は全くの対象外だった涼が、僅かな期間で対象内になる程成長したのだ。ならば、風が重視する実力と将来性は未だ伸びしろがあるかも知れない。

 

(風が、そのお手伝いをしろ、という天啓なのでしょうか。)

 

 疑問形で思いつつ、その心境には最早疑問符は無い。周の文王(ぶんおう)の様におまじないや占いを重視する(たち)ではないが、この太陽の夢を何度も見てきた彼女にとって、この変化は見過ごす事が出来ない。

 夢の中の風が動いた。いつもの様に太陽を掲げる。いつもと違うのは、その太陽がいつもの「大きく輝く太陽」ではなく、「小さいが時々物凄く輝く太陽」だった事。

 そこで風は目を覚ました。

 

「……これが、風の運命なのでしょうね。」

 

 そう言った彼女の表情は、常と変わらない眠そうな表情だった。

 

 

 

 

 

 この日は、涼達が帰るという事で朝からバタバタしていた。

 徐州迄の食料等を補充し、華琳達と挨拶を交わし、一番肝心である同盟締結の書類を確認する。これを忘れてはこの旅の意味が無い。

 結局、一連の準備が終わり、出発するのは昼食をとってからという事になり、その昼食も華琳が提供し、華琳の屋敷で皆と一緒に食事をとった。

 食後、暫しの休息の後、涼達は徐州への帰路についた。華琳を始めとした大勢の者達が見送りに来た。

 別れと感謝の挨拶を交わし、涼達はそれぞれの馬に騎乗しようとする。

 

「ん?」

 

 涼の視界に、小さな少女の姿が見える。程立こと風だ。

 何かな? と思いつつ視線を向けると、その小さな体躯に似合わない程の大きさの荷物を背負っており、明らかに旅支度という感じだ。

 風も旅に出るのかな? けど、風は華琳についていく筈だし、等と考えていると、風はペコリと頭を下げながら次の言葉を言った。

 

「お兄さん、これからヨロシクなのです。」

 

 風はそう言うと、近くに居た徐州兵に自分の荷物を渡した。徐州兵は何の疑問も持たずその荷物を涼達専用の馬車に積み込んだ。

 そこで漸く、涼は言葉を発した。

 

「えっと……どういう事?」

「どういう事も何も、これから風はお兄さんと一緒に徐州軍の一員になるのですよ。別に文句は無いでしょう?」

 

 文句なんか有る訳が無い。程立が正史において、または演義においてどれだけの活躍をしてきたか、三国志に詳しい涼はよく知っている。今は未だそれだけの実績は無いものの、その程立が徐州に来る。断る方がどうかしているだろう。

 だが、涼は三国志を知っているだけに悩み、確認する様に訊ねた。

 

「……良いのか?」

「風が良いと言っているのですから、良いのです。」

 

 風はそう言うと、真っ直ぐに涼を見た。涼もまた風を見詰め、やがて頷いた。

 その後、風は華琳達に向き直り、簡潔に感謝の弁を述べた。またその際、華琳には誘いを断る事になって申し訳ないという言葉を付け加えた。

 

「確かに残念だけど、貴女が決めた事に口出しする程狭量では無いつもりよ。貴女の活躍を祈っているわ。」

「ありがとうございます。」

 

 深々と頭を下げると、次いで稟に向き直り、こちらにも謝罪を述べた。

 

「孟徳殿も仰っていたけど、貴女が決めた事に私が文句を言う事は出来ないわよ。」

「……もし、風が稟ちゃんを誘っていたらどうしましたか?また、今誘ったら?」

「……どうかしら。一緒に行く事にしたかも知れないし、そうでないかも知れない。けど、今ではもう遅い事は確かね。」

「……そうですか。」

 

 風が決断した様に、稟も決断していた。その事に風は嬉しさと寂しさを感じつつ、表情には出さない。代わりに、常の眠そうな笑顔を見せて言葉を紡いだ。

 

「それじゃあ、稟ちゃん。またね、なのです。」

「ええ。またね、風。」

 

 別れの会話を交わし、風はゆっくりと涼の許へと歩き出した。

 長い間、一緒に居た親友との別れが悲しくない訳ではない。寧ろ、離れたくないと思っていた。その為に稟も誘おうと何度も思った。

 だが、彼女が誰に仕えたいか解っていた風はそれを言い出す事をしなかった。自分の我が儘に付き合わせる事はしたくなかったのだ。

 これから先、世の中は乱れるだろう。その際、二人が敵同士になる危険性は高い。それでも、互いの夢の為にそれぞれ決断した。

 悲しい別れになるかも知れない。そうなった時、自分はどうするのだろう? 相手は?

 そうした悲壮感を心の内に仕舞い、風は涼に言った。

 

「さあ、お兄さん。徐州へ帰りましょう。」

 

 この日、風は名前を程立から程昱(ていいく)へと改めた。

 その文字通り、「日輪を支える」者になる為に。




皆さんこんにちは。若しくはこんばんは。それともおはようでしょうか?

漸く第十五章が終わりました。
色々と書きながら変更した部分もあり、最後のあの部分は特に悩んだのですが、結局こうなりました。

今回のパロディネタ。
「そんな事をしても、その汚れは落ちないわよ。」→「その汚れは洗ったって落ちない。」
「必殺仕事人2009」にて、経師屋の涼次がからくり屋の源太に言った台詞より。
現代人の涼と乱世を生きる華琳との対比になる台詞です。未だ慣れてなかったのか!?という声が聞こえてきそうですが。

次は青州決戦です。
大体の流れは決めてますが、幾つか迷っていたりします。
いつも通り、気長にお待ち頂けると嬉しいです。ではまた。

2014年2月5日更新。

一部の文章の修正と追加をしました。
2017年6月21日掲載(ハーメルン)


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第十六章 青州解放戦・前編・1

青州で黄巾党の残党と戦い続ける桃香たち徐州軍。
その戦いも、間もなく終わろうとしている。

このまま何も起こらず終わるのか、それとも……。


2014年2月5日更新開始。
2016年3月9日最終更新。

2017年6月22日掲載(ハーメルン)


 青州(せいしゅう)での戦いは、既に最終段階に入っていた。

 今、徐州(じょしゅう)・青州連合軍は敵に占拠された臨淄(りんし)の東方約五里に布陣している。徐州・青州連合軍の総数は三十万を超えている。

 一方、青州黄巾党(せいしゅう・こうきんとう)は号数百万という。勿論、その数をそのまま信じる事は出来ない。とは言え、数十万の戦闘兵が居ると考えて間違いはないだろう。

 

「皆さん、いよいよ決戦です。」

 

 そう言ったのはこの連合軍の軍師を務める諸葛亮(しょかつ・りょう)こと朱里(しゅり)。小さな体躯ではあるが、その知識は演義において完璧超人とされた諸葛亮そのものである。

 

「青州黄巾党は既にその手足をもがれたも同然、私達の勝利は確実でしょう。ですが、追い詰められた鼠は猫を噛みますから、油断は出来ませんが。」

 

 朱里はそう言って眼前に居並ぶ将兵達に注意を促す。そして、ここ青州の地図を台の上に広げ、改めて状況を整理し、作戦を語る。

 

「この十日間で、寿光(じゅこう)朱虚(しゅきょ)臨胊(りんく)般陽(はんよう)楽安(らくあん)を抑える事が出来ました。この為、青州黄巾党は北、東、南への道を断たれました。となれば、彼等は西にしか逃げ道はありません。」

 

 既に地図には解放した街の名を丸で囲んでいる。また、朱里が今挙げた以外の幾つかの街にも丸が書かれていた。

 それを見る限り、既に青州の三分の二は解放していると言って良いだろう。

 だが、それでも未だ臨淄には青州黄巾党の主力が多数残っていると考えられる。このまま戦って勝てるのだろうか。

 

「勝てます。」

 

 不安げな表情をしている将を見ながら、朱里は自信に満ちた表情でそう言った。

 

「それは、今回の作戦で西側を空けている事が大きく関係しています。」

 

 地図の丸部分を指差しながら、朱里は説明をしていく。

 

孫氏(そんし)の兵法にこうあります。“先ず勝つべからざるをなして、以って敵の勝つべきを待つ”、“勝敗は先ず勝ちて(しか)る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む”、と。その兵法に則って、私達は先の戦いで敵の補給路を断ち、今は決戦に臨むべく態勢を整えています。」

「けど朱里ちゃん、孫子の兵法に則っているなら、“十を以って一を攻むるなり”とは違う戦い方じゃない?」

「確かに、先の戦いは戦力を分散させての戦いだったな。」

 

 疑問を投げかける劉備(りゅうび)こと桃香(とうか)田豫(でんよ)こと時雨(しぐれ)。その言葉に、他の将達も頷いて反応する。

 ここで少し、「孫氏の兵法」について説明しよう。孫氏の兵法とは、その名の通り「孫」という名の者が記したとされる兵法書の事である。

 一般的には紀元前五百年頃、時代区分で言えば春秋戦国(しゅんじゅう・せんごく)時代の(せい)の兵法家、孫武(そんぶ)が記したとされるが、その子孫と言われる孫臏(そんぴん)も兵法書を記したという説もあり、現代では一時期混同されたり、どっちかが偽物だ等と論争になったりもした。

 尚、1972年に山東省(さんとん・しょう)で孫臏が書いた竹簡孫子(ちくかん・そんし)が発掘された事により、一般的な孫氏の兵法は孫武が書いた物であるという結論に至っている。

 先に朱里と桃香が述べたのはその孫子の兵法の一節である。余談ではあるが、孫子の兵法は後漢(ごかん)の時代はもとより、現代においても世界中で有効な戦法として認識されている。

 順に説明しよう。

 始めに、「先ず勝つべからざるをなして、以って敵の勝つべきを待つ」とは、万全の守りを整えてから、機を見て攻勢にでるべし、という事。

 続いて、「勝敗は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」とは、万全の態勢で戦いに臨む者は勝ち、戦いの途中で勝機を伺う者は負ける、という事。負けない準備をしてから戦い、策を弄する。きちんと準備をして戦えば、たったそれだけで勝てるのだ。

 朱里はこの二つを合わせて少し変化させ、敵の補給路を断つ事で守りを固め、準備を整えたとしている。

 最後に、「十を以って一を攻むるなり」とは、敵が分散したらそれを全力で倒すという事。そうして一つずつ倒していけば敵の戦力は確実に減り、勝利はより確実になるという事である。

 それらを纏めると、徐州・青州連合軍は敵である青州黄巾党を倒す為、きちんと準備をしてきたのだが、その過程で自軍の戦力を分散させるという兵法とは矛盾した行動に疑問がある、という感じだ。

 朱里はそうした疑問に対し、ゆっくりと説明を始める。

 

「何故戦力を分散させたか、についてですが、これは私達の戦力が増加した事と、時間をかけられない事情が関係しています。」

 

 それに反応したのは糜芳(びほう)こと椿(つばき)

 

「それってどういう事なの、朱里?」

「先ず、時間をかけられないのは私達が遠征軍だと言う事です。孫氏の兵法で言えば、“兵は拙速を聞く”“知将は務めて敵に食む”が該当します。」

 

 椿はそれを理解するのに若干時間がかかったが、彼女と比べて兵法に明るい姉の糜竺(びじく)こと山茶花(さざんか)は瞬時に理解し、朱里が言わんとしている事を代わりに述べた。

 

「……自軍の損耗を最小限に抑え、兵糧の消費を抑える、という事ですか。長引けば長引く程に士気は落ち、私達は不利になりますから。」

「その通りです、山茶花さん。」

 

 微笑みながら羽毛扇を山茶花に向ける朱里。自分の考えが理解されるのは嬉しいものの様だ。

 

「古来より長期戦で勝った例は少なく、例え勝ったとしても利益が少なくなります。戦とは兎に角お金がかかりますし、何より人的損害が増えるのは望ましくありません。」

「人が居なければ、何も出来んからな。」

 

 関羽(かんう)こと愛紗(あいしゃ)がそう言うと、傍に居る桃香がうんうんと頷く。その度に大きな双丘が揺れる。

 

「ですから、私達は素早く戦いを終える必要があります。ですが、それが容易では無い事は事前に解っていました。さて、椿さん。何故容易では無いか解りますか?」

「えっ? ……えーーっと、敵が多いから?」

「当てずっぽの様ですが、正解です。」

 

 椿と朱里は苦笑した。だが直ぐに表情を戻し、説明へと戻る。

 

「先程も言いましたが、敵は号数百万。どんなに少なく見積もっても五十万近い数の戦闘兵が居ると考えられます。これでは、幾ら私達の兵士が強くても勝つのは難しく、また、勝っても被害が大きいでしょう。」

「兵が少ない状態で戦い、勝つのは難しいからな。」

「はい。ですから、私達はこの決戦の為に先ず、敵の数を減らす事を始めました。」

「それが、色んな街の解放だったんだよ、ね?」

「正解なんだから自身なさ気に言わないの。」

 

 糜姉妹のやり取りに和む一同。勿論それも一時の事で、直ぐに説明に戻る。

 

「青州黄巾党は前述の街を防衛線と補給基地にしていました。これは孔融さんの部下の皆さんの情報ですが、この情報のお陰で戦略を考える事が出来ました。」

「それが、敵の手足をもぐ作戦……戦力を減らし、補給を断つ為の同時攻撃だったな。」

 

 愛紗がそう言うと、皆がその時の戦闘を思い出したのか、一瞬だが場が静かになった。

 朱里は、前述の情報を知った後、どの街にどのくらいの数の敵が居て、貯め込んでいる物資や食料がどれくらいかを、細作を放って調べた。賊でしかない黄巾党の情報を調べるのは容易だったらしく、直ぐに結果が出た。

 その結果を元に部隊を再編し、複数の街を同時に攻撃。黄巾党を追い出して街を解放し、苦しんでいた民衆を救った。

 この攻撃の際、朱里は各部隊数をそれぞれが担当した街に居る黄巾党の数を上回る様に配置した。その為、数的優位のまま戦闘は行われ、被害を最小限、成果を最大限にする事が出来た。そうして前述の街を解放し、臨淄に来る事が出来た。

 この戦い方は、孫氏の兵法にある、「十なれば、(すなわ)ちこれを囲み、五なれば、則ちこれを攻め、倍すれば、則ちこれを分かち、敵すれば、則ちよくこれと戦い、少なければ、則ちこれを逃れ若からざれば、則ちこれを避く」の応用である。尤もこれは、要約すれば自軍が多ければ戦い、少ないなら止めとけ、といった意味だが。

 朱里は青州軍が加わった事で出来た数的有利を活かす為、敵の少ない街から順に攻撃し、敵の数を減らしていった。それでも未だ数十万の敵が居ると考えられるのだから、苦しい戦いなのは間違い無い。

 勿論、朱里はそれに対しても手を打っていた。

 黄巾党の敗残兵に偽装した細作を臨淄に潜り込ませ、敵の噂、つまりは徐州・青州連合軍の噂を誇張して流している。

 別の細作が確認した所、この策も効果があった様で、臨淄から逃げ出した黄巾党の兵も多いらしい。「これ兵の要にして、三軍の恃もて動く所なり」とある様に、情報戦は戦争に不可欠なものであり、賊でしかない黄巾党には効果覿面だった。

 こうして敵の手足をもいでいく作戦により、数的不利を幾分か解消した。それでも未だ数は多く、可能ならもう少し減らしたいところだ。

 だが、それが出来ない。何故なら、敵が臨淄に居るからである。

 

「補給を断った今、兵糧攻めを行えば時間はかかりますが安全に勝てます。ですが、それでは臨淄の人々を助ける事が出来ません。」

 

 朱里は羽毛扇を口許にやり、地図の一点、臨淄が書かれた部分をジッと見る。

 敵の補給を断ったという事は、物資が臨淄に流れないという事である。そうなると、臨淄の人々も苦しんでしまう。細作によれば、犠牲になっている人も多いが、無事な者も数多く居り、今なら大勢の人が助かるという。

 桃香達の目的は青州を黄巾党から救う事であり、臨淄の人々を助ける事も勿論含まれている。その為、多少危険性は残るが、朱里はここ臨淄への進軍を進言し、桃香はその言を採用しここ迄来た。

 孫氏の兵法の「利にあらざれは動かず、得にあらざれば用いず、危にあらざれば戦わず」で言えば間違った判断だが、桃香や朱里は現状を「危にあらざれば戦わず」、つまり「余程の事でなければ戦わない」の「余程の事」と判断した様だ。

 青州軍との合流で増えた兵力、一人でも多く助けたいという現状が、先の桃香の疑問に対する答えとなっている。もっとスマートにやれたかも知れないが、今の彼女達にはこれが最上の手なのだ。

 続いて、朱里は臨淄解放作戦の説明に移った。

 

「今の青州黄巾党が臨淄を出て戦うとは思えません。依然として数的有利はあちらにありますが、連戦連敗の報せを受けている黄巾党の士気は確実に落ちています。この機を逃す事はありません。」

「とは言え、臨淄城を落とすのは大変だと思うぞ。城攻めは三倍の兵力が居ると言うからな。」

 

 そう言ったのは時雨。今回の遠征では愛紗と共に徐州軍の切り込み隊長を担っており、戦場については一日の長がある。

 

「時雨さんの仰る通りでしょう。このままでは苦戦は必至、下手をすれば全滅もあります。」

 

 そう言いつつ、朱里の表情には悲壮感が無い。それに気付いた山茶花が何故そんなに落ち着いているのかと訊ねる。

 それに対し、簡単な事です、と前置きしてから朱里は説明を始めた。

 

「相手は確かにこちらより多いです。ですが、所詮は賊の集まりでしかなく、張三姉妹による士気の高揚も無い。首魁と思われる管亥(かんがい)も、手強いとは言え賊には変わりありません。今、ここには黄巾党の乱から戦ってきた将兵が沢山居ます。そんな皆さんが負ける筈はありません。」

 

 朱里はそう言って一同を見渡す。先程迄は不安そうな者も居たが、今は一人も居ない。

 皆、朱里の言葉によって自信をつけ、取り戻していた。

 賊なんかに負ける訳が無い、この間は油断しただけだ、あいつの敵は討ってやる、等の声がそこかしこから上がり、否応がなしに士気が高まっていく。

 朱里はそれを見て、羽毛扇の下で小さく微笑む。

 そして、表情を引き締めて改めて一同を見渡し、力強く宣言する。

 

「今の青州黄巾党は士気が落ち、追い詰められています。だからこそ、この機に乗じて敵を……殲滅します。」

 

 殲滅、という彼女の外見からは似つかわしくない単語が出た事に桃香は少なからず驚くが、直ぐにそれだけの覚悟だと解った。

 だが、同時に桃香はこう思う。

 

(話し合いで解決する事は出来ないのかな……。)

 

と。

 それが只の偽善だという事は、彼女自身も解っている。既にこの作戦で数えきれない程沢山の黄巾党を殺してきた。今更そんな事を言っても意味が無い。

 それでも、桃香は自分の近くに話し合いで味方になってくれた元黄巾党の子が居るだけに、諦めきれていなかった。

 

『黄巾党の中で一番残虐で、一番強く、一番倒さなくてはいけない相手です。』

 

 それと同時に、以前、飛揚が言った言葉も桃香の胸中に重く、楔の様に留まっていた。



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第十六章 青州解放戦・前編・2

 ここで時間は少し遡る。

 桃香達が最初の大休止をとり、涼達が兗州に入った頃、遠く冀州(きしゅう)の州都・(ぎょう)で一人の少女が持ち込まれたばかりの情報を聞いていた。

 

「徐州軍が青州に? 一体どういう事ですの、孔璋(こうしょう)さん?」

 

 長い金髪縦ロールの髪型をしていてスタイル抜群の彼女は、目の前で拝礼している短い赤毛の少女に訊ねる。

 

「恐らくですが、青州で跋扈している黄巾党を討伐しに入ったのかと思います。」

「あら、まだ黄巾党が居ましたの?」

「はい。ですが、残っているのはこの青州だけと考えられます。先の戦いでその殆どが討たれた黄巾党は散り散りになりましたが、幽州では公孫賛が、兗州では曹操が、徐州では陶謙(とうけん)、そしてその後を継いだ劉備と清宮が残党を討ち、この冀州では本初様が見事討ち果たしておられます。」

「まあ、私にかかれば賊なんてあっという間ですわ。」

 

 そう言うと、手を口許に当てて「おーほっほっほっ!」と高笑いをする本初。つまりは袁紹である。

 彼女はここ冀州の州牧であり、報告者の孔璋はその家臣だ。

 

「確かに、本初様は黄巾党を簡単に征伐なされました。ですが、青州の州牧代理である孔融は本初様の様にはいきません。事実、孔融は臨淄に居ない様です。」

「臨淄に居ない? 敗走しましたの?」

「はい。正確には、忠実な部下に無理矢理逃された、という事らしいですが。」

 

 そこで孔璋は青州で今起きている事について説明をした。余所の州の事であり、袁紹には直接関係が無い事ではあるが、彼女は説明の最後にこう付け加えた。

 

「本初様、私達も直ぐに兵を集め、青州へ向かうべきです。」

 

 それに対し、当の袁紹は目の前の少女が何を言っているのか理解出来ないらしく、(しば)しキョトンとしていた。

 

「何故私達が兵を出さねばならないの?」

「先程述べました様に、徐州軍は青州へ派兵しました。これは青州黄巾党を討伐する為ですが、それだけとは思えません。」

「他に理由があると?」

「はい。恐らく、徐州軍はこの遠征で青州に恩を売り、同時に捕らえた黄巾党を自軍に組み込むかと。」

「お待ちなさい。青州に恩を売るのは解りますが、黄巾党を自軍に組み込むのは理解出来ませんわ。」

「確かに、獣の様な黄巾等を自軍に組み込む等、一見すれば狂気の沙汰。ですが、徐州軍はそれが可能なのです。」

「どうしてですの?」

「徐州軍には帝の縁戚である劉玄徳、そして天の御遣いの清宮涼が居るからです。」

 

 その瞬間、袁紹は露骨に嫌な顔をした。

 先の十常侍誅殺時、袁紹の思惑とは違う結果になって以来、彼女は清宮涼に余り良い印象を持っていない。

 それなのに、部下の顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)はその清宮に真名(まな)を預けている。二人が真名を預けた時期は十常侍誅殺の前なので問題は無いのだが、袁紹にとっては気持ちの良いものではない。だが、真名については流石の袁紹と言えども口出しは出来ないので、もどかしく、また苦々しく思っていた。

 そんな袁紹の性格を知り抜いている孔璋は、それらを踏まえて更に言葉を紡いでいく。

 

「本初様のお気持ちは解りますが、いま(しばら)くお聞きください。」

「わ、解りましたわ。ですが、手短に願いますわ。」

「善処します。……先程述べました様に、徐州軍には劉玄徳と清宮涼が居ます。この二人は民衆の支持も厚く、それを示す様に徐州の人口は陶謙時代より増えている様です。」

「陶謙殿よりも人望があると言う事? 忌々しいですわね……。」

 

 袁紹は途端に「キーッ!」と悔しがり、端正な表情を歪める。どうやら彼女は陶謙を尊敬している様だ。

 

「恐らくはそうなのでしょう。そして、それが黄巾党を組み込む要因なのです。」

「人望で黄巾党を従わせようとする、というのかしら? 幾ら何でも無理でしょう。」

「確かに、黄巾党は獣の様な集団であり、先の反乱では漢王朝に弓を引きました。そんな奴等が漢王朝と深い結び付きがある劉玄徳が居る徐州軍に従うとは思えません。」

「でしょう? それなら、何故貴女は徐州軍が黄巾党を組み込めると言ったのかしら?」

「それは、先の反乱時とは大きく状況が変わったからです。」

 

 そう言うと、孔璋はあの時と違って勢いが無い事、黄巾等に賛同する者が少なくなった事、そして何より、張三姉妹が居ない事を理由に挙げ、話を続けた。

 

「今の黄巾党は一部の人間が暴走しているに過ぎません。そしてその暴走もやがて終わりを迎えます。その時に、暴走していない黄巾党はどうするか。黄巾党が何故出来たかを考えれば、それは直ぐに解ります。」

「……まさか、身の安全、衣食住の保証を、徐州に求めると言うのですの?」

「十中八九。彼等は飢えたから漢王朝に反旗を翻したのです。飢えないで済むのなら、喜んで武器を捨てるでしょう。」

「仮にそうだとしても、それを徐州が受け入れるとは思えないですわね。奴等は既に大きな罪を重ね過ぎているのですから。」

 

 袁紹の疑問は尤もである。黄巾等によって数えきれない程多くの人間が傷つき、殺されている。

 もし、そんな彼等を許してしまえば、被害にあった人々は黙っていないだろう。

 と、袁紹が考えていると、別の少女の声が聞こえてきた。

 

「その為の戦いなのですよ、麗羽(れいは)様。」

「あら、元皓(げんこう)さん。今日は遅いですわね。今迄何をしていたのかしら?」

 

 玉座の間の出入口からやってきた青髪の少女、元皓に袁紹がそう言うと、元皓はガクッと肩を落としながら口を開いた。

 

「何をしていたかって……昨日、麗羽様が私に申し付けた“曹操への対抗策”を考える為に今迄部屋に居たんです。今日は遅れると、昨日そう申し上げた筈ですよ。」

「ああ、そうでしたわね。それで、華琳さんへの対抗策は出来ましたの?まあ、別に華琳さん相手に対抗策なんて要らないんですけど、念の為ですのよ、ね・ん・の・た・め!」

 

 袁紹はそう言って元皓に「対抗策」について促す。が、元皓は対抗策より大事なものがあると言い、それについて話す許可を袁紹に求めた。

 袁紹は何があるのかと興味を持ち、許可した。

 

「徐州が黄巾党を受け入れるという、孔璋さんの説についてですが、私もそれに同意です。」

「貴女もですの? 博学多才の貴女迄そう言うなんて……一体どんな根拠があると言うのですの?」

「それはですね。これから先、徐州軍はどうしても戦力を増強する必要があるからです。」

「どういう事ですの?」

 

 疑問に思う袁紹に、元皓は手にしていた地図を広げ、袁紹に見せながら説明を始めた。

 

「徐州はこの漢において東端に位置しています。北に青州、西に兗州と豫州(よしゅう)、南に揚州(ようしゅう)が在り、東は渤海(ぼっかい)が在ります。これが、徐州軍が戦力増強する理由です。」

「どういう事ですの?」

 

 先程と同じ言葉を返す袁紹。だが、元皓はそれに対して何の反応も見せず、淡々と説明を続けていく。

 

「見ての通り、徐州は周りを囲まれています。もし、これらの州と対立した場合、徐州軍は四面楚歌の状態になってしまいます。」

「確かに。ですが元皓さん、私の記憶では豫州・揚州の孫家、兗州の曹家とは仲が良い様に見えましたけど? 青州とはどうか判りませんが。」

「青州との関係は、孫家・曹家と比べれば繋がりは薄い様ですが、良好と言って良いと思われます。劉玄徳が勅書によって徐州の州牧に選ばれた際、時の州牧である陶謙殿は後継問題があったので喜んでその地位を渡されましたが、家臣は納得していなかったと言います。」

「まあ、当然ですわね。」

 

 (むしろ)売りの小娘ですもの、と袁紹は続けた。

 一応、劉玄徳こと桃香は漢王朝の血筋ではあるが、何せ先祖が直系ではない上に没落しているので、自称ととられても仕方がない。

 尤も、この時代では自称○○の子孫というのが多い。孫堅こと海蓮は孫氏こと孫武の子孫だと言っているし、曹操こと華琳も前漢の名将、夏侯嬰(かこう・えい)曹参(そうしん)の子孫と言われている。こちらは孫家より説得力があるが、それを言うなら桃香も似た様なものである。

 

「その際に陶謙殿から要請を受け、家臣の説得にあたったのが孔融殿だと言われています。」

「あの孔子の子孫に説得されては、納得せざるを得なかった、という事かしら?」

「その通りです。」

 

 その説明を聞いた袁紹は難なく徐州牧になった清宮達の幸運を妬みつつ、孔融が出たのなら仕方無いと思った。

 孔融は袁紹の言葉にあった様に孔子の子孫である。孔子とは孫氏の様に敬称であり、姓名、字はそれぞれ孔丘(こうきゅう)仲尼(ちゅうじ)という。

 春秋戦国時代の()に生まれ、儒教家となり、その語録は「論語」として現代に迄伝わっている。

 孔融はその二十世孫にあたり、孔子の子孫という名に相応しい実力・実績を残している。袁紹程の名家でも、流石に孔子の子孫を無下には出来ない。そんな事をすれば支持や声望を失ってしまうだろう。

 現代で、長い間曹操の再評価が行われなかった理由がここにあるかも知れない。

 曹操は自身に対する誹謗中傷発言の罪で孔融とその家族を殺している。中国では孔子は「聖人」として知られており、その子孫に対しても尊敬の念で接している。孔子の子孫である孔融を殺した事が、曹操が非難される要因の一つであり、恐らく演義などでの「悪役曹操」が作られた原因であろう。

 尤も、この世界の曹操である華琳、そして袁紹である麗羽も、彼女達なりに孔融に敬意を表しており、現時点では現代で起きた事は起きそうにない。

 その孔融と前徐州牧の陶謙に親交がある事が、今回の徐州軍の遠征に繋がっているのだろう。そうすると、恐らく現徐州牧の劉玄徳と、その補佐である清宮涼も孔融と親交を持つだろう。それくらい、冀州牧の袁紹には、いや、袁紹でなくても考えつく筈だ。

 劉備の徐州牧就任の件に納得した袁紹は、それで、と話の続きを促す。

 

「確かに、黄巾党をただ許すだけでは民衆の反発は必然でしょう。ですが、その為の大義名分があれば不可能ではありません。」

「大義名分? 例えばどんなですの?」

「彼等の罪を許す代わりに、何らかの罰、例えば兵役や労働の任に就かせる、とかですね。」

「なっ!? 咎人を兵士にするというのですの!?」

 

 元皓が発した例え話に、袁紹は驚きを隠せなかった。

 労働に駆り出すという考えは分からなくもない。現代の様にブルドーザーやクレーン車などの土木機械や工事用機械が無いこの世界では、工事は基本的に人力である。もちろん、少なからず道具は有るが、どれも現代のものと比べれば、いや、そもそも比べる事すら必要ないくらい劣っている。そんな中で必要なのは人力、つまりは人であり、その数が多ければ多い程工事は早く進む。

 中国を代表する建築物である万里の長城は、三国志の時代よりも四百年程昔、秦の始皇帝の時代に造られた(厳密には少し違うが)ものだが、その建設には何十万人もの人々が動員されたという説もある。そしてそれは、この時代でも基本的には変わらない。

 だが、こうした大掛かりな工事は危険がつきまとう。病院が無く、医療技術も発達していないこの時代、ひとたび事故が起きれば甚大な被害が出た。その為、人々はこうした工事を嫌がり、時の権力者は半ば強制的に動員した。先の始皇帝も、来なければ死罪という重罰を科している。

 なら、既に罪を犯している者に工事をさせたらどうか、という考えは当然の事であった。工事に尽力すれば減刑、もしくは無罪放免という餌をちらつかせ、工事に駆り出すのである。工事が終わった後、約束を守るかどうかはその権力者次第である。

 だが、兵士にするというのはいささか賭けとなる。

 先に述べた例と比べれば、兵士はある意味権力者である。もちろん、実際に政治をしたりは出来ないが、武器を持つ事が出来て、時には力で問題を解決する事が出来るという点では権力者だろう。

 元皓の例えがもし事実だとしたら、劉備たちはその危険を冒そうとしている事になる。ハッキリ言って無謀である。咎人が力を持った場合の危険性を、劉備は理解していないのだろうか。いや、それはない。袁紹自身ですら理解している事を、小賢しくも帝に取り立てられている劉備が分かっていない筈は無い。

では、そこまでして戦力を得る理由とは、一体何なのか。

 

「……もしや、この私と一戦交えるつもりなのかしら?」

「その可能性も、無きにしも非ずですが、この場合は、あくまで防衛の為と考えるべきでしょう。」

 

 元皓は恭しく礼をしながら、自分の考えを述べた。

 元皓の考えによれば、徐州を治める劉備はいくら漢室に名を連ねる者とはいえ、実力が無ければこれから先が無い。

 本初様ほどとはいかなくても、ある程度は名声と実力が必要と考えているであろう劉備は、その為にあらゆる手を打ってくる筈です、と、途中でお世辞を挟みながら、最後まで言葉を紡ぐ。

 

「あの小娘が、何かが起きた場合の覚悟をしていると?」

「恐らくは。それに、劉備の周りには先の黄巾の乱や十常侍誅殺で活躍した名将が数多く居ます。そして、何といっても“天の御遣い”清宮涼。この者の存在は大きいかと。」

「……確かに、そうですわね。」

 

 袁紹は部下の前という事も気にせず渋面を作った。それほど涼が嫌いらしい。ある種のトラウマになっているのかも知れない。

 

「それらを踏まえた上で言上奉ります。過去の遺恨は水に流し、急ぎ青州へ軍馬を遣わし、賊を討ち滅ぼし、お声を更に高める事が肝要かと存じます。」

「……貴女は、そうする事が一番袁家の為になると考えたのね。」

「御意にございます。」

 

 元皓は先程より更に恭しく姿勢を正し、重ねて奏上した。今ここで徐州と戦うよりは、名声を高めた方が得策だと考えたからだ。



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第十六章 青州解放戦・前編・3

 だが、その考えに真っ向から反対する者が現れた。赤を基調とした礼服を身にまとった小柄なその少女は、乱雑に伸ばした金髪を流しながら、袁紹の許に進み出ると、一転して恭しく礼をしてから、その体のどこからそんな声が出るのかと思うくらいの声量で話し始めた。

 

「麗羽様! そんな献策に耳を傾ける必要はありません!」

 

 孔璋と元皓は途端に渋面を作ったが、話の腰を折る訳にもいかないので黙った。それを確認するかの様にチラリと二人を見てから、少女は話を続ける。

 

「袁本初ともあろうお方が、こんな俗物に言いくるめられるとは、何と情けない事か! これでは、袁家が当代で滅亡してしまうではありませんか!」

 

 何とも過激な物言いに、袁紹の表情は渋面を通り越して怒気をはらんでいた。

 二人はそれに気づいて慌てふためくが、少女は尚も話し続けた。

 

「今更言うまでもない事ではありますが、袁家は袁安(えんあん)袁敞(えんしょう)袁湯(えんとう)、そして叔母である袁逢(えんほう)袁隗(えんかい)と四代に渡って三公を輩出した名門中の名門であります。本初様には、その高貴な血が流れているのであります。」

 

 本当に言うまでもない事だ。この国の人間なら、結構な頻度で知っている人が居る歴史的事実である。

 それを今わざわざ言ったのは、袁紹がそれだけの名門の生まれであるという事を改めて強調する為である。何故そうするかと言えば、それは袁紹のプライドを刺激する為である。

 

「その袁家の家長である本初様は、何故に徐州を、劉備などという筵売りの小娘を恐れているのですか!? あんなの、ただ胸が大きいだけの小娘でしかないではありませんか!」

 

 ちなみに、この少女は身長同様、胸もそれ程大きくない。よって、今の叫びには多分に私怨が混じっているのかも知れない。

 とはいえ、今の言葉は袁紹を刺激するには充分だったらしく、すっくと立ち上がるとどこからか扇子を取り出し、少女に向けて笑みを向けた。

 

「よくぞ言ってくれましたわ、公則(こうそく)さん! それでこそ袁家の忠臣ですわ‼」

 

 その言葉に、公則と呼ばれた小柄な少女は恭しく拝礼して応え、孔璋と元皓は同時に天を仰いだ。

 こうなった以上、いくら言葉を紡いでもその決意が覆る事はないだろうと、袁紹に長く仕える二人は分かっていた。だからこそ邪魔が入らない内に最善の策を申し述べていたのだが、その努力も水泡に帰してしまった。

 

郭図(かくと)……何で貴女はそう先見の明が無いの?)

 

 元皓は恨めしそうに公則こと郭図を見つめた。

 一方、孔璋は無駄だと分かっていながらも、一応袁紹に進言した。

 

「麗羽様、徐州と戦うのならばそれも良いですが、大義名分はどう致しますか?」

 

 大義なき戦争は支持されない。大義があれば支持されるとは限らないが、少なくともこの国の歴史に名が残る戦争には大義があった。曰く、堕落した殷王朝を倒す。曰く、暴虐な項羽を討つ等だ。

 袁紹が徐州と戦うならば、それなりの大義名分が必要である。孔璋達が徐州と戦うのを良しとしなかった理由の一つが、大義名分が無いからである。

 だからこそ、孔璋達はここで徐州と争う事をせず、むしろ彼等に恩を着せる形で黄巾党を倒すという選択肢を選んだ。これなら、徐州はその名目上こちらの協力を拒む事が出来ず、青州を、民衆を助けるという名声を独り占めに出来ない。

 一方、袁家も名声の独り占めは出来ないが、元々高貴で名声高い袁家が、自ら黄巾党討伐をするというのは、余程の事が無い限りは名が上がる事はあっても下がる事はない。しかも、漢王室の一族や天の御遣いとの共闘なら、尚更である。

 だが、黄巾党を倒そうとする徐州と戦うなら、それなりの大義名分が必要である。

 一応、無い訳では無い。先程までの会話でも話題になった「黄巾党を兵士にする」等がそれである。

 これを大義名分にして攻めれば、一応は宣戦布告の理由として成り立つ。が、「漢王室の一族」や「天の御遣い」といった存在がそれを打ち消してしまう可能性の方が、現段階では高い。

 何せ徐州軍には、既に何度も黄巾党を倒し、十常侍から皇子を助け出したという実績がある。今までの彼等のやり方を知っている人達からすれば、少しくらいの不安要素は無いに等しい。それを理解しているからこそ、敵対して戦う事より共闘するのが吉と判断したのである。

 一方の郭図の考えは、あくまで短期的で視野が狭く、かつ袁家の誇りに重点を置いての事だ。袁紹を中心に物事を考えるという事は間違っていないのだが、今回はやや偏り過ぎている節がある。

 だからだろうか、孔璋達には郭図が大義名分を軽んじている様に感じられた。そしてそれは、当の袁紹の答えでハッキリしてしまった。

 

「そんなもの、名門袁家が天誅をくだすと言えば宜しいのではなくて?」

 

 予想通りの答えが返ってきて、思わず閉口する二人であった。

 繰り返すが、徐州には天の御遣いが居る。その天の御遣い、清宮涼は孫策や曹操と誼を通じている。これが何を意味するか、どうやら袁紹は理解していないらしい。

 徐州牧就任からの流れを見るに、恐らく機を見るに敏と思われる徐州軍が、袁紹軍に対する備えをしていないとは思えない。また、孫策や曹操もただ単に好意だけで清宮と付き合っている訳ではないだろう。何らかの打算で動いていると見て良い。そう考えれば、ここで徐州軍と事を構えるのはまずいのだが、袁紹と郭図は分かっていない。

 本来なら、ここでそうした理由を述べて君主を止めるべきなのだが、この袁紹という君主は一度決めた事を翻す事は余り無く、決定に反する事を言われたら途端に不機嫌になり、時には罷免されたり投獄されたりする。その為、諌める際は細心の注意を払いながら真っ先に諌めないといけない。今回もそれを見越して説得していたのだが、後から来た郭図の「甘い言葉」に負けてしまった。

 それでも、このままでは軍に甚大な被害が出ると分かっているので、二人は敢えて諌め続けた。

 結果、予想通り袁紹の逆鱗に触れ、二人は投獄されてしまった。

 袁紹が十万の大軍を率いて出陣したのは、最初の軍議から一週間後。涼が兗州で曹操と会談をした日の朝であった。



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第十六章 青州解放戦・前編・4

 時間は戻って今。

 青州を解放しようとしている徐州軍にはまだ、袁紹が動いたという情報は入っていない。

 その代わり、事前に決めていたやり取りは緊密に行っている。朱里はそうして集めた情報を元に軍を動かし、来たる「総攻撃」開始に備えている。

 臨淄への攻撃は、一気に行わなければならない。その為に朱里は愛紗、時雨、山茶花、椿といった武将達に指示を出し、桃香と共に本陣で仕上げを進めているのである。

 

「朱里ちゃん、今伝令さんからこれが届いたよ。」

 

 桃香様はその様な雑務はせずにどっしりと構えていてください、何かしていないと落ち着かなくて、等といった会話をした後、朱里は桃香から受け取った紙を読んだ。そこには『清宮様と孫家の会談、つつがなく終了』といった意味の内容が書かれていた。

 

「雫さんによると、どうやら孫家との同盟は上手くいった様ですね。」

 

 雫とは簡擁の真名であり、徐州軍の文官であり、桃香の幼馴染みの少女の事である。揚州での会談の後、一足早く徐州に戻って報告し、その結果を簡潔にまとめて知らせてきたのだ。

 そこに、またも伝令から何やら届いた。受け取った朱里はその手紙を開く。

 

「……どうやら、兗州での会談もつつがなく終了したみたいですよ、桃香様。」

 

 そう言いながら桃香に手紙を手渡す。受け取った桃香は「あっ、程立ちゃんが来るのかあ。楽しみだなあ。」などと呑気な感想を述べていた。言うまでもないが、今は戦時中である。

 朱里はしばらくしてコホンと咳払いをし、それから桃香に確認する様に作戦を説明した。桃香はそれを一通り聞いてから頷き、笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。

 

「朱里ちゃんの事、信頼してるから、任せるよ。」

 

 桃香のその言葉に朱里は若干照れながら恭しく礼をした。

 こう言われたのは、実は一度や二度では無い。朱里は以前、出会って然程時間が経っていない自分を、何故そこまで信頼してくれるのかと、疑問に思った事がある。

 最初は自分に丸投げしているのではないか、と考えた。ある意味それは当たっていたのだが、丸投げという訳ではない。

 桃香はこれでも廬植の門下生であり、それなりに優秀である。そうでなければ州牧など務められないだろう。そうした実力がある為、朱里の献策にも時間がかかる時はあるものの、ちゃんと理解し、疑問に思った所はその度に訊ねて、納得するまでそれを繰り返す。場合によっては面倒ではあるが、朱里にとってはこうして主君から訊ねられる方が、却って安心出来るという性格でもあった。

 勿論、向き不向きはある。桃香に出来る事、理解出来る事は限られており、それは朱里にも言える。だから、桃香がどうしても出来ない所は朱里に任せ、朱里が判断出来ない部分は桃香に任せている。

 そうしていく内に朱里は、桃香という人となりを理解していった。彼女が分け隔てなく誰にでも接するという事。

 戦うのは嫌いだけど、守る為には戦う意思がある事。

 敵であっても、出来れば助けてあげたい優しい心の持ち主である事。

など。

 

(今の時代にはとても似つかわしくない方です、桃香様は。)

 

 朱里の桃香評はその一言に尽きる。

 漢王朝の権威が落ちてきた今、表面上は漢王朝に服従しつつも、裏では何を考えているか分からない人間がこの国には多い。そんな世の中で、身分の違いを気にせず、争い事を好まないのは、一勢力の頭領としては幾分物足りない。

 だが、劉玄徳としてはこれで良いと朱里は思っている。

 こんな世の中だからこそ、こういった人物が居て良い。居るべきだと彼女は考えた。力ある者が天下を獲るのは道理だが、強いだけでは天下は獲れない。歴史に名を残した項羽は一騎当千の実力者だったが、天下を獲ったのはその好敵手であり、明らかに項羽より弱かった劉邦である。

 勿論、圧倒的な強さで天下を獲った劉秀の様な例もあるが、その劉秀も強いだけの人間ではなかった。天下を統べる者は、ある程度の優しさもなければならないと、彼女は思うのだ。

 

(だからこそ、私は隆中(りゅうちゅう)を出る決意をしたのです。)

 

 遠く荊州は隆中に居る妹や親友の顔を思い浮かべながら、朱里は言葉を紡ぐ。

 

「かしこまりました、桃香様。それでは、予定通りに事を進めます。」

 

 桃香はそれに対しても、やはり常の笑顔で応えるのである。

 青州黄巾党への総攻撃は、翌日の早朝から始まる事になった。

 

 

 

 

 

 まだ陽も明けきらない早朝、現代で言えば午前五時前。徐州・青州連合軍は臨淄に総攻撃を仕掛けた。

 夜襲ならばもっと夜更けに行うのがセオリーだが、今回の目的は夜襲ではなく、敵の混乱を誘う為で、その後の事が目的である。その目的の為には夜明け前でなければならなかった。

 

「弓兵隊、少しでも早く門の上の敵を片付けてください!」

 

 朱里が羽毛扇を前方に向けながらそう号令すると、徐州兵、青州兵共に一斉に矢を放った。

 まだ暗さが残る空から降る矢の雨が、次々と青州黄巾党に突き刺さる。

 その度に新しい青州黄巾党が現れるが、すぐに矢の雨を浴びせて倒していく。

 やがて、門の上に誰も現れなくなった。恐れをなして逃げたか、何らかの策か。

 

「破城鎚、用意!」

 

 朱里が後方に指示を出すと、前方の弓兵隊が左右に割れ、その空いた場所に後方から破城鎚、要は大きな丸太を抱えた兵士達が進む。破城鎚は、城門を壊す為の道具である。

 既に何度か触れた事だが、この時代の街は何処も城塞都市である。高い塀と深い堀、そして大きく頑丈な門が外敵から街を守っている。

 その為、街で戦う場合はこの様に敵の守備隊を削り、次いで破城鎚で城門を破り、街へと進むのが基本である。

 ブルドーザーやクレーン車などが無いこの時代、破城鎚を動かすのは当然人力だ。敵の守備隊は弓矢などで破城鎚部隊を狙うので、場合によっては、門を破るまでに何十人、何百人もの犠牲が出るのも珍しくはない。

 その犠牲を少なくするには、こちらも弓矢などで敵の守備隊を一人でも多く倒すしかないのだ。

 破城鎚部隊は「孔」と「徐州」、そして「青州」の旗と共に前進して行く。それに連れて、弓兵隊も前進していく。弓兵隊は敵の射程内には入らず、だが敵の守備隊が破城鎚部隊を狙って来たら直ぐ様攻撃出来る様に、態勢だけは整えておく。

 だが、城壁が目の前に来ても反撃は来ない。破城鎚部隊は後方に居る朱里を見て指示を仰いだが、朱里は静かに羽毛扇を前方に向けた。

 破城鎚部隊は気合を入れて猛然と突進する。

 どおおん、という轟音と共に門が揺れる。もちろん、街を守る門がたった一回で壊れる訳はなく、二度、三度と繰り返す。

 やがて、少しずつだが門がきしむ音がし始める。こうなるとあと一息だ。

 それを更に数度繰り返し、遂に門が崩れた。破城鎚部隊を始めとした徐州・青州連合軍全体から歓声が上がる。

 だが、朱里や桃香は表情を引き締めたまま前を向いていた。

 破城鎚部隊を下げ、青州兵で固められた突入部隊が街の中へと消えていく。その先頭を行く部隊が掲げる旗は「太史」。徐州に救援を求めに来た太史慈が、雪辱を期すべく率先して先に進んでいく。長剣「(きざはし)」と強弓「遠閃(えんせん)」を使い分けながら賊を屠るその姿は、青州軍はもとより徐州軍の中でも特に目立つ存在となっている。

 その勢いに押される形で、青州兵の進軍速度は更に上がる。一方の徐州軍は、比較的冷静に動いている。

 

「朱里ちゃん、太史慈さん達どんどん行っちゃうけど良いの?」

「良くはありませんが、止めても無駄でしょう。」

 

 朱里は溜息を吐きながら羽毛扇を揺らす。

 いくら城門を破ったとはいえ、まだ街の中には沢山の青州黄巾党が居るのである。街のどこに敵が待ち構えているか分からない以上、慎重に進むべきである。

 とはいえ、もうすぐ故郷を解放出来ると逸っている青州兵に、慎重にいけといっても利かないだろう。むしろ、反発される危険性があるので、朱里は敢えて何も言わなかった。

 なお、この件について孔融は自軍を制御出来なかった事を詫びているので、徐州と青州の間に亀裂が入る事は無かった。

 桃香もまた苦笑しながら、目の前の臨淄、そして周りを見る。

 臨淄は徐州の彭城や下邳と比べると少し小さく見える。また、青州の殆どがそうであるように、ここもまた平坦な地形である。左右の少し離れた所に小さな森が在り、小さいが川も在る。

 ここはかつて太公望が治め、営丘(えいきゅう)と呼ばれていた。時代が下り、名前が臨淄となり、「斉」という国になった。

 昔は土壌が痩せていて農耕には適さなかったので、製鉄や銅の精錬などの工業を中心とした都市として発展した。歴史に名を残す名宰相・管仲(かんちゅう)が都市整備をすると、当時屈指の工業都市になったという。

 楚漢戦争時には大元帥・韓信が劉邦から正式に王として任じられ、前漢時代には劉邦が息子を斉王に封じていた。中国東部最大の都市の一つとしての歴史を刻んできたのがこの青州であり、臨淄なのである。

 だがそれも、今では見る影も無い。

 文化や工業の中心が移り変わった事や、黄巾党などの賊が跋扈して荒廃した街は、最早独自に立て直す事が出来ないレベルになっている。だからこそ孔融や太子慈は徐州に助けを求めたのだ。

 この戦いに勝利したとしても、青州の前途は予想以上に多難である。

 太史慈のこの勢いは、そうした未来に気づいているからかも知れない。

 

「取り敢えず、太史慈さんはあのままで大丈夫でしょう。彼女の実力なら、賊ごときに遅れはとりません。」

 

 そう言った朱里の表情は、確かに心配している風ではない。徐州に来た時はボロボロだった太史慈も、怪我が癒え、青州に来てからはその実力を如何なく発揮しており、彼女の戦績は徐州軍の愛紗よりは劣るものの、上位に食い込んでいるのだからそれもまた当然である。

 

「私達は、“予定通り”に動くだけです。」

「そ、そうだね。」

 

 朱里の言葉に頷いた桃香は、近侍の兵に指示を出し、部隊を前へと動かす。

 朱里こと諸葛亮の旗、「諸葛」と、桃香こと劉備の牙門旗、「劉」。そして軍旗である「徐州」を中心にして、部隊は臨淄へと近づいていく。

 悠々と進む徐州軍。その隊列は戦闘が起きていない事もあって乱れておらず、そのまま臨淄の街へと入城出来ると誰もが思った。

 その時だった。

 城門から数千人の黄巾党が突撃をしてきた。

 これには流石の徐州の将兵達も驚き戸惑った。つい先程青州軍が突入し、何も起きなかったのに、何故ここで黄巾党が現れたのか。

 

「恐らく、街のどこかに潜んでいたのでしょう。この街は青州でも大きな街ですから。」

 

 青州の首都と言えるのだから、大きいのは当然だが、だからといってこんなに隠れられるのだろうか、と桃香は思ったが、現実に目の前に黄巾党は現れている。その事実を受け止めない訳にはいかなかった。

 桃香と朱里は直ぐ様対応した。守りに適した陣形、「方円陣」を構築する様に命じたのである。

 方円陣は、字の通り円形に兵士を配置する陣形である。当然ながら大将はその中心におり、どの方位から敵が来ても対処出来るのが特徴だ。その為、移動には適していない。

 また、全方位に配置するという事は人数が拡散する事を意味しており、局所的な攻撃に長時間対応するには向いていない。出来れば直ぐに別の陣形に変えて戦うのが望ましい。

 今回は、前方から来る黄巾党に対応する為に前方の守りを厚くしている。場合によっては側面を厚くしたりするが、今回はこれで充分だと朱里は判断し、その通りになった。

 奇襲に近い攻撃ではあったが、兵数はこちらが上という事もあり、被害は最小限に抑えられている。本来はここで陣形を変えて撃破するのが常道である。

 だが、朱里が命じたのは陣形変更ではなく、何故か「後退」だった。



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第十六章 青州解放戦・前編・5

 ドンドンドン、と太鼓の音が戦場に響く。

 それに合わせて徐州軍は後退する。

 当然ながら、黄巾党は追撃してくる。

 盾が有るので矢や槍の被害は抑えられるが、それでもこういった場合は攻勢に出ている方が強い。徐州軍は少しずつ、ジリジリと押されている。

 ……ように、見える。少なくとも黄巾党は押していると考えた様だ。城門から新手の部隊が現れた。先程と同じくらいの数。先行した青州軍がどうなったのか心配になるが、徐州軍は目の前の事にだけ対応した。

 敵の新手が近づいてくる。その新手は左右に分かれ、徐州軍の両翼を切り裂こうとしている。いくら徐州軍の方が兵数が多いとはいえ、このままでは大きな出血を伴うだろう。

 勿論、諸葛亮こと朱里がそれを想定していない筈はなかった。

 

「今です!」

 

 黄巾党が左右に動いて、その隊列を大きく広げた時、朱里は羽毛扇を振った。同時に、先程とは違ったリズムの太鼓、そして新たに銅鑼の音が響き渡った。

 

 ジャーンジャーンジャーン。

 

 その音と共に左右の小さな森から複数の部隊が現れた。

 右の森からは「関」「糜」の旗が、左の森からはもう一つの「糜」と「田」の旗が黄巾党に向かって猛然と近づいてくる。

 徐州軍を代表する将、関羽と、実戦経験は少なくともそつなく熟す麋竺。その妹の糜芳と、劉備の幼馴染みである田豫。この四人の将がそれぞれの部隊を率いて黄巾党に斬りかかった。

 突然の事に驚き戸惑う黄巾党に、出来る事は少なかった。混乱する部隊は戦うか逃げるかの意思統一が出来ておらず、ただ徐州軍の刃の露と消えていった。

 何とか態勢を整えた部隊も居たが、そういった部隊には関羽隊や田豫隊といった練度が高い部隊が瞬く間に蹴散らしていった。

 そうして左右から黄巾党を削っていく間に、劉備隊と諸葛亮隊は陣形を鋒矢陣へと変え、浮足立っている黄巾党を分断していく。先程までは徐州軍を包囲しかけていた黄巾党は、その陣形を維持できなくなっていた。

 やがて、関羽隊が劉備隊、諸葛亮隊と合流し、その勢いのまま城内へと突入する。残る麋竺隊、糜芳隊、田豫隊はこの場に残った(というより残された)黄巾党を殲滅するべく部隊を動かしている。関羽隊らの横撃により壊乱している黄巾党には、この三部隊で充分と判断したのだろう。

 桃香の隣に馬をつけて併走する関羽こと愛紗に、桃香が声をかける。

 

「愛紗ちゃん、怪我は無い?」

「私は大丈夫です。桃香様も御無事で何よりです。」

「朱里ちゃんの策が上手くいったからね。ありがとう、朱里ちゃん。」

「勿体無いお言葉です。私は、軍師としてやるべき事をしただけです。」

 

 愛紗とは反対側で併走する朱里は、真っ直ぐに前を見据えながら答える。

 

「ですが、この策が上手くいったのも、相手が黄巾党という賊だからです。名のある武将相手でしたら、こうはいかなかったでしょう。」

 

 朱里のその言葉に、桃香は曹操や孫策を思い浮かべた。確かに、通用しないだろうと思った。

 桃香がそう思っている間に、朱里は馬を進めながら言葉を紡いでいく。

 

「敵が臨淄城内に多数居る事は、細作などによる事前情報から分かっていました。ですが、こちらの総兵数は三十万以上。正面から戦っても負けはしないでしょう。ですが、そうなると一つ問題が出てきます。」

「賊が臨淄から打って出て来ない、という事だな。」

 

 愛紗の言葉に朱里が頷いて答える。

 

「賊というのは、勝てる相手とだけ戦います。勿論、将もそうですが、賊の場合はそれが顕著です。私達が大軍だと知れば、相手は野戦には出ず、籠城戦を選んだでしょう。幸い、兵站も武器も余裕がありますので、相手が籠城しても負ける事はありません。」

「けどそれは、臨淄に居る人達の事を考えれば出来ない。」

 

 桃香が常とは違う、大将としての表情で言葉を紡ぐ。

 

「はい。私達は黄巾党を倒すだけでなく、臨淄の人達を助け出すという使命があります。その為には時間をかけての決戦は出来ません。」

「夜戦ではなく夜明け前に仕掛けたのも、戦いを有利に進める為と、城内に入ってから速やかに住人を助ける為だからな。」

 

 愛紗はそう言いながら部隊に住人の保護を命じていく。

 夜戦の場合、もし城内に入っても暗くて住人を探すのが困難になる。現代とは違って街灯などは無いので、夜は月明かりくらいしか頼れない。松明を持っての捜索は万が一建物などに火が着いたりしたら大惨事になりかねないので、出来なかった。

 また、布陣や近くの森の中に部隊を隠すには夜が最適だった。敵に気取られない様に接近し部隊を展開させるには時間がかかるので、その分も計算して動かなければならなかった。

 黄巾党が野戦に出易い様に、本隊である劉備隊と諸葛亮隊だけで布陣したり、その数も不自然にならない程度に少なくしたり、城内から増援を出させる為にわざと後退したり、今回の戦いの為の策はいくつもうっている。その結果が今である。

 勿論、城内に進入したからといって勝った訳では無い。

 街の住人を助け出し、青州黄巾党の首領、管亥を倒さなければ、この戦いは終わらない。黄巾党の乱を終わらせる為にここまで来たのだから、絶対に勝たなくてはならないと、桃香たちは思った。

 進軍する途中、住人と思われる人達から手を振られた事も桃香たちの戦意を上げる一因となった。何人が無事かは分からないが、少なくとも生きている人が居るという事実は桃香を大いに安堵させた。

 やがて、前方で戦闘が行われているのが見えた。街の中心部らしく、結構な広さの場所で、青州軍と黄巾党が戦っていた。

 その中で太史慈はというと、黄巾党の武将と一騎討ちをしていた。太史慈ほどの武将が何合も打ち合っているという事は、あの敵はかなりの実力者という事である。

 

「青州軍の皆さんを援護してください! 愛紗ちゃん、お願い!」

「承知!」

 

 桃香の指示と同時に徐州軍が、特に関羽隊が戦場に雪崩れ込んだ。

 青州軍よりやや多かった黄巾党だが、関羽隊が現れた事でその数的優位は崩れ、瞬く間に潰乱していった。それでも、太史慈の一騎討ちは続いていた。

 

「子義殿、大丈夫か!」

「雲長さん、大丈夫です! ここは私に任せて、皆さんは黄巾の首領を!」

「分かった‼」

 

 愛紗はそう言うと部隊を率いて街の更に奥へと進んだ。

 もし、太史慈が苦戦する様なら一騎討ちを代わろうかと思った愛紗だったが、今見た限りではその必要は無いと判断した。それだけ、太史慈の実力は高い。

 関羽隊の大多数が奥へと進んでいく中、後方からやってきた麋竺隊、糜芳隊、田豫隊が残党を倒していく。劉備隊と諸葛亮隊は、桃香が各隊に指示を出すと関羽隊の後を追って行った。

 一連の事を、太史慈は一騎討ちしながら見届けた。それが、黄巾党の将には気に食わなかった様だ。

 

「てめえ、俺様相手に余所見とは良い度胸じゃねえか!」

「貴様如きには、それで充分ですから。」

 

 太史慈は、わざとか分からないがそう答えた。勿論、黄巾党の将がこれで怒らない訳がなかった。

 

「てめえ! この波才様を本気で怒らせたなああああ‼」

 

 波才と名乗った黄巾党の将は、激昂しながら得物である大剣を振り回した。太史慈はそれを避けると、波才に向けて長剣を振り下ろす。

 大振りだった波才はその攻撃を避けきれず、右肩を切り裂かれた。

 激痛に耐えきれない叫びをあげた波才は、よろけながら得物を落とした。それを見逃す太史慈ではない。

 そのまま一気に波才を両断し、剣についた血を振り払うとその剣を掲げ、辺り一帯に聞こえる様な大声をあげる。

 

「黄巾の将、波才は青州軍の太史慈が討ち取った‼」

 

 その瞬間、青州軍や徐州軍の兵士達は皆雄叫びをあげ、一方の黄巾党は皆落胆し、降伏する者が多く出た。降伏をした者は皆等しく捕縛され、あくまで抵抗する者は皆等しく討ち取られた。

 これで青州黄巾党の勢いはより落ちると思われる。太史慈が大声で叫んだのも、そうした効果を狙ったからだ。

 そしてその効果は、太史慈たちの先を行く劉備隊や、黄巾党に早くも出ていた。

 

「心なしか、敵の数が少なくなった様です。」

「先程聞こえた、敵将撃破が黄巾党にも聞こえたのでしょう。恐れをなして、逃亡し始めているのかも知れません。」

「だったら、このまま管亥さんも降伏してくれたら楽なんだけどね。」

 

 併走する愛紗、朱里、桃香は周りを見ながらそんな会話をしている。

 確かに、視界の端には、徐州軍に背を向けてどこかへ走っている黄巾党の姿が見えている。桃香は敢えて追撃の指示出していない。理由は、時間をかけない為と、敵味方共に無駄に血を流したくないからだ。邪魔をするなら蹴散らすが、そうでないなら戦う必要は無いというのが桃香の考えだ。

 一見甘い考えだが、実は兵法に照らし合わせれば実に理に適っていた。沢山戦うよりも、少ない戦闘で勝つ方が被害が少なく済み、時間もかからない。

 実例を挙げれば、反秦戦争で項羽は敵の降伏を認めず、全ての城を落としていったが、劉邦は敵が降伏するならそれを認め、戦闘は最小限に抑えていった。その結果、秦の首都である咸陽に先に入ったのは劉邦であり、ここで善政を敷いた事が後の楚漢戦争の勝利に繋がったりしている。

 劉勝の子孫である桃香は劉邦の子孫でもあるので、彼女のこうした行動は、もしかしたら劉邦の血が濃く残っているからかも知れない。

 尤も、現実はそんなに楽ではないのも確かである。

 

「……! 前方より、“管”の旗を掲げた一団が接近しています!」

「頭領自ら出陣ですか……まあ、うちも余り余所の事は言えませんが。」

「……やっぱり、やるしかないよね…………弓兵隊、構え! 目標、敵首領管亥‼ ……撃てーーー‼」

 

 桃香は暫し考えた後、攻撃を命じた。空を覆うかの様に、大雨の様に矢が黄巾党に降り注ぐ。盾などで攻撃を防いだ者も多いが、矢の数が違う分、与えた被害は大きかった。

 それなのに、数は余り減っていない様に見える。実は、桃香たちの位置からはよく見えないが、管亥の後方には沢山の黄巾党の兵が接近しており、色々な道を通って徐州軍に迫ってきていた。

 朱里はそうした事態を想定して部隊を動かしているが、大部隊を展開出来ない街の中でどれだけ有利に戦えるかは、実際の所未知数であった。

 街の中心を通る大通りを進んでいるとはいえ、この大通りに繋がる道は無数にある。そこから伏兵が来たら、という想定は勿論しているが、それもどれだけ防げるかは分からない。この臨淄の街は今、青州黄巾党の本拠地なのだから。

 青州黄巾党の反撃の矢を防ぎ、また犠牲を出しながら前に進む徐州軍。桃香は、愛紗は、朱里は矢の第二撃を命じる。

 互いに命の灯を消し合いながら、出血を伴いながら、戦いは続いた。

 その様に両軍、死力を尽くして戦う中、青州黄巾党の首領、管亥は戦闘を遠目に見ながら笑っていた。

 

「ククク……あれほどの威勢を誇った黄巾党も、どうやらここで終わりか。……だが、俺達はただでは死なん。」

 

 管亥は大柄な男である。それでいてしっかりとした筋肉がついており、一見しただけで強靭な体の持ち主だと分かる。

 獲物を狙う様な獰猛な目つきは、以前の管亥を知る人が見たら信じられないだろう。地和や飛陽が見たら驚く筈だ。

 

「一人でも多くの官軍を道づれにして、黄巾党の最期を華々しく飾ってやる。」

 

 かつて、飛陽の故郷を救った時の、正義感に満ち満ちていた管亥は、もう居ない。

 ここに居るのは、ただただ人を殺す事を生き甲斐としている、餓えた獣でしかない。

 そんな獣に先導されている青州黄巾党も、また獣と同じであり、しつけが出来ない獣は処理するしかない。そうしなければ、人間に危害が及ぶからである。

 

「張三姉妹の為にも、な。」

 

 かつての上官である張三姉妹の名前を出す管亥。それだけ聞けば、彼女達へ敬意を表している様に聞こえるが、管亥の表情はそんな風に見えない。

 ただ、戦闘を見て嗤っているだけだった。




という訳で、第十六章「青州解放戦・前編」をお届けしました。

当初はこれで青州編を終わらせる予定でしたが、麗羽のくだりが予想以上に長くややこしくなった事と、その為にこの後の展開も必然的に長くなってしまうので、前後編形式にしました。
色んな三国志ものでも、青州はそんなに注目されない事が多いので、参考にする資料が少なく、また、却って自由に出来る分長くなってしまったと言えるかも知れません。
あと、何より更新が延びに延びてしまった事をお詫びします。次は多分早く更新出来るでしょう。……多分。
後編では、前編と同じく青州と麗羽の動向を書いていきます。どんな風に展開するかはもう出来ているのですが、これを文章にしようとすると……時間がかかります。
司馬遼太郎作品の影響で地の分が長くなったんだろうなあ。もう少し台詞を多くしてみます。

それでは、後編も引き続きお楽しみください。


2016年3月9日更新。

2017年6月26日掲載(ハーメルン)


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第十七章 青州解放戦・中編・1

青州と兗州にて、二つの戦いが続いていた。
どの様な決着になるか。それによってどの様な運命が待ち受けているのか。

それは誰にも分からない。
そんな兗州にて、曹操と袁紹が激突しようとしていた。


2016年3月9日更新開始
2016年4月21日最終更新

2017年6月27日掲載(ハーメルン)


 青州(せいしゅう)の激闘から、再び時は遡る。

 (りょう)曹操(そうそう)こと華琳(かりん)との会談を終えて帰路についていた頃、冀州(きしゅう)の主である麗羽(れいは)こと袁紹(えんしょう)は、十万の兵を率いて(ぎょう)を進発し徐州(じょしゅう)へと向かっていた。

 十万という大軍の為にその進軍速度は遅かったが、大将である袁紹は余り気にしてはいなかった。本来は気にするべきなのだが。

 今、袁紹軍が居るのは鄴より東南東に在る東武陽(とうぶよう)。徐州まではまだまだ先は長い。現代と違って輸送機などは無いので、大軍を動かすにはどうしても時間がかかる。

 その為、少しでも時間を短縮する為に徐州までの直線距離を進んでいた。山や川などが無ければ、確かにこれが一番速い行軍の仕方であろう。

 袁紹軍はこの時代の漢に於いて最大の兵力を持っていた。今回は十万という大軍を動かしているが、袁紹軍全体で言えばその数倍の兵力を有している。

 だが、袁紹軍はその将兵が特に強いという事では、実は無い。財力に物を言わせて兵を、武器を、兵糧を多く有しているだけである。(もっと)も、兵法においては敵より多くの兵を用意し、武器も優れた物を、兵糧(ひょうりょう)は切らしてはならない、と言うので、袁紹のやり方は決して間違ってはいない。

 また、兵の数が多いという事は、それなりに優れた者も居るという事でもある。

 袁家の二枚看板と言われる顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)は言うに及ばず、武官には張郃(ちょうこう)朱霊(しゅれい)審配(しんぱい)高覧(こうらん)などが、文官には許攸(きょゆう)沮授(そじゅ)陳琳(ちんりん)田豊(でんほう)などが居る。尤も、今回最後の二人は帯同していないが。

 その二枚看板、顔良と文醜は袁紹の本軍を守る様な位置で並んで行軍していた。

 

「ねえ、猪々子(いいしぇ)ちゃん。やっぱりこの戦いは止めた方が良いと思うんだよね。」

「それはあたいも同じだけどさ。……斗詩(とし)は麗羽様が今更軍を戻すと思うか?」

「思わないから困ってるんだよう。」

 

 猪々子こと文醜に斗詩と呼ばれた顔良は、涙目になりながらそう答える。これだけを見ると、とても二枚看板の一角には見えない。

 

「バカなあたいでも、アニキ達と戦うのがマズイってのは、流石に分かるぜ。麗羽様も、冷静に考えれば分かるはずなんだけどなあ……。」

 

 その冷静さが、今の袁紹には無いのだから困ったものだ、というのが二人の一致する意見であった。

 二人は知る由も無いが、この時代より二百年ほど昔の西洋の軍人、ユリウス・カエサルが言ったとされる「賽は投げられた」という言葉の意味と、今が似た状況だと知ったら、果たしてどんな反応を示すだろうか。

 だが、本当なら二人が主張する様に戻るべきである。カエサルはルビコン川を渡って成功したが、今回の場合、成功する確率はカエサルのそれより低いと思われた。

 兵数十万という数は決して少なくはなく、むしろ多いのだが、徐州軍も兵を増強しているという情報は既知の事である。しかも袁紹軍は遠征軍だが、徐州軍は本拠地という地の利がある。そう考えると十万という数が少なく見えてしまうのも、事実だった。

 大義名分の無さも問題だった。いくら「黄巾党(こうきんとう)を引き入れるかも知れない」という理由を作っても、その黄巾党を攻め滅ぼそうとしているのが現時点での事実であり、大義名分としては弱い。只でさえ「漢王室の縁者」やら「天の御使(みつか)い」という民心を掴む人物が居るのだから、ちょっとやそっとの理由では話にならないのである。

 

「何をぶつくさ言っていますの。袁家の二枚看板がそんな暗い顔では士気に係わりますわ。もっとしゃんとなさい。」

 

 馬上、ではなく馬車の中からそう言ったのは他ならぬ袁紹である。短距離の行軍なら袁紹自ら馬に乗っているが、今回の様に長距離の行軍では馬車を使う事が多い。

 何故なら、馬車の中ならば突然の降雨も苦にしないし、寒さもしのげるからである。あと、自分で馬を操縦する必要も無い。彼女は袁家の代表である為、もちろん馬術も出来るのだが、立場がある者はそうした事をしなくても良いという考えがあるので、こうした行動に出ている。

 

「あの(むしろ)売りの小娘が帰ってくるまでに徐州を攻め落とすのですから、貴女たちには期待してますのよ。」

 

 期待されて嬉しくない訳はないが、今回は事情が事情なだけに、二人は複雑な表情をもって応えるしかなかった。

 そんな感じで数日が過ぎた。

 袁紹軍は、東武陽から東南に位置する(はん)という場所まで来ている。

 やはり徐州まではまだまだ距離がある。一度どこかで大休止をとるべきだと、袁紹の家臣は皆口を揃えた。だが、袁紹は「一戦もしていないのに、休む必要があるのかしら?」と言って進言を却下した。袁紹自身は馬車に乗っているのだから疲れないだろうが、他の者はそうでないという事に、彼女は気づいていないのだ。

 更に悪い事に、ここは既に冀州では無く、兗州(えんしゅう)であるという事実を、袁紹は気づいていなかった。もしくは、重要視していなかった。それが袁紹の大きな判断ミスとなった。

 物見から火急の報せが届いたのは、大休止の進言を却下した翌日の事だった。

 

「華琳さんの軍が展開しているですって!?」

 

 優雅に朝食をとっていた袁紹の(もと)に、息をきらせて走ってきた斗詩から聞かされた報せ。それは華琳こと曹操がすぐ近くまで進軍してきているという事だった。

 しかもその数は推定四万と決して少なくない。十万の袁紹軍と比べれば少ないが、相手を考えれば油断は出来ない数である。

 

「ここ、范は曹操さんの治める兗州内に在ります。恐らく、曹操さんは私達が領土侵犯をしていると判断して軍を動かしているのだと思われます。」

 

 斗詩は一度呼吸を整えてから自らの考えを述べた。彼女は武官ではあるが、比較的頭が良いので、こうした意見を述べる機会を度々もらっている。

 そして、斗詩の見解は当たっているのだろう、というのが袁紹軍の結論だった。

 現代でもそうだが、今回の様に他者の領土を通る場合、(あらかじ)め許可を貰う必要がある。だが、袁紹はここ兗州を治めるのが旧知の仲である華琳の為、それを怠ってしまっていたのだ。

 

「だ、大丈夫ですよ麗羽様。曹操殿にはきちんと事情を話せば分かっていただけます。何しろ麗羽様と曹操殿は幼い頃からの御学友なのですから。」

 

 冷や汗を流しながらそう言ったのは郭図(かくと)。今回の遠征には筆頭軍師として帯同している。

 袁紹と華琳は幼少の頃に知り合い、勉学に励んだ仲である。家柄では袁紹が上だが、成績では華琳が常に上だった。それが袁紹のプライドを少なからず傷つけたが、それでも袁紹が華琳を嫌う事は無かった。そういう意味では袁紹も大物と言えなくはない。

 気に入った侍女を取り合ったという逸話もあるし、華琳も事情はあるだろうが袁紹との付き合いを続けている事から、何だかんだで仲が良いのだろう。

 そうした理由もあって袁紹が楽観視した結果、今の事態になってしまっているのだが、どうやらこの事態の解決を簡単に出来ると思っている様だ。

 

「そうですわね。……顔良さん、今から華琳さんに手紙を書きますから、届けてきてくださいな。」

「わ、私がですかっ!?」

「貴女は華琳さんと顔見知りですし、誤解を解く使者としては適任だと思いますわ。少なくとも、落ち着きのない文醜さんよりは。」

 

 苦笑しながら言う袁紹に対し、斗詩も苦笑で答えるしかなかった。この場に居ない猪々子はとばっちりである。

 それから半刻後、袁紹の手紙を持って、斗詩は曹操軍の陣地へと向かった。道中の彼女の心境が如何ほどのものであったかは、想像に難くない。



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第十七章 青州解放戦・中編・2

「麗羽の使者が来ているの?」

「はい。恐らくは、今回の軍勢と領土侵犯についての釈明でしょうが……いかがなされますか?」

「会わない訳にもいかないでしょう。今は麗羽の方が官位は上だし、一応話を聞く必要があるし。」

 

 血縁者で信頼できる部下の夏侯淵(かこう・えん)こと秋蘭(しゅうらん)から報告を受けた華琳は、部隊の配置について修正した指示を出してから、秋蘭を伴って歩き始めた。

 

「ですが華琳様、あの袁紹が素直にこちらの話を聞くとは思えないのですが。」

「そんな事、私も思っていないわよ。けど、無駄に血を流す必要もないでしょう?」

 

 それは勿論です、と頷く秋蘭。

 

「麗羽が領土侵犯をしているのは確かなのだから、私がその非を責めて鄴へ帰る様に言うのは当然の事だし、それで終わればこれ程楽な事は無いわ。」

「まったくです。……それにしても、まさか徐州との同盟の話から直ぐにこの様な事態になるとは、流石に驚きました。」

「あら、聡明な貴女にしては珍しいわね。」

「申し訳ありません。ですが、まさか徐州が青州の救援をしている中で、あの袁紹が空き巣狙いをするとは思えなかったので。」

「仕方ないわね。麗羽の行動は私にも読めないのだから。」

 

 苦笑しながら歩く二人は、やがて謁見の場に着いた。とは言っても、陣内に在る幕で囲まれたちょっとした広場だが。

 

「あら、誰かと思えば顔良じゃない。貴女が麗羽の使者なのね。」

「はい。御無沙汰しております、曹操様。」

 

 平伏している斗詩に対し、華琳は多少フランクな口調になった。常に袁紹の傍に仕える顔良と文醜とは顔見知りであり、彼女の態度は自然な事である。

 とは言え、外交の場ではそんな事は関係ない。椅子に座った華琳は毅然とした態度で顔良に接した。

 

「それで? 要件は何なのかしら?」

 

 瞬時に冷徹な口調に変わった事で、顔良は半ば諦めの境地になったが、しっかりと使者としての役目は果たそうとして、袁紹から預かった手紙を取り出した。

 

「我が主君、袁本初から曹操様への手紙を預かってまいりました。是非お受け取りください。」

 

 斗詩がそう言うと、華琳の侍女が手紙を受け取り、それを秋蘭に渡し、それから華琳に手渡した。華琳は手紙を読んだ。所々で渋面を作ったが、一体何が書かれていたのだろうか。

 華琳は一通り読み終わると手紙を仕舞い、そのまま斗詩へ質問した。

 

「顔良、これには兗州を通過する許可願いと、私達にも徐州を攻めろと書いてあるのだけど?」

「はい……え、ええっ!?」

 

 一旦肯定しかけた斗詩だったが、思いもしない事を言われて驚き戸惑う。

 

「どうやら、貴女も知らない事だった様ね。」

 

 華琳は一つ溜息を吐くと、斗詩の為に手紙を読み上げた。

 そこに書かれた内容は、要約すると、

 

『無断で領土に入ってしまってごめんなさいませ、華琳さん。けどまあ、貴女なら許してくださるわよね? 私と貴女の仲ですもの。それと、私は徐州の劉備さんや清宮さんを懲らしめに行く途中ですの。華琳さんも私と一緒に戦ってくださいますわよね?』

 

という事になる。勿論、文章はしっかりしたもので書かれているのだが、付き合いが長い華琳は手紙を読むだけで文章が袁紹の言葉に自動変換され、脳内にあの耳障りな声が響き渡るのである。

 

「どうせ、麗羽の思い付きで追加したのでしょう。麗羽がしそうな事だわ。」

 

 心底呆れ返っている様な声でそう言った華琳に対し、斗詩は何も言い返せなかった。

 領土侵犯に関する謝罪と通行許可を得るだけでも難しい状況なのに、何故こんな事を書かれたのか、と斗詩は心中で袁紹に訊ね続けた。勿論、答えは返ってこない。

 

「顔良。麗羽への返書は直ぐに書くわ。けどその前に、今言っておきたい事があるの。」

 

 変わらずの冷たい口調で華琳がそう言うと、斗詩はビクッとしつつも返事をし、華琳の言葉を待った。

 

「まず、通行許可は出せない。正当な理由があるならまだしも、徐州を攻めて無用な争いを起こそうとしている麗羽を助ける事は出来ない。また、同じ理由で麗羽と共に徐州と戦うつもりもない。一週間以内に兗州から出なければ、私は貴女を敵と見做す。以上よ。」

「わ、分かりました……!」

 

 静かに、だが力強く断言した華琳の言葉に、斗詩はただひたすら頭を下げ続けるしか出来なかった。事態が最悪の方向に向かっているという事実が、斗詩の胸中を支配していく。それを伝えて、果たして麗羽様はどう判断なさるのか、という心配事が、重く重くのしかかっている。

 その姿を見て、華琳も秋蘭も、他の武官文官も何も言えなかった。華琳は楽にしていなさい、と言ったが、とても楽には出来ないと斗詩は思っていた。

 半刻と経たずに、華琳は返書を書き上げた。内容は先程斗詩に語った事だが、それをきちんと文章で、かつ精緻(せいち)に書き起こしている。流石は正史で文筆家としても歴史に名を残した曹操と言うべきだろう。

 斗詩は華琳から袁紹への返書を受け取ると、深々と頭を下げて逃げる様に退出していった。

 華琳から袁紹への手紙を届けた斗詩は、当の袁紹がどんな反応をするか心配だった。そして、こういう心配事は往々にして悪い方に当たってしまうものだという事を、改めて思い知る事になる。

 

「な……何ですのこれは!? ちょっと顔良さん、華琳さんは本当に私に対してこんな事を言ったのかしら!?」

 

 怒りの余り、返書を破り捨てそうになりながら、何とか踏みとどまっている袁紹は、使者として遣わした斗詩に確認をした。

 

「は……はい。曹操さんは、今回の領土侵犯に大層お怒りで、そこに書かれている事を予め私にお伝えになりました……。」

「では、共に徐州と戦う事を拒否するというこの文章も……?」

「残念ながら、そこに書かれてある通りです……。」

 

 袁紹は返書を破り捨てる代わりに、床に叩きつけた。「どうしてですの!?」と喚いた。こうなると、周りの武官文官はどうする事も出来ない。

 既に触れた事だが、袁紹は華琳を嫌ってはいない。むしろ信頼し、親友と思っていた。

 その華琳から拒絶されたのだ。少なくとも袁紹はそう感じた。その袁紹のショックの大きさは斗詩が考えるより、遥かに大きいものだった。そしてそれだけに、「裏切られた」との思いが強かった。

 勿論、華琳は袁紹を裏切ってなどいない。常と同じ様に仕事をしただけであり、それは誰からも非難されるものではない。仕事をしない方が非難されるのだから。

 だが、今の袁紹にそんな理屈は通用しない。今の彼女にある感情は、憎しみしかない。

 今回の遠征の目的である徐州への侵攻。その目的に対する感情は嫉妬だった。名門の自分よりも民衆から、有力武将から、そして漢王朝から頼りにされている劉備や清宮が羨ましかった。けど勿論、誇り高い袁紹がそんな事言える訳が無い。

 だが、旧知の仲である華琳に対して生じた憎しみは、信頼していたからこそ一気に反転して生まれたものだ。そしてそれは、誇り高いが故に容易に表情、言葉、行動に現れる。

 

「華琳さんを倒します! 皆さん、(いくさ)の準備をしてくださいな‼」

 

 袁紹はその場に居る武官、文官だけでなく、外で待機している将兵達にも聞こえる程の大きな声でそう宣言した。

 驚いたのは斗詩たちである。まさか曹操と本気で戦うとは思ってもいなかったし、今回非があるのはこちらなのだから、普通は華琳の言う通りにするべきなのだ。

 繰り返すが、今の袁紹にそんな道理は通用しない。だからこそ斗詩たちは困っているのだが。



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第十七章 青州解放戦・中編・3

 とは言え、ここで曹操軍と戦う事は出来ないと袁紹軍は理解しているので、何とか回避しようと動く。

 まず動いたのは斗詩である。

 

「麗羽様! 曹操さんはただ自身の仕事をしただけです! それに対して怒ってはなりません‼」

「仕事ですって!?」

「そうです! 領土侵犯をしたのは私達ですから、それに対する法的処置を曹操さんはしているだけです! これで怒ってしまっては、名門袁家の名が泣きます!」

「ぐっ……!」

 

 「名門袁家」、この言葉に袁紹は弱い。

 プライドが高いからこそ、袁紹の様な人物は他人に良く思われたいという気持ちが強い。名門がこんな事で、と思われるのを極端に嫌うのである。

 斗詩はそうした袁紹の性格を知り尽くしている。だからこそ最初に事実を述べ、それから袁紹のプライドに揺さぶりをかけた。これで袁紹の感情は一気に落ち着くものと思われ、事実そうなった。

 

「で、では、徐州軍へのお仕置きにも参加しないのはどういう訳ですの!?」

 

 若干トーンが落ちた口調で訊ねる袁紹。それに答えたのは許攸だった。

 

「麗羽。曹操は、徐州と戦っても意味は無いわ。彼女は黄巾党の乱の時に劉備や清宮たちと共に戦っていて、友好関係を築いていると聞いている。また、揚州の孫家も同じく徐州と友好関係にあり、その関係は曹操のそれより緊密との噂もある。そんな状況で曹操が徐州と戦ったら、恐らく揚州の孫家は徐州に味方するでしょう。そうなると……。」

 

 許攸は袁紹を呼び捨てにし、尚且つ冷静に言葉を紡いでいった。だが、袁紹はその慇懃無礼(いんぎんぶれい)な態度に何故か怒る事無く、話の先を促した。

 

「そうなると……なんですの?」

「曹操は徐州と揚州、二つの勢力から狙われる事になる。曹操軍にも優秀な武官文官は居るけど、それはこの二つの軍も同じ。一対二では不利になる。麗羽は、不利になると分かっていて進んで戦う?」

「戦う訳がありませんでしょう? わざわざ苦戦する必要はありませんわ。」

「そう。今の曹操は、まさにそんな状況なの。だから麗羽と一緒に戦わないと決めたのよ。」

 

 な、なるほどですわ、と納得したのは袁紹。客観的には理解出来ない事でも、自分に置き換えられると理解出来る様だ。

 袁紹が納得したところで、尚も許攸は続ける。

 

「麗羽。ここは一旦兗州から出るのを優先するべきよ。徐州に行くなら、遠回りになるけど山沿いに進んで、臨邑(りんゆう)から祝阿(しゅくあ)(たい)へと進む。つまりは青州に向かうしかないわね。」

「それでは、徐州と黄巾党の戦いに巻き込まれてしまうかも知れませんわ。」

 

 袁紹は尤もな疑問を口にする。だが許攸は、それで良いのよ、と答え、驚く袁紹に向かって説明を始めた。

 

「麗羽が徐州と戦いたい気持ちは分かるわ。けどね、ここで徐州と戦うより、徐州と共に黄巾党を根絶やしにする方が何倍も袁家にとって益になるのよ。」

 

 許攸は、徐州との戦いで得られるものは、徐州との共闘で得られるものより少なく、また、戦う事で損をするという事を懇切丁寧に伝えた。袁紹はその度に反論するものの、口の達者さでは文官である許攸に勝てる筈もない。

 遂には袁紹を丸め込……もとい、説得する事に成功した。筈だった。

 

「わ……分かりましたわ。では、まずは臨邑を目指し……。」

「お待ちください、麗羽様!」

 

 そこで声を上げたのは郭図である。その瞬間、他の者は皆嫌な予感がした。

 

「確かに兗州を出る必要はあるでしょう。ですが、今から北周りで青州に向かっても、既に戦いは終わっているかも知れません。そうなると、この遠征は徒労に終わってしまいます。」

 

 許攸は、また余計な事を、と思い口を挟もうとしたが、それより早く郭図が話すのが早かった。

 

「それよりも、兗州から出ると見せかけて北上した後、再び東南に向かって(ごう)南武陽(なんぶよう)を通り、徐州へ向かうのが袁家の誇りを保つ賢明な方法です!」

「それのどこが賢明なのよ‼」

 

 曹操にそんな見せかけの北上が通じる訳がない、曹操とて人間だから失敗はある筈、と、許攸と郭図の意見は真っ向から対立した。

 許攸が、普通に考えれば兗州を出るまで監視がつく筈だと反対しても、郭図は、兵を動かすのもタダじゃないのだから、ある程度進めば兵を退かせる筈、と譲らない。そんな楽観的な策を述べる軍師が居ますか! と言われても郭図は自分が今回の筆頭軍師だ、と言ってあくまで強気に出る。

 二人とも、袁紹軍では屈指の文官である。舌戦ではそう簡単に決着がつかない。そしてこういう場合、鶴の一声によって決着するのである。

 

「二人ともお止めなさい! 味方同士で五月蠅い罵り合いは禁止ですわ!」

「けど麗羽!」

 

 許攸が更に言おうとするも、袁紹はそれを制して言葉を紡いだ。

 

「ごめんなさい明亜(めいあ)。今回は郭図さんの意見を採ります。」

「麗羽‼」

「ここまで来た兵達を思えば、ここで後戻りは出来ないわ。それに、やはり徐州にお仕置きをしなければ、袁家の誇りは保たれないと思いますの。」

「麗羽……貴女……!」

「……これ以上は、何も言わないでください。いくら親友の貴女でも、拘束しなければならなくなりますわ。」

 

 袁紹は悲しげな目で許攸を見ながらそう言った。許攸はそれでも何かを言いそうだったが、斗詩たちに止められる。

 許攸、真名を明亜と言うが、彼女と袁紹は昔からの親友である。どれくらい親友かと言うと、心を許しあい、危難に駆けつける仲間と呼ばれる、「奔走(ほんそう)の友」という間柄だった。なお、この間柄の人物はもう一人居るが、今回は関係ないので省略する。

 そんな関係だからこそ、許攸はどうしても袁紹を止めたかった。だが、聡明な彼女は、最早袁紹を止める事が出来ないと気付いている。だからこそ、俯いたままその場に居続けた。

 

「……安心してくださいな。先程貴女は“一対二では不利”と仰いましたが、この袁本初がついているのですから、二対二ですわ。もう一度手紙を出してそれを説明すれば、きっと華琳さんも分かってくださいますわ。」

 

 袁紹のその言葉は、常の楽観的かつ理由不明な謎の自信によるものではなく、どこか言い聞かせようとしている様に聞こえた。袁紹自身に対しても、許攸に対しても。

 だが、当然ながら許攸はそんな言葉で納得する様な性格ではない。

 そもそも、もう一度手紙を出したからといって、あの曹操が納得する筈がない。それは許攸だけでなく斗詩たちも分かっていた。それでも、これ以上は何も言えなかった。全ては郭図の進言の所為である。

 許攸は郭図を睨んだ。郭図は丁度後ろを向いているので気づかないが、それで良かったのかも知れない。この時の許攸の顔は、斗詩や猪々子といった武官でさえも恐れ(おのの)く程の怖い表情だったのだから。

 この日、袁紹軍は曹操軍に謝罪と撤退するという内容の書簡を送った後、進路を変えて北上した。予想通り、曹操軍の一部が監視として来たので、数日間は約束通り北上していった。

 ある日、袁紹軍の視界から曹操軍の監視部隊の姿が消えた。間もなく兗州を離れる州境の場所であった為、安心して帰ったのだろうとは、郭図の意見だった。

 それを受けて、袁紹は再び進路を南東に向け、徐州侵攻を再開した。鄴を進発して、既に二十日が経過していた事もあって、焦りもあっただろう。早くしなければ徐州軍が青州を平定して戻ってしまうのではないか、と。だからこそ、兗州内の行軍を急いだ。

 だが、曹操軍は袁紹が思う程甘い相手では、当然ながらなかった。



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第十七章 青州解放戦・中編・4

 “もう一つの監視部隊”から『袁紹軍が南下を始めた』との報告を受けた華琳は、一つ深い溜息を吐くと、傍に居る秋蘭に向けて愚痴を(こぼ)した。

 

「折角、昔からのよしみで見逃してあげたも同然なのに、あの馬鹿は……。」

「袁紹ですから、仕方ありません。」

 

 曹操軍の陣地の中の一ヶ所、武官文官を集めて軍議をする天幕の中で、まさに軍議を進めていた所だった。即席の卓を中心に椅子を並べ、集まった将兵は夏侯惇(かこう・とん)、夏侯淵、荀彧(じゅんいく)許緒(きょちょ)典韋(てんい)など、新旧家臣が揃い踏みという豪華なメンバーである。

 華琳は家臣達を正面左右に見ながら、左側最前列に座っている荀彧に軍議を進めるよう促す。

 

「仕方ないわね。……桂花(けいふぁ)、袁紹軍の戦いに対し、どの様な案があるか言ってごらんなさい。」

 

 荀彧、真名を桂花と言う小柄な少女だが、彼女はこう見えて曹操軍の筆頭軍師を務める程の実力の持ち主である。

 元は身内や同郷の者が居る事もあって袁紹軍に居たのだが、その袁紹は荀彧の理想とする人間ではなかった事もあり、理由をつけて袁紹軍を離れ、曹操軍に入った。

 先の黄巾党の乱では、兵糧の数を華琳が決めていた数より少なくし、その兵糧が無くなる前に賊を討ち果たすという才を見せつけ、軍師としての地位を確実なものとした。

 その後も華琳の右腕としての献策を続け、今回も筆頭軍師として帯同している。

 

「敵は“あの”袁紹です。十回や百回戦っても、曹軍が負ける事はないでしょう。」

 

 桂花は初めにそう断言した。それ自体はこの場に居る者全員が思っていた事でもある。

 

「ですが、敵は十万。対して私達は四万です。兵法に基づけば、まず勝てない状況なのも事実です。」

 

 兵法、例えば孫氏の兵法では「戦争をするなら相手より多く兵を集めるべし。出来ないなら戦うな」とあるので、桂花のこの見解は正しいものである。

 

「とは言え、ここで戦わないという選択肢はありません。もし戦わなければ、“曹孟徳(そう・もうとく)は袁本初に屈した”と世間に喧伝(けんでん)する事になるからです。」

 

 華琳様が袁紹などに屈するはずがあるか! とは夏侯惇。そんなの当たり前でしょ! でも、世間はそう思わないのよ‼ と桂花。

 二人共落ち着きなさい、と華琳が言うと、二人は慌てて落ち着こうとする。

 暫くして桂花は咳払いを一つし、話を再開した。

 

「よって、曹軍は寡兵で袁紹軍と戦い、勝たなくてはなりません。それも、可能な限り兵の損耗を抑えつつ、です。」

「そんな事が可能なのですか?」

「可能よ、流琉(るる)。」

 

 桂花は流琉に向かって断言した。流琉とは典韋の真名である。

 

「戦は、必ずしも敵を全滅させる必要は無いわ。勝利条件なんてものは、その時々によって変わるものよ。流琉、今回の勝利条件は何だと思う?」

「えーっと……袁紹軍を、兗州から追い出す、ですか?」

「その通りよ。」

 

 自軍の倍以上の数である敵軍を全滅させるのは、かなり難しい。倍どころか何十倍もの数の敵に勝った光武帝(こうぶてい)の例はあるが、あの様な賭けをする必要は今回、全く無い。

 桂花は軍師であり、理想と現実の見極めは出来ている。理想は曹操軍が袁紹軍を全滅させる事だが、現実的にそれは無理だと理解している。その上で華琳に勝利をもたらすにはどうすれば良いか、と考えれば、この答えに行きつくのである。

 

「その為の布石は……残念ながら私の手柄じゃないけど、既に打ってあります。ですが、その前に曹軍がする事は、“こちらが袁紹軍を敵視している”という事を相手に分からせる必要があります。」

 

 桂花がそう言うと、再び流琉が声を出した。

 

「それって、攻撃を仕掛ける、って事ですか?」

「そうよ。既に警告をしているのだから、約を破ったらどうなるか、思い知らせる必要があるわ。……相変わらず、袁紹は華琳様を味方だと思っている様だし。」

 

 桂花はそう言うと華琳を見つめた。先日、その華琳から見せられた袁紹からの手紙。そこには華琳に対して徐州を共に討とうという説得文が書かれていた。ハッキリと断られたのに、まだ望みがあると思っている様だと知ると、一応元主君である袁紹を哀れに思ってしまった。

 

「だから、袁紹軍にはここで敵味方の認識をハッキリさせる必要があるの。そうする事で、後で起きる事に大きな影響を与える事が出来るわ。」

 

 後で起こる事とは何だ? と夏侯惇。アンタが知る必要は無いわよ、と桂花。当然また口喧嘩になった。そして華琳が収めた。

 華琳はそこで桂花を座らせた。彼女の役割はここまで、という意味だ。

 続いて指名したのは、最近曹操軍に入った文官だった。

 

(りん)、袁紹軍に対して、どの様に戦えば損害を少なく出来るか、貴女の意見を聞かせてほしいわ。」

「はっ。」

 

 稟と呼ばれた短めの濃い茶髪の少女は、起立しながら眼鏡を合わせ、華琳や諸将に向かって自身の見解を述べ始めた。

 

「桂花殿も仰られましたが、袁紹軍は曹軍の倍以上です。普通に戦っては被害が大きくなります。ですが……。」

「ですが、何だ?」

 

 夏侯惇が訊くと、稟は視線を彼女に向けて説明する。桂花の様に口喧嘩をする関係ではないらしい。

 

「戦いは天、地、人、三つが揃って勝つと言います。つまり天の時、地の利、そして人の和、です。今回はその中で地の利を生かしたいと思っています。」

 

 稟の説明を聞いた夏侯惇は頭に「?」マークを浮かべているかの様な表情だったが、稟は構わず話し続けた。

 

「平地で戦えば、質では勝っていても数で劣る曹軍は苦戦を免れないでしょう。損害も多くなります。ですから……。」

 

 稟はそう言って、卓上に広げてある地図の数ヶ所を指さす。その場所は南武陽、合城、南平陽といった、どこも山沿いの地域である。

 

「私達は袁紹軍の進路を“それとなく”誘導し、この三ヶ所のいずれかで迎え撃ちます。」

「成程、高地での優位性を生かす、という事ね。」

「はい。そして、この中で一番良い場所は南武陽と思われます。」

 

 南武陽は南北を山に囲まれた場所に在り、この中では一番平地が少ない。行軍には少々骨が折れると思われる。その為、行軍の進路としては選ばれないと思われるのだが。

 

「普通は、そうでしょう。ですが、他の場所に曹軍を配置しておけば、それも大々的に部隊を展開させておけば、袁紹軍はそれらの道を通る事はしないでしょう。」

「私に対する負い目が有れば、そうなるでしょうね。けど、そうならなかったらどうするの?」

「その場合は、兗州から出る様に警告を出します。それで大人しく戻ったり誘導できればそれで良し、もし逆上して攻撃してきたのなら、退却を優先しつつ、可能ならこのいずれかに誘導します。」

「そう簡単に出来るかしら?」

「それぞれに伏兵を置き、その際にこちらの兵を多く見せる偽装をすれば、余程の馬鹿でない限りは引き返すでしょう。」

「麗羽は多分、余程の馬鹿よ。」

 

 華琳は言い切った。誰も異論を挟まないという事は、曹操軍での袁紹の評価はその通りという事になる。まあ、恐らくそれは正しいのだろう。

 

「袁紹自身はそうでも、彼女の周りにも文官は居ます。伏兵を見れば危険性を察知し、袁紹に進言するでしょう。華琳様から聞いた袁紹の性格ならば、その様な場面になった場合に撤退すると私は思っています。」

 

 それは、確信に近い言葉だった。稟自身は袁紹と会った事は無い。会った事の無い相手の行動を考えるのは難しいが、それもまた軍師の仕事であり、稟にとっては普通の事だった。

 華琳は暫し考える。彼女の手には二通の手紙が握られている。一通は北から、もう一通は南東から来たものである。

 既に中身は読んでおり、それがこれからの戦いについて書かれたものだという事は確認している。それらを踏まえて熟考した結果、華琳は指示を出した。

 

「稟の策を採用しましょう。伏兵を率いる将には……春蘭が良いわね、稟?」

「ええ。夏侯惇将軍以外にこの役は無理かと。」

「ありがとうございます、華琳様‼」

 

 伏兵部隊の指揮官に指名された春蘭こと夏侯惇は、感激の涙を流しながら、早速部隊編成に向かいます! と言って天幕を出て行った。

 春蘭が指名されたのは、もちろん彼女の実力を買っての事だが、それだけではない。夏侯惇という武将の名声も考慮しての事だ。

 今の華琳には、まだまだ人材が少ない。正史では陣営に加わる筈だった(ふう)こと程昱(ていいく)は、この世界では徐州軍に居る。「人材コレクター」などと渾名される、正史中盤から後半における豊富な人材は、今の曹操軍には居ないのである。

 そんな中で、名のある武将は夏侯惇、夏侯淵の姉妹と荀彧くらいだった。他のメンバーも、正史や演義においては名だたる武将、文官ではあるが、この世界ではその殆どが駆け出しだったりで、世間に知られていない。

 となると、伏兵部隊の指揮官はこの三人の中から選ばざるを得ない。

 文官の荀彧も部隊指揮は出来なくもないが、彼女の本領は軍略にある。よって除外される。

 結果、残る夏侯姉妹の内のどちらかとなるが、ここで重要なのは、指揮する部隊が「伏兵」、それも袁紹軍を混乱させる為の部隊という事である。

 通常の伏兵部隊ならば、九割九分九厘の確率で夏侯淵になっただろう。彼女は武官の中では冷静沈着で思慮深く、いつ部隊を動かせばより効果的かを熟知している。

 だが、今回の伏兵部隊の役割を考えると、夏侯惇が適任である。彼女の武勇は夏侯淵以上に世に知られており、その名前を聞いただけで敵は驚き竦みあがる程である。これ程今回の伏兵部隊の指揮官に最適な者は、今の曹操軍には居ない。華琳と稟はそうした事を考え、春蘭を指揮官に任じたのである。



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第十七章 青州解放戦・中編・5

 そうして、曹操軍は動いた。

 再び現れた曹操軍に対し、袁紹軍は当初、大人しく進路変更をしていた。

 だが、暫くするとやはり進路変更をし、兗州を通過して徐州へ向かおうとした。その度に曹操軍が牽制し、進路変更を促す。

 それが幾度が続いた後、とうとう袁紹軍が攻撃を仕掛けてきた。

 これで袁紹軍は曹操軍と真っ向から対立する事になったのだが、当の袁紹はやはり心のどこかで華琳なら許してくれるだろうと思っていた。そんな筈は無いのに、である。

 大軍で攻める袁紹軍に対し、曹操軍の牽制部隊は寡兵であり、まともに戦う事は無かった。ひたすらに逃げ、それを袁紹軍は追い続けた。

 結果的に、隊列は伸びきった。十万の大軍とはいえ、その隊列がきちんとしていなければ、実力を発揮できないのは自明の理である。そしてこれは、曹操軍の狙い通りだった。

 

ジャーンジャーンジャーン。

 

 どこからか聞こえてきた銅鑼の音と共に、一つの部隊が現れ、猛然と袁紹軍に襲い掛かった。

 その部隊に翻る旗の字は「夏侯」。この時代を生きる者で少しでも戦に通じているなら、曹操軍の夏侯と言えばそれだけで恐れ戦く。これが夏侯惇か夏侯淵かで若干の違いはあるものの、どちらが相手でも恐怖なのは間違いない。剣による死か矢による死かという違いが出るだけである。

 そして、袁紹軍は今襲い掛かってきたのが夏侯惇率いる部隊だと知ると、曹操軍の想像以上の混乱を見せた。お陰で思ったより楽に袁紹軍を切り裂き、多大な出血を強いらせる事が出来た。

 曹操軍襲来の報せを聞いた袁紹は、移動しながら優雅に飲んでいたお茶を落っことすという反応を見せた。

 ガチャン、という音と共に湯呑は割れ、残っていたお茶は馬車の床を湿らせた。誰も拭こうとはしない。ここが戦場になった今、そんな事をしている場合ではないので当然ではあるが、袁紹はそんな事を考える余裕すらなかった。

 根拠は分からないが、何だかんだで許してくれると思っていた華琳が、刃を向けたという事実が袁紹の心を大きく動揺させていた。

 普通に考えれば当然の報いなのだが、袁紹にはそれが理解出来ていない。理解できていればこんな遠征は起こしていないし、今回無駄に将兵を失う事も無かっただろう。

 袁紹は指示を出す事すら出来なかった。周りに居た武官、文官が慌てて指示を出し、撤退を始めた頃、ようやく袁紹は現状認識が出来るくらいに落ち着きを取り戻した。

 

「な、何をしていますの!? あれくらいの敵、ただちに反撃なさい!」

「麗羽、伏兵があれだけとは限らないわ。もしあのままあの場で戦っていたら、被害が大きくなるばかりよ。」

 

 袁紹のヒステリックな言動を明亜こと許攸が諭し、今は兎に角逃げるのを優先するべきと言いくるめた。

 結局この戦いで、袁紹軍は約八百の兵を失った。

 その後も同じ様な戦いが続いた。損害は毎回数百人程度で済んでいるが、塵も積もれば何とやらで、ここまでで約三千七百の兵を無為に失っていた。まだ徐州に着いてもいないのに、被害を出してしまっているのだ。

 そうこうしている内に、袁紹軍は南武陽に続く山道に辿り着いていた。若干行軍には向かないが、ここからでも徐州には行けるので、袁紹はそのまま行軍を指示した。

 だが、流石に軍師たちはこの状況に違和感を感じていた。

 

 何故、自分たちはここに居るのか。

 何故、伏兵しか出てこなかったのか。

 何故、曹操軍はあれから出てきていないのか。

 

 そうしたいくつもの「何故」に気づき、一つの答えに行きついた軍師たちは慌てて袁紹に危機を知らせようとした。

 だが、この時の袁紹軍は鄴を進発してひと月近く経っていた。これ以上遅れては徐州軍が戻ってきてしまうかも知れないと焦っていた袁紹は、軍師たちの意見を採りあげなかった。

 これが、袁紹と袁紹軍のターニングポイントとなった。

 それ程高くはないとはいえ、山の中の行軍はやはり疲労の度合いが違っている。馬車に乗っている袁紹はそれに気づかないが、斗詩や猪々子などはきちんと考慮し、適度に休憩を挟みながら進んでいた。

 山道は、基本的に大きくない。現代ならば舗装、整備されているが、この時代はそうではない。劉邦が蜀の山道でした様にやろうと思えば出来なくはないが、それには大勢の作業員とお金が必要になる。よく使われる道なら兎も角、人通りが少ない山道を整備する余裕は無い。

 そしてそれは、袁紹軍が進んでいる山道も同じだった。



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第十七章 青州解放戦・中編・6

 道幅が大きくないので大軍が展開出来ず、どうしても隊列は細く長く伸びきってしまう。約十万もの大軍ともなれば、その姿は長蛇という字の如く長い蛇の様である。

 

「さて、この大蛇を今から仕留める訳だけど。」

 

 眼下の袁紹軍を見下ろしながらそう言ったのは、曹操こと華琳。彼女は今、袁紹軍が進む山道の脇の崖、その遥か上に居る。もちろん、大軍を率いて。

 華琳は隣に(はべ)る従姉妹で部下に視線を送り、どうするか訊ねた。

 その従姉妹で部下の一人、夏侯淵こと秋蘭が一歩前に出て、恭しく意見を述べる。

 

「この地の利を生かす以上、他には特に策は必要ないかと思います。」

「そうね。それに仕留めると言っても、それは“私達の仕事じゃない”しね。」

 

 華琳はそう言うと、年齢の割に幼いその外見からは似つかわしくない妖艶な笑みを浮かべる。

 華琳たちの役目は、あくまで“兗州に不法侵入してきた袁紹軍を追い出す”事であり、袁紹軍を倒す事ではない。そもそも、今の曹操軍では将兵の質が違うので勝てなくは無いが、それは多大な損害の上での勝利になってしまうので、積極的に戦うつもりはないのである。

 それでも、“予定通り”に部隊を動かし、先回りしてこの場所に布陣するなど、しっかりと仕事はしている辺り、華琳の性格がよく分かる。

 華琳は袁紹軍を見下ろしながら暫し考え、それから静かに左手を挙げた。

 同時に、弓矢を持った部隊が崖の前方に陣取り、構える。あとは放つだけである。

 この時、袁紹軍の一般兵の一人が何気なく空を見上げた。本当に何の意図もなく、ただぶらりと首をあげたのである。

 必然的に、その視界には崖の上に布陣している曹操軍の姿が映り、それが何なのか認識した時には表情が一変し、体温が下がり、あとは大声を上げるだけだった。

 だが、その兵士が声を上げる事は無かった。

 一斉に放たれた矢が、その兵士はもちろん、袁紹軍の将兵の命を次々に奪っていったからである。

 突然の事に、袁紹軍の誰もが対応出来ないでいる。

 先頭の部隊を任されていた張郃は降ってくる矢を自身の得物で打ち落とし、防ぎながら兵士達を落ち着かせようとしたが、徒労に終わった。

 他の部隊を任されていた武官、文官も同じだった。中には兵達と運命を共にした者も居た。袁紹軍の損害は、既に四桁を超えている。

 後方に居た袁紹に曹操軍奇襲の報せが届いたのは、そんな中だった。

 

「な…………っ!?」

 

 流石の袁紹も、今回ばかりは絶句していた。

 今までの様な寡兵による伏兵ではなく、恐らく全軍での待ち伏せ、奇襲。そしてそれによる自軍の大損害。夢であるならば覚めてほしいと思わずにはいられない現状なのだから。

 

「麗羽、すぐに後退を! このままでは全滅してしまうわ!」

 

 異変を察知し、後方から一人やってきた明亜こと許攸が進言する。これには袁紹も二つ返事で了承するしかなかった。

 ただ一人、郭図だけはこのまま全力で前進して徐州に向かうべきと主張したが、自軍の兵士の死体で埋まっている山道を全速力で進める筈がない事、もたもたしている内に全滅する危険性が高い事などから、却下されている。

 とはいえ、狭い山道を約十万の将兵が進んでいたのである。そこを急に方向転換など出来る筈もなく、袁紹軍は大混乱に陥った。ここで追撃されれば、被害は更に大きくなるだろう。

 だが、袁紹軍が必要以上の追撃を受ける事はなかった。

 それは、既に触れた様に曹操軍の目的が袁紹軍を倒すのではなく追い出す事、という理由があるが、それともう一つ、仮に今の華琳が袁紹軍を倒そうとしても、絶対に無理だという状況にある。

 矢が圧倒的に不足しているのである。

 先日より続けてきた伏兵による誘導でも多くの矢を消費し、今回は崖の上からの一方的な攻撃という事もあって、矢の消費が激しかった。

 崖の上という地の利を生かしつつ約十万の袁紹軍を倒すとすれば、どうしても十万以上の矢が無いと難しいのである。

 岩を落とすなどの方法もあるにはあるが、前述の曹操軍の理由と、華琳自身が昔のよしみでそこまでする必要はないと判断しているのもあって、これ以上の攻撃はしなかった。

 

「華琳様、袁紹軍が退却を始めました。」

「そう。では、袁紹軍が南下しない様に気を付けつつ、范まで誘導する様に、春蘭と凪たちに伝えて。」

 

 はっ! と応える秋蘭は一礼してから部隊を率い、姉達が居る場所へと向かう。

 それを確認してから、華琳は傍に居る小さな武官、文官達に声を掛ける。

 

「それじゃあ、私達も行くわよ。皆が待ってるわ。」

「「「はっ‼」」」

 

 三つの声が同じ答えを発し、華琳と共に崖の上の陣を後にした。



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第十七章 青州解放戦・中編・7

 さて、一方の袁紹軍は、流石にこの状況で南下する事は無く、北へと向かっていた。

 袁紹軍は、出発時の一割にあたる一万に近い損害を出した事もあり、このまま徐州へ向かうという雰囲気ではなくなっている。

 しかもここは“敵地”である兗州。またいつ、どこからか敵襲があるかも知れないと考えるのも無理からぬ事。一刻も早く冀州へ帰りたいと将兵達が思うのも、脱走兵が出るのも、仕方が無い事であった。

 また、悪い報せというものは得てして続くものであり、この時袁紹にもたらされた報せは、彼女にとっては華琳に“裏切られた”事に次ぐ驚愕の報せだった。

 

「鄴が……公孫賛軍に攻められた、ですって…………!?」

 

 所々傷を負った兵士が語った事は、突如現れた公孫賛軍によって鄴は混乱した事、敵はそれ程多くなかったものの、混乱していた為に少なからず損害があった事、投獄されていた田豊と陳琳に助けを求めるも、その時には既に公孫賛軍はどこかに消えていた事、などであった。

 話を聞く限り、鄴が盗られたという訳では無い。

 だがそれでも、袁紹の本拠地が襲われたという事実は、袁紹自身が思うよりも大きかった。

 既に触れているが、袁紹はこの漢における名門一族の出である。

 三公というこの国で上位の役職に何人も就いた事があるというのは、実際の所、凄いという一言で言い表せない程の実績である。名門と呼ばれるのは伊達ではないだろう。

 だからこそ袁家にたてつく者は今まで居なかった訳で、それだけに今回、公孫賛が袁家に攻撃を仕掛けた事がどれだけ衝撃的な事か。将兵たちの動揺はなかなか治まらなかった。

 だがここで一つの疑問が生じる。何故公孫賛は鄴を攻めたのか、だ。

 袁紹軍が曹操軍の攻撃を受けたのは、兗州に無断で入り、警告を受けても一向に出ず、それどころか通過して徐州に向かおうとしたからである。厳密にはそこに華琳と涼とが結んだ同盟も加わるが、袁紹たちはそれを正しく把握していないので割愛する。

 一方、袁紹は公孫賛と敵対していた訳ではない。むしろ真名を預け合っている程、相手を認めている。下に見ているのは間違いないが、それは決して差別的なものではない。

 そうした状況で、何故公孫賛が攻めてきたのか。袁紹は全く理由を見つけられなかった。

 ただ一人、軍師の許攸こと明亜は、憶測でしかないが、と前置きしてから話した。

 

「恐らく、曹操はこういった事態に備えて、あらかじめ公孫賛と手を組んでいたのでしょう。」

「こういった事態って何だ?」

 

 文醜こと猪々子が訊ねると、明亜は簡潔に答えた。

 

「袁紹軍が兗州、もしくは徐州に攻め込もうとした時、つまり今よ。」

 

 そこまで簡潔に言われれば、いくらお馬鹿な猪々子でも解る。曹操も公孫賛も、袁紹軍が暴走した際にどうするかという手を打っていたのだと。

 相手が強大な袁紹軍とは言え、兗州を我が物顔で通過されては曹操の面目が立たない。が、今の曹操軍の戦力では袁紹軍と正面から戦うのは難しい。ならばどうするか。その答えが他の諸侯との同盟だ。

 一対一で戦うのが無理なら、二対一、三対一に持ち込めば良い。敵より多く味方を集めよという兵法とも合致する。至極当然の方法だ。

 曹操のメリットは分かった。では、公孫賛にメリットは何かあるのか。勿論ある。

 一つは名声。兗州の危機、ひいては徐州の危機をあの袁紹から救ったとなれば、公孫賛の名声は鰻登りに上がるであろう。

 しかも公孫賛は、無理に袁紹軍と戦う必要はこの際、全く無いのである。

 袁紹が留守にしている鄴をそれなりに攻めるだけで良い。そうすれば、袁紹は鄴に戻るしか選択肢が無くなるからだ。

 本拠地が攻められたのに何もしなかったら、袁紹という人間の器、性格、その他諸々が疑われてしまう。よって、この場合に袁紹が採るべき道は、「徐州遠征を中止して鄴に戻り、急ぎ復興に尽力する」事しかない。

 もし、このまま徐州遠征を続けたり、曹操と戦ってしまっては、将兵達の心は離れてしまうだろう。殆どの将兵達の家族は鄴に居る訳で、その鄴が攻められたと聞いた今、彼等は居ても経ってもいられない心境なのだろうから。

 袁紹もそれは理解していたので、このまま帰還する様に命令する筈だった。だがここで、またも郭図が余計な事を言ってしまった。

 

「鄴に戻られるのは致し方ないでしょう。ですがこのまま何もしないで帰っては、袁紹様の沽券に関わります。」

 

 郭図は続いて、「せめて曹操と一戦し、ある程度の仕置きをしてから帰るべき」と述べた。当然ながら周りから異論が噴出した。当然である。ここで戦うなど、愚の骨頂でしかないのだから。

 だが、郭図が一旦袁紹のプライドを刺激した以上、一戦交えなければならなくなったのは、これまでの経緯を見れば明らかであり、結果的にそうなってしまった。

 許攸たちは思った。

 

『無事に帰れたら、郭図は殺す』

 

 全く持って、邪魔でしかない存在。袁紹軍の名立たる将兵達は皆、郭図に対してその様に思い、憎悪を向けていた。それに全く気付かない郭図はある意味大物なのかも知れない。

 袁紹は部隊を再編し、追撃してくるだろう曹操軍を迎え撃つ為に移動を始めた。この間にも逃亡兵は増えており、兵の数は日に日に減っていった。



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第十七章 青州解放戦・中編・8

 南武陽の敗走から五日、袁紹軍は曹操軍を捉えた。正面十里先、小高い丘に展開している曹操軍は、約三万と見られた。脱走兵が居るとはいえ、九万近い袁紹軍が普通に戦えば、本来は楽に勝てる兵数差である。

 袁紹もそれを分かっており、将兵達に進軍を命じた。大軍という数に任せた、戦法と言えるか微妙な戦い方だが、「華麗に前進」というのが袁紹の基本戦法である為、間違ってはいない。そして、前述の通り、普通ならこの兵数差で負ける事はまず有り得ない。

 だが、兵数差が違ったらどうなるだろうか?

 最初に異変に気付いたのは、南武陽の時と同じく先鋒を務めていた張郃だった。曹操軍の左側に、明らかに曹操軍とは軍装が違う一団が現れたのだ。

 黒を基調とした曹操軍と違い、蒼や緑を基調としたその一団は、「劉」と「清宮」、二つの牙門旗を掲げていた。

 この二つの旗が意味する事を、張郃は正しく受け取った。すなわち、徐州軍が曹操軍の援軍として現れた、という事である。

 しかも、曹操軍の援軍はこれだけではなかった。徐州軍の左側から、今度は紅を基調とした一団が現れた。牙門旗の文字は「孫」。それは揚州(ようしゅう)軍を意味していた。

 この事態に、張郃は慌てて袁紹の許へと駆けた。敵の援軍が現れたというだけでなく、その“兵の総数が自分達と変わらないかも知れない”という憶測を伝える為に。

 

「な、なんですってえぇっ‼」

 

 袁紹は驚愕し、暫し言葉を失った。

 徐州軍が来るかも知れないというのは、流石の袁紹でも予想出来た。名目は兗州から追い出すと言っても、曹操軍の動きが袁紹軍の徐州侵攻を妨害していたのは明らかであり、両者が秘密裏に手を結んでいるのではないかと考えるのは容易だった。

 だが、揚州軍まで来るとは袁紹は予想していなかった。徐州が兗州や揚州と同盟関係にあるのを知らないのだから無理はない。尤も、郭図以外の軍師たちはこの状況をある程度予測していた。

 前述の通りに兗州と徐州が手を結んでいるのなら、徐州が揚州と手を結んでいる可能性は充分にあった。元々、徐州の清宮と揚州の孫家の蜜月振りは噂になっていたし、そんな関係の清宮率いる徐州が、兗州と手を結んで揚州と手を結ばないという事の方が、有り得ない事だった。

 軍師達はこの可能性について献策すべきだったが、曹操軍の奇襲や、公孫賛軍に鄴が攻められた事などが重なって、伝える機会が無かった。袁紹軍にとって不運としか言いようが無い。

 袁紹軍は動きを止めた。兵の数による優位性を瞬く間に無くした事により、袁紹軍の将兵の動揺は大きくなった。しかも相手が曹操、孫策(そんさく)、そして劉備(りゅうび)(勿論、桃香はここには居ないが)と清宮という、現時点の有力諸侯が集まっているのだから、その度合いは何倍にも膨れ上がっていた。

 そんな袁紹軍を丘の上から見下ろす曹操こと華琳。彼女は遥か先に見える袁紹の牙門旗を見つめながら、憐みとも悲しみともとれる表情を浮かべている。

 

「なーに湿気た顔してるのよ。それが曹孟徳のする顔なの?」

「……別に良いでしょ、伯符。」

雪蓮(しぇれん)で良いわよー。これから一緒に戦うんだし。」

「……真名の扱いって、こんなに軽くて良いのか?」

 

 それぞれの部隊から徒歩で華琳の許にやってきたのは揚州軍の総大将である孫策こと雪蓮と、徐州軍の副将である清宮涼。二人共、軍師を連れている。徐庶(じょしょ)こと雪里(しぇり)と、周瑜(しゅうゆ)こと冥琳(めいりん)だ。

 

「まあ、人によっては軽い扱いの人も居るでしょう。鈴々(りんりん)とか、一人称が真名ですし。」

「ああ見えて、雪蓮も考えて真名を許しているのだから、深く考えなくて良いぞ、清宮。」

 

 苦笑しながらそう言う雪里と冥琳。当の雪蓮は何か文句を言いたそうだが、一応戦闘前なので自重した。そんな雪蓮たちを見ながら、華琳も苦笑しつつ、言葉を紡ぐ。

 

「まあ良いわ。雪蓮だけでなく、周瑜も華琳と呼んでちょうだい。」

 

 そうして真名の交換が終わると、それまでとは一気に雰囲気と周りの空気が変わり、袁紹軍と戦うについてどうするか話し合う。

 

「貴女達が来てくれたお陰で、数的不利は解消されたわ。このまま戦っても勝てるでしょうけど……。」

「それでは被害が大きくなるばかりね。」

「うむ。損害を少なくしなければ、兗州まで来た意味が無いからな。」

「袁紹はともかく、周りの武将にはこの状況を不利と見る者も多いんじゃないか? 撤退を進言してくれたら良いんだが……。」

「清宮殿、そう思うのは仕方ありませんが、戦法を考える際はその様な楽観的な考えは捨てるべきです。常に最悪の状況を想定し、策を練る事が最善に繋がるのです。」

 

 涼が雪里に説教されそうになり、慌てて自分の非を認める。いくらこの世界に来て一年以上が経ち、徐州の州牧補佐をしているとはいえ、元々は現代に住む高校生なのだから、考えが甘いのは仕方が無い。しかも、周りに居るのが曹操、孫策、周瑜、徐庶という、三国志に名を残す人物なのだから相手が悪いとしか言い様がないだろう。

 

「まあ、麗羽がどう動くかはともかく、一応手は打ってるから、その結果によってはもう少し兵数が減るかも知れないわね。」

「なら、大丈夫かな。」

 

 華琳の策がどんなものか分からないのに、涼は安心している。それは、彼女が曹操であるからという、涼自身が持つ知識によっている訳である。

 そうして各々の意見を出し合ってから、涼たちはそれぞれの場所に戻っていく。袁紹軍に対してどう動くか決まったらしい。



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第十七章 青州解放戦・中編・9

 間もなく、決戦が始まる様だが、ここで徐州軍と揚州軍がここ兗州に来た経緯を説明しよう。

 涼が華琳との会談を終え、徐州に帰り着いたのは、華琳が袁紹軍に対して軍を動かし始めた頃だった。留守居の雪里たちに会談の結果を伝え、色々な感想その他を言われた翌日、下邳(かひ)に雪蓮達揚州軍が到着した。

 尤も、その揚州軍を率いる雪蓮の第一声は緊張感の無いものだった。

 

「はーい、涼。来ちゃった♪」

「何万も兵を連れて来ているのにそんな軽い言葉て、どうなんだ?」

 

 涼は呆れながらそう言った。後ろに居る徐州軍諸将も同じ様な表情をしている。

 とはいえ、雪蓮が連れてきた揚州軍の面々を見れば、その表情も引き締まっていく。

 揚州軍の牙門旗は勿論「孫」。雪蓮たち孫家を表す旗であり、普段は雪蓮の母である孫堅(そんけん)こと海蓮(かいれん)が使う旗であるが、今回の揚州軍には海蓮は居ないので、代わりに雪蓮が使っている。

 海蓮は揚州に残っている。山越(さんえつ)袁術(えんじゅつ)に睨みを効かせなければならない為、孫堅と、黄蓋(こうがい)以外の四天王は揚州に残る事になった。

 そうして今回遠征軍に選ばれたのは、孫策、孫権(そんけん)孫尚香(そん・しょうこう)、周瑜、黄蓋、陸遜(りくそん)甘寧(かんねい)凌統(りょうとう)周泰(しゅうたい)蒋欽(しょうきん)呂蒙(りょもう)諸葛謹(しょかつ・きん)といった、三国志を知る者にとってはほぼ孫呉オールスターと言えるメンバーである。

 

「細かい事は良いじゃない。それより、涼たちはいつ出撃するの?」

「細かくはないが……まあ良いか。出撃に関してはまだ決めてないよ。」

 

 涼は雪蓮の問いに答えながら、彼女達を予め決めていた場所へと誘導した。なお、兵達の誘導は孫乾(そんかん)こと霧雨(きりゅう)がしている。

 下邳城のとある一室、城の中央部に在る為に外への窓が無いその部屋は、今回の軍議用としてあてがわれた部屋である。従来の軍議で使っている部屋はこことは大きく違う場所に在る。同じ部屋を使わないのは、機密保護の観点からである。

 この部屋を用意する際、涼はその辺に気が付かなかったらしく、やはり雪里に怒られていた。

 この部屋には、青州に遠征中の武将を除いた徐州軍の全武将と、揚州軍の諸将が集まっている。議題はこれからどう動くか、である。

 最初に口を開いたのは涼だった。

 

「この間話した通り、俺達徐州軍は現在、約十万の兵を青州遠征に割いている。最新の報告によれば、青州軍と共に各地の黄巾党を駆逐し、このままなら間もなく臨淄に向かえるという事だった。」

 

 涼のその報告に、揚州軍諸将からどよめきが起こる。揚州軍が事前に集めた情報がどうだったかは分からないが、この間の会談などから、黄巾党の数が物凄く多いという事くらいは知っていただろう。それだけに時間がかかると思っていた様だが、予想以上に早い展開に驚いているのかも知れない。

 尤も、揚州軍の筆頭軍師を務める冥琳はこれも想定内だったらしく、然程驚いていない。

 

「では、青州への増援は必要無いと見て良い様だな。」

 

 冥琳の言葉に涼は頷いて答える。

 実際、青州兵と合流した徐州軍は当初の倍以上の兵数を擁しており、将兵の質を考えればこのままでも黄巾党を倒せるだろうというのが、雪里や鳳統こと雛里の判断だった。

 

「ならば、我々の採るべき策はそう多くない。外敵が現れた場合にこの徐州で迎え撃つか、徐州から出て先制攻撃を仕掛けるか、くらいだな。」

「その外敵だけど、冥琳達は誰を想定している?」

「愚問だな。」

 

 涼の問いに短くそう答えた冥琳は、目の前にある軍議前に出されていたお茶を一口飲み、それから涼や雪蓮を見ながら言葉を紡ぐ。

 

「ここ徐州は北に青州、西には兗州と豫州、南には揚州、東には東海と四方を囲まれている。が、それらの州はどこも徐州の味方だ。なら、敵はそれ以外の所から、になるが……。」

「桃香の親友が治めている幽州はまず敵にならないし、荊州や益州などはここから遠い。なら、比較的近くて尚且つ徐州と敵対しそうなのは……冀州の袁紹しか居ないわ。」

 

 冥琳の言葉を雪蓮が補足する様に紡ぐ。同じ考えだったらしく、冥琳は雪蓮を見て頷くと、更に続けた。

 

「袁紹はその立場上、本来はここを攻める必要は無い。徐州が急成長しているとはいえ、いまだその勢力はこの国における諸侯の中で群を抜いているし、何より大義名分が無いからな。」

 

 徐州、揚州、両方の諸将が同時に頷く。

 

「だが、袁紹は清宮や劉備に対して私怨を抱いている様に感じる。先の十常侍誅殺の際の事を雪蓮から聞いたが、どうやら袁紹は清宮を良く思っていない節がある。それと、玄徳殿の出自に関して複雑な様子だとの情報もある。」

 

 そう言われた涼は当時を思い出し苦笑する。もしこの場に桃香が居たら、同じ反応をしたか、キョトンとしたか。どちらにせよ困っていただろう。

 

「斗詩たちが俺に真名を預けた事を、すっかり忘れていたみたいだしなあ。けど、そんな事でわざわざ戦を仕掛けるんだろうか。」

「さっきも言ったが、確かに普通は攻める事は無いだろう。が、袁紹は自尊心の塊の様な人物だ。先の十常侍誅殺も、本来は良い所だけ取って自分の手柄にしたかったのではないか、と思っている。」

 

 冥琳の想像は恐らく当たっているのだろう。実際は涼が二人の皇子を救出するという一番手柄を立て、袁紹の欲した手柄や栄誉は手に入れられなかったのだが。

 

「迷惑な。こっちは平和に暮らせればそれで良いんだけどな。」

 

 涼は両腕と背筋を伸ばしながらそう呟く。それは現代に生まれ育った涼の偽りない言葉だ。

 だが、それを言葉通りに受け取った者がこの場に何人居ただろうか。少なくとも、冥琳は額面通りに受け取らなかった。口にはしなかったが。

 代わりに、平和に関する冥琳自身の考えを述べた。

 

「……平和というものは、そう簡単に手に入るものでもなければ、維持が簡単なものでもない。手に入れる為に力を得て、更にそれを維持し、内外に示さなければ人はすぐに侮り、そこから平和は崩れ去る。呆気無くな。」

 

 続けて、力の誇示の塩梅も難しいがな、と付け加えた。力を見せなければ統治出来ず、力を見せ過ぎれば人々は反発し、分裂する。それは歴史が証明していると続けたが、それは涼も知っている。

 だからこそ、涼はやはり素直に心情を述べる。

 

「まあね。その為に俺達は試行錯誤している。どんな結果になるかは分からないけど、最善の為に動いているつもりだ。」

「ならば、今から我々がどう動くべきか分かっているのかな?」

 

 そんな涼に問いかける冥琳。涼は彼女が自分を真っ直ぐに見据えている事を確かめつつ、ゆっくり、ハッキリと言葉を紡ぐ。

 

「ここで敵が来るのを待たずに、こちらから打って出る、かな。」

「簡単に言うとそうなるな。」

 

 冥琳は涼の答えに満足したのか瞳を閉じ、口角を僅かに上げた。

 涼がそう考えた理由はいくつかある。一つは徐州に被害を出さない為だ。余所なら被害が出て良い訳ではないが、徐州に被害が出るよりは良いのは確かである。

 もう一つは先に揚州と結んだ盟約が原因だ。この盟約には、青州遠征時限定ではあるが、「揚州軍の兵糧や金子の六割を徐州が負担する」という一文がある。

 つまり、青州遠征時に徐州と揚州が共闘する事態になると、それが長引けば長引く程、徐州の負担が大きくなるという訳だ。いくら桃香が州牧になって以降の徐州が大きな発展を続けてきたとはいえ、当然ながら物もお金も限りがある。

 それでもこの様な約を交わしたのは、是が非でも揚州と同盟を結ばなければならないと考えていたからであり、必要経費と割り切ったからであるが、それでも支出を抑えたいのは当然だ。ならば、先に動いて早めに戦いを終わらせる方が賢明なのは、自明の理である。

 涼は隣に座っている雪里に訊ねた。

 

「雪里、今動かせる兵の数はどれくらい?」

「万が一に際する徐州の守りを考慮して……そうですね、四万程でしょう。尤も、周りが皆味方ですから万が一は無いでしょうが。」

 

 雪里がそう言うと、室内に居る諸将から笑いが起きた。

 尤も、雪里も心の底から言っている訳では無い。同盟など、利が合う者同士が結ぶものであり、利が合わなくなれば簡単に無くなるものだと、聡明な彼女は解っている。

 だがその考えをそのまま口にしては、徐揚同盟にヒビが入ってしまう。だからこそ雪里は代わりに「周りに敵は居ない。皆さんを信頼している」という意味合いの言葉を口にしたのである。

 そしてそれは揚州側も理解しているので、徐州側に合わせて笑ったのである。大人の対応と言えなくもないが、これも必要な事であった。

 

「なら、その数で編成をしよう。武将は……。」

 

 涼のその言葉をきっかけとして、軍議は徐揚両軍の編成についての話し合いへと移っていった。軍議が終わった頃は皆、お腹が空いていた。

 その後、揚州軍の疲労回復や交友の宴などで数日を要し、華琳からの連絡が来て、いよいよ翌日には出陣となった日、徐州側にちょっとした問題が起きた。



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第十七章 青州解放戦・中編・10

 それは、劉徳然こと地香と名乗っている、張宝こと地和によるものだった。

 

「何で私も一緒に行っちゃいけないの!?」

「だから、地香にはここを守っていてほしいんだ。」

 

 地香の自室にてかれこれ一刻の間、この様な涼と地香の会話が続いている。

 ここには他に、雪里、雛里、趙雲こと星、廖淳こと飛陽が居る。この中では、飛陽以外は皆、地香=地和という事を知っている。

 

「桃香が青州に行っていて、俺が明日から兗州に行く以上、地香には徐州に残ってもらって、俺達の帰る場所を守っていてほしいんだ。」

「それは解るけど……ち……私も皆の役に立ちたいのよ。」

「地香が徐州を守ってくれれば、充分に皆の役に立ってくれるよ。」

 

 涼がそう言って地香を宥めても、地香は納得しない。どうやら地香は、戦の役に立ちたいと思っている様だ。留守を守ると言うのも立派に戦の役に立つのだが、地香はそれを解っていない。いや、解りたくないのかも知れない。

 

「ここの守りは羽稀(うき)に任せれば良いじゃない。羽稀は遠征に行かないんでしょ?」

「それはそうだけど……。」

 

 地香が言う羽稀とは、徐州軍武将、陳珪(ちんけい)の真名である。

 軍議の末、羽稀の娘の陳登(ちんけい)こと羅深(らしん)は遠征組に加えているが、代わりに留守を羽稀に任せている。理由は地香と同じく、しっかりと徐州を守ってもらう為であり、元々徐州に居た羽稀にはうってつけであった。

 

「だったら、私が居なくても大丈夫じゃない。」

「いや、だからね。」

 

 地香は引き下がらず、涼も決して譲らない。既に触れたが、この様な会話がずっと続いているのである。

 その様子を雪里たちはそれぞれ呆れ、慌て、苦笑しつつ、見守っている。とは言え、このままでは埒が空かないので、雪里は折衷案を出す事にした。

 

「では地香様、こういうのはどうでしょう。間もなく青州から定期の報せが来ます。その報せの内容によっては、地香様に青州への援軍を率いてもらうというのは。」

「それは……。」

 

 雪里の提案に、地香は大いに心揺らいだ。

 彼女が出撃したいのは前述の通り、戦の役に立ちたいからである。ならばこの提案には乗っても良い筈だ。ただ、青州戦線が優勢に進んでいるという事は地香も知っているので、この提案に乗るという事は、恐らく出陣は出来ないという事でもある。

 それだけに地香は返答に困っている。これを受ければ出陣できる可能性はあるが、限りなく低い。だが、受けなければ絶対に出陣できない。実際は違うといえ、徐州牧の従姉妹として名が通っている地香が自ら軍律を破る訳にはいかない。

 しかも、涼たちは明日には兗州に向けて出陣しなければならない。その為の準備もまだ終わっていないかも知れないので、これ以上この話題で彼等を足留めさせる訳にもいかない事は、地香も解っている。

 その為、地香は暫し考えた後、雪里の提案を受け入れる事にした。雪里は極力、表情には出さなかったが、涼は彼女の内心が揺れている事を気づいていた。

 翌日、徐州軍は揚州軍と共に兗州への援軍として出陣して行った。

 総勢八万以上になる大軍を見送った地香は、前日と違って晴々とした表情をしている。

 それから程なくして、青州からの定期連絡が入った。内容は以前と然程変わらず、優勢に進めているとの事だった。これで、地香が出陣する事はないと、徐州居残り組は皆思った。

 だが、予想に反して地香は出陣を命じた。兵数は一万。筆頭武将には趙雲、筆頭軍師には鳳統が選ばれた。

 これには皆が異論を唱えたが、地香は一通の手紙を見せ、今回の出陣の正当性を説いた。

 

「確かに、桃香様からの手紙には援軍の要請は無かったわ。けど、ここで援軍を出せばそれだけ早く遠征は終わる。青州が落ち着けば、兗州遠征も早く終わるでしょう。良い事尽くめです。」

「あわわ。で、ですが、そうすると徐州の守りが薄くなります。」

「徐州の周りに敵は居ないわ。主だった将が羽稀殿一人でも、問題は無い筈よ。違う?」

「そ、それはそうですが……。」

 

 地香の言葉に雛里も言い返せない。地香の言う事は、先日雪里が言った事と同じだからだ。

 言い返したら、否定した事になる。否定しては、徐揚同盟に信頼は無いという事になってしまう。この場に揚州軍の将兵は居ないものの、「周りに敵が居る」とは、決して口にしてはいけない言葉である。

 その代わりに、星が別の理由を持ち出して反論とした。

 

「地香殿。青州遠征は以前の報告で既に総仕上げに入っていたのだ。もう賊を倒しているのではあるまいか?」

「そうだったらそれで構わないわ。けど、戦は必ずしも計画通りに行くとは限らないわ。敵の抵抗が激しかったら時間が掛かるし、天気が悪ければ進軍が遅くなる。だったら尚更援軍を出すべきだと思うのだけど。」

 

 地香はそんな星の反論に、彼女らしからぬ理路整然とした答えを返した。これには星も驚いたが、すぐに表情を戻し、地香たちの話を聞きながら密かに思案する。

 

(地和のこの落ち着きっぷり……清宮殿か雪里に何か含まれたか。)

 

 星のその予想は当たっている。地香が手にしていた手紙は、昨夜の内に涼が雪里と相談の上に書き上げ、今朝の出立前に手渡した物である。

 内容は先程、地香が言った通りであり、手紙には青州へ援軍を出す正当性をいくつも書き連ねてあった。地香はそれを口にしているだけであった。

 そうして手紙の内容を知った諸将は、そこに二人の、主に涼の意図がある事を察した。その為、これ以上の異論は挟まず、地香の指示に従った。なお、留守居の責任者は当初の予定通り、陳珪が承る事になった。

 地香は一万の大軍を率いて青州に向かった。地香の傍らには、副官として廖淳こと飛陽が侍っている。彼女も気持ちは地香と同じである。

 徐州援軍は、桃香たちが青州の殆どを黄巾党から取り返しているお陰で、さしたる苦労もなく進軍していった。その為、桃香たちのそれとは進軍速度が大きく違った。

 途中、一、二度の大休止を挟んだものの、目的地へは予定より早く到着すると思われる。

 

「地香様、良い天気ですね。」

「そうね。このまま、最後まで持ってくれると良いのだけれど。」

 

 どこまでも澄み渡る蒼。そんな空を見上げながら、飛陽と地香は馬を進める。

 この空の様にのんびりとした日々はいつになるか、そんな事が地香の脳裏をかすめる。そののんびりした日々の為に、今の自分達が動いているんだと、言い聞かせて。

 

「進軍速度をやや速めるわ。後続に通達を。」

「はい!」

 

 地香の指示を受けた飛陽は、それを後続部隊に報せる為に馬を走らせ、地香は暫し飛陽を見つめていたのだった。



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第十七章 青州解放戦・中編・11

 場所と時間は戻って、再び兗州。曹操、孫策、清宮の連合軍は、侵入者である袁紹を追い出す為に戦端を開き、主導権を奪っていた。

 だがそれも仕方がない事であった。何せ、戦端を開いた時の将は張飛、夏侯惇、甘寧と、それぞれの部隊の猛将・勇将だったのだから。数ばかりでまともな将が少ない袁紹軍では、太刀打ちできないのも当然であろう。

 その、数少ないまともな将である張郃や審配などは、混乱する部隊をまとめて応戦、撤退を繰り返していた。緒戦で劣勢に立たされた事を悟った袁紹軍諸将は、袁紹を守りつつ事態の好転に務めていた。

 だが、兵数がほぼ同じ両軍が激突した場合、あとは将と兵法の質が結果に繋がる。袁紹軍のまともな諸将はそれを程なく理解し、早々と「敗戦」を覚悟した。

 覚悟しつつも、主である袁紹を守る為に逃げないのは立派な姿勢であろう。が、勿論全ての兵がそうであったのではなく、ただの兵士達の多くは逃げ出し始めていた。誰だって命は惜しい。客観的に見れば、彼等の行動を非難する事は出来ないだろう。

 何せ、鈴々が蛇矛を一振りするだけで人が紙の様に吹き飛び、次いで動かなくなっていった。春蘭がその大剣を振るう度に、兵の体は真っ二つになる。思春が曲刀を振れば、前者二人より派手さは無いものの、確実にその息の根を止めていくのである。その光景は、袁紹軍からすれば恐怖以外の何物でもない。

 しかも、開戦前に袁紹軍に更なる凶報が伝わっていたのだから、混乱に拍車がかかったのは仕方が無かった。

 

「南皮までも白蓮さんに攻撃されたなんて……一体どうなってますの!?」

 

 一応、後方で指揮を執る形の袁紹が、苦々しい表情をしながら声を荒げる。

 間もなく開戦という時に袁紹の許に届いた報せは、「南皮襲撃。被害甚大」という内容だった。

 南皮は、鄴から見て遥か北東に在り、青州に近い。……ここから青州に移動して黄巾党を討ちつつ徐州に攻め込んだ方が良かったのではなかろうか。

 その南皮は、袁紹が治める地域では鄴に次いで大きな街である。大きい街という事は人が多く、物が多く、豊かであるという事に繋がる。そんな南皮が攻められたとしたら、当然袁紹軍にとって大きな痛手となる。

 だが、冷静に考えれば南皮が攻められたという話は嘘だと分かる筈である。

 何故なら、南皮を攻めたという白蓮、つまり公孫賛は、それ以前に鄴を攻めている。これは鄴から来た袁紹軍兵士によって伝えられたので、事実である。

 繰り返すが、ここは現代ではない。三国志演義を元にした様な、移動に関しては徒歩か馬を使うくらいしか方法がない世界である。

 そんな世界でこの短期間に鄴と南皮を移動し、かつ甚大な被害を与える事など不可能に近い。順序が逆であったら多少は可能性があったかも知れないが、そうなると今度は鄴を攻める事が難しくなる。よって、南皮襲撃は嘘と分かる。

 許攸たちはその事に気付いたが、大軍が現れて混乱していた袁紹軍が、この偽報によって更に混乱したのである。その上、その機を見逃さなかった華琳達が攻撃を開始したので、更に混乱に拍車がかかった。こうなっては、いくら許攸たちでもどうしようもなかった。

 そうこうしている内に袁紹軍の前線は崩れ、曹操軍を先頭とした連合軍がその傷口を広げていった。大量の出血を強いられた袁紹軍は支離滅裂となり、バラバラになった部隊は各個撃破され、袁紹は顔良と文醜に引きずられる様にして後退していく事となる。

 更に連合軍は追撃を開始。その追撃は凄まじく、落伍する者、逃亡する者が多く出た。結局、追撃は袁紹軍全軍が兗州を出るまで休みなく続いた。

 勿論、連合軍にも被害は出たが、袁紹軍のそれとは比べ物にならないくらいに少なかった。激戦を覚悟していた涼は余りにも呆気なく決着した事に驚いていたが、将兵を余り損じずに済んだ事を内心喜んでいた。

 だが、雪蓮と冥琳はこの戦で将兵を鍛えるという目的を持っていたので、一方的になったこの戦に関して微妙な感情を抱いていた。

 

「冥琳、ちょーっと予想外の展開になっちゃったわね。」

「ああ。これでは兵達を余り鍛えられん。」

「とは言え、元々の目的は達せられそうだから、文句は言えないわよね。」

「そうだな。まあ、今回は若い将兵に経験を積ませる事が出来たとして、納得するしかないな。」

「冥琳、何だか年寄りくさいわよ。」

 

 うるさい、と苦笑する冥琳たちを遠目に見ていた涼は、これを一体どう捉えたのか。

 また、雪里も冥琳と同じ様に思っていたのだが、安堵する涼を見て、また、周りに居る雪蓮たちを警戒して、本心を言う事は無かった。

 一方、命からがら鄴へと帰還した袁紹は、残存兵数が五万をきっていたと知ると、落胆した後に激怒し、華琳達への怒りを露わにした。

 

「華琳さん、孫策、そして清宮! 覚えていなさい! いずれこの屈辱を万倍にして返してみせますわ‼」

 

 この怒りが、後に涼たちを翻弄する事になるが、それは別の話である。

 袁紹は軍の再編を命じた。袁紹が動かせる兵はまだ数十万もあったので、ここで再び出陣する事も、一応可能ではあった。

 だが、惨敗による士気の低下や、大義名分の無さなどを許攸たちに説かれ、出陣は取り止めた。

 また、許攸たちは同時に、今回の敗戦の戦犯だと主張した郭図の処分や、投獄されていた田豊、陳琳たちの助命嘆願を願い出た。結果、田豊と陳琳の助命嘆願は成ったが、郭図の処分は成らなかった。

 これには諸将から不平不満が出たが、「勝敗は兵家の常ですわ」という袁紹の言に反論は出来なかった。実は、郭図が事前に袁紹に「自分を処罰しては、命じた袁紹様の格が落ちてしまいます」と言い含めていた事が原因なのだが、それを許攸たちが知るのは青州の動乱が終わった後であった。

 さて、大勝した連合軍は、袁紹軍の完全撤退を確認した後に陳留(ちんりゅう)へと移動した。華琳は州境に兵を置き、袁紹軍の動きに目を光らせる事にした。

 陳留に着いた連合軍は戦勝の宴を開き、将兵を労った。主催者である華琳のセンスの良さもあり、出された食べ物はどれも旨く、戦でお腹を空かせた将兵の腹を大いに満たした。尤も、鈴々の食べる量には流石の華琳も呆気にとられ、更に許緒が鈴々に食べ比べを仕掛けた事もあり、一時的に曹操軍の食糧事情が危なくなったのは言うまでもない。

 涼と雪蓮は宴の翌日、徐州へと戻る事にした。この時点では青州の結果が分かっておらず、不測の事態に備える必要があったからである。

 徐州へ戻る際、見送りに来た華琳が妖艶な笑みを浮かべながら涼に言った。

 

「私も徐州に行こうかしら?」

「ありがとう、華琳。けど、気持ちだけ受け取っておくよ。しばらくは袁紹の動向を監視しないといけないだろう?」

 

 涼がそう応えると、華琳は大いに、だが上品に笑った。

 勿論、華琳も本気で言ってはいないだろう。だが、ここでそう言ったという事実が彼女には必要なのである。現在はまだ勢力が大きくない曹操軍を維持し、発展させる為には「天の御使い」のネームバリューが必要なのだから。

 そうして兗州から徐州へ戻った涼たちは、将兵の疲れをとりつつ、揚州軍との友好を深め、青州に動きがあればすぐに動ける様に準備をしていった。

 こうして、兗州方面の戦いは終わったのである。




「青州解放戦・中編」、いかがでしたでしょうか?

本当はこの回で青州編を終える予定だったのですが、文字数が増えてきたので三部作になってしまいました。多分、次はちゃんと終わるでしょう。
今回は、桃香達が青州で戦っている時に余所で何があったのか、という話にしました。話の展開上、麗羽が割を喰ってしまいましたが、これで次の話に繋げられるんじゃないかと思います。あと、麗羽は嫌いじゃないので、後々活躍させる事が出来ると思います。
いつになるか分かりませんが←

さて、次の後編は「青州編」を書く際にどうしても書きたかった展開になります。
これを書きたいが為に青州編という、恋姫小説でもSSでも余り見ない、青州を舞台にした話を書いてきた訳です。
後編を書き終えるまで何日掛かるか分かりませんが、可能な限り更新していくので、これからもよろしくお願いします。


2016年4月21日更新

誤字脱字の修正と文章の追加をしました。
2017年7月7日掲載(ハーメルン)


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第十八章 青州解放戦・後編・1

黄巾党の最後の足掻きが続く。

桃香たち徐州軍は、全軍をもってそれに立ち向かう。
風は、どちらに向いているのか。


2016年4月21日更新開始
2016年6月21日最終更新


2017年7月8日掲載(ハーメルン)


 時間と場所は戻り、というか進み、青州(せいしゅう)臨淄(りんし)

 臨淄に立てこもる黄巾党(こうきんとう)を討ち滅ぼすべく、劉備(りゅうび)こと桃香(とうか)諸葛亮(しょかつ・りょう)こと朱里(しゅり)関羽(かんう)こと愛紗(あいしゃ)と共に臨淄の街を邁進していた。

 障害となる筈の黄巾党の抵抗は(ほとん)ど無く、無人の荒野を行くかの如く、徐州(じょしゅう)軍は進んでいった。

 だが、この展開に、朱里は戸惑いつつ思案に耽っていた。

 

(おかしい……いくら何でも、敵の抵抗が無さ過ぎます。私達の勢いに呑まれて、逃げている……!? ううん、そんな楽観的な考えはダメ。だとしたら、これは一体……?)

 

 朱里は冷静に分析していった。水鏡(すいきょう)こと司馬徽(しば・き)の門下生の中で最も優秀な人物とされ、同級生を中心に“臥龍(がりゅう)”と呼ばれてきた朱里は、ありとあらゆる書物に目を通し、軍略や政治だけでなく天文にも通じている。そんな彼女だからこそ、違和感には敏感であり、些細な事も策に転じる必要がある軍師という役職は天職であると言える。

 彼女は周囲を見渡した。

 敵兵が隠れていそうな建物はいくつも在るが、どれも古く、また壁や屋根に穴が空いてるので、隠れているかどうかは直ぐに分かる。

 敵兵の本陣と思われる場所まではまだ比較的距離があり、そこから敵兵が来たとしても充分に対応できるし、矢が飛んできても盾で防げるだろう。むしろ、騎馬の勢いや弓兵で返り討ちに出来ると判断した。

 一見、見落としは無い。だが、朱里には何か胸騒ぎの様な違和感が、その胸中にずっと去来している。

 と、その時、風向きが変わった。

 それまで徐州軍を押し出すように後ろから吹いていた風が、突然、向かい風に変わったのである。

 だが、それが朱里にとっては幸いした。

 

「……っ! これは……! 全軍、止まってください‼」

 

 朱里の急な命令に、桃香を始めとした徐州軍諸将は戸惑うが、何とか急停止に成功する。(もっと)も、何人かは止まれずにぶつかったりしていたが、幸いにも戦闘行動に支障は無かった。

 

「ど、どうしたの、朱里ちゃん!?」

「桃香様、急いで後退を!」

「だ、だからどうして!?」

「前方から油の匂いがします! これは恐らく、周囲の建物などに染み込ませているものかと。つまりは火計の罠があるという事です! ですから急いでください!!」

 

 朱里の必死な表情と声が、緊急を表していると桃香は察した。桃香には朱里の様な戦術眼は無い。だが、状況判断能力はその可愛らしい、のんびりとした外見とは違って意外と高い。それは、朱里が司馬徽の(もと)で学んだ様に、桃香も盧植(ろしょく)の許で学んできたからだろう。

 桃香は直ぐに後退を命じた。だが、ここは街の中であり、それだけに一部隊とはいえその数は大軍と言えた。よって後退は容易ではなく、命令が最後尾に伝わって後退を始めるまでの時間は数刻もの長さに感じられた。

 そして、それを見逃す黄巾党ではなかった。

 異変に気付いた朱里が声を上げる。

 

「桃香様、火矢が飛んできます‼」

「えっ!?」

 

 慌てて見上げた前方の空から、無数の火矢が徐州軍の周囲に向かって飛んでくるのが見えた。徐州軍そのものに向けても損害を与える事は出来ただろうが、それよりも大きな損害を与える事が出来ると踏んだのだろう。

 それはつまり、朱里の懸念が当たってしまったという事で。

 火矢が前方の建物などに落ちた瞬間、その懸念が現実のものとなったのである。

 桃香たちの前方で瞬時に燃え盛る建物。その炎は周囲の建物へと延焼していき、瞬く間に桃香たちの周りは炎に包まれた。

 

「きゃあっ‼」

「桃香様! 皆さん、急いで後退を! このままでは……‼」

 

 朱里はそこで言葉を飲んだ。

 手遅れかも知れないが、これ以上部隊を不安にさせる言葉を出してはいけないと、瞬時に思ったからだ。この部隊は桃香直属の、義勇軍時代からのメンバーを中心に構成された歴戦の勇士達ではあるが、火計の前ではただの人間でしかない。

 朱里が危惧した通り、部隊は混乱した。我先にと逃げようとする者が続出した。現代日本の避難訓練では「慌てずに避難しましょう」とよく言うが、実際に火事に遭ったらそう冷静にはなれないかも知れない。そう考えるとこの行動を非難出来ないのも確かである。

 

「‼ 桃香様、避けてください‼」

「えっ? きゃあっ‼」

 

 愛紗の声に反応した桃香は反射的に身を動かし、飛んできた矢をかわした。

 黄巾党はここを好機と見て、動きが鈍い桃香たちに向けて矢を放ってきたのだ。距離があるので通常ならかわすのも防ぐのも簡単だが、混乱している今はそうもいかない。何人もの将兵がその身に矢を受け傷つき、または絶命していく。

 

「……っ‼」

 

 桃香は息を飲んだ。既に何度も経験している事ではあるが、やはり目の前で人が死ぬのを見るのは辛い様だ。黄巾党の乱が起きなければ、ただの村娘として生きていたのかも知れない彼女だから、辛いのも当然ではあるが。

 だが、黄巾党にはそんな桃香の事情など関係ない。

 二の矢、三の矢が、桃香たちに向けて放たれていった。このままでは全滅も有り得てしまうだろう。



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第十八章 青州解放戦・後編・2

 だが、桃香は運が良かった。と言って良いだろう。風向きがまた変わったのである。

 向かい風が急激な追い風となり、炎は徐州軍から遠ざかり、矢は突風に煽られて途中で落ちていった。黄巾党の陣から怒りの声があがるが、自然の力にはどうしようもない。

 風は強さを増していく。不思議な事に、徐州軍の諸将にはさほど強く感じないが、黄巾党陣営にはとてつもない向かい風らしく、黄巾党の動きが完全に止まっていた。

 天候の変化はこれだけではない。空も急激に変わっていく。

 それまでは、比較的雲も少なく、青空がどこまでも見えていたが、いつの間にかどんよりとした雲が広がっていた。余りにも黒い、誰もが雨雲だと認識できる雲が、徐州軍、青州黄巾党両軍の頭上に展開していた。

 それは、徐州軍にとっては文字通り天の助けであり、黄巾党にとっては忌むべき存在だった。

 

「雨です!」

 

 朱里が空を見上げ、歓喜の表情で叫んだ。

 ぽつぽつ、と降り始めた雨は、あっという間に豪雨へと変わった。現代で言うなればゲリラ豪雨だろうか。その雨量は凄まじく、地面を打つ音が桃香たちの声を遮る程であった。

 それだけの雨が降った事により、桃香たちを呑み込まんとしていた炎は次々に消えていった。いくら油を撒いてあったとはいえ、大量の水の前には炎の勢いも負けるしかなかった様だ。

 そうして炎が鎮火していく様を見ていた桃香たちは、ずぶ濡れになっていく体を気にする事もなく、この雨が目の前の黄巾党を倒す為の僥倖(ぎょうこう)だと考えていた。

 青州黄巾党にとって乾坤一擲(けんこんいってき)の策だったと思われる火計は、この豪雨の前に潰えた。ひょっとしたら他にもまだ策があるのかも知れないが、敵の様子から察するにその心配はない様に思われる。

 ならば、やるべき事は一つである。

 桃香は一瞬だけ表情を暗くした後、両脇に(はべ)る愛紗と朱里に命じた。

 

「愛紗ちゃん、朱里ちゃん。総攻撃を再開して。」

「はっ!」

「御意です!」

 

 主君の命を受けた二人は共に部隊を動かした。焼け跡の先の道が二手に分かれていた為、愛紗の部隊は右から、朱里の部隊は左からそれぞれ進んだ。

 黄巾党も黙ってはいなかったが、彼等が矢を射る度に強烈な向かい風が襲い、矢は射程距離の半分も飛ばなかった。逆に、徐州軍が矢を射ると追い風ばかりが吹き、通常より長く飛んでいく。

 その様子を見ながら桃香は指示を出す。この頃には別働隊だった時雨(しぐれ)こと田豫(でんよ)の部隊なども合流し、勝利は目前に迫っていた。

 そんな時、桃香は合流した部隊の面々に、「ここに居る筈がない」者が居る事に気づき、驚きを隠せずにいた。

 

「ち、地香(ちか)ちゃんに(せい)ちゃんに雛里(ひなり)ちゃん!? どうしてここに!? 徐州はどうしたの!?」

 

 徐州に居る筈の三人、地香こと劉燕(りゅうえん)、星こと趙雲(ちょううん)、雛里こと鳳統(ほうとう)が青州の自分の目の前に居るのだから、驚くのは無理もなかった。

 そんな桃香の問いに答えたのは星だった。

 

「我々は救援に来たのです、桃香様。徐州の守りについては、羽稀(うき)殿に任せているのでご安心くだされ。」

「救援って……私、そんな要請してないよ!?」

清宮(きよみや)殿が仰ったのだ。“少しでも多く部隊を出せば、それだけ早く戦いが終わるから、援軍として青州に行ってほしい”、と。まあ、これを見る限りでは確かに救援の必要は無かったでしょうな。」

 

 星はそう言うと前方で繰り広げられている戦闘に目をやった。

 愛紗率いる部隊が、次々に黄巾党の将兵を斬り伏せていく。敵の本陣らしき建物から敵の増援がわらわらと出てくるが、士気は低い様で、大した抵抗も出来ずに討ち取られるか、降伏している。どうやら大勢は決したと見て良い様だ。

 

「まあ、戦いが終わるまで油断は出来ませんがな。という訳で、私も行って来ます。」

 

 星はそう言うと部隊を率いて前へと進んでいく。

 趙雲隊が参戦した事により、青州黄巾党の瓦解は決定的なものとなった。

 趙雲こと星は、徐州軍に入って間もない。その為、歴史を知っている(りょう)や、短期間とは言え共に戦った桃香たちはその実力を知っているが、多くの徐州兵は星の力を疑問視し、侮っていた。登用されて直ぐに部隊を任された事も一因としてあるだろう。

 だが、その後の訓練の厳しさや、愛紗や鈴々との模擬戦で互角の戦いをしてみせた事で、そうした疑念は消え去っていった。その為、この趙雲隊は徐州軍の部隊の中で結成されてからの期間が一番短いのに、練度はそう劣っていない。このまま成長していけば、間違いなく徐州軍の主力となるであろう。

 兵を鼓舞するかの様に先頭を行く星は、愛槍「龍牙(りゅうが)」を手にし、次々に賊を(ほふ)っていく。

 その名の通り、牙の様な真紅の二つの刃を持つその槍は、白を基調とした衣服とは対照的な輝きを持っている。それでいて、星の実力を如何無く発揮する鋭さを持っており、彼女がその槍を振る度に紅い飛沫が飛び散っていった。

 桃香はそれを見ながら、暫し考え、次いで時雨たちにも攻撃を命じた。戦いを終わらせる為の命令である。



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第十八章 青州解放戦・後編・3

 その結果、討死、または降伏する青州黄巾党が増えていった。桃香はそれを見ながら息を呑みつつ、地香を自分の傍に呼び、手拭いを渡しながら小声で話し掛けた。

 

「地香ちゃん、髪が元の色に戻っているから、これを頭に巻いて。」

「あ、濡れて色が落ちちゃったのね。この雨だから仕方ないけど。」

 

 素の“地和(ちぃほう)”として会話をしながら、地香は桃香の手拭いを頭に巻いた。

 “地香”としての彼女の髪は茶色であり、ストレートである。水色にサイドテールという、本来の髪型では、万が一の事があるかも知れないという判断により、髪型を変えている。

 だが、この大雨で染めていた髪が元に戻っている。桃香が地香を呼び寄せたのは、その髪を隠す為だった。

 その間も徐州軍の猛攻は続き、残るは、管亥(かんがい)率いる本隊と少しの部隊だけとなった。

 だが、管亥は圧倒的に劣勢なこの状況下で、何故か笑っていた。いや、喜んでいたと言った方が良いかも知れない。

 

「あれは……間違いない!」

 

 管亥は何かを確信してそう叫んだ。周りの部下達が怪訝な顔をするが、気にせず一方を凝視している。

 

(地和ちゃんだ……生きていたんだ!)

 

 続いた言葉は、心の中で叫んだ。無意識の内に部下を気にしたのかは分からない。

 そう、管亥が見ていたのは、遠くに布陣する徐州軍。その中に居る一人の武将、劉燕。そしてその正体は元黄巾党の首領の一人、張宝(ちょうほう)こと地和である。

 繰り返しになるが、地和は今、涼達の取りなしもあって名を変え、桃香の従妹として徐州軍の一角を担っている。武力は無いが、かつて黄巾党を率いていたからか思ったより部隊指揮を苦にせず、戦闘では主に後方支援や伏兵として活躍している。

 名と姿を変えている為、彼女が張宝だという事は気づかれていない。彼女の正体を知っているのは、涼や桃香といった、地和が仲間になった経緯を知っている者か、朱里や雛里といった、その事を知らされている徐州軍の一部だけである。

 やはり元黄巾党である廖淳(りょうじゅん)こと飛陽(ひよう)ですら、地香が地和だという事に気づいていない。まあ、飛陽は余り地和の傍には居なかったらしいから、それも仕方ないかも知れない。

 だが、かつて張三姉妹の親衛隊をしていた管亥は地香が地和だと気づいた。今の地和は地香と名を変え、髪を染め、髪型を変えていて、服装も前とは全く違う。更には距離が離れているのに、気づいたのだ。

 それは管亥に残った、かつての張三姉妹親衛隊としての想いの為せる技だったのかも知れない。

 だが、管亥が続いて思った事は、親衛隊時代は決して思わなかった事であり、この男が只の賊に成り果てた事を表すものであった。

 

(これは良い……ここで地和ちゃんを捕まえて、俺の女にしてやる!)

 

 何とも下卑(げび)た表情と思いだが、これが今の管亥なのである。最早、昔の様にはなれない。恐らく、なる気も無いだろう。

 管亥は部隊に突撃を命じた。敵である徐州軍には勢いがあり、数も多い。その命令は死にに行けという事である。当然ながら反対意見が続出した。

 それに対し管亥は近くに居た者を斬り殺し、地香を指差しながら「旗を見る限り、あそこに居るのは敵の大将に違いない。あの女を捕まえれば、まだ勝機はある!」と言い放った。

 だがそれは、余りにも非現実的な考えとしか言い様がない。

 管亥達の目の前には、関羽隊、諸葛亮隊、趙雲隊の大軍が壁の様に立ちはだかっている。しかも、後続の部隊が援軍として続々と集まってきているのだ。

 桃香達が居るのは目の前の徐州軍の向こう側であり、突破するのは至難の業、というより無理である。兵の数だけならまだ互角だ。数だけなら。

 だが、その大半は既に戦意喪失しており、非戦闘人員も多い。(むし)ろ、非戦闘人員の方が多いのだ。勝敗は決していると言って良い。そんな中での突撃は、無謀でしかないだろう。

 だが、今の管亥にとっては最早、青州黄巾党がどうなろうと関係ない。只、自分の欲望の為に動いている。青州黄巾党が何人死のうが、殺されようが、どうでも良い。

 今の管亥には、地和を自分のものにするという目的しかない。その為には、仲間である筈の黄巾党も単なるコマでしかない。いや、それはもっと前からだったのかも知れない。

 管亥は部下達を睨みながら再び命じる。今度はそれぞれの部隊は大人しく従った。逆らえば殺されるという事実が目の前で起きた事で、彼等の思考を混乱させた為だ。恐怖による思考支配は、冷静さを失わせ、本来なら選択出来る事を選択させないという特徴がある。

 今回の場合なら、部下達は管亥を殺して降伏すれば命は助かったかも知れない。だが、そうした考えに至らなかったのは、恐怖によって支配されたからである。

 かくして、不幸にも部下達は徐州軍への突撃を開始しなければならなくなった。既に数的、士気的等々で不利になった状況での突撃の為、多くの黄巾党の命が無為に散っていった。

 だが、その文字通り必死な突撃により、徐州軍の兵士達の一部が動揺する事になった。

 その動揺した所に、青州黄巾党が襲い掛かり、僅かながら穴が出来た。その穴を広げる様に別の部隊が突撃し、遂には一部隊が通り抜ける事が出来る道が出来た。

 

「てめえら、よくやった‼」

 

 管亥はそう言いながら自らの部隊を率いて突撃を仕掛けた。目標は勿論、地和こと張宝が居る徐州軍の本陣である。

 部隊の殆どを黄巾党鎮圧の為の総攻撃に出している為、手薄と言えば手薄だった。また、この豪雨で周りの音がよく聞こえず、ある程度の接近を許してしまったのは、徐州軍にとって不運だった。只、兵数は圧倒的に上回っている。桃香は多少慌てながらも、迎撃を命じた。

 徐州軍は弓矢を構え、向かってくる管亥達に容赦なく放った。

 一人、また一人と、管亥の部隊から脱落者が出ていく。それでも、管亥は止まらない。周りの者達も、そんな管亥に()てられたのか、自棄になっているのかは分からないが、同じ様に止まらない。矢を受けてもそのまま向かってきた者は一人や二人ではなかった。

 その異様な突撃に、徐州軍本隊も動揺を見せた。地香はそれを見て前に出て、兵達を鼓舞する。そのお陰か、多少なりとも動揺は治まった。

 だが、それを見た管亥はますます地香を地和と認識してしまった。

 

(あの堂々とした指揮……やっぱり間違いねえ!! 生きていたんだ!!)

 

 大声を上げてその感情を爆発させたい管亥だったが、それは何とか押し留めた。部下達が地和に気付いていない今、わざわざ教える必要は無いと考えていた。もし教えたら、この戦に勝って地和を手に入れても余計な奴等が出てくる、と思ったのだ。

 どうやら独占欲が強いらしく、地和を自分だけのものにしたいと考えている様だ。だから、ここで余計な事は言わない。

 管亥がやる事は、このまま地和を捕まえ、この場から逃げる事だけなのだ。その為にはいくら犠牲が出ても構わないと思っている。今や、青州黄巾党の命は、管亥にとって虫や草と同じかそれ以下の存在になっていた。

 

「どけええっ!!」

 

 管亥が得物を振るう度、徐州兵の命が消えていく。賊とはいえ、青州黄巾党は精強な兵が多く集まっていた部隊であり、それらを纏めてきた管亥は当然ながら強い。一般兵がやられるのも無理からぬ事だった。

 その結果、地香への道が拓けてしまった。地香の馬捌きでは逃げるのは間に合わない。それを察した地香は桃香に逃げる様に叫ぶ。桃香は地香にも逃げる様言うが、地香は首を振り、腰から得物を抜いた。



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第十八章 青州解放戦・後編・4

 桃香が部下達に連れられていくのを横目で見ながら、地香は自分に迫ってくる男を見据える。当然ながらその顔には覚えがあった。かつて、賊の首領の一人だった頃の彼女の傍に付き従い、親衛隊として活躍していた男なのだから。

 その男が今、地香に向けて得物を振り下ろしている。それを彼女はどんな思いで見ていただろうか。

 鈍い金属音と共に、地香の体に衝撃が走る。

 何とか管亥の剣を受け止める事が出来たものの、その力に思わず落馬しそうになった。

 だが、管亥はそんな体勢の地香に追撃を仕掛けなかった。その事を疑問に思いつつ正面に向き直った。そこで疑問は解けた。

 

(こいつ……! ちぃを狙ってる!?)

 

 下卑た表情を浮かべ、得物を構え直す管亥。それを見た瞬間、地香の全身を怖気が走り、汗が噴き出した。尤も、豪雨の為に雨か汗かの見分けはつかないが。

 だが、管亥が地香の命を狙っていないのはほぼ確実だった。地香は武術に秀でた武将ではない。そもそも、本来は武将ですらない。一応武術の訓練はしているが、現代からやってきて、生きる為に武術を学んでいる涼と同じか、それより低いくらいの実力しかない。

 従姉という事になっている桃香ですら、地香よりは武術が上である。人を斬った経験もある。地香はまだ、無い。

 そんな地香が、徐州軍の兵士を何人も斬り殺してやってきた管亥の一撃を防げる筈がない。明らかに手加減していたのだ。ならば、何故?

 

(ちぃを捕えてこの状況を乗り切ろうとしているのか、と思ったけど、この顔を見る限りじゃ、そんな考えは無さそうね。)

 

 確かに、現状を何とかしようとする人間は、下卑た表情をしないだろう。

 

(なら、こいつはちぃを捕まえて……考えたくもないわね。)

 

 捕まった後の事を想像し、頭の中でブルリと震える地香。恐らくそれが正解なだけに、厄介である。

 どうやってこの状況を乗り切ろうかと考えながら、横目で周りを伺うが、管亥と共に来た青州黄巾党と徐州軍との戦闘が、乱戦の如く展開されており、暫くの間、援護は来ないと考えた方が良さそうと結論付けた。

 後ろに居る筈の桃香達の部隊も、前に居る筈の愛紗達の部隊も、戦闘中だ。図らずも一騎討ちとなった地香と管亥は、そんな乱戦の中で切り離されたかの様に存在している。

 雨の勢いは若干衰えてきたが、それでも雨音は強く、地面にいくつもの水溜まりを作っている。

 そんな中で管亥は、にやあっとしながら話し掛けてきた。

 

「会えて嬉しいよ、“地和ちゃん”。」

「っ!?」

 

 管亥の言葉に、少なからず反応する地香。そして、管亥にはそれだけで充分だった。

 

「やっぱり地和ちゃんだ。覚えてますか、かつて貴女たちの親衛隊の一人だった管亥です。」

「……何の事かしら。人違いよ。私に賊の知り合いは居ないわ。」

 

 剣を構え直しながら、地香は努めて冷静にそう返した。それが無駄かも知れないと解ってはいたが、言わないといけないとも思っていた。

 管亥はその答えに対して特に反応しなかった。予想通りだったのか、それとも答えは求めていないのか。

 

 「そうですか。それならそれで構いません。やる事は同じですから。」

 

 管亥も得物を構え直し、相変わらず下卑た表情を浮かべ、舌なめずりをした。どこかの軍曹が見たら「三流のすることだな」とか言いそうだが、賊である管亥はなるほど三流で合っているのかも知れない。

 それから二人は、数合打ち合った。明らかに力の差があるのに、地香が無傷だったのは、管亥が尚も手加減している事と、地香の得物「靖王伝家(せいおうでんか)(予備)」のお陰である。

 この剣は「予備」とある様に、桃香が持っている「靖王伝家」の予備である。いつ造られたかは分からないが、大きさが一回り小さい事と装飾が少ない事以外は殆ど同じこの剣は、普通の剣よりも頑丈で切れ味が良い。

 その為、多少打ち合っても刃こぼれせず、力の差を若干ながら縮めている。それでも元々の実力差があるので、時間が経つにつれ地香の劣勢は際立ってきた。

 それに気づいている管亥は、戦いながら猫撫で声で話し掛ける。

 

「地和ちゃ~ん、そろそろ諦めて俺のものになりなよ~。」

「だから人違いですし、そもそも貴方は好みではありません。」

 

 それは地香の本心だった。

 デカくてごつい管亥よりも、もう少し細くて優しい男の方が好きなのだ。そして今、その想いを秘めている。

 そんな地香の心境を知らない管亥は、彼女の言葉を素直に受け取らず、まるでストーカーの様に都合の良い解釈をした。いや、既にストーカーだったか。

 管亥が手加減しているのは、地和を出来るだけ傷つけずに手に入れたいからであり、そうでなければとっくに斬り殺しているだろう。

 管亥としては、早々に地和に力を示し、それによって屈服させたいという思いがあったのかも知れない。ここが戦場でなければ、もっと別の方法で捕まえようとしただろう。ある意味、地香は幸運であった。

 どれくらい時が経ったか。地香の息はあがっていた。管亥が待ちに待った時である。



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第十八章 青州解放戦・後編・5

 管亥は少し強く得物を振った。地香はそれを剣で受けようとしたが、疲労と力の差により剣は地香の手を離れて空を舞い、やがて地面に刺さった。

 

「さあ、地和ちゃん。観念しようか~。」

 

 相変わらずの下卑た表情で近づき、そう声を出す管亥。

 後ずさろうとする地香だが、恐怖と焦りからか馬を上手く操れず、遂にはその首元に得物が突き付けられた。勿論、管亥は斬るつもりはないが、恐怖なのは変わりがない。

 

「……私は、劉徳然(りゅう・とくぜん)。何度も言うけど人違いよ。」

 

 それでも地香は、強く言い切った。恐怖で震えながらも何とかそれを隠そうと手に力を入れ、真っ直ぐ管亥を見据えた。それは、管亥が見た事の無い表情であり、僅かだが確信が揺れた時だった。

 その揺らいだ確信を改めてから管亥は決意し、ドスの効いた声で言った。

 

「ならば、ここで死ね。」

 

 勿論それは管亥の本心ではなく、只の脅しだった。

 ここまで力の差を見せ、脅しをかければ、いくら何でも屈服するだろうと思った。確かに、普通の女性ならとっくにそうなっていただろう。

 だがこの場合は、管亥にとって大きな誤算が幾つもあった。それは、地香は確かに本当は地和だが、昔の弱い地和ではなかった事であり、また、劉徳然としての強い意志を持っていて、そして、絶対的な決意をもってこの場に来ていたという事である。

 地香は管亥を見据えながら言い切った。

 

「やってみなさい。私は死んでも、只では死なない。」

 

 そう言いながら自ら管亥の得物に体を近づける。そのままでは間違いなく体が傷つき、下手をしたら死んでいただろう。管亥が驚いて得物を引っ込めたから、そうはならなかったが。

 そして、その行動が二人の運命を決定づける事になった。

 管亥の後方から、凛とした大きな声が近づいてきたのだ。

 

「地香様から離れろ、外道!!」

 

 反射的に振り向いた管亥は、声の主を見て慌ててその場を離れようとした。だが、それより速く声の主は近づき、自身の得物を横薙ぎに振った。

 管亥はそれをとっさに得物で受け止めたが、余りの威力に落馬しかけた。

 

「大丈夫ですか、地香様!」

「……ふう。ありがとう、愛紗。助かったわ。」

 

 地香の危機を救ったのは、愛紗こと関羽、字を雲長(うんちょう)という、徐州軍の筆頭武将である。

 愛紗は、自身の得物「青龍偃月刀(せいりゅう・えんげつとう)」を構え直しながら地香の前に立ち、彼女を守りながら目の前の敵を討とうとしている。その姿は凛々しく、頼もしく、美しかった。

 

「無茶をなさらないでください、地香様。私が来なければ、どうなさるおつもりだったのです?」

「その時はその時よ。それに、丁度貴女が来るのが見えたからね。時間稼ぎになればと思って動いたのよ。」

 

 地香の言に愛紗は呆れ、溜息を吐いた。勿論その間も管亥を見据えたままだ。

 その間に周りを見た管亥は、この段階になって、ようやく状況を呑み込めた。既に戦いがほぼ終わっている事を知ったのだ。勿論、勝ったのは徐州・青州連合軍である。

 まだ少し、遠くで戦闘のものと思われる音や声は聞こえるが、大勢は決したと言って良い。青州黄巾党の数はまだ何万も残っているが、それは女子供や老人といった非戦闘員であり、戦いの役には立たない。

 周りを敵兵に囲まれている為、当初の予定だった乱戦の中を逃げるという事も出来ない。そもそも、その時には地和を連れて行く筈だったのに、それも出来そうにない。管亥にとって絶望しかない状況であった。

 

「地香様、御無事ですか!?」

「飛陽。大丈夫、ちゃんと首は繋がってるわよ。」

 

 地香の後方からやってきた飛陽こと廖淳は、息をきらせながら近寄ると下馬し、地香の体に傷が無いか確かめていった。幸いにも、大きな怪我は一つも無かった。

 飛陽も大きな怪我は無い様だと、地香はそれとなく彼女を観察した。先程まで命の危険があったとは思えない程、地香の心に余裕が出てきたのだろう。

 そして地香は、視線を前に戻す。

 愛紗は今にも管亥を斬り倒すような気迫を見せており、管亥はというと戦意を喪失しかけている。このまま放っておいても、決着するだろう。

 

(地和、本当にこのままで良いの?)

 

 地香は、いや、地和は自身の心の中で自身に問い掛ける。

 このままでは、戦に勝って無事青州を解放出来るが、ここまで来た一番の意味が無くなってしまう。勿論、そうなってしまうのは彼女の本意では無い。

 先程の恐怖を思い出し、だが直ぐに首を振ってそれを振り払い、拳に力を籠めながら、愛紗に声を掛ける。

 

「愛紗、管亥を足留めしておいて。絶対に逃がしてはダメよ。」

「……このまま私が斬ってはいけませんか。」

「今回だけは、ね。」

「ですが……。」

 

 チラリと地香を見る愛紗。戦場なので表情には出していないが、声のトーンが少し落ちた事を考えると、彼女なりに地香を心配している様だ。

 

「大丈夫、そいつを“確実に殺す方法”はちゃんと考えているから。……お願い。」

「……承知しました。」

 

 愛紗は地香の頼みにそう応えると、偃月刀の刃先を向けて管亥を牽制する動きをとった。逃げようとすれば瞬時にその動きを止め、向かって来ればすぐに応戦出来る様に距離をとりながら。



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第十八章 青州解放戦・後編・6

 それを見た地香は、隣の飛陽を、周りの徐州軍兵士達を見てから再び正面を向いた。地面に刺さったままだった剣を引き抜いてから大きく息を吐き、瞑目(めいもく)する。

 やがて右手の親指と薬指を繋げて輪を作ると、何かを呟き始めた。それは何かの呪文の様だった。

 

黄昏(たそがれ)よりも深きもの。

血の流れよりも熱きもの。

時の流れに埋れし、尊大なる汝の名において、

我、ここに天に誓わん。

我と汝が力もて、我の望みを叶えんことを!

……急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!!」

 

 次の瞬間、地香が手にしていた靖王伝家(予備)の刀身が一瞬だが黄色く輝いた。

 そうした地香の一連の行動を見ていた飛陽は驚き、口を開けたまま彼女を見つめている。やがて、何か言葉を口にしようとしたのだが、険しい表情の地香にそれを制された。

 

「……後で説明するわ。良いわね?」

「は、はいっ!」

 

 地香の珍しく有無を言わさない迫力に圧された飛陽は、了解を口にするしか出来なかった。

 地香はそんな飛陽に今度は優しい笑みを向けてから、ゆっくりと馬を進めた。前では、自棄になった管亥が愛紗に向かって斬りかかっていたが、歴戦の勇士である愛紗には掠りもしていない。

 

「愛紗、もう良いわ。後は私がやるから。」

 

 地香のその言葉を受けた愛紗は暫しの間返答しなかったが、やがて「分かりました」と応えると、管亥を牽制しながら地香と交代した。

 管亥はというと、この様な絶体絶命の状況であっても、地香が目の前に現れるとまたも下卑た表情を浮かべ始めた。それはまるで、パブロフの犬の様であった。

 

「嬉しいよ~。やっと俺のモノになる決心がついたんだね?」

「そんな訳ないでしょ。寝言は寝てから言いなさい。」

 

 管亥の戯れ言を一蹴した地香は、表情を引き締めながら自身の剣の刃先を管亥に向けて言った。

 

「今降伏するなら、自害する権利を与えます。どうしますか?」

 

 ちゃんとした武将ならこの提案を飲んで潔く自害をするだろう。だが、黄巾党という賊にそんな潔さがある訳はなく、その首領である管亥の答えは当然ながら否であった。

 

「そんな事……俺がどうするかなんて決まっているでしょう!!」

 

 管亥はそう叫びながら地香に斬りかかった。見苦しい、と愛紗が呟く。

 一方の地香は、静かに両手で剣を右に構えると、足で馬に合図を送り、管亥を迎え撃つ。

 両者の距離はみるみる縮まり、やがてほとんど同時に得物を振った。誰もが、得物と得物のぶつかり合いになると思い、そうなると力で劣る地香が不利だと思った。

 愛紗がいつでも加勢に行ける様に、手にしている偃月刀を握る力をいつもより強くしたのも、そうした予測や判断からだった。

 だが、その予測は大きく外れる事になる。

 地香の剣が再び黄色く輝くと、管亥の得物を真っ二つにし、そのままその体をも両断したのである。

 

「な……に…………っ!?」

 

 管亥は地面に落ち、そこに自身の腹部から下があるのを見て、自分の体がどうなったかを悟った。だが、何故こうなったのかは当然ながら分からなかった。

 そんな管亥に、地香は管亥に対して振り向かず、真っ直ぐ前に視線を向けたまま応えた。

 

「今のは、私たち劉家に伝わる必殺剣、“劉覇斬(りゅうはざん)”よ。」

 

 劉覇斬。そんな必殺技をお持ちだったのか。といった声が、徐州軍諸将から起こった。

 尤も、実際はそんな必殺技は無い。たった今、地香が名づけた出鱈目(でたらめ)な必殺技である。

 とは言え、必殺技の様なものは確かにあり、だからこそ管亥は今にも絶命しそうになっている。では、その必殺技の様なものは一体どうやって出来たのか?

 それは、地香が先程呟いていた呪文の様なものが大きく関係していた。

 地香は元々“張宝”、真名を“地和”という名の娘で、姉と妹と共に旅をし、音楽で生計を立てていた。その最中、とある本を手に入れた。「大平要術(たいへいようじゅつ)」と記されていた。

 その本には色々な事が書かれていたが、特筆すべきは妖術について書かれていた事であった。張三姉妹の歌は素晴らしかったが、流しの歌手である彼女たちの歌を聴く人は少なかった。そこで彼女たちはこの妖術を使って、自分たちが作った音楽を広めていったのである。

 その後、様々な誤解や偶然が重なって、いつの間にか「黄巾党」という集団が出来、それが平和を打ち砕く「賊」に成り果てたのは、彼女達にとって不幸だったと言えるだろう。

 勿論、だからといって地香が完全に許される訳ではない。それを解っているからこそ彼女は名を変え姿を変え、今に至っているのだ。

 地香は今、大平要術を持っていない。妹である張梁(ちょうりょう)が持っていたが、彼女が戦死した後の行方は判っていない。恐らく、張梁の死と共に失われたと考えられる。もうこの世に残ってはいないだろう。

 地香が地和だった頃、大平要術を持っていなくても妖術を扱えていた。そうした才能があったのかも知れない。涼たちが鉄門峡の戦いに挑むまでは、大平要術無しで妖術を使い、官軍を撃退していたほどだ。

 だが、大平要術無しで妖術を使うのは精神的疲労が大きい様で、一度使うと最短で翌日まで、長くて三日は休まなければならなかった。それでも大平要術を妹に預けたのは、姉妹の中で一番頭が良い彼女が持っていた方が一番だと考えたからであり、実際、それは当たっていた。張梁自身も地香ほどではないが妖術を使えたので、やはり適任だったのだろう。

 そんな地香が、この一騎討ちの前に唱えた呪文。それは武器に龍の牙が獲物を噛み砕く様な威力を持たせる妖術だった。威力が凄まじい為、呪文を唱える時間が必要となり、地香はその時間をとる為に愛紗に管亥を任せたのだった。

 管亥は息も絶え絶えになり、出血もおびただしい。間もなく死ぬだろう。

 そんな管亥を見た地香は、剣に付いた血を振り落としながら呟いた。

 

「貴方が敬愛していた張宝は、恐らく死んでいる。あの世で自分の罪について詫びてきなさい。」

 

 それを聞いた管亥は、目を大きく開いて地香を見つめた。

 地香がやはり地和だと確信したのだ。何故なら、地香は今、地和の事を「張宝」と呼んだ。今回の一騎討ちでは、管亥は地香の事を地和とは呼んだが、張宝とは呼んでいない。

 張三姉妹は、黄巾党に対して自分たちの事を真名で呼ばせていたので、官軍として黄巾党と戦った現在の徐州軍、つまり当時の劉備軍がその情報を知っていてもおかしくはない。だが、それを確認する術は管亥には無いし、時間も無い。

 だからこそ、管亥は先程の地香の言葉だけで確信したのだ。

 

「や……やっぱり貴女は、ちぃほ…………。」

 

 管亥の命はそこで尽きた。何か危険を察した愛紗がその首を断ち斬ったのである。

 愛紗は地香の前に進むと下馬し、跪いて言葉を紡いだ。

 

「これ以上は、いくら賊とはいえ見ていられませんでした。勝手な振る舞い、お許しください。」

「関将軍の気持ちはよく分かるわ。気にしないで。」

 

 地香はあくまで「劉燕」として愛紗に振る舞い、愛紗もそれを望んでいた。この辺りの会話は、それなりに長く付き合っているから分かる呼吸の合わせ方だろう。

 首と身体と足の三つに分かれた管亥だが、その死に顔は安らかだった。悪逆非道の限りを尽くした賊の最期の顔としては、限りなく幸せな最期だといえるかも知れない。

 地香は剣を高々と掲げると、かつて歌で鍛えた声を限りに叫んで全軍に報せた。

 

「青州黄巾党首魁、管亥はこの劉徳然が討ち取った!!」

 

 その瞬間、徐州軍と青州軍の諸将が雄叫びを上げた。自分達の勝利を祝ったのだ。

 対して、あくまで抵抗を続けていた青州黄巾党は、自分達の首領が死んだと知ると皆落胆し、その場に座り込み、武器を捨てた。青州黄巾党の中では圧倒的な実力を持っていた管亥が戦死した事は、彼等の気力を削ぐのに充分だったのだ。

 そうした残党に対して、桃香は降伏したなら殺さないように、と厳命した。それを諸将はきちんと守り、多くの青州黄巾党残党は捕縛された。

 一部は、あくまで抵抗したりしたが、そうした相手は容赦なく愛紗や星によって地面へと倒れていった。

 そうして、管亥の死から一刻も経たずに、青州黄巾党は全面降伏し、臨淄は青州の民のもとへと戻った。無論、人的・物的被害は甚大であり、復興には長い時間が掛かると思われる。

 それでも、長い間、黄巾党によって支配されてきた青州が解放されたのは事実であり、人々はそれを喜んだ。涙を流している者も、数多く居た。

 桃香たちはその様子を遠目に見ながら、自分達がやってきた事を誇った。

 犠牲が無かった訳ではない。お金も沢山使った。誰もが疲れている。

 それでも、この光景を見れば自分達の行いが正しかったと思えた。そう思わなくては、やっていけないという理由もあるが、それはこの際考えないようにしたかった。

 

「涼義兄さんも、上手くやっているよね。」

 

 桃香がぽつりと呟く。それに応えたのは愛紗だった。

 

「義兄上は天の御遣(みつか)いです。しくじる事などありません。」

 

 うん、と頷く桃香。涼は確かにここでは「天の御遣い」として活躍しており、徐州を始めとした各地の人々から慕われている。

 だが、元の世界では普通の高校生であり、軍事や政治に関しては素人である。それは多少良くなった現在でも同じであり、難しい所は雪里(しぇり)などに任せている。

 それでも、仕事を完全に投げたりはしないので、諸将から慕われている。一応現代の高校生だったので、その経験を生かせる場合もあるのだ。あくまでそれなりに、だが。

 そんな人物が自分達の「義兄」である事を桃香たちは誇りに思っている。だからこそ、こうして自分達の役目を無事に終わらせる事が出来てホッとしているのだ。

 それは、管亥を討った地香も同じであった。

 

「桃……香、ゴメン、しばらくの間、お願いね…………。」

 

 力無く呟いた地香は、そのまま倒れ込んだ。間一髪のところで飛陽が支えたので怪我はなかったが、地香の顔を見た飛陽は慌てふためいた。地香の顔色が一目で判る程悪かったのだ。

 

「と、桃香様! 地香様が! 地香様があっ!!」

「お、落ち着いて飛陽ちゃん! だ、だ、大丈夫だから!!」

 

 そう言う桃香も落ち着くべきである。

 

「お二人とも落ち着いてください! 椿(つばき)、地香様を連れて本陣まで下がってくれ。星、お前には二人の護衛を頼む。」

「ふむ、任された。」

 

 慌てふためく義姉であり総大将の代わりに、愛紗がテキパキと指示を出していく。お陰で、徐州軍は総大将の従妹が倒れたという緊急事態においても、大きな混乱を出す事なく部隊を集結させ、戦闘を終わらせる事が出来た。



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第十八章 青州解放戦・後編・7

 それから数日間、徐州軍は臨淄に滞在し、捕縛している黄巾党の扱いや戦後復興について青州側と話し合い、紆余曲折を得て徐州軍の目的はほぼ全て達成された。

 その、唯一と言っていい青州側が難色を示した事は、やはり捕縛している黄巾党の処遇についてだった。

 青州側としては、多くの人を傷つけ、苦しめた黄巾党は皆殺しにしてもし足りない程、憎んでいた。今も憎んでいる。

 だから、本当は捕縛した黄巾党を今すぐ皆殺しにしたいと思っている。ここ臨淄の住民も、少なからず犠牲になっている。その遺族の事を考えれば、皆殺しにするのは当然の流れであり、この時代の賊に対する考え方としてはおかしくないのである。

 だが、青州側は今回の解放戦において「助けられた」側である。強くは言えない立場であった。その為、徐州側の要求である“青州黄巾党を徐州で工事などに駆り立て、重労働の刑に処する”という事に納得出来ないまま、受け入れてしまったのだった。

 既に袁紹が触れていたが、この処遇はこの世界、時代では甘く、考えられない事である。賊は罪人である。しかも沢山の人を殺している重罪人である。普通は法に則って死罪や百叩きなどの刑に処し、生き残った者には、その顔や腕に罪人の証である黥を入れるのが当たり前なのである。

 徐州側も、そうした常識は持ち合わせており、また、青州側も気持ちも解るので、青州黄巾党の幹部クラスの者は青州側の好きにして良いという事にした。

 それでも、何十万もの黄巾党が生きたままというのは、度し難い事である。だが、それは口に出来ない。

 

玄徳(げんとく)殿のその厚意、いつの日か仇で返されるかもしれませんぞ』

 

 孔融(こうゆう)がそう言うのが精一杯であった。

 

 

 

 

 

 徐州側に出来る事が全て終わり、後は青州の仕事だけになったのを確認してから、徐州軍は帰還する事にした。

 その前夜、徐州軍の宿所のとある部屋で、二人の少女が話し合っていた。劉燕こと地香と、その部下である廖淳こと飛陽である。

 地香はまだ体調がすぐれないのか寝台に横たわっており、その傍らの椅子に飛陽が座っている。

 

「……つまり、地香様は本当は、鉄門峡の戦いで生死不明になったはずの地和様だと、言う事、ですか……?」

「まあ、そうなるわね。」

 

 地香から自身の正体についての説明を受けた飛陽は、暫し呆然としていた。

 嬉しくない訳ではない。かつて主君として仰ぎ見た三人の内の一人が生きていたという事実は、元黄巾党の一員である飛陽にとって感涙すべき慶事である。

 だが、それは同時に、傍に仕えていながら今まで気づかなかった飛陽自身の迂闊さを示す事であり、飛陽は自身を恥じた。恩人がすぐ傍に居たのに気づかなかったのだから、そうした彼女の感情は解らなくもない。

 尤も、そうした感情は時間が経つにつれて自然と冷静さへと変わっていき、やがて素直に事態を受け止め、涙を流しながら地香の手を取った。

 

「地和ちゃんだろうと地香様だろうと、貴女が生きていらした事だけで充分に嬉しいです! これで……これでまた、恩返しが出来ます。」

「そう言えば、初めて会った時も似た事を言っていたわね。」

 

 そう言って、地香は飛陽と初めて会った時の事を思い出す。

 徐州の街を警邏(けいら)している時、後を()けてくる不審な人物。それが飛陽であり、附けていた理由は、地香がどことなく地和ちゃんに似ていたから、だった。

 思えば、その時に飛陽を仲間にした事で、いつかはこんな日が来るのは決まっていたのかも知れない。

 

「それにしても地和ちゃ……いえ、地香様は先日の戦以来体調がすぐれない様ですが、大丈夫なのですか?」

「平気平気。久々に妖術を沢山使ったから、体が悲鳴を上げただけよ。明日の出立には影響無いから、心配しないで。」

「妖術……管亥を倒した一撃の時の光は、やはり妖術だったのですね。」

「そ。あとは、大雨を降らせて火を消したり、風を操って矢を防いだり。まあ、ここら辺は鉄門峡でもやってた事だけどね。」

 

 そう言って昔を懐かしむ様に視線を彷徨わせる地香。黄巾党を率いていたというのは、決して褒められた過去では無いが、当時の地香こと地和もまた、今の地香を形作る大事な一欠片なのである。

 飛陽は、あの戦いの最中の地香の行動を思い出していた。

 桃香たちと合流する前、地香は部隊を指揮しながら何かを呟いていた。恐らくそれが妖術の呪文詠唱だったのだろうと思いながら、目の前の地香を見つめる。

 飛陽は妖術について詳しくない。だが、地和が妖術を使えるという事は、当時の黄巾党なら誰でも知っている当たり前の事だった。

 ひょっとしたら、張三姉妹が管亥の様な好戦的な男達から身を守れたのは、彼女を守る親衛隊の存在だけで無く、男達が地和の妖術を警戒していたからかも知れない。尤も、それを知る事はもう永久に無い。

 

「……地香様、私決めました!」

「決めたって、何を?」

 

 急に何かを決意した表情になった飛陽を、地香はポカンとしながら見つめ、訊ねる。

 飛陽は一呼吸してから、その決意の内容を言葉にした。

 

「地香様が名を変えた様に、私も名を変えたいと思います!」

「え、ええっ!?」

 

 それは、地香にとって全く予想外の言葉だった。

 慌てた地香は軽々しく名前を変えるものじゃないと(なだ)めたが、飛陽の決意は固いらしく、結局翻意させる事は出来なかった。

 諦めた地香は、仕方なく飛陽に訊ねる。

 

「……それで、何て名前にするの?」

「はい! 廖淳の“淳”を、変化の意味を込めて“化”に変えて、“廖化”にしようと思ってます。」

「りょうか、ね……うん、良いんじゃない?」

「あ、ありがとうございます!」

 

 地香が飛陽の新しい名前を褒めると、飛陽は感涙し、頭を下げた。

 廖化。三国志に於いては中盤から後半にかけて、演義に於いては初期から後半にかけて登場する武将である。

 主に関羽の許で活躍し、その関羽の危機の際には単身救援を求めて走り、劉備が蜀漢(しょくかん)軍を率いると従軍し、諸葛亮が蜀漢の実質的後継者になってからは、五虎将(ごこしょう)が居なくなった蜀漢における軍事の一角を担う活躍を見せた。

 なお、元黄巾党という経歴は演義にのみ記されており、史実に於いてはどうなのかは判っていない。

 飛陽は、その廖化と同じ名前にした。史実に於ける廖化がいつ改名したかは、おおよその時期しか判っていないが、それと比べても飛陽はだいぶ早く改名した事になる。

 二人はその後、暫しの間歓談した。

 黄巾党の事が主な話題だったが、そこに悲壮感は無かった。二人とも、過去を乗り越えたのだ。特に地香はその為に青州まで来たのだから。

 そんな元黄巾党の二人の会話は、同時に欠伸が出て互いに顔を見合わせて笑うまで、長く続いた。

 

 

 

 

 

 翌日、徐州軍全軍は青州を発った。

 青州の人々は皆、自分達を救ってくれた徐州軍に感謝しており、帰還の途につく彼等に声を掛けてそれを伝えていく。

 将兵達もそれに応えて手を振ったりし、自分達のやってきた事に誇りを持った。

 賊が相手とはいえ、連戦を生き延びた彼等は間違いなく成長しており、これからの徐州軍を支えていくだろう。

 そんな徐州軍の総大将、劉備こと桃香は馬上で民衆に向かって手を振りながら、隣を進む地香に声を掛ける。

 

「地香ちゃん、お疲れ様。」

「それは桃香達の方でしょ。私は最後にちょっと参戦しただけだし。」

 

 そう言って照れる地香。そんな彼女に対し、桃香は首を振りながら言葉を続けた。

 

「その最後の活躍が無かったら、私は死んでいたかも知れない。ううん、私だけでなく、愛紗ちゃんや朱里ちゃん、そして大勢の兵士さん達も……。皆を助けたのは、間違いなく地香ちゃんだよ、ありがとう。」

「わ、分かったから。」

 

 更に照れる地香の顔は真っ赤である。

 その様子を微笑ましく思いながら桃香は馬を寄せ、今度は小さな声で地香に話し掛ける。

 

「隠していた妖術まで使って助けてくれた事……本当にありがとう。それと、ゴメンね。」

「……! ……別に良いわよ。あの場合はああするしか無かったし、気にしないで。」

「うん、分かった。」

 

 桃香はそう言うと、少し先に馬を進め、再び民衆の声援に応えていく。

 そんな桃香の後ろ姿を見ながら地香は思った。

 

(やっぱり、どことなく天宝(てんほう)お姉ちゃんに似てるな……。)

 

 今は亡き姉、張角(ちょうかく)こと天宝を思い出す地香。

 確かに、髪が長かったり、どこか抜けてたり、胸が大きかったりと共通点は多い。姉妹想いな所も似ているだろう。

 顔はそんなに似ていない。ちょっと怠け癖は似ているが、天宝ほどではない。

 それでも桃香に姉を感じてしまうのは、実の姉妹がこの世に居ないという寂しさを埋める為か。それとも、偽の従姉妹を演じている内に、本当の血縁者の様に感じてきたのか。

 地香にはどちらが正しいか分からない。また、分からなくて良いと思っている。

 

(何にせよ、桃香は今の私には大切な従姉だしね。)

 

 地香はそう思いながら口元を緩めると、桃香の隣に移動した。

 

「どうしたの?」

「どうもしないよ、桃香姉さん。」

 

 桃香は地香の応えに暫し驚くも、「そっか♪」と言って笑みを浮かべた。地香も同じく微笑んでいる。

 桃香達の青州遠征は、こうして幕を閉じたのだった。




「第十八章 青州解放戦・後編」、お読みいただき、ありがとうございます。

青州編の締めとなる後編、2ヶ月かけて何とか終わりました。まあ、この後青州編のエピローグを書くんですが。

今回は、黄巾党を倒す事で地香(地和)を成長させる、という内容にする予定でしたので、何とか上手く出来てれば良いなと思います。
何故最初から従軍してないのか、と訊かれたら、本文にもある様に徐州を守って欲しいからです。その後で結局徐州を陳珪(羽稀)に任せてますが、この時は揚州から一時的に涼が帰ってますし、その後の遠征も比較的近いし、同盟が成立して敵が来る危険性も少なくなったので任せる事が可能になったのです。

地香が唱えた呪文は、スレイヤーズのドラグスレイブが元ネタです。
尤も、このネタはアニメ版のネタを取り入れたので、自分の考えではありません。
ただ、このネタを使うと決めた事で、地香が管亥を倒す方法が出来ました。アニメ版様、ありがとうございます。

飛陽(廖淳)の改名ネタは当初入れる予定はありませんでした。
ただ、地香が過去を振り切ったのだから、同じ元黄巾党の飛陽も何かないかと思い、廖化になってもらいました。
まあ、今しないと当分ないですからね。

さて、次回は先程も書いた通り、青州編のエピローグです。
どういった話にするかはまだ決めてませんが、次のシリーズに繋がる内容になる筈です。
最初の数千字は早めに投稿するので、皆さんどうか今暫く、かつ気長にお待ちください。

では、次回またお会いしましょう。


2016年6月21日最終更新

誤字脱字の修正と文章の追加をしました。
2017年7月14日掲載(ハーメルン)


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第十九章 帰還、それから・1

戦いが終わり、戦士達は家へと戻る。

さて、戦いが終わった後は宴である。
いやいや、論功行賞をしようよ。

一時の平和を、彼等はどう楽しむのであろうか。

2016年7月1日更新開始
2017年月日最終更新

2017年7月15日掲載(ハーメルン)


 青州(せいしゅう)から桃香(とうか)達が、兗州(えんしゅう)から(りょう)達が徐州(じょしゅう)へと戻った事で、今回の青州・揚州(ようしゅう)・兗州遠征は無事に終わった事になる。

 だが、これで全てが終わった訳ではない。やる事は山積みである。

 たとえば……。

 

「何で雪蓮(しぇれん)さん達がまだ居るんですか!?」

「お帰りなさい、桃香。お邪魔してるわよ♪」

 

とか、

 

「……華琳(かりん)殿、兗州に留まられていると聞いていましたが?」

「貴女が帰ってくると聞いて、ジッとしていられなくなったのよ、愛紗(あいしゃ)。」

 

とか、

 

「ちょっとアンタ! なに涼に馴れ馴れしくしてんのよ!?」

「シャオは涼の婚約者だもーん。これくらい当然でしょ♪」

 

等についてである。

 ……論功行賞はしなくて良いのだろうか。

 今、この場には青州から帰還した桃香達。

 兗州から帰還した涼達。

 兗州から涼と共に帰還し、そのまま居着いている雪蓮達。

 兗州で戦後処理をしていたが、愛紗が帰ってくると聞いて飛んできた華琳達。

 と、大きく分けて四つのグループに分かれている。

 「女三人寄れば(かしま)しい」と言うが、三人以上居るので姦しいどころではなかった。姦しいや五月蠅(うるさ)いの最上級の言葉って何だろうか。多分それが現状で一番合っている筈だ。

 

「桃香お疲れ様。はい、貴女はこれでも飲んで疲れを癒やして。」

「あ、ありがとうございます……って、そうじゃなくてですね!」

「何よー?」

 

 雪蓮から酒の(さかずき)を渡され、彼女のペースに乗せられそうになった桃香だが、何とか踏みとどまる。

 

「私達は早馬を寄越(よこ)していた筈ですよ? “青州黄巾党(こうきんとう)を倒したので帰ります”って!」

「知ってるわよ。だからこうして貴女達の帰りを待っていたんじゃない。戦勝のお祝いぐらいしないと、同盟関係って感じがしないでしょ。」

「そう言って、涼義兄(にい)さんの傍に居たいんでしょ。」

「そうよー♪」

 

 臆面も無く言う雪蓮に桃香は流石に呆れ、反論しようとする。

 が、機先を制したのは雪蓮だった。

 

「私と涼は正式に婚約したんだし、ここに居たって良いでしょ♪」

「こ、婚約!?」

「あら、知らなかったの?」

 

 当然知ってると思っていた雪蓮は、驚く桃香の表情を見て軽く舌を出した。

 驚いたままの桃香が慌てて涼を探し、何かを言おうとした瞬間、その涼の傍に居る人物からまたも驚くべき言葉が投げ掛けられた。

 

「シャオも涼と婚約してるよー♪」

「なっ。」

 

 孫尚香(そん・しょうこう)こと小蓮(しゃおれん)の思わぬ言葉に、桃香は思わず動きを止めた。

 すると今度は、正反対の方向から声が上がった。

 

「……私も、婚約しているぞ。一応。」

 

 お酒の所為かは分からないが、顔を赤らめた孫権(そんけん)こと蓮華(れんふぁ)も同じ言葉を呟く。

 桃香や傍に居た地香(ちか)たちは状況が飲み込めず、唯々呆然としていた。

 一方、華琳は「意外に手が早いのね」といった表情を、雪蓮は当事者なのに「知ーらない」といった表情をしている。

 そうした空気が蔓延する中、桃香はようやく我を取り戻し、この原因を作った人物の(もと)にゆっくりと近づく。その人物からしてみれば、桃香の行動はホラー以外の何物でも無い。自業自得ではあるが。

 

「りょう、にい、さーん?」

 

 とてつもなく可愛く綺麗な笑顔でそう言った桃香だが、声や雰囲気はそれに似つかわしくない感じがしている。

 涼は苦笑しながら顔を背けたが、そっちにはそっちで地香が「諦めなさい」という表情で立っていた。

 涼は(しば)し二人を見てから、降参とばかりに手を挙げて桃香に説明を始めた。

 簡潔に経緯を説明した涼だったが、当然ながらそれで納得する程軽い問題ではないので、(しばら)くの間は桃香たちから説教やら何やらを受ける事になった。正座で。

 

「……まあ、理由は分かりましたけど、こういった事は軽々しくしないでくださいね。」

「はい……。」

 

 そう言って深々と溜息を吐く桃香と、項垂(うなだ)れる涼。涼にいたってはそろそろ正座でいるのが限界という感じなので、早く解放されたい思いもあった。

 その際に華琳が面白がって「私も涼と婚約しようかしら」と言ったりして、桃香たちや雪蓮たちや桂花(けいふぁ)たちが驚いたり面白がったり混乱したりあったが、その騒動も涼の耳には入らなかった様だ。

 そんな涼の地獄の時間(自業自得含む)が終わると、しびれた足をさすりながら寝転んだ。しばらくは起き上がれないかも知れない。

 と、そこに、誰かが涼の頭を持ち上げ、自身の太ももに乗せた。所謂「ひざまくら」だが、その感触はこの上なく良い。

 そんなひざまくらをしているのは、涼がこの世界に来て一番見知っている人物の一人だった。

 

「……どうしたの、桃香?」

「…………ちょっと言い過ぎましたから、そのお詫びです。」

 

 そう答えた桃香は涼と視線を合わせず、あさっての方向を向いていた。

 涼から見える桃香の表情は、頬に薄く紅が差しており、ひざまくらをしている照れ隠しの所為と思われた。それを指摘しては怒られたり、ひざまくらが終わったりするかも知れないので言わなかったが。



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第十九章 帰還、それから・2

 そんな二人を見ている人物は複数居るが、その中の一人である華琳が言葉を紡いだ。

 

「まるで恋人同士みたいね。」

「「「「「!?」」」」」

 

 複数の、それもかなりの数の人物がその言葉に反応した。

 驚く者 、戸惑う者と様々だったが、一番驚き戸惑っていたのは当事者である桃香だった。

 「えっ?」と小さく声を出した後、周りを見て、膝元の涼を見て、それから華琳を見て、正面を見ながら顔を更に赤くして俯いた。もちろん、耳まで真っ赤である。

 そんな桃香の様子を見ながら、華琳と雪蓮は同じ事を思っていた。

 

(ひょっとして、自覚無かったのかしら。)

 

と。

 二人はてっきり、桃香が涼に対してそういった感情を持っていて、或いはそれに近い事を意識して行動しているものと思っていた。

 何せ、年頃の男女が四六時中一緒に居るのである。そうした感情を持ったとしても不思議ではないし、むしろ健全だ。この世界では二人の年齢で結婚していてもおかしくはないし、子供がいても良いだろう。

 二人が見てきた限りでは、桃香は仕事で離れている時以外は殆ど涼の傍に居た。客観的に見れば、涼の隣に居るのは自分だと言わんばかりであったし、隣に居るのが当然という雰囲気を作っていた。

 現段階では涼に思慕の情を特段持っていない華琳はともかく、公私に渉って涼に好意を持ってきた雪蓮は、そんな桃香を羨ましく思った事もあるし、邪魔だなと思った事もある。

 その桃香が、恐らく無自覚に涼の隣に居て、それが当たり前と思っていたという事に雪蓮は驚かざるを得なかった。

 

(そう言えば、桃香は涼をいつも“涼義兄さん”って呼んでるけど、呼び捨てや“義兄”を付ける以外の呼び方はしてないわね。)

 

 涼、桃香、愛紗、鈴々の四人で「桃園の誓い」をして以来、桃香の涼に対する呼び方は何回かの変遷があったものの、「涼義兄さん」と呼ぶ事で落ち着いた。

 涼は桃香たちを「妹よ!」と、どこかのガキ大将みたいには呼ばなかったが、義兄としてしっかりしようと努めてきた。結果はどうか別にして。

 そんな「義兄妹」の関係が一年以上続いてきたのだが、そこから何らかの進展があってもおかしくはなかった。儒教や倫理観とか色々問題はあるかも知れないが、男女の仲に関しては些末な事とも言えた。少なくともこの世界では。

 それよりも、雪蓮は先程の華琳の言葉が新たな好敵手を生んでしまったのではないかと危惧していた。

 

(これは……ひょっとしたら華琳が余計な事をしてくれたのかもね。まあ、婚約してる分私が一歩前に出てるけど……。)

 

 そんなもの、何の意味もなさないかも知れない。雪蓮はそう思う。

 彼女がそう思う理由の最たる物は、「距離」である。

 涼は徐州に、雪蓮は揚州にそれぞれ居を構えている。この二つの州は南北に隣り合わせという位置にあるので、行き来しようと思えばそれなりに行ける。

 だが、現代の様に自動車や電車といった交通手段が無いこの世界では、移動に使えて速いのは馬くらいしかなく、船もモーター等は無いので、当然ながら時間がかかる。徐州と揚州の間に長江が流れているのも、移動の際の障害と言えるだろう。

 また、それぞれの立場というものもある。

 涼は自称とはいえ「天の御遣い」であり、公式には州牧補佐という役職を仰せつかっている。

 雪蓮はそうした役職はまだないが、母である孫堅(そんけん)こと海蓮(かいれん)によって後継者として鍛えられてる為、いくら婚約者といってもそう簡単に涼に会う事は出来ない。また、揚州の南に居る山越(さんえつ)の事もあるので余計に動けないという事情もある。

 それと比べれば、同じ徐州に居て、同じ街に居て、同じ屋敷に居るという、会おうと思えばいつでも会える距離に居る桃香はどれだけ有利か。

 今までは桃香に自覚が無かったのでそうした危惧をする必要も無かったが、華琳の余計な一言で、恐らく桃香は涼を異性として見るだろう。

 そうなれば、涼も桃香を異性として見るのは時間の問題だ。ひょっとしたら、既に見ているかも知れないが、義兄妹という関係や雪蓮たちとの婚約の事があるので本心を隠しているのかも、とまで邪推してしまう雪蓮である。

 実際には、涼は桃香たちを異性として見た事は何回かある。

 最初は涼がこの世界に来たばかりの頃。

 自分に何が起きたか分からず、だが持ち前の楽天的な考えで何とかなると思いながら桃香たちと話し、取り敢えず暫くの間は彼女たちと同じ家で暮らすという事になった時、とあるハプニングで彼女たちの肢体の一部に目を奪われた事がある。

 他にも、董卓(とうたく)こと(ゆえ)を初めて見た時はその可憐な姿を素直に評し、その所為で一悶着あったり、雪蓮と何やかんやあってキスされたりと、当初はそうしたハプニングに心動かされた事は多かった。

 だが、黄巾党の乱で人を斬った事や、その後に経験した様々な事などの結果、涼は色恋に関して極力避ける様になった。それは何故か。

 涼はこの世界の人間ではない。いつの間にかこの世界に来ていた。

 ならば、いつの間にかこの世界から居なくなる事も考えられる。だとすれば、極力親しい人間を作らない方が良いと考えているのかも知れない。

 勿論、それは涼しか分からない事である。

 一つだけ確かなのは、だからといって涼は雪蓮たちとの婚約を、当然ながら軽々しくは思っていないという事だ。

 「天の御遣い」という自分の価値と孫家との婚姻関係を、政治的なもの“だけ”としては考えていない。そこには多少なりとも彼自身の好みは反映されていた。

 いくら政治的に必要だったとしても、もし雪蓮たちが醜女だったら婚約というカードは切らなかっただろう。普通の男としてある意味当然な、そういった感情は涼にもあるのだ。

 だからこそ、今回の婚約で涼は桃香たちに負い目を感じているとも言える。もし、涼が割り切って行動する人物だったなら、この事で狼狽えたり謝ったりはしなかっただろう。

 そして、そうした人間味のある人物だからこそ、雪蓮たちは婚約の話に乗ったのである。

 雪蓮たちは涼より割り切って考える事が出来るが、だからといって将来の伴侶を決める事まで完全に割り切って考える事はしない。それは女性としての自分達を否定する事になるからだ。

 あくまで、涼の人となりに好意を持ち、婚約したのである。それがいくら政治的な意味合いも大きいとは言え、彼女達にとってはついでに過ぎないのだ。

 だからこそ、雪蓮はこの事態を悩ましく思っているのである。もし涼との関係が政治的な意味合いだけの関係なら、桃香について何ら興味も不安も抱かなかっただろう。

 

(まあ……私はともかく、孫家の為ならいくつか考えはあるけど。)

 

 心中で軽く嘆息すると、雪蓮は二回目線を動かし、人知れず頷いた。彼女なりの「恋愛」と「割り切り」が合わさった瞬間である。



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第十九章 帰還、それから・3

 さて、そうした涼達のコント? を見ていた華琳は、聡明なだけに自身の発言が桃香を焚きつけてしまった事に気づいていた。

 ただ、雪蓮の場合と違うのは、彼女は涼と婚約していない事と、恋愛感情といったものを涼に対してまだ抱いていないという事である。

 彼女は、涼に対して「興味」は持っている。だがそれは、「天の御遣い」だとか、過去の共闘で感じた事が主で、愛だの恋だのの対象としては殆ど見ていないのである。

 勿論、華琳とて年頃の娘である。異性に全く興味が無い訳ではない。だが、彼女は同性にも興味を持てる人間であり、現在の所はそちらの方が勝っている。

 とは言え、華琳はいずれ曹家を継ぐ立場にある。そうなると必然的に生涯の伴侶を得る必要に迫られる。その時の為に早めに候補を探しておく事も必要だろう。

 だが、涼はその候補に今の所入っていない。

 今の涼の立場や人気を考えれば、候補に入れておいてもおかしくないのに、である。

 勿論そこには、華琳なりの判断がある。

 一つは、「天の御遣い」の人気がこのまま続くとは思えない事。もう一つは、涼にはそれ程秀でているものが無いという事である。

 人気については、現代の芸能人やスポーツ選手などを見ても分かる通り、基本的には一時的なものであり、その期間が長いか短いかの違いがあるだけだ。

 華琳は知る由も無いが、涼の所には色々な所から手紙やら貢ぎ物やらが来ている。その意味は勿論、「天の御遣い」の威光に少しでもあやかりたいからである。

 だが、「天の御遣い」の威光が無くなれば、その数も自然と減っていき、いずれは零になるだろう。人気とは所詮そういうものだ。

 続いて、涼に秀でているものが無いという事についてだが、これは華琳が要求するレベルが高過ぎるというのもある。実際には、涼は結構優れていると言える。

 涼は現代では天才でも無く馬鹿でも無かった。学年何位とかそんなレベルでは勿論無いが、少なくとも英語以外は赤点とは無縁の成績を修めていた。

 また、個人的趣味として古代中国史と日本史が得意だった。古代中国史は三国志に、日本史では戦国時代について特に詳しくなっていった。

 古代中国史を知るにつれて、史記や漢文にも興味を持ち、更には孫子の兵法などを暗記したりと、涼は好きな物についてはとことんのめり込むタイプである。

 その為、三国志によく似たこの世界に来た時も比較的早くに順応し、この国の国語である漢文に対しても、以前独学で勉強したお陰もあって思ったより早く覚えた。

 史記や孫子の兵法を覚えていた為、それを役立てる事も出来た。他にも、秘密にしている未来知識も沢山ある。こうして見ると、涼は文官寄りの才能を充分に持っているといえるのである。

 だが、華琳にとっては史記や孫子の兵法を覚えているという事はそれ程凄い事ではない。

 彼女自身がそれを早くに覚え、周りの者もそれに(なら)っている者が多い。つまり、華琳にとっては「当たり前」の事なのである。

 勿論、武官の中には、例えば春蘭とかはそうした知識を必ずしも持ってはいないが、その代わりに強大な武力を持っている。

 また、部下が全員華琳と同等の実力を持つ必要は、当然ながら無い。中国史の中でもトップクラスの実力を持つ曹操と同じ名を持つ華琳は、桁違いの才能の持ち主であり、そんな彼女と同じ実力の持ち主はまず居ない。

 そもそも、そんなハイレベルな人物が居る必要は無い。もしそんな人物が華琳の傍に居たら、互いに牽制し合って相討ちになるか、勝っても弱体化するだけだろう。

 史実における曹操は、家柄や過去にこだわらずに才能ある者を求めるという、当時としては画期的な内容の求賢令を布告している。所謂「唯材是挙(ゆいざいぜきょ)」である。

 この世界の曹操である華琳は求賢令(きゅうけんれい)を出してはいないが、考え方はほぼ同じであり、平民であった許緒(きょちょ)こと季衣(きい)典偉(てんい)こと流琉(るる)などの登用を行っている。

 そうした事例を並べて考えれば、才能がある人物が居れば是非とも欲しがるのが、華琳という人間だといえる。

 では、涼は華琳から全く評価されていないのかというとそれもまた違う。

 黄巾党の乱や十常侍誅殺、そして先頃の兗州の村での涼の活躍を見てきた華琳は、彼を高く評価してきた。

 その理由の一つには、涼を麾下(きか)に加えれば自然と愛紗や鈴々たちが加わるという打算もあったが、きちんと涼の戦闘力、指揮能力、知識や経験なども考えての高評価だった。

 それでも華琳が涼を異性として意識しないのは、彼が一人の男として魅力に欠けるという訳では決してなく、判断材料が少ないという事が一番の要因だ。

 既に触れているが、雪蓮と違って華琳は涼と余り共に過ごしていない。その為に、涼を高く評価しながら、いざとなると自身の隣に立つ者として相応しいかどうか、判断しかねるのである。

 

(まあ、私の勘が確かなら、いずれ涼はもっと成長する。そうでなければ、“天の御遣い”という言葉は今すぐ取り消すべきね。)

 

 人知れず小さく笑う華琳は、目の前の喧噪(けんそう)(さかな)に酒を一口含み、それから一気に飲み干していった。



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第十九章 帰還、それから・4

 さて、桃香である。

 華琳の言葉によって自身の本心に図らずも気づいてしまった彼女は、いまだに混乱の最中にあった。

 

(わ、私……涼義兄さんの事を好きなの……!? ううん、それは前からだけど、異性としても……え、ええ~~っ!?)

 

 マンガならば、ぷしゅー、といった擬音と共に顔から湯気が出て、そのまま恥ずかしさの余り倒れそうな勢いである。

 だがこれはマンガではないので、当然そんな擬音は出ないし、倒れて場面転換という事も無い。桃香が落ち着くまで、この状態は続くのである。

 義兄妹の関係にある涼と桃香に血縁関係は無い。血の繋がった兄妹なら色恋の仲になっては一大事だが、そうでない二人に障害はさほど無い。

 あるとすれば、儒教の考えや今までの立場くらいだが、些末な事とも言えた。

 確かに、問題にする人は居るだろうが、二人に血縁関係が無い事が決定的になって、最終的には問題にならないだろう。

 それどころか、二人が結婚したら「天の御遣い」と劉家の血が合わさるという事なので、大いに祝福されるかも知れない。勿論、その逆もあり得るが。

 桃香は中山靖王の末裔を自称してきており、現在は漢王室からも認められている。

 そんな桃香は、自身の意思とは関係なく、いずれ周りから跡継ぎを望まれる事になるだろう。その際に彼女が伴侶として選ぶのが誰か、という事になるのだが、現段階ではその相手として一番可能性が高いのが涼なのは間違いない。

 とは言え、そんな話が出るのはまだ先の話と桃香は思っており、そもそも涼をそんな目で見ていなかった。少なくとも、自覚はしていなかった。

 それが今回、華琳の一言で一変した。

 それはさながら、童子が少女へと成長した瞬間と同じである。ここから更に成長するかどうかは、桃香次第であり、涼次第である。

 

(……涼義兄さんは、どう思っているのかな?)

 

 桃香はそこでふと、自分の膝の上に頭を寝かせている義兄、涼に視線を向けた。

 

(涼義兄さんも、私と同じだったり……しないかな。)

 

 残念ながら、涼は顔を前に向けていて、尚且つ左腕を頭に乗せているのでどんな表情をしているのかは分からない。

 桃香は少し不満げながらも、ハッキリと分からなかった事にどこか安堵もしていた。

 一方、安堵どころじゃないのが涼である。

 

(桃香、今になってそんな事言われても……いや、言ってはいないけど、困るよ……。)

 

 涼は戸惑っていた。

 彼の頭の中では、桃香はれっきとした妹だ。とは言え、当然ながら出会った当初は流石に異性として意識していた。

 桃香は誰がどう見ても美少女と言って良い美貌の持ち主であり、また、彼女の特徴の一つであるその胸の大きさは男女問わず注目される程である。

 健全な高校生だった涼は、桃香にあった初めの内はそんな当然の反応をして過ごしていた。

 「桃園の誓い」を経て義兄妹の関係になっても暫くはそんな感じだったが、それからすぐに黄巾党の乱の鎮圧にあたり、数ヶ月間は戦いの日々が続いた。

 その数ヶ月間で、涼と桃香は男と女の仲というよりは普通の兄妹の様な関係になっていた。若干の嫉妬や誤解を受けた事はあるが、それも兄妹ならばよくある事だと言えなくもない。

 そんな関係が、今崩れようとしている。

 それは、涼が望む事ではない。少なくとも、今はまだ。

 それから暫くの間、場の空気は何となくのんびりとなり、同時にどことなく会話を切り出せない雰囲気になった。下手に発言してこれ以上空気を変えるのは良くないと考えたのかも知れない。

 幸い、彼女達がその様に気を使う必要はすぐになくなった。宴の準備が出来たのである。

 そう、雪蓮や華琳がここ徐州にいるのは、青州黄巾党を殲滅した事のお祝いのためだ。例え、本音は別のところにあったとしても。

 その後、宴はつつがなく終了した。

 途中、涼を酔い潰して何かをしようとした雪蓮が、涼と雪里と冥琳の策によって先に酔い潰れたり、華琳が相変わらず愛紗たちを引き抜こうとしたりしたが、つつがなく終了したのである。うん。



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第十九章 帰還、それから・5

 その夜、自室で深い眠りについていた筈の涼は唐突に目が覚めた。

 

「……いま何時だっけ…………深夜3時くらいかな。」

 

 涼は寝台のそばに在る台の上に置いている腕時計を見ながら、そう呟いた。

 もちろん、この世界には現代の様な時計が無いので、腕時計に表示されている日付と時刻はこの世界のものではない。涼がこの世界に来てからの長い時間で見てきた太陽の昇り沈み、季節の移り変わりを感じた結果、今が何時か、どんな季節かを大体ながら把握出来る様になっていた。先の言葉はその成果である。

 

「何でこんな時間に……疲れてるはずなのになあ……。」

 

 そう言いながらも、涼は何となくその理由がわかっていた。

 昼間にあったちょっとした騒ぎ、桃香の気持ちや雪蓮たちとのこれからについて、思うところがあったのだろうと。

 

「これから先、どうするべきなのか、な。」

 

 柄にもなく、そんな事を呟く。

 普段の涼は楽天的な性格である。それは元の世界に居た時から基本的に変わっていない。その性格の為に、ともすれば呆れられそうな言動をした事も一度や二度ではない。

 だが、元の世界とは文化レベルから何から、余りにも違うこの世界に来て約二年。そんな涼もたまには物事について深く考える事もある。例えば今の様に。

 

(雪蓮たちと婚約してるから、普通に考えればいずれ結婚するんだろうけど……。)

 

 本当にそれで良いのか? という声がどこからか聞こえてくる。

 それで良い、という声と、良い訳無い、という声。それと、どうでも良いじゃないか、などといった様々な声が聞こえてくる。どの声も涼にとってはよく聞いた声だ。

 

(桃香の気持ちを、知っちゃったからな……。)

 

 ふう、と一つ、息を吐く。

 続いて、桃香だけじゃないか、とも思った。

 涼に好意を向けている者は、桃香や雪蓮たちだけではない。勿論、そこには単純な好意だけでなく、様々な思惑もあるだろう。

 事情があって劉燕(りゅうえん)として生きている張宝(ちょうほう)こと地和(ちぃほう)は、恐らく純粋に好意を向けている。愛紗や鈴々の好意はあくまで義兄に対するものだが、桃香の例を考えればこれからどうなるか分からない。

 董卓こと月たちや、顔良(がんりょう)こと斗詩(とし)たちも悪意無く接していると思われる。呂布(りょふ)こと(れん)、というかその周りの者たちの様に、あからさまな思惑を持っていた者も居る。その中には華琳も含まれるだろう。

 だが、そのいずれにしても結婚という可能性が残っているのは確かであり、現代の一般的な日本人である涼には無縁だった政略結婚が政治手段として存在するこの世界に於いては、無縁どころか却って身近なものになっていた。

 桃香がいずれ伴侶を決めなくてはならない様に、涼もまた伴侶を決める日がやってくる。しかも、涼の場合は少なくとも三人は既に決まっているのだ。

 正室だ側室だはたまた愛人だと立場は違うが、男である涼はこの様に複数の女性と婚姻関係を結んでいく可能性がある。いっその事、全員と結婚した方が却って上手くいくかも知れない。

 美人や美少女とそんな仲になれるなんて羨ましい限りだと、普通は思うだろうが、考えてもみてほしい。仮に結婚しても、そこに愛情やら何やらが無いかも知れないのだ。そんな結婚生活をしてみたいだろうか?

 もし愛情があったとしても、政略結婚である以上は普通の結婚生活は送れないと思われる。果たして、現代人の涼にそんな生活が送れるのだろうか。

 

「……大変そうだ。」

 

 政略結婚の結婚生活を想像してみた涼はそう呟いたが、実際、大変なのである。

 例えば、江戸幕府の初代将軍である徳川家康はかつて今川家の人質であり、松平元康という名前だった。

 当主、今川義元による政略結婚で瀬名姫、いわゆる築山殿を正室に迎えたが、彼女は年上で気が強かったとも言われており、今川家が滅んだ後は、家康にとっては義父にあたる関口親永が切腹になった事もあって、夫婦仲は険悪になったとも伝わっている。

 また、家康は後に豊臣秀吉から天下統一の為の策として、妹の朝日姫(旭姫)を継室にあてがわれたりもした。この時家康45歳、朝日姫は44歳であった。朝日姫との結婚生活については詳しく伝わっていないが、程なくして朝日姫が病死している事は確かである。

 やはり政略結婚は、基本的に夫婦仲が良くないのかも知れない。

 とは言え、涼が政略結婚をする事は既に決まっている。

 それに、涼の場合は先に挙げた例と比べたらマシな方だ。少なくとも、雪蓮たちは思惑だけで婚約した訳では無いし、涼もまた彼女達に対して思った以上の好意を持っている。

 その様な例も勿論有る。義元の嫡男、今川氏真は、今川と北条、武田との同盟、所謂「甲相駿三国同盟」の成立後、北条家から早川殿を妻として迎えた。政略結婚ではあったが、夫婦仲はとても良かったと伝わっている。

 桶狭間の戦いで義元が討ち死にし、多くの家臣を失い、離反者も多く出て、戦国武将としての今川家が滅亡した後も早川殿は氏真に付き従った。この時代、同盟関係が失われた場合には、実家に呼び戻される事が普通にあったし、一時は早川殿も氏真と共に北条家に身を寄せていたが、夫を邪魔物扱いする実家に怒り、出ていったとも伝わっている。

 また、家康は天正壬午(てんしょうじんご)の乱の後に北条家と同盟を結び、娘の督姫を北条氏政の嫡男、北条氏直に嫁がせていたが、北条家と秀吉が対立し小田原合戦が起きて北条家が滅亡した後、氏直は高野山に謹慎となった為、秀吉に赦免されるまで一時的に二人を離さざるをえなかった。なお、赦免後の氏直と督姫はまた二人で暮らせる予定だったが、氏直が病死した為に叶わなかった。督姫はその後、後に姫路宰相と呼ばれる池田輝政に再嫁している。

 古代中国史だけでなく日本史にも詳しい涼は当然それ等を知っている。知っているだけに、その良し悪しもわかっている。だが、だからといって自分がその渦中に投げ込まれると戸惑ってしまう。予め覚悟はしていた筈でも、ただの学生だった身には大変だろう。

 そんなこんなで珍しく悩み始めた涼は、気分転換に散歩をする事にした。部屋に籠って考えても良い答えは出てこないと、涼は生まれて約二十年の年月で培った経験から判断した。

 ここ下邳城は徐州に来てからずっと暮らしている、言わば涼達の「家」である。どこにどんな部屋が在るか、誰が居るか等を把握しきっている。

 今は雪蓮や華琳たちが来ているので、来客用の部屋を彼女達に宛がっている。その部屋は涼達の部屋とは少し離れているので、こうして散歩をしても足音で眠りを妨げる事も無いし、気づかれる事も無い。筈だった。

 

「……涼?」

「蓮華?」

 

 不意に声を掛けられた涼は少なからず驚きながらも、声の主が判って安心する。

 姉に似た顔立ちをした、だがまだ幼さを残した少女、孫権こと蓮華がそこに居た。



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第十九章 帰還、それから・6

 涼は訊ねた。

 

「こんな時間にどうしたの?」

 

 至極当然の質問だった。涼の予想ではあるが今の時間は深夜三時くらいであり、深夜三時というのは真夜中である。仮に時間が正しくなくても、日の入りからの感覚では少なくとも六時間以上は経っていると思われる。だとすればこの時代の人間は勿論、そうでない現代人でも眠っていておかしくない時間だ。

 この世界には当然ながら深夜番組も動画サイトも無い。現代で灯りの元になっている電気は無く、この世界で灯りに使う油などは無駄遣いできないので、非常時以外は夜更かしをする事も殆ど無い。

 そもそも、蓮華は客人である。彼女が住んでいる揚州の屋敷ならまだしも、徐州という余所の屋敷で好き勝手は出来ない。それは雪蓮や華琳たちも同じなので、宴が終わった後は皆、風呂で汗を流した後、程なくして就寝している。

 蓮華もそうやって寝床についた筈であった。尤も、いくら婚約者とは言っても彼女の行動を涼が逐一把握している訳では無いので、あくまで想像でしかないが。

 そんな涼の疑問に、蓮華は簡潔に答える。

 

「眠れなくて、少し散歩を、ね。」

 

 そう言った彼女は、少し空を見上げた。その視線の先には月が浮かんでいた。

 

「いくら同盟関係にあるとは言え、護衛もつけずに散歩って、ちょっと不用心だと思うけど。」

「それだけ信頼してるのよ。」

 

 蓮華のその言葉に、涼は少なからず違和感を抱いた。

 涼と蓮華は、会った日数はそれ程多くない。確かに婚約はしたし、その時にそれなりに会話はした。だが、彼女が「信頼」という言葉を口にする程、濃密な日々を過ごしてきた訳ではない。

 そもそも、姉である雪蓮と違って生真面目な蓮華は、初めて会った時から涼を警戒していた。仮にも孫子の末裔を名乗る孫家の姫としては、それくらい慎重になるのは当然である。雪蓮がちょっと軽いのだ。

 そんな彼女が、信頼を口にしたのは何故か。

 涼はしばし考えるが適当な答えが出ず、仕方ないのでありきたりな答えを選んだ。

 

「……何か、悩んでいるのか?」

「……っ。」

 

 当たりか、と胸中で呟く涼。

 ポーカーフェイスが得意な雪蓮と違い、蓮華は涼に言われるとすぐに表情を変化させた。素人の俺にも判る様だと、雪蓮にからかわれるぞ、なんて思ったのは勿論口にしない。

 

「良かったら俺に話してみないか? 悩み事って、人に話すと楽になるって言うし。」

 

 勿論、蓮華が良ければだけど、と付け足しながら、涼は近くの東屋(あずまや)に体を向けた。

 涼の提案に一瞬躊躇った蓮華だったが、結局は彼の後についていった。

 一、二分ほど歩いた所にその東屋は在る。なお、東屋とは庭園などに眺望、休憩などの目的で設置してある簡素な建屋の事を言い、四阿(しあ)とも呼ぶ。基本的に屋根と柱だけで造られており、壁は在っても簡素な物になっている。

 ここに在る東屋もその例に漏れない。尤も、城の中に在るからその分豪華な感じに造られてはいるが。

 涼と蓮華は対面する様に座った。円卓を挟んで見つめる二人。とは言え、何ら良いムードにならない。これも二人の関係性によるものであり、尚更先程の蓮華の「信頼」という言葉の違和感が強くなっていく。

 暫しの沈黙の後、先に言葉を発したのは蓮華だった。

 

「私の悩みは……ね、これからどうすれば良いのかって事なの。」

 

 涼はそれを聞いてキョトンした。あれ、何かつい最近聞いた事があるぞと。

 聞いた事があって当然である。つい先程まで涼自身が同じ事で悩み始めていたのだから。

 それに気づいた涼は苦笑した。その様子を見た蓮華は自分が笑われたと思い不快感を露にしたが、涼から理由を聞かされると素直に納得した。

 

「貴方も、私と同じ様に悩んでいたのね……何だか意外だわ。」

「俺だって、たまには悩むよ。」

 

 そりゃあ、普段はあんまり悩まないけどさ、と思いつつも、涼は蓮華に話を振った。

 

「どうしたら良いかって言うけどさ、蓮華のやりたい様にすれば良いんじゃない?」

「それが出来れば悩んだりしないわよ。」

「そりゃそうか。」

 

 人間が悩むのは、得てして自分の現状や行動が理想と違うからだったりする。本当なら勉強が出来ている筈だとか、スポーツが上手い筈だとか、モテモテな筈だとか、そういった「理想」と「現実」がかけ離れていたりするから、人は悩むのである。

 なら、蓮華の理想は何だろう? と涼は思った。思ったからには訊きたくなるのもまた人間だ。

 涼から「蓮華にとっての理想」は何か? と訊かれた蓮華は、さほど間を置かずに答えた。

 

「雪蓮姉様の様に強くなって、人を導く事が出来る様になるのが、私の理想よ。」

 

 蓮華の言葉に涼は納得した。最初に会った時はただの乱暴者だった雪蓮だが、今では冷静になる事を覚え、思慮深くもなっている。母である孫堅こと海蓮が居るのでまだ目立たないが、「三国志」を知っている涼はいずれ雪蓮が飛躍する事を知っている。

 そしてそれは、今目の前に居る蓮華も同じだという事も。

 だが今はまだ、悩める女の子でしかない。少なくとも涼はそう思った。

 考えてみれば、涼と蓮華は一つしか年齢が違わない。世が世なら、同じ学校の先輩後輩でもおかしくはないのだ。

 だからだろうか、いつの間にか涼は後輩の悩みを聞く感じになっていた。幸いにも、涼にはそうした経験があった。両肘を卓に載せて少し前のめりになり、蓮華の理想と悩みを更に訊き出そうとする。

 この辺りは、涼の楽天的な性格が良い方に出ているかも知れない。楽天的というのは、一見すると何も考えていない様に見えるが、言い方を変えれば常に前向きになれるともとれる。そしてそれは、今の蓮華には無いものである。

 蓮華は涼と話していく内に、悪くない気持ちになっていった。それは話相手が婚約者だからとか、天の御遣いだからとかでは勿論なく、涼の話し方、聞き方が上手いからだろう。

 蓮華と涼は揚州での会談時もそれなりには話しているが、何故か今の様に話が弾んではいない。聡い蓮華は涼と話しながらその理由を考えた。その結果、ここが揚州ではないから、という答えに辿り着いた。

 揚州は現在、孫家の物と言って良い。勿論、対外的には揚州は漢王朝より賜った領地であり、孫家は漢王朝によって任命された揚州の官吏であり、我が物顔で揚州を扱って良い訳ではない。

 だが、漢王朝の命脈が尽きかけている今、それを律儀に守っている者は殆ど居ない。ひょっとしたら、この徐州の州牧である桃香くらいかも知れない。

 そんな状況の揚州では、孫家は揚州の支配者と言って良い。揚州の他の豪族や山越などの問題はあるが、今の孫家ならそれもいずれ解決出来ると蓮華は思っている。

 よって現在の孫家は揚州に於ける一番高貴な一族であり、周りの目は良くも悪くも集まる事になる。それは揚州ならどこでもであり、孫家の屋敷の中でもだ。

 だが、そういった事がここ徐州ではない。厳密に言えば勿論あるのだが、揚州で受ける注目やプレッシャーの度合いと比べれば遥かに少ない。その為、蓮華はここが他所の場所にも係わらず意外とリラックス出来ているのだ。

 次に、涼の自覚か無自覚かは判らないが、その口調が蓮華と話していく内に彼女を一人の普通の女の子として扱う様になっているからだろう。

 前述の通り、蓮華は孫家の人間であり、現当主の海蓮の娘なので、言うなれば「姫」である。実際、一部の家臣からはそう呼ばれているし、それを蓮華も受け入れている。それが普通だったからだ。



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第十九章 帰還、それから・7

 孫家の姫だから、母を助け、姉を補佐し、妹を守ると、幼少期から現在に至るまでの人格形成で蓮華の性格はそのように形作られた。その結果、「堅物」とか「真面目」とかも言われているが、後悔はしていないし気にしてもいない。

 だが、蓮華と比べると自由奔放な母や姉、妹を見続けてきた為に、自分はこのままで良いのかという疑問と不安が生じた。根が真面目なだけに、一度不安になるととことん不安になる。誰かに相談するという事も、相手を不安がらせてはいけないと思い、しないできた。

 そんな彼女が、何故か涼には不安を、理想を打ち明けた。計らずも婚約した仲だからかどうかは彼女自身にも判らないが、歳が近くて、異性で、しかも天界出身なので価値観が絶対的に違う筈の涼に訊いてもらいたかったという思いを、彼女も知らない内に抱いていたという可能性は捨てきれない。

 事実がどうであれ、蓮華は涼に打ち明けた。そして涼はそんな蓮華に対し自身の考えを口にした。

 

「蓮華のやりたい様にやれば良いんじゃないかな?」

 

 字面だけ見ると、何とも投げやりな感じに見えるが、その口調は意外にも真剣そのものだった。

 それだけに蓮華は当惑し、慌てながらも反論した。

 

「その、私のやりたい事が判らないからこうして相談しているのだけど。」

「判らないって言っても、さっき言った様に理想はあるんでしょ。」

「それはそうだけど……。」

「なら、その通りに動けば良いと思うよ。なーに、理想と現実がかけ離れている事なんて、別に珍しくもないよ。」

「それはそうだけど……。」

 

 蓮華は同じ言葉を返す。

 涼が言っている事は理解できる。人は誰しも理想通りに生きていける訳では無い。

 「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言って本当に陰麗華を妻とし、執金吾どころか皇帝にまでなった光武帝の様な人物の方が少ないだろう。

 だが、人はどこまでも理想を追い求めるものではないだろうか? とも彼女は思うのだ。そうでなければ人は、いつまで経っても進歩しない生き物になってしまうのではないかと。

 それは恐らく正しいのだろう。人は、美味しい物を食べたいと思うから料理の腕を上げ、川を渡りたいと思ったから船を造り、空を飛びたいと思ったから飛行機を造ったのだ。その夢は、理想は果てしなく、今や人類は宇宙の果てにまで目を向けている。尤も、当然ながら蓮華はそんな事までは知らないが。

 理想を追い求める事、それは決して諦めてはいけない事だと、彼女は思っている。

 だが、理想と現実の違いや差を実感している蓮華は、自分が姉や母の様に出来るか不安になっている。

 姉、雪蓮は常々言っている。「自分に何かあったら、貴女が孫家を継ぐのよ」と。

 聡明な蓮華は、頭では理解している。だがまだ十代半ばの少女である彼女にとって、母も姉も居なくなる時が想像できない。父が居なくなった時はまだ幼かった事もあり、また妹の小蓮が物心つく前だった事もあって、現状認識が追いつかなかったという事実もある。

 そんな自分が、万が一の時に孫家を引っ張っていけるのだろうか。その為にはもっと成長しなければ、という焦りが、今の蓮華にはある。

 なるほど、確かに雪蓮は蓮華にとって理想と言えるかも知れない。

 母・海蓮の武勇をそっくりそのまま受け継いだかの様なその強さは、先ほど蓮華が述べた理想通りである。海蓮には程普(ていふ)こと泉莱(せんらい)を始めとした、いわゆる「孫堅四天王」が居り、雪蓮には四天王という異名がついた者は居ないものの、周瑜を始めとして優秀な武官・文官が数多くいる。

 今、蓮華の傍にも同じ様に優秀な者は多いが、先の四天王や周瑜たちと比べたら劣っている、と、少なくとも蓮華は思っている。実際には、その差は経験の差であって実力や将来性は同じくらいかそれ以上なのだが、残念ながら蓮華はまだその事に気づいていなかった。

 涼が言った「理想と現実の違い」に、彼女は正面衝突していた。真面目ゆえに柔軟性が無く、誰にも相談してこなかった蓮華は今、ようやくその打破に向けて一歩を踏み出せる可能性に手が届きかけているのだが、果たしてそれに気づくのだろうか。

 蓮華は暫し考えた後、疑問をぶつけてみた。

 

「……涼は、今までどうしてきたの?」

 

 それは、単なる興味からだったのかも知れない。

 同年代の、異性の、婚約者がどうやってここまでやってきたのか、気になっただけかも知れない。

 それでも、聞いてみたくなった。ひょっとしたらそこから何か得られるかも知れないと思った。孫家の中だけでは自分の悩みは解決出来ないと思ったのかも知れない。

 果たして、涼の答えは蓮華の役に立ったかどうか。

 

「俺は……皆に助けられてばかりだよ。俺がやってきた事なんて、大した事じゃない。」

 

 それは、涼の偽らざる本心だった。

 天の御遣いとかいろいろ言われている涼だが、彼自身はそんな大層なものではないと思っているし、何かとてつもない大きな事を成し遂げたとも思っていなかった。

 十条侍誅殺の時に二人の皇子を助けた事は間違いなく大層な、とてつもない事なのだが、涼にとってこれは、実質的に敵に止めをさした愛紗による手柄だと認識している。それが世間の認識と大きく違っているという事は理解しているが、涼にとってはそういう事になっていた。

 涼にとって、総大将は桃香であって自分ではなく、また、中心人物とも思っていない。中心人物は桃香であり、愛紗であり、鈴々であり、朱里たちであると思っている。涼はあくまで彼女たちをサポートする立場だと思っているのだ。

 それでいて今の自分の「価値」についてはある程度認識しており、だからこそ今回の遠征で孫家の三姉妹と婚約した。使う事は無かったが、華琳との交渉でも、万が一の時はその手を使うという覚悟も一応はあった。

 そうした、涼自身がどうすれば良いかという事に対しては、彼も周りも納得する行動をとってきているが、それは全て徐州の為、桃香たちの為であり、涼の私欲の為では無い。

 武将の様な武力は無い、軍師の様な頭脳も無い、有るのは「天の御遣い」という肩書きのみという自分自身の立場を理解している涼は、今までそうしてきた。それは多分、これからも変わらないだろう。尤も、周りが涼をどう見るかは別問題である。

 

「自分に出来る事なんてそう多くないよ。だけど、出来る事は必ず有る。俺はそれをやっていくだけさ。」

「出来る事をやっていくだけ……。」

 

 蓮華は涼の言葉を繰り返した。極々普通の、当たり前の事を涼は言っただけである。

 だがそれは、意外にも彼女にとっては思ってもみなかった事だった。

 蓮華は先程こう言った。

 

『雪蓮姉様の様に強くなって、人を導く事が出来る様になるのが、私の理想よ』

 

と。

 それは単に理想を述べただけに過ぎない。だが、理想の為に何をすべきかは実際の所解っていなかった。だからこそ今、こうして涼に相談していたのである。

 その答えとも言うべき言葉を、いとも簡単に涼は口にした。勿論それはただの偶然に過ぎない。だがそれでも、答えを探し求めていた蓮華にとっては大事な一言であり、何でもない言葉の筈のそれは彼女が探し求めていた答えになろうとしていた。

 恐らく、蓮華は母や姉という目標の高さに目眩がしそうな思いであったろう。三姉妹、または三兄弟の真ん中というのは、上にも下にも見られ、その為に中途半端な責任を押し付けられる事もしばしばである。

 蓮華はまさにその三姉妹の真ん中であり、妹で、同時に姉であった。



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第十九章 帰還、それから・8

 優秀な姉を補佐し、まだ幼さの残る妹を支える。そうした想いが幼少から、恐らくは物心がついてすぐに芽生えていたかも知れない。

 その結果、自由な性格の長姉と末妹に挟まれた次女は、真面目にならざるをえなかったのかも知れない。例え涼がそう指摘しても、蓮華は否定するだろうが。

 蓮華は真面目な性格だからこそ、どうすれば姉妹を支えられるか、孫家を繁栄させる事が出来るかを常に考えてきた筈だ。だからこそ悩み、涼に相談するまでになったのかも知れない。…………恐らく、雪蓮や小蓮も時々は悩む事はあっただろう、うん、多分。

 そうして悩み、考え、迷走した結果、目標は見つかった。だが、そこまでの道筋は見つからずにいた。

 勿論、真面目な蓮華はその道筋も探し続けた。

 それでも、探して探して、探しても探しても、見つからなかった。

 それなのに、今まで見つからなかった道筋が、たった一言で見つかったかも知れないという事実は、蓮華にとって驚くべき事であった。無論、まだそれが正しいかは判らない。だが、五里霧中だった蓮華の心に一筋の光をもたらしたのは間違いなかった。

 自分に出来る事を一つ一つやっていけば、いずれは理想に到達するかも知れない。仮に理想とは違っても、理想に近い事は出来るかも知れない。

 ならば、彼女が進みべき道は決まった。いや、正しくは方向性が決まったと言うべきだろうか。「理想」を目指しつつ「現実」を直視するという、言葉にするは易く、実現するには難い事を、これから蓮華はやるつもりなのである。

 

「ありがとう、涼。」

「え? あ、うん、どういたしまして?」

 

 蓮華は素直に礼を述べた。特に大した事を言ったつもりがない涼は、戸惑いつつもその言葉を受け取った。

 それから暫くの間、今度はもっと軽めの、所謂雑談をした二人は、 互いに有意義な時間を過ごしたと感じつつそれぞれの寝所へと戻っていった。

 その道すがら、蓮華は前を向いたままここに居ない筈の人物の名を口にした。

 

「思春、居るんでしょ?」

 

 思春とは孫軍の武将の一人であり、「鈴の甘寧」とも呼ばれる甘興覇の真名である。

 

「はっ。」

 

 どこからともなく、音もなく蓮華の正面に現れたのは正しく甘寧だった。トレードマークでもある黒系のマフラーを巻き、寝巻き姿の蓮華とは違い、常の赤いチャイナ服を身に纏っている。

 地面に片膝を着き、頭を垂れている思春に対し、蓮華は穏やかな口調で話しかけた。

 

「護衛ご苦労様。尤も、ここではその必要は無いと思うのだけど。」

「蓮華様の仰る通りだとは思いますが、万が一、という事もありますので。」

「相変わらずね。」

 

 思春の受け答えに苦笑する蓮華。彼女は自分でも自身を堅物だとか真面目だとか思っているが、今目の前に居る思春も自分に負けず劣らずの堅物、真面目では無いのかと、時々思っている。

 だからこそ、蓮華の側近が務まるのかも知れないが。

 

「いつから居たの?」

「蓮華様が部屋を出られた辺りから、でしょうか。」

「ほとんど最初からじゃないの。」

 

 今度は半ば呆れた蓮華。確かに、今回あてがわれた部屋は蓮華と思春を隣同士にしてある。これは孫軍側からの要望でもあり、それを徐州側が了承したという事であった。

 なお、涼が揚州に行った時には徐州側が同様の要望を出しており、その際は涼の隣に鈴々の部屋があてがわれていた。

 ……そう言えば、一度雪蓮が涼に夜這いをかけていたが、その時鈴々は何をしていたかと言うと、実は夢の中に居たのだった。護衛の意味が全く無いのではなかろうか。

 それと比べると、思春の護衛は完璧と言える。少しやり過ぎな気もするが。

 

「これぐらいやらなければ、護衛とは言えません。」

 

 殊勝な心がけである。どこかのちびっ子にも聞かせたいものだ。

 蓮華はまたも苦笑する。自分の様な未熟者をここまで想ってくれる部下がいる事に、彼女は心から感謝をした。

 蓮華は再び歩き出した。半歩後ろを思春が続いていく。

 

「それで、思春から見た涼の評価はどんな感じかしら?」

「それは……。」

 

 主の問いに対する答えに、思春は少し躊躇いを見せた。

 涼は一応、蓮華の婚約者である。つまりは、将来思春にとってもう一人の主になるかも知れない相手という事になる。その様な人物に対する評価を、一家臣が易々と言って良いものかどうか迷ったのであろう。

 

「遠慮しなくて良いわ。私は貴女から忌憚の無い言葉を聞きたいの。」

 

 蓮華がそう言ったので、思春は暫し瞑目してから、忌憚無い意見を述べた。

 

「基本的には、初めて会った時の印象と変わっておりません。先日の戦闘で清宮の戦いぶりを見たのですが、部隊指揮能力はともかく、戦闘能力や身体能力は兵卒より少しだけ良いという程度。もし、世に聞こえる武将と一騎討ちををすれば、百戦百敗は不可避かと。」

「予想以上に手厳しいわね。」

 

 辛辣な思春の答えに、今宵何度目になるか分からない苦笑をする蓮華。そんな蓮華自身も、涼と初めて会った時は今の思春と同じ様な感想を抱いていた筈だが、小一時間二人だけで話していたからか、今の蓮華はそうは思わなくなっていた。

 ちなみに、思春が言った「先日の戦闘」とは、言うまでもなく袁紹軍との戦闘の事である。

 あの時は徐州軍、孫策軍、曹操軍の連合軍による攻撃で殆ど一方的な戦闘となり、完勝していた。その際、涼は味方の鼓舞と敵の更なる士気低下を狙い、一部隊を率いて戦った。

 もちろん、軍師達の意見を訊いてからの出撃であり、それも可能な限り前線には出ないという約束があっての出撃であった。

 またこの時、雪蓮も同じ様に一部隊を率いて出撃したので、味方の士気は否応にも上がり、敵の士気は当然ながら下がっていった。

 華琳も二人と同様に出るべきかと思ったが、流石に各軍の総大将が全員最前線に出る訳にもいかず、自重した。また、これを機に二人の能力を改めて確認したいという思惑もあったのはいうまでもない。そしてそれは、徐州軍も孫策軍も同じだという事も。

 涼の部隊指揮は無難であり、味方の鼓舞及び救援、敵への追撃はスムーズに行われた。だがその際に、追撃を阻止しようとした勇敢且つ忠誠心溢れる敵部隊と数度切り結んでおり、その戦いぶりはお世辞にも素晴らしいという出来では無かった。

 既に何度も述べているが、涼は元々普通の高校生であり、当然ながら戦闘などした事は無い。

 そんな彼がこの世界で戦えているのは、愛紗たちに鍛えられているからである。とは言え、その実力は思春が言う様に大したものではない。今まで戦ってきたのはその殆どが黄巾党の様な賊であり、だからこそ何とかなっていたという事情がある。

 だが、今回戦ったのは袁紹率いる正規兵達、いわば戦闘のプロである。正規兵との戦闘は十条侍誅殺の時に経験しているが、あの時の正規兵は洛陽でぬくぬくと過ごしていた弱兵達だった。

 袁紹軍も然程強くないとはいえ、洛陽の兵達と比べれば遥かに強兵であり、必然的に涼は苦戦する事となった。それでも無事に生きて帰って来られたのは、雪蓮の援護のお陰もあるが、愛紗たちによる調練の賜物であるのはいうまでもない。

 揚州に居る蓮華たちは、当然ながらそうした事情を知らない。ある程度は話を聞いているかも知れないが、一軍の将としてあれで良いのかと疑問を持ったり不安をおぼえても仕方がないだろう。

 

「ですが、本来総大将は最前線に出ぬもの。そう考えるならば、今のままでも充分なのではないかとも思います。」

「そうね。姉様みたいに最前線で戦うのは本来有り得ない事だものね。」

 

 そう言うと、二人は顔を見合わせながら再び苦笑した。

 この時代、総大将は後方で指揮をする、もしくは戦況を見守っているのが普通である。約四百年前の楚漢戦争時の楚の総大将、項羽は最前線で戦い、いくつもの首級を挙げているが、それは例外中の例外と言えよう。なお、ライバルであった劉邦は殆ど最前線に出ていない。

 

「勿論、これから全く成長しないというのであれば問題外です。」

 

 蓮華に対し、恭しく接する思春は先程のフォローを打ち消すかの様な言葉を紡いだ。臣下だからこそ言わなければならないと思ったのかも知れない。

 蓮華はこの夜最後の苦笑をしてから、「ありがとう、思春。参考になったわ」と言い、寝所へと戻っていった。



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第十九章 帰還、それから・9

 それから暫くの間は、戦勝の宴で友好を深めあったり、同盟の継続や内容の変更・追加は無いかといった政治的な話を続けた。その際に雪蓮が数度、涼に夜這いをかけようとして失敗したり、姉の真似をしようとした小蓮が蓮華に怒られたりしているが些細な事である。

 そうした日々が過ぎた後、曹操軍と孫策軍の内、先に帰る事になったのは曹操軍であった。

 元々徐州に来る予定が無かったので、余り長居は出来ないという理由があったので当然ではあった。それでも五日ほど滞在していたのは、先述の事以外に武将たちのスカウトなどをしていたからである。

 特に愛紗に対しては過去何度も断られているにも係わらず、熱心な勧誘だった。並みの武将であればその熱意に打たれ、間違いなく華琳の許に鞍替えしたであろう。

 

「涼や桃香より先に、貴女に逢いたかったわ。」

 

 これは徐州を発つ時に華琳が言った言葉である。実は愛紗も、内心ある程度は同意していた。

 華琳は今現在、桃香や孫堅こと海蓮などと同じく州牧という立場に居るが、その才能や人脈を考えればその立場で納まる様な人物ではない。

 何れは後漢王朝の中枢で皇帝陛下を支える、という立場になるだろうと思っている。それは歴史を知っている涼は勿論、桃香や雪蓮たちも同じ考えであった。

 そんな華琳自らに誘われて、断るというのは本来有り得ない事だ。一部の者は華琳が宦官の家の出という事を揶揄したりするが、それでもこの国屈指の名門の一つなのは変わり無く、先祖を辿れば漢王朝建国の忠臣の一人、夏侯嬰(かこうえい)に繋がるという家柄は本来文句は出ない筈である。

 それでも愛紗が首を縦に降らないのは彼女の主君への忠誠心だけでなく、涼達とは義兄弟・義姉妹という関係だからでもある。

 

『姓は違えども、兄妹姉妹の契りを結びしからは、

心を同じくして助け合い、困窮する者達を救わん。

上は国家に報い、下は民を安んずる事を誓う。

同年、同月、同日に生まれる事を得ずとも。

願わくば、同年、同月、同日に死せん事を』

 

 これはかつて、涼、桃香、鈴々、そして愛紗の四人が誓った所謂「桃園の誓い」である。

 「兄弟姉妹で力を合わせて国の為、人々の為に生きる」という、涼たちの行動原理がここに有り、「生まれた日は違っても、死ぬ時は同じでありたい」という、普段の彼女達からは考えられない苛烈な覚悟も同時に含まれている。

 その様な誓いをした愛紗は、二君に仕える気が無い。仮に誓いを抜きにしても涼と桃香は素晴らしい主君だと思っているし、頻繁に主君を変えるべきではないという彼女なりの美学もある。よって、いくら華琳が誘ってきてもその首を縦に降る事は一生無い。

 だが、愛紗は同時にこうも考えた事がある。「先に出会ったのが華琳であったら、自分はどうしていたのか」、と。

 恐らくは、万人がそうである様に華琳に仕えていたであろう。それだけ華琳、つまり曹操という武将は凄い。

 涼の世界では中国史に名前を残し、日本においても多大な影響を与えたと言われる曹操。その曹操と同じ名を持つ華琳は、まず間違いなく大成し、この世界に名を残すだろう。

 勿論、愛紗はそんな異世界の曹操の事は知らない。それでも、華琳が優れた武将だという事は分かる。

 だが愛紗は、その優れた人間である華琳に仕えるという、「あったかも知れないもう一つの道」を、全く惜しんでいない。今の道で充分だと思っている。

 華琳の許での自分自身を夢想した事はあるが、結論としては今と余り変わらないだろうという事になった。武人でしかない自分は涼と桃香の許でも、華琳の許でも、はたまた雪蓮の許でもやる事は変わらないと。

 (すなわ)ちそれは、「主君の敵を討ち倒す」という至極シンプルな、それでいて明確な答え。

 それならば、余所に居る自分を考えていても仕方がない、今やれる事をやるだけだと、愛紗はそう結論付けて今に至っている。

 なので愛紗は華琳にこう答えた。

 

「これも天命ですよ、華琳殿。」

 

 その答えを聞いた華琳は、満足した笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 さて、そんな風にして兗州への帰路についた華琳たちであるが、その道中、ちょっとした出会いがあった。

 徐州を出てしばらくすると、一人の小柄な、一見すると幼女の様な外見の少女が華琳の前に現れたのである。

 

「兗州牧の曹孟徳殿とお見受けするのです。」

 

 突然の来訪者にすわ敵かと色めき立つ曹操軍だが、華琳はそれを静かに、の一言で収めると目の前に現れた少女に向き直り、言葉を紡いだ。

 

「貴女は?」

「先日まで中牟県(ちゅうぼうけん)の県令を務めていた、陳宮(ちんきゅう)と申しますです。」

 

 陳宮と名乗った少女は、そこから自身を売り込んだ。それを要約すると、自分は優れた文官なので曹操殿のお役に立てる筈だという事だった。事実、様々な兵法書の文章を(そらん)じ、華琳の問いにも多少どもりつつも答え、その実力を証明した。

 

(まだまだ荒い所はあるけど、確かに言うだけの事はあるわね……。)

 

 華琳は内心で陳宮をそう評した。

 桂花や稟ほどでは無いが、間違いなく優秀な文官だという事は、この短い時間でのやり取りで判っている。優秀な人物なら武官も文官も欲しい華琳にとって、探す手間が省けたと言って良い。

 とは言え、いきなり現れたこの人物が何者かという疑問は残る。余りにも都合の良過ぎる展開は、それだけで疑念を生じさせる。幼い頃から自分を疎んじる人間を何人も見てきたし、その中には自分の親類も含まれてきた。そうした経験から、この陳宮という少女も自分を害しようとする刺客なのではないかと、華琳は思い、登用するか迷っていた。

 そんな華琳に決意を促す、低い声が聞こえてくる。

 

「良い人材ではありませんか、華琳様。登用して宜しいかと自分は思いますが。」

允誠(いんせい)。……そうね、貴方がそう言うのなら間違いは無いのでしょうね。」

「勿体無きお言葉です。」

 

 華琳は後ろに居る軽装の武将に目をやるとそう答え、そのまま陳宮を登用する事に決めた。陳宮は喜びを全身で表し、華琳とその武将に感謝の言葉を述べた。

 実はこの武将、曹操軍に於いては珍しく、男性である。物語中にはまだ出ていないが、曹操軍にも孫堅軍にも、もちろん徐州軍にも男性の武官、文官は存在する。その中で曹操軍の男性比率は一番低い。そんな数少ない男性の一人がこの「允誠」なのである。

 彼は華琳よりもだいぶ年上で、三十代から四十代といった風貌である。短めの黒髪に黒く切れ長の目、穏やかそうな顔は、一見すると文官にも見える。

 軽装と前述したが、実際に右肩に肩当て、それと繋がる様に左胸を守る胸当てをしているくらいで、あとは黒い服や茶色いズボン等を身に付けているだけである。得物はありふれた普通の剣であり、外見からはとても華琳の側に居る様な武将には見えない。

 だが、先ほど允誠が華琳の真名を呼んだのは事実であり、少なくとも華琳が信頼している人物というのは確かな様である。

 その華琳が陳宮に自身の真名を呼ぶ事を許すと、陳宮もまた同じ様に真名を明かした。

 

「ね……私の名前は陳宮、(あざな)公台(こうだい)、真名は音々音(ねねね)。ねねとお呼びくださいですぞ。」

 

 黄緑色の長い髪を首の後ろで赤い髪留めで左右に纏めた、所謂ツインテールにしている陳宮こと音々音は、パンダの顔が描かれた黒い唾つき帽子をとって平伏の証を立てる。ちなみに外見はざっと言うと白と黒で構成された導師服の様な上着に白い服、紺色のホットパンツに白と黄のオーバーニーソックス、そして短めのブーツの様な靴を身に付けている。

 瞳は大きな金色をしており、顔は低い身長と相まって幼く、現代で言うなら小学生と言っても通用するだろう。

 そんな音々音が曹操軍の一員になり、そのまま華琳たちと共に兗州へ向かう事になったのは、音々音にも華琳にも良い事だったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 数日後。兗州は陳留まであと少しという所で、華琳は允誠と音々音を伴ってとある屋敷に来ていた。

 その屋敷に居たのは華琳よりだいぶ年長と思われるが美しい黒髪の女性で、華琳はその女性を「呂伯奢(りょ・はくしゃ)」と呼んだ。

 華琳は音々音を紹介した。どうやらそれがここに来た目的の一つであった様だ。

 呂伯奢は華琳たちを歓迎したが、生憎お酒が切れていると言って買い物に出掛け、その間は彼女の娘たちや食客(しょっかく)たちが応対した。

 その夜、猪や豚を使った料理に舌鼓を打った華琳たちは、そのまま呂伯奢の屋敷に泊まった。護衛と言える護衛が允誠しか居ない事に違和感と不安を覚えた音々音は、その允誠に訊ねるが、允誠は何の心配も要らぬと言うだけであった。

 そして夜更け。既に夢の中にあった音々音であったが、尿意を我慢する訳にはいかず目を覚ました。

 何気なく隣を見ると、そこに居る筈の華琳の姿が無かった。寝台に布団はあるが誰も居ないのである。

 音々音は焦った。自分の様に厠に行っているのならば良いが、もしそれ以外の、つまりは暗殺などの凶行に遭っているのではないかと思うと気が気でなかった。

 

(せっかく、覇王になるかもしれない人と会えたのにです……!)

 

 音々音が華琳の事を知ったのは、黄巾党の乱の首魁である張角(ちょうかく)とその妹である張梁(ちょうりょう)を討ったと風の噂で聞いたのが最初である。

 それ以来、ひょっとしたらこの曹操という人物は自分が仕えるべき主人なのではないかと思いながら、県令の仕事をやっていた。

 その後も十常侍誅殺、そして今回の袁紹の兗州侵攻などでの活躍を聞いて、遂に音々音は動いた。県令の仕事を辞め、凱旋してくる曹操軍を待ち、直接売り込んだ。結果、思い通り曹操軍の一員となれた。

 曹操軍には他にも優秀な文官が多数居るであろうから、出世は楽にはいかないだろうが、それでも第一歩を踏み出せたのは間違いない。

 

(だから、こんなところで死なれては困るのですよ、華琳殿……!)

 

 音々音は尿意も忘れて華琳を探し始めた。この呂伯奢邸は多数の食客を抱えているだけあって広い。それに初めて来たので勝手が分からない。更に、もし華琳が呂伯奢や屋敷の者に命を狙われているのならば、護衛である音々音や允誠も当然ながら狙われるであろう。用心しつつ闇夜を進まなければならなかった。

 

(……! そう言えば、允誠殿はどこに!?)

 

 音々音はもう一人の同行者である允誠の事を思い出した。

 華琳と同じ女性である音々音は今回、華琳と同じ部屋に泊まっていた。主君と同じ部屋は畏れ多いと一度は辞退したが、華琳がせっかくだから音々音と寝ながら話したいと言った為にそうなった。

 だが、男性である允誠は流石に同じ部屋という訳にはいかない。この時、華琳は妖しげな笑みを浮かべながら允誠も誘ったが、丁寧に辞退されている。どうやら、允誠のそうした反応を見る為に誘った様である。

 允誠は護衛を兼ねている為、二人の部屋の隣で寝ていた筈である。もし華琳に何かあれば、すぐに動いていると思われる。

 華琳の護衛を単身で任された允誠は、華琳の信任篤く、また実力もある筈だと、音々音は判断した。ならば允誠を見つければ華琳もそこに居るのでは? と考えたのはある意味当然だった。

 と、そこまで思った時に音々音はその允誠を見つけた。

 音々音はつい大声を出しそうになったが、もし本当に刺客が潜んでいたらと思い、何とか小声で允誠に話しかけた。

 

「允誠殿、ご無事でしたか!」

「おや、音々音か。無事とはどういう意味だ?」

 

 慌てている音々音とは対照的に、允誠は廊下に静かに座ったまま応えた。

 音々音は華琳が居ない事、ひょっとしたら刺客でも居るのではないか等といった事を早口で説明し、華琳の居所を知らないかと訊ねた。

 

「成程。華琳さまならばその部屋にいらっしゃる。」

 

 允誠が指差したのは目と鼻の先に在る部屋。こんな時間だというのに灯りが点いているらしく、窓から光が漏れている。この部屋に華琳が居るという。

 拍子抜けする程あっさりと華琳の居場所は判明した。途端に音々音は脱力し、廊下にへたりこんだ。

 

「ご……ご無事でしたか……良かったのです。」

「もちろん刺客も居らぬ。ご安心めされよ。」

 

 允誠にそう言われて音々音はようやく安心し、数度呼吸を整え落ち着いた。いまだ心臓の鼓動は常より早く走っている。

 そうして安心すると、脳に新しい酸素が供給され、考えが纏まる。音々音の脳裏には当然の疑問が浮かび、それをそのまま允誠にぶつけた。

 

「何故、華琳殿はこの様な夜更けにこの部屋に来ているのです?」

 

 だが允誠は先程と違い言葉を濁した。音々音は追及するがやはり答えない。

 音々音はそんな允誠の態度を訝しんだ。知り合って数日とは言え、同じ釜の飯を食べ、共に華琳をもり立てようという同志なのは間違いない。允誠には娘が居るらしく、音々音と余り変わらない歳という事もあって良くしてもらっていた。

 その允誠がこの様な反応をするからには何か深い理由(わけ)があるのではないかと、音々音が思ったその時、件の部屋から華琳の声が聞こえてきた。

 

「ねね? 起きたの?」

 

 部屋の扉越しなので少しくぐもった声だが、間違いなく華琳の声であった。音々音はこの時、心から安堵したと言って良いであろう。

 音々音は起きたら華琳が居なかったので心配し、探していたと説明した。華琳は心配かけた事を謝罪すると、明るい声で部屋に入る様に言った。

 すると、允誠が異を唱えた。

 

「華琳さま、それはお止めになられた方が宜しいかと……。」

「何故かしら?」

「その……音々音にはまだ早いかと。」

「そうかも知れないわね。けど、遅かれ早かれこうなるのだし、それに最終的に判断するのはねねよ。」

「それはそうですが……。」

 

 その後も暫くの間、二人のやり取りは続いたが、このままだと喧嘩になる、それどころか華琳が怒って允誠を討つのではないかと危惧した音々音は允誠に謝意を述べた後、華琳に部屋に入る事を伝えた。允誠は尚も心配していたが、華琳は喜び、改めて部屋に入る様に促した。

 音々音は一声掛けてから部屋への扉を開いた。数刻後、音々音はこの判断と行動が間違っていた事を嘆くが、その時は既に後の祭りであった。

 

「し、失礼するので……す!?」

 

 恭しく入室した音々音は言葉を失った。大きめの寝台の上に寝そべっている華琳が、一糸纏わぬ姿で居たからだ。

 いや、それだけではない。この部屋には呂伯奢とその娘たちも居たがその者達も華琳と同様、つまりは素っ裸であった。

 音々音は驚きつつも現状がどうなっているのか訊ねた。すると華琳は妖艶な笑みを浮かべながら、「夜伽をしていたのよ」と答えた。

 夜伽。夜に物語を話したり、警護や看病などで夜通し起きている事も夜伽と言うが、一般的には「男女の交わり」を意味する。この部屋には女性しか居ないが、要はそういう事を意味する。

 つまり、華琳は夜中、音々音が寝た後にこの部屋に来て、彼女達と楽しんでいた訳である。ここに来た目的のもう一つはこれだったらしい。

 

「さあ、貴女もいらっしゃい。」

 

 華琳はやはり妖艶な笑みでそう言った。呼ばれた音々音は戸惑いながら返事を返せずにいる。

 幼い体躯が示す様に、音々音はそういった経験が無い。男性とも女性とも、無い。

 異性とは勿論、同性との恋愛などした事がない音々音は混乱した。ここで華琳の誘いを受けるのは是か非か。主君の命令なら聞くのが当然ではないか、いやいや、異性となら兎も角、同性となんておかしい、いや、同性とも有りなのではないか、等の考えが数秒の間に何度も繰り返され、結果として音々音の思考はオーバーヒートした。

 

「す、す、すみませんです! ねねはその……ゴメンナサイっ!!」

 

 茹で蛸の様に真っ赤になった顔、ひょっとしたら全身がそうであったかも知れないが、兎に角真っ赤になった音々音はそう叫ぶと、一目散に自分が寝ていた寝所へと戻っていった。

 その様子を華琳は苦笑しつつ見送ると、寝台からは死角になって見えないが、廊下に居る筈の允誠に話し掛けた。

 

「貴方の言う通りだったわね。」

「連れ戻しますか?」

「良いわ。嫌がる相手を無理矢理に、ってのは趣味じゃないから。」

「文若殿には時々そうしている様ですが?」

「あの子はその時の反応が面白いから良いのよ。それに、本気で嫌がっていたら、いくら桂花が相手でもしないわよ。」

 

 そう言うと、華琳は呂伯奢の娘の一人を抱き寄せた。

 

「ねねは兎も角、貴方はどう? この子なんか貴方の好みじゃないかと思うのだけど。」

「お戯れを。女を抱いたとバレたら妻と娘に殺されます。」

「それは残念ね……ふふっ。まあ良いわ、引き続き護衛を頼むわね、鮑允誠。」

「はっ。」

 

 允誠が恭しく頭を下げると、華琳は夜伽を再開した。允誠はこの反応も折り込み済みで訊ねたのだな、と思いながらもそれ以上は何もしなかった。

 

 

 

 それから一刻後、いろんな意味でスッキリして寝室へと戻ってきた華琳は、自身の寝台に置き手紙が有る事に気づき、それを手に取って読んだ。

 

『華琳殿、短い間ではありましたがお世話になりました。

華琳殿を覇王にするべく仕官しましたが、あの様な事をしなければならないのは本意ではありませんです。

ねねから仕官しておいて誠に勝手ながら、今限りで曹操軍を辞めさせていただくのです。

 

追伸。

捜さないでください。』

 

 何と、音々音は曹操軍を辞めていた。華琳が部屋を見渡すと、有った筈の音々音の服や荷物が無い。既にこの屋敷を離れていると考えて良いだろうと華琳は結論付けた。

 

「……残念ね。育てばひとかどの軍師になって私を支えてくれたでしょうに。」

 

 その声音は音々音が居なくなった事を真から惜しんでいる様であり、それだけ音々音を評価していたという事であった。

 とは言え、来る者は拒まず、去る者は追わない華琳はそれ以上何もせず、夜明けまで過ごした。

 

 

 

 

 

 一方、まるで命からがら逃げるかの様に屋敷を後にした音々音は、一度も後ろを振り返る事無く走り続けた。

 どこでも良い、兎に角ここから逃げようと思った音々音は、意図せず西へ西へと進んでいた。

 そして、兗州を出てしばらくした所で賊の集団に出遭ってしまった。文官である音々音は抵抗する事が出来ない。賊たちは音々音を囲み、下卑た笑みのままジリジリと近付いてくる。

 ねねの人生はここで終わるのか、と絶望した音々音は、せめてもの足掻きとして大声で助けを呼んだ。

 するとその瞬間、音々音の正面に居た賊の一人の体が真っ二つになった。突然の事に他の賊達も、音々音も事態を把握出来ないでいた。

 だが、誰もが現状把握する間も無く、賊は次々と絶命していった。よく見ると、紅い髪に褐色の肌の女性が黒い戟を振り回して、賊を斬り伏せていた。

 そうしてその女性は賊にまったくと言って良いほど反撃させず、あっという間に全ての賊を斬り殺した。

 戟に付いた血を振って落としたその女性は、そのまま音々音に近付いていった。賊が居なくなって安心していた音々音は、今度は自分が殺されるのでは!? と内心慌てたが、結果としてそれは杞憂に終わった。

 

「……大丈夫?」

 

 女性は、先程賊を斬り伏せていた時の迫力とはうって変わって、のんびりで穏やかな表情と口調で話し掛けてきた。

 よく見ると、女性と言うより少女と言った方が合う外見だった。背も体型も小さな音々音と違い、その少女はそれなりの身長であり、出る所は出て引っ込む所は引っ込んでいる、要は抜群のスタイルの持ち主であった。

 一体この少女は誰なのか、と音々音が考え始めた時、その少女の後方から別の少女の声が聞こえてきた。

 

「おーい呂布(りょふ)っち、何かあったんかー?」

 

 特徴的な訛りを持つ言葉を発したその少女は、ツンツンとした紫色の髪、羽織袴にサラシ姿で、銀色に輝く槍を手にしていた。後ろには部下らしき兵士が数人、ついてきている。

 

「……子供が賊に襲われていたから……助けた。」

「そうみたいやな。……見たところ、こいつらは黄巾の残党かいな。」

「……多分、そう。」

 

 そういった会話をしながら二人の少女は賊の死体を検分し、次いで部下達に何かを命じていた。

 それが終わると、羽織袴の少女が音々音に話し掛けてきた。

 

「大丈夫やったか? 怪我とかしてへんか?」

 

 随分と気さくな人なのです、と思いつつ、音々音は大丈夫と答える。

 それから、名前は? とか、何故ここに? とか、行く当てはあるのか? 等いくつか質問をされた。本来答える義務は無いが、助けてもらった手前、答えないという訳にはいかない。音々音は正直に答えた。

 質問が終わるのを確認すると、今度は音々音が質問をした。

 

「貴女たちは、どこの軍なのです?」

 

 その問いに答えたのは、やはり羽織袴の少女だった。

 

「うちらは呂布軍。この子が大将の呂奉先(りょ・ほうせん)で、うちは副将の張文遠(ちょう・ぶんえん)や。」

 

 呂布軍。その名は音々音も噂で聞いた事があった。

 呂布は元々、丁原(ていげん)軍の一員だったが、丁原が急死した為に養子だった呂布がその跡を継いだという事だった。丁原が何故死んだかまでは分からないが、丁原はそれなりの年齢だったので、死んでもおかしくはなかったとも聞いている。

 その呂布軍が何故ここに居るのか。聞いた話では、呂布軍は洛陽(らくよう)に居た筈である。兗州から西へ向かっていた音々音ではあるが、まだ洛陽付近ではなかった筈だ、と疑問に思った。

 この疑問にも、やはり羽織袴の少女こと張文遠が答えた。

 

「中牟県の県令に頼まれてな、最近現れた黄巾の残党討伐に来たんや。」

 

 音々音は少なからず驚いた。自分がかつて勤めていた場所にいつの間にか来ていた事、自分の後任が大変そうな事、そして、黄巾党がまだ生き残っていた事などについてである。

 徐州の州牧である劉備が先日行ったという、青州黄巾党征伐により、黄巾党は壊滅した筈であった。音々音だけでなく、状況を知る者は皆そう思っていた。

 だが、一匹見たら三十匹は居るというあの虫の様に、黄巾党はしつこく厄介な連中の様だ。張文遠によると、少なくとも万単位の数が確認されているという。その為、編成された討伐隊も万を超す兵数になっている。

 

「そんな訳でな、今から嬢ちゃんを安全な場所に連れていくわ。ここは見ての通り賊がおるから危険やけど、街なら大丈夫やろし。」

 

 張文遠はそう言って部下を呼ぼうとした。賊に襲われたばかりなので、送ってもらえるのなら有り難いと音々音は思った。

 だが、そう思いながらも音々音の視線は呂奉先を向いていた。

 絶体絶命の危機を救ってくれた命の恩人に恩を返さないまま、ここを離れても良いのだろうかと思い、何か出来る事は無いかと考えた。が、自分に出来る事は一つしかない。音々音は駄目元で訊いてみた。

 

「その……ね……私を呂布軍に入れてくれませんかです?」

 

 何とも無謀な事である。今会ったばかりの人間を麾下に加える人間がどこに居ると、音々音は自嘲した。……が、そういえばこの間迄居た軍はまさにそうやって加わったのだった。

 とは言え、あれは華琳の器が大きいからであり、他の軍ではそうはいかない筈だ。だから今回は断られるだろうと思っていた。だが、

 

「……うん。よろしく。」

 

呂奉先から返ってきた答えは呂布軍参加の許可だった。

 音々音は驚いたが、当の呂奉先は何故驚いているのか解らず、小首を傾げている。その仕草が可愛いと音々音は思った。

 そんな音々音に対し、張文遠は笑いながら言った。

 

「呂布っちが良いって言ったんやから、深く考えんでええで。これから宜しくな、陳公台。」

 

 音々音は本当に良いのだろうか、と思ったが、大将が良いと言ったのだから良いのだろうと結論付けた。

 それから音々音は改めて自己紹介をし、真名も預けあった。また、自分が兵法に通じているとアピールした。すると張文遠が喜んだ。

 

「ホンマかー! うちには今軍師がおらんかったから丁度良かったわ。」

 

 音々音は呆れた。軍師を連れずに作戦行動をとろうとしていたのか。いくら賊相手とはいえ無謀ではないのかと。

 とはいえ、他に軍師が居ないのなら功を立て易いのも確かであり、内心では大喜びした。優秀な文官が多く居ると言われる曹操軍で功を立てるよりは楽そうであると。

 

(れん)殿も(しあ)殿もご安心ください。誰が相手でも、このねねにお任せですぞー!」

 

 こうして音々音は、呂布軍の一員となった。

 音々音を加えた呂布軍が三万の黄巾党と会敵し、とある伝説をうちたてるのであるが、それは別の話である。



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第十九章 帰還、それから・10

 さて、華琳がその様な帰途についていた間も、雪蓮はなかなか帰ろうとしなかった。

 

「雪蓮、いつまでここに居るつもりなの?」

「ずーっと……って、もちろんそれは冗談だから怒らないでよ冥琳。」

 

 孫策軍に(あて)がわれている一室でお茶を飲みながら、雪蓮と冥琳はそんな話をしている。確かに、華琳の援軍として涼と共に兗州に行ってからも、凱旋として徐州に来てからも相当の日数が経っている。いくら揚州には母であり総大将の孫堅こと海蓮が居るとはいえ、袁術(えんじゅつ)や南越の事もあるので、長く本拠地を手薄にするのはまずいだろう。

 勿論、海蓮の娘である雪蓮はそれくらい解っている。解っているのだが……。

 

「ちょっとね、気掛かりというかなんというか……。」

「蓮華様と小蓮様の事か?」

 

 雪蓮は自身の懸念をピタリと当てた冥琳に一瞬驚くものの、すぐに「冥琳なら当然ね」と思い直し言葉を紡いだ。

 

「そうなのよー。ほら、私は黄巾党討伐の頃から何ヵ月も涼と一緒に居たから良いんだけど、あの二人はそうじゃないでしょ? 蓮華は十常侍を誅殺した時に少し一緒に居たからまだ良いけど、小蓮はそういったのが無かったから。」

「小蓮様の年齢と立場なら、それも致し方あるまい。」

「それは解ってるんだけど、今のままじゃ、ね。」

「私が見たかぎり、小蓮様は清宮とうまくやっている様だが。」

 

 それは事実だった。この徐州に来て以来、小蓮は暇さえあれば涼と一緒に居た。余りにもずーっと居るので、桃香や地香が不機嫌になったり、小蓮の護衛も務める思春や明命(みんめい)たちも苦笑したり、真面目な蓮華と姉妹喧嘩をしたりと色々あったが、今までの接点が揚州での数日間しか無いとは思えない程、二人は親密になっていった。

 尤も、涼は小蓮の事を少し歳の離れた妹くらいにしか思っていなかったりするのだが。

 雪蓮の危惧や懸念は、まさにその事についてだった。

 

「涼は私や蓮華とだけでなく、小蓮とも婚約したのだから、そこら辺をちゃんと認識してくれないと困るのよ。」

「言いたい事は解るのだがな、小蓮様はその……雪蓮や蓮華様とは違うからな。」

「違うって、背が低くて胸が無いってところ?」

「ハッキリ言うな。小蓮様が聞いたら泣かれるか怒られるかその両方だぞ。」

 

 そうなのである。孫家の女性は母親の海蓮、長姉の雪蓮、次女の蓮華と皆なかなかのスタイルの持ち主ばかりなのだが、小蓮だけは幼児体型なのである。

 とはいえ、それは仕方の無い事でもある。小蓮はまだ実年齢が幼い。現代なら中学生になったばかりか少し経ったくらいであり、同じく現代換算すると高校生の蓮華や、大学生の雪蓮と比べればそりゃスタイルは違うだろうという当たり前の事だった。

 だが、頭では理解していても簡単に納得できないのが人間であり、小蓮は今の自分を肯定出来ないでいた。時が経てば、少なくとも今の蓮華くらいの年齢になれば、自分も背が伸びて胸が大きくなっていると思うのだが、もしそうならなかったら? という不安が常に彼女の胸中を支配していた。

 勿論、世の中の男が皆、胸の大きな女性を好む訳では無いのだが、生まれてから今までがそう長くない小蓮はそう思わないし、仮に理解しても不安が無くなる訳では無い。そもそも、自分が好きになる相手がどんな趣味嗜好の持ち主かなんて判らない。

 それに、周りが胸の大きな女性ばかりならば、尚更コンプレックスに感じてしまうのも仕方が無いかも知れない。孫堅軍は前述の海蓮たちを含め、胸の大きな者ばかりなのである。勿論、全員がそうではないが、多いと言って良いだろう。

 

「清宮がそう言った趣味嗜好とは限らんだろう。」

「どうかしら。桃香も愛紗も、それと星も結構大きいし、他にも何人か居るわよ。」

「確かにそうだが、鈴々と軍師二人など、そうではない者も居るではないか。」

「それはそうだけど……あと、涼は元々私と婚約しに来たって事も忘れないで。それにあの夜は私の胸に興味を持ってたし。」

 

 雪蓮が言う「あの夜」とは、涼たちが孫家と同盟を結んだ日の夜の事だ。

 同盟締結の夜、雪蓮は涼に夜這いをかけた。いろいろあって結局上手くはいかなかったが、一夜を共にする事は出来た。どうやらその際、涼が雪蓮の胸を触ったりしたのかも知れない。

 

「あの時も言ったが、普通の男性なら女性の胸に興味を持つのが普通だろう。清宮は男色家では無い様だしな。よって、それだけでは清宮が巨乳好きとは断定出来ん。」

「んー……だったらシャオにも機会は有りそうね。」

「そう言う事だ。分かったらそろそろ帰り支度を始めておけ。」

「んー……。あ、じゃあ冥琳、こんなのはどう?」

 

 雪蓮は何かを思い付いた様で、一際明るい表情になっていた。それを見た冥琳は嫌な予感がした。雪蓮がこんな顔をする時は、決まって何か要らぬ考えを思い付いたという事だと、彼女は長年の経験から理解していた。

 だが、雪蓮とは幼少の頃からの付き合いである冥琳は同時に、こうなっては止めても無駄だという事も理解していた。それに、殆どの場合はその思い付きが良い結果になっているという事も。

 雪蓮から思い付きを耳打ちされた冥琳はやはり驚き戸惑い悩んだが、同時に上手くいくかも知れないと判断し、雪蓮の行動を止めなかった。

 それと、ついでの様にだが、孫軍が揚州に帰還する日は、三日後に決まった。

 

 

 

 

 

 雪蓮たち孫軍が揚州へと帰還する日がやってきた。帰還日和、なんて言葉は多分無いだろうが、軍が出立するには丁度良い快晴である。

 涼や桃香たちの本拠地である下邳城前には、今から帰還する孫軍の一軍と、それを見送りに来た涼たちが向かい合っていた。

 付き合いの長い涼と雪蓮などだけでなく、今まで殆ど接点が無かった廖淳(りょうじゅん)改め廖化(りょうか)こと飛陽(ひよう)たちも孫軍の将たちとの別れを惜しみ、再会を誓い合っている。徐揚同盟の効果の一つと言えなくはないだろう。

 だが、いつまでも別れを惜しんでいる訳にはいかない。やがて、それぞれの将が持ち場に戻ると、両軍の総大将が挨拶を交わす。

 

「それじゃ涼、またね。」

「ああ、今度はもっとのんびり話したいね。」

「そうね。桃香も帰ってきたばかりで大変だろうけど、州牧の仕事、頑張りなさいよ。」

「あはは……何とかやってみます。」

 

 涼は普通に、桃香は苦笑しながら雪蓮にそう応えた。州牧とその補佐が長い間居なかった為、徐州の仕事は溜まっているのである。ある程度は居残り組がやっているが、物によっては州牧や州牧補佐が自ら決済しなければならない書類などが有り、その数は二人の予想より多かった。

 涼は一時的ではあったが、桃香より早く徐州に戻っていて書類の整理をしていたので、その分仕事は少ない。

 だが、遅く帰ってきた桃香は帰還後も華琳や雪蓮たちとの宴や会談などがあり、殆ど書類仕事をする事が出来ていない。両者の表情の差はこうして生まれているのである。勿論、涼や桃香の仕事がどんな感じかなど、雪蓮は知る筈が無いが。

 その雪蓮は後ろに居並ぶ自分の軍勢を見て頷く。軍師であり今回は副将的立場でもあった冥琳が頷き返すと、雪蓮は再び前を向き、涼と桃香と握手を交わした。涼には盛大な抱き締めも付け足したので一時騒然となったが、それも慣れっこになっている両軍はすぐに落ち着きを取り戻した。一部の者を除いて。

 そうして別れの挨拶を済ませた雪蓮は自身の馬に騎乗すると、孫軍全体に帰還命令をくだそうとした。だが、それに待ったをかける者が居た。雪蓮の妹の一人、孫家三姉妹の次女、蓮華である。

 

「どうしたのよ蓮華、そんなに慌てて。」

「慌てもします! まだ小蓮が来ていないのですよ!」

 

 蓮華のその言葉に孫軍は勿論、涼達も驚いた。

 そういえば見かけないな、とは思っても、それぞれに事情はあるだろうから特に気にしてなかった、と言って良い。勿論、何かあれば協力するのはやぶさかではない。

 涼達がそう思いながら小蓮はどこに行ったのかなと思っていると、その小蓮の声が聞こえてきた。何故かその涼達の後ろから。

 驚きながら振り向くと、そこには確かに笑顔の小蓮が居た。だが彼女は、帰還するにしては荷物を持っていなかった。仮にも揚州の姫なのだからそうした荷物は既に運び込まれているのかも知れないが、それにしても長旅をする風貌には見えない。

 涼がそうした疑問を内に秘めていると、小蓮は涼の隣に立ち、雪蓮たちに向かって笑顔で手を振りながら言った。

 

「雪蓮姉様ー、蓮華姉様ー、二人とも気を付けて帰ってねー。母様にヨロシクー♪」

 

 この子は何を言っているのだろうか、と涼は思った。いや、涼だけでなく桃香や愛紗たちも、蓮華や明命たちもそう思った。

 そうした思考停止から一番早く元に戻ったのは小蓮の姉の一人である蓮華だった。

 

「しゃ、小蓮!? 貴女は一体何を言っているの!?」

 

 孫家唯一? の常識人である彼女は、極めて常識的な問いを投げ掛けた。そしてそれに答える妹の小蓮は、極めて非常識な答えを返してきた。

 

「何って、シャオは今日からここに住むんだよ? シャオは涼の婚約者だから当然でしょ♪」

 

 いや、その理屈はおかしい、と涼は言いたかったが、しばらくの間、小蓮と蓮華の言い合いが続いた為に口を挟めなかった。仮にもここの主の一人であるのに情けないったらありゃしない。

 仕方が無いので、涼はこの件について何かを知っているであろう人物、というか恐らく当事者である雪蓮に話を訊く事にした。そうでもしなければ、桃香たちから向けられる疑惑の視線に耐えられなかったというのもあったが、それは仕方がない事であろう。

 そして、当事者と思われた雪蓮はあっさりと自白した。それはもう清々しいくらいにあっけらかんと。

 

「いやー、ほらね? シャオは私達の中で一番涼との時間が短かったでしょ? だからこの際ここに置いていって、貴方と親密になってくれないかなあって♪」

 

 呆れて物が言えないとはよく言ったものだ、と思いながら涼は雪蓮の隣に来ていた冥琳に視線を向ける。

 

「……冥琳も同じ考えなの?」

「……正直に言えば、多少やり過ぎだとは思う。だが、孫家の将来を考えれば理にかなっているのも事実。ならば私は雪蓮の考えを支持するしかあるまい。」

「普通、こうした大事な事を決める場合は事前に話し合いをすると思うんだけど。」

「それは私も言ったのだがな、雪蓮は“この方が分かり易いでしょ”と言って聞かなくてな……。」

「そこをどうにかするのが冥琳の役目だと思うんだけど。」

「……面目ない。」

 

 冥琳は本当にそう思っているらしく、涼とまともに目を合わせようとはしなかった。また、涼自身も雪蓮をどうにか出来る訳ではないので、それ以上追及する事はなかった。

 さて、問題は小蓮である。彼女はいまだに次姉である蓮華と口喧嘩をしているが、彼女が揚州に帰りたい、と言えばこの問題は収まるのである。よって、涼は小蓮を説得する事にした。

 

「えっと、シャオ。」

「あ、涼♪ これからヨロシクねー♪」

 

 思わず「よろしくー♪」と応えそうになるくらい、小蓮は明るくかつ自然に言ってきた。

 途端に蓮華が説教を再開するが、小蓮には馬の耳に念仏なのか堪えていない様に見える。末っ子というものはこういうものなのだろうか、と涼は思った。

 とは言え、そんな悠長な事を考えている場合ではない。このままでは「押し掛け女房」という既成事実が出来てしまう。それも相手は現代で言えば女子中学生である。しかも外見だけなら女子小学生に見えなくもない。涼と小蓮の歳の差は数歳なので現代換算だと高校生と中学生のカップルになるのだが、二人が並んで立つと身長差も相まってぱっと見が余りよろしくない。下手したら涼がそういう好みの持ち主に見えてしまう。

 

(そりゃ、孫夫人は三十歳ほど歳の離れた劉備と結婚したから、俺との年齢差は大した事無いんだろうけど、それでもやっぱり、なあ。)

 

 涼は姉妹喧嘩を眺めながらそう思った。

 孫夫人、いわゆる孫尚香が劉備と結婚したのは、演義はもちろん史実でもある。

 ただ、孫権の妹であり劉備の妻という立場だったにも係わらず、正史三国志における孫夫人についての記述は驚く程少ない。昔の中国の女性の名前が正しく伝わっていないのはまあ普通の事であるが、この立場の人間の生い立ちや没年すらも判らないというのは珍しいかも知れない。

 だからだろうか、演義や小説では正史と違い劉備との仲が良かったとか、「弓腰姫(きゅうようき)」という二つ名が付いていたりと、結構なアレンジが加えられるのも珍しくない。ゲームだと敵将相手に無双してしまったりもするし。

 ひょっとしたら、この世界の孫夫人こと小蓮も何かのアレンジがーーとまで考えたところで、涼は意識を再び小蓮たちに向けた。口喧嘩は相変わらず続いている。

 

「シャオは涼と結婚するの! 末っ子のシャオが孫家の為に出来る事って、こういった事しか無いんだから!」

「……っ! だからといって、行動に移すには早過ぎるでしょう!」

 

 蓮華、確かにそうだけど、実はそうでもないから困るんだよなあ、と涼は思う。その脳裏に浮かんだのは一人の戦国武将。通称「加賀大納言(かが・だいなごん)」、名を前田利家(まえだ・としいえ)という。

 利家は日本の戦国武将である。織田信長の家臣として活躍し、本能寺の変後は羽柴秀吉の家臣となり、秀吉の天下統一に貢献した。五大老の一人として徳川家康らと共に豊臣政権を支えた、屈指の名将である。

 そんな利家の事を涼は何故思い浮かべたのか。実は利家の正室であるまつ(芳春院(ほうしゅんいん))は、十二歳の時に彼に嫁ぎ、翌年に第一子を出産している。そうした史実を知っている為、涼は困っているのだ。ちなみにまつは最終的に二男九女の合計十一人の子供を産んでいる。

 目の前の少女もまつの様になるのだろうか、まさかね、と思いつつ、涼は改めて小蓮に話し掛けた。

 

「シャオ、あのね。」

「涼からもお姉ちゃんに言ってよ! シャオは涼のお嫁さんだって!」

 

 何を言わせようとしてるのこの子は! と内心ツッコミと焦りを感じながら、涼はチラッと蓮華を見た。睨んでいた。彼女は三姉妹の中では明らかに常識人なだけ、小蓮の言動に納得出来ないのだろう。

 確かに、涼は孫家の三姉妹とはそうした約束、つまりは婚約をしている。それはその方が両者の未来にとって良い事だと思ったからである。

 だが、涼はそうした約束を交わした後も、漠然と結婚は先の事と考えていた。結婚適齢期が二十代後半から三十代前半という価値観になってきている現代日本に生まれ育った涼だから、そう思ったのも無理なかった。

 しかし、この世界の結婚観は当然ながら現代とは違ったし、政略結婚というものが比較的身近に存在していた。涼の誤算は、そうした事情を考えていなかった、もしくは甘く見ていたという事だろう。

 婚約した以上、いつかは結婚しなければならない。もし破棄したいなら、それなりの理由が必要になる。だが、今の涼には婚約を破棄する気は無いし、あったとしても理由が無いので難しい。

 また、元々は雪蓮との結婚を想定していた訳であり、妹である蓮華や小蓮との結婚は想定していなかったのも現状をややこしくしている。もし、当初から三姉妹との結婚を想定していたのならもう少し考え方もあったのだが、先述の通り結婚観が違う涼には、三姉妹との婚約なり結婚なりを想定する事が出来なかった。

 だから、年上の雪蓮や同年代の蓮華との結婚は兎も角、幼い小蓮との結婚は全く考えていなかった。正確に言えば、孫家の事情や三国志の知識から考えれば小蓮との結婚は想定出来たが、それはまだ先の事と考えていた。演義で劉備が孫夫人と結婚したのは赤壁の戦いの後である。この世界ではまだ赤壁の戦いどころか官渡の戦いも反董卓連合も起きていないので、赤壁の戦いもまだしばらく先だと思っている涼は、小蓮との結婚もまだしばらく先の事と思っていた。

 そうした、ある意味先送りにしようとしていた現実を突きつけられた涼は答えに困った。選択肢はいくつかある。小蓮を今すぐ妻にする、あくまでまだ婚約者だと正論で諭す、等である。

 まず、「小蓮を今すぐ妻にする」というのは難しい。涼の結婚観もそうだが、現代で言えばまだ女子中学生という年齢の小蓮と結婚するというのは、「それなんてエロゲ?」な展開である。……はい、今つっこんだ人は手を挙げて。

 確かに、政略結婚では年端もいかない男女の結婚は歴史的によくある事である。例えば、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼と、徳川秀忠の子である千姫が結婚したのは秀頼十歳、千姫七歳の時である。それと比べたら小蓮はまだ大丈夫である。何がとか言わない。

 とは言え、それでもまだ幼い小蓮との結婚は二の足を踏むし、周りの目も気になる。桃香とか愛紗とか。よって、今すぐ結婚は出来ない。

 では、「あくまでまだ婚約者だと正論で諭す」はどうだろうか。恐らくこれが正しい選択肢と思われるが、そう諭した際の小蓮の反応を考えると言い出しにくい。涼たちの承諾は無かったとはいえ、彼女は姉である雪蓮から「このまま結婚しても良い」という意味の事を言われたのである。元々涼に好意的だった彼女がその気になるのは当然であった。

 そこに、「結婚はしばらく後」と言われたら彼女はどう思うだろうか。泣いて悲しむだけならまだ良い。だが、それを切っ掛けに孫家との関係がギクシャクしないとも限らない。可愛い妹に、娘に恥をかかせたと言い出さないだろうか。この状況を作ったのは雪蓮なので、もしそうなったら逆ギレになるが、人間の感情というものは必ずしも正しく動くものではない。

 仮に、そうした事がなく同盟が維持されたとしても、その事実を知った誰かがこれを利用して徐揚に離間計を仕掛けるかも知れない。結婚を延期された小蓮が傷つき心身を病むかも知れない。はたまたもっと厳しく悲しい結末になるかも知れない。そもそも、何も起こらないかも知れない。

 「知れない」ばかりだが、未来というものは本来そんなものである。確定された未来なんて存在しないし、確定されないからこそ人は前に進めるのだ。

 だからこそ人は、可能な限り不確定な未来に進まない様にしている。涼が雪蓮と、結果的には孫家の三姉妹と婚約したのは前述の通りであり、もし両者の関系が悪化すれば、早い段階で「夷陵(いりょう)の戦い」の様な戦いが起こってしまうかも知れない。そうなれば徐揚は、将来の蜀呉は双方が大きな痛手を負い、再建すらおぼつかなくなるだろう。

 桃香たちだけでなく、雪蓮たちも好ましく想っている涼は、その悲劇を望んでいない。

 そうしたいくつもの考えが涼の頭の中を駆け巡った。常の彼は楽天的な性格をしているが、こんな時に限ってその性格は鳴りを潜めている。それだけ重大な決断を下さないといけないという事でもある。

 涼は唾を一つ飲み込んだ。

 

「シャオ、君はここに居たいの?」

「うん! 涼のお嫁さんになってずーっと一緒に居たい!」

 

 いかにも子供の、だがそれだけに無垢な、素直な感情が涼にぶつけられた。

 

ーー何でそんなに俺を買ってくれるんだ、天の御遣いだからなのか、それとも政略結婚だからか。

 

 涼は困惑していた。まだ二十年も生きていない少年ではあるが、今迄こんなに好意を向けられた事は無い。

 人付き合いはそれなりにあったし、恋人が居た事もそれなりにあった。だけどそれは普通に生きていれば普通に経験する事であり、少なくともここに来てからの、少女達からの様々なアプローチは現代では経験していない。彼女達のアプローチにいろいろな意味があったのは理解しているが、悪い気はしなかった。勿論、有頂天になる事も無かった。

 だが、そうした経験をした結果、彼女達だけでなくいろいろな人達の言葉の裏を気にする様になった。いや、正確には涼自身はその事に気づいていない。彼の深層心理が注意をしているだけであり、常の彼はいつも楽天的だった。

 楽天的な分、一度深層心理の奥に眠っていた疑念が表に出ると困惑し、この様に悩んでしまう。何とも厄介な性分(たち)である。

 そんな涼の正確な性格に気づいている者は居るのだろうか。本人すら気づいていないのに、他人が気づくというのは難しいかも知れない。

 だが、今ここにそれに気づいたかの様な反応をした人物が一人居た。小蓮の姉の一人、蓮華である。

 彼女は妹を見ながら何か悩んでいる涼を見て、違和感を感じていた。ちなみに桃香たちもそんな涼を何か変だと思ってはいるが、それはここに留まろうとしている小蓮に対して、なかなか断りの言葉を言えないでいるのだろうと結論付けていた。

 だが、蓮華は違った。彼女は桃香たちと違って涼とは殆ど一緒に過ごしていない。それだけに彼の微妙な変化に気づく事が出来た。雪蓮は付き合いが一番長いだけに却って気づけず、小蓮は逆に短すぎて分からなかった。

 蓮華も付き合いは短い方だが、つい最近、真夜中に二人で話した分、涼がどんな人間か理解していた。少なくとも、理解したつもりにはなっていた。

 だから涼の変化に気づくと、いつの間にか彼の腕をつかんで小蓮や桃香たち、そして雪蓮たちから離した。

 妹の、姉の、同盟者の一人のそんな行動に皆驚いた。誰かが何か声をあげたが、その声は蓮華にも涼にも届いていなかった。

 蓮華は涼の腕をつかんだまま話し掛けた。

 

「私は貴方じゃないから、貴方が何を考えているかは分からない。だから、私が思った事、感じた事を言うわね。」

 

 涼はそう言った蓮華を見つめていた。常の彼女であれば異性に見つめられれば赤面したりしていただろうが、今の彼女は良い意味でそんな余裕は無かった。あるのはただ、自分が何をすれば良いかという事だけである。

 

「あの子……小蓮は天の御遣いとか、政略結婚とかを考えて貴方に好意を向けている訳では無いわ。ただ純粋に、貴方を好きなのよ。」

 

 不思議な事に、その言葉だけで涼は落ち着きを取り戻し始めた。

 

「だって、君達との婚約は政治的な……。」

「確かにそうだけど、それだけで結婚する女は、孫家には居ないわ。」

「そう言えば、雪蓮もそんな事を……けど、だとしたら小蓮は会ってからの期間が短い俺をなんでそこまで……。」

「あの子は人を見る目があるの。母様や姉様みたいにね。」

「……どう、感じたんだろう。」

「私はシャオじゃないから分からないわ。ただ、一つだけ言える事はあるわ。」

「どんな事?」

 

 落ち着きを取り戻しつつある涼は、それでもまだ完全に迷いが無くなった訳ではなかったらしく、すがる様な目で蓮華に訊ねた。

 蓮華は簡潔に答えた。

 

「貴方が感じたままをシャオに言って。そうしたら、きっと小蓮も貴方も上手くいくわ。」

 

 それは以前、涼が蓮華に対して言った『蓮華のやりたい様にすれば良い』と似た意味の言葉だったが、涼の迷いはこの瞬間に消え去った。考えてみれば簡単な事である。彼がいつもしている様に、楽天的に行動すれば良いのだ。何故か。それが清宮涼という人間だからだ。

 人間の性格なんて、そう簡単に変わらない。知識や経験も一朝一夕には得られない。だったら、うだうだ悩むより行動した方が性に合っている。涼は蓮華の言葉でその事に気づいたのだ。

 涼は再び小蓮の前に立った。蓮華は先程と違い、雪蓮たちの側に下がって二人を見ている。雪蓮は何かを言いたそうに蓮華を見つめ、そしてそのまま前を向いた。

 桃香たちは涼と蓮華が何を話していたのか気になっていたが、涼が再び小蓮の前に立ったので大人しく見守る事にした。

 涼は自分より頭一つ以上背が低い、けど器は自分より大きいかも知れない少女ーー小蓮を見つめながら、言葉を紡いだ。

 

「シャオ、君はここに居て良いよ。」

 

 その言葉に、徐揚両軍がどよめく。

 桃香たちは涼が言った事に混乱し、雪蓮たちはほっと胸を撫で下ろしている。

 小蓮はというと、母や姉達と同じ紺碧の瞳をキラキラと輝かせながら涼を見つめていた。

 そんな小蓮を見ながら、涼は更に言葉を紡ぐ。

 

「ただし、いくつか条件があるから、それを守ってくれるなら、ね。」

 

 その言葉に、徐揚両軍がざわめく。

 小蓮は一瞬表情を曇らせたものの、しばらく考えてから頷いた。

 涼が言った事は、当然ながら某歌手の歌の様なものではなかった。だが、徐州の決まり事を守る事、桃香たちと仲良くする事、孫家のお姫様でも殊更特別扱いはしない事など、簡単なものからちょっと悩むものまで様々だった。

 そして、最後に言った事は涼にとって、小蓮にとって、そして徐揚両軍にとって大きな意味を持つ言葉だった。

 

「あと、結婚はすぐにはしないよ。」

 

 小蓮は一瞬、涼が何を言ったのか理解出来なかった。対して雪蓮は「仕方ないか」と呟いた。

 小蓮は戸惑いながら涼に訊ねた。よく見ると、瞳が潤んでいる。その姿に涼は良心が痛んだが、大事な事なのでしっかり、はっきりと、でも優しく説明していく。

 

「いくつか理由はあるけどね、その一つは、まだ俺達はお互いの事を知らないからさ。」

 

 そんな状態で結婚しても上手くいかないだろうから、これを機にお互いをよく知ろうと涼は提案した。言われてみれば確かに、と小蓮は納得し頷いた。

 

「他には、まだシャオが成長段階にあるから、かな。急いで結婚する必要は無いと思うんだ。」

 

 間接的に幼児体型だと言われたと思った小蓮は、頬を膨らませた。涼はすぐにそれは違うと訂正し、若年での結婚のメリット、デメリットを説明した。

 その中で小蓮が特に興味を持ったのは、やはりというか妊娠・出産についてであり、余りにも若すぎたり、体が成長しきっていない内の妊娠・出産は母子共に危険だと分かると、残念な表情のまま了承した。この世界でも若年での妊娠・出産の危険性はある程度分かっていた筈だが、天の国の人間ーー正確には勿論違うのだがーーに言われると納得してしまうのかも知れない。

 

「そうした理由から今すぐには結婚出来ないんだ。……シャオは、それでも俺と一緒に居たい?」

 

 涼は改めて小蓮に訊ねた。蓮華の言う様に純粋に自分を慕っていても、政略結婚の為にでも、これは訊いておかなければいけないと思ったから。

 だが、そんな涼の誠意、または心配は杞憂に終わった。

 

「あったり前じゃない! シャオは涼以外の男と結婚する気なんて無いんだから!」

 

 涼はハニカミながら言いきった小蓮を見ながら、何でこの子はそこまで自分を買ってくれてるんだろう、と再び思った。だが、今度は先程の様に暗くなる事も悩む事も無かった。ただ一つ、「この子の期待に応えられる様になれたら良いな」と思える様になった。

 涼は小蓮と違い、まだ彼女を恋人として見ていなかった。理由は年齢差とかいろいろあるが、これからきちんと意識するのかな、と、涼は心の中で笑った。

 

「そっか。なら、取り敢えずそれまでは婚約者としてよろしくね、シャオ。」

 

 涼は微笑みながら右手を差し出す。

 

「ヨロシクね、涼!」

 

 小蓮はその手を掴みながら微笑み、次いで抱きついた。周りの反応など気にせず、自分がしたい様に行動していく。その様を見て、涼は先程の蓮華の言葉を思い出した。

 

『ただ純粋に、貴方を好きなのよ』

 

 この仕草を見てると、彼女の言う通りなのかもな、と涼は思いながら、蓮華を見た。

 何故か不機嫌そうだった。

 え、何故? と涼は思ったが、答えは出なかった。「義兄上、いつまでそうしてるのですか!」「私もー♪」「姉様!?」という風に、良くも悪くもしびれを切らした周りの乱入により、それどころではなくなったからである。

 

 

 

 

 

 そうしたドタバタを終え、孫軍は揚州への帰路についた。

 末妹の事はひとまず上手くいったと見た雪蓮はご機嫌だった。

 

(これで、私達に万が一の事が起きても孫家の血は残る。まあ、その血が産まれるのはまだ先みたいだけど。)

 

 妹の年齢を考えれば仕方ないか、自分もまだおばさんと呼ばれるのは何だか嫌だし、なんて思う雪蓮。

 

(けど、これで全てが終わった訳でもない。天の御遣いの威光や人気がいつまで続くか分からないし、涼が不慮の死を迎えるかも知れない。その時は……小蓮には悪いけど、他の所に再嫁してもらうしかないわね。)

 

 けど、小蓮がそれを承知してくれるかしら、と、雪蓮は先程見た妹の姿思い出す。好きな人と一緒に居られる喜びを、小さな体躯(たいく)全体を使って表現していた小蓮は、端から見ても幸せそうだった。

 そんな妹が、不測の事態になった時に孫家の為に再嫁してくれるだろうか。ひょっとしたら後を追うのではないだろうか、と心配になる。

 雪蓮は当然知らない事ではあるが、演義の孫夫人は劉備が戦死したとの誤報を受けて絶望し、長江に身を投げたという。この世界の孫夫人である小蓮が、涼に万一の事があった際に同じ様な行動をしてもおかしくはないが、それは雪蓮はもちろん、小蓮本人も知らない事である。

 仮にそうなった場合でも、最期まで共に出来るのは幸せなのかも知れないとも、雪蓮は思った。

 

(良いなあ。)

 

 心の中でそう呟くと、本当なら自分が涼と一緒に居たいのに、と続けた。

 それがすぐに叶わない事も、当然ながら理解している。雪蓮は孫家の後継者であり、母である海蓮に何かあった場合はすぐに孫家を継ぐ事になる。

 そして、そんな自分に何かあれば妹の蓮華に、蓮華に何かあれば小蓮やその子供が孫家を継ぐ事になる。今回の小蓮の徐州行きは徐揚同盟の強化はもちろんながら、孫家に万一があった際の事を考えてでもあった。

 「数年の内に結婚する」と同盟締結の時に決めていたが、その数年で事態は大きく変わるかも知れない。その時に傷を最小限に抑えるには、打てる手は可能な限り打つ。今回の事はその一つだった。

 

(涼と最初に逢ったのが私だったら、どうなっていたのかしら。)

 

 涼に好意を抱いてからそう思ったのは一度や二度ではない。

 聞けば、涼が桃香たちと出逢ったのは偶然であったらしい。そして一緒に賊の討伐をする内にその勢力はどんどん大きくなり、今の徐州軍になったという。天の御遣いという立場を考えれば黄巾党征伐の時の様に涼が総大将のままでも良いと思うが、彼はそれを固辞し、あくまで総大将は桃香こと劉備だと譲らないらしい。

 理由は分からないが、もしそれに明確な理由があるならば、仮に涼が雪蓮たちと行動を共にしても同じ様にするかも知れない。尤も、徐州軍と揚州軍では事情が違うので、ある日突然揚州軍の総大将が天の御遣いになった、なんて言ったら大混乱に陥って支離滅裂になるかも知れない、いやきっとなると雪蓮は思う。

 

(となると、結局は徐州軍の様に涼は副将に留めておくしかない……私達の伴侶にして総大将にするという手もあるけど、実績が無い人間が総大将になったらうちは明らかに対立する……か。そう考えると、徐州軍はあれで上手くいっている事になるわね。)

 

 徐州軍の総大将は徐州牧の桃香であり、涼は副将と言える州牧補佐という立場に収まっている。

 桃香は中山靖王・劉勝の末裔であり、それはつまり漢王室の縁者という事である。黄巾党討伐や十常侍誅殺、そして今回の青州救援などで実績があり、噂ではいずれ左将軍に昇進するとも言われているが、確かではない。

 一方の涼は天の御遣いである。当初は胡散臭い、という声があり、雪蓮もその一人だった。だが、桃香たちと共に黄巾党討伐や十常侍誅殺などで実績を積み、特に十常侍誅殺時は二人の皇太子を救出するという大きな実績をあげた。一部の者しか知らないが、徐州牧には本来涼が任命される筈だった。だが涼はそれを固辞し、徐州牧には総大将である劉玄徳をと願い出た。涼に助け出された恩があり、皇帝に即位していた少帝(しょうてい)劉弁(りゅうべん)とその兄である陳留王(ちんりゅうおう)劉協(りゅうきょう)はその願いを聞き入れ、桃香を徐州牧に任命した。

 そうした両者の経緯と実績を考えれば、徐州軍が劉備派と清宮派に分かれていてもおかしくない。だが、雪蓮が徐州に滞在している間にそれとなく徐州を観察してみても、そうした状況は微塵も見られなかった。寧ろ、徐州の将兵も民衆も二人を慕っており、派閥だなんだという事とは無縁に感じられた。

 雪蓮にはそれが羨ましかった。孫軍、つまりは揚州軍は地方豪族の集合体であり、彼等をうまく取りまとめる事で成立している。陸遜(りくそん)こと(のん)などもその豪族の一人であり、彼女は一見のんびりとしているが、ああ見えて他の陸家や家臣、農民たちをしっかりと取りまとめている。

 つまり、そんな穏たちを取りまとめる事が出来る孫家だからこそ今現在揚州の統治を任されているのであり、もしそれが出来なくなれば、孫家に代わって他の豪族が揚州を治める事になるだろう。

 雪蓮たちの母である海蓮はそれをよく理解している為、豪族への配慮は欠かしていないし、常に武勇をあげてきた。今はそこに雪蓮が加わっている為に孫家の影響力は強大になっている。だが、それだけでは安泰と言えないので、打てる手は何でも打っている。徐揚同盟もその一つであり、姻戚関係になろうとしているのもその為だ。もちろん、それだけで結婚しようとしている訳ではないが。

 

(涼や桃香にどうやって徐州をまとめているか、訊いておけば良かったかしら。)

 

 雪蓮は二人に訊かなかった事を少し後悔した。だが、訊いても無駄だったかも知れない。文官である諸葛亮こと朱里たちは兎も角、桃香や涼はそこまで深く考えていない。只ひたすら、「どうすれば徐州の人達が喜ぶか」だけを考えているのであり、豪族やら派閥やらの事を考えていないのだから。

 

(まあ良いわ。これからは小蓮が徐州に居るんだし、その内二人に訊いてもらう様、手紙に書いてみましょ。)

 

 もちろん、文章は冥琳に考えてもらうけどね、などと思いながら雪蓮は後ろに居るもう一人の妹の顔を見た。先程、涼と何やら話していた時の蓮華は、今までと違って大きく成長した様に見えた。見えたの、だが。

 

(相変わらずのしかめっ面ね。ま、理由は涼の事なんでしょうけど。)

 

 雪蓮と同じく馬上の蓮華は何故か機嫌が悪かった。その理由は雪蓮の推察通り、涼の事だった。

 

(……何で私はイライラしているのかしら。助言通りに小蓮と涼が仲良くなれそうだから、喜ばしい事なのに……。)

 

 徐揚同盟を強固なものにする為には、涼と孫家の娘の誰かが結婚するべきだという事は蓮華も勿論分かっていた。彼女の姉は涼に対し、『三人とも貴方の妻にしても良いのよ♪』という事を言っていたが、孫家の現状では今すぐそれが出来る訳では無いので、あくまでからかっていたのだろう。

 雪蓮は孫家の後継者であり、自分はその雪蓮に何かあった場合のスペアだと蓮華は理解している。よって、現状では涼と結婚できるのは小蓮しか居ないのだ。

 それは分かっていたのだが、実際に小蓮が徐州に残って涼と結婚すると言うと「馬鹿な事を言うな!」と思ったし、涼が小蓮との結婚について迷っていたのを見た時は「貴方の思う様にしたら良い」と助言もした。その結果、小蓮と涼の同居? が決まった。すぐの結婚は実現しなかったが、徐州側から見れば小蓮という「人質」を得る事になったし、揚州側、というか孫家からすれば「天の御遣いの威光」を更に得て揚州での地位を磐石に出来た。付け加えれば、孫家に万一の事が起きても最悪の事態は避けられるという事も重要だろう。

 それなのに、今の蓮華の胸中は晴れていなかった。そこにはまるで今にも雨が降りそうな黒雲が覆い被さっていた。

 小蓮が涼から傍に居て良いと言われ、あどけなさの残る顔を喜びに満ち溢れさせているのを見た時は確かに嬉しかった。良かったね、と祝福できた。

 だが、次の瞬間、涼に小蓮が抱きついたのを見た瞬間に胸がチクリと鳴った。桃香たちが二人を引き剥がそうとする姿や、雪蓮が混乱に乗じて涼に抱きついた姿を見た時も、よく分からない感情が沸き立った。

 それからずっと、蓮華の胸中は一向に晴れない。理由も分からない。

 

(何なのよ……これは。)

 

 蓮華は何度も理由を考えた。だが答えが見つからない。

 彼女がその答えに辿り着くのは、まだ少し先の事である。



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第十九章 帰還、それから・11

 何はともあれ、徐揚同盟は強化され、その結果として孫家の末妹である小蓮が徐州に住む事となった。

 婚約者としてではあるが、実質的には嫁入りと言って良いだろう。勿論、本当に結婚した訳では無いので一緒の部屋に住んだりはしていないし、約束通りここでの決まり事はきちんと守っている。

 だが、孫家の末妹であるという事は「姫」という事でもある。別に孫家は王族とかそういう事ではないが、扱いには気を払うべき相手なのは確かである。

 正史において孫夫人に関する記述は少ないと既に述べたが、その数少ない記述にこうある。

 

『北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があり、その中で我が君が志を遂げたのは、ひとえに法孝直(ほう・こうちょく)(蜀漢の文官、法正の事)の功績である』

 

 これは諸葛亮の言とされるが、要するに孫夫人は劉備にとって曹操や孫権と同じくらい厄介だったという事らしい。一体どんな鬼嫁だったのだろうか。少なくとも、非常に気を使っていたのはよく分かる。

 その反動からだろうか、演義や小説などでは仲睦まじい夫婦になってたりするが、五十歳前後の劉備と二十歳前後の孫夫人が結婚というのは現代の感覚でなくても結構無理がある気がするが、どうであろうか。

 さて、この世界の孫夫人こと小蓮は流石に鬼嫁では無い(まだ結婚していないし)が、別の意味で涼たちを困惑させていた。

 

「義兄上! 少しは小蓮殿を大人しくさせられないのですか!」

 

 ここは涼の執務室。そこで程昱(ていいく)こと(ふう)にとある書類仕事を手伝ってもらっていた涼に対し、入室と同時にそう言ったのは、彼の義妹の愛紗である。

 

「そうは言っても~、実際問題難しいのではないですか~。」

 

 愛紗の言葉に答えたのは涼ではなく風。彼女が何故答えたかと言えば、既にこの問題は他の人からも言われてきた事なので、また涼の手を煩わせたくないという気遣いからであった。

 桃香から、地香から、朱里から、その他にも何人かが、先程の愛紗と同じ様な事を言ってきた。

 その内容を詳しく言うと、

 

『小蓮が仕事を手伝おうとしてくるけど、空回って失敗する事が多い』

 

という事であった。

 これがいたずらなどの悪意ある行動の結果ならば、わざわざ涼に頼まなくても自分達でハッキリと文句を言えているだろう。

 だが、一連の出来事は全て小蓮の善意から起きている。善意の行動をハッキリと断れる人間はそう居ない。比較的ハッキリ言う趙雲(ちょううん)こと(せい)や、孫乾(そんかん)こと霧雨(きりゅう)でさえ、余り言えないでいる。小蓮が涼の婚約者で、ここでは新人という事もあるかも知れないが。

 

「小蓮ちゃんが仕事を手伝おうとしているのは、早くお兄さんや愛紗ちゃん達に認めてほしいからだと思うのですよ。」

「そんな事は解っている。解っているから……上手く言えないのだ。」

 

 風は愛紗に座る様促しつつそう言った。愛紗も理解しているらしく、椅子に座りながら答える。

 先日、建業から大量の荷物が届いた。それは孫家の屋敷にあった小蓮の服や髪飾りといった物であり、身の回りの物を必要最小限しか持ってきていなかった為に困っていた小蓮にとっては渡りに船であった。

 だがその荷物の量を見た朱里たち幹部クラスの文官は、皆一様にその意図を見抜いていた。即ち、

 

『いずれはどうせ嫁になるのだから、これから娘(妹)をよろしく♪』

 

という事であった。何度も言うが、涼と小蓮は婚約中ではあるが結婚はまだ先の事であり、予定は未定である。

 朱里たちも徐揚同盟のメリットは理解しているので、婚約という事には反対していない。それが後で良くも悪くも影響するだろうなとは思っているが、そうしたデメリットを差し引いてみても同盟を続けるべきだと、徐州の頭脳達は判断していた。

 小蓮が仕事を手伝う様になったのはそんな後である。それまでは毎日の様に涼と一緒だったのだが、荷物が届いた翌日から仕事をしたいと申し出てきた。

 まだ本格的に徐州に住み始めたばかりなので手伝わなくても良いと言っても、何でも良いから手伝いたいと譲らなかったので、仕方なく簡単な仕事を頼んでみた。

 揚州ではよく勉強をサボっていると雪蓮たちから聞いていた涼は少し不安ではあったが、仮にも孫家の姫だからか小蓮はそれなりに知識があった。最初は戸惑いつつも何度か説明を受けたりしていく内に理解し、仕事をやり遂げていった。

 そうして簡単な仕事を次々にクリアしていった小蓮であるが、これで自信をつけた小蓮は更に仕事を求めた。

 とは言え、簡単な仕事は本来文官達がやる事であり、州牧が治めるこの下邳城には大勢の文官が勤めている。文官達が判断出来ない仕事は彼等の上司に回される。その上司とは霧雨や陳珪(ちんけい)こと羽稀(うき)たちであり、彼女達でも判断に困るものは朱里たちに回っていく。また、州牧や補佐じゃないと決済出来ないものもある。

 今、涼が風に手伝ってもらっている書類もその類いであるが、涼は一旦筆を置き、愛紗たちの話に加わった。尤も、元々は涼に対して話し掛けられたのではあるが。

 

「シャオは風が言った様に認めてほしいんだろうね。徐州に来て日が浅いし、俺が特別扱いはしないって言ったから。だから焦って失敗したり、実力以上の仕事をしようとしてるんだと思う。」

「……義兄上は、小蓮殿を“シャオ”と呼んでいるのですね。仲良くなられて何よりです。」

「え、今気にするの、そこ?」

 

 義妹にジト目を向けられた涼は困惑しつつツッコミをいれた。

 一緒に住み始めてしばらくは「小蓮」と呼んでいたが、その小蓮から「シャオ」と呼んでほしいと言われたので、涼はそう呼ぶ様になった。

 

「愛紗ちゃんの嫉妬はともかく~、風もお兄さんと同じ意見なのですよ~。」

「し、嫉妬ではない!」

 

 顔を紅くしながら抗議する愛紗を見ながら、涼は「そういや関帝廟の関羽も顔が赤いなあ」なんて事を思っていた。どこかズレてる義兄妹である。

 

「ですが、だからこそハッキリ言った方が良いと思うのですよ、お兄さん。」

「だよなあ……。とは言え、どう言えば角が立たないかなあ。」

「おうおう兄ちゃん、仮にも嬢ちゃんの婚約者だろ? ビシッと言ってやらないでどうすんだい?」

 

 涼が悩んでいると、風がいつもと違った声音で話しかけてきた。

 いや、正確には風の頭の上に乗ってる謎の造形物が話しかけてきた、という事になっている。勿論、物が話し掛ける筈が無いので、その声の正体は風なのだが、そこは突っ込まないという事になっている。

 設定としては、風の頭の上の造形物、太陽の塔をコミカルにした様なそれは「宝譿(ほうけい)」という名前で、性別は男らしい。風と一緒にお風呂に入った事のある鈴々曰く、『宝譿の顔に手拭いが巻かれていたのだ!』らしいので、それに間違いは無いのだろう。何故入浴中も一緒なのかは置いておく。

 その宝譿はこの様に時々話し掛けてくる。勿論、正確には風の腹話術によるものなのだが。この時の風は、いや宝譿は普通及び少し早めの口調で話してくる。普段の風がのんびりとした口調なのを考えると、二重人格なのかと思うくらい違う。もちろん風は二重人格ではない。

 そんな宝譿に対して、涼は煮えきらない返事しかしないでいる。

 

「まったく、兄ちゃんは男だろ。そんなんで本当に○○ついてんのかよ。」

「はしたないですよ宝譿。お兄さんは小蓮ちゃんに嫌われたくなくてガツンと言えないのですから、仕方ないのですよ~。」

「風、それは違うから。あと、女の子がそんな事言っちゃいけません。」

「風ではなく宝譿が言ったのですが、分かりました~。」

 

 風がそう言った後、涼は愛紗に何とかするからしばらくは小蓮を助けてあげて、と頼み込んだ。愛紗は小さく溜息を吐くと渋々ながら了承し、退室した。

 愛紗の退室を見送った後、涼は椅子の背もたれに体を預ける。事務仕事ばかりで固まっていた筋肉や骨が動き始め、ある程度の快感をもたらす。

 そんな涼に常のジト目、もしくは眠たそうな目を向けながら、風が改めて言う。

 

「まあ、お兄さんがどうするかは任せますが、早めに解決しないといけないとは思いますよ。」

「分かってるよ。」

 

 常の性格である楽天的な考えで、今回も何とかなるだろうと思っていたが、現実には何とかなっていない。

 いい加減この性格を直した方が良いのかなあ、とも思うが、性格は一朝一夕に直るものでは無いので早々に諦めた。

 今の涼にはそれよりも先に片付ける事があるのだから。

 

「それよりも風、この陛下への奏上文ってこんな感じで良いのかな?」

「あー、そうですねえー……ここはこうしたら……。」

 

 涼と風は、以前華琳に頼まれていた皇帝陛下への奏上文を書くのを再開した。その為、小蓮の事はしばらくの間忘れる事となった。

 

 

 

 

 

 徐州は平和である。いや、漢全体は平和である。

 先の青州遠征で黄巾党残党の中でも最大勢力だった青州黄巾党は壊滅した。賊自体は他にも存在しているが、各州がしっかりと治めている今は黄巾党の様な大規模な反乱は起きないだろう。

 それでも、武将や兵士達は戦に備えて訓練を怠らないし、文官達は州の運営の為に書類を片付け、要人と話し合いをしたりと忙しいのである。

 その為、人材は常に不足していた。正確には、優秀な人材が不足していた。

 かつては王朗(おうろう)趙昱(ちょういく)といった優秀な人材を前州牧である陶謙(とうけん)から借り受けたりして乗りきっていたが、今はその二人も役目を終えて陶謙の許に戻っている。

 もっともその後、朱里たちが加わった事で内政に関してはだいぶ楽になっている。それでも経験が浅い彼女たちに徐州全土をカバーする能力はまだ無いので、それを補う為に人材を募集している。

 そうして集まった中には、朱里たちが来る前に来ていた笮融(さくゆう)や、つい最近来た闕宣(けつせん)の様に人格に難のある人物も居たが、意外と仕事は出来るので採用されている。

 ここ徐州は漢王室の縁者である劉備と、天の御遣いである清宮の二人が治めているので人が沢山集まっているのだが、元来の人材不足を完全に解消するには到っていない。

 なので、そんな徐州の手伝いをしたいと小蓮が思うのはある意味当然の事だった。

 

「という訳で、今日もシャオが手伝ってあげるわね♪」

「結構よ。」

 

 ここは城内の一角、劉燕こと地香の仕事部屋。今ここに居るのは地香、小蓮、そして地香の副官である廖化こと飛陽の三人だけである。本来は徐庶(じょしょ)こと雪里(しぇり)も居るのだが、今は所用でここには居なかった。

 

「そんなに遠慮しなくて良いのよ。確かに今のシャオは涼の婚約者だけど、特別扱いはしないって涼も言ってたし。」

(別に特別扱いをしている訳じゃないわよ! アンタが手伝うと余計な時間がかかって、ちぃ達が困るの!)

 

 地香は心の中で地和に戻り、愚痴を叫んでいた。

 彼女がこうした態度なのにはもちろん理由(わけ)がある。つい先日も小蓮は地香たちを手伝ったのだが、慣れない仕事をやったからかミスが多く、結局は小蓮が帰った後に修正する羽目になった。

 その時にハッキリとミスについて言わなかったのは、彼女が孫家の姫で涼の婚約者という事もあるが、慣れない仕事なのに頑張っている姿を見たのが一番の理由(りゆう)だったかも知れない。

 

(けど、まためんどくさい事になるのは御免だし、かといって断るとそれはそれでめんどくさい事になりそうだし……。どうしたら良いのよー!)

 

 地香は心の中で頭を抱えた。

 人手はいくつあっても足りないので、仕事を手伝ってくれる事自体は助かる。だが、それで足を引っ張られては堪らない。自身も今の立場になってから何度も涼や桃香たちに迷惑をかけてきた。二人は特に何も言わなかったが、それでもきっと迷惑をかけた筈だと地香は思っている。

 

(なのにこのチビッ子は…………ちょっと待って。)

 

 それまで内心で怒っていた地香が、急に冷静になった。

 

(この子……仮にも孫家の姫なのよね。きっと、私よりしっかり勉強とかしてた筈……。)

 

 実際はよくサボっていたらしいが、間違ってはいない。

 

(よく分からないけど、その中には、こういった時に場の空気を読む勉強とかもあったんじゃないかしら。)

 

 勉強かは分からないが、場の空気を読む事はある意味死活問題にはなるかも知れない。

 

(だったら、ちぃでさえ気づけた事をこの子が気づけないって事、あるのかしら。……もしかして…………。)

 

 地香はそこまで考えを纏めると、小蓮に向き直る。妹の人和(れんほう)より背が低い彼女を見ていると、昔の事を思い出す。

 

(まあ、あの子はこんなに天真爛漫じゃなかったけど。)

 

 それはどっちかと言えば天和(てんほう)姉さんか、なんて思いながら、地香は小蓮と同じ目線になり、言葉を紡ぐ。

 

「ここは私と飛陽だけで良いから、他の所を手伝ってあげて。」

「…………う、うん。」

 

 地香の言葉を聞いた小蓮は、若干表情を暗くしながら頷いた。

 

(やっぱり、この子……。)

 

 何かを確信した地香はそのまま小蓮を送り出す。一言、言葉を添えて。

 

「貴女の行動は間違ってないわ。ただ、手順や方法が違うの。それを忘れないで。」

 

 小蓮はそれに小さく頷いて応え、部屋を後にした。

 しばらくの間、部屋は静寂に包まれた。また小蓮が戻ってくるのではないかと思いもしたが、それは杞憂に終わる。

 その静寂を破ったのは飛陽だった。

 

「よろしかったのですか、ちぃ……地香様。小蓮様は恐らく……。」

「ええ。あの子は焦ってる。そして、“寂しがっている”。だからこうして毎日、どこかに行って仕事を手伝おうとしているのよ。」

 

 認められたくて、温もりが欲しくて、安心したくて、彼女はああしてると地香は続けた。

 地香には小蓮の気持ちが解る様な気がしていた。彼女もまた、ある日突然家族と離ればなれになったのだから。

 それも、小蓮とは違って地香は、地和は永遠に家族と会えなくなった。それを知った時の地香は温もりを求め、認めて欲しくて、安心したくて毎日を生きてきた。

 そんな彼女だからこそ、何となくだが小蓮の気持ちが解る様な気がした。だが、助言をする気は無い。

 

(これは、アンタが自分自身で乗り越えないとダメなのよ。頑張って、シャオ。)

 

 ただ、心の中で応援はしていった。

 

 

 

 

 

 小蓮は廊下で外の景色を観ながら佇んでいる。時々通りすぎる人々は皆彼女に一礼して去っていく。涼の婚約者なのだから当然の事だった。

 それは本来、彼女にとって嬉しい事の筈だが、心の中では何故か溜息を吐いていた。

 

(何でだろ、涼の婚約者としてここに居るのに、あんまり嬉しくない……。)

 

 自分自身でもよく解っていない事に戸惑いつつ、小蓮は再び心の中で溜息を吐く。

 

(ううん、最初は本当に楽しかった。涼と居るだけで、桃香たちと遊んでいるだけで……。)

 

 結婚ではないが、涼と一緒に住めるという事が決まってからの約二週間はとても楽しかった。

 朝になったらすぐに涼を起こしに行き、涼の仕事振りを眺め、時々構ってほしくて抱きついたり、お昼休みにはいろんな話をし、午後の仕事中もやはり眺めたり、夜には一緒に寝ようと誘ってやんわりと断られたりした。

 

(それだけで良かったのに……建業から届いた荷物を見た途端、急に不安になった。何でか解らなかった。でも……今なら解る気がする。)

 

 もう一度外の景色を観る。紺碧の瞳には澄みきった青空が写し出された。

 

(きっと……恐いんだ。お姉ちゃん達ともう会えないかも知れない事と、涼たちに嫌われたりした時の事を考えるのが。)

 

 そう思うと、青空の筈なのに空が暗く見えた。

 建業からの荷物。その意味を朱里たちは「嫁入り道具」として捉えている。そしてそれは間違いではない。事実、小蓮でも知らない新しい家具や服などがいくつもあった。それはつまり、現代日本の風習とは少し違うが、結納の品の様なものだったのかも知れない。

 だが、小蓮はそれを見てもう一つの意味を感じ取っていた。

 それは朱里たちも感じていた「小蓮を人質として預ける」という意味に似ているが、小蓮にとってそれは「そのまま帰って来なくて良い」という意味にとっていた。

 勿論、雪蓮たちはそんな風に思っていないが、揚州の屋敷に有った筈の小蓮の荷物が殆どここ徐州に届けられたのを見て、そういう風に思ってしまった。

 しばらく考えて、自分の家族がそんな事をする筈が無いと気づいたが、婚約者というのはいずれ結婚するから婚約者なのである。結婚したら気軽に揚州に帰るなんて出来ないかも知れない。

 徐州と揚州は南北に隣接しているが、その間には長江という大河が横たわっている。現代と違い、ここには飛行機は無いし船もそんなに大きくない。お盆や正月に帰省する現代日本の様にはいかないかも知れない。そうでなくても、病気や戦で永遠に会えなくなるかも知れない世界である。生まれて十数年の少女がこの現実を知ったのだから、その衝撃は如何(いか)ばかりか。

 ただそれでも、涼と結婚して幸せな暮らしが出来るならまだ良いだろう。人はいずれ独立し、家族を作っていくものである。それは時代や身分の差、それぞれの事情はあれども、家族という目的には大きな違いはない。

 だが、「幸せな暮らしが出来なかったら」どうなるだろうか?

 小蓮が徐州に居るのは、婚約者の涼と一緒に住み、いずれ結婚する為だ。だが結婚とは、必ずしも幸せなものとは限らない。まして、小蓮の結婚は言うなれば政略結婚である。普通の結婚より幸せになる確率は低いかも知れない。

 今回の同居はその成功率を少しでも上げる為だが、現実的には失敗する事も充分考えられる。

 前述の通り、正史や演義、小説でも劉備と孫夫人は政略結婚で一緒になっていて、演義や小説では仲睦まじい夫婦だが、正史ではどうやら険悪な仲だったと思われる。もちろん小蓮はそんな事を知る由も無いが、孫夫人と同じ立場の小蓮はそうした正史や演義の影響を受けないとも限らない。

 そうして万が一、涼と結婚出来なかったら、または結婚しても幸せな日々を送れなかったらと思うと、不安で胸が張り裂けそうになった。

 もしそうなったら、恐らく桃香たちとも険悪な関係になるだろう。揚州から一人残された小蓮には誰一人として味方が居ない。四面楚歌である。いや、その項羽でさえ四面楚歌の後も八百騎を従えていたが、小蓮には本当に誰も居ない。

 涼との結婚が上手くいかず、桃香たちとも仲良く出来ないとなれば、小蓮がここに居る意味はあるのだろうか。

 そう考えると、不安で仕方がなくなった。

 どうしたら良いんだろう? と考え、出した結論が「涼や桃香たちに認めてもらい、ここに居る意味を作る事」だった。

 それからは周知の通り、涼たちの仕事を手伝ってきた。少しでも印象を、関係を良くしようと頑張ってきた。

 だが、焦りや不馴れな事から失敗を繰り返し、却って迷惑をかけてしまった。

 小蓮は子供だが、それでも十数年生きている。周りの雰囲気がどうか、人々の反応がどうかとかを感じ取れない程の子供ではない。

 それでも、自分が暗くなる事で心配をかけたくなくて、表面上はいつも通りに過ごしてきた。だから愛紗などは小蓮の変化に気づかず、苛々している。

 愛紗たちが小蓮を「孫家の姫」として見ている様に、小蓮もまた愛紗たちを「監視者」と見ている。どちらも間違ってはいないが、それではいつまで経っても溝は埋まらないし、関係も良くならない。

 

(雪蓮お姉ちゃん……シャオがこんな気持ちになるの、分かっていたの? だったら、教えてほしかったな……。)

 

 小蓮は今、ここに来てようやく、自分自身の立場の意味と大きさを知ったのだった。

 

 

 

 

 

 桃香はこの徐州の州牧である。要は徐州で一番偉いのである。

 だが、桃香自身は自分が偉いとか思っていない。義勇軍を立ち上げてから今に至るまで、そんな風に思った事は一度も無い。

 寧ろ、何故自分がこんな立場になっているんだろうとは何度も思った。

 確かに、桃香は中山靖王・劉勝の末裔、という事になっている。それはつまり漢王室の縁者という事だが、実家はとうに没落しているのでそれらしい暮らしをした事はない。寧ろ、(むしろ)を売って生計を立てていたくらい貧乏であった。

 それが今や州牧である。お金は沢山あるし、美味しいものは食べられるし、仲間も一杯居るので言うこと無しの状況だ。

 今は仕事が忙しいのでゆっくり出来ないが、一段落したら故郷の母親を呼ぼうかと考えたりもしている。その時は誉めてくれるかな、喜んでくれるかな、とか思っている。

 だが、それはまだしばらく先の事だと桃香は理解している。

 徐州はつい先日、青州救援という名目で十万という大軍を動かした。青州黄巾党を討って青州の人々を助けるという目的は達成できたが、要は戦争をしたのだ。戦争は金がかかる。武器も人も失う。孫武の時代からそう言われている。

 今回の遠征でいくら使ったのか、どれだけ物資を消費したのか、何人が亡くなったのか。そうした戦後処理がまだ完全には終わっていない。

 その戦後処理が驚くべき速度で進んでいるのは、朱里を始めとした優秀な文官達のお陰であるが、州牧である桃香自身の決済も必要なので、恐らくあと数日は掛かるだろう。

 そんな忙しい桃香であるが、今は廊下をテクテクと歩いている。彼女の名誉の為に言っておくが、決してサボっている訳ではない。

 

(朱里ちゃんに心配をかけちゃったみたい。ダメだなあ、もっとしっかりしないと。)

 

 桃香はそう思いながら両手を繋いで頭の上に伸ばした。背筋が伸び、筋肉と骨が心地よい音を鳴らす。ついでにその際、彼女の大きな胸も形を変えたり上下したりした。ここに男性が居たら間違いなく凝視したであろう。

 朱里は、働き詰めの桃香の体調を気にしてしばらく休憩をと進言していた。

 桃香は大丈夫と答えたが、朱里は『無理をしてはいけません。ここは私達がやっておきますので散歩でもしてきてください』と言って半ば強引に桃香を部屋から出した。

 余談ではあるが、最近行った軍の再編の結果、桃香には朱里が、涼には風が、地香には雪里が側仕えの軍師となった。鳳統(ほうとう)こと雛里(ひなり)は他の軍師達と共に軍師中郎将(ぐんし・ちゅうろうしょう)に任命され、特に誰かの側仕えという訳ではないが、平時は朱里達と同じく文官の仕事をし、実質的に下の文官達の取りまとめをする事になった。また、戦時に於いては副軍師として動く事になっている。

 そんな訳でしばらく休憩となった桃香だが、特に当てがある訳ではないのでブラブラしている。

 

(涼義兄さんの所に行こうかな……あ、けど今は華琳さんに頼まれていたっていう奏上文を書くのに忙しいんだっけ。風ちゃんも珍しく疲れた顔をしてたし……。)

 

 桃香は先日見た忙しそうな涼たちを思い出した。

 何せ二人とも奏上なんてした事が無いので、いろんな人や書を頼って何とかものにしていた。特に風の飲み込みは早く、彼女のお陰で涼は何とか奏上文を書き上げつつあった。

 その際の大変そうな、でもどこか楽しげに話していた涼と風を思い出すと、何故か桃香の胸がチクリと鳴った。念の為に言うと、彼女の大きな胸自体ではなく、胸の奥、要は心がである。

 

(まただ……これって何なんだろう……。)

 

 桃香は原因不明の痛みに不安を感じた。

 徐州に帰って来て以来、時々襲う胸の痛み。その時は決まって、涼を思い浮かべたり見ていた時だった。

 流石の桃香も、それでも何となくではあるが原因に心当たりがあった。先日の華琳から言われた言葉もある。

 

(やっぱり、私は……。)

 

 いろいろと考えた結果、遂に答えが出そうになった。が、直前になってその思考は途切れる。

 空を見上げて佇んでいる、見知った少女の姿が視界に入ってきたからであった。

 

「小蓮ちゃん?」

 

 そこに居たのは小蓮だった。最近ここ徐州に住む様になった彼女は、桃香の義兄である涼の婚約者。つまりは将来、桃香の義姉になる予定という事でもある。

 義姉になるかも知れないとはいえ、年齢も身長も桃香の方が上である。それに涼との結婚はしばらく先の事になっている為、桃香は小蓮が義姉になるかもという事は余り考えていなかった。

 よって、今も普通に友達として声を掛けた。が、何だか様子がおかしい。返事が無かったのである。

 普段の小蓮なら鈴々の様に元気に返事をしてくるのに、と思いつつ、もう一度声をかけようとした。

 が、それは出来なかった。小蓮が泣いている。少なくとも、涙の跡は見えた気がする。

 

「あ……桃香。」

 

 桃香の存在に気づいた小蓮は左手で目元を(ぬぐ)う。やはり泣いていたのだろうか。

 その仕草に桃香は一瞬躊躇するものの、彼女の様子が気がかりになり、傍に寄る。似た髪の色をしている二人が並ぶと、一見姉妹に見えなくもないかも知れない。

 

「どうかしたの?」

 

 桃香はそう言ってから、何バカな事を訊いているんだろう、と後悔した。小蓮が泣く様な事は何かなんて、ちょっと考えれば分かるじゃないか、と。

 (とお)を少し過ぎた年齢の子が、揚州から一人で来た様なものだ。不安になっても仕方がない。桃香は当然知らないが、現代でいうホームシックである。

 それに何より、小蓮は最近ここの仕事を手伝い始めた。それは良いのだが、失敗を重ねている。好意の末の事なので誰も文句は言えないが、正直なところ勘弁してくれないかなあと思っている。桃香もその一人だった。

 

(良い子なのは間違いないんだけどね……。)

 

 桃香はそれでも小蓮を好ましく思っている。普段の彼女の天真爛漫さは見ていて心地の良いものだから。

 小蓮は幼さ故か、自身の力量を測りきれていない。実際、手伝い始めの内は慣れないながらも仕事を完遂させていた。失敗が多くなったのは、調子に乗って自身の手に余る仕事まで手伝い始めた頃だった。

 それを桃香が知ったのは、小蓮の事を朱里に相談した結果だが、それ以来どうにか出来ないかも相談した。だが朱里は、

 

『小蓮さんの行動を止めさせるのは簡単ですが、後の事を考えると得策ではありません。一番良いのは、小蓮さんご自身が行動を改めていただく事なのですが……。』

 

と言って口を濁した。「後の事」とは孫家との関係の事だろうか。そう考えた桃香もそれ以上は何も言えなかった。

 小蓮は小さく答えた。

 

「なんでもない……。」

「何でも無いって感じはしないよ。」

 

 桃香は小蓮の強がりを一言で否定した。瞬間、小蓮の瞳が潤み始めた。

 

「なんでも……ない……っ!」

「……場所を変えようか、小蓮ちゃん。」

 

 小蓮を抱き寄せた桃香は、そのまま来た道を戻っていった。

 散歩に出した筈の主君が程なく戻ってきたので、朱里は一瞬驚いた。だが、その隣に居る人物を見て全てを察した将来の名軍師は、二人に一礼してから退室した。その際、扉に「会議中につき入室禁止」との掛札を下げるのも忘れずに。

 朱里が退室してしばらく後、落ち着きを取り戻した小蓮に改めて桃香が訊ねる。返ってきた答えは家族と離れて寂しい事、みんなに認めてほしくて仕事を頑張ってるけど失敗が多くなってきた事など、桃香の予想通りの内容だった。

 ただ、失敗してもへこたれてない様に見えていたので、失敗を悔やんでいるのは意外だった。また、それによりみんなに迷惑をかけているんじゃないかと思っているのも同様に思った。

 桃香にとって、いや、涼を含めたこの徐州で小蓮を知る者全てにとって、小蓮は天真爛漫で小さい事に拘らない少女に見えていた。そしてそれは基本的に間違っていない。

 だが、年端もいかぬ少女である彼女はいろいろと経験が足りていない。黄巾党征伐時も十常侍誅殺侍も揚州に留め置かれた小蓮が、一人で揚州以外の土地に住んでいるというのは、彼女自身も気づかなかった自分自身の事を気づかせるのに充分すぎる環境の変化だったのだろう。

 それに気づいた桃香は静かに小蓮を抱き寄せる。豊かな胸の中に小蓮の小さな顔が埋もれていく。

 

「わぷっ。……と、桃香?」

 

 突然の事に戸惑う小蓮。だが桃香はそのまま抱きしめ続ける。羨ましい。

 

「ゴメンね……小蓮ちゃんが寂しがっている事に気づけなくて。本当にゴメンね。」

「桃香……。」

 

 桃香は自分を恥じた。何故こんな当たり前の事に気づかなかったのだろう、何故きちんと話さなかったのだろう、何故補ってあげられなかったのだろう、と、いくつもの後悔と懺悔を繰り返す。

 桃香の双眸(そうぼう)から滴が落ちる。小蓮の褐色の肌に落ちて弾けた。

 それが何なのか気づいた小蓮もまた、桃香を抱きしめる。

 それからしばらくの間、義姉妹予定の二人は抱き合ったまま泣き続けた。

 

 

 

「大丈夫、小蓮ちゃん?」

「シャオは大丈夫よ。桃香こそ大丈夫なの?」

「私も大丈夫だよ。」

 

 どれくらい経ったか分からないが、ひとしきり泣き続けた桃香と小蓮は先程までと違い笑みがこぼれている。

 人間は泣くとストレスを発散するとかいうが、今の二人はまさにそんな状態だった。今回の事はお互いに変に気を遣い、面と向かって話さなかった事が原因の一つと言えなくもない。それが解消されればこうなるのも自明の理であった。

 小蓮は軽く呼吸を整えると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「シャオね、恐かったんだ。涼や桃香たちに嫌われるのが。」

「私達が小蓮ちゃんを嫌う? そんな事ある訳無いよ。」

「うん、こうして桃香と話していると、きっとそうなんだろうってよく分かるわ。けど、シャオは桃香たちと……ううん、涼ともちゃんと話してなかったから、それに気づかなかったんだなって思うの。」

「涼義兄さんとも? けど、私達から見たら仲良く話してる様に見えたけど……。」

 

 桃香がそう言うと、またも胸の奥がチクリと鳴った。

 当然ながら桃香のそんな様子に気づかない小蓮は、そのまま話を続ける。

 

「確かによく話してたよ。雪蓮姉様たちの事や、涼の居た世界……天の国の事とか。けど、シャオも涼もきっとどこかで、まだ遠慮してたんだと思う。どっちも心から話していた“つもり”だったんだ、多分。」

 

 そういった小蓮は、どこか寂しげだった。

 涼は先日の一件以来、自分の思うように、かつ今迄以上に楽天的に行動している。勿論、真面目にやらないといけないところは真面目にやっているが。

 なので、小蓮についても涼は涼なりに真摯に向き合ってきた。それが女友達とのそれか恋人同士のそれかなどの違いはあるが、婚約者に対し、将来の結婚相手に対し彼なりに真面目に向き合ってきたのである。

 だが、小蓮からすればそんな涼も自分と同じく、心のどこかで遠慮していたという。言われてみれば、いくら真面目に、真っ正面から向き合うと言っても二人は付き合いが短い。婚約者とかを抜きにしても、遠慮してしまうのは仕方のない事だったのかも知れない。

 小蓮は続ける。

 

「だから不安になったんだよね。シャオが遠慮しているから、涼もきっとそうだって思ったら恐くなって、そしたら今度は寂しくなって、不安になってったの。」

 

 その様にして出来た不安が小蓮の手伝いにも影響し、ただでさえ慣れない仕事を失敗させていったのだろう。そうして更に不安になり、失敗を重ね、情緒不安定になった末が先程までの小蓮という事らしい。

 今はこうして桃香と話したり泣いたりして気持ちを発散したので、明るさの中に影を含んでいたさっきまでとは全然違っている。同盟に則って徐州に来たばかりの頃の、天真爛漫な小蓮に戻っていた。

 そんな小蓮を見た桃香は、不意に言葉を紡いだ。

 

「小蓮ちゃん、不安になんてならなくて良いよ。」

「え?」

 

 桃香の言葉の意味を図りかねる小蓮は、そのまま次の言葉を待つ。

 

「不安になる気持ちも解るけど、小蓮ちゃんはやっぱり元気一杯の小蓮ちゃんが一番だと思う。……きっと、涼義兄さんもそう思ってるよ。」

「そ、そうかな。」

「そうだよ。」

 

 桃香が肯定すると、小蓮は嬉しかったらしくはにかんだ。その表情を見て、桃香は自分が言った事が正しいと確信した。同時に、胸の奥がまたチクリと鳴った。

 小蓮は数度呼吸を整えると、意を決した表情になり、すっくと立ち上がる。

 

「ありがとう、桃香! シャオ、頑張ってみるね!」

 

 そう言って悩みを吹っ切ったかの様に走り出し、部屋を出て行く小蓮の後ろ姿を眺めながら、桃香は小さく呟いた。

 

「……良いなあ。」

 

 その言葉の意味を、桃香は理解していたのか。それは彼女自身にもまだハッキリとは判らなかった。

 

 

 

 

 

 現在、涼達が本拠にしているここ下邳は、歴史的に有名な人物が何人も住んでいた。前漢の初代皇帝、高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)の軍師の一人だった張良(ちょうりょう)もその一人である。

 張良が下邳に来たのは、始皇帝暗殺に失敗した後、偽名を使って逃亡していた時とされる。

 この時期の張良の逸話として、黄石公(こうせきこう)から太公望(たいこうぼう)の兵法書を授かったというものや、項羽の叔父である項伯が罪を犯して逃亡していた時に匿ったなどがある。

 そうした歴史があり、今現在は州牧である桃香が治めている下邳であるが、本来はその様な重要な都市ではない。徐州の州都は本来、東海郡(とうかいぐん)に在る(たん)であり、後年、曹操が治める様になると彭城(ほうじょう)を州都とした。この世界では今現在、陶謙が治めている都市が彭城である。

 そうした史実との齟齬があるこの世界だが、そもそも武将たちの性別が違っていたりする世界なので些末な事ではあった。よって、涼もちょっと気になったくらいで深く考えはしなかった。

 

(というか、異世界に来るとかマンガじゃないんだから。)

 

 涼は寝ながらふと思い、心の中で苦笑しつつ呟いた。尤もな事である。

 陛下への奏上文を大体書き上げ、夕食を食べ終え、風呂に入った涼は今、自室の寝台に横たわり、一日の疲れをとっていた。

 現代の様に電気もネットも無いここでは夜が早い。灯りすら貴重なこの世界では自然と夜更かしをする事が無くなり、急な仕事以外では早めに寝ている。現代の時間に直せば、午後九時には寝る事が多いだろう。

 今日もこのまま寝るのだろうな、と涼は思いながら、何度も読んだ司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を手に取った。この世界に来た時に持っていたバッグに入っていた数冊の本の一冊だが、元々読み込んでいたのもあって見た目はボロボロになっている。それでも読むのに支障は無いので、涼はこうしてたまに読んでいる。ちなみに他には宮城谷昌光の「三国志」、「長城のかげ」などがある。

 そうして数十ページを読んでいると、扉がノックされた。

 こんな時間に誰だろう? と思いながら涼は返事をし、入室を促す。

 

「こ……こんばんは。」

「シャオ?」

 

 入ってきたのはシャオこと小蓮だった。彼女も風呂上がりなのか髪は下ろしていて若干濡れている。また、褐色の肌は赤みを帯びていた。この後は寝るだけなので、服装は寝間着である。ちなみにピンクのミニスカ半袖だ。

 

「ちょっと話があるの……良いよね?」

「う、うん。」

 

 涼が頷くと、小蓮ははにかみながら近づき、涼が寝ている寝台の端に座った。シャンプーの香り……とは勿論違うが、何かの良い香りが涼の鼻腔をくすぐった。

 何だかいつもと雰囲気が違うなあと思いつつ、涼は起き上がって本を片付ける。

 

「それで、話って?」

「うん……あのね。」

 

 それから小蓮は話し始めた。

 内容は昼間に桃香と話した時と同じだったが、あの時の内容を小蓮なりにブラッシュアップし、真摯に伝えていった。結果として、涼は失敗を咎める事はせず、逆に小蓮の寂しさに気づけなかった事を謝った。

 すると小蓮は急に泣き出し、涼の胸に顔を埋めた。突然の事に涼は戸惑うばかりだったが、やがて小蓮が何か言っているのに気づく。

 

「ゴメンナサイ……それと、ありがとう……!」

 

 それは謝罪と感謝の言葉だった。

 桃香には既に同じ様に述べていた。実はその後、地香などにも同じ様に謝ったりお礼を言ったりしてきた。そして、桃香や涼と同じ様な反応をされていた。誰もが小蓮の事で困ってはいたが、同時にその頑張りも認めていたのだ。

 皆がそんな反応をし、認めていた訳であるが、やはり彼女にとっては涼に認められなければ安心出来なかったのだろう。そして認められたからこそ安心して、涙腺が緩んでしまったに違いない。

 涼はその事に気づき、優しく抱きしめた。二人はまだ恋人というには早すぎるからか、涼の仕草は幼児(おさなご)に対するそれに近いが、今の小蓮にはそれで充分だった。

 しばらくの間、涼は小蓮の髪を撫でたり背中をさすっていった。

 

 

 

「……シャオ、そろそろ良いかな?」

「だ~めっ♪」

 

 泣いたカラスが、いや小蓮がもう笑っている。

 涼に認められ、謝られて安心した小蓮はひとしきり泣いた後、すっかり以前の元気溌剌な孫家の姫様、孫尚香こと小蓮に戻っていた。

 それはそれで良い事なのだが、ずーっと抱きついているので涼は困っていた。もう夜も更けている。そろそろ寝ないと明日に響くと。

 それなのに小蓮はずーっと抱きついたままなので、寝るに寝られない。

 

「シャオ、そろそろ寝る時間だから部屋に帰った方が良いよ。」

「そっか。じゃあ、シャオも寝るね。」

 

 やっと寝られる、と涼が思ったのも束の間、小蓮はそのまま涼の隣に移動して布団の中に入ろうとしている。

 

「シャオ、何してるの。」

「寝ようとしてるの。」

「シャオの部屋はここじゃないでしょ。ちゃんと自分の部屋に戻りなさい。」

 

 まるで小さい子を(たしな)める親の様に優しく、だが強く言った涼。……なのだが、当の小蓮はそんな涼のお小言もどこ吹く風。それどころか、涼の服の袖をつまみながら、上目使いで訊いてくる。

 

「一緒に寝ちゃ……ダメ?」

 

 どこでそんなテクニックを身に付けたの君は、と涼が内心でツッコミを入れる。

 いくら婚約者とはいえ、今迄一緒に寝た事は無い。涼はまだ小蓮を妹の様に見ているが、万が一にも間違いがあってはいけない。小蓮はまだ十代前半とはいえ、作ろうと思えば作れるのだ。気を付けて気を付けすぎるという事はない。

 

『早くシャオとの子供を見せてよねー。』

 

 なんて事を言う、江東の麒麟児の幻聴が聞こえてきそうだ。それくらい、今の小蓮は歳の割に色っぽかった。風呂上がりだったからだろうか。眼が潤んでいるからだろうか。寝間着だからいつも以上に薄着に見えるからか。そのどれもなのか。

 そんな事を考えつつ、涼は決断した。

 

「い、良いよ。」

 

 愛紗さんこっちです。いや、勿論冗談だけど。

 とはいえ、涼の気持ちも分からなくはない。小蓮は幼いが美少女である。美少女だが幼いのである。なら、一緒に寝ても大丈夫じゃないか、なんて思っても不思議ではない。

 意思薄弱だ○リコンだなんて言わないでやってほしい。涼も男の子だし、同時にここでは兄もやっている。その両方が複雑に混ざった結果、この決断になったのだ。仕方ない。そう、仕方ないのだ。多分。

 それに、涼の返事を聞いた小蓮は満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。こんな反応をされて、「やっぱりダメ」なんて言えるだろうか、いや出来ない。

 涼は「仕方ないか」と、「まあいっか」と思いながら灯りを消し、布団をかぶった。小蓮は抱きつき直し、やはり笑みを浮かべていた。無邪気な表情をしている小蓮を見ていると、これで良かったと涼は思う。

 恋人同士ならお休みのキスをしたりするのかも知れないが、今の二人は婚約者ではあるが恋人ではないという複雑な関係。よって、涼は小蓮の髪を撫で、小蓮は涼の腕に抱きつくだけで終わる。今の二人にはそれだけで良い。

 

「お休み、シャオ。」

「おやすみなさい、涼。」

 

 涼と小蓮は小さく、優しく言葉を交わし、そのまま眠りについた。そして夜が明けた。

 

 

 

 

 

「……で、こうなったという訳なんですね、りょう、にい、さん?」

「は、はい。」

 

 涼と小蓮を床に正座させている桃香は、その目の前で仁王立ちに笑顔のまま怒っている。器用だなと言ったら火に油を注ぐ事になりそうなので言わなかった。涼、よく我慢した。

 何故こうなったかと言えば、先程涼の部屋に桃香がやってきた為だ。

 彼女は珍しく早くに起き、折角だから涼義兄さんも起こそう! なんて考えてしまった。まだ起きなくて良いなら寝かせてあげてほしいものだ。

 そんな事は考えなかった桃香はルンルン気分で涼の部屋にノックもせずに入った。するとどうであろう、涼しか居ない筈の部屋に誰か居るではないか。それも涼と同じ寝台に。難しい言葉で言うと同衾(どうきん)である。

 それを見た瞬間、桃香はパニックになった。パニックになり過ぎて寝台に突撃した程である。

 突然の事に『ぐえっ!』『きゃあ!』との声をあげた涼と小蓮は瞬時に目が覚めた。そして事態を把握しようと見ると、何故か桃香が居るではないか。「あれ、ここって桃香の部屋だっけ」と間抜けな事を思ってしまったのは仕方がなかった。

 二人が起きたのを確認した桃香は、涼の襟をつかんで揺さぶりながら『これは一体どういう事なんですか!?』と訊ねた。起き抜けにそんな事をされては堪らない涼は、苦しみながらも説明し、揺さぶられからは解放された。が、それから二人して正座を命じられ、そして先の桃香の言葉に繋がる。

 涼は自分が軽率な事をしたと認めて謝罪し、小蓮も涼に倣って頭を下げた。そんな二人を見て溜飲が下がったのか、桃香は二人を許した。

 気がつけばいつも起きてる時間になっている。涼はここで、小蓮は自室に戻ってそれぞれ着替え、桃香は二人を待ってから三人で朝議に向かった。

 

(まったくもう、涼義兄さんも小蓮ちゃんもしっかりしてくれないと困ります。)

 

 移動中、そんな事を考えた桃香であるが、似た事を既に先程言ったので言わなかった。

 

(けど、昨日と比べたら小蓮ちゃんの表情が明るくなってる。これって、朱里ちゃんが言っていた事と関係があるのかな?)

 

 小蓮自身が変わらないと意味がない、そう言った軍師の言葉を思い起こしながら、桃香は隣を歩く義兄とその婚約者を眺め、小さく微笑んだ。

 そんな時でも、相変わらず胸はチクリと鳴るのだった。

 一方、涼は先程の事についてマズったかなあとは思いつつも、桃香が許してくれたので余り気にしていなかった。少しは気にした方が良いと思うぞ。

 また、小蓮はといえば涼と一緒に寝られたので満足していた。今までは断られていたので尚更だろう。

 なお後日、この事を揚州への手紙に書いたのだが、『一夜を共にした』と表現していたので、揚州ではいろいろと混乱したりなんやらあったのは別の話である。

 

 

 

 涼と風の二人が推敲(すいこう)に推敲を重ねた奏上文が完成したのは、それから一週間後だった。

 だが、これで終わりではない。この奏上文を洛陽に居る帝に届けなくては意味がない。涼は電子メールがあれば瞬時に届くのになあなんて思ったが、仮に電子メールがあったとして、奏上文は電子メールで届けて良いものなのだろうかとかの問題が出てきたので、深くは考えない事にした。

 そんな訳で、奏上文を届ける役目を誰かに任せなければならない。尤も、誰に任せるかは悩む事もなく決まった。

 

「星、しばらくの間、風を頼むよ。」

「承知。主もご存じでしょうが、風とは以前も共に旅をした仲。ご安心めされよ。」

「ああ。それじゃあ風、奏上文を頼んだよ。呉々(くれぐれ)も陛下に失礼の無い様にね。」

「承知したのです~。」

 

 涼は書き上げた奏上文を風に託し、彼女の護衛には星を選んだ。愛紗でも良かったのだが、星が『風の噂によれば、洛陽に極上のメンマがあるらしいですぞ、主!』という謎のアピールをしたので任せる事にした。なんでも、星はメンマにうるさいらしい。ラーメンじゃなく何故メンマなのかは分からない。

 涼たちは風と星を見送ると、皆一様に背筋を伸ばして肩や骨の音を鳴らした。それだけ疲れていたのだ。

 

「これでしばらく休めるな。」

「お疲れ様、涼義兄さん。」

「桃香もね。」

 

 この一週間で急ぎの仕事を全て終えた涼と桃香は、そんな会話をしながら久々にのんびりしようと、それぞれの部屋へと戻っていった。

 まさか、こののんびりとできる時間が僅か一週間しか無いなどとは、この時の彼等は思いもしなかっただろう。



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第十九章 帰還、それから・12

 陳留。この世界では今現在、曹操こと華琳が治めている都市である。

 正史で曹操がこの地を治める様になったのは反董卓連合の直前ともいうが、この世界では既に長い間治めている。数はまだまだ少ないながらも良い人材が多いので、陳留及び兗州の統治は上手くいっていた。

 そんな華琳だが、この日はいつも以上に気を張り詰めていた。そんな華琳を見た従妹で家臣の夏侯惇(かこうとん)こと春蘭(しゅんらん)が驚く様に呟く。

 

「あんな華琳様は初めて見る。一体、何があったというのだ?」

 

 それを聞いた荀彧(じゅんいく)こと桂花(けいふぁ)は心底呆れた、という風な目を向けながら、それでも親切に? 説明をした。

 

「あんた馬鹿ぁ? 今日は朝廷の使者が来るのよ。いくら華琳様が素晴らしく尊いお方でも、朝廷の使者には失礼があってはならないの。例え今の漢王朝相手でも、ね。」

 

 どう聞いても親切からでは無かった。なので一瞬怒りかけた春蘭ではあったが、華琳が大変な状況だという事が分かると瞬時に冷静になった。

 

「桂花、朝廷の使者は何の用でこの陳留に来るのだ?」

「華琳様に新しい官位か何かを授けに来るみたいよ。」

「おお! 華琳様がまた出世なされるのだな!」

 

 桂花の説明を受けた春蘭は華琳の出世を喜んだ。「華琳様命」である彼女にとって、主君の出世は心から喜ばしい事であった。

 春蘭とは意見の相違がよくある桂花も、「華琳様命」という点では同じである。それなのに、桂花は余り嬉しそうではない。その様子をいぶかしんだ春蘭は桂花に訊ねる。

 

「お前は華琳様の出世を喜ばしいとは思わないのか?」

「普通の出世なら当然喜ばしいわよ。けど、今回は……ね。」

「? 何かあるのか?」

 

 普段は桂花から馬鹿だのなんだの言われている春蘭ではあるが、流石にこの桂花の反応はおかしいと悟った。しばらくの間、桂花を見つめる。やがて、桂花は重々しく口を開いた。

 

「理由は二つあるわ。一つは、この出世が清宮の奏上によるものだという事。」

「清宮とは、徐州の清宮涼の事か。」

「そう。“天の御遣い”とか大層な言われようなあの男よ。」

 

 春蘭も桂花も涼とは面識があり、真名も預けている。極度の男嫌いの桂花は、半ば強引に華琳に命じられた様なものだが、それでも真名を預けた事には変わりがない。

 男嫌いの桂花は、当然ながら涼の事も嫌っており、そんな涼の奏上で親愛なる華琳様が出世するというのが嫌なのだろうかと、春蘭は考えた。

 とは言え、涼に奏上を頼んだのはその華琳自身であり、それは桂花も知っている。知ってはいるが、嫌なものは嫌なのだろう。男嫌いもここまで来ると病気である。

 

「では、あと一つは?」

 

 桂花は二つの理由があると言っていた。そのもう一つはどんな理由なのか、春蘭は気になっていた。

 よく喧嘩をする二人ではあるが、互いの実力は認めている。武力は春蘭が圧倒しているが、知力では桂花が圧倒している。武力で桂花に負ける事は万に一つも無いと思っている春蘭だが、同時に、自分ではどう足掻いても知力で桂花に勝てないと思っている。そしてその見解は正しい。

 そうして認めている桂花が懸念している二つの理由のもう一つ。これが恐らく一番の理由なのだろうと、春蘭は直感的に考えていた。そしてその見解も、また正しかった。

 

「……今回、華琳様に官職を与えるのは劉弁陛下という事になっているわ。」

「なっているわ、ではなく実際にそうだろう。お前はさっき清宮が奏上したから華琳様が出世されると言ったではないか。」

 

 春蘭の言っている事は正しい。だがそれは、あくまで対外的なものであり、真実は別にあると桂花は言う。

 

「確かに今回、陛下に奏上したのは清宮。それを受けて華琳様に官職を授けるのは皇帝陛下。けど、その官職を決めたのは……恐らく董卓。」

「董卓? あの小さい奴が何故決めるのだ?」

「……本当に何も知らないのね。……董卓は今、相国になっているのよ。」

「しょうこく?」

「……アンタは馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、まさか、相国も知らない程の馬鹿だったとは流石の私も思わなかったわ。」

 

 いや知ってるぞ、えーっと……しゅうらーん、という春蘭はさておき、相国とは漢において最高位の官職であり、現代で言えば首相が一番近いと思われる。

 元々は「相邦」と書かれていたが、漢の初代皇帝である劉邦の名を憚った結果、「邦」と同じ意味を持つ「国」に変えて「相国」となった。この相国には、一つの例外を除くと漢王朝の忠臣にして名臣である蕭何(しょうか)曹参(そうしん)しか就任しておらず、それだけの人物でないとなれない、いわば永久欠番の様な官職なのである。

 日本では太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)唐名(とうめい・からな)が相国であり、平清盛や徳川家康などが「○○相国」と呼ばれている。

 そんな重要な官職に今、董卓は就いているという。

 前漢・後漢あわせて約四百年経つが、その長い年月の間で実質的に二人しかなっていない相国という官職に、董卓が就任している。その事実を聞いた春蘭は当然の疑問を発した。

 

「確かに、董卓は黄巾党の乱鎮圧などで実績はあるだろう。だが、話を聞く限りそんな重要な官職に就く程の実績があるとは思えん。そもそも董卓は十常侍の時に遅刻したではないか。」

「そうね。」

「それなのに、十常侍を倒した華琳さまより出世しているとか、おかしいではないか。それならば、十常侍を倒しただけでなく、皇太子殿下を救出した清宮が相国とやらになっている方がまだ理解出来るぞ。」

 

 桂花は遺憾ながら心中で春蘭に同意した。彼女が董卓の相国就任の報せを聞いたのは、華琳が陳留に戻っている途中であった。

 一報を聞いた桂花の感想は「あり得ない」、だった。理由は先に春蘭が述べた事とほぼ同じである。この漢王朝に於いて、相国という官職が持つ意味はとてつもなく重い。

 相国は前述の通り、蕭何と曹参という漢王朝の忠臣だけが就任している。厳密には呂産(りょざん)という人物も相国になっているのだが、この者は劉邦没後の呂氏専横時代に呂氏一族のコネでなった様なものであり、実力や功績が認められての事ではない。その為省く事が多いと言える。

 正真正銘の実力と功績で相国になった蕭何と曹参は、漢王朝の基礎を作った人物であり、更に言えば漢王朝が出来るまでの統一戦争である「楚漢戦争」で後方支援、または前線で大活躍した人物である。

 史記にある二人の伝記がそれぞれ「蕭相国世家(せいか)」「曹相国世家」と書かれている事からも、相国という官職がどれだけ重要なものが分かるだろう。ちなみに、他に史記の伝記に官職が書かれているのは陳平(ちんぺい)の「陳丞相世家」などがあるが、この陳平もやはり漢王朝の忠臣かつ重臣であった。その陳平でも相国にはなっていない。

 そんな重臣中の重臣だけが就任していた相国という官職に、それ程の実績がある訳ではない董卓が就任したというのは、普通に考えてもおかしい事である。何らかの事情、それも良くない事情があったとしか考えられない。少なくとも桂花はそう考えた。

 

(けど、清宮や劉備並みに甘い考えを持つあの董卓が、汚い手段を使うとは思えないのよね……。そもそも出世欲も余り無かったみたいだし。)

 

 桂花、というより華琳と董卓はかつて共に戦った仲間である。当然ながら、華琳の側近である桂花は董卓の事もよく知っている。

 桂花が感じた董卓の印象は、「深窓の令嬢」「虫も殺せぬお嬢様」。それ程弱々しく、儚げな、それでいて育ちが良いという感じだった。

 だが、曹操軍と董卓軍は確かに黄巾党討伐で共闘していたが、その期間はとても短い。よって、華琳や桂花の見立てが間違っているという可能性も捨てきれないでいる。

 

(だからこそ、今回の使者から何か情報を得たいのだけど……難しいでしょうね。)

 

 いくらお嬢様に見えていたとはいえ、今は仮にも相国という地位に立っている董卓が、そう簡単に情報を漏らすとは考えられない。そもそも、董卓が相国になるという前兆すら無かったのだ。甘い考えは捨てるべきだと、桂花は思った。

 と、そこへ禀がやってきて使者の来客を告げる。彼女も桂花と同じく、曹操軍の軍師の一人である。

 

「華琳様、使者の方々がお見えになりましたが……お通ししてもよろしいでしょうか?」

「……ええ、構わないわ。呉々も……。」

「失礼の無い様に、ですね。承知しています。」

 

 禀はそう言って拝礼し、退室していった。華琳はその後ろ姿を見送った後、深々と溜息を吐いた。

 

「……そういう訳だから、貴女達も失礼のないようにね。春蘭は特に気をつけなさい。」

「そんな、華琳さま~!」

 

 名指しで注意された春蘭は、捨てられた猫の様な表情と声を出しながら項垂れたのだった。

 やがて、禀に先導されて二人の女性が現れた。女性と言っても、華琳たちとそう変わらない年齢だろう。

 

「貴女は……ねね?」

 

 華琳は、その内の一人である少女を驚きながら見た。そこに居たのは、短いながらもつい先日まで華琳と共に居たねねこと陳宮だったのである。

 

「ご無沙汰しているのです、曹孟徳殿。」

 

 陳宮は軽く一礼して応えた。

 その対応に春蘭は怒ったが、慌てて秋蘭が止める。

 

「まさか貴女が来るとは思わなかったわ。今はゆ……董卓様の許に居るのね。」

「そうなのです。(ゆえ)殿は新参者であるねねにもお優しく、この様な大任をお任せになされたのですぞ。」

 

 それを聞いた秋蘭は姉を止めて良かったと心底思った。春蘭はいまだに事態を把握しきれていないが、「もし姉者があの者に危害を加えていれば、最悪、華琳様が処刑されていたかも知れない」と説明すると顔色を青くしていた。

 勿論、陳宮の主である董卓こと月はその様な事を望まない。だが、今の陳宮達は建前上は皇帝陛下の使者である。皇帝の使者に無礼を働いたとなれば、それは(すなわ)ち皇帝への侮辱となり、それなりの責任をとらなければならなくなる。勿論、その責任をとるのは華琳であり、最悪の事態になる危険性もある。春蘭が青くなったのも無理はなかった。

 華琳と陳宮の会話が終わると、使者の残る一人、背の高い羽織袴の女性が口を開いた。

 

「初めまして……やないな。十常侍ん時以来やな、曹孟徳。」

「ええ、あの時はお互い大変だったわね。……貴女も今は董卓様の許に居るのかしら、張文遠(ちょう・ぶんえん)?」

 

 張文遠と呼ばれた女性は頷きつつ答える。華琳も言った様に、彼女とは十常侍誅殺の時に共に戦っていた。

 

「まあ、うちも丁原(ていげん)の旦那が急死したりと色々あったんよ。それで今はねねと同じく月の所に厄介になっとるっちゅう訳や。」

「そう……丁建陽(てい・けんよう)の事は病気とはいえ残念だったわね。改めてお悔やみ申し上げるわ。」

「おおきにな。若いながらも名君の誉れ高い曹孟徳からそう言われたら、丁原の旦那もあの世で喜んでるやろ。」

 

 張文遠はそう言うと顔を上に向けて微笑んだ。

 丁原は張文遠の上司だったが最近亡くなっており、その跡は義娘(むすめ)が継いでいる。

 

「さて……うちとしてはこのまま世間話をしてもええんやけど、そういう訳にもいかんしなあ……。」

「そうね。……では、貴女たちの仕事を済ませてください。」

「そうしたいんは山々やけど……なあ。」

「どうかしたの?」

(れん)殿がまだ来ていないので、任命できないのです。」

 

 言いよどむ張文遠に代わるかの様に、陳宮が理由を簡潔に説明した。

 

「真名で言われても……いえ、そう言えば十常侍を討った宴の時にその真名を聞いたわね。……確か、そう呼ばれていたのは……。」

「失礼します、呂布(りょふ)殿をお連れしました!」

 

 華琳が言葉を紡いでる最中、華琳の側近の一人である楽進(がくしん)こと(なぎ)が渦中の人物を連れてやってきた。

 

「……そう、呂布だったわね。凪、わざわざご苦労様。後は任せて仕事に戻って良いわよ。」

「はっ! 失礼しました!」

 

 真面目で礼儀正しい凪はきちんと拝礼し、退室した。

 一方、凪と違ってこの場に残った呂布。真名は恋。可愛らしい真名と、今も持っている食べ物とそれを黙々と食べる様は一見すると可愛らしい。

 だが、この少女は呂布。華琳たちは知る術は無いが、三国志史上で一、二を争う武将と同じ名前を持っている。その武は当然ながら、強い。

 曹操軍の中で一番強い武将は夏侯惇こと春蘭だろう。だがその春蘭でも呂布には恐らく勝てないと思われる。この世界の呂布が呂布の名に恥じない実力ならば。

 

「恋殿ー! いったいどこに行っていたのですかー!」

「……良い匂いがした所に行ってた。そこに居た子に、これ貰った。」

 

 陳宮と呂布の会話を聞いている華琳たちは、「ああ、厨房に行って流琉(るる)から食べ物を貰ったんだな」と思った。流琉とは、曹操軍の武将の一人である典韋(てんい)の真名である。武将ではあるが、料理が趣味でかつ上手くて美味いので、時々厨房で料理をしている。

 

「ちゃんとお礼は言ったんやろな?」

「……もちろん。食べ物をくれる人、みんないい人。」

「その認識はちょっと違うと思いますぞ……。」

 

 陳宮の言葉に同意する華琳たち。その理論でいけば、食べ物を与えるなら黄巾党でもいい人になってしまうではないか、と。同時に、本当にそんな事を万民にしたら黄巾党はいい人になるかも知れない、とも思う華琳たちであった。

 そうした穏やかな会話を一通り続けた後、張文遠が本来の仕事をする様に会話を軌道修正した。それを受けて華琳は所定の場所に移動し、跪く。使者は皇帝の代理なので、漢王朝の臣下である華琳はこの様に恭しくしなければならないのである。

 張文遠はその場に留まり、陳宮と呂布が並んで華琳の前に立った。

 

「…………。」

「ふむふむ。呂布殿は『黄巾の賊討伐、十常侍の殲滅、そして任地であるここ兗州・陳留の統治、全てにおいて陛下はご満悦である』、と仰せですぞ。」

 

 え、そんな事言ったか? と比較的小声で秋蘭に訊ねたのは春蘭。秋蘭も姉の言に同意したいが、ひょっとしたら自分達の位置からは聞こえない程の小声で喋ったのかも知れない、いやでも口も動いてなかった様な……と混乱しつつ、失礼があってはいけないからと何も言えないのであった。

 

「……はっ。」

 

 華琳も多少動揺したのだろう。返事に少し時間がかかった。

 陳宮はその後も呂布の代わりに話し続け、最後にようやく任命の言葉を紡いだ。

 

「『皇帝陛下の命により、曹孟徳を西園八校尉(さいえんはつこうい)の一つ、典軍校尉(てんぐんこうい)に任ずる』、と仰せですぞ。」

「はっ。」

 

 任命状を恭しく受け取った華琳は、呂布たちが退室するまで頭を下げ続けた。

 涼が居たら、「え、今から西園八校尉に任命? 霊帝は居ないのに?」とか混乱していそうだ。本来の西園八校尉は霊帝の時代の臨時職である。一説によると、活動費は霊帝の自費からだったともいう。

 華琳は呂布たちが居なくなって暫くしてからようやく立ち上がり、大きく息を吐いた。

 

「……桂花、使者たちのもてなしをお願い。私は少し休んでから行くわ。」

「わ、分かりました。」

 

 桂花を始めとした面々が恭しく華琳を見送ると、桂花と秋蘭は揃って頭を抱えた。

 現代と違い自動車も電車も飛行機も無いこの世界では、街と街の行き来はちょっとした旅であり、往復に数日から数週間かかる事もある。当然ながら使者である呂布たちもこれからすぐに帰る訳ではない。移動の疲れを癒し、食料を補充するなどしてから帰るのだ。

 そして華琳は宴を開いて使者をもてなす必要がある。勿論、その際に失礼があってはならない。例え使者が知り合いであっても、だ。

 

「……もう少し、頑張りましょう。華琳様の為に。」

「ああ、勿論だ。」

 

 そう言って気合いを入れる二人。その後、呂布が物凄い大食いだった事を知り、更に頭を抱えるのだった。

 

 

 

 

 

 揚州・建業は、今現在孫家が治めている。当主は孫堅、真名は海蓮という。

 彼女には三人の娘が居る。長女に孫策こと雪蓮、次女に孫権こと蓮華、三女に孫尚香こと小蓮。

 その内、三女の小蓮は今、婚約者である涼が居る徐州に居るのでここには居ない。残る二人も、つい先日までその徐州に居た。よって、長い間建業には海蓮しか居なかったのである。

 

「……そんな時に山越と戦っていたのですか。それなら一報をくださればすぐに雪蓮を引っ張って戻りましたものを。」

「だから言わなかったのよ。この機会に雪蓮たちと婿殿がより仲良くなればと思ってたから。」

 

 屋敷の庭にしつらえてある東屋に、海蓮はその二人の娘である雪蓮と蓮華、そして軍師である周瑜こと冥琳を集めて互いの報告をしていた。

 その報告の中で海蓮から山越と戦っていたと聞いた冥琳は半ば呆れ、雪蓮と蓮華は戦いに参加出来なかった事を残念がったり心配していたりする。

 だが、海蓮も雪蓮たちの報告を聞いて呆れたり残念がっていた。

 

「それなのに、話を聞く限りじゃ思った程は仲良くなっていない様ね。……いっその事、誰か一人くらい婿殿の子を孕んでくれば良かったのに。……仕方がないからシャオのこれからに期待しましょ。」

「か、母様、流石にそれは……。」

 

 まだ十代になって数年の娘に何を期待しているのか。この母親は相変わらずである。蓮華はそんな母親の言動に呆れているが、その母親本人は娘の心配を全く意に介していなかった。

 一方、性格等が海蓮そっくりと言われる雪蓮は山越の事を早く聞きたがっていた。

 

「今はそれより、山越との事よ。……こちらから仕掛けたの?」

「まさか。仮にも孫子の子孫を称している私がそんな無謀な事をする筈がないわ。」

 

 雪蓮が確認する様に問うと、海蓮は即座に否定し、少し冷めたお茶を飲み干してから一連の詳細を話し始めた。

 

「山越は貴女達が徐州に向かったのをどこからか察知した様ね。程なくして攻め込んできた。」

 

 雪蓮たちが徐州に向かったのは一ヶ月以上前である。涼が華琳との会談を終えて徐州に帰還してすぐに雪蓮たちが徐州に着いた。その頃には既に戦端が開かれていた様だ。

 海蓮の話は続く。

 

「すぐに迎え撃ちたかったけど、私達は袁術への睨みもきかせないといけないから、山越への対応は伯陽に任せる事にしたわ。」

晴蓮(せいれん)に?」

 

 雪蓮が、恐らく真名と思われる名前を口にする。

 正史によれば、伯陽とは(あざな)であり、姓名を孫賁(そんふん)という。父は孫羌(そんきょう)といい、孫堅の兄である。よって孫賁は雪蓮たちの従兄弟にあたる。

 

「晴蓮姉さんなら、確かに安心です。あの方は山越戦の実績がありますから。」

 

 蓮華は孫賁を「晴蓮姉さん」と呼んだ。やはりこの世界の武将らしく女性の様だ。

 

「まあねー。私より年上だから戦の経験はあるのよね。」

 

 雪蓮は素直に実力を認めた。どうやら雪蓮より年長らしいが、いくつなのだろうか。

 

「ええ、だからこそ任せたの。そしてあの子は今回もしっかりと結果を出した。」

 

 海蓮の説明によると、晴蓮は将兵を巧みに操って敵に多大な出血を強い、自らも敵の首級を三十も挙げるという大戦果だったという。

 と、そこで雪蓮が疑問を投げ掛けた。

 

「というか、山越の奴等とはしばらく戦わないっていう不可侵の約を結んでいたわよね。今回奴等が攻めてきたって事は、その約をあいつ等が破ったって事よね?」

 

 涼が雪蓮たちと同盟を結ぶ為にここ建業に来た時、雪蓮たちは丁度山越の使者と会談をしていた。その際、しばらく戦わないとの約定を結んでいたのである。

 

「そういう事になるわね。尤も、その事については“一部の反対派が約を無視して暴走した”というのが向こうの言い分らしいわ。」

「母様はそれを信じたの?」

「まさか。私はそんなに優しくないわよ。けどまあ、暴走の首謀者たちと思われる者の首を寄越して謝罪の言葉と金品を献上してきた以上、こちらは矛を納めるしかなかったわね。被害は最小だったし、逆にあいつらの被害は甚大だし、まあ良いんじゃないかしら。」

 

 良い気味よ、と言わんばかりの笑みを浮かべながら海蓮はお茶を注ぎ、一口だけ飲んだ。

 

「母様がそれで良いのなら……けど、癪に障るわね。」

「そんな反応をすると思ったから知らせなかったのよ。」

 

 雪蓮は不満そうだった。約束を守れない、守るつもりもない相手を自分の手で討てなかった事が。そんな娘の性格を知り抜いている海蓮の判断は、どうやら正しかった様だ。

 

「けどこれで、山越に対しては今まで以上に警戒しないといけないわね。」

「今回みたいな遠征をまたしなくてはならなくなった場合、将兵を余り多く連れてはいけないな。」

「ま、そんな事はそうそう起きないでしょ。その時は冥琳に任せるわ。」

「気軽に言ってくれるな。」

 

 呆れつつも悪い気がしない冥琳。それは幼少の頃からの付き合いだからこそ、雪蓮の言葉から信頼されているという感じがしたからだろう。

 尤も、自分の出番はしばらく後で良いとも思っているが。

 冥琳がそう思いながらお茶を口に含んでいると、蓮華が訊ねた。

 

「そういえば、袁術は動かなかったのですか?」

「動かなかったわよ。」

 

 それに対し、海蓮はあっさりと、しかも軽く答えた。

 

「……妙ですね。孫軍の兵が少なく、山越が攻めているという情報は袁術のもとにも入っていた筈。そんな好機に何もしないとは……。」

「母様が恐かったとか?」

「あり得なくはないが……袁術の軍勢は孫軍全てより遥かに多い。先の状況では更に兵数差が大きかったのに、何故動かなかったのか……。」

 

 蓮華たちは皆口々に意見を述べ合うが、何しろ情報が無いので決定的な答えは出ない。

 そんな娘達をしばらくの間眺めていた海蓮は、湯飲みを置いてからゆっくりと口を開いた。

 

「私も気になって少し調べさせたのよ。……そしたら、面白い情報があったわ。」

「面白い情報、ですか?」

 

 蓮華が言葉を繰り返す。雪蓮と冥琳も話の先を促す様に海蓮を見つめている。

 海蓮はそれを確認するかの様に見渡してから話を続けた。

 

「先日、袁紹と袁術が西園八校尉に任命されたそうよ。」

「さいえんはつこうい?」

 

 初めて聞く官職に雪蓮は間抜けな声を出した。海蓮が知り得た情報の中から西園八校尉について説明すると、雪蓮より蓮華と冥琳が興味を持っていたのか、集中して聞いていた。

 

「で、その西園なんとかに任命されたのがどう面白いのよ? 皇帝陛下直属みたいなものなら、少なくとも箔はつくってくらいでしょ。」

「……これを陛下に進言したのは董卓だそうよ。」

「はあ?」

 

 雪蓮はまたも間抜けな声を出した。だが今回は蓮華と冥琳も声は出さなかったものの、大きく驚いていた。

 海蓮は再び知り得た情報の中から董卓の現状について説明した。いつの間にか大出世を遂げていた事に三人は驚きを隠せなかったが、董卓が相国になったと聞いた時の冥琳の驚き様は特に凄かった。

 冥琳ほどではないものの、驚き、そして呆れている雪蓮が言葉を紡ぐ。

 

「相国って……いくらなんでも出世しすぎでしょ。蕭何や曹参みたいな実績はまだあの子には無い筈よ。」

「雪蓮の言う通りね。誰が見てもこの出世はあり得ない。なら、考えられる事は一つ。」

「……賄賂、ですか。」

「けど冥琳、私は董卓とはほとんど話していないけど、その短い間での印象からは彼女がそんな事をする様には見えなかったわ。」

 

 冥琳が出した答えに対し、蓮華は董卓を庇う様に自身が感じた印象を述べた。それに同意するかの様に、雪蓮と海蓮は頷いている。

 

「蓮華の言う通り、あの子はそんな事をする性質(たち)じゃないわ。むしろ、その対極に位置する人間よ。」

「私もそう思う。黄巾の時に数ヶ月間、共に戦ったけど、なんでこの子はこんな所に居るのかと思ったわ。そう言えば、婿殿も同じ印象だったわね。」

「なら……。」

「ですが、人間とはいつ豹変するか分かりません。例えば(いん)紂王(ちゅうおう)は暴君として知られていますが、かつては名君だったとも伝わります。」

 

 殷の紂王は正しくは帝辛(ていしん)という名だが、一般的には紂王の名で知られているかも知れない。

 紂王は殷の三十代目の王にして最後の王。美形で頭が良く、弁舌もたち、殷をよく治めていたというが、段々と増長し、遂には暴君になったと伝わっている。その原因は愛妾の妲己(だっき)にあると「封神演義(ふうしんえんぎ)」などにあるが、何しろ紀元前千百年頃の話なので本当の事は分からないといって良いだろう。

 

「なら、月も紂王みたいになったと言うの?」

「それは分からないが……何らかの要因が無ければこの様な異例の出世は無いだろう。それが何かは今のところ想像するしかないが。」

 

 董卓が悪事を働いたかは分からないが、そこに何かしらの力があったからこそ、数百年間誰も就任していなかった相国という官職に董卓が就いている。それは確かだと、冥琳は思った。

 

「話を戻すけど、袁紹も董卓が相国になって漢の実権を握っている事を最近知った様なの。で、当然ながら納得してないし、何とか出来ないか考えたのでしょうね。」

 

 そう言って海蓮は懐から一枚の手紙を取り出した。懐というより胸の間からと言った方が正しいかも知れない。

 手紙に興味を示した三人は暫しその送り主を想像した。話の流れからすぐに答えは出たが、念の為に蓮華が手紙の送り主について訊ねた。

 

「母様、それは……?」

「袁紹からの贈り物よ。」

 

 海蓮はそう言うと、袁紹からの手紙を娘たちに手渡した。

 

 

 

 

 

 時間は少し遡る。

 風と星が洛陽に行って一週間後、徐州に来客があった。

 桃香たちは謁見の間でその来客と対面しているが、ハッキリ言って桃香たちはこの来客に困惑していた。その原因は来客の素性にある。

 

斗詩(とし)猪々子(いいしぇ)、久し振り……で良いのかな。」

「そ、そうですね……あはは……。」

「ま、実際にアニキたちとゆっくり話すのは久し振りだし、良いんじゃないかな。刃はぶつけ合ったけど。」

 

 斗詩と呼ばれた大人しそうな少女が苦笑しているのに対し、猪々子と呼ばれた活発そうな少女はさらりと言いにくい事を言った。途端に場の空気が重く、冷えた感じがしたが、当の本人は気にしていない様だ。

 二人の少女、斗詩と猪々子はそれぞれ顔良と文醜の真名であり、どちらも袁紹軍の二枚看板と言われる程の実力者である。

 この話の読者なら覚えているだろうが、この場に居る桃香、涼、愛紗、鈴々、地香、雪里、朱里、雛里という面々の内の約半数がついこの間、袁紹軍と戦っている。なので、それはそれは気まずいどころではない。

 

「そ、それで、今日はどんな用件で徐州に?」

 

 桃香が多少焦りながら話を促した。涼たちが内心ホッとしたのは言うまでもない。

 すると、斗詩がそれまでの穏やかな表情から一変し、凛々しくしっかりとした表情になって言葉を紡いだ。

 

「我が主、袁本初がこの手紙を、徐州牧であらせられる劉玄徳様にと。」

 

 恭しい口調になった斗詩が荷物から手紙を取り出すと、それを愛紗が受け取り、それから桃香に手渡された。

 受け取った桃香はすぐに手紙を開き、黙読した。暫しの沈黙の後、彼女は表情を暗くして一言だけ発した。

 

「…………え。」

「桃香?」

 

 桃香の様子がおかしいと、涼は勿論、この場に居る重臣たち全員が気づく。

 涼は桃香から手紙を半ば強引に取り上げて読んだ。その内容を把握すると、涼もまた表情を一変させた。

 

「…………! 斗詩、この内容に嘘偽りは無いのかい?」

「……はい。」

 

 返事に少し間があった事が気になるが、少なくとも袁紹側はそう感じている様だと涼は判断した。

 ふと見ると、桃香は不安げな表情で涼を見つめている。

 

「涼義兄さん……。」

 

 弱々しげに自分の名前を呼ぶ義妹に対し、涼は彼女の表情を見ながら、恐らく今の自分も同じ様な表情をしているのだろうな、と思った。

 暫し考える様に沈黙し、涼は桃香の代わりに斗詩たちに考えを述べる。

 

「……いきなりの事でこちらも困惑している。返事は追ってすると、袁紹殿に伝えてくれるかな?」

「……分かりました。では、私達は他にも行かなければならない場所があるので、これで失礼します。文ちゃん、行くよ。」

「ん? 終わったの、斗詩? じゃあアニキ達、また今度なー。」

 

 きちんとした拝礼をして下がっていく斗詩と違い、猪々子は最後まで軽い言動だった。尤も、それが彼女の良いところでもある。

 しばらくして、二人の使者が居なくなった謁見の間には、残された面々が袁紹からの手紙を読みながら困惑していた。重苦しい空気はなかなか消えそうにない。

 そんな空気の中、言葉を発したのは涼のもう一人の義妹でもある愛紗だった。

 

「義兄上……私にはとても信じられないのですが。」

「俺だって信じられないし、信じてないよ。」

「ちぃも、あの子達の事はよく知ってるからこれはちょっと……ね。」

 

 地香も愛紗や涼と同じく、手紙の内容に否定的だ。

 それは他の面々も同じらしく、その手紙に書いてある人物に会った事がある者は勿論、会った事が無く話しか聞いていない者も同じ考えだった。

 そうした意見とは関係なく手紙の返事を書かないといけないのだが、この状況で答えを出すのは正しいのかどうかと、桃香も涼も判断しかねていた。

 結果として、彼等は情報収集を優先する事にした。

 

「とにかく、ちょうど今洛陽に行っている星と風が帰ってくるまで待とう。今はとにかく情報が欲しい。彼女達から何か聞いてからでも良いと思うけど、どうかな?」

「……ご主人様のおっしゃる事ももっともだと思います。ですが……その間に出来る事はやっておくべきかと。」

「そうね。結果がどっちでも、すぐに動ける様にしておかないと。朱里、雛里、調練の強化と書類整理、それと返書の案をいくつか考えるわよ。」

「あわわ……がんばりましゅ……あう、噛んじゃった……。」

 

 軍師達三人は涼の提案に賛同した。というより、今出来る事は実際のところそれしかない。涼たちはどうか間違いであってくれ、と思いながら風と星の帰還を待つ事にした。

 そんな風に涼たちを混乱させている原因である袁紹からの手紙の内容は長く、いろいろと書いてあったが、簡単にいうとこう書かれていた。

 

『帝を蔑ろにし、洛陽で悪政の限りを尽くす逆賊・董卓を討ちます』

 

 そして、この手紙が新たな戦いの幕開けを告げていたのだった。




「第十九章 帰還、それから」をお届けしました。

いつもの事ですが、書き終わるのに時間がかかってすみません。今現在入院しているので、書く時間が出来るかなあと思ったらそうでもなかったです。結構、リハビリやらなんやらで忙しいです。調べものもWi-Fiが無いので余り出来ませんし。

そんな中でも少しずつ書いていった今回は、一応拠点フェイズっぽく書いてみましたが、果たして上手く書けたかどうか。前半は前章のエピローグ、後半は華琳、雪蓮、桃香に焦点をあてた話にし、最後に次章に繋げる、という風に構成しました。後付けですが←
いやまあ、ここまで余り書いてない華琳について書いたら、雪蓮サイドも書かないと、だったら最後は桃香サイドも、って思ったらこうなりました。ちなみに、小蓮を徐州に残すという展開は書いてる内に決めたもので、最初は普通に帰る予定でした。

さて、次回からはようやくあれについての話になります。ここまで来るのに長過ぎですが、予め予告(変な日本語だ)しておきます。次も長いです。
次章はまだ出てない恋姫キャラ(真までです。英雄譚などは出ません)が出るので、どう活躍させるか今から決めて整理しないと。

そんな次章は今月中に開始予定です、良かったら読んでくださいね。
ではでは。

2018年1月7日更新


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第六部・反董卓連合軍編
第二十章 苦しい決断


三国志演義に於ける、序盤の一大決戦、「反董卓連合」。

だがそれは、悪逆董卓が居るからこそ起きる事であり、この世界の心優しい董卓が居る限りは、そうした事は起きないと彼は思っていた。

だが、現実はそう優しくないのかも知れないと、彼は痛感している。
今まさに、その「反董卓連合」が結成されようとしているのだから。


2018年1月15日更新開始
2018年月日最終更新


 (りょう)たちは(ふう)(せい)の帰還を一日千秋の思いで待ち焦がれた。現代に生まれ育った涼は、この時ほど携帯電話やメールが使えない事をもどかしく思った事はなかったかも知れない。

 やがて、二人は徐州(じょしゅう)へと戻ってきた。洛陽(らくよう)への旅立ちを見送ってから早くも一ヶ月近くが経過していた。

 荷物を自室に置いてから、風と共に報告の為に州牧執務室にやってきた星は、並んで拝礼すると早速という様に口を開いた。

 

「大変な事になっていましたぞ、主殿(あるじどの)。……その顔は、既に聞き及んでいるのですかな。」

 

 開口一番に星がそう言った事で、事態はやはり深刻なのだという感じに涼たちは受け取った。

 だが、続く風の言葉で彼等は混乱する事になる。

 

「洛陽はやっぱり凄いですね~。人も物も比べ物になりません。」

 

 凄い? 洛陽は圧政によって雰囲気が沈んでいるんじゃないのか? と、思いつつも、涼たちは風たちの話を詳しく聞いていった。

 

「陛下への謁見の際、董卓(とうたく)殿と久々にお会いしたが、ほとんど面識の無かった我々の事も覚えておいででしたぞ。」

「今はお兄さん達と一緒に徐州で働いていると言ったら、驚いていましたねえ。」

 

 風も星も、知り合いに久々に会った喜びを表情と声音に表していた。そこに嘘偽りは無い様に感じられる。これは一体どういう事なのだろうか。

 涼たちは困惑しつつも、二人が不在の間に袁紹(えんしょう)の使者が来た事を伝え、洛陽が董卓による圧政で悲惨な事になっていると聞いた事を説明した。が、自分達が見聞きした事と違い過ぎるらしく、二人も涼たちの様に困惑した。

 

「……圧政、ですか? そんな事が行われている風には見えませんでしたね~。」

「陛下への謁見後も洛陽にはしばらく居たが、街も人々も活気があって素晴らしかったな。」

 

 風も星も、見たもの聞いたものをそのまま言っているのだという事は、涼たちも分かった。とはいえ、このままでは(らち)が空かないので、涼たちは袁紹からの手紙を二人に見せる事にした。

 手紙を受け取った二人は真面目な表情になり、ジッと読んでいく。そんな二人を涼たちは固唾を飲んで見守っている。

 やがて、手紙を読み終えた風が顔を上げる。手紙そのものは星に預けると、彼女自身の考えを述べ始めた。

 

「これを読む限りでは、確かに董卓さんは物凄い悪者に感じられますが、直接会った印象と都の活気はこれとは違いすぎます。……恐らく、この手紙は袁紹さんの私怨による言いがかりの様なものでしょう。」

 

 風はそう憶測を述べた。

 私怨。確かに、相国(しょうこく)という重要な官職に就いたという董卓に対して嫉妬やなんやを向ける者が出るという事はあり得るだろう。特に袁紹は四代に渡って三公(司徒(しと)司空(しくう)太尉(たいい))を輩出した名門、汝南(じょなん)袁氏である。

 彼女は気ぐらいが高いが、それは彼女自身の生まれが、そうした優れた人物を沢山生み出してきたという歴史があるからである。勿論、袁紹自身も優れていると思ってはいる様だが。

 袁紹もいずれは三公に、と自分の青写真を描いていただろう。実際に選ばれるかどうかはともかくとして、彼女の家柄を考えるとそう思っていたとしても不思議ではない。

 ところが、である。そんな彼女の前に「相国」となった董卓が現れた。袁紹は驚き、焦り、怒っただろう。相国は三公より上の官職である。三公を目指していた彼女にとって、自分の遥か上をいく董卓の異例の出世は嫉妬の炎を燃やすのに充分だった筈だ。

 その結果、この様な手紙を寄越してきたのだろうか。だとしたら袁紹に義は無く、涼たちが董卓と戦う必然性も無い。そう考えた桃香と涼は安堵の表情を浮かべた。

 

「じゃあ、袁紹さんへの返事は“一緒に戦わない”、で良いよね?」

「そうだな。」

 

 二人は笑みを浮かべながらそう話し合う。それは、真名を預けあっている友人と戦わなくて済むと思ったからこその笑顔だった。

 だが、そんな二人を常のジト目で見据えている風は、いたって冷静に、かつ呆れながら言葉を紡いだ。

 

「お二人とも何を言っているんですか。ここは“一緒に戦う”という返事をしておいてください。」

「え……。」

「ど、どうして!?」

 

 あわてふためく桃香と涼。そんな主君と上司に対し、風はあくまで冷静に自身の考えを述べ始めた。

 

「考えてみてください。袁紹さんがこの手紙をうちだけに寄越していると思いますか? 話を聞くと、顔良(がんりょう)さん達は他にも行く所がある、と言っていたのでしょう? ならばそこにもこれと同じ手紙を寄越していると考えるのが自然です。」

「で、でも、本当は違うかも知れないし、他の人も袁紹さんと一緒に戦うとは限らないと思うけど……。」

 

 風の発言は理にかなっていた。この場に居る者の殆どが頷いている事から、風に同意する者は多いとみられる。そんな光景を見て青ざめた桃香は、それでも反論するかの様に意見を述べた。

 だが、それに対して風はやはり冷静に言葉を紡いでいく。

 

「確かに、その可能性もあります。ですが、袁家はこの漢に於ける名門貴族にして大軍団。そんな袁家に対し、真っ正面から断れる人はそう居ません。この前の戦いで曹操(そうそう)軍が決戦に挑めたのは、徐州軍と孫軍が居たからだった筈です。」

「それは……。」

 

 その通りだと、桃香は胸中で頷いた。

 先の戦いは、徐州軍、孫軍、曹操軍の三つの勢力が同盟関係にあったからこそ成し得た戦いであり、勝利だった。大軍を擁する袁紹軍に対し、それぞれがバラバラに戦っていては勝てなかっただろう。

 袁紹軍は兵の質は思ったより無いが、将の質と数は思ったより有ると言えなくない。そんな相手に先の戦いで勝てたのは、三つの軍が力を合わせて戦った事と、袁紹軍の重鎮が内部対立により参戦していなかった事、家臣の進言を袁紹が聞き入れなかった事などが重なったからである。

 まともに戦っていては、今の徐州軍では袁紹軍にまず勝てない。勝てても甚大な被害を出すだろう。勿論それは、曹操軍も孫軍も同じと思われる。

 

「……もし、徐州が袁紹さんと共に戦わない、と返事をした場合、袁紹さんはまずこの徐州を攻めるでしょうね。」

「そんな! なんで!?」

「簡単な事です。共に戦わない、という事は董卓と通じている、と判断出来るからですよ~。」

「……中立、って判断はしてくれないのかな。」

「してくれないでしょうね~。この様な誘いの返事を保留する相手を中立だと楽観視する事は、まずあり得ません。特に袁紹軍にとって徐州軍は、つい最近戦ったばかりの相手です。そんな相手が返事を保留したとなれば……お兄さん、後はお分かりですね?」

 

 現代で義務教育を受けてきて、様々な歴史小説や史実、果ては兵法書について学んできた涼は、風が言いたい事がよく分かった。いや、例えそんな勉強をしていなくても、この状況では風の考えを理解する事くらい容易だったかも知れない。

 自分達がどう思っていようと、相手が敵と認定したら敵なのだ。兄の源頼朝を信頼していてた源義経が結局その兄に討たれた様に、豊臣家の為に働いていた石田三成が同じ豊臣恩顧の黒田長政たちによって命を落とした様に、一度もつれた糸はそう簡単にほどけない。袁紹が敵と認定したら、例え何の野心も無くても董卓は敵だし、旗を鮮明にしない徐州軍も敵になるのである。

 

「けど、私達は(ゆえ)ちゃんと戦う理由は無いのに……。」

「……ならば今回は、桃香様ご自身の意思で返事をしたためても構いません。」

 

 風がそう言うと、桃香は一瞬明るい表情を見せた。だがそれは、風の次の言葉によって一変する。

 

「その代わり、徐州に住む人々が虐殺される覚悟をしてくださいね。」

「……っ‼」

 

 その残酷な光景を想像してしまったのだろう、桃香はより一層表情を青ざめると、力なく床に両膝を着いてしまっていた。慌てて涼や愛紗(あいしゃ)たちが駆け寄るが、桃香の反応は鈍かった。そんな余裕は無いのだろう。

 既に何度も触れているが、徐州は孫軍と曹操軍と同盟を結んでいる。もし、袁紹と戦う事になってもある程度は戦えるだろう。

 だが、風の考えを聞く限り、今回の敵は袁紹だけではないかも知れない。袁紹の従妹である袁術(えんじゅつ)はまず敵になるだろう。先の戦いでは袁紹軍の後方を撹乱してくれた公孫賛(こうそんさん)こと白蓮(ぱいれん)も、ひょっとしたら敵に回る可能性が無いとはいえない。

 他にも、涼が知る、恐らくこの世界にも居るであろう英傑達も敵になる可能性が高い。そうなると、涼たちはこの漢の殆どを敵に回して戦う事になってしまうかも知れない。果たして、その様な状況になっても勝てるだろうか。

 無理だ。戦いは基本的に兵数が多い方が勝つと兵法でも言っている。仮に徐州軍、孫軍、曹操軍、それに董卓軍を、ついでに公孫賛軍も加えて残り全部と戦ったとしよう。

 なるほど、確かに武将は関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)甘寧(かんねい)周泰(しゅうたい)夏侯惇(かこうとん)夏侯淵(かこうえん)呂布(りょふ)張遼(ちょうりょう)公孫範(こうそんはん)などの勇将・猛将が綺羅星の如く居るし、軍師も諸葛亮(しょかつりょう)鳳統(ほうとう)徐庶(じょしょ)程昱(ていいく)周瑜(しゅうゆ)陸遜(りくそん)呂蒙(りょもう)荀彧(じゅんいく)戯志才(ぎしさい)賈駆(かく)陳宮(ちんきゅう)などと人材は揃っている。

 だが兵数差が大きい以上、いつかは圧し潰される。いくら愛紗たちが一騎当千の強者とはいえ、長く戦えば疲れはするし武器も壊れる。動けなければ、武器が使えなければ、例え天下無双の呂布でさえ負けるだろう。

 そうして一人、また一人と失っていき、最期は涼や桃香もやられてしまう。仮に勝てたとしても、沢山の兵が、そして将が失われるのは間違いない。そんな結末は、桃香も涼も望んでいない。

 

「……風、最後にいくつか確認しておきたい。」

「なんでしょうか~?」

 

 涼はようやく立ち上がった桃香を横目に見ながら、風に質問をしていった。

 

「徐州軍が中立を選んだ場合、袁紹は必ず徐州を攻めると思うか?」

「思いますね~。」

「他の諸侯が袁紹と対立する可能性は低いか?」

「限りなく低いです。」

「……月と袁紹の戦いを止める手だては、何か無いのか?」

「……この手紙の内容からの想像でしかありませんが、恐らく既に袁紹さんは戦の準備をしているのでしょう。そして、その為の根回しの手紙を諸侯に送っている……。だとすれば残念ながら、止める事はできません。例えこれが言いがかりであっても、です。」

「…………そう、か。」

 

 風の答えを聞いた涼は返す言葉を失い、力無く俯いた。

 そもそも、確認するまでもなかったのかも知れない。恐らく、涼は解っていた筈だ。それでも風なら、正史では曹操軍の軍師として名を馳せた程昱ならば何とかしてくれるんじゃないかと、一縷の望みを託したかったのかも知れない。

 だが、望みは断たれた。この場には他に、諸葛亮や鳳統も居る。が、恐らくは誰に訊いても同じ答えが返ってくるだろうとは容易に想像できる。それならば涼は、これ以上辛い思いをしたくなかった。

 

「涼義兄(にい)さん……。」

 

 悔やむ様に、諦めたかの様に顔を上げる涼。それでも何かにすがる様に中空を見つめる涼は、しばらくの間なにも発しなかった。そんな彼が次に発する言葉を、桃香たちはじっと待ち続ける。

 やがて、意を決したかの様に、でもとても苦しそうに俯くと、絞り出す様に言葉を紡いだ。勿論それは涼の本心とは違う言葉だった。

 

「…………朱里(しゅり)、全軍に通達。徐州軍は袁紹軍に合流する。」

「……御意です。」

 

 長くも短くも感じられた沈黙の末、断腸の思いでくだした結論に対し、朱里は拝礼しつつ深々と頭を下げて応え、自身が今しなくてはいけない事をする為に退室していった。

 こうして軍の方針が決まったので、他の者も出陣の為にそれぞれの仕事をしに動く。勿論、彼女達の心境も複雑なものだっただろう。

 そうして残されたのは、一度命令をくだしてしまえばしばらくはする事がない、涼と桃香の二人だけだった。

 涼は力無く椅子に座ると、そのまま机に突っ伏してしまった。その為に桃香は涼の表情を窺う事が出来なかったが、それで良かったのかも知れない。

 

(何で……何でこうなるんだよ……!? 月たちは何も悪い事をしていないのに戦を仕掛けられそうになっていて、そんな彼女達を俺達は助ける事が出来ないなんて……!)

 

 今の涼は、何も出来ない自分の無力感に苛まれており、その為に怒りと悲しみに満ち溢れた、如何ともし難い表情になっていたからだ。

 やがて、涼の感情は悲しみより怒りが増していった。その怒りは理不尽な事をする袁紹に対してであり、無力な自分自身に対してであった。

 

(何が“天の御遣(みつか)い”だよ! 友達の一人二人も助けられないのに、こんな……!)

 

 こんな意味の無い肩書きは要らないと、ぶつけようのない怒りを、思いを乗せ、力任せに机を叩いた。突然の大きな音に桃香は驚きつつ、義兄(あに)の怒りと悲しみを知った。

 

「涼、義兄さん……。」

 

 桃香はそんな涼に何か言おうとした。が、今の自分にはかける言葉が見つからないと気づき、口を閉じた。

 それと同時に思っていた。

 ひょっとしたら義兄は、涼は、月の事を異性として大切に思っているのではないか、だからこんなに苦しんでいるのではないか、と。



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第二十一章 それぞれの決意・1







 徐州(じょしゅう)軍が袁紹(えんしょう)の提案を飲み、行動を共にすると決める少し前、既に曹操(そうそう)こと華琳(かりん)孫堅(そんけん)こと海蓮(かいれん)も同じ返答を袁紹に寄越していた。その思惑、真意は涼たちと全く同じでは無かったが、現状では袁紹と戦うのは得策ではないと判断したのは同じだった。

 先の戦いでは勝ったとはいえ、彼我(ひが)の戦力差は大きい。しかも今回は、恐らく袁紹の嘘ではあろうが(みかど)の為に董卓(とうたく)を討つという大義名分を掲げている。もしこれに呼応しない場合、漢王朝に敵対する意思ありとみなされて攻撃される危険性が高い。

 袁紹だけなら、先の戦いの様に三者で連合すれば何とか勝てるかも知れない。だが、そこに他の諸侯が加わったら勝率は限りなく零になる。しかも漢王朝を敵に回しては、例えかつての威光は無いとはいえ帝に刃を向ける事になるので、それを口実に攻め滅ぼされるのは必定。その様な危ない橋を渡る事は無い。

 彼女達はそれぞれの思いを抱えつつ、着々と軍備を整えていた。その様な内容の手紙が両者から来たのは、奇しくも徐州が袁紹と共に戦うと決めた日の夕刻だった。

 

「……以上が、曹操さんと孫堅さん、それぞれの手紙の内容です。」

 

 そう言ったのは諸葛亮(しょかつりょう)こと朱里(しゅり)。今回の遠征では筆頭軍師として従軍する事が既に決まっている。

 徐州軍の筆頭軍師は義勇軍時代からの流れもあって徐庶(じょしょ)こと雪里(しぇり)が務めていたが、その雪里の推薦もあり、今回の抜擢となった。実績も、先の青州遠征があるので反対する者は居なかった。

 その彼女が華琳と海蓮という、同盟を結んでいる両者の手紙を読み上げている中、徐州の州牧という地位にいる劉備(りゅうび)こと桃香(とうか)の表情は常の明るいものではなく、大いに陰を含んだものだった。

 

「……やっぱり、華琳さんも海蓮さんも袁紹さんと共に戦うんですね……(ゆえ)ちゃん達を倒す為に。」

 

 予想していたとはいえ、現実を知った桃香は大きく落ち込んでいる。両者の事情は解る。そもそも自分達も彼女達と同じ決断をしているのだから、文句を言う資格は無い。

 それでも、もし両者が、せめてどちらかが董卓に味方する、と言っていたら、桃香も涼の決断を翻意に出来たかも知れないと思わずにはいられなかった。自分勝手で他人任せなのも理解しつつ、そう思っていた。

 そんな桃香の思いを知ってか知らずかは判らないが、趙雲(ちょううん)こと(せい)が口を開いた。

 

「まあ、それは我々も同じですがな。」

「星!」

 

 星は事実を口にしただけである。その彼女を咎める様に真名(まな)で呼んだ関羽(かんう)こと愛紗(あいしゃ)もまた、当然ながら現状は正しく把握している。把握はしているが、義姉(あね)の事を思うとそれを口に出来なかった。

 

「良いんだよ、愛紗ちゃん。本当の事だもの。」

「桃香様……。」

 

 桃香は自身を気遣う義妹(いもうと)を優しく見つめ、星の言動を不問にした。それを受けて、星は静かに拝礼する。

 

「それに、今一番辛いのはその決断を下した涼義兄(にい)さんだよ。」

 

 そう言って、誰も座っていない椅子に目をやる桃香。星も愛紗も、この場に居る他の者も皆、同じ様に見つめる。

 やがて、愛紗は桃香を見ながら訊ねた。

 

「……義兄上(あにうえ)はまだ部屋に?」

「うん……さっき夕食だよって呼んだんだけど、要らない、って……。」

「やれやれ、主殿(あるじどの)も仕方ない御仁ですな。」

「……星。」

「愛紗よ、だってそうであろう? 主殿には小蓮(しゃおれん)殿という婚約者が居るというのに、その主殿ときたら他の女性の事で頭を悩ませているではないか。」

 

 小蓮とは海蓮の末の娘、孫尚香(そん・しょうこう)の事であり、政略結婚によって今は徐州に滞在している。尤も、まだ正式に結婚はしていない。

 確かに、客観的に見たら涼はひどい奴かも知れない。一応、涼の事をフォローするならば、今の彼には月に対する恋愛感情は無い。そもそも、いくら楽天的な性格とはいえ、二股三股どうしよう? 別に良いんじゃない? 等と考える様な性格ではないのだが。

 

「星、言い方が人聞き悪いわよ。」

「ふむ……地香(ちか)は主殿に興味はないか。ならば代わりに私が主殿に迫ってみるとしようか。少しは元気になられるやもしれぬのでな。」

「誰もそんな事言ってないでしょ!?」

 

 星のからかい口調に過剰な反応をする地香。からかっていると分かっていてもこんな反応をしてしまうのは、彼女の性格や他の理由によるものだろう。

 そんな二人を微笑ましくも苦笑しつつ見ながら、桃香はふとした事に気づく。

 

「そう言えば、その小蓮ちゃんは?」

 

 年下ながらも将来の義姉になるかも知れない少女を、顔を動かして探すが、この部屋には居ないのか姿が見えない。どこに居るのかと思い始めた桃香に対し、朱里が言葉を紡ぐ。

 

「孫軍からの手紙に小蓮ちゃん宛の手紙もあったので、今頃それを読んでいらっしゃる筈です。さっき部屋に戻るとおっしゃってましたから。」

 

 その説明を受けた桃香は納得した。孫軍、つまり孫家は小蓮の実家である。家族や友人からの手紙も来るだろう。だから今はゆっくりさせようと彼女は思い、意識をこれからの事に切り替えた。

 この辺りは桃香の、ひいては徐州軍の甘さと言える。いくら同盟関係にあるとはいえ、義兄の婚約者の実家とはいえ、こうしたプライベートの手紙を調べもしないのは危機感がないと言わざるをえない。

 もっとも、これが徐州軍の良いところでもあるのだが。



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第二十一章 それぞれの決意・2

 自室で一人、母や姉たちの手紙を読んでいる少女が居る。

 

「……みんな、元気にしてるみたい。良かった。」

 

 その少女は手紙を読む度に、嬉しそうに呟く。

 

「それにしても母様ったら……早く孫を見せろって気が早いわよ。」

 

 時には母親の無茶振りに苦笑し、

 

「……今はそんな雰囲気じゃないよ。分かってるでしょ。」

 

時には真面目な表情で反論する。

 

「まあ、だからこそ敢えて書いたのかもね。シャオを元気づける為に。」

 

 そう言って手紙を抱き締め、感謝を述べる。

 

「ありがと。シャオは元気になったよ。……だから。」

 

 次いで瞑目し、手紙を引き出しに仕舞いながら言った。

 

「次は私が涼を元気にさせる番ね!」

 

 その少女、シャオこと小蓮は内心と違って元気よく決意をすると、部屋を出て目的地へ向かって走り出した。

 

 

 

 

 

「涼ー、起きてるー?」

「寝てる。」

 

 小蓮が扉をノックしながら声をかけると、そんな答えが返ってきた。

 

「起きてるじゃない。……入るよ。」

 

 苦笑と共に呆れつつ、小蓮は扉を開けた。鍵はかかっていなかった。

 部屋に入った小蓮の視界に入ってきたのは、薄暗い室内と盛り上がった布団がある寝台。カーテンは閉めたままだし、間もなく夜だというのに燭台に灯りも点けていない。ひょっとしたら、「あの決断」をした時からずっとこうなのだろうか。

 

「いつまでそうしてるの。」

 

 小蓮は寝台に向かって声をかけた。返事は無い。

 

「涼がそうやってても、何も変わらないよ。」

 

 冷静に、かつ冷酷な言葉を投げつける。僅かに布団が揺れた。

 

「そうやって嫌な事から逃げて、何かが変わるなら誰も苦労しないよ。」

 

 尤もな事を述べる十代前半の少女である。その少女の耳には、布団から何か聞こえた様な気がした。

 少し間を空け、次の言葉を紡ぐ為に唇を湿らせる。

 

「今の涼はカッコワルイ。何かを変えられるのに、変えようとしない。“天の御遣(みつか)い”が聞いて呆れるよ。」

「俺は元々、そんな大層な人間じゃない。」

 

 小蓮が放った偽らざる言葉に反応したのか、布団は大きく動き、中に居た人物の姿が現れる。

 

「いつの間にかこの世界に来て、なんやかんやで“天の御遣い”に祭り上げられた、ただの男だ。」

 

 そう言いきった人物--清宮涼(きよみや・りょう)は瞳を潤ませていた。

 それを見た小蓮は今すぐ抱きしめたくなった。だが、利き手をグッと握りしめながら心に、自分に言い聞かせ、言うべきと思っている事を告げる。

 

「けど、涼は“天の御遣い”だよ。」

「だから、俺はっ。」

「涼がどう思ってるかは関係ないの! みんなが涼を“天の御遣い”と思ったら、涼が違うと言っても涼は“天の御遣い”なんだから!」

「……っ!」

 

 小蓮の瞳も涼と同じ様に潤んでいた。涼はそんな小蓮を見つめる事しかできないでいる。

 袁紹が董卓を「悪逆非道」を決めつけた様に、人々は涼を「天の御遣い」と認識している。どちらも、本人の意思とは関係なく、勝手にそう言っている。

 

「母様や姉様がシャオに涼のお嫁さんになれって言ったのは、その風評があるからだよ。そうじゃなかったら、涼が普通の人だったらシャオとの縁談は無かったよ。」

「……まあ、そうだよなあ。」

 

 武に優れている訳でも、兵法に通じている訳でもない自分に娘を預けるなんて、普通はしないよなあ、と思いつつ、なら自分に何が出来るか考えた。

 情けない事だが、何も思いつかなかった。漢文は何となく読めるが、そんなものは日本人が日本語を読めるのと同じ様に、識字率の差はあるものの漢に住む人にとっては普通の事だ。

 武や兵法は、愛紗や雪里たちに鍛えられているので普通の人間と比べたらアドバンテージはあるだろう。だが、当然ながら愛紗や鈴々たちと打ち合ったら確実に負けるし、雪里たちとこの世界の将棋を指してもまず勝てない。そもそも勝とうだなんておこがましい事は考えた事も無い。

 涼が昔から読んできた三国志の英雄達と同じ名を持つ少女達は、その名に恥じない実力を持っている。そんな彼女達と張り合おうなんて、まず考えない。ゲームとかで関羽や張飛(ちょうひ)を動かして呂布(りょふ)と戦うなんて事は何度もやったが、自分が関羽たちの様に戦えるとは思ってない。そんな事が出来たらマンガだ。

 他にも、政治や計算などいろんな事で秀でているものがないか考えてみた。やっぱり無かった。ただの学生だった自分に政治の事が、それも三国志の時代の政治が分かる筈もなく。計算も基本的な事は出来るが、電卓やスマホなどの機械に頼ってきたので秀でているとは言い難く。要するに、涼は自分でも理解している様に普通の人間なのである。

 そんな普通の人間でも人々が望む以上、自分は「天の御遣い」だと小蓮は言う。涼は今更だが、何とも脆く儚い立場だと思う。

 

「……シャオは俺が何をするべきだと思うんだ?」

 

 涼は困惑した瞳のまま訊ねる。

 

「そんなの、シャオには分からないよ。」

「おいおい。」

 

 だが、返ってきた言葉は思わず力が抜けるものであり、反射的に涼はツッコミをいれていた。

 そんな涼を見た小蓮は僅かに笑み、すぐに表情を戻して言葉を紡ぎ始めた。

 

「けど、一つだけ言いたい事はあるよ。」

 

 なんだ? と涼が訊ねる。小蓮の瞳はもう潤んでいなかった。

 

「涼が後悔しない様に生きてほしい。」

 

 それは婚約者としての、いや、一人の少女としての小蓮が涼に望む、嘘偽らざる事だった。

 

「何度も言うけど、涼は“天の御遣い”なんだよ。今までその名の許に沢山の人が集まってきて、涼の為に戦ってきた。だから今、涼はこの地位に居るんだよ。」

 

 小蓮は最近この徐州に来た。なので過去の事は伝聞でしか知らない筈だ。

 それでも、涼が桃香たちに信頼されている事は理解していた。短い期間に見知った事を整理し、到った答えは、涼が涼だからこそ今の徐州軍が形作られたのだろうという事。

 だからこそ、涼が涼でなければ徐州軍は変質し、やがて壊れてしまう。徐州の州牧は桃香だが、その桃香も涼が涼だからこそ安心して州牧をやっていると小蓮は判断した。

 涼が涼らしく、後悔しないでいられれば、徐州は安泰だろう。何より、涼が苦しむ姿は誰も見たくないだろう。小蓮もそうだ。

 そう思ったからこそ、小蓮は言葉を紡ぎ続ける。時々胸がチクリと痛んでも。

 

「そんな涼が、どう生きたいかを示したら、きっとみんな力を貸してくれるよ。」

「けど、そしたら皆に迷惑が……。」

「……涼、今まで何回戦ったの?」

「え? それは黄巾党(こうきんとう)征伐の頃からだから……数えきれないよ。」

「じゃあ、今まで一人も死なせずにここまで来た?」

「それは……。」

 

 当然ながら、一人も死なせずになんて無理だ。義勇軍立ち上げの頃から戦ってきた将兵も、何人かは戦死した。参加して一日で死んだ者も多い。それが戦争だから。

 

「だったら、涼が無茶を言ったって今更な事だよ。」

「けど、今回は今までとは……!」

 

 事情が違う、と涼は言おうとした。だが、その言葉は発する事が出来なかった。

 いつまでも煮えきらない態度の涼に、流石の小蓮もしびれをきらしたのである。

 

「ほんっとうに涼らしくない! もっといつもの涼みたいに前向きにいけないの!」

「そう言われても……。」

「……助けたいんでしょ。董卓を。」

「…………。」

 

 急に元の表情に戻った小蓮が確認する様に訊ねるが、涼は俯いて何も答えない。だが、沈黙は肯定を意味すると昔から決まっている。

 俯いたままの涼を見ながら、小蓮は思ったままの言葉を紡いでいく。

 

「シャオは董卓と会った事がないから、どんな人なのかは知らないよ。でもね、涼や桃香たちの反応を見てたら分かるよ。きっと良い人なんだろうなって。」

 

 史実の董卓とは全く違う、優しい性格の、この世界の董卓こと月。

 小蓮も会ったらきっと仲良く出来るんじゃないかなと思いつつ、涼はその小蓮の言葉を聞き続けるしか出来ないでいる。

 

「だから辛いんでしょ。そうじゃなかったらこんなに苦しまないだろうから。」

 

 小蓮の言葉に、涼は僅かに頷いた。それを見た小蓮は一瞬表情を変え、また戻してから涼の手を自身の両手で包み、同じ目線になって言った。

 

「……だったら助けようよ。それがきっと一番なんだよ。」

「そう言ったって……董卓軍に味方する訳にはいかないし……かといって、このままだとシャオの言う通りキツいし……。」

 

 どうしろって言うんだよ、と小さく苦しく呻く様に呟く。

 その苦しそうな表情と声を見聞きした小蓮の胸に、今日一番の痛みが。

 

「ねえ涼。涼の前には今誰が居る?」

「誰って……。」

 

 涼は当然ながらシャオが居る、と答えた。

 それを聞いた小蓮は、頷きながら次の言葉を紡ぐ。

 

「じゃあ、この徐州の城には誰が居る?」

「それは…………っ!」

 

 答えを言おうとして涼は気づいた。小蓮が何を言いたいのかを。

 いろいろあるだろうが、要は一人で悩むな、という事だと涼は認識した。

 確かに決断して以来、涼は苦しんでいた。何でこんな決断をしたんだ、けどこうしないと徐州の人々が、などと何度も何度も悩みながら、同時に何か月たちを助ける手は無いか考えていた。

 だが、ちょっとだけ兵法を知っている普通の高校生がそう簡単に妙案を出せる筈も無く、一人でただ悶々と時間を浪費してきただけだった。そんな事では、いつまで経っても妙案は出てこないだろう。

 

「……朱里たちに頼んでみろ、って事か。」

「そっ♪」

 

 涼が出した答えに満足したのか、小蓮は満面の笑みを見せた。

 確かに、一人より二人、二人より三人で考えれば上手くいくかも知れない。「三人よれば文殊の知恵」ということわざもある。しかも、この徐州には今、諸葛亮、鳳統(ほうとう)、徐庶、程昱(ていいく)といった名軍師たちが揃っている。彼女達に助けを求めれば、何か良い考えが返ってくるかも知れない。

 でも、と涼は思う。もし彼女達にも良い考えが出せなかったら、本当に終わりじゃないかと。心の中でそう思っていたからこそ、今まで彼女達に相談しようとしなかったのではないかと。

 だが、今はもうその選択肢を思いついてしまった。思いついた以上、その選択肢を無視する事は出来ない。無視して他の選択肢を選んで、最悪の結果になった場合、後悔の度合いはより大きいだろう。

 

「それなら、やってみる価値はある、か。」

 

 やらずに後悔するより、やって後悔する。涼はその選択肢を選ぶ事にした。例え無駄だったとしても、ひょっとしたら万に一つの可能性を手にする事が出来るかも知れない。どんな結果も、行動しなければやってこない。そんな当たり前の事に涼は気づかなかった。それだけショックだったのだろう。

 

「ありがとうシャオ。俺、もう少しあがいてみるよ。」

「うん。そうやって頑張ってる方がシャオの旦那さんらしくて良いよ。」

「未来の、ね。あはは……。」

 

 苦笑しつつも、涼は小蓮に感謝しつつ部屋を出て目的の場所へと走っていった。

 そんな涼の後ろ姿を見ながら、小蓮は呟く。

 

「……これで良かったんだよね。」

 

 心なしか、その声は震えていた。

 

「例え、これで涼が“好きな人”を助けられて、シャオの事を見なくなっても。」

 

 先程、涼に見せた笑顔と同じ表情をしながら。

 

「涼が喜んでくれるなら、きっとこれで、良かったんだよね……。」

 

 主が居なくなった部屋で一人、小蓮は静かに言い聞かせる様に呟いていった。



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第二十一章 それぞれの決意・3

「朱里、雛里(ひなり)、雪里、(ふう)、居るか!?」

 

 涼は目的の場所、軍師用の詰め所に来ると勢い良く扉を開け、四人の軍師を真名で呼んだ。

 その四人は確かにその場所に居た。ただし、着替え中だったらしく皆“下着姿”だった。汗でもかいたのだろうか。

 

「!?」

「ふぇ!?」

「……清宮殿、部屋に入る際は“のっく”をするのが天の国の礼儀なのではないのですか?」

「まあ、お兄さんも男の人ですから仕方ないですね~。」

 

 驚いて涙目だったり、ジト目を向けたりと三者三様ならぬ四者四様の反応を見せる軍師達。共通しているのは皆、腕や持っていた衣服で体を隠している事か。

 また、軍師たち同様、突然の事に思考も行動も停止していた涼は、しばらくその光景に魅入ってしまっていた。まあ、年頃の少年なら半裸の少女に目を奪われても仕方がないだろう。

 

「あ……ご、ごめん。」

「謝る前に早く出ていって扉を閉めてください。」

 

 冷静且つ冷たく言い放った雪里の迫力に負けた涼は、言われた通りにして廊下へと戻った。

 しばらくして朱里たちの着替えが終わり、涼が呼ばれたのたが、涼を含めた全員が頬を朱に染めていたのも、年頃の少年少女だから仕方がないだろう。

 そんな事があったので、涼は勿論、朱里たちからもなかなか話を切り出せなかった。が、その空気を変えたのはこの中で一番の新入りにあたる風だった。

 

「それで、お兄さんは風たちの着替えを覗きに来たのですか?」

「違うよ!?」

 

 良いものが見れたとちょっとは思ったが、勿論それを口にはしなかった。

 もし言ったら、どんな反応をされるだろうか。考えただけで涼は心の中で震えた。

 涼は、風たちにここに来た理由を説明をした。自分がこれからしたい事を、それが果たして実現可能な事なのか、等をハッキリと伝えた。

 話を聞いた四人の軍師は、皆一様に難しい表情をしている。当然だろう、それ程難しい事なのだから。

 しばらくの間、部屋を静寂が包み、最初に言葉を紡いだのはまたも風だった。

 

「……なるほど、つまりお兄さんは風たちだけでなく、董卓さん達の下着姿も覗きたいという訳ですねえ~。」

「だから違うよ!?」

 

 お笑いの専門用語で「天丼」というやり取りをしている風と涼。何か大切な話をする筈だったのだが、何だかそんな空気は作られそうもない。

 そんな二人のやり取りを見ていた雪里は、苦笑と共にふうと息を吐くと言葉を紡ぎ始めた。

 

「風の怒りは取り敢えず置いておいて、清宮殿。」

 

 しっかりと涼の顔を見据え、尋ねる。

 

「ご自身が何を仰っているのか、きちんとご理解なさっていての発言ですよね?」

 

 それは大切な、必要な確認。

 それをしなければこれから先の献策など無意味な、涼にとっても軍師達にとっても大事な確認をした。

 

「ああ。俺が言っている事は、下手したら徐州の人々を巻き込むかも知れないって事は、重々承知しているよ。」

「……そうでしたか。それならば、私からは何も申し上げる事はありません。」

 

 迷い無く、ハッキリとした涼の答えに満足した雪里は、瞑目しつつ内心で安堵し、同時に大変な事になるかも知れないと困っていた。

 そんな雪里の心中を察した軍師の一人、雛里もまた涼に尋ねた。

 

「……清宮様にとって、董卓さん達はご自身の名誉や命をかけてでも守りたい人達なのですか?」

 

 それは雛里にとって当然の疑問だった。

 雛里が朱里と共に涼や桃香の麾下(きか)に入ったのは、十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)の功績によって桃香が徐州牧に任ぜられた後である。よって、当然ながら董卓こと月たちがどんな人物かは知らない。自分が知らない人物を助けようとしている主の姿が正しいかどうか、不安になるのも当然であった。

 だが、そんな不安を抱いているとは判らない涼は、あっけらかんと自身の考えを述べる。

 

「うーん……元々、名誉とかはどうでも良いしなあ。勿論、死にたくはないけど。」

「ふぇえっ!? 名誉、要らないんでしゅか? あう……。」

 

 それは雛里にとって全く予想外な事であり、思わず噛んでしまった。

 普通の武将、文官であれば、(いくさ)(まつりごと)での活躍によって得られる名誉を誰よりも重んじるだろう。または、その名誉によって得られるものの為に名誉を守りたいと思う筈である。

 だが、涼はそんな世界ではなく現代で生きてきた少年なので、余り名誉を気にする事はなかった。これがもう少し社会経験がある大人であったら、こうはいかなかったかも知れない。

 そんな涼に対して雛里だけでなく朱里と風も同じ様に驚いているが、義勇軍旗揚げ時から行動を共にしてきた雪里だけは冷静な反応を示していた。

 

「雛里、清宮殿はこういう方よ。早く慣れた方が良いわ。」

「う、うん……。」

 

 雪里に言われてもまだ戸惑いを隠せない雛里。慣れるにはしばらく掛かりそうである。

 

「そんな訳で、月たちを助ける方法を考えてほしいんだ。……無茶を言っているのは解っている。けどそれでも、俺は諦めたくない。諦めたらきっと、一生後悔すると思うから。」

 

 もしそうなったら、まだ若い涼にとっては長く辛い人生になるだろう。今でさえ、沢山の兵の最期を見てきたのだ。普通の学生だった涼にとってとてつもなく苦しい事の筈だ。

 だからこそ、その数を少しでも減らす為に雪蓮(しぇれん)たちと同盟を結んだりしてきた。今回の事も、涼にとっては同じ事なのだろう。

 朱里はそんな決意を瞳に宿した涼を見据え、真面目なトーンで訊ねる。

 

「清宮様。諦めなかったからといっても、望む結果を得られるとは限りません。それでも尚、危険を承知でその道を進むおつもりですか?」

「確かに、朱里の言う通りだと思う。けどさっきも言った様に、俺は諦めたくない。後悔したくないんだ。」

 

 後になって、「あの時こうすれば助けられたのかも」なんて思ったら、悔やんでも悔やみきれないからと思いながら涼はハッキリと答えた。

 その答えに納得したのか、朱里は瞑目してから改めて涼を見据え、やはり真面目なトーンで、だが今度は柔らかさを含んだ声で言った。

 

「分かりました。それでは微力ながらお力になりましょう。」

 

 朱里のその言葉に涼は心からの感謝を述べた。雪里たちもそれぞれ苦笑したり嘆息したりしながらも、朱里と同じ様に協力する事を誓った。そんな彼女達にも涼は心からの感謝を述べるのだった。

 そうして涼が感謝し終えると、朱里は改めて問いかけてきた。

 

「まず、助けたい人数は董卓さんを含めて何人でしょうか?」

「理想は董卓軍全員だけど……それは絶対に無理なのは分かってる。だから、月……董卓と近しい武将や軍師を何人か助けたい。……最悪でも、董卓と(えい)……賈駆(かく)だけは助けたい。」

 

 全員を助けたいという気持ちはあるが、それは現実的に不可能な事を涼はよく解っている。だから、せめて二人だけでも助けたいと正直に話した。

 

「それなら、まだ可能性は出てきます。董卓軍全軍とか仰られなくて良かったです。」

 

 朱里の言葉に頷く雪里たち。もし涼がそう言っていたら彼女達も流石に匙を投げたのだろうか。

 

「とは言え、それでも可能性は低いと言わざるをえません。私達は董卓軍と連絡をとれませんから。」

 

 現代なら携帯電話などで連絡はとれるが、ここは後漢末に似た世界。西暦でいうと紀元百九十年辺りの世界には当然ながら携帯電話は無く、連絡手段は手紙などである。そしてそれすらも今回は使えない。

 

「清宮様のお望みを叶える為には、董卓軍と一切連絡をとらずにいて、助けるべき人物を戦いで自軍はもちろん諸侯軍も殺さず、数多く集まるであろう諸侯より先にその人物と接触し、そこから説得して仲間にし、尚且つ諸侯の誰にも気づかれずにここ徐州まで連れてくる、という手順を踏む必要があります。」

「……改めて聞くと、難易度高いなあ。」

 

 朱里が述べた「勝利条件」を達成する事がいかに難しいかを理解する涼。もともと解っていた筈だが改めて突きつけられると思わず天を仰ぐ。

 そんな涼に対し、クールな口調で雪里が言う。

 

「それが嫌なら、董卓軍の中心人物を助けるという無茶な事は諦めるべきですね。」

「ご忠告ありがとう、雪里。けど諦める事はしないって決めたんだ。」

 

 ついさっきまで(ふさ)ぎ込んでいたとは思えないほど、涼はハッキリと答える。だが、その様子を見た雪里の口の端が僅かに上がった事には気づかなかった。

 

「やれやれー、どうやら風は大変な主に仕えた様ですー。」

「まったくだぜ。」

「風も宝譿(ほうけい)も済まないと思ってるよ。けど、今回はどうか我慢してくれ。この借りはちゃんと返すから。」

 

 風と宝譿に申し訳ないと思いつつも、これからの事に風の、いや二人の力が必要と思っている涼は改めて協力を申し出る。

 風と宝譿は、仕方ないですねえ、といった感じの表情と声音を返した。

 そんなやり取りを見ていた雛里は、まだ若干の戸惑いを抱きつつも涼の願いを叶える為に考え、考えを述べ始めた。

 

「……問題点はさっき朱里ちゃんが挙げた通りですが、特に難点なのは連絡出来ない事ですね。董卓軍はこちらの意図を知らない訳ですから、遠慮なく攻撃してきます。同様に、私たちも董卓軍に遠慮する事は出来ません。」

「内通を疑われるからだね。」

「はい。更に言えば、清宮様の真意を知る者は徐州軍の中でも限られた人だけ、特に信用出来る人だけでなければなりません。」

「そういった意味では、風たちはお兄さんに信用されているのでしょうねー。旗揚げの頃から居る雪里ちゃんはともかく、入ったばかりの風たちにもこうして話してくれるのですから。」

 

 雛里、そして風がそう言うと、涼もまた微笑みながら言った。

 

「そりゃ信用してるさ。一緒に居る時間に差はあるけど、みんな大切な仲間なんだから。」

 

 あまりにも普通に、かつサラリと紡がれた言葉を聞いた一同は呆気にとられ、暫しの間沈黙した。だがそれは空気が重くなったからではなく、どこか生暖かい雰囲気によるものだった。

 誰かがコホンと咳払いをした。見ると雪里だった。心なしか頬に紅が差している様に見えるが、涼の位置からは灯りの関係でよく分からなかった。

 

「そのお気持ちは嬉しいですが、だからといって全員に真意を打ち明ける訳にはいきませんよ。お解りですね?」

「解ってるって。……で、打ち明けるメンバー……つまりは人員だけど、桃香たちは当然として、他は誰が良いかな?」

 

 雪里の念押しに苦笑しつつ答えた涼は、瞬時に真面目な表情になって訊ねた。それに対し、雪里もまた瞬時に答える。

 

「はい。昔から徐州軍に居る、もしくは居た人。即ち、羽稀(うき)陳珪(ちんけい))殿や山茶花(さざんか)糜竺(びじく))殿などが候補になりますね。何せ、これから清宮殿がやろうとしているのは下手をすれば徐州の人々への裏切りに繋がりますから。」

「裏切り……。」

 

 その言葉を反芻するかの様に呟き、瞑目する涼。

 その通りだと理解はしていた。だが、いざ耳にすると、口にすると体が震える。

 これを直感的に理解していたからこそ、今まで誰にも相談出来なかったのだろうと、今ようやく理解する。

 そして、それを理解した上で涼は行動していくと決めた。

 

「……そうならない様に慎重に動かないとね。まずは打ち明ける人員を決めよう。」

「はい。」

 

 そうして、涼と軍師達はメンバーを決めていった。



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第二十一章 それぞれの決意・4

 結果的に言えば、涼たちは先の二人に加えて椿(つばき)糜芳(びほう))や霧雨(きりゅう)孫乾(そんかん))などを選んだ。また、遠征の留守居は陶謙(とうけん)たちに任せる事と、彼等には真意を伝えない事も同時に決まった。

 

「陶謙さん達に内緒ってのも心苦しいけど。」

「彼等からすれば私達は所詮、余所者です。いくら勅命(ちょくめい)で州牧の地位を譲ったとはいえ、敵との内通を疑われる事をすると知られれば、彼等に州牧の地位を取り戻す大義名分を与えてしまいます。」

 

 雪里の言に他の軍師三人も大きく頷く。

 陶謙自身は勅命以前から州牧を辞めて跡継ぎを誰にするか模索していたのだが、勅命が無ければ恐らく陶謙の子供の中から新しい州牧を選んでいただろう。例え自分の意とは違っていても。

 その為、もし涼たちが州牧に相応しくないと親・陶謙派が判断すれば、とっくの昔に反乱が起きていただろう。今の平穏は、帝の勅命によって桃香が州牧になったという事実があるからだ。これを無視する事は帝に弓引く事と同義であり、漢王朝の忠臣である陶謙は勿論、その臣下もそんな事は出来ない。

 此度の戦いの大義名分は「悪逆董卓から帝を助け出す」である。その大義名分の許に連合に参加する涼たちが、実は董卓と繋がっているかも知れないと疑われる様な動きを見せる事は出来ない。よって、陶謙たちには知らせる事が出来ないのだ。

 

「月殿たちを本当に助けたいならば、心苦しくてもここは我慢してください。」

 

 雪里にそう言われては頷くしか出来ない涼であった。

 

「けど、羽稀さん達には伝えるんだよね? 彼女達から陶謙さん達に伝わる事は無いの?」

 

 涼は疑問であり不安を口にした。

 既に触れた様に、羽稀たちは元々徐州軍に居た。いろいろあって皆一度は離れていたりしたが、桃香が州牧になって徐州軍が再編される過程で再び加入したという経緯がある。

 つまり、彼女達はまだ陶謙への忠誠心が残っている可能性がある。少なくとも慕ってはいるだろう。

 そんな彼女達が涼の真意を知ればどうするか、という懸念を涼は持っていた。

 それに対しても、雪里はすぐに答えた。

 

「全く無いとは言えませんが、まず大丈夫でしょう。」

「どうして?」

「理由は二つ。一つは、彼女達は今の徐州軍の一員という事。ここで陶謙殿に密告すれば、間違いなく徐州は二つに割れます。そうなると無用の血が流れます。兵にも、民にも。昔からの徐州軍人であり、桃香殿の治世によって発展した徐州を見てきた彼女達がそれを望むとは考えにくい。」

「なるほど。あと一つは?」

 

 雪里の説明に納得しつつ、涼は先を促す。

 

「先程述べた事と似ていますが、清宮殿や桃香殿の人となりを知っている彼女達はこう考える筈です。“あのお二人がそうまでして助けたいのならば、董卓は悪い人間ではないのでは?”と。」

「そう考えるとどうなるの?」

「人間という生き物は、自分が正しいと思う事には迷いなく行動出来ます。“悪逆董卓を討つ”なんていう分かりやすい正義に対しては特に。」

 

 確かに、「正義の味方」なんて称号や名誉で呼ばれる者は気分が良いし動き易いだろう。少なくとも「悪の味方」と呼ばれるよりは。

 

「ですが、“董卓は実は良い人で、倒すのは間違っているのでは?”と一度認識すれば、その分かりやすい正義を行えなくなります。そう認識した時点で、“分かりやすい正義”は“分かりやすい悪”に変わるからです。」

「そっか、みんな悪人より善人でいたいもんな。」

「はい。例えば史記に名がある趙高(ちょうこう)は悪人とされていますし、その通りなのですが、恐らく本人はそんな認識はしていなかったでしょう。“秦の為、自分の為に自分のやっている事は正しい”と思っていたのではないでしょうか。これは(いん)紂王(ちゅうおう)なども同じだったと推察されます。」

 

 趙高は秦王朝の宦官(かんがん)であり、始皇帝の遺言を捏造して彼の嫡男である扶蘇(ふそ)を自害せしめ、自身が傅役(もりやく)を務めた始皇帝の末子である胡亥(こがい)を二世皇帝とした一人。これが秦王朝の崩壊の序曲となったが、肝心の趙高、そして胡亥はそれに全く気づかず、どちらも愚かな最期を迎えた。

 紂王は殷(商)の最後の王であり、帝辛(ていしん)とも言う。最初は賢王として名をはせていたものの、妲己(だっき)という愛妾を得た頃、もしくはその前から暴君になり、人心が離れていった。その後、殷打倒を掲げた姫発(きはつ)(武王)とその側近である呂尚(りょしょう)(太公望)率いる周軍によって殷は滅んだ。

 

「そして、そう認識したら陶謙殿に密告など出来なくなります。もし密告すれば、“陶謙殿を悪に引きずり込んでしまう”危険性が生じるからです。陶謙殿への忠誠心が残っているなら尚更。」

「忠誠心がこちらに移っているならそもそも心配する必要は無い、か。」

「その通りです。」

 

 そう言って恭しく頭を下げる雪里。涼はその彼女を見、次いで他の三人に目をやる。

 三人は皆その視線に気づいた。その中の風が口を開く。

 

「風はここに来て日が浅いですが、風も雪里ちゃんと同意見ですね~。」

 

 常ののんびりとした口調であったが、その端々には真面目なトーンが含まれており、それは軍師達は勿論、涼にも分かる程だった。

 

「それに加えてですが、人間は誰しも自分がかわいいのです。他人は二の次です。忠誠心というのは言い換えれば思い込みに過ぎません。ですから、陶謙さんへの密告は無いでしょう。下手をすれば、“お前も同じ意見だったのではないか?”と思われかねません。」

「なるほど。けど、陶謙さんじゃなくて袁紹たちに密告される危険性はないのかな?」

 

 涼のその懸念は尤もだった。先に雪里が「徐州への裏切りになりかねない」と言ったが、それはつまり反董卓連合軍への裏切りにもなりかねないからだ。いや、そもそも董卓を排除しようとしている袁紹からすれば明らかな裏切り行為であり、更に言えば先日交戦した相手でもあるので裏切りというより最初から敵だとも言えるだろう。

 袁紹の勢力は諸侯の中で最大であり、影響力も馬鹿にできない。そんな袁紹を恐れた徐州軍の中から袁紹、または他の連合軍諸侯に密告される危険性はないのだろうかというのが涼の懸念である。

 だが、それに対して風はやはりのんびりとした口調ながらも、真面目なトーンを含んだ声でさらりと答えた。

 

「他の諸侯にはともかく、袁紹さんに密告しようとする無謀な人は居ないでしょうね~。」

「何でそう言い切れるんだ?」

「だって、“あの”袁紹さんですよ?」

 

 その答えを聞いた涼は勿論、軍師達も何故か納得してしまっていた。

 袁紹は確かに名門袁家の当主である。三公を何度も輩出し、後漢王朝の歴史に名を残している袁家の当主である。

 だが、その袁紹自身はまだ三公ではないし、何よりその難儀な性格によって人気は無かった。

 彼女の周りに居るのは、心から主と思い仕えている変わり者か、その権力や財力に引き寄せられている愚か者ばかりで、何とか袁家をもり立てようとしている良識人は残念ながら少数派だ。

 そんな中に自ら飛び込む人間が居るだろうか。居ないとは言えないが、なかなかのチャレンジャーと言える。そもそも、仮に密告して涼たちを排除したとしても、その功を袁紹が認めるかどうか。何しろ、徐州軍と袁紹軍はつい先日交戦したのだから。

 風は袁紹と会った事は無いが、彼女についての情報は得ている。涼たちからも聞いている。そうした理由から、袁紹への密告は無いと判断した。

 他の諸侯への密告の危険性は無くはないが、その諸侯だけでどうこうできる案件では無いし、最終的には袁紹なり袁術なりに伝えなくてはならなくなり、厄介事になりかねない。諸侯からしたらそんな事はしたくないだろう。

 よって、風たちは危険性は残るが無視して良いと結論づけた。

 その説明を聞いた涼は思った事をそのまま言った。

 

「それって、賭けじゃないかな。」

「お兄さん、そもそも今回の事は成功率が低いのです。その成功率を少しでも上げるには賭けも必要なのですよ。」

 

 風がそう言うと、涼は確認する様に他の軍師達にも目を向けた。どの軍師も頷いた。

 軍師達によると、今から涼がする事は風が言う様に成功率が低い。よってある程度は賭けになるが、それも仕方ないと思って行動しなくては成功に繋がらないというのである。

 それに気づいた涼は納得し、話を進めていった。

 そうして話を続け、終わったのは現代で言えば日付が替わる直前だった。この世界では夜更かしどころではない深夜である。

 こんな時間に起きてるのは見張り以外では夜盗か、伽の最中の恋人たちくらいであろう。涼たちはそんな関係ではないのでそのまま部屋に戻り、就寝となったが。



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第二十一章 それぞれの決意・5

 翌日、涼は朝議の前に軍師たちを伴って桃香が居る州牧執務室に向かい、そこに愛紗、鈴々(りんりん)、地香、星を呼び出すと、昨夜決めた事を告げた。

 桃香たちは涼が元気になった事を喜んだが、彼が話す内容を聞いていく内に神妙な顔になっていった。

 そんな時にまず口を開くのは大体決まって愛紗であり、やはり今回もそうだった。

 

「義兄上、月殿を助けたいお気持ちは解りますし私達も同じ気持ちです。ですが、失敗すれば徐州と民を失う事になります。それはお解りなのですか?」

 

 前日の雪里たちと同じ様な確認をする愛紗。涼はもちろん同じ様に答え、それを聞いた愛紗は納得した様な、誇らしい様な表情を浮かべて頷いた。また、桃香たちも愛紗と同じく頷いていた。

 はっきり言って、涼の判断や思いは施政者としては間違っているだろう。地位や命を危険に晒し、治めるべき領民をも巻き込みかねないのだから。

 だが、長く涼と共に過ごし、その性格を知り抜いている桃香たちからすれば、ここで月たちを見捨てるという判断をくだしていたら、その判断が施政者としては正しいと解っていても涼を見損なっていたかも知れない。

 涼との付き合いが短い星でさえ涼のこの判断を好ましく思っているのだが、彼女は何故そう思ったのか。それは星自身にしか分からないが、ひょっとしたらそういった人物を主君として求めていたのかも知れない。勿論、正確に言えば徐州の施政者は涼ではなく桃香であり、それも星は解っているが。

 そうして一同が同じ気持ちになった事に涼が気づいているかどうかは判らないが、そんな桃香たちを見据えながら涼は言葉を紡いだ。

 

「それに関係してシャオについてなんだけど……しばらく揚州に戻した方が良いかなって思うんだが、どうかな?」

 

 だが、その言には桃香たちも同じ気持ちにはなれなかった。驚いたり同意したり、はたまた意味を解っていなかったりと様々だった。

 涼はそんな桃香たちを見ながら説明をする。

 

「知っての通り徐州は揚州と、個人単位で言えば俺と孫家は同盟を結んでいる。同盟に関しては華琳とも結んでいるけど、孫家と華琳とでは大きく違う事がある。」

「主殿と婚約しているかどうか、ですな。」

 

 星がからかう様な表情で答えた。一部の者が様々な反応をし、それを星は面白そうに見る。

 

「星の言う通りだ。現に今、ここ徐州には孫家の末娘のシャオが来ている。表向きは婚約したから、って事だけど、そこには恐らく“人質”の意味も含まれていると思う。」

「義兄上の仰る通りかと。同盟は場合によっては簡単に崩れ去るものですから。」

 

 涼の言葉に愛紗が同意、補足する。

 日本にしろ世界にしろ、最初から最後まで続いた同盟、または主従関係は多くない。例えば、反秦を掲げて共に戦った項羽(こうう)劉邦(りゅうほう)は秦滅亡後に対立し、楚漢戦争(そかん・せんそう)に繋がった。その楚漢戦争中も項羽陣営だった韓信(かんしん)英布(えいふ)陳平(ちんぺい)などが劉邦陣営に鞍替えしている。

 日本においても、関ヶ原合戦では徳川方(東軍)だった大野治長(おおの・はるなが)が大坂の陣では豊臣方(大坂方)だったり、黒田長政(くろだ・ながまさ)の家臣だった後藤又兵衛(ごとう・またべえ)(後藤基次(ごとう・もとつぐ))が大坂の陣では黒田家と戦うなどしている。

 忠臣だらけのイメージがある徳川家康(とくがわ・いえやす)の家臣団でさえ、本多正信(ほんだ・まさのぶ)石川数正(いしかわ・かずまさ)の様に家康から離れた者も多い。尤も、家康の場合は一度敵にまわった者でも許し、家臣に戻すという例も多い。先に上げた正信や、渡辺守綱(わたなべ・もりつな)などが該当する。

 最後まで同盟・主従関係が続いたのは、その家康が織田信長(おだ・のぶなが)と結んでいた清洲同盟、古代中国で言えば劉邦と張良(ちょうりょう)などが有名だろう。

 

「雪蓮たちとの同盟は、別に人質なんて無くても続けるつもりなんだけどね。」

「義兄上はそう仰られても、孫家は違うかも知れませんし、仮に孫家も同じであっても揚州軍全体もそうとは限りませんから。」

 

 同盟とは、利害が一致していなければ成り立たない。片方だけの条件が良かったらそもそも成り立たないし、無理に成立しても早期に破綻するのは必然。

 徐揚同盟が成立しているのは、隣り合う州で争わないで済む事が双方に先ず有り、揚州側には「天の御遣い」の威光を得られる事も有る。

 徐州側には余り旨味が無い様に見えなくもないが、徐州の位置関係からすれば四方のどこかと友好関係を結んでいるだけでも充分だ。それはこの同盟が「青州遠征」によって出来たという成立過程を見れば明らかである。敵を増やさず味方を増やす。それも施政者に必要な事だ。

 では、何故揚州側が「人質」を寄越しているのか。理由はいくつかあるが、その一つは孫家が「山越(さんえつ)」と争っているからだ。少なくとも山越と決着がつくまでは敵を増やしたくないだろう。尤も、そんな理由より単純に「涼を気に入っているから」という理由も大きいかも知れない。

 涼は男である。そして孫家には女しか居ない。ならば女をあてがえば籠絡出来るかも知れない、と考えた可能性もある。

 だが、孫家の後継者である孫策(そんさく)こと雪蓮は立場上嫁に出る事が難しく、次女の孫権(そんけん)こと蓮華(れんふぁ)はその雪蓮に何かあった時には代わりに後継者になると考えられる。よって、消去法で末妹の小蓮が選ばれたのであろう、というのが徐州軍の見解であり、恐らくそれは正しいだろう。

 ならば、もし小蓮に万一の事があったらこの同盟がどうなるかは想像に難くない。

 いくら三姉妹全員と婚約しているとはいえ、前述の理由により姉二人とは今すぐ結婚出来ない。それに、大切な妹や娘を喪ったら孫家が今まで通り接してくるとは思えない。

 それらの危険を回避する為にも、これから大戦(おおいくさ)に向かう涼たちと小蓮を同行させる訳にはいかないし、徐州に留守番させるのも万一を考えると避けたい。よって、こちらも消去法で「揚州に一時的に帰す」という選択肢が選ばれる。

 涼はそうした理由を述べ、仲間の意見を聞いた。同盟の維持と小蓮の安全、両方を考えればそうするのが一番であり、皆も頷いた。

 だが、一人だけこれに賛同しない者が居た。

 

「シャオの居ない所で勝手にシャオの事を決めないでよ、涼!」

 

 ほかでもない小蓮本人が真っ向から反対したのである。



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第二十一章 それぞれの決意・6

「シャオ!? いつの間に入ってきたの!?」

「そんな事はどうでも良いの! それより、シャオを置いて行くってどういう事!?」

 

 突然の乱入者に驚き戸惑う涼。だがそんな彼の心情を無視して小蓮は言葉を矢継ぎ早に紡いでいく。

 

「シャオだって戦えるわ! そりゃ、愛紗たちみたいにはいかないけど、雑魚くらいなら倒せると思うし、戦い以外でも何か手伝える事がある筈よ!」

 

 涼は小蓮の言葉を聞きながら、「そりゃまあ、シャオは弓腰姫(きゅうようき)と呼ばれた孫夫人と同じ名前だし、ある程度は強いんだろうなあ」等と考えていた。まだ混乱している様だ。

 

「小蓮殿、義兄上を困らせるものではない。貴女が義兄上の婚約者だと言うのであれば尚更です。」

「愛紗は黙ってて!」

 

 涼を助けようとした愛紗であったが、小蓮の迫力に圧されて二の句が継げなかった。既に弓腰姫の片鱗を見せているかの様である。

 小蓮は涼に向き直ると、今度は幼い子を諭す様に穏やかな口調で話し始めた。

 

「涼がシャオの事、同盟の事を考えてそう決めようとしているのは理解してる。けどね、もし本当にシャオを揚州に戻したら、却って同盟関係は危うくなるからね。」

「ど、どういう事?」

 

 ようやく落ち着いてきた涼が聞き返す。愛紗たちも同じだったらしく、静かに二人の会話を見守っている。

 

「揚州は豪族の集まりなの。それも結構めんどうなくらいの実力主義かつ縁故主義で、それでいていつ他の豪族に足を引っ張られるか分からない。」

 

 一度息を継いで、小蓮は続ける。

 

「その中でも特に影響力が強いのは、“呉の四姓”と呼ばれる人達。(りく)()(しゅ)(ちょう)の四つの一族。涼は(のん)とは会った事あるわよね? 穏もこの四姓の一族の一人よ。」

 

 穏とは陸遜(りくそん)の真名であり、涼は同盟締結時に会っている。穏は揚州人には珍しく? 肌が白く、揚州人らしく? 胸が大きい軍師だ。

 小蓮の説明を聞いている涼は、「ああ、陸康(りくこう)の件とかいろいろあったし、呉の四姓に関しては優秀な人材も多かったけど面倒な事も沢山あったよなあ」なんて思っていた。陸康とは陸遜の従祖父(じゅうそふ)であり、史実では孫策といろいろあった人物だ。この世界ではどうなのだろうか。

 

「母様が揚州をまとめられたのは、母様自身の実力ももちろんだけど、呉の四姓の協力を得られたのが大きいの。だから母様は彼等を重用してるし、それは姉様たちも同じ。もちろんシャオもね。」

 

 小蓮の口調から、彼女達が呉の四姓をめんどくさいと思いつつも信頼している事がうかがえる。 

 ちなみに呉の四姓とは、孫呉の四姓という意味ではなく、「揚州呉郡の四姓」という意味だ。この揚州呉郡は優秀な人材を多く輩出しており、陸遜の他にも、孫呉の二代目丞相(じょうしょう)となった顧雍(こよう)、寡兵で曹魏(そうぎ)曹仁(そうじん)を撃退した朱桓(しゅかん)孫登(そんとう)(孫権の長男)の教育係や蜀漢への使者を務めた張温(ちょうおん)など名だたる人物が出ており、孫呉を支えていった。

 涼は小蓮の話を聞きながら自分達が徐州に来てからの事を思いだし、呟いた。

 

「確かに、地元の人達の協力なくして領土運営は難しいよな。」

「その通りです。ちなみに徐州だと糜家や陳家などが呉の四姓に該当すると思われます。」

 

 愛紗がそう言うと、桃香たちも頷いた。余所者である涼たちは徐州に来てから細心の注意を払って豪族達と接してきた。

 「天の御遣い」や「漢王朝の縁戚」というネームバリューもあったとはいえ、地元の豪族達の協力を得られなかったら今頃どうなっていたか。少なくとも、青州に救援に行くという余裕は無かっただろう。

 

「涼たちも豪族達の苦労を経験しているなら分かるでしょ? 孫家は豪族に弱味を見せる訳にいかないの。もし見せたら内乱になってもおかしくないんだから。」

「? シャオを孫家に一時的とはいえ戻したら、それは孫家の弱味になるのか?」

「とーぜんでしょ! 例え実際には“孫家の姫の安全の為”、って理由でも、それを“徐州と関係が悪化した為に送り返された”、なんて曲解して批難するバカも出てくるかも知れないわ!」

「な、なるほど。なら、そんな豪族の目的はそれを口実に孫家の影響力を下げる、もしくは……。」

「孫家を追放、または滅ぼして実権を奪うのが目的でしょうか。」

 

 涼の言葉を補完したのは朱里だった。見れば、他の軍師達も頷いていた。

 朱里は続ける。

 

「小蓮ちゃんの言葉通りだとすると、揚州は一枚岩ではありません。ならば徐揚同盟に反感を持っている豪族も当然居るでしょう。その理由は単に同盟に反対している、同盟による孫家の影響力の増大を懸念、などいろいろ考えられますが、いずれにしても危うい状況になりかねないと推測できます。」

「海蓮さんや雪蓮たちが居ても、やっぱり?」

「恐らくは。勿論、もし孫家が豪族と戦闘する事になっても、まず負けはしないでしょう。ですが、戦では何が起こるか分かりません。裏切り、事故、他所からの介入といった不慮の事態が起こりえます。そうなると、例え孫家が勝っても被害は甚大ですし、その結果揚州を維持出来るか分かりません。」

 

 そうなったら、確かにとても同盟どころではないかも知れない。孫家を保護する事も考えられるが、それはつまり揚州の火種をそっくりそのまま抱えるという事でもある。涼の心情的にはそうしたくても、徐州の事を考えると難しいだろう。只でさえ月たちを助けようとしているのだから。

 

「だから、シャオを揚州に戻しちゃダメなの。分かった?」

「分かったけど、それならここで留守番をするってのは……。」

「シャオの安全を考えて揚州に返そうとしたのに、留守番させちゃ本末転倒でしょ?」

「おっしゃる通りです、はい。」

 

 涼は苦笑しつつそう答えた。小蓮はどこか満足そうにその言葉を聞いた。

 結局、小蓮も反董卓連合遠征のメンバーに入れる事になった。戦に巻き込む危険はあるが、目の届かない所に居られるよりも近くに居た方が守る事が出来ると判断した結果だった。

 小蓮は「戦える」と言ったものの、部隊戦闘の訓練をしていない、確認もしていない状況で前線に出す訳にいかないので、基本的には本陣、つまり涼の側に居る様に厳命した。尤も、言われるまでもないといった感じだったが。

 そんなどこか満足げな小蓮を見ながら、涼は思った事を口にする。

 

「ところでシャオ。」

「なーに?」

「そんなに揚州の内情を言ってしまって、後で海蓮さん達に怒られない?」

「あ。」

 

 どうしよー! と叫ぶ小蓮であった。



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第二十一章 それぞれの決意・7

 冀州(きしゅう)(ぎょう)。袁紹が治める領土に在る都市の一つであり、春秋時代に斉の桓公(かんこう)が城塞都市を建設したのが始まりとされる歴史ある街である。

 その鄴で今、袁紹は顔良(がんりょう)こと斗詩(とし)文醜(ぶんしゅう)こと猪々子(いいしぇ)と共に反董卓連合に向けての支度をしていた。

 具体的には袁紹が不在時に留守居の部下達にやってもらう仕事を考えているのだが、基本的に斗詩が考え、それを袁紹が承認していく、という流れになっている。猪々子は何しに来ているんだ。一応荷物運びとかはやっている様である。

 そんな中、袁紹は心から意外という口調で言葉を紡いだ。

 

「それにしても、あの董卓さんが陛下を意のままに操っているだなんて……今でも信じられませんわ。」

 

 斗詩と猪々子は暫し仕事の手を休め、斗詩は袁紹に確認するかの様に話し掛ける。

 

「あれ、麗羽様って董卓さんの事そんなに知ってましたっけ?」

「董卓さんが黄巾党征伐の報奨で陛下から前将軍に任命されました際に、私も報奨も戴く為にその場に居ましたし、十常侍誅殺の後始末でも一緒でしたから、短い間でしたけど共に仕事をしましたわ。」

 

 だからそれなりに董卓さんの事は知っていますわ、と袁紹は続けた。斗詩は更に質問をした。

 

「そういえば麗羽様、董卓さんを相国(そうこく)に推挙されたのも陛下なのですか?」

 

 「相国」という、漢王朝にとって不可侵ともいうべき重要な役職に就いた董卓に対し、斗詩は多少なりとも興味を持っていた。本当に悪い事をしているかはともかく、相国に就いた経緯は知りたいと思った。例えこれから戦う相手だとしても。

 なので、特に深い考えがあった訳では無い。だが、返ってきた答えは彼女が思っていた事には無かったものだった。

 

「いえ、確か……張譲(ちょうじょう)でしたわね。」

 

 それを聞いた斗詩は絶句し、暫し動けなかった。一方、斗詩と共に居た猪々子はといえば、斗詩が何故そうなっているかを理解出来ていないのか、ボケーッとして彼女を見ている。

 暫く後、頭の中が再起動した斗詩は何度か唾を飲み込みながら呼吸を整え、主君に聞き返した。

 

「ちょ、張譲!? あの十常侍のですか!?」

「ええ。その張譲ですわ。」

「……誰だっけ?」

 

 猪々子の呟きにも困惑する斗詩であったが、今はそれよりも先に確認しなければならない事が出来たので後回しにする事にした。

 

「姫、張譲は生死不明だったのでは!? いえ、そもそも張譲は討伐対象だった筈です!」

 

 斗詩が叫ぶ様にそう言うと、漸く猪々子は張譲が誰かを思い出したらしく、「ああ、十常侍の逃げた奴かあ」と呟いていた。

 

「斗詩さんが困惑するのも無理ありませんわね。私も陛下から話を聞いた時は耳を疑いましたもの。」

 

 そう言ってふう、と溜息を吐いた袁紹は彼女が聞いたという話をし始めた。

 それによると、張譲は密かに皇帝である劉弁(りゅうべん)の許を訪れ、土下座してかつての非礼を詫びると共に隠し持っていた財産を全て宮中に納め、それをもって助命嘆願を申し出たという。ちなみに、張譲が行方をくらます前に置いていった家財は既に全て宮中が差し押さえていた。

 幼いとはいえ、劉弁は兄弟もろとも命の危険にさらされた経緯もあり、当初は問答無用で斬首に処すつもりであったらしい。当然と言えば当然である。

 

「何でそれで張譲は助かったんです?」

「なんでも、その場に居た董卓さんが許しても良いのではと言ったそうですわ。」

 

 何故だ? と訊く劉弁に対し董卓は次の様に答えたという。

 

『十常侍は既に無く、今回差し出した財産も既に差し押さえていたものと併せて莫大なものになる。取り巻きも居ない。そんな人間がこれから何が出来るか。何も出来ません。』

 

 それを聞いた劉弁はそれもそうかと思い、張譲を許したという。

 ちなみにこれらは袁紹たちが十常侍の残党を倒しにいっていた間、時期としては桃香たちが荊州で三顧の礼をしていた頃の話である。

 

「それからの張譲は人が変わったかの様によく働いたそうですわ。私も一度会いましたが、確かにかつての陰鬱として、いかにも悪巧みしてますって表情ではなかったですわね。」

「……で、そうして真面目に働いていた張譲が董卓さんを相国に推挙した、と。」

「そうなりますわね。」

「張譲は董卓に命を救われたから、その礼ってやつなのかな?」

「かも知れませんわね。」

 

 袁紹と猪々子はそう結論付けると仕事を再開した。

 だが、斗詩は一人困惑しており、とても仕事を再開するどころではなかった。

 

(話が出来すぎてる……? いくら董卓さんがお人好しでも、陛下に刃を向けた人間を助け、しかも宮中で自由にさせるかな……。)

 

 その考えは尤もである。斗詩は董卓の事をよく知らないが、彼女とて黄巾党征伐などを経験してきた武将である。何をすべきで何をしてはいけないか、という常識を持ち合わせていない訳が無い。だからこそ董卓の行動に納得出来ない。

 

(そもそも、相国はお礼に推挙する様な軽いものじゃないし……。)

 

 既に触れた通り、相国は漢王朝にとって特別な意味を持つ官職である。それをかつての権力者が推挙したからといって陛下が承認するものだろうか。陛下がまだ幼いという事を加味しても不可解であった。

 

(董卓さんと張譲が裏で繋がっているって事は考えられるけど、あの人の良さそうな董卓さんがそんな事をするとは……いや、でも現に……。)

 

 斗詩は一人考え悩むが、証拠がない事もあって結局明確な答えは出なかった。

 なお、袁紹が張譲の事を二人に言ってなかったのは、単に言っていると勘違いしていたからであった。



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第二十一章 それぞれの決意・8

「……月、今報告が来たわ。」

 

 洛陽(らくよう)のどこか、相国となった董卓こと月と、その補佐を務める賈駆こと詠の為に用意された屋敷の一室に、二人は居た。

 何かの報せを伝えに来た詠の表情は明るくなく、むしろ暗い。良い報せで無いという事を、月は理解した。

 詠もまた、上司であり親友である彼女がその事に気づいている事に気づいた。出来るなら知らせたくないと思うが、彼女の為、自分の為に意を決す。

 

「ボク達を倒す為の連合軍が組まれたそうよ、差し詰め、“反董卓連合”とでも言うのかしらね。」

「詠ちゃん……。」

 

 まるで呆れているかの様な口調で告げた詠の名を、月は寂しげな瞳を向けつつ呟く。

 月は自分の今の立場を身分不相応と思っている。そしてそれは間違いではないが、かといって全くの無能という訳でもない。もし無能だったらいくら詠でもこの場には居ないかも知れない。……居るかも知れない。

 自分に出来る範囲で動き、黄巾党討伐などの実績がある月は、詠が知らせた事の重大さを当然ながら理解している。

 だからこそ、彼女は詠に報告の続きを促す。

 

「詠ちゃん、連合にどんな人達が参加してるか、分かるかな?」

「……ええ。読むわね。」

 

 詠は月の心情を理解し、同時に沈痛な思いになりながらもそれを表情に出さず、ただ月の言う通りにした。手にしていた紙を広げ、常より少し声を凛々しくしてそこに書かれている名前を読み上げていく。

 

「袁紹、袁術(えんじゅつ)馬謄(ばとう)孔融(こうゆう)公孫賛(こうそんさん)劉表(りゅうひょう)劉焉(りゅうえん)………………孫堅、曹操、そして……劉備・清宮。」

「……っ! …………そう……なんだね…………良かった。」

「月……?」

「だって……これで皆さんは私と違って逆賊として殺されなくて済むから……ね。」

「月……っ!」

 

 詠はそこで初めて表情を崩した。我慢していた涙が止めどなく流れ落ち、自分の無力さとこの世の理不尽さを呪った。

 一体、月が何をしたというのだ。彼女はいつも自分より他人の為に動いてきたではないか。その彼女が何故、こんなにも苦しい立場にいて、こんなにも悲しげな表情をしなければならないのか。

 詠は床に膝をついた。手にしていた紙はぐしゃぐしゃになっている。床には涙が点々と落ちている。このままではその点が大きくなるのも時間の問題だろう。

 月は詠の、親友の姿を見てやはり自分の無力さを呪った。だが彼女は、この世を呪う事はしなかった。こんな状況になっても、彼女はいつも通りの少女で居続けている。だからこそ詠は苦しんで、悲しんでいるのだ。そしてそれも、月は理解していた。

 月は詠の肩に手を置き、小さく息を飲むとそのままの姿勢で言葉を紡いだ。

 

「……詠ちゃん、後の事はお願い。私は陛下の許に行ってくるね。」

「……うん。」

 

 詠の短くもハッキリとした返事を聞いた月は、心の中で謝りながら部屋を出ていった。

 一人になった詠は声をあげて泣いた。反董卓連合。その様なものが出来てしまった以上、董卓の名声は地に落ちたも同然となった。

 例えこの連合を倒したとしても、連合が帝を助ける為に結成されたという名目の為、「帝を意のままに操り続ける悪逆・董卓」という印象は拭えない。第二、第三の反董卓連合が組まれるかも知れないし、刺客を放って月の命を狙う者も出続けるだろう。連合に負ければもちろん、死しか待っていない。

 

「何で月がこんな目に遭わないといけないの……そうよ、あいつ等が来たから。……あいつ等の所為で……あいつ等の所為で月は……!」

「お呼びですか? 賈文和(か・ぶんわ)。」

 

 誰も居なかった筈の場所から聞こえてきた男性の声。その声を聞いた詠はそれまで以上に怒りを露にし、声の主を睨み付けながらその男性の名前を口にした。

 

于吉(うきつ)……!」

「そう恐い顔をしないでくれませんか。私は貴方達の味方ですよ?」

「どうだか。少なくともボクにはそう思えないけど?」

「残念ですねえ。私は貴方や董卓さんが幸せになれるお手伝いをしているだけですよ?」

「その結果がこれって訳?」

 

 詠は怒気をはらみながら、反董卓連合に名を連ねた諸侯の名前が列挙されている紙を、于吉に見せる様にヒラヒラと揺らした。だが、于吉はそれを一瞥するだけで特に反応はしない。

 

「ええ。この漢に於ける有力諸侯が一同に会する機会が来るのです。これは董卓さんにとって大きな機会だとは思いませんか?」

「大きな機会?」

 

 この男は一体何を言っているのだろうと、詠は思った。いや、正しくは「理解は出来るがしたくない」と言うべきかも知れない。彼女はそれだけ優秀なのだから。

 だからこそ、容赦なく言い放つ于吉の言葉に過剰に反応してしまう。

 

「ええ。有力諸侯を滅ぼし、この漢の皇帝になる機会ですよ。」

「な……っ!?」

 

 月ーー董卓が皇帝になる。それは凄い事ではあるが、月本人は絶対に望まない事だと詠は分かっている。そしてまた、于吉の言う事が実現可能だという事も。

 

「ここで四世三公の袁家を始めとした諸侯を滅ぼせば、後に残るのは力を失った漢王朝のみ。しかも現皇帝は幼く、政を行う事は事実上不可能。ならば……。」

 

 そこで于吉は一度言葉を切り、ジッと詠を見据えた。苦手な動物にでも見られている様な錯覚を詠は覚えた。

 

「相国となった董卓が皇帝になり、新たな王朝を建国する事が出来る! どうです? 貴方の大切な董卓さんが皇帝になれるんですよ?」

「そ……それは簒奪(さんだつ)じゃない!」

「そうですが何か?」

「そんな事、出来る訳ないじゃない!」

 

 簒奪。要は時の権力者を追放、もしくは弑する事でその座に座る事。成功はしなかったが、日本史で言えば本能寺の変が近いかも知れないし解り易いかも知れない。

 それを月が望まない事だと詠は知っている。だからこそ彼女は于吉の言を否定し拒絶したが、当の于吉はあっけらかんと、それでいて極めて冷徹に表情と声音を変えていく。

 

「これは可笑しな事を言うものですねえ。この国の歴史は簒奪によって作られているではありませんか。()に代わって天下を治めた子履(しり)も、殷に代わって天下を治めた姫発も、前の施政者を追放、または殺害して新たな施政者となっていますよ? これも立派な簒奪と言えるのでは?」

「そ、それは、本来国を治めるべき一族が徳を無くしたから、天が新たな施政者を選んでいるのよ。」

易姓革命(えきせいかくめい)、ですか。残念ながら私は、孟子について貴方と論戦する気は今のところありませんね。」

 

 そんな論戦は私の趣味ではない、とばかりに于吉は言いきった。詠はそんな于吉に対して次は何を言うべきか思案している。そんな彼女を見据えながら、于吉は言葉を並べていく。

 

「ですが、仮に孟子の言う通りなら、これからの戦いに勝利すればそのまま皇帝になる資格があると言う事になりますね。」

「そ、それは屁理屈よ!」

「そうでしょうかねえ。そもそも、この漢も成り立ちは()羋心(びしん)を葬った項羽を討った劉邦が皇帝になったから。その後、王莽(おうもう)の簒奪によって前漢が滅び(しん)が起った……ああ、これが一応、この国初めての簒奪でしたね。」

 

 尤も、その新はあっという間に滅ぶ事になる。

 

「その新も劉秀(りゅうしゅう)によって滅ぼされ、今の後漢に繋がる……と。こうしてこの国の歴史を見ても、結局は力のある者が簒奪してきたと言えるのではありませんかねえ。」

 

 不適な笑みを浮かべながら于吉はそう言い、次いで詠を見据えた。詠は何も言い返せなかった。聡明な彼女は解っているのだ。天が新たな施政者を選ぶなどと言い方を変えているだけで、結局は于吉の言う様に力ある者が天下を獲ってきたという事を。

 でも、詠はそれを認める訳にいかなかった。認めてしまえば、月が簒奪しても良いと、それは正しい事だと思ってしまう。もしそうなってしまえば、詠は月の心を裏切る事になると彼女は理解している。

 月は地位や名誉などを望んでいない。ただ、周りの人達が幸せになってほしいと、その為なら自分は頑張れると思い、ここまでやってきたのだ。決して、皇帝になろうとは思っていないのだ。

 だからこそ詠は悩んでいた。于吉が言っている事は認められない。だが、反董卓連合が組まれた以上、戦うしか道は無く、しかも負ける事は許されない。だが、想定数十万の兵を相手に勝てる確率は限りなく低い。董卓軍も数十万の兵を動員できるが、士気や質、将の実力と数を考えれば絶望的といえるだろう。

 そう考える詠を見据え、そして友好的な笑みを浮かべた于吉が、やはり友好的な声音で提案をする。

 

「そうそう。もし気になる事があるなら計画を少し変更しましょう。」

「変更……?」

 

 一体何を言うつもりだと、詠は身構えた。だが、それは結局無駄に終わる事になった。

 

「何、些細な事です。諸侯を滅ぼす際に“清宮涼だけは命を助ける”事にするのです。これなら、董卓さんも安心でしょう?」

「っ!?」

 

 于吉の提案に詠は心を揺さぶられた。

 月の懸案事項の一つは、紛れもなく清宮涼の事である。

 かつて共に戦い、真名を預けた男性。身内以外では唯一の真名を預けた男性である涼を、月は好ましく思っている。そしてそれに詠は気づいている。

 

「……そんな事をしても、月は喜ばないわ。きっと、清宮も。」

「そうですかねえ。……まあ、どうするかは貴方達で決めると良いでしょう。私はそのお手伝いをするだけですから。」

 

 于吉の言葉に詠は何も言わず、于吉もまた詠の言葉など待たず、部屋を出ていった。詠は于吉が居なくなったのを確認すると、大きく息を吐き、次いで頭を押さえて何度も首を振ったのだった。

 

 

 

 

 

 コツ、コツと足音が廊下に響く。夜だからか、場所が場所だからか、近くには誰も居ない。

 こんな時、普通は思わず鼻歌でも歌いそうになるかも知れないが、于吉にそんな趣味嗜好はなく、ただ静かに歩いていた。

 尤も、頭の中ではこれからの事を考えていて静かではなかったが。

 そんな于吉に声を掛ける者が居た。于吉と同じ様なデザインの導師服を着た短髪の男性である。

 

「相変わらず、えげつない事をするのだな、貴様は。」

「誉め言葉として受け取っておきますよ、左慈(さじ)。」

 

 音も無く後ろから現れたその男性を、于吉は左慈と呼んだ。顔だけ左慈に向けている于吉は心なしか嬉しそうに見えるが、当の左慈は何だか嫌そうな表情である。

 于吉はそんな左慈に向き直ると、自身の考えを述べていった。

 

「人の心、特に恋心というものは強く、そして脆いものです。それを利用しない手はありません。」

「理屈は分かるがな。」

「おや、ひょっとして左慈はあの二人に同情しているのですか?」

「寝言は寝て言え。何故俺が“人形”ごときに同情せねばならんのだ。」

 

 人形。それは詠たちの事だろうか。何故そんな風に言ってるかは解らないが、だとしたら酷い言い種だ。だが、左慈はその言を当然の様に言い放ち、罪悪感などはまったく無い様に見える。

 左慈は続けて、先程の于吉の問いに答えた。

 

「俺はただ、こういったまどろっこしいやり方が気に入らんだけだ。」

「成程。ですが左慈、今の私達はそう贅沢を言えません。」

 

 于吉は珍しく表情を暗くしている。左慈はというと常の仏頂面ではあるが、若干変化している様にも見える。

 

「“北郷一刀(ほんごう・かずと)”が外史に現れて以降、私達の仕事は一気に増えました。」

「ああ。いくつかの外史は潰したが、それより多くの外史が生まれ、俺達の望まぬ結末をいくつも迎えている。」

 

 「北郷一刀」に「外史」。聞き慣れない言葉を口にする二人。前者は恐らく日本人の名前だろうが、その様な人物は少なくとも日本史の中には出てこない。

 

「本来の私達の仕事も、あまりにも外史が増えすぎた為に人手不足ですからね。最近ではご老体たちも自ら出ていったりしてるとか。」

「ふっ、運動不足解消には良いのではないか。」

 

 左慈は良い気味だと言わんばかりの表情を浮かべながら言ったが、于吉はそれに同調せず、却って険しい表情を浮かべて口を開く。

 

「それだけ逼迫しているのですよ。……私たち“管理者”は。」

 

 その一言に、左慈もまた険しい表情になる。暫しの沈黙の後、于吉を見ながら尋ねた。

 

「……貴様も能力は戻ってないのか?」

「残念ながら。勿論ある程度は戻っていますが、初めて北郷一刀と戦った時の様には“傀儡”を出せませんね。」

「物量作戦は難しいか。ちっ……何故こんな事になっているのだ?」

「分かりません。分かっている事は、“能力に制限がある”事、“かつての様に人形達の心を操る事は出来ない”などですかね。」

「だからこそ、こんな回りくどいやり方をせねばならんのだがな。」

「ええ、お陰でかつての様に曹操を操ったりして戦わせるなどは出来ません。」

「俺も若干だが攻撃時の威力が落ちている。このままだと、五虎将(ごこしょう)などが相手の場合は苦戦するやも知れん。」

「幸いにもまだこの外史では、五虎将も揃っていませんし三国鼎立も起きていません。尤も、他の外史がそうである様にこの外史も展開がどうなるか分かりませんが。」

「いずれにしても、忌々しい事だな。」

 

 左慈はそう言うと踵を返し、今来た道を帰っていった。

 

「まったくです。」

 

 于吉はそんな左慈の後をついていき、そしていつの間にか二人とも居なくなっていた。




第二十一章「それぞれの決意」を読んでいただきありがとうございます。
今回も更新が遅くなりました。

プロットは昨年の1月、まだ入院していた時に出来ていましたし、本文も7割近く出来ていたんですが、退院後もなかなか完成しませんでした。
いろいろ書いていたら矛盾があったり、説明が長くなりすぎたりとありましたが、なんとか完成しました。この過程でシャオを連れていく事が追加されていたりします。元々は留守番だったのでいろいろ書き直さないといけません。

次は反董卓連合に参加するまで数日間の話になって、その次がいよいよ本戦、の予定です。
恋姫二次創作はこの反董卓連合の途中で終わると言われているので、そうならないように頑張ります。次回の更新は平成中に出来たら良いなあ。

よろしければ次回もお読みください。というかお願いします。
ではでは。



2019年3月28日最終更新


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第二十二章 いざ、連合へ・1

決意した少年少女たちは前を向いて進む。

例えどんなに苦しくともやり遂げると胸に秘め。

今日も仕事を片付けていくのであった。

2019年11月5日更新開始
2019年12月10日最終更新


 (りょう)小蓮(しゃおれん)を連れていくと決めた後に開かれた軍議で、徐州牧(じょしゅう・ぼく)である劉備(りゅうび)こと桃香(とうか)と、その補佐役を務める涼が今回の連合参加の真意を告げたのだが、諸将、特に徐州古参の者はやはりというか混乱をきたした。

 当然であろう、下手をすれば桃香たちだけでなく徐州全てが火の海になるかも知れないのだ。“反董卓連合(はん・とうたく・れんごう)に参加しつつ董卓たちを助ける”という事は。

 初めに、糜竺(びじく)こと山茶花(さざんか)が考え直してはくれませんか、と言った。二人は首を振った。

 次いで、孫乾(そんかん)こと霧雨(きりゅう)が何故そのような決断に至ったのですか、と(たず)ねた。二人は話せる事を全て話した。

 最後に、陳珪(ちんけい)こと羽稀(うき)が決意は固いのですね、と確認した。二人は深く頷いた。

 そこで古参の徐州軍諸将は溜息を吐き、だがどこかスッキリした表情になったかと思うと皆一様に拝礼し、二人の決意への賛同を示した。

 程昱(ていいく)こと(ふう)はその光景を見ながら、まずは風たちの読み通りになりましたね、と小声で二人に言った。

 こうして、意外なほど呆気なく徐州軍の軍議は終わった。

 

 

 

 

 

「なんだか、拍子抜けしちゃったね。」

 

 出発前に片付けなければならない書類を整理しながら、桃香は誰ともなしに言った。

 ここは桃香がいつも居る徐州牧の執務室。今この場には彼女の他には義兄(あに)である涼と、二人の軍師である諸葛亮(しょかつりょう)こと朱里(しゅり)と風が居る。

 涼は桃香と同じ様に書類に(しょう)、つまりは判子を捺しながら桃香に応える。

 

「まあ、風たちが言った通りになったというか。取り敢えず、ここで(つまず)かないで良かったよ。」

 

 ペタン、ペタンと涼と桃香が章を捺し終わった書類を手にした風は、その書類を確認しながら常ののんびりとした口調で喋る。

 

「ほんとうですねえ~。もしここで反対されたら出兵すらままならなかったでしょうし、仮に強引に出兵しても火種を残すところでした。はい、朱里ちゃん。」

 

 確認が終わった書類を朱里に手渡すと、朱里はそれを種類別に振り分けていき、竹簡に確認と振り分けが終わった事をメモしていく。

 

「風ちゃんの言う通りです。後ろから刺される危険性がありましたし、最悪、三万にも満たない兵で河内(かだい)に行くはめになるところでした。」

 

 そう言いながらまた一枚、風から書類を受け取り、やはり同じ様に振り分け、メモをする。

 州牧とその補佐である桃香と涼の仕事は当然ながら多い。特に最近までは遠征などで二人が徐州から離れていた事もあって、仕事が溜まっていた。

 優秀な軍師を始めとした文官達が居なければ、いまだに大量の書類・書簡が彼等の前に存在していただろう。

 涼は最後の書類に章を捺しながら朱里に訊ねる。

 

「実際に連れていける兵はどれくらいになりそう?」

 

 朱里は書類を振り分けながらその質問に答える。

 

「先の青州(せいしゅう)遠征及び外交遠征に参加した兵士さんの(ほとん)どは今回お休みですね。流石に疲労や怪我が快復しきっていませんし、他の兵士さんの練度を上げる為にも今回は前回留守居を守っていた兵士さんを中心に選ぶ事になると思います。あ、青州黄巾党の降兵さんは論外です。練度も忠誠心もまだまだ足りませんから。」

「……それで大丈夫なのかな?」

 

 桃香が背筋を伸ばしながら疑問を口にする。その際、偶然か必然か大きな胸が揺れて図らずも注目を集めた。

 その桃香の胸をいろんな感情で見ながら、彼女の疑問に答えたのは風だった。

 

「勿論、それだけではダメですねえ。真偽はともかく、相手はこの国の首都・洛陽(らくよう)を支配しているのです。当然ながらその兵力はどんなに少なく見積もっても二十万を超えます。」

「二十万……青州遠征でうちが動員した数の倍だね。」

「はい~。しかもそれは、以前の情報を元に精査して予測した最低限の数です。何故か董卓軍の情報は余り入ってきませんからねえ。手に入った数少ない情報には、董卓軍には呂布(りょふ)将軍や張遼(ちょうりょう)将軍といった名将が居るとあります。この二人に率いられる兵は恐らく今の徐州軍の精鋭と同じか、それ以上の実力でしょうねえ。」

(れん)(しあ)の部隊か……。」

 

 涼は風の説明を聞きながら、以前洛陽で会った二人の少女の事を思い浮かべる。

 十常侍誅殺(じゅうじょうじ・ちゅうさつ)の際に会った二人とは、二人の上官であった丁原(ていげん)の取りなしもあって友好的な関係を築けたと涼は思っている。この世界では命と同等ともいえる真名(まな)を預けてもらったからだ。

 だが、その二人はどうやら今、董卓軍に居るらしい。噂によると丁原は病死し、その跡を呂布こと恋が継ぎ、張遼こと霞がその補佐をしているという。

 涼が知る史実や演義では、丁原は病死ではなく呂布に殺されている。そうした違いに若干戸惑いながらも、「恋が丁原さんを殺す訳ないしな」と結論付けた。恋の本意ではないものの、この世界でも呂布が丁原を殺したという事実を涼は知らない。

 だが同時に、そんな二人の部隊は強敵になるだろうとも理解していた。これもまた、涼が知る史実や演義による予測である。

 

「出来ればその二人の部隊とは戦いたくないな。本来の目的ってのもあるけど、多分戦ったら甚大な被害が出ると思う。」

 

 涼がそう呟くと、桃香達はまるで図ったかの様に皆一様にゴクリと唾を飲んだ。

 ここに居る四人は、誰一人として呂布と張遼、それぞれが率いる部隊を見た事はない。だが涼は十常侍誅殺の時に霞の鬼神ともいうべき戦いぶりを見ており、残る三人も両者の噂は聞いていた。

 

 曰く、『黄巾党(こうきんとう)の残党、約三万をこの二人の部隊だけで殲滅した』などである。

 

 こうした噂には大なり小なり嘘が含まれているのが常であるので鵜呑みには出来ないが、呂布が「三国志最強の武将」という知識を知っている涼はどこか納得していた。この世界ならそういう事もあるかも知れないとも思いながら。

 また、張遼も三国志にその名を刻んでいる名将であり、とある戦いに於いては演義より史実の方が凄まじい活躍をしているという、こちらも呂布に負けず劣らずな猛将である。

 その二人が今度の戦いでは敵として出てくるのだ。楽観できる筈はない。楽観視する人が居たらそいつは間違いなく馬鹿である。

 そしてここには楽観視する馬鹿は一人も居なかった。

 

「お兄さんの懸念は当然なのですよ~。黄巾党征伐、十常侍誅殺で活躍したというこの二人は一騎討ちは勿論、部隊の指揮も優れていると言われています~。また、その中核を成す騎馬隊の強さは西方の馬一族(ば・いちぞく)羌族(きょうぞく)と遜色ないとも~。」

 

 馬鹿は居ないが、緊張感が無い口調の者は居た様だ。

 馬一族とは、光武帝(こうぶてい)の家臣にして後漢の名将、馬援(ばえん)の子孫である馬騰(ばとう)やその子、馬超(ばちょう)たちの事を指す。なお、本当に馬援の子孫かは分からない。

 彼等は皆、馬の扱いに長けており、外敵との戦いでも活躍していたという。その外敵の一つが羌族であるが、馬騰の母はその羌族出身である為、馬超たちには羌族の血が流れている。その為か、羌族と結んでいた事もあったという。

 そんな馬一族と羌族に匹敵するかも知れない騎馬隊を擁しているかも知れないのが呂布隊、張遼隊なのだ。何度も言うが楽観視は出来ないだろう。

 

「ま、まあ、私達の部隊が呂布隊や張遼隊と戦うかはまだ分かりません。何せ今回の連合には沢山の諸侯が参加する様ですからね。」

 

 楽観視はしていないが、青くなっている涼と桃香を安心させる為に朱里はそう言った。

 確かに、確率で言えば朱里の言う通りだろう。だが、桃香はともかく涼にはその慰めは通じなかった。繰り返しになるが、彼には三国志の知識があるからである。

 

(朱里の気遣いは嬉しいけど、演義だと関羽(かんう)張飛(ちょうひ)、そして劉備が呂布と戦っているんだよなあ。この世界は演義準拠のところが多い事を考えると、なあ……。)

 

 涼は内心で深い溜息を吐いた。

 劉備、関羽、張飛対呂布。俗に言う「三英戦呂布」であり、反董卓連合及び三国志序盤の名場面である。

 もっとも、この時期の劉備たちは実際には反董卓連合に参加していないと正史では考えられているし、仮に参加していても大した地位も役職もない劉備たちが活躍できるとは思えず、演義の創作と言われている。

 一方、朱里の気遣いによって少しは元気を取り戻した桃香は、可愛い軍師に応える様に語気を明るくして言葉を紡いだ。空元気も元気とどこかの隊長も言っていたが、まさにそれである。

 

「そ、そうだね! 今はただ連合で上手くやれる様にしないとね。」

 

 そう言って胸の前で両手の拳を握る。その際、大きな双丘が元気に弾んだのを他の三人はそれぞれ違った感想を抱きながら見つめていた。



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第二十二章 いざ、連合へ・2

 出立の日まであと数日といったある日、涼の(もと)に一人の少女が訪ねてきた。

 ここは州牧補佐を務める涼の執務室。ここでは書類整理が主な仕事になっているが、時々こうして来客を迎える事もある。

 上座に座る涼の左右には二人の少女が立っている。仕事の手伝いをしていた風と、来客の為に呼ばれた小蓮である。

 

「この前届いた姉様たちの手紙には貴女が来るとは書いてなかったんだけど、ひょっとして何かあったの、明命(みんめい)?」

 

 涼が訊ねる前に来客の少女、明命に訊いたのはその小蓮だった。明命とは孫軍こと揚州(ようしゅう)軍の武将、周泰(しゅうたい)の真名である。

 

「いえ、特には何もありません。ただ、徐州軍が連合に参加するのなら一緒にどうかと海蓮(かいれん)様が仰られたので。」

「一緒に?」

「はい。徐州と揚州、孫家と清宮様は同盟を結んでいるので、此度の会戦でも共に戦う事は多々あると思います。ですから、今の内から行動を共にして将兵の(よしみ)を深めておくのが良いというのが海蓮様のお考えです。」

「それはまあ、確かに。」

 

 涼はそう言いつつ右隣に立つ小蓮と左隣に立つ風を見た。小蓮は家族に会えると聞いて表情を明るくしている。風はいつもの様に眠そうな顔をしている。

 

「……ぐう。」

 

 というか、寝ていた。立ったまま寝るとは器用な事をするものだ。

 

「風、こんなとこで寝るな。」

 

 ていっ、と軽く手刀を風の肩に当てる涼。途端に目を覚ます風。

 

「これは失礼しました~。最近“何故か”忙しいのでつい居眠りをしてしまいました~。」

「……あとで昼寝して良いから、今は起きてて。」

「はい~。」

 

 そう言った風だが眠そうな顔は変わらない。明命はというと目の前で行われたコントに困惑している様である。

 そんな明命を薄目に見ながら、風は涼が聞きたい事を答えていく。

 

「一緒に行軍と言うのは良い考えかと思いますよ~。勿論、こちらも出立の準備といった事情があるのでその辺りを考慮してもらえれば、ですが~。」

「それについては海蓮様は徐州軍に合わせると仰られていました。出立の日にちを教えていただければ、その日に合わせて揚州軍を動かすと。」

 

 涼はそこまでしてもらって良いのかなと思いつつ風に確認し、了承した。

 

「それで、合流地点はどこにするの? ここ……下邳(かひ)で待っていれば良いのかな?」

「そうですね、下邳から若干南東に下っていただければよいかと思います。」

「南東?」

 

 涼は首をかしげた。涼たちが目指す洛陽は徐州の遥か西である。なのに何故逆方向に進むのかと。

 

「はい。我々は泗水(しすい)を上ってくる予定ですので、皆さんには船を停める場所まで来ていただければよろしいかと。」

「えっ、雪蓮(しぇれん)たちは船で会盟の地に行くの!?」

 

 いつも通り陸路を行くつもりだった涼からしてみれば、明命の提案は考えもしていない事だった。

 

「はい。幸いにも建業(けんぎょう)の北に在る長江(ちょうこう)の支流が徐州を通り、会盟の地である河内まで繋がっているので、船団を組んで進んだ方が早いと決まりました。」

 

 明命はそう言うと航路についての説明を始めた。

 建業の北を流れる長江。その建業の東、武進(ぶしん)から見ると西北西の位置に徐州への支流がある。

 その川は射陽湖(しゃようこ)という湖に繋がり、下邳の南を流れる泗水へと到る。その泗水は西の豫州(よしゅう)に流れると睢水(すいすい)となり、兗州(えんしゅう)陳留(ちんりゅう)を通り官渡(かんと)を過ぎ、河内の(かい)で他の川と合流する。以上が明命の説明である。

 現代や史実の河川の流れとは違うかも知れないが、この世界ではそうなっているらしい。

 日本人の感覚では川を大船団が行くというのはピンと来ないが、中国は広いので単に川と言っても大きさが違う。三国志で一番有名な戦いである「赤壁(せきへき)の戦い」も夏口(かこう)の流れを組む河川一帯で起きた戦いだ。この戦いの()軍は号数百万、実数二十五万の大軍を展開させたと言われているので、中国の川の大きさがイメージ出来るだろう。

 よって、数万の軍勢が川を進むのは比較的簡単な事である。尤もそれは水軍を擁する揚州軍だからではある。

 

「船なら行軍で兵士さん達が疲れるという事は無いので楽ではありますね~。」

「それは確かに。けど明命、うちも今回の出兵には数万人を予定しているんだ。揚州軍の船の数がどれくらいか分からないけど、船が足らなかったり却って行軍が大変にならない?」

「その心配には及びません。冥琳(めいりん)さまは徐州軍の数を予想し、徐州軍用に最大で十万人が乗れるだけの船を用意しました。」

「マジか。」

 

 涼は冥琳こと周瑜(しゅうゆ)の読みと、この時期の揚州軍がそれだけの船を用意出来る事に驚愕していた。

 揚州軍、後の孫呉(そんご)は水軍が強いというのが定説である。あの「赤壁の戦い」は史実、演義ともに孫軍と劉備軍の共闘ではあるが、その勝利は八割方孫軍の水軍による手柄といえるだろう。

 古代中国には「南船北馬」という言葉があった。読んで字の如く、「南方は水軍が、北方は騎馬が強い」という意味である。

 赤壁の戦い直前まで曹操(そうそう)軍はまともな水軍を持っていなかった。河北を転戦していた彼等に水軍は不要だったのだから仕方がない。だが、いざ中国南部を攻めるには広大な長江流域を進む事になり、水軍が必要となった。

 その為に荊州(けいしゅう)を攻め落とした際に荊州水軍を吸収し、しかる後に揚州の孫軍と戦ったのだろう。演義ではこの戦いの際に周瑜の策によって荊州水軍の蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)が処刑されているが、史実ではその様な記述はない。

 この赤壁の戦いに孫軍は二万から三万を動員したといわれる。孫権(そんけん)の時代になり揚州で確固たる地位を得ていた時期でこの数である。それを知っているからこそ涼は驚いたのだ。

 尤も、この世界に来て長い涼はそれと同時に「この世界ならそれもありなのかな」とも思っていた。

 

「じゃあ、詳しくはこの後みんなと話して決めるから、明命はしばらく待っていて。シャオ、彼女の話し相手よろしくね。」

「りょーかいっ☆」

 

 シャオはそう言うと、孫家の姫に話し相手になってもらうという事態に戸惑う明命の手をとって、慌ただしく執務室を出ていった。

 そんな二人を見送ってから風が呟く。

 

「……本当は“今の立場のシャオちゃん”を揚州軍の人と二人っきりにするのはどうかと思うんですけどね~。」

「それって、徐州の情報を聞かれるから?」

「はい~。シャオちゃんは今はまだお兄さんの婚約者であって妃ではありません。その状況では、いつ縁談が無くなってしまうか分かりませんから~。」

「それも分かるけど、遅かれ早かれうちの事は知られるし、それに……。」

「シャオちゃんや幼平(ようへい)ちゃんの楽しそうな顔を見たい、ですか?」

「まあ、そんなとこ。」

 

 風はやれやれといった表情とジェスチャーをした。頭上の宝譿(ほうけい)も何故か同じ様な表情とポーズをとっていた。涼は突っ込まなかった。



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第二十二章 いざ、連合へ・3

 さて、そんな涼は悩んでいた。いや、悩むというより藁をも掴む思いでいたというのが近いかも知れない。

 

「どうしよっかなあ……。」

 

 小蓮と明命がどこかに出掛け、風は軍師たちと遠征の話を詰めてくると言って出ていった。昼寝はまだ良いのだろうか。とにかく、今の涼は一人だった。

 いつもはこんな時に誰かが来て賑やかになるものだが、今は遠征前という事もあって各自(せわ)しく動いている。勿論その中には涼に判断を仰ぐものもある筈だが、急ぎではないのか届いていない。

 そんな訳で涼は柄にもなく考え、悩み、どうしようか迷っていた。

 まあ、元来考え込んだり悩むのが苦手な涼である。今回もそんなに長くはならないだろう。

 

「……決めたっ!」

 

 ほらね。

 

「何の意味も無いかも知れないけど、願掛けって言葉もあるし、やってみよう。」

 

 そう言って涼は机の引き出しから一冊の本を取り出し、執務室を出ていった。

 果たして、涼の言う「願掛け」とは一体何なのだろうか。それは、彼が向かった場所に関係しているのかも知れない。

 

 

 

(よう)(けい)、今ちょっと良いかな?」

 

 涼は城のとある場所に来ると、二人の少女を真名で呼んだ。

 

「なんだい、大将?」

「お仕事でしょうか、清宮様?」

 

 葉こと張世平(ちょう・せいへい)は男勝りな口調ので返事をし、景こと蘇双(そそう)は大人しめな口調で訊ねた。

 ここは徐州軍の武具の管理を一手に引き受ける部署。新しい武具が有れば買い取りに行き、古い武具はどこかに高く売り付け……もとい、取引をしているのがここである。葉と景はその武具管理の責任者を務めている。

 

「ちょっと二人に作ってもらいたい物があってね。」

「あたい達に頼みかい? 何だか久し振りな気もするな。」

「そうですね、私達の登場も大体十年振りくらいな気もしますし。」

「そういう事言わない。」

 

 メタいメタい。

 いやまあ、作者も当初はこの二人をそれなりに登場させようと思っていたのだけど、いろいろ書いていたらほったらかしになっていたという事情があったりする。

 そもそも、三国志演義でも序盤も序盤に一回出るだけの人物をレギュラーにしようってのがかなり無茶な訳で。いやまあ……済みません。

 

「それはともかく、あたい達は何を作れば良いんだい?」

「旗を作ってほしいんだ。」

「旗……ですか?」

 

 涼の依頼に怪訝な顔をする二人。

 それも無理からぬ事であった。旗というのは「旗印」という言葉もある様に軍や部隊を示すものである。当然ながらそういった物は既に作ってあるし、涼の部隊用の旗も勿論ある。

 なので、涼が今こうした依頼をするという事は既存の旗ではなく新しい旗が欲しいという事だと二人は理解した。だが、一体どんな旗をどんな理由で欲しいのかは分からなかった。

 涼は二人のそんな困惑を知ってか知らずか、持ってきた一冊の本のページを開いた。

 

「……風林火山? それと誠?」

「こっちは何と読むのでしょうか? おんりえど……?」

 

 涼が持っていた本には様々な旗が描かれており、二人は意図せず夢中になって読んでいった。彼女達は知る由もないが、当然ながらそれは絵ではなく写真、または画像を印刷したものであり、フルカラーであった。

 涼はその中から三つの旗を指定し、それらを作ってほしいと頼んだ。

 

「あ、風林火山の旗は“其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山”って黒地に金で書いて、風林火山の部分は赤で書いてね。」

「拘ってるねえ。別に構わねえけど。」

「ありがとう。じゃあこの本は二人に貸しとくから、あとは頼むね。」

 

 涼はそう言うと所定のページの端を軽く折り曲げて目印にして葉に渡すと、慌ただしく部屋を出ていった。

 葉は「忙しそうだねえ」と呟きながら涼が居た方向を見ていたが、景は葉の手にある本を見ながら神妙な顔をしている。

 

「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山……これって確か……。」

「ん? 何か知ってるのか、景?」

 

 景の呟きに反応した葉は聞き返した。

 

「はい。確か孫子の兵法にこの記述があった筈です。」

「孫子の兵法ー? お前よく知ってんな。」

「以前、興味本意で雪里(しぇり)さんからその本を借りた事があって、それで覚えているんです。」

 

 珍しい事もあるなと思いつつ、今の時代に軍に関係する仕事をしているのなら、興味を持つのも当然かとも葉は思った。

 

「ですが……何故この文字なんでしょう?」

「? 何か問題があるのか?」

「問題は無いんですが、これは本来“故其疾如風 其徐如林 侵掠如火 難知如陰 不動如山 動如雷霆”と書かれているんです。」

「ん? 何か足りねえな。」

「はい。“難知如陰”と“動如雷霆”がこれには無いんです。この二つが無いのは何故でしょうか。」

「何でだろうな。けどまあ、それは後で大将に聞けば良いさ。あたい達は言われた通りに旗を作るだけだ。」

「そうですね。」

 

 葉と景はそう言うと早速依頼された旗の製作に取り掛かった。

 なお、涼はおろか現代でも何故この文字構成になったのか分かっていないという事実を知るのは別の話である。



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第二十二章 いざ、連合へ・4

 そんなこんなで数日が過ぎ、いよいよ徐州軍出立の日を迎えた。

 

 

 

 旅立ちには最適の快晴無風の中、徐州軍遠征部隊は青州遠征の時と同じ様に下邳城外に集まっていた。

 今回の総数は約八万。青州遠征時の約十万と比べれば少ないが、その大多数は先の遠征に参加していない、休養万全の兵達である。

 率いる将も歴戦の名将である関羽、張飛を筆頭に活躍著しい趙雲(ちょううん)。青州遠征で敵将を討ち取る戦功を挙げた、劉備の従妹の劉燕(りゅうえん)。徐州軍古参の陳珪や糜竺、糜芳(びほう)といった具合に皆、徐州軍の中核を成す者達ばかり。

 文官も今回初の筆頭軍師として従軍する諸葛亮とその級友である鳳統(ほうとう)徐庶(じょしょ)。この他にも程昱、孫乾などが居り、やはり彼女達も徐州軍になくてはならない者達である。

 この、綺羅星の如く集った文武将官をまとめあげるのは徐州牧であり総大将である劉備。その補佐に義兄の清宮が就く。まさに徐州軍のオールスターキャストである。

 今度は下邳城の城壁の上からではあるが、劉備は先の青州遠征時と同じ様に諸将達に向かって演説を行った。そこには関羽たち重臣達だけが劉備の左右に(はべ)っている。

 

「かつて、()桀王(けつおう)の暴政に(いん)湯王(とうおう)が立ち向かった様に、殷の紂王(ちゅうおう)の悪政に(しゅう)武王(ぶおう)が八百諸侯と共に戦った様に、私達も今まさに暴君を誅すべくここに集まりました。」

 

 そこで一旦呼吸を整え、唇を湿らせて再び言葉を紡ぐ。

 

「私の先祖である高祖劉邦(こうそ・りゅうほう)も、(しん)の二世皇帝を打倒すべく(はい)で兵を挙げました。」

 

 沛は沛県の事を指し、小沛とも言う。後漢時代は豫州に属しており、徐州のすぐ近くに在る。

 

「その後の高祖劉邦がどうなったかは皆さんご存じの通りです。覇王項羽(はおう・こうう)との死闘の末、漢王朝を建国し、今に続く漢の礎を築きました。」

 

 この国に生まれ住んでいる者なら誰もが知っている事を敢えて強調するかの様に、劉備は言葉を紡いでいく。

 

「ですがそれも、二世皇帝や項羽が居なくなったからこそです。もしどちらかが居れば、この国は今滅んでいたかも知れません。」

 

 もし二世皇帝が暗愚でなく、または項羽が自滅しなければ歴史は大きく違っていたかも知れない。そもそも漢王朝は建国されなかったかも知れない。

 

「今、この国は滅ぶか生き残るかの瀬戸際にきています。かつての桀王や二世皇帝の様な暴君……董卓が畏れ多くも皇帝陛下に反旗を翻し、帝都洛陽では多くの人々が苦しんでいると言います。」

 

 心なしか、若干言いよどんだ気もするが、劉備は続ける。

 

「私は、偉大なる先祖である高祖劉邦と同じ様に、今ここに打倒董卓の旗を掲げ、皇帝陛下をお救いする為の戦いに挑みます!」

 

 劉邦の様に。そのフレーズを敢えて強調し、利き手を軽く挙げる。

 

「高祖劉邦も漢王朝を開くまでは辛い日々を送りました。ひょっとしたら、私はそれ以上に辛く苦しい日々を送るかも知れません。……それでも。」

 

 一度言葉を切り、瞑目(めいもく)し、その後真っ直ぐに正面を見据えた劉備はこの場に居る全員に聞こえる様な大きな声でハッキリと宣言する。

 

「それでも私は先祖の名を汚さぬ様、劉の名を持つ者として戦います! そしてその為には皆さんの力が必要です! 皆さん、私と共に正義を成して暴君を討ち果たしましょう‼」

 

 劉備が利き手を高々と挙げながらそう言うと、八万の将兵は皆雄叫びをあげて応えた。徐州軍の士気は否応なく高まったのである。

 さて、そんな将兵達とは真逆に士気が下がっている者が居る。他でもない劉備こと桃香である。

 

「涼義兄(にい)さ~ん‼」

「桃香はよくやったよ。本当に頑張った。」

 

 演説を終えて城壁から離れた桃香は、涙を浮かべながら義兄である涼に抱きついていた。涼はそんな桃香を優しく抱き締めると、幼子をあやす様に頭を撫でる。

 

「で、でも……私は(ゆえ)ちゃんを桀王や紂王みたいに言っちゃった……言っちゃったよ~っ!」

「それは仕方ないよ。そうしないと兵達の士気が上がらないし、それに……。」

 

 そこで一旦言葉を切ると、声音を低くして自分と桃香に言い聞かせる様に呟いた。

 

「居るかも知れない間者(かんじゃ)を騙すにはそれしか無かったんだから。」

 

 中途半端に言うよりも徹底的に悪く言う方が将兵の一体感を強くするし、それを聞いたどこかの間者(スパイの事)も徐州軍の動向や目的を勘違いするだろうとの考えでこの様な内容になっている。

 ちなみに、桃香の演説内容はあらかじめ軍師達が考えたものだ。

 桃香は涙を拭うと涼から離れ、改めて決意する様に頷く。

 

「そう……だよね。私達がしっかりやれば、その分だけ月ちゃん達を助けられる確率が上がる訳なんだし。」

 

 例えその確率の上昇具合が微々たるものであっても、桃香たちにとっては必要なもの。塵も積もればなんとやら、の精神でやっていく所存なのだ。

 涼は意地らしい桃香を微笑ましく見つめた後、出立の合図を出した。それを受けて愛紗たちは皆持ち場へと動いていく。

 ただ一人、趙雲こと(せい)は皆が移動した後も残って涼と桃香を見つめていた。

 

「……? どうしたの、星?」

「いやなに、その様にしておられるとお二人は兄妹(きょうだい)というより恋人の様だなと思いましてな。」

「「っ!?」」

 

 思わぬ言葉に涼と桃香は同時にむせてしまった。その様子を見て星は可笑しそうに笑っている。

 

「いや失礼。恋人の様に見えましたが、その息の合い様はやはり兄妹ですな。」

 

 からかっているのだろうか、と涼は思いながら星を見、次いで桃香を見た。桃香は頬に手を当てながら顔を真っ赤にしていた。それこそ耳まで。

 それを見て涼も少なからず顔を赤らめた。星は口許に手を当てながらクスリと笑っている。

 やがて、涼はわざとらしく咳払いをし、それを受けて桃香も深呼吸をした。

 

「桃香、先に行って将兵達に顔を見せておいで。出立前できっと緊張している筈だから。」

「そ、そうだね! じゃ、じゃあ私は先に行ってくるから義兄さんも早く来てねっ。……ひゃあっ!?」

 

 慌てて走り出したからか少し躓いて変な声が出てしまっていたが、どうやら大した事はないらしくそのまま走っていった。

 涼はそんな義妹(いもうと)を見送ってから、(いま)だ残っている星へ話し掛ける。

 

「……で?」

「で? とは?」

「出立の忙しい時にわざわざ残っているんだ。俺か桃香に話があったと考えるのが自然だろ。」

「成程。そして私はまだここに居る。」

「それはつまり、星の話したい相手が俺って事だね。」

 

 星はさっきと変わらぬ仕草で、だがその心情は満足しているという風な表情を作り、次いで言葉を紡いだ。

 

「私が聞きたいのはただ一点。“覚悟がお有りか”という事です。」

 

 星の表情は変わっていない。口調も同じく。だが、涼にはその言葉が厳しく重く聞こえた。

 星は真っ直ぐに涼を見据えている。答えを聞く為に。

 覚悟とは何の事か。そんなもの、出立の前に聞くのだから決まっている。

 

「……どんなに頑張っても月たちを助けられないかも知れない事や、徐州を危険に巻き込むかも知れない事についての覚悟なら、とっくにしてるよ。」

「……ならば結構。迷いは身を滅ぼすと言いますからな。主殿(あるじどの)がきちんと覚悟しておられるのなら、この趙子龍(ちょう・しりゅう)の懸念は無くなったと言って良いでしょう。」

 

 そう言った星の表情は幾分か柔らかくなっていた。それを見た涼は内心ホッとしていたが、それを星に見透かされていた事は気づかなかった。

 その後、二人は集合場所へと並んで向かった。道中、世間話や今回の事を話しながら。

 

「まあ、不安点と言えば俺達が居ない間の徐州の守りだね。それなりの人物を配した筈だけど、一部はいろいろと懸念材料のある人だったりするから……。」

「その点でしたら心配御無用。留守居には陳到(ちんとう)が居るのです。きちんと徐州を守ってくれるでしょう。」

 

 そう言った星の表情は自信とも自慢ともとれる風だった。

 陳到とは正史に於ける劉備配下で、趙雲に次ぐ名声、官位があったとされる人物である。が、陳到に関する記述は殆どなく、どんな活躍をしたかは分かっていない。これは、蜀漢(しょくかん)が史官を置いていなかった為に記録が余り残っていないからと言われる。演義では五虎大将軍(ごこ・だいしょうぐん)の一人である黄忠(こうちゅう)の正史における記述が少ないのも、そうした事が理由かも知れない。

 その所為か陳到は三国志演義にも登場していない。ただ、その少ない正史の記述を読むと「忠義に篤く勇猛な武将」だったらしく、もし現代に記録が多く伝わり、演義にも登場していたらゲームや小説にも登場して大活躍していたかも知れない。

 なお、この世界の陳到はやはり女性であり、真面目な性格の様だ。いつ仕官したのかは判らないが、作者が陳到を知ったのが比較的最近なので仕方がない。いずれ活躍の日も来るかも知れない。……多分。

 

 

 

 涼と星は所定の場所に着くと、直ぐ様自分の馬に騎乗した。既に桃香を始めとした諸将は騎乗し終えている。

 諸将の中では最後となった涼の騎乗を見届けた愛紗は、利き手を挙げながら号令した。

 

「旗を掲げよ!」

 

 徐州軍筆頭武将である愛紗の凛とした声が響くと、各隊の旗手が旗を揚げていく。

 徐州軍を示す「徐州」、劉備を示す「劉」などのお馴染みの旗に混じって、涼の周りには見慣れない旗が三種、掲げられていた。

 それを見た桃香は見たままの疑問を呟き、傍に居る朱里もまた同じ様に言葉を紡いだ。

 

「あれって……涼義兄さんの新しい旗?」

「その様ですね。一つは孫子の兵法にのっとった物の様ですが……少し違いますね。あとの二つは何なのか見当もつきません。」

 

 流石の名軍師、諸葛孔明(しょかつ・こうめい)こと朱里も異世界の旗印の意味は判らなかった様だ。当然ではあるが。

 掲げられた旗はそれぞれ、

 

『風林火山』

『誠』

厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)

 

と書かれている。

 「風林火山」は武田信玄の、「誠」は新撰組の、「厭離穢土欣求浄土」は徳川家康の旗印である。

 涼は今回の遠征に大きな願いをしている。それは実現が難しく、だがどうしても成功させたい事である。涼自身には武力は無く、政治力も無い。そんな彼が最後に頼るのは神頼みだった。そしてその神頼みは新しい旗を作る事で実現しようとした。端から見ると何とも無茶苦茶で馬鹿馬鹿しいが、当人は至って本気で真面目である。

 その際自身が知る、日本の戦国時代や幕末の有名な旗印の中からいくつか選んだ。

 「風林火山」を選んだのは、戦国最強と言われた強さを徐州軍にもたらしてほしいという事と、元ネタが孫子の兵法に由来する事から、孫子の子孫を自称する孫家との繋がりを暗に示す為でもあった。

 「誠」を選んだのは、不器用ながらも自分達の道を正しいと思い突き進んだ新撰組に敬意を払い、今の自分達がやっている事が正しいと再認識する為。

 「厭離穢土欣求浄土」を選んだのは、本来の意味である“(けが)れきった国土を(いと)い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す”という言葉が今の涼の心情に合致している事と、この旗を使った徳川家康が天下泰平の世を作ったので、それにあやかりたい為である。

 これら三つの旗に加え、いつもの「清宮」の旗を掲げた清宮隊の陣容は、一見するとまとまりの無い、何とも奇異に見えたかも知れない。

 だが、既に触れた様に涼自身は到って本気で真面目である。これらの旗が掲げられ、風を受けてなびいている姿を見た涼は満足し、次いで今回の遠征の成功をこの真新しい三つの旗に祈った。

 その光景を見た桃香たちは何を思っただろうか。

 涼の並々ならぬ意思を感じ取ったか。

 それとも困惑したままか。

 はたまた無理矢理にでもその真意を探ろうとしたか。

 いずれにせよ、見慣れぬ旗を作ったという事はそこに何らかの意味があると考えただろう。その意味が当たっているかは別にして。

 

「何か格好いいかも。」

 

 桃香はそう言葉を紡いだ。それが彼女の答えだった。

 確かに「風林火山」と「誠」は格好いいと思う。特に「誠」の旗は赤地に白抜き文字、下部に所謂ダンダラ模様があり、現代でもこの隊旗に憧れを持つ歴史ファンは多い。

 尤も、この隊旗は現存しておらず、現在有るのは当時の関係者の証言に則って再現されたものである。一方で、新撰組隊士だった永倉新八は後年、隊旗にダンダラ模様は無かったと言っていたりする。

 それら二つと比べると、「厭離穢土欣求浄土」の旗は白地に黒で書いているだけである。果たしてこれが格好いいかどうか。義兄に対する贔屓目かも知れない。

 そうしたまとまりの無い旗印ではあるが、並べてみるとカラフルと言えなくもない。黒地に金、赤地に白、白地に黒。実は色合いは被っていなかったりする。

 「清宮」の旗は義勇軍の頃から何回かデザインが変わってきたが、今は紺地に白というデザインに落ち着いており、先の三つとやはり被っていない。うん、意外とカラフルな旗印になっている。

 その清宮隊が行軍の先陣を務める。なのでここに「徐州」という旗も加わる。更にごちゃごちゃしてきたが仕方がない。

 清宮隊は(おごそ)かに進んだ。第二陣には関羽隊、以下、張飛隊、糜竺隊、糜芳隊と続いていき、中ほどに本軍である劉備隊。すぐ後ろに趙雲隊、劉燕隊、廖化(りょうか)隊と続いていき、殿軍(でんぐん)は陳珪隊が務める。

 総勢八万もの大軍の行軍である。城下の人々は皆その光景を見送った。

 その多くは大切な家族や親友、恋人を見送る為であり、残った者の心情は果たしていかばかりか。ただただ、無事に戻ってきてほしいと願うばかりだろう。



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第二十二章 いざ、連合へ・5

 さて、そんな大軍の徐州軍だが、このまま西へ行軍して会盟の地に行く訳ではない。当初はそのつもりだったのだが、同盟関係にある孫家の提案で陸路ではなく水路を使って進む事になった。

 徐州軍は今、孫軍との合流地点である泗水に向かっている。下邳から見て南東に位置する河である。

 その途中、桃香は隣を進む朱里に向けて話し掛けた。

 

「泗水は近くに在るから勿論知っているけど、あの河から河内へ行けるんだねえ。」

「はい。泗水は西に長く続いていて、途中で名前が変わったりしますがその流れは遠く長安(ちょうあん)を横切り、五丈原(ごじょうげん)なども通過する程長いのです。」

「ふえー、凄いねえ。……五丈原ってどこだっけ?」

雍州(ようしゅう)辺りですね。」

「ふえー、本当に遠くまで続いてるんだねえ。」

 

 何でも知っている朱里を心の底から尊敬する桃香を微笑ましく見ながら、朱里は表情をやや真面目にして言葉を紡いだ。

 

「……水路を通って何処へでも行けるという事はつまり、水路を通って攻め入る事も可能という事です。今の私達は孫軍と友好関係にありますが、もしもの時は警戒しなければなりません。」

「……もしもの時が来ない事を祈るよ。」

 

 それが良いでしょうね、と言って朱里はこの話を打ち切った。孫軍とはこれから共に戦うのだから、必要以上に警戒させる事はないと判断したからだった。

 

 

 

 さてその頃、先頭を行く涼は間もなく泗水の合流地点という所まで来ていた。

 

「雪蓮たちはもう来ているのかな。」

「恐らくは。雪蓮様は清宮様との再会を心待ちにしていらっしゃいますので、今か今かと待ち兼ねているかも知れません。」

 

 涼の呟きにそう返したのは隣を進む周泰こと明命。彼女は先日下邳に来て以来ずっと滞在していた。

 厳密に言えば、徐州軍の出立日が決まるとそれに関する手紙を持って一度建業に戻っていたが、二、三日後には雪蓮たちからの手紙を持って戻ってきた。どんな脚力と体力をしているのだろう、河も在るのにと涼は思ったが、やはり「この世界はそういうものなのだろう」と結論付けて深くは考えなかった。

 以来、明命は徐州軍を孫軍にエスコートする役目をもって涼や小蓮の傍に侍っていた。余りに傍に居るので愛紗たちは当然ながら、小蓮も怒って一悶着あったが、それも今思えば微笑ましいなと涼は思っていた。

 

『危機感が無さすぎます』

 

 と、雪里や風などから怒られたのも同じく。

 そうこうしている内に泗水が見えてきた。そしてそこには、数えきれないほど大量の船が待機していた。当然ながら孫軍の船である。

 出迎えなのか、何人かが陸に降りていた。その中から一人、特徴的な桃色の髪と紺碧の瞳、褐色の肌の女性が馬を駆って近づいてきた。

 

「涼ー! 待ってたわよー!」

 

 近づいてきたのは雪蓮だった。言うまでもなく、孫軍の中心人物の一人である孫策(そんさく)だ。

 その様子を見て涼は苦笑しつつ歩みを早め、雪蓮と合流した。少し遅れて明命が続く。

 一方、後方からその様子を見ていた愛紗は、呆れる様な驚愕する様な複雑な表情をしていた。

 

(いくら我等が同盟関係にあり、義兄上(あにうえ)と婚約しているとはいえ、単騎で徐州軍に近づくとは。我等を信頼しているのか、義兄上の傍に周泰が居るから安心しているのか。いずれにしても、やはり雪蓮殿は油断ならぬな。)

 

 愛紗は一人の武将として雪蓮に敬意を表しつつ、同時に警戒心を無くさない方が良いと再認識した。

 そんな風に愛紗が思っているとはつゆとも思ってない涼は、雪蓮と話し込んでいた。

 

「ひょっとして、結構待たせちゃった?」

「そんな事ないわよー、今来たとこ♪」

 

 この大船団が整然と並んでいるのを見ると、どう考えてもそれは嘘だと解る。そもそも、さっき雪蓮は待ってたと言っていた。が、涼は敢えて追及せずに話を続けた。

 

「そうそう、明命が来てくれて助かったよ。彼女のお陰でシャオも少し肩の力が抜けていたからね。」

「それは良かったわ。けど、それは本来婚約者である貴方の役目よ、涼?」

 

 痛い所を突かれた、と苦笑しつつ、涼は話を続けていく。

 

「そ、それはまあいずれ、ね。でも、本当に明命が居てくれて助かったよ。こうして雪蓮たちと連携出来るんだから。」

「うちの軍の将来有望な子だからね、明命は。……同盟関係の貴方が頼むなら(ねや)の相手もしてくれるかもね?」

「「えっ!?」」

 

 悪戯っぽく微笑む雪蓮の言葉に、少年と少女が同じ驚きの声をあげる。少女ーー明命に至っては両の頬に手を当てて顔を真っ赤にしていた。どうやら、まだそういった経験は無いらしい。

 少年ーー涼は「あれ、同盟の内容にそんなのあったっけ?」と思いながら、からかわないでよと言った。雪蓮はそんな涼と明命を見て満足したのか、涼が率いる(勿論、総大将は涼ではなく桃香である)軍勢に目をやった。

 すると今度は雪蓮が驚いた。彼女の視線の先には、「これから行く場所には一緒に居てはいけない人」が居たからだ。

 驚いた雪蓮は直ぐ様涼に説明を求めた。

 

「ちょっと涼! なあんでここにシャオが居るのよ!?」

「……やっぱりそう思うよねえ。」

 

 笑顔のまま抗議するという器用な雪蓮の問いに、涼は苦笑しつつ説明をした。

 シャオこと小蓮が徐州に居るのは、涼と婚約しているというだけでなく、孫家に万一の事が遭った際の「保険」でもある。黄巾党の乱を切っ掛けに乱世に突入したこの国で生き残る為には、そうした事も必要だ。その為、雪蓮は本当なら小蓮を力づくでも下邳に戻すべきなのである。

 だが、大切な妹の気持ちも理解できる姉は結局そうしなかった。

 

「まあ、あの子も誰に似たのか頑固なところがあるから、こうなるのも仕方ないのかもね。」

 

 呆れがちに言う雪蓮を見ながら、「多分、雪蓮や海蓮さんに似たんじゃないかなあ」と言いそうになった涼だったが、何とか口にしなかった。が、何故かその直後に雪蓮からヘッドロックを決められた。

 そんなこんなで孫軍との合流を果たした徐州軍は、無事に軍勢を船に乗せ、一路会盟の地である河内へと進発したのである。

 道中、いつもの様にいろいろあったが、それはまた別のお話。



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第二十二章 いざ、連合へ・6

 その様に徐州軍と孫軍が合流する数日前、洛陽では一つの事件が起きていた。「皇帝の暗殺」である。

 現代でいうなら草木も眠る丑三つ時。その様に深い時間の洛陽の宮殿の一室に二人の少女と二人の少年が円卓を囲んで話をしていた。

 

「……以上の理由により、陛下には“死んでいただきます”。」

 

 そう言ったのは賈駆(かく)こと(えい)。今は相国(そうこく)である董卓こと月の補佐を務める尚書(しょうしょ)という役職に就いている。

 

「……そんな。」

 

 「死んでもらう」と言われた陛下こと劉弁(りゅうべん)は絶句していた。当然であろう。

 劉弁はしばし呆然とした後、詠に訊ねた。

 

「何か他の方法は無いのか?」

「ありません。」

 

 詠の答えは簡潔だった。他の問いも受け付けないかの様な、冷たさを含んでいた。心なしか表情もそうなっていた。

 そんな表情の詠は劉弁から視線を移しながら冷たい言葉を紡いだ。

 

「陛下が“亡くなられた”後は、弟君の陳留王・劉協(りゅうきょう)様が即位されます。……よろしいですね、殿下?」

「……本当にやむを得ないのか。」

 

 この場に居たもう一人の皇族、劉協は長い赤髪を揺らしながら険しい表情をしている。

 劉協はしばし思案した後、左側に座っている少女に問い掛けた。

 

「月よ。こんな事をしてしまえば貴公の悪評は完全なものになり、最早後戻りは出来なくなる。それは承知しているのか?」

 

 問われた少女、月は殆ど間を置かずにその問いに答える。

 

「承知しています。(むし)ろ、これは私の発案ですから。」

 

 まるで人形の様な生気の無い、能面の様な表情でそう言った。視線はずっと正面の劉弁を見据えている。

 月の答えに納得できない劉協は、卓を叩きながら立ち上がり更に問い掛ける。

 

「何故だ。確かに袁紹(えんしょう)らのやっかみはあったものの、弁明の機会はいくらでもあった。いや、この帝都洛陽に居るのだからいつでも弁明し、事態の解決を図る事は可能だった筈だ。」

 

 確かに劉協の言う通りだった。

 十常侍誅殺以来、本拠地である涼州には戻らずずっと洛陽に居た月たちにはいくらでもその機会があった。そもそも、現在の地位なら多少の無茶をしても解決出来たかも知れない。

 だからこそ、劉協は納得出来なかったのだ。

 

「それなのに何故貴公はそれをしなかったのだ?」

 

 この問いには月はすぐに答えなかった。

 視線を左隣に居る詠に向ける。詠もその視線に自身の瞳を合わせ、暫し後にゆっくりと頷いた。しばらくして、月は劉弁と劉協を交互に見ながら言葉を紡ぎ始めた。

 

「……これから話す事は、どうか他言無用にお願いします。」

 

 劉弁と劉協が頷いたのを確認した月は、一転してそれまでの能面の様な表情を崩し、年頃の少女の、だが悲壮な表情になって口を開いた。

 

「私の父母が、とある輩に捕らわれているのです。」

 

 それは衝撃的な告白だった。劉弁も劉協も驚愕の表情のまま動かない。

 ただ一人、詠は沈痛な面持ちで月を見ていた。

 

「その輩の要求は、“これから私の身に降りかかる災厄を解決しようとせず、悪逆非道の名を天下万民に知らしめる事”、です。」

「何だそれは……そんな事をしてその輩に一体何の得があるというのだ!?」

「殿下、お声が。」

 

 つい声を荒げてしまった劉協を静かに注意する詠。劉協はハッとし、口を抑えながら着席し話の先を促した。

 

「詳しくは判りません。ただその輩は、“それによって引き起こされる戦が必要”とだけ言っていました。」

「ついでに申しますと、その輩は戦が起きた際は手助けをすると言っています。」

「そして、全てが終わった際に父母を解放する、と。」

「その為に貴公らは何も言えなかったのか……。」

 

 その様な理由があっては、何もしなかった、いや、出来なかったのも無理からぬと劉協は思った。

 輩の目的は今一つ不明瞭ではあるが、少なくとも董卓たちが苦しむ事を良しとする一団である事は確かであった。そして、仮にも涼州の一部を治める才能を持った武将を脅迫する輩が存在する事に劉協は戦慄していた。

 

「ですので、陛下には絶対に“死んでもらわなければならない”のです。御理解いただけましたか?」

「……理解はした。だが納得はしていない。その輩を誅殺する事は出来ないのか?」

「恐らく可能でしょう。ですが、輩に何かあった際は月の父母の命は無いものと思えと“忠告”されました。……残念ながら、ボク達は月の父母が何処に居るか判らないのです。」

 

 詠の表情には諦めが含まれていた。恐らく、これまでに何度も月の両親の居場所を調べていたのだろう。だが、恐らくその結果は芳しくないものだった。もし良い結果ならこんな表情はしていない。

 

「……解った。ならば月たちの言う通りにしよう。」

「申し訳ありません、陛下。」

「構わぬ。思えばあの時、清宮達が助けに来ていなければ十常侍に殺されていたかも知れぬ我が身だ。有効に使えるならそれに越した事はないさ。」

 

 状況を理解した劉弁は納得した様な表情でそう言った。そんな皇帝に月と詠は心から頭を下げた。

 

「流石はこの漢の皇帝です、劉弁陛下。」

「貴公らの忠節に感謝する。……後は頼むぞ、協。……いえ、“姉上”。」

 

 劉弁は弟である筈の劉協に向かってそう言った。

 劉協は一瞬驚いたが、すぐに常の表情に戻し、苦笑しながら応えた。

 

「この様な時に姉と呼ぶか。私は“弟”だ。」

「……そうだったな。済まない、協。」

 

 「兄弟」の最後の会話を、月と詠は静かに見守っていた。そこには驚きも何もない。ただ冷静に見守っていた。

 やがて、頃合いを見計らって月が告げた。

 

「……では、陛下は只今より“死んでいただきます”。」

 

 こうして、「皇帝の暗殺」は行われた。

 

 

 

 翌日、皇帝劉弁とその生母、何太后(か・たいごう)の急死が発表された。

 洛陽の都は勿論、宮廷内も大騒ぎとなった。

 事態を終息させる為、相国である董卓は劉弁の異母弟である陳留王・劉協の即位を発表した。後の世に「献帝(けんてい)」と呼ばれる皇帝の誕生である。

 洛陽の武官文官は皆新たな皇帝の誕生を祝った。だが、それと同時に急逝した劉弁と何太后に別れを告げたいという者も数多く居た。

 だが、董卓と賈駆は

 

『先帝陛下と太后様は病により崩御され、その御遺体は既に埋葬してある。御遺体に病が残っている危険性もある為、何人たりとも陵墓に立ち入ってはならない』

 

とのお触れを出し、二人へ直接別れを告げる事を禁じた。

 これには一部の者が反発したものの、新皇帝である劉協が二人のお触れを支持した事もあってすぐに沈静化した。劉弁と何太后の遺体が安置してある陵墓は警備が厳重で多くの見張りが立っている事もあって、その亡骸を見た者は誰も居なかった。

 そう、“劉弁と何太后の亡骸を見た者は誰も居ない”のだった。



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断章二 とある少女の行動

少女は旅をしている。

興味がない世界で、興味がある人物を思いながら。

少女はずっと旅をしている。



2020年3月5日更新。


 少女が歩いていた。

 あてもなく、ではない。しっかりとした目的があって歩いていた。

 

「……ここね。」

 

 そう呟いた少女は崖の上に立っている。眼下に見える建物は木造で、一見ただのボロい家である。

 だが、その周りには物々しい雰囲気を持つ兵士が何人も居る。これだけで、ここが只のボロい家ではないと察する事が出来る。

 

「というか、これってわざとやってない? こんなあからさまに兵士を置くなんて、“どうぞ見つけてください”って言ってる様なもんじゃない。」

 

 それとも、見つけられても良いと思っているのか、と考えた少女はそのまま前に進み、崖から飛び降りた。

 飛び降りた、とはいうが自殺をした訳ではなかった。少女は生きて崖下に降りていた。それもまったくの無傷(・・・・・・・)で。

 兵士の何人かはその様子を見ていた。あまりの出来事に呆気にとられていたが、やがて我に返ると武器を少女に向けながら怒声を発した。

 

「誰だ貴様! 怪しい奴め!」

 

 その声に反応した他の兵士達もわらわらと集まり、瞬く間に少女は兵士達に囲まれていった。

 だが、当の少女はというとその様な状況にも拘わらず平然としており、何と髪をいじる余裕さえ見せていた。

 その様子に兵士達も困惑し、互いに顔を見合わせた。やがてさっき怒声を発した兵士が再び口を開こうとした。が、その声は完全に発せられる事は無かった。

 

「怪しい奴に怪しいと言われる筋合いは無いわね。まあ、私が怪しいのは確かなんだけど。」

 

 少女がそう言った時、いつの間にか手にしていた杖が金色に光った。

 

 

 

「これで良し、と。」

 

 目的を達成した(・・・・・・・)少女はそう言うと両手を組んで背筋を伸ばした。

 白いノースリーブに薄紅色のプリーツスカート、黒いオーバーニーソックスや水色のシューズ。灰色のつばなし帽子と、その帽子から伸びる顔を覆い隠す様な白と黒が混じったヴェール。

 そんな格好の少女は特別目立ったスタイルではないが、出るとこは出て引っ込むとこは引っ込んでいる。巨乳や巨尻ではないが充分に整った体の持ち主である。

 もっとも、そうした外見に余り執着が無いのか、化粧らしい化粧はしていない。かといってヴェールで顔を覆っているのは、化粧をしていない事を誤魔化す為ではない。ただ単に、余り顔を見られたくない(・・・・・・・・・・・)だけである。

 

「あとはどうしようかしらねえ。」

 

 そう言うと無意識の内に空を見上げ、ゆっくりと歩き出した。

 とそこに男性の、どこか寒気をもよおす声(・・・・・・・・・・・)が後ろから聞こえてきた。

 

「あーら“北斗(ほくと)”ちゃん、こんな所に居たのねえ~。」

 

 謎の男性から「北斗」と呼ばれた少女は、一瞬体を震わせるとゆっくりと振り返り、そこに居た人物を見るとハアと溜息を吐き、心底嫌そうな表情と声音になった。

 

仮でつけた真名(・・・・・・・)でわざわざ呼ぶなんて、よっぽど暇なのかしらね、貂蝉(ちょうせん)?」

 

 少女ーー北斗はそこに居る人物を「貂蝉」と呼んだ。

 貂蝉と言えば、三国志演義に出てくる女性で、董卓(とうたく)呂布(りょふ)を仲違いさせる為に送り込まれた絶世の美女の名前がそうである。ちなみに、貂蝉という女性は正史には登場しておらず架空の女性とされる。一応、モデルとなった女性は正史に記述があるので、そこから貂蝉という人物が作られたのだろう。

 では、今ここで貂蝉と呼ばれた人物は絶世の美女かというとそうではない。そもそも声が男だ。毎週日曜日の夕方六時半から七時までに何回か聞くタイプの。

 北斗の視線の先に居るのは、筋骨粒々なマッチョな肉ダルマな褌一丁の変態男性だった。

 

「だーれが筋骨粒々なマッチョな肉ダルマな褌一丁の歩く有害変態ですってー!?」

「言ってないわよ!?」

 

 突然大声をあげてそう言った貂蝉に驚きながらもツッコミを入れる北斗。

 

「と言うか、変態なのは事実でしょうが。」

「ひどいわっ! ちょっと半裸が好きなマッチョってだけじゃないの!」

「家の中だけならまだしも、公の場でもそんな格好してる人間はすべからく変態よ。」

 

 もし、道の向こうから半裸のマッチョが褌一丁で歩いてきたら確かに変態だと思うし、恐い。しかもこの自称貂蝉はそんな格好な上に口調がオカマである。

 今の世の中、オカマやオナベと呼ばれる人は珍しくないが、実際に目にするとやっぱり嫌悪感を感じてしまう人も多いだろう。こればかりは、生理的なものとしか言いようがない。

 

「まあ、それはそれとして。」

 

 そんな貂蝉はそれまでより幾分かまともな口調に戻すと、

 

「北斗ちゃんはこの後どこへ行くのかしらあ?」

 

と訊ねた。まともな口調はすぐに元に戻った様だ。

 それに対して北斗はしばらく考え込んだ後、

 

「特にあてはないわ。」

 

と答えた。

 だが貂蝉はその答えをすぐに否定した。

 

「嘘ばっかり。それなら何で“ここ”に来たの?」

「それは……。」

 

 北斗は言い澱んだ。次いで、一人の少女と一人の少年の姿を思い浮かべた。

 天真爛漫で、いつも他者を思いやる心を持った優しい少女。

 楽天的ながらも、やる時はやる……筈の少年。

 少女とはほんの一ヶ月、少年とはほんの数分しか会っていないが、北斗が会った人物の中では特に印象的なのがこの二人だった。

 北斗はこの国に思い入れはない。そもそもこの国の人間ですらない(・・・・・・・・・・・)。だが、彼女は確固たる信念を持ってこの国に居る。必ず目的がある。だからこそ貂蝉は彼女の言葉を否定した。

 北斗は再び考え込んだ後、改めて答えた。

 

洛陽(らくよう)に行く為にまずはここに来た、のでしょうね。」

 

 貂蝉はその答えには納得したのか、不気味な笑みを浮かべながら頷いた。

 

「だーれが不気味な笑みを浮かべる化け物ですってー!?」

「だから言ってないわよ!?」

 

 再び大声を上げた貂蝉に驚きつつツッコミを入れた北斗。貂蝉には何が聞こえているのだろうか。

 北斗はコホンと咳払いをすると、改めて貂蝉に視線を向けて言葉を紡いだ。

 

「そういえば、アンタは何しにここに来たのよ?」

 

 ここには「彼等」しか居なかったのに、と思う北斗。

 

「それは北斗ちゃんと同じよー。」

 

 ウインクしながらそう答える貂蝉。北斗はおえーっと吐くような仕草をした。

 

「やーね、失礼しちゃうわー。」

「アンタのその姿を見て吐き気をもよおさない人間なんて、そうそう居ないわよ。」

 

 そんな人間が居るなら会ってみたいもんだわ、と思いながら北斗は話を続ける。

 

「で、私と同じって言った? アンタもあの二人(・・・・)を探しているの?」

「ええ、あたしはあの二人とはそれなりの因縁もあるからねぇん。」

 

 そう言うと貂蝉は再びウインクをした。北斗はまた吐き気をもよおした。

 

「……そう言えば、アンタ達(・・・・)北郷一刀(ほんごう・かずと)に惚れ込んでたわね。今度は()に乗り替えるのかしら?」

「あたしはそんな浮気性な漢女(おとめ)じゃないわ。今でもご主人様の事は好きよー♪」

 

 体をくねらせながらそう言った貂蝉を見た北斗は三度(みたび)吐き気をもよおした。

 

「それじゃあ、彼には興味が無いのね。だとしたら彼の精神衛生上とっても良い事だわ。」

「北斗ちゃんったらひどいわー、こんな可憐な漢女をまるで化け物みたいに言うなんて。」

「アンタは今すぐ可憐という言葉に対して土下座しなさい。」

 

 北斗は辺りを見渡し、忘れた事が無いか確認しながら貂蝉に向かって痛烈な言葉を投げた。

 だが貂蝉はそんな事で傷ついてはいない様だ。流石は変態ながら筋肉マッチョなだけはある。

 

「だーれがっ……まあ良いわ。そんな訳であたしも同行して良いかしら。」

「……どうせ、拒否しても勝手に着いてくるんでしょ。」

「まぁねん。」

 

 最早吐き気も枯れたのか、慣れたのかは知らないが普通の表情の北斗は貂蝉を一瞥すると体を先程向かおうとした方向に向け、ゆっくりと歩き出した。貂蝉はそれにスキップで着いていく。地面が変な音を立てた。

 

「一つ条件があるわ。」

「なにかしらぁん?」

「着いてくるのは良いけど、私の半径二十五メートル以内に入らないでね。」

「ひどいわぁん!」

 

 これでも譲歩した方なのだけど、と内心で舌を出しながら北斗は杖を前に向け言葉を紡いだ。

 

「あとは間に合うか、ね。私が着くまで死なないでよ、桃香(とうか)。それと、清宮涼(きよみや・りょう)。」

 

 そう言った北斗の表情は、ヴェール越しでもハッキリ判るほど真剣で、だがどこか楽しんでいる様だった。




断章二「とある少女の行動」を御覧いただき、有難うございます。
「断章」の意味はいまだによく解っていません(笑)

今回、恋姫で一番インパクトがあるキャラを登場させました。
いつかは登場させないとなあと思いながらも、その立ち位置やキャラの濃さからなかなか登場させる事が出来ず、取り敢えず今回出す事にしました。

もう一人の登場人物にして今回の主役はオリジナルキャラで、かつ再登場になります。こんなキャラ居たっけ? と思った方、実は出てるんですよ。結構始めの方に一回だけ。
彼女はオリジナルキャラですが、立場は今回の話で何となく解った方も居るかも知れません。ちなみに声は水樹奈々さんをイメージして台詞を書きました。

次はまた本編になります。
実はまだ書き上げていないので更新がいつになるか未定ですが、令和一周年までには更新したいです。
それまでどうか、ごゆっくりお待ち下さい。


2012年3月5日更新。


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第二十三章 英雄達の集結・1

連合の名の許に集った多くの人々。

既に名のある者、これから名を上げようとする者。どちらも目的は同じ、筈。

その中には、桃香たちにとって重要な人達も多く居るのかも知れない。

2020年11月19日更新開始
2020年12月10日最終更新


 袁紹(えんしょう)の檄文を受けとった桃香(とうか)たち徐州(じょしゅう)軍は軍議の末、連合への参加を決めた。勿論、その胸中は複雑であった。

 袁紹の檄文を要約すれば、“董卓(とうたく)洛陽(らくよう)で暴政の限りを尽くし、民は怨嗟(えんさ)の声をあげている”となるが、それが真っ赤な嘘だと徐州軍の中核の者達は皆思っていた。それは、董卓こと(ゆえ)の性格を知っているからだ。

 (りょう)や桃香たちはかつての黄巾党(こうきんとう)の乱の際に月と共闘しており、彼女が争いを好まない心優しい性格だと知っている。

 その彼女が他者を(ないがし)ろにし、私利私欲に走る等とは、誰一人思っていない。彼女を知らない者は檄文の内容から董卓について若干の疑念を持ったが、涼たちが熱心に否定した為、どちらが正しいかを理解した。

 それでも徐州軍は「反董卓連合」に参加する事を選んだ。檄文の内容が“董卓を倒して帝をお救いする”となっていたからだ。言う迄も無いが、帝とは漢王朝の統治者であり、即ちこの漢大陸の覇者を指している。

 幾ら弱体化しているとはいえ、依然として民衆が漢王朝を支持している以上、表立って漢王朝に楯突く真似は出来ない。ならば、帝をお救いし漢王朝を支える事がひいては自分達の利になると考えたのが袁紹であり、この連合に参加している諸侯の大半もまたそう思っていた。

 一方、涼や桃香が参加を決めたのは少し事情が違う。

 彼等は前述の理由もあって、個人的には董卓軍の味方をしたかった。いつも正しい事をしたいと思っている二人にとっては当然の事であった。

 だが、彼女達は今、徐州を治めている州牧やその補佐という立場にある。その地位は当時の帝である劉弁(りゅうべん)少帝(しょうてい))によって任命されており、つまりは漢王朝のお陰で地位を得たという事になる。

 それなのに連合に参加せず、逆賊である(とされている)董卓についたらそれは即ち自分達も逆賊になるという事であり、不忠以外の何物でもない。

 そうなれば、袁紹は徐州にも連合軍を派兵し、桃香たち徐州軍を攻めると思われる。場合によっては徐州に住む民衆をも攻撃するだろう。何せ彼女達には逆賊を討つという「錦の御旗」があるのだから。

 徐州牧として、また、一人の人間として、民衆を危険に晒す訳にはいかない桃香にとって、板挟みとなる問題であった。

 結果、桃香は徐州を見捨てる事は出来なかった。勿論、納得はしていない。

 涼もそれは同じだったが、彼もまた、月を助ける事を諦めた訳では無かった。何か方法は無いかと考えながら遠征の準備を整え、出立した。

 この遠征には八万もの大軍を動員した。先の青州(せいしゅう)遠征の際には十万もの動員をしたが、それから未だ日が空いていない事もあり、今回の遠征は徐州に残していた兵を中心に編成した。

 一方、将は遠征組・残留組双方から選んでおり、万全の態勢で遠征に臨んでいた。

 ここで、今回の陣容を列挙する。

 

『総大将・劉玄徳(りゅう・げんとく)

『副将・清宮涼(きよみや・りょう)

『筆頭軍師・諸葛孔明(しょかつ・こうめい)

『副軍師・徐元直(じょ・げんちょく)

『副軍師補佐・鳳士元(ほう・しげん)

『副軍師補佐・程仲徳(てい・ちゅうとく)

『兵糧管理官・簡憲和(かん・けんわ)

『兵糧管理官兼第一遊撃部隊長・陳漢瑜(ちん・かんゆ)

『副軍師補佐兼第二遊撃部隊長・孫公祐(そん・こうゆう)

『第一部隊隊長兼部隊統括・関雲長(かん・うんちょう)

『第二部隊隊長・張翼徳(ちょう・よくとく)

『第三部隊隊長・趙子龍(ちょう・しりゅう)

『第四部隊隊長・劉徳然(りゅう・とくぜん)

『第五部隊隊長・田国譲(でん・こくじょう)

『第六部隊隊長・糜子仲(び・しちゅう)

『第七部隊隊長・糜子方(び・しほう)

『第八部隊隊長・廖元倹(りょう・げんけん)

『第九部隊隊長・陳元龍(ちん・げんりゅう)

 

 この様に、現在の徐州軍に於ける重臣達が軒並み選ばれており、先の青州遠征及び南方外交では留守を任されていた者も、先の理由で今回は選ばれている。

 その為、今回の留守は前州牧の陶謙(とうけん)騎都尉(きとい)臧覇(ぞうは)が中心となり、下邳(かひ)を始めとした街の防衛を陳到(ちんとう)曹豹(そうひょう)闕宣(けっせん)張闓(ちょうがい)窄融(さくゆう)趙昱(ちょういく)王朗(おうろう)といった武官・文官が務めている。

 今回の陣容では筆頭軍師の変更が注目される。

 今迄は義勇軍、連合軍、徐州軍で桃香たちと共に歩んできた徐庶(じょしょ)こと雪里(しぇり)が筆頭軍師を務めてきた。彼女の実績は疑いようが無く、また、武官文官問わず慕われている事からも解る様に、その人柄も良い。

 それなのに今回、彼女は筆頭軍師ではない。何か失敗をしての降格でもなく、実際は彼女自身の希望だったりする。

 彼女は今回の筆頭軍師である諸葛亮(しょかつりょう)こと朱里(しゅり)とは旧知の仲である。(つい)でに言えば副軍師補佐の鳳統(ほうとう)こと雛里(ひなり)程昱(ていいく)こと(ふう)とも同様だったりする。

 それだけに雪里は彼女達の実力をよく知っており、朱里だけでなく風と雛里を今回の遠征に推薦したのも、他でもない彼女である。(もっと)も、涼たちは初めから彼女達を帯同させるつもりだったが。

 既に述べた様に雛里や風も副軍師補佐に抜擢されているが、雪里の推薦があったとはいえこの人事は異例と言えなくはない。

 未だ雛里は理解出来るかも知れない。彼女は先の青州遠征で援軍を率い、遠征の成功の一因を作っている。だが、風は涼に勧誘されて徐州軍に入ってからの日が浅く、また実績らしい実績もない。一応、帝への奏上文を届けるなどはしているが、それだけとも言える。幾ら雪里の推薦があったとはいえ、その様な人物の帯同を許し、しかも役職に就けるというのは普通なら反発を買うだろう。

 だが、実際には反発は起きなかった。その理由は、彼女が徐州軍の一員となってからの仕事振りを皆が見ているからである。

 元々、風が親友の戯志才(ぎしさい)こと(りん)と共に旅をしていたのは仕えるべき主を見定める為であり、その為にすべき事はやれるだけやってきた。彼女の身体は余り大きくなく、その為か武力も無いので、文官として、可能なら軍師として仕えたいと思い勉学に励んできた。

 とは言え、軍師になりたいと思うだけで軍師になれる訳では当然無いので、風は実績を積む事にした。軍師は戦時に於いては主の為に献策をするのが仕事だが、平時に於いては普通に文官の仕事をしている。

 風が徐州に来た時はちょうど青州遠征の最中であり、援軍にも選ばれなかったので献策して実績を積む事は出来なかった。だが、戦後直ぐという事でそれに関する仕事は大量に有った。

 戦後処理の仕事は膨大な数の事務処理と言ってよく、人手は幾らあっても足りないくらいだ。風はそんな難仕事を、徐州に来たばかりであるにも係らず楽々とこなし、その結果、皆に自身の実力を認めさせ、信頼を得る事に成功した。

 こうした「実績」が有った為に雪里は風を推薦し易く、皆も「実績」を知っている為に誰も反対しなかった。

 武官に関しては、武将の数が増えた為に必然的に部隊数が増えている。部隊の数字が小さい順に武将としての地位が高いが、それはあくまで対外的なものであり、実際にはそれ程厳格では無い。この辺りは他の軍と大きく違う所であろう。

 また、例によって桃香は自身が総大将になる事に難色を示したが、流石に今回は自身が州牧になっているという事もあって、一応言ってみただけの様だ。



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第二十三章 英雄達の集結・2

 徐州軍が出立して約二週間後。一行は(ようや)く会盟の地である河内(かだい)に到着した。

 河内は黄河(こうが)を挟んで洛陽の北北東に在り、下邳からはほぼ真西にあたる。陸路なら黄河を渡らなければならなかったので大変だったが、今回は孫堅(そんけん)軍の船で進軍していた事もあって全員無事に着く事が出来た。孫堅軍の巧みな操船技術によるものである。

 尚、その際の孫策(そんさく)こと雪蓮(しぇれん)の言葉は、『将来の良夫(おっと)の為なら、これくらい当然よ』だった。何故か桃香たちの機嫌が悪くなって涼が困ったのは別の話。

 さて、ここ河内には既に沢山の諸侯が到着していた。

 そこかしこに数え切れない程の旗がたなびく様に林立しており、一体何万人がこの地に集まっているのかと興味をそそられる程であった。ちなみに涼たち徐州軍が掲げている旗は、各武将の姓を記した旗以外では所属を表す「徐州」などである。

 その様に数え切れない程の人数がこの地に集まっている訳だが、当然ながら彼等はバラバラに集まった訳では無い。涼たちが「徐州軍」として大軍を率いてきた様に、この地の兵士達は皆どこかの軍に所属している。

 涼たち以外の軍を規模の大きさの順に列挙すると、袁紹軍、袁術(えんじゅつ)軍、曹操(そうそう)軍、孫堅軍、馬騰(ばとう)軍、公孫賛(こうそんさん)軍、青州軍、劉表(りゅうひょう)軍、益州(えきしゅう)軍、その他、という具合だ。

 特に袁紹軍は檄文を送った袁紹自らが率いるだけあって三十万という大軍だという。兵数は多めに言うのが普通ではあるが、幾ら何でもこの三十万は多過ぎるというのが涼たちの見解だった。だが、後に本当に三十万だった事が判明し、涼たちを驚かせた。兵糧は足りるのか、という意味も含めて。

 次いで多いのが袁術軍の二十万。以下、曹操軍七万、孫堅軍六万、馬騰軍五万、公孫賛軍四万、青州軍三万、劉表軍二万、益州軍一万。以下は数千単位となっている。

 これを見ても解る様に、袁家の兵数は他を圧倒している。袁家以外の軍を全て集めて、漸く袁家総数の半分を超えるという戦力差だ。

 尤も、袁家の兵はそれ程強くないとの評判もある。先の徐州侵攻で大軍を擁しながら返り討ちにあった事がその理由だ。

 勿論、四方八方からの攻撃で部隊が大混乱に陥ったという事情はあるが、袁紹の指揮能力、特に大軍でのそれは大いに疑問符が付く結果となった。だからこそ、前回以上の数となる三十万という大軍で敵を圧倒しようとしているのかも知れない。

 約八十六万という、この大陸でも史上稀な大軍勢を擁する事となった「反董卓連合軍」。こうなると、総大将は誰になるかという話題が自然と出て来る。

 檄文を送ったのが袁紹である為、袁紹が総大将になるのでは? という意見が多かった。次いで袁術や涼に劉備(りゅうび)、孫堅や曹操と続く。

 涼たちは未だに総大将が決まっていない事に驚いた。というか、そもそも軍議すら開いていないらしい。

 何せ、これだけの大軍で、しかも色々な土地から来た部隊を纏めた連合軍である。不測の事態が起きるのを防ぐ為にも早急に総大将やら何やらを決め、各部隊の統率に努めなければならない筈だ。

 だが、袁紹たちはそうした事を全くしていないらしい。それで今のところ何も起きていないのは、只々ラッキーだったと言うしか無い。

 涼たちは袁紹軍の兵士によって、徐州軍の陣地へと案内された。約八万という大軍なのでそれなりの広さが必要の為、最後方に配置されると思っていたが、実際には後ろから三番目、袁紹軍と袁術軍の前があてがわれた。

 (あらかじ)め、先触れを連合軍に向かわせていたので、徐州軍の陣地を前もって決めていたのだろう。だが、先日の戦いの件があるので、袁術軍を挟んでいるとはいえ袁紹軍が後ろに居る事を徐州軍の面々は不安に感じている。

 陣地に着いて天幕を張り、兵馬を休ませる事にした涼たちだが、当然ながらゆっくりはしていられない。各陣営に徐州軍の到着を知らせると同時に、涼、桃香、朱里の三人が軍議に向かう事になっている。念の為、護衛に関羽(かんう)こと愛紗(あいしゃ)田豫(でんよ)こと時雨(しぐれ)が附いていく。それにしても、今まで開かれてなかった軍議が開かれるとは、まるで涼たちの到着を待っていたかの様だ。

 軍議は袁紹軍の陣内に在る天幕で行われると、伝令から知らされた。恐らく、袁紹が動きたくないから自分の陣地で軍議を行うのだろうと誰もが思った。

 軍議が行われる天幕は袁紹軍の陣地の奥に在った。流石に装飾は施されていないが、こんなに大きくする必要があるのかという程に大きかった。

 涼たちが天幕の中に入ると、既に各陣営の代表者が席に座っていた。

 中でも袁紹は涼たちとの遺恨があるからか、彼等をジッと見据えていた。何か文句を言われるかと思った涼たちは急いで空いている席に座った。

 涼たちに用意されていた席は三つで、桃香を真ん中にして左右に朱里、涼が座り、愛紗と時雨はその後ろに立った。因みに、その左側には白蓮(ぱいれん)たち公孫賛軍、右側には雪蓮たち孫堅軍が座っており、涼たちに好意的な面子が周りに居る。ひょっとしたら、涼たちが来る事を知った二人が席を空けたのかも知れないが、勝手に席を決められるのかは解らない。

 天幕の中は長方形のテーブルが入り口から見て縦に配置されており、最奥、日本的に言えば上座の位置に袁紹が座っている。

 以下、上座から順に陣営名で言うと、右側に袁術軍、孫堅軍、徐州軍、公孫賛軍、益州軍。左側に曹操軍、馬騰軍、青州軍、劉表軍の代表が座っている。他にもいくつかの小さな勢力がある筈だが、この場には居ない。遅れているのか、あとで伝令でも出して知らせるのだろうか。

 各陣営の代表は最低でも二人一組でこの軍議に参加している。五人で来た涼たちは多い方になるが、護衛を含めれば袁紹や袁術も同じくらいの人数を擁していた。

 始めに口を開いたのは袁紹だった。

 

「それでは軍議を始めたいと思いますが……漸く到着された方もいらっしゃる様なので、折角ですから自己紹介でもしてあげましょう。」

 

 誰、とは言わなかったが、口調や視線から察するに、明らかに涼たちに対する配慮という方便での口撃だった。

 かと言ってそれに対して怒ったりは出来ない。遅れて来た事は事実であり、初めて見る人も居る以上、自己紹介されるのは非常に助かるからだ。

 なので、先ずは涼たちから自己紹介をする事にして、着席していた三人はゆっくりと席を立った。

 

「徐州牧の劉玄徳です、宜しくお願いします。」

「同じく州牧補佐の清宮涼です。宜しく。」

「軍師筆頭の諸葛孔明です。宜しくお願いします。」

 

 三人はそう名乗って着席した。後ろの二人は護衛なので自己紹介するべきか迷ったが、桃香が折角だからと言って自己紹介を促した。

 すると二人は多少硬い表情のまま言葉を紡いだ。

 

「徐州軍第一部隊隊長、関雲長。どうかお見知り置きを。」

「同じく第五部隊隊長、田国譲。宜しく……です。」

 

 二人はそう言うと、背筋を伸ばして涼達の後ろに立ち直した。

 涼たちの自己紹介が終わると、次は曹操軍の番なのか金髪の少女が立ち上がった。それに倣う様に、彼女の右側に座っていた少女も立ち上がる。

 

「曹操軍代表、曹孟徳(そう・もうとく)よ。宜しく。」

「軍師の荀文若(じゅん・ぶんじゃく)です。宜しくお願いします。」

 

 簡潔に述べる曹操こと華琳(かりん)と、荀彧(じゅんいく)こと桂花(けいふぁ)。その表情から察するに、自己紹介をする必要性は感じつつも、袁紹の思い通りにするのが嫌だから簡潔に述べたのだろうか。それとも単に面倒だからかも知れない。なお、曹操軍は護衛を連れて来ていない様だ。

 続いて自己紹介をしたのは孫堅軍の面々だった。といってもこの場に孫堅こと海蓮(かいれん)は居ない。代わりに居るのは、

 

「孫堅軍副将、孫伯符(そん・はくふ)よ。宜しくね。」

「同じく部隊長の黄公覆(こう・こうふく)じゃ、宜しくの。」

「軍師の周公瑾(しゅう・こうきん)です。宜しくお願いします。」

 

と、起立して応えたこの三人だ。

 自己紹介が終わると三人とも椅子に座った。雪蓮を中心にして右に黄蓋(こうがい)こと(さい)が、左に周瑜(しゅうゆ)こと冥琳(めいりん)が居る具合だ。

 尚、涼たちが来てからの雪蓮は、冥琳に席を替わってほしいと何度か視線で合図していたが、冥琳はそれに気付かないのか無視しているのか判らないが、結局彼女の要請に応える事は無かった。

 まあ、気になる相手の側に居たいから席を替わって欲しいという理由が、軍議の席で通らないのは当然だろう。そもそも彼女は、仮に席を替えたらイチャイチャする気なのだろうか。こんな衆人環視の中で。少なくとも涼は嫌がると思うのだが。



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第二十三章 英雄達の集結・3

 雪蓮達の自己紹介が終わると、次は馬騰軍の自己紹介となった。

 今迄は全員が涼の見知った人だったが、これからは知らない人が多くなる。

 

「馬騰軍の名代(みょうだい)としてこの軍議に参加している、馬孟起(ば・もうき)だ。宜しく頼むぜ。」

「同じく副将の韓遂(かんすい)だ。孟起の後見人も務めている。」

 

 この場に居る馬騰軍の将はこの二人の女性だけだった。

 その一人である馬孟起は涼たちと同じくらいの年代の少女だ。

 姓名を馬超(ばちょう)といい、演義では蜀漢(しょくかん)五虎大将軍(ごこ・だいしょうぐん)の一人に数えられる名将である。勿論この世界では蜀漢は未だ建国されておらず、馬超は五虎将の一人に選ばれていない。この世界では、先程馬超自身が述べた様に馬騰軍の一員であり、光武帝(こうぶてい)(もと)で活躍した名将・馬援(ばえん)の子孫である馬騰の子というくらいにしか知られていないのだろう。

 そんな馬超の外見は快活そうの一言に尽きる。

 栗色の長い髪はポニーテールにしているし、少し太めの眉も何故かは判らないが快活な印象を強める。また、応援団長がしている長いハチマキの様に、紅い布を額に巻いているのもその一因といえよう。

 大きな紅玉色の瞳とその眼力が更にその要素を強化しており、涼と違って正史や演義の馬超を知らない者でも、彼女がどの様な人物かは推察出来ると思われる。

 服のラインや腕、足を見る限り、痩せ過ぎず太り過ぎずの健康的な体だと思われ、先の印象を更に補完していく。

 服は緑色を基調とし、黒い長袖に黒い大きなリボンを首下に付けている。裾の部分は花弁の様な形をしていて、その形に沿って金のラインが有り、胸を縦に通る金のラインと合流している。

 首周りから肩にかけて白いケープの様なものが体型に合わせたデザインとなってくっついている。着脱可能かは判らない。

 スカートはプリーツスカートで、下に細く黒いラインが有る。

 靴は膝上迄ある白いロングブーツで、サイドに馬の尻尾の様な紅い飾りが付いていたり、正面に向かって紅い曲線の模様が有ったりする。

 

(彼女が“錦馬超”か……。当たり前だけど強そうだな。)

 

 涼は軽く彼女を観察しながら心中でそう呟いた。

 繰り返しになるが、馬超は演義では蜀漢の五虎大将軍の一人であり、それ以前にも曹操軍を相手に獅子奮迅の活躍を見せる等の武功を残す武将である。この世界の馬超の実力は未知数だが、関羽や張飛の名を持つ愛紗や鈴々(りんりん)の強さを見る限り、馬超もそれなりの強さを持つと見て間違いないだろう。

 この場に居る馬騰軍のもう一人、韓遂は少なくとも馬超の倍は生きているであろうと思われる妙齢の女性だ。

 漆黒の髪を無造作に伸ばし、寝癖かと思われるほど奇抜な髪型をしているが、かと言って品が無い訳では無く、また、その仕草は一定以上の教養を身に付けた者の仕草だ。

 服装は、黄色を基調としたドレスの様な服を身に付けており、両肘には朱い肘当てをしている。靴はヒールタイプで、色は黒。

 この世界の女性に共通しているのか、韓遂も涼が始めに予想した年齢より若く見える。また、両耳に朱いイヤリング、左手中指に黒い宝石が付いた指輪をしている。

 何故この場に馬謄軍の総大将である筈の馬騰が居ないのかは気になったが、雪蓮たち孫堅軍も総大将である孫堅が居ないので、ひょっとしたら大した問題では無いのかも知れない。

 なお、史実では馬騰は反董卓連合に参加していない。

 

 

 

 馬謄軍の自己紹介が終わると、次は青州軍の番となった。涼たちもよく見知っている者達だった。

 

「青州牧の孔文挙(こう・ぶんきょ)です。宜しく。」

「青州軍部隊長の一人、太史子義(たいし・しぎ)です。宜しくお願いします。」

 

 先の韓遂よりは若く見える孔文挙こと孔融(こうゆう)と、以前徐州に来た事がある太史子義こと太史慈(たいしじ)が自己紹介をした。青州軍の代表もどうやらこの二人だけの様だ。

 孔融は、涼の世界では孔子(こうし)の二十世孫として知られている。どうやらそれはこの世界でも同じらしく、この国の知識人からは勿論、教養に長けているとは言い難い層からも支持されている。

 とは言え、その格好は中々に奇抜であった。

 どう奇抜かと言えば、先ずは髪型が挙げられる。赤やら緑やらといった色んな色の髪を持つ人が居る世界ではあるが、金と銀と赤の三色構成になった髪型の人はそうそう居ないだろう。当然染めているのだろうが、地毛は何色なのだろうか。

 続いて服装だが、こちらもインパクトは髪型と負けてはいない。

 何せ、右側が半袖で左側が長袖という服だ。服は基本的に寒暖に対する備えであり、暑ければ生地は少なく、寒ければ生地を多くして気温に対応するのが普通である。

 それなのに、半袖と長袖が同居しているという、服の機能の一部を無視したこのデザインは、ある種の芸術性はあるものの実用的とはいえず、それを着ている孔融の美的センスと合理性について大きく疑問符が付くのは仕方が無い事だろう。

 スカートではなくパンツルックなのは年齢を考慮しているのか、単に彼女のセンスの問題なのか。そのパンツルックも、現代で言うダメージジーンズの様に所々が破れており、破れている服をわざと着るという文化が無いこの世界に於いてはこうした格好は理解されないのではないか。尤も、現代でもダメージジーンズには否定的な意見を持つ人が多いので、この世界に限った事では無いが。

 靴は形はそうでもないが、色は虹色だ。

 桃香たちはつい先日、青州救援に行った時に孔融と会っているが、その時も今回の様に奇抜なファッションだった。

 只、その格好と違って言動は至極まともである。そうでなければ沢山の人々から支持される事は無いだろう。更に言えば、奇抜な格好をしながら支持されるというのはある種の才能と言えなくもない。

 太史慈は以前と同じ衣服と甲冑を身に着けており、ピンと背筋を伸ばして座っている。

 衣服と甲冑のどちらも特に飾りつけておらず、孔融とは違って実用的な格好と言って間違いないだろう。ここ迄対照的な二人が同陣営に居るというのも、中々面白い。

 因みに、孔融も史実では反董卓連合に参加していない。 続いて、公孫賛軍の自己紹介に移った。

 

「公孫賛軍総大将、公孫伯珪(こうそん・はくけい)。一応、奮武(ふんぶ)将軍だ。」

「同じく副将の田楷(でんかい)です……宜しくです。」

 

 紅いポニーテールの少女、公孫伯珪こと公孫賛と、蒼いボブカットの少女、田楷はそう自己紹介をすると着席し、次いで隣に居る桃香たちに向いて静かに笑った。

 公孫賛こと白蓮は桃香の親友であり、義勇軍時代に白蓮の所に世話になっていた事もあって涼とも面識がある。

 なので田楷とも一応の面識はあるのだが、白蓮と違って公務以外で話した事は余り無い。因みにその時に涼が感じた印象は、「物静かな読書家」だった。

 実際、今の自己紹介でも声量は小さく、静かな場でなかったら聞こえなかったかも知れない。

 そんな彼女の服装は一言で言えば地味、だろう。

 黒を基調とした服は髪と同じ寒色であり、派手な装飾品も付けていない為にこの場の諸将と比べるとどうしても見劣りしてしまう。

 靴もこの時代に合った普通の靴で、特徴らしい特徴はない。孔融の奇抜なファッションの後だから余計にそう思ってしまうのかも知れない。

 史実の記述はそれほど多くなく、演義では陶謙への援軍の場面でしか登場しない田楷ではあるが、絶頂期の公孫賛の補佐を務めた実績は素晴らしいといえるだろう。

 余談ではあるが、公孫賛も史実では反董卓連合に参加していない。それはつまり、公孫賛の客将だった劉備も参加していないという事であり、演義に於ける三英戦呂布などは当然ながら史実では無かったのである。そこ、演義ではよくある事とか言わない。

 

 

 

 公孫賛軍の後、誰が自己紹介をするのか少し間が空いたが、結局は益州軍の番となった。

 

「益州軍を代表して挨拶を。益州牧、陽城侯(ようじょうこう)劉焉(りゅうえん)の名代を努める厳顔(げんがん)じゃ、よろしく頼む。こやつは部下の張任(ちょうじん)。口は悪いが実力は確かじゃぞ。」

「桔梗さま、ここはそういう事を言う場ではありません。……コホン、俺は張任、益州従事です。」

 

 厳顔と名乗ったのは妙齢の女性、張任は涼たちと同年代と思われる少女だった。

 厳顔はサイドがウェーブがかった短い銀髪、いや、後ろ手に纏めているのかも知れない。いずれにしても綺麗な銀髪の持ち主である。

 尤も、目を引くのはそれだけではない。規格外に大きい双丘、つまりは大き過ぎる胸に、男性である涼は勿論、女性達も思わず見入ってしまっていた。

 紫色を基調としたドレスの様な服を着ているが、その胸元とすらりと伸びた足は覆い隠せていない。それでいて特に気にしていない様だから、彼女の感覚、もしくはこの世界の感覚が現代とは若干違うのかも知れない。

 張任は前述の通り少女である。髪は厳顔と対照的な金髪。肌が若干色黒なのは自黒か日焼けか分からない。

 一人称が「俺」だったのでそれなりに性格は想像できるが、服装もレザージャケットの様なものにパンツルックといった風で、性格を補完するかの様なものだった。一方でピアスやタトゥーの様なものはなく、その辺も性格に関するのかも知れない。

 史実における厳顔と張任の記述は少ない。両者とも劉備の入蜀時に登場するが、そこだけである。演義では若干の脚色があるが、それでも張任は記述が少ない。厳顔は老将として登場し、同じ老将の黄忠(こうちゅう)とコンビの様に描かれている。

 なお、史実でも演義でも厳顔と張任、ひいては益州軍は反董卓連合に参加していない。というか、厳顔と張任の二人は生年不明なので、この時期に生まれていたかも判っていないのである。

 

 

 

 益州軍の後は劉表軍の番となった。

 

荊州(けいしゅう)牧・劉表の名代としてこの場に参りました、黄忠と申します。隣におりますのは部下の魏延(ぎえん)です。」

「魏延だ……です。」

 

 立ち上がってそう名乗った二人は、どこか先の厳顔と張任に似ていた。

 黄忠は厳顔と同年齢、もしくは少し若いと思われる外見の女性だ。厳顔と同じ様にあり得ない大きさの双丘を持ち、厳顔よりより妖艶さがある。そんな印象だ。

 髪は薄紫のストレート。左耳の後ろに羽根を数枚重ねた飾りを付けている。

 服装も似ており、一見オフショルダーのドレスにも見える薄紫色のチャイナ服を着ている。当然の様に胸元は開いていた。両腕は緑色のアームガードの様に独立している様に見えるが、そこから緑に裏地が紺のマントに繋がっている様にも見える。別々のを繋げているのかも知れない。

 黄忠の反対側に座っている涼からはよく見えないが、下半身はストッキングにハイヒールという出で立ちである。しかもストッキングは太股までなうえ、ドレスのスカート部分は深いスリットが入っているので、結構な目の毒である。

 まあ、そんな格好の女性が結構多いこの世界に長く居る涼は慣れているだろうが。

 一方の魏延はというと、露出は少ないもののスタイルはよく、胸に関しては結構大きい方だろう。隣に黄忠が居るので目立たないだけである。

 髪は黒、もしくは濃紺で所々はねており、右側が白くメッシュの様になっている。漫画の神様の代表作の一つに出てくる無免許医の様な髪と言えば解り易いだろうか。

 服の基調は上下共に黒で、縁は黄色、上着の下に着ているシャツの陽な服は白。上着は襟立ての袖無しジャケットだが、前述の通り胸が大きいからかキッチリとは締まっておらず、胸の部分は白いシャツが見えている。

 下に履いているのは上と同色同系統のホットパンツ。その廻りにジャケットと同系色同素材の物をスカートの様に巻いている。全てを覆っている訳ではないのでホットパンツ部分は丸見えだが。

 靴下の類いは履いておらず、ブーツの様な靴を履いている。

 口調はよく判らないが、外見の印象からするとやはり先程の張任と似ているかも知れない。

 涼は劉表軍についていささか疑問に思う事があったが、この場では言うべきでないと判断し口をつぐんだ。

 なお、史実では劉表は一応反董卓連合に参加しているが、目立った活躍はないといえる。尤も、史実だと曹操や孫堅くらいしかまともに戦っていなかったりするのだが。

 だからだろうか、演義ではあまり良い役ではない気がする。また、黄忠と魏延は反董卓連合には参加していない。こちらも、厳顔と張任と同じく生年不明なのでやはりこの時期に生きていたかも判っていない。



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第二十三章 英雄達の集結・4

 劉表軍の挨拶が終わり、残るは袁術軍と袁紹軍だけになった。

 誰もがどっちからか? と思ったが、ここで思わぬ声が出てきて挨拶は終わりとなった。

 

「袁家を知らない人間なんてこの場に居ないでしょうから、美羽(みう)麗羽(れいは)の挨拶は無くて良いでしょう。」

「なんとっ!?」

「っ! ……それもそうですわね。四世三公の袁家を知らない人なんて、この漢の国に居る筈がありませんものね。」

 

 袁術こと美羽と袁紹は、それぞれ発言の主である華琳を見ながら驚き、次いでこの様に反応した。

 袁紹は何か言いたそうにしている様にも見えたが、全国から諸侯が集まっているからか言葉を飲み込んだ。もう一人の袁家である美羽はというと、不満そうではあるが隣に居る張勲(ちょうくん)こと七乃(ななの)に宥められている。というか、七乃は何だか嬉しそうである。何故だろうか。

 何はともあれ、こうして諸侯の挨拶は終わり、漸く軍議が始まった。

 始まった、のだが。

 

「本気で董卓が居る洛陽を目指すのなら、まずはここ河内だけでなく、東の酸棗県(さんそうけん)、南の潁川郡(えいせんぐん)魯陽県(ろようけん)にも布陣して、接近してくるであろう董卓軍を包囲するべきではないかしら。」

「何を言ってますの華琳さん。これだけの大軍が集まっているのですから、このまま前進して攻めいるだけで董卓さんの軍勢など圧し倒せますわ。」

「麗羽こそ何を言っているの? このまま西進すれば程なくして汜水関(しすいかん)虎牢関(ころうかん)が立ちはだかるわ。いくら貴女でもこの二つの関の堅牢さは知っているでしょう?」

「それは勿論知っていますが……。ですが、この二つの関以外にも洛陽の周囲には函谷関(かんこくかん)を始めとする洛陽八関(らくようはっかん)が在りますわ。董卓軍は当然ながらどの関にも軍勢を置いているでしょうから、どこから進んでもあまり変わらないのではなくて?」

「麗羽のくせに言うわね……。」

 

 と、この様に華琳と袁紹の独壇場になってしまっていた。二人の迫力に他の者達は誰も口出しできず、ただ黙って見守るしかなかった。この世界の袁紹はおバカと言われるが、一応名門袁家の人間なので知識だけはある。それでおバカと言われるのは、恐らく知識の使い方が間違っている場合が多いのであろう。

 なお、洛陽八関とは函谷関、伊闕関(いけつかん)広成関(こうせいかん)大谷関(たいこくかん)轘轅関(かんえんかん)旋門関(せんもんかん)孟津関(もうしんかん)小平津関(しょうへいしんかん)の八つの関所の総称であり、洛陽の四方八方に存在している。

 この他にも洛陽周辺には前述の虎牢関など複数の関所が点在しており、“敵”が帝都洛陽を攻めるにはこれらの関所のいずれか、もしくは複数を突破しなければならない。連合軍は数十万もの大軍とはいえ、これらの関所を攻略するのは大変であろう。

 暫しの間、華琳と袁紹は黙って向き合い続けた。そのまま両者の意見がぶつかり続けるのかと思われたが、ここは聡明な華琳が折れた。ふう、と一つ息を吐く。

 

「……いいわ、麗羽の作戦でいきましょう。けど、このまま進むとしても周囲の注意を怠る訳にはいかないわ。その為にも私の軍は左翼か右翼に配置してほしいのだけど。」

「構いませんわ。何ならもう一翼も華琳さんが決めてよろしくてよ?」

「そう? なら……もう片翼は涼と雪蓮に頼みたいのだけど。」

 

 華琳は両者を見ながらそう言った。瞬間、袁紹の眉間がピクリと動いた。

 

「私達が?」

「ええ、これだけの大軍の両翼にはある程度兵力がある部隊を配置しておきたい。万が一の時に対応できるだけの兵力、戦力、統率力がなくては両翼がもがれて全滅するわ。」

 

 華琳の説明に納得したのか、雪蓮は静かに頷いた。

 確かに、連合に参加している軍の中で兵数が多いのは袁家を除けばこの三人の軍である。華琳は敢えて言っていないが、実力や連携面を考えてもベストな配置と言えるだろう。

 

「私は良いけど……涼はどうするの?」

「考えはあるにはあるけど、これ自体は俺が決める事じゃないよ。桃香に訊いてくれ。」

「えっ、私っ!?」

 

 急に話を振られた桃香が困惑の声をあげる。しっかりしなさい州牧様。

 桃香は慌てつつも小声で涼に話し掛ける。

 

「……涼義兄(にい)さんはどう思っているの?」

「俺も雪蓮と同じで良いと思ってるよ。」

「そうなんだ……。朱里ちゃんはどう思う?」

「はい。連合軍がこのままの進路で洛陽に進むのなら、曹操さんが仰る様に道中の安全を考えて両翼を固めるのは最上の策です。徐州軍がそちらに配置されるのはいろいろ考えてみても(・・・・・・・・・・)良い策かと思います。」

 

 義兄と筆頭軍師のお墨付きを貰った桃香は納得し、華琳の提案を受ける事にした。

 その間、袁紹はずーっと機嫌が悪かったが、それに気づいた者が何人居たかは判らない。尤も、例え気づいていても、

 

(華琳さんは相変わらずあの男達とつるんでいますの!? せっかく私が花を持たせてあげたというのに……!)

 

と、こんな風に怒っているとは誰も思わないだろう。先の戦いがあったのに、袁紹自身は華琳を憎みきれていなかったらしい。

 そんな袁紹としては涼たちを一翼に配置したくはなかった。華琳と違ってこっちは憎しみの度合いが強い。が、先ほど華琳に人選を任せると言った手前、反対も出来なかった。機嫌を悪くするのが精々だった。

 

 

 

 それからも軍議は続き、進軍時の配置が決まった。

 会戦時には先陣となる可能性が高い最前列には左に公孫賛軍、右に馬謄軍が列び、そこから青州軍、袁術軍、袁紹軍と続き、殿(しんがり)には左を益州軍が、右を劉表軍がそれぞれ務める。そして右翼後方に曹操軍、左翼前方に徐州軍、左翼後方に孫堅軍が列び、その他の勢力はそれぞれ空いた所に配置された。

 そうしてほぼ全ての議題が終わったので、軍議は終了になるかと思われた。

 だがここで、袁紹がまだ決めていない事があると言った。何かあったっけ? と涼は思いつつ袁紹を注視する。桃香たちも自然と同じ様に袁紹を見た。

 その袁紹はいかにも重大な事を告げるという風に姿勢を正し、ハッキリとした声で言葉を紡いだ。

 

「肝心の総大将がまだ決まっていませんわ!」

 

 直後、天幕の中にしばしの沈黙が流れた。

 そういえばまだ決まってなかったな、と涼は思った。それは他の者も同じだったらしく、皆一様に涼と同じ表情になっている。

 とは言え、総大将を決めるというのは充分に大切な事なので無視する訳にもいかない。その為に華琳が立ち上がる。

 

「じゃあさっさと決めましょう。」

 

 華琳がそう言うと、袁紹は待ってましたと言わんばかりに表情を輝かせ、再び言葉を紡いだ。

 

「この連合を取りまとめる総大将には名門袁家の私、袁本初(えん・ほんしょ)が相応しいと思いますわ!」

「そうね、それで良いんじゃないかしら。貴方達はどう思う?」

 

 袁紹が立候補し、華琳が採決をとった。ほとんどの者が頷いた。

 もう一つの袁家の主である美羽は袁紹に対抗しようとしたが、隣に居る七乃に耳打ちされると慌てて挙げかけた手を引っ込めた。何を言われたのだろう。

 

「満場一致のようね。麗羽、この連合軍の総大将としてしっかりしなさいよ。」

「か、華琳さんに言われるまでもありませんわ!」

 

 袁紹はそう言うと常の「おーほっほっほ」という高笑いをした。が、実は内心拍子抜けしていた。

 

(な、何で美羽さんだけでなく華琳さんも立候補しませんの!?)

 

 いや、拍子抜けというより、困惑していたと言うのが正しいかも知れない。

 既に触れたが、袁紹はまだ華琳を憎みきっていない。それは華琳をいまだに信頼していると言える。そして袁紹は華琳も自分と同じ様に思っていると「無意識かつ勝手」に思っている。

 実に自分本意な袁紹らしいが、華琳からすれば迷惑な事この上ない。先の戦いに於いて華琳は、袁紹との関係や袁家の勢力を敵に回す覚悟をもって臨んだ。一生憎まれても恨まれても仕方ないとすら思ったかも知れない。

 それなのにいまだに好敵手として見られている等、それこそ華琳は困惑してしまうだろう。

 尤も、華琳が今回の総大将に立候補しなかったのは袁紹との関係だけが理由ではない。

 

(こんな茶番の総大将になってもなんの得も無いわ。こういうのは言い出しっぺの麗羽に任せるに限るわね。案の定ご機嫌だったし。)

 

 華琳はこの反董卓連合という茶番劇の盟主になどなるつもりはない。華琳は華琳なりに、月が帝を蔑ろにする訳がないと思っている。彼女も月と少なからず交流があり、それなりに現状を調べていたからだ。

 だが、人の性格は変わるという事も理解している華琳は最終的に連合に参加を決めた。

 その上でどうするのが最善かを考えた。いや、今も考えている。

 そうした彼女なりの美学というか生き方に、「反董卓連合の総大将になる」という選択肢が無かったに過ぎない。ただそれだけなのである。

 華琳を信頼し、ともすれば親友と思っている袁紹もそこまでは理解していなかった様だ。

 こうして、涼たちを交えて行われた反董卓連合の初めての軍議は幕を閉じたのだった。




という訳で、「英雄達の集結」でした。
読者の皆さんお久し振りです。一応まだ書いています。

今回は「反董卓連合編」に登場する勢力や人物を紹介する回になりました。「真・恋姫」未登場のキャラをまた出しましたが、この後もそういったキャラは出てくる予定です。三国志で有名なキャラは勿論、この武将出すの!? ってキャラも出す予定です。……出し過ぎてパンクしそうですが。

あまりにも長いし場面は変わらないのでもう少し上手い展開を書ければ良かったのですが、そこまでは出来ませんでした。これを書いていた当時は入院中だったので時間はあった筈なんですけどね。

で、申し訳ないんですが次も余り動きはありません←
流石に今回よりは動きますが、次は今回の軍議を受けて桃香たち各勢力がどうするかという話です。いやまあ、反董卓連合の一員として戦うのは変わらないんですが、これからの事も兼ねてちょっとした話を加えたかったので。

それが終わればようやく戦闘になる筈です。多分。
大まかな流れは決めてるんですが、本を読んで得た情報を小説に取り入れたくて文章やプロットを書き直したりチェックしてる日々です。年内に続きを投稿出来ればと思っています。

随分長い事書いていてまだ終わりが見えませんが、どうかお付き合いいただければ幸いです。
ではでは。


2020年12月10日更新。
2022年12月25日後書き更新。


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第二十四章 汜水関へ向けて・1

目前にまで迫った戦いの足音。

出来れば避けたい、けど賞賛は受けたい、でも誰も失いたくない。

三者三様、その気持ちは互いに知らないでいる。

2023年1月1日更新開始
2023年月日最終更新


 反董卓連合(はん・とうたく・れんごう)最初の軍議が終わり、諸将は各々の陣営へと戻っていった。

 (りょう)桃香(とうか)たちと共に自分達の陣営へと戻っていく。道中は雪蓮(しぇれん)たちと一緒になったが、方向が同じなのである意味当然と言えた。ちなみに華琳(かりん)は既に居ない。男である涼の側に居るのを桂花(けいふぁ)が嫌がったのもあるが、華琳が急ぎ軍を整えたいと言ったのが主な理由だ。勿論、それを止める権利は涼にも雪蓮にもない。

 足早に進む華琳たちを眺めながら、涼たちはゆっくりと自陣へ向かっていた。(ちな)みに、袁紹(えんしょう)の陣営からは足早に去った。流石にあの場にいつまでも居る度胸は涼にも桃香にもなかった。

 虎口を脱したかの様な気分になった桃香は汗を拭いながら大きく息を吐いた。傍を行く愛紗(あいしゃ)時雨(しぐれ)も同様だった。雪蓮たちはケロッとしている様に見えるが、内心はどうだろうか。

 

「やっぱり気まずいよねえ、涼義兄(にい)さん。」

 

 桃香は隣を歩く涼に向かって苦笑しつつ言った。

 桃香と袁紹はついこの間、戦をした間柄である。厳密に言えばその戦に桃香は居らず、袁紹と戦ったのは涼と雪蓮、それに華琳なのだが、徐州牧(じょしゅう・ぼく)であり徐州軍全軍を統括する立場にある桃香が気まずく思うのは当然だった。因みに桃香自身は青州(せいしゅう)遠征の指揮をしていた。

 袁紹との戦に参加していない桃香でさえこうであるから、涼はもっと気まずいのではないかと思い、彼女は先の言葉を紡いだ。だが、その涼からは特に反応がない。

 不思議に思った桃香は涼の顔を覗きこんだ。何やら考えているのか、口許に手をやり、人差し指をブラブラと動かしている。

 

「涼義兄さん、どうかしたの?」

 

 桃香がもう一度声をかけると、ようやく涼の意識が桃香に向けられた。いつの間にか近くに桃香の顔があって少し驚いたものの、涼はすぐに平静を取り戻して暫し思案してから、今まで考えていた事を口にした。

 

「いや……さっきの荊州(けいしゅう)軍についてちょっとね。」

 

 それは涼の疑問だった。この世界での諸侯達の領土(・・・・・・・・・・・・)を思い出しながら考えても、やはり解けない。その疑問とは、

 

“荊州全土は袁術(えんじゅつ)の領土ではないのか?”

 

というものだった。

 この世界の諸侯達は、涼が知る歴史とは違う立場や領土を持っている。

 例えば先程述べた桃香がそうである。桃香、つまり劉備(りゅうび)は本来、この時点では州牧などという立場ではない。反董卓連合時の劉備は正史でも演義でも誰かの配下であり、正史に至っては反董卓連合に参加していない可能性が高いほどである。

 それを踏まえて思い直すと、やはりこの世界の荊州は全土が袁術の領土であると揚州(ようしゅう)遠征時に確認している。それから荊州で大きな政変が起きたという情報は入っていない。なお、孫軍の領土は豫州(よしゅう)全域と、十常侍(じゅうじょうじ)誅殺(ちゅうさつ)の恩賞で賜った揚州の北中部、厳密に言えば南昌(なんしょう)南城(なんじょう)建安(けんあん)を結ぶライン迄で、そこから南は何故か袁術の領土になっている。

 では何故、袁術軍とは別に「荊州軍」が在るのか? 涼は頭を悩ませた。が、その疑問は雪蓮によってすぐに、呆気なく、つまり解けた。

 

「荊州軍は袁術第二の軍と言えるのよ。」

 

 そう言った雪蓮の顔を涼と桃香が同時に見た。雪蓮は二人の双眸を交互に見ながら説明を続けた。

 

黄巾党(こうきんとう)の乱の直後、袁術は南陽郡を支配したのよ。無能な太守を討った母様の手柄を横取りにしてね。」

(それって……ひょっとして、本来は反董卓連合直前に起きる事がそんな前に起きてた?)

 

 涼は雪蓮のその言葉だけで何となく事情を察した。

 正史では、反董卓連合の前に孫堅(そんけん)南陽(なんよう)太守・張咨(ちょうし)を排除している。その前には荊州刺史(しし)王叡(おうえい)も同じ様に排除していた。その後に孫堅が南陽郡に来ていた袁術に謁見すると、袁術は孫堅を破虜将軍(はりょ・しょうぐん)代行と豫州刺史に任じ、自身は南陽郡を支配した。

 この一連の流れが、時期は違うといえこの世界でもあったと涼は知った。役職についてはどうか判らないが、任じられていないのかも知れない。史実ではこの後、孫堅は袁術の配下になるのだが、この世界では独立した立場・存在である。少なくとも今のところは。

 雪蓮の説明が続く。

 

「母様も苦々しかったでしょうけど、当時は将兵の数が違いすぎて抵抗は断念したわ。その後、袁術は荊州全土を支配下に置いた。表向きは黄巾党の乱で乱れた荊州を建て直す為と奏上して、それが認められた訳だけど……。」

 

 そこで雪蓮は苦笑した。涼はどうしたのかと一瞬思ったが、すぐに思い至った。

 荊州、それも南陽は涼と雪蓮が初めて会った場所である。

 当時は黄巾党に対する連合軍と呼ばれる一団の総大将だった涼は、南陽黄巾党征伐の為にその地に派遣された。連合軍はそこで南陽黄巾党と激戦を繰り広げ、援軍として孫軍が合流すると一気に敵を撃滅した。

 その後しばらくの間、周辺地域の平定を行っていった涼と雪蓮はいろいろあったが最終的には仲良くなり、雪蓮が真名(まな)を涼に預けるにまで至った。

 そうした思い出の地でもある荊州、ひいては南陽が自分達ではなく袁術に横取りされた事が、何とも悔しく、馬鹿馬鹿しい事だと思ったのだろうと、涼は結論づけた。

 

劉表(りゅうひょう)はその袁術に代わって統治を任されているのよ。統治の苦労はしたくないけど良いとこだけは自分のものにしたいとでも思ったんじゃない?」

 

 そう言った雪蓮はさっき以上に苦笑していた。

 結果として袁術は南陽に、劉表は襄陽(じょうよう)にそれぞれ本拠を構えた。荊州は表向きは袁術が統治している事になっているが、実際には劉表が統治しており、しかも兵や富の殆どは袁術が有するという訳が分からない状況になっているらしい。

 今回の連合に袁術軍ではなく荊州軍として参戦している以上、表向きも何もない気がするが、ひょっとしたら袁術の勢力が大きいので誰も何も言わないのだろうか。

 

(劉表が袁術の配下……か。)

 

 涼は元々知っている三国志の知識とこの世界の状況を組み合わせ、この後に起きるかも知れない事を考えた。目の前に雪蓮が居るので余計に気が滅入ったが、今は先の事を考える余裕はないと気づきかぶりを振った。

 

(……今回の事が終わったら小蓮(しゃおれん)に相談しよう。)

 

 沢山の情報を得て頭の整理が出来ていない今は、そう思うので精一杯だった。



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第二十四章 汜水関へ向けて・2

 雪蓮たちと別れ、自陣に戻った涼たちは早速軍議を開いた。場所は桃香の天幕の中である。この天幕が徐州軍の中では一番大きい。余談だが、その周りには涼、愛紗、鈴々(りんりん)の天幕もある。

 

「という訳で、私達は汜水関(しすいかん)を目指す事になりました。」

 

 主だった将を前にして、桃香は先程の軍議で決まった内容を伝えた。内容の(ほとん)どは予想通りだった事もあり、混乱も反対も無かった。ただ、何人かは袁紹が総大将になった事に不満や不安を覚え、何故桃香がならなかったのかと残念がっていた。勿論、それが難しい事は百も承知の上での真意であり、それだけ桃香が徐州軍の諸将に慕われている証左でもあった。

 

「出立は明日の予定です。みんな到着したばかりで疲れてると思うから、休めるうちに休んでおいてください。」

 

 他に何かありますか? と付け足した桃香は徐州軍諸将を左から右に見ていき、一拍をおいて右から左に見ていった。特に質問は無い様だと判断した彼女はこの軍議を解散しようとしたが、そのタイミングで手を挙げる者が居た。水色の髪の女性、趙雲(ちょううん)こと(せい)である。

 桃香は星を見ながら彼女の(あざな)を口にした。真名を預かってはいるが、こういう場では字で呼ぶ事もある。星は桃香の真面目さに内心苦笑しながらも、その表情は至って真面目だった。

 

「孫家と行動を共にする事には(いささ)かの疑問も反論も無い。が、それ故にハッキリとさせたい事が一つ。」

 

 それは何ですか? と桃香は問う。星は真面目な表情のまま答えた。

 

「“万が一”の事が起きた際、孫家は頼りになるのか? 我等を裏切る事はないのか? という点です。おや、一つではなく二つでしたな。これは失敬。」

 

 そう言った星の表情はいつもの人をくった様な顔になっていた。

 この問いは桃香だけでなく諸将も想定していなかった。途端にざわめきが起こり、広がった。

 当然であろう。徐州と揚州は同盟関係にある。更に言えば、徐州の主の一人と言ってよい清宮(きよみや)と揚州の頭領である孫家は将来姻戚(いんせき)になる間柄であり、末娘を徐州に送っているのは恐らくその証である。勿論、人質としての意味合いもあろう。

 もし、孫家が徐州を裏切ればその人質の命が危険に晒されるのは必然。そこに桃香や涼の意思は関係ない。いくら跡継ぎとなる娘がまだ二人居るとはいえ、わざわざその様な暴挙に出る事はない。また、徐揚同盟は公言していないとはいえ実態は公然の秘密と言ってよく、孫家が裏切り行為をすればその事実は瞬く間にこの国全土に知れ渡り、これまで積み上げてきた実績も信用も灰塵(かいじん)に帰すのは想像に固くない。名将と謳われる孫堅がそんな愚をおかす筈はない。

 徐州諸将は当然それを理解している。勿論、星も理解している筈である。その上で何故こんな事を言ったのか。それも、孫家の末娘が正面に居る此の場(・・・・・・・・・・・・・・)で。

 孫家の末娘、つまりは孫尚香(そん・しょうこう)こと小蓮は星の言葉に少なからず動揺し、次いで怒った。当然の反応である。隣に立つ涼が止める間もなく小蓮は星の前に進んで怒声をあげた。

 

「せ……子龍(しりゅう)! アンタ何とち狂った事を言ってるの!」

 

 子龍とは星の字である。

 

「尚香殿、お怒りはごもっとも。ですが此度の連合軍も敵軍もその規模は諸将が経験した事がないものとなりましょう。その分、不測の事態が起こった際の対処についてはいつも以上に念を入れねばと思いましてな。」

「だからって、母様や姉様が涼たちに刃を向けるかの様な言い方をしなくても良いでしょ!」

「……その様な事は絶対に起こらぬ、と?」

「起きないわよ、絶対!」

 

 挑発する様な星の言葉に小蓮は即座に反論した。自分の家族がどれだけ涼を信頼しているか、徐州軍に敬意を表しているか、下邳(かひ)に来るのがどれだけ楽しみだったか、実際に来てみて不安になった時にどれだけ桃香や涼が励ましてくれたか、思いの丈を存分に紡いだ。

 名前を出された桃香は瞳を潤ませ、涼は恥ずかしいのか落ち着きがない。愛紗たちはというとそれぞれ差はあるものの皆好意的な反応を見せていた。

 小蓮は元々、徐州軍諸将からの信頼を得ていた。勿論その過程は簡単なものではなく、時には苦情が桃香たちに来る事もあった。だが、彼女が慣れない土地で一生懸命に頑張っている事、涼の婚約者としてどうすれば良いか悩んでいる事などを徐州軍諸将が見てきた事もあって、小蓮を娘や妹の様に見ている者も居る。そういう事もあって、星より小蓮を応援している者がこの場には多い。

 自然と場の空気は悪くなっていった。だが、星はそれを気にする様子がない。ただ小蓮の反論を聞き続けているだけだった。

 その様子を見た桃香は(いぶか)しげに首をひねった。隣を見れば、涼も桃香と同じ様な表情をしているし、朱里(しゅり)は羽毛扇で口許を隠しながら笑みを浮かべている。桃香は視線を戻した。

 小蓮の反論が終わった。暫くの間、両者は言葉を発せず、二人を見守る様に見ていた諸将もまた固唾を飲むかの様に口を閉じていた。

 やがて星がほんの僅かだけ口角を上げた。それはよく見ないと判らない程に僅かだったが、確かに上がっていた。

 

「小蓮殿がそこまで仰られるのなら、若輩者である趙子龍も安心出来るというもの。いや、此度の無礼をどうか許していただきたい。」

 

 星はそう言うと右手で左手を包む、拱手(きょうしゅ)という仕草をした。中国では昔から相手に敬意を示す際に使われる。厳密には性別や立場によって拱手にもいろいろな仕草があるのだが、ここでの星はお辞儀を加えていた。

 小蓮は毒気を抜かれた。さっきまで自分を敵視するかの様な発言をしていた相手がこんな行動をとれば当然である。星の目的が自分や家族の糾弾ではない。それは解った。だが星の真意が何なのかは解らず、小蓮はしばらくの間、探る様に星を見つめた。星はというと頭を下げたままである。

 数十秒か一分か五分かそれ以上か。天幕の中は静けさに包まれた。

 その静けさは、小蓮が言葉を紡ぐ事で消えた。

 

「頭を上げなさい趙子龍。先程の貴女の言葉は劉玄徳への忠義が篤い為に発したと察する。その忠義、高祖の義弟である樊噲(はんかい)に勝るとも劣らないでしょう。」

 

 小蓮は敢えて恭しく言った。それは、自分がいずれ涼の妻になる身だという事を、つまりは桃香の義理の姉になるという事を改めて示したのであり、その言動をもって先程の星の疑問に答えたともいえた。

 樊噲は高祖、つまりは劉邦(りゅうほう)の臣下の一人であり、劉邦の正室である呂雉(りょち)の妹の呂嬃(りょしゅ)を妻としていた。それもあって劉邦の信頼は篤く、樊噲もまたその期待に終始応えていった。漢の三傑には入ってないものの、その実績はもっと評価されて良い筈である。

 星を樊噲に並ぶ、と賞した事で、この騒動は終息したと言って良い。それを見た桃香は軍議の終了を告げた。諸将を解散させ、天幕には平和が戻った。

 だが、それでもこの場には数人が残った。涼、桃香、愛紗、朱里、そして小蓮と星である。

 小さく息を吐いた桃香が訊ねる。

 

「……さっきの騒動の理由を教えてもらっても良いかな、星さん。」

 

 その口調と表情は先程までと違い柔らかく、親しみを込めていた。同時に、何としても星の口から理由を聞きたいという意思が感じられた。

 一方の星は一度桃香を見、次いでこの場に居る全員を見た。こちらは先程と然程変わらぬ表情に見える。相変わらずの人をくったかの様な表情。だが、決して理由を話さないという雰囲気は無い。

 

「既に桃香さまもお気づきの筈では?」

「それでも、星さんの口から聞きたいの。」

 

 それを聞いた星はふっと笑みを浮かべた。どこまでも真面目な方だ、と内心で呟きつつ、言葉を紡ぐ事にした。

 

「一言で言うならば、徐州軍の諸将に孫家を良い意味で意識させる事と小蓮殿の立場を確固なものとする為ですかな。おや、二言でしたな。」

 

 これは失敬、と呟きつつ星は桃香を見据えた。

 

「つまり、小蓮ちゃんを怒らせる事によって小蓮ちゃん自身や孫家がどれだけ私達を、涼義兄さんを想っているかを吐露させたって事なんだね。」

「左様。いくら小蓮殿が諸将に認められているとはいえ、その中には内心まだ信用しきっていない者も居たかも知れませぬからな。決戦に挑む前にこれを(ただ)しておこうと思った次第。」

 

 星の言葉を聞いた桃香は呆れた様な表情で大きく息を吐いた。同じ様に呆れ顔の愛紗が星に訊ねる。

 

「だが星よ、それは少々賭けではなかったのではあるまいか? 下手をすれば諸将が小蓮や孫家に疑念を持つところであったぞ。」

「確かにな。だからこそ私は思いっきり孫家を悪く言ったのだ。そうすれば間違いなく小蓮殿は怒る。それも悪く言えば言う程、それを打ち消す程の反論を正しく言葉に紡ぐだろうと考えた。」

 

 そう答えた星は小蓮を見る。まだ少し怒っている様だ。頬を膨らませて睨んでいる。だがその様子もどこか微笑ましいと星は思った。

 

「そして、小蓮殿の反論が正しければ正しい程、私の疑念は的外れなものとなり、同時に小蓮殿の人気や評価が上がる。孫家への印象も良くなる。それを狙ったのだ。」

 

 結果として星の思惑通りに事は進んだのだろう。軍議が解散した後、小蓮に声を掛けた者は一人や二人ではなかった。しかも皆優しい笑みを向けていた。それはつまり、小蓮や孫家に好意的な想いを向けているという事なのだから。

 星の言葉に納得したのか、愛紗は頷いていた。それを見た朱里は微笑みながら言葉を紡ぐ。

 

「まあ、星さんの言動は明らかに不自然でしたからね。“孫家と行動を共にする事には些かの疑問も反論も無い”と言ったすぐ後に、“万が一の事が起きた際、孫家は頼りになるのか? 我等を裏切る事はないのか?”でしたから。」

「流石に軍師殿はお見通しだったか。私も強引だとは思ったが、他に言い方を思い付かなくてな。それに、多少不自然な方が私の意図が伝わり易いとも思った。今の朱里の様に察してくれた者が他にも居たかも知れぬ。」

 

 頭をかきながら星は苦笑した。ようやくそこで小蓮の表情が少し穏やかになった。

 小蓮の隣に立つ涼はそれに気づき、ホッとした。同時に、残った疑問について聞きたくなった。

 

「一つ目の理由は解ったよ。じゃあ、もう一つの“小蓮の立場を確固なものとする為”ってのは?」

「おや、桃香殿でさえ解っておられたのに、主殿(あるじどの)が解っておられぬとは意外ですな。」

 

 桃香が「私でさえって言い方は酷いー!」と当然の抗議をしたが、愛紗が宥めて事なきを得た。涼は苦笑しつつ、「俺も桃香と同じで星の口から聞きたいだけだよ」と答えた。それに納得したのか、星は笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。

 

「このまま孫家との同盟が続けば、確実に、数年内に小蓮殿は主殿の奥となられます。徐州の統治者の一人である主殿の妻というのは当然ながら軽い立場ではござらぬ。時代が時代なら、王妃といって良いでしょうな。そして王妃は、ただ国王の傍に侍れば良いという存在ではない。国王を支え、家臣に、国民に信用される存在でなくてはならぬのです。」

「……つまり、シャオが将来俺の妻になった時に皆に支持される存在になってほしくてさっきの茶番を起こしたって事か。」

 

 星は静かに頷いた。

 

「小蓮殿の反論が正しければ正しい程、小蓮殿や孫家が信頼されるとは先程申した通り。後は私が自身の非を認め、小蓮殿が寛容さを見せてくれればこの茶番劇は上手く幕を閉じれました。……尤も、私の予想以上に小蓮殿は動いてくれましたが。」

 

 星は再び小蓮を見た。その視線が優しげなものであると感じた小蓮は先程までの落差に戸惑いつつも自身の考えを述べる事にした。

 

「確かに、最初は本気で星に怒っていたけど、途中から違和感はあったのよね。それが何なのかは判らなかったけど、最後に星が拱手しながら頭を下げた時に何となく解ったの。ああ、これはシャオの為にしたんだなって。」

 

 そう言った小蓮の視線もまた、星と同じ様に優しげなものになっていた。この場に居る全員がそれに気づき、やはり優しげな視線を両者に向けた。それにしても、「何となく」で解るのは流石は雪蓮の妹である。

 

「だからシャオも何かしないといけないって思った。それで咄嗟に口調を恭しくして、星を許して、同時に称えてみた。これで良いのかなーって思ったけど、星が改めて拱手したのを見てホッとしたわ。」

「そうでしたか。何らかの称賛の言葉はあると思っていましたが、まさか武侯と同列に称えられるとは思いませんでしたな。」

 

 武侯とは樊噲の諡号(しごう)である。前漢の功臣の一人である樊噲になぞらえるという事は、その者をそれだけ信頼しているという事に他ならない。例え咄嗟の事であっても、それは称えた者がそう思っていなければ出てこない言葉である。

 何はともあれ、星が起こした茶番劇は徐州軍にとってプラスに働いたと桃香たちは結論づけ、それぞれの持ち場に戻った。明日には出発なので、やる事が多い。勿論それは徐州軍に限った事ではないのだが。



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第二十四章 汜水関へ向けて・3

 桃香たちが茶番劇を演じていた頃、彼女たちがそうした様に雪蓮たちも自陣に戻って軍議を開き、明日の出発に向けて動き始めた。軍議の後、雪蓮は親友で筆頭軍師である冥琳(めいりん)と共に陣営を歩いて回っていた。将兵の観察だけでなく、ちょっとした気分転換を兼ねているが、二人の会話はこれからについてのいたって真面目な話であった。

 

「これだけの大軍だと、ここから汜水関までゆっくり進んで五日、急げば三日で着く筈。けど、そこでの戦いが何日掛かるかが問題よね。」

「ああ。時間が掛かればその分だけ敵の援軍が関に入るだろうし、別の道を通って遊撃部隊が来る危険性もある。いくら兵数が多いとはいえ、被害は最小限に抑えたい。」

「それは私達の軍だけ? それとも連合軍全体?」

「解りきった事を訊くんだな。当然、連合軍全体だ。」

 

 冥琳がそう言うと、雪蓮は「そりゃそうよねえ」と嘆息した。

 此度の戦いは黄巾党の乱の時の様に諸将が連合して行う。しかも規模はあの時より遥かに大きい。当然、被害もその分大きくなるだろう。そんな戦いで孫軍だけが無事で他が無事でないなんて事はまず考えられない。その逆も然り。よって、連合軍全体の被害を抑える事が結果として孫軍の被害を抑える事になると雪蓮は考えていた。冥琳も同じである。

 とはいえそれが難しい事だというのも理解していた。連合軍が八十万を超す兵数を集めた様に、董卓軍も数十万の兵を集めているという。正確な数は判っていないが、董卓軍単独でそれだけ集めているのは驚異的といえる。

 と、冥琳はそこで、実際には間に合わなかったとはいえ、十常侍誅殺の時ですら董卓軍は十五万もの兵を集めていたのを思い出す。自身の武力はともかく、元々優秀な将だった董卓こと(ゆえ)は人望が篤いのもあり、兵が集まりやすかったのかも知れない。

 そもそも、本当に月が専横をしているのかという疑問もあった。冥琳は月とそれ程深い付き合いがある訳ではないが、その数少ない付き合いでの印象は悪くなく、むしろ良いと思えた。将として甘そうという印象もあったが、雪蓮から聞いた情報を加味すると、外見に反してしっかりとした将と結論づけた。

 そんな人物が専横をするか? と思ったが、人は変わるものだとも理解していたので、疑問は半ば捨てた。確認のしようがないし、仮に専横をしていなかったとしても今更どうしようもないからだ。やる事は変わらないし、君子危うきに近寄らず、というではないか、と。

 

(もっとも、懸念すべきは清宮と劉備がどう動くかだな。)

 

 冥琳はそう思い、再び考えをまとめ始めた。

 二人と月は仲が良いと雪蓮から聞いていた。実際に冥琳は、十常侍誅殺後の宴会で仲良く話している三人の姿を見かけていた。真名も預けあっていたと記憶している。

 この二人は、月と同じかそれ以上に甘いと冥琳は見ている。十常侍誅殺の際は自ら宦官(かんがん)の首を討ち獲ったり、青州救援の為に最前線で戦ったりと、一勢力の長としては申し分ない働きを涼も桃香もしているのだが、それでも冥琳の基準からは甘いと感じるのだ。

 身近に雪蓮や孫堅こと海蓮(かいれん)という、戦や一族の伸長に関して徹底している者が居るからそう感じるのかは分からないが、実際、雪蓮たちと比べたら涼たちは甘いだろう。

 そんな涼たちがかつての味方を討てるのか、という懸念が冥琳にはある。それを調べる為に、徐州軍に明命(みんめい)を派遣した。表向きは徐州軍に行軍を共にしようと提案する事と小蓮の様子伺いだが、当然ながらそれだけで済ます程、冥琳も孫軍も甘くはない。

 今は同盟を組んでいるとはいえ、いつ敵対するか分からないのがこの時代である。相手の情報は少しでも多く知りたいのが普通だ。

 冥琳は明命に可能ならば(・・・・・)と前置きしつつ「徐州軍について調べる様に」と言い含めていた。そこには「反董卓連合における徐州軍または個人の考え」を確かめる意味もあった。

 残念ながら明命をもってしても徐州軍の真意は判らなかった。小蓮が常に居た事と、朱里たち軍師勢がしっかりと明命の行動を監視していた為である。徐州軍を調べたいとは思っても同盟関係を壊す気は元々無いと言い含められていたのもあり、危険を侵してまで深く調べる事はしなかった。

 

(もし、劉備たちが董卓をどうにかして助けようとしているのだとしたら……こちらも考えなければならない、か。)

 

 冥琳は出来ればそれは考えたくないなと思いつつ、孫軍の軍師として決意する。残念ながらというべきか、桃香たちは月たちをどうにかして助けられないかと考えている訳だが、果たしてどうなるか。

 さて、親友がそんな決意をしているとは流石の雪蓮も気づいておらず、彼女は考え込む冥琳に一言声を掛けてから自身の考えを述べ始めた。

 

「今回の連合は袁紹の檄文に応じて“悪逆董卓を討つ”って目的で集まった訳だけど、恐らくまともに戦おうとする者は少ないわね。可能な限り自軍の将兵を損なわず、上手いとこだけ貰いたいって奴等ばっかりでしょ。」

「ほお……どうしてそう思う?」

「簡単な事よ。董卓の悪政は確かに世に広まってるけど、いまだ私達にその影響はあまりない。勿論、場所によっては影響が出てるとこもあるかも知れないけど、現状では動く意味が薄い。諸侯の多くは名門袁家に誘われたから止む無し、ってのばかりでしょ。」

 

 そうだな、と冥琳は頷く。

 董卓が帝を蔑ろにし、帝都洛陽(らくよう)で専横の限りを尽くしている、との情報は入っている。袁紹からの手紙をまるまる信じる程お人好しではないので、独自に調べていた。

 その結果、確かに噂通り洛陽は董卓の支配下にあったが、実害はあまり見つからなかった。本当に専横して洛陽の都が混乱しているのなら、かつて(しん)趙高(ちょうこう)がした悪政の被害者が数えきれない程居た様に、此度も多数の被害者が居てもおかしくないのに、何故か一人も居なかった。何故か、というものの、それが何を意味するかは明白だった。

 また、諸侯も同じ様に調べていたと見るべきで、当然ながら同じ答えに辿り着いていると考えられる。

 

「だが、真偽はともかく帝を助けるというのは大義名分として充分過ぎるのも確かだ。もし、董卓を排除し帝をお救いする事ができれば、その恩賞は十常侍の時とは比べ物にならぬくらい大きいだろう。」

「ええ、恐らく今回集まった諸侯の多くはその恩賞に目が眩んだんでしょうね。実際、帝を助けた事で大きな恩賞を得た者が居るって前例もあるし。まあ、あの時はまだ帝じゃなくて皇子だったけど。」

「清宮と劉備か……。」

 

 理由は違うといえ、雪蓮もあの二人を注視している事に内心で苦笑しつつ、冥琳は二人の名前を口にする。

 既に触れたが、史実と違い、この段階で劉備が徐州の州牧になっているのは十常侍誅殺の恩賞によるものだ。当時の皇太子兄弟を涼たちが救いだし、その恩賞として涼が徐州牧に任命される事になった。だが涼はそれを固辞し、代わりに劉備をと願い出て、それが認められた為に劉備こと桃香が徐州牧となった。

 

「ええ。けど、今回は恩賞を得るのが簡単じゃない事を皆が知ってる。十常侍の時は宦官が愚かだったのか諸侯が簡単に洛陽に軍を集められたけど、今回は違う。私達の前には少なくとも二つの堅牢な関が在り、それを守る将兵の数も数十万に昇る。」

「ああ、関を抜くのは容易ではない。かつて、戦国末期に(ちょう)()()(かん)(えん)の五国が秦の函谷関(かんこくかん)を攻めたが落とせなかった。その結果、(せい)を含めた六国は秦に抗う力を持てなくなり、始皇帝による統一に繋がった。」

 

 冥琳が言ったのは「函谷関の戦い」と呼ばれる戦いの事である。なお、函谷関の戦いと呼ばれる戦いは少なくとも四回あり、冥琳が言ったのは四回目の戦いを指している。

 函谷関とは秦を守る関所の一つであり、難攻不落の要衝だった。

 その秦を滅ぼした劉邦は当初、函谷関を攻め落として関中へと攻め入るつもりだったが、謀臣の張良(ちょうりょう)の進言を受けて函谷関ではなく南に在る比較的手薄な関、武関(ぶかん)を攻め落としたと伝わる。

 ちなみに、函谷関は後漢時代にも在るが、秦時代のものとは場所が違う全くの別物である。

 関所を落とすのはそれ程大変な事であり、反董卓連合軍の進路に在る関所もやはり突破は簡単ではないだろうというのが両者の見解だった。

 両者はそのまま、さてどうするべきか、と頭を悩ませ、雪蓮は早々に冥琳に丸投げした。

 と、そこに、明るく楽しげな、それでいて落ち着きがある歌声が二人の耳に入ってきた。

 

「あら、この歌は……。」

 

 雪蓮は歌声がする方に目を向けた。冥琳も同じく目を向けながら微笑んでいる。

 

「この歌声は留正明(りゅう・せいめい)だな。相変わらず歌が上手い。」

 

 雪蓮たちの視線の先には、左手の杖で身体を支えながら明朗に歌っている少女の姿がある。周りには彼女の歌を聴きに集まっている揚州軍の兵士達が多数集まっていた。

 

「そういえば、華琳の軍には歌を唄って兵士の士気を上げる部隊があるわね。この間袁紹と戦った時に初めて彼女達の歌を聴いたけど、結構良かったわ。」

「私としては騒がしくて苦手な曲調が多かったが、上手いという点は同感だ。」

「ね、私達もそういう部隊作っちゃう? 勿論、部隊長は留正明で。」

「良い提案だとは思うが、今あいつの武力を失うのは惜しいな。」

「ま、それもそうね。彼女、足が不自由とは思えないくらい強いし、止めときますか。」

 

 あっさりと提案を取り下げた雪連は、そう言いながら再び留正明を見た。

 史実の留正明は黄巾党との戦いで足を負傷し、今でいう障害者になった。だが、家族の反対を押しきって足の筋を切り、その部分を引き伸ばすという荒技によって足を引き摺りながらではあるが歩ける様になったという逸話を持つ豪気な武将だ。

 既に触れたが、この世界の留正明は例にもれず女性である。年齢は蓮華と同じくらいか。史実で歌う際に「髪を振り乱して」とあるからか長い髪をしている。色は黒。

 孫呉の人間の多くが褐色の肌をしているが、彼女もその例に漏れず褐色肌である。服は上下共に赤を基調としており、上はジャケットの様な羽織で下はパンツルック。靴はスニーカーの様に紐で留めるタイプだ。

 胸は大きめで、孫呉の人間で比較するなら恐らく雪蓮以下蓮華以上と思われる。足が不自由なので、歩いたり走ったりする速度は遅い。……筈なのだが、ひとたび戦闘になるとそう思わせない動きを見せ、確実に眼前の敵を屠っている。それがこの世界の留正明である。

 雪蓮と冥琳はそれまでの難しい事柄を忘れ、暫しの間、彼女の歌に聴きいっていった。



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第二十四章 汜水関へ向けて・4

 曹操軍は、徐州軍、孫軍と比べれば素早く動いていた。

 いち早く自陣に戻った華琳は直ぐ様指示を出し、明日の出立に向けて万全の準備を進めていった。馬車の整備、武器の確認、兵士の士気を維持する為に造った舞台の撤収等々、やる事は山積していたが、桂花や(りん)といった優秀な文官達が効率的に動いてくれているので素早く動けている。

 一通り指示を出し、自らも出来る事をやった。そうして日暮れ前には早々と明日の準備が全て終わった。

 

「ん……。」

 

 天幕の中、一人休憩をとる華琳。組んだ両手を頭上に上げる。背骨が伸びる様な感覚が伝わる。ついでに背も伸びれば良いのにと思う。決して口には出さないが。

 

「華琳さま、お忙しいところ申し訳ありません。今よろしいでしょうか?」

 

 外から声を掛けられる。幼い頃から何度も聴いてきた二つの声の一つ。華琳がこの声を聞き間違える事は決してない。

 

「良いわよ。入ってらっしゃい、秋蘭(しゅうらん)。」

 

 華琳が真名を口にすると、水色の髪の女性が「失礼します」と言いながら天幕の出入り口から現れる。秋蘭こと夏侯淵(かこうえん)だ。

 

「どうしたの? 何かあったのかしら。」

「いえ、華琳さまが懸念される様な事は何もありません。ただ……。」

「ただ?」

「あの二人が兵士の士気を上げたいと申してきまして。」

 

 今の華琳にとってあの二人(・・・・)が誰かは訊くまでもない。そのまま話を続ける。

 

「兵士の士気を上げるのはとても大事よ。けど、既に舞台は撤収したじゃない。また舞台を組むのは時間と体力の無駄よ。」

「私もそう言いましたが、二人は“歌えるなら舞台が無くても良い”と申しており、どうしたものかと。」

「ふむ……。」

 

 それを聞いて華琳は口許に手を当てて暫し考え込む。

 現代にある様な便利な工作機器などがないこの世界では、舞台を造るのも一苦労である。だからこそ、帯陣してからずっと設置していた舞台を今日の内に片付けると決め、その通りにした。

 間もなく夜の帳が落ちる。今から舞台の再設置は現実的ではないので却下しようと思った華琳だったが、舞台が無くても良いのなら当然考えも変わる。

 

「分かったわ。兵士達の士気の高揚と維持に彼女達の歌は必要不可欠。許可するから思いっきりやりなさいと伝えなさい。」

「はっ。」

「その代わり、明日の出立に影響が出ない様に無理をしないで、ともね。」

「ふふ……分かりました。」

 

 華琳の許可を貰った秋蘭は一礼して天幕を出ていった。天幕の中には再び華琳だけとなった。人の動きは天幕の中に居ても感じられるし、出入り口には見張りの兵士が居る筈だが、少し寂しさを感じる静かさが訪れた。

 だからだろうか、華琳は沈思黙考すると誰に聞かせるでもなく言葉を紡いだ。

 

「今夜は私も聴きに行こうかしら。」

 

 そう一人ごちると、もう一度両手を組んで頭上に上げ、伸びをする華琳。意図せず甘い吐息が漏れる。

 明日、洛陽に向けて出立すれば、いつ董卓軍と戦闘になるか分からない。そうなればこんなにのんびりとした日は当分来ないだろう。下手をしたら将兵だけでなくあの二人も失うかも知れない。そうなっては大きな損失だし、そうはさせないと華琳は思う。

 あの日(・・・)以来、華琳は一部の配下以外にはあの二人(・・・・)の事を誰にも知らせずここまで来た。同盟相手の涼や雪蓮にも伝えていない。

 伝える必要が無いと思った。伝える事で起きるかも知れない損失を考慮すれば当然といえた。

 そもそも、同盟関係だからといって何もかも教える必要はない。恐らく涼や雪蓮だって全てを華琳に見せてはいないだろう。そうでなければ一軍を率いる事は出来ない。

 だからこれで良いと華琳は思う。ただ、それと同時に、

 

「いつか涼たちにも彼女達の歌を聴かせたいわね。」

 

とも思った。

 単に自慢したいだけではない。彼女達の歌は華琳が認める程に素晴らしいものであり、絶対に聴かせるべきだと思ってる。万人受けするかは分からないが、少なくとも気に入る可能性は高いと自負している。

 華琳が傍に置いているだけあって、二人の容姿も抜群である。異性である涼は特に気に入るだろう。

 

「……何故かしら。ちょっとイラっとしたわ。」

 

 原因は涼が二人を気に入ると想像したからか、二人が華琳よりスタイルが良いからか、もしくはその両方か。

 何にせよ、華琳は暫し休息をとった後に二人の歌を聴きに行き、常の様に満足し、その夜は気持ち良く眠りについたのだった。

 

 

 

 徐州軍、孫軍、曹操軍はこの様に出立前日を過ごしていった。

 勿論、彼等と同じ様に他の軍もそれぞれに準備をし、各自万全の状態で出立の日を迎える事となった。



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