市原仁奈の寵愛法 (maron5650)
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0.寂しいウサギと捻くれうさぎ

親とは、神様だ。

 

大袈裟と言う人も居るだろう。皮肉と言う人も居るだろう。

だが、この少女にとって。

この言葉は、大袈裟でも皮肉でもなく。

ただの、真実だった。

 

当然、親は神様ではない。

だから、例え見放されても、死ぬことはない。

世界が滅亡するようなことは、有り得る筈がない。

 

そんなこと、少女は知り得ない。

 

神様は自分よりも上位に位置する存在であり、気分1つで自分をどうすることもできる。

だから、少女は考える。

神様に嫌われない方法を。

だから、少女は懇願する。

神様の寵愛を手にするために。

だから、少女は歪んでいく。

それが悪いことと気付きもせずに。

 

それは神様が望んだ姿ではなかったのに。

 

まだ少女は、それに気付かない。

だから今日も、神様の言いつけに従っていた。

真夏の炎天下、とあるビルの入り口で。

キグルミに閉じこもったまま。

市原仁奈は、待ち続けていた。

 

 

 

暑さで頭がやられたんだろう。

私はそう思い込むことにした。

だって、考えてみて欲しい。

忘れ物を取りに夏休み中の事務所に来たら、自分と同じ背丈のウサギが居た。

そんなこと、あるわけがないじゃないか。

予想外過ぎるあまりに思わず後ろを向いてしまったぞ。

 

きっと、ニートにこの日差しはきつ過ぎたんだ。

片手で握ったぬいぐるみで乱雑に額の汗を拭い、深呼吸を1つ。

気持ちを落ち着け、ゆっくりと振り返る。

そうすればほら、あの不可解な幻覚も消え……

 

「……。」

 

「……。」

 

ない。まずい。目が合った。

えっ、何、なんでこっちを見るんだ。

というか何故事務所の前にぽつんと立っているんだ。中に入らないのか。

入られたらそれはそれで怖いが。

 

「うさぎ……。」

 

ウサギがぽつりとそう言った。

はいそうですね、あなたはウサギです。見紛うはずもありません。

……と、思っていたが。

どうやらウサギは私ではなく、私が持っているものを見ていた。

 

「……これ?」

 

試しに差し出してみたところ、ウサギはこくこくと頷いた。

自ら扮するあたり、好きなのだろうか。ウサギ。

 

『……ウサギさんウサギさん、あなたはどうしてそこに居るのです?』

 

私よりも少しだけ低い背丈。

私が小学4年生の平均程度だから、きっとそれ以下。

そして、キグルミを着て外出する程度の年齢。

小学1.2年か、あるいは幼稚園の年長……これは言い過ぎか?

ともかく、その程度には幼いと判断し、ぬいぐるみを私の顔の前に。

ぴょこぴょこと耳を揺らし、声色を変えて尋ねてみる。

これで、警戒心は多少薄まるだろう。

 

「ママが、ここでアイドルにしてもらうって、言ってたので……。

だから、来たですよ。」

 

アイドルに、してもらう?

ということは、面接に来たということだろうか。

しかしそれなら、とっくに中に入っているはずだ。

いや、そもそも。

 

『ママはどこに居るのです?』

 

これだけ幼い少女だ。たった一人で事務所まで来ることは無いだろう。

と、思っていたのだが。

 

「ママは、忙しいので、もう仕事に行っちまったです……。

仁奈しかいねーです……。」

 

……これは。まさか。

1つの、良くない予感が脳裏によぎる。

それは、私の経験と深く結びついていたからでもあった。

ひょっとしたら、この子は。

 

ウサギの横に立ち、事務所のドアノブに手をかける。

……ガチャン、と、拒絶の音が響いた。

プロデューサーが、居ない。ということは。

事務所に連絡が来ていないということだ。

こちらに何も言わず、ただ、ここに子供を置いただけということだ。

真夏の日差しの中に、キグルミを着た子供を。

 

「……いつから、ここに居るの?」

 

ぬいぐるみを使うのも忘れて、私はウサギに問いかける。

ウサギは少し驚きながら、「ずっと」とだけ答えた。

 

「とにかく、中に入ろう。」

 

ポケットから合鍵を取り出し、ドアを開ける。

即座に冷房をつけ、ウサギを座らせる。

フード部分を脱がし、タオルで顔の汗を拭った。

 

「ちょっとだけ、待っててね。」

 

グラスに氷と麦茶を放り入れて手渡す。

自分用にも同じものを作り、一気に飲み干す。

さて、どうするか。

数秒の思考の末、ひとまずプロデューサーに確認を取ることにした。

 

 

 

 

『……いや、そんな話は来てないぞ。』

 

やっぱりか、という声を、麦茶と共に流し込んだ。

 

「ねえ、プロデューサー。これって……。」

 

『身分証明。銀行口座。その辺りのものを持たせていれば、ほぼ確実だろう。』

 

そう言われて、再びウサギに視線を向ける。

始めて来た場所に不安げな表情を浮かべながら、クリアファイルを大事そうに両手で抱えていた。

 

「それ、ちょっと見せてもらっていい?」

 

中身を確認すべく、ウサギに問いかける。

しかし。

 

「……建物の中の大人の人以外に渡しちゃダメって言われたですよ。」

 

と、更にぎゅっと抱きしめられてしまった。

……こんなことをする癖に、そういうところはしっかりしているのが癪に障る。

 

大人の人、か。

あの明るい親友くらい大きかったら、そう見られていたのかな。

きっとこの子は、私を同年代だと思っているだろうから。

 

「……大人の人以外に渡しちゃダメ、だってさ。」

 

再び受話器に顔を近づけ、溜息混じりに告げる。

直接確認はできなかったが、その反応を見れば十分だった。

 

『なら、双葉の考える通りだろうな。』

 

長く深い溜息をついて、彼はそう答えた。

 

「今から来られる? 大人の人。」

 

「そうするしかなさそうだ」と残して、彼は通話を切った。

 

 

 

程なくして、彼がやってきた。

彼がウサギに声をかけると、ウサギは素直にファイルを手渡した。

 

「……何が入ってたの?」

 

中に入っていた紙の束を取り出し、一枚ずつ目を通していく。

読み進める度に険しくなっていく彼の表情を見て、私は若干察しつつもそう尋ねる。

 

「自分の子供を使って荒稼ぎしたいから後はよろしく、だとさ。」

 

吐き捨てた要約には、彼の感情がこれ以上なく詰まっていた。

 

「……家の住所は?」

 

「あると思うか?」

 

苛立ちを隠すこともせずに冷たく返す。

 

「……ねえ。ここからお家に帰る道って、分かる?」

 

事務所と契約をするにあたって、通常は記載するであろう住所。

それが書かれていないことの意味は。

 

「わからねーです……。

家からタクシーに乗って、ずっと走って来やがりましたから……。」

 

彼女が帰るべき暖かい家は、最早存在しない。

 

彼の眉間の皺が、更に深くなる。

事務的なやり取りが殆どとはいえ、もう短くない付き合いだ。

彼の気持ちは、よく分かる。

何故こんな小さい子を。

何故こんな目に。

しかも、よりによって。

 

何故、双葉杏がこれを見なければならない。

 

彼は、私の過去の全てを知っている唯一の人。

この小さなウサギの姿に何を重ねてしまうのか、容易に想像がつくのだろう。

それに苛立ちを覚えてしまえる程度には彼が優しいことも、今ではよく分かる。

 

「この子の寝床、すぐには用意できないでしょ?」

 

そして、だからこそ。

 

「ああ。だからひとまず……」

 

放っておけるわけがない。

 

「いいよ。私の家で。」

 

このまま見なかったことになんて、できるわけがない。

 

「……大丈夫なのか? この子は、」

 

どうしようもなく重ねてしまう。

寂しくて、寒くて、だから必死に笑っていた。

誰でもいいから側にいてほしかった。

 

「うん。だから、先人の杏の方がいいでしょ。……何かと、さ。」

 

一緒にご飯を食べて。一緒に他愛もない話をして。

それにどれだけ救われたか。

それがどれだけ嬉しいか。

 

「……分かった。」

 

きっとこの子も、それを求めているはずだから。

 

「……うさぎさんのお家に行くですか?」

 

私達の不穏な雰囲気を察したのだろう、不安げに眉を八の字にしたウサギは、私の服の裾を控えめに掴んだ。

 

「……うん。お家に帰れないのは嫌だと思うけど、ちょっとの間だけだから……、」

 

この年頃の子供が、見知らぬ場所、見知らぬ人の中に一人残される。それはきっと、とても怖い。

だから私は、その恐怖を少しでも軽減させようと明るい声を作る。

しかしウサギは、力なくかぶりを振った。

 

「家に帰っても、誰もいねーです……。

ママは忙しいですし、パパも、お仕事で海外に……。」

 

甘かった。

この子に対する認識が、甘かった。

家に帰れば、親が居て。

……どんなことをされてるか分からないけれど、親が居て。

どんなことをされていても、それは親だから。

だから帰りたい。

そんな状態ですらなかった。

 

「……そっ、か。」

 

母親も父親も家に居ない。

ずっと一人で。

一人だけで。

それならば、家に居たくない。

帰りたくなんてない。

 

家に帰る意味がない。

 

例え見知らぬ場所であろうと。会ったことのない人だとしても。

誰かが居るのなら。

誰かが居てくれるのなら。

その方が、ずっといい。

そう思えてしまえるまでに、この子は。

 

「……うさぎさん。」

 

フードを目深にかぶり、ウサギはぽつりと呟いた。

 

「うさぎさんのお家に行ったら、仁奈は寂しくねーですか?」

 

それは、その年頃の少女が抱くには、あまりに不釣り合いな不安。

自分の家では寂しさは埋まらない。

私の家に行けば、欲しいものが手に入るかもしれない。

 

「……大丈夫だよ。」

 

でも、期待するのが怖い。

だって、母親ですら与えられなかったのだ。

自分を最も愛して然るべき、母親ですら。

 

「忙しくても、ちゃんと仁奈のそばにいてくだせー……約束してほしーです。」

 

だから。

期待して、それでも手に入れられなかったとき。

その時に襲いかかる喪失感。

それを味わうのが、怖いのだ。

 

「うん。」

 

それを少女は知っている。

期待を裏切られる痛みを。

この幼さで、知っている。

期待するのを恐れるほどに。

欲しいものが手に入るかもしれないとしても。

それでも一歩、立ち止まってしまうほどに。

 

「約束……ゆびきりげんまん、です。」

 

どれだけ繰り返したのだろう。

期待して。裏切られて。傷付いて。それでも期待してしまう。

その繰り返しを、どれだけ経験したのだろう。

 

私に出来ることなんて、きっと数えるほどしかない。

でも。一緒に居るだけでいいのなら。

一人にしないだけでも、この子が喜んでくれるなら。

 

「うん、約束。」

 

決して離してしまわぬように。

差し出された小指に、しっかりと指を絡ませた。

 

 

 

「じゃあ俺は、この不備だらけの書類を何とかするよ。」

 

話がついたことを察したプロデューサーが、空気を変えるようにそう言った。

この口座に生活費が振り込まれるとも限らないからな。

そう続けて、クリアファイルをひらひらと揺らしながらPCへと向かう。

 

「じゃ、帰ろっか。」

 

忘れ物も回収したことだし。

片手で紙袋を持ち、ぬいぐるみを抱える。

それとは反対の手で仁奈の手を取り、笑いかける。

 

「……はいです。」

 

仁奈は、まだ、不安げな表情のまま。

それでも、しっかりと手を握り返してくれた。

 

 

 

 

「もしもし、きらり? 今から帰るよ。あと、食事の準備お願い。……3人分。」



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1.その純粋にはあまりにも

「にょわーーーーっ☆☆☆☆☆☆」

 

うん、知ってた。

そりゃこうなりますよね。

好きですもんね、ちっちゃいの。

きらりは私を左腕に抱え、ぐるぐるとその場で回転し続ける。

彼女がこうなったら落ち着くまでハピハピさせ続けるしかないことを、私は経験から学んでいた。

 

「ぐるぐるでごぜーまぁぁぁぁぁ!?」

 

右側から悲痛な叫びが。

すまない少女よ。私にはどうすることもできない。耐えてくれ。

 

それから30秒ほどして。

ちっちゃいものの片方が見慣れぬ子供であることに気付き、きらりは回転運動を止めた。

 

「ご、ごめんねぇ?……大丈夫?」

 

「世界が……世界が回ってやがります……。」

 

申し訳なさそうにしゃがみ込んで目線を合わせるきらり。

仁奈は、漫画だったら目が渦巻になっているんだろうなと思わせるふらつきっぷりを披露していた。

 

「後で説明するからさ。取り敢えず、シャワー浴びてくるよ。」

 

一方私は慣れたもので、今では殆ど酔うことはない。

鍛え上げられた三半規管。ムキムキである。

 

両目をなるとのようにした仁奈の手を引き、脱衣所へと向かう。

その時。きらりが一瞬、寂しそうな、不安そうな。

そんな、不安定な表情を浮かべた理由が分からなくて、私は気付かないフリをした。

 

 

 

 

「はい、バンザイして。バンザーイ。」

 

仁奈のキグルミを脱がしやすいポーズを取ってもらおうと、自ら両手を高く掲げて見せる。

しかしウサギは、拒絶するようにフードを深く被り直した。

 

「……仁奈は、大丈夫でごぜーます。

うさぎさんだけ入ってくだせー。」

 

「いや、大丈夫なわけないでしょ。

この真夏日にそんなもん着て。肉まんにでもなるつもり?」

 

半ば冗談のつもりで発した言葉。

仁奈はそれを聞いて、それが名案であるかのように食いついた。

 

「そ、そうでごぜーます。仁奈は肉まんの気持ちになるですよ。

肉まんは水浴びしねーです。だから……、」

 

真夏に一日中キグルミの中で蒸されたんだ。

きっと身体中ベタベタして、すぐにでも拭き取ってしまいたいはず。

それでも、こうまでシャワーを拒む理由。

 

「……身体のことなら、誰にも言わないよ。」

 

1つ、最悪な予感があって。

確かめるようにそう言うと、仁奈はびくりと身体を震わせた。

何でそれを知っているのか、と、怯えた顔で私を見る。

……ああ、大正解か。畜生。

 

「言わない。あのお姉さんにも。仁奈のママにも。誰にも。

……ベタベタして、気持ち悪いでしょ? 汗疹になっちゃうよ。」

 

やはり、シャワーを浴びたいのは確かなようで。

私の言葉に反応するように、仁奈は浴室の方を見た。

 

「ほ、ほんとでやがりますか? ほんとに誰にも……、」

 

それでもまだ不安がる仁奈に、小指を差し出す。

 

「うん。ほら、指切り。」

 

きっとこの子の中で、指切りは絶大な効果を持っている。

それこそ、指切りをして交わした約束は、必ず守られなければならないような。

そんな、絶対的な意味がある。

事務所での仁奈の行動を思い返し、私はそう推測した。

 

仁奈は私の指を、じっと見つめる。

それから。数十秒か、数分か。

長い長い逡巡の末に。

自らの小指を、恐る恐る絡ませた。

 

「……よし。じゃ、脱がすよ。」

 

私がそう言うと、仁奈はまだ表情を曇らせながらも、素直にバンザイの形を取ってくれた。

これから見るであろうものを心の中で覚悟して、私は仁奈に手を伸ばす。

背中のチャックを下ろし、脱皮するように脱がせる。

 

 

 

「──ぁ、」

 

 

 

精一杯だった。

衝動に身を任せないように。

声を出さないように。壁を殴らないように。

仁奈を怯えさせないように。

平常を見せかけるので、精一杯だった。

 

綺麗な白い肌に滲むように浮かぶ、青、紫、赤。

おびただしい数の打撲傷、擦り傷。

それが、服によって自然と隠れるであろう部分を中心に、

ああ、そんな、こんな、

 

冗談かって、くらい、たくさん、

 

「……うさぎさん?」

 

仁奈が不安そうに私の顔を見る。

駄目だ。気付かれる。

今すぐに感情を殺せ。

無理にでも笑え。笑顔を貼り付けろ。

練習しただろう。得意だっただろう。作り笑いは。

 

「……じゃ、さっさと流しちゃおうか。」

 

声を明るくして、仁奈に笑いかける。

その顔を見て、ウサギはやっと、安心したように柔らかく笑った。

……仁奈に見られないように、ほっと胸を撫で下ろす。

 

きらりに任せようかとも思っていた。

きっと、きらりの方が子供の扱いは上手いだろうと。

任せないで正解だった。

こんな姿を見たら、彼女はどうなっていたか、分からないから。

 

「あ、シャンプーハット使う?」

 

「……おねげーします。」

 

泡が目に入るのは嫌だけれど、シャンプーハットを使うのは恥ずかしい。

その2つを天秤にかけ、使うことを選んだ少女の表情は、私の心境とは場違いに可愛らしかった。

これはきらりが使ってるやつだから、恥ずかしがらなくていいんだよ。

……彼女の尊厳を尊重して、この言葉は心にしまっておくことにした。

 

 

 

疲れていたのだろう。

シャワーを浴び終わり、傷が見えないように見繕った服……つまりは私のパジャマを着ると。

夕飯が出来上がる前に、仁奈は静かに寝息を立て始めた。

 

「……杏ちゃん。」

 

仁奈について知っていることを、教えて欲しい。

きらりの顔には、そう書かれていた。

 

「多分、いや、ほぼ確実に。……親から虐待を受けてる。」

 

感情を込めずに、淡々と告げる。

そうしなければ、八つ当たりしてしまいそうだった。

 

「書類を持って、事務所の前で立ち尽くしてた。

住所と、保護者の名前だけ、綺麗に空欄な書類を持って。」

 

それが何を意味するのか、分からない彼女ではない。

きらりはそっと目を伏せる。

膝の上で眠る少女を起こさないように、その髪をゆっくりと撫でた。

 

「今、プロデューサーが手続きをしてる。

この子が生きていけるように。

それが済むまでは、ここで……。」

 

「杏ちゃんは、それでいいの?」

 

きらりに許諾を取ろうと話していると、逆に問いかけられる。

彼女の顔を見ると、プロデューサーと重なって見えた。

 

きらりも、彼ほど完全にではないにせよ、私の過去を知っている。

彼と同じような心配をしてくれているのだろう。

 

「この子がして欲しいこと。されたくないこと。

……多少は予想がつくからさ。」

 

だから、同じような言葉を返す。

私がやった方が、合理的であるからと。

 

「……杏ちゃんが、いいなら。

きらりも、お手伝いするにぃ。」

 

「……ありがとう。」

 

 

 

 

この子のために、何か。

自分と似ているこの子のために、何かができるのなら。

その本音は、まだ、身体の外側に出すことができなかった。



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2.やりたいこと、できること

「うおー、すげー! キグルミがいっぱいでごぜーます!」

 

店内のキグルミコーナーを見つけるや否や、仁奈は全速力で走り出した。

 

仁奈が私の家に来て、一週間ほどが経過した。

傷が治るまではきらりに仁奈の身体を見せてはいけない。

だから、しばらくの間は私が積極的に面倒を見なければならない……と、思っていたのだが。

子供の再生力とは恐ろしいもので、あれだけあった無数の傷は、ものの数日で完治してしまった。

身体が真っ白に戻ってしまえば、仁奈も私以外との風呂や着替えを拒否する理由は無く。

きらりの子供の扱いが、やはり上手なことも相まって。

仁奈はすっかり、年相応の元気さを取り戻していた。

 

「仁奈ちゃん!? 危ないよぉ!?」

 

きらりが両目を不等号にして仁奈を追いかける。

 

一週間の月日は以上のようなプラスを生み出したと同時に、現実的な問題点を浮き彫りにした。

仁奈の着る衣服の問題だ。

仁奈は極力、元々着ていたウサギのキグルミ以外を着たがらなかった。

仮にキグルミ以外を着せるとしても、箪笥の中にはきらりが買ってきた私のパジャマと。

後は私が前にふざけて一筆したためたダボダボのTシャツしか選択肢が無かった。

余談だが、このTシャツは何故かグッズ化され、何故か売れに売れた。世の中何がウケるか分からない。

 

「きらりおねーさん、早く来てくだせー!

キグルミしかねーですよ!」

 

一方仁奈は目をキラキラと輝かせ、大きく手を振り、軽くジャンプまでしてきらりを呼んでいる。

 

とまあ以上の理由により、今後の生活において、仁奈の衣服が複数必要であると判断。

仁奈の希望を汲み取り、こうして店へと足を運んだのである。

キグルミを売っている店なんて、通販くらいしか無いのではないかと思ったが。

流石、風車に単身突撃する狂った男の名を冠した何でもショップ。キグルミまで完全網羅だ。

 

キグルミが所狭しと並んでいるコーナーの中に、3人も入るのは窮屈そうだ。

微笑ましい二人のやり取りを眺めつつ、仁奈がキグルミを選び終わるまでの暇潰しを考える。

安直に店内を見て回ることにすることにし、きらりにその旨をメールで告げた。

 

ジョークグッズ、筋トレ器具、スマホの周辺機器。

まるで関連性のないものが雑多に並んでいる細い道を、ゆっくりと歩く。

1つのフロアを、半周ほどしただろうか。

ふと目に留まるものがあって、私の足は自然とその動きを止めた。

 

仮装コーナー。

その一角に、鮮やかな白と黒。

パッケージには、タキシード姿に男装した綺麗な女性の写真が貼り付けられていた。

 

「……。」

 

つま先立ちし、それを1つ手に取る。

一番小さいSサイズ。

しかしそれでも当然、139センチは対象外で。

分かっていたことだけれど、少しだけ肩を落とした。

 

別に、明確な出来事があったわけじゃない。

可愛い衣装が嫌いなわけでもない。

ただ、自分では手の届かないものだから。

だから少し、憧れる。

それだけの話だ。

 

「……そう、それだけ。」

 

それだけのことに、今もまだ、悩まされる。

いい加減、諦めてしまえばいいのに。

人には向き不向きがあって、私に綺麗は向かない。

だから、その憧れは捨てる。

それだけ。ただ、それだけ。

 

そう言い聞かせる度に、それだけが積もっていく。

 

ぼうっと立ち尽くしていると、携帯に着信。

ポケットの振動で、私は我に返る。

もう選び終わったのだろうか。

そう思って通知を見ると、しかしメールの送り主はプロデューサーだった。

 

『件名:市原仁奈の件について

内容:こちらで作れる書類は作ったんだが、よく考えれば今夏休みだ。事務員が居ない。

暇な時にでも市原を連れて事務所に来てくれ。』

 

「アホか。」

 

思ったことをそのまま送りつけてやろうとして、続きがあることに気付く。

 

『追伸

記載されていた彼女の情報を載せておく。』

 

その文章の後に、仁奈に関するデータが羅列されていた。

丁度いい。身長が分かれば、わざわざ試着しなくて済むだろう。

彼を罵倒するのはその後だ。

データを読み進め、身長の箇所を探す。

 

「……え?」

 

しかし。

身長の項目まで行き着く前に、スクロールする指が止まる。

 

「年齢……9歳、って、」

 

市原仁奈の年齢は、9歳。

それは、今までの認識とあまりにかけ離れていた。

 

初対面のとき、私は何と推測した?

「小学1.2年か、あるいは幼稚園の年長」だ。

つまり、今年で5~7歳だと。

仁奈の言動は、私にそう思わせた。

それが、9歳?

 

言ってしまえば、たった2年の差だ。

しかし子供は2年あれば、驚くほど成長する。

成長する、はずだ。

少なくとも、キグルミを着て外出し。

あの不完全な敬語で話し。

誰かと離れることを極端に恐れることは。

そばに居てくれだなんて、震える声で言うようなことは。

無くなっている、はずなのだ。

 

居たか?

私があの子の年齢のときに。

あの子のように行動する、同い年の人間は。

1人でも、存在していたか?

 

まさか。

医者に言われた言葉を思い出す。

私は、身体に現れた。

でもあの子は、肉体的には年相応に成長している。

では、あの子は。

 

「精神、に……?」

 

そんな馬鹿な。考え過ぎだ。

周りより少し遅いだけだ。

そう自分を説得しようとする度に、脳裏に鮮明に蘇る。

初めて会った日の、仁奈の身体。

 

否定できない。

私には、否定できない。

それが正しいという確証はないけれど。

間違っていると言えるだけの確証も、無い。

 

携帯を握りしめていると、再び振動。

送り主は、きらり。

彼女らしく星やハートが散りばめられた文面を要約すると、買い物が終わったから出口で待っているらしい。

 

きっと、仁奈に見せられる顔をしていないから。

頬を叩き、頭を切り替えようとする。

 

 

 

 

 

ぺちぺちと情けない音が出たのが腹立たしくて、深呼吸に切り替えた。



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3.SOSを身につけて

「きらりおねーさぁぁぁぁぁぁん!?」

 

お昼ご飯の準備をしていると、仁奈ちゃんが目をまんまるにしながらドタドタとやってきた。

 

「んゆ? どしたの?」

 

持っていた包丁をシンクの奥にそっと置き、エプロンで手を拭きながらしゃがみ込む。

目線を合わせると、仁奈ちゃんは先程まで杏ちゃんと一緒に見ていたテレビを指差した。

 

「テレビの中で杏おねーさんが踊ってやがるです!

でも杏おねーさんはあそこに居やがります! どうなってやがるです!?」

 

私達が所属している事務所は、この業界には珍しく、夏休みがある。

しかし夏休み中全くメディアに露出しないというわけにもいかないので、春から初夏のうちにその分の撮り溜めを行う。

きっと、そのうちの1つが放映されていたのだろう。

 

あまりに混乱しているのか、仁奈ちゃんはやたらと「やがる」を連呼する。

そう言えば、まだ説明していなかった。

少女の慌てっぷりに思わずくすりと笑いながら、私はどこから教えたものかと口元に手を当てる。

 

「えっとね、仁奈ちゃん。

きらりと杏ちゃんは、アイドルなの。」

 

「アイドルでごぜーますか、仁奈もアイドルになるですよ!」

 

それを聞いて嬉しそうに笑う仁奈ちゃんの頭を、ウサギのフード越しにそっと撫でる。

先日色々なキグルミを買ったが、元から着ていたウサギのものが一番のお気に入りのようだった。

ウサギ、他の何か、ウサギ、というローテーションで着回しされている。

 

「うん、仁奈ちゃんと同じ、アイドル。

それでね。アイドルのお仕事の1つに、テレビに出るお仕事があるの。」

 

仁奈ちゃんは再び目をまんまるにして、口をあんぐりと開ける。

表情がコロコロと変わるのが可愛らしくて、つい顔が綻んでしまう。

 

「アイドルになったら、テレビに入れるですか!?」

 

テレビに入る、という表現。

きっとまだ、テレビ番組が放映される仕組みを知らないのだろう。

 

「んっと、あれは杏ちゃんが前もってテレビに入っておいたのを、後から映してるの。

勿論テレビに入っているのをそのまま映すこともあるんだけど、それは生放送って言って……。

あれ? ええっとぉ……。」

 

なるべく難しい言葉を使わないように説明しようとするが、言っているうちに自分でもよく分からなくなってくる。

話を中断して仁奈ちゃんを見ると、案の定頭の上にはてなマークを浮かべていた。

 

「……杏ちゃんは?」

 

杏ちゃんに助けを求めようと、その所在を尋ねる。

仁奈ちゃんと一緒に居たはずなのにわざわざこちらまで聞きに来たことから、大体察せてしまうけれど。

 

「テレビを付けてすぐに寝やがりましたですよ。」

 

やっぱり。

 

杏ちゃんが起きたら、一緒に教えてもらおう。

心の中で彼女に謝りながらそう告げて、何とか事なきを得た。

 

 

 

時計の短針が真上を指すまでの間。

ご飯の準備が終わった私は、うさぎのぬいぐるみを抱きしめて眠る杏ちゃんに毛布をかけてから。

仁奈ちゃんと並んで座って、テレビを眺めていた。

画面には、自然の中を元気に走り回る動物の姿が映し出されている。

 

「……アイドルになったら、仁奈も、テレビに入れるでごぜーますか?」

 

ふと、仁奈ちゃんが、ぽつり。

テレビから視線を外し、隣を向く。

視線を少し下げ、私の膝の辺りを見つめて。

そう問う少女の表情は、初めて会った日の彼女だった。

 

「うん、入れるよ。

仁奈ちゃんは、テレビに入りたい?」

 

だから私は、努めて明るく言葉を返す。

仁奈ちゃんは、ゆっくりと。

しかし、確かに頷いた。

 

「テレビの杏おねーさん、いろんな人に囲まれてやがりました。

すげー、嬉しそうだったです。

仁奈も、仁奈も……。」

 

言葉の途中で、少女はフードを両手で引っ張る。

可愛らしくプリントされたウサギと目が合った。

 

「……仁奈も、杏おねーさんと同じです。」

 

「同じ、って?」

 

ウサギは、杏ちゃんが抱えているぬいぐるみを見つめながら。

私に伝えるべき言葉を探しているようだった。

 

「…………仁奈のキグルミ、モフモフで気持ちいーです。」

 

随分と時間をかけて、少女が発した言葉は。

一見、これまでの会話との脈絡が無いように見えた。

 

「うん、お洗濯するときに、きらりもついモフモフしちゃうにぃ。」

 

それの意味するところを探るように会話を続ける。

テレビの動物番組は、ウサギの生態に差し掛かっていた。

 

「……だから、モフモフしてもいーですよ。」

 

消え入りそうな声。

テレビの音に掻き消されてしまいそうな声。

例え、私に無視されても。何の反応もなくても。

 

仕方ないと言い聞かせてしまえそうな、小さい声。

 

「……ね、仁奈ちゃん。」

 

聞き逃すわけにはいかなかった。

間違えるわけにはいかなかった。

私はウサギを抱きしめる。

私の大きい身体の中に、すっぽりと入る、小さい少女。

その柔らかい殻の奥にまで、気持ちがちゃんと伝わるように。

強く、強く。

 

「仁奈ちゃんのキグルミも、モフモフで気持ちいいけれど。」

 

この子は。そうしなければならなかったのだ。

キグルミを利用しなければ。

他人がキグルミを抱きしめる際に生じる副産物。

それに頼らなければならなかったのだ。

 

「きらり、仁奈ちゃんも、ぎゅってしてみたいなぁ。」

 

 

 

そうしなければ、抱きしめてすらもらえなかったのだ。

 

 

 

「……仁奈、モフモフじゃねーです。」

 

自分にそんな価値は無い。

ありのままでは、抱きしめてもらえない。

愛してなんてもらえない。

だから自分を着飾った。

 

「抱きしめても、気持ちよくねーです。」

 

それはきっと、珍しくもない普通のこと。

みんな、何かを隠して生きている。

でも。それはある程度、大きくなってからの話だ。

ましてや、親に愛されるために、何かを頑張らなければならないなんて。

 

「だから、仁奈を抱きしめても、いいことなんて、」

 

杏ちゃんの顔が脳裏によぎる。

愛されることに失敗した。彼女はそう言っていた。

違う。そんなのは違う。

間違っているべきだ。否定されるべきなのだ。

子供は親に愛されて。

親は子供を愛して。

それは、何の対価も無く、無条件で。

 

「それでも、抱きしめてみたいなぁ。」

 

与えられるべきものだから。

 

 

 

 

「……んあ。」

 

目を覚ますと、毛布の中。

きらりがかけてくれたのだろうそれからのっそりと抜け出すと、時刻は12時を少し過ぎていた。

 

「……あれ?」

 

辺りを見回すと、きらりに包まれた仁奈の姿。

珍しくキグルミを脱ぎ、私服を着て。

二人共、穏やかな寝息を立てていた。

 

「……寝るかぁ。」

 

付けっぱなしのテレビから流れるのどかな音声を聞き流しながら、あくびを1つ。

仁奈の幸せそうな寝顔を、まだ、そのままにしておきたくて。

今日の昼寝は、いつもより少しだけ長くなった。

 

 

 

 

 

 

『──は寂しいと死んでしまう、という話が有名ですね。さて、次の……』



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4.うさぎだった少女

「料理、か……。」

 

きらりチョイスのフリフリなエプロンを身に纏い、私は台所に立っている。

正確には、台所の床に置かれた台の上に。

ちらりと隣に視線を向けると、仁奈が目をキラキラと輝かせていた。

 

 

 

事の起こりは十数分前。

いつものように昼寝から目を覚ますと、珍しいことにきらりの姿が無かった。

机の上には彼女の書き置きと、その重しとして飴が1つ残されていて。

用事があって夜まで帰らないから今日の昼は外食もしくは出前で済ませて欲しい、とのことだった。

 

「……また、飴。」

 

私に頼み事をする時にきらりは、まだ、飴を渡してくる。

もう、飴に頼らなくてもよくなった。

きらりを迎えに空港に行ったとき、私はそう伝えた。

きっと、喜んでくれると思っていた。

いや、事実、きらりは喜んでくれた。

お祝いと称して、私の好物を作ってくれた。

 

だが、それだけではなかった。

彼女の表情にあったのは、喜びだけではなかった。

それが何なのか、私には分からなかった。

それを表現するに相応しい言葉が、私の貯蔵庫には見当たらなかった。

 

それから時折、きらりはその表情をするようになった。

決して混ざらないはずの水と油が、しかし1つになってしまったような。

波が押し寄せると同時に引いていくような。

月の隣に太陽が居るような。

そして、私が飴を要らないと言うと、決まってその顔をするのだ。

その顔をしたきらりを見るのはなんだか好きじゃなくて、飴は渡されるまま貰うことにしている。

 

いつものように、飴をポケットの中に入れる。

私と一緒に寝ていた仁奈をそっと起こし、書き置きの内容を告げた。

 

外食というのは子供にとって、中々に訪れないビックイベントだ。

小学生の頃、テストで良い点を取ったご褒美にと、両親にファミレスに連れて行ってもらったのを思い出す。

いつでも好きな時に1人で行けてしまう年齢になると、その有難みは次第に薄れていってしまったが。

このサプライズに、きっと仁奈は喜ぶだろう。

 

「……杏おねーさんは、料理、しやがらねーですか?」

 

しかし。

私が続けて「何が食べたい?」と尋ねると、仁奈は予想に反して、悲しげな表情を浮かべた。

 

「え、いや、出来ないことはないと思うけど……。」

 

昔は毎日家族分の食事を作っていたが、こっちに来てからは一度も自分で用意していない。

というか、この家の台所で一度でも料理を作り終えた覚えが無い。

 

「私が作るより、出来合いのやつの方がずっと美味しいと思うよ?」

 

だから、思ったことを素直に口にする。

仁奈は、弱々しくかぶりを振った。

その姿は、テストで悪い点を取ってしまったような。

誤って物を壊してしまったような。

そんな、後ろめたいことを告白するかのようだった。

 

「宅配のピザも。お店のカレーも。食べたことはありやがります。

……食べたですよ。いっぱい。」

 

家に帰っても、誰も居ない。

そう言っていたのを覚えている。

親が家に居ないのなら、当然、ご飯も無い。

仁奈の表情を見て、そんな当たり前のことにやっと思考が至る。

 

「みんな、美味しかったです。でも……

それでも、ママが作ってくれたおにぎりの方がうまかったです。」

 

どれだけ繰り返したのだろう。

私が今、何の抵抗もなく行おうとしたことを。

机の上に残された紙切れを握りしめて、誰も居ない家の鍵を閉めることを。

どれだけ、繰り返さざるを得なかったのだろう。

 

「仕事に行く前に、作ってくれたおにぎり。

具なんてはいっちゃいねーです。

ただ、お米を握っただけでやがります。

手間も金も、かけちゃいねーです。

外で食べるやつのほうが、ずっとうめーはずです。」

 

何ら特別ではなかったのだ。

この子にとって、外食をすることは。

普遍的な日常の、ほんの一部でしかなかったのだ。

 

「……なのに、うまかったんでごぜーます。

おにぎりの方が、ずっとずっと、うまかったんでごぜーます。」

 

きらりと出会った頃を思い出す。

私がまだ、アイドルではなかった頃のこと。

きらりが食材を持ってきて、手作り料理を振舞ってくれた時のことを。

 

「クラスのみんな、ファミレスに行ったのを嬉しそうに話すです。

みんな、それを聞いて羨ましそうにしやがります。

いいな、って。すごい、って。

……なんで、仁奈はちっとも、羨ましいと思わねーんですか?」

 

嬉しかった。

美味しかった。

暖かかった。

泣いてしまいそうだった。

 

「……うさぎさんなら、知ってるでごぜーますか?」

 

忘れていた。

あれだけ私を救った特別は、いつの間にか日常になっていた。

それほどに私は、幸せになっていた。

きらりのおかげで、幸せに慣れていた。

その幸せを前提に、話を進めていたのだ。

 

「それとも仁奈は、やっぱり、おかしいでやがりますか?」

 

 

 

私がこの子に見出したのは、独りぼっちの私だったのに。

 

 

 

『……ウサギさん、ウサギさん。』

 

私はうさぎのぬいぐるみを顔の前に持ってくる。

フェルトを口に押し当て、声色を変化させる。

初めて会った日のように。

 

『ごめんなさい。うさぎはあなたを、困らせてしまいました。』

 

うさぎはウサギに語りかける。

今の私ではなく、あの頃の私として。

 

『少し、うさぎの気持ちを忘れてしまっていました。』

 

独りぼっちで。

 

『でも、ちゃんと思い出しました。』

 

寂しくて。

 

『ウサギさんは、おかしくなんかないです。』

 

暗くて。

 

『うさぎも、ウサギさんと同じです。』

 

怖くて。

 

『だから。』

 

私はうさぎを顔から離す。

今にも泣いてしまいそうに震えている仁奈の目を、まっすぐに見つめる。

 

「……仁奈。」

 

ずっと、誰かを待っていたから。

当たり前をくれる誰かを。

幸せを日常にしてくれる誰かを、待っていたから。

 

「何が食べたい?」

 

今の私が、その誰かになれるのなら。

 

 

 

 

 

「……よし。」

 

目の前の食材を、猫の形にした手で押さえる。

感覚は、身体が覚えていてくれた。

 

随分と前。

一度、料理をしようとしたことを思い出す。

きらりのために、料理を作ろうとして。

何も作れず、自己嫌悪に沈んだ日のことを。

 

包丁を食材の上に。

目を閉じて、深呼吸。

 

きらりが残した飴は、食べていない。

大丈夫。空港に迎えにだって行けたんだ。

だからきっと、大丈夫。

 

そっと瞼を開き、ゆっくりと右手を引く。

とん。包丁の刃が、まな板に触れる。

……手の震えは、無かった。

 

とん、とん、とん。

2人だけの家に、リズミカルに音が響く。

そう言えば、この音を聞いているのが好きだったなぁ。

10年以上も前のことを思い出して、何だか笑ってしまう。

 

 

 

 

 

オムライスが出来るまで、あと、もう少し。



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5.着飾るふたり、着のままひとり

「うっきゃーーーーーーっ☆☆☆☆すっごぉーーーい☆☆☆☆☆☆」

 

景色が真っ赤に染まる頃。

用事から帰ってきたきらりが、仁奈に何を食べたのかを聞く。

笑顔で帰ってきた答えを耳にするや否や、きらりは私の両腕を掴む。

そして世界はきらりを中心としてブンブンと回転し始めた。

 

「やぁーーめぇーーろぉーーーー……」

 

凄い。

なんというか、凄い。

だって身体が地面と接していないもの。

完全に宙に浮いているもの。

洗濯機に放り込まれた服ってこんな感じなのかな。同情を覚えた。

風を切る音すら聞こえる速度の中、室内の物に何一つ触れていないこの安心設計。匠の技である。

 

「仁奈も! 仁奈もやってくだせー!!」

 

それを間近で見て、仁奈はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねながらきらりに訴える。

正気か。

 

「よーし、いっくよー☆☆☆」

 

きらりは右手で私を、左手で仁奈を振り回す。

先程よりも更に回転速度が増す。

私の身体大丈夫? 内臓が全部足に行ったりしてない?

 

「うっひょーー! すっげーーー!!!」

 

仁奈はこの拷問を受けながら心底楽しそうな声を上げる。

これが若さか。

 

 

 

「ぉ……ぉぉ…………。」

 

数分後。

きらり大風車からやっと開放された私は、畳と完全に同化していた。

 

「だいじょーぶでごぜーますか?」

 

ケロリとした仁奈がポンポンと背中を軽く叩く。

同じような体格なのになんだこの差は。

 

「ご、ごめんねぇ? ちょっとやりすぎちゃった……。」

 

私の側でしゃがみ込んでいるきらりが申し訳なさそうに言う。

最近では流石に私も慣れてきたと思っていたのだが。

ここまでの威力のものは初めての経験だ。普段はセーブしていたというのか。あれで。

 

「料理作っただけで……大袈裟……すぎない……?」

 

息も絶え絶えに抗議すると、きらりは至極真面目な声を出した。

 

「そんなことないにぃ。とっても、凄いことだよ?」

 

「……そ。」

 

なんだか恥ずかしくって、私はぶっきらぼうに返す。

ひょっとしたら、きらりのために料理を作ろうとしたことがあるのを知っているのかも。

決して見られないように注意はしていたつもりだったけれど。

それでもきらりになら、隠し通せていないような。

きらり相手なら、バレていてもおかしくない。

彼女のこういった、ふと見せる表情は、私にそう感じさせる何かを持っていた。

 

「杏おねーさんのオムライス、すっげーうまかったですよ!!」

 

仁奈が満面の笑みを携えてきらりに抱きつく。

きらりは慣れた手つきで仁奈をだっこする形で抱え、「良かったねぇ」と頭を撫でた。

 

「……おねーさん?」

 

それは見慣れた光景だった。

きらりがそうするのも、仁奈がそうされるのも、互いに気に入っているようで。

だからいつものように、仁奈は嬉しそうに目を細めるのだと思っていた。

しかし仁奈は、きょとんとした瞳できらりを見上げた。

 

「よーし! それじゃ、お夕飯の準備するね☆

杏ちゃんが頑張ったから、うんと美味しいの作っちゃう☆」

 

きらりは仁奈をそっと退かし、立ち上がる。

そのままいつもの調子で台所へと向かっていった。

 

「ごちそうでごぜーますか!?」

 

仁奈はきらりの発言に食いつき、とてとてと後を追いかけていく。

……一瞬、それがきらりの狙い通りの光景であるかのように見えた。

 

「…………。」

 

きらりを見つめる。

その挙動に、普段と異なる点はない。

いつも通り、テキパキと手を動かしている。

 

ここで私がきらりに声をかけ、何かあったのかと聞いたとしても。

きらりは決してそれを口にしないだろう。

彼女は明らかにそれを隠そうとしており、面倒なことに彼女は隠すのが上手い。

私がそこから推測出来るような明確なボロを出してくれるとは思えない。

 

「……杏は、ちょっと、寝ます。ぐぅ。」

 

だから。きらりが自分から言ってくれるのを。

ボロを出してくれるのを。

助けが欲しいという、何らかのサインを発してくれるのを。

声をかけてくれという、音のない声を出してくれるのを。

それを待つことしか、私には出来ない。

それを絶対に見逃さないよう、神経を尖らせることしかできない。

そして彼女は、まだ、それを出す気は無いようだった。

 

「ご飯できたら起こすねぇ☆」

 

このモヤモヤした気持ちを切り替えたいのと、本当に先程の風車で体力を消耗したのもあって。

きらりの言葉を遠くに聞きながら、私は一時、夢の中に逃げることを選んだ。

 

 

 

 

「きらりおねーさんは、キグルミを着てる仁奈を、どう思いやがりますか?」

 

お夕飯の支度をしている途中。

床にべちゃりとくっついたまま眠る杏ちゃんを見ながら、仁奈ちゃんは私にそう聞いた。

 

「杏おねーさんはキグルミを着てる仁奈を見ると、なんだか悲しそうですよ。

仁奈が普通の服を着てる方が、杏おねーさんは喜びやがります。」

 

その真意を掴めずに私が何も発しないでいると、仁奈ちゃんは言葉を続けた。

 

「でも、杏おねーさんじゃないみんなは、キグルミの仁奈の方が好きでやがります。

きらりおねーさんは可愛いって褒めるですし、ママも……ママも、可愛がってくれたです。」

 

「……、うん。」

 

仁奈ちゃんの母親が、仁奈ちゃんを可愛がった。

仁奈ちゃんを虐待していたというイメージしかなかった私にとって、それは大きな衝撃だった。

それを悟られないように、包丁を動かし続ける。

 

「……わからねーです。

仁奈がキグルミを着れば、みんな可愛がってくれたから。

だから仁奈は、キグルミが好きでごぜーます。

でも杏おねーさんは、みんなとは違ったです。

……仁奈は、どうすればいいでごぜーますか?」

 

とん。とん。とん。

包丁の音が、2人の間に静かに響く。

 

「……仁奈ちゃん。きらりもね?

きらりも、キグルミを着ているの。」

 

仁奈ちゃんは、みんなに可愛がってほしくて、キグルミを着ることを選んだ。

 

「きらりおねーさんもですか? でも……、」

 

でも杏ちゃんは、ありのままの仁奈ちゃんでいることを望んだ。

 

「仁奈ちゃんのキグルミとは、少し違うけれど。

でも、きっと、仁奈ちゃんとおんなじ。」

 

左手で、髪飾りにそっと触れる。

 

「仁奈ちゃんは、どうしたい?

キグルミを着ていたい?

それとも、普通の服を着たい?」

 

杏ちゃんは、気付いている。

どうして仁奈ちゃんがキグルミを着るのか。

それが何を意味しているのかを。

 

「……わからねーです。わからねーですよ。」

 

仁奈ちゃんは下を向いてしまう。

いじめているような気になって、心苦しいけれど。

だけど。

 

「自分で決めなきゃ、いけないことだと思う。

分かるまで考えなきゃいけないことだって、そう思うの。」

 

これはきっと、仁奈ちゃんにとって大切なことだから。

 

「きっとこれに、正解なんて無いんじゃないかなぁ。……でもね。」

 

だから。杏ちゃんが言外にそうしたように。

私は、私の考えを主張する。

 

 

 

 

 

「きらりは、着ることを選んだよ。」



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6.それをまだ待っている

「また、用事……ね。」

 

淡いピンク色のメモ用紙をひらひらと揺らしながら、私はもう一方の手で頬杖をついた。

 

最近、きらりが家を空ける頻度が増してきた。

時間は決まって、昼頃から夕飯前までの6~7時間ほど。

別にそれを咎める気はない。

きらりは元々私よりもアウトドア派だし、彼女にだって外出する権利くらい当然ある。

詳しい行き先や内容を書かないのも、きっと知られたくないからで。

だから余計な詮索をする気にはならなかった。

 

「……何か、抱え込んでなきゃいいけど。」

 

きらりは滅多に他人に助けを乞うことをしない。

何か悩みがあったとしてもいつも通りに笑って、そして1人で考える。

考えて考えて、どうしようもなくなったとき。

その時になって、ようやく静かに涙を流す。

それは彼女のプライドによるものではなく、彼女の優しさが引き起こすものだった。

他人に心配や迷惑をかけたくない。故に彼女はそれを隠そうとする。

 

だからこそ、心配になる。

 

彼女が残した飴を見つめる。

あの不安定な表情が、脳裏に映し出された。

 

「今日もきらりおねーさん、いやがらねーですか?」

 

私が持つ紙を見て、仁奈が寂しそうに尋ねてくる。

 

「そうみたい。今日は何がいい?」

 

仁奈の前で、不安げな顔を浮かばせるわけにはいかない。

私は頭を切り替え、いつも通りの眠そうな顔を作った。

 

「オムライス!」

 

即答である。そしてこの笑顔。

 

「好きだねぇ……いいけどさ。」

 

時刻は11時とちょっと。

そろそろ作ろうかと、私は重い腰を上げる。

ふと足元から、ぶちっ、と音が響く。

 

「「……あ。」」

 

座布団代わりにしていたうさぎのぬいぐるみのポケットが、足の指に引っかかって。

ただでさえ少し剥がれかけているそれの縫い目が、また1つ少なくなっていた。

 

「……あーあ。」

 

ちょっとだけ肩を落としながら、うさぎの耳をむんずと掴んで持ち上げ、状態を確認する。

普段から雑に扱っているから、この程度のことならそう珍しくはない。

むしろ良くしがみついてくれているとポケットを褒めてやりたいくらいだ。

 

「う、ううううさぎさんのお腹があわわわわわわ」

 

しかし仁奈はそうではなく、ぬいぐるみの周りをあたふたと走り回っていた。

 

「大丈夫、うさぎはこんなことじゃへこたれないよ。多分。」

 

それを適当に流し、私は冷蔵庫へと手を伸ばす。

ご飯は昨日炊いたのがある。

卵は……ギリギリ足りるか。

帰りにきらりに買ってきてもらおう。

 

「……うさぎさん、治せねーですか?」

 

背中に声がかかる。

それが随分と湿り気を帯びているのに気付き、振り向くと。

「しょんぼり」という単語がこれ以上なくしっくりとくる仁奈の姿があった。

 

「……そうだねぇ。」

 

私は再び、ぬいぐるみを見つめる。

綺麗なピンク色だった布地は様々な汚れを吸収し。

ふかふかな触り心地を与えてくれた綿はその殆どが外へ漏れ出し。

その表情はクタクタに疲れ果てていた。

本当に、ボロボロだ。

 

「……うさぎさん、かわいそうでごぜーます。」

 

お母さんを思い出す。

このぬいぐるみを買ってもらって間もない頃。

汚れないように、傷つかないように、細心の注意を払って私はうさぎに接していた。

しかし、所詮は四捨五入すればゼロになる程度しか生きていない小娘だ。

心とは裏腹に、私はうさぎをすぐに傷付けた。

その度に、お母さんに泣きついた。

お母さんは笑って、針と糸を取り出して。

ちくちく。ちくちく。

そしてお母さんが再び私の所に来ると、うさぎはすっかり元気になっていた。

 

「直せないことは、無いけれど。」

 

もう、直してはもらえない。

そんなことは分かっている。

きらりに頼めば、きっと元通りにしてくれる。

そんなことは分かりきっている。

でも、それでも。

うさぎを直してくれるのは、お母さんなのだ。

過去の私を治してくれるのは、お母さんだけなのだ。

 

「なら……っ!」

 

だからこうして、無意味な自傷を繰り返す。

お母さん。うさぎはこんなに傷付いています。

だから、治してください。

あの日のように、頭を撫でて。

泣き止むまであやしてください。

そんな、報われようのない主張を繰り返す。

 

「……でも。」

 

そうしていたら、いつか。

いつかお母さんがやって来て。

また笑って。

また頭を撫でて。

しょうがないわねぇ、って。

針と糸を持ってきてくれる。

 

「でも、いいんだよ。これで。」

 

そんな夢を、まだ、待っている。

 

仁奈はもう、何も言わなかった。

私も、淡々と準備を進める。

少しだけくたびれた、仁奈のウサギの耳を見て。

この子が気兼ねなく、キグルミを使えるようになったらいい。

傷付いても治してもらえる、確かな場所があればいい。

そうやって、いつか脱げる日が来ればいい。

 

ただ、そう願った。

 

 

 

 

「……ね、杏ちゃん。」

 

日付が変わる2時間前。

布団の中で丸くなって眠る仁奈の背中をトントンと優しく叩きながら、きらりがふと口を開いた。

 

「ん?」

 

「仁奈ちゃんが泣いてるとこ、見たことある?」

 

これまでの仁奈の顔を思い出す。

不安げな顔。嬉しそうな顔。驚いている顔。ほっとした顔。涙を溜めた顔。

 

「……無い、かも。」

 

しかし、きらりが指しているであろう、仁奈がわんわんと声を上げて泣いている姿は。

一度たりとも見た記憶が無かった。

 

「きらりもね。見たこと、無いの。」

 

そう語る彼女の声色は、それを喜んではいなかった。

 

「まだ、緊張してるのかな。」

 

「……それなら、いいんだけど。」

 

それ以上、きらりは何も言わなかった。

この時、きらりが何を言いたかったのか。

きらりは何を危惧していたのか。

 

 

 

 

 

それを私が理解するのは、すぐ後のことだった。



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7.静かな夜

仁奈もきらりも、共に寝静まった真夜中。

私は毛布の中で、小型のノートパソコンを起動した。

 

仁奈と接することは、私の中のあまり良い気のしない記憶を呼び起こす。

それは仕方のないことだと割り切ってはいる。

だからこそ引き取った、とも言える。

年月は問題を解決こそしなかったが、それに慣れさせることはやってのけた。

今更私の昔のことで、感情を高ぶらせることは無い。

 

だが。

仁奈の姿を見てどう思うかは、別の話だ。

仁奈がこれまで受けた仕打ちを垣間見る度に、私の記憶の類似している部分が照合される。

その結果、その時仁奈がどう思っていたか。

どんな気持ちでいたのか。

それを推測することは、私にとっては容易なことで。

 

どうしようもなく、腹が立つ。

 

私のことは別にいい。

私の問題は、私に原因があったから。

双葉杏がおよそ年相応の反応を見せなかったせいで、事態は発生してしまったのだから。

 

しかし、市原仁奈は違う。

市原仁奈は私とは違う。

仁奈は何もしていない。

仁奈は何も間違ったことをしていない。

 

その仁奈が何故、私と同じ仕打ちを受けなければならない。

 

ああ、腹が立つ。

仁奈の母親に腹が立つ。

理不尽だ。

あまりにも理不尽だ。

 

何故あの子を愛さない。

仁奈は愛されるに足る存在だろう。

何故あの子を見捨てておける。

仁奈はまだ1人じゃ何も出来ないのに。

何故あの子を閉じ込めた。

キグルミなんかに閉じ込めた。

 

愛されなかった確かな証拠に、市原仁奈を閉じ込めた。

 

キーボードを乱雑に叩く。

文字が画面上に広がっていく。

それは仁奈の発言を纏めたものだった。

それは仁奈の身体的特徴を綴ったものだった。

市原仁奈が被害を受けた、虐待の記録だった。

 

仁奈が受けた扱いが、医学心理学的に子供にどのような影響を及ぼすとされているか。

法的に虐待と認められた行為の中に、仁奈も受けているものが入っているか。

平均的な同年代の子供と比べて、仁奈がどれだけ逸脱しているか。

それらを1つ1つ。論理性を欠かないように、感情を混ぜ込まないように。

慎重に、慎重に書き連ねていく。

 

これはただの八つ当たりだ。

誰にぶつけることも叶わない激情の捌け口だ。

これを完成させたところで、何がどうなるわけでもない。

それでも、こうしてでもいなければ。

思わず振り上げた拳を、どこにでもいいから叩きつけなければ。

私は理性を保てそうになかった。

 

布団の中で、カタカタと音が反響する。

ふと、私が立てた以外の生活音が聞こえたような気がして。

私は反射的に手を止め、画面を消した。

これを見て、良い気分になる人は誰もいないから。

 

注意深く耳をそばだてる。

きらりの静かな寝息が1つ。

それに隠れるように、もう1つの、何か。

特定にまでは至らないが、人が寝ているときに発する音以外のものがあった。

 

「……仁奈?」

 

きらりでないのなら、もう1人しか残されていない。

布団から顔を出した私が小さく尋ねると、仁奈の布団はびくりと震えた。

 

「……すー、すー。」

 

そして、仁奈は寝息を発し始める。

……と、私が勘違いするのを期待しているのであろう、狸寝入りを始めた。

 

「……。」

 

仁奈に気付かれないように、そっと布団から抜け出す。

そのまま音を立てずに仁奈の布団の前まで移動すると、仁奈に包まっている毛布を一気に持ち上げた。

 

「…………仁奈。」

 

きらりの言葉が反芻される。

仁奈が泣いているところを見たことがない。

彼女は不安げにそう言っていた。

当然のことだった。

私達がそれを目にするはずがなかった。

 

「ち……ちげーでごぜーます、これ、は、」

 

仁奈は、それを隠していたのだから。

誰の目にも触れないように、声を殺していたのだから。

 

「仁奈、泣いてなんか、ねー、です。

だい、じょーぶ、で、」

 

仁奈はぐしぐしと目元をこする。

その目が赤いのは、単に寝付けていないからではなかった。

 

「……仁奈。」

 

私が仁奈の名を呟くと、再びびくりと肩が震える。

……これは、まさか。

そういう、ことなのか。

 

「大丈夫だよ。」

 

顔を見せまいとする仁奈の両腕を掴み、少しだけ力を入れる。

大した抵抗もなく、それらは引き剥がされた。

涙でぐちゃぐちゃになった、怯えきった顔。

決してしてはいけないことをしてしまった。

仁奈の表情は、そう泣き叫んでいた。

 

「怒ったりなんか、しない。」

 

掴んだ両腕を引き寄せる。

仁奈は身体に力も入れず、私の胸にぽすりと入る。

私はそのまま、仁奈の頭に手を触れる。

これ以上怯えてしまわないように、そっと髪を撫でた。

 

「私やきらりの前では、泣いたっていいからさ。」

 

私は仁奈を抱きしめる。

ずっと、ずっと。

いつかきらりが、私にしてくれたように。

それがどれだけ暖かかったか、思い出すように。

 

「声を出して泣いたって、誰も責めやしないから。」

 

拭った涙が、再び溢れ出す。

人肌のものが布から染み出して、私の身体に触れるのを感じた。

 

「……だから、泣いたっていいんだよ。」

 

仁奈は、泣き続けた。

私の服を力いっぱい掴んで、顔を思い切り押し付けて。

今まで貯め続けてきたものを、全部流しきるように。

泣いて泣いて、泣き続けて。

涙も声も気力も、その全てが枯れ果ててしまうまで、泣いた。

 

 

 

 

「……落ち着いた?」

 

座布団の上にちょこんと座る仁奈に、電子レンジで温めたミルクを差し出した。

 

「……はいです。」

 

仁奈は目を真っ赤にしたまま、両手でそっと受け取る。

カーテンから光が漏れている。

今から寝直すにしては、空はあまりにも朝だった。

 

「今日はこのまま起きて、きらりをびっくりさせようか。」

 

私が意地悪そうな笑みを浮かべて提案すると、仁奈はやっと笑ってくれた。

じゃあ、きらりが起きるまでお話でもしよう。

私の言葉に、仁奈はマグカップを傾けながら頷いた。

 

「……事務所に連れてこられたとき。

家からタクシーに乗ったって言ってたけど、どんな景色が見えた?」

 

「あんまり覚えてねーです……踏切がカンカンうるさかったですよ。」

 

踏切。あの事務所の周辺には1つしか無い。

 

「タクシーの料金は、いくらくらいだった?」

 

「んー……数字は百の位まででごぜーました。」

 

そこまで長い距離を走ってはいない。

 

「……仁奈、お友達をお家に誘っちゃいけねーって、言われてるです……。」

 

仁奈が申し訳なさそうに下を向く。

流石にバレるか。

 

「ただの雑談だよ。大体、なんで行くのさ。仁奈はウチにいるのに。」

 

私がパッと思いついた適当な嘘をつくと、仁奈はなるほど確かにといった顔をした。

どうやら、誤魔化せたみたいだ。

 

「じゃあ、特にここは見せちゃダメ、って言われてる所とかは?」

 

「ママの机の引き出しは、絶対に開けちゃダメでごぜーます。」

 

その言い方から、仁奈の友人だけでなく、仁奈本人も開けてはならないものだと推測する。

 

「へー、何が入ってるんだろーね。」

 

大して関心もなさそうなフリをして、私は眠そうにあくびを1つ。

それを見た仁奈が、ムッとして私を咎めた。

 

「まだ寝ちゃダメでごぜーます、きらりおねーさんをびっくりさせるですよ?」

 

ごめんごめん、と頭を撫でる。

仁奈が嬉しそうに成すがままにされていると、きらりの布団がもぞもぞと動いて。

私達の姿を見て、「にょわーっ!? なんでぇー!?」と、本当に期待通りの反応をしてくれるものだから。

ドッキリ大成功、と、ハイタッチしながら2人で笑い合った。

 

 

 

 

 

ああ。本当に、腹が立つ。



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8.後悔の傷跡

「お茶ー。」

 

事務所のソファにどっかりと座り、私は天を仰いだ。

 

「自分で淹れろ。」

 

そう言いながらも彼は器用に両手でグラスを3つ持ってくる。

1つを手元に置き、1つを仁奈に優しく手渡し、1つを私の目の前に乱雑に叩きつけた。

扱いの差が顕著である。

麦茶が跳ねないように気を遣っていることなんて、付き合いの浅い相手には分からないだろうに。

 

「じゃあ仁奈、この人がアイドルについて説明してくれるから、ちゃんと聞いてね。」

 

仁奈をアイドルとして事務所に所属させるための書類は、夏休み中にも関わらずプロデューサーが持ち前の社畜精神をすり減らして完成させた。

後は仁奈本人の署名が必要で、そのためには仁奈が一通りの説明を受け、同意した上でペンを握らなければならなかった。

今日私が汗だくになりながらも外に出た理由の1つがこれだ。

 

「せっかく来たんだし、お前も自主練でもしたらどうだ?」

 

説明に使うのだろうPCやら書類の束やらをテーブルの上に広げながら、彼が軽口を叩く。

お前「も」という部分が引っかかって返答を出せないままでいると、彼は言葉を続けた。

 

「諸星は最近毎日やってるのに。今日も……、」

 

「……きらりが? 自主練?」

 

思わず声を遮る。

私が驚愕に目を見開くと、彼も同じような動作を取った。

え? 知らないの? why? とでも言いたそうな表情。

 

「用事としか、言ってなかったから……。」

 

顔に書かれた文字に答えると、その文字は「しまった」に書き換わる。

きらりは私にそのことを知られたくなかったのだ。

 

1つ、疑問が浮かび上がる。

何故きらりは隠そうとした?

夏休みだからといって、だらけてばかりいては身体が鈍る。

だから自主練をする。

そのことに何一つおかしい点も、ましてや後ろめたい点なんてあるはずがない。

それこそ、双葉杏はこのことを知っている、と、プロデューサーが当然のように誤認するくらいには。

その程度には、隠す理由が思い当たらないのだ。

 

まあ、それはそれとして。

早急に私がするべきことは。

 

「……チョットヨクキコエマセンデシタネ?」

 

「……オレハナニモハナシテナイ。」

 

これは、聞かなかったことにしておこう。

あと、レッスン場付近は通らないようにしよう。うん。

 

「……じゃ、私は暇潰しにぶらついてるよ。」

 

「ちゃんと聞くんだよ」と仁奈の頭をキグルミ越しに撫でながら立ち上がる。

いつもならば自ら灼熱地獄へ足を踏み入れようとする私に怪訝そうに声をかける彼も、先程の失言の影響か、代わりにこんなことを言ってきた。

 

「日が暮れる前に切り上げろよ。最近誘拐事件があったらしい。」

 

それはあれか、私が誘拐されそうなほど小さいから言っているのか。

失礼な。これでも17歳だぞ。

17歳は誘拐されないのかと言われると、そんなことはないんだろうけれど。

 

「後で迎えに来るから、それまでよろしくね。」

 

それでも癪に障るので、聞こえなかったフリをする。

ポケットの中。

家を出る前に仁奈からこっそり拝借した、仁奈の家の鍵。

その感触を確かめながら、私はドアノブに手をかけた。

 

 

 

目当ての表札は、すぐに見つかった。

「市原」と書かれたそこは、古いアパートの一室だった。

私の家よりも家賃は安そうだ。

思考の片隅でくだらない感想を述べながら、外から観察していく。

 

新聞受けには何も挟まっていない。

何も取っていないのか、こまめに回収しているのか。

メーターボックスを開ける。

電力量計、水道メーター、ガスメーター。どれも回っていない。

仁奈の言葉通り、家には誰も居ないようだ。

私は鍵を開け、室内へと侵入する。

 

本当にもぬけの殻なのか、もう少し注意深く確認するべきという認識はあった。

しかし、それは何だかやりたくなかった。

仁奈をあれだけ傷付けたような奴のために、慎重に時間をかけるような真似は。

これくらい雑な扱いで丁度よかった。

どうせ万一発見されたとしても、子供のイタズラで通る見た目だ。

 

扉に内側から鍵をかけ、部屋を見渡す。

存外綺麗に暮らしている。

それが第一印象だった。

心の中と同じくらい、ゴミ屋敷かと思っていた。

だが床にゴミは散乱していないし、物も綺麗に整頓されている。

仁奈が埃を吸い込む生活を送っていなかったことを喜ぶよりも先に、何故だろう。舌打ちが出た。

 

適当に見て回りながら、仁奈の言っていた「ママの机」を探す。

それらしいものは、家の中に1つしか無かった。

というより。

 

「……学習机じゃん。」

 

なんでこれが「ママの机」なんだ。

これは本来仁奈が使用して然るべきものだろう。

仁奈の母親は、その場に居ずとも、仁奈を通さずとも。

その痕跡だけで、的確に私の神経を逆撫でした。

 

引き出しを下から順に開けていく。

古臭い学校のアルバム。次。

キーホルダー等の小物数点。次。

筆記用具。次。

一番上の引き出しには、鍵がかけられていた。

 

これが当たりで間違いないだろう。

筆記用具の中にあったクリップを曲げ、針金を作る。

頭の中で簡単な鍵の構造を思い浮かべながら、カチャカチャと手を動かす。

……しばらくして、カチャリ、と音を立て、鍵が外れた。

 

引き出しを開け、中を確認する。

日記。

表紙にそう書かれた、キャンパスノートが数冊。

それが全部だった。

 

「……はぁ。」

 

何を見られたくないのかと思えば、こんなものか。

もうちょっとマシなものを隠しておいてくれ。

落胆に息を吐きながら、ナンバリングが最も古い一冊を乱雑に抜き取り、パラパラとめくる。

私が3歳程度の頃から書かれていたそれの内容は、極めて平凡なものだった。

学校でこんなことがあっただとか。あの服が欲しいだとか。

不規則に間が空く日付から見て、何か出来事があった日にのみそれを書き残しているようだった。

そんなものに興味なんて無い。適当に読み流していく。

 

日付が今から10年前になるまで読み進めると。

前後に、1ヶ月以上の開きがある部分があることに気付く。

それは今までに無いほどの、大きな空白だった。

なんとなく気になって、その前後の部分を、今度はしっかりと読み直す。

そして、文字列の意味を脳が理解した瞬間。

 

 

 

「……なんだ、これ。」

 

 

 

急激に意識が冷やされる。

喉が乾いて張り付きそうだった。

震えた手がノートを落としかけていた。

見間違いであることを反射的に期待した。

なんだこれ。なんだこれ、なんだこれ!?

頭の中でそれだけを連呼する。

実際に口から漏れ出していたかもしれなかった。

ページをめくる手が、加速度的にその頻度を増していく。

 

それは1人の女性の独白だった。

それは1人の母親の懺悔だった。

それは1人の人間の、自分にかけた枷だった。

 

 

 

 

 

『いつか仁奈は、私を許さないだろう。

その時のために、こんなものしか残せない。』



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9.日記

2月27日

 

就職組全員、内定ゲット。

受験組全員、無事合格。

先生達、みんな喜んでくれた。

明日の夕飯は御馳走らしい。楽しみだ。

 

 

3月15日

 

高校の卒業式。

ついに私も独り立ち、そして社会の歯車だ。

お祝いにと、私が使っていた学習机をプレゼントしてくれた。

施設の皆には感謝しなければ。

これからは1人で生きていく。何だか、実感が湧かない。

 

 

4月9日

 

あんのエロオヤジ。太ももフェチかよ。

スカートじゃなくてパンツにしておくべきだった。

買い直す金なんて無いぞ。

 

 

4月28日

 

テレビにアイドルが出ていた。

小学生くらいの頃、私も憧れていたのを思い出した。

これ以上施設の人にワガママ言うのは嫌だったから、将来の夢はお嫁さん。

 

 

5月1日

 

よごされた。

 

 

6月3日

 

よごされた。

あたまが回らない。

どうすればいいんだっけ。

かんがえたくない。

友だちが、うちに来た。

連らく? ケータイ、見てなかった。

 

 

6月6日

 

大分、落ち着いてきた。

まだ手が震えている。文字が上手く書けない。

でも、どうして友人がここに居るのかを聞けるくらい、考えがまとまるようにはなった。

だから、落ち着いたってことにした。

あの日以降メールも電話も反応が無いことを不審に思った友人が、様子を見に家にやって来た。

そこでどう見ても異常な私を見つけ、泊まり込みで数日世話をしてくれた……らしい。

もう大丈夫と言ったら、まだ全然大丈夫じゃないと怒られた。

大丈夫だって思い込ませてくれてもいいのに。

 

 

6月8日

 

なんだか、記憶が飛んでいる。

なのに、なんであの日の映像は、はっきり残っているんだろう。

夜中、帰り道、後ろから押し倒されて。

顔まで鮮明に思い出せる。

そうしていたら、作ってくれたご飯を吐いてしまった。

 

 

6月20日

 

妊娠検査薬。陽性。

 

 

6月21日

 

私は妊娠していた。

あの男の吐き捨てた残骸を身籠った。

施設に相談しようとした友人を、必死に止めた。

知られたくない。

 

 

6月23日

 

考えて考えて、産むことにした。

正直、気持ち悪くてしょうがないけど。

それでも、確かな1つの生命だ。

この子は何も悪くない。

それに、ここで私がこの子を殺したら。

私はあいつらと同じになる。

それだけは、嫌だ。

私はあいつらとは違う。

 

 

7月3日

 

いつまでも友人に頼る訳にはいかない。

仕事は当然クビになっていたけど、幸い、学生時代にバイトした貯蓄がいくらかある。

1人で、この子を育てるんだ。

 

 

 

「……なんだよ、これ……っ!」

 

一冊目は、そこで終わっていた。

私はナンバリングの最も新しいものに手を伸ばす。

全てに目を通すだけの時間的余裕があるかどうか不明であるのと。

それ以上に、答えを一刻も早く知りたかった。

 

 

 

12月28日

 

街を歩いていると、キャバクラで働かないかと声をかけられた。

仁奈も、もう留守番できる年齢だ。養育費も、まるで今の稼ぎでは足りない。

喜んで名刺を受け取った。

 

 

1月14日

 

昼はパート。

夕方に帰ってきて、今度はキャバクラ。

睡眠時間が足りない。

でも、金の方がもっと足りない。

仁奈に構ってやれる時間が、一番足りていない。

 

 

6月24日

 

仁奈の口調が、あまり好ましくないものになってきている。

私が普段からイライラしているせいだ。

きっと私は普段から、こんな言葉を使っているんだ。

そんな自分に腹が立って、また仁奈に暴言を吐いた。

「親に向かってなんだその態度は。敬語で話せ」。

娘に向かって、その態度は何なんだよ。本当に、嫌になる。

 

 

6月25日

 

仁奈が敬語で話すようになった。

敬語というよりは、普段の口調に「です」「ます」「ございます」をくっつけただけだ。

直すのが面倒で、放っておいた。

 

 

2月8日

 

パートから帰ってきて、夜の仕事に出るまでの時間。

いつもなら泥のように寝ているが、今日だけは。

だって、指切りをしたんだ。

けれど、いびつな形のおにぎりしか作れなかった。

 

 

2月9日

 

深夜。帰ってくると、卓袱台の上に仁奈の手紙があった。

おにぎり1つで、喜んでくれた。

不甲斐ない。申し訳ない。自分が惨めで仕方がない。

眠り続ける仁奈の頭を撫でながら、泣いた。

 

 

10月12日

 

仁奈の顔を見る度に、あの男が重なる。

違う。仁奈はあの男とは違う。

そう分かっているのに、身体が止まってくれない。

傷付けてしまった。仁奈を。自分の娘を。

抱きしめながら謝っていると、頭を撫でてくれた。

私に、そんなことをされる資格は無い。

 

 

3月25日

 

また暴言を吐いてしまった。

人の気持ちになることも出来ないのか、と。

仁奈のことを考えてやれないのは、私の方なのに。

仁奈はただ、遊んでほしかっただけなのに。

 

 

4月3日

 

仁奈がキグルミを着て帰ってきた。

動物さんたちの気持ちになる、と言っていた。

学校の演劇用のものを借りたらしい。

私の言葉を気にしているのだ。

名案であるかのように満面の笑みを浮かべる仁奈の顔を見たら、とても謝れなかった。

代わりに、目一杯抱きしめた。

親が子供に優しくするのは、これで合っているんだろうか。

分からない。私には親が居ない。

 

 

6月30日

 

他の子よりも、成長が遅いように感じる。

肉体的にではなく、精神的に。

もし気のせいでないのだとしたら、原因は間違いなく私だ。

 

 

7月16日

 

仁奈が父親について聞いてきた。

本当のことなんて、言えるわけがない。

「仕事で海外に出張している」。

パッと思いついた嘘で騙した。

 

 

8月11日

 

仁奈の嗚咽で目が覚めた。

まだ2時間も寝ていない。

どうして泣いているのか。あやすべきか。

そんなことを考える前に、怒声が出た。

仁奈のすすり泣く声が、私を糾弾していた。

 

 

9月2日

 

仁奈の身体に、傷が増えていく。

私のせいだ。私が暴力をふるったからだ。

原因が分かっているのに、止めることができない。

 

 

11月4日

 

失敗だったのかもしれない。

今からでも、施設に預けるべきなのかもしれない。

嫌だ。

あいつらと同じになるとか、そんなことはどうでもいい。

施設育ちだというだけで注がれる、あの奇異な視線。

親に捨てられたという、どうしようもない事実。

あれを仁奈に感じてほしくない。

ほんとうに、苦しいから。あれは。

それに、第一、仁奈の親は居るのだから。

私が仁奈の親なのだから。

私が、育てなきゃ。

 

 

1月1日

 

せめて、詳細に記すことにする。

私が仁奈にどんな暴力をふるったのか。

私は仁奈を傷付けることを止められない。

いつか仁奈は、私を許さないだろう。

その時のために、こんなものしか残せない。

仁奈が私を訴えたときに。

私が間違いなく、有罪になるように。

 

 

「…………。」

 

そこから先は、本当にただの事実しか記されていなかった。

私情を一切挟まずに。

淡々と、仁奈に発した暴言と、仁奈に与えた傷を書き残していた。

そして、日付が今年になった。

 

 

 

3月9日

 

限界だ。

金が無い。頭が働かない。仁奈の面倒を、見てやれない。

何とか、何とかしなきゃ。

テレビに、アイドルが映っていた。

金髪を2つに結んだ、ちっちゃい子。双葉杏と言うらしい。

仁奈と同じくらいの年齢だと思う。

 

 

7月4日

 

アイドル事務所に仁奈を預けることに決めた。

先方には迷惑を掛けてしまうけれど、もうこれしか思いつかない。

仁奈と同年代らしき子が踊っていたし、年齢的に不可能ではないだろう。

付き添うべきなのは分かっている。

でも。非難されるのは避けられないだろう。

当然だ。罵倒されて然るべきだ。

だから。私はその場から逃げた。

 

私が悪いのは分かっているから。少し、休ませて。

 

 

 

 

 

日記は、そこで終わっていた。



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10.『諸星きらり』

杏ちゃんが、私を迎えに来た。

 

シューズのゴムが床と擦れて、キュ、キュ、と音を立てる。

足の向きが揃っていない。もう一度。

 

杏ちゃんが、仁奈ちゃんを連れてきた。

 

壁一面に貼られた鏡に、ダンスを踊る私が映る。

腕が伸び切っていない。もう一度。

 

杏ちゃんが、料理を作った。

 

曲をかけ直し、再び鏡の前に立つ。

表情が硬い。もう一度。

 

杏ちゃんが、もう飴は要らないと言った。

 

ステップの勢いを殺しきれず、足首が過度に曲がる。

その痛みに全身から力を奪われ、私は床に倒れ込んだ。

 

「っ、痛……。」

 

捻挫。

テーピング用品をカバンから取り出しながら、壁に掛けられた時計に目を向ける。

室内履きのシューズを履いてから6時間以上が経過していることに、ようやく気がついた。

そろそろ帰って、夕飯の準備をしなければ。

 

「いいんじゃない? まだ帰らなくても。」

 

私しか居ないはずの室内に声が響く。

その発生源を探そうと辺りを見回すと、それは先程まで自分を映していた鏡だった。

諸星きらりが、そこに立っていた。

 

「……でも、お夕飯、作らなきゃ。」

 

鏡の中の私は、しかし今の私の姿をしていなかった。

髪は黒に染まり。

毛先のカールは無く、まっすぐに伸び。

爪はネイルされておらず、短く切りそろえられていて。

フリルやアクセサリーの1つも見当たらない、寒色系の落ち着いた服を身に纏い。

声色は、私よりずっと低く。

 

「杏ちゃんが居るじゃない。料理くらい、用意してくれるでしょう?」

 

そして、私のような口調をしていなかった。

 

「でも、杏ちゃんは、」

 

「杏ちゃんは、何? あの子はもう、言い訳しなくてもよくなったのよ?

前に進んだのよ?『諸星きらり』と違って。」

 

諸星きらりは『諸星きらり』に語りかける。

私が直視したくない、しかしはっきりとした事実を。

 

「あなたと別れてから、あの子は頑張ったわ。

飴を介さなければ他人とまともにコミュニケーションも取れない状況から、杏ちゃんは脱したの。

あなたがひたすら、しょぼくれてる間にね。」

 

今まで、私と杏ちゃんは共依存の関係にあった。

杏ちゃんは私の飴が無ければ、誰かのために動くことが出来なかった。

 

「そう。そしてあなたは、『諸星きらり』で居るだけでは満足できなくなった。」

 

最初はそれだけで満足だった。

背の高い自分が嫌で。怖がられるのが嫌で。

だから、それよりも目を引く特徴を無理矢理に作り出した。

 

「白い目で見られて、それで安心しちゃったんでしょう?

例え自分が、どうしようもない変人にしか思われないとしても。

それでも怖がられないから。だからあなたは『諸星きらり』であり続けた。」

 

それでも良かった。

変だと思われても良かった。

私から逃げずに居てくれるのなら。

側に居てくれるのなら。

怖がらないでいてくれるのなら、それだけでよかった。

だから私は、喜んで『諸星きらり』になった。

 

「アイドルにスカウトされたとき、大層驚いていたわね。

怖がられないために作った『諸星きらり』が。

マイナスをゼロにするために作った『諸星きらり』が。

憧れて憧れて、でも諦めるしかなかった、『可愛い』というプラスに成り代わったんだもの。」

 

でも、信じきれるわけがなかった。

自信なんて持てるわけがなかった。

私は小さくて可愛いものとは対極の存在。

大きくて、怖がられる存在。

その事実を覆い隠すために作り出した逃げ道が、自分が最も欲しかったものだったなんて。

そんな、夢みたいなこと。

 

「だからあなたは、ただあれだけのことで絶望した。

オーディションの相手に、ちょっと悪口を言われただけで。

その言葉は、これまでの『諸星きらり』を肯定するどんな言葉よりも信憑性があったから。」

 

でも、杏ちゃんは言ってくれた。

私を見て、必死になって否定してくれた。

そんなことない。きらりは可愛い。信じられないなら何度だって言ってあげる。

……それがどれだけ私を救ったのか、あの子は分かっていないだろうけれど。

 

「だからあなたはあの場に立つことができた。

『諸星きらり』は、双葉杏に肯定されることによって、初めてアイドルたり得ることができた。

あまりに脆く崩れそうなその根拠を、双葉杏に全て依存した。

あんなに小さくて可愛い子が、大きいあなたを可愛いと言ってくれたんだものね。」

 

頑張ろう、なんて言いながら、私は現状で満足していた。

私は双葉杏に飴を渡す。

双葉杏は私を肯定する。

だから双葉杏はアイドルでいられる。

だから『諸星きらり』はアイドルでいられる。

そんな関係に、私は何の不満もなかった。

 

「でも、双葉杏はそうではなかった。

あの子はあなたよりずっと先を見ていた。

いつか、2人が離れ離れになるときが来る。

そのときのために準備をしておかなければならないことを、あの子はちゃんと理解していたわ。」

 

だから双葉杏は、この共依存の関係から脱却しようとした。

2人では居られなくなったときに、1人で歩いていけるように。

そして、双葉杏はそれを実現した。

 

「あの子は1人で歩いたわ。

情けなく泣き言を繰り返しているだけだったあなたを、あの子は迎えに来た。

誇らしげに大きく口を開けて、あなたの名を呼んでいた。」

 

喜ばしいことだった。

喜ぶべきことだった。

事実、私は嬉しかった。

でも、胸に湧き上がる感情は、それだけではなかった。

 

「1人で歩けるようになってしまった。

あなたはまだ、歩けないのに。

双葉杏が居なければ、歩くことができないのに。

あの子は1人で歩けるようになってしまった。」

 

不安だった。

最初に感じたものは、不安だった。

あの子が1人で歩けるのなら。

どこにだって行けるのなら。

私の元から離れてしまうかもしれなかったから。

 

「それに気付き、すぐに自分を嫌悪した。

だって、それは喜ぶべきことだから。

他の後ろめたい感情の全てを抜きにして、手放しに祝福するべきことだから。」

 

でも、私はそれができなかった。

決して同居するはずのない相反した感情が、確かに同時に存在していた。

 

「それからしばらくして、あの子は市原仁奈を連れてきた。

仁奈は親から虐待を受けている。双葉杏はそう言った。

それは、双葉杏と限りなく似た境遇であるということ。」

 

双葉杏は過去とも向き合っていた。

過去の自分を救おうと。

私はまだ、直視しようと思うことすらできていないのに。

 

「恐れていたことが現実になった。

あの子はどんどん歩いていく。

あの子はどんどん離れていく。

あなたの足は、まだ立つこともままならないのに。」

 

捻挫した足首が、ずきり。

諸星きらりの言葉に反抗するように、私は立ち上がろうとする。

……痛みに耐えきれず、無様に床に打ち付けられた。

 

「無理よ。あなたの足は治らない。

あなたは双葉杏無しでは歩けない。

自由に動けるあの子が来るのを、ただ待つことしかできないの。」

 

市原仁奈は言っていた。

双葉杏は、キグルミを着ていない仁奈の方が好きなようだと。

 

「隣に居るだけで劣等感に苛まれる。

あの子はあなたが持っていないものの全てを持っていた。

あの子はあなたが渇望するものの全てだった。」

 

キグルミ。

ありのままでは愛されないと思った少女が、愛されるために纏った外殻。

それは、形こそ違えど。

『諸星きらり』と、全く同じ。

 

「見る度に憧れて。見る度に救われて。見る度に自分に絶望する。

あの子が普段から可愛い格好をしないことに苛立ちさえ覚えることもあった。

それでもあの子が居なければ、あなたは自分を保てない。

あの子に肯定されなければ、あなたは『諸星きらり』で居られない。」

 

ならば、彼女が『諸星きらり』の正体を知れば。

それが市原仁奈と同様、愛されたくて着飾ったニセモノだと知れば。

双葉杏は、きっと私を肯定しない。

……可愛いなんて、言ってもらえない。

 

「双葉杏が居なくなったら、『諸星きらり』はどうなるでしょうね。

支えが消えてしまったら、『諸星きらり』はどうなるでしょうね。

可愛らしい双葉杏とは何もかも違う『諸星きらり』は、どうなってしまうのでしょうね。」

 

聞いていたくなかった。

これ以上、諸星きらりが発する言葉を聞きたくなかった。

私は這いながら鏡の反対側に移動し、両手で耳をかたく塞ぐ。

 

「小さくて可愛らしいあの子とは違う。

弱くて守られるあの子とは違う。

あなたは大きくて怖いもの。

あなたは凶暴で孤独だもの。

そんなあなたが、アイドルで居られると思う?

可愛いって言葉を、もらえると思う?」

 

それでも声は途切れない。

手をすり抜けて、頭に直接流れ込んでくる。

 

「思い出しなさい。

あなたはどういう存在だったのか。

夢から目を覚ましなさい。

手に入るはずのない幻想は、十分堪能したでしょう。

……さあ、鏡を見てご覧なさい。」

 

諸星きらりに逆らえない。

首が勝手に動き始める。

目がひとりでに見開かれる。

 

「あなたはアイドルなんかじゃない。

あなたは可愛くなんてなれない。」

 

鏡。

自分の姿を映し出す道具。

そこにある、ものは。

 

 

 

「だって(あなた)は、あなた(化け物)なのだから。」

 

 

 

醜い咆哮が聴こえる。

その悲鳴は、鏡の私が発していた。

その怒号は、私の声帯が震わせていた。

鏡を見る。諸星きらりがそこに居た。

諸星きらりが口を開く。私の口が開かれる。

私が大きく息を吸う。諸星きらりの肩が上がる。

諸星きらりが声を吐き出す。私の喉が何かを吼える。

 

 

 

 

 

私は『諸星きらり』じゃない。

 

諸星きらりは、私だった。



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11.緊急事態

どうやって家を後にしたか、覚えていない。

私の意識は、踏切の音に叩き起こされた。

 

 

 

市原仁奈の母親は、孤児だった。

日記にあった「施設」……恐らくは児童養護施設にて生活し。

高校を卒業と同時に就職、そして施設を卒業した。

これからは、自分1人で生きていく。

そんな期待と不安の同居した新生活は、たったの2ヶ月で終わりを告げた。

 

襲われたのだ。

5月1日。

仁奈の誕生日の、284日前に。

妊娠40周目。出産予定日とされる日から、たったの4日しかズレが無い。

 

両親の居ない彼女にとって、相談できる相手は施設の人間だけだった。

そして彼女はそれを拒んだ。

彼女は施設の人達に深く感謝し、同時に負い目を感じていた。

独り立ちできるまで面倒を見てくれた。それだけでも十分過ぎた。

これ以上迷惑をかけたくはなかった。

音沙汰が無いことを心配して様子を見に来た友人も、同じ理由で遠ざけたのだろう。

同時に、知られたくなかった。

自分が汚されたことを。最早全く幸せなどではないことを。

自らの旅立ちに、備品であるはずの机を贈ってくれるような優しい人々を、悲しませたくなかった。

 

彼女は産むことを決意した。

何故なら彼女は、親の身勝手で捨てられた。

腹に宿った生命を殺すことは、彼女がかつてされたことと同義だった。

両親を深く恨んだ彼女は、それと同じ存在になることを拒絶した。

 

そして彼女は仁奈を出産した。

 

全てが記されていた。

何故仁奈を傷付けたのかも。

何故仁奈の口調がああなったのかも。

何故キグルミを着るのかも。

何故アイドル事務所に仁奈を託したのかも。

何故仁奈の口から、父親の話が殆ど出てこないのかも。

それら全ての解答が、震える文字で記されていた。

 

愛そうとしていないのではなかった。

彼女は仁奈をまっとうに育てようとした。

しかし、どうしようもなく失敗した。

当然だ。

高校を卒業したばかりの、しかも望まぬ出産だ。

頼る相手だって1人も居ない。

そして育てば育つほど、憎い相手が重なって見える。

これ以上ない袋小路だった。

生命を育てる重圧を背負うには、その肩はあまりにも小さかった。

 

アイドル事務所に子供を預けるなんて、およそまともな判断ではない。

確かにそうすれば、仁奈は親に捨てられた子だというレッテルを、一応は回避できる。

だが事務所側が拒絶すればそれで終わるし、むしろあの状況で受け入れる彼が異常だ。

それでも彼女は、それに縋り付くしか無かった。

かつて憧れて、境遇を鑑みて諦めた自らの夢。

正常な思考が出来ないほど追い詰められた彼女は、それを我が子に託した。

 

「……どうしろってんだよ……!」

 

誰にでもなく悪態をつく。

こんなこと、知りたくなかった。

自分の子供を虐待した、人として最低のクソ野郎。

そんな短絡的な帰結のままで居てもらった方が、余程マシだった。

 

どうすればいい。

彼女もまた被害者だ。

どうすればいい。

彼女を罰して、それで終わりではなくなった。

どうすればいい。

仁奈を救う道は絶たれていなかった。

しかし、どうすればいい。

この状況から親子2人が救われるには、どんな奇跡が起きればいい。

 

分からない。

親子のあるべき姿なんて、私には分からない。

親が子に、子が親にどう接するべきかなんて、私が知るはずがない。

この異常な関係性を正常に戻す手段なんて、思いつくわけがない。

 

「……でも。」

 

でも、きらりなら。

私とお父さんとの関係を正してくれた彼女なら。

この状況を打破する方法を、何か思いつくかもしれない。

私は携帯を取り出し、連絡帳からきらりの項目を呼び出す。

電話番号をタッチしようとしたところで、画面が勝手に切り替わった。

 

「……もしもしプロデューサー? 悪いけど今……、」

 

彼だった。

どんなタイミングの悪さだ。苛立ちすら覚えた。

早口にまくし立て、さっさと通話を切ろうとする。

 

『市原が1人で帰った!』

 

焦りの色に染まった声がスピーカーから漏れる。

画面に触れようとした人差し指が、空中で静止した。

 

「……何やってんのさ、仁奈は……!」

 

『目を離した隙にやられた。迷惑をかけたくないと置き手紙まで残して!

もう日が暮れる、1人で帰らせるのは……!』

 

「違う!! あの子今鍵持ってないんだよ!!!」

 

焦燥のままに叫ぶ。

仁奈の鍵は、市原家に忍び込むために私が持っている。

1つだけ外すなんて悠長なことをしていたら気付かれる可能性があった。

だからキーホルダーごと拝借した。

そして仁奈はまだ、そのことに気付いていない。

 

「仮に無事に家に着いて! 鍵が無かったら落としたと考える!!

だったら来た道を辿って探すに決まってる!!」

 

彼の言った通り、もうすぐ日が暮れる。

最近誘拐が発生したとも言っていたはずだ。

年齢以上に幼く見えるあの子だ。1人で出歩かせるのは危ない。

家に帰るだけでそれだ。ましてや家から事務所までの間を歩き回るなんて……!

 

『何で鍵を……!

……とにかく、諸星にも連絡はした!

だが様子が変だった! 彼女1人に任せるのも危険だ!!』

 

きらりの様子が変……!? 任せるのも危ないって!?

どういうこと!? どうしたんだよ、きらりは!!

 

「……ああもう! 急ぐから、プロデューサーも急いで!!」

 

『もう走ってる!!』

 

通話を切り、走り出す。

何が何だか分からなかった。

分からないけれど、とにかく仁奈を見付けなければ。

それだけを考えて、私は短い手足をがむしゃらに振り続ける。

 

 

 

 

 

仁奈を最初に見つけたのが、きらりでなかったなら。

ここまで事態が悪化することは、きっと無かった。



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12.別れ道

Pちゃんから連絡を受けて、私は事務所から家までの道を辿っていた。

正確には、その道から少し外れた周辺を。

Pちゃんは私達の家のある場所を知っている。

そして私に連絡した時、既に彼は走り始めていた。

だから、事務所から家までの最短ルートのどこかに仁奈ちゃんが居るのなら。

遅れを取り、足に怪我をして走れない私よりも、彼の方が先に見つけることになる。

よって私が考えるべきは、彼が見付けられなかった場合のこと。

つまり、仁奈ちゃんが途中で迷子になってしまった可能性を考慮することだった。

 

ズキズキと脈打つ片足を引き摺るように進む。

ただでさえ捜索範囲が広いのに、この足枷は痛手だった。

闇雲に辺りを探すのでは、あまりにも終わりが見えなかった。

 

何か、仁奈ちゃんの所在地を絞り込む方法は無いか。

景色がよく似た道。

方向を間違えそうな三叉路。

思わず駆け寄ってしまいそうな魅力のあるもの。

様々な可能性を脳内で検索するが、どれもこの辺りには存在しない。

それだけ分かりやすい道だった。

だというのに、彼からの連絡は未だ無い。

まだ彼は、仁奈ちゃんを見付けられていない。

歩く少女と走る大人。

その速度の差ならば、とっくに追いついてもいいはずなのに。

 

道を逸れるような要因も無い。

最短ルートにも居ない。

だとしたら、仁奈ちゃんはどこに居る?

来た道を辿るしかないはずの少女が、それ以外の行動を取る。

そんな状況は、どうやったら起こり得る?

 

「……ゆう、かい?」

 

ゆうかい。

誘拐。

考えるより先に口から出た言葉を、脳内で反芻する。

そうだ。誘拐。

誘拐されたとしたら。

仁奈ちゃんは最短ルートから逸れる。

来た道を辿らない。

 

他の道に、連れ込まれる。

 

「……!」

 

この周辺。誘拐が発生する場所。

小さな少女を攫うのに適した場所。

人目の付かない場所。

一般人がおおよそ、立ち入ろうと思わない場所。

 

ある。一箇所だけ。すぐ近くに。

足に怪我をしたことも忘れて走り出す。

何度も転びそうになりながら、壁に手を付いて進む。

大通りから伸びた、細い細い道。

建物と建物の間。

大人が1人通れるか通れないかの隙間まで辿り着く。

この先にある、裏路地。

 

この道を通ったら、もう戻れない。

 

「…………え?」

 

私の足が動きを止める。

今のは、何?

それは確かに私の思考だった。

それは確かに私の心が発した言葉だった。

それは確かに、私自身が発した警告だった。

 

言いようのない恐怖。

ゾクリと背筋が冷やされる。

でも。

それでも、この先に仁奈ちゃんが居るかもしれない。

助けを求めているかもしれない。

だから。私は裏路地へと続く細い道を進む。

 

窓の柵に引っかかり、髪飾りが地面に落ちた。

ギリギリ通れる程度の隙間しか無い道だ。

しゃがみ込んで拾うことは出来ない。

第一、そんなことをしている時間はない。

髪飾りを残したまま進み続け、ついに視界が開ける。

 

仁奈ちゃんが居た。

 

駆け寄ろうとした足が止まる。

仁奈ちゃんは1人ではなかった。

引き摺られるように移動していた。

移動、させられていた。

 

30代前半から半ば。

酷くやつれた顔の女性。

それが、仁奈ちゃんの腕を掴んでいた。

無理矢理に引っ張って、歩かせていた。

家とは違う、どこか別の方向へと。

 

どうしよう。

仁奈ちゃんが攫われてしまう。

どうしよう。

プロデューサーを呼ぶ暇なんて無い。

どうしよう。

私が、私が何とかしなきゃ。

でも、どうしよう。

どうすれば、仁奈ちゃんを助け出せるの。

 

「怖がらせればいいじゃない。」

 

また、声。

その発生源へと視線を向けると、やはり。

 

「あいつが逃げ出すまで、怯えさせればいいじゃない。」

 

窓ガラスに映った諸星きらりが、当然のように言い放つ。

 

「簡単でしょう? あなたには。」

 

諸星きらりの顔をまじまじと見る。

自然と口角が上がる。

諸星きらりが醜く笑った。

ああ。確かに、簡単だ。

私が何をする必要もない。

これまでだってそうだった。

その気が無くても尚、周囲を怖がらせた。

望んでいなくとも、それでも私から逃げた。

だったら。失敗するはずがない。

 

足の痛みが消えていく。

妙な自信が身体に溢れていった。

大丈夫だ。何も恐れなくていい。

恐れるのはあっちの方だ。

私はただ、あの場所に行くだけでいい。

 

しっかりとした足取りで、2人の元へ向かう。

女が私の接近に気付く。

酷い顔だ。

『諸星きらり』がこれを見たら、足がすくんでしまうだろう。

 

「放せ。」

 

でも。

私はそんなことで怯まない。

安心感だけがあった。

答えを前もって知っているテストの問題を解くような。

これから何が起こるかを予知しているような。

そんな、絶大なまでの安心感。

 

「……な、何だよ!? この子は……!」

 

あるとしたら、1つだけ。

仁奈ちゃんには、見られたくなかった。

仁奈ちゃんにだけは、怖がられたくなかった。

こんな私を慕ってくれたから。

こんな私に、いつも笑顔を向けてくれたから。

仁奈ちゃんの怖がる顔だけは、見たくなかった。

 

「聞こえなかった?」

 

身体は女の方へ向けながら、視線だけ仁奈ちゃんへ移す。

……想像した通りの表情が、そこにあった。

胸を抉られる。吐き気すら込み上げた。

駄目だ。動揺するな。顔に出すな。

弱みを見せるな。見せちゃ、駄目だ。

 

やっぱりやめておけばよかった。

プロデューサーを呼んで、隅で震えておけばよかった。

そんな後悔も、もう遅い。

 

心の中で謝罪を繰り返す。

ごめん。ごめんね。

私はもう居られない。

もう側には居られない。

私はあなたを、怖がらせてしまうから。

 

でも、杏ちゃんが居るから。

杏ちゃんはもう、1人で歩けるから。

きっと、後のことは杏ちゃんがやってくれるから。

だから。

 

 

 

「その子から。手を。放せ。」

 

 

 

ここで、お別れ。

 

 

 

「はぁ、はぁ……っ、は……!」

 

肺にある空気全てを交換する勢いで、私は荒く呼吸する。

きらりからメールで連絡があった。

連絡、というには、あまりにもそっけない。

彼女の携帯の位置情報を転送しただけ。

その他に何のメッセージもない、ただそれだけが送られてきた。

 

嫌な予感がした。

彼の言う通り、きらりの様子が変だ。

彼女がよこしたメール1つを取っても、それは明らかだった。

少ない体力の全てを使い果たして、私はやっとメールにあった場所まで来た。

 

辺りを見回す。

建物に背中を預けるようにして、仁奈が座り込んでいた。

 

「……仁奈! 大丈夫!?」

 

少女の元へ駆け寄り、肩に触れる。

びくりと震え、ゆっくりと上を向き、こちらを見る。

消え入るような声が、微かに鼓膜に届いた。

 

「……どうしよう。」

 

震えていた。

仁奈の身体は、何かに怯えるように。

カタカタと、細かく震えて。

呆然と目を見開いて。

目尻に涙を溜めていた。

 

「仁奈、仁奈……、」

 

うわ言のように呟く。

何かがあったことは明白だった。

しかし、分からなかった。

何故きらりが居ないのか。

何故きらりの髪飾りだけが落ちているのか。

何故仁奈がこんなところに居るのか。

何に怯えているのか。

何も、何も分からなかった。

 

砂利に晒され傷が付いた髪飾りを握りしめる。

状況を理解できない不安から、私は仁奈から聞き出そうと口を開ける。

私が声を発するより前に、仁奈は涙と共に懺悔を吐き出した。

 

 

 

 

 

「きらりおねーさんのキグルミ、脱がしちゃった……!」



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13.分からない

「……ママと、会ったんでごぜーます。」

 

家に帰った後。

仁奈は、泣き続けた。

泣いて泣いて、泣いて。

赤い目で床を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始める頃には。

月が反射する淡い光が、窓を通して2人の横顔を撫でていた。

 

「ママは仁奈を、仁奈の家に連れて行こうとしてやがりました。

1人で外に居るのには、あぶねー時間でごぜーましたから。」

 

仁奈は一度、家の前まで辿り着き。

そして鍵を持っていないことに気が付いた。

それを無くすということが、どういうことか。

どれだけ重大なことなのか。

仁奈は、理解してしまっていた。

 

「でも、まだ、鍵を見付けてやがりませんでした。

でも、ママに言ったら、怒られちまいます。

だから、ママに引っ張られながら、探してたんでごぜーます。」

 

仁奈は自分の腕を掴む母親の力に逆らいながら、辺りを見回した。

自分が落とした鍵を探すために。

 

「きらりおねーさんはきっと、それを見たです。」

 

きらりはその場面を目撃した。

人の目の付かない路地裏で。

1人の大人が、少女を無理矢理に歩かせていた。

そして仁奈は、それに抵抗しているようだった。

そんなものを見たら。

 

「さらわれちまうと、思ったんでごぜーます。」

 

誘拐。

それ以外の可能性がどこにある。

仁奈が家の鍵を持っていないことを知らない彼女が。

仁奈の母親が、苦しみながら、それでも仁奈を愛そうとしていることを知らない彼女が。

それ以外を思いつく可能性が、どこにある。

 

「きらりおねーさんは、仁奈を助けてくれやがりました。

……助けてくれたんで、ごぜーます。」

 

きらりは選択を迫られた。

目の前の誘拐犯に対し、彼女が取れる行動は2つしか無かった。

助けを求めるか、自分が助けるか。

きらりは他者に暴力を振るえない。

だから、頼りになる誰か。

プロデューサーに連絡を取るのが、私のよく知るきらりだった。

しかし、きらりは意外にも、2つ目の行動を取った。

彼女は自ら、その脅威を退けようと立ちはだかった。

 

「助けてくれたんでごぜーます。仁奈のためでごぜーます。

だから仁奈は、ありがとうって、言わなきゃ。なのに。」

 

仁奈の安全のために、勇気を振り絞った行動だった。

それを仁奈は理解していた。

危機的状況にある自分を、救出しようとしたのだと。

 

「……なのに! 仁奈、怖くってっ!

やさしいきらりおねーさんなのに!

ぎゅってしてくれた、きらりおねーさんなのに!」

 

理解していたからこそ、感情との差異に困惑した。

目の前に居るのは、自分に安心をくれる存在だ。

そこに在るのは、自分を守ってくれた存在だ。

それに恐怖を感じる必要はない。

理性がそう訴えても、感情が否定する。

 

「なんで仁奈、怖かったんでやがりますか!?

きらりおねーさんは怖くねーです! 怖くねーんです!!

なのになんでっ! なんで仁奈は……!!」

 

それは救世主に対する、これ以上無い非礼だった。

仁奈は笑顔で礼を言わなければならない立場にあった。

しかし仁奈は、それに失敗した。

自らを救ってくれた存在を、感情が怪物と認識した。

 

「……仁奈を見て、きらりおねーさん、笑ってやがりました。

寂しそうに。兎さんみたいに。笑ってやがりました。

仁奈は、きらりおねーさんを、兎さんにしたんでごぜーます。」

 

仁奈の表情を見たきらりは、それを受け入れた。

仁奈に怪物と認識された事実を。

拒絶するでもなく。取り繕うでもなく。

ただ、寂しそうに受け入れた。

 

「きらりおねーさんもキグルミを着てるって。

そう言ってたんでごぜーます。」

 

ずっと明るく振舞って。

その裏に隠していたのは、怖がられることへの恐怖だった。

自分は背が高いから。

怖がられてしまうから。

優しい彼女は、他者に恐怖を与えることを恐怖した。

 

「きらりおねーさんは、隠してやがりました。

キグルミを着て。兎さんなんだってことを。

ずっと、ずっと隠してやがりました。」

 

しかし仁奈を助けるには、怖がられるしかなかった。

きらりは暴力を振るえない。

暴力的な語彙だって無い。

だから、明確な戦闘状態になる前に、敵を退けるしか。

彼女が取れる、彼女自身が仁奈を救う行動は。それしかなかった。

 

──出来ればキャラ作りで……いや、素であって欲しい。

 

初めて会った日のことを思い出す。

素なんかじゃなかった。

あの口調は、きらりが張った防衛線だった。

自分の姿を見ても、誰も怖がらないように。

きらりと関わる他者を、そしてきらり自身を。

守るために作ったキャラクターだったのだ。

 

「仁奈はそれを、脱がしたんでごぜーます。」

 

キャラクターを演じない自分は恐怖の対象である。

それはもう、単なる思い込みなどではない。

被害妄想ではあり得ない。

その確固たる証拠を、きらりは手に入れた。

演じていた時には確かに笑顔を向けてくれた少女は、同じ目で自分を見てはいなかった。

 

「……どうしよう。どうしよう。どうしよう。

杏おねーさん、どうしよう。

仁奈、どうしたらいいでやがりますか?

どうしたら、どうしたら……!」

 

仁奈が私に縋り付く。

どうしたら。

どうしたらこの状況を打破できる。

きらりと仁奈の問題を、どうやったら解決できる。

仁奈と仁奈の母親の関係性は、まだ完全には終わっていない。

まだ、取り返しがつく。

でも、その方法が分からない。

きらりに頼るしか、思いつかない。

しかし、きらりはそんな状況じゃない。

では、どうやって。

どうやって、きらりを助ける。

どうしたら、きらりを助けることができる。

 

「……まずは、少し寝よう。仁奈も私も、疲れてる。」

 

 

 

 

 

そんなの、分からない。分からないよ。きらり。



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14.灯りが消えた陽の中で

その朝は、重苦しかった。

 

「……おはよう。」

 

「……おはようごぜーます。」

 

寝起きからテキパキと動く、彼女が居ないから。

 

「……はい、歯磨き粉。」

 

「……ありがとうごぜーます。」

 

明るい笑顔を振りまいた、彼女が居ないから。

 

「……何、食べたい?」

 

「……お腹、減ってやがらねーです。」

 

朝ご飯を作る、彼女が居ないから。

 

「……昼寝しよっか。」

 

「……眠く、ねーです。」

 

きらりが、居ないから。

 

「……はぁ。」

 

小さい溜息が漏れ出る。

眠気が無いのは私も同じだ。

そもそも一睡もしちゃいない。

きっと仁奈も同じなのだろう。

目元に浮かぶ黒が、それを如実に物語る。

もう一度布団に入って、夢の中に逃げてしまいたい。

そう思っても、ちっとも眠れる気がしなかった。

 

「……ねえ、仁奈。」

 

地に足をつけるために必要な錘が、全て抜け落ちてしまったようだった。

私も仁奈も、不安定に宙を浮いていた。

気味の悪いものが背中を駆け上がるような不快感。

それが、ずっと私達を責め立てていた。

 

「もし。……もしだよ?

もし仁奈のママが、仁奈のことを好きじゃなかったら。

……仁奈は、それでもママと一緒に居たい?」

 

本能がひどく錘を欲した。

背中に貼り付いたものを剥がし取りたかった。

早く。一刻も早く。

自分がどれだけ非道なことを口走っているか。

その判別をつかなくさせるほど、それは私を弱らせた。

 

「ずっと一緒に暮らそうよ。

きらりと杏と、3人でさ。」

 

震えている私の声は、段々と早口になっていった。

漏れ出してしまった弱音。仁奈に届いてほしくなかった。

よく分からない、聞き取れなかった独り言。

そんなものとして聞き流してほしかった。

 

「きらりにごめんなさいしたら、きっと許してくれる。

そしたら、3人で暮らそうよ。」

 

そんなことを思うなら、止めてしまえばいい。

分かっていても、止まってはくれなかった。

流れ始めてしまった水をせき止めるだけの力は。

その水圧に打ち勝つだけの力は。

たったの一晩で、根こそぎ奪われた。

 

「……いっかいだけ。思ったことがあるですよ。」

 

仁奈はぽつりと呟いた。

聞き流してはくれなかった。

それを認識した瞬間、良心が私を串刺しにする。

 

「きらりおねーさんが、ママだったらいいのにな、って。

パパが居るって、杏おねーさんみたいなのかな、って。」

 

その表情を伺うことはできなかった。

仁奈の方を向くなんてできなかった。

私はただ、床を見つめ続ける。

 

「きらりおねーさんは仁奈を、抱きしめてくれやがりました。

杏おねーさんは仁奈を、撫でてくれやがりました。

キグルミじゃなくて。ウサギさんじゃなくて。仁奈を。

……仁奈を。」

 

私が行おうとしたのは、仁奈の母親を純粋な悪に仕立て上げること。

きらりはまだ、仁奈の母親に関して何も知らない。

だから、きらりが遭遇した人物は本当にただの誘拐犯で。

その脅威から仁奈を守った、ということにすれば。

仁奈も感謝している、ということにすれば。

きらりが起こした行動に、正当性を与えることができる。

 

「嬉しかったですよ。あったかかったです。」

 

自分はその場において最も適切な行動をしたのだと。

仁奈はきらりにではなく、見知らぬ誘拐犯に怯えていたのだと。

説得を重ねれば、そう錯覚させることができる。

 

「でも、違ったんでごぜーます。

きらりおねーさんは、きらりおねーさんで。

杏おねーさんは、杏おねーさんです。

ママじゃねーです。パパじゃ、ねーんです。」

 

更に、虐待の加害者である仁奈の母親から、仁奈を遠ざけるためとして。

3人で暮らすことが、できるかもしれない。

仁奈は寂しい思いをせず、きらりは元の状態に戻る。

仁奈の母親さえ、諦めれば。

 

「仁奈のママは、ママしかいねーんです。

……ママは仁奈を怒るです。痛いことだってしやがります。」

 

だが。仁奈の母親と仁奈の関係性を正すとしたら。

きらりはやがて、仁奈の母親の姿を見るだろう。

あの日見た、誘拐犯だと思い込んだ人物の姿を見るだろう。

その場合、きらりの行動は正しかったという体で彼女を説得することは出来ない。

 

「でも、ママは、ママしかいねーんです。」

 

仮に一時的に回復したとしても、それは真実を知るまでのごく短い間だ。

確かに仁奈は、きらりに恐怖した。それが事実だ。

真実を隠さないならば、いずれ事実にも気付かれる。

きらりを回復させ、仁奈を助けるために状況を説明した段階で、再びきらりは傷を負う。

 

「……ごめん。」

 

母親に代わりなんて居ない。

そんなことは、私自身よく知っているはずだった。

母親のことを、簡単に諦められるのならば。

愛してくれないからと切り捨てて、振り返らずにいられるのなら。

ボロボロになったぬいぐるみを、いつまでも持ち続けちゃいない。

仁奈の母親を切り捨てることは、できない。

そんな安直な、分かりやすい最短ルートは選べない。

その先にあるのは、決して幸せなどではない。

 

何度考えてみても、方法なんて1つも思い浮かばない。

方法なんて、1つも無いのかもしれない。

でも。それでも。

頼れる人が居ないから。

きらりが、居ないから。

私が、何とかしなきゃいけないんだ。

 

その日、仁奈は一度も笑わなかった。

夜遅く、いつもならとっくに寝息を立てている時間になっても。

仁奈は黙って、俯いていた。

 

 

 

 

 

「夜分遅くに、失礼致しましてー。」

 

仁奈がようやく寝静まった頃。

柔らかくとも凛とした、よく通る声だった。



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15.正反対、対照的、そして

「本日はー、見事な月でしてー。」

 

公園の真ん中で立ち止まり、芳乃は空を見上げた。

 

「……芳乃、実家に居たんじゃなかったの?」

 

夏休みに入ると、所属アイドルの殆どは実家に帰省することを選んだ。

私は、お父さんのところに行くこともできたけれど。

でも、やっぱり止めておいた。

なんだか、まだ、それは早いように思えたから。

今まで通り、たまに手紙を送るくらいが、私には心地良かった。

きらりも、当然のように私と一緒に暮らし続けた。

しかし芳乃は、間違いなく帰省を選んだ1人だった。

彼女の出身は鹿児島だ。そう簡単に来れる距離じゃない。

 

「はいー、電車を乗り継ぎ、つい先程到着致しましてー。」

 

電車。

飛行機ではなく、新幹線ですらなく、電車。

まさかガタンゴトンと揺られてきたのか。丸1日以上かかるぞ。

せめて普通列車ではなく急行であってくれ。

 

「……それで、何でわざわざ?」

 

私が問うと、彼女はこちらに振り返る。

着物の袖の、ふわりと浮かぶ姿が、月光に照らされて。

これまで何度この感想を抱いただろうか。

彼女は、まるで神様のようだった。

 

「悩みごとが、お有りでしょうー?」

 

芳乃は柔らかい笑みを浮かべる。

他者の気を読むことが出来る彼女。

趣味が石ころ集めと失せ物探し、そして悩み事解決の彼女。

彼女はきらりと仁奈に関する問題の為にここに居た。

 

「……助けて、くれるの?」

 

藁にも縋り付きたい状況だった。

仁奈とその母親との関係性が、異常だということは私にも理解できた。

正常にしなければならなくて。それはまだ、まだ手遅れではなくて。

でも、何が正常なのか。

何を以ってして、親子の関係は正常と判断されるのか。

この異常な関係性を、どうすれば正常に直せるのか。

一般的に異常とされるだろう家庭で育った私には、分からなかった。

きらりを頼るしか、思いつかなかった。

 

「……助けてよ。」

 

しかし、そのきらりにも問題が発生した。

きらりは、これまで避け続けていたことを。

自分は怪物であるという認識の。

確固たる証拠を得てしまった。

仁奈の母親は彼女の姿を見て逃げ出し。

仁奈にすらも、恐怖を覚えさせてしまった。

その事実を、認識してしまった。

 

「何とか、してよ……!」

 

どうすればいいんだよ。

だって、きらりは見てしまった。

恐怖に歪む仁奈の顔を。

例えそれが本人の意志によるものじゃないとしても。

それでも、見てしまったんだ。

もう彼女に励ましは通用しない。

もう彼女に、それは思い込みだと。

そう思い込ませることは、できない。

いくら私が弁明したって、事実は決して変わらない。

その事実を、彼女は決して軽視しない。

そんなの、どうすればいいんだよ。

 

「いいえー。

わたくしが出来ることなどー、ほんの少ししかありませんー。」

 

しかし芳乃は、ゆっくりと首を横に振る。

私が食い下がろうとする前に、彼女は言葉を続けた。

 

「ただ、思い出させて差し上げるのみー。」

 

ゆっくりと、美しさすら感じさせる動作で、芳乃は私の前へ歩み寄る。

その両手は私の頬に触れ、少しだけ持ち上げる。

 

「そなたに助けなど、最早必要ないということをー。」

 

小柄な、しかし私より12cm大きい少女。

その瞳と、目が合った。

 

「さあ、よく見てくださいませー。」

 

その瞳は、私の目を見てはいなかった。

私の目の、その奥にあるものを。

彼女の瞳は、それを映し出していた。

彼女の瞳を通して、私は私自身を見ていた。

 

「そなたはー、きらり殿をどうお思いでしてー?」

 

──優しいし、可愛いし、フリフリな服だって似合いそうだ。……というか、私服がフリフリだ。

 

「きらり殿はー、アイドルには向いていないと感じましてー?」

 

──確かにきらりには、アイドルはぴったりだと思う。

 

「きらり殿がそなたの元を離れても、そなたは何とも思いませんかー?」

 

──きらりが居ないのは、嫌だ。

 

「そなたが1人で歩けるならばー、そなたはきらり殿から離れましてー?」

 

──胸を張って、きらりに会いに行けるように。

 

「きらり殿が、もし怪物に成り果ててしまったならばー。

そなたはきらり殿を見捨てましてー?」

 

──どちらかが失敗したときには、どちらかが支えよう。

 

「きらり殿を救う方法が、もし何一つ思いつかなかったならばー。

そなたはきらり殿を諦めましてー?」

 

──思いっきり、我が儘を言ってやる。

 

「きらり殿とそなたはー、全てが異なる存在でしてー?」

 

──私と同じように、怖いのだと。

 

「それら全てをー。きらり殿は知っておいででしてー?」

 

──彼女の表情にあったのは、喜びだけではなかった。

 

「……そなたはー。きらり殿を、どうお思いでしてー?」

 

 

 

 

 

──これが、私の一番の親友。諸星きらりとの出会いだった。

 

 

 

 

 

「……できるかな。」

 

不安は、無かった。

 

「私に、できるかな。」

 

ついさっきまで、確かに私を蝕んでいたはずのそれは。

私を押し潰そうと躍起になっていたはずのそれは。

影も形もなく、消え失せていた。

 

「……わたくしはー、そなたのことを、ほんの少ししか知りませぬー。」

 

決意だけがあった。

助けなきゃ。助けられる。助けたい。

そのどれでもなかった。

きらりを、助ける。

その決意だけが、胸の底にずしりと鎮座していた。

 

「しかしー。ほたる殿を救おうとしたそなたはー。」

 

芳乃は私の頬から手を離し、私の右手を掴む。

それを2人の胸の前まで持ってくると、両手で包み込む。

 

「短い手足と知りながら、それでも必死に走り続けたそなたはー。」

 

その姿は、祈るようで。

 

「悩み続けたその先が、四方を囲まれ八方に塞がれていても。

それでも尚、もがき続けたそなたはー。」

 

その姿は、信じるようで。

 

「とても無様でー。矮小でー。痛々しくー。無力でー。」

 

その姿は、称えるようで。

 

 

 

「そして、格好良かったですよー。」

 

 

 

その姿は、勇気をくれた。

 

 

 

「……それ、気でも読んだ?」

 

軽く笑いながら、私は目の前の少女に問う。

彼女が私にかけた言葉は、的確に私を鼓舞したから。

私自身無自覚だった、欲しかった言葉をくれたから。

 

「内緒、でしてー。」

 

芳乃はただ、柔らかく笑った。

 

「芳乃。」

 

どちらでもよかった。

それが私の望むものだと分かっていたか。

彼女が放った言葉が、偶然私の望み通りだったのか。

そのどちらが正しいかなんて、どうでもいいことだった。

 

「でしてー?」

 

この言葉を伝えることを、心の底から望んでいた。

素直な感情を、素直に伝えたかった。

 

「助けてくれて、ありがとう。」

 

私は確かに、彼女に救われたのだから。

 

「……でしてー。」

 

芳乃は先程と同じように笑う。

その笑顔は、先程のものとは違っていた。

 

 

 

 

 

双葉杏がその場を去った後。

 

「そなたらはー。実に、実に奇異な気をしておりましてー。」

 

芳乃は再び空を仰いでいた。

 

「何もかもが異なりー、そして何もかもが同じー。」

 

その瞳は月を映し、月ではない何か別のものを見ていた。

 

「正反対で、対照的で、そして同一の存在ー。」

 

その何かに向けて、芳乃は1人呟く。

 

「……気付いて、おいでですかー。」

 

何もかも違うものを持って生まれ。

何もかも同じことを悩み。

何もかもを互いに求めた2人。

芳乃が見据えるその先は、果たして、そのどちらか。

 

 

 

 

 

「そなたはもう、かつて望んだ御姿に成られているのですよー。」



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16.双葉杏

明かりは1つとして無く、月の光だけが辺りを照らす。

レッスン場の真ん中。鏡の前に立つ。

目を閉じて、私は大きく息を吸った。

 

今日の夕方。

プロデューサーから連絡を受けるまで、きらりはここに居た。

ここで、何かを考えていた。

ここで、何かを見ていたんだ。

 

溜め込んだ息を吐き出し、ゆっくりと目蓋を開ける。

ぬいぐるみを持つ少女が居た。

うさぎを両手で抱え込み、涙目になって震えてる。

小さい少女がそこに居た。

何もかもを失った、かつての少女がそこに居た。

 

「……どうしよう。」

 

情けない格好だね。

何がそんなに怖いのさ。

 

「きらりが、壊れちゃう。

お母さんとおんなじになっちゃうよ。」

 

させないよ。

そんなの、絶対にさせない。

 

「私にできるわけないよ。

方法すら分からないくせに。

絶対に失敗しちゃいけないことを、失敗したくせに。」

 

そうだね。

私はこっぴどく失敗した。

お母さんに、嫌われた。

 

「ほら。できるわけないんだよ。」

 

でもね。

頑張ろうって決めたんだ。

 

「頑張っても、報われないよ。」

 

それでも、頑張ろうって決めたんだ。

約束したんだ。

2人で頑張ろうって、そう決めたんだ。

 

「褒めてなんてくれないよ。」

 

教えてもらったんだ。

褒めてもらうだけが全部じゃないって。

嫌われてもいいって、思えることがあるって。

理屈より計算より、心が大事なことだってあるって。

 

「嫌われてもいいなんて、あるわけない。

嫌われたら、何の意味もない。」

 

そう思う? ……そりゃ、思うよね。

 

「お母さんのために頑張って、きっとお母さんは楽ができた。

でも、嫌われちゃった。

それで私は、諦めたじゃんか。」

 

褒められるためだけに頑張ったから。

それ以外のことなんて、考えてすらなかったから。

 

「きらりがもし助かっても、きらりに嫌われたら意味がない。

きらりに笑ってもらえないなら、そんなの意味がない。

そんなやり方できらりを助けても、私に何の意味もない。」

 

それでもいいんだ。

きらりが私に笑ってくれなくても。

それでもいいって、本気で思えるんだ。

 

「嘘。」

 

嘘じゃない。

言ったでしょ? 教えてもらったんだよ。

それにね。言ってくれた言葉があるんだ。

 

「……そんなの、ただの励ましだよ。

本気で言ってるわけない。」

 

そうかもしれない。

でも、それでもいいんだ。

きらりは絶対、私を嫌いになんてならないって。

そう言ってくれただけでいいんだ。

それで、十分なんだよ。

 

「嘘。……嘘、嘘!

じゃあ私は、私はなんなのさ!

私はただの失敗だったっていうの!?

これ以上私を否定しないでよ!!」

 

否定なんてしない。

 

「私を捨てないでよ!

私を置いて行かないでよ!!

私を忘れちゃわないでよ!!!」

 

置いてなんて行かないよ。

捨てるなんてしない。

忘れるなんて、できるわけない。

ただ、今だけ。

今だけ、少しだけでいいから。

強がらせてほしいんだ。

 

「……きらりを、助けるために?」

 

きらりを、助けるために。

 

「……変わったね。」

 

みんなのおかげだよ。

 

「……分かった。待ってる。

待ってるから、迎えに来てね。」

 

うん。迎えに行くよ。

 

「きらりを、助けてあげて。

私には、できないから。だから……頼んだよ。」

 

うん。必ず。

 

 

 

月夜に1人。

手元に、フェルトの感覚。

 

「……ありがとう。」

 

うさぎを、ぎゅっと抱きしめた。

 

 

 

翌朝。

 

「ねえ、仁奈。」

 

きらりは帰ってこなかった。

 

「このぬいぐるみ、預かっててくれないかな。」

 

プロデューサーから連絡が来た。

 

「うん。……別に、要らなくなった訳じゃないよ。」

 

きらりが辞表を出したと言っていた。

 

「きらりを迎えに行ってくるから。」

 

ただ一言だけを返し、通話を切った。

 

「それまで、持っていてほしいんだ。」

 

大丈夫。任せて。

 

 

 

 

 

ピンポーン。

軽快な音が響く。

 

ピン……ポーン。

長押ししたりしてみる。

 

ピンポンピンポーン。

今度は連打。

 

「……。」

 

全く反応がないのを確認して、インターホンに当てた手をドアノブへと移動させる。

それは私の予想通り、ガチャリと拒絶の音を立てた。

 

「……ま、そうだよね。」

 

ポケットから針金を取り出し、鍵穴に差し込む。

流石に学習机ほど粗末ではないが、ここも古いアパートだ。

鍵の構造もそれだけ古く、単純だ。

 

カチリ、と小気味よい衝撃が針金を通して手に伝わる。

目を閉じて、深呼吸。

意を決して、私はドアを開けた。

 

 

 

そこにはきらりが居た。

床に座って、下を向いていた。

ドアが閉まる音に、ビクッ、と肩を震わせて。

ゆっくりと、こちらに顔を向ける。

 

きらりの横顔は、いつもとは違っている気がした。

それがよく見えるようになればなるほど、それは少しずつ。

そして、私にちゃんと向き直った時には。

確信に、変わっていた。

 

「……諸星きらり、です。」

 

無表情を顔に貼り付けたまま、きらりが呟く。

きらりは、私の知るきらりではなくなっていた。

 

髪は黒に染まり。

毛先のカールは無く、まっすぐに伸び。

爪はネイルされておらず、短く切りそろえられていて。

フリルやアクセサリーの1つも見当たらない、寒色系の落ち着いた服を身に纏い。

声色は、前よりずっと低く。

口調も、以前の特徴を完全に捨て去っていた。

 

「……双葉杏です。」

 

これが、彼女がずっと隠していた内面。

これが、彼女のキグルミの中にあったもの。

これが、彼女が見られたくなかった姿。

 

これが、彼女の持つ兎。

 

ならば。この言葉が相応しい。

私はうさぎを置いてきた。

彼女は兎そのものだ。

それならば。

以前と異なる2人ならば。

互いに知り得ぬ2人ならば。

その2人が出会ったのならば。

この言葉から始めよう。

 

 

 

 

 

「「はじめまして。」」



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17.私はずっと。

「背が高ければよかった。」

 

目の前の少女は、そう切り出した。

平坦な声。冷たい声で。

 

「って、思ったことはある?」

 

感情の篭もらない、濁った瞳が私を観る。

私はただ、その瞳を見続けた。

 

「私はずっと、小さくなりたかった。」

 

言いながら、少女は立ち上がる。

彼女の瞳が高くなり、私はそれを追いかけるように顔を上に向ける。

不透明な瞳が、私を見下ろしていた。

少女は、どうしようもなく大きかった。

 

「そこに居るだけで威圧感を与える身体が。

誰も近寄ろうと思わないこの身体が。

私はずっと、嫌いだった。」

 

怪物に成り切った少女が演説を続ける。

 

「私だけ違ってた。

気に入った服のサイズが無かった。

しゃがまなきゃフレームに入れなかった。

映画はいつも後ろの席だった。」

 

少女を見上げながら、きらりを見る。

きらりは私より、ずっと小さかった。

 

「ずっと憧れてた。

もっと小さければ、可愛い服が着られるのに。

もっと小さければ、怖がられずにいられるのに。

もっと小さければ、望み通りになれるのに。」

 

ちっとも怖くなんてなかった。

恐怖なんて覚えなかった。

 

「でも、小さくなんてなれないから。

私は、大きいから。

大きいのは、怖いから。

だから、せめて、怖がられないように。

どんな扱いでもいいから。怖がられないように。」

 

少女は表情を出さない。

 

「変人でいい。マトモじゃなくていい。

気が違っていると思われても構わない。

それでもいいから。側に居てほしかった。

独りは、嫌だった。」

 

磨りガラスを見ているようだった。

 

「あなたが今まで見てきたのは。

あなたが接してきたのは。

接して、いられたのは。

そんな『諸星きらり』なの。

『諸星きらり』は、偽物なの。」

 

それが本性であるなどと、思えるはずがなかった。

 

「ずっと羨ましかった。

ずっと妬ましかった。

小さいあなたが。

飾らずにいられるあなたが。

ずっとそれを、隠してきた。」

 

きらりは、暴力的になれないから。

 

「でも。『諸星きらり』はもうお終い。

もう私は、『諸星きらり』でいられない。

隠してなんていられない。」

 

大きい少女が私を睨む。

まるで威嚇するように。

まるで警告するように。

 

「だから。出ていって。」

 

まるで、恐れるように。

 

「私はあなたに憧れる。

私はあなたが羨ましい。

私はあなたが妬ましい。

……そんなもの、見ていたくないの。」

 

置いてきて、よかった。

うさぎを抱えたままでは、きっと怯えてしまっただろうから。

きっときらりを、見れなかっただろうから。

 

「だから。帰って。」

 

返す言葉は、決まっていた。

 

 

 

「帰らない。」

 

 

 

少女の瞳に、色が1つ。

驚愕の色。

磨りガラスの向こうに、ぼんやりとその色が見えた。

 

「……思ったことがあるかって?」

 

ああ。言ってやるよ。

 

「背が高ければよかった。」

 

私ははっきりとそう宣言する。

彼女に対する、宣戦布告を。

彼女が忌み嫌った自分の身体を、羨ましいと宣ってやる。

 

「ずっと、そう思ってた。」

 

笑えるくらいに分かってしまっていた。

彼女が何を望んでいるのか。

彼女が私をどうするつもりなのか。

この会話の目的は何なのか。

 

「小さいなんて、ロクなもんじゃない。

支えてやれない。守ってやれない。

満足に人を包み込むことすらできない。」

 

それをさせるわけにはいかなかった。

彼女を肯定するわけにはいかなかった。

 

「この手が大きければ。」

 

屋上から飛び降りようとするほたるを、しっかりと掴めていれば。

 

「この足が長ければ。」

 

落下した芳乃の元へ、素速く駆け込めていれば。

 

「何度そう思ったか。」

 

あれほど事態が悪化することは無いはずだった。

ほたるをああまで追い詰めることは、無かったはずだったのだ。

 

悩んだってどうしようもない話だ。

それで背が伸びるなら、私はとっくに巨人になっている。

きらりだって、とっくに小人になっている。

でも。私は小さくて。きらりは大きい。

いくら悩んでも、解決のしようがない悩み。

だからこそ、悩み続ける。

 

「全部話して嫌われよう。」

 

これまでの全部を遠ざけて。

ずっと独りで部屋の中。

そうすれば、逃げていられるから。

自分が見たくないものから。

向き合いたくない事実から。

 

「なんて思ってるんでしょ。」

 

させてやるものか。

そのやり方じゃ駄目だ。

駄目だったんだ。

目を向けられなかったそれは、どんどん形を歪めていく。

認識を歪めていく。

どこかで向き合わなきゃいけなかったんだ。

認めなきゃいけなかったんだ。

 

「何度だって言ってやる。」

 

あの時は、きらりが抱きしめてくれた。

きらりが、欲しかった言葉をくれた。

でも。私は小さいから。

きらりよりも、優しくはなれないから。

 

「私は。きらりみたいになりたかった。」

 

私は、彼女を否定する。

 

「失敗したって思ってた。」

 

やめようと思った。

何もしないでいようと思っていた。

 

「報われなかったから。駄目だったから。」

 

欲しかったものが貰えなかったから。

独りぼっちになってしまったから。

 

「でも、頑張ったって言ってくれたんだ。」

 

抱きしめてくれたんだ。

頭を撫でてくれたんだ。

報われなかった私の過去を、報わせてくれたんだ。

 

「その言葉があったから、頑張ろうって思えたんだ。」

 

全部、きらりのおかげなんだ。

きらりが居なきゃ、部屋から出ることすら無かったんだ。

掃除もしない。

洗濯もしない。

料理だってしない。

ずっと画面とにらめっこ。

楽しいかと自分に聞かれて、滅茶苦茶楽しいと言い聞かせる。

そんな毎日しか、きっと無かったんだ。

 

「その言葉があったから、歩けるようになったんだ。」

 

自分のためにも、他人のためにも頑張れて。

目指すものへと真っ直ぐに向かっていて。

誰にだって優しくて。

いつだって、キラキラ輝いてた。

そんな姿に、憧れたから。

 

「その言葉があったから、救われたような気がしたんだ。」

 

許してやるものか。

認めてやるものか。

私を救ったあの言葉を。

私を救った『諸星きらり』を。

 

「その言葉があったから、 『諸星きらり』に憧れたんだ。」

 

否定されてたまるものか。

 

「怖がってなんかやらない。

ちっとも怖くなんかない。

可愛いものに憧れて。

怖がられるのが怖くて。

キグルミの中に閉じこもってしまえるような人間を。

誰が怖がってなんてやるものか。

……怯えてなんてやるものか!」

 

だから。何度だって言ってやる。

 

「あの言葉が嘘だなんて認めない!」

 

きらりが自分を否定するのなら。

私が憧れた姿を。私を救った姿を。『諸星きらり』を。

それでも否定するのなら。

 

「『諸星きらり』が嘘だなんて認めない!!」

 

私は彼女を否定する。

何度だって否定してやる。

 

「きらりは私の憧れだ!! 憧れなんだ!!

それを否定なんてさせるものか!! 許してなんてやるものか!!!」

 

認めない。認めない、認めない!

 

「絶対に! 絶対に!! 」

 

思い切り息を吸い込む。

身体がくの字に曲がる。

ぎゅっと目をつむる。

口を目一杯大きく開ける。

小さい身体の全部を使って、感情を叫ぶ。

 

 

 

「認めてなんてやるものか!!!」

 

 

 

部屋全体が、ビリビリと震えた。

 

きらりを助ける方法なんて、何一つ分からなかった。

ただ、言いたいことを言っただけだ。

抱えていた感情を、全部ぶちまけただけだ。

 

その反動か、やけに静寂が耳をつんざいた。

 

こうするべきだと思った。

こうしなければならないと思った。

その結果、何が起こるかなんて分からないけれど。

それでも、伝えなきゃ。

 

ふらり。身体が揺れる。

足に力が入っていないんだ。ぼんやりと、そう考える。

反射的に手をつこうとするが、それもやはり力が入らない。

そういえば、最近運動してなかったもんなぁ、なんて。

そのまま、前のめりに倒れ込む。

 

柔らかい感触に、包まれた。

 

「……大きくなっても、いいことなんてないよ?」

 

きらりだった。

その少女は、きらりだった。

怪物になりきってなどいなかった。

キグルミに閉じこもってなどいなかった。

 

「……その言葉、そっくり、返す、よ。」

 

喉が痛い。

 

「杏ちゃんは小さいの、嫌い?」

 

酸素が足りない。

 

「大っ嫌い、だよ。」

 

頭すら、がんがんと警鐘を鳴らしていた。

 

「……そっか。」

 

ちょっと大声を出しただけでこれだ。

 

「きらりだって、そう、でしょ。」

 

本当に、この身体にはうんざりする。

 

「……そうだね。」

 

でも。きらりはこんなものが良いと言った。

 

「……ねえ、きらり。」

 

思ったようにいかなくて。不便ばかりで。本当に嫌になる。

 

「嫌いなままでいい。無理に好きになんて、ならなくていいからさ。」

 

そんなものでも、望む人がいるのなら。

 

「否定だけは、しないでよ。」

 

少女は、小さく頷いた。

 

 

 

 

 

真っ直ぐに互いを見つめ合う。

どちらともなく、言葉を紡いだ。

 

「大きくなりたかった。」

「小さくなりたかった。」

 

私はきらりに憧れた。

きらりは私に憧れた。

 

「優しくなりたかった。」

「強くなりたかった。」

 

どうしようもない自分だけど。

大嫌いな自分だけど。

それでも、憧れている人がいる。

 

「格好良くなりたかった。」

「可愛くなりたかった。」

 

なら。否定するのはもうやめよう。

きらりの憧れを。私の憧れを。

そんな2人の感情を。

否定しあうのは、やめにしよう。

 

「「私はずっと。」」

 

この言葉は、その一歩。

この言葉は、その証。

この言葉は、その誓い。

この言葉を、互いに刻む。

嫌いな自分と、向き合うために。

 

 

 

 

 

「「あなたみたいになりたかった。」」



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18.後ろ向きに前を向く

「……どうかな?」

 

私が話を締め括ると、目の前の少女は難しい顔をした。

 

杏ちゃんから、今私達が直面している問題についてを聞いた。

話を聞く限り、これが一番だと思う。

性急に解決を目指しては、かえって事態が悪化する。

腰を据えて、じっくりと向き合っていくべき問題のように見えた。

 

「……理にかなってる。

きっと、失敗することも無い。」

 

手はテキパキと私の足の応急処置を続けたまま。

目をつむって思考を巡らせた彼女は、私の提案をそう評価した。

 

「でも。……本当に、いいの?」

 

杏ちゃんが心配そうに、私の顔を覗き込む。

この方法は、『諸星きらり』にはできないことだから。

怖がられなければいけないことだから。

それを前提としたものだから。

 

「……うん。もう、大丈夫。」

 

だからこそ、やりたいと思った。

これは杏ちゃんにはできないことだから。

私の嫌いな私には、できることだから。

 

「私は、私にできることをしたいから。」

 

向き合うって、決めたから。

 

「だから、杏ちゃんは、仁奈ちゃんの側に居てあげて。」

 

それは今の私にはできないことだから。

髪が黒いままで仁奈ちゃんに会ったら。

きっとまた、傷付けてしまうから。

 

「……仁奈、泣いてたよ。」

 

彼女の手が動くたびに、足が固定されていく。

 

「うん。」

 

テープが巻かれていくたびに、痛みが消えていく。

 

「助けてくれたのに、怖がっちゃったって。」

 

言葉が包み込むたびに、不安が溶けていく。

 

「うん。」

 

彼女が居ると思えるたびに、身体が軽くなっていく。

 

「だから。抱きしめてあげて。」

 

終わったよ、と、足を軽く叩かれた。

 

「……うん。」

 

私はゆっくりと立ち上がる。

足元は確かだった。

ふらつきなどしなかった。

少し背伸びして上を見上げると、天井が髪を掠めた。

 

ずっと、上を見るのが嫌いだった。

遠くにあって当然のものが、すぐ近くにあったから。

でも。

今は不思議と、嫌じゃない。

 

これは杏ちゃんにはできないこと。

私にならできること。

私の憧れの、その助けになるのなら。

 

この大嫌いな身体も、存外悪くはない。

 

「ああ、ちょっと待って。」

 

声のする方を見ると、杏ちゃんが私を見上げていた。

可愛らしい手に、可愛らしい包装の袋を乗せて。

私へと差し出していた。

 

「……本当は、誕生日にあげるつもりだったけど。」

 

開けてもいいの? と聞くと、少女は頷いて。

私は促されるままに、その中身を手に取った。

 

「前のは、傷が付いちゃったでしょ。

……それ付けて、仁奈に会ってあげて。」

 

髪飾りだった。

パステルカラーの、可愛らしい髪飾り。

私が好きな色、私が好きな形の。

髪飾り、だった。

 

あの日落とした髪飾り。

拾えなかった髪飾り。

もう付けられないと思っていた髪飾り。

 

視界が、滲んだ。

 

「……何泣いてんのさ。」

 

杏ちゃんが、仕方ないなぁ、と笑う。

その声色が優しくて。

私は包みを抱きしめる。

強く、強く。

その感触を確かめるように。

もう落としてしまわないように。

 

「ごめん、ね、なんで、いまさら、」

 

今更、涙が止まらない。

 

「つけてて、いい、のかな。

変じゃ、ない、かな。」

 

今更、安心してしまう。

 

「選んだ私のセンスが悪いって?」

 

よかった。

 

「ううん、かわいい。かわいい、よ。

かわいくて、かわいいから、だから……っ」

 

よかった。

 

「うん。可愛いからさ。だから。」

 

よかった。

 

「……だから、似合うよ。きっと。」

 

 

 

 

 

私、可愛くても、いいんだ。

 

 

 

 

 

「……ただいま。」

 

家に帰ると、ぬいぐるみを抱えた仁奈が、角からぴょこりと顔を出した。

私しか居ないことに気付き、表情を曇らせる。

 

「きらりは、キグルミを着てから帰るってさ。」

 

本当は、それだけではないのだけれど。

仁奈がほっと顔を綻ばせながら、私の元へ駆け寄ってきたから。

それだけということにしておこう。

 

「ぬいぐるみ、大人しくしてた?」

 

仁奈が私にぬいぐるみを差し出す。

冗談のつもりでそんなことを言いながら、私はそれを受け取った。

 

「……ずっと、寂しそうにしてやがりました。」

しかし、仁奈が真面目な顔をして返すものだから。

少しだけ面食らってしまう。

 

「……そっか。寂しかった、か。」

 

うさぎの表情を見つめる。

ごめんね。

私は心の中で話しかける。

でも、できたよ。

私にも、できたんだ。

きらりを、助けられたよ。

 

フェルトで作られたぬいぐるみの、フェルトで作られた表情。

変わるはずのない、固定された表情。

一瞬だけ。

 

笑ったような、気がした。

 

「……ねえ、仁奈。」

 

うさぎから仁奈に視線を移す。

確認しなきゃならないことがあった。

仁奈は、例え嫌われていたとしても、母親の側に居たいと言った。

 

「仁奈のママが、仁奈をどう思っているか。

分かるとしたら、どうする?」

 

でも。もしもの話と、実際の話は違う。

嫌われていると仮定した上での選択と。

本当に嫌われているという事実を突きつけられるのは、違う。

 

「このまま、分からないままで居たい?

……それとも、正解が欲しい?」

 

このまま、不明瞭なまま。

あやふやなままで居ることもできる。

そうすれば、傷つくことはない。

希望を持ったままで。期待したままで。

前に、進めないままで。

 

「……わからねーです。」

 

答えを出せば。

正解を知れば。

理想が、手に入るかもしれない。

でも。傷つくかも、しれない。

 

「わからねーですよ。」

 

僅か9歳の少女には、あまりに酷な質問だった。

逃げたくて当然で。

逃げることが許されるべき年齢だった。

 

「今すぐに、分かるわけじゃないんだ。」

 

この正解が分かるのは、ずっと先。

1年後かもしれないし、10年後かもしれない。

でもいつか、確実に答えは出る。

 

「……うさぎさんなら、どうするでごぜーますか?」

 

仁奈はうさぎに問いかける。

失敗した双葉杏に。

私はぬいぐるみに口を押し当てる。

 

『……とても。とっても、怖いです。』

 

私は、逃げた。

お母さんからも、お父さんからも。

逃げて、独りで部屋の中。

見えないように、逃げていた。

 

『もし嫌われていたら。一生、愛されないとしたら。』

 

お母さんに、愛されることを失敗した。

私はお母さんに殺された。

そう思って生きていた。

私は確かに、拒絶されたから。

 

『でも。嫌われてなかったら。』

 

仁奈の母親のように。

お母さんも、悩んでいるのなら。

私のことで、悩んでくれているのなら。

また愛そうと、してくれるのなら。

 

『きっと、明るくて。きっと、暖かくて。』

 

お父さんの感触を思い出す。

不器用で。必死で。だからこそ。

 

『きっと、嬉しいから。』

 

ぬいぐるみから顔を離す。

きらりは、こうするべきだと言った。

きらりの言葉なら、信じられるから。

 

「……だから。」

 

確証なんて無い。

全部私の思い上がりで。

勝手に期待しているだけで。

ひどく自分を傷つけるだけかもしれない。

だから。

前向きになんて、なれそうにないから。

 

 

 

 

 

「駄目だったら、2人で泣こう。」



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19.どうか伝わりますように

仁奈ちゃんの母親は、私を見て怖がった。

陽が落ちようとしている中、誘拐事件があった街をうろつく娘を見て。

このままでは危ないからと、自宅に連れ帰ろうとしていた母親が。

それでも、私を見て怖がった。

娘を見捨てたとか、そんな糾弾をするつもりはない。

そんな批判は的外れだ。

ただ、怖かっただけなのだ。

自分が愛そうとする娘の身の安全など、頭から抜け落ちてしまえるほど。

私が怖かっただけなのだ。

 

「突然の訪問、失礼します。」

 

杏ちゃんの話によれば、仁奈ちゃんの母親は、仁奈ちゃんを愛そうとしていた。

母親は子を愛するものであると。

愛するべきものであると。

愛さなければならないと。

かつて愛されなかった彼女は、その考えに固執しているとすら言えた。

 

「市原仁奈ちゃんの、親御さん、ですね?」

 

彼女が私を怖がり、彼女が仁奈ちゃんを愛そうとしているのなら。

私のこの姿は、客観的に見て都合が良かった。

彼女は私を恐ろしいものとして認識している。

ならば。

 

「私は、あなたが加えた虐待行為の証拠を持っています。」

 

彼女を脅すのに、とても都合がいい。

 

「……こちらを。」

 

可哀想に思えるほど萎縮しきった彼女に、左上をホチキスで綴じた十数枚の書類を渡す。

杏ちゃんが夜遅くに少しずつ作っていたものだ。

彼女がそれに目を通していくにつれ、ただでさえ少なかった血が更に顔から引いていく。

 

 

 

「仁奈のママはね、ちょっと疲れちゃったみたいなんだ。」

 

私は仁奈に、簡単な手筈を説明する。

どうやって、仁奈の母親が仁奈をどう思っているかを知るのか。

その答えを出す方法を。

 

「だからイライラしちゃうし、だから仁奈に辛く当たっちゃう。」

 

女手1つで娘を育てるのは、きっとただでさえ大変だ。

その上、憎い相手の血が混じっている。

 

「仁奈のママも、それは良くないって思ってる。」

 

そんな我が子ときちんと向き合うだけの環境が、そもそも整っていない。

そんな状況で解決を急いでも、決して良い結果になりはしない。

きらりはそう分析した。

 

 

 

「今日は、あなたを訴えるために来たのではありません。

交渉をしに来たのです。」

 

彼女は精神的に疲弊しきっていた。

まともな判断ができないまでに。

そんな状態で、仮に杏ちゃんのような、小さい子がこんなことを言ったとしても。

相手にすることは無かっただろう。

 

「私とて、親子を引き剥がすことはしたくありません。」

 

日記の内容を聞く限り、彼女は杏ちゃんを「仁奈ちゃんと同じくらい小さい子」と認識していた。

杏ちゃんが17歳であると証明しても、それを受け入れてくれるかどうか。

納得してくれたとして、杏ちゃんを責任能力のある人物だと思ってくれるかどうか。

見た目というのは、特に話し合いの場において、理不尽なほど重要な要素だ。

私も杏ちゃんも、それを良く理解していた。

 

「あなたは非常に困窮しています。

肉体的、精神的、そして経済的に。

仁奈ちゃんと適切なコミュニケーションを取るための、前提条件を満たしていない。」

 

だからこそ、私なら都合が良いのだ。

初対面で彼女に恐怖を与えた私ならば。

彼女と会うだけで、話し合いの優位に立つことができる。

頭ごなしに否定されることも、耳を塞がれることも、癇癪を起こされることもない。

そんな状況で、彼女が加えた虐待について詳細に記された書類を渡せば。

彼女を、脅すことができる。

 

 

 

「だからさ。一回、休ませてあげよう。」

 

考えるだけの余裕が、彼女には必要だった。

仁奈と、どのように接するべきか。どのように接したいのか。

そもそも接するべきなのか。

 

「ゆっくり休んで。ゆっくり考えて。」

 

その最適解は、きっと誰にも分からない。

でも彼女は、答えを出さなければならなかった。

彼女は、仁奈を愛そうとしているのだから。

 

「それから、答えを聞こう。」

 

それがいつになるのかは分からない。

彼女が答えを出すその日は、いつになるのか分からない。

それでも。いつか答えは出る。

 

 

 

「その日まで、私が仁奈ちゃんを育てます。」

 

正確には、私と杏ちゃんの2人で。

実際のところ、育てる、なんて大層なものではない。一緒に暮らすだけだ。私達にできるのは。

私も杏ちゃんも、アイドルとして軌道に乗ってきている。

仮にすぐ失脚したとしても、3人で暮らしていくだけの資金は既に貯まっていた。

経済的な点に関しては、問題はなかった。

 

「ですが、これはあくまで応急処置です。

仁奈ちゃんには愛情が必要で、私にはそれは与えられません。」

 

仁奈ちゃんを抱きしめてあげることはできる。

叱ってあげることはできる。

料理を作ってあげることはできる。

 

「あなたがどちらを選ぼうと、私はこれ以上の干渉はしません。

仁奈ちゃんと暮らさなければあなたを訴える、といったことはしません。

一度落ち着いて、ゆっくりと考えてくだされば、それだけで構いません。

その上で、あなたが決めてください。

仁奈ちゃんと一緒に暮らすか。暮らさないか。」

 

でも、母親にはなれない。

仁奈ちゃんの母親は、今目の前に居る、この人しか居ない。

それの代わりなんて、誰一人としてなれるはずがない。

なっていいはずがない。

 

「答えが出るまで、私が預かります。」

 

 

 

「……それは、分からない。」

 

仁奈の母親が、どんな選択をするのか。

仁奈の望む選択をするのか。

それは、本人にしか分からない。

 

「だから。最後になるかもしれないから。」

 

こんな小さい子に言うべきことじゃない。

こんな小さい子が、1人で決められることじゃない。

そんなこと、私にだって分かっていた。

だから。

私も向き合うと決めた。

仁奈に、幸せになってほしいから。

逃げ続けるままの私が、言うことが許されるものじゃないから。

仁奈と一緒に、向き合うと決めた。

 

「会いに行こう。

会って、1回くらい、我が儘を言おう。」

 

1人で失敗するのは怖いけど。

一緒に失敗するなら、少しだけ安心する。

そんな、後ろ向きな前の向き方。

そして仁奈は、向き合うことを決めた。

 

 

 

「1つだけ、条件があります。」

 

彼女がどんな選択をするか。それを強制することはできない。

それを強制したとして、それは仁奈ちゃんの望むものではない。

 

「仁奈ちゃんに、会ってあげてください。」

 

だから。これが最後である可能性も、十分にあった。

もう二度と触れられない。

もう二度と会えない。

そんな可能性が、確かに存在していた。

 

「会って、我が儘を聞いてあげてください。」

 

だからこそ、仁奈ちゃんの面倒を見る交換条件として提示した。

怒られて。傷付けられて。そんなのが最後だなんて。

そんなのは、嫌だから。

 

 

 

 

 

「……ママ。」

 

下を向き、小さい声で。

それでも、キグルミを着ていない。

ウサギを脱いだ市原仁奈は、ぽつりと呟いた。



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20.きっと二度目のさよならを

「……仁奈。」

 

杏おねーさんの言う通り、公園にはママが居ました。

仁奈を見て、悲しそうな顔をしていました。

また仁奈は、ママを悲しませてしまったのでしょうか。

 

「ご飯は、ちゃんと食べてる?」

 

悲しそうな顔のまま、ママが仁奈に聞きます。

今日は、イライラしてないみたいです。

ちょっと、ほっとしました。

 

「はいです。」

 

杏おねーさんの料理もきらりおねーさんの料理も、とってもおいしいです。

 

「ちゃんと、寝られてる?」

 

「ぐっすりですよ。」

 

泣いてもいいって、言ってくれました。

あの日から、夜に起きることは無くなりました。

泣きたくなったら、2人のところで泣けばいいのですから。

 

「ちゃんと、楽しい?」

 

「すっげー楽しいですよ。」

 

きらりおねーさんにぐるぐる回してもらうのも。

杏おねーさんと一緒にいたずらするのも。

とても。とっても。楽しいのです。

泣いちゃうくらいに、楽しいのです。

 

「……寂しく、なかった?」

 

大丈夫でごぜーます、寂しくなんかねーですよ。

杏おねーさんも、きらりおねーさんも、仁奈に優しくしてくれやがります。

だから、大丈夫ですよ。

 

そんな言葉が漏れるのを、必死に堪えます。

杏おねーさんは言っていました。

今日くらい、我が儘を言おうって。

 

「……寂しかったですよ。」

 

だから。本当のことを言いました。

 

「……ずっと。寂しかったです。」

 

杏おねーさんときらりおねーさんが、優しくしてくれたのは本当です。

それが嬉しかったのも本当です。

でも。

それでも、寂しかったのです。

 

「……ごめん。」

 

ママは、いっそう悲しそうな顔をしました。

仁奈が寂しいと言うと、ママは悲しんでしまうようです。

それが、我が儘を言うということなのでしょうか。

 

「仁奈、わからねーです。

どうして寂しいのか、わからねーんです。」

 

ママを悲しませるのは、嫌です。

ママのこんな顔を見るのは、嫌です。

 

「誰も居ないのが嫌でした。

ひとりぼっちが嫌でした。

誰かが居れば、寂しくねーって、思ったんでごぜーます。」

 

でも。でも。

それでも、最後かもしれないのです。

 

「でも。それでも寂しいんでごぜーます。

独りじゃねーのに。おねーさんたちが、居てくれるのに。

楽しいのに。嬉しいのに。

それでも、寂しいんでごぜーます。」

 

それが、一番嫌でした。

 

「なんで仁奈、寂しいんでやがりますか?

どうやったら、寂しくなくなるでごぜーますか?」

 

仁奈は我が儘を言い続けます。

本当のことを言い続けます。

思っていることを、そのまま言い続けます。

寂しいと、言い続けます。

 

ママは何も言わないまま、仁奈の方へ歩いてきました。

ゆっくり。ゆっくり。

仁奈が好き勝手に言ったから、怒っているのかもしれません。

怒っているから、殴られちゃうかもしれません。

殴られちゃっても、仕方ないです。

痛くても、それでもいいです。

仁奈は、久しぶりに。本当に久しぶりに。

ママに、素直な気持ちを言えたのですから。

 

「……。」

 

ママが仁奈の目の前までやってきました。

仁奈はかたく目をつむります。

両手をぎゅっと握りしめます。

歯を強く噛み締めます。

きっと来る、痛いもののために。

 

仁奈のほっぺたに、何かが触れました。

仁奈の身体は、勝手にびくりと震えます。

でも、それだけでした。

その次にあると思っていたものは、来ることはありませんでした。

 

ほっぺたに触れた何かは、仁奈の後ろに回りました。

それは後ろから、仁奈を押してきました。

このままでは、ママにぶつかってしまいます。

だから、ぐっと踏ん張ります。

そうしていると、顔にも何かが触れました。

あったかくて、サラサラしていて。

それが何なのか、すぐには分かりませんでした。

 

「……仁奈。」

 

ママの声が聞こえます。

仁奈の、真上からでした。

どうして真上なんでしょう?

後ろにある何かが、更に仁奈を押します。

仁奈の身体は、サラサラしているものに押しつけられました。

 

そっと、目を開きます。

ママが着ていた服の色でした。

サラサラしているものは、ママのお洋服でした。

あったかいものは、ママでした。

 

「……ごめん。」

 

ママは、泣いていました。

泣きながら、仁奈を抱きしめていました。

やっぱり仁奈は、ママを悲しませてしまったのです。

 

「ママ、その、ごめんなさいです、仁奈が、」

 

慌てて謝ろうとします。

仁奈を、抱きしめてくれました。

ウサギじゃないのに、抱きしめてくれました。

モフモフじゃないのに。抱きしめたって、気持ちよくないはずなのに。

それでも、抱きしめてくれました。

 

抱きしめられるのは、嬉しいです。

嬉しいです、けど。それ以上に。

ママに泣いてほしくありませんでした。

仁奈が抱きしめてほしかったのは、笑っているママなのです。

 

「ううん、違うの、これは。ママが、悪いの。」

 

ママの手の力が、もっと強くなります。

仁奈は声が出せなくなってしまいました。

出そうとしても、くぐもった音だけ。

少し、痛くすらありました。

でも。どうしてでしょう。

この痛みは、嫌ではないのです。

ぜんぜん、嫌なんかじゃないのです。

 

「ごめんね、仁奈、ごめんね、」

 

ママはごめんねを繰り返します。

どうして謝っているのでしょう。

謝っているということは、悪いことをしたということで。

でも、ママは悪いことをしたのでしょうか?

 

「……っ、ぷぁっ!」

 

このまま、ぎゅってしてもらったまま。

それでもいいかな、って、思ってしまっていました。

でも。やっぱり、嫌です。

ママが泣いているのは、嫌なのです。

仁奈は両手を思い切り突き出して、ママから離れました。

あったかいものが無くなって、途端に寂しくなってしまいます。

 

すかさず息を吸い、ママを見ます。

 

「……ママっ!」

 

我が儘。

してほしいことを、我慢せずに言うこと。

そんなの、いっぱいありました。

抱きしめてください。

側に居てください。

遊んでください。

優しくしてください。

いつか、迎えに来てください。

いっぱいありすぎて、何を言えばいいのか分かりませんでした。

今やっと、決めました。

仁奈が、ママにしてほしいこと。

 

 

 

「笑ってくだせー!!」

 

 

 

ママは、びっくりしていました。

ママの泣く声が止まっていました。

すごいです。これが我が儘というものなのでしょうか。

 

「……仁奈っ!」

 

と、思ったのも束の間。

ママは再び、仁奈を抱きしめます。

さっきよりも、ずっと強い力で。

 

「ごめん、ごめんね……!」

 

どうしてでしょう。

仁奈が笑って欲しいと言ったら、ママはもっと泣いてしまいました。

もっと謝られてしまいました。

我が儘というのは、どうやらとても難しいもののようです。

 

「……大丈夫でごぜーます。」

 

ママの声を聞いていると。

杏おねーさんが抱きしめてくれたのを思い出しました。

泣き止むまであやしてくれたのを、思い出しました。

仁奈も、ママと同じように泣いていたのでしょうか。

杏おねーさんと同じようにすれば、泣き止んでくれるでしょうか。

 

「泣いても、いーです。……ですから。」

 

ママの背中に手を回します。

とん、とん、と。優しく叩きます。

ふんわり笑って、ママの目を見ます。

ちゃんと、できているでしょうか。

 

「……いつか、きっとっ。」

 

あれ。

何ででしょう、そうやっていると。

仁奈も、泣きたくなってしまいました。

悲しくなんてないのに。

この痛みは、嫌なものじゃないのに。

仁奈が泣いてちゃ、駄目なのに。

なんで。なんで。こんな。

 

「笑って、くだせー。」

 

仁奈もママも、涙が止まりません。

このまま、涙が枯れてしまったら。

笑えるようになるでしょうか。

笑ってくれるでしょうか。

 

「仁奈、ママの笑ってる顔、見てーです。」

 

 

 

 

 

いつか笑ってくれるなら。

その時は、仁奈も一緒だったらいいな。



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21.いつか愛してくれますか

「我が儘、ちゃんと言えた?」

 

お家に帰ると、きらりおねーさんが居ました。

いつものきらりおねーさんでした。

キグルミを着た、きらりおねーさんでした。

 

「あの、ごめ……っ、」

 

仁奈は謝らなきゃいけません。

だから、口を開きました。

でも、きらりおねーさんは仁奈の口に人差し指を当てて。

ゆっくりと、首を横に振りました。

 

「仁奈ちゃんは、悪くないにぃ。」

 

そう言ってくれるのは、きっと、きらりおねーさんが優しいからです。

仁奈は確かに、悪いことをしてしまいました。

でも。きらりおねーさんの顔を見ていると。

謝るのは、かえっていけないことのように思えました。

何故なら。きらりおねーさんも、謝りたそうにしていたのです。

 

だから。お互いに、謝りたくて。

お互いに、謝られたくないから。

お互いに、謝らないでいよう、って。

お互いに、そっと頷きました。

 

「ちゃんと、言えたですよ。」

 

靴を脱ぎ、きらりおねーさんの後を追います。

ふわり。いい匂いが、台所から。

今日のご飯は、オムライスのようです。

 

「そっか。」

 

きらりおねーさんは、それ以上何も言いません。

何も、聞いてきません。

それもきっと、きらりおねーさんが優しいからです。

 

「……笑って。」

 

でも。

仁奈は、聞いてほしかったのです。

 

「んゆ?」

 

何をお願いしたの、って、聞いてほしかったのです。

 

「笑ってくだせー、って。お願いしたです。」

 

仁奈は、いけない子です。

我が儘を言ったのに。

 

「仁奈、ママに笑ってほしくて。」

 

ママにしてほしいことを、ちゃんと言ったのに。

 

「でも、抱きしめてほしかった。」

 

それでもまだ、満足できないのです。

 

「側に居てほしかった。」

 

あれにすればよかったかな。

 

「遊んでほしかった。」

 

それにすればよかったかな。

 

「優しくしてほしかった。」

 

これで本当に、よかったのかな。

 

「いつか、迎えに来てほしかった。」

 

そんなことばかりを、考えてしまうのです。

 

「……してほしいこと、いっぱいあったです。」

 

考えてしまって、仕方がないのです。

 

「いっぱい、あったのに。もう、言えねーです。」

 

きらりおねーさんは、そっとしゃがみ込んで。

仁奈を、抱きしめてくれました。

 

「……ごめんね。」

 

仁奈がこう言えば、そうしてくれるって分かっていました。

だから。仁奈は悪い子です。

 

「きらりは、こうすることしかできないけど。」

 

きらりおねーさんも、あったかいです。

あったかいのに、どうしてでしょう。

ママとは、ぜんぜん違うのです。

寂しくて、仕方がないのです。

 

「でも。いつでも、こうしてあげるから。」

 

寂しくて寂しくて、寂しくて。

仁奈はまた、泣き出してしまいました。

服をぎゅっと掴んで。

顔を思い切り押し当てて。

 

「だから。泣くのは。」

 

嫌だ。

ママに会えないなんて嫌だ。

離れ離れになってしまうなんて嫌だ。

もう抱きしめてもらえないなんて嫌だ。

愛してもらえないなんて嫌だ。

ずっと寂しいままなんて、嫌だ。

 

「泣くのだけは、我慢しないで。」

 

涙が止まってくれません。

仁奈はわんわんと声を吐き続けます。

ママが抱きしめてくれたとき、なんで泣いてしまったのか。

やっと、分かったような気がしました。

 

「……ゃ、だよ、」

 

怖かったのです。

あの感触が消えてしまうのが。

もう二度と手に入らないのが。

 

「やだ、よ……! いやだ……!」

 

ママに、笑ってほしかった。

でも。それと同じくらいに。

ママと、一緒にいたかった。

 

「こわいよ、やだよ……っ!!」

 

でも。もう我が儘は言いました。

仁奈はもう、待つことしかできません。

ママが仁奈を選んでくれるのを。

それを待つことしか、できないのです。

 

「……っ。」

 

きらりおねーさんは、何も言いません。

ただ、仁奈を。

強く。強く。抱きしめます。

寂しいけれど。少しだけ、安心します。

 

「ぁあ、ぁ……っ!! 」

 

なんだか、ふわふわしているのです。

どこかへ飛んでいってしまいそうなのです。

でも。抱きしめてくれるから。

飛ばされないって思えるのです。

ここには、居てもいいんだ、って。

なんだか、そう思えるのです。

 

 

 

仁奈がやっと泣き止んだ頃。

作ってくれたオムライスは、冷めてしまいました。

なので、電子レンジで温めました。

くるくる回りながら温かくなっていくオムライス。

それを見ていると、何故だか羨ましくて。

だから。思いきり大きく口を開けて食べました。

 

 

 

 

 

「……よし。」

 

赤いポストの前に立ち、私は手紙を見つめていた。

送り先に間違いは、無い。

切手の額も、十分。

私の住所も、大丈夫。

 

仁奈は、ちゃんと向き合った。

とても。とっても、怖かったはずだ。

でも、向き合った。

なら。私だって、できるはずで。

私だって、やらなくちゃ。

 

手紙を書く手が震えて、何度も何度も書き直した。

内容に満足いかなくて、何度も何度も書き直した。

何度も、何度も。

そうして書き上げた、ただ一枚の短い手紙。

封筒に入れて。シールを貼って。

そうして完成した、私の我が儘。

 

それを、ポストへと。

ゆっくり、ゆっくり、押し込む。

そうして、数十秒かけて。

半分以上を入れたところで、残りを重力に吸い込まれた。

 

「……。」

 

これで、私も仁奈と同じ。

後は答えを待ち続けるだけだ。

それしか、私達にできることは無い。

 

仁奈を、羨ましく思う。

それは私が、日記のことを知っているから。

仁奈の母親が、仁奈を愛そうとしていることを。

迎えに来てくれる可能性が、私よりは高いことを。

それを、知っているから。

 

仁奈はいつか、愛されるのだろうか。

それはまだ。まだ、分からない。

でも。私はきっと、愛されることは無いだろう。

私はずっと待ち続けるのだろう。

それでも待ち続けるのだろう。

いつまでも。いつまでも。

なんだか、その方が腑に落ちるのだ。

納得できるのだ。

受け入れられてしまうのだ。

 

空を見上げる。

太陽が眩しくて。

青はどこまでも綺麗で。

雲は1つとして無くて。

風が心地よく吹いていた。

 

家に帰ろう。

帰って、思いっきり泣こう。

きっと仁奈も、そうしているだろうから。

 

 

 

 

 

『お母さんへ。

 

 

 

元気ですか。私は元気です。

 

友達も居ます。やりたいこともできました。

 

でも。少し、寂しいです。

 

うさぎのぬいぐるみが、ほつれてしまいました。

 

だから、いつか。気が向いたらでいいです。

 

いつか、直しに来てください。

 

ずっと、待っています。

 

 

 

               双葉杏より。』



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22.幸せな家族

事務所に着くと、知らないおねーさんが居ました。

ここに居るということは、きっとアイドルなんだと思います。

仁奈達が来たのを確認すると、大人の人……プロデューサーが、仁奈達に向かって言いました。

 

「夏休みは昨日で終わり。双葉と諸星は早速今日から仕事だ。

白菊は2人が帰るまで、市原の面倒を見てやってくれ。」

 

校長先生の挨拶みたいなことはないみたいで、ほっとしました。長いお話は嫌いです。

それだけ言うと、プロデューサーは別室へと向かいます。

きらりおねーさんがそれに続き、杏おねーさんはソファに寝転がって欠伸を

 

「ダーメ☆」

「嫌だあああぁぁぁ…………」

 

笑顔のきらりおねーさんに担がれて、杏おねーさんの声は聞こえなくなりました。

 

「えーと、仁奈ちゃん、でしたよね?」

 

仁奈が呆然と見送っていると、黒髪のおねーさんが話しかけてきました。

あの光景は、どうやら慣れっこのようです。

 

「は、はいです。」

 

知らない人と話すのは緊張します。

仁奈の返事は、少し上ずってしまいました。

 

「白菊ほたる、です。

私が一番仁奈ちゃんと歳が近いので、分からないことがあったら気軽に聞いてくださいね。」

 

黒髪のおねーさん……ほたるおねーさんがそう言って、にっこりと笑うのを見て。

綺麗だなぁ、って。なんだか、キラキラしていました。

きらりおねーさんや、杏おねーさんみたいでした。

 

「……ほたるおねーさんも、アイドルでやがりますか?」

 

分からないこと。1つだけ、ありました。

 

「はい、そうですよ。」

 

ママは仁奈に、アイドルになれって言いました。

だから仁奈は、アイドルになります。

 

「……アイドルって、何でごぜーますか?」

 

でも。アイドルって、何をするのでしょう?

テレビに入ることしか、仁奈はアイドルのお仕事を知らないのです。

 

「……。」

 

ほたるおねーさんは口元に手を当てて、考え込んでしまいました。

ですが、どうしてでしょう。

困らせてしまったようには、見えませんでした。

難しい問題の答えを探しているのではなく。

その答えはもう、とっくに知っているような。

その答えが正しいということを、確かめているような。

そんな表情をしていて。

だから、仁奈はゆっくりと待ちました。

いつまでも、待っていられました。

 

「……仁奈ちゃん。アイドルはね。」

 

ほたるおねーさんの目が開きます。

その目は、やっぱり、とっても綺麗で。

まっすぐに仁奈を見ていました。

 

「皆を、幸せにするもの。」

 

何も疑う必要はありません。

ほたるおねーさんの言葉は本当です。

だって、こんなにも。

幸せそうに笑うのですから。

 

 

 

「皆を、笑顔にするお仕事です。」

 

 

 

幸せそうに、笑えるのですから。

 

 

 

「……笑顔に、できるでごぜーますか?」

 

「はい。」

 

ほたるおねーさんは、少しも迷わずに頷きます。

 

「仁奈にも、できるでごぜーますか?」

 

仁奈の我が儘。

ママに、笑ってほしい。

 

「はい。」

 

それが、叶うのなら。

仁奈がママを、笑顔にできるのなら。

 

「……なら、仁奈も。」

 

ママに言われたから。

それも本当です。

でも、それだけじゃなくなりました。

だって仁奈は、ママに笑ってほしいから。

だから、仁奈も。

 

「仁奈も、アイドルになりてーです!」

 

ほたるおねーさんは、また、にっこりと笑いました。

 

 

 

「式場の宣伝に使う写真の撮影だ。」

 

プロデューサーは休み明け一番の仕事の内容を、一言でそう説明した。

それだけなら、わざわざ別室に移動してから言う必要もない。

私達が表情を曇らせる何かがあるのだろう。

それを仁奈に見せたくなかったのだろう、と、そう推測する。

そして、私達が嫌がることとして思いつくものと言えば。

 

「……私がドレスで、きらりがタキシード?」

 

私達は、半ばセットで世間に認識されている。

デビューからずっと2人で仕事をしてきたのだから当然だ。

今回の仕事が片方でなく両方に来たのも、きっとそのためで。

私達が最も映える画は、きっとこれだ。

私はドレスが憎たらしいほど似合うだろうし。

きらりのタキシードは、きっと格好良くて、きっと綺麗だ。

 

「……嫌なら遠慮なく言え。」

 

プロデューサーは少しだけ申し訳なさそうに言う。

嫌と言えば、彼はきっと本当にこの仕事をキャンセルする。

断ろうと思えば簡単に断れる体制を作った上で、私達に聞いているのだ。

 

これがそれぞれ個別に来た仕事だったなら、彼はこんなことをしなかっただろう。

私は可愛い格好をすること自体は別に嫌じゃないし、きらりも同じ理由でタキシードを着ただろう。

だが今回は、見ることになる。

どうしようもなく似合っている互いの格好を、見せつけられることになる。

自分では到底こうはなれない、と、再び思い知ることになる。

 

きらりを見上げる。

彼女もまた、私を見ていた。

その表情を見て。

きっと私も、同じような目をしているんだろうな、と。

そう、笑い合った。

 

「ねえ、プロデューサー。お願いがあるんだけど。」

 

 

 

____________________

 

 

 

「……似合わないなぁ。」

 

うつ伏せに寝転がり、雑誌を広げる。

綺麗な白の中に佇むタキシード姿の自分を見て、私は率直な意見を呟いた。

 

「似合ってるよ?」

 

横からきらりの声。

私の横に座り洗濯物を畳んでいたきらりが、雑誌の私を見つめていた。

 

きらりの表情を見るまでもない。

彼女は本心を言っている。

文字通り身の丈に合わない服を着た、ちんちくりんな私を。

似合っていると、本気で思っている。

 

それが分かってしまうから、なんだか気恥ずかしくて。

ページをめくると、今度はきらりが写っていた。

ウエディングドレスに身を包み、こちらに笑顔を向けている。

可愛いな、と。ただ、そう思った。

 

「……似合わないにぃ。」

 

きらりに気付かれないように、そっと横顔を盗み見る。

ドレスを着られて嬉しくて。

でも全く似合ってなくて。

これが私の隣で寝転んでいる少女だったなら。

そんな、表情。

 

「似合ってるよ。」

 

視線を雑誌に戻してから、本心を口にする。

きっときらりも、分かってしまう。

私の言葉が、慰めなどではないことを。

 

きらりの手がこちらに伸びる。

それは私の目の前を通過し、雑誌のページをめくった。

 

「すげー! きれーでごぜーます!」

 

すると、後ろから仁奈の声。

きらりと同時に振り向くと、パーカーを着た少女が、目をキラキラと輝かせていた。

 

「……そう、かな。」

 

再び雑誌に視線を戻す。

そこには2人が写っていた。

ドレス姿のきらりが、タキシード姿の私をお姫様抱っこして。

抱えられた私は、カメラに向けてピースしている。

そして2人共、楽しそうに。嬉しそうに。

満面の笑みを浮かべていた。

 

やっぱり、私には似合わない。

きらりが着たほうが、ずっと様になっただろう。

でも。きっときらりも、同じことを考えていて。

きらりの姿が似合っていないなんて、私はちっとも思わなくて。

きっとそれすら、きらりも同じだから。

 

「……うん、そうだね。」

 

きっとこれが、私達らしくて。

きっとこれで、いいんだと思う。

 

互いを互いに憧れながら。

届かないと知りながら。

それでも近づこうとする。

 

ずっとそうしていくのだろう。

納得なんて、一生できやしないんだろう。

それでも自分の憧れは、自分のことを認めてくれる。

それも、ずっと変わらない。

 

きらりは私を肯定する。

私はきらりを肯定する。

どんなときだって。何があったって。

それは決して変わらない。

それだけは絶対に変わらない。

その確信があるから、目指していける。

例え隣に、その憧れが居なくても。

 

「……今日は、どうしようか。」

 

カーテンが風に揺れ、隙間から日が差し込む。

吹く風の冷たさが、夏の終わりを告げていた。

 

「大富豪! 大富豪がいーです!」

 

「すぐ畳んじゃうから、ちょっと待っててねぇ☆」

 

「うーい。」

 

「うーいじゃねーです、仁奈達も手伝うですよ!」

 

「仁奈はいい子だねー。」

 

起き上がり、洗濯物の山の隣であぐらをかく。

仁奈を見ると、既に、少し不揃いながらも衣類が畳まれ始めていた。

 

飴をポケットから取り出し、口に含む。

舌の上に広がるのは、よく知る甘さで。

苦くなるのは、まだ当分先のようだった。

 

 

 

 

 

でも、この甘さを。今は、心地よく思う。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「市原仁奈の寵愛法」、これにて完結とさせていただきます。

仁奈ちゃんの母親の行動に、なんだか一貫性が無いように思えたので、私が納得できる理由を考えて書いてみました。

「双葉杏の前日譚」から何だかんだ続いた杏ときらりのお話は、これでようやくおしまいです。
……すいません、正直に言います。続きを考えてません。
もし何か思いついたら、もう少しだけ続くかもしれません。

お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ご縁がありましたら、またどこかで。


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