星の距離─Ex,memorys─ (歌うたい)
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アイマス短編
アンケート小説 前編 『アイオライト』


『星の距離さえ動かせたなら』で執筆した20万UA突破記念アンケートでの短編小説です。
内容は一方通行とアイドルマスターシンデレラガールズのキャラクター渋谷凛とのお話です。



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天井が抜けた様な冬の青空がやけに燻んで見えるのは、どうしてだろう。

支した傘の間から覗く、どんな清掃業者よりも辛抱強く丁寧にアスファルトを洗う夏の雨が奏でるリズムが、憂鬱だったのは何故だろう。

店の出入り口に展示された秋桜の彩りはとても鮮やかなのに、視角出来ない土の底に這う根っこは嘘を付けないまま、取って付けた喜楽を吸い取っているようにすら思えて。

雨上がりの晴れた青空には、心を晴らしてくれる虹は架からない。

アスファルトの水溜まりには、泥の付いた桜の花弁と、歴史の浅い癖に達観を気取った自分の、退屈そうな顔。

 

 

分かってる、季節や景色は常に変わるものだけれど、褪せて見えるのは小生意気な心のフィルターが原因で。

刺激の少ない、変わらない日々、変わり映えのしない景色に口を尖らして、拗ねているだけの悪循環。

そこそこに人付き合いが出来て、家族との関係も良好で、学校の成績も問題なくて、それで、それが何になるんだろう。

いや、何かにはなるんだろう、十年後、二十年後に自ずと振り返る事を約束された頭の中のアルバムにキッチリと記されているんだろう。

きっと贅沢にも程がある、悩みとすら形容するのも馬鹿らしいそれは、けれど自分――渋谷凛にとっては確かに色を奪って、光を負かす、一滴の毒に等しい。

 

撮った写真を眺めて、私は古くなったのかな、と思うだけの青春は、桜の花弁など散らない。

懐かしんで目を細めるだけの、想い出が欲しい。

 

渋谷凛と云う名の芯を揺さぶられる程の衝動と情動を求めての、硝子の靴を探したいと思うのは贅沢なのだろうか。

シンデレラを演じれる自信はないけれど、カボチャの馬車に乗ってみたいとも思わないけれど。

 

魔法を掛けて欲しいと願うのは――。

 

 

「――1人の女の子として、当然だよね」

 

 

「脈絡無く主張すンなよ、ホント時々、訳わかンねェ事を言い出すよなオマエ」

 

 

ピック代わりの長い爪先をひょいと無遠慮に向けて指摘するものだから、折角の陶酔心地もギターの音が止めば、ビロードの幕がすっぽりと覆い被さった、色の鮮やかな葵夜の空気が戻ってくる。

 

センチメンタルに惑わされて、口を付いて出た無意識な気障ったらしい独白を、何の脈絡なくぽっかりと丸々綴ってしまって、呆れながら此方を見下ろす紅い瞳に映る自分は笑みこそ形作っているものの、内心では大惨事だ。

羞恥で高揚した頬とほんのり伝う冷や汗の一筋二筋は隠しようもないが、下手に視線を泳がせては墓穴を掘るだけだから。

なるべく内心の凄惨っぷりを気取られように、話を強引にでもシフトしなくては。

 

 

 

「あ、Cメロ……私の好きなフレーズだったのに。続き、早く聞かせてよ」

 

 

「オマエが手を止めさせンのが悪ィンだろォが。邪魔すンなら帰れよ、この犬ッコロも連れて」

 

 

「え、嫌。まだ此処に来て10分も経ってないし。いつものレパートリーも殆ど聴いてないし。それに、ハナコも大人しくしてるじゃん」

 

 

「……まァ、どっかの軍犬に比べりゃァ牙も向かねェし、どこぞのアホ犬と違って利口なのは認めるがなァ……さっきからずっと脚に身体擦り付けンのは止めさせろよ、マジで。擽ったくて仕方がねェよ」

 

 

「無愛想な人にはよく懐くんだよ、きっと」

 

 

「ハッ、そりゃ確かに実証済みだ。他でもねェ、飼い主がこれじゃァな」

 

 

「……勿論、私も含めて。言われなくても、自覚してるよ」

 

 

建築物のシャンデリアが煌めいている深い碧の河の水面を、例えば、そう言う関係の人と一緒に眺めるには、十分なムードが出来上がりそうな、ペンキの剥げた白いベンチの上。

スラリと組まれた細長い脚の太股に乗せた、側面がレッド配色のアコースティックギターの亜麻色のボディをコミカルなリズムでコンコンノックする度に、愛犬のハナコがペタペタと彼の膝に前足を引っ掻けて、音の反響するサウンドホールを粒らな瞳で見詰めている。

ヨーキーとミニチュアダックスのミックス犬らしい、ちんまりとしながらも小さな尻尾を振る姿は贔屓目無しにも愛らしいじゃないか、と。

 

揶揄かいを紡いだ、澄んだ春の夜の薄い半月に似た唇は白んでいて、そんな小さな箇所から既に生まれてくる性別を間違えていると思える程に女性的で、声色だけは蟲惑的なテノールなのだから面白くない。

絢爛な画廊に並ぶ、眩い銀月と深い雲を背に稲穂が靡く風景画を眺めて恍惚に浸るのと、風に流れる銀のホウキ星を流す白美に浮かされそうになるのはそう変わらなくて。

きっとクラスの友達にこの美丈夫の写真一つでも見せてやれば、黄色い悲鳴のシンフォニアと紹介してと殺到するコンチェルトに晒されるのは目に見えているし、コンダクターとして指揮棒を取ろうとすら思わない、そんな徒労はご遠慮願いたい。

 

無愛想なのはお互い様、そう言えるだけの関係になるのには、なかなか骨が折れたと思うし、手を焼いたのだ、とても。

そこまでして分かったのは、彼の名前がとても変わっている事と、彼の周りは何だか変わり者ばかりみたいだと云う事と、特異な外見通りに、一筋縄にはいかない人間だと云う事。

それだけ、なのか。

そんなにも、なのか。

どちらにして置きたいのかなんて、問う必要があるとは今更思わない。

 

 

 

「……続き、弾かないの、一方通行?」

 

 

「急かすンじゃねェよ……中途半端に切ったからな。最初っから弾く」

 

 

「うん。そういえば、最初に弾いてたのもこの曲だよね。確か……『ミルクティー』だっけ、曲名」

 

 

「ン……覚えてたのか」

 

 

「まぁね。テレビで一回くらい聴いた事あった程度だから、最初は『UA』の曲って分からなかったけど。でも、一方通行ってヴィジュアル系っぽい見掛けしてるから、最初はイメージと違うなとも思ったんだよね」

 

 

「……言われなくても、自覚してンよ」

 

 

「そっか、自覚してるんだ。私と一緒だね」

 

 

イメージには合わないなと思ったのは確かだけれど、今ではどこか物悲しい流暢なバラードは、彼の雰囲気にとても馴染んでしまっている、いっそ悔しい程に。

一緒だと同調した所で、嬉しいと喜ぶでもなく、呆れる事も嫌がる事もなく、春の夜風を舞台に踊る風鈴みたく涼し気に流されるのは、もはや悔しいなんてもんじゃない。

 

けれど、クシャリと心のページを掌で優しく握り込まれるような静麗な横顔が、その揺蕩う紅い眼差しがフィンガーボードに添える指先を見下ろして。

小さな紅い双子月が眺める指先のコンサートの開演を、遮ってまで不満を訴える程、子供じゃない。

 

いいや、違う。

子供じゃない事はない、年齢的にも、未熟な精神も外見も、社会的な責任面も子供というカテゴリーにいとも容易く当て嵌まってしまうだろうけれど。

それでも、子供だと見られたくないのだ、特に彼の前では。

 

 

思い浮かべるのは、3ヶ月も前の、冬の足音が聞こえてくる季節のこと。

勝手に詰まらないなと思い込んで、静かに塞ぎ込んで、退屈だと決め付けた世界に、嗤わせんなと言わんばかりに見下ろした圧倒的な極彩。

 

目を閉じれば、意図も容易く再生できる、あの日の夜のこと。

 

 

流れてくるのは、あの曲と、剥き出しにされた心と、幽かな花の香り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――『アイオライト』―――

 

 

 

 

 

 

 

 

流れ星に三回願いを唱えれば、だなんてジンクスを言い始めたのは誰なんだろう。

きっと誰もが一度は耳にした事のある迷信を思い出すのは、月の光が細くて、適当な星を探すには苦労しないのっぺりとした夜空に紛れて、サッと一陣の流星が通り過ぎたから。

 

願いを叶えるには、流れ星が消えてしまう前に、三回願いを唱えなくちゃいけないだなんて。

そんな単純な事で叶えれる願いはどうなんだろうという、我ながら女の子としては全く可愛くない呆れ。

いつ訪れるかも分からない上に、瞬き一つで去ってしまう流れ星に三回も願いを唱えるなんて、単純な癖に、いざ実践となるととんでもなく難しい意地の悪さに白んでいく心も、これまた可愛くない。

けれど、願い事が長ければ長い程に叶えるのが難しいだなんて、妙に理に適っている所は、少し面白いな、と。

 

 

川のせせらぎが冬の夜には少し厳しい河川敷の、ランニングコース用にも舗装されている道幅の両端に埋め込まれたLEDのランプの碧光は、少しこの見上げれば視界一杯に広がる夜空に似ている。

学校の宿題が手に着かなくて、気分転換に散歩に連れて行ってる愛犬のハナコはそのランプの光が物珍しいのか、仕切りに匂いを嗅いだり前足で叩いていたりと、見覚えの無い風景に落ち着かないみたいだ。

 

いつもとは違う散歩コースを選んだのは、気分転換の延長。

少しでも違う風景と、少しでも違う刺激に飢えた心を誤魔化してしまいたい、そんな逆上せたセンチメンタル。

もう間も無く高校生にもなるというのに、いつまでも抱いたままのふやけた和菓子みたいな願望に夜空さえ気を利かせて流れ星を走らせてくれたのに、呆気なく見送ったまま零れ落ちた溜め息が虚しく響いた。

 

 

「……? どうしたの、ハナコ?」

 

 

不意に、ハナコの赤い首輪に繋がれたリードがピシャッと張った感覚に連られてそちらを見れば、普段はペタンと畳まれている小振りな尻尾はアンテナみたいにピンと紺碧の夜空を指していて、落ち着きなく息継いでいた如何にも犬らしい呼吸は夜の静けさに包まれたかの様にピタリと止んだ。

周り込んで見なくても分かる程に真っ直ぐと向けられたハナコの視線は随分先の方へと固定されて、人懐っこいけれどやんちゃな性格である愛犬の素振りにしてはとても珍しい。

 

猫は明暗に合わせて瞳孔を調節出来るから夜目が利くというのは聞いたことがあるけれど、犬もそうだっただろうか、と。

何か面白いモノでも見つけたのかな、と思って私自身もハナコに倣ってこの子の見詰める先へと目を凝らして見るけれど、夜闇の宵は濃くて、そこそこ視力が良いくらいの自分にはやっぱり何が在るのか何て分からなくて。

 

そして、気付く。

ハナコが凝らしていたのは視覚ではなくて、聴覚なのだと。

その音源からの距離がある所為か、川のせせらぎに混ざって聴こえる調べはとても幽かなモノだけれど、細い糸の様な微弱な旋律は確かに私の耳に届いている。

 

 

「……ギター、の音?」

 

 

「ワフッ!」

 

 

ほんの僅かに聴こえる弾かれた弦の渇いた高音に、若干自信のない臆測が口を付いて出た。

特別楽器をやってる訳でもないし、ピアノの上手な友達の様に音感を鍛えている訳でもないから、流石に確信を持って断言は出来ない。

数を並べれば頭が痛くなりそうな程の種類がある弦楽器の、一番メジャーな所をそのまま連想しただけなのに、まるでその通りだと答える様なハナコの一鳴きに驚いて、ついリードを握る掌を緩めてしまったのが、失敗だった。

 

 

「あっ、ハナコ!」

 

 

やんちゃとはいえ両親の躾の賜物か、リードを握れば無理に暴れたりしない利口さもある筈の愛犬は、投げられたフリスビーを追い掛ける程の俊敏さで、ブルーにライトアップさせれた幅の広い遊歩道を駆けていく。

確かにハナコは好奇心の強い性格だけれど、こんなにも鉄砲玉宜しく反応するものだろうか。

リードを振りほどかれた事なんて、ハナコを飼い始めて、まだ躾の整ってない一番最初の散歩の時以来だと、頭の片隅で古びた追憶をぼんやりと浮かべて、夜葵のビロードに紛れてしまいそうな小さな身体を走りながら追い掛ける。

 

けれど、次第にボリュームのフェーダーを上げて響いていくギターの旋律は高音域に始まって、中、低音域とどんどん厚みを広げていって。

細い糸の音が一つ、二つ、と重なって織り成しては大きな一本の白麗線に紡がれていく不思議感覚に、悠々と流れるメロディのピッチに合わさる様に必死に走らせていた両足がゆっくりと、ついには無意識の内に走る事を止めていた。

そして、ギターの弦を滑るキュッというフレットノイズさえも聴こえて来るほどに音源の直ぐ傍まで歩み寄った時には、両足は縫い付けられたかの様に、その場所から動けなくなって。

唯の河川敷に設けられた、白いベンチにしか過ぎない筈のこの場所が、どこか分からなくなってしまう程の光景に、心の地図にすら載ってない場所へと迷い込んでしまったのかと錯覚してしまう。

 

 

「――――」

 

 

 

 

白貌の歌うたいが、星空を口説いていた。

 

 

 

 

綴るのなら、敢えて文字に書き起こすのなら、そんな一文から始まりそうな叙情を纏った風景画を、熱心に網膜へ焼き付けている鑑賞者にキャストを変えられてしまった様な、錯覚。

在り来たりな形容が綺麗サッパリ掻き消されて、澄んだ雪原そのものみたいな長く鮮やかな白銀のポニーテールの穂先が、アコースティックギターの弦を弾く度に揺れている。

漆黒のペンキに浸けた様なコートの隙間から見える肌は夜霧を散らしてしまう程に白くて、夏風に靡く真っ白な流星にも劣らない。

 

精悍な顔付きや角張った体格は私とは異なる性を描くのに、神秘的にすら思える中性的な睫毛は長くて、月に浮かぶ女性の顔という幻覚をそのまま当て嵌めているかの様に、ただ綺麗で。

 

 

何よりも目を奪われてしまったのは、手元を一切見ないままに無数の星屑を見上げている、硝子細工の宝石みたいな紅い瞳。

星を口説いている、そんなフレーズが恥ずかし気もなく浮かんで来る程に、真っ直ぐに夜空を愛でる細い紅が、その横顔に浮き彫りにされている無垢な感情の環状線が、余りにも切ない。

 

 

代わり映えのない日常の物足りなさを訴える私の幼稚な心に埋め込んだ白い爪痕を掻き散らされた様な、甘い痛みが苦しくて、呼吸一つすら辛いとさえ思えるのに。

 

けれど、目を背ける気なんて起こらない、もどかしさ。

退屈だと拗ねた心のフィルターは剥がされた後に残るのは、一瞬にして塗り替えられてしまった極彩色の光景に、ただただ息を呑んで、呑み切れない情動は淡い吐息となって零れ落ちた。

 

金縛りにも似た錯覚を持て余して、漸くまともな思考回路を取り戻せたのは、奏でる旋律がいつの間にか途絶えた後の事。

 

 

 

「……折角聴き入ってくれてる所で悪ィンだがよ、そろそろコイツを回収してくンねェか」

 

 

「…………ぇ?」

 

 

どこか夢見心地で浸っていた余韻を切り裂く、夜のビロードの静謐さを被せたテノールボイスの鋭さが、ちっとも動かない脚に蔓延る氷河を罅を入れたみたいだった。

ベンチの背凭れに弾いていたギターを置きながら、すらすらとした口調なのに、どこか間延びした表情が浮世離れに囚われてしまっていた思考をサッと溶かしていく。

 

あぁ、もしかしてこれ、話し掛けられているのか。

 

釣り上げられた魚みたくぽっかりと口を開けたままの自分はどんな風に見えてるのか、なんて思考の片隅でやけに冷静に考えて客観視している私に呆れているのだろう。

白麗な髪を、さも困ったようにカリカリと掻いて、その人は足元で嬉々として纏わりついていたそれを、ヒョイと持ち上げて。

 

 

「……オマエのペットじゃねェのか、この犬ッコロ」

 

 

「……あ」

 

 

ペロンと両足を垂れ下げながらも首輪を引っ掻けて器用に持ち上げる片手の持ち主を眺めながら尻尾をぶんぶんと振っている我が家の愛犬、ハナコを此方に差し出したその人の言葉に、やっと状況を理解出来た。

途端にカッと油に灯を注がれたみたいに、自分の顔が熱を帯びていき、冷や汗なのか唯の汗なのかよく分からない何かが背筋をそっと伝い落ちる。

 

凄く、恥ずかしい。

 

とんでもなく間抜けを晒してしまった上に、もしかしたら演奏の邪魔すらしてしまったんじゃないだろうか、と。

もたつく舌が上手く言葉を紡げなくて、呻き声にも劣る奇妙な音の羅列を辛うじて吐き出しながら突っ立っている私は、きっと相当な不審者に見える筈。

 

はい、そうです、と言葉を滑らせるのに苦労するなんて、きっと私の人生で初めての事かも知れない。

 

 

「……ぁ、ゃ、その……」

 

 

「……」

 

 

どうしよう、この状況。

退っ引きならないにも程があるのに、今度は違う意味で足が動かない。

予想通りに怪訝そうな紅い瞳に真っ直ぐに見詰められて、余計に思考回路が滅茶苦茶に掻き混ざっていく体験なんて、これもまた初めてのこと。

三者面談の時や、成績表によく記されている、落ち着きがありますなんて評価をくれた担任が今の私を見たら、何て思うんだろう。

 

けれど、パニックに陥っていってしまった私に気付いたのか、その人はさも面倒臭そうに盛大な溜め息をついて、細い腕にハナコを抱いたままベンチから立ち上がって、トコトコと此方へと歩み寄る。

つい見上げてしまうくらいの高い背丈としなやかな体躯は、男性、女性、の要素を両面をとも纏う不思議さを孕んでいて、茫然と立ちながら視線は彼から動かせない。

気付いた時には、ヒョイと渡されたハナコを無意識の内に腕に収めていた。

 

 

 

「……変なヤツ」

 

 

薄い肉付きの唇がふと微笑みを象って、ハッキリと変だと紡がれて、思わず自分の頬が引き攣る感覚がすっかりとポンコツになってしまっていた思考を急速に速めていく。

取り敢えず、邪魔してしまった事には間違いないだろうし、謝るだけは最低限しておかないといけない。

変なヤツと言われても可笑しくない醜態を晒してしまったのは事実だけれど、だからといってその印象を抱かれたままなのは余りにも辛いし、いち女子高生としても何か致命傷な気がするし。

 

 

「その……邪魔してごめん……」

 

 

「別に邪魔にはなってねェ。一々謝ンなくて良い」

 

 

「……はい。ありがと……う、ございます」

 

 

「クカカッ、何だそりゃオマエ。敬語が苦手なら、無理に使わなくて良いンだが」

 

 

「……苦手じゃなくて、あんまり使い慣れてないだけ」

 

 

普段、学校の先生には一応ながらも敬語は使えているんだけれど、さっきまでのどこか非現実的な光景の余韻が抜け切れて無いのか、ぎこちない言葉遣いになってしまう。

口下手な所はある事くらいは自覚しているし、よく周りにも指摘されて来た事ではあるけど、この人にも直ぐに見抜かれる辺り、余程分かり易いんだろうか。

 

カラカラとした、何処かニヒルな笑みが似合う人だなと思いつつも、揶揄かいのニュアンスを指し向けられるのは、余り気持ちが良い事ではない。

ムッとした反骨心に似た何かに促されてしまったのか、我ながら生意気な性格が影響してか、つい口を尖らして、ジトッと彼を見据えてしまった。

けれど、腕の中に収まったハナコの顎を長くほっそりとした指先でカリカリと撫でている彼は此方の意図などまるで興味が無いみたいで。

 

 

「ちっせェな、コイツ。ヨークシャーテリア、ってヤツか」

 

 

「……正確にはヨーキーとミニチュアダックスのミックスなんだけど」

 

 

「名前は?」

 

 

「ハナコ」

 

 

「偉く地味だな」

 

 

「名前付けたの私じゃないし」

 

 

触りたいのならわざわざ手渡さなくても良かっただろうにと思いながらも、愉し気に丸めた瞳に長い睫毛がシパシパと瞬いて。

改めて間近で見てみれば、女の私よりもきめ細かそうな真っ白な肌に、険の鋭さを感じさせる所はあるけれど、切れ長の目尻にシャープな顔立ちはかなりの美人顔だ。

深い真紅のルビーを嵌め込んだ様な瞳もかなり日本人離れなのに、スラスラと流暢な日本語は、外国人独特のイントネーションの癖がまるでない。

ハーフか、クウォーター辺りだろうか。

 

ハナコの顎を撫でていた指先を、今度は目の前で猫じゃらしみたいに左右に動かしては、ハナコの猫パンチならぬ犬パンチを誘っては避けて、誘っては避けてを繰り返している彼に、もう少し尋ねてみよう、と。

 

 

「犬、好きなの?」

 

 

「まァ、従順なヤツはな」

 

 

「ハナコは言うことは聞いてくれるけど、結構やんちゃな時も多いよ、これでも」

 

 

「やンちゃねェ……ペットの性格は飼い主に似るらしいがな」

 

 

「……生憎、ハナコがやんちゃなのは最初っからだけど」

 

 

刺があるというよりは、単純に揶揄われているだけなんだろうけど、随分と遠慮のない物言いを投げて来るな、と。

でも、私自身も無愛想で角のある言い方でつい人を傷付けたりする事が多いのもあって強く指摘出来ないし、何というか、この人のこういう物言いは何故だか妙に型に嵌まっているような、そんな気がする。

 

自然体というか、不思議と不快とは思わないのは、多分この人も言葉を飾り立てるのが面倒だったり嫌いだったりするタイプだからだろう。

敬語が下手だとあっさり見抜かれたのも、もしかしたら私の言葉遣いのきこちなさだけが原因じゃなくて、彼もまたシンパシーに似た何かを感じ取ったのかも知れない。

多分、この人も目上相手でもあんまり敬語使わなさそうだし。

 

 

「あのさ……名前、なんて言うの?」

 

 

「一方通行。アクセラレータ。どっちでも好きに呼べ」

 

 

「……え、何その名前。アクセラレータっていうのは兎も角、一方通行って……標識?」

 

 

「……細けェ事気にしてンじゃねェ」

 

 

いや、細かいなんてレベルじゃないんだけど。

アクセラレータっていうのはまだ分かる、でも一方通行って言うのは名前といって良いのだろうか。

人の名前にケチを付けるのは失礼極まりないとは思うんだけれど、流石に指摘せずにはいられなかった。

 

でも、誤魔化してる様にはとても見えない静かに遠くを見詰める瞳と横顔に、余り深く聞くのも憚れる。

多分、色々と訳ありなんだろう。

あんまり人の複雑そうな事情に首を突っ込み過ぎるのもどうかと思うし、ひょっとしたらバンドネームみたいなモノなのかも知れない。

 

 

「……一方通行って、ギタリスト?」

 

 

「いや、趣味程度だ。とても生業に出来る程の腕じゃねェしな」

 

 

「……私は、普通に良かったと思うけど」

 

 

「ワフン」

 

 

音楽の道はとても険しく奥深い物だと云うのは最早公然の事実だしそれくらいの臆測は出来る世界なのは分かるけど、あんまり卑下されてはつい聞き惚れてしまった私の立場が無い。

善し悪しまでは分からないけど、普通に自信を持っても良いレベルなのは間違いないと言う私に同意してくれているのか、腕の中に収まったままのハナコが欠伸を噛み殺すようにふんわりと鳴いた。

 

 

「チッ……まァいいか」

 

 

わざわざ舌打ちをする辺り、私よりもよっぽど無愛想で皮肉屋な気質なんだろう、この一方通行という男の人は。

それと、大人びた外見や態度な割に、意外にもなかなかの恥ずかしがり屋らしい。

プイッと顔を背けてギターの置いてあるベンチへと踵を返した一方通行の縦長の骨張った背中を見送りながら、込み上げて来る笑いを何とか噛み殺す。

 

背ける際にちらりと見えた耳元が桜の花弁を添えた様な薄い赤を帯びていて、照れ隠しにそっぽを向くなんて妙に子供っぽいところがあるな、と。

ギターを演奏していた時の神秘的とさえ思えた印象とはまるで違って、人間味のある素振りが面白い。

 

 

「隣、座るね」

 

 

「……」

 

 

機嫌を損ねてしまった様子でもなく、別に一々私の存在を意に介すことでもないと取られているのか、無言の儘、否定も肯定もしない態度が何だかムッときて、敢えて距離を詰めて座ってやる。

拳一つ分のスペースくらいしか空きがない程に隣に座られても、一瞥をくれるルビーが怪訝そうな光を纏うだけで、特別文句を言う訳でもない。

 

本音で云えば、私は彼に興味があるんだろう。

ギターを奏でる技術も、鮮烈で魅力的な外見も、あの瞬間の、星を見詰めている儚くて、繊細な想いの丈を添えた表情も、気になる。

一種の予感、なのかも知れない。

代わり映えのない日常に失望を抱く身勝手な心を変える切っ掛けなんじゃないか、と。

見送った筈の流れ星が、もう一度私に願い事を叶えるチャンスをくれたんじゃないかって、夢見る少女染みた幼稚な夢見事に、どこか期待に高鳴る胸を誤魔化し切れないでいる。

だからこそ、少しくらいは此方にも興味を示して欲しいと思うのは、我儘なんだろうか。

 

私の腕に収まったままのハナコもまた、形ばかりは大人しくしているけれど、隣でギターの弦の張り具合を確かめている一方通行に興味津々に落ち着きない息遣いをしている辺り、彼の言う通り主従揃って心音がそっくりである。

 

 

 

「あのさ、一方通行」

 

 

「なンだよ」

 

 

「まだ名乗ってなかったから、ね…………私は、渋谷 凛。凛でいいよ」

 

 

「…………渋谷?」

 

 

「凛でいいって言ってるじゃん」

 

 

「そォ云う意味じゃねェよ」

 

 

「じゃあ、どういう意味…………ん?」

 

 

名前で呼ばなくてはいけないと強制する権利なんてないけれど、袖にされ過ぎるのもやっぱり辛い。

どういうつもりなのかと設問すべくグッと顔を近付けた瞬間に、ふと、鼻腔を擽る花の薫りに気付いた。

 

河川敷に咲いた草花にしてはやけに湿気の含まないハッキリとした香りは品種までは流石に分からないけれど、ある程度手入れのしてある花と草花とでは、香りに大きな違いが表れるもの。

だからこそ、一方通行の細長い体躯と構えてるギターによって丁度死角になっていたベンチの隙間にひっそりと置いてある、ニュースペーパー柄の特徴的なポリ袋には見覚えが有り過ぎて。

 

 

「その袋って……もしかして」

 

 

「……」

 

 

「ねぇ、一方通行。ちょっとそれ、見せて貰って良い?」

 

 

「……雑に扱うなよ」

 

 

 

何故だか複雑そうに表情を歪めながら、そっと一方通行に渡された袋は、手に取ってみれば、やっぱりウチの花屋が利用しているメーカーのモノ。

成る程、これなら彼が何かを確かめる様に渋谷と敢えて名字で呟いた理由も、そういう意味だったのかと納得出来る。

 

じゃあ、私が気付かなかっただけで何処かですれ違っていたかも知れないという可能性もあるんだろう。

まるで出来すぎた巡り合わせみたいだと、輪郭のない高揚感に昂った頬がサッと熱くなる。

運命だとかそんなロマンチズムな感情を初対面の相手に向けれる程に乙女らしい可愛い性格じゃないとはいえ、流石にちょっと意識してしまったけども。

 

 

「……まさか、一方通行がウチの花屋で買い物してたなんてね。お買い上げありがとうございました、はいこれ、返すよ」

 

 

「へいへい、どォも……オマエもあの店で店番とかしてたりすンのか?」

 

 

「そんなに毎日って訳じゃないけど。店が忙しい時に手伝ったり、母さんが業者さんとの打合せで手が離せない時とかに店番したりするくらいかな」

 

 

「その仏頂面で店番か……母親の方は愛想良かった気がするンだがな、そこまで遺伝子は有能じゃねェか」

 

 

「……カチンと来た。生憎、これでも一応看板娘って評判だったりするんだけど。というか、愛想無いし可愛い気もないのは自覚してる。でも、アンタに言われるのは何か凄く納得行かない」

 

 

「否定はしねェよ。そンな俺でも認めれるぐれェのモンだって話だ」

 

 

「……それ結局皮肉じゃん。ムカつくなぁ、もう」

 

 

 

売り言葉に買い言葉の応酬ばかりなのに、どこか小気味良いな、と思ってしまうのは何でだろう。

いや、どちらかと言うと新鮮なのかも知れない。

皮肉が許せる人徳がある訳ではない、決して、そこは認めない、ムカつくし。

 

けど、明らかに歳上っぽい相手に遠慮の一切がいらないやり取りというのは、私にとっては結構貴重だったりする。

それに、腹立だしいニヒルな笑みに相反して細く揺蕩う月の様な瞳は穏やかで、そのアンバランスさに戸惑いながらも不思議と安堵してしまう気持ちがあって。

貶されているというよりも、揶揄われてるんだな、と思える様な丁度良い距離感。

ついさっき、変なヤツ、そう言われたばかりの評価を、そっくりそのまま一方通行に返してやりたい。

 

 

「一方通行はいつも此処でギター弾いてるの?」

 

 

「いや、二週間前に一回、偶々寄って以来になるか。折角一人静かに出来そうなスポットを見付けたってのになァ」

 

 

「だから邪魔してごめんって言ったじゃん。というか、さっきは邪魔になってないって言ったのに……男に二言はないって言葉、知ってる?」

 

 

「犬に関しては、のつもりだったンだよ。なァ、ハナコ?」

 

 

「ワンッ!」

 

 

「ちょ、ハナコ……やめてよ一方通行、この子はウチの子なんだから。変な悪影響与えないでよ」

 

 

まさかの愛犬の裏切りに危機感を覚えてハナコを庇う様にして身体を背ければ、素知らぬ顔の白面の意地の悪い笑みがカラカラと転がって。

釣られちゃいけないのに、私の意志に反して口元が綻んでしまって。

馴れ馴れしいとか、そんな感情を取っ払ってしまう一方通行の特異性に、久方ぶりの充足を感じている事を自覚する。

可笑しいな、こんなに単純に心を開いても良いと思ってるなんて、私らしくもない。

 

 

「偶々寄ったって云うのは、仕事の都合で、とか?」

 

 

「仕事って程でもねェ。知り合いの頼まれ事のついでだ」

 

 

「ふぅん。じゃあ、家から結構遠かったりするんだ。どの辺り?」

 

 

「そォ遠くはねェよ。川神って言えば分かンだろ」

 

 

「川神……あぁ、それならそんなに離れてないね。電車で二、三駅くらいだし。でも、一方通行が電車に乗ったら浮きそうだよね、雰囲気的に」

 

 

浮くというのもそうだけど、悪目立ちしそうだ。

綺麗な白髪だけでも相当なのに、真っ赤な瞳と中性的で端麗な顔立ちな上、背も高い。

男女問わず好奇の視線に晒されながら、辟易としながらも席に座る一方通行の姿が容易に想像出来て、つい忍び笑いを浮かべてしまう。

私の予測は案外的を得ているんだろう。

目敏く私を一瞥しては面白くなさそうに舌を打って顔を顰めるのが、何よりの証拠だ。

 

 

「……余計なお世話だ、クソッタレ。つゥか、電車で来てる訳じゃねェよ」

 

 

「え?じゃあ自転車とか?」

 

 

「流石にチャリで来るには距離あンだろ阿呆。スクーターだ」

 

 

「あぁ、成る程、そっちか。免許持ってるんだ……じゃあ、そのスクーター見せてよ」

 

 

「パーキングに停めてンだ、態々持って来る必要ねェだろ、面倒臭ェ」

 

 

「ケチだね」

 

 

「煩ェよ」

 

 

間髪入れない合いの手みたいに返ってくる拒否の言葉は、彼からしたら当然なんだろうけど。

ちょっと勿体無いな、と。

事故が恐い側面があっても、風を切ってバイクを駆ける爽快感は正直興味がある。

流石に後ろに乗せてとまでは言わないけど、会ったばかりの相手だし。

 

 

「川神って言えば、何か変わった学校あったよね。川神学園とか、結構そのままの名前の学校」

 

 

「変わった……ねェ。まァ、決闘システムなンて酔狂なモンがあンのは彼処くれェだろォよ」

 

 

「あ、それ聞いた事ある。確か、生徒同士で闘うとか、そんな感じの…………というか、詳しいね。一方通行って、もしかして其処のOB?」

 

 

「残念ながら在校生だ。さっさと卒業してェがな……毎日毎日飽きもせず騒がしい馬鹿ばっかでよォ」

 

 

「…………」

 

 

 

さも鬱陶しそうに愚痴を零している割に、ギターのフレットを手持ち無沙汰に撫でている紅い瞳は、嘘が付けないんだろう。

目は口ほどに物を言うとは、誰の言葉だったか。

早く卒業したいと苦言を吐いているその瞳に浮かぶ感情はとても暖かく、穏やかで。

無遠慮で無愛想な癖に、きっと素直じゃないんだな、この人は。

なんというか、気紛れな真っ白い猫みたい。

大人びた外見と態度な割に、結構単純な子供っぽさがブレンドされていて、思ったより私と歳が離れてないんだろうな、と。

最初の息を呑む程の清麗な印象から、コロコロと変わっていくイメージが、まるで万華鏡を覗いているかの様で飽きさせない。

 

だからだろうか、もう一度聴いてみたいな、と思った。

何処かで聞いた事がある様な、あの優しいメロディーを。

今度は、最初から、最後まで。

 

 

「ねぇ、さっき弾いてた曲、もう一度聴きたいな」

 

 

「あァ? 質問責めばかりしやがると思えば、今度はリクエストかよ」

 

 

「良いじゃん。今度は、邪魔したりしないから」

 

 

「……」

 

 

「……ね、お願い」

 

 

真っ直ぐに見上げれば、怪訝そうに潜めた眉と、呆れた様な溜め息と。

 

 

――変なヤツ。

 

 

小さく紡がれた吐息混じりの呟きが、第一音となって。

やがて、透明で繊細な旋律へと、連なって行く。

 

揺れる蝋燭の灯火みたいな、仄かな熱と共に。

初冬の風がシグナルを知らせるみたいにカサリと撫でた、袋の音が、そっと呪文の様に鼓膜に溶けた。

 

 

 

 

――

―――

――――――

 

 

 

 

 

「……もう、3ヶ月も前になるんだね」

 

 

「……何の話だ」

 

 

「分かってる癖に。私達が最初に会った時の事だよ」

 

 

「あァ……オマエが阿呆みてェに突っ立ってた日か」

 

 

「その思い出し方は流石にムカつくんだけど。口を開けば皮肉ばっかり。あの時と全く変わらないね、一方通行のそういう所」

 

 

「そンだけの間抜け面を晒して自分を恨めや」

 

 

「……意地が悪いね、ホント」

 

 

あの日から、毎週の日曜日に此処で開かれる、小さな小さなコンサート。

チケット代わりのブラックコーヒーを差し出して、こうしてハナコと一緒に、時々は私一人で聴きに来るのが、最早すっかり恒例になって。

 

ギターだけの演奏だったコンサートは、最近では原曲を聴き込んだ私が時折歌で参加したりするのを、物言わぬ歌うたいは決して邪険にしないでくれた。

歌詞を辿っていた筈のギターの主旋律が、徐々に副旋律だけを残して変わっていく辺りが、とても擽ったい。

意地の悪い言動の裏で、こういう事をナチュラルにしてくるのだから、きっとこの人に懸想を寄せる人はとても多いんだろうな、と簡単に予測が出来る。

 

 

「そういえば、一方通行は結局会長には立候補しなかったの?」

 

 

「誰がするか、七面倒臭ェ。そォいうのはお祭り好きな馬鹿にやらせとけば良いンだよ」

 

 

「何だかんだで騒がしいの好きな癖に。似合うと思うけどね、生徒会長」

 

 

「分かったよォな口利くじゃねェか。高校生になって生意気っぷりに拍車掛かりやがって」

 

 

分かったような、じゃなくて、分かってるんだけどね、ある程度は。

数えれば多分、彼の周りに居る人々よりかはずっと短いし少ないけれど、演奏の余韻を終えた後のトークタイムで交わされる内容は、お互いの日々を詰め込んだ思い出語りばかりだし。

スケールの大きいお祭り事に引っ張り出されては苦労しているらしい一方通行の愚痴は、彼には悪いけれど、とても濃くて面白い。

いっそ、私も川神学園に入学していれば良かったな、って思う程に、本当に面白そうで。

 

 

だから、私の背中を押したのは、彼の所為でも、彼のお蔭でもあるんだろう。

一番の切っ掛けは、多分――あの娘の笑顔だったけれども。

そして、この決断を一番伝えたかった相手は、他でもなく。

 

 

 

 

「……あのさ。聞いて欲しい、事があるんだけど」

 

 

 

私に魔法を掛けて欲しい。

 

 

 

特別なお姫様になりたい訳じゃない、硝子の靴も履かなくて良い、綺麗なドレスなんて要らないから。

 

 

 

「私ね、実は――」

 

 

 

満開の桜みたいに咲いた、あの娘の笑顔の様に。

 

 

綺麗に咲いてみたいと思ったんだ。

 

 

気難しくて、世話をするのが大変で、頑固で意地の悪い花だけど。

 

 

 

だから、魔法を掛けて欲しい。

 

 

ほんの少し、前に進むだけの勇気を。

 

 

 

 

 

 

 

 

――アイドルに、なろうと思うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.



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アンケート小説 中編 『眩暈』


タイトルは鬼束ちひろさんの名曲よりお借りしました。
今回の内容はアニメ、アイドルマスターシンデレラガールズ本編の3話から7話までの時間軸のお話となっております。
シーンが飛び飛びになったりしてますので、あらかじめ原作を見直してから閲覧なさった方がいいかもです。


―――――――

―――――

―――

 

 

 

 

 

 

一言で済まされる杜撰さが素っ気ないのに、伸ばしている髪を掬われて、優しくキスをされたみたいに繊細な扱いを受けた。

そう野暮ったく感じるのは、大人に成り済ましたくて背伸びをする癖が付いてしまったからなのか、渋谷凛という薄愛な人間の生来の個性が変わってしまっている証なのか。

 

 

大人っぽいね、って思わず胸が擽ったくなる卯月の憧れの眼差し。

落ち着いてるよね、って挑戦的に肩を寄せて砕けた笑顔で寄り添う未央の信頼。

 

でもね、そういうつもりでも、案外上手くは行かないんだ。

 

どういう意味と問い掛けて来る二人に、さぁねと煙に撒いた胸の中で反芻する仄かな苦味は、手渡された進路調査の埋めれない空白を指でなぞって唇を噛んだ、あの時の物足りなさに似ている。

 

例えば、落ち着いているのが大人、理解力があるのが大人、相手を思い憚るのが大人というなら。

いつまで経っても、子供にしか居られないのかもしれない。

少なくとも、この人の隣では。

 

 

「――でさ、凄かったんだ、ホントに。曲が終わった後の真っ白な感じから、一気にお客さん達の声援で溢れてさ。最高だった。一方通行にも来て欲しかったよ」

 

 

「仕方ねェだろ、別件が先に入ってたンだしよ。まァ、仮に暇だったとしても、クソみてェに人が多いのが鬱陶しいから行かなかっただろォがな」

 

 

「人が多いのは仕方ないよ、『Happy Princess』のコンサートライブともなればね。実際、人だってとんでもなく多かったし。けど、スタッフさんとかの熱意も凄くて、何より城ヶ崎美嘉さんのパフォーマンスとか圧巻でさ……バックやらして貰ったのがホント夢みたいで、思い出したら今でも手が震えちゃったりするんだよね、ほら」

 

 

「……寒いからとかじゃねェの、春だってのにまだこンなに冷えてやがるしな。つゥか良い加減暖かくなりやがれってンだ、畜生が」

 

 

「ちょっと、茶化されるのは面白くないんだけど。それと、今度私が組む事になったユニットがCDデビューも兼ねて、ミニライブするっていう企画が進んでるんだ」

 

 

「ほォ……やけに早ェじゃねェか。クカカ、無様に転ンだりすンなよ?」

 

 

「無様にって、なんかそれを期待してる様な悪意を感じるんだけど。挑発するんなら、ちゃんと今度こそ見に来てよ」

 

 

オーブンに火を通したグラタンのチーズみたくポコポコと興奮の熱を沸き上がらせて、柄にもなく火照ってしまった身体には、肌寒いくらいの春に成り立ての風はとても丁度良い。

灰と黒と白、その仄暗い三ツ色しか纏えない事に機嫌を損ねた厚雲に涙を流させない為に、遠い宙から光を届ける薄い下弦の銀月。

息吹を巡らせるらしい月の形をそのまま象って貼って飾った様な薄い下唇は中々に代わり映えしないのに、たまに優しく微笑むから、目を離そうとする度に後ろ髪を引かれてしまいそうになる。

 

けれど、それだけが理由で、父親に対して、親友に対して、或いは恋人に対してそうする様に、自分の経験した事を少しでも共有して欲しいと矢継ぎ早に言葉を尽くしているんじゃない。

もっと幼稚で、もっと剥き出しで、極めて貴重で稀少な感情に急かされているんだろう。

 

 

だから、一方通行を前にした私は、子供にしかなれないんだと思う。

きっと、こんな姿をシンデレラプロジェクトのメンバーや、あの口数の足りない不器用なプロデューサーが見れば、吃驚してしまうんだろうな、と。

 

自分でもそう思えるんだから、そうなんだろう。

そんなモノ、なんだろう。

そういうモノ、なんだろうね。

 

 

 

「予定が空いたらな。空いてねェなら仕方ねェし、仕事が入る可能性もある、学校行事に重なったら先ず無理だなァ……あァ、試験勉強もしねェといけねェ、参ったぜ」

 

 

「ちょっと、事前に予防線張り過ぎ。いっそ普通に行くのが面倒って言われた方がまだマシじゃん。というか、試験勉強って……かの有名な川神学園の『知神』が何言ってんのさ」

 

 

「……オイ、そのだっせェフレーズを俺の前で二度と吐くな。つゥか何でオマエがその阿呆みてェな忌み名を知ってンだ、オラ」

 

 

「いや、あのね、アンタが思ってる以上に色んな意味で有名みたいなんだけど、一方通行の名前。まさかウチのクラスでも知ってる人が何人も居るレベルとは思わなかったけどさ」  

 

 

「……冗談だろ、クソ。しかもオマエンとこ確か女子校だった筈だろオイ。なンで其処まで広範囲に……やっぱあの脳筋馬鹿の所為か。いや、寧ろ英雄のド阿呆が要らン事振り撒いてンじゃ…………チッ、殺すか今度」

 

 

「物騒な事あんまり言わないで、なんかアンタが言うと冗談に聞こえない。でも、卯月と未央は知らないって言ってたから、逆に共学には伝わってないのかも。良かったじゃんか、女子校では注目の的みたいでさ」

 

 

「……流石はアイドル、ちやほやされてェ欲求は一丁前か。生憎、俺は顔も知らねェ相手に騒がれて喜ぶ真似なンざ出来ねェよ」

 

 

「随分厭らしい言い方するね。でもさ、それって知ってる相手になら騒がれても良いって事になるけど?」

 

 

「揚げ足取りも随分型に嵌まるじゃねェか、誰の影響なのかねェ」

 

 

「お陰様で」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

紺碧に染められた河川敷に、生え揃った草花へと黒くのっぺりとしたクロスで磨く度に震えるギターの弦のノイズを翳せば、錯綜すら誤魔化して同調する葉擦れの音がそっと寄り添って、耳に優しい。

 

アイドルになると、そう告げたあの日から映る景色が更に鮮明に輝いてくれるのは、重石代わりに乗せられた白い麗人の『そォか』という単純な一言のお陰なのだろうか。

 

期待もせず、否定もせず、きっと彼を理解出来ない人ならば、冷たい人、そのレッテルを貼り付けて終わりそうな顛末だけど。

煌めくダンスホールで踊れても、灰被る煙突の暖炉で炭をつつく結果に終わっても。

どちらに転んでも、変わらない皮肉で受け止めてくれそうな気がする。

 

それは思い上がりに過ぎない空想かも知れないのに、無遠慮な押し付けにしかならないかも知れないのに。

変わらず先を見続ける事を他でもない『私自身』に誓わせる、結果の一つ。

 

 

「未央とかもさ、友達皆に声掛けたりしてるし、卯月だってそうしてる。私達……シンデレラプロジェクトの皆にとっての、最初の第一歩なんだ。だから、一方通行にも見に来て欲しいんだけど」

 

 

「……」

 

 

鉄弦の裏側をクロスで拭き取る神経質な白磁色の指先が、ピクリと悴んで、ネックの舞台をもう一度滑り落ちて行くわざとらしさ。

震えた弦が紡ぐ幽かな音色に、正直に請うた願いとは裏腹に俯かせた顔と落ち着かない鼓動を急かされる。

 

シンとした夜宵の静けさが痛くて、一方通行の居る側、右耳に嵌め込んだアイオライトのピアスを手慰みに触れてしまうのは、少し前からすっかり癖になってしまっていた。

 

 

「……確約は出来ねェが、まァ、考えといてやる。もし行けなくても文句垂れンなよ」

 

 

「っ……そこまで子供じゃないし、無理を言ってるのはこっちだって云うのは百も承知してる。けど……」

 

 

「けど、なンだよ?」

 

 

「……ん、いや。何だったら川神の人達、皆連れて来てくれてもいいよ」

 

 

「……ライブ所じゃなくなるビジョンしか見えねェが」

 

 

期待しても良いんだよね、という言葉が願望の押し付けになってしまうからと、塞き止める辺りが、多分、背伸びしていると云う所なんだろう。

飾らない言葉を積み立てれる卯月達みたいに、上手くは言えない中途半端さが、如何にもこういう事には臆病な私らしい。

彼が来なくても、しっかりとベストを尽くさなければと意気込む心の何処かで、それは予防線に張ってるだけだよと、冷徹に分析している自分がいる。

 

 

「CDデビューねェ。ユニット名とかもォ決まってンのか」

 

 

「うん。ニュージェネレーションって名前なんだけど」

 

 

「……なンつゥか、シンプルだな。オマエらが考えたのか、それ」

 

 

「違うよ、名付け親はウチのプロデューサーになるのかな。本当は私達が決める予定だったけど、上手く纏まらなくて。便宣上の名前が取り敢えず必要だからってプロデューサーが用意したのがその名前で、じゃあこれで行こうって事になったわけ」

 

 

「主体性ねェな、オイ。まァ、変に可愛いぶるよりは良いンじゃねェの」

 

 

「まぁ、私もコテコテな名前よりはこっちの方が良いし、ね…………ちなみにさ、『フライドチキン』と『プリンセスブルー』と『シューアイス』の中から名前を選ぶとしたら、どれが良いと思う?」

 

 

「ンだその微妙過ぎる選択肢は。つゥかそのプリンセスブルーっての、絶対オマエが考えたヤツだろ」

 

 

「ち、違うし。あくまで皆で考えて残った候補の一つだから。で、どれ選ぶの、さっさと答えてよ」

 

 

「そン中なら……シューアイス」

 

 

「……あっそ。残念だったね、その名前に決まらなくてさ」

 

 

「やっぱそのプリンセス云々はオマエが考えたヤツなンじゃねェか」

 

 

「……バカ、意地悪」

 

 

「クカカ」

 

 

 

ふとした拍子に耳飾りに触れる度、思い浮かべる感情論はいつも最終形に辿り着けなくて有耶無耶になる。

こうして並んで座る私とこの人の関係は一体何と喩えるのが相応しいのか。

それなりの年頃ならば、月並みで指紋だらけの自問自答に過ぎないんだろうけど。

 

赤の他人、単なる知り合い、近しい親戚。

きっと客観的に見れば、仲の良い兄妹か、恋人同士。

主観的に見れば、気心の知れた友人同士が関の山。

 

その距離が余りに近くて、息が苦しい。

 

この距離が余りに遠くて、空を見上げる。

 

 

 

「じゃあ、私達がミニライブをちゃんと成功させたらさ、今度こそバイクの後ろに乗せてよ」

 

 

「あァ? なンでそォなンだよ。つゥか俺にメリットねェし」

 

 

「アイドルに密着出来るという特典」

 

 

「デビューまだの癖に何言ってンだメスガキ」

 

 

「CD無料で贈呈するから」

 

 

「只の宣伝じゃねェかそれ」

 

 

「缶コーヒー、今度からもう一本多く持って来るから」

 

 

「自分で買うから良い」

 

 

「じゃあ、ウチの商品、サービスするから」

 

 

「……オマエンとこに寄る予定はねェよ」

 

 

「嘘だね。母の日もそろそろだし、欲しいんでしょ、カーネーション。梅子さんって人に贈るつもりなんじゃなかったの?」

 

 

「…………チッ、随分目敏くなったモンだな」

 

 

「お陰様で」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

 

願いを叶えて欲しいと夢中になって追い掛けるには、星屑ばかりが煌めいていている夜は眩し過ぎる。

波紋を響かせて広がるばかりの心を急ぎ足で落ち着かせてばかりの私は、いつまでも大人になれない。

 

 

追い求める物が多ければ多い程、足は縺れてしまうのはどこかで分かっていた筈なのに。

結局は躓いてしまったのだ。

よりにもよって、この人の目の前で。

 

 

そういうつもりでも、案外上手くは行かないんだよ、やっぱりね。

 

 

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

『眩暈』

 

 

―――

――

 

 

 

 

 

深海の底みたいに無音に感じる部屋の中で、微かな呼吸音と、酷く他人面した雨音が遠くで鳴っている。

どうしたいのかも分からない、灰色に煤ける気怠さを重荷に感じてしまって、制服から着替える事すら億劫で。

仰向けに身体を投げ出したまま、見上げる天井の天気照明は灯らない、灯せない。

色が消えてく。

光が負ける。

 

 

「……」

 

 

 

水と油を掻き回したって混ざり切らないのに、無理矢理にでも溶かしてしまおうとグチャグチャと乱されてしまうかの様に、考えが纏まらない。

悔しさと、苛立ちと、虚しさが巣食っては遠慮もなしにざわめいてばかりの胸元に、そっと手を当てる。

 

 

 

ニュージェネレーションとして、シンデレラプロジェクトのメンバーとしての、第一歩となるミニライブ。

私達が抱いていた華やかな理想と、当たり前な現実の違いを上手く収めきれなくて、すれ違って、縺れ合ってしまって。

リーダーである未央が、検討違いな責任感を背負ったらまま、アイドルを辞めると言ったあのコンサートから、もう5日が経とうとしていた。

 

 

「……」

 

 

 

ちゃんと待っている、もう一度、やり直そう。

お客さんだって笑顔だったし、足を止めて聞き入ってくれていたんだから、手応えはあったんだ。

お客さんの数だって私達次第だから、今度は私達の力であのバックダンサーの時の興奮を掴もうよ。

 

 

浮かんでは消えて、消えては浮かんで、を泡沫の様に繰り返しては、紡ぐ事も、綴る事も、今の私には出来ないだろうし、資格なんてない。

 

幾ら理想と現実が違うからといって、身勝手な事を言って逃げてしまっている未央に対する不満、ちゃんと真っ直ぐに向き合ってくれないプロデューサーへの八当たり染みた不信感。

私が夢中になって追い掛けようとしたモノは、こんなにも簡単な事で崩れてしまうのかという落胆、そして、そんな状況でありながらも塞ぎ込んでしまって、何も出来ない私のみっともなさ。

 

 

 

「……やだよ」

 

 

 

窓際の勉強机の上に重ねた、二枚のCDと、透明なガラスを根城に咲いた青色のエゾギクの花が、臆病になってしまってばかりの私を見飽きたのか、顔を逸らして曇天を仰いでいる。

慰め代わりに触れた右耳のピアスの酷く無機質に感じる程に温度がない癖に、あの日のデビューライブで胸に走った鋭い痛みにすらシンクロして。

 

 

コンサートをやり終えた際に、会場の二階、柱の陰、目立たない処からひっそりと見下ろしていた、あの人を見付けて。

約束通りに来てくれたんだと頬を綻ばせる間もなく、あの人の、一方通行の隣で彼ととても親しそうに話す、とんでもなく綺麗な女の人を、見留めてしまって。

 

 

頭の中が真っ白になってしまって、何かから逃げ出す様に舞台袖に引っ込んだ未央の後に続いた最中に、初めて気付いた。

知らない内に、流れてしまっていた涙に。

 

 

 

 

「……嫌だよ、こんなの」

 

 

神様なんて信じてないのに祈ってる。

誰かに助けを求めてばかりで、膝を畳んだままでは一歩も先に進めない。

流れ星に願い事を届けるだけの停滞を許されるなんて、そんな優しい世界じゃない事ぐらい分かってる筈なのに。

都合の良い展開ばかりを望んでいる。

 

 

勝手に期待して勝手に決め付けて、勝手に落ち込んで、勝手に泣いてしまった。

せめてこの蟠りだけは隠そうとしてみてはいるけれど、卯月や他のメンバーには、もしかしたら、気取られているのかもしれない。

 

 

「……なんで、こんなに痛いの……」

 

 

 

時が止まっていてくれたら、どれだけ助かるだろうか。

そうしたら、いつか、この傷みにも慣れるかも知れない。

この気持ちに、名前を付けてしまえるかも知れない。

 

雨が止めば、虹が架かる。

この傷みからも立ち直れる筈だ、いつかは。

だからそれまで、どうか、待って欲しい。

 

 

けれど、空を覆う雨雲はいつまで経っても厚く広がったままで。

 

虹どころか、星一つさえ探せそうにもない。

 

 

 

 

 

 

 

―――

――――

 

 

 

 

 

随分と張り切って演出に凝ってくれる物だと、鬱陶しそうに尖って天を睨む紅い瞳と、底冷えすら誘う愉快そうな口元は酷くちぐはぐで、釣り合いがとれていない。

重量制限されてる黒傘の隙間から立ち込めた暗雲を確かめて、不遜がちに鼻を鳴らす辺りは、何処か誰かの言う通り、シニカルという記号だけはとても釣り合っている。

 

 

不穏な空気を作るには如何にも相応しい曇り空に罪なんてモノは無いけれど、いつまでも演出過多なのは戴けない。

睨まれる覚えなんて無いと一層強く泣いてる曇天を、その気になれば今すぐに泣き止ませてやるとでも謂わんばかりに見据えている、不倶戴天な紅緋の眼差しは、悪気の無い雲の裏側すら見透してしまいそうで。

 

 

「……身の程を弁えねェバカに振り回される事ほど、やる気の削がれる事はねェな」

 

 

 

空を脅すのにも飽いたのか、気紛れな悪態を一つ零して、お姫様を迎えるには上々の城構えの346本社に設置された、インテリアチックな時計へと視線を映した彼の瞳は酷く気怠そうで、どこか投げ遣りな癖に、随分枠に填まる。

 

下手をすれば、自分が導こうとするべく奔走している誰よりも、遠大な階段の先に構えた城を潜るには相応しいのかも知れないと思える程の絵空事染みた白麗さに、知らず知らずの内に鉄面皮を貼り付けてばかりの大柄な体躯の男は、息を呑んでしまっていた。

 

 

だからだろう、その白貌が、誰に向けて言葉を紡いでいるのかに彼が気付けたのは、鮮烈な程に奥深い紅い瞳を此方に向けられてから数秒も置いた後だった。

 

 

「冴えねェ面引っ提げてンなァ、オッサン。はン、その目付き、アンタで間違いなさそォだ」

 

 

「……貴方は?」

 

 

「名乗る程の者でもねェよ。強いて言やァ、どっかのオマエのファンの世話焼きに振り回されてるバカって処か」

 

 

「……私の、ファン……?」

 

 

白貌の青年が主演を務める舞台の聴衆者に過ぎない筈の自分が、無理矢理に不釣り合いな舞台の上へと引き上げられてしまった。

 

 

余りにも脈絡も容赦もない寸評は失礼を通して、いっそ清々しい。

 

一から十まで説明するつもりでも無いらしく、揶揄染みた謎掛けを擲って煙に撒くつもりも無さそうな口振りではあるが、本題が見えて来ない。

自分が手掛けるプロジェクトのメンバーである島村卯月が体調を崩した為に見舞いへと出向こうとした矢先で、如何にも自分を待ち構えて居たという口振りのこの青年に、心当たりが見付からない。

 

 

「話を聞いてやれってよォ……アイドルなンざ専門外な俺に無理難題押し付けやがって、あの腐れアマが。相談役くれェ自分でやれってンだ」

 

 

「……あの、先程から話が見えて来ないのですが。貴方は一体どういう方なのですか? 私はこれから、所用がありまして――」

 

 

「そンな面で見舞いに行ってどォすンだよ、余計に悪化させてェのか」

 

 

「――――」

 

 

 

皮肉めいた口調と共に紡がれるテノールに、足の裏を縫い付けられたのかと錯覚してしまいそうだった。

どうして、自分の予定を知っているのか。

そもそも、この青年の目的を額面通りに受け取って良いのだろうか。

 

まるで把握出来ない状況に動揺を隠せない自分に同情する様に浅い溜め息を吐いた青年は、自分と比べれば優に細く女性的な肩からぶら下げていたハンドバッグから、二枚のCDを取り出して、そのまま乱雑に自分へと突き付ける。

乱暴に手渡されたのは、他でもない彼がプロデュースを務める『ニュージェネレーション』と『ラブライカ』のデビューシングルであり、一瞬、この青年は彼女達のファンなのかとも思いもしたが、どうやらそうでは無いらしい。

 

 

「……悪ィが、オマエのファンにはクソうぜェ事に借りがあンだよ、俺は。勝手な話だが、その返済に付き合わせて貰うぜ、プロデューサーさンよォ」

 

 

「……貴方は、私の事を知っているのですか?」

 

 

「殆ど知らねェし、興味もねェよ。オマエラの抱えてるシンデレラプロジェクトとやらも割とどォでも良いし、そンなに首を突っ込むつもりもねェ」

 

 

「…………なる、ほど。しかし、その、私のファンと名乗る方の意図は兎も角、我が社のプロジェクトに関わる内容を、おいそれと口外する訳には行かないのですが」

 

 

「クカカ、良いねェ、ちゃンと社会人やってンじゃン。だが、もう少し察してくれると俺としても話が早くて助かるンだがな」

 

 

「…………っ」

 

 

言外に察しが悪いのだと指摘されているのだろうが、見ず知らずの人間に指摘される謂れは無いと噛み付けるだけの気概は、今の彼にはない。

いや、正確には寡黙がちな普段の彼でもそんな事にはならないのだろうが、間の悪い事に、外見でこそ判りにくいが内面では深く意気消沈としている彼には、到底無理な事だ。

その察しの至らなさと、寡黙さで二人の少女を傷付けてしまったと自分を追い詰めている、今の彼には。

 

 

「部外者がなンでオマエの予定を知ってンのか。つまり、俺にその予定を告げたファンってのは誰なのか。考えてみれば、限られて来るだろォよ」

 

 

「私が席を空ける事を報告しているのは部長と千川さんだけですが…………貴方は、一体……」

 

 

「――さァな、そこは取るに足らねェ事だろォよ。まァ、兎も角、俺は俺でさっさと借りを返させて貰いてェンだが、どォするよ、プロデューサーさン」

 

 

絞り出した憶測を肯定する訳でもなく、否定する訳でもなく曖昧に濁す辺り、どうにも只者ではなさそうな青年にも、彼なりの事情があるのだろうか、と。

しかし、言葉通りにも、態度的にも、少なくともプロジェクトの内容について悪用するつもりは無そうではある。

特別信頼に値するという人間性を示された訳ではないというのに、恐らくは自分より一回りは年若い筈の彼の堂に入った立ち振舞いは、不遜を通り越して清々しくも思えるのは何故だろうか。

 

 

「……」

 

 

「無理にとは言わねェし、面識の無ェクソ生意気なガキ相手に話す事なンてねェって振ってくれても構わねェよ」

 

 

「…………」

 

 

「……勝手な言い分だが、早ェとこ決めてくれると助かる。どォすンだ」

 

 

「………………私、は……」

 

 

見ず知らずの人間相手に悩み相談など、普通ならば憚れるのだろう。

それも、ましてや企業のプロジェクト内容だ。

相手にそのつもりが無くとも、本来ならば忌諱すべき筈だし、彼の言う通りに打ち明けるには社会人としての立場もあるのだが。

 

 

けれど、このまま解決策も無いままに抱え続けて、男の抱えるプロジェクトのアイドル達の行く先を閉ざす事だけはしては行けない。

破れかぶれに過ぎないのかも知れないが、見知らぬ誰かに、自分が傷付けてしまった二人の少女への葛藤を話してしまえば、この臆病に凝り固まってしまっている錆びた車輪みたいな自分も、少しはマシになるかも知れない、と。

 

そして、何より。

青年の目的や意図も、彼の言う自分のファンというのもハッキリとせずあやふやなのに、わざわざこの雨の中、自分を待っていたらしいこの青年の言葉を無下にするのは、どうしてか、抵抗を感じてしまうのだ。

いや、どうしてか、という疑問など浮かべる必要はなかった。

 

 

「………………………」

 

 

「………………………」

 

 

春に差し掛かってもう幾分も経つが、雨時の気温はまだやや低めであるので、寒さを苦手とする人間には少々堪えるのだろう。

散々不遜不敵を演じていた筈の青年もどうやらその部類らしく、小刻みに揺れる撫で肩を見て、それを気取られまいとしながらも急かす様に足踏みをする彼の、妙な子供らしさが垣間見えて。

 

こういう時は、茶化せば良いのか、気付いてない振りをするべきなのか、分からない。

不器用に輪を掛けた様な気質の自分には上手い正解例が見付けられず、どうするべきかと、プロデューサーと呼ばれる男は痛んでもいない首をそっと撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

―――

 

 

 

 

 

 

プロデューサーという役職に居ながらも、饒舌などとは程遠い面倒な堅い口からは、流暢とは言い難いが、珍しくもスルスルと言葉を吐き出す事が出来てしまったのは彼自身にとっても驚くべき事だろう。

 

 

プロジェクトの第一足、二足となる二つのユニットのデビューを飾る事となったミニライブでの顛末。

その内の一つであるニュージェネレーションのリーダーである本田未央の、遠すぎた理想と現実の違い。

客数の少なさにもどかしさを抱えた彼女を叱るでもなく諭すでもなく、ただ『こういうものだから仕方ない』のだと削ぎ落と過ぎた言葉を突き付けてしまった彼。

 

客が少なかったのは、自分がリーダーであるからの結果と捉えてしまった稚拙さと。

客が少なかったのは、新人なのだから当然だと上手く伝え切れなかった言葉足らず。

そして、事務所へと訪れない彼女を連れ戻そうと一人で背負込んで、けれど中途半端にしか踏み込めなくて、正論を突き付けるだけで、余計に彼女を追い詰めてしまったのだと。

 

そして、自分の臆病さが招いた逃避の言葉で傷付けてしまった、渋谷凛の事も。

未央の事を追及されて、見解の相違などという言葉で濁して。

 

 

『信じても良いって思ったのに』

 

 

彼女の口元から零れ落ちた、明らかな失望の声が営利な硝子の破片となって、胸に刺さった儘、癒えないでいた事も気付けば語ってしまっていた。

 

 

 

表情こそ変わらない鉄面皮を貼り付けながらも比較的すんなりと、時折、躊躇いを見せつつも話せたのは、346の直ぐ近くにある喫茶店で流れるクラシックのBGMのお蔭か、喉に流すコーヒーの苦味に促されてか。

いや、多分、そうじゃないのだろうと、黒鳶色の水面に映る目付きの悪い堅い顔を眺めながら、対面を見詰める。

 

相槌を打つでもなく、頷く事もなく、先を促す素振りすら見せないで、先程の飄々とした食わせ者然とした様相が嘘の様に、ただ静謐な彫刻へと成り下がっているからだろう。

 

普段は華々しくも騒がしい面々に囲まれているのもあれば、生来の口下手も災いして、聞き役に徹する事の多い男であるのだが、コーヒーを啜るか、時折プロデューサーを一瞥するくらいしか白い青年は先程からまともにアクションを取らないので、必然的に彼が話を進めなくてはならなくなる。

斯くして、思惑通りかはさて置いて、事のあらましの全てを聞き終えた青年こと一方通行は、細い指先で引っ掛けたコーヒーカップの中身を一気に飲み干して、漸く無骨な男へと視線を移して。

 

 

 

「聞かせろって連れ込んどいて言うのもあれだがな……オマエ、そりゃ口下手過ぎだろ。いや、つゥか、プロデュースするアイドルに対して引け腰過ぎンだろ幾ら何でも。一線引いて接するのは間違ってねェけど、せめてその線引き隠すくれェしろよ」

 

 

「……線引き、ですか」

 

 

「見え透いた予防線を張って、大人同士なら兎も角、ガキ相手にビビってどォやってプロデュースすンだ。良いか、クソガキってのは物分かりは悪い癖に、本音も向けて来ねェで濁したり距離作ったりされると必要以上に傷付いちまうクソ面倒な生き物なンだ、その道潜ってンなら、そンくらい分かってンだろ、オマエも」

 

 

「…………私、は」

 

 

「其処らにはオマエなりの事情が関わってンだろォが……ハッキリ言っとく。オマエ、そのスタンスは向いてねェし役不足だ。寧ろぶつかるぐれェが丁度良いだろォよ。それとも、まともに向き合う踏ん切りが付かねェってのか、あァ?」

 

 

「――――」

 

 

ぐうの音も出ない、とはこの事なのか。

多少なりとも呆れられはすると思っていたが、こうまでバッサリ斬られた上に、必要以上を語らず、必要以上に向き合わずに居る過去の爪痕ごと、掬い上げられるとは思っても見なくて。

 

かつて、愚直な程に相手にぶつかって、正しいと思う道を押し付けて、その結果、自分の元から離れていった何人かのアイドル達の懐かしい面影が泡沫の様に浮かんでは消えていく。

いつしか、自分が導くべき者達へと踏み込む事を恐れては、伝えなくてはいけない本心を隠して、彼の云う通りに、線を引いてしまっていたのだろう。

ただ、シンデレラを華々しく絢爛な城へと送り届けるだけの、物言わぬ車輪として、無機質に動いていただけだ。

 

 

 

「……どうして、私が、彼女達と向き合うのを恐れていると思ったですか? 私は、其れほどまでに分かり易い人間なのでしょうか」

 

 

「……はン、他は兎も角、俺なら嫌でも分かっちまうンだよ、クソッタレ。だからあの女狐が俺とオマエを引き合わせたンだろォよ、クソ忌々しいぜ」

 

 

「……それは、私のファン、という方ですか。しかし、では何故その方は私と貴方を……」

 

 

「……少し似てンだよ、昔の俺と、オマエは。ロクデナシっぷりは俺のが桁違いに酷ェがな」

 

 

「………………」

 

 

――人を恐れて、周り全てに事あるごとに線引きして、本音を隠して逃げ回る辺りが、とまでは一方通行は口にしない。

そこまでに重症そうではないし、偉そうな口を叩ける大層な過去を持っている訳でもない。

 

猩々緋の眼差しが届けるのは、最低限の懐旧と、皮肉な口振りと、少しばかりの静寂。

 

そして、僅かばかりの後押しだけで充分だ、と。

半月を模した薄い唇が、気取られない程度の弧を描いた。

 

 

「最後に『臆病者としての大先輩』から、実に下らねェアドバイスをくれてやる」

 

 

「……」

 

 

「まともに向き合えもしねェヤツがシンデレラを導ける訳ねェだろ。傷付けンのが恐いとか抜かす陰気な幻想はぶち殺しちまえよ」

 

 

「…………っ」

 

 

「小っせェ自分だけの現実に引き篭るぐれェなら、さっさと甘ったれたクソガキのケツを叩いて来い」

 

 

「…………はい!」

 

 

 

 

漸く、踏み込む決心が付いたのか、それとも、元々燻っていただけの心に火を点けてしまったのかは定かではないけれど。

発破を掛ければすんなりと動き始める辺り、そもそも自分の出る幕では無かったのではないだろうかと苦笑を零す。

 

 

機敏な動きで財布から千円札を取り出して一方通行の手元に置いて、綺麗に一礼し、傘だけを置いたまま弾かれる様に喫茶店を飛び出して行った男を呆れながらも見届けて。

 

柄にもない、割に合わない配役を押し付けられて、どこかの誰かの望む通りに演じ切らされた事に対して、苛立ちを隠そうともしない仏頂面を浮かべながら、気怠そうな伸びを一つ。

そのままのだらしない体勢で羽織っていたコートのポケットから取り出した携帯電話を弄くって、あの不器用極まりないプロデューサーのファンとやらに、簡易なメールを送って、席を立った。

 

 

「……偉そォな口を叩くよォになったモンだ」

 

 

彼が残していった千円札と黒傘を拾い上げながら、どこか自嘲的に唇を震わせる白貌の者が貼り付けた感情は、インテリアの彩飾が目に優しい喫茶店の窓から伝う雨滴みたいに千切れ千切れて、形を損なった水溜まりの底の様に広く浅く、やがて渇いていくのだろう。

 

図体だけはがっしりとしながらも随分と繊細な心を持ったプロデューサーとの邂逅は、時間にすれば半刻にも満たない。

けれど、どっしりと腰を据えるかに思えた雨雲は少し薄くなっていて、夕方を過ぎる頃には雨足も遠退いてくれそうだ、と。

 

 

「……ガキだな、どいつもこいつも」

 

 

 

自分を含めて、と続きは敢えて音にしない辺りが、いかにも幼稚染みている自覚はある。

 

しかし、彼もまた、尻を叩いてやらねばならない甘ったれた子供を待たせているのだ、いつまでも喫茶店で優雅な一時を過ごすだなんて柄にもない真似に浸る性分でもない。

 

 

白磁の長い睫毛をシパシパと瞬せながら、ハンドバックから財布を取り出す青年の尻尾髪が、やれやれと肩を宥める様に右へ左へと波打った。

琥珀色の鈍い溜め息を、そっと置き去りにして。

 

 

 

 

 

――

――――

――――――――

 

 

 

次第にフェードを弱めていった雨の足音に怯えて、腕の中で抱き潰していたクッションが悲鳴を軋ませる度に、晒していた素足が縮こまって肌を触れ合わせて熱を生んだ。

 

私の渇いた地面を打つ雨を無謀に数えて、どれだけの時間が経ったのだろう。

 

私を振り切ろうとする私に気付きたくない。

暗がりに逃げ込んだ視界に射し込む薄明の月白のラインがあの人の細い指先に重なって、瞳を閉ざしているのに、眩暈を呼び込んで。

吐息を重ねた数だけ明光を失って夜へと加速していく部屋の、窓の外を眺める気にはなれない。

望む輪郭を辿るだけの今日を追いかけている数日が、借り物の歌詞ばかりを拾い集めて作った詩の様に色褪せて、失いたくない本質さえも剥がれていく。

 

けれど、もう聞こえない雨の音を心音で作り出しながら、ベッドの上で仰向けに転がっていただけの幼稚な私の卑屈を遮る、どこか躊躇いがちなノックの音が鼓膜に届いて。

誰だろう、と限られた選択肢を思巡する事もしない無気力さを引き摺ったまま鈍く身体を起こした私を迎えたのは、少し困惑した様な母の顔だった。

 

 

「……凛、ちょっと……いい?」

 

 

「……どうしたの?」

 

 

ここ数日、暗い表情ばかり浮かべていた私の所為で、暖かな笑みに少し陰を差し込ませてしまった母は、どこか遠慮がちに此方を窺っている。

でも、仄かに届く花の香りと共に見えた、少し朱を添えた頬は珍しく興奮を冷めきれない様子を感じ取れるのは、何故なんだろう。

 

頻りに部屋の外、というよりは下の階の店内をチラチラと一瞥している妙な落ち着きの無さは、穏やかでのんびり屋な母にしては珍しい。

 

 

「今、前に一度来られたお客様が居らしててね、その……凛に花のサービスを予約していたらしいんだけど。ちょっと私には良く分からなかったから、呼びに来たんだけど」

 

 

「……予約? え、何の?」

 

 

「カーネーション。それにしても、あんな美形と知り合いだったなんて、隅に置けない娘ねぇ。お母さん聞いてないわよ」

 

 

「……まさか」

 

 

 

 

予約。サービス。カーネーション。美形。

 

母の口から紡がれた符合と合致する人物なんて、一人しか居ない。

慌てて手元に手繰り寄せた携帯電話を確認すれば、ディスプレイに浮かび上がったデジタル表記の日数が示すのは、『母の日』という紛れもない証左。

思い浮かべるのは、自分達のデビューライブを見に来て欲しいと打ち明けた夜に交わした、頼りない口約束。

 

 

どうしよう、多分、間違いなく彼が……一方通行が来ている。

どんな顔して会えば良い、ちゃんと笑えるだろうか、気取られないように接する事が出来るだろうか、無理だ、絶対気付く、あの人は。

 

デビューライブに来てくれるという約束もちゃんと果たしてくれたけれど、それなら彼の隣にいる女の人の存在に心を掻き乱されて茫然としていた私の姿を見ている筈だ。

唯でさえ未央やプロデューサーとの蟠りを抱えて余裕のない私が、一方通行を前にして何も語らずに居られるのか、そんな自信なんて欠片もない。

 

 

どうしよう、どうしよう。

グルグルと乱れては定まらない思考を大した成果もなく繰り返しては俯く私を、けれど母はそのままそっとしておいてはくれなくて。

 

 

 

「取り敢えず、着替えてらっしゃい。あと、寝癖付いてるから、櫛も通しときなさいね。その間、ちゃんとお母さんが接客しておいてあげるからっ」

 

 

「……ねぇ、何か……楽しんでない?」

 

 

「気の所為よ、気の所為。ほら、さっさと動く。あんまり遅いと、この部屋にあのお客様通しちゃおうかしら?」

 

 

「わ、分かったから、着替えるから……それだけは絶対に止めて。あと、変な事聞いたりしちゃ駄目だからね!?」

 

 

「はいはい」

 

 

 

 

何か絶対良くない勘繰りをしている事は想像するに難くない意味深な笑みを満開に咲かせながら閉めた扉越しに聞こえる、母の機嫌良さそうな足音に急かされて、慌ててクローゼットを開いて。

スカートのホックを下ろして、萌葱色の下地に青のストライプが挿す学校指定のネクタイを解いて、大急ぎでブレーザーを脱いで、と、滅茶苦茶な順番で着替えていく。

 

 

どんな顔をして会えば良いだとか、そんな事を気にしている暇なんてない。

日頃から、浮いた話一つない私にわざとらしい溜め息を吐いては余計な世話を焼きたがる母の横顔が、今にも下で待っている一方通行に根堀葉堀あれこれと質問責めでもしてそうな悪戯めいた笑顔に脳裏で変わって。

 

そんな顛末を迎えれば、私の一方的な蟠りの所為で、唯でさえ顔を合わせ辛くなっているのに、最早合わせる顔なんて無くなってしまうだろう。

それだけは避けたい、そこまで割り切れる相手じゃないし、こんな幕引きで終わらせて良い関係なんかじゃない。

少なくとも、私にとっては。

 

 

「……ぅぁ、寝癖……」

 

 

脱ぎ捨てたカッターシャツの布擦れ音で一拍置いて、こんなにも急かされて着替えた試しなんてないからか、クローゼットに取り付けてある等身大の鏡に映された自分の姿が、酷くみっともなく思える。

単調な白の上下の下着姿に、不満顔と半開きの目と、コームで巻いた訳でもないのに不自然に波打った寝癖髪は、とても誰かに、ましてや一方通行に見せられるモノじゃない。

 

揶揄われるし、弄られるのはまず間違いないけれど、仮にも女の子としての自覚はあるし、その、多少なりとも意識してる相手にこんな姿見られるなんて死んでも御免だ。

 

髪を梳かせという母の忠告通りに櫛を通さなくてはならないが、素直に有り難みを感じるには些か釈然としない。

 

 

「……はぁ」

 

 

ジーンズを履き終えて、長袖のインナーに袖を通しながら、数分前までセンチメンタルに浸っていた筈なのに、こうやって年甲斐もなく焦っている私は、我ながら酷く節操のない人間に思える。

一刻も早く着替えて彼を出迎えなくては、母に何を吹き込まれるか分かったもんじゃないからと、急かされている理由はきっと、それだけじゃない。

 

 

合わせる顔がないと心中で散々足踏みしておいて、いざ彼が直ぐ傍に居ると知れば、この有り様。

鏡に映る私の顔は、熱病に浮かされているみたいにすっかり朱に染まっていて、深いマリンブルーのインナーには都合の良いコントラストを演出しているのだから、救えない。

調子の良い、思い通りにならない心音を嫌でも示されて、途方もない倦怠感から背中を押された無情な溜め息が、やけに安っぽく部屋に響いた。

 

 

 

 

――――

―――

――

 

 

 

 

黄金色に晒された泥混じりの砂の粒がキラキラとオレンジ色に輝いて、雨上がりの夕暮れに星屑を散りばめている、男の子の小さな手。

遠き日をなぞる魔法使いは無垢な儘に指先を杖にして、雨で膨らんだ砂を蹴る音と共に、甲高い笑い声を高い空に溶かしている。

 

あれくらいの、幼少の頃の私は、泥塗れになるのも御構いなしに公園の砂場ではしゃぐ男の子の様に、無邪気で居たのだろうか。

いや、澄ました顔で一人静かに本とか読んでいた気がする。

周りと比べて早熟だと言われていた私は、どこか気取ったように大人ぶって、冷めた視線で遊び回る男の子達を見ていたのかも知れない。

もう随分遠い昔だから、あんまり覚えてないし、無理に思い出したいとは思えない程、味気無い記憶だ。

 

 

それなら今の私は、あの頃から少しは大人になれたのだろうか。

背は伸びて、髪も伸ばして、身体付きは少しは女の子らしくはなったし、顔も、街中で男の人から声を掛けられるくらいには、成長した。

けれど、多分、あの頃から内面は殆ど育まれる事もなくて、反抗期は通り過ぎたけれどその証は耳に残した儘な私は、そんなに変われてはいないんだと思う。

 

 

しがらみばかりを消化出来ずに、簡単に立ち止まっては膝を抱えてばかりの私は、手の掛かる子供に過ぎないんだろう。

遠巻きに見える、母親に叱られて肩を落としながらも水道で泥を洗って、仲良く手を繋ぎながら公園を後にしたあの男の子と、きっと、そんなに変わらないくらいに。

 

 

「……私って、一方通行から見て、そんなに手の掛かる子供みたいかな」

 

 

手も繋がない、叱られる事もない、いつものギター演奏も、伴奏もない。

細く骨張った指先で、古ぼけた木製のベンチに腰掛けて組んだ膝の上に乗せた、ラッピングされてるカーネーションの一輪を弄ぶ右側は、星が浮かんでない空の下では、独奏を促す聞き手にしかなってくれなくて。

 

ぽつりぽつりと、止み時に気付けなかった一縷の雨滴を落とす悠長さで、私は胸に巣食う蟠りを、少しずつ、歩く様な速さで一方通行へと吐き出した。

あのデビューライブでの事と、それからの衝突と、どうしたいのかも見定めれずに塞ぎ込んでしまっている事。

 

 

――彼の隣に居た女の人の事は、言わなかったけれど。

 

 

 

 

「馬鹿正直にそォ聞く辺り、自覚はあンのか」

 

 

「……さぁ、分かんない。けどさ、子供より質が悪いかもね、今の私。変に挫折して、曲解して……プロデューサーとか、未央とか、卯月とか……色んな人から向き合わないで逃げてばっかで……」

 

 

「…………」

 

 

「格好悪いね、私……アイドルになるってアンタに言っといて、こんなに簡単に挫けて……」

 

 

情けなくて、泣いてしまいそうだ。

クヨクヨ悩んでいるぐらいなら、もう一度プロデューサーにぶつかって行けば良いのに。

アイドルを続けたいなら、未央を意地でも連れ戻そうと奔走すれば良いのに。

切っ掛けばかりを探して、動かない脚を動かせないまま、鈍い本音を隠しては怯えてる。

 

 

『信じても良いって思ったのに』

 

 

自分勝手な言い草で、きっと私以上に錯綜していた筈のプロデューサーを無遠慮に突き放して。

夢中になれたあの時間を嘘にだけはしたくないと、都合の良い奇跡ばかりを祈ってる。

 

雨雲を払った赤橙のグラデーションが眩しくて、一方通行が何故か持っていた二本の黒傘の内一つの、取手の部分を手持ち無沙汰に撫で付けながら、顔を俯かせている私は、本当に子供だ。

 

 

「格好悪くて何か問題あンのか」

 

 

「……あるよ。嫌じゃん、そんなの」

 

 

「下らねェ事でウダウダ悩むのはガキの特権だろ。迷って悪ィのか、挫折したら悪ィのか。オマエの見て来た同輩の――例えば、城ヶ崎センパイとやらが、順風満帆に進ンで来たとでも言いてェのか?」

 

 

「…………」

 

 

「ンな訳ねェだろ。ガキがガキらしく挫折迎えて、それの何が悪ィンだよ。所詮、駆け出したばかりのクソガキが不様に転ンで喚いてるだけに過ぎねェ。指差して笑うのも馬鹿馬鹿しいだろ」

 

 

「……そう、かもね。本当はね、アイドルなんて止めたくないんだ。また皆で頑張ってさ、ダンスの練習したり歌のレッスンしたり、ユニットの名前を決めるのに四苦八苦して……でも」

 

 

熱に浮かされた様な勢いで、紛れもない本心から紡いだ言葉を区切って、俯かせていた顔を上げて、気付けば私と一方通行しか居ない夕霧に焼かれた公園を、見渡してみる。

 

あの日、アイドルになってみようと考える切っ掛けを与えてくれた、卯月の笑顔が咲いていた、この場所で。

色とりどりの美しい宝石なんかよりも綺麗だと思えた、あの娘の様に、私はちゃんと笑えるんだろうか、楽しめるんだろうか、夢中に、なれるんだろうか。

 

その自信が沸き上がって来ない理由なんて、分かってる。

プロデューサーや未央を、私の幼稚な嫉妬心の言い訳にしてしまっていると、自覚しているからだ。

 

 

執着、してるんだ、隣のこの人に、痛いくらいに。

嫉妬してしまった、一方通行の隣に立っていた、綺麗な大人の女の人に。

鮮やかな金色のブロンドと澄んだブルーの瞳を持った、私なんかよりも全然、大人で、綺麗で。

『子供』みたいに嫉妬して、それを打ち明ける事も出来ずに塞ぎ込んでいるだけの情けない私よりも、ずっと、一方通行の隣立つ事が相応しい、そう認めてしまったから。

 

そんな自分の醜い姿に失望してばかりで、前に進めない。

脚が、動いてくれない。

 

 

――貴方が好き、そう言える勇気も持てない癖に。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

住宅街の喧騒も、夕暮れを侵していく夜の葵に子守唄を紡がれたのか、静謐に包まれている。

寒くもないのに悴む掌が黒傘の取手を頼りなく握り締めているのは、気を抜けば今にも雨が降り出してしまいそうな目蓋を、精一杯で繋ぎ止める痩せ我慢なのかも知れない。

 

私を振り切ろうとする私に、気付きたくない。

諦めようとする私を、認めたくない。

 

 

 

 

「――凜」

 

 

「……ぇ」

 

 

けれど、ふと私の名前を呼ばれて。

多分、初めてちゃんと彼の口から紡がれた、私の音に振り向けば、真っ直ぐと私を見詰める紅い月が、いつもの様に浮かんでいて。

呆気に取られる間もなく、伸ばされた白い掌が、私の頭を優しく撫でた。

 

 

「ライブの感想、言ってなかったな。まァ、最後は棒立ちはダメダメだったが、それ以外は良かったぜ、割と」

 

 

「――――」

 

 

「そォ、そのアホ面さえ無ければ合格だったンだがな。仮にもこの俺が毎週伴奏してやってたってのに、つまンねェミスしやがって」

 

 

「……ぅ、ぁ……」

 

 

「『次』の日曜は罰としてアカペラで一曲歌え。御得意のダンスもご披露してもらおォか?」

 

 

あぁ、やっぱり、意地が悪いな、この人。

いつもいつも突き放す様に皮肉屋な癖に、レッスンで失敗した時とかも何だかんだで優しかったりするけど。

 

こういう時に優しくされたら、溺れてしまいそうになる。

想いを手放す事なんて出来なくなる。

 

 

そんな『不馴れ』な手付きで撫でないで欲しい。

折角我慢してるのに、涙が出そうになるから。

なんでこんなに不器用な励ましで、簡単にその気になっちゃうのか、分からない。

 

諦められないじゃん、もう。

あの女の人に、負けたくないって、そう思ってしまうから。

 

 

 

「――ば、か……アイドルだよ、私……お金、取るよ……」

 

 

「はン、頭っからケツまでしっかり演りきってから言えやクソガキ。次、あンな不様晒しやがったら指差して笑ってやるよ」

 

 

「……逆に、貴重な所を見れたって思ってよ。もう、金輪際、あんな失敗しないから。それに、格好悪くても問題ないって言ったの、アンタだよね」

 

 

「クカカ、吹いたじゃねェか。まァ、問題はねェが、ダッセェ事には変わりねェよ。なンだ、そういうキャラで売ってくつもりか? オマエンとこのプロデューサーに同情するぜ」

 

 

「同情するならCD買って、私達に貢献して欲しいんだけど」

 

 

「厚かましい事抜かすンじゃねェよ。誰の影響なンだろォな、全く」

 

 

「お陰様で」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

代わり映えのない憎まれ口に、乱雑な皮肉が灯火を連ねて胸の内に広がっては、揺れていく。

撫でてくれていた掌の淡い感触が麻酔の様に広がって、彼の残り火に晒された顔は、鏡を見るまでもなく朱色を差し込んでしまっているだろう。

顔が赤いのは夕焼けの所為だなんて、洒落た誤魔化しなんて今更過ぎて言えない。

 

 

「……ねぇ、一方通行」

 

 

「なンだ」

 

 

「……星が綺麗だね」

 

 

「……」

 

 

 

 

黄昏の中に瑠璃色を滲ませる、生まれたての夜に浮かぶ星屑はとても小さい。

けれど、眩暈がするくらいに綺麗で。

それが少し、惜しいな、とも思う。

 

 

 

星屑が綺麗な夜は、月がいつも大人しい。

 

 

 

シニカルで鋭利な笑みが似合う気紛れ者と見上げる夜は、不思議といつも、星だけが瞬いていて、月明かりが少し寂しい。

 

 

――月が綺麗ですね。

 

 

そう言えない夜ばかりなのが、いかにも私らしいけれど。

 

 

 

「ねぇ、一方通行」

 

 

「なンだよ」

 

 

「私さ、負けるつもりはないから」

 

 

「……はァ?誰と闘ってンだよ、オマエ」

 

 

「ライブの時、一方通行の隣に居た女の人」

 

 

 

これは、宣戦布告みたいなモノ。

というより、最早告白にも近いのかも知れない。

けれど、それならそれで良いとも思える。

どちらにせよ、もう諦めるなんて私には出来そうにもない。

まだ、あの女の人とはスタイルも雰囲気も立ち位置も負けてばかりだけど、これから実績を積み重ねて強くなっていけば良い。

それに、これでも負けず嫌いだから、私。

 

 

「……………………そォいう事か」

 

 

「……う、うん」

 

 

妙に腑に落ちたというか、納得したというか。

長い沈黙の後にポツリと零して、頭痛を感じた様に眉を潜めて額に手を当てる一方通行の仕草に、諦めないと意気込んでいた癖に、早くも萎縮してしまいそうになる。

 

だって、これ、横恋慕するって言ってるようなモノだし。

ましてやアイドルと宣っている身分の人間が発言して良い内容なんかじゃないというのは、流石に分かってるけど。

 

しかし、何だろう、何か違和感を感じてしまう。

何か、ボタンを掛け違えているかの様な、そんな変な空気というか、雰囲気というか。

 

 

 

どうしたんだろうと思って、口を開こうとするが、それは耳にすっかり馴染んだ私のアダ名を叫ぶソプラノに遮られて叶わなかった。

 

 

 

「――しぶりん!!」

 

 

「……み、未央……それに、プロデューサーまで……」

 

 

「……はン、手回しの良い事で」

 

 

 

鋭く尖ったナイフで黄昏時の静謐を切り裂いた未央の声に弾かれる様に顔を向ければ、ダンスレッスンの時みたいに汗だくになって肩で息をしながら公園の入り口に立っている未央とプロデューサーの姿。

どうして此処にと呆気に取られる私とは違って、動揺する素振りなんて欠片も見せず、寧ろ彼らが此処に来たのは当たり前の事だと泰然とした様子の右側に、思わず瞠目する。

 

もしかして、未央達を呼んだのは一方通行なのだろうか。

でも、二人と面識なんてない筈だし、私と一緒に居た時からずっと、どこかに連絡を取っていた時間もなかった筈だ。

 

けれど、そんな私の憶測とは裏腹に、彼に良く似合ったカラカラとしたシニカルな笑い声を響かせながらベンチを立つ一方通行を見て、プロデューサーは明らかに狼狽していながらも、ペコリと一礼して、未央を伴って此方へと向かって来る。

 

 

「よォ、遅かったじゃねェかよ、オッサン。しっかりケツは叩いてやったのか?」

 

 

「……いえ、私に出来る事は彼女達と向き合って一緒に進んでいく事だけですので。それに、貴方の様に上手く叱咤を出来そうにはありませんから」

 

 

「……そォかい。で、此処に来たと」

 

 

「……えぇ、部長から連絡が入りまして、貴方の言う『私のファン』を名乗る方から、渋谷さんがこの場所に居るという情報を戴いた、と。まさか貴方まで居らっしゃるとは思いませんでしたが」

 

 

「フン……良い面になったモンだ、上等だぜオマエ。なら、後は任せる。そろそろ俺も帰って飯作らねェと、口の減らねェ軍犬に噛み付かれちまうからなァ」

 

 

「ちょ、ちょっと待って、一方通行!その、良く分かんないんだけど、色々と。いつの間にプロデューサーと知り合ってたの?」

 

 

「…………あァ、説明が面倒臭ェ。オッサン、オマエが説明しといてやれ。それと、ソイツが持ってる傘、オマエが忘れてたヤツな」

 

 

「……あぁ、これはどうも」

 

 

「いや、どうもじゃなくてさ……」

 

 

何というか、状況に全く付いていけない。

口振りから察するに一方通行とプロデューサーは知り合いみたいだけど、というか傘を忘れた云々のやり取りからしてつい最近会ってたみたいだけど。

 

じゃあ、この状況は一方通行によって導かれたって事なのだろうか。

いや、でもプロデューサーと未央が此処に居るのは、プロデューサー曰くプロデューサーのファンって名乗る人によるモノらしい。

けど、それなら一方通行の言う『プロデューサーのファン』ってどういう意味なんだろう。

 

状況が掴めなくて、頭が付いていかない。

それはどうやら私だけじゃなく、息を切らしながらもひたすらに困惑顔を浮かべている未央も同じらしい。

 

 

「……まァ、二つだけ説明しといてやるよ、クソガキ。オマエが見たっていうクソアマと、このオッサンのファンって名乗ってるバカは同一人物だ。オマエが勘違いしてるみてェだから補足しとくが、俺とあのバカはそォいう関係じゃねェ、ただの腐れ縁だ」

 

 

「……え」

 

 

あの綺麗な女の人と、プロデューサーのファンが、一緒?

というか、あの人、一方通行の恋人じゃないの?

じゃあ、さっきの宣戦布告は……自爆?

 

ガラガラと、何かが音を立てて崩れてしまいそうになる。

というか、もしかして私、とんでもなく恥ずかしい事してしまったんじゃないか、と。

それも、プロデューサーに八つ当たりみたいに突き放しておいて、その結果がコレ。

 

どうしよう、死にたい。

本気で心が折れそう。

 

 

そして、色んな意味で噴火してしまいそうに茹で上がった私の頭を気遣ってくれるほど、一方通行が優しさを見せる訳もなく。

寧ろ若干嗜虐的で蟲惑的な光を紅い瞳に灯らせて、蔑む様な笑みを浮かべるのは、流石としか言い様がない。

 

 

 

「ンで、もう一つ。これはあのクソアマから口止めされてたンだが、散々引っ張り回された仕返しも兼ねて、ソイツの肩書きを教えといてやるよ、オッサン」

 

 

「……肩、書き……あの、まさか……」

 

 

「ハッ、今度は察しが良いじゃねェかよ、プロデューサー殿。道楽気取って掻き回してくれたクソアマはなァ――」

 

 

それは、言ってしまえば仕掛けられたトリックの謎解きパートの様なモノなのかも知れないけれど。

こんな結末は、幾らなんでもあんまりだろう。

 

色んな意味で、私はその『クソアマ』さんとは仲良く出来そうにない。

 

 

 

 

――霧夜エリカ、346常務代理。

 

 

 

――オマエらの会社の上司サマなンだよ。

 

 

 

 

宣告された内容の無情さを物語る、プロデューサーのぐったりと煤けた背中が、とてももどかしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

___

 



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アンケート小説 後編『STARDUSTER』

深い深い、深海の底に似た色彩の紺碧を敷いた絨毯に、蒼と銀の雨雫を集めたなら、形のない命が泳ぐ天の川。

何万光年先に瞬いたスパンコールのギリシア神話達が語り継いできた、果ての無い星屑の舞踏会で踊る真珠色の大きな月の美しさにはどんな宝石で飾っても及ぶ事なんて無いんだろう。

 

 

潔癖の大地を照らす荘厳な月光に、夜露に濡れて流れそうな涙さえ、星になって空に咲いてしまいそうなその夜空には、ヒトカタが届ける詩なんて、不釣り合いなのかも知れないけれど。

 

それでも、華々しい巨城に備えられた一画の、絢爛なバルコニーの細く頼りない手摺に腰掛けて、ギター1つ、奏でて青白い月を口説いている歌うたいの背中は、あまりに綺麗で、あまりに遠い。

 

 

『────』

 

 

場内に流れる悠大なオーケストラにも、多くの美食家を唸らせる程の豪勢な食事にも、吊り下げられた幾つものシャンデリアの下で、手を取り合って踊る人々にすら、見向きもしない。

 

 

サファイアを嵌め込んだ白銀のティアラと、ララバイブルーのドレスと、硝子の靴。

こっちを向いてと、私を幾ら着飾っても、変わり者の真っ白な王子様は此方へと振り返ってはくれなくて。

 

 

けれど、貴方の細長い腕に触れる事も、貴方の華奢な背中に身体を寄せる事も、貴方の薄い唇にキスをする事も出来なくて。

後ろ姿を眺めているだけで幸せだからと嘘も付けずに、王子様がロマンスに誘う、手の届かない月へと口を尖らしては宙を見上げるだけ。

 

せめて、あの物言わないお姫様一人に、彼の歌を独り占めになんかさせないという強がりだけが、精一杯。

 

 

でも、白銀のお姫様は、彼を見下ろしてはただ微笑むだけしかしてあげられないから。

御伽噺のように、彼を幸せにはしてあげられないから。

だから、見上げてばかりいる儚い背中を支えてあげたいと思うのは、きっと、我が儘なんかじゃないんだと。

 

 

 

 

 

やがて途切れる貴方の詩を聴き終えて。

『彼女』では寄り添えない王子様の隣へと、ゆっくりと歩み寄って。

不思議そうな顔をする彼へと、私はこの言葉を贈るんだ。

胸に灯る、確かな想いと共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──月が綺麗ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

──

 

『STARDUSTER______星屑に歌う人』

 

──

────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──優しい匂いがする。

 

 

 

 

 

夜空を切り裂く流星の様に鳴った弦の余韻が、白霧に微睡む光の手を引いて、苦笑混じりに輪郭を浮き彫りにした彼方へと導いてくれる。

 

 

 

──何だろう、フワフワしてる、不思議な感じ。

 

 

流麗にざわめいた夜の吐息と、風花の揺れる甘い声と、命泳ぐ川のせせらぎが、ふやけた聴覚を促して。

 

 

──でも嫌じゃない。このままじっとしてたい。

 

 

酷く心を落ち着かせてくれる右側の熱に頬を寄せて、顔を逸らして鼻を擦り付けてみれば、鼻腔に広がる仄かな洗剤の香りと、日溜まりの残り香がとても心地良い。

揺り籠に揺られているかの様な安堵が、青銅色の錨を下ろして、意識の底に伝う微睡みへと導いている。

 

けれど、再び深層の眠りへと誘われていく錨を繋げた鎖は、躊躇いのない、気遣いもない、霞み掛かった白い掌に呆気なく遮られた。

 

 

「さっきから擽ってェンだよオマエは。飼い主がペットに似て来てどォすンだオラ」

 

 

「ぅ、ん……?」

 

 

過分に呆れを含んだテノールと、紡ぐ度に耳元へと掛かる微熱混じりの吐息が不確かな意識の中でもはっきりと感じられるくらいに艶かしくて。

背筋を這う蟲惑的な何かに促されて反射的に身動ぎしながらも、光を嫌った視界が、私の意思から離れて、どんどんと抉じ開けられる。

 

そして、視界一杯に届いた赤と黒の歪んだ二色のチェックに内心で小首を傾げつつ、するすると焦点を上へ上へと持ち上げれば、麗銀の雪景色と、紅い双子月が鬱陶しそうに私を見下ろしていた。

 

 

近い。

とても近い。

暖かい。

というか肌が綺麗過ぎ。

誰だろう……あ、さっきの王子様だ、この人。

 

ん?待って、ちょっと落ち着こう。

いや、王子様って何。

これどう見ても一方通行だよね。

私が鼻くっ付けてるこれ、この人の腕じゃん。

なんでこんなに近いの。

良い匂いする。

そうじゃない、そうではなくて。

 

 

「ぇ……………………っだぁっ!?」

 

 

「女にあるまじきリアクションとってンじゃねェ……ンで、耳元で叫ぶな、喧しい」

 

 

「なっ、あ、いや、その……えっ、えっ!?」

 

 

「……なンなンですかァ、人の腕を枕に爆睡決めこンどいてバカみてェに騒ぎやがって。何、今度バラエティにでも出ンのかオマエ」

 

 

「いやそんな予定は……って、ば、爆睡? あ、もしかして私、眠っちゃってたりした?」

 

 

「盛大にイビキかましてたら動画に撮って、346に匿名で流してやろォと思ったぜ、全く。お蔭で左腕が痺れちまった」

 

 

「そ、そんなのプロジェクトの皆に見られたらなんて言われるか……というか、その、ごめん、腕……そんなに長いこと寝てたの、私?」

 

 

「まァ……大体三十分くれェか」

 

 

「三十分……」

 

 

顔が熱い。

いや、熱いなんてものじゃない、目の奥にちっちゃな太陽でもあるんじゃないかって思うぐらい、息苦しい。

いつ眠りに落ちたのかも上手く思い出せないけれど、ずっと長いこと彼の左腕を枕代わりに居眠りをしてしまったらしく、半端じゃない羞恥心に胸の鼓動がガンガンとビートを刻んでいる。

 

だって、仮にも異性で、しかも少なからずそういう色のある感情を向けている相手に寄り掛かって無防備に寝顔を晒してしまったし、起き抜けでボーッとしていたとはいえ彼の腕に頬を寄せたり、鼻先を擦り付けたり、匂いも嗅いだりしちゃったのは非常に拙い。

無意識だったとはいえ、否、無意識だったからこそ余計に恥ずかしいし、あんな小学生でも見なさそうなメルヘンチックな夢まで見てしまうのは、レッドカードを三枚も突き付けられるレベルでアウトな行動だと思うのだ、女子高校生としても、アイドルとしても。

 

 

一ヶ月前、勘違いの末に半ば告白染みた宣言までしてしまったあの日から、別の意味で顔を合わせるのに色んな葛藤やら羞恥やらを清算し切れたばかりなのに。

今までは拳一つ分の、一方通行と私の定位置に馬鹿みたいにやきもきしていたのが、三週間前ではベンチの隅と隅に大きく離れて座り、先々週ではベンチの隅と真ん中、先週では学生鞄一つ分のスペースまでゆっくり埋めて。

そして今日、やっと今までと同じくらいの近くまで近付けた距離が、 また端っこと端っこ、棒磁石の両極くらいまで綺麗に離れてしまった、主に私が飛び退いてしまった所為だけど。

 

 

居たたまれない羞恥の熱で、ベンチの隅で膝を抱え込んだままの変な体勢で顔を埋めながらも、なるべく表情を気取られない様に膝と腕の間から、反対側に座する彼の様子を盗み見た。

けれど、まぁ、何だかんだで少し期待していたりするそれっぽい反応を一切取ることなく、痺れたと訴えていた腕をプラプラと振りながらも、器用に片手だけでクロスで磨いた弦の調子を確かめている静かな横貌に、少しムッとしてしまう。

 

自らが勝手に晒してしまったとはいえ、仮にもアイドルの寝顔を目にしたなら、もう少しそれらしいリアクションを取ってくれても良いだろうに。

色々と醜態を見せてしまった間柄だし、おいそれと私の期待する反応を示してくれる相手では無い事ぐらい嫌でも理解出来ているけれど、さして意に介してないとでも謂わんばかりの白々しい白貌が、胸を痛ませる。

 

 

「寝てる間、何かしてたりしないよね? どっか、足とかに触ってたり、とか……」

 

 

「はァ? まァだ寝惚けてンのか。ンな訳ねェだろ、謝ったり問い詰めたり意味分かンねェなオマエは」

 

 

「…………別に。まぁ、セクハラしてたらプロデューサーに言い付けてやろうと思っただけだよ」

 

 

「はン、色気もねェメスガキ風情が何言ってンだ阿呆。ンな事言われても、寧ろのあのオッサンが困るだけだろォに。アイツも苦労してンだろォな、こンな訳分かンねェガキみてェな奴等の面倒見にゃならンとかよォ」

 

 

「……ふん、確かに迷惑掛けてる自覚はあるけどさ。でも、プロデューサーは優しいから。どっかの誰かさんと違って意地悪な事も言わないし」

 

 

「クカカ、ソイツは重畳」

 

 

「……むかつく」

 

 

意味、分かりませんか。

訳が分かりませんか、そうですか。

そういう分かってない振りを止めて欲しいと言えれば、どれだけ楽になるんだろうか。

 

ある程度、覚悟していた事だけれど。

ケチがついてばかりなのに、取り戻せない矜持の破片に胸に手を当てては感情の糸を繋ぎ止めるだけしか出来ていないのは、碌に恋もして来なかった事への、私が蔑ろにしてきていた事への意趣返しにも思えてしまう卑屈さが余計だ。

 

 

「疲れてンのか、最近」

 

 

「え?」

 

 

「仕事、増えて来てンだろ、テレビに出るだとかプロジェクトのイベントに駆り出されるだとかで。努力すンのはオマエの勝手だがな、さっきみてェな無様を余所で晒す前に『息抜きの仕方』を考え直してみたらどォだ」

 

 

「……息抜き、ちゃんとしてるつもりだけど。此処に来るのもそうだし、仕事だってきちんとこなしてる。今回寝ちゃったのだって、リラックスしてたからついウトウトしちゃったからなだけだし」

 

 

「……はン、そォかよ」

 

 

「――ッ……何、もしかして心配してくれてるの?優しい所あるじゃん。それだったらさ、良い加減スクーターの後ろ乗せてよ。カーネーションだってちゃんとサービスしたんだし」

 

 

「調子に乗るンじゃねェよ、後ろ乗っけてさっきみてェに爆睡されると洒落にならねェ。諦めろ」

 

 

「だからさっきのは偶々だって言ってるじゃん。あぁ、そうですかそうですか、一方通行は約束一つちゃんと守らない男なんだね」

 

 

「やっすい挑発だな」

 

 

見抜かれているんだろうか、やっぱり。

 

アイドルと一口に言っても単に歌って踊れれば良いと云うものではないし、無論、ボイストレーニングやダンスのレッスンからメディア広告、イベントだったりと日に日に増して密度が濃くなっていく一日に、目に見えない疲労は幾らでも募ってくる。

少なくとも、さっきみたいに無防備な姿を一方通行の目の前で見せてしまうぐらいには。

 

プロジェクトのメンバーである以上、仕事に手を抜くなんて出来ないし、その成果に応じてどんどん与えられる仕事も増えて来ているのは、本来ならば喜ぶべき事なんだろう。

本音を言えば、少し無理をしていると思う、自分でも。

週に一度とはいえ、こうやって一方通行に会いに来るのも、段々難しくなって来ているのは紛れもない事実だ。

 

見抜かれているんだろうけど、でも、だからといってこの時間を手放すなんて、今の私には無理だ。

息抜き、なんてものじゃない。

私にとっては、もっと大事で、大切で、貴重なモノなんだ、この一時は。

 

だから、こうしていつも、我が儘を重ねるだけの夜を通り越してしまう。

必要以上に彼に寄り掛かってるという自覚からも。

自分を切り捨てさせようと諭す、彼の視線からも、目を逸らして。

 

 

 

――

―――

――――

 

 

 

 

この後少し、お時間宜しいですか、と。

 

いつもの日曜日、いつもの川辺で、いつもの憎まれ口とギターの音色を、今日も聴きに行こう、と。

レッスンですっかりクタクタになってしまった身体に鞭打って、帰り支度を終えた私をそう呼び止めたのは、相変わらず堅い表情に何処か戸惑いを貼り付けているプロデューサーの一声だった。

この前の一件で、案外この人は繊細な内面をしているんだと理解出来て、私や、他のプロジェクトのメンバーとも結構明け透けに話す様になった彼が、分かり易いほどに含みがちな態度を取ることは最近では珍しい。

 

何か仕事でトラブルを起こしてしまったのだろうかと一瞬目の前が暗くなりもしたが、特に思い当たる節もない。

それも、その場に居たニュージェネレーションのメンバーの中で、私だけというご指名。

心配そうに気遣ってくれる二人を宥めて、何となく胸騒ぎを覚えながらも、先導するプロデューサーの大きくて高い背中に導かれて辿り着いた漆塗りの清整な扉を前にして、不安はどんどん膨らんでいった。

 

 

『第二会議室』

 

 

シンプルな書体で刻まれたセラミックのドアプレートから伝わる厳粛な雰囲気が、何故こんなにも胸中を騒ぎ立てるのか。

たった五文字の素朴な文字に変に気圧されてしまって俯く私を余所に、どこか機械染みた動作で扉をノックするプロデューサーの声も、何だか緊張しているみたいで、余計に落ち着かなくなってしまう。

 

 

――けれど。

 

 

失礼します、と重々しく扉を開いて会議室へと足を進めるプロデューサーに続いて入室した私の目の前に飛び込んで来た人物の姿に、落ち着かないどころか、頭が真っ白になってしまったのは、それほどに予期していなかった人物だったからなのだろう。

 

 

「あら、早かったじゃないの、プロデューサーくん。貴女の方は、一応はじめまして、って事で良いのかしらねぇ、渋谷凛ちゃん?」

 

 

「――あ、あの時の……一方通行の隣に居た……」

 

 

日本人離れした美白に華やかな金のブロンド髪、同性異性問わず纏めて魅了してしまいそうな容姿は、多分どれだけの時間を経ても忘れる事なんて出来そうにもないくらい、私の網膜に焼き付いている。

座り心地の良さそうな黒革のハイバッグチェアに腰掛けているというよりも、乗りこなしていると表現しても過言じゃないくらいに斜に構えて、此方を眺める怜悧なアイスブルーの瞳に、纏まらない思考で吐き出した言葉は突発的で礼儀知らずなモノになってしまう。

 

 

「ちょっとぉ、その覚え方は素直に喜べないわね。それじゃ私がアイツのオマケみたいじゃない。これでも一応、貴女の上司になるんだけど?」

 

 

「……ぅ、あ……す、すいませんでした」

 

 

「……申し訳ありません、霧夜常務。渋谷も突然の事で動揺しているらしく……これは彼女にきちんと説明しなかった私の責任でありますので」

 

 

「冗談よ、お堅いわねぇ二人共。それと、プロデューサーくん……私は代理だからね、代理。そんな肩肘張らなくたって、適当で良いわよ適当で」

 

 

悠々自適というか、常務代理なんて肩書き背負っている割にはまるで近所の隣人みたいな気軽さでヒラヒラと投げ遣りに手を振る常務代理さんは、見るからに年若い。

多分、プロデューサーより私とかの方が近い年齢なんじゃないかと思わせる美貌は、この人こそアイドルになった方が良いんじゃないかと贔屓目なしに思わせる程で、彼女を初めて目にした時は遠目がちにも綺麗な人だと思ったけれど、こうして対面にすればより一層、その眉目秀麗さを実感出来る。

 

そう、私よりも、よっぽど一方通行の隣に並ぶのが相応しいんじゃないかと、改めて再確認出来るくらいに。

 

 

「……その、改めまして……私は渋谷凛です。さっきは失礼な真似をしました」

 

 

「んふふ、可愛いわねぇ、キミ。じゃ、こっちも改めてまして。私の名前は霧夜エリカ、あのツンデレ兎から聞いてるとは思うけど、346プロダクションの常務代理で、キリヤコーポレーションの令嬢、とでも名乗っておきましょうか。常務代理じゃ長いから、霧夜でもエリカでも好きに呼んじゃって良いわよ」

 

 

「はい……その、霧夜さん…………ツンデレ兎って……もしかして、一方通行の事ですか?」

 

 

「そうそう、だってアイツ見た目は白兎そのまんまだし、寂しがり屋な癖にツンツンしてるじゃない?だからツンデレ兎」

 

 

「……ツンツンしてるってのは分かります、けど……寂しがり屋、なんですか、あの人……」

 

 

「……あら、意外? まぁ、凛ちゃんみたいな年下相手には尚更澄ました態度を取ってそうだもんねぇ。あぁ見えて結構そういう所あるのよ、アイツ」

 

 

「そう、なんですか……」

 

 

腐れ縁、形容するならその言葉が妥当だと語っていた一方通行から、霧夜エリカさんの事はある程度は聞いていた。

 

あの世界有数の大企業キリヤコーポレーションの令嬢であるという時点でもとんでもないのに、そう私と離れてないくらいの年齢でありながら代理とはいえ346プロダクションの常務という高い地位に就いていると彼の口から聞いていたが、やっぱり百聞は一見にしかずという事なんだろう、こうして霧夜さんを目前にしても、未だに信じ難いと思ってしまうけれど。

でも、一方通行を寂しがり屋だと評する彼女の口振りからして、一方通行と霧夜さんの付き合いの長さを裏付ける目に見えないモノを感じ取れてしまって、失礼な話、そっちの方が私にとって衝撃が大きい。

 

ツンデレというか、素直じゃない性格には正直同意出来るけど、寂しがり屋なんて所は、私にはまるで感じれなかった。

人によって評価なんて様変わりするモノだと分かっていても、私が知らない一方通行を、霧夜さんは知っているんだというその事実が、こんなにも悔しい。

 

明確な距離の差を感じて尻すぼみにフェードを落として気落ちする私は、よっぽど分かり易いんだろう。

会議室のタイルの白線へと伏し目がちに焦点を落として俯いた私を覗き込む様なにんまりとしたチシャ猫の笑みが、揶揄い気味に喉元の鈴を鳴らしてみせた。

 

 

「思ったより分かり易い娘ねぇ。絵に描いた様なリアクションしちゃって……良いのかにゃーん?プロデューサーくんがさっきから凄く気拙そうにしちゃってるけど」

 

 

「……え?」

 

 

「――常務代理。その、私は席を外した方が宜しいのではないでしょうか」

 

 

「だーめ、ちゃんと此処に居なさいな。プロデューサーなら尚更、こういう事から目を逸らしちゃ駄目よ。貴方の手掛けるアイドルなんでしょ、凛ちゃんは」

 

 

「……そう、ですが、しかし」

 

 

「――向き合うんでしょ? なら、都合の良い部分も悪い部分も、しっかりと向き合いなさい。じゃないと周りは着いて来てくれないわよ?」

 

 

「……はい」

 

 

声を荒げている訳でもないのに、静脈を押さえられているかの様な静かな諫言に、俯かせては曲がってばかりの背筋を反射的に正してしまう。

プロデューサーに向けられた言葉の意味を噛み砕くよりも先に身体に反応させる辺り、年若いながらに重役に就く偉業を成している人なんだと知らしめる程のカリスマは伊達なんかじゃない。

 

でも、素直に感嘆している立場じゃない事くらい、私にも分かる。

不明瞭な気持ちに駆られながらも潜った会議室の扉、あの時に感じた不確かな胸騒ぎが、厚雲に隠されていた月の様に徐々に浮き彫りになっていく。

 

 

「……さて、本題に入りましょうか、『渋谷凛』さん――ぶっちゃけアイドルって恋愛しても良いと思う?」

 

 

「……ッ」

 

 

単刀直入、加減の一切もないストレートな問い。

別に良いんじゃないのか、恋愛なんて個人の自由、誰かに口を出されるモノでもないし、誰かが身勝手に押し入って掻き乱して良いモノでもない。

きっと以前の私なら……プロデューサーにスカウトされる以前の私ならば、特に何の感慨も無く、そう答えていたんだろう、答えれていたんだろうけど。

 

その気持ちは今も昔も、根底では変わってなんかいない。

例えアイドルでも人間だし、恋だってしてしまうモノだ。

しようと思って簡単に出来るモノじゃない。

気が付けば堕ちていて、自分じゃどうする事も出来ない儘、持て余してばかりな癖に、切り捨てる事も出来そうにない感情なんだから。

現に、そうなってしまっている私にとっては、それが紛れもない真実だから。

 

 

「……私個人として、は……しちゃダメな恋愛なんて無い、と思い、ます。というか、ダメだって思っても、諦めなくちゃって思っていても、どうする事も出来ないし」

 

 

「……ま、確かに、好きになっちゃったもんはどうしようもない、そこは同意してあげれる――けど、そんな簡単に割り切れる問題じゃないのは分かっているんでしょ?」

 

 

「…………は、い」

 

 

「そう、確かに、個人としてならそれでも良いでしょう。でも、アイドルという立場である以上、そこにはプロダクションがあってプロジェクトチームがあって、組織的な責任が発生するのは当たり前。ましてや、メディア露出も兼ねてる商売なんだから、自由気儘に、なんて開き直りは通用しない」

 

 

「……」

 

 

「貴女が人気になりファンが付いて需要が高まっていく程、責任が比例して重くなっていくのは当然よね。ましてや貴女はウチが掲げるプロジェクトの先鋭、貴女の問題はプロダクションだけじゃなく他のメンバーにも付いて回る。まだ実感は無いかも知れないけど、アイドルの『渋谷凛』を認知してくれている人だって、貴女の想像以上に増えて来てるのよ」

 

 

「……それは」

 

 

それは分かってる、充分に実感している。

通ってる学校でも良く話題にされている事だし、ファンになってくれた人達だってクラスに居るし、実家の花屋にも、私目当てで訪れてくれる人達だって増えて来ている。

日々、プロデューサーから与えられる仕事をこなしていく度に増えて行くその実感は私にとって貴重だし、素直に喜ばしいと思えるぐらいだけれど。

 

でも、その分、色んな苦労は増えた。

 

学校の校門で出待ちしている男の人が居たり、ふとした拍子に視線を感じたり、ハナコの散歩に出掛けた際には後を付けられたりする事も度々あった。

一方通行の居るあの川辺へと向かうのにも帽子を被ったり、ハナコを連れて行く事も出来なくなったりと、苦労が増えてしまっている。

 

 

つまり、それがアイドルとしての、責任というモノなんだろう。

華やかな道ばかりが広がっている訳じゃないのはこの前の一件でも身に染みている事だし、これから先、幾重もの不自由と理不尽を味合わなければならないのは、目に見えている事で。

だからこそ、それを安易に分かっていると口にする事は憚られる。

それは、つまり。

 

 

 

「……焦らすのは嫌いじゃないけど、私は此処に遊びに来てる訳じゃない。代理とはいえ仕事は仕事、常務という立場である以上、はっきり言わせて貰うと――アイツと、一方通行と会うのは止めときなさい」

 

 

「――そ、んな……」

 

 

「霧夜常務、それは……」

 

 

「残念だけど、アイドルの業界なんてプロダクション皆が和気藹々で仲良くなんて出来る世界じゃない。ましてウチは規模も他と比べてデカイし、顔も広い。足を引っ張ってやりたいと思う他のプロダクションなんて幾らでもいる。ましてアイドルフェスも間近に差し迫ったこの時期に分かり易いスキャンダルなんて喉から手が出る程欲しいくらいでしょうね」

 

 

「……だから、もう、あの人と会っちゃ駄目だって……そう、言うんですかッ」

 

 

「まぁ私個人としては好きにすれば良いと思うけどね、正直。でも、周りはそうはいかない。例え知名度が低くてもスキャンダルはスキャンダル、ましてや346プロダクションが力を入れてるプロジェクトのメンバーともなれば、影響は意外と大きいのよこれが。貴女一人の責任に出来るもんならそうするけど、その影響は貴女のプロジェクト全員にも充分に与えられる事になる。物分かりの良いファンばかりなんて都合の良い事も無いでしょうしね」

 

 

理路整然に並べられる、起こりうる損失は決して悪く見積り過ぎているという事は無い。

充分に考えられる暗い未来、最悪の可能性。

一方通行と会うだけでも発生してしまうリスク、そしてそこから連なるプロジェクトの皆への影響だって勿論あるだろう。

心の何処かでは分かっていたけれど、なるべく考えないようにしていた事をこうやって改めて突き付けられて、私の考えの甘さに押し潰されそうになる。

今までは大丈夫だったかも知れないけれど、これから先も大丈夫だなんて保証は何処にもないのだから。

 

 

 

恋をするだけで精一杯だった、たかだか15歳の想像の限界。

 

 

アイドルは、夢物語なんかじゃない。

魔法一つで得られるドレスもないし、硝子の靴もない、それらを手に入れるのだって相応の努力が必要だって事を、私でさえ、もう身に染みるほど経験している。

卯月のあの笑顔も、皆の必死な努力も、プロデューサーの頑張りも、全て無駄になってしまうかも知れないのだ。

 

 

私の身勝手一つで。

 

 

瞳孔さえ開いてしまいそうな程の息苦しさと、再確認させられた責任の重さに真冬の空の下に放り出された様に肩が震えてしまう。

両手の指先が白く血の気を失うくらいにキツくスカートを握り締めて、何も言い返せないで混迷にうちひしがれる私を苛む様な無音が全身の力を強張らせていく。

 

 

けれど、ふと肩の力を抜いた様な霧夜常務の溜め息に誘われて顔を上げれば。

苦笑混じりの、どこか気遣いがちに揺れるロシアンブルーが目を細める仕草が、あの人の仕草と重なって。

 

 

 

「……とまぁ、あくまで常務代理としての建前はこんなとこかしらねぇ。でも、私個人としては凛ちゃんの恋路、結構応援してたりするのよ、これでも」

 

 

「……え?ど、どうしてですか?」

 

 

「んーまぁ、いつまでも女泣かせ気取ってるあの馬鹿に良い加減お縄に付いて貰いたいってとこね。アイツが凛ちゃんに傾いてくれれば私としてもメリットあるし……ちょっと腹に据えてるとこもあんのよね、一方通行に対して」

 

 

人を食った様などことなく飄々としたチェシャ猫の笑みを転がして席を立ち、会議室の窓際へと歩み寄ったスーツ姿の麗人の背中に少しばかりの哀愁を感じたのは何故なんだろう。

窓の外、徐々に茜を薄めていくのっぺりとした夕闇に逆らって大地に咲いた人工の星屑を見下ろしながら、錯綜する何かを静かに噛み締めている横顔が、幽かで儚い。

 

設問して追い詰められたかと思えば本音と虚構を織り交ぜた様にも感じ取れる台詞に翻弄されてしまって、どう考えを纏めて良いのか分からなくなる。

これは所謂、女の勘と言うべきものなんだろうか、霧夜常務が一方通行に対して、確執に近い何かを抱えているんだと言う事は理解出来た。

 

私の恋路を応援している、という甘い言葉を、素直に鵜呑みにする事は出来なかったけれど。

 

 

「……ま、私個人から凛ちゃんに言える事は、後二つが精々ね。まず一つ、その想いを貫きたいなら、覚悟をしなさい。アイドルとしての道、その過程で出来た仲間、色んなモノを『失う』覚悟を、ね……」

 

 

「…………」

 

 

なんでなんだろう。

金糸を束ねた美しいブロンドの横髪の毛先を指先で弄りながら言う霧夜常務の微笑みがとごか苦々しく、古傷を自分の手で広げている様な痛々しいとも映ってしまったのは。

生半可な同調なんかじゃなくて、自分が辿ってきた道で遭った、彼女にとって手離したくなかった何かに触れている様な、まるで経験談みたいだと思えたのは。

 

 

霧夜常務は、失ったんだろうか。

それとも、『覚悟』が出来なかったんだろうか。

彼女にとっての、誰かへの確執が、首をもたげて輪郭を帯びて浮かんでいく。

 

霧夜常務は、私はどうして欲しいんだろう。

 

どこか他人事みたく呟いた問いは、こうして対峙しているのにも関わらず、ふわふわと地に足付かない思考の中でひっそりと埋もれてしまう。

 

 

「……そして、もう一つ。早いとこ当たって砕けてみた方が良いわよ。あのツンデレ兎、『逃げ足がとんでもなく早いから』」

 

 

「――ぇ」

 

 

逃げ足が早いって、どういう事。

逃げるって、誰から逃げるつもりなのか。

 

耳を塞ぎたくなる、目を閉じてしまいたくなる霧夜常務のもう一つの言葉の意味を、理解出来る癖に、理解しようとしたがらない。

 

思い返したくもないのに、そっと隙間を縫う様にリフレインする、先週の日曜日での、一方通行が零した何気ない言葉。

酷く胸に突き刺さった壗、痛みを振り払いながらも有耶無耶にして誤魔化した言葉。

 

 

 

 

――息抜きの仕方を、考え直したらどォだ。

 

 

 

 

だって、それは、まるで。

 

もう来るなと。

もう自分とは会うな、と暗喩しているみたいで。

そんなの、彼らしくない、分かり難い切り離し方で。

だから只の気の所為だって、悪い考え方をしているだけだって、そう言い聞かせていた筈なのに。

 

 

「っ、ごめんなさい、もう、話は終わりですかっ」

 

 

「うん、終わり――行ってらっしゃい」

 

 

 

彼に、一方通行に会わないと。

会って、確かめないといけない。

霧夜常務の言う覚悟なんて、全然決まってないけれど。

 

持参している通学用の鞄を手にとって、返事も聞かないで会議室の出口へと、一方通行の居るあの川辺へと、グチャグチャになってしまった思考の儘に向かって駆け出した私には、気付く事なんて出来なかった。

 

 

――貴女は、後悔しないようにね。

 

 

そう呟いて、懺悔する様に瞼を閉じた金色の麗人の姿に。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

窓の外、欠け落ちた月のカーブが所詮は他人事だと構える様に見えて、非生産的な苛立ちを覚えるのは、余裕がない証拠なのだろう。

カチカチと控え目に鳴る電飾の音だけが木霊して、居心地の悪い静寂を一層際立たせる。

形だけの格好を保った足取りで腰を下ろして背を預けたハイバッグチェアが、こんな時ばかり冷めていると感じるのは差し詰め、未熟な部分を突き付けられているかの様で。

鈍痛を堪えて吐き出した溜め息は思いの外大きく、参ったなと頭を抱えたくなった。

 

 

「納得行かないって顔ね」

 

 

「……これで、本当にこれで良かったのですか。これでは余りに性急過ぎると思うのですが……」

 

 

「性急過ぎる、か。なら私は遅かれ早かれ、と返しましょう。いずれ直面する問題なら、解決は早い方が良いと思うわよ。各々何事も、すべからくそうではないけれど」

 

 

 

理解は出来ていても、納得は出来ない。

というよりは現実を突き付けるにしても、もう少し彼女に時間を与えてやれなかったのかと思っているのだろう。

これではあまりに性急、という彼の言い分が分からないでもないが、恋物語の終焉が演者の感情に歩幅を合わせてゆったりのんびりと顔を出してくれる筈もないのだ。

 

論より証拠。

やけに苦しく感じる胸元のスーツポケットから取り出した、現像仕立ての数枚の写真をアクリルの滑らかな会議室の横長テーブルに並べれば、ほら、如何にも終わりの足音を聞き届けた男の顔が歪んだ。

 

 

「……これ、は」

 

 

「最近の雑誌記者は結構いい腕してるわね、綺麗に撮れてるでしょ、これ。先週、これを撮られた当日に件の『色男さん』から受け取ったモノよ。346の内情はまだ完全に把握出来てないんだけど、中々に敵が多いみたいじゃない」

 

 

「先週……ですか。しかし、色男……という事は、彼がこれを貴女に……?」

 

 

「えぇ、『嗅ぎ回ってた鼠を取っ捕まえて取り上げた』らしいわ。お姫様が眠っていた間だったから、彼女はまだ知らない事らしいけどね」

 

 

「……」

 

 

感傷ではない、ほんの少し巡り合わせの女神様とやらにコイントスを仕掛けたくなっただけ。

きっと渋谷凛に対して何の感慨も無いのなら、彼は何も告げる事なく彼女の前から姿を消すという選択肢を選んだ筈だ。

そしてその後にエリカへこの写真を見せれば、万が一、凛が直接一方通行に逢おうとしても、霧夜エリカが常務代理としての立場を持ってその行いを封じるという簡易な未来図を描ける。

 

けれどそれを選ばなかったという事は……あの傷付きたがりの愚か者は、終わらせてあげる道を選んだ、という事に他ならなくて。

 

『ちゃんと恋に敗れさせてやる』

 

 

彼が心の何処かで『恐れて』いる筈の傷を、痛みを堪えながらもその道を選ぶという事は、一方通行にとって渋谷凛という存在は決して小さなモノではないという証明に他ならないから。

 

 

だから、霧夜エリカはお望み通り、舞台だけを用意する。

恋に敗れた少女が、シンデレラになる事に、魔法の馬車も硝子の靴も要らないから。

 

 

 

「……でも、その果てが決して悲しみばかりに溢れている程、単純なモノでもないのよ。だから、ふふ……『春が来た』だなんて呼ばれ方、するのかしらね?」

 

 

魔法の馬車も硝子の靴も要らないのなら。

12時を告げる鐘の音に、怯える必要もない。

 

そこから先は、彼女が選ぶ事。

 

 

 

────

──

 

 

 

 

 

大気圏の向こう側、黒にも蒼にも茜にも幾重に溶けるオブラートを挟んだ空の先の宙。

星霜を散りばめた大きな夜のカーテンは泣きたくなるくらいに明るくて、電気石交流の照明群が無くても、向こう岸の誰かの表情さえも良く見える筈なのに。

 

 

ベンチの背凭れに重心を預けて、寄り掛かり気味に座りながら夜空もすっかり見上げ馴れて、首が痛くないのかと尋ねたくなる白のシャープな輪郭ばかりが目に付いて、滲んで、その裏側が読み取れない。

三日月みたく顎を傾けて、その細長い指先は開かれていないギターケースの取っ手に甘く添えられている。

言葉にされなくとも、上げられないコンサートのカーテン、そして演目の終演を物語っているのが理解出来たのが、何より痛かったから。

 

 

何度も道行く人にぶつかりそうになりながらも、涙で視界が滲みそうになりながらも、ノンストップで走り抜けた所為で悲鳴を上げている心臓の鼓動。

耳の奥で脈打ち続ける其処が一際大きく跳ねたのは、もう終わりなんだと物語る彼の真意に気付いてしまった私の迂闊を呪いたくなった女としての本能なのだろうか。

 

 

 

「──よォ、早かったな」

 

 

「──ッ」

 

 

淑女の風上にも置けない荒く息を乱す私の姿に気遣う訳でもなく、いつもの皮肉をくれる訳でもなく、微かに痛みを堪える様な歪で繊細な微笑みは、最後のなけなしの余裕を奪った。

噛み締めた奥歯の感触だけがやけに鮮明で、どう脚を動かしたかも分からない。

ただ気付いた時には、温もりに飢えて凍える子供みたいに、肉付きの薄い癖に甘い感触ばかりを流す男の胸元にしがみついていた。

 

 

「なんで……なんで駄目なの。おかしいよ、なんで私の前から居なくなろうとするの。何があったの、答えてよ、一方通行!!」

 

 

「……少しはガキ臭さも抜けて来たかと思ってたンだが、これじゃあ駄目だなァ、全ッ然駄目だ。ガキみたいに喚き散らしやがって、幼児退行してンじゃねェよ」

 

 

「答えになってない! でも、そう、そうだよ……私は子供だよ、大人ぶりたいだけの只の子供なんだ!! だから、我が儘くらい聞いてよ! 子供扱いでも良いから、誤魔化さないで教えてよ!」

 

 

ドラマのようにしたいだけの、どうとでもなる気持ちは当の昔に落っことしてしまったから。

知らない誰かの気休めにされるだけの綺麗な別れ方なんて知らない。

恋の正しい引き際よりも繋ぎ止めたい右側に我無者羅が、私の居住を求めてばかりの真っ白な空城へとぶつけられる。

 

 

「……あのクソ女狐、省きやがったか。何考えてやがる」

 

 

「何それ、霧夜常務の事?……ま、まさかあの人が……?」

 

 

「本来ならそうなる『予定』だったンだが、憎まれ役はご免って事だろォよ。チッ、随分買われてるみてェじゃねェか、オマエ」

 

 

「……私、が……買われてる?」

 

 

「オマエの『物分かりの悪さ』を認めてンだろォよ……なァ、『渋谷凛』。オマエは何の為にアイドルになった?」

 

 

「──」

 

 

理解が及ばない、きっと霧夜常務と一方通行にしか分からない様な薄氷の上のやり取りや牽制は、私を間に挟む癖に、私だけを弾いている。

それが気に入らなくて、そんな些細な事にまで嫉妬して、握り締めていた一方通行の黒いジャケットの胸元の生地が、掌の中で不協音を泣き叫ぶ。

 

 

けれど、意地の悪いテノールボイスは何処か真摯な響きを孕んだまま耳の奥へと滑り込んで、不意につかれた私の原点を、白い指先が優しく弄んだ。

 

 

「……俺に見て貰う為か?」

 

 

「……」

 

 

違う、と心の奥底は叫んでいるのに、音には出来ない。

きっと季節外れの狂い風にすらあまりに簡単に掻き消えてしまうそれは、嘘の様に軽く、嘘だから軽く、全てが嘘じゃないから重心を持てない。

 

 

「……俺に認めて貰いたかったからか? 振り向かせてェだけか? 違うンだろ」

 

 

「……」

 

 

どうか、それ以上先を紡がないで欲しいと。

強く身体ごと押し付けても、涙混じりに睨んでも、止まらない薄い唇が欠けた月のように傾く。

一方通行が言わせたい事、きっとそれはお行儀の良い言葉、強く輝く為に、銀のティアラを手に出来る『魔法』で。

 

だから。

 

 

「オマエが『変わる』為なンじゃなかったのか」

 

 

「────」

 

 

紡がれて、塞ぎ込まれた息苦しさから逃げる様に。

私は直上の月を、唇で口説いた。

 

いつかの夜、白貌の歌うたいが遠い誰かにした筈の演奏とも、遠想とも違うこと。

直ぐ隣の小さな星が、未熟な想いで距離を詰めただけの、たった1つの小賢しい魔法に騙されてくれる程、単純じゃないと分かっていたとしても。

私の全てを奪って欲しい腕が、動いてくれない事だって分かっているけれど。

 

 

溢れ出した涙が、熱を持たない白い月の目元へと伝って、ただ墜ちていく。

頼りない肌色に覆われた視界の奥でぼんやりと咲いた紅色が、観客のいないドラマキャストの我無者羅を責めてもくれない。

流した覚えのない月の涙を拭う事をしないのは、分かり易い切り離し方を選んだ彼の、小さな意地にも見えた。

 

 

「……それが、全部じゃないんだよ、一方通行。私は綺麗になりたかった。色んなモノを押さえてでも、健気に笑える強さが欲しかった。それは、本当」

 

 

抱き締める所か、まるで物分かりの良い大人がするみたいに弁えた両腕に肩を掴まれ、離されてでも、諦めるだけの利口さなんて要らない。

 

脳裏で蘇る、鮮やかな桜色の笑顔。

きっと将来の不安や期待、溢れ出しそうな感情の渦を飲み込んで押さえながら、強く、優しく、綺麗に咲いた卯月のあの笑顔を思い浮かべる。

 

一方通行の言う通り、私は彼女みたいに成りたかった。

身勝手な怠惰や失望ばかりでモノクロめいた世界にばかり責任を求めて、自分から色のない荒野に踏み出して、荒れ地に咲く花の1つも見つけようともしない幼稚さを捨てたかった。

 

けれど、それだけじゃない。

泥だらけになってでも見付けた私だけの『何か』を、誰よりも貴方に見せたかっただけ。

 

 

「だから、私もあんな風に笑ってみたかった。笑って、そしたらさ、あの時の私みたいに──貴方だって、笑ってくれると思ったから」

 

 

ぶつけた、全ての本音。

私が見た1つの桜色の魔法。

私が求めた強がるだけの魔法。

その道すがらで、余りにも多くの大切なモノを見つけて来たけども。

その全てを天秤に乗せられる程に育ってしまった、たった数ヶ月の想い。

 

 

 

 

 

 

 

私に魔法をかけて欲しいと思った。

 

 

特別なお姫様になりたい訳じゃない、硝子の靴も履かなくて良い、綺麗なドレスなんて要らないから。

 

ただ1つ、好きな人の笑顔が見たいと望むだけの、ほんの少しの勇気を。

 

 

「────」

 

 

それは一瞬だったのかも知れない。

数秒かも、それとも数分か、もしかすると永遠にも似た刹那の瞑目。

何度も見惚れた紅い瞳を隠した瞼の先、長い睫毛がピアノの黒鍵の様に列を成す。

粒状の電気石を身に宿した河川を撫でる夜の風が銀の穂先を浚って、季節外れの雪原みたく、その白貌を隠して。

 

 

だから、きっと見逃してしまったんだろう。

幽かな月の光を踊らせる白銀の髪の裏で、仕方ないなと困った様に微笑む彼を。

擽ったそうにほんの少しだけ喉鈴を鳴らしたテノールだけが、僅かに鼓膜を愛撫した。

 

 

「……隣で笑って欲しいと想うヤツ、俺にも居たンだよ」

 

 

「……知ってる」

 

 

「もう、終わっちまった事だ。ずっと捨て切れなかった道を『手放した』途端、息苦しいだけの自由が残った」

 

 

きっと、胸の中にだけ閉まって置きたかった、語りたがらない、歌いたがらない、剥き出しの残響。

静かな微笑の裏で燻り続けるどうしようもない想いは、口振り一つだけでも乾き切った刃物の様に巣食う痛みだ。

 

どうしてそれを私に教えてくれる気になったのか、何てどうでも良い。

ただ、一言一句聞き逃す訳にはいかない、彼にとっての呪詛であって、私にとっての魔法の呪文。

 

 

──彼の温度の抜けた骨張った右手が、私の頬を添える

 

 

「だが、そンな中でも守って行かねェといけねェ馬鹿共が居る。返さねェといけねェ負債が随分積み上がっちまってンだ。『どォでも良い』ガキに、これ以上、構ってやる余裕はねェンだ。だから──」

 

 

棘も鋭さもないテノールが、飾り立てた偽りばかりを最後に並び立てるから、軽くなる。

優しさと静謐なまばたきを苦くも出来ない癖に、意地の悪さばかりを鼻に付かせる一方通行に、向けるべき言葉が見付からない。

いや、見付けなくても大丈夫と、根拠のない安堵が、良く分からない感情の塊となって、勝手に私を騙る涙と、共に滑り墜ちていく。

 

 

──小さく一度だけ震えた左手が、私の頬を撫でる

 

 

 

 

「要らねェよ、『今の』オマエなンか」

 

 

パチン、と。

耳の奥、頭の裏側の何処かしらで、何かのスイッチが切り替わるような音が鳴り響いて。

 

 

貴方の切り離し方は優し過ぎると、最後に一つ、意地悪ばかり紡ぎたがる白々しい貌に、言い返してやりたかったのに。

 

真っ白に霞んで行く世界の中で、12時の鐘が鳴り響く。

 

 

 

 

──凛

 

 

 

──ありがとォよ

 

 

 

 

それはきっと、幻聴なんかじゃない。

 

私の願望で動かせるほどにアイツは、簡単じゃない。

 

だから、珍しく詰めを誤った彼の、ほんの少しの隙。

 

私が欲しがった、魔法の『欠片』

 

それさえ残れば、私は──諦めないだけの勇気に変えれる筈だから。

 

 

 

 

───

──

 

 

 

ほんの少しの空白と、甘い屑が風になる白いベンチの上で目を覚ませば。

 

 

もう、其処には一方通行の姿形はどこにも残っていなかった。

 

 

私の手元に残ったのは、彼への未練と、彼の未練。

 

 

樹脂製の黒いギターケースを取り出して、納められたアコースティックギターの弦を爪先で弾けば、伽藍堂の中から音の粒が寂しくなる。

 

 

──諦めてたまるか

 

 

物分かりの良さを求める大人の都合を振り払うのは、身の程を知らない子供の我が儘だ。

 

なら、私は着飾らないまま、ドレスの似合う大人の女になってやる。

 

 

魔法で出来たドレスも要らない、硝子の靴も、彩飾過多なティアラも求めない。

彼の元へと向かう為の魔法の馬車なんて余計な御世話、踵が擦り切れてでも、私の足で辿り着いてみせるから。

 

 

「……っ、くぁ……ひっ、く……」

 

 

丹念に手入れをされたアコースティックの胴に額を押し当てて、今夜ばかりの弱さを溶かす。

今宵、涙を流した分だけ、あの月へと届く為の距離を埋める力になると信じて。

 

 

初恋は、まだ終わっていない。

例え敗れたとしても、破れてはいないから。

 

CDプレイヤーの一時停止を押すように、ほんの少し宿り木に留まって、彼の元へと飛び立つまで翼を得る為の、停滞。

 

 

 

初夏を謳う草花の斉唱に紛れる様に、ひっそりと泣く私を、退屈そうにビロードの幕で傾く、三日月だけが認めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──

───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いよいよだねぇ、しまむー緊張してる?」

 

 

「う、うん……そう言う未央ちゃんこそ」

 

 

「そりゃ私達の大一番だしさぁ、怖いとも思うし緊張もするよね……ま、しぶりんは例外としてさ」

 

 

「……え、私?」

 

 

運転の仕方にコツでもあるのか、プロデューサーがハンドルを握る黒塗りのリムジンに近い車の中は、車外の騒音を殆ど遮断していて、リラックスするには充分だった。

ネックとフレットの隙間を弦ごと押さえる指と共に、新しいコード進行の練習へと気付かない内に没頭していた所為で、三半規管の酔いもすっかり耐性の付いた頭が、ピタリと止まる。

 

片手間に開かれた、所々に折り目が出来た入門用の教本から顔を上げれば、どこかにやけた様な、含みのある未央の笑みと視線がかち当たる。

 

なんとなく、嫌な予感。

 

 

「最近のしぶりん、凄かったもんねぇ。ダンスもボイトレも、なんか鬼気迫る!ってぐらいの勢いだったし」

 

 

「確かに、凛ちゃん凄い頑張ってた! 私達も負けられないです、って他のチームの皆も言ってましたし」

 

 

「みくにゃんとか対抗意識バリバリでさぁ、いやーやっぱり『恋する乙女』のパワーは違うよ。ねー、しまむー?」

 

 

「ねー! はぁ……私も会ってみたかったです、凛ちゃんの恋してる人に……」

 

 

「……や、あのね、一応ウチって恋愛禁止だからそんな大っぴらに言わないで欲しいんだけど……」

 

 

嫌な予感ばかりが的中するこの世の中、理不尽だと嘆いてる暇があれば、徒党を組んでニヤニヤと私の羞恥心を駆り立てる小悪魔二人に玩具にされてしまう。

けれど、その、どうやら私の頬に赤みが差してしまうのは、一方通行に関してだけやたら素直な反応を見せる不便な心では、抵抗する事が出来ないらしい。

 

より一層弧を吊り上げた嫌らしい揶揄かいの笑みに逃げる様に運転席側へと目を逸らせば、非常に気まずそうに片手で特に痛めた訳でもない首元を撫でるプロデューサーがちらりと視界の隅に映って。

 

 

振られたけど、諦めない。

今はアイドル活動に専念するけども、彼の事を諦める気は毛頭ない。

 

そう宣誓した私を満面の笑みとサムズアップで返した霧夜常務代理の隣で、苦笑しながらも聞かなかったフリをしてくれたプロデューサーの大人な対応。

如何にも口の堅そうな彼がその事を吹聴して回る筈もないけれど、未央と卯月の二人は私が一方通行に恋をしている事を知っているらしい。

 

 

まぁ、多分、未央が私にもう一度チームをやり直そうと謝って来た時に、私の隣に居た一方通行の存在から、何かしらを勘繰ってしまったんだろうけど。

 

 

「んーでもぶっちゃけ公認っぽい気がするんだよなー私が見るには。プロデューサーも何も言わないし」

 

 

「……別に、何も言わないからって認めてる訳じゃないと思うけど。というか、せめて他のチームの皆には黙っててよ、ホントに」

 

 

「勿論分かってますよ、これは私達だけの秘密だもん」

 

 

「……なら、いいけども」

 

 

「でも、何人かはもしかして、と思ってるかもねー。最近のしぶりん、なんかスッゴい綺麗になってきたし」

 

 

「……え?」

 

 

「あー分かりますそれ! 休憩ブースのソファーでギター弾いてる時とか、ちょっと大人っぽくて綺麗だよねって、この前ラブライカの二人が盛り上がってました」

 

 

「……そ、そうかな。や、でも、多分気の所為だよ、うん、気の所為」

 

 

「「……」」

 

 

「無言でニヤニヤしない!」

 

 

あぁ、もう、駄目だ。

今にも小躍りしそうな心臓の過剰な運動に熱を上げて、しっかりと耳から首の下まで、どこかの誰かの瞳の色みたく真っ赤に染まってしまうのは、最早私自身どうしようもない。

 

そりゃ、綺麗になったと誉められるのは決して嬉しくない訳ないし、ましてや同じユニットを組んでいる分、普段から私を見る機会が多い二人にそう言われたら、尚更。

 

でも、何よりも、そう言われる度に思い浮かべては心が勝手に想像してしまうから。

 

あの人も、綺麗だと思ってくれるかな、なんて。

 

今更否定なんてしようがないくらい、首ったけなのは変わり様がないらしい、停滞している筈の恋。

 

 

「プロデューサー、窓開けていい?」

 

 

「……余り、顔を出さないでくれるのなら、構いません」

 

 

「お、熱冷ましですかな、しぶりん? お熱いですなぁ」

 

 

「未央、うっさい!」

 

 

こんな気持ちじゃギターもまともに弾けやしない。

今ではすっかり手離せなくなってしまったアイツの置き土産の所為で、学校では軽音部に誘われたりするのを断り続ける申し訳のない日々。

その色々な鬱憤ごと押し付ける様に、ちょっと手荒かなと我に帰りながらも仕舞ったギターケースのヘッドの部分が、車の窓ガラスへと半身を向ける私の身体へと寄り掛かる様に建て直し、視線を外へ。

 

散々に揶揄われてしまった分の礼はいつか返してやると小悪魔二人に向けた反逆の意思表示とばかりにムスンと花を鳴らして、ドアの取っ手口に備わったミラー操作のスイッチを押した。

 

 

「──ふぅ」

 

 

まだ昨日の夕立をほんの少し引き摺ったアスファルトが湿り気を帯びていて、幽玄みたくボヤけた街路樹のシルエットが私を取り残して行く様に過ぎ去っていく。

雑多なフィルムにカラーを添えただけの風景は纏まらず、窪んだ水溜まりに反射した陽光が跳ねる、そんなワンカットだけが目に残って、少し不思議。

 

 

綺麗になったと言われる切っ掛けが、アイツに振られた『お陰』なんだって思えば、野暮ったい夏風を顔に浴びなくても、顔に差した気の早い夕暮れはあっさりと熱を失っていく。

 

この想いを手放さない。

その決意を抱いていく強さは所詮、他人からすれば只の強がりにしか見えないかも知れない。

けれど、それをエネルギーに変えるだけの器用さは、皮肉にもこうして私に寄り添う、この無機質なギターケースが教えてくれたから。

 

 

「──ぁ」

 

 

だから、最初は幻覚なんじゃないかと思った。

赤信号に減速していく黒い車体、微かに小石や砂利を巻き込んだホイールの音がまるで絵空事みたくあやふやな形状で耳に届く。

ほんの少し、腕一杯に手を伸ばせば、もしかしたら届いてくれるんじゃないかと思えるくらいの距離、カードレール越しの遊歩道で。

 

 

──まるで私の願いを叶える様に

 

 

──真っ白な流星が、横に伸びる、その軌跡。

 

 

 

「ぁ、ぃ……」

 

 

誰かの隣で、呆れた様に肩を竦めたその背中、その髪、細長い腕、途切れた横顔。

 

見間違える訳もない。

ずっと、今でも私の心に居座り続けて、ずっと先のいつかで、私の隣に居て貰うんだと誓った白い面影。

 

 

一方通行。

 

 

私の、想い人がそこに居て。

 

 

 

「……凛ちゃん?」

 

 

「しぶりん、どした……えっ、あの人……」

 

 

茫然と、親を見失ってしまった迷い子みたく喉と肩を震わせた私の様子に気付いた卯月が、普段から笑顔の絶えない彼女にしては珍しい戸惑いを露にしながら、そっと肩を叩く。

私の目線を追った未央が、癖っ毛がどこか色っぽい褐色の男の人の隣を歩く、アイツの符号とも言える白銀の髪に気付いて、まさかと息を呑んだ。

 

 

でも、これは邂逅と名札をぶら下げるには余りに一方的で、余りに頼りなく、余りに短い刹那。

心の準備など到底追い付かない、脚本家が仕組んだ、ほんの少しの底意地の悪いイタズラの様なもので。

 

呆気なく切り替わった信号に気付きながらも、まるで彫刻みたいにエバーグリーンを見開いたまま静止する私に動揺して、アクセルを踏めないでいるプロデューサーは、耳をつんざくクラクションの音に、半ば能動的に右足を動かした。

 

 

 

「……ゃ、ぁく」

 

 

 

離れていく、緩やかに離れていく。

ミラーの折りきった窓から衝動的に顔を出して、雑踏の中へと紛れてしまいそうな、遠退かるあの人の背中を、衝動的に腕を伸ばしながら。

 

 

これは、きっとルール違反。

 

エンディングを迎えた筈の私が勝手に手繰り寄せた、身勝手なエピローグ。

 

だとしても、そうだとしても。

 

 

届いて欲しいと。

流れ星に請う、ほんの少しの願いの欠片。

 

 

 

 

──アクセラ、レータァァァ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど、それは行き過ぎた願いだからと、唇を塞がれる様に。

 

確かに口にした筈のあの人の名前は、嘘の1つだって含めてない筈なのに。

 

 

まるで宙を泳ぐシャボン玉みたく、余りに軽く掻き消える。

 

 

──どこからか届いた、激しく鳴る水の音に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目敏い友人を持つ事は、要らぬ気苦労を背負い込む事と同義なのかも知れない。

『耳に届いていない筈』の、『言葉になってない筈』の、何処かの誰か、隣で振り返った男と同じく目敏い少女の──自分の名を呼ぶ声に反応するのだから。

 

 

何の為に、『水溜まりを踏み抜いた所為で』買ったばかりのジーパンの裾を濡らす羽目になったのか、これでは分からなくなってしまう。

 

 

 

──今、誰か貴方の名を呼びませんでしたか?

 

 

 

──さァ、気の所為だろ

 

 

 

喉の鈴を転がして、真っ白な尻尾髪が空を切る。

どこか訝し気に此方を覗き込む男に、ささやかな微笑を返して。

 

その背中は決して振り返る事はなかったけれど。

ほんの少しだけ、車道を向いた横顔。

口元に添えた、甘い笑み。

紅い瞳が、どこか諦めたように細く霞んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

───────

 

 

 

 

 

「凛ちゃん、大丈夫ですか……? あの、さっき『何て言おうと』してたんですか?」

 

 

 

きっと、誰にだって分かってしまうぐらいに落胆してしまって、俯きがちに鼻を啜る私の震える両手を、そっと卯月が優しい気遣いごと体温に溶かした掌が包む。

擦り切れてしまう事も、周りの目を盛大に集めてしまうであろう事も覚悟して、震わせた喉は、単一音1つすら紡ぐ事が出来なくて。

 

 

──まるで、魔法にでも掛かったように。

 

 

 

「……ごめん、何でもない。何でもないから……」

 

 

「……しぶりん」

 

 

精一杯の強がりの奥底、ほんの一瞬描いた理想は絵空事。

叶う筈もなかった願いの当然の結末に、けれど隠し切れない失意を汲み取った未央の、そっと寄り添ってくれる様な声。

 

 

けれど、大丈夫。

大丈夫だから、本当に。

確かに、アイツは、振り向いてはくれなかったけど。

 

 

遠くへと霞んで行く、白い面影。

勝手に澱んで潤む視界の端っこで、確かに見た。

まるで、手を焼いて仕方のない子供を宥める様に浮かべた、ほんの少しだけの願いの形。

 

仕方のないヤツだ、って。

仄かな笑みを携えた、アイツの口元。

 

 

大丈夫、『今の』私じゃ、まだ、振り向かれる事ないだけだから。

どれだけ時間を掛けてでも、必ずその背中へと追い縋って──

 

 

いつか、今度こそ、言う為に。

 

月が綺麗ですね、って、言えるくらいに。

 

月の綺麗さに負けないくらいの女に、なってみせるから。

 

 

 

「──卯月、未央。お願い、って言うのとちょっと違うけど、聞いてくれる?」

 

 

「……なに、凛ちゃん?」

 

 

 

傷心への気遣いと、目に光を再び灯した私へと、卯月が優しい笑みを浮かべる。

無言のまま、少し固い表情ながらも未央が見詰める。

 

 

一方通行は、今、目の前には居ない。

 

けれど、それは決して、消えてしまった訳じゃない。

 

 

ゆっくりでも、歩くような速さでも良いから。

 

 

彼の背を追い掛ける事を止めなければ、いつかは──

 

 

 

 

「ホントは、開始前に皆で円陣組んで言うべきなんだろうねらこれ。だから、ちょっとした、フライング」

 

 

 

その背にこの手を届かせる為に。

 

 

この距離は、星と星ほど離れている様な途方なモノではないはずだから。

 

 

 

 

「今回のアイドルフェス、絶対成功させよう! そして、私は──絶対アイツに追い付くんだ!」

 

 

「──うん、頑張ろう、凛ちゃん!みんなで!」

 

 

「とーぜんっ! むしろあの人がしぶりんに夢中になっちゃうくらい、素敵なステージにしよっ!」

 

 

 

振り向いてくれなくたって、別に良い。

 

追い付いて、寄り添って、抱き締めて、無理矢理にでもその視界に入って。

あの意地悪で性悪で仏頂面で大人ぶってばっかりの、どう転んだって愛しい男に、骨の随まで分からせてやるんだ。

 

 

私は物分かりの良い女じゃない。

 

 

アイツの心に残る誰かを慮ってやる事なんて出来ない。

 

 

魔法を欲しがってばかりのシンデレラは、もう卒業したのだから。

 

 

ただ、誰よりもその人の隣に居たいと願う、当たり前の形をした恋をするだけの、普通の女。

 

 

それを成就したいと願うのは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──1人の女の子として、当然だよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──そして、12の刻を通り過ぎた時計は

 

また再び時を刻み出す

 

魔法の終わりなど、知った事ではないと云わんばかりに

 

ならばこの童話は小さく、けれど狂った様にキャストを変える

 

諦めの悪いお姫様が追い掛ける

 

意地の悪い王子様の背中を追い掛ける

 

そこには硝子の靴も、魔法の馬車も、必要ないのだろう

 

 

逆さまの物語は、観客も居ないけれど

 

 

それでも、サファイアブルーの物語は続いていく──

 

 

 

 

 

 

 

 

______




これにて番外編は完結とさせていただきます


残るのは、ただの蛇足

この物語の本質から逸脱した、ちょっとしたご都合主義にまみれた話です

この物語に確かな余韻を感じて下さる方々には、お見せするにはお恥ずかしい程度のおまけ

それでも宜しければ、もう少ししたら完成しますので、それまでお待ち下さい


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アンケート小説 蛇足 『────』


このページは単なる蛇足、手慰みにもならない余分なものです。


稚拙ながらも完結したアンケート小説に本来あってはならないIFです。

それでも宜しければ、お読み下さい。


無機質な檻みたく、人格の宿った歯車達のコンクリートの揺り籠が織り成す都会のビル群が見下ろす様に、神崎蘭子は何処か居心地の悪さを感じていた。

 

 

下り坂を迎えた夏が造り出すビル群から伸びた無数の影と、灰混じりのダウンフリルの付いたパゴダ傘は漆黒の色彩を貼り付けていながら、どちらかと言えば寒がりな蘭子には丁度良い気温を作ってはいた。

今にも雪が振り出しそうな曇天を飾るアッシュブロンドをカール状のツインテールに括り上げているから、時折通り抜ける夏風が彼女のさらけ出した白亜の首筋を添ってなぞるから、気温に反して特別暑いとは思わない。

 

 

横断歩道の向こう岸、点滅を始めた信号を眺めれば、やがてそのクリアガーネットの両眼の色彩と同列の、赤へと切り替わる。

伸ばしかけたブーツを戻したのは、決して走るのが優雅ではないと、気高さや気品を損なわない為の判断ではない。

単に、青信号が点滅したならば渡ってはいけない、という行儀の良い理由である事を、奇異の視線を彼女に向ける群衆が気付く事は無かった。

 

 

半分を終えたとはいえ、まだまだ太陽の運動が盛んな夏の昼下がりという環境下で、ゴスロリのブラックドレス、黒のニーハイソックス、パゴダ傘も含めて黒一色と分かり易く気合いの入っている格好をしていれば、嫌でも視線が集まってしまう。

ましてや、精巧なフランスドールに似た美しい造形の顔立ちとアッシュブロンドの髪、紅い瞳と目を惹く要素が余りにも随所にある為に、ジロジロと不躾に眺める視線が多いのも致し方ない。

 

そこに居心地の悪さを感じてしまうのは、内気がちな性格に加えて人見知りもする蘭子としては、未だに馴れる事のない現象である。

 

けれども、対角線の赤信号をどこか拗ねがちな子供染みた眼差しで見詰めるのは、それだけが要因、という訳ではない。

 

 

彼女は、焦っていた。

本来ならば彼女が勤める346プロダクションの本社に着いて居なくてはならないが、蘭子本人も参加し、成功に荷担したアイドルフェスの成果による影響で多忙が続いた所為か、いつの間にか狂っていたらしい腕時計とスマートフォンの指し示す時刻の違いに気付かなかった。

 

遅刻とは即ち、周りに迷惑をかけるという行為である。

即座にプロデューサーには連絡し、口頭ながらも少し遅れる程度なら大丈夫と伝えられたのには安堵したが、そこに胡座をかける程に蘭子は増幅出来はしない。

慌てて周囲にタクシーを探したが、平日ながらも交通量が非常に多い交差点ではなかなか掴まらず、已む無く徒歩で向かう事となった。

 

そんな状況下においてでも、律儀に信号の点滅を走り抜ける事もしない彼女は、良い子、という形容が相応しい。

けれども、逸る気持ちと遅刻に対する責任感に焦ってしまうのも、当然で。

 

 

だから、彼女は垂直対抗の信号が切り替わると同時に、周りも見ずにその脚を踏み出してしまって。

直ぐそば、彼女が渡ろうとする横断歩道へと忍び寄る『無機質の殺意』に気付いたのは、突発的に誰かが叫んだ、危ない、の四文字を耳にしてからで。

 

 

どこか暢気にも見える丸々としたガーネットアイが右を向いた時、彼女の身の丈を大きく越える鉄の塊が、最早間に合い様のないほど差し迫っていて。

 

 

「──え」

 

 

轢かれてしまう、とすら思えなかった。

衝突まで秒読みにも満たない空白の中で、目の前に飛び込んで来たトラックを前にして、何これ、としか思えなかった。

 

ならば、彼女の狂った腕時計が1つ秒針を進む、たったそれだけの間。

神崎蘭子が、自らの死が直ぐそこまで忍び寄っていたと気付けたのは、彼女の手に差す漆黒のパゴダ傘が宙を舞い上がってからだった。

 

 

 

 

───────

────

 

The fairytale is a superfluous.

 

────

───────

 

 

 

 

 

 

反射的に目を瞑る事すら出来なかったのは、神崎蘭子にとっては幸運だったのか、不運だったのか。

その瞬間の彼女に問い掛けてもきっと答えなんて望むべくもない。

 

けれど、全てが終わった後で、彼女に再び問えば、きっとある種の興奮と共に目を輝かせながら、答えだろう。

 

 

幸運だった、と。

何故ならきっと、その刹那は彼女にとっては永遠にも似た情景として瞳の中に焼き付いた程の、神秘的な一瞬。

余りに綺麗な其れを、『死にかけた』にも関わらず、呆然としながらも、手に取っていたのだから。

 

 

 

 

──太陽は昇っているはずなのに。

 

 

そこには流星が穂先を靡かせていた。

 

 

 

 

───────

 

 

 

 

「……危ねェな、おい」

 

 

右肩から伝わる骨張った掌の感触、背を預ける形となった細いながらも確かな肉付きとしなやかな筋質をどこかぼんやりと反芻していた折に、耳に落とされた冷たいテノールボイス。

抜き身の鉄閃みたく背筋をなぞる寒気と、支える様に添えられた腕から伝わる体温の暖かさはちぐはぐで、不思議な夢心地に誘うフワフワとした感覚に小首を傾げそうになる。

 

けれど、自分の背中を右腕で軽く支える男の端麗な横顔と、まるで真夏の雪と形容できる程に幻想的な白銀の髪は怖じ気を覚える程に美しくて、思わず息を呑み込んだが、それも一瞬。

 

黒いカッターシャツに包まれた肢体から伸びる左腕と、長い花片が五枚、伸ばされたような白い掌。

そこから産み出された無数の細やかな裂傷と、その掌の形だけ綺麗に窪んでみえる、トラックの顔。

 

 

──助け、てくれた?

 

 

「……チッ、面倒くせェな。さっさと帰るか」

 

 

一瞬の静寂を切り裂いて、蜂の巣をつついたみたく群衆が色めき立つ中で、白貌が呟いた言葉だけが独特の響きを以て鼓膜に溶ける。

茫然と、何故か至極面倒そうに歪むその横顔を見上げながら固まってしまったままの蘭子の耳に、雑踏のざわめきがすんなりと届いた。

 

 

『女の子が轢かれかけた』『男が片手一本でトラックを止めた』『あり得ない』『奇跡』『運転手』

 

 

疎らに散らばるワードを拾い集めていけば、分かる事。

直前までの光景、迫り来る無機質な殺気、吹き飛んだ愛用の傘、悲鳴、フラッシュバックするそれらの符号を1つ1つ、合わせていく度に心の奥底でクシャリと──何かが潰れていく音がした。

 

 

 

「……ぁっ、ぁぁ、いぁ、死に、私、あぁぁ……』

 

 

ガタガタと、腰の中枢を支える芯から弾き飛んで行ってしまったかと思うぐらいに、遅れながら飛来した恐怖に震える脚が、今にでも崩れ落ちてしまいそう。

余りにも短い瞬間で把握する事すら出来なかった死という輪郭が、悪魔染みた鋭角を象って無垢な心に突き刺されば、1人で立つ事なんて到底叶わない。

 

 

けれど、じゃあ、自分を支えるこの腕はなんだろう。

死の湖へと顔を突っ込んだ蘭子を引き戻し、痛いほどに泣き叫ぶ心臓がまだ動く事を許したのは、誰なのか。

 

 

 

「……死ンでねェ、生きてる。大丈夫だ、オマエは生きてる。声、聞こえてンだろ、返事しろ」

 

 

「ぁ、ぁっ、ぅ……っ」

 

 

両頬に添えられた白い指先と、潤み始めた視界に咲いた深紅の双子月は優しさからか、薄い唇から紡がれる言葉は、平静を保ってなどいられない彼女の心に刺さった茨の軛を1つ1つ抜き取っていく。

命の危機に直面して今にも泣き叫んでしまいそうな程に乱れた心が、目の前の男の掌から伝わる体温と、それとは他の『何か』としか形容出来ない不思議なモノに触れられて、赤子をあやす様に撫でられている、そんな錯覚に落ち着かされる。

 

 

暖かい。

包み込んで、真っ白なベールで彼女の心を恐怖から守ってくれる。

ずっと、こうしていたいと思えるような確かな安堵。

不明瞭な筈のそれに、いつの間にか救われている。

 

 

 

 

「……チッ、場所を変えるか。目を閉じろ」

 

 

「ふぇ」

 

 

だからだろう、短く告げられた彼からの要求に、意味が分からないながらも身体が応じていた。

形だけの躊躇いが口を付いただけで、彼の掌が視界を防ぐよりも早く、目を閉じて。

ほんの少しの浮遊間が過ぎ去れば、まるで眠りに堕ちてしまったのかと思う程の意識の淀みと、訪れた静寂。

 

瞼の裏の薄弱白色が蛍火みたいにブレた数秒の隙間を切り裂いたのは、やはり蘭子を救ってくれたらしい、あの男の声で。

 

 

 

「もォいいぞ」

 

 

「……え、な、此処は……」

 

 

 

再び目を開いた其処は、人通りの少ない346プロダクション本社近くの、少し寂れた庭園。

昼下がり、ポツポツとした人影しか存在しない空間は、さっきまでいた交差点からそう離れてはいないが、殆ど数秒の間に来られる筈もない。

 

まるで魔法にでも掛かったのかと蘭子が自分自身の視覚情報を疑ってしまうのは、無理もなかった。

けれど、そんな事は知った事ではないと言わんばかりに、真っ白なその男は踵を返そうとしていたから。

 

 

「ま、待って!……くだ、さぃ……」

 

 

半ば追い縋る形になってしまった。

その細くしなやかな腕に上半身丸々使って抱きついてしまった所為で、外見に反してそれなりに豊満に育った胸の双丘に彼の腕が挟まった感触に、強い意志と共に吐き出された台詞が急激にフェードを下げていく。

 

アイドルという稼業に携わっている癖に、まともに異性と関わった経験など、彼女のプロデューサーですらギリギリカウント出来る程度しかない彼女にとって、その羞恥心は相当なモノではあるが。

それよりも、いつの間にか救われてしまって、何か良く分からない内に去って行こうとする男を、そのまま見送る事は出来ない。

 

せめてお礼をと、そう紡ごうとする拍子に、ふと気付いてしまう。

蘭子自身、まるで気付く事すら出来ない間に、『吹き飛んだ筈の傘』が自分の右手に握ってあった。

 

 

 

「か、傘……いつの間に……」

 

 

「……最初からオマエが握ってた。それで良いだろ。いい加減離せ」

 

 

「だ、ダメ、駄目で……おれ、ぉ、お礼……」

 

 

最早、轢かれかけたという事実こそ信じ難くなって来る程の有り得ない事象ばかりに戸惑う蘭子の心情など慮るつもりはないのか、奥底まで見透しても不思議じゃない紅眼に見下ろされて、気弱な彼女の背筋がビクンと跳ねる。

けれど、不幸中の幸いか、彼に比べれば小柄な身体を竦ませた反動でがっちり回ったままの両腕のロックが強まって、冷淡な口振りの割には振り払うつもりはないらしい男を、逃がさなくて済んだ。

 

 

何とかお礼を、と思いながらも胸元の未知たる感触と見下ろされる両眼と未だに整理出来てはいない状況に目を回しながら上手く言葉を紡げない蘭子を見兼ねてか、どこかぐったりしたトーンでテノールが囀ずった。

 

 

「……分かったから、離せ。逃げねェから」

 

 

「ほ、本当に?」

 

 

「あァ、嘘じゃねェから。オラ、離れろ、いつまでもくっつかれンのも鬱陶しい」

 

 

「──っ、ううぅ……はい」

 

 

あからさまに男の性を全面に押し出された対応をされるよりはマシではあるが、仮にもうら若き乙女の胸を押し付けられてのこの冷たい反応に、悔しさを感じるよりも羞恥心による反省しか心にない辺りが、神崎蘭子という人格を物語っている。

 

どこか文面にすれば独特な綴りを持ってそうな響きの低音ボイスは多大な呆れと、何故かどこか諦めを含んでいるのに小首を傾げるのは内面の心内だけ。

取り敢えず、のそのそと仄かに羞恥と奇妙な興奮に熱を纏う身体を離せば、どうやら逃げ出すつもりは本当にないらしい。

プラプラと縋り付いてしまった左腕を振る男を見て──気付く。

 

 

この人は、トラックを左腕一本で止めていた様に、蘭子の目には見えた。

どれだけ鍛えていたとしても、その衝撃の全てを殺し切れるとは思えないくらいに細い腕。

サッと青くなる蘭子の表情に気付いた、よく見れば風貌や黒い服が自分に良く似ている男の瞳が、疑わし気にキリリとつり上がった。

 

 

「……携帯、鳴ってンぞ」

 

 

「へ? あっ……」

 

 

男の指摘に促される形でスマートフォンを取り出せば、プロデューサーの文字。

そういえば、自分は遅刻している身、今すぐにでも346本社に向かわなければいけない。

どういった手法を用いたのかも分からないが、先程の交差点よりは随分『近場』まで移動する事が出来たのは渡りに船ではある。

 

しかし、もしかしたら負傷、または骨に異常があってもおかしくないくらいの事をしてまで自分の身を救ってくれた目前の彼をこのまま帰せる訳もない。

 

 

「……オイ」

 

 

「ね、念の為……」

 

 

先程の勢いだけに委ねた追い縋りをもう一度敢行するだけの突発的な必死さはないけども、万が一彼がこの場を去らぬようにと、彼の右手首を片手でしっかりと、ほんのちょっと震えながらも握り締める。

手を繋ぐのは流石に初心な蘭子にはハードルが高かったらしく、手首だけでも充分なほど、顔が赤くなってしまうけども。

その脳裏に描くのは、この後のこと。

 

 

取り敢えず、プロデューサーに相談しよう。

その際、もし許されるならこの男の人を連れて病院に行こう。

その涼し気な表情は強がりなんかで誤魔化しているとは思えない程に静謐なモノだけども、骨折していないと断言が出来るくらいの医療知識など持っていない蘭子からしたら、彼の身が心配で仕方ない。

仮にも命を救って貰った相手だ、このままサヨナラなんて出来る筈もない。

 

だからこそ、この場に置いてプロデューサーは実に心強い大人の援軍だ。

先ずはプロデューサーに状況を説明し、対応と、場合によっては心苦しいが、今日の予定をキャンセルして貰う腹積もりで。

 

 

心は決まった。

既に平静は取り戻し、状況の全てを理解出来なくとも出来る事はある筈だと気弱な彼女にしては精一杯に奮起して、鳴り続けるコールへ応答をフリックして、口を開いた。

 

 

 

「我が友、緊急事態だ! 我が身に降り注ぐ筈だった永世よりの試練を肩代わりしてしまった白貌の君が負傷を圧しながらも我が元を去ろうとする!どうすれば良い!? 答えよ、盟友!」

 

 

「えっ」

 

 

「えっ?」

 

 

『──すみません、神崎さん。もう一度お願いします』

 

 

 

恐らく、この男に非常に御執心な、とある少女は一度も眼にした事がないであろう、キョトンと切れ長の紅い瞳を子供みたく丸々とおっ広げている姿はどこか滑稽で。

 

電話口の向こう、数奇な巡り合わせがこの先待っていようなど露とも知らない無骨な男は、『いつも通り』殆ど何言っているか分からない蘭子の言葉に、そっと溜め息を溢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

─────────

 

 

 

たった3種類のコードでも、ストロークやコード進行順、リズムを気紛れに組み換えるだけで何通りもの旋律を造り出せるのだから、この手にあるモノの可能性と自分自身の未来を重ねる人が絶えないのも頷ける。

アルペジオとあざといフレットノイズを時折混ぜれば如何にもな情緒を添えれて、陶酔がちに目を細めれば、形ばかりが遠想の先にあるアイツの姿。

 

 

その背に求める感情一片、織り重ねて叙情詩として語るには、まだまだ技巧の拙さばかりが目に付いてしまう。

所詮、あの細長い指先を追うだけの慰めは、どうしたって片手間で、弦の弾き方を1つ取っても彼に比べれば子供の児戯に等しい。

そんなアイツの演奏でさえ、聴く人が違えばまだまだ遊戯の範疇から逸脱出来ないとなれば、なんて奥深く果てのない世界なんだろうか。

 

 

控えめな空調の稼働する休憩ブースにある自然は精々が観賞用の植木が1つ2つ程度、あの白いベンチのある川辺に比べれば人工の無臭ばかりに溢れているのに。

ストロークを掻き鳴らせば、野暮ったい草花の香りが鼻孔を擽ったのは、すっかりと私の中に住み着いてしまった追想に、酔っているからなんだろう。

 

一区切り、弦を撫でる様に滑らかに数度弾いて、旋律への終点を作れば、それは不恰好で鼻に付くのに。

薄肌の幕を開ければ、こんな拙い演奏にさえ朗らかな甘い笑みを見せてくれる卯月が、分かり易くうっとりと両手を合わせて口元を緩めてくれていた。

 

 

「んー、難しいなぁ……この下手っぴめ……」

 

 

「下手なんかじゃないですよ、凛ちゃん。素人耳でもグングン上達してるって思います」

 

 

「……や、まだコードチェンジもたつくし、弦の押さえも甘々。多分、アイツ聴かせた所で鼻で笑われるレベルだよ」

 

 

「凛ちゃんのお師匠さん、そんなに厳しい人なんですか……でもでも、私が聞くイメージだと、何だかんだで凛ちゃんの演奏、好きになってくれると思うんだけどなぁ」

 

 

「す、好きに……っ、うん、まぁね、そうなるに越した事ないけど、アイツ性格悪いからね、上げて落としたりとかしょっちゅうだから、期待はしないよ、うん」

 

 

「……凛ちゃん、最近ナチュラルに惚気る様になりましたよね。口ではそう言ってばかりだけど、顔、ニヤけてますよ?」

 

 

「……事あるごとに面白がってせっ突いて来るお節介さんが二人も居れば、私だって開き直るよ。この前だって未央のヤツ、雑誌の内容鵜呑みにして、私に彼是聞いて来るし」

 

 

一方通行への気持ちが明け透けだなんて今更だし、アイツに誉められるなんて状況に素直にニヤけるだけ、今の私には余裕があるんだと誰に聞かせる訳もない弁解は、勝手に鼓動を早める心臓の音に掻き消える。

アイツへの想いを燻らせて塞ぎ込まなくて済んだのは、ある意味、卯月と未央のお陰なんだろう。

 

ただ、励ましながらも好奇心剥き出しにして揶揄う辺りの底意地の悪さは、正直勘弁して欲しいのが本音だ。

何処からか持って来たティーン雑誌の恋人に言って欲しい台詞を、腹立たしいニヤけ面を隠そうともせず朗読し、あの人に一番言って欲しいのってどれだった、と尋ねて来るのは流石にデリカシーなさすぎ。

唇を尖らして分かり易く肩を怒らせた私の機嫌の降下線にやり過ぎだったと気付いたお調子者が、甘いお菓子やら美容グッズやらで私の機嫌取りに奔走する姿は、なかなかに面白いモノだったけれども。

 

 

と、不意にバタバタと慌ただしく廊下を駆け回る騒がしさに、花を摘みに席を外していた件のお調子者が漸く戻って来た事を悟るが、何やら様子が変だ。

確かに活発な性格ではあるけども、此処はあくまで346本社の休憩ブース、プライベートルームではない。

当然社員の人達も出入りする事も多く、そんな中でけたたましい足音を鳴らす程に、未央は子供じゃない。

 

現役中学生の莉嘉ならまだ分からなくもないけど、今はショッピングモールのイベント会場に居る筈。

となれば、今346本社に居るのはニュージェネの三人組と、新規企画が持ち上がった為に会議室でプロデューサーと相談中のラブライカの二人と、珍しく遅刻しているらしい蘭子ぐらい。

なら、必然的に残るのは未央なんだろうけど、一体何をそんなに焦っているのか。

ガタン、と休憩ブースの扉に手を掛ける音にすら余裕がなくて、扉が開かれた先、全身で息をしていると言っても過言ではない未央の額には水滴の汗すら滴っていた。

 

 

「し、しぶりん、しまむー! 緊急事態、緊急事態! さっきアーニャとみなみんが教えてくれたんだけど、らんらんが事故に遭いかけたって!」

 

 

「蘭子ちゃんが!? 嘘っ、そんな……」

 

 

「じょ、冗談でしょ!? それで、怪我は……」

 

 

「いや、それがギリギリで助けてくれた人がいたらしくて……」

 

 

「あぁ……良かった……良かったよ、蘭子ちゃん……」

 

 

「──も、もう……先、それ言ってよ……腰抜けそうになっちゃったじゃん」

 

 

荒い呼吸混じりに告げられた衝撃のないように、腰砕けになりそうだった卯月を慌てて支えながらも、私も安堵の息を落とす。

蘭子が事故に遭いかけた、というのなら確かに未央が慌てて私達に伝えて来るのも、余裕がないのも分かるけど。

無事だったのは何よりだが、唐突にそれを聞かされる私達の身にもなって欲しい。

正直、最悪のケースすら頭に過って、目の前が真っ暗になりかけたのだ。

 

安堵しながらも微かに肩を震わせている卯月をそっと立たせて上げて、取り敢えず一息。

幸い怪我はなさそうだけど、心配は心配だ。

取り敢えずプロデューサーに話を聞きに行こうと、手繰り寄せたアイツのギターをケースに仕舞おうとするが。

今度こそ、私の心臓は止まるんじゃないかと思えるくらい、大きく跳ね上がる事となる。

 

 

「や、緊急事態なんだって、しぶりん! その、らんらんを助けてくれた人が今、プロデューサー達と会議室に居るらしいんだよ!」

 

 

「そう……じゃあ、お礼言いに行かなきゃね。ちょっと待って、直ぐに片付けるから」

 

 

「いやいや、そんなの後で良いから、しぶりん急いで! 卯月も!」

 

 

「そ、そんな急かさなくても……どしたの、未央?なんか、変だよ?」

 

 

「未央ちゃん、落ち着いて?」

 

 

「落ち着いてなんか居られないって! さっき、アーニャとみなみんが見たらしいの! その助けてくれたっぽい人! 真っ白な髪で、真っ赤な目で、背も高い男の人だったって……」

 

 

「──え」

 

 

 

ドクン、と。

心臓が、大きく跳ねる。

 

滴る汗が這うぷっくらとした唇から紡がれた、蘭子を助けてくれたという人の特徴に符号する、誰かの面影。

 

真っ白な髪、真っ赤な目。

背の高い、男の人。

あぁ、そんな風貌をしている男は滅多に居ない。

 

 

カタリと、まるで私の辿り着いた答案に、正解を告げる教師みたく、アイツのギターのボディが音を立てて。

 

 

行かないと。

会議室に、早く。

形振りなんて構ってられない。

まだ、アイツの隣に並べる程の女になってない事なんて百も承知、それでも。

 

彼が、一方通行がそこに居るのなら。

 

 

「──っ!」

 

 

「うわっ、しぶり……しまむー! 私達も行こう!」

 

 

「う、うん!」

 

 

もしかしたら、人違い、なのかも知れない。

偶々アイツに良く似た風貌の男の人が助けてくれたのかも知れない。

どんどん勝手に膨れ上がって来る期待感に、せせこましく予防線を張るのは、それこそ身勝手な感情から生まれる幼さで。

けれど、もしアイツが居るのなら。

 

きっと、私に会わないように、直ぐにでも姿を消してしまう。

それだけは、嫌だったから。

 

 

 

 

階段を、駆け上がる。

其処はきなびなかに整えられた城なんかじゃないだろう。

けれど、未熟な女が追い求める意地の悪い男に再び会うには、豪奢なシャンデリアなんて必要ない。

 

あの腕の中が、今の私にとってのゴールなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 

「──離せ」

 

 

「だ、駄目。我が城の宰相の命ならば、この刹那ばかりは、我が身を黒鎖として汝を縛る事も厭わない。汝こそその紅蓮を閉じ、素直に我に陥落せよ」

 

 

「──はァ?」

 

 

「ひっ、ぅ、に、睨むでにゃい……わ、我は美姫たる偶像達の中に君臨せし……う、あぅ、おっ、おこ、おこおここ怒らないでくださいぃぃ」

 

 

「頑張れ蘭子ちゃん、根暗兎なんかに負けちゃ駄目よ。押して押して押しまくりなさい」

 

 

「……ざっけンなよクソ女狐。分かり易く時間稼ぎしやがって」

 

 

「ふーん、なら蘭子ちゃんを振りほどけば良いじゃないの。あ、もしかしてその娘のおっぱい堪能中だった? ありゃー私としたことがムッツリ男心に気付かないとは、これじゃ、おっぱいマイスター失格ね」

 

 

「振り払ったらうちのアイドル傷物にしたとか抜かすンだろォが、七面倒臭ェ手段使いやがって」

 

 

囚われの身というよりは寧ろ邪で如何わしい接待を受けている絵面と思えるのは、ほんのりと頬を染めたゴスロリ美少女を侍らせてソファにふんぞり返っている男という図式が成立してしまっているからなのか。

辛うじてそれを押し留めているのは、羞恥心を押さえながらも彼女の上司に命じられてやむを得ず、という建前を武器に隙を見ては逃走してしまいそうな命の恩人を拘束している蘭子を、至極迷惑そうに見下ろす青年の表情に依るものだろう。

 

ともすれば法に軽く抵触しそうな行為を強要している霧夜エリカ常務代理は、険しいながらも焦りと困惑を微かに仄めかす目下の一方通行に御満悦らしく、端美な頬をニヤニヤと吊り上げていて、横目でこっそりとその表情を伺うプロデューサーは気付かれぬ様に嘆息を落とした。

 

救いがあるとすれば、エリカが命ずる前から、正確には難解で要領を得ない蘭子の語る内容をなんとか噛み砕いて、蘭子と、彼女が命を救われたという『見覚えの有りすぎる青年を迎えに上がる時から、ずっとその状態が変わらないという点だろう。

どうやらプロデューサーが迎えに来るとの旨を伝えた途端に帰ると言い出したので、身体を張って彼の逃走を食い止めていたらしい。

 

 

取り敢えず、346プロダクションのアイドルの命を救って貰われたのであれば、礼を欠くなんて恥知らずな対応は出来ない。

依って然るべき人間から然るべき場所で謝罪と返礼の場を整えるのも、プロデューサーたる自分の仕事だと『独自に判断』した彼は、非常に罰の悪そうな顔で顔を逸らす一方通行を速やかに彼らの城へとお連れした。

 

 

無論、他意も思惑も、ついでにプロデューサーにとっても大事な『アイドル』の1人を泣かせてくれた事に対して、含む所があったのは一方通行には当然見透かされていたのだが。

逃げられては困りますと引かない男と、右腕に縋り付いては離れず、頑なに来城を拒み続けた所為で何故か半泣きになりながら自分を見上げる蘭子に、凡そ10分粘った挙げ句、ついに白旗を上げた。

 

 

そして、彼にとっての首輪、天敵、と云っても過言ではない霧夜常務代理は、一連の事態を全て把握するなり、でかした、という一言を蘭子に与えて下さった。

 

無論、一方通行が何故かプロデューサーや常務代理と顔見知りである事に、蘭子は終始、目を白黒とさせてはいたが。

 

 

「……何を企ンでる、オマエ」

 

 

「あら、人聞きが悪いわね。別に企んでる訳じゃないけど。ただ、ちょーっと、時計の針を動かしたいってだけ」

 

 

「……絶対『それだけ』じゃねェだろ。オイ、オッサン。オマエがさっきから集めてる書類、そりゃァなンだ。 機密書類じゃねェのか」

 

 

 

「いえ、ただ単に『関係者』以外には、早々お見せ出来ないというだけですが」

 

 

「──冗談じゃねェ。オイ、ゴスロリ女、いい加減離せ。ふざけンな、俺はまだ学生──」

 

 

ペラペラと、常務の指示通り集めた現在始動中のシンデレラプロジェクトによる資料一式と、プロジェクトチームに所属するアイドル達の細かいプロフィールなどを集めた資料は、やはり見逃せなかったらしい。

その情報、というよりはわざわざ一方通行という『部外者』の居る前で、これみよがしに用意しているエリカの真意の方が余程彼には問題なのだ。

 

その思惑から推論を導き出す事など、卓越した頭脳を持つ一方通行からしたら児戯にも等しいが、導き出せた所で彼からして見ればふざけた話。

最早この場に居残るだけで不利になっていくのは明白だ、抜き身の刃に等しい鋭い視線を向ければ、その底冷えしそうな美と凶悪の競演に身を震わせた蘭子の拘束が緩む。

やっと解放された右腕の痺れなどに意識を裂くまでもなく、さっさとこの場から撤退しようとソファから立ち上がるが──残念ながら、最後の役者は間に合った。

 

 

 

 

「一方通行!!」

 

 

 

荒々しく扉を開けて、全速力で階段を駆け上がった為に乱れた髪や服装を直そうともせず。

求めて止まない男の姿を見るなり、脇目も返らず、渋谷凛はその胸元に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

─────

──

 

 

 

 

 

 

 

 

はしたないとか、不恰好とか、淑女らしさの欠片もないとか。

指摘されてしまいそうな事は幾つもあったけれど、そんな余裕と怠慢に満ちた慰みなんて、最初から求めていない。

静止させるべく私の名を呼ぶ誰かの声に構う余裕もなく、震えた手で握り締めたドアノブを捻って開いた先。

 

 

灰の世界を分け与えてばかりの私に、色をくれた人が、其処に居て。

言葉の瓦礫を綴る苦労すら乗り越えて、只、呼んで。

 

今度こそ、届いた。

春を繰り越して、夏雪に行き場を無くしかけた想いが、『未熟』を指し示す私の躊躇いなんて過ぎ去って、追い越す。

 

 

 

「一方通行!!」

 

 

 

季節外れの虹の匂い。

頬から伝わる何処か作り物めいた胸の奥にある、継ぎ接ぎの心臓の音。

視界の外縁に今にも溜め込んだプリズムを掻き分ければ。

それは多分、彼自身も把握し切れない身勝手に気付かないほど、些細な微笑。

 

マネキンの口の端っこに罅が生えただけの、取るに足らないと万人が捨てるくらいに、僅かなモノ。

戸惑いと諦観に裏付けた困惑顔の奥底、裏側から手繰り寄せた、私だけの『勝算』だった。

 

 

 

「……はァ。いっそ、仕組まれてた方がマシだったかもな。オマエ、仕事どォした」

 

 

「っ、ぇ……ぃ、休、み……」

 

 

「凛ちゃん、というかニュージェネレーションの三人は今日、珍しくイベントが入ってなかったのよ。だから、一方通行の言う通り、今回はマジで偶然なの。いやぁ、こーゆー予定外の番狂わせがあるから人生って面白いのよ。ね、プロデューサーくん」

 

 

「えぇ、ですが、この場合は……運命、という方がロマンチックではないですか?」

 

 

「おっ、何よ何よ、言う様になって来たじゃないの。まっ、プロデューサーくんにもこうやって見れば分かるでしょ。運命の女神は身勝手な色男よりも、うら若き乙女の味方をしてくれるもんなのよ、女同士だからねぇ。ふふ、でも、味方する乙女が1人とも限らないってのは新しい発見だわ」

 

 

「……あぁ、成る程。『これから』苦労しそうですね、彼。女神に好かれそうな乙女が、ウチには沢山居る。凛さん然り、神崎さん然り。しかし、この場合は、乙女にとっても不運になるのでは? 生憎、王子役は1人しか居ない」

 

 

「その程度の不運、勝手に乗り越えるから女神様は微笑んでくれるんじゃないの? まぁ、私はそういった経験はないから、そこら辺はフワッとさせる方が楽に射きれるわよ」

 

 

「勉強になります」

 

 

「良い歳こいた大人二人が顔合わせて何クソみてェなメルヘン語ってンだ。つゥかオッサン、オマエ今これからって──」

 

 

「しぶ、りん……足早っ……って、ぁ、やばっ」

 

 

「はぁっ、はぁ……どしたん、です……未央ちゃん……あっ、あ、お、お取り込み中でしたか……」

 

 

「あぁもう、だ、だめよ二人とも……折角良いところだったのに……」

 

 

「美波、美波。これがБорьба сцены……アー、修羅場というモノですね。私、初めて見まシた。ここから奪いアイですか、ジャパニーズ大奥ですか。キスシーンは? 蘭子の反撃はないのですか?」

 

 

「鬱陶しそォなのが増えやがった……」

 

 

そういえば、会議室の外でこっそり聞き耳を立てていたラブライカの二人がドアを開ける時に何やら言ってくれてたのに、私はそれすらまともに耳に入ってなかったんだとどこか他人事の様に思い出す。

全力疾走する私を追い掛けて来た所為で、激しく息を切らしている未央と卯月の気まずそうな、それでいて興味津々といった視線が一気に4つも集まって。

私にとっても一応、感動の再会になるんだけども、徐々に落ち着いていく思考が今更になって羞恥心のランプに火を灯した所為で、色んな意味で一方通行の胸から顔を上げる事が出来ない。

 

そんな嬉しいんだか恥ずかしいんだか水も油も絵具もアクリルもごちゃ混ぜになった精神状態、ハリケーンも真っ青な桜花乱舞が巻き起こる視界の隅で、彼のダラリと力の抜けた腕を引く、薄いカーシュピンクのマニキュアが塗られた可愛らしい掌。

そういえば、霧夜常務代理とプロデューサーが何やら聞き捨てならない事を言っていたような気がする。

 

 

身勝手色男がどうとか。

女神に好かれるとかどうとか。

私が不運になるとか、蘭子が王子役にどうとか。

 

 

「わ、我が同族よ。我が問いに答えよ」

 

 

「勝手に同族にすンなって言ってンだろ、ゴスロリ。なンだ」

 

 

「ぐぬ……え、ええと。凛ちゃん、じゃなくて……その、汝と我が友、凛とは如何なる関係だ。よもや衆愚の偶像たる彼女と、こ、ここ、恋人……だったり、する、の?」

 

 

「違ェよ、バカ」

 

 

恐らく、悲恋の内に已む無く別れた恋人同士という構図を描いたのだろうけれど、恋人なのかと尋ねると同時に肩を落とすのは、ちょっと待って欲しい。

まぁ、即否定してくださった難関攻略対象者様の言う通り、別に恋人同士という訳でも、恐らく皮肉な事に、この感情は一方通行が関の山という所。

 

ぶっちゃけコイツに他に恋人が出来たとしても、出来ていたとしても諦めるつもりは毛頭ない覚悟すら私は抱いているつもりだ。

ある意味ストーカー染みて質が悪いのは百も承知だけど、恋とはそういうモノだと開き直るだけの時間を作ったのは一方通行の所為、という事にしておいて。

 

 

だから、トラックに轢かれる所から助けてくれた命の恩人だし、年頃の乙女にはムカつくぐらいに効いてしまう歳上の美形だし、いいなって思ったり憧れたりするのは分かるけども。

 

 

「……振られた私にさ、こんなこと言う権利ないと思うんだけど……あんたって、女の敵?」

 

 

「……見る目が無ェバカが多いだけだろ」

 

 

「そうね、確かに多いわね。少なくとも私の見立てでは、重症患者だけで5人以上、軽症は一々数えてらんないわ。それにぃ、最近ちょろーっと聞いた話だけどぉ、保護者の飲み友達にも猫可愛がりされてるんだっけぇ?

この前、ウチのさるトップアイドルが嬉しそうに話してくれたのよね、『一方通行君のつくる御摘まみは最高』だって」

 

 

「ぐ、あンの駄洒落アマ……要らン事を要らン奴に話しやがってェ……」

 

 

「……な、汝……お、女たらし、なんですか……?」

 

 

「手を引くなら早い方が良いよ、蘭子。文字通り手遅れになったらとことんまで引き摺る羽目になるから」

 

 

「しょ!? そ、しょ、しょんなつもりじゃ……う、うぅ、うぅぅぅぅ………」

 

 

一方通行の口から聞いただけで直接会った事はないけれど、確かこの男には小島梅子さんという二十代後半の女教師という如何にもな保護者が居た筈だから、霧夜常務代理の言う保護者とはその人の事だろう。

 

梅子さんと意気投合しそうな飲み友達、つまり酒好き、駄洒落というワード、346のトップアイドル。

かなり符号してしまう心当たりが、1人いるのは気の所為じゃない。

まさか、あの高垣楓さんとも交流があるとは、今更ながらに一方通行の交友関係の広さに愕然とする。

まぁ、あの霧夜グループの娘である霧夜常務代理とも知り合いなのだから、例えば天下の九鬼グループにも交友があったと云われてももう驚けないだろう。

 

 

というか、確かに楓さんは一方通行の事を滅茶苦茶、とまでは行かないまでも、普通に可愛がりそうだ。

一方通行との雑談を聞く限り、家事は万能、彼が作る御摘まみとやらも恐らくかなりのモノ。

面倒見も何だかんだで良いから酔い潰れたりしても介抱するだろうし、楓さんのオヤジギャグもつまらなそうに、でも無視まではしないだろうから完全には聞き流さないだろう。

 

あぁ、拙い、そういえばこの前、雑誌の撮影で偶々一緒になった時に、そろそろ結婚も考えないと、とか言ってたのを思い出した。

予定はあるんですか、と聞けば、ちょっと含んだ感じで分からないと返されたあの時。

まさか、まさかそういう意味だったなら?

 

 

「……ちょっと、霧夜常務代理。プロデューサー。ちょっといいですか」

 

 

「おっ、しぶりんのターン!」

 

 

「結婚宣言ですか!?」

 

 

「卯月ちゃん、飛躍しすぎ」

 

 

「蘭子、ファイトです! ぶつかり合ってこそ女の花です! ドラマで見ました!」

 

 

「アーニャ、落ち着いて。皆、ちょっと黙ろう。部外者は静かに、余計な口出しは御法度よ」

 

 

「「「はーい(Да)」」」

 

 

素直に口惜しいと思いながらも、淡い香りの残る一方通行の胸から体を返して、チェシャ猫みたくニヤニヤと笑みを深める霧夜常務代理と首を擦るプロデューサーへと向き直る。

多分、何滴か溢れてしまった涙の所為で目元が赤くなってそうだけども、この際、仕方ない。

 

恋敵が多いのは何となく分かっていた事だけども想像以上に劣勢かも知れない事に気付いて、これ以上の停滞は怠慢に等しい。

それは宣誓を反故にする形になるし、とても格好の悪い事なんだろうけど、悠長に自分を高めるよりももっと足掻かないと、その隣に居座る事なんて出来ないと判断して。

 

応援というよりはこの場合は茶々入れと同義にキャッキャとはしゃぐ面々を纏めてくれる美波さんは本当に頼りになる。

絵に填まった艶っぽいウインクをくれた美波さんに軽く微笑みでもって答えて、姿勢を改める。

 

此処も、正念場の一つだから。

 

 

「……えっと、改めまして。御二人にお願いがあります」

 

 

「はぁい、何かしら」

 

 

「……どうぞ」

 

 

「以前、私が言った、アイドル活動に専念すると云う発言を、撤回させてください」

 

 

「……ふふ、そう」

 

 

「それは、アイドルを辞めるという意味ではないですよね、凛さん」

 

 

「はい」

 

 

恐らく、この二人……いや、こっそり不機嫌そうな気配を強めた直ぐ後ろの朴念人も含めて三人だけは、私の発言にある程度見切りを付けていたのかも知れない。

ともすれば、口頭の辞職願にも取れるようにも聞こえたのか、一瞬空気が凍り付いたけれど、プロデューサーの確認の様な問答に頷いた私を見て、すぐに霧散する。

 

 

「けど、私は多分、頻繁に一方通行に会いに行きます。勿論、アイドル業も真剣に取り組むつもりです。そんな私が一方通行と共に時間を過ごす事を望めば、色んな弊害だって出る」

 

 

「……」

 

 

「もしかしたら、プロジェクトの皆に迷惑をかけるかも知れない。会社にも、色んな人にも迷惑をかけるかも知れない。だから、そんなトラブルの種はご免だからって辞める事になっても────構い、ません」

 

 

「し、しぶりん」

 

 

「未央、最後まで黙って聞きなさい。皆も、いいわね」

 

 

あぁ、そうだ。

これはきっと裏切りにも等しい宣誓だ。

一方通行への恋心と、今まで積み上げたモノを危険に晒すリスクを天秤に掛けた事に、贖罪を求められれば黙って受け入れる。

 

例え、プロジェクトチームの皆や、未央……それに、卯月に責められたとしても、それは覚悟の上だと踏ん張る為に強く握った拳がキリリと鈍く響いた。

 

 

「だから、お願いします! 私が一方通行に『かまける』事を許して下さい!!」

 

 

「──」

 

 

緊張の所為で喉の奥がカラカラに渇いて、食道から伝うヒューッと滑稽に鳴る音が鼓膜へと、やけに近くで反響する。

身勝手な願いを押し通す為の、僅かにしか勝算のない賭けを成立させる為の、精一杯の懇願。

この時ばかりは地に這うほど下げた頭が異様に重くて、巨石を投じた反動で静まり返った空間に幽かになる電飾の奇妙な擬音が不気味に思えた。

 

1人の男の為に、代償を会社や周囲が負わなくてはならないリスクを無視すると言っているのだ、私は。

それがどれだけ無謀で無茶な身勝手かを、その口で淡々と説明された相手に、尚も押し通す。

それも、再会した際にほんの少し笑いかけて貰っただけという、実に幼稚な勝算を頼りに、全てを捨てる覚悟までして。

 

 

 

「……残念だけど、『その必要はないわ』」

 

 

「……え?」

 

 

「というより、今更抜けられても困るに決まってんじゃない。そりゃ、要らないリスクを背負い込まない為に頭を使うのが私の仕事よ。かと言って、貴女を切ればプロジェクト全体の士気は間違いなく下がる。有望株は消える。そっちの方が損失が多いわ」

 

 

「……で、でも、私……会社の恋愛禁止って方針に楯突いてるんですよ?」

 

 

「馬鹿ね、禁止って言われて禁止に出来たらこの世に警察組織なんて要らないでしょうが。バレなきゃ良いのよ、こんなの」

 

 

「あ、あの……思い切り、自分からバラしてるんですけど……」

 

 

「そんなの、私達が黙ってれば良いじゃないの。私個人の意見は、前に聞かせた通り。知られてはいけない所に知られない様にすれば良い。じゃあ、ここで凛ちゃんに聞いてみましょう……次に解決すべき問題の支店となるのは、一体誰かしらね」

 

 

「──チッ」

 

 

口をついて出たには、何故だか少し『わざとらしい』と感じたのは、私の願望が投影されただけの幻聴だったのだろうか。

まるで、答え自らが名乗り出る様な、どこか諦めを含んだ微かな舌打ち。

 

振り向けば、分かり易くそっぽを向いて、ガリガリと苛立ち混じりに頭を掻いている一方通行が映って。

 

 

 

 

「──アクセラ、レータ……ですか?」

 

 

「そう、正解よ。そこで拗ねてる白兎さえ『どうにか』してしまえば良い────さて、此処からはビジネスと行きましょうか、一方通行? こんな可愛い娘に無茶させて、自分だけ知らん顔なんて、出来ないんでしょ?」

 

 

まるで教鞭を取る教師みたく、同性ながら見惚れてしまいそうな柔らかな笑みと共に、レディスーツが翻る。

 

その足並みはチェシャ猫が打ちならす陽気なモノなんかじゃない。

霧夜という巨大な経済グループの一角を担う令嬢としての、存在感とカリスマをただ1人の『交渉相手』に向けていた。

 

そして、対峙する白猫は毛を逆立てる事もせず、首根っこを掴まれたかの様に諦観混じりの細い息を1つ零して、わざとらしく肩を竦めるのが、まるで陥落したと白旗を振っているみたいで。

 

 

「うるせェよ、クソッタレ……はン、これだから『テメェ』の相手だけはしたくねェンだ」

 

 

「転がり込んだ偶然をモノに出来なきゃ、マネーゲームは務まらないのよ、知ってんでしょ。ま、流石に学業を優先させないと梅子先生に折檻されちゃうから、土日で良いわ」

 

 

「当たり前だ……ったく、満足か? 『九鬼の鼻を明かしてやれて』」

 

 

「えぇ、大満足。九鬼が欲してやまない『知神』様の頭脳を、まさかアイドルプロデュースに使うなんてね。あの『脳筋女』が知ったら何て言うのかしら」

 

 

「……『我もプロデュースして貰おうか』とでも言うんじゃねェの? 紋のチビガキもセットで」

 

 

「……普通に介入して来そうね、腕が鳴るわ。さて、じゃあプロデューサーくん……あ、これじゃややこしくなるか──武内君、その資料渡してあげて」

 

 

「えぇ。此方が、我が社の大まかな取引相手の一覧、あと決議予算の割り当ても同封してあります。それで、此方が現在進行中のシンデレラプロジェクトのメンバーの簡単なプロフィールです……宜しければ、高垣さんのも用意しましょうか?」

 

 

「要らねェよ、こっちでもアレの面倒見ろとか冗談じゃねェ」

 

 

「……ちょ、ちょーっとすんません! えーっと、水差してめっちゃ申し訳ないんですけど、ど、どういう流れなんですこれ? なんか皆ポカーンとしてますけど!? 九鬼ってあの九鬼グループですか!?……ていうかそっちのイケメンさん、それで読めてんの!?」

 

 

陶芸品みたく暖かみの白色をした指先が、ペラペラとページを捲る合間は1秒もなく、読むというよりは寧ろ眺めていると云った表現が適切かも知れない。

分厚いグレーのファイル数冊に纏められた、明らかに社外秘な書類を渡された意図は何となく私には分かったのだけれど、目に飛び込んで来る視覚情報に確信を抱けなくて、どこか夢心地。

 

未央の言う通り、ビジネスというよりは『業務説明』みたいなやり取りと3人の気兼ね無さ、霧夜常務代理と一方通行との関係についてほんの少し知ってる程度の私も含めて、ほぼ全員が呆気に取られてしまうのも無理はない。

特にラブライカの二人と蘭子は話に全く付いていけないらしく、クエスチョンマークを頻りに浮かべながらひたすら小首を傾げている。

どういう事ですか、とアナスタシアに裾を引かれても、卯月にだって良く分かってないのに、多分に困惑しながらも苦笑を浮かべる余裕がある辺りは流石だ。

 

 

「……最近、貴女達の活躍は目覚ましいものがある。会社の想像以上の反響、どんどん埋まっていくスケジュール。そこに手応えを感じてはいないかしら?」

 

 

「は、はい、確かに。蘭子ちゃんが来るまで、私達も新企画の会議してしましたし……」

 

 

「そう、需要がかなり高まっているから、お得意様から色々と企画を提案される。でも、活動するアイドルの手は足りてなくても、そこを補助するマネージメント、つまりはプロデューサーを始めとした社員の手が足りなくなって来てる訳。嬉しい悲鳴といえばそうなんだけど、このままだと貴女達の補助役が倒れる可能性もあるかも知れない」

 

 

「事実、私や千川さん、部長などでは罷り切れない細かなミスも増えてきています。だからこそ、即戦力は喉から手が出る程に欲しい」

 

 

「さて、総括と行きましょう。人材の確保、且つ新進気鋭のアイドル渋谷凛をたぶらかしてくれた泥棒猫の対処、それを纏めて解決する方法といえば……もう分かったでしょ、凛ちゃん? 最後の口説きは、貴女に任せるわ」

 

 

「…………」

 

 

パタン、と閉じた数冊のファイル全てに目を通して、そのまま分厚い会議室のパイプウッドテーブルに置いた一方通行へと促すのは、勘違いの末に幼稚な嫉妬心を向けてしまった事もある、ブロンドの麗人。

殆どお膳立てみたいな事を済ませた癖に、若干揶揄かいを含めてクスッと笑う涼やかなソプラノに背中を押されて、どこか拗ねていながらも不思議と柔らかな印象を与える大人の表情をした、彼を見上げる。

 

 

 

「ねぇ、一方通行」

 

 

「……」

 

 

 

何度も夢に出てきたし、何度も焦がれている、こうやって直ぐ目の前に居る今でも、触れてしまえば泡沫に消えてしまうんじゃないかとも、思うけど。

 

でも、そんな不安を表に出すのなら、ただ彼に甘えたいだけだった春から何も成長出来ていない事になるから。

 

 

子供らしく生意気に、女らしく傲慢に、私らしく凛として。

 

 

 

 

 

「──あんたが、私のプロデューサー?」

 

 

 

 

 

声が震えているのは、ご愛嬌、という優しさで捉えてはくれないのが、この男の意地の悪い所で。

 

 

 

「──ハッ、自惚れンな。オマエだけ見る訳がねェだろ」

 

 

「……む、じゃあ、他の娘を見る余裕なんて無くなるくらい忙しくしてやるだけだよ」

 

 

「吠えるじゃねェか。肝心なとこで声震わせといて良く言う」

 

 

「バカ、意地悪。それくらい見逃してよ」

 

 

「クカカ、達者なのは口だけか。まだまだ背伸びするだけのガキから卒業出来てねェな」

 

 

「……お陰様で!」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

そんな意地悪なとこが、私の心を離さない。

隣ではないけれど、近くには居てくれるのは確かで

目標地点は未だに遠いのに、心の奥底から極彩色の本流が身体中に巡り回る。

嬉しさの余りに、涙を流さなかったのは奇跡かも知れない。

 

 

「……っし、それじゃあ皆整列して。取り敢えず、先にこのメンバーだけでも恒例行事はやっておきましょう。はい、蘭子ちゃんもぼーっとしないの、並んで並んで。迅速行動は社会人の鉄則よ」

 

 

「ふぇ……っ、は、はいぃ!」

 

 

「オッサン、コイツらのスケジュール周りの資料忘れてンぞ」

 

 

「あ、それは私の手帳から確認……え、もう全部読んだのですか」

 

 

「情報だけなら頭に叩き込んでるから問題ねェよ。まァ、先にこのガキ共に説明すンのが先か」

 

 

「自己紹介の間違いでは?」

 

 

「紹介してやる事なンざ1つ2つで充分なンだよ」

 

 

ソファとテーブルを挟んで、ニュージェネレーションとラブライカの、プロジェクト始動機に設立されたメンバーと、恐らく色んな意味で私のライバルとなりそうな予感のする蘭子を加えて、一列に並ぶ。

 

かなり使い込んでいるのか、付箋が幾つも挿された黒革の手帳をプロデューサーから受け取りながら、ゆっくりと、真紅の瞳が一人一人の顔をスライドしていく。

多分、そう御目に掛かれない程の美形だからか、普段は大人びて落ち着いているアーニャと美波でさえ、真っ直ぐに目を合わせたからか、どこか鼻の抜けた吐息を零していた。

 

あぁ、そうか、さっき霧夜常務代理とプロデューサーが話していた、運命の女神様が微笑んだ乙女が、必ずしも幸福を掴めるとは限らない、とはこういう事なのかも知れない。

私の傍に居てくれる事には間違いないんだけども、それは必ずしも私だけの傍に居るとは限らないんだ。

これから先、アイドル業よりもある意味、激しい戦場を経験するやも知れない予感に、そっとお腹に力を込めた。

 

 

「──つゥ訳で、クソ常務代理サマの『お願い』で、オマエらのプロデューサーになった一方通行だ。まァ、アイドル稼業なンざ良く分かンねェから、勝手に宜しくやってくれ」

 

 

「こら、駄目でしょあーくん、女の子相手なんだからもっと爽やかに自己紹介してあげなさい」

 

 

「その名前で呼ぶな、ぶっ殺すぞ」

 

 

「えっと、霧夜常務代理……一方通行、さん? って呼べば良いんですか? その、大丈夫なんですか? 即戦力どころか、プロデューサーの経験ないみたいですけど。あ、いや、別に文句って訳じゃなくてですね」

 

 

「あー、まぁ確かに美波ちゃんの不安も分からなくは無いけど、心配しなくていいと思うわよ。口はアレだけど、困ったことに笑えるぐらい有能だから。じゃ、ちょっとだけデモンストレーションっぽい事やってみましょうか……はい、これ美波のページ、ちゃんと皆にも見えるように持って。あ、一方通行は回れ右」

 

 

「あ、はい……って、あ、これ……」

 

 

「……面倒クセェな」

 

 

私は一応、一方通行が色々とずば抜けてるという情報を僅かながらも持っているから、一方通行がプロデューサーになる事に不安はないけど、他の皆は違う。

 

数冊の段になった山から薄青配色のファイルを抜き出して特定のページ項まで捲った霧夜常務代理は、その開いた状態をそのまま美波さんにファイルを手渡して、上機嫌に目元を緩めた。

 

ポツポツと淡雲が浮かぶ青空が広がる窓際へと白銀の尻尾髪を翻す一方通行を尻目に、一列に並んでいた皆がひょこひょこと美波さんの手元へと玉になって集まる。

 

開かれていたページは、美波さんの名前から始まって、誕生日、年齢、出身地、果てはスリーサイズやプロデュースされた切っ掛けまで記されていた。

 

 

「じゃ、一方通行。私が今ファイルを渡した娘の細かなプロフィール言ってくれる? もちろん、スリーサイズも宜しく」

 

 

「ちょ、常務代理!?」

 

 

 

「──新田美波。歳はこの前の7月27日に成人した。身長165㎝、体重45kg、平均的な痩せ方だろォよ。血液型はO、出身は広島。趣味はラクロス、あと資格取得。家族構成は両親健在、弟1人。他の項目は省略すンぞ」

 

 

「す、凄い……全部合ってる。本当に、もう覚えちゃったの……」

 

 

「ま、マジか……あんなのほとんどパラパラ捲ってただけじゃん……え、この人、速読の日本代表か何か?」

 

 

 

スリーサイズを口にしなかったのは常務代理に対する異種返しか、単に慌てふためいた美波さんに対する温情か。

しかし、あの1秒にも満たない内にこのページ全ての、いや、恐らくファイル全ての情報を漏れすらなく頭にインプットしたなんて、流石に私だって信じられない。

あの川神学園の知神なんて仰々しい称号で呼ばれているから、物凄く頭が良いんだろうとは想像してたけど、これはちょっと桁違い過ぎて、文字通り神業だ。

 

未央なんて大口開けて固まりつつ、一方通行を速読競技の最優秀成績保持者か何かと勘違いしてしまっている。

そこで何か閃いたのか、ちょっとした好奇心を目に浮かべながら何やらボソボソと卯月がアーニャの耳元で囁くと、彼女は一度難しそうに首を傾げると、一方通行の白銀髪に似たシルバーブロンドをたなびかせて、背中を向けたままのあの人へと歩み寄った。

 

 

 

『あの、ロシア語は話せますか?』

 

 

『……そういうオマエは流暢とは言えねェが、日本語は話せるみてェだな。勉強したのか』

 

 

『!!!──はい、頑張りました! 時々、母国語が反射的に出るのですが、何とか皆と会話出来てます。あの、アクセラ、レータ? 貴方は、どちらの国からいらしたんですか?』

 

 

『……俺は日本人、この髪と眼は特殊体質みてェなモンだ』

 

 

『そ、そうなのですか、不躾な事を聞いてすいませんでした、アクセラレータ』

 

 

『気にすンな。つゥか、お喋りは其処までにしとけ』

 

 

 

「──卯月、卯月の……アー、見立て通りです! 私の母国語が通じます!」

 

 

「うん、良かったね、アーニャちゃん!」

 

 

「記憶の貯蔵のみならず、異国の言霊すら容易く扱うとは……な、何という才気の化身。我の同族とはいえ、ここまでとは……」

 

 

「ふふふ、まぁこれでも充分だけど、折角だから最後にもう一押しときましょうか」

 

 

どうやらロシア語が通じるか試してみよう、というのが卯月のちょっとした思い付きだったらしく、その目論見は見事に的中した。

多分、外見は明らかに日本人離れしている一方通行に対する好奇心からなんだろうけど、私個人としては少し拙いかもしれない。

 

異国出身だからこそロシアとのハーフであるアーニャが色々苦労しているのは知っているし、わざわざ口を付いて出たロシア語まで私達に分かるよう丁寧に日本語に言い直す際に、ほんの少し寂しさを滲ませる仕草を何とかしてあげたいとは皆が思っていた事だけども。

言葉が通じる、たったそれだけで普段はとてもクールで落ち着いたアーニャがあんなにも嬉しそうな笑顔を浮かべるのは、勿論、良いことだけども。

 

更に新たなライバル出現、って訳では、ない、はず、だから、うん。

 

 

そんな私の静かなる葛藤を余所に、デモンストレーションの最後の一押しだと、両手を軽く打ち鳴らす霧夜常務代理は至極楽しそうで。

 

正直、あの人のことを惚れ直したとも思ったけど、これ以上私がハラハラする展開は勘弁願いたい、という思いの方が強く沸き上がった。

 

けど、そんな私の焦燥感を目敏く見つけたブロンド美人の蒼い瞳がニヤリと細まって。

 

あぁ、一方通行がこの人を『女狐』と呼ぶのも良く分かる。

やっぱりこの人、味方だと凄く頼りなるけども。

それ以外だと、とても厄介だ。

 

 

「一方通行。実は『このメンバーの中』に、シンデレラプロジェクトのチームリーダーが居るんだけど……誰だと思う? 予想した娘の肩を叩いて頂戴」

 

 

「はァ? なンでわざわざそンな真似──」

 

 

「良いから良いから、上司命令。こっちの方がクイズ感覚で面白いじゃない」

 

 

「──チッ」

 

 

至極面倒そうに舌打ちを1つ鳴らして、ツカツカと迷いなく件の『リーダー』の元へと歩み寄る。

間近で見上げるのと遠目で眺めるのでは全然印象が違うのは、それはもう、私が良ぉく知っている事で。

 

少なくともプロフィールには載っていなかったから、他の資料にシンデレラプロジェクトのリーダーについての記述があったのかも知れないけど、そこはもうどうでもいい。

 

 

「……ぅ、わ」

 

 

あっという間に宝石みたいに煌めくガーネットの瞳に見下ろされている当の『リーダー』は、不機嫌そうな横顔すら絵になってしまうこんな美丈夫を間近にしたら。

さっきまでなるべく冷静に務めていた筈だった彼女の頬がサッと朱を射し込ませて、栗色の瞳がオロオロとさせながらも見惚れた様な細息を落としてしまうのは、私からすれば予想の範疇だ、悲しい程に。

 

 

「……普通に考えれば、オマエだろ」

 

 

「ひゃい!?」

 

 

ネイリストに見せれば感嘆の息が零れそうなシャープなシルエットの掌が、ポンと気軽に美波さんのなだらかな肩に置かれるが、触れられた当人は気軽になんて受け止められない。

聞いた事もないような上擦った声と大袈裟なくらいに身体が跳ね上がるのは、いっそ同情してしまう。

目にも耳にも、色々と毒なんだよね、この人は、ホントに。

 

それはある程度自覚してるんだろうから、置いた手は猫みたくシュッと機敏な動作で仕舞われてしまったけど、多分傷は浅くないんだろう。

 

 

「ふふ、どうして美波ちゃんだって思ったの?」

 

 

「……年齢ってのも大きいが、リーダーとしての自意識もちゃンとあるンだろ。他と違って状況に流されず、俺のマネージメント能力についていの一番に意見したのは、そォいう事だろ。凛だけじゃなく全体を重視してなきゃあの場で口を挟めねェ。違うか、オッサン」

 

 

「えぇ、その通り、流石です。しかし、それなら状況説明を求めた未央さんも候補に上がるのでは?」

 

 

「ソイツも責任感はあるみてェだが、空回りもその分多いンじゃねェの? ムードメーカーはユニットのリーダーとしてなら丁度良いが、全体を仕切るには荷が勝ち過ぎてンよ。素質は認めてやるがな」

 

 

「そ、そうっすかねー、いやぁしぶりん、このお兄さん見る目あるねぇ」

 

 

「──とまァ、こンなおべっかに調子付くアホは直ぐ足元を掬われちまうだろォから、俺がリーダーにすンなら新田が妥当じゃねェの。この場の面子のみで考えた場合は、だがなァ」

 

 

「ぅ、あ、ありがとう……ございます……」

 

 

まさかの、ベタ誉め。

いや、確かに納得出来る理由だし一方通行自身も多分冷静に分析した結果だけを淡々と述べているんだろうけど、これは駄目だって、狡いって。

 

私だって極たまに褒められたりはするけど、それはあくまで皮肉の裏側、分かり易く言えばツンデレっぽい感じなのだ、それはそれで良いモノだけど。

 

けど、美波さんみたいな大人っぽく裏でコツコツ頑張るタイプは、こうやって細かな所まで理解して認めてくれるみたいな賛辞が、とても刺さりやすいんだろう。

自分でも気付かなかったプロデューサーの信頼も手伝って、というのもあるけれど。

頬の赤みをより強くさせて嬉しさと恥ずかしさがミックスした感情に熱を浮かされたみたくプルプル震えながら、キュッと藍色のスカートを握りながら俯いてる。

 

ただその口元は、ニヤけてしまいそうなのを必死に我慢するのを堪えるようにモニョモニョと動いているのが、私の危機感を更に高めた。

 

 

 

 

「わ、我は!?」

 

 

「腕引っ張ンな。で、オマエはまともに喋れるよォになってから出直して来い」

 

 

「うぐっ、ひ、酷い……」

 

 

「あ、ちなみに私はどうですか?」

 

 

「あン? 悪くはねェが、新田のが歳上だろ。新設チームを纏めるには貫禄と安定感が足りねェ。まァ今後に期待か」

 

 

「はい! 頑張ります!」

 

 

「ではアクセラレータ、私は?」

 

 

「……あァもォ面倒クセェな、知りたきゃ後で個別に教えてやる。ンで裾引っ張ンな」

 

 

「……やはり、問題なさそうですね。頼りになる後輩が出来ましたので、これからは少し、楽が出来そうです」

 

 

「良かったわね、武内君。あ、でも一方通行は未成年だから、仕事帰りに飲みに誘うのはNGよ。ちひろちゃんによーく言い聞かせといてね」

 

 

「分かってますよ、霧夜常務代理」

 

 

「え!? 一方通行プロデューサー、私より歳下だったの!?」

 

 

「老けてて悪かったな。つか長ェから役職は無しで良い」

 

 

「いや、老けてるってか……だって色々凄過ぎるし。そりゃしぶりんが骨抜きにされる訳だ……」

 

 

一人、今更ながら惚れた男のスペックの高さに惚れ直したり焦ったりして、若干冷や汗すら流している私に向けられた台詞が、羞恥心だったり危機感だったりを更に煽ってくれる。

 

 

「確かに……未央ちゃんの言う通りですね。記憶力も凄いし」

 

 

「アー、ロシア語も、発音も喋りも完璧でした」

 

 

「……洞察力も……うぅ……」

 

 

「……我を救った時も…………ふにゃ……」

 

 

そしてその危機感はレッドアラートがけたたましく鳴り響くくらいにまで膨らんだのは、やたら愛らしいふやけた鳴き声をあげる蘭子の姿がトドメになったから。

 

多分、事故から救って貰った時のことを思い出しているのか、雪みたいに白い肌に紅を引いてぼやーっと惚けている姿は、まだ憧れか何かの筈なんだと言い聞かせるには説得力が欠けていた。

 

 

だから、今の私に出来る事は。

取り敢えず、先手必勝。

リードしているのは、あくまで私なんだと知らしめる為に。

 

 

 

「──アクセラレータ、そう言えばまだ感想、聞いてなかったんだけど」

 

 

「……なンのだ」

 

 

その掌を、ぎゅっと両手で握り締めて。

 

 

今はもう、直ぐそこにまで居てくれる貴方を、モノにする為に。

 

 

最大限の牽制を。

 

 

 

あぁ、『綺麗な月』に手が届きそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────私とのキス、どうだった?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんの一瞬の静けさは、訪れる嵐への予兆。

 

 

凄まじい荒れ模様に包まれる会議室。

 

 

 

これからもきっと、動乱は増えていくけど。

 

 

 

花の様に咲き誇る笑顔を身に付けて

 

 

鳥の様にこの宿り木を飛び立って

 

 

風の様に瑠璃色の宙を舞い上がり

 

 

 

この大きな白い月を、オトしてみせる────

 

 

 

 

 

 

__________





と、かなりご都合主義なパワー展開でもって、番外編を終了します。

最後に、アンケートに協力して下さった皆様、読んで下さった皆様、ありがとうございました!



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登場人物紹介

デレマスしか知らないからキャラクターの紹介が欲しいというメールよりいただいた意見を参考に、本編での登場人物の設定を記載します。

なるべく伏せてはいますが、原作、本編のネタバレも含みますのでご了承を





____


『一方通行』

 

ライトノベル原作"とある魔術の禁書"の登場キャラクターにして、派生元作品『星の距離さえ動かせたなら』の主人公。

 

原作設定:

 

学園都市第一位として名を馳せており、『ベクトル操作』の能力を持つ。

さらに頭脳が非常に優れており、人間離れしている。

口調が独特で子音の『ァィゥェォ』と『ン』がカタカナ表記。

 

原作時の外見は細身。

真っ白な色をした無造作な長髪と紅い瞳を持ち、整った顔立ちをしている。

幼少の頃の影響で排他的な性格をしており、言動も暴力的で攻撃性が高い。

 

かつて利己的な目的の為に、非人道な実験に参加し、上条当麻(原作主人公)に敗れ、改心。

その後、自身の行動指針となる少女と出逢い、彼の運命は更に加速していく。

 

 

本編設定:

 

 

 

様々な出逢いと別れを経て、『真剣で私に恋しなさい』の世界線へと降り立つ事となった。

小島梅子という川神学園(高校)の教師の保護下として生活している。

年齢は二年生時で18とされているが、実際の正確な年齢は一方通行自身把握してないので不明。

年数を経て、身長も伸びておりかなり高く、より美しくも男らしさを伴った顔と、腰まで伸びた長髪をポニーテールの白銀髪なども相まって美しい男として有名だったりする。

 

料理、ギター演奏、音楽鑑賞など多趣味。

中型免許を取得しているらしい。

また、人脈も非常に広い。

世界的財閥九鬼、大企業霧夜グループ、川神院など。

 

とある少女への想いを募らせたまま、青春模様を過ごしている。

 

 

 

番外編設定:

 

川神学園三年生。

新たに自動車免許を取得。

また、趣味の延長でピアノにも手を染め出したらしく、二年生の秋頃からとあるショッピングモールにある楽器店のキーボードを試奏している姿を目撃されているらしい。

とある少女との出逢いの末、誰かの思惑なども重なって、346プロダクションのプロデューサー兼マネージャーとなる。

実はそれ以前から、プロダクションのアイドルの数名と顔見知りであったりする。

ちなみに本編では身長177cmだったのが、1cmだけ伸びたらしい。

 

 

『霧夜エリカ』

 

大企業財閥、霧夜グループの令嬢にして幹部。

深い青色の瞳をしたスタイル抜群のブロンド美人。

年齢は二十代前半。

一方通行とは腐れ縁であり、彼をよくからかったり弄ったりするが、彼に対する親愛の裏返しでもある。

その為、ガン無視されると割と凹んだりする、性格は明るい。

幼少から巨大財閥の権力闘争を目の当たりに、時にはその渦中に居たことから、年齢の割に老獪な思考や判断も出来る上、地頭も非常に良い。

同性の胸部を揉んだりする親父っぽい一面やBLを嗜好としていたりする一面もある。

 

 

番外編設定:

 

346プロダクションの常務代理として務めている。

一方通行に以前作った貸しを盾に彼をプロデューサーとして働かせる事に成功。

ちなみにその際、一方通行がその要求に首を縦に振らざるを得なかった理由は、とある少女に頭を下げさせた状況を、彼の最大の弱点たる小島梅子にチクるという脅迫が最大の要因だったりする。

 

 

 

『小島梅子』

 

鞭を扱った武術『小島流』を習得している、二十代後半の女性。

教師として生徒達から人望を集めているが、一部女子生徒からは一方通行と同居しているために、限りなく黒に近いグレーとして危険視されている。

 

一方通行の保護者で、彼の義理の姉を自称しているが、一方通行もそれを拒むことなく受け入れている。

義弟の指導のお蔭で料理は多少はできるようになったが、たまに失敗してしまう。

また、逆に一方通行へと小島流の武術を指導している。

 

番外編設定:

 

とある経緯で、高垣楓と飲み仲間になる。

その交流の果てに、一方通行と高垣楓にも縁が出来た。

 

 

 

『甘粕真与』

 

一方通行の通う川神学園2-Fの委員長。

外見はどう見ても小学生だが、成績は学年でもトップクラスであり、奨学金に加えて援助金が学園から与えられる程に優秀。

性格も温厚で優しく下の兄弟達の世話をしている事もあって面倒見も良い。

 

親が事業に失敗した為に貧乏生活を余儀なくされているが、不境にも折れず腐らずバイトなどで金を稼いだり、家事の一切を引き受けたりと非常に努力家。

小笠原千花という親友がいる。

 

一方通行とは料理のレシピを教えあったり、倹約の方法よコツを教えあったりと主に家庭的な面で交流を重ねている。

というのも、辛い事があってもへこたれずに我慢しがちな彼女を見兼ねて、時々一方通行がフォローする形が多い。

ごく偶に一方通行が夕食を作ってくれたり、弟達の面倒を見てくれたりするので、彼女にとっては凄く頼りになる兄貴分として見られている。

 

番外編設定:

 

現在は川神学園の3-Fの委員長兼生徒会庶務の席に就いている。

といっても生徒会会長と副会長が有能過ぎるので、殆ど置物、マスコット的な立ち位置。

仕事が簡単なモノしか回ってこないし、家事があるからと会長に丁重に帰宅を促される事もしばしば。

 

昔から近隣に住んでいる城ヶ崎家とも交流があり、両親や姉が不在である為に城ヶ崎莉嘉を自宅に招いて夕食を共にする事も多かった。

 

その為、城ヶ崎莉嘉は一方通行が二年の頃からの顔見知りであり、姉である美嘉は三年に進学する前に一方通行と顔を合わせた。

莉嘉も美嘉もアイドルという側面がある為に、基本的に真与が美嘉達の事を口外する事はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話が進むにつれ、随時更新します___



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Produce,Act1 神崎蘭子


副題『キャンバスの中の紅いカラット』


神崎蘭子は厨二病である。

 

 

思考もそうだが、何より言語が非常難解である。

つまり基本的に何言ってるのかが分からない。

だからこそ、彼女とコミュニケーションを取ろうと思うのなら、非常に高いハードルを越えて行かなくてはならない。

 

おはようございますという挨拶が

 

『煩わしい太陽ね!』

 

お疲れ様です、と労う言葉が

 

『闇に飲まれよ』

 

プロデューサーを指して

 

『我が下僕』

 

仕事に行ってきますという宣言が

 

『いざ、侵略の時よ』

 

 

 

しかし、それさえも立派な個性としてアイドル活動に転用出来るように計らうのだから、商魂逞しい稼業である。

だからこそ、武内プロデューサーは彼女の個性を尊重し、なるべくその言語を理解出来るように務めた。

 

 

けれど、数奇な運命の末に、新たに加わる事になったプロデューサーは、違った。

 

 

 

────

 

 

 

 

 

「煩わしい太陽ね」

 

 

「外、曇ってンだが」

 

 

「えっ……あ、我が同族」

 

 

「勝手に同列に語ってンじゃねェよ」

 

 

「う……きょ、今日の饗宴は如何なる内容か」

 

 

「あァ?」

 

 

「ひぃ、す、すいません。えっと、今日の予定は……」

 

 

新人な筈なのに態度はまるで新人らしからぬプロデューサー、一方通行は兎角、口が悪い。

他の人が不理解の余りスルーする場面も、彼から返ってくるのはチンピラみたいなメンチ切りである。

 

しかも質の悪いのが、綺麗所の多い346本社において、『美形といえば?』と問われれば名が挙げられるトップアイドル達に普通に食い込み兼ねない容姿をしている点。

美しい男、というある意味希少生物扱いされているだけあって整った美人顔から繰り出される凄みは、かなり恐い。

 

手触り抜群の美しい白髪と深紅の瞳はまるで架空の物語から飛び出して来た姿で、下手な女よりも男が欲情しそうな美形とくれば、もはやこの男がアイドルになれば良いのではという意見が多く挙がるくらいだ。

 

 

「『Rosenburg Engel』で出した『Legne』って曲あンだろ、アレをリミックス収録する。シンフォニー要素を強めて音響変えっから、発声の仕方も複雑になるが、トレーナーからサンプルも預かってるから聞いとけ」

 

 

「えっ、は、はぁ……大丈夫、かな」

 

 

「オマエなら問題ねェよ」

 

 

「──!! しょ、わ、わわ我が力にかかれば造作もにゃいわ!」

 

 

「噛ンでンぞ。で、収録終わった後はファッション雑誌の撮影。『フラムベルク』な」

 

 

「えっ!? い、いつの間に契約したんですか……?」

 

 

「あン? オマエ、雑誌のカタログで其処のアクセサリーずっと見てンだろ、だから試しに営業掛けたら契約取れた」

 

 

「……う、ぅ」

 

 

「デザイナーがオマエのファンらしくてな、商品で気に入ったのがあれば何個か贈ってくれるってよ。こン中から……どォした」

 

 

そして、その容姿や誰にも媚びぬと言わんばかりのスタンス、実力、能力は彼女がスケッチに描く超常的な存在を敷き詰めた様な存在に、神崎蘭子は憧れた。

さらに、彼との出逢いはまるで運命に導かれたように劇的で、『命を救われる』という恋物語ならば定番の導入を迎えれば。

自称堕天使がさらに堕ちるのも、特別おかしなことではなかった。

 

 

「……わ、我が同族よ……大儀で……あふぅ」

 

 

「……惚ける暇あったらちゃンと選ンどけ。サンプルも聴いとけよ、ゴスロリ」

 

 

「は、はいぃ……」

 

 

「……はァ」

 

 

プロデューサーに任命されて最初に担当する事となってまだ二週間も経っていないのに、一方通行の行き先には暗雲が立ち込めていた。

主に、アイドルとの距離感が原因で。

 

 

 

 

───

 

 

 

 

「我が問うは深淵に沈みし心の慰め。答えなさい、同族よ。怠惰なる時を如何にして過ごすかを」

 

 

「……」

 

 

「い、如何にして──す、すみません、ええと、ご趣味はありますか……?」

 

 

「……ギターか料理、後たまにツーリングか。それとライブハウスに偶に行く」

 

 

「……絵とか、描いたり、は?」

 

 

「自分では描かねェな。オマエはこの前も描いてたみてェだが……俺を被写体にしてンだろ」

 

 

「!?────なななななんで分かったの!?」

 

 

「事務作業してる横でチラチラ見てスケッチブックに書き込んでりゃ気付くに決まってンだろ」

 

 

収録も撮影も終わり、少し早めの夕食。

外食するにも神崎蘭子はそれなりに有名人である。

安易にファミレスで食事を取れないなら個人経営の隠れ家的料理屋に行けば良いのだが、時間も微妙。

 

 

という訳で場所を移したのは、夏に346社の有するアイドル寮からそう離れてはいない郊内のマンションに一人暮らしを始めた蘭子の自宅。

 

プロデューサーとはいえかなり意識してる異性を招くのは恥ずかしがり屋の蘭子にしては思い切った選択だが、彼女の先輩である高垣楓曰く絶品と評される彼の手料理を食べてみたかったのだ。

 

メニューは蘭子の好物、ハンバーグ。

手馴れた手並みであっという間に出来上がったそれは、普通に料理屋で出せるレベルであり、文句なしに絶品だった。

 

 

しかし、ハンバーグに舌鼓を打つときよりも。

惹かれている男が、普段蘭子が使っているエプロンを纏って。

少しネクタイを緩めたリラックスした状態で台所に向かう背中、それをテーブルで見つめる自分。

そのどこからどう見ても恋人みたいな構図。

 

何かたまんなかった。

なるべく音を立てないように身悶えた。

14歳には物凄く生々しい経験である。

 

その瞬間の幸福は、ある意味彼女にとって最大のスパイスだったのかも知れない。

 

 

そして空になった皿を前にしての、このトークである。

一周回って冷静になれたかと思えば、やっぱり蘭子は蘭子であった。

 

 

 

「いやいやいやそれは違う違うのよ同族! 偶々あの風景が我の琴線に触れちゃったから描こっかなぁと我が右腕が疼いたから澱みを解放するべくちょっとした出来心ですごめんなさい!」

 

 

「混ざって余計に何言ってンのか分からねェよ。まァ、別に怒ってねェけど」

 

 

「ほ、ホント……?」

 

 

「描きてェなら描きてェって言えよ最初から。俺なンか描いてどォするとかも聞かねェし。ンな事より姿勢一つ変えただけで難しそうな顔されンのは気が散ってしょォがねェンだ」

 

 

「う、ご、ごめんなさい……」

 

 

テンパり過ぎて舌は回り過ぎるし、目もグルグルと渦を巻く。

 

顔も体も熱を孕んで今にも汗が滲みそうだが、薄着になるのも我慢するしかない。

 

年齢にしては育っている胸元に風を送りたくても、一方通行にはしたないと思われるのは嫌だし、何より恥ずかしい。

 

 

アイドルの癖に男を自宅に招いておいて何を今更とは思っても口にしてはいけない。

彼女は奇抜な成りや言動こそしているが、中身は極めてピュアな少女であるのだから。

 

 

「……では、次なる美の執筆の刻は我が力全てを以てキャンバスを染め尽くすわ……クックックッ」

 

 

「……」

 

 

「ぅ────ぁ、じゃ、じゃぁ、ぁにょ、今から……描いても、良い、ですか?」

 

 

「ン、今からだと?……チッ、少し待ってろ──まァ、1時間くらいなら何とかなるか。オイ、コンセント借りるぞ」

 

 

「あ、そこのソファの裏です」

 

 

「あィよ……」

 

 

ピュアではあるが、恋する乙女でもある。

 

彼女自身、まだ胸を張って言えるほどではないけれど。

 

素直で良い子と蘭子を良く知る者が見れば、少し驚くかもしれない。

 

少しばかり、欲張りになった自称堕天使に。

 

 

ケーブルを繋いだ持ち運び用のノートパソコンで、処理すべき仕事を着々と片付けていく静謐な横顔を、見つめる少女の腕はなかなか動かない。

 

 

何故なら、スケッチブックに描く彼は三人目であり、もう七割は仕上がっている。

1時間どころか、その4分の1もあれば充分に仕上げることは出来るのだけれど。

 

 

──その分、見つめる事が出来る。

 

 

電子の海を映す切れ長な紅い目を。

 

時折薄く開閉する薄い唇を。

 

キーボードを静かに叩く指先を。

 

長い長い、猫の様な睫毛を。

 

 

「──」

 

 

スケッチブックを開いたまま、時折わざとらしく動かすだけの右腕、そこから筆圧の音は鳴らない。

 

ならば当然、蘭子の目的なんて既に把握出来ている一方通行は、無粋に指摘する事もなく、唇の中でせりあがる溜め息を噛み殺すだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

_____




とりあえずこんくらいのボリュームに抑えてみた
ちょっと短過ぎるかも?


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Produce,Act2 神崎蘭子


副題『未完成電流交差』



___


神崎蘭子は厨二病である。

 

思考もそうだが、何より言語が非常難解である。

つまり基本的に何言ってるのかが分からない。

だからこそ、彼女とコミュニケーションを取ろうと思うのなら、非常に高いハードルを越えて行かなくてはならない。

 

よって学校では風貌も相まって浮きがちで、不理解の壁から避けられる事も多々ある。

けれど、その事実を悲しいと思う純真な心を持っているし、その事実の原因は自ら異端を振る舞う自分にこそあると弁えているぐらい素直であった。

だからこそ、有りの儘の自分を受け入れてくれる人間には朗らかな笑顔を向けるし、理解者には子犬みたいに良く懐く。

 

ただ、そんな彼女にも例外が生まれてしまった。

 

 

 

「煩しい太陽ね!」

 

「……」

 

「お、おはようございます……」

 

「ン。なンか飲むか」

 

「杯に注ぐのは豊潤なる果実。甘美たる柑橘の饗宴こそ私の喉を潤すわ……」

 

「ほォ、ブラックが飲みてェと」

 

「あっ、あぁ、待って、待ってくださいぃ……ブラック苦いです……飲めないです……」

 

「……オラ。今日は直ぐ移動すっから早めに飲めよ」

 

「あ、オレンジジュース……」

 

「『フラムベルグ』で掲載した分がハネてな、マーケット広告の宣材写真が欲しいンだと。ついでに其処の提携会社が新しくオープンプランを固めてるらしいゴスロリ喫茶の制服について感想も」

 

「んくっ……ぷは。ほほう、堕天使の正装か。我が審美眼に留まるだけの代物かどうかの託宣を望むとは。クククッ、衆愚ながらも試み自体は面白いわね。気概は認める、我が同族よ、その正装の写真を献上せよ」

 

「勘違いしてンなよゴスロリ。宣材撮った後、喫茶店に直接行って直接着て貰う。そっちのが向こうも泊が付いて宣伝しやすいンだよ」

 

「ちょ、直接…………クククッ、思い上がるか、その意気や善し。赴きましょう、同族。漆黒の堕天使が魅せる本物の祭典を衆愚の目に焼き付ける為に!……あ、ご馳走様です」

 

「張り切ンのは良いが、口端にジュース付いてンぞ。急げとは言ったが、ガキみてェにはしゃげとは言ってねェよ。さっさと拭け」

 

「えぅ……はい……」

 

ポンと乱雑に投げ渡された青いハンカチで口元を拭きながら、蘭子は思う。

新プロデューサー、一方通行。

彼は恐らく、蘭子の扱う言葉の意図を掴んでいる。

自分に言い直させなくとも、さほど問題なくコミュニケーションは取れる筈である。

 

では何故、敢えて無視したり睨んだりして、遮ったり言葉を変えたりさせたりするのか。

その真意は仏頂面な白い貌には見えないからよく分からない。

でも、蘭子にとっての個性を否定するかの様な言動や悪態の筈なのに、どうしてか、拒絶されているという感覚や壁を感じたりはしないのが不思議で。

 

命を救われた相手だから、冷たくされても良いんだ。

そう結論付けるには、何かが違って。

彼に睨まれる一方で、ほんの少し安堵に似た感覚が沸き立つ原因を解き明かすには、彼女の歩んできた14年の歳月は短いのかも知れない。

 

 

 

──

 

 

「闇に飲まれよ!」

 

「……」

 

「お、お疲れ様です」

 

「ン。取材終わったか」

 

「然り! 我が審美眼を満足させるとは、罪深き人の身ながら誉れるに値する。戯れに時を食む怠惰とならずに済んだ事を感謝しようぞ、同族……」

 

「あ、プロデューサーさん、お疲れ様です。いやぁ蘭子ちゃんノリノリで協力してくれてホントに良かったですよ。オープンが楽しみです」

 

「どォも、葉山さン。此方としても良い話を持って来てくれたと思ったモンで、このくらいの協力なら。その分、これからも贔屓にして貰えると」

 

「勿論ですよ。あ、ついでになんですけど、もう少しお時間あります? 折角なんで、蘭子ちゃんに接客を体験して貰おうかと思いまして。どうやら以前贈ったアクセサリーの御礼がしたいそうなんで、本当なら御気持ちだけ受け取るつもりだったんですが……」

 

「……神崎がそォいうなら俺に反対は出来ませんよ。迷惑じゃァなければ、コイツに社会勉強させてやって下さい」

 

「あはは、迷惑なんてとんでもない、光栄ですよ。で、ですね……プロデューサーさんにお客様役をお願いしたいんですけど。ね、蘭子ちゃん?」

 

「う、うむ! 近日の我が同族の献身には私も思う所がある。よって此度、戯れとはいえ我が奉仕を受ける権利を汝に与えよう」

 

「……」

 

「うっ……だ、ダメですか……?」

 

「……店に迷惑かけンなよ」

 

「む、無論よ!」

 

「はァ……すンませン葉山さん」

 

「うふふ、いえいえ。じゃあ蘭子ちゃん、厨房に行きましょうか」

 

「いざ、出陣の刻!」

 

「……」

 

 

『Phantasmagoria』という店舗名を看板にするだけあって、テーブルは欅から直接くりぬいた様な大胆な自然さとモダンな店内照明、壁はコンクリートとステンドガラスの分配設置。

お洒落というよりは教会の静謐さとバーを融合させたミステリアスな雰囲気は挑戦的だなと、何やら新たな挑戦に意気込む蘭子の背中を見送りながらぼんやりと考えるのは、現実逃避ではない。

 

この店のオーナーでありゴシックファッションのデザイナーも兼任しているらしい葉山という女性の何やら微笑ましい視線に、一方通行は溜め息を溢したくなる。

 

「……大丈夫かアイツ」

 

プロデューサーになったばかりの一方通行が、まずは専任的にマネージメントを兼ねてプロデュースすることになった蘭子は、割とドジである。

恥ずかしがり屋でどっちかといえば内向的。

奇妙な仮面の裏は明け透けで、それが愛嬌に繋がるのは良いことなのだろうが。

 

やがて、誰がどうみても緊張してると一目で分かるくらいカチコチと固い足取りでワンボックスのテーブル席に座る自分の方へと近付いて来る自称堕天使。

期間的にはまだデビューから半年くらいの新米アイドルだが経験的にはそれなりにあるから、照れはあるものの仕事はこなせる筈の彼女の顔はかなり赤い。

つい先ほどまで『Phantasmagoria』の宣伝用の写真を撮る時にカメラマンに向けた堂々とした表情は見る影もない。

そしてその原因が、風邪でも引いたのかと惚けるまでもなく分かっているので、どうしたものかと溜め息を喉奥で噛み殺した。

 

「ひょっ、今日は我が饗宴の来賓として良くぞ来られたわ! こにょ、っ、この私が汝を歓待し遥かなる悠久へと汝を誘う光栄を噛み締め、静かなる晩餐へと浸るが良い!」

 

「……」

 

言葉は荘厳で非常に上から目線だが、つまりは「いらっしゃいませご同族様」と言いたいらしい。

それでは店のコンセプトが違って来るのだが、恭しく両手で差し出されたメニューを無言で受け取る。

藪をつついて闇に飲まれるのも面倒だと口をついて出そうな悪態は、辛うじて胸の内に霧散出来た。

 

「……アイスコーヒーひとつ」

 

「や、闇を飲まれよ!」

 

蘭子が紡ぐ『闇』とは随分多様性のある単語である。

夜だったりコーヒーだったり、黒ければ良いのかと思うが、考察した所で今更である。

決め台詞みたく言い放って、わちゃわちゃと厨房へと戻る蘭子を迎える葉山の浮き立った声が、実に愉しそうに高周波を跳ね回っていて。

 

取引相手として葉山の機嫌が上々なのは結構なことだが、面白半分に焚き付けるのは後免被りたい。

恐らく店の内装や制服についての感想を蘭子の口から直接聞いた時辺りに、勘づいたんだろう。

自分が蘭子の言葉を噛み砕くよりも、直接伝える方が双方の為と席を外したのは失敗だったか。

 

「…………ど、どうぞ」

 

「どォも」

 

最早接客というより茶酌みと変わらない。

意識を空にしていても分かる。

オーナーである葉山ではなく、蘭子自ら淹れたアイスコーヒーを受け取れば、ウズウズと落ち着かない様子で一方通行の一挙一動を見守る不安気な紅い瞳を見れば、より顕著に。

 

「…………」

 

「…………」

 

薄水色のストローで味わう苦味は、インスタントではあるが悪くない。

ただ揺れる喉元を黙って見られるのはあまり良くない、というか居心地が悪い。

しかしオーナーの葉山は勿論、何も言わず、ただ厨房から顔だけを覗かせているのだから、きっと『これ』は彼女の提案なのだろう。

アイドルとはいえまだうら若い乙女へのちょっとしたアシスト。

舌で転がし慣れた苦味が、なんともいえない濃さを滲ませる。

 

「……ちゃンと出来てっから、そォ見ンな」

 

「!!!」

 

潤った吐息がやけに艶めく。

少しばかりの苦笑はどうやら好意的に彼女に伝わったらしく、両手を握り締めて胸元で並ばせて、グッと喜びやら達成感やらを反芻している姿のどこか『堕ちている』のか。

 

「と、当然よ! 我が手に掛かればこの程度の奉仕など!」

 

「ハイハイ、騒ぐンじゃありませン」

 

「良かったわね、蘭子ちゃん」

 

「是非もなし!」

 

短くて長い夏、明銘な感情ばかりを向けられる立ち位置を、まぁ良いかと思える様な図太さが、手に入れたばかりだからこそ多少持て余してしまう。

 

幼子の様にあどけなく笑う彼女の頬に灯る朱に熱を見出だしたのか、コーヒーの中で早くも角を無くしたアイスが転がって、カランと鳴った。

 

 

 

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Interlude,Act1 高垣楓


副題『アリアドネの糸を手離して』



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不思議だって、よく言われる。

他愛のないお喋りをして、気付けば風船みたく膨らんだ気持ちの儘に笑うから、子供みたいだと。

見た目は大人、頭脳は子供、名探偵ではないけれど。

 

私の第一印象を繰り越して、内面に触れる度に、不思議と言われることは多くて、では不思議って例えばどういうものなんだろう。

 

見上げた先にある、フワフワと柔らかいはずなのに、大きくて呑み込まれそうな怖さも感じる夜空の厚雲だろうか。

日本酒が通り抜けた後、さっぱりとしているのにじわりじわりと喉が熱くなる、あの感覚もそうなのか。

二面性、相反性があるものにそう覚えるのなら。

 

私が一番不思議だと思う隣の真っ白な男の子が、案外分かり易いのは、私の感性というものが未完成という証明なのだろうか。

 

「プロデューサーには、もう慣れました?」

 

「さァな。まだ1ヶ月も経ってねェンだ、慣れてるかどォかも分からねェよ」

 

「ふふ、そうですか。じゃあ、1ヶ月も経ってないのに蘭子ちゃんをあんなにも笑顔に出来てるのも、まだ分からない?」

 

「……」

 

「私とこうして一つの傘に入ってる所を見られたりしたら、どうなるかも?」

 

「今日の摘まみは全部、明日の弁当に回すか」

 

「そ、それは酷いです! 謝りますから、月二回のささやかな幸せを奪わないで下さい……ねっ?」

 

「俺からすりゃァ、月二回の不幸だがな。オマエと飲む時は梅子も抑えねェからクソ面倒なンだよ、主に絡みと後処理が」

 

「ついついお酒が勧んじゃうんですもん。良妻賢母のお摘みが美味しいのがいけないんですー……あ、今のは妻とお摘みをかけて」

 

「注釈は要らねェよ。ったく、雨降ってンだから身体冷える様な事言うな」

 

変化球で攻めた洒落はお気に召さなかったようで、呆ればかりの溜め息がアスファルトに出来た浅いため池へと落っこちる。

不慣れさで生まれる苦労や苦悩を少しも貼りつけない仏頂面なお顔は、手を伸ばせば触れれるくらいに近い距離にあるのに、白々しい白さで何かを隠そうと前だけを見詰めている。

 

でも、その手にある大きな黒い傘を掴む長い指が、ピアノの鍵盤を撫でる様に順繰りに波打つ仕草は、素直に照れているんだろう。

困ってもいるみたいだけど、あんな可愛い娘に好かれているのだから、それくらいは必要経費として受け止めるべき、とは言えない。

今度こそ折角のお料理が無くなっちゃうから、というのもあるけれど。

 

「そんな時は、お酒で暖まるのが一番です」

 

「教師の前で飲酒するほど馬鹿じゃねェよ」

 

「大丈夫、梅子さんは私の味方ですから」

 

「……最近、やたらアイツに飲ませンのって、やっぱそれ目的かよ。チッ、こォいう時に1人だけ逃げやがって、あのクソ犬……」

 

「あら、今日もマルギッテちゃん居ないんです?」

 

「ウチのカレンダーにオマエが来る日だけ丸してンの、誰だと思う」

 

「あぁ、マルギッテちゃんが丸を……今のは良いですね、今度使います」

 

「笑えねェ……」

 

痩せ我慢には慣れていそうな顔が、眩暈を堪えながらも口の端っこを歪ませている。

この新人プロデューサーさんは、痩せ我慢が得意だ。

だから私が呆れさせれば『安心したように』溜め息を着ける。

そこに苦労を隠せるから。

木を隠すなら森の中、ニュアンスを半分に分けて器用に費やすことで人の感性を錯覚させる。

watermelonのパワーストーン。

ケーキみたいに割ってしまえば、きっと意外な色をしているんだろう。

 

「そういえば、ちひろさんが言ってましたけど、そろそろ担当を兼任させても良いんじゃないかって言ってましたよ」

 

「……そォいや、今はオマエと城ヶ崎のマネージャー担当か。チッ、人使い荒ェなオイ。事務作業押し付けといて、更にこき使うつもりかよ」

 

「でも、今西部長の判断らしいですよ。ふふ、一方通行君としては、担当するなら 誰が良いですか?」

 

「あァ? どォだかな。手が掛からねェ奴なら誰でも」

 

「私とかはどうです?」

 

「その期間酒を絶つってンなら考えてやる。つゥかプロジェクト以外の奴まで面倒見るつもりは無ェ」

 

「そんなに邪険にしなくても……ちなみに、プロジェクト以外でも結構話題になってますから、期待の新人プロデューサーだって。いつかは私を担当する事もあるかも知れませんよ?」

 

「……仮にもプロに学生を宛がわねェだろ」

「さぁ、どうでしょうか。私や美嘉ちゃんはその日が来るのを待ち遠しく思ってますけど。美嘉ちゃんなんて、一方通行君さえ居れば2学期の試験は楽勝だって言ってましたし」

 

「あンのクソギャル、遂に平均ラインから落ちやがったなァ……つゥか、あの馬鹿ピンクもオマエも、プロデュース目的じゃねェだろ、オプション目当てだろ、あァ?」

 

「『それはそれ』、『これはこれ』です。どうゆうプロデュースをしてくれるのかなぁって想像してみると、これが中々愉しくて」

 

「はン、既に思い描いてる道筋持ってンのに、妙な期待してンじゃねェよ」

 

「目指す場所が合っても、そこに辿り着くまでの過程は幾つもの寄り道がある方が面白いのです」

 

「……そォかよ」

 

「ええ、そうです」

 

こう在りたい、こう成りたい。

確固たるビジョンがあったとしても、偶には余所見をしたっていい。

月でも星でも海でも道端にでも、目を留めれば新しい発見が転がっているかも知れない。

それはゆとりや余裕があるからこそ言えるのだろうけど、ゆとりや余裕がなければない程に必要になって来る何て事ない気持ち。

 

貴方もそうですよね、一方通行君?

音にしない言葉は、今日もお酒と一緒に飲み干してしまおう。

違うのは、ビジョンの形。

その先に私は私の姿を簡単に見つけてあげれるけれど。

この子はまだ、自分の姿をそこに置いてあげる事が出来ないんだろう。

 

パシャりと、爪先で突いた小石が転がった先の水溜まりで跳ねて。

水面に浮かぶ電灯の月が、千切れて、波を打つ。

 

「今日は熱燗ですね」

 

「……飲み過ぎンなよ」

 

「それは、難しいかも知れませんね。最近志乃さんも私もお仕事も忙しくてご無沙汰だったし」

 

「ほォ……つい二日前の夜中、酔っ払ったオマエからの電話で叩き起こされた気がすンだが。つまりあれは俺の夢だったと」

 

「お、お摘みはイカしたイカの炙りが良いですね。ど、どうです今の。やはり分かり易くベーシックな──」

 

「高垣さァン? なンか汗掻いてますけどォ、暑いンなら雨にでも打たれてみますゥ?」

 

「……あの、ですね。そのぅ……あ、あれは決して悪気があった訳じゃないんですよ。ほら、話題になってるって言ったじゃないですか。それでですね……」

 

「柊と川島に随分と饒舌に語ってくれたみてェじゃン。オマエに膝枕してやる約束なンざ、した覚えはねェンだがなァ?」

 

「あー……それは、だって。偶にしてくれるから、ちょっとした予約席みたいに思っても良いかなぁ、と思いまして……」

 

「オマエが強引に滑り込んで来るンだろォが! ンでもって愚図るし絡むし挙げ句、勝手に寝やがるし」

 

「マルギッテちゃんの柔らかい太腿も良いですが、私は硬めの枕の方が好みなんです」

 

「知るかよ、ンな事。後片付けの邪魔にしかならねェンだっつってンだろ」

 

「そう言われても、手酌は寂しいんです」

 

「ンじゃ梅子を潰さなけりゃァ良いだろォが」

 

「飲みっぷりが見てても気持ち良くて、つい……」

 

「良い歳してホント、オマエらは……」

 

「ええ、良い歳ですから、若い男の子にお酌をして欲しいとついつい思っちゃうのも仕方がありません。ですから、今日もお願いしますね」

 

「ざけンな、一人で干上がってろ」

 

例えるなら、余所の家にある玄関前のセンサーライト。

たった一歩分の境界線に踏み込めば、ピカリと光る、見上げた先の無機物。

激しい雨の中で走る、黄色いフォークみたいな稲妻の前兆の様に視界を奪うほどに強くはない。

背を向けて離れれば追って来る事もない機械染みた冷たさの裏に、きっと色んな事を考えているんだろう。

 

アーニャちゃんは彼を、星に隣り合う月みたいだと言っていたけれど。

もっと単純で良い。

もっと簡単が良い。

それは私なりの希望的観測なのかも知れないけれど。

 

「……肩、濡れません?」

 

「こンだけデカけりゃ濡れねェよ」

 

「鞄は?」

 

「問題ねェよ、直ぐ渇く程度だ」

 

「……もっと寄りましょうか?」

 

「必要ねェ。何だいきなり」

 

「んー甘えてばかりも悪いかなと思いまして」

 

「そォ思うンならせめて飲む量減らせ」

 

「『これはこれ』、『それはそれ』ですよ」

 

「……チッ」

 

夏影も幽かな、不思議と人の居ない遊歩道。

時折車道を霞めていく風切り音が銀色の雨に消えていく。

子供の様に跳ね回る滴達に唆されるままに、木で出来た固い猫の尾を握る長く細い、けれどゴツゴツとした掌の上、剥き出しの鉄アルミへと手を伸ばせば。

 

「……なるほど。アーニャちゃんの気持ち、よく分かります」

 

「いきなり何だ、酒盛り前からもォ酔ってンのかオマエ」

 

「ふふ、さぁ? ただ、月見をするには良い夜だなぁと」

 

「……月なンざ見えねェが」

 

「んー、そうでもないんですよ」

 

私の右手と彼の左手。

重なる事はないままほんの少しの空白だけを残して、傘の骨子の冷たい感触に目を細めていれば、怪訝そうに私を見下ろす隣のセンサーライトが僅かに首を捻る。

 

傾けた視界から見上げれば、あぁ、確かに。

 

真っ暗な傘を照らす街路灯の電気照明。

ポリエステルの夜空。

 

粒立った縫い目の隙間から射し込む、ポツポツと小さな光の雨霰が、星ならば。

 

手を掴める距離にお月様が咲いている。

星に隣り合う月。

 

掠めた願いが、泣き黒子を刺激して。

 

少しだけ、泣きたくなった。

 

 

「……一方通行君」

 

 

「なンだ」

 

 

「今夜は、寝かせませんよ?」

 

 

もう直ぐそこまで、秋が来ている。

遊歩道に並び立つ街路樹がやがて、紅く染まる頃。

赤化粧に身を費やした楓の葉達が、この道端を埋め尽くす。

 

そして、冬になれば。

 

枯れ細んだ()に寄り添う様に、雪が舞う。

 

 

楓の木の頼りない、枝の先に。

 

雪の華が、咲いてくれる。

 

慰める様に。

 

 

 

 

 

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花言葉『美しい変化、遠慮』




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Interlude,Act1 城ヶ崎美嘉



副題『水溜まりの成分証明』




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第一印象はどうだったかと聞かれれば、外側と内側が一致しないヘンテコな奴だと思った。

恋愛小説とかで良くありがちな、雨の日に捨て犬に傘を差してあげる一匹狼の不良、というギャップとは少し違う。

そんなシリアスな場面でもないし、寧ろのほほんとした平坦な日常の一幕で、微妙に馴染めてない浮いた感じは独特で、思い出しても笑ってしまいそうな、その程度。

 

大きな大きな白猫が、構って構ってときゃーきゃー纏わり付いて来る色んな小動物達を、面倒臭そうな顔で毛繕ってやってる、多分そんなイメージが一番しっくり来る。

 

真っ白なポニーテールを引っ張られたり脚にしがみついたり登られそうになったりされながらも、むっつりとした仏頂面を変えずに。

黒いシンプルなカッターシャツの上に短いピンクのエプロンを装備しながら、カチャカチャと食器を洗う手つきは微睡みを誘う様に優しかった。

鬱陶しそうに子供達を諫める言葉は口汚いのに、低く艶っぽい声も、足元を見下ろす真紅の瞳も、穏やかで優しくて。

 

あぁ、しっかり者の真与が甘えてしまうのも無理はないか、と納得するのは簡単だった。

 

「なにサボってんの、プロデューサー」

 

「……オマエにそォ呼ばれンのも気持ち悪ィな」

 

「一回呼んでみたかっただけだって。そんなしかめっ面しなくたって良いじゃんか」

 

「憩いの一時を邪魔されたンなら顔の一つも顰めるだろォよ」

 

「邪魔扱いは流石に酷くない? あーあ、今度真与に愚痴っちゃおーかな、 いっくんに嫌われてるかもしんないって」

 

「……止めとけ。最悪、半泣きになりながらオマエの良い所を延々と語り出す事になンぞ。アイツには冗談が通じねェの、知ってンだろォが」

 

雨上がりの所為で夏の残り香はどこへやら。

まだ9月だし暑いでしょと薄着をチョイスしたのは失敗だったみたいで、少し肌寒いくらいの青空日和。

346プロダクションの駐車場から少し歩いた裏側の開けたエリアの隅でブラックの缶コーヒーを傾けているスーツ姿に声を掛ければ。

相変わらずの仏頂面で振り返るから、揶揄かいの言葉にも熱が入る。

 

「勿論、冗談だって。アタシが真与を泣かす訳ないじゃん、大事な友達なんだし。でも、いっくんって真与……ってか、ちっちゃい子供に弱いよね。男女関係なく」

 

「アイツは兎も角、あのクソガキ共には言っても聞かねェから諦めてンだよ、悪ィか。つゥか、一番面倒臭ェのオマエの妹なンだが」

 

「あーそれはしょうがないって。莉嘉、昔はお兄ちゃん欲しがってたし。それに甘やかしたら付け上がるタイプだから」

 

「あァ? 甘やかした覚えはねェが」

 

「いや固いジュースのプルタブ開けて貰ったり、宿題見てあげたりしてんでしょ? それにこの前も真与ん家で御飯作ってあげたらしいじゃん。そりゃ懐くって」

 

「……別にオマエの妹の為だけに作ってンじゃねェのにか。単純な奴だ」

 

「シンデレラプロジェクトの皆に、良く自慢してるらしいけど。結構皆食い付いて来るから、いっちょ前に優越感でも感じてるんだろうね、あはは」

 

「笑ってンじゃねェ」

 

「まぁ、でもありがとね。ウチの両親もお礼したいって言ってたから、今度真与と一緒に来てみる?」

 

「断る。面倒臭ェ」

 

「ほんと付き合い悪いなーもう」

 

両親は共働きで夜遅くまで家に居ない事も多い上に、アタシだって仕事も多く、てんてこ舞いな日々。

持つべき者は幼馴染で、実家の近所に住んでいる甘粕一家に莉嘉の面倒を見て貰っているのだが、それがアタシと、今では346プロダクションの新人プロデューサーであるいっくんとの縁を結び付ける切っ掛けになったのだから不思議だ。

 

といっても、アタシがいっくんと顔を合わせたのは今年の2月だから、名前だけは真与や莉嘉から聞いていたけれども、別段昔からの仲という訳じゃない。

まぁ、いっくんと如何にも親しげに呼んでいる相手だけども、思えば出会った当初から殆ど、この距離感な気がする。

そもそも、莉嘉が一方通行の事をいっくんって呼んでるから、私も流れでそう呼んでるだけだし。

勿論、最初は嫌がられたけども。

今でも嫌そうな顔をされるけども。

けどしつこく食い下がったり本気でお願いすれば、意外と面倒見が良かったりと、仏頂面の裏側は色んなモノがあるから面白い。

ツンデレのデレ探しは、まるで宝探しみたいだと愉しそうに言い切った莉嘉の言葉には、確かにそうだねと擽ったい気持ちになった事は、勿論本人には言えない。

 

「でさ、結局何で此処に居る訳? 蘭子ちゃんはどしたの?」

 

「風邪だとよ」

 

「あー……まぁ季節の変わり目だしね。そんで暇になっちゃったのか。ん、それなら他のメンバーの面倒見るもんじゃないの? 凛とか凛とか凛とかのさぁ」

 

「うざってェな、クソピンクが。千川にゴスロリの看病命じられてンだ、その上、他のユニットは大体出払ってる」

 

「へぇ、いっくんが付きっきりで看病してあげんの? 凛とか拗ねてそうだけど、いいのかなー?」

 

「……知るか。つゥか鬱陶しい絡みしてンなよ、オマエ」

 

「いやだって、ねぇ? キスまでした相手が他の女の子の面倒見てるってんだから内心穏やかじゃないでしょ。ましてやその他の女の子も恋敵になっちゃってるのは一目瞭然だし?」

 

「……ふン、他人の事に首突っ込ンでる暇あンのかよ、『処女ビッチ』が」

 

「んぶっ……そ、その呼び名ほんと止めて、マジで風評被害だから…………ん? てか、ちひろさんに看病行けって言われたのに此処に居るんだから、結局サボりじゃん」

 

「……息抜きぐれェ別に良いだろ」

 

「ま、そうだけどさ」

 

下手に揶揄かうときっつい返しをされるから、もう少し言葉を選んでおくべきだったと後悔。

溜め息がちに大きく伸ばした身体を、薄氷の吐息を混ぜた様な冷たい風が肌を刺す。

横目で覗いた紅い瞳がぼんやりと薄くなって細くなる仕草は、ほんと猫みたいだ。

 

「んーところでさ、いっくんにお願いあるんだけど」

 

「チッ……なンだ」

 

「実は1学期の期末で古典と数学Ⅱがギリギリで、次の中間もヤバいかもしんないんだよね。でさ……此処は全国模試トップ様の力を借りたいんだけども……」

 

「……いつも平均だからって余裕ぶっこいてそのザマかよ。だらしねェ……」

 

「しょうがないじゃん、仕事滅茶苦茶忙しかったのいっくんだって知ってんでしょーが。ね、マジでお願い、ちゃんとお礼するから、いいっしょ?」

 

「甘粕に頼め」

 

「真与にはこれ以上負担かけられないんだって。千花ちゃんって友達の勉強も見てあげるみたいだし、バイトも忙しそうなの、いっくんも知ってんじゃん……」

 

「……俺もクソ忙しい身なンだが」

 

「ぐっ、確かに…………」

 

「……」

 

「……うん、ごめん。やっぱ今のなし」

確かに、真与が大変そうだから頼めないというのなら、いっくんに頼むというのも可笑しい話なのかも。

彼の保護者や同居人の分も弁当作ったり、アタシと同じ高校三年生だから当然、学業もあるし、家事も大体はいっくんがしているらしい。

その上、プロデューサーもしなくちゃいけないともなれば、下手したら相当に大変な毎日を送っているのかも知れない。

 

正直、頼り甲斐があるのは言うまでもなく、いつも涼しい顔で色んな事をこなしてる様に見えるからと、つい甘えてしまった。

いけない、アタシとした事が、ちょっと冷静になろう。

ぽつりと溜め息混じりに落とした撤回と謝罪に、呆れがちな舌打ちが一つ返されて。

 

ヤバい、もしかしてホントに嫌われちゃったのかも。

今になってサッと背筋に氷が貼り付いた様なぞっとした感覚は、呆気なく溶かされた。

 

 

「……数学Ⅱと古典だけだ、他は自分でやれ。この俺が教えてやるってンだ……もし高得点取れなかったら、地獄を見せてやっから覚悟しとけよ」

 

「えっ……い、いいの? 忙しいんでしょ?」

 

「今更殊勝になンじゃねェよ、調子狂う」

 

「……ふふ、あんがとね、いっくん。お礼何が良い? 頬っぺにキスでもしよっか?」

 

「罰ゲームじゃねェか」

 

「ちょっ、はぁぁあ!? いや、アタシこれでもカリスマアイドルで通ってんだけど!? ば、罰ゲームって言い草は流石にないでしょ!」

 

「カリスマだァ? ハッ、金ピカの足元にも及ばねェレベルで胸張ってンなよ」

 

「いや、金ピカって誰……ふん、良いし、後からやっぱしてくれって言われても絶対してやんない」

 

「上の口も処女のカリスマさンが何言ってンだか」

 

「はぁぁあ!? は、なにゃ、なんで知って……」

 

「カマかけだ、馬鹿。ンじゃ、クソどォでも良い事が判明した所で、俺はもォ行くぞ」

 

羞恥心で顔がカァっと熱くなって、薄着による寒さは感じないけども、ちっともありがたくない。

確かにちょっと調子乗ったかも知れないけど、このあしらい方は流石に腹立つ。

 

空の缶コーヒーをゴミ箱に放り投げながら、しかも捨て台詞に乙女の秘密をどうでも良いとか酷過ぎる。

 

「このっ……いっくんのバーッカ!」

 

気にいらない。

腹立つ。

ムカつく。

性格悪過ぎ。

 

何が一番頭に来るって、普段は摘まんでも引っ張ってもかったい仏頂面しか浮かべない癖に。

こういう手痛い一発を放つ時にかぎって、少しだけ愉しそうに笑うとこ。

 

ヒラヒラとおざなりに手を振りながら、恐らく風邪を引いたらしい蘭子ちゃんのとこへ去っていく、高い背中。

真っ赤にするだけしといて、フォローもなし。

真与みたいにちょっとした妹みたく接して貰うのも嫌だけども、これはこれで酷い気がする。

 

どうでも良い?

いやどうでも良くないから。

 

 

──第ニ印象を言うならば。

 

 

1回だけでも良いから、いつかギャフンと言わせてみたい奴。

 

振り返る事もなく遠退いて行っちゃう背中を、蹴りたい背中を歯軋りしながら睨むのが、関の山。

 

『息抜き』がてらに凹まされてばかりの関係性。

 

それは何という名前かと問われても、空欄ばかりが目立つモノ。

 

答案を埋めるだけの言葉を、アタシはまだ、知らないまま。

 

 

奥底の柔らかい所だけを掬い取って、上唇で弄ばれるだけ。

 

 

あぁ、蹴りたいなぁ、アイツの背中。

 

 

 

 

 

 

 

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Produce,Act3 神崎蘭子




副題『フラスコの中の花爪草』


 

 

「……ぁ」

 

 

「……おいィ」

 

 

「……ぁ、ぁあ、ぁぁあ────ひにゃぁあぁあぁ!!!??」

 

辞世の句にするには誠に遺憾であり、且つ乙女として幾ら何でも勘弁願いたい色気のない悲鳴だが、本当にショック死するかと思う程に仰天したのだと語るのは、これより2日後の休憩ブース。

顔を熟した林檎みたく真っ赤に火照らせながらも、モジモジとたどたどしく小さな桜唇が紡ぐ蘭子の様相から、恐らく何らかの桃色エピソードに発展したのだと推測した面々によって半ば尋問みたく一方通行が問い詰められるのも、2日後の休憩ブース。

 

黒い蝶模様の扇情的なネグリジェが肩紐が左側だけ外れて、はだけた隙間からやけにデザインに拘った黒の下着と白い肌のコントラストが年齢以上の凄まじい色気を醸し出す。

閉ざされた玄関の扉の前でグジュグジュと半泣きになりながらそんな格好の儘に座り込んでいれば、下衆な妄想が幾らでも展開出来そうな蘭子の表情とは対照的に。

型の良い扉に背中を預けて、少し冷えがちな高い秋空を鬱陶しそうに睨む呆れ顔の一方通行の顔は、2日後の休憩ブースで展開される尋問で終始貼り付けたモノと全く一緒だったのは悲しい偶然ではあった。

 

 

 

────

 

 

「……ンで、熱は」

 

「うぅ……うぅぅぅうぅぅ……」

 

「……熱は」

 

「っえぅ、ひっく、うぅ……ぐしゅ」

 

「……オラ、ティッシュ。鼻かめ、汚ェな」

 

「!?……ぃ、ぁあ、うぅぅ、ひ、ひにたぃです……」

 

「……この前も雑誌撮影で水着とか撮ったろォが。一々泣くンじゃねェよアホ」

 

「ぇぅ、だって、これ、水着じゃなぃです……下着ですぅ……」

 

「……ンな変わンねェよ。つゥか、ンな恥ずかしいンなら最初から何かしら羽織ってりゃ良いだろ。此処来る10分前には連絡入れた筈だが」

 

「……ぁ、たま、ぼーっとしてて、同族さん、って、気付いてなくてぇ……」

 

「……はァ」

 

風邪が移るには流石に早過ぎるが、入室早々に難題ばかりが転がって、頭が痛くて仕方ない。

こんもりと盛り上がった毛布に(くる)まってグズグズと惨憺たる甘飴を苦い想いで転がしながら咽び泣くこのしょっぱい堕天使様をどうしたものか。

 

思春期真っ只中の乙女が、プロデューサーとはいえ異性に扇情的な姿を晒してしまったのだから、泣きたくなる気持ちも分からないでもない。

それに、よりにも依って明らかに興味や憧れ以上の対象である自分に見られたのだから、そのダメージの深刻ぶりも一潮であるのも、理解は出来る。

しかし、正直、これに関しては一方通行側としたら、責められる謂れはないだろう。

 

事前に電話も掛けて、インターホンもちゃんと鳴らしたのだ、こうなる恐れのないように。

かつて面白いぐらいにそういう状況に陥るウニ頭の男が身近に居たのだ、反面教師として学んでしっかりと警戒も予防線も引いている。

けれど、流石に向こうから無警戒にノコノコとやって来られれば、もうどうしようもない。

 

不幸だ、とか、泣きたいのはこっちの方だ、とは流石に口にはしなかったが。

灰の状態から掻き集めて辛うじて心拍数が微かに鳴るセーフラインを越えた程度ではあるが、デリカシーは持ち合わせていた。

この期に及んでも同族呼ばわりな辺り、案外余裕はあるのではと勘繰る気持ちも、一先ず置いて。

 

 

「……顔、出せ。熱測るから」

 

「ぐしゅ……へ? ぃ、いやです、泣き顔を……」

 

「いつまでも凹ンでンじゃねェ」

 

「で、でも……」

 

「……これ以上口答えすンなら、首根っこふン捕まえて引き摺り出してやっても良いんだがなァ?」

 

「──!? ぁ、だ、出します、出しますからぁ……」

 

銀の髪はほつれて乱れ、汗と涙で色々と目が当てられない顔をひょっこりと亀みたく覗かせる。

毛布ので鼻頭から下まで隠しているのは、恐らく蘭子がギリギリ許容出来るラインと言う意思表示か。

素振りは可憐だが、そんなことで一々ときめいてくれる筈もない不躾な白い掌が、しっとりと額に貼り付けた前髪を払うと、ペタリと添えられて。

降らない雨で出来た小さな小さな水溜まりが、視界の端で滲んで、プリズムを透かした先に白銀が固い顔。

 

 

「ひゃ、ぁ、あの、汗、汗ついちゃ……」

 

「……37.9、ってとこか。薬飲ンだか」

 

「ま、まだです……」

 

「……取り敢えず、粥作るか。まだ食ってねェンだろ」

 

「……はい」

 

ゴツゴツと骨っぽい掌は、薄い氷硝子で出来ているみたいにヒヤリとしている。

柔らかい羞恥がメトロノームの些細な狂いから正常なモノへと変わっていくように、薄まる感覚。

顔はまだ熱いのに、恥ずかしくて死にそうだと喚く心の固い結び目があっさりと解かれていく。

 

「……オラ」

 

「ど、どうも……」

 

ひょいと放り投げられた薄い灰色のタオルケットが、これで額の汗を拭けという紅の眼差しに促されて、蘭子の掌の中で柔らかく歪む。

オドオドとぼんやり熱が浮く思考回路は溶け出した飴細工みたいで、定まらない。

汗を留めて少し水気を吸ったタオルから洗剤の芳香が届いて、陶酔がちに目を閉じて、唇が淡く嘶く。

 

「……」

 

傾けた先、狭い視界で白い鍵尻尾が揺れている。

カチャカチャと、陶器だったりを取り出している生活音は、この部屋の主である蘭子にとって異物感がある筈なのに、あっさりと微睡みに墜ちてしまいそう。

飽和するふわふわの世界は桜の森みたく色彩過多に溢れていって、不思議な幸福感が鐘の音となって鳴り響いていて。

腫れぼったい瞼の裏側が、背を向けている筈の青年の顔ばかりをスケッチする。

 

つい先程までみっともなく泣いていた癖に、傍らにある奇妙な満足感を噛み締めている自分がとても現金な人間に思えるのに、どうにも目が逸らせない。

柔らかい筆先で暈したような思考の流れが瞼を重くするから、吐息と共に押さえたタオルに彼の輪郭が重なる。

 

 

「……ふぁ」

 

 

ぬっぺりとした白さの中に、花と日溜まりの芳香が混ざって、そこに自分が溶けていく。

それを恥ずかしいと思うのに、抵抗感もある筈なのに、嬉しくて仕方ない。

浮かれているからか、隙を付かれたような眠気に、次第に光が閉じていく。

肩越しに蘭子を一瞥する紅い瞳が、微かに笑った気がした。

 

 

 

────

 

 

 

「……」

 

「……あのよォ、何してンだオマエ」

 

「……頼りない我が衣、所詮人の作りし玩具よ。手を離せば容易く崩れる。堕天使の羽衣として選ばれし光栄すら分からぬ至らなさ。私が万全ならば黒き業火にて灰にしてくれようぞ」

 

「……」

 

「……だ、だって、この毛布の下、ほとんど下着で……恥ず、かしいですし……」

 

「……」

 

「れ、蓮華持とうとすると……剥がれ、ちゃう、し……」

 

「……」

 

「……うぅ」

 

「……後ろ向いてンじゃねェか」

 

「そ、そういう問題じゃないんですよぉ……」

 

「えェ……」

 

乙女心というものは複雑である。

膝の上にプレートごと置かれた玉子で綴じたお粥が可愛くて食べられないとか、そんなナマを言っている訳ではない。

背中を向けられていたとしても、キャミソールと下着という格好を、例え上半身だけとはいえ晒す事は厳しい、というのが蘭子の言い分である。

彼からしたら一回正面から見てるし今更だとは思うのだが、まだ中学生であり人一倍恥ずかしがり屋である蘭子には、譲れない一線なのだ。

 

「……」

 

「……っ、ぁ……」

 

「……はァ」

 

何とか毛布を剥がれないまま蓮華を掴もうとするが、直ぐにでも落っこちそうになる毛布を慌てて掴んで、溜め息ついて、もう一回挑戦しての繰り返し。

難儀そうに口を尖らす辺りは年相応だが、頭の中身はそれ以下だなとかなり失礼な事を考えながら、一方通行は嘆息を零した。

なら、どうすれば解決するか。

その答えは非常に簡単だが、余り取りたくはない手段。

特に異性として見られている実感があるからこそ、一層の抵抗を囁く優秀な頭脳に、この時ばかりはどこかの誰かの様に鈍感で居たかったと嘯いて。

 

 

「……貸せ」

 

「……え?」

 

「……オマエ、猫舌か?」

 

「な、何を言うか同族。私は漆黒の炎を僕とする高位なる存在よ。地獄の業火とて、我が舌を焼くには足りぬ程よ」

 

「……」

 

「……へ、平気、です……多分」

 

「……なら冷ます必要ねェな。オラ、口開けろ」

 

「ふぇ?────!? ぁ、ぃゃ、そ、恥ず、それはその……」

 

「うるせェ、チンタラすンなゴスロリ。さっさとしろ」

 

「……うぅぅぅぅ……」

 

有無を言わさない言動の割に、ひょいと膝脚立ちになりながらも湯気立つお粥を蓮華によそって差し伸ばす一方通行の紅い瞳が、気拙そうに横へと逸れる。

それは紛れもなく、彼もまた気恥ずかしさを感じている証明で。

それが恥ずかしくて堪らない心境を、嬉しさで塗り潰していくから困る。

甘い唸り声すら挙げているが、むず痒さと満たされ過ぎて窒息しそうな感情の波が、留まる事を知らない。

 

ここまでさせて、恥ずかしいから嫌だと言うのは憚れるし、役得なのは間違いないから。

小さな唇が、ゆるゆると開かれた。

 

「……ン」

 

「ん、ふ……んく、ぁふぃ……」

 

「平気じゃねェのかよ」

 

「……ん、おいし……」

 

「ちゃンと噛め」

 

「ふぁい」

 

「……」

 

「……」

 

「……ン、次」

 

「あぃ」

 

美味しい、よりも、暖かいと思う。

喉元を伝う出汁の味に溶けた玉子のフワフワの食感。

細やかな青ネギの歯応え、柔らかな米の粒から滲む甘味が心地良い。

 

でも、それよりも強く。

暖かい、とても。

心を、慮って見詰めるような。

静かに頭を撫でられている、そんな優しさ。

 

また、恥ずかしいという感情が千切れていく。

それ以上の何かで、上乗りされてしまう。

口付けをせがむ乙女みたいに。

もっと欲しいと、幼稚に収まる。

それが少しだけ、悲しい。

 

 

 

────

 

 

 

タイピングの音がいつもより静かなのに気付けたのは、彼が食器を片付けて、持参したパソコンを起動させてから案外直ぐだった。

ディスプレイに広がる電子が波打って、碧が白い前髪にホログラムみたいに点滅するのを見るのが、何だか面白い。

 

「……」

 

彼の、時折考え込むように身体を斜にして、目を閉じる仕草が、蘭子は好きだった。

自分の為に、頭を使って、支えてくれる実感を感じる一瞬。

それは同時に、この男が難儀している証明にもなるから、申し訳ないとも思うけれど。

背徳的というほどでもない、ささやかなもの。

手に落ちた虹を眺めるような、幸福感。

 

 

「────」

 

 

好きです。

そう言いたくなる一瞬が遠くて、尊い。

人の形をした幸せが、其処にあるみたい。

 

けれど、浮かぶのは、蘭子の他にも彼を想っている筈の、蒼い少女の笑顔。

惹かれていくと共に、目を逸らせない痛み。

どうなるんだろう、これから。

虹の足を見つけに行くのが、怖かった。

 

その固い背中へと、腕を回して。

その細い首筋へと、顔を埋めて。

その変わらない頬へと、キスをして。

囁けるだけの、言葉はいつも泡に消える。

 

 

「──」

 

 

慰め代わりに手繰り寄せたタオルケット。

口元へと近付けて。

甘く、微かに。

唇を、落とした。

 

 

 

___







花言葉『臆病なココロ』


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Interlude,Act1 渋谷凛




副題『女心と秋の空』




_


 

風待月を追い越して、短冊に願い事を飾り付け、星を想う夜からどれくらい経っただろう。

 

薄雲に覆われて寒々しさに拍車をかける空模様をそれとなく見ながら、最近ではすっかり貴重な暇をジャグリングで弄ぶように無感動を装おった指先が、雑誌のページを捲る。

灰色から少しきつめのカラフルへと目線を落とせば、意中の男に対するアプローチが云々と、砕けた言葉で綴られている。

男を落とすには、と髪型やらファッションやらお薦めのコロンが、とか然り気無くマーケティングへと誘導する内容に、白々しくうーむ、と唸ってみても、答えは返ってこない。

 

気を利かせてくれた未央と卯月には悪いが、早くも心が折れ兼ねない不甲斐なさに、なるべく音にはしないようにそっと吐息を1つ。

 

「……」

 

男は女のこういう部分に弱いだとかが記してある内容は、確かにへぇ、と感心してみてもいいかも知れないけど。

注釈として、普通の男なら、と追記するべきじゃないかなんて可愛げもない感想を抱くくらいには、未央から押し付けられたこの雑誌は私のへっぴり腰な進歩状況にとって、バイブル化など夢のまた夢。

けれどこの場合、特集内容の不備に不満を溢すより、普通という枠には収まってくれない相手に傾倒してしまった私の方が悪いのだと考えるのも今更だった。

 

 

「……」

 

「……」

 

 

スッキリとした顎に手を添えながら黙々とファイリングしてある何らかの資料を読み漁る仏頂面を盗み見て、まごついて。

最近はすっかり、蘭子の専属プロデューサーとして活躍して下さってるスーツ姿の彼は、少しくらい気に掛けてくれても、と拗ねがちな私の心なんて素知らぬフリ。

雪みたいに白い肌を、雪溶けみたく鮮かに変えてしまいたいと今でも思う、関係性ごといっそ丸ごと。

その為の策だったりを未熟な頭で考えてみた結果、これはどうだろうと閃いたアイデアはやっぱり在り来たりで、しかも突拍子もない。

 

日頃お世話になってるから、という名目で何かプレゼントを渡す。

 

改めて字面を見詰めれば、駆け引きも何もない、ともすれば子供が親にする孝行みたいにも見えて、経験値や知識のあまりの乏しさに愕然としてしまう。

けれど、他に何か手立てを考えようにも、相談する──否、相談出来る相手はかなり限られてくる現状は、一方通行がプロデューサーとして働く事になったあの日に抱いた懸念通り、厄介な事になってしまったから。

 

完全にパーペキにアウトな蘭子を初めとして、指折りに数えるのも億劫なくらい、ライバルやそれに近い存在がポツポツと増えて来ている。

元々、女の敵だと指摘したりしたのもあって、ある程度覚悟していた事だけども、やはり常々危機感を抱かなくてはいけないのは、存外しんどいものだった。

 

一方通行との初対面以降よりずっと彼にあれこれ勝負を挑んではこてんぱんに泣かされてるみくだったり、自分の恋心を応援してくれているニュージェネの二人とかはまだ大丈夫だけども、他の何人かは少し怪しい。

この前なんて、一方通行と二人で夜景を見に行ったと嬉しそうにアーニャが話していたのを又聞きした際には、いよいよ懸念が表面に出始めたかと口元を強張らせたものだ。

 

そんな環境下に於いて、男の人の中でも特別不透明なタイプである一方通行相手に、何をプレゼントすれば良いのだろうかと頭を悩ませて、答えが出ないまま既に3日が経って。

もう、本人からそれとなく聞くしかないだろうなと、参考にしてみようと流し見ていた雑誌をパタリと閉じて、なるべくクールに、余裕っぽく。

 

 

「あにょさ、いっ……」

 

「……?」

 

噛んだ。

よりにもよって開口一番で。

歯を見せ付ける様な形で一時停止した私を、紅い瞳が至極不思議そうに丸みを帯びる。

あ、この人のこの表情好きだな、なんて現実逃避を兼ねた思考がぼんやりと広がるが、羞恥心ごと誤魔化し切れる程に心理的な情緒は穏やかな造りをしていない。

 

クールで余裕っぽく、だなんて最早額縁に飾る絵空事。

慌てて咳払いをしてみたけども、何故だか噎せて、若干半泣きみたく涙腺が熱くなる。

多分、近い将来、この風景を思い出しながらベッドでのた打ち回る羽目になるんだろうなと、へこたれそうなナイーブさに今すぐ逃げだしたくなるけども。

そういう時に限って、それとなく腕を引く様に声が掛けられるのは、一種の計算なのだろうかと勘繰りたくもなる。

 

「……ンだよ、喉なら渇いてねェぞ」

 

「ふ、ふてぶてしい事言うね。別にコーヒー淹れようかなんて言ってないけど」

 

それとなく逃げ道を用意してくれたのに、不貞腐れ気味に噛み付く辺り、自分でも頭を抱えたくなる私を、相変わらず静かな視線が射抜く。

 

「あっそォ。ンじゃ何か用か」

 

「えっ、あ、まぁ用が無い訳じゃないんだけどさ。最近、順調かなって」

 

「あァ? ンなモン順調だよ。順調過ぎて更に仕事押し付けられそォだよクソッタレが」

 

「!! ──あ、蘭子の他にも誰かしらの担当するって話、やっぱり本当なんだ。も、もう決まったの?」

 

「細けェ事はまだ知らねェよ」

 

「……本当に?」

 

「…………俺が言われてンのは、担当が増えるから覚悟しとけっつー事ぐれェだ。知りたいのは寧ろ俺の方なンだよ」

 

口をついて出た言葉から引き出せた関心事にうっかりと会話の軌道を逸らしてしまうけども、それはそれで気になってしまう。

 

当初は美波さんよりも若いプロデューサーという事に不安だったり微妙な反抗や抵抗だったりがあったメンバーも、形はどうあれ一方通行の手腕は認めている現状。

ユニット、或いは個別に与えられる仕事をこなして行く日々、度々プロジェクトメンバーで集まる事もある中、彼についての話題は色々と尽きない。

 

それもついこの間、かな子ちゃんがちひろさんから聞いたという一方通行が新しく誰かを担当するというホットニュースには、私だけでなく恐らくメンバー全員が注目している。

思惑もまぁ、それぞれではあるけども。

ついでに云えば、プロジェクト内外を問わず注目されているんだけども。

 

「……プロジェクトメンバー以外は候補に挙がってないんだっけ?」

 

「当初の成果次第によっては、ある程度慣れてるプロの奴に担当させる腹積もりだったらしいがな」

 

「……へぇ。ま、その活躍ぶりは本人から色々と聞いてるけど。色々と」

 

「絡むンじゃねェ、鬱陶しい」

 

「ぐっ──ち、ちなみにさ……その成果次第で担当するプロのアイドルってのは誰かしらか決まってたの?」

 

「あァ?……まァ、高垣か、城ヶ崎の姉のどっちかだったらしいが」

 

「……ふーん。確かに、どっちも知り合いだったらしいもんね。美嘉さ──美嘉とも、私がアイドルになるって決めた時にはもう知り合いだったみたいだし。楓さんに至ってはそれ以前からの付き合いなんでしょ」

 

「それがどォした」

 

「…………別にまぁ、どうもしないけど」

 

別に知り合った順序が恋愛において、何もかものアドバンテージにはならないという事に『励まされる』面もあるけど、『焦ってしまう』面もあるのだと身に詰まされる想いを八つ当たり気味にぶつける訳にもいかず、ぷうと口を尖らせてしまう。

というか、いつぞやに『Happy Princess』のコンサート、というよりバックダンサーを務めた興奮だったり城ヶ崎美嘉の凄さについてだったり柄にもなく熱弁していたのをしれっと流していたのは何だったのか。

 

どうにもモヤモヤと鬱屈した気持ちを募らせながらも、当の本人にそれをぶつけたいのは山々だけど、振られた身でそれは幼稚で身勝手な想いの丈だからと、辛うじて我慢。

気まずさから、つい逸れてしまって、苦い気持ちだけを噛み締める形に終わってしまった話の本筋を、そもそもの目的を思い出して、気持ちを切り替えるべく深い吐息を1つ。

 

それとなく、あくまで『何気なさ』を装ってみる、けども。

何かを渡す心積もりなのに、まるで欲しがる様に座った

ままの一方通行の目を覗き込んでいる辺り、どことなく格好がつかなかった。

 

 

「あ、あのさ……話は変わるんだけど、こういうのどう思う?」

 

「……防寒着か。なンだ、ファッション系の仕事でも来てンのか」

 

「いや、そうじゃなくって……ほら、一方通行って寒がりじゃん。今日だって寒い寒いって言いながら出勤して来たし。だから、その……」

 

「……あァ?」

 

「まだ早いかなと思うけど、スーツの上からコート羽織るくらいだしさ。今日だって出勤するなり直ぐにコーヒー淹れてたし」

 

「……」

 

「ホットコーヒーばっかで賄えるものでもないでしょ? 此処で飲むならまだしも、外勤の時はそうもいかないし。最近は蘭子と一緒に殆ど出てばっかりだし……だから、どうかな……って」

 

「……」

 

 

広げたページで指し示したのは、マフラーとかニット帽を始めとした、少し早めの防寒グッズの特集ページ。

寒がりな彼にならそう悪い反応をされないであろう分野から切り込もうとするけども、やはり突拍子もなさすぎたのが災いしたのか。

私の奥底を測ろうとするみたいに紅い瞳が細くなるにつれて、慌てて取り繕おうとすればする程、しどろもどろに拍車が掛かる。

 

何か、してあげたいと思った。

それは勿論、無償の善意なんかじゃなくて、ともすれば露骨なまでに見返りを求めているのは私が一番分かっていて。

一向に縮まらない距離に焦って、このもどかしさを楽しめる余裕があってこそ、と強がるには経験値の足りなさが浮き彫りになって。

こうしたい、こう成りたい、こう在りたい。

整えた予習は実践ではまるで通用しない歯痒さに、ついには『余計な事』まで言い訳に乗せてしまうから、顔が重くなる。

 

でも、何より辛くて──幸せなのは。

 

 

「──これ見せられると、何処ぞのバカに台無しにされたモンを思い出しちまう」

 

「……?」

 

「それなりに気に入ってンだがな、あの白いマフラー……まァ、その内、買い換えるか」

 

「……ぁ」

 

「……チッ、オマエがコーヒーコーヒー煩ェから飲みたくなっちまった。オラ、その雑誌退けろよ」

 

「あ、うん……」

 

素っ気なく、でもどことなく照れ隠しみたいに私が差し出していた雑誌のページを掌でペシペシと払って、宣言通りコーヒーを淹れに椅子から立ち上がった一方通行。

カツカツと足早に給水スペースに向かう後ろ姿をぼんやりと眺めながら、彼にしては珍しく分かり易く、わざわざ装ってくれたらしい独り言を反芻する。

 

その内、買い換える。

何か、してあげたいと漠然と想ってばかりの私にはとても都合の良い言葉。

 

それはきっと、押し付けがましい気持ちを宥める様に、如何にも仕方なく彼が折れた形みたいになるけども。

それはやっぱり私が最初に望んだ形なんかじゃなく、寧ろこれでは本末転倒だと思うけども。

 

何か、してあげたいと思ったのは形だけ。

違う。

本当は。

何か、したいと思っただけ。

 

その未熟さを突き付けられる辛さ。

その至らなさを受け止めてくれる幸せ。

それは確かに彼に会うまでは得難かった幸せで。

それは確かに彼に会うまでは押し込んでいた辛さで。

 

結局、そう、言うなれば。

『お陰様』で、どちらも捨てたい筈なのにとても貴重なモノにも思えるから。

 

いつになったら、その『お陰様』から卒業出来るんだろうか。

 

 

「……マフラー、か」

 

 

それでも。

──じゃあ、手編みとかどうだろう、と。

重過ぎるかな、なんていって苦笑を溢したくなる私の心が、甘い眩暈を起こしてばかりで、言うことを聞いてくれない。

女の心は秋の空とも云うけれど、本来の意味とはもう1つ別に、見詰め合わないといけない事ばかりを隠す様に雲が掛かる事を指すのなら。

 

それならいっそこの通り、ぐうの音も出ない。

窓の外の曇天の様に。

 

 

 

 

 

 

__



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星の距離さえ動かせたなら番外IF
god's mischivous whimsical play


一方通行(?)とマルギッテ+αのちょっと不思議な短編IFです。
本編とは全く関係ないのでご了承ください


戦場に置いて硬直する事は死へと直結する。

 

命の糸を刈り取る気紛れには御機嫌取りも通用せず、鎌を背負った不埒者に笑い掛けられないのように身を潜める術を磨く事は出来ても、逃れ様の無い死への抱擁に墜ちてしまう未来は幾つも枝分かれしている。

 

土塊の勲章を胸に、多くの死を見詰め、逃れ、歩いてきた反動だろうか。

逆に、光溢れる日常において予期せぬ事態に遭遇した時は、頭を白色一面の空模様に染めて硬直する時間から復帰するのが、やけに遅くなってしまっていた。

 

軍人の職業病、謂わば副作用なのかも知れない。

曇天の空昇る硝煙と共に散って行った者達への敬意の血濡れの手形は決して忘れないと誓っているが、それは静かで優しい時間に身を染める為の必要な儀式だと思えば、仕方ないと苦笑するだけ、私は変われたのだろう。

 

群青に似た光そのものとも云える、お嬢様の隣へと居続ける為ならば、この程度の感傷ぐらい抱えたまま生きていける。

気に食わないあの白兎とて、爛れた傷と常に向き合いながら生きているのだ、私に出来ぬ筈がない。

 

 

 

だが、現在私の目に広がる光景に硬直してしまった時間が最高記録を追い越した理由については、向き合う事を辞退させて欲しい。

 

 

「……にゃン」

 

 

「────は?」

 

 

毛屑一つ解れていない黒いスウェットの上下がまるで黒雪で出来た釜倉の様に盛り上がって、そこから這い出て着たのは、一匹の白猫だった。

 

粉雪の綺白と儚さを宿して、且つ短くシャープなシルエットにも関わらずフワフワとした肌触りであるのが一目見ただけで分かる、毛並みの良さ。

左右微かに吊り上がた猫目は磨き抜かれた一級品のガーネットよりも尚美しく透き通っていて、どこか凛とした瞳が、誰だオマエと言わんばかりに、寝室の扉に手を掛けたまま茫然と口を開いて固まる私を見上げている。

 

 

可憐だ。

 

いや違う、確かに毛並みといい粒らな瞳といい、非常に上等であるのは認めるが、そんな似合わない感性に頬を緩めている場合ではない。

 

この状況に置いて、何故一方通行の寝室にこの白猫が居るのか、という疑問。

何処かから入り込んだとしても、此処はマンションの7階だ。

もしやあの白兎が拾って来たのかと推測するが過剰なまでに相互を思いやる彼が、梅子に黙って、というのは考え難い、それくらいには不服ながらも腐れ縁が続く内に理解を含めている。

 

だから取り敢えずこの猫については一端置いておくとして……もっと大きな問題に目を向けよう。

 

 

「……何処に行ったというのですか、ウサギ」

 

 

シーツの少し捲れたベッド、木造ドレッサーの鏡の前に添えられた硝子細工のツリー枝に、巻き付いたチョーカーのコード。

漆黒の遮光カーテンの隙間から差し込む朝陽に晒されたアルミ足のガラステーブルに乗った鳴らない目覚まし時計はデジタル式なのに、乾いた秒針が何処からか耳に溶ける。

 

部屋の主だけが忘れ去られたかの様な、僅かな生活感を残した彼の部屋が、酷く伽藍堂に見えた。

 

 

 

──

 

god's mischivous whimsical play

 

神様の悪戯

 

──

 

 

「居なくなった、じゃと? 彼奴が? 前触れもなく? 書き置きもなく? 此方に、何も告げずに?」

 

「いや不死川、気持ちは分かるがサラッとあいつに特別扱いされてる風に言うのは止めとけ。後で恥をかくのはお前だぞ」

 

「にょ、何を言うかこのハゲ! べ、別に此方はアイツに特別扱いなどされとう無いわ! 彼奴がいつもいつも此方に構うから、まぁ偶には、気にしてやってもいいかと思うただけじゃ!」

 

「こ、心ちゃん落ち着いて、暴れちゃ駄目だよ……そ、それであの、警察に捜索願いとかは出したんですか……?」

 

「今日中に帰って来ないようなら届け出る、と梅子が判断しました。一応、川神院門下の者達にも協力を取り付けています。ですから少し落ち着きなさい、十河」

 

「……」

 

「ユキ、そう暗い顔をしないで下さい。例え何かに巻き込まれたとしても、早々容易く彼が追い込まれる事もないと思いますよ。それはユキが一番良く分かってる筈でしょう?」

 

「うむ、一応、九鬼の者にも探させているし、我もあれほどの男が何かしらの窮地に陥っているなど杞憂はせん」

 

「……うん、アクセラだもん、平気だよね。えへへ、うん、マシュマロ食べよ……」

 

「……しかし、一方通行への心配もありますが、分からないのは、『その子』ですね。本当に彼の寝室に居たのですか?」

 

「そうだと説明しました。上官に何度も真偽を確かめる事は自らの愚を晒す事と同義と心得なさい、葵冬馬」

 

「これは失礼を……あ、ユキ、猫にマシュマロはいけませんよ」

 

「むー……確かに、食べようとしないね、このにゃんこ」

 

拭い切れない影りを残した榊原小雪の赤い瞳が、私の腕と胸の狭間でじっとぶら下がっている白猫の紅い瞳と見詰め合う。

差し出されたマシュマロよりも綺白な毛を逆立てることもなく、桜の切れ端をはめ込んだような形の鼻で匂いを嗅ぐ事もせず、覗き込んだ鏡映しの色彩にすらただ黙って見詰め返すだけ。

猫という生き物についての知識などない私でも驚いてしまうくらい、この腕の小さな命は大人しい。

野性的な意志が希薄というよりも、物事に動じない静謐さを感じさせるのは、どこか童話的な陰影を連想させる綺麗な出で立ちに依るモノなのか。

 

「けど、連れて来ても大丈夫なのか? ウチの学校は色々とフリーダムだが、流石にペットの持ち込みは許されないんじゃ……」

 

「にょほほほ、隣には大量の山猿がおるのじゃ、猫一匹くらい今更な事」

 

「もう、そうゆう言い方は駄目だよ心ちゃん。でも、アレルギーの人とか居たら大変なんじゃ……」

 

「一応、学園長からの許可は貰っています、安心しなさい。ただ、あまり彼方此方に連れ回さないよう厳命はされましたが」

 

「あ、今確認しましたけど、猫アレルギー持ちはこのクラスには居ないみたいですよー」

 

「うむ、あずみよ、大儀である。主の意志を汲み取り動くその姿勢、良い従者を持って我の鼻も高いぞ」

 

「勿体無い御言葉です英雄さまぁ!」

 

「……弁慶、与一は何て言ってた?」

 

「今日は学校サボって探すってさ。それだけ言って電話切られた。ま、ほっといて大丈夫だと思うよ」

 

「ううん、やっぱり義経も探しに……でも学業は優先だし……むうぅぅ……」

 

「皆の言う通り、一方通行ならきっとピンピンしてるよ。寧ろ心配して学業を疎かにされる方が、アイツは嫌って感じると思うけどね」

 

「うっ……一方通行に嫌がられるのは、義経も嫌だ。うん。取り敢えず、探すのは今日の放課後にしよう。弁慶も一緒に探してくれるか?」

 

「勿論だ、主。私も、いつも見てる顔を見ないと落ち着かないし、ね。面倒臭いけど」

 

それぞれの思考が錯綜する教室の曖昧模様だけは感じているのか、時折くるりくるりと動く尻尾が紺碧のスカートと太腿の境目を撫でて、擽ったい。

当初は狼狽しながらも居なくなったあの親不孝者を待つと決めた途端に落ち着いた梅子もそうだが、このクラスの者達にも随分と信頼はされているらしい、あの兎め。

 

けれどそれは心配しない、という訳ではない。

 

十河などに落ち着かない様子で襟足を弄っているし、不死川の令嬢は鬱憤を晴らすように井上準に八つ当たり、源義経は頻りに溜め息をついて、武蔵坊弁慶は顔色こそ平然としているが、川神水を飲んでいる手が微かに震えている。

 

細やか男性陣も態度こそ平静な様に見えて、所作や仕草に違和感を抱くくらいには、動揺を隠し切れていない。

特に当初から沈んでいた榊原小雪は、普段が惚けた笑みを貼り付けているから、白猫と向き合っていながら浮かべる儚い表情との落差が顕著で。

 

本当に、人の心に楔を打ってばかりで、腹立だしい。

 

その癖、自分は遠くを見ながら前『ばかり』を歩くのだ、例え傷を膿ませたままでも。

 

私や梅子の後を、一定の距離を開けながらも付いて来るこの白猫とは正反対だ。

纏う色彩はよく似ている癖に。

目を逸らすあの気に入らない青年と、静かに見上げる白猫。

その対比に無性に何かを掻き立てられて、結局置いて行く事は出来なかったのは何故だろうか。

 

 

「ねぇ、ボクも抱っこしていい?」

 

「……それは、構いませんが……あまり強くはしないように」

 

「はーい……ん、ふわふわしてる。全然暴れないね、オマエ。うりうり」

 

「可愛いなぁ、毛並み凄く綺麗。でもこうして見ると、榊原さんとこの子、凄く似てるよね」

 

「え、ホント? そっか……ボクと似てるんだって、嬉しい? やっぱり嫌? ふふふ、そっか」

 

「小雪、猫と喋れるのか。義経は驚いたぞ」

 

「喋れないよーでも嬉しいって思ってくれてる事にしたんだー」

 

「そ、そういうものなのか。義経には良く分からない」

 

「主、こういうのはノリだよ。んーでも、私はどっちかっていうと、一方通行っぽく見えるんだよね、その猫。なんか澄ましてる感じとか」

 

 

手放した温もりを惜しむとは、私らしからぬ感情だ。

榊原小雪の腕の中でも相変わらず尻尾以外は静かな白猫は、顎を指で撫でられるのが心地良いのか、紅い瞳をやんわりと細めた。

その仕草が、武蔵坊弁慶の発言に浮かばされたあの男の静かな横顔と重なって、思い浮かべたのはいつかの過去。

 

夜のベランダ、肌寒い月夜の風。

細くなる紅い瞳、仄かに微笑む白貌。

 

何故か、ほんの僅かに、頬が熱くなる。

風邪だろうかと押さえた顔は、直ぐに熱を失う。

私自身が私を隠す様に、紅が去って行く。

 

「あ、それ分かるな。というか、榊原さんと一方通行君自体が兄妹に見えるくらいそっくりだから、この白猫さんも両方に似てる。あ、私もちょっと触ってみていいかな?」

 

「いーよ」

 

「ありがとう、榊原さん……ぁ、この白猫さん、凄い綺麗な毛並みしてると思ってたけど……触ってみると、凄いね」

 

「ほ、本当か、十河。よ、義経も触って良いだろうか……」

 

「大丈夫じゃない? なんか全然動じてないし。でも、あんまりベタベタ触り過ぎたら駄目だよ、主」

 

「う、うむ。おぉ、おぉぉぉ、凄く滑らかな御手前だ…………ん? あれ、この触り心地……一方通行の髪に似てる」

 

「え、どれ……あぁ、確かにこのシルクっぽい感じ……なんだ、こんな所まで似てるのか。案外、一方通行だったりするのかな、コイツ」

 

「一方通行君が猫に? うーん、なんだかお伽噺みたい」

 

「はは、冗談だよ、十河」

 

「うん、分かって……ん? あれ? ね、ねぇねぇ、二人ってもしかして一方通行君の髪、さ、ささ触ったことあるの!?」

 

「うむ、実は一度、じっくりと触らせて貰った事がある」

 

「あれは良いものだった」

 

「ど、どうやったらそんなシチュエーションになるの……」

 

優しく撫で付ける掌に時折、肉球を押し付ける様に、どこか恐る恐るその掌にペチペチと触れる白猫を挟んで、女三人が騒ぎ立てている。

榊原小雪は猫の顎の感触が気に入ったのか、頬を緩めて延々と曲げた人差し指で擦っているのを尻目に、そういえば確かに、あの白猫の毛並みは、あの男の髪の質感に似ているなと。

 

重ねて思い出を繰り越して連なるのは、傷の舐め合いみたいな下らない感傷の夜の所為で、すっかり寝不足に陥ってしまった朝の情景。

あの白兎が寄る眠気に陥落した所為で、仕方なく私が梳いてやることとなったのだが、あの肌触りは格別だった。

それからも、ごく偶に梳いてやる事があるのだが、あの肌に吸い付く様な柔らかな髪質は男の癖に随分と上等な

のがやはり癪に触る。

 

「何を騒いでおるのじゃ」

 

「あ、心ちゃん。あのね……いや、うん。この白猫さん、凄く触り心地いいねって、うん。それだけだよ、うん。ちょっと羨ましいなってね、うん」

 

「??……な、なんか変な気もするが、まぁ良い……ふむ、では此方も。ふふん、喜ぶのじゃな。猫の分際で高貴たる此方に触れられる光栄を誇るが良いのじゃっ──って、へっ?」

 

「あ、猫パンチされた、ぷふっ」

 

「べ、弁慶。笑うのは失礼だ」

 

「いやだって主、不死川だけ……ぶっは、本当にこの猫、一方通行なんじゃないの? ックク」

 

「ふ、ふざけるでない! こ、これはあれじゃ、さっきまで井上と話していた所為で此方の高貴さが損なわれてしまったからじゃ!」

 

「おいおい、酷い言い草だな……まぁ偶々だろ、ほら、俺でも普通に触らせてくれるぞ」

 

「おや、良い血統なのでしょうね、確かに毛並みが素晴らしいですね」

 

「んに、にゅぐぐ、ふ、ふん! さっきのは何かの間違いじゃ、もう一回………………ふぇ、な、何故、何故またしてもぉっ……!」

 

「……やべぇ、俺もこの猫が一方通行に見えて来た。このあしらう感じ、毎朝見てるあれと一緒とすげぇデジャブすんだが」

 

「くうぅぅぅ猫の分際でぇぇぇ!! 覚えておるのじゃー!!!」

 

「あっ、心ちゃん! 廊下走っちゃ駄目!」

 

「……おや、二人とも行ってしまいましたか。フフフ、女泣かせなところも、彼に良く似ているみたいですね」

 

「若には言われたくないだろうよ、猫もアイツも」

 

「……あまり、撫で回すものではないでしょう。榊原小雪、返しなさい」

 

「えー……ま、いっか」

 

一頻り撫で回されながらも、逆にどこか小さな子供達をあやし付けた大人みたいに静かに鼻を鳴らす白猫を受け取れば、今度は不思議と尻尾までもが大人しくなる。

偉そうは偉そうだが、やけにその所作が馴染むのは、大人びた白々しさを貼り付けた横顔がまたも重なるからか。

 

「……あのよ、俺、自習とは一言も言ってないんだけど……はぁ、ま、いいか」

 

教卓で何やら苦労人のしゃがれた声が虚しく響いた気がするが、その毛並みと同じくらいに瞳に吸い寄せられる私には、気を寄越す事すら出来なかった。

 

 

 

────

 

 

 

 

(やはり、まだ帰って来てはいないか)

 

 

果ての境目に滲む斜陽はやがて、目尻に宵闇は滲ませて遠くで今も光を届ける彼方の面影を夜空一面に飾る。

それがまるで黒い涙を流している様に見えたのは、消え切らない戦場の跡が、今もどこかに残っている事を忘れない感傷に依るものだろうか。

 

朱赤とした夕焼けが、片側だけ開かれた黒い遮光カーテンの間から照らして、ガラステーブルの鏡面の上で鋭い銀光のステップを刻んでいる。

角度を変える度に踊る黄昏の一欠片、主不在の部屋で行われる極々小規模なオレンジの舞踏会が、当たり前の白を失っただけで、どうしてか、こんなにも虚しい。

 

「……」

 

与えられた教材道具も、男の癖にやたら舌を唸らせる弁当箱も入ってない学生鞄を置いて、乱れたシーツを僅かながら手直しすれば、結局その上に座るのだから形ばかりの徒労だった。

腕に収まったままの小さな命がピクリと小さな耳を畳んで、よもや怖がらせたのかと勘繰る右手が、私の意志を置き去りにしたままその耳ごと頭を撫でる。

 

柔らかく、滑らかで、癒されて。

なのに、まるで風船から青空を奪う、見えないほどの小さな穴が、勝手にどこからか空いてしまう。

何故だ、私は何を『寂しがっている』んだ。

 

「……」

 

「なァ」

 

腕と胸の間で垂れさがっていた私の暗い紅の髪を黙って見詰めていた白猫が見上げるガーネットに、映る顔が、眉を潜めて唇を引き絞っている顔が誰のものなのか、一瞬分からなくなる。

小さく鳴いただけの、アルトの中に掠れるテノール。

鳴き声を挙げただけなのに、なんであの男に素っ気なく呼ばれた時の、何気ない風景ばかりが脳裏に溢れてくるのか。

 

答える様に榊原小雪を倣って、白綿に覆われた喉を指先で擽れば、丸い紅月が日時計を進めていく様に、細くなる。

やがて新月を迎えて、再び姿を表した紅に映る私の片目が、白猫を真似る様に甘く視界を狭めて。

猫を抱く腕の力が、強くなる。

 

「……本当に、何処へ行ったのか。行き先も告げずに姿を消せば、梅子が心配する事なんて誰よりも存じている筈でしょうに」

 

ふわふわとした毛並みに顎を埋めて、制服に皺が出来る事もどうでも良いと思える奇妙な倦怠感に促される様に、ベッドの上に転がる。

唐突に角度を変えた世界に驚くこともなく、視界の端で、抱き締めたままの白猫が微かに身動ぎしたさと思えば、真紅の猫目が私の顔を覗き込んでいた。

一丁前に心配しているのだろうか、それとも突然ベッドに横倒れした私が不思議に思えたのか。

透き通る瞳の奥底で揺れる、ランプの灯火みたいな虹彩は、何も掴ませてはくれない。

まるで夕暮れか、あの夜の月みたいだ。

感傷ばかりを指先でなぞって、輪郭をただ浮き彫りにするだけの、あの男の『悪い癖』。

 

「折角です、オマエも拝聴しなさい。あの兎と似ている罰です」

 

「……」

 

「えぇ、宜しい。素直ですね、そこはあの兎とは異なるのですか。ふむ、良いことです」

 

「なァうォ」

 

そうだ、このどこからともなく現れた闖入者は、あの背中や横顔ばかりが目につく男とは違う。

その背を追わせず、私の背を追い掛ける。

下らない感傷も、余計な感情も、棘を含めた言葉も差し向ける必要のない相手なのだから。

だから、愚痴を吐くには丁度良い相手だ。

間延びした鳴き声を挙げる、静かな聴取者へと、語りかけるべく息を吸って。

ベッドから、気に食わない白兎の匂いがした。

 

「……良い気なモノです、誰も彼もの心を掻き乱しておきながら。オマエも学校で見たでしょう、あんな男の姿を見ないだけで当たり前の様に笑顔が曇る。たかが1日で、大袈裟な事です」

 

少し顔を傾ければ、頬に伝わる滑らかな感触とぼんやりとした熱が伝わる。

生き物にしては不自然な程の無臭さはささくれ立つ苛立ちに似た何かを摘み取るけれど、残る渇いた心音が微かに不協和音を響かせて、空虚ばかりが鼓膜に残った。

 

「十河も榊原小雪も、不死川心もクローンの二人も、不憫なものです。梅子も、きっと今も心配しているのでしょう。殺しても殺せない様な難儀な男に、そこまで心を折る必要などないでしょうに」

 

ああ、本当に分からない事だ。

武神と名を世界に轟かせる川神百代すら下せる男が、そう易々と危地に追いやられる筈もないだろう。

要らない事にまで頭を回す知性は気に食わないが、そこを凌駕出来るものなど、心当たりすら浮かばないような煮ても焼いても食えない男、心を配るだけ徒労に終わるだけだろうに。

何故、誰も彼も笑顔を曇らせるのか。

 

 

「どうして、不安になるのでしょう」

 

たった1日、それどころかまだ夜にすらなってないのに、どうして心が落ち着かないのか。

 

「口を開けば皮肉の応酬。憎たらしい口で気品のない言葉ばかり吐き出す男です」

 

別に常日頃から一緒にいる訳でもない。

特別親しみを持って接する間柄ではない。

尊くもない、お嬢様や中将閣下に向ける様な敬意などまるで無縁。

命さえ下ればいつでも狩ってやれる、他愛のない白兎。

 

「監視の役目が終われば、揚々とこの場を引き払える。あの男の住み家などではなく、お嬢様の側こそ私が居るべき場所なのだから」

 

いつから、私はあの男と過ごすのが当たり前になったのか。

いつから、私はあの男も共に囲む食卓に違和感を抱かなくなった。

 

「今日の私は可笑しい、ふざけている。出来の悪い贋作に成り果てている」

 

そう、何故なのか、分からない。

朝からあの男、一方通行の顔を見ていないだけで、戦場で食んできた保存食よりも数倍は上等な筈の昼食が、味気なく感じられた。

お嬢様に、元気がないと畏れ多くも心配させてしまった。

見詰め返す白猫の瞳に映る私が、まるで寂しそうに眉を潜めているのに、直ぐに気が付いて。

そんな訳がないと、馬鹿馬鹿しい、しっかりしなさいマルギッテと表情を引き締まらせたのは果たしていつまで保てていただろうか。

 

「何故、一方通行の行方が知れない程度で、こうも心が落ち着かないのですか」

 

可笑しい。

 

「ふとした拍子にあの男を探した」

 

奇妙だ、こんなもの。

 

「那須与一の捜索経過一つに、気を逸らせた」

 

歪なのだ、らしくもない。

 

「オマエが居ないだけで、何故この私が」

 

あり得ないのだ、こんな私は。

 

「──寂しい、などと」

 

 

低く掠れがちな声が聞きたいと思った。

 

鋭い罵声を投げ掛けたいと思った。

 

あの男が作った弁当が食べたいと思った。

 

皮肉がちに笑う横顔を、見たいと思った。

 

 

 

──ただ、いつものように。

 

 

 

 

 

──────

 

 

 

 

「ただ、そう。これは、見飽きた顔を見ないと調子が出ない、それだけの事です。生意気にも道理の知らない兎の分際で、上官である私の気を削ぐなど、万死に当たります。許される事ではないと知りなさい」

 

「……」

 

「報告もなく姿を消すなど、銃殺の末路を辿るだけの愚行だと、あのウサギに思い知らせてやらなければいけない。まぁ、中将から許可も無く、梅子が悲しむので、精々二、三発程度に留めておいてやる、感謝しなさい、一方通行」

 

「……」

 

「……オマエには、詰まらない愚痴を聞かせてしまいましたね。詫びに、キャットフードでも買って来ましょう。ついでに、今も何処かをほっつき歩いているバカウサギもさっさと見つけて」

 

最後に一つ頭を撫でて、何かしら吹っ切れたのか、軽い足取りと共に去って行った紅い麗人を見送った瞳が、窓ガラスの外へと向けられる。

隅から伸ばした宵闇の腕は朧気な夕日の周りを忍ぶように広がっていて、その境目で気の早い星の光がチラチラと瞬いていた。

 

「──」

 

やがて、マルギッテが居なくなって、躊躇う様な数分の静寂。

鳴き声一つ挙げない白猫から伸びた影が、蝋燭の炎に作られた幽かな闇みたく揺れて、揺れて、少しずつ膨らんでいく。

 

太陽は、下へと沈んでいくのに。

影は徐々に広がって、ゆっくりと膨張している現象は、非科学的な幻想絵空。

けれど風船みたく膨らんだ、ワンルームぽっちの幻想がやがて造り出したのは、情報深海の粒子へと光を纏って昇華する現象。

 

猫から、人へと。

 

 

「…………なンだってンだ」

 

 

不機嫌そうに喉を鳴らすのは、白糸の淡さから白銀の流麗さへと映え方を変えた、珍しく戸惑いと混乱を隠し切れていない、男のもの。

 

アクセラレータ、一方通行。

 

奇妙な符号ばかりを名札にぶら下げた大きな体躯を捻りながら、真紅の瞳は動揺を潜めてパチパチと瞬きを繰り返す。

 

とても長い夢を見ていた、とするにはあまりに現実感に溢れた映像の数々を、早くも褪せさせるほど彼の記憶野は都合が良くない。

 

何故か、目が覚めたら、一匹の白い猫になっていた。

ふわふわとした、地に足着かない浮遊感と微睡みの中で半分の意識だけを残したまま、猫になってしまっていた。

 

 

「……訳分かンねェ」

 

 

不可解な現象に振り回されてる自覚のないまま、猫になった自分は梅子やマルギッテの背を追い掛けていた。

何故かマルギッテの腕の中で安らいでいた。

小雪の腕の中でも、特に抵抗もなく。

差し伸ばされる掌を、甘受していた、様な気がする。

当然、そこに一方通行としての意志は介在していない。

 

 

「……チッ」

 

 

色んな顔を、色んな言葉を、色んな人から与えられて。

その全てが残っている。

不安に駆られる顔、影を差す横顔、誤魔化し切れてない焦燥。

自分が居なくなった、ただそれだけのことなのに。

 

 

全部、覚えている。

全部、焼き付いてる。

 

脳に、瞳に、鼓膜に、心に。

 

 

「あンのクソ犬……」

 

 

顔を突き合わせては喧嘩ばかり。

親愛など持ち合わせない、ほんの少し互いの境遇をちらつかせただけの女。

まともに名を呼び合うことさえ稀な相手。

口喧しい、いつからか牙を剥いて喉を震わせる事すらなくなってしまった、ドイツの猟犬。

 

 

『オマエが居ないだけで、何故私が──寂しい、などと』

 

 

「好き勝手言いやがって、クソッタレ」

 

 

どこの誰かの悪巧みにしか思えなかった。

 

ただ少し視界の低くなっただけの世界では、どいつもこいつもバカみたいに沈んでしまって。

隠すならちゃんと隠せば良いものを、読み取れるだけの甘さを残すバカの多いこと。

隠そうともしないバカの多いこと。

 

なんてザマを見せるのかと嘲笑えるなら、どれだけ楽か。

 

 

「……取り敢えず、クソ犬は晩飯抜きだ」

 

 

買って来たキャットフードでも貪ってろ、畜生。

 

紡がれない独白を、握り締めた拳が鳴る骨の音が代弁する。

 

夕暮れから夕闇へと変わるのは、僅かな変化、意識せず間に呉れる程度のものなのに。

 

 

こればかりは、意識するな、というのは無理難題だろうから。

 

 

 

 

 

 

とんだファンタジーをくれたどこぞの悪趣味な神様を殴り付けるように。

 

 

下ろされた拳が、ポスンと虚しく、シーツへと沈んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

______fin.



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