カンピオーネ! ~女神と共に在る神殺しの魔王~ (マハニャー)
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1 序章

 どうもー。十七世紀イギリスからやってきました、血塗れメアリの侍従長ですー。

 ハーメルン様では今回が初となります。

 原作のアテナ様が好きすぎて、今回こうして書かせていただきました。

 思いっきり願望込みな作品ですが、どうぞよろしくです。


――――カンピオーネは覇者である。

 

 天上の神々を殺戮し、神を神たらしめる至高の力を奪い取るが故に。

 

 

 

 

 ――――カンピオーネは王者である。

 

 神より簒奪した権能を振りかざし、地上の何人からも支配されないが故に。

 

 

 

 

 ――――カンピオーネは魔王である。

 

 地上に生きる全ての人類が、彼らに抗うほどの力を所持できないが故に!

 

 

 

 

【二十一世紀初頭、新たにカンピオーネと確認された日本人についての報告書より抜粋】

 

 極東の島国、日本国より新たな王、カンピオーネが誕生されました。

 その名を、御神幸雅(みかみこうが)。魔術や呪術、果ては武術の知識もほとんど持たない平凡な、しかし今は非凡なる日本の高校生。

 彼が最初に殺害した神は日本神話における太陽神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)です。

 天照大御神は、日本に限らずアジアの国々ですさまじいほどの知名度を誇る大女神です。

 日本国を創造したとされる伊邪那岐命より生まれ出でた三貴子の内の一柱。高天原を統べる八百万の神のトップ、日本神話の最高神。

 彼女は太陽を神格化した神であり、豊穣を齎す大地母神的な性格を持ちながら、勇ましく武装するシーンも描かれています。

 御神幸雅が簒奪したのは、この太陽神としての性質。

『天を照らす光』(Of Shining)。グリニッジの賢人会議がそう名付けし権能です。

 

 

 

 

【御神幸雅が第二に殺戮した神について、グリニッジ賢人会議のレポートより抜粋】

 

 これらのことより彼が殺戮した第二の神は、同じく日本神話の最強の武神、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と思われる。

 建御雷之男神は名が示すとおり雷神としての性質を持つ。

 御神幸雅が手に入れた第二の権能『猛々しきは雷神哉』(Sword And Thunderbolt)もその性質を如実に表している。

 第一の権能『天を照らす太陽』もあり、先達のカンピオーネ達と肩を並べられるほどのポテンシャルを秘めているとされる。

 未だ若き新たなるカンピオーネ。

しかし、忘れないでいただきたい。

 経験が浅いからと言って弱いなどとは口が裂けても言えないことを。

 彼らカンピオーネは、王である。我ら定命なる人の子は立ちはだかることすら許されない、魔王の一人なのだと。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「…………貴女は、それでいいのかい?」

「……何を言うかと思えば……何だ、それは?」

 

 轟々と燃え上がる炎。満月が照らす荒野。その中で、二人の男女は向かい合っていた。

 

 片方は黒髪黒眼の東洋人。170センチ程度の身長の中肉中背。さしたる特徴もない、平凡な少年だ。

 片方は十三、四歳ぐらいの外見の、素晴らしく美しい少女。吹き抜ける夜風が、肩の辺りまで伸ばした銀髪を揺らしている。

 

 少年の右肩には深い裂傷が刻まれ、左腕に至っては肘から先が存在しない。

 少女の方も満身創痍で、腹には大きな穴が開いている。

 

 二人とも見るからに致命傷である。しかし倒れない。倒れず、己が仇敵をひたと見据えている。

 どちらもその立ち姿に弱々しさはなく、彼らの胸には赫々と燃え滾る炎のような闘志が燻っていた。

 

 それもそうだろう。まつろわぬ神と神殺しの魔王が向かい合えば、そうなるのは必然。運命ですらある。

 

「……まだ。決着は、ついておらぬ……。続けようぞ、神殺し……」

 

 夜を凝縮したような闇色の瞳が爛々と光る。

 

「……分かった。なら、あと一撃だ」

 

 神殺したる少年も、そう強く答えた。

そして始まる。神と神殺しの、渾身の一撃のぶつかり合いが。

 

「我は光。我は太陽。高天原の最上に座す我が、汝に下す詔を聞け! 世に光りあれ、何より尊き至高なる光よ、天上も地上も遍く照らせ!」

 

 少年が口にするのは、日本神話の最高神にして太陽神、天照大御神の聖なる言霊、聖句だ。己が司る太陽に神の言葉を聞かせるための。

 

「アテナの真名において命ずる。闇よ来たれ、陽の恵みを追い散らせ。プロメテウスの火をかき消すがいい! 天の星々と黒き風よ、古の夜を顕わしめよ!」

 

 少女もまた血を吐くように己の聖句を詠う。近隣に臨む町の光を、この世全ての光を消し去るために。

 

 直後、二つのことが同時に起こった。

 

 まず、その場を席捲していた炎が消えた。さらには星の光、街灯、自動車のライト、果ては懐中電灯、ちっぽけな豆電球に至るまで。

 ありとあらゆる人工の光が消え、顕われるは月光すらささぬ真なる闇。

 

 しかし、その深淵なる闇を切り裂くかのように、空に燦然と輝く太陽が顕われた。

煌々と輝く太陽は、今は夜であるにもかかわらず、浮かぶ月を押し退けるように、神々しいまでの光を四方に放つ。

 

「――行くぞ、アテナ。我が命に応え、真なる光を以て神焰となれ! 汝を覆い隠せし闇を斬り裂け!」

「――ゆくぞ、神殺し。暗黒よ! 妾が愛し、妾と共に在りつづけた聖域よ。女王の滅びに立ち会う、忠義の衛士たれ。勅命である!」

 

 二人同時に、あらん限りの呪力を注ぎ込んで被造物に命を下す。

 現れし太陽より放たれるは、万物灼き滅ぼす神焰。それを受け止めるは、一切の光を拒む闇の障壁。

 闇を統べし女神と太陽招きし神殺しの渾身と渾身はせめぎ合い、そして――

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……起きよ、旦那さま。妾が目覚めを招いておるのだ、はよう起きよ」

 

 朝。銀髪に闇色の瞳をした少女――女神アテナは、眠りこける少年の上に馬乗りになって覚醒を促していた。

 

「……ん、ぅぅ……」

 

 しかし少年――カンピオーネ御神幸雅は不明瞭な呻きを漏らすだけで、一向に目覚めようとしなかった。

 もともと幸雅は目覚めが悪いのだ。基本的に携帯のアラームを五分置きに三連続ぐらいで設定して、その三度目でようやく目覚める。

 

 そんな幸雅に、アテナはついに業を煮やしたかのように、

 

「……むぅ。これでも目覚めぬとは良い度胸だ。どれ、ここは一つ……」

 

 言いつつ、アテナは幸雅の唇にそっと己のそれを寄せ――

 

 ――ちゅっ

 

「……ん、んぅ? ――ん、なっ!? アテ、ナ!? 朝から何を……」

「何を言うか、旦那さま。元はと言えば、どれだけ言ってもあなたが目覚めなかったのが悪い」

「え? あ、ああ。起こしに来てくれたのか。ありがとう、僕のために」

 

 朝っぱらからの口付けに仰天していた幸雅だったが、すぐに己の非を悟って頭を下げた。

 アテナは鷹揚に微笑み、

 

「よい。あなたは妾の旦那さまだ。であれば、妻である妾が貴方を眠りの園より引きずり出すのも道理よ。それよりも」

「ん?」

「……妾はあの程度では足りぬ」

 

 上体だけを起こした幸雅の上に馬乗りになったまま、アテナは両腕を広げた。

 すぐに察した幸雅は微笑を浮かべつつ、そっと華奢な肢体を抱き寄せ、胸の中に深く抱きこむ。

 腕の中にある軽く暖かい感触に、無限の愛おしさを抱きながら幸雅は耳元で囁き、

 

「おはよう、アテナ。僕の可愛いお嫁さん――」

「んっ……おはよう、妾の愛しき旦那さま」

 

 もう一度、今度は幸雅の方から唇を重ねた。




 最初の部分は、ほぼパクリです。


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第一章 神はまつろわず
2 女神との日常


 この話は、アニメの一話の直前、小説の三巻の前から始まってます。

 神殺し草薙護堂は八人目のカンピオーネです。


 七人目のカンピオーネ、御神幸雅の自宅は東京都文京区の根津の下町にある、とある二階建ての一軒家だ。

 父母は出張が多く今は家におらず、妹の花南(かなん)との二人暮らしだった(・・・)

 その妹の花南の作った朝食を食べながら、神殺しの魔王カンピオーネとなった一年前に、幸雅は思いを馳せるのだった。

 

 一年前までは幸雅は普通の高校生だった。とある夏の日、あの神々しいまでの輝きを放つ女神と出会うまでは。

 まあ紆余曲折の果てにその女神――天照大御神を殺し、その権能を簒奪して神殺し、欧州で言うカンピオーネとなったのだが。

 その後の日本の呪術組織、正史編纂委員会のエージェントと名乗る甘粕冬馬に訪ねられ、やたらと慇懃に挨拶をされたり。

 さらに東京分室の室長・沙耶宮馨とやらからも同様の言葉を受けて恭順を示され。

 正史編纂委員会からの要請を受けて、出現したまつろわぬ神と戦った末に、二つ目の権能を手に入れて。

 

 そして極めつけは――と、隣の椅子に座って味噌汁を啜る自分の〝嫁〟を見る。

 

(この娘のことだよねえ。まさか、女神様に惚れるとか、自分でも思ってなかったし)

 

 心の中で独白していると、妹の花南がいつもののんびりとした調子でアテナに話しかけているのが見えた。

 

「お味はどう~? 美味しいといいんだけど~」

「いえ。とても美味しいですよ、花南さん。毎日でも食べたいくらいに」

 

 つい三ヶ月前に娶ったアテナだが、幸雅の妹である花南には敬語を使う。

 夫である幸雅の顔を立てているらしい。健気な女神様である。

 とはいえ、今のアテナの姿は十三、十四歳ぐらいのローティーンで、今十四歳の花南よりも外見的には同程度なのだが。

 実年齢の方は、もはや比べるのも馬鹿らしいほどである。

 

「そっか~。女神さまのお口に合ってよかったよ~」

 

 そう、なんとこの妹さま、アテナの正体、ギリシャ神話の智慧と闘争を司る、聖なる戦女神であることを知っているのだ。

 初対面でアテナがいきなり暴露したのだが、見ての通りほんわかした性格なため気にした様子はない。大物である。

 なので、兄の唐突な結婚宣言にも慌てふためくことなく、すっかりアテナと打ち解けている。

 

 アテナの方も、見る者を和ませるフワフワした笑みを浮かべた花南に、すっかり絆されたクチだ。

 今では毎食、一緒にテーブルを囲んでいるほどだ。

 

「あ、お兄ちゃん~。そろそろ時間だよ~」

「うわ、ホントだ。もう、そんな時間か。……アテナ、花南。行ってくるね」

「ちょっと待って、お兄ちゃん~。わたしも一緒に行くよ~」

「はい。お気を付けて」

「ありがとう。できるだけ早く帰ってくるようにするよ」

 

 花南の指摘に慌てて鞄を持って立ち上がる光雅。一緒に立ち上がった花南と弁当を手に取って玄関へ急ぐ。

 神話の神々を殺戮した魔王カンピオーネと言えど、その身分はあくまで学生である。

 

 アテナも立ち上がって、玄関まで見送りに来てくれた。

 

「それじゃ、アテナ。寂しくても何か壊したりしちゃ駄目だよ?」

「……言われるまでもない。妾を何だと思っておる?」

「もちろん可愛いお嫁さんだよ? 行ってきます、アテナ――ちゅっ」

「ん、ぁ……むぅ、誤魔化しおって。まあよい。……それよりも、何やら不穏な気配がしおる。くれぐれも気を付けよ」

「それは、霊視の方でかい? ……分かった、気を付けるよ」

 

 この世とは別の世界であるアストラル界より、啓示を授かる力、霊視。日本でも媛巫女が持つ力だが、アテナも智慧の女神としてその権能を持っている。

 故に、彼女の言う気配は無視できない。

 

 幸雅としては平穏にアテナとイチャイチャして暮らせればそれで満足なのだが、どうも毎回、トラブルの方から全力疾走してくるのであった。

 もしかしたら、また権能を振るう時が来るかもしれない。

 

(とはいっても、すぐに来る、という訳ではないだろうしね)

 

 そう、楽観視しておくことにした。

 

「行ってらっしゃい、幸雅さん、花南さん」

「行ってきます」

「いってきま~す」

 

 兄妹並んでドアを開け、家から出た。

 そのまま他愛もない話をしながら学校を目指す。

 二人とも近隣の私立城楠学院の、それぞれ高等部と中等部に通っている。

 そのため、登校時と下校時は一緒になることが多いのだ。

 

「あ、護堂く~ん」

 

 不意に花南が、前を歩いていた男子生徒に声をかけた。

 黒髪黒眼、身長180センチ程度でやや大柄。ガタイのいい、幸雅の後輩で兄妹にとっての幼馴染、草薙護堂だ。

 

「おはようございます、幸雅先輩、花南ちゃん」

「おはよう、護堂」

「オハヨ~」

 

 ぴしっと背筋を正しての礼は、体育会系の礼儀正しさを彷彿とさせる。

 実際に彼は元野球選手であり、シニア世界大会に向けた日本代表候補だったのだ。中学時代は関東屈指の四番打者だったのだが、肩を壊してそのまま引退してしまった。

 

 この後輩、朴訥な性格で根はいい奴なのだが、如何せん女難の相が過ぎる。

 中学時代に護堂に惚れていた女子を数え上げると、実に十四人にも上る。

 問題なのが、護堂自身にその自覚がないこと。彼の祖父である一朗が極度の人誑しだったため、護堂にもその才能が遺伝した、というのが彼に近しい者の推測である。

 とはいえ、素行に特に問題はなく、真面目な生徒であるためにそこまで目立つような存在ではない。

 女誑しの才能も高等部に上がってからは鳴りを潜めているし。

 

 という訳で、学校までの道のりをこの後輩と歩くことに相成った幸雅だった。



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3 魔王の学校生活

間違えました、すいませんでしたあーっ!


「おはよう」

「うーっす」

「おはよー!」

「おは」

「はよす」

 

 幸雅が教室に入ってクラスメイトに挨拶をすると、実に多様な挨拶が返ってきた。

 まだホームルームまで時間はあるが、大体の生徒はすでに教室でグループ同士でおしゃべりに興じていた。

 いつものことなので気にせず窓際の自分の席に鞄を置いて座ると、友達の山田が話しかけてきた。

 

「よっす、幸雅。……なぁ、お前知ってるか?」

「おはよう山田くん。何を知ってるって?」

 

 色素の抜け落ちた茶髪を短く刈り込んだ水泳部所属の180センチ、山田は挨拶をすませるなり聞いてきた。

 本気で心当たりがなかったため、聞き直す。

 

「何か今さ、イタリアの方ですげー台風が発生してるんだってよ」

「……台風?」

「おう。大分勢いが強いらしくてさ。もう、建物とかボロボロ、雷まですごい量が落ちてるらしいぜ。まさに嵐だよな」

「嵐、か。……イタリアね」

「台風の進路が日本に来たら、俺らもヤベーんじゃねえかってさ。コエーよな」

 

 おどけて言う山田を尻目に、幸雅は思索していた。

 今は四月の初め。ヨーロッパの方でも台風の時期とは明らかにズレている。

 家を出る前のアテナの霊視からの警告。時期外れの嵐。この二つは本当に無関係なのか、ただの偶然なのか?

 

(嵐……嵐の権能を持ったまつろわぬ神でも出たかな?)

 

 しかしイタリアであれば、『剣の王』サルバトーレ・ドニが居たはずだ。

 あの愚か者でも、まつろわぬ神が出たとあれば即座に動くはずだ。自分たちが動く事態になるとは考えにくいが……

 

「……君は大丈夫だろうさ。嵐が来ても」

「あん? なんでだ?」

「君にはその鍛え上げた筋肉があるだろう? それがあれば恐るるに足らないね」

「おお、そうだな! ……よぅし、そうと分かれば、早速筋トレじゃあああ。うおおおおおおおおおお」

 

 叫び、いきなり床に寝転がって腹筋を始める友人を見て、幸雅は思わず笑った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 午前の授業が終わり、昼休み。

 幸雅はいつものベストプレイス、屋上で弁当を広げていた。

 

 一緒に居るのは妹の花南と護堂である。花南と二人で屋上に上がってきた結果、先客だった護堂とご一緒することにしたのである。

 

「……幸雅先輩の弁当、最近すごいですよね」

「ん、そうかい?」

 

 購買で買ってきたパンを齧っていた護堂が不意に呟いた。

 

 今日の幸雅の弁当のラインナップは、卵焼き、唐揚げ、ミートボールにポテトサラダ、プチトマト。

 最後に、一目見て手作りと分かる梅干し入りのおにぎりが三つ。

 

 どれも少し不格好ながら、その分、作った者の愛情が感じられる弁当だった。

 ここまで言えばお分かりいただけるであろうが、何を隠そうこの弁当、幸雅の嫁である女神アテナの手作り弁当である。

 最近の幸雅の弁当は、花南に教わってチャレンジしたアテナの手作りがほとんどなのだ。

 

 朝早くからキッチンに立って卵焼きを巻いて、唐揚げを揚げて、おにぎりを握るアテナの姿を想像すると、それだけで胸がいっぱいになる。

 そして帰ってから弁当箱を渡すとき、アテナが発する言葉と表情の何と可愛らしいことか!

 

『……美味しかった、か?』

 

 そんなことを、不安げな上目遣いで聞いてくるのだ。そりゃーもう、即座に力の限り抱きしめて撫で撫で一択だろう。

 ああもう、今日帰ってからが楽しみでならない。

 早速家路に着いてからのことを想像して悶える幸雅だった。

 

 そんな、傍から見ればすさまじく気色悪い幸雅に、護堂は若干引き気味に尋ねた。

 

「……あ、あの。もしかして先輩……彼女とかできたんですか?」

「ん~ん。彼女って言うかお嫁さんだよ~」

 

 答えたのは妹さまだった。

 しかし、少し爆弾発言過ぎた。もう少しオブラートに包むべきだっただろう。

 

「え、嫁!? でも、あれ? 先輩ってまだ高校――」

「言葉の綾さ。気にしなくていいから」

 

 真実しか口にできない妹の口を塞ぎながら、しれっと答える幸雅。

 まさか女神を娶ったなどと本当のことを言う訳にも行くまい。

 一般人である護堂にまつろわぬ神やカンピオーネのことを言っても、頭のおかしい人扱いされるのが関の山だろう。

 幸いにも、護堂も冗談だと思ってくれたようで、それ以上何か言われることはなかった。

 

 そんなこんなでパンを食べ終わった護堂が屋上から降りていくと、残ったのは幸雅と花南だけになった。

 

「そういえば、お兄ちゃん~。明日からの連休、どうするの~?」

 

 妹の質問に考えさせられる幸雅。

今日は金曜日。そして月曜日は昭和の日で三連休。

これまでは怠惰に過ごしてきた連休だったが、最愛の嫁がいる身としてはどこかに連れて行ってやりたいとも思う。

 

「そうだね。アテナを連れてどこか海外旅行にでも行こうと思っていたのだけれど……花南も来るかい?」

「あ~、やめとくよ~。二人っきりを邪魔したら、アテナさんに恨まれそうだし~。それに、わたしも友達と約束があるんだ~」

「そうかい? アテナはそんなこと言わないと思うけれど……ん?」

「どうしたの~?」

「いや、誰かが上ってきてるね。かなり急いでるな」

「それって階段~? よく分かるね~。さすが〝かんぴおーね〟~」

 

 まあ確かに、カンピオーネになってからどうにも五感が鋭くなっている気がするが。

 それはともかく、闖入者の正体を探ろうとした時、一瞬早く屋上のドアが開け放たれた。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 入ってきたのは、亜麻色の長い髪に同色の瞳の、清楚で気品のある少女。

 優れた霊視能力を持つ武蔵野の媛巫女、万里谷裕理だ。

 何か、非常に慌てた様子の媛巫女はきょろきょろと屋上を見渡し、幸雅を見つけると表情を明るくして走り寄ってきた。

 

「……あ、あのっ。ご歓談中、失礼、します……っ!」

「あーうん。ちょっと待って。ほら、まずは深呼吸。吸ってー吐いてー」

「は、はい。……すー……はー」

「よし、落ち着いたね? で、そろそろ用件をお聞かせ願えるかな?」

「はいっ。あの、荒ぶる魔王たる御身に過ぎたことでは御座いますが、何卒、私の言葉を御身のお耳に入れたく――」

「……あーうん。分かったよ。で、何?」

 

 やたらと慇懃な口調で話す裕理。しかし、それも仕方あるまい。

 御神幸雅は王なのだ。神話の神々にすら己の牙を届かせる、傲慢なる魔王の一人。

 魔王、ラークシャサ、デイモン、堕天使、混沌王(アナーク)、カンピオーネ。

 それらの恐るべき忌み名を冠する彼らの恐ろしさを、媛巫女として育てられてきた裕理は十分に承知していた。

 もっとも、それは幸雅の望むところではなかったが。

 自分より年下の後輩からまるで家来か家臣のように傅かれる、というのは、かなり居心地が悪い。

 そういう風なことを、幸雅は裕理に何度も訴えているのだが、一向に改善しない。

 刷り込まれた先入観と、彼女自身がカンピオーネの傲慢によって死にかけたことがある故なのだが。

 

 ようやく息を整えた裕理に幸雅は問うた、が、実は大体のことは察しが付いていた。

 目の前の媛巫女、万里谷裕理は卓越した霊感と霊視の才能を持つ。

 本来、霊視とは望んでできるものではない。しかし裕理の眼は成功率六割超えという驚異の霊視能力を持つのだ。

 そして、今朝山田から聞いたイタリアに到来したという、時期外れの嵐。

 この二つを重ねて考えれば、答えは自ずと出てくる。

 

 裕理が必死に言葉をまとめて訴えかける内容に、幸雅は嘆息した。

 

「……やれやれ。この連休の旅行先、もう決まっちゃったかもねぇ」



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4 魔王と女神、イタリアへ発つ

 この話と次の話から、小説三巻が始まります!

 ついでにカンピオーネ草薙護堂が誕生しますので、どうぞよろしくです。


「ことが起こったのは、昨日のことでしてねぇ」

 

 学校が終わった後、幸雅はそのまま家に帰らず、途中で智慧と闘争の女神を呼び寄せて裕理の実家、七雄神社の本殿に居た。

 ことの仔細を聞き出すためだ。

 最初に口火を切ったのは、正史編纂委員会のエージェントにして忍びの権威、甘粕冬馬だ。

 

「イタリアのサルデーニャで、突然、何の前触れもなく物凄い嵐が起こったそうです。それはもう、すさまじい勢いの。で、コレはさすがにヤバいんじゃないかってイタリアの同業者さんたちが調べた結果、予想通りと言うべきかなんと言うべきか、まつろわぬ神の手によるものだと判明した次第で。馨さんから、至急御神さんにお伝えしろと」

「同業者、というと、テンプル騎士や魔女とかの魔術結社の人たちかい?」

「ええ。今回、最も迅速に動いたのは《青銅黒十字》の方々です」

 

《青銅黒十字》とは、イタリアに古くから存在するテンプル騎士、または魔術師の起こした結社、いわゆる騎士団である。

 ミラノの魔術師を代表する二大魔術結社の一つ、青き狂戦士たちの集う《青銅黒十字》。

 今回それほどまで素早く動いたのは、おそらくライバルであるもう一つの魔術結社、赤き悪魔たちの集う《赤銅黒十字》に対する対抗心の為だろう。

 

 かつてイタリアに赴いた際に聞かされた知識を思い返しながら、幸雅は思索を始めた。

 胡坐をかく幸雅の膝の上には、猫が身を寄せるように丸まるアテナの姿が。幸雅の足の上に小さなお尻を乗せ、首に腕を回してぴったりと密着している。

 いつもは戦女神らしく凛としただずまいだが、幸雅の前ではこれが一変する。そんなところも、幸雅には愛おしかった。

 それを見て顔を赤くする裕理と、目に毒とばかりにさりげなく視線を逸らす甘粕。

 バカップルの醸し出すピンク色の空気に毒されては堪らない。

 

「それで? 《青銅黒十字》が調べた結果、どういうことが起こってるんだい?」

「戦闘らしいです。それも、まつろわぬ神とまつろわぬ神の」

「やっぱりか……」

 

 額を押さえて幸雅は呻いた。

 まったくこれだから、傲慢な神様っていうヤツは。

 

「ドニはどうしてる? あのバカが首を突っ込んでこないとか、あり得ないと思うんだけど」

「サルバトーレ卿なら、アンドレア卿のご指示で南の島でバカンス中らしいですよ」

「あ、そう」

 

 アンドレア。稀代の愚か者にしてイタリア最強の剣士『剣の王』サルバトーレ・ドニの執事を務める謹厳実直な男性。

 知る限りで一番の苦労人の顔を思い浮かべて、幸雅は苦笑した。

 彼のファインプレーのお陰で、とりあえずあの愚か者の介入、すなわち新たな火種の投入は防げた。それだけが今回の唯一の救いだろう。

 

 しかし頭が痛いことに変わりはない……。

 と思っていたところに、不意に頬に優しい感触を覚えて幸雅は顔を上げた。

 あまり見ない優しい微笑みを浮かべたアテナが、愛おしげに幸雅の頬を撫でていたのだ。

 その表情にドキッとすると同時に、胸の内に広がる安心感と目の前の女神への愛おしさ。それらが渾然一体となって幸雅の口元を歪めさせた。

 つい幸雅の方からも己の膝に座るアテナの腰に腕を回し、強く抱き締める。アテナの方からも首筋に額を擦り付けるようにしてくれた。

 

 目の前でいちゃつくバカップルに完全に置いてけぼりをくらった甘粕は、苦笑しながら己の所属する組織が戴く王への依頼を口にした。

 

「……何にしても、御神さん。王であらせられる御身に、正式にご依頼いたします。どうか、遠き地によって繰り広げられる災厄を止めてください」

「私からもご奏上いたします。もしかしたら、御身も新たな権能を得られるかもしれません」

「別に新しい権能が欲しいなんてこれまで思ったことはないけれど……《青銅黒十字》の面々には以前お世話になったからね。引き受けさせてもらうよ」

 

 迷う素振りも見せず幸雅は頷いた。もとより断るつもりもなし。

 基本的に神々との戦いに興味は湧かない幸雅だが、無辜の民が巻き込まれそうな時ぐらいは、陣頭に立つボランティア精神ぐらいは持ち合わせている。

 

「ついでに、連休を使ってアテナとイタリア旅行でもしてくるよ。アテナ、それでいいかい?」

「妾はあなたが居ればどこであろうと構わぬ。もっとも、彼の地はすでに赴いたことがある気がするがな」

 

 悪戯っぽく微笑みながらも承諾の意思を伝える戦女神。

 微笑み返しながら、幸雅は心の中でそれに、と付け加えた。

 

(イタリアならば、かつてアテナと戦ったあの地なら。アテナが失った力、ゴルゴンを見つけ出せるかもしれないしね)

 

 表情を緩ませる《蛇》を司る大地母神を見据えて、決意を新たにする幸雅だった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 幸雅とアテナは、翌日に日本を発った。

 正史編纂委員会が用意してくれた、アテナの分のパスポートとチケットでイタリア行きの飛行機に乗り込む。

 準備やら何やらをしている内に時間はもはや深夜。空港のターミナルで飛行機を待っている内にとっくに日付は変わり、すでに二時を回っている。

 しかし夜の女王であるアテナにとっては、むしろ闇に閉ざされた深夜こそが本領。故に。

 

「……ん、ふ……ちゅっ、旦那さま……ふぁ……む」

「……むぁ……ぅ、アテ、ナ……ちゅ、ん……」

 

 人目も憚らず愛しい旦那さまの膝の上に乗って、濃厚極まる口付けを楽しんでいた。

 その黒曜石のような闇色の瞳はトロンと恍惚に蕩け、誰が見ても他のことは眼中にないことが分かるほどだった。

 もともと、家ではひたすら旦那さまとの睦み合いを楽しんでいた処女神である。

 しかし今日は正史編纂委員会からの依頼や説明、その他諸々のせいで、そんな時間はほとんど取れなかった。

 ……いや昨日、神社に居た時に散々甘えてたじゃないか、とかいうツッコミは御法度である。

 ともあれ、人目があることもあって我慢に我慢を積み重ねてきたアテナだったが、飛行機に乗り込んで二人きりになった途端、それが決壊した。

 

 幸雅が席に座ってアテナの方を見た――瞬間、アテナは幸雅に反応も許さず、その唇を奪った。

 目を白黒させる幸雅にも構わず、夢中でその唇を貪る。

 小さな胸の内に湧き出る無限の情熱を分け与えるかのように、唇を唇で吸い、舌を絡め、唾液を交換する。

 先程までの寂しさを埋めるように、夢中で彼を求める。

 最初は戸惑っていた幸雅も、次第にアテナの熱が移ったかのようにアテナを求めはじめて――

 

 そして、冒頭に戻る。

 耐性のない者なら、目に入れるだけで当てられてしまいそうなほどに、彼らの醸し出す空気は淫美で、濃厚だった。

 

 それを息継ぎを交えつつ、小一時間ほど(!)続け、ようやく二人の睦み合いは一応の終息を見た。

 互いに息は荒く顔は火照り、唇の周りはお互いの唾液でべっとりと汚れている。それを拭うこともせず、二人は固く抱き合っていた。

 

「……ごめんね。寂しい思いをさせてしまって」

 

 弛緩したアテナの背中を擦りながら、幸雅は耳元で囁いた。

 アテナが豹変した理由を悟っての謝罪だった。最愛の嫁と言っておきながらこの体たらく。情けない。

 しかしアテナは優しく微笑んで、

 

「気にするな。これはただ、妾が堪えきれなかっただけのこと。――……もう、しないであろう?」

「もちろんだよ。二度と君に寂しい思いをさせたりしない」

 

 幸雅は、改めてそう誓った。

 かつて死力を尽くして戦い、初めて愛した女性。そんな人を、悲しませたりなんてするものか。

 

「……愛してるよ、アテナ」

 

 万感の想いをこめて、そう囁く。

 するとアテナは一瞬ポカンとした表情を見せて、すぐに照れ臭そうに目を背けた。

 

「い、いきなり何を言うか」

「仕方ないだろう。抑えきれなかった。……何度でも言うよ。僕は君を愛してる」

「――……わら、私も」

「ん?」

 

 耳まで真っ赤にしたアテナが、顔を隠すように幸雅の胸元に埋めて、

 

「私も、愛してます。幸雅、さん」

「――――ッ!」

 

 恥ずかしそうにポツリと告げられたその言葉に、幸雅の意識は瞬時に沸騰した。

 これは、ヤバい。マズイ。

 言い切った後も、いつものズバズバとした態度が嘘の様に、こちらの胸元に額をぐりぐりと押しつける様は、一言で言って、

 

(め、メッチャ可愛い……!)

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 時は少し遡り、昨日、二人が甘粕の報告を聞いていたころ。東京都文京区、根津の下町にある閉店した古書店では。

 

「それくらい何とかしてみせるよ。じいちゃんは根津で留守番をしていてくれ」

「承知した。じゃあ全てお前にまかせるから、上手くやってみせてくれよ」

 

 とある少年が、祖父からとある石板を受け取り、イタリア行きを決意していた。



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5 サルデーニャへ

「さて、イタリア到着、だね」

「うむ」

 

 翌日、日曜日の午後二時。幸雅とアテナはイタリアの首都ローマにある国際空港フィウミチーノ空港に降り立った。

 目の前に視線を転じれば、国籍、人種ともに様々な人々が行きかっている。

 日本ではあまりお目にかかれない光景だが、やはり一番目立っているのは幸雅とアテナだろう。

 

 片や、黒髪黒眼のこの時期珍しい日本人。修学旅行でもないので、ここにいる日本人は幸雅だけだろう。

 片や、艶やかな銀髪に闇色の瞳、不自然なほどに整った顔立ちの少女。100人いれば100人が美少女ということ間違いなしだ。

 そんな二人が、仲睦まじく腕を組んで見せつけるようにしながら、ターミナルにやってきた。

 もちろん、大勢の視線が殺到するが、アテナにとってはそもそも眼中にないし、幸雅もアテナを連れて歩くと大体こうなるため、慣れ切っている。

 

「それで、どうするのだ旦那さま? このまま件の島へ行くのか?」

「いや、《青銅黒十字》から案内役が来てるらしいのだけれど……おっ、あれかな?」

 

 きょろきょろとせわしなく人が行きかうターミナルを見渡していると、不意に感じ慣れた超常の力、呪力を感じ取った。

 アテナと一緒にその呪力の方向を見ると、多種多様な外見の人々の中でも一際目立つ、アテナと同じような銀髪の少女が立っていた。

 銀褐色のポニーテールに、西洋人形じみた硬質の美貌。美しい妖精のような細身の体付き。

 その少女が身にまとうのは、青地に黒い縦縞の入ったケープだ。《青銅黒十字》に所属する魔術師の正装、青と黒(ネラッズーロ)の戦装束。

 こちらがじっと見ていると少女の方も幸雅たちに気付いたようで、ひしめき合う人垣をするするとすり抜けて、二人の前に立った。

 少女が口を開くよりも早く、幸雅からイタリア語で話しかけた。

 

「やあ。君かな? 《青銅黒十字》からの案内人というのは」

「御明察の通り、《青銅黒十字》より遣わされたリリアナ・クラニチャールと申します。日本国のカンピオーネ、御神幸雅さま。その伴侶たる智慧と闘争の女神よ。御身こうしてお目通り叶ったこと、まことに喜ばしく」

「ふーん。クラニチャール? ……ああ、彼の孫娘かな。君のお爺さんが僕に自慢していたよ」

「祖父が見苦しい真似を。申し訳ありません」

「いやいや、いいのいいの。実際に強いんだろう?」

「一応、《青銅黒十字》では大騎士の位を授かっております」

 

 裕理と同じようにどこまでも謙った態度に苦笑を禁じ得ない。

 幸雅は、別にイタリア語を勉強したわけではない。しかし今では流暢にしゃべることができる。

 これはカンピオーネになってからできるようになったことだ。

 

『千の言語』

本来ならば長年魔術を学び、言霊の奥義を悟った達人のみが会得する秘術らしいが、カンピオーネたる幸雅は三日もすれば言語の一つぐらいは習得できる。

 

 やっぱり滅茶苦茶だけれど便利だな……と考えていると、リリアナは次にアテナに語りかけた。

 

「女神よ。御身の御名を口にする不遜をお許し頂けるでしょうか?」

「許そう。面を上げよ、我らの遠き裔なる魔女の娘よ」

「ん? アテナ、その娘が君たちの裔ってどういうことだい?」

「知れたこと。この娘は魔女なのだ」

 

 欧州における魔女の原型は、アテナたち古代の地母神に仕える巫女なのだ。

 一般に言う魔術師とは原点を異にする魔女。彼女たちは魔術だけでなく、日本の媛巫女のような霊視・霊感の素質も持つ。

 故に、目の前の魔女・リリアナ・クラニチャールは古き地母神たるアテナにとっての『裔』となる。

 

「へー。やっぱり色々ややこしいね」

「何を言う。妾の旦那さまなのだから、妾のことぐらいは全て知っておいてもらわねば困る」

「……それもそうだ」

 

 冗談めかして言うアテナに、幸雅は思わず苦笑した。

 しかしすぐに不敵な笑みを浮かべて、

 

「……まあでも、どこが弱点とかは全部知っているのだけれどね?」

 

 そっと、自分の腕に抱きつくアテナの首筋を撫でた。

 反応は一目瞭然。

 

「――ふにゃっ!?」

「ふふふっ。ほら。知ってるだろう?」

「む、むうぅぅぅ!」

 

 恨めしげに頬を膨らませるアテナだが、その姿は幸雅からしたら可愛い以外の感想が出てこない表情だった。

 なので、とりあえず謝罪も兼ねて頭を撫でてやることにした。

 

「ごめんねーアテナ。ちょっとやり過ぎちゃった。許してね?」

「……ん、ぬ、むう。……今回だけだぞ」

「うんうん。もうしないよー」

 

 絶対するが。

 それを口に出すことはせず、仲良くじゃれ合う二人を見て、何やら顔を赤くしていたリリアナと一緒に空港から出るのであった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「それで、御身らはこれからどうするおつもりなのでしょうか?」

「そうだね。まずはサルデーニャに行こうと思う。あそこが戦場だと聞いたし、ルクレチアさんもいるからね。彼女の話も聞いておきたい」

「ルクレチア・ゾラさまですか……わたしたち魔女の先達に当たる方ですね」

「ふむ、あの魔女めか」

 

 ローマ市街地の湾岸部を談笑しながら、三人は歩いていた。

 相変わらずアテナと幸雅は腕を組んだままだが、それは気を抜いていることを示していない。

 幸雅は歩きながら海の方に臨む島――サルデーニャ島の方を見据えながら歩いているし、アテナも己の霊感を研ぎ澄ませている。

 

 そのまま歩くこと数十分。

 ついに、それ(・・)は来た。

 

「……ッ、来たか!」

「旦那さま!」

「え? あの、お二人とも?」

 

 いぶかしむリリアナを気にせず幸雅とアテナが見据える先、サルデーニャ島の市街地からは、青白い雷が見え隠れしていた。

 無論、自然現象などではない。しかも、サルデーニャ島の上空、もっと言えばドルガリの上空にだけ雷雲が発生し、豪雨と暴風と雷電が渦巻いている。

 明らかに何者かの手によるもの。だが感じ取れる呪力からして人間の魔術師によるものだとも思えない。

 すなわち、まつろわぬ神。もしくは神殺しの仕業。

 さらに、その横に顕現しているのが体長20メートルほどの、黒く巨大な『猪』。

 

「あれは、神獣かい? それにしては呪力の量が半端ないのだけれど」

「……いや、あれは神獣というより化身と言った方がよいな。一箇の神がその姿を獣に変えた存在だ」

「ふむ。あの雷は……呪力はまったく同じだけれど、違う化身か。何かの事情で分裂でもしてるのかな」

「かもしれぬ。それで、どうする。神殺し?」

 

 闇色の瞳に猛禽類――梟のそれと同じ呪力をまとわせたアテナが、隣に立つカンピオーネに尋ねた。

 果たして魔王・御神幸雅は、

 

「もちろん、行くに決まってる!」

 

 迷う素振りもなく頷いた。

 アテナも破顔一笑、両手を広げて幸雅に抱きつき、幸雅も優しく受け止める。

 その次の瞬間、幸雅の全身からパチパチと放電が始まった。

 

「君はどうする、クラニチャール? 必要なら送っていくけれど?」

「い、いえ! 御身の手を煩わせるわけにはいきません! それでは戦場でお会いしましょう、ご武運を!」

 

 それだけ言って銀髪の大騎士はおもむろに呪文を唱え始めた。

 

「――アルテミスの翼よ、夜を渡り、天の道を往く飛翔の特権を我に授け給え!」

 

 言下にリリアナの体が青い光に覆われ、まるで砲弾のようにサルデーニャに向かってかっ飛んで行った。

 それを見送って性急な動きに苦笑しつつ、幸雅も幸雅でアテナをその腕に抱いて言霊を唱える。

 

 己の中に眠る、日本神話最強の武神の権能を呼び覚ますための。

 

「御雷の名を持つ我が請い招くは疾き稲妻! 高倉下を打ちし稲妻よ、雷神たる我が掲げし霊剣を以て、ここに顕現せよ!」

 

 バチイイッッ、と目も眩むような閃光が空より降り落ちた。それは稲妻。何より疾き稲妻。

 降り落ちた稲妻は地面に叩きつけられるより前に幸雅の右手に集結し、一本の剣を形作った。

 

 御神幸雅が斃した二柱目の神は、日本神話最強の武神にして雷神・建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)

 何者にも勝る剛力と降り落つ雷を司り、神剣を神格化した軍神ともされる《鋼》の神だ。

 彼がこの神から簒奪した権能は、『猛々しきは雷神哉』(Sword Of Thunderbolt)。

 

 幸雅の右手に顕現した剣は、名を霊剣・布都御霊(ふつのみたま)。簡素な長剣を青白い電光が彩っている。

 その雷光はすぐに全身に波及し、サルデーニャ島に向けて幸雅が地面を蹴った――瞬間、幸雅とアテナの姿が掻き消えた。

 いや違う。目視できないほどの速度でサルデーニャ島まで向かっているだけである。

 顕現した雷神の稲妻を身にまとい、雷光の速度で――すなわち、『神速』で海の上を駆け抜ける。

 移動速度を速くするのではなく、移動までにかかる時間を短縮する『神速』は、二人をものの数十秒で戦場へと運んだ。

 

 戦場となっていたサルデーニャの都市、ドルガリの街中に到着した彼らの目にまず飛び込んできたのは、全身から不可視の衝撃波を放つ『猪』とそれに対抗する剣を構えた金髪の少女。

 少し視線をずらせば、その角から電撃を放つ『山羊』の姿。

 

 それらを確認した瞬間、カンピオーネ御神幸雅の全身に呪力がみなぎり、思考が冴え心が燃え上がり筋肉と骨が張り詰め、自動で臨戦態勢に入った。

 来て早々に冷たい雨を全身に浴びることになった幸雅だったが、体の芯はまるで白熱したかのように熱く滾っている。

 強敵であるまつろわぬ神々との遭遇に、カンピオーネの肉体が勝手にコンディションを最高の状態にしてくれるのだ。

 

 いつしか、幸雅の唇は獰猛に歪んでいた。

 それは、溢れ出る闘争の喜悦を抑えきれないが故に漏れる、王者の微笑であった。




頑張って五話め行きました。よろしくです。


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6 神の化身

「我が忌み名のいかずちを以て、我は恩敵を弑殺せん!」

 

 戦場に到着した幸雅は、まず真っ先に建御雷之男神の聖句を詠い、神速を持って天を舞う『猪』に急接近、右手に握った霊剣で横っ腹を切り裂いてみせた。

 

 ――キュアアァァァァンッッ!?

 

 情けない絶叫を上げる『猪』。されどさすがは神獣。カンピオーネの一撃を受けておきながらすぐに対処を始めた。

 瞬時に全方位に向かって衝撃波を放ち始めたのだ。

 欲張らず、素直に後退し近くの家の屋上に降り立つ。

 そこで一度、アテナを降ろした。

 

「それじゃ、アテナ。君にはあっちの『山羊』を任せてもいいかな?」

「無論のこと。あの程度敵にもならぬ」

 

 戦女神らしい傲慢さを見せつけながら、アテナは『山羊』に向かって右手を振った。

 

「妾の愛しき眷族たちよ。不遜なる獣に鉄槌を下したもれ……」

 

 唱えられるはアテナの聖句。ギリシャの戦女神にして蛇を司る古代の地母神の勅命。

 振られた右手の先に闇が顕現し、その中から無数の《蛇》が出現した。

《蛇》の奔流ともいうべきそれは、ズルズルズルズルズルズルズル……と身の毛もよだつような異音を立てながら、『山羊』へと突き進む。

 

 しかし『山羊』の方も《蛇》に気付き、《蛇》に向けて角から電撃を放った。

 電撃は《蛇》の一部を焼き払うが、《蛇》は物量に任せて『山羊』の土手っ腹に喰らいつく。

『山羊』の上げる苦悶の声にも構わず、《蛇》は『山羊』の血肉を食い千切る。

『山羊』が身を捩ろうと、電撃を放とうと、決して《蛇》は動きを止めず、そして数秒後。

 

 ズズゥゥゥン、と。『山羊』は倒れ伏し、ピクピクと痙攣するばかりになった。

 

「……いくら神獣とはいえ、弱すぎやしないかい?」

「あの獣どもには見た目ほどの力はない。無論、死すべき人の子にとっては最悪の脅威であろうがな。しかし所詮は一つの神格の権能を切り分けた、不完全なもの――少し、強大な神力で揺さぶってやればこの通りよ」

 

 ふむ。と幸雅はひとりごちた。

 図体の割に脆いと。であれば、『猪』の方も先程の斬撃で倒せたのではないか? と思いそちらの方向を向くと、

 

「……ん? あの神力は何だ?」

 

 怒り狂う『猪』を、雷雲より幾筋もの黒い稲妻が襲いかかった。この雷光に打たれる度、空飛ぶ怪獣は絶叫し、打ちのめされ、苦しんでいた。

 そして、散々稲妻を浴びた『猪』は地上に落ちた。

 そのまま街の外に広がる岩場へ激突し、ビクビクと巨体を震わせている。

 

 雷光が放たれた、もっと言えばあの雷光の神力が放たれた場所を探し、下を見ると、

 

「……んなっ」

 

 それを見た幸雅は思わずずっこけそうになった。

 何やら長方形の石板を掲げ、隣に身目麗しい、不思議なほどの魅力を放つ少年を置いているのは――

 

「……護堂?」

 

 思わず呟いてしまった。

 そう。そこに居たのは、幸雅の後輩であり御神兄妹の幼馴染である、自覚のない女誑しこと、草薙護堂だったのだ。

 何故に日本に居るはずの彼がこんなところに居るのか。何故、彼があんな攻撃ができたのか、など、色々言いたいことはあるが、まずはこの場から離れてもらいたい。

 とはいえ、すでに二体の神獣は倒され、脅威は去っている。

 そういや僕、結局最初の一撃以外何もしなかったなあ、とか思う。

 これなら心配はいらないか、と思い権能を解き、顕現させていた霊剣を消し去ると、すっかり忘れていた金髪の少女がすぐ近くまで来て、幸雅の前で膝を着いた。

 呆気に取られる幸雅を置いて、少女は滑らかな口上で礼を述べてきた。

 

「わたしたちとこの街の危機を救っていただいたこと、心から感謝いたします。カンピオーネの君よ」

「え、あ、ああ。いや、気にしなくていいから。それより、僕がカンピオーネだってよく分かったね?」

「お戯れを。その身に猛き雷光を纏われて参上し、彼の神獣に目にも留まらぬ一撃を入れられた御身を他の誰かと見間違うほど、このエリカ・ブランデッリ、落ちぶれてはいないつもりですわ」

「ブランデッリ? ああ、パオロさんの?」

「パオロ・ブランデッリはわたしの叔父です」

 

 依然跪いたままの金髪の少女。

 華麗な覇気に満ちた麗しい顔に、彼女の所属を示す赤と黒(ロッソネロ)のケープを身に纏った、素晴らしいプロポーションの美少女。

 なぜかその金髪が王冠のように見えてしまう。

 そして、幸雅はその赤と黒(ロッソネロ)の意味と、ブランデッリの名が指し示す彼女の所属を知っていた。

 先程まで一緒に居たリリアナ・クラニチャールが所属するミラノの魔術結社《青銅黒十字》と双璧をなす、赤き悪魔の集う《赤銅黒十字》。

 

 ん? そこで幸雅は、忘れていたことを思い出した。

 そういえば、自分たちより先に出発したリリアナはどうなったのだろう?

 と思っていると、噂をすればなんとやら。

 

「――王よ! ご無事ですか!?」

 

 タンッと、青き光に包まれた銀髪の妖精のような少女が、金髪の少女の横に降り立った。

《青銅黒十字》に所属する大騎士、リリアナ・クラニチャールだ。

 飛翔術を使って現場に急行していたが、やはり幸雅の神速より遅く、今頃到着したらしい。

 リリアナはすでに戦闘が終わったことを察して愕然とし、次に隣で跪くエリカを見て驚愕の表情を浮かべた。

 

「え、エリカ!? 何故、あなたがこんなところに居る!?」

「それはこっちのセリフだわ、リリィ。あなたもしかして、王の案内人?」

「ああ、その通りだ、……って、リリィと呼ぶな」

 

 どうやらこの二人は面識があるようだ。

 古い友人同士の気安さを感じる。すごい偶然もあったものだ。ひとりごちていると、腰の辺りに軽い衝撃を感じた。

 見下ろすと、そこには頬を膨らませ、顔全体と態度で不満を表明するアテナの姿が。

 ……思わず、冷や汗が垂れた。

 

「ええーっと、怒ってます?」

「……」

「いや、本当にごめん。別に君を蔑ろにした訳じゃなくて」

「…………」

「ち、違うんだって。君のことも褒めようと思ったんだけど、先にあの娘が」

「……………………」

「…………ごめんなさい。許してください」

「うむ」

 

 平身低頭して腰を屈め、アテナの華奢な肢体を抱き寄せて頭を撫でてやる。

 すると途端に相好を崩し、尊大に頷くアテナ。もっともっとというように、手の平に頭を擦り寄せてくる。

 そんな嫁の様子に、そっと安堵の息を吐く幸雅。

 

 しかしすぐに幸雅の表情は引き締まった。

 先程までの神獣とは異なる、新たな呪力の高まりを察したからだ。

 

 幸雅が睨みつける場所、突如虚空に飛来する、金色の『鳳』。

 翼長5、60メートルはありそうな長大な翼を広げて暗天を滑空する、金色の羽毛を持つ猛禽。

 鷲ではなく、鷹に似た鳥種に見えた。

 何度も勇壮に旋回している巨大な『鳳』の羽風は、次第に渦を巻き、遂には巨大な竜巻となって町中を吹き荒れていた。

 大小さまざまな物体が、風に巻き上げられて空に上っていく。

 さらに運の悪いことに、この『鳳』が舞っているのはドルガリの中心部、このままいけばどれだけの被害を生むことか。

 

「……アテナ。あの『鳳』の正体、分かるかい?」

「あれも、先の『猪』や『山羊』と同じよ。一つの神格の権能を切り分けた存在、その一端。恐らくは、いずれかの軍神の化身だろうな。これは……光、勝利、風、裁き?」

 

 霊視を始めたアテナ。それで何かが視えれば重畳、視えなくても倒せばいい。

 そう決意してもう一度、雷の権能を使おうとした、その時だった。

 

 下に居た護堂と一緒に居た、十五歳ほどの少年が、何を思ってか竜巻に向かって走り出したのだ。

 その速さはまるで風。

 石板を腕に抱いた護堂が呆然とした顔で少年を見送っている。

 どうやら護堂は、あの少年の正体を知らないらしい。

 

「カリアリに顕れた第二の神! 風の化身を持つ軍神よ!」

 

 エリカが焦燥に塗れた声で叫んだ。それを聞いたリリアナも表情を引き締め、エリカと一緒にそれぞれの武器を構える。

 この直後に再び風が渦巻き、第二の竜巻が出現した。ドルガリの街の外で烈風が渦を作る。

 

「あれもまた、彼の軍神の化身の一つ。『強風』の化身だ」

 

 アテナの静かな言葉と同時に『鳳』が旋回をやめ、その羽風によって起きていた竜巻が雲散霧消する。

 竜巻に向けて『鳳』は飛翔し、竜巻の向きとは逆方向に旋回をはじめた。いかなる理屈に基づいてか、竜巻は勢いを弱めていく。

 直後に一瞬にして竜巻は消え失せ、その代わりと言わんばかりに『鳳』のすぐそばに顕現したのは、黄金の剣。

 巨大な黄金色の鋼。『鳳』の翼長に負けぬほどの長大な刀身を持つ、両刃《もろは》の剣だった。

 

「まさか、あの剣も化身なのか……」

「左様。それも、相当に強力な剣だ。神を切り裂く力を有した、な」



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7 事件の収束

 アテナの呟きに、幸雅は驚愕した。

 神を切り裂く剣? そんなもの、いくらなんでも滅茶苦茶にすぎる。

 

「やはり……あの神格は状況に応じて、自らの姿を変化させる。数多の化身を持つ軍神なのですね……!」

「察しがいいな娘よ。その通りだ。あの『剣』も彼の軍神が持つ十の化身の一つよ。正確には『戦士』か」

 

 いつの間にか隣に来ていたエリカの呟きに、アテナが鷹揚に応える。

 

 その間にも『鳳』と『剣』の異様な戦いは続いている。

 ほとんど視認できないほどのスピードで、天を駆け巡る『鳳』。

 そのたびに衝撃波じみた突風が地上を吹き荒れる。さすがに音速に達したりはしないだろうが、すさまじい速さだった。

 だが、それでも『剣』の方が優勢だった。

 超高速の相手に対して、むしろ優雅ともいえる悠揚さで宙を舞い、斬撃を繰り出す。

 その太刀筋は、飛び回る『鳳』を巧みに切り刻んでいった。

 斬撃が決まるたび、黄金の羽毛が舞い、鮮血が中空と地上を紅く染める。

 

 そしてついに、決着の時が来た。

 黄金の一刀が深々と撃ち込まれ、『鳳』の巨体が真っ二つに両断された。

 そして、ふたつに分かれた猛禽の肉体は砂のように細かい粒になり、崩れ去っていく。この粒は残らず『剣』の刀身に吸い込まれていった。

 

 だが、これで終わりではなかった。

 最後に黄金の『剣』は、地上に墜落しアテナの《蛇》に喰らい付かれていた『山羊』を大地ごと貫いた。

 これで『山羊』の巨体も光の粒となり、『剣』の刀身へと吸い込まれていく。

 

 いつの間にか雨がやみ、風も雷も収まっていた。

 太陽の光が再び地上を照らし出した時、黄金の『剣』は唐突に消え去った。

 あとに残されたのは神々の猛威に半ば打ち砕かれながらも持ち堪えたドルガリの街と、ただ唖然とするばかりの赤と青の大騎士に護堂と、どこか楽しそうに空を見上げる幸雅とアテナだけだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「旦那さま。あーん、だ」

「あーん。……ん、意外といけるね」

 

『猪』『山羊』『鳳』『強風』『剣』と、五つもの化身が出現した大乱闘の数十分後。

 カンピオーネ幸雅と女神アテナは、サルデーニャ島の人口のほとんどが集中する都市、カリアリに来ていた。

 そこで二人は緊張感などまるでなく、仲良く腕を組んで、そこらで買ったジェラートを「はいあーん」なんてやったりしていた。

 それなりの人が行きかう町中で、腕を組み合う東洋人の少年と銀髪の美少女はやはり目立つ。常に多くの人の視線を集めていた。

 けれど二人はそんなものはまるで気にせず、むしろ見せつけるように胸を張って歩いていた。

 

「旦那さま。あれは何だ?」

「ん? ああ、あれは……」

 

 町中を二人並んで歩く中で、まるで何も知らない子供のように瞳を輝かせるアテナの姿に、幸雅の頬はずっと緩みっ放しだった。

 見ていてとても微笑ましい。いくら智慧の女神と言えど、見聞きしたこともないものはある。そして、智慧を司る身だからこそ、未知の物を既知にしようとする。

 幸雅は、そんな時の彼女の瞳が好きだった。

 闇色の瞳をキラキラと綺羅星のように輝かせながら、説明を受けてはどんどんそれを咀嚼し、吸収し、心から納得して喜ぶ、純粋で無垢な表情。

 僕は彼女のこの瞳を見るために、彼女と出会ったのだ――などという考えまで浮かんでくる。

 アテナと出会い、愛を誓ってから早三ヶ月。彼女への情熱は収まるどころか、日増しに強くなっていた。

 

 と、そんな幸雅の感慨を邪魔するように、割り込む声があった。

 

「……あの、女神アテナ、王よ」

「ん? ……君、まだいたの?」

 

 遠慮がちに声をかけてくる《青銅黒十字》の案内人にして大騎士、リリアナ・クラニチャールに、幸雅は鬱陶しげに振り返った。

 ちなみに、《赤銅黒十字》のエリカ・ブランデッリと幸雅の友人である草薙護堂は、連れ立ってどこかへ行った。

 行き先は聞かなかったが、何故あの二人が行動を共にしているのか気になるところだ。願わくば、あの金髪の少女が護堂に誑し込まれないように。

 無理だろうなあ、と幸雅はひとりごちた。護堂と長く一緒に居た女子は、なぜかみんな護堂に引き付けられるのだ。ほとんどの例外なく。

 しかし、目の前の銀髪の騎士は《青銅黒十字》からの使命を果たそうと残っていたのだが……今の二人には完全に邪魔者だった。

 

「は、はい。わたしの祖父からは、御身らを確実に目的地までお送りするよう、承っておりますゆえ……」

「へえ。それで?」

 

 答える幸雅の声は淡白だ。内心、楽しいひと時を邪魔されて、かなり苛立っていたためだ。

 アテナの方も露骨に眉をひそめて、リリアナを睨んでいる。

 二人の冷淡な視線に晒されたリリアナは肩を小さくして、

 

「その、御身らの目的地は、ルクレチア様のお屋敷であったはずでは……」

「そうだね。けれど、僕たちにはそこまで差し迫った理由があるわけでもなし、行くのは明日にするつもりだったのだけれど」

「え、で、ですが、まつろわぬ神はすでに顕れて――」

「そこまでだ、裔なる娘よ。妾と旦那さまの至福なるひと時を、それ以上下らぬ理由で邪魔するな」

 

 なおも言葉を続けようとしたリリアナに、アテナがぴしゃりと言い放った。

 実はアテナもかなり憤っていたのだ。

 イタリアに来る以前、アテナは幸雅に、一緒に旅行に行こうと言われた。それをアテナは心の底から嬉しく思った。

 その時にアテナが言った通り、アテナにとって行き先などどこでもいい。ただ、隣に幸雅さえいれば、それでいいのだ。

 しかし、そこはやはり智慧の女神。知を探求せずにはおれず、未知なるものがひしめく海外で幸雅と一緒に歩くのは、もはや至福ですらあった。

 そんな時間を、たかが一人間の子娘ごときに邪魔されて、内心穏やかではなかった。

 

「如何なる理由があろうとも、女神たる妾と王の邪魔をするなど不遜にもほどがある。死すべき定命の者が。弁えよ」

「……はい。申し訳ありませんでした。では、失礼します……」

 

 哨然と肩を落として去っていくリリアナ。その背中を見送って、幸雅は他人事のように憐憫の感情を抱いた。

 しかし同情はしない。御神幸雅は魔王カンピオーネ、すなわち『王』なのだ。

 地上の何人たりとも支配あたわず、地上の何人たりとも抗えない力を持った、神々の聖なる力すら踏み躙る、傲慢なる『王』なのだ。

 力によって無法を為し、神話の神々すら殺戮し、時には女神すら己が伴侶とする。

 そんな存在である僕が、たかだか一人の魔女ごときに乞われて、愛する女性とのひと時を無為にする?

 馬鹿な。そんなことは知ったことではない。まつろわぬ神が出現したのならば戦ってやるが、今はそうではない。

 

 それが、七人目のカンピオーネ・御神幸雅という王の考え方であった。

 幸雅の中では確固たる優先順位があり、それは誰であろうと覆すことはできない。

 己の傍らに立つ女神。彼女に何にも負けない幸福をプレゼントする。そのためならば、いかなる存在とも相対し、いかなる障碍であろうと打ち破ってみせよう。

 僕はカンピオーネ。七十億分の七の確率で誕生した、人類最強の『王』なのだから!

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 その日の夜。幸雅とアテナはカルアリ市内の最高級のホテルの一室に居た。

 観光客が多いこともあり、部屋の中は豪華でありながら瀟洒な雰囲気も併せ持つ、素晴らしいものだった。

 ここを用意したのが《青銅黒十字》だと聞いて、少しばかり罪悪感を覚えないでもなかったが、謝罪する気など毛頭なかった。

 

 そして現在。幸雅はキングサイズのベッドに寝転び、シャワーを浴びる嫁を待っていた。

 実際、女神であるアテナにとって、体の汚れ程度神力で落とせるし、そもそも付かないようにすることも可能だ。

 しかしアテナは、前に一緒に見たドラマの影響か、シャワーを浴びる女を男が待つというシチュエーションにこだわっていた。

 もちろん幸雅がそれを拒む筈もなく、こうして待っているという訳だった。

 

「ふむ。待たせたな、旦那さま」

 

 待つこと三十分程、バスタオル一枚を巻いただけのアテナが戻ってきた。

 銀色の髪は水気を吸っていつも以上に艶やかに輝き、白磁のような肌も薄く上気している。

 また、バスタオルの間や下から覗く鎖骨のラインや真っ白な太ももは、細身ながらもしなやかで、肉付きは薄いがおおよそ非の打ちどころがないほどに、美しい。

 ギリシャ神話でトロイア戦争のきっかけになったのがヘラ、アテナ、アフロディーテの中で誰が一番美しいかという諍いだというが、今の姿であれば万人がアテナだと声高に主張するだろう。

 もっとも、今の姿を自分以外の誰かに見せる気などないが。見たヤツは消し飛ばす。

 

 そんな、幸雅にとっての美の化身が、ベッドを軋ませて寝転がる幸雅の上にすり寄ってくる。

 自然しなだれかかる形になったアテナと、至近で密着することになった幸雅は、どちらからともなく顔を近づけ、

 

「……んっ」

 

 おもむろに、キスをした。

 行きの飛行機でした貪るようなキスではなく、互いの感情を確かめ合うかのような、深いキス。

 舌をくちゅりと絡ませ、寝転がったままどちらからともなく抱き合い、長い口付けを交わす。

 やがて、銀の糸を引きながら、二人は唇を離した。

 

 見つめるアテナの瞳は恍惚に蕩け、背筋がぞくっと震える。

 全身に感じる、薄いながらも柔らかく甘美な感触と、トクトクと鼓動を刻むアテナの心臓、はだけてほとんど隠せていない魅惑的な肢体。

 それらすべてが幸雅の視線を引き付け、誘惑してやまない。

 だから幸雅は、もはや我慢するのをやめた。華奢な肢体を掻き抱き、強引に唇を重ね欲望と情愛のままに目の前の女神を求める。

 アテナも拒まなかった。幸雅の尋常ではない昂りを受け止め、またアテナの方からも舌を絡ませ、幸雅の体を撫でて、求める。

 

 そのまま二人は、互いに互いを激しく求めあい、幾度も情熱を交わらせた。

 互いに精根尽き果てるまで、ずっと、ずっと。

 

 

 

 ここで少し講釈を挟ませてもらうが、ギリシャ神話における戦女神アテナの性質の内の一つに、生涯純潔を守り抜いた処女神としてのものがある。

 月女神アルテミスも同様の神格を有していたが、アテナはまつろわぬ神となって、この性質を失った。

 何故か? 明白である。一人の神殺しの伴侶となったが故だ。

 しかしアテナはそのことを、特に不快には思っていない。それどころか、むしろ喜ばしく思っていた。

 神話を通して、世界で初めて愛した男。その相手が己の天敵である神殺しだったことは予想外だったが、唯一の『旦那さま』である。

 そんな彼に純潔を捧げることができたのだ、かつての自分を全力で褒めてやりたいとすら、アテナは思っていた。




 別にリリアナのことは嫌いじゃないんですが……。今回は、ちょっと辛い役どころとなりました。


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8 魔女の許へ

 小説三巻を読みながら、ひたすらカタカタカタカタ……


 翌日。連休最終日の月曜日の早朝。

 まだ曙光が射しこんできたばかりの中で歩き回るオリエーナは、風光明美な美しい町だった。

 近くにはさわやかに風薫る緑の森が広がり、美しい泉もあるという。ことが終わったらアテナと行ってみようか、と思う幸雅だった。

 人口一万人にも満たない街だけあって、かなりこぢんまりとしていた。

 

 訪ね先のルクレチア・ゾラの家は街はずれの森に程近い辺りにあった。

 幸雅とアテナは一度ここに来たことがあったため、迷わずに来ることができた。

 小さな庭を持つ小さな石造りの家。いかにも年代物らしい雰囲気が、家屋全体から漂っている。しかも近所に他の家はないようで、実に寂しい辺りだった。

 魔女の館。そんな言葉が似つかわしく、また実際にそうであった。

 庭を見れば、雑草があちこちにボウボウと生えている。ガーデニングの趣味はないのか、単に不精なだけなのか。後者である。

 

 幸雅は特に躊躇なく玄関に向かい、呼び鈴らしきドア脇のボタンを押す。

 待つことしばし。ギィィィと重々しい音を立てて、ひとりでにドアが開いた。

 不思議な現象ではあったが、ここは魔女の館。この程度で驚くには及ばない。

 

 アテナと一緒に足を踏み出し、家の中に入る。すると、玄関口には一匹の黒猫が待ち構えていた。

 ニャアァ、と会釈をするようにその場で僅かに頭を下げる。

 毛並みの美しい細身の猫だ。この猫はルクレチア・ゾラの使い魔だと幸雅とアテナは知っていた。

 

「……可愛い」

 

 しかしアテナは、この猫を見て瞳を輝かせた。前に来た時もそうだったが、どうやらアテナはこの猫が気に入っているようだった。

 というより、意外とこの女神様は可愛いものが好きなのだ。猫やハムスターなどの小動物系は特に。

 上目遣いで幸雅に許可を取り、幸雅が苦笑気味に頷くと、途端にアテナは走り出し黒猫を抱き上げてしまった。

 

「ふふふふ、愛い奴よ」

 

 思いっきり頬を緩ませて猫に頬ずりする姿は、見ていて微笑ましい。猫も猫で目を細め、ニャアニャアと気持ちよさそうにしている。

 そんな一人と一匹を連れて、幸雅は家の奥へと歩き出す。

 以前もたどった道のりを歩いた先にあったのは、寝室らしき部屋だった。

 薬品――いや、薬草めいた匂いが充満する、雑然とした室内。そこに据えられたベッドの上には、上体だけ起こした女性がしどけなく横たわっている。

 

「我が家にようこそ、とでも言わせていただきましょう。お久しぶりですね、『太陽王』。女神アテナ」

 

 と、ベッドの女性が見事な日本語で呼びかけてきた。

 だらしなくネグリジェのまま、しかもベッドに横になった姿勢で客を出迎える美女だった。どこか茫洋としたまなざしが不思議な色香を生み出すアクセントになっている。亜麻色の長い髪も美しい。

 そして妙齢だ。歳は二十代の半ばほどに見える。

 彼女こそがサルデーニャの奥地に住まう、『神を知る者』とも呼ばれる権威ある魔女、ルクレチア・ゾラ、その人だ。

 少なくとも四十代には達しているはずだが、その姿は若々しい。

 肉体の若さを保つのは、呪力が至純の域に達した魔女の特権だ。しかしそれでもまつろわぬ神々やカンピオーネの方が埒外である。

 

 だらしないその姿は、『王』と女神を出迎えるには不敬にもほどがある。

 しかし幸雅とアテナは、それを特に咎めなかった。

 分かったからだ。彼女は動かないのではなく、動けないのだと。それだけ衰弱しているということが。

 

「随分な姿だな、ルクレチアよ。久方ぶりの再会だが、以前の覇気が感じられぬ。何があった? いや、何と戦った?」

「これはこれは。御身ほどの大女神に気遣っていただけるとは光栄の至り。しかし心配には及びません。ただ、呪力を使いすぎただけです故」

「確かに。ほとんど空だね。貴女ほどの魔女が呪力を使い切るとなると、相手はまつろわぬ神かい? いや、巻き込まれたか」

「御名察の通りです。三日前にサッサリの柱状列石(メンヒル)に異様な規模の神力が集結するのを霊視しまして。様子を窺いに行ったのです」

 

 この魔女はリリアナ・クラニチャールや万里谷裕理と同じく、霊視・霊感の素質も持ち合わせている。それだけでなく豊富な呪力と知識も。

 彼女ほどの魔女がここまで衰弱する。相手など、まつろわぬ神か神殺しぐらいしかあるまい。

 そしてその相手も、幸雅たちが彼女を訪ねた理由に即するものだった。早速、本題に入らせてもらう。

 

「そこで私が見たものは、二柱の神々が戦っている光景でした。一柱は恐らくメルカルト」

「メルカルト?」

「御存じなくとも無理はありません。歴史的には非常に重要な意味を持つ神格ですが、今日ではさほど有名でもありません故。またの名をバアルともいう、東方(オリエント)にルーツを持つ闘神の名です。正確にはこちらが真の名というべきか」

 

 ルクレチアの言葉を引き継ぐように、今度はアテナが語り出した。

 

「バアルとは『王』という意味を持つ。神の『王』。つまり神王だ。元は嵐と雷の天空の神であったが、その権威が強大になっていくにつれ、多大な権能を持つに至った。我が父ゼウスや北欧のオーディンなどのように」

「そっちは知ってるよ。天空神か。なるほど、あの嵐はメルカルトの仕業という訳だね?」

 

 ギリシア神話の主神ゼウス。オペラなどでよく聞くゲルマンの主神オーディン。

 ゲームやアニメなどでよく使われる名だけに、日本人でも知らない者は少ないだろう。

 

「この種の天空神は、極めて多くの性質を所有する。最高神、王、智慧の神、生命の神、戦神、冥府神などの。バアルもその典型だ。多面性を持つ神に別名ができるのは、ごく自然な流れだ。我が父ゼウスもこの例に漏れん。特に父は最高神でもあるしな」

 

 戦女神アテナは最高神ゼウスから生まれた、実の娘だ。それ故に生まれた頃から天空神にして最高神たるゼウスを見てきたのだろう。

 

「メルカルトはカナン人、フェニキア人といったセム語族が崇めた神王です。そしてメルカルトは、特にテュロスの街を守護するバアルの尊称なのですよ」

「テュロス? 聞いたことがないのだけれど」

 

 こんなことなら、真面目に歴史を勉強しておけばよかったなあ、と思う幸雅に、ルクレチアが微笑む。

 

「テュロスとはフェニキア人が築いた街です。アレクサンドロスをして陥落までに一年かかったほどの難攻不落。そして、古代地中海の覇者であったフェニキア人の母港でもありました。彼らはこのサルデーニャにも達し、島の支配者となったのです」

 

 故に、メルカルトはサルデーニャとも縁の深い神格なのです。

 そうルクレチアは語り、さらに付け加えた。

 

「ギリシアに近いこの辺りでは、メルカルトは棍棒を持った大男の姿で表現されます。――数日前、私はこの姿で顕現したメルカルト神を目撃しました」

「……へー」

 

 これはまた、厄介そうな神様が出てきたものだ、と嘆息。

 しかしそんな思いとは裏腹に、幸雅の口元は闘争の喜悦を抑えきれていなかった。

 それを見たルクレチアはくわばらくわばら、という風に首を振った。

 

「……オホン。じゃあルクレチア。貴女は言ったね、二柱の神々と。なら、もう片方の神様は?」

「ええ。黄金の剣を持つ少年の姿をした神でした。この二柱は激しく戦い、ついに相打ちに終わったのです」

 

 ここでルクレチアは一息ついた。やはり、困憊の極みにあるようだ。

 アテナが近寄って、彼女の背を擦る。

 

「無理をするな、裔なる魔女よ。あなたが倒れることを妾も旦那さまも望まぬ」

「申し訳ありません、女神アテナ。痛み入ります。――メルカルトは棍棒で、もう一柱の神は黄金の剣で最後の一撃を与え合いました。お互いに重傷だったのでしょう、メルカルトは稲妻に姿を変えて飛び去り、黄金の剣は砕け散りました」

「砕けた? じゃあ、実体を失ったのかい?」

「いえ。剣の神の肉体はバラバラに分かれ、それぞれの肉片は新たな形を得ました。猪、鷲、馬や山羊も居たはずですが数え切れませんでした。その分身たちはすぐに海や空へ飛んで行ってしまいましたので。お役に立てず申し訳ありません」

「そんなことは全くないよ。むしろ、それだけの情報を伝えてくれたのは僥倖だった。ここに来れば何か分かるかも、ぐらいの期待だったのに、まさか片割れの名前まで分かるとはね」

 

 偽らざる幸雅の本音だった。

 目の前のルクレチアはひどく衰弱しており、体を起こすことさえ辛そうにしている。

 そんな状態になってまで情報を伝えてくれた魔女に、幸雅は称賛を惜しまない。

 再びベッドに寝転がったルクレチアに感謝の言葉を述べて、幸雅はアテナの方に視線を向けた。

 己の裔たる魔女に慈しむような視線を送っていたアテナもまた、視線を幸雅に向ける。

 

「それで、分かったかな? アテナ。もう片方の神様の正体」

「うむ。ルクレチアのお陰でな。今しがた、はっきりと視えた」

 

 ニヤリとほくそ笑む女神と神殺し。

 幸雅はアテナに、あることを要請した。

 

「それじゃ、アテナ。僕に相手のことを教えておくれ」

 

 アテナと出会い、共に過ごすようになってから三ヶ月ほどが過ぎた。

 その間に他のまつろわぬ神と戦うこともあったのだが、そのたびに幸雅はアテナに知識を教えてもらっていた。少しでも戦いを有利に進めるために。

 そして、己の権能の真価を発揮するために。

 といっても、いちいち詳細を口で説明していけば、複雑怪奇に絡まった神様のエピソードをすべて覚えるのに、日が暮れるどころではなく夜が明ける。

 そこで使われるのが『教授』という魔術だ。己の持つ知識を他者に伝える効果を持ち、覚えていられるのは約一日。

 しかし、それで十分すぎる。

 

 果たしてアテナは、幼い美貌で妖艶に微笑み、

 

「よかろう。妾の智慧、存分に糧にせよ。……これは、女神アテナからの加護だ」

「君の加護ならば、喜んで受けるよ。できれば、ご褒美も欲しいのだけれどね」

 

 するりと座り込む幸雅の膝の上に、向かい合って腰を下ろし、

 

「それは、あなたの功績次第だな」

「……俄然、やる気が出てきたよ」

 

 互いに互いを抱きしめて、額を合わせて、

 

「だろう?」

「ああ。本当に」

 

 キスを、した。

 

 愛し合う二人のキスは濃厚で、熱烈だった。

 唇を重ね、舌を絡め、唾を啜る。

 その合間で、睦言のように神話を囁く。

 

「……はむ、ん……ちゅ……ぁ」

 

 カンピオーネの肉体は、魔術に対して絶対的な耐性を持つ。

 これは、敵対的な術だけでなく、害のない友好的な魔術に対しても同様だった。それこそ、神々の術ですら弾いてしまうほどに。

 しかしこれには、ある抜け道がある。

 魔術を直接体内に吹き込むのであれば、話は別。

つまり経口摂取。

 

 たっぷり十分以上。妙齢のルクレチアが顔を赤くして眼を逸らしてしまうほどに、二人は口付けを続けた。

 その結果、幸雅の頭の中には、たっぷりと神々の知識が備わっていた。

 

 フェニキア人に崇拝された天空神にして神王メルカルトと。

 古代ペルシアの輝ける不敗の軍神の知識が。

 

「……行こうか」

「うむ」




 なんか、めっちゃみんながへりくだってるんだが。


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9 神殺し、参戦

「ふはははははははははははは。愉快愉快、そうは思わぬか、メルカルト王!」

「フン! 貴様の娯楽につきあってやる趣味はわしにはない! だが、確かに闘争こそ我が本懐! 捻り潰してくれるわ!」

「やってみよ、神王! 不敗の軍神たる我に、敗北を与えてみよォ!」

 

 曙光が射す森の中、不敗の軍神と神王メルカルトは矛を交えていた。

 強大な神力と神力がぶつかり合い、空気は震え、地は揺らぐ。

 メルカルトの権能によって、森の中だけに嵐が起き、激しい雷雨が渦巻く。

 

 十五歳の『少年』の姿は、彼の十ある化身の内の一つ。

 ただの人間ではなく、輝く十五歳の少年。

 後世になってゾロアスター教の守護者(ヤザタ)となった彼だが、それによれば十五歳の少年とは《英雄》を示す象徴なのだ。

 

 対するは二本の棍棒を構えた蓬髪と下顎を覆う見事な髭、巌のような筋骨隆々の肉体。

 神王メルカルト。天空神にして嵐や雷すらも司る神の王だ。

 しかし、今のメルカルトは巨大だった。ゆうに15メートル以上はあるだろう。

 そんな彼が、小さき少年とぶつかりあう様は、いっそ滑稽だ。

 

「むうウゥン!」

「ぬおおっ、おのれメルカルト王、さすがの剛力か!」

 

 戦いが加速する中、メルカルトの右の棍棒、ヤグルシが少年を吹き飛ばした。

 しかし少年はむしろ、楽しくて仕方がないというように呵々大笑しながら、猫のように俊敏な動作で着地する。

 即座に体勢を立て直し、戦いに戻ろうとした彼の前に、赤き大騎士が立ちはだかる。

 

「おぬしも来ておったか。邪魔立てすれば、相応の罰を下すことになるが?」

「わたしは騎士。御身を放置しては世のためにならず、それを知っておきながら無為を決めこめるほど、わたしは厚顔ではありませんわ」

「ハハッ! 何と、邪魔どころか我を斬ると申すか、娘よ! うむ、善き哉! その意気、汲んで進ぜようではないか!」

 

 立ちはだかるちっぽけな人間風情に、むしろ痛快そう笑う軍神。

 その後ろでは、縛り付けられる男の姿が描かれた石板を掲げた日本人の少年が、固唾を呑んで見守っている。

 軍神がそころに転がった枝を拾い上げ、金髪の少女に向けた――その瞬間だった。

 

 戦場の真ん中、軍神と少女が向きあう中心に、突如として一条の稲妻が降ってきた。

 

 その稲妻は、やがて一人の少女を腕に抱いた青年の姿へと変わる。

 青年は黒髪黒眼の日本人、その手には稲妻でできた霊剣が握られ、全身を稲妻がくまなく覆っている。

 少女は、銀髪に夜を凝縮したかのような闇色の瞳をした、ローティーンほどの美しい美少女。どこからか現れた《蛇》が彼女を守護するように取り巻いている。

 

 その場の全員の注目を集めて、青年は不敵に言い放った。

 

「さてと。飛び入り参加で悪いけれど、この戦い、僕たちも参加させてもらうよ」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 雷の権能を使って神速で飛び込んできた幸雅は、すぐに戦場を見渡した。

 

 向こう側に見える筋骨隆々の巨人と、対峙する金髪の大騎士、十五歳ほどの輝ける少年に、石板を構えた黒髪の日本人。

 堂々と言い放ちながら、幸雅は日本人の少年を見て、嘆息を抑え込んでいた。

 

(まったく。何でまだこんなところに居るのかな、護堂?)

 

 抱えていたアテナを降ろし、霊剣の切っ先を輝ける少年――いや、ペルシアで生まれた不敗の軍神、『障碍を打ち破る者』を意味する名を持つ軍神に向けた。

 

「改めて名乗る必要はあるかな、神様たち?」

「……ふ、くくっ、くはははは。いいや、その必要はあるまい。よくぞ来た神殺し。歓迎しようではないか!」

「ぬううぅ、忌々しきエピメテウスの後継者め! そこな軍神もろとも踏み潰してくれるわ!」

「意気込むのはいいけれど、ちゃんと僕の隣の娘にも目を向けて欲しいものだね」

 

 大口を開けて大笑する少年と、ギリギリと歯を鳴らすメルカルト。実に対照的な反応だったが、その二柱の視線が一斉にアテナへ向いた。

 

「むう? おぬしは女神か? それも、かなり高位の戦女神と見た。何ゆえ、神殺しなどとともに居る?」

「ふん。浅はかだな、神殺しの神よ。決まっておろう、この神殺し、御神幸雅は妾の伴侶であるからにほかならぬ」

「なんだと!? 名も知らぬ女神よ、貴様、神としての矜持を捨てたか!? よりにもよって愚者の子たる神殺しどもを己が伴侶にするなど、気でも狂ったか!」

「ふはははははははははははははははははは!! まさか、己が天敵たる女神すら侍らすような神殺しが居ったとはな! まったく、これだからおぬしらは! さすがは力によって天に無法を為す豪傑達よ! 愉快愉快!」

 

 怒り狂うメルカルトに体を反らせて爆笑する軍神。またも対照的だった。

 

 三柱の神々が話す間に、幸雅は後ろの人間二人に目を向けていた。

 

「さて、エリカ・ブランデッリ。僕たちが来たからには、ここは君たちがいるべき戦場ではなくなってしまった。即刻、ここから離れてくれ」

「……は、はい。仰せのままに。ですが『太陽王』、何故御身が?」

「ルクレチアに霊視が下ってね。ここに再びまつろわぬ神が出現すると」

「ルクレチアが!? ……そう、ですか。では、この場はお任せいたします。……護堂! カンピオーネの御方が来てくださったわ! わたしたちはすぐ――護堂?」

 

 振り返ったエリカが目に入れるは、呆然とした様子で幸雅を見つめる草薙護堂。

 面倒くさそうに息を吐いた幸雅は、淡々と言い放った。

 

「護堂。言いたいことはいろいろあるだろうけれど、それは後回しにして。今は早くここから離れて。焼き尽くされても知らないよ」

「え、あ……やっぱり、幸雅先輩、なんですよね……?」

「そうだよ。まあ、いろいろあってカンピオーネになったんだけど」

「そう、ですか……」

 

 護堂は、何事か考えるような素振りを見せ、やがて決意したように、

 

「すいません、先輩。俺、逃げません」

「ちょっと何を言ってるの、護堂!」

「俺は、アイツに約束したんです。もう一度、真剣に戦って、今度こそ勝つって」

 

 アイツ、のところで軍神を見ながらの言葉。

 エリカは絶句し、幸雅も真剣な顔になって護堂を見つめ返す。

 まるで、護堂の覚悟を問うように。

 護堂も引かず、しばし睨み合って、

 

「……はあ。分かった。けど、一つだけお節介を焼かせてもらうよ。君には静花ちゃんも居るんだから、ここで死なれたら困る」

「は、はい!」

「いい返事。……さて、アテナ。ありがとう、もういいよ」

 

 視線を戻した幸雅はアテナの肩に手を置き、感謝を告げる。

 そして、これから立ち向かう二柱の神々に向き直った。

 

「ハハハ、では、始めるとしようか?」

「その前に、だ。一つ、確認をしたい」

「む? 何だ?」

「あなたは、ペルシアの不敗の軍神、ウルスラグナだろう?」

 

 幸雅は、唐突に少年に言い放った。

 少年は面食らったようにポカンとしていたが、やがて獰猛な笑みを浮かべた。

 

「……ほう? 我が名を語るか?」

「古代ペルシアの軍神にして、光の神ミスラに仕える守護者。『障碍を打ち破る者』の名を冠せし西アジアにおける光の守護者」

 

 挑発するように笑う軍神――ウルスラグナに構わず、幸雅は高らかに軍神を語る。

 ウルスラグナは何が起こるのかと愉快そうにしていたが、すぐに異変に気づき、眉をひそめた。

 

「太陽が、現れた……?」

「日本においては執金剛。オリエント世界においては西方文明と結びつき、ギリシア神話の大英雄ヘラクレスとも同体を為す英雄」

 

 言葉に応じて、暗き天蓋に遮られていた太陽が徐々に姿を現し、戦場を照らし出す。

 その場にいる護堂以外の全員には、すぐに分かった。

 この太陽が、自然なものではないということが。

 

「ウルスラグナ神。あなたは、世界中の様々な神話に影響を及ぼしている。例えば、先程挙げたヘラクレスや、インドの雷帝、インドラ。彼の名の意味もまた、『障碍を打ち破る者』。あなたとインドラは源を同じくする神だ」

「これは、本質を照らし出す真なる光か……!」

 

 やがて無差別に放たれていた光は収束し、ウルスラグナの頭上だけに降り注ぐ。

 

「あなたは十の化身となって戦場を駆けた。『強風』『雄牛』『白馬』『駱駝』『猪』『少年』『鳳』『雄羊』『山羊』、そして黄金の剣を持つ『戦士』。そうしてあらゆる戦いで勝利し続けた。故にあなたは、勝利を擬人化した神格となった」

「ちぃ……! 我の真似ごとのようなことを……」

 

 天から降り注ぐ光に当てられるごとに、ウルスラグナの全身から、まるで溶けだすように神力が漏れ出ていく。

 

 幸雅が唱えているのは、ただの神々の来歴ではない。

 言霊である。神々の真価を詳らかにし、本質を照らし出す、『真実の太陽』を呼び覚ますための。

 

「やがてゾロアスター教の守護者(ヤザタ)となるあなたには、仕えることになる光明の神ミスラとの、ある共通点があった。それは『猪』」

「やめよ! それ以上、その言霊を唱えるでない!」

「ミスラは、かつての契約の神ミスラ。このミスラは、己の課した契約を破った者に対して、必ず黒い猪の姿に化身して、自ら罪科を打ち砕いた」

「ええい、仕方あるまい! 稲妻よ!」

 

 焦ったようにウルスラグナが左手を掲げ、幸雅に向けて電撃を放った。

 アテナから知識を貰った幸雅には、それが第八の化身『山羊』の霊力によるものだと分かった。

 分かったが、何もしなかった。

 なぜなら、

 

「ふん。旦那さまの言霊に大部分を封じられた、その程度の稲妻で妾の闇を打ち破れるとでも?」

 

 まっすぐに突き進む稲妻の前に、突如として闇の障壁が出現。残滓すら残さず呑みこんだ。

 言わずとも分かってくれた愛しい嫁に微笑みをこぼしながら、幸雅は最後の言霊を綴った。

 

「あなたこそが、洋の東西を問わず闘神として駆け抜け、降臨した稀なる軍神だ! ――言霊によって顕現せし真なる太陽よ! 汝の霊験あらたかなる光を以て真実を照らし出せ!」

 

 もはや言葉もなかった。

 幸雅の放った言霊と共に、生み出された太陽が一際強い光を、まるでレーザーの如く照射し――

 

 常勝不敗の輝ける軍神ウルスラグナを、焼き尽くした。




 なんとか、なんとか『戦士』っぽいものを出せないかと迷った挙句、こうなりました……。

 ウルスラグナについてググっても、あんま出てこないんで、短くなりました。

 ちなみに『太陽王』っていうのは、幸雅の異名的なものです。黒王子(ブラックプリンス)的な。


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10 カンピオーネとは覇者である

「……っ、ぐっ。神、殺し……貴様……!」

 

 劫火に焼き尽くされたかのように見えたウルスラグナだったが、上辺だけを見れば傷らしい傷は負っていない。

 エリカや護堂からすれば、何故あの軍神があそこまで苦しんでいるのか、まったくもって分からなかった。

 

「どうかな? あなたはどうやら光明の神としての性質も有してるようだから、全部を焼くことはできなかったのだけれど」

「……いや。見事だ、神殺し。我の、ウルスラグナの神力はほとんどが焼き尽くされてしもうた。この身で戦う分には問題なかろうが、権能を振るうとなれば、もはやあと一度が限界じゃろう」

「それは重畳」

 

 そんな風に軽やかに言葉を交わす『王』の姿を見て、『赤銅黒十字』の大騎士、エリカ・ブランデッリは呆然としていた。

 

 時代や国を問わず、神々に名と神話を与えるのは常に人間であった。

 人類を脅かし、ときには恵みを与える強大な神々。

 原始の時代、彼らに名前などはなく、人はただ漠然と、抗い得ない災害や、広大な天地、力強い獣たちに、神々の姿を見ていた。

 だが歳月を経るうちに、人々は神々へ名を与え、神話を紡いでいった。

 それぞれの国、民族、地域で生まれたそれぞれの神話は、時に入り混じり、排斥し合い、淘汰され合いながらも、そのたびに神話は更新されていった。

 星の数ほどいる神々は、すべて人間が生み出したものだ。

 これはいわば、卑小な人間が神々の猛威を防ぎ、祝福を得るための儀式なのだ。

 明確に神話という枠組みの中に押し込まれた神々は、決してそこからはみ出すことはない。神話における己の役割に沿って行動する。

しかし、それでも。

 

 もし、与えられた名と物語を越えようとする神がいたとしたら?

 

 もし、無理やり押し付けられた役割から抜けだそうとする神がいたとしたら?

 

 もし、原始の、神話による制約のなかった時代に回帰していく神がいたとしたら? 

 

 そんな神々が、『まつろわぬ神』と呼ばれるようになる。

 

 彼らは行く先々で人間に災いをもたらす。

 太陽の神が到来すれば、灼熱の世界が生まれ、海の神が到来すれば、その地は深海へと消え、冥府の神が到来すれば、そこは死の都となり、裁きの神が到来すれば、そこは巨大な処刑場となる。

 

 ただ通り過ぎるだけで世界に影響を及ぼし、災いをもたらす『まつろわぬ神』に、人類は抗う術を持たない。

 人は、脆弱な生き物で、神は、強大な存在だから。

 故に人は彼らに抗うことはできず、失われていく街を、家を、国を、命を、ただ嘆き、怒り、悲しみ、慟哭することしかできない。

 それがこの世の理であり、運命であり、人の宿命であり、定められた限界と壁だ。

『パンドラの匣』。知っているだろう。神話という『匣』に押し込められていた彼らは、災厄として顕現する。

 

 しかし、卑小な存在でしかない人間の中にも、

 

 それら、抗い得ないすべてに対して、「だからどうした」と吐き捨て、

 

 ふざけた結果しかもたらさない神々に、身勝手に立ち向かい、

 

 打ち勝つ者がいる。

 

 神と人、隔絶された絶対的な壁。しかし無限ではないその壁を、越える者がいる。

 

 彼らは戦士だ。覇者だ。王者だ。

 

「次はあなたか、メルカルト。お待たせしたね」

「ふん、このわしを待たせるとはどういう了見か。まったく、これだから神殺しなどというふざけた輩どもは!」

「何を言うか、メルカルト王。神殺しの輩どもには我ら神の規則どころか、人としての最低限の常識すら通用せん。そのようなことまで忘れるほど耄碌されたか?」

「……うちの嫁さんが冷たい」

 

 義憤、正義、自衛、義俠、地位、名声、富、憎悪、復讐、恐怖、挑戦、狂気、拘泥、愛情、守護、反骨、憤努、執着、嫉妬、傲慢、享楽、娯楽、妄執、因縁、偶然。

 理由は様々。誰かの為である時もあれば、ただ自分の為でもある。

 

 いずれの理由であるかもしれないし、どれでもないかもしれない。

 けれど彼らは、確かにその偉業を成し遂げた、覇者である。

 

 彼らは戦う術を持たない一般人であることもあれば、研鑚を積んだ達人であることもある。

 けれど彼らは、確かにそれらを打ち破った、王者である。

 

 本人にその気はなかったのかもしれないし、ただの成り行きかもしれない。

 けれど彼らは、確かに超越者に打ち勝った、戦士である。

 

 彼らは救世主だ。何もできずにただ嵐が過ぎ去るのを待つだけの我々に代わって、猛威に立ち向かう勇敢なる救世主たち。

 彼らは魔王だ。己が力を以て神々すらをも制し、弑逆した神々の神力すら簒奪しそれを振りかざす凶悪無比な魔王たち。

 

 人は彼らを、『王』と呼ぶ。

 

《赤銅黒十字》の大騎士、エリカ・ブランデッリは、なぜ彼ら神殺しが『王』と呼ばれているのかを知った。

 もともと彼女が行動していたのは、《赤銅黒十字》の前総帥にして叔父、パオロ・ブランデッリに対する反骨心からであった。

 エリカは、およそ天才と呼ばれる部類の魔女だ。弱冠十六歳で大騎士に任じられ、『赤き悪魔(ディアヴォ・ロッソ)』の称号を与えられた才媛。

 同じだけの才能を持つ同期は、ライバル結社の《青銅黒十字》の同じく大騎士にして幼馴染、リリアナ・クラニチャールぐらいのものだ。

 

 敬愛する偉大な我が叔父に反発し、神殺しという偉業を達成するべく意気込んでいたが、今考えてみれば、なんと無思慮で、不用心で、愚かだったことか。

 サン・バステンの地下神殿で神王メルカルトと直接相対して、心の底から畏怖と恐怖が込み上げ、身が竦んだ。

 あの時は自身の誇りと一緒に居た少年のお陰で持ち直せたが、もはや神殺しなどという不遜を働く気にはなれない。

 魔女である自分ですらそうなのだ。普通の人間では直視することすら叶わないだろう。

 

 けれど彼は。彼らは違った。

 

「叩き潰せ、ヤグルシ! アイムール!」

「遅いな、メルカルト! それで、僕を捉えられるとでも!?」

「ぬおおおっ」

 

 例えば、今自分たちの目の前に居る、七人目のカンピオーネ。

 賢人会議のレポートによると、彼はカンピオーネとなる前、呪術どころかそういったものの存在すら知らなかった。

 だというのに、彼は成し遂げた。

 只人の身で、神話の神々を殺害するなどという、今のエリカからすればあり得ないと思えるほどの偉業を。

 このカンピオーネがどのような戦いを繰り広げたかは知らないが、きっと、とても壮絶なものだったのだろう。

 

 今のエリカならば分かる。それが、どれほど異常なことか。

 そもそも普通の人間ならば、戦うという選択肢すら浮かんでくるはずがない。

 そんな、賢い選択ができないわけがない。

 

 カンピオーネと呼ばれる存在は、こうも呼ばれている。

 人類最強の愚者、と。

 愚者エピメテウスとその妻、パンドラの支援を受けた、愛すべき愚か者。『パンドラの匣』に詰め込まれた、一掴みの希望。

 賢人であれば、神に挑むようなことは絶対にしないだろう。

 カンピオーネという存在そのものが愚者なのか、愚者だからこそ神殺しの魔王に至ったのか。

 

 どちらであれ、今のエリカがどれだけの努力を積み重ねようと、彼らの領域に届くはずはないと、今はっきりと分かった。

 それで、十分だった。

 妙に晴れ晴れしい気分で、目の前の軍神に自身の魔剣を向けた。

 細身の長剣の形をした、二本で一対となる魔剣の内の一振り、獅子の魔剣クオレ・ディ・レオーネ。

 己の命運を託してきた、愛剣。今はこの剣が、なぜかとても頼もしく見える。

 

「ウルスラグナ様。そろそろ、お相手つかまつらせていただいても?」

「ふん、娘よ。よい度胸じゃ……じゃがよかろう。我は不敗の軍神、たとえ権能のほとんどが使えなくなったとしても、只人であるお主ひとりに敗れることなどありはせぬよ」

 

 輝ける少年の姿をした軍神は、憤ることもなく、ただ不敵に笑ってエリカを睨みつけた。

 その鋭い眼光に、思わず身が竦んだ。けれど、メルカルトの時のように無条件で屈してしまうほどではない。

 耐性ができてきたということだろうか。

 

「ひとりじゃないぞ、ウルスラグナ」

 

 そんなエリカの隣に、一人の日本人の少年が並んだ。

 魔術師でもなければ武道家でもなく、呪術や剣術どころか戦う術すらないくせにまつろわぬ神の前に立つ、おかしな少年。

 彼は自分より遙かに格上の存在に、挑むような視線を投げかけていた。

 ふと、そんな少年の姿に今目の前で戦っている七人目のカンピオーネの姿が重なって見えた。

 

 もしかしたら……神殺しになれるのは、そういう人間なのかもしれない。

 となれば、これから、八人目のカンピオーネが誕生してしまうかもしれない。

 もし、そうなってしまったのなら、仕方がない。

 彼を、草薙護堂をこの戦場に巻き込んだのは自分だ。

 責任を取って、彼の行く末を見守ろう。

バルカン半島の狼王のような暴君へと変じてしまったのなら、己が騎士として彼に反逆するのもいいだろう。

 そんな、いささか気の早いことを考えるエリカの口元には、いつの間にか常の彼女の、蠱惑的、悪魔的ともいえる微笑が浮かんでいた。

 

 

 

 この約数十分後、この世界に新たなカンピオーネが誕生した。




 どうだったでしょうか、様々な表現を用いて、ひたすらカンピオーネを褒めちぎるだけでしたが。


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11 北風と太陽、嵐と光

 御神幸雅が最初に得た権能『天を照らす光』(Of Shining)。

 この権能は、使用時の様子やその形態から、太陽を操る権能だと認識されており、賢人会議のレポートにもそう記載されている。

 しかし、実態は少し異なる。

 正しくは、『太陽』を操るのではなく、太陽が放つ『光』を操るのだ。

 この二つは、似ているようで全く違う。

 太陽系の中心に物理的に存在する天体ではなく、概念的な太陽の光を操る権能。

 

 故に、まつろわぬ神の神性を焼き尽くすなどという芸当も、可能となるのだ。

 今、幸雅が放った光は、ウルスラグナの体を焼くための光ではなく、古代ペルシアの勝利の軍神の根幹となるもの。つまり、彼にまつわる神話を焼き滅ぼす焔だった。

 本質を照らし出す真実の光。この力を使うためには、相手の神のことを深く知らなければならない。

 己の中の知識を言霊として吐き出し、聖句に変えることでこの光を呼び寄せる。

 

 この真実の光を強かに浴びたウルスラグナは、己の神格を構成する神話の大半を焼かれた。

 それによって、今のウルスラグナは権能のほとんどが使えない状態になっている。

 本人の自己申告の通り、使えてもあと一度だけだろう。

 とりあえずウルスラグナへの対処はこれでいい。

 後のことは、後輩と金髪の騎士が、自分たちで言った通りどうにかするだろう。

 なので、幸雅は何も気にせず、残る一柱、神王メルカルトに視線を向けた。

 

「次はあなたか、メルカルト」

「ふん、このわしを待たせるとは、どういう了見か。まったく、これだから神殺しなどというふざけた輩どもは!」

 

 不敵な幸雅に負けないほどに、傲巌不遜な宣言をするメルカルト。さすがは神の王か。

 しかしその言葉に反応したのは、幸雅ではなく隣に立っていたアテナだった。

 

「何を言うか、メルカルト王。神殺しの輩どもには我ら神の規則どころか、人としての最低限の常識すら通用せん。そのようなことまで忘れるほど耄碌されたか?」

 

 …………………………。

 

「……うちの嫁さんが冷たい」

 

 微妙に怒ったような声音で言うアテナだったが、少し神殺しをこき下ろしつつのフォロー。思わず、涙が流れそうになった。

 一応、自分のことをまあまあ真人間だと思っている幸雅からしたら、ちょっとショックだった。

 ……いや、神殺しの魔王のくせに、天敵であるまつろわぬ神を嫁にした幸雅は、確かに人としても神殺しとしても常識がない部類なのだが。

 幸か不幸か、幸雅はそのことに気付いていなかった。

 

 何とか気を取り直し、幸雅はアテナの細い体を抱き上げ稲妻を全身から放ち始める。神速の領域に入るための準備だ。

 それを見たメルカルトもまた、神力を高め、嵐を呼ぶ。

 神王にして天空神であるメルカルトにとって、嵐とはもはや己そのものと言ってもいい。

 あっという間に、15、6メートルもある巨体の周囲を、激しい暴風と迅雷が渦巻く。

 幸雅が腕に抱いたアテナが、その繊手を幸雅の首に絡めてしっかりと抱きつき――直後、幸雅は走り出した。

 僅か一歩目で二人の姿は目視できなくなった。神速で移動しているため、肉眼で捉えることはできないのだ。

 幸雅はその強みを最大限に利用し、右手に握った布都御霊をメルカルトに突き立てようと接近するが、

 

「侮るな、神殺し! ……嵐よ!」

「チッ」

 

 あと少しで届く、というところでメルカルトが全方位に向けて、無差別に嵐を撒き散らしたのだ。

 いくら神速で移動しているとはいえ、神の権能による嵐を突っ切るのは、リスクが大きすぎる。

 残念に思って舌打ちしつつ、幸雅は素直に神速で後退した。

 そこを狙って放たれた雷撃を、こちらも雷撃で弾き、走り出す直前に立っていた場所の近くに着地する。

 

「……アテナ。しっかり掴まっておいてくれ、よっ!」

 

 一瞬の停滞も許さず、再び走り出す。今度はメルカルトの巨体の周囲を、円を描くようにして神速で。

 神王メルカルトは天空神ではあれど、特に神速関連の権能は持っていない。

 故に、今の幸雅の速度を捉えることはできない。なので、再び全方位に嵐を撒き散らそうとする。

 

『させないよ!』

 

 神速による加速状態にあるため、幸雅の声はくぐもって響く。

 呪力を権能に注ぎこみ一瞬だけ超加速、アテナを腕に抱いたまま、嵐を振り切った。

 そしてそのまま、右側から飛び込んだために目の前にあった隆々の右腕に、布都御霊を今度こそ突き立て、放電。

 

「ぐぅおおおオオオオッ!」

 

 雄叫びのような苦悶の声を上げ、右腕に取り付いた幸雅に向けて左手の雷を纏った棍棒・アイムールを振り下ろすメルカルト。

 幸雅はそれを避けもせず、淡々と放電を続ける。

 あわや直撃する――と思われたその瞬間、

 

「闇よ。女王の名において命ず、今こそ集い楯と成れ」

 

 腕の中に居たアテナがさっと右手を掲げ、二人の前方に長方形の闇色の楯が顕現した。

 その楯は見事メルカルトの棍棒を受け止めた。

 

「ふぅぅん、ぬぅぁああアアア!」

 

 しかし、その勢いまで殺すことはできず、やむなく抱き合ったままの二人は振り落とされる。

 

「……すまぬ、旦那さま。今の妾ではあの楯が限界だ」

 

 珍しく沈んだ様子のアテナ。すでに闇の楯は消え失せている。

 恐らく易々と振り落とされたことを気に病んでいるのだろう。だが幸雅としては、それも仕方ないと思う。

 何せ、今のアテナはその神力の半分近くを失っているのだ。そんな状態の彼女が、同格以上の神格の一撃を受け止めようとすれば、そうなるのは必然である。

 幸雅は特に責めることなく、かつて彼女の神力を奪った者として、ただ微笑んで銀髪を掠めるように撫でた。

 

「いいや、気にする必要はないさ。大丈夫」

 

 耳元で囁きながら、幸雅は先程霊剣を突き立てていたメルカルトの右腕を見る。

 ありったけの電流を流してやったはずだが、微妙に効果が薄いように見える。

 実際、雷の権能は機動力が欲しい時には重宝するが、直接的な攻撃力はそこまで高くないのだ。

 かつて戦った建御雷之男神も、雷撃は神速移動と時たま放つ遠距離攻撃ぐらいにしか使ってこなかった。

 これは本人(本神?)が武神としての桁外れの豪力を持っていて、それをメインにしていたというだけなのだが。

 

 それに加えて、メルカルトは嵐を司るため、副次効果である稲妻にも強い耐性を持つ。

 さすがに《鋼》の性質は持っておらず、鋼の英雄特有の不死性は存在しないので、そこが救いと言えば救いである。

 

「……なら、いつも通り、あれをやってみようか」

 

 少し考え、幸雅はポツリと呟いた。

 その呟きを聞いたアテナは、やはりな、と言いたげな納得の表情を浮かべて、幸雅の腕の中からするりと抜け出す。

 

「あれをやるのであろう? なれば、妾がそこに居ても邪魔にしかならぬ」

「そうだね。ありがとう。……ついでに、僕の代わりに彼らの応援に行ってくれないかな。頼む」

「彼ら、とはあの娘と、旦那さまと同郷の男子のことか? ……任せておれ」

 

 そんな会話をしている内にも、メルカルトの方は気合い十分という風に一対の魔法の棍棒を振り上げ、大音声で怒鳴った。

 

「いつまで休んでいるか、神殺し! はよう来い! このわしに刃向かったこと、後悔させてくれるわ!」

「……せっかちだなあ。まあ、また後でね。傷を負ったりしちゃダメだよ?」

「うむ。心配するな。旦那さまの方こそ、敗れることは許さぬぞ? ――ちゅっ」

 

 掠めるような口付けを残して、アテナはウルスラグナ達がいるもう一つの戦場へ向かっていった。

 去り際に向けられた僅かな微笑を反芻し、自分の唇に指を当てて固まっていた幸雅だったが、すぐに視線をメルカルトに移した。

 最後の激励で気合は十分どころか、もはや振りきれている。

 この状態で負けるなどあり得ない。

 右手に顕現させていた布都御霊を消し、全身を覆っていた雷電も消し去る。

 獰猛に笑った幸雅は、指を当てていた唇でそのまま言霊を唱え出した。

 

「我は光にして太陽。尊き光は、戦場(いくさば)に赴く我が許にて進むべき道を遍く照らし給え。汝らは我が鎧にして剣、至高なる輝きの欠片なり!」

 

 言下に、幸雅の周囲に目も眩むような光が散った。

 ような、ではなく実際に目どころか周囲の木々までもを焼いた光は、しかしすぐに収束、幸雅の体の周りに数十個の球体として並んだ。

 その光の球体は、まるで太陽系の惑星のように規則性を持って緩く回転している。

 それだけ見れば幻想的な光景だが、この光球はその一つ一つが太陽と同等の熱量を宿した、太陽の欠片そのものだ。

 

 御神幸雅の第一の権能『天を照らす太陽』(Of Shining)。

 さすがは太陽を神格化した女神から簒奪した権能と言おうか、その応用範囲は恐ろしく広い。

 先程のように相手の神格を焼き滅ぼす光を放つこともできれば、このように太陽の熱を球体として顕現させることもできるし、何なら、太陽から直接熱線を投射することだってできる。

 その中で幸雅が好んで使う形態が、まさにこれ。光輝く光球として顕現させる方法だ。

 

 幸雅が顕現させた数十の光球を見たメルカルトは瞠目した。

 

「……太陽の欠片だと……神殺し! 貴様、稲妻の武神だけでなく、最高位の太陽神まで弑殺していたのか!?」

「言ってなかっただけさ」

 

 素っ気なく答え、もはや斟酌なく光球を十個ほどメルカルトに向けて撃ち出した。

 尾を引いて迫る莫大な熱量の塊に、メルカルトは目を剥きながら獣のような俊敏さで後ろに飛び退った。しかし、その程度でかわせはしない。

 幸雅がさっと右手を振ると、その動きに合わせて光球もまた軌道を変える。

 

「ぐぬううあっ、厄介な!」

 

 毒づきながら、メルカルトは両手の棍棒で迎え撃とうとする。

 風を纏った右の棍棒・ヤグルシと、雷を纏った左の棍棒・アイムール。それでも迎撃は叶わなかった。

 放たれた光球は棍棒と接触する寸前、やにわに膨張し、一瞬にして破裂したのだ。

 凄まじい光と轟音を響かせ、生じた光の爆発は周辺の森ごと一帯を焼き尽くした。巻き上げられた土砂と木々が数メートル先も見えないほどの煙を生む。

 

「ぬうおおおおオオオオオオオオオオオオオオォッッッッ!!」

 

 同時に響き渡る神王メルカルトの絶叫。幸雅は煙が晴れるのを待たず、さらに十数個の光球を送り込んだ。

 煙幕など元からなかったように突き進む光球は、その全てが見事に着弾――したと思われた。

 メルカルトと光球を遮るようにして出現した巨大な竜巻が、まとめて弾き返した。

 あらぬ方向に飛んで行き、空中で爆発する光球たち。

 

『舐ァめるなああああァァァァ!』

 

 出現した嵐から、メルカルトの声が聞こえた。天空神たる権能で、己の体を嵐そのものに変えたのだろう。

 しかも、それによって手放された二本の棍棒が、単体で宙を走り、幸雅へ迫る。

 ヤグルシは旋風に乗るツバメのように軽やかな軌道で。アイムールは天降る稲妻のごとく、直線的な軌道で飛来する。幸雅の先程のスピードに劣らぬ速度――神速でだ。

 幸雅は咄嗟に右手を振るって浮遊していた光球を前方に放ち、自身は一も二もなく雷の権能を行使、神速で後ろに数十メートルも飛び退った。

 その動きに従って、残った光球も再び幸雅の周囲を取り囲み――直後、前方で巨大な爆発が起こった。

 幸雅の放った太陽の欠片がメルカルトの棍棒と衝突し、その猛威を撒き散らしたのだ。

 

 事前にそれを察知して退避していた幸雅はもちろん、己の肉体を暴風と雷霆に変化させたメルカルトももちろん無事だった。

 やがて爆発も収まり、再び向き合った神王と神殺し。

 自分の中で激しく燃え盛る闘争の歓喜に、最も若きカンピオーネは獰猛に微笑んだ。



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12 終結、そして誕生

 八人目のカンピオーネ・草薙護堂、誕☆生!


『ふん! やはり死んではおらなんだか。よかろう、次は我が下僕の相手をしてもらうぞ、神殺し!』

 

 忌々しそうにメルカルトが叫ぶ。と同時、幸雅はブーンという不快な音を聞いた。

 これは羽音か? いぶかしむ幸雅の前で、森の一部を覆い尽くすほどの黒い霧が出現した。

 正体を探ろうと眼を凝らしたところで、思わずじっくり見たことを後悔する。

 よく見れば、蟠った霧の下にある木々は、まるで食い千切られたかのように葉が一枚残らずなくなっていた。

 幸雅は理解した。これは霧などではない。霧と見紛うほどに大量の、恐らく数億単位の数の――イナゴの群れだ。

 

「……そういえばイナゴはメルカルトの、もっと言えば原形であるバアルの下僕だったっけ」

 

 生理的な嫌悪感と吐き気を誤魔化すように、わざわざ口に出して確認する。

 神王メルカルト=バアルは嵐の神であり海の神であり太陽の神であり、豊穣と干魃をもたらす生命の神でもある。

 故に、作物を食い荒らし、大地を荒廃させるイナゴは、彼の脅威の象徴とも言えるのだ。

 しかしイナゴと言えば、旧約聖書における世界終末の日、審判の日に世界に現れる毒を持ったイナゴ、アバドンが有名だろう。もちろん、このストーリーもメルカルトに関係している。

 旧約聖書に登場する悪魔、蠅の王ベルゼブブ。彼はまたの名をバアル・ゼブブといい、この別名はそのままメルカルト=バアルの別名でもある。

 後発の宗教であるキリスト教がその伝説に取り入れる際に、異教の神を貶めるために悪魔として語り継いだ結果生まれたのが、悪魔ベルゼブブなのだ。

 

 と、それらの知識を幸雅はアテナを通じて持っていたため、少なくとも混乱することはなかった。……吐き気は感じても。

 それはともかく、幸雅は新しい脅威を排除するため、第三の権能(・・・・・)を行使するための言霊を詠い出した。

 

「嗚呼、主は我に仰せられた。一にして全なる主・ヤハウェよ。御身は我に仰せられた。新たなる御子を創り給えと。故に我は、御身を讃えるこの聖句を詠おう……」

 

 そこで一度言霊を切り、目を閉じる。

 体内の呪力を高め、創り出す天使(・・・・・・)の姿をイメージし、

 

「――聖なるかな」

 

 幸雅がそれを言い切ると同時、幸雅の眼前で眩い光が発生した。

 これは天照大御神の権能によるものではない。もっと、別のものだ。

 生じた光はすぐにいくつもの粒となり、それらがさらに集結、人の形を作る。

 

 そうして現れ出でたのは、一人の、翼を広げた天使だった。

 純白の鎧と兜を着け、剣と大盾とで完全武装し、全身から黄金の光を放ち、頭の上には光り輝くリング、背中には鳥のような二対の翼。人間と同じぐらいの背丈。

 頭だけでなく、顔の鼻から上を完全に覆い隠すデザインの兜なため、顔は見えない。

 おおよそ、天使という存在に人間が思い描く姿、その通りの姿だった。

 

「続けて詠い、創り出そう。そなたらは主へ捧げる賛美歌を唄い給え。聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな聖なるかな――!」

 

 まるで早口言葉のように一息で言い終えると同時に、新たに七体の天使が出現し、群れとなって迫るイナゴの群れに突貫していく。

 最初に創り出した一体と合わせ、計八体の天使はイナゴの群れと真正面からぶつかり、手に持った剣で害虫を駆除するようにイナゴを切り裂いた。

 メルカルトの神獣の相手は天使らに任せ、幸雅はメルカルト本体に向き直る。

 

『ぬう、貴様も、なかなか使える従僕を持っているようだな……』

「お陰さまでね。大悪魔の眷族を、天使が駆逐する……いいシチュエーションだとは思わないかい?」

『抜かせ! 貴様ごとき若造、我が棍棒で捻り潰してくれるわ。貴様の後には、まだウルスラグナも残っておるのでな』

「ウルスラグナとも戦うつもりなのかい? 相変わらず、まつろわぬ神というのは、状況判断すら出来ないのか」

 

 幸雅は嘆息した。しかし、どこかで納得もしていた。

 この傲慢さこそが、まつろわぬ神がまつろわぬ神である由縁であり、理由なのだろうと。

 ならば、もはや言葉は必要なかろう。

 後は、互いの権能()権能()を、全力でぶつけ合うだけだ。

 獰猛に笑い、呪力を上空へと向ける。

 今の御神幸雅が放てる最大最強の一撃。それを放つためだ。

 それが臨界まで高まり、一人と一柱が、それぞれの渾身を放とうとした――その時だった。

 

 彼らの立つ位置から数十メートルほど離れたもう一つの戦場で、稲妻と白い焔が真っ向からぶつかり合い、閃光と轟音を撒き散らした。

 

 即座に戦闘行為を中断し、幸雅はその方向に視線を移した。メルカルトも同じようにしている。

 そこに立っていたのは、古代ペルシアの不敗の軍神、ウルスラグナ。彼は、その全身から膨大な神力を垂れ流しながら、呵々大笑していた。

 ウルスラグナが視線を向ける先には、石板を握ったまま倒れ伏す草薙護堂の姿が。

 先程そちらに向かったはずのアテナは、エリカ・ブランデッリを隣に立たせてウルスラグナと向かい合っている。

 

 幸雅とメルカルトは無言で、天使とイナゴの群れを消す。

 一度だけ、嵐から元の大男の姿に戻ったメルカルトと視線を交わし、一人と一柱はそちらに向かって歩き出した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「これは……もしかしなくても、終わったということでいいのかな」

 

 彼らの許へ到達した幸雅は、自然体を崩さずに今にも消えかかっているウルスラグナに話しかけた。

 果たして軍神は、その輝ける美貌を、まるで悪戯小僧のような笑顔で彩ってみせた。

 

「おお、神殺しか。おぬしはメルカルト王と戦っておった筈じゃが」

「それどころじゃないと思ったのでね。それはともかく、結果は?」

「負けじゃよ。我のな」

 

 ひどくさっぱりした口調で彼は言い切った。

 彼の表情は、悔しさと、それを上回る爽快感で満たされていた。

 

「くくく、敗北を求めてこの地まで来てみれば……よもや、メルカルト神でも、神殺しであるお主でもなく、このような小僧に敗北を喫するとはな。いや愉快愉快!」

 

 ウルスラグナの口ぶりから、確かに護堂は彼に勝利したのだと悟った幸雅は、まず倒れ伏した護堂の方に近寄った。

 仰向けに転がる護堂の口元に手を持っていくと、弱々しいながらも確かに呼吸音が聞こえる。

 もっとも、これからすぐに同胞として新生することになるだろうから、要らぬ心配かもしれないが。

 そう思って苦笑していると、いつの間にかギリシャ風の衣装から薄い青の膝丈までのワンピースに着がえたアテナが寄ってきた。

 

 幸雅に知る由もなかったが、そのワンピースはイタリアに発つ前にアテナが花南からもらったものだった。

 基本的にアテナが何を着ていても絶賛する幸雅だが、もし花南がこれを贈ったと知ったら、服だけでなく花南をも崇め奉るだろう。

 

「お疲れ様、アテナ。こっちはどうだった?」

「そちらこそな、旦那さま。とは言っても、妾はそう大したことはしておらぬよ。旦那さまによって神格のほとんどを焼き尽くされていたとはいえ、彼の軍神にとどめを刺したのは、紛れもなくあの男子だ」

「……そっか」

 

 まったく、この後輩は。もう一度、幸雅は眠りこける護堂に視線を向け、苦笑した。

 とそこで、ウルスラグナの体から漏れ出る神力が、護堂の中に注ぎこまれていくのを感じた。そしてそれは、当のウルスラグナも同様なようで。

 

「おお、そうか、くくく。そういう狙いであったとはな、魔女め。抜け目のない奴じゃ!」

「胡乱な奴だ。敗北を喫しながら笑うとは。脳まで腐れてしまったか」

「失敬じゃな、神王。ただ一度の敗北すら受け入れられぬようでは、狭量という他あるまい。何、これが最初で最後の敗北と思えば、より一層奮起するというものよ」

「ふふっ。ウルスラグナ様ってば、やっぱり負けず嫌いでいらっしゃるのね」

 

 突如響く、新たな闖入者の声。

 今のアテナの声よりもっと幼い、年下の娘っぽい声だった。

 幸雅は、この声の主を知っていた。

 というより、カンピオーネであれば、全員が例外なく彼女(・・)と出会っているはずだ。

 

「ほう、おぬしは――おお、そうか。新たな落とし子の誕生にもう気付いたか」

「パンドラ! 全てを与える女め! 貴様が直々に顕れるか!」

 

 面白そうに笑うウルスラグナと、忌々しげに歯軋りをするメルカルト。

 そんな二柱の神に対して、顕現した新たな神――パンドラは微笑んだ。

 推定十四歳ほどの、可憐に整った顔立ちに長いツインテール。そのせいか、とても幼く見える。

 しかし、外見に反する色香をも身に纏っていた。

 それはまさしく『女』そのものだ。その蠱惑的な可愛さと、内に秘めた叡智が垣間見える。

 

「御挨拶ね、メルカルト様。あたしは神と人のいるところには必ず顕現する者。あらゆる災厄と一掴みの希望を与える魔女ですもの。驚くほどのことではないでしょう?」

 

 そう、彼女こそが魔王・カンピオーネの義母にして、最大の支援者(パトロン)だ。

 カンピオーネとは、愚者エピメテウスと魔女パンドラの落とし子。

 故に、彼女は新たなカンピオーネの誕生の際には必ずそこに立ち会い、気まぐれに助言を与えたりする。

 

 だが、彼女はまつろわぬ神ではない。つまり、彼女にこの世界で会うことはできない。

 この気まぐれな義母と会って話をするためには、『生と不死の境界』、アストラル界、幽世に赴くしかない。

 しかも人間は『生と不死の境界』で起こったことを記憶し続けることはできない。けれど、確かに心の、魂の奥底には、彼女の言葉が深く刻みつけられているのだ。

 

 そんな魔女が、すたすたと新たな息子、草薙護堂の許へと近づいた。

 その途中で幸雅とアテナの存在に気付き、にぱっとした笑みを浮かべて見せた。

 

「あら、アテナ様にコーガ! お久しぶりね、二人とも。相変わらず仲睦まじいようで何よりだわ!」

「ふん、戯けたことを言う。ヘパイストスの許で大人しくしていればよかったものを」

「まあまあ、アテナ。……それで、パンドラさん。やっぱり、護堂は神殺しになるのかい?」

 

 珍しく嫌悪感を滲ませたアテナの両肩に手を置いて宥めつつ、幸雅はパンドラに問うた。

 魔女は、その問いににっこりと嬉しそうに微笑み、

 

「ええ、そうよ、その通り! この子、ゴドーは、あたしと旦那の新たな息子となるの!」

 

 そう高らかに告げ、大仰に両手を振り上げた。

 

「さあ皆様! 祝福と憎悪をこの子に与えて頂戴! 八人目の神殺し――最も若き魔王となる運命を得た子に、聖なる言霊を捧げて頂戴!」

「ぬかせ、魔女め! 貴様の新たな落とし子など、すぐに葬ってくれるわ!」

「ふ、よかろう。ならば草薙護堂よ、神殺しの王として新生を遂げるおぬしに祝福を与えようではないか! おぬしは我の――勝利の神の権能を簒奪する最初の神殺しじゃ! 何人よりも強くあれ。再び我と戦う日まで、何人にも負けぬ身であれ!」

 

 ウルスラグナは空を仰ぎ、これよりカンピオーネとして生まれ変わろうとしている少年、草薙護堂にそう言い残して。

 

 無数の光の粒となって、世界に消えていった。

 

「………………」

 

 まつろわぬ神はたとえ殺されたとしても、その存在が滅ぶことはない。

 なぜなら、彼らの本体、魂とでも言うべきものはその肉体にはなく、彼らを構成する〝神話〟にこそ存在するのだから。

 人間たちが彼らに対する信仰心を捨てず、彼らの伝承を忘れ去らない限り、彼らは何度でもまつろわぬ神として新生する。

 

 しかし、再び(ウルスラグナ)が降臨するのは、恐らく数十年から数百年は後のことだろう。草薙護堂が、再びウルスラグナと巡り合う可能性は低い。

 よしんば奇縁に従って巡り合えたとしても、そのウルスラグナが、あのウルスラグナであるかと言われれば……それも、分からない。

 

 けれど、それでも。

 ウルスラグナは、己に敗北を与えた少年に、己の権能と祝福を授けて。

 

 その存在を散らしていった。




 第三の権能については、旧約聖書のとある天使様の権能です。
 記述は少ないですが、バカみたいにチートな能力だったんでぶっこみました。


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13 帰郷

 ウルスラグナが消え去ったのを見送った幸雅は、次に残ったまつろわぬ神、メルカルトの方へ視線を向けた。

 元はウルスラグナであった光の粒を不機嫌そうに睨んでいたメルカルトだったが、己の仇敵から向けられる視線に気づき、今度は幸雅を睨みつけた。

 

「なんだ、神殺し」

「いや。あなたの最初の敵であったウルスラグナは、すでに消えたわけだけれど……どうする? まだ戦うかい?」

 

 もしも、まだメルカルトが戦意を失っておらず、ウルスラグナの代わりに幸雅と、もしくは草薙護堂と戦おうというのであれば、今度こそ互いの命を奪い合う戦いになる筈だ。

 幸雅としては別にそこまでしたいわけでもないし新しい権能が欲しいわけでもないので、ここで矛を収めてくれるのであればそれに越したことはない。

 

 果たしてメルカルトは、豊かな顎鬚を扱きながら、フンと不機嫌そうに鼻を鳴らし、

 

「わしにこれ以上の戦いをするつもりはない。もはやその必要もなかろうよ。お主との間に、再戦を挑むほどの逆縁もなし。であれば、ここで手打ちにするのが妥当であろう」

「そっか。あなたにそれだけの分別があって助かったよ」

 

 そう言って、今度こそ幸雅は肩の力を抜いた。

 そうしてから、未だ眠りこける護堂の方を向く。

 護堂はいつの間にか近寄っていたエリカ・ブランデッリに膝枕をされて、全部吐き出したようなすっきりした顔で寝息を立てていた。

 どうやらよっぽど快適らしい。エリカの膝の上が。

 

 しかし、少年に膝を貸すエリカの美しい顔には、慈愛に満ちた表情が浮かんでいた。

 それを見た幸雅は、思わず嗚呼、と嘆息した。

 

(……この娘も、墜とされてしまったか……)

 

 この場合は、エリカのチョロさを笑えばいいのか、護堂の手の早さを呆れればいいのか。

 とりあえず帰国したら、静香ちゃんへの告げ口一択だな、と密かに心に決める幸雅だった。

 

「そういえばパンドラさん。護堂に受け継がれたウルスラグナの権能ってどんなものなのかな」

「さあ? あたしは必要に応じて簒奪の円環を回すだけ。それ以上のことは知らないわ」

 

 それに、とパンドラは肩を竦めて、

 

「聞くなら、あたし以上の適任がいると思うのだけど?」

「あ」

 

 言われて気付き、慌ててそちらの方向を見ると、案の定、妻であるアテナ様が可愛らしく頬を膨らませて幸雅を上目遣いに睨んでいた。

 女神アテナは以前も言った通り、霊視の権能を持ち、さらに古今東西ありとあらゆる神の智慧をも持っている。

 確かに、聞くならアテナの方が早いだろう。

 けれど今の幸雅にとってはそれはすでに問題ではなく、どうやって機嫌を取ろうかというそれだけに埋め尽くされていた。

 

 半ば頭を真っ白にしつつ、幸雅は必死に言い募ろうとする。

 

「い、いや、違うんだよ、アテナ。別に、何も君を蔑ろにした訳じゃなくて、……ええと、その、そう! 君も戦闘直後だったからさ、疲れてるかなーと思っただけで!」

「ほう……」

「そ、それに、この場にはちょうど、僕たちを神殺しにした張本人も居る訳だしさ、君の手を煩わせるまでもないかな、と……」

「…………それはつまり、伴侶である妾よりも、そこの魔女の方を頼ったということか? 旦那さまは、妾を要らないというのか……?」

 

 どこか寂しそうな、悲しそうな瞳で言われ、幸雅は気が動転どころかどこかに吹っ飛んで行ってしまいそうになった。

 僅かながら、その闇色の瞳が潤んでいるようにも見えて、それがさらに焦りを誘った。

 一も二もなく、アテナの華奢な肢体を抱き寄せ、耳元で囁く。

 

 アテナは有名な戦女神、智慧と闘争の女神としての側面だけでなく、古代の地母神、《蛇》の神格も備えている。

 そのせいか、この女神さまはときどき嫉妬深く、ときどき甘えん坊だ。

 平時の幸雅であれば、そんなアテナの一面も愛おしい限りなのだが、今の幸雅からしてみれば焦りを助長してしまうだけだ。

 さてどうしようか、と思うが、コレはアレだ。

 夜、ベッドの中で言っているようなことを言うしかない。

 パンドラがものすごく楽しそうに、メルカルトが興味深そうに、エリカが面白そうに見守っているが、仕方ない。

 

 アテナの銀髪を優しく撫で、自分の心臓に彼女の耳を近づける。まるで鼓動を聞かせるように。

 意を決して、口を開く。

 

「僕は、君を、愛してる。僕が隣に居て欲しいと思うのは君だけだし、ずっとそばに居たいと思うのも君だけだ。だから、それだけ君のことが大事で、君のことが心配なんだよ。僕は。要らない心配かもしれないけれど。それでも、僕は君だけが大好きなんだ」

「………………」

「だから、とは言わないけれど、許してほしいな」

「うむ。許す」

「あれ?」

 

 なぜかいきなりしっかりとした、いつもと同じようなトーンで言われて、幸雅はキョトンとした。

 おかしいな、もうちょっと拗ねた感じの声だったはずなのに……そう思ってアテナの顔を覗き込むと、

 

「ふふっ。……あなたの慌てふためく姿、なかなかに楽しめたぞ?」

「…………君ねぇ!」

 

 どうやら幸雅は、アテナに弄ばれたらしかった。

 やはり智慧の女神、弁舌では勝負にならない。

 何とも歯がゆい気分で思わずアテナに恨みがましい視線を送っていると、再び視線をうつむかせてしまった。

 

「だがな……旦那さま。あなたにあんな風に言われて、悲しかったのもまことだぞ?」

「……ッ、ごめんよ」

 

 もう一度、持てる限りの愛情を以て抱きしめた。

 流れるような銀髪を、まるで壊れものでも扱うかのように、優しく、優しく梳く。

 アテナは心地よさそうに幸雅の胸に頬を擦り寄せた。

 そのまま続けること十数秒。不意にアテナが、幸雅の胸に顔を埋めたまま呟いた。

 

「やはり許せぬな……これでは、此度の凱旋の褒美はなしか」

「は?」

「妻である妾を悲しませたのだ。当然であろう」

「は?」

「それに、よくよく考えてみれば、旦那さまはそこまで何かをしたわけでもなし」

「いや、したよ?」

 

 メルカルトと戦ったりとか。結構頑張ったのだが。

 

「しかし倒せてはおるまい?」

「いや、でもそれは」

「いいわけなど聞いておらぬ。重要なのは残った結果だ」

「え、けど、それはさすがに」

「本当ならば、帰ってきたら口付けの一つでもして、夜にはそれ相応のものをくれてやろうと思っていたのだが」

「是非それを下さい」

「この分では、それもお預けにせざるをえまいよ」

「なんで!?!?!?」

 

 思わず叫んでしまった。あまりにも予想外だ。

 混乱の極致に立ち、ならせめて目一杯抱きしめようとしたのだが。

 パシッ、と。ほかならぬアテナに、伸ばしかけた手をはたかれてしまった。

 

「……え」

 

 捨てられた子犬のような目になった。むごい。

 

「ならぬ。こらえよ、旦那さま」

 

 ニッコリ、と。それは楽しそうな表情で、アテナは笑った。違う、哂った。

 これは間違いなく楽しんでいる。幸雅の反応で。仕返しの一環だったはずだが、純粋に楽しみあそばせられていた。

 さらに光雅を煽るように、両手を広げて深く幸雅に密着する。けれどここで幸雅が手を伸ばせばまた怒られるだろう。

 理不尽だ。ひどい。

 

 しかし待ち望んだご褒美を、お預けを喰らった幸雅は成す術もなく。

 ただただ生殺し状態のまま、

 

「…………そんなあぁ~~~…………」

 

 と、情けない声を上げるのみだった。

 アテナにひっつかれて嬉しいものの、自分からは何もできないジレンマに泣きそうになっている今の姿に、魔王カンピオーネの威厳など微塵もない。

 

「うふふふふっ、大変ね、コーガ!」

「女の尻に敷かれるとは、情けないのう、神殺し!」

 

 成り行きを見守っていた魔女パンドラと神王メルカルトは、痛快そうに爆笑していた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「では、このままお帰りになられると?」

「うん。もう、この国に来た用件は済んだからね」

 

 その日の夜、幸雅とアテナは護堂たちと別れ、オリエーナのルクレチア宅に来ていた。

 関係者の一人である彼女に今日の戦いの経緯を教えるのと、一つ二つ聞きたいことがあったからだ。

 

 今朝来た時よりは幾分回復しているようだが、それでもベッドから身を起こせる程度だ。

 しかし常人の身で神と神の闘争に巻き込まれて生き延びたのは、称賛に値する偉業である。

 

「わかりました。しかし、全く予想だにもしませんでしたね。貴方がカンピオーネとなってまだ一年。こんなに短いスパンで新たな王が生まれようとは」

「それもそうだね。僕のひとつ前に王になったサルバトーレ・ドニは、確か四年前だっけ? に、最初の権能を簒奪したというし」

「『切り裂く銀の腕』(Silver‐arm the Ripper)ですね。ケルトの神王、ヌアダから簒奪したという」

「神王? メルカルトと同じ?」

「いえ、確かに同じ神の王はありますが、その性質は大きく異なります。メルカルトが『天』を司る神格なのに対し、ヌアダはあくまで純粋な闘神でしかありません」

「へえ」

 

 話が脱線し始めた。そう感じた幸雅は、一つ息を吐き、先程までの話を再開した。

 

「とにかくだ、僕たちはこれから日本に帰るのだけれど、僕の後輩、護堂のことをあなたに任せてもいいかな。といっても、基本的なことを教えるだけでいい。カンピオーネがどういう存在なのかとか、そういうことを教えてくれればいいから」

「承りました、『太陽王』。万事お任せを」

 

 快く承知してくれたルクレチアに感謝を告げ、幸雅は立ち上がった。

 隣で黒猫を胸に抱きあげていたアテナに声をかけ、ルクレチアの屋敷から退出する――寸前、幸雅は一度だけ振り返った。

 

「ああ、そうだルクレチア。――ゴルゴネイオン、という神具を知らないかな?」

 

 ピクッ、と。幸雅と腕を組んだアテナの小さな肩が揺れた。

 同時にアテナの総身から、濃密な《蛇》の神気が漏れ出る。ゴルゴネイオンのことは、彼女にとっての最優先事項なのだ。

 

 そしてアテナにとって大事なものなのであれば、それは幸雅にとっても大事なものだ。

 何より、ゴルゴネイオンは、かつて幸雅のせいでアテナが失った力だ。それを取り戻すために自分が尽力するのは当然だと、幸雅は考えている。

 

 もしもゴルゴネイオンが見つかったのであれば、権威ある魔女であるルクレチア・ゾラならば何か聞き及んでいてもおかしくはないと思ったのだが。

 生憎と、そう都合よくはいかなかった。

 

「申し訳ありません。私は寡聞によって存じませんな」

「そっか。いやいいんだ。知らないならそれで」

 

 少しだけ、幸雅の腕に絡められたアテナの力が増した。

 最後に幸雅は微笑を残し、今度こそ魔女の館から退出するのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「覚えていたのだな、旦那さま」

「ん? ああ、ゴルゴネイオンのことか」

「うむ」

 

 帰りの飛行機の中にて。

 幸雅の膝の上に座ったアテナが、不意に呟いた。

 

「忘れるわけがないさ。あれは、君の半身とも言えるものだ。そうだろう?」

「そうだ。三位一体をなすアテナの一、メドゥサの神力が封じられし魔書。ゴルゴネイオン」

 

 頭を撫でる幸雅の手に自身の手の平をかぶせ、アテナは詠うように呟いた。

 

「ゴルゴネイオン。彼の神具を再びこの手にしたときこそ、妾は、再びアテナとして復活できる。不完全なこの身ではなく、今度こそ完全なアテナとして」

「うん」

「取り戻さずとも、何も変わらない。取り戻しても、何かをするわけでもない」

「うん」

「しかし、妾はあれを取り戻さなければならぬ。どれだけの時をかけようが、どのような障碍が立ちふさがろうが」

「うん」

「今の妾は不完全だ。故にそうしたいし、まつろわぬ身となった今では、完全にならずにはいられない」

「……手伝うよ。僕は。君を」

 

 アテナを抱く腕に力を込め、幸雅は確固たる口調で呟いた。

 

「闇と光は常に表裏一体。闇があるからこそ光は際立ち、光があるからこそ闇は広がりを増す」

「…………」

「だから、僕は君の隣に立つ。光を司る魔王(君の夫)として、闇を統べる女王(愛する妻)の隣で、ずっと一緒に」

 

 幸雅はアテナの耳元で囁いた。

 彼女と初めて出会い、そして戦い、彼女を生涯愛すると決めた時の覚悟。

 それを今一度、口にしてみせた。

 

 己の腕の中にある冷たい温もり。

 今となっては、これを失うことなどもはや考えられない。失うなど、耐えられない。

 だから引き留めよう。だから守り抜こう。だから、戦おう。

 アテナを害そうとする全ての悪意を撥ね除け、アテナを傷つけようとする全ての敵を打ち倒そう。

 

 七人目のカンピオーネ、御神幸雅が強大な権能を振るうのは、ただそのためだけだ。

 ただ、彼女のためだけに。

 

「…………うむ。妾も、あなたの隣に立とう。これからずっと、な」

 

 そしてそれは、ほかならぬアテナも同様だった。

 

 かつての、幸雅と出会っていなかったときのアテナからは考えられもしなかったことだが、今のアテナにとっては、それは至極自然なことだった。

 冷え切っていた心に温もりを与えてくれた、愛しい青年。

 もはやアテナにとって、自分がまつろわぬ神で幸雅が神殺し、お互いが仇敵同士であることなど、どうでもよかった。

 ただ、彼の腕の中で感じる、心地いまどろみ。それをずっと感じていられれば、それでいい。

 自分は闇だ。であれば、光である彼を、せいぜい引き立たせてみせよう。

 

 これから、二人の歩む道に何が起こるのかは分からない。

 しかし、その道は決して穏やかなものではないだろう。

 彼ら彼女らがどれだけ平穏を望んでも、残酷な運命とやらは、彼らを戦いの運命へと誘う。

 

 けれど。それでも。今は、今だけは――

 

 

「愛してるよ、アテナ」

「愛しているぞ、旦那さま」

 

 この暖かなまどろみを甘受していても、文句は言われないだろう?




 一応、ここまでで第一章、小説三巻の内容は終了となります。ありがとうございました。
 けどまだまだ続きますので、どうぞよろしくです。

 第一章終了に伴い、『なろう』のほうで連載させていただいている作品のストックもたまってきたので、『ストライク・ザ・ブラッド』と『聖剣使いの禁呪詠唱』のクロスオーバーを始めたいと思います。

 そのせいで更新遅くなるかもしれませんが、これからも続けていきますので。
 第二章は二巻のストーリーをなぞる――と思います。

 ただその中で、幸雅vs護堂もやりたいと思ってます。

 あ、クロスオーバーのほうですが、おそらく題名は【ワールドブレイク・ザ・ブラッド】となるかと。
 第一話投稿にはもう少しかかるでしょうが、一話一話の尺がかなり長くなることが予想されます。

 それでは皆様、これからもよろしくお願いします!


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第二章 神殺し、相打つ
14 ある日の昼休み


 和数稼ぎの雑談回です。
 幸雅と護堂と花南が、とあるイタリアの馬鹿者について語り合うお話です。
 アテナは出てきません。
 なので、見たくない方は見なくてもどうぞ。


 サルデーニャでの騒動から数週間が経ったとある平日。

 実力テスト当日の昼休み、幸雅はいつも通り花南と、学校の屋上で弁当を広げていた。

 天気は雲一つない快晴。今は四月下旬で、まだ気温は過ごしやすく屋上で日光を浴びていてもそこまで暑いと感じない。

 

 今日の幸雅の弁当、つまりアテナの手作り弁当のメニューは、卵焼き、唐揚げ、ポテトサラダに、でっかいハンバーグが二個も詰められている。

 肉が多めのがっつりとした内容で、育ち盛りの幸雅としてはありがたい。

 最近はアテナの料理のレパートリーも増えてきて、毎日微妙にラインナップが異なっている。

 味付けもほぼ完璧に近い。たまに調味料を間違えていることはあるが、それでも美味しいものは美味しい。

 

 プチトマトを口に運び、ヘタを摘まみつつ、幸雅は春の陽気に侵されたかのような気の抜けた声で呟いた。

 

「平和だねえ」

「だね~」

 

 答える花南の声もフワフワ。こっちはいつも通りだった。

 

 ウルスラグナ、メルカルトとの戦闘、八人目のカンピオーネ・草薙護堂の誕生などの一連の騒動が終わり、もう何日も経っている。

 あの時の激闘が嘘のように、幸雅の周囲はおおむね平和だった。もちろん、喜ばしいことではあるのだが。

 

 もっとも、どうやら護堂の方は再びイタリアで、メルカルトと戦ったり、どっかの剣を振り回してる馬鹿者に決闘を挑まれたりと大変だったらしいが。南無三。

 順調にカンピオーネとしてのステップを踏み出しているようで、何よりである。

 

 と、そんな風にして、自分の二つの意味での後輩のことを思い浮かべていると、不意に幸雅のポケットから軽やかな電子音が響いた。

 ポケットから携帯電話を取り出し、画面を見た幸雅は、思わず頬を緩めた。

 

「お兄ちゃん、アテナさんから~?」

「うん。今はテレビ見てるってさ。退屈すぎて死にそうって。いじけてるみたい」

「あはは~。相変わらずだね~」

 

 御神家のリビングのソファーで、膝を抱えてテレビを退屈そうにテレビを眺める闇女神さまの姿を思い浮かべ、兄妹は笑った。

 

 これはごく最近のことだが、アテナは携帯電話を持つようになった。

 別に幸雅や花南が言い出したわけではないのだが、幸雅がそれを使っている姿を見て興味を抱いたらしく。

 その翌日に、デートついでに買いに行ったという訳だった。

 最初のころは扱いに難儀していた彼女も、少しすれば電話とメール、メッセージを送ることぐらいはマスターしていた。

 その時は、アテナの学習能力の高さに思わず感嘆の言葉を漏らした幸雅だったが、今となっては少しばかり微妙な気持ちである。

 戦女神アテナは、太古の地母神、闇の女王だ。女王としての威厳溢れる彼女を堕落させてしまったのではないか。

 そう思い悩むこともあったが、本人が特に気にしていないので、まあ良しとしよう。

 

 それはさておき、幸雅が弁当を摘まんでいると、屋上に通じるドアがキイイィと音を立てて開いた。

 新たに屋上に上がってきたのは、だれあろう兄妹の幼馴染である、草薙護堂だった。

 手には購買で買ってきたと思しきパンが下げられ、何やらくたびれた顔をしている。

 

「やあ護堂、お久しぶりだね」

「こんにちは、護堂くん~。どうしたの~そんなに疲れたような顔して~」

「あー、どうも。幸雅先輩、花南ちゃん。いやちょっと、購買がすごい混んでて……」

「ん、どうぞ」

「ありがとうございます」

 

 幸雅が自分の隣を勧めると、護堂も礼を言いそこに胡坐をかいて座る。

 昼休みはまだ半分ほど残っている。今から食べるとなっても、まあ間に合うだろう。

 

 しばし他愛もない話をして、そういえば、と思い幸雅は訊ねた。

 

「ねえ護堂。君さ、ドニの馬鹿と戦ったらしいけど、あれ結局どうなったの?」

「ちょ、先輩!? いいんですか、それ言って。花南ちゃんもいますけど!?」

「ん~、かんぴおーねってやつのこと~? 私、知ってるよ~」

「え!?」

「あー、僕が言ったんだ。ちなみに花南はアテナのことも知ってるよ」

「……そ、そうですか」

 

 にこやかに笑う兄妹に頬を引き攣らせた護堂は、仕方なくと言ったように話し始めた。

 

「どうなった、って言われてもって感じですけどね。どっちが勝ったとは言えないです。やられっ放しでした」

「いやいや、あの馬鹿を相手できただけ大したものだよ。彼、馬鹿だけど強いからね。馬鹿だけど」

 

 一つのセリフだけで馬鹿を三回も言う幸雅だった。

 

「あの剣の権能もそうだし、体を鋼にするアレもね。面倒だもの」

 

 イタリアの誇る『剣の王』、サルバトーレ・ドニ。

 彼が持つ権能で特に有名なのが、今幸雅の言った二つだ。

 

 ケルト神話の神、ヌアダより簒奪した権能、『切り裂く銀の腕(シルバーアーム・ザ・リッパー)

 錆びついた剣でも、ペーパーナイフでも玩具の剣でも、右手で持った全てを古今無双の魔剣とする権能。

 彼の魔剣の権能の前では、あらゆる防御や抵抗が無意味だ。全て等しく切り裂かれるのみ。

 

 そして第二の権能、『鋼の加護(マン・オブ・スチール)』。

 北欧神話の竜殺しの英雄にして、戯曲〝ニーベルングの指環〟の主人公、ジークフリートから簒奪した権能と言われている。

 己の肉体に鋼の硬さと重さを付与するという、一見シンプルな権能だが、これが実に厄介なのである。

 重くなってもドニ自身の動きに影響は出ないし、基本的に攻撃が通らず、さらにはこの権能を使っている際のドニはほぼ不死身だ。

 

 ドニは他にも二つほどの権能を持っていると言われているが、好んで使うのは上記の二つであるからして、残りの二つは戦闘向きのものではないとされている。

 

 と、それらの説明を兄から聞いた妹は、目をバッテンにして言った。

 

「ひゃ~、その人すごいね~。ほとんど無敵っていうか~」

「ま、そうだよね。だから気になるのさ。君がアレにどんな風にして戦ったのか」

「って言われても、俺は最終的に、アイツを湖の底に沈めただけですし」

「へえ? なるほど、あの不死性と重さを利用したわけか。よく考え付くものだね」

「はあ、まあ。そこまで詳しいってことは、幸雅先輩もアイツと戦ったことがあるんですか?」

「あるよ」

 

 何でもないことのように、幸雅は肯定した。

 幸雅がドニと決闘をしたのは、もうかれこれ数か月も前のことだ。

 確か第三の権能を手に入れた直後だったはずだ。そのころはまだ、アテナとも出会っていなかった。

 

「あの時は確か、神速でひたすら逃げ回って、不意打ちで光球を爆発させて吹き飛ばしたんだった気がするな」

「吹き飛ばしたの~? そのドニさんを~」

「あの馬鹿にさんを付ける必要はないよ。いや、吹き飛ばしたのはドニじゃないさ」

「え? じゃあ、何を吹き飛ばしたんですか?」

 

 頭の上に疑問符を乱舞させながら、護堂と花南は素知らぬ顔の幸雅に視線を送った。

 幸雅も幸雅で、何食わぬ顔で、

 

「地面を」

「え?」

「いやだから、地面を」

「え?」

「あそこ、バチカン市国の、サン・ピエトロ大聖堂で戦ってね。あんまりしつこいもんだから、地面にめり込ませてから、光球をしこたま叩きこんで放置して、雷の神速でさっさと帰った」

「…………そ、そうですか」

 

 この発言には、護堂だけでなく、花南までもが頬を引き攣らせた。

 

 サン・ピエトロ大聖堂と言えば、れっきとした世界遺産である。そして世界最小の国家バチカン市国を構成する、唯一の国土。

 そんな歴史ある場所で戦い、あまつさえ一部を破壊してみせたという。その行為がどれだけの損失を生んだか、考えたくもない。

 幸雅に微塵も反省した様子は見られない。いや、一応「やり過ぎた」程度には思ってそうだが、それだけだろう。

 

 しかし護堂もまた、ドニと争ってミラノのスフェルツェスコ城を半壊、違った、全壊させている。それから何日も経たないうちにシエナのカンポ広場の地面に、深い断層を刻んだり。

 護堂に、幸雅の所業をとやかく言う資格はないのだった。

 

「もお~、だめでしょ、お兄ちゃん~! あそこで働いてる人たちが困っちゃうじゃない~」

「ごめんごめん。つい、ね」

 

 やはりこの妹さま、大物である。怒るポイントがズレている。ついでに、幸雅の謝罪の誠意の欠けること甚だしい。

 

「ま、ま、それはともかくだ」

 

 しれっと話を流す幸雅。絶対に流してはいけない話題だろう。

 

「ドニの鋼の権能を無効化したやり方は分かったけどさ、もう片方の剣の権能の方は? あの馬鹿なら湖をぶった斬ってでも戻ってきそうだけど」

 

 冗談で言ったわけではない。

 

 幸雅の疑問を受けた護堂は、なぜか頬を赤くして視線を逸らし、何事か言い淀んだ。

 まるで、ひどく恥かしいことのように。

 そんな護堂の反応に首を傾げる幸雅と花南だったが、いささか慌てたように護堂が話を切り替えた。

 

「そ、そういえば、幸雅先輩の彼女さんって、女神なんですよね。あの、銀髪の、アテナさん……でしたっけ」

「うん。そうだよ。というか嫁ね、嫁」

 

 一転して誇らしげな表情をする幸雅。アテナの話題となると、途端に単純になってしまう。

 まったく疚しいことなどなさそうな幸雅の態度に、護堂は困惑したような表情になって、

 

「でも、アテナさんって、神様なんですよね? なのに、俺たち《神殺しの魔王》と一緒に居るって……」

「それの何が問題なんだい?」

 

 すっと、幸雅が目を細めた。

 

 この後輩ならばないと思うが、もし護堂がアテナをまつろわぬ神であるからと滅ぼそうとするのであれば、幸雅もそれ相応の対応をしなければならない。

 最悪、護堂と戦うことになったとしても。

 

 そんな決意を固めかけていた幸雅だったが、護堂は純粋に気になっただけらしかった。

 

「え、いや、別にだからどうってわけじゃなくて。ただ、何でなのかなーって」

「……一目惚れ、さ。彼女を一目見て、心を鷲掴みにされた。彼女のことが忘れられなくなった。一緒に居たいって思ってしまった」

 

 ただ、それだけだよ。

 幸雅はそれだけ言って、もうなにも口にしなかった。

 

 花南(魔王陛下の妹君)は、そんな兄の姿を見て、まるでこの季節のように暖かな笑みを浮かべてみせた。




『ワールドブレイク・ザ・ブラッド』、第一話、序章投稿しました。


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15 二人の子

 イチャイチャです。


『一八三○、私立城楠学院裏口前にて例のブツを引き渡します』

「…………」

 

 その翌日の放課後、幸雅は今しがた届いたメールを読んで、無機質な画面に何とも言えない視線を送っていた。

 ちなみに、発信者は正史編纂委員会のエージェント、甘粕冬馬である。

 

 彼がサブカルチャーに造詣が深いことは知っていたが、あれか。秘密の取引でも演出する気なのか。

 とはいえ、今日の呼び出しは、幸雅から頼んだことなので、一応乗ってあげることにした。

 

『了解。アシは付いてないだろうね?』

『お任せあれ』

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「どうも、お久しぶりです、御神さん」

「うん、久しぶり、甘粕さん」

 

 数十分後、高校の裏口にて幸雅は、くたびれた背広を着て眼鏡をかけた青年、甘粕冬馬と向き合っていた。

 もはや見慣れたやる気なさげな、昼行燈が見て分かる緩慢な動作で、甘粕は幸雅に一通の封筒を差し出してきた。

 

「では御神さん。ご依頼のものです。ちゃんとパスポートまで入ってるんで、お確かめください」

「うん。ありがとう、苦労をかけたね」

「いえいえ、魔王陛下の勅命には逆らえませんので」

 

 封筒を受け取った幸雅は、早速封を開け中身を確認する。

 中に入っていたのは、簡潔に言うと戸籍謄本とパスポート。言っておくと幸雅のものではない。

 では誰のものか? 戸籍とパスポートが必要な幸雅の身近な人物と言えば。

 一人しかおるまい。幸雅の嫁であるアテナだ。

 

 今のこの国に、アテナという人間は存在しない。

 まつろわぬ神を人間として扱うのかとかそういう意見はまあ差し置いて、公的な身分が保障されていないのは、幸雅としては少し不満なのである。

 それでは、幸雅とアテナの関係を証明するものが何もない。アテナはそれでもいいかもしれないが、幸雅にとっては大事なことだ。

 独占欲か、顕示欲か。判然としないが、とにかく嫌だ。

 

 受け取った封筒の中にはその二つと、ついでにA4サイズの紙が一枚。

 それが何なのか、上に書いてある文字を見てすぐに分かった。

 目を見開く幸雅を見て、甘粕が意地悪そうな笑みを浮かべた。

 

「うちの上司、馨さんからのアドバイスでしてね。一応、それも入れておけと」

 

 それは、市役所に行って貰うべき重要な書類、いわゆる結婚届だった。

 

 結婚したことを示すならばもちろんこれも提出しなければならない。そのためには、これを市役所に貰いに行く必要がある。

 そこら辺を甘粕の上司だという沙耶宮馨(さやみやかおる)は承知しているのだろう。的確な判断だと言えた。

 

「どうします? もう戸籍は用意してますから、あとは書き込むだけでいつでも提出できますけど」

「……やめておくよ。僕はまだ17歳だからね。結婚できる年じゃないし」

 

 はぁ、と息を吐きつつ、封筒の中にそれらを押し込む。

 それに、と幸雅は付け足した。

 

「僕だけで行くつもりはないしね。行くときは、アテナと一緒にだ」

 

 さいですか、と甘粕は視線を逸らして頷いた。

 

「ま、私どももそれ以上何か言う気はありませんがね。……あ、そうだ、御神さん。出生届を出すときはご一報くださいね。うちの委員会の方で処理させていただくので」

 

 苦笑いしつつ、甘粕は笑いを含んでそう言った。

 半ば以上冗談で言ったのだが、それは思ったよりも重く、というか真剣に受け止められてしまった。

 

「……子供、子供か。僕とアテナの。そっか、そういうことも考えないといけないのか。いや待て、そもそも女神とカンピオーネの間で子供って出来るのかな?」

「あの、御神さん?」

「ん、でも、もし出来たとしたらその子の国籍はどこになるのかな。日本で生まれたら日本国籍か、アテナはギリシャ出身だから……や、戸籍の方では日本国籍だったね。なら日本出身ってことにしてもいいか」

「もしもーし」

「カンピオーネの才能は継承されないというけれど、女神の神力の方はどうなのか。あ、でもそれは人間とカンピオーネの間だったっけ。まつろわぬ神と神殺しの魔王の間にできた子とか、何ソレ最強かな?」

「………………」

 

 だめだこりゃ。甘粕は肩をすくめた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「ふむ。何人欲しい?」

 

 と、幸雅の膝の上に小さなお尻を乗せるアテナ様はおっしゃられた。

 

「……え?」

 

『太陽王』と呼ばれる、七人目の魔王カンピオーネ様は素っ頓狂な声を上げられた。

 

 アテナの戸籍謄本とパスポートを甘粕から受け取って帰宅し、夕飯と風呂を済ませた夫婦は夫の部屋で寛いでいたのだが。

 ふと幸雅が甘粕とのやりとりを思い出し、アテナに「そういえばさ、神殺しとまつろわぬ神の間に子供って出来るのかな」と尋ねたところ、さっきの返事が。

 もう何か、色々と段階をすっ飛ばした返事が返ってきた。

 

「……え?」

「む、違ったか? 妾とあなたの間で子を生そう、という話ではなかったのか?」

「いや、単に気になっただけなのだけれど……え、できるの?」

「おそらくな」

 

 アテナは頷いた。

 

「我が父、ゼウスも人間の女との間に、多くの子を生してきた。すなわち、神と人の間でも子を作ることは可能という訳だ。さすがに妾も女神が人の子を生したという話は聞いたことはないが……まあどうにかなるだろう」

 

 そんな気がする、とアテナは締め括った。

 アテナですら聞いたことがないということは、本当に前例のないことなのだろう。けれど彼女は出来ると言った。

 智慧の女神であり、霊視の権能を持つ彼女の言葉だ。信じるに値する。

 

「しかしそもそも、旦那さまたち神殺しは人とは言えぬしな」

「……………………」

 

 そこ? 幸雅は思わず慨嘆した。

 胡坐をかく幸雅の膝の上に座り、細いおみ足を伸ばしてプラプラさせながらアテナは続ける。

 

「旦那さまとの子。そのこと自体は、妾も以前から考えていた」

「ぅえ?」

 

 何か変な声が出た。

 

「当然であろう。あなたは処女神であった妾の純潔を奪ったのだから」

「…………そういう風に言われると、なんだか悪いことをしたように思えてくるよ」

 

 悪いことも何も、御神幸雅は魔王、諸悪の根源である。

 今更だった。

 

「とはいえ、そうだな。ようやく旦那さまがその気になったのは喜ばしいことだ。では早速……」

 

 頭を抱える幸雅を置いて、アテナは立ち上がり幸雅に向き直る。

 そして、不思議がる幸雅の唇に己のそれを寄せ、

 

「んっ」

「んむっ……?」

 

 いきなりのことに目を見開く幸雅。硬直して閉じられたままの幸雅の唇に、アテナは小さな舌をなぞるように這わせた。

 するとすぐに硬さが取れて、幸雅もアテナの唇と舌を受け入れる。

 幸雅が右に、アテナが左に顔を傾け、二人の唇は一部の隙もなく、ぴったりと重なった。まるで貝殻が閉じるように。

 

「……ん、えぅっ……ちゅる、くちゅる……はぁっ……」

 

 いつしか幸雅はベッドに背中を預けて体育座りになり、その足の間にアテナが膝を着いていた。

 アテナの右腕はしっかりと幸雅の首筋に回され、左手は愛おしげに幸雅の頬を撫でている。

 彼女の神性を象徴するかのような闇色の瞳は、陶酔に蕩けながらも強い芯のある色を宿したまま、幸雅の瞳を見据えて離さない。

 幸雅の口腔の中で、縦横無尽に舌を動かし己のそれと幸雅のそれを絡め、唾液を啜る。

 

「……あ、アテナ……。……っ」

 

 最初は困惑していた幸雅も、次第にアテナの攻めを受けるだけでなく、自分からも舌を動かしていく。

 口腔内を這いまわる小さな舌を自分のそれで捕まえ、たっぷりと吸う。さらに歯茎を左上から右下まで順に舐め上げる。

 両腕はすでにアテナの細い背中に回されている。線が細い、しかし弱々しさを微塵も感じさせない小さな背中。

 

 幸雅が舌を絡め、歯茎を舐め、唾液を混ぜ合わせるごとに、アテナの体がビクビクと震える。しかしアテナは、自分からも攻め続けていた。

 窓から差し込む月光を反射してキラキラと光る銀色の美しい髪。部屋の電気はいつの間にか消されていた。アテナの権能によるものだろう。

 

 くちゅくちゅと舌を絡め合い、二人の口の間で唾液を交換しているうちに、完全に混ざり合ってしまった。

 幸雅はそれをアテナの口に押し込んだ。アテナも二人の淫靡なカクテルを受け止め、こくこくと喉を鳴らして呑みこんでいく。

 

「……ぁ、う……こく、……こく、こく……ぷはぁ……」

 

 その余りにも淫靡な様子をじっと見つめていた幸雅の口にも、アテナの唾液が流し込まれた。どこか甘やかにすら感じられるそれをたっぷりと味わい、呑みこんだ。

 もう何度も繰り返してきたはずの行為。なのに、一向に慣れる気がしない。いや、慣れたくない。

 ずっと重ねていたため呼吸が苦しくなり、一度幸雅の方から唇を離し――間髪入れず、アテナの鎖骨の辺りにむしゃぶりついた。

 

「ふあぁっ! ……ふふ……愛い子、愛い子」

 

 まるで愛しい我が子にかけるような、優しい優しい、愛情の限りが詰め込まれた、声。

 さすがは古代の地母神。母性たっぷりだ。

 宥めるように頭をポンポンと撫でられてしまった。少々気恥ずかしくなり、すぐに唇を離しアテナと見つめ合う。

 

「アテナ。僕の子供、君は生んでくれるのかい?」

「うむ、あなたが望むのであれば、今からでも。もし孕めなくとも、その時はヘラの奴めに言ってエイレイテュイアを遣わしてでもな」

 

 ヘラ、エイレイテュイア。前者は結婚を、後者は多産、出産を司る神だ。

 彼女が言うからには本気だろう。本気で幸雅との子を生すために、二柱もの女神を呼びつける気だ。

 

 けれど幸雅は、少し考えただけで、首を横に振った。

 

「んー……。今はいいかな。君と出会って、まだ三ヶ月しか経ってないんだ。もう少しぐらい、君と二人きりでいたいから」

「……そうか」

 

 アテナもそれ以上何も言わず、ただそっと幸雅の胸元に身を擦り寄せた。

 少しの間、先程までの激しい口付けが嘘のように和やかな雰囲気に浸っていた神殺しと女神。

 

 ふと、幸雅は口を開いた。

 

「ねえ、アテナ。もし、僕たちに子供ができたとしたら。一体、どんな子になるかな?」

「そうだな……」

 

 幸雅の疑問を受け、アテナは少しだけ考え、幸せそうに頬を緩めて口を開いた。まるで未来の幸せな光景を瞼の裏に思い浮かべるかのように、目を閉じて。

 

「男子であれば、きっと壮健な強い子になるであろう。それこそ、神をも殺すような。きっとあなたに似てやんちゃだろうな。悪戯ばかりして、妾とあなたをそこはかとなく困らせるのが分かる」

「ああ、確かに、そんな感じがするなぁ。って、ちょっと棘がない?」

「気のせいだ」

「そっか」

 

 幸雅も目を閉じ、その光景を思い浮かべてみた。

 ――それは、とても幸せな光景だった。

 

「女の子だったら、とても賢くて利発な子になりそうだよね。君に似て美人で、多くの男を虜にしそうだ。周りへの気配りができて迷惑をかけずに、けれど自分の意見をはっきりと言える強い子」

「ああ、そうなるやもしれぬ」

「けど、どっちにしても、あるいは両方になっても。とても、幸せだよ」

「……うむ」

 

 すでに街を包む光のほとんどが消え、夜の帳が下りて、闇が姿を現そうとしていた。

 それはつまり、闇の女王であるアテナの領域だ。

 昼間の彼女よりもさらに気高く美しく、まさに女王と呼ぶのが相応しい姿。その美貌はさらに冴え渡っている。

 かつて幸雅が初めて目にして、好きになったその姿、そのままだった。

 

 二人は同じような、柔らかく暖かい微笑みを浮かべて、再び唇を重ねた。




 あれ、おかしいな。
 イチャイチャを書いたはずなのに、気が付いたらしんみりになってる……。


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16 《蛇》の来訪

 誰か、鎌池和馬先生の『未踏召喚ブラッドサイン』、最新7巻をご購読の方はいらっしゃいませんでしょうか。

『ただ一つの目的を貫徹する色彩なき童女』めっちゃ可愛くないですか。


「我が求むるはゴルゴネイオン。かつて我が楯に刻み、古を偲ぶよすがとした蛇」

 

 

 夜の帳に、朗々と女王の詩が響き渡る。

 夜とは、彼女が支配する領域。

 自然と詩が、口をついて出る。

 

 

「我が求むるはゴルゴネイオン。まつろわぬ身となった我に、古き権威を授ける蛇」

 

 

 彼女の呼び名は多い。

 ゴルゴンもメドゥサも、かつて所有した名前の一つに過ぎない。

 しかし、その意味するところは全て同じだ。これらはかつて地中海に君臨した、三位一体の聖母を称える尊称なのだ。

 

 

「我が求むるはゴルゴネイオン。古の蛇よ、願わくば、闇と大地と天井の叡智を、再び我に授け給え!」

 

 

 その一句を最後に、幸雅の目の前でアテナは両手を広げ、くるりと一回転してみせた。

 同時に、無限に広がる夜を通じて、世界中に彼女の神力が広がっていく。

 闇色の神秘的な瞳がキラリと黒曜石のように輝き、銀色の髪がサラリと流れるように舞う。

 御神家の屋根の上で舞う彼女の姿は、幸雅の目を堪らなく魅了したが、アテナにとってはこの行為は至極重要なものであった。

 

 かつて失われた女神の叡智が封じられた神具、ゴルゴネイオンを探すために。

 これを探し求める彼女は、今日のように月の隠れた真なる無明の闇、アテナの神力が最も高まる新月の夜と月が隠れた日には、必ずこうしていた。

 

 幸雅が居るのは、ただの付き添いだ。

 世界中にアテナの神力を広げるということは、神力を感じ取れる者に自分の居場所を知らせているも同然なのだ。

 もしそれを感じ取れる者が、いきなりアテナに強襲を仕掛けてきたり、超遠距離から狙撃して来たりすれば、弱体化している今のアテナでは危ないかもしれない。

 だから幸雅はいる。アテナを護るために。

 

 アテナ本人は別にいいと言っているのだが、幸雅がそれを頑として聞かないのだ。

 君を守るのが僕の役目、といっているが、その根本にあるのは、何と言うこともない、ただの恐怖であるとアテナは知っていた。

 アテナを失いたくない。アテナを奪われたくない。そういう恐怖。

 

(……まったく、臆病な旦那さまだ)

 

 そう口の中だけでひとりごちるアテナだったが、その表情はとても優しかった。

 時たま煩わしくも感じるが、本気で身を案じてくれる旦那さま。

 天敵であるはずの自分(女神)に、心の底からの愛情を注いでくれる旦那さま(神殺し)

 であるならば、己もまた、彼に精一杯の愛情を以て報いよう。

 

 なんだかんだ言って、相思相愛なのであった。

 

(ふむ。いかんな、どうしても思考が逸れてしまう)

 

 まったく。旦那さまが居ると、いつもこうなる。

 心の中でそう愚痴りつつ、アテナは今の作業に意識を戻した。

 瞑目し、今しがた世界中に広げた神力の中から、対応する神力を放つ神具を探す。

 ちょうど、海豚(イルカ)が海中で餌を探す際に超音波を発するように。

 

 確かに存在するはずのゴルゴネイオン。これまでは見つけ出すことはできなかったが、さて今回は……、

 

「…………ッ!」

 

 目を閉じて集中していたアテナが、不意に目をカッと見開き、とある方向を凝視した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……アテナ? どうかしたのかい?」

 

 闇夜の中で優雅に舞うアテナに見蕩れていた幸雅だったが、尋常ならざる様子を見せたアテナに、さすがに我を取り戻した。

 アテナが睨むようにして凝視している方向に、幸雅も視線を向ける。

 その先には、少しばかり高台になった台地と、長い石階段に――

 

「七雄神社……?」

 

 呟き、もう一度アテナに視線を向け、問いかける。

 

「アテナ。あそこに、七雄神社にあるのかい? ゴルゴネイオンが」

「いや、違う。別の神具だ。彼の地は異教の神の社だ。であれば、何らかの神具が祀られていたとしても不思議ではなかろう」

「……でも、これまでは、アテナも分かってなかったんだよね?」

「別の場所へと移していたのではないか?」

 

 そう、淡々と答えるアテナだったが、幸雅には分かる。

 聞き慣れたはずの毅然とした声が、今ばかりは彼女の動揺を示すように揺れていた。

 不審に、というより心配になり、アテナの表情を覗き込むと、見慣れた戦女神としての凛とした顔つきがあった。

 

 しかし、ことゴルゴネイオンに関して、彼女が何か偽りを言うとも思えない。

 それこそ、よほどの事情がない限り。

 

「戻るぞ、旦那さま」

「あ……うん」

 

 屋根から降りていくアテナの後を追いながら、幸雅はもう一度七雄神社の方へ視線を向けた。

 もし、もしもゴルゴネイオンが七雄神社にあったとしたら。

 

(僕は。どうすればいいんだろうね?)

 

 

 

 

§

 

 

 

 

(妾は。どうすればよいのだろうな?)

 

 己の隣でヒュプノスの許へと旅立った幸雅を眺めながら、アテナは小さく嘆息した。

 常であれば、無垢な旦那さまの笑顔に頬を緩めつつ、可愛らしい悪戯をするところなのだが、今はそういう気分にはなれなかった。

 

 アテナの三位一体をなす神具、ゴルゴネイオンの在処は分かった。

 意外と言えば意外、御神家に程近い七雄神社だ。

 しかしアテナには、ゴルゴネイオンを取り戻しに行くことができずにいた。

 

 あの場所は、この街に住まうもう一人の神殺し、草薙護堂の庇護下にある少女が居る。

 智慧の女神である彼女は、すでにそのことを承知していた。

 そして予感があった。

 もし、自分がゴルゴネイオンを取り戻すために彼の場所に赴けば、必ずあの神殺しと矛を交えることになる、という。

 アテナに備わった霊感が、アテナ自身にそう語りかけるのだ。

 

 ゴルゴネイオンを取り戻し、強大な戦女神にして古代の地母神たる神格を取り戻した、完全なるアテナであれば恐るるに足らない。

 だが、今のアテナはそうではない。

 むしろ、神としては脆弱な部類にある。

 

 だから危険である、と言うのが、理由の一つ。

 もう一つは、愛する旦那さまの存在だ。

 

 危険かもしれないという、ただそれだけで不安になるような男だ。神殺しとアテナが戦うことになるとなれば、どうなることやら。

 自分を愛してくれる旦那さまに、出来るだけ心配はかけたくない。

 そんな、まつろわぬ女神にそぐわぬ感傷と、憂慮。

 

 ――もし、もしもアテナと草薙護堂がぶつかり合い、アテナが死ぬ、それでなくとも傷つけられるようなことがあれば。

 幸雅は、どうするだろう?

 

 自分のせいで、彼に道を踏み外してほしくはない。

 アテナの内にあるのは、そんな切実な願いだ。

 

 であれば、そもそも取り戻しに行かなくてもいいのではないか、とも思われるだろう。

 しかしアテナには、その選択肢は取れなかった。

 いや。まつろわぬアテナには、その選択肢は最初から存在しなかった。

 

 まつろわぬ身としての義務感と、幸雅の妻としての罪悪感。その双方に板挟みになったアテナは、ついに。

 

「……許せ、旦那さま」

 

 泣きそうなほど悲壮感に包まれた声で囁き、幸雅の唇に自分のそれを重ねた。

 重ね合わせた唇から、己の神気を流し込む。

 死を司る、闇の女王としての神気を。

 

 もちろん、アテナに幸雅を殺す気などない。

 ただ眠らせるだけだ。死とは眠りの延長線上である。であれば、死を司るアテナに、眠りを深くし目覚めることが出来ないようにすることなど造作もない。

 

 流し込まれた神気に、カンピオーネの肉体がビクンと震えるが、それも一瞬。

 すぐに幸雅の全身は弛緩し、まるで死んだような深い眠りに誘われた。

 死体のように冷たい幸雅の体を、アテナは縋るように抱きしめた。

 

 一度重ねた唇を、もう一度深く重ねる。

 まるで許しを乞うように。まるで刻みつけようとするように。

 

 そして、どれだけの時が経っただろう。

 

「…………行くか」

 

 幸雅の眠るベッドから立ち上がったアテナは、一度だけ幸雅の頬を撫でる。

 

「必ず、帰ってこよう。あなたの居る、この家に」

 

 届くはずのない言葉を囁いて。

 

 アテナはその身を梟の姿へ変え、開け放たれたドアから飛び立った。




 おっかしいなー。
 なんかシリアスになってしまう……。


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17 アテナの戦い

「……ふむ。ここだな」

 

 フクロウに化身して夜の闇を飛んでいたアテナは、七雄神社の境内に辿り着いたところで、身体を元の少女の姿に戻して着地した。

 町全体を包みこむ夜の闇が、彼女に無限の力を与える。

 降り立ったばかりのアテナは、視線を巡らせ、拝殿に向けたところで動きを止めた。

 

 時刻は二時を回った頃。夜中も真夜中。

 しかし、だというのに、アテナの見据える先には、四人もの少年少女が立っていた。

 日本人の実直そうな顔つきの少年。鮮やかな金髪に不思議な威厳を持つ赤の少女。妖精のような雰囲気の硬質の美貌の青の少女。巫女装束を纏った亜麻色の髪の日本人の巫女。

 

 すなわち、八人目のカンピオーネ・草薙護堂と、イタリアより来訪した騎士、エリカ・ブランデッリとリリアナ・クラニチャール。武蔵野を守護する媛巫女の一人、万里谷裕理だ。

 

 はあ、と僅かにアテナは嘆息した。

 己の霊感でこの展開は見えていたが、さすがに気が滅入る。

 

「アテナさん、でいいんですよね?」

「うむ。いかにも。妾こそまつろわぬアテナである」

 

 先に口火を切ったのは、護堂の方であった。

 元から硬い表情であったのが、アテナの返事を受けてさらに硬くなる。

 

「一応、目的を聞いてもいいですか」

「簡単なことだ。ここにある筈の神具、妾の半身たるゴルゴネイオン。それを、元の持ち主として返却を望む」

「……っ、嫌だと、言ったら?」

「無論、力ずくで」

 

 苦渋の表情を浮かべる護堂。しかしアテナは容赦しなかった。

 

「若き神殺しよ。あなたが妾の邪魔をするのであれば、妾はあなたとも矛を交えねばならぬ。妾はそれを望まぬのだが」

「……万里谷が、霊視しました。あなたがあの神具を取り戻せば、この街にかつてない災厄が顕現する、っていう」

「ふむ……」

 

 その言葉で、アテナは護堂の背後に居た巫女、万里谷裕理に視線を向けた。今日そうなる女神の視線に射竦められた裕理は、ビクリと肩を震わせる。

 

 なるほど確かに。どうやらあの巫女は、自分と、そして『裔』たる青の騎士、リリアナ・クラニチャールと同じく霊視・霊感の力を持っているらしい。

 それも、リリアナのものよりも数段強力な。それに彼女の血が関係しているのかは定かではないが。

 

 その青の大騎士と赤の大騎士は、『王』の顔を立てているのか、影のごとく彼の両脇に控えている。まるで、同じ主を守護する二人の騎士のように。

 

「あなたは、その巫女の言を信じるか。信じるのであれば、どうするつもりだ?」

「俺は、万里谷の言うことを信じます。そして、あなたが手を引いてくれないんだったら、俺も覚悟を決めますよ」

 

 そう言って、護堂はアテナを強く見つめた。

 今の護堂の体内では、強敵と戦うためのあらゆる力が漲っているだろう。

 

 アテナもアテナで、自分の中の戦女神としての血が騒ぐのを感じていた。

 手の中に、自身の身長よりも大きな黒い鎌を顕現する。彼女が好んで使う武具だ。

 これでアテナの戦闘準備は終了。

 

「なれば、もはや言葉は要らぬ。あなたにも貫くべきものがあるのなら、妾を見事止めてみせよ!」

「……くっ!」

 

 悪態を吐きながらも、護堂(カンピオーネ)は一瞬で戦闘態勢に入ってみせた。全身に呪力を充満させ、腰を低く落として獣のような構えをする。

 

 両手に大鎌を構えて走り出したアテナを実際に迎え撃ったのは、ずっと控えていたエリカとリリアナだった。

 それぞれ細身の剣、クオレ・ディ・レオーネと、イル・マエストロを抜き放ち、アテナの振り上げる大鎌と打ち合わせた。

 

「くっ――!」

「ぐっ――!」

 

 真逆の美貌を持つ二人が、同時にその可憐な容貌を歪めた。

 彼女たち二人でかかっても、女神の一撃は重かったのだ。

いくらゴルゴネイオンがなく弱体化しているとはいえ、アテナは女神である。その一撃を神殺しでもない人間が受けようとすれば、そうなる。

 

 しかもアテナは、決して力任せの戦いをしたりはしない。

 ギリギリとはいえ、攻撃を受け止められたと見るや、すぐさま手の中で大鎌を旋回。右からエリカ、リリアナの順で並ぶ二人を一気に薙ぎ払いにかかる。

 その恐るべき攻撃を、若いながらも卓越した才能を持つ二人は一歩飛ぶ退ってかわす。

 

「っ、エリカ!」

「分かってるわ!」

 

 軽い分アテナの鎌の風圧でさらに飛ばされたリリアナは、何とか耐え切ったエリカの名を叫ぶ。

 エリカもリリアナの要請の意味を理解し、今度は一人でアテナに斬りかかった。

 顔面、側等部、左肩、腿、脇腹、心臓、頸動脈、右手首。

 それらの部位を狙って続けざまに切り込むが、女神は煩わしげに体を揺らすのみであった。

 ただそれだけで、疾風迅雷の斬撃をかわしてしまう。

 

 リリアナはエリカが稼いだ時間を無駄にはしなかった。

 すぐさま崩れた態勢を立て直し、右手に握る魔剣イル・マエストロの形状を、反りの強いサーベルから、弓へと変える。

 同時に魔術で矢筒を喚び出し、ほとんどの遅延なしに矢をつがえ、放つ。

 

「ふむ。人間にしてはなかなかよな」

 

 風を切って迫る矢を、アテナは何と素手で弾いてしまった。

 虫でも払うように、無造作に腕を振るって弾き落としてしまう。しかも、その美しい繊手には傷一つない。

 

 神の肉体は地上の武器で傷つくことはない。刀槍はおろか、銃弾、爆薬、化学兵器などでさえ、神々を傷つけるには至らない。

 

「やはり一筋縄ではいかないな、エリカ、どうする!?」

「心配ないわ! わたしたちの王様に任せなさい!」

 

 愚痴めいた言葉を叫びつつ、彼女たちは早々に後方へ下がる。

 

 替わりに飛び出してきたのは、誰あろうカンピオーネ・草薙護堂であった。

 

「来たか、草薙護堂!」

 

 アテナ斟酌なく、人を超えた剛力で大鎌を振り下ろす。

 

 しかし護堂は、なんとその一撃を、掲げた両手で掴み取ってしまった。

 

「むっ!?」

「だああああああああっ!」

 

 我武者羅に叫び、掴んだ鎌の柄を振り回そうとする護堂。

 そうはさせじと、アテナは慌てて鎌を引き戻した。

 後ろに跳んで護堂と距離を取るアテナ。

 瞳に己の神力を宿らせ、今しがた敵が見せた剛力の秘密を探る。

 

 角を持つ獣。大地と深き縁を持つ者。荒ぶる猛威。天下無双の豪力。ヘラクレス。天を支える怪力。

 

 それらのイメージがアテナの脳裏に浮かぶ。

 これはウルスラグナ第二の化身、『雄牛』の力によるものだ。

 自分を遙かに超す膂力を持つ敵にのみ使用できる力。

 

 真正面からぶつかっては、今のアテナでは分が悪い。まずはゴルゴネイオンを探さなければ。

 気を抜かないように留意しつつ、周囲を静かに探る。

 

 ……見つけた。ゴルゴネイオン。蛇の叡智。古き魔導書。あの媛巫女、万里谷裕理の腕の中。その風呂敷の中に、ゴルゴネイオンはある。

 アテナが気付いたことに護堂も気付いたのか、立つ位置を変え裕理を背後に置くようにする。

 

 女神と神殺しが睨みあう中、不意に、朗々と二人の少女の声が響いた。

 

「エリ、エリ、レマ・サバクタニ! 主よ、何故、我を見捨て給う!」

「ダヴィデの哀悼を聞け、民よ! ああ勇士らは倒れたる哉、戦いの器は砕けたる哉!」

 

 孤独と絶望、困窮と呪詛。

 亡霊の悲嘆、武人の詠嘆。

『ゴルゴタの言霊』と『ダヴィデの言霊』。

 

 彼女たちはその強壮無比にして凄絶なる言霊を、それぞれの手に持つ武器に宿らせ、アテナに向けた。

 

「鋼の獅子よ、汝に嘆きと怒りの言霊を託す。神の子と聖霊の慟哭を宿し、聖なる末後の血を浴びて、ロンギヌスの聖槍を顕しめよ――!」

「ヨナタンの弓よ、鷲よりも速く獅子よりも強き勇士の器よ。疾く駆け汝の敵を撃て!」

 

 エリカの右手に握られたクオレ・ディ・レオーネに絶望の言霊が宿り、リリアナの手にある長弓は青く輝き、同じ青さで輝く四本の矢が左手に現れる。

 

 エリカがそれを構えて飛び出し、真っ直ぐ突き出す。

 アテナはそれの危険性を一目で見抜き、護堂への対処を一度棚上げして大鎌で弾き上げた。

 直後、リリアナがアテナへ四筋の彗星を放つ。

 

(確かに妾を打ち倒すだけの力は込められている。しかし、そのうち三本は幻影か)

 

 放つと同時に幻影の魔術を使って、増やしたように見せたのだろう。智慧の女神であるアテナには、それが分かった。

 なので、本命の一本以外は無視。本命である一本を上から下に叩き潰すようにして撃ち落とす。

 

 しかし――

 

「うおおおおおっ!」

「くはっ……!?」

 

 隙を突いて襲い掛かってきた護堂の拳を受け、大きく吹き飛ばされてしまった。

 服部の鈍痛を堪え、顔を上げたアテナは、仇敵が絶望の言霊を宿した一本の長槍を、まるで槍投げのような格好で構えているのを見た。

 ブオン、と勢いよく神殺しの手から、槍が投げだされる。と同時に、さらに四本の青い彗星。

 

 まずい。アテナは瞬間的に悟った。

 それは、決して自分の身が危ないという意味ではなく、自分の体が傷つけられてしまう、という意味であった。

 同じようで、それは違う。

 もし、草薙護堂の陣営に属する者がアテナを傷つけたとすれば、彼女の愛する男は、どうするだろう。

 

 脳裏に浮かんだ光景。すなわち、友であった幸雅と護堂が殺し合う光景。それを防ぐため、アテナは地面に手を触れて、権能を使って《蛇》を喚び出そうとした。が。

 

 その一瞬前、天より降り落ちた眩いほどの閃光が、長槍を宿っていた絶望の言霊ごと消し飛ばした。

 

「……えっ!?」

「……なっ!?」

 

 驚愕の声を上げる護堂とエリカ。

 

 次にその場に現れたのは、青白い稲妻。

 アテナと護堂たちの中間地点に降り立った、稲妻を纏った人影は、右手に持った剣で『ヨナタンの矢』を斬って落とす。

 放った本人であるリリアナが瞠目した。

 

 一様に警戒を引き上げる。しかし、その中でただ一人、アテナだけは違った。

 彼女だけは、もはや戦いは終わったとばかりに脱力し、バツが悪そうに視線を合わせないようにする。

 

 女神と神殺しの戦場に乱入してきた彼――七人目のカンピオーネ・『太陽王』御神幸雅は、そんなアテナの様子を見て深く嘆息し、怒りを孕んだ視線を向けた。




 ちょっと護堂が活躍しすぎですね。大人しくしてもらいたいところです。


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18 兄妹と夫婦

 すいません、だいぶ間が空きました。
 18話です。よろしくです。

 幸雅バーサス護道はもうしばらくお待ちください。


 ――必ず、帰ってこよう。あなたの居る、この家に――

 

 幸雅はまどろみの中で、そんな声を聞いた気がした。

 何処までも物悲しい囁きを、聞いた気がした。

 

 聞き間違いなどではない。ほかならぬ自分が、彼女の声を聞き間違えるはずがない。

 そう思って跳び起きようとしたが、どうやっても目覚めることはできなかった。

 意識は完全に覚醒して燃え上がっているのに、体は死んだように冷え切って、これっぽっちも動こうとしない。

 

 幸雅は直感した。アテナの仕業だ。

 冥府の女王としての彼女が持つ死の権能、それを弱めたものだと、カンピオーネの直感は幸雅に教えてくれた。

 それがなくとも、幸雅に分からないはずがなかった。

 

 全身を冷たく苛む闇に、これほどの安心感を覚えるなど、それ以外にあり得ない。

 

 アテナの権能によるものだと看破した時点で、幸雅は気合いや根性と言ったもので無理矢理に起き上がろうとするのを止めた。

 そしてすぐに、自分の中に眠る呪力に意識を傾ける。

 これまでの一年近くに及ぶ戦歴で、幸雅は学んでいた。

 神の神力や怪しげな魔術でかけられた呪縛を打ち破るには、より大きな呪力で撥ね退ければいいと。

 

 ――我は太陽。我は光。全ての闇は、この世を遍く照らす我が威にひれ伏すべし!

 

 心の中で、かつて弑殺した女神の聖なる言霊、聖句を唱える。

 光の力で、それを隠す闇を切り裂く。

 目論見は成功し、幸雅はなんとかアテナの呪縛を断ち切り、やっとの思いで瞼を開けた。

 しかし体の方はまだ完全に覚醒してはおらず、のろのろと緩慢な動作を繰り返すだけ。

 

 チッ、と幸雅は舌打ちした。

 

「こんなこと、してる場合じゃ、ないだろう……!」

 

 歯を食い縛り、何とか上体を起こした幸雅は、続けて違う言霊を唱えた。

 

「御雷の名を持つ我が請い招くは、烈しき稲妻。高倉下を打ちし稲妻よ、峻烈なる輝き以て我が手に集え……!」

 

 言下に、幸雅の右手にバチバチと青白い稲妻が集った。

 その雷はごく弱いもので、人一人も殺すことはできない。だが、今の幸雅にとっては、それで十分だった。

 

 幸雅は、右手に集めた稲妻を――躊躇なく、自分の胸元に押し当てた。

 

「――づ、ああああぁぁぁぁァァァァッッ!!!」

 

 全身をくまなく蹂躙する衝撃に、幸雅は堪え切れずに絶叫した。いくらカンピオーネの体が頑丈とはいえ、直接心臓に電流を叩き込まれればそれなりにダメージもある。

 しかしその壮絶なまでの痛みで、幸雅の肉体は完全に覚醒した。ベッドの縁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。

 

「お、お兄ちゃん!? どうしたの~!?」

 

 と、そのタイミングで、幸雅の叫びを聞き付けたか、妹の花南がパジャマ姿のまま、幸雅の部屋に飛び込んできた。

 花南は、フラフラになった兄の姿を見て、息を呑んだ。

 

 幸雅はそんな妹の動揺を置いて、まずこう尋ねた。

 

「……アテナ、は?」

「あ、アテナさん? 知らないよ~、いっしょに寝てたんじゃないの~?」

「そっ、か。……っぐ」

「あ、もうほら、何してたのかよくわかんないけど~、だめだよ~!」

 

 倒れかけた幸雅の体を、慌てて駆け寄ってきた花南が支えてくれた。

 すぐ後ろのベッドに座らせようとしてくれるが、幸雅はそれを拒絶した。

 

「お兄ちゃん……?」

「ごめん、花南。でも、ダメなんだ……僕は、行かなきゃ、ダメなんだ……!」

 

 ギリッと奥歯を鳴らし、震える膝を叱咤して、幸雅は一歩踏み出した。

 根拠はない。だが、漠然とした予感があった。

 もし、ここで幸雅が手をこまねいて時間を無駄にすれば、取り返しのつかないことになるという、そんな、妙に現実味のある予感が。

 その予感の中心に居るのは、

 

(アテナ……!)

 

 だから、幸雅は行かなければならない。何があっても、絶対に。

 そんな兄の姿に、花南は深く溜め息を吐いて、

 

「はあぁぁ~。そうだよね~、それでこそ、お兄ちゃんだよね~」

 

 苦笑を浮かべた花南は、仕方ない、という風に首を振り、幸雅を支えていた手を離した。

 

「行っておいで、お兄ちゃん。私はここで待ってるから」

「花南?」

「行かなきゃいけないんでしょ? お兄ちゃんがそう言うならきっとそうなんだろうし、そうなったら、もうお兄ちゃんは止められないよ。だから、行っておいで」

 

 いつになくはっきりとした口調で言う妹に、幸雅は目を白黒させた。

 けれど、花南の綺麗な瞳には、全てを受け入れて受容してくれる、母性にも似た暖かい光があった。

 その根底にあるのは、十六年間一緒に過ごしてきた兄に対する、信頼だ。

 

 兄妹に、もう言葉は要らなかった。

 フッと微笑んだ幸雅は、神速の権能を発動、開いていた窓から身を投げ出し、アテナの許へと向かった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 勇んで飛び出していく兄を見送った花南は、そっと息を吐いた。

 

「もう~、お兄ちゃんってば~。せっかちだな~」

 

 呆れたように呟きながらも、その顔は柔らかく、優しかった。

 

 花南は、知っていた。

 いつもは冷静で計算高いくせに、いざとなると冷静さなどかなぐり捨てて、計算など破り捨てて、本能のままに動いてしまう、兄の性癖を。

 彼に十六年間寄り添ってきた彼女は、知っていた。

 彼のそういう行動の根底にあるのは、全てを包み込むような愛情であると。

 

 誰よりも近くで彼を見てきた彼女は、それを誰よりも知っていた。

 かつて、一年前のとある事件で。

 彼女の兄は、花南を守るために、恐るべき女神に一人で立ち向かったのだから。

 

「これだけは、アテナさんにも誇れると思うんだよね~」

 

 ポツリと、兄が愛する女性の名を、花南は口にした。

 彼が恋人に選んだのが女神であったことに、確かに驚きはあった。

 けれど、アテナと一緒に日々を過ごす中で、花南は徐々に納得を覚えていった。

 

(お兄ちゃんに必要なのは、後ろから黙ってついてくる人じゃない。隣に立って、一緒に歩いてくれる人。何も言わなくても、同じ方向を見てくれる人)

 

「……私は、そうじゃなかったからな。だから、羨ましいって思っちゃうのかな」

 

 独白する。誰も聞く者などいない、ただの独白。

 

 これは羨望であっても、嫉妬ではない。憧憬であっても、憤怒ではない。

 花南は、心の底から願っていた。

 たった一人の兄と、その隣に立つ女神の幸福を。

 

「願わくば、彼の者らの未来に、多くの幸あらんことを」

 

 そう呟いて微笑む花南の手の平には、可憐な桜の花びらが一枚、ポツンと乗っていた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 所変わって、七雄神社。

 護堂たちとアテナが争っていた戦場に辿り着いた幸雅は、あまりにも予想通りの光景に、思わず溜め息を吐いた。

 チラリとアテナの方に目をやると、護堂に腹部を殴られた以外に目立った傷はなさそうだ。

 

未だ体の節々は痛みを訴えている。

しかし今の幸雅の胸の内を支配するのは、崩れ落ちそうな安堵と、溢れだしそうな怒りの感情だった。

 

 それを発散するよりも先に、幸雅は神速をもう一度発動し――固まる護堂の懐に一瞬で飛び込んだ。

 

「……すまないね、護堂」

「幸雅、先ぱ――ぐあっ!?」

 

 驚きの表情を浮かべる護堂を射程に捉えたところで神速をオフ、勢いを乗せた全力の回し蹴りで、護堂を大きく吹き飛ばした。

 ダンプカーに撥ねられたかの如く吹き飛んでいく護堂。

 

「護堂!?」

「草薙護堂!」

 

幸雅は境内の床を盛大に転がっていく護堂に見向きもせず、護堂の両隣りに控えていた二人の少女の額に、強烈なデコピンを叩き込んだ。

 少しだけ雷の権能を纏わせて放ったデコピンは、一撃で二人の意識を刈り取る。

 

「エリカさん! リリアナさん! 草薙さん! ご無事ですか!?」

 

 うろたえて、立ち尽くす裕理。

 幸雅は裕理の手元にある包みに視線を向けただけで、何もしなかった。

 別に彼女を気遣ったとか、手を上げるのは憚られたとか、そういう訳ではない。

 

(自分勝手だな、僕ってやつは)

 

 彼女がアテナに対して、何もしなかったから。本当に、ただそれだけの理由だ。

 

 幸雅が護堂とエリカ、リリアナを打ち倒したのは、彼らがアテナの敵に回ったから。

 これは復讐、報復ですらない。ただの苛立ち紛れの、八つ当たりだ。

 この苛立ちすら、彼らに対するものではないというのに。

 

 ギリッと、唇を噛み締めた。

 

「護堂。僕としては、これ以上君と争うつもりはないよ。そっちはどうかな?」

「……俺も、ないですよ」

 

 ふらつきながらも立ち上がろうとしていた護堂に対し、幸雅は湧き上がる自己嫌悪を抑えて、意図して平坦な声で言った。

 

 護堂の返事を受けてさらに口を開きかけたが、結局は何も言わずに、幸雅は踵を返す。

 幾分重く感じる足で歩みを進め、境内を出る。

 その途中で、立ち尽くしていたアテナの腕を掴んだ。

 

「……痛っ」

「………………」

 

 アテナは痛みを訴える声を漏らしたが、幸雅は腕に込める力を緩めるどころか、さらに強く握りしめた。

 それ以上アテナも何も言わず、幸雅も前を向いたまま振り返ることもしなかった。

何も口にしないまま、二人は七雄神社を後にした。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「アテナ。聞いてもいいかい?」

「……なんだ?」

 

 幸雅とアテナは真夜中の商店街を二人並んで歩いていた。

 来た時のように神速で帰ることはしない。何故か、そんな気にはなれなかった。

 アテナの細い腕を握り潰すような力で掴んでいた腕も、すでに離している。

 

 意を決したように、幸雅は俯きながら歩くアテナに問いかけた。

 

「なんで、僕に何も言わずに一人で行った?」

 

 改めて口にすると、腹の底から煮え滾るような激情が溢れ出してくる。

 

「あの神殺しが待ち受けていると、知っていたから」

「護堂がいたら、なんでダメだった?」

「あなたと彼が、戦うことになるから」

 

 予想通りの返答に、唇を震わす。軋みを上げる胸を無意識に押さえた。

 アテナは幸雅の様子に気付いていながら、言葉を止めはしなかった。

 

「あなたが苦しむところを、見たくはなかったゆえ」

「――ッ、君、は……!」

 

 僕はそれよりも、君が傷つくところを見たくはない。そう叫びたかったが、幸雅が口を開く前にアテナは続けた。

 

「あなたは常に、妾のためであれば何でもしてみせると偽悪的なことを言っているが、妾は知っている。あなたの心根は、そんなことを平気で出来るようなものではない」

「何を……僕は、君のためなら」

「ああ。確かに、結局は実行してしまうのだろう。己の友と殺し合うことすら許容してしまうのだろう。それに至るまでに、何度も懊悩して、苦悩して、悲しんで、苦しんだ末に」

 

 あなたは優しすぎる故。アテナは、そう締め括った。

 幸雅は、アテナの言葉に何も言えなかった。

 

(優しい? ……違う。覚悟ができていないだけだ)

 

 ああ、まさしく、その通りなのだろう。きっと自分は、苦しむのだろう。悲しむのだろう。怒るのだろう。

 

 だけど。それでも。

 

(それでも、僕は)

「僕は、それを背負ってでも、君の隣に居ると決めたんだ」

 

 言って、幸雅は隣を歩くアテナの手を握った。

 突然のことに驚いたようにアテナは顔を上げ、手を硬直させた。

 彼女特有の、小さな、頼りなさすら感じる手の平。

 凍えるように冷たくなった彼女の手の平を、己の熱で溶かそうとするかのように、ギュッと握りしめる。

 

「それに、今回のことだって、僕と護堂が殺し合わなきゃいけないって、決まったわけじゃない。戦わなくたってどうにかなるかもしれない」

「…………」

「納得いくまで話し合ってもいいし、戦うフリをして盗んでいくのもいい」

「……………………」

「出来ることなんて、いくらでもあるんだ。僕と君なら」

 

 言いながら、幸雅は空を見上げていた。

 立ち止まってはいるが、アテナの表情は見えない。自分の言葉を聞いてくれているのかも分からない。

 それでいい。

 

「君が僕のことを気遣ってくれたのは嬉しい。でも、僕はそれと同じか、それ以上に君のことが心配でたまらない。笑ってくれてもいいし、気分を害したなら謝るけれど、僕はそうなんだ」

 

 君と出会って、愛を誓った、あの時から。

 

「一人で、何でもしようとしないでくれ。そんなの、寂しすぎるし、それに――」

 

 淀みなく続けていた幸雅だったが、そこまで言ってふと言い淀んだ。

 まるで、続きを口にするのがひどく恥ずかしいというように。

 

 不思議に思ったのか、アテナが自分を見上げているのが分かった。さらに気恥ずかしくなって、顔が熱くなる。

 思わず視線を明後日の方向に向けながら、何とか言い切った。

 

「それに、僕たちはもう、夫婦なんだからさ。もうちょっと、頼ってくれても、いいんじゃ、ないかなー……と」

 

 もっと恥ずかしいことを何度も言って、何度もしているくせに、『夫婦』と言う、ただそれだけのことで恥ずかしがっている夫を見て、

 

「…………ふふっ」

 

 溢れんばかりの愛おしさを感じたアテナは、想いそのままに、そっと幸雅の腰に腕を回して抱きついた。

 

「そうだな。妾とあなたは、夫婦だものな」

「ぅぐあ……。あ、ああ、うん。そうだね、その通りだ」

「ふふふ、夫婦、だ。あなたと妾は」

「おぐぅ、……お、仰る通りで」

「ふふふふふっ、夫婦、夫婦♪」

「……がふっ」

 

 おかしいな、と幸雅は思った。

 最初は、何も言わずに出ていったアテナに対して確かに怒っていて、連れ戻したら心行くまで説教しようと思っていたのだが。

 もう、そんな気は全く起きなかった。

 

(……まあ、いいか。どうでも)

 

 嬉しそうに相好を緩ませる女神さまを見て、ある種の諦めと開き直りの境地に達する幸雅だった。

 撫で撫で。撫で撫で。



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19 戦の前に

「いやー皆。昨日はアテナがすまなかったねー」

「……あ、いえ、別に」

「で、今日の夜までにね」

「……え?」

 

 翌日の学校。昼休みの屋上で。

 万里谷裕理、エリカ・ブランデッリと昼食を囲んでいた草薙護堂を見つけた幸雅は、謝罪もそこそこにそう言い放った。ハーレムか、この後輩は。

 しかし、さすがに端的すぎた。護堂と裕理はキョトンとしている。対してエリカは見当が付いたのか、表情を強張らせた。やはり聡明な少女だ。

 

「君の所にあるゴルゴネイオン。あれを僕たちに引き渡すか、それとも拒否して君が保持するか。今日の夜までに決断しておけ、って言ってるのさ」

「っ、それは」

「そうだね……今夜の9時までには決めてもらおうかな。その時間になったら、僕はアテナを連れて君たちの所へ行くよ」

 

 何か言おうとした護堂を遮り、幸雅は一方的に告げた。

 

 探し求めていたゴルゴネイオンの在処が分かった以上、もはや手を拱いている理由はない。早急に事を起こす必要がある。

 と言うよりも、このままだとアテナが辛抱堪らなくなってしまうだろう。

 昨日だって一人で突撃していった彼女である。同じことが起こってほしくはない。

 未だにまつろわぬ神のそういう所はよく分からない幸雅だったが、アテナのことなら漠然と分かるようになってきた。

 

 そして、昨日の内に何故護堂が敵に回っているのかは聞いておいた。

 裕理の霊視で、アテナがゴルゴネイオンを手にすると災いが降りかかるとあったらしいが、実際の所はどうなのやら。

 とはいえ、裕理の霊視の成功率が相当なものなのも、また事実。

 彼がそれを信じて行動するのも無理からぬ話ではあるかもしれない。

 

「ひとつよろしいでしょうか、『太陽王』」

 

 次に口を開いたのは、エリカだった。

 

「構わないよ。後、『太陽王』なんて呼ぶのはやめて欲しいな。御神、か、幸雅で」

「では御神さまと。もし、我らが王、草薙護堂が御身の申し出を拒否すれば、いかがなさるおつもりで?」

「決まってる。昨日のアテナみたいに、力尽くでだ」

 

 容赦なく、言った。

 エリカが表情をさらに険しくし、裕理が息を吞んで顔を青くし、護堂が唇を噛み締める。

 三者三様の反応を視界に収めながら、幸雅は何食わぬ顔でアテナの作った弁当を広げ、卵焼きを口に運ぶ。美味しい。

 

「先輩は、なんで、そんな……」

 

 全員沈黙したままの中で幸雅が食べ終わったところで、護堂がポツリと声を漏らした。

 幸雅は、僅かに苦笑を浮かべて、

 

「ただ彼女のためだけに、ってやつさ」

 

 それだけ言って、幸雅は三人を残して屋上から降りて行った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……クソッ。やっぱり僕には、ああいうのは似合わないなぁ……」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「あ、アテナさん~。それ取って~」

「はい。どうぞ、花南さん」

「ありがと~。それ終わったら、この鍋に入れて~」

「はい。分量はこれでよろしかったですよね?」

「うん、ばっちしおっけ~。アテナさんも慣れてきたね~」

「花南さんの教え方が上手だからです。ありがとうございます」

「いいよいいよ~。お兄ちゃんも喜んでるみたいだしね~」

 

 そろいのエプロンを付けて肩を寄せ合い、一つの鍋を覗き込む姿は、嫁と姑と言うよりはむしろ、仲のいい姉妹のようだった。

 

 夜7時頃。御神家のリビングにて。

 幸雅はキッチンに並んで夕食を作る嫁と妹を微笑ましく眺めながら、自分のケータイを弄っていた。

 先程旧知の人物より珍しくメールが来たので、それを確認している最中だった。

 

 届いたメールは二通。片方はイタリアの王、サルバトーレ・ドニの執事、アンドレア・リベラから。

 もう片方は、《赤銅黒十字》所属の、エリカ・ブランデッリの叔父、パオロ・ブランデッリから。

 

「…………」

 

 それぞれの所属や登場する固有名詞などは違えど、内容はほぼ同じだった。

 しかしその内容は、幸雅の脳裏に最悪の想像を浮かばせ、頭痛を起こさせるに十分なものであった。

 深い溜め息を漏らし、ケータイをポケットへしまう。

 

「万里谷が霊視した災いって、こっちのことじゃないだろうね……?」

「なんのこと~?」

「ん、いや、何でもないよ」

 

 意図せず漏れた独り言を拾った花南に、幸雅は首を振って何でもないと言った。

 自分たち魔王の事情に、無関係の妹を巻き込むわけにはいくまい。

 と言うか、同族たちの中の誰にも、花南を会わせたくない。

 

 これまで幸雅が出会った同族は、護堂を入れて三人。

 しかし護堂以外の二人が、あまりにも濃すぎた。どちらも人格破綻者の代表である。

 

(とくに教主の方とかさぁ、あの人何様なのかねぇ)

 

 約二ヶ月ほど前に出会った絶世の佳人を思い出して、深々と嘆息。妹どころか、全人類に悪影響しかない。

 

「旦那さま。皿を取ってくれぬか?」

「ん、了解」

 

 アテナに呼びつけられて、幸雅も立ち上がった。

 キッチンから少し離れた、冷蔵庫の横に設置された食器棚から皿を数枚手にとって、キッチンの中へ入る。

 仲良く並ぶ二人に皿を渡し、彼女たちがさらに食事をよそうさまを、なんともなしに眺める。

 

 今日のメニューはハンバーグにシチュー、海鮮サラダと、シンプルながらもボリューム満点のものだ。

 最近は本当にアテナも料理の腕が上がってきている。彼女が担当したというハンバーグも形がきれいに整えられていて、とても美味しそうな香りが漂ってくる。

 涎が止まらない。見ているだけでお腹が鳴りそうだ。

 

 と。

 

「ふふっ、この卑しん坊め。ほれ」

「んむっ? ……もぐもぐ」

 

 よほど物欲しそうな目で見ていたのか、微笑ましそうにしたアテナが、ハンバーグの一部を指で摘まんで、口元まで運んできてくれた。

口の中に押し込められた一切れのハンバーグをゆっくりと咀嚼する。やっぱり美味しい。

 

「もぐもぐ……ぺろっ、はむっ」

「んっ、……戯れが過ぎるぞ、悪童」

「ふぉめんふぁふぁい(ごめんなさい)」

 

 摘まんでいた指ごと口の中に押し込んできたので、ついでにそっちも舐めて甘噛みした。

 怒られてしまったが、頬を膨らませて、こちらの頬をつねる仕草がとても可愛かったので後悔はない。むしろもう一回やってもらいたい。

 

「むふふふ~。やっぱり二人は仲いいね~」

 

 花南はいつも通りニコニコ、ニコニコ。

 何故か妙に気恥ずかしくなった幸雅は、そそくさと皿をテーブルに運ぶ。

 続いてアテナと花南も席に着き、合掌。声を揃えて、

 

「「「いただきます」」」

 

 大した労もなく日々の糧を得られる幸福に感謝し、目の前に並ぶ、かつては命あった大地の恵みに祈りを捧げる。

 そして、一家三人(言うのは少し恥ずかしいが)での食事が始まった。

 

 仲のいい家族で囲む食卓は楽しく、さらに美味しく思えるものだ。

 愛する嫁と妹との会話も楽しみつつ、幸雅はそれ以上に食べることにも集中していた。

 大口を開けてハンバーグに齧りつき、咀嚼も満足にせずに腹に流し込む。シチューは、もはや飲み物だと言わんばかりにごくごくと喉を鳴らして平らげる。

 それを何度も、何度も繰り返す。おかわりを何回もして、用意されていたもののほとんどを一人で食べ切った。

 まるで、これからの戦いに備えて、十分なエネルギーを蓄えんとするかのように。

 

 決して行儀がいいとは言えない幸雅の行動を、アテナも花南も咎めなかった。

 アテナには分かっていたから。幸雅がそのようにする理由が。これから起こる戦いが。

 だからアテナは何も言わずに、憂慮と罪悪感を闇色の瞳に湛え、幸雅に対して一言も発さずに夢中でかっ食らう幸雅を見つめるだけだった。

 

 そしてもう一人、彼の実の妹である花南は、兄の食いっぷりを見ながら、僅かに目を細める。

 一瞬だけ、彼女の細められた瞳に、鮮やかに咲き誇る桜のような色の輝きが迸った。

 しかし、それは本当に一瞬だけ。幸雅だけでなくアテナですら気付かないような刹那のみだ。

 桜色の瞳を消した花南は、一度息を吐くと再び会話を再開させた。

 

 心の中で、こんなことを呟きながら。

 

(……うーん。やっぱり視えないな。お兄ちゃんが神殺しだからなのか、それとも私の力が弱まってるのか)

 

「花南さん? どうかなさいましたか?」

「え? ん~ん、なんにも~」

 

 アテナに訊ねられて、花南は曖昧に首を振った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「それじゃ、行こうか」

「……うむ」

 

 それから一時間ほど経ち、二人は出発の準備をしていた。

 無論、ゴルゴネイオンを取り戻しに行くための、だ。

 といっても、やることなどそうない。

 

 せいぜい、これから幸雅が戦うことになるだろう護堂が持つ権能、軍神ウルスラグナのことをアテナに教えて貰ったり。

 幸雅とっておきの、あるモノをアテナに渡したり。

 その程度のことだ。やったのは。

 

 しかし、これから悲願を果たしに行くというのに、アテナの表情は暗かった。

 俯くアテナの銀色の髪を、幸雅は優しく撫でる。

 

「……大丈夫だよ」

「……ん」

 

 多くの言葉は必要ない。これだけで十分だ。

 

 かくして魔王と女神は、戦場へと赴くのだった。




 すいません、いろいろやりたいことがありまして、バトルは次になります……。

 一応、天照大御神の来歴とか自分なりにまとめてみるつもりですので、暇があればご覧ください。


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20 開戦

 どうもー侍従長です。

 ついにやってきました、護堂バーサス幸雅。

 お楽しみいただけると幸いです。


 汐留川を越えたあたり、都心の真っ只中のくせに緑あふれる森。

 浜離宮恩賜庭園。

 幸雅は今、背の高い木々が欝蒼と生い茂る森の中で、後輩である草薙護堂と対峙していた。

 

 場所は護堂に事前に伝えておいた。

 既に正史編纂委員会にもこのことは伝えてあり、人払いも完了している。

 ここで幸雅たちがどれだけ暴れても、基本的に影響はない。

 

 アテナは今、この場にはいない。ここに来る途中で別れた。

 きっと今頃、ゴルゴネイオンの本当の在処に向かっているだろう。

 

「さて護堂。君の返事を聞かせてもらってもいいかな?」

「俺の意思は変わりませんよ。あれをあの人に渡すわけにはいきません」

「ふゥん」

 

 幸雅には分かった。護堂からは《蛇》の気配がしない。彼の両隣りに侍る、赤と青の騎士からも。

 

「君が持ってなくて、その二人がここに居るってことは、ゴルゴネイオンを持っているのは万里谷か」

「なら、どうだって言うんですか?」

「いや、いいのかな、と。こんな所で僕の相手なんてしてたら、向こうに行ったアテナが万里谷を傷つけるかもしれないのに」

「いないと思ったら……やっぱり、あっちに行ってたのか!」

 

 呻く護堂。しかしここから去ろうとはしなかった。

 代わりに口を開いたのは、右隣で鮮やかな金髪を翻らせたエリカ・ブランデッリだ。

 

「お言葉ですが、御神さま。御心配には及びませんわ」

「対策してる、ってことかな? でもまあ、そういうことなら僕が向こうに行く必要も出てきたかな」

「……行かせませんよ、幸雅先輩。俺が、先輩を止めます。そして、アテナさんもどうにかしてみせます」

 

 海水を湛える池のほとり。見通しのいい広場で、強い瞳で自分を睨み、決意を込めた宣言をする後輩に、幸雅は微笑した。

 

 もともと、こうなることは分かっていた。

 この後輩の気性であれば、必ずこういう行動に出るだろうと。最初から予想していた。

 

「君に、それができるって?」

「やってみせます。俺と、こいつらで」

「『太陽王』よ。御身に剣を向ける非礼をお許しください。しかしこのリリアナ・クラニチャール、騎士として無辜の民が苦しめられようとしているというのに、立ち上がらぬような恥知らずではありません」

「同じく、ですわ。『太陽王』。御身もまた、我ら魔術師が最上の敬意を払うべき、魔王たる御方。ですが今の私は、同じく日本国の王、草薙護堂の騎士。主が御身と矛を交える決断をしたのであれば、それに付き従うことこそ騎士の本懐ですわ」

 

 闘志を漲らせる護堂。各々の魔剣を構えるエリカ・ブランデッリとリリアナ・クラニチャール。

 一瞥し、幸雅は、戦いの喜悦にひび割れるような微笑を浮かべた。

 

「それが君たちの、『王』としての、そして『王』に付き従う者としての決意なら、そうするといい。けれど忘れるなよ。僕もまた『王』だ。君と同格以上の存在だ」

 

 言って、幸雅は右腕をゆっくりと振り上げる。

 

「そして、相手の意思が己の意思にそぐわぬというのなら、決して譲れないというのなら、僕たちがすべきなのはただ一つ」

 

 結局、自分たちにはそれしかないのだ。

 どれだけ強くても、勝つとは限らない。

 どれだけ強くても、正しいとは限らない。

 正しいから、強くて勝つのではない。

 勝ったヤツが強くて正しいのだ。

 

 だから、

 

「戦って、勝つことだ。――さあ護堂、君にも譲れないものがあるのなら、それを貫き通してみろ!」

 

 そう、七人目の地上最強の戦士、カンピオーネは、後輩のカンピオーネに宣言した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「嗚呼、主は仰せられた。新たなる御子を創り給えと。故に我は、一にして全なる御身を称える賛美歌を詠おう! 聖なるかな聖なるかな!」

 

 最初に動いたのは幸雅の方だった。

 己の中に眠る第三の権能、グリニッジの賢人議会が『聖なるかな(Sacred Hymn)』と名付けた天使創造の権能を行使した。

 

 言下に幸雅の左右に金色の光が発生し、粒となり、さらに集結、二人の人の形となった。

 ただし今回は、メルカルトとの戦いのときに創造した天使とは違い、剣や盾、鎧で武装してはいなかった。

 頭上に浮かぶ金色のリングや、背中の大きな二対の翼、全身から放たれる金色の光は同じ。

 だが、男なのか女なのかすら分からない細い肢体を粗末な布の服で覆い、まったく同じ中性的な美貌を、薄い笑みが彩っている。手には剣と喇叭が。

 

 もともと天使には性別が存在しない。神の創り給うた被造物で男と女という性別を得たのは、天使ではなく人間だ。リリスとアダムのように。

 例外としてイエスの受胎告知を行ったガブリエルだけは、当時の価値観から女性であったと言われているが、基本的には両性具有か無性。

 

 鎧と盾がないのは、そもそもこの権能で創り出した天使はそれらを身に着けていないからだ。

 前回彼らが武装していたのは、あくまで幸雅が権能の応用で創り出したというだけ。

 

「んー、まあ大体このぐらいかな」

 

 自分の両脇を固める天使たちに満足げな表情を浮かべた幸雅は、掲げた右手を振って、天使たちを護堂たちに突貫させた。

 幸雅の予想通り、天使たちを迎え撃ったのは、飛び出してきたエリカとリリアナだった。

 

「はあぁっ!」

「やあぁっ!」

 

 キィィィン、という剣と剣とがぶつかり合う金属音が鳴り響く。

 しかし鍔迫り合いをしようとはせず、ぶつかり合った瞬間、エリカたちは飛び退った。

 赤と青の騎士たちは、まず二体の天使を引き離すことを選んだ。

 

「フッ!」

 

 短く呼気を漏らしたエリカが、赤と黒(ロッソネロ)のケープを翻し天使の片方に突進した。

 片手一本で剣を振るっていた天使は堪え切れず、もつれ合うようにして吹き飛んで行った。

 

 リリアナもまた、片割れを追おうとした天使に跳びかかり、果敢に攻める。

 結局、もう片方の天使も青と黒(ネラッズーロ)のケープをかけた青き騎士に釘付けになってしまった。

 

 そんな騎士たちの奮闘を心配そうに見守っていた護堂に、幸雅は諭すような声をかけた。

 

「安心していいよ。あの天使たちは大体あの二人と同じぐらいの実力に設定しておいたから。ケガぐらいはあっても死ぬことはない」

 

 この権能は、創り出す天使の実力、数、サイズを自由に変更できる。

 だから、例えば普通の人間サイズの天使を50体ほど一気に創り出したりもできる訳だ。

 ただその場合、一体一体の実力は、控えめに言っても、雑兵程度の実力しかなくなる。

 数を取るか質を取るか。その見極めが重要なのだ。

 

 そして、

 

「自分の心配もした方がいいと思うよ、護堂! ――聖なるかな!」

「……ッ、来たか!」

 

 一瞬でもう一体の天使を、今度は剣だけではなく鎧、盾も付けた完全武装の天使を創り出し、護堂に向かって一直線にけしかける。

 彼を守っていた騎士たちは他の二体と戦っていて、護堂を援護する余裕などない。

 

「君のために特に膂力を上げたとっておきさ! どう凌ぐ!?」

 

 もし、この天使がその剣を公園の地面に振り下ろせば、半径数メートルに渡って亀裂が走り、砕け散るだろう。それぐらいの実力に設定した。

 果たして護堂は、

 

「我は最強にして、全ての勝利を掴む者なり! 人と悪魔――全ての敵と、全ての敵意を挫く者なり!」

 

 言霊を発し、目の前で振り下ろされた天使の剛剣を、受け止めた(・・・・・)

 続けて白刃取りの要領で受け止めた剣の腹をぶん殴り、天使の腹にタックルをぶち込んで吹き飛ばす。

 そのタックルをモロに受けた天使は、ダンプカーに撥ねられたかのような勢いで後方に吹っ飛んだ。

 

 明らかに、人間の膂力でなせることではない。護堂にそこまでの力はない。

 ならば、答えは一つ。

 

「ウルスラグナ第二の化身『雄牛』か。人間を凌駕するパワーの持ち主と戦うとき、無双の剛力を与える権能。なるほど、大したものだ」

 

 冷静に批評しながら、幸雅はさらに天使に呪力を注ぎ込んだ。

 瞬間、吹き飛ばされた先で転がっていた天使がばね仕掛けのような勢いで立ち上がり、再び護堂に向かって行った。

 

「なっ!?」

 

 もう完全に終わったと思って油断していた護堂は面食らい、勢いよく倒れ込むようにして天使の横薙ぎの斬撃をかわす。

 地面に倒れ伏した護堂を、天使はさらに追撃。断頭台のような勢いで地面に振り下ろすが、護堂は地面を転がるようにしてさらに回避。

 無様ではあるが、最善の選択ではあった。

 

「所詮、神獣と同程度だと思って油断したかな? 残念だったね。ただの神獣と、神様や僕たちカンピオーネが直接呪力を注ぎこんで扱う存在とでは、決定的に性能が異なる」

「くそっ!」

「そして、僕の権能がこれだけじゃないのは、知ってるだろう?」

 

 講義を挟みながら、幸雅はようやく立ち上がった護堂に右の人差し指を向けた。

 

「光よ。何より尊く輝く者よ。我が下す詔を聞き、広き地上を照らせ」

 

 言下に、幸雅の指先から、まるでビームのような光が護堂に向かって放たれた。

 

「なっ!?」

 

 護堂は驚愕しながらも、獣のような身のこなしで飛び退いてかわした。

 委細構わず、幸雅は続けてそれを放ち続ける。何とかかわし続ける護堂。

 

 護堂の背後では、光線に穿たれ続けた公園の松の木が、ズズゥン、と音を立てて前のめりに倒れ伏した。

 その威力を見て、護堂は頬を引き攣らせる。

 それだけでなく、まだ最初の天使も残っている。

 これはマズイ。本能的に護堂が察したとき、天使の背中に数本の青い矢が突き立った。

 

「ヨナタンの弓よ、鷲よりも速く獅子よりも強き勇士の器よ。疾く駆け汝の敵を撃て!」

 

 いつの間にか天使の片割れを打倒したリリアナが、こちらに『ダヴィデの言霊』を宿した弓を向けていた。

 さらに、

 

「鋼の獅子よ、汝に嘆きと怒りの言霊を託す。神の子と聖霊の慟哭を宿し、聖なる末後の血を浴びて、ロンギヌスの聖槍を顕しめよ――!」

 

 金髪を翻らせたエリカが、獅子の魔剣クオレ・ディ・レオーネに『ゴルゴタの言霊』を宿し、護堂に襲いかかろうとしていた天使の横っ腹に突きこんだ。

 天使は左手の盾を引き戻して迎え撃ち、交錯。

 

「護堂! この天使はわたしたちに任せなさい! あなたは『太陽王』御本人を!」

「すまん、任せる!」

 

 短い言葉の応酬を終えた護堂は、『雄牛』の筋力を全開にして、幸雅本人にタックルを仕掛けてきた。

 

「また天使を創り出すのは、ちょっと芸がない、か。特に困らないけどね。――烈しき稲妻よ! 疾く在れ!」

「うあぁぁっ!?」

 

 あと数歩というところまで接近してきた護堂に、幸雅は全身から放電して迎え撃った。

 さすがにカンピオーネを昏倒させるだけの威力はないが、迎撃手段としては威力も申し分ない。

 

 吹き飛びながらも鋭い眼光で自分を睨む護堂に、幸雅は同じような視線を向けて、獰猛に微笑した。

 

「ここまではまだ前哨戦だよ。さあ、本番と行こうか! ――我は光にして太陽。尊き光は、戦場(いくさば)に赴く我が許にて進むべき道を遍く照らし給え。汝らは我が鎧にして剣、至高なる輝きの欠片なり!」

 

 言霊を唱え、光を請い招く。

 幸雅の周囲に眩い光が発生し、それらは集結して数十の白い光球となった。

 まるで恒星のように幸雅の体の周りをぐるりと囲む。

 これらはその一つ一つが、天空に輝く太陽の熱量を封じ込めた、いわば太陽の欠片そのものだ。

 

 その顕現を見た護堂は表情を硬くした。しかし、悲観的な色はない。

 あるのだ。護堂には。幸雅が呼んだ、太陽の欠片をどうにかする方法が。

 それを証明するかのように、護堂もまた、ひび割れるような亀裂を口元に浮かべた。

 

 

 

 神殺しと神殺し、その熾烈極まる戦いは、まだまだ終わらない。




 あっれれー。おっかしいぞー?

 言霊のところまで行けんかった……。次は絶対行きます。


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21 言霊の光と言霊の剣

 ついに言霊対言霊です。
 ウィキやらなにやらで独自解釈でまとめたものです。間違っていてもどうか温かい目で見守りください。


「行け!」

 

 両手を掲げ、幸雅は顕現させた光球に指示を下した。

 光の尾を引きながら、それらは護堂へと真っ直ぐ迫る。

 対する護堂は、向かってくる光球に何をするわけでもなく、気ままに口を開いた。

 

「天照大御神。それが、先輩が最初に殺した女神の名。そうですね?」

「そうだよ」

「天照大御神は日本神話における最高神。高天原を統治する八百万の神の総氏神にして、太陽を神格化した女神!」

 

 煌く。護堂の周囲で、黄金の小さな輝きは天の星々のように燦然と輝き出す。

 これは、『剣』だ。

 敵対する神を切り裂くための、叡智の詰め込まれた智慧の剣。

 

 護堂を取り巻く黄金の光が、幸雅の放った光球と真っ向からぶつかり合い、――光球を、完全に切り裂いた。

 その光景が幾度となく続く。

 最初は数十あった光球も、無限に生み出される黄金の光に、そのことごとくが切り裂かれていく。

 

「つまりは太陽神。日本書紀、及び古事記には勇ましく武装するシーンや、豊穣を司る地母神的な性質も描かれているが、あくまでそれは後付けされた要素。時代を経るにつれ、シルクロードを渡って日本に伝わる中で付け足されただけのもの。アマテラスという女神を語る上で最も重要になるのは、この太陽神という要素だ!」

 

 遂に、護堂が完全に『剣』を抜いた。

 抜き様の一閃で、幸雅が続けて送り込んだ光球の全てを両断してみせる。

 

 自分の力が無効化された事実に、幸雅は微笑を浮かべた。

 

「なるほど――それが『戦士』か! 神を切り裂く言霊の剣!」

 

 護堂が唱えているのはただの神話ではない。その一言一言に力の籠められた言霊だ。

『剣』は、言霊によって研がれ、その威力を増すのだ。

 

「太陽神が一つの神話群の最高神に据えられるのは、世界中であったことだ。たとえばエジプト神話のラーや、古代インカの人々が崇めた神のように。だがこれは、一年中太陽と接し続ける砂漠地帯などで栄えた文明に限られる。自分たちの生活と密接に関わる太陽を神格化するのは、ごく当然の流れだ。――しかし、天照大御神はそうじゃない!」

 

 今や無数の輝きを率いる護堂はさらに囁いた。

 それによって黄金の光が、今度こそ無防備な幸雅を襲う。幸雅は残った光球をぶつけて応戦するが、到底間に合わない。

 新たに光球を生み出して抗戦するも、『剣』の速度の方が圧倒的に速い。

 抵抗の全てが、ひとつ残らず切り裂かれていく。

 

 このままではジリ貧どころか、本当に絶体絶命だ。

 幸雅の言霊の光と同じく、神の神力のみを切り裂く剣。もしこのまま『剣』に斬られれば、少なくともこの戦いの間は天照の権能は使えないだろう。

 

 だから、幸雅も己の切り札を切ることにした。

 

「ふふっ、護堂。君の権能、随分と行き渡っているようだけれど、君はその源泉たる存在、ウルスラグナのことをどれだけ知っている?」

「……ッ!?」

「僕は知っている。ウルスラグナ。東方(オリエント)にルーツを持ち、洋の東西を駆け抜け、各地の様々な神格と習合した、不敗にして鋼の属性を持つ軍神のことを!」

 

 幸雅が言霊を吐き出すと同時、夜空に落ちていた黒の帳が切り裂かれ、眩い輝きを持つ第二の太陽が顕現する。

 アテナから授かった知識を用いて幸雅が呼んだ太陽は、護堂の振るう『剣』と同じ、相手の神格を直接傷つける光を、この公園全体に向けて放ち始めた。

 太陽ではなく光を操る幸雅の権能、その応用技。

 

「ウルスラグナの名は勝利を意味し、『障碍を打ち破る者』を意味する。以前、ウルスラグナ本人に語った通りこの名はインドの雷帝、インドラも保持する名だ。だが彼はそれ以前は、古代ペルシアにおける光明と契約の神ミスラに仕える従属神だった。ウルスラグナ第五の化身、『猪』こそがその証拠だ。ミスラは契約破りの罪人を罰する際、黒き猪に化身して打ち砕いた!」

 

 言霊を唱えるたびに、光は強くなっていく。

 最初はぼんやりと地表を照らすだけだったのが、少しずつ光度を増していた。

 

「くっ……」

 

 護堂が呻き、周囲に浮かべた『剣』を幸雅へと撃ち出した。

 既に幸雅の光球は全て消え去った。であれば、攻撃を躊躇する理由はない。

 先手必勝で、今の内に天照の権能を斬る!

 

「天照大御神が生まれたのは言うまでもなく日本。日本は古代エジプトなどとは違い、はっきりと四季のある珍しい国だ。確かに農耕民族であるため太陽はかつての日本人に大きな影響を齎す。だがこの国は、太陽だけでなく、雨もあれば風もあり、雷もあれば海もある。なのに、なぜ一太陽神に過ぎない天照が最高神となっているのか。この答えは簡単だ、天照大御神は、もともとはただの太陽神だったからだ!」

 

 黄金の『剣』の光が飛翔し、幸雅へと迫る。

 しかし幸雅は慌てて避けるでもなく、続けて言霊を綴った。

 

「鋼の神とはつまり戦いの象徴。剣の神、神剣を神格化した神だ。ウルスラグナがただの武神や勝利の神でなく、鋼の属性すらも手にしているのは、彼の主であったミスラに『石から生まれた』という伝承が残っているためだ。またウルスラグナの兄弟ともいえるアルメニアの民族的英雄神にして鋼の軍神ヴァハグンは、真紅の海に生える葦より生まれた炎の髪と髯を持ち、蛇の怪物ヴィシャップを殺した。石、すなわち鉄の素となる鉱石、それを溶かす火、風、水などとの共存関係、そして蛇を殺す英雄。これらは、多くの剣神たちが所持する要素だ」

 

 上空に浮かぶ言霊の光が一瞬だけ光量を増し、幸雅に迫っていた『剣』を焼き尽くす。

 結果、護堂の攻撃は幸雅に何のダメージも与えることは叶わなかった。

 護堂が表情を険しくし、幸雅は微笑んだ。

 

「彼女は伊勢の国で祀られていた神だ。この伊勢には古くから日神崇拝があり、伊勢に居た頃の彼女は天照大御神ではなく、その別名と言われるオオヒルメノムチだった! そしてオオヒルメノムチではないアマテラスは孫に当たる皇孫・ニニギノミコトに剣・勾玉・鏡の三種の神器を持たせ葦原中つ国を治めさせた。現代に伝わる、伊勢の地で祀られる太陽神にして皇祖神である天照大御神とは、この二柱の神が習合して生まれた神なんだ!」

「この戦いの神としての性質は、同じくミスラが時代を経るにつれて薄まって行った戦闘神としての性格を受け継いだ故に得たもの。後世においてゾロアスター教の守護神(ヤザタ)となった彼は、黒き猪に化身してミスラを先導して戦場を駆けた。それより以前に、オリエントの地でヘラクレスと習合して常勝不敗の軍神となった。インドラと名を同じくするのは、どちらも元を辿れば、東方に向かった印欧語族、アーリヤ人の生み出した軍神であるからだ」

 

 堂々巡り。護堂が攻勢を仕掛ければ、幸雅が言霊の光によってそれを潰す。

 未だどちらも、相手に有効打を与えられていない。

 

 しかし護堂は気付いた。幸雅が戦場全域に(・・・・・)放つ言霊の光が、僅かずつではあるが、己の神力を削っていることに。

 光を浴びることそのものが、危険なのだということに。

 

「くそっ、俺のヤツより数段便利じゃないか!」

 

 撃つだけでダメージを与えられる攻撃など、羨ましい限りだ。

 悪態をつきつつ、護堂は『剣』の一部を操って、防御態勢を取った。

 

 護堂の『剣』は幸雅の光に阻まれ、幸雅の光は、護堂が頭上に傘のように配置した『剣』によって遮られる。

 しかし、双方言霊の力は決して無限ではない。

 

『戦士』の化身が振るう神を切り裂く言霊の『剣』。これは、使えば使うほど切れ味が落ちていく。

 分かりやすい指標として、護堂の周囲に浮かぶ光が尽きれば、『剣』は消滅するのだ。

 

 そして、幸雅の光もまた無限ではない。

 そもそもこの真実の光とは、幸雅一人の力で放つものではないのだ。

 全てを焼き尽くす天照らす光に、アテナの智慧の権能でアレンジを加えて、どうにかこうにか仕立て上げただけのもの。

 必要なのは神の知識だけではなく、アテナという女神の力も必要になってくるのだ。

 知識伝達の際にアテナから分けてもらった神力が尽きれば、言霊の太陽も消え去る。

 

 お互い、この膠着状態が良くないことは分かっている。

 戦いが加速する。

 

「ウルスラグナは戦いの神であり勝利の神であり、また己を崇拝する者に勝利を授ける神でもあった。彼は化身(アヴァターラ)と呼ばれる変身を得意とし、十の姿に化身して敵を打ち砕いた。この化身を見れば、ウルスラグナがたどってきた複雑な来歴を読み解くことができる! 中でも角を持つ獣は古来より力の象徴であり、多くの神々の聖獣とされてきた。『雄牛』『雄羊』『山羊』がその例だ。『雄牛』は大地との繋がりを意味し、習合したヘラクレスの要素を受け継ぎ、剛力を持つ!」

 

「黄泉の国に行ったイザナギノミコトから産まれた天照には、二柱の兄弟が居た。ツクヨミノミコトと、スサノオノミコトだ。特に末弟であるスサノオノミコトには、天照大御神も振り回されている!

誓約によって自らの心の清明であることを証明したことで得意になったスサノオは、大神の田を壊し溝を埋め、神殿に糞のようなモノをばら撒くなどという狼藉を尽くした。それに留まらず、彼は天照が神御衣(かむみそ)を織っている機織場の天井に斑馬の皮を剥いで投げ込んだ! それによって天照は天岩戸に引きこもり、太陽を失った世界は闇に閉ざされた!」

 

「勝利の神であると同時に王権の守護者であった彼の第八の化身、『雄羊』は特に王権に深く関わる。牧畜がそのまま財力に直結した時代であったからだ! 『山羊』の角は人々を信仰によって導く祭祀の力を象徴し、『駱駝』は砂漠という過酷な環境を生き残るその強壮さによって彼の化身となった。『少年』とはつまり、十五歳の輝かしい若者のことを指し、それはゾロアスターの教理において《英雄》を示す符号だ!」

 

「闇に閉ざされた世界には多くの災いが降り注いだ。こういう太陽が隠れる・失われるというエピソードは、世界各地で見られる神話体系の一つだ! そこで神々は協議し、アメノウズメノミコトに岩戸の前で服を脱ぎながら舞いを舞わせ、その前でお祭り騒ぎをすることで、天照の興味を引いて外に連れ出した。この神話は、冬至の頃の弱くなった太陽の霊魂を招き返し活力を与えようとする鎮魂祭の儀式を描いたものだ!」

 

 幸雅は、途中からウルスラグナという存在を焼き尽くすのではなく、彼を構成する化身を一つずつ潰していく方向へと戦術を転換した。

 ウルスラグナ十の化身、『強風』『雄牛』『白馬』『駱駝』『猪』『少年』『鳳』『雄羊』『山羊』『戦士』。

 すでにこの内、『強風』『雄牛』『少年』の化身は焼き滅ぼされた。

 

 対する護堂も、遅まきながらその思惑を見て取り、対策を施した。

 頭上で傘のように展開する『剣』の数を増やしたのだ。そして『剣』に注ぎ込む言霊を強め、切れ味を上げる。

 それによって、幸雅の光のほぼ全てはシャットアウトされるようになった。

 

 委細構わず、幸雅もまた光の出力を上げる。

 護堂からの攻撃がなくなった分、向かってくる『剣』を迎え撃つための力を残しておく必要がなくなったのは、逆にありがたい。

 遠慮なく狙いを絞って、護堂の立つその一点のみを集中攻撃する。

 少しずつ焼かれて灰となっていく『剣』。

 

 さらに防御力を上げて対応しようとするも、もはや焼け石に水。

 護堂が言霊を注ぐごとに、光の出力も上がって行く。

 防戦一方の状況では、敗北は確実。そう悟った護堂は唇を噛み締め、一つの賭けに出る覚悟を決めた。

 防御のための呪力を使うことをやめ、今ある『剣』に賭ける。

 

「ぐっ……!」

 

 たちまちのうちに傘の数か所が破られ、木漏れ日のように降り注いだ言霊の光が、護堂の中に眠るウルスラグナの神力を焼いて行く。

 それでも、護堂の瞳は虎視眈々とその機会を窺っていた。

 

「ふふっ、まさか諦めたわけでもないだろうし、何か企んでいるのかな?」

 

 企んでいるのなら、それでいい。むしろ自分たち神殺しにはその方が自然だ。

 圧倒的な実力差の前にも、決して心をおらず、勝利するための方法を模索し続ける。

 それができなければ、自分たちはカンピオーネなどと呼ばれない。

 

「――言霊によって顕現せし真なる太陽よ! 汝の霊験あらたかなる光を以て真実を照らし出せ!」

 

 だから、幸雅は斟酌しなかった。

 残り少なくなってきた言霊の光を上空に浮かぶ太陽に集中させ、十分にタメを作って――次の瞬間、一気に解き放った。

 

 放たれたそれは、今までの光の比ではなかった。

 まさに神焰。万物を焼き滅ぼし、神の身すら消し去る太陽の一撃。

 もう言霊は使い切った。正真正銘、これが最後の一撃だった。

 

 この光を喰らえば、ウルスラグナの力など跡形も残さず消え去ってしまう――護堂は即座にそう悟った。

 一刻の猶予もない。護堂もまた、今の今まで溜めていた力の全てを解き放った。

 残った『剣』を、一部を残して飛翔させ、護堂の頭上でまるで巨大な長方形のような形へと組み合わせる。

 護堂を避けるように、僅かに斜めに傾いた状態で。

 

「……ッ! 護堂、君は!?」

「これが、俺の意地です、先輩!」

 

 直後、幸雅の言霊の光と、護堂の言霊の剣が真正面から激突――しなかった(・・・・・)

『剣』は、その傾斜に沿うようにして、言霊の光を横に受け流したのだ(・・・・・・・)

 

 正面から防ごうとすれば、受け止めきれずに押し切られる。

 なら、受け止めようとしなければいい。

 強肩で名を売っている打者に、わざわざ打たせてやる義理はない。とっとと進塁させてやる。

 それが、格上の相手に対して護堂の出した、結論だった。

 

 そして護堂は、驚愕している幸雅の姿に僅かな優越感を覚えつつ、残しておいた『剣』の全てを送り込んだ。

 

「いくら最高神になろうが皇室の祖先になろうが、天照大御神という女神の本質は太陽神だ! ――我は言霊の技を以て、世に義を顕す! これらの呪言は強力にして雄弁なり、勝利を呼ぶ智慧の剣なり!」

 

 護堂の放った最後の一太刀は、薄い笑みを浮かべた幸雅の痩身に直撃し――その身に封じられた天照大御神の神力を、深々と切り裂いた。



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22 もう一つの戦い

 幸雅と護堂の戦いが幕を開けた頃。

 

「再びここに赴くことになろうとはな」

 

 フクロウの化身を解き、七雄神社の境内に降り立った銀色の神に闇色の瞳を持った女神――アテナは静かに呟いた。

 先刻察知した彼女の半身ともいえる、女神の智慧の籠められた魔導書、ゴルゴネイオン。

 それを探すアテナを手助けする夜の導きに従い辿り着いたのが、ここだという訳だ。

 

 神社の中を見渡しても人の気配はない。この時間だからか、それともアテナが来ることを見越してか。

 

「どちらであろうと、妾のすることは変わらぬ。……そうであろう、異邦の神に仕えし巫女よ」

「……さすがの御慧眼でございます、女神アテナよ」

 

 アテナが視線を向けた先、本殿の脇に立っていた巫女服の少女――万里谷裕理は、緊張一色に彩られた硬い表情で恭しく一礼した。

 昨日見た他の少女、金髪と銀髪の娘は見当たらない。夫の方へ向かったか。

 

 僅かに嘆息しつつ、アテナは裕理に続けて声をかけた。

 

「見知らぬ神に仕えし巫女よ。そなたの持つ蛇の印を渡してもらいたい」

 

 静かな夜。

 向かい合う彼女たちには誰もおらず、風や木々すらも女神の言葉を邪魔しはすまいと黙り込む、静寂と沈黙に包まれた夜。

 その怪しい静けさを乱さぬ、夜風のように静かな声だった。

 

「改めて名乗ろう。妾はアテナ。ゼウスの娘にして、父を越え行く者。妾は――できれば、そなたに危害を加えたくはない」

 

 傲岸不遜な名乗りから一転、信じ難いことに、どこか懇願するような調子で、アテナは言った。

 

「そなたは味方ではあるまいが、妾の、そして旦那さまの敵でもあるまい。であれば、妾が進んで手を下す必要もない」

 

 聖なる存在の濃厚な気配が、裕理に一歩一歩近付く。

 ゆっくりと歩み寄る月明かりを浴びる女神の姿は、か細いくせに異様な力感を漲らせていた。

 煌く銀の髪の一本一本が、裕理には蛇のように見えてならなかった。

 

「もう一度言おう。妾の半身たる古き地母神の印、ゴルゴネイオンを渡してもらいたい」

「……恐れながら、彼の御印を御身にお渡しするわけには参りません」

「何故だ?」

「わたしの霊感が告げております。御身がそのお力を取り戻せば、この地に大いなる災いが降りかかることになりましょう。この地を守護する媛の名を持つ者として、それを看過するわけには参りませぬ」

 

 強大なる女神を前にして、か弱き人の子に過ぎない裕理は、強い意志を瞳に宿して強く言い切った。

 戦うための力も持たないくせに、己の意志を示す彼女の姿に、アテナは感心の息を漏らした。

 

「不遜な、しかし強き娘よな。よき心意気だ。惜しいな、このような形でなければ、我が愛し子として格別の加護を授けてやりたいところなのだが」

 

 再び嘆息。

 しかし次の瞬間には、アテナの美貌には、戦女神としての凛とした闘志が宿っていた。

 その繊手には長大な柄を持つ黒い大鎌が。冥府の女王たる彼女が好んで使う武具だ。

 

「妾はそなたらの手より《蛇》を強奪するものでもある。妾の申し出を撥ねるのであれば、そなたは妾の敵となろう」

 

 本心で言えば、気が進まない。

 彼女の旦那さまである神殺し・御神幸雅は、いつも偽悪的なことを言うくせに、その心根は優しすぎるほどに優しい男なのだ。

 だがそれと同時に、その心を押し殺して鍵をかけてしまうことも得意としている。

 もしアテナがここで裕理を傷つけたと知れば、きっと悲しんで、それでも表に出すことは絶対にしないだろう。

 

 我ながら、面倒な男を伴侶にしてしまったと思う。

 しかし、これは仕方ないことだ。惚れてしまった以上は、仕方ない。

 かつて死力を賭して殺し合い、そして救われた時から、彼女の心は決まっていた。

 

(巫女を傷付けず、《蛇》だけを奪う。それしかあるまい)

 

 幸いにも、裕理に戦闘能力はない。半端に強い戦士を相手にするような事態にはならない分、数倍楽だろう。

 

 算段を立て終えたアテナは大鎌を構え、先程から感じていた《蛇》の気配がする場所、本殿に向かって突進した。

 運動能力が皆無に等しい裕理に追い縋る術はない。

 一瞬の内に裕理を追い越し、本殿の階段に足を踏み入れようとした――ところで、バチイィッと。アテナの踏み入れた足に火花が散って、弾き返された。

 

「これは……なるほど、結界か」

 

 智慧の女神でもある彼女は、その正体をすぐに看破した。

 アテナの梟の眼はすぐにそれを認めた。この神社の本殿全体を包む広大な結界の姿を。

 一時的とはいえ、アテナ(女神)の侵入を防いだのだから、人の張ったものにしては大したものだろう。

 

 そうひとりごちながら、アテナは歩みを止めずに再び侵入しようとする。が、またもや火花が散って弾かれた。

 さすがに不審に思い、今度は両手で掲げた大鎌を結界に向かって振り下ろす。

 しかし大鎌でさえもこの結界は完全に守ってみせた。

 これは明らかに異常だ。

 

 いくらなんでも、神の力を何度も防ぐ結界など、ただの人の身で張ることなど――

 

「――そうか、神殺し。神殺しの呪力を以てこの結界を張ったのだな。妾がここに踏み入るのを防ぐために!」

 

 アテナの予測通りだった。

 この結界は、事前に神殺しである護堂の呪力を使って展開されたものだった。

 ただの人間の手によるものであれば造作もないが、同格である神殺しの呪力が使われているとあれば、そう簡単にはいかない。

 

 続けて何度も大鎌を振り下ろすアテナ。しかしやはり結界はビクともしなかった。

 仕方あるまい。今のアテナはかつての強壮なる地母神アテナではなく、その弱体化した存在にすぎない。

 神殺しの力を以て造られたものを力尽くで破壊するには、圧倒的に力が足りなかった。

 

 考え込むアテナの姿を見て、控えていた裕理がそっと安堵の息を吐いた。

 やはり不安だったのだろう。少し力を取り戻したかのように顔を上げた裕理は、見た。

 

 ニヤリと。途方に暮れた者では到底浮かべられるはずのない、獰猛な、意地の悪い笑みを浮かべるアテナの姿を。

 

「さてさて。今すぐにでもこの忌まわしき壁を叩き壊して我が半身を奪いに行きたいところではあるが、思ったよりもこの壁は堅固なようだ。参ったな?」

 

 唇の端を上げ、揶揄するように、謳うように言葉を続けるアテナ。

 

「我が仇敵たる神殺しの手によって築かれた壁、なるほどなるほど堅いのも道理だ。妾にそれが打ち破れぬのも、口惜しいがまた道理。困ったな、どうしよう?」

 

 クククッと嘲笑うような笑声を上げ、アテナは両手を広げて一度回ってみせた。

 蛇のような銀髪が風に揺れて鱗紛のような神気を撒き散らし、それが夜の闇に散っていく姿は、とても幻想的で美しい。

 おどけるように笑う彼女の仕草は、女神でありながら、とても人間臭かった。

 

「妾が思うに答えは一つ。即ち――同じ神殺しの力を(・・・・・・・・)借りる(・・・)。そなたもそうであろう?」

 

 ゆっくりとした回転を終えて、彼女は銀色の指輪の嵌まった(・・・・・・・・・・)左手の人差し指(・・・・・・・)を本殿に、ひいてはそれを包む結界に向けた。

 その指輪には、一枚の小さな()が嵌められている。

 

 媛巫女である裕理はすぐさまその指輪と、鏡の正体を悟った。それと同時に深く戦慄した。

 あの鏡こそは、天照大御神が孫であるニニギノミコトに持たせた、三種の神器の一つ。

 岩戸隠れの神話において、天照大御神自身を映し出したとの伝承を持つ鏡。

 

 その名を――

 

「八咫鏡!」

「女神アテナの名を以て日輪の力を封じし鏡に願おう――光あれ」

 

 裕理の絶叫を遮るように、鏡はアテナの呼び声に応えて光を放った。

 それはもはや一条の閃光と呼んで差支えない。

 ボッ!!、と凄まじい勢いで打ち出された閃光は結界に直撃、一撃で罅を入れてみせた。

 

 八咫鏡。これは、出発直前に幸雅がアテナに預けた万が一の時のための保険だった。

 やはり心配性な幸雅、アテナの力を借りて指輪に天照の権能の一部を封じこみ、アテナに授けていたのだ。

 

 自分がどれだけやっても傷一つ付けられなかった結界にたった一撃で罅を入れた閃光に複雑そうな表情を見せながら、アテナは二撃三撃と撃ち続ける。

 やがてその戦いにも、終わりの時がきた。

 直撃するたびにメキバキと不穏な音を立てていた結界が、ガッシャアァァァァンと、まるでガラスが砕け散ったかのような音とともに、結界が砕け散った。

 

 アテナは右手を開き、そっと本殿に向かって手を差し出す。

 するとひとりでに本殿の扉が開き、中から一枚の薄汚れたメダリオンが飛来し、アテナの手中に収まった。




 指輪がアテナの人差し指にあったのは、幸雅がヘタレたからです。


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23 彼女のために

「嗚呼、主は仰せられた。新たなる御子を創り給えと。故に我は、一にして全なる御身を讃える賛美歌を詠おう! 聖なるかな!」

 

 自身の言霊が破られて、天照の権能が封じられようとも、幸雅は慌てなかった。

 いつもの不敵な薄ら笑いを浮かべつつ、残った権能の言霊を唱える。天使創造の権能だ。

 幸雅の言霊に応じて、先程消え去った『剣』の残滓を吹き飛ばすような莫大な光が舞う。

 

『剣』が消えても尚『戦士』の化身のままだった護堂は、まだ戦いは何も終わっていないことを悟り、視線を鋭くする。

 そんな護堂の眼前に、それは現れた。

 

 天使だ。以前メルカルトとの戦闘で創造したような、最初から鎧に盾、剣を持った天使。

 それだけなら、前と何も変わらない。

 だが、この天使は大きさが段違いだった。

 公園のすぐそこに建っていたビルなど軽々と越え、優に二十メートルはあろうと言う巨体。

 その肩には、笑みを浮かべた幸雅が乗っている。

 これが、幸雅に創造できる最大級の天使だった。

 かなりの呪力を消費してしまう上に、この天使を想像して維持している間は他の天使が創れないと言う欠点もあるが、今この戦いにおいてはあまり関係ない。

 

 巨大な天使が右手の剣を振り上げたのを見て、護堂は戦慄した。すぐさま『戦士』の化身を解き、別の化身へと変える。

 正直ここまでとは思っていなかったが、これだけ巨大なものを創り出してくれたのは、逆に好都合だった。

 おかげで、あの化身を使うことが出来る――!

 

「主は仰せられた。咎人に裁きを下せと」

 

 迫りくる天使に右手を向け、護堂は囁く。

 

「鋭く近寄り難き者よ! 契約を破りし罪科に、鉄槌を下せ!」

 

 直後、公園の上空に出来た空間の裂け目から、幸雅の創り出した天使とほぼ同程度のサイズの、巨大な黒い『猪』が出現した。

 鋭く大きな二本の牙に、黒々とした毛皮、恐ろしく太い胴体を持つ、巨大な『猪』。

 ウルスラグナ第五の化身。巨大な標的を破壊したい時にだけ呼ぶことのできる獣。それが『猪』だ。

 

 オオオオオオオオンンンッッ!!

 

 出現したばかりの『猪』は雄々しい雄叫びを上げ、上空から垂直落下するように標的となった天使を襲う。

 対する天使は攻撃を一時中断し、左手に持った盾を真上に掲げて『猪』の突進を防いだ。

 ガアアアアンンンンッッ、と凄まじい轟音と衝撃が荒れ狂い、大地が震える。

 真正面から隕石のような超質量の物体を受け止めた天使は、堪らず膝を折る。その足は公園の地面を砕き、大きくめり込んでいた。

 

 衝突は数秒。やがて天使は、渾身の力を持って『猪』を弾き飛ばした。

 吹き飛んだ『猪』はしっかりと四本足で着地、獰猛な敵意を宿した瞳で天使を見据え、再び突進しようとする。

 しかしそれより先に、今度は幸雅の意志を受けた天使から仕掛けた。

 背中の翼は飾りではないと証明するかのように、金色の光を散らして大きく羽ばたき、先ほどとは逆に上空から迫る。

 

 アオオオオオオオオオオオンンンンンッッッッッッ!!!!

 

『猪』が上げた咆哮は超音波となって、空中を浮遊する天使を襲った。

 

「そなたは主へ捧げる賛美歌を詠え! 聖なるかな!」

 

 だが天使も負けてはいない。幸雅(創造主)から送り込まれた呪力を用いて、兜の下に隠れた口を開いた。

 響くのは、『猪』の荒々しい咆哮とは似ても似つかない、清浄にして荘厳な、パイプオルガンの音色にも似た歌。神へ捧げる賛美歌である。

 その賛美歌は、『猪』の超音波を綺麗に相殺してしまった。

 そして、ついに遮るもののなくなった天使は、満を持して右手に持った剣を振るう。

 

 ルアアアアアアンンンッッッ!!?

 

 悲壮とも取れる鳴き声を上げる『猪』。天使の剣を叩きつけられた背中からは、青黒い血が飛び散っている。

 その間に天使は『猪』の真正面に着地、左手の盾で『猪』の鼻面をぶん殴った。

 大きく仰け反った『猪』の体に、さらに剣を突き立てようとするが、ギリギリのタイミングで発せられた咆哮によって阻まれる。

 天使が後退した隙に『猪』も体勢を立て直し、再び突貫。

 再び轟音が鳴り響き、衝撃が撒き散らされ、牙と盾がぶつかり合う。

 

「幸雅先輩、もう止めてください!」

 

 ふと、天使から振り落とされないか戦々恐々としていた幸雅の耳に、護堂の必死な叫びが聞こえてきた。

 と言うか、さっさと降りればいいだけの話である。

 いつの間にか護堂は、『猪』の背に飛び乗っていた。黒々とした毛皮を掴んで四つん這いになっている。

 運良く天使の攻撃には巻き込まれなかったらしい。目立った負傷はなかった。

 

「こんなの――先輩、本当に悪の魔王みたいじゃないですか!」

「天使を操る魔王ってのも皮肉が効いてるねえ」

 

 おどけたように返す幸雅。その程度の非難で彼が揺らぐことはない。

 

「けど、そうだね……君から見ればこれは悪なのかもしれない。けれど知ってるかい? この世界に一概的な正義も悪も存在しない」

「善悪二観論とか聞いてませんよ!」

「茶化さないで聞きなよ。対立する主義主張があったとして、どちらかが正義だと信じて疑わなかったとしても、それは相手にとって紛れもない悪になる。所詮は正義なんてその程度さ。個々人の価値観や見る方向によって変わる不確定なもの」

 

 不思議そうにする護堂に、幸雅は苦笑を浮かべて諭すように言った。幸雅の持論を。

 黙って聞いていた護堂は、唇を噛み締めて噛み付くように反論した。

 

「でも、先輩が今してることは間違ってる!」

「なら君がしてることは正しいって? それは傲慢だよ、護堂。君は自分が今までしてきたことの全てが正しいことだと思って、そんなことを言ってるんだよね?」

「……ッ、それは……!」

「僕はアテナのためにこうして君と戦っている。君はアテナにゴルゴネイオンを渡さないために、僕を振り切ってアテナを倒すためにこうして僕と戦っている。僕は僕の正義のために、君は君の正義のために」

「…………」

「僕からしてみれば君のしていることの方が間違ってる。アテナにアレを渡したら、この世に災いが降りかかるって万里谷が霊視した、と君は言ったね」

「……はい」

「そんなことには絶対にならない」

 

 絶対、と、確信を持って幸雅は言い切った。

 何故なら、

 

「僕が止めるからだ。彼女がそんなことをする前に、僕がそれを止めてみせる」

 

 むしろ、と幸雅は眼下に広がる光景に目をやった。

 

「君が僕たちの主張を無視してこんな戦いを始めたせいで、東京の観光スポットの一つは無残に破壊されてしまった。どうだい? これでも君は僕を悪と断定する?」

「……ッ!」

 

 何も言えなくなってしまった護堂。一度口を開きかけたものの、すぐに口を噤んで幸雅を睨んできた。

そんな護堂を見下ろして、幸雅は苦笑を浮かべた。

 

「……まあ、ここまで色々と言ってきたけれど、例え自分でも悪と思っていることでも、僕はやってみせるよ」

 

 護堂はその言葉に反応し、目を見開いて幸雅を凝視してきた。

 護堂が見据える先の幸雅の顔は、怖いほどに真剣だった。

 

 

 

「彼女が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなってみせよう」

 

 

 

「けれど、彼女は僕が悪に染まっても、きっと喜ばない」

「彼女が一番恐れているのは、自分が理由で僕が道を踏み外すことだからね」

「だから僕は、例え誰に反論されようと、僕の正義を貫く」

「僕の、僕だけの正義を。ただ、彼女のためだけに」

 

 御神幸雅と言う男の根底にあるのは、たった一人の女神への、揺るがぬ愛情だ。

 アテナが自分の隣で笑ってくれること。それが、幸雅にとっての唯一無二、絶対的な正義なのだから。

 どんな存在も、どんな主張も、彼の正義を折ることはできない。

 もし、アテナが彼の愛を拒んだとしても、彼は止まらないだろう。

 一方向で構わない。独善的で構わない。片思いで構わない。

 

 ――すべては、ただ彼女のためだけに。



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24 終わる戦い

「……でも、俺は止まりません。先輩が先輩の正義を貫くと言うのなら、俺も俺の正義を貫きます!」

「やってみなよ、護堂!」

 

 共に咆哮し、己の被造物に呪力を注ぎ込む。

 牙と盾とで押し合いへし合いを演じていた天使と『猪』。

『猪』が、至近距離から天使へ衝撃波を浴びせた。

 間一髪盾を構え直したのものの、完全に勢いを殺すことは出来ずに、バランスを崩す。

 

 再び突進する『猪』。天使は盾を斜めに掲げて、下からアッパースウィングをするようにカチ上げた。

 強烈な一撃を顎にもらって苦悶しながら吹っ飛ぶ『猪』に、天使は斟酌なく苛烈な剣撃を浴びせる。

 縦横無尽に巨大な剣が空を走る度に、『猪』の全身から青黒い血が飛び散った。運良く護堂には当たっていない。

 

「おい、お前。このままやられっ放しでいいのか? 男なら、最後に一撃位入れてみせろ!」

 

 ルゥゥ、オオオオオオオオオオンンンンンンンンッッッッッッ!!!!

 

 背中からかけられた護堂の発破に、『猪』はいきり立った。

 一際強い咆哮を上げ、今度こそ衝撃波によって大きく吹き飛ばす。

 更に突進。鋭い牙で引っ掛けるようにして、天使の盾を奪い取ってみせた。

 そのまま奪った盾を、渾身の力を以て踏み躙る。

 

「はははっ、やるねぇ護堂! だけど、そっちの『猪』も限界なんじゃないのかい!?」

「そんなこと分かってますよ! ――『猪』、もういい! 後は任せろ!」

 

 力を使い尽くした『猪』は、虚空に溶けるようにして消えて行った。

 足場をなくし、そのまま墜落していく護堂。しかし、彼の表情に焦りの色はない。

 幸雅も容赦なく盾を失った天使に命令を下し、護堂を撃墜させようとした、が。

 

「――我が元に来たれ、勝利のために。不死の太陽よ、我がために輝ける駿馬を遣わし給え」

 

 背中から地面に落下しながら、護堂は右手を天に掲げて言霊を呟いた。

 同時に、夜の帳が覆う東の空が、紅く染め上げられた。

 ウルスラグナ第三の化身『白馬』。太陽を呼ぶ力の発現に他ならない。民衆を苦しめる大罪人にしか行使できないこの権能。

 東京の観光スポットの一つである公園を無残に破壊し、かつてはサンピエトロ大聖堂にもやらかしたらしい幸雅は、この条件に問題なく当て嵌まった。

 

「駿足にして霊妙なる馬よ――」

 

 古来、『馬』は太陽神と密接に結びつく獣だった。

 馬車に乗り、東から西へと空を駆ける太陽神。これは、多くの文明で普遍的に見出せる伝承である。

 ギリシアの太陽神アポロンと習合したペルシアの光明神ミスラも同様の神話を持ち、ミスラに仕えるウルスラグナが化身する白馬も、太陽を運ぶのは道理だろう。

 

「――汝の主たる光輪を疾く運べ!」

 

 光の箭が、太陽神の長槍が、天空から降る。

 幸雅と、幸雅の乗る天使と、周り数十メートルの一帯が、白い閃光に呑み込まれた。

 咎人を灼き尽くす清めの焰。遥か東の空より天駆けて、超々高熱のフレアが地上に舞い降りたのだ。

 

 その光は一切の抵抗を許さず、巨大な天使を一瞬で灼き尽くした。

 しかし幸雅はそれに巻き込まれることなく、神速の権能を発動して既に飛び去っていた。

 護堂が気付き、慌てて幸雅を探そうとした時には――幸雅は、既に護堂の後ろに居た。

 右手に顕現した霊剣・布都御霊を、無防備な護堂の背中に振り下ろす。護堂の背中から鮮血が迸り、眼下の地面に勢いよく突き落とされる。

 

 地面に強く全身を打ち付けてめり込んだ護堂だったが、思いの外すぐに戦場に復帰した。

 幸雅が追撃を叩き込もうと地面に降り立った瞬間、上がった砂塵を切り裂くような鋭いハイキックが幸雅の側頭部を襲った。

 

「――ッ!」

「らぁぁっ!」

 

 慌てて霊剣を割り込ませるも、コンクリートすら割り砕く蹴りの威力に、あえなく吹き飛ばされる。

 建御雷之男神の権能は神速と、それを使いこなすための武勇を齎すが、特に膂力に補正はかからない。

 しっかりと両足で着地して護堂の方を向くと、背中から血をダクダクと流した護堂がこちらを睨みつけていた。

 

「ウルスラグナ第四の化身『駱駝』か!」

 

 異常な打たれ強さと脚力、そして野生染みた足技のセンスを得る権能。

 護堂は幸雅の叫びに応えることもせず、随分と様になった動きで接近してきた。

 

 そして、右足を振り上げて幸雅の胴を狙ってくる。幸雅はタンッと後ろに跳んでかわす。

 追いすがるように前に跳んでからの、左足による跳び膝蹴り。見を捩って回避し、霊剣で浮いた護堂の体を薙ぎ払う。

 素早く着地して身を屈めて、幸雅の斬撃をやり過ごす護堂。間髪入れず、刈り取るような足払いをかけてくる。

 

 流れるように繰り出される護堂の攻撃の数々を、幸雅は完全に防ぎ切っていた。

 それも当然だ。いくら護堂の蹴りの威力が高く鋭いものでも、神速よりは遅い。比べ物にならない。

 幸雅は、護堂の攻撃を見てから、後出しで攻撃できるのだ。

 

 幸雅の抱える絶対的なアドバンテージに、護堂も気付いた。

 二人の距離が離れた瞬間に、地面に向かって右足を大きく振り上げて、踵落とし。

 ドゴンッ!と、壮絶な爆音を響かせて砕け散る地面。舞い上がる粉塵が、即席の目くらましとなる。

 

 だが幸雅は委細構わず、布都御霊を強く振るった。姿は見えなくとも、呪力を感じれば護堂の位置は分かる。

 感じた護堂の気配は――棒立ちだった。

 神速で繰り出される幸雅の攻撃を迎え入れるように、ただ突っ立っている。

 その中で、護堂の囁き声が聞こえた。

 

「羽持てる我を恐れよ。邪悪なる者も強き者も、羽持てる我を恐れよ! 我が翼は、汝らに呪詛の報いを与えん! 邪悪なる者は我を討つに能わず!」

 

 加速。棒立ちだった護堂が急激に後ろに下がり、幸雅の攻撃をかわした(・・・・)

『駱駝』などより遙かに速い幸雅の攻撃を回避することは出来なかったはずだ。なのに何故。

 

「『鳳』か! 超加速と身の軽さの向上の権能!」

 

 答えは簡単だ。護堂もまた化身を変え、神速を手にしたからだ。

 続けて与えた二撃、三撃も、全て見切られ、全てかわされた。

 同じ神速に至った相手に攻撃を当てるのは至難の業だ。

 

 ただでさえ、神速の状態で攻撃を的確に当てるのは困難だ。余りの速さに本人の認識が追い付かず、速度を持て余してしまう。

 だがそれは護堂も同じ。

 

 逃げる護堂に、追う幸雅。

 始まるのは、互いに神速の状態での鬼ごっこ。

 半壊した公園内を目視すら困難な速度で飛び回り、相手に攻撃を加えようとする。

 

「……くそっ!」

「君がその権能を手に入れたのはごく最近だろう? なら、まだ慣れていないのも無理はないさ」

 

 同じ速度だと言うのに、明らかに幸雅の方が護堂に追い縋っている。

 それは偏に、二人の経験の差だ。

 護堂がウルスラグナを弑殺して神殺しの魔王・カンピオーネとなったのは、つい先月。だが幸雅は違う。

 カンピオーネに至ったのが約一年前。建御雷之男神の権能を簒奪したのが、約九か月前だ。

 どちらが有利かなど、考えるまでもないだろう。

 

 焦りを露わにする護堂と、余裕の表情の幸雅。

 その差は繰り広げられている戦いの結果にも直結し――遂に、幸雅の攻撃が護堂を捉えた。

 

「うあっ!」

 

 動きを止めた護堂の胴に、幸雅の勢いを乗せた回し蹴りが炸裂する。

 派手に転がって行く護堂。それでもその瞳に宿るギラギラとした光は消えなかったが、時間の問題だ。

 もう終わることに一抹の寂しさを感じながら、幸雅は蹲る護堂に左手を翳す。その手の平には、青白い雷光が集まっていた。

 

「安心するといい。ちょっと意識を失うだけだし、君たちが想像しているような最悪の事態にはならない。あの二人の騎士にも、何もしな――」

 

 幸雅は、自分の言った言葉で気付いた。

 そうだ。あの二人、エリカ・ブランデッリとリリアナ・クラニチャールはどこに行った?

 彼女たちの性格からして、尻尾を巻いて逃げたと言うこともないだろう。

 むしろ、神殺しと神殺しと言う壮絶な戦いに割って入るタイミングを、虎視眈々と狙っているはずだ。

 

 ならば、いつ仕掛けてくる? 幸雅が最も油断した時、気を抜いた時だろう。

 そう、例えば。幸雅が勝利を確信したとき――

 

 ようやく気付きを得て慌ててその場から飛び退こうとしたが、一歩遅かった。

 地面から突如として伸びた黒い合計十三本のイバラが、幸雅の両足を雁字搦めにした。

『禁足』の命令の籠もった、リリアナの魔術。

 

 本来であれば、カンピオーネである幸雅にとって、少し呪力を籠めればそれだけで易々と引き千切れる程度の拘束なのだが、今は事情が違った。

 何故なら、目の前で蹲っていた護堂が、いつの間にか立ち上がって、幸雅に突進するような構えを見せていたからだ。

 護堂は未だに『鳳』の化身のまま。神速は問題なく使える。

 その手には、聖絶の言霊が籠められた、獅子の魔剣クオレ・ディ・レオーネ。

 

 チラリと幸雅が視線を向けた先には、僅かに疲弊した様子のエリカと、歯をきつく食い縛り苦悶の表情を見せるリリアナの姿。

 幸雅を拘束するために全力を注ぐ親友の肩を支えつつ、赤き大騎士は、己が戴く王に叫んだ。

 

「行きなさい、護堂! あと一撃で、あなたの勝利よ!」

「ああ!」

「……っ、簡単に、言ってくれる!」

 

 エリカの意気を汲んで走り出す護堂。二人の間には十メートル程度の間隔があったが、神速の前ではそんな距離、一歩で事足りる。

 余裕の表情をかなぐり捨ててどうにか迎え撃とうとする幸雅だったが、時既に遅し。

 

「うぅおおおぉぉぉっ!」

「くっ、このっ――」

 

 動けない幸雅は、迫る魔剣に為す術なく貫かれる――はずだった(・・・・・)

 

「なっ……!?」

 

 突然、幸雅と護堂の間に、闇の障壁が割って入らなければ。

 突如出現した闇の障壁は、神にすらダメージを与えることのできる言霊の宿る魔剣を、完全に防ぎ切ってみせた。

 

 グシャァァァ、と。獅子の魔剣がひしゃげて、護堂の手から離れる。

 伴って護堂の動きも止まり、護堂はその場にくずおれた。

 

 それを見届けて、幸雅は己を庇った障壁の、もっと言えばこの闇の使い手たる女神の方を見上げた(・・・・)

 

 遙かな上空。まるで蛇のような長い銀髪が夜風に揺れている。

 ギリシャ風の衣装を身に纏い、背からは梟の羽を生やし、口元に優美な笑みを刻み、闇色の瞳は爛々と光っている。

 手には彼女の司る三つの神格の一つ、冥府の女王としての彼女を象徴する大鎌。

 人間で言えば十七、八歳の、確かな丸みを帯びた肢体。幼さの抜け切ったどこか作り物めいた美貌。

 

 背後に青白い月の光を背負った彼女は、まさに女神である。森羅万象を統べる女王である。

 

 幸雅が見慣れた彼女の姿とは違う。だが、分からないはずがない。

 よりにもよって、幸雅が間違うはずはない。

 

 だから幸雅は、彼女に向けて、万感の思いの籠もった呟きを届けた。

 

「……お帰りなさい、アテナ」

 

 彼女――まつろわぬアテナも、その成長しきった美貌に、優しい笑みを浮かべて、

 

「……ただいま、旦那さま」



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第三章 老王襲来
25 次なる戦い


 お久しぶりです、侍従長です。

 もう一個の作品のほうでも言いましたが、昨日、台風で避難してました。

 ともあれ二十五話、どうぞよろしくです。


 大いなる地母の末裔。

 死と闇を従える暗黒の支配者。

 天と地と闇を統べた落魄せし女王。

 

 今、幸雅がその胸に抱き留めた女神は、そのような素性を持っていた。

 

「取り戻したんだね。君は、君を」

「うむ。世話を掛けたな、旦那さま」

「いいさ。君の為に力を振るうことに、忌避も嫌悪もない」

 

 ほとんど原形が残っていない公園の砕けた地面に立ち、二人は睦み合う。

 幸雅は成長したアテナの、ほっそりとしているくせに活力に溢れた腰と、月の光を浴びて尚輝きを増した銀髪に手をやって、きつく抱き締める。

 アテナもまた、幸雅の温もりを求めるように、幸雅の背中に伸びた腕を回して抱きつく。

 

 ……実のところ、たわわに実ったアテナの胸がモロに当たって、更にカンピオーネの本能でアテナほどの強力な女神と超至近距離で接触しているせいで、本気でアテナを襲いそうになっている幸雅だったが、流石に空気とムードを読んで何とか我慢していた。

 

「けど、本当に成長したものだね……」

「元はと言えば、こちらの方が妾の本来の姿ぞ? ……それとも、気にくわぬか?」

 

 闇色の瞳を不安そうに揺らすアテナの姿に、幸雅は慌てると共に安堵していた。

 幸雅の言葉を、反応を、いちいち窺って気を揉む彼女は、幸雅の良く知る彼女だ。

 そんなアテナの姿に、彼女は何も変わっていないことを実感して、そのことが幸雅にとって、何より嬉しかった。

 

 だから幸雅は、彼女の不安を取り除いてやるために、剥き出しの背筋を優しく撫でて柔らかな耳を弄り、最後にその額に口付けする。

 アテナと出会う以前は、テレビなどでそんなことをしている人物を目にしたら露骨に眉を顰めていた幸雅だったが、何故かアテナに対してなら幾らでも出来た。

 

 ひたすらに優しい、ひたすらに愛情の籠もった幸雅の行動に、恍惚と身を委ねるアテナの姿に身悶えしながら、幸雅は耳元で囁いた。

 

「……大丈夫。僕は君がどんな姿でも、変わらず愛せる。僕が好きなのは、アテナって言う女の子なんだからさ」

 

 アテナを、かつて神話世界に君臨した女王たる女神を、『女の子』と評した幸雅は、それに、と付け加えて、

 

「今の君の姿も、僕はとても好きだよ。どこもかしこも扇情的で、魅惑的で、理性を保つのにも苦労する。いつもの可愛い君も好きだけれど、今のとても美しくて綺麗な君も、僕は大好きだ」

 

 歯が浮き過ぎて、どこかに飛んで行ってしまいそうな台詞を、幸雅は臆面もなく口にした。

 ……やはりカンピオーネの体質で、まつろわぬ神と密着しているせいで高ぶって、色々おかしくなっているらしい。

 

 そんな甘ったるいやりとりを、『鳳』の副作用の心臓の痛みと合わせて見せつけられている護堂は堪ったものではない。

 キリキリと締め付ける痛みと、硬直する全身。ついでに幸雅と同じくまつろわぬ神との遭遇で昂る心。だがその表情には、苦悶よりもむしろ辟易したような色が宿っていた。

 

 足元でピクピクしている護堂に、幸雅もようやく気付き、

 

「……そう言えば、君も居たねえ」

 

 割と酷いことを呟き、幸雅はふとあらぬ方向に視線を向けた。

 すぐにアテナの方へ視線を戻す。

 

「ねえアテナ。これ、どうにかしてあげられないかな?」

「してやれぬことはないが……そのためには、術をかける必要g」

「悪いね護堂。やっぱり駄目だ」

 

 あらゆる魔術に対して絶対的な耐性を持つカンピオーネに術をかける唯一の方法。経口摂取。

 要するにキスなのだが、幸雅がそんなことを許容する筈もなかった。

 

 アテナの唇も、体も、心も、全て僕のものだ。

 そう言わんばかりの幸雅の態度に、護堂は非難するのも忘れて呆れた視線を送る。

 未だ倒れ伏したままの護堂の元にエリカが近寄り、そっと抱え上げる。

 

「……いつかは、あなたにも御神さまみたいなことを、囁いて欲しいものね?」

「……い、いや……あれは、無理……だろ。羞恥心で……死ぬ……」

「もうっ。どうしてそこで『もちろんだ』とか言えないのかしらね」

 

 こっちでもイチャイチャが始まった。随分と混沌とした空間である。

 それはともかく、幸雅は嘆息した。

 

「と、言うことはだ。……僕だけで対応するしかないってことか」

 

 溜め息。そして幸雅は、アテナから身を離し、先程チラッと視線をやった方向に再度目をやり、

 

「――すまないね。あまり派手な歓待は出来ないけれど許してくれよ、爺様(・・)

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 幸雅の言葉の直後、視線の先の木陰から、一人の老人が歩み出て来た。

 

 広い額と、深く窪んだ眼窩を持ち、顔色はひどく青白い。どこかの大学で教鞭を執っていると言われれ、誰しも納得するだろう。

 銀色の髪は綺麗に撫でつけられ、ひげも丁寧に剃られている。

 だがそんな第一印象を、黒く染まった白眼の部分とエメラルド色の瞳――虎の瞳が、真っ向から打ち消していた。

 痩せてはいるが、ひ弱そうな印象は皆無。背筋がすっきりと伸びており、むしろ若々しいとすら形容できる。

 

 老人の名は、

 

「なっ、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン侯爵!? バルカン半島に居らっしゃるあの御方が、何故!?」

 

 驚愕の声を上げたのは、護堂を抱き上げたエリカだ。聡明な彼女らしくもなく、目を見開いて呆然としている。

 その腕の中に居る護堂も、目を見開いて無言で老人を睨みつけている。硬直が本格的に始まって喋ることすらままならないらしい。

 

 無理もない。

 この老人は、二世紀以上前からこの世界に君臨する、最古参の魔王カンピオーネの一人なのだから。

 

「……今宵はよき夜だ。月の光を遮る無粋なものも存在せず、何よりよき闘争の気配がした」

 

 彼は、知的とすら言える声で語り出した。

 

「その気配に誘われて来てみれば――何とも見所のある若者たちが居たものだ。そして……」

 

 一度言葉を切り、ヴォバンはエメラルド色の邪眼を細めてアテナを見やった。

 

「何とも狩り甲斐のありそうな獲物が居たものだ。その必要はなかろうが、女王に対する礼儀として訊ねよう。貴女が、女神アテナだな?」

「如何にも。妾こそがアテナである。そなたも神殺しだな?」

「ふっ、やはりか。我が長きに亘る無聊。それを慰めるにはお誂えの相手だ。わざわざ極東の島国まで出向いた甲斐があったと言うものだ!」

 

 護堂たちを置き去りにして、老人は一人で哄笑を上げた。

 やはり、この魔王が日本まで出向いた理由は、アテナの存在を知ったからのようだ。

 ならば幸雅も黙ってはいられない。老魔王の視線からアテナを守るように立ち、傲然と胸を張って相対する。

 

「困るなあ、爺様。表敬訪問には、ちゃんと僕を通してくれないと。アポイントメントを取って置くのは基本だよ?」

「貴様は……」

「初めまして、ヴォバン公爵。御神幸雅だ。一応、あなたの後輩だよ」

「ふん、若造が。この私に歯向かうと?」

「あなたがアテナに手を出すと言うのであれば、そうだね」

 

 幸雅の方も、先程の護堂との一戦での疲れが色濃く残っている。

 だがその心は、湧き上がる闘争心と反骨心に猛々しく荒ぶっていた。

 

 こうして相対しているだけで分かる。この老人は、本当に強い。

 権能の数だけでなく、圧倒的な経験(キャリア)の差が存在する。二世紀に及ぶ戦歴は伊達ではない。

 

 だがそれがどうした? 権能の数? 経験の差? そんなもの、幸雅が膝を折る理由にはなりえない。

 その程度で諦めるような心の持ち主であれば、そもそも魔王になどなっていない。

 何より。アテナ(愛する女性)に手を出そうとする輩に、そう易々と負けてやる気はない!

 

「随分とアテナを庇い立てするな。貴様、その女神とどういった関係だ?」

「知らないのかい? アテナは僕の愛する妻だよ」

 

 断言する幸雅にアテナが頬を染めたが、生憎と幸雅はそれを見ることは出来なかった。

 ヴォバンは幸雅の言葉に一瞬だけ面食らったようだが、すぐに嘲笑を浮かべた。

 

「ククッ、フハハハハハハハ! 妻だと!? 我が同胞ともあろう者が、女神に籠絡されでもしたか!? まったく、随分と軟弱になったものだな!」

「籠絡された、って部分は否定しないけどね。軟弱って言うのには文句があるな」

 

 ヴォバンの嘲弄にも揺るがず、幸雅はアテナを抱き寄せた。まるでそれを誇るかのように。

 

「アテナの存在は、僕の力の源さ。――あなたこそ僕を舐めるなよ。時代遅れのクソジジイめ。山奥の別荘にでも隠居したらどうだい? 体に障るよ」

「不遜だな、小僧め。仕方あるまい。本命(アテナ)の前の肩慣らしに、貴様に魔王の何たるかを教えてやろう。精々退屈させてくれるなよ!」

 

 言って、二人の魔王は獰猛な微笑を浮かべ合った。

 正に一触即発と言う雰囲気。だがその雰囲気に、水を差す者があった。

 

「お待ちください、侯よ!」

 

 必死な声音で割り込んできたのは、青き大騎士、リリアナ・クラニチャールだった。

 ヴォバンは白けたようにじろりと睨みつけて、

 

「クラニチャールか。私の供の職務を放り出してどこに行ったかと思えば、ここで何をしている? ……まあよい。それよりも、王と王の戦いに水を差したのだ。覚悟はできているか」

 

 可哀想に、勇気ある少女は老魔王の凄みに、あえなく気圧されてしまったようだ。

 しかしそれでも勇気と声を振り絞り、彼女は暴虐の魔王への嘆願を続けた。

 

「重々承知の上で御座います。このような場所で御身らが戦えば、この程度の被害では済みません。無辜の民のためにもどうか、矛をお納めください!」

「そんなことは私が気にすることではないな。巻き込まれたくなければ勝手に逃げればよい。そのような些事に気を割く義務など我らにあるまい」

 

 少女の懇願も、魔王は一顧だにしない。

 彼を引き留める手立てを失ったリリアナは顔を蒼白にするが、意外なことに、それに助け船を出したのはアテナだった。

 先程から黙りこくったままの幸雅を抱き寄せ、凛と澄んだ声で言う。

 

「ふむ。邪眼の神殺しよ。今の旦那さまは先程の戦いで疲れ切っておる。この状態で矛を交えても、あなたが期待するような戦いは出来ぬと思うが?」

「ならば、本来の予定通り、貴女と戦うまでだアテナよ」

「妾があなたと戦う義務はないな。あなたとの間には、何の逆縁もありはしない」

「む……」

 

 彼女の語る言葉に、ヴォバンは口を噤んだ。アテナの言うことにも一理あると踏んだのだろう。

 だが納得できるものでもない。

 仕方なく、アテナはさらに条件を追加した。

 

「妾と戦いたくば、万全の状態の旦那さまを討ってからにせよ。もし旦那さまがあなたに敗れるようなことがあれば、その仇討ちのためにも、妾はあなたと戦おう」

「……よかろう。アテナよ。貴女の言葉に免じて、ここは一度引こう。――御神幸雅よ! 我らの戦い、お膳立ては若輩者がやれ、いいな?」

「全く……横暴な、魔王様だ……」

 

 幸雅が承諾の意思を示すと、ヴォバン公爵は踵を返した。どうやら本当に引く気らしい。

 その背中を幸雅たちが何も言わずに見送っていると、ふとヴォバンが背を向けたまま口を開いた。

 

「待っていろ、小僧。次に会った時が、貴様の最期だ」

 

 その言葉を最後に、彼の姿は闇の中に呑まれて消えていった。

 後に残されたのは、抱き合う幸雅とアテナ、呆然と立ち尽くすリリアナ。無言のエリカと護堂だけだった。

 

 アテナは他の全てを気にすることなく、腕の中の幸雅に労わるような声をかけた。

 

「もうよい。頑張ったな、旦那さま」

「……う、ん」

 

 途端、幸雅の全身から力が抜け、アテナにもたれかかった。

 アテナも慌てることなく、優しく抱き留める。

 

 実のところ、幸雅も既に限界だったのだ。

 護堂との戦いで用いた言霊の光。あれは元々幸雅の権能だけで行使できるものではないため、使用後に幸雅の脳髄に甚大な負担をもたらす。

 ウルスラグナ戦の時は隣にアテナが居たため、負担も小さかったが、今の幸雅は気合いだけで立っているようなものだった。

 

「ははっ……やっぱり、一人で、戦うのは……キツイ、なぁ……」

「よしよし。お疲れ様、だ。旦那さま」

「………………うん」

 

 今のアテナの外見年齢は、十七歳の幸雅とほぼ同じか少し上ぐらいだ。

 朦朧としてきた頭で、この姿で頭を撫でられるのは、なんかハマるなあ……、と。

 そんな益体もないことを考える幸雅だった。

 

 アテナもアテナで、何だか包容力のようなものが増したように思える。

 元が地母神なのでそこまで違和感はないが、母性たっぷりの様子で幸雅を抱き締めて日本人特有の黒髪を撫でつける。

 

 これから先、彼らの先には新たな闘争が待ち受けている。

 だが差し当たっては。心行くまでイチャイチャを堪能しよう。

 そう思う夫婦であった。




 さて、アテナさんはオトナの姿を取り戻しました。
 これからのストーリー、あのままの姿で行くか、こっちで行くか、どっちがいいですか?


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26 作戦会議

「あ、いらっしゃ~い」

 

 老魔王襲来の翌日の放課後。幸雅の妹、花南はドアを開けて来客を出迎えた。

 来客自体は兄から聞いていたが、改めて見ると壮観だ。

 平凡な男子高校生一人に、明らかに普通以上の水準の美少女三人。

 ただ花南は、いつもアテナと言う超絶美少女と言うか、美の化身(幸雅談)を見慣れている為、呆然と見惚れるとかそういうことはない。

 

「え~っと、護堂くんと、万里谷さんと、エリカさんと、リリアナさんだよね? どうぞどうぞ上がって上がって~。お兄ちゃん待ってるよ~」

 

 客人を一人一人確認しつつ、朗らかな笑顔で入室を勧める。

 これからのことを考えて惨憺たる気分だった彼らだったが、花南の笑みを見て思わず肩の力が抜けてしまった。

 

「あー、お邪魔します」

「お邪魔いたします」

「ご丁寧にどうも。花南さま」

「感謝します、花南さま」

 

 ちなみに、エリカとリリアナの対応が丁寧だったのは、花南が幸雅の――『太陽王』の実の妹、正真正銘の王妹殿下であるからだ。

 だがエリカは内心不思議に思っていた。

 王妹と言えば、護堂の妹である静香もなのだが、彼女相手には特に敬語や畏まった態度が必要だとは思えなかったが、何故か花南にはいつもの態度が取れなかった。

 リリアナは――まあいつも通りか。

 

 ともあれ、幸雅に招かれた四人は、御神家に足を踏み入れた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 御神家に足を踏み入れた四人は、早速後悔しそうになっていた。

 リビングに招かれた四人だったが、そのリビングにあったのは、

 

「あ~~~~。極楽だなぁ~~~~~~」

「ふふっ。甘えん坊め」

「いや~。何って言うかさ~。甘やかしてもらうって言うのもいいな~って。……アテナ~」

「あっ。こら。まったく、仕様のない……んっ」

 

 広い絨毯の上で、成長した姿の女神さまに膝枕してもらって、花南に匹敵するレベルののんびりした雰囲気を醸し出す魔王様の姿だった。

 

 即座に回れ右したくなった四人だった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「いやー、面目ない。正直言って、まだ辛くてね」

「お兄ちゃん、今日学校休んでたからね~」

「使っただけじゃなく、護堂にぶった切られちゃったからね。そのフィードバックと言うか、そう言うのもあってもう体がだるいのなんのって」

「……何かすいません」

「気にするなって」

 

 数分後。ようやく膝枕から復帰した幸雅は、リビングのソファーにアテナと並んで座って、自分が呼んだ四人と向き合っていた。

 それでもなお、寄り添う、と言うよりひっつく、と言った方がいいレベルで密着していたのだが、まあ御愛嬌。

 

 招かれた四人はさりげなく視線を逸らしながら、早速本題に入った。

 

「あの、申し訳ありません、御神王。今日お招きいただいたのは、ヴォバン公爵への対応に関する話し合い、と言う理解で相違ありませんでしょうか?」

「うん、そうだね。けど、いい加減にそんな堅苦しいしゃべり方はよしてくれないかな」

「で、ですが、羅刹の君、王であらせられるお方に対して礼を失するような……」

「巫女よ。これはそなたの言う『王』の命であるぞ? それを断るというのも、十分に不敬だ」

「……わ、分かりました。仰る通り、態度を改めます。よろしくお願いします、御神……さん」

「うん、宜しく万里谷。……さて、じゃあ万理谷の言った通り、今回の集まりはあの爺様についてなんだけど……」

 

 幸雅が口を開いたところで、不意に来客を知らせるチャイムが鳴った。

 同席していた花南がパタパタと玄関へ向かう。姿を現したのは、

 

「やー、お待たせしました皆さん。上司から資料をもらって来るのに手間取ってしまって……」

「いらっしゃい、甘粕さん」

 

 よれた背広に眼鏡の青年。正史編纂委員会のエージェントにして忍びの権威、甘粕冬馬である。

 

「草薙さんには昨日お会いしましたね。お久し振りです、御神さん、アテナさ……ま?」

 

 瓢げた様子で挨拶をする甘粕だったが、アテナに視線を向けたところで、カクンと顎を下げた。

 無理もない。彼の知るアテナと、今のアテナは違い過ぎる。

 

「甘粕さん。このアテナもアテナだよ。と言うか、こっちが本来の姿」

「はぁー、いや、申し訳ありません。お久し振りですアテナさま。随分とお綺麗になられて……」

 

 前置きもここら辺に。役者も揃ったところで、今度こそ本題である。

 ……と言うか、先程の幸雅は甘粕を完全に無視していたわけだが、誰もそこにはツッコまなかった。

 

「まずはこれをご覧ください。あの公爵様に関する、委員会(ウチ)が仕入れたレポートです。と言っても、その大半がグリニッジの賢人議会の情報をまとめただけのものですがね」

「ああ、ありがとう。さってと、えーなになに?」

 

 人数分コピーされている紙の束をそれぞれ手に取り、目を通す。

 ヴォバンが住まいとする欧州出身のエリカとリリアナの二人、そしてアテナはほとんど流しただけだ。

 

「『貪る軍狼(Legion of Hungry-wolves)』『ソドムの瞳(Curse of Sodom)』『死せる従僕の檻(Death Ring)』『疾風怒濤(Sturm und Drang)』……」

「厄介そうな権能のオンパレードじゃないか……」

 

 裕理が読み上げた侯爵の権能に、同じ内容に目を通していた護堂が呻き声を上げた。

 

「侯爵が好んで使うのは、『貪る軍狼』と『疾風怒濤』、『死せる従僕の檻』だと言われているわね」

「無数の狼を呼び出す権能と、嵐の権能、『死せる従僕の檻』は、ゾンビを操るものだとお考えください。その一体一体が並の強さではありませんが」

「何でも、あの方が以前に命を奪った名のある戦士たちを、ゾンビにして使役しているそうよ」

「なるほど、趣味が悪いね……」

 

 エリカとリリアナからもたらされた追加情報に、幸雅も頭痛を強めた。

 以前幸雅が戦ったことのあるまつろわぬ神や神殺したちも十分厄介だと思ったが、これは輪をかけて酷い。と言うより胸糞悪い。

 

「さすが、羅濠教主のライバルだけはあるねぇ……。教主も教主で酷かったけど」

「え? 御神さん、中国の教主様とお会いしたことが?」

「あるよ。それどころか殺し合った」

「え!?」

「それより、今はこの爺さんのことを話そうじゃないか」

 

 二ヶ月前の、あの麗しき神殺しとの泥沼の戦いは、もう思い出したくもないので話を進めることにする。

 

「ヴォバン公爵がカンピオーネとなられたのは、グリニッジの賢人議会が発足より前ですから、あまり詳しい情報はないようですが、『貪る軍狼』は、北欧神話の魔狼、ガルムに由来する権能だと言われています」

「ガルム……フェンリル、だったか? 顎を開いたら天につく、って言うアレか。確かオーディーンを喰ったんだろ?」

「はい。そして、『ソドムの瞳』は、ケルト神話の魔眼の王バロールのものだ、と言うのが通説ですね。それ以外のものは、分かりかねますが……」

「ふぅん……アテナ。君からは何かある?」

「ふむ……」

 

 幸雅が水を向けると、アテナは少し考えてから、

 

「まず、この『ソドムの瞳』とやらは考えなくともよい」

「ん? ああ……生き物を塩に変えるってやつか」

「うむ。どうやら(メドゥサ)の邪眼とは違い、命ある者にしか効かぬようだ。何より、あなた方神殺しをも塩漬けにするほどの威力はない」

「へえ」

「ついでに言えば、そこの娘らが言った神は、どちらも全く違う神だ。狼の権能と言われてかの魔狼を思い浮かべるのも分かるが、ちと安直よな」

「そうなのか……って、アテナ? 君、もしかしてあの爺さんの権能、分かってるの?」

 

 当たり前のように並べられて思わず流していた幸雅だったが、流石に気付いた。

 全方位から向けられる驚愕の眼差しに、アテナは澄まし顔で頷いて、

 

「無論だ。視た(・・)からな」

「ああ……昨日会ったか」

 

 アテナの持つ霊視の権能に、世界中の神々の智慧。

 考えてみれば、接触しただけで霊視を受け取れる彼女が、気付いていないはずがなかった。

 もしかしたら、甘粕を呼んだのは、完全に意味がなかったかもしれない。

 

「他の権能のことも分かってるの?」

「うむ。あの神殺しの持つ六つの権能、全てな」

「さすがだねぇ……」

「そうであろう。よく労え」

「うんうん。凄いなあ、偉いなあ」

 

 僅かながら胸を張って得意げにするアテナの髪を、そっと撫でてやる。

 すると、もっともっとと言う風に髪を擦りつけて来たので、もっと撫でてやる。ついに命令してきた。

 もちろんこの可愛らしい命令に従わない理由などありはしない。

 無上の愛情をこめて撫でる。

 猫のように目を細める姿がとても愛らしい。

 

 甘粕は心得たもので、いつの間にか視線を外していた。

 リリアナと裕理は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして顔を逸らし、だが興味はあるようでチラチラと窺って。

 護堂はエリカから向けられる物言いたげな視線に気まずそうにして、と。

 なかなかに渾沌としてきた御神家のリビングであった。

 

 花南は春風駘蕩にニコニコ。ニコニコ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「まあとりあえず、クラニチャール。あの爺さんには、今日の夜って言っといて。場所はそちらに任せるって」

「承りました」

 

 そろそろ日が暮れる、となったところで、幸雅は玄関口にて、伝言役として来ていたリリアナにヴォバンへの言伝を頼んで帰らせた。

 一まず息を吐いた幸雅に、護堂が訊ねて来た。

 

「あの、先輩。今日の夜でいいんですか?」

「ん、ああ。それね。できるだけ早い方がいいんだ」

「え?」

「まあ、今回君に担当してもらう仕事にも関係してくるんだけど……」

 

 言って、幸雅は携帯を取り出して、昨日受信したメールを表示して護堂に手渡す。

 隣に居たエリカと裕理と一緒に覗き込んだ護堂は、その二人と合わせて驚きの声を上げた。

 

「なっ、マジかよ!?」

「そんなっ、侯爵のみならず、あの方まで……!?」

「ねえ、もしかして、裕理が霊視した災いってこのことではなくて?」

「そ、そうかもしれません……」

 

 以前にも幸雅が発した疑問を口にするエリカ。裕理も否定することも出来ずに、気まずげに眼を逸らすだけだった。

 幸雅も溜め息を堪えて、

 

「分かるだろう? 僕と爺さん、カンピオーネ同士の対決に、あの馬鹿が絡んでこないはずがない」

「「…………」」

 

 沈黙する、あの馬鹿の人となりを知るエリカと護堂。まだ会ったことのない裕理は戸惑うばかり。

 三者それぞれの反応を見て、幸雅は改めて護堂に要請した。

 

「と言う訳でさ、護堂はアイツが絡んできた時に、そっちをお願いしたいんだ。頼めるかい?」

「……分かりました。でも、それならおれ、今集められた意味ってなかったんじゃ?」

「そんなことはないさ。考えてもみなよ、あの馬鹿のことだから、『せっかく四人も揃ってるんだから、乱戦と行こうじゃないか!』とか言いそうじゃない?」

「…………です、ね」

 

 護堂は、頷かざるを得なかった。

 

 ともあれ、これで作戦会議(ちゃんと成り立っていたか甚だ疑問)は終了。

 去っていく三人を見送った幸雅は、ふと曇天の空を見上げた。

 

「……嵐が来そうだね」

 

 苦笑気味に幸雅の呟く声には、確信がこもっていた。

 

 ――数時間後に始まる、地上最強の戦士・カンピオーネ同士の闘争。

 それは、世界中に猛威を撒き散らす超特大のハリケーンと、相違あるまい。

 今日で東京が終わらないことを、祈るのみであった。



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27 女神の想い

 この作品ではお久しぶりです、侍従長です。
 最初らへんは主人公が馬鹿になってます。


「それじゃアテナ! キスしよう!」

 

 護堂たちを見送り、家の中に戻ってきた幸雅はリビングで寛いでいたアテナを見るなり、満面の笑顔でそうのたまった。

 

「………………」

 

 アテナはこれ以上なく冷たい視線を夫たる男に向けて、すぐにテレビに視線を戻す。

 無視の構えだった。

 

「あ、私宿題してこようっと~」

 

 白々しい言葉を残して、花南が二階に消えていった。逃げた。

 

 残された二人だったが、幸雅は両手を広げて笑顔を張り付けたまま固まり、アテナはソファーでクッションを抱えてテレビに見入っていた。

 そのまま数分が経つ。聞こえてくるのは、テレビの音と、時たまアテナが身を捩る衣擦れだけ。

 ようやく再起動した幸雅が、慌てたようにアテナに詰め寄った。

 

「いや、いやいやいやいや、何で無視するのさ、酷いじゃないか!」

 

 自分の正面、つまりテレビとの間に入ってきた幸雅を鬱陶しげに見やった彼女は、いかにも気が乗らないといった様子で口を開く。

 

「……何だ、旦那さま? 妾は忙しいのだが?」

「忙しいって、テレビ見てだらけてるだけじゃないか」

 

 大人の姿に成長したアテナに冷たい目で見下されるのは、何だかゾクゾクする……いや何でもない。

 

「今から僕は戦いに行くんだよ? それならもちろん、言霊の光が必要になるし、その知識を得るためには君に教えてもらわなくちゃならない」

「だから?」

「キスしよう、アテナ!」

 

 もはやジトッ、どころか、ギロッという眼光になった。本当に石になりそう。

 アテナは深々と溜め息を吐くと、

 

「……そもそも、妾はあまり気乗りしない」

「何が?」

「あの神殺しは、強大だ。かつて中華の地で出会ったかの女帝に匹敵するほどの」

「君がそこまで言うほどか……」

 

 彼女の淡々とした声での見通しに、幸雅は思わず唸る。

 そんな幸雅を見ても、アテナはますます表情を曇らせた。

 

「それを聞いても、あなたは戦いに赴くのであろう?」

「もちろん。あの爺さんともそういう約束だったからね」

 

 というか、その約束を取り付けたのはアテナの筈だ。

 すでに動けなかった幸雅に代わって、まず幸雅と戦い、幸雅が勝てなければアテナが代わりに彼と戦う。

 その妥協案を打ち出したのは他ならぬアテナ。だというのに、今更何を。

 

「……あの時は、あなたの意を汲んでああ言ったがな。今では、あれは間違いだったのではないか、と思っている」

「間違いって……僕が、あの爺さんに負けるって?」

「………………」

 

 アテナは答えなかった。ただ、その秀麗な美貌を憂いに曇らせて眼を逸らすのみ。

 それは肯定に等しい。無言の肯定だ。

 何となく不愉快になる幸雅だったが、黙って続きを待った。

 

「ここで妾が何と言おうが、あなたは止まらないのは分かっている。たとえ妾があなたに知恵を授けなかったとしても、あなたはそれでも行く。あなたに寄り添ってきた妾だからこそ、それが分かる」

「そうだね。彼が狙っているのは君なのだから、僕は行く。僕は君を守りたい。君を失いたくない」

 

 失いたくない。幸雅が放った言葉で、あたかも自らが傷を負ったように、アテナは表情をくしゃりと歪めた。

 有体に言って、泣きそうな顔、と表現するのが正しい。

 まったく予想外の表情を見せたアテナに、幸雅は動揺して咄嗟に動けない。

 膝立ちになって彼女の顔を窺うが、それより先に、アテナの方から幸雅の背中に手を回し、胸に額を押し付けてきた。

 

「アテナ……?」

「……失いたくない、とあなたは言うがな。それが、あなただけだと、思っている、のか……?」

 

 弱々しい、嗚咽すら混じった声に、幸雅は虚を衝かれると同時、心臓に杭が刺さったような痛みを覚えた。

 

「妾だってそうだ。失うのはいやだ、絶対にいやだ。あなたを、あなたから得た愛情を、あなたから教えてもらった、この身を焦がす熱を、妾はなくしたくない、手放したくない。あなたから離れたくはない、あなたとずっと一緒にいたい……!」

 

 彼女は幸雅の胸に顔を埋めているため、どんな表情をしているのかは分からない。

 それでも、きっと泣き崩れているであろうことは、分かる。胸元が徐々に湿ってきているのを考えれば、明白だ。

 だからこそ、彼女の言葉が、紛れもない彼女の本心であることが、分かる。

 

「どうすればいいというのだ? あなたを失って、あなたが妾の前から居なくなってしまえば、妾は、妾の胸にあるこの想いは、一体どうすればいいというのだ……っ?」

 

 幸雅には、何も言えない。アテナに、これだけのものを溜め込ませてしまった幸雅には、何も言えない。

 

「覚えているか? 一か月前、中華の地であなたが妾のいない所で、武の神殺しと相対したときのことを」

「……ああ。覚えてる。君が慌てて駆けつけてくれたおかげで、僕はギリギリ生き残れた」

「そうだ。妾が来た時にはもう、あなたは瀕死だった。死に体だった。そんなあなたを見て、妾がどんな思いだったか、あなたは考えたことはあるか……っ」

 

 ぽかぽかと小さな拳で胸板を叩かれる度に、鋭い痛みが走る。痛い。心が、痛い。

 けれど受け入れなければならない。この痛みがなければ、幸雅は彼女の想いを知ることが出来ない。

 

 きっと、ずっとだったのだろう。幸雅が彼女のいない所で強敵と相対する度に、彼女はその不安を抱えてしまっていたのだろう。

 幸雅を、失ってしまうという、不安を。

 幸雅がアテナを失う、そう考える度に抱いてきた、言いようのない恐怖を。

 

 幸雅がその喪失に怯えているのと同様に、アテナもまた怯えていたのだ。

 始めて誰かの愛を受けて、自分もまた誰かへの愛を知った彼女は、その愛を失うことを、酷く恐れた。

 

(僕の、責任だ……っ)

 

 悪いのは、紛れもなく幸雅だ。

 アテナを守ると散々口にしておきながら、アテナの気持ちまで考えてやることをしなかった、幸雅だ。

 今ようやくそのことを自覚した幸雅は、忸怩たる思いに唇を噛み締めた。

 

 幸雅は、少しだけ広くなって、けれど今は前よりずっと小さく見える肩を、ギュッと掻き抱いた。

 いつものように壊れものを扱うようにではなく、グッと思いっ切り力をこめて、胸の中に抱きすくめる。

 

「ごめんよ、アテナ。ごめんよ、ごめんよ……!」

 

 もう幸雅には、謝ることしかできない。ひたすらに謝罪して、許しを乞うしかない。

 そして、誓うしかない。

 ようやく顔を上げてくれたアテナに、その頬を伝う涙と、泣き腫らして赤くなった瞳を見据えて、胸の痛みを堪えながら、

 

「僕は、君を守る。これからも、君のために僕は戦って……そして、必ず生き残って、君の許へ帰ってみせる。必ず、君を再び抱き締めてみせるから……、だから……っ」

 

 アテナは、幸雅の言葉を遮るように、その唇に、己のそれを重ねた。

 目を見開く幸雅の胸元に、もう一度顔を埋めて、ポソリと呟いた。

 

「……約束だぞ」

「……うん、約束だ」

 

 顔を上げたアテナと見つめ合い、微笑み合って、唇を重ねる。

 最初は軽く、唇を触れ合わせるだけ。戯れのように、触れては離れて触れては離れてを繰り返す。

 次第と激しさを増し、互いの舌が触れ合い始めた。

 

「……ん、ふぅ、……ぁ、くちゅ、はぁっ……」

 

 成長した姿のアテナとキスをするのはこれが初めてで、今更のように動悸が激しくなってきた。

 そんな幸雅の緊張ともつかない興奮に気付いたのか、アテナは一度唇を離してから、妖艶に笑って舌なめずりをした。

 見慣れた、幼げな美貌ではなく、大人の色気を醸し出したこの美貌でやられると、背筋がぞくっとする。

 一瞬、呆然と見蕩れていると、

 

「んむっ!? ちょ……アテ……ぐぅ」

 

 いきなり、再度唇を奪われた。

 目を白黒させている内に、幸雅の口内にアテナの舌が侵入してきて、幸雅の舌を絡め取った。

 二人の合わさった口腔内で、唾液と唾液が混ざり合い、くちゅくちゅという淫靡な水音が反響する。

 

「れる、ぅむ、ぁふ……くちゅ、れちゅ……ちゅぴっ……くちゅるっ……ん、ぺろ、れろれろ……」

 

 やがて幸雅の舌は解放されたが、アテナの舌は未だに幸雅の口内を貪り尽くすように舐め回していた。

 それでも脳裏に数柱の神々の知識が蓄積していっている辺り、本題を見失ってはいないらしい。

 流石と言おうか、寂しいと言おうか。

 

 歯と歯茎を順に舐められる快感に陶酔するしかなかった幸雅だったが、それを続けるアテナも負けず劣らず表情が蕩けていた。

 今やアテナはソファーから身を投げ出すようにして幸雅に覆い被さり、二人の間を遮るものは、お互いの服以外には何もない。

 幸雅の胸板で押し潰されて卑猥に形を変える豊満な乳房、擦り付けられる肢体から漂う芳しき香り、徐々に熱く火照っていく体温。

 その全てが、幸雅の意識を目の前の女神一色に塗り潰していく。

 

 だが、やがて幸雅はある疑問に直面した。

 

(舌が……長い……?)

 

 そう、幸雅の口内を蹂躙するアテナの舌が、明らかに長いように思える。

 成長したのだし、ある程度は長くもなっているのだろう。だが、それでは説明できないほどに長い。

 まるで、彼女が司る蛇のように。

 その長い舌が、幸雅とのキスに夢中になって動き回っている――

 

 瞬間、幸雅は異常な興奮を覚えた。

 押し倒されて陶然と受け入れるばかりだったのを、アテナの細い肩を掴んでお互いの上下を交換し、今度は幸雅が上から覆い被さる。

 いきなりのことに驚くアテナに何も言わず、幸雅は半開きになったその唇を強引に奪った。

 

「んぁっ……ふっ、ぅんむ、んんん? ……ん、にゅぅ、ぁ、ぁ、ぁ……っ」

「じゅうっ、じゅるる……ちゅるっちゅ、じゅるるる……」

 

 舌を舌で絡め取り、唾液と一緒に思いっ切り吸い上げる。

 アテナが幸雅の下でがくがくと痙攣するが、幸雅は上から押さえつけて取り合わない。

 身を捩るのを腕力で無理矢理制して、行為を続ける。

 高ぶってきたアテナは、こうすると喜ぶと知っているからだ。

 

 

 ――ちなみにだが。

 本番の行為の最中は、基本的に幸雅が徹底的に責める。攻める、ではなく責める。

 彼女の羞恥を煽ったり、自分からさせたりなどするとそれはもう悦ぶのだ。喜ぶ、ではなく悦ぶ。

 割とMなのだ。蛇の女神だからだろうか、ねちっこいのがお好きなようだ。

 本人の前では絶対に言わないが。

 

 

 というわけで、今回も幸雅は遠慮なく責めた。

 さっきまで強気だったアテナをねじ伏せて、完全に蕩けてしまうまで。

 幸雅も幸雅で割とSの気があるので、毎度お楽しみなのである。

 

 そうして二人は、十分な知識を得てもなお、長々と睦み合いを続けたのだった。

 この一時間ほど後(・・・・・・)、リビングに戻ってきた花南は、思わず素でこう叫んだという。

 

「え、ちょ、お兄ちゃんたちまだやってたの!?」



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28 ヴォバン

 お待たせしました。バーサスヴォバン、始まります!


 夜九時頃、幸雅は、六本木界隈の都心にある小さな小学校の校庭に立っていた。

 都心の学校なので決して敷地も校庭も広くはないが、ここならカンピオーネが大暴れしても問題は少ないはずだ。

 

「……全く、派手な演出をするな、あの爺様は」

 

 幸雅はぐっしょりと濡れた衣服と靴に溜め息を吐いて、真っ黒に染まった空を忌々しげに見上げた。

 彼がここに来る一時間ほど前から、東京一帯を時期外れの台風が襲っていた。台風というよりは、嵐。

 激しい雷雨と暴風。最初は小ぶりだったのが、数分もしないうちにこうなってしまった。

 

 何故かなど考えるまでもない。幸雅の対戦相手であるデヤンスタール・ヴォバン侯爵の仕業に違いない。

 

「風伯、雨師、雷公……侯爵が倒した嵐の神様か。メルカルトとはまた違う要素を持てるんだったっけ……」

 

 アテナからもらった知識を反芻していると、ゴロゴロと雷鳴が轟いた。

 かなり近く、小学校の敷地内に落ちたらしく、すぐ近くで紫電が弾けた。叩きつけるように降る横殴りの雨が幸雅の肌を叩き、容赦なく体温を奪っていく。

 

「来た、か」

 

 灰色の影が現れたのは、その直後だった。

 激しい雷雨の中を走る影――それは、よく見れば狼の姿形をしていた。

 濃いネズミ色の体毛を持つ、馬かと見まがうほどの巨躯の狼たち。その数、目測で百匹ほど。

 

「狼――猟犬がわりのつもりかい? つまらないものを出してくれる。……聖なるかな」

 

 焦るでもなく幸雅は冷静に呟くと、天界の書庫番たる天使の聖句を唱えた。

 たちまちの内に黄金の光が煌めき、幸雅を囲むようにして三体のフル装備の天使たちが出現した。

 チラリと視線を向けてそれを確認し、幸雅はいつの間にか手にしていた建御雷之男神の霊剣・布都御霊を無造作に振るう。

 

「殲滅しろ」

 

 創造主の命令に従い、天使たちは狼の群れへと突貫していく。

 いくらカンピオーネが創り出した獣と言えど、あれだけの数だ。強さは端的に言って雑魚。三体に絞ることで一体一体の質を増した幸雅の天使たちには敵わない。

 視界を埋め尽くさんばかりだった狼の群れも、切り裂かれ、押し潰されて、引き千切られて消えていった。

 

 その光景を無感情に眺めていた幸雅だったが――狼の群れの後ろからのそのそと歩み出てくる魔性の者たちの姿を認めて、表情を険しくした。

 それは狼などではない。かつてヴォバン侯爵がその命を奪い、己が手駒とした勇敢なる勇者たち――死せる従僕だ。

 彼らが手にしているのは剣や槍、斧といった古典的武具。

 彼らが纏っているのは鎖帷子や、騎士団の紋章を刻み入れた装身具の数々。

 およそ四十人前後のゾンビたちが、列をなして迫っているのである。

 

「天照す輝きの欠片たちよ、戦場に赴く我の先駆けとなれ」

 

 幸雅の動きは速かった。

 即座に状況を判断して天照大御神の権能を発動、数十の光球を顕現させる。

 一切のタイムラグなく撃ち出されたそれらは、回避すら許さずに従僕たちに激突すると同時、内部に溜め込まれた熱量を一気に爆発させた。

 校庭のそこかしこで轟音が鳴り響き、地面がぐらぐらと揺れる。

 

 だが幸雅はその結果に斟酌しなかった。

 厳しい表情のまま幸雅が見上げたのは、幸雅が背にした校舎の屋上。

 

「しもべたちに全部任せて自分は高みの見物を決め込むとはね、臆病風にでも吹かれたかい?」

「ククッ、中々に面白いことを言うな、若造。だがそれでこそ、アテナを娶り私の敵となり得る素質の証明か」

 

 雷鳴が轟き、風が唸りを上げる。雨が激しく大地を打つ。それらの騒音を無視して、デヤンスタール・ヴォバンの声は届いた。

 悠然と下界を見下ろす魔王は、どこまでも傲岸そのものだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「お久しぶり、とでも言おうかな? まだ一日しか経ってないけど」

「我らの間に挨拶など不用であろう。我が従僕たちを手早く屠ってみせた手際は認めてやろう。だが、私があれらと同じように行くと思うなよ?」

 

 言われなくとも分かっている。声に出さずに頷き、幸雅は身構えた。

 

「さあ、せいぜい跳ね回って、私を楽しませろ」

 

 ヴォバンが腕を振り上げると同時、闇の中から何十匹もの狼が泡のように湧き出てきた。

 幸雅は思わず顔を顰める。狼の一体一体は大した脅威ではないが、これだけの数を何度も召喚されると、堂々巡りにしかなるまい。

 舌打ちを堪えて、今までずっと雷電を溜め続けてきた霊剣を、両手で振り上げる。

 

「高倉下を討ちし稲妻よ、我が剣の許に集いて、我が恩敵を誅殺せしめよ!」

 

 そして、振り下ろす。日本神話最強の武神の力を雷へと変えて、一気に解き放ったのだ。

 荒れ狂う紫電はやがて巨大な刃の形となり、地面を削りながら突き進み――

 ドゴォォォッ、という轟音を残して、校舎の一部ごと狼の群れの一角を消し飛ばした。

 幸雅とヴォバンを遮っていた狼たちが消滅したことで、何も気にする必要はなくなった。

 

 すぐに雷の権能を神速移動のためのものへと回し、今度は自分から遥か上に位置する老王に向けて突進する。

 天を駆ける稲妻に等しい速度で、幸雅は屋上へと一瞬で移動して、瞬く間にヴォバンの背後を取った。

 攻撃に移るために全身に纏っていた稲妻を消し去り、右手の霊剣をコートに包まれた背中に突き立てようとするが、

 

「……ぐあっ!?」

 

 侯爵の背中から放たれた暴風と雷撃が幸雅を打ちのめした。

 ロクな受け身も取れず、屋上のコンクリートの床をゴロゴロと転がる幸雅。カンピオーネとしての非常識な頑丈さのおかげで骨折などはなかったが、それでもじんじんと痛みが苛む。

 雷撃によって神経が痺れて、起き上がることすら難しい。

 

「無限に生まれる従僕どもを無視して、それを操る私自身を狙うその機転はよし。だが詰めが甘いな。神速とやらは確かに速いが、リスクが大きい。いつどこを狙ってくるのかさえ分かっていれば、迎撃は容易い」

「ご忠告……痛み、入るね……!」

 

 老王の嘲弄混じりの言葉に、幸雅は無理矢理笑みを作って答えた。

 

 簡単に言ってくれるが、分かっていてもそれをなすのは決して簡単なことではない。少なくとも幸雅は、絶対に成功させる自信はない。

 だがヴォバンはそれをやってみせた。しかも、幸雅に背を向けたまま、完全に迎撃してみせた。

 これに戦慄せずしてどうする。

 

(さすが……やはり、二世紀分のキャリアは伊達じゃないか……!)

 

 不敵な笑みを何とか維持しながら、幸雅は焦燥を自覚していた。

 幸雅が倒れ伏している間に追撃がなかったのは、侯爵の油断や慈悲といったものなどではない。

 幸雅が鋭く見据えている先、新たに闇から現れた死せる従僕たちを見れば、一目瞭然だ。

 若き魔王の奮闘を正面から叩き潰し、確実に狩り取ろうとしている。

 

(ああ、まったく……敵ながら、尊敬を禁じ得ないね)

 

 格下だからという侮りはあっても、決定的な油断はない。しかもヴォバン公爵は幸雅を倒した後のアテナとの戦いに備えて力を温存しているだろう。

 それでもなお、この差だ。もはや笑うしかない。

 分かってはいたが、力の差が大きすぎる。

 

 だが、諦めるわけにもいかない。

 ここで幸雅がヴォバンに敗れれば、ヴォバンは次にアテナと戦う。

 抜け目ない孤狼のようなこの男の牙を、アテナに向けさせるわけにはいかない。

 そして何より、約束したのだ。必ず勝利し、そして生きて帰ってくると。

 

 体は満足に動かず、目前からは物言わぬ従僕たちが迫り、さらにその後ろにはもっと怖い魔王が控えている。

 

(ほんっと、イヤになるなあ、まったく……!)

 

 心の中で愚痴を吐き捨てながらも、それとは正反対に、幸雅の口元はひび割れるような微笑を刻んでいた。



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29 神殺し四人

 更新、大変遅くなりました。すいません。


「……くっ!」

 

 襲い来る死せる従僕の攻撃を紙一重でかわし、幸雅は顔を顰めた。

 未だ全身の痺れは取れていない。カンピオーネの肉体ならもう少しで回復するだろうが、それまでは我慢するしかない。

 神速をフルに活用して避け続けるが……

 

「逃げるだけか、つまらんぞ小僧!」

 

 ヴォバンの叱声と同時に雷鳴が轟き、幸雅の頭上から紫電が降り落ち、暴風が吹き荒れる。

 小学校の狭い屋上を駆け回って落雷を回避し、体内の呪力を高めて暴風を凌ぎ切った幸雅は、掲げた左手から雷電を放った。

 しかし、ヴォバンの傍らに控えていた一体の従僕が身代わりになり、幸雅の攻撃は意味を成さなかった。

 

「ああもう! とことん厄介だなぁ!」

 

 ようやく痺れの取れて来た身体を躍動させ、右手の布都御霊で目の前の従僕を斬り飛ばす。

 続くように左右と背後からも従僕が迫るが、全身から放電することで凌ぎ切った。

 そして、一瞬の間隙に、地面――屋上のコンクリートに霊剣を突き立てて、

 

「雷よ!」

 

 瞬間、バチバチバチバチバチイイィィィッ、と。凄まじい雷電が迸り、屋上に居た残りの従僕を焼き払った。

 その雷は離れた位置に居たヴォバンにも手を伸ばすが――

 

「フン」

 

 信じ難いことに、老魔王は鼻を鳴らすだけで、地面から迫りくる雷電の軌道を逸らしてみせた。

 

「……おいおい」

 

 もはや呆れるしかない。どうやったらそんな常識離れした芸当が可能になるのやら。

 

(……さてさて、どう切り抜けたものか)

 

「フン。存外つまらぬな」

「っ?」

 

 不意に、幸雅が見据える先のヴォバンが、落胆したように息を吐いた。

 

「あのアテナが伴侶として認めるほどの器。楽しみにしていたのだが……これでは、我が無聊を慰めるには及ばん」

 

 別に慰めてやるつもりもないけどね、と幸雅は軽く受け流していたが、次の一言で、表情を凍らせた。

 

「神々の叡智を司る智慧の女神……所詮はまつろわぬ身。節穴であると言わざるを得ん。期待外れだ」

 

 ……その言葉を聞いて、幸雅は自分の中で、何かが切れる音が聞こえた。

 

「…………消せ」

「ん?」

「取り消せって言ったんだよ。お前なんかが、彼女を侮辱するなクソジジイ。殺すぞ」

 

 普段の丁寧な言葉遣いからは考えられないような乱暴な口調で、幸雅はヴォバンを詰った。

 

 ――僕のことなら、いくら侮辱しようと、馬鹿にしようと、蔑もうと構わない。

 ――だけど。

 

「彼女は、アテナは、誰より強く、誰より美しく、誰より気高い存在だ。お前なんかが貶めていい女性じゃあないんだよ」

 

 幸雅の怒りに呼応するように、周囲でバチバチとスパークが起きる。

 幸雅が右手の布都御霊をヴォバンに突きつけた瞬間、二人の頭上で稲妻が迸った。

 

 怒りを爆発させる幸雅を、ヴォバンは面白そうに見やった。そのエメラルドの瞳に、獰猛な光が瞬く。

 

「行くぞ、ヴォバン。後悔しろ、俺の前で、アテナを貶めたことをな!」

 

 叫び、幸雅は神速で踏み込んだ。

 

「よかろう、小僧! それだけの啖呵を切ったのだ、失望させてくれるなよォ!」

 

 吼え、ヴォバンは両手を振り上げた。

 

 幸雅の左手に光が集まり、膨大な熱量を封じ込めた光球が形作られる。

 ヴォバンの頭上に圧倒的な量の雷電が集められ、絶え間なく雷鳴を轟かせる。

 

 彼我の距離が、ついに五メートルを切った。

 二人の神殺しが激突する――と、思われた、その時。

 

 

 

 どこからか、声がした。

 

 

「――ただ一振りであらゆる敵を切り裂く剣よ」

 

 

 自らが弑した神の聖句を唱える、不遜で、傲慢で、冒涜的な声が。

 

 

「全ての命を刈り取るため、輝きを宿せ!」

 

 

 

 瞬間、幸雅とヴォバンは、強烈な悪寒に襲われて、獣の如き身のこなしで跳び退る。

 直後に空を薙ぎ、地面に叩きつけられる、一振りの剣。

 何の変哲もない、神剣魔剣の類には遠く及ばない、普通に量産されているような平凡な長剣。

 

 だが――その力は、とても平凡とは言えなかった。

 

 銀色の光を宿したその剣が、幸雅とヴォバンの間の空間を切り裂き、校舎の屋上に触れた直後――――校舎が叩き斬られた(・・・・・・・・・)

 まるでひとりでに左右に分かれるように、すっぱりと、真っ二つに。

 巨大な鉄筋コンクリートの塊が、何の抵抗もなく断ち切られてしまったのだ。

 

 どう考えてもあり得ない現象。建物を剣で断ち切るなどという常識外れな芸当。

 しかし、彼ならば。遠く欧州で、『剣の王』などと称される彼の力。ケルトの神王、銀の腕のヌアダから簒奪した権能ならば――およそこの世に、斬れぬものなど存在しない。

 

 幸雅が、かつても目にした光景。ローマの地で戦ったある同族の力。

 光球を維持したまましっかりと着地した幸雅は、その剣を振るった存在――幸雅とヴォバンの間に立つ男を睨みつけた。

 

 剣を地面に叩きつけたままの状態で佇む、金髪碧眼のハンサムな伊達男。

 どこから来たのか、派手な色の開襟シャツを身に着け、右手に握った剣以外は何も持っていない。

 しかしその剣こそが、彼の唯一にして最強の武器。

 

 合計四柱の神々を弑殺し、ヨーロッパの地に君臨する最強の剣士。六番目の魔王カンピオーネ。

『剣の王』サルバトーレ・ドニ。

 

 ゆっくりと顔を上げたその男――ドニは、幸雅とヴォバンを見渡して、能天気な笑顔を見せた。

 

「やあ、幸雅、爺様! 幸雅は半年ぶり、爺様は四年ぶりだっけ? 元気だったかい?」

 

 とても戦場とは思えないようなふざけた態度だが、彼の立ち姿には微塵の緊張もなければ、微塵の油断もない。

 そんなドニに、幸雅の対面に立つヴォバンは、濃密な怒気の籠った視線を向けた。

 

「サルバトーレ……。三年前のジークフリートの件といい、貴様はいつも私の邪魔をしてくれる」

「はははっ、その節はどうも。いやぁ、あの時は丁度退屈してたからね。丁度良かったんだ」

「相も変わらずふざけた口を利く男だ」

 

 フン、と鼻を鳴らしたヴォバンは、エメラルド色の瞳でドニの能天気な笑顔を見据え、低く宣言する。

 

「消えろ、サルバトーレ。私は今、実に昂ぶっている。我が享楽を邪魔するのであれば、貴様もここで消すぞ」

「つれないことを言わないでよ、爺様。せっかくカンピオーネが三人も揃ってるっていうのにさ、どうせなら皆で楽しもうよ!」

 

 明るく言い放つドニだったが、彼の碧眼には底抜けな陽気さの奥に、隠しきれない暗い戦士の愉悦があった。

 彼は心底からこの状況を楽しみ、待ち望んでいるのだ。神殺し三人が一つの場所に集まり、互いの力をぶつけ合うという、この最高にして最悪の戦いが始まるのを、今か今かと。

 

 不意に、ドニの視線が、幸雅に向けられた。

 

「どうだい? 君もそう思うだろう、幸雅?」

「――さてね」

 

 一言だけ返して、幸雅は今の今まで溜め続けていた天照の権能を解き放った。

 眩いほどに光り輝く光球を、全力で投げつけたのだ。ドニとヴォバン、二人を同時に巻き込む軌道で。

 

 溜め込まれた呪力が炸裂し、凄まじい衝撃と轟音を撒き散らす。

 

「ははっ、いきなりだな!」

「フン。無粋な」

 

 だが、二人の神殺しは揺るがなかった。

 

 ドニは痛快そうに笑って、彼が簒奪したジークフリートの権能を行使した。一瞬で彼の肉体が鈍色の鋼鉄へと変わり、光の全てを受け流す。

 ヴォバンは死せる従僕をまとめて数十体も召喚し、それを盾にして防ぎ切った。

 結果、二人とも無傷。だが、それは幸雅の本命ではない。

 

 

「不死の太陽よ、輝ける駿馬を遣わし給え」

 

 

 不意に聞こえてきた、豪雨の中で聞こえるはずもないこの場の誰のものでもない声に、ドニとヴォバンが揃って校庭の方へ目を向けた。

 そこに立っていたのは、つい数か月前にカンピオーネになったばかりの、八人目の神殺しの魔王・草薙護堂だった。

 

 護堂が雨に打たれながら右手を天に翳し、一心に聖句を唱えている。

 ウルスラグナ第三の化身。太陽の象徴たる『白馬』を呼ぶための言霊。

 

「む?」

 

 ふと、ヴォバンが空を見上げた。嵐の夜だというのに、暁の色に染まる空を。

 

 

「駿足にして霊妙なる馬よ。汝の主たる光輪を疾く運べ!」

 

 

 護堂の聖句が締めくくられ、東の空から昇った太陽が、焔を放つ。

 

「太陽――天の焔、だと?」

「はははははっ、何だ、キミも居たのか、護堂!」

 

 直後、天より降る白いフレア。

 民衆を苦しめる大罪人にのみ使える裁きの力が、人々を散々に苦しめた三人の魔王に向かって放たれた。

 鋼鉄さえドロドロに融解・蒸発させる超々高熱の塊が地上に迫る。

 

 元々、こういう作戦だった。ヴォバンの相手を幸雅が一人で行い、ドニが乱入してきたところで、護堂が『白馬』で一網打尽。

 合図は、幸雅が光球を爆発させた時。……まあ、自分で思ったよりもヒートアップしてしまったが。

 寸前に幸雅は神速を発動し、校舎の屋上から躊躇なく身を投げ出して、護堂の横に並んで屋上を見上げて――二人の若き魔王は、揃って驚愕した。

 

 ヴォバンの姿形が変わったからだ。人の形から、銀の体毛を持つ直立歩行する獣――人狼へ、そして完全なる狼の姿へと。

 銀の狼に化身したヴォバンの体はさらに、一気に膨れ上がり――体長三十メートル前後。あり得ないサイズの巨体にまで膨張してしまった。

 

 ――オオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォンンンンッッッッ‼

 

 巨大な狼の咆哮が嵐の中に響き渡り――そして、銀の大巨狼は、太陽のフレアが凝縮された巨大な白き焔に、一気に躍りかかった。牙を剥き、その巨大な顎で焔にかぶりつく。

 

「……何だよ、それは。常識外れにもほどがあるぞ」

 

 幸雅の隣に立つ護堂が呆れたように呟いた。幸雅もまた同じ気持ちだった。

 

 呑み込んでいる。

 大巨狼が太陽のフレアを文字通りに喰らい、呑み込もうとしている!

 

「狼ってあんな生き物だったっけ……」

「違うと思いますけど……」

 

 ついにヴォバンが変化した巨狼は、跡形もなく『白馬』の焔を喰らい尽くしてしまった。

 呆れるしかない二人の眼前で、ズドォォンッ!、という重い音が二つ響く。

 巨狼に変化したヴォバンと、全身を鋼鉄に変えたドニが広大な校庭に降り立った音だった。

 あれで倒せるとも思っていなかったが、無傷とはさすがに恐れ入る。

 

 彼らの間に言葉はなかった。

 幸雅と護堂は低く身構え、ヴォバンは牙を剥いて威嚇し、ドニはひたすらに笑ってふらりと立つ。

 全員の口元には、戦いの喜悦を共有する、亀裂めいた微笑が浮かんでいる。

 

 ――――この数秒後、四人の神殺しによる、壮絶で、苛烈で、どこまでも神話的で魅惑的な闘争が、幕を開けた。



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