プリキュアコネクト (おじ)
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1-1.誕生! 喜びのプリキュア
よろしくお願いします。
暖かな春の陽気に当てられて、ようやく彼女は自分がどこかの野原に立っているのだと気づく。
まるで絵本の世界にいるような、穏やかで幻想的な風景。彼女の足元には、小さく多彩な花がいくつか咲いている。
エネルギーを感じさせる赤。控えめな白。優しそうなピンクのそれは、一見すると桜のようにも見えた。
そして、その花々を囲んでいる、ぬいぐるみのような生き物たち。子犬や子猫のような可愛らしい見た目をしており、ゆかりはこのメルヘンチックな体験に嬉しさが込み上げてくる。
つい頬が緩みそうになったとき、目の前にいたぬいぐるみがワッと泣き出した。
爽やかな薫風は、雨が降る前兆のように冷やかなものとなり、一瞬にして辺りを包み込んだ。
これまで我慢していた緊張の糸が切れてしまったのか、他のぬいぐるみたちも次々と泣き出す。見た目の通り幼い様子の彼らは、涙を流すことでしか悲しみを処理できないのかもしれない。
「泣かないで」
ゆかりは、最初に泣き出したぬいぐるみの頭に手を伸ばす。しかし、体が思うように動かなかった。足も、まるで靴の裏と地面がのりでくっついているかのように、びくともしない。
「大丈夫だから……、ね?」
どうしてこんなことが言えるのか、ゆかりには分からなかった。みんなが悲しんでいる理由も、ここがどこかも知らないのに、“大丈夫”なんて無責任ではないのか。一瞬、そんな嫌な考えが頭をよぎる。
だけど、この子に泣いてほしくない。その気持ちだけは、強くあった。
ようやく指先がぬいぐるみの頭にかすりかけたとき、彼女を囲む環から外れたところで、誰かが言った。
「許してくれ……」
喉から搾り出したような、苦しそうで、哀しみを帯びた声色だった。その直後、悲鳴にも聞こえる甲高い音がして、ぼんやりとしていた風景が、またたく間にかすんでいく。
ゆかりは必死に手を伸ばす。先ほどまでえんえんと泣いていたぬいぐるみたちは一斉に泣き止み、何事もなかったように四方に散っていく。あっという間に、環は崩壊してしまった。
それでも、最初に泣き出したあの子だけはまだそこにいる。すぐ近くにいるのに、どうしても手が届かない。
もう少し……。
彼女の手はしっかりと、目覚まし時計を押さえていた。
ここは自分の部屋の、ベッドの中。時刻は午前八時前。さきほどまでとは違い、今の状況はすぐに理解できた。
「寝坊した~~っ!!」
飛び起きてリビングに駆け下りると、家族はのん気にテレビの占いコーナーを見ている。
「お母さん! 今日は早めに起こしてって言ったのに!」
「だって、あなた起こしても起きないんだもの。私は、まだ寝たいっていうゆかりの意思を尊重してあげたの」
「そういうときだけ、甘いんだから!」
言い合っている時間も惜しい。台所には、彼女が二度寝した時点で寝坊すると判断したのだろう、おむすびと味噌汁だけがあった。急いでそれらを掻き込むと、一切の無駄がない動きで朝の支度を済ませる。
鏡で自分の姿を確認して、気づく。さきほど、リビングには父の姿もあった。いつもなら、とっくに家を出ている時間なのに。
「お父さん、今日はお仕事休むんだっけ?」
リビングに戻って声をかけると、ようやく自分の存在に気づいてくれたことが嬉しいのか、父は微かにはにかんだ。
「午前中だけでも出ようと思ったんだけど、ゆかりも今日は午前だけで終わるんだろ? それならいっそのこと休んだ方がいいかなって」
このやり取りを聞いて和室から出てきた祖母が、念を押す。
「お昼前にはお坊さん見えるから、それまでには帰っておいで」
今日の嬉野家が忙しいのは、ゆかりが寝坊したせいではない。一年前から決まっていたことだ。それならば、なお起こしてくれたらよかったのに、と思う。
「うん、わかってる。それじゃ、行ってきます!」
ゆかりは元気よく、玄関の扉を開けた。厳しくも優しい太陽の日差しが、彼女の体を包み込む。布団の中にいるようで、頭の中を空っぽにして走り出したくなるような感覚。ゆかりは、無償に嬉しくなった。
天気は晴れ。朝起きて、家族とふれ合い、桜の綺麗な道を通って学校に行く。人目を気にせずバンザイしてしまいたかった。
そんな気持ちにブレーキをかけ、玄関の扉が閉まるタイミングに合わせて回れ右をする。表札を見上げて、彼女は呟いた。
「行ってきます」
そこにある名前は、
中学校に着くと、昇降口の掲示板にはクラス分けの表が張り出されていた。
数十分前なら生徒が群がっていたかもしれないが、今は人っ子一人いない。もっとも、ゆかりが登校した時間にまだ他の生徒が掲示板前で押し合っているようなら、この学校の生徒指導は教頭あたりに指導されるべきだろう。
ゆかりは今日から、二年生に進級する。彼女の名前は、二年一組の上から二番目にあった。そして、自分の上にある名前を見て、つい笑みがこぼれる。
「ちなみちゃん! また同じクラスだね!」
新しい教室の前側の扉を開けながら、ゆかりはすぐそこにいるであろう親友に声をかけた。
案の定、廊下側の先頭の席に座っていた
「ゆかり、今何時だと思う?」
「えっと、八時二十分?」
おどけた調子で返すが、ちなみの鬼のような形相を見てたじたじになる。
「私、たしか昨日
いつ、誰が、何を、どうしたか、を強調したその言い方には、迫力があった。
「ごめん、不思議な夢を見ちゃって、つい寝坊を……」
「あんたがその“不思議な夢”を見てるとき、私は学校でずっとこれ作ってたんだからね」
机の上いっぱいに積まれている造花の山から一つ取り出すと、ゆかりの目の前に突きだした。
「言いだしっぺはあんたでしょうが」
「うん、本当にごめんね?」
謝りながら、ゆかりはカバンのファスナーを開く。ちなみが中を覗くと、机に積まれている数以上の造花が、そこにあった。
「でも、こんなこともあろうかと、夕べのうちにたくさん作っておいたから。ちなみちゃんが作ってくれたのと、他のみんなのも合わせたら何とかなると思う」
ゆかりはにっこりと笑ってみせた。それを見て、思わずちなみはため息を吐く。
「まったく、あんたは……」
呆れながら笑ってしまう。「こんなこともあろうかと」という発言に対してではない。夜なべをして、早起きもする。そんな器用なことが、嬉野ゆかりに出来るわけがないのだ。
「それだけあれば十分だよ。じゃあ、急いでみんなの分も回収しに行こっ!」
ゆかりの手を取り、ちなみは教室を飛び出した。
時刻は八時二十八分。チャイムが鳴るまで、あと二分。
始業式が終わると、体育館にはゆかりとちなみを中心に、彼女たちが所属するテニス部の仲間や、同じクラスの友達が残った。厳密には、二週間前まで同じクラスだった子もいる。
「それでは、みなさん、まずはご協力ありがとうございました。それでは、リーダー、後はお願い」
仰々しく挨拶の口火を切ったちなみは、すぐに切ったばかりの口火を放り投げた。あまり人前で話すことに慣れていないゆかりは、深く息を吸ってから口を開く。
「えっと、ちなみちゃんに先に言われちゃったけど、本当にみんなありがとう。私の段取りが悪かったせいで、ギリギリまで手伝わせることになってごめんなさい。でも、みんなのおかげで間に合わせることができました」
みんなから拍手が送られる。しかし、喜ぶのはまだ少し早い。在校生が下校した後で行われる入学式で、入場のときに使う花のアーチ。これが完成して、新入生が新たな門をくぐるとき、もっと大きな拍手が沸き起こり、会場は喜びに満ち溢れるはずだ。
「それじゃあ、急いでアーチに花を飾りつけていきましょう」
ゆかりの指示に従い、有志は分担して作業を進める。集まったメンバーの中には、お互い初対面の者もいるはずなのに、みんな楽しげに話しながら手を動かし、そこかしこに笑顔が見える。ゆかりにはそれが嬉しかった。
「それにしても、ゆかりが何かを指揮するなんて、ホントびっくりだったよ」
自分の頭の上に造花をぽとんと落として遊びながら、ちなみは言った。その言い方に嫌味は含まれておらず、爽やかな口調だった。
「最初は子どもっぽい、って誰かさんに反対されたけどね」
ここぞとばかりに反撃すると、「コラ」と頭を小突かれた。ゆかりは大げさに痛がる素振りをしてみせ、頭をさする。
「私にはこれくらいしか思いつかなかったけど、みんな喜んでくれるかな?」
すると、ちなみは先ほどまで手玉にしていた造花を、ゆかりの頭をさすっている方の手に軽く投げて当てた。
「私が新入生だったら、きっと嬉しい」
そう言うと、にかっと笑ってみせた。それを見て、ゆかりも笑顔になった。
花のアーチが完成し、有志は急いで教室へ戻る。みんなのおかげで作業は捗り、休み時間内に終わらせることができた。
この後、各教室で帰りの会があり、少しの間が空いて入学式となる。
「ゆかりー! 早く戻ろうよ、何やってんの」
先に体育館を飛び出したちなみが、外から声をかけた。
「ごめん、すぐ行くから先に戻ってて」
最後に、ちゃんと確認をしておきたかった。万が一、新入生が通っている間にアーチが壊れたりしたら大変だ。それに、造花だって、せっかくみんなが作ってくれたのだから、一つも落ちてほしくない。
「これも、これも、大丈夫……」
チャイムの鳴る時刻が迫り、ほとんどの生徒は既に教室で待機しているのだろう。不意に静かで大きな体育館に一人でいることが怖くなり、気づかないうちに声に出しながら確認をしていた。
「これも大丈夫」
すると、用具入れの暗闇から、微かに音が聞こえた。
ガサ……。
「え!?」
おかしい。このアーチは用具入れから取り出したのだから、中に誰もいるはずがない。窓は閉まっていたはずだし、生徒なら今はみんな教室に戻っている時間だ。
「誰……?」
ガサ……。
音は近づいてきた。音の大きさからして、人間ではなさそうだった。もしかすると、猫か何かの動物が潜んでいたのかもしれない。
「あの~……?」
ガサ……。ガサ……。
音はどんどん近づいてきて、暗闇から飛び出した。ゆかりは悲鳴を上げ、その場から逃げようとしたが、腰が抜けて立てなかった。
すると、ぽすん……。
暗闇から飛び出した物体は、ゆかりの手の中におさまった。
「お母さん!! 探したリア!」
それは猫ではなかった。そうとも、言葉を発したのだから、猫でないことには間違いない。ゆかりには、この生き物が何かも、言っていることの意味もわからず、ただ気が動転していた。
「お、お、お母さん!? 私、あなたのお母さんじゃないよ!?」
手の中の生き物は、顔を上げてゆかりの顔をじっと見た。すると、仰天して彼女の体から離れる。
「あ! よく見ると、お母さんじゃないリア! あなたは誰リア!」
よく喋り、よく動くぬいぐるみだった。実に奇妙だが、子犬や子猫のようで、そのどちらでもない。
「だから、今そう言ったじゃん!!」
そして、気づく。このぬいぐるみは、見覚えがある。
今朝の夢の中に出てきた、あの泣いていたぬいぐるみだ。
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1-2.誕生! 喜びのプリキュア
「あなたは……」
体育館の用具入れから飛び出してきた、奇妙な喋るぬいぐるみは、今朝の夢に出てきたぬいぐるみにそっくりだった。ゆかりの腕の中に収まるほどの小さな体、犬や猫が合わさったような動物的な顔立ちをしているが、二足歩行で、よく喋る。
「お母さんと雰囲気が似ていたから間違ったリア。もし、お母さんを知らないリア?」
夢に登場したときとは違い、表情や声色から、悲しんでいる様子は一切感じられなかった。ゆかりは、自分が抱えている奇妙な生き物を目の当たりにして、しばらくの間ぼうっとしていたが、耳元で大きな声を出されてようやく意識を取り戻す。
「ちゃんと聞いてるリア!?」
「あ、えっと……、ごめん。何だっけ?」
聞き返すと、今度はちゃんと聞いてもらえるように、さらに大きな声を出した。
「ボクのお母さんのことリア!!」
あまりのうるささに、ゆかりは思わず手を放す。すると、その生き物はバランスを崩し、床に強く頭を打った。
「わっ、大丈夫!?」
また夢での出来事のように、この子が泣き出すのではないかと、ゆかりは心配になった。しかし、その心配をよそに、謎の生き物はすくっと立ち上がると笑顔を見せた。
「大丈夫リア!」
その笑顔に、ゆかりもついおかしくなる。
「あなた、強いんだね」
言いながら、頭の打った部分を擦ってあげる。大きなたんこぶができていた。自分が幼い頃であれば、きっと泣いていただろう。そのくらい、大きなこぶだった。
「ごめんね。あと、私は知らないんだけど、お母さんを探しているの?」
心配無用とばかりに、ゆかりの手を払いのけると、その生き物は胸を張った。
「そうリア! ボクはお母さんを探すために、一人でこんな遠くまで来たリア!」
「こんな遠くまでって、あなた一体どこから来たの?」
この生き物が、自分の夢の中から飛び出したのでなければ、果たして何なのか。すると、またしても奇妙な答えが返ってきた。
「ボクは心の国から来たリア!」
「心の国……? それってどこにあるの?」
「すぐそこにあるけど、すっごく遠い場所リア!」
ため息が出てしまいそうになる回答だった。結局、心の国がどんなところなのか、その場所も行く手段も分かりそうにない。
「お母さんは、どうしていなくなったの?」
「分からないリア!」
「いつからいなかったの?」
「気が付いたらいなかったリア!」
「じゃあ、いつまでいたの?」
「それも分からないリア!」
元気よくはきはきと返事をする。面接などでは大事なことかもしれないが、今は活発さよりもこの子の素性を知りたかった。まるで、履歴書も予約もなしに面接会場に現れたようなものだ。
「それじゃあ、あなたの名前は?」
記憶喪失です、なんてオチは無しでお願いします。ゆかりはそう願った。すると、いつもなら五円や十円をひったくったうえ、願い事を聞くだけ聞いてほったらかす神様が、ぬいぐるみの名前を彼女に授けた。
「タリアリア!」
「タリアリア?」
「違うリア! タリアリア!」
「タリアリア」彼女は復唱する。
「タリア!! ……リア」
名前ひとつ聞くだけで一苦労だ。まったく、この子の行方不明の母親とやらは、どうしてこんな名前の子を、こんな語尾で話すように育てたのだろう。
「タリアね?」
「そうリア! タリアリア!」
ようやく名前が分かったところで、ゆかりは更に核心に迫る。
「私は嬉野ゆかりっていうの。それで、あなたは猫さん? 犬さん?」
すると、これまでの全てに辻褄の合う、奇跡の答えが返ってきた。
「ボクは、心の国の妖精リア」
「妖精……?」
ゆかりは、一つの仮説にたどり着いた。これは夢なのだ。打ち切られた、あの夢の続きだ。それならば早く起きないと、今度こそ本当に遅刻してしまう。
両手で、自分の頬を引っ叩く。じーんと痛みを感じた。そして、目の前の自称妖精は、相変わらずそこにいる。つまり、これは、夢じゃない。
「妖精ーー!?」
現実だと認識した途端、戸惑いは大きな驚きに変わった。彼女はマンガも読むし、ドラマも映画も見る。その中に架空の生き物が出てきたことは多々あるが、現実にそんな経験をした人と会ったこともなければ、会いたいとも思ったことはない。
だって、それは、ありえないことだから。
「あなた、本当に妖精なの!?」
「どこをどう見たって、ボクは妖精リア」
えっへん、と胸を張るが、どこをどう見たら妖精と言えるのかは分からない。
「じゃあ、妖精の村とかあるの?」
「だから、ボクは心の国から来たって言ってるリア」
あまりにも話を聞いてもらえないことに鬱憤も溜まっていたのだろう。少し口調が激しくなった。
「あ、そっか。それで、お母さんを探しに来たんだよね?」
「そうリア」
ふと、思う。この子は、お母さんがいなくなったというのに、少しも寂しそうな様子がない。自分が幼少時に母とはぐれたときは、その場でどうしたらよいか分からずただ泣いていた。
「あなた、寂しくはないの?」
すると、意外な答えが返ってきた。
「“さびしい”って、何リア?」
あまりよく覚えてはいないが、ゆかりは幼稚園のころから“寂しい”という言葉は知っていたはずだ。このタリアという妖精は、年齢的に――妖精に年齢の概念があるのかは不明だが――幼稚園はとうに過ぎているように思える。
「心細くなって、悲しい気持ちになることだよ」
ゆかりは優しく教えた。しかし、またしてもタリアは首をかしげる。
「“かなしー”って、何リア?」
これには、ゆかりも驚いた。この子は、悲しいや寂しいという気持ちを知らない。それどころか、そんな感情を持っていないということまで考えられる。
もしかすると、妖精と人間の感情の在り方は違うのかもしれない。しかし、妖精が決して群れず、単体で生涯を終えるのならまだしも、この子にはお母さんがいる。そして、その母が失踪し、探しているにもかかわらず、寂しいという感情を知らない。これは、矛盾しているのではないか。
「えっと、お母さんがいないって分かったとき、どんな気持ちになった?」
ゆかりは慎重に尋ねた。
「いないなー、って思って、探しに行こうって思ったリア」
「そんなこと……」
少し、考えることに脳が疲れたのか、頭がふらっとして言葉に詰まる。
この子、タリアという元気な妖精の子どもは、非常に素直で快活で、ゆかりは好意を抱き始めていた。しかし、母がいなくなったというのに、悲しいとも寂しいとも感じなかったという。そもそも、そんな感情を持ち合わせていないのだ。
母がいなくなったから、探しに行く。そんなことを、まるでテレビを見たいからリモコンを探す、ぐらいの感覚で行っている。
「寂しくも悲しくもないなら、どうしてお母さんを探しているの?」
なんて馬鹿げた質問だろう、とゆかりは思った。回答は、おおよそ見当がついた。
「お母さんがいなくなったからリア! それに、お母さんに会えたら嬉しいからリア!」
嬉野ゆかりは、できるだけ、人に対してマイナスな印象を持たないように努めてきた。例えそれが妖精であったとしても、この考えは変わらない。綺麗事を言うなら、世界中の人類がみな平等で、争いのない平和な世界が実現できたら、それに越したことはないと思っている。
しかし、このタリアという妖精には、少し、ほんの少しだけ、気味悪さを覚えた。
チャイムが鳴る。
休み時間の終了と、帰りのホームルーム開始の合図だ。
「あっ、いけない!」
すっかり時間の経過を忘れていたゆかりは、慌てて立ち上がり、飾り付けを終えたアーチを用具入れに戻す作業を始めた。
「いきなりどうしたリア?」
当然ながらチャイムの意味がわからないタリアは、不思議そうに尋ねる。できれば片付けを手伝ってくれると助かるのだが、この小さな体ではそれも難しいだろう。
「ごめんね。私、もう行かないといけないの」
すると、タリアは元気に返す。
「じゃあ、また今度リア!」
あまりにもあっさりとし過ぎていて、がっかりしてしまう。もう少し別れを惜しんでくれると嬉しいのだが、悲しいという気持ちを知らなければ、別れの意味もあまり理解できていないのかもしれない。
「うん、また会えたらお話しようね」
全てのアーチを用具入れにしまうと、ゆかりは妖精に別れを告げて体育館を飛び出した。彼女の背後に向かって、タリアは「ばいばい」と手を振り続けている。
教室に戻ったら、新しい担任の先生とちなみに大目玉を食らうことだろう。そのうえ、初めて知り合うクラスメイトに笑われてしまうかもしれない。
急がなければ、と走って教室のある棟に入ろうとしたそのとき、一人の女の子が目に入った。この中学の制服を着ているが、迷子のように不安そうな顔をして辺りをきょろきょろと見渡している。
「こんにちは」ゆかりはその子に声をかけた。「もしかして、あなた、新入生?」
すると、その子の表情は一瞬ぱあっと明るくなったが、すぐに下を向いてしまい、小さな声で言う。
「はい、少し来るのが早かったみたいで、誰もいなくて……」
入学式は、在校生が下校した後で行われる。つまり、現在ゆかりを除いて行われているホームルームが終わり、生徒会ら有志が体育館に集まって準備をしなければ始まらない。この子は、一時間ほど早く到着してしまったことになる。
「それだったら、保健室とかで待たせてもらえないか聞いてみようか」
「はい、すみません……」
消え入りそうな声だったが、また表情に少しだけ明るさが戻ったような気がする。
保健室に移動しながら、ゆかりは疑問に思う。無神経な気もしたが、先ほどの妖精の一件もある。ずばり、聞いてみることにした。
「そういえば、お家の人は?」
まさか、またお母さんがいなくなったなんて言うまい。
「両親は、少し遅れて来ます……。母が入学式のプリントを持っていたから、私は何時に来たらいいか分からなくって」
困ったような笑みを浮かべる。そして、そのことに照れたのか、またうつむいてしまった。
「そうなんだ。あ、ここが保健室だよ」
二人は保健室に入り、先生に事情を説明して、入学式が始まるまでここで待機することを了承してもらった。それと引き換えに、保健医からは、ホームルームが始まって既に五分も経過していると知らされた。
「やばっ! じゃあ、私もう行くから!」
ゆかりが保健室の扉を開けて廊下に出ようとすると、新入生の子は一瞬ためらい、一呼吸おいて顔を上げた。
「あ、ありがとうございました!」
ゆかりは扉の取っ手を掴み、走り出したエネルギーをくるっと一回転することで消費すると、彼女の正面に立った。
「どういたしまして」
不安がらせないように笑顔を見せると、ぎこちなくではあるが、彼女もはにかんでくれた。
「入学おめでとう!」
最後にそう言うと、ゆかりは今度こそ自分の教室目指して走り出した。そこで、彼女は今朝の占いコーナーを見損ねたことに気付く。きっと最下位だったに違いない。
そんなことを考えていながら階段までたどり着くと、体育館の方から大きな音が聞こえた。
「今度は何~!?」
もう、早退してしまおうか。
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1-3.誕生! 喜びのプリキュア
再び体育館に戻ると、そこにタリアの姿はなかった。
そのかわり、体格のがっしりとした長身の男が、こちらに背を向けて立っていた。ゆかりは妖精の生態について詳しくはなかったが、タリアが変化した形態だったりしないことは何となく分かる。
「あのー……」
恐る恐る声をかけると、「あぁ!?」という乱暴な返事がきた。どうやら、新しく赴任してきた先生でもないようだ。
男はこちらを振り返ると、ゆかりに向かってゆっくりと歩み寄ってきた。思わず、後ずさる。
「さっき大きな音が聞こえたんですけど、何してたんですか……?」
声が震えているのが、自分でも分かった。悲しむことを知らない妖精の次は、キレ気味の大男ときた。この体育館の治安は、春休みの間にどうなってしまったのか。
「うるせぇ」
それだけ言うと、踵を返し窓の方に近寄ってカーテンを勢いよく開ける。換気や日光を浴びることが目的ではないようで、彼は舌打ちをして地団太を踏んだ。
自転車通勤でもしているのか、ものすごい力だった。男が床を強く踏む度に、体育館全体が揺れるほどの振動と、轟音が響く。さきほどの音の正体はこれだったのか。
「タリア! どこに隠れやがった!」
天井に向かって叫ぶ。すさまじい声量だ。その迫力にたじろぎ、一度は係わるまいとその場を離れようとしたゆかりだったが、男がタリアの名前を呼び、その口調から察するに二人の仲は険悪らしいと想像して、足を止める。
「タリア!?」
すると、それを聞いた男はゆかりを目の端で捉え、にやりとした。
「お前、あいつを知っているのか。それならちょうどいい」
ゆかりは、本能的にまずいと思った。これまでに彼女の人生では、幸運にも身の危険を感じる出来事に遭遇することはなかった。しかし、今日の運勢は最悪に違いない。
やはりと言うべきか、彼女は人質にされた。逃げようとしたところ、首根っこを掴まれ、そのまま腕を首にまわされ身動きがとれなくなってしまう。
「タリア! 出てこないと、こいつがどうなったって知らねぇぞ!」
お願い、出てこないで、なんてドラマのヒロインの思考を真似してみる暇もなく、タリアは用具入れから飛び出してきた。
「卑怯リア! イカリング、その子を放すリア!」
こんなベタな手に引っかかるなんて、もし漁業の妖精として生まれていたら、今ごろ世界中の魚は釣り上げられているかもしれない。そう、例えばイカとか……。
「イカリング……?」
どうしてタリアは、突然イカリングなどと言い出したのだろう。よほどお腹が空いていると、妖精は好きな食べ物が口癖になってしまうのか。
「ふん、そこにいたか」
役目を終えたゆかりを突き放すと、男は用具入れに歩み寄る。
「さあ、イカリング! 正々堂々とかくれんぼの続きをするリア!」
「かくれんぼじゃねぇ!!」
どうやら狙われているタリア自身には、まったくその自覚がないようだった。
「あの、イカリングって……?」
一人で悩んでいても正解は導き出せそうにないので、ゆかりは思い切って尋ねてみることにした。虹のビオレッタじゃあるまいし、どんな意図があってイカリングなどと言い出したのだろう。すると、男はにやっと笑い、拳で自分の胸をとん、と叩いた。
「俺のことだ」
「え、あなたが、イカリング?」
まったく意味が分からない。完全に人の姿はしているものの、その正体はタリアに食べられた恨みをもつイカの怨念とでもいうのだろうか。
「俺は心の国の“怒りの王”イカリング! イカすだろぉ?」ワイルドに言った。
「つまり、イカリングがあなたの名前ってこと?」
「鈍いやつだな、そう言ってんだろ!」
思わずゆかりは噴き出してしまう。人の名前を笑うなんて最低かもしれないが、さきほどまでの恐怖が一気になくなってしまった。
「何がおかしい!?」
「ごめんなさい……、つい」
ようやく笑いがおさまり顔をあげると、そこにはイカリングの強面があった。自分の名前をバカにされたと、頭に血が上り、タコのように真っ赤になっている。
「この俺を、怒らせたな」
はっ、と思ったときにはもう遅い。イカリングは拳を高く掲げ、勢いよく床に振り下ろした。すると、体育館全体が揺れるほどの衝撃が起こり、床は大きく凹んでしまった。逃げ遅れたゆかりの体は吹き飛ばされ、扉に衝突し止まった。
「いてて……」
頭を打ったのか、視界が少しぼやける。扉に背をもたれ落ち着こうとしたが、反対側から誰かが開けたせいで、ゆかりの体は仰向けに倒れてしまう。
「誰だ!? さっきから騒がしい……!」
入ってきたのは教頭だった。足元に転がっているゆかりに注意を引かれそうになったが、すぐに凹んでいる床とそのそばに立っている不審な男に目移りした。
「お前、何をしている!?」
教頭の髪がない頭がフル回転し、イカリングを様々な言葉で責めたてる。しかし、叱られている本人は悪びれた様子をまったく見せず、笑ってみせた。
「いい怒りだ」
イカリングは、掌を教頭の方に向ける。すると、教頭の体から赤い光のようなものが現れ、それはイカリングの手の中におさまった。その光が体から全て抜けると、教頭は気を失いその場に倒れた。
「先生!」
慌てて、ゆかりは教頭の体を支える。毛髪という防御力を失った頭をぶつけたりしたら、大変だ。
「先生に何をしたの!?」
「お前もタリアもむかつくからな。ビビらせてやるよ」教頭から吸い上げた赤い光を放つ右の拳を天井に向け、唱えた。「出てこい、オコリンボー!!」
赤い光は彼の右手から離れ、大きな塊となった。徐々に形が生成され、それは巨大な人の怪物となる。鬼のような恐ろしい顔をして、その体はゆかりの三倍はありそうだ。
「何、これ……?」
ゆかりは目の前に現れた巨人に圧倒され、しばらくはただ茫然としていたが、今度こそ無事では済まないと判断して、その場から逃げようとした。
「おう、逃げるなら逃げろ! タリアは連れて行かせてもらうぜ!」
恐怖ですっかり忘れていた。あの男の目的はタリアを捕まえることで、小さく無力な妖精は、まだ用具入れに隠れたつもりでいるのだ。
「もう、何なの……」
どうして自分がこんな目に合わなければならないのか、とゆかりは思った。たしかに今日はちなみとの約束を破って寝坊をした。ホームルームもさぼってしまっている。だけど、いいことだってしたはずだ。
妖精とのありえない出会いを経験し、到着が早すぎた新入生と知り合うことができた。今日は素晴らしい出会いだらけの、楽しい一日になるはずだった。
しかし、あのイカリングとかいう男のせいで、体育館の床は壊されてしまった。それに、巨大な怪物は、タリアを捕まえようと用具入れの中を荒らすだろう。
あそこには、みんなで協力して作った、花のアーチが――。
「やめて!」
無我夢中だった。気が付いたとき、ゆかりは怪物と用具入れの間に立っていた。
「何だ、戻ってきたのかよ?」
彼女の背後で、自分の陥っている危機を未だに理解できていないタリアが、物陰から顔を出した。
「ケンカはだめリア!」
「だめ、あなたは下がってて!」
この子は何も分かっていない。ゆかりは、そう判断した。心が幼すぎるのか、よほど無垢なのかもしれない。だからこそ、守らなければ。
「どうしてそいつをかばう? 何の事情も知らないくせによ」
「知ってるよ」
心を落ち着かせるため、息を吐くように言った。
「タリアは、お母さんに会いたがってた。もし、あなたがタリアを連れて行ったら、タリアのお母さんに会わせてあげられるの?」
夢の中で、タリアは泣いていた。あれが、ただの夢だとは思えない。きっと、何か理由があるはずだ。あのときは届かなかった手。しかし、今は現実に、手の届くところにいる。
それなら、今度こそ、悲しみから救い出せるかもしれない。
「あなたに邪魔はさせない! タリアのお母さん捜しも、入学式も!」
「ふざけんじゃねぇ!!」
イカリングは非難するように怒鳴り、オコリンボーをけしかけた。
「タリアは連れて行く! ついでに、その入学式ってのもぶっ壊してやるよ!」
巨大な手が、迫る。しかし、ここで退くわけにはいかない。退いてしまえば、みんなの思いが台無しになってしまう。
入学式にかける、みんなの思い。
つい先日、小学校を卒業したばかりの幼さの残る新入生たちが、緊張した面持ちで扉の前に立つ。家族の者も、早く入ってこないかとそわそわしているだろう。そして、それらは入場開始と同時に起こる大きな拍手により、喜びに変わる。
そんな瞬間を、ゆかりは心待ちにしていた。だからこそ、花のアーチをくぐるという演出を提案したのだ。
「お前には何もできやしねぇ!」
体が震える。巨人の攻撃をくらえば、自分は……どうなってしまうだろう。ゆかりはそんなことを思った。気持ちの強さだけではどうにもならない。たしかに、私は無力だ、と。
だけど、今日は新学期初日なんだ。桜は満開、新しいクラスには、笑顔が溢れていた。中には、友達と違うクラスになり残念がっている者もいたが、それを補うほど新たな出会いが待っている。
そんな、喜びに満ち溢れた日なのだから。入学式を無事に終えるという、当たり前の、小さな奇跡があったとしてもいいじゃないか。
「私はただ――!」
巨人の拳は、目と鼻の先まで迫っていた。不意に、どうしてこんなことをしているのだろうと、おかしくなる。
みんなの入学式のため? 違う、そうじゃない。ただ、自分がそうしたいから。それだけなんだ。
「私は! みんなの喜ぶ顔が見たい!!」
ゆかりの体から、ピンク色の閃光がほとばしった。それはまるで、彼女の心を映し出したかのように、優しく、穏やかな光だった。
「これは……!?」
あまりの眩しさに、イカリングは目を細める。
光はどんどんその強さを増し、見えないバリアとなってオコリンボーの攻撃から彼女を守った。
タリアは、ゆかりの纏う光を見てつぶやく。
「この光……」
しばらく、何かを思い出すようにじっと光を見つめていたタリアは、興奮して叫んだ。
「プリキュアに変身するリアー!!」
ゆかりの頭の上で、光は天使の環のような形をとった。自分に何が起こっているのか、さっぱり分からなかったが、どうすればよいのかは、直感で分かる。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!!」
そう唱えると、光の環は彼女の体がくぐれるほどに大きくなり、ゆっくりと頭からつま先へと下りていく。環が通過した部分は次々と変身していき、最後に靴を変化させると、光はゆかりの右手の薬指で集束し指輪となって現れた。
「みんなでつなぐ、喜びの
プリキュアに変身したゆかりは、体の内から満ち溢れるエネルギーと、たくさんの喜びを感じた。
「てめぇ……」
イカリングは彼女の姿を見て、驚きを隠せない様子だった。その声色は、虚しさと、微かな怒りを帯びていた。
「お母さん……」
懐かしむように、タリアが小さな声で言った。先ほどまでの能天気さはどこにもない。まっすぐにキュアリンクを見つめ、その存在をしっかりとらえようと、瞳をこらす。
「これは、何?」
ゆかりは変身した自分の姿を見て、戸惑う。制服や髪形も、まったく違うものになった。それに、この胸の高鳴り。今なら、どんなことだってできる気がする。
「プリキュアだと……。冗談じゃねぇ! やっちまえ、オコリンボー!!」
イカリングは激昂して、オコリンボーをたきつける。従順な巨人は、再びゆかりに向かってパンチを繰り出す。
ここでキュアリンクが攻撃を避けてしまえば、後ろにいるタリアに当たってしまう。ならば、するべきことは決まっている。一か八か、当たって砕けろだ。
リンクは巨人目がけて、思いきりジャンプした。すると、予想以上に勢いがついてしまい、コントロールを失う。
「ぶつかるーっ!!」
彼女の体は、巨人の顔面に激突した。しかし、痛みは大したことなかった。むしろ、ダメージを受けているのは巨人の方で、
「オコリンボー! 何やってんだ!」
そんなイカリングたちをよそに、タリアはゲームでもやっているかのように、楽しそうにリンクを応援する。
「今リア! 必殺技リア!」
「必殺技!? え、どうやるの?」
「喜びを感じるリア!」
そんなやりとりをしている間に、巨人は体勢を立て直し、再びリンクに襲い掛かってきた。
「キュアリンクだと!? 俺はイカリングだぞ!」
どうやら、迷っている暇はなさそうだ。変身したときのように、直感に従うしかない。
喜びを感じる……。タリアの助言に従い、今日のことを思い出した。
――私の思いつきに付き合ってくれた、みんな。約束を守って、朝早くから作業してくれたちなみちゃん。そして、あの新入生の子。あの子は、不安そうな顔をしていたけど、入学式では笑顔になってくれるかな。
そんなことを思った。すると、指輪が大きな光を放った。喜びの力、みんなの力を感じる。
リンクは、迫ってくる巨人に対し、右手を向けて構えた。
「プリキュア! リンクポーション!!」
彼女の手から放たれたピンクの光の束は、巨人の全体を包みこむ。攻撃を受けたというのに、巨人は安らかな表情をしていた。徐々に体から赤い光が現れ、教頭の元へ帰っていく。さらに、イカリングによって凹まされた床も、何も無かったかのように綺麗になった。
巨人は光が消えた後、完全に消滅した。
「バカな……、お前……!」
うろたえるイカリングを前に、リンクは構えを解いた。
「こんなこと、もうやめて」
変身も解き、ゆかりは真っ直ぐに相手を見つめる。その視線に耐えられなくなったのか、イカリングは「くそっ」と呟くと、瞬間移動のようなものでその場からいなくなった。
「キュアリンク、かっこよかったリア!!」
タリアが無邪気に、ゆかりに抱き着く。それと同時に、ゆかりは床にぺたんと座り込んだ。
「どうしたリア?」
「腰が抜けちゃって……」
夢じゃ、ない。プリキュアに変身して、巨大な怪物と戦ったんだ。まだ信じられない気持ちだった。
「全部ちゃんと説明してもらうからね」
両手でタリアの小さな体を抱き上げると、少しむくれた調子でゆかりは言った。
「プリキュアは――」
タリアが口を開いた瞬間、言葉は怒声にかき消された。
「ど、どこに行った!? あの男……!」
教頭だった。目を覚ました途端にこの様子では、よかった、怪我はしていないようだ。幸運にも、扉の方からではゆかりの体に隠れてタリアは見えない。
「君は何をしているんだ!? ホームルームはとっくに始まっているぞ!」
そして、ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴る。
「あぁ~~!!」
腰が抜けていたことも忘れて、ゆかりは立ち上がった。教頭に頭を下げると、教室に急ぐ。
タリアを抱えたままだということも忘れて。
「あんた、どこに行ってたの!!」
教室に入るやいなや、ちなみに怒鳴られる。既に、新しい担任の先生は職員室に戻り、生徒も何人かは帰っているところだった。
「寝坊の後はサボりって、何考えてるの! とりあえず保健室に行ってるって言い訳しといたけど。それに、そのぬいぐるみは何!?」
「えっ!? こ、これは……」
空気を読めない妖精タリアが喋らないよう、先んじて口を閉じカバンに突っ込んだ。
「まぁ、いいけどさ。それで? 時間は大丈夫なわけ?」
時刻は、十一時を少し回ったところだった。
「あっ! ごめん、すぐ帰らないと」
ちなみはやれやれといった様子でため息をつくと、ゆかりの肩に手を置く。
「明日、謝ってもらうから!」そして、笑顔をみせる。「アーチはオッケー?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、後は私たちに任せて、早く帰りな」そう言って、ウインクをする。
「ごめん、じゃあまた明日!」
それだけ言うと、ゆかりは急いで帰路についた。通行人が誰もいない道になると、タリアがカバンから顔を出す。
「何を慌ててるリア?」
走りながら、ゆかりは答える。
「今日は、おじいちゃんの一周忌なの。だから……」
「いっしゅうきって、何リア?」
「人が亡くなって、ちょうど一年後にやる行事というか……」
「亡くなるって、何リア?」
家についたため、その問いには答えられなかった。すでに、家族は準備のほとんどを終わらせているところだった。
「おかえりなさい、思ったより遅かったのね」
母が迎える。朝から家事に準備に追われ、少し疲れた顔をしている。
「うん、ただいま!」
玄関に入り、廊下を通ると、広げてある扉から和室が見えた。そこに、祖父の仏壇がある。
「人が亡くなるっていうのはね、その人がずっと遠くに行っちゃって、もう二度と会えなくなることだよ」
さきほどの質問に、ゆかりは答える。タリアを抱えたまま、仏壇の前に座った。
「遠くに行って、二度と、会えない……リア」
タリアは仏壇を前にして、そう繰り返した。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
よろしければ、評価・感想などいただけると幸いです。
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2-1.愛と怒りのキュアルビー!
「プリキュアは、お母さんのお話に出てきた伝説の戦士リア!」
妖精の朝は早い。
イカリングとの戦いから一夜明け、新学期二日目の朝。ゆかりはまた一つ、妖精の生態について新たな知識を得た。
「キュアリンクは“喜びのプリキュア”リア! だから、お母さんと間違えちゃったリア」
こんなに能天気で快活な“喋るぬいぐるみ”をどうやってかくまうかという、夕べの心配は杞憂に終わった。
流れで家に連れ帰ってしまった後、祖父の仏壇を見て大人しくなったタリアは、日が暮れる前に眠ってしまった。よっぽど疲れがたまっていたのだろう。
もしも法要中に部屋から出てきたらどうしよう、とゆかりは気が気でなかったのだが、その寝顔を見た途端、全てのことを水に流してもいいように思えた。
妖精の存在、床を殴って凹ませるほどの怪力をもつ自称“怒りの王”イカリングに、彼が生み出した巨大な怪物オコリンボー。そしてプリキュア……。
水に流してなるものか。
めずらしく早起きに成功したゆかりは、すでにタリアが目を覚ましていることを確認すると、改めて夢でなかったことに狼狽し、顔も洗わずタリアを質問攻めにした。
「そのことなんだけど、私とタリアのお母さんって、そんなに似てるの?」
「そっくりリア! ボクのお母さんは心の国の“喜び”リア!」
「お母さんが国の“喜び”って、どういうこと?」
「どういうことって、どういうことリア?」
どうやら、質問が少し難しかったらしい。ゆかりは頭をひねり、質問を易しくする。
「じゃあ、心の国ってどんなところなの? まさか、飛行機で行けたりしないよね」
「ひこーきって何リア?」
余計なことを言うんじゃなかった。反省して、先の質問を繰り返す。
「心の国には、あなたみたいな……妖精がたくさん住んでるの?」
「そうリア。でも、お母さんやイカリングもいたリア」
蛙の子は蛙というが、おたじゃまくしが成長して蛙になるように、この妖精の子どもは成長すると人になるのだろうか。ゆかりは、今年の夏休みの自由研究は捗りそうだと、かすかに思った。もちろん、提出はできないが。
「そう、あのイカリングって人! あの人も心の国の王様とか言ってたでしょ。一体何なの?」
タリアを無理やりにでも連れて行こうとした、気性の荒い男。彼もまた、心の国から来たと言っていた。あのときはゆかりも冷静さを欠いていたが、タリアを知っているのなら、タリアのお母さんとも知り合いのはずだ。
なのに、その子どもにあんな乱暴なことをしようとするなんて。ゆかりはそれが気になっていた。
「イカリングは“怒りの王”リア。昨日そう言ってたリア。人の話はちゃんと聞かないとだめリア」
ちっとも恨んでいる様子を感じさせず、タリアは言った。
“喜びのプリキュア”とやらに変身したゆかりだったが、タリアを襲い入学式まで台無しにしようとしたイカリングに向けた感情に、“怒り”は含まれていた。なのに、狙われたタリア自身は、そんな素振りはまったくない。
「あなたは、本当にいい子だね」
小学校のころを思い出す。まだ先のことを考えて行動することができない、幼く残酷な心のせいで、ほんの些細なことでも傷つけたり傷つけられたりしたものだ。ただの笑い話が誰かの悪口に発展したり、今になれば可愛く思えるちょっかいでも、泣いてしまう子はいた。
ほとんどは幼き頃の過ちとして忘れ去られているが、いくつかは消えない心の傷として残り、未だに忘れられないという子もいるだろう。
「私だったら……」
不意に脳みそが「気づけ」という命令を出し、顔を上げると時計が目に入る。せっかくの早起きが、水の泡だ。
「遅刻だ~~っ!!」
時は金なり。しかし、お金と違い、時間は蓄えることができない。
家を飛び出したゆかりの心には、昨日と違って少しばかり余裕があった。
なぜなら、今朝は部活の朝練習に遅れかけているだけであって、始業時間には軽く間に合う。
「せっかく早起きしたのに~」
走りながら自分に愚痴をこぼすと、タリアがかばんからひょっこりと顔を出した。
「どうしてそんなに急ぐリア?」
「遅れてるからだよ……って、いつからそこに!?」
ゆかりはずっと、タリアに対して何も考えていないのだという印象を持っていたが、それは自分も同じことだった。
動くぬいぐるみを部屋に残して、家族に見つからないともかぎらない。それに、この子は母親捜しの真っ最中だ。じっとしているわけがなかった。
「昨日はこれに入って来たから、今日もこれに入って出ていくリア! これは楽チンリア」
「もう! 今日はそこでじっとしててよ!」
不思議なことに、タリアが入っていると解った途端、かばんが重く感じる。走ることにも疲れ、よたよたした足取りで曲がり角にさしかかり、誰かにぶつかった。
「わっ、ごめんなさい!」
「ちょっと、気を付けて……って、ゆかり!?」
「あ、ちなみちゃん。おはよー」
ぶつかった相手は、ハンサムな転校生でもなければ、食べかけの食パンも咥えていない。見知った顔の、愛花ちなみだった。
「おはよー……じゃない! 朝からそんなフラフラして、大丈夫なの?」
「どうにかこうにか……」
苦笑いしながらタリアをかばんの奥へ押し込むと、ちなみに会ったら朝一番で聞きたいことがあったのを思い出した。
「そうだ! 入学式は? 大丈夫だった?」
怒った顔から一転、ちなみはにっと笑うと拳を握って親指を立てた。
「ばっちり! 最高の入学式だったよ」
ゆかりは、ほっとした気分になった。いきなり現れたイカリングのせいで、一時はどうなることかと思ったが、みんなの思いを無駄にしないで済んだ。
「ゆかりにも見せたかったよ、新一年生たちの顔。春休みの努力が、なんだか報われたって感じ」
再び学校に向けて歩き出しながら、ちなみは色々と思いを馳せているようだった。それを聞いて、ゆかりの心も温かくなる。
「そう……、よかった」
入学式で、新入生のみんながどんな顔をしていたか、何となく想像はついた。ゆかりだって、つい昨年まったく同じ経験をしたのだから。喜び、不安、期待……。それらが入り混じった表情。
そこには、きっと、哀しみなど存在しなかっただろう。
「それで? ゆかりが朝練に出てくるなんて、どういう風の吹き回し?」
感傷的になっているゆかりの心情を察して、ちなみはわざとらしく嫌味を言った。
「もう一度、みんなにお礼が言いたくて。アーチ作り手伝ってくれて、ありがとうって」
照れくさくなって、笑ってごまかす。
「こんなの、ガラじゃないけど」
「そうかもね。でも――」
学校の門が見えると、ちなみは走り出した。ゆかりが慌てて追いかけようとしてくるのを確認して、くるりと振り返る。
「変わったよ、ゆかりは」
それだけ言うと、テニスコートを目指して笑いながら走り出す。ちなみの言葉を受けて、ゆかりは何となくこそばゆい気持ちになり、彼女の後を追いかけた。
テニスコートでは既に三年生の先輩が数人、朝練習を始めていた。
「先輩たち、やっぱり早いね」
感心してゆかりが言うと、普段から朝練習に参加しているちなみは呆れた素振りを見せた。
「だってウチの学校の運動部、三年生はあと二か月で引退なんだよ? 気合いも入るってもんだよ」
「そっか……、そうだよね」
改めて、みんなへの感謝の思いが溢れてくる。先輩たちも、アーチ製作を手伝ってくれた。残り少ない部活の時間を割いてまで、ゆかりに付き合ってくれたのだ。
「じゃあ、先輩たちの後を継げるように頑張らなきゃね!」
自分に喝を入れて、二人は着替えるために部室へ急いだ。ちょうどドアノブに手を伸ばしたとき、向こう側から誰かが開けたため、ゆかりの手は宙をつかんだ。
「お、ゆかりとちなみじゃん。二人揃って朝練なんて、珍しいね」
「キャプテン、おはようございます」
「おはようございます。忍先輩は、今日遅いんですね。何かあったんですか?」
出てきたのは、女子テニス部のキャプテンである忍先輩だった。二人は入部したての頃、まだコートに入らせてもらえない分、朝練習に一番乗りしようとしたことがあった。しかし、一人でコートを整備している忍の姿を見て、自分たちは二番であると知ったのだった。
「もしかして寝坊ですか? 私は今朝は早く起きたんですけど、ついのんびりしちゃって」
ゆかりが言うと、「あんたと一緒にするんじゃないの」とちなみに小突かれた。
「いや、そうじゃないんだけどね」目の前のやりとりに微笑みながら、忍は続ける。「なんか弟が“今日は俺が朝飯作る”って張り切っててね。任せてみたら、案の定だめだめで二度手間とらされたってわけ」
「先輩、弟さんがいたんですね。ていうか、いつもは忍先輩が朝ご飯を?」
知り合って一年も経つというのに、先輩のプライベートについて何も知らなかったことに驚き、ゆかりは尋ねた。
「うちは両親が離婚しちゃって、母親だけだからね。こう見えても家事は得意なんだよ」
「あ、そうなんですか……。すみません、悪いこと聞いちゃって」
「いいよ、全然、気にしなくて」手を横にぶんぶん振り、忍は「むしろ気にされる方が変な感じ」と言った。
昨年、祖父を亡くしたばかりのゆかりにとっては、気にせずにはいられなかった。生まれたときから、誰よりも近くでずっと暮らしてきた人がいなくなるというのは、世界が変わることに等しい。
そのとき、自分は誰かに寄りかかることしかできなかったが、先輩は弟の面倒も見ているという。ならば、自身の哀しみはどうやって処理したのだろうか。ゆかりはそんなことを考えた。
「いやー、ウチにも弟いるんですけどね、手がかかるだけで何もしないんですよ。朝ご飯作ってくれようとするなんて、いい弟さんじゃないですか」
ちなみがそう言ってしばらくは、姉同士の弟トークが繰り広げられ、ゆかりが入る余地はなかった。一人っ子は羨ましいなどとよく言われるが、彼女にとっては兄弟の話ができるほうがよっぽど羨ましいと思った。
「おっと、それじゃ、私はそろそろコートに行くか。二人も早くしないと、朝練なんてすぐに終わっちゃうからね」
駆け足でコートへ向かう忍を見送り、二人は部室に入った。
「まぁ、家庭の事情なんて人それぞれだよね」
部室には個人のロッカーなどはなく、机や椅子や棚が幾つか並べてあるだけの内装になっている。元々は教室の備品だったが、古くなったり使わなくなったものをテニス部が譲り受けたのだった。ちなみは、机の空いているスペースに荷物を置きながら、ゆかりに話しかける。
「最近じゃ離婚も珍しいことじゃないし、忍先輩はタフだから大丈夫だよ」
「ありがとう。うん、そうだよね! 先輩が元気なのに、私が勝手に落ち込んでてもどうにもならないもんね」
ゆかりもかばんを置き、体操着を取り出そうとファスナーを開けた。すると、中で大人しくしていたタリアが顔を出す。
「もう出ていいリア?」
「わっ!!」
慌ててファスナーを閉めるが、狭い部室の中だ。ちなみが聞き逃したなら、運に感謝しつつ彼女に聴力検査を勧めなければならない。
「今の声、誰?」
「えっ!? 誰って、何が?」
机に背を向け、後ろ手にかばんを隠す。その様子を不審に思ったちなみが近づいてくる。
「たしかに何か聞こえた」
「えっと、ごきぶりが見えて、ちょっと悲鳴をあげたかな~……」
距離を詰めてくるちなみを制しようと、ゆかりはストップの意味を込めて手のひらをちなみの方に向け両手を差し出した。
「ゆかり、何その指環!!」
しまった、と思い右手を引っ込めようとしたが、ちなみに手首を掴まれてしまう。
「学校にこんなものしてきて! しかも、指環はめたままテニスするつもりだったの? 怪我するよ!」
「いや、これは……」
言い訳する暇も与えず、ちなみは指環を薬指から抜き取った。
「これは放課後まで没収」
すると、どうしても我慢できなかったのか、ファスナーをこじ開けてタリアがかばんから飛び出した。
「その指環を返すリア!」
時間が、止まる。
ちなみは、親友のかばんから現れた奇妙な生物を見て、固まっていた。しかも、その生物は言葉を喋っている。
何がどうなっているのか、さんざん思考をめぐらせたてようやく、かばんの持ち主に聞くべきだと判断した。
「何、これ……?」
タリアを指さして、尋ねる。ゆかりは、ただ頭を抱えることしかできなかった。
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2-2.愛と怒りのキュアルビー!
「つまり、あんたはよその世界から来た妖精で、お母さんを捜してる。そして、なぜかそれを邪魔する男がいて、ゆかりはそいつからこの子を守ってるってワケ?」
妖精という非現実的な存在を目の当たりにして、ちなみが見せた反応は、昨日のゆかりと同じものだった。
初めはどうやって誤魔化すかと頭をめぐらせていたゆかりだったが、タリアが勝手にべらべらと喋り始めたことで、真実を言うしかないと悟った。もっとも、タリアという生きた証拠がいるのだから、二人の話を信じるほかに合点はいくまい。
「なるほどねー」
うんうんと、ちなみは大きく頷く。
「信じてもらえた!?」
「ぜんっぜん!」
椅子にどっしりと腰をかけ、タリアを凝視する。よくできたぬいぐるみ……ではなさそうだ。自由に動いて、会話もできる。二十一世紀もまだ序盤だというのに、そんな技術がおもちゃ会社にあるわけがない。なら、本当に、生きた妖精なのか。
自問自答を何度くり返しても、他に納得のいく答えは出なかった。
「じゃあ、昨日のホームルーム中に聞こえた音って、まさか……?」
「うん、私がオコリンボーっていう巨人と戦ってたの」
「戦ってた……って、あんたねぇ」呆れたようにため息を吐く。「何で戦う必要があるの?」
質問の意味が、ゆかりにはよく分からなかった。異世界から現れた、常識外れの力をもつ怪物に襲われたのだ。戦わなければ、無事では済まなかっただろう。
「何でって、タリアを無理やり連れて行こうとしたんだよ?」
「いいじゃない、連れてってもらえば」
簡単に言う。きっと、ちなみはイカリングの凶暴さを知らないから、そんなことが言えるのだ。
「話を聞いてりゃこの子、ただお母さんを捜すってだけで他のことは何も考えてないみたいだし。もしかしたら、誰にも言わずに出てきたのかもしれない。もし私の弟が勝手にいなくなったら、応援を呼んで一緒に探してもらうし、その……なんだっけ、イカリング? って人もそんなんじゃないの?」
「違うよ! だって、イカリングはタリアを力ずくで……」
ゆかりにとっても、タリアの話に出てきた登場人物の関係性はよく分からないままだ。少しはちなみと同じ考えが頭をよぎったこともあれば、自分はタリアをどうしたいのかはっきりとしないままになっている。
しかし、理屈は抜きにして思うこと。それは、プリキュアに変身したときの気持ちと変わらない。昨日の夢のように、タリアに悲しんでほしくない。それだけだ。
「こんな小さな子が、別の世界に一人で来てるんだよ? 帰りたくないって言っても、力ずくで連れ帰るでしょうが」
ちなみの主張は変わらない。現実的ともとれる意見だが、ゆかりには、ただ面倒事を背負い込みたくないだけのように思えた。彼女が知っている愛花ちなみは、そんな排他的な人間ではないのに。やはり、落ち着いているように見えても、内心かなり動揺しているのかもしれない。
「ボクはお母さんを見つけるまで帰らないリア!」
いきなり口をはさんできたタリアに顔を近づけ、ちなみはやんちゃな子を諭すような口調になる。
「家でいい子にしてたら、お母さん帰ってくるかもしれないよ?」
「嫌リア! ボクは早くお母さんに会いたいリア!」
「話の分かんない子だねぇ。あんたの我が儘で、色んな人が迷惑してるかもしれないんだよ。ゆかりも、イカリングって人も。それに、あんたのお母さんも」
「私は別に迷惑だなんて思ってないよ?」
嘘つき、と自分を責める。もちろん、タリアの存在が迷惑だというわけではない。ゆかりには、たったの一晩しか身の回りで起こった現象について考える時間は与えられなかったが、自分はいい事をしていると確信していた。しかし、ちなみがすぐに的確な疑問を投げかけたことで、その気持ちが揺らぐ。
タリアの母親捜しは、どのくらい順調に進んでいるのか。何の見当もついていないのではないか。いつでもゆかりが変身して戦い、タリアを守るなんてことは不可能だ。また、守りきれる保証もない。それなら、イカリングを信じて心の国に連れ帰ってもらうのが、みんなにとって最善の選択なのだろうか。
「だけど、お父さんとか、他のお家の人が心配すると思うよ。一旦お家に帰ってみるのはどう?」
胸に、ちくりと毒針が刺さったような気分がした。その毒は彼女の心を浸食していき、自己嫌悪させる。迷惑じゃないと言った次の言葉が、これだ。遠回しに帰ってくれとの意味が含まれていることは、誰が聞いても明らかだ。
「ボクはお母さんを捜すリア!」
変わらない頑固な姿勢に、ゆかりはほっとした。もし、先ほどの言葉で本当にタリアが帰ったら、どんなに自分を責めても足りなかっただろう。
「とにかく!」大きな声でちなみが言う。「埒が明きそうにないから、その続きは放課後にでも。ゆかり、早く着替えよう。朝練終わっちゃうよ?」
今朝はどうにも時間の経過を忘れてしまう。またしても早起きが無駄になるところだ。二人はさっさと着替えて、ラケットをケースから取り出す。
「じゃあ、私たち行くから。そこで大人しくしてるんだよ?」
部室を出ようとして、ゆかりは荷物の方を振り返った。タリアはかばんから顔だけ出した状態で、ぼやっとした表情をしている。考え事でもしているのか、彼女の言葉は耳に入らないようだ。
ゆかりたちが部室を離れた後、残されたタリアは自身の体三つ分はある机の高さから飛び降りた。どうにか扉を開け、外に出る。
「お母さん……」
コートの方から、ゆかりたちの元気な声が聞こえてくる。しかし、タリアはそちらに目もくれず歩き出した。どこに向かうのか、そんなことは考えていない。
数十分後、朝練習を終えいち早く部室に戻ってきたゆかりは、タリアの姿を見つけられなかった。
もしかして、先ほどのやり取りで居心地が悪くなってしまったのだろうか。そう思うと、ゆかりは何かもやもやしたものが心につかえているような気持ちになる。
その日の授業はまるで手につかなかった。
タリアは今どこでどうしているのだろう。そんなことをずっと考えているうちに、気がつけば帰りのホームルームが終わり、みんなは帰る支度を始めているところだった。
「ゆかり、部活行くよ」
かばんとラケットを肩にかけ、ちなみはいつもと変わった様子はない。今朝の話を、もう忘れてしまったのだろうかと思うほど、タリアがいなくなったことにも無関心だ。ゆかりの額に拳をこつんと当て、「ぼーっとしすぎ」と顔を覗いてくる。
「うん、ちょっと待って」
机上に出たままになっている筆記用具やノートをかばんにつめ込む。タリアが入っていたスペースが空いたため、かばんはすかすかだ。持ち上げるとき、軽くなったことを考えていなかったため、つい勢いがつきすぎてしまう。
「あの子のこと?」
部室に移動する途中、ちなみが尋ねてきた。
「うん。何も言わずにいなくなっちゃうなんて」
「思ったんだけどさ、あの子ってひょっとすると迷子なんじゃない?」
靴を履き替えて校舎を出たとき、ちなみはある仮説を展開した。
「お母さんを捜してるなんて言ってたけど、本当はいなくなったのはあの子の方で、お母さんがあの子を捜してるんだよ、きっと」
「どうしてそう思うの?」
「だって、心の国って場所が本当にあるとして、あんな小さい子がどうやって来たの。それに、捜してるお母さんだって心の国の人なんでしょ。だったら、どうしてこっちの世界にまで来るのよ」
ゆかりは、昨日の出来事を現実だと受け止めたはずなのに、本当はひたすら現実逃避していたのだと知った。ちなみの言っていることは、あまりにも正しく、返す言葉が見つからない。
「きっと、何かの間違いでこっちの世界に迷い込んで、色んな人があの子を捜してるんだよ。で、今朝誰かが見つけて連れ帰ったってトコじゃない?」
「でも、もし昨日みたいに襲われてたら……」
「別にさ、怪力で巨人を生み出す能力があったとしても、心の国ではそれで悪人ってことにはならないんじゃない? 逆に向こうの人からしたら、道路を歩いてて自動車に出くわしただけで襲われたって思うかもよ」
「そうかな……」
「ほら、映画なんかでもよくあるでしょ。主人公が突如現れた謎の人物に関わったせいで、ごたごたに巻き込まれていく話。ゆかりはその立場にあったんだって」
アクション映画が好きなちなみとは違い、恋愛ものやヒューマンドラマ系の映画しか見ないゆかりは、その“ごたごた”が悪いものだとは思えなかった。スパイ映画などでは、何も知らずに美人の女スパイを助けた主人公が、組織に謎の危険人物との判断をされ、散々な目に遭う。しかし、恋愛映画でもスパイ映画でも、最初の好ましくない出会いは、素敵な関係へと発展していくのだ。
「でも、せっかく会えたのに、もうお別れだなんてちょっと寂しいよ」
基本的には、ストーリーの中盤で女スパイは組織に捕まり、危険人物と誤解されていた主人公は、彼女を忘れるように指示される。王道はそんなところだ。そして、主人公は機転を利かし、単身で彼女を奪い返すために立ち上がるのだ。
ちなみが先を歩き、部室の扉を開けたとき、ゆかりは心を決めた。無駄骨でもいい。ただ、このままでは自分の気が済まない。
「私、タリアを捜してくる!」
その辺の机に荷物を放ると、ゆかりは振り返って扉を開けた。ちなみは驚いて咄嗟に声が出ず、ゆかりの腕を掴んだ。
「ゆかり! アテもなくお母さんを捜してる子を、アテもなく捜すっての? そんなの無理だって」
「とりあえず近くを一周まわってくるだけ! すぐに帰ってくるから、キャプテンには走り込みに言ったって伝えておいて!」
ちなみの手を振りほどこうとしたが、その力は強く、なかなか放してくれない。
「だめ、行かせない! あんた、昨日もあの子の為に危険な目に遭ったんでしょ? そんなのダメだよ!」
「ちなみちゃん……」
ようやく分かった。どうしてちなみが、タリアに対してどことなく素っ気なかったのか。そして、ゆかりは少し嬉しくなる。
「ありがとう、心配してくれて」
「昨日はホームルームいなかったし、今日は部活を抜けようっての!? そりゃあの子のことも心配だけど、このままじゃあんたが駄目になっちゃうよ! それに、ゆかりは入学式の準備だけですごく頑張った! なのに、どうしてまた人の為に頑張らないといけないの!」
昔のことを、すこしだけ思い出した。人の為に頑張る。それを教えてくれた人が、誰だったか。
「だけど、ちなみちゃんも頑張ってくれてる」
腕を掴んでいるちなみの手に、自身の手を重ねる。
「ちなみちゃんは今、私のために怒ってくれてる。それと同じだよ」
一つずつ、ちなみの指を腕からはずす。今度は力が入っておらず、あっさりと手を放してもらうことができた。
「今朝、私に言ってくれたでしょ? “変わった”って」
ちなみは、何か言いたそうな顔をしていた。しかし、言うべき言葉が見つからないようで、口をぱくぱくさせている。そんな彼女を見て、ゆかりは微笑む。自分がタリアのことを心配している以上に、ちなみは自分のことを心配してくれているのだ。
「ちなみちゃんが、変えてくれたんだよ。だから、大丈夫」
部室を出るとき、ゆかりは振り返らなかった。そのことにちなみは、何となく寂しい気がしたが、友人として誇らしくも感じた。
「あまり遅くならないでよね」
ようやく言葉が出たときには、ゆかりの姿はもう見えなくなっていた。先輩への言い訳を考えながら、ちなみは体操着に着替える。
「どこに行ったんだろう。近くにいるといいけど」
ゆかりが学校を離れて数十分、タリアはまだ見つからない。
そもそも、今までの彼女の常識では、いるはずのなかった妖精を捜しているのだ。四月にサンタクロースを目撃するよりも、はるかに難しい。
心当たりなどもあるわけがなく、ひたすらに町内を走り、公園の茂みの中を覗いたりもした。
そのうち、ちなみの言うように、心の国から保護者が迎えにきたのかもしれないと考えるようになる。
しかし、そうでなかったとしたら?
一人で迷子になっているかもしれない。どんなに明るい性格でも、母親とはぐれ自分がどこにいるか分からなくなれば、不安になるものだ。または、イカリングに襲われているかもしれない。まだ諦めて帰るには早いと、ゆかりは思った。
すると、彼女の根気が運に勝り、大きな手がかりを得ることができた。その手がかりは、人けのない路地で空から降って現れた。
「よう。タリアはどこだ?」
まだ、タリアはこちらの世界にいる。そして、イカリングにも見つかっていない。かなりの収穫を得たが、大きな損失も出た。ゆかりの身の安全だ。
しかし、プリキュアに変身すればとんでもない力が発揮される。彼女はそれをアテにして、いつ攻撃されてもいいように身構えた。
「どこだって聞いてんだろうが!」
イカリングは地面を蹴って、ゆかり目がけて突進した。
――変身だ!
右手を前に突き出し、昨日のことが一度限りの力でないことを願って、ゆかりは唱える。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!」
しかし、何も起こらない。
彼女の右手の薬指に、指環は無かったのだ。
基礎練習が終わり、休憩に入ったちなみは、冷水器で水を飲んだ。
休憩時間は短い。急いでいたために、口元が少し濡れてしまい、ハンカチを取りに部室に戻った。
「あ! ゆかりはどこリア?」
当たり前のように、タリアがゆかりのかばんに納まっていた。これが漫画であれば、ちなみは飲んだばかりの水を噴き出していたかもしれない。そのくらい驚いたが、水は既に飲み込んであった。
「あんた、何で一人で戻ってきてるの!?」
落ち着く前に、まずは最初の目的を果たそうと、ちなみは制服のポケットをまさぐる。ハンカチの感触が指に伝わり、それを引っ張り出すと、ハンカチと一緒に何か固いものが床に落ちた。
「あ、これ……」
それは、ゆかりから没収した指環だった。拾おうとすると、タリアがかばんから飛び出して、先に奪取した。
「これは、キュアリンクの指環リア! 早くゆかりに返すリア!」
「キュアリンクって、あんたたちの話に出てきたプリキュアのこと?」
「そうリア。この指環に込められた喜びの力が、ゆかりをキュアリンクに変身させるリア!」
「変身できないと、どうなるの?」
「戦えないリア」
嫌な予感がした。そして、こういうときのちなみの予感は、必ず当たる。こと、ゆかりのトラブルに関しては。
イカリングとかいうふざけた名前の男が、まだこの辺りをうろついているとしたら……。同じものを捜しているのだから、ゆかりと鉢合わせないとも限らない。
「もしかして、やばいんじゃない?」
ちなみは指環を持って部室を飛び出した。しかし、すぐに戻ってくるとタリアをかばんにつめ込み、それを持ち出す。万が一のとき、役に立つかもしれない。もっとも、ゆかりが指環もタリアもちなみも必要としていない状況が、理想ではある。
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2-3.愛と怒りのキュアルビー!
ゆかりが走り込みに行ったきり戻ってこないので様子を見てくる、と忍先輩に言い訳をして、ちなみは町内を捜しまわった。
「確認だけど、あんたの話、全部本当のことなんでしょうね!?」
「嘘じゃないリア!」
タリアの入ったかばんを抱えた状態で、ちなみは走り続ける。妖精というのは、もう少し華奢なものだと思い込んでいたが、それなりに重く、彼女の体力を削っていく。りんご三つ分より、はるかに重い。
「イカリングってのがゆかりと会ったら、やばいかな」
今朝の話を全て信じるとしたら、イカリングという男はとてつもない怪力の持ち主だ。タリアのことを諦めるように、ゆかりには悪人ではないかもしれないという仮説を唱えたが、危険であることに間違いはない。
それに、タリアと同じく心の国の住人だ。こんな能天気な妖精がいるくらいだから可能性は低いとは思われるが、暴力の道徳的観念がこちらの世界と異なるとしたら、もっと性質が悪い。
「イカリングは“怒りの王”リア。きっと昨日の戦いに負けて、すごく怒ってるリア!」
「王なら自制心くらい強く持ちなさいよ!!」
プリキュアに変身してオコリンボーという巨人と戦ったなんて現実離れした話を、ちなみはまだ信じられないでいた。心の国と妖精の存在に関しては、タリアとこうして言葉を交わしている以上、認めざるをえない。
しかし、あのゆかりが、変身して戦うなんて想像もつかなかった。
ちなみの知る嬉野ゆかりという人物は、“戦い”とはまるっきり縁がない。事が大げさすぎて今回の場合、ほとんどの人間はそうであるといえるが、ゆかりはどんな些細な争いからも逃げてきた。
小学生のとき、クラスでいじめのようなことがあった。
休み時間に数人の男子グループが、夕べのテレビ番組について話している。「あの芸人おもしろかったよな」というごく自然な会話が、いつの間にか、汚れた芸を披露した芸人の顔がクラスの地味な男の子に似ているという一人の発言により、いじめに発展した。
標的にされた男子が、そこで「似てねーよ」とはっきり言ってしまえば、冗談で済んだかもしれない。しかし、その子は言い返せなかった。
調子に乗ったグループの男子が、「ちょっとモノマネやってみろよ」と言うと、取り巻きが囃し立てる。男の子はうつむいてじっと堪えていた。そして、教室にいたクラスのみんなは、誰も助け舟を出さなかったのだ。
もちろん、ゆかりもそこにいて、何もしなかった。何もできなかった。
そんな彼女が、初めて会ったばかりのタリアを助けるために立ち向かった。事情も知らず、ただタリアを守りたい一心で、彼女は戦うことを選んだのだ。
ちなみがどんなに現実的な意見をぶつけてみても、ゆかりはその意思を変えなかった。何が彼女をそうさせるのかは分からない。きっと、本人も深くは考えていないだろう。
タリアの言っていることが全て虚言で、イカリングが本当にタリアを迎えにきただけの保護者であったとしても、ゆかりが勘違いしていたと謝ればそれでいい。間違うこと、自分が恥をかくことを厭わず、彼女はその道を進むことに決めたのだ。
それなら、とちなみは思う。
ゆかりと同じ道を進み、一緒に間違い、一緒に恥をかこう。
間違っていたら、一緒に謝る。イカリングが本当に敵なら、一緒に戦う。自分に何ができるかは分からなかったが、何もできなくても、ゆかりを支えようと心に決めた。
だから、ちなみは走り続ける。ゆかりが無事なら、それでいい。捜してる間に、学校に戻っているかもしれない。だけど、そうじゃなかったとしたら……。
重いかばんを抱え、汗まみれになって闇雲に走る。ばかみたいだ、と自分でも思った。
「だから何……」
私は何を考えているんだと、ふっと笑う。ばかは散々やってきたじゃないか。そんなことは、どうでもいいんだ。
ただ、ドジはしたくない。ゆかりのピンチに、私が駆けつけられないようなドジは――。
「何で変身できないの~!?」
とんでもないドジを踏んだゆかりは、ひたすらイカリングから逃げ続けていた。
変身のときに現れた光の環。それが指環になった。つまり、プリキュアの力はあの指環がないと発揮されないということなのだろうか。そんなこと、タリアは一言も言っていなかったのに。
心の中でタリアを責めつつ、人通りの多い通りに出る。こんなところでは、イカリングも襲ってこないだろうと考えたのだが、それは甘かった。一般的な理論など、心の国では通用しないのかもしれない。
「どうしてプリキュアに変身しない!? 俺をなめてんのか!」
「変身できないんだよ~!!」
通行人を巻き込むわけにはいかない。ゆかりは誰もいない公園に入る。昨日、オコリンボーは教頭の怒りによって生み出された。怒っている人がその場にいなければ、あの巨人は出現できないのではないかと予想したのだ。
見当違いではなかったようで、イカリングはまだオコリンボーを生み出そうとはしない。もちろん、プリキュアに変身できないゆかりには、単身でも十分ということかもしれないが。
「変身できないだと? はっ、やっぱりてめぇなんかに“喜びのプリキュア”になる資格なんてなかったってわけだ」
「ねぇ、教えて! どうしてあなたはタリアを狙うの?」
戦えないとなれば、話し合いで解決するしかない。とにかく無邪気なタリアに話が通じなかったように、この怒ってばかりの男と落ち着いて話し合える確率は低いだろうが、時間は稼げる。その間に、なにか策を講じなければ。
「言っただろ、俺はタリアにムカついてんだよ!」
「どうして、あんな小さい子に!」
「小さかろうが大きかろうが関係ねぇ! ムカつくもんはムカつくんだ!」
「じゃあ、何で心の国に無理やり連れて帰ろうとするの!?」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ! お前が俺に負けたら教えてやる!」
イカリングはすべり台の階段の部分を持つと、全体を地面から引き抜いて持ち上げた。床を凹ませるパンチと比べて、どちらの方が筋肉を酷使するかゆかりには分からなかったが、そんなことはどうでもいい。
すべり台は滑って遊ぶもので、投げるものではないのに。宙を舞うすべり台を、呆然と見つめるしかなかったゆかりは、しばらくしてそれが自分に直撃する軌道を描いていることに気付いた。
しかし、避けるには遅すぎた。奇跡的に痛くありませんようにと願い、腕で頭を守る。
「ゆかりっ!」
一瞬がスローモーション映像のように流れた後、ゆかりは地面に倒れ、すべり台は彼女の体から数メートル離れた場所に、大きな音を立てて落ちた。
ゆかりは体を擦ったが、すべり台に降ってこられるのと比べたら大した怪我ではない。訳が分からずとりあえず立ち上がろうとしたとき、体の上にちなみが覆いかぶさっていることに気付く。ちなみが、間一髪のところで硬直していたゆかりにタックルしたおかげで、直撃から免れたのだ。
「あんた、何ぼーっとしてんの!」
立ち上がったちなみの表情からは、血の気が引いているのが見てとれた。
「ちなみちゃん、どうしてここに?」
「そんなことはどうでもいいから! 戦うとか、何かよくイメージ湧かなかったけど、今の何!? 怪我じゃ済まなかったよ!?」
ゆかりの肩に置かれた手は、震えていた。彼女を見つけるのがあと一秒でも遅かったら、どうなっていたか。考えるだけで恐ろしい。
「やっぱりだめ! 関わったらいけない世界だったんだよ。逃げて、警察に行こ?」
関わったらいけない、なんてちなみの口から聞きたくなかった。
「警察……」
いつでも、ちなみは正しいことを言う。ゆかりはそう思っていた。しかし、今回のことに関しては、首を縦に振ることはできなかった。
警察が妖精や心の国といった話を信じてくれるとは思えない。もし助けてくれたとしても、イカリングとどうやって戦う? 最悪の場合、発砲もやむなしと判断するだろう。いくら気性が荒く、目的が知れない恐ろしい相手だとしても、死んでいい理由にはならない。
「私がやらなきゃ……」
「あんたに何ができるの! さっきだって危ないところだったじゃない! 何もできなかったからでしょ!?」
無理にでも連れて逃げようとゆかりの手をつかんだとき、指環の存在を思い出した。指環がなければ、ゆかりはプリキュアに変身できない。戦えない。そのことを訴えれば、きっと諦めてもらえる。
ところが、彼女のかばんからタリアが顔を出し、ゆかりに指環をさし出した。
「ゆかりの指環、持ってきたリア! これでプリキュアに変身して戦うリア!」
頭に血が上り、ちなみは理性を失いそうになった。この妖精、何を無邪気に言っている? これはゲームじゃない。試合でもない。戦って、負けたら、死ぬかもしれないのに。
「いい加減にして!!」
ちなみは、タリアの手から指環をはたき落とした。もう、自分がどうなったっていい。理性や外面なんて捨ててしまえ。めちゃくちゃに怒って、二人が泣いて自分のことを嫌いになっても、それでこの場が収まるなら、優しさなんていらない。
「あんたのせいなんだよ!? あんたのせいで、ゆかりは傷ついてるんだ! なのに、どうしてそんな平気な顔でいられるの!」
最低だと、自分を責める。こんな小さい子を怒鳴りつけるなんて。でも、これが本心なんだ。今の言葉に偽りはない。ゆかりを傷つけたイカリングは許せない。そして、その原因だというのに、その自覚がないタリアのことも同じくらい許せなかった。
「プリキュアは伝説の戦士だから大丈夫リア!」
「違う! ゆかりはただ……」
「ちなみちゃん!!」
ゆかりの声が、悲鳴のように聞こえた。意識が遠くなる。怒りすぎて、頭の血管が切れたのだろうか。やばいな、と思っても、抵抗する気は起きなかった。この、おかしくなってしまいそうな怒りから解放されるなら、他のことなんて知ったことか。
意識を失い傾いた彼女の体を、ゆかりが支える。イカリングがこちらの方に掌を向けているのが分かった。赤く鈍い光が、彼の掌から広がっていく。
「俺を無視してんじゃねぇよ」
ちなみの体から現れ、抜き取られた光。昨日の教頭と同じ現象だ。それは、巨大な人の形になり、ゆかりを見下ろす。
「こっちの世界じゃ、みんなヒトの喧嘩の邪魔して説教始めるのか? ま、俺には好都合だけどな。いけ、オコリンボー!」
すかさず地面に落ちた指環を拾い、右手の薬指にはめる。今度こそ、力がみなぎってくるのが分かる。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!」
指環が眩い光を放ち、それは大きな環となってゆかりの体を包む。そして、全身が光の環をくぐったとき、彼女はプリキュアに変身していた。
「みんなでつなぐ、喜びの環! キュアリンク!」
ちなみを担ぎ、タリアをかばんごと背負ってオコリンボーから距離をとる。ベンチに二人を下ろして敵を振り返ると、やはりこちらに向かってきていた。どうにかして、自分の方に意識を向けさせなくては。
体が大きい分、動きは緩慢なはずだ。顔の正面に届くよう、高く跳躍する。
オコリンボーの目がリンクを捉えた。作戦成功だ。後は……どうする。このまま、顔面に攻撃を入れておいたほうがいいのか。
「え?」
そんなことを考えている間に、オコリンボーの頭突きによって彼女の体は吹き飛び、木の幹に激突した。生身では体中の骨が折れて気を失っていたかもしれないが、プリキュアに変身したことにより、彼女は無事だった。それでも、かなりの激痛が彼女を襲う。気絶した方が、もっと楽だったかもしれない。
「タリアを渡せ。さっきの奴も言ってただろ、俺たちに関わらなけりゃ痛い目見ずに済むんだぜ? ホント、薄情ないい友達だよな」
「それは違う!」
悲鳴をあげる体に鞭を打って、リンクは立ち上がった。ちなみを何も知らないくせに、勝手なことを言ってほしくない。
「ちなみちゃんは、私を助けにきてくれた! 本気で心配してくれた! 薄情なんかじゃない!」
「それはお前が友達だからだろう? だが、タリアはどうだ。あいつはタリアにムカついてたぜ?」
「ちなみちゃんは、ムカついたから怒ってたんじゃないよ」
気を失っているはずなのに、ちなみにはゆかりの声がはっきりと聞こえた。まるで水中を漂っているように漠然とした意識の中で、親友の声だけが道しるべとなり、彼女を深淵から救い出そうとしているようだった。
「何言ってる? 人はムカつくから怒るんだ」
心の国の“怒りの王”。そのことを思い出して、リンクはふっと笑った。
「昔、クラスで悲しんでる子がいたの。男子のグループにからかわれて、すごく嫌そうだったのに、私やクラスの皆は何もしないでそれを見てるだけだった。でも、ちなみちゃんは違ったんだよ」
ベンチの方に目をやる。ちなみの顔は、ここ二年ほどで随分と大人っぽくなった。夢の中でもゆかりを叱っているのか、眠っていても眉間に皺が寄っており穏やかな寝顔とは言い難い。もう無邪気なだけの少女ではなく、様々な苦労が顔に刻まれているのだ。
アーチの造花製作に一生懸命になってくれた。ゆかりのピンチには、いつだって駆けつけてくれた。それが、彼女の知る愛花ちなみだ。
「ちなみちゃんは、躊躇わず男子のグループに怒りに行った。その後、からかわれてた男子にも、『何で言い返さないの。男らしくない』って怒ってた。ちなみちゃんは、そんな人なの」
「何が言いたい?」
「あなたは、自分のことだけ。でも、ちなみちゃんは他人のため。私のために怒ってくれる」
視線をタリアに移す。この状況にちっとも危機を感じておらず、リンクと目が合いきょとんとした顔になった。本当に、どこまで能天気なのだろう。
「さっき怒鳴ったのも、タリアのことが嫌いだからじゃない。タリアに、私のことを知ってほしかったんだよ。伝説の戦士プリキュアじゃなくて、ただの中学生だって」
――違う。
起きているのか眠っているのかも分からない夢の世界で、ちなみは否定し続けた。
――ゆかりは、私のことを買い被ってる。さっきタリアにぶつけた言葉は、私の汚れた心の現れだ。いつまでも小学生の私じゃない。私は、それなりに世間を知り、世間一般の人に溶け込んだ。面倒事には関わらない、卑怯な人間になってしまったんだ。
だから、タリアを守ってゆかりが危険な目に遭わないといけないのなら、戦う理由を無くしてしまえば解決すると思った。タリアのことは、誰か他の人に任せたらいい。どうして、ゆかりなんだ。
そして、はっとする。あのとき、私が何もしなければ、別の誰かが助けに入っただろうか。
それはあり得なかっただろう。ゆかりはさっき、“躊躇わず”と言ったが、そんなことはなかった。ちなみは周りを気にした。そして、誰一人として知らん顔をしているクラスメイトに腹を立て、その怒りが原動力となって男子グループに向かって行けたのだ。
いるはずのない“誰か”を頼るなんて、ばかだ。誰も面倒なことには関わりたがらない。……私だってそうだ。
ゆかりは変わった。
今朝、ちなみはそう言った。
自分はどうだ? もし今のクラスで小学生のときのようなことがあれば、あのときと同じ行動がとれるだろうか。きっと、何もしない。下手をすれば自分が目の敵にされてしまう。昔は、あんなに簡単なことだったのに。
ちなみは、大人数で一人をいじめているグループが嫌だった。自分が情けない状況にあると分かっているのに、ただ堪えているだけの男の子も嫌だった。そして、何もしないクラスメイトも。
だから、自分の気持ちをすっきりさせるために、間に割って入ったのだ。決して善いことをしようとした訳ではない。
それなら、どうしてさっきは、逃げようとしたのだろう。
ゆかりが傷つくのが嫌なら、イカリングに文句の一つでも言ってやればよかったじゃないか。
決心したばかりなのに。ゆかりと一緒に戦おうと。しかし、ゆかりの意思を無視して、タリアにひどいことを言った。理想と現実の自分は、違うということだ。
結局は自分が可愛いんだ。そう思うと、眠っているはずなのに笑えてきた。自分の思うようにならないから、気に入らないから怒るんだ。
ゆかりとタリアには、後悔してしまうほど怒りをぶつけてしまった。それでも気が済まない。
……なぜ?
そんなこと、分かりきってるじゃないか。
「くたばれ、キュアリンク!!」
オコリンボーの攻撃が、リンクを襲う。逃げるには、時間も体力も足りない。なんだ、指環があってもなくても変わらなかったじゃない、と彼女は思った。昨日のはまぐれだったんだ。ちなみの言うように逃げた方がよかったのかもしれない。
だって、私一人では、勝てない。
そのとき、リンクをかばうようにちなみが間に割り込んだ。時間がゆっくりと流れるように感じたが、思考だけはいつもより早く働いた。
どうして、何をしているの? 早く逃げて!
そんなリンクの思いもお構いなしに、ちなみはその場を動かない。それどころか、オコリンボーの向こうにいるイカリングを睨みつけ、今にも食ってかかりそうな勢いだった。
「私の親友を、傷つけるな!!」
ちなみの体が、赤く光った。イカリングの掌に吸収されたときの光より遥かに鮮やかな色で、熱く真っ直ぐな意思と力強さを感じさせる。
「これは……」
昨日のゆかりに起きたのと同じ現象だ。オコリンボーの攻撃を弾き返し、ちなみは戸惑った様子で、自身を包む光を見つめている。
「プリキュアの光リア!」
嬉しそうにタリアが言った。
もう、迷う要素は一つとしてなかった。あるのは、イカリングと自分自身への怒りのみで、躊躇いや恐怖は感じない。
これはチャンスなのだと、ちなみは思った。ゆかりは他人の為に戦えるようになった。なのに、ちなみはただ自分の世界を守ることだけに必死だった。ゆかりと一緒にいる生活にヒビを入れるくらいなら、心の国の事情なんて知ったことかと考えていた。いつから、私はそうなってしまったんだ。
間違いを目の当たりにして、見て見ぬフリをする。それを嫌う自分はどこにいった。これは、昔の自分を取り戻すチャンスだ。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!」
赤い光は輪となって、ちなみの体を通過していき変身させる。煌めくような赤いコスチュームに身を包んだ彼女の右手首に、光は真っ赤なブレスレットとなって現れた。
「信じて振るう怒りの拳! キュアルビー!」
自らが変身した現実に驚く隙を与えず、体勢を整えたオコリンボーがパンチを繰り出す。避けるという考えは彼女の頭にはまったく浮かばず、敵の巨大な拳に自身の拳をぶつけた。
すると、ちなみの拳は赤く輝き、すさまじいパワーが溢れてきた。オコリンボーは彼女に力負けして、その巨体は数メートル宙を舞う。
「何、この力……」
赤いブレスレットを見つめて呟いた。さきほどまでの葛藤や怒り、もやもやした気持ちが全てブレスレットに込められているように感じる。そして、それは力となってちなみの体に溢れ出す。
「ちなみちゃん……?」
百聞は一見にしかず、とは言うが、ゆかりには自分がプリキュアになったという自覚はあまりなかった。しかし、目の前で親友が変身して巨人の力を圧倒しているところを見て、プリキュアの凄さを改めて感じた。
「すごいリア! キュアルビーは“怒りのプリキュア”リア!」
興奮したタリアは、ベンチから飛び降りて叫んだ。それを聞いて穏やかではいられないのがイカリングだ。
「“怒りのプリキュア”だと? “怒り”はこの俺だ!!」
イカリングとオコリンボーが、ルビーを襲う。男の子との喧嘩は幾度も経験してきた彼女だったが、今回のは規格外だ。どうすればよいか分からず、防御が遅れた。
「プリキュア! リンクポーション!!」
後ろからリンクが放った光が、イカリングに直撃する。期待したほどのダメージは与えられずとも、勢いを削ぐことに成功した。二人はオコリンボーの攻撃をジャンプして避け、空中で体勢を立て直す。
「このオコリンボーは、てめぇの怒りから生まれたんだ! 倒せるもんか!」
イカリングに吸い取られた、ちなみの怒り。ゆかりを傷つけたくないが為に、タリアを犠牲にしようとした自分勝手な怒り。結果として、それがゆかりを傷つけた。
「だからこそ、私が決着をつける! それが、自分の気持ちと向き合うってことなんだ!!」
ブレスレットが大きな光りを放ち、彼女の右肘から拳までがルビーのように真っ赤になる。煮えたぎるような、熱い怒り。これは、自分への戒めだ。
「プリキュア! ルビーショット!!」
ルビーの拳を象った光が弾丸のような速さで、オコリンボーを貫いた。鈍く赤いオコリンボーの体が鮮やかな赤に変わり、次第に光の中に姿を消した。ちなみは、自身の怒りに打ち勝ったのだ。
「畜生。“怒りのプリキュア”なんて、俺は認めねぇぞ」
イカリングも退散した後で、二人は変身を解いた。気がつくと彼が投げたすべり台は元の位置でちゃんと地面とつながっている。肉体的にも精神的にも疲労困憊のちなみは、そこから動く気力が出ずに大の字になって仰向けに倒れた。
「……今の今まで寝てたってことはないかな?」
「夢じゃないよ。ちなみちゃんはプリキュアになって、巨人をやっつけました」
「だから、プリキュアって何よ……」
首だけ起こそうとしたが、やはり力が入らずこてんと頭をつく。青い空が目に入った。何となく、懐かしい景色のように感じる。
「もう、ちなみちゃんがそんなんじゃ私がだらけられないでしょ」
さし出された手を、ちなみは掴んだ。思えば手をつなぐなんて、いつ以来のことだろう。
「“怒りのプリキュア”かぁ。どうせなら、“優しさのプリキュア”とか“慈しみのプリキュア”とかが良かったなー」
「でも、キュアルビーすごくカッコよかったよ!」
「カッコよくない」
学校へ戻る道すがら、“怒り”というフレーズが悪役みたいで気に入らないというちなみをどうにかフォローするゆかりに、不条理な拳骨が降りそそぐ。
「もう。すぐ怒るんだから。さすが“怒りのプリキュア”」
「あんたがそうやって怒らせるようなこと言うからでしょ!」
二人のやりとりを見て、タリアはにこにこしていた。特等席となったゆかりのかばんの中で、嬉しそうに言う。
「プリキュアが二人になったリア! すごいリア!」
そんなタリアを見て、ちなみは心が痛くなった。あんなにひどく当たったのに、ちっとも気にしていないようだ。しかし、だからといって謝らなくていい理由にはならない。
「タリア……だよね? その、さっきはごめん、キツいこと言って」
「何のことリア?」
とぼけた表情をするタリアの頭に、ちなみは手を置く。
「何でも。とにかく、ごめんね」
その様子を見て、ゆかりは微笑んだ。怒られて謝るというのはよくあることだが、怒った者が一方的に謝るというのは、奇妙なものだ。
「私も手伝う。あんたのお母さん捜し」
手に持っていたかばんを肩にかけ、ちなみはブレスレットを見つめた。そこには、彼女の決意が込められている。
「基本的に面倒事は背負いたくないんだけどね、背負っちゃったもんには責任を持つよ、私は」
小学生のときとは随分と事情が変わった。ゆかりはもう見ているだけではなく、戦う勇気を持っている。
そして、ちなみは戦えない人の気持ちを知った。いじめを傍観していたクラスメイトは、決して薄情だったり臆病だったわけではない。きっと、何もできなかった自分を責めていたのだろう。
そう考えると、ちなみはおかしくなる。きっと、成長したと思っている今の自分も、数年後にはばかなことをしていた時期もあったと顧みるのだろう。しかし、それでいいのだ。
後悔しない生き方なんてない。完璧なんてつまらない。だから、大人の真似事なんてやめて今を楽しもう。どうせ大人だって、間違ってばかりなんだ。
「あっ!!」
脳が危険信号を受信し、ちなみは叫んだ。
「どうしたの?」
「早く戻らないと、キャプテンに怒られる!!」
そして、二人は走り出す。今朝と同じように、ちなみが体二つ分ほどリードして、ゆかりがその後を追いかける。
だが、ゆかりに追いかけられているから、ちなみは走ることができるのだ。この関係だけは、変わらないでいたいと思う。
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3-1.新たな敵と新たな仲間!
放課後の学校では、あちこちから元気なかけ声が聞こえる。
グラウンドでは野球部が辛い基礎練習に大粒の汗を流し、体育館からは剣道部の勇ましい轟が響き渡る。
女子ソフトテニス部も同様で、まるで声を出すのが部活だと言わんばかりだ。部員の数に対してコートが少なすぎるため、自分の順番が来るまでは列に並んで、コートに入っている者を応援する。基本的にかけ声は「ファイト」で統一したはずなのだが、「……イトー!!」や「ァットー!!」などアレンジしてあるものの方が圧倒的に多く聞こえる。
「ファイ……ットーッ!!」
愛花ちなみは言葉の間に溜めをつくる。入部したばかりで球拾いしかさせてもらえないときから、ちなみは同級生の誰よりも大きな声を出し、チームを鼓舞した。そうしたことから彼女は次期キャプテン候補と噂されていたが、彼女が声出しに精を出す本当の理由は、口パクで誤魔化している部員への当てつけであった。
真面目な部員はちなみに感化され、負けじと声を張る。とりあえず練習に来ているだけの者も、その空気に引き込まれささやかではあるが声を出すようになった。
「ファーァイトーーーー!!」
スタッカートの効いているちなみとは対照に、ゆかりは滑らかに発音する。すると、コートの向こうから再びちなみが声を出す。
「ファイ…………ットォーーッ!!」
チームメイトの間でも二人のかけ声は特に分かりやすいとよく言われる。そのことを思い出したゆかりは、にやっとして大きく息を吸う。
「ファーーァアー……イトォーー!!」
顧問の先生は職員会議のため、今日はまだ来ていない。来たとして、テニスの経験もなければ興味もないような人だ。居ても居なくても構わないが、どちらかというと居ないほうがやりやすい。ついでに気も抜けた数人が、二人のかけ合いにくすくすと笑った。
「こら! 変な声出さないの!!」
キャプテンに注意されたのは誰かな、と周囲を窺っていたゆかりは、忍がこちらに向かって来ていることに気付き、冤罪だと目で訴えた。
「みんなの気が散るでしょ」
「私、変な声なんて出してないですよ!」
「どの口が言う」
忍は人差し指をゆかりの顔の前で立てた。おでこを突っつくと、周りから笑いが起こる。突かれた場所を擦って文句を言いたそうな顔をしているゆかりの気持ちを汲んで、忍はばっと後ろを振り返る。すると、ちなみの顔が引きつった。
「ゆかりには、私からもよく言っておきますので……」
わざとらしくペコペコと頭を下げるちなみを見て、忍は腕を組みため息を吐く。
「いい? 二人とも二年生になって後輩ができたんだからね。新入部員が入ってきたら、もう立派な先輩なんだよ」
後輩、新入部員……。その言葉に、ゆかりは嬉しくなった。入学式から数日経ち、そろそろ一年生が部活を見学にくる時期だ。今年は何人ぐらい入ってくるだろう、先輩と呼ばれるのかな、そんなことを考えて彼女の胸は高揚した。
「ゆかり、聞いてる?」
はっとして我に返ると、忍のじとっとした目が向けられていた。すかさず謝るとまた笑いが起き、コート内は楽しい雰囲気に包まれた。
その様子を、コートの外から窺う一人の女子生徒。キャプテンと思しき人が叱っているのは……間違いない。彼女は確信した。
「ゆかりさんっていうんだ……」
その場でしばらくテニス部の練習を覗いていたが、誰かが歩いてくる気配を感じて隠れられそうな場所を探す。隠れる理由もなければ彼女を見つけようとする人もいないのだが、そんなことは忘れて適当に開いていた部室に入った。
テニスコートの近くにある部室。もちろん、それは複数あるテニス部のいずれかのもので、よりにもよって女子ソフトテニス部の部室だった。
休憩時間になると、ゆかりとちなみは冷水器の列にも並ばず一目散に部室を目指した。二年生に進級して、ますます楽しくなった彼女たちの学校生活に影響を及ぼす一つの懸案事項。それが、部室にあるのだ。
これまでのところ、意外なことにタリアはかばんの中で大人しくするという約束を守ってきた。だからといって、ゆかりにとっても未だにいまいち掴みどころのない性格であることに変わりはなく、いつ学内をうろつき出すかわからない。
彼女たちの先を行くものはいなかったから、今の部室には誰もいないはずだ。何らかの理由で遅れてきた部員が着替えているかもしれないが、ただ着替えているだけなら問題ない。ゆかりのかばんと話したりしていなければ。
こうした不安を抱えて、ゆかりは部室の扉を開けた。
「すごい! じゃあ、あなたは本当に妖精さんなのね」
「そう、ボクは妖精リア!」
目に飛び込んできた光景に、二人は唖然としてお互いの頬をつねり合った。残念なことに、痛みを感じる。つまり、テニス部員ではないはずの女子生徒とタリアが楽しそうに言葉を交わしているこの光景は、現実ということだ。
「タリア、何してるの!!」
ちなみの大声に驚き、見知らぬ女子生徒は飛び上がって反射的に頭を下げた。
「すみません、勝手に部室に入ったりして……」
「そんなことより、いや、もう……聞きたいことだらけなんだけどさ」
混乱した考えをまとめようと、ちなみは額を拳でこつこつと叩く。その隣でゆかりも同じ動作をしてみせ、女子生徒の顔に見覚えがあることを気にしていた。頭を下げたままの姿勢でいるため分かりづらいが、先ほど一瞬だけ見えた顔は間違いなく記憶にあった。
「とりあえず……、あなたウチの部員じゃないよね。どうしてここにいるわけ?」
「ごめんなさい、つい……」
「まぁ、いいけど。それで、無いとは思うけど何も盗ったりしてないよね?」
ちなみの追及に怯えた表情になった女子生徒を、タリアが助けた。
「ゆいはずっとボクとお喋りしてただけリア!」
「ゆい?」
女子生徒は気をつけをして、再び頭を深く下げる。
「はい。私、一年生の
口ごもりながら説明をする彼女に、ゆかりは既視感を覚えた。つい最近にも、同じような表情を目にしたことがある。もやもやした記憶は、次第に鮮明になり、脳内にブルーレイ画質で蘇る。
「あなた、もしかして入学式のときの……!」
曇っていたゆいの表情が、ぱぁっと明るくなった。あのときと同じだ。
「はい、そうです! たぶん、きっと……」
晴れ晴れとした笑顔は、また徐々に雲に覆われていく。ゆかりの言う人物と自分が同一であることに、自信が持てなかったのかもしれない。
しかし、ゆかりには確信があった。あの日のことは忘れようがない。異世界から現れた妖精や、怪物を生み出す大男の前には霞んでしまうが、彼女が一生懸命に用意した入学式。それを控えた新入生とのふれ合いも、大切な思い出だった。
「あの後、大丈夫だった?」
「はい、体育館の方から大きな音がして、それが気になりましたけど」
「あ、あれね。何だったんだろうね~」
引きつった笑いで誤魔化したつもりではいるが、この子は先ほど当たり前のようにタリアと話していたことを思い出し、本当のことを言ってしまってもいいような気がした。
「何? 二人はどういう関係?」
「どーゆー関係リア!」
事情はどうあれ、よその部室に勝手に入り妖精を見て平然としていた子だ。ちなみにとって、彼女がゆかりと知り合いであるということは意外であり、同時になぜか納得してしまえるような不思議な感じだった。
「この子とは、入学式の……例のどたばたの前にたまたま会ったんだよ」
「はい、私が来るのが早すぎて困っていたら、ゆかりさんが助けてくれて……」
「あれ、私あなたに名前教えたっけ?」
すると、ゆいは俯いてしまい、まるで自分の罪を打ち明けるかのごとく申し訳なさそうに話した。
「実はさっき、部活を見てたんです。それで……」
思い切ってゆかりの方を見ると、期待に胸をときめかせ、目をきらきら光らせている顔がそこにあった。
「もしかして、あなた、入部希望者!?」
「いえ、あの……」
話が変な方向へ進みそうになったので、ゆいはどうにか軌道修正をしようと試みたが、ちなみも腕を組みうんうんと頷いたため、それはほぼ絶望的となった。
「なるほどねぇ。でも、部活を見学したいならちゃんと誰かに話しを通さないと。それに、部室だって勝手に入っちゃだめだよ」
「そうリア。勝手に入ったらだめリア」
輝くゆかりの笑顔と、渋い顔でうなずくちなみと、困った状況になって今にも泣きそうな顔のゆいが、一斉にタリアを見た。
「ボクもびっくりしたリア。でも、ゆいとのお喋り楽しかったリア」
ゆかりとちなみの顔が強張り、同時にゆいに詰め寄る。
「何を聞いた? どこまで聞いたの!?」
「喋る珍種の動物って言ったら信じる!?」
ところが、ゆいはぽかんとした表情になった。
「え? 妖精って動物のうちに入るんですか?」
例えば、遠い星からやってきた宇宙人が目の前に現れたとして、私は何とか星人ですと名乗るのは当然のマナーかもしれない。それと同じで、人間と妖精という異なる種族が出会ったのだから、自分は妖精だと自己紹介しただけのタリアを誰が責められる。
この場合、無理にでも誰かを悪者にするとしたら、それはゆいだ。宇宙人でも妖精でも、SFやファンタジーの創造物を現実として認めたとき、人間は驚いてみせなければならない。そうでないと、はるばるやって来た“彼ら”も腑に落ちないはずだ。
しばらくの沈黙に気まずくなったゆいは壁を背に扉の方へと移動して、後ろ手に取っ手を探った。
「あの、それじゃあ私、そろそろ失礼します……」
そうは言ったものの、なかなか取っ手が見つからず焦っていると、扉の方が自然に開いた。振り返ると、そこには忍が立っていた。
「二人とも、もう休憩終わりだよ。……って、あなたは?」
「入部希望者ですよ!」
あまり長いこと部室で話していると、いつタリアが口をはさむか分からない。プリキュアになった時点で面倒事を背負い込む覚悟を決めた二人だったが、これ以上この場が面倒になることだけは避けたかった。
「え、もう入部希望者?」
ゆかりとちなみに追い出されるような形で部室から出た忍は、少しの間どう対応すべきか考えた結果、去るもの追っても来るもの拒まずと判断した。他のみんなも外に出てきたのを確認すると、ゆいの正面に立つ。
「たしか一年生が入部できるのはまだ少し先だったと思うけど、どうする? 今日ちょっとでも見学していく?」
「その、私は……」
この段階で一年生に知り合いができるということは、女子ソフトテニス部にとって大きなメリットとなる。小学生のときから熱心に続けている習い事でもなければ、ほとんどの生徒は友達に影響されて部活を選ぶ。口コミの効果を考えると、ゆいがこの部活に興味を持ってくれる時期は早い方がいい。
「ぜひ見ていってよ。もちろん、他に予定がなければ、だけど」
ゆかりはただ新入部員を逃がしたくない気持ちより、タリアのことを知ってしまった彼女を、このまま帰すわけにはいかないという意図があった。もし、明日にでも友達に話されては堪らない。
「あ……。じゃあ、そうします……」
「よかった! 忍先輩、この子のことは私たちに任せてもらっていいですか?」
ゆいの両肩に手をまわして、ちなみは強くかけ合った。時間さえあれば、どうにかしてタリアの存在を誤魔化せるだろう。これからの学校生活を円滑に進めるためにも、彼女たちがプリキュアだということは、誰にも知られない方がいい。
映画や小説は好きな方だが、ちなみはそれらフィクションの世界と現実を同一視するほど無垢ではない。自分がプリキュアに変身したことすら、今では夢だったのではないかと疑っているくらいだ。特撮に影響を受けた“痛い子”だなんて思われたくない。
「ま、二人ともその子と知り合いみたいだし、わかった。あんた達に任せるわ」
キャプテンの承認を得て、二人は胸をなで下ろす。見ているだけでは退屈するだろうから、予備のラケットを貸すと言い訳をして、コートに戻る忍を見送った。姿が見えなくなるのを確認すると、すかさず部室に戻る。
「タリアとは何を話してたの?」
数分の間にくたびれたちなみは、適当な椅子に腰を下ろした。ゆかりのかばんを軽く叩いて合図し、タリアが顔を出す。
「ほとんど何も……。自己紹介しただけです。それで、その子は心の国の妖精でお母さんを捜してるって」
「本当にそれだけ?」タリアに顔を近づけたちなみは、小声で尋ねる。「プリキュアのことは言ってないでしょうね?」
心の国から来た妖精のくせに配慮というものを分かっていないのか、タリアは大声で元気に応えた。
「まだプリキュアの話はしてなかったリア!」
「プリキュア……?」
聞きなれない単語に、ゆいは首を傾げる。ちなみは大きくため息を吐いて、タリアの頭を小突いた。遅いと怪しまれないうちにコートに戻るのは、もう不可能かもしれない。
「何のことだろうね?」ゆかりはぎこちなく笑った。「きっと、妖精の世界にいる伝説の戦士とかじゃないかな~」
「そうリア! ゆかりとちなみは“伝説の戦士”プリキュアリア!!」
すべて子どもの空想ということにしよう。ちなみはそう決心して、ゆっくりとタリアをかばんの中に押し込んでファスナーを閉めた。
「なんかこの子、私たちをそのプリキュアってのと勘違いしてるらしくてさ、困ってんのよ」
「はぁ、そうなんですか……」
弁解のチャンスはまだ次の休憩時間に残されている。ちなみは予備のラケットをゆいに手渡し、部室を出ようとした。
「また後で落ち着いて話そう。とりあえずは戻ろうか」
腑に落ちない様子でいるゆいの手を、ゆかりが引っ張った。
「改めて自己紹介するね。私の名前は嬉野ゆかり。こっちが幼馴染の愛花ちなみちゃん」
つないでいる手の感触が、ゆいには懐かしく感じた。自分の存在を包み込んでくれるような、温かい安らぎ。こんな感覚を前に味わったのはいつだったか、はるか昔のことのように思える。
ゆいは手を握り返し、ゆかりの顔を見た。
「ゆかりさんって呼んでもいいですか?」
それを聞いて、ゆかりは笑顔になる。嬉野先輩という響きにも憧れは抱いていたのだが、こっちの方がずっといい。
「もちろん! じゃあ、行こう!」
コートまで駆け足で戻る間、ゆいはずっと下を向いていたためゆかりにはよく見えなかったが、その表情はほころんでいた。
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3-2.新たな敵と新たな仲間!
季節によって数十分の違いはあるものの、彼女たちが通う中学校ではどの部活も決められた下校時間に従わなければならず、部活も残り一時間となった。
キャプテンである忍のかけ声に従い、部員は反射的に所定の場所に集まる。そこはいつもなら顧問が座っているはずなのだが、今日はゆいがそこに座って練習を見学しており、気まずそうに姿勢を正した。
これまでのところ、ゆかり達は彼女に口止めをする機会を得られないでいた。正式にはまだ体験入部も認められていない時期に、制服のまま運動させて怪我をされては困るというのだ。顧問もまだ来ていないため、責任の所在は部長兼キャプテンの忍にある。これにはゆかりもだだをこねるわけにもいかず、ゆいは貸してもらったラケットを持て余していた。
休憩時間や練習の合間に、何人かの部員がゆいに興味を示して話しかけることはあったが、すぐにまた練習に戻らなくてはいかなかったため、彼女は三十分以上ずっと座った状態にあった。
ゆかりとちなみも自分の練習に手いっぱいだったが、待ち時間の多い試合練習に入ったことで、ようやくゆいの近くに腰を落ち着かせることができた。
「いつものように第一コートは三年生、第二コートは二年生で使って。もちろん、三年生と二年生で試合してもいいけど、どっちかのコートに人数が集中しないようにね」
「はい!」
忍の指示を受けて解散した部員たちは、それぞれペアを組んで対戦相手を探す。コートには早いもの勝ちで入っていき、ゆかり達はそれを遠慮することにした。
「ゆかり、次で入ろうよ」
「うん、いいよ」
普段からペアを組んでいる二人は、それが当たり前であるかのように相方捜しをする必要もなく、最初の試合を傍観する。
「ごめんね、少しは打たせてあげられるかと思ったんだけど」
ちなみは地べたに座り、高い位置にあるゆいの顔を見上げて言った。後輩の自分だけが椅子に座っていることを申し訳なく感じたゆいは、慌てて立ち上がり譲ろうとしたが、ゆかりもいることを思い出して、どうすればよいか分からなくなった。
そんな彼女の気持ちを察して、ちなみは椅子の座面を軽く叩いて示した。
「お客さんなんだから、気遣わなくていいよ」
「すみません……」
おずおずと椅子に腰を下ろし、両手を握って膝の上に置く。タリアとは楽しそうに話していたことを思い出したゆかりは、まるで借りてきた猫のようだと感じた。
「やっぱり、一人だと緊張するよね。私のときはちなみちゃんと一緒だったから大丈夫だったけど」
目の前のコートで、こちら側の後衛が相手のスマッシュをロブで返したのを見て、ゆかりは心の中でナイスと叫んだ。
「そうだっけね。たしか、私がゆかりを誘ったんだよね?」
懐かしむように、ちなみが言う。座っていることに飽きたのか、シャフトの間に人差し指を入れ、くるくると回しはじめた。
「その……、どうしてお二人はこの部活に入ったんですか……?」
尋ねたあとで、気になったことをあっさり質問できた自分に驚くゆいをよそに、二人はお互いの顔を見て微笑み合った。そのままの表情でゆいに視線を移し、ゆかりが説明する。
「去年はちょっと色々あってね、二人で同じ部活に入ろうって決めたの。どうしてもやりたいっていう部活はどっちもなかったから。それで、せっかく同じ部活に入るなら個人競技は嫌だねって話になって、ダブルスがメインのソフトテニス部にしたんだ」
「え、でもバスケみたいな団体競技とか、他にも文化部があるじゃないですか」
「まぁ、それは何となくだね。フィーリングってやついうのかな? とにかく、心にびびっときたんだ」
「フィーリング……ですか」
それは、ゆいにも分かる気がした。自分の心を引きつけるものに出会ったとき、理由など存在しない。気がついたときには、パズルの最後のピースがぴったりはまるような感覚があるだけだ。
「ほんと、ゆかりは自分の心に正直なんだよね」
横からわざとらしく嫌味を言うちなみに、ゆかりは頬を膨らませて反撃する。
「ちなみちゃんだって、人のこと言えるのー?」
第二コートの試合が終わり、選手たちがコートを離れた。ゆかり達はラケットを手にすると立ち上がり、ゆいを振り返った。
「じゃあ、私たちの活躍っぷり見ててよ」
「活躍できたら、ね」
ちなみからのツッコミを受けたゆかりは、困ったような笑いをみせて、身を翻しコートに入っていく。そんな彼女の後ろ姿を見て、ゆいは立ち上がった。試合が終わればまたゆかりは自分のところに戻ってくるかもしれないが、後回しにはしたくなかった。
「ゆかりさん! あの……、入学式のときはありがとうございました!!」
ゆかりは足を止め、回れ右をしてゆいを見た。変わらず不安そうな表情ではあるが、先ほどまでとはちょっと違う。ただ“ありがとう”と言うだけなのに、勇気を振りしぼっていっぱいいっぱいになっている。
そのことが、ゆかりには嬉しかった。
「うん! どういたしまして」
数日前にも似たようなやりとりをした。しかし、今とはやや状況が異なる。入学式のときとは違って、ゆかりはゆいを知っているし、ゆいもゆかりを知っている。そして、今や同じ学校の仲間であり、部活の先輩後輩の関係になろうとしている。
たった数時間で、見ず知らずの他人からこれほどまで距離を縮められる。ゆかりの心は喜びで満たされ、試合どころではなくなった。
辺りがすっかり夕闇に包まれると、下校を促す音楽が流れる。
顧問は最後まで現れず、片付けの後の集合では忍が今日の練習の反省点を挙げた。「集中力が欠けている」という言葉には、ゆかりも閉口するしかなかった。
解散してからほとんどの部員は部室に戻ったが、着替えるのも面倒臭いと体操服姿のまま帰路についた者もいた。せまい部室であるため、三年生が先に中で着替え、何人か出てきたのを確認して二年生も代わる代わる部室に入る。
三年生は自分の着替えが済むとそのまま帰るか、まだ部室に残っている友達を待つのだが、忍は部長として部室の鍵を職員室に返さなければならず、他の部員を見送っていた。
「忍先輩、私たちが最後です」
「よし! 忘れ物ない? 閉めるよ」
念のため部室の中を覗いて、ゆかりたちは頷いた。南京錠をしっかりと閉め、忍は立ち去ろうとしてゆいを気にした。
「途中で帰ってもよかったんだけどね、ごめんね。私がそう言えばよかった。時間、遅くなったけど大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です……」
「そっか、ならよかったよ。また入部の時期になったらさ、今度は友達も連れて見学に来てよ」
ゆいは返事に困って俯いたのだが、それを肯定の意味で頷いたのだと勘違いした忍は、彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
「じゃ、お疲れ!」
「お疲れ様でした!」
職員室に向かう忍の後ろ姿を見送って、ゆいも同じ方向だと分かり三人で一緒に帰ることにした。
「もうお家に帰るリア?」
「うん、そうだよ。もう少しで着くからね」
出会ってほんの数日の間に、ゆかりはタリアの扱いに慣れてしまっていた。ときどき考えなしで行動することが悩みどころではあるが、基本的には人間の子どもと変わらない。彼女にとっては弟か妹ができたような気分だった。
「ゆい、明日も会えるリア?」
すると、ゆいはぎこちない笑顔をつくり、ゆかりたちの顔色を窺って控え目な声量で言った。
「それはどうかな。分かんない」
「ま、次来るなら、忍先輩が言ったように入部が許可された頃にさ、友達と一緒に来たらいいよ。ただし、タリアを紹介するのはダメだけどね」
ラケットケースのひもを左肩から襷がけにして、右肩にバッグをかけたちなみは、両手を頭の後ろで組みゆいの方を見た。そのおかげで、彼女の肘にぶつからないようゆいは自身の体をできるだけ縮めて、肩身が狭くなった。
「はい、その……分かってます。この子のことは内緒、ですよね?」
「言っても信じてくれる人はいないと思うけど、あんただって、友達から変人だなんて思われたくないでしょ?」
「そう、ですね……」
人見知りなのか極度の恥ずかしがり屋なのか、なかなか心を開いてくれないゆいの態度に、ゆかりは違和感を覚えた。小学生では学年の差など関係なく友達のように接していたから、初めて後輩と呼べる存在ができたわけだが、後輩というのはこんなにもよそよそしいものだっただろうか。
ゆかりたちは違ったはずだ。先輩にも恵まれたおかげで、すんなりと部に打ち解けることができた。もちろん性格が人それぞれなのは分かっているが、ゆいは初めて会ったばかりの――しかも妖精という奇天烈な生き物である――タリアと、楽しそうに話していた。
わざわざ自分に二回目のお礼を言いにきたぐらいだから、人付き合いが嫌いというわけでもなさそうなのに。
「ねぇ、ゆい?」
「はい?」
ゆいは小首を傾げる。ほんの一つしか変わらないのに、ゆかりはそのあどけない動作をみて、なんだか子どものようだと思った。
「余計なお世話かもしれないけど、何か困ったことがあったら私たちを訪ねて来てよ。タリアもゆいのこと気に入ったみたいだし、先輩としてアドバイスできることがあるかもしれないから」
これ以上、不安がらせることのないようにゆかりはできるだけ優しく笑ったつもりだったのだが、ゆいがほんの一瞬だけ浮かべた失望の表情を、彼女は見逃さなかった。
「はい、ありがとうございます……」
ゆいの返した笑顔は偽物であると、ゆかりは直感した。かばんから頭だけ出していたタリアは、ゆかりの腕をよじ登り、ゆいの肩に飛び移った。
「ゆいはボクの友達リア!」
その言葉を受けて、ゆいは微笑んだ。それを見て、ゆかりは確信する。自分たちに向けられたものと、タリアに向けられた笑顔は、明らかに違うものだ。
「あ、私この辺なので……。失礼します」
住宅街にさしかかる十字路で、ゆいは慎重にタリアを返してお辞儀をした。すると、彼女の胸ポケットから何かが落ち、アスファルトに当たって心地よい金属音を奏でた。小銭かと思ったが、それはシンプルな楕円形をした銀のロケットだった。
「ロケット? 珍しいね」
拾ってみると、紐などを通す輪っかがくてんと倒れた。
「普通はペンダントの先にくっつけたりするんじゃない? そのままだと、また今みたいに落ちるよ?」
ちなみがロケットに触ろうとしたとき、ゆいはまるで奪うかのようにゆかりの手からそれを取った。
「あの……それじゃあ」
ロケットを握りしめると、彼女は走って去ってしまった。
「大人しいのかよく分からない子だね」
触れるもののなくなった手を持てあましたちなみは、誤魔化すように手を払った。
「だって、まだ知り合ったばかりだもん。これから、分かるようになるよ」
そう、分からなくて当然なのだ、とゆかりは思った。このままテニス部に入ってくれて同じ時間を共有するようになれば、自然と心を通じ合うことができるはずだ。そのころには、どうしてロケットを大事にしているのかという質問も許してくれるだろうし、もっと気持ちはほぐれているだろう。
その後の帰り道では、ずっと自分たちが先輩になる妄想について語り合った。しかし、どちらも相手の話を聞いては心の中でひどい妄想だと突っ込むのだった。
ほどなくして、一年生は午後の授業をつぶして体育館に集められた。各部活動の代表によって行われる部活紹介があり、それが終われば今日の放課後より部活に入部することが認められる。
どの部も紹介に特徴的な演出を加え、それぞれの良さをアピールした。ゆいはそのどれも楽しそうに思ったが、いまいち自分がそれをやっている姿が想像できずにいた。
そして、十番目あたりで女子ソフトテニス部の紹介となった。全員が三年生のメンバーで構成されている。ゆいはその中に見知った顔を捜し、忍と目が遭った。周りの者に悟られないくらいささやかなウインクをされたが、つい目を逸らしてしまう。
二組のペアはそれぞれ体育館の端に寄り、模擬試合が始まった。室内なので球の勢いは弱弱しいが、それでも凛々しい選手たちの姿に一年生の列からは小さな歓声が上がる。
紹介が終わり、拍手が送られるとゆいはまるで自分のことのように誇らしく感じた。しかし、また忍がこちらを気にかけていることに気付き、自己嫌悪に陥る。
どうしてこんな気持ちになるのか。……分かっているくせに。
もやもやした感情をどこに吐き出せばいいのか模索しているうちに、部活紹介は終わってしまった。最後に各部の顧問が紹介され、入部希望の者は自分のところに来るようにと呼びかける。
ぱっとしない五十過ぎの眼鏡をかけた男性教員が、女子ソフトテニス部の顧問だった。この後、彼のところに行って入部したい旨を伝えれば、それでゆいは部の一員となれる。
どの部活に入るかはもう決まっていた。わざわざ職員室を訪ねなくても、練習を見学に行けば顧問や部長が気をきかせてくれて、いつの間にか部員扱いされるだろう。だから、今日の放課後、また女子ソフトテニス部の見学に行けばいいだけなんだ、とゆいは何度も自分に言い聞かせた。
教室でのホームルームが終わり、これまでならすぐに解散していたクラスのみんなは、友達とどの部活に入るか、見学に行ってみるかという相談を始めた。
ゆいの席の近くでも、五人くらいの女子グループが固まって楽しそうに話している。それぞれ興味をもった部活は違うようだが、結局みんな同じ部に入るのだろうとゆいは推察した。
「私、ソフトテニス部にしよっかなー」
一人がそう言った。入学してからの一週間、ゆいが見たところその子はグループの中心のようだった。すると、取り巻きも彼女に便乗する。
「じゃあ、私もそうしようかな」
「悦ちゃん、このあと見学に行く?」
これは好機だと、ゆいは判断した。この流れなら自然に彼女たちを誘うことができるだろう。さりげなく、思い出したように言えばいいんだ。
――私もテニス部を見に行きたいんだけど、一緒に行かない?
たったこれだけのセリフだ。躊躇う必要がどこにある。クラスメイトとしての、ごく普通の会話なんだから、何もおかしいことはない。
彼女は心の中で復唱し、結果、それを飲み込んだ。
もうちょっと機会を伺おう。今よりもっといいタイミングがおとずれるはずだ。最悪の場合、明日でもいい。明後日でも……別に急ぐようなことじゃない。
「ごめん、今日は犬の世話しないといけなくてさ。また今度でもいい?」
悦ちゃんと呼ばれた子がそう言うと、周りは残念そうな反応をみせたが、ゆいだけはほっとした。“また今度”でいいんだ……。
そして、彼女たちが解散したとき、教室にはゆい一人だけが残されていた。みんな、友達と部活見学に行ってしまった。悦ちゃんのように帰った者もいる。だから、焦る必要はない。今日すぐに行かないといけない決まりなど、ないのだから。
ゆいはかばんを担ぐと、昇降口に向かった。あちこちから微かに運動部のかけ声が聞こえてきたが、彼女はそれらを無視することにした。
少しずつ更新頻度が落ちるかもしれませんが、
これからもよろしくお願い致します。
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3-3.新たな敵と新たな仲間!
学校を出る最短のルートは、テニスコートの横を通らなければならなかった。
ゆいは悩んで挙句、まだ通ったことがない反対側の門から帰ることにした。少し遠回りになるが、仕方がない。ゆかりたちに見つかって、また一人で来たのかとがっかりされるくらいなら、どちらの道を選ぶべきかは明らかだ。
ただいつもと違う道から帰るだけのことなのに、それが彼女にはひどく罪悪なことに思えた。しかし、悪いのは自分ではなく、タイミングだと心の中で言い訳をする。
友達をつくろうと頑張った。他愛のない会話でいいから、そのきっかけを作ろうといつも周囲を窺っていた。しかし、彼女が口を開こうとする直前に誰かがそれを邪魔するのだ。
この前の部活見学だって、ゆいはもう一度ゆかりに会いたかっただけなのだ。この学校で、最初に話しかけてくれた人。自分を気にかけてくれて、中学校でもやっていけると思わせてくれた。ほんの少し言葉を交わせば、それで満足できたのに。
周囲が悪かった。自分の非も認めつつ、彼女はそんな結論に至った。
もう少し、私のことを考えてくれてもいいじゃないか。
目に見えるところにいるのに、どうしてクラスメイトは私ではなく友達に話しかける? 部活を見にきたなんて一言も言っていないのに、どうして決めつけた?
反対したのに、どうして引っ越しなんて――。
胸ポケットからロケットを取り出し、それを握りしめた。すると、彼女に影がさした。太陽に雲がかかったのかと思い顔を上げると、そこには長身の女性がゆいを見下ろすように立って、不気味な笑みを浮かべていた。
「あなた、学校は楽しい?」
「え……」
ゆいよりも頭二つ分ほど背の高いその女性は、じっと彼女の目をみつめ視線を逸らすことを許さない。その瞳には、苦悩や疲れを吸収してくれそうな魅力があり、このままこの見知らぬ女性に悩みを打ち明けてしまえば、どんなに楽だろうと思えた。
「いつも辛い思いをしながら生きているなんて可哀そう。よかったら、私があなたを楽にしてあげましょうか」
ゆいの中で、泡のようなものが弾けて消えた。すぐに、その泡は新しい学校への期待だったのだと分かる。
――みんな同じ気持ちだから、友達なんてすぐにできるわよ。
引っ越すとき母はそう言って、ゆいも頷いた。しかし、入学式の日に、それは間違いだったと知る。
彼女以外のみんなは、すでに友達だったのだ。公立の中学なのだから、考えてみれば当たり前のことだ。小学校の六年間で、“みんな”は友達や知り合いとよべる仲を確立していた。“みんな”は、新しい友達など必要としていなかった。
だから、テニス部の面々に迎えられたときは嬉しかった。本当はテニスに興味なんてなかったけど、初めてこの学校で居場所を見つけることができた。
それは自惚れに過ぎなかった。彼女たちが迎えてくれたのは恵原ゆい個人ではなく、あくまで“入部希望者”であり、そんな簡単な条件さえ満たしていれば誰でもいい。
どうして自分だけ頑張らないといけないんだ、とゆいは思った。一人で悩んで、たくさん考えているのに、誰もこの気持ちに気づいてくれない。中学校の付き合いなんて、どうせ三年限りじゃないか。友達くらい、高校になってつくればいい……。
「それでいいのよ」
これまでのゆいは、辛いことや悩みを飲み込んでしまう傾向にあった。それらは彼女の中に蓄積され、重荷になるばかりだった。果たせなかった責任や義務、周りからの期待。いずれどうにかなるだろうと問題から逃げ続け、逃げられるものではないと分かったときには、以前と比べものにならないほど面倒なことになっている。
「もういやだ……」
気が付くと、女性は目の前から姿を消していた。どこに行ったのだろう。学校を振り返ったゆいは、違和感を覚えた。
さきほどまであちこちから聞こえていたかけ声が、ばったりと止んだのだ。グラウンドで練習していたはずの野球部は、片付けも着替えもせずスポーツバッグを肩に担ぐと、ユニフォームのまま散り散りになった。こちらへ向かってくる集団もある。
今日はもう練習が終わったのかとゆいは思ったが、体育館から出てきた剣道部も道着の格好のまま帰ろうとしている。教員たちは次々と車に乗り込むと、迷うことなくアクセルを踏んで門から出て行ってしまった。
中学校教員の就労規則など、ゆいには知る由もなかったが、まだ勤務時間内であることは間違いなかった。そして、彼らが等しく浮かべていた空虚な表情が、安定を求めた挙句に、決して高いとはいえない賃金と多大なストレスを与えられる仕事によるものでないことは明らかだった。
「どうなってるの?」
小さいときに見たアニメを思い出す。主人公の女の子が母親と喧嘩して、お母さんなんていなくなっちゃえばいいのに、と呟くと本当にその通りになるのだ。いなくなって初めて分かる大切さを伝える教訓話だったが、それは多くの子どものトラウマとなっていた。
今の自分の状況をテレビで放送したら、視聴者のトラウマになるだろうか、とゆいは思った。
テニスコートの方向から、見覚えのある面々が現れる。忍たち、女子ソフトテニス部の先輩たちだった。やはり練習着のまま、カバンとラケットケースをだらしなく担ぎ、夢遊病のようにふらふらした足取りでこちらへ向かってくる。
「あの……、先輩! 何が……どうしたんですか?」
勇気を振り絞って、忍に聞いてみた。彼女はあからさまに興味のなさそうな目でゆいを見ると、まるでそこに厄介事が立って言葉を発しているのかと疑っているような顔になった。
「帰るの」
別人のように低い声だった。口を動かすのも、喉の筋肉を使うのも面倒くさいといった様子だ。ゆいはそんな彼女を、テニス部のキャプテンである忍だとは認めたくなかった。
「部活は、どうしたんですか?」
「疲れるし」
それだけ言うと、ゆいから視線を逸らして、再び門を目指してだらしなく歩きだした。
「どうなってるの……」
校内に残っている全員が、部活も仕事もほったらかしにして帰ろうとしている。いくら不審者が多い時代とはいえ、一斉下校にもほどがある。
中学生にもなれば、フィクションと現実の区別はつくと自覚していたつもりだったが、どんなに考えを巡らしたところで、思いつく原因はファンタジーやSFの要素を多分に含むものばかりだった。
自分以外のみんなが魔法にかかった? 宇宙人に洗脳された? ……ありえない。
そこでタリアの存在を思い出した。心の国から来た妖精。きっと、あの子が関係しているに違いない。そう確信した彼女は、女子ソフトテニス部の部室に急いだ。
本館の角を曲がり、中庭を横切る。部活紹介が終わっても普段の活動内容が不明なままだったボランティア部や、中庭の池で飼っている鯉にだけ菩薩のような笑みを浮かべる教頭の姿も、今はない。
昼間だというのに驚くほど校内は閑散としており、そのくせ塀の向こうにある国道からは、いつも通り車の騒音が聞こえる。この奇妙な現象は、学校だけでのことなのか。とにかく、誰でもいい、まともな人に会いたい。
部室に到着したとき、大した距離でもないのに彼女の呼吸は大きく乱れていた。そして、部室に入っていく二人の背中を見つけ、涙が出そうになる。
「ゆかりさん!」
嬉野ゆかりと愛花ちなみは、この前と変わらないままの表情で振り向いてくれた。ゆいを見て驚きはしたものの、決して呼び止められたことに嫌悪せず、喜んでくれているのが分かる。
「ゆい! ゆいは普通なんだね!?」
「はい、お二人も……その、いつものお二人ですよね?」
少し首を傾げて、困ったようにちなみは笑った。
「それはどうかな。いきなりみんな帰るって言い出したかと思えば、他の部活の人や先生たちまでいなくなるでしょ。ワケわかんないし、いつも通りではないかもね」
「とにかく、タリアに聞いてみよう。何か分かるかも」
ゆかりを先頭にして、部室の扉を開いた。ゆいを除いた二人には、タリアの他にこの現象を知るものに心当たりがあったため、細心の注意を払った。
ところが、部室の中では、いつも通りであり、かつ今の彼女たちがおかれている状況では不謹慎ともいえるやり取りが行われていた。タリアと中型犬が、戯れていたのである。
「あれ? みんな、どうしたリア?」
「どうしたじゃない!」
とぼけた質問に、ちなみが怒鳴る。三人が部室に入ると、最後尾のゆいは扉を閉めた。誰も入ってくるものはいないのだからその必要はないのかもしれないが、不気味な外界と平和な部室とを遮断できるような気がしたのだ。
「その犬は?」
ゆかりは犬を注意深く観察した。毛並みは整っており首輪もしていることから、飼い犬であると予想する。
「友達になったリア!」
体格差からして気性の荒い動物ならタリアは食べられていたかもしれない、とゆかりは思ったが、本人が気にしていないのであれば何も言うまいと決めた。彼女はここ数日で、タリアと上手く付き合うためには、細かい事情を無視する度量が必要だと悟っていた。
「今、外で不思議なことが起こってるの。突然みんなやる気がなくなって帰ちゃって……、タリア、何か知らない?」
「何かって何リア?」
こうして途方にくれるしかなくなった三人は、悩みとは縁のない二匹の生物を観察しながら、それぞれ思考を働かせた。しかし、彼女たちがどんなに考えたところで、解ける問題ではないのだ。常識の範疇をはるかに超えている。
結局のところ、タリアが分からないのであれば、待つしかない。ゆかりとちなみはそれを知っていたが、ゆいだけはその結論に達することができないでいた。その前に、最初に抱くべき疑問があったのだ。
「あの、どうして私たちだけ何ともないんでしょう?」
心当たりのある二人は、しばらく返答に詰まった。恐らくはプリキュアであることに関係しているというのが二人の見解だったが、その通りに答えるわけにはいかず、ゆかりはとぼけることにした。
「どうしてだろうね? 私たちにも分からないよ」
そして、ゆかりたちも同様の疑問について一考しなければならなくなった。自分たちがプリキュアだから、この現象の影響を受けていないことは間違いないだろう。しかし、どうしてゆいも変わりないのだろうか。
実は、彼女たちが知らないだけでプリキュアは世界中で平和のため密かに活動しており、ゆいもその一人なのか。そんなことを思い、すぐにばかげた考えだと打ち消すことにした。
犬の背中にタリアが跨り、どうしたらよいかお手上げとなったちなみが適当な椅子に腰を下ろしたとき、部室の扉が開かれた。
ようやく現れたかとちなみはすかさず立ち上がり、いつでも逃げられる準備をしたのだが、扉の向こうに立っていたのは、彼女が思う人物ではなかった。
「タリア、やっと見つけた」
「あなたは……」
ゆいが先ほど校門の所で出会った女性だった。思い返せば、学校に異変が起きたのはこの女性が現れてからのことだ。
「ゆいの知り合い?」
ゆかりは一瞬のうちに、様々なパターンの考察をした。現実的なのは、ゆいが知り合いにタリアの秘密を洩らしてしまい、妖精という珍種の生物を捕まえにきたというシナリオだ。またはイカリングの仲間か。そして、最も可能性が低いのは女性がタリアの母親であるという考えだが、これはタリアの反応によってやはり間違いであったと分かった。
「ラクイーン、久しぶりリア!」
「相変わらずね……」
ラクイーンと呼ばれた女性は、タリアの他に三人と一匹の存在を認めると、大げさにお辞儀をしてみせた。
「タリアが世話になったようで、ありがとうね。でも、私が責任をもって心の国に連れて帰るから」
「じゃあタリアのお母さんは、見つかったんですか!?」
そんな素朴な質問をぶつけてみただけなのに、ゆかりは鋭い目つきで睨まれることとなった。
「あなた、何を言っているの?」
「だってタリアのお母さんはいなくなったんですよね? 連れて帰るってことは、見つかったのかなって思ったんですけど……」
こちらの世界での保護者として、タリアを渡すには相手が善良な人物であると知る必要があった。ただでさえ得体の知れない相手だ。はっきりさせるためには、こちらも強く出るしかないとちなみは判断した。
「あなたは、どっちなんですか?」
「どっち、というと?」
「イカリングの側か、タリアのお母さんの側かってことです」
女性は僅かに不思議そうな表情を浮かべた後、小さく鼻で笑った。
「イカリング? あいつもこっちに来てたの」
ほとんど何の事情も知らずに二度も戦ってきたゆかりは、彼女の曖昧な態度に我慢できず、つい声を荒げる。
「あなたは、タリアを無理やり連れて帰りたいんですか? それとも、お母さんに会わせてあげられるの?」
ゆかりたちの質問の意図を理解した女性は、軽蔑するような目で二人を見ると大きなため息をついた。
「私は心の国の“楽のカリスマ”ラクイーン。そうね、タリアを無理やりにでも連れ帰りにきたのよ」
心の国がどんなところなのか、ゆかりは知らない。しかし、それにしても、あんまりじゃないか。どうしてお母さんに会いたい一心で健気に頑張っている幼いタリアを、こうも邪魔するのだ。
「あの、話がよく見えないんですけど……」
「タリアがお母さんを捜しに、こっちの世界に来たってのは聞いたんでしょ? どうしてかは知らないけど、前にも別の人がタリアを無理やり連れて行こうとしたんだ」
おどおどするしかなかったゆいに、ちなみが早口で説明した。そのやりとりを見て、ラクイーンは呆れたように言った。
「いいこと? 私たちには私たちの事情があるの。何も知らないのなら、首を突っ込まないでちょうだい」
「そうはいかない!」ゆかりは犬に跨ったままのタリアを抱きかかえる。「私は、タリアにお母さんを捜す手伝いをするって約束したの。だから……」
ラクイーンが唇を噛むのを見て、ゆかりは言葉につかえた。彼女は、ゆかりたちが知らない事情があると言った。もしかすると伝説の戦士プリキュアになり、イカリングと戦ったことによって誤った先入観を持っているのかもしれない。ゆかりが話し合いでの解決を試みようとしたとき、タリアが言った。
「ボクはお母さんを見つけるまで、心の国には帰らないリア!」
すると、ラクイーンはタリアの頬に右手を置き、優しい声になった。
「タリア、あんたは本当に哀れな子だね。今、楽にしてあげる」
右手が、ほんのりと白く光る。恐らくは、イカリングがオコリンボーを生み出すときに現れる赤い光と同種のものだろう。ゆかりは体をひねって、タリアをラクイーンの手から遠ざけた。
「何するの!?」
白い光を持て余したラクイーンは、右手の上でそれをボールのように弄び、風船のようにふわふわと浮かせた。
「言ったでしょう? 私は心の国の“楽のカリスマ”だって。私には、辛いことや苦しいことからみんなの心を解放してあげられる力があるの」
「それじゃあ、みんなが急に帰ってしまったのは、あなたのせいなの?」
異世界のことも、それぞれの思惑も理解できないままのゆいだったが、ラクイーンが現れてみんながおかしくなった。そのことを決定づけるには、今の説明だけで十分だった。
「あら、そういえばあなたよね? 楽の力の源さん」
「どういうこと?」
ゆかりが聞き返すと、ラクイーンはにやりと笑った。
「私だって、何もないところから人々の心は操れない。この世界の人間ったら、馬鹿みたいに真面目で、ちっとも隙をみせないんだから。都合のいいことに、その子の心は楽の感情で満ち満ちていた」
ゆいに向けられた指の先に、白い光が移動した。彼女の瞳にそれが映ると、さきほど自分が抱いた気持ちが頭の中に呼び起された。
「その子はね、学校にいるのが嫌だったの。楽しくなかったのよ」
「そんな……。でも、ゆいはこの前、部活に来てくれたとき楽しそうだった!」
「私はその子の心を見た。あなたなんかより、しっかりとね。本当にこの子は、楽しんでいたかしら?」
ゆかりは思い出した。見学に来たとき、ゆいが何度か表情を曇らせたことを。タリアと一緒にいるときと比べて、明らかにぎこちない態度。何かきっかけがあったはずだ。
「それは……、やっぱり一人だけで知らない人の中に混ざるのは居心地が悪かったかもしれないけど……」
どうして、ゆいは一人で来ていたのか。ゆかりに改めてお礼を言うためだ。しかし、普通そこまでするだろうか? 彼女を保健室に連れていったときに、感謝の言葉は確かに受け取った。それなのに、お礼を口実にしてゆかりに会いにきた。よっぽど、自分のことを気に入ってくれたのだろうか。
そんな自惚れた考えは捨てて、もっともらしい理由をさがす。しかし、まだよく知り合ってもいないのに、分かるわけがない。
「ゆい、どうしてあれから来てくれなかったリア? ボクはゆいのこと待ってたリア」
そんなことを言い出すタリアに、ちなみが注意する。
「そりゃタリアばっかり気にしてられないでしょうよ。クラスにも友達がいるんだから」
ゆいの表情が、たしかに曇った。どうして――ゆかりは思い出す。次に来るときは友達を誘ってと言われたとき、ゆいはそうなった。タリアが友達だと言えば、ゆいは微笑んだ。友達……、これがキーワードなのだろうか。
「やっと分かったようね」
ラクイーンの指先で、光はどんどんその輝きを増した。それは眩しいというより、ただ目を背けたくなるような、鈍い光だ。
「あの……! 私、実は……」
「いいのよ、無理しないで」ゆいの肩に手を置いて、ラクイーンは言葉を遮った。「これ以上、苦しむ必要はないの。さぁ、楽におなり」
白い光を近づけられ、ゆいの顔が薄暗い部室の中で浮かび上がる。恐怖と安堵の入り混じった表情を見たゆかりは、ポケットから指環を取り出して右手の薬指にはめた。
「ゆいから離れて!」
「あら、何をするつもり?」
「私たちには何の力もないと思ったら、大間違いだから」
ちなみも右の手首に真紅のブレスレットを装着した。しかし、武器を向けられたならともかく、ただ目の前で二人の女子中学生が装飾品を身に着けただけでは、ラクイーンは動じなかった。
「じゃあ、どんな力があるっていうのか、見せてもらいましょうか」
首輪を乱暴につかむと、犬を連れてラクイーンは部室の外に出た。手をかざすと、犬は鈍い白の光に包まれる。
「私のために働け、ナマケモーノ!!」
見る見るうちに巨大化し、おっとりとしていた犬は、凶暴そうな獣の怪物となった。
ゆかりとちなみは、お互いに目で合図して頷いた。ゆいに知られてしまうと少しばかり厄介だが、妖精や怪物を目の当たりにしているのだから、全てをさらけ出した方が手っ取り早い。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!!」
指環とブレスレットは、かけ声をきっかけにそれぞれ大きな光の環となって、彼女たちの体をくぐらせる。
「みんなでつなぐ、喜びの環! キュアリンク!」
「信じて振るう怒りの拳! キュアルビー!」
プリキュアに変身した二人は、果敢に怪物に立ち向かっていった。素早い動きをするナマケモーノに翻弄されながらも、二対一という状況を活かして上手く戦っている。ゆいにとってそれは、あまりにも現実離れした光景だった。
「変身した……?」
彼女は初めて会ったタリアの存在を、すんなり受け容れることができた。理屈では説明できないが、クラスメイトがいつの間にか友達になっているような、自然な流れだった。
しかし、学校中の人間が一斉にいなくなり、異世界からやって来た女性が犬を怪物に変え、二人の先輩は変身して戦っている。とても人間業ではない動きだ。これらのことは、決して彼女が許容できるものではなかった。
「“伝説の戦士”プリキュア……。なぜ、お前たちが……!」
「ゆかりは喜び、ちなみは怒りの力でプリキュアになったリア」
まるでラクイーンが連続ドラマを一話見逃してしまったかのような軽い口調で、タリアが説明した。
「喜び、怒り……」
先ほどまでの余裕が消え、ラクイーンの表情には憎しみが現れた。そのままの表情で笑い出したものだから、男が百人に一人くらいなら振り返ってもよさそうな顔立ちが、ひどくけばけばしくなった。
「だけど、私は“楽しみ”を司る者! そんな力で私に勝てると思う!?」
「思うリア!」タリアは物怖じすることなく叫んだ。「ゆいからも、強い“楽しみ”の心を感じるリア!」
ゆいの心に、何か重たいものがすとんと落ちた。
どうしてそんなことを言うのか。どうしてみんな、自分を追いつめることばかり言うのか。
私は自分の悪いところをちゃんと理解したうえで、私なりに頑張ろうとしている。それなのに、みんなは私の気持ちなんて無視して、自分たちだけで盛り上がっている。タリアだけは分かってくれていると思っていた。それなのにどうして……。
そんな彼女の気持ちを読み取ったラクイーンは、ひどく愚かで矮小なものを見るような目でゆいを見た。
「たしかに、その子の楽をしたいって気持ちは大したものだったわね。あんなに多くの人間を怠惰にさせ、強力なナマケモーノを生み出せた。でもね、タリア」怪物と戦っている二人の戦士を後目に、ラクイーンは言葉を続けた。「“楽しみ”の心というのは、強いものじゃない。むしろ弱い人間が持っているもの。仕事や勉強や人間関係、そんな面倒くさいものをやめて、ただ楽しいことだけをしたい欲求。それが“楽”であり“楽しみ”なの」
これまでゲームの中でしか戦った経験のない新米のプリキュアは、これまでとは違う怪物を相手に疲弊しきっている。人型のオコリンボーであれば攻撃の軌道は予想できるが、ナマケモーノは動物的な勘と動きで彼女たちをすっかり手玉に取っている。
「そのお嬢ちゃんは強い“楽”の心を持っているけれど、強い力にはなり得ない!」
その通りだと、ゆいは思った。自分は普通の人間。ほかの人よりちょっと勇気がなくて、少しばかり言い訳が上手いだけ。だから必然的に、こんな性格になった。でも誰かに迷惑をかけたりはしていない。自分が惨めになるだけ。
「そんなことない!」
怪物の顎に蹴りを食らわせたリンクは、部活で鍛えた喉を働かせ大声で叫んだ。急所に強烈な一撃を受けたナマケモーノは、仰向けに倒れる。
「誰だって、逃げ出したい、楽をしたいって気持ちはあるかもしれない。でも、ゆいは私に会いに来てくれて、一緒に部活をして、一緒に帰った。私はあの日、ゆいと過ごした時間がすごく嬉しかったし、すごく楽しかった!!」
呻き声を上げながら起き上ったナマケモーノは興奮した様子で、背後からリンクに飛びかかった。
「危ない!」
ゆいが悲鳴を上げて間もなく、その巨体の推進方向はルビーのパンチによって見当違いの方向へ変えられた。
「本当は今日来てくれるって楽しみにしてたんだけど……、明日でも明後日でも、来週でもいい。無理に急いで決める必要はないからさ。軽い気持ちでね、また見学に来てよ」
ルビーが拳を握って親指を立てると、手首のブレスレットが小さく揺れた。真紅に輝くそれは、ゆいにとってあまりにも眩しかった。
「何を言っているの。友達のいないその子を苦しめたのは、あなた達なのよ?」
彼女の心に落ちたもの。それは、胸ポケットにしまってあるロケットかもしれない、とゆいは思った。ひもがあったなら、首からぶらさがったままずっと身につけていられる。しかし、ひもが切れてしまった今、ちょっとでも気を抜いて手を放してしまえば、いともたやすく落ちてしまう。そんな簡単に落ちてしまうものなら、もう拾わなくてもいいじゃないか。
「友達なら、ボクがいるリア!」
心の中でロケットは微かに光り、自身の存在を主張した。ここにいるから、手を伸ばしてくれと言っているかのようだったが、ゆいは素直にそれに従うことはできなかった。
「私たちもだよ!」攻撃を避けながらリンクが言った。「私たち、きっといい友達になれる!」
躊躇っていた手を、伸ばしてもいい気がした。
「友達なんて、難しく考えるもんじゃない! 誰だって初めは他人なんだから!」
ルビーの力強い拳が、ナマケモーノの巨体を弾き飛ばす。
「ゆいの本当の気持ちを、教えてよ!!」リンクが大声で言った。
「私は……」
結局、ゆいはロケットを拾わなかった。ゆかりが拾ったのを手渡されただけ。それを受け取ったとき、二人の手はつながった。気がつくと、ちなみとタリアもそこにいた。忍たちもいたかもしれない。
どうしてこんなことを思うのか、答えは明らかだった。ゆいはみんなと一緒にいたかった。手が差しのばされるのを待っているだけではだめだと、ようやく分かった。勇気を出してゆかりとつないでいるのと反対の手を伸ばすと、タリアがつかんでくれた。ちなみも、それぞれ手をつなぐ。そこには、一つの環ができた。
楽しみを共有できる、小さな環だった。
「私は……楽しかった!」
その瞬間、ゆいの頭上に白い光の環が現れた。これまで自分の中に封印してきた感情が具現化したかのように、清々しい気分だった。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!」
自分が何をしているのか、言っていることの意味さえも解らなかったが、それでいいと思えた。これまでのゆいは、友達の家のインターフォンを押すだけでも、相手の親が出てきたときの対応を何度も反復していた。
だけど、楽しいという気持ち、素直な感情が現れるそのときには、余計なことを考える余裕などないのだ。自分がどうしたいか、重要なのはそれだけだ。
光の環は、ゆいを純白のコスチュームを身に纏った戦士に変身させる。首の周りで小さくなると、それはボールチェーンのペンダントとなって胸ポケットにあるロケットとつながった。もう二度と、落とさないで済むように。
「今を楽しむ、恵みの心! キュアプレジャー!」
二人の先輩プリキュアは、その様子を見て今さら驚きはしなかった。それは落ち着いたころに、遅れてやってくるのだろう。
それでいい、とリンクは思った。人生を楽しむ秘訣は、ノリだと誰かが言っていた。その誰かだって、辛いことや苦しいことを経験してきたに違いない。だけど、いつも辛いわけじゃない。楽しいことだって、たくさんある。
その気持ちが、リンクに力を与えた。
「プリキュア! リンクポーション!!」
彼女の掌から発射された光の束は、ナマケモーノの腹部を正確に捉え、動きを鈍くした。
「今だ、いけっ!」
ルビーの指示に従い、プレジャーは身につけたばかりのペンダントに、力を込める。すると、ボールチェーンの部分は複数のボールの形をした光となって浮かび上がった。
「どうして戦うの!? あなたはそんな人間じゃない。色んなことから、友達を作ることからさえ逃げて、楽ばかりしてきた。それがあなたの本性でしょう!?」
「たしかに私は、いつも逃げてた。でも、そんなのぜんぜん楽しくないよ!」
ラクイーンの言葉を受けて、はっきりと感じた。たしかに、辛い思いはできるだけしたくない。楽に生きられるなら、それが一番だ。だとしても、頑張るというのは決して悪いことではない。
「私はゆかりさんとちなみさんと、タリアと、これから友達になっていく人たちと、楽しみを分かち合いたい!」
人の性格なんて、簡単には変わらない。だから、この気持ちを抱くことができた心こそが、自分の本性なのだろう。ゆいは、もう迷わなかった。
「プリキュア! プレジャーブレス!!」
光の散弾が、ナマケモーノに降り注ぐ。悲鳴は次第に穏やかな鳴き声となり、獣の怪物から白い光が離れたとき、その中からごく普通の愛らしい犬が姿をあらわした。
「キュアプレジャー……“楽しみ”のプリキュア、私は認めない……!」
やはり瞬間移動のようなもので姿を消したラクイーンを見送り、三人は変身を解いた。ゆいにとって、今の出来事が現実だったか判断するのは容易だった。ラクイーンがいたはずの場所にばいばいと手を振っているタリアはそこにいて、自身の首にはネックレスがあったのだから。
ならば、自分の気持ちと正直に向き合う必要がある。それがどれほど情けなく、目を逸らしてしまいそうになることでも。彼女は二人の正面に立って、ゆっくりと口を開いた。
「私、この春休みに……引っ越してきて、それで、この学校にはまだ……友達がいないんです……」
これだけのことを言うために、ゆいは罪深い過去を告白する思いだった。きっとラクイーンのせいでばれていたに違いない。しかし、楽になるというのは、辛い感情を飲み込むのではなく、吐き出してしまえばいいと知った。
そして、先輩としてまだ一年生のゆかりは、ゆいが解放したその気持ちを処理することこそが、自分の役割だと思った。
「私たちがいるよ」
こんなとき、どんな顔をしたらいいか分からなかったゆいは、とりあえず笑うことにした。それはゆかりたちに伝染して、彼女たちのほかに誰もいない学校の一角は笑顔に溢れた。
忘れられていた一匹の犬は、ナマケモーノとなってプリキュアに倒された恨みなど光と共に消え去ってしまったのか、元気な調子で吠えている。一体どうしたのだろうと辺りを見渡すと、一人の女子生徒がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「もう、やっと見つけた」
制服のタイだけ外したラフな格好の女の子は、ゆいと同じクラスの、友達から悦ちゃんと呼ばれている子だった。彼女は、ゆいたちを見ると、深々とお辞儀をした。
「すみません。うちのココアが、ご迷惑をかけませんでした?」
走ってきたのか、息も絶え絶えで、頭を下げた拍子に一滴の汗が地面に落ちた。ココアという名前らしい犬は、飼い主に会えて嬉しい様子で尻尾を振っている。
「そんな、迷惑だなんて……」
素早くタリアを背中に隠して、できるだけ怪しまれないようにゆかりは気をつけた。まさか、おたくの犬が化け物にされて襲ってきましたが、私たちがやっつけて元に戻しましたなどと言えるわけがない。
顔を上げた悦ちゃんは、観察するようにゆいを見ると、いつもクラスで友達と接するのと変わらない態度で彼女に話しかけた。
「恵原さん、だよね? ソフトテニス部にしたんだ」
「えっ? あの……」
一瞬のうちに、何パターンもの回答が浮かんでは消えた。どんなことを言えば、話が盛り上がるだろう。うん、なんて返事だけは絶対にだめだ。何か上手いことは言えないか。そんなことを考えて、結局は二番目につまらなそうなものに決めた。
「うん、前にも見学させてもらって、ソフトテニス部に入ろうかな……って」
「そうなんだ! 私も興味あるけど、迷ってるんだよね」
同じ人間とは思えないほど素早く返してきた彼女に困惑するゆいは、自分が九十年代初期のコンピュータみたいだと感じた。これまで悩んでいたのは何だったんだ。こんなことなら、もっと早くに自分から話しかけたらよかったじゃないか。
悶々として自分が何も言葉を発してないことに気づいたときには、またも悦ちゃんに先を越されていた。
「この部活、楽しい?」
ゆいの頬がゆるんだ。そんなの、答えは決まっている。
「うん、楽しいよ!」
直に悦ちゃんは、どうして学校がこんなに静かなのか疑問に思うだろう。
ラクイーンが退散して、みんなは“楽”の支配から解放されたころだ。それからどんな行動をとるかで、その人の本性がわかる。
きっと誰にだって、楽をしたいという気持ちはある。楽しいことだけをしたいという気持ちも、同じくらいあるはずだ。それらは人として当たり前の感情だから、ほとんどの者はそのまま帰ってしまうかもしれない。
学校に戻ってくるのは、ほんの一握り。それはきっと、くそ真面目か、学校でみんなと一緒に過ごす時間を楽しいと感じている人だ。だから、しばらくしてゆいは、女子ソフトテニス部のメンバーとして歓迎されるはずだろう。
そんなみんなを、自分にとってどんな存在と認識するかは、彼女次第だ。
次の更新はしばらく後になると思います。
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4-1.後ろの席のイヤなやつ!?
昼休みの二年一組の教室。いくつかのグループがあちこちに集まり、他愛のないお喋りをしている。
夕べのテレビ番組の感想、悪気のない陰口、校則への不満。ばかみたいだ、と彼は思う。
四月も下旬にさしかかり、教室からクラス替えの新鮮さはすっかり失われた。初めの頃は級友と親交を深めようとする生徒も多く見られたが、結局はいつものメンバーに落ち着いたといった様子だ。
彼もまた同様だった。
どのお喋りにも交わることなく廊下側の前から三番目の席についた彼は、枕代わりにした腕に顔を埋めて眠ろうと努めていた。これが、彼の思う昼休みの有効な使い方だった。
どうしても聞こえてくる会話に嫌気がさして、心の中で彼らを批判する。あまりにも幼稚でくだらない話題のために、せっかくの休み時間を浪費している。なんて非効率な連中だ、と。
そんなもどかしい思いがひしめき合って、今日も眠ることは許されない。
「聞いてよ、ゆかり。うちの弟がさ……」
彼の二つ前の席から、愛花ちなみの声が聞こえた。彼女は背もたれを壁に向けるかたちで椅子を九十度回転させると、後ろの席のゆかりに弟の不満を訴える。
「一日中ずっと遊びまわっててね、晩ご飯できたって呼びに行っても帰ってこないの。で、やっと帰ってきたときには、服を泥だらけにしてるんだよ。信じられる?」
「でも、男の子だし、しょうがないよ」
ゆかりは廊下側の列であることを活用して、壁にテニスラケットを立てかけ、やや左寄りに椅子を置いた窮屈そうな姿勢で座っていた。通路側の床には通学かばんがあり、机のフックには手提げ袋がぶら下がっている。
よほど変わった授業でもない限り、学校に持ってくる荷物など通学かばん一つに納まるはずなのに、どうして手提げ袋までいるのか優輝には不思議だったが、わざわざ質問するほどでもないという結論に至った。
手提げ袋などどうでもいい。問題は通学かばんの方だ。
優輝はここのところ、ゆかりのかばんが微かに動くように感じていた。それは気のせいではないようで、その度に彼女たちはかばんを持ってこそこそと教室を出ていくのだ。
一体、あのかばんには何が入っているのか。好奇心が睡眠欲に勝り、彼は二人の会話に聞き耳を立てることにした。
「父ちゃんもそう言ってたけど、母ちゃんはかんかんだよ。食器は片付けられないし、洗濯物も大変だし。なんで男子ってああなんだろうね」
「
どうにか話を穏やかな方向にもっていこうとしているのが、優輝にも分かった。しかし、ちなみはそんな友人の努力などお構いなしで愚痴を続ける。
「いや、まだ八才。もう、ゆかりがもらってくれない? 私は疲れたよ」
「いいなぁ。私は一人っ子だから、兄弟喧嘩とか憧れる」
「何言ってんの。弟なんてね、いてもホント邪魔なだけだって」
それからしばらくの間は、ちなみの弟に対する不満をひたすら聞かなければならなかった。正式な聞き手であるゆかりも同じように感じているかもしれないが、優輝にとってそれはおもしろくない話題であり、裁判であれば暴言を理由に異議ありと唱えたいくらいだ。
「……うるせーよ」
ほとんど無意識に、または、あまりに意識しすぎた為かもしれない。しまった、と思ったときには、言葉はひとりでに彼の口からこぼれていた。
しかし、顔を伏せていたのだから、声はくぐもって聞き取りにくかったはずだ。何か寝言でも言ったのかと納得するだろう。そんな期待をこめて、彼はこっそりと前の席を覗いた。
「ごめんね、恩田くん。声大きかった?」
申し訳なさそうな顔で、ゆかりがこちらを見ていた。観念して彼は顔を上げる。額には腕の赤い跡がつき、中途半端な睡眠のせいで目つきも悪い。おそらく、今までまともに話したことのないクラスメイトと向き合うには、ふさわしくない容貌になっているかもしれない。
何を言えばよいか分からず、返事の代わりに鼻から大きく息を吐いて、逃げるように机に突っ伏した。
「でも、言い方ってもんがあるでしょ」
ゆかりの机に身を乗り出して、ちなみが非難する。優輝はそれが気に入らず、反撃のつもりでいびきのように喉を鳴らせてみせた。
ダイエットも気にする思春期の女子としては残念なことに、ちなみが体重をかけたせいで机は大きく傾き、押さえようと慌てて立ち上がったゆかりの椅子は優輝の机に強くぶつかった。
ゆかりの机は落ち着かせることができたが、壁に立てかけていたラケットが彼女と椅子の間に倒れてかばんに当たる。
「いって……」
「痛いリア……」
かばんから微かに聞こえたその声に、優輝は顔をしかめる。ことごとく睡眠を妨げるゆかりたちへの文句など忘れて、彼女のかばんに意識を向ける。
「今、何か……?」
「えっ!? どうかした?」
ゆかりのかばんをじっと見つめると、たしかに中で何かが動いた。教科書が倒れるような動きとは明らかに違い、それは生き物のようにごそごそとしている。
「寝ぼけてたんでしょ。恩田って、休み時間はいつも寝てるもんね」
ちなみの言葉に込められた嫌味を察すると、優輝は席を立った。睡眠欲や好奇心より、嫌悪感が最も強く残った。
彼にとって女子とはやたらと秘密を共有したがる性質をもつ厄介な人種であり、それは彼が何よりもくだらないと思うものだった。
どうせ、ハムスターあたりの小動物をこっそり持ってきて、ばかみたいにはしゃいでいるんだろ。彼はそう推察した。周囲が騒音のような声で話している中、耳栓でもしているのではないかと確かめたくなるほど涼しげな表情で本を読んでいる友人の席に向かい、その前の席を指さす。
「徳井、この席のやつは?」
指をしおりの代わりにして本をたたむと、眼鏡をかけた大人しそうな男子生徒は顔を上げて優輝の不機嫌そうな顔を認め、それからゆかりたちの方を見た。気まずそうに笑いかけてきたゆかりに同じような仕草をしてみせ、優輝に言った。
「昼休みになってずっといないから、座っていいと思うよ」
それだけ確認すると、優輝は後ろ向きに椅子に腰をかけ、背もたれと徳井の机を端だけ借りて腕を枕に顔を埋めた。
「何なの、あいつ」
呆れたように言うちなみをよそに、優輝は寝ることだけに意識を集中させた。
「やなヤツやなヤツやなヤツ……」
まるで紙パックの牛乳をがぶ飲みしそうなちなみの怒りは、放課後になっても治まる気配はない。きっと飛行船や電車を乗りこなす不思議な猫を見かけても、彼女の気が晴れることはないだろう。
ゆかりにとってはタリアが見つかりそうになったことの方が問題なのだが、どうやらちなみの中ではストレスにかき消されてしまったようだ。
「どうしたの。今日はやけに荒れてるね」
ボールの入ったかごを乗せた買い物カートを押して、忍がコートに入ってきた。テニス部を作った先輩たちが近くのスーパーから譲り受けたもので、ところどころに目立つ錆がある。
ゆかりは気の利く後輩のフリをしてカートを引き受け、愚痴の聞き手を忍に押し付けることに成功した。
「聞いてくれます? 私たちは休み時間に話してただけなのに、ゆかりの後ろの席の男子がうるさいとか言ってきたんですよ!」
新しい話し相手を歓迎してちなみは嬉しそうに憤慨してみせた。
そのエネルギーを練習まで蓄えることはできないものかとゆかりが辺りを見渡すと、コートに入っているのは自分たちだけだと気づいた。
練習が始まる時間まで少し余裕があるため、準備を終えた部員たちはコートの外に散らばって涼しい屋根の下で談笑をしている。今週の初めに入ったばかりの一年生は何をすればよいか分からず、とりあえず全員で固まっていた。
忍はそんな部員たちとテニスコートの数を見比べて、困ったような表情を浮かべた。どうやら、ちなみの愚痴にちゃんと付き合うつもりはなさそうだとゆかりは見てとった。
「これだから男子は……」
後輩の加入によって得た効率と引き換えに仕事を失ったちなみは、ボールの空気圧を確かめるという地味な作業を始めた。握られたボールは健気にも彼女の怒りを一身に受け止め、レモン形に変形する。
「まぁ、ちなみは声が大きいからねぇ」
「そういうことじゃありません!」
ゆかりは時計を気にして校舎の方を見た。じきに練習の始まる時間だが、やはり顧問は現れない。その場合はキャプテンである忍が練習開始の判断をしなければならないが、ちなみはそのことに気付いていないようだ。
どうにかして忍にみんなを集合させるよう促そうとしたとき、副キャプテンの志穂がコートに入ってきた。かごからボールを一つ取り出すと、ちなみの顔に押し付ける。
「さっきから、男子がどうとか聞こえてたよ。後輩のくせに青春してんじゃないの」
「違います! 後ろの席の男子がむかつくって話ですよ」
ちなみはボールを顔から遠ざけると、志穂のためにまた初めから説明をした。まるで沸騰したお湯のようだと、ゆかりは思った。このまま怒り続ければ彼女は気化してしまうのではないだろうか。
「ちなみって弟いるんじゃなかったっけ? そのくらい簡単にあしらいなさいよ」
「弟だけでもイライラさせられてるんだから、無理ですよ。それに、小学校のとき同じクラスになったことありますけど、あの恩田ってやつは……」
「え?」
もはや愚痴の相手は志穂に任せて練習前の確認をしていた忍が、素っ頓狂な声を出した。ちなみは彼女の方を振り返り、思い出したように言う。
「そういえば、忍先輩の弟さんは家事手伝ったりしてくれてるんですよね? うちもそうだったらなぁ」
しばらく妙な間が空いて忍が口を開くまで、ゆかりは何かが胸につかえているような気分だった。
「まぁ、隣の芝は青く見えるってやつだよ」
言葉が遅れたのを誤魔化そうとして、忍はぎこちない口調になった。志穂はそんな忍の肩に腕を回すと、悪戯っぽく笑った。
「忍の弟って、あんたたちと同じ中二なんだよ? そのクラスの男子と何も変わらないって」
忍は体を回転させてクールに志穂の腕を振り払うと、校舎の壁にかかっている時計を見た。
「さぁ、もう練習始めるよ。志穂、みんなを集めてきて」
「了解、おねーちゃん」
からかうように言って、彼女はコートの外に出ると談笑している部員たちに声をかけた。話が遮られたことに一瞬むすっとした表情になる者もいたが、渋々といった感じでコートに入り、忍の前に整列する。
「よし。じゃあ春の大会も近いことだし、集中していくよ。練習メニューは昨日と同じ。悪いけど、一年生は今日もランニングと素振りをやってて」
最後列の一年生から、はっきり落胆していると分かるため息が漏れた。
つい数週間前まで小学生だった彼女たちのほとんどは、これまでにちゃんとしたスポーツの経験がなかった。そのひ弱な体で学校の外回り十周というメニューがどれほど過酷なものかはゆかりたちも身を以て体験済みだが、それは結果として必要な訓練だったと今になって思う。
指示を受けて解散すると、一年生は筋肉痛と倦怠感でとぼとぼした足取りになりながら、走り込みに行くため校門の方に向かった。これは体力づくりの他に、篩の役目も果たす。毎年、新入部員の一割はこの段階で文化部への移籍を決意し、残る部員に対しても最低限のやる気を測ることができる。
「早く終わった人は全員が帰ってくるまで休憩しててもいいですか? それとも、すぐに素振りを始めます?」
初めの基礎練習は、前衛と後衛に別れて順番に行われる。前衛であるちなみがコートの向こう側に移動して、後衛の忍とゆかりがそのままの位置でボールの準備をしていると、悦ちゃんが話しかけてきた。
一年生は全員ランニングに行ってしまったと思っていたゆかりは、彼女たちが出ていった方を見た。すると、コートの出入り口にゆいが立っていた。控え目にこちらの様子を窺っている。
「そうだね、素振りは全員そろってから始めようか。他の子にも伝えておいてくれる?」
「はい!」
元気に返事をしてまだ何か言いたそうな悦ちゃんに、ゆかりは目で合図した。
「早く行かないと、二人とも遅れるよ?」
きょとんとした顔で振り返りゆいの姿を見つけると、悦ちゃんは軽くお辞儀をして彼女に駆け寄っていった。
「恵原さん、待っててくれたんだ」
「あ……、うん」
伏し目がちに応えるゆいを気にして、悦ちゃんは言った。
「じゃあ、行こっか」
手を引かれて、ゆいの顔がほころんだ。みんなの後を追って校門へと走っていく二人の後ろ姿を見送りながら微笑むゆかりの隣で、忍が大きなため息をつく。
「どうしたんですか?」
「いや、なんていうかさ……」忍は力なく笑って、気持ちを整理するためか大きく息を吸い込んだ。「ちょっと、指示が大ざっぱだったかなって」
「そんなことないですよ。ただの確認じゃないですか」
「最近、なんか調子でないんだ、私」
カートに手をついて項垂れる忍を見て、ゆかりは季節外れの風邪を心配した。ゆかりの知るかぎり、忍が練習中にこのようなだらしない格好をして、気の緩みを露呈させたことはなかった。
それどころか、キャプテンになってからの彼女は後輩への優しさを失わないままに、使命感と闘志をたぎらせて自らを律するような傾向もみられた。とりわけ、今は進級して初めての大会を控えている。ウイルスの入り込む余地などないはずだ。
「先輩、具合でも悪いんですか?」
前衛のはずなのにまだこちらに残っていた志穂が大げさに笑ってゆかりの心配をはねのけると、忍の背中を強く叩いた。
「年下の面倒を見るのも、大変ってことなんだろうねぇ」
「ちょっと、志穂」
背中を叩かれた反撃のつもりか、彼女は志穂の横腹を肘で突いた。その声色に気だるさのようなものは感じられず、ゆかりはほっとした。そして、自分たちが彼女の負担になっているのかもしれないという不安を抱いた。
「すみません。私たちが入部したときは二年生の先輩たちに見てもらったのに、今の私たちは何もできなくて……」
早口に謝ると、志穂はさも面白そうな表情を浮かべてゆかりと忍を交互に見た。
「そういうことじゃないんだよ、ね?」
「いいから早くあっちに行きなさい。練習始めるよ」
素っ気なく返す忍と、何かを楽しんでいる志穂から何も答えを導き出すことはできず、ゆかりはただ妙な先輩のいる部活に入ったものだと改めて感じていた。
ちなみが家に帰って牛乳をがぶ飲みしたかどうかなど、翌朝になるとゆかりにとってはすっかりどうでもいい問題になっていたのだが、優輝が教室に入ってくるなり突っかかった彼女を見るに、カルシウムは不足しているようだと分析した。
「あれ? 遅刻ぎりぎりなんじゃない、恩田? 寝坊しちゃった?」
勝ち誇るように嫌味を言うちなみを見て、プリキュアとして初めての変身がこの瞬間だったとしたら、彼女は憎しみのプリキュアにでもなっていたのかもしれないとゆかりは思った。
相手にするのも面倒くさいといった様子で、優輝は何も言わず席につくと腕を枕にしてその中に顔をうずめた。
「呆れた。まだ寝るんだ」
拍子抜けしたように言うちなみをなだめながら、ゆかりは後ろの席を気にした。言葉を交わしたのは昨日が初めてなのに、彼からはどことなくノスタルジックな雰囲気が感じられる。
「おはよう」
ゆかりの顔の高さにある窓が廊下側から開き、志穂が顔を出した。彼女はゆかりが知るかぎり、友好的だが自分の身が危うくなったときには後輩や友人を先生の生贄に捧げる覚悟を伴った生き方をしており、わざわざ挨拶をするためだけに後輩の教室を訪れることはこれまでなかった。
「おはようございます。どうしたんですか、もうすぐチャイム鳴りますよ?」
すりガラスで姿が見えなかったため存在に気付けなかったが、忍も外にいるようで焦ったように言う。
「志穂、いい加減にしないと私も怒るよ?」
「いいじゃん。ちょっと確認するだけだって」
志穂は窓から上半身を乗り出して、ゆかりの後ろの席で伏せている優輝の頭頂部を観察すると、出し抜けに彼のつむじを指でつついた。
「何してるんですか、先輩!」
せっかく話すきっかけができたのだから、前後の席のよしみで仲良くしていきたいと思っていたゆかりは、優輝との始まってもいない関係に波風を立てないでほしかった。
彼は不機嫌な顔を上げると、まず目の前にいるゆかりを睨み、すぐに彼女が潔白だと見抜くと犯行を隠すつもりもない様子の志穂を睨んだ。
「やっぱり」
志穂がそう言うと、忍は大きなため息を吐いて窓をさらに開け顔を見せた。
「ごめん。何でもないから」
目を細めたまま、つまらなそうに優輝はまた顔を伏せた。忍は力ずくで志穂を三年生の教室に帰らせようと腕を引っ張っていたが、ゆかりたちにとっては説明のないまま彼女たちを帰らせるわけにはいかない。何がなんだかさっぱりだった。
「お二人は、恩田くんと知り合いなんですか?」
この質問を待ってましたと言わんばかりに、志穂は満面の笑みをみせた。
「あんたたちって、ひどい後輩だね。我らがキャプテンの名前を忘れるなんてさ」
「忍先輩の……?」
大会で観客席から見ていた忍の後ろ姿を、ゆかりは忘れることができなかった。いつも優しい彼女の、真剣な姿。自分もああなりたいと思ったものだ。
見惚れていたからこそ見落としていた、という言い訳は通用しないだろうか。
試合中、彼女の着るユニフォームの背中には、恩田と書かれたゼッケンが確かにあった。
「でも、珍しくもない苗字だし?」
自分の非を少しでも低減しようと引きつった口調で言うちなみの肩に、ゆかりは手を置いた。もはや逃れることはできない。
窓の外では、
結果を認めて、素直に謝ろう。
ちなみは観念したように肩をすくめると、改めてゆかりの後ろの席を見た。
彼女にとってイヤなやつであり、尊敬する恩田忍の弟である恩田優輝は、間違いなく寝たふりをしていた。
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4-2.後ろの席のイヤなやつ!?
所どころ外壁の塗装が剥げてしまっているアパートが見えてきたところで、まだ肌寒さを感じる気候にも関わらず忍は額の汗を拭った。
部活の片付けが終わる頃にはすっかり日も暮れてしまい、すぐにでも着替えを済ませて帰ってしまいたかったのだが、解散した後で悦ちゃんに居残りでならボールを打ってもいいかと懇願されたのだった。
どうやらそれは、彼女個人ではなく一年生全体から出た意見のようで、忍はできるだけ丁寧な口調で入部したばかりではコートに入れてあげられない理由を説明した。
基本的なフォームができないうちにボールを打つと、変な癖がついてしまう。さらに、一人でも怪我をしたり、誤って校舎のガラスを割ってしまったときなどの責任問題が発生するからだ、と。
渋々ながら納得した様子で帰っていく一年生たちを見送った後、部室にはゆかりとちなみ、志穂の三人しか残っていなかった。
せっかく待ってくれていた彼女たちには申し訳ないが、着替える時間も惜しいくらいで、制服をかばんにつめ込むと忍は練習着のまま急いで帰路についたのだった。
ちかちかと明滅する不安定な電球の灯りを頼りに階段を上がると、練習の疲れのためか足の筋肉が強張っているように感じた。練習着は汗で背中に張り付いている。すぐにでも部屋に帰ってシャワーを浴び布団に飛び込んでしまいたい衝動を抑えて、一段ずつ慎重に上がっていった。
玄関の前に差しかかると、扉の向こうから包丁とまな板のぶつかるぎこちないリズムが聞こえてきた。
時刻を確認するため左腕を見たが、腕時計は制服と一緒にかばんの中にあると思い出して、大きなため息を吐く。
また、やってしまった。
「ただいま」
扉を開けると、やはり玄関の右手にある台所では、優輝がこちらに背中を向けて立っていた。一生懸命に何を切っているのかは分からないが、右肩は上がり肘は横に突き出た不格好な後ろ姿から、食材がどんな仕打ちを受けているのか想像することは容易い。
「ごめん、すぐ手伝うから」
慌てて靴を脱ぐ忍を目の端で捉えると、優輝はあまり口を動かさずに「いい」と言った。
「でも、今日は私が……」
「服」
ぼそっと単語だけ言われたところで長年連れ添った熟年夫婦ではないのだから、彼女はその言葉の意図を理解することはできなかった。たしかに着替えたいとは思っていたが、優輝が料理をしているのだから、それどころではない。
かばんを置いて、まずは手を洗おうと袖を捲ると、優輝は先ほどよりはっきりした口調で言葉を足した。
「こっちは、やるから。……もう終わるし」包丁を置いて、忍の練習着を目で示した。「それ」
「え?」
「明日もいるんじゃないの」
ようやく何が言いたいのか汲み取ることができた忍は、弟の気遣いを素直に受けることにした。乾燥機のない恩田家では、部活で汚れた彼女の洗濯物は夕食が終わると台所に並ぶ。あまり遅い時間に干すと、朝になっても湿っていることもあるのだった。
仕事で遅くなる母に代わって夕飯の準備をするはずだった自分に文句の一つも言わず、黙々とじゃがいもを切る優輝を見ていると、彼の料理の才能を哀れに思わずにはいられなかった。
それさえ克服できれば、家事も捗るのだが……。
そんなことを思い、忍は洗面所に入った。もうしばらくの辛抱だ。部活を引退すれば、毎日早く帰ることができて、確実に家族の負担は減る。
母は急いで仕事を片付けることもなく、優輝が不器用なりに家事を頑張る必要もなくなる。練習の疲れによって家事がいい加減になることもないだろう。
あと二か月。たったそれだけの期間だ。気合を入れて乗り切ろう。
シャツを脱ぎ捨て、ゆっくり息を吐く。台所からは味噌の濃い匂いが漂ってきたが、きっと味のない味噌汁よりはマシなはずだとポジティブに考えることに決めた。
次に母の帰りが遅くなるときは、絶対に早く帰ろう。鏡に映る疲れた顔を軽く叩き、忍は決意を固めた。
ようやく恩田家の食卓に三人が揃ったのは、二十時を過ぎてのことだった。
彼らの母は帰ってくるなりスーツ姿のまま椅子に座ると、出された料理に顔をしかめて娘と息子を交互に見た。
「今日は思ったより帰るのが遅くなっちゃって、優輝が作ってくれたんだよ」
味噌汁の中から輪切りにされた太いじゃがいもを見つけると、母はひきつった笑みを浮かべて優輝に「ごめんね」と言った。
いつもそうだった。優輝が家事をすると、母は「ありがとう」ではなく「ごめんね」と言うのだ。そして、忍にも同じ言葉を投げかける。
「ごめんね。やっぱりこの時期は部活も忙しいよね。私もできるだけ早く帰るようにしたいんだけど、明日もちょっと遅くなりそう」
「今日はたまたま遅くなっただけだって。大丈夫だから、家事は私に任せて、お母さんは仕事の方に集中して」
厄介なものから先に片付けようとじゃがいもを口に含むと、妙な触感があった。皮ならまだしも、芽は取ってくれてますようにと祈りながらそれを飲み込む。
決して味覚音痴ではない優輝は、苦い顔をしながら自分のつくった料理を噛み締めることに一生懸命なようで、食事中に一言も話すことはなかった。
まるで額の皮が剥離してむき出しになった脳みそにそよ風が吹き込んでいるような感覚を味わいながら、優輝は教室に入り自分の席についた。
睡眠不足による軽い頭痛。視界の上あたりは白くぼんやりとしている。彼は今日の日課にざっと目を通して、眠れそうな授業に見当をつけた。一時限目は体育だ。寝られないどころか、体力をごっそり奪われてしまう。
今のうちに少しでも寝てしまおうと、かばんから枕代わりに用意したハンドタオルを取り出したとき、前の席の二人がこちらを見ていることに気がついた。
「おはよう、恩田くん」
さりげない微笑を伴って、ゆかりは言った。その向こうでは、ちなみが嫌らしい表情を浮かべている。
「……おう」
気の利いた言葉を思いつかなかったため、それだけ返すと彼はさっさと机に伏せた。頭の中では様々なものがせめぎ合い、交錯し、ぐるぐると回り始めた。
間もなくホームルーム開始のチャイムが鳴る時間だが、そんなことは彼にとって問題ではなかった。あまりにも強い睡眠への欲求は、彼を怠惰な世界へと誘い入れる。今すぐ瞬間移動で自宅に戻り、布団で横になることができたらどんなに幸せだろう。そんな気分だった。
まだ起きているのか、もう眠ってしまったのかさえ分からない暗闇の中で、彼はゆるやかな波に身を任せて漂っていた。現実には数秒のことが、彼には何時間にも感じられる。どうやら、上手い具合に眠りにつけそうだ。
ところが、愛花ちなみの嫌らしい声が、彼の意識を瞬く間に教室へと呼び戻した。
「どんだけ寝るのよ。部活もやってないのに、そんなに疲れるかねぇ」
無視しようと彼は努めた。彼女の存在など、彼にとって取るに足らないものだ。貴重な睡眠時間を、愛花なんかのために消費するのはもったいない。
反応を見せない優輝に、ちなみは寝たふりをしていると決めつけたようで、わざとらしく嫌味をぶつける。
「これじゃあ、忍先輩も苦労するわけだわ。まだウチの弟の方がマシだったよ。元気に外走り回って、いかにも男子って感じ」
「ちょっと、ちなみちゃん……」
口を開けてしまえばきっと後悔するような汚い言葉が飛び出してしまうと考えて、彼は何も言わず、ちなみをただ睨むことにした。
「……何?」
苛立ちを隠すつもりもなさそうな、鋭い口調でちなみは言う。
それに対して、優輝も目で彼女を非難する。何が俺の癪に障ったか、分かっているはずだ、と。
あまりにも突然に起こった彼らの険悪な睨み合いに挟まれたゆかりは、居心地が悪いどころではなく、どちらをなだめた方が利口か考えた。初めはただからかっていただけにしても、ちなみはこうなってしまうと頑固で譲らない性格だ。それに、優輝の方が精神面では大人に思える。
都合のいいことに、彼を説得するネタは昨日手に入れたばかりだ。
「その、何かそんなに疲れるくらい大変なことがあるんだったら、忍先輩に相談とかしてみたらどうかな?」
彼の鋭い視線の先がゆかりに切り替わると、その瞳に微かな失望の色が表れた。静かに席を立ち、彼女たちを見下してからゆっくりと後ろのドアに歩み寄っていく。
「恩田くん? もうすぐ先生来るよ?」
ゆかりの心配する声も無視して、彼は教室を出て行った。数人のクラスメイトがそれを気にするような素振りをみせたが、すぐに何も見なかったようにいつものお喋りに戻っていった。
ホームルームが終わる時間を見計らって、優輝は教室に戻ることにした。
漫画やドラマに憧れて保健室でサボろうかとも思ったのだが、現実の保健医というのは病人以外には冷酷なもので、彼が健康体であると知るやいなや、すぐに保健室から追い出したのだった。
このまま戻ってしまうのも、面白くない。一限目に間に合えば、愛花は何とも思わないだろう。しかし、自分が授業に遅れてしまえば少しは罪悪感も芽生えるのではないかと彼は考えて、トイレなどで時間を稼ぐことにした。
一限目開始のチャイムが鳴り五分ほど経過したところで、彼は教室に戻った。扉を開けようとするが、鍵がかかっている。
「そっか、体育……」
今からグラウンドに行って学級委員に鍵を借りてくるのも面倒くさい。それに、サボろうとして教室から閉め出されたなんて格好悪いと考えた彼は、施錠を忘れている窓がないか一つずつ調べてみて、クラスメイトの防犯意識の高さに感心させられることになった。
途方に暮れて、また保健室に戻ろうかという考えが頭をよぎったとき、すりガラスの向こうで何かが動くのを見つけた。
それは子ども向けアニメのようにデフォルメされた犬や猫のぬいぐるみといった感じのシルエットで、ゆかりの椅子から机によじ登っているところだった。二本足で立ち、背伸びまでしている。
「何だこれ」
自分が現実に目にしているものを頭の中で合理的に処理できず、つい独り言がこぼれると、向こうも彼の存在に気付いたのか窓の方にやって来てガラスをノックした。
しばらくして、それは窓を開けたがっているのだと分かり、彼は鍵を指で示す。利口なその生き物は彼の指の先を追って鍵にたどり着くと、なんと前足のような手を精一杯伸ばして施錠を解いてしまった。
「みんな、どこ行っちゃったリア?」
窓を開くと、明らかに子ども受けを意識して誕生したのではないかと疑いたくなるような二頭身のぬいぐるみもどきが、あろうことか人間の言葉を喋った。
これは彼にとって驚くべきことであり、自身の目と耳と頭の異常を疑わずにはいられなかった。
「何だこれ……」
先ほどと同じ台詞を口にした後、人目についてはまずいと判断して窓から教室の中に入った彼は、すぐに開けてもらったばかりの窓の鍵を閉めた。自分の頭がおかしくなったのでなければ、ぬいぐるみとお喋りをしている男子中学生という構図はまずい。
嬉野ゆかりの席に座り、机の上で不思議そうな顔をしているぬいぐるみを観察する。どう見てもこれは人工的な産物ではなく、自然体の生き物であった。
「ゆかりもちなみも、どこに行ったか知らないリア?」
怯える様子もなく、それは優輝に話しかけてきた。未確認ぬいぐるみ体の口にした名前を聞いて、彼は納得する。
嬉野がかばんに隠していたのは、これだったのか。
「ここで待ってれば、そのうち帰ってくるだろ」意外にも自分に奇妙な出来事への順応性があったのかと驚きながら、優輝は言った。「それより、何なんだよ、お前?」
ぬいぐるみは愛嬌のある笑顔をみせて、嬉しそうに答えた。
「ボクは、心の国の妖精タリアリア。いなくなったお母さんを捜して、ゆかりたちと友達になったリア」
「いなくなった? 何で?」
「分からないリア」
他人事のように軽い口調に、彼は困惑した。妖精というのは、頭が弱い生き物なのかもしれない。そうだとしたら、一つずつ質問していくよりも、既に答えを知っているゆかりたちから聞き出した方が早いはずだと彼は考えた。
「それで……、タリアリア?」
「タリアリア! ゆかりと同じ間違いをしないでほしいリア」
むくれたように言うタリアを見て、妖精全体の精神年齢が低いのか、単にタリアが幼いだけなのかなんて知らないが、人間の子どもと何ら違いはないと思えた。そして、そんなタリアを一人でこんな所に寄こしている両親を、優輝は許せなかった。
「悪かったよ。それで、じゃあ父親は?」
「お父さんのことは何も覚えてないリア!」
またしても、何でもないことのように明るく言う。
「父親もいなくなったのか?」
「いなくなったのはお母さんリア。お父さんは初めからいなかったリア!」
「死んだのか?」
「知らないリア」
しばらく気まずい間があり、その沈黙を破ったのはタリアだった。
「教えてほしいリア! お父さんってどんな感じリア?」
このとき、優輝は自分が小学校の先生に向いていないことをひしひしと感じた。特に希望している職業でもないのだが、子どもに教育上よろしくない答えを持つ質問をされたら、上手くごまかすことはできそうにない。
妖精の世界に離婚があったとしても、あまり詳しいことを言う必要はない。あれこれと思考を巡らせたが、結局できのいい返事は浮かばなかった。
「俺も、知らない」
さきほどまで、自分がどんなに辛い質問をタリアにぶつけていたか、ようやく気付く。両親がいなくて心細い思いをしている子に、とんでもなく残酷なことをしていた。しかし、タリア本人にそれを悲観する様子はまったく見られない。
「キミもお父さんを知らないリア?」
仲間を見つけたように目を輝かせるタリアだったが、優輝は何となくその呼び方が気に入らなかった。
「……何だよ“キミ”って」
「だってまだ名前を聞いてないリア!」
名乗る必要性を考えて、彼は犬や猫に自己紹介をする人間がいたらどう見えるか想像した。しかし、今は誰にも見られてはいないのだから、難しく考えるのがばかみたいに思える。
「恩田」
「オンダ?」
「呼び捨てにするなよ」
「でも、ゆかりもちなみもゆいも、ボクはそのままで呼んでるリア」
子どもに無理やり敬称をつけて呼べという中学生も客観的にどうかと思い、彼は妖精のネーミングセンスに任せてみることにした。
「下の名前は優輝。オンダ以外なら何て呼んでもいい」
「じゃあ、ユーキ!」どうやら語感を気に入ったらしく、タリアは何度か復唱した。「ユーキ、ユーキもお父さんがいないリア? お母さんは?」
「……いないのは父親だけ」
「じゃあ、よかったリア!」
タリアは万歳をして、さも嬉しそうに言った。
「よかった? どこが?」
「だって、ユーキにはお母さんがいるリア」
「それがよかったになるのか?」
「ボクはお母さんがいてくれたら嬉しいリア。お父さんもいたら、もっと嬉しいリア」
優輝は漠然と、父親のいる我が家というものを想像してみた。
父親が働いて、母は一日中ずっと家にいて家事をしていたらどうなっていただろう。彼が学校から帰ってきたときには洗濯物は全て取り込んであり、夕飯の準備も終わって、お風呂のお湯も沸いてあったとしたら……。
「嬉しくねぇよ」
無邪気な妖精の子どもは、彼の低い声を聞いて小首を傾げた。タリアがどんな家庭で育ってきたかなんて優輝には想像もつかなかったが、少なくとも悩みなどとは無縁の環境だったということだけは分かる。
それとも、よほどいい母親で、幼い我が子に辛い一面を見せないようにしていただけかもしれない。
「ユーキはお父さんにいてほしくないリア?」
「ああ」
彼は壁の時計を見て、妖精とのとてもメルヘンとは言い難い内容の会話をそろそろ切り上げる時間だと判断した。授業時間の半分さえ出ていれば欠席扱いにはならない。彼は愛花ちなみや初対面の妖精の為に皆勤賞を逃すつもりはなかった。
「ゆかりはお父さんやお母さんといるとき嬉しそうリア。ユーキは違うリア?」
かばんから体操着を取り出して、優輝は確認するようにゆっくりと言った。
「お前は母親だけじゃ嫌か?」
タリアは頭を何度も横に振って、一生懸命に優輝の質問を否定した。二頭身のくせに首は大丈夫なのかと彼は思う。
「そんなことないリア。お母さんだけでも嬉しいリア」
カッターシャツのボタンを外しながら、ふと気がついた。当然ながら今、彼が着ている制服は母と一緒に買いに行ったものだ。それなりに高い買い物だったと記憶している。きっと、学校と服屋の共同事業にまんまとはめられているのだと思ったものだった。
そして、体操着や通学かばんが目に入る。彼の所有物のほとんどは、彼の母が買ってくれたものだった。どんなもんだ、という気持ちで彼はタリアを見た。
「……俺もだ」
父親がいなくても、何も問題はない。彼は確信を得た。
これまで耐えきれない空腹を味わったこともなければ、寒さに凍えそうになったこともない。人並みの暮らしをして、当たり前のように生活している。
そして、彼にとっては、母と姉との三人での生活こそが当たり前だった。
――そういえば今日も遅くなるって言ってたっけな……。
体操着の上を着ると、恩田と書かれたみずぼらしいゼッケンからほつれた糸が垂れていた。これは彼が自分で縫ったものだが、小学校のときに母がやってくれたように上手にはできなかった。
不思議そうな顔でこちらを見ているタリアに気付き、彼は得意げに付け加えた。
「それに、もう一人いるし」
母が働いて、優輝と忍が家事をする。それが自分にとっての家族だと、彼は思った。
「え、タリアがいなくなったんですか!?」
放課後のテニス部の部室では、練習前の僅かな時間を利用してゆかりたち三人による集会が開かれていた。
珍しく大声を出したゆいを落ち着かせて、ゆかりは扉を少しだけ開けて近くに誰もいないか確認する。準備を終えた部員たちは昨日と同じように適当な建物の陰に散らばって談笑をしており、こちらを気にかける者はいなかった。
「休み時間の度に探したんだけどね、どこにもいなかったから。もしかするとあんたのとこに行ってるんじゃないかと思ったんだけどさ」
「一時間目の体育から戻ってきたら、いなくなっていたの。まだ学校内にいたらいいんだけど」
タリアを匿うからにはトラブルをも享受できなければ務まらないと理解はしていたが、彼女たちは実際に何かが起こったときの対策などは一切話し合ったことはなかった。
母親を捜しにわざわざ人間界にやってきたくらいだから、勝手にどこかにいなくなることくらいタリアの行動力を考えたなら容易く想像できたにも関わらず、ゆかりはそれを思いとどまらせるくらいの信頼関係はとっくにできているものだと思い込んでいた。
「私、ちょっと捜してきます」
ゆいが立ち上がろうとするのを、ちなみが制した。
「一年生は走り込みでしょ」
「でも、この前の人に何かされてたら……」
「そうだとしても、あんたが行くのはだめ」
明らかに不満そうな表情になったゆいは、意見を求めてゆかりの方を見た。ちなみの考えていることに何となくの見当をつけて、ゆかりは説明する。
「前にもタリアがいなくなったことはあって、そのときは私が捜しにいったんだけど、結局タリアは一人で戻ってきてて、私がイカリングとばったり出くわしちゃったの」
「イカリングと出くわすって……何ですか?」
そこで初めて、まだイカリングとゆいのボーイ・ミーツ・ガールが行われていなかったのだと、ゆかりは気づいた。ちなみは呆れたように額に手を当てて前髪をかき上げている。
「簡単に言うと男版ラクイーンみたいな感じ。同じようにタリアを狙ってるわけ」
「じゃあ、やっぱりタリアを見つけないと!」
扉を開けようとするゆいの後頭部を軽くチョップして、ちなみは言葉を続けた。
「ゆかりの話聞いてた? 捜しにいってそいつらと出くわしたら、あんた一人でどうにかできるの?」
「でも……」
着替えるときに外した腕時計をかばんから取り出したちなみは、そろそろ練習が始まる時間だと確認して、ゆいの肩に手を置く。
「最初の休憩までにタリアが帰ってなかったら、私とゆかりで捜しにいく」
しかし、ゆいはまだ不服そうだった。彼女にとって、この学校で心置きなく話ができる数少ない相手がタリアなのだから、その心配はもっともだとゆかりは思った。
「私も行きます!」
「だから、走り込み」ちなみは強く諭すような口調で言った。「一年生がこの時期に練習を抜けたらどう思われるか、分かる?」
その言葉に渋々ながら納得したらしく、ゆいは肩を落として俯いた。それから改めて時間を確認した彼女たちが部室を出ようとしたとき、忍が勢いよく扉を開けて入ってきた。
「こら! もう練習始まるよ」
今からやろうと思っていたことをやれと言われると腹が立つものだが、それどころではない三人は空返事で済ませた。
「ん、どうかしたの?」
「ちょっと気になることがあって……」
「気になること?」
これ以上の追及を逃れるためか、告げ口をしたかったのか、ちなみは優輝の話を持ち出して誤魔化すことにした。
「たぶん恩田のことですよ。今日の一時間目の体育サボってましたから」
「え、優輝が授業サボった?」
「そうなんですよ。忍先輩から、こう、がつんと言ってやってください」
すると、忍は困ったように笑った。
「がつん……ってのは無理かな。私たち、そんな感じの関係じゃないんだよね」
ゆかりはその口調が、片親しかいないと告白されたときより深刻な問題を語るように聞こえた。
「そんな感じって……?」
尋ねた後で、自分の相変わらずの無神経さにゆかりは嫌悪した。やはり、それは忍にとって答えにくい質問だったようで、彼女は難しい顔をして後頭部をぽりぽりと掻いた。
「中学生になってから口数も少なくなったっていうか、心配ではあるんだけどね」そして、弱音を吐くように小さく呟いた。「やっぱり男の子には父親が必要だったのかなって思っちゃったりも……」
再び部室の扉が開き、忍は振り返って口を閉ざした。志穂が呼びにきたのかと、ゆかりが扉の外に目をやると、そこには大事そうにカバンを抱えた優輝が立っていた。
やがて隣に志穂もいることに気付いた。気まずそうに、「まずかった?」と顔でゆかりたちに問いかけている。
「……ふざけんなよ」
低い声だがはっきりとした口調で言うと、優輝は校門の方へ走っていった。
部室の中で忍ひとりだけが当惑することなく、諦めと何かを耐えるような表情で彼の後ろ姿を見送っていた。
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4-3.後ろの席のイヤなやつ!?
優輝が去った後、部室には戸惑いと気まずさによる沈黙が訪れた。
ゆかりにとっては彼が女子ソフトテニス部の部室に現れたことの方がよっぽど驚くべきことであり、なぜ去ってしまったのか考える余裕はなかった。
つい数日前まで優輝と忍が姉弟の関係にあるとゆかりが知らなかったのは、どちらもその話を口にしなかったからであり、校内で彼らが一緒にいるところさえ見たことがなかったからだ。
もちろん、優輝が部活中の忍を訪ねてきたことは一度もない。だから、彼が来たのには何か大きな理由があるはずだとゆかりは考えた。
「あー……、忍? 大丈夫?」
やがて志穂が躊躇いがちに口を開き、優輝の姿を隠した校舎の角を見つめたままの忍ははっとして何でもないように装った。
「大丈夫って?」
それはあまりにもわざとらしく、この場の誰一人としてごまかされることはなかったが、彼女たちはそのフリをした。
「恩田はどうしてここに?」
「何かゆかりに用があったみたいだけど」
ちなみが尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「え、私に?」
彼の目的はおそらく忍との面会だと思っていただけに、ゆかりは訳が分からず必死に優輝が自分に会いに来る理由を考えた。そんな彼女をよそに、志穂は頷く。
「うん。告白でもするのかって茶化してたんだけど……、私が怒らせたからどこか行っちゃったってことはないよね?」
「恩田がゆかりに告白なんて、あり得ませんって」
ゆかりが気の利いたリアクションをしてみせればこの場の雰囲気も和らいだのかもしれないが、とてもそんな気にはなれず黙ったままでいると、再び部室内は静まり返った。
扉のところから顔だけのぞかせていた志穂は、小さくため息を吐くと部室の中に入ってきて扉を閉める。そして、忍の前に立ち真面目な表情を見せた。
「いいの?」
左肘を右手で掴み肩身を窄めた彼女が、志穂からはっきりと目を逸らすのをゆかりは見逃さなかった。まるで追求を逃れるようで、その仕草からこれ以上は関わってほしくないと思っていることが分かる。
「……何が?」
知り合って一年しか経たないゆかりにも見抜けたのだから、彼女と二年間もペアを組んでいる志穂がその言葉から何も読み取れないわけがなく、小さく頷いて微笑んだ。
「そう。じゃあ、私は先にコートに行ってる。もう時間だからね」
部室を出るとき、志穂はゆかりたちに向けて一瞬だけ口元を緩めた。それを受けて、ゆかりもラケットを背負い立ち上がる。
「私たちも行こう」
ちなみとゆいは不思議そうな顔をして忍の様子を窺う素振りをみせたが、ゆかりにならって練習に向かう準備をした。
「ゆかりさん?」
先ほど優輝と初対面を果たしたばかりで彼が忍の弟であることを知るはずもないゆいは、訳が分からずに不安そうな声を出した。説明しようにも、ゆかりにはどうして優輝が怒ったのか知る由もなく、また知る必要もないように感じた。
これは忍と優輝の問題であって、彼女たちの介入する余地はない。だから、ゆかりは何も言わずゆいの手を引っ張って部室の外へ出た。
「先輩、コートで待ってますね」
振り返ると、部室の中にいる忍はひどく儚げに見えた。そこには、これまでゆかりたちの前を進み続けた頼もしく凛々しいキャプテンの姿はなかった。
ゆかりよりたった一つ年上の、どこにでもいるごく普通の中学生。それが恩田忍だった。
「……うん」
忍の顔から憂慮が消え、穏やかな表情になった。
ゆかりたちがコートに向かおうとして歩き始めたとき、最後に部室を出て扉を閉めようとしたちなみが言った。
「これ、恩田のかばんじゃない?」
扉の横には見覚えのある通学かばんが置かれていた。ピンク、赤、白、青の花が一輪ずつくっついて小さな花束のようになっているデザインのキーホルダーは、男子にしては珍しい趣味だと印象に残っている。
「間違いない、優輝のだ」
忍が屈んでキーホルダーに触れたとき、かばんの中で何かが大きく動いた。それは、ゆかりが授業中に何度も悩まされたあの現象とそっくりであり、他の可能性は考えられなかった。
「ゆかり! ちなみ! ゆい!」
ファスナーをこじ開け優輝のかばんから顔を出したタリアは、ここが部室の外で忍の目の前であることも知らずに、嬉しそうに言った。
「タリア……」
安堵して微笑むゆいを見て、案外と図太い神経を持っているんだなとゆかりは感心する。この場合、正しいリアクションはちなみのように頭を抱えて項垂れるか、忍のように硬直するかの二つに一つである。
弟のかばんから現れた喋るぬいぐるみを凝視したまま、頭の中を様々な思考がぐるぐると回っている忍に、タリアは首を傾げてみせた。
「あれ、ユーキはどこリア?」
「え?」
とりあえず再び部室に入って扉を閉めると、ゆかりはどうして優輝のかばんに入っていたのかタリアに質問したい気持ちを抑えて、まずは忍の混乱を処理することにした。
練習が始まるまで時間もないため、説明はタリアの紹介だけに済ませた。途中でゆいが口をはさみプリキュアのことをばらそうとしたが、それはちなみによって止められた。
「信じられない、妖精なんて……」実際に目にしている存在を言葉で誤魔化そうとしているようだったが、ゆかりたちが揃って頷いたため忍は肩を落とした。「優輝も知ってたってこと?」
「そんなはずはないんですけど……」
タリアは相変わらずにこにこして、忍を新たな友人として迎え入れていた。ゆかりは目線の高さをタリアに合わせて、丁寧な口調で尋ねる。
「ねぇ、タリア? どうして恩田くんのかばんに入っていたの?」
「間違えちゃったリア!」
優輝の席はゆかりの席の後ろだから、タリアなら間違えても不思議はない。いずれにせよ、入るかばんを間違えたということは、一度かばんから出ていたということだ。誰にも見つかっていなければいいが……。
「でも、恩田が来たのってタリアを返しにきたんじゃない? だとしたら、やっぱり恩田にもばれたってことになるけど……」
タリアがいなくなったことに気付いたのは、一時間目の体育が終わって教室に帰ったときだった。そして、優輝だけが体育に遅れて来た。タリアが彼に見つかり、ゆかりたちのことを話したのは疑いようがない。問題は、どこまで話したのか。
「恩田くんとはどんな話をしたの?」
妖精の存在を認めたとしても、彼女たちがプリキュアに変身して巨人や獣の怪物と戦ったなんて話を優輝が信じるとは思えないが、一応は確認をしておくに越したことはない。
「お母さんと、お父さんの話リア!」
「え……」
それまで黙ってただ困惑していた忍が微かに声を漏らした。
「ユーキはお父さんがいないって言ってたリア。ボクと一緒リア」妖精を動物に分類してもよいのか曖昧ではあるが、タリアはそのような直感からか忍の方を見た。「でも、お母さんがいるから大丈夫リア。ボクも、ユーキも!」
「……優輝が、そう言ってたの?」
恐る恐るといった様子で、忍は尋ねた。
「ユーキはあまり喋らないリア」
慎重に交流を試みる忍とは対照的に、タリアは相も変わらず能天気に応える。そんなタリアを見て、忍も相好を崩した。
「うん」
緩んだ口元を手で隠す。
ちなみから優輝の名前を聞いたときは、自分の知らない弟のクラスでの一面を垣間見ることができるかと思ったが、やはりと言うべきかちなみが一方的に食ってかかっていただけで、忍にとっての彼の印象はこれまでと変わらなかった。
そんな彼のかばんから妖精なる生物が出てきたとき、弟の秘密を知ることができたと忍は驚きながらも嬉しかったのだ。しかし、その妖精に対しても優輝はいつも通りに接していたという。
クラスメイトや先生や、母や、姉と同じように。
少しくらいは驚いて面白いリアクションでもしたのかな、と考えてみたが、普段の彼からは想像できない姿であり上手くイメージできなかった。
妖精にすら口数が少ないなんて、実に彼らしい。忍はくすくすと笑いながら、そんなことを思った。
「でも、ボクには分かったリア」
「分かったって?」
かばんから這い出てきたタリアは、小さな花束のキーホルダーを手で示した。
「ユーキの気持ちリア。ユーキはすごく優しい心を持ってるリア」
すると、怪訝という言葉を調べるときのお手本になれるくらいの声で、ちなみが口をはさんだ。
「はぁ、恩田が優しい~?」
「ちなみはすぐ怒るリア。ユーキとは大違いリア」
悪びれた様子もなくそんなことを言うものだから、ちなみも怒るに怒れず、タリアを掴み上げてくすぐった。
「なに? じゃあ、私は優しくないって言いたいわけ?」
無邪気に笑いながら、タリアはもう一度キーホルダーを指さした。
「あの花みたいに、ユーキからは色んな気持ちが感じられたリア。でも、それをぜんぶ優しさで抑えてたリア」
「気持ちを、抑えてた?」
忍が姿勢を低くしてキーホルダーを見たので、ちなみはくすぐり攻撃をやめてタリアをかばんの横に戻した。
「最初、ユーキの心はこの青い花みたいだったリア。でも、お母さんの話をしたときはピンクの花みたいに感じたリア。さっきは赤い感じだったリア」
「赤って……」
ゆかりの視線は自然とちなみの方に向けられた。タリアの言う花の色が、感情の曖昧な表現だとしたら、キュアルビーやオコリンボーの例によると赤は怒りを表す。ちなみもそれに気付いて、ポケットから真紅のブレスレットを覗かせた。
「怒ってるってことでしょうか? 赤って活発とか攻撃的なイメージが私にはあるんですけど……」
間違っていたらどうしようといった感じでおずおずと口を開いたゆいは、忍の表情に緊張と後悔が表れたのを見て、申し訳ないように肩を竦めた。
「でも、ユーキの赤はすぐ青に変わったリア」
ほとんどの場合、赤と青は対照的なものとして考えられる。ゆかりがぱっと思いついたのは、火と水、朝と夜といったイメージだった。彼女にとって青は落ち着いた印象の色であり、どことなく憂いを感じさせる。
「青っていうと、冷静だったり泣いてる感じ?」
「分からないリア」
「いや、タリアが赤とか青とか言い出したんでしょ」
文句を言うちなみを見ていると、やはり彼女は赤い“怒りのプリキュア”にぴったりだなとゆかりは思った。“怒り”はともかく赤は彼女の好きな色のはずで、とてもよく似合っている。
しかし、優輝はどうだろう。ゆかりはどうしても彼の色というものをイメージできなかった。それは彼女が彼と知り合って間もないためだとばかり思っていたが、忍の話によるとそうでもないらしい。
「だって、心はそんなに簡単じゃないリア。ボクにはユーキの気持ちが分からないリア」
「さっき、恩田の気持ちは分かった、優しいとか言ってたじゃない」
「ユーキは優しいリア。だから、ボクに自分の気持ちを教えてくれないリア」
支離滅裂なタリアの言い分だったが、その意味をゆかりは何となく理解することができた。
照れてしまって喜びを表現できない人や、相手に気を遣って怒れない人なんて珍しくはない。優輝の場合、感情に蓋をするものがどういったわけか優しさなだけなのだろう。
「でも、お母さんの話をしてるときのユーキは嬉しそうだったリア」
「えっ、あいつマザコンなんですか?」
タリアとの言い合いで先ほどまでの気まずさなどすっかり失われたちなみは、冗談っぽく忍に尋ねた。
「ううん、さっきも言ったけど、中学生になってからの優輝は私ともお母さんともほとんど話さなくて……」
すると、忍に近寄ったタリアは彼女の顔を見上げてまじまじと観察した。
「もしかして、ユーキのお姉ちゃんリア?」
自己紹介がまだだったことに気がついた忍は、人間以外の生き物に挨拶するのが恥ずかしいのかやや躊躇って肯定した。
「うん、優輝の姉の恩田忍です」
「じゃあ忍もお父さんがいないリア?」
「……そうだね」
困ったように微笑んで優しく応える忍に、タリアは何か思うところがあるようだった。少なくとも、ゆかりにはそう見えた。
心の国の妖精と自称するだけはあって、または無垢な幼さからか、タリアは人の心には敏感に反応する。特に、正の感情に関してはそれが顕著だ。ちなみとゆいがプリキュアに変身したときの様子から、ゆかりはそれを知っていた。
「ユーキはお父さんがいたら嬉しくないって言ってたリア。忍もそうリア?」
家族の話題を後輩の前でするのを気にして、忍はちらっとゆかりたちを見たが、やがて開き直ったように口を開いた。
「どうだろうね。私は今のままでもいいけど、やっぱり父親がいたらもっとよかったのかもって思うことはあるよ」
「ユーキはそう思ってないリア」
それを聞いて忍の表情には一瞬だけ憂いが戻ったが、ゆかりたちに心配されるのが嫌だったのかにかっと笑い、わざとらしいくらい元気な口調になった。
「まぁね。父親がいなくても、私がお母さんを手伝えばどうにかなるし」
彼女が無理に吹き飛ばした憂慮に感染したのか、珍しくタリアが物案じするように呟いた。
「……ユーキと同じリア」
なぜタリアからいつもの無邪気さがなくなったのか、ゆかりには分からなかった。姉弟が同じ思考をしているというのは、喜ぶべきことのはずなのに。
彼女と同じ謎を抱えた忍は、それを解く鍵を持っていたらしく、立ち上がると時計を気にする素振りをみせた。
「ねぇ、頼みがあるんだけど……」
「はい、何ですか?」
不思議そうな顔をする三人の後輩と、自分以上に優輝のことをよく理解している妖精を見て、志穂がしたのと同じように忍は口元を緩めた。
「志穂に言っといて。今日は私、帰ったって」
机の上に畳んで置いてある自分の制服をかばんに突っ込むと、忍は体操着姿のままで部室を出た。
昨日と同じ。しかし、昨日とは違う結果にしようと忍は思った。
数日前ポストに分譲予定というチラシが入っていた建設途中の高層マンションの陰で学校が見えなくなってから、優輝はかばんの行方を気にした。
幸運にも宿題など明日が提出期限のものはなかったはずだから放っておいてもよかったのだが、どうにも自分の持ち物を置き去りにするのが気に入らなかった彼は、遥か上空から聞こえてくる、金属どうし小気味好くがぶつかる音に合わせて右往左往した。
女子という生き物は噂が好きだから、きっと自分のことをばかにしているに違いないと彼は思った。先ほどの行動を客観的に捉えると、おかしなやつだと思われても仕方がない。
「妖精をかばんに隠してる方が、よっぽどおかしいだろ」
どうせ工事の音にかき消されるからと呟いて、彼は今朝の出来事に思いを馳せた。
妖精の子ども。子どもみたいな妖精。妙に明るいやつ。でも、父親はいない。……母親もいなくなったんだっけ。
そして、扉を隔てて聞こえた忍の言葉を思い出す。
――父親が必要。
「……ふざけんなよ」
工事の作業がひと段落したのか、その瞬間に上空から聞こえていた騒音が止み、今度の呟きははっきりとしたものになった。
彼はひと月後にはマンションになるはずの鉄の塊を見上げた。おおよそ二十階くらいだろうか。もっと高いかもしれないし、低いかもしれない。いずれにせよ、彼とは縁がない話だ。
父親がいたら、こんなところにも住めたのかなと彼は思った。男女平等がどうとか言っても、やはり男の方が収入は多いイメージがある。食費なんかは今より増えるかもしれないが、それでも暮らしは裕福になるだろう。
そこまで考えたところで、彼は家に向かって歩きだした。
とりあえず、今は忍と会いたくなかった。すべてが上手く運べば、タリアはゆかりに保護されて、かばんは忍が持って帰ってくれるだろう。
いや、あいつのことだから、俺のかばんって分からないんじゃないか。
鼻で笑いながらそんなことを思い、財布もかばんに入っていたことに気がついた。彼は舌打ちをして冷蔵庫の中身を思い出そうとしたが、そこから夕飯のイメージまで辿りつけなかった。母がそれを把握しており、買い物をして帰ってくることを信じるほかない。
忍が優輝の姿を見つけたのは、マンションの工事の音がちょうど気にならなくなるくらいの交差点だった。優輝は持て余した両手をポケットに突っ込み、すぐに落ち着かない様子でポケットから手を引き抜いてたりして信号待ちをしていた。律儀にも、点字ブロックから二歩下がったところに立っている。
体操着姿で二つのかばんを抱えている受験生というのはどうも格好が悪そうだと、すぐにでも優輝に声をかけかばんを渡してしまいたかったのだが、忍はそのきっかけを掴めずに彼が気付いてくれるのを待つことにした。
しばらくすると、彼女の後ろから大げさに足音を鳴らして長身の男がやって来た為、優輝はちらりとこちらの方を見た。姉の姿を見つけた彼は一瞬ぎょっとした表情になり、すぐに視線を向こうの信号に戻してしまった。
やがて信号が青に変わり、彼が気まずそうに横断歩道を渡りきってから忍は声をかけた。
「優輝、ほら、かばん」
まるで壊れたロボットのように、ゆっくりと首を回して自分と忍のかばんを見分けると、さっと自分のかばんを手に取った。
「……部活は?」
まさか彼の方から話しかけてくるとは思っていなかった忍は、自分の言おうとしていたことを抑え込まなければならなくなった。
「休んだ。今日もお母さん遅くなるって言ってたし、昨日は優輝に晩ご飯つくらせちゃったわけだから、今日こそ私がするよ」
これは彼女にとってかなり前向きな発言だったのにも関わらず、優輝はさらに素っ気ない態度になり、地面の踏みしめ方からはストレスが感じられる。
「いいから、練習戻れよ」
「ねぇ、さっきの怒ってるなら……」
途端に優輝は早足になり、忍との会話を打ち切りたいという意思をはっきりさせた。これには彼女もむっとしたが、姉としてここは下手に出るべきだと判断した。
「ごめん。その……タリアって妖精? 知ってるんでしょ? あの子に言われて気付いたんだけど、私、普段から優輝に家事押し付けてることあった。部活で忙しいせいもあって、勝手に家事も頑張ってるつもりでいたけど、でも、これからはちゃんとするから」
すると、優輝は足を止めて彼女を鋭い目つきで睨んだ。
何か言うのを忍は待ったが、まるで見限るように視線を足元に落として優輝は再び歩き始める。
「ちょっと!」
先を行こうとする優輝の手を掴み、忍はすぐに声を荒げたことを後悔した。普段はほとんど表情の変化を見せない優輝が、そのときばかりは怒りを顕わにして、彼女の手を振り払う。
これまで抑えていた怒りが溢れだしたなら、尽きることのない暴言を吐いたとしてもおかしくないと彼女は覚悟したが、優輝はすぐにいつもの冷静さを取り戻したようだった。
タリアの言っていたように、赤が青に変わったのだ。
やがて忍は、自分の方を振り返ったはずの優輝の視線が、まるで見当違いの方向に向けられていることに気付いた。彼は明らかに彼女より後ろにあるものを見ている。
忍が後ろに目をやると、そこには先ほどの交差点で見かけた長身の男が右手をこちらに突きだした格好で立っていた。その掌は、薄黒い赤で染まっている。
「おいおい、こんなに強い怒りを持ってるってのに、喧嘩しないなんて勿体ないぜ」
気を失い倒れかけた優輝の体を支え、忍はその男の手から赤い光が広がって巨大な人の姿を形成する様子を呆然と見つめた。
生み出された巨大なオコリンボーは、夕方の穏やかな町にパニックを起こすには十分すぎた。
町の人々が怪物から逃げるなか、彼女は弟を抱えたままその場にへたり込んだ。
部活までサボッて、弟とはうまくいかず、その弟の体から現れた赤い光が怪物となって町を襲っている。巨人となった光には不満、鬱憤、暴力といったものが込められてあり、それらがごちゃ混ぜになった爆弾のように感じられた。
あれが、そうなのだろうか。タリアの言っていた赤、怒りの感情。
そうだとしたら、優輝のそれはあまりにも大きすぎた。
部活中のゆかりたちが町の異変に気付いたのは、前衛練習を終えたときだった。
遠くの方から砲弾のような地響きが聞こえてくると思えば、次第に音は近くなり、巨人の姿を肉眼で確認できるまでになった。
部活で校内に残っている生徒たちはそれを映画の撮影と勘違いしたり、自分の目がおかしくなったと疑うことなく、こちらに近づいてくる現実離れした存在の危険性を時間をかけて判断していた。
「あれって……」
ゆかりは息を呑んで巨大なオコリンボーを認めた。初めて戦ったときの体育館に収まっていたものとは、まるで違う。体長はその三倍はあり、強い怒りが感じられた。
「なんか……やばそう」
ようやく危機感を覚えた部員たちは、たちまち部室に置いてある自分の荷物を片付け始めた。地響きが大きくなるにつれて、校内も騒がしくなる。
「みんな落ち着いて!」
志穂は部員に呼びかけたが、そのほとんどは彼女の注意に耳を傾ける暇があるなら少しでも遠くへ逃げたいといった様子だった。
「先輩! どうしたらいいですか!?」
こんなときに限ってキャプテン代理を任された不運を嘆きながら、一人だけさっさと走り込みを終わらせた悦ちゃんの質問に答えられない自分を志穂は嫌悪した。地震や火事なら避難場所は明確だが、体育館やグラウンドが巨人の進撃を防ぐとは思えない。
「まだ走り込みに出てる一年生を呼び戻してきて! 人数が確認できたら、固まって安全なところに避難するの。いい!?」
「はい!」
悦ちゃんはすぐに回れ右をすると、ランニングコースを逆走し始めた。そんな彼女を見送った後、ゆかりは不安になる。
オコリンボーが現れた原因はただ一つ。こちらの世界にやって来たイカリングがタリアを捜すついでに、誰かの怒りを操ったのだ。そして、タリアを守るためにはプリキュアになってあの巨大な怪物と戦わなければならないのだが、今回のそれは学校の校舎を踏みつぶすくらい造作なくやってのけそうな大きさである。
戦って、勝てるのか。みんなの見ている前で、町を守ることができるのか。タリアのために、命まで懸けなければならないのか。
そんな彼女の葛藤をよそに、志穂はみんなが逃げるのとは反対方向へ走り出した。
「どこに行くんですか、先輩!?」
「あれが来た方角に、忍の家があるの!」
躊躇っている時間はないと、ゆかりは判断した。これまでのところ、イカリングたちによる犠牲者は出ていないが、これからもそうだとは限らない。
彼女は戦うためにプリキュアになったのではなく、タリアと入学式を守りたくて変身できた。母親を捜している妖精と、それを連れ戻そうとして野蛮な行為に及ぶ者の奇妙な関係に挟まれ、訳も分からず戦ってきた。
ただし、今回ばかりはイカリングを敵と認めなければならない。そして、ゆかりは立ち向かう能力がある。ゆかりたちだけが、町を守ることができるのだ。
「待ってください、私が行きます!」
呼び止められた志穂がこちらを振り返ると、慣れない責任と緊張のためか、これまでに彼女たちが見たことのないくらい切羽詰まった表情になっていた。
「何言ってるの! 私はあんたたちの先輩だし、忍は私の友達なんだよ!? あんたたちを行かせるわけにはいかない」
志穂に追いついたゆかりは、息を切らしながら頭を下げた。そのとき、ちらりと後ろを見ることができ、ちなみも着いてきてくれていることがわかった。
「お願いします。私にとっても忍先輩は大事な先輩ですし、恩田くんはクラスメイトです。だから、志穂先輩はみんなを避難させることに集中してください」
「でも……」
後ろから駆け寄ってきたちなみも、どんと胸を張って心配いらないということを大げさにアピールした。
「私たちより、先輩の方がみんなをまとめるのは得意でしょ。ここはお互い、できることをやりましょうよ」
このとき、ゆかりは部室でのやりとりの一部を思いだしていた。忍が母を手伝うと言ったとき、タリアは消沈したように彼女の考えは優輝と同じだと言った。どうして姉弟が同じ気持ちなのにタリアが浮かない顔をしたのか、今なら分かる。
「私たちに行かせてください。お願いします!」
やがて諦めたように志穂は前髪をかき上げて、彼女たちの手を握った。
「わかったよ。でも、様子を見て危なそうだったらすぐに戻ってくること。いいね?」
「はい!」
志穂がこちらに背中を向けるのを確認すると、二人はオコリンボー目指して走りながら体操着のポケットをまさぐる。それぞれ指環とブレスレットを取り出すと、それを装着した。
「プリキュア! フィーリング・コネクト!!」
キュアリンクとキュアルビーは高く跳躍して、民家の屋根に飛び乗った。地面を走っていくよりこちらの方が遥かに早い。
しかし、オコリンボーの進撃を食い止めるのが早くなったとはかぎらない。彼女たちがやられる時間が、少しばかり早まっただけかもしれないのだが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
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4-4.後ろの席のイヤなやつ!?
夕日によって真っ赤に染まった空に巨人が引き寄せられているようだった。
固いアスファルトにへたりこむと小石が足に食い込み、忍は顔を歪める。膝の上で眠っている優輝の表情にも、苦しみと怒りが表れていた。
どうすればよいのか。何が最善の行動か。
答えの出ない自問が頭の中で堂々巡りして、彼女の脳は疲弊しきっていた。目眩に襲われて、景色がぼやける。
遠くから微かに悲鳴が聞こえた。続いて、瓦礫が崩れるような音。巨人がどこかの建物を破壊したのかもしれない。
「何なのよ……」
呻き声をあげる弟の顔を見つめて、忍は呟いた。
優輝の体から現れた赤い光の巨人。それが町を襲い、人々を混乱させている。あれは優輝の一部なのか、それともまったく別のものなのか。彼女にとって、それが何よりも重要なことだった。
赤い、怒りの怪物。タリアの言うことを信じるなら、優輝がこれまで溜め込んできた抑圧された感情の塊。
「お父さんのことじゃないなら、何がそんなに嫌なの」
弟の口数が減ったことを気にしたのは、彼女が中学生に上がってからだった。それまでは近所の友達と一緒に仲良く遊んだりもして、さすがに高学年になるとお互いに同性の友達とばかり集まるようにはなったが、それでも姉弟の仲は良好な状態を保っていた。
そして、母も気付かないほど少しずつ、彼は家の中で喋らなくなっていった。
反抗期なのよ、と母は言う。難しい年頃だし、男子特有の悩みを相談できる父親がいないせいだと、忍も思った。
母に夕飯の準備を任された日にかぎって、彼女は部活で帰りが遅くなる。その度に、優輝が代わりに家事を済ませてくれていた。彼は何も言わない。だから、忍はとりあえず「ごめん」と言う。
それだけでは、許されなかったのか。
顔を上げて巨人を見ると、学校の方へ向かっていた。部活中の志穂たちがいる。しかし、優輝を置いて行くわけにもいかない。もちろん、巨人を止めることなんてできるはずもない。
自分の無力さに嫌気がさして再び俯くと、花のキーホルダーが目に入った。四色の花によって成る、優輝のキーホルダー。ところどころ錆びて、色も剥げている。
弟の物持ちのよさに感心しながら、彼女はそれを手に取った。
これは優輝が物心つくかつかないかの頃に買ったものだ。あのとき、両親はすでに離婚していたが、当時の忍には見当もつかない夫婦間の取り決めにより、たまに四人で出かけることがあった。
デパートのアクセサリー売り場で、彼女がこれを見つけた。四色の花を自分たち家族に例えて得意そうにしていたら、父親が買ってくれたのだった。
帰りの車の中で彼女がキーホルダーを自慢していると、優輝が物欲しそうな目でじっとそれを見ていたから、仕方なく譲ることにした。
優輝がそのときのことを覚えていて今でもこれを大事にしているのだとしたら、彼にとって四色の花はどんな意味をもつのだろう。
幼い彼女が自分たちと同じと言った花束と、今は数が合わない。花は四輪なのに、家族は三人だ。それなのにこのキーホルダーを持ち続けているということは、やはり彼が父親を必要としていることにはならないだろうか。
「おい」
そんな失礼な呼びかけが自分に向けたものであることに気付くまで時間がかかり、ようやく忍は巨人を生み出した長身の男がまだこの場にいたと認めた。
「あんた、優輝に何をしたの」
恐怖を感じられないほど彼女の心は麻痺していたため、得体の知れない相手に険しい口調で言葉を返すことができた。
「今にわかる」
イカリングが右手をかざすと、忍はまるで心という器官が体のどこかにあり、それを鷲掴みにされているような苦しみに襲われた。
やがて苦痛は心の内から沸々と溢れてきた怒りに変わる。
その怒りを解放することで、苦しみから逃れられるような気がした。彼女は思う。どうして我慢しなければならない?
優輝の怒りが私のせいなら、私の怒りは優輝のせいだ。
不満があるなら話してくれたらいい。家族なのだから、と。そう考えると、彼女の怒りは抑えがきかなくなった。
――ひとりで勝手に怒って、あんな怪物まで生み出して、そんなの私の知ったことじゃない。家事を手伝うのが嫌なら、やらなければいいのに。帰りが遅くなるのは仕方ない。だって、キャプテンなんだから。部活も家事もあんなに頑張ってたのに、何が不満なの。
それらの感情は赤い光となって、イカリングの掌に吸い込まれていく。
「何だ、お前もかよ」イカリングの小馬鹿にしたような言い方が気に入らず、忍は彼を睨んだ。「怒りってのは発散させるもんで、溜め込むもんじゃねぇんだよ。自分の気持ちもはっきり言えないなんて、情けねぇ奴らだ」
彼女の体から現れる赤い光が大きくなる。すでに言葉を発する気力さえ忍には残されていなかったが、怒りはますます増幅していった。それは、イカリングに対する怒りだった。
何も知らないくせに、勝手なことを言ってほしくない。
忍は誰ともなしに心の中で訴えた。
父親がいないのだから、母は仕事で忙しいから、弟に負担をかけたくないから、姉である自分が頑張らなければいけない。部活ではキャプテンとして、みんなをまとめなければならない。試合だって近いのに、夕飯の準備も任されている。
そんな現状に、少しも不満を感じないわけがない。
でも、これを誰にぶつければいい?
仕事を頑張っている母にも、部活のチームメイトにも、もちろん後輩にだって言えない。そして、優輝への不満も抑えるしかなかった。
きっと優輝は父親がいない家庭が嫌で、家事を手伝わなければいけないのが嫌で、夕飯の時間が遅いのが嫌なんだ。
意識が朦朧として視線を落とすと、彼女はいつの間にか自分に言い訳をしていたことに気付き、自身の怒りの本質を理解した。
四色の花のキーホルダーと、タリアの言葉。これだけで優輝の心を知るには十分だった。
結局のところ、父親を必要としていたのは優輝ではなく自分だったのだと、彼女は悟った。部活と家事の両立、姉としての責任。これらから逃れるには、父親がいないというのは体のよい言い訳になった。
優輝の気持ちなど関係なかった。ただ彼女がそうこじつけただけであって、彼は今の家族を大事に思っていた。家事だって手伝ってくれていたのに、姉としての面目を保ちたいが為に、自分に都合のいい人物に仕立て上げた。
「最低……」
ようやく喉から絞り出せた声は、自分に向けられたものだった。忍の怒りは色を変え、はっきりとした赤になった。こんな状況になるまで省みることのできなかった、自分への怒りだった。
「さっきからくだらねぇことごちゃごちゃ考えてるみたいだが、もうじき楽にしてやる」
これから自分はどうなるのか、忍は一瞬だけ想像して、これこそくだらない考えだと思った。おそらくは優輝と同じように、巨大な赤い怪物になるだろう。自分がどうなろうと、それは当然の報いのように思えた。
しかし、優輝は違う。何としても弟だけは助けなければと忍は最後の力を振り絞ろうとしたが、抗う気力は残されていなかった。
轟音と地響きにより、忍の意識は怒りと哀しみの混沌から無理やり現実に呼び戻される。
あの巨人――自分のせいで優輝が溜め込んでしまった怒りの権化――が、またどこかの建物を破壊したのかもしれない。そう思って顔を上げた忍は、先ほどまで獲物を見つけた捕食者のようにこちらを見ていたイカリングの視線が何か別のものに向けられていることに気付き、その視線の先を追った。
夕日の眩しさに目が眩んで初めはよく分からなかったが、驚きのあまり忍の意識は徐々にはっきりとしたものになり、やがてそれを現実と認めることができた。
巨人が、倒れている。
勝手に転んだのか巨体が重力に負けたのか、そのどちらかだと思って彼女が目を凝らすと、二つの点が小さく動いているのが見えた。次第にそれらは大きな影になって近づいてくる。
「やっと来たな……」唸るように言うイカリングを振り返った瞬間、強い風と衝撃が起こった。「プリキュア!!」
反射的に腕を頭の前で構え、いつの間にか瞑っていた目をおそるおそる開いてみると、それまで忍に向けられていた右手でキュアルビーのパンチをイカリングが受け止めているところだった。
「忍先輩から離れろ!」
赤子の手を捻るようにイカリングはそのままルビーの拳を大きな手で鷲掴みにすると、彼女の体を後方へ放り投げた。
すかさずキュアリンクも民家の屋根から飛び降りて、正面から彼に飛びかかる。それを見て空中で体勢を立て直したルビーは、建物の外壁を蹴りイカリングを背後から急襲した。
イカリングは軽い身のこなしでリンクの攻撃を避けると、彼女の足首を掴んだ。彼の腕力に抵抗する術もなく、彼女の体は振り回されて宙を舞いルビーに激突した。
「おい、タリアはどこだ」
支え合って立ち上がった二人は、今にも倒れそうなほど疲弊した様子の忍と、気を失っている優輝を認め、未だに巨体を起き上がらせることのできないでいる巨大なオコリンボーを見た。
「じゃあ、あれは恩田くんの……」
その呟きに反応して悲しそうに目を背けた忍の反応から、リンクはあれが優輝の怒りから生み出されたオコリンボーなのだと確信した。
「無視すんじゃねぇ! タリアはどこにいるのか聞いてんだよ」
彼女たちを誘き出すことに成功したイカリングはあっさりと忍たちへの興味を失ってしまったようで、牽制するように攻撃の構えをとった。
「教えるわけないでしょ! それに、町もめちゃくちゃにしてくれちゃって!」
「どうしてこんなひどいことをするの」
この場から逃げることさえ出来そうにない忍たちを背後に庇いながら、二人はイカリングから距離をとった。先ほどの取っ組み合いで、正面からの単純な攻撃では力負けすることが分かった以上、迂闊に近づくことはできない。
「ひどい!? ふざけたことぬかしてんじゃねぇぞ」
心外だと言わんばかりに声を荒げたイカリングは、憤慨した様子で大げさな身振りを付け加えながらリンクの言葉を否定した。
「俺がやってんのは人助けだ」彼は忍と優輝を軽蔑するような目で見た。「どいつもこいつも情けねぇ。相手に気遣って不満の一つも言えないなんてよ。それを優しさなんて勘違いしてやがる。本当は自分を甘やかしてるだけのくせしやがって」
忍には何かを言い返す気力も残っておらず、ただ逃げるように視線を落とした。優輝は苦しそうに呻くばかりで、起きる気配はない。もしも、自分が父親のせいにしないで弟ときちんと話し合っていればこんなことにはならなかったのではないかと、彼女は自責の念に潰されそうになった。
「だから俺が代わりにお前らの怒りを暴れさせてやってんだ。礼のひとつでも言ってほしいくらいだぜ」
中学生になってから優輝の口数が少なくなった理由は、どんなに考えたところで忍には分からない。愚痴をこぼすこともなく黙々と家事を手伝ってくれる彼を見て、彼女は申し訳ない気持ちになることがあった。
本当は家事なんてやりたくもないのに、我慢してくれているのではないか。そして、その不満を彼が口に出せずにいたとしたら……。
忍は悔しさのあまり歯ぎしりした。この男も、タリアという妖精も、姉である自分より優輝のことを理解している。ちなみやゆかりだって、仲の良し悪しはともかく彼と関わろうとしていた。
しかし、彼女は自分から弟との接触を避けてきた。家族のために家事を頑張ろうと心に決めたはずなのに、たった一人の大事な弟をないがしろにしていた。そのことに今まで気づけなかった自分が情けなくて仕方なかった。
「そんなの間違ってる」
忍は顔を上げてキュアリンクを見た。妖精や巨人よりまともな格好はしているものの、ピンク色のコスチュームに身を包み空から降ってきた彼女は、忍にとって異様な存在であり、また近しいようにも感じた。
「怒りも優しさも、自分の気持ちにどうやって向き合うかはその人が決めること。あなたが勝手で弄んでいいものじゃない!」
「弄ぶだと!? さっきの話を聞いてなかったのか?」すっかり頭に血が上った様子のイカリングは、冷静さなどまるっきり失って声を荒げた。「あのオコリンボーを見ろ!」
夕日よりも赤い巨大な怪物は倒れたまま、その巨体を持ち上げるのに苦労しているようで、それと同調するように優輝も呻き声を上げた。
「あれだけの怒りをずっと抑え込めるわけがない。俺が何もしなくても、いつか爆発してただろうよ」
「だったら何!?」ルビーが言った。「恩田が怒ったら悪いワケ?」
「怒るのはいいさ。ただ、俺はうじうじしてる野郎が気に入らねぇんだよ」
変身する前と違い、リンクの心情は不思議なくらい穏やかだった。巨大なオコリンボーへの恐れより、イカリングへの哀れみや怒りの方が勝っていた。
「さっき、志穂先輩と言い合いになったとき気付いたの」
いきなり何を言い出すのかといった表情でイカリングがリンクを睨んだが、彼女はそれを気にせず言葉を続けた。
「怒りだけじゃない。誰かを思いやる気持ちだって、ぶつかることがあるんだって。だから恩田くんはあまり本心を口にしなかったんだと思う」
忍は部室でのタリアの言葉を思い出していた。能天気な妖精が不意に沈んだ口調になり、彼女と優輝が同じだと言ったときのこと。それを聞いて忍が導き出した答えは間違っていたのだと、キュアリンクに気付かされた。
思いを口にしないだけで、彼も忍と同じくらい、またはそれ以上に、家族のことを考えている。
「何が言いたい?」
大人しくしていられない性分なのか、これ以上の話し合いを続けるつもりのなさそうなイカリングは苛々した様子で彼女を急かした。
「情けなくないし、勘違いでもない。あの怒りを生み出したのも、怒りを溜め込んだのもまぎれもない、恩田くんの優しさなんだ」彼女はイカリングを睨み返した。「だから、その優しさを踏みにじったあなたを、私は絶対に許さない!」
二人がかりでもイカリングに敵うか分からなかったが、リンクは決心した。これまでのタリアやちなみを守るための戦いとは違い、彼女は体の中から沸々と敵意が溢れてくるのを感じた。
町を破壊して人々を怖がらせ、彼女の大事な人たちを傷つけたイカリングを容赦するなんてとてもできそうになかった。
「それはてめぇの勝手だが、あれを放っておいていいのか?」
まるでゲームを楽しんでいるかのような口ぶりで、イカリングは今にも沈みそうな真っ赤な夕日を示した。
彼女たちがそちらを見ると、オコリンボーがのっそりと起き上がり再び学校の方へ歩を進め始めようとしていた。
「リンク! ここは私に任せて、早く!」
慣れない攻撃の構えをとりながら、ルビーが早口で言った。先ほどの格闘からルビーだけではイカリングに勝てないことは火を見るより明らかで、リンクは彼女の指示に素直に従うことはできなかった。
「でも……」
「志穂先輩にも言ったでしょ、お互いできることをやろうって。それに、私だって、あいつに言ってやりたいことは山ほどあるんだから」
リンクは冷静に今の状況を分析した。あの巨大なオコリンボーを一人で止められるだろうか。ここに残って二人でイカリングと戦い、すぐに決着をつけてオコリンボーの下へ向かうのでは間に合わない。それに、イカリングに勝てる保証もない。
まずオコリンボーを二人で倒しに行ったなら、その隙にイカリングは再び忍から怒りを吸い取るだろう。
どのパターンもほとんど絶望的であったが、それはルビーだって分かっているはずだ。その上でイカリングの相手を受け持ったのは、彼女にとってこれが唯一の微かな勝ち筋だと考えたからだろう。
リンクは黙って頷き、民家の屋根に飛び乗った。オコリンボーを目指して走り出したとき、背後では鈍い打撃音が聞こえた。
建設途中の高層マンションから作業員たちは非難を済ませており、キュアリンクは今のところ一番高い位置にある鉄骨の上に飛び乗った。それでもまだ、オコリンボーの顔は見上げなければならない高さにある。
「ここから先には行かせない」
彼女は無理に自身を鼓舞して、オコリンボーに飛びかかった。渾身の力を込めたパンチで確かな手ごたえを感じたにも関わらず、少しのダメージも与えられなかったようで、オコリンボーは彼女に構わず歩を進める。
オコリンボーの肩に着地したリンクは、まるで暴走する列車を止めようとするパニックアクション映画の主人公になったように感じた。しかし、列車とは違いブレーキの役目を果たすものはもちろん、誰かと無線で連絡をとることもできない。そして、映画のようにハッピーエンドが約束されているわけでもない。
やけくそになってオコリンボーの顎の辺りをでたらめに攻撃してみたが、やはり反応はなかった。
「止まって、恩田くん……」
ほとんど無意識に吐いた弱音だったが、心なしかオコリンボーの歩調が緩やかになった気がした。
教頭やちなみのオコリンボーと戦ったときは気にもしなかったが、これはイカリングの命令に従って暴れる怪物であると同時に、優輝の心の一部でもあることをリンクは思い出した。
「聞こえる!? 恩田くん!」
オコリンボーは呻き声を上げて苦しそうに身悶えした。間違いない、とリンクは確信した。優輝の心は、まだ微かに残っている。
「落ち着いて、こんなことじゃ何も解決しない! 恩田くんもそう思ってたんじゃないの!?」
左肩に乗っているリンクを振り落とそうとして大きく体を揺すり、右の拳でリンクを攻撃したオコリンボーは、攻撃を避けられたことで自身がダメージを負うことになった。
「これ以上、忍先輩を苦しめてもいいの!?」
頭に飛び乗ったリンクはまともに聞こえているかも分からない相手に呼びかけ続けた。倒すことができないかぎり、このオコリンボーを止められるのは優輝本人だけであり、リンクもその可能性に賭けるしかなかった。
希望を見出すことができて油断した一瞬の隙に、リンクは自分の体が宙に浮いているような錯覚を感じ、それが錯覚でないと気づいたときにはオコリンボーのパンチが目の前まで迫っていた。
いつの間にかオコリンボーの頭の上から放り出されていたリンクに攻撃を避ける時間は残されておらず、巨大な拳が直撃した途端、あまりの衝撃に気を失い建設中のマンションの鉄骨に激突して無理に意識を呼び戻された。
全身が麻痺したように感じた後、徐々に痛覚が機能し始めて彼女は耐えられずに悲鳴をあげた。
4-1話の前書きでも訂正しましたが、
四話は五分割で投稿します。
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4-5.後ろの席のイヤなやつ!?
「よそ見してんじゃねぇ」
オコリンボーの攻撃を受けたキュアリンクの体が鉄骨に強く打ちつけられたのを目撃して、ルビーには大きな隙ができた。
咄嗟に攻撃に備えたが、イカリングの拳は既に彼女の防御をすり抜けたところまで達しており、ルビーは吹き飛ばされるのと民家の壁にぶつかる衝撃をほとんど同時に味わうことになった。
「お前が俺と喧嘩したいって言うから付き合ってやってんだ。がっかりさせんなよ」
ゆっくりと歩いて近づいてくるイカリングからは余裕が感じられ、ルビーが慌てて起き上がろうとすると、筈のようにした手で喉元を掴まれて壁に押しつけられた。
「キュアルビー……、お前なら分かるよな? 喧嘩ってのはお互いが本気になるから面白いんだ。売った喧嘩を買わない相手なんてつまらねぇ」
力の差を見せつけられたルビーは、改めてイカリングを自分たちとは違った存在だと認識して背筋が冷たくなった。圧倒的な強さに対する恐怖ではなく、怒りへの異常なまでの執着に気味悪さを覚えたのだ。
呼吸が苦しくなり、喉元を締め付けられていることで嘔吐感もこみ上げてくる。勝てない相手だからといって、諦めたくはない。しかし、どうしようもなかった。意識は薄れ、全身から力が抜けていくのを感じる。
「俺はタリアを連れ戻す為にお前を倒す。だが、お前は俺を倒してどうするつもりだった?」
声を出すことはできず、言葉も見つからなかった。ゆかりを一人で行かせるわけにはいかないという理由でついてきて、プリキュアだからという理由で戦っていた彼女は、イカリングの問いかけに対する答えは持っていなかった。
「……分かってねぇのか。これが俺とお前の本気の違いだ。お前には何も守ることはできねぇ」
無理に首を動かして、ルビーは忍たちの方を見た。不安そうな、怯えた表情の忍はどうにか意識を保とうとして必死に目を凝らし、弟の苦しそうな顔を見つめていた。
彼女は優輝を守ろうとしている。家族の為に、部員の為に一生懸命だった。
それなら、とルビーは思う。自分も、敵わない相手でも、せめて一生懸命やってやろう。
「約束したんだ」
勝利を確信していたイカリングは、すっかり戦意喪失したと思われていたルビーに手首を掴まれ目を見開いた。
「志穂先輩とゆかりに、約束したんだ! 忍先輩を任せてって!」
痛みに耐えられずルビーの首に宛がっている手を自ら振りほどいたイカリングは、もう片方の手で握られた手首を擦りながら彼女を睨む。ルビーは空気を大量に吸い込み、一気に吐き出した。
「それに、喧嘩の先約もあることだしね」
優輝の怒りを目の当たりにして、自分にも責任の一端はあると彼女は感じていた。家庭の事情など気にもしないで、無神経なことばかり言っていたように思える。しかし、後悔はしていなかった。
イカリングの言うことは必ずしも間違ってはいないと、ルビーは考えていた。感情を抑え込まず、彼女の言葉で嫌な気分になったならそう言えばよかったのにと思う。そうしていれば、イカリングに付け込まれることもなかったのに。
ただ、それが優輝の優しさだというのなら、そういうことにしておこう。彼女は思った。
家族には恥ずかしくて言えないことでも、友達には簡単に言えたりする。優輝はその友達すら、積極的につくろうとはしなかった。それは彼の責任だ。
ルビーにとって優輝がイヤなやつであることに変わりはなく、この騒動が片付いても同情してやるつもりはない。しかし、せっかく席も近いのだから、もうちょっと仲良くやっていこうかなとは思えた。
だからこそ、負けるわけにはいかないのだ。
もう一つの戦いを気にしてオコリンボーの方を見ると、小さな影が見えた。すぐにはその正体は分からなかったが、やがて思考が冴えてそれが明らかになり、彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「プリキュア! プレジャーブレス!!」
複数の光の球が巨大なオコリンボーの周りに出現し、体にぶつかるとそれぞれが小さな爆発を起こした。
「何だ!?」
イカリング同様、何が起きたのか把握できないでいた忍は、今さらこの状況を理解しようなんて無謀なだけだと自分に呆れながらも、倒れるオコリンボーから離れてこちらに近づいてくる影に目を凝らした。
「よそ見してんじゃないわよ!」
相当のダメージを受けたはずのキュアリンクがどうやってオコリンボーに反撃できたのか、呆気にとられているイカリングの隙をついてルビーは右手のブレスレットに力を込めた。
「プリキュア! ルビーショット!!」
防御が遅れたイカリングは無理な姿勢から、ルビーの拳を象った赤い光を受け止めた。彼女の力に押されてじりじりと壁際まで追い込まれた結果、威力を打ち消すことができなくなりエネルギーの塊が爆発するようにして壁に激突した。
「てめぇ……」
すっかり頭に血が上った様子で、立ち上がったイカリングの顔は真っ赤になっていた。“怒りの王”が本気で怒ったらどれほどのものか、ルビーには想像もつかなかったが、直感的に追撃ではなく相手の攻撃に備えた。
そのただならぬ雰囲気は忍にも伝わり、自分に何もできないと承知の上でキュアルビーを庇おうとしたとき、キュアリンクを抱えた白いコスチュームの少女が空から降りてきた。
「何だお前?」
キュアプレジャーは彼の問いには答えず、深手を負っているリンクと彼女の通学かばんを忍に預ける。
「リンク! ユーキ! 大丈夫リア?」
かばんから飛び出したタリアは自分がそもそもの原因であることなどすっかり忘れてしまったようで、純粋に彼女たちを心配していた。そんなタリアを見て、イカリングは嬉しそうに呼びかける。
「タリア、やっと来たか」
その言葉に確信を得たプレジャーは、ルビーに近づき現状を確認しようとした。
「あの人がたこ焼きんぐですか?」
「いや、イカリングだけどね」
幸運にもタリアの方に意識を集中させていたイカリングの耳に今のやり取りは入っておらず、火に油を注がずに済んだ。
「大人しく心の国に戻れ、タリア。素直に従えばこいつら全員見逃してやる」
キュアプレジャーの登場に驚きはしたものの、オコリンボーはあの程度の攻撃で倒されるはずがなく、キュアリンクは戦えそうにないことを見てとったイカリングは自分がまだ優位にあることを認めたらしく強気な口調だった。
結局のところ、状況は振りだしに戻ったどころかリンクとタリアまで気にしながら戦わなければいけなくなったルビーは、こっそりとプレジャーに耳打ちした。
「どうしてタリアまで連れてきたのよ。あいつが水を得た魚みたいじゃない」
「え、イカリングなのに……?」
全身が痛み、起き上がることさえままならないリンクはアスファルトに転がったままタリアの頭を撫でた。それは安心させようといった意図ではなく、よく来てくれたという労いが込められていた。
「心の国にはまだ帰らないリア! ボクにはこんなにたくさんの友達ができたリア。みんなと一緒にお母さんを捜すリア!」
これほどまでに劣勢な状況でも前向きなタリアの発言にリンクたちは安心させられたが、イカリングだけはやはりそれが気に入らないようで静かに舌打ちをする。
「いい加減にしとけよ、このくそがき」初めは威圧するような口調だったが、次第に感情をむき出しにして荒々しくなった。「全部てめぇのせいだ。プリキュアだけじゃねぇ、そいつらみたいに無関係なやつが苦しむのは全部てめぇの我儘のせいだ」
彼の怒りに同調するように、オコリンボーものっそりと立ち上がる。それを見て調子づいたイカリングは優輝を指差し興奮して言った。
「そいつのオコリンボーは誰にも止められねぇ。プリキュアが三人になろうと、あの強力な怒りには勝てないだろうよ」
隣で苦しそうに眠っている優輝の顔を見つめながら、リンクは思った。たしかに、自分たちだけでは彼のオコリンボーを止めることはできない。もしオコリンボーを倒せたとしても、彼の怒りに決着がつくわけではない。
これは、彼女たちでどうにかできる問題ではないのだ。
「勝つとか負けるとかじゃないよ」リンクは言った。「倒すんじゃなくて、受け止めなくちゃ」
イカリングに向けた言葉だと思って聞いていた忍は、やがてリンクが自分の目をまっすぐ見ていることに気付いた。彼女は一瞬その視線から逃れようと目を逸らしたが、今度はタリアに捉えられる。
「ユーキの優しさに、ちゃんと応えるリア!」
これまで巨人を従える大男と不思議な格好をした少女たちの戦闘を前にして呆然とするしかなかった忍は、いきなり全てが現実であることを改めて認識しなければならず、それは彼女自身が驚くほどすんなりと受け容れることができた。
優輝の気持ちと、自分の気持ちを。
「……ごめん」
ぽつりと呟いた。眠っている優輝に聞こえるはずのない、小さな声で。彼女は自分の卑怯さに嫌気がさした。
「くだらねぇことを……」
忍に近づこうとするイカリングを制止させようとして、ルビーとプレジャーが戦う。その光景を見て心底、自分が情けなくなった。
優輝が苦しむのも、プリキュアたちが傷つくのも、町のみんなを恐がらせているのも、イカリングでもタリアのせいでもなく、自分のせいだと忍は思った。
今さら、優輝の気持ちに応えることなんて、できるのだろうか。
「くよくよしてるの、忍先輩らしくないですよ!」
格闘の最中、イカリングの攻撃をプレジャーが引きつけている間にルビーが言った。
「自分に厳しくて、私たちには優しくて、でも叱るときは叱ってくれるのが先輩じゃないですか! 自分の弟にくらいがつんと言ってやれないでどうするんです!」
叫んだことでイカリングの意識はルビーに向けられ、攻撃を受けた彼女は電柱に激突する。攻撃後の隙を見てプレジャーが彼を背後から狙ったが、さっと振り返ったイカリングは彼女の攻撃を受け止め、そのまま壁に叩きつけた。
「私たちは大丈夫だから……」
膝に手をつきながら立ち上がったリンクの体は、小刻みに震えていた。それがダメージによるものか、敵いそうにない相手への恐怖によるものか忍には分からなかった。その体で戦うことがどれほど無謀か誰が見ても明らかなのに、忍はリンクを止められなかった。
「恩田くんのこと、お願いしますね」
無理やり自身を鼓舞してイカリングに突撃したリンクは、すぐに反撃を受けて地面に倒れた。それでも、また体を起こし立ち向かっていく。
その姿を見て、忍はまた「ごめん」と呟いた。そして、優輝の頬に手を当てる。
「それと……、ありがとう」
すると、オコリンボーが悲痛な声を上げて苦しみだした。初めて目にする光景だったのか、動揺するイカリングに三人が一斉に攻撃をしかける。ルビーとプレジャーの攻撃はそれぞれ片手で防がれたが、リンクの攻撃は彼の腹部に直撃した。
ゆっくりと息を吐き、忍は微笑む。これまでの自分を皮肉るように。
優輝の優しさを踏みにじったのは、オコリンボーを生み出したイカリングではなく自分だと彼女は思っていた。母の代わりになって頑張るために、ずっと彼の好意を無視して否定し続けてきた。それが優しさのつもりでいた。
しかし、それは自己満足に過ぎなかった。
しっかり者で家事もこなせる頼りがいのある姉という虚像に、いつの間にかすがりついていたのだ。その為に、無口で世話のやける弟、父親を知らない可哀そうな男の子に優輝を仕立ててしまった。
優輝はきっと、父親も、立派な姉も望んでなんかいなかった。彼の望みは、もっと小さなもののはずだ。
「いつも家事手伝ってくれて、ありがとう」
オコリンボーは地面に膝をついて、頭を抱えていた。まるで、忍の声が自分の存在を脅かすかのように、徐々に怒りの気配は薄れていく。
どうして今になるまで気づくことができなかったのか、それとも気づいていないふりをしていただけなのか、彼女は許してもらえるか怖くなった。
自分は弱い。できた姉でも、頼れるキャプテンでもない。ただの卑怯者だ。
優しさのつもりで気難しそうな弟をそっとしておいたつもりだった。しかし、本当のところは正面から彼と向き合うのが怖くて逃げていただけだったのだ。
何を遠慮していたのだろう。弟なのに。かけがえのない、大事な家族なのに。
「早く帰って、一緒に夕ご飯つくろう? 私はお風呂沸かすから、優輝は洗濯物してさ……。それで、お母さんが帰ってきたら、三人でご飯食べようよ。家族みんなで」
優輝の表情は次第に安らかなものになり、オコリンボーは咆哮をあげながら鮮やかな赤い光となって消えていった。
破壊された町も見る見るうちに回復し、キュアリンクも心なしか体が軽くなったように感じた。
「ばかな……、オコリンボーが……」
形勢逆転とはいえなくても、オコリンボーの消滅によりプリキュアたちの負担が大幅に軽減されたことは明らかであり、三対一という状況のままいたずらに体力を消耗するよりは一旦退いた方が利口だとイカリングは考えた。
「これ以上、私たちに関わらないで」
リンクの要求をイカリングは鼻で笑って一蹴し、タリアを睨んだ。
「そいつはタリア次第だ」
こうしてイカリングが退散したとき、すっかり日は暮れて辺りは真っ暗になっていた。
「それで? ちゃんと全部説明してもらいますからね」
忍の追及から逃れられそうにないと判断した三人は、観念して変身を解いた。
「あの、どうして私たちって分かったんですか?」
プリキュアである自分の姿を鏡で見たことはなかったが、他の二人の変化から察するにあっさり正体がばれないはずの変身がどうして見破られたのか、ゆかりには不思議で仕方がなかった。
「あんなに私たちや志穂のこと言ってて、気づかれないわけないでしょうが」
呆れたように言う忍は、つい先ほどまでの苦悩なんてなかったかのようで、いつもの彼女だとゆかりたちは安心した。
今回の騒動は多くの人々を巻き込み、破壊の形跡がなくなったからといって、なかったことにはならない。優輝の怒りが具現化したオコリンボーが暴れ、その原因が忍にあることはごまかしようのない事実である。
しかし、こんな事件の後でも、忍がいつもの調子を取り戻し、優輝が目を覚ましさえすれば実害はどこにもない。これをきっかけに二人の仲が少しでも縮められたなら、無理を押して戦ったぼろぼろの体も報われるだろうと、ゆかりは思った。
「あっ! ユーキが目を覚ましたリア!」
黄昏時の道端で姉やクラスメイトや妖精に囲まれながら意識を取り戻した優輝は、自分が置かれている状況が理解できず、とりあえずは大きく息を吸い込んだ。
妙に清々しい気分であり、感傷的でもある。何が起きたのかは覚えていないが、煮えたぎる様な真っ赤な景色と、断片的に忍の声が聞こえた気がしていた。
「優輝!」
目を覚ます確証があったわけではなく、まるで一か八かの大手術から生還を待ちわびるような気持ちでいた忍は思わず優輝を抱きしめたい衝動に駆られたが、クラスメイトの手前きっと嫌がるだろうと思って自分にブレーキをかけた。
「……なんだよ?」
相も変わらず無愛想に応える弟を見て、笑みがこぼれる。寡黙だろうとお喋りだろうと、可愛げがあってもなくても、彼は彼女の弟であり、彼女は彼の姉なのだ。このつながりは切っても切れないもので、どんなに仲が悪くても末永く付き合っていかなければならないのだ。
それならば、今のうちに一つでも問題を片付けておいた方がいいに決まっている。
「もう遅くなっちゃったけど、お母さんが帰ってくるまでにご飯つくらないといけないから、手伝ってくれる?」
目を丸くした優輝は、一瞬だけ疑うような目つきで忍を見た後、視線を逸らしてぼそりと呟くように言った。
「……おう」
「それと、これからも部活で帰りが遅くなることあるかもしれない。そのときは、私もできるだけ急いで帰るけど、優輝にも協力してもらっていい?」
しばらくして、微かに優輝は口元を緩めた。それが照れによるものか、いきなり積極的になった姉を面白がってのものかはゆかりには見当もつかなかったが、そこに彼の優しさが表れているように思えた。
「俺の料理……」
「え?」
イエスの返事を待っていた忍は不意をつかれて間抜けな声を出した。嫌そうな目つきで彼女を見て、諦めたように優輝が再び口を開く。
「俺の料理、美味くはないかもしれないけど、食べられないことはないだろ……? だから……」
言葉を区切り、彼はちなみの方を気にした。聞かれたくないような恥ずかしいことを言うつもりなのだろうかと、にやにやして耳を傾けるとゆかりに注意されたため、やむなくちなみは一歩だけ身を引いた。
それを確認すると、近くにいる忍にさえ聞こえにくいくらい小さな声で、彼は言葉を続ける。
「部活……は、やれよ。俺がやっとくから。家事とか、けっこう好きだし……」
彼の料理の腕を考慮すると素直に頷くわけにはいかなかったが、とりあえず立ち上がるのを手伝おうと忍は手を差し出した。その手を無視して一人で立った優輝は、彼女の顔を見ようともせず、ゆかりたちを一瞥して歩き始めた。
慌てて彼の分までかばんを拾うと、ゆかりたちに挨拶を済ませて忍は後を追いかけた。街灯がちらちらと点きはじめ、四色の花のキーホルダーが微かに光る。
大事なのは、家族の数ではないと彼女は思った。両親のいる円満な家庭と比べて優劣を競うものでもない。忍にとって、母と優輝がいる、それだけで十分に家族といえるのだった。
優輝もそんな思いでこのキーホルダーを持っていてくれたなら、譲った甲斐がある。彼女は微笑み、優輝の隣に並んだ。
「じゃあ、帰ったら早速、基本的な切り方から教えないとね」
「毎晩……本読んで勉強してるよ」
そのときの優輝のむすっとした顔が、子どものようで忍にはおかしかった。これから彼が歳をとり、どんなに立派になったとしても、彼女の弟に違いはない。
だからこそ、不味い料理にははっきり不味いと言ってやろうと忍は思った。それで喧嘩になるのも、たまには悪くない。
3か月もかかってしまいましたが、
これにて4話は完結です。
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5-1.ファイト一発! ゆいの応援
「これ、どうすんのよ!?」
アンティークと言い張るには年季の入りすぎた木製のテーブルに、ちなみは容赦なく新聞を叩きつけた。
「ちょっと。それ、うちの新聞」
「あ、すみません」
古びたテーブルと共に数々の重みを支えてきた歴戦の椅子は、今にも折れそうな腐りかけの脚で、それぞれゆかりたち三人のプリキュアと忍の体重を健気に受け止めていた。
それらを擁する部室の扉にも、ところどころに棘や隙間が目立ち、ちなみの大声を室内に留めることに苦労している。仮に木の妖精なるものがちなみに声のボリュームを下げるようお願いしたとしても、今回ばかりは彼女もその要請を受諾することはできなかっただろう。
「あの、私も読んでいいですか……?」
恐る恐るといった様子でテーブルに置かれた新聞に手を伸ばすと、一面に載せるにはあまりにもお粗末なぼやけた写真と、でかでかと印刷された見出しがゆいの目をくぎ付けにした。
「何て書いてあるの?」
彼女の肩越しに紙面を覗いたゆかりは、“平和な町を巨人が襲う”という見出しを認めると、それに続く小さな文字を素早く読み進め、“怪我人はいなかった”と締めくくられている文章にほっと一息吐いた。
「夕べ、捨てようとしてまとめてるときに見つけたんだけど、数日前の夕刊ね。いつもは朝刊しか読まないから気付かなかったんだけど」
着替えを済ませて練習の準備に向かう部員たちが部室から出ていく中、ゆかりたちだけを呼び止めた忍がかばんから取り出したのは、彼女たち女子中学生が興味を抱くにはいささか面白みに欠けた地方のスポーツ大会や地域のふれあいを報じる地方紙だった。
ゆかりは一面の記事に目を通しながら、よくもこんな現実離れした話をのどかな地方紙の一面で扱うことに編集長がゴーサインを出したものだと、半ば呆れ半ば感心していた。
「やっぱり、問題になりますよね……」
困ったようにゆいは呟いて、タリアが入っているゆかりのかばんをちらりと見た。
先日のイカリングとの戦いによりオコリンボーが及ぼした被害は、町の住人にとって看過できないものであった。目撃者も多数いるなかで、このような記事が書かれることは十分に想定できたはずなのに、彼女たちはこの件について話し合うのは今回が初めてだった。
「壊れた場所が直ったからって、全部が元通りになるわけじゃないんだよね」
幸運にも関係のない人を巻き込まずに済んだこれまでの戦いとは違い、今回は恩田姉弟をはじめとする多くの人を危険に晒すことになった。後日、全校集会が開かれ生徒全員の無事が確認されたとき、忍と優輝が大きなストレスや不安を抱えることなく過ごせるならそれでいいと安心しきっていた考えの浅はかさを、ゆかりは思い知らされた。
「今まで気にしなかったの? その……プリキュア? とか妖精とか、大変なことだって」
「もちろん思いましたよ! でも、当人があの調子ですし……」
ため息まじりに言う忍に対して、まるで無罪を主張するような口調で否定するちなみは、責任の所在をゆかりのかばんに押しつけようとしていた。
彼女の意見ももっともだと判断したゆかりは、かばんを開けてタリアを証言台に召喚する。どうやら気持ちよくお昼寝していたらしいタリアは、寝ぼけ眼でとぼけた声を出した。
「おやつの時間リア?」
「そんなものありません!」
叱りつけるような口調のちなみから守るようにタリアを引き取って膝の上に置いたゆいは、部室という名の法廷におけるタリアの弁護人であった。
「タリアに当たらなくても……。悪いのはあの人たちじゃないですか」
「別にタリアを悪者にしようってつもりはないけどさ、そろそろはっきりさせたいことが山ほどあるわけよ」
しばらく前にゆかりも多くの疑問を抱いてタリアを質問攻めにしたことがあったが、収穫は得られなかった。その後もトラブルが続いたせいで有耶無耶になっていたが、先日の騒動でオコリンボーの存在が世間に認知され、やがてはプリキュアやイカリング達が注目の的になるかもしれない。
それまでに決着をつけなければ、話がこじれる一方だ。いい機会だと思い、ゆかりは自ら進んで尋問役を請け負った。
「ねぇ、タリア。お母さんを捜してはるばる心の国から来たって言ってたけど、どうしてお母さんがこっちにいるって思ったの?」
「何となくそんな感じがしたリア!」
やはりと言うべきか、少しは話が進展するかもしれないと期待に膨らませていた胸は、タリアの能天気な一言によって萎んでしまった。ゆかりは更なる質問を諦め、背もたれに体を預ける。
「じゃあさ、私から三人に質問してもいい?」
唐突に忍が口を開き、そんな提案をした。詳細なことは何も知らない三人は戸惑い顔を見合わせたが、忍は彼女たちの返事を待たずに言葉を続ける。
「私の他に、このことを知ってる人は?」
「いませんけど……」
オコリンボーにされたときの記憶がそのままであれば、教頭や優輝はゆかりの正体を知っていることになるが、どちらも目を覚ましたときにはイカリングに光を吸い取られたことまでしか覚えていなかった。
ラクイーンと戦ったときは校内から彼女たち以外の人間がいなくなり、変身を解いた直後に悦ちゃんが現れたが、一切の動揺が感じられなかったことから彼女は何も目撃していないと判断していいだろう。
「じゃあ、誰にも言ってないってこと? 家族とかにも?」
「言えるわけないじゃないですか。私だって初めてゆかりがプリキュアとして戦ってるって知ったとき、やめさせようとしたくらいですから。親に話したら変に心配かけるだけですよ」
ちなみの言い分に頷きながらも腕を組んだ忍は、険しい目つきで三人の顔を順番に見ていき、やがて諦めるような溜め息を吐いた。
「まぁ、それが正しいと思うよ。私も助けてもらった恩があるからやめろなんて言えないけどさ、先輩としてあんたたちが心配なんだよ」
「ありがとうございます。でも、私だってタリアが心配なんです。放っておいたら、あの人たちに何をされるか……」
新学期の朝にみた、タリアが泣いている夢。いつも元気なタリアがどうして泣いていたのか。どうして、そんな夢を見たのか。ゆかりにとってそれらの謎は謎のままであったが、タリアと自分は不思議な縁があるのだと思わずにはいられない。
ゆいの膝の上で大人しくしているタリアの頭を優しく撫でると、ゆかりは穏やかな気持ちになれた。初めはただの奇妙な生き物だったタリアも、今では彼女の大事な友達であり、守るべき存在である。
「私たちがどうしてプリキュアとして戦ってるのかなんて、私たち自身もよく分かっていないんですけど……」
頬に手を添えられると、タリアはくすぐったそうに微笑む。そんな子どもらしい無邪気な様子を見ていると、ゆかりは嬉しくなる。
「でも、タリアのお母さんを見つけるって約束したんです。見つけてあげたいんです」
先日の優輝との一件で、タリアには父親がいないことも分かった。兄弟や親戚の存在はまだ明らかになっていないが、母親が唯一の身よりである可能性もある。単なるタリアの勘違いや行き違いだったなら、それでいい。
あの日の夢のように、タリアの笑顔が涙で消えてしまわないように、ゆかりは一応の努力はしてあげたかった。
「ま、乗りかかった船だしね。今さらほっぽりだすほど、私もひどい人間じゃないですから」
「わ……私もです!」
ちなみに続いて決意を表明したゆいは、意見をはっきり言えたことに満足してある種の自信を手に入れたようだったが、忍の視線を感じた途端に手に入れたばかりの自信は彼女の手からぽろぽろと零れ落ちた。
「どんな船に乗ろうと、あんたたちが好きでそうしてるなら私はいいんだけどね。ただ、帰るべき港があることも忘れないでほしいのよ」
「というと?」
聞き返したのはゆかりなのに、忍の視線は相変わらずゆいに向けられていた。そこにどんな意味が込められていたとしても、ゆいは居心地が悪くなり俯いてしまう。
「またこの前みたいなことがあって、あんたたちが行かなくちゃいけなくなったとき、部活中なら私がフォローできる。……ゆかりとちなみだけならね」少しの間、忍は言いにくそうに言葉を詰まらせた。「でも、一年生の恵原さんは難しいかも。咄嗟に言い訳を思いつけそうにない」
「そうなんですよね。この前も来るなって言っといたんですけど」
庇ってくれるわけでもなく忍に同調するちなみに対してゆいが抱いた反感は、ゆかりがフォローしてくれたことで心の内に留められた。
「でも、あのときゆいが来てくれなかったら私たち……」
「それはそうだけど、入部したての大事な時期なんだからさ。タリアのお母さん見つけるより、気の合う友達見つけるのが先じゃないのって私は思うわけ」
「別に私は……!」
三人のやり取りは、忍がテーブルを強く叩いたことによって収束した。尊い自己犠牲精神をもつ哀れなぼろテーブルの苦労など気にもかけない忍は、天板に手を置いたまま立ち上がり、彼女たちを落ち着かせるようゆっくりと話した。
「そもそも、あんな怪物が襲ってきたら部活どころじゃないわけだし。それに、恵原さんだけじゃない。ゆかりとちなみだって、練習には出てもらわないと。だってもうすぐ……」
誰かが走ってくる足音を敏感に察知して、ゆかりがタリアを素早くかばんに隠した直後、部室の扉が勢いよく開き志穂が入って来た。
「もう練習始める時間だよ、忍! もうすぐ大会だっていうのに、キャプテンが部室で何さぼってんの」
「あぁ……ごめん、志穂。すぐ行くから」
似合わない仏頂面の志穂に急かされるようにして、彼女たちはそれぞれラケットを持ち席を立った。最後に部室を出たゆいは、タリアの入っているかばんを気にしてちらりと後ろを振り返ったが、すっかりゆかりのかばんが気に入ったタリアが顔を出すことはなかった。
「さて、じゃあ気持ち切り替えて、やりますか」
大きく伸びをしながら、ちなみは誰にともなく言った。自分に気合を入れるためかもしれないし、ゆかりや先輩たちのモチベーションを高めようとする意図が含まれていたかもしれない。
ただ、少なくとも自分に向けられた言葉ではないとゆいは思った。
春の大会が近付いたところで、一年生の彼女には関係のないことだ。
呼吸する度に肺が締め付けられるような痛みを感じ、ゆいは校門を通過したところで走るのをやめた。
入部したばかりの頃と比べると、完走できたというのは大きな進歩に思えるが、そんなことを考える余裕などない彼女は、後ろに同じソフトテニス部の一年生がいるのを認めるとビリでないことにほっとした。
校舎の壁にかかっている時計を見ると、すでに前衛の基礎練習は終わっている時間だった。テニスコートに戻れば、素振りと声出しが待っている。それを思うと、歩調が遅くなった。
「まじでさ、やってらんなくない?」
不意に聞こえた声に驚き、ゆいの体は飛び跳ねる。いつの間にか、先ほどまで後ろを走っていたソフトテニス部の一年生が追いついてきて、彼女の隣を歩いていた。
「あ……」
ゆいは周りを見渡して自分たちの他に誰もいないことを確認すると、ようやく話しかけられたのは自分なのだと確信をもてた。しかし、返事をするには遅すぎたようだ。
「走り込み」
苛々した口調の彼女は、ゆいと同じクラスで悦ちゃんとよく一緒にいる子だった。
「え、あの……」
「陸上部に入ったんじゃないっつーね」
呼吸が乱れたままのゆいとは違い、彼女は涼しい顔をしている。これまで話したことのない相手に戸惑い、気が付くと何も言えないまま部室の前に着いた。
「
冷水器から顔を上げた悦ちゃんが二人を迎える。渡り廊下の影には、彼女たちより早く走り込みを終えた部員が座り込み、タオルで汗を拭っていた。
「お疲れって、悦子はあんま疲れてなさそうじゃん」
他の部員と比べて明らかに元気で汗もかいていない悦子を見て、彼女は疑うように言った。
「すごいんだよ。悦ちゃんってば、十分以上前に帰って来てたんだから」
校舎の入り口にある段差に腰かけた子はまだ走り終えたばかりのようで、タオルを肩にかけ額からは汗が滴っている。クラスでいつも悦子と行動を共にしている子で、名前はたしか
「へぇ、さすが悦子」
「美愉だって足早くなかった? 運動会でリレーの選手とかやってたし」
「いやぁ……ペース配分間違えてさ」
美愉の笑い方があまりにもわざとらしかったことにゆいは違和感を覚えたが、追求するつもりはなかった。そんなことよりも、部室で待っているタリアの様子を見なければならない。
彼女たちが自分を気にかけていないことを確かめて、ゆいは部室の扉に近づく。
「恵原さんもお疲れ! 私たちはもうコートに入るけど、恵原さんもゆっくり休んだら来てね」
悦子に話しかけられて、ゆいの体は飛び跳ねる。振り返ると、快実たちも立ち上がって体をほぐしていた。
「え、もう?」
「うん、私たちはもう休んだから」
「張り切ってるねぇ……。まぁ、頑張って」
他人事のように手を振る美愉の腕を掴んで、悦子はコートの方に向かって彼女を引っ張っていった。
「ちょっと、悦子。私まだ休憩してないんだけど」
「美愉は疲れてなさそうじゃん。ほら、行くよ」
コートに入っていく彼女たちを見送ったゆいは、部室に駆け込みかばんから取り出したタオルで汗を拭うと、すぐに悦子の後を追いかけた。
いつもなら一年生が走り込みを終えてコートに戻ったときには、基礎練習が終わり試合練習に入っているはずだったのだが、今日はこれから後衛練習が始まるところだった。
大会に備えて基礎練習を充実させているのか、一年生の彼女たちが走り込みから帰ってくる時間が早くなったのかは分からないが、素振りをするために持ってきたラケットを置いて声出しするように指示された美愉たちは不満そうであった。
一つのコートを囲むように散らばった一年生は、入部したての頃に教わった通りの声出しをする。志穂が慣れた手つきでボールをコートの左右に打ち、忍がそれを対照の位置に打ち返す。
「ファイトー!」
隣で声を出す悦子を見て、ゆいも躊躇いがちに口を開いた。
「ファイト……」
思っていたほどの声が出ないで、咳払いをして誤魔化す。ちょうど忍と入れ替わりでゆかりがコートに入ったところで、所定の位置につくと腰を落としてラケットを体の前で構え、志穂からのボールを待つ。
相変わらずゆいの隣では悦子が一生懸命に声出しをしている。志穂がボールを出し、ゆかりが走り出した。今度こそは、といった気概でゆいは大きく息を吸った。
「こら、一年! 声出てないよ!」
ゆかりのラケットがボールを打ち返す気持ちのいい打撃音と、ゆいが意を決して喉から出しかけた声援は、ちなみの怒声によってかき消された。
前衛であるちなみは球出しをする志穂にボールを手渡す仕事を他の部員に任せて、ゆいの方に近づいてきた。声出しができていない一年生代表は自分だと自覚のあったゆいは、ずかずかと迫ってくるちなみに思わず身構える。
「そこ! ちゃんと声出してる!?」
ちなみの標的になったのは、悦子の隣に立っていた美愉だった。
「えー、出してますよー」
「口が動いてるようには見えなかったけど!?」
怒られたのは自分でないと分かったゆいはほっとして、ルビーショットを撃たれたくないならその人に口答えはしないほうがいい、と心の中で美愉に忠告するだけの余裕をもてた。
「いい? 声出しも立派な練習なんだからね!」
そう言い放ってちなみがコートの中に戻った途端、美愉は小さく舌打ちをして快実に言った。
「何で私だけ……。恵原さんも声出してなかったじゃんね」
その言葉はゆいの耳にもはっきりと届いた。はっとして何か言い返そうと思ったが、それはできなかった。
「恵原さんは声出してたよ」
代わりに弁明してくれた悦子に感謝しつつ、ゆいは頷く。
「でも、聞こえなきゃ意味ないじゃん。快実は聞こえた?」
「ううん、聞こえなかったけど……」
気まずそうにゆいの顔色を窺いながら、快実は応えた。
「ほら。恵原さん、愛花先輩と仲いいから贔屓されてるんだよ」
「違うよ。別に贔屓なんて……」
今度はゆい自身がはっきりと否定した。たしかに自分も声は出ていなかったかもしれないが、出そうとしていなかったわけではない。美愉が怒られるのは当然のことであり、自分に文句を言うのは不条理だと彼女は思った。
「でも、恵原さんっていつも先輩たちといるじゃん。今日も練習始まる前、愛花先輩やキャプテンとずっと部室にいたし」
「それは……」
部室での忍の言葉を思い出す。ゆいがいなくなったとして、言い訳を咄嗟に思いつけそうにないといったこと。彼女自身ですらプリキュアであることを隠したまま、どんな説明をすればよいか分からず口ごもってしまったのだから、もっともな意見だったのだと感じる。
「ほら一年! お喋りは後!!」
ちなみに注意されて、ゆいはそのまま美愉に言い返す機会を失ってしまった。
「え、コート整備しなくていいんですか?」
辺りが夕闇に包まれた頃、最後の試合練習が終わるのを見届けてすぐにコートブラシを奪取した悦子は驚きの声を上げた。
「大会近いし、私たちはまだ残るから。練習はとりあえず終わりだから、一年生は帰っていいよ」
忍の指示を受けて、人数分あるはずもないコートブラシを勝ち取った一年生はほんの少し落胆した。練習後の片付けにおける役割の中で、球拾いよりもコート整備の方が優等だというイメージが彼女たちにはあったのだ。
「じゃあ帰ろうよ、悦子」
コートブラシの競争に参加していなかった美愉は、何でもないことのように言う。彼女以外の一年生はしばらく悦子の次の行動を見守っていたが、居残りをしてまで雑用をする必要はないだろうと各々で結論を出したようで、美愉に続いてぞろぞろとコートから出て行った。
「そういうわけだから、あんたもさっさと帰んなさい」
いつの間にか悦子と二人でコートに取り残されてしまったゆいは、ちなみの声にはっとして振り向いた。
「一年生は試合に出ないんだし、気を遣わなくてもいいから。ほら、悦子ちゃんも」
ゆかりに言われて、悦子は名残惜しそうに戦利品であるコートブラシから手を放す。
「分かりました。じゃあ、恵原さん、帰ろっか」
「あ、うん……」
今日の練習は終わった。これからの時間は先輩たちが大会に備えて自主的に練習するだけで、一年生は帰っても構わない。
それなのに、何となく後ろめたいような気分をゆいは感じていた。
正門から帰るグループと別れて、反対側の門から悦子たちのグループに混ざってゆいは学校を出た。
最後尾を歩きながら、会話に意識を集中させる。先頭では買ったばかりの新品のラケットをケースに入れたまま振り回し、美愉が愚痴をこぼしていた。
「あーあ、早くテニスやりたいなぁ」
「仕方ないよ。コート少ないし、男子のテニス部もあるんだから」
そう言ってなだめながらも、快実も不服に思っていそうだということがその口調からは感じられた。何人かは美愉の意見に素直に頷き、その内の一人が悪びれる素振りもなく言う。
「三年生の先輩たち、早く引退してくれたらいいのにね。そしたらコートが空くのに」
「素振りはともかく、走り込みとか声出しとか絶対意味ないよね」
あまりにも横柄な彼女たちの考え方に、ゆいは思わず顔をしかめた。誰も後ろにいる自分の表情なんて気にしていないだろうと思ってのことだったが、ちょうど美愉がこちらを振り返ったところで、ゆいの表情が彼女は気に入らなかったようだ。
「あれ? 恵原さん、何か言いたそうじゃん?」
「いや、あの……」
みんなの視線が一斉にゆいに向かられた。そのことを意識すると、喉が閉まるような感覚がして声が出なくなった。
「私は……走り込みとかも大事だと思う……」
「え? 何?」
ゆいが言い終わらないうちに、美愉は大きな声で聞き返してきた。
「ちょっと、美愉!!」
あまりにもわざとらしい意地悪をした彼女を悦子が咎めたが、美愉は笑って誤魔化した。
「だって、恵原さん声小さいんだもん。よく聞こえなかった」
その後、家路につながる曲がり角にさしかかるまで、ゆいは一言も発することはなかった。
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