修羅幼女の英雄譚 (嵯峨崎 / 沙城流)
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第一章. ■■■■■■の英雄譚
1 『その男には才能がなかった』


 その男は凡人だった。

 生涯を通じてなお、彼に飛躍的な才能はなかった。

 少年期に出会った、師範の言葉が頭をよぎる。

 

 ──お前に才能という輝かしいモノはない。

 

 青年期の同僚の、酒気を含んだ声音を思い出す。

 

 ──俺たちは消耗品。それも盾の類でしかねぇ。

 

 老年期に遭遇した、当代人類最強の『英雄』の呟きを思い返す。

 

 ──貴方は半端者だ。

 

 彼らの言はすべて正しい。

 その男は、特別な才能、夢に至るだけの能力を持ち合わせていなかった。

 

 

 

 1 

 

 

 

 それは、男の少年期から遡れば明らかだった。

 足繁く通っていた、村の高台に建つ剣術道場。

 彼は目立った成績を一度として残せなかった。

 僅かでも才能を持つ剣士に勝利できた(ためし)がない。

 年下相手だとしても、同じことが言えた。年齢が一回り下の子どもにすら敗北を味わわされた。そのときに知ったのは、屈辱が砂の味をしていることだった。

 それでも、彼の席次は最下位ではなかった。

 あのとき、男が誰にも勝利できないほどの弱者であれば──いや、それでも彼は無謀な邁進を止めなかったに違いない。それこそが若草である強みだった。

 憧れという感情は青々として、活力に満ちていた。

 

 ──強く、強くなりたい。

 

 彼は、むかしから剣という武器が好きだった。

 寝床で母が読み聞かせてくれた、ある英雄譚の主人公が『剣使い』だったからだ。剣の一閃で雲を割り、弱きを助け、悪辣な帝国を両断する英雄の姿。

 幼心に、そんな正義の英雄は眩く映っていた。

 

 ──こんな英雄になりたい、なってみたい。

 

 最初は、誰しも持ち得る、幼稚な憧憬だった。

 その夢の影を追って、彼は毎日、剣を振った。

 蔦が絡む村外れの廃墟では、呼吸音だけが響いた。

 わざわざ人気のない場所で鍛錬を積んだ理由は、村の人間たちが嘲笑ってくるからだ。

 

 ──無駄な努力だ。あれなら土弄りを覚えた方が利口に違いない。

 

 そのせいか、同年代の子供と遊んだ記憶がない。

 構わない。早熟の天才ではない、とは承知の上だ。

 彼は「だからこそ鍛錬が重要なのだ」と時間を惜しげもなく削った。雨の日でも、風の日でも、雪の日でも、昼夜すら問わず鍛錬に打ち込んだ。そうした日々のなかで、憧れという剣は、情熱に炙られ、余人に叩かれ、貶され冷やかされを繰り返すたびに、光沢を放つほどに硬くなっていく。曇りない剣身は、今後の人生における何物にも代えがたい原動力となった。

 どれだけ指差されようとも、剣を振るう。

 どれだけ実を結ばなくとも、飽きもせずに。

 

 手の血豆が潰れる感覚は、一年もすると慣れた。

 身体から滴る汗の不快さは半年で、手と肩の負担は二年で、関節の痛みは三年で、神経が研ぎ澄まされる感覚は四年で好きになった(・・・・・・)

 自分が一歩一歩、目標に向かって進めている──。

 その自覚が、凡人の身体を突き動かしていた。

 師範の助言に従いながら、愚直に、まっすぐに。

 男はただ、剣を振った。

 

 

 

 2

 

 

 

 非才ぶりは、青年期を迎えても変わりがなかった。

 剣筋は教本通り。急場の判断も妥当。

 しかし、何もかもが凡人という域を出ない。

 身体能力は無論、英雄たちと比べるべくもない。

 

 ただ、長年に渡る努力の結果がひとつ実を結んだ。

 いつの間にか、男は村一番の剣士になっていた。

 だが、ひとえに努力で勝ち得た立場とは言えない。

 彼を凌駕する剣士たちは、すでに村を去っていた。

 残った村民は、農作業に従事する者ばかり。人と関わりを持つわけでもなく、土弄りを覚えるでもなく、ずっと剣を振り続けた男が一番になるのは、至極当然と言えた。のちに伝え聞いた話だと、村人たちは影で

男を散々に揶揄していたらしい。

 だが、幸か不幸か──。

 

 ──努力が実を結んだのだ。

 

 彼は、そんな、幸せな勘違いをした。

 無理もなかった。誰かと接する機会のすべて、剣を振るうことに費やしたのだ。思慮が欠けたまま成長してしまった、その弊害。表向きには褒めてくれる村人たちを疑いもしなかった。

 だから、この時代には充足感があった。

 無邪気にも、努力を信じ、才能を軽視できていた。

 しかし、残酷にも答え合わせの機会はやってくる。

 まやかしだったと気づくのは数年後のことだった。

 

 彼は家が貧しく、村を出て傭兵団の門戸を叩いた。

 そこで思い知る。ようやく才能の理不尽さを──。

 それも、憧れ続けていた英雄の存在によって。

 

 初めての戦場。傭兵として出向いたのは荒野。

 英雄による死の旋風が席巻する、元は街だった地。

 文字通りの一騎当千。剣が一度抜かれれば、師団を壊滅させ、男の同業者たちを、まるで羽虫を潰すがごとく虐殺する。『英雄』と呼ばれる怪物たち。

 只人が相対すれば、死は約束されたも同然だった。

 瞬きの間に、首から上が飛ぶことになる──。

 同僚の傭兵が零した、ある言葉が胸に突き刺さる。

 

 ──ああ。確かに、これは俺たちが盾代わりだ。

 

 死骸が、積み上げられては山となる。

 血液が飛び散り、地面に垂れては河となる。

 英雄たちは無類の力を発揮し、すべてを薙ぎ倒していった。命からがら生き残った男の心をも、蹂躙せしめた。御伽噺や英雄譚で培ってきた、幼稚な認識を覆し、胸中で磨いてきた憧れも現実の前に折れかける。

 英雄とは、もはや人に非ず。生物に非ず。

 兵器にしても凶悪すぎる代物、死神に他ならない。

 

 ──才能の差とは、これほどのモノなのか。

 

 そう、男は呆然と立ち尽くしてしまった。

 赤く滲んだ手からは、使い古しの剣が落ちた。

 まともに剣で打ち合うことすらも困難なのだ。

 理不尽のあまり、彼は初めて挫折を経験した。

 それでも、彼は憧れを捨てきれなかった。

 

 ──所詮、自分が井の中の蛙だっただけだ。

 

 汗とともに鬱屈を飛ばして、一心不乱に剣を振る。

 自らを鼓舞する言葉だけ、何度も言い聞かせる。

 

 ──落ち込む必要はないはずだ。

 ──最初に憧れたものはもっと大きかったはずだ。

 ──『村一番の剣士』なんて矮小な望みではない。

 ──知っていたはずだ。

 ──自分は、知っていたはずだ。

 

 人生は短い。あれに追いつくまで足りるだろうか。

 そう思うならば、後ろ向きになる時間すら惜しい。

 ひとり呟いた。少年老い易く英雄成り難し──。

 あらゆる手を尽くし、できる努力を積んでいった。

 

 ──千里の道を徒歩で往く。

 ──遍くを照らす太陽に、手を伸ばす。

 

 凡人が、英雄に喰らいつく無謀さは、それらと同義の夢想と知った。だが、元より簡単に英雄の域に至れるとも思っていなかった。ならば、何も変わらないはずだ。起こす行動も、目標も、何ひとつ変わらない。

 彼は、いつものように剣を振った。

 

 そもそも、膝を折ったところで今更だった。

 この頃には、憧れ以外、何もかも失っていたのだ。

 男が傭兵に身をやつしている間に、唯一の帰る場所だった村は戦火を被っていた。跡地には、炭や灰、燃え滓などの残骸のみ残っていた。両親はもちろん、師範や顔見知りの村人も当然、この世を去っていた。

 夢を諦めて、戻る場所すら消えてしまったのだ。

 

 その男には学がない。農作業の手伝いすら怠り、人との交流も苦手だった。すべての時間を鍛錬に注ぎ込んだ彼には、剣と夢しか手元に残っていなかった。

 もはや、立ち止まる意味など失ってしまった。

 ただ、背後を振り返ることに恐怖を覚え始めた。

 心のどこかで挫けかけている兆候だ、と思った。

 

 ──英雄になれないのではないか?

 ──いままでの努力が、無駄になるのではないか?

 

 そんな迷いを振り払うため、一層鍛錬を続けた。

 純粋な憧憬が、揺らぐ時期だったと言える。

 

 

 

 3

 

 

 

 ──彼は年老いても変わらなかった。

 老体に鞭打ち、身体中の軋みを無視して剣を振る。

 英雄への憧れは、依然として抱いたままだった。

 むしろ、その頃には迷いすら湧かなくなっていた。

 後戻りできる年齢を過ぎたから、だろうか。

 何にせよ、不意の邪心に惑わされなくなった。

 老いたことで、これだけは僥倖だったと言えよう。

 

 男は、傭兵の間で最古参の人間になっていた。

 傭兵稼業に踏み入ってから、五十年は過ぎている。

 踏み入った当初に膝を屈しかけ、絶対的な才能の壁に歯軋りし、それでも戦場に身を置き続けていた。

 

 人と交わるたび、幾度も彼らを失った。

 傭兵らしく利己主義者だった小狡い男は、飛来する魔術の余波を受けて粉微塵に変わった。情に厚かった大男は、英雄に蹴飛ばされて破裂した。年若く傭兵に身をやつした女は、初の戦場で矢避けに扱われた。

 数え上げれば切りがない。凡人である彼が、五十年に渡り、戦場で生き残り続けていたことこそ不思議だった。事実「いつ男がくたばるか」という賭けは、傭兵間における恒例行事になっていた。

 

 もしや、天が与え給うた才能は悪運なるものか。

 彼は冗談交じりにそう思ったが、案外的を射ていそうで恐ろしかった。英雄を志す男からすれば、その悪夢のごとき才能は、実に格好つかない代物だった。

 

 それでも、彼が戦場に立ち続けた理由はひとつ。

 自らに有益な経験を積むためだった。戦場(そこ)では様々な手練れたちが勝利を得るため、惜しげもなく自らの技術を披露してくれる。味わわせてくれる。彼にとって、血生臭い戦場は、さしずめ財宝の山だったのだ。

 強者の戦闘をじっくりと観察し、分析し、咀嚼し、自らの身体に落とし込む。とは言え、猿真似をするわけではない。彼はただの凡人で、真似や参考にできる範囲には限度が存在していたからだ。

 言い換えれば、これは普段剣を振ることと、さほど変わらなかった。どちらも同じ、遥か高みにある英雄に手を届かせるための助走(・・)に他ならない。

 そして、年月とは、それだけで大きな意味を持つ。

 剣の才能が足りない彼を、慕う人間が多くできた。

 名前も、巷の物好きたちの間で少し広まった。

 

 彼らから、要らない二つ名を名づけられるほどだ。

 『修羅』だの『狂戦士』だのと──。

 全くもって不名誉な仇名じゃ、と彼は思った。

 好き好んで戦に出ているわけではないというのに。

 少ない給与を削って買った安酒を口に含みながら、誰かに零した記憶がある。

 英雄は、戦場のなかにしかいられない。

 

 ──ならばそこへ行くだけじゃ、と。

 

 

 

 4

 

 

 

 ──彼の最期は、呆気なかった。

 日没前。一面、夕陽色に染まった戦場。

 屍の山が築かれ、血の大河が横たわっている。

 男は、皺だらけの手で、古びた剣を握っていた。

 束ねた長い白髪は風で揺れる。色褪せた外套の下から、傷だらけの鎧が覗く。鮮血が飛び跳ねた身体は満身創痍だが、即座に飛び出せるよう、身構えている。

 強い意志を込めた瞳は、正面だけを見据えている。

 そこに立つ、最強の英雄だけを──。

 

『ソルフォート・エヌマ……以前から、貴方にひとつ尋ねたいことがあった』

『……何じゃ』

 

 老いた凡人こと、ソルフォート・エヌマ。

 彼は、しわがれた声音で無愛想に答える。

 対峙する英雄は、年若い。十代半ばの女だった。

 男女の格差は、凡人の相中でしか意味を為さない。

 肉体面も精神面も、才能ひとつで上下が決まる。それは非才のソルフォートにとって残酷な話であり、その格付けの筆頭が、目前の大英雄だった。

 齢二十にも満たない、当代人類最強だ。

 

 彼女の長い髪は、黄金色に夕陽を照り返して靡く。

 碧眼は、ソルフォートの眼光に動じた様子もない。

 嫌味なほどに整った顔立ちは、さながら高貴な令嬢のようだった。甚だ戦場の殺伐さに見合わない。それに反して、発される殺気の濃密さは尋常ではない。

 彼女が纏う白銀の装備は、大陸最大の帝国における六人の大英雄──『六翼』の証だった。

 

 力量は、もはや疑うまでもない。

 その一閃で大地を割り、山を消し飛ばし、敵勢を吹き飛ばす。ひとたび自国に帰還すれば、民衆の喝采を巻き起こし、数々の称賛を受ける。まさに彼女は、ソルフォートの憧れそのものだった。

 つまり、英雄譚の主人公相応の強さを持っている。

 

(成程、儂の目標は最強であったか。道理で容易に追いつけぬわけだ)

 

 呵々と笑いかける彼に、大英雄は小首を傾げた。

 

『どうして貴方は戦に固執する? 私には解せない。貴方は先代の頃から最前線にいると聞いた。死にもせず、引退もせず、ここまで老兵として戦場を渡り歩いてきた。名誉も持たず、実力も然程ない貴方は、どうして戦っている? その執念の核は何だ』

『愚問じゃな』

 

 ソルフォートは短く切って捨てる。

 

『似たことを聞く奴は、これまでも仰山おった』

 

 そして、身体を巡る力が最高潮に達すのを待つ。

 彼は、戦に固執しているわけではない。

 彼は、あくまでも英雄に固執しているのだ。

 戦場の空気を肌で味わい、目標である英雄たちの活躍を目に焼きつけ、生と死の狭間で生き足掻く。こんなものは、単なる鍛錬の一環でしかない。彼としては今更、疑問視されるようなことではなかった。

 見当外れの質問に答える義理はない。しかし、彼が到達せんとする『人類最強』直々の問いだ。彼女にだけは、あえて答えておくのも悪くない。そう思った。

 あえて言えば、戦場に立つ理由はたったひとつ。

 少年だった頃に剣を振った理由と、変わらない。

 

『まだ儂は、抱いた夢の一端すらも掴んでおらんからじゃ──!』

 

 ──込めた力を開放する。

 右脚で踏み込み、老いた肉体を一気に駆動させた。

 渾身の力はこのときのために。

 疾風のごとく、間合いを詰めた。

 

 英雄と打ち合うだけの強靭な肉体ではない。

 英雄と張り合える、そう自負する腕もない。

 だからこそ、通用する可能性があるのは一撃。

 二の太刀以降に機は訪れない。

 それを期待したが最後、首と胴が切り離される。

 

 老体に残った力を掻き集める。

 握り締めた剣にすべてを懸ける。

 生涯における血と汗の滲む鍛錬の成果を──。

 見せつけるのだ、この英雄に。

 

 燈色に染まる戦場で二つの影は交差──決着する。

 一つの影が地面に力なく沈み。

 残った片方は、つまらなそうに呟いた。

 

『──貴方は、半端者だ』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 こうして、老いた凡人の生涯は終焉を迎えた。

 人類最強の呼び声高い大英雄から見下げられて。

 人生の最終目標から「半端者」の烙印を押されて。

 いままで投げかけられた嘲笑の数々は、ひとつとして覆らなかった。あらゆる努力は実を結ばず、夢は夢のまま泡沫に消え、一介の傭兵として人生を終えた。

 その結末は、報われないモノだった。

 

 ソルフォート・エヌマは、どこまでも凡人だった。

 切望した剣の才能は、凡程度でしかなかった。

 研鑽に励み、観察を疎かにせず、基本的な筋力を鍛えるのにも余念がなくとも、背後から結果がついてくることはなかった。最終的に到達したのは、英雄から見れば「半端者」程度の強さだった。

 

 一生を使い果たして半人前だった。ならば。

 ならば、あともう一生あれば(・・・・・・・)英雄になれるのではないか?

 

 ──訂正しよう。老いた凡人の生涯は一旦(・・)、終焉を迎えた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 生者は退却した、死臭漂う宵口の戦場。 

 頭上で群れをなす、星の輝きと月明り。遠くで燃え上がる炎だけが死地を照らす。大気の熱は静謐を焦がし、あらゆる残骸は闇に埋まったまま。折れた剣も割れた弓も、砕け散った杖も。誰かの持っていた望みさえも、地面に蹲って死骸を晒しているに違いない。

 そんな、屍ばかりが眠る、静まり返った場所。

 そこで小さな影が身じろいだ──。

 凡人、ソルフォート・エヌマである。

 蒙昧な思考と曖昧な視界に嘔気を覚えつつ呟いた。

 

「……生きて、おる。たしかに、生きておる。やつは、約定をきちんと守ったというわけか」

 

 現実味を失ったような声で呟く。

 ソルフォート自身に驚きはある。動揺もある。

 だが、数秒経てば落ち着いた。

 不意に思い出したのだ。この奇怪な状況と直結する過去の出来事がよぎる。いまだに覚えていたのは、あのとき出会った男が随分と奇天烈だったからだろう。

 『最高の魔術師』と名乗った男のことを思う。

 

(生前の、頃合いは青年期だったじゃろうか)

 

 ソルフォートは、彼にひとつ頼み事をしていた。

 

 ──もし俺が志半ばで果てることがあったなら。

 ──そのときはもう一度、また走れるように、俺が目標に手を届かせられるように。

 ──二度目の機会が欲しい。

 

 当時の彼からすれば、冗談半分の戯言だった。

 なぜなら、そんなことは不可能だ。それこそ、御伽噺の魔法使いでもなければ。死した人間の魂を別の身体に移し、転生にも近い所業を可能にする。神の御業に片足を突っ込んでいる。魔術に造詣が深いとは言えない彼からすると、そう思うのだが──。

 結局、あの謎の魔術師は何者だったのか。

 彼が嘯いて憚らなかった『最高の魔術師』という名乗りは、果たして相違なかったのか。数十年経って、こんな疑問に囚われるとは予想だにしていなかった。

 だが、現実として死後にこうして生きている。

 また、戦場の死臭を吸い込み、吐き出せている。

 

 念のため、辺りに視線を巡らせた。

 間近まで夜が迫っているせいか、視界を闇が占領している。ただ、間違いなく、ここは先ほど大英雄との一騎打ちを演じた場所だ。傍らには、長年愛用していた剣が転がっている。二振りとない大事なものだ。

 視界に収めつつ、試しに手で地面に触れてみた。

 肌には、ざらりとした感触が確かにある。身体にも浮遊感はない。血が凝固した剣の刃に触れれば、その冷たさが指先を通じて伝わる。身体が霊体、ということでもないようだった。きちんと生身である。

 何が起きたのか。脳内の混乱は収まらない。

 収まらないが──生きていることには違いがない。

 そう思い直して、心を平静に保とうとする。

 

「なぜ……」

 

 しかし。たったひとつだけ。

 彼には、どうしても解せないことがあった。

 

 

「なぜ、わしはおなごになっておるのじゃ……!?」

 

 

 瞼を持ち上げたときから、違和感はあったのだ。

 愕然の声色も、舌足らずの可愛らしい高いもの。

 腰付近まで伸びる白髪は生前と同じ。

 しかし、不思議と髪に艶がある。

 手のひらは繊細で、潰れたタコと擦り傷だらけの硬質な手とは正反対だ。新雪のごとく真っ白な手足は短く、視界もいままでより一段と低い。

 着ている服は、ぶかぶかの黄ばんだ襯衣のみ。それも老爺の自分が身につけていたもので、襟ぐりが左肩に引っかかった形だ。これでは全裸と大差ない。

 股間に手を突っ込んでみれば、もはや確定する。

 あったはずのもの(・・・・・・・・)が、つるりと消えている(・・・・・)現実が。

 

(あやつめ、確かにわしは二度目の機会以外を指定はせんかったが──!)

 

 混乱、混乱、混乱。完全に思考が停止する。

 

 ──これは死ぬ直前に見ている幻覚の一種か。

 

 そう真剣に思い悩むが、絶望的なまでに確かなこととして、ソルフォート・エヌマは十に届くかも怪しい幼女(・・)に姿を変えていた。

 生涯、一心不乱に英雄を目指し続けた男。

 『修羅』『狂戦士』などの仇名をつけられた凡人。

 そんな彼が、英雄に至るための第二の人生は、奇しくも幼女の姿でと相成ったのだ──。



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2 『曰く、状況把握は迅速に』

 人が消えた、屍が大勢伏せた戦後の大地にて。

 ソルフォート・エヌマは目を強く瞑った。

 かぶりを振り、長い白髪を大きく揺らす。気持ちの切り替えは大切だ。幼女になる、という常識にそぐわない状況下において、必須の技能だと言えた。

 理解しがたい現実に首を絞められつつ、嘆息。

 

「……やはり、夢ではないようじゃのう」

 

 混乱は、次第に落ち着いた。

 予想外の姿に変貌したものの、命を繋ぎ止めたことに違いはないのだ。元々、ソルフォートは難しく考えることが苦手である。いまの状況を「死ぬよりマシ」と受け入れることはできる。ちっぽけな身体のことも──英雄らしさを欠片も感じられないどころか、侮られそうなまであるが──我慢は可能だ。

 異性に変化したことに関しても、同じことだった。

 身体能力以外のことを問うつもりもない。

 なにせ、女と関わったのも何十年も前の話だ。

 いまや彼、いや彼女(・・)の唯一の関心事といえば『この身体がどの程度の実力を持っているか』のみだった。目指す憧れの方角は変わらない。ならば英雄に近づくための方法として、強さのほどが知りたかった。

 凡人の思考回路は、相変わらずの猪突猛進だった。

 

(身体能力は如何ほどじゃろうか)

 

 見目相応ならば、一も二もなく鍛錬し直したい。

 幼女の身空では、どれだけの鍛錬が可能かは疑問だが、一分一秒も無駄にできない。せっかく訪れた二度目の機会なのだ。この二度とない幸運を活かして、今度こそ英雄の座に手をかける。そのためには、従来に勝るほどの研鑽を、自らに強いなければならない。

 小さな手を開閉して、徐々に身体を動かしていく。

 身体を慣らす一環として、試しに走ってみる。

 

「……っあた」 

 

 ぼこぼことした地面に顔面から突っ込む。

 感覚が合わず、あえなくずっこけてしまった。

 ひりつく痛みが顔中を襲うも、彼女は「何のこれしき」と立ち上がる。この痛みも生きているからこそ感じるものだ。そう思えば、笑って受け入れられる。

 

(痛いもんは痛いんじゃがな……)

 

 以降も、身体の具合を確かめるため、その場で飛び跳ねたり、剣を振ったりと軽く動いてみた。終えてみての感想としては「驚くほど違和感がない」だった。

 当然ながら『元のソルフォートの身長や腕、脚の長さ』と『現在の身体』は全く異なる。そのせいで感覚がいまいち掴みづらかったものの、身体能力や技の冴えは幼女化以前と同程度のようだった。むしろ、視覚などの衰えていた五感、錆びつき始めていた身体能力は、身体自体が若返ったせいか向上してすらいた。

 彼女は猛烈に感動していた。

 想像以上だった。いままでの努力を引き継ぎ、なおも精進に励めるなど夢のようである。ただ、生前通りの力が発揮できる割に、身体に筋肉がついていない。

 その点については驚かなかった。

 

(きっと、わしの元の身体にあったオドを、この身体に移したんじゃろう。それだけでも無茶苦茶な話なのじゃが、それだけに留まるまい。まさか……わしの身体にあった筋肉も魔力に変換し、オドとしてこの身体に移しておるのか?)

 

 『魔力』は、身体能力に大きな影響を与える。

 基本的には、体内で保有する魔力量が多ければ多いほど、身体能力が高くなる。たとえば、走り込みや素振りなどで身体を鍛えれば、体内で生成される魔力──一般的にオドと呼ばれる魔力──が活性化し、筋肉がつくとともに、保有魔力が増えていく。

 簡潔に言えば、身体能力はオドの量、筋肉。薬品や魔術の効力によって左右される。筋肉もないような女子どもが、戦士を圧倒する膂力を持ち得る理由だ。ただ、身体を鍛えればオドも筋肉も増えるため、鍛錬を積んだ戦士を女子どもが圧倒することはそうない。

 ならば、彼の場合はどうだったのだろうか。

 人生を努力に費やしたソルフォート・エヌマ。オドが無制限に増加するのなら、彼は研鑽に研鑽を重ねていたのだから、オドも筋肉量も大量に持ち得たはず。

 だが、実際には、彼の体内魔力量は微々たるもの。

 以前の彼の身体能力の大半は、筋肉が担っていた。

 

(理由は、わしのオド上限が低かったからじゃが)

 

 個人差はあるが、身体には一種の天井がある。

 体内で生成されるオドを、体内に留めておく上限のことだ。これをオド上限と呼ぶ。単純な話、オド上限が低いほど、オド保有量は少なくなるわけだ。

 つまり鍛錬を積んで大量のオドを生成しても、受け皿の上限を超えてしまえば無意味。上限以上のオドは体外に発散されていく。コップに大量の水を注いだとしても、容量以上の水を保持できないことと同じだ。

 努力して伸びる天才か、努力しても伸びぬ凡才か。

 その分水嶺が、オド上限が引く一線だ。

 言うまでもなく、ソルフォートは後者だった。

 

(ただ、この幼い身体には筋肉がついておらん。オド上限がいくらか知らぬが、鍛えて筋肉を付ければ、そのぶん、老人だった頃の身体能力を超えるのは間違いない。上限の多寡は気になるところじゃが、そこはおいおい試す他あるまい)

 

 結論づけた、そのときだった。

 きゅるるる……と、妙に可愛らしい音色が鳴る。

 いままで夢中で身体の具合を確かめていた。

 ソルフォートは腹を擦りながら思う。

 

(腹が減ったのう)

 

 なにか胃に入れる物を探そうと、周囲を見渡した。

 だが、ここはすでに夜の帳が降りた戦場である。

 闇夜に満ちた平野を照らすのは、星月と衰えた火のみ。幼女の五感が鮮明ゆえに、蠅の羽音は耳障りに思え、血や臓物の異臭で鼻が曲がりそうだった。

 ここに長居はしたくない。そう思うのだが──。

 満天の星空の下で眺める戦場は、内実に反して、綺麗な光景に見えた。敗残者の屍が夜の暗幕で隠され、煌びやかな星だけが浮かんでいるからだろう。何にせよ、老人の身体では自慢の視力も近眼気味であり、こんな奇妙な心地になるのは初めてだった。

 もちろん、情感どうこうで腹は膨れない。

 早急に、腹拵えする方策を立てる必要がある。

 

(陣形後方の食糧庫は撤収……もしくは略奪か焼き討ちされとるじゃろうが……置いていった可能性も捨てきれん。ひとまず確認しに行き、命尽きた兵の保存食を漁りつつ、人のおる村を目指すこととしよう)

 

 時間が惜しい現状、狩猟の選択肢はない。

 周囲は焼け野原。

 まず生息域に行き、探し、調理──あまりに骨だ。

 

(食べられる植物……は、ほとんど判別できん。若いうちに勉強を怠るべきではなかったのう。……否、剣を振る時間を削るわけにもいかなかったのじゃ)

 

 ──ならば、後悔することもないだろう。

 ソルフォートは思い直し、立ち去る準備を始める。

 付近の屍の山々を巡り、死体を物色。

 小柄な男の脚絆と靴をかっぱらい、己の脚に通す。

 まさか戦場を素足で彷徨うわけにもいかない。足に傷口をつくらないためだった。だが、小柄とは言え、成人男性のサイズに幼女が合うはずもない。

 当然ブカブカだった。しかし、素足より断然いい。

 次に、細い腰に腰帯を巻きつけた。腰回りが短かすぎて、二周ほど巻いた。とりあえず、これで落ちることはないだろう。きつく締めた帯に吊り下げるのは、死体から剥ぎ取った携帯食料とダガー。

 鎧は諦めた。筋力的に問題はないが、元の所有者との体格差が激しすぎて、身体と鎧の隙間が空きすぎている。身動きもしずらく、装着する旨みがなかった。

 最後に、幼女は古びた愛用の剣を握る。

 傍から見れば、さぞ滑稽な姿だっただろう。

 だが、強い意志の宿る黄金色の瞳だけは──。

 老成した、戦士らしさを覗かせていた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──帝国歴二二〇年。

 大陸中央、やや西部に位置するマッターダリ地方。

 そこは、強国三つが火花を散らす激戦区だった。

 強国のうちひとつはガノール帝国。大陸東部の大部分を占めており、ソルフォートが最期に対峙した『人類最強』も所属する、大陸最大の国家である。現状、大陸すべての国家と敵対関係にあるという超大国だ。

 かくも広大な支配領域により、面する国家も多い。

 そして戦線もまた長い。帝国戦線で大陸を縦に割っている──という事実で推して知るべし。この、常識的に考えて防衛不可能とも思える戦線を、なんと持続するどころか、なおも広げ続けている。

 それだけ、帝国の誇る英雄たちと兵卒たちが、誰も彼も怪物揃いという証に他ならない。

 

(問題も多い国家ではあるがのう)

 

 その帝国と、正面から相対する強国はふたつ。

 苛烈な階級社会を形成するビエニス王国。

 そして、西部を支配するラプテノン王国だ。

 二ヶ国は同盟を結び、対帝国戦線を敷いている。ゆえに、この地方での戦と言えば、もっぱらビエニス・ラプテノン連合軍とガノール帝国の諍いである。

 他国から支援は受けるが、構図自体に変化はない。

 

(わしら傭兵たちの部隊は、この二ヶ国のうちラプテノン王国に雇われ、編成されておった)

 

 つまり凡人と『人類最強』が対峙した争乱は、例に漏れずビエニス・ラプテノン連合軍と帝国軍による野戦の一幕だったわけである。結果は帝国の完勝だ。

 生き延び続けてきた凡人が倒れたあと、連合軍と傭兵たちは壊滅状態に陥ったらしい。単純な負け戦だったが、最年長者の戦死は傭兵たちの士気に打撃を与えたようだった。当人は感じていなかったが、ソルフォートにも少なからず人望があったのかもしれない。

 そう思えるほどの潰走ぶりだった、とのことだ。

 ただ凡人自身は「奴らは歓喜のあまりに駆け出したのではないか」と考えている。

 

(今頃は、博戯でわしの死に賭けとった奴が、並々注いだ酒で乾杯でもしとるじゃろう。奴らにはいままで迷惑をかけた。そんなわしが最期に残せる、唯一の置き土産じゃ。これで溜飲を下げてくれればよいが)

 

 傭兵たちの潰走劇の舞台たる、マッターダリ地方。

 特徴は、踏破するには難しい標高の山々だ。

 マッターダリ山脈と呼ばれるそこは、急勾配の斜面に、獰猛な野生生物が根城を張っている。その盆地に構えるバラボア砦が帝国の手に落ちたいま、帝国軍の足止めをするのは山脈の峰だけである。

 ビエニス・ラプテノン連合軍は、細長く蛇行した渓谷を抜けた先にある、デラ支城まで撤退した。この退却劇の際、帝国軍の追撃によって全滅まで追い込まれなかったことには、ひとつ理由があるらしい。

 どうやら、渓谷の入口となる洞窟が、岩肌の角度と生い茂った枝葉で巧妙に隠されていたようだ。連合軍退却の際、紛れ込んだ密告者によって帝国軍の知るところになったものの、当初この抜け道を認知しておらず、いまは対策の時間に追われているらしい。バラボア砦の一室で、方針を定める会議をしているようだ。

 ──先ほどから、伝聞調である理由は単純明快。

 

(かれこれ、ここで一晩過ごしてしまったのう)

 

 幼女は腹の唸りを鎮めながら、身を潜めていた。

 件の、バラボア砦に程近い草葉のなかである。

 

(いままで、通りがかる兵士たちの言葉から戦況を予想を立てておったが、ひもじさもそろそろ限界に近い……この身体、なかなか融通が利かん。以前の身体では、一食二食忘れて鍛錬に励んでもどうということはなかったと言うのに。ただ年老いてからは、眩暈が酷くなったがのう)

 

 空を見遣れば、眩い太陽が山脈から覗いている。

 辺りを漂っている清澄な空気が、鼻孔を通じて身体に染み入ってくる。ソルフォートが出方を窺っているうちに、新しい朝を迎えていた。

 彼女は、昨晩から気配を殺しながら、敵地の砦前で大人しく情報収集に徹していた。それまでは食物を探し求めていた。当たりをつけて周囲を彷徨っていたものの、食糧庫は空。近辺の村は見つからなかった。

 近辺の村の筆頭だった、ダーダ村という小さな農村も、無残に焼き払われた後だった。焼き払った下手人は統率を失った傭兵だろうか、戦勝で浮かれた帝国軍だろうか、あるいは帝国軍を装った連合軍だろうか。定かではないが、彼女にとっての重大事項は、食糧は焼失していた、ということだけだった。

 ──他に、近場で食糧があるだろう場所は?

 そこで思い浮かんだ場所こそが、周辺に建つ城砦。

 帝国軍により陥落したバラボア砦だった。

 ゆえに、幼女は茂みのなかで、飯にありつくための機会を窺っているのである。

 

「……なんと言うか。アイリーン様が景気よく、山ごと(・・・)吹き飛ばせば全部済む話では?」 

「馬鹿を言え。無闇に山を破壊されてみろ。吹っ飛んでくる土塊の余波だけで、俺たちは生きたまま土葬されるぞ。それに面倒な輩もいるからな。あの山の頂上に神々が御座すとか何とかってな」

「わかってます。わかってますよ、これはただの愚痴ですから。そんな真剣な話じゃないですよ。……独り言に対してこれ見よがしにとは、伍長も人が悪い」

「ナッド伍長補佐、緊張感を持て。もう学生気分じゃ通用しないんだからな」

「いやはや伍長。ナッド伍長補佐は緊張しきっているようですよ、言葉にゃ出ませんがね。軽口程度は許してやってくれやせんか」

 

 ──帝国軍により陥落したバラボア砦。

 幼女が潜む雑木林周辺にある、山林に続く道にて。

 五人組の兵装姿の男たちが、早朝の日差しを眩しげに受けつつ、巡回任務に従事している。

 

(あれは……まあ帝国軍じゃな)

 

 彼らが帝国兵であることは、疑いようもない。

 会話内容や装着する鎧から、察するにあまりある。

 なかでも、ナッド伍長補佐と呼ばれていた茶髪の男は、いっとう真新しい装備に身を包んでいる。

 士官学校上がりで日が浅いのだろう。おそらくは配属されたばかりの新兵に違いない。顔つきも二十代そこそこの若輩だと、ソルフォートは分析する。

 

(会話内容の割には緊張しきりの若者じゃな)

 

 彷徨う視線は忙しない。行きつ戻りつを繰り返す。

 身体の動きも硬い。歩行には乱れがある。もしもソルフォートがビエニス・ラプテノン連合軍の兵士だったのならば、彼を真っ先に狙っただろう。

 そんな、熟れていない様には懐かしさを覚える。

 

(わしも四十年ほど前は、あのような緊張に身を縛られておった。修行と思えば解れるようになったが)

 

 大昔から、英雄への執着が強いのは変わらない。

 彼らは世間話に興じながら、幼女の目前を横切る。

 

「で、だ。いま『人類最強』……じゃなかった、アイリーン中将は、まだバラボア砦にいるのか?」

「いや、昨日の衝突後は急ぎ足で北方の戦地に戻ったと聞く。代わりに『六翼』のベルン中将が派遣されてくるらしい。下士官の間でもっぱらの噂だったが」

「ぬか喜びは御免だが、真実ならこれほど頼もしいこともないな。──アイリーン様よりラスティマイン中将は、まあなんだ。安心できる」

 

 新兵以外の四人は、軽口を挟みながらも、油断なく視線を巡らせている。彼らはおそらく長い。役職として伍長が頭を張る班ならば、強者、謂わば英雄格は含まれていないだろう。事実、立ち振る舞いと体格から想像し得る筋量も、想定は越えていない。

 だが、ソルフォートに楽観視はしていなかった。

 

(オド量は外見には表れんからのう。それに加えて)

 

 英雄に非ずとも、彼女が相手取れるとは限らない。

 彼の思想として「凡人だからこそ傲慢は命取り」というものがある。他を圧倒する、英雄という名の怪物ならいざ知らず、凡人は多少の楽観で命を落としてしまう。慎重さとは、只人にとって美徳に他ならない。

 欲に駆られた同僚、後輩は例外なく死んでいった。

 彼らの二の轍を踏むことはできない。

 

(ふむ、かの『人類最強』はここからすでに去ったのか。残念と言うべきか、幸運と言うべきか)

 

 ソルフォートを半端者と評した、黄金の女──。

 大英雄、アイリーン・デルフォルを思い浮かべる。

 昨日の今日で、顔を合わせるのは得策ではない。

 まだ、彼女の高みに届いていない。

 

(会うとすれば、まだまだ先の話じゃな)

 

 こつん、と額を小突いて気を取り直す。

 口惜しさと羨望を煮込んだような心地が、想像上の大英雄を中心に渦巻くものの──いまは、食欲以外にかまけている場合ではない。

 

(そろそろ覚悟を決めんとな。戦で散った知り合いに情はあるが、敵討ちじゃと襲いかかるのは愚の骨頂じゃろう。元は敵対しておった国家とは言え、な)

 

 幼女はぐっと拳をつくって、決心を固める。

 物事には優先順位が存在する。彼女の場合は「英雄になるため、御伽噺の英雄と遜色ない『強さ』を手にすること」が一番。「そのために生命活動を続けること」が二番、他は二の次、三の次だ。

 配属されていたラプテノン軍に思い入れはない。

 殊勝に復讐を掲げ、食糧(大事なこと)を取り零すなど真っ平だ。

 とりあえず腹を満たさねばならない。

 ならば、芝居をひとつ打つかのう──と。

 ソルフォートは雑木林でわざと音を立てた。

 

「……ッ! 何者だ!」

 

 機敏に反応したのは、大柄な男だった。

 伍長と呼ばれていた男は、得物である直剣を構えながら、幼女が隠れる茂みに殺気を飛ばす。他の班員は伍長と同じく臨戦態勢をとり、新兵はわずかばかり遅れて剣を握る。腰に差した剣を抜き、腰を低く保つ。基本を抑えた姿勢に、いささか感心する。

 幼女は、自らの装備を外し、草葉の陰に隠す。

 これで、不審感を与える物品はすべて取り払った。

 一秒ほど間をおいて、緩慢に姿を現わす。

 外面的には、ただの村娘のような幼女が、だ。

 

「な……小さい、女の子?」

 

 てっきり、連合軍の残党だと思っていたのだろう。

 だが、草葉から現れたのは予想の遥か下。

 ただの幼女である。きっと拍子抜けだろう。

 しかも、敵軍で見たことのない姿形に違いない。

 この時点で、だいぶ五人組の気が緩んだらしい。

 伍長の溜息を合図に、殺気は霧散した。

 そして、ぶっきらぼうに話しかけられる。

 

「お前は難民か? ……どこの村だ」

「……わしはダーダ村の幼女じゃ」

「随分パンチの強い自己紹介だな」

「その、村が焼かれてしまってな。住む家と、両親をなくしてしまったのじゃ。よければわしに、仕事と食べ物を恵んではくれまいか?」

 



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3 『謎の幼女1』

今回は新兵視点です。


(どうしてこうなったんだ)

 

 その男、ナッド・ハルトは頭を抱える。

 バラボア砦の一室。この細長い部屋は、食堂の役割を担っている。ゆえに、駐屯する兵卒のためのテーブルがそこかしこに設置されている。砦占領の折に幾つか粉砕されたようだが、廃棄処分された。いま並べられているそれは、どれも実用に足るものだ。

 砦自体は、新築などと口が裂けても言えない。

 だが、こびりついた血痕から目を逸らせば、砦にしては小奇麗な室内だと思われる。昼夜を問わず共にする兵士たちにとって、致命的な不備がないことは重畳だった。陥落した割に損壊箇所も少ない。貯蔵庫に火を点けられたが、砦としての運用には困らない。

 さて、ナッドはそんな二人きり(・・・・)の小奇麗な室内で苦悩しているわけだ。

 

 ──遡ること一時間前。

 当番だった巡回任務を無事こなしたナッド。

 さあ後は同僚と愚痴でも交わして、 灰色の砦勤務に彩りを添えようかと、彼は立ち去りかけた。が、ものの数秒でバルドー伍長に捕まってしまった。妙に上機嫌に口角を上げていたため、十分以上に警戒し、同僚を盾に逃げ出そうと画策したが、そんな努力など虚しく上司命令の前に潰されるものでしかなかった。

 そしてこんな厄介事に首を突っ込む羽目になった。

 

(クソ、なんでだよ)

 

 ナッドは溜息をする。

 ──せっかく士官学校を卒業して、なんでこんな。

 

「なかなかに美味じゃのう。歯応えも満腹感もある」

「……こんなクソ不味い保存食、どうしてそんな美味そうに食えるんだよ」

「口に入れても動き出さんのが気に入った」

「ありえねぇ……」

 

 彼が乾いた視線を向ける先では「農奴の娘」を名乗る幼女が、卓上の干し肉を食べようとしていた。手掴みで口に運び、易々と食い千切る。もごもごと口を動かし、広頚筋を躍動。そうして満足げに頬を緩める。

 ナッドは顔を歪めて、彼女の正気を疑った。

 

(こいつ、帝国内のまともな料理を口にすれば発狂しちまいそうだな……)

 

 その保存食は噛みきりにくさに定評がある。

 味についても「靴を食んだ方が飲み込めないだけマシ」と評されるほどだ。むかしナッドも「物は試し」と口に入れたことはあったが、あまりの不味さと塩加減にむせ返った。思い返すだけで衝動的に口を押さえたくなる。あの味つけは嫌がらせにしか思えない。

 口にすれば数時間は食物を拒絶できるようになる。

 実用的なのはその一点だけだったはずだ。

 しかし、幼女はコップに注がれた水を最後に流し込むと、小さく「ぷぅ」と息を零す。

 

「御馳走さんじゃ。お陰で生き返ったわい」

「ホントに完食しちまいやがった……信じらんねぇ」

 

 ──農奴の生活じゃこれすらご馳走なのか。

 都会育ちのナッドは戦慄する。

 平らげた幼女に瞠目を向けて、改めて思う。

 彼女の目鼻立ちは幼いながらに整っている。髪は埃やら砂が絡まっているものの、穢れとは無縁のそれには目を惹かれる。「農奴であればもっと薄汚れているのでは?」との疑問はあったが「箱入り娘だったのじゃ」と言われれば閉口する他ない。

 ──農奴の家庭にそんな余裕があるものか?

 実情を知らぬナッドはそう思わざるを得ない。

 

「……ソルじゃ。わしの名前はソル。姓はない」

 

 この変わり者の名前はソルと言うらしい。

 四方八方どこから見ても不審人物だ。

 入砦を許されたのは、ひとえに「どこの軍隊でも見かけたことはないから」である。だが才能一つで引っ繰り返る世界で、女子供は無条件に信用できる存在ではない。見目がか弱くとも猛者の可能性がある。また、たとえばラプテノン王国辺りで洗脳教育された、諜報部隊の一員という可能性も拭いきれない。

 それがなぜ、バラボア砦の指揮官は許したのか。

 ナッドの疑問は溢れるばかりだ。

 

(それでもこいつを拾った理由は悪評を牽制するためと思うんだがな……。ダーダ村を焼いたのは帝国軍じゃない。十中八九、連合軍側の兵なんだろうが、どうせラプテノン辺りがこう吹聴して回るに決まってる)

 

 ──無辜の人々を虐殺する、なんと悪辣な帝国だ。

 あからさまなデタラメである。

 しかし、無視を決め込むのも好手とは言えない。

 

(こんなんで反感を抱かれても困るだろうからな。上も、大規模な反乱に発展するのは避けたいんだろ)

 

 十年続いた戦争は、去年から小競り合い程度にまで縮小傾向を見せている。ここでまた争いの火種を撒くのは愚かでしかない。ゆえに、戦火に見舞われた村人を匿った『正義の帝国』の証として、幼女(ふしんしゃ)を受け入れたのだろう。

 

(それ以外にも裏事情はありそうだけど。なかったら、不用心さのあまり俺が泣く)

 

 だが、泣いても許されないのが現実だ。

 もしものときは腹を括るしかない。

 ナッドは所詮、悲しい下っ端の立場なのだ。

 彼にとって不幸だったのは、ソルの子守役として任命されたのが──押しつけられたと言い換えてもいい──彼女を発見した班のなかで仕事量の少ない新兵だったことだ。ゆえに、砦内で忙しなく駆け回る同僚を横目に、ゆったり食事を眺めていられるわけだが。

 もちろん、優雅に、とは言っていられない。

 

「チッ……」

 

 煩わしさに舌打ちが零れた。

 中途半端に開いた扉から、好奇の視線が刺さる。

 同僚たちの冷やかしだ。いままで無聊を慰める話のタネは、伍長や『六翼』であったはずなのに。無言のまま手で追い払う仕草をすると、含み笑いして消えていく。ナッドはただただ頭が重かった。

 からかわれる、いいタネをつくってしまった。

 砦勤務は娯楽が少ない。二週間は弄られるだろう。

 それもこれも、この謎に満ちた幼女のせいである。

 

(まったく何者なんだか。こいつ喋り方もヘンテコだしよ、色々謎だ)

 

「……どうでもいいさ。俺が考えても仕方ねぇ」

「諦めが早いのう。思考停止では強くなれない」

「ばっか、誰が強くなる云々を言ってんだよ。それに思考停止じゃねぇ。俺は適応してんだよ。……無茶苦茶なのが多いからな」

 

 ──どうしてこうなった、俺の人生。

 再度、ナッドは息を深々と吐き出した。

 

(順調だったはずだってのに、なんで俺が……)

 

 ナッド・ハルト。年の頃は二十一。

 出身はガノール帝国の都ライノである。

 窓から眺めた、帝都内の華美な通りを追想する。

 これまで、衣食住で不自由したことはなかった。

 ハルト家は代々商人の家系であり、現当主の父親は特に商人の才覚に恵まれていた。「ハルト家の最盛期だな」と祖父が感嘆していたことを思い出す。

 ナッドに父親の記憶は少ない。

 だが、仕事に追われる彼を誇りに思っていた。

 母親や弟子たちから仕事ぶりを聞かされていた。だから子供ながらに「自分はあの大きな手のひらで、広く逞しい背中で守られて、いま何不自由ない生活を営めている」と、そこに精一杯の尊敬を向けていた。

 毎夜、損得勘定の研磨、流通の勉強に励んだ。

 もちろんそれは、偉大な背中を追うためだった。

 

(あのときまでは、な)

 

 小さな頃は無邪気だった。

 当然、長男の自分が家を継ぐと思っていたのだ。

 運命の日、あの忌まわしい後継者指名の日まで。

 あるいは、自分が士官学校に追いやられるまで。

 ──厳めしい父親が選んだ相手がまさか。

 

「……心配事か?」

「っと!? い、いきなり近づくな!」

 

 至近距離にあどけない顔があった。

 虚を突かれ、椅子から転げ落ちてしまう。

 派手な音が鳴り、したたかに尻を打ちつけた。

 

「お、まえ、なにしやが……」

 

 ナッドは文句の一つでも言いたかった。

 だが、言葉に詰まる。「憮然を露わにして立ち上がる」なんてできなかった。なぜなら椅子の上から見下ろすソルが、子供らしさというものが希薄のように見えたからだ。尻餅をつく彼を、小指の先ほども気遣う様子はなく、嘲るような表情も出さない。

 ただ、檸檬色の瞳は老成した色を映していた。

 

「ぬしには一飯の恩義もある、話は聞くぞ」

「は、はぁ? 何だってんだ一体……」

「わしは剣を振る以外のことに能はないが、無駄に年だけは重ねておる。もしや、わしの経験から助言を絞り出せるやもしれぬ」

「……グダグダ、ワケわからんこと言いやがって」

 

 ナッドは小さく悪態をつきながらも警戒する。

 幼女の立ち振る舞いが、心のうちを見透かしたように思えたからだ。

 

(そうだ……こいつが何かして、入砦まで漕ぎ着けた可能性だってあるんだ)

 

 魔術や魔眼の類の可能性を視野に入れる。

 精神干渉系魔術とは考えたくなかった。禁忌指定の魔術師が身分を偽っているのなら、もうここで生き残る術はないからだ。いまは入砦を許可した将官を信頼するだけだ。どうか目が節穴でないことを祈る。節穴だった場合、処罰覚悟で目潰ししてやろうと思う。

 右手の薬指で、腰に提げた剣の柄に触れる。

 

(いざとなりゃ……やるしか、ねぇぞ)

 

 ナッドの脳内が緊張で張り詰める。

 彼は初陣もまだだ。真剣での対人戦は覚束ない。

 士官学校で模擬戦は必修だったが、結局は演習である。本番の緊張感には程遠い。彼は先の巡回任務ですら嫌な汗が流れたほどなのだ。真剣勝負になれば自分がどうなるか、想像したくもなかった。

 そんな彼を他所に、ソルは邪気のない顔で言う。

 

「ああ、そうじゃ。ここに鍛錬器具は置いておらんのかのう。剣の類があれば、それ以上のことはないが」

「は? いや何だよ突然……」

「腹ごしらえも済んだのじゃ。なら、やることは鍛錬以外なかろうよ」

 

 よっこいせ、と椅子から飛び降りる。

 その軽々とした挙動からは、装備の重量を感じさせない。ソルは熱烈な直談判で、幼女には似つかわしくない兵卒の恰好をしている。支給品の比較的軽い鎧、簡易的な手甲や膝当て、編み上げ靴。この矮躯でも装備できている理由は、別隊に十一歳の兵士がいたおかげで、ギリギリ合うサイズがあったらしい。

 それでも絵面としては滑稽そのものである。

 

(それにしたって……鍛錬だと?)

 

 唐突な発言に毒気を抜かれてしまった。

 ナッドはようやく立ち上がり、砂を払う。

 一方ソルは、きょろきょろと辺りを見回すと、跳ねて窓外を覗きながら問うてくる。

 

「それであるのか、ないのか?」

「は、搬入中だ。裏庭には素振りくらいは余裕でできる空間はある……ってか俺、一応年上だよな? 若輩ならそれなりの態度ってのがあるんじゃねぇのか」

「…………そういえばそうじゃったのう。すまぬ」

「おい」

 

 動作が停止したのち、顎に手を当てるソル。

 あからさまに失念していたと言わんばかりだ。

 拍子抜けて、脳内での緊張感が丸ごと消えた。見た目通り、彼女が十歳にも満たないなら納得だ。箱入り娘の信憑性が相対的に上がる。確かに、そう名乗るだけの「世間知らずさ」は持ち合わせているらしい。

 とにかく尋ねたいことは一つだった。

 

「で、実際のところ、お前、ホントに農奴の娘なのかよ? とりあえず鍛錬だの喋り方だの、箱入り娘って触れ込みは無理があるだろ。と言うか色々とお前、その、無理があるだろ。上も絶対気づいてるぞ」

「わしは正真正銘、農奴の娘じゃ。英雄に憧れてるだけのな。とりあえず裏庭に案内してくれんかのう」

「……敬語使え、敬語」

「案内、してください。お願す……のじゃ」

「なんでそんな切れ切れなんだよ。あと、のじゃは敬語じゃないからな。なんだその訛り方」

 

 あからさまに慣れていない語調だった。

 ──だが、今回はこれで勘弁しておいてやろう。

 不服そうな幼女を見ると、ただ力が抜ける。

 

(なんか馬鹿馬鹿しく思えてきた。狡猾な密偵とか間諜が、こうも世間知らずなもんか。怪しすぎるだろ。演技にしたって好んで綱渡りする意味ねぇし)

 

 そこまで織り込み済みなら、もう諦める他ない。

 そのときは「騙された」と膝を叩いて、いっそすべてを運命のせいにできる。だからナッドはここで疑いを捨てた。ソルを見た目通りに『白』と認識する。

 ──新人教育も楽なもんじゃねぇな。

 ナッドは、新兵である自分のことを棚に上げつつ、肩を竦めるのだった。

 



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4 『謎の幼女2』

今回まで新兵視点です。次回からソルフォートに戻ります。


(それじゃ、適当に(なら)してやるか。なんせ──)

 

 ──剣術については一角の自信がある。

 ナッドは士官学校では負け知らずだった。

 剣術、槍術、馬術は得意分野といってもいい。

 学舎における彼の評価点は「模範以上の身体能力と動作のキレ」。どうやら欲しかった商才はからきしだった反面、そちらに適性があったらしい。当時の教官から「武官の道を目指すと良い」というお墨付きを貰うほどには認められていた。そして座学の出来も上々だったことも併せて、学舎では成績上位だった。

 だから、一対一で負ける気はしない。

 

(まあ……模擬戦だったら、の話だけど)

 

 模擬戦ではなく実戦であれば、自信はなかった。

 互いに真剣で打ち合うなど考えたくもない。

 もうひとつの例外は──ナッドの対峙する相手が、天に愛された『本物』だった場合だ。体内のオド量が桁違いにある怪物たちのことである。ゆくゆくは英雄と呼ばれるだろう彼らは、明らかに人間という範疇を超えていた。あんなものには流石に手も足も出ない。

 ゆえに、多少の謙遜を込めて自身を評価するに「あくまで人間の範疇において、優秀な武官候補」と結論づけられる。ただナッドは言葉の響き以上に「捨てたものではない実力」という自負があった。

 ──自分は、班組みされたなかでは一番強い。

 徴兵された凡夫たちと比べればもちろんのこと。

 まさか、幼女になど後れを取るはずがない。

 

「肩慣らしに模擬戦、か」

「手頃な提案と思いましたのじゃ。木偶人形の搬入はまだのようですしのう。効果的な鍛錬法は模擬戦が一番じゃと思った次第ですがのじゃ」

「敬語が愉快なことになってっぞ」

「失敬致しますのじゃ、先輩」

「……まぁ、いいぜ。子守ばっかは暇だったんだ」

 

 この、砦の裏庭は存外に広々としている。

 その感覚を引き立てている要素は「庭という題目のくせ、草木はわずかに点在するのみ」という殺風景さだった。本来ならば、閉塞感すら感じるはずの立地なのだ。裏庭の三方を囲う砦壁、そして残る一方に聳えるバラボア砦。硬質な黄土色の地面とも相まって、ここは広場という呼称が正しいように思う。

 そんなここでも、また幼女と二人きりだった。

 砦生活では皆、常に娯楽に飢えている。

 まさかこんな面白い見世物を放置するわけがない。

 同僚を筆頭に、冷やかす目が付き纏うはずだった。

 

(ホント、死ぬほど鬱陶しいからアレだったけど)

 

 しかし、彼らは一度覗いてきたとしても、早々に砦内に引っ込んでいった。どうやら裏手の砦壁配備を終えたらしく、いまは正門付近の防備を固めることにかかりきりのようだった。そのおかげで、ここは喧騒と好奇の視線とは無縁である。僥倖という他にない。

 頭上を見遣れば、やや傾いた太陽光が眩しい。

 その影で対峙しているのは、ひとりの幼女。

 穢れを払うような純白を靡かせている。

 

「勝利条件はどうするのじゃ……ですか」

「単純に、相手が負けを認めたらでいいだろ。一本入れたらって条件にしたら、俺がまるで苛めてるみたいになっちまうし、そもそもそんな短けー足じゃ一本取るなんて無茶だろ? あとは……魔術を攻撃手段として使うのも、なしにしてやるよ」

「了解じゃです」

 

 ナッドは素直に頷く幼女を他所に、背を向けた。

 そして所定の位置までつくと、木剣を構える。

 

(馬鹿らしいが、先輩の務めだ。まあダルいけど、これで憂さ晴らしもできるし、こいつの力量も見れて一石二鳥だろ。……つか、ここでも暑ぃな)

 

 鍛錬時には、ナッドの常として薄着だった。

 簡素な着衣ならば、茹だる暑さも多少は和らぐ。

 裏庭は涼しげな影に沈んではいるものの、昼間となるとやはり汗ばむ程度には暑い。故郷とは違う、海から離れて峰々に囲まれる環境の辛さを思い知る。

 風の通りも悪い盆地での生活は、そうそう馴染まないものだった。ナッドは帝都での暮らしが長く、潮風が鼻腔に染みついている。このじわりと纏わりつく気温のほどには、ほとほと嫌気が差す。

 視線を前に遣れば、所定の位置に幼女がいる。

 

(ガキはいいな。へっちゃらって顔してやがる)

 

 小癪にも、慣れた手つきで木刀を回していた。

 調子を確かめているようだ。彼女自身も「素振りは趣味じゃ」などと淡白に語っていた。そこには強者特有の自負や、自信が欠如しているように思えた。

 自らの剣術に不安があるのかと茶化したくなる。

 

(もしくは、ホントにお遊び程度の実力か)

 

 ナッドの持論として「強者は独特な雰囲気を持つ」というものがある。士官学校で喫した、幾度もの敗北を思い出す。才能の怪物たちはその都度、そこはかとない自信を唇に滲ませていた。恥じるように韜晦していた者も、態度の端々から垣間見えていた。嫌味なくらいの自負と自信と、傲慢があった。

 ──自分たちは特別な人間として生まれ、そして特別な人間として生きていくのだ、という。

 その考えを、根本から否定する気にはなれない。

 ナッドですら多かれ少なかれその自負はある。

 常人より優れている自覚があるのだから、当然だ。

 

(けど、あいつからはそんなものは感じられない。別種の妙な雰囲気はあるが……気のせい、か)

 

 おおかた、奇異な喋り口調と挙動のせいだろう。

 いま思えば、幼女相手に怯えたことが恥ずかしい。

 対するナッドには剣の腕に覚えがある。

 だから模擬戦はうってつけの機会だった。

 小生意気な後輩に、上下関係を教え込む好機だ。

 

「それじゃ、始める──ぞ!」

 

 意思を引き締めて、前方に踏み込む。

 基本、彼の戦法は速攻だ。相手の出方を見つつ、牽制し合うのは性に合わない。一気に敵の懐へ潜り込んで、動揺する間に痛恨の一打を加える。それこそが最高に気持ちがいい。ナッドは腹の探り合いが好きではなかった。もしや、父親が彼を後継者に選ばなかった理由はそこだったのかもしれない。

 大股で距離を詰め、小柄な幼女を正面に捉える。

 だが、自分とはあまりに身長差がある。

 彼の『懐に潜り込む』得意戦法は使えない。

 

(まあでも、大人げないことはできねぇし)

 

 ならば、真っ向勝負ですぐに決着をつけてもいい。

 狙う場所は頭か喉。もしくは右手首だろう。武器を落として、降参の機会をつくらねばならない。初心者に引き際を示すことも先達の役目である。

 ゆえに、わかりやすく敗北を教えるには──。

 

「よっ……!」

 

 狙いを頭部に絞ると、容赦なく木剣を振るう。

 良心の呵責はある。なにせ幼女相手なのだ。

 当然、接触直前で寸止めするつもりだ。しかし、もし勢い余って打撃を与えてしまったとしても『あり』だろう。痛みで知れることは多い。あの幼女に『上下関係』を身体に覚え込ませることができるのだ。

 無防備な脳天へ教育の一閃を振り下ろす。

 

「っ!」

 

 腕に、鈍い感覚が響く。

 会心の一撃が弾かれた──と瞬時に理解した。

 ナッドは目を剥いて、咄嗟に後退する。

 ソルからの追撃はない。慌てて退避した彼を、泰然と見つめ返すだけだ。微動だにせず、頭上に片手で木剣を掲げたまま。弾いた反動も軽微に見える。矮躯に反したそれは、彼女のオドの多寡を物語っていた。

 ただ、予想し得なかった事態ではない。

 ナッドは一定間隔を空けながら幼女を睨む。

 

(……だよな。安心した。ただの幼女を帝国兵として扱うほど、うちの上も焼きが回ってたわけじゃないみたいだ。あのガキは一応、真正面から為す術もなくやられるほど弱いわけじゃないらしい。まあ、それぐらいなきゃ張り合いがねぇよな)

 

 しかし、木剣で弾かれるとは予想外だった。

 あの幼女は直前まで無反応だった。

 ナッドは喉を鳴らすと、浮かんだ汗を拭う。

 

(反射的な防御か? まあ少しはやるみたいだが)

 

 ──大したことない、俺なら楽勝だ。

 息を整え、飛び込むタイミングを見計らう。

 いつ反転攻勢を受けてもいい心構えを欠かさない。

 肩の力も抜き、理想的な体勢を取る。

 

(焦るな、焦るなよ、俺)

 

 そう言い聞かせるナッドは緊張に弱かった。

 なにせ能力を見定める士官学校では模擬戦が主。

 そこまで緊張と縁がなかったゆえに、彼は成績上位で卒業できた上、有望株としてバラボア砦に派兵された側面があった。それがなければ、新兵のなかでも頭一つ抜けた腕を持っていることに一端の自信はある。

 ナッドは正眼に構えつつ、相手の動向を見守る。

 なかなか隙を見せない。石像のごとく動かない。

 視線だけは受けて立つものの、様子見が続く。

 戦闘は膠着状態。ただでさえ静寂が満ちていた一帯に、新しく緊張感が張り詰めていった。

 そこに、頬を撫でるような一陣の風が吹く。

 帝国兵たちの喧騒がそれに乗って、鼓膜を掠る。

 これでは埒が明かない。仕掛けるしか、ない。

 

「……【大地に於けるひと欠片】」

 

 ナッドは一言だけ詠唱を口遊む。

 魔力を編み、簡単な『魔術』を発動させる。

 魔術とは簡単に言えば、魔力を消費して何らかの事象を引き起こすことだ。

 このときに消費できる魔力は二種類。

 体内を巡る魔力(オド)と、大気中に満ちた魔力(マナ)だ。

 とは言えど、オドは身体能力に影響する他、生命力に直結している。これを削るのは文字通りの自殺行為ゆえに、一般的にはマナを消費する。

 だが、マナはマナのまま魔術の素にはできない。

 まず肺で空気中からマナを取り込む。次に体内で魔術として利用可能な魔力に変換。そして『詠唱』で起こしたい事象を固定化し、魔力をその工法通りに編み上げることで、ようやく魔術が形作られる。

 習得にはナッドも苦労したものだったが──。

 

(まあ、俺の使える魔術はたかが知れてる)

 

 彼が発動した魔術は、ごく初歩的なものだ。

 手のひらに収まるような小石を創造する。

 効果はただそれだけだが、小細工には使える。

 小石は幼女後方の中空に出現し、重力落下。

 些細な音を鳴らし、地面に転がった。

 しかし、寂然とした場所では嫌に耳につく。

 ──自分の背後で、如何な魔術が発動したのか。

 反射的に、確認したいと思うのは人情だろう。

 そしてソルは迂闊にも、意識を後方に向けた。

 

(馬鹿が……)

 

 好機と見るや、迷わず動く。

 今度の狙いを手首と決め、踏み込んだ。

 だが唐突に、脇腹付近へ衝撃が走った。

 

「がぁッ!?」

 

 さながら脳内で電撃が弾けたようだ。

 強制的に動きが停止する。

 下方を見遣れば、そこにはソルの靴の爪先。

 重量感のある軍靴が、鳩尾を抉っていた。

 振るうはずだった木剣は勢いを減退させ、身体はつんのめるような形になる。

 不覚を悟った頃には、時すでに遅く。

 戦闘における致命的な空白が生まれていた。

 

「隙あり、じゃ」

 

 ソルはここでようやく動き、横薙ぎに一閃。

 振るわれたそれを回避する手立てはない。

 のけぞったナッドの首元へと吸い込まれ──。

 喉を打つ直前で、ぴたりと止まった。

 

「…………ま、負けだ。俺の負けだ」

 

 言葉を絞り出す。

 声が、情けなく震えてしまった。

 

「これで一本じゃな」

 

 幼女は事もなげに呟き、首筋から得物を離す。

 ナッドは木剣を落とすと同時に、膝を折った。

 からん、という音が遠間に聞こえた。背中には冷や汗が滲んでいる。両脇にも染みをつくっていたが、これらは盆地の熱気による発汗ではない。

 殺気だ。たった一閃に発された、刹那の殺気。

 殺される、殺される、殺される。

 真剣を使わぬ模擬戦にもかかわらず、その言葉がナッドの頭を埋め尽くしたのだ。

 

「……う、嘘だろ。こんな、俺が……?」

「才能はある。一撃必殺を狙う戦法も、猪突猛進とは言え、わしは好むところじゃ。ぬしに足らんのは、ただ単純に経験じゃろう……です」

 

 うわごとのような呟きに、ソルは断言した。

 呻くように「経験?」と繰り返すと、幼女は「そうじゃな」と視線を下げる。

 

「例を挙げるなら……まず、手の震えは言語道断じゃ。殺気や気迫に慣れとらん、とは真っ先に思った。他は二合目直前、踏み込みに迷いが見られたこと。はったりを逆手にとられたことに気づかぬ、正直すぎるのもまずい。見破られて利用されれば、此度のごとく致命的な隙をつくることになるじゃろう。そこら辺を取捨選択する感覚や勘の鋭さを研ぐには、地道な鍛錬が手っ取り早い。剣と魔術での戦闘を意識してなのかは知らぬが、剣以外の──今回で言えば足技を失念しているのも痛い点じゃな。勝ちを焦り、慎重ささえ見失わなければぬしは強くなる。あとは視線の散漫さも気になったのう。集中して相手を視続けると……いや。すまぬ、わしの悪い癖が出た。無用の説法と思うなら、聞き逃しとくれ」

 

 やってしまったという顔で、そう締め括る。

 ソルは居心地悪そうに、剣先で地面を突いた。

 

(は、はは……俺が、こんな奴に?)

 

 ──完敗だった。

 高等な戦闘技術に翻弄されたわけではない。幼女の子供騙しめいた手に、勝手にかかっただけ。常人離れした力や技に圧し負けたのではない。ナッドに加えられた打撃や斬撃は随分と軽いものだった。

 明確に勝敗を分けたのは、観察眼と()

 的確に彼の改善点を洗い出し、弱点を突く観察眼。

 『予備動作なしの防御』という超反応めいた回避を為せた理由は曰く「勘のようなものじゃ。経験はアタマもじゃが身体にも染みつく。肌が、骨が、あるいは部位が、目前の似た剣筋を覚えていれば勝手に反応してしまうことがあるだけの話じゃ」とのことだった。

 もはや、ナッドは開いた口が塞がらない。

 楼閣のごとく築き上げていた彼の矜恃が──。

 脆くも、ひび割れていくような心地がした。

 

「オド量……の、問題じゃねぇのか」

 

 もはや言い訳は意味を為さない。

 今回の戦闘では、筋力の差異は些細な問題だった。

 つまり幼女が啓蒙する「経験の差」こそが勝敗を左右した。オドを相応に溜め込んでいるのだろうが、独特の剣術は使わなかった。実際のところ、この一幕で彼女の力量が測ることができたわけではない。

 ──もしや、こいつも怪物なのか? 本物なのか?

 過去から這い出した恐怖は視界を冒していく。

 

(あいつら、みたいな……才能の怪物、なのかよ)

 

 眼前のソルが歪んでさえ見えた。

 どことなく困った様子の彼女を、士官学校時代の怪物たちと重ねようとする。しかし、寸でのところ重ならない。相変わらず、強者特有の気配が薄弱だ。

 ただ正直に、この印象を飲むわけにはいかない。

 この、矜恃の楼閣を崩れ去らせてはならない。

 だから、現実を受け入れるにはこう言うしかない。

 

(まぐれだ。……ああ、これがまぐれじゃねぇなら何だってんだ)

 

 ナッドはソルを認められない。

 どうしても、認めることはできない。

 なぜなら目前の幼女が、得手とする剣術で「自分を上回っている」などと認めてしまったら、自分が「苦労も時間を重ねていない者に劣る」と認めてしまったら、強者の風格すら持ち合わせていない者よりも格下と認めてしまったら。あの日、後継者指名の日に逃げ出した自分を否定することになってしまう。

 それは、絶対にしてはならないことだった。

 自らの根幹となる出来事を否定してしまえば──。

 きっと、ナッドは立ち止まってしまうだろう。

 

(偉そうに、上から目線で適当なこと語りやがって)

 

 たとえばこれが、士官学校に少数在籍していた怪物たちや、英雄相手だったなら諦めがつく。彼らは人間の域を超えた存在だ。誰もが「勝利できないのは当たり前だ」と知っている。たとえ無様を晒したとしても「仕方ねえさ」と仲間が肩を叩いてくれるだろう。

 だが、この怪物の匂いがしない者にだけは──。

 口が何か言葉を紡ぎかけて、止める。

 ソルは、それを数回繰り返す彼を一瞥すると。

 

「……ズルしたわし相手に、落ち込む必要はない」

「……ズル?」

「若作りじゃ」

「……質の悪い冗談はやめろ」

「冗談ではない。わしはぬしより年上なのじゃ」

 

 ナッドは鼻白んで、嘆息が漏れる。

 怪物か否かはさて置いて、冗談のセンスは最悪だ。

 当の幼女が至極真面目な顔で言うものだから、余計に脱力してしまう。

 

(ああクソ……! たとえ怪物でも、勝負がまぐれでもどれでもいいわ、クソが)

 

 計算づくなのかは定かではない。

 だが、色々とナッドは諦める。

 

(馬鹿馬鹿しくて、相手なんかしてられるかよ)

 

 上下関係を教え込む云々は果たせなかった。

 接したのは数時間ほどだが、間違いなく言える。

 ──この幼女に、まともな軍人は向いていない。

 自称箱入り娘は、その文句に嘘偽りない実情を見せつけた。上下関係の疎さ、冗句も間抜けときた。面倒見のよい先輩が愛想をつかしても仕方あるまい。

 ナッドは内心でそう吐露する。

 嫉妬が混じっているのは否定しない。だが、傍らに自分の存在を揺るがせる存在を置く趣味はない。一旦の子守役として任命されたが、この戦が収束すれば二度と会うこともないだろう。あくまで帝国の正義を主張するために匿われているにすぎないのだから。

 所詮これは、身寄りのない幼女でしかないのだ。

 

(俺とこのガキは歩いてる道が違う。道が違うんだから、分かれ道まで行けばそこでおさらば。無理に関わらなくても、時間が来れば勝手に離れていく)

 

 対するナッドは、好成績で士官学校を卒業済み。

 目前には前途洋々な未来が開けている。実地経験さえ積めば、悠々自適に内地で暮らせるようになる。なにも国に期待されているというのは誇大妄想ではないのだ。その証拠は、彼が派兵された最前線の一角がこの南マッターダリ地方という事実がそうだった。

 ここは、何が起ころうと敗北し得ない場所。

 なにせ『人類最強』が参じる戦場なのだから。

 かの『人類最強』が活躍するとなれば、一般兵の出る幕はない。つまりは参加さえしていれば、出世は約束されたも同然。実際に、直近の野戦は一方的な制圧で終結した。帝国側の戦死者は軽微であり、ナッドも戦場に立つことなく勝利の美酒を味わった。

 立身出世を提供してくれる、美味しい機会。

 ──それにありつけた自分はこのままでいい。

 

(だからまあ、気にいらねぇ奴とわざわざ交流を持ってやる義理なんかない。そう思うと気が楽だ)

 

 実に不愉快だが、もうしばらくの辛抱だ。

 ナッドはそう締めくくり、一区切りに空を仰ぐ。

 

「休憩は終わりでよいか? では再び模擬戦を」

「ああ? まだするつもりかよ……パスだパス。俺はもう疲れてんだよ。ガキは元気でいいな」

 

 その日は結局、模擬戦を幾度申し込まれようと、ナッドが首を縦に振ることはなかった。

 

 



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5 『前兆の六翼』

説明回です。


(最近、皆に避けられている節がある)

 

 ソルフォート改め、ソルは腕を組む。

 いや、人に避けられているだけならまだいい。

 ソル自身、孤独には慣れている。基礎的な鍛錬は一人で取り組む姿勢が望ましい。たとえば、少年期から続けている素振り。雑念を排除する関係上、二人以上は必要ない。だから今回は単に避けられているだけでなく、遠巻きに好奇の視線が向けられていた。

 たとえば、いまソルは砦二階の廊下を歩いている。

 窓際に凭れていた若い帝国兵は彼女を見ながらに。

 

「……おい」

「……ああ、例の?」

 

 こうやって途端に囁き笑う。

 例外はほぼない。通路で通りがかる者、食堂で居合わせた者のうち大半が、見下げたような笑みと奇異の目を注いでくる。ただ幼女自身、納得はしている。

 疎まれるソルの要素を挙げ出せばキリがない。

 この砦における『最年少』かつ『唯一の現地参加』で、『農奴上がり』と名乗る『不釣り合いな装備に身を包んだ幼女』だ。いささか自分の見え方にも気を配ったほうがよかったかもしれない。

 だがそういうことは不得手にすぎる。

 ソルは肩を竦めて、砦内を早足で移動する。

 

(初日でもなし、この姿くらい見慣れるものと思っておったが……そう上手くことは運ばんか)

 

 幼女が入砦して、早くも三日が経過していた。

 世話係として割り当てられた兵卒──ナッドという将来有望な男だ──には、距離を置かれてしまっている。任命された手前、ソルの移動には付いてくるが、もはや軽口すら交わしてくれない。何事か話しかけても無視されてしまう。あの一件以降、まともに手合わせもしてくれなくなった。幾ら一人で過ごすことに慣れているとは言え、袖にされれば傷つくものだ。

 ちらりと視線を飛ばす先には、当のナッド青年。

 不機嫌そうな表情で、三歩後方に貼りついている。

 そして目線に気づくや否や、目を逸らす。

 ──と、彼は先日からこの調子である。

 

(ナッドには申し訳ない。新しい身体での模擬戦に、年甲斐もなく有頂天になっておったゆえに……)

 

 やはり、初日の鍛錬が端を発しているのだろう。

 初対面で上から目線の駄目出しをされたのだ。

 それも見目は幼女。加えて、模擬戦で打ち負かされた相手だ。人より才能を持っている若者が、そんな者の助言に耳を貸すわけがない。若き日のソルフォートも、決して良い顔はしなかっただろう──とまでは言えない。流石にナッドに対して同情的すぎる。

 この凡人は藁に縋ってでも高みを目指していた。助言をもらえたなら、一生忘れぬ恩とするだろう。だが当然、そんな変人は例外中の例外である。

 そして、ナッドに対する周囲の目も厳しい。

 

「おい、ナッド・ハルトさんよ! 三日前の武勇伝を、いつもみたいに聞かせてくれるんだろ? そこのちびっことやった奴だよ。覚えてるよな?」

「士官学校での武勇伝は聞き飽きちまったからな」

「ま、輝かしいハルトくんの経歴に新しい頁ができただけだろ? ちっとばっか時間を貰えね?」

「腕は悪くないが、足は得意じゃなかったか?」

「帝都に帰る前にさあ、頼むぜホントさ」

 

 背後からは、揶揄する声が投げかけられる。

 するとナッドの頬は目に見えて赤みが増す。

 口元には歯軋りが窺え、羞恥に肩を震わせている。

 

「……のう、先輩」

「その『先輩』ってのやめろ。苛つくから黙れ」

 

 ナッドは盛大な舌打ちをして、険のある声を出す。

 どうやら模擬戦の顛末を目撃されたらしいのだ。

 砦上部の窓から、よりにもよって同期の兵に、だ。

 やっかみを除いても話題性は抜群だ。士官学校を実技成績に支えられて修了し、出世の道を歩まんとする優等生(ナッド)が幼女に敗北したのだから。

 陰険な真似と思うが、数少ない娯楽なのだろう。

 ゆえに、冗談で済む一線を踏み越えてはこない。

 ──それだけならいいのじゃが。

 ソルは持ち前の眼光で冷やかしを追い払う。

 

(ナッドの矜恃を真に抉っているのは、余人の言葉ではないのじゃろう。揶揄う帝国兵を払っても、安堵の様子を見せないことが何よりの証拠じゃ)

 

 自分で自分が許せないのかもしれない。

 その原因たる彼女を煙たがることも道理だろう。

 きっと、この男は根が真面目なのだ。

 

(ゆえに……本当に申し訳が立たぬ)

 

 余計な助言は反省点である。

 お節介にも似た助言は凡人の癖だった。あれは鍛錬に貴重な時間を割いてくれた相手に対する、一種の礼儀のつもりだった。凡人が駆け抜けた生涯で身に染みて知った、時間の大切さ。だから相手にとって実りのある時間になって欲しかったのである。もっとも「爺臭い説教だ」なんて罵声を浴びたこともあったが。

 何にせよ、自重は心がけなければならない。

 ソルもいたずらに孤立したいわけではなかった。

 

(誰も寄りつかんから、鍛錬相手がおらん)

 

 人知れず嘆息する。 懸念の焦点はそれだ。

 反復練習以外の鍛錬法は相手を必要としている。

 観察と模倣と研究。他人の技術や身のこなしを見る(・・)ことで己を磨き、弱点を徹底的に洗い出す。これは他者の助力を必要とする方法だが、そのぶん実になる方法だと信じている。年の功の成果物だ。

 ソルは、通路の窓から快晴の空を見上げる。

 

(絶好の鍛錬日和じゃが、日中は勤務がある。お預けを喰らうのは痛い……ただ、ここで口を利いてくれる方には会える。気晴らしになるなら、よし、じゃ)

 

 今頃、砦壁に張り出した石造櫓にいるだろう。

 ソルは足早に通路を渡った。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 バラボア砦は盆地に構えている。

 平地に建つ城砦に比べ、櫓からの見通しが悪い。

 遠方に目を凝らしても、マッターダリ山脈の峻厳な斜面と切り立った崖が遮ってしまう。水平線や地平線はおろか、ここからは人家すら視界に入らない。

 だが、一定の実用性は備えている。

 連合軍の遁走に用いられた、渓谷への入り口付近は見渡せるのだ。囲む峰々さえ除けば、起伏も少ない地形である。櫓の役割は十分に果たせるだろう。

 ソルはその砦壁の櫓にいた。

 無骨な石の部屋である。狭間落としや狭間が開いており風通しはいいが、湿気ているのは減点だった。

 

「ぼっちは辛いなぁ、ソル」

「伍長……哀れむなら、そろそろ鍛錬に付き合ってくれぬ、ですか?」

「馬鹿言え。ガキ相手にチャンバラする気はねぇよ」

 

 骸骨めいた骨ばった頬を引きつらせて笑った。

 彼は、ソルが編入した班長──バルドーである。

 年の頃は三十代後半。吹きつける風で靡かせているのは、脂で光沢を帯びた焦茶の髪。高身長の痩せた身体つきからは帝国兵の風格が窺えない。だが、ソルは一目見ただけで看破できた。あれは実用的な筋肉のみが上手く配されている、理想的な身体だと。

 そんな彼こそが、ソルの唯一の話し相手だった。

 顔を合わせて以来、懇意にしてもらっている。

 とは言えど、会話が成立する程度の間柄だが。

 

「伍長はなにゆえ、言葉を交わしてくれるのじゃ?」

「ガキに厳しくあたるってのは気乗りしねぇからな」

「ガキ……もちろんその通りじゃな。わしが幼女であり、青二才ということは一目瞭然じゃ」

「そう念を押されると疑いたくなってくるな」

「……伍長はわしを対等に見てくれる、と?」

「いや、お前はガキだよ。危ねぇ危ねぇ。このまま鍛錬相手にする腹積もりだったろお前。生意気なことしやがって。大人をハめるのは三十年早いわ」

 

 幼女の額が指で小突かれた。

 不意打ちのあまりに面食らう。

 ソルはじんわりと広がる痛みで患部を抑えるも、バルドーは何食わぬ顔で辺りを見回す。

 

「ナッドの奴にはまだ無視されてんのか」

「……依然、変わらずですのじゃ」

 

 幼女監視役ことナッドは隣の櫓にいる。

 意図的に耳をそばだてなければ、幼女と男の会話は聞こえないはずだ。

 

「あいつも大概、面倒な奴だからな」

「伍長は仲直りする方法をご存知ないかのう?」

「知るかよそんなこと」

「率直な感想じゃのう」

「つか、あいつが意地張ってるだけなんだ。お前が考える意味ねぇよ、あいつの問題だ」

 

 その言葉を聞いても、ソルはううむと悩む

 若者に丸投げするのは年長者の怠慢である。

 できることはないか、と解決案を模索する。

 だが、積み上げた人生は何も語ってはくれない。ソルはふと、仲直りという出来事に直面したことがないことに気がついた。袂を別った相手とは二度と会わないか、戦場で対面するか、または因縁を最期まで引きずるかだったのだ。故郷の村人たちは燃え尽き、喧嘩した傭兵時代の同僚たちは数日と経たず戦死した。

 それを抜きにしても、果たしてナッドが応じるか。

 ──年の差が矜恃を刺激するとは思わなんだ。

 これは幼女であるがゆえの苦悩だった。

 

(幼子になったことのない者にはわかるまい。……まあ、そんな機会などそうそうあっては堪らんがのう)

 

 バルドーは、うんうん唸る幼女から視線を外す。

 

「それに無理に仲直りする必要もないだろ。そろそろ俺たちはお役御免だ。『六翼』のベルン中将が引き継いでくれりゃ、この砦も安泰。ここに腰を据える作業が終われば、ようやっと家に帰れるって訳だ。……ああいや、すまん。お前には辛い話だったな」

「気にしとらんのじゃ。それより『六翼』とは──」

「……まあ見逃してやるが、お前。流石に『六翼』の名くらいは知ってるよな?」

「無論じゃ。この大陸で知らぬ者はおりますまい」

 

 少し顔を綻ばせてバルドーは頷く。

 その表情はどこか少年のような熱を帯びていた。

 帝国の誇る『六翼』は、ソルもよく知っている。

 

「アレは名誉勲章みてぇなもんだが、グリーシュ大将を除けば実質的には中将と同等の位だからな。中将って扱いで呼ばれることが多い。アイリーン中将然り、今度こっちの指揮を受け継ぐベルン中将然りな」

 

 『六翼』とは帝国黎明期から存在する名誉勲章だ。

 その名の通り、六人の大英雄が選ばれる。

 当代は特筆して「癖の強い手合い揃いだ」と聞く。

 

(彼らの名前ならば諳んじることもできる)

 

 まず、歴代最強の英雄と呼ばれる人型の怪物。

 ──『人類最強』アイリーン・デルフォル。

 四十代の若さで軍最上位たる大将の座に就いた男。

 ──グリーシュ・デルフォル。

 独自に鍛え上げた騎士団を従えた猛将。

 ──シグール・ニブリス・イブレーシス。

 堅実な采配と人柄で部下からの信頼が厚い篤将。

 ──ロズベルン・ラスティマイン。

 敵方の虚を突くことを得意とする智将ならぬ奇将。

 ──リバレシェロ・エンヴィロア。

 国一番の美男子と囁かれる寡黙な闘将。

 ──ユステア・ヴォル・ヅォルト。

 

(わしも得心する話じゃが、国民人気は非常に高い)

 

 なぜなら、武勇に優れた多種多様な美形揃いだ。

 彼らが自国の旗を靡かせて連戦連勝する様は、さぞ痛快なことだろう。なにせ『六翼』のうち五翼が、途中から指揮を文官に託して、最前線で猛威を振るうのだ。敵方からすれば笑えない。帝国と敵対する連合軍に雇われていたソルフォートはなおのこと笑えない。

 いや、実際は歓喜のあまり笑っていたが。

 それにしても、不思議な巡り合わせと言える。

 いまの立場からすれば、彼らが味方なのだから。

 

(まあ、帝国側にいたほうが都合はよい。大陸で最高峰の英雄たちを傍で観察できるのじゃからな。もしや上手く転べば、稽古に付き合ってくれるやもしれん)

 

 そう思えば、無性に身体が疼いてしまう

 

「おいソル、何だその顔。まさか『六翼』とお近づきにでもなりたいのか?」

「そうじゃが。わしの夢は英雄になることですので」

「そうじゃが、じゃねぇ。この身の程知らず」

 

 軽く頭を叩かれた。ソルは無言の抗議をする。

 だがバルドーは頬杖をつき、無視の態勢をとった。

 

「俺は十分知ってる。帝国兵の端くれっつっても、アイリーン師団にいたからな。英雄様ってのの強さはよく知ってんだよ。ありゃあ人間じゃねぇ。ちびっこは見てねぇだろうが、容姿がお嬢様みたいなのが、かえって化けの皮にしか俺にゃ思えないね」

「じゃが……目指したくならんか? 最強に近しい英雄たちと肩を並べて戦う。そして、最後には最強になるという筋書きは男の浪漫じゃろう」

「その浪漫は男の(・・)じゃなくて子供の(・・・)浪漫だっつの。言葉は正しく使え。つーか、男の浪漫とか言ってるが、お前は女だろ。一応」

「そうじゃった。いやどうなんじゃろ。わしは女子と名乗っていいのじゃろうか……?」

 

 素で混乱するソルに、胡乱な視線が向く。

 バルドーは露骨に息を吐きながらぼやく。

 

「ナッドの言う通り、お前に冗談の才能はないことはわかった。だが、英雄を目指す心意気自体は分からなくもない。俺だってお前ぐらいの年頃じゃ、ちょっとばっかし英雄ってもんに憧れたもんだ。……すぐに無理だって諦めちまったけどな」

「それは……なんと、勿体ないのじゃ」

「馬鹿がよ。そんなもんさ。むしろ逆に、本当に英雄ってのの高みを知ってて、英雄になりたいとかほざける奴がいたとしたら、俺はそいつの頭を疑うね」

「……そんなものかのう」

 

 幼女は頭を疑われていた。

 あんなにも格好良く、あんなにも強い英雄たち。

 ソルは憧れの熱が冷めきることなく、生涯を駆け抜けた夢追い人。バルドーの言葉が核心まで染みることはなかった。だが理解はできる。彼女も初めて戦場に足を踏み入れたあと、数年間に渡って葛藤があったことは確かだ。そんな人生の三叉路に差しかかったときバルドーは、ソルとは別の道を選んだのだろう。

 ──あと十年もすれば、お前だって嫌でもわかる。

 そう言うと彼は「まぁ、何だ」と続けた。

 

「『六翼』さえ来てくれれば、晴れてこの砦ともおさらば。緊張は忘れちゃならんが、気楽にやるが吉だろうよ。ナッドや俺らはともかくな……お前には、こんな戦場以外の未来だってあるんだから」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 事態が動いたのは、幼女が入砦した五日後のこと。

 『六翼』ロズベルン中将の到着は遅れていた。

 早馬の知らせによれば「帝国中央部の農村で蜂起した逆賊、その討伐に駆り出されている」らしい。砦を陥落させて比較的安定したこちらより、反乱軍の萌芽は差し迫った問題だ。早目に摘まねばならない。

 いまだバラボア砦は盤石の態勢は整っていない。

 ゆえに、方針としては戦線維持が安全策である。

 砦に籠り、ロズベルン中将の到着を待てばいい。

 だが気を急いた──欲を掻いたのかは定かではないが──臨時指揮官は文官たちの反対を押し切り、デラ支城への強襲を宣言した。

 

『マッターダリ山脈を大きく迂回し、先日の敗残兵たちが逃げ込んだデラ支城を落とす! 強硬策ではあるが、アイリーン中将の猛威により大損害を被った連合軍相手だ。補給を受け、支城を固められる前に叩くッ! 支城陥落にまで持ち込めば、大きな一歩だ。一種の関門だったマッターダリ山脈を超えた地域に、我らが帝国軍の手を届かせられるのだから!』

 

 自信を漲らせる表情には、確たる裏づけがあった。

 斥候により齎されたデラ支城の内情だ。

 曰く「這う這うの体で駆け込んだ負傷者の数に、あちらは上へ下への大騒ぎ」らしい。支城の収容人数はたかが知れている。人が溢れ返った現在、数十人が野外でテントを張るほどの様相のようだ。

 ──その混乱に乗じて攻城戦を仕掛ける。

 臨時指揮官は舵を切った。悠長に『六翼』を待つ方針は悪手である、とも豪語した。こちらが待ちぼうけを喰らう間に「連合軍側が事態を把握し、王国側の英雄を送り込む」と見ているのだろう。それでまたぞろ戦線が膠着するより、短期戦でカタを付けたいのだ。

 やはり、戦功を立てたい我欲が透けて見えるが。

 

(一言に、悪いと断じられるものでもないのじゃ)

 

 ちなみに、マッターダリ山脈の渓谷を通らず、わざわざ遠回りする理由は単純だ。渓谷の道幅は行軍するにはあまりに狭く、火計を企てられれば致命的な打撃を被ることになる。連合軍とて馬鹿ではない。絶好の近道に罠を張っていることは自明の理と言える。

 事実、その渓谷には伏兵が待機しているのだ。

 連合軍側の傭兵(ソルフォート)はそれを知っていた。

 

(わしの立場上、迂闊に進言できずにおったから、山脈迂回の宣言でだいぶ安心したのじゃ)

 

 ソルが属するバルドー班は、砦防衛を任ぜられた。

 元より勝ち馬に乗るつもりの班員に異議はない。

 楽して昇進できれば、それ以上のことはないのだ。

 ただ一名「あちらに行きたいのじゃ」と不満を垂れた自殺志願者はいた。もちろんソルである。そして当然ながらバルドーに聞き流され、ナッドたちの白い目を受け、彼女はすごすごと引き下がった。溜まった鬱憤は日課の鍛錬で発散することになった。

 こうして、砦に待機する兵数は二百と相成った。

 

(まあ、わしの存在は帝国軍にとっての免罪符。正義である証明書。戦場に送るなどできんとは思っておったが、やはり口惜しいものがあるのう)

 

 そこからは早かった。速やかに武具や食料や馬が掻き集められ、二日と経たずに、臨時指揮官が主導する千の軍勢が進軍を開始することになった。ソルは羨ましさを込めて、櫓の上からそれを見送る。

 軍列の将校のなかには、見覚えのある者もいた。

 老年期に手合わせした中尉や、幾度も敗北した英雄の姿もある。如何せん砦での生活が短すぎた。彼らのような腕利きの鍛錬相手とは会えずじまいだった。

 彼女にとっては口惜しいことばかりである。

 

(まあ、それだけあの軍勢の戦力は大きい)

 

 『六翼』不在のまま支城へ攻める。

 その字面は不安を煽るものだったが、戦力自体は足りていた。臨時指揮官の宣言に苦い顔をしていた文官たちすらも「杞憂だ」と思うに止まっていただろう。

 まさか、窮地が訪れると確信していた者は──。

 

(ゆえに、まずい(・・・)

 

 この一名を除けば、いなかったに違いない。

 



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6 『強襲』

 ──大々的な強襲部隊の出発。

 それから、二日と経たない深夜のことである。

 門番は口許に手を当てて、あくびを抑える。

 ちょうど草木も寝静まった頃合いだ。人様が眠気に誘われるのも致し方ないと、彼は石造櫓で一人きりの時間を過ごしていた。暇を潰していたとも言える。

 夜風が鼻先を擽る。日中には恋しくなる涼だ。

 これが吹けば、勤務の鬱憤も多少は晴れるのだが。

 

(全く、最近は暑ぃ日が続いてんだよなあ)

 

 彼は欄干に肘をつき、ぼうと景色を眺めていた。

 居心地のいい夜だ。山並みが宵闇にひっそり沈み、星月の明かりがその上澄みに降り注いでいる。宵の底からは、精一杯の虫や野犬の鳴き声。決して(かまびす)しくない塩梅ゆえに、ついつい聞き入りかけてしまう。

 酒の一杯でも仰ぐにはいい雰囲気だ。だが、生憎と仕事中の飲酒は厳禁である。上司に見つかれば懲罰ものだし、そこまで彼は酒好きというわけでもない。

 ただひとつ、強い面白みがないのは事実だった。

 門番にとって、最大の敵とは眠気である。

 

(あの馬鹿はまだ帰ってこねぇし……)

 

 現在、話し相手だったはずの片割れはいない。

 一言「厠に行ってくる」と言ったきりである。あれは休憩を口実にして賭け事で遊んでいる最中だ。腹いせに連れ戻したいのは山々だったが、前回の当番の折には逆の立場だった。片割れに番を任せ、自らは仲間内で博奕に興じていた。文句は言えない。

 ──これも順番だ。次は俺の番だぞ……ったく。

 門番はまた、変わり映えしない景色を眺める。

 だが、睡魔の手にかかるのも時間の問題だった。

 うつらうつらと、幾度か舟を漕いでいると。

 

「おう、交代だ」

「あ? ……バルドーか。もう時間かよ」

「あいあい、お疲れさん。片割れはまたアレか」

「まあな。お前が真面目なんだよ」

「馬鹿、仕事だろうが。けっ、さっさと寝床に戻れ」

 

 門番は目元を指で擦り、背筋を思いきり伸ばす。

 いま肩を叩いたのは、次の当番たるバルドーだ。

 彼は同僚のひとりである。気安い遣り取りができるものの、格好や口調に似合わず真面目な性格で、いつも貧乏籤を引いている印象がある。上司から厄介事を押しつけられることも多い。不憫な奴だと同情できるが、肩代わりしてやろうとまでは思わない。

 自分とは同僚ではあるが、同類ではないからだ。

 

(融通ってのが効かねぇんだよなぁ)

 

 バルドーは実に口煩い。たとえば、門番の任をなおざりにし、交代制で遊惰に耽ることに小言を挟んでくることもままあった。ただ自分たちは、娯楽に対する飢えを、知恵を絞って潤していただけだというのに。

 ゆえに、門番の仲間内では彼が理不尽な目に遭うことも「真面目くんにはいい気味だ」と嘲笑える娯楽と化していた。ただ、最近はバルドーも諦めたらしい。いま突っかかって来ないことがその証左だ。

 門番は持ち込んだ椅子から重い腰を上げる。

 

(黙認してくれるぶんにゃありがたいんだが)

 

 どうやらバルドーは現状を憂いているらしい。

 それは、砦に残留した帝国兵たちの弛みぶりだ。

 だが、杞憂にすぎると門番は笑い飛ばす。

 

(一介の兵士風情が賢者気取りかってな)

 

 彼も、斥候から齎された戦況を聞いているだろう。

 曰く「連合国軍が流れ込む怪我人で手一杯」「アイリーン中将の活躍で甚大な被害を与えており、敵軍は非常に弱っている」「英雄級と呼べる人材がデラ支城に殆どいない」という報せは、末端の帝国兵たちにまで伝わっている。バラボア砦防衛に割り振られた彼らは、もはや吉報を寝て待つだけである。

 ──我らが無敵の帝国軍は勝利を手にした、と。

 ──圧倒的な力量差で敵支城を蹂躙した、と。 

 

(それに加えて、かの『六翼』ロズベルン中将が指揮の後を継ぐ予定も控えてるわけだし、このバラボア砦自体、致命的な欠陥もないんだぞ)

 

 ──どこに憂う余地があるのだろうか。

 現在のバラボア砦に充満する弛緩した空気。

 それは、これら要素が重なった結果である。

 門番は嘆息して、バルドーを胸中で嘲った。

 

「んじゃ、あとは頼むわ」

「ああ。悪い夢は見ないようにな」

「意識してできっかよ、んなこと」

 

 門番は肩を軽く叩いて、彼とすれ違う。

 もはや眠気が目元と背筋に凝り固まっている。

 早々に一眠りしたいところだ。しかし、帰りがけには片割れに声をかけねばならない。交代制である都合上、時間帯を合わせねば上司たちに露見する可能性が生まれてしまう。ここだけは怠けていられない。

 そのとき、背後から溜息が聞こえた。

 門番は物珍しさに思わず足を止め、振り返る。

 

「疲れてんのか? 溜息たぁお前らしくもねぇ」

「ああ。うちに来たガキが色々と言ってくるんだ」 

「そっちに配属されたガキ──ってえと」

「ソルって名前の奴だよ。あいつが最近ずっと妙なこと言ってくるもんだからよ、困ったもんだ」

「妙なことだぁ?」

 

 門番が眉を渋めると、バルドーは頭を掻いた。

 

「あー、たとえばだな。臨時指揮官殿が進軍していったあと、胸騒ぎがするだの何だのって。『数日中に奇襲が来るかもしれない』っつってな。用心しておけってことあるごとに言ってきてんだ」

「はは。んだそりゃ、予言者様かよ」

 

 件の幼女は、門番も既知の人物だった。

 そもそも、ソルほど悪目立ちする人間はいない。

 

「あいつは斥候の情報を聞いてないのか?」

「俺もそうなんだろうって思ったんだよ。来て日も浅いわ、孤立してるわでな。だから伝えちゃおいたが」

「効果は上がったかぁ?」

「それが全然でな。相変わらず、ちょこまか砦を歩き回るわ、備品を弄り回すわでナッドの奴がキレかけてたな。いや、完全にキレてた」

 

 バルドーはこめかみに指を当て、嘆息する。

 あの幼女は彼に押しつけられた厄介事の一つだ。

 身元不詳、年齢不詳の不審者。本人曰く「ダーダ村出身」らしいが、それも眉唾物だ。ダーダ村の領主邸宅は何者かに放火され、焼け落ちてしまっている。

 資料も名簿も藪の中。実際にあの幼女が農奴の娘だったかは不明なのだ、との噂は小耳に挟んだ。あるいは、連合国側の手勢かも知れないのである。

 だが、彼女の入砦は軽く認められてしまった。

 臨時指揮官殿の参謀曰く「奴に裏はない」らしい。

 彼の見る目とやらは一目置かれている。

 

(だから、拍子抜けするほど簡単に認められたって話だった。んで加えて、普段の言動か。あいつのズレた天然ボケさが『世間知らずの箱入り娘』って信憑性を上げたみてぇで、警戒心が薄くなってるっぽいな)

 

 ──幼女の転身には三つの理由が重なっている。

 そのひとつは、帝国の侵略を、あくまで義挙だと言い張るため。二つ目は、信に足る参謀のお墨つきを得たため。そして彼女の態度。これらを吟味して、受け入れたほうが利潤を見込めると判断したのだろう。

 彼女は大事な道具。ゆえに、美味しい役どころである砦防衛の班に配属された。デラ支城攻略軍に組み込まれた帝国兵からはきっと恨まれているだろう。

 ──つまりあれはただ運のいい奴と見るのが正解。

 ただ、あの幼女は胡散臭さにかかわらず、言動自体が奇人のそれのため、好んで近寄りたくはない。

 門番は少しばかり同情を込めて、彼の顔を見る。

 

「そらまた、面倒臭ぇのを持ったもんだ」

「まあこういうのにゃ慣れてるから問題ねぇがな。妹のガキの面倒見てんのも俺だしな」

「あー、確かにそうだったな」

 

 バルドーの視線の焦点が外れ、頬が緩む。

 その先に見えているのは──故郷の村で彼の帰りを待っているという、病気がちな妹と、その子供なのだろう。妹の旦那が早逝したあとバルドーが二人の面倒を見ているらしい。だが、収入は所詮一兵卒でしかない彼頼みだ。生活は貧しいの一言だという。

 だが、三人の幸せな暮らしぶりは有名だった。なにせ酒の席で、バルドーは延々と家族の自慢話を繰り返す。ゆえに彼と飲み交わせば、嫌でも知れることなのだ。門番も胸焼けするまで「妹の性格のよさ」と「子供の成長ぶり」を聞かされた覚えがあった。

 だから彼は厄介事の極めつけ(ソル)に親身なのだろう。

 きっと幼女を、妹の子供に重ねているのだ。

 ともあれ、彼の家族の話になれば長くなる。

 門番は眠気に押されて、切り上げにかかった。

 

「かー幸せなもんだな。独り身の俺からすりゃ妬けちまう話だ。惚気られる前に、俺はお暇させて──」

「ちょっと待て……あれは、何だ」

 

 息を詰まらせた声には冗談の色はなかった。

 門番は何事かと欄干に乗り出し、視線の先を辿る。

 すると、門前の松明には幾つも人影があった。

 こちらを見上げる小隊規模の騎馬集団だ。

 およそ五十人ほどだろうか。彼らは黒衣を目深に被っているため、頭上からは人相が見えない。服装の切れ目から装備のみが目視できる。それ自体は帝国軍で一般的に支給されているものだ。この集団の後方には、暗幕の降りた荷馬車が二台ほど駐車している。

 門番は「夜回りの帰りか」と軽く考えた。

 だが、隣のバルドーは厳めしい顔つきのままだ。

 

「そこの小隊、止まれ! 所属はどこだ!」

 

 バルドーは目の覚めるような大声で誰何を問う。

 その声音は、威圧感を醸すほどに刺々しい。

 それで門番も違和感に気づく。そういえば、小隊並みの人数で夜回りするわけがない。砦に残留した兵士の二百。その人員の二割五分を割いて、深夜に歩き回らせるなどあり得ない。荷馬車の存在も不可解でしかない。夜間警備にしては実に大仰すぎる。

 辺りに緊迫感が張り詰めた。筋肉が強張る。

 門番は生唾を呑んで身構えつつ、返答を待つ。

 ややあって、小隊先頭の大柄は声を張り上げた。

 

「ドーネル少将の使いの者だ! 参謀サンソン・ハーパリア殿に重要伝達事項を届ける傍ら、取り急ぎ、不足分の食料調達を受けに、ここへ馳せ参じた!」

 

 その返答に、門番は胸を撫で下ろす。

 ドーネル少将。この砦を統べる臨時指揮官の名だ。

 強襲部隊を発案して、組織した張本人である。現在は現場指揮のために砦を離れている。その使いというならば、小隊規模でもさして不思議ではない。もちろん伝達事項のみを担っていたのであれば大人数すぎるが、食糧運搬にかける人数と見れば妥当だろう。

 ただ、門番はそこから戦況に思いを馳せる。

 わざわざ砦まで食糧補給に戻った。つまり事前に見込んでいた継戦日数の超過を意味する。どうやら現場では長期戦の目処を立てたと見える。デラ支城に集った敗残兵たちが、思いの外に足掻けているのだろう。

 ──『人類最強』に負けてまだ折れてねぇのか。

 

(まあ、あちらさんも精々頑張ってくれよな)

 

 まず開門しようと動き出すと、手で制される。

 不意を打たれ、その主たるバルドーに目を遣った。

 彼は黙したまま頷くと、階下の小隊に叫ぶ。

 

「その黒衣をとって、面を見せてもらえるか!」

「おいバルドー……」

 

 門番は虚を突かれ、バルドーを小突く。

 この問いは無意味だ。入砦した千人以上もの帝国兵を記憶できている者はいない。此度の戦に駆り出された農民や新兵は膨大。顔馴染みでもなければ、顔も名前も一致しないだろう。ゆえにバラボア砦では、所属する隊の責任者の名前を合印にしているのだ。

 まして、厳戒態勢も敷いていない今なれば。

 

(ガキの妄言を真に受けたんじゃねぇだろうな)

 

 ──連合軍が数日中に奇襲を仕掛けるだろう。

 予言者気取りの台詞だ。まさに子供の戯言である。

 そんな門番同様に面食らったのだろう。

 騎馬集団は答えに窮したかのように黙り込む。

 闇を沈黙が支配し、再び緊張感が漂う。

 

「了解した。では仕方ねェ……」

 

 先頭の大柄は応じるように自身の頭巾を掴む。

 それに倣うように、小隊全員が各々引っ掴んだ。

 次の瞬間には、宵闇に黒衣の群れが舞う。

 視界を奪われた門番は瞠目する。彼らは一斉に纏っていた外套を放り投げたのだ。それらが暗幕の役割を果たし、俯瞰視点からは彼らの素顔が見えない。

 門番が当惑の声を上げかけた瞬間──。

 

「真正面から喰い破るぞッ。この場に再び、我らがラプテノンの旗を掲げるのだァ!」

 

 ──強烈な衝撃が櫓を揺さぶった。

 門番の口から呻きが漏れる。不意を打つ振動に堪えきれるはずもない。重心の制御が崩されて、背後に転がる。尻餅をつくと、水面の波紋めいた鈍痛が身体中に響いた。その一瞬、首だけは必死に起こした。石床に後頭部を打ち据えてしまえば気絶一直線である。

 いち帝国兵として、それだけは避けねばならない。

 現在、異常事態に襲われている最中なのだから。

 

(な、な……何事、だよッ!?)

 

 門番とて帝国軍人の端くれだ。

 前転の勢いで立ち上がって、体勢を立て直す。

 そして勢い任せに、欄干から身を乗り出した。

 この揺れは天災か、否、答えは単純明快。

 騎馬集団の一人が(・・・・・・・・)門を全力で(・・・・・)蹴飛ばしたのだ(・・・・・・・)

 

(うそ、だろ)

 

 門番の顔色が蒼白に塗り替わっていく。

 眠気は覚めたが、悪夢の只中にいる心地だ。

 黒衣が落ちた眼下では事態が進行している。騎馬集団は馬から降りて、控えていた荷馬車から各々武具を取り出していた。それとは距離を置いた、砦門付近に佇む巨漢は、騎馬集団の先頭にいた男だ。

 門番も知る顔だ。あの面相を見紛うことはない。

 松明の火に照らされる姿形は酷く特徴的だった。

 獅子の鬣を思わせる煤けた金髪、膨張した筋肉は装甲めいている。そして鼻下で形の整った髭を蓄えた巨漢が、亀裂の入った砦門に片足をついていた。彼は背後を見遣りながら片手で──先刻まで黒衣に覆われて目につかなかった──幅広の大剣を握っている。

 この特徴に該当する者はたった一人だけ。

 ラプテノン王国が喧伝する新進気鋭の英雄。

 

(名前はボガート・ラムホルト、だったか……)

 

 驚愕すべき事実はそれだけに留まらない。

 この集団には、名だたる猛者が混じっていた。二十年前から最戦線に立つ古兵、門番の上司の首を撥ねた女、宗教者の恰好した痩身の魔術師、いずれも王国で武を振るう精兵たちである。そしていずれも、デラ支城に派兵されたという情報のない(・・・・・)者ばかり(・・・・)だ。

 門番は足下が崩される幻想に囚われた。

 

(いや、つまり……まさか……!?)

 

 ──これは楽に昇進できる好機だったはずだ。

 今宵まで抱いていた甘い想像が瓦解していく。

 門番が慌てて警鐘を鳴らす横で、バルドーは叫ぶ。

 

「敵襲だ! 連合側──奴ら、少数人数で砦を落とし(・・・・・)に来やがった(・・・・・・)っ!!」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「遂に始まったようじゃな」

 

 砦内で鳴り響く警鐘に、ソルは瞼を開く。

 兵舎の天井から砂埃がはらはらと舞い落ちる。

 遠くに木霊する、断続的な爆発音。室外で駆けずり回る帝国兵の足音がけたたましい。砦と併設された兵舎の角部屋からでも、狂騒ぶりは十分に伝わった。

 微細だが建物も揺れており、地鳴りを想起させる。

 同室で仮眠中だったナッドも飛び起きた。

 いまは目を白黒させて「何だ、何が……」と呟きながらも窓から状況を窺いつつ、鎧を装着している。この点は流石だった。伊達に士官学校の出ではない。

 しかし、光源は月明かりと室内の蝋燭のみ。

 外界の様子を満足に見通せず、歯噛みしている。

 ずっと踵で床を叩いているのは苛立ちの表れか。

 

(焦りは禁物。状況と情報整理に行こうかのう)

 

 幼女は、焦燥に駆られる彼とは対照的だった。

 硬い寝台の上で、寝巻きのまま胡坐を掻いている。

 汚れた薄布と下穿き姿から着替える様子もない。

 その裾からはみ出た内腿を、ぷにぷにと抓る。

 

(連合側も短絡的な策に出てきたのう。奇襲の目的も不明瞭ときた。なんとなく不穏じゃな)

 

 連合側には以前、雇われていた経緯がある。

 その関係上、デラ支城には一週間ほど滞在した。ゆえにソルは、帝国側の斥候の持つ情報が正しいと知っている。たとえば支城の収容人数の程度や、目ぼしい猛将が配置されていないことなど。その当時に強烈な肩透かしを喰らったがゆえに、鮮明に覚えている。

 だが、それも頷ける話だった。戦地に『人類最強』が出張るという情報を先取りしていれば、人材を惜しむのは当然のことだ。だが、此度はさにあらず。

 いまバラボア砦に奇襲を仕掛けている存在は──。

 状況から察するに『英雄級の人員』だ。

 

(まず、仕掛けてきたのは少数精鋭じゃろう。大軍を引き連れて攻め込むには渓谷が狭すぎる。迂回路を辿るにしても、帝国側の強襲軍と鉢合わせる。……しかし、少数人数で砦を落とすなど普通ならば夢物語)

 

 攻城戦の定石は多人数を仕向けることだ。

 基準としては防衛側の三倍程度の兵力だろう。それだけ用意すれば趨勢は傾くとされる。投石器を設えるにせよ、破城槌で門を抉じ開けるにせよ、調略するにせよ、兵糧攻めにせよ、人数が必要なのだ。

 基本的に戦いとは数。実力差は頭数で補える。

 だが、英雄の立つ戦場でそんな常識は通用しない。

 所詮は凡人同士の間だけに成立する浅知恵だ。

 所謂『英雄級の兵』の個人戦力は数百人分。師団規模の軍隊に数人で挑み、壊滅させた事例すら存在するのだ。選りすぐった少数ならば、十把一絡げの大多数を蹴散らせる。ゆえに、いまバラボア砦に仕掛けてきた奇襲兵が精鋭揃いならば無謀ということはない。

 更に、勝敗の天秤を傾ける要素として──今宵の舞台たるバラボア砦がある。ここは元来、連合側の城砦なのだ。内部構造を知り尽くされているため、敵兵を惑わす入り組んだ通路は意味を為さない。

 むしろ、奪取して日が浅い防衛側が不利だ。

 

(この奇襲については予兆があった。こんな姿と身分ゆえに、相手にはされんかったが。……なにせ確信した理由がわしの経験に基づく勘じゃ。まあ子供の悪寒めいた感覚を、誰も信じるわけがないのう)

 

 ソルが他者より長ずるものは時間だ。

 これまで砂粒を食むような歳月だった。六十五年ぶんのそれを貪り、単身に蓄え、ついぞ生涯という砂時計の中身は落ちきってしまった。だが体内には時砂の量だけ『経験』が積まれた。これは凡人にとって値千金の武器である。ソルが過酷な戦場で生き永らえてきた要因は、何も並外れた悪運だけではないのだ。

 たとえば、度重なる反復練習で培われた反応速度。

 そして猛者たちを観察、研究した末の経験則だ。

 似た出来事の記憶が先の未来を想像させる。

 謂わば、鋭敏な危機感知能力──勘である。

 これがソルの数少ない武器のひとつだ。

 

(しかし、困ったものじゃのう。連合側の強襲を相手に万全という支度はできんかった。もっとも、一切の用意がない……とは、言わん。ナッドの監視もあったゆえに一人でできることは少なかったが)

 

 ソルは寝台の下から装備一式を引き出した。

 帝国軍の支給品ではない。バラボア砦の雑木林に隠しておいた品々だ。巡回任務の折に触れて、こっそり持ち込んでいたものである。ナッドには目敏く見られたとき「ガキが。ガラクタ拾って喜びやがって」という冷めた視線をもらったが、それに留まった。

 内訳は、使い古しの剣と死体から剥いだ装備品。

 ただ寸法が合わず、剣以外を収納しなおす。

 

「うむ……」

 

 小さな手で古びた剣を握る。

 背筋を伸ばす剣身と、燭台の灯を照り返す刃。

 柄に巻かれた、血の滲む包帯が手に馴染んだ。

 実に不思議な話である。すでにソルはこの剣を握ってきた手の形ではないというのに。指先から伝う感覚は依然として心地良い。まるで姿形が如何に変わろうとも、魂が剣を、剣が魂を覚えているように。

 これが、共に戦場を渡り歩いた相棒である。

 この相棒は三代目。初代は十代後半で呆気なく折れてしまい、二代目は三十代半ばで盗まれた。それに続く大事な無銘の剣だ。寄り添って生きて三十年にもなる。この三振りを打ち続けた鍛治師は、いまも壮健だろうか。幼女はらしからぬ感傷に浸ってしまう。

 だが、痺れを切らした大声が引き裂く。

 

「お前、いい加減にしやがれっ! さっきからぼうっとしやがって。状況がわかってんのか!? 悠長にしてる場合かよ!? いま襲撃されてんだぞ!」

「……わかっておるのじゃ。少し待っておれ」

 

 ──ゆえにこそ、焦ってはならんのじゃ。

 そんな説教は飲み込む。ソルは学ぶ幼女だ。

 とりあえず身支度に取りかかる。枕元にあった二尺の紐を口に咥える。後頭部に手を回し、純白の長髪を縛る。これが戦に臨むときの作法だ。髪は束ねていなければ、風向きや動作次第で視界を塞いでしまう。若い頃の失敗はこうして生かされているわけだ。敗因が神の手でなく髪のせいでは笑い話にもならない。

 そして幼女は手慣れた動作で身を包んでいく。 

 高揚する精神を冷ますため、手つきは緩やかに。

 支給品の具足、手甲、軍靴……と。

 

(焦れば判断を見誤る。それは、わし自身が己の武器を封じることに同じ。思うに任せた攻撃で突破口を開くことのできる才覚、というか実力を、わしは備えておらんからのう。それに)

 

 凡人にとって戦の一々が死出の旅路と同義だ。

 もう次はないかもしれない。歴戦と言えるソルであれど、戦に身を投じる直前は重圧を感じる。戦には、死には、いまだに慣れていない。慣れるべきものでもないのかもしれない。ソル自身はそう思っている。

 そのとき、踵で床を叩く音が速度を上げる。

 暗に「早くしやがれクソガキ」と言われている。

 少し動作を早めて最後、腰に三代目の剣を差す。

 気が引き締まる心地を覚えながら、視線を遣る。

 その先は、眉を曇らせて顔面蒼白のナッド。

 

「先輩。こちらの支度が終わりましたのじゃ」

「そ、そうか。準備、できたか……っ」

「見るだに吐きそうじゃが」

「うっせえ、クソ。俺は大丈夫だ。ああ、クソったれ、俺は大丈夫なんだ……ちくしょう何で俺がこんな役目を与えられなきゃなんねぇんだ。死ねってのか」

 

 彼は、ぶつぶつと念仏を唱えている。

 表情が百面相のように移ろい、さながら舞台の道化方だ。それも詮方ないことである。ナッドにとっては初戦場。本来なら鉄火の間を潜るはずだった戦は『人類最強』による蹂躙で幕を下ろした。そのまま安穏と日々を過ごせる。そう油断していた矢先に襲撃だ。

 ──背中でも擦ってやれば落ち着くかもしれん。

 そんな親切心が首をもたげ、背後に回る。

 

「……手が届かんのう」

「なんだよお前……殴られてぇのか!」

「っ、っ、っ」

「どうやら本当にボコボコにされたいらしいな」

 

 爪先立ちをしてみたが届かない。

 小柄な幼女の身体とは不便なものである。

 

(こうなれば、落ち着くまで待ってはいられんな)

 

 一度は水を差された状況分析を継いだ。

 ナッドを見る限り、彼は蟄居する線が濃厚だ。

 身支度を終えたはずが、彼の足は外に向かない。

 視線は所在なく揺らぎ、散漫な足取りで室内を彷徨くばかり。おそらく焦燥感に炙られた精神の置き所を図りあぐね、本能的に発散しているのだろう。だが、外に飛び出すことはしない。明確に発散法を選んでいる証拠だ。たとえば時折、首を伸ばして窓外を見遣る動作には怯懦の色が強い。殻に籠る亀に似ている。

 遂には、寝台に腰掛けて頭を垂れてしまった。

 統合すると、ナッドは緊張と恐怖に縛られている。

 無理に連れ立てば、互いが不利益を被るだろう。

 ソルは木扉に向かいつつ、ひとつ声をかける。

 

「わしは行くからのう。落ち着いたら来るのじゃぞ」

「あ……ああっ? な、なんでお前、馬鹿っ」

「すまぬが、ぬしとは一緒にいてやれん」

「だっ……誰がそんなこと頼んだっ! 俺を馬鹿にするのもいい加減にしやがれっ! 黙って、勝手に死にに行けばいいだろうが!」

 

 幼女はそんな暴言をどこ吹く風と受け流す。

 頭のなかを占めていたのは、今後の方針である。

 防衛側と合流するか。または独断で動くか。

 そして、火のついた向学心に精神を賦活される。

  ──ああ、此度の戦でどれだけ学べるじゃろう。

  ──どれだけ高みに行けるじゃろう。

 

「楽しみじゃなあ」

 

 ぽろりと呟いて、廊下に足を踏み出した。

 この、つい出てしまった他愛もない独り言。

 幽かな声は喧騒で消えるはずだったが──。

 幼女が去った部屋で、ナッドは呆然としていた。

 開け放たれた木扉を凝然と見つめ続けて。

 声すら、震えて。

 

「いま……なんて、お前……」

 

 



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7 『気高き重装騎士』

 現在、バラボア砦では厳戒態勢が敷かれている。

 その威容は宵闇の手を寄せつけない。砦中の灯籠の火は惜しみなく灯り、怒声と剣戟、破砕音が静寂を裂く。闖入客の登場を慌しく出迎える様相は、さながら大規模な饗宴の一幕である。ただし振る舞われるのは酒ではなく血液。散じて、床に滲み込んでいく。

 激戦の舞台はすでに砦内部へ移行していた。

 連合側の強襲部隊は四手に分かれ、食い荒らす。

 ボガートを始めとする『英雄級の人員』が加わったそれに、起き抜けの帝国兵たちは為す術もない。決死の応戦虚しく、進撃は苛烈を極めていく。

 だが、帝国側も拱手傍観に徹してばかりではない。

 砦防衛組は、腐っても昇進が内定した者たちだ。

 それに見合うだけ実力者たちが揃っている。

 たとえば、内部構造を活かす策があった。この砦には建築時点から、侵入者を迎撃する工夫が幾つも施されている。その一つが内部通路の入り組みようだ。通路すべてが不規則な位置で道が分かれている。枝木めいた構造は、ひとえに死角を増やすためである。

 意図的な死角から、通りがかる者の不意を突く。

 それが実践されているのは東側の一角。

 

(全く。帝国軍も浅知恵を巡らせるものである)

 

 一人の男が血塗れの通路を闊歩していた。

 彼はテーリッヒ・ガルディ。階級は大尉である。

 御年四十六にして強襲部隊の頭領格の一人だ。

 ひときわ異彩を放つのは纏う装備だった。ひと昔前の重装騎士姿。鈍色の仰々しい甲冑で全身を覆い、腰元には一振りを収めた鞘が吊られている。歩くたびに装甲同士が接触し、甲高い軋みを上げていた。表面に滴る鮮血も落ちて一直線の血道を伸ばし続ける。

 この重装備は強襲部隊にそぐわない恰好だ。

 強襲で得られる優位性は速度。ゆえに俊敏さを捨てた姿は非合理的とも言える。加えて、その大柄な身体つきは室内戦に向いているとは言えない。

 当然、テーリッヒはそれを承知でいた。

 

(何にしても『使い方』が存在するのである)

 

 テーリッヒが歩を進めれば、仰々しい音が鳴る。

 それに引き寄せられた気配は五つ。通路を挟んだ左右の暗がりから発せられている。きっと算段としては目配せを送り合い、機会を見計らって一斉に飛びかかるつもりなのだろう。視界外だが、城砦の内部構造を知悉していれば予想するのは容易い。

 一歩、二歩──三歩目を踏んだ瞬間だった。

 果たして、五の人影が一気に襲いかかってくる。

 彼らは重装備の隙間から刺し貫かんとする。

 

「ここは、ラプテノンの庭である」

 

 すでにテーリッヒは前方に踏み込んでいた。

 鞘鳴りとともに解き放った刃が煌めく──速い。

 

「占領したての砦は、さぞ使い辛かろう」

 

 伏兵の五閃が届くより先に、直剣が五人を襲う。

 銀閃は正確無比な軌道を描いた。真実、そこに寸分の狂いもない。五つの首筋が斬り裂かれて、赤色の雫が舞う。そこを疾風が駆け抜けたあと、ぐらりと屍が倒れ伏した。鼓膜に遅れ馳せた音はただの一度。

 この一度に込められたのは幾重もの金属音。

 それだけが重装備のしがらみを思い出させた。

 彼は着地すると、剣身に滴る血を振るい落とす。

 手慣れた動作で鞘に仕舞い、前進を再開する。

 

(失敗は許されない。帝国の鼻を明かす、千載一遇の好機である。否、我らからすれば最後の機会。一度失敗した我らには、もはや後などない)

 

 テーリッヒは苦々しく己の命運を呑み込む。

 彼は二十年以上も戦場に立つ古兵。その武勇はラプテノン王国では語り草になっている。だが三年前から体力の衰えを感じ、第一線を退こうと思案していた。

 先日の戦場は、退役前の仕事になるはずだった。

 本来ならばデラ支城で指揮官を担うはずだったところ、腕を買われて、特殊任務を負った部隊に配属された。秘密裏に動いていたその計画とは、退役前の大仕事として飾るには、あまりに華々しい大任だった。

 だが結局、計画は頓挫し、第二計画に移行した。

 それが此度の強襲作戦である。

 

(元より、帝国側に情報が流れないよう内密にしていた計画である。協調相手のビエニス王国にすら気取られておらず、強襲には適した部隊であるからな)

 

 目的地に向かって、着実に歩を進める。

 思い返すのは、内部構造と計画手順だった。

 彼は砦東部の『魔術房』を襲う手筈になっていた。

 魔術房とは城砦や街における守備の拠点だ。一定範囲を覆うように展開する『結界魔術』──つまり、衝撃を緩和する魔術。その維持を司る特別室である。

 彼は足を踏み入れるたび「奇妙な空間だ」と思う。

 天井、壁、床に魔法陣が描かれた密閉空間。そこには専門の魔術師が交代制で詰めているか、もしくはマナ結晶と呼ばれる代用品が安置されている。

 維持に必要な魔力を提供せねばならないのだ。

 

(この技術は『英雄』が蔓延る前まで、あまり見向きもされなかった技術であるがな。現代では魔術的な保護のない建物なぞ役に立たん。石造の砦すらも砂上の楼閣同然だ。…… 力ずくで塵芥にするという方法で、単独の砦攻略を成し遂げられかねん)

 

 そんな理不尽を防ぐための魔術房である。

 魔術で脆い城砦を補強するのだ。当然ながら強度に限りはあるがゆえに、圧倒的な力業で打ち砕かれる場合もある。たとえばバラボア砦の砦門など、最終的にはボガートの一撃と攻撃魔術の連撃で突破された。

 だが魔術房の有無による影響は大きい。そこが敵方の手に落ちれば、白旗を上げる以外の道はない。もしも結界魔術がなかったのなら、強襲開始を告げた一蹴りで門ごと砕け散っていたに違いない。

 すなわち、魔術房とは城砦における枢要。

 防衛側の心臓部とも言い換えられる。

 

(だからこそ魔術房の位置とは極秘である)

 

 バラボア砦での位置は典型的なそれだ。

 魔術房は全部で四箇所。それぞれ東西南北に分けられている。この配置の理由は「魔術供給の配分として全体に行き渡りやすくするため」でもあり「敵戦力を分散させるため」でもある。本来ならば、内部に形成された迷宮構造も併せて、厄介なはずだったのだ。

 ──攻城側が砦の内部を熟知していなければ。

 

「手応えもなし。消化試合であるな」

 

 テーリッヒの周囲では銀閃が円弧を描く。

 それは紅色を散らし、肉を引き裂き、待ち構えていた帝国兵たちの命を刈り取った。鎧袖一触を地で行く進撃は、着々と目的地に徒歩の速度で進んでいく。

 彼は手勢を引き連れていない。貸与された小隊規模の王国兵は後方に控えさせている。余計な闖入者を阻むため、通路を堰き止めてもらっている。手狭な通路で大人数を伴うことは、足枷にもなり得るのだ。

 ──この先は単独のほうが安泰である。

 彼には確たる自負があった。戦場を生き延びた二十数年という年月は、伊達や酔狂で積み上げられるものではない。それは自信となって心に降り積もる。

 だが万事上首尾な段取りに反して、嘆息した。

 

(あの魔術房まで辿り着けば、私の役目は終わったも同然。華々しい終幕──とは行かぬまでも、大事な務めは果たしたことになる。二十年の終止符まで、そろそろである)

 

 血飛沫の散った廊下で伏した若兵を越える。

 次第に、通路の突き当たりが視界に映り出した。

 そこには、ひときわ頑丈な扉が待ち受けている。表面に刻まれた魔術的な模様──規則的な線と、特殊な文字の羅列で構成されている──を見て、頷く。

 あれこそが東部魔術房の扉。目的地に到着した。

 彼は一抹の寂寥感と、ひとまずの安堵を覚える。

 そして寸瞬だけ緊張が緩み、隙が生まれた。

 

「……ッ!?」

 

 そのとき背後から通路に吹き抜ける一陣の風。

 否、否だ。それは乱れ舞う白刃である。

 突如として襲いかかる斬撃の嵐に、足が止まった。

 見事に意表を突かれた。だが何の捻りもない奇襲に命を遣れるほど、テーリッヒは甘くない。前方に身体を飛ばすと同時に鞘から鋭く抜剣。瞬時に右脚で床を踏み締め、丹田に重心を落としながら腰を捻る。咆哮を上げ、振り向きざまの一閃が振るわれた。

 咄嗟の迎撃ながら渾身の力が籠もった一撃だ。

 

「はあああッ!」

「ぬぅ──ッ」

 

 果たして、刃物特有の甲高い悲鳴を上げて激突。

 テーリッヒは鍔迫り合いを一瞬で制すと、流すような銀閃で襲撃者を弾いた。どうやら相手は地に足がついておらず踏み止まれなかったようで──三丈ほど吹き飛ばされる。しかし中空で姿勢制御を抜かりなく行い、両足での接地に成功していた。そのまま足裏と床との摩擦で余勢を削ぎ落とし、前傾姿勢で止まる。

 そうして襲撃者たる、小さな影は顔を上げた。

 通路に等間隔に並んだ灯で、正体が露わになる。

 

(……(わらべ)、か?)

 

 にわかには信じられなかったが間違いない。

 どれだけ目を凝らそうと、それは幼女だった。

 容姿からは北国に降り積もる雪を連想させる。きっとひとつに括られた白髪や、陶器めいた素肌の印象に引きずられているのだ。その顔立ちはあどけなく、十にも満たないだろう年相応に身体は小さい。

 だが、雪の妖精なる可愛らしい印象は皆無だ。

 彼女には物騒な歪さが上塗りされている。

 黄金色の瞳に宿っている『強烈な意志』。表情を引き締める『研ぎ澄まされた殺意』。矮躯に不釣り合いな『帝国軍の装身具』。彼女のすべてが不自然極まりなく、思わず目を疑うほどに歪であった。

 そして何より面妖さを醸し出すのは──血。

 身体を斑らに染め上げている紅色だ。

 

(童には外傷が見当たらん。と言うのに、大量の血液が髪や装備に付着している。間違いなく返り血の類いであろう。童の来た方向を鑑みれば……もはや、通路の阻塞は突破されたと見るべきであるか)

 

 驚くべきは、その兆しが一切なかったこと。

 奮戦には付き物の()がなかった。力量が釣り合うだけ長引き、熾烈さを増す戦闘音がない。更にテーリッヒの元には誰一人として逃げ果せていないことも不可解である。手に負えないならば、全霊で伝令を発すように教育したはずが──それもなかった。

 刹那に思考が垂れ落ち、熱い唾を飲み込む。

 まさか電光石火の勢いで圧倒したのだろうか。

 

(だとすれば、この若さでは異例の才能だ)

 

 彼は抜き身の剣を構え、敵方を見据える。

 何にせよ、見目に謀られるわけにはいかない。

 どんな相手であれ油断は許されないのだ。

 

「不思議じゃのう。なぜここにおる」

 

 幼女がぽつりと口を開く。

 その口調は、舌足らずの声色と乖離していた。

 

「テーリッヒ・ガルディ大尉。ぬしは裏方仕事に割り振られる男ではなかったと記憶しておる。やはり、ぬしらは奇襲部隊というより強襲部隊なのじゃな」

「……私を、知っているのか」

「一度でも学ばせてもらった相手を忘れるものか」

 

 それは彼からすれば謎めいた物言いだった。

 はて、と眼前で構える幼女に目を凝らす。

 戦場経験を下に、教官職に就いていたことはある。

 だが、やはり見覚えはない。王国の士官学校では、こうも年端もいかない教え子はいなかった。加えて彼女の立場は帝国兵。面識があるとは思えない。

 きっと心を乱すために法螺を吹いているのだろう。

 結論すると、それ以外の無駄な思考を断ち切った。

 そして剣の切っ先を床に突くと、声を上げる。

 

「知っていれど、改めて名乗らせて貰おう。私はラプテノン王国軍大尉『最後の騎士』の名を預かるテーリッヒ・ガルディである。そちらに名乗りはあるか?」

「……わしは、これまで単なる根無し草」

 

 幼女は、その朗々たる決まり文句に呼応した。

 彼に倣うように切っ先を下に向けて、名乗る。

 

「しかし、いまや帝国軍の平兵士の──ソルじゃ」

 

 剣先で音を立てて、その儀礼的な行為を終える。

 ──己が命を預ける剣の切っ先で床を突く。

 これは衰退して久しい『一騎打ち』の作法だ。

 もはや時代の波に攫われ、底に沈んだ文化である。

 廃れる要因は両手に余るほどあった。集団戦術の発展に加え、動員される大規模兵力との兼ね合い、遠距離攻撃魔術の発達と、英雄の台頭。それらが後押しした結果、騎士という階級とともに廃れてしまった。

 ゆえにテーリッヒは喫驚を露わにしてしまう。

 まさか幼女に正しい作法を返されるとは思わない。

 今時、一騎打ちの作法を知る者は少ない。その上で応じる者など一握りだった。命の遣り取りの最中で敵方に礼を尽くすことは難しい。若人であるほど戦功に逸って、儀礼を土足で踏み荒らすように襲いかかる。

 だが、目前の謎めいた存在は違った。

 

(礼を失さず、私に挑むというのか。童よ)

 

 この作法に則る理由は個人的な矜持によるものだ。

 ガルディ家は代々、誉れ高い騎士の家系だった。

 だが時代とは移ろうもの。戦場の常識が塗り替えられるたびに形骸化が進み、遂には王国において騎士という階級は消滅した。そして貴族階級に併合されたあと、戦場からも遠ざかった家が大多数を占める。

 現在も騎士階級が存在するのは帝国だけだ。あれは現役の『六翼』の一人が、騎士たちを英雄と張り合えるだけの精強な軍勢に仕立てられるからこそだ。もちろん、時代の流れに抗える横紙破りはそういない。

 先祖たちのような騎士は王国から消えてしまった。

 テーリッヒの纏う重装騎士のごとき出で立ちも、一騎打ちを望む姿勢も、すべてが過去の遺物。時代に取り残された無意味の塊である。それでも彼はずっと胸を張って、騎士の真似事をし続けていた。

 その理由は問われるまでもなく、憧れからだ。

 両親から、そのまた両親から受け継がれてきた騎士の血筋。子供の頃から先祖たちの偉業を聞くたびに心を惹かれ、彼らの高潔な有り様に憧れてきた。

 だから彼は、礼式に則った幼女に好感を抱いた。

 

(ソル、ソルか。しかと覚えておこう)

 

「──その志に感謝するのである、ソルよ」

「感謝されることではないのじゃ。問われたから応じたまでのこと。わしの事情を言えば、時間も惜しい身の上じゃ。開始の作法は略式で構わんか?」

「了解である。事情は私も同じ、多くは望むまい」

 

 紅蓮を揺らす松明の下、対峙する影は二つ。

 片や、王国最後の騎士たるテーリッヒ・ガルディ。

 重武装の甲冑を鳴らし、全身から闘気を上らせる。

 片や、単なる一兵卒の幼女たるソル。

 血染めの剣を構え、鋭い眼光に闘志を滾らせる。

 ソルの提案した、略式の開戦方法は明快だ。

 ただ、互いに初撃は真正面に打ち込むこと。剣身同士の交わる金属音こそが、戦闘開始を告げる銅鑼の音というわけだ。ゆえに、互いを見定める静の時間が終わるのは一瞬。唐突に打ち切られることになる。

 そうした果てに、先手を取ったのは──。

 

「行かせて貰おうッ──!」

 

 テーリッヒ・ガルディは渾身の力で踏み込んだ。

 たった一歩。それだけでソルとの間合いを埋める。

 彼は重装備で固めた巨躯を軽々と駆動させ、抜き身の剣で横一閃に薙ぐ。待ち構えていた幼女も剣を一直線に振るう。見目に合わない古びた剣が宙を裂き、甲高い金属音をもってして鋼鉄は交じり合った。

 ──かくして、騎士と幼女の一騎打ちが成立する。

 東部魔術房を巡る戦端が開かれた。



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8 『交わる兵刃』

 ──夜闇を背にしたバラボア砦。

 赤々とした光が夜闇を押しのけている。

 灯火に舞うのは粉塵。城砦からは白煙や火炎が立ち昇る。怒声や爆発音に伴って、烈々たる金属音が周辺に響き渡る。攻防は夜が深まるほどに一層その激しさを増し、砦内では多種多様な戦場が形成されていた。

 魔術師たちが熾烈に持ち前の魔術を撃ち合う戦場。

 帝国軍の同輩たちが手に手を取り合い、敢然と強襲軍に立ち向かう戦場。あるいは逃亡者の戦場。城砦からの脱出を図るも、待ち構えていた強襲軍に呆気なく命を絶たれる者もいる。そして、すでに戦場跡と化した──屠殺場同然となった回廊を一人行く者もいた。

 そのただ一人の勝者は歩を進めて、呟く。

 

「……帝国は『六翼』無しじゃ格落ちってワケだァ」

 

 また、ある一角では臆病者が己と戦う戦場もある。

 新兵は恐怖で二の足を踏み、震えながら葛藤する。

 外の喧騒に怯えるように寝台の上で身体を丸めて。

 

「クソ、何で……俺ばっかりこんな目に……!」

 

 戦場とはいずれも残酷な側面を切り出すものだ。

 人の生き死にに限ったことではない。極限状態であるがゆえに、普段は社会性で糊塗されていた残忍性、人間的な脆弱性、それらが根差した不実が曝け出されてしまうのだ。一皮剥けば獣同様、本能に身体の一切を委ねてしまう。それは生物として当然の帰結である。

 だが、その渦中にあって信念に基づく者もいる。

 一対一。およそ戦場に相応しくない形態の戦闘。

 互いに剣の一振りを携えた、剣士二人の一騎打ち。

 苛烈な剣戟が、ひたすら真摯に交わされる。

 

「ふッ」

 

 重装騎士は呼気を噴き、乾坤一擲の一刃を振るう。

 繰り出される速度は図体に似合わない。さながら吹き抜ける風を想起させたそれは、容易く人体を切断せしめる威力を秘めていた。その場に滞留する空気に、わずかで曖昧な情に、斬撃の一線だけを残してゆく。

 だが、標的の息の根を止めることはできなかった。

 血染めの幼女の双眸は剣筋を確と捉えていた。わずかに手の角度を変え、自前の剣をその軌道上に滑らせる。器用にも最小限の動作で防御に回ったのだ。

 金属音が響く。しかし威力を相殺できていない。

 幼女は波濤に飲まれるように剣を弾かれて──。

 

「おも、いッ……のう!」

「覚悟は問わんぞ」

 

 その一言を挟んだときには斬撃は振り抜いていた。

 幼女を首筋から完全に二分した──そう確信した。

 テーリッヒは長年の経験則を反芻する。防御に転じる者には多かれ少なかれ慢心が付き纏うものだと。回避を選択せずに己が生命を防御手段に預けた時点で、攻め手の力量の多寡を括ってしまっているのだと。

 この想定と現実が乖離していれば致命傷にもなる。

 咄嗟に守りに入った時点で彼女は敗着していた。

 

「……ぬしの、癖は」

 

 しかし、あるはずのない舌足らずの声が響く。

 テーリッヒは一驚を浮かべ、凝然と標的を見る。

 彼女は剣筋に対して上体を逸らしていた。両脚は地面から動かさずに脇腹を張り、背を反らす。つまり防御手段を弾かれて、なお的確に紙一重で躱していたのだ。ここまでが織り込み済みだったかに思える回避。

 幼女は姿勢を変えず、彼を目線だけで捉えると。

 

「手応えを覚えると、わずかに隙を見せること」

 

 ──テーリッヒは咄嗟に剣刃を斬り下ろした。

 それを見越していたかのように矮躯は身を翻す。

 白尾をしならせ、器用な体捌きで距離を取る。

 

(動き。言葉……不可解である)

 

 テーリッヒは吐く息ひとつに本心を吐露する。

 表面上では平静を保てたが、動揺は確かにあった。

 幼女の甘い滑舌で紡がれた言葉には戦慄を覚えた。

 自らの、分厚い鋼鉄に鎧われた身体。その内側で層を重ねるように引き締まった筋肉。そこから更に下層で生まれた情動を──あの黄金の瞳で見抜いたと言わんばかりの物言いだった。まさか、剣を振り抜いた直後のわずかな緊張の弛緩が見破られたのだろうか。

 彼の思考裡にそんな発想が浮かぶほどに、奇妙。

 

(いまだに仕留めきれていないことも奇妙である)

 

 ここでの一騎討ちは自らの独擅場のはずだった。

 砦内通路では否が応でも近、中距離の戦闘になる。

 四方を石壁に囲われているがため、回避も退避も難儀してしまう。望む望まざるを問わず、互いに力比べを迫られる展開が多くを占めることになるのだ。なれば、幼女がテーリッヒを凌駕する道理はない。

 なにせ彼の持ち味は、恵まれた体格による膂力と、常人以上のオド量による身体能力を基盤とした剣術である。重装備とは到底思えない剣速を武器に、数十の戦場を駆け抜けてきた。纏う甲冑は騎士の家系であるガルディ家に受け継がれてきた秘蔵の武具。集めた技術の粋に魔術の粋を混ぜ、実現させた頑強さたるや、鋼鉄の刃を折り、英傑の拳を弾くほどである。

 そして握る剣は、名うての鍛治師が打った業物だ。

 

(だが……この童は)

 

 重装騎士は距離を肩で削ぐように猛進する。

 いまの幼女は赤手空拳。体格差を覆せるほど莫大なオドでも有していない限りは、それこそ赤子の手を捻るように存在ごと潰せてしまえる。刃に当たらずとも身体に当てるだけで骨を砕いてしまえるだろう。

 彼はそこに駄目押しとばかりに剣を振り下ろす。

 巨躯で退路を塞ぎ、躊躇えば剣刃で命を絶つ。

 そう、謂わば死の空間に捉えられた幼女は──。

 

「完成、しておるのう」

 

 感心したような口振りを残して──消えた。

 だがテーリッヒは狼狽えない。一切の淀みもなく、剣を下方に滑らせる。視界には颶風の煽りを受けた白髪が煙のように巻かれ、それを辿れば、消失したかに見えた矮躯の行き先を追うなど容易いことだった。

 長髪とはつくづく戦闘に向かない髪型である。

 色気づいたような髪の長さは戦士には致命的だ。

 

(下方に潜り込んだのか。童ならではの回避である)

 

 足下に転じた視界には、ソルが背を丸めていた。

 片膝を折り、両手を地面に這わせた姿勢。テーリッヒは寸分違わずその首筋に剣閃を奔らせていた。半秒後には柔肌に刃が沈み込むだろう。そんな現実的な想像を覆したのは、彼女が不意に軌道を外れたからだ。

 すでに幼女は右肩から地につけ、前転していた。

 この速度。最初から重心を崩して屈んでいたのか。

 

(しかし、速度勝負ならば望むところである)

 

 空を切り、先端が地を掠った剣を斬り上げる。

 ソルの背を追うように走る一閃は風を裂くたびに速くなる。末脚の伸びを彷彿とさせる速度上昇。脱兎すらも逃げきれない剣撃から身を守る術はないはずだ。

 幼女が一回転して停止した、その寸間に──。

 

「なッ……!」

 

 テーリッヒが逆袈裟に斬り上げようとした刃。

 幼女はそれに背を向けながらも足場にした(・・・・・)。寸前に小さく跳ねたことを思えば、確信的な挙動としか言いようがない。テーリッヒは腕に伝わる重みに歯噛みするどころか唖然としてしまう。彼女の軍靴は刃を噛んで、膝の発条を活かし、天井まで跳ね上がった。

 そこで両手をつきながら肘を撓ませて衝撃を緩和。

 次に肘を伸ばして、直下の騎士に襲いかかる。

 

(次から次へと……!)

 

 ソルの、目まぐるしくも切れ間のない立ち回り。

 遂に彼はこの動きに対する反応が遅れてしまう。

 だが幼女の腰帯にも手にも目ぼしい武具の類いは見当たらない。唯一の得物である剣は遠間の床に弾かれている。魔術の詠唱時間もない。いまだに徒手空拳の身で重装備の騎士相手に立ち向かうというのか。

 まさしく蟷螂の斧。なんと無謀な蛮勇だろうか。

 拳や脚による些細な打撃では甲冑に傷もつかない。

 拳を振るえば隙をつくるだけ、墓穴を掘るだけだ。

 

(純然たる白兵戦で、私に一騎打ちを挑むとは)

 

 果たして幼女が繰り出したのは蹴り。

 否──これも踏み台だ。鋼鉄の胸部装甲に着地したかと思えば、踏み締めて屈伸。地に背を向けたまま三角飛びの要領で横方向に飛ぶと、テーリッヒから遠ざかっていく。意外な離脱に追い討ちを見送らざるを得ない。もっとも幼女の軍靴に剣撃を受け止められた時点で、流動的な切り返しは打ち止めとなっている。

 再び戦闘を立て直したとて彼女に追いつけまい。

 いまは口惜しさを飲み下し、立て直すべきだ。

 

「これにて、振り直しとしようかのう」

 

 ソルは遠間の距離を挟んで、再び対峙する。

 距離感は一騎打ち開始時のそれに戻ってはいる。

 その手には一度は弾いた剣があった。退却に際して滑空するなか拾い上げていたのだ。むしろ一連の退避行動が、武具を再び手に取るためだったのだろう。

 二人は一気に接近して苛烈な剣戟を響かせ始める。

 そんな最中で、口角を上げた幼女が呟く。

 

「剣筋はかつての騎士の範同様にニレヴァート流か」

「……ソル。貴様はお喋りなのであるな」

「すまぬ。血湧き肉躍れば口も軽くなるものでのう」

「それはまた──余裕を見せるものである!」

 

 テーリッヒは畳みかけるように大股に踏み込む。

 仄かな違和感を握り潰し、確証なき雑念を払う。

 これらを置き去りにするべく剣撃を放つ。ソルは低姿勢を保ちつつも右脚を軸にして紙一重で躱し続けながら、甲冑の関節に狙いを定め、刃を滑らせてくる。

 その殺気と軌道を的確に読み取って打ち落とす。わざわざ剣で弾く必要もない。重装鎧の関節部以外で受けるだけでいい。ソルはそこから立て直すため再び退いて距離を取る。こんな小競り合いが十数回続いた。

 波打ち際めいた一進一退。予定調和的な膠着状態。

 テーリッヒは額の汗を浮かせて確信を得る。

 

「貴様は……何だ」

「何とは。随分と曖昧な問いじゃな」

 

 幼女は鼻白んだように返して、また距離を戻す。

 ──もし、ここに観衆がいたならば言っただろう。

 曰く「実力伯仲の剣士同士、二人の剣舞だ」と。

 それほどまでに互いの動きは美しく、剣舞の披露会を見ている心地にさせるほどに噛み合っていた。だが当人であるテーリッヒには腑に落ちない形容だった。

 これは剣技を嗜む者ならば共感を示すはずだ。

 

(まず剣の腕。ソルはそれほど巧くはない)

 

 幼女の剣術のほうには特筆すべきものはない。

 もちろん、そう言いきれば語弊がある。年を鑑みれば驚くべき剣筋の熟れ方だ。まるで何十年も修練を重ねたような反応速度と型の選択を行っている。だが、年齢度外視の戦場ではいずれも凡庸の域を出ない。

 テーリッヒには目新しくもない剣筋の嵐だった。

 個人の特徴すら希薄な剣術。個性に乏しい凡才の剣だった。ただ基礎を積み重ねただけの、ただ愚直なだけの──洗練された泥臭さとも言うべき技の数々だ。

 ここに関して、テーリッヒはソルに失望していた。

 騎士道を知る数少ない相手の非才は悲しかった。

 

(そう、剣術自体は凡庸そのもの。しかし)

 

 上がった息を抑え、兜の隙間から様子を窺う。

 そこには幼女が見える。違和の塊が、見える。

 彼女は上段に剣を構えつつ見返してきていた。幼子ながら体力の損耗はさしてないようで、呼吸は落ち着いている。猛攻を器用に捌ききり、掻い潜り、いまだに五体満足で構えられている。だが無傷ではない。

 肩口や左頬、額からも赤々とした血が滴っている。

 本来ならば庇護対象たる儚い身体からは精気が失われていく。きっとここが戦場でなければ一児の父として情けをかけただろう。だが現在は神聖なる一騎打ちの最中。それに臨んだ以上、戦に殉じる覚悟は持っているはずだ。同情で前言を翻すなど騎士の名折れ。

 幼子相手であろうと情け容赦するつもりはない。

 ──否。情け容赦? 幼子? いや、あれは。

 

あれは(・・・)何だ(・・)

 

 ソルに対する所感を表すなら『異物感』だった。

 違和と異物の塊。得体の知れない白い妖精。

 彼女の立ち姿は様になっている。頭頂部から爪先まで凝視したとて一分の隙も見当たらない。それが違和感の溝を一層深めた。先ほど凡庸と評した剣術についても同様のことが言える。どれも奇妙な話なのだ。

 まず、実力ある子供の戦闘法はひとつに絞られる。

 すなわち、己の天稟頼りの力任せ。経験や分析は蓄積量がそのまま力となる。どうしても蓄積が微々たるものになる若年期の戦士では結果に繋がりづらい。実利的にも現実的にも力押しが是とされる年代だ。

 ゆえに、剣を扱えど基礎は無視する傾向にある。

 だがあの幼女は真逆。原石でなく磨かれた石礫。

 視覚情報と経験則の乖離が、彼の混迷を強くする。

 

(そして、もうひとつ)

 

 毛羽立つ闘志を凍らせた事実は他にある。

 テーリッヒは剣を交えながら、それを確信した。

 

(ソルは、私の剣技に合わせて剣を振っている)

 

 ──示し合わせていないはずが噛み合ってしまう(・・・・・・・・)

 それに対する厭忌の念たるや如何ばかりか。自らの手足に糸が釣られていることに気がついた人形の心地である。自らの選択の影に潜む何者か。専横思うがままに選んだはずが、その思考すら作為的な術中に嵌った結果という事実が──あまりにも不気味だった。

 テーリッヒは柄を握って肺腑の底から息を吐く。

 剣閃を交えつつも、我慢しきれず疑問を口した。

 

「……まさか、本当に私と面識があるのか」

「恩師に嘘は申せぬ。わしはぬしを覚えておる」

「恩師。だが、貴様に剣術を教えたことは……」

「手ずから教えられてはおらん。見て学んだゆえ」

 

 ソルは短く言い放ち、黄金の眼光が深みを増す。

 あの老成した瞳。外見とかけ離れた輝きにテーリッヒは息を詰まらせる。自分以上に年を重ねた、経験あらたかな先駆者の色を湛えていた。あの雪白の髪すら経年で色素が抜けたものと見えてしまう。そんな認識の混乱と、老練した雰囲気に当てられたからだろう。

 ふと、二十年前に戦死した男の姿を幻視した。

 想像裡に浮かべた途端、自らながら驚いた。

 

(馬鹿な。よりにもよって父上と重ねるなどと)

 

 父は昔からテーリッヒの憧憬の先に佇んでいた。

 偉大な男だった。いまテーリッヒが鎧う甲冑に身を包み、祖国を守る剣としての役割を息絶える瞬間まで務め上げた軍人。ガルディ家に根強く残る騎士道精神を受け継ぎ、公明正大を地で行く男であり、祖父の代で騎士位が廃止されたことを心底から惜しんでいた。

 父は生涯、騎士の称号を戴くことはなかった。

 子供の頃に扉の隙間から聞こえた声を、忘れない。

 

 ──そうか。時代には抗えん、ということか。

 ──ああ息子も騎士の道に興味を抱いてくれてな。

 ──私のほうはいい。折り合いくらいつけられる。

 ──だが息子には、夢を、見せてやりたかった。

 

 そうしてテーリッヒは父の背中を追った。

 騎士が消えた国で、誰より騎士であろうとした。

 時代遅れと揶揄されど高潔であり続ける。戦士たちに真摯であり続ける。父から受け継いだ鋼鉄の鎧は、さながら王都の城壁のようであれと。握る直剣は自国の旗のようであれと。願いの遂げられない星にあってなお、儘ならない現実にあってなお、祖国の民たちを守るために。せめて民の憧れそのものになるために。

 そう、彼が騎士を夢見た根源は父の存在にあった。

 それと目前の幼女を重ね合わせてしまったのだ。

 尊敬する男と、ひたすらに不気味な幼女を──。

 類似点はひとつとしてないにもかかわらず、だ。

 

「そんなことがあってたまるものか……!」

「ひとつ」

 

 テーリッヒは鋼鉄の足裏を地面に叩きつけた。

 裂帛の剣閃ひとつで気の迷いを断ち切らんとする。

 その会心の一撃は綺麗に弧を描いて、幼女の元へ。

 対する彼女は剣を上段に構えて静止していた。今度は躱す素振りも見せず、人里離れた森の湖めいた静けさを保ちながらも、双眸はテーリッヒの接近を捉え続けている。間近に迫る刃を怖れる様子はない。

 疑念が膨れ上がるも、すでにこれは止められない。

 なぜなら、彼女の雰囲気が憧れを曇らせた。

 神聖な、触れてはならない琴線に触れてしまった。

 

(私としたことが、熱くなりすぎたか……!)

 

 数瞬後には正常な判断力を取り戻せど、遅い。

 毫釐千里。ついぞ理想と現実は乖離を果たした。

 想定と現実の距離感が致命に至るまで離れたのだ。

 

「ふたつ」

 

 幼女の手元が煌めく。閃光が通路を走り抜ける。

 そのとき、テーリッヒの背に粟立つ感覚を覚えた。

 否、培った経験によって死の気配を感じ取った。

 自らの脚を蹴り、側方に転ぶように身体を傾げ。

 

「みっつ」

「ぬ、あッ……!?」

 

 ──あれは雷か。あれは光か。

 ──否、剣刃(・・)だ。

 ──雷光めいた刃が鼻頭擦れ擦れを通過したのだ。

 

「惜しい、のう」

 

 咄嗟に躱せたのは、まさに奇跡だった。

 あの一瞬。空中で両腕を回して重心を変え、後方に上体を反らしていなければ首元が浚われていた。とは言え、兜が頭部の代わりに吹き飛ばされてしまった。

 視界は天地が逆転して、風圧が顔に吹きつける。

 その瞬間、破裂音が轟いた。兜が壁に激突。衝突と同時に粉々に砕け散った。壁面には亀裂が迸り、すり鉢状の大穴を穿つ。ここが結界魔術の影響下にある城砦内という事実が疑わしく思えるほどの光景だった。

 そんな末路を見届けたあと体勢が崩れてしまう。

 したたかに背を打ち、鎧越しの衝撃にただ呻いた。

 一方、幼女は通路の奥で背を向けている。

 そこで肩を鳴らして、首を傾げつつ独りごつ。

 

「この身体、やはり勝手が違うのう」

 

 どっと、テーリッヒの額から汗が噴き出す。

 刹那のうちに疾風迅雷の速度で駆け抜けたのだ。

 その証左は石床に轍として克明に残っている。

 黒ずんだ直線が始点から足元まで伸びていた。

 

「いまので、まさか頭も取れぬとは」

 

 御年四十六の猛者ですら思考が止まった。

 外気に晒された彼の面貌が純粋な怖気で硬直する。

 彼女は結界魔術下の石壁をめり込ませた。そしてガルディ一族に伝わる兜を砕いた。此度の城砦強襲の折に門を破ったが、あれは複数の強化魔術を重複付与した英雄ボガート・ラムホルトの力あってこそだった。

 常人が為せ得ない芸当を前にして、愕然とする。

 そんななか幼女はおもむろに距離を詰めてくる。だが足取りは不確か。先までの機敏な動きが嘘だったように、なぜか小さい身体を引き摺っていた。

 逃げ出すにせよ迎え撃つにせよ、好機と言えた。

 しかし、テーリッヒは動かない。動けない(・・・・)

 この時点で一騎打ちの勝敗は決していた。

 

(……これは潮時である。すまないな、ボガート)

 

 強襲部隊の仲間への口惜しさと詫び言を飲み込む。

 肩肘の力を抜いて、手のうちから剣を手放す。

 一騎打ちの作法として幕引きは敗北者が行うもの。

 自らの力不足を認め、潔く手を引かねばならない。

 

「我が生涯、最後の一騎打ち。私の敗北だ!」

 

 だがテーリッヒの声色は図らずも爽やかに響いた。

 ──此度の戦では最初から死を前提で考えていた。

 この城砦への強襲行動の話ではない。元来の特殊任務を負わされたときだ。「テーリッヒの退役を飾る大仕事」とは王国軍のお為ごかしだとは知っていた。あの怪物に、あの黄金(・・)に歯向かうことが如何に愚かなことか。それは歴戦の者ほど肌身で知れることだ。

 計画が変更されたとき、恥も外聞もなく安堵した。

 そのときを考えれば、自分には過ぎた結末である。

 王国最後の騎士として、生涯を飾れるのだから。

 

(ああ、そうだ。まさか最期に思い出すとはな)

 

 遂に、幼女はテーリッヒの場所まで辿り着いた。

 ソルは片手に持つ白刃を向けてくる。

 その姿が父以上に重なる男と──見紛った。

 

「覚えがある……ソルよ、貴様は」

 

 テーリッヒは朧げな記憶の切れ端を思い出した。

 それは帝国との大戦が勃発する以前。テーリッヒが大尉を拝命して日が浅い頃だったか。当時の情勢としてラプテノン王国とビエニス王国──現在では手を組んでいる二ヶ国──が小競り合いをしていた。

 激化の兆候を見て取ったラプテノン軍本部は、テーリッヒを国境付近の城塞に派兵した。彼自身、国を守る騎士の本懐だと張りきっていたことを覚えている。

 そこでは本国軍だけでなく傭兵団も駐在していた。

 彼我の戦力差を鑑み、現場判断で雇ったらしい。

 そこに、奇妙な老人が混じっていたのだ。

 

(その、彼の名自体は……忘れてしまったが)

 

 テーリッヒが見たときは、彼はいつも剣を研いでいるか、剣を振っているかだった。丹念に研いで丹念に振るう。通りすがりの同業者曰く「傭兵団で一番の古株」のようだった。それで益々謎が深まった。

 戦地において老兵の生存率は芳しくない。道具という趣きが強い、傭兵という立場ならば尚更だ。更に言えば、彼は英雄ほど腕が立つわけでもない。

 だからテーリッヒは興味本位で声をかけたのだ。

 

 ──如何にして貴方は生き残ってきたのであるか。

 ──何か秘訣があるのならば参考にしたい。

 

 老人は剣を研ぐ手を止め、こちらを見返してきた。

 テーリッヒはそれだけで気圧されてしまった。

 たじろいでいると、老人はぼそりと呟いた。

 

 ──人は死ぬべきときに死ぬ。

 ──儂には成し遂げるべきことがあるのじゃ。

 ──だからまだ、生きておる。

 

 老人の答えは答えの体を成していなかった。

 期待していた面白いものでもなかった。幾多の死線を潜り抜け、なおも戦場に身を置き続けられる理由ではなく、英雄未満の男が命を長らえてきた要訣ですらなかった。必死に足掻いて生きたことがあるならば、反発心すら生まれるだろう眉唾な運命論である。

 それでも腑に落ちた心地にさせたのは彼の風采だ。

 枯れた髪と皮膚。草臥れた包帯。反吐跡の残る鎧。

 

(これは、額面通りに受け取るべき言葉でない)

 

 老人は無言のまま、テーリッヒにそう悟らせた。

 そんな問答の日の夜半だった。その老人たっての願いで、寂然とした演習場で彼と一戦交えることになった。勝敗の趨勢は終始変わらず、危なげなくテーリッヒが勝利を収めた。ただ内容自体は覚えていない。

 記憶の頁に焼きついたのは、その直後の話である。

 剣を合わせたあとに、ふと訊ねてみたのだ。

 ──貴方の言う、為すべきこととは何であるか。

 すると、彼は「儂には夢がある」と呟いた。

 

 ──儂の夢は、英雄になることじゃ。

 ──この夢を果たすまでは易々とくたばれんわい。

 

 蒼白の光の下、そのとき無邪気な笑みを見た。

 テーリッヒはそれを眩しいと思った。

 いまにして思えば、あれも憧憬に似た感情だった。

 

「何か、あるかのう」

 

 あの老兵と重なる幼女が、逆さまの視界で言った。

 殊勝にも最期の言葉を聞き届けてくれるらしい。

 テーリッヒは咄嗟に「無念」の言葉を飲み込んだ。

 口をついて出たのはひとつの問いかけだった。

 

「貴様の、夢は……何であるか」

「英雄になることじゃ。かの『人類最強』のように」

「……あれを越える、最強になると?」

「それが夢を叶える早道であるならば」

 

 そこでテーリッヒは口元を歪め、瞼を下ろした。

 最期に「天晴れ」と。「あの傭兵によろしく」と。

 あの老人の孫と思しき幼女に、そう称賛を遺した。

 彼女はひとたび困り顔を浮かべたのち、頷いた。

 そうして、剣の切っ先を彼の首筋に振るい──。

 

「『騎士』テーリッヒ・ガルディ。討ち取ったり」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 強襲部隊の首魁のうち一人を仕留めた。

 ソルは途端に腰を抜かすようにして尻餅をついた。

 臀部から平たい痛みが伝わってくる。下敷きにしてしまった髪は床に広がる鮮血に染め直されていく。騎士の血は、歳を感じさせないほど綺麗な色だった。幼女はそれを気にかけず自らの身体を仰向けに倒した。

 のしかかる疲労感に押し潰されるように息を吐く。

 慣れた虚脱感が小さな身体を支配していた。

 血を滴らせる剣にすら異様な重さを覚えてしまう。

 

(やはり……この反動は堪える、のう)

 

 身体の芯から来る脱力に抗えず、緩やかに手放す。

 地面に体重を預けたまま、先の戦闘を回想する。

 

(この身体の慣らしと思えば、首尾は上々じゃった)

 

 彼女にしては優位に戦況を進められた。

 その理由のひとつには、テーリッヒが幼女との戦闘に不慣れだったことが挙げられるだろう。小柄な者相手では立ち回りからして変えねばならない。一度は経験しなければ勝手が掴めない。事実、彼は間合い保持や距離感の見積もりが甘かった。付け入る隙は至る所に散見され、裏を掻くことは難しくなかった。

 八方破れの構えを切り抜けることは容易い。

 

(しかし、此度の勝因の一番は、わしが彼の戦法を熟知しておったゆえじゃ。あれは十数年前、ラプテノン軍と共闘した折に……重装騎士姿で戦場を駆けておった姿が目を惹いて、憧れたのじゃ)

 

 そのときソルは彼を観察して分析を重ねていた。

 戦闘方法もまるで違うが、学べたことは多かった。

 踏み込みの加減。一対多の戦闘での巧みな捌き方。

 当時に習熟したことを思えば、彼は恩師の一人であり、感謝を込めて果たし合う相手と言えた。そして此度の戦闘で学んだのは幼女姿での身体運びと、その効験。老いた身体では実現できなかった立ち回りで、如何に意表を突けるか。実感の伴った知見を得られた。

 今後の糧になるだろう経験を手に、口元が綻ぶ。

 強くなった、またひとつ英雄への階段を登ったと。

 

(しかし、彼がわしのことを覚えとるとはのう。わしからすれば懐かしい恩師じゃが……向こうからすれば幾度か言葉を交わした程度の老人じゃろうて)

 

 最後に振り返るのは、やはり一騎討ちの幕切れだ。

 凡人の粋を越える──雷光の剣閃、疾風の跳躍。

 あれこそは凡才が粒々辛苦の末に編み出した秘術。

 一瞬だけ、英雄ですら追えない速度を出す加速術。

 原理は至って単純だ。体内を循環する魔力(オド)を爆発的に放出し、その推進力をもってして居合に斬るだけである。だが副作用は大きい。先ほどから幼女を襲う虚脱感の原因は、この技の体内魔力消費によるものだ。

 オドは人間の身体能力と生命力に寄与している。

 急に失えば、身体に重大な負荷がかかってしまう。

 

(体内魔力すべてを失えば死ぬ。まあそこまで行かずとも、身体能力を底上げしておる根源を大なり小なり損なうがゆえに相応の身体機能が落ち、疲労、脱力に襲われる。論えば、幾らでも欠点は出てくるのう)

 

 この技の会得には特殊な修練も必要だ。

 体内魔力消費の調整は自然にできるものではなく、自ら塩梅を掴み、状況に応じて微調整せねばならないのである。鍛錬を怠り、加速や着地時に放出する加減を誤れば、余剰分の推進力で壁に叩きつけられるか、地面で身体をやすりがけされるかが落ちだろう。

 経緯はどうあれ、欠点塗れの捨て身技である。

 

(そう言えば……生き方も戦い方も捨て鉢、とは誰に言われた言葉じゃったか。正鵠を得たものよ)

 

 常識的に魔力を推進力として使うならマナである。

 外気の魔力を取り込んで放出するのならば体内魔力減少による危険性はない。幾らでも試行錯誤して感覚を掴んでいける。ゆえに数十年かけて『オドを推進力に変える』大道芸を修練する馬鹿者はそういまい。

 この大馬鹿者(ソル)並の愚者が何人もいては堪らない。

 

(それでも、わざわざオドを利用する意味はある)

 

 大気中に漂う魔力《マナ》と違い、体内で生成する魔力《オド》は()が高いのだ。マナを暴発させても同様のことは可能だが──推進力はオドのそれと比べるべくもない。

 凡庸、凡人と呼ばれた者が持つ、奥の手だ。

 

(わしに二の太刀は要らぬ。それは贅沢品というものじゃ。英雄にわしの剣など通じぬと知っておる)

 

 これが、英雄の座に手を届かせるための方法。

 幾度も死に瀕して、ようやく手にしたものだ。賢しい誰もが理性的に却下した、非効率極まりない技術ではあるが、ただ凡人は嘯くのみである。

 悪足掻きも磨けば立派な技になるのだ、と。

 

(ただ、これでは『人類最強』に通じんかったが)

 

 脳裡に浮かぶのは、老人ソルフォートの最期だ。

 かの黄金の英雄には、命を賭した一撃すら通用しなかった。真っ向からの一騎打ちだったが無慈悲にも斬り伏せられた。あまつさえ──この身体での加減を見誤ったとは言え──テーリッヒにも躱される始末。

 これはあくまで悪足掻きの延長線上にある技術だ。

 使い所を見極めなければ、自滅するだけである。

 

(ともあれ、立ち上がらなければ……!)

 

 片肘を廊下につけ、ふらり体重をかけると。

 

「ぐ……っ」

 

 そのとき排熱中の脳内で火花が散った。

 地べたに落ち、意識の糸は急速に細まっていく。

 五感が紗がかかったような感覚に覆われる。

 

(オドを消費しすぎたか……まずいのう)

 

 頬を抓る。ぷにりと指に返る感触に爪を立てた。

 いま意識を手放せば、東部魔術房が無防備になる。

 ──強襲部隊は、魔術房を同時襲撃している。

 ここに向かう道中で耳にした情報だ。正誤は確約できないが確度自体は高い。この一箇所だけを部隊が狙ったにしては帝国兵の援軍がなかった。帝国兵たちは戦力が分散するほどに手一杯にさせられているのだろう。ならば、誰かこの東部魔術房の守護を引き受けてくれる者が現れるまで守り通さねばならない。

 ソルはちっぽけな拳を力強く床に叩きつける。

 鈍い音と痛みが広がる。だが、それだけだ。

 

「ぬ、ぅ」

 

 意志と相反して、四肢の感覚が剥離していき──。

 幼女は糸が切れた人形のように倒れ伏した。

 東部魔術房へと通じる道では、沈黙が降りる。

 もはや誰一人として動く者はいない。いつの間にか遠くの喧騒も落ち着きを取り戻して、辺りには人間の息吹が絶えたような冷気が漂い始める。城砦の戦況が一転したことを気にかける者もここにはいない。

 室内灯の揺らめきが無人の通路を照らし続ける。

 

 

 

 

 

「なん、だよ。いまの……」

 

 その誰もが倒れ伏した戦場に、声が響く。

 男が蹌踉とした足取りで通路に踏み込んでくる。

 寒気を覚える空間には軍靴が頼りない音を鳴らす。

 その主は情けない顔をした、茶髪の兵士である。

 蒼白の顔色は呆然と固まり、一点を凝視している。

 恐る恐るといった風に血塗れの道を歩いていく。

 騎士の死体を一瞥して、すぐ視線を戻した。

 

「おい、おい……お前」

 

 男は──躊躇いながら幼女の手前で立ち止まる。

 彼は、どさりと手に抱えていた荷物を下ろす。

 ナッド・ハルト。吐き気から立ち直った彼が見下ろすのは、力なく倒れている小さな身体。

 

「お前……本当に何者なんだよ。……くそったれ」

 

 

 



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9 『白黒の追想』

 ──重装騎士の決着と、同時刻。

 この時点で戦況は決定的なものとなっていた。

 バラボア砦での主戦場は北部魔術房と砦中央部。

 ことに北部は酸鼻極まる惨状と化していた。屍が通路の床を埋め尽くし、焦げ跡、血肉の痕が壁面の至るところに広がっている。揺らめく灯が通路の人体を舐めるように照らし、激戦の痕跡を曝け出していた。

 転がる死体は帝国側が大半だった。だが、王国側のものも幾つか混じっている。帝国軍は砦内を知悉する強襲部隊に翻弄されながらも、じりじりと王国側の戦力を削っていたのである。それも当然。大軍に兵法なしの言葉が指す通り、少数の集団が奇襲や強襲で大軍に強く出られるのは最初だけだ。寡戦で勝利を得るなどと、物語上で美化された浪漫にすぎない。

 ただ、選りすぐりの少数が大軍を凌駕する。

 そんな、あるまじき行為を起こす存在が──。

 

(撤退の機会を、見失っちまったな)

 

 通路の一角で、意図的に造られた壁の凹み。

 そこには壁面に背を預けて息を殺す男がいた。

 帝国軍における階級は伍長、バルドーである。

 彼は正門で強襲部隊の来襲を砦内全体に伝えるため警鐘を打ち鳴らしたあと、周囲の帝国兵に声をかけ、真っ先に北部魔術房へ向かった。それは侵入側の方角──南側──との位置関係上、早急に防備を厚くする必要があると考えたからだった。西側、東側は迎え撃つだけの準備期間があるとは思えない。ここで無闇に近場の魔術房に戦力を分散して、薄い防衛線をそれぞれに張ったところで喰い破られる危険性が高い。

 ならば、最も出足が遅れる枢要地に人数を固める。

 そこで万全な最終防衛線を構築し、死守する。

 

(そうしたら、最終的な砦陥落は阻止できるかもっつーのは我ながら後ろ向きな考え方だったな。所詮は農民出の一兵卒の浅知恵だよ。……運よく、いいほうに転がってくれて、はは、一安心ってヤツかね)

 

 北部魔術房は現在に至るまで死守できている。

 あまつさえ強襲部隊の頭目の一人らしきマタルド・ラッタルト少尉が率いる一団を見事に討ち果たし、脅威を退けた。しかし、引き換えにしてしまった犠牲は多く、すでに北部の戦線は崩壊したも同然。動ける戦闘員ははもはや数えるほどのみとなっていた。

 残るはバルドーを始め、命冥加な者たちだった。

 

(一応、魔術房に詰めてる魔術師は死守できてる。まあ、ここまでよく持ったほう……か。流石に少数で砦攻略に挑んでくるくらいだ。英雄級、というほど圧倒的ではないにせよ、それに次ぐ程度の実力者で構成されていた。よくもまあ、守りきれたモンだよ)

 

 荒い呼吸で肩を上下する。口端からは血が滴る。

 右腕で乱暴にそれを拭いつつ、周囲を見渡した。

 血に溺れる屍のなかで生者は少ない。彼自身を含めてわずか十数名である。それも例外なく満身創痍の様相だ。壁に寄り添ってようやく身体を起こしている者や、あるいは芋虫のように床で負傷に悶え苦しむ者もいる。絞り出すような呻吟の音色が空間に満ちる一方で──疲労の色は濃いながらも、いまだに衰え知らずの戦意を携えている者たちの姿も数人見かける。

 剣を床面に突き立て、立ち上がる部隊長がいた。

 腕を失えど、闘志の瞳を燃やす兵卒の姿もあった。

 足首を抉られど、曹長は剣を手放していなかった。

 

(俺含め、くたばり損ないどもだよ。なんでこうも戦意が衰えないモンかね)

 

 ──俺だって、そんなことわかりきっちゃいるが。

 なにせ衰えた臆病者は通路の肥やしに変わった。

 いや、もしや戦意を喪失した者たちは死体の絨毯の一角で息を潜めているのかもしれない。正味、最も賢い生残策だろう。木を隠すなら森。人を隠すなら屍山血河のなかだ。バルドー自身、己の役目を十分に果たしたと見て、同じ方法で乗りきるつもりでいた。

 だが、彼は結局その生残策を取らなかった。

 

(やっぱり……血が止まらねぇか。さっき土手っ腹にもらったのが致命的だったってか)

 

「……俺も、長くねえか」

 

 掠れた声音に痰が絡み、口元を開いて吐き捨てる。

 それで喉元の蟠りは解消された。だがその拍子に、右手で抑えていた腹部から血が溢れる。びたびたと床を跳ねて赤池をつくる。見れば、先ほど吐き捨てた痰は血の塊だったようで、想像以上に大きな縁取りの池が形作られていた。それが決定打となったのか、眩暈が急速に悪化して、視界にある線が溶けていく。

 赤色。視界に入るだけで朦朧とするような色だ。

 もはや意識を保つこともままならない。

 一瞬でも気を抜けば、床上に崩れ落ちかねない。

 生還する望みは薄い。拵えたのは覚悟だけ。

 

「バルドー」

 

 軋んだ音、否、確かな呼びかけが耳朶を揺らす。

 声の主を見遣る。床上に這いつくばった男だ。額が赤紫色に染まり、顔面の左半分からは絶え間なく紅色が垂れている。てらてらとした樹液のような光沢が目についた。右腕は折れているのか奇妙な方向に曲がっており、左肩を擦りながらこちらに這い寄ってくる。

 彼は、今宵の砦の門番をバルドーと務めていた。

 

「……おう。生きてやがったか」

「運の悪ぃことに、たぁキザに返せねぇがな」

「ここでわざわざ憎まれ口叩く必要はねぇだろ」

 

 互いに力のない声色に、わずかばかり笑い合う。

 ほとんど息漏れと変わらない笑い声だった。

 

「バルドー、傷の具合は?」

「良いとは言えねぇな。お前と一緒で、このままだとおっ死んじまう。早々に司令部のほうに戻るか、あの救護の順番を待つか」

 

 バルドーは壁越しに、くいと顎を向ける。

 通路上では片端から手当てが行われていた。

 ひとりの年若い男が、横たわる帝国兵ひとりひとりに手のひらを向ける。そのたび仄かな薄青とした燐光が彼らの患部から溢れ出す。遠目には傷口を塞ぐ有様は見えないが、あれが治癒魔術である。受けた傷を完全に回復することはできないまでも、皮膚、あるいは血管の破れた箇所に皮膜を張り、多量の出血・菌の出入りを防ぐ。応急処置として使用されることが多い。

 目前の男は、皮肉げに口端を片方だけ吊り上げた。

 

「大盛況だ。割り込みかまさなきゃ手遅れになるぞ」

「俺は後回しでいい。あそこには、俺より有用で重傷な奴らが集まってるみたいだし、まだこっちは耐えられねぇほどじゃない。大人しく順番待ちでもするさ」

「お前こそキザな台詞を言うじゃねぇか」

「やめろ。我慢ついでにぶって(・・・)んだから」

 

 バルドーは照れ隠しに横を向き、話を切り出した。

 

「それよりどうする。このあともここにいるか」

「実家に帰りてぇ……が、本音だけどな。ここを守りきれただけで、役目は果たしたって言えるだろ?」

「まさか。大局的にはまだ優勢でもねぇんだ」

 

 現状、バラボア砦は窮地に陥っている。

 陥落が判明しているのは、真っ先に潰された南部魔術房だけだ。東部魔術房は不明。「西部魔術房には臨時の司令部が築かれている」とは、再襲撃前にその西部から来た伝令の言だった。もちろんこの状況下では現在も司令部の場所が西部にあるとは限らない。

 伝令曰く、東部からは伝令が戻らなかったそうだ。

 おそらくすでに、敵の手に落ちているからだろう。

 つまりこの北部魔術房が制圧されれば、城塞は退き引きならない窮地へ追い込まれる。残りは、司令部がある西部魔術房だけとなる。そうなれば首元に刃物を当てられたも同然だろう。有効な打開策は現状なく、盤面は詰み一歩手前、といったところだろう。

 唯一の希望は六翼の到着が約束されていることだ。

 そして。そんな彼らの前に、絶望が現れる。

 

「次、次の人! 重傷者は並んで! 治癒済みは通路脇に寄って! また次の波が来るまでには建て直しとかないと! 立てる人は窪みに潜んで、あとの人は」

「すまんが、遅かったみてェだな」

 

 割り込んだ声に、誰何を尋ねる者はいなかった。

 治癒魔術を行使していた帝国兵が──断たれた。

 

「は、ぁ? が」

 

 まっぷたつだ。腹部から血液が溢れ出す。

 真摯に救護を続けていた彼は、愕然とするあまりか能面めいた表情で落ちていく。地面に転がったのは切り離された上半身だけ。下半身は跪いたまま、生前の場所に突き立っている。その宙空には、紫紺色の怪光が小枝のように広がる鋼鉄の刃物があった。

 大剣だ。バルドーの素朴な現状認識が頭に響く。

 

「さァ、先輩の尻拭いだ。片端から夢にしてやらァ」

 

 そうして北部魔術房は強襲部隊の再来に直面した。

 十数名の分隊と、その先頭で威風堂々と歩む大男。

 彼は背中に背負った幅広の大剣を振るいもせず、周囲の帝国兵を文字通りに蹴散らしながら言う。そうして壁際に衝突した彼らに一閃、斬撃を浴びせる。空間に沈むような鈍音、鮮血が奔り、悲痛な叫喚が迸る。

 バルドーは急速に現実感を失った。唐突に訪れた脅威は常人の理解を越えたためか、精神的な防衛機能が働き、遠間の惨劇を半透明の膜越しに見ているような心地になった。だが惨劇の輪郭はうすぼけた光景で霞むようでいて、五感を通して克明に刻み込んでくる。

 否が応でも耳に響き、鼻に絡み、肌を震わせる。

 

「噛み応えがねェ。雑魚、雑魚、雑ァ魚の揃い踏み。天下の帝国軍がこの程度たァ、お笑い種だ」

 

 煤けた金髪は鬣のごとく。筋肉は装甲めいている。

 彼はこの攻防戦の火蓋を切ったラプテノンの雄。

 ボガート・ラムホルト。結界魔術で補強された砦正門を蹴破った巨漢だ。十数名の手勢を引き連れ、強襲部隊の首領として先陣を切る様は、まさしく彼が非凡な実力を持った英雄であることの証左に思えた。

 男は、一人で立ち塞がる帝国兵を薙ぎ倒していく。

 時には振り抜かれる蹴りで吹き飛ばし、時には最初から幅広の剣で二つに断ち、時には魔術による炎の爆裂で敵愾者を血液と肉塊に変えて、最終的にはすべて例外なく大剣の錆に変えた。帝国兵が悲壮な決意と無謀な勇気で立ち向かい、あるはずのない活路に縋りつくように伸ばした手を無慈悲にも断ち切っていく。

 まるで雑草を刈るようだ、と正直な感想が浮かぶ。

 いとも簡単に、命がひと薙ぎで摘み取られていく。

 いとも簡単に、人が泡沫の夢のように弾けていく。

 

「が、あああ──!」

 

 バルドーの呆然を他所に、付近で炎が弾けた。

 吹き荒ぶ熱風。咄嗟に目元を腕で覆った瞬間、全身に吹きつけた炎熱は皮膚を焦がすかのようだ。腹部の傷口から耳孔の内側に流し込まれ、爆音では掻き消されない断末魔の声が空間に轟く。束の間の風が止んだ頃を見計らって腕をずらすと、通路内部の帝国兵たちは箒で掃かれたように数丈程度吹き飛ばされていた。

 一瞬だ。一瞬だった。一瞬で十分だと知れた。

 ──人間という生き物が物言わぬ物体になる。

 それだけの変化に、大仰な時間も演出も必要ない。

 

「か、か……!」

 

 突風に目を瞑りつつ、背中を壁面に押しつける。

 

(笑えない)

 

 圧倒的な力量差をまざまざと見せつけられた。

 膂力はバルドーたちのそれを超え、炎属性の魔術をも巧みに操る。オド量の桁が違いすぎる。才能の多寡が違いすぎる。少人数で相手取るなど以ての外だ。

 英雄としての盛名を馳せるだけの実力を前に──。

 バルドーの唇の端からひゅうと音が漏れる。

 

(勝てねぇ。あんなのが来たら、おしまいだ)

 

 おしまい、とそんな貧相な語彙が絞り出される。

 そんな幼い言葉以外で表すことに詰まってしまう。

 思い出す。故郷で、妹の代わりに子どもを寝かせてやるときのことを。そろそろ五歳になる男児は、太陽が山向こうに沈んだあとも陽光を身に宿したように活発で、父代わりと言えどバルドーも手こずったものだった。そこで子ども向けの物語を覚えて、ねだられれば今代の『六翼』の英雄譚を覚え、聞かせたものだ。

 そして思った。どんな話でも終わりの言葉は同じ。

 おしまい、とそんな簡素な言葉でお話は終わる。

 

(はは。これほど不条理に相応しい言葉もねぇな)

 

 英雄。彼にとっては、半ば忌まわしい言葉だった。

 むかしは憧れたものだった。血が烟る戦場を席巻するその勇壮さに、如何なる障害をも薙ぎ倒すその圧倒的な力に、美男美女が涼しい顔で大仰な魔道具や魔剣を扱うその佇まいに、国内の誰からも讃えられるその立ち位置に、人伝に聞いたその絢爛な生活に──きっと心の片隅で自分もそうなりたいと、なれるかもしれないと、期待半ばの大きな勘違いでもしていたのか。

 いま思えば赤面物の、ありふれた誇大妄想だった。

 

(無理だ。一度目指してみれば無理だって思うようになる。そして一度、英雄ってモンを目にすれば、否応なく違いってヤツに気づく。それこそ夢が醒めたみたいに、こんな暴力装置に、こんな人殺しに、憧れるなんてどうかしてたんだって思い始める)

 

 その証拠に、いまバルドーは背筋を震わせていた。

 むかし憧れたはずの英雄という存在が、恐ろしくて仕方がない。

 

(『六翼』は、まだ来ねえか。ああ、そうだよな)

 

 その自問には、残酷なことに自答可能だった。

 到着は早くて数日後。遅ければ一週間後だろう。

 帝国中央部の蜂起を鎮圧し、なおかつ帝国領土の端に位置するバラボア砦に参じる。距離の問題はバルドーの頭に重くのしかかっていた。少なくとも命運が左右される今現在に、都合よく駆けつけることはない。

 御伽噺の英雄というものは、空想上の生き物だ。

 奇跡が投げやりに手渡されることはない。唐突に窮地を脱する展開など望むべくもない。

 ──わしの夢は英雄になることですので。

 

(なあ、ソル。子どもの夢が叶うなんて、都合のいいことはそうそう起きねぇ。叶うやつは叶うし、叶わねぇやつは叶わねぇ。才能とか環境がある以上、しょうがねぇことだ。そんで俺は諦めた側だよ)

 

 現実を知らない幼女の言葉が、頭をよぎった。

 

(けどな)

 

 それでも、とバルドーは屈んだ姿勢で剣を握った。

 

「この命、タダで捧げてやるほどデキてねぇぞ」

 

 ──人海戦術が恐ろしい理由を教えてやる。

 そんな述懐を漏らした瞬間、通路に閃光が満ちた。

 手筈通りである。ここ北部魔術房戦線は、最後に行う戦術を事前に取り決めていた。もしも戦線維持が不可能な状況下、具体的に言えば曹長が死亡し、かつ防衛人数が元の三分の一までに追い詰められた場合、起死回生の一手にすべてを懸けることになっていた。

 帝国兵の魔術師が炎属性の魔力放出で、火薬を大量に抱え込んだ帝国兵の死体に引火させる。一斉に魔力を放出して通路中のそれらに誘爆させ、敵愾者諸共、葬り去る。先ほどのボガートの爆発で引火してくれないかと期待していたものの、炎より熱風に重きを置いていたのか不発だった。ゆえに帝国軍自ら起爆する。

 閃光とともに、比較にならない爆音が轟く。

 

「ちッ、帝国のやり方ってやつァこうも」

 

 バルドーは耳を塞いで目を瞑り、転がった。

 連続的かつ圧倒的な熱、風、音──。

 誘爆の連鎖が終わったと見るや、彼は身を起こす。

 通路は黒々とした闇、そして煙に満たされていた。

 もはや目を凝らさねば通路の状態は視認不可能だ。

 だが、確信をもってバルドーに言えることがある。

 

(まだ、やられてねぇよな)

 

 奥を見れば、黒煙を曳いて大柄な影が揺れていた。

 二本足で立てている。あの爆撃を経ても打ち倒せなかったのだ。半ば戦慄したものの、そんなことはバルドーも半ば読めていた。だからこそ身を低く保ったまま通路壁の凹みから抜け出し、英雄めがけて駆けた。

 立ち込めた闇と黒煙に潜んで首を叩き斬るのだ。

 大男の至近まで迫る。精根を底まで燃やす。

 注意を払うべきは奇策を弄することではなく、足元の死体に蹴躓かないことだ。身を苛む怪我の具合と言い、いまが千載一遇の機会である。きっと逃せば後はない。英雄に一矢報いることもなく終わってしまう。

 そう、これは帝国軍の兵卒としてだけではない。いつかの夢に挫折した一人として、理不尽を前に膝を折った一人として、ちっぽけな一人の人間として、精一杯の抵抗を見せつけることができる唯一の機会だ。

 ──抗える。才能がなくても抗うことはできると。

 ──そうでなければ、一体何のために。

 

(俺は、帰るんだ。あの家に、妹の待つ──)

 

 死体の海を越え、使い慣れた剣を振り上げる。

 鼻を突く焦げた匂いを振り切って、目を見開く。

 力一杯に奥歯を叩き合わせる。全霊をぶつける。

 

「気に喰わねェなァ」

 

 窮鼠猫を噛むような一閃を前にして、その一言。

 英雄は振り向きざま、怒気を孕んだ顔をしていた。

 そんな錯覚が脳内に広まった瞬間。

 

「げぁが……!?」

 

 バルドーの視界は完全な黒に塗り潰される。

 断末魔の悲鳴を上げて、頭頂部に鈍痛が広がった。

 自分は床上に転がっているのか。どこが上か、どこが下か。膜越しのようにぼやけた痛みが身体を包み、どこにも力が入らない。首の骨が砕けていないのは奇跡なのだろう。顔面や顎の感覚は途絶していた。

 成し遂げられなかったと、曖昧な頭で理解する。

 何が起きたのかはわからない。わからないまま、意識が火の灯る蝋燭のように溶けていく。人生こんなものだと嘲ける自分が、頭上で笑っている心地がした。

 ぼんやりと消えゆく意識の只中、唯一できたことは謝ることだけだった。目前の闇にはふたつの影法師が揺れていた。小柄なひとつと、その半ばほどの身長のひとつ。揺れては薄らいでいくそれらに手を伸ばす。

 加重を加えられて震える枝のように、伸ばして。

 ──ごめ、ん……な。

 最期の言葉は、果たして口から漏れたのかどうか。

 

「精々、良い夢でも見るんだなァ」

 

 最期に、霞む視界で捉えた現実世界の光景は。

 紫の怪光を迸らせる奇妙な大剣だった。

 

「溺れさせろ『ウェルストヴェイル』」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──俺は、選ばれなかった。

 

 古ぼけた記憶だ。褪せた頁を捲る音がする。

 少年は、ハルト家に長男として生を受けた。

 ハルト家は代々、商人の家系。ゆえに産まれ落ちた瞬間から、彼は輝かしい将来を運命づけられた。商会の次期頭首だと、商会に属する商人や見習い弟子、そして家族から期待されたことは言うまでもない。

 代々、商会長は長男が世襲してきたのだ。

 覚えている。母が頭を優しく手で撫でこう言った。

 

『ナッド。あなたはお父さんの後を継ぐのだから、頑張らなくては駄目よ。あの人みたいなすごい人になりなさい。強い人になりなさい。人を従える者らしくなりなさい。きっと、あなたはできる子よ』

 

 だから少年は、らしくなろうと努力した。

 もっと後継者に相応しいようにと、目利きを鍛え、交渉術を学び、見習いに混ざって商人の技を盗む。辛くはあったが決して苦ではなかった。皆の期待が少年の背を押していたからだが、それだけではなかった。

 父への、純粋な憧れがあったのだ。

 いつも多忙で、なかなか家に帰らない父だった。

 日頃の活躍を弟子たちや母から伝え聞くのみ。それこそ商会に通う前は、顔を合わせる機会も年に数回ほどしかなかった。ハルト家の最盛期を打ち立てたような大人物。物語の英雄譚では描かれない職業ではあっても、少年は同じくらい偉大な人と知っていた。

 父は無口で、気難しそうな顔をした人だった。

 少年を始め、笑った姿を誰も見たことがない。

 きっと厳格な人だったのだと思う。彼から褒められた経験もなければ、優しい言葉をかけられたこともない。家族らしい温かみを与えられた覚えもなかった。

 だが仕事となれば、その姿は真摯であった。

 従業員の働きに応じて給金を上げ、大仕事を回す。

 少年はそんな無骨な父を、誇りに思っていたのだ。

 

『集まったか』

 

 迎えた、次期後継者指名の日。

 少年を含め、兄弟姉妹が食堂で一列に並べられた。

 家の古臭いしきたりだ。

 

『後継者指名は、後継者候補総員の面前で行うべし』

 

 形骸化した慣習だ。先祖代々、後継者は長男だ。

 例に漏れず今回もそうなるのだ。

 少年は背を伸ばしながら、根拠もなく信じていて。

 

『商会長の次期後継者は、お前だ。ネイト』

 

 ──だから一瞬、父の言葉が理解できなかった。

 喜びを露にする三歳年下の妹の声も。

 隣にいるはずが、扉越しのように遠く聞こえた。

 どうして、と残酷な答えの待つ問いを繰り返す。

 悪夢に囚われたような現実感の乏しさだった。自分は長男で、ずっと小さな頃から次期後継者だと言われていたのに。決して期待に胡坐を掻いていたわけではないのに。毎日、努力を欠かしたことなどないのに。

 その問いの答えは才能の不足。力量の不足。

 単純な話、商才が妹のそれに及ばなかっただけ。

 少年の実力が父の失望を買った。それだけの話だ。

 期待を裏切った呵責。弟子、兄弟姉妹の白眼視。

 それらが刃をなして、彼を刺し貫いた。

 

『以上だ。お前は戻れ』

 

 憧れていた、父の偉大な背中が向けられる。

 無自覚的に安心や信頼を預けていた背中が──。

 わかっていた。それが空想だということくらい。

 眼前に見えた、無関心と冷徹さこそが真実。

 少年には、それが正しいこともわかっていた。

 だから、士官学校へと追いやられて、そして。

 

 

 

 1

 

 

 

「また、爆発か……?」

 

 ナッドは響く大音響によって現実に引き戻された。

 騒ぐ胸底を落ち着け、固く握り拳をつくった。

 どうやら、むかしの夢を見ていたらしい。

 思えば、あれからだった。他人との間に線を引くという防衛手段を己に築いたのは。そして檜舞台が極端に苦手になり、動悸が止まらないようになった原因でもある。自覚はある。あれは心の奥底に眠る傷痕だ。

 彼は頬を引っ張って、眠気を強引に引き剥がす。

 頼りなげな心境を抑え、帯びる剣の柄を握り直す。

 

(だ、大丈夫だ。バレやしねぇ、バレやしねぇんだ)

 

 唱える。寒風荒ぶ心内を言葉で埋めるようにする。

 肩を縮こませ気配を殺して、茂みから周囲を窺う。

 身を潜めている場所は砦、その裏庭の暗がりだ。

 喫緊で言えば、幼女と模擬戦を行った場所である。

 現在、帝国兵用の鍛錬器具はあらかた片され、がらんとしている。見渡せど、茂みと木々が宵闇のなかに浮いているのみ。裏庭外周に散見されるそれらは、殺風景な様相をなおさら強く思わせた。この空間に寂とした空気を荒立てるような『動』は存在しない。

 そして、ナッドに害を為すものもまた存在しない。

 わずかなりとも安堵を得、しかし慎重に息を吐く。

 

(ちくしょう。まだ聞こえやがる)

 

 裏庭の隅、点在する茂みのひとつで身を震わせる。

 憎々しげに見上げた先にはバラボア砦。いまも帝国兵と強襲部隊もの攻防が続いているのだろう。怒涛とも言える戦闘音は、つい先ほどの爆裂音を頂点にして落ち着いたが、いまなお場所を変えて続いている。

 その対岸に目を遣れば、砦壁が退路を塞いでいる。

 まるで、彼の甘えを断つように厳然と聳えている。

 

(クソ。何で、あの壁はあんな高ぇんだよ)

 

 裏庭は位置的に言えば東部魔術房と面している。

 通路から窓外を覗けば、三階の高さから黄土の地面が見下ろせた。ナッドは砦内に留まりたくない思いも相まって、東部魔術房の防衛を放り出した。そして戦場の隅で、嵐が過ぎ去るのをひたすら待っている。

 ──誰でもいい。誰でもいいから、助けてくれよ。

 ナッドはひたすら神に、大英雄に祈っていた。

 

(六翼が来てくれるんだよな? 本当に大丈夫なんだよな? クソ、頼む、頼むよ。もう誰でもいいから、何とかしてくれよ……!)

 

 彼にとって魔術房を守り通す選択など論外だった。

 舌で口内をこねて唾液を捻出し、嚥下する。もしもあの通路で仁王立ちしていれば、強襲部隊が押し寄せてきただろう。彼にはまだ足りなかった。剥き出しの敵愾心と相対する経験も時間も、矢面に立つだけの実力も、槍衾にされる覚悟も、まだ拵えられなかった。

 誰も期待していないはずだ。自分のような若造に期待していないはずだ。そう正当化して、耳を塞ぎ、目を閉じて、通路を後にした。それがたとえ、魔術房に詰める魔術師たちを見捨てることになったとしても。

 否、と己で否定する。見捨てたことにはならない。

 ──あの場に残って、何が変わったというのか。

 

(こんなはずじゃなかった)

 

 そして、答えのない問いを延々と自問し続ける。

 ──なんで俺は、こうも不運に見舞われるのか。

 思い描いていた未来との乖離に引き裂かれる。バラボア砦に配属されてから不運続きにも程がある。幼女に纏わる騒動然り、強襲部隊の奇襲然り。想定通りの人生なら、士官学校を卒業して、このあとそのまま出世街道を一足飛びに駆けられるはず、だったのに。

 途中までは順調だった。『人類最強』アイリーンの出張る戦に配員されるときまでは、夢想していた線路の上だった。ナッドは歯噛みする。一体何の歯車が狂って、こんな脱走兵紛いの醜態を晒しているのか。

 ままならなさに舌打ちして、背後を振り返る。

 

「……気持ち良さげに眠りやがって」

 

 茂みのなかには、小さな身体。

 目を瞑った幼女がその身体を横たえている。

 両瞼を閉じた面差しからは明度が失われていた。

 黙ってさえいれば前途有望な見目形だ。生傷をつけた姿は、触れれば折れてしまう印象を植えつける。思わず人形か妖精に喩えてしまいたくなる原因は、きっと存在に現実感がないからだ。艶やかな雪白の髪を一つ結びにした、とても戦場に似つかわしくない子供。

 この姿を見れば、否応なく先刻のことを思い出す。

 重装騎士との大立ち回り。通路の四方を縦横無尽に駆け巡り、最後は討ち取った一連の戦闘。この幼女には巨躯に臆せず立ち向かうだけの胆力があった。猪武者めいた猛攻を行う実力もあった。それこそ無力な子どものように草木の影で震えている誰かとは、違う。

 魔術房を身一つで守る。否、守ろうとする。

 ──そんな大それたこと、普通できるもんか。

 ナッドは脳裏を掠めた自嘲に、後悔ばかり浮かぶ。

 

(放置すりゃよかったのに、何で俺はこんな奴をここまで運んで……くそったれが)

 

 ナッドは目前の幼女に好感など持っていない。

 持てるはずがない。凶兆の具現化、死神かと思うまである。なにせ不運に見舞われ出したのは、この疫病神を拾ってからだ。人生を狂わせた不運の前触れとしか思えない。野垂れ死んでもらって一向に構わない。

 上から目線で説教を垂れる生意気な年少でもある。

 それでも運んだ理由は憎みきれなかったせいか。

 胸中に湧いた気の迷いに似た現象だった。それが彼女から不思議と漂う()によるものか、見目と乖離した雰囲気に惑乱されてしまったのか。判別はつかない。

 薄汚れた茶髪を掻き毟って、気を取り直した。

 不毛な思索だ。今は保身を徹底したほうが賢明だ。

 

(まだ、誰も来てねぇよな……?)

 

 ナッドは再度、茂みの隙間から敵影を探す。

 ここは物影が少ない。近寄る帝国兵と強襲部隊をいち早く察知できる。両者の目を恐れる逃亡者からすればうってつけの立地だ。現在、幸運にも誰一人として裏庭に姿を現していない。それはきっと彼らの狙いが砦内の魔術房だからだろう。目的地とは関わりのない地になぞ、味方の帝国兵すら近寄りはすまい。

 荒くなる呼吸を意識的に引き延ばす。

 胸に手を当てて、激しい鼓動を宥めようとする。

 この胸を焦がす感覚が罪悪感でないことを祈った。

 もしもこの姿が味方に見られれば臆病者と詰られ、いずれ首を刎ねられるだろう。敵前逃亡は重罪だ。そんなこと士官学校で最初に学んだことだ。だが実際の戦場と机上で蓄えた知識には歴然とした差があった。

 ナッドはその差に、軽く心をへし折られたのだ。

 

(これが、才能がないってことなのか……? 戦場に立つだけの適性が、ないってことなのかよ)

 

 ここに対する不満は、灯火が乏しいこと程度だ。

 明かりは星月か、砦の窓から差す光炎だけである。

 裏庭はしんとした静寂に満ちている。ひとり怯える身として心細い。辺りに満ちる薄闇の静かさたるや、心拍音が煩しいとも思えるほどだ。さりとて、身を隠すには絶好の場所という何よりの証拠でもある。

 ひとまずの安全を確認したあと尻を地面につけた。

 肺の奥底から掻き集めてきた息を、無理に吐く。

 口内から抜ける空気の尾が不規則に乱れてしまう。

 その拍子に、本音がぽろりと零れた。

 

「……死にたくねぇよ」

「ハッそうかよ。腑抜けた臆病者が。消えなァ」

 

 独り言に対する、あるはずのない返答。

 誰だ、誰だ、誰だ。電流のような怖気が走る。

 動物的な危機感に後押しされ、茂みから転げ出た。

 それが生死を分けた。分水嶺の対岸に飛び出す。

 瞬間、色が破裂した。──爆音。

 

「あ、ぐああッ!」

 

 視界を占める宵闇が引き千切れ、真赤に染まる。

 血液ではない紅蓮の赤。一瞬前にいた茂みから火炎が噴き上がり、遅れて高熱が乗った風が吹き荒ぶ。辺りを打つ熱波が顔を撫で、ナッドは表情を歪めた。

 悲鳴を上げ、至近の火の手から逃れるため転げる。

 そうして寸でのところで躱しきった。大層不格好な回避行動だったが、奇襲に反応できたこと自体が奇跡的だった。掠めた火の粉が火力の高さを物語った。内部の肉から腐るような感覚のあと、端から燃え上がる錯覚が追いついてくる。人ひとりを焼いて余りあるだろう。直撃していれば火達磨と化していたはずだ。

 ナッドは転げながら、回る視界のなか見てしまう。

 この炎熱地獄を生み出した元凶が、傍にいた。

 潜んでいた草葉の傍に、だ。そんなはずがない。

 直前まで、人影どころか気配すらなかったのだ。

 刹那に奔る思考。そんな推察は荒々しく断たれた。

 揺らぐ炎が、下手人の威容をぬるりと露にした。

 

「おい、本当にアレ(・・)なのかァ?」

 

 炎を纏った大剣を振り下ろす──巨漢だ。

 凶暴な相貌が煤けた金髪に縁取られていた。鉄兜から漏れるそれらに飾られ、形の整った金糸の髭を蓄えた姿は、さながら獅子の頭部をした人間のように思われた。体躯はナッドのそれを凌駕している。成人男性二人分はあらんかという巨体は、頑丈な鉄鎧に身体を押し込めたかのごとき窮屈ささえ感じ得た。

 その巨漢は独り言のように、何やら口遊んでいた。

 

「ガルディ大尉は……違ェよ。あれは俺の勝手で、これはワガママに付き合わせちまっただけだ。こんな結末、俺の責任だ。だがラプテノンの旗に恥じねェ、最高の上官だった。オマエ(・・・)の力なんざなくても問題ねェ。無事に、星神様のお膝元まで逝けたことだろォ」

 

 しかし、切羽詰まるナッドの耳に入るはずもない。

 慌てて立ち上がり「嘘だ」と無意識に口が動く。

 歯がかちかちと音を鳴らす。足が竦むようだ。

 あの巨漢の名前は、ナッドでも知っている。

 彼は強襲部隊の一員。ラプテノン王国軍の兵士である。そして彼自身の身の丈ほどあるかという大剣の全長──蚯蚓(みみず)がのたくったような文字列が剣身に彫刻されている──を掲げた巨体。これら特徴を持ち合わせた該当者は一人だけ。最悪の答えが弾き出される。

 獅子のような巨漢は肩を鳴らして、視線を落とす。

 その先で、大剣の刃が闇夜に火の粉を撒いている。

 

「だから違ェよ、どこぞの馬の骨にやられた大尉への弔いじゃねェ。オマエ(・・・)が獲物を嗅ぎつけたからでもねェ。責任を取るってコトだ。だからクソ帝国軍の奴らは……溺れさせる。ソイツに変わりはねェ。笑うんじゃねェよ。分かってること分かるだろ」

 

 ボガート・ラムホルトは独りごち、大剣を構える。

 剣身に添えられるのは心臓を鷲掴みにする眼光。

 闘志に共鳴するかのごとく、広い剣身に綴られた文字列に妖しい紫光が奔った。なおも燃え盛る炎越しに薄く浮かび上がる輝きからは妖気が漂う。遂に身近まで迫る濃密な死の気配が、光を纏ったかのようだ。

 否、それ以外に、強者特有の気配も強烈である。

 士官学校に在籍していた怪物連中よりも、濃い。

 つまり、あのとき見上げた先にいた彼らより──遥かに格上ということだ。

 

(なんで)

 

 ナッドの口からは情けない声が洩れる。

 対峙しただけで、発される気配に頽れかける。

 しかし、両足が縫い止められたように動かない。

 

(なんで、なんで、こんな奴がこんなとこに……! 魔術房が最優先なんじゃねぇのかよッ!)

 

 理不尽だ。理不尽のあまりに怒鳴り散らしたい。

 だが言葉は出ない。歯だけはがちがち鳴っている。

 足の、手の、心の、震えが止まらなかった。

 ここに来てナッドは続いていた不運──その極みと、相対せざるを得なくなったのだ。

 



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10 『炎纏う幻想剣1』

 ──頬が熱い。身体は燃えるようだ。

 まずソルが感じたのは全身を炙る熱だった。

 瞼を持ち上げて最初に目にしたのは、空の月。

 宵闇に浮かんだ三日月だ。千切れた細い黒雲がその容顔を曇らせている。辺りの星は見えない。数多あったはずの輝きは闇夜のぼやけた黒に埋まっている。それが、ソルの横たわる地上に原因があると気づく。

 夜空を彩るようにして、炎が踊っている。

 

(何事じゃ)

 

 重い身体を起こせば、瞳に映るのは炎の海である。

 辺り一帯に熾烈なまでの火炎が燃え盛っていた。

 激しく揺れ動く橙色。煌々とした粉を散らして熱風を放つ。目前には火中に誘うような手が幾つも差し出されている。ソルは眠気を払うために首をわずかに振り、その誘いを袖にすると、傍に無造作に落ちていた愛剣を抱き寄せた。意識の覚醒があとわずかでも遅れていれば、比喩でなく火炙りだったようである。

 思わず嘆息。髪が黒焦げにならず済んで一安心だ。

 屈んだ姿勢を取ると、草木の茂みから這い出る。

 ここは、どうやら結界魔術の庇護下にある砦内ではないらしい。見覚えがある。ソルは何者かによって移送され、裏庭の草木の陰に隠匿されていたようだ。裏庭には朝昼晩、鍛錬する際に訪れていたのだ。見紛っている可能性はあり得ない。誰かが運んだのだ。

 だが目的、実行人はともに不明ときている。

 

(さて、帝国兵か強襲部隊か。わしの武具を取り上げていない点、そして危害を加えられていない点を鑑みるに、高確率で帝国兵の手によるものじゃろうが)

 

 ぺたぺたと片手で自分の身体を触っていく。

 特段、意識喪失の前後で傷は増えていない。白々とした手足には一騎打ちの際の擦り傷、および出血があるだけだ。しかし、身体は依然として重い。血液の代わりに鉛を流し込まれたかのようだ。そこには体力の摩耗や負傷が拍車をかけているせいもあるだろうが、直接的な因果関係は十中八九、オドの消耗にある。

 感覚で言えば、体内の三割程度を消費した。

 そのぶん身体能力や五感が鈍っているのだ。

 

(わしを運び出したのが帝国兵とすれば、そうか。疑問も氷解するわい。東部魔術房の通路でひとり倒れておる幼女は、見るからに庇護対象。心根の優しい誰かに戦場から摘み出された、というわけかのう)

 

 彼はソルを運んだあと戦場に駆り出されでもした。

 如何な理由にせよ幼女から目を離した。その隙を突くようにして、いつの間にか安全地帯のはずだった裏庭に火の手が回っていた──そんな筋書きだろうか。

 ソルは状況把握を己の想像力で補いつつ移動する。

 とにかく、火の海からは脱出しなければならない。

 

(あまり思い出したくない過去もあることじゃ)

 

 彼女には、炎というものにロクな思い出がない。

 すぐ脳裡に蘇るのは、青年期半ば頃の出来事だ。

 思い返すたびに戦慄する。傭兵仲間だった男の魔術で髪を焼かれたのだ。その騒動が起点となり「ここまで舐められてはエヌマさんの沽券に関わる」と囃し立てられ、半ば無理矢理その男との模擬戦に引きずり込まれたことを覚えている。結末は予想通り、ソルフォートの完膚なきまでの敗北だ。指先程度あった沽券は微塵と消え、つまり面目丸潰れの出来事であった。

 ただ相縁奇縁とはよく言うもので、その男とは長きに渡る因縁が生まれた。

 

(結局あやつとは腐れ縁になったが……否、郷愁に浸っていられる場合ではないのじゃ)

 

 ソルは燃え盛る草木から抜け出て、視線を定めた。

 目を凝らす。降りた帷で影絵ふたつが蠢いている。

 

(誰かが、戦っておるのか。否、戦闘ではないのか)

 

 暗闇は視線を拒むように分厚く横たわっている。

 だが幸い、目に留まった地点には光源があった。

 凝視すれば、月下に展開される構図が掴めてくる。

 二人だ。一人は逃げ、一人は追う構図である。

 

(あれは、ナッドか?)

 

 腰の引けた青年が恐怖を湛えた顔で遁走中だった。

 地面に転げ、巨漢から距離を取ろうと躍起になっている。その姿を露にする光源は、彼を追う巨漢──敵兵の得物らしき両手剣から発されていた。剣身にはさながら炎蝶とも言うべき炎の切れ端が群れを成し、纏わりついている。どうやら炎属性が付与されているようだ。そして、剣身の意匠を垣間見るに一目瞭然だ。

 瞬時に判断をつける。剣を取り、膝を発条にする。

 いまソルが十全に把握したことは、ただ二つ。

 ひとつ、あの巨漢がナッドに仇なす者であること。

 ひとつ、あの大剣が只ならない大業物であること。

 これ以上の事情把握に時間を割くことは遅鈍。

 事態は一刻を争う。ならば、前に出る。

 

「ふッ──!」

 

 頭で突き破るようにして一直線に飛び出した。

 二人の元に辿り着くまでに要したのは数秒。

 最後は地を強く蹴り、飛翔。片手で一閃を見舞う。

 期せずして、背後から首を斬り飛ばす軌道を描く。

 だが届きかけた刹那、機敏に身体を反らされる。

 

「まだ、腰抜け仲間が潜んでやがったかァ?」

 

 ──易々とは討ち取らせはさせてくれんか。

 ソルの口角が震える。先ほどは明らかに死角からの一刃だったはず。それにしては的確な回避行動だ。白刃は空を切る。すわ反撃を警戒したが、彼にとっても咄嗟の行動だったのだろう。大剣の刃や炎魔術が、空中で無防備に近い幼女を襲うことはなかった。

 ソルは、ちょうど青年と巨漢の中間に踵から着地。

 右足を軸に素早く回転し、臨戦態勢をとる。

 位置関係としてナッドを背後に置くと、息を吸う。

 

「ソル……っ!? お前、何で」

「何でも何もなかろう。助太刀じゃ」

「……っ!」

 

 ナッドの真贋を疑う声は途切れてしまった。

 悲しいかな、ソルに余裕はない。声だけで返す。

 視線は巨漢から片時も外さない。余所見にかまけてしまうのは、豪胆な絶対者のみに許された特権だ。きっといま意識を背後に遣れば、たちまち頭部が吹き飛ばされるか、あるいは頭部を残して胴体だけ飛ぶか。

 だから背後に「退け」と仕草だけで合図を送る。

 すると、息を呑むような音がかすかに聞こえた。

 

「っ、くそ!」

 

 ナッドがそれをどう受け取ったかは定かではない。

 ただ結果的に、背後から気配が遠ざかる。絞り出したような毒づきを一言残して、慌ただしい軍靴の音が段々と小さくなり、消える。その間に相手方から手は出されなかった。彼だけは見逃してくれるらしい。

 だが、最後に裏庭から脱するまで気は抜かない。

 右側に炎の海、左側に強固な城砦を従えた英雄。

 意識の範囲内にその一挙一動を収め続ける。

 

(よし。ナッドの気配は消えた。これで一安心か)

 

 否、若輩者の危地を救ったあとからが本番である。

 改めてソルは、沈黙を保つ巨漢を睨み返した。

 

「ぬしはボガート・ラムホルト殿とお見受けする」

「名乗れェ、何者だァ? 俺の横槍たァ度胸がある」

「わしはソル。横槍無粋とは重々承知。しかし」

 

 幼女は彼我の距離感を目測で測りつつ、微笑んだ。

 

「この先は、わしがお相手を務めさせていただく」

「……早ェか遅ェか。まァ、それだけの違いかァ」

 

 感嘆したような、呆れたような溜息を落とす。

 

「餓鬼、手前ェは余程の死にたがりらしいなァ」

 

 ボガートは片眉を吊り、柄の悪い凶貌を歪ませる。

 暴風さながらの鼻息を吐いて口髭を靡かせた。

 ただ眼差しだけが訝しげに動いている。その理由はおそらく、助太刀と名乗って現れたソルの容姿、あるいは言葉遣いよるものか。「餓鬼ン癖にませた言葉遣いしやがってェ」との呟きを拾う限り、てんで的外れの推察とは言えまい。だがまさか英雄の身にあって、こうも新味のない感想を零すとも思えないが──。

 ソルは、靴底を摺って前傾姿勢に移行していく。

 剣術者同士の試合ならば顔を顰められる構えだ。

 だが、これは戦場で遥か格上を相手取るため。

 

「生憎、死にたがるほど命を持て余しておらぬ」

「なら手前は考えなしの阿呆ォだ。あの臆病者を庇うたァな。心意気は上等。だが走るなァ虫唾がよォ。喋った感触、手前ェはタダモンじゃねェ。少なくともアレ(・・)の代わりになるのは、そりゃ命の無駄遣いだ」

「わしは無駄遣いしたつもりはないがのう」

「行動がそうならそォだろ。餓鬼」

 

 ボガートは悠長にも鬚を抜き、闇夜に放っている。

 両手剣は片手で掴んでいるが構える様子もない。

 だが、仕掛けられない。じりと靴底の砂利が鳴る。

 

(わしが、火蓋を切るのを誘っておるな)

 

 ボガート・ラムホルトの存在は元より知っていた。

 伊達に英雄を志していない。戦場で新進気鋭の英雄が生まれたと聞けば、一も二もなく武勇伝も含め情報を仕入れていた。なにせ追っている夢の舞台に上がった新鋭たちだ。もちろん英雄譚好きとしての嗜みのひとつでもあるが、ボガートは近年、ラプテノン王国にて破竹の勢いで名を上げ始めていた英雄だ。その名前や特徴は、すでに諳んじられるほど熟知している。

 さりとて所詮、風の便りに評判を聞いた程度だ。

 

(だから、まだ誘いには乗れん。情報が足りぬ)

 

 初対面どころか、目にしたことすら初めてだ。

 英雄好きとしては忸怩たる思いだった。彼が台頭し始めたのが最近、かつ巡り合わせが悪かったのだ。一目見るより先に夕陽の下、黄金の英雄に討ち取られてしまったのだ。ただボガートが初見の相手という事実は、それはそれで彼女にとって喜ばしいことだった。

 つまり彼は『新しいこと』が学べる相手なのだ。

 

(なれば、この誘いの時間を有り難く観察に使わせてもらうのじゃ。さあ、彼が使(つこ)うてくる剣術は? 魔術は? 体術は? すへて、この目でしかと『視る』)

 

 弾む胸を押し殺しつつ、ボガートの分析を始める。

 まずは体躯。ソルの数倍はあるだろう、岩盤めいた筋肉に覆われている。重量も比例するはずだが、筋肉量も莫大だ。彼の身のこなしが鈍重とは思えない。速度の概念はボガート攻略の際には、突破口たり得ないだろう。兜と鎧にはそれほど特殊な素材は用いられていないように見える。もっとも、ソルは鍛冶仕事や魔術装備に疎いため、装身具に硬化素材や魔術が織り込まれていれば判別は不可能だが、幸いボガートの防具はラプテノン王国軍の規格品だった。仕掛けさえ施されていなければ、オド消費の加速術による一撃で強引に破壊できる可能性はあるだろう。無論、危険度合いは非常に大きい。そのため探すべきは鎧に守られておらず、刃が通用しそうな箇所だ。顔面と首元と関節付近。当面狙うべきはこれら急所のいずれかだろう。また腰紐には小袋しか吊られていない。それもからっぽのようだ。大剣以外で不意を打たれる可能性は低い。

 次いで、所作を舐め回すように観察していく。

 敵愾心に満ちた双眸は斜に傾け一直線。幼女に注がれている。瞳孔は開いており、少なからず闘争に興奮する姿が見て取れた。額は炎の明かりを薄っすら反射している。自らが放出した炎熱によるものか緊張によるものか。下方に目を遣れば、右足の軍靴が一定間隔で音を鳴らしている。こつこつ。踵で地面を叩く。他の仕草から推測するに、彼が苛立ったときの癖のように思う。その割には鼻下で膨らみを誇示する金髭は几帳面に整っている。面する事柄によって極端に甘さ厳しさが分断されているのかもしれない。苛烈な性格なのか。自他の範囲が明確な人物なのか。

 何よりも目を引くのは、ボガートの得物だろう。

 彼自身と同程度の丈はあるかという幅広の大剣は、剣身の部分に炎を纏っている。着目すべきはその剣身に彫刻された、緻密な文字列だ。大陸で現在も一般的に使用されている言語ではない。『聖文字』と呼ばれる古代文字だ。聖文字は、記された物品に魔術的な効果を齎す特別な文字である。すなわちあの剣には特殊な能力が秘められていることになる。その能力が単純明快に「剣に炎を纏わせる」の可能性もあるが、希望的観測だ。警戒しておくに越したことはない。

 ソルは加速する思考を止め、観察を一旦終える。

 

(剣術は、ガルディ大尉同様にニレヴァート流か? 否、確定事項にはできぬのう。構えを取っておらぬ。相手は英雄。無形の構えすら有り得るからのう。それこそ型に嵌った思考に縛られてはなるまい。利き手は右か両方。利き足は右。恐らく身のこなしは想像以上に速いはずじゃ。肉弾戦では劣勢を強いられるはず。隙を見出すとすれば、小回りが利かない大剣を振るう際かのう。そのとき急所のいずれかを狙う。機会は多かろう。彼は好戦的な性質が強いように思う。さりとて頭が回らないわけではないことが厄介じゃが)

 

 観察行為を反芻し、脳内で情報を組み立てていく。

 当のボガートは不愉快げに眉を曇らせていた。

 幼女が一向に誘いに乗らないためか、それとも不躾な視線に気を悪くしたのか。

 

「へェ、まァ薄々気づいちゃいたがなァ。あの雑魚じゃァ絶対ねェとは思ってたが……本当にこの餓鬼がかァ? まだ乳でも飲んでそォな餓鬼だぜ? 嘘だろ」

 

 膨張する殺意とは反し、頬を綻ばせて独りごつ。

 不自然だ。この場に他者が介在しているかのよう。

 有り得ない話だが、剣と会話しているような──。

 

「なァ餓鬼ィ、手前の方(・・・・)が大尉の首ィ取ったのかァ」

 

 唐突。至近まで白熱した横薙ぎの一閃が迸る。

 大剣による斬撃だ。彼我の距離を一瞬で埋められたことに愕然とする暇はない。ソルは更に身体の傾斜を強め、頭頂すれすれで避ける。予備動作もなく振るわれた刃が裂いたのは、彼女に追随して翻った白尾の先端だった。幼女の体躯は巨体相手と相性がいい。テーリッヒ戦で実感して、学んだことのひとつだった。

 だが、オド消費の影響が回避動作にも及んでいた。

 反応が遅れた。想定以上に紙一重であった。

 

「だよなァ。その動き。その落ち着き。その──」

 

 ソルは瞳を、目前に曝け出された右膝に向ける。

 姿勢を徹底的に低く保つ。それは幼い身体ならではの強みだった。如何な小柄な体躯を持つ剣術者だとして、ここまで地面に近く構えられない。ゆえにこそ見える突破口は存在し、この好機は見逃せない。

 幼女は前方に駆け出しながら右腕を振るう。

 刃を走らせ、巨体の右膝裏を横合いから打つ。

 

「抜け目のなさ。帝国の暗殺部隊出身かァ手前ェ?」

 

 金属音。硬い感触。その手応えに唇を噛む。

 痺れた手を引き、ボガートの背後に抜け出た。

 いま正確に関節部を狙い打ったはずだ。それでも弾かれたのは単純に威力不足だったのだ。目前の巨躯を押し込んだ鎧は、足の関節部さえも強固な造りをしているのか。あるいは魔術的な防護を敷いているのか。

 何にせよ、足の関節部は彼の脆弱点予想から外す。

 次いで狙うべきは、と思考を割く前に──。

 

「蹴りやすい位置だなァ」

 

 ボガートは勢いよく右踵を軸にして回転する。

 幼女に向き直ると同時に、蹴飛ばすつもりなのだ。

 予感は的中する。右方向から剛速の脚が飛来する。

 周囲の風を巻き込むように繰り出されたそれを、幼女は跳躍することで回避する。だが、回避行動に留まらない。彼女の真意は急所を捉えることにあった。

 跳躍先はボガートの方向。幼女は首元を狙った。

 彼の鎧は首元が自由なのだ。鋼鉄の防護がない。

 宙空で刃を滑らせる。今度は両手を使って斬撃を放った。ちらと彼の両腕の位置を再確認。右手は腰元で大剣の柄を握っている。左手は左脚と同期しているため巨体を挟んで反対側にある。肘を背中側に突き出していて、この斬撃を腕で庇うことはできないはずだ。

 では、これで彼の綽然とした顔を崩せるか。

 放たれた一撃は読み易くも鋭い。それを──。

 

「一合で蹴りがつくたァ、思っちゃいねェよなァ?」

 

 ボガートは口端を歪めて、飛び退る。

 刃が届く前に、距離が一気に離されてしまう。

 幼女は緩やかに螺旋を描きながら双脚で着地する。

 そして迅速に位置関係を把握する。現在、自らは裏庭の中央付近に立っている。それに対して巨漢は西側の端。しなやかな筋肉による異様な跳躍力を見せた。

 目算で言えば、彼の元まで最低三十歩は必要だ。

 所詮は幼女の歩幅である。短いそれは跳躍力と歩数で埋める必要があった。ただ地力で劣る自覚がある身としては、自ら距離を詰めることに抵抗がある。ここは構えを崩さず、様子見を選択するのが最善かもしれない、という──弱気な判断を即座に切り捨てる。

 迷いを捨てる。ソルには遠距離攻撃の手段がない。

 それに比べ、あの英雄は炎属性魔術が使えるのだ。

 敵方に与えた猶予分、一方的な攻撃に晒される。

 炎の海を遠景に、英雄は大剣を地面に突き刺す。

 

「煩わしい蝿一匹。夢なぞ見せずに焼き殺そォか」

 

 彼は、不穏さを匂わせる言葉をぼやいた。

 そして大剣に宿していた紫光を唐突に消した。

 ソルの心臓がひときわ強く跳ねる。

 今更駆け出しても時すでに遅し。間に合わない。

 

「【星神の威光】【万象の属性から借り受ける】【其は炎、経典に綴られし原初の劫火】!」

 

 ボガートが口遊んだのは三節からなる詠唱だ。

 魔術詠唱とは「事象の固定化」に必要なものだ。

 端的に言えば、詠唱は『魔術で如何なる事象を引き起こすか。その想像を固めるためのもの』である。よって魔術の詠唱時間は複雑になればなるほど比例して長くなる傾向がある。また単純事象を起こす魔術であっても、その規模が大きいほど詠唱文も増える。それはいずれも要求される想像力の高次元であるためだ。

 基本的に「消費魔力が嵩むものに比例して詠唱が長くなる」という関係性が成り立つ。

 

(ボガートの詠唱は三節。決して多くはない)

 

 簡単な魔術は一節か二節の詠唱。

 戦闘で有用とされる魔術を繰り出すには、三節以上の詠唱が必要と言われる。ただ三節からなる魔術は所詮、実用的ながら程度は最低限。たとえば炎属性は手のひら大の炎の現出に留まる。ソルが容易に躱せるようなものでしかない。本来ならば恐るるに足りない。

 しかし、ここに例外が存在する。

 実に単純な理屈だ。魔術に注ぐ魔力の濃度と質が桁違いならば、同事象を引き起こすものであれ現出する結果の威力・規模はともに大きくなる。つまり詠唱時間と規模が釣り合わない、常識的な観点からは逸した魔術が引き起こされる場合がある、ということだ。

 それはまさしく天性の才能による所業である。

 それはまさしく凡人を飲み込む才能の奔流である。

 

「屑は塵へ、塵は風へ、風は凪いで、遂には消える」

 

 そうして、ボガートの身体の輪郭が紅々と輝く。

 炎の海の上空に広がる宵闇に、炎、炎、炎──。

 二百(・・)を超える炎の塊を生み出されたのだ。

 

(三節の魔術でこれか。壮観じゃな)

 

 まるで中天に陽が浮かんでいるかのごとき光量だ。

 塊のひとつひとつは超高温の炎。灼熱が肌を焼く。

 相対するだけで眼球が乾いて、罅入るように痛む。

 あれが直撃すればどうか。想像するだに恐ろしい。

 

(まさか魔術にも長けておるとは。裏庭が開けた空間である点を存分に活かしてきたのう……)

 

 目を細めながら、思わず絶句する。

 遮蔽物はない。平坦な地面には凹凸ひとつない。

 ソルの手にあるのは剣が一振りのみ。

 

灼熱八十(しゃくねつやそ)の雨霰──『一緒くた』に燃え尽きろ」

 

 空中に浮かぶ二百の炎が地上に狙いを定める。

 そして掃射される、膨大なまでの炎の弾丸。

 それは、幼女が飛び退いて躱せるような範囲をゆうに超えていた──。

 



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11 『炎纏う幻想剣2』

 炎塊の掃射によって、さながら真昼のようだった。

 光、光、光──光量と熱量は漸次上昇していく。

 それでも、ソルは瞳の黄金色を瞼裏に仕舞わない。

 低空を滑るように駆けながら小指を柄尻に添えた。

 裏庭に太陽が落ちるのか。そう錯覚せざるを得ない二百にも及ぶ炎塊の一斉射出。逃げ場所を封じるほど弾幕が張られていた。退却するにも間に合わない。飛び退くことでは窮地を脱せない。最低限この庭から外に出なければ回避できない。炎熱地獄が迫りくる。

 視界は熱気で朦々と歪んで、光が輪郭を溶かす。

 いまにも身体の前面が焦げてしまうのではないか。

 そんな恐れを突き破り、前方に重心を傾ける。

 筋肉を躍動。風を掻き分け、白髪がしなる。

 

(退いてはならぬ、ならば前へ進むまでじゃ……!)

 

 臆すれば死。誤れば死。怠ければ死。

 ソルは黄金色の瞳を見開く。眼球が燃えるようだ。

 しかし、これ以外の打開策は捨て去ってしまった。

 炎塊を手にした剣で打ち払えるか? ──否。

 ソルの剣速程度では炎を吹き消すには至らない。

 オド消費の加速術で距離を詰める? ──否。

 距離が開きすぎている。彼我の距離は全力全霊で駆けてなお三十歩分。ここからオドを推進力に変換して飛び込んだとて、十歩分を埋めたあとから減速してしまうだろう。そこから重い身体で二十歩前後の距離は埋めがたい。体内残量も心許ない。放出量を見誤った場合、オドが尽きて命を落とす恐れもある。

 あの加速術は万能とは対極の位置にある技だ。

 テーリッヒ戦で顕著だったように、一定以上の相手には見切られてしまう。ボガートほどの武勇を持つ男ならば尚更だ。不可避の間合いで放たねばならない。

 近寄らずに一斉射出を回避するか? ──否。

 ボガートの体力との我慢比べでは分が悪すぎる。

 

「【星神の威光】【万象の属性から借り受ける】【其は──」」

 

 飛来する炎塊の奥の闇で、詠唱を繰り返して響く。

 それで第二射となる炎塊が次々と形成されていく。

 たとえ第一射を凌ぎ切れたとして、第二射、第三射と炎の雨に降られれば為す術なく焼死するだろう。オド消費で削がれた身体能力と体力が響く。現状の持久力は普段の半分以下、対する英雄の顔は涼やかだ。

 意地の張り合いには一角の自信はあるが、敗戦必至だろう。ゆえに勝利を真に見据えるとすれば、この手段が最良だ。迷いなく前進する幼女は結論づける。

 つまりは正面突破。真正面から大将首を獲るのだ。

 

(集中。眼じゃ。炎の大砲すべてを見切る)

 

 右脚をつけた瞬間、接近する数多の炎塊を見る。

 直撃する軌道のものだけでは足りない。それを見切ることは大前提。躱した先にも直撃軌道があるか想像して、あれば回避位置を吟味し直す必要がある。常に一歩先、二歩先を読み続けねばならない。凡人の身の上にとっては荷が重い所業だ。怖気が全身を撫でる。

 武者震いとは言い張れない、本能的な恐怖だ。

 白磁の肌から汗が滲む。心拍が耳奥で音を刻む。

 きっと、四十五年前ならば挫けていた高い壁だ。三十年前ならば天運に身を任せていただろう。二十年前ならば死を覚悟して壮絶な表情をしていたか。十年前ならば打開策の算出にかまけて無表情だったか。

 しかし、現在(いま)ならば不敵に笑ってみせられる。

 物事を観察して考察することは彼女の専売特許だ。

 ここで存分に発揮することで、往年の積み重ねが無価値でないことを証明する。

 

(死力を尽くす。何度も繰り返してきたことじゃ)

 

 ──思えば、死力を尽くさない戦場などなかった。

 見た。瞬時に数えた。直撃軌道の炎塊は二十五発。

 迫り来る脅威の数を認めた刹那、炎塊が殺到する。

 ソルは忙しなく目を動かして算出を続けた。それらが飛来する角度を寸分の狂いなく見極める。光量と熱量と風圧が強まれど視線は逸らさない。前髪が暴れることも厭わず、まず身体の重心を右側に寄せた。失速しない程度に身を屈め、十一発の軌道上から逃れる。

 幼女の身体に感謝する。この矮躯でなければ、きっと潜り抜けられなかった隙間だ。幼女の姿は万事不便極まりないと力説したいが、小回りが利くという利点は無視できない。無論、精密な身体制御が必要だが。

 幼い身体は不完全だ。乾涸びた喉に唾液を通す。

 

(幼児は大人よりも頭部の比率が大きい。ゆえに子どもはよく転ぶのじゃ。わしも重心を取る場合、細心の注意を払わねばならない。重心の制御を誤り、転げてしまったら目も当てられぬ)

 

 ソルのわずか左側に二発、頭上を八発が通過する。

 紙一重。至近を横切る炎火はそれだけで苦痛を与えてくる。面相の毛穴と、風圧に藻搔いて翻った髪の数本が焼け焦げた感覚があった。露出した肌は内部の水分がすべて奪われて、表面が網の目状に割れてしまう想像が頭を掠める。それほどに全身が悲鳴を上げる。

 さりとて間髪入れず、確と地面を踏み締める。

 視界内で扇状に飛来する炎塊を躱すため、飛ぶ。

 前方に跳躍。次々流星めいた炎塊が背後に流れる。

 疾走速度を上昇することで直撃軌道から外れた。

 

(残りの直撃軌道は四発……!)

 

 正面上空が一発。右寄りから一発。左寄りが二発。

 幼女の集中力は極点に達し、主観が緩やかに進む。

 低空の身体目掛け、四発の炎塊が降り注いでくる。

 幸か不幸か、その射出速度は不揃い。着弾予測を多元的に行わねばならない代わりに、各々の速度差によるわずかばかりの隙間が明確に存在する。そこに付け入る間隙はあるが、言葉以上に容易いことではない。

 ──着弾を避けるには加速? 否。間に合わない。

 数瞬の逡巡の間に、息も燃える至近に炎塊が接近。

 ここまで来ると脊髄反射の領域だ。左脚で右足首を浚う。風が背面を撫で、頭部に冷や汗が噴き出る。暴れる重心を必死に制御することで、頭部ではなく尻側に留める。そして、滑り込むように炎塊をくぐった。

 鼻先を掠める、轟然と燃え盛った死の砲撃。顎先から額まで、炎熱に顔を舐められる。中空に放り出された白髪の尾が、炎塊の風圧で踊るのを見──やがて背中に衝撃が走った。無防備な背から墜落したのだ。

 肺腑への圧迫感をぐっと堪え、右側に急ぎ転がる。

 

「はっ、はっ……!」

 

 その瞬間、一瞬前までいた位置が爆ぜた。

 音の暴力が襲う。炎塊が至近距離に着弾したのだ。

 もはや音は全身を打ち据えた。身体の中心がどろりとした水銀に満ちた心地になる。鼓膜が内側から弾け飛ぶかと錯覚するほどの圧倒的音圧。それを外側から抑えつけるように爆風が一気に膨らみ、荒ぶ。

 ソルは腕を庇にして辛うじて目を護る。爆裂の衝撃で派手に土塊が舞い、数多の石礫が肌を削る。流石に物理的に眼球を潰されては継戦不可能だ。ただ視界に砂煙が立ち込めていない。裏庭の地質的に砂の割合が少なく、舞い上がった砂も微量だったのだ。

 だが、周囲二百発の炎塊の墜落を受けるとどうか。

 連続的な爆音、爆風がその余波含め猛威を振るう。

 

「ぐ、おお」

 

 ソルは追われるように前転したが、しかし──。

 もろに爆風の影響を受け、矮躯は吹き飛ばされた。

 歯を軋ませながらも地上を瞳で捉える。空中で錐揉みし、横回転を帯びつつも左肘から着地。激痛。痛みの伝播は電流が流れる感覚に似ている。肩に嵌る腕が背中側に突き出た様を幻視するが、構わず衝撃を逸らすように受け身を取り、風勢に乗じて跳ね起きる。

 一連の動作は淀みなく流し、一息に駆け抜ける。

 

(……抜けたかっ!)

 

 この数秒は恐怖に心臓を鷲掴みされた心地だった。

 これにて第一波の炎塊の雨は終息した──が。

 再び、火炎の波は新たに押し寄せてきている。

 

(次じゃ。次を見極める)

 

 土埃を霧散させて再接近する炎の雨礫を、視る。

 その最中、右手に握る剣を無意識で握り直す。命からがら炎塊の雨から逃れることは、英雄攻略のとば口にすぎない。英雄との距離は着々と狭まっている。いよいよ首を獲る具体的な算段を立てねばなるまい。

 だが、現在は情報処理で精一杯。余裕は皆無だ。

 片足で着地しつつ、思考回路を全力稼働する。

 

(目算で、残り二度凌ぎ、距離を詰めれば……!)

 

 ソルの現在地に対する着弾予測は百八発(・・・)

 第二波は集中的に狙い定めたらしい。扇状に展開された炎塊が幼女一点を目掛け、雪崩を打つように迫り来ていた。この大量の砲弾が集約する正面に隙間はない。が、先ほどまでとは状況が違う。対処法はある。

 判断にかけた時間は瞬き程度。即座に踏み締める。

 英雄との距離が元より半ば以下に縮まった弊害だ。

 

「ふッ!」

 

 強烈に地面を蹴り、全力で左側へ横飛びする。

 戦場では瞬発力と即時判断が物を言う。着地のことを考慮しない、捨て身の回避行動が功を奏す。百八もの軌道からは外れる。なまじ一点集中の軌道は回避しやすい。狙いが広範に散らばらないがゆえ、回避後の位置関係算出は不要で、予測が複雑化せずに済む。

 百八以外の炎塊はまばら。かつ速度が鈍重だ。

 被弾の心配はあるまい、と多寡を括る。しかし。

 自らの手落ちを遅れて理解すれど、それを止める手立てがないことに打ちひしがれる。

 

(そうか。狙いは一点集中(・・・・)させること(・・・・・)自体(・・)にある)

 

 百八発もの明光が一ヶ所に集束。

 瞬間──爆裂。幼女は形振り構わず目を庇う。

 

「うぐッ……!」

 

 一切の音が失われる。一切の色が失われる。

 視界一杯は漂白。完全なる白に塗り替わる。

 聴覚には、草笛のような甲高い一音だけが響く。

 露出した肌身には例外なく熱線を浴びた。

 そんなすべてが失われた時間は一秒にも満たない。

 そこに一拍遅れて、苛烈極まる烈風が巻き起こる。

 烈々たる嵐は滞空中の幼女を手にかける。踏み留まることもできず暴威の煽りを存分に喰らう。身体は中空まで吹き上がり、頂点にまで達すれば気流は霧散した。重力に恭しい手つきで捕らえられてしまう。

 そうしてあとは、地上まで抱き寄せられるだけだ。

 幼女は背筋に走る悪寒に急き立てられる。漂白された視界でも、全身を包む墜落感は察知できた。咄嗟に両腕で頭部と胸部を護る。ごぎり、と内臓の定位置から外れた異音が響く。呼気が洩れる。全身の毛穴から汗が滲む。受けた衝撃は両腕に重々しく残っていた。

 それら苦痛を、鍛え上げた精神力で押し殺す。

 しかし内心、肝を冷やしたどころではない。

 どくどく。心臓の鼓動が頭の奥で響く感覚がある。

 

(やられた。いま、死んでいてもおかしくなかった)

 

 第二波は容易く回避できる認識は誤りだった。

 第一波は広範囲砲撃。定石通りに逃げ場を塞ぐ類の攻撃方法だった。それに比べて第二波は弾道が集中的であり、むしろ突破口は開きすぎているように思えてならなかった。ある種その感覚は正解だったが、間違いでもあった。二次被害の規模は想定を越えていた。

 荒々しい呼吸のまま、幾度も瞬きを繰り返す。

 すると霞みがかっていた視界に輪郭が戻ってくる。

 

「よ、し」

 

 ──もしも目が潰れていれば勝算は失せていた。

 ソルは萎え始めた脚を賦活し、蹶然と立ち上がる。

 そうして再び駆け出すも、いままで保てていた速度は無に帰している。

 

(まずい。まずいのう。戦況がジリ貧傾向にあるのじゃ。ここまでの疲労感の蓄積を含め、全身が重い。吹き飛ばされて直線距離も開いてしまった。急ぎ巻き返さねば、取り返しのつかぬ悪循環に嵌る)

 

 もはや速度を緩めることは許されない。

 喘ぐ呼吸を噛み殺す。思考内に夾雑物は挟めない。

 奥歯を噛み合わせながら、死線を見極め続ける。

 第三波は、第一波同様に狙いは疎らなものだった。

 微に入り細を穿つ。ソルは求められる身のこなしを常に心がけた。躱す、躱す、さりとて限界は目前まで迫る。負傷と疲労感、五感の不調が確実に身体を軋ませていた。酷使される矮躯には堪える弾幕である。

 息を切らせてもなお、炎の雨からは脱せていない。

 ゆえに、ひとり兜の緒を締め直す心持ちで──。

 だがその転瞬、ソルの呼吸が止まる。

 炎の雨礫を突き切るようにして光線が迸った。

 幼女目掛けて、灼熱の一槍が真正面から襲い来る。

 

「……ッ!?」

 

 想像の埒外からの一撃。

 度肝を抜かれて、あわや思考が停止しかかる。

 主観が緩やかに進む。息もかかる至近距離に穂先がある。この灼熱の槍は、炎を纏った槍ではない。まるで炎で創られた槍(・・・・・・・)だ。表面が煌々と橙色の光を放っている。射出速度が炎塊のそれとは段違いという理由は、空気抵抗を受けづらい形状ゆえだろうか。 

 ──この場面でまた不覚をとるとは。

 してやられた、と悔悟が込み上がる。難所に出会した高揚とは別のものだ。自らの不足を呪う。処理限界を見切られたのだ。きっとボガートは第三波で詠唱を一旦打ち切り、効果的な機会を見計らって投擲したのである。炎塊の突破に遮二無二なあまり、彼の行動に気を払えていなかった。これは明確な手落ちだ。

 気を払えていれど、対応はできなかったろうが。

 

(もはや間に合わぬ。じゃが)

 

 抗うと腹を決めて、限界まで身体を捻じる。

 槍の一撃は点の攻撃。躱すのに大仰な動きは不要。

 されど、狙い穿たれた槍は回避不能の間合い。

 

「……が、ぁっ!」

 左肩を槍に穿たれた途端、左肩の感覚が消失(・・)

 超高温の穂先は鎧を融ける先に砕かれる。生まれた亀裂に染み込む槍。肉を焼く快音が鳴る。それが己の身体からと悟った瞬間、ぶわりと肌が泡立つ感覚があった。紅い灼熱の色には見目通りの熱を秘めていた。

 焼け爛れ、溶ける傷口。槍傷の当箇所は無痛だ。

 しかし、患部周囲の痛覚は生きている。水面の湖面に石を投げ込んだような──否、そんな生易しい痛みの伝播ではない。痛みの津波が体内で猛り狂う。

 視界の半分が点滅。額に珠のような脂汗が浮く。

 思考回路は焼き切れ、嗚咽のように呼吸が乱れる。

 だが。それでも眼窩一杯に黄金の両眼を見開く。

 ──まだ終われない。まだ諦められない。

 

「があああ──ッ!」

 

 咆哮を上げる。失神寸前の痛みを紛らそうとする。

 だが、気休め程度の効力もない。痛覚を麻痺できるまでに至らない。喉奥に灼熱が広がる。鉄錆じみた味が沁みる。裂けるような絶叫で血管が切れたのだ。それでも、この咆哮は気勢を上げることに役立った。

 いまや槍はすでに空気に融けて消えた。実体化するだけの魔力が尽きたのだろう。ひりついた痛みのみが残留する。外気が毒を帯びたように触れているだけで疼く。負傷のすべてが鉄枷のように身体を縛する。

 ──意地の張り合いならば一角の自信はある。

 笑う。自覚はなかったが、口角が上がっていた。

 

(無理な状況をこそ歓迎しよう。それは、わしの求めるものじゃ。わしの壁じゃ。この難局すらも過程に変えられれば、また夢に向かって一歩進めた証じゃ!)

 

 ここは、見定めた終着点からは遥かに遠い。

 自らの追う夢を星のように仰ぐことしかできない。

 彼らと並び立つなど、凡人の寝言にすぎないのか。

 それこそ、夜の夢以外で到達できない場所なのか。

 

(否ッ、否じゃ。叶えてみせる。せっかくこの身に宿った二度目の生。夢に指先すらも届かぬまま、ここで仕舞いになどさせてなるものかッ!)

 

 そうして白き修羅は潜り抜けた。避け果せたのだ。

 ボガートの懐まで目算、残り八歩に到達する。

 頼りない矮躯は、細い足で地面を強く踏み締める。

 ソルは湧き上がる達成感を無視。左肩から全身に伝わる虚脱感も無視。全身を苛む痛覚の阿鼻叫喚、骨の呻吟も無視。歯が削れるほどに噛んで、無視する。

 間合いは十分だ。魔術を編まれる心配もない。

 ここならば刃が届く。精一杯の力を右手に込める。

 自らの信じる剣の存在を確かにする。

 

(注意を逸らすものはなし。細工を施す余裕もなし。加速術で真正面から不意打つ……!)

 

 必死の形相に笑みを滲ませて、懐まで迫る。

 身体に残る、なけなしのオドを放出しようと──。

 

「刃は届かねェよ。手前ェはココが限界だ」

 

 無慈悲な言葉が、冷淡な調子で振り下ろされた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──根性だけは驚嘆に値する。

 それが、ボガートの思考に迸った感想だった。

 あの幼女は度重なる炎熱地獄の間隙を潜り抜けた。

 短く鼻を鳴らす。彼にとっては賞賛の拍手のつもりだった。幼い身ながら道中を最小限の負傷で済ませ、至近距離まで辿り着いた。獣めいた獰猛な瞳と姿勢に反して、冷静な判断力と度胸を持ち合わせている。そうでなければ、騎士たらんとあり続けたテーリッヒ・ガルディを討ち果たすことはできなかったろうが。

 ボガートは迸った思考を舌打ちで消し飛ばす。

 

(いけねェな。あァ、いけねェなコレは)

 

 あの獰猛な幼女は失念していたのだ。

 それこそ子どもでも知れることを。もっとも、炎塊の雨霰の突破で手一杯だったのだろう。ただ対峙者の身体的特徴に眼目を置かないとは、片手どころか両手落ちである。ボガートの最も得意とする間合いは近距離戦。互いに手が届く範囲内では王国無類だった。

 巨躯。巨剣。彼が肉弾戦特化型だとは、万人が見たとして万人が頷きを返すだろう。ならば幼女の目は余程の節穴か。あるいは絶望に打ちひしがれた挙句、現実から目を逸らしたのか。人並みの同情はかけられよう。全身全霊を振り絞って炎の死線を潜り抜けたところで、この筋骨山脈と正対せねばならないのだ。

 ──果てのない道行きは人の心を折るに余りある。

 男は、手にしている剣『幾千夜幻想』の柄を回して、そのときひとつ思い直した。

 

(違ェな。俺を欺く腹積りでいやがる、この餓鬼は)

 

 ふと閃いたその直感は悪寒にも似ていた。

 少なくとも明確な根拠に基づいた予感ではない。

 ボガートは幼女の頭を掌底で沈める予定だったが、咄嗟に取りやめる。よたよたと覚束ない足取りで接近する様は、謂わば擬似餌だ。釣りで言う浮き。息を殺し、手ぐすね引いて、獲物がかかるのを待っている。

 ──目障りな黄金色の瞳。その奥が煌々と光る。

 だから彼は、あえてその誘いに乗ることにした。

 

「来な」

 

 短く言い放つ直前、すでに幼女は動いていた。

 長髪の亡者が加速する。方向は正面ではなく右方寄り。さしずめ地に馳せる飛燕のように滑り、急角度で中空に上昇する。そして転瞬停止したかと思えば左中空から背面低空、そこから右後方、右前方と直線的に移動しながら剣閃が見舞ってくる。嵐のように縦横無尽に至近距離を巡る、剣閃速攻の芸術的四斬撃。

 どれも鎧の関節部を正確無比に斬りつけていた。

 しかし、それでも巨躯に傷ひとつ付けられない。

 英雄は幼女の疾駆を目で追うのを諦めて、無造作に右手を突き出した。

 

「早ェが、馬鹿なげぇ髪が仇だったなァ」

「っ、っ」

「ココは戦場だぜ? 餓鬼ァ頭丸めて来やがれ」

 

 右手で掴んだのは、ソルの──その、白髪。

 間髪入れず腕を振り下ろして引っ張る。手にはぴんと張り詰めた髪の感触と、幾本か引き千切れる感覚が残る。矮躯が宙を舞って地面に叩きつけられる。齢幾許かの子どもに振り回される玩具のようだった。

 体重を乗せた、情け容赦ない一撃は頭蓋を割る。

 額と地とで鳴ったとは思えない重音が、木霊した。

 

「ぁっ……が……!」

「命がかかってることを知らねェ。早熟な才能ってやつァいけすかねェなァ。身の程を弁えねェ」

 

 ボガートは、絞り出されるような呻きを踏み躙る。

 伏した頭を右手で掴み直し、頭蓋骨を鳴らす。

 

(まァ結局この餓鬼も、鎧袖一触の雑魚でしかねェ)

 

 湧いたのは憎悪にあらず。ただ、虚無感だった。

 たとえば、自らの運命を翻弄する黒幕の存在に気づいたとして。たとえば、数十年来の憎き相手がいたとして。たとえば、幾ら口説いても落とせなかった想い人がいたとして──その正体が期待を越えなかったとき、失望を抱いてしまうのは仕方がないことだ。

 人生は劇的ではない。彼の知る限り、現実は演劇の張り子ばかりだった。人生を歩む本人の自己愛めいた誇大妄想が、張り子を大袈裟に見せているだけのことだ。演出がかった視野を脱したあと目にした現実は、朝靄に薄らぐ月のように、どうしても色褪せて映る。

 彼は醒めた表情で、地に広がる白髪を見下ろす。

 確かに才能はある。見目と実力の乖離は甚だしい。

 しかし、あの悪魔じみた英雄(・・・・・・・)の足元にも及ばない。

 視界に黄金の光を幻視して、思わず顔を顰める。

 

(俺が……あのとき、我儘さえ言わなければ。こんな餓鬼に後れを取るなんてこたならなかったのか。あの人が有終の美すらも飾れなかったのは……俺の)

 

 舌打ちする。期待した虚像分、影は丈を伸ばす。

 不純にすぎる思考を断ちきり、右手に力を込める。

 ここまで、騎士を討った下手人の足取りを追ったことはすべて無駄足だった。そう結論づけて、手早く幼女の頭蓋骨を握り潰そうとする。感傷的な気分に浸るような時間はない。まだ陥落していない魔術房を回って、そこで戦う仲間たちに加勢しなければならない。

 彼が思惟の焦点を逸らした瞬間、剣閃が走る。

 

「とォ、危ねェ」

 

 銀閃が、左足首を刈り取るように伸びてきた。

 ボガートが浮かせた右脚と、地面のわずかな間隙に滑り込むように刃が奔る。そして重心を住まわせた大柱たる左脚を倒壊させるべく、根元を抉り込む。彼が前傾姿勢だったために腱が張った踵方向だ。足を浚うような一閃が、またしても関節部を穿つ。

 だが無意味な足掻きだ。彼女が幾ら斬り込んだとしても、傷ひとつ付かないことからも明らかである。ボガートの纏う鋼鉄鎧は強靭無比。幼い力、それも片手による剣撃には躱す必要性すら感じない。

 だから彼は、転瞬の轟音に理解が及ばなかった。

 

「は、あァ?」

 

 視界が上向く。気づけば夜天が広がっていた。

 体勢は前傾から後傾へ。まるで片足を浚われて倒れ込むようだった。それが事実、幼女の一撃で足を掬われたと知るまで半秒はかかってしまった。驚愕から右手をわずかに開いた。それが狙いだったのだろう。

 幼女は機を逃さず、俯せの状態から飛び退る。

 大男は右手を背面の地面に叩きつけ、後方転回。

 中空を巨影が舞い、二人は対峙する形で着地する。

 

「手前ェ……!」

「おぬしの、癖は」

 

 荒々しい呼吸の奔流に飲まれて、声が聞こえる。

 

「思考中、右踵を浮かして叩くこと」

 

 ──まるで獣のようだ。

 ボガートは対峙する幼女にそんな感想を持った。

 獰猛な呼吸。生気に満ちた黄金色の瞳。虎視眈々とこちらの動向を窺い、無防備な姿を見つけたが最後、喉笛を噛み千切るつもりでいるのだ。

 右頬には打撲痕。雪白の髪や陶器のような肌は、出血と煤、砂埃に塗れている。掠り傷は手足や軽装鎧に無数に刻まれ、左肩の火傷は無残である。窮地に追い込まれてもなお諦めていないその姿は、故郷の山奥で目撃した野生動物そのもの。潔く自決する素振りはなく、いまだに闘争本能を剥き出しにしている。

 幼女はぽつりと零す。渇いて、(ひしゃ)げた声音だった。

 

「……ここは、戦場じゃぞ」

「手前ェ」

「思考が散漫じゃな。頭を切り離して来るがよい」

「意趣返しってワケかァ餓鬼ィ」

 

 足元を見遣れば、踵の装甲が破損していた。

 先ほどの斬撃によるものだ。素足が覗いている。

 

「いまの一撃は何だァ? 随分と違ェじゃねェの」

「能ある鷹は……爪を隠すと、言うじゃろう」

「へェ。アレが本領だとしたらァ、嬉しいねェ」

「殊勝な発言じゃ。こちらも……嬉しい、のう」

「意気投合ってヤツかァ? 奇妙なコトもあるモンだなァ。俺はさァ、もしかしたら手前ェは、期待の何分の一かくれェ、応えてくれンじゃねェかってなァ」

 

 ──俺も少し本領が出せるって、なァ。

 ボガートは鎧下にある全身の筋肉を隆起させる。

 はち切れんばかりに鎧が膨張させ、前傾姿勢。

 そして一息に、幼女の元に踏み込む。

 

「一瞬でくたばらないでくれよォ」

 

 その渇いた響きは、発破音にも似ていた。

 真実それは空気が弾けた音。無数の筋肉繊維により編まれた伸縮性は、巨躯を疾風の如く飛行させる。そうして右脚で痛烈な回し蹴りを見舞った。

 ばぎり。太い骨を粉砕するような音がした。

 

「ごが、ぁ」

 

 幼女の脊髄反射すら置き去りにする速度だ。

 彼女が躱す暇は存在せず、咄嗟に剣を盾にした。だが、貧相な身体で受け止められはしない。轟音とともに派手に吹き飛ぶ。力なく宙を舞い、十丈先の地面へ落ちた。体勢の立て直しは遅く、全身を震わせて、のろりのろりと立ち上がろうとしている。蓄積した負荷が臨界点にまで達しているのだろう。膝は折ったままで、こちらを睨めつけてくるに留まっている。

 ──おォ、まだまだ生きてやがる。

 

「さっきの動きはもう無理みてェだなァ」

「ごほ、がはっ……ぁ、はぁ」

「口も利けねぇか。まァ温存しすぎて腐ったのか」

 

 炎属性の魔術で追撃はしない。

 体力消耗が深刻なのもある。ボガートは元より魔術師ではない。体内で魔力を変換する効率は良いとは言えず、専門の魔術師と比べるまでもない。これ以上は無用に削るべきではない。以降の魔術房強襲のために余力は蓄えておきたいのだ。彼の配下たちや残りの強襲部隊の面子では、バラボア砦攻略に不安が残る。

 そして何より、この幼女への対応が決まった。

 呻く彼女を見下ろして、整えられた髭を触る。

 

「合格だァ、餓鬼ィ。手前ェは沈めてやる」

 

 また刹那に距離を詰め、後頭部を叩き落とす。

 顔面から突っ伏した先はボガートの右脚。

 

「ぁ、が」

「その前に痛めつけてから、だがなァ」

 

 天高く蹴飛ばす。幼い身体が宙を舞い──。

 

「圧倒的な差ってヤツを知りやがれ」

 

 その上空に現れた巨躯が、右肘で腹部を突く。

 矮躯は急転直下。地面に勢いよく叩きつけられる。

 ぐじゃり。肉が潰れるような音が飛び散った。

 着地したボガートは、地に沈んだ幼女を蹴飛ばす。

 土を転がる身体。もはや抵抗は弱々しかった。

 瞳はかろうじて開いているものの、瞼が小刻みに震えている。くすんだような黄金の瞳は何を見ているのか。身体も傷だらけ。美しかったであろう髪は砂と煤が絡んでいた。まるで路地裏に打ち捨てられた人形のような有様だ。哀れとさえ思っても不思議ではない。

 だが一目見て、脳裏に浮かんだ言葉は──。

 

(相変わらず気に入らねェ目だ。心が折れてねェ)

 

 その証拠に、彼女の双眸はまだ黄金に輝いている。

 その証拠に、彼女の右手はまだ剣を握っている。

 大男は片手で蓄えた髭を弄りつつ、眉根を寄せた。

 

(だから、完膚なきまでに叩きのめす。死の淵に落ちても、王国の名を忘れねェように。王国の騎士の名を、忘れねェように。あァ、あのときできなかったコトを。俺がやるべきだったコトをやり直す。……俺の未練を、コイツ(・・・)で断ち切らせてもらォう)

 

 口端を歪めて、元の位置に突き立てていた魔剣を。

 幻想剣『幾千夜幻想』を手にとった──。

 

「さァ、一生醒めねェ夢に溺れなァ……『黄金』」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

(身体が、動かぬ)

 

 ソルの霞んだ視界は何も捉えられない。

 呼吸するたび焦点がズレる。傍に立つボガートの脚すらも不確かに映る。一戦闘の間に目を酷使しすぎた影響だろうか。 炎の雨を掻い潜る時間が数十秒だったにしても、過去最高の処理を行った。身体に無理が出てこないはずがない。用意できる最善よりも良い経過を辿った──結果が伴わずとも、ツケは回ってくる。

 物理的な負荷も大きい。目を開くにも体力が要る。

 

(最後の好機と思い、加速術を調節しつつ行使していたが……どれも決定打になり得なかったのじゃ。左踵に突破口は拓けたが、残量も、体力も、厳しいのう)

 

 ゆらりと、ボガートが遂に大剣を手にしていた。

 瞬時に剣身は炎を纏う。散華の花びらを連想させる跳ね火が、ぼやけた宵闇に舞う。そのおかげか自らの現在地が判明する。バラボア砦の壁際。ボガートが炎雨の詠唱を唱えた位置、その正反対だった。

 炎塊の爆撃で穴だらけの地面を経て、ここまで蹴り転がされていたらしい。茫漠とした思考が他人事のような所感を齎した。それは自らの負傷に対しても同じことが言えた。広がった傷口や数多の打撲の痛みも、槍の創傷も、痛覚が飽和して、鈍っていた。

 ざらざらとした地面が柔肌を刺す。

 

「ま、だ」

 

 呟く。綻びが入った硝子細工のような声だ。

 唇と喉をわずかに震わせるだけでも困難を極める。

 だが自発的に行動することで、辛うじて肉体と精神を繋ぐ。そうでもしなければ、きっと薄弱な意識を手放してしまう。意識が揺らいで、ふやけて、湖面に落ちた枯れ葉のように自然に千切れていくようだ。

 それでも、まだ一縷の希望を握り締めて離さない。

 勝機はある。体内のオド残量は三割程度だが、まだ加速術を放てることに変わりはない。それも有効打になり得ることは、左踵の破損に裏づけられている。ゆえに、次の機会を狙っているが、成果は芳しくない。

 ボガートほどの武を持つ男は、そう容易くない。

 目に入らずとも肌身に感じる。濃密なまでの殺気と念は、さながら研磨された刃物のようだ。常にこちらの一挙手一投足を警戒しているのは明白だった。

 詰み。その事実が目前に厳然と突きつけられる。

 勝敗を諦めるには至らないが、暗雲が立ち込めた。

 それでも必死に打開の糸口を探す。探す。

 ──だが、一向に見つかりはしない。

 

「最後に聞くがァ」

 

 ぽつりと、直上から声が降ってくる。

 

「何で手前ェはそこまですンだァ?」

「な、ぜ……?」

「手前ェみてェな餓鬼は帝国に義理なんざ感じてねェだろ。そこまで身を削ってまでヤる理由とか、特別に何かあンのかと思っただけだァ」

 

 ボガートは唐突に、素朴な疑問を寄越してきた。

 音量は控えめだったが芯の通った声色だった。

 ソルの脳内には、黄金の大英雄の声が木霊する。

 ──どうして貴方は戦に固執する?

 ──その執念の核は何だ。

 

(戦う理由。この戦場に、何を背負って来たか、か)

 

 各々の背負ったモノが勝敗を分けることはある。

 正確に言えば、背負う何かが重いほど勝利への執念が増す。それは身近な誰かの想い、周囲の期待、国の未来。種類は様々。いずれも使命感に似た強固な想いで、いずれも勝利を手繰り寄せる要素になる。それは移り変わりやすい人間の心だけに、遂行の可否を委ねないからだ。一介の傭兵として幾多の戦場を駆け抜けたソルフォートは、誰よりそのことを承知している。

 戦場では執念が薄れた者から死に至る。

 

(諦められない精神状態に置くことは、そのまま生存率と勝率に直結するのじゃ)

 

 ならばと、立ち返った問いが目前に現れる。

 ソル。ソルフォート・エヌマ。

 ならば、背負うモノが自分にあっただろうか。

 

(ある。それこそ、昔から持っておるものが……)

 

 即答できる問いだ。黄金の英雄に即答した問いだ。

 英雄になるという夢。ずっと小さな頃から追ってきた夢を背負い続けているだけだ。六十数年経ち、さらに生まれ変わってでさえも──。

 それでも夢を諦めかけた時期は確かに存在した。

 青年期に英雄の暴虐を目の当たりにしたとき、挫折しかけた。人伝てに聞く限り、大方の夢追い人はそこで別の岐路に足を向けるらしい。バラボア砦で出会ったバルドーも言っていた。彼の言葉に当て嵌めるならば「お前には、こんな戦場以外の未来だってあるんだから」と。視野を広く持ち、自分に合う道を行けと。

 極められない道を行くことほど徒労な物はない。

 

『ならばどうして。貴方は諦めなかったのだろう』

 

 そこで、ひとたび凛とした幻聴が聞こえた。

 聞き覚えのない中性的な声色が脳内に響き渡る。

 

『諦めない理由は、風化して覚えていないかい? それとも風化したからこそ半ば惰性で続けていただけなのかな。剣を振るたび迷いを捨て、つまりは思考を停止して、ここまで人生を砂に変えて来たのかい? 夢に向き合わず、真贋も確かめず、幼い想いを抱えて振り切ってきただけ? それなら』

 

 ただそれだけだったのならば。

 背負ったつもりのその夢は、その実、空虚だったのかもしれないではないか。

 

『貴方の夢の核は、確たる物は、夢の中身は?』

 

 声は紡ぐ。老いた凡人の不可侵領域を言及する。

 それまで大事に胸奥に閉まっておいた夢の欠片を取り出して、その是非を測ろうとする。

 

『貴方はどんな英雄に憧れたんだい?』

 

 泡沫の迷い。夢の揺らぎ。だがすぐに振り払う。

 この問いに意味はない。過去は過去でしかない。

 夢の中身を問うても利益はない。手遅れなのだ。背負うべき人々はとうに枯れてしまった。親類の類は塵と消えた。恋人はなく、子供もいない。幼女と化したいまとなっては知り合いもいない。誰ひとりとして期待する者はおらず、自身は生粋の帝国兵でもない。

 背負えるものなど、もはや夢しか残っていない。

 ならば、ソルには迷うだけの選択肢は存在しない。

 精々いままでの自分を背負って戦うだけだ。

 

(わしには、諦めない理由はそれだけで十分じゃ)

 

 なぜなら、まだ右手には剣を握り続けている。

 戦意を瞳に宿し、目前に剣先を突き立てんとする。

 

(ああ、わしは諦めなど。まだ、死ぬなどッ……!)

 

 さりとて、腹部に巨剣の刃が沈み込んでいた。

 

「が……うぐっ……!?」

 

 新しい刺激に痛覚が反応する。

 急所ではない。脇腹を掠るように貫かれた。

 幼女は歯を食い縛り、何とか身を捩ったのである。

 だが、追撃で致命傷を狙い直されない。まるですでに役目を果たしたと言わんばかりだ。わざと生かしているのだろうか。先ほどボガートがナッドを仕留めずに甚振っていた姿と重なる。その意図は掴めないが、ひとえに慢心が原因ではないのだろう。

 彼の殺気は本物。怨念の籠った形相である。

 九死に一生を得たが、しかし幸いとは言いがたい。

 

「ぁ、か、ぁ」

 

 炎熱を纏う刃は赫灼として、肉を焼く音が響く。

 声なき絶叫を意地だけで噛み殺す。

 半ば反射的に背を弓形に反らして藻搔くなか、見上げた先からは、強い情念を混ぜた声色が降ってくる。

 

「『ウェルストヴェイル』」

 

 それをきっかけに剣身に刻まれた文字が──。

 剣身に刻まれた『聖文字』の羅列に紫光が迸る。

 巨剣に刻印された魔術が起動した証だ。

 

「この餓鬼を幻想に、夢に、溺れさせちまいなァ」

 

 ソルに許されたことは見届けることだけだった。

 痛みに喘ぎ、呻きながらも視界は光が満ちてゆく。

 

(『ウェルスト、ヴェイル』? それは確か)

 

 思い出す前に、そこで意識は暗転した。

 どこかで、本の頁が捲られるような音がした──。



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12 『ウェルストヴェイル』

「──これで、最後の(ページ)よ」

 

 誰かが優しく語りかけてくる。

 耳朶を打ったのは、なぜか懐かしい声だった。

 

「長い長い、物語の終わり。はたまた新しい物語の始まりでしょうか。エイブロード様が携えた剣の一振りは、ついには皇帝ロログリムの首まで届いたのです」

 

 ソルの意識は徐々に明瞭さを取り戻していく。

 気づけば彼女は、藁葺きの寝床で横になっていた。

 傍にある細い蠟燭の明かりで周囲を把握する。

 ここは、こじんまりとした小屋の一角。森閑とした薄闇が降りた空間には、壁の隙間から差す青褪めた光と、室内を舐め上げるように照らす蝋燭灯の他に光源はない。四隅には暗闇が固まってじっとしている。

 ソルは瞬きを繰り返して、当惑を露わにする。

 

(こ、こは……? ラムホルト殿は……?)

 

 あまりに突然のことで理解が追いつかない。

 あの獅子めいた巨漢は影も形も見当たらない。ここは四方を高壁に囲まれた城砦でもない。更には、常に身体を苛んでいた激痛、そして傷跡さえも夢幻だったかのように残っていない。左肩や脇腹付近にあった火傷、刻み込まれたはずの裂傷と出血、その一切が失せているのだ。意識が眩むような心地にすら陥った。

 この場所にしてもまるで脈絡がない。ソルは、砦壁に張り出した石造櫓から眺めた風景を覚えている。近辺に藁葺き屋根は見当たらなかった。それにこんな掘っ立て小屋など城砦の周辺にあれば、幼女が食事を求めて彷徨っていたときに見つけていたはずだ。

 様変わりした場面に目を白黒させるも、様変わりしたのは自分自身も(・・・・・)と知り、混乱を極めていく。

 

(身体が……これは、わしか?)

 

 闇に呑まれかけた鏡台を見て、愕然とする。

 自らの外見が、あの、蒼褪めた幼女ではなかった。

 

(むかしの、わしじゃ)

 

 歳は幾許かの頃のソルフォート・エヌマだった。

 性別は男性。栗色の髪は首筋に触れないほど短い。

 身を包んでいるのは、薄汚れた布地を切り貼りした簡素な服だ。華奢な手足はほんのりと小麦色に焼けていて、厚手の布を何枚も重ねたような煎餅布団に横になっている。間違いなく少年期の自分である。積み上げた年数に記憶が埋もれてしまっても、それだけは認識できた。さりとて不可解さは益々深まるばかりだ。

 ──ここはどこか、あの一瞬で何が起きたのか。

 決して冷静さは手放すことなく、状況把握に務めなくてはならない。

 

「こうして、長い物語はおしまい。英雄エイブロード様の旅は幕を下ろしました。厳しい戦いでした。傷ついた仲間はたくさんいました。倒れた仲間も数えきれないほどでした。けれども、彼は長年の戦いの末、ようやく悪の帝国を打ち倒したのです」

 

 ただ、大胆な行動を起こす気にはなれなかった。

 生来の慎重さに端を発した行動、ではない。意識は余白をつくり、夕陽めいた曖昧な暖色で灼かれる心地がしたからだった。ここは世界のどこよりも安全な場所だと、摩訶不思議な確信が身体に染み入ってくる。

 いまは、この優しい声色に耳を傾けねばならない。

 胸のうちから湧き上がる感情が、そう思わせた。

 

「彼が仲間たちとともに自国に帰ると、盛大な拍手と笑顔が出迎えます。『よくやってくれた!』『この国の誇りだ!』『英雄エイブロード様!』くちぐちに民衆は声を上げました。しかし、彼が帰ったことを誰よりも喜んだのは、宮廷で待つシサ姫でした。そう、彼女とは以前に結婚の契りを結んでいたのです。『もしも戦いが終われば、あなたと結ばれましょう』その言葉は、違えられることはなかったのです。のちの二人の結婚は、生まれ変わった大シャルティエ王国の門出にふさわしく、華々しいものになりました」

 

 優しい語調で、聞き覚えのある御伽噺が紡がれる。

 内容は誰もが知る英雄譚だ。真偽が判別のつかない童話とは違い、完全な創作ではない。五百年以上前の実話が基になっている。それにしては衒いのない筋立ての物語だ。小国の英雄エイブロードが仲間を集め、悪逆無道の帝国を下す。そして最後、大きくなった自国の姫と婚姻を結び、彼が王となって物語は終わる。

 いまや陳腐とさえ言える、喜劇的な幕切れだった。

 ソルとしては郷愁の情が洶湧してくるばかりだ。それこそ、子供の頃に聞いたこの御伽噺に魅せられ『剣使い』という存在に憧れたのだから。謂わば、ソルフォート・エヌマの原風景であり、始発点である。

 記憶の底ですっかり色褪せ、だが風化しない物語。

 それを紡いでいたのは、否応なく情を揺さぶる声。

 世の誰よりも慈愛に満ちた、微睡みを誘う声色。

 それは、消えようのない追慕の念を呼び起こす。

 

「これで、おしまい。……あら」

 

 ぱたん、と染みだらけの本が音を立てて閉じた。

 子どもの頃から好きな響き。古ぼけた紙片の束が鳴らす、温かみを持った音には相反する寂寥感と達成感が同居していて、徐々に入り混じっていく。

 その心地よさをソルに教えてくれたのは──。

 

「まだ眠ってなかったの? ソルフォート」

 

 いまもずっと、寄り添ってくれていた女性。

 いまもずっと、英雄譚を聞かせていた女性。

 見紛えなどしない。できるはずがない。

 たとえ数十年前、死に目に会えなかった人でも。

 

(母、さん……?)

 

 彼女はとても柔和に笑う。

 蝋燭の頼りない光に、ぼうと浮かび上がっている。

 まさしく母の面影そのものだ。不可解なことに、かつて故郷を後にしたときより若々しい顔つきをしていた。それでも一目見て理解できる。彼女は遠い過去に死別したはずのソルフォート・エヌマの母だった。

 深い濃茶の長髪は端々が解れて枝分かれし、黒々とした汚れがこびりついていた。それでも毎日欠かさずに櫛を通して手入れを怠っていないためか、どこか品のよい雰囲気が漂っている。本に乗せられた手は、豆が潰れていて、爪の端々には土が付着していた。

 ソルの思考は一瞬、空白に支配される。

 

(生きて、いたのか? まさか。そんなはずがない)

 

 苦々しい記憶が主張する。母とは死別したはずだ。

 都合のいい妄想に囚われることはない。消えない事実だ。ソルフォートがまだ見ぬ自らの才能と実力、努力量に自惚れた挙句、故郷の村を飛び出して、一介の傭兵に身をやつし、厳しい現実の冷風を浴びたあと、ようやく帰郷した折に出迎えたのは猛烈な紙吹雪。

 否、大量の燃え滓(・・・)が紙吹雪のように舞っていた。

 

(蹂躙された村。生き残りの話は聞いたことがないのじゃ。そもそも生きていたとして、記憶より姿が若返っておる説明がつかぬ。現実とは思えない。ならばこれは、ああそうじゃ、この家はもしや……)

 

 ソルはこの小屋の正体を連鎖的に思い出す。

 故郷の村にあった、ソルフォートの生家だ。

 帝国北西の端にある何の変哲もない村。一言で言えば田舎である。帝都からは遥か遠い、そこが彼の故郷だった。付近の都市に出るにしても峠を幾つか越えねばならない。旅商人も滅多に近寄らない辺鄙な土地だったためか、村民は帝国民である自覚すら薄かった。

 そんな村の隅に、みすぼらしいこの家があった。

 まともな家具は使い古しの机と椅子。そして父親が趣味で蒐集していたという本が数十冊ほど、棚にも置かれず塔を為している。それらは部屋の隅に寄せられており、最上部の本の表紙には埃が溜まっている。

 室内は伽藍としていて冬場には凍えてしまう。

 

(するとこれは、わしの記憶か?)

 

 噂に聞く走馬燈か。死の直前に見る幻覚か。

 覚えのある思考を辿っている。自らが死したのち幼女に転身した際と同じ軌跡を描いている。あのときは幸か不幸か現実だったが、今度はどうか。母の姿、在りし日の我が家、少年期のソルフォートの身体。これらすべてが夢幻であれば、一応説明がつくのだ。

 ならば目前で繰り広げられているのは過去か。数十年前の一夜の場面が展開されているのか。当時の記憶が再現されているにせよ、具体的な記憶は掘り返せない。ただ母による英雄譚の読み聞かせは、毎夜の楽しみだったことは覚えている。

 そんなときソルフォートの口が、勝手に動いた。

 

「ええー、もっとぉ……」

「もう。本当に好きねぇ、何回目よもう」

「ロマニゾフ閣下とか、イヴァ様とかのもぉ」

「はいはい……でも、今日はここまでよ」

 

 ええー、という非難の声が勝手に喉を震わせる。

 それが眠気によって語気の輪郭は()けていた。うつらうつらとしているらしい。ソルの認識が他人事であるのは、実感がないためだった。ソルとしての意識はあっても身体の行動権利は渡っていない。己の身体が自分という意識を閉じ込める檻、という感覚だった。

 慣れたことだ。似た感慨は幾度も受けてきた。

 自意識と現実の乖離が激しければ、誰もが思うものだ。鳥として産まれるはずが土竜(もぐら)として産まれてしまった。晴れた空を翔ける有翼動物を見てしまえば、きっと目が潰れてしまうから夢に見る。時として妬みを向けることもあるだろう。それを何度も繰り返しながら、翼がない身体で、それでも飛べる気でいるのは愚かなことだ。ソルフォート・エヌマの人生のことだ。

 だがその経験が活きて、いま冷静さを保てている。

 

(言うなれば、わしは昔日の自らに憑依したような状態に近いのう。だが……さて、どうしたものか)

 

 ソルの内心を他所に、過去の光景が流れていく。

 母はわさわさと頭を撫でてくる。御伽噺を切り上げられた我が子の不満顔を窘めるように、優しい手つきだった。指の腹が髪を割る。軽く頭皮をなぞる硬い感触に、少年の目は自然と細まった。

 そして母は手を止めて、蠟燭の火を扇ぎ消す。

 

「明日も道場があるんでしょう?」

「……あるけど」

「でしょう? 夜更かしなんかしたら明日に響くわ」

「そうだけどさ」

 

 むすりとした顔で、母と逆方向に寝返りを打った。

 そこで目前の記憶を大まかに判断できた。時期は村を飛び出す以前、おそらくソルフォートが剣術道場に入門して間もない頃の一場面なのだろう。

 

(この頃は、道場に通うことが苦痛だったのじゃ)

 

 高台から村を見下ろす、小さな剣術道場。

 そこで師範を名乗る男は変わり者だった。帝都で名のある剣士だったが、隠居して村に戻ってきたという話だった。半ば道楽で開いているため金もとらず、希望者ならば誰でも弟子にする方針をとっていた。

 道場は子どもたちで繁盛した。娯楽も少ない寒村では剣術修行すら貴重な遊びだった、というのは理由のひとつでしかない。真に子供心を捉えたのは『師範が帝都のほうに伝手を持っていること』だった。見込みのある弟子は、そこに推薦するというのだ。

 だから村の子どもはこぞって道場の門戸を叩いた。

 

(今日ほどではないが、英雄跋扈の黎明期。御伽噺や仰ぎ見るだけだった存在が、身近に感じられていたのじゃ。隣にいたはずの人間が憧れの席に就くことが有り得た。だから皆、いつかと夢を持っていたのう)

 

 各々が各々の夢を抱え込んで、剣を振るった。

 御伽噺に憧れた者。小さな村から這い上がろうという野心に溢れた者。繰り返される農作業に嫌気が差した者。純粋に剣術に興味を唆られた者……。

 ソルフォートも、そのうちの一人だった。

 

(いまだ見ぬ自分の才能を信じて、浮き立つ気持ちで弟子入り。ただ、甘い妄想はあっさり破られてしまったのじゃ。教授された技を習得するまで一番遅く、それも不格好な形でしか再現できない学習能力。負けて負けて負けて……負け続け、ようやく、一勝できる程度の実力。最初に現実を知った瞬間じゃった)

 

 ──どんくせえ、やめちまえよ、才能ねぇんだよ。

 同じ道場仲間の声が木霊する。白日の下に晒されたのは、矮小な自分の存在。虚飾も妄想も挟まない己の真の価値を、実力を、そこで見た。子どもたちは無力感に苛まれる彼を、遠巻きに嘲笑う。そのたびちっぽけな矜持が刃毀れして、足下が抜ける心地になる。

 だから、彼は道場は嫌いで行きたくなかったのだ。

 そのとき母はそっと、不貞腐れる彼の頬を撫ぜた。

 冷たくて固い手指の感触が伝う。そこには労わるような、温かく柔らかい感情が押し込められていた。母は我が子を宥めるとき、ただ優しく触れるのだった。

 いまは背を向けているからわからないが、母はきっと呆れたような表情のはずだ。月光が仄かに照らすだけの薄闇で、眩しそうに目を細めているはず。いつも彼女は、そうやって我が子の我儘を受け止めていた。

 わずかに時間をおいて、静かに手が離れる。

 それにふと、一抹の寂しさが過ってしまう。

 

「ソルフォート。あなたはきっと英雄になれるわ」

「……ほんと?」

「ええ、本当よ。お母さんはウソつきません」

「でもでも、みんな弱いって、どんくさいって、家の手伝いに戻れって。みんな言ってきてて……エイブロードさまみたいな、強くて、かっこいい人になんかなれっこないって……だってなにも、上手じゃなくて」

「大丈夫、お母さんが保証するわ。きっとあなたは特別よ。だってあの人の子だもの。それに、あなたが頑張ってること、私はよく知ってる」

 

 母の声色は二人で被る毛布のように温かった。 

 

「最初が順調じゃなくても焦らないで。最初から何でもできる人はいないし、最後まで何もできない人もいないもの。あなたは、人より成長するのが少し遅かっただけ。大事なことは目指し続けること。望み続けること。そうしていれば、いつか夢は叶うものなのよ」

「あきらめなかったら……って、こと?」

「そう。諦めなければ、夢は叶うの」

 

 まるで、傷口を瘡蓋で覆うようにも感じられた。

 

「もちろんね、早目に結果を出したいなら、人より何倍もうーんと頑張ればいいの。急いでも遅れても、諦めなければ、目の前に夢はあるのよ」

「……あんまり、わかんない。むずかしいよ」

「ふふ、ソルフォートにはまだ早いお話だったかもしれないわね……とにかく、あなたはあなたにできることから始めましょう。それを続けていれば、英雄様にも手が届くから……だから今日は、もう寝なさい」

「……うん、わかった……おやすみなさい」

「おやすみ、ソルフォート」

 

 眠る間際に、母の小声が脳裏を掠めていった。

 ソルも思い出す。次の日からソルフォートは自主鍛錬を始めるのだ。剣術道場で受ける手解き以外に剣の素振りをする。場所は決まって人気のない廃墟。なぜなら彼の実力と愚かさは村人たちに──道場へ通う子どもたちを通じて──知れ渡っていて、奇異の目や嘲笑の的にされるからだ。だからこそ、いつもひとりきりで、がむしゃらに練習量を重ねていった。

 それはいつか習慣になった。いずれ趣味に変わり、自らの心を静めるときは必ず剣の素振りをするようになった。思えば、母の言葉を真に受けて始めたものだったとは、我ながら単純な男だったと自嘲する。しかし、何かを始める動機などこの程度でいいとも思う。

 そうして、母子二人は仲よく寝息を立て出した。

 互いの規則的な呼吸だけが耳につく。

 小さな家を、虫の音も聞こえない静寂が支配する。

 

(結局、この過去再現はどこまで続くのか。よもや、このまま一日、二日……最期まで憑依したままではなからんか。ならば、何か対策を講じねばならん)

 

 己の人生を傍観し続けるのは、想像絶する苦行に他ならない。それが六十年ほどの尺なれば尚更だ。しかし、抵抗する術は現状見つかっていない。この状態で身体は動かせないかと、あくまで意識上で力んでみたり、意識上で縦横無尽に身じろぎをしてみたり、あらゆる手段を講じてみた。郷愁には浸り続けられない。

 それよりも漠然とした不安に突き動かされていた。

 

「……ねぇ、ソルフォート」

 

 背後からの囁きは、心地のいい母のものだった。

 すっかり眠ったものだと思っていたが、まだ起きていたらしい。

 

「ずっと、ずぅーっと、ここにいましょう?」

 

 それは、睡魔の手が首に添えられたような声音。

 途切れ途切れの言葉は絞り出され、微睡みが端々を溶かしている。まるでソルの意識的な身じろぎを制する時機だったのは偶然か否か。判断はできない。

 否、判断できなかったのは束の間のことだった。

 その、やけに場違いな内容を聞き取るまで──だ。

 

「ソルフォート、だってあなたは報われなかった。努力して、諦めずに手を伸ばして……でも、誰にだって届かないことはあるわ。人にはそれぞれ得意なこと、不得意なこと、どちらもあるのよ」

 

 目を剥く。その言葉はソルの生涯の総括だった。

 当然、過去にこんなことを耳にした覚えはない。

 

「それが望まないものだとしても、ね? 夢を追うなかで、蹴落されてそのことを知るの。『空回りで大切な一生を終えてしまうのは賢いことじゃない』って、みんな分かってるの。だから諦めたり、別の道を進んだりするのよ。役立つことをして、みんなに認められて。充実したいって気持ちはソルフォートにも分かるでしょう? けれどあなたは最期まで足掻いて、夢を叶えられなかった。一生を空回りしてしまったのよ」

 

 ぎゅうと、背後から手が回されて抱き締められる。

 顔は見えない。首筋に生暖かい息が当たる。

 

「でも、ずっとここにいれば何も問題はないわ。ここは『おしまい』の向こう側。ここはどこよりも優しい世界で、すべての願いが叶うところよ。だからもう夢のために空回りして、痛い目に遭うことも、傷つけ合うことも、殺し合うことないわ。誰かを蹴落とす必要もないの。村の人たちから何を言われても、気にすることなんてないわ。ここに、母さんがいるもの」

 

 まるで話し相手が、身体の持ち主(ソルフォート)ではないような。

 まるで話し相手が、自分(ソル)であるような物言いだ。

 

「ソルフォート。あなたの夢はここで叶えるのよ」

 

 抱き寄せられ、背後の母は肩に顎を埋めてくる。

 顔は、見えない。怖気が忍び寄ってくる。

 

「お外にいたって苦しいだけよ。殺されるだけ。わかっているわソルフォート。あなたのことをあなた以上によく知っているわ。私はあなたの母親だもの。お外は冷たい。お外は報われない。だから一緒にここで暮らしましょう? ここなら、母さんが守ってあげられる。ね? 二人きりで。ずっと、ずぅーっと……」

 

 だからこそ、指を咥えて見守るわけにもいかない。

 ソルは意識的に、肉体の口を抉じ開けて問うた。

 

「ぬしは、だれじゃ?」

 

 ──暗転。どこかで褪せた頁を捲る音がした。

 

 

 

 1

 

 

 

 気づけば、随分と見覚えのある光景に立っていた。

 日没前の夕陽色に染まった荒野。ここが戦場であることは見回すまでもなく知れることだ。視界の至る所に、屍の山が築かれ、血の大河が横たわっている。

 そこにソル──ソルフォートは立ち尽くしていた。

 身体は幼年期から、老齢のものに変貌していた。

 男は皺だらけの手で、古びた剣を握る。束ねた長い白髪は風に揺れる。褪せた色をした外套の下から、傷だらけの鎧が覗く。鮮血が飛び跳ねた身体は満身創痍だったが、いつでも飛び出せるように身構えている。

 忘れ得ない。この場面は見紛いようがない。

 ソルフォート・エヌマ。一度目の死の舞台だ。

 

「これが……かの魔剣の能力か。厄介この上ない」

 

 もはや動じず、男は噛み締めるように独りごちた。

 すでに身体の制御は手のなかにあった。指に力を込めれば柄の感触が返事を寄越し、胸一杯に空気を取り込めば辺りに漂う死臭が体内に充ち満ちた。

 噂に聞く走馬燈にしては真に迫りすぎている。

 単なる白昼夢にしては実感に富みすぎている。

 

(さながら真に己が過去に戻ったような感覚に陥ってしまったのじゃ。しかし、錯覚。時間が巻き戻ったのではない。記憶の再現ですらない。儂の母さんは、ああいうことを言う人ではなかったのじゃ)

 

 記憶に積もった埃を払い除け、古ぼけた頁を捲る。

 母はソルフォートの味方だった。幼年期に限って言えば、唯一と断言できる。身に余る大きな夢を語るような友はおらず、剣術や農作業以外の娯楽がない村において、彼の居場所は家と廃墟の二箇所だけだった。不得意かつ好きなもの、それ自体が直接的に夢に繋がっていた彼にとって、嘲笑の的にされない安寧の地と言えば、肉親の膝元か、無人空間だけだった。

 否、それも語弊がある形容と言えよう。より正鵠を得るならば、母はソルフォートの夢(・・・・・・・・)の味方だった。彼女は我が子には甘かったが、夢に背を向けること、諦めることを忌避するような素振りを見せていた。少なくとも、自立を阻止する言動は絶対にしない。

 我が子が剣術道場の門戸前で立ち止まっていれば、背をそっと押すような──我が子が無力感の吐き出し方がわからず蹲って泣き出せば、励まして奮い立たせるような──母は、そんな人だった。

 だが、彼のよく知るその態度が唐突に豹変した。

 きっと夢が醒める感覚とは、まさにあの瞬間の感慨のことを言うに違いない。

 

(この空間は異質極まりない。何らかの魔術が関与していることは疑いようがない。それと、意識を失う寸前に聞いた名とを関連づけるのは、何も突飛な発想ではないはずじゃ。巨剣が発していた光量は、刻まれた聖文字の複雑かつ長大な構成によるものじゃろう)

 

 あのとき聞いた名は『ウェルストヴェイル』。

 朦朧とする意識の波間では想起できなかった。

 それは、英雄譚好きを自負する身として恥じ入るべき不覚だったと悔んでしまうものだった。

 

(だが、よもや儂の人生で耳にすることになるとは)

 

 名を『幾千夜幻想(いくちよげんそう)』。またはウェルストヴェイル。

 あるいは幻想剣の名のほうが通りがいいだろうか。

 多くの御伽噺に登場する、有名な魔剣のひとつだ。

 特筆して登場例を挙げるとすれば、エイブロードの英雄譚、その第十二章だろう。副題は確か『ゆめのかたち』だったはずだ。作中、森のなかでエイブロードと対立した、帝国側の英雄が扱った魔剣である。

 魔剣とは聖文字が刻印された剣。刃という基本的な傷害能力以外に、刻み込まれた魔術を詠唱要らずで使用できる。幻想剣の場合、備わった魔術を起動する方法として、作中では『知性体を刃で斬りつけること』と推察が為されていた。その瞬間──剣に己が魔力を注ぎ込めば、凶悪無比な魔術が発現するのだと。

 曰く「人の精神を蝕む幻を見せる魔術」らしい。

 

(国際的には禁忌扱いじゃ。精神作用系の魔術は実現自体が難しい。使用・頒布が露見すれば、腕利きの集団に地の果てまで追いかけられ、地の底にある研究室に収容されると聞く。ウェルストヴェイルは、そんなものが刻印された代物じゃが……腑に落ちんのう)

 

 なぜ、いままで幻想剣だと気づかなかったのか。

 それは目前にあった実物と、英雄譚の記述に乖離があったからである。再びエイブロードの英雄譚を例に挙げれば、明確な形状の描写として「すらりとした流麗な湾曲を描いた刃」等の表現が並んでいた。当然、ボガートの振るっていた「山嶺を思わせる幅広の鋼鉄が剣先に向かって細まってゆき、最終的には鋭角で交点を結ぶような剣身」とはかけ離れた特徴である。

 もはやソルフォートの類推可能な域を越えていた。

 だが、あの剣がウェルストヴェイルと仮定すれば、この空間には説明がつく。走馬燈でも過去の世界でもない。限りなく幻覚に近いここは、謂わばいまも母の懐であり、得体の知れない怪物の(はらわた)のなかでもある。

 結論を導き出すと同時に、彼は息を整えた。

 

「おるのじゃろう。姿を見せい」

「久々だよ、貴方のように乱暴な手合いはね」

 

 ソルフォートの声には冷淡な反応が返ってきた。

 その瞬間、目前の空間の一点が歪み始める。そうして、荒涼たる景色が輪郭と色を攪拌させられ、歪曲した空間は領域を拡大し、最後にはまるで人影めいた形状がゆらゆらと朧に浮かび上がる光景となった。

 彼が息を呑んでいる間にも刻一刻と変化は続く。

 あれ(・・)を人型と見た場合の手先に、肌色が一点乗る。

 変色と言うには唐突すぎる。まるで見えない絵筆で色づけたようだった。この着色を皮切りに、黄金、白銀、若草色、乳白色と──豊かな色彩が人影に乗り、彩っていく。塗り絵の要領で人間(・・)を模していく。

 人影の完成形は、十代半ばほどの女だった。

 毅然と立つその姿は、ソルフォートが夢にまで見るほど、憧れ焦がれた存在だった。

 

「とても愚かな人間だ。大人しく過去に微睡んでいれば、痛い思いなんてしないで済んだのに。痛みの伴わない教育では身に染みない阿呆、ということかな」

 

 彼女の長い髪は、黄金色に夕陽を照り返して靡く。

 碧眼は、ソルフォートの眼光に動じた様子もない。

 嫌味なほどに整った顔立ちは、さながら高貴な令嬢のごとし。甚だ戦場の殺伐さに見合わないものだ。それに反して、発される殺気の濃密さは尋常ではない。

 彼女が纏う白銀の装備は、大陸最大の帝国における六人の大英雄──『六翼』の証である。

 姿かたちは寸分違わず、あの死地での出で立ちだ。

 

「儂の名はソル、ソルフォート・エヌマ。ぬしの名を伺っても構わんか。かの『人類最強』ではないのじゃろう。儂の見立てでは『幾千夜幻想』の……」

「皆まで言わないでいいよ。もう隠すつもりはない」

 

 彼女は、軽薄な調子で誰何の声を制した。

 

「そう、ボクはアイリーン・デルフォルではない。アイリーン・デルフォルの形を取った(・・・・・)、魔剣『幾千夜幻想』だ。まあ、堅苦しい号は好みではないから、ボクのことはウェルストヴェイルと呼んでくれよ」

 

 ──まるで、人間相手にそうするように、ね。

 そうウェルストヴェイルはあっさりと白状する。

 そこに悪びれた様子はない。戯けたように両手を緩く広げて、薄ら笑いすら浮かべていた。この仕草ひとつ取っても『人類最強』との差異を強く感じる。彼女と接した時間はわずかだったが、あの無表情からは人でありながら人と乖離したような印象を受けた。

 それとは真逆。人に非ざる身でありながら人を装っている。口辺からは本性が垣間見え、馴れ馴れしい振る舞いとは裏腹な、嘲笑めいた匂いを漂わせていた。

 ソルフォートは表情こそ変えず、だが確実に面喰らっていた。

 

「剣が……意思を持っておる、ということか」

「幼女になった男が何を驚いているんだい?」

「驚愕の尺度とは、高さだけではないゆえのう」

 

 幼女転生以上に衝撃度の高い出来事は少ない。

 これは角度の問題である。常識的な観点で物を言えば、剣は独立した精神は持たない。鋼鉄の塊は喋らないのだ。剣の道に生きる者は、時として己が武器を恋人や戦友のように扱うが、あくまで擬人法。直喩ではない。さしものソルフォートと言えども、如何な御伽噺でも描かれた覚えのないことには戸惑ってしまう。

 ただ、珍奇に思う一方、場違いにも心を躍らせる。

 

(それはそれは。滅多なものと相対していることになるのう。ウェルストヴェイル殿と相見えただけで感激ものじゃが、それが世にも奇妙な物品と知り得た。物語の裏側を垣間見て……興奮が収まらんのう)

 

 だが、手放しに喜べる場合でもない。

 胸中を締める戦意と恐怖はあざなえる縄のごとし。

 目前の『黄金』の姿を睨めつけ、摺足で前に出る。

 余計な思惟は必要ない。ここがウェルストヴェイルの創り出した空間で、ボガート・ラムホルトが所持する巨剣が『幾千夜幻想』で確定したのならば、眼前の大英雄紛いは明確な敵対者に違いないのだ。

 無意識のうちに力を込めていた手に、汗が滲む。

 相手の力量が、肌身を通じて予想できたからだ。

 

「自ら、正体を明かしてしまってよかったのかのう」

「ボクがウェルストヴェイルだってことをかい? 構わないさ。どうせ貴方も類推していただろう? それに、正体なんてボクにはないに等しいものだからね」

 

 中性的な言葉遣いのまま、笑みを深くする。

 得体が知れないと、そう独白を零したときだった。

 

「ボクは鏡のように、どんな姿も映すことができる」

 

 ──たとえば、それは貴方の過去のすべて。

 歌うように彼女が片手を胸に当てると、歪む(・・)

 アイリーンとしての姿形と色が中空で混じり合う。

 黄金、白銀、若草色、乳白色等々が水分を含んだ絵筆で掻き混ぜられ、人型を象る。それが新たに色を加えられウェルストヴェイルの姿が更新されていく。墨色の髪をお下げにした女、紅の前髪で顔を隠した男、焦茶の髪を二つ結びにした子供、ローブの頭巾を深く被った老婆、透明感のある瞳をした男……。

 そうして最終的にはアイリーンの形に戻ってくる。

 

(……言葉も出ん。真にこれは現実ではないのか)

 

 呆然と立ち尽くして、乾いた笑いを漏らしかける。

 彼の胸には、一様に言い表せない感情が去来した。

 畏怖、高揚感、郷愁──それらが斑に入り乱れる。

 

「すべて見覚えがあったはずだ。少なからず貴方と昵懇だった間柄、人生の分岐点となった人間たちだ。本来なら、先ほど貴方の母上を演じたときのように、彼らを使って平和的な結末を用意したかった、けれど」

「……あのとき、儂が足掻こうとしたから」

「そう、御名答。だから演じるのをやめたんだ」

 

 ──そういう迂遠な訴求法は無駄のようだからね。

 あっけからんと地金を晒していることを明かす。

 それと同時に実感する。この相対者の内心は読めない。軽々と現実の許容範囲を出る現象を起こしておいて、まるで頓着した様子がない。不気味の一言に尽きる。茨のように厭わしい空気が喉に引っかかる。

 間合いを静かに計りつつ、思わず皮肉を口にした。

 

「丁寧な種明かしは願ってもない。礼を言うのじゃ」

「ええ、どういたしまして。貴方には、ボクが如何に平和主義者で、中立的な発言をしているか知っていてもらいたいからね。そうだな、わからないことは尋ねてくれていい。ボクは余計な嘘はつかないよ」

「なれば問おう。ぬしの目的は?」

「貴方の母上が言っていたことと同じだよ。この夢に微睡んでいてほしいんだ。現実世界に戻って夢を追う必要はない。夢はここで好きに叶えればいいのさ」

「この世界を脱する方法は?」

「ボクを倒せばいい」

 

 ウェルストヴェイルは親指で自身の胸を指さした。

 ソルフォートは思わず鼻白む。予想できた答えとは言え、あまりに端的な回答だった。いままでの彼女の物言いから、迂遠な言い回しや勿体つけた過剰装飾を好みそうな性質が見て取れただけに、若干の肩透かしを喰らった。それゆえ虚偽ではないかとも勘繰りかけたが、現段階で正確な判断は下せるはずもない。

 彼には、ここを抜け出す方法なぞ知る由もない。

 ましてや頬を抓るなんて古典的手段でもあるまい。

 

(まあ、単純な理屈じゃ。幻想世界から出るには、世界を創造した当の本人を打ち破る。わかりやすい)

 

 ソルフォートは構えたまま、わずかに腰を落とす。

 脚は肩幅程度に開き、重心は腹底に宿し続ける。

 いまや彼我の距離はじりじりと詰まり、中距離戦を見据えた構えに移行したのだ。

 

(ウェルストヴェイルは棒立ち。演技がかった喋りに意識を割いておるのか、剣も腰に佩いたままじゃ。腕も大仰な身振りに使っておる。何をするにせよ、行動の起こり(・・・)は読みやすい)

 

 状況分析を行いつつ、円弧を描くように摺り足。

 すわ奇襲を受けたとしても躱す用意はできていた。

 構えは崩さず、平行移動に努める。獣めいた過度な前傾姿勢は取らない。あれは瞬発力のある幼躯ならいざ知らず、老躯には向かない構えなのだ。かくも無理が通るのは、否、通らせる必要があるのは、あくまで幼女の身体が模範通りの構えとは相性が悪いからだ。

 彼は本来、基礎から離れた戦闘方法に頼らない。

 基礎とは力である。理論的かつ実用的だからこそ、基礎は代を跨いで継承されるのだ。

 

「でも、貴方はここから出られないよ」

 

 彼女は漂う緊張感を風と受け流し、髪を撫でる。

 端的な呟きは、底心からの台詞と感じられた。

 

「ここは『おしまい』の向こう側だ。貴方の物語はすでに幕引きを迎えている。醒める現実は存在せず、足掻くだなんて手遅れもいいところなのさ。貴方にできることは、この後日談の世界で生きることだけだよ」

「それを拒めばどうか。ぬしを倒す、と言えば」

「きっと、痛い思いをすることになるね」

 

 その、綽然とした態度と物言いは余裕の表れか。

 ソルフォートには抽象的すぎて、ぴんと来ない。

 

(英雄譚の詩的表現は好ましいがのう。ともあれ、相手方の腹構えは知れた。彼女としては、儂がこの幻想世界を受け入れれば、それで良しと。峻拒すれば、力尽くで従わせると、そう言っておるのか)

 

 黄金の髪は、日没間近の陽光で艶を強めていた。

 光が強まれば闇もまた濃くなる。心臓が跳ねる。

 彼女の挑発的な論調に、闘争心が惹起させられた。

 

「まさか、貴方はボクを倒せる気でいるのかい?」

 

 女は目を瞬かせ、純朴な問いを投げかけてくる。

 まるで、いつまでも天翔ける夢を捨てられない土竜(もぐら)に向けるような、さめた温度があった。

 

「知っているだろう? ボクの存在が描かれてきた古今東西の英雄譚のことをさ。数百年、魔剣として愚なる主たちを渡り歩いてきたボクの軌跡。その如何なる物語でも、ボクの幻想世界は攻略されていない」

 

 ソルフォートは首肯を返す。その言は真実だ。

 『原初の英雄譚』エイブロード。

 『空位公爵』ディルスタット・ロマニゾフ。

 『魔術王』イヴァ・ノア・ノーデンターナ。

 『ガノール帝国始祖』アルタナッド・ガノーリド。

 『六翼』ネクレサ・オスト。

 語り草となった数々の英雄譚が脳裏を掠めた。

 それらの内容は頭に焼きついている。どれも作中に『幾千夜幻想』が登場する物語だった。そしてどの主人公もその能力発動を避けた。本編では、この魔剣の所持者だった義勇兵を、または魔剣収集家を、あるいは仇敵を、剣が抜かれる前に打倒する描写しかない。

 つまりは高みの存在、大英雄たちすら恐れた魔剣。

 その(はらわた)のなかに、ソルフォートはいるのだ。

 彼女の言を信じれば、ここは袋小路だとも言える。

 

「ぬしのことはもちろん知っておる。見目だけではないと肌身で感じておる。ぬしから発される圧力は、あの日、あのとき対峙した『人類最強』と遜色がない」

「遜色がない、ね」

 

 彼女は片目を瞑って、髪を掻き上げた。

 煌びやかな金糸が荒野の風に靡き、波紋を刻む。

 

「ボクが『人類最強』並。甘く見られたものだ」

 

 瞬間、目前に捉えていた女の姿が消失する。

 ソルフォートは瞠目して、ただ──風を感じた。

 半秒後に宙空(・・)で己の現状を知る。

 空を飛ぶ、吹き飛ばされる、己を知る。

 

「がぁッ──!?」

 

 不鮮明な異音が、身体中で一気に弾けた。

 痛みが芽吹いた瞬間、脳裏は一面漂白された。

 全身の神経が火花を散らす。五臓六腑が一斉に断末魔の叫びを上げる。幸いにも痛覚は半ば断絶。老躯は六丈を超す距離を飛び、無惨にも地面と衝突。余剰の衝撃を使い果たすように転げていく。己の肌も鎧も威勢も、回転する視界のなかで削り取られてゆく。

 最後、左手と片膝を地につく形だったのは偶然だ。

 身体が無意識的に覚えていた受け身を取っていた。

 だが、日頃の鍛錬の成果を実感する余裕もない。

 ソルフォートは混濁した意識内で藻搔く。神経からは激痛の電気信号が波濤のごとく脳内に流れ込み、海の様相を呈していた。膨大な情報量で頭蓋骨ごと決壊するような錯覚すら、真実味を帯びていた。

 息ができない。息の仕方を忘れてしまった。

 嘔吐感が喉元に迫る。額に脂汗が噴き出す。

 

「ぁ……」

 

 そして臓器まで響く痛みは、瞬間の生物ではない。

 体内に寄生して、思うまま体力と正気を削り取る。

 首も動かせずに堪える。瞳に映るのは己の懐だ。

 地についた手のひらと膝頭は摩擦熱が焼いていた。

 剥けた皮の表面からは血が出ていない。肌が高熱で溶けて傷口の出血を塞いでいるのだ。何より、一撃を喰らったと思わしき腹部の装甲が粉砕されている。

 そう、一撃。一撃で、勝敗の崖淵に追い込まれた。

 だが真に恐ろしい事実に、本能で気づいてしまう。

 ──絶妙に手加減され、狙い通り生かされたのだ。

 それが鉛となって全身を覆い、身体を鈍くする。

 

「ボクは、人類の最強なんて小さな存在じゃない」

 

 ソルフォートはゆるゆると前方に目を遣る。

 影が見える。人の脚だ。視線をよじ登らせる。

 その頂。呆れた表情で、黄金の英雄が笑っていた。

 白銀の鎧が勝ち誇るように、橙色を反射する。

 

「貴方の知るこの世すべて。それらの上──」

 

 ソルフォートの、傍らで(・・・)

 

「文字通り。想像通りの『最強』だよ」

 

 

 



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13 『未だ無銘の英雄譚』

 3

 

 

 

 夕陽は平等に一面の荒野を照らす。

 陰影を生んでいるのは、積み上がった屍の数々。

 橙色の光を映さないのは、渇いた血痕だけだった。

 この屍山血河の風景が焼かれる様は、さながら火葬場のようですらある。骸となった人々は、光のなか骨を晒している。ふと、焼かれるのは物理的な何かだけではない、と思った。焦燥感と緊張感とで焦げついた心も、夢も、最後は滅されて痕跡も残らないのだ。

 ソルフォートも一時はここで命尽き果てた。

 『人類最強』の女に斬り捨てられ、儚く散った。

 いまは、最強を名乗る存在と対峙している。

 

(果たして、何十分が経ったのか。それとも何時間が経ったのか。何日が、経ったのか)

 

 沈まない夕陽は、正常な時間間隔を狂わせた。

 ソルフォートには見当もつかない。蓄積した疲労が感覚を鈍らせているのか。血を滴らせた両拳を握り締めて、弛緩しかかる筋肉を叱咤する。たとえ延々と一方的な戦闘が繰り広げられようとも、まだ終わるわけにはいかない。幾度も血が舞い、幾重にも呻吟を重ねて、幾多の勝機が粉々に砕けようとも、まだ──。

 嗚呼、とソルフォートは思い直して誤謬を正す。

 これは、戦闘とすら呼べる代物ではなかった。

 児戯同然だ。子どもが小虫を弄ぶかのようである。

 もちろん、虫に喩えたほうが己自身だった。

 

(出し惜しみはこれ以上、無意味かッ……!)

 

 ──間近で対峙する、ただ二つの影。

 それだけが、この地における生者だった。

 しかし、力量差は両者の間に厳然と横たわる。

 絶対の溝が、一切の肉薄を阻んでいた。

 

「はッ──!」

 

 ソルフォートは体内を循環する魔力を意識する。

 この幻想世界は、現実の身体を引き継いでいない。

 幼女とは違って老人の身。正確に言えば、彼の最期と同じ状態なのだろう。身体のオド上限は低空に引かれ、保有魔力量は微々たるもの。力の総量としては筋力が九割ほどを担い、魔力の影響は一割程度だろう。

 改めて思う。幼女と比べて、なんと重い身体か。

 経年劣化の軋みは、さながら錘子のようである。

 だが、現実世界の身体を引き継ぐよりはいい。

 あちらは、ボガートとの戦闘の末に限界寸前だ。

 彼は、たらりと左目に垂れてきた血液を拭った。

 

(何にせよ、儂の為せることは限られておる)

 

 ──魔力(オド)放出に乗じた加速術で刈り取る。

 格上に対する勝利法は、唯一その秘術だけだ。

 小細工が通用しないとは承知している。度重なる抗戦で、身体は悲鳴を上げている。堂に入った『最強』の名乗りから、幾らか時は過ぎている。全身の鎧は残らず粉々に砕け、左腕も利かなくなりつつある。

 だから、いまのうちに札を切らねばならない。

 これ以上の戦力温存を選ぶような相手ではない。

 如何な型、角度、緩急の妙技が通用しない(・・・・・)のだ。

 

(これに、すべてをッ……)

 

 膝を曲げる、腰を落とす、前傾姿勢をとる。

 一本の竿がしなるように滑らかな予備動作を辿る。

 そうして約半量の体内魔力を捻出、消費──放出。

 真正面に、飛ぶ。吹き抜ける疾風と一体化する。

 

(懸けさせて、もらう……!)

 

 気づけば、迫る目標は眼前にあった。

 無防備にも手をぶらつかせた、黄金の女だ。

 股下から右肩を撫で斬るように、斬撃を叩き込む。

 雷撃と見紛わん剣閃。覚悟を乗せた強烈な一撃。

 だが、その剣筋は目標を斬り裂く前に、止まる。

 空中のある一点で、微動だにしなくなる。

 

「……ッ!?」

 

 ソルフォートは現実に面して、瞠目する。

 鋭利な弧を描く剣閃は受け止められていた。

 女は、宙に舞う花弁をつまむようにしていた。

 親指と(・・・)人差し指の(・・・・・)側面だけ(・・・・)で刃を掴んでいた。

 

「……それで、終わりかい? 貴方の全力は」

 

 拍子抜けしたような語調で、口端を上げる。

 ──渾身の一撃を、二本の指で呆気なく止めた。

 絶句。彼にはにわかには信じがたい光景だった。

 いままで幾多の戦場を渡り歩いてきた。当然、遥か格上の英雄たちと矛を交える機会も相応にあった。それでも加速術による一撃を敢行されれば、誰もが回避を選択していた。真っ向から受け止める者と出会ったことはなく、だから彼は、加速術による一撃の威力という側面において、一端の自負があったのだ。

 自信という名の砂山を上手く固めたつもりでいた。

 それが、砂である摂理通りに崩れ去ってしまった。

 その瞬間に生まれた感傷に、思わず頷きたくなる。

 

(これが、戦闘と呼べる代物のはずがない)

 

 それを尻目に、女は片方の口端を吊り上げた。

 

「さあて、と。全力の反撃をしてもらったからね。相応の返礼をするのが、礼儀というものだろう」

 

 ──紅が散った、刹那の記憶は朧げだ。

 自慢の双眸でさえ彼女の影も捉えられなかった。

 ただ、己が左腕が奇妙な方向に曲がった。

 ソルフォートの瞳にはそれだけが焼きついた。

 

 

 

 4

 

 

 

 凡人の悪足掻きは一切の意味を為さなかった。

 対峙する黄金の前で、無駄な抵抗は儚く散った。

 ──ソルフォートが繰り出す四連斬撃、薙ぎ払い。

 避けもされずに、皮膚だけで受け止められた。

 ──動作に外連を織り交ぜ、直撃させた膝蹴り。

 彼女は微動だにせず、あくび混じりに反撃された。

 ──体内魔力を半分消費した加速術による一撃。

 彼女は呆気なく、指二本で受け止めた。

 

(すべて、使い果たした)

 

 反面、黄金の攻撃の悉くは身体に突き刺さった。

 その拳は鎧を砕き、足技は骨を砕いた。ただ彼女が剣を佩いたままだったことは幸運と言えた。きっと剣を抜けば、その刹那に彼の肉片も残らないはずだ。大陸に名を轟かす『人類最強』とはそういう存在で、最強を名乗ったウェルストヴェイルも同様だろう。

 だから一種、彼にとっては不幸と言えた。

 謂わば、無用な拷問を受けているようなものだ。

 

「ぁ、が、ぁ……」

 

 ソルフォートは満身創痍だった。

 夕陽色に染まる地上に、ついぞ背中を打ち据える。

 そうして仰向けで動くこともままならない。胸部が乱れる呼気のままに上下する。そのたびに砕けた小骨が臓器を突き刺す感覚。喉奥から血液が込み上がり、咳き込んでは撒き散らす。不随意の息が漏れる。

 口内は乾き、唇の端からは胃液が零れ出る。

 鼻奥につんとした痛みが刺す。上唇に垂れてきた液体は鼻血。束ねた白髪は草臥れて、褪せた色合いの外套は血に塗れ、破れた裾が風にはためく。

 痛覚はまだ生かされていた。死なない程度に、嬲り殺しされているのは明白と言えよう。口元に付いた砂の味を噛み締めつつ、ソルフォートは呟いた。

 枯れた喉からは、声が掠れ気味に吐き出される。

 

「なぜ、止めを刺さぬ」

「特別ボクは斟酌を加えているつもりはないよ」

 

 そう言って無傷の美貌が視界端に映ってくる。

 ソルフォートは、辛くも見上げることができた。

 終始笑みを崩さない女。邂逅した当初から変化はない。混じり気のない純金の髪、双眸は澄んだ海色に表面を輝やかせ、誉れ高い白銀の鎧が眩しいばかりだ。

 否、出会った当初と比べると明確な差異があった。

 髪や鎧、頬に花弁のごとく血飛沫が散っている。

 もっとも、そのすべてがソルフォートのものだ。

 

(儂は、掠り傷ひとつ……負わせられなかった)

 

 ウェルストヴェイルは疲労を噯気(おくび)にも出さない。

 冷酷な碧瞳が、見上げる黄金の視線と相打つ。

 見つめ合うこと暫し。ふと悪戯っぽく笑みを零す。

 

「殺しはしない。正しくはできない(・・・・)と言うべきだが」

 

 彼女はやにわに右膝を上げ、軍靴を大きく上げる。

 ソルフォートの顔の直上でぴたりと、止めた。

 ずしりと踏み締めるように踵から乗せていく。

 顎の肉が、鷲鼻が、眉間が、額が、圧し潰される。

 

「ぅッ、ぐ……」

「この世界が優しいからだよ。ここは目眩(めくるめ)く夢の世界だ。冷酷な現実とは違い、死なんて粗忽者はいない。時間なんて不粋な概念もない。それにボクは我ながら理性的な性質(たち)でね、必要外の争いは好まない」

 

 言葉と裏腹に、端正な顔が嗜虐的に歪んだ。

 脚には、頭蓋ごと踏み抜く力は込められない。

 軍靴の固い感触が、砂塗れの顔面を乱暴に撫でる。

 

「ボクだって鬼じゃない。その反抗的な目を変えてくれれば、野蛮な暴力に訴えやしないよ」

 

 そう嘯き、さも責めるように足裏を擦りつける。

 それが白々しい響きを持つのは口振りのせいか。

 

「貴方には不思議だっただろうけれどね。ボクが答えをはぐらかさず、素直に情報を渡しているのも、ボクなりの優しさと受け取ってくれよ。みっともない無価値な悪足掻きは見るに忍びないからね。ほら、結末が見えているお話を無意味に引き延ばされることほど、気が滅入るものもないだろう? ねえ」

 

 ウェルストヴェイルは気軽に賛同を求める。

 反して、腕を右膝に置き、人を見下す姿勢だった。

 だが、あまりに無防備だった。『六翼』の白銀の鎧は軽装鎧。彼女は重装騎士やボガートのように、分厚い装甲で隙間なく身体を覆っているわけではない。胸を含む胴体と臀部を保護するに留まっている。

 ソルフォートは右腕を跳ね上げる。複雑骨折した腕の筋力が為せる技ではない。魔力放出。消費量を絞って右肘から噴射することで急襲をかけたのだ。だが、体内魔力を用いた繊細な調整は利かない。勢い余って一割程度を費やしてしまうが、この奇襲に威力が加算されるぶんには好都合だ。形勢逆転を狙う。

 斬撃は、左腿の付け根を斬り落とす軌跡を描いた。

 脚部の付け根。人体の関節で最も可動域が広く、英雄たちが防具での束縛を嫌いがちな箇所である。英雄同士の戦闘は互いの機動力が物を言う場面が多い。ゆえに一定以上の武力を持ち始めると、関節部を自由にすべく、あえて装甲を配しない軽装する傾向がある。

 大陸の英雄たちの頂点『人類最強』は例に漏れず。

 その姿を取ったウェルストヴェイルも同様だ。

 

「安易だよ、凡人」

 

 この鋭い奇襲は、途中で左手に割り込まれる。

 刃は見事に拿捕され、握られる。ソルフォートは剣閃を止められた反動で瞬時に動けない。その間に力尽くで剣を奪い取られ、下手投げの要領で遠くに放り投げられた。大事な剣が──唯一の武器が遠ざけられてしまった。もはや彼には対抗する術が消え失せた。

 と、相手方が思っている隙こそが最大の好機だ。

 彼は、右手指の間隙を埋め、手刀をつくる。

 中空で止まった右腕、その肘から魔力放出を──。

 

「……ッ!」

「知っているよ。だから足掻きは無駄だ」

 

 いつの間にか右脚を上げ、手刀を踏み躪っていた。

 ソルフォートは目を剥いた。明らかに後出しだったにもかかわらず、加速術の乗った拳に追いついたとでもいうのか。負けじと魔力放出するも、足裏は微動だにしない。右腕は片足一本で地面に縫いとめられる。

 軍靴が、ぎしりと枯れ枝めいた腕を軋ませる。

 複雑骨折した腕に、更なる荷重が加えられてゆく。

 

「貴方が齢二十一の頃だね。貴方は身体能力を戦闘力の土壌とするため、拳術を学んだ経験がある。それを知っていれば、いまの行動は隠し球に為り得ない。そもそもの話だが……この世界は貴方の過去を模しているのだから、創り上げたボクが貴方のことを知悉していないはずがないじゃないか」

 

 彼女は知識をひけらかすようにして、笑った。

 

「ボクと貴方では、立っている舞台の高さが違う」

 

 金の長髪を手櫛で漉いては、言葉を舌で遊ばせる。

 

「ボクが登場する英雄譚。その主人公たちは、ボクの存在で名声に傷がついた。この幻想世界を恐れ、尻尾を巻いて逃げ出したからだ。そして目下、大陸最強の名を轟かせるこの──『人類最強』の看板を地に落とす予定だった話を聞けば、貴方の行動がどれだけ無意味なのか、無謀なのか、わかってもらえるかな?」

「どう、いう……看板を、落とす……?」

ボクの主(ボガート)の所属する強襲部隊の目的だよ。あれは本来『人類最強』を討伐するため、王国が内々で結成させたのさ。主がボクを使って、彼女をこの幻想世界に閉じ込めるために。次点で、彼女がボクを恐れて逃げ出した場合、名声を地に落とすためにね」

 

 ──まあ結局、それは叶わなかったんだがね。

 ウェルストヴェイルは肩を落として、嘆息する。

 だが仕草とは裏腹に、さほど嘆いていないようだ。

 彼女曰く「ボガート率いる強襲部隊の目的とは、帝国軍常勝の象徴『六翼』の失墜。特に、彼らのうち最強の名を冠した女を討ち果たすこと」だったようだ。

 ソルフォートは息を呑む。最終的に強襲部隊の作戦は急転し、バラボア砦強襲に向かったようだが、もし成し遂げていれば大陸で続く十年戦争の分け目になり得たはずだ。否、確実に趨勢は変わっただろう。

 大英雄たちが抜け出た事実のない、幻想の箱庭。

 如何に『人類最強』とは言え、突破できることか。

 まして、老いた凡人に成し遂げられることか。

 

「わかるかい? 元よりボクは貴方の目標の上だと」

 

 ──もはや勝利する像すら浮かばない。

 傷を負わせることすら困難だった。ここまで圧倒的な力量差は誰を相手取ったとして体感しなかった。喫緊で言えば、ボガートにも覚えたことのない壁。如何に抗っても押さえつけられる幻影が見えるようだ。

 その理由は、すぐにでも結論が導き出せた。

 真正面から踏み躙られているからだ。ウェルストヴェイルは遠距離攻撃もせず、体型差も厭わずに、すべて受け、一切揺らがない。戦闘で用いるすべての項目が、自分では追従もできないほど優れている証拠だ。

 ソルフォートの拳は解け始め、指先が地に触れる。

 歯を噛み締めると、砂利を潰す音が鳴った。

 

(勝て、ぬ)

 

 だが勝てねば、幻想世界から永久に逃れ得ない。

 それは、つまり現実世界での死を意味している。

 それは、つまり己が夢想の果てを意味している。

 何の因果か死から舞い戻ったというのに、だ。

 

(どうする。どうすればいい)

 

 女は、あっさりとその解法(・・)を口にする。

 

「簡単な話さ。諦めてしまえばいい」

 

 紡がれた選択肢は、ソルフォートの人生の否定。

 彼が六十余年歩み続けた道程を「間違いだった」と今更ながらに認めることだった。

 

「世界にごめんなさいするんだ。才能、環境、身体。自分に降りかかった理不尽を世界のせいにして、恨んで、嘆いて、でもそれは貴方が身の丈に合った生き方をしなかったからだ。白昼夢に囚われていたからだ」

 

 いっそ甘やかなまでに、新たな選択肢を用意する。

 

「勘違いしないで欲しいけれど。現実世界で諦めることは自己否定ではない。むしろ自己肯定だよ。身の丈に合った自分を認めるということだ。本来の自分を肯定するということだ。だから、もうその肥大化した大望、大願、英雄願望を降ろしなよ」

 

 彼女は囁く。残る道筋はそれだけだろうと。

 彼女は囁く。ボクを打倒できないなら諦めろと。

 彼女は囁く。幻想世界に溺れることを許容しろと。

 彼女は囁く。現実世界で夢を追うなんて愚かだと。

 ソルフォートは口も利けず、睨むばかりだった。

 対して、女は緩慢に背を曲げて顔を近づけてくる。

 息のかかる距離まで、碧く澄んだ双眸を寄せる。

 

「考えてもみなよ。貴方が諦めればすべて上手くいくんだ。幼女になるなんて悪い夢だった、主の脅威なんてなかった、六十余年の白昼夢の最後に憧れの存在と会えた。それでいいじゃないか。あとは思う存分、この世界で楽しめばいい。ここは謂わば夜の夢。幻想の世界。現実世界で夢を追うなんてことせずに、ここで好きなことを好きなだけ叶えればいいんだよ」

「儂、が」

 

 震えた。か細い呻きに似た音が、空気を伝う。

 

「あきら……める、と?」

「いまだに口だけは強気だね。ほら、だったら立ち上がってみなよ。ボクの首に刃を届かせてご覧よ」

 

 自らの白い首を晒して、指でなぞって挑発する。

 妖しい色気が匂い立った瞬間、桃色の唇が裂けるように弧を描いた。

 

「そら、土台無理なのさ」

 

 そうして、老爺の喉奥からは呻吟が漏れた。

 もはや童子同然。無力感に奥歯を噛み締める。

 彼は身体中の骨が折れており、寸鉄すら帯びておらず、体内に巡る魔力量は三割をすでに切っている。意識を保てているだけ奇跡的なのだ。今更、立ち向かうだけの気力を掻き集めることも困難だった。

 ウェルストヴェイルは鼻先で笑って、言い放つ。

 

「そもそも、貴方の夢が、固執するに値しない無価値だと気づくべきだよ」

 

 刹那、すっと彼女の瞳に影が差す。

 滲ませる情念は、どことなく寂然としていた。

 

「主を引き合いに出すわけじゃないけれどね。ボガートや強襲部隊は王国のため。戦火に咽ぶ民のためにここに立っている。現行の作戦行動であるバラボア砦奪還は、周辺の連合軍にとって枢要でね。取り返せば、マッターダリ戦線の回復による時間稼ぎができるわけだよ。山脈を境に戦線を膠着させれば、連合を組む国々から戦乱の火を遠ざけることができる」

 

 ──貴方はどうだ? まるで薄っぺらじゃないか。

 静かに語り出したのは、ソルフォートのこと。

 ソルフォート・エヌマの人生のこと。

 

「舞台に立つには資格がない。英雄を志すには、あまりにも凡人だった。貴方だって本当は、夢を諦めたかったんだ。貴方は意地を張っているだけだ。挫折するには遅すぎた。定めた針路から引き返せば、きっと何も残らないから……前に進むしかなかっただけだ」

 

 ──夢に捧げた時間が無意味と認めたくないから。

 まるで、見透かしたような言葉が羅列される。

 否、事実、見透かしているのだ。この幻想世界はソルフォートの昔日を舞台に織り成されている。彼の過去を彼以上に熟知しているのかもしれない。ゆえにこそ、ソルフォート自身でさえいままで振り返ってこなかった、六十余年の道程について口にできるのだ。

 自分。ソルフォート・エヌマ。ソル。

 凡夫であることは、自身含め誰もが知るところだ。

 才能なる不確かなものの輪郭を、あまりにもちっぽけゆえに早々と悟ったにも関わらず──それでも諦めきれなかった男。一言で彼の生涯を表現すればそうなる。しかし、その夢に向かう長い道程で、年相応の葛藤や、諦観がなかったと言っては、嘘になる。

 ひとつを望み続けていれば、年数が背中を押す。

 人生の懸崖に近づく重い足取りを、助けるように。

 未来の転落を知っていて、なお続けた理由に、惰性や自棄の兆しはなかっただろうか。

 

「貴方の夢が固まる経緯だって歪んでいた。人生の貧しさと閉塞感に苦しんだ母上の、歪んだ妄信(・・・・・)を一身に背負わされたんだ。もちろん、最初は子供らしい憧れだっただろう。だが、それならば本来、捨てられていたはずだ。子共らしい憧れは、大人になるまでの限定品。そのはずだった。だから、この夢は貴方だけの責任じゃない。貴方の母上にも、大きな非がある」

「な、にを……!」

 

 それは、聞き逃せない台詞だった。

 足裏の噴出口を想像して体内魔力(オド)放出。

 一割消費し──背中で地面を滑りながら離脱する。

 土塊が割れて舞い、砂埃も合わせて口内に入る。

 

「頑張るね。虚しいばかりだよ」

 

 ウェルストヴェイルの靴底からはあっさり外れた。

 人を釘づけにするほど力が籠っていなかったのか。

 それとも不測の脱出方向だったのか。ソルフォートは意想外に思いつつ、放出余勢の方向を変える。憤慨を力に換えて、思いきり右肘を叩きつけた。身体が内部崩壊しかかるほどの痛みが、思考を微塵に千切る。

 だが、彼は半ば無意識のままに二本足で立った。

 亡霊のように佇んで、数秒後に意識を取り戻す。

 震える。質量が重い。空気が重い。肺が重い。

 

(勝てるか、ではない。勝利の可能性なぞ元から零じゃ。抉じ開けねばならぬ。何にせよ徒手空拳では立ち向かず、大立ち回りを演じるだけの体力も残っておらん。そもそも、正攻法では勝ち目がないやもしれぬ)

 

 たとえ浅見と軽んじられど、この手に武器は要る。

 女に遠ざけられた剣はソルフォートの後方だ。具体的な位置は把握できていない。余所見ができない状況下では目視を行えない。そのため、彼は踵を地面に擦りつけるようにして微速後退を続ける。ここはあの日の戦場。もしや目ぼしい武器が拾えるかもしれない。

 一方、ウェルストヴェイルは眉尻を落としていた。

 警戒心めいた内心は秋毫の微すらも感じ取れない。

 追撃も行わず、ただただ冷淡な視線を向けてくる。

 

「本当はさ、気づいているのだろう?」

 

 ソルフォートの脚が止まる。意識的ではない。

 女の視線に槍のように貫かれて、縫い止められた。

 その穂先に塗られた感情は、鮮烈。

 それは、彼の幼少期の真実を穿っていたのである。

 

「貴方は、貴方の母上を過剰評価しているよ」

「抜か、せ」

「彼女は立派な人間ではないよ。彼女は、貴方の味方だったことは一度もない。夢追人に対する応援に聞こえていたとしたら毒されている。あれは『助けて』の叫びだった。極寒の吹雪に襲われるなか、手元の蝋燭の頼りない炎に見る──都合のいい幻覚に似ている」

「儂は、とかく……母、さんを愚弄……」

「いい加減に目を醒ましなよ」

 

 急な重々しい声色に負けて、押し黙ってしまう。

 

「考えてもみなかったか? どうして母上は夢にすべてを(なげう)つような真似を許し続けたのか。どうして寒村で、それも裕福ではない環境にあって、貴重な労働力である子供を自由にさせ続けたのか。ひとえに家族の情か? ひとえに彼女の慈愛か? 断じて、否だ」

 

 ──母さんは大丈夫よ。貴方は貴方の夢を追って。

 母が、ソルフォートの夢を応援し続けた理由。

 我が身を顧みない邁進に水を差さなかった理由。

 母の応援は尋常なものではなかった。生活を犠牲にしていた。どんな食料を口にしても、味がするだけいいと思える経験を思い出す。母子ともにひもじさを抱えて、やつれた顔のまま草を食んだ日を思い出す。

 痩せ衰える身体。冷たい手。皮脂の油。溜まる垢。

 それは、父が家から去ったことに端を発す。

 

「母上は少しばかり夢見がちだったね。いつか夢は叶うと信じていて、貴方が御伽噺の英雄になりたいと話すと、我が事のように笑うような人だった。育ちのせいか、現実世界から目を背けたかったからか。そういう気質は元からあって、それが、父上が出ていって悪化した。貧しい生活は人を狂わせる。男手もなしに安泰な日々を営めるほど、寒村は優しくない。なにせ、夫にも逃げられ、貴重な労働力である子供を遊ばせていたんだ。日に日に病んでいくのも道理な話さ」

 

 ──立派だわ、村一番の剣士になったのね。

 ──私の信じてた通り。やっぱり努力は実るのよ。

 

(そうじゃ。母さんは少女のように笑っておった)

 

 ──ふふ、貴方が英雄様になるのも遠くない……。

 ──母さんを楽にしてもらうのもそう、遠く……。

 

(笑っておったのじゃ)

 

 ──えらいわ、経験を積むために傭兵になるのね。

 ──コツコツした努力は決して裏切らない。

 ──貴方がまたひとつ大きくなって、次に帰ってくるときが楽しみ……待っているわ。

 

(最後に聞いたのは『いってらっしゃい』じゃった)

 

 儚げな笑みを背にして、意気揚々と外を目指した。

 その先には、挫折と絶望ばかりが待ち受けていた。

 母の声が残響する。視界内の荒野に場面が重なる。

 頭蓋骨が内側から軋むような頭痛。さながら脳の奥底に埋めていた過去という死骸が、土中から腕を突き出し、這い出してくるようだった。とうの昔に弔ったはずの骨殻だ。果たせなかった約束の墓下からは、止め処ない後悔の念が横溢し、辺りに漂った。

 黄金の女は、慌てたように小さく片手を振る。

 

「ああ、すまない。貴方の過去を否定するつもりはなくてね。ただボクは貴方を救いたいんだ。この数百年を見ても、ここまで極めた人間は初めてだからね」

「きわ、めた……?」

「実に面映いのだけれど、単刀直入に言おうか」

 

 瞳に焼きついたのは、女が頬を指で掻いた残像。

 それが薄れるより先に、彼我の間合いが圧縮した。

 そう喩えざるを得ないほど一瞬で、距離が詰まる。

 ウェルストヴェイルが突如、懐に入り込んだのだ。

 

「ボクは、貴方を少なからず気に入っているんだよ」

 

 そこで見せた機敏さと反した速度で、手が伸びる。

 優しさすら感じ得る手つきで、腹部に触れた。

 その瞬間にソルフォートはえづいた。水中で溺れる感覚。泡ぶくを吐き出すのが止まらない。地上でこの感覚に陥る場合について経験がある。内的に負荷をかけられたことで、胃の内容物が喉元まで駆け上がってきているのだ。だが今回は眩暈がするほどに強烈だ。

 内容物どころか胃諸共、吐き出しかねなかった。

 女は、崩れ落ちる老躯の横腹を膝蹴りした。

 

「が、ぁ……!?」

「だから、貴方には貴方自身で折れて欲しいのさ」

 

 中空を飛ぶ。声ならぬ絶叫が脳天を突き抜ける。

 そうして最後は、築かれた屍山の一角に直撃した。

 

「せめて後腐れを残さないように自分の意思で、ね」

 

 ──成長するとはこういうことだよ、凡人。

 背筋まで突き抜ける衝撃。背中側から広がる鈍痛。

 胃液が競り上がり、乾いた唇から吐き出された。

 余勢によって屍山は倒壊する。泥遊びで固めた山を崩すときのように、ぼとりぼとりと力を失った人体が雪崩を起こしていた。さりとて、この緩衝材のおかげか、ソルフォートの背骨が砕かれることはなかった。

 その代わり、砕かれたのは闘争心という心柱。

 それこそ精神面では背骨のように大事なものだ。

 

「これは貴方の成長痛代わりだと思ってくれ。足りない自分を受け入れるんだ。ほら、子供時代に済ます必要がある通過儀礼ってあるだろう? 人体に実際に罹る病もあるけれど、同じように精神にもある。子供から大人になるには痛みが伴う。そうでなければ、まだまだ子供だということだ。貴方のようにね」

 

 ──貴方は、謂わば老いた子供なんだよ。

 ソルフォートは山の側面からずり落ちていく。

 遅れて、地面が尻を打ち据えた。体重落下の負荷が尾てい骨を震わせる。この振動がとどめ。両手指の器で掬う程度だった体力は飛沫となって散った。視界は霞みがかり、身体すべてが空洞化してしまったかのように、暈けた感覚器官の叫びが体内に木霊している。

 体前屈の姿勢のまま、指一本として動かせない。

 いま傍らには、夕陽色に濡れた剣が所在なさげに転がっているというのに。

 

「もう喋れもしないようだね。まあでも、まだ喋れたとしたら貴方は『知ったような口を利くな』と言うかもしれない。客観的に見れば、ボクの言葉は押しつけがましい台詞だからね。わかってはいるよ。でも、立場が違うがゆえにこういう物言いしかできないんだ」

 

 軍靴の鳴らす足音は緩慢に、確実に、近づく。

 一歩、二歩。心なしか時間を伸びやかに感じる。

 それを、絞首台までの階段を登るような心地で聞き届ける。

 

「ボクは貴方のことをよく知っている。それこそ、貴方自身以上にと、そう胸を張って言える程度には。まあでも、先ほどの『気に入っている』というのは言葉の綾だね。誤謬を糺そう。ボクなりの誠意をもって表現すれば、ボクは貴方に、並々ならない同情(・・)を抱いていると、そう言ったほうがいいかもしれない」

 

 矜恤憐憫の情感が、目線の温度だけで知れた。

 ソルフォートは項垂れたまま、視線だけを上げる。

 掠れた瞳を通して、夕陽を背にする女を認める。

 逆光のなかで断言したのを見て、合点がいった。

 

(そうか。儂を指して極めた人間(・・・・・)と称したのは、つまり愚かしさを(・・・・・)極めた人間(・・・・・)という意味じゃったか)

 

 先ほど耳にして、首を傾げてしまった表現だった。

 彼には、人生で極められた事柄などなかったから。

 

「物事の価値とは幕引きの瞬間に決まる。どんな物語もそうであるようにね。それは、人間が喪失感の尺度でしか価値を測れないこともそうだが、何より、結末を迎えるまでは価値が変動する可能性を残しているからだ。夢を叶える可能性を残しているからだ。それまでは一概に、無価値と決めつけることができない」

 

 ──諦めなければ夢は叶う。ひどい言葉遊びだよ。

 赤茶けた視界の先に、帝国軍の軍靴が現れる。

 頭上からは声。空洞化した全身に反響する。

 

「貴方にはわかるのかな? 失ったときの落差でしか物事の価値を測れないのだとしたら。命を落としたときにこそ、その価値を知ることができるのならさ」

 

 ──ねえ、貴方に千鈞の重みがあったかい?

 そう独りごち、ひと時だけ憂いの表情を覗かせた。

 屍山に体重を預ける老爺の正面で、佇んだまま。

 

「ソルフォート・エヌマ。貴方の生涯は徒労そのものだった。子供時代の他愛ない夢を骨髄まで信じ込まされて……でも、それはあくまで夢想であって、現実世界の身体がついていくかはまた別の話。例え話をするならば、貴方は、宵越しの夢でひとたび空を飛べたからと言って、起き抜けに試してみたんだよ。しかし一向に飛べず、毎日試し続けた。その結果、鳥気取りの滑稽な墜落が貴方の人生のすべてになってしまった」

 

 飛べない者が、腕をバタつかせ続ける生涯だった。

 その過程には幾つもの枷がつき、腕を重くした。

 己の才能、周囲からの蔑視、年齢、身体の衰え。

 

(身に余ることを、成し遂げようとしたのじゃ)

 

 だから、夢に向かう道中は虚しさすら覚えた。

 横にいた同年代は、易々と彼を置いて先に行く。その背に追い縋ろうと我武者羅に走ってみたところで、追い越せた者は誰一人いない。応援代わりに愚者の烙印と嘲笑を投げつけられながらも、ただ前に進んだ。

 若き才人たちが羨ましかった。彼らは背後から事もなげにソルフォートを抜き去っていく。あまりに次々と越していくものだから、うっかり自分の足取りを見返して、安堵混じりの落胆を覚えたことがある。

 ──本当に自分は一歩でも前に進んでいるのか?

 不安と焦燥に襲われたのは一度や二度ではない。

 

「幾度も心を殺してきた。自分が見えていない大法螺吹きは、どうしたって貶される運命にある。ほら、いまも村人たちの嘲る声が思い出せるだろう?」

 

 ──無駄な努力だ。

 ──あれなら土弄りを覚えた方が利口に違いない。

 

「傭兵仲間の蔑みが、瞳に焼きついているだろう?」

 

 ──口にするだけなら簡単だ。

 ──実行するには、足りない物が多すぎる。

 

「そして『人類最強』の手向けの言葉は無情だった」

 

 ──貴方は、半端者だ。

 

「貴方はどこに行こうと鼻摘み者扱い。誰よりも焦がれて努力して、けれども貴方を評価する者はただ『哀れ』と思った者ばかりだった。貴方が欲していた評価や名誉は、そんなに安っぽいものじゃなかったのに」

 

 滾る情熱には冷水、気力にはヤスリをかけられた。

 優しい言葉は冷やかし以上になり得なかった。

 

「父上だって、その夢を疎ましく思って出て行った」

 

 ──呆れた。お前の話は現実味に乏しい理想論だ。

 ──ガキの戯言に付き合わされるのは御免被る。

 

「最初は疎ましげにしていたものの、子供の遊びと思って見過ごされていた。それが、生活に困窮してもなお仕事より鍛錬に身を入れるソルフォートに、それを微笑ましく話す妻に、どうしても我慢ならなかったのだろうね。……まあ、当然の帰結だよ」

 

 父は、母子のみすぼらしい家から出ていった。

 聞く話によれば、元より母には愛想を尽かしていたらしい。常に呑気で、いまだに少女の感性でいる彼女が、生活を共にするにあたって目障りな存在でなかったはずがない。血の繋がったソルフォートとも会話した覚えはない。父子の交流は視線だけだった。

 そんな家族が決定的に断絶した瞬間を覚えている。

 ぎゅっと掴んだ裾の感覚が、まだ手に残っている。

 父は「一銭にもならない夢に投資するなど、そんな夢想家にはなれん」と吐き捨てた。そして以前からつくっていたという愛人の家に移り住んだ。

 両手を外套の隠しに突っ込んだ姿は遠のいていく。

 傷だらけの広い猫背は、一度も振り返らなかった。

 それを、家の軒先から母と二人して見送った。

 

「それからのことも覚えているよね? 元より歪な家族が壊れたあとの話だ。貴方は一度、剣を振らなくなったよね。父上が出ていったのは自分のせいだと思って、そのまま家に帰った。そのことを正直に話すと、母上は激昂した。『わかっているの!?』とね」

 

 ──あの人が出て行ってしまったのよ。

 ──貴方の夢は叶わなくてはいけないわ。

 ──大丈夫、きっと夢が現実になれば帰ってくる。

 

「あれが、彼女の取り乱した姿を見た最後だった。でも、あのとき以来、貴方はいつも通りの母の微笑みが別物に感じられるようになってしまった」

 

 言葉の雨垂れが耳朶を打つ。

 薄壁の向こうでそぼ降る音を聞く心地になる。

 

「貴方が夢を追う根源は植えつけられた恐怖だ。義務感だ。惰性だ。そして人としての成長がなかったからこそ、貴方の夢はからっぽのままなんだよ。中身がない。大義がない。質量という奴がない。不相応に膨らんだ夢だけ抱えても、虚しいばかりだ」

 

 ソルフォートに背負うものは何もありはしない。

 夢、家族、恋人、友人、恩人、あるいは国の命運。

 本来、人が背負うべき何かが欠如している。唯一持っているかに見えた夢すらも、まさしくからっぽ。幼稚な夢を御大層に抱えてきて絵空事を言っているだけだ。まるでそれは、子供の頃に好きなものだけ詰め込んだ宝箱のようである。大人になって箱を引っ繰り返せば、いつかの宝箱の正体はガラクタばかりのゴミ箱同然の代物だったと知れるのだ。無価値な物体がどれだけ詰めてあろうが、ないのと変わらないのだから。

 彼女は言う。膨れ上がった夢だけを抱えて、報われないまま、ここまで我武者羅に駆けてきて、疲れたはずだと。もう諦めてもいいと。惰性で続けてきた夢に引きずられる、もうその必要はないんだ──と。

 ウェルストヴェイルは乞うような口振りだった。

 

「見切ってしまえ。こんな夢に、価値はないよ」

 

 そう、締め括るようにして言い切られた。

 老人は視界不良のなか「そうか」と腑に落ちる。

 ソルフォート・エヌマの人生。

 それは、英雄に憧れた瞬間に歯車が狂ったのだ。

 

「ねえ、ソルフォート」

 

 それは、黄金の英雄の声色ではなかった。

 いつか寝覚めに感じた毛布の温かみを心に添える。

 如何なる場所であれど、繭のように居心地のいい空間に塗り替えてしまう、声がする。

 

「だから、お家に帰りましょう?」

 

 視界にあった軍靴は、藁編みの草履になっていた。

 端々が剥げた足指の爪と、固くなった皮質を見る。

 

「私は知っているわ。貴方の思う人生最良の日々。貴方が叶えたかった夢は、違う。英雄になるなんてものじゃなかった。ただ私と二人で、あの小さな家で、平和に暮らしたかったのよね。あの人が出ていって本格的に狂ってしまう前の、あの微睡む日々で……」

 

 夕陽に染まるその脚と影は、記憶を惹起する。

 剣術道場の帰り道、畦道を手を繋いで歩いた。

 夢があって、帰る場所があった、あの頃。

 空がどこまでも高く見えていた、あの頃。

 やれば何でもできると思っていたあの頃。

 

「ほら、一緒に帰りましょう」

 

 ソルフォートは霞んだ瞳を開いて、見上げる。

 母が、右手をこちらに差し出してきていた。

 いつの間にか、夕景は戦場のそれではなかった。

 鼻孔を擽るのは土の匂いだ。黄昏の波打ちを見せる稲穂の群れの頭上を、蜻蛉たちが気儘に飛び交っている。鈴虫の調べが高い空に響いていた。郷愁の念が身体を絡め取る。ここは、帝国僻地にあった故郷だ。

 ソルフォートが背を凭れているのは屍山ではない。

 いつも鍛錬を続けていた、木造の廃墟だった。

 

「ずっと一人で剣を振っていて倒れたんでしょう?」

 

 母は困り眉で、怒るに怒れないような口調だった。

 それは、心から身を案じてくれている証左だった。

 だが、最後には包み込むような笑顔を向けてきた。

 

「ここまで頑張って……お疲れ様」

 

 ──疲れて立てないでしょう? ほら手を取って。

 ソルフォートは言葉が見つからない。黙り込む。

 母の背後には、人々の透けた虚像が遠目に見えた。

 そのなかに見覚えのある男の後ろ姿があった。バルドー伍長、という名が口元まで登ってくる。彼は歳幾許かの子を背負って、小柄な女性と手を繋ぎながら帰り道を辿っている。談笑の内容は聞き取れないが、三人は楽しげに、幸せそうに、彼らの家に帰っていく。

 ソルフォートは眩しく感じて、目を細めた。

 沈黙のうちにウェルストヴェイルの意図を悟った。

 ──この機会を逃したくなくば、手を取れ。

 そう、これは再び訪れた二度目の好機なのだ。

 だが幼女に転生したときとは真逆の意。夢を諦める好機だ。ソルフォート・エヌマの生涯ではついぞ逃してしまったそれは、陽だまりで微睡みながら、誰かと穏やかに茶を啜るような幸福を享受できる道である。

 不思議な確信があった。きっと三度目はない。

 おそらく、この夢と希望で舗装された地獄の道行きから逸れる、最後の機会なのだ。

 

「さあ、行きましょうか」

 

 ソルフォートは、かすかな呻きを上げる。

 

「それ、で」

「……え?」

「終わりか」

 

 母は固まってしまって、瞬時に問い返さなかった。

 その駘蕩とした微笑みに向ける言葉は短かった。

 

「……何を言っているの、ソルフォート」

「すまぬ」

「もうすぐ夜よ。もう帰らないといけないわ」

「その手は……取れぬ」

 

 固まったウェルストヴェイルと目が合う。

 そして、言った。

 

「儂の生き様に、間違いなど、なかったのじゃから」

 

 

 5

 

 

 

「間違いが、なかった……?」

 

 母の似姿は、ソルフォートの言葉を舌で転がした。

 黄昏時の光が照りつける。幻想世界では代わり映えない色彩のはずが、心なしか光量を増したように思えた。さながら多く水分を含んだ絵筆で重ね塗りしたようであり、彼女の輪郭を赤々と輝かせる。それが内部で膨れ上がっている激情の発露にさえ感じ得た。

 ソルフォートはその果てに紡がれる言葉を待たず、立ち上がろうとする。

 

「ぬしが……語ったのは、確か、に。儂の人生じゃ」

「そうでしょう? だって」

「じゃが、それゆえ……見落として、おる」

「見落、とし?」

 

 母の似姿は、ソルフォートの言葉を繰り返す。

 それはまるで飴玉を執拗に舐めるようだった。口内で言葉の外殻を溶かして、裏に隠された意味を絞り出さんとするようである。そうして、淡々と一言だけ呟いたあと、じきに不愉快げに眉を寄せてゆく。

 ソルフォートはそれを正視できず、視線を下げる。

 心が咎めたのだ。きっと目の錯覚だろうが、いまの彼女の表情が、泣く寸前の幼子のように見えてしまったのである。母の顔貌が歪む様を積極的に視界に収めたくはない。そもそも、彼女を演じているはずのウェルストヴェイルがそんな表情をするはずがない。

 いま視線の先には、差し出された右手がある。

 まだ彼女は、差し出した手を引っ込めていない。

 傷だらけの、その頼もしくも美しい手を──。

 

「儂が、研鑽を重ねた、理由じゃ」

 

 ──取らず、ソルフォートは両膝に力を込める。

 廃墟の壁に背を擦る。左右の背筋で登攀する要領で上体を這い上がらせる。いまにも崩れ落ちそうに身体が震える。だが、せめて膝は折るまいと苦心し、全身の筋肉に意志の熱を灯す。天から授かったオド容量の低きを嘆いて、鍛え続けた己が筋肉そのもので立ち上がらんとするも、そのたびに意識が明滅を繰り返す。

 鋭利な骨の破片によって筋繊維が切れる感覚。

 ぶつり、ぶつりと明確な音をもって意識が途切れかかっていた。

 

「何だ、そんなこと……先も言ったはずよ。見落としてなんていないじゃない。貴方が夢を追い続けた理由は、幼い頃に植えつけられた恐怖心。使命感に似た強迫観念。そんな呪縛が生涯貴方を離さなかったのよ」

「それは、確かに……が」

 

 ──それだけではない。わかっているはずじゃ。

 壁面で不恰好にのたうちながらも、二本足で立つ。

 背を壁から離した。同時に前のめりに倒れ込みかかるものの、背筋を張って引き留める。緩慢に身体が揺れるたびに、脚も膝も悲鳴を上げた。折れ曲がった左腕からは依然として身体中に鈍痛が響き渡る。

 眉間に刻まれた皺は、苦痛を覚えるだけ深みが増す。

 舌と口内には、鉄錆めいた味が染みついている。

 それでも、立ち上がれた。一人で立ち上がれた。

 

「儂が、続けてきたこと、が……」

 

 彼は、息も絶え絶えで母の似姿(ウェルストヴェイル)の手落ちを突く。

 

「好きで、やっておったと……見落として、おる」

 

 彼女の語った生涯はソルフォートの人生だった。

 ただ、俯瞰的に見た人生観である。その最中に起きた出来事や感情の取り上げ方には、ウェルストヴェイルの主観が入り混じっていた。ゆえに目から鱗が落ちる心地だった。彼自身も意外なほどに、自身が体感したソルフォート・エヌマの人生との乖離があった。

 語られた内容に狂いはない。彼女が語るように、ソルフォートは人生の目標を遂げられなかった。諦めなければ夢は叶う、という決まり文句には幾重もの但し書きが必要だと身をもって証明した。一生涯、煩悶が付き纏い、救う者はおらず、真の理解者がいないという意味で孤独だったのは否定しない。しかし──。

 左目元に垂れ落ちる血液を、右甲で拭う。

 

(きっと、ぬしは儂の人生を場面でしか見ておらん)

 

 それこそ、字面通りに過去を見たにすぎない。

 喩えば、ソルフォートの人生が完全三人称の小説に書き起こされたとして、そこには事実だけが羅列されている。彼女はその文面を読んで、境遇を知り、このときどう考えたか己の物差しで推察したにすぎない。

 彼女自身の言葉通り、同情(・・)するようにして、だ。

 本人の内側。肝心の心情は読み取れていなかった。

 

「好き……ねぇ。ソルフォート、それこそ植えつけられた感情よ。刷り込まれた好意的感情、一方的な押しつけでつくられた紛い物ね。言い方は悪いけれど、貴方はただ親に誑かされただけの、可哀想な子なのよ」

「紛うことは、ない」

 

 曲がることなく進み続けた轍こそが証明だった。

 単純な理屈である。好きでもなければ続かない。

 空を飛ぶことが好きでなければ、誰が両腕を翼に見立てて落ちるものか。

 

「ぬしには……わからぬ話かもしれぬが」

「何のこと?」

「六十五年。人の身に、は……長い歳月で、のう」

 

 ──植えつけられた根元が十分腐りきる歳月じゃ。

 母の似姿はそれきり閉口すると、一歩、後退った。

 ようやく差し出していた左手を戻して、そして。

 

「度し難いね。ソルフォート・エヌマ」

 

 変貌する。言葉遣いが中性的な声色で整えられる。

 透明な絵筆は母の似姿を掻き混ぜてゆく。夕景の黄昏色と混ざり合い、強烈な西日の向こう側に消えるような光景にも見えた。過去の光は眩いばかりで、看取ることもできなかった相手と(わか)つ寂寞感を改めて覚えてしまう。それは口惜しさによく似ていた。

 新たに色づけされたのは、再び黄金の英雄だった。

 アイリーン・デルフォル。海色の双眸が正面から見据えていた。

 

「救えない奴、とはこういう男を言うのだね」

「救って、ほしいなど、と……言った覚えは、ない」

「言ってるよ。貴方のひどい人生が言ってる」

 

 故郷の風景も戦場のそれに様変わりしてゆく。

 夕陽が地を舐めるように照りつけている。

 延々と繰り返された、ソルフォート最期の舞台だ。

 

「ここはさ、貴方の人生の要所であり、あるべき終幕のひとつであり、夢を追い、敗れた屍たちの墓所だ」

 

 静かに彼女──ウェルストヴェイルは言う。

 貴方はあのとき、ここで倒れておくべきだったと。

 黄金の英雄に老躯が斬り捨てられた瞬間、その幼稚な夢ごと捨て去るべきだったのだと。荒唐無稽な夢が何をしてくれたというのか。生涯を使い果たすに飽き足らず、さらに二度目の生まで奪おうとしているではないか。それに死してなお縋りつく姿は見苦しいと。

 彼女は言った。いまだにソルフォート・エヌマという老人は、積み重ねた夢の残骸に深々と腰を下ろしているのだと。両眼を開いて正面を見据えている。その視線の先にある虚空には、真実何もないというのに。

 ──貴方はいつまで、何を見ているんだい。

 

「夢を、見ておる。確かな現実で、夢を」

「間違いだ。何も見えていないんだよ貴方は」

「まだ見えずとも、目を凝らせば、自ずと見え──」

「貴方は……間違いだらけの人生だった!」

 

 激情の籠った声は、遠く、空高くまで響いた。

 

「意地なんか張らずに認めればいいじゃないか! 結局のところ貴方に名誉はなく、目標には遥か届かなかった。孤独で、劣等感で、天与の儘ならなさを痛感し続けただろう! 無知な阿呆のように信じてきた妄言は、泡のように弾けて残らず消えた、なのに」

「ああ」

 

 ソルフォートは力なく、首を振った。

 口元から血反吐を止め処なく溢しながら、呟く。

 

「儂の、人生は……間違って、おらん」

 

 ソルフォート・エヌマはどこまで行っても凡人だ。

 意思が固まらない幼少期、多感な少年期、挫折を経験する青年期。もし母の応援(・・)がなければ、いずれどこかの過程で挫けていたかもしれない。教育の是非が委ねられるのは当事者だけだ。奇しくも、彼は母のことを好意的に受け止めた。それがすべてだ。

 あれがあったから、好きなことを続けていられる。

 皆が捨てるはずの夢を追っていられている。前進するための貴重な動力源に代えられた。だから何も間違っていない。最終的な結論として、伸ばした指先は夢の片鱗にも触れられなかった。それに対しては悶え、叫び出したいほどに後悔の念があるものの──。

 満身を使い果たした。白灰めいた身体のみ残った。

 そんな人生には、一点の曇りもなかった。

 

「結果論だよ。結末が報われないと知っている現在だから、自分を納得させるために記憶を美化しているんだ。他でもない自分の人生を『単なる悲劇』と題されたいはずがない。そうだ、ボクには貴方のことがよくわかっている。過去を飾りつけるのは、過去が消えずに残るからだよ。過去には決して戻れないからだ」

幻想世界(ここ)に、いては……美化の謂れも、ない」

 

 過去の人物と風景が書き起こされた幻想世界。

 過去の轍について、ここで意地を張る必要がない。

 

「ッ……でも、貴方の人生に間違いがないなんて、誤謬も甚だしい表現じゃないか。言葉遊びだよ。事実として、貴方は何も成し遂げられなかった。誰かに勝るために、貴方は何十年を溝に捨てたつもりだよ」

 

 溝に捨てた──否、いままで積み上げてきたのだ。

 人一倍の努力では足りない。だから生涯を懸けて満たそうとしたのだ。露命を繋ぎながら、己のなかに培われる実力の芽を育て続ける。具眼の士は皆、この行いを無意味と断じた。だが、ほんのわずかに過ぎずとも、不器用なりに心血を注いだから得たものもある。

 憧れた英雄同様に、剣を握り、振るえる喜びだ。

 

(剣術道場に入門した頃を思い出すわい。入って一ヶ月は毎日筋肉痛が止まらず、母さんに泣き言ばかり零しておった。剣一本、満足に振るうことも覚束んかったのじゃ。それがいまでは一端程度に振るえておる)

 

 客観的に見れば、ちっぽけな成果にすぎない。

 だが主観的に見れば、偉大な精華に他ならない。

 

(続けることで可能性が繋がる。ああ、そうじゃ)

 

 そのとき自分が抱き続けていた宝物を認識した。

 ずっと夢見る、いまだ存在し(・・・・・・)得ない英雄譚(・・・・・・)を思う。

 それこそ子供の頃から、ふと思い描いた空想のなかにのみ存在する御伽噺──。

 

(いま儂は、憧れと同じ舞台に上がれておる。無論、見る景色は違うのじゃろうがな。青天井に手は届かなくても、子供の背伸びで届かなかった軒先にいまは届くようになった。それだけで、価値のあることじゃ)

 

 震えながら身を屈めて、傍に落ちている剣を拾う。

 馴染んだ手触りだ。かれこれ三十年の付き合いなのだから当然と言えば当然だが、なぜか手元から離れた数分程度の時間を経て、旧友に再会した感覚すら覚えた。瞬間、脳裏を過った様々な影に、相好が崩れる。

 それが実は、不思議ではないことに気づいたのだ。

 柄に巻いた包帯は血に染まり、赤黒く変じていた。

 共に三十年を駆け抜けた(せんゆう)の記憶だった。いままで噛み締めてきた後悔と屈辱と覚悟と、振り返れば地平線まで伸びている自身の轍を証明していた。誰に観測されずともソルフォートのすべてを覚えている、最大の理解者。その事実に気づき、力が湧いてくる。

 これが手元にあるだけで、折れる気がしない。

 

「分不相応な願いに縋ってばかりだった。夢を追う、なんて聞こえがいい言葉だよ。自分が見えていない未熟者が好みそうな言葉だ。貴方には他に、幸福を甘受できる道があったはずだろう?」

 

 分不相応、大いに結構──後に相応になればいい。

 そもそも分相応とは誰が決めるのか。最終的には自分自身だ。生涯における己が成長曲線の収束を見届けるのは、自分ひとりしかいない。線が収束するまで身の丈というものは不確かなままだ。それが全貌を見せるのは、可能性を見限った瞬間である。大器晩成か凡人かを隔てる線は、結果論でのみ確定する。

 無論、ソルフォートは死という終結をもって線が確定した。結果論という実線で象られた彼の身の丈は、期待を遥かに下回るものだった。これには我ながら苦笑いと歯軋りを零すしかない。だが、なりたいようになれなくても、足掻き続けたことは誇らしい。

 好きなことに好きなだけ、身を賭せた人生だった。

 

「あ、あ……しあわせ、じゃ」

「……はあ?」

 

 思い至る。自分はなんて幸せな人生だっただろう。

 自分の抱いた夢に相応しい人間は、枚挙に暇がないほどいた。たとえば六翼、たとえば四大将、たとえばボガート・ラムホルト。彼らは、ソルフォートが手をどれだけ伸ばしても届かない星々だ。だが、夜空に向かって精一杯の背伸びをして、いつかあの星の輝きに触れると誓って、あの星のひとつにと決めた──。

 認めよう。自分には彼らほどの適性はなかった。

 だが、自分の居場所はここであると決めたのだ。

 

(ああ、適性はなくてもその道を志せる。幸せじゃ)

 

 ソルフォートの片頬がわずかに上がった。

 

「何を笑っている。狂い果てたかい」

「くる、う。呵々、狂う、か。儂の、何かが狂うておれば、斯くも……まっすぐは進め、まい」

「それが何より狂気の証となぜ気づかないっ。常人じゃ夢に向かって直線で進めない。貴方はおかしい。思惟が足りないんだよ。どう考えたって、この幻想世界で溺れたほうが賢明だっ! 先ほども言ったはず。これは、夢を諦める最後の好機なのだからっ!」

「そう、か」

 

 ──糞喰らえじゃ。

 ソルフォートは数十年ぶりの暴言を口にした。

 

(幼女転生なる、夢を諦めぬ好機(・・・・・・・)を手にしたのじゃ。むざむざその機会を捨てることはできない)

 

 ウェルストヴェイルは身体を震わせ、顔を伏せた。

 その面持ちを窺い知ることはできない。薄らと蒸気めいた蜃気楼が全身から立ち上る。業を煮やした様相は隠しておらず、空気を噛み千切るように口を開き始める。そこから繰り出される言葉たちには、怒りというには優しく、哀しみというには激しい情感がある。

 そんな矛盾を煮詰めた声が、怨ずるように響く。

 

「愚かだよ。頑固一徹の思想だけじゃない。想像力が足りないのかい……貴方がボクの手を拒むのは自由だよ。勝手にしたらいい。だけど、拒めば、幻想世界を脱するためにボクに立ち向かう必要がある。つまり、勝機のない戦いに身を投じようとしているんだよ」

「おろか、とは。否定でき、ん」

「その身体で何ができる。そんな死に体でさあ」

 

 ソルフォートは不格好ながら、剣を正眼に構える。

 精彩を欠いた構えは夕陽の赤に染まっていた。

 ひとつ結びの枯れた血染めの白髪。割れた額、潰れた鼻、無数の傷がついた頬、折れ曲がった左腕、纏わりつく鎧の残骸。墓穴から抜け出した死人と見紛わんばかりの、凄惨な様相を呈している。もちろん戦闘に臨む状態としては下の下。最悪の様態だった。

 対峙するは最強。見据えた先に輝いている黄金色。

 もしや心の奥底どこかでは、勝利不可能と判断を下していたのかもしれない。

 

(儂は、負けん)

 

 そう──勝機の薄い戦、生死が二つに一つの戦。

 思い出せば、そんなもの幾らでも越えてきた。

 今更、臆するものか。抱えた夢を捨てるものか。

 

「最後通告だ」

「聞こう」

「貴方が遠回りし続けた終着点は、墓場(ここ)だ」

「否。ここは、儂の始発点じゃ」

 

 ──ようやく、最初の頁に辿り着いたのじゃ。

 精一杯の息を吸って、自分の思いの限りを吐く。

 

「遠回りして、遠回りして、序章(ここ)に来たのじゃ」

 

 ソルフォートの道程は遠回りばかりだった。

 本人は効率を意識していたつもりだったが、反して空回ることはよくある話である。無知がゆえの遠回りで言えば、村の廃屋での鍛錬方法がその筆頭に挙げられるだろう。無闇に剣を振るうだけの修練では、あまりに効率が悪いと知るまで数年の歳月を必要とした。

 しかし、それも決して無意味ではなかった。

 愚直に剣を振り続けたおかげで筋力がついた。剣という武器そのものに愛着も沸いた。剣を振るうことが好きになった。要するに観点が違うだけだ。すべては糧に変えられる。遠回りであれど先に進んでいることに違いはなく、弛まぬ研鑽すべてに意味があったのなら──その夢は、十分に背負うべき重さを持つはず。

 生涯、己に問い続けた結論はすでに出ていた。

 いまはそれをウェルストヴェイルに聞かせるだけ。

 

「へえそう。からっぽのくせに大口叩くじゃないか」

「儂の、夢は……重い。負けるつもりは、ない」

「ふうん。じゃあ、貴方のそれに何が入ってるの?」

「儂の、この……大好きの、心が、じゃ」

 

 夢。人生の意味。譲れない最大目標。

 それを志したきっかけ。それを誰が望んだか。

 そして、それがどれだけ歪んだ成り立ちか。

 ソルフォートにとってはどれも重要ではなかった。

 必ずしも御大層なきっかけは要らない。必ずしも善人の理解者は要らない。必ずしも祝福に満ちた成り立ちは要らない。夢までの道を血と食んだ泥で舗装してもいい。見窄らしい身なりで英雄を名乗ってもいい。

 ──好きと言えるものは、すべて命に相応しい。

 そんな傲慢な物言いは、思想は、確かに命を懸けたのならば、赦されるだろうか。

 

「そう。そうかい。平行線か」

 

 そうして、ウェルストヴェイルは顔を上げる。

 怒気めいた感情は沈静化したようだ。どこまでも平坦な声色から想像した通り、冷酷なまでの無表情が貼りついていた。海色の双眸の表面は凪いでいる。

 だが、どうやら激情は消えたわけではないようだ。

 

「理解できないよ。貴方は、他人の理解を拒んでいるようにも思える。ボクには貴方が意固地になっているようにしか聞こえない。だから解決策はひとつだね」

「ああ。矛を、交えよう……ぞ」

「阿呆にもわかりやすい手段だ。見果てぬ夢に溺れた愚か者め。子供どころかまるで赤子だよ。夢を諦めるために他者の力を使うなんてね。とても見苦しいよ」

「儂は、うれしい、よ」

「……はあ?」

 

 ウェルストヴェイルは不愉快げに眉を顰める。

 

「初めて、じゃ。ここまで心遣いを頂いた、のは」

「先ほどから何を──何を、貴方は──」

「ゆえに、ぬしには……心からの、感謝を」

 

 ソルフォートは言葉を遮って、吐き出した。

 心底から湧き出る感情をそのまま、感謝として。

 彼女は、曲がりなりにも凡人の生涯を憂い、彼女が考える幸福な選択肢を提示してくれた。後戻りの効かない人生において、駆け出したあと帰る場所を見失った人間に、本来ならば叶うはずのない第二の道を用意してくれたのだ。貴方が駆け出したときの燃料が切れているのなら、生き方を変えることができると。ここで一度、立ち止まって生き方を見つめ直してみろと。

 そして、ソルフォートは初めて立ち止まった。

 そして、自分の好き(・・)が衰えていないことを知った。

 

(ならば、よい。骨が折れ、肉が爛れ、足を砕かれど、もう折れることはない。これ以降、膝は折らぬゆえに、此れより先に敗北はないのじゃ。ああ)

 

 もう、懊悩に暮れるためだけの年月は過ぎ去った。

 慚愧に悶えるだけの時間は終わった。過去からの誘惑を見届け、思い出という麻薬に浸るのはここまでとしよう。これより先は、未来に歩を進める。定めた最大目標に向かって、ただ駆けてゆくのみである。

 この、いまだ枯れぬ情熱を結果に結びつけるのだ。

 ソルフォートが真に報われるための、時間なのだ。

 幻想世界とウェルストヴェイルには、そのために必要な己の最大の武器について学び取った。手数の少ない彼の武器は、剣や眼、経験。そして何より、自らの不足を自覚した上で誇った、確固たる夢。それが夢を追う者にとって最強の武器なのだと身に染みた。

 だから、目前の幻影に手向ける言葉はひとつだけ。

 学びを得た相手に送る言葉は、決まっている。

 

「ありが、とう」

 

 ウェルストヴェイルは無言で応えた。

 表情を消し、肩を鳴らし、金の髪を風に泳がせる。

 もはや問答は無意味と悟ったようだ。総身から発される殺気が濾される。彼女周辺に凝固するそれは濃密さを増してゆく。遂には風すら怯えて凪ぎ、黄金の髪は垂れ下がり、張り詰めた空気が辺りに満ちる。

 そうして、腰の剣に片手を添える。風格は『人類最強』の姿形通り、背筋を凍りつかせるものだ。いままで徒手空拳で圧倒してきた彼女が刃を用いれば、ソルフォートの勝機など生まれ得ないはずだった。

 だが、知っている。あれは『人類最強』ではない。

 あの女に比べて、目前の存在は優しすぎる。

 

(是非は問わず、偽物に違いないのじゃ)

 

 思えば、彼女の言動には訝しい箇所があった。

 疑問点は多い。なぜ、彼女が最強の名乗りを上げる際に「貴方の知るこの世すべて。それらの上」と迂遠な表現を行なったのか。なぜ、母の似姿を取ったとき攻撃を加えてこなかったのか。なぜ、母の似姿による交渉決裂後に『人類最強』の姿と風景に戻したのか。

 なぜ、いま彼女は問答無用で襲ってこないのか。

 なぜ、ソルフォートの望む幻想として故郷を選び、彼が英雄(・・・・)になった幻想(・・・・・・)を見せなかっ(・・・・・・)たのか(・・・)

 

(推測が正しければ、儂に勝機はある)

 

 大事なことは、きっと臆せず両目を見開くこと。

 息を整え、膝を鳴らし、白の髪を中空に泳がせる。

 もはや問答は不要だ。総身から生気を振り絞る。

 そうして、剣同様に最大の武器(ゆめ)を構えて──。

 

 

「そこを退け、儂は、夢の先を見に行く──ッ!」

「見果てぬ夢に溺れろ──ッ!」

 

 

 ──込めた力を開放する。

 右脚で踏み込み、老いた肉体を一気に駆動させた。

 渾身の力はこのときのために。

 疾風のごとく、間合いを詰めた。

 

 英雄と打ち合うだけの強靭な肉体ではない。

 英雄と張り合える、そう自負する腕もない。

 だからこそ、通用する可能性があるのは一撃。

 二の太刀以降に機は訪れない。

 それを期待したが最後、首と胴が切り離される。

 

 老体に残った力を掻き集める。

 握り締めた剣にすべてを懸ける。

 死の概念のない幻想世界だ。全霊を注ぎ込む。

 生涯における血と汗の滲む鍛錬の成果を──。

 見せつけるのだ、この最強(まがいもの)に。

 

 否、ウェルストヴェイルに見せつけるのは──。

 決して目を逸らさぬと誓い直した、己の生き様(・・・)だ。

 

 燈色に染まる戦場で二つの影は交差──決着する。

 ひとつの影が地面に力なく沈み。

 残った片方は、つまらなそうに呟いた。

 

 

「本物とは……比べるべくもなし、じゃ」

 

 

 

 6

 

 

 

 ソルフォート・エヌマは前のめりに倒れ込む。

 身体中に掻き集めていた力がふっと霧散したのだ。

 元より急拵えの活力だった。一瞬でも保ったこと自体が奇跡的だったのだ。それでも倒れ伏すまいと、杖代わりに無銘の剣を突き立てた。縋りつくようにして体重を預ける。持ち直すこともできず、動けない。

 肉体的な疲労は上限擦れ擦れ、頂点に達していた。

 体内魔力量は零。誇張表現ではない。これがもし現実世界であれば、零になると同時に命を喪っていただろう。斯くも啖呵を切っておいて相打ちどころか、その寸前の加速中に自滅していては笑えない。これはあくまで、死の概念がない幻想世界ゆえの暴挙である。

 無論、死が存在していた場合、ソルフォートは幾千回それを体験することになっただろうが──。

 

(だが、あの一瞬だけ、夢見た英雄たちの前に出た)

 

 これにて物語は一区切り。凡人の集大成だった。

 魔剣『幾千夜幻想』の打破。そんな、如何なる古今の英雄譚でも描かれることのなかった偉業を遂げたのである。彼は齢六十五にして初めて、誰の足跡もない地に踏み入ったのだ。その事実が心を潤す。生涯誰かに先んじたことのない男が、ようやく前に出たのだ。

 胸に去来するのは、一種の満足感と高揚感。

 

(呵々……それこそ、現実感がない、のう)

 

 不思議と、肩透かしに似た感慨も湧いてしまう。

 成し遂げた事実に思考力が追いついていない。

 

(儂程度に敗れるようでは、あの『最強』の名乗りはやはり紛い物と言わざるを得んのう。この幻想は出来損ない。この針のひと刺しで、壊れるが道理、か)

 

 そうして、ソルフォートは己の推論を反芻する。

 ウェルストヴェイルの真の特質はきっと単純だ。

 対象者が想像する通りの力量を発揮すること。つまり、対象者が無意識下でも勝利の道筋が想像できなければ──彼女は最強である。だが、勝利の像が明確に浮かんだ上で対峙すれば、決して倒せない相手ではない。認識次第で、彼女自身の言に則れば「貴方の知るこの世すべて。それらの上」になるのが彼女だ。

 なぜ、彼女は母と『人類最強』の姿で現れたのか。

 それはおそらく、精神・武闘の両面においてソルフォートが最も隔絶を覚えた相手だからだろう。

 

(景観も姿も、思考を誘導し、想像を固定するため)

 

 そう、母は精神面において、とても敵わない相手。

 『人類最強』は武において、とても敵わない相手。

 これはソルフォートの意識に刷り込まれている。ウェルストヴェイルはその認識を利用したのだ。輪郭だけをなぞった模造品であれ、それを目にしたとき同等の風格と、背後に過去を想起させる光景が広がっていれば、無意識的にでも同一視する思いが芽生えてしまう。その最中、想像通り圧倒的な力を披露されれば、力量の多寡を吊り上げて見積もってしまう。

 それが勝機から遠ざかる行為とは思いもしない。

 

(慎重な人間であればこそ、この陥穽に陥るのじゃ)

 

 なぜ、母の似姿のとき攻撃を加えなかったのか。

 それは、ソルフォートには彼女が武に優れた認識がないからだ。なぜ、母の似姿による交渉決裂後に『人類最強』の姿と風景に戻したのか。それは、会話での懐柔を半ば諦めて戦闘体勢に移行したからだ。

 だが、そのときにはすでに認識を捉え直していた。

 ソルフォートは目前のウェルストヴェイルが二人の人物像から乖離しすぎた言動を取るあまり、姿を似せただけの別人にしか見えなくなっていた。なぜなら、彼らは彼女ほど優しいことはしない。ウェルストヴェイルは、ソルフォートという只人に情を向けすぎた結果、己の『最強』なる仮面を落としてしまったのだ。

 そうでもなければ、凡人の一閃で沈むはずない。

 

(……いまとなっては、推測の域を出ぬがな)

 

 そう締め括った途端、渇いた地面が大きく揺れた。

 空が割れる。夕陽色に黒々とした亀裂が入る。

 ウェルストヴェイルの幻想世界が崩壊していく。

 彩色された硝子板を小槌で叩き割ったような、不揃いの欠片が剥がれ落ちてくる。さながら、ひとり荒野に立つソルフォートを讃えるかのように降り注いでくる。咄嗟に想起したのは帰郷したときに浴びた白灰だった。だが、いまや老躯に吹くのは橙の紙吹雪──。

 夕暮れの幻想世界は徐々に黒に浸食されていく。

 

幻想の主(ウェルストヴェイル)を打倒すれば、やはりここは消えるのか)

 

 揺れは酷さを増す。だが身動ぎひとつしない。

 一秒前に抱いていた満足感がすっかり消えていた。

 ソルフォートはすでに現実世界で待ち受ける英雄のことに思考を移していた。

 

(儂の状況自体は何も好転しておらん)

 

 魔剣『幾千夜幻想』の術中を抜けたとて、どうか。

 優しい幻想世界とは真逆の世界が待っている。そこには死という概念が存在し、時間という無慈悲な摂理に従って動いている。紛い物ではない英雄はそんな現実世界で依然として待ち受けている。過酷、苛烈を極める戦場が待っている。きっと救いの手はない。

 ソルフォートはその手を振り払って、ここにいる。

 自分の居場所はもちろん、退路は断たれている。

 

「上等、じゃ」

 

 それは虚勢だったが、その笑みは無意識だった。

 ウェルストヴェイルは大事なことを思い出させた。

 それは時計の針が奪えなかったもの。夢を叶えたいのならば見失ってはならないこと。それを知らなければ、目的地に辿り着くのは文字通り夢物語だと承知していたつもりでいて、ここまで来てしまった。ただ、強くなることに夢中で、目標の高さに急かされ、上へ上へと焦りすぎて、つい見落としていたことを──。

 崩れゆく過去の色に満ちた世界で、目を閉じた。

 

「疾く消えよ」

 

 呟く。握り拳を胸に当て、仄かな熱を感じ取る。

 ずっと夢見る、いまだ存在し(・・・・・・)得ない英雄譚(・・・・・・)を思う。

 

「儂自身の英雄譚、その一頁目を刻みにゆくのじゃ」

 

 噛み締めるように言うと、そこで意識は暗転した。

 どこかで、本の頁が捲られるような音がした──。

 



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14 『その男には取り柄があった』

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──だから俺は結局、選べなかった。

 

 それは誰かの記憶。褪せた頁を捲る音がする。

 ある男が、幻想剣を手にしたときの場面だった。

 魔術の詠唱文を読み上げる声が、朗々と聞こえる。

 

『【そうして私は目を瞑る】【千の位階の片翼】【その視座は空にありて】【箱のなかからは遠く】【そとからも遠く】【此岸と彼岸めく空想と現実】【憧れの肖像とは其の平面のみを通して交わり】【貴方はさながら世界の詠み人】【幾千夜の闇に葬られた物語の蒐集】【それこそが私と貴方の使命と刻め】──』

 

 大陸に伝う古語──聖文字を詠み上げているのだ。

 詠み上げた存在は、笑みを滲ませて息を吐いた。

 

『【ねえ貴方】』

 

 否、その契約代わりの詠唱はいまだに続いていた。

 それは、問いかけの形式を取った締め括りの言葉。

 他のどの節よりも重要で、資格あるものを捉えて離さない呪いにも似ていた。

 

『【救われない物語は好きかな?】』

 

 ──そこで俺は、奴と同類であると知った。

 その男はうらぶれた路地裏で産まれた。より正確に言うと、産まれたらしい(・・・)。両親のことは、親代わりだった老爺も知らなかった。彼が少年を気紛れに拾ったときはただ、降りしきる雨垂れに打たれた赤子がぽつんと放置されていただけ、だったという。

 だから、男は路地裏で育った。貧民街からも離れた僻地では、骨に皮が張ったような老爺と薄暗がりだけが同居人で、餌を啄みに来る鴉と忌々しい溝鼠が隣人だった。屋根があることだけが長所の我が家。日常的に食うに困り、着るものと言えば、滲みだらけの襤褸がふたつ。いつ野垂れ死んでも不思議ではない生活を送ってなお、男は歳を十五まで重ねていた。

 過酷な生活を凌げた理由は、明確に存在していた。

 それは、両親と神からの、唯一の贈り物だった。

 非凡な才能。字も読めず、学もない彼の取り柄。

 

『爺さん。これ』

『おお、ありがてえなあ』

『……別に』

 

 男には、常人より遥かに高いオド上限があった。

 この一帯の貧民街では負けなしだった。路上では荒くれ者たちが食糧を得るため、あるいは憂さ晴らしのために彷徨いている。当然、弱者の代表たる老人と子供が主な標的となるが──男はそれを返り討ちにし続けた。その結果として、知らず知らずのうちにこの地域では一目置かれる存在になってしまった。

 また、彼の取り柄は他に、鋭敏な感覚があった。

 第六感にも似た危機察知能力だ。これは謂わば『本能的な嗅覚』と言うべき感覚である。路上という無法地帯で生きていくにあたり、開花し、研磨された技能だった。死に繋がる糸口を本能的に感じ取り、生の糧を探り当てる。野生動物のそれに近い能力だった。

 ゆえに彼は飢え死にに至らず、あまつさえ居場所を得るまでになった。

 

『なあ。おめえはどこか行かねえのか』

『……いきなり何だよ、爺さん』

『こんジジイのお守りは飽きた頃だと思ってなあ』

『飽きるとか……そういうんじゃねェだろ』

『拾ってくれた恩ってやつかあ? 確かになあ、おれはおめえを拾ったが……もう、とっくに恩の残高は零になっとるわい。それよかおめえは──』

『俺自身の人生を生きろって? もう耳タコだ』

 

 老爺は、この頃になって繰り言ばかりだった。

 やれ夢はないのか、やれ外に興味はないのか──。

 

『この老いぼれに貸しをいくら積んでも、返せるモンなんか無えんだよ』

 

 皺だらけの顔に更に皺を寄せて、そう言っていた。

 

『おれはなあ、この街の路地裏しか知らねえ。産まれてこの方、ここでしか生きてこれなかった。若え時分に両脚の腱をブチ切られたあとは、もうどこにも行けんくなった。身体の問題じゃねえ。いや、最初はそうだったんだ。だけどなあ、いつからか、そういう気も失せちまったんだ。腐っちまったんだよ』

 

 ──おれも、どこかに行きたかったはずだがなあ。

 ──もう、どこに行きたかったかも忘れちまった。

 

『だから、おめえは足だろうが羽根だろうが、気持ちだろうが……腐っちまう前に行っちまえよ。折角おめえにはすげえモノがあるんだからよ』

『あァ、もう何度も聞いた』

 

 呆れ気味に返答すれど、老爺は何度も繰り返した。

 

『王都で騎士団に入ることも、おめえならできる。ああいや、騎士団はもう潰れたんだったか……? それでも王国軍。軍人としてもおめえは上に行ける』

『わかったわかった』

『おれなんかの面倒見て、重りにすんじゃあねえぞ』

『しねェよ。爺さんの身体なんか紙より軽ィ。いつも背中に乗っけて運んでるだろうが』

『違えよ、おめえは本当……これは大事なことだ』

『大事なことっつってもなァ』

 

 ──だって、それはきっと爺さん自身の夢だ。

 溢れてしまいそうだった本音を喉の奥に押し戻す。

 男の夢は、そんな老人の夢を叶えることだった。

 彼自身には──厳しい環境のせいか、生存本能からはみ出た『夢』と呼ぶべき強い欲求がなかったのだ。

 

『なら、俺が行くときは爺さんも連れてくか』

『は、あ? そんな、おれが邪魔になっちまう』

『手前ェが言ったことじゃねェか。俺だけじゃ爺さんの言う『大事なこと』を適当に流しちまう。だから』

『……そ、うか』

 

 老爺は口籠ると、しばらく時を置いて呟いた。

 

『それは……それまで、待ち遠しいなあ』

 

 男が十六と歳を数えた頃、老爺が死んだ。

 誰に襲われたわけでもない。ただの病死だった。

 その死骸は、持ち前の魔力属性である炎で白骨と灰になるまで焼いた。この街に浮浪者を土葬する場所なんてない。突き抜けるような青空に黒煙が高く高くに伸びる姿を見て、ひとつ感慨を拵えた。彼は、死んでようやく街から離れられたのだな──と、侘しいばかりの彼の幕引きに、さも情緒があるように仕立てあげてみせた。男の心の表面に拭き残された悲しみは、そんな手向けの言葉をもってしか葬れなかった。

 只人の終わりには劇的な物語性が付与されない。

 夢が叶うことも、手酷く裏切られることもない。

 ただ、人が死ぬ。その事実のみが残ることは何よりも救われないと思った。

 

『【救われない物語は好きかな?】』

『あァ』

 

 だから、その言葉を聞いたとき反射的に答えた。

 彼にとっては腹立たしいことに、自分が相手(ウェルストヴェイル)と紛れなく同類だと認めたのだ。

 

『救われねェ話なんて大ッ嫌いだよ』

 

 

 1

 

 

 

 そんな、指先に掠めた記憶の頁から醒めてゆく。

 そして──ソルフォート・エヌマが帰還する。

 幻想世界から現実世界へと。夢幻から現実へと。

 ソルフォートからソルへと。老躯から幼躯へと。

 彼の意識は、幼女の肉体に宿る。始めに身体という肉鎧の重みを感じた。次いで虚脱感が纏わりつき、骨肉が軋み出す。きっと筋肉の伸縮と血流の流れによる微細な痛みを、身体が捉え始めたのだろう。これが五感を取り戻す端緒となった。火に炙られた空気が、肌身を舐めているように感じられる。裏庭という壁に挟まれた地の底で、炎熱が滞留していたのだろう。

 熱い。熱い。血流がどくどくと頭の芯で脈を打つ。

 

(生きる、生きている。わしはまだ……!)

 

 この、摩訶不思議な感覚を味わうのは二度目だ。

 仰向けのソルは、両の瞼を上げる──より速く。

 その身体を発条仕掛けのように跳ね上げた。

 

「おおおおおッ──!」

 

 咆哮を放つ。空気が震える。喉が震える。

 音の振動が体内の傷をじりりと拡げる。鉄錆の味が喉元に滲み、灼くような疼痛が張りつく。それでも構わずに肺に残存していた空気を吐き出した。こうでもしなければ、死に瀕した矮躯を奮い立たせられない。

 白き幼女は宙空に飛び込んだ瞬間、右手を振るう。

 だが、果たしてその手に剣が握られているのか。

 確認する時間が惜しい。目を遣ってもいない。

 だが、ソルはいままでの自分自身を信頼していた。

 きっと最期の最期まで勝負を捨てていなかったと。

 そう、だから、目を閉じるその瞬間ですら──。

 

「と、る──ッ!」

 

 果たして、握っていた直剣は幕を切って落とす。

 自分以外のすべてを置き去りにした、飛翔。

 視界の全貌が開ける。まだ輪郭が曖昧ながらも斬るべき対象の判別はつく。宵闇。地面に落ち窪んだ影。蔓延る炎火。目前に聳える巨漢(ボガート)。ソルが奔らせた剣閃は、この英雄を切り崩すために振るったのだ。軌道は首筋。二度と通じないであろう最大限の不意打ち。

 事実──ボガートが絞り出したのは驚愕の音。

 

「は、ァ……ッ!?」

 

 だが、斬撃は肌を裂くどころか首筋にも届かない。

 剣刃には、大木めいた左腕が割り込んでいた。

 息を呑む。幼女の細腕を起点にして反動が伝い、途端に身体は勢いを失った。通用しなかったことに歯を軋ませる。ソルが現実世界に帰還して、二秒にも満たない間に繰り出した奇襲。それを目前の英雄は、超人的な反応速度で対応してみせたのである。拙速が巧緻に勝る一瞬に仕掛けたつもりだったが、それでもボガート相手には後塵を拝してしまうようだ。

 何にせよ、起死回生を賭けた奇襲は失敗した。

 しかし、ソルとしては予想の範疇にあった結果だ。

 

(これは布石。が、いま掴まれたら終いじゃ……!)

 

 即座に見切りをつけて、左脚で目前の鎧を蹴った。

 この後方退避には、さしもの英雄も反応が遅れる。

 幼女はまんまと逃げ果して、背を砦壁にぶつけた。

 

「ッ、く」

 

 軽い衝撃。蓄え十分と言えない体力が削られる。

 着地はできたが、どこか墜落の感が拭えなかった。

 それで、立ち上がる際には足元が覚束なくなる。

 吐き気が競り上がる。三半規管が混乱しているようだ。こめかみから脳奥に響くような感覚の歪みを覚えていた。立つために全身に行き渡らせていた力が勝手に抜けていく。後ろ髪を引かれるように、わずかばかり後退ってしまう。すると壁に再び背中がついた。

 ソルは荒れた呼吸を努めて隠し、状況を確認する。

 

(さあ……ここからどうするか)

 

 空に浮かぶ蒼褪めた月は、尖鋭な光を宿す。

 その色合い通りに、厳しい現実を曝し上げていた。

 まずはソルの身体だ。左肩には焦げついた創傷がある。灼熱の槍で穿たれたために、傷口が溶けて血液は出てきていない。右の脇腹には似た様相の火傷痕と裂傷。これは魔剣『幾千夜幻想』起動時に貫かれた箇所である。左右の腕には蛇のような青痣が這い、反応が鈍く、動かそうと意識を渡らせれば電撃を受けたように痛む箇所は──やはり、骨が折れているのだ。

 全身に掠り傷が隈なく刻まれているのは、当然。

 血が滲み出し、赤黒く凝固した箇所は幾つもある。

 

(それでも、幻想世界での満身創痍よりは上等か)

 

 次は、周辺情報、彼我の位置関係を把握する。

 

(目前にはラムホルト殿。お互いに手の届く範囲内ではない。位置関係もほとんど変わっておらん。辺りには濃密な闇が沈澱しており、それを切り裂くのは遠間で燃える火炎。下方、地面には幾つもすり鉢状の穴が口を開けている。焼け焦げた跡。微風に乗った焼けた匂いもいまだ濃い……つまりは)

 

 幻想世界内では現実世界の時間は経過しないのか。

 ウェルストヴェイルの言は正しかった。あの世界に存在しなかった時間と死。それが確かな息吹として頬を掠める。この世界は、その二つの理で厳然と回っており、いま立たされているのは死の淵なのだ。

 身体中の痛みが教えてくれる。鼓動を打つ心臓が主張し、零れ落ちる血液が植えつける。わずかな足場を踏み外せば真っ逆さま。死の崖淵の底で『終わり』がいまかいまかと待ち侘びているのだと──わかる。

 それでもまだ動ける。耐えられる。まだ、倒せる。

 無論、虚勢。されど口端はつうと吊り上がる。

 気を失う以前よりも、表情には生気が漲っていた。

 

「ッ! て、めェ……何で……!?」

 

 耳朶を叩いたのは、二の句が継げない男の声。

 場の支配者だった彼── ボガートは後退った。

 こちらを凝然と見つめてくる。瞼は、あたかも眼窩から眼球が零れ落ちてしまいそうなほど見開かれ、動揺の程度は察するに余りある。人間、きっと彼岸からの帰りを目にすれば、こんな面持ちになるのだろう。

 彼はひどく狼狽して、筋肉も関節も硬直している。

 

「ウェルストヴェイル、どうなってやがる」

 

 理解不能と呟く矛先は、彼自身の片手にある大剣。

 その切っ先が宙を彷徨い、震え、宵闇を掻き回す。

 魔剣『幾千夜幻想』。鏡めいた刃には遠間の炎を映して、さながら剣の奥底に封じられているようだ。着目すべきは、刃毀れひとつ見当たらないことだ。幻想世界を突破したとしても、剣本体に綻びひとつ現れないのか。状況は変わらず最悪に近いと知れる。

 ソルの眼球がじりりと痛む。表面が焼け焦げてしまいそうだ。触れ合う空気は火のように熱く、視神経を辿って脳味噌まで延焼するようだった。酷使され続けた両目では、ただ事物を捉えることすら過剰処理だ。

 これ以上は、視界から永遠に光が失われかねない。

 

(されど、たとえ、そうだとしても──)

 

 目を閉じることはできない。事態は逼迫している。

 この瞬間の先でしか未来の光は浴びられない。

 だから無理を通す。弱音の虫を殺す。飲み込む。

 勝機寥々たる地から這い出るため、正面を向く。

 

「手前ェは言ったはずだ。誓ったはずだろォが。俺の筆になるって、同類同士で共犯者になるってよォ。使命を果たすまでは終わらねェって……おい、返事くらいしたらどうだァ、ウェルストヴェイル」

 

 その声は、明らかに怒気を孕んでいた。

 だがどこか縋るような、祈るような響きがあった。

 

「なァ、俺の、俺の夢はまだ──」

「ウェルストヴェイルは、斃したぞ」

 

 幼女は静かに、舌足らずの声色で事実を告げる。

 事ここに至って、それ以外は不要だった。

 

「……嘘、じゃァねェか」

 

 その獰悪なる形相は遂に曇り、息を吐き出した。

 

手前がそこにいる(・・・・・・・・)。証拠なんざァそれで十分、か」

 

 独りごちた途端、盛大な舌打ちを鳴らす。

 そんな、誰に宛てられたかも曖昧な音は、虚しく宵闇に消えてゆく。そうして一時、戦闘中とは思えない静寂が支配した。ボガートの内心の癇の強さは、決然と結んだ口元と、額の中心に寄った眉根の盛り上がりにありありと表しておきながらも──だ。

 これは、彼も混乱の只中にいる証だろう。そもそも冷静であれば、幼女が奇襲し損ねたあと容赦ない追撃を行っていたはずだ。つまり『幾千夜幻想』を突破された事実は、動揺せざるを得ない結末だったのだ。

 余人の及ばぬ沈思に没頭していた彼は、ふと呟く。

 

「思えばそうかァ。アイツの明確な攻略法だ。恐れを知らねェ餓鬼ならアイツのことも越しやすいってワケだ。……は、種さえ知れりゃァ大したことはねェ」

 

 ようやく腑に落ちたように、頷いた。

 ソルは唾液を乾いた喉に流し込む。気配を殺しながら脚を右方向に滑らせる。ボガートが小休止を入れているうちに、壁際から離れなければならない。ここは退路が確保できない袋小路。背水の陣は気を高ぶらせるものの、やはり圧倒的に不利な立ち位置なのだ。

 視線を巡らせる。何か利用できるものは──。

 

「良いさ、手前ェは救われることを拒んだンだ」

 

 ふぅと鼻息を吹いて、大剣を軽々と肩に担いだ。

 蓄えた金の口髭を空いた左手で弄っている。動揺の色は薄れ、彼の面持ちには厳しさが戻っている。そこから放たれる肉食獣めいた視線は、捕食対象(ソル)の美味そうな部位を吟味しているようであり、全身の筋肉の一動作一動作、すべて追っているようにさえ思えた。

 葛藤の色を湛えた双眸から詳しい心理は窺えない。

 推察が頭を掠めるより先に、彼は口許を歪めた。

 

「なら、覚悟はできてンだろォ?」

 

 いま彼は、嗜虐的な想像を膨らませているのか。

 あるいは、機械的な一計を案じているのか。

 

「蜘蛛糸が切れた亡者の末路ってヤツを、なァ!」

 

 それは、まるで城塞から放たれた砲弾だった。

 悠々と地を飛び越え、空気を突き破るように──。

 比すること十倍はあるかという質量が、迫る。

 

(き……!)

 

 ──来た。

 ソルの喉が凍る。呼気が仄かに漏れ、止まった。

 瞬く間に距離が埋まる。直後に突き出される左拳。

 風圧を置き去りにした打撃を前に、幼女は笑う。

 すでに覚悟の紐は引き締めていた。頭をわずかに逸らす。すると耳元間近で豪快な粉砕音が炸裂。目にも留まらぬ速度で放たれた巨拳が、砦壁に大穴を穿ったのだ。素手によるものと考えがたい音にひとり肝を冷やしたが、彼女もまた彼の右拳と同時に動いていた。

 拳と交錯するように、鋭い剣撃を放っていたのだ。

 

「手前ェに勝機はねェよ」

 

 無防備な左側面から薙ぐ一撃は、躱されない。

 きっとそれは彼にとって躱す価値がないからだ。

 

「ソイツは俺の身体に届かねェ」

 

 きん、という硬質の響きが半秒後に教えるはずだ。

 幼女の剣撃は英雄を覆う全身鎧に通じない。幾度も剣閃を迸らせようと傷の一本も入らなかった。つまり先ほどの起き抜けの一撃も無意味だったのだ。幻想世界から帰還した直後で、すっかり頭から抜け落ちていたのか──と、ボガートは愚かさを嘲笑うだろうか。

 されど、奔る刃の軌道が揺らぐ。減速する。

 ソルは己が振るう剣から、手を(・・)離した(・・・)のだ。

 そして柄を逆手に掴む。

 

(知っておる。ゆえに)

 

 刃は鋭角に軌道を変え、その先は──彼の右踵。

 

(わしの狙いは、始めからその綻びじゃ)

 

 唯一、ボガートの全身鎧が破損している箇所だ。

 視線で貫いた先は足元。股越しに垣間見える素足を狙い撃つ。それはソルが炎の雨を潜り抜けたあと、()()放出を利用して穿った穴。全霊の不意打ちで切り開いていた狭い突破口。個人要塞とも呼ぶべき、彼の鉄壁を打破する芽はすでに植えつけていたのである。

 そして、この剣閃を通す布石はひとつ打っていた。

 起き抜けの一撃。あれで急所狙いを印象づけた。

 人体の急所には、命の遣り取りをする上で、自他ともに意識が集まりがちだ。強力ゆえに誰しもが読み筋に加えるだろう選択肢。それがあの一幕で、強烈に焼きついたはずだ。想像の埒外から攻撃を加えられたという衝撃が、あの英雄の意識に深く刻み込む。

 だから、今度こそボガートは反応できなかった。

 

(まず、ひとつ)

 

 絞り出した魔力(オド)を推進力に、剣先は正確に穿つ。

 

「チ、ィ……!」

 

 だが、足首を狙った突きは紙一重で防がれる。

 右脚がわずかに動いて、目標から軌道がずれた。

 破損箇所の縁に接触。夜天に金属音が鳴り響く。

 そしてボガートは眉宇をひそめて、後方に飛ぶ。

 

(余りに……脊髄反射にしても速すぎる……!)

 

 図体に見合わぬボガートの機敏さに舌を巻いた。

 紛れもなく人間の意表を突く剣筋だったはずだ。

 彼の危機察知能力と反応速度は獣を超えている。もはや英雄という範疇でも突出しているだろう。あの状況で負傷を避けられるのは流石に想定外だった。それでも、ボガートが払った代償は大きい。

 後方退避する大男の脚。右脛から足先までを覆う装甲が弾け飛んで、下にある布一枚の皮膚が曝け出されていた。ソルはそれを視界に認め、前に飛ぶ。肉食獣の牙のごとく貪欲に英雄の身体を付け狙う。

 どれだけ強固な防波堤も一寸の穴から決壊する。

 鎧の魔術的な防護が、脆くなっているのだ。

 

(もしや。ラムホルト殿があの破損箇所から意識が逸れていたのは、すでに鎧の強固さが失われ、首筋を狙われても致命傷と判断しておったから、なのかのう)

 

 そうであれば、勝利に到達する筋は単純明快だ。

 

(オドの加速術で渾身の一撃を叩き込むことじゃ)

 

 ボガートの退避は先のような大跳躍ではない。

 剣閃から脚を庇うために体勢を崩した状態で、苦し紛れに背面飛びしたのだ。瀕死とは言え、重心を制御下に置いているソルに追いつけない道理はない。

 巨体が中空で後転し、辛うじて前傾で着地し──。

 幼女はその直後に追いつき、地の位で踏み込む。

 定めた狙いは低空。ボガートの軸足となる右脚付近の地面に飛びつき、掠めるように彼の背中側に抜けてゆく。そのすれ違い様に右腿めがけて剣撃を放つ。

 躱される。彼は着地に手をついたことを利用して、重心を片腕に流したのだ。咄嗟に逆立ちして斬撃を回避。そうして腕を屈伸させ、飛び退らんとする。

 ソルは目前の地面に右脚を出し、己の勢いを削ぐ。

 砂利を散らしながら身体の方向を捻り、方向転換。

 ボガートが倒立する方向に向き直り──。

 

(距離を取られるわけには行かぬ……!)

 

 巨漢は、腕の筋力のみで数丈の距離を飛んだ。

 それを再び追おうとしたが、はたと気づく。

 

「獲物は、手前ェのほうだァ」

 

 ボガートは中空を舞い、砦壁に足裏をつける。

 そう、双眸を獰猛に輝かせ、さながら飛びかかる寸前の捕食者を思わせる、両膝を折り畳んだ姿で──。

 

「あァ!? どうやら息が上がってるなァッ?」

「ッ……!?」

 

 この状況に誘い込まれたのはソルのほうだった。

 ボガートの巨影が鞠のように跳ねる。圧縮された空気が一気に放散する。その連想を肯定するような爆音を引き連れて、影が迫る。否、迫るなどと漸次的な姿は捉えられない。すでに目前には凶相があった。

 息もかかる至近。金の(たてがみ)を逆立てた獅子がいる。

 目を剥く間もない。向かって左側から唸る右拳。

 

「ぁ、く」

 

 歯を食いしばりながら限界まで身体を逸らす。

 酸素を求めて海面から口だけ出すように、躱す。

 次に胸部から落ちるように地に近づける。その際に左手をついた。腕を伸ばしたまま着地して、衝撃が伝わる前に身体を右方向に投げる。地面すれすれを滑るようにして移動を図ったのだ。そこから体勢を立て直す暇も与えられず、二撃目、三撃目が放たれる。

 そこからは、超至近距離での追いつ追われつだ。

 互いの尾に食いつかんとする闘犬の争いめいた。

 

(劣勢……! 戦況の蚕食を企てねばならぬッ)

 

 全身の疲労と負傷は、とうに臨界点を越している。

 自らが見定めた限界を越えて、息を繋げている。

 そして己に問いかける。現在の焦眉の急とは何か。

 

(決まっておる! ラムホルト殿に距離を取られないことじゃ。またぞろ炎の雨でも降らされては堪ったものではない。二度も繰り返されてはこちらが持たぬ)

 

 だが、無闇に打ち合うのもまた得策ではない。

 剣戟は交わすだけで体力が大幅に削られるもの。距離を詰めるため毎度剣を戦わせては、ものの数分で疲労感が閾値を迎える。勝負は単純な体力比べと化すだろう。そうなれば勝機はない。つまり体格すらも圧倒的に劣るソルが眼目を置くべきは、打ち合いを極力避けながらも、至近距離で継戦し続けることだった。さもなくば、幼女の勝算など襤褸にも等しい。

 ゆえに互いは敏捷な身体捌きで間合いを奪い合う。

 ボガートは己の土俵である体力勝負に持ち込むために、ソルは彼に距離を取られまいと──。

 

(ここで隙を見出すこと。それこそが焦眉の急じゃ)

 

 額の毛穴から汗が滲み出て、珠となって闇に散る。

 ボガートと付かず離れずの距離を維持すること。身の丈を越した領分で拮抗し続けること。一瞬一瞬、気を抜くことができない。さながら水が並々と注がれた密室にいるようだ。水面が背丈を越す位置に揺らめいていれば、息を繋げるには背伸びし続けなければならない。だがそれも弥縫策、長続きは望めない。

 だから、いつか後れを取るのは見えていたのだ。

 

「半秒、遅ェなァッ!」

 

 酷薄な事実を声に表した直後、白光が目を焼いた。

 彼我に生まれた隙間に、手のひら大の球が出現。

 小型の太陽──。闇に慣れた両目が刺激される。脳幹の奥が痺れる。蕩けるような甘美な感覚が後頭部から広がる。それを拒むようにして思考を回す。

 ボガートは遂に魔力の使用に踏みきってきた。

 詠唱はない。魔術でなく己の魔力(ほのお)を現出しただけ。

 

(ッ、距離を空けすぎたのじゃ……!)

 

 悔やんでも状況に進展はない。次の行動を立てる。

 退避だ。退避先は背後か。否、それでは袋の鼠だ。

 幼女は前に飛ぶ。飛翔角度は下方向。小型の太陽の下を潜り、巨体の足元から抜けんとする。地面に開いた、すり鉢状の穴の微々たる斜面を滑るように──。

 穴の底で小さな身を更に屈めて、再度、地を蹴る。

 その刹那に、暴風の唸りが後頭部を擦過した。

 そこは、ちょうど巨漢の足元の暗がりだった。

 

(まさか、これを咄嗟に脚で反応したのか……!)

 

 わずかな穴の深度・角度に救われた瞬間だった。

 

「はッ、は、ぁ」

 

 そうして到達したのは、他と比べて深い穴。

 幼女は底に手をついて、勢いのままに腕を曲げる。

 十分な力が溜まった途端、小さな我が身を投げる。

 ボガートとは反対方向、退路の空に向かって──。

 身を空転させると穴の淵に指を届かせる。気を引き締めつつ、息を漏らす。退避距離はたかが穴ひとつの直径だったが、袋小路からは脱せた。その瞬間を境にして、辺りを焼いていた琥珀の色彩が薄まる。急速に闇が足許を浸していく。小規模太陽は収束したのだ。

 幼女は、勢いを殺すことなく身体を反転する。

 

「手前ェッ……!」

「ぅ……!?」

 

 視界の上半分、夜天は巨大な右手で遮られていた。

 掌底が頭部を打撃──前、ソルは腕を跳ね上げる。

 咄嗟にできたことは上出来だった。右手を柄に、左手を白刃に添えて、目前まで差し迫る拳を阻むように構えた。剣を盾代わりにして受け止める。これは彼女が生まれ持った反射能力ではない。骨身に染みつくまで続けた反復練習の成果に違いなかった。

 衝撃は響いた。腕を伝い、背骨から異音を鳴らす。

 幼女は体勢を崩して、両足は浮いて、飛んだ。

 小さな背は斜面に打ち据えられて跳ね、再落下。

 穴中央に向けて、転がりながら滑り降ちてゆく。

 

「気味が悪ィ餓鬼がァ……!」

「ご、ぉ」

 

 身体は回りながら歪む。表情が歪み、骨が歪む。

 視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、薄れていく。

 その無明寸前の電撃めいた光が、無音寸前の風音と甲高い音が、無臭寸前の噎せ返るほどの血の臭いが、無味寸前の鉄錆味が、無痛寸前の激痛が──人形のように崩れ落ちていく身体のなかで残っていた。

 唇から、肺の奥底に溜まっていた空気が漏れる。

 

「──……──」

 

 転がり落ちた先で、音はもはや聞こえない。

 痛みもない。一連の衝撃と振動で意識を振り落とされかけていたものの──否、何なら一度は落とされたようなものだ。それを、完全な闇に呑まれる前に指先で引っかけて手繰り寄せた。精一杯、繋ぎ止めた。

 視覚が戻る。網膜では黒白に明滅が繰り返される。

 空に聳える巨漢が、鋼鉄の刃を振りかぶっていた。

 

「──……──……!!」

 

 またしても両手と剣で受け止める。痛みはない。

 いまは地面が背を支え、吹き飛ぶこともなかった。

 嗅覚が戻る。肺一杯に空気を喉奥へと流し込む。

 取り込んだ空気の端々には、肉の腐敗臭が斑点をつけていた。

 

「────」

 

 呻いたが、己の軋みすら鼓膜は捉えれなかった。

 味覚が戻る。腐敗臭と鉄錆の味が入り乱れる。

 巨漢は再び振りかぶり、空の月光に鋼鉄を翳す。

 

「──……ァ──……!」

 

 またしてもソルは構えて受け止める。痛みはない。

 手応え。否、衝撃は最終的に背が受けたのだ。

 正確には()応えが、身体に凝固するようだった。

 

(何か、聞こえた)

 

 聴覚が戻る。こめかみを一定の高音が貫いている。

 その合間に誰かの怒声が途切れ途切れに聞こえた。

 それに連動して、目前の鬼気迫る表情が猛る。

 この声の主がボガートだと遅まきながら知るが、まるで膜一枚隔てた外で吠えられているようだった。

 

「……何──何でッ(・・・)……笑って(・・・) ──がるッ(・・・)……!」

「えぁ……?」

 

 触覚が戻る。口元に張りついた感覚がわかる。

 きっとソルは憧れの熱に浮かされていたのだろう。

 隠しきれない高揚感が口の端に登っていたのだ。

 だが、それに対する反応にひとつの確信をもった。

 これまでの観察から浮かび上がった疑念を呟く。

 のう、ラムホルト殿、ぬしは最初から何を──と。

 

「なに、を……おそれ、ておる」

「────」

 

 その言葉の答えは、間断なく見舞われる必殺。

 巨大な図体から繰り出される、熾烈な剣撃だ。

 斬撃、斬撃の嵐。まるで滝の奔流を剣で受け続けるかのようだった。幼女はこの暴威に抗える力を有していない。威力たるや、背後の地面が一撃一撃ごとに凹むほどだ。着実に体力と精神力をこそぎ落とされる。

 ソルの矮躯は悲鳴を上げる。腕が軋む。特に左腕は力が上手く入らない。肩が異音を発す。背骨が砕けてしまうのではないか。食い縛った歯の隙間から苦鳴が漏れる。一振りごとに身体が壊されていく音がする。

 剣を盾代わりに防ぎ続けるにも、限度がある。

 だから、いま打開策を言葉として撃ち込む。

 

「なぁ、え……じゃぁ」

 

 舌が回らない。言語になり損ねた呻吟が漏れる。

 それでも、ここで撃たねばきっと死一直線だ。

 

「ぁ、ぜ、ラム、ホル──」

 

 だから気を張って、言の葉を精一杯紡いでいく。

 剣士問答。戦闘は武力以外が物を言う場合がある。

 戦場とは規定がない総合力で争う舞台だと、誰よりもソルフォート・エヌマは知っている。

 

「な、ぜ……ラムホルトどのは、ここに……きた」

「……どういう意味だ、そりゃァ」

 

 それには、思わずという響きで問い返された。

 

(興味は引けた……が、どう隙をつくるか。わしに見て取れたラムホルト殿の人間性と行動原理から、彼の立ち振る舞いに隙間を抉じ開ける。その示唆は、きっと出揃っておるはずじゃ)

 

 推測する糸口は、幻想世界での問答にあった。

 ウェルストヴェイルは言っていた。曰く「ボガートたちの最初の目的は『人類最強』の打倒。あるいはその看板に泥をつけること」。だが蓋を開けてみれば、その目的は果たされていない。打倒計画から一転、現在のようにバラボア砦強襲に至っている。彼女も「結局、それは叶わなかったんだがね」と呟いていた。

 では、叶わなかった理由、頓挫の原因とは何だ。

 

(ラムホルト殿は、何を考えておるのか)

 

 強襲部隊が『人類最強』に敗北したからだろうか。

 否だ。彼女から命からがら逃げたにしては彼らに傷がなさすぎる。そして幻想世界も攻略されていなかったことを鑑みれば、自ずと答えが見えてくる。きっと強襲部隊は、つまりボガートは、だがそれは──。

 導き出した答えが信じきれず、口に出してしまう。

 

「なぜ、『人類最強』と、戦わなかった……?」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──だから俺は結局、選ばなかった。

 

 古ぼけた記憶だ。褪せた頁を捲る音がする。

 男は、老爺が死したあと路地裏から出ていった。

 向かった先は王国兵の門戸。男は人生の指標を失ってしまったがゆえに、生前の老爺が語っていた未来をなぞることにしたのだ。否、ことにした(・・・・・)とは語弊がある。なぜなら、それ以外の道に進む発想すら浮かばなかった。単なる惰性だった。高きから低きに水が流れるように、確固たる意志もなく進んだ道にすぎない。

 しかし、闇夜の灯火とはよく言った慣用句である。

 そこで出会ったのが『最後の騎士』と呼ばれる男。

 人生で最も尊敬し、誰よりも惹かれた人物だった。

 

『諸君らは王国の剣である』

 

 彼は、テーリッヒ・ガルディという名だった。

 王国軍の教官として壇上に立つ姿は、輝いていた。

 

『世の名工曰く、片刃の剣の美とは斯くあるべき人間性を表している故という。わずかに湾曲した刃のように胸を張り、峰のごとく背をそびやかにせよ』

 

 ──王国の伝統的な剣の有り様が、在り方を示す。

 ──その在り方のみが王国兵の資格である。

 交流を深めるなかで惹かれたのは、彼の生き方だ。

 常に王国の剣となり鎧となること。民草の強き守護者であり、戦士の良き理解者であること。厳格さと誠実さを忘れずに携え、騎士の階級が消えた王国で、俗に言う騎士道精神とやらに則って生きること。誰が見ても立派な人間だったが、ひどく不器用にも思えた。

 子供の頃に憧れた姿を追って、いまも続けている。

 年嵩の男のはずが、なぜか誰より少年らしかった。

 

『俺に、アンタの夢を叶える手伝いをさせてくれ』

 

 そう口に出す間際に過ったのは、老爺の顔だ。

 街の暗がりに沈んだ路地裏。そこに住んでいた老爺の、羽根が捥がれる以前の夢の輪郭を想像することは容易い。いの一番に出た騎士団という言葉。男が「路地裏から出るときは爺さんも連れていく」と言ったときの皺だらけの微笑みは、誰より少年らしかった。

 だから一際、テーリッヒを特別視させたのだろう。

 

(きっと、爺さんも子供の頃は騎士に憧れてたんだ)

 

 それからは、彼の夢を叶える仲間集めに奔走した。

 流石に大男ひとりで叶えるには荷が勝ちすぎる。

 だから、騎士に惹かれた者たちを仲間に加え──。

 最終的にはテーリッヒの薫陶を得た『騎士団』とも自称できるほどの一派を形成した。

 

『まァ騎士団というにはならず者ばかりだがなァ』

『なに、王国の騎士団というものに生まれは関係ないのである。現存する騎士団……帝国騎士団はそれこそ血統主義が抜けないようであるが、ラプテノンは最初から異なる。港町が元となった土地柄、国の要職に海向こうの民が入った事例まで存在しているのだ』

『生まれる場所は選べねェが、生き方は選べる、か』

『もちろんある程度、豊かな者の物言いであるが』

 

 ──ゆえに『選択』とは重い意味を持つのである。

 その場において唯一の貴族階級だった彼は言った。

 貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)と同質の考え方なのだろう。豊かさを持つ者は責任を負う。選ぶ自由があるということは、それだけ恵まれていることで、それだけ幸せなことで、恵まれない者が大勢いるから、義務が生じるのだ。

 そのとき老爺を思い出し、深く頷いたものだった。

 持てる者には、等しく選ぶ権利と義務がある。

 持てない者、持てなくなった者の代わりに──。

 喩え話にしては直接的な形容を魔剣(ウェルストヴェイル)から聞いていた。

 

『いいかい? 我が主。ボクと貴方には、貴方の敬愛している大尉殿の言う権利と義務がある。ボクたちは謂わば、物語の登場人物の幕引きを悲劇から喜劇に塗り替えているようなものだ。それまでの歩みを否定して、けれどその労力だけは肯定して、流れを無視して表彰する。貴方はその傲慢さに戸惑っているようだけれど、その躊躇いも傲慢の範疇にあるんだよ』

『……あァ』

『この行為を赦すのは共犯者のボクと、貴方自身だ』

『わかってンだよ、そんなこと』

 

 ──ボクは貴方の描き直す結末の筆なんだ。

 ──傲慢に、自分勝手に、心向くままに、誰かの人生に花束をあげることがボクたちの使命だ。

 

『めでたしめでたし。誰かの人生をそう閉じることができる権利と義務、それを忘れないでくれよ』

 

 物語の登場人物(テーリッヒや老爺)より読者(ボガートとウェルストヴェイル)には余裕がある。

 誰かの人生に第三者として立ち会っているゆえに、それだけ同情してしまうし、想いを汲んでしまう。

 

『だから俺が、俺たちがアンタを騎士にするンだァ』

 

 それはきっと、あの老爺に叶えられない夢を──。

 代わりに、テーリッヒに叶えて欲しかったからだ。

 彼らの人生を遠巻きに眺めていたから「報われて欲しい」なんて思いに駆られるのだろう。本人たちに知られれば、迷惑千万と煙たがられること必至の、願望の押しつけだ。第三者による自己満足にすぎない。

 それでも間違っていないと、その男は思っていた。

 そうして月日は流れ、ひとつの分岐点が訪れた。

 テーリッヒが退役する最後の仕事である。

 

『なァに? 帝国の『人類最強』を倒すだァ?』

『ああ。上層部からの打診である。私の最後の大仕事ということだ。私とボガート、他の隊員は未定だそうだが、かの大英雄の討伐部隊を結成するようであるようで、その頭領としてボガート。貴様を推薦した』

『……はァ? 何で俺を、大尉じゃねェのか』

『この大仕事は手に余る。私では成し遂げられない。此度の任務の要は、貴様の持つ魔剣と貴様の腕にかかっているのである。つまりは権利と義務が発生する』

 

 ──私の夢は、貴様に託すことになるのであろう。

 その言葉に、男は舌打ちを漏らしてしまった。

 

(また爺さんと同じようなことを……いや、違ェ。考え直せ。コイツは大尉の夢を叶えるには絶好の機会だろォ。どうやら大尉は有終の美を飾ることとして見ているようだが、退任間際に滑り込みで叶えられるかもしれねェ。最高の結末に、できるかもしれねェ)

 

 ──彼の最後の大仕事で騎士を復活させること。

 その最高の結末への導線を見つけ、笑みが溢れた。

 テーリッヒの夢を叶えるにはうってつけの機会だ。

 帝国の大英雄の頂点、六翼。その一翼にして『人類最強』の名を軽はずみに背負った女。その打倒を成し遂げられれば、間違いなく大陸中の国家間の関係性が激変する。それだけの大功を上げれば、王国上層部も無視できず、騎士の名だけでも復興させられるかもしれない。後日、その希望も確約にまで至った。

 これは彼を驚かせるために秘していたことだった。

 

(正式に『騎士』と『騎士団』が王国に復活する)

 

 男は、万に一つも失敗を想像していなかった。

 他の隊員は彼らの仲間たちに決定していたし──。

 右手の『幾千夜幻想』を一瞥して、確信していた。

 

(この夢は、叶う。叶える。大尉は報われるんだ)

 

 そして任務決行日、目標の大英雄を初めて見た。

 六翼の一翼『人類最強』アイリーン・デルフォル。

 そう、見た。遥か遠目に見ただけだったのだ。

 されど、それだけで言葉が出なくなった。

 震えた。慄然と、ただ、動けなくなったのだ。

 

(死、ぬ)

 

 動けないまでの恐怖を覚えたのは、初めてだった。

 無意識下に後退っていた。路地裏で磨かれた本能的な嗅覚が嗅ぎ取る。第六感が警鐘をけたたましく鳴らす。それはきっと神への忌諱に似ていた。大いなる存在に対する、怯懦の念に打たれてしまったのだ。

 周囲の顔を見回した。自身含め、皆は剽悍な面差しを強ばらせていた。顔色を蒼白に染めて、それが緋色に重ね塗りされて、どこか悲壮な印象を与えていた。

 頭を過ったのは、またしても老爺の最期だった。

 

(あれが、俺たちの辿る未来として想像できた)

 

 もしもこのまま、足を止めなければどうなるか。

 あの黄金の光に向かった場合、死──報われない『おしまい』を迎えるのではないか。否、むしろあの光に近づけば必ず迎えてしまう未来なのではないか。

 夢が叶うことも、手酷く裏切られることもない。

 そんな未来を、残酷にも確信してしまった。

 

『退却だァ』

『ッ、ボガート……』

『退却する。計画は、変更だ』

 

 そして、彼は言い訳めいた本心を胸の内に留める。

 ──俺は結局、選ばなかった。選べなかった。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

(なぜ、『人類最強』と戦わなかった、だとォ?)

 

 ボガート・ラムホルトは幼女を見下ろす。

 忌々しさに眉宇をひそめて、両腕に力を込める。

 あのとき、地の果てに認めた黄金の光を思い出す。

 

(何も知らねェ餓鬼にはわかるはずもねェ。あの脅威を目にした絶望感なんて、人生で味わったこともねェだろう。ウェルストヴェイルを打破できるくれェに薄っぺらな人生を歩んできた、手前ェなんかに──!)

 

 対峙できる。そう思えた時点で人間ではないのだ。

 少なくとも人間という動物とは異なる。視認した瞬間には、種の本能が身体を縛するのだ。近寄ってはならない。絶対に敵わない。かの『人類最強』は謂わば人型の竜なのだ。その口腔の挟まりに行く選択肢は、死を忌避する思考を擁している生物ならば選べない。

 選べるのなら、それは生物として狂っているのだ。

 

(そんなもの、生物なんて名乗っちゃいけねェ。生きるために生きねェ。生存本能という理から外れ──人間とは異なる行動原理で駆動している『何か』だ)

 

 ──何がわかる。数えるほどしか生きてねェ奴に。

 

「何がわかるッてんだァァ──!!」

 

 もはやボガートの理性の箍は外れてしまった。

 瞋恚の焔は内心で猛り、視界を濛々と歪めてゆく。

 目前には仰向けの幼女がいる。血塗れの髪は黒々とした赤髪のようだった。双眸には黄昏時の稲穂の輝きを融かしたような色が満ちている。その黄金を、かの『人類最強』の色に見立てて、魔剣を振り下ろす。倒れたままの彼女は精一杯、刃を盾にして防いでいた。

 どこからか異音と、わずかな苦鳴が漏らしている。

 

(簡単には終わらせてやらねェよ)

 

 行使するは己の肉体のみ。魔力の類いは使わない。

 本来、無駄遣いするつもりもない。このあと砦攻略を行うために温存したいからだが、他にもある。

 ボガートには砦を陥落させたあと、自らの炎で為すべきことがあるのだ。

 

(やられちまったヤツらは……討ち取られちまったガルディ大尉と騎士団は、葬ってやらねェと。こんな、クソみてェな場所に縛りつけておくわけにはいかねェんだ。せめて俺の炎で、俺の手で、送る)

 

 そして、弔鐘代わりとして聞かせてやるのだ。

 この『黄金』の悲鳴を、呻吟を、断末魔を──。

 

(なァ、爺さん。俺はいつもこんな役回りだ)

 

 ボガートは、いつも誰かの結末を見送ってきた。

 想起するのは、地平線まで見渡せる黄昏時の荒野。

 夕映えが地を灼き、窪みには濃い陰影を落とす。

 足元には線が引かれている。彼が立ち入れないその線の淵に立って、次々と側から離れてゆく背中を見ていた。最初は老爺。薄闇で看取って、それを焼いたときから運命として定められていたのかもしれない。そして『幾千夜幻想』で結末を塗り替えた、数多の同情すべき人々。いまや側にいたはずのテーリッヒの背中も霞み、騎士団の皆も遠くに行ってしまった。

 手を伸ばしても、声を涸らしても、届かない。

 この線はまるで現実と物語とを隔てているようだ。

 

(俺は、いつも残る側だった)

 

 きっと理解者(ウェルストヴェイル)は「当然だよ」と笑うに違いない。

 誰かの物語を追う読者は、最後の頁を捲ったあと現実に取り残される。それまで隣にいるようにすら思えた登場人物たちは、幻のように搔き消える。そんな虚しさに似た感情の残骸は、潮の引いた冬の浜辺に点在する貝殻のように置き去りにされてしまう。

 そう。思えば、産まれ落ちたときからそうだった。

 脳裏に浮かべる。その瞬間を想像してみる。

 きっと二人(りょうしん)は喚く赤子を路地裏に置いて──。

 靴音は段々と遠く、二人の影は段々小さく──。

 

行かないで(・・・・・)

 

 罪悪感と責任感で、いまも口にできない本音を。

 あのとき──言葉にできなかった慟哭を力にする。

 

(俺の前から、いなくならないでくれよ)

 

 眼下から、ひときわ豪快な音が炸裂する。

 ボガートの激情が乗った一撃は会心の出来だった。

 幼女の細い腕は、堪らず不吉な音を鳴らす。轟然とした衝撃が、爪先から脳天まで奔り抜けてゆく様を見て取れる。心底まで震わす振動。それで散り散りになりかけた意識を、必死で掻き集めて形を保っているのだろう。黄金色の輝きはいまだに消えていない。

 だから手を休める暇なく、剣筋を幾度となく描く。

 

「消えろッ! 俺の前から、消えろッッ!」

 

 そのときだ──それ(・・)は、空から齎された。

 

「『黄金』がァァァッッ!」

「ちっ──くしょうがぁぁぁ!!」

 

 第三者の悪態が、幼女の処刑に水を差した。

 ボガートは脊髄反射的に、魔剣を頭上に掲げる。

 一瞬の間を置き、盛大に響き渡るは一重の金属音。

 ボガートの振り上げた鋼鉄は、空からの襲撃者の剣撃を難なく防いだ。襲撃者は弾かれるままに、そこから飛び退いた。と言うよりは、吹き飛ばされたと表現するほうが正しいのだろう。遠くの地面を転がる。

 彼は、砦壁の上から飛び降りてきたようだった。

 腕に迸る衝撃と負荷に堪え切れず、痛みに悲鳴を上げていた。

 

「ここは、腰抜け野郎の居場所じゃねェ」

 

 ボガートは振り向き、その男に視線を注ぐ。

 顔を必死に歪ませ、足を震わせつつも、立つ青年。

 足元から、かすかな、ひびわれた声が聞こえる。

 

「……ナッド」

 

 



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15 『踏み出した一歩』

(ちくしょう、俺は、なんで……)

 

 ナッド・ハルトは、恨み言を内心で吐露した。

 もう何度目になるだろうか。ぐるぐると脳内を巡る感情の矛先は、運命や特定の第三者ではない。己自身だ。できることなら、鏡写しの自分を殴りつけてやりたかった。そうやって割れた鏡の破片が拳に突き刺されば、どれだけ胸がすくことだろう。痛みで麻痺させれば、臆面もなく顔を上げていられるのだろうか。

 喉が震える。絞り出すように喉奥から息が漏れる。

 頭を支配していた熱が、段々と冷めてゆく。

 思考の焦点は、否応なく現実に合ってくる。

 

「教えてくれよ。なァ」

 

 ずず、と大地の奥底から這い出るような声を聞く。

 怖気が、足元から急速に立ち昇り、心の臓を掴む。

 ここには、何の変哲もない新兵がいるだけだ。

 剣一振りを手にした、取るに足らぬ男が一人。

 

「なんで手前ェは、この大地を踏んでいる?」

 

 視界正面には、巨大な『英雄』が聳え立っている。

 巌、あるいは山脈を重ね見てしまうほどの巨躯。

 金の鬣は猛々しい。その仄かな輝きに圧倒される。

 

(そんなこと、俺が知りてぇよ……)

 

 ボガート・ラムホルト。自分とは格の違う相手だ。

 彼の周囲を取り巻く圧迫、圧迫、圧迫、圧迫──。

 同じ大地に立っているだけで、膝が震え出した。

 

(なんで、俺……こんな場所に立ってんだ……?)

 

 絶望の具現化。絶対の象徴。それが英雄だ。

 知っている。人間ならば誰だって知っている。その姿を視界に収めただけで、心胆から震え上がってしまう存在は──きっと誰しも出会うことになる。それが単純に個人を指すか、死という概念を指すかは人によるのだろう。ナッドの場合は、英雄がそれだった。

 畢竟、死を間近に突きつけられて平静を保てるか?

 少なくとも彼は保てなかった。この頭と胸に残る、闘志や勇気と呼べるかも怪しい熱が、吹き曝しの蝋燭の火のように感じられてしまった。一秒前には確かに思えていた灯が、頼りなく、千々に散じてしまうようだ。自分の荒い呼吸で吹き消してしまいかねない。

 ボガートは、掲げていた巨剣を緩慢に下ろした。

 そうして俯いたかと思えば、唐突に呟いた。

 

「……雑魚を相手する気分じゃねェ。見逃してやる」

 

 ──三秒だ。三秒の間に消えなァ。

 ナッドを、取るに足らない相手と認識したらしい。

 認識した上で、一切の興味を失ったように見える。

 あの捕食者の瞳は、確かに怯えを見透かしていた。

 大したことではない。震えた手足。定まらない剣の構え。異様に少ない瞬きの回数。額に張りつく脂汗。かたかたと鳴る歯。息の浅さ。あの忌々しい幼女の口が利けたならば「誰が見ても怯えておることは見て取れよう」と、そう指摘していたかもしれない。

 反論の余地もなかった。強大な敵の膝元に飛び込んだはいいが、いまだ怯懦の念と恐怖感が後ろ髪を引っ張っている。何たる中途半端。何たる心身齟齬。気持ちに先走って、人生最大の愚を犯してしまった。

 否、いまはまだ取り返せる。三秒間の猶予がある。

 ナッドの軽挙は、英雄の気紛れに救われたのだ。

 

「聞こえてンのかァ? 三」

 

 ナッドは無意識下に後退っていた。

 似た感覚に覚えがあった。士官学校でまるで敵わなかった『本物』。産まれ持った体内魔力量が桁違いの怪物と対峙したときと似ている。同等ではない。いま真正面から受ける圧力のほうが、明らかに熾烈だ。

 ただこの場にいるだけで嘔気を催し、眩暈が襲う。

 

「二」

 

 これまでのあらましが、走馬燈のように蘇る。

 重装騎士を討ち取った幼女を裏庭に運んで──。

 そのまま息を潜めていたところ、突如として強襲部隊の頭領に狙われた。危うく命を落としかけたが、幼女の横槍で間一髪助かった。彼女に促されるまま、尻に帆をかけて逃げ出した。罪悪感は覚えなかった。

 あの幼女はナッドを遥かに凌ぐ実力を持っている。

 優れた天稟の持ち主に場を任せて、何が悪いのか。

 自分は所詮、人の身。人の形をした怪物に非ず。

 ──あのとき、俺は正しい選択をしたんだ……!

 

「一」

 

 ただ、心のどこかで無様だと思った。

 己のちっぽけな自尊心が痛んだのだ。年端もいかない幼女に怪物の相手をさせて、その隙に大の大人が戦線離脱を図る。それだけに留まらず、いまのように己を許すための言い訳を紡ぎながら、矜持には決して罅が入らないように誤魔化した。付き纏う自嘲を振り払うように走った理由は、極々単純なものだった。

 生物ならば、誰しもが持って然るべき生存本能。

 彼はあのとき、死にたくない一心だったのである。

 

「……零」

 

 ──でも、ここに戻ってきちまった。

 ボガートは俯いていた顔を上げる。無表情だった。

 それでもナッドの足は動かない。本能的な恐怖という名の杭が両脚の甲を穿ち、縫い止めていたのか。違う。ひどく慨嘆に似た感情が絡みついていたのだ。幼女に促されるまま逃げ出したときも、そうだった。

 だから、あのとき爪先の方向を変えてしまった。

 門ではなく、砦壁の階段に向けてしまったのだ。

 そうして、砦壁の上から幼女の死闘を眺めていた。

 この身が無謀にも、裏庭に飛び込んでしまうまで。

 

「折角の好機を、踏みつけにしたなァ」

「……ッ! 俺は」

「わざわざ、俺の手をよォ」

 

 獰悪な出立ちの男は、その場から一歩も動かない。

 巨剣を掲げて、鋼を青褪めた月光に浸している。

 ナッドはそんな、英雄譚の一幕の彫像として切り取られかねない剛勇鬼神たる光景から目が離せない。身体が硬直していた。理性と本能の両面が警鐘を鳴らしている。それでも足裏に力を入れた。口腔に溜まった唾液を飲み込み、腹底に重心を沈めてゆく。

 声にならない弱音の未熟児を、ようやく噛み殺す。

 支給品の剣の柄を握り締めて、震える息を吐いた。

 

「煩わせんじゃねェぞ」

 

 無慈悲一閃。銀色の光が宵闇を横切った。

 ボガートは左脚を軸に、袈裟懸けに斬り下ろす。

 ゆえに、剣閃の行き先は仰向けの幼女(・・・・・・)だった。

 身構えていたナッドは、ただ目を剥いた。

 てっきり、自分が狙われると思っていたのに──。

 

「な……ッ!? お前……!」

「相手する気分じゃねェって言ったはずだ」

 

 酷薄な言葉の切れ目に、弱々しい呻きが混じる。

 そうして繰り出される圧巻の連続剣撃。ボガートは仰向けの幼女に容赦のない剣閃を浴びせ続ける。風を唸らせ、砂を舞わせ、木々を揺さぶる。四方を壁に区切られた裏庭には嵐が荒れ狂った。あくまで余波でしかない風圧の強さに、ナッドは片腕で目を守る。

 幼女は依然、この渦中で防御を続けられていた。

 だが、それもいつまで保つか。傍から見ていて連想したのは、木製の椅子だった。じっくりと体重をかけられていく、古びた椅子だ。じきに軋みを上げ、限界を迎えるときには断末魔めいた破壊音が鳴る……。

 ここに来て、ナッドは切歯扼腕を余儀なくされた。

 

(俺は、見るまでもねぇってか……!?)

 

 ボガートは非情にも、妥当な判断を下したのだ。

 こんな矮小な存在を意識下に収める必要などない。

 その証拠に、ナッドが目前に突きつけている剣先が揺れていた。振動していた。そこから剣身を辿って手元に視線を落とす。柄を固く握った両手が、震えていた。それを意識した途端、身体が一斉に震え出す。

 自分で蒔いた種が芽吹き始めたのだ。いままで、真剣を用いた戦いを避け続けてきたツケだ。緊張感のある舞台で本領を発揮できない──そんな心的外傷に巣食った恐怖という蟒蛇により、身体を纏綿される。

 これでは、もはや戦う前から敗着している。

 英雄は、無用心にも背中を晒しているというのに。

 

「はあ……はあー……」

 

 ナッドの存在を軽視するその姿には、覚えがある。

 忘れもしない。無情なまでの父の背中だった。

 

(ふざけ、てんじゃねぇ)

 

 研いだ刃物のような反骨心が鎌首をもたげる。

 思い返すのは白黒の映像だ。幾度となく士官学校の寮の天井に思い描いた記憶。次期後継者指名の日。立ち並んだ兄弟姉妹。選ばれた者の名を呼ぶ父の声。品のある口髭を蓄えた口元。三歳年下の喜ぶ妹の声。

 そうして、向けられた広い背中を──思い出す。

 すると、澎湃たる怒涛として無力感が押し寄せる。

 才能不足。力量不足。生まれながらの才覚・適性に恵まれなければ、望んだ道を選べない現実。惰性と現実逃避の末に辿り着いた士官学校にも、確たる居場所が築けなかった鬱屈。結局、自分の適した何かを見つけられず、こうして不適格の極みに落ちてきた。

 適していない証拠が、震えとして表出している。

 

(ナメ、やがって。ナメやがって……!)

 

 そのとき、ナッドが踏み出せた理由はひとつ。

 己が鬱懐を散ずるために他ならない。心理的には急峻な懸崖にすら錯覚していたが、その恐怖心よりも怨嗟の念が一瞬だけ勝った。ひと泡吹かせてやる。砂を食み、首の背が痛くなるほど見上げてきた存在に対する激発で、弾かれるように身体が動いたのである。

 これはきっと、彼にとって理不尽(げんじつ)への復讐だった。

 

(やってやるぞ、ちくしょうがッ!)

 

 ──俺を、視界から外したことを後悔させてやる。

 その一心で剣を握り直しながら、距離を詰めた。

 視界の中央には、甲冑に覆われた巨躯を据える。脚部が一部破損していることを目に認め、そこを狙う腹積りだった。ナッドの得意な戦闘方法は、近距離から強烈な攻撃を加えるもの。渾身の斬撃を無防備な箇所に見舞えば、さしもの英雄もただでは済むまい。

 目標まで残り三歩、二歩、そして、あと──。

 

「ナッド」

 

 ふと、直情的に駆動する足に迷いが生じた。

 舌の足らない声色で、名を呼ばれた気がしたのだ。

 剣戟の響きに紛れた小声か、あるいは幻聴か。

 その瞬間、屈辱の模擬戦時の説教の一節が浮かぶ。

 

(ま、ず……!)

 

 ──『はったりを逆手にとられたことに気づかぬ』

 ──『見破られて利用されれば』

 ──『此度のごとく致命的な隙を作ることになる』

 

(いま、何で思い出した……!?)

 

 余計な思考が、筋肉の弛緩に遅れを生んだ。

 なんて愚かな逡巡だろう。刹那に自己嫌悪が脳内を流れる。拙速から速度を奪われれば、残るのは拙さだけだ。その結果的な速度たるや、火に近寄る夏の虫も斯くや。ここは退くべきと咄嗟に判断する。折角の勝機を溝に捨てることになるが、無理は禁物だろう。

 爪先を跳ね上げて踵で着地して、己の勢いを削ぐ。

 

「寸でで、かァ」

 

 瞬間、ナッドの鼻先で煌めく一閃が過った。

 脈絡のなさに硬直した。思考が白紙に変わる。

 驚愕の声を上げようにも喉が凍りついて動かない。

 鼻先から血が滲み出て、赤い珠をつくった。

 

「な……ぁ、あ?」

 

 ナッドは呆けた顔で、ようやく気づいた。

 いま自分は、模擬戦の二の轍を踏みかけたのだ。

 歯牙にもかけられず、業を煮やして勝機に逸った。

 ボガートはそれを逆手に取って、あからさまに隙を見せた。愚者を死地に誘い込もうとしたのだ。策と呼ぶにも躊躇われる単純な手である。それに乗りかけた己の安易さに、血が頭部にまで昇った。もっとも、現実として顔面から血の気は失せているのだが、ここに至っては鏡に頭突きでもしたい気分にもなった。

 ばくばく、心臓が暴れ出す。まるで体内の狭きに堪えかねたようにも思えた。否、命が(ナッド)の愚かさに呆れ果てて、身体から逃亡を図っているとも取れる。

 苦心して胸部を抑えつけながら、思考を回す。

 

(俺は馬鹿か!? 普通ならこんな手なんか食わねぇってのに……いや、クソ、焦らせたのも計算づくってことかよ。ああも無関心を装ったのも、……!)

 

 ナッドの軽挙妄動を掣肘したのは、幼女の台詞。

 あの癇に障る、妙に上から目線の説教。自尊心を守るために頑として聞かなかった言葉たちは、確かに紙一重で彼を救った。いまや形振り構っていられず、記憶の棚をひっくり返す。他に何と言っていたか。溺れた者が藁にすら縋るように、ナッドは一度目の成功をなぞり、厭忌の対象であった彼女のことを思い出す。

 ──『なかなかに美味じゃのう』。違う。

 ──『手の震えは言語道断じゃ』。違う。

 ──『わしの名前はソル。姓はない』。違う。

 ボガートからは目を離さず、役立つ言葉を探す。

 額が汗ばみ、知らず、目元には不必要に力が籠る。

 ──『足技を失念しているのも痛い点じゃな』。

 

「なァ、臆病者」

 

 脳裏に蘇った声に釣られて、下方を意識する。

 焦点を上半身から下半身に変えた瞬間だった。

 脚の輪郭がブレた。否、大きさを増した(・・・・・・・)

 忽焉として、英雄は一歩だけ踏み込んだのである。

 ただそれだけで、彼我の距離は消え去った。

 

「なあっ……!?」

 

 下方を映していた視界に、剛速の右膝が迫る。

 地面から隆起するような一撃。もろに喰らえば顎がひしゃげ、頭蓋骨ごと凹ませるだろうこの必殺に、ナッドは必死の抵抗を見せる。咄嗟の判断で、左腕の籠手を盾に変えた。上出来な反応と自画自賛したい。

 接触の瞬間、耳管から音が一目散に逃げる。

 最後に残った音は、嫌に響くような骨の軋みだ。

 

「が……ぁっ!?」

 

 左腕とともに、身体ごと宙へと放り出される。

 腕を支えた顎にまで衝撃は伝播。頭中で幾十もの音波が痛みを乗せ、互いに共鳴する。思考が飛んで『痛い』という原始的な感覚が脳内を占拠した。そうして視界には、心底から恐怖心を煽る光景が映った。

 その英雄の相貌からは平坦にすぎる感情が窺えた。

 

「手前ェは、何でここに出て来たンだァ?」

 

 空中で繰り出されたのは、単なる蹴りだった。

 如何なる魔術も付与されていない純粋な暴力。

 ナッドは横合いから炸裂するそれを、また奇跡的に左の籠手で防ぐことに成功する。再び受け止めた攻撃は、生半可な威力ではなかった。声すらも出ない。

 腕を起点にして身体を痛撃が貫く。胴体にまで地割れめいた衝撃が奔り、余波だけで身体を折る。いまは地に足が付いていないため、踏み止まれない。

 紙のように吹き飛ぶ。そこで士官学校での訓練が実を結んだ。墜落する間際、辛うじて受け身を取ることに成功する。頭は動転していたが身体が覚えていた。

 だから、大地との衝突による衝撃は抑えられた。

 

「ごっ……!?」

 

 ──最小限に抑えられた、はずなのに。

 ナッドは地べたに顔面をつけながら、呻いた。

 到底、鎧越しに受けたと思えぬ衝撃に愕然とした。

 

「は、ははは」

 

 空気が、口から断続的に漏れ出した。

 音が出ないまま、からっぽに笑っていた。

 笑っている? 違う。震えが止まらないだけだ。

 力なく小刻みに上下する視界で、遅れて気づいた。

 二度、英雄の蹴りを受け止めた左腕が──。

 籠手ごと、ひしゃげたように潰れている事実──。

 

「は、は……あ、あ、がぁぁぁぁ!?」

 

 突破的に解放された痛痒が、音として発散される。

 精神の喫水線は、一気に船体を越えてしまった。

 ナッドは猛り狂う苦痛の海中に沈没する。

 視界のすべてが溢れる涙で滲み、輪郭が溶ける。

 毛穴から汗が噴き出る。連れ立つ感覚は、さながら肌身を無数の針で刺されるかのようだ。これほどの痛みは生まれて初めてだ。灼熱が尾をうねらせて、左腕から身体を駆け回る。そして彼は、生命の燃料たる血液が煮え滾るように熱いことを、初めて知った。

 この激痛は、蹴りを受けた一瞬に浴びたものだ。圧縮されたそれを、いままで脳内麻薬のおかげで拒めていた。だが視覚として捉えた結果、認識が追いついてしまった。遅れ馳せながら本来の激痛が奔ったのだ。

 精神的な衝撃と、物理的な重傷にのた打ち回る。

 

「ああああ──ッ!?」

 

 衝動のままに悲鳴を上げ、獣めいた唸りも混じる。

 右腕で左腕を抑える。絡ませると言ったほうがいいか。兎角、痛覚を紛らわすための努力の一環だ。激痛の波浪の隨、悶絶し続けるよりはいいはず。そんな脆い幻想は、体感時間が伸びてゆく苦痛の只中、指先で突いた砂糖菓子のように崩れていってしまう。

 己を騙すことは得意なはずが、上手くいかない。

 如何なる現実逃避の空想も気休めにならない。手や額に張りついた砂粒で、ここが戦場だと否応なく気づかされてしまう。『現実』の前では、如何に自分が無力か。歯向かうことが無意味か、教えられる。

 時間を経ると、精神が冷静さの一端を取り戻す。

 だが取り戻せば、之繞を掛けて袋小路に入り混む。

 

(もう、駄目だ。俺は、もう……!)

 

 右手に握っていた剣も、真っ先に手離していた。

 もう、この手に剣など持っていられるものか。

 

「なァ、臆病者。手前ェみてェのは舞台に上がる資格なんざねェンだよ。それは分かってたンだろォ? だから最初、手前ェは逃げ出した。壁の上から遠巻きに眺めることにした。そこまで思考の筋が通っている」

 

 あの英雄から窓一枚越しに話しかけられている。

 蹲るナッドの認識はそうだった。己の荒い息遣いが聴覚の大部分を占拠しているせいなのか、鼓膜が破れた影響なのか、そもそも破れていないのかすら定かではない。定かではないが、遠きに声を聞いた。

 ──なァ、もう一度聞いてもいいかァ。

 

「手前ェは、何でここに出て来たンだァ?」

 

 そのとき涙が絞り出され、眦から縷々と伝う。

 ナッドはそんな沢の流れに沿うように痛みの峠を下りつつ、嗚咽を噛み殺した。ここに来た理由なぞ、そんなこと彼にもわからなかった。戦場(ここ)に、幼女を助け(ここ)に来た理由なぞ、もはや存在しないほうが納得できるのだ。事実、前者は惰性である。実家から逃げるように士官学校に進んで、そのあと流れるまま砦に来た。

 しかし、後者は明らかに違う。遠巻きに見るだけに留めていればよかったものの、突き動かされるように飛び出して、勝算のない土俵に上がり込んでいる。どれだけ考えても、理性的な思考から答えは導けない。

 ゆえに彼は、己を呪い、嘲るしかなかった。

 なんて間抜け。なんて愚か者。すべてが台無しだ。

 

(何も、学んじゃいねぇ)

 

 二十年という人生で一端を掴んだこの世の真理。

 それが『世の中、才能が絶対』ということだ。

 人と人の間には、努力で埋めがたい差が存在する。

 当然の話、どうしても敵わない相手はいるのだ。井の中の蛙は大海を知り、己の領分を知る。ナッドの場合は士官学校。いずれ帝国の雄として名を馳せるであろう、天に愛された怪物たちを前にして知った。彼らを母数に入れて己を評価した際、そのあまりの隔絶ぶりに諦めることを覚えた。覚えざるを得なかった。

 思えば、次期当主の座を奪われたときから──。

 

(だからさぁ、どうやっても敵わねぇ奴がいるのは当たり前で、この英雄(ボガート)もそのうちの一人で、そういう奴とは戦わないことが最善で、もし当たっちまったら『運が悪かった』って、それだけなんだって……)

 

 だからあの幼女は、きっと頭の螺子が飛んでいる。

 もしくは、この絶対的な世の摂理を知らないのだ。

 正気ではないから。人生経験が浅いから──。

 だから、ああも我武者羅に立ち向かえていたのだ。

 

(あんなのに感化されて、馬鹿か俺は)

 

 脳裏に蘇るのは、裏庭に飛び出す直前までの記憶。

 幼女と英雄の鎬の削りあい。文字通り高みの見物を決めていたナッドには、両者の力量差が手に取るようにわかった。片や暴威の化身、片や小細工を弄するばかりの狂人。勝算はないに等しく、虐殺にしかなるまいと多寡を括っていた。事実、途中まで予想通りに戦況は推移した。灼熱の雨を死に体で掻い潜り、一度好機を切り拓くも、無造作に叩き潰されていた。

 遂には巨剣に貫かれて、大地に磔にされたかと思えば、そこから立ち上がり、再び叩き伏せられて──。

 

(馬鹿だ……馬鹿だ、ちくしょう)

 

 巨剣に貫かれたとき、なぜ幼女は立ち上がった?

 あのときボガートは彼女を仕留めた気でいた。あのまま死者の振りをしていれば、あの脅威をやり過ごせたはずだ。わずかでも生に執着を持つのなら、そうするべきだった。そうしないのは馬鹿者だ。社会を賢く渡る術を知らない、蔑視に値する愚か者だ。

 ナッドはそうやって嘲りたい。幼女が暴虎馮河して英雄と矛を交えた無謀を、彼の代わりにその運命を引き受けた偽善を「馬鹿馬鹿しい」「賢くないな」と笑い飛ばしてやりたい。血の滲んだ右手を握り締める。

 噛み合わせた歯に、満身に残る力を込める。

 

(馬鹿だってさあ……そう、思うのにさあ……)

 

 なぜここに来たか。それは問いかけではない。

 ここに来た。それ自体が、彼の答えだった。

 

(あのとき、諦めたくねぇ(・・・・・・)って思っちまったんだ)

 

 瞼を見開き、髪色と同じ瞳で正面を睨みつける。

 そこには偉丈夫、獅子に似た英雄が立っている。

 

「……癪に触る目ェしてンなァ」

 

 ナッドの諦め癖は、昔日の記憶が根源だった。

 初めて挫折を経験した、次期後継者指名の日。

 目前から伸びる道は、茨が乱れる獣道。在りし日の彼は、さほど適性があるとは言えない才能と、精一杯だけが褒めどころの努力を武器に駆け出した。結果的には、父に「資格なし」の烙印を押されてしまい、膝を折り、失意のまま進路を変えざるを得なかった。

 改めて思えば、滑稽な話だ。気づいてしまった。

 なぜ、自分は次期後継者に選ばれなかっただけで膝を折ってしまったのか。

 

(商人が夢なら、別に家を出てもよかった。後ろ盾はなくなるだろうが、ばっさり諦めてしまう理由にはならねぇ。次期後継者が夢でも、足掻けたはずだ。どんな手段でもいい。みんなを認めさせるために、何か行動を起こしてもよかったはずだ。でも、俺があのとき何もせず、全部を諦めてしまったのは……)

 

 きっと商人も跡継ぎも真の望みではなかったのだ。

 答えは簡単だ。なぜ父の背中をよく思い出すのか。

 それは、あの瞬間に深々と心が抉られたからだ。

 

(俺はただあのとき、親父に認められたかったんだ)

 

 父に見切られた衝撃が、胸に響きすぎたのだ。

 だから、あの日ナッドは夢から視線を切った。

 

(それを勘違いして、俺は()を引くようになった)

 

 叶わない夢。適わない道。敵わない相手。

 そんなもの向き合わないことが最善だと思った。

 あの日以降、真面目に打ち込んだ覚えがない。

 身の丈以上に目線を上げることもなくなった。士官学校で遭遇した、決して手の届かない者たちを『特別中の特別』『怪物』と勝手に区分けして、自分とは違う存在なのだと線を引き、心が侵されない領域を作り出した。万事そればかりでは、海の広さどころか、空の青さすらも知ることができない。わかっていた。

 斜に構えて、世の中こんなものだと嘯いて──。

 結局、何者にもなれず、居場所もなくなっていた。

 

(何でもいい。俺のやりたいことを、誰の目線も評価も役回りも気にせず、もしくは気にした上で見返すくらい、俺に……情熱があれば、何か違ったのか?)

 

 ──ずっと俺は、俺を騙してばかりだった。

 今日もまた嘘をついていた。東部魔術房の防衛をせず、重装騎士の亡骸付近に倒れた幼女を担ぎ、人気の少ない裏庭に逃げ込んだ。本当は、そこに詰めていた魔術師たちを助け出したかったにもかかわらず、そこから目を逸らして、ナッドは己の運命を呪い続けた。

 身の丈を越えた願いは浮かんだ端から握り潰す。

 それが二十年で培ってきた彼の生き方だった。

 幼女が横槍を入れたときも、自分に嘘をついた。

 

(ボガート・ラムホルトから俺を助ける理由なんて、何もなかったはずだ。アイツがどれだけ世間知らずでも、疎まれてることに気づいていたはず。でも)

 

 ソルは、当惑するばかりだった彼に言ったのだ。

 ──『肩を並べて戦う仲間の助太刀なのじゃ』。

 息を呑んだ。逡巡した。それでも彼は、見捨てたくなかったにもかかわらず、折角の好機だからと逃げ出した。考えてみれば、ナッドはいつもそうだった。

 ずっと、我が身可愛さで諦めてきた人生だった。

 

(そう、いままで、ずっと……)

 

 背伸びをして、また誰かに失望されないように。

 大きく吹いて、また誰かに影で笑われないように。

 たとえば、分不相応に大きな荷を背負っていると、小石に躓いたり、重量を支える腕が細かったりして、転んでしまうことがある。覚える痛みも有様も、大層派手なものだ。傍目にそれは滑稽で、指差して笑われてしまう。ナッドはそのことをよく知っている。

 どちらの側にも覚えがあるのだ。無知だった少年時代では家で嘲笑を買い、学生時代では無謀な夢を語る者に嘲笑をくれてやった。へらりと笑い、自分の同類と一緒に、各々が負う傷を忘れるための薬に変えた。

 彼が人を笑う理由は、子どもらしい怯えだった。

 

(もう、あの日のように傷つきませんように)

 

 たったそれだけの、小さな祈り。

 自分に対する、自分の失望を厭うた。

 ナッドは別にその考えが間違いとは思わない。

 

(でも、俺はその考えが徹底できていなかったんだ)

 

 自ら引いた線の内側で、結局いつも半端だった。

 なぜ、わざわざ東部魔術房から幼女を運んだ?

 なぜ、運ぶ前に身につけていた(・・・・・・・)火薬を設置した(・・・・・・・)

 帝国軍から渡されていた自爆用のものだ。戦況の天秤が傾き、遂に瀬戸際に立たされた際、窮余の策として諸共を爆破して打開を図る。その任を任されていたのがナッドだった。肌身離さず持つようにと厳命されていた代物だったが、彼は東部魔術房の廊下に点在する枝分かれした通路、その一角に火薬を設置した。

 そして通路を照らす燭台と糸で、細工を仕掛けた。

 東部魔術房内部に侵入せんとすれば、火薬に点火するように──。

 

(中途半端。半端者だ、俺はッ……!)

 

 なぜ、砦から逃げ出さずに壁上で様子を窺った?

 振り絞った声音は、情けないほどに震えていた。

 

「何で……俺がここに出て来たか?」

「あァ。最期に聞いてやらァ」

 

 答えは、偽りきれなかった本心の残滓。

 

「俺が……望んだからだ」

 

 右手で、傍に放り出していた剣を掴み直す。

 もう手放さないように、渾身の力で握る。

 なんて重いのだろう。最初に握った以来の感覚。

 翻って、それが頼もしさだと初めて思えた。

 

「仲間の、助太刀だ」

「そうかァ」

 

 なぜかボガートは、片側の口角をわずかに上げた。

 それは、散り際の華を見るような表情だった。

 

「手前ェは選んだんだなァ」

 

 巨漢は目を伏せて、不意に瞼を閉じた。

 そうして深呼吸すると、再び顔を上げた。

 立ち込める殺気の濃度が増した。剣を握る片腕を水平に広げて、払うような仕草をする。紫光を滾らせた剣が妙色の闇に輝いていた。見上げているだけで、恐怖と同系統を類聚した感情の数々が惹起される。

 眼光に込められる殺気の波に、心が揺らぎかける。

 それでも、ナッドの胸に灯る熱は衰えない。

 認めよう。この熱は、あの命知らずの死闘を見ているうちに灯ったものだ。舞台を区切る線を隔てて、情が動いたものだ。同情とは違う。これは──遠い昔に忘れてきた、憧れという熱ではなかったか。

 轍魚たる弱者の足掻きに手を差し伸べる? 違う。

 ──報われるべき、報われて欲しい、じゃねぇ。

 

(俺がいてもどうにもならねぇ。でも、泥に塗れて砂を食んで血みどろになって、それでも喰らいつく奴を見て……どうしても、隣に立ちたくなった)

 

 それはきっと、飽くなき希求心に満ちていたから。

 恐れを抱く反面、眩さを感じる在り方に思えた。

 

(俺自身に言いたくなった。俺だって、いままで好きで諦め続けてきたわけじゃねぇって。あいつみたいに諦めないこと、できるんだって……証明したくて)

 

 彼は、そうして傍観者の線を踏み越えたのである。

 砕かれ裂けた骨肉の痛みを堪え、勇気を振り絞る。

 ひしゃげた左腕の拳を地面に叩きつけて──。

 勢い込んで、熱のままに猛然と立ち上がる。

 これが反撃の嚆矢となれ。梟盧一擲、勝負に出る。

 

「俺は俺に、もう……嘘はつきたくねぇんだッ!」

 

 押し殺し続けた本音を、渾身の力で張り上げる。

 傷が開くのも構わず、血を撒き散らして叫ぶ。

 

「行きやがれクソ後輩ッ──!」

「……(しか)と、聞き届けたのじゃ。先輩」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 そうして、誰の耳にも届かない小声で答えた。

 幼女の両目は、待ち望んだ好機を捉えていた。

 ボガートが攻撃の手を止め、背を向けている。

 ナッドの鬼気迫る叫びに、意識を割いたのである。

 千載一遇とはこのことだ。彼女は再び動き始める。

 仰向けの状態から慣性を十全に使い、勢い込んで立ち上がった。視界は闇夜の穹窿なら一転、影が落ちた大地に向けられる。ここには地の底で溺れているような残火が端々に見られ、鬼哭啾々たる雰囲気を醸していた。息と気配を殺しながら、一歩を踏み出す。

 痛みはない。重量感が手足の先まで支配していた。

 そのとき、杞憂と思えぬ幻想に囚われてしまう。

 指先で触れられるだけで、身体が瓦解する──。

 全身が、硝子細工のように砕けるのでは──。

 だが、静かに大地を蹴る。前傾姿勢で突き進む。

 古馴染みの剣を、あらん限りの力で抜き放った。

 

(狙いは当然、脚)

 

 額には、正面の空気を破る感覚が吹き抜けてゆく。

 幼躯は低空を馳せ、視界正面に至近の脚を据える。

 

「……!」

 

 英雄の身体が回り、その獰猛な眼光が宙を奔る。

 こちらの剣撃を察知したのだろう。幾度も味わった機敏な反応。ソルの口許からは歯軋りが洩れる。噛み合った歯の向こう側からは、しかし、笑みが滲んでいるのだった。これぞ憧れ焦がれた英雄ではないか。

 ボガートが身を翻すと同時、彼は魔剣を振るう。

 またしても絶妙な間。剣刃が扇状の弧を描いた軌道は、見事に幼女の首元を斬り落とさんとしていた。見れば見るほど惚れ惚れとする。あたかもナッドに一度でも意識を割いたこと自体が、こちらの攻撃を誘うための餌だった──という考えすら過るほどだ。

 幼女には、すべての動作が緩慢に見えていた。

 さながら周囲の時間が粘着性を帯びたようである。

 

「ぬしの、癖は」

 

 ソルは右脚の側面で地を蹴り、身を左に預ける。

 

「反射的に動くとき、精緻極まる剣筋になること」

 

 ──最短・最善の斬撃。ゆえにこそ読みやすい。

 まさしく間一髪で躱す。半秒前には首があった位置に紫光の線が引かれる。剣筋が白尾を乱す。ソルは一瞥もせずして斬撃を繰り出した。ボガートは魔剣を振り抜いたため、開いた脇に隙が生じているのだ。

 直撃。金属音。手応え。手のひらに痺れが走る。

 斬り上げる一撃は、鮮やかに英雄の右脇を打つ。

 

「【地に、散り、敷き】……」

 

 その瞬間に、吐血混じりの詠唱が耳を掠める。

 ボガートではない。彼の身体越しに聞こえたのだ。

 

「【いまだ大地は誓いに満ち足りない】」

 

 二節の魔術詠唱だった。おそらく土属性のものだ。

 視線を声の主──ナッドに向ける。彼の周囲には幾つかの土塊が浮遊していた。大きさは人の頭部ほどであり、模擬戦時に見た小石とは比べものにならない。

 それら土塊すべてが独りでに、巨躯目掛けて飛ぶ。

 ボガートはこの視界外の奇襲に反応する。顔を歪めながら右脚を機敏に退き、身体を反転させた。左拳を突き出し、迅速に飛来物を片端から砕いてゆく。

 そのときソルは斬り上げた刃を振り下ろしていた。

 

(わしから目を逸らしたな)

 

 だが、白刃は空を切る。

 数瞬前から、大男は青年に向かって疾駆していた。

 

「先輩ッ」

「う、ぉッ……!」

 

 ナッドは顔を歪めて、右方向に身を投げる。

 速やかな退避行動だったが、脅威から逃れるだけの十分な飛距離は得られていない。ボガートが巨剣を薙げば、容易く切り裂かれてしまうだろう。英雄の身からすれば鴻毛より軽い存在だ。しかし、彼は無事に地面を転がることとなり、ボガートはすれ違いざまに目線を流すだけに留まった。見逃されたのだ。

 英雄は数丈先に着地して、こちらを振り返った。

 その眼差しには好戦的な光が混在していなかった。

 ゆえに、先の疾走が強襲や背馳を意味していなかったと知れる。

 

「敬意を表そォ」

 

 いままでの粗暴さとは違う、殊勝な口振りだった。

 

「手前ェらの精一杯を認めてやる。手前ェらは自分から選んだ。舗装された道を拒んで、わざわざ困難に挑むようなヤツを、俺たちは気に入っちまう」

 

 ソルは乾いた喉に唾液を流し込んだ。

 なんと光栄なことか。武を志す者として、敵方に認められることは如何なる勲章にも勝る誉れだった。息を整えつつ、黙して称賛を受け取る。再び刃を構え直して、足の裏を擦るようにして躙り寄る。ナッドの元に到達する頃には、彼も──折れ曲がる左腕に苦慮しながら──立ち上がり、ボガートに向き直っていた。

 幼女と青年は互いに目も合わせず、肩を並べる。

 

「もう温存はしねェ。手前ェらを締め括ってやる」

 

 ──喜劇的な結末が望めないなら、次善を狙う。

 大男は両の眉尻を上げ、巨剣を軽々と肩に乗せた。

 面持ちは引き締まっている。空いた左手で、蓄えた金の口髭を弄る。彼の視線は吟味するようだった。こちらの実力を測りかねて、ではない。あくまで個人的な推察だが、自身の心の整理をつけるために思えた。

 遂に、彼の双眸から葛藤の色が消えたときだった。

 

「安心しろォ。後悔は千載にも残してやらねェ」

 

 巨躯は両脚を発条にして、鉛直方向に跳んだ。

 飛翔距離は力強く伸びてゆく。そうして常人には到底届かない領域に到達する。目測で数十丈。城壁の縁を軽々と飛び越えた高空に収まった。地上からは砂粒ほどの大きさにしか捉えられない。ソルは彼に距離を取られた遺漏を嘆きつつ、思考を回し続ける。

 なぜ、空に昇った英雄は滞空できているのだ。

 

「う、そだろ」

 

 目を瞬く。隣からは呆然とした声が漏れ聞こえる。

 ボガートの背中には、さしずめ光炎翼とも呼ぶべき炎の双翼が広がっているではないか。

 

「手前ェらはァッ! 俺が盛大に葬ってやるよォ!」

 

 瞬間、連想したのは以前受けた炎塊の掃射──。

 だが、記憶のそれを遥かに凌ぐ壮観な眺めである。

 宙空には火焔が(ボガート)と並ぶ。空を真一文字に区切る焔の群れ。確かに見上げているはずが、宵の海原を望むような心地に陥った。一面の搗色を背景にして灯るその光景が漁火に似ていたからだが、そう思えたのも束の間、炎は油を染み込ませた紙を侵すように広がる。

 そう、紙だ。墨を含んだ筆がのたくった紙が燃ゆ。

 ソルとナッドの対峙する景色は正しくそうだった。

 炎が繽紛して、夜空の星が降り注ぐ様を幻視する。

 

「夜に、太陽が……」

 

 ナッドが茫乎とした面持ちで呟いていた。

 ただしソルに動揺はない。即時判断を下していた。

 劇的な前触れもなく、緩慢に足を踏み出した。

 

「先輩、足場を頼むのじゃ」

「……は?」

「出来得る限り、空中に石を出してほしいのじゃ」

「待て待て待て。何の話だ」

「打開策の話じゃ。わしが囮になる。その間に先輩は避難して、文字通りに活路を作ってほしい」

 

 幼女は、惑うような一音を置き去りに駆け出した。

 見据えた先は、夜天高くに打たれた一点である。

 

「は、ぁッ……!? まさか、おい!?」

「先輩ッ!」

 

 膝を屈伸。渾身の跳躍を見せ、宙空に身を投じる。

 

「クソがッ! もう、どうにでもッ!」

 

 悪態の叫びを合図に、宙空には石片が出現する。

 数が、ひとつ、いつつ、とお──段々増える。

 

「なりやがれってんだッ!」

 

 幼女は足元に出現した石片を踏み、更に跳躍。

 そう、彼女はナッドの土属性の魔術に目をつけた。

 すなわち英雄に辿り着くための階段代わり。彼が中空に幾つも石片を出現させられるのであれば、それを足場に追いかけられると考えたのだ。躊躇う暇はなかった。炎塊は穹窿の天井が崩れ落ちてゆくように、空から星が堕ちてゆくように──次々と迫り来る。

 これを疾走しながら迂回する。裏庭の内接円を描く螺旋階段を駆け登るように跳ねてゆく。その辿る道筋の側を、炎纏う隕石が轟音を立てて沈んでゆく。

 息を切らしながら下方を見遣る。文字通りの炎天下で、諸共を灰燼に帰さんとしていた。熱波が荒び、裏庭に吹き降ろす暴風が木立を揺らす。細かな砂粒が嵐となって地を這い回る。青年の姿は見えなかった。

 安堵する。すでに城砦内に避難したのだろう。

 

(わしはわしの為すべきことを。ただ、空を目指す)

 

 さながら飛石伝いに、炎嵐の只中を駆け抜ける。

 髪と裾をはためかせて、身を翻す。身体は浮遊感と熱気を帯びる。炎の叢雲を潜り抜けながら数瞬後に渡るべき石片を探す。脳内で順路を描いては中空を馳せる。生成された途端、自由落下を始める足場はこちらの速度が一瞬でも遅れれば、その役割を果たさない。

 この離れ業の実現には、弛まぬ集中力が必要不可欠であり、延いては著しい精神力の摩耗を余儀なくされる。見誤れば死。ナッドからの足場の提供が途切れても死。彼は魔術師ではない。早目に昇らねば──。

 だが、炎の津波は上空から止めどなく押し寄せる。

 

「ッ……先輩」

 

 先に根を上げたのは、ナッドの体力だった。

 ソルが跳躍したあとに足場が用意されなかった。

 さっと心胆が冷えた。身体は自由落下を始める。

 位置にして城砦の壁を越した付近である。ここから墜落しては只で済むまい。唇を引き締める。ナッドを恨むのは筋違いだ。掌大の小石とは言え、わずか数十秒で数百回行使したのだ。むしろよく保ったと讃えて然るべきだろう。恨むべきは己自身である。

 いまだ目標地点に到達できない力不足を、悔やむ。

 

(まだ、届かぬ)

 

 燃える空が遠くなる。伸ばした手は何も掴めない。

 産まれ落ちて、何度これと同じ光景を見ただろう。

 身の丈を越そうともがく凡人に対する罪科は、無情にも墜落死という形を取らんとする。

 

「掴まりやがれ、後輩ッ──!!」

「ッ!?」

 

 魂の籠った絶叫が、裏庭中に木霊する。

 声が発された方向を振り返る。いましも落下しかかる幼女のすぐ下方、砦壁の上に青年の姿があった。裏庭から移動してきたのだ。おそらく炎火の一斉砲撃から身を守るためだろう。幸い、裏庭は通路や砦内の窓から様子が窺える構造だ。彼は砦壁の上に向かいながら、ソルの足場を用意し続けていたに違いない。

 全力疾走したのだろう。呼吸は荒れに荒れ、膝を折り、左腕を垂れ下ろしている。きっと残存体力は限界なのだ。面相からは生気が枯渇している様が窺える。

 そんな彼が、右手をこちらに突きつけていた。

 鬼気迫る迫力をもって、こちらを睨めつけながら。

 

「これがッ、最後の一発……!」

 

 ソルはその様子から状況を悟り、息を止める。

 果たして、こちらに撃ち出されてきたのは岩塊だ。

 狙いからして仰角は十分。土属性の魔力放出を前にして、幼女は胸で抱き留めるように受け止めた。右手で剣を握りしめたまま、悽愴なまでの執念でしがみつく。ナッドが射出方向を誤り、もしもこの行き先が炎火の只中であれば──否、そんな邪心は切り捨てる。

 鉄の意志で身構える。ここは仲間を信じる場面だ。

 

「行っっけぇぇぇッ──! ソルッ──!」

「おおおおッ──!」

 

 果たして、彼女は炎の雲海を抜けてゆく。

 遂には翔破して、目前に紫紺の夜空を取り戻す。

 視界正面の高天では、ボガートが瞠目していた。

 

「あとは、任せよ」

 

 見据えた目標を前にして、ソルは飛びかかる。

 飛石の推進力の残滓を借りて、空中を泳ぐ。

 

(進む。手を伸ばす。わしの数少ない取り柄じゃ)

 

 生涯、欲しいものが手に入らなかった彼女だ。

 蜃気楼めいた幻影を追って、何度も手を伸ばした。

 

(ずっと続けてきたことじゃ。得意にもなる)

 

 とは言え、肉体面は精神論で捩じ伏せられない。

 現実の両腕は、度重なる波状攻撃で脱臼寸前だ。

 傷口は、数えることが意味を為さぬほど刻まれた。

 視界も意識も朦朧としている。滾るような血潮となって生命が零れ出している。けれども。この刹那だけは手放さない。身を削り、擦り切れさせ、最後に仲間の力添えもあって、ようやく手にできた一瞬だ。

 渾身の剣閃は迷いない軌道を描き、英雄を狙う。

 

「終わりじゃ、ねェぞォォッ──!」

 

 瞬間、視界の先で裂帛の気迫が大輪を咲かせる。

 英雄の乾坤一擲。膨張する筋肉を幻視した。

 色を失った『幾千夜幻想』が白刃を煌めかす。

 この一撃に秘められた威力は如何ほどか。荒ぶ風を強引に捩じ伏せ、大気を引き千切る。もはや城塞すら叩き斬りかねないような想像がよぎる。間違いなく胴体に貰えば、上半身が千切れ飛ぶのだろう。これに真っ向から迎え撃つことは、只人が竜の一息に立ち向かうがごとく無謀な挑戦だろう。ただ、もっとも。

 真剣勝負を避ける気概など、微塵もなかった。

 体内魔力(オド)を放出。命を焼べるように放出、放出。

 限界まで──否、限界を突き抜けるほど解き放つ。

 さながら、憧れと自分を隔てる()を越えるように。

 

(夢は終わらぬ、序章で見果てて堪るものか)

 

 子どもの頃には見えなかった線。

 だが、英雄譚を読むとき必ず目前にあったものだ。

 登場人物と紙面と読者。紙は、憧憬と自分を画する線の具現化だった。勇猛な主人公とちっぽけな自分。広大で色鮮やかな世界と、狭いあばら家。心強い仲間たちに囲まれた彼らと、友達ひとりいない自分。絢爛豪華な活躍と、何ひとつ確約のない未来への展望。

 その線を越えようと思ったのは、いつだったか。

 その世界に入りたいと願ったのは、いつだったか。

 

(憧れた瞬間じゃ。わしが、夢を持った瞬間じゃ)

 

 己が生涯に、焼けるほどの()が灯った瞬間だ──。

 

(わしの夢は、わしの憧れた英雄の誰かになることではなかった(・・・・・・)。『人類最強』アイリーン・デルフォルでも、『原初の英雄譚』エイブロードでも、ラムホルト殿でも、如何なる御伽噺の英雄たちでもない)

 

 いまだ存在しない英雄譚の、英雄になることだ。

 幾千夜幻想。永遠の夕景のなかで思い出した。

 それは、ソルが夢想し続けた英雄像。ふとした日常の間隙に描いては消して、下書きのような荒い線で形作ってきたものである。()は個の戦いに優れ、一匹狼で戦うような英雄(アイリーン)ではない。()は仲間たちに固い信頼を置かれ、彼らを率いて戦う英雄(エイブロード)ではない。

 ()は、誰かを率いるのではなく道程を共にする。

 未熟の身であるからこそ、仲間の力も借り受ける。

 それでも、自分で道を切り拓いていく英雄だ。

 これは彼が己の力を過信できず、統率力も培えなかった凡人ゆえ、惹かれた夢の形だった。

 

(誰でもない。わしの、夢。わしの英雄譚)

 

 遂に、閃く二つの剣が激しく交錯する。

 互いの感情は剣に乗り、ここに雌雄を決する。

 片や、炎蝶を撒きながら振り下ろされる幻想剣。

 片や、薄闇に鋭く光る研ぎ澄まされた無銘の剣。

 想いを一身に乗せた大望と、凡人の不相応な夢。

 接触は一度。決着は刹那。ただ、声だけが残る。

 英雄(ソル)を始めるため、誰かに対する別れの言葉──。

 

「感謝、しよう」

 

 霞むような薄明光線が、二人の姿を包んだ。

 夜明けだった。城壁を越えた位置にまで飛翔していた彼らは、幕を引く瞬間に暁光の一閃を浴びた。それは、さながら舞台照明のようだった。いままで傍観者の立ち位置に甘んじていた者を照らすようだった。

 瞬間、剣同士が吼え合うような音が木霊する。

 朝まだきの空の頂を一点、突くように響く。

 硝子の破片めいた銀色が、二人の間に散った。

 

「……ッ!? 折、れェ」

 

 鋭く奔るは、綻びひとつない細身の剣。

 眩い。切っ先は曙光を宿して、空中に轍をつける。

 まるでそれは、ある凡人の生き様だった。幼き日から筋をひとつ通し続けてきた、その男を体現したような光芒で、未知を象徴する闇を引き裂いた。

 それは果たして、ボガートの首元に続き──。

 

「届け……!」

 

 

 

 1

 

 

 

(避けられねェな、こりゃァ)

 

 迫り来る刃を前に、冷静にすぎる思考が浮かぶ。

 ボガート・ラムホルトはこのとき運命を悟った。

 

(なぜ、こうなった?)

 

 どう転んでも、敗北など有り得ない勝負だった。

 本領を出し惜しみしなければ一蹴できていた。否、最初から殺す腹積もりでいれば、数分と経たずして決着をつけられていたはずだ。いまにボガートの命を刈らんとする幼女の実力も、大したことはなかった。

 『幾千夜幻想』が突破されたことは予想外だった。

 だが、それは敗着に至るだけの理由になり得ない。

 この結末には、ボガート自身に大きな原因がある。

 

(甘かったンだ。結局、俺は終わりが怖かった)

 

 可能な限り、人の命を奪うことを避けていた。

 最期の一撃は『幾千夜幻想』で斬りつけ、その人間の結末を幸せに書き換える。無情な現実世界から離れた、夢の世界で報われさせる。その対象は敵味方問わなかった。対峙した者をすべて救わないと気が済まなかった。何たる傲慢、何たる独善的な施しだ。

 共犯者(ウェルストヴェイル)は「赦されないことだ」とも言っていた。

 それでも、誰かのおしまい(・・・・)は見たくなかった。

 

(爺さん、ガルディ大尉……俺は、臆病者だァ)

 

 ──どこにも行けやしねェ。何も、背負えねェ。

 あの二人に比べて、覚悟が足りなかった。

 足元の線を越えるだけの覚悟が、熱が、なかった。

 

(あの、腰抜けみてェに飛び出せなかった)

 

 否、ボガートに熱が湧かなかったわけではない。

 熱が灯るたび、何度も自ら冷まし続けてきたのだ。

 

物語の登場人物(ガルディ大尉や爺さん)(俺とウェル)(ストヴェイル)、なんつゥ括り方は間違ってた。分かっちゃいたんだ。俺だって俺の人生の登場人物だって。クソが。俺も線を越えられた……選べたんだって。選べなかったわけじゃねェって)

 

 いつからか俯瞰して世界を見ていた。

 自他を線で区切り、剥き出しの心を守っていた。

 臆病者。誰かを救うなんて大それた行為、そんな人間には元より果たせるはずなかったのだ。

 

(馬鹿だなァ。俺にはもう何も残っちゃいねェ)

 

 もはや恩師はいない。仲間も共犯者もいない。

 居場所もない。自分の心を守るため一人になった荒野で、白線を前に蹲る。大事なことを履き違えてしまったのだ。傷を負わないために「ひとりにしないで」という本心の願いとは正反対の心構えを取ったのだ。

 そんな、目標を見失った者の末路はひとつだろう。

 

(報い、かァ)

 

 いつか来ると気づいていた、夢の終わりが迫る。

 それが、幕切れを告げる白銀の一閃だった。

 

(畜生がァ。悔しい。悔しいなァ)

 

 果たせなかった夢、心残りを数えればキリがない。

 最も口惜しかったことは、胸に過る爽快感だった。

 生涯に付き纏っていた憂愁が、わずかなりとも払われたのだ。そんな身勝手、赦されないことだった。見返りなんて期待していなかった。誰かに施しを与え、感謝して欲しかったわけではないのだ。当然である。

 それでも、登場人物の一人である幼女から──。

 

(きっとこれは勘違いなんだろうが、クソ、あァ)

 

 最期、舌足らずの感謝が耳を掠めたとき──。

 あのとき確かに、ふっと肩の荷が軽くなったのだ。

 それは、きっと対価が得られたからではない。

 ただ、登場人物からの反応が嬉しかったのだ。

 自分の行為が独りよがりではあっても、一人きりではないという証に思えたのである。

 

(救えねェ。俺が勝手に救われた気になるなんざァ)

 

 ──ウェルストヴェイルと違って半端者だァ俺は。

 最期、ボガート・ラムホルトはそっと目を瞑った。

 

(アイツ、余計な世話焼きやがって)

 

 その瞼の裏には、なぜかどこかの路地裏が映った。

 鼻腔には、うらぶれ、湿気の籠った懐かしい匂い。

 足裏には硬い感触。履き潰した靴だと、石畳の凹凸が手に取るように感じられるのだ。知っている。生まれ育った街の地面だった。溝鼠が立ち並ぶ建物と物陰との合間を走っている。ふと声が聞こえた気がして、雨上がりの香りと仄かな腐臭を振り払い、前を向く。

 薄暗い路地の先には、見知った老爺が立っていた。

 その背後からは、街の表通りの光が差している。

 目を凝らせば、そこに騎士団の面々と、恩師が彼を待っているように見えた。

 

(こんな……こんな)

 

 ──俺を共犯者と言いつつ、結局オマエは。

 怒気はみるみる萎み、ただ不甲斐なさが募った。

 自分は途中退場なのだ。慚愧の念は堪えない。

 しかし、彼にできることはひとつしかなかった。

 

(こんな体たらくのままじゃ、顔向けできねェ)

 

 ──だからせめて、筋を通させてもらおう。

 ボガートは狭い蒼天を見上げて、拍手を送る。

 劣勢を引っ繰り返した二人の勝者に、敬意を表す。

 幼女と青年。ソルと……と、名前を当て嵌めようとした際、片割れの青年の名前を聞かなかったことを後悔する。舌打ちを堪え、意を決して右足を前に出す。

 すると、足裏で新たな地面の感触を捉えた。

 下方を見遣る。線からはみ出した足が、見える。

 

(そうか。こんなモンだったのか)

 

 ──なら、俺は急いで行かなくちゃいけねェ。

 ボガート・ラムホルトは息を弾ませ、走り出す。

 この暗影の先で、見送ってきた登場人物(みんな)登場人物(ボガート)が追いつくのを待っているのだ。

 

(俺もようやく、一歩、踏み出せたみてェだよ)

 

 それが、現世で記録できる最期の記憶だった。

 褪せた頁が捲られ、そして表紙を閉じた音がした。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 こうして夜明けの空に、ひとつの幕が降りた。

 巨剣の破片は舞い、黎明の光を照り返していた。

 ソルは空に拭き残された紫紺の闇に抱かれながら、その輝きを視界の端に収める。

 

「わしの、かち……じゃ、な……」

 

 その直後だった。遂に、重力は幼女を捕らえる。

 糸繰り人形の糸が切れたように、落ちてゆく。

 恐怖はない。感覚も遠い。現実味は失われていた。

 いまのいままで、無理に無理を重ねた結果だった。

 未来に押しつけた負債は膨らみ続け、ここに至る。

 身体を巡る魔力は残りわずか。喉奥は出入りする空気で踏み荒らされて乾ききり、肺は膨らむたびに軋みを上げ、出血も多量、骨もひび入り、頼みの綱だった精神力も底を尽いた。もはや抵抗はできなかった。

 眠気に犯された意識とともに下へ、下へ──。

 

「ソル! おいって馬鹿……! クソッ」

 

 悲喜交々が籠もった誰かの声も、遠きに響く。

 名指しされても、まるで他人事のようであった。

 

「届け、ぇ! お前に、お前にさ、俺、言わなくちゃいけないことがッ……!」

 

 ──心配御無用じゃナッド、まだ死なぬ。

 その意を、口端に含ませるのが限界だった。

 礼を告げたかったが、どうにも舌すら動かせず。

 

(余韻に浸る間も許されんとは、なあ……どうにも、かの英雄譚のように格好よくとは、いかんものじゃなあ……ただ、ああ、そうじゃなあ)

 

 枯葉のような述懐を、心の水面に浮かべる。

 言葉を舌に乗せる代わりに、湧き上がる気持ちをその枯葉に乗せる。達成感、疲労感、ボガートに対する賞賛、幾千夜幻想に対する感謝、ナッドに対する感謝と、大小様々、種別も異なる想いを詰め込んだ。

 荷物の頂には、最も小さく、最も強い感情を一つ。

 

(楽しかった、のう)

 

 凝縮した一粒の喜色を最後に乗せると、指を離す。

 意識を乗せた一葉は、闇の向こうに消えてゆく。

 眠るように安らかに、ソルは瞼を閉じた──。

 

 



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16 『戦後報告』

 ──そして二週間後、西方方面軍第一駐屯地にて。

 白を基調とした清潔な室内に、二人の姿があった。

 

「……日差しは心地良い柔さ。風も髪を撫でる程度。今日は絶好の鍛錬日和とは思わんか? のう先輩」

「先輩呼びはもうやめろって。とにかく、鍛錬は絶対駄目だ。医者も言ってただろうが。『最低でも一ヶ月は絶対安静だ』って。ホントだったら、一ヶ月どころか一年は寝たきりなんだからな? お前が馬鹿みたいに回復が早いから、たった一ヶ月で済んでるだぞ。幸いと思って我慢しろ。こら、剣を離せ」

 

 寝台で横たわる幼女の手から、男は剣を奪い取る。

 幼女は、膨れ面には至らないものの──不満げに眉を寄せて、もっともらしい文句を垂れる。そろそろ我慢の限界を迎えていた。数日こそ唯々諾々と従っていたものの、事ここに至っては深刻な問題なのだ。

 黄目を、穢れとは無縁の白髪の隙間から覗かせて。

 

「道理は解しておるのじゃ。しかし……鍛錬を一日でも欠かせば、身体が鈍るのは常識じゃろうて。十日続けばなおのこと。せめて、剣を振るうだけでも叶わんかのう? できれば」

「駄目だ駄目だ、ここだけは諦めろ。骨がばきばき折れて、今日から手足が使えなくなってもいいってわけじゃないんだろ? 頼むから寝ててくれ」

 

 弁が立たず、男にあっさり言い負かされてしまう。

 歯痒い。幼女はぐぬうと黙らざるを得なかった。

 なんとか表情で主張しようと試みるも、男から一顧だにされない。いま、彼女の顔には包帯が巻かれている。伝わっていたのか怪しいところだった。幼女は嘆息混じりに諦めて、広々とした白色に身を預ける。

 見目麗しい彼女は──現在は、その可愛らしい顔立ちが白布で遮られているが──ソルだった。老いた凡人、ソルフォート・エヌマの成れの果てである。

 彼女の額や頬、片目は包帯に覆われている。

 寝台に乗せられた身体も包帯でぐるぐる巻き。

 片腕は固定され、脚も紐で吊るし上げられていた。

 年端もいかない彼女のそんな様相には、見る者に痛々しさを与えるだけの凄惨さがあった。

 

(夜間、いまのわしに出会せば『墓所の下から這い出た兎の死体か』と勘違いされそうじゃのう。そう言われたとき……そうじゃな、わしはこう返すとしよう『兎の死体は動かぬぞ』と……ほう、これはなかなか面白いのではないかのう。笑いどころも抑えておる。やはり、冗談も磨けば光るものじゃな)

 

 最近では、ジョークセンスの研磨に耽っている。

 入院生活は時間との真っ向勝負だ。暇潰しに心を砕かねばならない。もっぱら技術の研鑽に励むため、戦闘の空想を繰り返していた。しかし、何にせよ限度がある。ゆえに様々な関心事に手を尽くすことで、不本意ながら空いた時間を有意義に変えようというのだ。

 その一環が、気の利いた冗談を言う方法である。

 ソルは口下手が祟って、散々扱き下ろされてきた。

 自信作が完成した都度、訪れた男──いま寝台脇の椅子に腰かけたナッド──に、自然な流れで披露している。

 

「ナッド、わしの姿をどう思う」

「どう……? 痛ましいから、早く癒えて欲しいな」

「動物で言えば、何だと思うかのう」

「ど、動物で? いや何の話だよ、一体」

 

 狼狽を見せるナッドに、無言の圧力を送る。

 すると、一瞬で思案の方向に視線を飛ばして。

 

「あー、ええと。そうだな。帝都の舞台で演じられていたんだが、白虎かな。実在しない伝説上の動物らしいんだけど、雄々しく戦う姿は、あのときのソルにぴったりだと思う」

 

 ソルは無表情で、片手で自らの髪を掴む。

 白髪を捲りあげて、頭頂部から立ち昇らせる。

 器用に指を駆使し、二つの白束が持ち上がった。

 

「んん? ……いや、ソル、すまん分からない」

「これは、耳を模しておる」

「……もしかしてだが、兎で合ってるか?」

「まさにその通りじゃのう。ではこの事実を踏まえた上で、問いを繰り返そう。わしの姿をどう思う」

「……兎。傷ついた兎、か?」

 

 ソルは無表情のまま、片手を顎下で一閃する。

 それを何度も何度も繰り返す。

 ナッドが怪訝そうな目つきで、推察を口にする。

 

「……首が斬られる? っていうと、死ぬって言いたいのか? だから、つまり兎が死んだと。傷ついた兎が死んだ、みたいなことか?」

「ナッドよ。死んだ兎は、動かぬ」

 

 満足げに頷くソルは、仄かに笑みを滲ませた。

 対するナッドは、間の抜けた顔を晒している。「これは何? 何の話だ?」とでも言いたげだ。ただ彼の口から漏れたのは、たった一文字「は?」だけであった。笑みの欠片もない。ソルはとても悲しくなった。

 この通り、入院生活十日目でも平常通りの幼女。

 身体とは対照的に、心持ち自体は完治している。

 元より精神は丈夫なのだ。事実、ここで目覚めたときから平常心を取り戻していた。だが、それが裏目に出ることもある。先ほどの言い争いがそのひとつだ。

 ソルは一刻も早く、鍛錬を積み直さねばならない。

 身体が鈍る──これも本音だが、最大の理由は『身体のオド残量』だ。

 

(バラボア砦の一件で、羽振りよくオドを消費してしまったからのう。身体を動かして、早目に以前までのオド量を取り戻さねばならぬ。身体能力に直結するオドを削ったままなのは、どうも落ち着かん)

 

 しかし、ナッドの言も正しいのだ。

 一ヶ月は安静にするよう、軍医からお達しを受けている。こうして日がな一日、横になっているわけだ。

 人からの忠告に素直に従うのも、老人時代の経験のおかげだろう。青年期の自分であれば、構わず剣を振り出していたに違いない。そう悟ったように思いつつも、回復が待ちきれず、ずっとそわそわしている。

 今日に至っては剣を握るところまで踏み込んだ。

 

(これは性分じゃからな、うむ。退屈を凌がねばならないほどの状況に、わしは追い詰められておるのじゃ。発作的に感触を確かめたくなるものよ)

 

 そもそも、ここに退屈凌ぎになるものがないのだ。

 寝台の側にある小窓からの光が、室内の殺風景さを露にする。一人用の部屋らしく、調度品も極端に少ない。ソルが横になっている寝台以外は、机と椅子が一脚ずつあるくらいだ。馴染み深い物体と言えば、寝台に立てかけられた剣程度である。 

 そんな部屋の机上には、一枚の紙が乗っていた。

 あれは、朝方に届けられた書状だ。

 ナッドは封が切られたそれを視界に収めると、話を切り出した。

 

「そろそろ本題に入るぞ。あの書状、読んだよな」

「ナッド……あの書状はもしや偽物なのかのう?」

「いや、流石にそれはない。人事からの正式な通達なのは確認済みだろ? ほら、ここに帝国のシンボルが入ってるしな。間違いなく本物だ」

「じゃがのう」

 

 ソルは、彼から手渡される書状に目を落とす。

 そして、懐疑的に眉を渋めた。

 自分は疑い深い性格ではない。そう自負はしているが、胸中には割り切れない塊が浮き上がる。この書状の文面を純粋に受け止められるほど、自分の内面は若くない。嘆息混じりに、再び字を目線で追ってゆく。

 確認の意を込め、内容の概略を読み上げてみる。

 

「任命状。テーリッヒ・ガルディ並びにボガート・ラムホルトを討ち取った功績を称え、貴殿を少尉に任ずる。……なんと言うのか、階級が一足飛びにすぎるのう。わしは正規の帝国兵ですらなかったのじゃが」

「実力が認められての大躍進ってことだろ? 向こうの──ビエニス王国ほど苛烈じゃないが、帝国も実力主義は変わらないんだからさ。もっと喜ばないのか」

「嬉しいと言えば嬉しい、のじゃが」

 

 ソルは言い淀み、視線を窓外の蒼穹に逃がす。

 正式に認められること自体に悪い気はしないのだ。

 血で血を洗う戦いとなった、バラボア砦防衛戦。

 その結果は、帝国の辛勝という形で締め括られた。

 少数精鋭のラプテノン強襲軍は字句通りの全滅。

 対して砦側の生存者は、わずか十一名。ほとんど全員が重傷を負い、ソルやナッド含め、現在は各々療養に励んでいる。軽傷だった者は、やむなく現場指揮を執っていたというサンソン参謀のみである。

 基本的には──ソルを除けば──城砦に居残っていた人間たちは、未来の帝国を担う有望株だった。ゆえに、防衛戦に勝利と言えば聞こえはいいものの、与えられた損害を勘定に入れ、総合的に見ればほろ苦い。

 もっとも、今回は痛み分けだろう。

 ラプテノン王国も、消耗の度合いで言えば同等だ。

 彼らが一度に失ったのは、戦力の誇示のために喧伝していた、次代の英雄ボガート・ラムホルト。最強の大英雄すら倒し果せる魔剣『幾千夜幻想』。戦線を下から支える『王国騎士団』。つまりソルの活躍で収支ゼロに繋がった。帝国はその功績を称えたのだろう。

 流れは理解できる。だが、あまりに駆け足だ。

 

(なにやら、裏の意図を勘繰ってしまうのう)

 

 ソル自身、過分な評価だと思っている。

 きっと将来性を買われているのだ。

 つまりは幼女サービス。外見の幼さで得をした。

 

(もっとも、誰に利用されようとどうでもよいことじゃな。わしの夢を遮りさえしなければ)

 

 口から零れそうな、割り切れなさを嚥下する。

 

(追い風になる間であれば、のう)

 

 ひとつ、ちらりと寝台に寄り添う椅子を見た。

 そこでは、神妙な顔でナッドが首を捻っている。

 彼もまたソルと同様に怪我人だ。包帯やガーゼを至る所に巻きつけ、傷跡を塞いでいる。負傷の程度としては左腕が酷く、折れてしまったらしい。利き腕ではなかっただけマシだが、厳重に固定されている。

 ただ、全体的にソルより怪我の具合は軽い。

 いまも建物内を歩き回れるほどである。

 ふと、ソルは話の転換も兼ねて、ほうと息を吐く。

 

「それにしてもナッド、ぬしも気安くなったのう」

「まあ……砦にいた頃は、俺も素直じゃなかったからさ。ほら、俺の生い立ち、入院生活の暇潰しに話したろ? 才能に潰されてて、ひねくれ者に育っちまった馬鹿の話。あれからさ、踏み出そうと思ってな」

「すまぬ、わしが比べたのは『ここでわしが目覚め、ぬしと再会したときの態度』なのじゃ。最初はあのとき真剣に、よく似た別人かと思うたぞ」

「あー……俺、上下関係は意識するタイプなんだよ。商人としてガキの頃は育てられたし、士官学校での教育とかでも身に染みついちまってる。だからまあ」

 

 照れ臭そうに、ナッドは鼻梁の麓を掻いた。

 

「恩人にさ、敬語使わないほど、俺も礼儀知らずの馬鹿じゃねえって言うかさ。今回、俺はソル……いや、ソル少尉に助けられたようなもんだからな」

「何をまた。むしろわしが助けられた。最終盤、ぬしが命懸けで協力してくれていなければ、わしの行動はすべて意味を為さなかったはずじゃ」

「待て待て、頭を下げるな……ってクソ。わかった。あれはお互い様ってことでいいんだが……」

 

 十日前、ソルが病室で目覚めたときは驚いた。

 ──いままで意地を張っていて、すまなかった。

 男が入ってくるや否や、頭を下げてきたのだ。

 髪色と声で、ソルは遅れて「彼がナッドだ」と気づいたものの、事態の把握には時間を要した。戸惑いつつもソルが「頭を上げて、事情を聞かせてくれんか」と言うまで、ナッドは謝罪を姿勢で示し続けた。

 彼からはここに至った経緯を聞いた。

 ──いままでの彼自身のこと。

 ──それを、変えたいと思った出来事のこと。

 ソルは最後まで聞き届けると、ただ頷いた。

 

(謝るまでもないことじゃ。外面を忘れて喋るわしの落ち度のほうが大きいじゃろうに……謙遜がすぎる。ただ、認めることは始まりでもある。謝罪も真摯そのものじゃった。ここで混ぜ返すのだけはしてはならん。それゆえに、あのときは受け入れたが……)

 

 しかし、それからナッドの接し方が変わった。

 自分の胸先ほどしかない幼女相手に、敬語を標準装備とし、ソルの名前に『さん』を付けて呼んできたのだ。若干の精神的な距離を覚える接し方である。

 ナッド曰く、尊敬の念を込めた──らしいが。

 

「敬語だったらお前が本当に嫌がるから、二人きりのときだけ、こう砕けた風にやってんだからな。俺、いまだって無理して普通に喋ってんだぞ。……そこは理解しておいて下さいね、ソル少尉?」

「頼むからやめてくれんか。脇腹が痒くなるのじゃ」

 

 露骨に顔を渋めると、ナッドは不服を息に乗せる。

 ソルの、舌鋒と喩えるには角のない舌で、どうにか言い包められたのは奇跡としか言えない。

 

(やはり、わしが目的にしておる『仲間』とはあまりにも距離が……いや、気のせいじゃろうな。うむ)

 

「話は戻るけどさ、ソル。書状の真贋を疑ってだけどさ、昨日まで軍のお偉いさんが出入りしてたろ? そのときにでも話はなかったのか?」

「あった、のじゃが……そう、ひとつ聞きたいことがあったのじゃ。ナッドは最近、わしがけったいな名前で呼ばれとることを知っておるか?」

「ああっと……あー確か、修羅って奴だったか」

「そう、それじゃそれ」

 

 ソルは眉に皺を寄せて、何度も首肯する。

 彼女の元には、帝国軍の来客がひっきりなしに訪れた。誰も彼も、見ず知らずの上官たちである。ぞろりと数を引き連れてきたものだから面喰らったものだ。

 目覚めてみれば、寝台を取り囲む男たちの顔が並んでいる光景は、少なくともソルフォート・エヌマの傭兵時代では、経験し得なかったことだった。

 貴重な体験だったが、そのなかで妙な名を聞いた。

 

(彼らは、わしを指して修羅と呼んだのじゃ)

 

 顔も知らない上官からは「これからの活躍に期待する」と朗らかに健勝を祈られたが、ソルは待ったをかけたかった。修羅とはどういうことなのか。

 傭兵時代に、同じ仇名で呼ばれることがあった。ゆえにソルの脳内を駆け巡ったのは「まさか」の三文字だった。まさか、ソルフォート・エヌマという身の上が知られてしまったのか──と。

 

(真に、ただの偶然と知るまで、暗に脅されておるのかと、気が気ではなかったがのう。しかし、遂に異名を授けられるとは。夢でも見ておるのかと思うほど、素晴らしい栄誉じゃなあ……一点に目を瞑れば)

 

 個性ある兵に授けられる称号──異名。

 英雄跋扈のこの時代では慣習となっている。

 巷で人伝に広がるような、単なる仇名とは区別されており、正式に人事局から付与される異名はやはり勲章に近い。『修羅』『魔術王』『人類最強』──戦いぶりや戦闘の個性により、昨今では引も切らない数多くの英雄を呼び分けるため、用いられてきた。

 最近は、目ぼしい新兵に名づけられることが多い。

 つまりソルは、新たな英雄候補という期待を背負ったわけだ。憧れた英雄たちと肩を並べたようで、涙を滂沱として下せるほどに嬉しい。嬉しい、のだが。

 はああ、と肺を萎ませて嘆息する。

 彼女には、どうにも納得がいかないことがあった。

 異名の『修羅』という字面だ。

 

(なにが『修羅』じゃ。昔も呼ばれたことがあったが、気に入るものか、こうも物騒な名前なぞ。正式に呼ばれるのなら、なおさら不満しかないのじゃ)

 

 名付けた元凶は出てこい、と声を大にしたいソル。

 修羅なる異名から受ける印象は、ソルの定めた『なりたい英雄像』と乖離しすぎている。修羅という字面では、まるで人の助けを借りずに、殺戮の限りを尽くす戦闘狂のようではないか。語弊も甚だしい。

 ソルは断じる。──狂人ではなく、凡人であると。

 自分は、果てない戦の日々に身を投じたりしない。

 自分は、無為なことを嬉々として続けたりしない。

 

(わしは、英雄になるために必要なことをしているにすぎん。一つ目標を見据え、身を削れるだけ削ることで、できる限りの近道を行く。そうして一刻も早く、光溢れる夢を手のうちに収めたいだけじゃ)

 

 たとえば、ソルにとって戦場以外に英雄になるための効率的な場所があれば、すぐさま戦線から身を退いて、迷わずそこに飛びついただろう。

 

(なれない者がなるために足掻くのは当然じゃ。狂ったのは運命の歯車であって、誰でもない)

 

 修羅、という名が余計な騒動を招く恐れもある。

 例を一つ挙げるとすれば、傭兵時代の異名を知る輩に難癖をつけられるなど……考えるだけで、ソルの頭を重くする。異名の変更を求めたかったが、外堀はすでに埋められていたため、やむなく取り下げざるを得なかった。ソルの提案した代案の悉くは、無慈悲にも却下されたことは言うに及ばぬ結果である。

 異名の外堀を埋めたのは、帝国軍広報部だ。

 ──すでに広まっているのだから、撤回できない。

 これが、代案を蹴るときの軍の決まり文句だった。

 

「その出来事にしても、不自然なまでに『修羅』なる異名を喧伝する声が大きくないかのう」

「……それは、あれだ。帝国も士気を上げようとしてんだろうな。期待の新星『修羅』ソル少尉……って急いで喧伝してな。ラプテノン王国の方でも、新たな英雄の誕生だって騒いでるから、その対抗馬として」

「新たな英雄、噂の『銀狼』ファルンケルス・ヴォルダーレン殿じゃな──!」

「待て待ていきなり興奮するな! 身体に障るぞ!」

 

 幼女が身を乗り出したと見るや、ナッドが宥める。

 ここ数日間に、幾度となく行われた応酬だ。

 彼は、とある洗礼を浴びたのだ。──ソルに英雄の話を喋らせた人間は『語調に熱が籠り、早言かつ饒舌に長々と続ける』という、普段の彼女からは想像できない英雄愛好家(マニア)ぶりを見せつけられる。

 最初はうっかりナッドを辟易させてしまって、相槌が引きつっていたほどだった。だが、彼もいまでは扱い方を学んで、宥める役に回ってしまった。

 ソルからすれば、実に残念なことこの上ない。意見を交わすことまで望まずとも、話を聞いてもらえるだけで満足だったのだが、我慢する他ないだろう。

 ともあれ、ラプテノン王国の新たな英雄の話は、バラボア砦の一件にかかわっている。

 

(ファルンケルス・ヴォルダーレン。海を隔てた大陸から流入した、片刃の剣の使い手らしいのじゃが……他のことは、まだ手元に情報が届いておらん。ただ、手練れであることは挙げた戦果が証明しておる)

 

 バラボア砦防衛戦と並行して、一つの戦があった。

 ドーネル少将麾下千人の軍勢で、ビエニス・ラプテノン連合軍が逃げ込んだデラ支城を強襲する。歴戦の将校も交えた、選りすぐりの大隊だった。進軍を開始したそれは、結果として壊滅という結末に至った。

 事実、支城に辿り着く前に少将は討ち取られた。

 ラプテノン軍が言うことには、そんな大事を為した新たな英雄こそが『銀狼』ファルンケルス・ヴォルダーレンというらしい。失ったボガート・ラムホルトの穴埋めとしてだろうか、彼も大きく喧伝されている。

 だが、自然とだらしなくソルの頬が緩む。

 ナッドは呆れたような笑みを漏らす。

 

「……本当に楽しそうだな」

「英雄じゃぞ? 心躍らずしてどうする?」

「前向きだよな、『銀狼』はこっちからすりゃ敵だってのに。俺とかはやっぱり『同じ戦場に立ちたくねえ』って思うし。とと……そうだ」

 

 ふと思い出したように、彼は懐に手を入れる。

 

「そうだった、忘れてた。ソルに渡したいものがあったんだ」

「渡したいもの、のじゃ?」

 

 取り出したのは、薄桃の布に包まれた一品。

 丁寧に覆いを取ると、手のひら大ほどの破片が姿を現した。窓から差し込む陽の光を浴び、破片の表面は金属光沢──鈍色を放っている。断面は不自然なまでの濡羽色。まるで鋼の死骸のようだった。生きた刃に灯るはずの、あらゆる光を失ったかのような色だ。

 心の水面に浮かんだのは、そんな直感だった。

 

「ほら、あのボガート・ラムホルトが持ってた剣の破片だ。まあ要らねぇんだったら良いんだが、これはソルが持ってたほうが良いと思ってさ。いるか?」

「待て、ナッド。あの剣の破片じゃと? それを持ち出したのは……まずいのではなからんか?」

「見つかったら終わりだろうな。本体のほうは回収されたみたいだし。ただ何でか見つからずに済んだんだよな、この破片。……でさ、受け取ってくれるか?」

「……そうじゃな、ありがたく受け取っておこう」

 

 驚きつつも、ソルはナッドの台詞に頷いた。

 英雄譚が大好きな彼女にとって、その剣の価値は何物にも代えがたい。そして彼女は脳裏に、幻想世界での問答が浮かべた。ウェルストヴェイルの辛辣な言葉たちと、その優しさを思い出す。

 自らの分岐点となった魔剣『幾千夜幻想』。

 記念に持っておきたい。紛れもなく本音だった。

 その破片で試したいこと(・・・・・・)もある。

 ソルが考え事をしている裏で、ナッドは近場にあった、幼女の私物が入っている袋に破片を入れている。

 そこで、拭い去れない根本的な疑問をぶつけた。

 

「……それにしてもナッド。剣の、しかも破片をどうして拾っておったのじゃ?」

「ま、まあ、その、何だ。あのときは、初めて俺が一歩踏み出せた記念にって思っててな。……ただ、こいつは俺が持つべき物じゃない。あの英雄を倒した、少尉だけに持つ資格がある。正直、俺は何もできちゃいなかったからなって……まあ、それだけだ!」

 

 ナッドは朱の入った顔で締め括って、座り直す。

 きまり悪そうな彼に、ソルは微笑みを零した。

 男子三日会わざれば刮目して見よ──とは、なるほど実に名言である。目前の頼りない青年が、以前よりも大きく、芯が通ったように見えた。

 負けてはいられぬな、とソルは視線を落とす。

 見目はあどけない幼女、精神は老人。

 だが、成長の早さで若人を超えられぬ道理はない。

 拳をつくり、密かに気炎を上げるソルだった。 

 

「そうじゃな。互いに頑張るとするかのう。しかし、ぬしは、軍人の道を進んで後悔はないのか?」

「ああ、後悔なんかねぇよ。もう俺は商人に戻る気はないし、あっちは妹に任せておくさ。……戦場は今もまだ怖いけど、憧れるもんもできたしな。……ソルはさ、戦場に残るんだろう?」

「もちろんじゃ。まだ見ぬ英雄達と戦い、わしは夢の先に行く。それまで膝を折るつもりは、ない」

 

 

「──威勢の良いお嬢ちゃんだ。『人類最強』の仔犬ちゃんが重ねて見えちまうねえ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「一応、ノックはしたんだが……どうにも、間が悪かったようだ。お邪魔したんなら出直そう」

「っ! あの、いえ、問題ありません!」

 

 ナッドは内心、ぶるりと竦み上がっていた。

 椅子が倒れるのも気にせず、慌てて立ち上がる。それと同時に、見事な敬礼を扉へ向けた。自己評価では満点の所作である。咄嗟にしては、士官学校での教え通り、完璧なものに仕上がっているはずだ。

 扉付近に立っていたのは、壮齢の男だった。

 

「いやーいい、いい。許す、堅苦しいのは『無し』だ。人前でもないんだ。周りの目は気にしなくていいだろ。俺、怪我人に畏まられると、怪我の具合が悪化するんじゃないかって気になっちまうからよう」

「は、はあ……では、し、失礼します」

 

 ナッドはすっかり困惑して、敬礼を取り上げた。

 男は、どこか草臥れた顔を悪びれたように歪める。

 彼の、草臥れたような印象を強めているのは、顎にこびりついた鬚の剃り残しと、緩やかに下がった眉尻だろう。焦げ茶の髪は適当に短く切られ、小綺麗な身なりではないものの、一定の清潔感は保たれている。

 中庸という言葉が擬人化したのなら、きっと彼のような顔をしているだろう。そんな、人好きのする容姿だった。少なくとも、畏怖を覚える外見ではない。

 しかし、ナッドは凝固した緊張を喉奥に押しやる。

 

(何で、このような方が、ここにッ!?)

 

 凝然と見続けたのは、彼の身分を証明する服装だ。

 彼は帝国軍服を軽々と羽織っており、裾から覗く防具の類いも、まだ軽装の範疇に留まる程度の鎧のみだった。その鎧は、室内を洗う陽光によって『白銀』に輝いている。さながら、天高くで瞬く星のように。

 帝国において、白銀の鎧は頂点に立つ英雄の象徴。

 帝国の大英雄『六翼』の一員である証だ。

 

(『六翼』──間近で、本物を見れるとか、嘘だろ、夢じゃないのか……!?)

 

 ロズベルン・ラスティマイン中将。

 『六翼』の席次では最下の第六位。しかし、下士官からは最高の人気を誇っている。ロズベルンの堅実な采配と、その武勇が語り草となっている。

 曰く、必ず自軍の総員を生かして戦を終える。

 曰く、ビエニス王国の英傑である『四大将』二人を相手取り、引き分けまで持ち込んだ。などど、耳を疑うような逸話も数多い。だが、ゆえにこそ、帝国を代表する大英雄の一翼を担っているとも言えた。

 ナッドは、ひたすらに萎縮する他ない。

 普段会えない、著名な大英雄。

 更に言えば、軍最上層の人間と出会したも同然だ。

 あまりにも心臓に悪いサプライズにすぎた。

 いまも胸の鼓動がばくばくと打ち鳴らされている。

 

(待てよ、落ち着けよ俺……本当にマズイのは俺じゃないだろ。ソルだ。あの英雄好きが、そんな大人気の英雄に会ったら──どうなるか、本当に分かんねえぞこれ……! 興奮のあまり失礼千万をかます可能性、結構高いぞこりゃ……!)

 

 恐ろしい想像が、ナッドの顔色を塗り変える。

 グロッキーな紺青色から血の気が引いて、白紙のような無表情へ。顔色の濃淡が綺麗な推移を辿るなか、ナッドには走馬灯が見え始めた。

 勢いあまって、己の人生の総括まで終えてしまう。

 

(祖父さん、親父、それとネイト。いままで逆恨みしてて、ごめんな。本当は帝都に戻ったとき、謝りたかったんだけどな……。長男の最期が晒し首とか、ハルト家の看板に泥を塗っちまったみたいだ)

 

 妄想は加速していき、数日後の未来に及んでいた。

 ナッドの脳内では──帝都の往来に首が二組、仲良く並んでいる。なぜか幼女の顔は満足げで、横の自分の顔が悲痛に歪んでいるのは何かの暗示だろうか。

 この運命を辿ってしまうのか、そうではないのか。

 それが決まる唯一の分岐が、ソルの態度ひとつ。気が気ではない。幼女の反応は、いまだ杳として知れないのだ。少なくとも、まだ背後の寝台で身体を横たえている……はずだ、とナッドは己に言い聞かせる。

 生唾を吞み下す。なんて分の悪い賭けだろう。

 ナッドが恐る恐る、緩慢に、背後を見遣ると──。

 

「ソ、ソル少尉……気絶してる……」

「なかなか、不思議なお嬢ちゃんだ。『修羅』の名を冠するほど、獅子奮迅の活躍をしたって聞いたが、やはり精神は年相応なのかねえ……しっかし、まあ、何だろうなあ。見られただけで気絶されると、おじさん凹んじまうなあ。子供受けはいいほうだって自負があったんだが……」

 

 力なく笑うロズベルンは、罰が悪そうに頭を掻く。

 彼はどうやら幼女が、顔や雰囲気の醸す怖さのあまりに気絶した、と勘違いしているようだ。

 ナッドは作り笑いで合わせつつ、吐息に安堵を忍ばせる。

 

(あぶ、危なかった……好きって気持ちが度を越すとこんなことになるのか。ともあれ、中将に『英雄好きを拗らせた結果、気絶したのでしょう』……とかは口が裂けても言えない雰囲気だな。顔見りゃ一発なんだけどな。何だ、あの幸せそうな顔)

 

 尊敬対象でもなければ「アホ面」と形容していた。

 ナッドは自然な動作で、幼女の頭部を身体で隠す。

 大英雄のお目汚しにならないようにしなければ。

 ただ、ナッドは一つ胸に刻み込む。

 ソルの英雄愛好家の面が強く出たときだけは、彼女を尊敬対象から外すことにしよう、と。

 

(まあ、バレるときはバレるんだしな。とりあえずここは、ソルの名誉のために黙っておくのが吉だな)

 

 そして、ロズベルンが口に出した『修羅』という異名についても、曖昧に笑っておく。それは決して、ナッドがそれを提案した元凶だから──ではない。

 溢れる冷や汗も、きっと何かの間違いだ。

 さながら暗示のように、彼はそう脳内で唱える。

 

(いや、だって仕方ねぇだろうよ……戦っている最中の少尉は『修羅』みたいだったんだ。上官たちに異名付けの参考にしたいからって訊かれて、馬鹿正直に答えたらこれだよ。まさか、そのまま採用されるなんて予想外だったんだよ……信じてくれ、ソル)

 

 しかし、罰の悪さで黙っていても埒が明かない。

 ナッドは意を決して尋ねてみる。

 

「ロズベルン中将……不躾ながら、ソル少尉への用向きを伺ってもよろしいですか……?」

「まあ、そうするかねえ。俺としちゃ、お嬢ちゃんが目覚めるまで待ちたいんだけどな。……残念なことに、俺も時間が惜しい身でな。お嬢ちゃんが目覚めたら、ちょっと伝えておいてくれよう」

「りょ、了解しました!」

「だから、そう畏まらなくてもいいって……別に、深刻な話じゃあない。俺が不在の間に砦を守り通した、勇敢な兵士たちを称えに来たついで──下僚候補の、そうだねえ、ソル少尉への人事書類を届けにな」

 

 咳払いし、ロズベルンは懐から紙を取り出した。

 それは今朝、幼女宛に届いた書状と同程度のものだと分かる。一見しただけで「色と質感が違う」と知れる高級紙、帝国のシンボルも入っている。

 ロズベルンは「深刻な話じゃあない」と軽く言っていたが、ナッドからすれば「これが深刻な話じゃなかったら何が深刻な話なんだよ……」とぼやきたい。

 彼はナッドに書状を手渡して、その中身を明かす。

 

「ソル少尉には『獄禍』討伐部隊への出向要請が来ている。つまりは──英雄譚によくあるお題目で言うなら、『怪物退治』のお役目ってことだ。お嬢ちゃんはどうか分からんが、男の子なら燃えるだろ?」

 

 




第一章終了地点はここです。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
ハーメルンさんでの今後の活動については、活動報告に書いておきました。



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第二章. 幸せな怪物の墓標
1 『舞い込んだ怪物退治』


「おっと、よく来たねえ。お嬢ちゃん」

 

 幼女が大扉を開くと、柔い低音が出迎えた。

 そこは帝国第二駐屯地、唯一の執務室。

 小さな頭を動かさないまま、視線を巡らせる。

 蔵書庫のように、落ち着いた雰囲気の一室だ。

 壁際の書架には本が敷き詰められ、天井からは年代物の照明器具が吊り下げられている。少なくとも、広々として豪奢──という言葉からはかけ離れた内装だ。小部屋の中央を陣取るのは、弁柄色の椅子が二脚のみ。背は低く、談話に適したものと言えた。

 そして室内で最も目を惹くのはその奥側の机。

 幼女は訛りの薄い、暗記した文言を舌に乗せた。

 

「失礼致します。ラスチッ……マイン中将殿」

「っ…………っと。あー何だ。まあ、楽にしてくれ」

 

 気の抜けた男の返事は、笑みを含ませて続く。

 

「おじさんの名前、ちいっと言いづれえだろ? 公的な場所でもなけりゃあ、名前で呼んでもいいさ。ロズベルンでも、愛称みたいにベルンだけでもねえ」

「……では、ロ、ロズベルン中将殿とお呼びさせていただくのじ……いただく」

 

 すぐさま口の紐を引き締める。

 早速、ボロが零れるところだった。

 開口一番、噛んだ時点で手遅れかもしれないが。

 彼女──ソルはあらかじめ指導を受けていた。言葉遣いと『のじゃ訛り』矯正だ。指導監督はナッド・ハルト。商いの家柄で培った彼の礼儀作法が、小さな頭に叩き込まれた。なお成果自体は芳しくない。

 執務室の奥側から一つ、笑い声が転がる。

 

「いい、いいさ。慣れてないなら、敬語も『無し』でいい。俺のことも『おじさん』って呼んでくれていい。孤児院のちっこいのたちに、ずっとそう呼ばれてるからねえ。お嬢ちゃんにならしっくりくる」

「いえ、そんな……」

「なあに、咎めるような奴はここにゃいない」

「いえ! 憧れの大英雄殿の前で礼を失したくないのじゃ。……失したくないのじゃ、です。ですのじゃ」

「っ……すまんなあ、もう面白くなっててうっかり。そういうところも、仔犬ちゃんにそっくりだ」

 

 山積した羊皮紙の向こう側から、男の顔が覗く。

 瞼をきゅっと締めた笑みは、どこか苦笑いに近い趣きがあった。それは取り繕うことにさえ失敗したソルへの一般的な反応なのか。それとも、彼の苦労人然とした顔の彫りによる錯覚なのかは定かではない。

 『六翼』ロズベルン・ラスティマイン。

 服装は以前に病室で一瞬見たときと同様だった。

 帝国軍服を羽織った姿であり、その下から白銀の鎧が覗いている。彼は奥の椅子に座したまま、浮かべていた笑いを自分の咳払いで追い払う。

 彼は「悪かったね」と改めて微笑みを湛える。

 

「ようこそ、第二駐屯地『獄禍』討伐隊へ。臨時編成についての返事はもらったのは随分前だけど、改めて歓迎させてもらうよ。色良い返事に感謝してる……どうやらお嬢ちゃん──いや、ソル少尉も、怪物退治に興味深々だったみたいだねえ」

「それはもう……!」

 

 ソルは思わず、爛々と黄色い目を輝かせてしまう。

 偉人を前にして萎縮するより、興奮を覚えていた。

 英雄と同じ空間で、同じ空気を吸っているのだ。

 うっかり気を抜くと鼻血が垂れそうになる。

 だが「そうなれば本当に失礼」という常識は弁えているつもりだった。つもりというだけだが。「いい歳して興奮のあまりに必要以上の大声で返事する」という恥ずかしさも、承知しているつもりなのだ。

 英雄が再び浮かべた苦笑の意味に気づけていない。

 幼女は顔を引き締め、己の昂りを抑えつけていた。

 

(さて、ナッドは何と言っておったか……)

 

 欲望を生唾とともに流し込んで、ひとつ思案する。

 ここに至った経緯を簡略して思い返した。

 この発端は、先日の人事部からの通達だった。

 

 ──怪物退治の依頼。

 

 それはソルに舞い込んだ、立身出世の機会だった。

 依頼を見事に成し遂げれば、英雄としての名前に箔がつく。『怪物退治』という字面の衝撃は、現代でなお大きい。そして何より単純(・・)である。

 敵方の戦略を考えず、ただ打倒することだけを考えればいいのだから。「名を広める機会として見るならば、術数が渦巻く戦争にて屍を重ねるより、遥かに気楽で効率的だ」という合理性からして、怪物退治の誘いを受ける判断ができる。できる、のだが。

 そんなことが脳裏をよぎることもなく──。

 

(怪物退治。心躍る文言じゃ、うむ。英雄譚には必須とも言えるのう。断れるはずがない)

 

 したり顔で、英雄譚の王道を語るソルだった。

 憧れのエイブロードには悪竜を倒す逸話がある。

 現代において竜は絶滅したものの、大いなる怪物を倒すのは浪漫である。自らの英雄譚を紡ぐならば『怪物退治』は外せない事柄のひとつだ。少なくともソルは必須事項のひとつに数えていた。ゆえに、この出向要請は渡りに船以外の何者でもなかったのである。

 療養を終えたソルは英雄譚の王道をなぞるがまま、すぐこの第二駐屯地に移動してきた。手荷物は、剣とウェルストヴェイルの破片などが入った巾着袋のみ。

 ──軽装、というより軽率な装備だな……。

 ナッドには呆れられたが、来たものは仕方ない。

 彼も「取りに戻れ」とは言えないようだった。

 

(それでこの、第二駐屯地に着いたのじゃったな)

 

 ガノール帝国、西方方面軍第二駐屯地。

 帝国中央よりやや東に位置する──バラボア砦から北東に進んだ方角にある──そこは他国に隣した城塞のなかでは「最も安全な場所」と言われていた。

 その理由としては立地に関係がある。

 ここはマッターダリ山脈の麓まで近い。大陸を分断するように連なった尾根が、他国の侵略を止める防波堤なのだ。「山頂には神々が御座す」という眉唾な噂が立つほどの標高によって他国と隔絶されている。

 そして今回、ここに怪物が姿を現したわけだ。

 

(……が、単純に楽しみにしておられんかったな。なにせ帝国の大英雄に会うのじゃ。戦場でもなし、無作法者のわしとて、身嗜みを整え、立ち振る舞いも身につけねばならんかった)

 

 立ち振る舞いはすべてナッドの入れ知恵だ。

 曰く『型通りの敬語が不慣れなら、必要以上に喋らないほうが吉だ』。曰く『のじゃ禁止』。曰く『公的なこと以外は、聞くな頼むな大人しく』などなど。ナッドからはきつくきつく言い含められていた。

 礼を失して、無用な不和を呼ぶのは本意ではない。

 そのときは幼女も殊勝に頷いたものだった。

 今回、彼の言う通りの態度と格好で臨んでいる。

 もちろん、この言葉の語尾にも『つもり』が付く。

 

(入念に湯浴みもした。衣類も貰ったばかりじゃ、問題ない。ここまでロズベルン殿から指摘もされとらん、問題ない……はず、じゃが)

 

 ソルの、腰まで流れる髪は新雪のごとく白い。

 あどけなさが拭えない顔立ちも、本人的には引き締めているつもりだった。ただ容姿が容姿だ。糊の利いた軍服は絶望的なほどに似合っていない。

 幼女と軍人は不釣り合いな組み合わせである。

 おそらく対義語に限りなく近い単語だ。傍目には滑稽に映ってしまうとは、途中で擦れ違った人々の反応で散々知ることになる。直前まではそう思っていた。

 しかし道中、周りのことなど気にならなかった。

 大英雄と会う。そこから湧き上がる興奮で、まともな認識能力が吹き飛んだのである。なにせ人生初体験なのだ──改まった場で、尊敬する著名人に会うことは。幼い老人はどうしても舞い上がってしまう。

 熱狂的な英雄好きは老いてもなお変わらない。

 

(前回の邂逅では無様を晒したのじゃ。ここでは転ばぬ。じゃが、実に惜しい。ロズベルン殿の武勇伝や他の『六翼』について訊けぬ。歯痒い、歯痒いのう。欲を言えば稽古づけまでして貰いたいのじゃが、やはり多忙な『六翼』。そこまで無理な駄々は捏ねられんわい。……ナッドからも釘を刺されとるからのう)

 

 人生は実にままならない。幼女は唸った。

 しかし、それは表には出さない。日夜夢見る大英雄の一人である『六翼』の御前なのだから。ロズベルンはソルフォートの享年から見れば若造だが、尊敬という尺度において年齢は度外視するものだ。生前に戦場で出会っていれば、即した礼儀を払っただろう。

 敵味方の線を挟めば、尽くす礼儀は死力である。

 いまは違うのだから一般的なものに即すのみだ。

 ロズベルンが手で示す通りに、ソルは執務机の前まで歩み寄る。

 

「さってえと、これで招集した獄禍討伐隊の戦力はここに揃った。入れ替わりの激しい部隊だからねえ、短い期間になるだろうが、よろしく頼むよう」

「世話にな──よ、よろしくお願いします」

 

 もはや言葉遣いはボロボロだった。 

 それをロズベルンに面白がられながら、本題に移っていく。彼は物腰柔らかな態度を崩さずに「当たってもらう事の、その発端について触れておこう」と、机の書類をあらかた退かせると紙を大きく広げた。

 帝国軍が作成した、山脈周辺の地図のようだ。

 正真正銘の軍事機密である。ソルは「ここから先は無駄口を叩くまい」と、紐で縛るように口を引き結んだ。そのまま静かに地図へと視線を向けると、中央付近にはこの『第二駐屯地』の文字を発見した。

 彼はそこより、北西にいった場所を指差す。

 ここから二つの森を超え、大河を横断した辺りだ。

 公用語で記された地名を読み、概要に耳を傾ける。

 

「最初の目撃情報は一週間前だ。この、マッターダリ地方の端にあるジャラ村で、獄禍の発生が地域住民から確認された。生き残りは村人が三人。彼らは運良く村外れで山菜を摘んでいて──あとは皆殺しだ。血の雨でも降ったのかってぐらいの有様らしいねえ。調査に向かわせた兵士も、それは確認済みだよ」

「ひとつ、いいですかのう。その獄禍……怪物は、いまはどこにおるの、ですか?」

「ジャラ村に留まっているとの報告だ。やっこさん、そこを自分の城だと勘違いしちゃってるのかもねえ」

 

 ふむ、とソルは頷きを返す。

 地図に示された一点、ジャラ村に目線を落とす。

 怪物が移動していない事実に疑問符がつく。

 目撃から報告、以降いままで相応の時間が経っているはずだ。場所を移動しない理由がわからない。もはや無人と化した村に留まるには、どんな都合があるのだろう。いや、怪物に都合などないのだろうか。

 何にせよ、ロズベルンが断言しているのだ。

 確度の高い情報であることは間違いないだろう。もし彼の目算に誤差があってジャラ村にはいなくとも、周辺から離れてはいないに違いない。

 彼は挑むような視線をソルの目に注ぎ、言う。

 

「今回、ソル少尉に与えられた任務は一つ。ジャラ村を根城にする獄禍の討伐だ」

 

 ロズベルンの眦に寄った皺がわずかに影をつくる。

 ソルは衝動に駆られ、威勢よく口を開く。

 憧れの大英雄の言葉だ。弾けるような声色に、了承の意を乗せて応えたかった。だがソルの桜色の唇は、言葉を紡ぐことができないままだった。

 ついぞ、ゆるゆると閉じて蕾に戻ってしまう。

 

「……ソル少尉?」

「その、です、のじゃ。改めてお返事をと……獄禍討伐、有り難く、お受け致しますのじゃ」

 

 幼女は慇懃に頭を垂れながら、ぎゅっと拳を握る。

 即答できるはずがない。ひとり、嘆息で膨らんだ鼻腔から時間をかけて空気を抜いていく。ゆっくり、ゆっくりと湧いた感慨を肌に馴染ませるようにして。

 心が、震えていた。大英雄から言い渡される任務。

 それはまるで、夢見た英雄譚の一場面のようで。

 

(いかんいかん。まだ始まったばかりと言うのに……我ながら、感慨深くなるにも速すぎるのじゃ)

 

 その後、討伐に必要なだけの情報提供を受けた。

 討伐対象の獄禍の特徴、ジャラ村への行先案内人、同行させる帝国小隊、そして一帯の地図。少し余裕を持たせて、食糧や水も与えられるそうだ。

 厚遇される理由は、ロズベルン曰く「お嬢ちゃんは期待されてるからねえ」ということらしい。邪推するならば、今回の怪物退治は軍から「予定調和の勝利」を期待されているらしいのだ。

 

(帝国の士気を上げるため、わしを担ぎ上げたいのじゃろうな。今回の任務で不満があるとすればそこじゃが、まあ……よい。いつかの日のための鍛錬じゃ)

 

 いままで、戦場を渡り歩くばかりの人生だった。

 怪物退治はソルにとって初体験なのだ。

 あくまで、本番の肩慣らしと思えばいい。

 

「この獄禍討伐を果たせれば、更にソル少尉の力は認められるだろうねえ。広報も随分と息巻いてたから『修羅』って二つ名と一緒に広まっていくことになると思う。……顔が広くなるというのは良し悪しあるけどねえ。ソル少尉の場合は、別の意味でだったか」

「はい……基本的に名が広まることは歓迎ですのじゃ。その二つ名で、なければ……」

「ははは、その様子を見りゃ分かるさあ。そこは諦めて欲しい。なんせ、気合い入れて二つ名は流布されたからなあ。もう取り消しは利かねえんだよう」

 

 頬を紅潮させつつも、苦々しく口を曲げるソル。

 ロズベルンは、からから笑いながら鷹揚に頷く。

 

「じゃあ決まりだな。ただ……出立は急なんだが、明日の早朝になってんだ。本来なら二日ばかり余裕を持たせられたんだけどねえ。色々と都合で早まってしまって、どうにも悠長にはしていられなくなって」

「……急ぎの理由を、お聞きしてもよろしいの……です、か? のじゃ?」

「大した理由じゃあないさ。獄禍があのまま居座られると、帝国が不利益を被ることになる。ただそれだけだよ。だからまあ、迅速な討伐をよろしく頼むよう」

 

 あからさまに茶を濁すような口ぶりだった。

 何やら秘め事があるとは、鈍いソルも勘づけた。

 しかし、ここでの追求には意味がない。剣一筋の人生では舌先の鍛錬など積んでいなかった。そんな無頼者が迂闊に探りを入れて、無事で済むとは思えなかった。ソルは恐る恐る、彼と目を合わせる。

 ロズベルンの瞳は澄んだ色味のまま。

 それが途方もない巨大迷宮のようにも思えた。

 攻略可能だと勘違いできるほどの隙も窺えない。

 

(瞳を見るだけで、人の心のうちを推し量ることなどできるはずもない。それでも、ロズベルン殿は別格じゃな。秘め事で生まれる『蔭』が見当たらない。踏み入れても、果たして這い上がってこられるか)

 

 あれは『底なし』だ。じっとり手のなかが蒸れる。

 経験則から警告を発していた。思い返すことすら憚られるような過去──傭兵仲間に謀られ、身ひとつで穴蔵に閉じ込められた──あれも、無駄ではなかったということなのだろう。きっと不慣れな腹の探り合いをしても、ロクな未来は待っていない。

 そもそもロズベルン中将は同じ帝国軍人だ。

 同胞を不幸に追いやっても、利益が肥やせるとは思えなかった。少なくともソルの持つ情報にはない。

 ならば、することは決まっている。

 

(軍隊に入るとはこういうことなのじゃろうな。わしの死角では、無数の計略が蠢いておるわけじゃ……それでも、やることは変わらん。わしがやれることは、剣を握ること。それだけなのじゃから)

 

「ああ……そうだった。俺もねえ、これからバラボア砦のほうに向かわなきゃならない。ビエニス・ラプテノン軍の動きは沈静化したんだけどねえ、歯止めとして。だから、ソル少尉の見送りは『無し』ってことで……すまんねえ。慌ただしくて」

「いいえ。『六翼』は帝国の支柱ゆえ、お忙しいことは重々承知しておりますのじゃ。わざわざ時間を取らせてしまって──夢のような時間でした。ありがとうございました。のじゃ」

「これはご丁寧に。陰ながら俺も、ソル少尉の武運を祈ってるよう」

 

 名残惜しくも、英雄との談合は終わりを迎えた。

 ソルが最後に一礼する。ふうっと息を吐いた。

 絨毯の模様を見つめ、この談合の自己採点を行う。

 

(なかなか、上出来だったのじゃなからんか)

 

 序盤は緊張と興奮が収まらず、それはそれは見るに堪えない有様だっただろう。しかし、本題の怪物退治に移ってからは堂々と振る舞えたように思う。脳内のナッドも「よくできました」と言わんばかりだ。しきりに頷いている。きっと大丈夫のはずだ──。

 挨拶もそこそこに執務室の扉を閉める。

 区切りをつけようとした直前、顔を引き締めた。

 ソルの耳は、ぼそりとした独り言を捉えたのだ。

 

「やれやれ。嫌な時代だねえ、全く」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「うむ。……今日も良い天気じゃ」

 

 そうして一夜明けた、今日。

 ソルは城塞の入り口から遠方を望む。

 山脈の尾根からひょっこりと顔を出した朝日。

 その眩しさに目を焼かれつつ、深呼吸をする。

 清澄な空気が舌を掠めて、口腔を通っていった。

 これは早朝のご馳走だ。日課の鍛錬後の空気の味は格別である。なにせ、重ねた努力がよく染み込んでいるのだ。美味くないはずがなかった。まるでその心地に共感を示すように、からんと腰元から音が鳴る。

 腰に帯びた、愛剣入りの鞘のものだ。

 

(帝国軍から『急な出立ゆえ準備をせよ』と言われたのじゃが、こんなものでよいのじゃろうか)

 

 ソルは首を回しつつ、心許ない装備を見直す。

 バラボア砦に居座っていた頃と大差ない。焦げ茶の外套の下には軽く丈夫な胴丸を着用している。手甲に膝当て、軍靴。どれも軍の支給品だ。変わったことと言えば、新しく拵えた装備のために傷ひとつ、変色ひとつないことだろうか。砦防衛戦のときのものは、ボガートとの苛烈な戦闘の末に砕かれていた。

 腰紐には、私物を入れた巾着袋を下げている。

 あとは小隊を引き連れて、現地へ赴くだけだ。

 

(何とか、オド量も以前までの分が戻ってきたしのう……腕が鳴るのじゃ)

 

 軽く跳ねてみる。身体の調子は良好だ。

 療養中も鍛錬を怠らず──あえなくナッドに見つかり、病室に連れ戻される毎日だったが──勝負勘や、元のオド量を取り戻している。ナッドには随分と迷惑をかけた。だが、自らに怪物退治の話が舞い込んだとあれば、寝過ごすわけにもいかなかったのだ。

 改めて驚嘆したのは『オドが溜まる速度』だった。

 

(わしのこの身体は、実に恵まれておる)

 

 幼女化以前とは比べるまでもない。

 同等の鍛錬を課したとて、生まれるオドの嵩は数十倍もの差があった。それを感じたとき、地を這う凡人が上空に仰ぐ、現実という巨影を見た。突き抜けるような蒼穹は徐々に塞がっていく。翳る心地は薄ら寒く、身体にじっとりとした湿気が覆い被さる。

 自らにできること、できないこと。

 可視化しがたい線が確かに見えた気がして──。

 それでも意地を張って座り込むなどできない。

 

(見据えるべきは、たったひとつだけなのじゃ。わしの憧れる英雄像になること。それ以外は置いていく。固執は身体を重くする。強くなるためには、高みに飛ぶためには、目標以外を切り捨てねばならん……)

 

 だから療養を終え、ひとつの決断を迫られた。

 

(冷静に考えるからこそ、オド消費による加速術は控えねばならん。……この調子では成長が足踏みじゃ)

 

 ソルが元のオド量に戻るまで二週間かかった。

 もちろん、残酷なほどの速度だ。ソルフォート・エヌマが人生のすべてを濾して、ようやく得た力量に、たかだか二週間で追いついたことに等しいのだから。

 しかし、何度も続けるわけにはいかない。

 加速術は成長の足枷だ。せっかく鍛錬で『力』を積み上げようと、オド消費の加速術を使うたび崩され、また一から始めなくてはならない。それは身の丈の遥か上を目指す道中で、捨てねばならないこと。

 あの技術は邪道の極みなのだから、当然だ。

 

(凡人が盤面を覆す。一瞬でもその可能性を掴むための大道芸にすぎぬ。力を持たぬ、命以外に賭せるものがない愚者の技術。……もはや、必要ない)

 

 幼女の身体と相性が悪いことも拍車をかける。

 老人時代──振るう力の大半を筋肉が担っていた時代なら、オド消費の加速術は有効だった。だがいまの姿では外見通り、筋肉は微々たるもので、振るえる力の殆どをオドが担っている。得られる推進力で誤魔化しは効いたが、オド消費は非効率極まりない。

 ソルはそうやって加速術を封印する決断をした。

 

(他の戦闘法は試行錯誤するしかあるまい。なに、良い機会じゃ。以前から、加速術に頼りきりの部分もあった。学んだ他の技術も駆使して、これまで以上に貪欲に、様々なことを磨けばよいじゃろう)

 

 朝日の眩しさに目を細めつつ、遠方を見遣る。

 第二駐屯地は平坦な地形に構えている。顔を正面に向けるだけで、駐屯地の城門から、その遥か先の──霧がかったマッターダリ山脈まで望むことができる。

 その稜線は、バラボア砦で目にした峰より長大に描いている。大自然の壁が蕭条と佇む姿は、なるほど、戦火を遠ざけるだけの威容だと腹落ちする。

 幼女はふうと息を漏らし、やや視線を下降させる。

 石造の門構えの側に、十頭の雄馬の姿を捉えた。

 

(さて、今日の本題じゃが……気重じゃのう)

 

 ソルの辟易の源は、あの逞しい軍馬たちではない。

 彼らは陽光を浴びながらも、粛然と出立を待っている。肢体は静の状態にあっても、生の躍動が感じ取れた。漆黒の双眸は凛々しく切れ長で、しなやかな筋肉は隆々と黒肌を押し上げ、秘められた膂力を垣間見せている。良い馬だ、と一目で理解できた。

 彼らは帝国軍が手塩にかけて育てた軍馬である。

 

(期待を寄せられることは喜ばしいことじゃがな)

 

 幼女の怪物退治のために供与された『脚』だ。ロズベルンの言では「徒歩で向かうには、ジャラ村ってのは遠路も遠路だからなあ」だったか。それで若い駿馬が首を揃えている現状を思えば、帝国軍の『修羅』にかける期待がありありと感じられる。

 ソルはひとり頷くと、そこに歩み寄っていく。

 城門の側では兵装姿の群衆が輪をつくっていた。

 

「おいでなすった。……オメェら、今日が命日って覚悟はしといたほうが良いんじゃねえか? 幼女の姿をした死神が遠目に見えやがる」

「鎌で優しく刈り取ってくれるってんなら、まだマシだろうがよ。俺はあれだ。一個前の討伐じゃあ、御同行を願った英雄様から『トロい』って言われて、胴体が真っ二つになった奴、俺、知ってんだけど」

「上下で真っ二つ?」

「いんや、左右に真っ二つ」

「っひゃー冗談じゃねえなあ。あの次期英雄様は『修羅』なんつー名前なんだからな、ゲラート。馬鹿なこと口走ったら、棺桶が八つくらい必要になるかもな」

「言っても、あのちいっこいの、一応ラスティマイン中将のお墨つきなんだろ? だったら……」

「まあ、下手なことにはなるまい。少なくとも、故意に『事故』を起こす人間性ではなさそうだ」

「そもそもよぉ、あの少尉様が死神なんて存在なわけないだろ。死神──土神アニマってのは伝承じゃ、人々を虜にする魅惑の身体だったって話だろうが。死神が少尉様なら、土神信仰の奴らが報われねー」

「ま、あのちんまいのに信仰は集まんねーわな」

「オメェら、ちったあ俺の心配しやがれよ。誓いを忘れたわけじゃねぇよな、おい。『俺が死ぬときは全員道連れ』。いつも出立前に言ってるだろうが」

「俺らの誓いっつーか、おめーの座右の銘だろーが」

「ちなみに、ゲラート除く全員の座右の銘は『死ぬときは一人で逝け』だかんな。だからな、早よ逝けな」

「全くね。あなたと同道する気はないから。とりあえず考え方を前向きになさい、多少、いえ、ほんの少しくらいは死に顔が見れるようになるから」

「……お前ら、好き放題に言ってんな……」

 

 どうやら、和気藹々と立ち話に興じているらしい。

 ソルが内容を聞き取れる距離まで近づくと──。

 

「これは少尉殿。こちら、準備完了しています」

 

 気怠げだった彼らは一転、居住まいを正した。

 直立不動のまま。敬礼を向けてくる。

 ソルは驚きつつも礼を返しつつ、それぞれの顔を見回す。髪色、肌色、装備……どれを取っても統一性を欠いていた。幼女に臨む態度も各々、色が違う。

 たとえば栗色の髪の大男。彼は目を合わせながら、揶揄を口角に含んでいる。かと思えば、隣では優男が慇懃に敬礼のまま微動だにしていない。視界の端にいる黒髪の女など、あくびを漏らしていた。

 一見すると、すべてが不統一の集団である。

 共通点と言えば、鄙びた帝国軍服だけだ。

 

(驚いた。やはり帝国兵は礼節がある程度、浸透しておるのじゃなあ……成り上がり者かつ、この姿の上官に対してまともな対応で迎えるとは思わんかった。ならず者の多かった傭兵連中とは雲泥の差じゃのう。無論、わしにも同じことが言えるが)

 

 彼らは、ソルが指揮を執ることになった小隊。

 つまり怪物退治における部下たちだ。ただ少尉の地位に就いたにしては少ない手勢である。しかし、帝国の獄禍討伐隊では珍しいことでもないらしい。これが平時であれど、手の空いた腕利きとロズベルンの手勢を集めて、少人数で回しているという。

 怪物退治も立派な役目だが、帝国は戦争で忙しい。

 国益として、優先されるのは他国との諍いだ。人材が戦地に動員される関係上、万年人数不足に悩まされていると聞いた。当然ながら入れ替わりも激しく、この部隊に留まる人間は稀有であるとまで。

 ソルも例に漏れず、目前の部下とは初対面だ。

 

(即席で編成された部隊……とはのう。人数ばかり多くとも、連携がとれねば烏合の衆じゃろうに。急ぐにしても急すぎるじゃろう。そも、わし自身、指揮官という柄でもないのじゃが……心配事は尽きぬ)

 

「出立準備が整いました、ソル少尉!」

 

 馴染んだ声が、脳裏に過る一抹の不安を拭った。

 軍馬に目を遣ると、巨躯の影から青年が現れた。

 いままで下準備に追われていたらしい。彼は頬に薄く付着した土跡を拭い、敬礼の形をつくる。

 その引き締めた表情は、かの日の頼りない面相から一皮剥けたような印象を与えてくれる。

 

「了解したのじゃ。ナッド」

 

 名前を呼ぶと、ソルは口元が綻ぶのを感じる。

 彼が背筋を伸ばした姿勢は、図抜けて綺麗だった。

 ナッド・ハルト。初対面時の顔つきと照らし合わせれば、精悍に研がれたものだと思う。多少なりとも目つきは尖り、厚くなった口元を引き絞られ、眉間に皺の跡が残っている。癖の強い茶髪が微風に揺れた。商人とは違う、戦士の空気が僅かながら薫っていた。

 ひとつの戦場を越えて、成長を遂げた証だった。

 

(ナッドには療養中、随分と世話になった。言葉遣いに始まり、振る舞い方までのう。怪我が根治したいまからは恩を返していきたいのう。ずっとナッドにおんぶに抱っこでは、本当にただの幼女なのじゃ)

 

 ナッドもまたソルと同様に、討伐隊へ編成された。

 だが、ナッドは本来ならここに来る人間ではない。

 砦防衛を成し遂げ、十分に手柄を立てた。この一件が済んだ時点で帝都に戻り、出世街道を邁進できたはずだ。だが彼はその好機をふいにし、ロズベルン中将に討伐隊への入隊を嘆願したという。

 少尉を放っておけない、ということらしい。

 それについては、悲喜の感情を定めかねる。

 慕われるのは満更でもないが、彼の未来を閉ざすようで心苦しくもあったのだ。

 

「見つめ合ってるトコ悪ぃけど、少尉さんよぉ。このお坊ちゃんから話は聞いてるぜぇ? 前の仕事場が同じだったらしいじゃねえか。だからって、お坊ちゃんを贔屓目で見るんじゃねぇぞ」

「贔屓なぞするつもりはないのじゃ。結果に応じて判断する。……ぬしの名は何と申す」

「ゲラートだ、よく覚えといてくれよ? 俺が手柄を立てたときのために名前を呼ぶ練習もしとくかぁ?」

 

 馴れ馴れしく絡んできたのは、小隊一の大男だ。

 彼も帝国北部の生まれなのだろうか。ギラついた黄瞳と鷲鼻が特徴的だ。髪色も栗色が強く、そこに埋まるように色彩豊かな髪紐が見え隠れしていた。体型は、ボガートを彷彿とさせる巨躯を誇る。見上げなければ、嘲りを含んだ口許すら視界に入らない。

 この体躯があれば白兵戦では無類だろう。

 

(大口を叩くだけの力量はあると見た。軍服越しでも筋肉のつき方が窺えるほどじゃ。ラムホルト殿ほどではなかろうが、意気に相応しい実力を備えておるとすれば……手並みを拝見する機会が楽しみじゃのう)

 

 思わずソルが微笑を零す。

 その反応が気に食わなかったのだろうか、ゲラートは憮然と大きく肩を震わせていた。

 そのあと、黒髪の女が聞えよがしに鼻を鳴らした。

 

「ソル少尉、ゲラートへの対応として『無視』という策を具申するわ。小物臭さ全開の態度に真っ向から対応すると疲れるから、適当に聞き流すのが吉よ」

「……胸に留めておくのじゃ」

「賢い子ね。無駄に刺々しい言葉を聞くのは、お金をもらっても嫌だもの。いい? これが上手な世渡りというものよ。心が貧しい相手は無視。これから流して送る生き方を覚えていきましょう?」

「お前ら……上官に向かってどんな距離感だ……」

 

 見ると、ナッドの口角がぴくぴく引き攣っていた。

 ソルにも理解はできる。彼の性格上──というよりも士官学校で学んだ常識としてだろうが──無作法には滅法厳しい。一連の流れだけでも『目上の人間相手に敬語を使わない』『上官の許しなく話しかける』『友好的とは言えない態度をとる』。どの対応も、ナッドからすれば憤死ものの失礼なのだろう。

 ただ、元傭兵のソルとしては馴染み深かった。

 

(先ほどの敬礼は『最低限の敬意は払う』という動作じゃったのかのう。であれば……うむ、意気込んで上官面を繕わずともよさそうじゃのう)

 

 ナッドが横合いから、睨みを利かせ続けていることには悪いと思いつつも、幾分か気が楽だった。ソルは元々、傭兵という根無し草。「上下関係の線引きを濃くするのは、人間関係を円滑に進めるための条件」とは頭で理解できるが、身についてはいない。

 

(まあ、英雄が幅を利かせる世のなかじゃ。むしろナッドのような常識人が生きづらい時代かもしれんのう。いまは力さえあれば、人間性や常識は蔑ろにされる傾向にある。もちろん、現場のみでの話に限るのじゃが。当然、公的な場では控えなくてはならん)

 

 軍に甘んじている英雄たちが、その証拠と言える。

 名だたる英雄たちは奇人変人が極端に多い。

 常人と違ったから英雄なのか、英雄だから常人と違っているのか。どちらにせよ険しい道程である。平凡な感性では付いていくことも困難だろう。

 大男は舌打ちを落としつつ、横に視線を飛ばす。

 

「なに、ゲラート。文句でもあるの?」

「オメェ……はぁ。モノ知らねぇ少尉さんに変なこと教えてんじゃねぇぞ。名乗れよマジェ」

 

 促されて一歩、前に出たのは小隊の紅一点だ。

 先ほどゲラートに対して茶々を入れた少女である。

 想起したのは、うらぶれた路地に住まう野良猫だ。

 ボサついた薄墨色の髪と、身に纏う鎧の汚れ具合、浅黒い肌がその印象を与えている。瞳の奥を見通せないほど、目に光が届いていない。目を合わせても、内心を窺い知ることはできそうもない。ただ、仕草や声の調子で『怠い』の二文字が浮かんで見えた。

 黒一色の彼女はただ億劫そうに言う。

 

「ロズベルン中将より副小隊長を拝命された、マジェーレ・ルギティ。階級は軍曹よ、少尉」

「うむ、よろしく頼む。……ぬしは道行の案内も兼任と聞いておるが、間違いはないかのう?」

「ええ。大森林も含めて、私の遊び場だったから」

 

 事務的な内容に、彼女は最低限度で応える。

 終われば「用は済んだ」とばかりに一歩退いた。

 その呆気なさに、いささか肩透かしを喰らう。

 

(初対面ゆえ当然じゃが、ゲラートとは質の違う『壁』を感じるのう。彼を弄るときは、わしにも無駄口を挟んできたのじゃが……それよりも)

 

 ソルは、彼女が再び漏らしたあくびを無視する。

 着目したのは、少女が背負う、得物と思しき物品。

 

(どう扱うかはわからぬが……魔導具じゃのう。表面に隙間なく聖文字が刻印されておる……)

 

 一見すると、鋼鉄が蛇行した形状の──赤銅色の棍棒のようだった。直径は少女が十分握り込めるほど細く、複雑な形すべてが均等に同じ太さである。全長は少女自身と等しく、重量は表面の質感から相応に備わっていると推察された。だが、軽々と背負っていることから実情は不明である。そして、もう一つ。

 推測だが、彼女はソルの実力を凌駕している。

 

(筋肉とは違い、オド量は目に見えない。だが気配で多寡を知覚できるときはある。身体に秘められたオドが莫大だった場合、周囲の人間がピリついた感覚を覚えたり、硬直することがあるのじゃ……確かそれをナッドは、強者特有の気配と呼んでいたのう)

 

 ソルは、マジェーレから一種の圧を感じていた。

 肌が粟立つ。首筋には刺すような痛みを覚える。

 実践ではどうかわからないが、オド量だけで語るならば、英雄級にも手が届いているはずだ。そこに心強さを覚えるよりも、どこか不穏さが見え隠れするのは、彼女の態度が不透明だからだろうか。

 ──これから気を配る必要があるかもしれない。

 ソルは折に触れて、気力の萎えた様子の少女に目を遣りつつ、帝国小隊それぞれの顔と名前の確認を一通り済ませていく。幸いなことに何の変哲もなかった。

 順調に終えると、出立時間に差しかかっていた。

 

「……思いの外、時間を食ってしまったのう。みな、それぞれの馬に跨れ! 出発じゃ」

 

 舌足らずの号令とともに、帝国小隊は動き出す。

 面々の表情は様々だ。生真面目な無表情、不満そうな顰め面、諦観を思わせる呆れ面、マジェーレに至っては、隠れて総計十二度目のあくびをしていた。

 彼らから一様に感じられるのは、侮りの色だった。

 見目によるものか。それを見逃すソルの対応によるものか。きっと両方だろう。上官の立場としては危うい。だが、上段から見下ろし、手勢に命じるような形は望んでいない。それは理想の英雄像とは異なるのだ。

 ソルは理想と実益の板挟みにあっていた。

 

(二つを折衷する関係性の模索が急務じゃのう。しかし、まだわしには人の上に立つ経験が足りぬ。……これからも帝国軍に籍を置くならば、何らかの答えを出さねばならんじゃろうが……)

 

 ともあれ、ソルも出発準備を整えねばならない。

 幼女は各々が乗り込む背中を脇目に歩く。

 俯き加減のまま、目的の場所まで辿り着いた。

 そして、鞍に跨ろうとするナッドの袖を引っ張る。

 

「ん、ん、ん……? 少尉?」

「ではナッド。頼むぞ」

「はい? えっと、どういうことですか」

「……話が、通っておらんのか」

「いえ、特に何も」

 

 当惑する彼を前に、幼女は顔をわずかに逸らす。

 

「どう言えばよいかわからんが……そのじゃな。軍からわしは馬に乗れぬと判断されたようでな……相乗りを、その、頼みたいと、じゃな」

 

 先ほど、軍馬を目にして気重に感じた根源である。

 実を言うと、ソルはこの馬とは初対面ではない。

 昨晩、馬飼い監視の下、幼女の乗馬試験が行われたのだ。一般的に、幼女は乗馬できないのである。帝国側がどんなに駿馬を揃えたところで、乗れないのであれば宝の持ち腐れだ。しかし、幼女は一般的な幼女ではない。積み重ねた六十五年の経験がある。馬の手綱を繰り、街から街を渡り歩いたことはあった。

 ソルは戸惑う帝国兵の前で、事もなげに頷いた。

 

 ──乗馬? 人並み程度には心得ておるのじゃ。

 

 そう豪語し、意気揚々と馬の背に跨って──。

 結果は惨敗。その短い脚では、どうにも(あぶみ)に足が届かなかった。身体の固定化にロープを使う案が出たが、即座に却下された。急を要する事態に陥った場合、対応が遅れるのは致命的なのだ。

 そのあとは侃々諤々と意見が戦わされた。

 距離の関係上、徒歩でジャラ村に向かうことは考えられない。何とか移動手段を確保せねばならなかった。議論の末、折衷案として編み出されたのは──。

 すなわち、誰かの軍馬に相乗りするという方法だ。

 

(思い出すもっ……恥を忍ぶのは慣れておるはずじゃが、なぜじゃ。これは格別に恥ずかしい……本来の姿であれば、そこらの悍馬相手でも乗れたのじゃぞ)

 

 らしくもない言い訳を含羞とともに吐き出す。

 ナッドはぽかんと口を開けていたが「そっか、そうだよな。数えてみりゃ、馬の数が人数に足りてないんだもんな」と呟いて一気にソルを掬い上げる。

 幼女の矮躯は十秒後、すぽんと収まっていた。 

 ちょうど馬首とナッドに挟み込まれるようにして。

 

「こう見ると、わしは完全に子供じゃのう……」

「そりゃそうですよ、少尉。尻の方に乗るのは危険ですし、この体勢なのは勘弁してください……。皆も乗ったようですし、出発しましょう」

 

 幼女の出発の合図はどこか虚ろだったが──。

 ソル率いる帝国小隊は、ジャラ村へと進み始めた。

 



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2 『少女との夜会話』

 シェイターネ男爵領、ジャラ村。

 ──その村までは、馬脚で三日ほどかかるわ。

 それが、案内役を務めるマジェーレの言だった。

 

(念のため地図を照らし合わせても、おおよそ見込みは間違っていないようじゃ。まあ……ロズベルン中将の抜擢じゃ。疑いすぎるのも良くない、かのう)

 

 日数の大半は、行く手を阻む自然に費やされる。

 ここまで来る道すがらにも大自然が蔓延り、幅を利かせていた。たとえば断崖絶壁、鉄砲水を乱射する激流、底も見通せぬ深谷。それらを渡る手段が朽ちかけている吊り橋一本だった、という機会には幾度か出会した。苔生した地割れが進路に横たわる様は、まるで物理的な境として線を引かれているようだった。

 ジャラ村は、徹底的に隔絶された地にある。

 この苛烈な土地は、神代と現代を分かつ厄災の名残らしい。領地を治めるシェイターネ男爵も峻烈な大自然に手を焼いた結果、付近の整備を疎かになっているのが現状のようだ。

 ソルは付近を見渡しながら、馬上で唸る。

 

(わしの故郷よりも辺鄙な場所じゃのう……)

 

 帝国小隊が進む森には淀んだ薄闇が満ちていた。

 頭上に手を広げた大葉は日光を遮る。視線で地面を浚えば、陰気な草花が隙間なく生い茂っていることがわかる。軍馬と言えど歩を進めるのに一苦労だ。

 葉擦れがかさかさと波立つ。人の呼気のごとく生温い風が露出した肌を舐めていった。その感覚はさながら怪物の口腔のなかを進んでいるかのよう。

 ソルは表情を変えないまま、馬首に手を這わせる。

 かろうじて一行は細々と続いている道を行く。

 

「変に……気味が悪い場所だな」

「この空気、ナッドは好きじゃないのかのう?」

「……ええ、昔っから暗いところは得意じゃなくて。そうじゃなくても、好き好んでこんな陰気な場所に寄りつく人間なんていない、とは思いますよ」

「ごめんなさいね。ここが私の遊び場で」

 

 突然の声で、ナッドは竦み上がる。

 背後に頭を巡らせると、淀んだ黒瞳が出迎えた。

 

「いや、その、お前さ……遊び場だったって言ってるけど、ここで何して遊んでたって言うんだよ。こんな虫だらけの森でさあ。第一、遊ぶ相手もいないだろ」

「たくさんいるわ。そうね、狼? とか?」

「何で語尾を上げるんだよ……ドン引きしていいのか気味悪がっていいのか、判断に困るだろ」

「まあ、一人でも意外と遊べるものよ」

 

 マジェーレは難なく言ってのける。

 馬上から検分したソルとしては俄然、興味が湧いてくる。ナッドが顔を伏せながら零した「強引に誤魔化したつもりなのか?」という言葉に追随するわけではないが、この森は、年頃の娘が足繁く通うような場所とは思えない。天と地と言わず、至るところに植物が葉と枝が手を伸ばし、根を張っているのだから。

 鬱蒼とした木立は人間の立ち入りを拒む。

 虫の鳴き声は追い出しにかかるようですらある。

 

「意外と遊べるったってお前……って言うかマジェーレ、別にここで生まれたわけじゃないんだろ?」

「マジェは南の生まれだぞ、坊ちゃん」

「そーそー。あの鴉みたいな髪と、あの肌で分かるだろうがよー。南部のド田舎生まれに決まってら」

「……その頃の記憶なんかないけれど、ね」

「そいやな、俺な、そこに無二の親友がいてな──」

 

 列の後方の男たちが次々と会話に加わってくる。

 これを皮切りに話が膨らめば、会話の主導権はソルたちの手を離れ、球遊びさながらに後方に回れば、もうソルの元に返ってくることはなかった。たまに話題が前方に回ってきたとしても、ナッド、もしくはマジェーレが慣れた口調で投げ返すのみ。幼女は入ることもできず、ただただ口を挟めずじまいであった。

 むっつりと黙ったまま、周囲への警戒を強める。

 

(他にすることもなし。皆が気を抜いておる間、わしが気を配らねばならんのう)

 

 この、ひしひしと感じる疎外感には覚えがある。

 わざわざ己の過去を遠目に見返すまでもない。

 宴会の外で、ずっと剣を研いでいたような男だ。誰も観衆のいない舞台で、練習だけを重ねてきた。夜天に昇る青褪めたような色の照明、その冷たさを知らないわけがなかった。身体に馴染んですらいる。

 けれども、なぜかは自分でわからないまま──。

 ソルは、頭頂部をナッドの胸鎧に押し当てる。

 顎を上げ、いまだ青臭さが残る顔を半目で見つめ。

 

「ぬし、だいぶ馴染んでおるのう」

「ええ、その、まあ……彼らとは、出立の前日から顔合わせが済んでましたから。多かれ少なかれ、どんな人間か解されれば、会話で席は用意されますし。……ですからその、責めるような目で見るのはちょっと」

「責めておるつもりはない。あと、いまは誰も聞いてはおらん。敬語はやめんか」

「……はあ。結構、危ないとは思うけどな」

 

 ナッドは声を潜めながら、力を抜いて首を振る。

 

「ソルの出足、あまり良くないな」

「やはり……そうかのう。一応、鷹揚に受け答えしておるつもりだったのじゃが。この小隊の空気には馴染めておらん。自然に避けられておるような心地じゃ」

「事実、扱いかねてるんだ。考えてもみろよ、上司が幼女って。たとえ実力主義の趣きが強いビエニス王国でだって、流石に顰蹙ものだろうし」

 

 ──そうは言っても不可抗力じゃ。

 幼女は細腕を組む。昨日は慣れない作業に明け暮れていた。日中は、まずロズベルンとの会合、次に南部戦線の指揮を執る中佐との顔合わせ、その間隙を縫って日課の鍛錬に取り組み、夜間は乗馬実験等の出立準備。このとき図らずも幼女認定され、放心気味のまま再び鍛錬に時間を割いた──と、この通り、彼女の予定表はすっかり埋まっていたわけである。

 だが、ナッドは「いやあ」と眉尻を下げた。

 

「日中か夜中か、どっちの鍛錬の時間を削ってさ、その時間使ってあいつらと顔合わせを済ませておけば良かったんじゃ……とか、言いたいんだけどな。まあ、ソルにその選択肢はないよなあ」

「うむ、物事の比重を見誤るわけにはいくまい」

「お前のなかで鍛錬の優先順位がぶっちぎり一番なのがなあ……正直、ソルが少し譲歩すれば実現したことだからさ、しょうがないとは思えないんだよ」

 

 ──別に、不可抗力とかじゃなくてさ。

 そんな恨めしげな瞳から、ソルは視線を逃す。

 ナッドは幼女の偏執ぶりが身に沁みているようだ。

 

「入院中に何度、頭を悩まされたことか……」

「ああ、いや、その時分は……すまぬ」

「目を離せば剣ごと消えてるし」

「申し開きもできぬ」

 

 頭を下げる代わりに目を伏せる。

 その自省の念が伝ったのか、彼は頬を掻いた。

 

「というか、無理してあいつらと打ち解ける必要はないんじゃないか? どうせあと数日の付き合いなんだろうし、討伐さえ終わってしまえば──」

「そうはいかん。烏合の衆のまま怪物退治など、結末は三々五々が関の山じゃ。最低限の関係は築かねば」

 

 という理由は、実を言えば方便に近かった。

 ソルは鼻筋に指の背を添える。

 

(わしの英雄像のためじゃ。仲間を得る術、その基礎を築かねばならんからのう。この機会に糸口くらいは見出しておきたいのじゃ)

 

「でもまあ、あいつらとの仲は何とかなるとは思うけどな。たかだか一日の付き合いだけど、悪い奴らじゃないのは確かだし。前の俺みたいに偏屈な奴はいなさそうだ。……あの女を除いて、だけど」

「……何とか、早目に打ち解けたいものじゃが」

「いまは壁があるからなと、少尉。そろそろ」

「うむ。ここで一晩明かすこととしようかのう」

 

 青年の苦笑は引き締めたものに切り替わる。

 大森林を抜けるには一日では事足りない。

 頭上の裂け目から仰いだ、橙色の帳はすでに藍色に染め直されていた。駆け足で消えた太陽は仄かな冷気を引き連れ、道脇に茂る草葉に暗幕をかけた。これでは、狼の凶手を目視することも叶わない。

 宵の森を闇雲に進むことは下策と言える。

 ここは、朝日を待ちつつ休息を摂るべきだろう。

 ソルは上体を起こし、後続の軍馬へ呼びかける。

 

「軍曹!」

「分かっているわ。野営地はすぐそこよ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 その野営地には、設備が存在していなかった。

 マジェーレの案内で辿り着いた場所は「男爵が整備を怠っている」という言に、深々と頷けるほどの見窄らしさである。見窄らしい以前に殺風景なのだが。

 ただ、木々が同心円に伐り倒された空間だ。

 ソルの頭上を覆い隠していた枝木はここにない。

 星を塗した紫根の空が、黒葉を円形の額縁にして飾られていた。道中の空といえば裂け目からの木漏れ日のみだったがゆえに、開放感はひとしおである。

 幼女は「奇妙じゃ」と小さな頭を傾いだ。

 

(いささか違和感があるのう。男爵による一帯の整備が疎かじゃという割に、この場所だけは草木の浸食が軽微にすぎる。伐採された木々も朽ちずして脇に積まれておる。……直近に、誰かが整備した(・・・・・・・)ように勘繰ってしまうが)

 

「ちげーよ馬鹿、俺が三個前にいたのはもっと南だってーの。バラボアよりも南。話は風の便りで聞いたろ? あそこじゃ一時期、イブレーシス中将とビエニスの『円環の導翳し』の真っ向勝負しててよ、俺ぁ城塞に篭ってたけど、生きた心地しなかったっつーの」

「貴様、イブレーシス殿の下にいたのか。羨ましい」

「きちーぞ、あそこ。脳味噌が筋肉じゃねーとやってられねーの。ガチガチの礼儀作法で雁字搦め。今時、あんなの流行らねーってのに」

「いや……ここがおかしいだけと思いたいんだが」

「お坊ちゃんは言うことが違うねー」

「その点な、ラスティマイン中将のとこの緩さな」

「私たちを置いてる時点で、ねえゲラート?」

「俺に振るんじゃねぇよ、オメェだけだっつの」

 

(……さて、どうしたものかのう)

 

 噴き出すように炎がゆらめき、踊る。

 ソルはぱさついた保存食を口に運びながら、視線を前に遣る。そこ──野営地の中央では、焚き火が燃え盛っていた。根元では、組まれた木片と薪が黄蘗色に光っている。炎の輪郭たる紅緋は風に揺らぎ、熱を乗せた靄とともに黒ずんだ木端を吹き上げる。

 この焚き火の支度自体は容易なものだった。火の扱いは、野営の折には必需と言われる、炎属性を扱える人員に任せるのが一般的だった。火起こしの必要を迫られないだけで、野営の難度は著しく下がる。

 現在、小隊は炎を囲うように環をつくっていた。

 そのなかで、幼女は一人あぐらを掻いている。

 

(もはや恒例じゃが、話に入れぬのう……)

 

 手の干物を齧る。ぐにぐにと噛みきりにくい。

 格闘すること数秒、顎を上げて嚥下する。

 そのとき、ふさりと腰に羽毛が撫でたような感触。

 後頭部で一つ結びにした白髪が触れたのだろう。

 

(十代の終わりまで、この髪が鬱陶しいと思っておったのう。そういえば、わしが短髪の時代は、傭兵になって間もない頃と、三十代のとき奴に髪を燃やされた頃の二回のみじゃったか……と)

 

 幼女はわずかに頭を傾ぐと、愁いを追い出した。

 

(いやいや、懐かしさに浸って現実逃避してはいられぬな。過去は過去。向き合うべきはいまじゃ。差し当たって、この疎外感を打破せねば)

 

 眉間にぐぐっと皺を寄せ、隊員の様子に目を遣る。

 彼らの大半は、兵装を解いた肌着姿で思い思いに座していた。ソルと炎を挟んだ向こうでは、少女が安座のまま額を地につけるほど背を丸めている。

 その隣にゲラートの巨体が横たわる。片肘を立てて自らの頭を支えていた。ソルはその姿におおと唸ってしまう。兵装越しでも主張の強かった筋肉が、断崖の岩肌のごとき峻険さを誇示しているのだ。

 ソルが、強さの象徴に目を奪われるのは詮方ない。

 

(まあ、憧れじゃからのう。元の姿のときも、身長も筋肉の厚みも足りず……果ては幼女じゃから。とは言え、二度目の機会を与えてくれた魔術師には感謝こそすれ、文句を言うつもりはない)

 

 言いたいことはあるが、とソルは青息吐息を切る。

 視線を右に流せば、ナッドが彼らを厳しい目つきで睨みながら、片膝を立てている。その他には正座する者、両足を投げ出す者などが目立っていた。

 いま彼らの談話の俎上にあるのは、今宵の方針だ。

 マジェーレが猫背のまま、辺りに目を走らせる。

 

「交代で歩哨を立てましょう。ここじゃ敵兵や野盗に気を配る必要はないけれど……無防備のまま眠ったら、目覚めたときには狼のお腹のなか。そういうこともあるわ。この森、獰猛なのが根城にしているから」

「お前の遊び相手のな」

「なら、遊んでみる?」

 

 少女の薄ら笑いに、茶々を挟んだ男は手を振る。

 

「嘘だよ嘘嘘、そいつはホントに勘弁な」

「根性がねぇなぁオメェは」

「ゲラートにだけは言われたかねえーだろよ」

「全くだな。君は以前から、大口を叩く割には結果が小さい男として界隈で有名だぞ」

「それ私も聞いたことあるわね」

「どんな名の馳せ方してんだ俺はぁ! 何でぇクソども、オメェらは俺に寄ってたかってよぉ……」

 

 ごほんごほん、と高めの音が転がる。

 幼女の咳払いで会話は止み、衆目が一点に集まる。

 ソルは話を軌道修正するべく見回して、言う。

 

「とりあえず、歩哨の件を消化せんか? 軍曹──」

「ええ。歩哨を立てるなら分担させましょう。負担を集中させるのはよくないわ。とすると、何人ずつで持ち回りにするかが問題だけれど」

「……ならば、三人組で代わりばんこに──」

「二人組で十分よ、少尉。実力的にも妥当ね。新兵同士を組ませなければ良いでしょう」

「そうじゃな。ぬしの通りにしよう」

 

 淡々とした正論に沈められたソルは黙り込む。

 少女はそれを見遣っても、表情ひとつ変えない。

 こなれた話運びで、歩哨の組分けを捌く。てきぱきと名指しで組ませ──おそらくは事前に、個々の実力を把握しているのだろう──誰も異を唱えないまま、数分と経たずして決を取るまでに至る。

 輪のなかでひとり、白の幼女は肩身が狭かった。

 マジェーレは余程、ソルより長に相応しかった。

 

(わしの尻ぬぐいの位置たる、副隊長を任されておるだけあるのじゃろうな。見目の若さによらず、能力の高さは折り紙つきというわけかのう。わしとしては、賛辞を口にする他ないのじゃ)

 

 長という柄ではないソルにとっては心強い。

 もっとも、お株を奪われているのもまた事実。

 側頭部にナッドからの視線が突き刺さっている。

 面子が潰されているのではないか、と言いたげだ。

 ソルは目を瞑り、小さな頭を幾度か横に振る。

 

(わしが功名心に逸り口を出したとて、流れに水を差すことにはなれど、掉さすことにはならぬ)

 

 ナッドの、ソルに対する認識は複雑と知っている。

 ──俺は基本的には尊敬してんだけどな。

 ──でも、世間ズレしてるとこは直さないとな。

 幼女に振り回された彼は、ひとつの境地に至った。

 

(立ち位置を確立したと言うべきかのう。人前では、上官のわしの顔を立てるために何も言わんが、二人きりになったとき説教。有り難くてかなわんが、こうも振る舞いが過保護じゃと……その、何じゃのう)

 

 彼はまるでお目つけ役。あるいは保護者だった。

 もし周囲の目さえなければ、今頃は小言が飛んでいたであろう。上辺だけならば妥当な関係性に見えることが、ソルにとっては素直に受け入れがたいところではあった。そんな彼は平素を装いつつ、自然と会話に加わっている。折に触れて、幼女に目配せが飛ぶが。

 いまは上官の体面を崩さぬため、口出しを控えているにすぎないのだろう。

 

(じゃが、先頭に立って集団を導くことは生半ではないからのう。わしは多人数の手綱を握るだけの経験が不足しておる。いま真似事を弄じたとて、良い結果には繋がらんじゃろう。……ナッドに睨まれようと、いまは軍曹に任せておこう。うむ)

 

 瞼を下ろしたまま、幾度か顎を引く。

 自らを説き伏せ、ひとつの区切りをつける。

 彼からの物言いたげな視線は粛々と受け止めた。

 

(わしのほうは、皆と打ち解けるよう努めよう。……無論、本分を忘れたわけではない。長の責任を投げ捨てたいわけではなく、これも長としては肝要じゃ)

 

 ソルは手始めに、左隣を陣取る男へ声をかけた。

 痩身の彼は、この小隊では平均的な体格だった。幼女と少女のせいで平均は引き下げられているが、十分に逞しい身体つきだ。炎属性の魔術を扱えるようだが、どうやら魔術一辺倒という雰囲気ではない。

 先手は、自己紹介が安定かと思われた。ソルは気安さを心がけながら話を切り出す。彼はいささかの気後れを額に皺として滲ませるも、鷹揚に応えてくれた。

 人となりを知るには、名前、出身、経歴、どの戦に参加したのか、どんな英雄を見たことがあるのか──おおよそ、これだけの質問で事足りるはずだろう。

 しばし言葉を交わしていると、男は不意に億劫そうな顔で「あのな、すまんけどな」と腰を浮かせた。

 

「白熱してっとこ悪いがな少尉さん、そろそろな」

「おお、何じゃろうか」

 

 そのとき、背後から軽く頭頂部を叩かれる。

 

「就寝よ、少尉。時間まで仮眠、了解?」

「……承ったのじゃ」

 

 どうやら話を弾ませすぎたようだった。

 踏み込んで言うのなら、ソルは英雄が話に絡みだした辺りから暴走し、ひとりで弁を振るっていた。男の相槌が引き気味のものに変わり、苦笑いに変わり、最後には助けを求めて視線を彷徨わせることに変わり果てるまで、そこまで時間はかからなかった。

 しょぼくれたソルが仮眠前に見たのは──。

 足早に去った男の肩を叩く、ナッドの姿だった。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 徐々に夜は更けてゆく。

 夕餉で小腹を満たせば、あとは曙光を待つだけだ。

 明日の行進に備え、小隊は早々に仮眠に入った。

 

「……少尉殿」

「ああ、かたじけないのう。任されたのじゃ」

 

 幼女は部下に揺り起こされ、すっと目を覚ます。

 どうやら歩哨の引き継ぎの時間らしい。

 寝ぼけ眼のまま、明かりを頼りに片割れを探す。

 相方はちょうど隣で、猫のように丸まっていた。

 

「起きるのじゃ、軍曹」

「……ふああ……もう、なの?」

「睨むでない。……寝起きが悪いのか?」

 

 ──そも、仮眠ではなく眠りこけておったのか。

 幼女の呆れ顔の前で、歩哨の相方である少女──マジェーレは、目元を擦りながら無言で起き上がった。かすかに見悶えながら、黒髪を無造作に払い、膝を立てる。手先から膝の動きまで覚束ないが、どうやら転倒の心配はないようだ。彼女がさながら動く屍のように見えるのは、無理に抉じ開けた瞼にも一因がある。

 白玉を穿つ黒点たる、瞳孔が開ききっているのだ。

 

「眠い」

「見ればわかる」

「わかったからどうと言うの。私を眠らせなさい」

 

 即時、言い返すところを見るに溌剌らしい。

 一時は目を放しても問題ないと思われた。

 ソルは愛剣を携えて、どっかりとその場に座す。

 そして、月明かりが降り注ぐ野営地を見渡した。

 

(皆はよく眠っておるのう)

 

 いましがた任を終えた二人以外は寝静まっている。

 冴え冴えとソルの記憶に刻まれた者たちは──ゲラートが巨躯を大地に放り出して眠っている他、ナッドが苦虫を噛み潰した表情のまま丸まっている。悪夢にでも魘されているのだろうか。ソルは妙な既視感を覚えたが、寸刻を置いて腑に落ちた。

 あれは、彼が幼女を見守るときの表情に似ていた。

 どこまでも難儀な男だった。

 

(さて、わしもお勤めを果たすとするかのう)

 

 ソルとマジェーレは歩哨としては最終組だ。

 つまり総員が任を終えた時頃である。空から沈む月は、すでに黒々とした木葉に隠されていた。日の出自体も遠いのだろう、星空の絨毯に仄かな月光を残したまま、いまだ辺りには紫の帳が降りている。

 そこに、薄闇と同化するかのような少女が佇む。

 マジェーレは立ったまま眠っていた。

 

「……んん」

「二度寝は勿体ないのじゃ」

「寝る子は育つという言葉を聞いたことがあるわ」

「怠惰の言い訳じゃな」

「寝る間を惜しむなんてカビた考えね」

 

 ソルが一蹴すると、鼻で一笑に付される。

 

「睡眠は大事よ。お金と同じくらい大事。これからの身体の成熟に影響を及ぼすし、翌日の集中力も散ってしまうし、私の腹の居所も悪くなる。だから私は眠りたいの。真夜中に鍛錬する変態は死ぬべきよ」

 

 平坦な声による高説に、感心の溜息を漏らす。

 ──そうか、わしの考え方は古臭いのか。

 マジェーレの言葉は、ことによく理解に届いた。薬も過ぎれば毒と化す。身になる鍛錬に励むあまり、睡眠を二の次に据えてきたのは悪手だったようだ。腹を満たし、鍛錬に没頭すれば、いつか高みまで飛べると思い込んでいた。ソルは己の無学を恥じ入った。

 睡眠大事、と脳裏に刻み込む。

 

(さらりと変態呼ばわりされた挙句に殺害予告まで喰らったが、まあよいか)

 

 ともすれば、少女の睡眠妨害とは悪いことをした。

 反省の念に肩身を狭め、目尻を下げた幼女。

 煙に巻かれたなどとは露ほどにも思わなかった。

 

「長々と喋っていたら眠気も覚めてきたし、そうね。暇潰しにお話でもしましょうか」

「大人という歳には見えんが」

「もう十四よ、私は。少尉はいくつ?」

「……八歳なのじゃ」

 

 ソルは練習通りの返答に成功する。

 密かにぐぐっと両拳を握る。努力は一日にして形に成らず。療養中に鏡台の前で「幼女らしい応対」を鍛錬した甲斐があったというもの。その鍛錬中には幾度となく、人生を省みる機会に恵まれた。

 なぜわしがこんなことを──と幾度思ったことか。

 孤独な戦いは、時として己との戦いだ。

 それは鏡に向かって一人「わしの考えた幼女っぽい言葉遣いを試行錯誤する」という精神的拷問にも当て嵌まる。どうしてソルがこうもナッドにも明かせない恥辱に、身を削りながらも励むことになったのか。

 もちろん、被虐的な趣味では決してない。

 ソルとソルフォート・エヌマが同一人物であることを、余人に気づかせないためだった。

 

(わしが、ソルフォート・エヌマであることは広まってはならん事実じゃ。元傭兵の身で、ビエニス・ラプテノン連合軍に与していたこともじゃが、それだけではない。人の魂を他の人体に移して、転生の真似事を為すなど前例がない。万が一、転生が露見してしまえば……研究対象として捕縛されるじゃろう。それは英雄への道から遠ざかることに他ならん)

 

 権力者は誰しもが考えるであろう、永遠の生命。

 安寧から転げ落ちる最期を回避したいのは人情だ。

 死の恐怖に追い立てられ、血道を上げて不死の方法を探した『不死王』という英雄王の名は数百年経ったいまでも、大陸に轟いている。最期まで彼は不死の手段に辿り着けず、佞臣の虚言に踊らされ、毒を飲み下して死亡したらしいが──ともあれ、だ。

 ソルの存在は、時代問わず需要に恵まれている。

 

(あのとき、出会った男が卦体じゃのう。幼女云々は置いておくとしても、身体を取り換えるなどと……どんな魔術を極めれば起こせるのやら検討もつかぬ。禁忌指定は免れんじゃろうに)

 

 そもそも御年六十五歳だと主張しても旨味がない。

 マジェーレの黒い視線が、可哀そうなものを見る色に早変わりするさまが目に浮かぶようだ。

 いや──いまも彼女はなぜか訝しげだった。

 ソルの瞳奥を覗き込むように、見下ろしていた。

 

「な、なんじゃ?」

「いいえ、少し想像と違ったから……」

 

 すっと離れると、無造作に両腕を空に伸ばす。

 

「とりあえず、上下関係ははっきりしたわね」

「年功序列の世界は厳しいのう」

「それじゃあ、お喋りをしましょう。少尉」

 

 マジェーレは合いの手を徹底的に無視した。

 ソルの隣に腰を下ろし、膝を抱く。そして適当に掴んで放るように、幼女へ問いを投げやる。

 

「まずは自己紹介をお願いするわ」

「わしはぬしのことが聞きたいのじゃが」

「こういうものは順番よ。私たちからすれば、少尉のことをよく知らないわ。面と向かっているだけで、おかしな人というのは分かるけれど……まあ、暇潰しにはうってつけだと思うわ」

 

 少女は指折り数え、幼女への不審点を挙げていく。

 

「その年で英雄になるまでの略歴。その見た目で、古めかしい、訛りの強い言葉遣いをしている理由。その年で剣を振るえる理由。ナッドから、本人から聞くよう言われていたのを、たったいま思い出したわ」

 

(できれば、わしに投げんで欲しかったが)

 

 ソルは恨み節を一言に抑える。努めて冷静さを保ちながら記憶を掘り返す。当然ソルフォート・エヌマの経歴を口外できない。ゆえに、ソルとしての人生を語らねばならない。幼女とて考える頭がないわけではない。事前にそれらしい物語を拵えていた。

 帝国軍に明かした虚偽の経歴、ソルの物語だ。

 

「まず、わしは──」

 

 名前はソル。年齢は数え年で八つ。

 出身はバラボア砦周辺にあるダーダ村。

 箱入り娘として育ち、世間知らずなところも多い。

 年齢にそぐわない古めかしい喋りや訛りは、御守を務めていた老爺の口振りが移ったからだ。

 剣の振り方を覚えたのも、彼の影響だった。

 

 ──おとなになったら、英雄様になりたいのじゃ。

 

 英雄譚を読み耽る娘が部屋の隅で描いた夢。

 老爺はその夢想を叶えるために剣の手解きをした。

 いや、実のところ、夢見がちな娘を納得させるためだったのかもしれない。気が済むまで夢への道を走らせ、やがて才能という壁を前にして足を止め、自ずから諦めるときを待つ。あの心配性の両親はそうでもなければ、老爺の指南を看過しなかったはずだ。手塩にかけた娘を血河に沈めたくなかったはず──。

 だが、不幸にも、彼女には類い稀な才能があった。

 

 ──ぬしは、もしや、天へと至れるやもしれぬ。

 

 むかし、英雄を凌ぐ剣豪だった老爺はそう言った。

 微笑んだ彼の、憐れむような瞳が忘れられない。

 

 ──環境が悪い。だが、外を知れば、ぬしは……。

 

 ソルの人生が一変したのは、とある朝だった。

 普段なら老爺の声で起こされるはずが、その日だけは遅く目を覚ました。ぼやけた視界に映ったのは幾度も板目を数えた天井ではなく、黒煙が昇る蒼穹。

 老爺でも、両親でも、垣越しにしか見たことのない村人でもない。夢から覚めた彼女を待っていたのは、連合軍の手により焼かれた故郷だった。

 そうやって天涯孤独という谷底に落ちた彼女。

 食い扶持を稼ぐため、帝国兵の前に現れる──。

 という、ソルの英雄譚を最後まで聞かせた。

 もちろん、すべてデタラメである。

 

(しかし、なかなか良い出来じゃなからんか。まさに英雄譚の始まりのようじゃ。『世間から隔絶された生い立ち』『恵まれた才能』『偉大な師』そして『不幸な離別』。ツボは抑えておるはずじゃ)

 

 英雄譚を愛する者として、我ながらときめく。

 子供の頃から幾度も思い描いた、架空の英雄たちと架空の英雄譚。ソルは字が書けないが、創作自体はお手の物だ。暇さえあれば夢想した英雄譚は、紙と筆、そして言葉を操る腕がなくとも面白かった。

 詠み人知らずはいつだって名作だ。

 読者が一人だけなのだから必ず急所に刺さる。

 ゆえに、根拠のない自信だけは確かだった。

 

「随分と──」

 

 一通り聴き終えた少女の口が、声を紡ぐ。

 ソルは表情を硬くする。創作物に対する自信はあるものの、如何せん根拠がないため不安の翳りを拭い去れなかった。もし、彼女の舌が次に「荒唐無稽ね」やら「つまらないわ」やら紡いだらと思うと、小さな胸を打つ心拍数の上昇が止まらない。

 一秒が十秒にも感じる鈍重な視界で、唇が動く。

 

「──波乱万丈な人生ね。羨ましいくらい」

「そう、かのう。そうであれば……嬉しい。のじゃ」

「……どうしてあなたが嬉しがっているの?」

 

 少女は薄墨色の寝乱れ髪を弄ぶ。

 一方、幼女はほっと胸を撫で下ろした。

 どうにか渾身の英雄譚は認められたようだった。

 目立つ矛盾がないことも確からしい。しかし、気にかかるのはマジェーレの態度だった。決して視線を合わせようとしない眠たげな瞼が鋭く細まる。足首に絡ませた手指がわずかに食い込み、節が浮き上がる。

 ソルの観察眼は、彼女の機嫌の傾きを見抜いた。

 語った物語の何かが癪に障ったのかもしれない。

 ならば、話を流しにかかるべきだ。ソルは現状を「いまだ綱渡り」と判断する。どちらにせよ、会話の牽引役を彼女に委ねたままでは、いずれ話が掘り返される可能性があった。油断は禁物である。

 苦手と言えども、迅速な話題提供が急務だった。

 

「そうじゃな。軍曹も、相応の修羅場を潜ってきたように見えるがのう。どうじゃ、ぬしの生い立ちを語って聞かせてくれんか。ぬしのような強者が獄禍討伐に──というよりも、帝国軍に入っている理由をのう」

「どうかしらね。忘れちゃったわ」

 

 ひらひらと手を振るマジェーレ。

 有耶無耶にして誤魔化す気概のみが感じられた。

 だが喰い下がらねば、矛先は遠からずソルに行く。

 

(まあ追及を躱す手段としてもじゃが、仲を深める手段としても、過去を知ることは近道に他ならぬ。人物像が把握できねば、距離感も掴めぬからのう)

 

「ぬしには、明日以降も背中を預けることになる。副長という身近な立場で、じゃ。胡乱な者を置くわけにいくまい。もっとも、個人的な興味もあるがのう」

「……本当に、私なんて大したことはないわ。盛り上がりどころもなければ、虚をつくような展開もない。話を言って聞かせて、逆に私がお金を払わなくちゃいけないくらい、つまらない話よ」

「それでもじゃ。どうか聞かせてほしいのう」

 

 少女は顔を背け、吐息に諦めを混ぜた。

 引き際を弁えない不届者に呆れているようだ。

 だが、なおも諦めない幼女に根負けしたのか、淡々と自己紹介を紡ぎ始めた。

 

「マジェーレ・ルギティ。年は十四。出身は帝国南部の、あなたと違って、親なんか顔も知らない。親代わりの人とか、家族代わりの人たちはいるけれど。いままで、私はその人たちの『家』に住んでた」

「孤児院、ということかのう」

「そう。帝国軍に入ったのは、私に適していたからでしかないの。オド容量があって、他のことにも特別な興味は持てなかったから……ええ」

 

 マジェーレは凝然とソルを見返してくる。

 息を呑んだ。間近にすると「黒い」と改めて思う。

 その瞳には黒い渦がのたうっていた。さながら、あらゆる感情の絵具を筆先で丸めたかのように。黒渦には混ざりきれない色が見え隠れしている。淀んだ喜を宿す黄が、怒を孕んだ赤が、哀を乗せた青が、そして不機嫌さの根幹たる色が──。

 

(……敵意(・・)、かのう? 否、違う、これは何じゃ)

 

 ソルの思案を他所に、少女は己のあらましを語る。

 マジェーレが孤児院に引き取られたのは、八歳の頃だという。そこの管理人の『おじさん』については、マジェーレ曰く「大層な偽善者」らしく、旅先で目についた孤児を気紛れに連れ帰ってくるらしい。

 ──垂らされた蜘蛛の糸を、運よく掴んだだけよ。

 少女の両目の黒孔は光を拒むように、昏い。

 

「だから、私、夢なんか見たことないの」

「ほう、それはまた……」

「夢を見れるほど、無知を許されなかったから。何かに憧れようにも、幻想を抱けなければ始まらないでしょう? ……私の情緒はもう変わりようがなかった」

 

 その呟きは、騒音めいた虫の声に掻き消される。

 彼女は平坦な声色で、表情の変化も乏しいままだ。

 

「あなたには英雄という夢があるそうね」

 

 ソルが無音で頷く姿を認めて、少女は言葉を継ぐ。

 一段一段、靴底で確かめるように問いを重ねる。

 対する幼女は、ひたすらに是を示し続ける。

 

 ──それは、自分で掴んだものなの?

 首肯。ただ是、と。

 ──あなたは夢にすべてを賭せるというの?

 首肯。ただ是、と。

 ──この任務も、その夢の大事な糧なの?

 首肯。ただ是、と。

 

 この問答はひとえに、分かり合うためだった。

 自らを他人の目前に曝け出し、共通認識を広げていく。対面での実直かつ愚直な問答は、不器用さの重力から抜け得ない凡人にとって、望むところの仲の深め方だった。ソルは真摯さを懐に携え、阿吽の呼吸を崩さず、目も逸らさずに数回と答え続けた。

 ソルは手応えを覚えた。たとえるならば、その一体感は押しては引く波を連想させた。そこで確信を得るに至る。きっとこの大波は二人を飲み込んで、その胎内に理解という子を孕んだに違いない──。

 締め括るようにマジェーレはひとつ、頷く。

 

「なるほど。大体、あなたのことが把握できたわ」

「それは結構なのじゃ。では、これからもよろ──」

「私、あなたのことが嫌いだわ」

 

 ……ぱきり。ぱきぱきぱきぱき。

 何かが蜘蛛の巣状にひび割れた音を聞いた。

 おそらくそれは勝手な妄想が砕ける音だろうが。

 幼女はまず息を吸って瞑目し、一気に瞼を上げる。

 

「……考え直してはくれんか」

「いえ、仕切り直しても答えは変わらないわ。好悪を再び試算しても意味はないと思うけれど。あなたと私は価値基準が違いすぎるのよ。それこそ、あの月につける価値から始まって、そこの石に見出す価値まで、きっとあなたは私の真逆の値段をつけるでしょうね」

「……決めつけるには、時期尚早ではなからんか」

「あなたが価値の中心に据えているのは、夢。あなたはその夢を至上に据えて、それに伴うように世界を見て、聞いている。私が中心に据えているのは、お金(・・)

 

 ──ほうら、真逆でしょう。

 少女はにへら、と口元を崩して露悪的に笑う。

 それを両膝で一時に覆い、平坦な調子で続ける。

 

「たとえばの話をしましょう。あなたにとって、今回の獄禍討伐はどんな位置づけなの?」

「どんな、とは。また茫漠な問いじゃ」

「そうね。じゃあ前提を確認しましょうか。まず……あなたは獄禍のことをどれだけ知っている?」

「討伐経験はない。風聞で多少の知識はあるがのう」

「へえ。どこまで知っているか、聞かせてくれる?」

 

 なぜか嫌に挑発的な物言いだった。

 ソルは取り合わず、眼差しをあぐらの中心に注ぐ。

 そこに屹立するのは愛剣、その剣身を覆う朽葉色の布だった。小汚い布地がたわんだ切先から、剣に沿うように目線を昇らせて、直上の紫空まで飛ばす。

 その道すがらに、散らばった記憶を手繰る。

 

「確か獄禍とは……『獄禍変転』という現象を通して現れる、怪物の呼称じゃったと記憶しておる」

 

 ──獄禍変転。嵐や雷と同列に扱われる災害だ。

 突然、人間が何らかの怪物に変貌する現象である。たとえば、金の体毛に覆われた獣に変貌した例、正立方体の石に変貌した例、側頭部が肥大化した人型に変貌した例。獄禍の形態は様々だ。

 獄禍変転の原因は一般に「元より怪物が人間に擬態していたのだ」「化物の血脈だったのだ」などと、(まこと)しやかに噂されている。

 つまり、この現象に対する世論は一言で表せる。

 

(人ならざる物が、化けの皮を剝がす現象。それを、獄禍変転と呼ぶ風潮が広まっておる。実際のところは謎に包まれておるようじゃがな)

 

 都市郊外の、特にマッターダリ山脈周辺の農村地域では「信仰を疎かにした祟りだ」と畏れられているそうだ。もっとも、真相は定かではない。北方の魔術大学で机に齧りついている学者たちも、論理に裏打ちされた説にまでは至っていないと聞く。

 幼女が要点を絞って答えると、少女は目を細め「ふうん」と相槌を打った。

 

「……思った以上に詳しいわね、箱入り娘。世間知らずじゃなかったの?」

「自然と知識も備わるものじゃよ。獄禍は最近の英雄譚──ここ百年の英雄譚では頻繁に登場する。まあ、竜の絶滅後に残った巨大な敵と言えば、敵国の英雄と獄禍しかおらぬためじゃろうがな」

「ふうん……あなたは、英雄譚だけで外の世界を知っているのね。どこから英雄譚を仕入れてくるのかは知らないけど。それはともかく……そんなあなたにとって、獄禍はどんな存在?」

 

 回りまわって、問いを繰り返す。

 少女は、斜に構えた細脚に上体を添わせた。

 

「私にとって獄禍は倒すだけの存在。獄禍を倒せばお金が増える。獄禍を倒せばご馳走が食べられる。大事なことはそれだけ。余計な思考は無駄なだけで、お腹がすくだけで、何も得がないこと」

「怪物は倒すだけの存在、という認識は同意するがのう。わしの場合は倒すべき存在じゃ。怪物退治は英雄譚に華を添える、大事な儀式じゃからな」

「夢見がちなのよ。酩酊としか思えない言い分だけれど……それなら少尉? 今回の討伐は、さぞやる気も湧かないのではないかしら」

 

 少女は顔を背けて、ひとつあくびを漏らす。

 いや、仕草だけだ。彼女の流し目が曲線を描く。

 透徹した空気を震わせ、平面を繕った(・・・)声色が響く。

 

「修羅さん。ねえ、軍部の見栄で拾い上げられたお人形さん。今回の任務は結局、あなたの箔をつけるだけの遠足にすぎないのだから。単なる茶番じゃない」

「茶番は言いすぎじゃろう。討伐対象の獄禍がやや格落ちとは聞いておるが、油断は足を掬いかねん」

「そういうことじゃないわ。どうなの?」

 

 幼女のささやかな文句は、しかし切り払われる。

 遠慮なしに踏み込まれ、声を詰まらせながら返す。

 

「……今回の怪物退治は、いずれ大物獄禍を倒す『本番』の肩慣らしくらいに思っておるが」

「そんなわけないわ。ハリボテはすぐに隠さなきゃ、客に偽物とバレてしまうものでしょう? 少尉の怪物退治は今回限りでお仕舞いよ。名声を上げたら、あとは士気向上のための置物が関の山……残念ね。あなた才能はあるらしいけれど、埃を被ってしまうかも」

 

 冷たく、少女は現実を突きつけてくる。

 あなたの実力そのままが結果に結びついたわけではない、と。身分の高い何者かの意図が重なって、現状は好待遇を受けているにすぎない、と。

 その事実は、ソルとて重々承知している。

 盛り下がる帝国の士気を奮い立たせるために担がれているのだ。贈呈された勲章も、真に『努力が認められた』とは言い難いものかもしれない。

 幼女は、ぎゅうと小さな拳をつくった。

 帝国軍は予定調和の結果を望み、強いてくる。

 ──お前は整えられた檜舞台の上にある、と。

 ──そこで脚本通りに踊る道化のようにせよ、と。

 

(知れたことじゃ。ロズベルン中将に言い渡されたときから、否、わしに書状が送られてきたときからのう。所詮わしは頭の足りぬ、一人の男でしかない)

 

 だが、以前の──傭兵時代の頃に比べれば、随分と展望が見えてきたのも間違いない。

 

「わしは、このまま終わるつもりなどない」

「まあ何でもいいけれど、怪物退治をすっぽかすのはなしよ。私の食い扶持に関わるから」

「今回の任務を完遂するのは当然なのじゃ。その上で、英雄に相応しい器に成長すると約束しよう」

 

 いまは、まだ実力より名前の看板が大きい。

 幼女だてらに大戦果を挙げた、という沽券は耳に新しい。渡りに船の話題性を借りて、軍本部が「次代の英雄候補」と祭り上げるのは理解できる。

 ソルも、誰かの思惑に操られるのは居心地が悪い。

 だが、童のように突っぱねるつもりはなかった。

 

(これは類稀なる好機なのじゃ。皆に名が広まり、一挙手一投足を注目される? 結構なことじゃのう。そこで目にもの言わせるだけの強さを備えればよい)

 

 ──ああ、名前に実力を追いつかせてみせるとも。

 ソルの噛み締めるような表明に、少女は「ふーん」と露骨に気のない声を立てた。

 

「前向きね。前向きなのはいいことだわ。この先、何もなくなったとしても生きていけるから」

「……先ほどから、というか初対面から思っておったのじゃが。喋り方が見た目と一致せん奴よのう」

「そう思ってるのなら、まず鏡を見返すことね。自分の気持ち悪さがわかるわよ?」

 

 少女は狭い肩を鳴らして、大きく伸びをする。

 月光を浴び、ぬらりとした薄墨の髪が光沢を放つ。

 横顔の褐色が際立つも、そこに穿たれた瞳は──。

 やはり、光を拒絶するように暗黒を湛えていた。

 

「自己紹介の通り、私はマジェーレ・ルギティ。他人より贅沢に生きていたいだけの小娘よ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 昇る日を遠目に見つつ、野営地を後にした。

 朝靄を裂くようにして軍馬たちは駆けた。

 そして三度の夜を越え、それに伴う道をも踏破。

 ついぞ目的地、ジャラ村に到着した一行は──。

 

 

「件の獄禍は──どこじゃ(・・・・)?」

 

 

 そこに、怪物は待ち受けてなどいなかった。

 住居の残骸のみが残る村で、自由に舞う風が鳴く。

 その只中で、幼女は立ち竦んだ。



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3 『望まれぬ邂逅』

 ──ジャラ村に鎮座する獄禍。

 それは一見、白い球体であるらしい。

 怪物の全長は一般住宅と同等程度。体表は石膏のように滑らかだ。そこに袈裟を斬るような線が一本、引かれている。たまに蠢く切れ込みから臼めいた犬歯を覗かせ、涎が止めどなく垂らされる。

 この体躯を支えるのは、下部から伸びる人間並みの細腕が五本。この世のものに当て嵌めるとすれば、大蜘蛛に似ていると言えた。腹を一杯に満たし、脚を極端に短く揃えれば、更に実物に漸近できるだろう。

 目撃者である村人たち曰く「遠目に見たときゃ、切れ込みの付近は赤く染まっていた」「血の雨でも降ったみたいだった」「辺りに千切れた腕と脚と、頭が散乱していた」「何か軋むような音が聞こえた」など。

 人を喰らう獄禍は、怪物と呼ばれるに相応しい。

 英雄譚にて打倒されるべき存在である。

 だが、ソルは神妙な面差しを変えられずにいた。

 

「状況はどうじゃ? ナッド」

「駄目です! 村の東側を回ってみましたが、獄禍の痕跡すらも見当たらず……地面に移動跡はなく、樹木にも不審な点はありませんでした……!」

「報告かたじけない。じゃが……これでは、怪物退治を始められぬのう」

 

 ──さあ、どうしたものじゃろうか。

 幼女は住宅の瓦礫に尻を乗せ、頭を悩ませた。

 太陽はそろそろ天頂に差しかからんとし、地上を灼熱で舐め上げる。ここまでの道程とは違い、緑の庇は頭上にない。青々と広がる空の下に日陰を落とすよう建築物は見渡す限りにおいて存在しなかった。あるのは痕跡だけだ。幼女の尻に敷かれた残骸と、そこに滲み込んだ赤黒い血痕と、朽ちた十数人の骸のみ。

 ソルの眩しい肌に、透いた汗水が這う。

 

(早朝の到着からすでに数時間は経ったかのう)

 

 しかし、一向に獄禍討伐の任は進んでいない。

 討伐対象の獄禍が村から姿を消していたのだ。

 帝国小隊は見事に肩透かしを喰らったわけである。

 手始めに、獄禍の捜索に乗り出したのだが──。

 

(まだ見つからぬどころか、移動の跡すら見当たらん。じゃが……獄禍がいたという痕跡だけはまざまざと白日の下に晒されておる)

 

 幼女が腰を下ろす瓦礫の頂上は見晴らしがよい。

 燦々と差す太陽に手を翳して、村を一望する。

 かろうじて形を保っている住居すら少ない。以前までは堂々と建ち並んでいたはずの家々が、ひしゃげて崩れ──屋根上から押し潰されたかのような瓦礫の山として一面に軒を連ねていた。なかには路面に崩れ、無残に石片や木端を吐き散らすものもある。

 ナッドは危ない足取りで、散乱するそれら残骸を渡りつつ、時間をかけてソルの元へと辿り着く。彼の顔は疲労以上に、焦りと困惑で歪んでいた。息は乱れ、額には脂汗が滲み、しきりに手のひらで拭っている。

 それに比べ、この場に屈んだもう一人は冷静だ。

 整理すると、とソルは傍らの少女に目を向けた。

 

「この村中央部から、怪物の姿が消えてある。どこへ行ったかを探さねばならん。最初わしらは西側からジャラ村に入ったが、そのとき怪物を道中で見た覚えはない。ぬしの報告では南におらず、ナッドの報告によれば東にもおらぬ。となれば、残るは北側のみか」

「そうね。ゲラートたちが戻ってくれば仕舞いよ」

「……ちょっと待てよ、マジェーレ。ゲラートたちはお前と一緒に南を回ってたんじゃなかったか?」

 

 ナッドが口を挟むと、事もなげに少女が息を吐く。

 

「……話に水を差さないでくれるかしら? 答えは『いいえ』よ。私が許可を出して、ゲラートたちは北のほうに回しておいたわ。じき戻るから安心なさい」

「まあ、事後承諾はこれきりにしてほしいがのう」

「またお前、少尉に通さず勝手に……」

 

 ナッドは鼻白んだような眼差しを少女に向ける。

 マジェーレは幼女の隣で、膝を曲げて屈んでいた。

 その姿はまるでミミズクのようだ。小ぶりな顎を膝に乗せて、黒の双眸はぼうと遠くを見つめている。彼女の思惑は杳として知れない。いや、数日前の対話で垣間見えてはいたのかもしれない。

 ──私、あなたのことが嫌いだわ。

 

(もっとも、個人的な好悪を仕事に持ち込む人物ではない。軍曹は実利に焦点を絞った見方で、職務を真っ当に果たす人物のはずじゃ。事実、不甲斐ないわしに代わり、ずっと小隊の指揮を執ってくれておったからのう。有能な人物とは疑いようがない。この獄禍の探索も、誰より効率よく終えたようじゃから)

 

 少女にもナッド同様、周辺の捜索を頼んでいた。

 だが、この中央部に戻ってきた時刻は彼のそれより一時間ほど早かった。逆算すると、ゲラートが北側の探索を終えるまでに十分な時間が経ったと言える。頃合いが絶妙だが、計算高い彼女のことだ。最初からナッドの帰還に併せて考えていたのかもしれない。

 沈着な計算は、火に油を注ぐことになった。

 ソルは口を挟む機を逸す。彼のその憤懣の有り様は唐突にも思えるが、そうではないのだ。むしろ空気を込められ続けた袋がいずれ弾けてしまうように、この三日間に込められ続けた鬱憤が、噴き出した。

 それも、不甲斐ない幼女(おんじん)の代わりに。

 

「……少尉が長だ。独断をくだすより先に、話だけは通しておくのが筋って奴なんじゃないのか?」

「型に嵌るだけじゃ駄目よ。現場は生き物。獄禍が移動した可能性を真っ先に考慮するのなら、捜索の時間短縮を図る、そうでしょう? 足並みを揃えている時間で取り逃がす、なんてのは馬鹿馬鹿しいわ」

 

 少女は膝を伸ばすと、大上段から彼を見下す。

 

「それに私は副長、まだ小さな隊長さんの代わりに隊を動かしている。いままでもそうだったでしょう?」

「意味合いが違う。流石に目に余るって言ってんだ」

「流石に目に余る、ねえ。まるで、いままで見逃してきたが、って頭についてくる口ぶりじゃない?」

「お前、わざと惚けてんだろ。そうだって言ってんだよ。ここ三日、お前が必要以上に出張ってるのは、傍から見てりゃ一目瞭然なんだよ、まるで──」

「……ナッド、よい。付近に井戸があった。そこで頭を冷やして来るのじゃ」

 

 ソルは口論間際の応酬を諫めるために立ち上がる。

 黙して鎮火を待つには互いの表情に険が強い。

 

「ですが……っ」

 

 ──ここは一旦、退いてくれんか。

 ナッドは言葉を詰まらせる。目顔から意図を汲んだのだろう。少女のほうに敵意の籠った眼差しを向けたのち、幼女のほうに小さく一礼すると、足早に去っていった。その背中に宿る意志は、信用に根ざした硬度と重量を誇っているように思われた。

 信任。ソルはその重みをひしと受け止める。

 彼は、十字路の角を曲がって瓦礫の影に消えた。

 幼女は感謝を込めて見送り、隣の少女に向き直る。

 

(……こんな些事に手間取っとる場合ではないのじゃがのう。元を辿れば、わしの未熟さが招いた亀裂じゃ。ここ三日、軍曹に甘えとったしっぺ返しか)

 

 思い返されるのは空回り続けたこの三日間だ。

 第二駐屯地から発ち、ジャラ村に辿り着くまで。

 傍目には子供の遊びの延長線上に見えたろう。小隊長は幼女、副長兼案内人は少女なのだから。だが、ソルの意気込みは十分だった。長としての経験は浅く、目標の英雄像からは逸れるものの、他ならぬ『六翼』の命だ。立派に務め上げる気概はあった。

 しかし、初日から指揮を執っていたのは主に副長。

 彼女がなまじ手際よくこなすため、つい頼りきりになっていった。途中からはナッドがソルの不甲斐なさを繕わんと横入りし始めるも、そのたびマジェーレとの軋轢を深め、小隊間では益々「ソルは有名無実の長」という認識が公然と化していった。

 ナッドはその狭間で気を揉み続けていたのだろう。

 

(この事態を避けるためにも小隊の皆と交流をとり続けたはずじゃったが……二日目から露骨に避けられるようになった。目標に急いたあまり、わしの態度に見落としがあったのじゃろうな)

 

 ──かくて、ソルの威厳は失墜した。

 厳密に言えば、元より彼女の威厳は地を這うようだったため、地中深くに埋まった、との形容が正しいだろう。現状としてソルが小隊に命じたことは、マジェーレの命令に容易く掻き消されるようになった。

 さしものソルとて望ましくない展開だとはわかる。

 

(この尻拭いに介添えを要するほど、自身が老いさらばえたと思いたくないものよ。それがナッドの立場を悪くするとなればなおさら。……肌に合わぬと放り投げるには早く、幸運にもゲラートたちが戻るまで時間がある。いまわしが、関係性の改善を図る他ない)

 

 マジェーレは表情ひとつ変えず、佇んだままだ。

 軽く腕を組んで、虚空を──去ったナッドを幻視するかのように──見下ろしている。瞼という几帳が降ろされた黒瞳からは内情が窺えない。過去の言動から類推するなら、嘲弄だろう。ソルがその眦に未練の残滓を思うのは、歪な認識によるものかもしれない。

 静かに幼女はこの皮肉屋を説き伏せる労を考える。

 越える壁の高さを再認識し、つむじを掻いた。

 だが、不得手でも挑まねばならぬことはある。

 

「軍曹。話があるのじゃが」

「……ええ」

「ぬし、何とか言動の角は取れんものかのう?」

「そうね。ごめんなさい。さっきは言葉が過ぎた」

「……んん?」

 

 脱力したまま少女は嘆息混じりに顎を引く。

 幼女は耳を疑った。ぱちぱちと目を瞬かせる。

 

「……嫌に素直じゃなからんか」

「元々、私はひねくれた性根をしていないわ」

「白々しさ、ここに極まれりじゃのう」

「まあ、ひねくれものの戯言だと取ってもらって構わないけれど、断言するわ。今回が本意じゃなかったのは確か。……いえ、今回も、ね」

「含みのある言い方じゃのう」

「含みなんかないわ。あなたのことよ、少尉」

 

 マジェーレは項垂れたまま、黒孔がソルを捉える。

 彼女が自嘲気味に指した出来事は出立当日。

 夜更けに交わした、野営地での問答のことだった。

 

「あのときも悪かったわ。大人げがなかった」

「気にしておらん……が、急にどうしたのじゃ」

「気にしなさい。小隊の現状を改善したいならね。私としても、この空気は不本意なの。……まさか、あなたがここまで人間関係に無頓着とは思わなかったの」

 

 見込み違いだったとばかりに少女は首を鳴らす。

 現状、小隊はマジェーレの指示で動いている。

 本来の長であるはずのソルと、彼女の擁護に駆け回るナッドが敬遠されている何よりの証左は──中央部にこの三人のみが残っていることだった。ナッドが村の東側から偵察に帰ったとき、彼は一人だった。他三人の面子は、獄禍の不在を確認したあと、報告役として彼一人だけを帰すと、別方角の捜索に回ったのだ。

 合理的な話だが、裏に潜む意図を意識させられる。

 この土壌にはそれだけの不信の種が撒かれている。

 

(じゃが、小隊は上手く回っておる。軍曹を筆頭に据え、一丸となって問題に当たっておる。ナッドもわしの擁護さえしなければ、あの輪に溶け込めるじゃろう。……これは、異端者(わし)が和を乱しておるだけ、か)

 

「けれど少尉、不和を招くまで深刻化したのはあなたのせいだけじゃないわ。異端が一人いようが、それほど和は乱れない。……私も、あなたを買い被って手を打たなかったから同罪だけど──いちいち余計な世話を焼いた男も、相応の要因と言えるから」

「確かにそう言えるがのう、ナッドはわしに……」

「良かれと思ってしたからってこと? そんなことはどうでもいいの。ただ私は、あなただけのせいじゃないって言ってあげてるだけ」

 

 マジェーレは視線をずらすと一歩、近寄る。

 

「……こういうの、初めてなんでしょう? ありがたく受け止めておきなさい」

 

 ──責任に押し潰されたくないならね。

 少女の臭気はつんと鼻に障った。

 ソルは眉根を寄せ「そうじゃな」と素直に頷く。

 

(責任という重みは身に新しいわい)

 

 傭兵時代でも率先して人を先導した覚えはない。

 ソルフォートは生涯、自分勝手に駆けた。

 若い時分はずっと身軽を求めていた。夢以外の荷を捨て去ることで速くなれると信じていた。彼方に霞んでいく背中に近づけると信じていたのだ。

 荷を降ろす喪失感と肌に当たる風を勘違った。

 いつからだったか。そしていつまでだったか。

 あの、代償に酔い、焦燥感を握り潰す日々は──。

 

(思い返すと、手に残ったのは苦味のみじゃな。結局どこにも辿り着けんかった。相変わらず目標の背中は遥か彼方。最期には身体までも残らずじまい。いや──この一振りだけは残っておったか)

 

 目を落とせば、そこには帯びた剣がある。

 二度目の生で引き継がれたのはこれだけだ。

 

(思えば、皮肉なものじゃ)

 

 ソルは酷薄に自嘲を浮かべた。

 そんな、勝手を押し通した元一匹狼だ。

 集団の長を務める者には尊敬しきりである。

 たとえば、バラボア砦で出会ったバルドー伍長。後に聞く話では、彼は砦強襲の折に戦死してしまったらしい。その最期を知る者は誰もいなかったようだが、彼も立派に纏め役を務めていたに違いない。

 初心者の凡人には容易く務まるわけがない。

 だからマジェーレは気負いすぎるなと言ったのだ。

 ──少しずつ慣れていけばいい、と。

 

「……軍曹、礼を言うのじゃ。心遣い痛み入る」

「そんな覚えはない。言ったでしょう? 私は──」

「あなたのことが嫌い、とな。覚えておるよ」

 

 ソルが彼女の言葉を継ぐ。

 虚を突かれたからなのか、少女は黙り込む。

 

「ぬしのいまの言葉には、個人的な好意を挟んでおらんということじゃろう。なれば殊更に有難い。つまり、混じりけなしの厚意ということじゃ」

「……なんて曲解。私が損するから態度を緩めただけなのに、鬱陶しい幼女。額面通りに受け取りなさい。それじゃあ将来ロクな大人になれないわ」

「うむ、ロクでもない大人にもなれんかったわい」

「意味不明。何の話よ……」

 

 マジェーレは舌打ちすると、ソルに背を向ける。

 その寸時、少女は初めて渋面を見せた。くしゃりと歪んだ顔はどこか幼いようにも思えたが、違う。ソルは彼女の年齢を知っている。だから思い当たる。

 これは、ただ年相応の表情をしただけなのだと。

 

(ようやく……少しだけじゃが軍曹のことを知れたのう。口の悪さは如何ともしがたいが、悪とは別種なのじゃろう。ならば、きっと背中を任せられる)

 

「少尉……話は、済みましたか」

「ちょうどじゃ。ナッド、頭は冷えたか」

「はい。熱くなって……いささか言葉が過ぎました。手間をかけさせてしまって申し訳ありません……」

 

 ナッドが井戸から恐る恐る戻ってくる。

 水を滴らせた彼の顔は不憫なほどに青い。生真面目な彼のことだ。脳内では「失態」「羞恥」の文字が巡っているのかもしれない。だが、幼女の隣に立つマジェーレの姿を見た途端に赤々と歪む。

 ソルはそれに既視感を覚える。バラボア砦で彼に避けられていたときと似ていた。彼の癖だった、片意地を張るところは易々と変わらないようだ。

 ともあれ、言葉以上に表情は雄弁に語ったのだ。

 それをみすみす見逃す皮肉屋(マジェーレ)ではない。

 

「何? 文句があるなら口に出したらどうかしら?」

「……口に出したら、遠慮なく罵ってくるだろうが」

「そんなことはしないわ。罵倒じゃない、無闇に噛みつかないで。被害妄想も甚だしい。幼女の犬風情が」

「明確な罵倒じゃねえか」

「安心なさい、罵倒じゃないわ。ええ違うわよ」

「繰り返すなら根拠を言え! ってか幼女の犬呼ばわりは結構クるな。俺、そう思われてんだ……」

 

 まるで火と油である。近寄れば勝手に燃え広がる。

 しかし、二人の諍いを毎度止めていては進まない。

 先ほどの口論とは質が違う。きちんとじゃれあいになっていた。互いに激情の火薬に火はつかず、暴力沙汰にも発展しない。軽口程度の謗り合いはこの二人の交流の常だ。もう心配は要らないようだ。

 ソルは腰付近をさすりながら話を切り出す。

 ──話は済んだ、閑話休題と行こうかのう。

 

「獄禍の行方の話に戻ろう。軍からの情報提供によれば、件の獄禍は巨大。移動手段たる脚も頼りない。痕跡なしに隠れおおせるとは思えぬ。ゆえに、未調査の北側の奥地におるはずじゃ。……もっとも、獄禍の固有の特性を考えなければ、じゃが」

「……つまりあなたは、ゲラートたちが獄禍を見つけられず、泣きながら帰ってきた場合、獄禍が固有に持つ能力で行方を眩ませていると睨むわけね」

「それだけではない。軍からの情報に更なる誤りがある、という可能性も捨ててはおらんよ。……正直な話、あまり考えたくないがのう」

 

(しかし、かの『六翼』からの情報、確度の高いものと勝手に思っておったが……獄禍が村から動かない、という軍の見立てが間違っておったのは確定じゃ。ならば与えられた情報の精査が必要じゃろう)

 

 とは言え、すべてを疑っていても埒が明かない。

 ソルは瓦礫の海を見下ろす。竜巻でも吹き荒れたかのような村の様相は大事が起こった証左に他ならなかった。局地的な災害として、獄禍はここで暴虐の限りを尽くしたと見るべきだと思われる。まさか、獄禍の出現自体が誤情報という線は有り得ないだろう。

 やはり思考するべきはたった一つだ。

 ──どうやって獄禍が村から消えたのか?

 二人の知恵を借りようと相談を持ちかける。

 少女は虚空に流し目を送って、指を顎先に当てた。

 

「獄禍がいない理由ね。幾つか思い浮かんだものを列挙してみましょうか。単純に、軍の情報が外れて、何らかの方法で遠くへ行った線。これは獄禍に移動手段があった可能性の話ね」

「それ、あんまり考えたくない可能性だけどな。これが正しかったら本当に暗中模索だ」

 

 ナッドが慎重に瓦礫を上りつつ、釘を刺してくる。

 

「だからと言って、獄禍の固有の能力ばかりに目を向けても利はない。確か、獄禍が持ち得る能力は多岐に渡るんだろ? 絞りきれないと思う」

「そうね。発動にマナを消費する以外の共通項はないようだから、幾らでも候補があるわ。獄禍固有の能力で、姿形を変えている線。または、能力で姿形を消している線もあるわ。あるいは、別の可能性を探るとしなら──」

 

 

(ある)いは──親切な爺さんが先に討伐してくれておった線、正解はそっちだな」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──唐突に割り込んだ、嗄れた声色。

 ナッドは声の主を探して、反射的に見上げる。

 

「ッく……!」

 

 強烈な日差しが目を焼いた。眉間に力が入る。

 目が慣れない数秒間は、逆光で世界が黒白に分かたれる。陽光を存分に浴びる頂上ならばなおさらだ。

 視界にあるのは、小さな影と一層小さな影。

 この二つは知っている。いままで言葉を交わしていた相手だ。気怠そうに立つマジェーレと、腰を落ち着けたソルだろう。だがその背後に影があった。

 二人よりも一回り大きな人影が──。

 

「……ッ」

 

 小さな影の二人組の行動は迅速だった。

 影絵の舞台が前説もなしに幕を開ける。

 最初に一層小さな影、推定幼女が動いた。

 彼女は左肩を沈めることで瓦礫に手をつき、左肘を撓める。同時に右手を左腰付近に伸ばすと、左手を軸にして身体を捻る。まさしく背後に立つ闖入者に振り返るように。誰何の先に顔を確かめるつもりか。

 そのナッドの予想を破り、幼女は反転する勢いに乗じるように剣を抜き放つ。風にも見紛うばかりの刃が血を求めて半弧を描いた瞬間──撓めていた左肘が張られ、軸だった左手で地を押す。矮躯は宙に浮く。

 そうなれば刃の行く先は、人影の首元となる。

 ナッドはようやくここで悟った。

 ──初撃で闖入者を屠るつもりなのだ、と。

 

「ふ……!」

 

 一方、小さな影の片割れはすでに消えていた。

 少女は影絵の舞台から、瓦礫の麓に舞い降りた。

 ナッドは間近に落ちた彼女──マジェーレに目が向いた。惹かれた理由はある。高所からの着地とは得てして重みを帯びるものだ。しかし、彼女のそれは猫のようにしなやかだった。重心の移動と宙空での体勢が抜群に上手いのだろう。この美技には舌を巻く。

 『六翼』に副長として推されるだけの実力がある。

 そして、まず闖入者と距離を置くあたり冷静だ。

 猪突猛進のソルを支える立場に相応しい性である。

 

(少尉はどうなった……!?)

 

「ッィ──!」

 

 再び仰いだとき、幼女は空に浮いていた。

 否、重力の尾はその矮躯を絡め取っている。実際は放物線を描くように落ちているのだ。まさに頂上から弾き飛ばされるようにして。つまり一瞬の攻防における軍配は、ソルに上がらなかったようだ。

 のけ反った背。広がる白髪はさながら海中の鯉のごとく身を(よじ)る。頭頂部から地面に激突するのではないか──とナッドは血相を変えるが、杞憂に終わる。幼女は器用に宙で後転したのだ。振り下ろされる両脚で地面を滑り、前傾姿勢のまま勢いを殺す。

 左腕と両脚の三脚で構える姿は獰猛な獣のよう。

 戦意の満ち満ちた黄瞳が二つ、空を見上げている。

 幼女は身体を震わせ、歯に当てたような息を吐く。

 

「しィ──」

「一筋縄ではいかないわね、これは」

 

 ──俺も、見とれてる場合じゃない。

 ナッドは己を律す。後退しながら腰に手を伸ばす。

 二人の元に辿り着くと同時、剣を正眼に据える。

 手の震えは軽微で、武者震いと取り繕える程度だ。

 

(いまは腕の調子も悪くない……! 結構、万全に近い体調だ。大丈夫、大丈夫だぞ俺……!)

 

 並び立つ少女は、腰の後ろから銀棒を抜き放つ。

 何事か口内で唱えると、棒の表面の文字列が仄かに浅葱色に発光する。瞬間には変形が始まる。金属音を連ねながら繰り返し──出立時に見た奇怪な魔道具に変貌を遂げる。彼女は蛇行形状を取るそれを、片手で傾けながら、泰然自若の構えをとる。

 これにて、この場に立つ小隊の臨戦体勢が整った。

 ナッドは今度こそ相対する闖入者を仰いだ。

 そして陽光の下の()の正体に、絶句する。

 

「おいおい、そこまで怯えられては敵わんなあ。親切心を無碍にはせんほうが良い。敵にせよ、味方にせよ、なあ。それとも答え合わせは不要だったか?」

 

 瓦礫の頂に佇んでいたのは、老人だった。

 赤毛混じりの白髪には彼の黒肌が際立つ。顔形はいわゆる魚面と言うべきだろう。お世辞にも褒められない目鼻立ちだ。離れ気味の眼窩からは目玉が張り出している。彼は瞼を蠢かせ──三白眼をぎょろりぎょろりと回して、三人を見下ろしていた。

 風体としては分厚い旅衣を身に纏っている。首元から上しか素肌を出ささず、足元も衣の裾と長めの靴で覆っている。この炎天下では拷問に等しい格好だろうに、彼は顔色ひとつ変えもしない。

 この奇妙な男から発されるのは圧倒的な威圧感。

 視認した者を釘づけにするほどの重圧。

 圧。圧、圧、圧、圧、圧、圧、圧、圧──。

 

「な、なん、なんで……っ!」

 

 ナッドの戦意は姿を見ただけで揮発した。

 鎌首をもたげた恐怖に打たれ、くらりと一歩退く。

 受ける衝撃は『六翼』との初対面のそれだ。だが、あのときは互いに敵意は介在していなかった。現在のように緊張の水位が喉まで達することはなかった。

 呼吸が止まる。肌がひりつく。脂汗が浮き上がる。

 握る手からは力が抜け、片手で腹部を抑えた。

 (はらわた)に孔でも開いたようだ。その孔に向けて、身体の全細胞が殺到するような感覚。自分が内向きに潰される心地というものを、ナッドは初めて味わった。きっと人の本能は知っているのだ。そこだけが唯一の逃げ場だと。あの老人に居合わせた現実には──『生』の活路が存在しないのだと。

 言葉を失った彼の代わりに、隣から声が上がる。

 

「知ってるわ、あなたの醜い面」

 

 ぎょっと、ナッドは目を剥く。

 面食らうあまりに重圧が解けたのは喜ぶべきか。

 少女はまるで臆さず普段通りに睨めつけていた。

 果たして彼女は恐れ知らずの勇者か。あるいは愚者か。きっと後者だとナッドは断じたい。彼女の肝の座り方はとかく一国の主顔負けだ。先ほど交わした悪態と変わらぬ、余裕を保った態度は脱帽ものである。

 その、少女が眇めた目に老人は呵々と笑む。

 

「ああ、いいモンだろ? この面ァ、覚えられ易くってなあ。二度と忘れられないってのは方々で役に立つ。生まれてこの方、親にすら褒められた覚えもねえ面だが、そういう意味では愛着があんだよなあ」

「……確かに覚えやすいわね。国ごとに出される、英雄の人相書きは美形に描かれることが多いのに、このホンモノと瓜二つに描かれてるんだから。ひょっとしてあなたの趣味なの?」

「美化されるってのも面映ゆくてなあ」

「ハ、ハキム……ハキム・ムンダノーヴォ……?」

 

 ナッドは引き攣った声色で、老人の名を呼んだ。

 ハキム・ムンダノーヴォ。誰何するまでもない。

 著名の大英雄だ。ただし、帝国のではない(・・・・)

 帝国と正面きって対峙する連合軍の片割れ、ビエニス王国における大御所の英雄である。格で言えば、先日バラボア砦を襲ったボガート・ラムホルトと比すると──論にもならない。むしろこの二人を比較すること自体が烏滸(おこ)がましいほどに、ハキムは大物だ。

 齢六十にして、ビエニスの英雄を名乗る。

 それがどれだけの偉業かは歴史が証明している。

 

(ハキム・ムンダノーヴォ……! この男が登場するまで、四十を越す年齢でビエニスの英雄を名乗れた者はいなかった。無知なわけじゃないってんなら、マジェーレはただの自殺志願者だ)

 

 ビエニス王国は精強で知られる軍事国家だ。

 帝国に追随し、大陸二位の領土を持つ大国である。

 大陸を南側から貪るそこは中央、西側まで手を伸ばし、いまや東側に陣取る帝国と火花を散らしている。つまりナッドが遠目に見上げるマッターダリ山脈を越えた先で、その存在感を示す敵国だった。

 その王国の特殊性は蔓延る国民性に集約される。

 名を、実力至上主義という。ビエニス王国では徹底した身分制社会が築かれ、老若男女関係なく『強さ』の秤に乗せられる。性別も年齢も障害も過去も、

すべてが度外視され、ただ有する能力のみが称賛の対象となる──苛烈なまでの弱肉強食の世界。

 ビエニスの英雄を名乗れるのは上位十名のみ。

 王に認められた強者だけが呼ばれる称号である。

 

(しかもハキムは四大将の副官なんだぞ……!)

 

 その王国には『四大将』という階級が存在する。

 帝国で言うところの『六翼』である。国家の花形である大英雄たちを称したものだ。ハキムは彼らの一人『黎明の(しるべ)(かざ)し』の副官を務めていると噂に聞く。

 老いが理由にならぬ国で──老いた男が立つ。

 それも、軍部における彼の位置づけは、蓄えた知識が物を言う参謀ではない。身一つで戦局を変える英雄として、あの老人はいまだに現役なのだ。

 大陸でも類を見ない、生きる伝説である。

 

「そんなやつが、なんで、何でここに……しかも獄禍を倒したって……」

 

 思わず、口から疑問の根がまろび出る。

 少女は流し目をこちらに向けて、ひとつ頷いた。

 

「こればかりはナッドの言う通りね。ビエニス王国の大御所がこんな田舎に何用? 余生はもう少しマシなところで送ったらどうかしら。生涯現役の英雄というのなら、戦場なんておすすめだけれど」

「生涯現役なんてのは俺には似合わん。もっと似合うような奴がいたからなあ。それより、歳上には敬意を払うことだ。長生きしたいならなあ」

「実力主義のビエニス人がよく言ったものね」

「慈悲という奴さ。ビエニスの法をここに持ち込むつもりはない。……郷には郷のやり口があるだろうからなあ。命乞いの方法にも、な」

 

 ──なぜ、ハキムがここにいるのか?

 際限なく話が逸れるなか、動けないまま考える。

 この付近は戦線ではない。マッターダリ山脈の峰によって、他国と隔絶された地域なのだ。そこに大物の敵将が侵入しているなど、悪夢としか言いようのない事態である。……いや、とナッドは思い直す。

 居合わせた現状、理由を探っている場合ではない。

 確かなことは一つ。目前に敵が佇んでいること。

 見方を変えれば、望外の幸いだったかもしれない。

 なぜなら、誰よりも早く敵将の侵入に気づけたのだから。帝国という国家の綻びに忍び込んだ虫を、居つく前に排せるのだ。討伐対象の獄禍を片づけるついで、敵将の首を討ち取れるなら一石二鳥だ。

 そう嘯かねば、いまに逃げ出してしまいそう──。

 自らを鼓舞して、早鐘を打つ心臓を抑える。

 

(分かってるさ。……相手は生きる伝説。本当なら一石二鳥とか口が裂けても言えやしねぇ。ボガート・ラムホルトを前に死を覚えた俺が、あんな凄いやつの相手になるとは思っちゃいねぇ)

 

 ──俺は人より要領はいいかもしれない。

 だが、届かないものは星の数ほどある。

 それをいつか掴める、なんて言葉が、励まし以外の何者でもないことを知っている。他に道があるはず、なんて言葉が、言い訳以外の何物にもならなかったことを知っている。自縄自縛の深海で息苦しさに喘いでいたときに、あのとき光を見た。

 崩れかかった活路を渡る幼女の姿を見た。

 もしかしたら、無為に終わらないかもしれない。

 このちっぽけな手で勝利が掴めるかもしれない。

 それが胸に焼きついているから、まだ逃げない。

 

(ああ、諦めない(・・・・)って、そう決めたから)

 

 ナッドは堪らず、ちらと後方に視線を飛ばす。

 その先で──檸檬色の、黄金色の瞳が揺れていた。

 三足歩行の獣。『修羅』の名を冠した幼女。

 彼女は好機を見定めている。機が熟したとみれば、即座に飛びかかるつもりなのだろう。前傾姿勢を保ちつつ、前足たる左腕、後足たる両脚を撓めている。身体に沿わせるように剣を傾けて、切っ先が地面に点を打つ。とん、とん。呼吸に合わせて律動する。

 一方、マジェーレは相変わらず気怠けに口を出す。

 手に掴んだ魔導具で、自らの肩に触れると。

 

「それで、あなたがここにいる理由は何なの?」

「まあ、はぐらかす必要ももうないか」

「時間稼ぎってこと? 何を待って……」

「……そろそろだ」

 

 瞬間、瓦礫の向こうで半球が膨れ上がる。

 それは、不穏なまでに黒と赤が入り混じった色。

 ナッドたちが声を上げる暇もなかった。

 それは急速に膨張を繰り返し──達する。

 散じる爆炎。轟く爆音。荒ぶ爆風。

 たった一瞬で視界は様変わりする。ハキムの背後を染めていた蒼穹は黒煙と火炎に塗り潰された。瓦礫の破片が舞い上がり、炎の一片が飛び、それらが烈風に乗ってナッドたちの元に飛来する。

 ハキムは渦中にありながらも暴威を物ともしない。

 まるで、そよ風が吹いた程度の反応だ。

 

「おーおーぶっ放すモンだ。あやつ派手好きだなあ」

「マジェーレ、少尉!」

 

 しかし、ナッドは血相を変えて、二人を見渡す。

 他人事で傍観者を気取ってはいられない。

 暴威の一端が、遂に間近まで肉薄してきたのだ。

 時雨のごとき瓦礫が降り注いでくる──。

 

「『レグーネ・ノーツォ』第一階梯──少尉、ナッド、念のため目を守っていなさい」

 

 学舎での教育の賜物だろうか。ナッドは有無を言わせない声に従い、咄嗟に目元を腕でかばう。瞼の裏の暗幕越しの残光の上に、明確な感情は乗せられなかった。生存本能に近い切迫感だけがぶち撒けられる。

 来るだろう衝撃に備えて、身体は勝手に固くなる。

 重心を落とし、地面を(しか)と踏み締め、待つ。

 

(あ、れ……?)

 

 両瞼を瞑って、一秒、二秒、三秒、経った。

 果たして、瓦礫の雨は──身体を打たなかった。

 衝撃もなければ音もない。何かがおかしい。

 ナッドは恐る恐る腕をずらす。だがそこには数秒前と変わらない光景があるだけだ。瓦礫の頂には悠然と老人が佇み、その麓に自分が立ち尽くす。後方には幼女が構え、隣では少女が己の武器を回している。

 その奇怪な魔導具が浅葱色の残光を発していた。

 

(あいつが何かしたのか……ゲラートみたいに口だけ偉いってわけじゃないってことか。安心というか何というか……って感謝とか言う場面じゃないな)

 

 素知らぬ顔を貫く少女を一瞥するも、向き直る。

 ナッドは呼吸を整え、努めて冷静に状況を見る。

 

(あの爆発……ハキム・ムンダノーヴォの他に別働隊がいるってことか。そりゃ、敵将が単独でここにいるわけないしな。それよりあっちは──)

 

 爆炎轟いた方角はジャラ村の北側である。

 そこは、残り八名の小隊が赴いた先のはずだ。

 

「あいつら、無事なのか……!?」

「さあ、合図は鳴った。俺も油を売るばかりではおられん。役目を果たさねばなあ」

 

 ハキムは嘯いて、飄々と腕を引く。

 その老木めいた手には細身の剣が握られていた。

 瞬く間に現れたそれは、凶暴に日光を照り返す。

 さながら竜の顎を連想させる赤銅の剣だ。

 刃は竜牙のごとく刻まれ、僅かに湾曲した峯は根本で放射状に広がっている。そこには大陸で使用される言語ではない──聖文字が刻印されていた。魔導具の証である。剣の形状を象っているため『魔剣』と呼称するのが正しいのだろう。あの、ボガート・ラムホルトが振るっていた幻想剣と同じように。

 黄蘗色の円が剣刃を囲うように中空に浮かぶ。

 

「今しがた訊いたな? 俺がここにおる理由は、と。それを知りたくば、俺を退けてみせろ、小童共」

「……一対一にはしないわよ?」

「呵々、安心めされよ。三人なぞ物の数にも入らん」

 

 浮かぶ円──聖文字の羅列は高速回転を始める。

 伴うように、空気が軋む音が掻き鳴らされ──。

 ハキムは黄ばんだ歯を剥くと、腰を落とした。

 

「皿ごとかっ喰ってやるから、纏めてかかって来い」



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4 『笑う修羅と無慈悲の竜』

 ──竜。あるいは龍。

 いつか、大陸にはそう呼ばれる生物がいたらしい。

 とうに滅びた種族だ。太古の英雄譚にばかり名が残る、かつての覇者たちである。その姿は、蜥蜴や蛇に翼を持たせたように描写されることが多い。時には異形としての特徴を有すと記され、個体ごとに目や腕、翼の数、体表を覆う鱗の組成がまるで異なっている。

 たとえば、九十九個の目を開けた沼地の竜。

 たとえば、溶岩を固めたような鱗を持つ深紅の龍。

 幼い頃にナッドもよく空想した──大陸の伝説。

 目前のそれ(・・)からは、その暴威の片鱗が垣間見えた。

 

「吼えろ『濁世を(ボロス)穿つ上(=ウル=)古の竜(ヘーグル)』」

 

 老人の嗄れた低音で言葉が紡がれた。

 おそらくは彼が握る、赤銅色の魔剣の名だ。

 口上に呼応するように、螺旋を描く聖文字の羅列が加速を続けた。遂には文字列が融け、光帯のように変わり、風の唸りが増す。まるで文字が空間を削っているかのような──削岩音めいた大音響が辺りを席巻する。それは、心胆まで震わす獣の咆哮にも似ていた。

 否、この音の暴虐は竜の咆哮とも言うべきか。

 

「ぐッ……!」

 

 音、音、音、空間で一気に膨張する圧力。

 ナッドは咄嗟に奥歯を噛み締め、耳を押さえた。

 だが、鼓膜の奥は問答無用で揺さぶられる。

 手で塞いだはずの外耳道まで、圧力の洪水が押し寄せ、三半規管にまで飛沫が舞う。ナッドは朧に広がる眩暈を覚えた途端、重心の位置を見失った。

 下半身が脱力すると同時に、膝の皿は瓦礫につく。

 ──立ってなどいられるはずがない。

 

(いや……でも、地面に伏せる、わけ、には……!)

 

 震える唇をこじ開ける。緩慢に空気を吐く。

 怯えた心胆を宥めるため、ではない。

 管を通すような呼吸でなければ、喉を通らない。

 頭も、喉も、胸も、腹も、足も、すべてが音によって圧迫されているようだった。呼吸の出入りはもちろん、手指の一本一本にまで力を入れなければ、べこんと音を立てて人体が外側から潰されてしまうだろう。

 ナッドは呼吸のため口を開くたび、一抹の不安に駆られる。もしや、震え上がった心臓がこれ幸いと逃げ出しやしないか。そんな突飛な夢想が、笑い飛ばせないほどの真実味を帯びているように思えた。

 身体が強張り、萎縮するように足が竦む。

 視界が揺らぐ。伏し目がちに瓦礫の頂上を仰ぐ。

 

(ちくしょう、でも、相手から目を離すのだけはッ)

 

 圧倒的な音は聴覚を備えた生物を鎖に繋いだ。

 だが──音の鎖を引き千切った者が一人いた。

 さながら風のように、幼女がナッドを追い越す。

 すれ違う刹那、幼い横顔の口許を捉えた。

 

(少尉……なに、笑って)

 

 背筋をなぞる冷たさを覚えたのも束の間だった。

 次の瞬間に小さな背中は遠退いた。

 そこで、滑らかに白髪が跳ねる。

 

(な……なんで動け、いや、それより、真正面から一人で突っ込むのは無謀じゃ……!)

 

 内心の悲鳴を他所に、幼女は老人へと迫る。

 瓦礫の山の尾根を滑るようにして駆け上っていく。

 その先、頂上で待ち構える老人は俯いた。

 彼の乾いた唇は何事か紡ぐと、薄く笑みを返す。

 まるで──いい度胸だ、と言っているかのように。

 

「少尉……ッ!」

 

 ナッドは本能的な恐怖に駆られて叫ぶも、遅い。

 すでに幼女は戦の舞台に飛び入っていた。

 彼女は、まず頂上の淵をなす瓦礫を蹴った。勢いのまま中空に身を預けたまま、右手に握り込んでいる剣を抜き放つ。迅速かつ滑らかな所作。切っ先の辿る線は居合術のように美しく思えた。繰り出された剣閃は、ハキムを斜に裂くような軌道を描く。

 馬鹿正直な剣撃だ。ナッドの口角が引き攣る。

 

(あれじゃ脇腹でも狙われたら一瞬だ……!)

 

 間合いを詰めて、斬る。

 剣術とは、これを如何にこなすかを突き詰めるものである。相手取るのが物言わぬ木偶ではないがゆえ、あらゆる手法で、どう有利な距離感を保ち、どの機に乗じて斬りかかるかを案じなければならないのだ。

 真っ当な剣術家ならば、構えや足運びを中心に手法を組み立てる。戦場に立つ剣士ならば、装備、魔術、あるいは小道具を材料に加えるだろう。

 だがソルの行動と言えば、ただ近寄って斬るだけ。

 あれでは、急所を差し出しているのと変わらない。

 

(少尉、本当になに考えてッ!?)

 

 しかし、事態は彼の想像を覆す。

 ソルの剣閃はハキムを鋭角に捉え、止まった。

 否、遅れると言うべきか。幼女の腕の動きが停止しただけであり、身体にかかる慣性のまま刃は宙を滑っている。その軌道上には、老人の平手があった。

 まさか、刃を素手で掴まれるのではないか。

 心臓が跳ね上がるも──違う、と目を瞠る。

 ソルの身体よりも、刃が遅れていく(・・・・・)

 弧を描いていた軌道は乱れ、剣が手から離れる。

 当然、待ち構えていた老人の手は空を掴む。

 

(な──ッ! 武器を手放した……!?)

 

 ソルは慣性の向くままハキムに肉薄する。

 幼女は丸腰。対して老人の手には、なおも大気を轟かす魔剣がある。もしや、瞬きの前後で一人の生死が分かたれるのではないか。ナッドは瞼を押し上げ、人間がものの刹那で肉片に変わる姿を幻視してしまう。

 だが、ソルは躊躇いなく右腕を伸ばす。

 剣を手放したおかげで空いた右手を使って、差し出される形になったハキムの手首を掴む。それを支点にぐるりと空転、真上に矮躯を投げ出した。

 太陽を翳すようにして幼女が舞う。

 その閉じた太股に、先ほどの剣が挟まっていた。

 

(曲芸じみてる)

 

 ナッドが唖然と見守る先で、ソルは落ちてゆく。

 ぐるり。幼女は縦回転を帯びたまま、鞘のように太股から剣を抜いた。そして彼女は重心を僅かな挙動で制御しながら、身体を回転させることで全体重を剣身に乗せ、ハキムの頭部を狙って振り下ろされる。

 彼は黙然と俯くと、魔剣を片手で緩慢に掲げた。

 音に満ちた『音のない世界』で二閃が交わる。

 

「──ッ! ────、──!」

「──……」

 

 そう、二人が間近で鍔迫った瞬間のことだった。

 荒れ狂っていた咆哮が、唐突に止んだ(・・・)

 

「ッ!? ぐ、ぅ、ふう……! はぁー……!」

 

 ナッドは、音の呪縛から解き放たれた。

 耳を塞いでいた圧力が消え、肌を押していた圧迫感も霧散する。自らが押し潰されないよう、無意識のうちに全身に込めていた力も抜けた。まるで水中深くから水面まで浮上したかのような感覚だ。

 衝動的に視線を地面にぶち撒け、両手をついた。

 額には熱い汗が滲む。口をこじ開けても、荒い呼吸は収まりそうにない。身体は空気を貪欲に求め、咳き込んでしまう。音に締められていた喉が、堰を切ったかのような空気の激流に戸惑っているようだ。

 解れた思考の紐を紡ぎ直しながら、類推を重ねる。

 

(あの魔剣──あの、音の能力は剣身に接触すれば止まるものだったのか……? だったら、少尉の無鉄砲な突撃は正鵠を得た行動だったってことか……? いや、ハキム・ムンダノーヴォ自身が止めたって可能性もあるが……クソ、思考がまとまらねえ……!)

 

 ナッドは呼吸の荒さをそのままに片膝を立てる。

 いまだに足元は覚束ないが、立たねばならない。

 それが、ソルの姿勢から学んだことだった。

 

(それより、少尉は──)

 

 瓦礫の上では、剣戟の音が鳴り響いていた。

 度重なる金属音。風の悲鳴。瓦礫が軋む音。

 幼女と老爺。彼ら二人は幾十もの剣を合わせる。

 間合いは、ほぼ常に至近距離が維持されていた。白の矮躯は腕や膝のバネを用いた伸びやかな動きで、旋回しながら刃を差し込む。対して、浅黒の老躯は正中線を動かさず、大木を思わせる佇まいで迎え撃つ。戦闘の最中で立ち位置は変われど、この構図自体は変わらない。こちら側が圧倒的に攻め立てている。

 そして、ナッドは攻防戦の半径にもたじろいだ。

 あんなに狭くては、横入りしようにも無理がある。

 土属性の魔術による援護はまず不可能だろう。

 

「──────ッ」

「────?」

 

(何か、喋ってるのか?)

 

 小さな遣り取りが二人の間で交わされている。

 だが、ナッドの鼓膜までは届かない。

 幼女の風纏う一閃と、老爺の風切る一閃。

 再び二つは対になるがごとく交差し──。

 

「ぐッ……!」

 

 ナッドは目元を腕で庇って、轟く風圧を耐える。

 両足に力を込め、凌ぎきると再び視線を戻す。

 そこでは、二人が動きを止めて対峙していた。

 

「──、──そうか。だが、変わらんぞ」

「望むべくもないのじゃ。元よりそのつもり」

 

 軽く遣り取りする二人は、酷薄に笑い合う。

 一人は、老いた醜顔を喜悦で歪めるように。

 一人は、幼い顔立ちを口端で凶悪に裂くように。

 

「俺は目前の餌を喰らうのみよ。歯応えがあれば文句はなかったが……呵々、その身体では期待できんか。さて、この一振り──無慈悲の竜を果たして越えられるか。『武』でそいつを問わせてもらおうかのう」

「踏破してみせよう。人の枠から外れることのできなかった人間が、この剣で、貴様を越えてみせよう」

「……ほう。生か死か、その手に掴んでみせい」

「掴むは勝利、ただ一つじゃ──」

 

 この交差を皮切りに剣戟は熾烈を極めていく。

 切っ先が互いの命を求めて揺らめき、貪り合う。

 

(もう目で追うのもやっとだぞ……!)

 

 傍目に見て──ソルの技量は目を瞠るものだった。

 跳躍、加速、減速。四肢を自在に駆動させ、老いた英雄を翻弄している。矮躯を存分に活かした挙動は驚嘆に値するものだ。その機動力と精確さで、至近距離を保ったままの打ち合いを実現していた。

 だが、幼女はいまだ英雄を捉えられないでいる。

 ハキムは老躯に似つかぬ矍鑠(かくしゃく)とした対応を見せる。

 三次元的な角度から襲う剣撃をいなし、神懸かり的に紙一重で躱し続けながら、的確に刃を落とす。機敏な動作の割りに、最小限の動きで立ち回っていた。老人が幼女を相手取る図は、まるで孫の剣の修練に付き合っているかのようにも見える。

 互いに決定打を欠いたまま、剣舞の演目は続く。

 

「けど、結構……やれんのか」

 

 ナッドは誰にともなく呟いた。

 ソルがビエニス王国の英雄相手に拮抗している。

 常識を照らし合わせれば「ありえない」と言わざるを得ない。ナッドは、尊敬の対象であれど盲信はしないつもりだ。数週間前のボガート戦を思い返しても、ソルにあのような大立ち回りを演じられるだけの実力が秘められているとは思わなかった。

 まさか短期間で飛躍的に実力を伸ばしたのか──?

 そんな期待は、横合いからの言葉に切り裂かれる。

 

「馬鹿じゃないの。あれは死を早めているだけよ」

「マジェーレ……!」

「あのままじゃ戦況は悪化するだけなのに。そこまでは馬鹿だと思いたくはないけれど」

 

 ナッドが隣に目を遣れば、そこに少女の姿がある。

 彼女は仏頂面のまま、左手で乱れ髪を弄び、右手と右肩で蛇行形状の魔導具を支えている。ハキムの魔剣の影響を感じさせない、涼しげな佇まいだった。

 ナッドは明確な反感を覚える。誰かが奮戦している脇で、賢しい傍観者を気取って、さも他人事のように構えている。そんな彼女の態度が気に喰わない。

 何も今回だけではない。似た経験は幾度もあった。

 ジャラ村に着くまでの道中、癇に障らなかったことのほうが少ないくらいだ。最終的にソルの前で爆発してしまうほど、彼女に感じる鬱憤は度を越していた。

 なぜ、このろくでなしが気に障るのか──。

 いま思えば、理由はごく単純だった。

 

(ああ。こいつの斜に構えた態度、俺に似てんだ)

 

 そう腹落ちした途端、平静さを幾らか取り戻す。

 すると、少女のわずかな変化にも気がついた。

 気怠げな面差しには、一筋の緊張が張っている。

 

「とりあえず……口論は後だ。それよりお前、さっきの『死を早めてる』ってのはどういう意味だ」

「単純よ。いま、あなたの目に優勢に見えるのは、あの子が後先考えずに全力を出しているから。少尉には無駄な動きが多い。そして、ハキム・ムンダノーヴォがあしらい方を心得ているから」

「あっちが手を抜いてるってことか」

「語弊があるわ。なにも少尉を慮ってのものじゃないから。戦い方を知っているってことよ。そして少尉のほうは悪手を取り続けている」

 

 マジェーレは表情を変えず、端的に状況を明かす。

 戦闘とは理路の通った駆け引きだ。ゆえに冷静さを欠けば、その時点で敗北が決まってしまう。単純な力比べだけで戦闘が終わるときは、それだけ特殊な状況下の場合なのだ。もしくは、それだけ双方の実力差が歴然だった場合だということになる。

 つまり、格上相手なら搦め手を取らねばならない。

 真っ向勝負は当然、避けるべきなのだ。

 

「自分より強い相手と戦う場合、急所を狙った攻撃というのは悪手よ。最初から全力というのも悪手。強力な一撃で勝ちを奪おうという魂胆そのものがド素人。見え透いた軌道は、格上相手なら必ず気取られる」

 

 それは、至近距離で戦うソルへの批判であり──。

 

「戦術としては長期戦が望ましいのよ。手数を重ねて、慎重に勝利へ寄せていく。……たとえばの話よ。自分の体力を温存しつつ、軌道が読みづらい『急所から外れた箇所』に傷を蓄積させていき、相手の動きが精彩を欠き始めたら、乱れた攻撃にあわせて大きな一撃を入れるの。これだけでほぼ勝負が決まるわ」

「おい……その話って」

「ええ。いま、あの老いた英雄がしていることよ」

 

 ──あまりにも明確な、最悪の未来予想だった。

 眼目を置いて考えるべきは体力なのだ。

 戦闘では、勝利という目標地点まで全身全霊で駆けることは正しい。しかし、走るための燃料が底をついたときのことを忘れがちになってしまう。置き去りにしたものが追いついてくることを、忘れてしまう。

 少女は眉間を撓ませ、己の魔導具を肩に乗せる。

 

「少尉、思ったより体力の消耗が激しそうね。このままだと長期戦になる前に、喰われるわ」

「ぐ、ぬ……!」

 

 少女の言を裏づけるように、幼い呻きが耳に障る。

 蒼穹を背にした二人の剣舞は均衡を崩していた。

 依然として地を滑り、跳ねるように駆ける白い影。

 そこに、滲むような紅色が彩りを加えていた。

 

追いついた(・・・・・)、なあ?」

「ッ!? が──」

 

 瞬間、幼女の全身に幾条もの線が走る。

 その線からは血潮が噴出。空に紅が、散る。

 紅は空中で身体を丸めて珠をなし、落ちていく。

 ナッドは戦慄する。いままで『(うま)(はや)く』を実現していたソルが、体力の限界で一瞬だけ拙速に落ちた。その一瞬。たったそれだけでハキムの剣撃に追いつかれた。もちろんこれだけで留まるはずがない。

 ──傷を負えば、速度は更に落ちるのだから。

 

「遅いのう、これでは追い越してしまうぞ」

「あ、が──ッ!」

 

 ハキムの周囲で夥しい鋒鋩が煌めく。

 張り巡らされた糸のような轍。それが彼の剣筋の残光だ。ナッドは言葉を失う。刃の軌道が転回する刹那でなければ、視認もできない速度である。

 細い轍が煌めくたび血飛沫が空に舞う。さながら、紅い薔薇の花びらを一枚ずつ千切って放っているかのようである。あの燃えるような色合いは、正しく命の燃える色という証左なのだろう。

 最後──剣は振り抜かれ、(みね)が水平のまま止まる。

 そのときソルは、ハキムの傍から飛び退いていた。

 もはや、間合いの維持は不可能だったのだろう。

 

「小童ァ。宣言した『踏破』は程遠いなあ、おい」

 

 老人は剣を振って鮮血を払い、歯列を覗かせる。

 対する幼女は、頂上の淵に踵をつけていた。

 瞳に灯る戦意は健在だ。獣のような前傾姿勢は、いまだ勝利を追う気概の表れのようである。だが、わずかに上下する小さな身体は、正直に「限界だ」と根をあげていた。脇腹付近の胴丸は壊され、外気にさらされた肌には、血の滴る線が無数に引かれている。

 口から漏れる、ひゅうひゅうという不恰好な喘鳴。

 幽かなはずのその音が、妙にナッドの耳につく。

 そのとき、胸の奥に()が灯る心地がした。

 

(この感覚は、前にも、あった)

 

 あれはバラボア砦でのことだった。

 ナッドが臆病風に吹かれ、ただじっと上から幼女の死闘を眺めていたとき。空中に生み出した土塊を飛石伝いに駆けているとき。孤軍奮闘する幼女がついぞ英雄の手にかかった瞬間に、心が発した熱。それは病的なまでに熱く、いまにも折れてしまいそうな膝に、一歩踏み出す勇気を与えてくれるものだった。

 同じように、彼は衝動のまま一歩を踏む。

 

「少尉! いまから、何とか俺が──」

「まあ、少尉はせいぜい数十秒といったところね」

「なに傍観者面を続けてやがんだ……! 少尉の援護に行かなきゃだろうが! お前も、ほら、来いッ!」

 

 思考を熱に冒されたまま、少女の手首を握る。

 時間がない。舞台では第二幕が上がっている。

 阿吽の呼吸で繰り広げられる、剣と剣の求め合い。

 空の彼方まで響くかに思える音が気を急かす。

 

(策自体は……まだ思いついてない。そもそも、ビエニス王国の英雄に勝利するってんなら『六翼』に比肩する戦力がないと駄目だ。マジェーレのオド量はソルのそれより多いが──流石にあれ相手じゃ無理だ。けど、このままでいたって少尉がみすみす討ち取られるだけ。なら、無謀でも何でも、行くしかない……!)

 

 対して、彼女は冷めたように鼻を鳴らすと──。

 力任せにナッドの手を振り払った。

 

「死にたいの? 割って入れるわけないでしょう」

「なッ……!」

 

 喉まで出かかった言葉が急に石と化す。

 腹に自由落下。衝撃は着弾とともに伝播していく。

 一瞬、少女が何を言ったのか理解できなかった。

 そして浮かべている表情が、嘲笑と認識するまでに数秒を要した。理解が実感に溶けていく過程で──腹底で加熱された怒りが沸点を越える。

 ナッドは衝動のまま少女に詰め寄り、肩を掴む。

 

「お前、少尉より強いんだろうが! しかも散々、散々、煽り散らしておいて、お前、お前ッ!」

「ええ。でも、わかっているでしょう? あのご老体ほど私、強くないの。たとえ行ったとしても死体が増えるだけよ。無策のまま突っ込むのは御免だわ」

 

 マジェーレはナッドの腕を無造作に払う。

 軽い動作だったはずである。しかし、槌でも振るわれたかのような重さが伴っていた。ナッドは痛みに顔を歪め、寸瞬だけ竦む。だが少し思い直して、敵意を込めた睨みを投げつけるに留めておく。

 こんな分からず屋に構ってなどいられなかった。

 ソルは刻一刻と身体を刮がれているのだ。糠に釘を打つ暇はない。それにナッドは「マジェーレが素直に頷くはずがない」とは心の底では知っていた。

 ──過去の俺なら間違いなく断ってただろうしな。

 

(だったら、俺だけで行くしかない)

 

 ナッドは視線を振りきり、瓦礫に向けて駆け出す。

 弱音を握り潰すようにひとつ拳をつくった。手が震えるのは力を込めているからだ。そう自分自身に見栄を張って、死闘を繰り広げる舞台にのぼっていく。

 頼れる手持ちは少ない。否、ハキムと相対することを考えると、どれも御守り代わりの代物だ。なにせ、未熟な剣術と、ようやく手に馴染み始めた剣、あとは実践的ではない土属性の魔術だけだ。

 疾走している最中の時間は粘性を帯びる。

 ただただ厳かに、死へと向かう覚悟を問うてくる。

 ──お前は、暗夜の海に意味なく飛び込めるのか?

 それを「うるせぇ」と一喝して、突っぱねる。

 ──俺が行っても無意味ってのはわかってんだよ。

 

「けど、それでも、やらねえと駄目なんだよ……!」

 

 喉から絞り出した声は、苦渋の色が強い。

 ナッドは精一杯の意志を手に宿し、剣を握り直す。

 わざわざ目前に突きつけられるまでもない。

 これが無謀だと知れている。無茶だと知れている。

 だが、この熱にだけは嘘をつきたくなかった。

 

(バラボア砦の一件。熱に突き動かされたとき、ただ無力で、何もできなくて。だが、最後は一助くらいにはなれたんだ……! だから、今度だって)

 

 あのとき成し遂げられた。なら、今度だって。

 幾度も唱えて、己を奮い立たせる。

 

(今度だって……今度だって! 馳せ参じるだけの勇気を出して、それで少尉の助太刀ができたら、きっと、俺はそのときようやく変われたって自分自身に胸が張れるんだ……!)

 

 ナッドは眦を決し、顎を上げて頂を仰ぐ。

 そんな無防備に晒した腹を突き刺すように──。

 褐色の脚が、追い越しざまに飛んでくる。

 

「な……っ!?」

 

 踵が横薙ぎに迫り来る。

 何者かが回し蹴りを仕掛けてきたのだ。

 弧を描く脚先には、帝国軍の軍靴があった。

 その踵は鈍く光を跳ね返している。帝国では対人戦を見越して、分厚い鋼鉄で覆うように製造されるのである。生身で喰らえば骨も砕けてしまうだろう。

 果たして、この不意打ちに対応できるか。

 否、ナッドはそれほど反射神経を備えていない。

 打撃は、胴に巻かれた鎧に確と打ち込まれる。

 

「ごあ……ッ!?」

 

 口が堪らず開いてしまう。

 岩盤に穴を穿ったような音と衝撃。

 一撃で臓腑が潰れたと、思った瞬間だった。

 ナッドの視界は逆流する瀑布で占められる。全身を舐める風を感じながら現状を悟る。目前を流れていくものが水流などではなく、石礫や建物の残骸であることを。そして、自分が俯せで滑空していることを。

 恐怖心が芽吹く前に失速、右肩から地に落ちる。

 

「が……ぁッ!?」

 

 余剰の力に乗ったまま転げ回る。

 勢いが削げるのと同時に、身体が削げていく。

 このジャラ村は残骸の海だ。地面には柔肌を引き裂く石片が散りばめられている。ナッドの身体が回るたび、肩や腕が熱を上げていく。だが、受け身はとり慣れている。学舎での鍛錬の賜物だった。結果的に、三丈の距離を吹き飛ばされて軽傷で済んだ。

 そうして着いたのは、通りを隔てた向こう側。

 瓦礫造りのなだらかな丘陵の上で、身体が止まる。

 ナッドは蹲って呻き、咳き込む。気管に粉塵が入った。きっと転げ回った拍子に入ったのだろう。息苦しさに悶えていると、涙で滲んだ視界に影が映る。

 ──誰かが近寄ってきたのだ。

 射殺すつもりの視線を、のろりと地面に這わせる。

 

「な、にを……しやがる」

「差し出口を、挟むつもりじゃなかったけれど」

 

 目前で、華奢としか思えない脚が止まった。

 紛うことなく、ナッドを吹き飛ばしたそれである。

 軍靴の踵部分は派手に破損し、小ぶりな曲線を描く生身の踵が露になっていた。そこから身体を伝って視線を登らせていくと、最後に闇色を秘めた双眸と目が合う。予想通りにマジェーレの仕業だったようだ。

 だが思惑がわからない。威力の加減はされた形跡はあるのだ。踵を叩きつけられたのは、鳩尾を拳一つぶん開いた位置。こうも綺麗に外されては、殺意の存在を否定されてしまう。ならば何のために──。

 少女は有無を言わせず、用件だけを告げる。 

 

「副長命令よ。やめなさい」

「遅ぇだろ……もろ実力行使だったじゃねぇか」

「言葉で止めても聞かなかったでしょう?」

 

 そう言われればナッドは唇を噛むしかない。

 砂混じりの鉄錆味が、滲むように広がっていく。

 

「……これで話ができるわね。私が止めた理由は、あなたが飛び出しても状況は何一つ好転しないと判断したからよ。それどころか悪くなるだけ」

「そんなこと、言われなくてもわかってんだ……!」

「わかっているのならいいけれど。無謀や無茶を押し通すのはドン底のときだけ。まず冷静になるの。そうじゃないと、きっと後には悔いしか残らないわ」

「お前……! なんでそうやって……!」

 

 マジェーレの憎まれ口に、憤りが再燃した。

 ナッドは拳を地面に振り下ろし、睨みつける。

 あまりにも理不尽だった。窮地を打開せんと差し伸べた手を払うだけに飽き足らず、その道を塞ぐように掣肘を加え、見下すように説教を垂れる。いまならナッドは断言できた。「この女は、人の神経を逆撫ですることに関しては天賦の才がある」と。

 少女は、それを聞き流すように瞑目している。

 恨めしげ視線を強めて、ようやく瞼を上げた。

 

「何とでも言いなさい。気が済むのならね」

「済むかよクソ! 邪魔さえしなけりゃ別に俺は」

「駄目。通すわけにはいかない」

「な──何でだよ! このままじゃ少尉が──」

「これがっ……私に任された仕事だからよ」

 

 強い語調で断言され、ナッドは言葉に詰まる。

 らしくない。たかだか三日とは言え、生活を共にし、大まかな性格は把握できていたはずだった。皮肉屋で冷笑的。その枠からはみ出た、マジェーレ・ルギティにそぐわない迫力に面食らってしまった。

 少女は憮然とした表情で息を吐いて、舌打ちする。

 

「……できうる限り、小隊員を生かすこと。それが中将から副長に与えられた仕事。あなたたちに無闇やたらに死んでもらっては困る。それは少尉のことも同じで、見捨てるわけじゃない。わかった?」

「あ、ああ」

 

 気迫に押され、骨のない返事をしてしまう。

 

「あなたには、他にやってもらうことがあるの」

「やって……もらう、ことだと……?」

「そう。大事なお役目よ」

 

 少女は剣戟を一瞥すると、簡潔に案を語った。

 その間に、ナッドはおもむろに立ち上がっていく。

 

「……あなたは一刻も早く第二駐屯地に戻り、この報告をするの。ロズベルン中将は不在だろうけれど、とりあえず軍本部に連絡を回して。四大将じゃないにせよ、その副官の侵入は一大事。もしも、私たちが全滅したときが最悪よ。彼らが野放しになる。それだけは避けなくちゃならないわ」

「ちょ、ちょっと待て……それって、この状況を打開する案じゃないよな。だって、その案は」

 

 ──まるで最悪の事態を回避するための行動だ。

 呟くと「当然よ」と鋭い眼差しを向けられる。

 

「真っ向勝負しても敵わない相手。それなら逃げる一択でしょう。幸い、私はここの土地に慣れているわ。森に身を潜めれば逃げきる自信はある」

「でも、少尉とか、北側に行った連中とかは──!」

「むざむざ死なせるつもりはないわ。言ったでしょう、これは仕事。報酬に直結しているの。だから、少尉とゲラートたちは私が逃がす。責任はもつ」

 

 確かに、無策のまま吶喊するより望みは繋がる。

 提案の有意性を認めて、静かに頷く。

 少女はそのまま「それに」と言葉を付け足す。

 

「まだ、少尉は諦めてないみたいよ」

 

 え、とナッドは思わず声を漏らす。

 彼が視線を瓦礫に向けた矢先のことだった。

 ごろり。その不穏な音は、剣舞が繰り広げられる真下からだ。転げ落ちてきたのは何の変哲もない石片が一つ。それを追いかけるように、二つ、三つと斜面を下る。特に目を惹く異彩はない。ゆえに『崩壊』の前兆は薄かったと言える。──瓦礫同士が擦れる音や亀裂音が、舞台の内部から一気に軋むまでは。

 変化は一瞬。彼らの足元が、崩れる。

 さながら雪崩のごとく舞台は流れ落ちていく。

 

「小賢しいが、悪かないな」

 

 ハキムという英雄は余裕を崩さない。

 足場を失う。つまり戦闘において枢要な、間合いを左右する足運びが覚束なくなるということ。戦闘の継続はおろか、避難ですら相応の能力を要求される。

 それでも老人は身軽に退避行動をとれていた。背中に羽でも生えているかのごとく華麗に後退していく。崩壊を一秒後に控えた部分を的確に踏んで、飛ぶ。

 そう──容易く身動きの取れぬ、空へと飛んだ。

 刹那、対峙する『修羅』は檸檬の瞳を猛らせる。

 

「はァッ──!」

 

 幼女はこれを好機と定め、疾駆する。

 誂えたように崩壊の遅い瓦礫製の道で加速。

 風を破るたび加速。一歩を出すたび加速。

 息を吐くたび加速。空気を吸うたび加速。

 そして、ついぞ頂上の瓦礫を踏み──飛ぶ。

 陽光を翳す影と化した、老人に向かって。

 

やはり(・・・)そうなのか(・・・・・)

 

 蒼穹を背にしたハキムの口角が、にい、と上がる。

 押し殺したが漏れてしまった、と思わせる笑み。

 ナッドはその意味を図りかねた。おそらく足場の崩落を仕掛けたソルを賞賛しているのだろう。彼女は手足を駆使して、瓦礫の山を保っていた平衡状態を乱し、崩壊を起こすように仕組んでいたのだ。それも、目まぐるしい打ち合いの最中に、だ。

 地力が足りないなら、それを補う必要がある。

 彼女はそのために地形を味方に変えたのだ。

 

(俺も、指咥えてぼうとしてる場合じゃない……!)

 

 遅れて垂れてきた鼻血を腕で拭う。

 ナッドは覚悟の紐を引き締め、駆け出した。

 いまの自分には、為すべきことがある。

 

(ああ、視界が開けてるから走りながらでも少尉たちが見えるのか。趨勢を確認できるのはいい。……正直、少尉の様子も気になるしな)

 

 幼女と老人の終幕は間近に迫っていた。

 空での一騎打ち。これで決着がつくはずだった。

 幼女は会心の一撃を放ったはず、だったのだ。

 空に昇る塔を幻視させるほどの──渾身の突き。

 しかし、清冽な響きがそれを引き裂いた。

 

「笑止、小細工なんぞ通用するものかよ」

 

 またしても鋼鉄は接触。火花が散る。

 ソルの鋭い鋒はハキムが峯で弾いている。

 彼は点の一撃を線で受けた。その魔剣の峰は幅広、かつ竜牙を模したような流線が入っていた。その形状は櫛状と呼ぶべきだろうか。あわいに嵌った剣刃を折るためのものに違いない。

 だが、それは鍔迫り合いの最中で可能なこと。

 足場が存在しない彼には、突きによる衝撃を殺ぐことができない。老躯は高々と突き放され──これで戦況はまた膠着状態に戻る。そうナッドは確信した。

 そして終止符を打てないままなら、勝機はある。

 

(もう、大丈夫だ。これならマジェーレの案通りに事が運べば希望は繋がる……!)

 

 ナッドは視線と思考を切って、走りに注力する。

 ソルたちの生死が自分の両肩にかかっているのだ。

 あとは、幼女と少女に任せることとしよう──。

 そう決起したがゆえに、彼は聞き逃してしまう。

 いや、耳を澄ませようが鼓膜に届かなかったろう。

 

「これは手落ちだ。好機こそが陥穽の入り口ぞ」

「わかっておるのじゃ。なれば第三幕に移ろうか」

「……いやはや、残念ながら幕引きの時間だよ」

 

 ──そう、舞台との距離は開きすぎていた。

 ──そして舞台では一騎打ちを続けていた。

 ──だからこその落とし穴。

 

「お前さんが気づかんのも無理はない」

「? そう思うのであればかかって来いと言っておるのじゃ。織り込み済みじゃと証明しよう」

「ああ。お前さん(・・・・)だけだった(・・・・・)なら(・・)、なあ?」

 

 ──どうして都合のいい勘違いをしたのだろうか。

 ──英雄の矛先が自分に向かない、なんて。

 

「な、ァッ……!?」

 

 呻きを上げたのは、ナッドの喉だった。

 純然たる殺意。竦ませる威圧感。息詰まる圧迫感。

 唐突に浴びたのは、そのどれとも言える圧力。

 その源泉は──振り向きざまに見た空にある。

 老人はすべてを従容と見下していた。彼のぎょろりとした双眸は、遠景にすぎないだろうナッドを確かに見据えていた。目が合えば、思考を白紙にされる。

 全身の筋肉は硬直。身体は走り方を忘れてしまう。

 走行姿勢を崩し、瓦礫の海を再び転がる。

 今度は受け身も取れなかった。

 

(身体……動かな……ッ!?)

 

 俯せのまま頭を打ちつけ、額が割れる。

 頭がぐらつくなか、ナッドは思いつく。蛇に睨まれた蛙は、捕食者と被食者という理を知り、己が後者から逸し得ないと本能的に悟る。だから顔を青褪め、竦む。諦観製の絶望は口に苦いのだろう。

 それは、英雄に威圧された只人でも変わらない。存在の格の違いを知り、呼吸の仕方も危うくなった。彼にとって諦観製の絶望は鉄錆味の砂粒だった。

 高天の英雄は、地を這う只人を尻目に剣を振るう。

 彼は節くれ立った手を滑らせ、縦に斬りつける。

 すると、中空が破れた(・・・)

 

「お前さんだけだったら、これは陥穽ではなかったのだろうよ。だが、違うよなあ。お前さんには守るべきものがあったはずだよなあ? 戦場から離したのは良かったが、目を離したのは阿呆の誹りを免れんぞ」

「ッ、ナッド! そこから早く退──!」

「間に合わん。所詮、お前さんはそういう奴だよ」

 

 空中に刃を滑らせると、斬撃痕が黒々と残る。

 まるで空間自体を引き裂いたかに見えたが、違う。

 それは、空を焦がす黒炎。桔梗色の炎心は横に伸び、内炎は烏羽玉色に塗り潰されている。蒼天に浮かぶこの異物により、自然的な調和が狂って見える。

 火炎は鋒を追うように一直線に並べられ──。

 ハキムは重力落下しながら、唇を動かす。

 相好を崩して、さも一流喜劇を待ち侘びるように。

 

「さあ小童、どうする?」

「な、あ……!?」

 

 ──波状の黒炎が奔る。

 弧の形に並び、空中を滑ってくる。まるで火の手が油を引いた地面に這うように。しかし、速度は比喩のそれを遥かに凌駕している。呼吸二つぶんの時間でここに到達するだろう。もはや回避の手立てはない。

 直前まで、圧力が身体を地に縫いつけていたのだ。

 魔術を使用するにも、威力と時間が足りない。

 黒光りする閃光を前に、為す術はない。

 

「クソッ……!」

 

 呆然と見上げる先には黒色波濤。

 すべては遅く。すべては遠く。すべては消える。

 視界は黒色に塗り潰され、炎の津波に飲まれ──。

 

(これで、ここで、終わり──?)

 

「馬鹿言って、馬鹿面してんじゃないわ……!」

 

 ──否、黒炎の波濤が横薙ぎに滑り迫る直前。

 マジェーレが薄墨色の髪を流して割り込んでくる。

 間近まで吹きつける炎を、薄浅葱の膜が遮った。

 より正確に言えば、膜ではなく液体状の盾だ。

 表面は波立ち、逆巻く水面が黒炎を押し留める。激しい水飛沫を上げながらも、怒濤の炎を吸収、あるいは弾き返すことでナッドら二人を守る。

 この液状の盾には、蛇行形状の鋼鉄が透けている。

 くるりくるりと緩慢に回って、水車のようだ。

 

(これがマジェーレの魔導具の能力……ってことか。いや──馬鹿が、俺は。突っ伏してるばっかじゃいられねぇってのに!)

 

 本能的な恐怖で竦んだ身体に檄を飛ばす。

 ナッドは、歯を食い縛って満身の力を振り絞る。

 身体の節々を軋ませながら、やおら立ち上がる。

 前方に目を遣る。液状の盾を隔て、黒炎の壁が築かれていた。揺らめく炎が視界を遮断する様は、舞台に降ろされた黒幕のようである。

 その向こう側からは散発的な剣戟音。ソルとハキムの延長戦が白熱している証拠だ。きっと幼女が、かの英雄を押し留めてくれているのだろう。音が続く限りはナッドにまで累が及ぶことはないはずだ。

 無言で感謝を送ると、すかさず脇腹を抓られる。

 

「いっ……! ちゃんと目ぇ覚めてるって!」

「ならいいの。喰い止めているうちに行きなさい」

「ああ、わかった」

「……道順は平気よね」

「来た道を戻るだけだろ、簡単だ」

「なら、よし」

 

 少女はそっけなく言って、前方を睨み据える。

 液状の盾を立てつつ、踏み出した。ナッドからは彼女の表情は見えず、髪が乱れた後頭部だけが視界に居座る。灼熱の壁に対峙しているせいか、影が色濃い。

 ただ、ナッドはこのとき妙な安心感を覚えていた。

 少なからず対立していた相手が、背を任せている。

 そこに、わずかばかりの可笑しさがあったのだ。

 

(ここで、俺だって戦うって言えるくらいに強けりゃ……って、まあ言えるわけない。少尉も、マジェーレも、俺を助けてくれてんだ。だから──全部を無駄にする言葉なんか言えねぇよ)

 

 ──そうね、思い上がらないでボンクラ。

 その小さな背中で、そう言い放たれた気がした。

 少女は、液状の盾のものと思しき名を舌に乗せる。

 

「『レグーネ=ノーツォ』第二階梯──紅蓮の理」

 

 それが合図となって、甲高い音が鳴る。

 瞬く間に液状の盾が燃えてゆく。薄浅葱の水面を渦巻かせていたそれは、急速に茜色へと移り変わる。そしてを蛇行形状の水車は、金属音を打ち鳴らしながら十字型の武器へと変形を果たした。

 少女は交差した部位を握り、無造作に構える。

 その実、乱れはない堂に入った構えだとも言えた。

 おそらく、これで戦闘態勢が整ったのだろう。

 しかし、いまナッドの視線はそこになかった。

 

「……あれ、は」

「竜は越えられず、か。期待しとらんかったが」

 

 その、嗄れた声色は上擦っていた。

 声が響いた途端、燃え盛っていた黒炎の壁が(たちま)ちのうちに消えてゆく。地面から徐々に空気に融けてゆき、数秒と経たずに目前は晴れる。先刻同様の青空が見渡せるようになって、そうして──。

 少女の身体越しに見えたのは、果し合いの結末。

 ナッドはその光景に、釘づけになっていた。

 

十年遅い(・・・・)剣捌きは目に余るわなあ、『修羅』よお」

 

 目に焼きついたのは、先刻以上に崩れた瓦礫だ。

 陽光を浴びる老人は、魔剣を頂に突き立てていた。

 彼はもみ上げを指で擦りながら、ぎょろりとした目で斜面を見下ろしている。

 

 ──そこに倒れ伏す華奢な身体。

 ──見えるのはただ、血染めの髪。

 ──動かない手足。朱に腫れ上がった打撲痕。

 ──屍蝋色の肌からは鮮血が零れ落ちていく。

 ──彼女が相棒と呼んだ剣は手のなかにない。

 ──瓦礫の亀裂に埋まり、輝きは燻んでいた。 

 

「……嘘だ、ろ……?」

「行きなさい」

 

 このとき。ナッドの思考は黒で埋め尽くされた。

 繰り言のような、無意味な言葉が渦を巻く。

 よろめいて、一歩、二歩、と後ずさる。

 

(わかってた、はずだ。なのに。俺はわかっていたはずなのに。二人の実力には隔たりがあるって。さっきまで打ち合えていることが奇跡だって。わかってたはずなのに、何で、俺、こんな。動揺してんだよ、俺。だって嘘。だって、俺は、わかって──少尉が、ソルが、死ぬ。死んでいる? そんな。少尉はそんな。何で。いや諦めたり、なんか)

 

 それが。目に。焼きついて。離れない。 

 

「──早く行け!」

 

 マジェーレの喝破が、ナッドの思考に穴を穿つ。

 そこから噴き出すのは、恐怖の感情だ。

 ナッドはその波に押し流されるようにして、この場から転回、逃げるように駆け出した。事実、ハキムから逃亡を図っているのだが、厳密に言えば否である。逃げ出したのは、受け入れられない現実から。精神的支柱を目前で折られ、芯が崩れたのだ。

 いまや思考は、一切まとまる兆しを見せない。

 

(格好つけてたのが、クソ、なんでこう……ホント俺ぁ……根拠もなく信じて、まさかこんな呆気なくこうなって……! わかっていたはずなのに。これが当たり前だ。これが現実だよな。少尉が見せてくれたものが夢みたいなもので、力がない奴はこうなるのが普通なんだよな。けど、少尉が死んじまって、これじゃ、俺は何のために走って、クソ、考えるな)

 

 身体の疲労以上に呼吸が荒くなる。

 連なる瓦礫を横目に、全速力で十字路を曲がった。

 ひしゃげた建物が尽きると、半壊に留まった村並みが脇を流れていく。目的地はこの先。小隊はジャラ村の西部入り口に、軍馬たちを駐留させていたのだ。辺境にあるこの村から迅速に立ち去るには、そこに向かうしかない。ゆえに持てるすべての力で目指す。

 心臓が跳ねる。腕と胸と腰と脚を連動させた。

 全身の筋肉を伸縮、足ではなく身体全体で走る。

 この一時だけは夾雑物を挟まず、楽でいられた。

 頭に回る酸素が限られるからこその純化。

 

(これが自分にできることだ、最善だ……!)

 

 噛んで含めるように言い聞かせ、疾駆する。

 戦場を一つ乗り越えたからと言って、劇的に強くなるはずがない。心持ちは多少変われど、言ってしまえばそれだけだ。己の実力を理解しているがゆえ、この希望に縋るしかないと信じる他なかった。脳裏に焼きつく、幼い恩人の凄惨な姿を振り払う。

 あの英雄狂いが、あの憧憬の先に立つ剣士が──。

 ああも、あっさり敗れ去るなんて思わなかった。

 

(は、はは……何やってんだ。結局、何も変われてないじゃねぇか。逃げ出して、言い訳して、何も変わらない。結局──理不尽に抗うだけの十分な力を持てるまで、弱いやつはこうしてなくちゃいけねぇんだ)

 

 小隊全滅、の四文字が頭から離れなかった。

 気づけば、ジャラ村の西部の入り口に辿り着けていた。獄禍の被害が薄く、ほぼ無傷なまま村並みが残っている。木造の西門が開け放たれていて、頑丈に組まれた木柵の列が北南に伸びていた。門戸の隙間からは、黒い毛並みの軍馬たちが顔を出している。

 ナッドは気が逸るあまりに飛び乗った。

 馬は身を捩ったが、彼が手綱を操ると静まる。

 

(いや、違う……それでも。それでも、だよな少尉。俺はむかしの俺と違う。あのときの逃走は、ただ苦難から背を向けただけ。でも、これは活路を見出すために走っている。無駄には、できねぇ。たとえ少尉を救えなくても──俺は、託されたんだから)

 

 当然、絶望的な想像は拭い去れない。

 ここから第二駐屯地まで片道三日かかった。全速力で飛ばしたとして、到着まで二日が限度だろう。援軍が間に合う。そう無根拠に楽観できるほど、ナッドは現実を見失ってはいない。だが、託された希望を見据える。自分の手にしかない蜘蛛の糸を握り込む。

 ナッドは額の脂汗も気にせず、馬を操った。

 手綱を強く握り、その太さを強く意識する。

 

(頼んだぞマジェーレ……! 俺が呼ぶ援軍が助けに来るまで、逃げて逃げて、絶対に少尉たちを──)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、あー! やっと来たんだ!」

 

 ナッドの願いに水を差したのは、天真爛漫な声。

 聞き覚えなど、あるわけがない。

 急速に背筋が凍る。首を巡らせ、声の主を探した。

 村の入り口、その木柵の影から人影が現れる。

 

「ごめんね? これもオシゴトだからさー」

「待て、待てよ……お前、誰だっ!?」

「まー……ハキムのお爺ちゃんの仲間さんだよ」

「ハキ、ム」

 

 その少女は小柄だった。

 聖職者を思わせるローブを目深に被っている。それから覗くのは燻んだ金髪と、赫色の双眸だ。あどけない顔立ちはソルを二、三、大人びさせたほどか。

 恰好は、乞食のように散々な有様だ。修道服は汚れと煤だらけ。赤が滲んで端々が破れている。どこぞの教会の焼却炉からくすねてきたような代物に思える。

 そして、手には老木めいた長杖が握られていた。

 彼女は杖の先端を、淡く暖色に灯らせると──。

 

「いや、だ」

 

 ナッドは馬を嘶かせ、手綱を引く。

 

「こんな、こんな! 俺はまだ何も報いて──!」

「ホントにごめん、ね?」

 

 ──ナッドは悲痛の言葉を最後に。

 ──視界と意識が、爆炎の彼方に消えていった。

 

 

 

 



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5  『夢』

 1

 

 

 

 ──随分と古い夢を見た。

 記憶という本棚。その隅で埃を被った一冊。

 これはソルフォート・エヌマの人生の一幕。

 時の流れで風化しかかった残滓である。

 

『さっきはありがとう。助かったよ。いやあ、傭兵さんは優しいんだねえー……まさかまさか、捕まった僕のためにそこまでしてくれるなんて』

『……別に。世辞は止めてくれ、これが仕事だ』

『ご謙遜を。普通のニンゲンはここまで命がけでしないって。ほら、打たれた手首真っ赤になってる』

『……触ってくるな。鬱陶しい』

 

 中天の太陽を臨む一面の荒野。

 ローブ姿の八人組は競うように足跡をつけていく。

 彼らは頭巾を目深に被った所属不明の集団だ。そのうち先頭を行く青年同士が言葉を交わしていた。透き通るような瞳をした男がひたすらにはしゃぎ、もう片方の男が仏頂面でいなす。この後者こそがソルフォート・エヌマ。のちに幼女となってしまう男である。

 彼の身長は同年代よりやや低め。全身を覆う枯葉色のローブからは、短剣めいた鋭い双眸が覗く。そこには若草ゆえの攻撃性が見え隠れしていた。

 ソルはそれを俯瞰視点で見下ろしていた。

 

(そうか、昔の夢じゃ。この場面は確か傭兵団に入って数年経った頃合じゃろうか……初めて戦場に立って数年ゆえか、わしの態度が無意味に刺々しいのう)

 

 明晰夢のなかで時系列を把握していく。

 これは夢との距離を自覚し始めた頃合いだ。狭い村からは出たものの、憧れた英雄の姿を目にしてちっぽけな自信が打ち砕かれてしまった。決して多いとは言えない心の空白が慢性的な焦燥感と無力感で埋め尽くされ、他人にまで心を割く余裕がなかった。

 当時の彼が無愛想を極めている理由はそれである。

 彼は母親譲りの眉を渋めて『そもそも』と続ける。

 

『この程度のこと、傭兵ならば当たり前のことだ。傭兵稼業とは信用が命だ。それが揺るがされるのなら、たとえ命を賭してでも守るのは当然だ──』

『って、んな訳あるか阿呆が』

『……貴様。周囲の警戒はどうした』

 

 赤毛の同僚に横合いから小突かれ、睨み返す。

 睨まれた当人は呆れたように嘆息する。

 

『いや、何だ。お前さんの無茶なハードルに合わせられる同業者のこと考えると不憫でたまらず……それより魔術師サマ、雇い主だってのにすみませんなあ。こう堅苦しくカッコつけられては敵わんでしょう。こいつ、俺たちの間でも浮いておりましてな』

『……まったく気味の悪い。貴様が兄弟子面するな』

『似たようなモンだろうがよ。お前さんの尻拭いすんのは俺なんだから』

 

 その同僚は、無愛想なソルフォートを見兼ねて口を挟んできたのだろう。肩甲骨の辺りまでの赤毛を揺らして、可愛げのない凡人の頭を押さえつけようとするも──それを機敏に躱されてしまう。同僚は『こいつ本当かわいくねえなあ』と呟くと、またひとつ嘆息。

 そして色素の薄い青年魔術師の瞳に目礼をする。

 

『本当すまんなあ、魔術師サマ』

『あはは、とんでもない。僕たちが命を拾えたのは彼がそれぐらいの堅物だからだろうしねえ』

 

 青年魔術師はあっけからんと笑い、手で制した。

 依頼を引き受けた発端は確かにそうだった。

 

(これは、いまから四十年ほど前の記憶じゃ)

 

 帝国の十年戦争の遥か以前。ソルフォートは『とある魔術師五人の護衛』として雇われた。彼らは大陸最高峰の魔術の学舎と名高い、セレスニア大学からの逃亡の助力をして欲しいということだった。

 傭兵職ゆえに事情は詮索しなかったが『奇妙な依頼だ』とは思っていた。この疑念に答えが出るのは数年後のことである。しかし、それはまた別の話。

 いまはただ流れゆく記憶が再生されるだけだ。

 同僚が赤毛を揺らし、耳打ちしてくる。

 

『ソルフォート、そろそろソラリオに着く。セレスニアの待ち伏せの可能性がある。荒事にはしたかねぇが、準備はしておけよ。まあ十中八九、追いかけっこになるだろうがな。念のためだ』

『わかっている。……望むところだ』

 

 わずかに顎を引き、腰に帯びた剣に触れた。

 

『ええとその、赤いほうの傭兵さん? ソラリオっていうのはマティウス王国の北端の都市だったかな?』

『おう、俺たちの庭だ。マティウスは拝金主義の楽園でなあ。特に、ソラリオみたいな国境付近ともなれば、俺たち戦争屋に相応しい根城ってワケよ。そこまで逃げ果せたら、ひとまず小休止ってとこかあ?』

 

 ──ああ、そうだ。この記憶は。

 夢の最中に悟る。これはすべての始まり。

 あるいは彼の、人生の後日談の原因だ。

 赤毛の同僚が離れるのを見計らって、青年魔術師が近寄ってくる。

 

『傭兵さん、名前はソルフォートさんだったかな?』

『何の用だ。……手短に話せ』

『いやあ、後日のお話なんだけどね。無事に人材登用課から逃げ延びられたら、個人的にお礼をしたいんだよ。もちろん、取り決めた報奨金も払うけれど……そう、これがニンジョウという奴なんでしょう?』

 

 柔和に微笑む青年は睫毛の長い瞼を瞬かせ。

 あまりにも容易く。あまりにも柔らかな口調で。

 その、始まりの言葉を口にした。

 

『なにか願い事はあるかい? 僕はね、恥を忍んで言うならば『最高の魔術師』と自負していてね──』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 伏せられていた長い睫毛が、震えた。

 そしてゆっくりと持ち上がる。

 

(夢、か。随分と昔のものだった気がするのじゃ)

 

 幼女が初めに瞳に映したのは暗い天井だった。

 ぺたりと手を置き、のっそり上体を起こす。

 

(あれは、自称『最高の魔術師』に二つ目の身体を願ったときのものだったか。それはともかく)

 

 ふと頭痛を覚える。緩慢に頭を振ることで、意識にのしかかる眠気を振り払った。埋没したそれを露わにすると、五感からの情報が流れ込んでくる。

 したたかに咽せた。迂闊に口呼吸をするものではない。喉奥にまで空気中の埃を吸い込んでしまった。鼻腔のほうにカビ臭さが貼りついている。長らく人の手の入っていない廃墟の香りだ。郷愁さえ呼ぶ。

 ごふごふ咳き込みながら、胡乱な視線を巡らせる。

 薄く埃が積もる床、奥行きの暗がり……。

 ここは、どうやら石造の住居の一室らしい。

 

(うむ……まったく見覚えがないのじゃ)

 

 ──まさか死後の世界というわけでもあるまい。

 唯一の光源は見上げた先にある。

 格子つきの窓が、塞がれた四方のうち一方の壁に穿たれていた。ソルが背伸びしながら跳ねて、ようやく下辺の縁に手が届くような位置にある。そこから蒼褪めた月明かりが仄かに差し込んでいた。

 つまり時刻はとうに宵を迎えているようだ。それが当日の宵か、数日後の宵かは断定できないが──湿り気も帯びた空気がじっとりと肌に纏わりついていた。

 日中の灼熱に比べれば、冷涼な空気は歓迎だった。

 されど身を震わせ、再び視線を巡らせる。

 すると、否が応にも現状を理解させる物を見た。

 窓の対面に寂寞と並ぶ、鉄格子だ。

 

(ここは座敷牢、か?)

 

 月光を受け、錆を浮かせている様が目についた。

 

(ならば、わしは捕虜ということになるが)

 

 改めて、自分の身体を見下ろす。

 ほぼ全裸だ。身を包んでいた鎧や携行品は剥かれ、代わりに包帯を巻かれている。頭、手、腕、腹、太腿、脹脛、足首──見晴らしのよい双丘も例外ではない。さらしのごとく覆われ、なけなしの厚みを嵩増していた。ソルはそこに無造作に指を突っ込み、首をひねる。ここに怪我はない。にもかかわらず丁寧に巻かれていることを考え、数秒遅れて悟った。

 ともあれ、白尽くめの格好は布地面積が少ない。

 

(道理で肌寒いわけじゃ。特に床……尻が冷えて敵わぬ。じゃが、かくも包帯で気を遣われていることを考えれば、わしの待遇は悪いわけではないようじゃな)

 

 ふと、数ヶ月前を思い出す。

 バラボア砦での一件を終えたあとも、ソル曰く『墓所から這い出た兎の死体』として寝台に縛りつけられた。つまりこれは怪我の処置を受けた痕跡だ。傷跡が深い箇所だった腹部や腿では、包帯の白に濃淡のある赤色が滲んでいる。そして露わになった脇腹の、陶器のような白肌には青痣という文様が描かれていた。

 そこから、気絶前の敗北が脳裏に蘇る。

 

(ジャラ村で、ハキムと出会して、そして……)

 

 ビエニスの英雄との真正面からの果たし合い。

 勝ちの目が存在しない、とは承知の上だった。

 だが、一縷の望みをかけざるを得なかった。全霊を発揮しなければ小隊員──あの場のナッドとマジェーレが喰らわれていただろう。腐っても小隊長に据えられた責任。ソルはその重みに自分なりの術で応えようとした。人の上に立つ術を知らない彼女が知る、責任の取り方とは身体を張ることだけだった。

 そうして飛び込んで惨憺たる結末を迎えた。

 地力が違いすぎた。やはり手も足も出ず、最後は剣すらも指から離してしまった。ハキムの本領発揮を待つ前に、意識を刮ぎ落とされた。それは「基本的な剣技の巧拙ですら劣っていた」ということだ。

 だが、何より悔悟の念を抱くのはそこではない。

 

(ハキムがナッドを狙ったあのとき、わしは冗談でなく虚を突かれた。つまり、初心を忘れておった。小隊員を守ること、小隊長としての責務を果たすことを、失念しておった。少しずつ慣れていけばいい、とは軍曹も言っておったが、その矢先にこれでは……)

 

 まるで、彼女が忌む異名通りのようだ。

 ソルは頭を振って憂愁の影を払う。

 

(ともあれ、じゃ。わしは完膚なきまでにハキムに打ち倒された。敗北を喫したことで、わしはビエニス王国の虜囚扱いになった──という流れならば納得がいく。が、そうではなさそうじゃのう)

 

 捕虜という可能性を砕いたものが、足元で光る。

 そこには一振りの剣が寄り添っていた。見紛うはずもない。ソルフォート・エヌマ時代をも道程を共にした、三代目の愛剣である。丁重に布袋に収められたその横には、携行品を入れた小袋も置いてあった。

 中身をあらためても紛失物はない。

 これは決定的である。ビエニス王国に生きる者が、投獄した者にわざわざ反逆の機会を与えるとは思えない。彼らは産道から顔を出したときから苛烈な競争を強いられ、それでも生き抜いてきた猛者ばかりだ。敗者に慈悲を恵むほどのお人好しでも、傲慢でもあるはずがない。少なくとも()は違うと知っている。

 加えて、やや紳士的な応急処置を見ればわかる。

 とりあえず捕虜よりは良い位置にあるらしい。

 

(その割に室内の様相が座敷牢じゃが、他に有力な考えも浮かばぬ。……頭を冷やすかのう)

 

 そう結論づけると、ソルは剣の柄をなぞる。

 すり切れた包帯の毛羽立った柔さ。

 所々の裂け目で剣の硬さ、冷たさが指先から伝う。

 この仕草が思考を純化させてくれる。

 剣と己を共鳴させるのだ。呼吸を合わせ、心拍を合わせ、脳内の夾雑物を排除。感覚を研ぎ澄ましていく。嗅覚を始めとする五感の調子を取り戻していく。

 そして、いまも肌を刺す視線の座り悪さも、だ。

 このまま無視を決め込んでも得はないと判断する。

 ソルは大儀さを隠さず、金属柵の向こうを睨む。

 

「それで、どういうつもりじゃ」

「どうもこうもあるまい。お前さんの現状がすべてを物語っておろうに。なあ『修羅』よぉ」

「……その名で呼ぶな」

 

 ソルは白髪を逆立てて不快感を露わにする。

 この威嚇には喉を鳴らす音だけが返ってきた。

 呵々、と。断続的な音は鉄格子の暗がりからだ。

 目を凝らせば、視界の正面に椅子があることが知れる。そして紗幕にも似た平面的な暗闇に、椅子に座っている人影が砂絵のように浮かび上がってくる。

 彼はさながら街角に居座る銅像だった。声をかけるまで微動だにせず、さりとてまんじりもせず、深く腰掛けている。その存在感に月光が怯える。室内で朧に散じる青白のそれは、彼に届かず途絶えていた。

 彼こそは、ジャラ村で立ちはだかった男──。

 ビエニスの英雄にして四大将の右腕──。

 ──ハキム・ムンダノーヴォがそこにいた。

 

「貴様、灯もないところで何をしておるのじゃ」

「お前さんが目醒めるのを待っておったに決まっとろうがよ。ああ……どうしても起きんかったときのため、頃合いを見計らって接吻の準備はしておった。口を水でゆすいでな。どれ、見てみるか?」

「腐り果てろクソジジ──っぐむ」

 

 ハキムが歯列を剥いたとき、思わずだった。

 口から暴言が飛び出て、慌てて自ら口許を塞ぐ。

 あわや下手を打つところだった。周囲の暗がりにビエニス王国側の余人が潜んでいる場合、これはよろしくない発言である。現状が不明瞭な今、無闇な敵対的言動は避けるべきだ。口を手で塞ぎながらせめてもの抵抗を込めて、ジト目を送るに留める。

 だが、彼はただ愉快げに醜貌を歪めるだけだった。

 

(ハキムがここにおる理由……はわかる(・・・・)。じゃが、わしの置かれた現状が不明瞭にすぎる。あのあと小隊の皆がどうなったかも気にかかる)

 

 夜目にも、老爺の風体は日中同様とわかる。

 浅黒い頭皮には赤毛混じりの白髪が寂しげに散っている。皺の渓谷に嵌め込まれた双眸はぎょろりと魚類めいていた。装いも変わらず、頭部以外の素肌を見せない旅衣。肌寒い夜半にはむしろ羨ましい恰好であった。もしやこの寒気を見越したものだったのか。

 彼は、杖代わりに魔剣を立てて顎を乗せている。

 幼女の湿気を帯びた視線が元か、指で柄を叩くと。

 

「ここには俺だけだ、安心せい」

「もう少し早く言え」

「すまんすまん、つい忘れておった」

 

 老爺の悪びれない様子に幼女は眉間に皺寄せた。

 ただ、情報を引き出すには絶好の機会だ。

 ソルは、最も気がかりだったことを舌に乗せる。

 

「……ナッド、いや、帝国小隊はどうしたのじゃ」

「別の座敷牢で休んでもらっておるよ」

「無事、じゃろうな」

 

 そして幼女は老人の双眸をしかと見据えた。

 真摯な瞳で、虚飾を貫き、真実を見通さんとする。

 彼はそれに応える形で、しかし語り口は軽く──。

 

「無論だとも。不可抗力で火傷は負っておるが、無傷に近ェよ。処遇はそう悪いものにしておらん。……俺が皆を説き伏せた苦労、忘るるなよ? 机に二柱三柱と金貨積まれたァて軽いぞ」

「それには……感謝するのじゃ」

「呵々。存外にも値千金が返ってきたなあ、おい」

 

 ──だが、彼の言葉が真実だと信じられた。

 ソルは安否が知れると、肺底から息を吐き出す。

 対ハキム戦で恐れたのは小隊員の暴走だ。

 

(ナッドと軍曹に説明をする時間もなければ、建前も用意しておらんかったからのう)

 

 幼女が先制を取るのは必須事項だった。

 一方で、説明や統率を投げ出し、突撃したことが裏目に出る可能性はあった。たとえばナッドが情報不足のまま幼女の後追いなどしていれば、幼女の賭けが潰えていただろう。そして結果的には次善が掴めた。ハキムに聞いたところ、小隊員の怪我の具合は、一人だけ無傷、他全員がわずかな火傷のみだという。

 一計を案じた(・・・・・・)甲斐があったというものだ。

 

(それを含めても、あの場に軍曹がおったのは僥倖じゃった。小隊を握っておるのは彼女、統率経験もわしの遥か上を行く。ゆえにハキムの元へナッドを向かわせん、とは信頼しておった。仕事に真剣な彼女ゆえに背中を任せられたのじゃ。感謝したいが……)

 

 幼女はわずかに苦笑を浮かべる。

 少女の不機嫌な面差しを思い浮かべてしまった。

 彼女のことだ。ソルが真正面から感謝を示せど、舌打ちを添えて突き返してくるに違いない。「そんなつもりじゃなかったわ」という言葉を先に置いて、必然性を滔々と語るかもしれない。いずれにせよ、まともに受け取ってもらえる像は見えなかった。

 ハキムは曖昧に首を揺らし「さあて」と口を開く。

 軽薄な雰囲気は一転、重厚な鉄扉のごとく──。

 

「……一問一答は対等にせねばいかんよなあ」

「ならば、貴様の手番じゃ。何でも言うがよい」

「話が早くて助かるわい。正味、九つほど疑問があるが……まず、言うて置かねばならんことをば」

 

 ハキムは仰々しく前置きし、人差し指を伸ばす。

 そして、強烈な眼光でソルの矮躯を射抜いた。

 たかだか視線。されど視線である。

 視線を感じることは、つまり英雄の認識内に己がいる事実を実感に直結させられることと同義だった。不興を買えば、自分の命の火が吹いて飛ばされるかもしれない。その現実を正しく理解した常人は竦んで動けなくなる。ちょうど蛇に睨まれた蛙のように。

 年輪に縁取られた双眸が、ひとたび細まり──。

「まだ生きておったのか、クソジジイ(・・・・・)。数週間前に訃報が届いたときは、遂にくたばったかと清々しておったんだがな。相変わらずの生き汚なさよ」

 

 ──クソジジイ。

 それは、あまりにも相応しくない呼び方だった。

 第三者が聞けば耳を疑う、矛盾に満ちた言葉。

 しかし、ソルは憮然と鼻息を漏らす。

 

「それはこちらの台詞じゃ、クソジジイ。ようやく本題か。貴様はいつも前置きが長い……気味の悪いことを言うより先に、切り出すべきことがあるじゃろう」

「……呵々ァ、いや何だ。勿体ぶったワケではない。いまに至るまで半信半疑だったのよ。だが、それも確信に変わるわい。その憎まれ口は」

 

 張り詰めた緊張感は一気に霧散する。

 老爺は堪らずといった様子で噴き出した。

 

「懐かしいのう、ソルフォート。お前さんの態度は年老いるたび角が取れていったが、俺にだけは最初と変わらんまま。老い耄れも若返るようだ。いや……お前さんの若返りようには負けるがなあ」

「……なにが言いたいのじゃ」

「まだ実感が湧かんくらいだ。まさか、まさか、あの数十年来の同僚が童になるとは思うまいよ親友(・・)

「誰が親友じゃ、誰が。よくて腐れ縁じゃろうが」

 

 幼女は老爺の軽口に遠慮のないジト目を向けた。

 二人の言は真実である。ソルフォートとハキムは親友で──ソルは断固としてその表現に否定を繰り返すが──少なからず縁があった存在だった。端的に事実だけを列挙するならば、傭兵時代の同僚かつ、数十年ほどともに戦場を駆け回った戦友だった。

 ゆえに、突発的な遭遇には動揺を隠せなかった。

 それは英雄に対する畏敬、その下の驚愕ではない。

 ──あやつがどうしてここに。

 ──どうすれば最悪の結末を避けられる?

 そんな、昔馴染みと偶然出会したときの罰の悪さに根差した驚愕である。

 

「そうは言ってもソルフォート。お前さん、最初から殺意に塗れとっただろうがよ。昔馴染みとの偶然の再会と銘打つなら、もう少し平穏にならんかったのか」

「? 首を取るつもりだったゆえ当然じゃろう」

「可愛らしく無邪気に首を傾けるでないわ」

 

 ハキムは諭すように言って肩から脱力する。

 対して幼女は「全く、馬鹿を言うな」とむくれた。

 

「『好機と兎。一度放せば二度とはかえらじ』。戦場の掟じゃろうが。そも、わしの全身全霊でなければ貴様相手では足りん。勝負の舞台にすら立てんのじゃ」

「悪かった悪かった。臍を曲げんでくれんか」

「……貴様の首級が取れれば御の字じゃったが」

「おい本音がまろび出ておるぞ。口を塞いどれ」

 

 改めて、腐れ縁の友人ハキム・ムンダノーヴォ。

 彼はむかし根無し草で傭兵稼業の身空だった。

 青年期からソルフォートの属する傭兵団に入団。それから彼とともに三十年を過ごす。そして齢五十を境に傭兵から足を洗うと隠居。だが彼ほどの男を鉄火の舞台は離したがらなかったのだろう。隠居から数年も経たずして、彼はビエニス軍に志願していた。

 その入隊試験は国籍も年齢も一切問わない。

 問われるのはただ己の実力のみ。ゆえにビエニス人を含め、様々な理由で祖国を追われた人々も集う。彼らの熾烈な生存競争の果てに、ようやくビエニス軍の末席に座れる。それがビエニス王国の流儀だった。

 曰く、地獄の坩堝。曰く、猛者どもの蠱毒。

 そう呼ばれた場所に踏み入れたハキムは──。

 

(やつの腕は傭兵時代にも名の通ったものじゃ。衰え知らずの剣の冴え、体力、経験、知恵……他の志願者を寄せつけず、ハキムの同期生は零。やつは単独での入団となったらしいからのう)

 

 それから十年ほど経た現在、彼は更に高みにいた。

 ビエニス王国の大英雄である四大将。そこに次ぐ副官の地位を齢六十にして保持し続けている──と、ここまでがソルの知る大まかな経歴だった。

 だが、この程度の情報はいまや価値がない。日銭を拳に握り込んで、酒場にでも行けば知れるものでしかない。無国籍かつ老爺の成り上がり劇はすでに語り草となって、詩人や作家がとうに作品に昇華している。

 つまり彼は自らの英雄譚を打ち立てたあとなのだ。

 凡人の隣にいたはずの旧友。彼は、事もなげに夢の席に手を届かせた。憧れ焦がれる視線の束には物ともせず、いま変わらない態度で凡人と接している。

 だから彼女も以前の関係同様、平常心で喋れた。

 

「次の質問の手番はわしじゃな。ジャラ村での手合わせ、その答え合わせと行こう。これも気になっておったのじゃ。貴様は先手で『咆哮』を使ったな」

「ああ、定石通りだ。剣身に触れてこなければ、範囲内の者は勝手に潰れてゆく。無知こそ罪過。愚者は賢者の真似事をする前に走れと──そういうものゆえなあ。……しかし、なぜお前さんはあのとき動けた?」

「誰が貴様に教えるものか」

 

 ソルの一見、向こう見ずな初撃。

 これは彼の思惟を知悉した上での行動だったのだ。

 彼を相手取る際、先制は必ず取らねばならない。

 魔剣『濁世を(ボロス)穿つ上(=ウル=)古の竜(ヘーグル)』。古の時代の竜を象ったと言い伝わる一振りは、中距離戦で無類の力を発揮する。魔力を用いた能力たる『咆哮』や『黒炎』や『尾』は、近接戦を避けるほどに深々と刺さる。

 ソルが見出した対処法は至近距離を保つこと。

 かつ剣技で圧倒し、能力発揮の暇を与えないこと。

 

(まあ、わしの力では成し遂げられんかったがのう)

 

 幼女は、ぺたぺたと四つん這いで移動する。

 ハキムの顔がよく見える位置に近寄った。

 

「答え合わせの延長で聞くのじゃが……いつ、わしをソルフォートと信じた? いや、判断した?」

「きっかけで言やァ、お前さんが小声で『ソルフォート・エヌマじゃ』と打ち明けてきたときだ。流石に面食らったがなあ。その上で、剣筋や癖、俺に対する立ち回り、そこでようやく大方ってトコだ」

「十分早いのう。ビエニスで登り詰めるだけはある」

 

 これがソルの案じた一計(・・)だった。

 ハキムだけにソルの正体を信じさせること。

 そのためにも、身体を何度刻まれど喰らいついた。

 

「……む、その時点でわしと判断したのか? その割に『黒炎』発動後も、殴られ蹴られ斬り刻まれと、丹念にすり潰されたような気がするのじゃが。意識を失う直前など『ハキムに信じさせられんかった』という絶望に打ちひしがれておったのじゃが」

「それはすまんかった。なにぶん断定できんかったからなあ。剣筋やブレ、癖がぴたり同じでも大陸は広大。『再現者』の可能性もある。あとは弟子の可能性も──いやそれは、まあ、ねェなあとは思ったが」

「おい。どういう意味じゃそれは」

 

 非難の声に「待て待て」という手振りをすると。

 

「よくよく思い返すでもない。お前さんは弟子を取る柄でもないだろうがよ。それこそ生涯現役という奴だな。後進を育てるために退くなどせんはずだ。少なくとも、それが俺の思うソルフォート・エヌマ像だが」

「否定はせん。……が、何やら腹に据えかねるのう」

「事実の列挙で腹を立てるのはお前さんらしくない」

「貴様に言われなければ誇らしかったのじゃが」

「おお……理不尽。老い耄れを泣かせんでおくれ」

 

 目元を隠した泣き真似に、幼女の耳で幻聴が鳴る。

 ぴきり。それは幼女の額の血管が浮いたような音。

 

「わしも貴様も同年代じゃろうが。何をここぞとばかりに年寄りぶっておるのじゃ」

「いやあ、何だ。舌の足らん声で言われてもなあ、孫とでも話しとる気分だよ。先ほどから所作も可愛らしくなって……実に複雑なんだァ、親友としてなあ」

「法螺吹きジジイめが……口角、上がっておるぞ」

「おっと。すまんなあ、愉快でついのう」

「本音が漏れておるようじゃなあー。口を縫い合わせてやろうかのう」

 

 ──腐れ縁の人間に弱味を握られてしまった。

 ソルは後悔に暮れていた。

 偶発的なハキムとの邂逅。そのとき彼女を懊悩の極みまで追い込んだのは「正体を明かすか、否か」の選択だった。明かせば、面倒事を抱え込むのは目に見えていた。だが、ハキムから勝利を捥ぎ取ること、あるいは逃げ延びることなど、希望的観測にすぎる。

 背に腹は変えられず、正体を明かしたわけだ。

 この判断で鬼が出るか蛇が出るか、と覚悟の帯を引き締めていたが──何ということはない。笑顔の鬼と蛇とハキムが肩を組んで現れたにすぎない。

 ソルは空を見上げ、すべてを忘れたくなった。

 

「しかし、お前さんも分の悪い賭けに出たもんだ。その身体の秘密を明かすたァな。新たな戦争の火種にもなり得るものを敵将の目に委ねるとは。……もしや、俺のことを案外、信頼してくれておったのか?」

「また気味の悪いことを」

「呵々、そういうことにしておいてやろう」

 

 ──この秘密は俺の胸に留めておいてやるさ。

 ハキムは陽気ながら厳かに言いきった。

 それがソルの瞳には眩しく映る。彼との十年以上前の別れ際と重なった。傭兵団から抜ける早朝、彼はいつもの笑みを顔に貼りつけ、さながら今日も朝の鍛錬に行く素振りで凡人の肩を叩くと、敷居を跨いだ。

 ──ちィっと行ってくるわ。

 回想を打ちきって「これで」と視線に力を込める。

 

「わしは問いに答えた、次は問う手番じゃ。すでに答え合わせは終えた。これからは今後の話、あるいは現在の貴様の話をさせてもらうのじゃ」

「応、存分に情報交換と洒落込もうか。お前さん、訊ねたいことは山積しておろう」

「持て余すほどにな」

 

 現状、ソルにとって不明瞭な事実ばかりだ。

 安全とされる帝国領内に如何にして侵入したか。

 ハキムがジャラ村に巣食う獄禍を倒した理由。

 そして彼らがこんな辺鄙な土地を訪れた理由。

 最後に──小隊を口封じで殺戮するどころか虜囚扱いに落とさなかった理由。顔馴染みだとは言え、明確に敵方だったならば彼は容赦しない。ハキムが虜囚扱いに落とさぬために説き伏せたというなら「帝国小隊が有益になり得る」と彼らに思わせたわけだ。

 その理由すらも、いまは検討がつかない。

 ソルは手元の剣を意識しつつ直球で投げかけた。

 

「ハキム、貴様は敵か?」

「さあな。お前さんたちの目的にもよるからのう。そちらの事情は知らんから何とも言えんが、ひとつ言えることは──俺たちは帝国と事を構える心算はない」

「だとすれば……」

怪物退治(・・・・)。お前さんが好みそうな題材だよ」

 

 その言葉で、心臓が、跳ねた。

 ハキムは含みのある口振りで口が唇を歪める。

 

「ああ、村に鎮座しておった、取るに足らん獄禍ごときではないぞ? 俺たちの討伐目標は大物中の大物。大陸に跋扈する七体もの災禍の権化。『原罪の獄禍』の一体──『根絶』ファニマール討伐だからなあ」

 



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6 『似た者同士』

「討伐対象が原罪の獄禍……貴様、正気か?」

「呵々。そりゃあ狂気も、ちィとばかしあるだろうがよ。だが耄碌するまでは生憎と時間があるようでな。こと『根絶』討伐に関しちゃ大真面目よ」

 

 ソルはいよいよ口角の尖りを抑えられなくなる。

 英雄愛好家として、その単語は見過ごせなかった。

 

「そうでもなければ、帝国の辺境くんだりまで来るものかよ。この地には原罪の獄禍のうち『根絶』が通りがかる。その情報を元にマッターダリの山脈を越えてきたのだが……鞍部を越えるだけで一苦労だったわい。帰りのことは考えたくもないわ」

「貴様たちは、そこまでしてかの獄禍を──」

「ああ、討伐するつもりだとも」

 

 大陸に七体存在する、原罪の獄禍。

 彼らは災厄の象徴である。大陸上から竜が滅びた現代において、彼らに比肩する生物は存在しない。その暴威の熾烈さたるや、歴戦の英雄たちをも寄せつけないほどだ。観測されて以降、討伐できた者はいない。

 ソルの知る英雄譚で原罪の獄禍は倒されない。

 彼らが登場する場合は、例外なく英雄が敗走する姿が描かれる。最古の原罪の獄禍が数百年前から観測されていたことを踏まえれば──その間に一世を風靡した英雄たちですらも、この七体の怪物に歯が立たなかった事実が浮き彫りになってしまう。

 国家を丸ごと焦土に変えた記録すら存在する。

 それが、原罪の獄禍と呼ばれる怪物たちだった。

 

(……改めて思えば、背筋の凍ることじゃのう。そんな怪物が現在も、我が物顔で大陸を闊歩しておるとはのう。討伐を目論んだ国家は過去にもあったが)

 

 歴史上、討伐に名乗りを上げたのは三ヶ国。

 そしていずれの国家も惨憺たる結末を迎えた。

 

(財政的に破綻した国家が三ヶ国のうち一つ。それは討伐隊に血税を注ぎ込みすぎたことが遠因じゃった。しかし、あとの二ヶ国は単純な力負け(・・・)。掻き集めた英雄も、魔導具も、そのすべてが跳ね除けられて、一週間足らずで国家が滅んだ。かの獄禍たちは、対国家で論ずるべき存在じゃ)

 

 ──彼らに触れば(さわ)る。

 原罪の獄禍は、まさに節理のない禍殃だった。

 立ち向かう。そう思惟すること自体が愚かしい。

 無闇に近寄る者には周囲から白眼視が向けられる。

 現代の常識に照らし合わせれば、彼らの討伐を目論むことは、夢見ると形容されてしまう。それはたとえば「地震や嵐は危ない。だから根絶やしにしてしまおうと考えている」と屈託なく語るような滑稽さに、限りなく似ていた。大真面目に提案すれど笑い飛ばされる。そんな妄言の類でしかないのだ。

 そんな夢物語に財をなげうつ馬鹿はそういない。

 

(この暴威を相手取るには生半可の備えでは不可能じゃ。僅かばかりの勝算を得るためにも、人材も、資材も、あらん限りのモノが要る。そしてそれは、間違いなく隙となる。隣接国から侵略される恐れを無視できんがゆえ、この数十年間、大陸の国家で討伐隊を組織したところはないはずじゃ)

 

 だが、ハキムは不敵に笑って軽々と言ってのけた。

 ──そんな、手の施しようのない怪物。

 ──そいつを狩るために俺たちがここにおると。

 

(それは、なんと……素晴らしい響きじゃろう)

 

 これは、いつかいつかとソルが願っていたことだ。

 帝国上層部が望む、予定調和の怪物退治ではない。

 歴史上でも類を見ない、前人未到の怪物退治だ。

 華々しい英雄譚の章立てにはお誂え向きの浪漫。

 つまり、本番に相応しい怪物退治に他ならない。

 心を躍らせるソルに、老爺は目を細めてくる。

 

「……その顔、知っとるぞ」

「なにを言うのじゃ貴様」

「首を突っ込みたくて仕方ないといった面だ」

「────」

「頬に手を当てて確認するな。まったく」

 

 ハキムは愁眉を開き、枯れた唇から嘆息を漏らす。

 

「……お前さんは変わらんなあ」

「なにがじゃ」

「相も変わらず、夢に一途だと言うておるだけだ。思い出すわい。今も昔も、お前さんは餌を吊り下げられれば、馬のように走るやつだと言うわけだなあ」

「そうか。馬は速いのう」

「……おい、返答が適当になってきておるぞ」

 

 いよいよソルは気もそぞろだった。

 真正面で苦笑する老人すら視界に入っていない。

 手元に転がり込んだ浪漫に目を奪われたままだ。

 討伐不能と目される怪物を討伐すること。

 これがもし達成できたなら、喰いつくのは詩人や作家に留まらない。名立たる歴史家たちですら筆を執るに違いない。なにせ、原罪の獄禍を打倒せしめる偉業は、いまだかつて樹立されたことはないのだから。

 ──羨ましい。本音を言えば非常に羨ましい。

 だが、それを胸中に押し込めに押し込める。

 

(わしは、末席と言えど帝国小隊の長。どれだけ魅力的かつ甘美な浪漫を前にしようと、それが敵国の軍隊に与することになるならば、選んではならぬ。先ほどまで散々後悔したはずじゃ。それが長としての責任という奴じゃなからんか)

 

 理屈はわかる。後悔も骨身に染みている。

 苦虫を噛んだ挙句に吞み下したような顔で俯く。

 彼女にも立場がある。口惜しくも唇を閉じ──。

 

「一枚噛ませてもらおうかのう」

「いや、もはや本心を隠す気もないだろうお前さん」

「こんな生涯に一度の好機を棒に振れるものか。わしの一番は夢。義務と秤にかけるまでもない」

「……俺には何のこっちゃ分からんが」

「単純な話じゃ。端的に言えば、いま貴様の絡んでおる『根絶』討伐の話に、わしの持てるすべてをなげうつ覚悟があるということじゃ」

 

 ただ、獄禍討伐には不明瞭な点が多々ある。

 

「しかし、原罪の獄禍を倒す術があるのかのう。あれは規格外中の規格外。そのうち『根絶』は如何なる英雄も寄せつけず、不可触とまで呼ばれた怪物なのじゃ。そもそも近づくことも(・・・・・・)できぬ(・・・)と聞いたことがある。どうやって討伐するというのじゃ」

「こやつ、もはや一枚噛む前提で話しとるのう」

 

 加えて、討伐時期も理に適っていると言えまい。

 

「たとえ原罪の獄禍を討伐するにしても、なぜこの時期、この地理を選んだかも見えぬ。ビエニス王国と帝国は戦争の真っ最中。そして、この場所は王国側から軽々と来られるところでもない。この条件で討伐に乗り出すなど……輪をかけて無謀に思えるが」

「そうさな。俺も最初は半信半疑だった──が、時期的には今しかないようでな。なにせ、うちのビエニス王のお言葉だ、間違いはなかろうよ。討伐手段もまァ、用意しておる。勝算はあるワケだ」

 

 ハキムの口ぶりは依然、飄然としていた。

 その軽さにはしかし裏打ちされた堅さがある。

 それはおそらく、王への信頼によるものだろう。

 

(ビエニス王。ビエニス王国の頂点に君臨する存在)

 

 その王国では王位継承権すら勲章と同義だ。

 条件として血縁の有無や出身、性別を問わない。

 必要なのは、ただ力量、器量、知力、統率力──。

 王座に就くには、それらあらゆる物差しで測られた上で、かつ現国王を凌駕したと民衆に認められるだけの能力がなくてはならない。つまりビエニスの王位継承の形は、王国内で最も秀でた者が王位継承権なる勲章を得て、国家の舵取りをするという形なのだ。

 当代のビエニス王は国祖以来の人傑と聞く。

 此度の獄禍討伐が、その認可を得たものなら──。

 一応、明確に成算があることには違いない。

 

「……もっと『根絶』討伐隊のことが訊きたいのう」

「おいおい、そこまでは欲が深いってモンだ」

 

 ハキムは言い切り、ぴしゃりと好奇心を遮る。

 

「先ほどは見逃したが、一問一答は交互が原則って約束のはずだ。これ以上は欲目が過ぎる。まず俺の手番に回せ、こう根掘り葉掘り訊かれては時間が足りん」

「……それは道理じゃな。すまぬ」

「おお謝れる童は賢いぞ。よしよし、良い子だ」

「まず腕を落とそうかのう」

「やれるものならなあ、小童」

 

 ──ならば望み通りに腕を落としてやろう。

 その瞬間、ソルは衝動に身を任せていた。

 右腕を背後に回す。手を伸ばす先は地面に置かれた小袋。指の感触だけを頼りに、目的物たる短剣を弄り当てる。それを中指と人差し指の隙間に挟み込んだ。

 ソルは横薙ぎに腕を振るう。最中で指を、離す。

 そうして白刃が遠心力を燃料に放たれる。

 鋒が向かうは、狙い定めた通りに鉄格子だった。

 

「なんだ、やはりお前さん」

 

 細い短剣は格子のあわいを抜ける。

 闇に紛れた殺意はハキムの肩口に吸い込──。

 

「少なからず気にしておる(・・・・・・)ワケだ」

 

 ──まれる前に、搔き消えてしまう。

 それはさながら暗闇に呑まれたかのように見えた。

 ソルの喫驚を、しかし唐突な激痛が打ち砕く。

 

「っ……ぐ」

 

 ソルの、座したままの身体が傾ぐ。

 脇腹から鈍痛が広がる。だが痛覚の波は胸部まで届かずに吹き溜まった。身体の芯に沈み込むような衝撃だ。小さな喉仏をわずかに上げ、喉奥から込み上げる胃液を押し戻す。そのとき足元で硬質な音が響く。直感的に目を遣れば、何らかの残骸が落ちていた。

 幼女の手でも握り込める大きさの黒硝子である。

 いや──と、直感に突き動かされハキムを睨む。

 すると、彼はいつの間にか手で弄んでいた銀破片を放り捨てた。座敷牢の暗闇に融けて消えていく。

 その正体をソルは見逃さなかった。

 あれは、先ほど投擲した短剣の刃の部分だった。

 

「……次は、首を、落とす」

「おお、おお、死に急ぐ若者は怖いのう。だが、成し遂げるだけの腕を持ってから言うがよい。もっとも、そうじゃないから冗談になるワケだがなあ」

「わしは冗談じゃなくともよいのじゃが」

「……今更ながら謎よなあ。心優しいお前さんが、どうして俺にだけ、往年の尖りに加え、丹念に殺意を糊塗して向かってくるのか。まあ愉快だから良いが」

「意味などないわ。貴様が、気に食わんだけじゃ」

 

 ソルは言い放つと、赤混じりの唾液を吐き捨てる。

 とうに、このじゃれ合いは形骸化している。こんな遣り取りも幾度となく繰り返したものだ。凡人にしては数少ない、惰性で続けている習慣だった。ハキムと数十年前に果たし合いをして以来、機を見て彼の命を狙うようになった。発端は青臭い話だったが──。

 閑話休題。短剣を戻して、元の位置に座り直す。

 そのとき、ハキムの不躾な視線に気づく。

 

「……なんじゃ、人の身体をじろじろと」

「一問一答は俺の手番だろうがよ。後回しにしておった、その事情を聞こう。どうやらお前さんも割り切れとらんようだから、不随意のまま成り果てたと思うのだが、実際の経緯を知らんからなあ」

 

 ハキムが顎で示したのはソルだった。

 言い換えれば、包帯で巻かれた幼女の身体だ。

 

「この身体について、かのう」

「応。お前さんが何を思って、その幼い身体に収まったのかと興味が尽きぬ。下衆な感情はないと先に明言しておくぞ。旧友として近状を知りたいだけだ」

「……わざわざ明言する辺り怪しいが」

 

 ソルは眉間に皺を寄せ、胡乱に目を細める。

 とりあえず、あらましを掻い摘んで説明した。

 老いた凡人ソルフォート・エヌマ。彼は、傭兵稼業から足を洗うハキムを見送るも、相変わらず傭兵を続けていた。そうして齢六十五にして迎えた戦場にて遂に『人類最強』と対峙する。だが、あえなく敗北。ついぞ天命も尽きたかに見えた──が、ふと目覚めると身体が幼女になっていた。ここで原因かと思い当たった『最高の魔術師』との出会いにも触れておく。

 それからは帝国軍の『修羅』ソルの物語だ。

 でっち上げた幼女の経歴から始まり、バラボア砦でのボガート率いるラプテノン強襲軍との一件や、今回帝国小隊がジャラ村の獄禍討伐に赴いた事情、ハキムとの再会までを、懸命に舌足らずで語っていく。

 この間、ハキムは瞑目しながら耳を傾けていた。

 話し終えたのを見計らい、緩慢に口を開く。

 

「なるほどなあ。大筋は理解した」

「それは……意外じゃな。理解できたのか。わしは己の説明下手を自認しておったが──」

「そらァな、お前さんとは肝胆相照らす仲ゆえ……とは単なる軽口だが。俺には事前情報があったんだよ。立場上、帝国の英雄の情報についてはすぐ耳に入るモンで、ちょうど本国を発つときに『ソルという小童の次期英雄』について齧っておっただけだ」

 

 ハキムはたっぷり間を置いて息を吐く。

 

「──まあ、なんだ。ワケがわからんなあ」

「どっちじゃ貴様、理解したのかしてないのか……」

「話の筋は追えたが、中身が解せん。俺の理解が及ぶ範疇だったのは、お前さんがあの『人類最強』と相対して敗れ去るところまでだ。そこまでは『まあそうなるかのう』と頷きながら聞けたわい」

 

 彼は眉間を揉みながら、半笑いを滲ませる。

 

「死したのちに斯様な童に転生? それで帝国の英雄に駆け上がる? いやはや、質の悪い冗談だ……まあ人目を憚らず語っておった英雄という座に少しばかり近づけたことについて、友として祝福するがな」

「どの口が言うのじゃ。貴様、わしの夢を笑い飛ばしておった側だったじゃろうが」

 

 ──英雄になりたいって口にするだけなら簡単だ。

 ──実行するには足りない物が多すぎる。

 これが、ハキムとの初対面で言われた言葉だった。

 

「ああ? あー覚えておらんなあ。いやあ、堪らん堪らん。この歳になると忘れっぽくて困るわい」

「そも、わしの夢に対して、貴様はどちらかと言えば冷笑的だったじゃろうが。いまわしを祝福するほど応援してくれておったのは、貴様ではなく──」

「呵々、呵々。まあ良いではなからんか。年寄りの贅沢だろう。過去を美化するってのは。憂いを残したまま死んじまうってことほど不幸なことはない。お前さんは……いや、訊くまでもないなあ」

 

 ハキムはソルの膨れ面を指差して笑う。

 そして、ぎょろりとした目を瞼で潰した。

 

「ともあれ、お前さんの立場はわかった。だから言えるが、難しい(・・・)ぞ。よくも原罪の獄禍討伐に噛ませてもらおうと言えたモンだなあ」

「難しい、というと立場がか」

「無論だ。討伐隊に紛れ込むどころの話じゃないわい。指折り数えてみい、幾つ紛れ込める……いや、生かされるだけの理由があると思っておる。帝国軍所属の次期英雄ソル殿よ。たとえそれを潜り抜けたとて、周りがその勝手を許すかのう?」

 

 まあその通りじゃな、とソルは俯く。

 ビエニス王国とガノール帝国は敵対関係にある。

 当然ながら、王国軍の結成した討伐隊は帝国に憎悪を抱いているだろう。逆も然りだ。果たして帝国小隊のなかに「王国軍との共同戦線を張ろう」との言葉に賛同する者がいるだろうか。それも見返りなく、ただ「『根絶』討伐の当事者になれる」というだけで。

 ──少なくともマジェーレは許さないだろう。

 

(なら、わしだけでも入れるように交渉……というのも現実味がないのじゃ。わしだけでは討伐隊に提供できる利潤がない。そもそも帝国軍本部が見逃してくれぬじゃろうな。露見すれば反逆罪もあり得る)

 

 どうあれ帝国小隊の任務は終えているのだ。

 ジャラ村に巣食った獄禍の討伐。それはハキムの手によってケリがついている。帰還せず、敵国と手を取り合って討伐対象を変える道理はどこにもない。討伐隊側からしても、帝国小隊に干渉する道理はない。

 ソルは肘を太腿につき、手で頬を覆った。

 

「ならば……なぜ、わしたちは生かされておる」

「言ったはずだ、俺が苦労を重ねて時間稼ぎをしてやったのよお。どう思っていたかは知らんが、いまもお前さんたちの処遇は宙に浮いている。俺が、今宵まで待遇を保留にしてやっただけだ」

「……貴様が口出ししなければどうなっていた」

「全員、首だけになっておったろうなあ」

 

 ソルはここでようやく正確に事態を把握する。

 思考が先走りしていた。いま小隊が生かされ、こうして所持品も返されている理由は、小隊の利用価値を認められたからではない。ひとえにハキムの一声で処遇保留、あくまで暫定的な利用価値を見込まれたことで、最低限だが丁重に扱っているだけだという。想像以上にハキムの発言力が大きいようだ。聞けば、彼はこの討伐隊でも重鎮であるらしい。

 小隊の処遇判断は明日の早朝に行われるという。

 そこで価値を示せねば、先はない。

 

「流石に貴様でも、帝国小隊を見逃すところまでは話を押し込められないのじゃな。討伐隊の重鎮とは言え、そこまでの勝手は認められないと」

「おいおい、帝国軍の小隊に露骨な肩入れができるワケなかろう。そも俺は討伐隊の纏め役の一人だが、他に三人おる。度を越した勝手は咎められるわい。これから前人未到の『根絶』討伐に踏み出すというのに、内部分裂を招くような言動をとれるか」

 

 ハキムは額を人差し指で擦り、微笑む。

 

「だから、あとはお前さんたち次第だ」

「……友人のよしみで助けてやった、それからは自己責任。そういうことか。ありがたい話じゃが……気味が悪いくらいに親切じゃのう。何を企んでおる」

「企むなど心外な物言いだなあ。友達甲斐のないやつだ。ただただ俺はお前さんを助けたい。その一心で皆を説き伏せたというのに、と」

 

 途中で言葉を切ると、鼻先に指の背を添えた。

 

「どうしたのじゃ」

「一旦お喋りは中断だ。……来た」

 

 誰が来たのか、と問うだけの時間も得られない。

 こつん、こつん──暗室に靴音が響く。音は段差を降るように間延びして、甲高いながら伸びが籠もっている。この座敷牢の扉を挟んだ空間にある階段から聞こえているに違いない。もしやここは地下に位置しているのかもしれない。そう思って二目と見れば、格子窓越しの月は一段と遠いように感じられた。

 足音が響くことしばし、視界に入ってくる人影。

 手に提げている灯篭がその素性を暴く。

 

「ハキムさん……いま、大丈夫です、か?」

 

 それは目を疑うほどに美しい女だった。

 まず歩く姿勢に見惚れた。彼女は腰まで届く紫紺の髪を二尾揺らして現れ、その場に佇む。身体の線は細いながら背筋は通っている。彼女という存在の奥底に流れる品位を、その歩行と姿勢から容易に見抜ける。

 ソルはただ呆気に取られながらも観察を続ける。

 意思と反した口が、空気を求める鯉のごとく動く。

 

(な、な、な、この方は)

 

 その女は深藍の双眸を控えめに側めていた。

 慎ましい表情をする面差しには、髪型に見合う稚気がある。だが妙齢の美しさも見事に同居していた。年の頃は、女だてらに高い身長、それを取り巻く秘めやかな空気から、二十は越していると推察できた。

 蒼褪めた素肌はソルの陶器めいた白さではなく、彼女自身の羸弱を思わせる。そのように寒色系の綺羅が似つかわしい容貌を持ち合わせていながら──彼女は無骨な軍服を羽織り、軍人や戦士という共通認識の殻で自らの上書きを図っているような印象を受けた。

 しかし、華美に非ずとは口が裂けても言えない。

 ソルの目を惹いたのは襟口を彩る徽章である。

 その紋様は鷹と竜を下敷きに、蘭と太陽をあしらっている。輝く徽章の数は一つながら、それは一等星の光とも伍するほどの価値を秘めている。なぜならその徽章だけで、彼女が実力主義が幅を利かす王国内でどういう立ち位置かを、雄弁に物語っているのだ。

 女は困り眉で、視線を二人の間にて彷徨わせた。

 

「……ハキムさん。あの、定例報告、なので」

「なあシャイラ嬢。忘れとったとは言わせんぞ。俺は確かに『許可なくば、ここに足を踏み入るまじ』と皆に言い含めておったはずだが」

「ご、ごめんなさい。皆が待ってましたから、その」

 

 彼女はすぐに腰を折り、繊細な声色で弁解した。

 この萎らしい態度を前にハキムは一度息を吐く。

 

「何度も言うとるだろう。目上の者が(・・・・・)軽々しく頭を下げるモンではない。取り巻くすべてが安く見られてしまう。シャイラ嬢もあやつらの価値を貶めたくはないのだろうが。できうる限り自重せよ」

「はい……ごめんな、さい」

「……もうよい。ここに立ち入ったこと、シャイラ嬢ならば構わん。一度目は許そう。だが、次からは折檻だ。そのことを理解しておるな?」

 

 ソルの瞳孔が大きく広がる。

 交わされた会話はぎこちない。ハキムの声色には友人との軽口に現れない、歳の深みがある。表面まで威厳を押し出したような口調は新鮮極まりなかった。

 これが四大将副官としての彼の態度なのか。

 

(だとしても、妙に空気が固くないかのう)

 

 おそらく叱責めいた話だからだろうが。

 女は、老爺が言い終わるのを待って「はい」と口にし、遅まきながら彼から視線を切る。そして胸に手を当てながら息を吸い込むと、意を決したようにソルの元へ近寄って──それまで(しき)りにこちらを気にかける素振りは繰り返していた──座敷牢の柵の手前でしゃがみ込んだ。そこはソルの目前である。

 こうして二人は真正面から目が合うこととなった。

 幼女は緊張で硬直していた。喉奥が刻一刻と渇いていく感覚すら鮮烈に思える。女はその様をじいと凝視してくる。その表情は氷が張ったかのように硬く、動きと言えば神経質そうに眉宇をわずかに歪めるのみ。

 宵の湖畔を湛えた瞳で、幼女を捉えて離さない。

 

「あの、この子は……」

「俺が連れ帰った帝国小隊の長だ」

「……そうなんです、ね。本当に、小さいのに──」

「確か、名を何と言ったか。あーソ、ソ……そうだった、ソルというらしい」

 

 華奢な肩越しに、白々しい惚け顔が覗く。

 ハキムはあらぬ方向に視線を遣り、おどけたように唇を窄めて、いまにも口笛でも奏でかねない面持ちだった。平時ならばすでに短剣を三本は放っている。そして返り討ちに遭い、吹き飛ばされているところだ。

 だが、いまのソルに突っ込むだけの余裕はない。

 緊張はもちろん、努めて衝動を押し殺さねば不敬を働いてしまう確信があった。檻越しに彼女の手を掬い上げて、握手をねだりかねないような心境だった。

 彼女は紫紺髪を揺らし、舌で名前を幾度か転がす。

 

「そう、ソル……ソルちゃん、と言うんですね」

「え──は、はい。わしはソル、です」

「あ、その、ごめんなさい……不躾に名前を呼んでしまって……そんな、つもりではなくて」

 

 彼女はわたわたと両手を振って一歩退く。

 その大袈裟な動揺の仕方に面食らう。数秒前までの仮面で覆ったような面構えは面影もなくなり、透徹したような雰囲気は搔き消える。いま目前で慌てているのが、表情に富んだ年頃の娘にしか思えない。

 ソルの知る、彼女の正体と乖離した仕草だった。

 そこで響き渡る、見計らったかのような咳払い。

 

「……シャイラ嬢。これも言っておいたが、いまは帝国軍の小隊長の尋問中だ。疾く立ち去ってもらいたいのだが……わかった、追い出さん。追い出さんから、玩具を取り上げられた童のような顔をするな」

「ごめんなさ、い。私、わがままばかり……」

「……よい。そのまま帰せば、そちらの小隊長殿も不服のあまり暴挙に出るやもしれん。文字通りに骨は折れるかもしれんが、共々紹介してやろう」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「ともあれ、手間はかからんだろ。この方はビエニス王国の誇る大英雄『四大将』が一角『黎明の導翳し』こと、シャイラ・ベクティス嬢だ。いま俺はその右腕を担っておるんだが……聞いちゃおらんな」

 

 ハキムの答え合わせを右から左に聞き流す。

 ソルの目は釘づけになっていた。へたり込む幼女と目線を合わせる紫紺髪の女──シャイラに。彼女を改めて観察すると、やはり衝動が胸に湧き上がる。

 評判通り、美貌は確かなものだ。ひとたび戦場に赴けば、血河に咲く可憐な菫に見えるだろう。ただ手折らんと手を伸ばすことは憚られる。その淑女然とした佇まいは、戦装束でありながら、やんごとなき身分の子女という印象が拭い去れないほどである。

 だが、ソルが喰いついたのは彼女の容貌ではない。

 口内を噛んで緊張を解すと、その場に跪く。

 

「シャイラ・ベクティス殿、武勇はかねがね聞いておりますのじゃ。こうして御目通り叶ったことを天に感謝致します。そこで是非とも、わしと剣を合わせていただけないかと存じなのじゃ」

「え? え、えっと……この子、どういう……?」

「あーシャイラ嬢は気にせんでよい。持病だ」

 

 ハキムはそう言いながら腰を浮かせた。

 座敷牢の戸に近寄ると鍵を差し、開く。幼女は怪訝な顔つきで、とみに動いた彼を見送る。だが彼は厭わずその側に膝をつき、細い首を抱いて背後を向かせてくる。二人だけの鳩首会議に持ち込むようだ。

 乾燥した口元を耳に当て、ボソリと呟いてくる。

 

「……おい、俺のときと態度が随分違ェのう」

「……当たり前じゃろう。貴様は見知った腐れ縁。片やかの(・・)『黎明の導翳し』じゃぞ。どちらに興味を唆られるかなぞ論ずるに値せんわい」

「……それにしちゃあ滅茶苦茶だぞお前さん。藪から棒に──しかも、まだ敬語ひとつできんのか」

「……それはベクティス殿に申し訳ないがのう」

 

 ビエニス王国で『導翳し』の異名は偉大である。

 建国以来の慣習だ。これは王国の四大都市を守護する英雄『四大将』に与えられる異名で、その名は継承はされず一代限り。彼らが代替わりするたびに当代ビエニス王から相応しい言葉をひとつ賜われる。シャイラ・ベクティスの場合、それは『黎明』だった。

 その命名の由来は彼女の人生に由来している。「良家の子女だったシャイラがある日を境に『無能』の烙印を押され、勘当され、王国下層に落とされた。だがそこで諦めずに努力して成り上がり、四大将の座まで手を届かせた」という英雄譚は周知されている。

 彼女は最初から英気に満ちた人傑ではなかった。されど腐らず果敢に、理不尽な現実に挑み、研鑽を積んで、下層を抜け出して、いまや雲の上に辿り着いた。

 努力は無駄ではない。夢を諦めてはいけない。

 そのことを生きて証明した大英雄である。

 

(ゆえにこそ『黎明』。わしら凡人たちの曙光)

 

 深い闇夜を越えて、地平から昇らんとする太陽。

 それを示す『導』を天に翳し、範となる者。

 ソルの尊敬する努力の人こそ彼女である。

 ……という思いの丈を、シャイラにぶち撒けた。

 

「……そんな、こと。私なん、て。大したものじゃないです。努力なんて、皆してるから……」

 

 シャイラは顔を逸らし、仄暗い笑みを覗かせる。

 

「ご謙遜めされるな。質と量が違いますですじゃ。四大将の名を与えられているのです。シャイラ・ベクティス殿の努力はかの当代ビエニス王も認めたも同然ですのじゃ。聞けば、ビエニス王国とは一度下層に落ちれば、生半な力量では上層に戻ることは叶わぬ場所のようで。そこから這い上がった事実が──」

「……お前さん、尊敬対象相手だと饒舌だなあ」

「好きなことに熱が入るのは当然じゃろう」

「その割に俺への言及はここまでじゃなかったのう」

「そういうことなのじゃろうな」

 

 傍目から見れば、幼女と老人のいがみ合いである。

 年甲斐もないとハキムだけが責められるだろう。

 実際は老爺同士の醜い貶し合いである。

 

「──二人はその、どういう、関係……です、か?」

 

 びくっとソルは飛び上がりかける。

 シャイラは二房の髪を揺らして首を傾いだ。

 彼女からすれば当然の疑問だ。ソルとハキムは対外的に見て、敵対する兵同士である。そのはずが、二人は首に手を回して内緒話を始めたり、無遠慮に小突いたり、貶し合っているのだ。旧識の仲と公言したも同然だった。まともな頭をしていたら気づく。

 不幸にもソルはまともな頭をしていなかった。

 

(迂闊、なんたる迂闊じゃろうか……!)

 

 このざまではハキム共々、阿呆の誹りは免れまい。

 ソルは手遅れと知りつつも平常心を装う。唾液を喉に押し込んだ。畏敬する大英雄の姿を目の当たりにして、浮き足立ってしまったのかもしれない。

 これからどう言い繕うかが問題である。「ハキムとは初対面だったが、尋問中、奇跡的に波長が合って打ち解けたのだ」で押し通せるだろうか。いや、たとえどんな言い訳でも苦し紛れの戯言に聞こえるだろう。

 ソルの演技は並の大根役者に自信をつけさせる。

 その即興芝居ともなれば、如何な惨事になるか。

 事態は早朝を待たずして風雲急を告げていた。

 

「それは、じゃな。その……」

「よいよい、ソルよ。言い辛いのなら俺から話すとしよう。すまんなシャイラ嬢。こやつは口下手でなあ、どうにも舞い上がると言葉が出てこんのだ」

「あ……そうだったん、です、か」

 

 ハキムは片手を滑らせ、言い淀むソルを制した。

 そして悠然と立ち上がるとシャイラに向き合う。

 ソルは口を噤んだ。彼の涼しげな所作には疚しさの陰はない。まるで「想定通り」とでも嘯きそうな堂々とした立ち姿である。背中を見上げるソルにも伝うほどの厳粛な空気にこの場を容易く塗り替えてしまう。

 彼の、振り向きざまの横顔が告げていた。

 ──ワ、レ、ニ、ヒ、サ、ク、ア、リ。

 だから口下手は黙る。いまは彼に縋るしかない。

 

(じゃが、少しだけ安心はしておるのじゃ)

 

 ──こういうとき、この男は下手を打たぬ。

 ハキムはソルフォートよりずっと器用な男だった。

 傭兵時代を思い返す。彼はその傭兵団でも抜きん出た武勇を馳せ、大層持て囃されていた。かつての凡人の態度が寡黙で排他的だったとすれば、その真逆の人柄。顔さえ除けば親しみやすく、陽気で社交的な一面を見せていた。それでいて面倒事をのらりくらりと躱し、いつも凡人たちの側で呵々と笑っていた。

 そんな男が「任せろ」と言っているのだ。

 腐れ縁としては見守る他ない。いま数十年かけて古馴染み同士で育てた信頼という芽が、葉となり、花となり、遂には実を結んだのである──。

 彼は、神妙な顔をつくりながら言い放つ。

 

「実はなあ、今しがた、ようやく確信を得たのだが」

「は、はい。ハキム、さん、その子……一体」

「こやつは俺の生き別れた孫でなあ」

 

 ソルは堪えきれず噴き出した。

 

 

 



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7 『無明の闇』

 ハキムの発言にソルが噴き出したのと同時刻。

 また別の、苔生した鉄檻には閉塞感が満ちていた。

 そこでは、燻んだ茶髪に砂粒を絡めた男一──。

 

(なんで俺たち、生きてんだろ)

 

 ──ナッド・ハルトが三角座りしていた。

 眼球は虚ろに濁り、暗がりを朧に見つめている。

 心を透かす窓があれば結露で曇っているだろう。

 濡れた脂汗も厭わず、額を力なく膝頭に当てる。

 彼はいま薄手の下着一枚だった。身体に付着した煤と汗でぴたりと貼りついている。倦怠感に吸いつかれた気分だった。この心許ない着衣の理由は「『根絶』討伐隊を名乗る自殺志願者たちに装備を没収され、あまつさえ服さえも奪われたから」らしい。

 その伝聞調が示す通り、実際に見てはいない。

 彼が意識を取り戻したときにはこの有様だった。

 

(目覚めてから……体感じゃ二、三時間になるのか)

 

 意識を手放す前と、その体感時間は同じだった。

 つまり──と、そこでナッドは頭を振る。

 自らの額を、立てた二つの膝頭に強くぶつけた。

 

(考えるな。もう何度も後悔しただろうが……!)

 

 遡ること数時間前。目覚めた直後の話である。

 ナッドはまず嘔気を覚えた。天井の染みや鉄檻を視認するより先に、頭を逸らして大口開けた。喉仏を上げることで気道を締め上げる。彼は歯を剥き出しにすると、幾度か唾を吐いた。胸中に蟠る感覚が競り上がることで胃と頭の内容物が吐き出された。

 思考の糸は解れる。胃内と脳内はからっぽだ。

 そこにすかさず流れ込んだのは『青色』だった。

 憂鬱を映した色水は、注がれれば注がれるほど気分を沈めて、身体を重くする。時を経て染み込む最中、苦味を覚えるほどに青々しいそれは──記憶だった。

 ハキムとの遭遇戦にて惨敗を喫した、記憶。

 何も成し遂げられずに幕を下ろした、記憶。

 

(少尉……俺は、なにもできずに)

 

 ──結局、俺がなにやったって一緒なのかよ。

 後悔とは水だった。亀裂が走った心に沁み入る。そうやって灯っていた()が冷まされれば、震え上がるほどに寒い。時間という強風が吹き荒んだ現在、吹き曝しだったそれは氷水めいた熱度まで落ち込んだ。

 ナッドが痛感したのは、己の力不足である。

 無力感に指を噛んだ。もう何度目の後悔だろう。

 ──もし俺に力があれば、何かが変わってたのか。

 そんな絵空事を無駄と知りつつも描いてしまう。

 

(幸運だったのは少尉が生きてるって事実だけ。この座敷牢にいないって気づいたときには取り乱しちまったけど、他の座敷牢で事情を訊かれてるらしいし……ホントに、それだけはよかった)

 

 悔恨の海から目を逸らすために顔を上げた。

 視界は存外に明るい。格子窓の向こうでは、蒼褪めた待宵月が浮かんでいた。夜目に慣れた両眼には眩しすぎる。その光は鉄格子に型抜かれながらも座敷牢の暗がりに注がれ、座り込む九人の姿を曝け出した。

 彼らは皆、ナッドたち帝国小隊に属する隊員だ。

 自身の例に漏れず、恰好は下着一枚である。各々の頬や身体は黒ずみ、武装は解かれている。そして何よりの変化は一様に表情の影が濃くなっていることだ。

 たとえば、とナッドは各々に焦点を合わせていく。

 一人は悲観したように床に目を落としている。また一人は覚悟を決したように唇を窄め、一人は虚脱感のままに石壁に体重を預けていた。この空間は針の筵である。居心地の悪さが結晶化し、首筋を突いていた。

 その一端を担う大男ことゲラートが口を開く。

 

「オメェの言い分は大体わかったよぉ。つまり俺たちは、原罪の獄禍討伐隊とかいう夢見がちなイカレ連中に捕虜にされたってワケだな?」

 

 手を伸ばして鉄柵を掴むと、檻外に歯列を見せる。

 そこには言葉通りの向こう見ずな勇ましさはない。

 不思議と、ただ捨て鉢めいた自嘲の色があった。

 

「ホントにな。……いや、真剣に言ってんのか?」

「だとすればビエニス王も酔狂だ。まさか、うちとかラプテノンとかと肩並べる暗君だったとか? 今代のビエニス王の評判は嘘っぱちだった、とかか」

「事実なら、まあ……頭がおかしいのだろうな」

「気宇壮大なお題目だ。とは思うが、ねぇ……」

 

 そんな彼に追随するように悪態を飛ばす者もいる。

 これらの矛先は、檻外の人影に向けられていた。

 少女(・・)は手にある長杖を、声に合わせて地面に突く。

 

「だ、か、ら、ダイジョーブだって。このイルルを信頼してよー! 原罪の獄禍だって倒せるし、まだ君たちは捕虜なんかじゃないし……君たち爆発させちゃったのはごめんね。あれ、オシゴトで断れなくて」

 

 そうしおらしく言い終え、かっくり項垂れる。

 陰気な牢にはそぐわない、明朗そうな少女である。

 厳格なビエニス軍人とは毛色が違うように思えた。

 しかし、事実として彼女は座敷牢の看守である。

 身長は低い。ただ年の頃が十代前半ならば平均的に類されるだろう。具体的に言えば、わずかにマジェーレより高いくらいだろうか。しかし、その素顔を窺い知ることはできない。少女は聖職者めいたローブを目深に被っているのだ。月光も届きにくい座敷牢において、この場の誰もが彼女の顔形を確認できない。

 しかし、ナッドの記憶には確と焼きついている。

 彼女は後悔の記憶の幕引きを務めた相手だ。

 口内を噛む。忘れられるわけがなかった。

 

(あの、村の入り口で待ち構えてたガキなんだから)

 

 この場における明確な敵対者である。

 ナッドが苦渋の末に恩人(ソル)を見捨て、大英雄(ハキム)に背を向け、気に食わない相手(マジェーレ)にその場を託し──帝国軍本部の救援を呼ぶため走った。彼女はそこに立ち塞がり、切り拓けただろう、か細い希望を阻んだ少女だ。

 目を逸らす。抱え込んだ膝が、再び震えかけた。

 炎というのは人間の本能に恐怖を喚起させる。思い出そうとすると、歯の根が噛み合わなくなってしまう。バラボア砦で遭遇した炎使い(ボガート)との相対も含めて、ナッドは炎恐怖症に片足を突っ込みかけていた。

 だから、決して思い出してはいけないのである。

 あの業火を。身体を容赦なく呑んだ、熱を。

 

「オシゴトだぁ? よく言ったモンだぜ」

 

 そんな少女に、真っ向から歯向かう者がいる。

 ゲラートは皮肉めいた口ぶりで柵越しに対峙した。

 

「趣味もお仕事も関係ねぇよ、オメェ。経緯を慮るほど優しかねぇんだよ。ジャラ村で楽しく獄禍探ししてた俺らをキレーに吹っ飛ばしてくれやがって」

「……これはゲラートの言う通りだな。俺らな、お前に全員爆破されたんよな。そんで、いまは檻んなかって状況なワケ。そこでさ信頼しろとか手は出さないとか言われたってなー……」

「信じられるわけがない、当たり前のことだ」

 

 彼の正直な言葉に、帝国小隊の数人が首肯する。

 何やらゲラート含む八名も爆破されていたらしい。

 話を聞けば──村の中央部にハキムが姿を現したとき、ソルとナッド、マジェーレ以外の小隊員はやはり北部にいた。そこで各々が団結して獄禍の痕跡を探っている最中に、この少女と出会ったのだという。

 ゲラートたち曰く「初見でもその異様な恰好には警戒心を抱いていた」らしい。乞食の襤褸にも似た修道服と、老木を切り出したかのような杖。もはや村民さえ消えた村で、これほどの不審人物もそうはいまい。

 だが、彼らの戦闘態勢が整うよりも先に動かれた。

 気づけば視界は白光で埋まっていた、という。

 彼らを呑んだ爆発の余波は中央部にまで及んだ。

 その威力たるや、ナッドも被りかけたほどだった。

 

(至近距離で爆破された俺もだけど、あいつらも大概だよな……ホント、なんで生きてんだ。あのイルルとかいうやつは手加減したとか言ってたけど、加減どうこうでどうにかなる話なのか……?)

 

 ローブの少女ことイルルは「む」と声を漏らす。

 兵役に服す軍人とは思えない言葉遣いで続ける。

 

「でもイルル……ちゃんと峰打ちしたから」

「爆発に峰なんかねぇーだろ」

「とにかくだよっ。イルルたちを信頼してもらう証拠は、君たちにまだ命があるってことだよ。やっちゃう気だったなら、とっくにやってるでしょ?」

「……それが遅かれ早かれだっつって言ってんだ」

 

 ゲラートは忌々しげに小声で吐き捨てた。

 その言には、ナッドも頷きで返したい。

 

(何にせよ、俺たちが死ぬ未来は変わらない)

 

 この結論は、現状を整理すれば自ずと出るものだ。

 イルルから説明を受け、必要な情報は得ている。

 

「いいか? オメェの言ったコトをまとめっぞ。オメェら討伐隊は、原罪の獄禍を討伐するっていう馬鹿げた計画を目標にしてるんだよな。そんで、その討伐計画中に俺たち帝国小隊を見つけたワケだ。もちろん帝国への口封じも兼ねて壊滅させてみたが、殺しちまう以上に、利用価値を絞り出せるかもしれねーってことで、明日の早朝まで生かされている、と」

「うんうん完っっ璧じゃん! そうそう、どうなるのかは明日の早朝次第。総意で君たちをどうするか決めるために、出先の人が戻ってきてからって」

 

 イルルは、なぜか自慢げに胸を張った。

 薄汚れた頭巾の口から黄昏色の髪が零れる。

 

「朝はね、いつも討伐隊のみんなで話し合ってるんだよ。進捗とかを話す、ゆるーい報告会なんだけど。たぶんそこで時間が取られるんじゃないかなー」

「で? オメェとしちゃどういう見通しだよ」

「え、うーん。話の流れにもよるけど……三つくらい道があるんじゃない、かな。君たちをそのまま帰すって道とか、残念だけどここで君たちを爆発させちゃうって道とか、あとはー……そうだなーイルルたちの手伝いをさせる、とかかな」

 

 そこでゲラートは添歯を覗かせ、失笑を漏らした。

 髪に埋もれた色とりどりの紐飾りを弄る。

 

「……馬鹿言え、その選択肢は俺たちの手に届かねぇ代物だろうが。その話し合いとやらでよぉ、端から対等じゃねぇ俺たちの意見がどれだけ通るモンと思ってやがる。徹頭徹尾オメェらの都合で左右されるってんなら、結果は出てるようなモンだろ?」

 

 ──後腐れなく、首ぃ切られてお仕舞いだよ。

 これがゲラートの言う『遅かれ早かれ』だった。

 交渉机は相手方の膝を突き合わせた中心にある。討伐隊には、小隊の都合を斟酌する理由がないのだ。早朝までの猶予が設けられたのは「討伐隊の総意で小隊が使えるかどうか話すため」だけであって、小隊の意思は介在しない。ナッドたちは武力で負け、かつここでは帝国の後ろ盾も機能しない。討伐隊の決定に逆らえないのだから、交渉事など成り立つはずがない。

 だから、敵方の甘言で勘違いしてはならないのだ。

 あくまで位置づけは虜囚と大差ないのである。

 交渉官さながらに椅子に座れるわけではない。

 

「始めっから諦めてちゃダメなんだよ!」

 

 なおも声を上げる少女を、ゲラートは一蹴する。

 

「……オメェの魂胆は知らねぇが、だったら、俺たちが大手を振って帰れるように便宜でも図ってくれよ。なあ、見張りのイルルさんよ。こっちの獄禍討伐はもう済んでんだ。ここで油売る暇なんざねぇんだよ」

「そう……したいのはね、山々なんだけど」

「ははっ、だわなあ? 独断じゃ決めらんねぇよな」

 

 彼は面を下げると、溶かすように笑みを消した。

 その途端、ここは息苦しい沈黙に埋め尽くされる。

 厳しい現実が明言されてしまったのだ。だから否が応でも皆が気づいてしまう。この座敷牢は水槽で、現実的な絶望感が水位を上げて──いまや空間すべて満たしてしまったこと。もはやナッドたちに残された術はないこと。あとは刻々と近づく終わりまで、頬に溜め込んだ一握の空気だけで細い呼吸を繋ぐだけだ。

 そこに不思議はない。むしろ今までが異常だった。

 罵声混じりでも現状把握に努めていた。看守との会話は険悪ながらも続けていた。自分たちを追い込んだ敵対者に不平をぶつけられていたのだ。だからか皆は現実という大岩を抱え込まずに済んでいた。それは間違いなく、帝国小隊の中核である彼の功績だ。

 ナッドは視線を上げ、壁際に背を預けた男を見る。

 

(ゲラート・ブルシャット、か)

 

 (れっき)とした、帝国小隊の馬鹿三号である。

 ナッドが数日間、彼と共に生活しての印象は「野蛮なお調子者」という一言に尽きる。小隊員と雑談を始めれば、最終的に彼でオチをつけることが大半だ。どうも彼は獄禍討伐の仕事が長いらしく、界隈でゲラートの共通認識ができ上がっているようだ。

 ──冗談の通じるやつだからな、話やすくてな。

 この、とある小隊員の所感にはナッドも頷ける。

 厳つい風貌の割に、距離感を掴みやすい男なのだ。

 

(まあ、悪いやつじゃない。ないんだが……)

 

 そんな男を馬鹿と形容した理由は他でもない。

 彼の、命を乗せた天秤の前でも皮肉を吐ける胆力のことを言っている。言うまでもなく、胆力とは最大限に慮った表現だ。この男はとかく無謀なのである。

 自己評価が高いのか。状況判断能力がないのか。

 挑発めいた言動が目につき、大言壮語の気がある。

 

(何であいつ、こういう帝国小隊全体が判断されかねないときにもやりやがるんだ……?)

 

 ゲラート一人の命で贖えるなら勝手にすればいい。

 しかし、小隊諸共を道連れにされては堪らない。

 彼の発言のたびにどれだけ肝を冷やしたことか。

 

(……いやそうか。あいつ、自棄になってんのか)

 

 そんな思考に陥る道筋は容易に想像できた。

 帝国小隊には生かされるだけの価値がない。ならばどれだけ背筋を正しても意味がないだろう。明日の暁光は機械的に死を運んでくるだけだ。どうせ明日には消える命である、放言を憚る必要もない──と。

 そうしてゲラートの思考経路を辿り、気づいた。

 いま自分が「彼を責められない」と思ったことに。

 いま自分が少なからず理解と共感を覚えたことに。

 

「っ……っ、く」

 

 思わず口角が曲がった。喉奥から異音が鳴る。

 凝固した吐気が喉を詰まらせた。堪らず、鼻から断続的に空気が漏れる。笑っているのではない。身体のなかに押し込めた閉塞感が噴き出しているだけだ。それは座敷牢に沈殿する、項垂れた面々も同じだった。

 だから唇を開くことすらも億劫になる。身じろぎするにしても渾身の勇気を必要とした。どうあれ導き出される絶望的な結論に、誰もが希望を捨て去った。

 こうして息苦しいまま、水底に沈み、沈み──。

 

「お喋りは、おしまい?」

 

 小声が、絶望で満たされた水槽に投げ込まれた。

 声の主は視線を集め、凪いだ雰囲気を揺るがす。

 座敷牢の片隅。そこには影のような少女がいた。

 まるで、月明かりを忌避するように蹲っている。

 浸る夜闇より昏い双眸が、鉄柵のほうに向いた。

 

(マジェーレ……? なんだ、今更)

 

 マジェーレ・ルギティ。帝国小隊の馬鹿二号だ。

 ナッドが意図的に目を背けていた相手でもある。

 しかし、それは詮方ない話だった。なにせ彼女は爪をがりがりと噛みながら、ずっと虚空を凝視していたのだから。刺激すれば縊り殺されそうな形相で、だ。

 虫の居所が悪いらしいことは一目瞭然だった。

 以前、迂闊にも声をかけた小隊員を射殺さんばかりの眼光で迎えた一件もあった。それ以降は皆、腫れ物を扱うような態度でもって彼女を避け続けていた。ゲラートですらも絡めなかったのだから相当である。

 それが、前触れもなく口火を切ったのだ。

 

「……オメェ、黙りこくってると思ったら何だぁ?」

 

 だとすれば、因縁をつけない理由は消えた。

 ゲラートは組んでいた腕を戯けるように解く。

 

「口を挟むのが遅ぇんじゃねぇの、副長さんよ」

「静かでちょうどいいくらいでしょう? 現状把握も済んで、そろそろ行き詰まったようだから──」

「オメェがボーッとしてる間になぁ。なに考えてたか知らねぇが、得るものはなかったみたいじゃねぇか。まぁ、下手の考え休むに似たりってこった」

「……私に話しかけもできなかった臆病者が、よくもここまで威張れるものね、ゲラート。そこだけは尊敬できるわ。ただ、酒で口を塞いだほうが利口よ。酩酊すればその頭、一周回って正常に回りそうね」

「……いや、お前がそれを言うのかよ」

 

 ──お前も散々ハキム相手に煽っていたくせに。

 たとえ小声であれど、深閑とした空間によく響く。

 思わず突っ込んでしまったところ二人に睨まれる。

 ナッドは胃壁の距離を縮めながら肩身を狭くした。

 だが、正直に言うとまだ言い足りない。「窮地だってのに味方同士で罵り合いしている場合かよ」や「見張りも呆然としてるぞ」等々。しかし、それを声に出せばこちらまで延焼してくるだろう。ナッドは臆病者の誹りを甘んじて受け、膝の合間に顔を埋める。

 自分にはここで火に油を注ぐような胆力はない。

 しかし、どうやら馬鹿三号(ゲラート)にはあったようだ。

 

「お坊ちゃんに同調するワケじゃねぇが、笑えるなマジェ。誰が臆病者だよ。オメェはあの村で、ビエニス軍に両手を挙げて命乞いしたって聞いたぜ? 拝んでみたかったなぁ。その澄ましたツラぁ歪めて『命だけは助けてください』って懇願してるオメェをさ」

 

 そう、少女だけは無傷のままで切り抜けていた。

 薄着から伸びる手足には目新しい傷跡はない。

 褐色肌に紋様めいた古傷だけが残るだけだった。

 だが当人は「そうね」と気にする素振りもない。

 

「どうあっても勝ちの目が見当たらなかったもの」

「認めやがった。副長様には意気地がないと見える」

「そんなものには一銭の価値もないじゃない。あなたは生まれる時代を千年単位で見誤ったようね。結果の伴わない蛮勇を誇るだなんて野蛮人にすぎるわ」

「みじめに命乞いするよかマシだ」

「そう? 私が彼らに投降していなければ、あなたたちの命もなかったかもしれないのに? あそこの……脳味噌が足りてなさそうな見張りさんに、自慢の意固地ごと焼かれた人の言葉は重たいわね」

 

 マジェーレの舌先は相変わらず流麗に冴えていた。

 引き合いに出されたほうは無邪気に首を捻った。

 その様子には「大丈夫かよ」と思わざるを得ない。

 

「……随分、恩着せがましい言い方じゃねぇの」

 

 ゲラートは影色の少女をまっすぐに指弾した。

 

「オメェのそれこそ一銭の価値もねぇよ。話はコソコソ聞いてやがったんだろ? 俺たちの現状を見ろ。ただ死ぬのが明日に伸びただけだ。……たとえ、オメェの命乞いで一時は息を繋げられてたとしてもな」

「……そうかもしれない。けど」

 

 ──明日になるまではまだわからないでしょう。

 そう呟くと、マジェーレは檻外に水を向ける。

 

「ねえ、見張りさん。肝心な説明が抜けていたわ。ここはどこなの? ジャラ村にはこんなに立派なボロ小屋なんかなかったはず、と記憶しているけれど」

「え、ああー、ここはね? ジャラ村からちょっと離れたところにある『ケーブ』って名前の小さな集落なんだよ。山脈寄りの……そうだね、麓になるかな。村と違って家とかに傷もなかったから、立地がすっごくよくて。一応、討伐隊の拠点をここにしてるんだー」

 

 看守の少女は、頭巾の影に指を沈めながら答えた。

 マジェーレ曰く「集落ケーブはジャラ村から徒歩でも半日かからない距離にある」らしい。彼女はここら一帯の地理に明るい。その言と相違ないとすると、看守の齎す情報に一定の信は置いていいかもしれない。

 それを告げられ、当の本人が口を尖らせる。

 

「もー、イルルを試さなくてもダイジョーブだって」

「善処するわ。あくまで念のためだったのよ」

「なら、まー、いいけどさー」

「とりあえずはこれで、あなたたちの目的、命運を分ける時刻、置かれた状況は把握できたことになる。これでお腹一杯、と言いたいことだけれど」

「だけれど?」

「……最後に聞くわ、我らが小隊長様はどこ?」

 

 マジェーレが神妙な顔で不意に放った問い。

 あの幼女の具体的な居所は尋ねたいところだった。

 イルルは、言葉を手繰るように頭を揺らし──。

 

「ああ……あの小さい女の子のことだよね?」

「まあそうよ。あなたも変わらないぐらいだけれど」

「なにをー、イルルはもう元服迎えてますー!」

「……嘘、私より年上なの? あなたが?」

「ふふ、年長さんにウヤマイを向けるのだーって、話が逸れちゃったんだ。あの子のことだよね? それなら、君たちの代表者だからって……ハキムのお爺ちゃんが直々にジンモンするーって言ってたよ」

「なッ──!?」

 

 ナッドの面相から急速に血の気が引いていった。

 その代わり、悔恨の念が薄皮一枚下に満ちていく。

 脳裏に浮かぶ、幼女を斬り捨てた魚面の老爺。

 かの英雄とはジャラ村での一幕以外に面識はない。

 彼の情報は大陸に轟く英雄譚を耳にした程度だ。だがそれで十分だ。数々の風評はこう語る。彼を『芯が冷徹なビエニス人の模範』『大陸に五本しか確認されていない、竜の魔導具を操る大英雄』『一昔前まで傭兵家業に身を置いていた』『現四大将の右腕』だと。

 そんな大人物が敵兵を捕ら、直々に尋問などと。

 ──目を覆うほどの拷問を受けているに違いない。

 

(俺は、俺に、は……クソ、なんで、どうにも)

 

 思考裡をよぎる映像が、身体から熱を奪っていく。

 決まって最後に恨むのは力不足だった。

 ──俺がこいつに捕まったから、こうなったんだ。

 迷妄じみた思考は自身を袋小路に追い込んだ。

 そんな彼を他所に、イルルは天井を仰ぐ。

 

「……そういえば、ハキムのお爺ちゃん張りきってたなあ。俺だけでやるから誰も近寄るなーって。いつもはあんまりわかんない人(・・・・・・)だから、珍しかったー」

「ふぅん……それは、実に興味深いけれど」

 

 黒瞳に転瞬、深い陰影が色を足す。

 

「とにかく少尉は無事、ということでいいのね」

「それはイルルの保障つきだよっ! ちゃんと手加減されてたから、怪我も深くなかったし!」

「……手心を加えているとは思えなかったけれど」

「んー? ゲンケーを留めてた(・・・・・・・・)なら、それは手加減してるってことだよ! 手も足も取らずに連れ帰ったなんて、すっごく気を遣った証拠だもん!」

 

 少女は上機嫌な面持ちで言い募る。

 それと反比例して、ナッドは唖然とする他ない。

 

(あれだけやって、手を抜いてたってか)

 

 益々、凡人と英雄の距離感に寒気を覚えた。

 ナッドは彼ら英雄の全力を想像すらできない。

 ならあの幼女はどうだろう。彼女も今頃、大英雄という無限遠の高みを知り、怯え、辟易していないだろうか。隔絶した距離に諦めを知って、膝を折りはしていないだろうか。そんな憂慮が頭から離れない。

 イルル曰く「ソルとの再会は早朝になる」そうだ。

 

(処分検討の前にようやく合流、か。……覚悟、しなきゃな。そのとき、少尉がどんなに悲惨な姿になっていても熱は堪えないと……明日は俺たちのすべてが懸かった日に、すべてが終わる日に、なるんだから)

 

 ──明日。そこで生死がひとえに分たれる。

 ──たとえ結果がわかっているとしても。

 確信的な絶望と無責任な希望が内心で混ざり合う。

 そこで看守は「もうこんな時間!」と飛び上がる。

 

「そろそろ就寝時間だから皆も寝なくちゃだよ。夜更かしは明日に響くからねっ!」

 

 イルルは軽快な足取りで座敷牢を去っていく。

 だが、歩を一度止め、思い出すように振り返った。

 

「ダイジョーブだから! 結末は君たち次第だよっ。きっと一筋縄じゃいかないと思うけど、がんばって。イルルもビリョクながら君たちの味方するから!」

「……オメェ。まだそんなこと言ってんのかよ」

「うん! だから、イルルにドンと任しといてよっ」

「あなたに任せられる要素は一切ないけれどね」

「そもそもオメェ、何でこっちの肩持ってんだよ」

 

 彼女は苦言を呈されながらも、踊るように回る。

 快活さを開け放つと、にっと歯列を覗かせた。

 さながら、すべての疑問の雲を払うような笑み。

 あるいは、すべてを誤魔化す笑みだったのか。

 

「それじゃね! また明日、お日様の下で会おっ」

 

 影が欠片も窺えない声を残し、夜は更けていく。

 もはやゲラートもマジェーレも口を開かなかった。

 静まり返る独房ではナッドの思考も散漫になる。

 だが時間潰しの種には困らなかった。少尉の現状。イルルの不可解さ。己の未熟。明日に差し迫った生死の三叉路。結論など出やしない考え事が渦を巻いた。

 そのせいか、ちっとも眠れずに格子窓を仰ぐ。

 刳り抜かれた宵の空。散らばる数多の光点が瞬く。

 星々は月明かりの薄膜を隔て、まるで一番を競うように煌いていた。心鎮まるかと言えばさにあらず。天高くから嘲笑を投げかけられている気分になった。

 ──ここと、あそこ。手が届かないくらい遠い。

 

(なんて、クソ。俺……本当に疲れてんだな)

 

 そんな気取った感傷を腹の奥底まで沈める。

 膝の締めつけを強くして、潰すように顔を埋めた。

 そうして結局のところ一睡もしないまま──。

 帝国小隊の命運を左右する、運命の朝を迎えた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──黎明の日差しとは水のように清冽だ。

 雄大な山脈の稜線は黄金めいた眩耀に煌いていた。

 漏れ出した旭光が雲を薄墨色に焼きつける。その光で導かれた朝は、茅葺と木造の屋根から屋根へ厳かに伝い、山麓の集落に行き渡っていく。三光とは辺境たるこの地にも足跡をつけているのだ。吹き抜ける風が朝の背を追い、数枚の青葉を浚っては高みに放った。

 今日は佳良たる空模様。人心とは無縁の様相だ。

 ゆえにナッドたちの心は山陰そのものだった。

 陽光が眩いほど、山間部は逆光で落ち窪むものだ。

 

(ああクソ。遂に、朝になりやがった)

 

 この場所は、集落の南部に開いた広大な空閑地。

 ナッドは中央に立ち、指の腹で汗を拭っていた。

 黄土色の固い地面を踏み締める。集落に活気があった頃は、寄り合いに使われていたのだろう。ここから遠目に見える距離に、集落の鄙びた住居群がある。

 再び額を拭う。これは気温による発汗ではない。

 背筋をなぞる水滴はぞっとするほど冷えていた。

 

「お坊ちゃん。オメェ、ビビってんのか」

 

 耳元で囁かれた声に、両肩がわずかに跳ねる。

 ナッドは頭をわずかに逸らして背後を見上げた。

 至近距離には彫りの深い凶悪な面構えがある。

 その大男は殺気立った視線を辺りに飛ばしている。

 

「……お前は平気そうだな、ゲラート」

「違ぇわ。そういうのはオメェ、顔に出すなってこった。こっちの器が知れちまう。こういうのはなぁ『ナメられたら終わり』なんだよ」

「いや、そこまで敵意剥き出しなのも駄目だろ」

「馬鹿がよ。勿体ぶったみてぇにウジウジしてる奴が一番損するんだよ。ハッタリでも価値を見せかけんのが大事ってこった。……わかってるよなぁ?」

 

 ゲラートは荒い声を潜めて、顎をしゃくる。

 呼応するように至近距離の男たちが僅かに頷いた。

 そう、周囲にはゲラート一人だけではない。帝国小隊の総員が密集し、直立不動の姿勢を維持している。ナッドは学舎での部隊教練を思う。まさか、捕虜紛いの身空でやる羽目になるとは考えもしなかったが。

 このとき、気の抜けるような音が鼓膜を掠る。

 ナッドはげんなりしつつ、目端に音の主を捉えた。

 これは左斜め後ろに立つマジェーレだ。通算六度目のあくびをしている。寝惚け眼を擦りながら不動の姿勢を崩していた。相変わらずの鋼鉄の心臓である。

 少女は片目を瞑りながら、ぼそりと呟く。

 

「あなた、早くも宗旨替え?」

「……そうだよな。あいつ、諦める感じだったよな」

「昨日とか『もう何しても死ぬ』みたいに言ってた」

「それがなんだ。お坊ちゃんに『器が知れちまう』とか『ナメられたら終わり』とか何とか。まだコイツ、生き残ろうとしてんじゃねぇかよ」

「うむ。貴様は一貫性というものを学ぶのだな」

「何だオメェら、急に結託しやがって」

 

 この唐突な集中砲火に、本人は舌打ちする。

 

「……つか、オメェらも似たようなモンだろ、手のひら返しの蝙蝠どもがよ。夜通し考えりゃ冷静にくれぇなる。早晩死ぬってわかってようが、目前まで迫った剣先に斬られたくねぇって思うのが人情だろ」

「だな。俺も一緒でな。ただまあ……俺はこんな場所(・・・・・)で堂々と口は利けねぇ、小心者の辛いとこよな」

「仕方あるまい。雑兵の発言は立場を悪くする」

「我らが旗印様の健在がどう転ぶかねぇ……」

 

 視線の先、帝国小隊の先頭に小さな後ろ姿がある。

 白髪が風に靡く。さながら軍旗のように揺れる。

 幼女が堂々と胸を張り、立っていた。武具も防具もない。老いた英雄との死闘の果てに、いまは帝国小隊と揃いの恰好になっていた。白い薄布と包帯で身体を覆っている。それでも、気丈な姿勢は崩していない。

 ナッドの萎れかけた精神が徐々に賦活される。

 視界内に入れるだけで、身体が引き締まるようだ。

 彼女と再会を果たしたのは、つい数分前の話。

 

(少尉は……無事だった。村での怪我とか、英雄直々の尋問について訊いても『大丈夫じゃ』ってそれだけだった。まあ、それが俺たちに心配をかけさせまいとする心遣いだったのかはわからねぇけど、でも、安心できたんだ──あのときだけは)

 

 そう、胸を撫で下ろしたのは過去の話。

 いまでは安堵なぞ胸中から消え去ってしまった。

 小隊員たちの軽口も現実逃避の一環にすぎない。

 なぜならここは、どう言い繕っても敵国の手中。

 見渡すまでもなく四面楚歌そのものなのだから。

 

「……ょろいねぇ。長持ちしねぇんじゃ……」

「……帝国軍か……旦那の考えは解らん……」

「……すぱっと殺しちま……ろうに、何だって……」

「……も落魄れたモンだ。あれを祭り上……」

「……に行かせろ。帝国の連中は許せな……」

「……なことよ……あれが『修羅』、ねえ」

 

 この汀には、さざ波にも似た囁きが打ち寄せる。

 ナッドたちに逃げ場はない。いま帝国小隊は──屈強な軍人たちに囲まれていた。輪型の陣のため死角が存在しない。三十余名からの目が、投槍めいた視線が飛んでくる。殺気や敵意が触覚を刺激できたならば今頃、帝国小隊は滅多刺しだったに違いない。

 ひたすらに萎縮する。細かな震えが止まらない。

 身体の節々が錠をかけられたように動けない。

 

(いまならわかる。交渉机っていう比喩は生易しかったんだ。これじゃ食事机だ。皿に乗せられたのが俺たちで、平らげようとしてるのが……あいつらだ)

 

 巌めいた顔つきからは死灰の匂いが薫ってくる。

 彼らこそがビエニス王国の誇る『根絶』討伐隊。

 使い込まれた装備には、所属を示す鷹を象った徽章が入っている。その主の男女比は、圧倒的に男性が多い。それも、帝国小隊の年齢層より一回りは上の者ばかりである。若き才人たちが席巻する昨今の戦場事情を思えば、いささか珍しい年齢の偏りだと言えた。

 大きな特徴としては、面相に刻まれた傷跡がある。

 火傷痕か、腐敗痕か、はたまた斬撃痕か。鼻筋が(あおぐろ)く変色していたり、片耳を失っていたり、口角が頬まで裂けていたりと──多様な種類と欠損箇所だ。

 しかし、それとは空気を異にする人々もいた。

 

「……あれが帝国小隊か。で、誰が処分……」

「……つたちと酒がありゃ宴だな! なは……」

「……ばー、ちょっとそれおれの槍……」

「……ャイラさんをまた、この目で見れる……」

 

 彼らには大きな傷跡もなく、人相は朗らかだ。

 他の、歴戦の猛者たちとは相反した印象がある。

 異質なほどに男女比がきっちり二分されていて、年齢層も帝国小隊と同年代のように思う。見れば、彼らの軍服に刺繍が施された徽章は──鷹ではない。

 目を凝らす。どうやらあれは、中心に大樹が据えられ、交差する鍬と剣があしらわれた徽章だ。記憶が正しければ、大陸辺境のデュナム公国軍のものだ。

 そこはビエニス王国軍と違い、弱兵と名高いはず。

 なぜ、彼らも『根絶』討伐隊に参加しているのか。

 ナッドが訝しさを顔に滲ませていると──。

 

「静粛にせい」

 

 その嗄れた一声で、姦しい波音がすっと静まる。

 帝国小隊の正面に陣取っていた人垣が、開く。

 その先には──錚々たる四人が一堂に会していた。

 彼らがきっと『根絶』討伐の中心人物たちだ。

 

「これより始めるぞ。……よいか?」

 

 号令を執るのは、ビエニス王国軍の四大将副官。

 ハキム・ムンダノーヴォ。彼は並ぶ中核たちを侍らせ、椅子に座していた。杖のように地を突いた剣で年月により湾曲した背筋を支えている。赤毛混じりの白髪を風に靡かせて、その威厳を遺憾なく発していた。

 魚類めいた双眸は瞼で厳重に閉ざされ、枯れた相貌には皺が年輪のごとく刻まれている。そして、首から下の身体は燻んだ旅衣と鎧で抑えつけていた。それはさながら衆目から素肌を隠すようにも見える。

 ──遠い。物理的な意味でなく、存在の格として。

 ナッドは生唾と混ぜてその感想を飲み込んだ。

 爪を立てて拳を握る。怯える身体を叱咤する。

 

(立ち位置的に、やっぱり……ハキム・ムンダノーヴォが討伐隊を指揮してるのか。あれだけの大物を駆り出してんだから当然か。それで……)

 

 次に目を遣ったのは、老爺の傍に佇んだ女。

 いや、視線が吸い寄せられたというべきか。

 紫紺の髪を二又に流した美女だ。面差しには憂いを滲ませ、眉尻を下げていた。伏目がちな目線が行きつ戻りつ帝国小隊に触れている──が、一瞬でも目が合うことはない。視線は幼女だけに注がれていた。

 そのときに、ナッドは息苦しさに気づく。

 呼吸が遅れていた。ひとつ、ふたつと段階を踏んで凪いでいく。たった一目見ただけで魅入ってしまったのだ。その事実が自分でも信じられずに唖然とする。

 外見に見惚れるのは人生で二度目の体験だった。

 普段通りの息を取り戻したのち、嘆息した。

 

(流石にかのお方(・・)ほどではないにせよ、傾国の美女に数えられる人には違いない……けど、何でこんな人がここに。資金提供の貴族、とかか? いや、それじゃわざわざ敵国の領地まで来る意味がない)

 

 ナッドからすれば、女の立ち位置が不可解だった。

 彼女は、老爺から一歩退いた位置に控えている。

 想起するのは侍従か懐刀だが、疑問が残った。

 いずれの類推にせよ、あの美貌にはそぐわない。

 彼は視線を、それより下へと慎重に辿らせ──。

 

「な……ッ!?」

 

 心ならず、驚愕が声に出てしまう。

 彼女の立場を雄弁に語る、襟口の勲章を見たのだ。

 それは、ビエニス王国の誇る四大将の証。

 『黎明の導翳し』シャイラ・ベクティス。

 

(う、そだろ。この討伐隊、副官どころか四大将本人まで参加してやがるのか……!?)

 

 ナッドは震えながら目元を指で力強く抑えた。

 まさか、国王肝入りの言に偽りなしとは──。

 吐気が競り上がる。眩暈も酷い。視界のすべてが心拍数を重ねるごとに輪郭を増やした。俎上の鯉としては、いよいよ処刑台に首を突き込んだ心地である。

 声をできるだけ抑えて、小声で毒づく。

 

「……何が『ゆるーい報告会』だよ」

「……確かにね。文字通りに沙汰を待つみたい」

 

 耳聡い少女に、当意即妙の返事をする前に──。

 老爺の重厚な声色が、辺りに朗々と響き渡る。

 彼は瞼を開け、ぎょろり、ぎょろりと目玉を回す。

 

「……今朝は新顔もおる。改めて宣言しよう。ここで俺は『黎明の導翳し』シャイラ・ベクティスから全権を委任されておる。これより俺の一挙手一投足、すべて四大将のモンだと思え」

 

 ──つまりは副官に雑務は任せてるってことか。

 ナッドは言葉の真意を図って、本人(シャイラ)を一瞥する。

 彼女は頷きもしない。緘黙を保ったまま、瞼を閉ざす。それは無関心の発露なのだろう。四大将の視座からすれば、凡夫の運命なぞ蟻のそれと同義なのだ。

 これこそ存在の格としての距離を感じた。

 そこには幾許かの義憤と有り余る虚無感を抱く。

 だが当然、誰もそんな彼の心情を慮ることはない。

 ハキムは視線を横薙ぎにし、手慰みに風を梳く。

 

「……まあ、いま俺の出る幕はない。この歳にもなれば喉も痛うてのう。最近は老骨らしく一歩下がって全体像を俯瞰しておるわけだ。報告会の進行自体はそこのハーエルが務める。ささっと始めてくれや」

「ムンダノーヴォ卿、有りがたく拝命致します」

 

 文官然とした中年男が輪から抜ける。

 ハキムたちに敬礼し、その脇で佇むと身体を回す。

 彼はその面差しに万目を集め、口火を切った。

 

「さて、時間は我々にとって貴重品です。早速取り掛からせてもらいましょう。三日目の議題の柱は三本あるのですが、まず一本目。帝国小隊、その処分を検討致しましょう。意見がある方は挙手を」

 

 そこで競って挙手したのは、討伐隊の中核たち。

 ハキム、シャイラ以外の少女と青年の二人組──。

 朝方の清澄な空気を破る声色は高く、響いた。

 

「はいはーい! イルルはこの人たちをテイチョーに送り帰したほうがいいと思います!」

「いやはやイルル! 何を言うか、処遇など議論の俎上に乗せる必要性などあるまい!」

「えーホロンくんそっち側なのー!?」

「すまんなイルル。だが、冷静に考えて欲しいのだ」

 

 この二人の風体と言動は稚気に満ちている。

 明らかにビエニス軍の気質とは毛色が違う。周囲のビエニス軍人は眉宇を撓める、目元を隠すなど、呆れが滲んだ仕草で応えている。二人に徽章は見当たらないが、デュナム公国側の代表者なのだろう。

 一人は、昨晩に再会を果たした少女──イルル。

 

「……うーん。ちょっと誤算だなー」

 

 恰好は昨晩と変わらず聖職者めいた修道服姿だ。

 しかし、その悽愴なまでの汚穢ぶりが目新しい。

 ローブ表面には、枯れた退紅が何層にも重ねて滲みついており、煤が墨汁めいた跡をつけ、繊維にまで埃が入り込んでいる。彼女はこれと一体化した頭巾を目深まで被り、薄闇で赫色の双眸を光らせている。

 ナッドと隊員は鼻白んで、各々が述懐を浮かべる。

 ──こいつ、こんな上の立場だったのかよ。

 ──これが前人未到の討伐隊の代表とは世も末だ。

 だが、帝国小隊を率いるは幼女と少女であった。

 少なくとも小隊員には世を嘆く立場になかった。

 

「では、最初に挙手されたイルル・ストレーズ様から伺いましょうか。このまま、彼らを帝国に帰す提案の真意とは……ああ、了解しました。文字通りですね」

「うん、よくわかってるねっ」

「ええ。もう何度もありましたから。では次──」

 

 進行役の男は、手慣れた調子でイルルを流す。

 少女の立てた親指がどこか虚しく聳えていた。

 

「ホロンヘッジ・バルバイム様。処分を議論するまでもないと、先ほどそのように仰いましたか?」

「ああ、そうとも。処遇など問うまでもない!」

 

 腕を組んで頷いたのは、威風堂々と立つ青年。

 燃え立つような紅蓮の髪が目を惹く。その下に穿たれた翠色の瞳は、さながら海底に眠る宝石のよう。淀みも穢れもない。純朴と勇猛を秘めた面構えである。

 恰好としては、鈍色の軽装鎧を着込んでいた。腰に軍服の袖を巻いて結び、外套をはためかせている。その背に描かれた大樹の紋様──字体から察するに落書きのようだ──が、風に舞って見え隠れする。

 そんな彼は好青年然とした明朗な声で言い放つ。

 透き通るような双眸に、帝国小隊を映して──。

 

「並べ、綻びなく綺麗に首を斬り落としてやろう!」

 

 ──さあ、行き着く先は生か死か。

 運命を分かつ三叉路が、迫る。

 



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8 『随に漂う小舟』

「実際……こいつらを生かして得はあるのか」

「まァ、ガラクタってことはないでしょうけど」

「問題なのは、生かすだけの費用を払った上で、なおも釣り銭が返ってくるかだがな」

「商人めいた物言いはお手の物だね、手前」

「皮肉か? とりあえず最初に言った通り、こっちはバルバイムに賛成。扱いが難しいだけだからな」

「えー! 嘘、こっち側の人すくなくないー!?」

「ありがとうございます。それでは次──」

 

 ──都合のいい幻想は脆くも崩れ去った。

 議論の皿上に乗った、帝国小隊の処遇。

 そこに討伐隊の各々が手を伸ばす。デュナム公国側ふたりの意見表明を皮切りに、侃々諤々と所見が戦わされた。空気が赤熱するほど声高に叫ぶ者もいれば、筋道を立てて説明する者もいた。それを進行役が取り仕切り、現在は落ち着きを見せている。

 だが、ナッドはまるで怯えるように震えていた。

 脈拍数が、さながら焦燥を煽るように嵩む。

 

(落ち着け……俺、落ち着け)

 

 外円からの迫力に気圧され、気後れする。

 だが、張り詰めた面持ちはナッドに限らない。

 帝国小隊は指を咥え、飛び交う意見を聞くばかり。

 半径三丈の空気は沈滞している。さながら硝子壜に閉じ込められたような、息苦しい愁嘆場だった。身を固めた面々は唇の紐を引き締めている。胆力は一丁前のゲラートすら歯を軋らせるのみだ。誰もが口を挟むことを恐れ、一向に手を挙げようとしない。

 彼らの手指を拒んだ根源は、威圧感。

 見渡せば、剽悍な面々が並んでいる。

 この、蝟集する意思の穂先もさることながら──。

 一番は、真正面に陣取った大英雄の存在だった。

 

「────」

 

 薄く眼差しを出して傾聴する、醜い老爺。

 その傍らで慎ましく瞼を閉ざす『黎明の導翳し』。

 この峻峭な威厳がナッドたちの口を塞いでいる。

 息を落とすことさえ顔を窺わなければならない。どれだけ割って入ろうと拳を固めど、結局は勇気の寸借詐欺に終わる。議論の流れに身を任せたまま、灌木のように一言も発せられず、いまも立ち竦んでいる。

 現状、処分案は大きく二つに絞られつつあった。

 ひとつは、帝国小隊が望む生残案である。

 ──討伐を遂げるまで集落に逗留させる穏健案。

 もうひとつは、懸案事項は抹消すべきという極論。

 ──ここで帝国小隊を斬り捨てる過激案だ。

 

「むしろ、利用価値ってモンが見つからねぇだろ」

「言い分は理解できる。だが殺すのは短絡的──」

「いやいや、帝国軍を生かす理由がなかろう! これが帝国の民であれば温情をかけるのも吝かではなかった。だが、しかし彼奴らは国家を担う戦士だ!」

「……もっとも、である。バルバイム殿の意見に賛成する。彼らは国家に殉じる戦士たち。ここで情けを見せ、首を晒さないのはそれこそ侮辱に他ならない」

「余計な楔となるならば、致し方あるまい」

「ははっ、そうだろうそうだろう!」

 

 ホロンヘッジ・バルバイムは明るい語調で頷く。

 この青年が、小隊の斬り捨てを推す急先鋒だ。

 抜けるような笑みの下、提案されたそれに討伐隊の過半数が賛同した。敷延して考えれば、話の潮流は自然かつ滑らかだ。なにせ彼らは『根絶』討伐という大事を控えている。そこで毒薬をわざわざ口に放り込む人間はいない。まして、互いに兵役を担う人種なのだから、敵兵を生かす選択を取るほうが奇行と言える。

 ただ、彼が牽引する意見とは少しズレていた。

 帝国小隊の顔を立てるために、との論調だ。

 

(……馬鹿言いやがる。国に奉仕したくて兵士になる連中ばっかりじゃねえんだ。特に帝国じゃ愛国心なんざ犬の餌だ。後ろであくびしてるクソ女は言うに及ばず、俺だって首を捧げる気はねえぞ)

 

 こんな、悲哀に暮れた独白は舌に乗せられない。

 喉の奥に引っ込めたゆえ、愁訴は届かない。

 ナッドは頭を振って、思考の余分を追い出す。

 ──ここまでは想像した通りの展開だ。

 

(結局ホロンヘッジの主張は、無価値な俺たちをこの場で切り捨てるという言説と変わらない。これが過半数を取ってるのは予想通り。昨日あいつから話を聞いて、俺たちの全員が真っ先に思い浮かべた流れだ。むしろ意外なのは、八割にも満たないこと)

 

「でも、イルルはホロンくんには反対だからね!」

「いかんなイルルよ、人の話はよく聞くものだ。いまオレたちは論理と心理の両面から結論を出した。これ以上に何が必要だというのか!」

「論理も心理もフジューブンだよっ!」

 

 穏健派の牽引者は、間近に立つ青年に喰い下がる。

 デュナム公国の代表たるイルル・ストレーズだ。

 彼女はその片割れを、びっと指弾した。

 

「論理的って言いながら、ただ考えようとしてないだけじゃん! 心理ってゆーのも、あの人たちの意見も訊かずに決めつけてるだけだよ!」

「しかしな、イルルよ。戦士たるもの──」

「ホロンくんのテツガクはいいから」

「そ、そうか……」

 

 ホロンヘッジは気勢を殺がれて鼻白む。

 気圧され後退った彼に、イルルが詰めた。

 

「だってここは戦場じゃないんだよ。イルルたちも、あの人たちも、目的は獄禍っていうみんなの敵なんだから。戦場の法律に従う必要、ないよね?」

「ッ……なるほど。確かにその通りだ」

「なら、ここは握手してバイバイしようよ! 血で血を洗ってたら真っ赤なまんま。剣を収められるときは収めたほうがいいに決まってるよっ!」

「む、むう。これはイルルが理に適っているな」

 

 あまりの気迫に押されてか、青年が折れかけた。

 まさかの追い風だったが、周囲が冷静に嗜める。

 

「バルバイム殿……勢いで納得しないでもらいたい」

「そっちのストレーズ、感情論でしか言ってねぇよ」

「そも、いまの俺たちには帝国小隊をご丁寧に送還する益も、するだけの余裕もないぞ。だからこそ、手間もかからない『処分』って選択肢が妥当だって話や」

「…… イルル・ストレーズ様。議論で言い包めようとするのは御法度です。それは謂わば、正解をつくる行為。議論とは畢竟、正解を捜すという形をとりますから、抽象的かつ個人的な御意見は自重ください」

「うー、ごめんなさい」

 

 至極真っ当な水を差され、少女は一歩退いた。

 そこで議論に生まれた隙間を埋めるように──。

 理性的な穏健派の声が、おずおずと上がる。

 

「……まあ、ストレーズ殿の言はともかく。短慮な決断を下すってのは早計だ、と愚考するがね。少なくとも、こっちに余裕はないんだ。使えるものは老木でも使え、という言葉は貧乏性の妙諦だろう」

「全くだ。ちっとばっかし、頭に血が上りすぎてる」

「だが、そっちも建設的な意見はないだろう」

 

 即座に過激派から切り捨てられ、沈黙に戻る。

 穏健派の主張は弱々しい。積極的に過激案を拒んでいる者はイルル一人だけだ。なぜなら、彼らが過激案を飲まない理由を二分すると「小隊の処分自体に反対はしないが、我らに有益な使い道があるかもしれないため、それまで保留しよう」または「物騒な話には賛同しかねる」という消極的な意見に収束するからだ。

 いずれも、過激案を跳ね除けるだけの力がない。

 たとえるなら、激流に幾つか樹木を渡しても橋にならないことと同じだ。時を経ず飲まれるのが摂理である。声高に主張できる『確固たる形』を持たない意見では、過激派の口を塞ぐに到底足らない。

 劣勢は変わらず、徐々に窮地に追い込まれていく。

 押し切られれば『処刑』の執行が決定される。

 

(これ、まずい流れだぞ)

 

 丸めた指の背で、唇上に溜まる脂汗を拭う。

 ナッドは身上の危機に焦れていた。

 流れが変わることを願わずにはいられない。

 いや、命が惜しくば自ら変えねばならないのだ。

 しかし、手立てがない。小隊が望む結論は、ここから無傷で帰還することだ。それは理想論にすぎるとしても、少なくとも生還したい。だが、当の討伐隊からすれば一分の利益もない結論だ。総員で頓首して縋れど、一顧だにされないことは間違いない。

 焦慮に急かされるままに視線を馳せた。

 

「────」

 

 幼女は黙然としたまま動かない。

 豪儀に腕を組み、自然体に近い姿勢だ。

 その後ろ姿からは安気な気配のみが窺える。窮状を嘆く様子はなく、ナッドの内側で沸き立つ焦燥感の泡すらない。風に白髪を弄ばれながらも、ソル自身は泰然自若を地で行く態度を貫いている。

 流れに身を任せているのか、それとも深慮遠謀を秘めているのか。

 

「いいかしら?」

 

 瞬間、紛糾していた声が溶けた。

 

「挙手さえすれば、発言資格はあるのよね?」

 

 そして、一斉に放たれた視線の矢。

 ナッドが面食らっていると、細腕に退けられた。

 議論に水を差した少女が進み出てくる。

 朝靄のかかった日差しを鬱陶しげに睨みつつ、緩慢な速度で通り過ぎていく。耳元の髪を払えば、前を塞いでいた小隊の塊が割れて、道をつくる。この立ち振る舞いは単身で矢面に立ったと思えないものだ。

 彼女は更に歩を進め、遂に幼女の横に並ぶ。

 一度は隣に目を遣るも、素気なく正面に向け直す。

 

「帝国小隊の方。不躾ながら、御名前を伺っても」

「マジェーレ・ルギティよ。この帝国小隊の副隊長を任されているわ……跪く必要はある?」

「いいえ。進行を優先し、略式で構わないと」

「そう、素敵な規則があるものね」

 

 ナッドは呆然と、マジェーレを見つめていた。

 しかし、その内情は数秒前で止まっていた。

 

(何で……何で、この場面で水を差せんだよ)

 

 なぜ、潮目を変えるために声を上げられるのか。

 彼女の人物評として、自分本位で気儘な人間というものがあった。自分に似た性情を持つ彼女がいけ好かないという個人感情と、あの不遜な態度から見れば満場一致で同意を得られたことだろう。そのはずが小隊の危難を救うため、矢面に立っている。

 ひねくれ者で、斜に構えた馬鹿(ナッド)とは違う。

 一度は自分と似ていると思ったが、やはり違う。

 

(そりゃそうだよな。当たり前だ。あいつはそれだけの力を持ってる。自分の思いを通せるくらいの力を。それが自信に根づいて、あんな大胆なことができてんだ。だから前提が違う。あいつと俺たちは、違う)

 

 結論づければ簡単な話だった。

 呑み込むには慣れた、苦い飴玉である。

 

「じゃあ、このまま話させてもらうけれど」

 

 少女は、前方に陣取る英雄たちと対峙していた。

 ハキムは顎を引いたまま変わらず座している。

 シャイラも瞑目したまま、彼の傍に立っている。ただ、きつく引き締めた口許は何らかの情動の表れだろうか。少女の不躾な声色が耳障りだったのだろう。

 その隣で、イルルが無邪気に瞳の赤を輝かせる。昨晩までは不気味と形容していたかもしれない。だが、先ほどの言動を思えば阿保面にしか見えなかった。

 そしてその隣、ホロンヘッジ・バルバイム。

 彼はマジェーレを不敵に笑って、歓迎する。

 

「さあ、帝国小隊の副隊長殿は何用だ!」

「議論が白熱していたところ悪いけれど、私たちを無視して話を進めるのは『なし』よ」

 

 ナッドはそう啖呵を切る少女を思った。

 注目を一身に受けるも、一向に意に介さない。

 足下を顧みず、彼女は思ったままに口にする。

 ──俺にも力があれば、こうなれたかもしれない。

 

「ふむ! オレは無視していたつもりはないが」

「そういう取り繕う話はいいわ。大事なことは、私たちの譲歩なく、帰国への道が端から望めないということ。あなたたちの議論はそういうことよね?」

「そうだな! 話の流れが行き着く先はそうなる」

「なら……ホロンヘッジと言ったかしら。あなたに私たちの価値を示しましょう」

 

 その少女の言葉は充分な衝撃があった。

 眩さに顔を顰めていたナッドすら、心が動く。

 ホロンヘッジは首を捻りつつ単語を舌で転がした。

 

「価値。価値か」

 

 青年の翠瞳と少女の黒瞳が、正面から衝突する。

 彼は芝居がかった挙措で胸に手を当てた。

 

「それは……帝国についての情報源としての価値だろうか? もしや間諜として帝国に送り帰せという要求か。いやはやそれは通らん! 反帝国を掲げる者共にとってみれば議論の余地があっただろう。しかし、しかしだよ。我々はその前に、天災を討つ使命を背負っている。そんな命乞いは通じない!」

「……ねえ、わざと? それとも意図して言及を避けているの? 私たちが提供できるものはそんな、不確かで迂遠なものだけじゃないわ」

 

 呆れ混じりの声色に、青年は興味を濃くした。

 

「では、聞かせてくれ! 如何なる益なのかを!」

「勿体ぶるほどでもないわ。戦力(・・)よ。あなたたちが私たちを見逃す代わりに、私たちが『根絶』討伐の一助になる。そう言ってるの。時には馬車馬のように働きましょう。時には恋人のように盾にもなりましょう。ほら、そこの立派な腕利きさんたちに比べれば使い潰しも効くでしょう?」

 

 ──ば、馬鹿か。馬鹿なのかこいつ。

 ナッドは声をうっかり漏らしかけた。

 声だけでなく吐瀉物も喉元まで達しかけた。

 死中に活を求めると言っても限度がある。

 マジェーレの提案は、小隊視点からすれば、ひとまずの生存を念頭に置いたその場凌ぎの案だ。小隊総意だと思われる、この場における生存という結論は最低限、満たされてはいる。外づけの戦力として一時的に彼らと手を組めるならば、確かに価値になる。

 しかし、後難の谷は何を差し引いても深い。

 

「……『根絶』討伐に参加だぁ?」

 

 鼓膜に、石臼を曳いたような響きが擦れる。

 恐る恐る背後に眼差しを送れば、鬼がいた。

 ゲラートの表情と、零れる声色がそう思わせた。当然の反応である。彼女の提案は、ここに集った自殺志願者たちと同道する案に等しいのだから。

 だが、小隊内では反論を唱える者はいなかった。

 一時的な延命としてならば、飲み込めなくもない。

 少なくとも、この場で首と胴体が離されるよりは。

 そのときひとつの失笑が落ちた。

 少女は耳をぴくりと跳ねて、黒目を巡らせる。

 

「……何か道化じみたことを口にしたかしら、私は」

「いや、オレは名案かと手を打ったのだが、何かしら問題があるのか! 誰か教えてくれ!」

「ホロンヘッジ様……お言葉ですが」

 

 青年の問いに、輪のひとりが所感を露にした。

 

「多少なりとも、戦力が増強されるのは我々にとって不利益とは申しません。ですが、その増えた戦力の矛先が何も原罪の獄禍に向くとは限りません。逃亡するならまだ良し。最悪、離反を企てて、我々の脚を阻む可能性が……低い、とは到底思えません」

 

 ──信頼できない相手と盟など結べるか。

 当を得た指摘が粛々と告げられる。

 ナッドが改めて肌に感じた感情は侮蔑だった。

 だが甘んじて受けざるを得ない。少女は今更、この場の不文律を踏んだのだ。誰もが言外にわかっている前提条件。それは、あらゆる小隊の価値が、議論中で退けられ続けた理由に直結している。

 すなわち、敵軍との口約束を無条件に信頼する馬鹿はいないということ。小隊がどれだけの恭順を口にしても、信頼できる証明にはなり得ない。

 次の瞬間、背中に刃を突き立てる恐れもある。

 その恐れが結実せずとも、そんな憂いを残して正念場に臨むことは避けたいだろう。事実、ナッドもあくまで命を繋ぐための延命処置だと考えたほどだ。

 ホロンヘッジは満足げに首肯して、胸を張った。

 

「なるほどなるほど有難い! これで完璧に理解したぞ! マジェーレ・ルギティよ、そういうわけだ。信頼できぬ相手に背は任せられんからな!」

「ねえ、無知と無恥を見せつけないでくれる?」

「それはすまないが、無知はオレとお揃いだな!」

「一緒にしないで。そんなこと百も承知よ」

 

 少女はホロンヘッジの同調に冷や水を浴びせる。

 青年の軍服が風に乗ってはためく姿は、どこか虚しさを覚えさせた。彼は過激派の意見を気勢よく牽引していたが、本質はイルルたちと大差ないのだろう。思考回路の実在すら疑わしかった。

 マジェーレは目を薄すらと細め、矛先を変える。

 

「約束を担保する物はそちらにあるでしょうに。そうよね、そこの『黎明の導翳し』さん」

「っ……わっ……私、ですか?」

 

 矛先は、一言も発さず事態を俯瞰していた──。

 『黎明の導翳し』シャイラ・ベクティス。

 彼女はすぐに瞼を上げると、目を横に逃した。

 

「その。わ、私に、何か……?」

「ええ、だから気を抜いてないで答えて」

 

 ──なあ、こいつは俺らを殺す気なのか?

 ナッドは外眥に力を入れ、少女を射殺さんとする。

 たとえ射殺せずとも、あの妙に角が立つ口だけは塞ぎたい。あわよくば窒息死まで持ち込みたいところだ。なにせ、いつ無礼打ちされても不思議ではない言動である。一刻も早く黙らせなければならない。

 ナッドの肝は潰れんばかりに縮み上がっていた。

 少女が口を開くたび、幾陣もの殺気が外円から襲ってくる。何が悲しくて、処分決定を待たずして死の風に晒されなければならないのか。あの太平楽気取りには「俺たちの命が惜しいなら社交性を身につけてくれ」と言いたい。きっと一顧だにされないだろうが。

 しかし、帝国小隊の命運は彼女に託されている。

 泣けど笑えど、結末は彼女次第になってしまった。

 もはや半泣きだが、好転する未来を祈るしかない。

 

「待て、小童」

 

 少女の無作法に応じたのは、重圧。

 地の底から漏れ聞こえるような声だった。

 それは、シャイラの隣に腰掛けた老爺のもの。

 

「言うたはずだ。『黎明の導翳し』の全権は俺に委任されとる。問答は俺が引き受けよう」

「そっちは、懶眠のなかになかったようで何より」

「呵々、小童めが。相変わらず口が達者で、肝も太いようだが目は悪いようだなあ。周りを見てみい。次、余計な口を挟めば袋叩きに遭いかねんぞ」

「……私も命が惜しいから、さっさと本題に行くわ。『御璽(ぎょじ)』を出しなさい。四大将様が出張っているのだから、当然持ち歩いているでしょう?」

 

 ── 御璽? おい……こいつ、まさか。

 絶句するナッドを置いて、話の潮流が変わる。

 

「……口の利き方がなっとらんが、その問いには是を返そう。持っとるよ。もっとも、誰に託すことも許されぬ魔道具なれば類推も容易かろうがな。のうシャイラ嬢、御璽を手放してはおらんな?」

「は、はい。ここ、です」

 

 シャイラは懐中から小物を取り出した。

 水を掬うように両手に乗せ、見せる。

 それは一本の印章だった。大きさは妙齢の女性でも握り込める程度。黒を基調にした円筒状で、金で縁取った上品な配色だ。その側面には、蚯蚓《みみず》が這い回ったかのような筆致で聖文字が彫刻されている。

 ナッドは思わず息を呑む。

 それは『遵奉(じゅんぽう)勅命(ちょくめい)御璽(ぎょじ)』と呼ばれる魔道具だ。

 神代の時代から残る遺物にして国宝である。

 現存する御璽の数は、ビエニス国祖が当時の四大将に下賜して、現在まで受け継がれてきた四つのみ。紛失すれば死罪と定められた貴重な代物だ。

 彼らは御璽を肌身離さず持ち運ぶ。なぜなら如何に厳重な金庫の奥より、大英雄の懐こそが最も危難からは遠い場所だからだ。転じて、現代では御璽とは四大将である証と見做されている。

 生きていて、まず目に触れる機会のない宝物。

 出自を問わず、この場の皆が凝然とするなか──。

 

「待て待てマジェ! オメェ何言ってやがる!」

「なに? 威勢のよさは──」

「いまは戯言に付き合ってられっかよ!」

 

 ゲラートは堪らずといった形相で吼えた。

 柱石めいた腕でナッドを押しのけて、前に出る。

 

「俺たちはまだ何も納得しちゃいねぇんだぞ! 『根絶』討伐にかかわる話も、何も! しかもオメェ、御璽だぁ!? 寝言が言いてぇなら頬に一発くれてやっぞ! それを使わせてる意味がわかってんのか!?」

「そんなことを言っている場合? 躊躇するだけの時間はとっくに使い果たしてしまったのよ」

 

 マジェーレの態度は冷ややかだった。

 彼女は半身だけ逸らして振り向くことで、憤懣やるかたない形相と目を合わせる。さも、相手にすること自体を大儀に思っているような表情だった。それは当然、ゲラートの怒気に薪を焚べることになる。

 ナッドはその炎めいた憤怒に同調してしまう。

 遵奉勅命の御璽の悪名は大陸史に轟いている。

 神代から残る魔道具ゆえに、効力も絶大と聞く。

 発動までの手順は至極簡単だ。

 まず、誓約書を作成する。そこに遵守させる対象者の血判を押し、魔力を流し込んだ御璽を重ねて押すだけでいい。これで発揮される効果は、言うなれば「当事者たちが取り決めた誓約書を絶対遵守の誓約書にする」のだ。しかし、強制力が働くわけではない。

 ただ書面の文言に反すれば、罰が下るだけだ。

 

(その罰が洒落にならねぇんだ……)

 

 生者には想像を絶する末路が待っている。

 曰く「違反者の一族郎党を根絶やしにする」「遍く苦痛を味わい、死に至らしめる」「あまつさえ死後の魂も永劫に炙られ、その果てに消滅させられる」。つまり文言を違えた罰は、大陸の宗教観の両手から落とし、ただ果てのない無に還されるというわけだ。

 突飛すぎる、なんて出鱈目だと笑い飛ばしたい。

 だが、可能性が頭を過ぎるたびに身体が震えた。

 御璽の効果は歴史的な裏づけがあるのだ。

 

(文言を違えて、絶えた王族がいた。御璽での取り決めを恐れて、莫大な対価を払った国があった。必死に裏を掻こうとした英雄がいた。……真実がどうあれ、これで軽く考えられるほど俺は能天気じゃない)

 

 ナッドはデュナム人たちを横目に、少女を睨む。

 

(なあわかってんのかよ、マジェーレ。そんな代物で誓約を結んじまったら……それこそ本気で『根絶』討伐をやらなくちゃいけないんだぞ。途中であいつらの目を盗んで逃げ出すとか、策を弄して罠にかけるとか、できなくなっちまうんだぞ……!)

 

 ──かの原罪の獄禍に相対する。

 天の齎す災いに弓引く、愚かな一人になる。

 戦場で管を巻く命知らずですら難色を示す愚行だ。

 だが、少女は「今更?」と目を眇めた。

 

「余裕があればこんなことしないわ。いま私たちの生きる術は命を賭けた先にしかない。だって、命以外に賭けられるものがない。死ぬか戦うかの二択だったら、まだ可能性のあるほうを選びたいでしょう」

「そりゃ……わかるッ! わかるが、オメェはどうだよ!? 本当にわかってんのか!? その果てに選ぶ二択が『獄禍に潰されるか』『文言を違えて消滅するか』になるってことを!」

「……途中下船は『有り』よ。その場合」

 

 マジェーレは眉間に皺を寄せる。

 それはまるで、ジャラ村のときのような──。

 ナッドに次善の策を託したときのような顔だった。

 

「私が、この場で丁寧に介錯してあげる」

「どちらにしろ、降りる場所は同じじゃねぇか」

「違うわ。途中下船するなら安寧に逝かせてあげる」

 

 ゲラートは犬歯を覗かし、排撃を弄しかける。

 

「……もちろん、あなたに名案があると言うのなら、この発言は撤回するけれど」

 

 だが、この言葉で二の句が告げずに俯いた。

 黙るしかないのだ。元より名案を携えていたのならば、少女の馬鹿げた提案など一蹴している。消極的に賛同を示す他ない。帝国小隊では彼女以外、誰一人として沙汰を乗り切る術すら出せていないのだから。

 そして、集落には幕切れの沈黙が落ちた。

 進行役を務める男は、その隙にぐるりと見回す。

 

「帝国小隊の提案に、異議はございますか」

「……まあ、あちらがそれでいいってんなら」

「我々に不利益はありませんからねえ、賛同しよう」

「気遣いを無駄にされた感じはあるがな」

「うん! みんなでこれから頑張ろうよ! おー!」

「うむ、当然オレも賛成だぞ!」

 

 ──遂に進退極まった。極まって、しまった。

 帝国小隊の舳先はきっと苦難の方角を選んだ。

 すなわち『根絶』討伐の一助となること。討伐隊から信頼を得るために御璽を容認し、地獄まで同道すること。それが掴み取れた最善だという事実に、悲しみ以外の感情で涙が出かかるナッド。

 だが、死の三叉路を越えられたことも事実だ。

 今日もまだ息はしていられる。実感という実感のない『生』が、言葉を介して胸に灯った心地だった。安堵と疲労感が内面を満たす。帝国小隊の面々も大なり小なり同じようで、項垂れる者が散見される。

 そうやって、議論の終結を見切ろうとした矢先。

 喧騒を塗り替える──「待て」の声が響いた。

 途端に静まり返る空間に、嗄れた言葉が紡がれる。

 

「纏まりかけたところ悪いが、そこの小童。まだちィとばかし足らんところ(・・・・・・)があるのう」

 

 その主は──顔を上げて頬を掻く、醜い大英雄。

 ハキム・ムンダノーヴォは笑みを浮かべていた。

 対する少女は胡乱げな目顔で、言葉を繰り返す。

 

「……足りないところ、ね」

「御璽を用いれば、懸念事項の悉くは解決を辿る。多少なりとも戦力が増える、人によっては肉盾ができたと喜んどる奴もおるかもしれん。だが、いまだに納得できとらん者もここにはおるだろう。ゆえに貴様らには、ひとつ証明してもらわんとならん」

「何を。価値なら示したけれど」

「その価値の真偽を、示せ」

 

 ハキムは目玉を回して、帝国小隊を見渡していく。

 一人一人を存在感で呑み込んでいく。

 ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり。

 

「力で示せ。それがビエニスの法ゆえになあ」

「……力量を測る、ということ?」

「ああ、そうだ。値札に釣り合う価値を見せよ。貴様らが『根絶』攻略に足る実力か。木偶人形を加えては至嘱の精鋭と言えんだろうがよ。それはディナ陛下、ひいてはビエニスの看板に泥を塗ることになる」

「軛にしかならないと判断が下ったら──」

「無論、遠慮なしに断ち切らせてもらう」

 

 そして最後に、彼が射抜いたのは──。

 

「……そこの、ソルと言ったか。帝国小隊の長である貴様には示してもらうぞ。貴様らの値打ちを。御璽を押すまでの重みを持つに足るかを」

 

 ハキムはただ枯れた唇を釣り上げただけだった。

 だが、その凄絶な表情に総員が息を呑む。

 老爺の周囲が一層、色を落としたように思えた。

 否、水気を多分に含んだ墨色が足されたのだ。それが明け方の白を濁す。幼女の白を穢す。視界に映る赤を、青を、黄を、緑を、紫紺を──滲ませた。

 きっと濃密な殺気が彰顕しているのだ。それらが結晶化し、彼を取り巻く文目となって、可視光を屈折させているに違いない。まるで気を纏ったかに見える。

 ナッドはすでに言葉を失っていた。自身の怯懦に絡め取られ、桎梏となる。杭という比喩では到底足りない。錠でも及ばず、鎖でもまだ欠ける。彼はその迫力で見事に拿捕されて、動けなくなった。

 そして、真正面から殺意を受けた幼女は──。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

(……『俺の目論見通りだろう』と言いたげじゃな)

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──話は昨晩の会話まで遡る。

 ハキムが旧友を「孫」と言い放ったあとの話だ。

 

『え、孫って、この子、が……!?』

『俺も俄かには信じられんかったがなあ』

『血の繋がった家族……なんです、か……?』

『ああ。……聞きたいか? こやつとの事情を』

『ッ! は、はい。お願い、します!』

 

 ──やりおったな、クソジジイめが。

 結論から言えば、幼女は泣き寝入りした。

 ハキムを蹴飛ばそうにも代案が思いつかなかった。

 ソルはただ肩身を縮め、せめてもの抗議の目を向けたことを覚えている。だが一顧だにされず、老爺はさも大事を告げるようにシャイラを見据えていた。

 彼は真剣味を繕い、経緯を騙ってきかせた。

 曰く、俺と女房の間には息子がいた。しかし、二十年ほど前だろうか。息子は親の傭兵稼業を嫌って、家から飛び出してしまった。持ち出されたものは、幾許かの路銀と護身用の剣だけ。ハキムも彼の足取りを追ってはみたものの、一切の消息を掴めなかった。

 全く親不孝者だったよ、と一呼吸おいた。

 

『だからこそ、あやつを俺の血縁と呼ぶつもりはなかったのだ。傭兵稼業を嫌い、親元から飛び出したのだから、それが本望だろうと思ってなあ』

『いままで、ハキムさんが言わなかった、のは』

『……あやつの欲しがったものは、手慰みの玩具ではなく、名前にも、土地にも、親にも、何者にも縛られぬ自由だったからよ。そいつは俺たちが、親として与えられる唯一のものだった』

 

 そうして時は過ぎ去り、迎えた今日。

 ハキムはソルと出会って愕然とした、という。

 彼女の握る剣が、まさしく息子のそれだったのだ。

 これが唯一の血縁者を知った経緯である、と。

 

『そう……だったん、ですか……息子、さん』

 

 シャイラは口許に手を当て、ひどく驚いていた。

 彼女は幼女の側に置かれた剣と、幼女自身と、老爺を順繰りに何周も見回した。ぐるぐると目も回して、どこか呆然としている姿が印象的だった。

 この純真な仕草も肩身を狭くする要因だった。

 

『初めて……聞きまし、た』

『ああ、実はおったのだ。不肖の息子だったがなあ』

『……その方は、まだ生きて──います、か?』

『いいや。聞くと、こやつの育ったダーダ村はラプテノン軍に焼かれたそうだからな。シャイラ嬢の耳にも届かなかったかのう。帝国軍の『修羅』の話は』

『ごめんなさ、い。あまり覚えて、なくて』

 

 ──でも、そう。そう、なんですね。

 シャイラは幾度も呟きを繰り返し、呑み込んだ。

 まるで運命の巡り合わせのような偶然を。

 まるで劇的な物語の一場面のような幸運を。

 

(まあ、よくも口が回ることじゃのう)

 

 幼女はひとり、冷めた目線で見つめていた。

 咄嗟に話作りをした割に、嘘のつき方が巧妙だ。先に教えていたソルの物語に付け足す形で、矛盾なく人生を加筆できている。流石と言うべきか。ソルが明示しなかった、ダーダ村の両親の素性をいいことに、都合よく掘り下げ、見事に関連づけてみせた。

 老爺が大胆なのは、その先も嘘だということ。

 ソルの知る限り、彼に子供はいなかったはずだ。

 

(本当はいないからこそ『実は』という言葉が有効なのじゃな。勉強になる……なるが、この男がそら恐ろしくなってくるのう。もっとも、むかしから変わらんと言えば変わらんが)

 

 果たして、この孫設定は受け入れられた。

 シャイラの眼差しに疑念の影はない。

 戸惑いに憐憫の色を配して、二人を見回している。

 

『だが、シャイラ嬢。このことは他言無用だ』

『え……あ、息子さんの、ために』

『違う。それはこやつに関係ないだろうがよ』

『ご、ごめんな、さい……』

『……謝るでない。俺もそこまで咎めておらん』

 

 ──帝国小隊の処遇が決まるまで公表しない。

 ハキムの言葉はつまり「ハキムとシャイラが、報告会ではソルに表立った助力を加えない」ということを意味していた。曰く、これは先入観や贔屓を抜きにした、真なる価値を示させるため、だった。

 最初からソルをハキムの孫として紹介されれば、否応なく見る目が変わってしまう。実力が見合わずとも価値を認めてしまう者も出るかもしれない。

 だが、それで遂げられるほど現実は甘くない。

 

『お前さんがどれだけ錆びておらんか。……いいや、違うか。そう、どれだけ背丈を伸ばせたか。それを示せねばお前さんとて容赦せん。此度の討伐は決して飯事ではない。重石にしかならんなら、切り捨てる』

『望むところじゃ。実力が見合わぬなら、見切れ』

『……今度は、俺からの助けなどないぞ?』

『見切られたなら、わしもそれまでの男ということ』

 

 ──もちろん、容易く諦めるつもりはないが。

 ソルは表情を動かさず言い切った。

 

『あの……男? 女の子、ですよね……?』

『……見切られたなら、それまでの女の子じゃ』

『お前さんも律儀な奴だなあ』

 

 小隊と討伐隊、双方のために必要な条件は一つ。

 厳正な判断の下、討伐隊から認められること。

 ソルの願いを鑑みれば、示すべき価値は力量だ。

 その機会ならつくってやろうではないか──。

 ハキムはそうやって瞳の奥だけで笑った。

 

孫よ(・・)。明朝の集いでな、お前さんは一言も舌に乗せてはならんぞ。ここで言葉を介してわかったが、お前さんは俺の性情を継いでいない』

『実に喜ばしいことじゃな』

『どちらかと言えば、俺の女房に似ておる。まさか明敏犀利な柄でもなかろう。ゆえに孫よ。ただ黙して語らず、流れに任せよ。さすれば運命は都合よく、俺たちの手元に転がり込んでくるだろう。結局、最後は力量を試す場が開かれる』

『……そう上手くいくのかのう』

 

 ソルは半信半疑であった。

 自身が口下手とは重々承知している。差し出口を挟んで場を混乱させるより、むっつり黙っているほうが万人のためになるだろう。だがソルの希望は万人の思惑から外れているのだ。小隊の総意は帝国への帰還であり、討伐隊の総意は、討伐に支障がない、あるいは便益となる処遇にしたい、だろう。

 ソルの討伐参加の目論見とは噛み合いそうにない。

 対して、ハキムは片頬を上げるだけだった。

 

『俺を信じろ、孫よ』

『……わしは納得する他ないがのう、貴様』

『どうしたソルよ。つまりは我が孫よ』

『先ほどから……孫、孫と。連呼するでない』

『いやあ勘弁しておくれ。愚息とは言え、息子が遺した唯一の孫だ。感慨深くもなるだろうがよ。いままで口にできなかった分を呼ばせてはくれんか』

 

 老爺はさも切なげに呟く。

 

『だが……俺は悲しくてならん。人を指して『貴様』などと、粗暴な言葉遣いをしていることが。可愛いお前さんのそんな姿は見ておられん。……きっと、帝国軍で過ごすうちに染まってしまったのだろう』

『……何が言いたいのじゃクソジジイ』

『俺をお爺様と、いやお爺ちゃんと呼ぶがいい』

 

 ──いっそ手元の剣で首級を挙げようか。

 衝動が一周回り、表情が抜け落ちる。

 老爺の首筋を「穴よ開け」とばかりに凝視した。

 この殺意を具現しなかった所以は、ただ一つ。

 

『……ソル、ちゃん。駄目、です』

『ベクティス殿』

 

 厳しさを忍ばせた声で咎めた、彼女の存在だ。

 シャイラは目線を数本垂れる髪越しに合わせる。

 その瞳は深藍に潤い、揺れていた。水源である感情は読めない。だがここで「老爺を血祭りに上げん」と剣を抜けば、彼女を惑乱させてしまうかもしれない。

 憧れる英雄の心を翳らせるのは本意ではなかった。

 惜しみつつも、視線を人体の急所から外す。

 シャイラは安堵を滲ませ、取り繕うように言う。

 

『お爺ちゃんは……ええ、と。家族は、大切にしないと、駄目……ですから。その、ソルちゃんにとって唯一の、家族なら、大事に。ね?』

『……ベクティス殿が仰るならば』

『英雄に現金な孫で悲しいのう』

 

 ハキムは後頭部を無造作に指で掻く。

 そして、あくび混じりに区切りをつけた。

 ──気にせずに構えておれ。

 ──お前さんの台本は、俺が書いてやる。

 そんな、彼の気負わない声が残響して──。

 

 

 

 2

 

 

 

「どうだ? 貴様の価値を証明して見せよ」

 

 再び問い返すハキムの言葉で、我に返る。

 いま、幼女には数十の目が注がれていた。

 帝国小隊の視線の束が背中に刺さっている。気配から察するに、有り余る不安とわずかな期待を孕んでいるようだ。彼女の一挙一動にすべてが懸かっているからだろう。ただ隣の少女だけは瞑目していた。

 討伐隊のほうからは視線の輪が押し寄せる。それを織りなす感情は多岐に渡る。主だったものは軽蔑か驚愕か、あるいは好奇心もあるだろうか。

 幼女は嘆息を抑え、確と首謀者を睨み返す。

 

(内心では『どうだ』の意味が違うのじゃろうな)

 

 ソルは議論の最中、沈黙を守らされていた。

 ハキムの凄みを利かせた笑みも、腐れ縁の立場からしてみれば得意満面の笑みにしか映らない。神経が逆撫でされるが、そこに文句はつけられない。得意げになるだけの結果を、彼は突きつけたのだから。

 なぜなら台本通り。議論の大筋は、ハキムが昨晩に取り決めていた通りに推移したのだ。若干の違和感すら覚えるほどに、不気味な予定調和だった。

 だが、迫られた問いには返答せねばなるまい。

 

(はてさて、どうするべきか。いまはちょうど、ハキムが価値の証明法を提示したところじゃ)

 

 ──価値の証明、その舞台は。

 ──純粋な腕節を(はか)る模擬戦とする。

 ここに立つ者たちは猛者ばかりである。なにせビエニス王肝入りの討伐隊に選抜されるだけの力量を備えているのだから。ゆえに後方支援要員を除いて、誰かを上回れたならば価値を認めよう。さすれば、御璽で誓約を結び、晴れて帝国小隊を『根絶』討伐隊の仲間として迎え入れようではないか──。

 このハキムの言葉に、討伐隊は色めき立った。

 ビエニス王国の気風が追い風だった。王国側に否を唱える者はいなかった。デュナム公国側も話に流されつつも、ここに至っては一番乗り気であった。一方、帝国小隊は血の気と言葉を失っていたが。

 対戦者の指名は、幼女の独断に任された。

 

(確か、ここもハキムの台本があったのう……)

 

 ──指名まで来れば、お前さんの一人舞台だ。

 ──選ぶ相手はデュナム公国の代表がいい。

 ──そう、ホロンヘッジ・バルバイムだ。

 ソルは老爺の指示を思い返し、青年を見遣る。

 彼は晴れやかな表情で見つめ返してきた。

 そして、ぐっと親指を突き立てる。

 

「オレの出番か! ならば致し方ない!」

「焦るなバルバイム、あれは目が合っただけだ」

「なにッ!? まだお預けか……」

 

 ソルは期待の眼差しを前に、思考を巡らせる。

 ハキムが彼を推した理由は二つあった。

 ひとつ、性格から推し量れる議論上の立ち位置。

 彼は直情的かつ単純な思考回路らしい。帝国小隊の処分決定の際、工夫を凝らすだけの手間をかけず、安直な選択肢を取ると予想されていた。ハキム曰く「誠実で勤勉なんだが、良くも悪くもデュナム人だ。平たく言えば、馬鹿と阿呆の合いの子よ」とのことだ。

 それに加えて、彼は腐っても代表者の一人。

 過激派の旗印になることは必然だった。

 これを模擬戦の相手に据えたなら「ホロンヘッジは帝国小隊の排斥に動いていた頭目だ。たとえ幼子を前にしたとて、手心を加える余地はない」となる。

 実力を認めさせる土壌としては申し分ない。

 

(そして、ハキムがホロンヘッジ・バルバイム殿を推した理由はもうひとつある)

 

 それは、彼が相応の実力者であることだった。

 腐っても討伐隊の代表者の一人である。デュナム公国では指折りの実力者らしい。だが、ハキムが言うには「お前さんと隔絶するほどではない」。全霊で足掻けば喰い下がれる。謂わば、ソル本来の実力を潰さない程度に腕が立つ相手とのことだった。

 模擬戦で力量を示すには理想的な手合いである。

 ゆえに、ソルが出すべき答えは決まっていた。

 そのまま台本通りに、緩慢に腕を伸ばす。

 

「ぬしを、指名しよう」

 

 どよめきはなく、水を打った静寂に包まれる。

 背後の帝国小隊は皆、言葉を失って──。

 囲む討伐隊も一様に目を剥いて──。

 気怠げに立っていた少女すら呼吸を止め──。

 老爺に至っては表情を消すや否や、噴き出した。

 なぜなら、手が示した先には青年ではなく(・・・・)──。

 

「え。わ、私、ですか?」

 

 ただただ困惑を露にして、問い返す女。

 王国が誇る大英雄、四大将『黎明の導翳し』。

 彼女は紫紺の髪を跳ねさせ、わずかに後退った。

 

 



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9 『背水の剣戟1』

 模擬戦の支度は速やかに行われた──。

 この集落の空閑地にて価値を決する。

 模擬戦での取り決めは幾許の議論の末に終えた。

 その一端を挙げるとすれば、防具についてだ。

 戦いの折、身を守る防具の有無は重要である。

 しかし、小隊代表者のそれは悉くが破砕され、剣を除けば身一つも良いところだった。ゆえに討伐隊の予備装備を貸し与えられるはずだったが、代表者自身があっさりと断った。曰く「わしの身体に合う寸法のものがないならば、身軽なままのほうが実力を発揮できるのじゃ」。これが火種となって内輪揉めに発展しかかったものの、結局は代表者の意見が尊重された。

 あとはひとまず開始の合図を待つのみである。

 帝国小隊一同は、討伐隊の円周に捌けていく。

 これで、輪の中心に佇んでいる人影はひとつ。

 包帯と薄布に身を包んだ幼女のみ。

 

(礫を浴びる罪人の心地じゃのう)

 

 閉ざしていた瞼を上げれば、現実が見えた。

 その場から去る帝国小隊の顔色は青い。

 概ね、頭上に広がる青空模様といったところか。

 だが清爽さは皆無である。怨念めいた視線が幼女を滅多刺しにする。ゲラートは激情を蓄えるあまり頬が紅潮しており、マジェーレは殺気をふんだんに塗した目線で突き刺してくる。ナッドの目にすら不審の色味が浮かんでいた。光明を棒に振った裏切者に、投げかけられるものは石礫と相場が決まっているのだ。

 ソルは無言のうちに受け止め、剣柄に触れる。

 

(……皆には謝らねばならんのう。そのぶん、せめて結果だけは手にしなければならん。それだけが、わしの、長としての責任の取り方じゃ)

 

 指先でつうと、柄の輪郭をなぞる。

 巻かれた包帯の柔さが伝う。破れた箇所では硬質な感触があった。同時に鼻腔から空気を取り込む。胸をたらふく膨らませると、口から丁寧に吐く。一瞬でも気を抜けば、口許が歪んでしまいそうになる。

 おもむろに二尺の紐を腰袋から取り出す。後頭部で髪を縛ると、解けた包帯のように垂らした。これで気持ちが切り替わる。定めた所作を意識的に辿ることにより、適切な温度まで昂りを冷ました。

 これから、帝国小隊の命運が懸かった模擬戦だ。

 それを見届ける討伐隊の反応は多岐に渡る。

 

「あの小せぇのは随分な馬鹿だねぇ」

「短慮、軽率を慎むことこそが長生きの要訣だというのに……その真逆を行くあたり、何にせよ薄命は決まってたんだろうな。あの生き方じゃ二年も持たん」

「けれど、わざわざ『黎明』を指名したことを考えてもみろ。生死が両肩にかかった場面で、博奕にもならない選択をするワケがない。何か策があるのだろう」

「だったら、是非見てみたいがね」

「あの世での与太話にするってんじゃないならな」

「あっち見ろよ。小隊、葬式かって面だぞ」

 

 ──興奮、期待、あるいは憐憫、失望。

 彼らの様相は好悪の軸で測れど一つには括れない。

 

(わしがベクティス殿を指名したこと。それをどう見るかで、反応は変わるものじゃろうからな)

 

 あの決断の見方はおおよそ二つに分けられる。

 檜舞台に飛び乗った道化師と見れば、喜劇を待つ心地でいられるはずだ。これはデュナム公国側の面々が多く当て嵌まる。イルルは興奮のままに飛び跳ねており、ホロンヘッジは誇らしげに親指を立てていた。

 絶海に身を投げた愚者だと見れば、わざわざ好機を投げ捨てた無謀を笑うはずだ。あるいは、避けられない未来を選び取った悲劇に顔を背けるだろう。たとえば、ハキムが「どうにでもなれ」とばかりに笑っている一方、シャイラは沈鬱な表情で俯いている。

 そのうちの二人は鳩首密議に耽っていた。

 

「ハキム、さん。その、本気で……?」

「それが手加減のことならば『無論』と返そう。裁量は俺たちのほうで調整しただろう。シャイラ嬢は制約のなかで本気で戦え。……あれが正気かという意味合いならば、言葉を選ばねばならんだろうが」

「あの、なんとか、取りやめには……」

「無理だ。もう幾度も言うたことだろう」

 

 椅子に深く腰掛けた老爺は肩を竦める。

 シャイラは臣下のごとく屈んだ態勢のまま──。

 

「そう、ですよね。……でも、何かないです、か」

「……シャイラ嬢が拘泥するのは珍しいのう」

「そう……ですか? だって、あの子は」

「あァ、あやつのことが気に入ったのだろう」

「いえ。その……貴方、の」

「まさかとは思うが」

 

 シャイラが何事か紡ぎかけた瞬間だった。

 醜い老爺は魚眼を見開いて、顔を覗き込んだ。

 怯えるように肩が跳ねても構わず、言う。

 

「俺の事情に忖度するつもりならば、降りろ」

「で……でも、やっと見つけた存在、なんじゃ」

「何のために真実を隠したと思っておる。贔屓目抜きの価値で認められるためだ。ここで茶番劇を演じては本末転倒も甚だしいだろうがよ。先ほど(・・・)は妥当と見て許可を出した。此度は違う。それが『俺たちを愚弄することになる』と知っての我儘か?」

「そんなっ、そんな……つもり、じゃ」

 

 ハキムは無感情の瞳で、狼狽える彼女に告げた。

 

「貴様は『黎明の導翳し』だ」

「ッ……──はい」

「立場を忘るるなよ。貴様は人であるより先に、王国の柱なのだ。空に輝く日輪のように、或いは星々のように、民を導くのが貴様の使命だろうがよ。職分を果たせ。無理ならば降りろ、代わりに俺が出る」

「……いえ、私が。私が、やります」

 

 眉間に皺を寄せ、老爺の側から離れる。

 シャイラの額には透明の珠が浮かんでいた。

 下唇を噛んだ口許は、苦痛で曲線を描いている。

 そして彼女は胸元に片手を当てた。呼吸でも整えているのだろうか。ソルの位置からは、その俯いた面差しを覗き見ることができなかった。

 するとハキムは興味を失ったように顔を戻す。

 

「分かればよい。行け、あやつが待っておる」

「……はい。私は『黎明の導翳し』です、から」

 

 シャイラは一息に、羽織っていた軍服を脱いだ。

 それを丁寧に畳んで老爺に預ける。

 

(どうやら、あちらの長話は終いらしいのう。何を話しておったかは知らんが、あの腐れ縁がけったいなことを吹き込んでいなければよいのじゃが)

 

 ソルは肩慣らしに愛剣を回していた。

 身体の調子は上々だ。睡眠も十分に摂っている。

 昨晩の鼎談を終えたあとはすぐ褥につき、起床後には日課の鍛錬を済ませた。以前マジェーレに滔々と説かれた、睡眠の重要性に触発されたのである。確かに身体は万全に近い。ハキムとの戦闘による傷も、驚くべきことに一晩で快方に向かった。それでも、胸を張って模擬戦に臨めるかと言えば「否」だった。

 これより剣を合わせる相手は『黎明の導翳し』。

 

(本当に万全を期するならば、無慮千の軍勢を用意せねばならん。なにせ、此度が初の手合わせとなる大英雄じゃ。実力を低く見積もってはならん)

 

 シャイラが足を踏み出すと、空気が塗り変わる。

 一瞬、ここが王立劇場の大舞台と錯覚した。

 ソルは身体中を駆ける緊張を感じた。喉奥がひりつくように乾いている。潤そうと押し込んだ唾液はあまりに固い。さながら飴でも呑んでしまったかのようだ。適度に弛緩していた筋繊維が萎縮を始め、身体が無意識に圧力に怯える。気圧されている。

 これから正対する『主役』の存在感に──。

 

(……なるほど、ハキム以上(・・・・・)じゃ)

 

 シャイラは舞台の中心に向けて歩を進める。

 その姿は窈窕の一言だ。しなやかに揺れる二尾の紫紺。蒼褪めた肌は白日の下に晒されて、まるで月明かりのように耀いている。昨晩に感じた羸弱さは鳴りを潜め、その幽玄な立ち姿に眩んでしまいかける。一瞬でも気を抜けば、ふらりと彼女に吸い寄せられてしまうだろう。さながら誘蛾灯、魔性の魅力がある。

 明らかに、先ほどまでとは雰囲気が一変していた。

 いままで韜晦していたとすれば舌を巻く。

 

(歴戦の猛者とは、その立ち姿だけで凄味が滲むものじゃ。否、正確に言えば『滲んでしまうもの』か。彼らの呼吸、眼光、仕草、匂い。あらゆるモノが中身を暴く窓の役割を果たす。これは、彼らが積んだ経験と直結しておるがゆえに、自覚することは難しい)

 

 それを隠し得たこと自体、曲者の証明である。

 ソルは身震いする。いまは風が凪いでいるものの、胸中には突風のような衝動が吹き抜ける。それは戦闘意欲とも興奮とも言える熱を孕んでいた。背中をゆるりと滑る汗だけが、昂りを冷ましてくれる。

 結果を手にするために不可欠なものは涼だ。

 冷静な、冷徹な観察眼が凡人の牙。

 喰らいつく好機こそ、幕開け間近の今。

 そうして遂に、二人は対峙した。

 

「──……」

 

 シャイラは言葉を発さない。

 その面差しは、さながら仮面のようだった。

 表情筋に変化はない。強いて言えば時折、眦が痙攣する程度。目線はこちらに注がれている。見つめ返せば、彼女の淀みない瞳奥が迎えた。その双眸は雄邁とは無縁の色合いなものの、確かな芯が垣間見えた。

 ──綺麗な瞳じゃ。迷いが消えたようじゃな。

 素朴な感想を抱きながら、全身を観察する。

 手足の細かな震え、筋肉の伸縮、呼吸の律動。

 装備の摩耗箇所、その具合、動作時の干渉──。

 

(この目で、改めて洗い出すとしよう)

 

 ソルは集中力を束ねて、彼女の装いに絞った。

 彼女は軽装だ。薄青味を帯びた胸当てと鎧、左腕の籠手以外には碌々防具を纏っていない。特に右腕は顕著である。蒼白の素肌が、白魚のような指先まで晒されているのだから。それでも身体の露出は僅かだ。神経質なまでに暗色の衣に覆われ、なおかつ薄衣を羽織っている。下半身は観察不能だ。足元まで広がる紺碧の生地に遮られ、詳かにすることはできない。その裾から覗くのは無骨な軍靴。踵の摩耗具合と、先ほど踏み出した脚を思えば、軸足は右なのかもしれない。

 そんななかで、特別そそられた箇所は──。

 彼女の腰に差された、一振りの剣だった。

 柄が頭をもたげた細長い鞘。きっと彼女愛用の剣だろう。だが、ソルにはとんと覚えがない。民草の間では『黎明の導翳し』の覇名や、その独特な戦闘術ばかりが騒がれていた。そもそも聞き及んだ()()()()()を考えれば、剣を帯びる必要などないはずだ。ゆえに、あれは謎めいている。四大将が帯びている事実を思えば、少なくとも大業物だろう。おそらくはハキムの振るう魔剣と同格以上だ。幼女は尽きない興味に身を任せ、剣身を矯めつ眇めつ眺めたい衝動が疼く。

 そうやって一通りの観察を終えたとき、だった。

 

「あの。帝国小隊長、さん」

「どうか、致しましたのじゃか」

 

 口火を切ったのは、シャイラのほうだった。

 視線を寸毫たりとも揺らさず、問いかけてくる。

 

「どうして……私と……」

「どうして、とは異なことを」

 

 ソルはただ思いの丈をぶつけるように口にする。

 その面持ちに一切の夾雑物を混じらせず。

 

「シャイラ・ベクティス殿。貴殿はわしの憧れる英雄の一人。泥を啜った路地裏から、輝かしい四大将の座に収まった努力の大英雄。剣を交えたくなるのはそれ、剣に生きる者の本能と思いますがのじゃ」

「私は……そんな。そんなの理由になってませ、ん」

「戦う理由にはなっておりますれば」

 

 ──本能のまま一戦交えたくて堪らず、のう。

 その小声に対し、シャイラは唇を震わせる。

 

「……理解、できません。この場を借りて、なんて」

 

 無感情の瞳には一握の憂慮が塗された。

 彼女は、途切れ途切れの声で非難する。

 直情径行をひた走る幼女を「考えなしだ」と。

 シャイラの言い分はもっともだ。帝国小隊の命運を背負ったなか、更なる無謀に手を伸ばす。すべてを危難に晒して博打を打つ。否、博打にすらもなっていない。博奕とは要因を加味しながら勝利への近道を探す遊戯だ。だが、ソルが選んだのは遠回り。

 四大将を指名して得られるものは一時の驚愕だけ。

 その果てには落胆と失望が待っている。

 ゆえに、シャイラは問いを重ねているのだろう。

 ──とても正気の沙汰とは思えない。

 ──この選択が、真に言葉通りなれば。

 ──真に、衝動的な欲望からのものなれば。

 

「……あなたは、度し難い狂人──です」

 

 さしずめ異名通りの『修羅』だと見下げる。

 ソルはそんな怜悧な視線を、薄く笑って退けた。

 

(もっともじゃ。無論、一戦交えたいというのは建前じゃ、本質は打算的よ。これが単なる模擬戦であったならば、わしに勝ちの目はなかったじゃろうが)

 

 客観的に見て、ソルの勝算はゼロだ。

 突破口も決定打も欠いている。なにせオド消費の加速術は封印しているのだ。元より、あの技術は謂わば大道芸。もし勝利を掴み取れたとして、仲良く把手共行とはいくまい。獄禍討伐を共に為す、背中を任せられる同胞とはかけ離れた『道具』と同義になる。

 現状はシャイラの手心も期待できない。

 下手を打てば、討伐隊と信頼を築くどころか彼らに不信の種を植えつける。経験上、それは必ず土壇場で芽吹き、決定的な終わりを迎えさせてしまう。ここはやはりソル自身の力で乗り越えなければならない。

 なれば、やはり勝負は幕開け前から決していた。

 だが、その事実こそが突破口となり得る。

 ここで、ハキムが「さあ」と執りなす。

 

「先にも言うたが、念のため再度伝えておこう」

 

 ──この模擬戦に敷く()をな。

 ハキムはその場の全員を見渡して、告げる。

 これより始まる模擬戦の意義。それは力量の見極めに尽きる。互いの命を賭した殺し合いではないために、あるいは二人の力量差を埋めるために、幾つかの規則が敷かれる。そのすべてがソルを有利にする文言だった。もしもソルが一瞬で斬り捨てられれば、力量を量る以前の問題である。ゆえに満場一致の賛同を得て、討伐隊側と取りつけたものだった。

 ソルの打算的な狙いとは、それである。

 

(もしホロンヘッジ・バルバイム殿を指名していたならば、こうはなかった。彼はわしより格上のようじゃが、ハキムは『全霊で足掻けば食い下がれる』と言っておった。その程度(・・・・)の力量差なら、普通の模擬戦が執り行われたじゃろう。じゃが、それでは不足。追い詰められた兎と余力を残した獅子。どちらが厄介かは言うに及ばず、じゃ。そう、わしは)

 

 ──考えなしの幼女に非ず。修羅に非ず。

 そんな全否定を他所に、説明役が入れ代わる。

 託されたのはハーエルという中年の男だった。

 円周から進み出でて、模擬戦の概要確認に入る。

 

「……まず、帝国小隊長。ソル少尉の勝利条件は、基本的には二通りあります。一つ目は、我らが『黎明の導翳し』を打倒せしめること。彼女が敗北を認めたとき、その瞬間に帝国小隊の価値もまた認めましょう。そして、二つ目の勝利条件は……制限時間の超過です。ここまでに間違いは、ありませんね?」

「問題ないのじゃ。です」

 

 ソルは腰帯に差した愛剣の柄を撫でる。

 模擬戦の制限時間は十分間。それで決しなければ、幼女の勝利として扱われる。しかし、時間稼ぎを目指すのは愚策中の愚策だ。ソルは交渉材料として己の力量を見せる立場にある。本領を出し惜しむ真似などすれば、無慈悲に判決が下されるだろう。

 様子見は程々にする必要がある、と心に刻む。

 ハーエルは、次に視線を大英雄に向ける。

 

「……そして『黎明の導翳し』様」

 

 そのとき、円周から棒状の何かが飛来する。

 回転を帯びたそれを、シャイラは一瞥もしない。

 そのまま右手で掴み取ったのは、木剣だった。

 

「得物は一本、それだけです。小道具や魔導具、マナ放出等、魔力の行使はすべて禁止。ただひとつ、木剣に魔力を通すことのみが許されています。そして──そこから一歩でも動けば模擬戦は強制終了。帝国小隊長の勝利として扱います。以上により、『黎明』殿の勝利条件は、一歩たりとも動かずにソル少尉を戦闘不能にすること。もしくは、彼女から降参の言葉を引き出すこと。ここまでに間違いはありませんね?」

「……はい。問題、ありませ、ん」

 

 シャイラは唯々諾々と頷く。

 彼女は紫紺の髪を背中に払い、軽く構える。

 それで如実に顔色を変えたのは、むしろ帝国小隊の顔触れだけだった。これは、あらかじめ取り決めた文言以上の制約である。小隊側が取りつけたのは、あくまで魔術やマナ放出の禁止と、剣一振り以外の小道具の禁止のみ。そこに条件が追加されていた。

 帝国小隊側からすれば願ってもない好条件だ。

 ゆえに、誰一人として口を挟まなかった。

 ソルも感謝こそすれ、文句はない。

 

(しかし、言い知れない不気味さが漂っておる。なぜ討伐隊側は不服を唱えない。なぜわしらに黙って変えおった……読めん。あの腰に帯びた剣が抜けない理由が関係しておるのか。ここはいっそ敵方を揺さぶり、手のうちを探る必要があるかもしれんのう。不安材料を残して臨むわけにはいくまい。もっとも)

 

 ──相当な綱渡りじゃろうが、それは今更か。

 渇いていた唇を舌で舐め、声色を整える。

 

「ひとつ、いいですかのう」

「……はい。何でしょう、か」

 

 ソルはここで呼吸を意識した。

 これから、自らの意思で愚を犯すことにする。

 対話とは常に駆け引きの要素を孕むものだ。

 賢者は望む答えを引き出すため、あえて身を切る決断をすることがある。だが門外漢は身を切る以外の方法を知らない。腹芸が達者な男と言えば、ソルの知る限り、いまも傍観者に徹している老爺が筆頭だ。

 果たして、見様見真似の交渉術が通用するのか。

 ここからは一歩踏み違えば奈落行きである。

 幼女は覚悟の紐を引き締め、中腰になった。

 そう、相手方に敬意を表する態勢に──。

 

「シャイラ・ベクティス殿」

「……これは、一体──何、の……?」

「感服致しましたのじゃ。その襟度の深さに。わしと対等になるため、自らを更に羈縻するとは望外のことでございますのじゃ。しかし、度を越した制約を相談もなしに追加されれば、こちらの意気にもかかわります。ここは、制約を緩めては如何でしょう」

「つまり……どういうことです、か」

「それを」

 

 手と視線で示した先は、彼女が腰に差した剣。

 おそらくは魔剣、大業物との予想が立つ──。

 

「その剣を使(つこ)うても構わんと言いました」

 

 いっそ義気凛然とも言える啖呵だった。

 遠巻きに眺めていた討伐隊はにわかに(かまびす)しくなる。

 目を疑う声、からからと嘲笑う声、感嘆の呻き声。

 模擬戦の指名時以上に混迷を極めた。

 一方、帝国小隊側は絶句している。

 

「な……ッ!? あ、あの馬鹿はッッ……!」

「……ああ、もう。苛々するわ」

 

 悲鳴めいた罵声が飛ばせたのはゲラートのみ。

 残りの小隊員はすっかり肝を潰しきったようだ。精根尽き果てて、言葉を紡ぐこともできないらしい。マジェーレが白けたような顔を背けて、耳元の黒髪を乱暴に弄っている。その隣でナッドは立ち尽くし、幼女の無謀の魂胆を問い質すこともなかった。

 そして、目前の『黎明の導翳し』は──。

 二度、三度と目を瞬かせた。

 

「……本気、で。本気で……言ってます、か」

「本気でなければ、それこそ狂人の行いですのじゃ」

「あなたは自分を、狂人じゃ……ない、と?」

「もちろん。論を俟たない事実ですのじゃ」

 

 彼女は空いている手で、腰の剣柄を緩く触る。

 すると、鞘はかたりと存在を表明する。

 だが、シャイラは仄かに首を振って指を離した。

 

「いえ。大丈夫で、す。私は、これで」

「その所以を教えてもらえますのじゃか」

「この剣は、その、大事なときに抜くもの、で」

「つまり、いまは使えない確たる理由があると」

「っ……それ、に。木剣なら」

 

 そこで一拍、時間が置かれた。

 シャイラの顔には一抹の哀憐らしき影が浮かぶ。

 所在なさげに視線を彷徨わせ、小声で呟いた。

 

「あまり……傷つけずに、済みますか、ら……」

「それは、誰を、と問うてもよろしいのじゃか」

「あっ、ええと。それはそ、の……」

「──くどい。くどいのう、帝国小隊長よ」

 

 遂に割り込んだのは、溜息混じりの声だった。

 そのハキムは我が物顔で腰掛けたままである。

 だが、いつも拵えていた笑い皺は浅い。突き出た頬骨には頬が寄らず、年輪を刻んだかのような皺や窪みが延ばされることもない。感情の読めない無表情だ。

 彼らしからぬ雰囲気に寸閑、戸惑いを覚えた。

 老爺は、そんなソルに構わず嗄れた声色を紡ぐ。

 

「先ほど、貴様は言うとったな。『黎明の導翳し』自身が追加した制約を『わしと対等になるため』とな。まァよくも嘯けた。随分と青い勘違いをするモンだ」

「……何が言いたいのですじゃ」

「ハキムさ、ん。大丈夫です、からっ……」

「はっきり言おう。貴様とそれは」

 

 ──ここまでして(・・・・・・)ようやく勝負(・・・・・・)になるのだ(・・・・・)

 それは、至極当然の論理であった。

 ソルが取りつけた制約では不足だっただけ。

 ハキムの台詞に、シャイラはわずかに俯いた。

 眇められた瞼には陰影が降りる。

 

(ああ、要らぬ気遣いをさせておったのか)

 

 シャイラの煮え切らない言葉の意味を悟る。

 彼女から見れば、ソルは世間知らずの箱入り娘だ。

 加えて、幼女だてらに頭角を現した才媛。

 挫折など知らない。それゆえ、人より劣ることで矜持が容易く折れてしまうのではないか。そんな極めて一般的な物差しでソルを測り、残酷な事実を口にすることが憚られたのだろう。腑に落ちる話ではある。

 そして、二人の果てしない懸隔が露わになった。

 

(……面喰らってしまった、のう。ベクティス殿はきちんと、わしをただの幼な子として扱っておったのじゃな。自分で幼女じゃ幼女じゃとは言っておったが、真正面から外見で容赦する者に出会わんかったから……いささか麻痺しておった)

 

 もっとも、ソルは幼女の皮を被った老爺だ。

 人生の落伍者は、誰よりも敗北を知っている。

 幾度も人に劣ってきた。口から零れた血反吐の絨毯の上で、幾度も骸と寝床を共にした。ゆえにシャイラの配慮は一切の意味を為さなかったのだ。彼我の力量に天地ほどの隔たりがあることなど重々承知。

 なにせ彼女の副官たる男にも歯が立たなかった。

 元より、傭兵時代でも勝った試しがない。三桁にも昇るハキムとの戦歴で、黒星以外が乗ったのは一度きりである。それも痛み分けにすぎない無効試合だ。

 だが、ソルが気炎を上げるには十分だった。

 

(ああ、いかん。心が弥猛に逸ってしまう)

 

 想起してしまうのは、己自身の終幕だった。

 ──半端者と斬り捨てられた、凡人の最期。

 ──憧れの人に認められなかった結末。

 あれは、強烈に現実を突きつける言葉だった。

 結果を残せなかった者の生涯は儚い。

 一人称視点の苦労や努力を轍としたとして、それは打ち寄せる現実の隨に拭われてしまう。ソルフォートの生涯が徒花のごとく散って、何も遺せなかったように。人の目に可視化されるものは結末のみである。

 あのときの『人類最強』の言葉に含みはない。

 ソルはずっとそう思っている。ただ「生涯を使い果たしてこの程度か」と率直な感想がまろび出たにすぎないのだろう。取り立てて腹に据えかねる出来事ではない。彼の力不足は、動かぬ事実だったからだ。

 ゆえに最期は無力感に苛まれ、徒労感を覚えた。

 そして、何より純粋に口惜しかった。

 

(確かに、これは価値を示す戦いじゃ。もはや意味合いを変えたがのう。これは、憧れの人に、ベクティス殿に、わしの価値を認めてもらうための戦いじゃ)

 

 そう結論づければ、なぜか心持ちは軽く思えた。

 ハキムの仕切り直しの声も澄明に聞こえる。

 ついぞ、幼女は綻んだ口許が戻らない。

 

「よいな? 前言は翻さん。模擬戦に敷く()はハーエルが述べた通りだ。帝国小隊長はその真剣を用いて打ち崩せ。『黎明の導翳し』は城砦のごとく動かずして、木剣を用いて打ち払え。……異議はあるか」

「ないのじゃ。お騒がせして申し訳ございません」

「ありませ、ん。あの……ありがとうございま、す」

「……時間が押しておる。早目に始めい」

 

 こうして二人は距離を離して、向かい合う。

 シャイラは右腕で浅く木剣を構える。

 その姿は、さながら舞踏会の一幕。差し出された腕が誘っているようにも見える。きっと剣舞を踊る相手を求めているのだ。手の先には当然、幼女がいる。

 無論、応じるように腰帯から剣を抜いた。

 深呼吸とともに感覚を研ぎ澄ませていく。

 視界は鮮明に輪郭を浮かせる。鼻先に饐えた臭気がけぶる。間遠の喧騒も鼓膜を震わせなくなる。足裏の地面の感触を新しく感じる。そして、筋肉の内圧を徐々に高めるように、軸足に力を押し込んでいく。

 その原動力は、言葉にすれば幼稚な想い。

 幾度すり切れど、いまだ胸奥に眠る純粋な──。

 憧れの人に認められたい、という願いだった。

 

(わしは幸せじゃ。その機会を得られたのじゃから)

 

 この模擬戦に名乗り合いはない。

 それは、すっかり廃れた一騎打ちの風習だ。

 これは、互いの命を賭けた一騎打ちではない。

 ──賭けられたのは、帝国小隊の命のみ。

 これは、互いの価値を賭けた一騎打ちではない。

 ──賭けられたのは、帝国小隊の価値のみ。

 ──ソルフォート・エヌマの価値のみ。

 

「……ソル。いざ、参るのじゃ」

 

 ゆえにこそ、幼女だけが──。

 命と矜持を賭した者だけが、名を舌に乗せる。

 ハキムの声を合図に、模擬戦の火蓋が切られた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──脚部に圧縮された力を開放する。

 ソルは大地を蹴って、空気の壁を破る。

 その破片に白髪を曳かれながら突き進む。

 正面に、ではない。標的を中心とした円弧を描くようにして駆ける。常に彼女を見据えつつ、その出方を窺う。『黎明の導翳し』は紫紺の髪を寸毫たりとも揺らさず、いまだに真正面を向いていたままだ。

 幼女は舐るように全身を眺めながら思考する。

 現状、シャイラは制約で雁字搦めだ。

 移動制限の枷は理不尽なほどに重い。畢竟、彼女は修練用の藁人形と大差ないのだ。剣士同士の一騎討ちにおける要訣は、足運びに集約されるのだから。

 足は、剣の腕前以上に趨勢を左右する。

 

(それが、あの制約ひとつで奪われたのじゃ)

 

 だから、制約の追加で帝国小隊は愕然としたのだ。

 棒立ちの剣士が発揮できる実力は一割未満だ。

 

(それだけではない。あれでは身体がよろめく、あるいは踏鞴(たたら)を踏むだけで文言に違反する。たとえば、力比べの勝負を挑んだとする。その場合、ベクティス殿は力を込めるにも足を使う。わしが不意を突いた力の込め方をすれば、重心は容易く傾いでしまう)

 

 だが、正面突破は愚の骨頂だろう。

 対峙している英雄は『黎明の導翳し』。常識の尺度で測ってはならない。このまま馬鹿正直に突き進んだとして、剽悍決死の特攻以上にはなり得まい。ゆえに慎重に(にじ)り寄る。徐々に手繰り寄せる。

 幼女は軌道を変え、走行する円の半径を縮めた。

 

(だが、間合いの奪い合いという剣術の醍醐味は、この場では望まれておらん。そうでもなければ時間制限なぞ取り決めるはずがない。ならば)

 

 まず、木剣の間合いに入らずに──。

 

「ッ……!?」

 

 ──直後、右手の甲に痛打が弾けた。

 稲妻めいた速度で痛覚が叩き起こされる。

 ソルは唇を噛み千切る。迸る衝撃を逃がすために右腕を逸らす。その目論見は功を奏した。肘先から大半の痛みが散じて、体幹までは届かなかった。ゆえにあと一歩は地面を踏める。それまでに思考を紡ぐ。

 幾重もの類推を連ねることで事態の把握に努める。

 行動指針を修正し、足裏がつく寸前に決断した。

 幼女はわざと側面から着地して、横ざまに飛ぶ。

 瞬間、耳には乾いた破裂音が擦過。

 どうやら、間一髪で躱せたらしいが──。

 

(これはッ……ベクティス殿の……!?)

 

 幼女の矮躯は無防備に落ちていく。

 受け身は取れないだろう。咄嗟の回避行動だった。裏を返せば、大した飛距離もないゆえに身体の負荷も相応のはずだ。肝要なのは立て直し。如何に隙をなくして三撃目に備えるべきか──と、先を読んでいる最中だった。背中の産毛が総毛立つ。えも言われぬ怖気に襲われ、ソルは反射的に腹部を護る。

 轟然とした一撃が、即席の両腕の盾に炸裂。

 ──耳奥で、硝子の破砕音が聞こえた。

 

「がぁッ……!」

 

 一瞬の空白を挟み、骨が苦鳴を上げる。

 身体に浮遊感を覚えたとき、すでに地面を転げていた。砂粒が肌を刮ぐ。だが、呻吟を堪えたまま胃液を押し戻し、空いた手で地面を思い切り叩きつけた。

 回転を殺さず、大きく飛び退って距離を稼ぐ。

 そして幼女は背を曲げたまま息を静める。

 ソルの双眸に燠火のような光が宿る。

 

(彼我の距離は、所定位置からは二倍ほど開いた。おそらく、本当の(・・・)攻撃範囲はこの辺りまでじゃろう。……最初は泳がされとったようじゃな)

 

 それより、文字通りに痛手を被った。

 警戒を怠ることなく腕の具合を確かめる。

 皮膚感覚が鈍い。患部は赤々と腫れ上がっていた。

 歯を噛み締めなければ垂れ下がる。内側には反響するような鈍痛。それは共鳴し合うたびに気力を削ぎ続ける。剣を握り締めることすら一苦労だ。

 頭部も裂けていたらしく、瞼に血が垂れてくる。

 どうやら額に巻かれた包帯も決壊したようだ。

 ソルは力なく垂れる左腕に擦りつけて拭う。

 

「……──」

 

 睨む視界の先では、澄まし顔の女が立っている。

 彼女は片手で楚々と髪を梳き、木剣を構え直す。

 その剣身には花緑青の燐光が群がっていた。そんな蛍火たちは水底に生まれた気泡のごとく、片端から蒼穹に昇ってゆく。女は、ふわりと空に吸い込まれる途中で天光の熱に溶けるそれらを一心に見つめ──。

 最後の一匹が消えれば、切なげに瞼を閉ざす。

 

(因果関係を考慮すれば、先ほどの二撃は木剣によるものに違いあるまい。じゃが、そうであれば……)

 

 ソルは右脚を退きながら、左拳を地面につける。

 まるで、獲物に襲いかかる寸前の獣のように。

 だが、頭では猛獣の隙を窺う人間のように。

 

 ──剣筋が全く見えなかった(・・・・・・)

 ──否、木剣の間合いですらなかった(・・・・・・・)はずだ。

 

「……それでこそ大英雄。上等なのじゃ」

 



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10 『背水の剣戟2』

 ナッドは模擬戦の趨勢に目を奪われていた。

 棒立ちのまま瞬きも忘れて、歯で情動を噛み潰す。

 帝国小隊の命運は暗夜を行く小舟のようだ。

 単なる航海ではない。嵐に襲われる最中のそれだ。

 一秒後には黒い海に飲み込まれるのではないか。気を揉みながら、操舵する代表者(ようじょ)の一挙手一投足を見守り続ける。瞳の乾きにも気が及ばない。身体が無意識に瞬きをしたとき、彼はようやく我に返った。

 息苦しさのあまり胸元を撫でる。どうやら自分は唾を飲み込むことにすら難儀していたらしい。喉元に凝固したそれを押し込み、こわごわと息を吐き出す。

 この場に満ちた緊張感だけで窒息寸前だった。

 ナッドは身体の強張りを解しつつ、現状を思う。

 ──帝国側は劣勢である。それも一方的に、だ。

 船首の先の暗闇に勝機という陸地は見出せない。

 彼は悲喜混じる想念を、手負いの幼女に馳せた。

 

(少尉……)

 

 ──討伐隊と帝国小隊の人垣で成した舞台。

 円心から離れた端に、白い矮躯があった。

 その前傾姿勢は不退転の決意の表れだろうか。

 澄んだ黄金色の双眸には闘志の灯が点じている。

 ナッドにはそれが眩く思えた。その瞳の輝きだけが帝国小隊の暗夜航路を照らす唯一の光なのだ。実際には蝋燭の火のように儚くとも、縋らねばならない希望だった。容赦のない現実から目を逸らすために、そこだけを見て、信じたかった。しかし、鎧われていない凄惨な姿によって脆くも打ち砕かれてしまう。

 開始から六分現在、幼女は傷だらけだった。

 

「ふ……はぁ」

 

 陶器めいた素肌には青痣と血液が目立つ。

 幸いなことに、骨折まで至ってはいない。だが、すり剥いた膝頭や上腕、脇腹からは包帯の繊維で濾された血が這う。その無残な有様から目を背けたくなる。

 特筆すべき患部は右手首だろう。度重なる殴打を浴びて腫れ上がっている。彼女がいまも剣を握れている事実が奇跡的にすら思えるほどだ。果たして触覚が生きているのか。神経が麻痺していないのか。

 傍観者の立場からは心情を汲み取るしかない。

 あの、理解の及ばない幼女の意思を──。

 

「ふっ……!」

 

 小さな吐息とともに矮躯が消えた。

 ナッドは視線の行き場を失くし、咄嗟に影を探す。

 だが、白髪の束が居場所を明らかにした。撓んで丸まった毛先が舞い上がり、反り返った瞬間から身体に追い縋っていく。うねるように颶風を泳ぐと、地面に漸近していく。海中に潜る鯨の尾ひれさながらだ。

 幼女は、地に限りなく身を預けて駆け抜けていた。

 傷口は多かれど、俊敏な身の熟しは健在である。

 そう安堵めいた感慨を抱いたのも束の間だった。

 

「少尉……またっ」

 

 舞台中央に直進するソルは手を伸ばす。

 前方にではなく、下方の地面を払うようにする。

 それで進路が左方に逸れた。なんと不可解な迂路だろう。横回転を帯び、肩甲骨付近で接地する。慣性のままに転がって右肩口で跳ね上がると──ひと挙動で体勢を立て直し、地面を両脚で滑っていく。

 時に跳ね、時に駆け、時に動作を止める。

 不規則な動きは単純に捉えどころがない。彼女は意図して律動的な動きを排していた。一見すると無軌道にも思えるそれが『黎明の導翳し』を惑乱させる手立てだったのだろう。丸みを帯びた軌跡は先を読ませずに、緩急のつけ方は妙技と言える円滑さだった。

 さりとて、それで突破できるほど甘くはない。

 

「ぐぬ……ぅ!?」

 

 唐突だった。幼女の右半身が後方に逸れる。

 肉を打つような音が空の彼方まで響く。

 苦悶の滲んだ声を残して大きく弾き飛ばされた。

 だが、浅い打撃だったのだろう。かろうじて踵から着地できていた。砂粒が撒き散らして余勢を削ぐと、間髪入れずに以前と違った道筋で仕掛け始める。

 そのとき、ナッドの隣から嘆息が零れた。

 

「……もう、見ていられないわ」

 

 息の主は、白けた表情のマジェーレだった。

 彼女は俯くと腕組みを解き、片手で目頭を押す。

 朝暮を問わずに倦怠感を漂わせていた少女は、それを掻き消すほどの苛立ちを張り出していた。

 

「マジェーレお前……どう思う」

「どうってなに。あの子の正気のこと?」

「違う。わざと言ってんだろ。勝つ機会のほうだ」

「あるわけないでしょう」

 

 ──模擬戦は幕開けから膠着状態が続いていた。

 構図は変わらない。幼女が果敢に攻め立てるも『黎明の導翳し』の不可視の防衛に弾かれる。すべてがこの繰り返しだった。見飽きた予定調和がくるくると空回り続けている。ただ厳密には、戦況に進展がないだけで膠着自体はしていない。着実に後退している。

 時を経るごとに幼女の生傷は増えていく。

 その呼吸は乱れて、動作は鈍っていく。

 マジェーレは「まあ」と正面から目線を逸らす。

 

「闇雲に動いていないのは素直にすごいことよ」

「……無茶苦茶に攻めてるわけじゃない、のか」

「全く違うわ。あの子は『黎明の導翳し』に弾き飛ばされるたびに流派を取り(・・・・・)替えているの(・・・・・・)。握り方から運動の起点となる部位、重心の位置に至るまでね。次の行動を見切られないためにでしょうけど、凄まじい小細工。……これだけの数をどこで覚えたのやら」

 

 呆れ混じりの言葉にはただ瞠目するばかりだ。

 確かに士官学校で暗記した流派もあった。

 とは言え、彼に判別できたのは披露された一割にも満たない。たとえば有名な構えや足運びとして、帝国の誇る剣術流派たる『以遠無想流ナナキ派』と『剣聖伝流=エンヴィロア』、かつて掟破りの流派とも呼ばれた『ジーク流』がわかる程度だ。基本的にナッドは国を跨いだ剣術や、傍流のものには明るくない。

 しかし、度肝を抜かれるには十分の事実だった。

 通常、流派は一戦闘中に変えるものではない。それは攻防形式を体系化したものだ。当然ながら定石や思考法の差異は細大ともに存在し、身体に染みつくほどでなければ咄嗟の判断を見誤ってしまう。

 それをソルは服を着替えるように取り替える。

 ともすれば、剣術のお披露目会と紙一重の曲芸だ。

 だが、相手を撹乱しつつ勝利を見据えるなら──。

 

「口が裂けても『理に適っている』なんて言えないけれどね。非効率的よ。あれだけの型を完璧に使い分ける労力があれば、もっと他にもできたでしょうに。絵面的に見れば地味、技術的に見れば派手。価値を示威するようでせず、勝利を追うにしても半端。やることなすこと、すべて噛み合っていない箱入り娘さんね」

「いや、それは少尉に対して言いすぎだろ……」

「逆にあなたが擁護しすぎなのよ。だって、いままで好き勝手してくれた『修羅』さんよ? それこそ『黎明の導翳し』さんとの戦いを楽しむためだけに、曲芸紛いのことをやっているのかもしれない」

「……まさか、そんな。怖いこと言うなよ」

 

 肩を抱き、足元に絡みつく寒気を蹴散らす。

 たとえ冗談でも笑えないことが何より恐ろしい。

 

「でも、目的には適っているわ。限りなく淵にあるとは思うけれどね。だからあの子の勝機が『あるわけない』と言ったのは撤回する。言葉が過ぎたわ」

「そっ……そうだよな。あるよな」

 

 ナッドの杞憂を保証するような言葉に安堵する。

 ただマジェーレは仏頂面のまま続けた。

 

「まあ、真正面から勝つのは無理よ。あの曲芸仕立ての手法はこの通り通用していないでしょう? でも、私たちには時間制限がある。あの子の並外れた頑丈さを信じれば、もしかしたら耐えきれるかもしれないわ。そうなれば模擬戦の勝利条件を達成できる」

「おい……だいぶ消極的じゃないかよ」

「一応、勝てるのならいいことでしょう?」

「……そうだけど。まだ諦めるには早いよな」

 

 ナッドは無理に口角を上げて、両拳を握った。

 暗澹たる辛気に沈まないために言い聞かせる。

 模擬戦は勝利条件さえ満たせればいい。勝ち筋がどうあれ命を繋げられる。もちろん、先を見据えるならば真に認められるだけの価値を示さねばならない。しかし『黎明の導翳し』を相手取って、時間切れまで耐えていれば十分に示したと言えるはずだろう。

 それでも、虚ろな不安感は影のように付き纏う。

 諦観の滲んだ声色が、少女の唇を割る。

 

「まあ、時間まで粘るのも無理かもだけれど」

「……やっぱり防具がないのは大きいか?」

「それもあるわ。でも問題点はあっちの副官さんのときと同じ。流派を矢継ぎ早に替えるなんて、体力を度外視しすぎている。あと数十秒は速度を保てるでしょうけれど、鍍金が剥がれるのも時間の問題よ……少尉はどうあっても遅滞戦術を取りたくないのね」

 

 少女の着眼点は幼女の呼気に移る。

 曰く「呼吸する一瞬、人は無防備になる」。

 息を吸い、吐く。その移り変わる刹那だけは、張り詰めていた筋肉が弛緩してしまうらしい。謂わば『呼吸の盲点』である。そこを突かれれば数瞬ほど反応が遅れてしまう。ゆえに呼吸を悟らせない技術、及び呼吸を読む技術が重要視されるのだという。

 手練れの剣士であれば隠す術に長けている。

 または呼吸を誤認させることで駆け引きする。

 

(けど、いまの少尉にはそれだけの余裕がない)

 

 ナッドの目から見ても明らかだった。

 血に塗れた幼女の表情は熾烈極まりない。

 黄金色の瞳は眼窩一杯に見開かれている。眦は表情筋に吊り絞られ、額から落涙跡のように垂れる紅色が相貌の凄味に拍車をかけていた。おそらくは相当な痛痒に苛まれているのだろう。そこには、これだけの距離を挟んでも圧倒されてしまう迫力があった。

 対する『黎明の導翳し』は綽然と佇んだままだ。

 二又の紫紺は風の悪戯めいた手指で乱れる。翩翻と揺れる髪は、触れるに能わぬ狼藉者を嘲笑うようでもあった。だが、その主の表情は嘲弄と対照的だ。

 手櫛で梳かれ、露わになった彼女の顔は──。

 

「──……」

 

 柳眉を八の字に傾げ、深青色の目を伏せていた。

 きっと、瞼裏に眠らせた情動の名は慈悲心だ。

 彼女はこの舞台に君臨する主役である。立ち位置たる『中央』が指し示す通りだ。そこに片鱗を覗かせる絶対者の余裕があればこそ、譲歩して模擬戦に臨めたのだろう。直前に交わしていた問答を思えば、果然として足掻く者に手向けるものは想像できる。

 上位者の傲慢に裏打ちされた、同情だ。

 

「現在、七分経過です」

 

 進行役を務める男が、無情な現実を告げた。

 折しも、局を結びかねない打撃音がする。

 ソルは呼吸の盲点たる一瞬に腹部を突かれ、中空に打ち上げられて──藻搔いていた。おそらく受け身を取るための姿勢制御を行っているのだろう。彼女は満身創痍でありながら、いまだ足掻いている。

 だが、墜落する途中で追撃が加えられた。

 矮躯は空中を二度、三度と跳ねる。球遊びの要領で行き交い、最後は放り捨てられるように吹き飛ばされた。受け身の状態すら取れず、地面と鋭角に右肩口が打ち据えられる。もはや呻きもせず、俯せに沈む。

 ナッドは足下が崩れていく幻聴に囚われた。

 脈拍音は頭蓋奥まで響き、舌根も干上がった。

 ──やはり少尉も帝国小隊も、終わりなのか?

 

(いやっ、まだ……まだわからねぇ。少尉には勝算があるはずだ。『黎明の導翳し』との問答じゃ馬鹿みたいなこと言ってたが、まさか勝てもしない勝負に乗ったとは思えないんだ。……けど、いや、やっぱり)

 

 ナッドは声にならない祈りを熱視線に込める。

 この模擬戦を予定調和に終えてはならないのだ。四大将の一人に挑んだ時点で皆が描いた青写真をなぞれど、価値が認められるはずないだろう。ゆえにこそ一心不乱に祈るしかない。その相手が神であれ、敵方であれ、聞き届けられることはないと知っていても。

 そのとき幼女が動き始めた。剣先を地に突き立て、縋るように這い上がる。幾度か崩れ落ちかけるも、彼女は確と二本足で立ち上がっていた。

 そこでナッドが覚えたものは一握の安堵。

 次の瞬間には数多の感情が混ざり、立ち尽くす。

 

(クソ……クソ、クソが……見て、られねぇよ。残り少ない時間制限で、どうしろってんだよ!? もう七分。いや、まだ(・・)七分……)

 

 手詰まり。客観的な見地ならば躊躇なく言える。

 言えてしまうことで閉塞感が弥増(いやま)しに感じられた。

 きっと『黎明の導翳し』は勝負を詰めにきた。

 それは彼女の慈悲心の発露なのだろう。容赦ない攻め立てとは裏腹に、端正な顔立ちを悲痛に歪ませている。もし常人の感性を持ち得ているのなら、一方的に嬲るような戦闘を続けたくないのかもしれない。

 だから──攻撃は苛烈さの一途を辿るだろう。

 そのとき脳裏に、あり得べからざる未来が過る。

 もしも、ソルの指名段階で撤回に動けていれば。

 もしも、頑是ない振る舞いを制せていれば。

 もしも、自らに相応の力と勇気があれば。

 現在(いま)になれなかった未来(もしも)が惜しまれてならない。

 もしも、もしも、もしも、もしも──いや。

 

(……こんなのは、侮辱だ)

 

 書いては消すを繰り返した絵空事。

 昨晩から続く、ないものねだりは無様だった。

 心の蓋を外せば、本音が隅で膝を抱えていた。

 

(わかってる。わかってんだ。こんな後悔……すること自体が烏滸がましいんだって。力がなくても、勇気を出して少尉を止めることならできたんだ。熱に浮かされて、足元を顧みずに進むだけなら、俺にだってできていた。思考停止は……得意だからな)

 

 ──結局、俺は一歩も動けちゃいない。

 成長したつもりで、斜に構えた嫌な奴のままだ。

 ジャラ村でのハキム戦がその実例だった。

 ナッドはあのとき、ただ衝動を胸に灯していた。

 無策を誇り、碌に考えもせず踏み出そうとした。マジェーレに掣肘されなければ、白昼に死骸を晒していただろう。ソルの勇姿に魅せられて「あれこそが自らの生き方だ」と思考停止して酔っていたのだ。

 現実という冷水を浴びたとき、ようやく解した。

 あの蛮勇は、逃げと同義だったのだ、と。

 

「……半端な奴、馬鹿かよ本当」

「突然どうしたの。あの子への毀誉褒貶が激しいけれど。でも、どうせなら信じてあげなさい。得にもならない不安を誤魔化すだけなら、盲信するのも一つの手よ。もっとも、自分の損が少ない限りはね」

「いや……少尉のことじゃねぇ。自己嫌悪だよ」

「そう。なら、自棄にはならないでね」

 

 少女は興味を失ったのか、模擬戦に向き直る。

 今更ながら以前の彼女の言霊が脳裏に蘇った。

 思えば、あの言葉の刃は見事に芯を捉えていた。

 ──無謀や無茶を押し通すのは『ドン底』のとき。

 ──まず冷静になるの。そうじゃないと。

 ──きっと後には悔いしか残らないわ。

 

(ハキムとの遭遇戦で……冷静な思考能力があればすぐに理解できたことなんだ。英雄を前にした場面で、力不足の奴がハナから突撃を選ぶなんて間違ってる。周囲を検分して、地形を鑑み、使える手札を吟味すれば、幾らでも手段はあったんだ)

 

 つまり少女が言うところの『ドン底』に非ず。

 まだ最適解を探せる段階であって、衝動に身を任せる時機はまだ先だったのだ。だが彼は、目先の危機にばかり囚われて、思考停止をした挙句に、他人の過去の成功例にあやかろうとした。それも成功例の背景を分析せずに表面だけをなぞって、誇らしげに。

 目前の事象を正しく直視して最善策を考える。

 それを放棄した臆病者こそが──ナッドだった。

 谷底に目を凝らしながらの綱渡りができない。

 背後に佇立する現実と向き合えていない。

 

(でも、それは俺だけの話じゃないはずだ……)

 

 これを共有できる相手には心当たりがあった。

 ナッドが目を遣ったのは、右方向に聳える巨体。

 そこを中心として寄り集まる帝国小隊だった。

 表情は一様に厳しい。彼らも崖際で縄に括られた同士である。幼女と少女の奔放な言動に振り回され、その身軽さを恨めしく思っていたはずだ。昨晩の座敷牢から議論に至るまで、極度の緊張と焦燥に当てられていた。溜まり続けた不満の袋は破裂寸前に違いない。

 事態は、線を越えるか否かの淵にあったのだ。

 遂に、模擬戦を黙然と見守っていた大男が動く。

 音もなくマジェーレの側に寄り、耳打ちした。

 

「……マジェ。オメェの目から見てどう思う」

「なに、あなたもナッドと同じこと訊くの?」

「違ぇよ馬鹿。泣き言なワケねぇだろが、オメェ。あちらさんの『不可視の攻撃』のことだ。マジェには実体が看破できてっかと思ってな。せめてアレを攻略できなけりゃ、この模擬戦じゃ負け扱いだろ」

「あなたが前向きな話? とても意外」

「混ぜっ返すな。……癪に障る奴だよオメェは」

 

 ゲラートは目を丸くする少女に青筋を立てた。

 だが、ナッドもその落ち着きぶりは意外だった。

 彼は以前から幼女と少女を痛罵していた。彼女たちの理解不能な言動には常識的な観点から気色ばむことで、小隊員が溜める慷慨の捌け口となっていた。ゆえに模擬戦でも、皆の受けた圧迫感を代弁すると思っていた──が、その激情は眉の動きにも表れない。

 彼から滲み出ているのは純な真剣味のみだ。

 

「なんで、そんな落ち着いて……」

 

 ふと、自分の口から素朴な疑問が零れた。

 大男からは鳶色の視線を煩わしげに向けられた。

 慌てたナッドは身を竦めて黙り込む。いまにして思えば、周囲の小隊員の挙措にも混乱はなかった。硬い表情には焦心が滲みこそすれ、暴発する様子はない。

 彼らはゲラートに代わって口々に答えていく。

 

「そりゃ仕方ねぇよ。表立って何もやれねぇんだ」

「いまは討伐隊に見極められる時間だ。見定められているのは、あの小さな童だけではないのだよ。認められた暁に帝国小隊が討伐隊に加わるのなら、帝国小隊全員だろう。内輪揉めをするべきではない」

「文句あんなら、前に横槍入れとけってなるしな」

「それによ、俺たちは何もナッドとマジェーレみたいに行儀よく応援してたワケじゃねぇのさ。武器が足りないなりにゃ打開策を考えてた。模擬戦に場の注意が向いてる隙を見て、逃げ出せねぇかってな」

「だが……あちらに睨まれてちゃ諦めるしかない」

 

 目顔で促された先は、舞台を隔てた対岸だ。

 そこには四大将副官が椅子に腰掛けている。枯木の枝めいた両手を杖にした剣の柄に重ねて、巌のごとく黙しているのだ。彼は顔を伏しながらも戦況を眺めているのだろう。ナッドがそう推測したのも束の間。老爺と視線が交わった瞬間、その誤りに気づいた。

 ただ模擬戦を見ていれば、目が合うはずがない。

 ──いまも自分たちは見張られていた。

 老爺の翳る面相、その眦の皺がわずかに深まる。

 

「っ……!?」

 

 ただそれだけの、十丈も隔てた視線の交わり。

 だが、それだけで脳天まで怖気が駆けのぼった。

 剥き身の殺意が首筋に当てられた。もしもいま下手な小細工を弄して、沙汰から逃げ出す算段を立てていれば──見抜かれた挙句に殺されていた。そんな確信を覚えるほどに、英雄の視線は鮮烈を極めていた。

 ナッドはジャラ村で一度だけ経験した。そのときと同様に小指一本動かせず、精神的にも蹂躙される。この圧力を受ければ、足掻く意志さえ(たちま)ちのうちに揮発し、自らが丸裸にされた心地になる。誰にも見せられないような、いまも心の奥底で葛藤する浅ましい感情のすべてを見透かされているのかと──錯覚する。

 強大な存在とは、存在しているだけで暴力なのだ。

 ゲラートは口許を歪めて、歯軋りを覗かす。

 

「……わかったか、オメェ。俺たちは掛け値なしに終いなんだよ。あのちびっこに模擬戦で価値を示してもらわにゃな。その唯一の突破口も俺たちが吠えたり泣き叫べば狭まっちまう。だから、大人しく戦闘のほうに集中して、せめて気を紛らせようってんだ」

「偉そうに語っておいて、結局は泣き言じゃない」

「マジェ、俺がここで喚き散らしていいのか?」

「ごめんなさい。内省的でいい話だったわ」

 

 ──逃げていたのは自分だけだった。

 そうしてナッドは大きな勘違いに気づく。

 彼らは現実に対し、誠実に向き合っていた。

 マジェーレは常に人知れず頭を絞っていた。古井戸の水面のように淀んだ黒瞳の奥では、損得勘定の物差しによって状況を見極めていた。その末に掴んだ最善策を通すため、如何な針の筵であれど横槍を入れた。

 帝国小隊は紙一重だった。幼女と少女に舵取りを任せきりで、ナッドと同様に絶望感と閉塞感の吹き溜まりになっていた。この明暗を分けたのは『死に抗う真剣味』だったのだろう。彼らは精一杯に向き合い、どこか抜け穴がないかと目を皿にしていた。

 そしてソルは、いまも最前線で身体を張っている。

 彼女の姿勢に教えられ、憧れた──不屈の心。

 ここで誤謬を正す。意味を履き違えていた。

 諦めないとはつまり、真摯に向き合うことなのだ。

 

(そうだ。あのときから俺はそうだった。マジェーレに策を預かったときの使命感も、向き合う役目を委託できて安心したから。座敷牢じゃ活路を探すことから目を逸らして腐っていた。……そして、打開策をこじ開けようとするマジェーレと線を引いちまった)

 

 それではまるで、以前のナッドと変わらない。

 だからこそ痛感する。凡人が心持ちひとつ改めたところで、容易く『自分』は変えられない。いつも薄氷の下には深淵なる過去が眠っている。いつか現実を耐え忍ぶために踏み締めたとき、足は遠からず氷を割って、己の過去が亀裂から顔を覗かせるのだ。

 そこで問われるのは人生を左右する二択である。

 以前の自分に滑落するか、現在の自分を貫くか。

 古いものは馴染みがあっていい。既知の価値観ゆえに自らを律さずとも、身体が動くままに任せればいい。たとえ新鮮味を引き換えにしたとして、生きやすい快適な価値観とは何物にも代えがたい。

 新しいものは遠くにあって眩しい。未知の価値観ゆえに憧れに沿った、誇りの持てる自分を造り上げられる。たとえ安心感を引き換えにしたとして、生きてみたい綺麗な価値観とは何物にも代えがたい。

 だからナッドは選ぶ。ここで意思を決する。

 ──今度は正しい意味で諦めないように(・・・・・・・)

 ──向き合ってみることに、した。

 

「現在、八分経過です」

 

 時刻を知らせる声が、意識を現実に立ち戻らせる。

 ナッドは釣られて人垣の円心に視線を飛ばす。

 『黎明の導翳し』が戦闘開始以来の言葉を紡ぐ。

 

「もう──無意味、です。やめません、か」

「や、やめる……? まさか、なのじゃ」

 

 対する幼女は、毅然と降伏勧告を突き返す。

 だが声は低く掠れていた。息遣いは引き摺るように絶え絶えで、聞き手すら息苦しくさせる。体力の磨耗が臨界点に達しているのだろう。それでも彼女の手は上下する胸を押さえず、剣の柄を握っていた。黄金色の双眸に宿る闘志は依然として燃え滾っている。

 彼女は背を曲げて『黎明の導翳し』を望む。

 その姿は屍兵さながらだ。自らの身体に頓着せず、一心不乱に我が道を突き進む。マジェーレの言う「並み外れた頑丈さ」を悍しいほどに実感できる。

 ナッドもその敢闘ぶりには怖気すら覚えた。

 だが、それは頼もしさの裏返しである。

 

「……凄まじいわね」

「でも、少尉が『不可視の攻撃』の実体を突き止められないと駄目だ。精神力が尽きるまで嬲られる。流石に……制限時間の最後まで受け続けるのは無理だ」

「そりゃ間違いねぇ。向こうもそれは許さねぇだろ」

 

 ゲラートが顎で示したのは討伐隊たちだ。

 その仕草で確信を得て、ナッドは喉を鳴らした。

 事ここに至れば、いままで不安の影を落とし続けてきた事態を確定してもいいだろう。いまだに幼女が骨折まで至っていない理由は、頑丈の一言で説明がつくことではない。絶妙に手心が加えられている。

 当然、討伐隊の面々が容認する範囲内で、だ。

 でなければ、とうにハキムに止められている。

 ──この裁量が見逃されている理由は。

 

「そらオメェ、模擬戦の意義に沿ってるからな。奴らはあの少尉サマの価値を見極めてぇんだ。できるだけ長く観察するんなら……そりゃ、ある程度は手加減しなきゃお話にもならねぇってことだろ」

「生かさず殺さず、どれだけできるかってことね」

「そーそー。君たちにもそれは言えるケド」

 

 背後から突然、同意の声が添えられる。

 慌てて振り返れば、予想外の二人が立っていた。

 一人は、小さく片手を振るローブ姿の少女だ。

 頭巾の縁からは小さな紅玉一揃いが輝く。その虹彩が妖しい色合いを醸す所以は、薄汚れた格好や時機に反した、底抜けの明るさによる不協和音だろう。

 その隣では腕組みした青年が仁王立ちしている。

 紅蓮の髪が微風で棚引く。横髪の尾が嫋やかに隠そうとするのは碧色の双眼である。強固な意志を秘めた瞳に曇りはなく、鏡のように帝国小隊の困惑顔を映していた。これを二つ収めた表情の屈託のなさには、危うく疑心や毒気を抜かれてしまいかける。

 マジェーレは胡散臭そうに手でひらひら扇いだ。

 

「……デュナム公国の代表者がお揃いで何事?」

「えっとねー。君たちが楽しそうな話してるのが聞こえてねー、それでハキムのお爺ちゃんに『ちょっと見てこいやー』って言われたから来たよっ! だから」

「うむ。オレたちには構わず、話を続けてくれ!」

「構わず……つってもな。どうするオメェら」

「どうするも何も、なあ」

 

 ──そのとき、背中で這い回る視線に気づく。

 ナッドは寒気にも似た感覚に身を震わせた。

 身体が硬直しながらも横目を向けば、知れる。

 帝国小隊全員が、討伐隊による品定めの視線に晒されていたのだと。不躾な意識の束の先端で舐られる不快感に、各々が頬を痙攣(ひきつ)らせて、あるいは眉間を狭めて、言外せずに意地で耐えていたのである。

 価値を見極められる対象は小隊長だけに非ず。

 その言葉の意味がナッドにものしかかってくる。

 

(たぶん……この二人の目的は監視か、立会人みたいなモンなんだろう。どれだけ俺たちが使えるか。どれだけ考える頭があるか。こいつらに俺たちの話を聞かせて判断するつもりかもしれない。ハキム・ムンダノーヴォ直々に差し向けられているようだし)

 

 ──何にせよ考えすぎってことはないはずだ。

 最初に二の句を継いだのはマジェーレ・ルギティ。

 澄ました調子をすぐ取り戻し、黒髪を弄る。

 

「いいんじゃない? 気にしないでってことなら、気兼ねなく行きましょう。別に疚しい話をしていたわけではないのだし。ねぇ私たちは『不可視の攻撃』に対する考えを話し合うのだけれど、問題ない?」

「うんうんっ、むしろドンドンやってほしいな! イルルたちは君たちの話に興味津々なんだから! 頑張ってだまーって聞いてるからね、ほら」

「露骨すぎる誘導だなオメェ……」

「いやいやー、そんなことないんだー」

 

 両手を合わせ、鷹揚に頷いたあとに口を噤む。

 帝国小隊一同は視界の端にそれを収めると、互いに目配せを送り合う。彼らもまたナッド同様にデュナム公国二人の目的を察しているようだ。相手方も不必要に隠し立てするつもりもないのだろう。少女の白々しい言動を庇うでもなく、誰もが口を閉ざしている。

 ならば、とナッドたちは誰にともなく頷き合った。

 ──見定めたいなら、好きに見定めればいい。

 

(俺たちの出番が回ってきたんだ。俺たちにもできることが。本当の熱の使い所が。なら……集中だ。ここでやれなきゃ少尉に顔向けできねぇ。少尉はあんなになってもまだ諦めてねぇんだ)

 

 ナッドは一人、静かに拳で胸板を叩いた。

 そして深呼吸する。自らの散漫な集中を一点に掻き集めていく。さながら手で地面を擦って砂を集めていくように。不慣れゆえ幾許か取り残される砂粒を、丹念に浚っていく。自分の精一杯を形作っていく。

 幕開けの音頭を取ったのは当然、帝国小隊副長だ。

 解れた黒髪を手で遊ばせながら、咳払いした。

 

「……あの正体について考えましょう。そもそも『黎明の導翳し』の戦闘法は特徴的。観察していれば当て嵌まる技を特定できるはずよ。もちろん、あちらが文言を違えず、公平に臨んでいるなら、ね」

「前提条件が飲めねぇと論にならねぇぞオメェ」

「なら、そういう仮定で進めましょう。でもまあ」

 

 ──結論を言えば、正体は木剣による斬撃ね。

 まず前提として彼女は規則に縛られている。小道具や魔導具、直接の魔力使用を禁じられて、唯一の得物は木剣のみだ。消去法で答えはひとつである。だが間合いは明らかに剣身の範疇に留まっていない。

 ナッドは目を眇め、目測で二人の距離を割り出す。

 約三丈。これが無限遠にも思える道程だった。

 密やかに考え込んでいる間、小隊内で話が進む。

 

「じゃあオメェ、その斬撃はどう飛ばしてんだよ」

「斬撃を飛ばすってことなら一つあるよな。『六翼』の席次一位のグリーシュ大将。かの御方が師範代を務めていた流派にそんな奥義があったって話」

「そりゃ帝国の流派じゃねぇか。違ぇんじゃねえの」

「あるいは、凄まじい剣圧で吹き飛ばしてるとか」

「んなワケあるか。少尉の傷を見りゃわかるだろ」

「今回に関して言えば、魔力によるものよ」

 

 そこで機を逸さず、少女が冷静に分け入った。

 漆めいた黒瞳には紫紺の大英雄を映している。

 

「朝日のせいで視認は難しいけれど、木剣にかすかな光──魔力光を確認したわ。おそらく剣身に魔力を通して、それ自体を伸長するように『不可視の刃』を伸ばしている。厳密には違うのでしょうけど、既存のもので言えば、魔力結晶化に近い技術でしょうね」

「その意見には賛成だ。光、俺にも見えた」

「……へえ、あなたも?」

 

 ナッドは顎に手を当てながら頷いた。

 目線の先で『黎明の導翳し』は木剣を軽く振るう。

 傍目に見れば、奇妙の一言に尽きた。だがその蝿を払うような素振りと同時に、三丈先の矮躯が吹き飛ぶのだ。ここからまず挙動と衝撃の同期性が窺える。

 だがここで満足せず、目を凝らし続ける。

 すると──彼女の剣身は確かに色づいていた。

 それは、ぼけた薄膜にも似た花緑青の燐光。

 

(確かに、あれは魔力光で合ってるはずだ)

 

 士官学校で学んだ知識を引っぱり出す。

 魔力光。それは魔力が作用した一瞬、物質から漏れたそれが光に変わる現象。原理の共通したものを言えば『魔導具に魔力を流し込んだ際に聖文字が発光する現象』が挙げられるだろう。魔導具とは『何らかの魔術を為す回路を刻んで、魔力を流せばそれが作動する物品』だ。聖文字とは魔術回路を為す言語である。

 それが魔力を注がれた端から発光するのだ。

 マジェーレは目をあちらこちらに彷徨かせる。

 

「広範囲斬撃とその不可視性。この二つは木剣に流し込んだ魔力の作用なのでしょうね。なにせ『黎明の導翳し』の持つ属性は例外中の例外。そういう特性があっても不思議じゃない。そうよね、ナッド?」

「まあ『魔力の影響』ってことは間違いないはずだ」

「……俺の目じゃ見えねぇけど、ホントかオメェら」

 

 少女は、ゲラートの訝しげな態度に肩を落とす。

 

「気にすることないわ。節穴の目には風の通り道以外の使いどころがないものね。仕方がないのよ」

「オメェ……そういうトコはもう尊敬モンだわな」

「ありがとう。で、デュナムのお二方はどうなの?」

「すごいって思うよ! 大正解だもんっ」

 

 イルルは両手の指でそれぞれ丸をつくる。

 その屈託のない笑みに、ナッドは胸を撫で下ろす。

 一方、隣のホロンヘッジは緩く首肯すると。

 

「ああ、そういうことだったのか……ッ!」

「いやオメェは何も知らなかったのかよ」

「ホロンくんにはそういうの大丈夫だからね」

「うむっ! オレの仕事は堂々としていることだ!」

「……そんなに胸を張ることかしら?」

「つーか、大丈夫って何が……?」

 

 ──斯くして『不可視の攻撃』の種は明かされた。

 だが、ナッドは血を吐くように本音を零す。

 

「……だからどうしたって話なんだよな、クソッ」

 

 目前では、満身創痍の矮躯が息を切らしている。

 いま立っているのは『境目』の上だった。

 その線引きとはつまり、幼女が手を替え品を替え挑むも、いまだに立ち入れない『不可視の斬撃』の間合いである。彼女自身の奮闘が実を結んで明確化された不可侵領域。手痛い歓迎を受けてしまう境界線だ。

 しかし、ソルは気負う様子もなく踏み入った。

 そこに躊躇いは窺えないが、足取りは頼りない。

 もはや剣術の型にも沿っていない。正気を削り取られた果てに血迷ったのか。敵方の土俵に上がった自覚がないのか。そう受け取りかねない暴挙だった。

 当然、目では見えない斬撃に襲われる。

 

「がッ──ぁ」

 

 軋み。その呻きは人体の軋みだったに違いない。

 ソルが右腕を咄嗟に動かした瞬間、宙に浮く。

 きっと胸部付近を突かれたのだろう。刺突の衝撃が背後まで突き抜けていく。その場に一丈の距離が生まれると、余剰威力が波状に伝播して錐揉み状に吹き飛んでいくも、かろうじて両脚で着地に成功する。

 だが、すでに彼女は上体も起こせないようだった。

 頼りない小さな背が浅い上下を繰り返している。

 それでも気絶に至っていないだけ奇跡的だ。どうやら先の剣撃は直撃しておらず、剣先が掠っていただけのようだ。さしもの『修羅』と言えども死屍同然である。もろに受けてれば地面に果てていただろう。

 ──何にせよ、あと一撃でも喰らえば幕切れだ。

 そんな確信めいた想像の影に思考が覆われる。

 ナッドは唇を噛んで、拳を握った。

 

(俺たちはまだ、問題の本質に辿り着いてないのに)

 

 済ませたのは大前提たる『現状の解明』までだ。

 ナッドは歯を鳴らして、苦虫を噛み潰す。

 

「……肝心要はあの斬撃への対処法だ」

「オメェ、そりゃ簡単じゃねぇぞ。つまり『透明で、しかも全長がわからねぇ剣撃を避ける方法』を探さにゃならんワケだからなぁ。それも真正面から倒すんだとしたら、残りわずかな制限時間中に」

「……ちょっと、時間的に無理がある、か?」

「いや、もう……厳しいだろ」

 

 その、誰かの正直な呟きがすべてだった。

 この場の誰もが拭いきれなかった不安の代弁。

 ゆえに抗弁が見当たらず、言葉を失った一瞬。

 ナッドは思考放棄しかける思考に喝を入れた。

 

(諦めねぇぞ俺はッ……変わるんだろ、今度こそ!)

 

 途端に心底から熱が噴き出した。

 勢いあまって、つい口を突いて飛び出してしまう。

 ──まだだ、と。

 

「……まだ終わってない。そうだよな」

「ええ。方法がどこかに必ずあるはずよ」

「まぁ……乗りかかった船だ。最後まで考えるぁ」

「それお前もずっと乗ってた船だけどな、ゲラート」

「しかも現在進行形で沈んでいってるがな」

「うるせぇぞオメェら! さっさと考えやがれ!」

 

 ──俺の声をきっかけに停滞が動き出した。

 だがナッドは湧き上がった感慨に蓋をする。

 噴き上げた熱も一緒に自分の殻に閉じ込め、背を向けた。いまは目前の現実と真摯に向き合うときだ。冷静に『不可視の斬撃』の突破口を見出す。だが、漠然と考えていても思考が上滑りするだけだ。

 ゆえに物事の見方を単純化してみることにした。

 紫紺の大英雄に目を凝らし、細分化して捉える。

 つまり『透明かつ長大な剣を振り回す剣士』として見ずに、まずは彼女の『魔力を結晶化させ、剣身を伸ばす剣士』という側面だけを見るのだ。この場合、厄介なのは間合いの広さや長さ、ではない。

 その真髄は、魔力で剣身が変幻自在という点だ。

 これが剣身の透明化と噛み合ってしまう。

 

(……そうか。もしかして少尉が型を次から次に取り替えてた理由は、透明な剣身の間合いを探るためだったのか? 色んな角度から攻めることで割り出そうとして……それで失敗した。それは『黎明の導翳し』が常に一定の間合いにはしなかったからじゃ)

 

 直感的な閃きを得て、その理不尽さに臍を噛む。

 ナッドは自分の導いた結論を口にする。

 

「……たぶん『黎明の導翳し』の最も厄介なところは、間合い以上に剣身が視認できないことにある。透明だから、形状をどう変えられてもわからない」

「そう……そうね。私もその見解で間違いないと思うわ。なら攻略法は明快よね。剣身が見えるようになればいい。それも一度だけじゃなく逐次、または恒常的に。いつ間合いを変化しても対応できるようにね」

「確かにっ! でも……それ、どうしよっか」

 

 言を継いだ少女に頷いたのは、敵方の少女だった。

 その鷹揚ぶりを無視してゲラートが手を打つ。

 

「オメェ、斬撃が通ってるってこた、伸張した剣身は見えないながら実体があるってことだろ。それだったら方法は幾つもあるぜ。なぁオメェらよ」

「すっげぇ無茶振り。俺は特に思いつかないぞ」

「あれは? ほら、地面を使うのとかさ。砂煙でも起こして、砂でも付けられりゃいいんじゃないか」

「こっちは魔術ありなんだよな。なら土属性の魔術でもそういうことできるしな、炎属性の魔術なら火を起こして煙を出せる。色々とやりようはあるな」

「通り雨でも来れば雨粒で実体がわかるであろう」

「こんな森奥なら霧も出るかもしれねぇよな」

 

 帝国小隊内では次々と意見が飛び交った。

 しかし、マジェーレが纏めて鼻で笑い飛ばす。

 

「……どれもこれも浅知恵の域を出ないわね」

 

 ──ほとんど、この場この時間では使えないわ。

 マジェーレは無表情のまま、直上の空を指差す。

 そこは雨雲の影どころか白雲ひとつない青空だ。

 辺りを見回せど、霧がかる気配も見受けられない。

 地面に視線を落とすと落胆が募った。砂煙を起こすには適さない地質だと一目でわかった。地面が硬すぎる。大きめの砂粒が表面を薄く覆っており、乾燥した微細な土砂──柔らかい土砂は見当たらない。空気中に漂わせて、付着を狙うには不向きだと言える。

 あとは、ソルの魔術属性に期待する他ない。

 土属性か炎属性の適性があれば切り抜けられる。

 確かにこれらの魔術が初級程度にでも扱えれば、土埃や煙を起こせるだろう。だが魔術とは学問の一種である。ナッドのように学舎で机を並べないのなら、誰か心得のある者に手解きを受けなければ扱えない。

 ソルは箱入り娘として村で育ったという話だ。

 

(……英才教育として受けさせていた、とかじゃない限り、それはないだろうな。そもそも俺は少尉がマナを使用した場面を見たことがない。入院期間だけとは言え、数ヶ月は一緒にいて一度もない。だから)

 

 ナッドは導き出した結論に下唇を噛み、俯く。

 結局、この焦燥感が解消されることはなかった。

 ──盤面は一方的なまま終局に向かう。

 

「もう、降参と……認めてくださ、い」

 

 舞台には「現在、九分経過です」の声が響く。

 幕切れまでは残りわずか。もはや価値を魅せる刻限は尽き果てる寸前である。だが依然として、戦況の天秤は限りなく討伐隊側に傾いていた。主役(シャイラ)は悠然と君臨し、這い蹲る端役(ソル)は呼吸を静めることに躍起だ。

 開始当初から代わり映えのない構図である。

 『黎明の導翳し』の整った美貌がかすかに歪む。

 きつめに唇を引き結び、切なげに。

 

「もう、とっくに──限界のはず、です」

「……ま、だ。じゃ」

 

 幼女は血反吐を漏らして、途切れ途切れに言う。

 赤々と染まった相貌に片手を当てながら──。

 緩慢に、緩慢に、膝を持ち上げて──。

 踵を地面に静かにつけると──。

 右手で剣を引っかけ──。

 

「勝た、ねば……未来が、ないのならば」

 

 ──まだ、膝を折る、わけには……いかん。

 血染めの髪を揺らして『修羅』は立ち上がった。

 その様には、彼女側の小隊員でも表情が引き攣る。

 

(は、はは。これは、あれだ。手心がどうとかいう枠の話じゃない。あれだけの斬撃に打たれて、倒れない理由なんか最初から決まりきってた、よな)

 

 確かにあれは木剣。決して真剣の刃に非ず。

 加えて、絶妙な手心も乗せられた斬撃だ。されどその使い手は大英雄である。常人ならば一撃で気力ごと刮ぎ落とされたはずだ。ナッドが自分自身をソルに置き換えてみても、三撃目を浴びる頃には「口端に泡ぶくを漏らして気を失っていた」と確信すら持てる。

 ここに至ってはむしろ気絶こそが唯一の救いだ。

 まず痛覚が定量を越えれば身体の制御ができない。

 擦過傷や打撲痕は、時を経るほどに気力と体力を削り取っていく。そして熾烈な攻勢に晒されれば『立ってしまえば、また斬撃の標的にされる』という本能的な恐怖が影のように付き纏い始める。これは確固とした道筋のない暗中模索であるほどに色濃くなる。

 制限時間はすでに焦燥感を覚える要因にすぎない。

 

(何か隠し球があれば、こうもボロボロになる前に使っていたはずだ。手傷を負っていいことはない。少尉が出し惜しみするとは思えない……なら、いままで少尉も打つ手なしのまま耐え続けていたことになる)

 

 幼女はあの黄金の瞳に何を映しているのだろう。

 立ち塞がる絶望を女形に象った大英雄だろうか。立ち並ぶ討伐隊の厳しい面構えだろうか。あるいは帝国小隊の真摯に模擬戦と向き合う姿だろうか。少なくとも、気力の源になるような突破口はないはずだ。

 ゆえにナッドは驚嘆を越えた戦慄に身を震わせる。

 彼女が立つ主力燃料は己が精神力に他ならない。そこには、狂気じみた、と言い添えねば語り得ない執念がある。客観的な観点に立てば疑いようもない。まさしく不撓不屈。正気の沙汰とは思えない魂だ。

 しかし、現実には根性論だけで抗えない。

 

「……降参と、言ってくだ、さい」

「こ、とわ──る」

「なら……仕方、ありませ、ん」

 

 閑寂を湛えた大英雄は、そう小さく呟いた。

 ついぞ憐憫一色に染まった眼差しを瞼で覆う。最後まで捨て去れなかった情理を切り離すように。そして慈悲を跳ね除けた愚者を見放すとでも言いたげに。

 白い右手が鎌首をもたげるように動いた。

 横薙ぎ一閃。木製の剣身が空を切る。そこから伸びた剣身は今度こそ幼女を沈めるだろう。ナッドは駆けつけたい衝動を必死に押し留めて、喰い入るように凝視する。定められた命運の行く末を見つめた。

 ──斯くして模擬戦には幕が引かれる。

 ──帝国小隊の道が断たれる結末のまま。

 

「これで、終わりかッ……!」

「いや、ここで見切るのは早計のようだぞ」

 

 頭を抱え、歯を食い縛った帝国小隊。

 その渦中で一人、青年が平然と首を振った。

 紅蓮の髪がしなる。さながら稲穂が風紋を刻むように揺れていた。それは焦慮や虚勢とは縁遠い挙措である。本心を一切の衒いもなく言葉にしたからこそ、純粋な想念の乗った声色は殊更よく響いたのだろう。

 その男──ホロンヘッジは大胆不敵に微笑んだ。

 彼は、形のいい顎を片手で軽く掴んで。

 

「あの少尉。オレには何かを掴んだように見える」

 

 

 

 1

 

 

 

『でぇ……『黎明』のことが訊きてぇって?』

『単刀直入に言えば、そうじゃ』

 

 それは、数年前の出来事だった。

 ソルフォート・エヌマが傭兵家業の合間に訪れた酒場には、ひどく泥酔している男がいた。最初は気にも留めなかった。知己の間柄でもなし、見るからに風采のあがらない酒客を気にかけるわけがない。

 その泥酔した男は、赤ら顔を卓上に伏して、一本しか残っていない腕で酒を呷るばかり。口休め程度、酒場の主人相手に愚痴を吐いていた。ソルフォートがそこを通りがかるとき、ひとつの単語が耳朶を打った。

 それがビエニスの『黎明』の名だった。

 一気に興味を惹かれた彼は、つい尋ねてしまった。

 

『先ほど『黎明の導翳し』と聞こえてのう』

『……盗み聞きたぁ、趣味の悪い爺さんだ』

『すまぬ。興味深い話でな。訊いてよいか?』

『図々しい……が、まぁ構わねぇさ。誰かに話したい気分じゃなきゃ、こんなトコで無愛想な店主を相手にしてねぇってぇことよ……か、か』

 

 ──とりあえず、まず言いてぇのはな。

 ──悪ぃこと言わねぇからやめとけってことだ。

 ──あれに関わってもロクな末路にゃならねぇ。

 その呟きには、苦味に満ちた響きがあった。

 琥珀色の液体を喉に流し込んだ後、語り始める。

 彼はどうやら帝国側に雇われた傭兵の一人らしい。

 この酒場には戦帰りの道中に立ち寄ったようだ。先の戦場で『黎明の導翳し』と対面し、彼の所属部隊は壊滅。だが、彼だけ拠点まで逃げ戻れたらしい。その際に利き腕を失ったことで戦力外通告を受けたものの、命があっただけでも大した幸運だと言える。

 しかし、精神状態に深い爪痕が残ったという。

 寝ても覚めても、瞼裏にあの惨劇が蘇るのだ。

 一陣の風とともに部隊が壊滅した記憶が──。

 

『なあ、爺さん。人が肉塊になる瞬間を見たことあるか? 剣刃の針鼠になった旧友は? いつの間にか腕に得体の知れねぇ刺傷があった経験は? 思い出すだけで震えが止まらなくなる経験は? 俺ぁさ、目ぇ閉じるたびに瞼裏にさあ、あんときの赤が、あんときの光が、ずっとこびりついて離れねぇんだよぉ』

 

 男は、両目を見開きつつ呟く。

 唇をひくつかせ、片手で右目を覆う。五本の指を眼窩に突き立て、さも目玉を抉るような仕草だった。彼は焦点の合わない瞳のままに、卓上でこめかみを擦りつける。そして抑揚のない声音で話を再開した。

 彼の語る『黎明の導翳し』はまさしく怪物。

 曰く「剣鬼ならぬ、剣怪(けんかい)と呼ぶべき女」。曰く「血煙の向こう側に立つ羅刹」。曰く「同じ地に足をつけた。その事実だけで敗着の理由に足りる」。曰く「努力の英雄と言うには語弊のある理不尽」。曰く「ああ……確かに名の通り太陽を翳す(・・)女だよ。信じてた綺麗事をブッ潰す怪物さ」。曰く「現四大将のなかで最も残忍かつ慈悲のない英雄」等々。

 男は酒器の水面を見つめて、独りごちるように。

 

『あれが剣に纏わる英雄ってのは知ってはいたんだ。けど、違ぇんだよ。全然違ぇのさ。帝都で『剣聖』の戦闘は見たことあった。けど別物だァありゃ。だって、ありゃ剣技の粋を集めた剣豪って奴じゃねぇ。きっと剣士ってモンからすら離れてんだよ。ただ武器が剣なだけなんだよ、あの怪物は……か、か。武芸百般を見渡して、あれをそれに当て嵌めること自体が、武芸自体に対する冒涜なんじゃねぇかって思うぜ』

 

 男は訥々と喋り終えると酒器に手を伸ばした。

 それを口元に運び、とくりとくりと喉を鳴らす。

 ソルフォートは見た。器を摘んだ手が小刻みに震えているのを。あれは彼自身が酒食に溺れることで、夜毎に悪夢の姿として現れるという『黎明の導翳し』から逃れようとした痕跡だろうか。それとも極単純に畏怖の証明だろうか。いずれにせよ彼女絡みだろう。

 すべてを聞き届けた老爺は最後に頷いた。

 

『なるほど、のう。そこまでの御方か』

 

 ──いつか手合わせ願いたいものじゃ。

 老爺の口からは無神経とも言える一言が漏れる。

 その言葉を受け、男は一瞬すべての動きを止めた。

 一拍遅れて、ぱくぱくと口を数度だけ開閉させる。

 その後にようやく、絞り出すような声を出す。

 

『……死に場所なら他で見つけろぉな、爺さん』

『生憎、死に急ぐつもりはない』

『か、かか……勝つ手立てでもあるってのかい。俺ぁ見たのは、あの怪物のほんの一端だった。でもさぁ、それだけでも、対処法を確立すんのは難しいって爺さんも思った……だろ? たとえば、あ、あいつらが肉塊になった──見えない剣とか、どうする気だ』

『一度でも通用すれば幸運、程度のものじゃが』

 

 老爺はひとつ、自らの思いつきを語った。

 

『たとえば。見えざる剣が振るわれるならば──』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──そうして、現在に立ち戻る。

 ──解き放たれた不可視の一閃に対して。

 

(……こう、じゃな)

 

 幼女は、確信をもって左に避けた(・・・・・)

 決して俊敏とは言えない動きだ。立ち眩みでふらついたようにも見えただろう。だが事実として剣撃を回避できていた。一瞬で駆け抜けた熱が右肘に擦過し、白磁の肌を切り裂くも──いまだ幼女は健在だった。

 身体を揺らし、短い歩幅で一歩の距離を詰める。

 

「よ、し……」

 

 大英雄の間合い、その線を越えたのだ。

 しかし、誰もこの偉業を気に留めた様子はない。

 それは相対する『黎明の導翳し』も同様だった。

 この状況自体はさほど珍しいことではない。前例は模擬戦中にも三度ほどあった。両者の意図せぬ外的要因により、結果として不可視の剣筋から外れたにすぎない。皆はそう解釈しているがゆえに動じないのだ。

 世間一般的に、幸運とはいずれ尽きるものだ。

 だが、それが幸運以外の要素を孕んでいれば──。

 

(……あちらこちらに負傷が響いておるがのう。まだ身体は動く。まだ意識を保てとる。まだ時間も、残っているようじゃ。これなら上々の首尾と言えよう)

 

 外野の静寂に合わせ、心身を研ぎ澄ます。

 シャイラの戦闘法は以前に聞いていた通りだ。

 ソルには最初から種が割れていた。酒場で男から得ていた情報と、模擬戦で遵守せねばらない文言とを照らし合わせれば、彼女が『不可視の広範囲斬撃』で迎え撃つと推察できる。もっとも、その情報は数年を経た過去のものだ。彼女が似て非なる現象を起こす剣技を身につけている可能性も捨てきれなかった。

 ゆえに幼女は惜しみなく身体と時間を行使した。持てるだけの剣術を費やし、嵌め絵遊びの要領で可能性を潰していった。それぞれの型に対する処理法を組み合わせて、ひとつの答えに収束させる。

 苦心惨憺の末、確証を得たのが──三分前。

 模擬戦の肝を真に理解したのも──三分前。

 

(……道程の険しさは、想像を遥かに超しておった)

 

 意識が朦朧とする。身体から五感が遠のいていく。

 視界は水彩。瞳に映るすべての色が滲み、輪郭から溢れてしまうような錯覚を覚える。鼓膜が捉えられる音は少ない。届いたはずのそれが無意味な喧騒として素通りし、気づけば風景に自分一人だけが取り残されたような感覚に陥る。鼻孔の粘膜は乾き、嗅覚は出入りする空気に蹂躙され、摩滅してしまった。とうに味覚のほうも麻痺している。血液が口腔に絶えず噴き上げ、溜まることで鉄錆の味が張りついてしまった。

 もはや触覚は石壁を一枚隔てたように遠い。

 右手や足裏の感覚もどこか他人事のようだった。

 ソルは、それら五感を辛うじて気力で繋ぎとめる。

 

(じゃが実感が、ない。まだ見える。まだ聞こえる。まだ匂える。まだ味わえる。まだ触れられる──しかし、気力の一切を抜くことは許されんッ! 一瞬の気の綻びで、これまでの蓄積が水泡に帰す……!)

 

 『不可視の斬撃』とは鋭利さを持たない。

 ゆえに負傷が素肌に表出しにくい。その代わりに皮膚や肉を通して臓腑を痛めつける。身体内部ではあらゆる痛覚が共鳴し、反響し、数十匹の百足の匍匐めいた痛痒が内外問わずに這い回る。それらは激痛の波浪と化して脳内まで辿り着くと、押しては返し、思考回路の岩場を削り取っていく。だが抗わねばならない。

 考えねば戦えない。考えねば為す術がない。

 考えねば──きっと立ち上がれない。

 

(彼我の直線距離は……十秒ほどか)

 

 ──否、剣を届かせるだけなら八秒時点でいい。

 ソルは蹌踉とした足取りで距離を埋めていく。

 その最中、短い思考を継ぎ剥ぐ。向かい風に目を見開きながら剣撃を潜り抜けていく。時として転進は蛇行めいて、また時として身を漂わせる。身振りは最小限。移動はすべて重心移動を起点に行う。剣速に身体を追いつかせるには無駄を排する必要があった。

 これは、自らの向学心によって編み出した回避術。

 蛇のように泥むまま、見出せた副産物だった。

 安い買い物、破格の取り引きじゃ──と笑う。

 諦めなければ、諦めないだけ試行回数を増やせる。

 

(そう、駑鈍なるは我が身。何事も生身でぶつかり知る他なかったのじゃ。その結果が窮余の一策にすぎんとは言え、突き詰めて正解に辿り着く方法論というのは、わしの肌に合っておるな)

 

 シャイラの右腕に必殺の威力が込められ、動く。

 否、そうではない。増える(・・・)と形容すべきだろうか。

 視線の先で、白い細腕を二重に幻視した。彼女が木剣を左方向から払うように振るっている──が、同時に右方向から流すように袈裟斬りしてもいる。これが残像だと気づけど、同時多発的な斬撃による挟み撃ちは凶悪極まりない。天運任せでの回避はできない。

 迫る剣身は、景観と同化して目で捉えられず──。

 

「……っ、また……?」

 

 薄らぐ視界の奥で、大英雄は目を瞬かせた。

 いや、訝しげに眉が寄ったのはこの場の総員だ。

 至近まで迫った不可視の二撃。幼女はこれを萍水のごとき身の熟しで躱したのだ。緩い動きながら右脇を絞って前傾姿勢になったかと思えば、続けざまに首を縮めながら右脚で横に三歩だけ逸れる。その挙動途中で左頬と右腿が浅く裂けるも、彼女は倒れなかった。

 再び、斬撃を回避したことは明らかだった。

 一度だけなら、天運と勘所の両面で説明がつく。

 二度も続けば、まだ偶然の範疇に留まる。

 だが三度目があるのなら、何かがあるのだ。

 

「……そう」

 

 紫紺の大英雄は深青色の瞳を思案に揺らす。

 その寸間に幼女は距離を詰める。引き摺り出した底力を二足に漲らせ、決定打を叩き込まんとする。この回避術の発想は平凡極まりないものだ。程なくして思い当たるだろう。果たしてそれは次の瞬間だった。

 シャイラは引き結んだ唇を、わずかに解いた。

 風に揺蕩う紫紺を払うと──得心したように。

 

「──音、ですか」

 

 ソルは胸中で「正解じゃ」と解答する。

 言うなれば、風とは木目のようなものだった。

 流れる方向があるゆえに横切れば音が鳴る。爪を立てて木目から木目を渡れば音が鳴る。その高低と数で形状を察知できる。幸いにも不可視の剣身は模擬戦の意義上、木剣に準じているために空気抵抗が大きく、風切り音を聴くのに難儀しない──が、攻略法としては精妙さに欠ける。聴覚情報だけでは判断猶予が瞬間的すぎて、場当たりで躱すのにも限度があるのだ。

 ゆえに斬撃の軌道類推には他の要因を合一する。

 それは、可視範囲にある木剣とシャイラの所作だ。

 斬撃の繰り出される瞬間自体は視認できる。彼女の衣装の特徴として、木剣を操る腕は大胆にも素肌が晒されているのだ。その下で蠢く筋肉の躍動を目で捉え、剣の軌跡を推測。これで大まかな高さ、角度を弾き出すことができれば回避率は飛躍的に上昇する。

 幼女は笑う。笑いながら、目を酷使し続ける。

 小さな風切り音は、暗中にて一筋の光明となった。

 

「すごい。立派……です、ね」

 

 だが──大英雄は口振りに焦燥を滲ませない。

 常軌を逸した観察力で突破した幼女を称える。

 それはつまり、脅威と見做していない証左だった。

 負の感情が微塵も宿らない称賛には一銭の価値もない。同じ土俵に立つ相手の心よりの賛辞であるならば尚更である。なぜならそれは、互いの土俵の違いを際立たせる、あるいは自らの影も踏ませないほどに力量の差がある、と言外に見縊られたも同然だからだ。

 もっとも、後者の理由は紛れもない事実だった。

 シャイラは腰を捻ると、左膝を緩く撓ませる。

 諸手で握った木剣を、己の左脚に流すようにした。

 剣尖をやや下向きに構え、重心を腹底まで落とす。

 

「……でも。ハキムさんは言いまし、た」

 

 弛ませた左膝を張り、脚力が右脚に流れ──。

 

「『制約のなかで本気で戦え』って、だから」

 

 ひしゃげた。地面が(・・・)ひしゃげた(・・・・・)

 シャイラの右脚が地面を踏み抜いたのだ。放射状に黒々とした亀裂が走り、それはソルの足下を越して模擬戦の舞台の端まで広がっていく。その罅入った隙間から砂塵が噴き上がる。さながら黄土の緞帳か。旭暉を拒む暗幕が立ち昇って総員を呑み込んでいく。

 幼女の背筋が凍る。本能的な畏怖に竦動しかかる。

 咄嗟に腕で目元を庇った直後に、硬質な砂粒の嵐が吹き荒れる。熾烈な土砂の暴威は身体中の傷口に塩を塗り込むような苦痛を与えた。幾千もの砂粒が生身を穿ち、蝿の羽音めいた音が周辺を席巻する。

 もはやこの嵐の最中で従来の回避術は使えない。

 どれだけ耳に神経を集中させようと──不可能。

 捉えた風音を合図にするのは──不可能。

 これぞ、莫大な体内魔力量の為せる技である。

 

(しかし、こんな小事で終わるはずがないッ!)

 

 直感的に悟る。これは前兆にすぎない、と。

 ソルの胸に去来したのは氷のような悪寒だった。

 不意にシャイラを縛る規律を思い出す。そのうちのひとつが移動制限の枷だ。彼女が肩幅程度に脚を開いたまま『一歩たりとて動かずに勝利せよ』という文言を遵守し、斬撃を見舞い続けた姿はやはり異様の一言だった。あれでは足裏の把持力のみの力しか蓄えられず、重心移動に乗じた力の運びが不完全だったろう。

 しかし、このときをもって存分に力を発揮できる。

 いま彼女は右脚で地面を踏み抜いた。

 杭を打ちつけたように軸足を固定化したのだ。

 

「あなたと私。似たもの同士、ということな、ら」

 

 ──少しだけ、本気でやれま、す。

 彼女の姿と呟きは熾烈な風塵に掻き消える。

 その瞬間に渾身の一閃が放たれたのだろう。

 その一瞬。──黄土の遮光空間は切り裂かれた。

 その一瞬。──確かに意識が晦冥に没した。

 

「ッ──ォ、あ……!?」

 

 全身に衝撃が駆け抜け──声も、出ない。

 視界のすべてが喪神の闇に呑まれる。眼窩の縁取りから闇が瞬時に滲み出していき、最後には中心一点の光のみが残る。それすらもぷつんと消えれば、瞼を開けているはずが黒一色。人体から色彩や陰影の概念が取り払われてしまったかのように錯覚した。

 その最中に全身の触覚が断末魔の叫びを上げる。

 もしも光のすべてが灼熱の温度を有していれば、もしも空気の悉くが強酸の性質を含んでいれば──ソルを襲った感覚が体感できるだろうか。この衝撃には身体の内外など意味を為さなかった。感覚器官は軒並み渋滞を起こし、それらを認知するだけの余裕が奪われると、五感は競り上がるような空白の洪水に沈む。

 そう見当識を失っていたのは何分、何時間か。

 幼女は気づけば晴天の下、仰向けに倒れていた。

 意識の歯車が噛み合わない。手足は痙攣、五臓六腑は沈黙。ただ鈍重に伸縮を繰り返しているような実感があった。喉を震わせてみれば、一文字にも満たない呻きとも呼吸とも取れない音が喉奥から発される。

 ソルは口も動かせないまま、先の正体を看破した。

 

(た、ただ、力業で突破しおった、とは)

 

 シャイラの示した解法は簡潔にして明快。

 音頼りで躱されるのなら、音すら置き(・・・・・)去りにする(・・・・・)

 音速の壁を越えた剣撃。否、それで生じた衝撃波。

 それがソルの無防備な総身を打ったのである。

 

「ぁッ……ぁ」

 

 酒場で管を巻いていた男の言葉が腑に落ちる。

 武術における速度とは心理的なものだ。相対的とも言い換えられるだろう。あくまで対戦者に「速い」と認識されるにすぎない。予備動作を消して、影に隠して、技の起こりを悟られないよう立ち回る。敵方の斬撃速度を上回る必要はないのだ。ただ隙を見せず『斬撃に至るまでの心』より先に動ける程度あればいい。優れた武術家同士ではその探り合いが主となる。

 だが戦場では違う。英雄相手では、違う。

 武術家の尺度と英雄の尺度は全くの別物なのだ。

 優れた英雄は、果たし合いに理を持ち込ませない。

 彼らは大概の物事を力業で切り抜けられる。凡夫がどれほど狡猾な糸を張り巡らせ、策謀を練り、綺麗に罠に嵌めようとも──覆せてしまう。むしろオド容量が常人を遥かに上回る英雄たちにとって、武術など狭苦しい籠でしかないのだろう。ゆえに戦場で大いに羽を伸ばして、同等のものたちと鎬を削っている。

 ソルフォートが戦っていた土俵はそういう場所だ。

 ソルが望んだ土俵は、そういう場所なのだ。

 

「……よかった。千切れて、なく、て」

「シャイラ嬢。お前さん、些かやりすぎだ」

「ご、ごめんなさっ……でも。本気で──って」

「イルル的には大丈夫だったから問題なしー!」

「うむッ! 万事滞りなし、という奴だ! 我らが討伐隊にはこれしきの衝撃波で狼狽える軟弱者などいないから。ちなみに帝国小隊の皆はオレが守っておいたからなッ! 怪我はないよな、皆!」

「ホロンくーん!? 大柄な人が吹き飛んでるよ!」

「ああッ──すまない! 身長が足りなかった!」

「本当、間の抜けてる人たちね。哀れゲラート」

 

 こんな掛け合いも耳鳴りに掻き消され、遠い。

 ただひとつ理解できたのは、きっとソルの気絶は束の間の出来事だったということ。会話の内容は解せずとも、音の手触りだけでわかることもある。

 また意識が、海中に没するように薄らいでいく。

 視界には海面を思わせる青色が広がっていた。朝の斜光が昊の画布たるそれに、刷毛めいた線を引いている。その線の束が天幕のように揺らめいては遠退いていく。これが自らの意識が下方へ下方へと落ちていく証左なのだと、ソルは本能的に理解する。

 唇の端から唾液を漏らしつつ呻吟した。散漫な意識を五指に集め、動かそうと四苦八苦する──が、さしたる成果はない。必死に庇った右手には依然として剣がある。しかし、無理を通して身体を繋いでいた気力が断ち切られてしまったのだ。勝機の見えぬ現状において、再び立ち上がるだけの力は込められない。

 目前は遂に水彩めいて、もはや為す術もない。

 視界の端で、二藍に滲んだ陽炎が見える。

 そんな色の揺らめきが唇を噛んだ後に呟くのだ。

 人知れず──ぼそり、と。

 

「あとは私が、何とかしま、す」

 

 それが幻聴だったのかどうかは定かではない。

 いつかのような、膝を折らせようと促す言葉。

 いつかのように、それは鼓膜を揺らした。

 あの、幻想剣のなかで戦った『最強』と重なる。

 

(確かに……もはや足掻くのは徒労なのやもしれぬ)

 

 この模擬戦の大前提が今更になってちらつく。

 これはあくまでも価値を見極める舞台だ。

 極論、ソルが勝利を収めなくともいい。シャイラの協力さえ得られれば沙汰自体は乗り切れるだろう。彼女は『黎明の導翳し』。討伐隊のなかで最上位に就いている。帝国小隊の価値を認める、と無理にでも押し通せば、表立って否は唱えられないかもしれない。

 だからこそ、彼女は幾度も手を差し伸べてきた。

 ──あなたをできる限り傷つけたくない。

 ──だから、早く白旗を上げて欲しい、と。

 

(ようやく確信を得た……のう。ベクティス殿の心は模擬戦前から変わらず、というわけか。その言と反して、わしがここまで滅多打ちにされたのは、往生際の悪く足掻いていたがゆえと。なるほど)

 

 シャイラの甘言の内容を理解することはできた。

 だが、ソルはそれを是と頷けなかった。

 それは、決して認められたわけではないから。

 それは、己の実力が勘定に入っていないから。

 

(前言を翻すことになるのじゃ)

 

 シャイラがここまでソルを慮る義理とは何か。

 その答えは至極明快で、ハキムの孫だからだ。

 彼女と幼女を繋ぐ線はそれ以外に存在しない。なぜなら、彼女が知る情報はあとソルが帝国兵であることのみ。到底、便宜を図る理由にはなり得ない。ゆえに己の副官の孫を贔屓するつもりだと、延いては昨晩の鼎談内容を反故にするつもりだと知れる。

 ソルの歯奥からは砂粒が潰れる音がした。

 舌に溶けたのは、幾度も舐めた辛酸の味だった。

 目前で厳然たる事実が大口を開け、問うてくる。

 ──威を借りて、ここを生き延びるつもりか?

 ──それで、憧れた大英雄と轡を並べると?

 

「……お笑い種じゃ」

 

 ぽつり、と本音の欠片が零れる。

 大英雄の視座からすれば、ソルの実力は矮小だ。

 そんなことは百も承知だった。それでもなお模擬戦に臨んだ理由。その側面を切り出せば「胸を張りたかったから」とも言えた。誰かにではなく自分に。この場で幾つかの枷はあれど『頂』と対峙し、その価値査定を潜り抜けることで、怪物退治という夢に全力を尽くすために、一切の呵責を捨て去りたかったのだ。

 力量に目を瞑られること自体は詮方ない。

 

(大英雄相手に実力伯仲などと冗談でも言えんわい)

 

 だから、ソルも納得できたはずなのだ。

 真正面から挑み、完膚なきまでに叩きのめされ「貴様程度の存在など塵に等しい」と鼻先に突きつけられれば、まだ呑み込めたのである。どれだけ身体を振り絞れど、討伐隊の末席に加えてもらえるだけの力量が出せなかったのならば、いっそ己を恨めた。

 だが、あの大英雄はすべてを踏みつけにした。

 ハキムの心情のみに忖度して、価値を見極める判断すら放棄した。それはソルの覚悟を限りなく貶める行為であり、彼女にとっては何よりの琴線(・・)でもあった。

 ──目線を合わせて、手を差し出されて。

 ──その綺麗な手を取るだけで夢に届くとして。

 ──それで掴む夢に価値を見出せるのか?

 ──そんな自分を果たして許せるのか?

 連なる問いの先には、ここまで至った凡人が一人。

 幼女は四肢を投げ出したまま、答える。

 

(意固地と言えばその通り。捨て去るべき無用の矜恃と言えばその通り。しかし、己の針路を夢に合わせたときから、少なからず気持ちが勝ってきた)

 

 ずっと夢に手を伸ばし続けてきた──過去。

 何もかもを失った凡人はきっと許すまい。

 ソルフォート・エヌマ。夢に恋焦がれた男。その輝きに目を焼かれた亡霊。人生という夜霧に爛々と鬼火のような眼光を残し続けた子供。その戯言を後生大事に抱えたまま、潰えた夢の破片が散らばる荒野を素足で渡り続けた愚か者。たとえ意固地と笑われ、無用の矜恃と切り捨てられど、自らの信念を曲げられない。

 ならば、現在の自分ならばどうだろうか。

 ずっと夢に手を伸ばし続けている──現在。

 再び機会を与えられた凡人なら許せるだろうか。

 投げやりに渡された幸運を拾った自分ならば。

 夢へと手を届かせる機会を受けた幼女ならば。

 

「……お笑い種じゃとも」

「…… 帝国小隊長、さん。降参の言葉、は?」

「言うた、ことを」

 

 身体は地にあって、なおも口角を上げる。

 

「曲げるつもりは──ないの、じゃ」

 

 幼女は頑として首を縦に振らない。

 シャイラの手を取るつもりにはなれない。

 それはいつかの幻想剣の『最強』と同じく──。

 

(我ながら七面倒な男じゃのう。自らが納得できねば素直に受け取れんなど。頑固爺じゃとハキムにも笑われてしまう。……わしには素直さが、足らん)

 

 いまだ凡人が目指す舞台は遠い。

 夢の地平は、人の領分や身の丈を越えた遥か先にある。この境目は分水嶺だ。只人と屍を区分する明確な一線。それを踏み越え、夢に向かうだけの屍と化せども、何かを成し遂げようとしたとき、そこに暗然とした感情が宿る。それが執念と呼ぶものだ。

 部外者の理解を拒む毒々しい感情の澱。

 そういった意味ではソルフォートも純真ではない。

 凡人自身が自負している。純真など、素直さなど、加齢に従って朽ちてしまったと。生涯で変わらず手に残ったのは剣のみと。夢への幼稚な想いなどは、ここまで携えてくる最中に手垢で色褪せたと──だが。

 英雄譚を初めて読んだとき、抱いた感情だけは。

 原初の色だけは、幻想剣のなかで取り戻した。

 それだけでも、褪せずして胸にあるならば。

 ソルに、諦めるなんて選択肢なぞ存在しない。

 しかし、現実はこの瞬間の想いを断つように。

 

「なら……やります。けど、でも、大丈夫で、す」

 

 シャイラのかすかな声色が鼓膜を叩いた。

 幕引きの台詞を晏然とした口調で吹きつけられる。

 

「少しだけ──我慢して、くださ、い」

 

 だから運命とはいっそ機械的ですらあった。

 如何に懸けた一瞬であれ、足りなければそれまで。

 ソルは目前にある海のような蒼穹を想う。身体から薄れていく実感とともに視界を埋める雲霞が、さながら口から溢れて浮かんでいく泡沫めいていた。それが己の存在価値を喩えているようで、見つめてしまう。

 所詮、貴様のすべては泡影程度にすぎないと。

 外気に触れた途端に弾ける泡のようなものだと。

 慈悲深い強者の同情を前に、潰れてしまう。

 

「痛くはしま、せん。から」

 

 そのとき耳に響いた言葉も幻聴だったのかどうか。

 最後の最後まで彼女は幼女を気遣っていたのか。

 こうした慈悲は、無慈悲にも振り下ろされる。

 幼女のちっぽけな身体に振り下ろされる。

 いままで、ソルはずっとずっと──。

 

「……ああ」

 

 ── このときを(・・・・・)待っていたのだ(・・・・・・・)

 

(自らの直線上に倒れている相手に、長い間合いを持つ武器で攻撃を加えるとき。それは必然的に縦に振り下ろす形になる。そして、その狙いは──)

 

 時間制限のなかで掻き集めた数多の情報たち。

 ソルはそれらを組み合わせ、嵌め絵遊びの要領で勝利の青写真を浮かび上がらせようとした。そしてここに至って最後のひと欠片を手に入れた。『剣撃が加えられる箇所』の確信を。これを隙間に嵌め込んで、完成直前だったそれは遂に一枚の(げんじつ)となる。

 打ち放たれた剣撃の先は、狙い通りに右手首。

 心理的な側面からの確信だった。いままでシャイラは至極頻繁に、剣を握る手に攻撃を加えていた。これは繰り返しになるが、シャイラの模擬戦前からの言動や度重なる降伏勧告、音速の剣撃を振るったにもかかわらず衝撃波を当てるに留まった理由を追えば、彼女の念頭には常に、ハキムの孫をあまり傷つけたくない──という想いがあったと推測できる。

 きっと最後も同情をもって剣撃を放つだろう。

 果たしてシャイラは右手首に狙いを定めた。

 その慈悲が、その不誠実が、足を掬う。

 

(さあ、ここから数秒はわしの領分ッ!)

 

 ソルの行動は迅速かつ常軌を逸していた。

 なけなしの心の燃料に火をつけ、気炎を上げる。

 身体から離れつつあった五感が再び収まっていく。

 まず右手に僅かながら熱が戻る。気力による繋がりが絶たれて人形のように力を失っていた指先まで、意思の火が宿る。この一瞬で彼女が為したのはひとつ。

 剣撃が放たれた瞬間に、腕の位置をずらした。

 狙われる右手首の位置に右肘を置いたのである。

 

「がぁッ……!」

 

 須臾の後に右腕が暴れた。全身が、暴れた。

 意思に反した動作。それは電流のごとき衝撃が肘を起点に迸ったからだった。脳髄から足先まで駆け抜ける痺れ。取り戻した五感を恨むほどの重み。もはや痛苦の感覚は薄く、重量の多寡と喪失感の丈だけが限界までの距離を知らせていた。否、限界からの距離と言うべきか。その線はこの瞬間すでに飛び越していた。

 だが、この機会は逃がすまい逃がすまい──と。

 断絶しかかる意識を気力だけで繋ぎ止める。

 

(少しだけのッ! 我慢じゃッ! さすれば!)

 

 この待ち望んだ好機を逃すわけにはいかない。

 もしも横に薙がれていれば吹き飛ばされていた。

 だが、縦に振り下ろされれば地面が身体を支える。

 ゆえに──こんな芸当が可能性の視野に入る。

 振り下ろされる剣身を腕で閉じ(・・・・)挟む(・・)という。

 

「えっ……?」

「つか、まえた──!」

 

 あのとき、ソルフォートは酒場で男にこう言った。

 ──たとえば。見えざる剣が振るわれるならば。

 ──物理的に掴んでしまえばいいのやもしれぬ。

 文字通りに掴み取った突破口。ほんの思いつきだった昔日の与太話は、思いがけずして実現の機会に恵まれたというわけだ。開始当初から執拗に打たれていた右腕を自然に庇いつつ、真の狙いは隠して、情報が出揃うのを待ち、虎視眈々と勝利を見据え続けてきた。

 たとえば、流派の早着替えがそれに当たる。

 この狙いは二重にあった。ひとつは情報収集。もうひとつは勝利の道筋を誤認させるためだった。あれだけ果敢に攻めておいて、そのすべてをまさか窮鼠猫を噛む一瞬に込めているとは──大英雄とて思うまい。

 ただ模擬戦の終盤における、風音の回避術。

 これはあくまで情報収集する過程での副産物だ。

 反撃の糸口としては弱く、間もなく看破された。

 しかし、目眩しとしては上々の結果を齎した。

 ──それらがあって、ここに隙が生まれた。

 

(最後の最後だけは、博打じゃったがッ……!)

 

 それは、一天地六の出目次第という意味に非ず。

 五分五分未満の戦いに挑み、天運の丈を比べ合うことにも非ず。集めた情報を統合し、推測の輪郭を明瞭にした上での賭けだ。積み上げた徒労はついぞ雲にも届いてみせた。これで手にした隙を無駄にはすまい。

 幼女は『不可視の剣身』を身体全体で挟んだ。

 胸に抱くと言うより、顎と胸骨の隙間を使って喰らいつくと言うべき凄烈さで。寸前に左膝を立てていた彼女は地面を蹴り上げて身を空転。剣身を手繰るようにして右回転を纏う。そうして中空で不可視のそれの下敷きとなった右腕を引き抜き、左手で掴む。

 感触通りに『不可視の剣身』は木剣に準じていた。

 否──ソルの想定とは裏腹にそれは見えていた(・・・・・)

 かすかな黄土がこびりつき、一筋の道として──。

 

(衝撃波で舞い散った土砂が空から降って……!)

 

 ──それはまさに望外の幸運に他ならなかった。

 幼女は即座にその頼りなげな道筋に右脚を乗せた。

 そうして蹴る。黄土(ふかし)道筋(けんしん)の上を一直線に飛ぶ。

 可視化された剣身は複雑怪奇の一言だった。形状は曲がりくねり、半端な箇所から幅広の三叉に分かれ、それらが蛇のように蜷局を巻き、集約された一振りが先端まで続いていた。これを放たれた矢のような速度をもって、剣を流して構えつつ駆け上がっていく。

 全身の筋肉は怨嗟と悲鳴を上げ、苦痛に唸る。

 それを、喉奥を裂きかねない声で掻き消す。

 そして──大英雄のがら空きの正面に、躍り出る。

 

「おおおおお──ッ!」

「あ、……え」

 

 舞台上に君臨し続けた『黎明の導翳し』。

 木鶏そのものだった大英雄の態度が剥がれる。

 驚きで延べられた深青色の瞳。彼女の弓形に絞られた蛾眉は内面の動揺に即していたのだろう。剣身を引き寄せられたままに身体を泳がせ、周章狼狽の有様はさながら年若い物知らずの少女のようだった。

 ソルは造次のうちに斬り捨てるべく距離を詰める。

 白髪は一直線に伸び、陽光で銀に色を弾かせた。

 

(これでッ、わしの価値(かち)とせんッ)

 

 音高く、力強く、足裏を叩きつけた。

 止まらずに駆け抜け、一閃を叩き込まんとし──。

 

だめ(・・)()()……っ!」

 

 ──その刹那、瞳に映ったのは繊月だった。

 シャイラは頭を下げて背筋を曲げていた。垂らす紫紺の髪が展翅めいて宙に広がり、弧を描いた。その先端が翻ったときにソルが細い月と見紛った──わけではなく、目を疑うような光景は(そら)にあった。

 視界の上部で数十もの白月が輝いている。

 幼女には瞬きの時間すらも要らなかった。直後にあの正体が()だと看破する。曲線を描く白刃が日光を照り返す有様、それが月に似ていたのだと。それらが自ら意思を持ったように射出され、降り注ぐことも。このままでは串刺しどころか針鼠にされることも。

 しかし、時間は人の都合で止まってはくれない。

 剣尖の驟雨がこちらに向けて殺到する──。

 

「ちィとばかし邪魔するぞ、お前さんッ」

 

 その声色は、ちょうど横合いから聞こえてきた。

 白刃煌めかす剣群の前に黒影が飛び入ってくる。

 それは剣呑さを秘め、血相変えた魚面の老爺。

 彼──ハキム・ムンダノーヴォは身を翻すと、分厚い軍靴の踵でソルの剣刃を受け止めた。威力の乗っていない斬撃は易々と勢いを削がれ、蹴られたときには身体の推進力まで殺されていた。突如として空中に放り出された矮躯は、そのまま地面に尻餅をつく。

 幼女は虚を突かれ、瞼を見開き凝視した。

 刃を足場に飛んだ老爺は鞘から剣を抜き放ち──。

 魔剣『濁世を(ボロス)穿つ上(=ウル=)古の竜(ヘーグル)』を開放する。

 

「【媚び諂え】【此れなるは願いを踏み躙る竜】」

 

 空を薙いだ刃は、竜の伝承を想起させた。

 日華に煌めく、口元に揃った牙のような剣身。

 それが振り抜かれると、鼓膜に余響が染みついた。

 多重の金属音は煙のように天まで揺曳した。

 ソルの目前で、一、二、十、二十──と。

 魔剣に弾かれた剣たちが地に突き刺さっていく。

 

「……骨が折れる。これぞ間一髪という奴よなあ」

 

 ハキムは片手で腰を叩き、得物を鞘に仕舞った。

 かん、という乾いた音が静寂に響き渡る。総員が絶句する模擬戦の舞台には大小様々な剣が突き立ち、散乱していた。この空間に漂う異質な雰囲気も加味すると、剣士たちの墓場さながらの惨憺たる有様だった。

 そこに立つ老爺も流石に無傷とはいかない。

 わずかに撃ち漏らした剣が右腕を穿っていた。厚目の旅衣からは刃が突き出ている。常人であれば重傷だったはずだ。だがその隙間からは血液が滴らず、当人も一瞥すらしない。ただ吐息に安堵を混ぜていた。

 ゆえにソルは真っ先に問うべきことを問うた。

 

「貴様。なぜ止めた」

「時間切れだ。模擬戦は規定通り終了する。これ以上の追撃は文言に抵触するゆえに……横槍を入れさせて貰うたワケだ。結果的に助ける形になったがのう」

「手出し無用の約束は守っておる、と?」

「……ああ。そう捉えるのは実にらしい(・・・)なぁ」

 

 呆れ気味の台詞の裏で、からんと音が鳴った。

 幼女はハキムの身体を避けつつ、目を遣る。

 その先にいる音の主は知れていた。だが老爺の股越しに見えたのは、絶対的な大英雄が両膝を屈する場面だった。蒼白い両手を緩く開いて、木剣を足元に転がしている。そして腰を抜かしたようにへたり込んだのち、顔を伏せて二房の紫紺を戦慄かせ始める。

 呆然──と、その言葉が似つかわしい姿だった。

 ソルは唖然とするも、間もなく首を捻った。この場の誰もが疑問符を浮かべる状況下で、最も狼狽えているのが彼女自身。実に不可解極まりない。彼女は瞠目した深藍の瞳をこちらに向け、老爺に向け、地面に散らばった剣たちに向け、と順番に見回すばかりだ。

 それは自らの所業に困惑した様子にも見えた。

 

「ベクティスど……」

「イルル! 救護班!」

 

 老爺はソルの呼びかけを遮って声を張り上げる。

 張り詰めた静寂が決壊し、円周からローブ姿の少女と女性隊員数人が飛び出してくる。彼女たちに介抱するよう指示を飛ばすと、小柄な少女が出鱈目な敬礼をし、皆でシャイラの身体を抱えて人垣の向こうへと消えていく。その間際まで紫紺の彼女は声ならぬ声を漏らして、こちらに力なく手を伸ばしていた。

 幼女は状況が掴めず見送り、訳知り顔に問うた。

 

「貴様……これは、何じゃ」

「一目瞭然だろうがよ。シャイラ嬢は焦ったのさ。お前さんの無茶に狼狽え、思わず文言を踏んでしまったワケだ。姿勢を崩されるばかりか、あまつさえ魔力を剣身に通さず行使し、ついつい魔力を百ほど剣形に編み上げ、近づいた外敵を排しようとした」

「ならば、ベクティス殿のあの様子は一体……?」

「……お前さんが心配せずともよいことだ」

 

 ハキムは周囲の喧騒に埋もれる程度の声で答える。

 討伐隊の面々は沸騰したように騒いでいた。内心の動揺が音として流露し、辺りに横溢する。彼らの視線は唯一残った模擬戦の演者である幼女に注がれた。傍に立つ老爺にも向けられているものの、彼が健闘を称えているように見えているのだろう。旧友二人の距離感に対する猜疑的な気配は感じなかった。

 声だけを潜めれば、人目を忍ばず喋れるようだ。

 

「だから…… 俺が保証しよう。そう心配せずとも模擬戦の勝敗は決しとるわい。この十分間で皆も腹を決めたはずだ。お前さんの価値は、揺るがん」

「そう、か」

 

 ソルはようやく脱力し、大の字に寝転がる。

 全身の筋肉が休息を訴えかけていた。視覚化された倦怠感が墨色となって目前を埋めていく。肺は不随意に収縮を繰り返して、口が勝手に酸素を貪った。暫し取り戻した五感はまた身体から離れていき、末端から自我が薄らぐ。茫洋とした身体感覚は膜越しの鈍痛相手に蝸角の争いを繰り広げていた。

 そこで老爺は物のついでという口振りで続ける。

 

「……時にお前さん。最後に駆け出した理由は何だ」

「駆け出した……とは、剣身を掴んだあと、か?」

「すでに決着はついておったはずだ。あのとき手繰られた瞬間、シャイラ嬢は一歩踏み出しておった。元よりお前さんの狙いは、文言を違えさせること。いま思えば、最初の立ち回りも荒削りながら──」

「話の焦点を、ずらすな……余計なこと、を」

「呵々、すまんのう。年月を数えるたびに口数は多くなる。ついついお前さんの肩を叩いてやりたくなってなあ。俺が見とらんうちに背丈を伸ばし……」

 

 ソルは瞼の向こう側で不穏な気配を察知した。

 きっと老爺が側に屈み込んだのだ。顔を覗き込むような姿勢なのかもしれない。如何なる意図が秘められているのだろうか。不思議と額の辺りに微熱を覚えたが、それと関係があるのだろうか。しかし身体の自由が利かず、抵抗できることはない。幼女は甘んじて受け入れながら瞼裏という簾の先を想像する。

 そんなとき、不意に別の感覚が頭頂部にあった。

 くしゅくしゅ。脳天に柔い感触が行きつ戻りつ。

 五秒遅れて、頭を撫でられたのだと気づき──。

 

「っ……っ!?」

「随分成長したなあ。親友として祝福してやろう」

「な、ぁ、き、さま」

「わかった。動くな動くな。もうせんわい」

 

 そうして半笑いの声が手とともに遠退いていった。

 この男はからかい半分で頭を撫でたのである。

 同年代の老人への態度として不適切極まりない。

 中身を知った上で子供扱い。腹立たしいことだ。

 

「しかし、最後のあれは片手落ちだぞ。あの吶喊は真の考えなしのやることだ。実際、せっかく掴んだ勝機を手放すところだったろうがよ。まァお前さんのことだ。きっと何かしらの意味合いがあったのだろうが」

「勝利に目が、眩んだ。ただ、ただ。それだけじゃ」

「おうおう嘘がわかりやすい奴で助かるのう。まァこれ以上の詮索はよしておくとしよう。何を置いても親友の秘め事だ。秘めるだけの理由があると見える」

「……詮索しない、と言って。よく、喋る男じゃ」

「少尉! よくご無事で──」

 

 そこで聞き慣れた声が鼓膜を揺さぶった。

 ハキムはあらぬ方向に目を遣ると、身を退いた。

 どうやら気を遣ったらしい。ソルと帝国小隊の皆との会話を遮るまいと足早に去っていく。討伐隊に指示を出しながら、周囲の喧騒に溶けこんでいった。

 そうして幼女の側に駆けつけたのはナッドだった。

 茶髪を乱して汗の珠を拭うと、腰を落とし──。

 

「肩、貸します! 立てますか!」

「ナッド……すまんのう。色々と、心配をかけて」

「そんなことはっ……ありますけど。でも少尉が生きているのなら帳消しですよ。これだけボロボロになって矢面に立ってもらって……感謝してるんです!」

「……こそばゆいことを言うでない」

 

 ──実際、己が欲得の発露でもあったのだ。

 座り悪い心持ちで、彼の為すがままにされる。

 

「……のう。少しばかり待てナッド」

「肩を貸すよりも身体に障らない体勢はこれです!」

「じゃが、これは。流石に……」

 

 幼女の右耳はナッドの胸板に擦りつけられた。

 青年らしい太い腕は背の後ろと膝裏に通されて。

 そのまま彼に身体を持ち上げられれば──。

 

「最近の帝都俗語曰く『女帝式抱っこ』です」

「まるで介護されておるようじゃな」

「間違ってはいませんが発想が斜め上すぎます」

「……子供扱いがすぎる、と言うべきじゃったか」

「しかし、少尉の身体に負担をかけない形です!」

「何にせよ気恥ずかしすぎるのじゃ。せめて」

 

 幼女は震えながら降り、ナッドの肩に手を回す。

 覚束ない足で彼の横合いを登り、背後に移動する。

 そうして逞しい背に沿うように身体を預けた。

 

「こちらのほうがまだ長としての体面が保てる」

「少尉が言うのなら……しかし身体の負担が」

「……思えば、これも子供に対する姿勢のような」

「何やら楽しそうなことをしているのね」

 

 ナッドはその、含みのある横入りに反応する。

 

「……お前もこっち来たのか、マジェーレ」

「ええ、大事な我らが隊長様だもの。みんな駆けつけたかったらしいけれど……いまはゲラートの介抱に付いているのよ。それでナッド、飼い主に戯れるのはいいけれど不満そうね。私が来て不都合なことが?」

「別に、そうじゃねぇよ。お前は来るべきなんだ」

「……どうしたの、模擬戦中から。調子が狂うわ」

 

 マジェーレは訝しげにナッドを見つめ返した。

 ソルも珍しく素直な言葉に目を丸くした。

 二人は以前まで険悪だったはずだ。マジェーレの揶揄を含んだ言動の一々がナッドの癪に障り、それを口に出しては皮肉で返されて鬱憤が溜まる。そんな悪循環が見ないうちに解消されているではないか。

 ナッドはそっぽを向くと、取り繕うようにして。

 

「何でもねぇよ。特別なことじゃない。ただお前や帝国小隊の連中に対する見方が変わったってだけだ。俺がまだまだ未熟で、全然周りのことが見えてなかったことがわかって──ちょっと態度を改めようって」

「……コロコロコロコロと。気持ち悪い変貌ぶりね」

「ちょっとだけだ! 俺は少尉のときと違って、全部の非を認めたわけじゃない! お前の考えとか態度とかを全面的に支持するわけじゃねぇ! だから安心してください少尉、心を預けたわけじゃありません」

「……ここでわしに振らないで欲しいのじゃ」

 

 困り果てて、隠れるように彼の肩に顎先を埋めた。

 それをマジェーレが目端に留めると嘆息する。

 

「阿呆な犬を持つと飼い主は大変ね、少尉」

「言ってろ。俺は義を通してんだよ」

「まあ、どうでもいいわ。とりあえず早く──」

 

 少女は言うが早いかソルに顔を寄せてくる。

 こちらの額に手を翳して、そのまま何事か呟く。

 その手に薄青色の曖昧な明かりが灯ると。

 

「……あら? もうあらかた終わっているのね」

「これは……お前、治癒魔術とか習得できてたのか」

「入用でね。応急手当にも満たないような魔術でしかないけれど、気休め程度にはなるから。早目に本職に少尉を引き渡したいところだけれど……どうにも、まだ舞台裏に引っ込むわけにはいかないようね」

 

 ──ねぇ、四大将代行さん。そうでしょう?

 少女が首を向けた先には黒肌の老爺が立っていた。

 どうやら三人の話の切れ目を窺っていたらしい。

 ハキムは視線に重々しく首肯し、一歩踏み出した。

 彼が為したのはそれだけ。ただそれだけで彼の下にこの場の言動の優先権すべてが収束する。朗々と静粛さを促さずとも立ち姿ひとつで空気を緊縮させた。

 そうして宣言するように総員に問いを投げかける。

 

「ここに力は示された。皆の者、値打ちは眼底にまで焼きついたろう。価値を問う模擬戦はここで幕としたいが、さあどうか。この小さな勝者に異論を挟みたい者はおるか。此度の『根絶』討伐において力不足と詰る者はおるか。四大将に臆さず、常に前を見続け、貪欲かつ強かに勝利を狙った、彼女を謗る者は──?」

 

 彼らは、老爺の紡ぐ問いかけを黙して見守った。

 声は上がらない。賛同も罵声も飛ぶことはない。

 腕組みのまま塑像のように動かない大男。ただ言葉を待つ女。にたにたと微笑む小男。目尻に皺寄せ、こちらを痛ましげに見る者──反応は十人十色だ。

 この結末に誰もが納得したわけではないだろう。

 並ぶ顔触れには腑に落ちない表情の者も当然いる。

 シャイラが本領の片鱗を裾だけでも覗かせれば、数秒と経たずして決着がついていた。手心に手心を重ねられ、紙一重で勝ち取られた結末を手放しで歓迎できるかと言えば「難しい」の一言に尽きるだろう。

 至極当然の話だが、彼らにとって帝国は仇敵だ。

 受け入れられないと拒絶することこそ自然である。

 それでも表立って難色を示さない理由は、四大将副官の御前ゆえか。否、おそらく徹底した実力主義が根底にある『ビエニス』という土壌の賜物だ。実力や価値、実績を前にしたとき、いつだって彼らは寛容だ。

 嗄れた声色が保たれた沈黙を破るように響き渡る。

 

「四大将本人は不在ながら、全権委任された四大将代行として──そして価値を見定めた者として──ハキム・ムンダノーヴォが宣言しよう。これにて帝国小隊の処遇は決定したものとし、然るべき談合の後に御璽をもって契約を結び、栄光ある我ら討伐隊の一員として名を連ねることを約束する!」

 

 断言したあとに──ひとつ、拍手が鳴った。

 その主は紅髪の青年ことホロンヘッジだった。

 したり顔で頷きながら大仰に手を広げ、音高く叩いている。続くようにして勢いは徐々に増した。顔の古傷が目立つ強面の男女は静かに拍手を、柔和な優男は調子よく口笛を鳴らし、短く称える声も上がった。

 白の幼女は背負われながら、それを眺めていた。

 ぼうと。凪いだ瞳の水面に綺麗に映るように。

 無心のつもりが、透明な感慨で満たされていく。

 

(そう、いえば)

 

 こう、大勢に褒め称えられたことは初めてだった。

 少年時代、凡人は何をやらせても転ぶ子供だった。

 ずっと夢ばかり向いて歩いていたが、目に見えるような才能を持ち合わせていなかった。だから他愛ない段差に躓き、転んだ。遥か空の彼方に背伸びするだけ笑われて、その愚直さを憐まれたことばかりだった。

 傭兵時代、凡人は場違いな舞台に立ってしまった。

 随分と背は伸びたが、手伸ばす先は遥か上空。だから剣術という梯子に登って、戦闘技術という塔をつくり、基礎体力という地層を重ねた。それでも夢の尾は指端にも掠らず、勝利と敗北には分け得ない『凌いで終える一日』を繰り返すばかりだった。英姿颯爽とは背中合わせの生き方では誰にも認められなかった。

 そうして現在、大勢の拍手が送られている。

 

(こういうのは……英雄譚の花形じゃよな)

 

 もっとも人数にすれば三十人程度による祝福だ。

 大勢、という言葉に当て嵌まるか疑問は残る。

 いままでに幼女が見聞きし、憧れ焦がれてきた古今東西の英雄たちとは比べるべくもない。喝采の量や活躍の質に雲泥の差がある。まだ彼らと並べるほどの存在に非ず、まだ空の彼方に煌めく星に手は届かない。

 だが、そのとき確かにソルは顔を綻ばせた。

 まるで見目の通りに幼子であるかのような笑み。 

 

(うむ……うむ。気分は悪くない、のう)

 

 この碧虚の下、また凡人は夢に一歩近づいた。

 幕引きに満座の喝采を送られるようになったのだ。

 余韻嫋々の音色が胸の奥底にまで響いて──。

 

「……おい、おい。忘るるなよ」

 

 そんなときに正面の老爺から目配せされる。

 ソルが胡乱に見返すと隣の少女から小声で「握手のことよ。ほら行きなさい」という助け舟が出た。そのまま端的な説明を耳打ちされたところによれば「衆目の前で手を繋いで、この場の皆に実感を与えるの」とのことだった。それで長としての役割を得心する。

 なれば、ここで撥ねのけるわけにはいかない。

 幼女は負ぶわれたまま大柄な老人と向かい合う。

 身の置き場を失ったナッドは肩身が狭そうだった。

 

「流石と言う他にない。帝国小隊長殿──少尉」

「……どうも。ですのじゃ」

 

 ソルは人前での礼儀を弁え、口調を整えた。

 それを見てハキムは目尻の皺を一層深くする。

 腐れ縁同士、改まって握り合う間柄ではない。

 朦朧としながらも気恥ずかしさは覚えてしまう。

 そして小さな手は老木の枝めいた手指に包まれる。

 

「流石は、俺の孫だなあ」

「え、あ」

 

 ここで、ふと昨晩に交わした会話を思い出した。

 ──帝国小隊の処遇が決まるまで公表しない。

 そう、帝国小隊の処遇が決まるまでの約束だった。

 処遇が決定した現在、それは白紙と化していた。

 勝利の余韻は血の気とともに引いていく。

 この日一番の喧騒のなか、幼女はただ顎を上げた。

 先送りにしていた今後のことを空に馳せて──。

 

 



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11 『怪物退治の始まり』

説明回です


 マッタ―ダリ山脈の峰は雲を貫き、天を衝く。

 かの霊峰は模擬戦の顛末まで見下ろしていた。

 この山脈は大陸に産み落とされたなら言わずと知れた、世を東西に分断する最高峰である。初めて東西の概念を生み出したと伝えられており、現在では対帝国戦における最重要防衛線の役割を果たしている。つまり帝国の英雄たちですら二の足を踏む難所なのだ。

 その要因は、大まかに三指を折って数えられる。

 急勾配の斜面と比類なき標高、そして天候だ。

 雨風にせよ雷にせよ移ろいやすく、どれもが熾烈なものである。そんな峻厳な環境には獰猛な野生動物が根を張り、勇気ある登山者たちを待ち構えている。

 軍事的な判断に基づけば越山は現実的ではない。

 麓から見上げればその険峻さは圧巻の一言である。

 比較的低域の峰すら刺々しいまでに角ばり、真白い雪化粧が施されている。山頂付近を隠すように広がった雲河が下界と袂を分かつ。その先の陰影を朧げに落とす雲霞を喩えて御簾とし、マッターダリを貴人として仰ぐ一部地域の言にも頷けるだけの威容だった。

 誰も踏み入れたことがない、かの山頂付近。

 その、神聖視された不可侵領域のなかで──。

 

「■■■■■■、幸■■■。■■■■」

 

 鉛白の手が蠢き、その純白の禁域に指をかけた。

 人類未踏の雪が侵されるように──翳る。

 

「■■■■■■■為■■■■■■」

 

 違う。あれは無数の手にも似た濃霧の浸食だ。

 だが自然現象としての霧と一線を画している。

 それは幾条かの紫電を放ち、金光にも似た火花を飼い慣らし、大木すら千切りに変える烈風を住まわせているのだ。そして霧が濃さを増すほど尋常ならざる冷気が足元から這い、岩肌の表面に氷が張っていく。

 冥漠というより謂わば灰漠(・・)というべきその奥──。

 不可思議な霧の中心にはひとつ巨影が佇んでいた。

 曖昧な実像の二足歩行だ。周囲には二十もの帯状の影が取り巻き、そのうち十数本が岩盤に突き刺さっている。大木の根のような姿は単なる猛獣かと侮れず、最新式の魔導兵器かと安堵するには禍々しい。

 そして、霧の向こうに朧げに浮かぶ紅。

 爛れたような単眼の瞳が『根絶』の欲望に歪む。

 すべてを灰燼に帰さんと。すべてを穢し尽さんと。

 ──絶対的な破壊が、間近まで迫っていた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 まず目にしたのは、梁が剥き出しの天蓋だった。

 

(いつの間に……眠っておったのじゃろうか)

 

 幼女は腹部に力を込め、緩慢に上体を起こす。

 ぼんやりと寝惚け眼のまま視線を彷徨わせる。

 ここはどうやら民家の一室のようだった。だが生活必需品たる家財道具は見当たらない。いまソルが身体を横たえている寝台と同様のものが、室内に所狭しと幾つも詰め込まれているだけだ。急拵えの病室にも見える。その割には自分以外の怪我人が誰もいない。

 ソルは錆びついた思考回路に記憶を流し込む。

 

(……わしは、そう。確か)

 

 遅蒔きながら、これまでの経緯が頭に蘇る。

 ここは討伐隊の医務室だ。彼らが家主の消えた民家を拝借し、仕立てていたのである。幼女は模擬戦終結後、討伐隊の救護班によって運び込まれた。外傷より遥かに臓器や骨や肉に関する損傷がひどく、迅速に治療を施さねば命にもかかわるほどだったらしい。

 伝聞調の理由はすぐに幼女が気絶したからである。

 

(ほとんど朦朧としておったから覚えておらんが)

 

 ついと壁際に目を移す。そこの寝台には見慣れた剣が古布に包まれ、置かれていた。その丁寧な取り扱いに眉尻が下がる。とりあえず相棒の健在に安堵の溜息を漏らし、視線を肌着一枚の己の身体に戻した。

 この小さな身体は見違えるほどに治療されていた。

 血塗れですり切れた包帯は新たに交換され、以前にも増して分厚く巻かれている。淡い青痣が右手首を始め、包帯の隙間から漏れるだけでも複数箇所に滲んでいたが、普段通り拳を握ることはできるようだった。

 ならば試しに一度は動いてみるべきだろう。

 纏わりつく倦怠感を引き剥がし、上体を起こした。

 すると、目前にあったのは少女の顔だった。虚を突かれて身体が硬直する。どうやら彼女は矮躯に覆い被さっていたらしく、図らずしも死角にいたようだ。

 襤褸切れのローブから紅玉一揃いの双眸が覗く。

 

「おお目覚めたっ? おはよっ『お孫ちゃん』!」

「は」

 

 起き抜けにとびっきりの笑顔でそう言われた。

 ──思考が停止。ぱちりと瞬きを一回。

 

(お……まごちゃん)

 

 眠気が霧散し、段階も踏まえず頭が冴え渡る。

 ソルは唐突すぎる単語の意味を丹念に咀嚼する。

 その果てに、ただ聞き間違いを期待した。

 

「? どうしたのお孫ちゃん、調子悪い?」

「い、いえ…… 驚くほどよくなっておりますゆえ」

「ならよかったんだ! イルルたち救護班で頑張ったけど、どこかおかしいなら言ってね! 治癒魔術での強引な回復には反動があるからね。『ホコロビトハナニゴトモチイサイモノダー』って言うでしょ?」

「寡聞にして……聞いたことはないのじゃです」

「ふふーん。お孫ちゃんもベンキョーブソクだね!」

 

 ──お孫ちゃん、お孫ちゃん、おまごちゃん……。

 どうやら言葉の一字一句に間違いはないらしい。

 幼女は「夢じゃ」と断じて瞼を閉じたくなった。

 しかし、そうやって逃避しても無意味である。どこまで逃げれど目前を塞ぐからこその現実だ。逃げることに良し悪しあれど所詮は一時凌ぎであり、いずれ立ち向かわねばならないのである。すでに冴えた記憶は忌々しいことに、ハキムの孫宣言が木霊していた。

 あの瞬間、ソルを構成する要素がひとつ増えた。

 だから幼女らしい口調と仕草に整えて──。

 

「……はい。わしはハキムのま、孫です、のじゃ」

「わーやっぱりーっ!? ホントのホントなんだ!」

「ほ、ホント……とは孫という、それが?」

「モっっチロンだよ!」

 

 少女は我が意を得たりとばかりに快哉を上げる。

 

「いやーハキムのお爺ちゃんにこんな可愛いお孫ちゃんがいるなんてねー、イルルも聞いたトキはびっくりびっくりだったよ! 大々的に伝えたときはイルル、シャイラのお姉さんのほうに付いてたからね、あとで教えられたとき『えっー!?』って! だってハキムのお爺ちゃんずっと言わなかったし『もう少しでタイヘンなことになってたんだ!』って思うじゃん!」

「た、確かにその通りですのう」

 

 興奮の熱に炙られ、沸くように捲し立てられる。

 ソルは辟易しつつも思考裡に自嘲を浮かべた。

 両手を側頭部にやって白髪をくしゃりと握る。

 ここ数十年でも有数の、悪夢めいた状況だった。

 

(ああ。憂鬱じゃ。まっこと憂鬱じゃ……が、もはや終わったこと。未練がましく引き摺れど進展は望めない。そう、そうじゃ。昨晩から覚悟自体はできておったはずじゃろう。ベクティス殿にそう認識された時点で……腹は決まったはず。いまは堪えるのみじゃ)

 

 だが視線には思わず恨みがましさが篭ってしまう。

 少女は首を傾げ、ローブの縁取りが崩れる。

 

「どうかしたの? わかんないことある?」

「いえ……その、この体勢なのは一体どういう」

「ああ、ごめんごめん! ちょっと重かったよね!」

 

 ぴょんと飛び退くと、両脚で床に着地する。

 両腕を天に掲げて脇腹を伸ばした姿勢を取った。

 少女は薄汚れた頭巾を目深に被っている。手に小綺麗な包帯を携えているところから察するに、直接ソルを治療していたのだろう。思えば、模擬戦終盤で錯乱したシャイラを運んでいたのも彼女だった。

 くるりと振り向いて、こちらに笑って曰く。

 

「自己紹介! イルルはイルル・ストレーズ! デュナム公国出身の十六才! 元々は怪物退治専門で、この討伐隊には公国側の代表者としてバッテキされちゃったんだー! 主な仕事は後方支援で、何やかんや救護班長って感じだよ! これからよろしくねっ!」 

「よ、よろしくお願い申す……のじゃ。わしは」  

「ソルちゃんだよね! よろしくよろしくぅーっ!」

 

 側まで早足で近づいて両手を胸に抱き寄せる。

 ソルの手より一回りほどの大きさに包まれた。人の温もりが伝ってくる。きっと握手のつもりだろう。イルルの熱烈な歓迎方法は、まだ完治できていない腕の可動部を気遣っている何よりの証拠だった。そこに対する感謝は忘れないが、反して拍子抜けでもあった。

 幼女は予想していたのだ。帝国小隊の価値自体は模擬戦を経ることで認められたものの、おそらくは感情的に納得できない者も多かったに違いないと。存在することは許されど、やはり二組が一致団結という未来は難しかったのではないかと今更ながら思えた。

 ──ゆえにハキムはあの場で孫宣言をした。

 

(孫設定の宣言を模擬戦前にすれば、実力を測る意味合いが薄れる。だが、いつかしなければ模擬戦後の団結が壊れていく恐れもあった。ならば宣言する機会はあそこ以上のものがない……というわけかのう)

 

 イルルは幼女の内心を置き去りに幾度も頷く。

 

「うんうんよかったんだ! イルルたちはもうドーホーだからね! 目標を達するまで一蓮托生! 助け合って、最後には笑えるような未来を迎えようね!」

「……応とも。それは心惹かれる謳い文句ですのう」

「でしょー! やっぱり皆で手を繋いだほうがいいよね! 君たちと一緒に戦えるようになってホントによかったー! 『根絶』退治は大変だけど頑張ろー!」

「ご同慶の至りです。願ってもない話ですのじゃ」

 

 嘘である。ソルは誰よりもこの展開を願っていた。

 ここまでハキムと構想した計画をなぞれている。討伐隊に帝国小隊を同道させ『根絶』討伐に一枚噛むこととなった。それも可能な限り円満に進んでいると言って差し支えあるまい。その過程で想定以上の怪我を負ったものの、英雄好きの本能は満ち足りていた。

 大英雄と模擬戦を演じ、初めての喝采を浴び──。

 身体の傷跡すらも勲章に伍する出来事に思えた。

 思いを馳せる幼女は、はたと見落としに気づく。

 

「そうじゃ……御璽契約の談合に参加できておらん」

「あっ大丈夫だよ。御璽の話、全部終わったからね」

「……終わったとな? わしが眠っておる間に?」

「うんうん。お孫ちゃんは丸二日眠りこけてたから」

「ま、丸二日……?」

 

 愕然として、窓からの仄温かい光に目を向ける。

 麗かな陽だまりが寝台の一角に落ちていた。ともすれば暁光に多少の血色が戻った程度のそれは、一見すると気絶以前と大差ない。だから依然として実感は薄いものの、次第に身体の節々にある違和感が目につき始める。いままで他の感覚で覆い隠されていたのだ。

 イルルの言に嘘はないのだろう。どうやら疲労は想像以上の負担になったようだ。確かに模擬戦では無理を重ねすぎた。身の丈に合わない舞台で身の丈以上に背伸びした。その反動が事後に訪れたに違いない。

 彼女は「でも御璽契約はゴーイの上だよ」と笑う。

 

「合意、というとわし以外の……?」

「そう、帝国小隊の皆。率先してたのは君のとこの副長ちゃんとナッドくん! イルルはお孫ちゃんも同席してたほうがーって思ったけど、ナッドくんが『これは俺たちの仕事だから』って。いやー素敵な話!」

「ナッドが……そうか。自ら……」

「模擬戦で頑張った君に報いたいんだって!」

 

 ソルは上手く経緯を呑み込めないまま呆然とする。

 ──これは喜んでよいことなのだろうか。

 信頼の上で請け負ってくれたのなら喜ぶべきだ。

 求める英雄像たる『非才の身ゆえに仲間の力も借りながらも、先頭を切り拓く英雄』の姿に似ている。帝国小隊総員の意欲も買いたいところだ。彼らが一丸となる姿は、諸手を挙げて歓迎すべきことだろう。

 実益の面から見ても最善だと言える。交渉関連においては迂拙極まる幼女。談合の場では飾り物同然の佇まいだったに違いない。口を開くたびに損害を被るのなら、適材適所の理念に基づき、出張らないが吉だ。

 しかし、己は『六翼』から長を任された身である。

 上の者として背中に感じていた責任の重み。

 それが急に退けられて戸惑いを隠せなかった。

 幼女の心境を他所に、鼓膜には複数の声が響いた。

 

「ストレーズ、俺たちはそろそろ出るが……って」

「ハキムの旦那のご令孫さんじゃないですかい」

「まだ手足が動くなら上等か。見上げた頑丈さだ」

「気骨天晴れ。されども見目痛ましきこと限りなし」

 

 窓を見遣れば、その枠の向こうに男が四人いた。

 彼らには見覚えがある。模擬戦を執り行う際に舞台を形作っていた討伐隊員たちだ。口を開いた順に、左頬から額まで傷痕が目立つ壮年の巨躯、枯葉色の外套を纏った柔和な顔立ちの青年、背に剣を斜にかけた初老の男、詩人風の旅衣を身につけた不惑なる男。

 イルルは彼ら四人に弾けるような笑みを向けた。

 

「あっ眼班(まなこはん)のみんなー! そろそろ出発ー?」

「ああ交代の時間でな。そっちも急げよ。ストレーズたち以外の角班(つのはん)は出発しているから……で、そちらの女の子。ムンダノーヴォ様の娘さんだろ?」

「そうそう、お孫ちゃんが起きたんだよー!」

「あの怪我から二日で回復か。全く、英雄の適性を持つ人間とは度し難いほどに出鱈目だ。我らが『黎明』様にせよ、ムンダノーヴォ卿にせよ──君にせよ」

 

 剣士風の男の眼差しに、ソルは心臓を射抜かれる。

 英雄の適性。その音韻が思いの外に響いてしまう。

 それはソルフォート・エヌマが生涯を通して受け取れなかった評価だった。適性という幸多き方角が己の望むほうに向いていることは稀である。そこから研鑽を重ねられることも、また稀である。ならば他者の太鼓判もなく、明確な結果すら伴わないままに続けるなど──どれだけの愚者が為せるものだろうか。

 凡人は大器晩成という名の範疇からあぶれている。

 生涯を終えるまで、結果を掴めなかったのだから。

 ゆえにこそ、彼の一言を重々しく受け止めた。

 剣士風の男は、真摯な瞳をこちらに向けると。

 

「模擬戦の戦いぶり、実に素晴らしかった」

「嗚呼、まさに『修羅』たる精神。感服極まる」

「俺としちゃ内心ドン引きでしたがね。ハキムの旦那もアンタらも、こんな女の子をボコボコにしようってんだから。ストレーズ先輩とか、あとビエニスの良心派とかが翻心求めてたのにまさか強行するたあね」

「それはもっともだが……あちらは我々と手を結ぶ仲間として来ているのだ。女だ童だと関係がない。あのときは心を鬼にするべきだった。然し……今は」

「……いえ」

 

 ソルは謝罪しかけた男の言葉を切り落とした。

 そうしてわざとらしく「ごほん」と咳払いする。

 

「お気遣い痛み入ります。ですがのう、仰る通りにわしは一人の戦士として挑みましたのじゃ。それで負った傷は自己責任。いっそ誇りでございますゆえのう」

「……童とは思えない殊勝な台詞だな」

「まあでも、ハキムの旦那の孫娘で、その髪で、帝国の次期英雄候補ってんですから。最初から只者じゃないのはわかってましたがねえ。幼にして頴悟。その年齢でこれは末恐ろしい。そんであの根性と立ち振る舞い。ホロンヘッジの阿呆みたいに素直に褒めらんねえですけど、歴戦の風格が漂っていて、まるで──」

「それは買い被りでござりますのじゃ」

 

 幼女として、そんな青年の口振りに抗議しておく。

 自らが老爺という事実だけは悟られてはならない。

 

「わしは普通の幼女です。紛うことなき八歳児ゆえ」

「八歳! イルルの半分じゃんー、若いんだねー!」

「いや若いって段じゃねーだろ十六歳」

「精神年齢が逆なのは面構えからもわかるな」

「なにをー! イルルがお姉さんなんだぞー!」

 

 ──もはやこの二人、突っ込みどころしかない。

 討伐隊四人の言外の訴えが届くことはなかった。

 おもむろに幼女は礼儀作法に則り、両手をつく。

 

「では改めて自己紹介をば。わしの名はソル。帝国軍に拾われ、先の武功で少尉の称号を預かりましたのじゃ。俚俗な喋り方ゆえ奇異に思われるやもしれませぬが、帝国小隊共々これからよろしく頼みます」

「……こちらこそ。この奇縁を大事にしたいものだ」

「いやぁ、この時点でストレーズ先輩負けてるじゃないですかい。こんな立派な言葉遣いとか逆立ちしたってできないでしょう。見習って欲しいですねぇ?」

「君だって言葉遣いテキトーなくせにー!」

 

 イルルの反撃を優男はのらりくらりと躱し続ける。

 ぎゃあぎゃあと、二人の掛け合いは騒々しい。

 異彩を放つ幼女の言動も誤魔化しきれたようだ。

 

「あー、帝国小隊のほうは心配要らないと思うがね」

「奴らは御璽契約時点から討伐に参画している。今日で行動を共にするのは三日目だ。昨晩まで色々と問題は発生したが、それも含めて半ば馴染めている。これには帝国小隊の覚悟やデュナム勢の働きもあるが、やはり一番は君の影響だということに疑う余地はない」

「……わしの」

 

 剣士風の男に見据えられて静かに視線を返す。

 彼曰く「ハキムの孫娘という要素だけではない」。

 討伐隊の六割はビエニス出身の益荒男たちで構成されている。競争社会の生残者たちはその自負があるゆえに、頑固一徹の信念を貫いている。シャイラやハキムでさえ揺るがせない。そんな彼らに存在を認められたからこそ、斯くも穏当に物事が運んでいるのだ。

 幼女の奮闘が尾を引いて、奇跡的に和を成した。

 そう無骨な口調で言い放った彼に男たちは頷く。

 

「ソル。君のことは同志と認めている。あの祝福に嘘はない。君の戦いぶりは心を打つものだった。特に私やここにいるようなビエニスの連中なら……否、この討伐隊に志願した者ならば認めざるを得なかった」

「認めざるを得ない、とは異な言い回しですのう」

「ハハ。傷があんのは顔にだけじゃねぇってな」

(むべ)なるかな。落葉の先、血染めの文は地に還る」

 

 彼らの表情に自嘲めいた感情が影として落ちる。

 刻まれた傷跡には渓谷のような深みが加わった。

 幼女は眉間に皺を寄せ、わずかに身を乗り出すと。

 

「……不躾ながら事情を訊いてもよろしいかのう」

「まーまー、長話にしかりゃしませんしそこら辺で終えときましょうよ。俺たちの予定も遅れ気味ですし、そろそろ出発しませんと交代が遅いってんで、後々ハキムの旦那にもお小言を喰らっちまいます」

「確かに。立ち話の種としてはいささか場違いか」

「だが貴様、以前から思ってはいたが……ムンダノーヴォ卿を馴れ馴れしく名前で呼ぶな。貴様もだぞストレーズ。デュナムの連中は大概そうだが、あまつさえ『黎明』様にも軽薄な呼び方をしているのは……」

「いきなりの被弾!? イルルにも説教なのー!?」

 

 イルルと優男は軽佻浮薄の物言いを窘められた。

 その後は二人の頭が稲穂のように垂れ下がった。

 さしものソルと言え、説教中に水は差せなかった。

 結局のところ、寸間に影を見せた話は雲散霧消し、事情に踏み込む機会は逸してしまった。眼班(まなこはん)と呼ばれた彼らは叱責を早目に切り上げると、別れを告げる時間も惜しむように去っていった。その忙しなさから察せられるが、事実それほど余裕はなかったようだ。

 結果、取り残されたのは相変わらず幼女と少女。

 いまや後者は萎れた花のように顔を曇らせている。

 

「ううー公的な場でもないんだしー……」

「しかし、ベクティス殿を気安く呼ぶのは如何なものかと思いますのじゃ。手に手を取り合い『根絶』討伐を志す同志であれど、友達関係とは異なりましょう」

「お孫ちゃんまでー……うう、考えとくんだ」

「ただハキムのほうは如何様にでも呼んでよいかと」

「いいんだ!? これが家族の距離感……」

 

 ──誰が家族じゃ誰が。腐れ縁関係じゃ。

 本音を胸中に仕舞い込んだとき、ふと思いつく。

 

「ついでにわしへの呼称も改めて欲しく存じます」

「君への呼称? お孫ちゃんっていうやつ?」

「はい。いささか……き、き、恥ずかしく」

「あーだよねえ。ダイジョーブ! ハキムのお爺ちゃんから事情は聞いてるよ。たしか、二人はイキワカレで、君のほうはまだ実感があんまり追いついてないーとか。慣れてなくて恥ずかしがるかもって」

 

 ──あやつも相変わらず気の利く男じゃな。

 ソルは入念な根回しに嘆息する。舌先技術のない凡人のためだろう。聞けば、彼は模擬戦の行われた日の晩に時間を取ってソルとの事情を語ったそうだ。討伐隊と帝国小隊の衆目を浴びながら、シャイラにも話して聞かせた嘘八百を。そこに、幼女がうっかり口を滑らせても修繕が効く程度の補足を入れたようだ。

 思えば、彼の口先には幾度も窮地を救われた。

 それと同様に足を掬われたことも幾度もあるが。

 とりあえずじゃ、と咳払いで執りなした。

 

「わしのことはソルと呼んでいただきたいですのう」

「うーん。ソルのお孫ちゃん、とかじゃダメ?」

「それではわしの子孫を指しているようじゃな。そもそも、ぬしの呼び方は奇妙にすぎます。なぜに家名のほうを呼ばぬのです。ベクティス殿のことはベクティスのお姉ちゃん、が正しいのではないでしょうか」

「イルルもねー、フツーだったらそうするんだけど」

 

 少女は転瞬「二人は特別なんだ」と目を泳がした。

 

「本人に聞いたコトないし、勘違いかもしれないんだけど『家名で呼ばれたくない感じかな?』ってホント何となく思ってねー、気をつけてただけなんだ」

「ふむ。家名に曰くがあるやも、と」

「あー、イルルの感覚の話だからあんまり真に受けないよーに。君にはそういうのなさそうだけど、というか家名自体ないし『ソルちゃん』って呼んでもいいんだろーけどねー、うー。君にしっくり来ないんだー」

「しっくりも何も、わしの実名なのじゃが……」

 

 イルルの感覚的な違和は話半分に聞くべきだろう。

 ちなみに迷うこと暫し、決議案は『ルーちゃん』となった。この簡素な呼称に至るまでには紆余曲折があった。「マゴ=ヨージョちゃん」「ソル=シロ=オマゴちゃん」「マッシロマシロちゃん」「ケンシュラちゃん」等々、少女には命名に関しても独特の感性を持っていた。最終的にはソル自身が提案した「ルーちゃん」なる適当な渾名に収まったという経緯がある。

 しかし、無難な意見を通すには一つ代償を要した。

 

「さあ、イルルのことはお姉ちゃんと呼ぶんだ!」

「……やはり呼ばねばなりませんのじゃか」

「イルル的には『マッシロマシロちゃん』一強だったんだけど、君がどうしてもってゆーからルーちゃん呼びを採用したんだからねー? ほらほら頑張って!」

「ど、努力させてもらうのじゃ。お……姉ちゃん」

「あー、もう、ルーちゃん可愛いんだー!!」

「……抱きついて頭を掻き回さないで欲しいのう」

 

 そして少女の指以外に、猛烈な痒みを覚える。

 齢にして六十半ば。人生で初めて「お姉ちゃん」と口にする抵抗感が駆け巡っていた。生涯を通じて形成されていた常識の殻が身体を傷つける。単語自体を拒むような感覚。それは幼女を演じる際に大なり小なり自身を苛むものだったが、今回は比類ない強烈さだ。

 一方、少女は得意げに人差し指を突き上げる。

 その挙動からは年長の気配が皆無に等しかった。

 ただ姉気分に浸りたいらしく、気炎を上げている。

 それは、腕を振り回し始めた様子からも窺えた。

 

「ようし、気分も上がってきたところで! ルーちゃん、いま何か聞きたいことある? イルルは討伐隊の代表者さんだからね、今回の討伐のことに対してすっごく物知りさんなんだよ。気になることがあれば、なんでもこのイルルお姉さんが教えてあげるんだ!」

「……では、幾つか問うてもよろしいかのう」

 

 現時点で最も気にかかる不明瞭な点は目前にある。

 イルルたちの存在自体、と言い換えられようか。

 

「まず、ぬしたちはデュナム公国軍、ハキムたちはビエニス王国軍ですじゃろう。そしてあの報告会での役回りや言動を見るに、此度の『根絶』討伐隊はビエニス主導のものと睨んでおりますが、どうでしょうか」

「うんうん。間違いないんだ!」

「ではなぜにデュナムが参画しているのでしょう?」

 

 ビエニスとデュナムは表向き、同盟関係にない。

 デュナム公国は大陸の僻地で産声を上げた。

 それから現在に至るまで目立った活躍はない。浅い歴史、ささやかな領地には緑ばかり。特産品に目を惹くものはなく、国名を知らしめるほどの大英雄はおらず、国境を跨いだ人の往来も並程度。しかしデュナムは『天下の弱兵』なる悪名で大陸に名を轟かせた。

 惰弱なものを喩えて、彼らの名は頻繁に使われる。

 前向きな慣用句を取り上げるならば『肩組みひとつでデュナム人でも盾代わり』がある。たとえ散木であれど束ねれば相応に役立つの意である。だが『脳味噌足らずのデュナム人は頭数だけ』とも言う。大愚が雁首を揃えたとて、塵の山に等しいの意である。

 悪しき言い回し極まるが、何も流言飛語ではない。

 どれも元となる逸話が実際に存在しているのだ。

 鮮烈なものと言えば、数年前の騒動が挙げられる。

 

(まあ、傭兵間で広まった噂じゃが)

 

 ──デュナム公国が援軍を送り込んだときのこと。

 その戦地では苦戦が続いていた。消耗戦の色も見え始め、絶望感が漂っていた。ゆえに援軍の知らせを耳にしたとき軍兵は大層な喜びようだったそうだ。遂に到着予定日を迎え、一日が過ぎ、二日が過ぎ、されど援軍の姿は影も形も見えなかったという話である。

 このときの顔色の翳りようは想像に難くない。

 結局、援軍は遅れ馳せること三日後に到着した。

 何があったのかと聞けば、曰く「すまん。美味そうな実のなった木があったもんでな。たらふく皆で食ってたら援軍命令忘れちまってヨ。気づけば首都に引き返してたネ」と、公国軍を率いていた男──デオグレット・ヴォルケンハイムは悪びれず答えたらしい。

 能天気にして陽気、脳内お花畑の生きた標本。

 その形容こそがデュナム人に対する一般論だった。

 

「あーまー不思議だよねー。うちの国はデオたいしょー以外だと有名な英雄さんもいないし、そこまでハキムのお爺ちゃんのトコと仲いい感じもないからね。帝国小隊の皆からも『何でー?』って言われたんだー」

「やはり関係が不明瞭ゆえ奇妙に思いますのじゃ」

「資金難ってヤツなんだよ。世知辛いんだー」

 

 イルルは瞑目し、虚空で指先をくるくると回す。

 公国は深刻な財政危機に直面しているらしい。

 その原因と言えば、今世紀最高の暗君の呼び声が高い、現デュナム君主の浪費癖によるもののようだ。これを補填するために『根絶』討伐隊の一翼を引き受けたという。つまり彼らはビエニス王に金銭で雇われている立場であり、任務失敗は破産を意味している。

 陽気な言動の裏で国家の安危がかかっていたのか。

 少女は目を逸らして人差し指の先同士をくっつけ。

 

「もちろんね? イルルたち以外だって色々資金集めで頑張ってるんだけどー、結構カンバしくないらしくて。でもビエニスの王様がすっごく羽振りよくて、いつの間にかこの任務がお国回復の柱になっちゃって」

「『根絶』討伐の浪漫に惹かれたわけではなく?」

「あはは。ごめんね? きっかけは現実的にお金が目的だったんだー。でも、ずっと一緒にいたら皆のことが好きになっちゃって、いまは討伐自体にも意欲アリアリ! それはデュナム側のソーイってやつだよ!」

「では、ストレーズ殿……ストレーズお姉ちゃんは」

 

 ソルは律儀な幼女であった。

 その報酬とばかりに少女から頭を撫で回される。

 

「うんうん、イルルはお姉ちゃんなんだ。そして?」

「……はい。お姉ちゃんはビエニス側の事情を何か知っておりますのじゃか、と尋ねたく存じます。彼らの『根絶』討伐を志す理由も、ひとえにビエニス王から下賜された任務ゆえ……なのじゃろうか。それとも」

「うーん。イルルが言っちゃダメなやつなんだよね」

「何やら込み入った事情があるのでしょうかのう」

「そんなことないんだけど──とと、来たみたい」

 

 頷きを返した矢先、医務室の木扉が叩かれた。

 イルルは耳をピンと立てて振り向く。彼女の口ぶりと機敏な反応からは、まるであらかじめ呼んでいた人物の来訪を待ち侘びていたような印象を受けた。

 幼女は戸惑いを露わにしつつ、少女に手を伸ばす。

 

「その、ストレーズお姉ちゃん。来た、とな?」

「あっまだ説明してなかった! えっとね、ちょっと遠回りな話なんだけどね、実はルーちゃんとイルルは討伐隊のなかじゃ同じ班なんだ。君が眠ってる間に決まったことで急な話だと思うだろうけど、君とイルルともう一人ってゆー三人組でこれから一緒に作戦行動するんだ。で、いまその最後の人が来たかなーって」

「要するに『これから共に行動する仲間が来た』と」

「よき理解! じゃ入ってどうぞーっ!」

 

 木扉は軋む。イルルに促され、緩慢に開いていく。

 屋外の光を連れてきたのは──青蛾の女だった。

 歩くたびに紫紺の髪が二房、腰付近で揺れ動く。

 その毛先で腰に帯びた長大な鞘を擽っていた。

 

「……貴女は」

「おはよー、ほらほら見て! いまね、この子が目覚めたトコなんだ! 体調は大丈夫だから安心して。身体の傷も塞がってるし、前みたいに慌てなくてヘーキだよ。さっすがハキムのお爺ちゃんの孫だよねー!」

 

 少女は橙の毛を揺らして、鼻高々に言ってのけた。

 それに頷きもせず──女は悠然と立ち止まった。

 その女の美貌は、幼女の鈍い感性でも理解できる。

 たとえば彼女の藍色の目元や口許には、濃い憂愁が宿っている。それらは明眸や花唇、雲鬢といった美人の形容と反していて、人間的な生命の美など感じられない。見るだに血が通っているか怪しい素肌や細腕は不健康そのもの。だが最終的に「影のある麗人」という心境に落ち着かせるあたりに恐ろしさがあった。

 精巧な造形美で感性を捻じ伏せているかのようだ。

 彼女こそはあらゆる畏怖と憧憬を受ける大英雄。

 

「ベクティス殿。拝謁、久方ぶりでございのじゃす」

「時々訛り方すごいねールーちゃん」

「卑俗の生まれゆえ御寛恕いただきたいのです」

 

 見紛うはずもなく彼女は『黎明の導翳し』だった。

 ソルを公衆の面前で滅多打ちにした当人でもある。

 だが、幼女はひとまず胸を撫で下ろした。

 

(よかったのじゃ。あの模擬戦でベクティス殿が気に病んでおったら申し訳が立たんかった。元を正せば、わしの無理を通してくれた御方じゃからのう)

 

 あのとき、模擬戦終盤に見せた錯乱状態。

 ハキムは流すように「心配せずともよい」と言い添えていたが、尋常ならざる彼女の容体を案じないはずがなかった。だが見る限り顔色に異状はなく、羽織っている軍服や軽鎧には戦闘の痕跡すらも窺えない。

 どうやら真に平静を取り戻せているようだ。

 

「とゆーか、話し方が固いよルーちゃん! 仲間なんだし、もっと砕けてもいいんじゃない? これから一緒に行動するんだし、タニンギョーギすぎるよ」

「先ほどはそれで叱責を受けたばかりでは……?」

「ふふん。こーゆーのはアンバイってゆーんだよルーちゃん。ほらよく言うでしょ『ハンパトアンバイハセナカアワセ。リョーリモカゲンガヒツヨウダ』って」

「……初耳です。無知に恥入るばかりですのじゃ」

「あの、その……」

 

 静かな小声は掛け合いの寸間に染み入った。

 シャイラの控えめな瞼が、遠慮がちに上げられる。

 そうして、こちらの姿を捉えるや否や──。

 

すみませんでし(・・・・・・・)()……!」

 

 ぶわりと、目元に豆粒大の水滴を溢れさせた。

 涙堂に溜まったそれが決壊し、滂沱と流れ始める。

 ソルがそれで呆気に取られた瞬間だった。勢いよくシャイラの頭頂部がこちらに向く。足腰で為す角度は直角すら越えて鋭角に至る。張力で丸まって真珠めいた涙が空中に散らばると、二尾の紫紺が反り返る。

 幼女は常軌を逸した光景を徐々に飲み込んでいく。

 表面的に受け止めれば、彼女は謝意を示したのだ。

 泣きながら頭を下げて──許しを乞うように。

 

「……申し訳ないです。私のせい、で」

「ちょっ!? ちょっと、シャイラのお姉さん!?」

 

 青天の霹靂。その形容が過言ではない事態である。

 仮にも一国を背負う大英雄のすべき態度ではない。

 尊崇の眼差しを砕き、敬慕の念を凍らせてしまう。

 そもそも、何に対する謝罪なのかも不明瞭だった。

 イルルすら口をあんぐりと開け、呆然としている。

 

「ストレーズお姉ちゃん。これは一体……?」

「……うーん。お説教案件、なんだ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 数分後。扉を厳重に閉めきった医務室にて。

 ローブ姿の少女が腕を組み、仁王立ちしていた。

 彼女の内心の意気込みは鼻息の荒さに現れている。

 その紅い目線は寝台同士の隙間たる手狭な床、そこに座している妙齢の女に向けられていた。項垂れ、脚を折り畳んだ姿には物悲しさを感じるばかりだった。

 幼女は戸惑いつつも寝台の上から傍観している。

 

「もー、ハキムのお爺ちゃんも口酸っぱくして言ってたでしょー! 簡単に頭は下げちゃダメ、君は四大将の一角なんだから。お姉さんの頭がお買い得になったらビエニスの皆にシメシつかないでしょー! イルルたちの公王のテレミンせんせーも、あんな銅像建てて国庫を食い潰したって頭下げなかったんだから!」

「あの、それは……それで、問題です、けど」

「ホントにそーなんだけど! だからイルルたちがここにいるんだけどっ……うー話が逸れちゃった。いまはシャイラのお姉さんの話なんだ!」

 

 イルルの柄にもない叱責は依然として続く。

 その焦点は、シャイラの非常識ぶりに絞られた。

 先刻は少女の非常識が咎められていたが、翻然と立場が上方に変わっている。それだけシャイラの奇行が抜きん出ていたということなのだ。風儀のよろしくない幼女ですら困惑を隠しきれなかったほどである。

 これを巻き起こした当人は顔を伏せつつ呟いた。

 瞳に涙の残滓を溜め、影を含んだ紫紺を揺らす。

 

「でも、私、もしハキムさんがいなかったら……ソルちゃんのこと。串刺しにして、ました。本当なら駄目なんです。謝るだけじゃ足りない、です。だから」

「だから、じゃないよー。君はもっとジブンってのを見なきゃ! ごめんなさいするなら考えてって、ハキムのお爺ちゃんにだって注意されてたでしょー」

「あ、あー。わしは気にしておりませんゆえ……」

 

 どうやら彼女は模擬戦のことを詫びているらしい。

 第一に、ソルを散々痛めつけたこと。第二に、そもそも彼女の指名を受け入れてしまったこと。第三に、終幕間際で禁を破って剣の針鼠にしかけたこと。訥々と後悔の内容を舌に乗せ、更に背を曲げていく。

 一方、幼女はひどく落ち込んだ。いずれも好意的に解釈していた事柄である。容赦はあれど遠慮のない剣撃で迎え撃ってくれたこと──無謀な指名を受け、舞台に上がってくれたこと──この二つに関しては、ハキムの孫という配慮が介在したにせよ、曲がりなりにも戦士の線引きに入れた証拠だと思っていた。

 しかし、シャイラ本人から直々に訂正された。

 

(わしは……あの一戦に誇らしさすら覚えていた。四大将と対峙できたことは剣士としての誉れ。それも努力の英雄との対峙。英雄愛好家としても誉れで──)

 

 だが、シャイラはあの模擬戦の意義を否定する。

 あれは自らの過ちで、偽りない罪なのだと。ゆえに贖罪か断罪かを被害者に乞うているのだと。当然その行為の疎漏は自覚していたが、立場をかなぐり捨てた姿勢を取るほどに悔いていたと──彼女自身の釈明を噛み砕いてはみたが「浅薄」の一言で切り落とせた。

 まず、高みからの過度な謝罪はその用を成さない。

 それは許しを乞う意味を飛び越え、ただ受け取り手を恐縮させるだけの奇行と化す。ともすれば暴力にも等しい行為なのだ。たとえ曇りなき悔悟だけを胸に秘めていたにせよ、自らの良心の呵責に耐えきれなかったにせよ、方法を誤ったことは疑うまでもない。

 そして何よりソルを落胆させたのは彼女の態度だ。

 これは同胞ではなく、庇護対象に対するそれだ。

 

(否、それも当然かのう。わしは小狡く立ち回るばかりで、正面から押し通ったわけではない。無力感すら覚えるに能わず。元よりあの一瞬にハキムの横槍が入った時点から、これがベクティス殿に認められる機になり得ないと悟っていたがのう……口惜しさは残る)

 

 自らの力不足にはただただ臍を噛むしかなかった。

 それを他所に、イルルの叱責は打ち切られていた。

 少女は額に手を当て、すとんと寝台に尻をつく。

 

「まー、お説教はこのくらいにしとくよ」

「はい。ごめんなさ、い。また勝手なこと、して」

「いやいやー。イルル的にはその気持ち自体すごく立派だと思うんだ。だから気にしないで! 一応これもハキムのお爺ちゃんから頼まれてたことだし」

「……ハキム、さんから?」

「そーそー『二人の面倒を見といてくれや』ってね」

 

 ──ふふん、お姉さんは色々頼られてしまうんだ。

 少女は満更でもなさそうに頬を掻き、片目を瞑る。

 実に恰好のつかない背伸びである。年長者の気配は依然として薫らない。心身両面の年齢を秤に乗せ、片側にソルとシャイラの年齢を乗せども、少女が釣り合いを崩す要因にはなり得ない。見目年齢ではシャイラより下、実年齢ではソルよりも遥か下なのだ。

 落ちた転瞬の沈黙が少女以外の総意を示していた。

 

(では、次はわしの出る幕……ということかのう)

 

 ソルは底冷えした空気を吸い、肺腑に巡らせる。

 下方から這うような視線が送られてきていた。一種の期待を含んだそれに小さく身震いする。第三者から一通り叱責を受けたのだから、最後は当事者に裁定する役所が回ってくることは自明の理だった。

 目を遣れば、雨曝しの子犬を思わせる女がいる。

 

「……ベクティス殿」

「ごめんな、さい。そんな風にしてしまっ……て」

「貴女に非はございませぬ。むしろ、わしのほうこそ詫びなければならぬ身でございますのじゃ。心をかけられた側でありながら、構わず我を通し──」

「そんな、こと……!」

 

 シャイラは涙滴を散らし、勢い立って面を上げる。

 

「だって、痛くて、苦しい思いをさせて……」

「元よりわしが剣士として望んだものですのじゃ。痛苦は覚悟の上でございます。それでも、あのとき貴女はわしの不躾な挑戦を引き受けてくだすった。そこに対する張り裂けんばかりの好感はあれど、恨みなぞと抱く謂れもございませぬでしょうのじゃ」

「でも……それじゃ私は」

 

 ──私が、許せなくなってしまい、ます。

 落葉めいた目線は空中を泳ぎ、最後は地に落ちた。

 憂愁の面差しからは、感情の決壊を土俵際で堪えているように感じられた。彼女の腕は緩く曲がり、ぴたり閉じた太腿に収められている。両手指はその場に蹲って布地に皺をつくっていた。その谷間の深みにこそ小心翼々とした彼女の態度の頑強さが窺えた。

 ソルはひとつ息を漏らしてイルルに目配せする。

 ──お姉ちゃん、何やら秘策はござらぬですか? 

 ──ふふんお姉ちゃんです。秘策はないけど。

 少女は鼻を膨らませて偉ぶりながら頭を振る。

 

(な、何かないものかのう……)

 

 態度と回答の不一致に惑わされつつ困り果てる。

 これで一縷の望みも潰えてしまった。ソルとしてはイルルと共同で懐柔したかったのだが、元より可能ならすでに手を打っていただろう。根本的な解決策が必要、という見立ては彼女と一致しているらしい。奔放な大英雄の自責の念を破り、気を晴らす方法が──。

 そこで不粋な手拍子がぱちんと思考を打ち切った。

 音の主は、先ほど助けを求めたイルルだった。

 

「あ、そーだルーちゃん。いま思いついたんだけど、ここはシャイラのお姉さんにお願いを一個きいてもらうのはどうかなー? こーゆーのはめったにない、センザイイチグーのキカイってやつだと思うよ!」

「お願い……ですかのう。しかし……」

「ほら、シャイラのお姉さん的にはどー?」

「ください。私にできることなら、何でも」

 

 はたと足元を見れば、ずいと迫るシャイラがいる。

 思わず尻で後退った。彼女の深藍の瞳からは涙の雨雲が拭い去られ、ただ残照のような期待感を浮かべられている。それは艶冶なる所作に似つかわしくない奴婢めいた体勢から向けられたものだが、不思議と卑しさは覚えなかった。さしずめ美貌と卑屈が背馳せずに同居しているとでも言うべきか、馴染んでいるのだ。

 普段も淑女にあるまじき姿勢なのかと疑いかける。

 

(しかし、何にしても状況は打破されたのじゃ)

 

 ソルはその立役者に感謝の眼差しを向ける。

 その当人はこちらに這い寄るシャイラを牽制し、ちょうど二人の間に割り込んだところだった。首を反らして密かに片目を瞑ると、去り際に囁いてくる。

 ──キューバジタテだけど妹分は助けないとね。

 

(心よりの感謝をストレーズ殿に捧げよう)

 

 ハキムから二人の目付役を見込まれただけはある。

 加害者の罪悪感を打ち消す手段は幾つか存在する。

 ひとつは実際に罰を与えること。もうひとつは被害者の一助となること。そのための代償は度外視で、むしろ失えば失うほど罪悪感は希釈され、一息で酒とともに飲み干せる程度には誤魔化せる。何にせよ加害者が『罪を償っている』という自覚さえ持てればよいのだ。畢竟、許しとは自らが自らを許容できるかだ。

 先ほどのイルルの提案は後者だった。これならば主戦力の大英雄に無闇な罰を与えて討伐に支障を来すこともなく、ソルにも役得が大きい。討伐隊全体としても各個人としても、都合のいい交換条件である。

 願いを叶える代わりに模擬戦の不始末を水に流す。

 そうなれば、自ずと願いはひとつ答えに集約する。

 ──わしの、ベクティス殿への願いは。

 

「もう一度。再び剣を交えてはくれませぬか」

「え。でも、それは……」

「次こそ遠慮無用、心胆震わす真剣勝負を。その剣には貴女を貴女たらしめる悉くを込め、この剣にはわしの持てる全霊を注ぎ、刃を交えたく存じます。此度の模擬戦では力不足から醜態を晒しましたがのう、今度は貴殿の元まで届かせましょうぞ」

 

 シャイラの期待に満ちた表情はそれで剥落した。

 彼女が言い淀むのも無理はない。なにせ模擬戦のことすら悔いていたのだ。あまつさえ生死のかかる真剣勝負。怪我をさせた代償にそれの死を要求されるなどと道理に背く話ではないか。腑に落ちないだろう。

 ソルの精神性を知らねば──夢という悪疾に犯され抜いた本性を知らねば、端倪すべからざる願いに響くに違いない。英雄を渇仰しながらも賞翫し、不遜にもその彼方に手を伸ばす不心得者。彼女もまた模擬戦に対して悔いを残していたのだ。今更、気づかされた。

 まだ、憧憬の先に立つ英雄に認められていないと。

 シャイラは正気を確かめるように問うてくる。

 

「……本気、なんですか」

「頭から真剣に申しておりますのじゃ」

「次は──殺して、しまうかも。悲しみ、ます」

「ハキムなら勝手に悲しませておけばよいのです」

「それは……だめです。だって、もう」

「それとも」

 

 問答を一言の下に切り伏せ、身を乗り出す。

 

「この幼い願い。跳ね除けてしまいますかのう」

 

 シャイラはその言葉に唇をぎゅっと絞った。

 無責任に「私にできることは何でも」と請け負ったことを後悔しているのだろうか。だが彼女はもはや願いを唯々諾々と受け入れる身だ。導翳しとあろう大人物が軽率に前言を撤回することはないだろう。つい数分前に少女からこってり叱責を受けたばかりなのだ。

 ゆえに幾度も葛藤を重ねても、結末は変わらない。

 

「……やはり、あなたは度し難い狂人、です」

「褒め言葉として受け取りますのじゃ」

「そう……これは、褒め言葉、です」

 

 シャイラは諦めたように言い、立ち上がった。

 そして腰に帯びていた長大な鞘ごと引き抜く。

 

「わかり、ました」

「それはつまり」

「いつか。いつか必ずです。約束しま、しょう」

 

 ソルは歓喜のあまり思わず喉を鳴らした。

 シャイラは鞘を手ずから取った。金打(きんちょう)の作法だ。

 金打とは主にビエニス周辺地域──大陸南西部に伝わる誓約法である。互いに一番大事な品物を打ち、音を鳴らすことで約束の履行を誓うのだ。婦女子の多くは鏡を、魔術師は杖を、武人同士ならば己が命を預ける武具をもって『その誇りにかけて約定を果たす』という意志の下、音を合わせると聞いたことがあった。

 今回は互いに剣士だ。己の剣を鳴らすことになる。

 鞘から一寸ほど剣を抜き、戻す際に音を立てる。

 これを示し合わせて行えば、契りとなる。

 

「…… と、流儀自体は心得ておりますものの」

「あ、その、ソルちゃんの剣、鞘は……?」

「生憎と元から存在しておりませぬ。なれば」

 

 ──この流儀で結ばせて貰いたく存じますのじゃ。

 ソルは剣から包帯を剥いでいく。覆い隠されていた剣身が外気を待ち侘びてか、身震いするような感覚がした。あるいは望んだ戦を予定に据えられたことに武者震いしているのか。もしや単なる錯覚か。ある西方の地域ではむかし「剣は使い手の鏡」という言説があったが、彼らがそう信じる理由も理解はできた。

 この身が老骨となるまでに幾度かそう錯覚した。

 しかし、相変わらず彼女は明確に否定してしまう。

 剣は美しい。ゆえに使い手の心の鏡ではない。

 これは「剣士たる者こうあれかし」という見本。

 剣士の極点に立った者のみ『己が鏡』と言えると。

 

(わしは言えぬ。一人前どころか半人前のわしでは)

 

 緩く開いた手に、一糸纏わぬ艶やかな刃を乗せる。

 かれこれ数十年振るった馴染みの剣だ。いまだこれに見合う英雄になれず、持て余してやいまいか不安に駆られることも一度や二度ではなかった。これを打った鍛治師曰く「これはアンタの剣」とまで買い被られたが、果たして未来の姿はその想像通りだろうか。

 きっと失望するはずだ。だからこれも脱却の一歩。

 ソルは諸手で握った剣の鋒を、直下の床に向けた。

 

(これは、わしの身に余る高潔なものじゃが)

 

 ──両手で得物を掴み、地に突いて音を立てる。

 これは大陸西部、騎士の一騎討ちに則った作法。

 その発祥を辿れば、武人同士の誓約が源流だ。履行を誓う場には適していると言えよう。ただ幼女が行える礼節は少なく、消去法で絞られた結果だが。

 幼女は確認の意を込めて上方の美貌に目を遣る。

 

「よろしいでしょうか」

「もちろん、です……ソルちゃんは物知りです、ね」

「いえ、流石ベクティス殿もよくご存知で」

「……本を読む時間は、多かったんです」

 

 そこでシャイラは一息を吹き、粛然と場を整える。

 これは子供の指切りではなく武人同士の契り。

 単なる幼子という認識を覆す足掛かりには十分だ。

 

「剣士としての誇りにかけ、約定は違えぬと──」

「導翳しとしての矜恃にかけ、約定は違えず──」

 

 その一瞬。互いに視線を交え、相手の覚悟を問う。

 女は立てた黒塗りの鞘からわずかに剣身を晒した。

 透徹した剣身。その内側を毛細血管めいた紋様が這っていた。否、紋様ではなく文字だ。きっと魔術的な効験を付与した魔剣だろう。模擬戦では目にすることも叶わなかった一振りを凝視したかったが、意を決して打ち切る。また目にする未来に興奮を預けておく。

 幼女は瞳を閉じて、ただ一言に万感を込めた。

 

「誓うのじゃ」

「誓い、ましょう」

 

 かちり──と、室内には音がひとつ転がる。

 こうして、武人同士の約束事は確と結ばれた。

 もちろん魔術的な制裁のある御璽とは違う。ゆえに重い。剣士の魂である剣に誓った望みを違えれば、それは誇りを捨てると同義。誇りなき非人の烙印を押されるは生涯の恥である。ならばこの約束はいつか必ず果たされる。ソルにはそれが楽しみでならない。

 ほうと息を漏らす。なんと心地よい気分だろう。

 潮が満ちていくように静寂が足元から浸していく。

 だが、その余韻を味わう時間は長く続かなかった。

 

「それじゃこれで一段落だね! よかったよかった」

「……あの、その、一緒に止めてくれて、たら」

「いやー提案したのイルルだし止めづらくって」

「ストレーズお姉ちゃん。感謝の至りにございます」

「それにー。イルルはお姉ちゃんなんだしー」

「わ……私が来るまでに、何が」

 

 ──全くでございますのうベクティス殿。

 幼女は声を漏らさず静かに首肯する。その間にイルルから肩を掴まれて身体を抱き寄せられていた。抵抗しづらい立場上、為すがままにされざるを得ない。

 シャイラが辟易するように後退り、閑話休題。

 現状整理の題目で、三人は顔を突き合わせた。

 

「まあこれで、みんな打ち解けたということで!」

「然りのじゃすな。そして確か……わしを含めこの場の三人が班員と言っておりましたのう。『根絶』討伐のため、我々は如何に動けばよろしいのでしょう?」

「うんうん、それが本題なんだけど、どーしよかな」

「段階踏んで、ちょっとずつ。行きましょう」

「だね! 目標は『根絶』討伐! とゆーことで」

 

 ──それにあたって色々確認しとこっか!

 イルルは思案の方向に目を遣り、下顎をなぞった。

 

「ルーちゃんは獄禍のことってどこまで知ってる?」

「人並程度には。帝国小隊は元より獄禍討伐を理由に集められましたがゆえ、基本的な情報は押さえておるつもりですのじゃ。他の小隊員は幾度も討伐しておると聞いておりますが、わしともう一人は初めてで」

「なるほどなるほどー。じゃあ『根絶』のことは?」

「英雄譚でその巨影を見る程度、ですのう。なにぶん物語で打倒されたことのない怪物。どうしても語り手から脇に置かれる存在でしたゆえのう」

「まー、お伽話で倒されてたらよかったんだけどね」

 

 ソルは生前に溜め込んだ知識を掘り返す。

 原罪の獄禍。彼らのうち特筆すべき個体は三体。

 『根絶』『反転』『至高』。万人は口を揃えて「名を呼んではいけない」と言うだろう。名を口にすれば呼び水となって寄ってくる──と、そう畏怖される所以はその広大な行動範囲にあった。他の四体が自ら定めた根城で蟠踞しているからこそ、異質だった。

 記録上、彼らの侵攻を受けた地域に偏りはない。

 東は帝国の下端グレイ地方、西はラプテノン王国の国境付近、北はセレスニア共和国の首都カーディア、南はビエニス王国の第三位都市サルドナ。気の向くままに東西南北を闊歩する。さしずめ生きた災害だ。

 この三体のうち『根絶』の被害は最たるものだ。

 

「まず『根絶』。その特徴は──って言いたいケド」

「あまり……断言、できない、です。支持してくれた国の文献も総出で探しても……矛盾の多い、憶測や推理ばかり、で。信頼できる資料が、少なくて」

「それは……噂に聞く、霧のせいですかのう?」

 

 イルルは頭巾の縁を揺らし、夕陽色の髪房を零す。

 

「そうそう。だけど実際には霧じゃなくてマナ(・・)。『根絶』の周囲には霧状の濃ぃーマナが覆っててね、それが本当に厄介なんだ! あんな濃いと魔術は掻き消されちゃうし、すごく身体にも悪いし」

「内側に、行くほど……物理的にも、消されて」

「霧の外から遠距離でどーんってのも難しいんだー」

 

 マナ。大気中に漂っているとされる魔力の総称だ。

 ソルには魔術に対する学はない。ゆえに説明を聞いて連想したものは在りし日の記憶だった。そのとき雇い主だった妙齢の魔術師からの零れ話として。

 ──本質的に、魔の文字通りに魔力とは毒だ。

 ──我々は少なからず毒を含んで生きている。

 ──私などは嬉々として身体に回しているがな。

 

(当然、いまもわしたちが肺に取り込んでいる程度の濃度ならば人体に害はない。しかし、件の霧のマナ濃度は大気のそれを遥かに越しておるようじゃな)

 

 曰く「『根絶』が放出する霧は攻防一体を為す」。

 高みにある舞台は大根役者を箔だけで圧倒する。

 隔絶したマナ濃度はそれに見合わない魔術強度のものを触れた途端に打ち消して(・・・・・)しまう。魔術強度とは文字通りに魔術の耐久性のことだ。それはどれだけ緻密に編まれたか、どれだけ濃密、高純度な魔力で編まれたかで左右されるらしい。これが高ければ高いほどに外的要因や内的要因で崩されず、掻き乱されない。

 しかし、生半可な強度では打ち消されてしまう。

 

(ふむ。圧力のようなものなのじゃろう)

 

 以上の説明を受け、ソルは門外漢なりに咀嚼する。

 たとえば深海。そこでは水圧に耐えるだけの強度がなければ潰されてしまう。同様に『根絶』の霧は魔力的にも高圧であって、霧を抜くためにはそれらを凌ぐだけの耐久性が必要だと言いたいのだろう。だが討伐に通暁している彼女たちの語調は現実的と考えていないそれだった。何にせよ正面突破は困難なのだろう。

 これを大前提に置けば、突破方法は限られる。

 

「打倒するには霧をまず払わねばならん、と?」

「カンがいいねえルーちゃん! 大正解なんだ!」

「でも、難しいです。ただの霧なら……強風や気温を上げれば……払え、ます。でも、超高密度のマナを物理的に払うことは現実として難しい、です」

 

 シャイラは深青色の目線を控えめに側める。

 

「……他の方法として、魔力の特質を利用することも考えまし、た。魔力は編んで固めなければ、大気のマナに希釈されて、徐々に溶け出していきま、す。けど『根絶』は体表から霧状のマナを噴出します。濃度が薄まる前に補充、常に維持され、てしまい──そのままでは私たちの、突破口足り得ませ、ん」

「この永続的な循環を前に……如何に討伐を?」

 

 ソルが純粋な疑問を投げかけると、首肯した。

 

「……魔力を補給する根本を断ち、ます」

「根本。どこかに補給元がある──のですかのう」

「はい。『根絶』と繋がった……獄禍たちで、す」

 

 そこで討伐隊が着目したのは魔力収集用の獄禍だ。

 当然、霧の生成には莫大な魔力を必要とする。生半の魔力供給ではすぐに枯渇してしまう。そのため『根絶』は二十体もの獄禍を従えているという。彼らは地理的にマナの吹き溜まりに派遣され、『根絶』と繋がった補給管を通し、収集した魔力を本体に供給しているようなのだ。これを断ちきり、霧を突破する。

 これを耳にした幼女にも思い当たるものがあった。

 

「もしや、ジャラ村に鎮座しておった獄禍は──?」

「あーハキムのお爺ちゃんが倒したやつかな? 君たちが帝国の『六翼』の人に受けた任務の? それならそーだよ! イルルとハキムお爺ちゃんで行ってね」

「なるほどですのう。目的物は同一でしたのか」

「本当に、運命みたいな……」

 

 シャイラの呟くような声色の残滓を掻き消し──。

 少女は朗々と「そんなわけで!」と宣言した。

 

「これからイルルたちがすることは『魔力を集めてる獄禍を倒しにいくこと』なんだ! 明日中にはまたここに帰還する予定だから、ルーちゃん! 身支度を済ませたらすぐに出発するよー!」

 

 ローブの裾を翻して、人差し指を天に突き立てる。

 

「いざ、怪物退治なんだ!」

 



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12 『不穏不吉の影』

 集落ケーブ周辺の地理にはなだらかな傾斜がある。

 この付近を台地として、下り坂が這うように広がっている。丘陵と言えばやや言葉が過ぎるものの、湖から流れる穏やかな河川が数十と巡り、森林に水分という恵みを施していた。そのため一帯には豊かな植物が生い茂り、不心得者がひとたび足を踏み入れれば、立ちどころに大自然の洗礼を受けることになる。

 視界を狭める木立と背の高い草花。掻きわけて進まねばならない草葉の海は、木々の息嘯めいた仄暖かい風によってその波面を揺らしている。葉々は夜陰の色に染まりつつも、まだらに夕陽色の光沢を見せる。

 そんな大自然の海を横目に──女が立っていた。

 俯いて、膝まで伸びた草を軍靴で踏みつけると。

 

「ふ、う」

 

 女は紫紺の髪を踊らせ、白魚めいた指を操る。

 夕陽の紅に染まった線が指と指の隙間で煌めいた。

 転瞬、無数の糸が宙空で剣の輪郭を紡いでいく。

 緻密に編まれていく糸の塊は、剣形を象った途端に切先から鋼に変質していった。水分が行き渡るように柄まで到達すれば、それは一振りの両刃剣と化した。

 彼女はそれを慈愛すら感じさせる手つきで撫でる。

 すると、剣はさながら意思を宿したように跳ぶ(・・)

 そして一直線。獲物を見据えた鷹のように飛ぶ(・・)

 

「お見事、ですのじゃ」

 

 刃が捉えたのは、草葉の陰に隠れていた白兎。

 二丈の距離を物ともせず正確に射抜いてみせた。風を引き裂き、首筋を貫き、瞬く間に絶命せしめた。矢と見紛わんばかりの一閃。吹いた風に命を刈られたようなものだ。きっと苦痛すらも一瞬だっただろう。

 そんな兎を掬って抱え上げたのは──幼女。

 地面に縫い止められた身体から丁寧に剣刃を抜く。

 彼女は脇と腕とで、すでに二匹の兎を抱えていた。

 

「これで三匹目。今晩の糧としては十分ですのじゃ」

「はい。そろそろ……戻りま、しょう」

「森の夜道は危険が付き物ですからのう」

「……はい。イルルさんのところ、戻りましょうか」

 

 時の頃は夕刻を越えて、宵の淵を迎えていた。

 ソルに、魔力収集用の獄禍討伐という目的が明かされたのは正午のこと。それからソル一行は獄禍討伐と勇んで集落を出た。だが道中は当然ながら整備されておらず、討伐隊の馬脚に頼ることはできない。三人は徒歩で目的地まで向かう必要があった。その上、討伐対象の獄禍までは日を跨がねば到着できない距離にあり、必然的に露宿で夜を明かさねばならなかった。

 ゆえにこそ、目的地半ばで夕餉の調達をしている。

 いまは今夜の主役を飾る兎肉を獲ったところだ。

 三人分で三匹。極めて大雑把な目算である。

 

「しかし、わしとベクティス殿が食糧調達。ストレーズど……お姉ちゃんがそれ以外の露宿準備すべて。やはり役割分担として偏っておりますのう。ストレーズお姉ちゃんの采配に口を挟むわけではないものの、これならば一人でも任に足りたと思いますのじゃ」

「みんな……ソルちゃんが、心配なんで、す」

「ですのじゃか」

「はい」

 

 シャイラは短く答え、二人とも歩き始める。

 辺りは騒がしい。そう感じられるほど静かだった。

 人気から遠いからこそ捉えられる自然の息吹は、耳を澄ますまでもない。虫のさざめきや獣の遠吠えに限らず全方位から流れ込んでくる。草葉の頭が風のひと撫でで揺れ、細波のように葉音が広がる。草叢を踏むたび雨礫か水飛沫の音めき、それに分け入る二人の呼吸音はさながら交互に櫂を練るようだった。

 そして、また息をすぅと吸い込んだ彼女(・・)──。

 

(ど、どどど、どうしましょうか……)

 

 シャイラ・ベクティスは冷や汗が止まらなかった。

 ただその気配は極力おくびにも出さない。出さない気概はある。もはや『あった』と言うべきか。澄まし顔を必死に繕いながらも、しきりに空を仰ぐようにして上方に目線を遣り、そのたび音を立てて息を吸う。

 傍目に見ても困り果てた様子だが、無理もない。

 二人の間に沈黙が訪れて、すでに数分経っている。

 二人の間に会話が途切れ、すでに数分経ったのだ。

 

(あまりに気まずい空気です……謝罪するときもソルちゃんに気遣わせてしまって、私、もうどうしたら)

 

 ことにシャイラは、人付き合いが苦手だった。

 常識の枠内で言えば、地位の高低に応じて社交的な能力は築かれているものだ。人と人の間でのし上がるための必需品なのだから。それも──大国の上層の身分ともなれば口八丁であることは最低条件だろう。

 だがシャイラは違う。彼女は大英雄なのだ。

 

(こういう空気、すごく苦手なんですけれど……)

 

 シャイラは声にならない嘆きを溜息に混ぜる。

 こんなことならばイルルを連れてくるべきだった。

 

(ストレーズさんとソルちゃんが会話する間に、時々口を挟めるくらいの……そういう立ち位置が気楽なんですが……流されてしまったと言いますか、抗えなかったと言いますか。うう、こんなこと頭で言い訳してる時点で駄目ですね……私……)

 

 シャイラには気軽に声をかけられる友人が少ない。

 彼女にとって友達と言えば、差し込む西日くらいのものだった。独り言以外で声を発さず過ごすなど常である。そんな人としての不出来には目を瞑られているのは、突出した武力を身に宿しているがゆえだ。大国の高位として果たすべき政は副官のハキムに一任している。不得手な役回りは他の誰かが行うわけだ。

 彼女の役目とは戦場に出て武功を挙げることのみ。

 ゆえに他者との人並程度の会話の術すら覚束ない。

 

(距離感が、わかりません。どう接したら……!)

 

 彼女は、同年代の相手ですら臆してしまう

 ましてや幼い子供の相手──務まるはずがない。

 

(ソルちゃんも困っていますよね……?)

 

 半ば助けを乞うようにして、半歩後ろを見遣る。

 そこには幼女がいる。薄闇を纏えども楚々とした印象は隠しきれない雪白の髪を揺らす姿、そこから立ち昇る雰囲気は儚げだ。さながら北国の御伽噺に出てくる雪の妖精か、あるいは西方に伝わる硝子細工で繊細に彫られた人形か。指先で触れれば容易く崩れてしまうような、シャイラはそんな印象を受ける。それでいて、何やら周囲に抜き身の雰囲気を漂わせている。

 その雰囲気の源は、あの黄金色の双眸だろうか。

 まるで鋼鉄を融かして眼窩に湛えているかのよう。

 それら立ち姿から連想した影を、頭を振って払う。

 ──あの方と同一視するのも、だめ、ですね。

 

「……どうかされましたのじゃか?」

「あ! い、いえ……蜘蛛の巣が顔にかかって……」

「できればわしが露払いを務めたいものですがのう」

「えと、その、無理なさらず……」

 

 ぴょんぴょん飛び跳ねる幼女を宥める。

 シャイラとソルの身長差は二尺程度ある。到底、頭上の蜘蛛の巣を払うことはできないだろう。微笑ましい挙動に相好が崩れるものの、緊張のあまり凝り固まっていた頬の氷解には至らず、不恰好にも口端の片側だけが上がったままになり、焦って口許を手で隠す。

 人との交流を絶った生活が長いおかげで表情変化が乏しいことは、彼女にとって劣等感を覚える要素のひとつだった。特に初対面の相手とは、まるで仮面でもつけて対面しているかのような心地にもなる。

 思えば、ソルと二人きりになるのは初めて。

 

(ああ、いつもと比べれば、打ち解けて喋れているほうじゃないですか。まだ打開できます、私)

 

 この調子で何か会話の糸口を、と手を差し伸べる。

 幼女の跳ねる様子を見て思いついたことだが。

 

「ウサギさん……重いでしょ、う。持ちま、す」

「その御心遣いは有り難く受け取りますのじゃ」

 

 ですが──と、ソルは淀みなく答えていく。

 

「断らせていただきます。わしの職分であった食糧調達までベクティス殿に任せきりにしておきながら荷まで持たせては、わしの立つ瀬がございませぬ。荷物持ち程度には役割を持たせて欲しいですからのう」

「で、でも、流石に放っておけない、と言うか……」

「ここは顔を立てると思っていただきたいのじゃ」

「そ、そうですか……」

 

 鞠躬如の態度ながら、すげなく切り捨てられた。

 話題を絞り出した身からすれば残念な結末である。

 だが引き下がらざるを得ない。シャイラには強固な主張を前に、立ち向かうほどの勇気がない。これ以上喰い下がっても雰囲気を沈めるだけだ、とりあえず話を逸らすべきだろう、と自らの思考回路に油を差す。

 さて、逸らす話題はどれがいいか。揃えた会話の手札を流し見する。天気、天気、天気──駄目だ、天気以外の選択肢が見当たらない。毒にも薬にもならない話題は逐次投入せねば虚無感を増やすだけだ。適切な会話の種を思いつくまで場を繋がなくては。折角、数分越しに会話が生まれているのだから。まず軽い話題を。しかし軽い話題とは何を出せば。思い浮かばない。ならばそれより先に何か。何かを言わなければ。

 ぐるぐる考え込んだ挙句、導き出した答え──。

 

「ベクティス殿」

「は、はいっ!」

 

 ──は、口からまろび出ることなかった

 急に名を呼ばれて素っ頓狂な声が漏れてしまう。

 ただ声をかけた張本人は、それを意にも介さず。

 

「ベクティス殿は剣を矢のように扱うのですのう」

「え? ええ? な、何の話です、か……?」

「む。申し訳ないですのじゃ。先刻のベクティス殿の鮮やかなお手並みに意識が向いておりましてのう。幾度も思い返して、浸っておりましたのじゃ」

「あ、ああ。振り回すのは得意じゃ、なく、て」

 

 唐突に切り出された話題は戦闘法についてだった。

 どうやら幼い興味の矛先は、ずっと先ほどの兎狩りの一幕にあったようだ。大陸広しと言えども特徴的なシャイラの剣の扱い方は人の目を惹くものがある。

 彼女自身は「褒めすぎです」と萎縮してしまうが。

 

「剣を空中で生成して射出する。この大陸で唯一無二の技でしょう。目前にしてみれば、なんともはや。浅学な身ではこの感動を言い表す語彙が足りませぬ」

「褒めすぎで、す。でも、初めて見たなら……いや」

「模擬戦の終幕にも体験させていただいたのじゃ」

「ご、ごご、ごめんなさ、い……ほんとに」

 

 ──何をおっしゃるか。素晴らしい光景でした。

 剣が、雨粒淋漓と迸る様は圧巻の一言だった、と。

 先刻の狩猟も舌を巻いて見ざるを得なかった、と。

 

「あれも、魔力で生成した剣なのでしたのじゃな」

「はい。基本的に……これは、後腐れが、なく、て」

 

 シャイラは無造作に払うように右腕を振るう。

 その動作を合図に白糸が宙空で刃を紡いでいく。

 だが腕を戻せば、糸ごと空気に融け消える。

 

「後始末も簡単で……いつもはこれ、使って、て」

「まさしくベクティス殿の特殊な魔力属性の賜物ですのう。いまのは魔力を編み上げて剣の形に整えたわけではありますまい。取り込んだ魔力を編まずに出力する──魔力放出と見ましたが、どうでしょうか」

「はい。ソルちゃんの……言う通りで、す」

「やはり。わしなどは魔力放出を推進力以外で使えた試しはないですがのう、ベクティス殿は普段の攻撃手段として活用しているのですのじゃなあ」

 

 ソルは神妙に幾度か頷き、こちらを見上げてきた。

 シャイラは思わず顔を引きつらせて愛想笑いする。

 ──この女の子は、自分をえらく買っている。

 心中を掠めるその半ば辟易した感想が自意識過剰ではないことを、彼女自身薄々勘づき始めていた。斯くも綺羅星のような目が向けられ続ければ誰でも気づくことだろうが、改めて思う。自分は憧れられている。

 態度があからさまだ。もちろん幼女の出鱈目な敬語の上には、如何なるときも目一杯の真摯な敬意と熱意が乗せられている。だがイルルやホロンヘッジ、討伐隊の面々相手とは一線を画している。御輿で担がれるような仰々しい言は飽きるほど受けてきたものだが、幼子から、それも圧倒的な熱量で浴びたことはない。

 ──ハキムさんへの扱いが羨ましい……いえ。

 口辺が緩まったことを自覚して、視線を逸らす。

 

「でも私の属性……そうとしか使えませんか、ら。私が取り込んだ魔力は……出力したら、ぜんぶ剣の形になるだけ、で。そんな、褒められたもの、じゃ」

「ベクティス殿はご謙遜がすぎるお方ですのう」

 

 ──わしからすれば羨ましい限りですのじゃ。

 ──()なる属性を持って生まれた時点でのう。

 

(そんなによいものでは……ない、ですけれど)

 

 人間は、基本的にひとつ魔力属性を生まれ持つ。

 それは文字通りに、その人物と適合する魔力属性のことだ。人々は生まれ持った属性のみと親和性を持つことができる。大気中のマナなど取り込む際には、自ら持つ属性の魔力のみを取り込める。自らの身体を巡るオドの属性もまた同様に適合したものだけである。

 炎属性の適合者は炎属性の魔力だけに干渉できる。

 逆説的に言えば、どれだけ羨めど適合者以外はその魔力に触れられないのだ。地属性の適合者は地属性の魔力だけ、風属性の適合者は風属性の魔力だけだ。適合していない他属性魔術は構築できない。当然だが取り込めない属性の魔力を編み上げることはできない。

 そこは努力など何の意味も為さない土俵だ。

 

「むかしからわしは剣に愛着がありましてのう。魔力属性としての()の存在を知ったときは、己が欲得に悩まされました。如何にしてか己の魔力属性を変えられまいか、と。しかし、天から与えられた属性は絶対で生涯不変と知り、随分苦渋を舐めましたのじゃ」

「まあ……そういった事例、ない、ですからね」

「ゆえにこそ憧れてしまうものですのじゃ」

 

(魔力属性。大抵は基本属性のいずれか五種類に当たります。適正者が多い順に、地、炎、木、風、水。珍しい例ですが、多重に適正判定を受ける者もいます。二重属性、三重属性……そして五重属性)

 

 ソルは言う。何たる絢爛、何たる浪漫かと。

 英雄譚を捲れば、そんな才人たちの勇姿が拝める。

 そして──属性の原則には更に例外が存在した。

 稀に、五属性とは一線を画す適合者が現れるのだ。

 歴史上でも六人。そのひとつこそが剣属性。

 記録上、シャイラ・ベクティスのみが持つ属性だ。

 それでも当人の心情としては、幼女の輝かしい憧憬を受けて影が落ちるばかりだった。だから折角、続けられていた話題に当意即妙の返答どころか、苦し紛れの相槌すら打ち忘れてしまって、再び沈黙が降りる。

 己が犯した失態に、遅れ馳せながら後悔が襲う。

 元より蒼褪めた顔から血色が更に失われてゆく。

 

(あ、や……やってしまいました。ここまで何とか会話を持たせてきましたが……ああ、元々無茶だったんです。イルルさんに流されてしまって、のこのこソルちゃんと二人きりになった自分が情けない……)

 

 後頭部に重石が乗ったように憂鬱な心地だった。

 横目に幼女を見遣ろうとする。今度は下心を持ちながら完全に助けを乞う形でだった、が──すかさず無垢な視線に迎え撃たれた。鋭敏にそれを感じ取り、シャイラは己が視線を即座に撤退させる。意図せずして目が合ったときほど気不味いものもないからだ。

 しかし、及び腰な態度は事態の深刻化を呼ぶ。

 二人とも黙り込んだ時間が続く。沈黙とは続けば続くほど空間に凝固し、話を切り出しにくくする。そして無慈悲にも幼女は沈黙を破る気配がない。彼女の足取りにも視線にも、まるで困惑の影が見当たらない。

 焦っているのは自分だけ、と気づき途方に暮れる。

 

(ああ、イルルさん話が違うじゃないですか……)

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

『え? シャイラのお姉さん、不安なの?』

『は、はい。そんな、ソルちゃんと二人、なんて』

『晩ご飯集めのとき会話が続くかなー、心配だなーってことだよね? まーまー言いたいコトわかるよ。でもね、何とかなると思うんだよねぇー。ほら、ルーちゃんはシャイラのお姉さんのことソンケーしてるし、たぶん自分から話しかけてくれるだろうしさ。だから自信持って! イルルがいなくてもダイジョーブ!』

『いえ……でも、付いてきて、ほしい……です』

『シャイラのお姉さんならダイジョーブ!』

『付いてきて、ください……』

『ダイジョーブ!』

『だめです……』

『うう、後ろ向きに強情になるお姉さんなんだ……』

『ごめんなさ、い』

『でもー、うーん。イルルとしてはねー、二人になかよくなってほしいんだよねー。これからイッチダンケツしてかなくちゃいけないしね。イルルの国にはこんな言葉があるんだ。『フカメヨウシンボク』!』

『え、ただの宣言……?』

『ふふん。イルルの国の警句、金言のひとつなんだ』

『自信……ないですけれど、違うと、思います……』

『うーん。オクニガラだね』

『納得して、なさそう……ですね』

『まーとにかく! シャイラのお姉さんにそこまで頼まれちゃしょーがないね。個人的にも不安になってきたし、ルーちゃんにはイルルから話を通しとくよ!』

『ごめんなさ、い……私、わがまま、ばかり……』

『これくらいのこと何のその! とりあえずルーちゃんには、そうだなー『たくさんシャイラのお姉さんに話題を振ってあげて』ってことと、『だまーった雰囲気はバツ』ってだけ伝えればよさそうかな?』

『ありがとう、ございます……』

『もー頭さげないでってばー!』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

(まさか、ベクティス殿と二人きりになれるとは)

 

 ──ソルは、イルルの頼みをすっかり忘れていた。

 シャイラの懊悩の一方で、幼女は夢見心地でいる。

 その足取りは軽く、傍目には小躍りするかのようにも見えただろうか。彼女自身もしも気随気儘に振る舞えたのなら、欣喜雀躍の相を晒していただろうと思っていた。ただここにいるだけで、二日ほど眠りこけて錆びついていた身体が活力を取り戻していくようだ。

 その源──紫紺の垂髪を追って横目で見上げる。

 シャイラは、斜に深青色の視線を落としていた。

 ひとたび秋波を送れば大衆を虜にするだろう瞳。だが、そこには氷のように憂いが張っている。常に分厚い氷面に阻まれた先にある心中は、さしもの齢六十五になる老残者とて察することができない。大英雄の深意を汲み取るには修行不足か、と口惜しく思う。

 なにせ、言葉に込められた真意が読めないのだ。

 シャイラは急にもぞもぞと唇を動かし始める。

 

「……今日は」

 

 彼女は、わずかに熟慮断行の面持ちを覗かせて。

 

「いい天気、です、ね」

「? そうですのじゃのう」

 

 果たして日没間際に上げるような話題だろうか。

 それも頭上は葉々で覆われ、空が見えない現状で。

 

「肌寒くて。ソルちゃん、その、寒いでしょう?」

「慣れておりますゆえ心配なさらず」

「そ……そうです、か。よかった、です」

 

 率直な応答に、彼女はひどく傷ついた顔をした。

 否、目の錯覚か。ソルは横滑りした目で観察する。

 そこに平静よりやや強ばった横顔が置かれていた。

 そしてふと思う。こうして改めて見れば、美貌とまで言わしめる暴力的な圧力はない。坂を下るような視線は決して人を見下す色がなく、いっそ生命力さえも感じられないほどだ。儚さの強い容色からは、目前の存在が見る間に消え失せてしまうように思える。

 シャイラと言えば、感情の置きどころを悟らせない表情で、しばし言葉を探すように呟いていた。

 

「ほか……ほか……天気、属性、属性」

 

 シャイラは確信を持った様子で幾度か頷いた。

 

「ソルちゃんは属性……自分で、知ってます、か?」

 

 そうして先ほどの魔力属性の話題に立ち返る。

 ソルは観察行為を放棄して、白頭を深々と頷いた。

 

「存じておりますのじゃ。わしは風ですのじゃ」

「風……属性。魔力の特徴は『気流化』でした、か」

「ご明察の通りです。魔力を気流として発現する属性ですのじゃ。魔力を放出した際、推進力を得ると言えば風属性。取り込んだ魔力を出力する際、風属性特有の作用が強く現れるからと聞き及びました」

「……物知りです。やっぱり、ソルちゃんは魔術を扱えるんです、ね。そんなことまで知ってる、なんて」

「いえ、恥ずかしながらわしは魔術を扱えませぬ」

「えっ!」

 

 その発言にシャイラは想像以上に驚いていた。

 口許を手で抑えて、意想外の答えを飲み込むと。

 

「あ……いや、でも、その年ならそうですよ、ね」

「魔術は学問ですからのう。扱うにはそれなりの知識と経験と資質が必要と聞きます。先ほどは単なる聞き齧ったにすぎない知識ですゆえ。なにぶん剣術ばかり磨いて、おいそれと足を踏み込むことができないままでしてのう。学が足りず、資質も足りぬ身で……」

「そんな、資質がない、なんて……そんな、まだ。ソルちゃんの年なら、まだわからないです、よ。そう言っていいのは……時間切れの人だけ、です」

「……道理です。お恥ずかしい話ですのじゃ」

 

 ソルは深々と頭を垂れる。頬が熱かった。

 いまの自分は老人ではない。生まれ落ちたとき与えられた制限時間から逃れ、幼女としていまここに立っているのだ。差し迫った刻限に追われない身に、無学なる弁は理由になり得ない。本当に学びたければここから学び始めればいいのだ。臆することはない。目前には無数に可能性の岐路が伸びているのだ。

 生前(ソルフォート)では挑めなかったことも幼女(ソル)の身ならば──。

 

(ベクティス殿に諭されてしまったのう。いまのわしには、魔術を一から学ぶ選択肢すら指先に触れられる位置にある。いままで夢以外の脇目を見ずにと切り捨てた可能性を、いまなら夢へと登る足場にも変えられる。……否、生前でもできなかったわけではない)

 

 凡人は、凡人ゆえに夢以外を切り捨ててきた。

 自らの大事なものだけを手元に残し、あとは足元に置いていく。それは目的ある者として立派な心構えだろう。だが、その行為はあくまで瀬戸際で行われるべきなのだ。いまのソルはさにあらず、時間がある。

 従来通り、剣術ばかりに打ち込むのもいいだろう。

 だが、魔術を習得すれば新たな武器になり得ることは間違いない。剣術と体術のみでしか作れなかった戦闘行動の幅が広がる。生前の姿勢を引き継いで端から避けてしまうには、あまりに勿体ない話だった。

 当然、気づかせた英雄に敬慕の念が尽きなかった。

 

「見苦しい言動をして申し訳ありませぬのじゃ」

「わ、私こそ……私なんかが、偉そうに……」

「いえ、流石は努力の大英雄と呼ばれるお方です」

「……努力の……大英雄、ですか」

 

 シャイラは口内で復唱し、自嘲気味の苦笑を零す。

 会話中にふと自罰的な笑みが滲む瞬間があるのは、それ以外の笑みを知らないようにも思えた。

 

「私、その名前……似合ってない、ですよ、ね」

「そうでしょうのじゃか? よい響きではありませんか。努力の大英雄、『黎明の導翳し』。風の便りによれば、かのビエニス王直々に名を与えられたとか」

「はい……でも私、烏滸がましい、感じが、して……努力を掲げる割には──私、元は貴族の家の子で、腕も細くって、肌も白くて全然……努力って言葉を侮辱してるみたい、で……合ってない、感じがして」

「見目の泥臭さが努力の証でもありますまい」

 

 ソルは淡々と傭兵時代の半生を思い返す。

 生涯、俗に言う清潔感のあった時期などなかった。

 自身の見目は二の次、三の次だった。なにせ目標に向かって剣術に一心に打ち込むあまり手が回らなかったのだから──と。それが人並みの言い訳にすぎないとはソル自身でも理解していた。真の理由はひとえにソルが欠けた人間だったからだと。気配りに欠け、常識に欠け、夢を追いかけた結果としての泥臭い身なり。そんなもの己の不足の証明に他ならない。

 まして誇らしげに掲げるようなものではないのだ。

 だからこそ、凡人は目前のシャイラに憧れる。

 下積みを感じさせない綺麗な振る舞いが眩しい。

 自分では為し得なかったことを体現しているのだ。

 

「もちろん、ベクティス殿が天賦の才を持っていることは否定できますまい。その若さでビエニスの頂点にまで登り詰めるなど、血の滲むような努力だけでは足りません。天から授かった適性も兼ね備えていたからこそ成し遂げられた偉業かと思いますのじゃ」

「その……私、えと、気持ちは嬉しい、です、けど」

「ですが、それで貴女の努力を否定される謂れはございませぬ。その地位は才能と努力の両面を欠かさなかったことの証明。裏を返せば、並外れた努力がなければ成し遂げられなかったことでありますのじゃ」

 

 ──ビエニス王もそこを汲み取ったのでしょう。

 ──眩いまでの実績が努力を月にしてしまう。

 ──かの王は、それが許せなかったのでしょう。

 ソルの生真面目な返答の効果は芳しくなかった。

 シャイラは困り果てたように、情けなさそうに、目元を翳らせて「そうです、ね」と笑った。

 

「ごめんなさ、い。慰めて……くれて」

「慰めなど口にした覚えはありませぬ。純然たる事実のみを言葉にしたまでです……と、言葉が過ぎましたのじゃ。要らぬ節介を焼く悪癖がなかなか改められぬものでしてのう。ただ老爺心ながら貴女には、これぞ英雄譚の読者(あなたにあこがれたもの)の勝手を言わせてもらえば、ですが」

 

 幼女は自らの口が滑ったことを半分自覚していた。

 しかし、シャイラに対する本音は伝えたかった。

 

「ただ、貴女には誰憚ることなく──」

 

 ソルは万感の想いを、余蘊なく言葉に乗せる。

 

「胸を張っていて欲しいと、願ってしまうのです」

 

 ふと、隣にあったシャイラの気配が消えていた。

 振り向けば、彼女は数歩前で立ち止まっていた。こちらに凝然とした視線を注いでいる。瞼を一度ぱちりと開閉させたのを合図に、顔を俯かせた。

 そして肩を震わせ、唇を横一文字に引き締める。

 

「ベクティス殿……?」

「い、いえ──ごめんなさ、い。その、そういうことをソルちゃんに、言われて……びっくりして。本当にソルちゃんは……子供じゃない、みたい」

「不躾に申し訳ない。背伸びしたい年頃なのです」

「不躾なんて、そんな……難しい言葉知って、て」

「背伸びしたい年頃ですのじゃ」

「他にも、その。色々難しい言葉、知ってて……」

「まあ、背伸びしたい年頃ですからのう」

 

 うんうんと頷きながら話を流しにかかった。

 

「いつの時代も、童は大人の模倣を繰り返すもので」

「自分のこと、童って……」

「高度な換喩的表現混じりの小粋な冗句ですのじゃ」

「そう、高度な……」

 

 ソルは目を彷徨わせ、思案投げ首にふと見遣ると。

 顔を上げたシャイラが笑みの残滓を漂わせていた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ざざ……と這うように控え目な水音が満ちている。

 ソルたちの野営地は、見晴らしのいい河原だった。

 谷底に這う渓流が、大きく曲がった内周部である。

 周辺地理より落ち窪んだ場所だ。沢に沿った石礫の絨毯は、日暮れとともに宵闇に沈みつつあった。この場所を鳥瞰すれば、地盤の裂け目に見えるだろう空間に──幼女と女の二人連れが、足を踏み入れた。

 鼻を涼気が擽ぐる。獣臭い夜気が浄化された清涼感が全身を撫で、緩く流れる水面のせせらぎが耳朶を打つ。山林を行く道中は生物のさんざめく様が街中の雑踏をも思わせたものだったが、山林から抜けたこの水際は異界として切り出されている感覚に囚われる。

 この、宵の気配が濃い一角に、蠢く影がある。

 

「二人ともおかえりー!」

 

 それは、屈んで作業に勤しんでいた少女だった。

 ぱっと顔を上げて、こちらに大振りに手を振ると。

 

「晩ご飯で食べられそうなのは取ってこれたー?」

「はい。その、ウサギさんを、三羽ほど……」

「おーすごいすごい! やーありがとなんだっ! イルルじゃ動物さん捕まえられないモノだからさー」

「い、いえ。その……こんなことなら、いつで、も」

「ホント!? 助かるんだー」

 

 イルルの元に向かいながら、ソルは視線を上げる。

 見遣った空はすっかり暮れて、紺の絹を編んだような色彩が埋めている。散らばる星たちはさしずめ編み目の間隙とも喩えられようか。目線をわずかにも逸らせば、対岸に並び立つ木々に見下ろされる。

 さらに視線を下降させる。月明かりを浴びて蒼然としたそれらは、川面に濃い影を投射していた。影の奥まった箇所は瀞をつくっており、何も見通せない。

 野営地の決定理由は、ここが天然の要害ゆえだ。

 

(視野が比較的確保された空間。断崖によって野生動物等の侵入経路は限られている。山林地帯から降る経路は、わしたちが利用した降り口と、他二つ程度。なるほど、寝食を取るには申し分ない)

 

 ソルはひとりでに頷いて、とてとて移動する。

 

「シャイラのお姉さん! きちんと仲良くできた?」

「だめでした」

「ダメだったかあ。まー、次! 作戦練ろっか!」

「は、はい……」

 

 シャイラと、野営作業中のイルルに近寄っていく。

 少女は、にかりと笑って鷹揚に声をかけてくる。

 

「ルーちゃんもお疲れ様ー! ごめんだけど、シャイラの姉さんと一緒に休んでてー。イルルはね、まだ野営のトコの準備、終わってないんだー」

「でしたら、わしも手伝いますのじゃ」

 

 一人ばかりに野営準備を任せるのも忍びない。

 この申し出に、イルルは両手を組んで喜んだ。

 

「えーいいの? 助かるんだー!」

「わ、私も、手伝いま、す……!」

「あえーシャイラのお姉さんも? ありがとありがとーなんだ。じゃー二人で晩ご飯の主役……君たちがさっき取ってきたお肉の下準備、お願いできる?」

「任されましたのじゃ。経験があります」

「おおー、レキセンのモサ。じゃ、頼むねー」

 

 厳しい顔で頷くと、少女は親指を突き出してきた。

 ソルは異国文化に疎い。公国の文化圏における意味合いは把握していないものの、了承の意思は感じられる。幼女も見様見真似で親指を突き返してみる。

 正解だったようだ。イルルは片目を瞬かせた。

 

「じゃっ、まずイルルがこれを終わらせないとだね」

 

 イルルはその場にしゃがみ、作業を再開する。

 彼女は足元に川岸の手頃な石礫を積み上げ、風除けをつくっていた。その内側に枝を並べていく。そして短剣で乾燥した繊維質の強い樹皮を削ぐように毟り、組んだ枝に落としていく。蠢くように燃えていた火はその紙吹雪を仰ぎ、快哉上げて歓迎した。すかさず少女が乾いた枝を上がった火の手に乗せてゆく。

 そうして息を吹きかけると、翻るように火勢は増して、枝の節々に纏わりついた。

 

「よーし、これで最低限の用意はできたんだ。二人とも、火はこれ使ってね! あ、ルーちゃんは危ないからあんまり近寄らないことー、いい?」

 

 決まり文句のように年長者ぶるので頷いておく。

 イルルは額にかかる髪を拭うと、ぱたぱたといわせて火から離れる。次は寝床の支度か飲料水の確保だろうか。忙しなくあちこちを動き回り、いそいそ小柄な身体で夜支度を整えていた。こちらも始めなくては。

 幼女がちらりと見上げると、紺青の瞳と出会した。

 

「あ、う」

 

 と思ったのも束の間、すぐに逃げられてしまった。

 しかし、二人の意思は一致しているように思えた。

 ソルとシャイラは夕餉の用意を行うこととした。

 

「じゃあ……その。肉を解体、しましょう、か」

「その前に、血抜きを施さねばなりませぬ」

「あ……そうです、ね。なにか、台があれば」

「めぼしい大岩は、どうやら周辺にないようですが」

「私が、つくります」

 

 あ、とは如何に──と問いかける暇もなかった。

 言うが早いか、彼女は手刀を傍らの大岩に当てた。

 動作の軽々しさとは乖離した轟音が生まれ、砕け散る。砂糖菓子のように岩石は裂断し、歪な石礫と化したまま弾け飛んでいく。ただ裏拳の要領で打撃を加えられたおかげか、飛散する指向性が備わっていたために、この場の誰の元にも向かうことはなかった。

 だが当然、シャイラの傍らには残骸が立ち尽くす。

 見るも無惨な岩石はとても調理台には使えない。

 

「剣を使えば、よかったです」

「豪快なお方ですのじゃ」

 

 シャイラの呟きからは自省の念が滲み出ていた。

 ただ、負け惜しむような響きがあった。

 

(悉くが想像の埒外。これが大英雄の振る舞い……)

 

 幼女は、行為自体に満足げな表情を浮かべていた。

 

「なになに!? なんかすごい音したんだけどー!」

「近場に調理台等はありましたのじゃか?」

「ちゃんと平たい調理板は用意してるから、上面がごつごつしてる岩でも……ああ、たとえばこの岩とか。大きさちょうどいいけど、こんな岩あったかな……」

「あ、え。……ありがとうございま、す」

「うん? ありがとなんだー?」

 

 二人で礼を告げるとイルルは「何ー?」と笑う。

 彼女は近場の岩に立てかけてあった板を取り、岩の上に乗せる。両手で上から押さえると、多少かたかた言うものの、調理台としての役は担えるようだった。

 幼女は、両腕と脇に挟んだ兎を抱えなおし、運ぶ。

 台の平坦な上辺に横臥させ、思案顔で見回した。

 

「あとは何か寸鉄でもあれば……」

「持ってない? じゃー、コレ使う?」

 

 少女が振り向いて掲げたのは、細身の短剣だった。

 先ほど樹皮を削いでいたものだ。年季の入った刃はそれでも綺麗に揃っており、大事に扱われてきたことが一目で理解できた。食材の解体に適しているとは言えないが、生憎と手頃な刃物が己の剣以外ない。

 ソルが言葉に甘えようとする、隣で静止がかかる。

 

「大丈夫で、す。私が創ります、から」

 

 そう言うと、シャイラは右手のひらを表に返した。

 その途端に直上の宙空で白糸が現れ、絡まり出す。

 織り込み、膨らみ、形を為したのは包丁である。

 

「何度見てもすごいねー。刃物に困らない生活!」

「傍から聞けば、物騒……で、す」

「いやーどう聞いても物騒だと思うけどねー」

「そういう……お仕事、ですか、ら」

「ほう。やはり目を奪われてしまいますのう。ベクティス殿が編み上げられる剣の種類は、武闘用の剣だけではないのですな。刃物であれば何でも?」

「そう、ですね。基本的には、その、どんな刃物でもつくれるかと……試しては、いませんけれど」

 

 ソルが目を遣れば、シャイラは胸に包丁を抱く。

 きっと幼女の物欲しげな視線に反応したのだろう。

 

「危ない、です」

「刃物が……ですのじゃか」

「手でも切った、ら……」

「わしが兵士として剣を扱っている時点でどうかと」

「うっ」

「まーその程度は今更なハナシだよね。そもそも、シャイラのお姉さんって血抜きとかできる人? イルルはそういうトコあんまり見たことないから……もしかして、ノーアルタカっていうカッコいいや──」

「……どうぞ」

 

 シャイラは正論の滅多刺しに遭い、敢えなく撃沈。

 渋々といった様子で刃物を渡してくる。

 

「では、小刀のほう有難く頂戴いたしますのじゃ」

「怪我……だけは、しないでくださ、い」

「心得ておりますのじゃ」

 

 ソルは慣れた手つきで血抜きを施していく。

 まず三匹の首に切れ込みを入れて尻尾を断つ。にわかに溢れ出した血液を滴らせ、とことこ川縁まで駆けていく。そこで屈んで腕を伸ばし、蠢く闇色を映した流水で洗う。目前の河川は目が覚めるように冷たく、皮膚感覚を一息に麻痺させる。沢の流れに棚引いて血液が溶けてゆく様は、至近からでも視認しがたい。

 ひとまず腰を上げ、めぼしい浅瀬の岩場まで歩く。

 岩と岩のあわいに生まれている囲いに三匹を引っかけ、十分に血が抜けきるまで放置することとした。

 そして、ずっと背後に付き添うシャイラに尋ねた。

 

「先ほどの話ですのじゃが」

「は、はい。なんでしょうか」

「ストレーズ殿とベクティス殿。お二人は、討伐隊で何週間も共に生活していると思っておりましたが……そうではないのでしょうか? いえ、野営が多かろう生活を送りながら、ストレーズ殿がベクティス殿の料理の腕を知らないことが不思議に感じまして」

「その。私、いつもハキムさんと、一緒にいて」

「デュナム側の隊員とはあまり交流がなかったと」

「はい……その。交流は、ハキムさん以外とは……」

 

 存分に血を抜いたあとは頭部を撥ね、臓物を取る。

 膀胱を避けて内臓をくり抜いていく。ぬめりを帯びた体液に纏わりつかれながらも手早く取り出す。

 シャイラは口を抑えながらまじまじ見つめてくる。

 

「手際……とても、いいです、ね」

「師には何度も叱られましたのじゃ。わしは覚えが悪くてのう。恥ずかしながら付きっきりで見てもらったこともありまして。多く世話をかけてしまいました」

「料理上手な……お母さん、です、か?」

「まあええ、そういう類いの者でしたのじゃ」

「類い……? 実の、お母さんでは、なく?」

「わしの実母は料理下手でございまして」

 

 幼女の脳裏には、傭兵時代の旧友の顔が浮かんだ。

 生涯で出会ったなかで一番の料理上手。傭兵団には調理師として席を与えられていたほどだ。同期だったため幾度も彼女の手による料理を口にしたが、そのたび腑に落ちるような感慨が湧き上がったものだ。

 咀嚼した食物が臓腑に落ちるという意味ではない。

 食への喜びが一種、納得に似た感触を与えたのだ。

 思えばソルフォートに「美味い」という言葉を初めて言わせ、舌に覚えさせたのは彼女だった。それまで食に無頓着だった彼を、数年後に料理の師事を乞わせるほどに変えたのである。もっとも、肝心の腕前は料理下手の名を返上する程度にしかならなかったが。

 それでも、人並み程度に炊事できるようになった。

 ──料理はね、努力を映す鏡なんだと思いますよ。

 彼女はそう言って、笑っていたことを覚えている。

 

「ソルちゃん。あとは焼くだけ、ですか?」

「そのつもりですが。いやしかし、女子供が三人。食べやすく切り分けたほうがよろしいかもしれませぬ。最低でも四肢を切断し、部位ごとに分ける程度……」

「女子供、ですか」

「あの男なら……お、お爺ちゃんならばそう言うだろうな、と思いましてのう。わしはこの通り考えの足らない箇所がありまして、そんな場合、誰かの思考様式をなぞる悪癖がありまして。お爺ちゃんは、あれも気の利いた男ですので配慮は欠かしませぬので」

「なるほど。ソルちゃん、お爺ちゃん子、ですね」

 

 シャイラの相好にほんのりと赤味が差した。

 

「とりあえずは、肉を解体していきましょうか」

「あ。あの……ソルちゃん。切るくらいなら、私が」

 

 遠慮がちに名乗り出られたが、しばし思案する。

 はて、どうしたものか。本心としては、この程度の雑事に大英雄の手を煩わせられない。だが、躬行に固執し、にべもなく遇らうというのも悪手と見える。意図的でないにせよ、彼女の願いを袖にし続けているのだ。ここは年長者の本分として譲るべき場面だろう。

 幼女は恭しく包丁を両手で手渡しし、頭を下げる。

 

「では、お任せいたしますのじゃ」

「は、はい。その、お任せくださ、い……?」

 

 シャイラは彼女の仕草に釣られ、軽く頭を下げる。

 おっかなびっくり刃物を受け取ると、机上に横たわる兎と向かい合った。こちこち、と擬音が鳴るような肩肘が張った固い動作だった。緊張が見える。

 されどそれも束の間。彼女が瞑目して、唇を突き出すようにして息を吐いた途端、霧散する。やおら瞼を上げながら、緩やかに包丁を上段に構えた。

 ほう、とソルは嘆息が漏れる。その姿勢はまさしく剣士の達意。シャイラに微風が纏わりつくたび、切り裂かれるようだった。彼女の瞳からはすうと光芒が去り、ソルの頭には記憶に新しい模擬戦時の姿が蘇る。

 さあ振り下ろす──その腕にイルルが飛びついた。

 

「待って待って! それ料理の構えじゃないから!」

「え、と」

 

 大英雄は腕に少女が取りついても微動だにしない。

 一瞬動作が止まり、目を丸くし、小首を傾げる。

 

「あの……危ないです、よ……?」

「ここでイルルの心配!? ありがとうなんだ!」

「はい。なので、腕を離してもらえたら、と」

「いやそうじゃなくて! 危ないのは君なんだ!」

「大丈夫で、す。相手、もう動かない死体です」

「え、全然冷静……イルルがおかしいの……?」

 

 イルルは事態を静観する幼女に視線を向けてくる。

 ──包丁って上段に構えないよね?

 ──構えるわけがないでございますのう。

 

「じゃーシャイラのお姉さんを止めてよー!」

「見入っておりまして」

「シャイラのお姉さん、まず包丁……下ろそ?」

「はい……」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「ごめんなさ、い。実は私、料理……経験、なくて」

「まさか、見たこともないとはのう」

「ルーちゃんは落ち着いてるねー……」

「わしにもこんな時代があったのうと」

 

 幼女はしみじみと線目で頷きつつ、手を動かす。

 小さな手で細い柄の包丁を握り、肉の解体中だ。

 その様子を背中越しに見守りながら、イルルは目線を隣に並ぶシャイラへと滑らせ、人差し指で脇腹を軽目に小突く。無言のうちに「ちっちゃい子に無理な庇われ方をされちゃったよ」と諫めているようだった。

 シャイラは立つ瀬もなく、視線を泳がせている。

 この場の年長者は愧赧の念に打ちひしがれていた。

 

「斬るだけ、なら……私にも、できそうって」

「まー初めてだし、できないのはしょうがないんだ。シャイラのお姉さんはすごい貴族生まれの武人さんだし……だから、これはルーちゃんがすごいというか」

「? わしですか」

「そうそう、料理姿がサマになってるんだー」

「ああ……調理にはそれなりに慣れておりますゆえ」

 

 適度に肩から力を抜き、机上の兎と向かい合う。

 刃の先端、腹、角を巧みに利用して、食べやすい程度の肉片に変えてゆく。

 

「すごいで、す。模擬戦で見せてくれた──流派に属しないもの、まだ持ってる、なんて。やっぱり只者じゃ……ど、どこで覚えたんです、か……?」

「いやーこれだけは家庭のお台所だと思うよー?」

「お台、所。そこでその、弟子入り、を……?」

「言い方が道場みたいなんだ」

「ええ、この構えの会得にも師がおりましてな」

「お師匠様。ホントに道場なんだー」

「いえ? ただ炊事場で料理の得意な者から、そのいろはを教わっただけですがのう」

「うん、そーだよね。イルル、間違ってなかった」

 

 イルルは二人の会話に振り回されつつも、自分を保つことに成功した。

 

「その、得意な方って先ほど言って、いた……?」

「はい。わしの料理全般の師ですのじゃ」

 

 そうこう雑談を交わす間に、兎を解体し終わった。

 そうして、宵は深みを増してゆく。焚火の光が届く範囲外は闇に閉ざされ、まるで月を浮かべた夜空のようだった。彼女たち三人は、そんな全方位に広がる光を囲い、和気藹々とした晩餐に突入していた。

 焚火に炙られているのは兎肉。一口大の桃色の肉片が、三本の長細い刃物──例によってシャイラが生成した──で串刺しにされ、炎中で脂を滲ませている。

 手元には紅い果実と、底の浅い器。前者は渋皮が剥かれて白い身を曝け出されている。後者は大葉を皿状に織り成したもので、吸い物らしき何かが薄く張っている。以上が本日の献立、立案者はイルルである。

 彼女の郷土料理のようで、いずれも見覚えはない。

 

「えぐみが良い加減で、実に美味ですのう」

「おー、わかるねールーちゃん」

「…………」

「シャイラのお姉さん?」

 

 吸い物を口に含んだシャイラは、青い顔で俯いた。

 片手で口許を抑えながら震えている。

 腰元から蓋付きの水筒を取り出し、中身を舌に含ませたあと一言。

 

「その、え、えぐみが……強烈、ですね」

「口に合わないなら、ほらほら兎のお肉をお食べー」

「はい。……その、いただきます」

「獣臭さは平気ですかのう? 強目に香辛料は利かせましたが、苦手な方は苦手でしょうが」

「あの、いえ、こちらは……懐かしい、その、ハキムさんのお料理にどことなく……似ていて、ええと」

「要はおいしいってことなんだ!」

 

 シャイラはぶんぶんと首肯し、串に纏う肉を啄む。

 ここからは三人、寛いだ風情で明日の話を始めた。

 三人で討伐予定の獄禍──それに対する方策を練ったあと、人心地ついたところで。

 

「そういえば気になってたんだけど、ルーちゃん」

「何でしょう。ストレーズお姉ちゃん」

 

 ソルは馴染んだ調子で答えつつ、葉の杯を傾ける。

 すでにイルル特製の吸い物は飲み干している。いまは、傍に横たわる渓流の水が代わりに注がれている。これは清澄そのもので、喉を通れば爽快の一言に尽きた。食後の幸福感を堪能するにはうってつけだった。

 イルルは渋皮の剥けた果実を齧り終えて、ふと。

 

「君とハキムのお爺ちゃんって似てないよね」

 

 不意に、端的に、孫設定の脆弱な核心を突かれた。

 ソルは瞑目しながら思惟する。額に汗が浮かぶ。

 そこで意外にも、下手な弁明をするより先にシャイラが助け舟を出した。

 

「いやでも、その、ちゃんと首も生えてますし……」

「大体の人には首は生えてるよシャイラのお姉さん」

「髪の毛も白いですのじゃ」

「ハキムのお爺ちゃん、地毛は赤だったような」

「わしが聞いたところによれば母方似でして」

「髪の毛が白いのも?」

 

 ソルは無言で頷いた。

 不意は突かれたが、予想範囲内の問いかけだった。

 元より孫設定には無理があるのだ。イルルに指摘された髪色もそうだが、遺伝子的な断絶を感じる点に、顔貌がある。美醜は天地ほどの隔たりがあり、顔の部品は鼻筋ひとつ、眉ひとつ取っても同族とは思えないだろう。これは鳶が鷹を産むどころの話ではない。

 そのため事前にハキムと練った設定だったが──。

 

「でも、そんなこと……あるので、しょうか」

 

 今度はシャイラに背中を刺されることになった。

 曰く「ビエニスで白髪は忌むべき存在」らしい。

 とは言え、その風潮も現在では形を潜めている。その理由は現在、ビエニスの王座に君臨する者の髪が純白であるからだ。かの王国は、良きにつけ悪しきにつけ実力・実績次第で風潮が覆る。それまで忌まわしい象徴だったものが、吉兆の証になることも存在する。

 しかし、ハキムが(つがい)を得たのは何十年も前のはず。

 その時代には白髪は差別対象、白髪の者と夫婦になれたとは思えない──。

 

「いえ、おかしくはありません。ハキムもその妻も、ビエニス内の人間ではなく、傭兵育ちの根無し草。差別や偏見が薄い育ちでございますのじゃ。それも、奴がビエニスに移住したのはハキムひとり……と、聞いております。問題はないでしょう」

「そう、なんですか……知りませんでし、た」

 

 シャイラは膝を抱えて、ぽろりと独白が漏れる。

 

「私、ハキムさんのことも、あまり知らなくて……」

 

 あまりに消え入りそうな声色で、口を挟めない。

 そこでソルはひとり眉をひそめた。シャイラの言から察するに、ハキムは出自程度を口にするのみで、昔語りを滅多にしていないようだ。だが、旧知の腐れ縁からすれば、どうにも信じられない。戦場を駆け回っていた頃など、人の鍛錬中でもお構いなしに絡んできたものだ。酒の席では、大仰な身振り手振りで面白おかしく武勇伝を語るのが彼の常だったはずである。

 そんな口達者が、一体何の心境の変化だろうか。

 

「ソルちゃんのことすら、聞いたこと、なくて」

 

 ──ご安心めされよ。それは口から出任せゆえ。

 ソルはそう真実を投げかけてやりたかった。

 しかし、その口から出任せの身分に甘んじる身。途端に広がった重苦しい空気に対して、彼女ができることはなかった。シャイラもこれに堪えかねたのか、自らの腰元に手を伸ばしている。取り出したのは先ほども見た水筒だ。彼女は逃避するように蓋を開けると、円筒を傾け、中身の液体で唇を湿らせている。

 そんな一連の動作に、イルルが首を傾げた。

 

「シャイラのお姉さん、それなに?」

「……これは。お水、水分補給で、す」

「? でも、川の水はそこに汲んであるでしょ?」

 

 指差したのは、シャイラの座す付近にある器だ。

 晩餐では吸い物用のものだったが、いまや渓流の水が満ちている。

 

「川の水じゃない、美味しいお水です」

「へー! じゃーじゃー、イルルも飲んでいいー?」

「ストレーズお姉ちゃん。しばし待たれよ」

「そ、そう。あなたは……やめた、ほうが」

 

 イルルは紅い瞳を爛々と輝かせ、水筒を見つめる。

 未知なる物品に興味津々の様子だった。

 しかし、ソルには薄々内容物に見当がついていた。

 ゆえに制止の言葉を投げかけ、当のシャイラも誤魔化すような口振りだったのだが──。

 

「? でも、ただの美味しいお水なんだよね」

「…………もちろん、そうです」

 

 イルルはシャイラの傍まで近づき、目を瞬かせる。

 膝立ちのまま迫られたシャイラは、なぜかそれで観念したように水筒を渡してしまう。先ほどの刃物の件と言い、押しに弱すぎる大英雄だった。よって二人の制止も虚しく、少女は中身を口に含んでしまった。

 ぐいぐい、水筒を傾げて琥珀色の液体を流し込む。

 細首がわずかに蠕動する。水分補給と割りきった豪快な仰ぎ方である。舌の上に溶かして味を確かめるより先に、身体に入れることを重視している。よほど喉が乾いていたのだろう。そう言えば、彼女はまだ水分を摂っていなかった。この際、美味しいらしい水で喉を潤してしまえ、と思っているに違いなかった。

 なお、少女は頭を傾げた途端に噴き出した。

 

「ストレーズ殿!」

「うぇぇぇにがああああ……」

 

 立っていられなくなったのか地面に倒れ伏す。

 イルルは呻きつつ、喉から掻き集めた唾を吐く。

 シャイラがその頭を抱き寄せ、太腿の上に乗せる。

 そこで頭巾がはらりと腕のなかで落ちる。思えばここで初めて素顔を見たが、尋常な顔色でないことだけははっきりわかった。紅い目をぐるぐると回して、年相応の頬は熟れた林檎のように赤味を帯びていた。

 身体が酒精に犯されている何よりの証拠だった。

 頬を膨らませ、非難がましい目線を持ち上げる。

 

「これー……おさけ、じゃん」

「違います。幸せになれる……お水で、す」

 

 シャイラは即座に否定してみせた。

 如何にも、間然する点は微塵たりともない──と言わんばかりの澄まし顔である。しれっと地面に落ちた水筒を拾い、腰元に戻している。もはや開き直ったようだ。酒気によって気が大きくなっているのか、いままでの儚げな印象から外れる強引さを見せている。

 そんな彼女に益々頬を膨らませるのはイルルだ。

 

「もー……シャイラのお姉さん、覚えてる? ハキムのお爺ちゃんから『お酒はもう呑むなー』っていわれてた、じゃん。そもそも、こんなおさけ、どこで」

 

 調達した、と言いかけた最中に声が途切れる。

 かくん。イルルの頭部がずしりと重量感を増した。

 弔うように額を数度撫でて、頭巾をまた被せる。

 

「イルルさん、寝ついちゃい……ました、か」

「子供にはまだ早い飲み物ですからのう」

「流石にソルちゃんは、まだ、だめですよ?」

「酒は嗜む程度が最もよい付き合い方ですのじゃ」

「……うう、大人です」

 

 飾り気のない返答に、シャイラは再び水筒を取る。

 幼女らしからぬ悠然とした態度を前に、三倍はあるかという歳の差を思えば彼女の立場がなかった。幼なるはその年齢ゆえ半可通の窘めにすぎないはずだが、鳴かぬ蛍が身を焦がす。言葉少なな返答がゆえに圧を感じて、きっと居た堪れなくなったに違いない。

 シャイラは膝からイルルの頭を地面に下ろす。そして逃げるように夜の帳の降りた川縁に足を向け、ソルの視線を背にするように腰を下ろした。そこに満ちる蕭々とした水音が、彼女の心境を現しているようだ。

 彼女は一口呷って、言い訳めいた呟きを零す。

 

「趣味、なんです」

「乙なものですのう。よく……呑まれますか」

 

 直上にある宵月の灯りを浴びて、また一杯。

 シャイラは典雅な影絵世界の住人のようだった。

 

「普段は。その、月夜にひとりで呑むのが、好きで」

「ほう。いまはわしも、ストレーズ殿もおりますが」

「ええと……その、ですね。そういう気分でして」

「なるほど。そういう気分でしたか」

 

 ソルは胡乱な大英雄の言い回しに頓着しなかった。

 

「明日は獄禍討伐ですが、問題はないですかのう」

「はい。そんなに飲んでませ、んから」

 

 明日討伐する──魔力供給用獄禍を思い浮かべる。

 討伐隊で呼称される個体名称は『ケダマ』。

 曰く、総身を土色の体毛で覆っている球体の怪物。

 森の一角、そこで太木めいた四足をそれに添うように突き立たせて、まるで苔生した古岩のように居座っているらしい。周辺のマナを収集し、身体直下から伸びる管によって本体の『根絶』に魔力を渡している。

 ソルたちに与えられた任務はその供給を断つこと。

 平たく言えば、ケダマの討伐こそが当面の目的だ。

 気炎はどこまでも高く昇るが、その前に──。

 

「……それにしても、なぜケダマなのでしょう」

「? ケダマ、という呼び方、ですか?」

 

 はい、と真摯そのものの眼差しで首肯した。

 

「その獄禍が、その、毛玉に、似ているからですね。異形で、丸々していて、毛がもじゃもじゃしていて、頭部や胴という分類、もないので……その、私たちはケダマと、そう名付けて呼んでいま、す」

「名付け方が、少し……ふむう」

「な、名付け方、ですか。い、いけません、か?」

「ああー……いえ」

「で、ですよね。問題ない──」

 

 シャイラの震え声に幼女はふるふると頭を振った。

 その挙動に胸を撫で下ろしかける大英雄の声。

 だが、そんな彼女に率直なまでの本音を口にする。

 

「あまり浪漫がない、ですのう」

「はい…………はい? え?」

 

 彼女の顔は見えない。だが声色だけで判断できる。

 きっと、眉は耳を疑うように帆を張っただろう。

 ぱちぱち目を瞬かせて、こちらを見遣って。

 

「い、いまのは、命名者を慰める流れ、では……?」

「名前には、個体識別という本分以上の意味が付き纏いますのじゃ。運命の暗示、過去の轍、現在の鏡、本性を象る鋳型。名とは人の外面と内面を繋ぐ穴のようなものでございまする。表面的な特徴を言い表すだけではいささかに物寂しいと思うのです」

「も、物寂しい……」

「命名の才が、あまり感じられませぬのじゃ」

 

 ぐさりぐさりと愉快な刺突音でも鳴るようである。

 ばっさりとした物言いに、大英雄は胸を押さえた。

 だがソルは一顧だにしない。英雄譚を嗜む者なら有している、否、好きな何かを持つ者なら誰しもが有している面倒な性質──それが関心事ゆえに決して妥協を許さない、拘り、というものがあったからだ。評価基準を満たしていなければ、とりわけ厳しい態度を取ってしまうこともある。ソルからすれば、英雄譚における『名』という項目には並々ならぬ想いがあった。

 命名者は誰か、と尋ねたが彼女は口を噤んだ。

 これがハキムであれば、ひとつ揶揄われた際の反撃の矢にできると思ったのだが──。

 

「そ、それにしても」

 

 そう、シャイラは強引な話題の路線変更を告げた。

 ソルも深追いはしない。話のついでに聞ければいい程度の興味だ。命名者を責めたいわけではない。しかし、彼女が庇うのだからハキムの容疑が強まった。

 ざざ、ざぷり、と流水の飛沫音が耳についた。

 

「それにしても、ここ……涼しくて、いいです、ね」

「いまのベクティス殿はそうでしょう」

「ああ、私……の服装、ですよね。肩からぱっくり、なくて。あれはその、ソルちゃんにはか、勘違いしないで欲しいんですが、恥ずかしくて、ディナ…… 陛下に頂いたので、その、好きでやってるわけじゃ……」

「いえ、そうではなく」

 

 シャイラの必死の抗弁を、ソルは心苦しくも遮る。

 焚火に一度目を向けて、再び彼女を見つめる。

 

「ご自身がどこにおられるか、自覚はありますか?」

「え? ああ……ここは」

 

 そこで、シャイラは己の行為に気づいたようだ。

 いまや彼女は川縁にいない。渓流の只中にいる。

 二人で会話を続けつつ、ふらふら進んでいたのだ。

 ソルはそれまで素面か否か判断しかねて咎めなかったのだが、ここに来て確信して、立ち上がる。

 

「どこでしょう?」

「ベクティス殿──!」

 

 大英雄でも、特別酒に強いわけではないらしい。

 シャイラは黒々とした渓流の中に沈んでいった。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「ねー、もう。シャイラのお姉さんはそうだから」

「ハキムが酒を禁じた理由がわかりますのう」

「…………」

 

 早朝。薄汚れたローブの背──イルルが先導する。

 彼女は、先んじて背の高い草花を掻き分けていく。

 植物の根を軍靴でしかと踏み固め、後続のために道をつくる。これを辿るようにしてソル、シャイラが屈んだ姿勢で続く。それでも四方八方を遮る草が頬や手に当たり、纏わりつき、ぴくぴくと目元が震える。

 しなる草花は丈夫で、蕾のような棘が煩わしい。

 ソルはちらと、負の雰囲気が漂う背後に目を遣る。

 そこには、両手で顔を抑えた二日酔い女(シャイラ)がいた。

 

「もー水筒の中身は捨てちゃったから大丈夫だけど、でも、どうしてお酒なんて持ってたのー? 確か、シャイラのお姉さんが討伐に持ち込もうとしたのは、ハキムのお爺ちゃんに捨てられてたはずだけど……」

「ああ、奴は事前に対策していたのですのう」

「だよだよー。だから安心してたんだー」

 

 昨晩はひどい始末だった。

 あのあとソルは一糸纏わぬ姿となって、川中に飛び込んだ。何とかシャイラを泳いで連れ帰り、焚火付近まで引き摺り、河原に寝かせる。その際には彼女の軽装が幸いした。衣服が多量の川水を吸い込んでも、許容範囲内の重量に収まっていた。ここでイルルに助けを求めたが、慣れない酒精に犯されて気絶中である。

 孤立無縁。介護は不慣れだが、やるしかなかった。

 まず、彼女の身体に貼りついていた服を()いた。

 風邪を引かせるわけにはいかない。柔い葉々や手拭いで水分を取った。蒼白な肌は不健康そのもので、戦場に出る武人とは思えないほど綺麗な肌だった。

 しかし──脇腹にだけは、濃い古創(ふるきず)が残っていた。

 

(刃傷、かのう。不自然……と思うことが不自然か)

 

 そもそも、シャイラの身体には傷がなさすぎる。

 次に宵の森に入ると枝を見繕い、物干し棹を組む。

 これを熱気をもろに受ける位置に設置して、シャイラの衣類を引っかけた。身一つの彼女は着替えを持参していないようで、明日までに乾燥させる必要があったのだ。あそこで気力は限界、幼女は眠るのだった。

 つまり現在、背後から漂う湿度ある空気は、ひとえに沈鬱な大英雄の心境から端を発したものだった。

 

「ご……めんな、さい」

「これは反省をお願いしますのじゃ。心臓に悪い」

「そーだよそーそーっ。モーセーだよモーセー」

「は、い……」

 

 沈鬱な声色からは自己嫌悪の念までも感じ得た。

 だが、今回こそは彼女自身の明確な失態である。

 ソルも不要な言葉は口にせず、前方に声をかける。

 

「そろそろですか。件の獄禍……ケダマの居所は」

「うん。そだねー、もうすぐのはずだよ」

 

 イルルは手元の羊皮紙に目を落としていた。

 あれは討伐隊お手製の周辺地図だ。彼らの偵察隊が把握した子飼いの獄禍の位置が落とし込まれた、謂わばソルたちの生命線である。紛失すれば立ち往生すること請け負いの重要物品。昨日までは、いささか気の抜けた印象を持つイルルに預けられていることが疑問だったものの、いまや疑念は氷解している。

 シャイラに持たせるよりは遥かに安心できるのだ。

 元より、イルルは第一印象以上に頼り甲斐がある。

 

(ストレーズ殿は戦闘方面の力量は未知数じゃが)

 

 実際に手合わせしていない、という点も大きい。

 だが、それ以上にソルが魔術に関して門外漢だ。

 イルルの挙動に目を遣る。彼女は地図を丸めて、腰に引っ提げ、再び歩き出していた。彼女が鼻歌混じりに振り回しているのは、魔術補助のための長杖に違いない。脆そうな印象を与える古木が使われている。年季の入った黒々とした持ち手に、聖文字が刻まれていあ。杖の先に埋め込まれているのは透いた赤石。さながら樹木の手が宝玉を握っているようにも見える。

 あれが如何な代物かもわからない。観察を終える。

 

「あの、大丈夫……です、か?」

 

 ふと、耳元に生暖かい吐息が触れる。

 ソルはびくと肩を竦ませ、素早く横目を流す。

 

「ベクティス殿のほうが大丈夫でしょうか」

「あ、吐き気は、落ちついて……で、ではなくて」

 

 シャイラは酒臭い口許を抑えつつ、小声で続ける。

 

「ご、獄禍討伐のことです……初めて、ですよ、ね」

「ああ、ええ。ジャラ村ではハキムにお株を奪われましたゆえ、初めて相見えることになります。他、獄禍は物語や伝聞で見聞きした程度でござりますのじゃ」

 

 英雄の最高峰はそれこそ伝説上の竜に比喩される。

 全霊を出せば、一国を滅ぼすことも夢ではない。

 庸劣の身からすると、皮肉なことに英雄の存在はさながら怪物だろう。だが、獄禍は比喩の形を取らずして怪物なのだ。生物の種類が異なる。見目も禍々しければ膂力も能力も、悉くが人の身を凌駕している。

 これは原罪の獄禍に限らない。怪物は怪物。

 十把一絡げの英雄を一蹴するだけの力を持つのだ。

 単純な話、容易く討伐可能ならば──特に子飼いの獄禍を魔力補給路に使う『根絶』など、とうの昔に打倒されている。しかし、現実として成し遂げられていないのだから、困難の度合いは推して知るべし。

 前座であるはずの子飼いの獄禍ですら強大な壁だ。

 

(だから遣り甲斐があるのじゃ)

 

 人らしい不安の種は、気炎を上げる燃料とも化す。

 甘い見立てで侮っているわけではない。ただ当然、直接相対していないため、実感が伴っていない。ソルの経験則として「肌身に触れなければ真に向き合えない」とある。どれだけ心積もりしようと、現実は固めた覚悟をいとも容易く切り崩してくるものだ。

 大事なことは、そこで即座に足を動かせるか。

 だから、ソルは必要以上に構えず時を待つだけだ。

 そんな心構えを他所に、シャイラは幼女を安堵させようと精一杯言葉を紡いでいく。

 

「私も、イルルさんも……守るので、その──?」

 

 そのとき、怪訝そうに語尾を上がる。

 見れば、先行していたイルルが立ち止まっていた。

 

「ケダマを捕捉しましたか、ストレーズ殿?」

「ルーちゃん違うよ、ストレーズお姉ちゃんだよー」

「え……否定、そっちなんです……か?」

「ケダマを捕捉しましたか、お姉ちゃん?」

「律儀……」

 

 イルルは右手の人差し指で空を混ぜて、言い直す。

 

「ケダマを捕捉したわけでもなくって」

 

 ソル一行の現在地点は、目標獄禍に程近い場所だ。

 風景は道中と大差ない。踏み固めた小道の脇にある草々が、上方で頭を揺らしている。重なるように木立の枝葉にも覆われたこの薄暗がりでは、イルルの瞳が弥増しに紅々と輝いて見えた。真剣味を帯びた色だ。

 言いたいことが吉か凶か、表情が代弁していた。

 八の字に眉を曲げて、困惑で顔を曇らせている。

 

あれ(・・)。来たみたいだよ」

「そうです、か。予想の範疇、ですけれ、ど」

「あれ、とは何ですのじゃ?」

「ルーちゃんは初めて見るよね。あれ」

 

 イルルが身体の位置をずらして、前方を指差す。

 それは──さながら立体化した人影であった。

 背丈は成人男性の平均ほどだろうか。形こそ人型を象っているが、薄く輪切りにされた層が幾つも重なっている。草丈から半身が飛び出すほどの体躯であり、表面はつるりと滑らか。幾条かの木漏れ日に光沢が出ている。漆喰で丹念に塗り重ねられたかのようだ。

 イルルの肩越しに見えた、あまりに不可解な物体。

 否、そもそも実体があるかすらも不明瞭である。

 漆黒の影が、まるで石のように立ち塞がっている。

 ソルの目からすれば、生物とは信じられない。

 だが、無害と判断できぬほど不穏な存在感がある。

 

「あれは獄禍、ですかのう」

「まっ、そうだね。『クロカゲ』っていうヤツだね」

「ケダマとは別種の……獄禍の一部で、す」

「ですが……それは実に奇異。わしの記憶が確かであれば、子飼いの獄禍は魔力補給の任を担っており、然れば一ヶ所から動かぬはずではございませんか」

「うん。ちなみにね、他の獄禍がいるところに迷い込んだわけでもないよ。あれはね、シャイラのお姉さんも言ったけど、ある獄禍の一部(・・)なんだ。本体は一ヶ所から動けないけど、ああいうタンマツは動けるの」

「ほう。それはまた、厄介な」

 

 彼女たちの口振りから、幾度か矛を交えたようだ。

 昨晩の寝床を天然の要害に構えたのは、夜闇に紛れた野生動物を警戒してのことではなかった。この、獄禍の端末に襲われる事態を想定していたのだ。だとすれば、昨晩飲酒したシャイラの罪は重いが、当人は自信なさげに「言い訳、ですけれ、ど」と呟いた。

 前髪を静かに払い、胸に手を当てながら息を吐く。

 

「私、は……それでも、負けない、ですから」

「流石。それはまた、頼もしいことですのじゃ」

 

 ソルはシャイラの隣に並び、剣を抜いている。

 自重で靴を土に埋めつつ、クロカゲの出方を窺う。

 警戒する三人を他所に、彼は突っ立ったまま。

 単なる置物かと状況を解釈してしまうほどに──。

 ただ、ここから数丈先の位置に在るだけだ。

 

「……ッ!?」

 

 息もかかる(・・・・・)位置に(・・・)クロカゲが(・・・・・)立っている(・・・・・)

 転瞬──音が鼻先で破裂。空高くまで響き渡る。

 だがそれはソルの身体を打ち据えたものではない。

 横合いから伸びた手指が、黒の拳を掴んでいた。

 その腕を視線で辿る。シャイラが剣呑な眼差しをクロカゲに注いでいた。対してクロカゲは無貌のまま、ぎちぎちと耳障りな音を発する。金属同士を鳴らすような、歯軋りのような、慟哭のような擦過音だった。

 クロカゲは残る拳を放つと──目を凝らして残像がかろうじて捉えられるほどの速度──シャイラは正確に掴む。それが一秒も経たないうちに繰り返されること、三十六度。熾烈な攻防は、人体の処理速度の関係上、映像が先に、振動と音は後に展開される。そして後に詰まった風音が暴発して、鼓膜を激しく揺らす。

 直接、それが脳味噌に伝達されて吐き気を催す。

 

(は、やすぎる)

 

 ソルは手出しができないまま、見守っていた。

 想像絶する速度。状況が呑み込めない。シャイラとクロカゲの攻防だけではない。彼の瞬間移動もだ。ソルにも目には一角の自信があり、あの一刹那は瞬きすらしていなかった。それでクロカゲの一挙手一投足を観察して、相手の力量を分析するつもりでいたのだ。

 だが、ただ残像の霞みを捉えただけに終わった。

 

(わしの能力を遥かに越す……戦闘)

 

 クロカゲは一切の予備動作もなく元の位置に戻る。

 その瞬間的な移動は、やはり視認もできない。

 ソルは前傾姿勢に移行したが、それを細腕が制す。

 

「ソルちゃん。私の、うしろ、に……」

「いや……背後も安全地帯ではないようですのう」

 

 ぞわり、と背筋に怖気が過った。

 察知した冷えた感覚を追い、周囲に目を走らせる。

 影。見渡しても、影、影、影、影、影、影、影。

 クロカゲに、不気味にも等間隔で囲まれていた。

 何より恐ろしいのは、すべてが石木めいた気配。

 彼らからは微塵の敵意も、殺気も、感じられない。

 

「……さて、どうしたものかのう」

 

 



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13 『初めての■■』

シャイラ視点です


 シャイラ・ベクティスは静かに嘆息した。

 瞳を巡らせ、改めて数を弾き出して呆れたのだ。

 視界範囲内に五十二体もの(・・・・・・)クロカゲを認めていた。

 

(この数のクロカゲの相手は骨、ですね)

 

 打開は容易い。ただ戦闘と調査が億劫だった。

 彼女は腰の剣柄に触れて、胸の中央に手を置いた。

 

(でも、よかった。二人をこの場から逃がせました)

 

 シャイラは傍らに目を遣るが、誰もいない。

 イルルとソルにはケダマ討伐に向かってもらった。

 餅は餅屋と言う。多対一の戦闘はシャイラの独壇場である。ビエニス王やハキムの言では「軍勢を相手取るとき、古今無双の活躍を見せる」らしい。かの『人類最強』をも凌ぐというのだから、只事ではない賞賛だ──と、シャイラは他人事のように思っている。

 それは彼女にとって戦闘が単なる作業だからだ。

 しかし、抱くのは退屈感ではない。虚無感だった。

 さながら風化してゆく本の頁、あるいは色が褪せてゆく絵画を見たときの感傷に似ていた。

 

そうなんだ(・・・・・)って言葉が脳裏に焼きついて……)

 

 だから、戦闘は可能な限り避けたいことだった。

 他人との争いは、シャイラに失望を約束する。それが肥大化した自負による驕慢ではなく、実績に基づいた経験則だった。彼女にはそれだけの、単体で他者多数を圧倒できる実力が備わっている。ゆえに、クロカゲの相手を一手に引き受ける次第となったのだ。

 無論、彼女たちが手分けした理由は他にもある。

 討伐隊の目標にクロカゲが無関係な事実もそうだ。

 クロカゲとの接触は偶発的なもの。彼らに足止めされることで、ケダマ討伐予定の期限である『日没』を過ぎることは是が非でも回避したい事態だった。討伐予定は綿密に組んでおり、一日でも遅れが生じてしまえば、討伐隊全体の足並みが乱れることになるのだ。

 ソルたちに目標の遂行を優先させた、とも言える。

 

(ハキムさんの思惑とはズレてしまいましたが)

 

 ケダマ討伐にはふたつの役割があった。

 ひとつは単純に子飼いの獄禍を減らすためだ。もうひとつはソルに獄禍討伐の手解きをするため。討伐未経験者の彼女にイロハを教授しつつ、その脅威を肌身に覚えさせる。ハキムに言い含められたのは「あまり怪我を負わせずに、初めての獄禍討伐を終わらせてやれ」だった。それは実に微笑ましい台詞だった。

 ようやく会えた可愛い孫の身を案じているのだ。それで万一に備えたのか、ソルの班には討伐隊の最高戦力たるシャイラが入ったわけだが──途中でこうも。

 シャイラの口から、するりと言葉が滑り出した。

 

「多すぎる……」

 

 クロカゲと出会したこと自体は想定外ではない。

 あくまで数体ならば予想の範疇。だが五十二体ともなれば流石に目を疑わざるを得ない。シャイラ単体の相手としては不足だが、不運以外の何物でもない。

 否、必然だった可能性がないとも断ぜないが──。

 

(それでも、ハキムさんの思惑から外れたくなかったですが……計画の軌道修正はだめ、ですね)

 

 シャイラは思案を巡らせたが、結局は落胆する。

 細唇を噛む。ハキムの言葉に従えないことに罪悪感を覚える。二人の間には、導翳しと副官という立場上の力関係には依らない絶対性が存在しているのだ。

 そのきっかけ、断片的に昔日の光景が脳裏に蘇る。

 数年前。ビエニスの奥底。雨でけぶる視界。

 うらぶれた街並み。石畳。水溜まり。映った虚ろな目。へたり込んだ自分の姿。泥塗れのドレスの裾。滲んだ自分の血。割れた爪。力なく垂れた自分の手。側に落ちた一本の長剣。それは刃を曝け出して、鈍い光を放っている。そのとき黒装束の男が不意に現れた。

 シャイラは、水溜りに歪んで映り込む男を見る。

 これは自身の人生が大きく変わった瞬間の記憶だ。

 ──ハキムさんと初めて会ったときの、記憶。

 

『な■■、■い■■■るか?』

 

 そう言って、彼はシャイラを絶望の淵から救った。

 混じり気のない慈愛を言葉に滲ませて──。

 

(だから、私はハキムさんに感謝しないといけない)

 

 シャイラは片手で口を抑える。

 救った男と救われた女の間には明確に線があった。

 線引きした筆の名は、消えない負い目。人生のどん底から掬い上げてくれた恩人には、決して頭が上がらない。人に迷惑をかけてはならないのだ──と、むかし家族の誰かからきつく言われていた。その朧げな記憶を掘り返した途端、呼吸の仕方を忘れてしまった。

 これは自罰的ゆえの重々しい罪悪感によるものか。

 息が乱れる。心臓をぎゅうと握られた心地になる。

 

(こんなの、私が弱くて、悪いだけだから……ハキムさんにしてみれば、関係ない、迷惑な話でしょう)

 

 シャイラは発作的にこういう心境に陥ってしまう。

 ハキム含め、誰にも口外していない秘密である。

 とは言え、毎度のこと。この症状にも慣れていた。

 

(私は、努力の大英雄。『黎明の導翳し』……)

 

 個人的な対処療法として、まず自己暗示がある。

 次に、震えた左手を腰元に伸ばした。そして水筒の蓋を爪に引っかけて開けたあと、口許に近づけて中身を一気に呷った。空になるまで喉奥に苦味を流し込めば、徐々に意識の輪郭が暈け始める。水筒を戻す。

 これが心境の荒波を効率よく凪がせる方法だった。

 彼女が酒精を好む理由は、この発作、延いてはその先にある暴走(・・)を抑制するためである。

 

『また逃げるんですね? 罪から。現実から』

 

 声が、己の内側、心的外傷の亀裂から聞こえる。

 自己暗示と酒精で封じ込め続けるそれに耳を塞ぐ。

 

「■■」

 

 ぎちぎちぎちぎち。クロカゲが擦過音で鳴いた。

 彼らは見渡す限りの木立から見え隠れしている。

 木の葉の向こうが黒に埋め尽くされていた。空に日輪は確かに存在するはずが、地表に帳が降りたようだった。そして感じるのは視線。クロカゲには目玉にあたる器官も、それどころか意思さえも見えないが、四方八方から『見られている』気配が纏わりつく。

 なぜ、と思う。なぜ、彼らは襲いかかってこない?

 

(交戦は、最初に出会った一度のみ。クロカゲが身動きするのは私が動いたときだけ。ソルちゃんとストレーズさんはみすみす逃したのに……どうして)

 

 シャイラは緩慢に左脚を、一歩踏み出す。

 するとクロカゲは位置を微調整する。

 五十二体で成した円の中央に閉じ込めるように。

 

(狙いは私? でも)

 

 確か、出会い頭に狙われたのはソルだった。

 途中で干渉したがゆえに、標的が変わったのか。

 

「■■■■■オマエは■■」

「え?」

 

 シャイラは面食らって、思わず聞き返した。

 彼らはそれをきっかけに、次々クロカゲが鳴いた。

 さながら堰を切った、嵐の日の激流のようだった。

 

「■ハハ笑■。笑え■■ら」「見■■■。ずっと」「■■、諸共に」「■ク、もっと強く。人■■強にも、六■にも届かない」「オマエ■特■■■。師匠を越■■■な」「踊■■しょう」「■■■■■■■■絶対に■■■■■」「ァさァん」「■」「冗■が■■い■で■ね」「ヴァニ■の野郎■よ、ま■■鹿■いてナぁ」「一人■の左■■は程遠い」「夜空■■座に誓う」「王国■連■■馬鹿だ」「■■さまだ。」「■お父■んが助け■■■からな」「タータ■初討■■念だ! 帰■■ら酒盛■ダ」「今日■■暑■■ァ」「誇りに■■。ディ■■下は我■の■敵を打■■うだ■う」「裁縫■■■なので■■。糸■■っかり通■て」「好■■■」「あああ■ああ■」「俺■誰■」「夢は■僚になって、故■■爺■んに楽■■■たいのさ」「声■を! アタしの■■」「星■様の■■護があら■■とを」「齧るぞ齧る」「桃み■■なもん。一■■が最も甘■」「彼■■■って枝を折■■とは腕■■を■るのと■じさ」「愛シて■■す」「見返■ため、■■場■に立てるまで」「きみのうしろ」「■術防■■理論が何■に! 何故に認■■■ぬ!?」「レ■■■──! 裏■■た■■!?」「痛い痛い痛い」「■った■を■■やがって」「クソが」「村■■一番■せなのよ」「火口に■■けば、『不死■■殿と■■ダで済■■い」「■■■■■■」「■■か? 槍■■う■剣の数■■攻■■囲がある、強■■はこちらだ」「下■な■■■見■■ば」「■■に■■■」「あ■人った■、■あた遊■惚■■」「全部全部夢だったら、どれだ■■■■■■」「悪■高い、■■レサ■を相■■るのは■■行為だ■」「■■車は廻る。■■があなたの■けに■■は■■■■が」「■■■狩り入れ■■で、子■■■と此処■■るよ」「神は■■救■■くれな■■■!」「■■」「■■■■■」「ハハハ」

 

 ぎちぎち。ぎちぎちぎち。ぎちぎちぎちぎち。

 昆虫の羽ばたきにも似た耳障りな擦過音が満ちる。

 シャイラは堪らず両耳を押さえて蹲る。葉々は怯えるように震えて、余所余所しかった木々たちでさえ身を寄せ合っていた。悍ましいの一言に尽きる。この音の連なりには悲喜交々、さながら感情という画材を手当たり次第ぶち撒けたような混沌に満ちていた。

 気づかなければ聞き流せていた大音響。それが彼女を総毛立たせたのは、猛り狂う雑音の波間に、人語と取れる単語が見え隠れしていたからだ。支離滅裂ではあるが、どれも意味を為す言葉のように聞こえた。

 ──どうして、こんなに初めてのことばかり。

 

(これだけ大人数が集まるのも、鳴くのもそう)

 

 獄禍研究の文献に綴られていた一節を思い出す。

 曰く「獄禍は時折、人語のように鳴く」とあった。

 セレスニア大学の一学者は考察として「獄禍は人間に擬態していた生物だ。本来の姿を曝け出した彼らは理性を喪失しているが、脳や心臓など器官自体は獄禍体内に残っている。これは筆者の個人的な所感だが、もしや人間時代の思考や言葉を、いたずらに真似て鳴いているのではないか」と書き添えてあった。

 クロカゲはいまだに笑い続ける。啼き続ける。

 

「仕■ない◾️ア■■■ア」

「関係ない」

 

 シャイラの口許から固い声が出た。

 気が静まってゆく。もう音の洪水も聞き流せる。

 本格的に、自己暗示と酒精が浸透し始めたのだ。

 

(不気味。でも、不気味なだけ)

 

 シャイラを取り囲んでいる理由はわからない。

 時間稼ぎ? 監視? 訳合いは判然としない。

 しかし、彼らは進路を塞いでいる岩と同じだった。

 同じならば、砕くだけだ。

 

(早目に突破して、二人と合流しませんと)

 

 顔を俯かせる。シャイラの紫紺の髪先が跳ねた。

 息を吸う。マナを体内で変換。利用可能な魔力を生成、すべてを体外に出力。それらを魔術のように想像を構築せず、抽象的なまま自らの直上に跳ね上げた。

 すると──彼女の上空に数十本の剣が実体化する。

 それらは円環状を為し、剣先を円心に向けている。

 さながら竜の尾のように列を崩さず回っていたが、瞬きほどの時間を経て重力の網にかかると、各々の形状と質量に即して落下を始める。空からばらばらと落ちてくる鋼の雨下には、細い日光を浴びたシャイラ。

 彼女は緩やかに、だが弛みなく宣言する。

 

「私の身には、過分な看板ですけれど……」

 

 ──黎明の名を戴いた剣は、優しくありません。

 『黎明』。それは友人が名付けてくれた役割だ。

 シャイラの少ない存在理由とも言い換えられよう。

 大英雄に相応しくない精神性を持つ彼女が、いまだにその座から退けない理由だ。

 

「この先を、通させてもらいます」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「ルーちゃん! そっち三──や、五本いった!」

「委細承知! そちらは砲火に集中するのじゃ!」

「おっけい! ガンッガン行くよー!」

 

 ──閃光。爆発音。空気を切り裂く音。

 鬱蒼とした森林にあって、数少ない空白地帯。

 ケダマの居所。辺りが半球状に切り拓かれた空間を駆け巡る音は、熾烈極まりない。ソルは、丈の低い切り株が敷き詰められた戦場の端にいながらも、いまも中央付近で荒波立つ音の瀑布に飲まれかけていた。

 それでも剣を上段に構え、正面を凝視し続ける。

 目前には地面から立ち昇る土煙が幕を引いている。

 ややあってこれを破るように、巨大な五本の針先が顔を覗かせる。

 

(来た)

 

 左脚をわずかに引く。その間に氷製の針が殺到。

 それらは氷槍とも形容すべきほどに巨大だった。

 直撃すれば人体の八割は持っていかれるだろう。五本の先端は煌めき、幼い身体を穿たんと緩やかな回転を帯びて、ただ一点──ソルに向けて集中する。

 幼女は刮目して重心を落とし、真正面に馳せた。

 その最中、身体全体を大きく前に倒す。上段に構えた剣は、円規で綺麗な弧を描くようにして振り下ろされ、寸分違わず正面に迫る槍先を刃で捉えた。

 鋭い音が突き抜ける。接触点から亀裂が走る。

 槍を横断した瞬間、断絶。正面を塞いでいた槍は真っ二つに寸断され、ソルを避けるようにして地面に果てる。背後からは破砕音が轟いた。残り四本の氷槍が標的を失い、互いが互いに衝突したのだろう。

 ソルは口を引き締めて、滑らかに剣を構え直す。

 

(氷槍はいなせたが、ストレーズ殿は……!)

 

「──【日輪の輝き】」

 

 砂塵の向こうから、声がかすかに聞こえる。

 

「【笑むは蜃気楼の揺らめき】【火炎の渦よ、巡り巡りて獄に舞え】」

 

 聞き覚えのない詠唱は三節で途切れる。

 すると途端に視界を覆っていた土煙が、一気に炎の帯によって切り裂かれた。吹き飛ばされたと言うべきか。炎は螺旋を描くようにして空間に漂う土砂を一掃して、戦場の視界を晴らす役割を果たした。

 頭上には雲ひとつない蒼天が広がっている。

 この空間には存分に日光が降り注いでおり、密林地域には滅多にない開放感があった。広さはジャラ村の半分程度と広大で、地表には断面が粗い切り株が所狭しと並んでいる。幹はさながら薪のごとく無造作にそこら中を埋めていた。根ごと横倒しのものもある。

 景観のなかで目を引いたのは川だ。横臥する大木の影に隠れたそれは、川幅などソルが飛び越せる程度のものであり、いまやその表面は氷結していた。

 ソルは眉を渋めた。じわりと汗が額に浮かび出す。

 辺りを席巻する熱気が、遅れて伝播してきたのだ。

 

(あれがデュナム公国代表の実力)

 

 ソルが遠望する先は、この戦場の中心だった。

 地に伏す大木たちの幹の上──少女が立っている。

 先ほど、砂塵を切り開いた炎の帯を纏っていた。

 イルル・ストレーズ。薄汚いローブをはためかせ、炎属性魔術を行使している張本人だ。如何なるときも目深に被っていた頭巾は、いまや取り巻く火炎の風圧で外れている。曝け出された橙髪は存外長く、肩甲骨を越える辺りまであった。そんな彼女の険しい顔は、川を隔てた向こう側へと向けられていた。

 そこには、討伐対象の獄禍が聳えている。

 

(あれがケダマ。昨晩は呼称に文句をつけたが……)

 

 実物を目の当たりにすると、その命名も頷ける。

 獣めいた土色の体毛に覆われた、毛玉に似た球体。

 背後に突き立つ木々と同等の図体で、太木の幹のような四本の脚がその巨体を支えていた。前方に張り出した面相すらも体毛に隠れて見えない。外見は脅威を覚えるようなものではないが、厄介さは折り紙付き。

 あれでも御伽噺にも顔を出す獄禍の端くれだ──。

 

「えいやっ! いっけー蛇くん!」

 

 イルルはその場で跳ね、可愛らしい掛け声を放つ。

 杖を一振り。取り巻いていた炎の一端が千切れ、ケダマ目がけて射出される。全くもって可愛げのない勢いの炎を差し向けた。火矢のごとく飛ぶ一条の炎は、大蛇のような大口を開けて怪物を呑まんとする。

 当然、指を咥えて待つ獄禍ではない。ケダマは中空に氷槍を一本生成、迎撃を行う。わずかに時間を置いて、三本の槍を同一直線状に放つ。先陣の氷槍で炎を撃ち落とし、後続の槍でイルルを貫くつもりだろう。

 だが、彼女は対策する様子もなく叫んだ。

 

「甘いよっ!」

 

 イルルとケダマの相中で炎と氷が衝突する。

 

「蛇くんにとって、そんなの餌なんだから!」

 

 炎が開いた口に、一本目の氷槍が呑まれた。

 だが炎は貫かれず、消えない。ソルは目を剥いた。

 内部で氷が溶かしたのか。あれはまるで意思を持つ蛇のようだった。蛇は一本を呑み込むと膨れ上がり、次なる氷槍を丸呑みにする。三本を瞬く間に平らげ、あとはケダマを残すのみ。その頃には炎蛇の図体も当初の十倍程度にまで巨大化していた。それが広げている口も、ケダマの半身を齧れるほどに大きい。

 ここにいるソルにも肌が焦げつく感覚がある。

 吹き荒れる風は堪えがたい熱量を孕んでいる。

 

「■■■」

 

 炎蛇はケダマに牙を入れようとし──凍った(・・・)

 放出されていた熱は途絶え、動作を停止する。

 身体が高温の炎であったはずの蛇は氷に包まれる。

 あとは重力落下して、獄禍の足元で無残に砕けた。

 

「へ、蛇くーん!」

 

 悲痛な声が上がった。

 

(尋常ではない。あれだけの熱量を持つ火炎を瞬間的に凍結せしめるとはのう。まして生身の人間が触れてはどうなるか。やはり、正攻法では歯が立たない)

 

 ケダマの事前情報を確かめる結果となった。

 そう、何も無策で怪物討伐を行ってはいない。討伐隊の面々は、あらかじめ討伐目的の獄禍を偵察して、それらの特徴を調べ上げていた。

 ケダマの特徴は二点。一点目は、非常に稀な氷属性の魔力属性を持つこと。その魔力を行使して、己を害する者を排除する。だが、あの獄禍の真骨頂は二点目にある。炎蛇の末路の通り、傷つけられないことだ。

 その体毛に触れれば、何者をも凍らせてしまう。

 

(凄まじい怪物ぶりじゃ……!)

 

 ケダマは戦闘開始時点から傷ひとつ受けていない。

 ソルは身を低くして駆けつつ、左前方を見遣った。

 イルルが幹の上を跳ね回っている。様々な角度で杖を振り回しては、爆音を轟かせている。怪物から再び幾本もの氷槍を投擲され、彼女はそれを次々爆裂させる。炎華が咲き、一帯の空気を幾度も掻き乱す。

 詠唱はしていない。魔力放出での迎撃は、矢継ぎ早の攻め立てに対応するためだろう。そのついでとばかりに、魔力放出でケダマの至近距離を爆破する。

 しかし、無傷。瞬時に凍った爆炎の花が墜落する。

 

「うっそー! この火力でもムリ──!?」

「ストレーズ殿! やはり手筈通りに進めましょう」

「うん! りょーかい!」

 

 ソルは視線を戻し、ケダマを睨みながら駆ける。

 イルルの陽動に気を取られている隙に、ソルは距離を縮める。怪物攻略の本命はこちらだ。改めて、正面突破が不可能だと判明したいま、唯一の討伐の糸口である──魔力供給用の管を狙う他ないわけだ。

 それはケダマの裏側で蠢いている三本の太い管。

 地中に潜り、『根絶』まで繋がっている弱点。

 

(子飼いの獄禍が収集したマナを送る管。元よりわしらの目的は『根絶』への魔力供給を止めて、それが纏う霧を晴らすことにある。そしてもうひとつ……)

 

 あの管を切断すれば、たちまち獄禍は力尽きる(・・・)

 その理由は子飼いの獄禍の特殊性に由来する。彼らは自らオドを生成できないのだ。生物にとって体内魔力は必須、それは怪物たる獄禍も例外ではない。ではどうやって、彼らが生命活動に必要なオドを受け取っているのかと言えば、魔力供給用の管なのだ。

 つまり補給管には二つの役割がある。ひとつは収集したマナを送る役割。そして、生命維持に必要な量のオドを『根絶』本体から受け取る役割。

 要は、魔力供給用の管を断ち切ればいいわけだ。

 

(無論、わしの剣で断ち切れたらじゃが)

 

「っ、容易くはいかぬか!」

 

 刹那、横合いから視界に迫ってきたのは──氷壁。

 否、側面が弧を描いている。あれは巨大な円筒だ。

 大人三人分ほどの直径はあろうか。この長大ぶりから察するに、陽動につとめていたイルルまで攻撃範囲に入るだろう。ケダマにとってみれば、飛び回る羽虫を一掃する腹積もりなのだろうか。きっと周囲の薙ぎ倒された木々は、この一撃によるものだ。

 だとすれば、その猛威、威力は推して知るべし。

 

「さあ、押し通るかのう」

 

 



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14 『修羅の感覚』

 時を遡ること数分前、ケダマが見える茂みの影。

 少女と幼女は、討伐の段取りを練り直していた。

 

『いい? ルーちゃん。シャイラのお姉さんがいないから、昨日考えてた方法で攻略はできない。でも、息を合わせての連携にも限界がある。ここまでいい?』

『ええ。明確な攻略法が必要、ということですな』

『大正解! 無策じゃ簡単にやられちゃうと思う』

 

 そう言って、イルルは視線を茂みの隙間に飛ばす。

 その先には我が物顔で居座るケダマの姿がある。一軒家ほどはあるかという体格を悠然と誇示して、日光を浴びている。ぶるぶると気持ちよさげに震え、毛並みが波立った。一般的な動物のような仕草である。

 ソルが思うのは、先ほど遭遇した獄禍との差異だ。

 シャイラが相手を引き受けた、生物的な雰囲気がない不気味な影。あれとはまるで違う形態を目にして、やはり噂に違わず、一口に獄禍と言えども姿形、能力は千差万別だという実感が湧いてくる。

 イルルは「じゃあ」と話を先に進めた。

 

『元々の討伐案を振り返ろっか! 第一案は力押しだったね。ケダマの特徴の『触れれば氷漬けにする』がどこまで処理できるか、シャイラのお姉さんが剣の砲撃で試してみる。それで処理限界に行って針鼠にできたらいいけど、できなかった場合の第二案。シャイラのお姉さんが牽制しつつ陽動、ルーちゃんとイルルが魔力補給管を狙うような役割分担だったよね!』

『第一案のベクティス殿の役割は……』

『そこはイルルが代わりにやるよ! コトが簡単に済むならそれに越したことないし! イルルの魔術で真正面から突破できないか試してみるよっ!』

 

 ソルはこくんと頭を上下に振った。

 真正面から打倒せしめられれば言うことはない。

 だが、とわずかに目を細めて目前の少女を眺める。

 直接手合わせしたシャイラの力量は十分以上に承知しているが、この魔術師の力量は如何程か。

 

『あー、お姉ちゃんのこと心配してるんだー』

『実力を、疑うわけじゃないがのう』

『まあーだよね。ルーちゃんからしたら、イルルの実力なんてまだ知らないよねえ』

 

 見ててよー、と言いながらイルルは長杖を回す。

 手の甲、手首、肘、肩から肩、と杖を蛇のように身体に纏わりつかせて弄び、最後には手に収める。ソルは技量に小さく拍手をする。その見事な杖捌きは大道芸人さながらだった。ここが街の目抜き通りであったなら、路銀を投げる人間もいただろう。

 イルルは照れるように、頭に被る頭巾を掻いた。

 

『拍手喝采どうもどうも! まあー、こんな小手先の技、実践じゃ役立たないんだけどね。そもそもルーちゃんっ、魔術の技じゃないって突っ込みが──』

『そう謙遜するものではないでしょう。実践で活かされるのは総合力。身体の使い方を見れば、魔術だけでなく体術にも長けていることが分かります」

 

 ソルは一連のイルルの挙動で動く筋肉を見ていた。

 擦り切れたローブの裏側に覗く、華奢な四肢。

 だが、動作時の膨らみ、形、肉の躍動から──皮膚の下に、しなやかな筋肉が形成されており、その上、上質な筋肉を操る器用さも持ち合わせていることを見透かしていた。ソルにしてみれば、イルルの杖捌きは秘めたる実力の一端を示されたも同然の行為だった。

 真っ当にそれを称賛して、しかし二人の間に妙な沈黙が降りたことに、いささか戸惑った。

 

『これだけ出来て、本領の魔術がおろそかとは思えませんのじゃ。ゆえに背中を預けるに足る実力は確かにあると見て、その、イルルお姉ちゃんの案に賛同したいのじゃが……呆として、どうかされましたか』

『いやいや、見透かされちゃってちょっと恥ずかしいというか……おどけたことがますます恥ずかしくなっちゃったというか……ちょっとびっくりしちゃって』

 

 ぱちぱち、とイルルは紅い両瞳を瞬かせる。

 そうしてようやく、至極真っ当な疑問を述べた。

 

『ルーちゃんって、ホントにイルルより年下?』

『見ての通り、単なる幼女なのじゃ。そもそもこれも当て推量です。ハキム……ハキムお爺ちゃんが、実力の足りない者を討伐隊に加えるとも思えませんので』

『なるほどー、『カゾクノシンライ』ってやつだね』

 

 そう心得顔になると、手を叩いて密談を締める。

 

『とにかく、期待していいよ! イルルも討伐隊に選出されただけはあるから! ここはどんっと、お姉ちゃんに任せてくれて問題なしっ! ルーちゃんたちに心強い仲間ができたってこと、見せてあげるから!』

 

 本来ならば、敵対関係である国家に属する面々。

 模擬戦以前までは、行く手を阻む壁だったはずの彼らが、いまや背中を支える壁になったのか。深々と頷いて、胸に灯る熱源を小さな手で抑える。

 

『それでは次……イルルお姉ちゃん。第一案のほうは決定として、力押しでどうにもならない場合の段取りを決めましょう。二人でケダマを攻略する方法を』

『ふふん、ルーちゃん。実はイルル、この場所に来て攻略方法について、ぴーんときたんだ』

『ほう、詳しくお伺いしましょうのじゃか』

『ケダマ攻略。突破口は、あそこにある川、だよ』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 そうして、現在──。

 ケダマが生み出した巨大な氷柱の横薙ぎ。

 それは目前に迫る氷壁となって、ソルの視界を猛烈な速度で埋めてゆく。鼓膜に轟くは大質量の物体が大気を破る音。危機的な状況を前にして思考は加速、脳内麻薬が頭中を巡る。打開策について検討する。

 迫る脅威への打開策は限られている。足か、剣か。

 前者の選択肢はすでに選べない。回避には間に合わないからだ。氷柱の側面から察するに、その直径は平屋の屋根程度はあるだろう。飛び越えようと上に跳躍すれば、あえなく氷柱と直撃して全身の骨が砕け散ることになるだろう。背後に飛び退いても同じことだ。

 視線を横に流す。氷柱は視界外まで伸びている。ここで背馳に転じたところで、大して距離を稼げるとは思えない──これも悪手だろうと結論づける。

 ならば、力でもって打開するか。片手に収まる剣に意識を向ける。虎視眈々と獲物を狙う刃は、振るわれる瞬間を今か今かと待ち詫びている。だが目前の氷柱に刃が通るという楽観視はできない。氷槍と同様に一刀両断するには、氷柱はあまりに巨大すぎる。そもそも幼女の小さな体躯で、巨大質量と正面衝突など愚作も愚作。弾き飛ばされ、肉塊に変えられるだろう。

 だから結局、ソルは剣を向けなかった。

 

(走り続けているとき、立ち止まってはいけない)

 

 ただ集中する。速度を落とさずに足を回し続ける。

 足元から忍び寄る怖気。腹底に滾る焦燥。恐怖という生物らしい感情を削ぎ落とす。それには半秒もあれば十分だ。自らを削ぎ落とすのは得意分野だった。死と正対し、互いの鼻頭を擦らせるのは常だった。氷と逆風による冷気ではなく、心構えで顔を凍らせる。

 この吶喊は果たして無謀か。否、信頼である。

 心強い仲間と豪語した少女に、この場を任せた。

 

「頼む!」

「任された!」

 

 合図となる言葉を発すると同時、地を炎が這う。

 視界の横合いから一尾の紅蓮が迸り──爆裂。

 目前で、氷柱の一部が内部から弾け飛ぶ。それだけに留まらない。氷柱を端から齧るように、根元へ向かって爆裂が続く。連続的なその激しさは、至近距離を駆け抜けるソルに降りかかった。頬に、胸に、腹に、腱に、砕けた氷礫が爆風に乗って身体に突き刺さる。

 肌を破るのは痛みと強烈な風圧。耳に轟くのは猛烈な爆音。かすかに鼓膜を掠めるのは、氷の豪快な破砕音。だが、それらも足を止めるほどのものではない。

 片手で両目を庇いながら、進む爆裂と並走する。

 

(想像以上に派手な対処じゃ……が、道は開けた)

 

 勢い十分だった爆裂の連鎖。しかし、根元のケダマまでは届かない。氷柱全体のうち、三分の二程度を喰らい尽くしてぴたりと止んだ。きっと魔術の有効範囲内を出たのだろう。あるいは体力切れか。爆裂という派手な現象を連続で発動するのは、如何なる魔術師も疲労するのは想像に難くない。けれども十分だ。

 ソルの眼前を、短くなった氷柱が通り過ぎる。

 そう、すでに氷柱の脅威は脱したのだ──。

 

(わしの為すべきは、距離を埋めること。魔力補給管を切り落とすことが、わしの役割じゃ)

 

 敵対者との接近は、当然だが甚大なリスクを孕む。

 反応速度と正解を選ぶ判断力だけが生死を分ける。

 これが魔力を扱う相手ならば尚更である。魔術の出力先にできる有効範囲は、術者本人を中心にした範囲なのだ。先のイルルを例に挙げれば、炎の渦も蛇も、最初に出力された位置は彼女の至近距離。そこから遠くまで飛ばす等は自由だが、魔術の大前提として出力先は術者の周囲である。もちろん、術者本人の力量や特質によって広狭は変わるが、つまるところ。

 氷の魔術使い(ケダマ)に不用意に近づけばどうなるか。

 

「ッ……!」

 

 ソルの目前には氷槍が所狭しと十本が並び──。

 空中には囲むように二十本が現出し──。

 直下から、鋭利な先端を持つ氷柱が立ち昇り──。

 周囲の地面からは、無数の糸状の氷が伸び──。

 そのすべてがソルの身体を貫かんと迸った。

 

(わしで対応は……否、絶対的に手が足りぬな)

 

 最小限の手数を考え、逃げ場がないことを認める。

 まず、眼前の槍を弾くために剣を抜くとする。

 全方向を斬り伏せる必要はない。進路に塞がるひとつを排除すれば、小柄なソルは窮地突破に事足りるだろう。同時に、立ち上がってくる氷柱を足でいなさねばらない。ここまでは可能な範囲だ。現状、疾駆するソルの脚は開かれている。いなすため脚を戻すには時間が足りず、前傾姿勢による疾走中ゆえに屈んで避けることもできない。だが、氷柱の先端が股を貫く前に地面を蹴って加速することで逃れられるだろう。

 さりとて、第三の壁。文字通りの壁は越せない。

 

(槍を並べた向こうに、氷壁まで拵えるか……!)

 

 視界の先には、日光を跳ね返す氷壁が立っていた。

 ケダマをこちらの視界から隠すほどに巨大である。

 

(防御網をさらに強固に……!)

 

 そして、視界下部でも変化が起きていた。

 周囲の地面から伸びてきていた糸状の氷だ。ひとりでに編まれて、こちらを包囲するように網を張り始めていた。実に手が込んでいるが、その網は目前の槍とまとめて叩き斬れない距離にある。だが、目前の槍を突破した直後に、飛び越えられる距離はない。

 舌を巻いた。ケダマは近・中距離戦では無双だ。

 

(本体に触れれば問答無用で凍結させる能力。瞬く間に氷魔術による包囲網を形成する能力。同時に三重以上の魔術を行使するなど、人間業ではないのじゃ。やはり、わし一人の手に余る手合いじゃのう)

 

 想定通りの(・・・・・)難敵ぶりに感心してしまうほどだ。

 

「飛んでッ!」

「応!」

 

 再び合図。背後からの声に合わせ、地を蹴った。

 前方にではなく、上方に跳ぶ。

 瞬間、軍靴の裏で地表面が爆裂する。

 

「ぐっ……!」

 

 声が漏れる。一瞬の浮揚感の後、空に攫われる。

 ゆうに死線を飛び越え、ケダマの背丈すら超す。

 ソルはきつく歯を食いしばり、苦痛に堪える。

 爆風で上空高くに飛ばされながら──身を捩る。

 

(身体への、負荷は……どうとでもなる程度じゃ)

 

 それでも右脚は深刻で、足裏の感覚を失っている。

 血管の脈動と同期して、膝は微痛に襲われている。

 

(それより状況はどうか……!)

 

 蒼穹に抱かれながら一回転。視線を巡らせる。

 横合いからの太陽光が眩しい。目を細めて、地上の状況を確認する。辺り一面の緑が、太陽の兆しに輝いている。遠目に湖の青が見えた。その近辺にあるぽっかり空いた場所は──拠点となった集落だろうか。

 ソルの真下は、刺々しい氷の彫像と化していた。

 氷塔には幾つも氷槍が突き刺さり、周囲に砕けた氷の破片が飛び散っている。わずかでも遅れていれば肉塊に変えられていたに違いない。ぞっとする。

 その後方、イルルは川縁に立っていた。

 

「【日輪の輝き】【其の風、幽冥なる蜃気楼を払い】【其の圧、炎舞う獄を攘い】【其の炬火、塗装された闇を祓い】【其の光、星彩を擽い】──」

 

 イルルは橙髪を揺らして、杖を振るっている。

 先端の宝石が紅々と輝き、陽光を跳ね返す。

 

「【空満す白き天球】ッ!」

 

 杖を地面に突き立てて、六節の詠唱を繰り出した。

 地の底から響く轟音。鳴動は劇的な結果を産む。

 縷々と流れていた川が波濤となり、怪物を呑んだ。

 彼女は魔術で川底を爆破することによって、意図的に大波を起こしたのである。

 

(ここまでは、事前に描いた絵図通りじゃ)

 

 イルルと立てた策は前半・後半の二部構成だった。

 まず前半、ソルは囮、イルルが本命である。ソルがケダマの正面突破を試みて、その背後からイルルがあらゆる遠距離攻撃を加える。囮役となる幼女は、劇烈な炎魔術の影で距離を詰めることでケダマの注意を向けさせたが、危険は大きかった。安全策として、イルルの魔力を纏った状態ではあったが──。

 他人の魔力(マナ)がある箇所は、魔術の起点にすることはできない。ゆえに、あらかじめ半径数丈程度に魔力を散布していれば、少なくともその範囲内が突如として爆発したり氷槍が出現したりはしない。

 氷槍に囲まれた場面でも、いささかソルと距離があった理由はこの安全策のおかげだったわけだ。

 

(もっとも、ストレーズ殿が魔力補給管を直接爆破できない理由でもあるわけじゃが、それはそれ。だから攻略は二部構成で立てた。前半で撃破できればよし、撃破できなければ、ケダマの特性を利用する)

 

 ケダマは、触れたものを問答無用で凍らせる。

 では、ケダマを包み込むような形で接触すれば?

 

(ケダマ自体を氷で覆い、無力化できるやもしれん)

 

 事実、果たして波浪はケダマを呑み込み、凍った。

 そしてこの波状の氷には、もう一つの用途がある。

 事前に立てていた策の後半だ。波形の上に落ちる。

 幼女は空中で四肢を繰り、姿勢制御で重心移動を行い、受け身を取った。

 

「ぐ、ぅ……!」

 

 着地の衝撃は氷上を転がることで逃しつつ、受けた衝撃を初速にして滑り始める。

 

「こ、のままッ……!」

 

 加速。加速、加速、加速。

 氷上を滑走し、終着点に向けて加速を続ける。

 そう、凍結した波浪には活路という役割があった。

 ケダマを呑む形で波を固形化させれば、その身体に直接触れない緩衝材をつくるだけではなく、滑り台(・・・)をつくることにもなる。氷上を滑ることで、ケダマの背後にある着地点──魔力補給官に至る滑り台を。

 この誂えられた突破口ならぬ突破路は、人の手で均されているわけではない。凍った水飛沫が肌を裂き、臀部から腰を守る鎧が氷上に轍をつける。傾斜がきつくなれば、痛みとともに加速する。吹き抜ける冷気に目を細め、歯を食いしばって堪えていると──ケダマの背後、影のなかにケダマの魔力補給管が視認する。

 魔力補給管は、数十本の細い管で形成されている。

 外見は、遠目に見た以上に毒々しかった。生物の血管然とした赤黒い管、青黒い管。生々しい色合いの管は、脈動しながら絡み合い、弧を描いて地面に繋がっている。その先に『根絶』が手ぐすねを引いているのだろうか。と、そこで一旦思考を切った。

 さしあたって、斬るべきは見定めた管の束である。

 だが、一筋縄では獄禍の討伐は叶わない。

 

「なッ……!」

 

 行く手を遮るように、氷の獄が展開される。

 冷気放つ滑走路の左右と床面から茨が生えてくる。

 まるで氷の魔窟。必殺の空間が大口を開ける。

 

「ぐッ、ぬう……! 撤退じゃ!」

 

 腹の底から叫んだ言葉には、爆裂が応えた。

 大音響が轟き、烈風が踊る。視界は更に一回転。

 滑降中だった身体は風に掬われ、天高くに再び放り投げられる。急激な上昇で三半規管が狂いかける。嘔吐感は喉奥で堪えた。生理的な反応は逆らいがたい。

 唇の隙間から涎が垂れる。拭う暇はない。

 

(失敗した……!)

 

 ソルは大気に揉まれながら情報整理を行う。

 

(ケダマを無力化した上で、魔力補給管を上空から奇襲することはできなかった。ケダマはわしの挙動について知覚しておった……じゃが、どうやって)

 

 いまはケダマの体躯を越えて吹き飛ばされている。

 自由が利かないなか、着地点を探りかけて──。

 

どうやって(・・・・・)、わしの存在を知覚できたのかのう)

 

 疑問の結論に辿り着いた瞬間、剣を放り投げた。

 手首のしなりのみを推進力に緩やかに飛んでゆく。

 狙い通り、ケダマの体表を掠る軌道を描いた。

 

(よし。あとは着地を考えなければならぬ……ッ!)

 

 ソルは身体を反転させ、地上に視線を転じる。

 ケダマの正面には薄い白煙が立ち込めていた。

 連続的な爆裂音が木霊している。煙には球状の膨らみが幾つも生まれては破裂。暴風が切り裂いて乱れた隙間から、怪物と少女の激闘ぶりが窺えた。

 炎と氷が真正面から衝突。イルルは器用な身のこなしで、猛撃を躱しつつ、倒れた幹から幹へと駆ける合間に爆撃を放っている。戦況が拮抗しているようにも見えるが、後手後手というのが実状だろう。

 イルルは一定距離を保ったまま、派手な爆発を起こしているだけだ。ケダマの特性上、魔力補給管を断つ以外で有効打は与えられない。このままでは体力の限界を迎え次第、氷漬けになる未来が待っている。

 それも当然。彼女は元より、ソルが奇襲する上で陽動の役を担っていたのだから。

 

「ルーちゃん!」

 

 間近から声がした途端、背と尻に手が回される。

 イルルは空中でソルを抱きかかえたのだ。

 一拍の間を置いて、彼女は倒れた幹の上に着地。

 ぎぎ、と足元を軋ませては、倒れた木々から木々へと飛び移ってゆく。

 

「無事!? って、剣どっか落としちゃった!?」

「離しちゃいました」

「離しちゃったか──!?」

 

 爆音を轟かせ、白煙に頭から突っ込んでゆく。

 

「とにかくっ! 一旦距離を取って作戦を立て直そうか! ちょっと見積もりが甘かったけどっ! 期限の日没まで時間はあんまり残ってないけどっ! 情報は得られたんだし、まだ打つ手はあるはずだから──」

「ふむ。もはや打つ手は不要かと存じますのじゃ」

「え? それって……どういう」

「もう斃しておるようですのじゃ」

「え、ええ……!?」

 

 疑義を呈しながらも、速度を落として振り向いた。

 濛々と立つ白煙の向こう側から──氷が、来ない。

 イルルは立ち止まって様子を見守る。浅い呼吸を落ち着かせながら目を眇めている。ソルは同様に彼女の腕の中で、やがて晴れ始める川向こうを眺めていた。

 遂に姿を現したケダマは、もはや微動だにしない。

 斜光を浴びる怪物は、静かに、絶命していた。

 

「ど、どういうことなんだ……ルーちゃん!?」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 契機は、ケダマの感覚器官に対する疑問だった。

 あの怪物はどうやって外敵を認識しているのか。

 想像の埒外にある知覚方法は一旦除いて考察する。

 生物の感覚器官は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。

 味覚と触覚の可能性はまず消える。どちらも接触が必要な認知法だ。次に嗅覚と聴覚は考えずらい。暴風と爆音が轟くなかで掻き消されているはずだ。位置が正確に把握できるほど繊細ならば尚更。

 残ったのは視覚だが、これも違うだろう。

 全身が体毛に覆われた怪物には、光情報を受け取る眼球にあたる箇所が見当たらないのだ。

 

「加えて、正面でのストレーズ殿との戦闘、わしの頭上での急襲、どちらにも対応を行っていた。あまりにも広範囲のものを同時に認識できていた……」

「まるで、お空に目玉があるみたいだったよね」

「はい。特定範囲……たとえば、ケダマの周囲を何らかの基準で知覚しているのではないかと類推したわけですのじゃ。視覚か、あるいは五感以外の基準で」

 

 次に、どのような基準なのかを絞り込んだ。

 明確に反応していたのはイルルの炎と人体。大波に対しては氷槍や氷壁で対処していなかった。これを鑑みたとき、ふたつの可能性が浮上した。

 おそらくは魔力、あるいは温度ではないか──。

 

「だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の!? 魔力も纏ってない、温度も下がったものなら見えないと思って……!? それも、剣が滑って、魔力補給管を切るように投げて──」

「試してみる価値はあると思いましてな」

「すごーっ! すごすぎでしょ!? 投げる角度も力の加減も計算したわけでしょ!? いやー、ルーちゃんもー流石すぎっ! 想像以上にできるねえっ!」

「と、つい先ほどまでは思っておりましたが」

「え」

 

 ソルが急に言葉を濁したことで、イルルは困惑しきった顔をしていた。

 

「ええ……思っておりましたが……?」

「一旦、ケダマの骸を確認しましょうのじゃ」

「う、うん? まあ何にしてもジッサイ倒せてるんだから問題ナシだよ! じゃーゴーゴー」

 

 弛緩した空気のまま、ケダマの骸に近寄っていく。

 傍らで見ると弥増しに大きく感じられる。幼女の身からすると小高い山にすら思えた。まだ怪物に息があれば大事になる可能性もあるため、一定の距離を置きながら裏に回る。ソルには確認したいことがあった。

 魔力補給管は事実、白刃で切り裂かれていた。

 瞳の鋭さを保ちながらも「やはり」と呟く。

 

「ケダマはわしが斃したのではないようですのう」

「えーと、どれどれ……あっ」

 

 投げた剣先は、魔力補給管の大半を外していた。

 毒々しい管の束の真横に突き立っている。二、三本は断てていたが、大半が漏れている。では、実際に管の束を切り裂いているのは何なのか。原因究明のための検分は必要ない。ひと目見ただけで明らかだった。

 管は、獣の群れに貪られたような有様だった。

 管の残骸が撒き散らされている中心には、()()()()()()が滅多矢鱈に突き刺さっている。

 

「じゃあ、もしかして」

 

 ソルと同じ発想に至ったイルルは周囲に目を配り、後方に向かって手を振った。

 

「シャイラのお姉さーん! 大丈夫だった?」

「ごめんなさい……すごく、遅れて、しまって」

「ベクティス殿、無事でなによりなのですじゃ」

 

 木立ちの向こうから、麗人が早足で駆けてくる。

 風に流れる紫紺の髪、動く手脚には乱れもない。

 裾に汚れひとつつけず、大英雄が戻ってきたのだ。

 シャイラ・ベクティスはわずかな息の乱れにのみ戦闘の面影を残して、立ち止まる。

 

「こちらは、問題な、く…… 心配をかけて、ごめ」

「謝らないでよー! 間に合ってるじゃん!」

「助太刀、感謝いたしますのじゃ。ベクティス殿がケダマの魔力補給管を狙い撃ちしていただかなくては、ジリ貧に追い込まれていたかもしれませぬ」

「あ、あの、その。はい」

 

 シャイラの瞳には、澱のような影が落ちていた。

 それが、羞恥を覚えたように目線を背ける動作や浮ついた声色と繋がらず、ひどい違和感だった。

 

「お役に立てたの、なら……よかった、です」

 

 彼女は暫し、ケダマのほうに目を遣ると瞑目した。

 ソルが意図を測りかねて訝しんでいると、横合いからイルルが明るい調子で尋ねてくる。

 

「で、どうだった? 初めての獄禍戦の感想は」

 

 イルルの無邪気な問いに、ソルは答えに窮した。

 当たり障りのない言葉は幾つも思い浮かんだ。

 たとえば「不甲斐なくて申し訳ない」だの「共闘とは実に難しい」だの「氷使いは初めて見た」だの「ストレーズ殿の魔術の腕前は申し分なかった」だのと。だが、今回の獄禍討伐で覚えた正直な感想は、四文字で言い切れる。前歯で唇の一部を噛み千切る。

 鉄錆の味が、じわじわと舌に広がり出した。

 

(物足りない)

 

「ルーちゃん……?」

 

 気づけば、黙りこくっている自分がいた。

 瞬きをする。紅い光彩に輝く瞳が目前にある。

 鼻先が触れそうな距離だ。驚いて数歩下がる。

 知らず、息のかかる距離まで近づかれていたとは。

 

「いかがしたのじゃ」

「いかがした、じゃないよー。怖い顔してたよ?」

 

 会話中にも関わらず熟考に沈むのは己の悪癖だ。

 身体には、物事を観察して熟慮する癖がむかしから染みついている。簡単には抜けまい。

 

「ともあれ、獄禍も倒したし、やることやろっかー。ちょっと辛いとは思うけど、ルーちゃんも手伝ってくれる? イルルたちのもう一個の目的──」

「もう一個…… 子飼いの獄禍を期日以内に倒しきる以外にある、ということですかのう?」

「そーそー! ハキムのお爺ちゃんの頼みで集めている、あくまでダイニモクテキなんだけど」

 

 イルルは踵を返し、ケダマの死骸に飛び乗った。

 

「獄禍の『核』を持って帰らなくちゃいけないんだ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 獄禍の核とは、生物で言うところの心臓にあたる。

 が、この説明では語弊がある。心臓と言えども、血液を全身に送り込む喞筒の意味合いではなく、生物の動力源という意味合いでの心臓だ。獄禍の一般的な討伐方法は、体内の核を穿つこととされる。ファニマール子飼いの獄禍であれ、例外ではない。つまり、目前に横たわるケダマのなかにも核が眠っているわけだ。

 手始めに、ケダマの巨躯に目星をつけた。

 どの辺りに核があるか。核の位置は心臓という役割に反して、人間や動物のように中心部にあるとは限らない。獄禍ごとに個体差が激しい。曰く「胸部に収められていた」「右足の踵に埋まっていた」「表皮の一枚下にあった」と、法則性というものがない。

 そのため、核探しは虱潰しの様相を見せた。

 ケダマの身体を捌き始めてから暫し、空が茜色に染まりきった頃にようやく終わった。 

 

「よいしょーっと! 核発見──!」

 

 ソルは地上に接した付近を解体していたときだ。

 目前に、イルルが快哉を上げながら降り立った。

 登攀したケダマの頂上から飛び降りたのだ。体力が有り余っているらしい。夕陽色の髪と頭巾をふわり空中に踊らせて、綺麗な着地を決めている。

 ソルが解体に使っていた短剣を返却すると「ありがとー!」と弾けるような笑みを見せた。

 

「これで獄禍討伐完了だよ! お疲れー!」

「み、見つかった、んですね……」

 

 快活な声とは正反対に、周囲は血の海だった。

 地上には赤黒い染みが広がり、ケダマだった残骸が至る所に落ちている。イルルとシャイラと三人で捌いた跡だ。ケダマの巨体を探すには相応の作業時間と体力を消耗した。腰に来る。懐かしい感覚である。

 イルルの手には、件の核なるものが握られている。

 それは、ケダマの体躯と比べてあまりに小さい。

 少女の手に収まるサイズ。形状は、多面体の鉱石のようである。斜光を浴びて、表面の黒色が煌めいていた。黒曜石とは違う。目を凝らすと色が黒以外にも変化する。真紅、深緑、紫紺、気づけば他の色に。その鉱石は半透明で、宝石のように内部まで見通せる。

 世の澄んだ色を、すべて閉じ込めたような逸品だ。

 貴族階級の者は飛びつく代物だろう。ソルが見目相応の精神性──少年性、少女性──を待ち合わせていれば、その綺麗さに惹かれていたかもしれない。

 しかし、彼女の興味はそこにない。あれはどういったものなのか。純粋な知的好奇心の下、まじまじ見つめている姿がおそらく物欲しげに見えたのだろう。

 いささか逡巡したようだったが「触ってみる?」と手渡してくる。

 

「ケッコー危険だけどね。ちょっとだけなら」

「有り難く、あらためさせてもらいますのじゃ」

 

 知的興味に背中を押され、手元の鉱石を観察する。

 いや、観察しようとするはずだったのだ。

 

「な、っぐ……!」

「おっととと、危ない!」

 

 手に鉱石が触れるや否や、ソルは石を取り零す。

 驚きのままに、地面に転がったそれを凝視する。

 体内の内圧が膨れ上がるような感覚だった。

 五臓六腑も膨らみ、すべて千切れるような──。

 

「ごめんごめん! 吐き気とか大丈夫?」

「いえ……わしは。それにしても、これは」

 

 程度は遥かに下がるが、似た感覚に憶えがある。

 心配するイルルを手で制して、推量を口にする。

 

「これはマナ結晶、ですかのう?」

「おー、ルーちゃん物知りー! でも、ちょっと違うんだ。自然的に出てくるマナ結晶よりも、もっと純度も濃度も高くって扱いづらい、『オド結晶』って言うんだって。いやー魔術を使うヒトからしたら、涎を垂らして飛びつきたいくらいのモノなんだから!」

「ふむ。無学なもので、初耳でしたのじゃ」

「……なーんて。イルルも最近知ったんだけどねっ」

 

 マナ結晶については知っている。マナの吹き溜まりで稀に発見される石だ。大気中のマナが凝縮した魔力の塊であり、用途としては体内に魔力を生成する術を持たない一般人が魔術を使う場合や、魔術師が簡易的な魔力の補填として使う場合が殆どだ。

 これは元来、自然発生するものだったが、帝国で二十年ほど前から人工的に生成する技術が生まれたことで、大きな産業革命が起きたのは有名な話である。

 人工のマナ結晶は天然ものより純度が劣る。比較するまでもないほどに。当然、天然ものは産業的な価値も高く、市場では高値で取引される代物だ。ソルもお目にかかったことがない。そんな、高純度とされるそれよりも、純度・濃度ともに高いというオド結晶。

 ソルは空を仰ぐ。もはや想像の埒外である。

 

(見たことのない貴重品より、さらに貴重品。魔術に疎いわしには実感がない。現状オド結晶のことは『超高濃度の魔力の塊』という認識でよいかもしれん)

 

 オド結晶は使用せずとも高いマナ濃度を放射する。

 手にしたときの圧迫感はそれによるものだ。以前に説明を受けたファニマールの霧と同様の原理である。

 

「これ一個で億万長者! なんだけど、そのまま市場に持ってっても値がつかないんだってー」

「それだけの妙品ということですか。もっとも……金銭的な目的で回収したわけではないのじゃろう?」

「えへへー、わかっちゃう?」

「ハキムの奴とは付き合いが長……んん。ま、孫ですじゃからのう。奴の思惑の傾向は読めます」

「そっかー。チノツナガリってやつだねっ」

 

 イルルは屈んでオド結晶をひょいと拾うと、巾着袋に仕舞い込んだ。彼女がオド結晶を身につけられるのは、日頃から魔術の鍛錬を積んでいるためだろう。彼女たち魔術師は、常人より魔力に慣れる必要があり、そのぶん耐性がついているのである。それでもファニマールの霧は突破できないのだから、原罪の獄禍の厄災ぶりがわずかながら実感できた。 

 しかし──と、ソルは横目で紫紺の麗人を見る。

 彼女ならば、勝負になるのではないだろうか。

 難なく子飼いの獄禍を一蹴した大英雄ならば、かの『根絶』にも対抗できるのではないか。

 

「? っ、どうし、ましたか」

「ベクティス殿はご存知ですかのう? ハキムの奴がどうしてオド結晶を収集しているのか」

「え、えと。私は、何も……」

 

 伏せた目を逸らす仕草は、隠し事の趣きが強い。

 おそらくは口止めされているのだろうが、イルルはあっけからんと「ハキムのお爺ちゃんが言ってたのはねー」と続ける。

 

「オド結晶は『根絶』討伐で絶対必要なんだって。シャイラのお姉さんと同じで、イルルも一応何するかは知ってるんだけど……まー、詳しいことはお爺ちゃんから聞いてね。あっちの国の機密的なあれらしいからね──よっし。それじゃ戻ろっか!」

 

 イルルは日没が近いと見るや、撤収を提案した。

 斯くてソルの獄禍討伐隊での初任務は幕を下ろす。

 

「積もる話は、戻って、ハキムのお爺ちゃんに報告したあとね! ルーちゃんの成果を首長くして待ってると思うし! 日が沈むと危ないからねっ!」



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15 『束の間の休止符』

お久しぶりです。
以下、簡単なあらすじです。
※不要な方は前書きは飛ばしてください

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・第一話あらすじ
子供の頃から英雄に憧れている男、ソルフォート・エヌマは凡人だった。六十余年、彼は夢を叶えるために研鑽と努力を惜しまなかった。他人の技術を観察し、研究し、ひたすらに剣の腕を磨く毎日を過ごしていたが、結局のところ夢には手が届かなかった。人生最後に対峙した、最強の英雄『アイリーン・デルフォル』との闘い。かの最強には、己の生涯を懸けた一撃すら通じず、彼は報われぬ最期を遂げた。だが、ソルフォートは生き返る。生前、『最高の魔術師』と名乗る男に冗談半分で言ったことを思い出す。「もし志半ばで果てることがあったならば、二度目の機会が欲しい」と。その願いが叶ったのか、と感謝を抱く反面、困惑した。なぜならば、生き返った姿は──男の姿ではなく幼女の姿だったからだ。それでも、ソルフォート・エヌマは英雄としての夢を再び追いかけ始める。ソルフォート・エヌマという男ではなく、ソルという名の幼女として──。


・第二章あらすじ
ソルは、バラボア砦にて敵将ボガート・ラムホルトを討ち取り、その褒賞として少尉を拝命する。その戦いぶりから『修羅』と呼ばれ、次期英雄の期待を集めることになった。英雄への階段を一段のぼれたと喜ぶのも束の間、領地に出没する怪物──『獄禍』討伐の命令が下る。「怪物退治は英雄譚の醍醐味」と、ソルは帝国小隊を連れて現地へ向かうも、そこには件の怪物はおらず、敵国『ビエニス王国』の英雄ハキム・ムンダノーヴォがいた。応戦するもまるで歯が立たず、ソルたち帝国小隊は全員倒されてしまう。目が覚めたソルの前には、ハキムの姿。ソルとハキムが傭兵時代の古馴染みだったことで、何とか生け捕りで済んだようだった。ハキムを問い質すと、彼らビエニス王国&デュナム公国の精鋭は、災害級の怪物『原罪の獄禍』討伐を目的としていた。そこに英雄譚を愛するソルが飛びつかないはずもなく、獄禍討伐隊入りをかけてビエニス王国の大英雄『黎明の導翳し』シャイラ・ベクティスとの模擬戦を行う。模擬戦の結果、認められたことで、晴れてソルと帝国小隊は獄禍討伐隊入りを果たす。獄禍討伐隊にて、最初に下った命令は「討伐対象である『原罪の獄禍』──『根絶』ファニマールの子飼いの獄禍を、討伐隊の皆で期間内にすべて倒すこと」だった。ソルは、ビエニス王国の大英雄『黎明の導翳し』シャイラ・ベクティス、デュナム公国の魔術師イルル・ストレーズと共に、人生初の獄禍討伐に乗り出す。初日にソルたちが討伐しなければならない獄禍『ケダマ』は、体表に触れた物を凍らせる怪物。イルルとの共闘&シャイラの助太刀によって打倒し、その体内から『オド結晶』を回収する。そして、ソル一行は拠点である集落ケーブへと戻るのだった──。
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 ソル一行が拠点に帰還する頃、日が落ちていた。

 森はかぐろい闇に包まれており、刻々とその濃度を上げていく。星灯りは頼りにならない。木々の枝葉が頭上を塞いでいる以上、夕暮れが舞い降りたあとの行動は難渋する。帰路すら覚束ないのだから、夜間の獄禍討伐などもっての他である。むしろ、徘徊する獰猛な野生動物の恰好の餌食となるだろう。

 夜の帷の降りた大森林は人にとって魔窟なのだ。

 人間には、払暁まで息をひそめる安息地が必要だ。

 集落ケーブ。その門前に掲げられた篝火こそ、そこが人知の及ぶ範囲たる表徴に他ならなかった。

 

「『黎明』様、ストレーズ様、ソル少尉、御苦労様であります! 御無事の帰還、何よりです」

「君たちもご苦労様っ! みんなは戻ってきてる?」

 

 拱門に近寄ると、空から張りのある声が出迎えた。

 視線を持ち上げてみれば、石造りの門上部から張り出した物見台から男が顔を出している。控えていた門衛当番だろう。門の両脇にある篝火により輪郭が与えられていることで、彼らが二人組だと判別できた。

 イルルの問いには「いえ」と幾分か声を落とす。

 

爪班(つめはん)がいまだ帰投しておらず……眼班(まなこはん)が状況確認に向かっています。現状報告は後程。奥でムンダノーヴォ卿がお待ちです」

「そっか……うん、あとでね」

 

 イルルは被った頭巾を寂しげに揺らし、頷いた。

 ソルは目端にその様子を捉えつつ、改めてこの集落を眺めていた。僻地の集落にしては頑強な門と壁で内外を分けている。前述の通りの門と、石積みの壁が集落を囲繞しているのだ。柵や簡素な垣では歯が立たない動物を恐れてのことか、あるいは敵対勢力が近辺にあり、対抗するためなのかは推測の域を出ない。

 何にせよ討伐隊の拠点と定めるにはうってつけだ。

 

「それではどうぞ、こちらお入り下さい」

「ありがとーね。じゃ、シャイラのお姉さん、ルーちゃん行こっ。まずはハキムお爺ちゃんのトコに!」

「は、はい……」

「失礼いたすのじゃ」

 

 門扉は内側から開かれ、一行は集落に通される。

 ソルはすれ違いざま、門を開けた男たちの顔色を見遣った。視線に気づいた彼らは黙礼を返すと、持ち場に戻ってゆく。その様子に感嘆しながらソルはイルルの後を追う。今朝に会った眼班(まなこはん)と呼ばれていた者たちもだったが、想像以上に帝国小隊という『敵国の異物』は存在を許されているらしい。ビエニス王国の国風だと聞いてはいたが、目の当たりにすると驚く。

 この様子ならば、ナッドたちも無下には扱われていないだろうが──。

 

「だい、じょうぶ、です……」

 

 人知れず気を揉んでいたソルの手が握られる。

 あくまで控えめな、触れるだけの握手だった。

 

「ハキムさん、も、みんなも……こわくない、です」

「ベクティス殿……ええ、有難いことですのじゃ。その、わし以外の小隊員がいささか気がかりでして。模擬戦が済んだあとから会っておりませんゆえのう」

「あ、そ、そうなんですね……私、てっきり……」

「てっきり……?」

 

 シャイラの声量に合わせ、小声で喋りつつ進む。

 集落は、日没後にも関わらず賑わいを見せていた。

 日暮れを刻限に、獄禍討伐で出払っていた人々が戻ってきたためだろう。新たに傷痍を得た隊員は看護を受けたあとなのか、包帯の白が目についた。彼らは幾つもの集まりに分かれて、焚き火を中心に円座をつくり、遅めの夕餉を口にしている。それを横目に通りすぎる際、皆一様にこちらに意識を向けてくる。労らいの言葉をかけられ、痛いほどの視線を感じる。

 腫れ物扱い──否、単純に目立っているのだ。

 何しろ、討伐隊のなかでも目を惹く三人組である。

 

(ストレーズ殿はデュナム公国の代表、ベクティス殿はビエニス王国の大英雄。わしは……腹立たしいことに、ハキムの孫と認識されておるゆえのう)

 

 イルルが、話しかけてくる皆の応対をする。

 一方、ソルとシャイラは彼女の背後で会釈をしてやり過ごしつつ──離されなかったため、手は繋いだままだった──そのまま一行は北進を続ける。数分程度も歩けば、目的地である集落の奥に辿り着いた。

 そこは、元々集落の長の住まいだったのだろう。立ち並ぶ家々よりも二回り三回りは大きい煉瓦造りで、集落での強権ぶりを誇示しているかのようだった。

 

「よう帰ったなあ、御苦労さん」

「ハキムのおじいーちゃん、ただいまっ!」

 

 扉を開けるや否や、イルルが飛び込んでいく。

 それに遅れて、ソルとシャイラが室内に踏み入る。

 内部はがらんとしていた。部屋中央を円形の机が陣取り、椅子は七脚ばかりが用意されている。そのうちの一脚に、赤毛の老爺が一人、腰を落ち着けていた。

 ハキム・ムンダノーヴォ。彼は、はしゃぐイルルを受け止めながらこちらを見つめてきた。唇の端を痙攣させ、不気味な笑みを浮かべている。その上、目配せを送ってきた。ソルが睨み返すと、力なく首を振る。

 本題を切り始める気になったのか「さぁて」と呟いたが、暫し待っても話が始まらない、どころか──。

 

(なんじゃ貴様。人をジロジロと)

 

 黙って、丹念にソルの全身を検分し始めていた。

 言問い顔の幼女に気づくと、ハキムは破顔する。

 

「全身にかすり傷と、薄ら脹脛(ふくらはぎ)までの火傷がある……が、その顔。怪我の具合は屁でもなさそうだなあ、善哉善哉。健在な孫の姿が見れて安心したわい。報告が終わり次第、治療所で手当をして貰え。明日もお前さんは獄禍と対峙せねばならんからのう」

「ハキムさ、ん……」

 

 恐る恐るといった風情で、シャイラが声をかける。

 

「私……ソルちゃんを、守れ、なくて……」

「その話は後にせい。幾らでも聞いてやるわい」

 

 意外なほど温度のない返答に、シャイラは俯いた。

 やはり違和感がある。ソルは目を鋭くする。この二人の間に横たわる溝は、四大将とその副官という関係性によるものだけではないのだろう。ここまで淡白なハキムの反応は見たことがない。彼の人徳として、場を和ませる人心誘導の巧みさがあったのに。

 イルルも以前「二人は特別なんだ」と言っていた。

 事実、彼らには彼らなりの事情があるのだろう。ソルが人の感情の機微に疎いとは言え、彼とは旧知の間柄である。全くの僻目ではあるまい。ただしソルは部外者。必要以上に踏み込むつもりはなかった。

 ただ、せめて、垂れ下がったシャイラの手を握る。

 

(こう、老いたくはないものじゃな。お節介と重々理解しているつもりじゃが、無性に世話を焼こうとしてしまう。彼女は大英雄、立派な女性じゃ。子供ではなし、何とも思ってはないじゃろうが……のう)

 

 隣から息を呑んだ音がした。拒まれはしなかった。

 

「まずはケダマ討伐の報告を済ませ」

「はいはいはい! 了解っ! イルルに任せて!」

 

 イルルが声を明るくして、場を流しにかかった。

 腰元に吊り下げた巾着袋から石を取り出して、ハキムに手渡す。彼は矯めつ眇めつすると、軽く頷いて懐に入れる。あれは今回の成果物、オド結晶だ。

 曰く「『根絶』討伐で絶対必要」。ハキムの表情を窺ってはみたものの、意図を汲むことはできない。澄まし顔で、ただ皺の奥にある目の深みが増していた。

 思えば、彼は博奕に滅法強かったことを思い出す。

 感情を埋伏する腕前は、ソルのそれを容易に凌ぐ。

 

「いやねえ、ルーちゃんがホンッットすごくて──」

「そうかそうか……」

 

 イルルは身振り手振りで討伐報告をする。

 ケダマの特徴、能力、所感、そして得た成果物。その間にハキムは羊皮紙に筆を走らせながら、片腕をソルのほうに向けてきた。くいくい、と第一関節で指を曲げる。ソルは露骨に怪訝な顔をしたものの、如何なる用向きか確かめるためにも近寄ってみた。

 ハキムに、硬い指でぐにぐにと頬を弄られた。

 

(殺すぞ──)

 

 率直にそう思ったが、無抵抗のまま仏頂面で問う。

 

気でも狂うたか(ひえほふるうはは)

「何を言うとる我が孫よ」

 

 ハキムは心外そうに言った。

 

「鉄火の間を潜り抜けた戦士を労うことに、何ら不思議はなかろう。ほれ、神経をささくれ立たせては、効果があるまい。年甲斐にせい、笑えい笑えい」

 

 殺意は増したが、すぐ背後にはシャイラがいる。

 彼女は、ハキムの家族関係を微笑ましく見ている節があった。その目前で乱暴狼藉を働きたくはない。忍耐力に関しては一端の自信があるのだ──ソルは努力して、片方の口端だけを吊り上げることに成功した。

 きっとハキムは一連のソルの心理を理解している。

 忌々しくも、理解した上で弄り倒しているのだ。

 

(こういう……わしの弄り方だけは変わらんのか)

 

 ハキムは事務的な作業を終えると「討伐報告、確かに受け取った」と場を締める。

 

「討伐数は順調だなあ。想定より早く『根絶』の霧を払えるやも知れんのう。無論、油断は禁物だがなあ」

「その、あの、私も──……いい、ですか」

 

 ずっと俯いていたシャイラの震え声が上がる。

 彼女も報告事項があるのだろう。先ほどのハキムとの遣り取りを見ていると、要らぬ気遣いとは承知の上でこの場に留まりたくはあるが、それは部外者の立ち入れる領域を越している。ひとまずイルルとともに辞して、道案内して貰いつつ治療所に赴くことにする。

 ハキムは、シャイラの求めを目線だけで了承した。

 

「我が孫、ソルよ。俺は、お前さんとの家族水入らずの会話がしたいわけだが……シャイラ嬢のあとにしたい。とりあえず、お前さんは治療を受けたあと、飯でも摂りに行くといい。腹を満たした頃にはシャイラ嬢の報告も済んでおるだろうよ。場所はここではないほうがいい──落ち合う場所は、いいな?」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「あああ、もう力が入らねえ……」

「ちょっとナッド? 自慢の貧相な顔が台無しよ」

「……何だ」

 

 マジェーレの憎まれ口に反応する元気もない。

 ナッド・ハルトは、大の字で寝転がっていた。

 瞳には黒で丹念に塗り重ねられた空が映っている。

 数多の星の瞬きが埋没したそこに、棚引く白煙が吸い込まれていく様を、ぼうと眺めていた。考えてみれば、こんな場所で──他国の連合軍たる獄禍討伐隊の拠点で、気を抜いてはならないはずだ。一時的に手を組んだ間柄とは言え、警戒心の一切を取り払うほどの信頼関係を築けているとナッドは言えない。あくまで利害関係が一致したゆえの団結なのである。

 与える印象の問題も存在する。単純な話、部外者が大股広げて寝転がっていては不興を買うだろう。そんなこと重々承知している。けれども動けないのだ。

 ナッドは目元に腕を横たえて、深呼吸をする。

 

(やべぇ。これがギリギリ。呼吸以外動けねぇ)

 

 本音を言えば、肺を膨らますことすら億劫なのだ。

 約二十年連れ添った身体は、別物かと思うほどにビクともしない。

 

(見栄、張れるほど体力なんざ残ってねえ。クソ、身体のどこにも力が入らねぇぞ……)

 

 ここまで疲れたのは初めての経験だった。

 かろうじて比較対象になり得るのは、学生時代の研修期間だろう。軍学生が、座学と実践の間にある埋めようのない溝に容赦なく蹴落とされる出来事。戦場に初めて派遣されたその時期、文字通りの右往左往を味わわされた。いまでも時折、そのときの光景が悪夢として現れる。それを今日の出来事が凌駕したのだ。

 新たな心的外傷(トラウマ)の誕生だった。

 

「まあ、今日も五体満足で帰って来れただけで御の字ね。奇跡的なことに、私たち帝国小隊も……二人の離脱者以外、無事に戻ってきた。どうやら今朝に目を覚ました少尉も、討伐を終えて帰ってきたようだし」

「少尉が……? クソ、力が出ねえ……」

 

 込めようとした力は、数秒と経たず霧散。

 何度もそれを繰り返して、結局半身を起こすことも叶わない。儘ならなさに歯噛みする。今日に至るまで人事不省だった幼女との久々の再会になる。帝国小隊の現状について報告も行いたいが、何よりナッドがあの奇天烈な幼女と対面したい気持ちが強かった。

 しかし、呆れたような響きの言葉で宥められる。

 

「いま無理してご挨拶する必要はないでしょ」

「で、も……」

「でもじゃない。私が行くわよ」

 

 溜息混じりに言われ、逡巡しながら感謝を漏らす。

 

「……その、ありがとうな」

「はあ? 当然じゃない。私の役割は副長。隊員の置かれている状況等、報告する義務は私にあるのよ」

 

 更に呆れた口調を強められると、少し腹は立つ。

 ただ、受け流せるほどには慣れた。マジェーレは如何なる場合でも憎まれ口を叩く奴なのだ。言動に馴致していれば、基本的に他者の人格的な問題は許容できる。自分の内にその他者を定義する(わく)があれば、少なくとも驚かない。枠があるということは、それとの適切な心理的間合いを無意識的にでも把握できているということであり、人付き合いする上で役に立つ。

 もっとも、ナッドは既存の枠に当て嵌めることの危険性──従来の狭い視野で決めつけた結果、本質を見誤ってしまったことは事実である。だから都度、非を認めて新たに枠をつくることを心がけている。

 マジェーレは相変わらず険のある調子で続けた。

 

「だから、貴方はそこで伸びていればいいわ。どうせ周りの連中は気にしないでしょう。気にしないどころか、ウザ絡みされるかもしれないけれど」

「ああ、それは……確かにそうかもな。デュナム公国の連中はともかく、ビエニスの連中も本当にあのビエニスかよってくらいに友好的だしな……」

「私たちの班、肉盾にもされなかったし」

「盾にもならないってことかもな」

 

 それは言えてるわ、という軽口が返ってきた。

 頭が回らず、反射的な皮肉しか出てこなかった。

 二日前(模擬戦の日)から今日までの出来事が脳内に蘇る。

 ナッドが産道を抜けて以降、これほど過酷な数日はなかった。ソルと四大将の模擬戦後、まずマジェーレやゲラートとともに御璽の契約内容についてハキム・ムンダノーヴォとの交渉を行った。精神的な疲労は凄まじいものがあった。三人で目を血走らせて、契約する一文一文を精査しなければならなかったのだ。

 なにせ、御璽が押印された文面は絶対遵守。

 下手な約定を通すわけにはいかない。下らない揚げ足を取られてしまっては、悲惨な結末を辿ることは目に見えていた。この時点で心労は頂点に達していたと思うが、まだ頭上では、太陽が我が物顔で居座っていた。あのときばかりは太陽神が憎くて仕方なかった。

 頭脳労働が終われば、肉体労働が待っていた。

 

(クソ、あのときは思ってもみなかった。俺たちはその日の午後に班分けされて、早々に獄禍討伐に駆り出された。見知らぬ五人の強面とともに、怪物の死線を潜り抜ける羽目になって……命からがら帰還して、で一日目終了。これを二回繰り返して……今だ)

 

 思い返すと、胃の縮む出来事ばかりであった。

 もう帝国の実家に帰りたかった。もしくは土に埋まり、そのまま目覚めたくないとさえ思った。いっそこの疲労感に沈み込む形で死んでしまえたら。それで楽になれるのならばそれでいい──。

 と、早まった思考経路を何度もなぞるほどには疲れきっているナッドだった。

 

(はあ。こう、改めてみても馬鹿みたいに忙しない数日間……たぶん、帝国小隊のなかでもぴんぴんしてんのはマジェーレとゲラートくらいだろ……)

 

 そのとき無理矢理、呼吸を止められた。

 不意に、口内に異物を詰め込まれたのだ。

 目を剥いた。右に左に頭部を動かそうとしても──異物とともに顔も抑えつけられているからか──抜け出せない。なんて力だ。息苦しさが一線を超えた。視界を塞ぐ細腕を退け、反射的に跳ね起きようとする。

 すると、あっさり起き上がることができた。

 

「っ!? 何を……しやがんだマジェーレ」

「夕御飯よ。それは食べておきなさいな」

「だからって、窒息させるこたねぇだろが!」

「……貴方、さっきまで何も反応がなかったのよ。肩を叩いても声をかけても、何もね」

 

 ナッドは愕然とした。一切、気づけていなかった。

 目前の黒い少女は、半目でパンを頬張っている。

 ナッドは、手のなかに視線を落とす。起き上がる際に噛み千切ったもの──黒ずんだパンが断面を晒していた。どうやら先ほどは、マジェーレがナッドの分のパンを口に押し込んでいたらしいとわかる。

 普通に渡せばよいものを、とは思ったが、前向きに捉え直せば「ナッドのことを思っての行為だった」と捉えられなくもない。疲れからか気絶したまま、夕飯も食らわずに朝日を迎えてしまえば、明日という日が命日になるのは避けられない。マジェーレはそれを防がんと、泣く泣くパンを突っ込んだのだ。

 これは彼女なりの優しさの発露なのである──。

 

(いや、冷静になれよナッド・ハルト。それとこれとは話が別だろ。疲れて眠りかけてる奴の口に、物突っ込んでくるとかありえねぇだろ。あのイカレ女、人を殺しにきてるとしか思えねえ……)

 

 マジェーレ・ルギティという枠を『イカレ女』という言葉に即した領域分広げておいた。

 

「っ……つか、もう限界」

 

 命の危機に際して立ち上がったはいいものの、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。ナッドは力が抜け、したたかに尻を地面に打ちつける。恨みを込めてマジェーレを睨むも、彼女はどこ吹く風だ。あらあら大変ね、と言わんばかりの表情で、黙然と見下ろしていた。

 この性悪な側面さえなければ、素直に尊敬できるところもあるのだが──。

 

(そう思えるくらいには、俺もコイツのことを認めてるんだけどな。ちくしょうめ)

 

 ナッドは手のなかの食糧に齧りつくことで、眠気や怠さ、マジェーレに対する苛立ち諸々を発散しようとする。パンは想像以上に硬く、無味極まりなかった。口内に入った途端、水分を根こそぎ奪っていき、せっせと舌で転がしても味がしない。これは、疲労のあまりに味覚が麻痺しているせいではないのだろう。

 更なる苛立ちが募ったものの、藪から棒にマジェーレが水の入った容器を差し出してくる。

 

「何を企んでやがる」

「私はいつも何か企んでないといけないの?」

 

 ナッドは舌打ちしつつも、有り難く受け取った。

 慎重に口元に運び、口内の硬いパンと喉を潤す。

 

(普通の……水だな。何の変哲もない)

 

 マジェーレの扱いに困るのはこういうところだ。

 善悪の二元論では彼女を枠に当て嵌められない。

 ナッドがまだ人物像を掴めきれていないからだが、毎度ひどく翻弄されてしまう。

 

「ここ、水には困らないんだな」

「近くに湖があるそうよ。水源に恵まれているのはいいことね。体力が残っているなら水浴びでもどう?」

「俺の様子見て、体力が残ってるなんて思えるのか」

「いいえ? 言ってみただけよ」

 

 マジェーレはパンの最後のひと欠片を飲み込んだ。

 

「水浴びならお前が行ってこいよ、臭いし」

「遠慮するわ、生憎と体力が余ってないもの」

「……お前の様子見りゃ、誰もその台詞信じねぇよ」

「全くだなあ。ともすれば、この討伐隊で一等元気なまでありそうだ。よーやるなあ、おい」

「バオトさん、いたんですか」

 

 いつの間にか、隣に大柄な男が平座していた。

 彼は、吊り気味の細目でにやにやと見つめてくる。

 

「おう、ついさっきな。何だ仲間割れでもしてるモンかと思って、仲裁に入ろうとしてたんだが」

「まさか。誤解も甚だしい。私の優しさを傍目に見て解さないなんて視力に問題があるに違いないわ。(まなこ)班が聞いて呆れるわね。まるで目覚めない姫に接吻して起こす、お伽話のような場面だったでしょう? ナッド、ビエニスの小悪党に言ってあげなさい」

「何で俺が擁護すると思ったんだよ。つか、バオトさんは眼班じゃなくて(ゆび)班だし、お伽話じゃ王子は姫の息の根止めにいかねぇぞイカレ女。早く死ね」

 

 最後に本音を吐き捨て、ナッドは男に目を向ける。

 

「だから間違ってないですよ、バオトさん。これで仲間割れは無事に済みました。もう仲裁は不要ですよ」

「ごめんなさい。言いすぎたから謝るわ」

「謝意が欠片も感じられねぇ……し、反応に困るから謝んなよ。こっちはお前の憎まれ口は慣れっこなんだから……クソ、軽口だ軽口。別にマジでお前と決別するわけじゃねぇよ。こんなこと俺に言わせんな」

「そう? なら、よかったわ」

 

 けろりとした顔だったが、どこか本気の色がある。

 彼女の良くも悪くも空気を読まない言動は、帝国小隊の処遇決めでは有用に働いていたが──。

 

(何か、変なところが浮世離れしてんだよなコイツ。こういうところは少尉に似てるとも言えるけど)

 

「お前らもまー特殊な関係性だな。帝国って皆そうなのか? そのー、アレだ。全部嫌になったあとの亡命先は慎重に選べよ。ラプテノンはオススメしないが」

「考えてみれば、俺を労ってくれるのは少尉とバオトさんだけですね……」

 

 バオトは悪人面が目立つ総髪の男だ。

 右頬に大きな切り傷があり、濃い鬚と揉み上げが顎を覆っている。本『根絶』討伐の活動が長いためか見目の手入れは為されていない。ゆえに一見、野盗のような印象を与えるわけだが、軍での地位がある。

 彼は、ビエニス王国軍所属の中隊長。『根絶』討伐隊においては、現在ナッドが所属している(ゆび)班の長である。今回の獄禍討伐でナッドのお目付け役を務めている。お目付け役は、帝国小隊に獄禍討伐の立ち回りを教える役割だった。と言うと、彼らに懇切丁寧に手引きしてもらえたように聞こえる。

 全くの誤解であることは、このナッドの疲弊しきった身体で一目瞭然だった。

 

(初日から危うく獄禍に喰われかけた。場所が木の密集する見通しの悪いところだったのもそうだが……分裂して追尾してくる口を放ってくる獄禍相手とか……もう思い出したくねえ。唯一救いだったのは、魔力供給管のある本体は動けないことだった)

 

 言葉遊びではなく、生死の瀬戸際だった。

 そんな討伐を今日含め三日間で計三回。自らが死していないことが不思議なまでの修羅場を乗り越えたわけだが、その甲斐あって討伐隊との溝は少なからず埋まった。他の帝国小隊の皆も似たようなもので、同じ釜の飯を食するどころか、同じ戦場を生き抜いた間柄には、やはり情が芽生えてしまうものだった。

 それが熾烈極まりなければ尚のことだ。

 

(少尉のときと同じだ。バラボア砦で死闘を演じていなければ、あの子を慕うことはなかっただろうし)

 

「まあ、ほら。疲れが取れないってんなら、向こうであいつらみたいに酒盛りしたほうがいいかもな。気分転換にはなるだろーし、一日の活力になるぜ?」

「酒盛り?」

 

 何を馬鹿な、とバオトの冗談を一笑に付した。

 ここで酒を含む馬鹿がどこにいるというのか──。

 ナッドは言われるままに振り返って、絶句した。

 

(おい嘘だろゲラート)

 

 目に飛び込んできたのは、二人の男が肩を組む姿。

 見間違いはない。ゲラートとホロンヘッジだった。

 他の強面の男衆が囃し立てるなかで、彼らは手にした杯を口に運んで喝采を浴びていた。周囲含め、みっともない酔態をさらしている。大男のゲラートは、線の細いホロンヘッジを振り回す形でほつき歩き、あちこちの円座の賑わいに厚みを与えていく。

 ナッドは素直に、酔漢に絡まれることを恐れた。

 しかし、そんな願いは一顧だにされることもない。

 

「おお、ナッドではないか!」

「げ」

 

 ホロンヘッジの芯の通った翠の瞳に捉えられた。

 逃げそびれたナッドは仕方なしに覚悟を決める。バオトが同情するように軽く肩を叩いてきた。一方、マジェーレは怪訝そうな眼差しを酔漢に向けていた。

 恐れた通り、二人がふらつきながら接近してくる。

 想定外だったのは、他で円座を組んでいた男たちまでぞろぞろ引き連れてきたことである。さながら誘蛾灯のようであり、集落の喧騒の中心がナッドたちに移ってきたわけだが、疲れた身体に馬鹿騒ぎは毒でしかない。儘ならない現実に頭を抱えたくなったが、この宴会騒ぎの経緯を訊く機会に恵まれたとも言える。

 ナッドが所以を尋ねると、鷹揚に青年が答えた。

 

「おお! それがな! そこの倉庫番がな、酒蔵があるのを発見してな! 中身を検めると、なんと、中身の酒が放置されているではないか! 折角の酒を腐らせては豊穣神様に顔向けできん! これは酒盛りをして、我々の士気を高めよとの啓示に他ならない! そう思い、オレが皆に酒を振る舞ったわけだ! 当然、量は引き摺らない程度にとは言っておいている!」

「な、なるほど……」

 

 経緯を聞くと、何だか頭が痛くなった。

 ナッドは諦め気味に周囲を一瞥する。

 強面たちが座り込み、勝手に楽しみ始めていた。

 どこから拝借してきたのかわからない酒器で酌み交わし、笑い、馬鹿話に興じ始めている。酒の量自体は貧しいものの、盛り上がりは大宴会相応だ。ホロンヘッジの狙い通り、士気向上になっているらしい。自制を利かせて羽目を外さないのなら効果的なようだ。

 それより、とナッドは隣に腰かけた男に目を移す。

 

「こりゃどうなってんだよゲラート」

「あァー? どうなってるってどういう意味だよ」

 

 ほろ酔い気味の大男が、自らの栗色の髪を乱暴に掻き毟ると、腕を枕にして寝転んだ。

 マジェーレが興味深げにしゃがみ、言葉を継ぐ。

 

「そうよ。ゲラート貴方、あのデュナムの間抜け代表といつの間に仲良くなっていたの? まるで十年来の親友みたいに肩を組んで、阿保面を晒して……ねえ大丈夫? 私は貴方の頭を心配しているのよ」

「何だその言い回し。腹の立つ奴だよなァオメェは」

「それには同意するけどな」

「あら、結託して私を集中砲火?」

 

 されても文句は言えないだろ、とナッドは呟いた。

 

「でも、流石にビビるぞ。最初の頃は『根絶』討伐自体に乗り気じゃなかっただろ? それが今日帰ってきてみれば、獄禍討伐隊の代表者とあんな……」

「あのなァオメェら。勘違いしてるみたいだが、俺ァ別に、頭が固ェ馬鹿じゃねェぞ? つーか『根絶』討伐に乗り気じゃねェのは当たり前だろ。いまだって乗り気じゃねェわ。俺ァ戦闘狂じゃねェんだからな」

「まあ、それはそうだけど……」

 

 ナッドも、積極的に死地に行きたいわけてはない。

 ゲラートは鬱陶しげにナッドを睨み、息を吐いた。

 

「それによォ、オメェらだって討伐隊の連中と打ち解けてるじゃねェか。獄禍討伐する上で信頼感が生まれたクチだろ? そこの……(ゆび)班の隊長さんとかな」

「おーう。ナッドとマジェとは仲良くしてるぜー」

「ちょっとバオトさん痛いです」

「すまんすまん。ついついやっちまった」

 

 バオトは、ばしばし膝を軽く叩いたことを謝る。

 

「あー、帝国の面子で喋るなら席を外すけど?」

「外さなくていい。つーか、そうやって俺らを試すんじゃねェ。オメェはお目付け役だ。もし言葉に甘えても、遠くで聞き耳立てンだろォ? そんでハキム・ムンダノーヴォにでも報告するはずだ。『帝国小隊がこれこれこういう密談を』──って具合でなァ。俺らは変に不信感を煽るような真似しねェよ」

「いやーね。参った」

 

 ゲラートの言葉をバオトは否定せず、ただ白旗を振る仕草をした。

 

「流石ねゲラート。わざわざ披瀝しなければ百点よ」

「採点すンな。こりゃナッドのお坊ちゃんのためだ」

「お……俺の?」

 

 見つめ返すと、彼は逡巡したあと視線を逸らした。

 

「……そうだ。マジェや他の小隊の奴らとは付き合いが長ェ。だが、少尉とナッドとは今回の──まァ当初の目的は霧散したが──仕事が初めてだ。知識も考えも、俺らの間で共有してるモンはねェ。だから、俺やマジェや他の面子がわかってることでも、きちんと口に出して線引きしねェと迷子になっちまうだろォが」

「一理あるわね。貴方、子守りは得意と見たわ」

「オメェの相手してるワケだから一理あんなァ」

 

 やいのやいのと言い合う二人を前に、呆然とする。

 思えば、確かにゲラートの言を手がかりにして現状の把握を行っていた。彼によって帝国小隊の立ち位置を明確に表明されることで、未熟なナッドでも状況に追随できていた。それが意図的なものだったとは。

 ナッドが二の句が継げない間に、マジェーレは本筋の問いに軌道修正する。

 

「話を戻すわよ。貴方がホロンヘッジ・バルバイムと必要以上に仲良くしている話。先ほど貴方は、私たちが個人的に親交を深めているのと同じだと言いたげだったけれど、理由はそれだけなの?」

「あとは、可能性があるって認めたのもあンな」

「可能性?」

 

 鸚鵡返しのマジェーレに、赤ら顔の口元を歪める。

 

「決まってるだろォ。『根絶』をぶっ殺して、めでたく帝国に帰還できる可能性だ。それが見出せりゃァ、事を構えるよか握手したほうが利口ってわかるだろ」

 

 ゲラートは凶暴な笑みを、星々が彩る空へ向けた。

 

「もちろん、最初は馬鹿みてェ話だと思ったさ。原罪の獄禍は太刀打ちできねぇ怪物中の怪物。そう子供の頃から言い聞かせられてんだからな。……だがァ」

 

 彼は、三日の共闘を通して理解したのだという。

 獄禍討伐の面で、帝国は後進国だったのだ──と。

 帝国小隊の面々は、帝国内に現れた獄禍の討伐を担ってきた人材だ。ゆえに『根絶』討伐隊の強みを、ソルやナッドより読み取れる。

 

「この『根絶』討伐隊は精鋭揃いだ。帝国と違って、何も英雄……四大将頼みってワケじゃねェ。一人一人の練度が高いことに加え、獄禍討伐に至る技術が完成している。各国に現れた『根絶』が引き連れている獄禍の情報を洗って組み上げたんだろうが」

 

 ──驚いた、勝機が見えるほど集積されてやがる。

 何のことはない。どんな強大な怪物も対抗策が確立されていれば、十分に獲物になり得る。只人たちの知を結集した一矢が怪物の脳天を貫く、それが確かならナッドたちは勝ち馬に乗った可能性すらある。

 ただ討伐を成し遂げたとて、帝国小隊に益はない。

 怪物の首を持ち帰ろうと、それは帝国内での昇進や名誉に結びつかない。精々悪趣味な家財道具として壁に吊り下げる他ない理由は、討伐したビエニス・デュナム両国の名前を出すわけにはいかないからだ。

 敵がお伽噺の怪物だったとしても、現実はお伽話の英雄譚ではないのである。

 

(どれだけ。どれだけ悪い奴じゃなくたって、現実的にはビエニスもデュナムも敵国。仲よく肩組んで怪物を倒しました、じゃ許されない)

 

 ナッドたちが得られる報酬はひとつ。

 生きて帰ることだけ、だった。

 

「話はわかった。ゲラートは戦力的に鑑みた結果『現実的に討伐できる』って判断したってことだよな」

「そうだよ坊ちゃん。思えば、簡単に予想はついた」

 

 見ろよ、とゲラートは視線を右方に飛ばす。

 つられて見遣ると、集落奥から女が早足で歩いて出てきている。目敏く気づいた人々が次々と彼女に寄っていき、間もなく人垣となり始めていた。

 瞬く間の盛り上がりに、ナッドは顔が引きつった。

 

「ここにはビエニス王国を支える一柱──『黎明の導翳し』がいるんだぜ? 坊ちゃんこりゃ簡明な三段論法だ。自国の大英雄を捨て駒にするはずがない。現在は国同士、帝国とのドンパチの最中。ゆえに『根絶』討伐隊に明確な勝ち筋が存在する……ってなァ」

 

 ナッドは生唾を飲み込んだ。

 薄々わかっていたことだった。負け戦というには士気が高すぎるし、人員も猛者ばかりなのだ。だが、改めて希望が提示されると、やはり安堵してしまうものだった。足先の暗闇を照らす灯がわずかだとしても、あるという確信だけで心の支えになるものだった。

 ただ、マジェーレは斜に構えた態度を崩さない。

 

「皮算用は程々にしておきなさい。『黎明の導翳し』はともかく、私たちが捨て駒になる可能性はある。根拠の薄い推論を重ねて未来予想図を組み上げても、いつか風が吹いただけで脆く崩れる代物にすぎないわ」

「クソみてぇな上から目線、いつも有り難ェな」

「マジェーレはあれだよな。良いことあった奴には良いものの負の側面を教えて、悪いことあった奴には正の側面を教えて、誰も頼んでないのに公平な立ち位置を陣取って悦に入るようなところがあるよな」

「あるある。毎日聞いてると堪らねェよなァ」

「ちょっと貴方たち? 私を口撃するときにだけ仲よく結託するの、非難されて然るべきだと思うわ。あとナッド? 『あれだよな』という軽めの出囃子から妙に具体的で鋭利な言葉を振り回すのは禁止よ」

 

 お前が人の気持ちに水差すのが上手いからだ、と言うとゲラートも我が意を得たとばかりに頷いた。

 

「まァ、マジェの言うこともわかっちゃいるさ。でもな、前向きに思考誘導することは悪ィことじゃねェだろ。目地を踏まないようにしながら獣は狩れねェ」

「言えてるわね」

「だろうが」

 

 鼻を鳴らし、最後のパンひと切れを口に放り込む。

 ナッドは改めて、ゲラートをまじまじと見つめる。

 彼に対する印象はこの数日で百八十度変わった。

 以前は、思慮の浅い荒くれ者だと認識していた。だが、それは早計な一隅の管見にすぎず、彼の基づく行動原理は比較的常識的だ──比較対象はソルとマジェーレ──ゆえに、いまはすこし親しみを抱いている。

 当のゲラートは怪訝そうに見返してきた。

 

「何だァ、お坊ちゃん。喧嘩なら買うぞォ?」

「ガンつけてるわけじゃないんだけどな……こういうトコが喧嘩っ早いのは初対面の印象から変わらないんだけど、これもゲラート、お前の考えがあるのか?」

「ないわよ。人間は見た目が九割よ」

「おっと喧嘩売ってたのはマジェのほうみてェだな」

「やめなさいな。貴方が私に歯向かって勝てるわけないでしょう? それにいまは一対二よ?」

「なァ坊ちゃん。コイツを二人で沈めねェか?」

「乗った。全面的にゲラートが正しい」

「あら、反逆者ども。いいわ。二対一でも私に勝てると思い上がっているなら、良い機会だし、ここで副長の威厳を取り戻させてもらいましょうか」

 

 酒宴内の口論は、お祭り(・・・)の予兆に他ならない。

 傍で酒を嗜んでいたバオトが仲裁に入った段階で、騒ぎを聞きつけて面白がる人間が集まってきた。最終的にはなぜか、ナッドは討伐隊の強面たちと肩を並べて杯を交わすことになっていた。微量の酒精で舌を濡らしながら、酒席に倦んだ青年はひとり「休ませろ」と、叶わぬ願いを真っ暗な空に投げかける。

 ──和やかに、夜は深まっていく。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 喧騒は遠く、わずかに鼓膜を揺らすだけだった。

 幼女は、ひとり星空の下で木剣を振るう。

 風切り音が宵闇に響いた。夜鷹の鳴き声や虫たちの合唱を押しのけるように、木製の剣が振るわれる。息継ぎ。風切り。息継ぎ。どこまでも規則的だった。

 白磁の彼女は、青い月光に照らされていない。

 傍の大樹の枝葉の笠が、一帯に影を落としていた。

 

「ふ──」

 

 基礎の素振りに、無心に打ち込む。

 ソルフォート・エヌマに空き時間は存在しない。

 直近の用事が片づけば、とりあえず棒切れを振るような男だった。反復練習はすべての基礎であり、技術の固定化に他ならない。さながら努力という槌を打って、いま立つ地面を固めるように振る、剣を振る。

 それが地道ながらも前進だと心底信じていた。

 

「すまん、待たせたな。いやあ、なにぶんシャイラ嬢との話が長引いてしまってなあ。暇しておったか?」

 

 木の下闇より、ゆらりと醜貌の老爺が現れた。

 彼は腰を曲げ、剣入りの鞘を杖代わりにしていた。

 幼女は一旦、手を止めて一瞥する。

 

「そう待っておらん。これで終いじゃ」

「……お前さん、精神力と体力は底なしか。疲れておらんのか、獄禍戦の後だろうに」

 

 ソルは細腕で額を拭う。当然だが、老体のときより新陳代謝が活発だった。浮かんでいた汗が、手首を伝ってべっちょりと垂れてくる。額といわず全身を滴る汗は、だらり肌を滑り落つ。気持ちがいい。夜気に浸されながらも、身体は蒸すほどの熱気を帯びていた。

 ふと見ると、ハキムは目を丸くしていた。

 

「なぜにお前さん……上半身を晒しておる」

「別に問題ないじゃろうが。素振りに邪魔じゃ」

「お前さんの言い分はもっともだ……もっともだが、自重せい。何だ、反応に困るし、みっともない」

「何を言うとるのじゃ。わしも貴様も、共に素振りするときは同じ格好じゃったろうが。今更みっともないなどと……人に苦言を呈する立場ではなかろうに」

「いや、わかる。お前さんの言うことはわかるが、いまはお前さん、生物の上では女となっとろうが」

 

 諭すような口調に、ソルは呆れて両手を広げる。

 

「この身体じゃぞ」

「童とは言え、だ。お前さん、誰か来れば……」

「ふん。貴様しか来ん場所じゃ。問題なかろうが」

 

 待ち合わせ場所に指定されたのは、集落の外れ。

 ハキムは先刻、目線でソルに合図を送っていた。

 位置としては、集落の長老宅の裏手。そこと面した外壁を越えた先にある、大樹の根元だった。集落の外壁は高く、また人の行き来はないゆえに、密会するに適した場所だった。万全を期して声は潜めるが──ここに衆目がないことは明らかなのだ。

 そう思い、ソルは上半身を脱ぎ捨てた。鍛錬による衣服の汗染みを避けるため、袖が両腕に纏わって存分に木剣を振るえない廉で、衣服は腰に結びつけた。

 結果、半裸で剣を振る光景が完成したのである。

 

「まあ今回はよい。傷の状態が見えやすいからのう。どうやら、傷はほとんど快癒しとるようだが……」

「ジロジロ見るな」

「脱いだのはお前さんだろうが」

「不躾ということじゃ。脱衣に限らず、人目も憚らず観察するのは不愉快極まりな……」

 

 と言った段階で、ソルは不躾な観察行為を咎める資格がないことに遅れて気づいた。

 

「もうよい」

「あ? 見てよいのか?」

「……ジロジロは、見るな」

 

 ソルは威嚇しつつ、後片付けを開始する。

 大樹の根元に近寄って胡座をかいた。木剣に滴った汗を十分に切って、布で包む。先まで握っていたこれは、討伐隊から借用した物だ。扱いは丁重に行う。

 その間に、老爺は大樹に背中を預け話を切り出す。

 

「で、だあ。どうだったよお、文字通りの怪物は。獄禍が、お前さんのお眼鏡に適うような手合いであれば、血の繋がった親として喜ばしい話だがのう」

「……クソジジイめが。獄禍はともかく貴様。わし相手に年寄りぶって、おどけている場合かのう」

「そいつはお互い様だろうよ、クソジジイ娘や」

「なんじゃ」

「その仕草、身体に引っ張られておるぞ」

 

 ハキムは喉を引きつらせるように笑う。

 呻きに似た不快音の連なりが、実に耳障りだった。

 ただ、確かにハキムの言は一考に値する。

 ソルは膨れた両頬を自ら手で押して、萎ませた。

 

「……言われてみれば、最近、無意識的にわしはこういう仕草をとっておるような」

「おいおい、そいつは真か? 意識的な仕草ではなかったのか。俺はてっきり……無垢な童に擬装するための演技とばかり思っておったが」

「やはり奇妙かのう」

「いいや。むしろ逆でなあ、傍からは年相応の仕草にしか見えぬ。あまりに自然にすぎる」

 

 一度考え出すと、背筋が寒くなってくる話だ。

 いまは幼女を意識して演じていたわけではない。

 にも関わらず、幼女らしい仕草を取っていた。もちろん、幼女化以前は、膨れ面に代表される可愛げのある所作などした覚えもない。どこかでやっていたとしても、半世紀は遡らねばならないだろう。

 聞いたことがある。曰く「人間にある役職を与えれば、時を経るにつれ、その役職らしく(・・・)性格が変容することがある」と。恐ろしい想像だが『ソルフォート・エヌマ』と名付けられていた存在は、いつしか完全に『ソル』という幼女に塗り変わるかもしれない。

 果たして数年後、ハキムはソルを指差して「お前さんは変わらんなあ」と言うのだろうか。

 

(しかし、自己変革は夢を叶える上で必定じゃ)

 

 最初から、夢見た位置に居場所が用意されていたような天才たちではない。夢を追い、一生を使い果たして追認したことだ。いままで変わらない頑固者を貫いていたのは、実のところ変わり方がわからなかったからだ。自覚はもちろん、改善の意思もある。

 だから、それが幼女への変容だとしても受け入れる覚悟はしていた。

 

(じゃが、その果てにあるのは誰じゃ。わしの英雄譚の結末に立っている英雄は、果たしてわしなのか?)

 

 などと、なんて青臭い疑問だろう。

 自嘲で笑いそうになった。この歳になって存在の定義に心を割くとは、なんと滑稽なことか。変われずに六十余年を生き抜いた男の末路である。だが、結論を下す速度は早かった。己の定義など知れたこと。草枕に思い悩み、硝子越しの憧れと救いがたい徒労感の狭間で輾転反側するほど、もう若くはない。

 ソルは思考を打ち切って、視線を持ち上げた。

 天には、蒼い月と数多の星々。煌びやかに夜空を彩る光たちには手が届くとは思えない。遠くの喧騒とは裏腹に、彼らは静かに地表の人間を見下ろしていた。

 息を吸い、顔を伏せる。

 

「よい。これからは意識して仕草を控えていく」

「ええー、控えてしまうのかのうー」

「黙れ。気味の悪い声を上げるでないのじゃ。いい歳した爺の猫撫で声など、おぞましさ以外感じらんわ」

「俺のはそうだが。お前さんの見目は童、かつ声に可愛げもある。特段気にかけんでもよいと思うがのう」

 

 ハキムは大樹の根元にどっかりと腰かける。

 割合、残念そうなのは何なのか。ソルは半目で睨みつつ「本題があるのじゃろう。脱線はこの程度で留めておけ」と閑話休題を申し出る。雑談が長引いたが、これは貴重な談合の機会だ。駄弁に興じる暇はない。

 ハキムは、くつくつと肩を震わせる。

 

「せっかちなモンだが、労いは終わった。さあて、何から話したものやら……そうさな、お前さん。聞きたいことを、順を追って言ってみい。ひとつひとつ答えよう。もちろん、今後に支障がない分だけだが」

「構わん。元より嘘偽りない返答を期待していない」

 

 ソルの手厳しい応答に、ハキムは皺の寄った顔にさらに皺を寄せた。

 

「まず、聞きそびれておったことを」

 

 真正面に老爺を見据えて、静かに口火を切る。

 

「貴様たちの目的は、一体何なのじゃ」

「目的、目的か。はて──最初に話した通りだ。そうでなくとも俺たち『根絶』討伐隊の目的は、名が体を表しておるだろう。怪物退治の御役目だ」

「はぐらかすでない。わかっておろうに。その、怪物退治を行う理由を問うておるのじゃ」

 

 捕縛されて間もない際の、ハキムの言を思い出す。

 彼は「時期的には今しかないようでな」とソルの問いかけを有耶無耶にしていた。だが、物怪の幸いとして踏み切るには『根絶』討伐は重大な計画である。なにか本質の理由が埋伏されていると見るのが自然だ。

 ハキムは腕を組んだまま、動揺を表にしなかった。

 おもむろに、ひどく冷静な口ぶりで語り出す。

 

「最初に結論を言うとだなあ。此度の獄禍討伐の発起人は俺、ハキム・ムンダノーヴォだ。俺が有志を募って編成も手がけた。無論、最終的にはビエニス王から正式に下駄を預かって統括しておるが……建前上、表向きは四大将のシャイラ嬢が責任者……しかし、事実取り仕切っておるのが俺なのは、そういうことだ」

「貴様が、発起人?」

 

 此度の討伐は、ビエニス国王が主導していない?

 では、その主導者(ハキム)に理由がある、とでも言うのか。

 ソルが疑問符を浮かべていると、彼は手で制した。

 

「俺にも理由はあるが、俺だけではない。『根絶』討伐隊、おるだろう。そのうち、ビエニス側の隊員は己が信念の下、志願して死地(ここ)に来ておる。ビエニス王の意向でなければ、俺のでもない。あやつらは、あやつらが望む機会が与えられたがゆえに集ったのだ」

「つまり……貴様たち(・・)に、討伐の理由があると?」

「そうだ。それも、その矛先は『獄禍』などという漠然とした括りじゃあない。ただ一点、此度の討伐の最大目標である『根絶』ファニマールに絞られておる」

 

 よくある話、復讐よ、とハキムは笑った。

 空々しい、どこか自嘲の籠った音が転がった。

 

(『根絶』が甚大な被害を与えた地方のうち、ビエニス国内といえば……南。ビエニスの第三位都市サルドナか。ハキムが言うように復讐が討伐隊の行動原理ならば、そこで当時彼らに悲劇が見舞ったのじゃろう)

 

 此度の討伐は、彼らにとってサルドナの延長戦。

 これは、彼らの瞋恚と未練を帯びた弔い合戦か。

 

「お前さんの賢察の通りだよ。サルドナでの『根絶』戦は、そりゃあ悲惨なモンだった。見積もりが甘かった……と断じるには先代のサルドナの大将に悪いがなあ。その頃は、対抗策を確立されておらんかった」

「風の便りで知っておるのじゃ。未曾有の大災害じゃったとはな。サルドナ近郊では四桁単位の死傷者が出て、サルドナの被害は小規模に済んだが、『根絶』の歩行路となった街や村は、大地に刻まれた傷跡としてしか残っていなかったと。わしも、避難民の護衛ついでに遠目に見たことがあったが、……あれは」

「文字通りの地獄だった、あれは」

 

 ハキムは独語するように淡白な、反して怖気立つほどの実感が籠った声色で語る。

 

「黄昏時でもないのに空が緋色に……霞んだ緋色に塗り変わった。血煙と炎が街を覆うようだった。当然、犠牲になったのは王国兵や戦士だけではない。老いも若きも平等に、怪物たちの戯れで死んでいった」

 

 淡々と途方もない惨事の様相か描写されていく。

 まるで見てきたような、とは言うまい。事実、ハキムは体験したのだろう。十年前にソルフォートと別れて数年後、彼は何の因果かサルドナにいたのだ。そして『根絶』が編んだ地獄に放り込まれた──と。

 話の流れを整理しつつ、ふと疑問符が浮かんだ。

 

「話を聞いておると、四大将の人選が不可解じゃ」

「人選……シャイラ嬢が討伐隊におることが、か?」

「是じゃ。なぜサルドナを統治する四大将が来ず、ベクティス殿が来ておるのか。此度の討伐がサルドナでの『根絶』戦に起因したものならば、当然『根絶』討伐を負託さるべき正統な四大将は別におるはずだ」

 

 ビエニス王国では、王は直轄地を持たない。

 ビエニス王はあくまで国全体を司り、政を行う。国土を四分割するように東西南北に屹立する主要四都市は、在任中の各四大将が運営する。基本的に大都市の内政は彼らが行っているため、御璽という王の代行を務めるための貴重な魔導具が与えられているのだ。

 シャイラは、西の大都市ハルナバードを統べる。

 対してサルドナは南の大都市である。

 

「無論、ベクティス殿が『根絶』に対して並々ならぬ執念を燃やしておれば話は別じゃ。たとえば、貴様同様に、偶然サルドナにおれば、復讐心を抱くような出来事があったと考えられる。じゃが、どうにも……」

「そうは見えん、とな。だからあやつは例外的に命令されて来た、とお前さんは考えたわけだな」

 

 ああ、とソルは首肯する。

 期間的には、シャイラとは二日程度の付き合いでしかないが、彼女の言動は基本消極的。復讐の是非を問わず、己が使命に殉じるような熱は見えなかった。

 ハキムの発した「ほう」は、感嘆より呆れの響きを帯びていた。

 

「つくづく……お前さんの目はホンモノだ」

「やはりか。貴様が強要した、で合っておるな」

「そこで断定するか。まあ間違ってはおらんがなあ、お前さん『指名した』と表現せよ。体裁が悪い」

「貴様の体裁など知ったことか。理由は何じゃ?」

「ぐすんぐすん。なんたるひどい言い様か」

 

 無感情な顔をハキムに向け、しばし沈黙が降りる。

 やおら両手を見せて降参の仕草をした彼に、一音一音を明瞭に発音する。

 

「で、理由は何じゃ?」

「シャイラ嬢を指名したのは……二つ理由がある。シャイラ嬢はビエニスの最高戦力のひとつだ。なにもビエニス王も、遊び心で俺の編成を承認はせん」

 

 立てた二指でひらひらと宙を掻いて、にやり笑う。

 

「ひとつは、俺がシャイラ嬢の副官という立場だからだ。誰よりあやつの戦力が規格外か知っておる。此度の『根絶』討伐には欠かせんと思った」

 

 ハキムは、二本立てていた指をひとつ折る。

 

「ふたつ目の理由、それは単純にサルドナを統べる四大将『円環の導翳し』の手が空かんからだ」

「ベクティス殿よりも、か。それほど多忙なのか」

「おいおい、忘れてもらっては困るのう。帝国小隊の少尉殿、帝国とビエニスは戦争中だ。かてて加えて、各大都市と戦線との距離を鑑みれば自ずと答えは出てくる。戦線はビエニスと帝国の境界線、つまりは東から南にかけて引かれておる。だが、東部の大都市ヤーズナージャ周辺は、幸運にもマッターダリ山脈に遮られておるから戦線からは遠い。となればだ。戦線は山脈が途切れた南東部、そこに最も近い大都市は──」

「サルドナ、か」

 

 ソルは大陸図を脳内に広げて、こくりと頷いた。

 

「サルドナが前線を支えておるわけじゃな。帝国の侵攻を抑えるため睨みを利かせる必要がある。よってサルドナを統べる四大将は動かせない。ゆえに、戦線から最も遠い大都市を司り、さして差し迫った状況にない四大将への指名をビエニス王は認可した、と」

「本来ならばあの坊主たち(・・・・・・)が相応しいのだろうがな。今のサルドナの大将は『根絶』戦を契機に名を上げたのだし、先代も没し、戦禍も当然被っておる。討つ理由は、両手に余るほどあるだろう。まあ、だが」

 

 ──俺にも譲れぬ、個人的な目的があってなあ。

 あくまで口振りは軽く、世間話をするようだった。

 ソルは身構える。彼の天邪鬼を知る身からすれば、警戒すべきはいまのように気の抜けた声色のときだ。

 個人的な目的。彼の目的が、先刻の言に違わず復讐ならば、誰を悼んでの復讐なのか。それが寸毫の情も湧かない人物であれば、どれだけよかっただろう。

 眉尻の下がった穏和な表情で、彼は言った。

 

「俺の、女房だよ。サルドナで『根絶』にな。俺はその葬い合戦のため此度の討伐隊を編成したわけだ」

 

 彼の横顔には、憤怒や悲嘆など片鱗すら現れない。

 否、とうにその過程は終えてしまったのだろう。

 サルドナの『根絶』戦は七年も前のことなのだ。

 ソルは不意の事実に、二の句が告げなかった。

 

(メイ)

 

 ハキムの妻の名が、記憶の糸を震わせる。

 震えた糸は、朧に古びた像を紡ぎだした。

 

「そう、だったのか」

「『一抜けして、ごめん』……それだけだ」

 

 淡々と告げられる硬質な声色は、静寂によく響く。

 

「あやつからの遺言だ。お前さんが生きとるうちに伝えられてよかったよ。本来ならば、再会したときに告げるのが正しかったんだろうがなあ。生憎とあのときは時間も限られとった、許せ」

 

 聞き慣れない真摯な音が暗闇に広がって、溶ける。

 

「そう、か」

「知りたくなかったか」

 

 ソルは一拍の呼吸を置いて、顔を背ける。

 ハキムの妻は、墨色の髪の女だった。彼女もむかしは傭兵、それも同輩だった。十代の頃からソルフォートやハキムとよくつるんでいた。花が咲けば嵐、生きている限り別れは事欠かない。古馴染みの死は衝撃だったが「知れて、よかった。死を知れただけで上等なのじゃ」と切り上げた。しかし、喉奥が粘って、声を発するまでに思わぬ時間がかかってしまった。

 浅かならぬ縁を持つ友人の死は、慣れないものだ。

 無意識に──視線は滑り、愛剣に吸い寄せられた。

 

「貴様も……奥方と共に戦ったのだろう?」

「『根絶』と戦ったのは俺だけだ。あやつはもう、一線で戦えるほど体力はなくなっとったからのう」

「そうか。歳も五十を過ぎれば、そういうこともあるか。ただ貴様は『根絶』戦に参加したのだろう? 貴様のその義手は、そこで失われたと見たが?」

「まあ……そのようなものだわい。正真正銘の怪物相手は分が悪かった。俺がここでひとつ訂正するなら、魔導化したのは腕のみではない(・・・・)ことだなあ」

 

 そう言って、ハキムは手の甲で自らの脛を叩いた。

 かん、と分厚い布地の下から硬い音が返ってくる。

 聞けば、四肢すべて義手義足に取り替えたようだ。

 彼の厚着の理由は、見栄えと、弱味を隠すための二点に尽きるという。彼曰く「剥げばわかるが、見目が無骨でのう」。魔導化技術は日進月歩だが、機能性を重視した結果、骨子が剥き出しになっているようだ。

 ソルは得心がいった。再会して以降、疑問だった彼の格好と、模擬戦時に右腕を剣で貫かれて血が溢れなかった理由が確認できた。手札を知れたのは重畳だ。

 と、途中に脱線を挟んだが、ここで閑話休題。

 何にせよ、問答を通じて──討伐隊の芯が知れた。

 傷持ちの益荒男どもは、とある死戦の生き残り。

 負け戦の続き、怪物退治こそが彼らの目的だ。

 

(この獄禍討伐隊の目的、中核たるビエニス人たちの理由は復讐。他、討伐隊の人数を占めておるのはデュナム公国。彼らの理由はストレーズ殿から資金難と伺っておるが、ハキムの認識も知っておこう)

 

 そしてハキムから聞いた内容の大筋は、事前に耳にしていた内容と相違なかった。

 

「いまはデュナムは資金難でなあ、いまは方々手を尽くして、とにかく他国に恩を売りたいらしい。それを我らがビエニス王は『好きに使え』と俺に寄越した。有り体に言えば、資金援助を餌にして、ビエニスはデュナムを手綱に繋いだわけだなあ」

 

 結果、獄禍討伐隊はビエニス・デュナムの混合編成となったようだ。

 

「ああ……確かデュナム公国は資金難を理由に、帝国と事を構えておらんかったのう。記憶が正しければ、デュナムは帝国に面しておらず、後方支援のみ参戦だったが……腰抜け、と批難の的になっておったな」

「デュナムは反帝国勢力を支える二国、その片翼であるビエニスに媚を売って、忖度を頼んだ。デュナムの目的はこちらもあるだろうなあ。地理的に孤立しては滅亡まで一直線だ、ここで爪弾きにされては堪らんだろう。つまりデュナムは、連盟国からの圧力という外患と金策という内憂を払拭できると踏んだわけだ」

 

 ハキムは薄く笑っていた。

 笑いどころがわからなかったが、おそらく性格が捻じ曲がっているのだと思う。

 

(とにかく、ストレーズ殿からの情報よりもデュナムの置かれておる現状について詳細がわかったのう。情報の整理を続けるのじゃ)

 

 そして、この混合編成は、結果的には功を奏した。

 デュナム人特有の陽気かつ能天気な気質は、血気盛んなビエニス人にとって、余計な緊張を解す働きをした。そして派遣されてきた彼らは、想定外に有能かつ将来有望な人材たちだった。惜しみない人材起用は、資金援助に礼を尽くす慇懃な態度の表れだろう。

 此度の『根絶』討伐を成功させれば、この派兵は急場凌ぎの資金繰りに終わらず、他の連盟国からも認められるだけの実績も積むことができる。

 デュナム側は国の存亡をかけ、怪物退治に臨む。

 

(帝国小隊は、御璽の効力で首輪を繋がれておる。生き残りたくば怪物退治をせねばならぬ。もっとも、初めからわしは怪物に挑むつもりじゃったが……)

 

 かてて加えて、とソルは握り拳を胸に当てる。

 もうひとつ、怪物退治する理由ができてしまった。

 墨色の髪を靡かせた女を、追想する。

 

(ぬしが、まさかすでに散っておるとはな。無論この世は平等。ぬしもわしも元傭兵。葬いなど、骨を埋めた地面に剣をひと振り刺せば仕舞いの根無し草)

 

 しかし、半世紀近くを過ごしてきた旧友の葬いだ。

 奮発して豪勢な敵(『根絶』ファニマール)を供えても罰は当たるまい。

 ハキムは「以上だ」と告げ、口寂しいのか右手を厚いコートの懐へ緩慢に伸ばす。その寸前、ぴたり指を止めてこちらを見遣ってきた。反射的に睨み返すと、今度は足元の小枝を拾い上げて、口に咥えた。

 ぎちぎち、歯で枝を鳴らしながら区切りをつける。

 

「これにて、我ら討伐隊の心はひとまず理解したろうよ。二つ目の質問に移ろうや、ソルフォート」

「貴様から言われるまでもない。次は、獄禍の核たるオド結晶を集めてどうするつもりか聞かせるのじゃ」

「睨むでない睨むでない。単にあれは『根絶』を討つ策の前準備だ。なあに道端の石を拾ってるワケじゃあねぇんだ。こんなときに趣味で収集せんわい」

「具体的に言え」

 

 顔を窺うと、ハキムは無言で歯を剥いた。

 あまつさえ、口に咥えた枝の頭を上下させている。

 

(どうも口を割るつもりはなさそうじゃな)

 

 彼は、訳もなく隠し事をする男ではない。

 目元を指で押す。口外しない理由があるのだろう。

 ただし予想自体はつく。オド結晶が彼の言通り『根絶』討伐に必要ならば、その用途は膨大な魔力を要する兵器の燃料だ。おそらくは最新鋭の魔導具。軍の機密ゆえにハキムは口外しないのだろう。だが、あくまで推測にすぎない。真実はお披露目まで藪のなかだ。

 と、沈思の途中で、露骨な視線を感じた。

 

「気になるか? ソルフォート」

「まあよいのじゃ。貴様が口を噤むのであれば、相応の理由があるのじゃろう。無理に聞き出せるとも思っておらん。むかしから貴様は頑固じゃからのう」

「鉱石ばりの頑固爺に言われちゃ立つ瀬がないなあ」

「わしが頑固なのはわかっておるが、貴様はわしを凌ぐ頑固爺じゃろう。わしとの二人編成のたび飯に文句つけおって。一度、餓死寸前になった貴様を見捨てなかったわしにそろそろ感謝してよいのではないか?」

「感謝はしておるわい。あのときはよくもまあ、長虫の吸物なるとんちき料理を流し込んでくれたなと」

「毒抜きはしていたじゃろうが」

「毒がなければいいという問題ではない……」

 

 当時の記憶が脳裏に蘇ったのか、押し殺したような声色が返ってくる。

 

「随分とむかしのことを引っ張りだしおって……そこはこだわりと呼べよソルフォート。お前さん、頑固一徹が剣を振っとるような男のくせ、よく人を頑固爺扱いできたモンだ。お前さんこそそういう例に事欠かんだろう。ひとたび英雄が絡めば、目の色を変えて、何がよいだの悪いだの……普段寡黙だったくせにのう」

「それこそこだわりと呼べ貴様」

「何にせよ、譲れない一線が濃ければ濃いほど、そして多ければ多いほど頑固者の相がよう出るわけだ。さあ、俺とお前さんのこだわりを比較するぞ? 百歩譲って濃さは同等としよう。俺は食べ物だけだが、お前さんは幾つだあ? 英雄の武具、武勲、態度、志、地位、称号、名前……おいおいこれでは指が足りんぞ」

 

 きぃん、と宵闇に天高く金属音が響き渡る。

 ソルの手には、無銘の剣が握られていた。

 瞬時に振り抜いた一閃が、ハキムの首元寸前で鍔迫り合っていた。白刃を受け止めているのは、彼の右手首。分厚い布地の隙間から鈍色の光が見え隠れする。

 間近の醜貌の口許が、にんまりと緩む。

 

「口で勝てずに手が出たな、ソルフォート」

「ごちゃごちゃと煩いからじゃ。しかも貴様、わしの好きを細分化しおった割に、自分の好きをまるで細分化しておらんではないか。食べ物のどこにこだわりがあるか細分化してからわしの前に並べよ」

「嵩増しバレとったか」

「わしを阿呆じゃと舐めておるな」

「まあ、出来がよいとは思っとらんよ」

「自覚はあるがのう」

 

 と、会話しながらも鍔迫り合いは続いている。

 力が籠り、震える刃と微動だにしない右腕──。

 

「それにしても、義手とは言え、健在じゃのう」

「おいおい。簡単に言ってくれるなよソルフォート。危うく、首まで魔導化せねばならんところだったんだぞ。はあー、こりゃあ大変じゃなあ。癇癪持ちの孫を持つと、命が幾らあっても足りんわい。……そろそろよいだろう。手の力を抜いて、刃をおさめよ」

「貴様が心にもない戯言をおさめれば考えるのじゃ」

「しょうがねぇなあ」

「ふん」

 

 ソルは身を引き、元の場所に戻るため背を向ける。

 

「そも、寝込みを襲えど切り抜けるだろう、貴様は」

「お互いになあ。全く、悪運が強い男よ」

 

 ハキムの声には鼻を鳴らして応え、座り込む。

 

「お前さんと喋っておると若返るようだよ」

「どういう意味か聞いてよいか? 場合によっては」

「そのままだ。……いま物騒なことを口走ろうとしたろう。別に愚弄しておるわけではない。お前さんと喋っておると、俺もクソガキの頃に戻ってしまうとな。こんな下らない口論なぞ、十年はやっておらんわ」

「なんじゃ『も』とは。わしも十年やっておらん」

「まあ、これも、お互い様というわけか」

 

 含み笑いを漏らして、取り直すように手を叩いた。

 

「ではお前さん、三つ目の質問でも受けようかのう」

「いまの貴様の夢を教えよ」

 

 間髪をいれずに問う。ハキムは面食らったようだ。

 面相を凍らせて、眼差しだけこちらに向けてくる。

 

「夢、ってえと……先にも言うたろう。復讐だ」

「わしが訊きたいのは、復讐の先の話じゃ。まさか貴様も復讐を終えて、自害するわけでもあるまい。奥方の仇を討ち、己の整理をつけたあと貴様はどうする」

 

 絶句したハキムを他所に、ソルは言い募る。

 

「ベクティス殿の右腕を務め上げるのか? それとも正式な四大将の座を狙うか? 貴様の手足は代用品ではあるが、生身の頃と遜色ない動きができておる。十分にその線は狙えるだろう。あるいは研鑽を積み、英雄の最高峰を目指すか? もしくは、次代のビエニス王の座を見据えるか? 貴様、自国の王を他人事のように呼ぶのは、立身出世を狙う野心の発露……」

「っ……呵々、ははは」

 

 堪えきれず、といった風情でハキムは吹き出した。

 咥えていた枝が零れて、地面に落下する。

 ソルが冷ややかな目線を差し向けると、声を上げて笑いながら謝ってくる。

 

「すまんすまん。あー、そんなんじゃあねえよ。『ビエニス王』なんて呼び方は、単に俺の出自の……外様傭兵だった者としての意地だ。野心の発露だとか大層なものじゃねえ。しかし、呵々、俺の夢ときたか」

「何かおかしいか」

「否、おかしいわけじゃねえよお。むしろ逆でな、おかしくないのが可笑しいのさ。三本目の問いかけがそれとは。実に、お前さんらしい話だと思ってな」

 

 ソルは愚直に、ハキムの言葉を舌で転がした。

 

「わしらしいか」

「ああ。夢無き者は屍に等しい、とでも言いたげな口振りがな。だが、俺の身体を見よ。この老いた肉体には、もはや頭上の星々のごとき光も熱も、欠片とて残っておらん。こんな俺に、夢を追う体力が残っとるように見えるというのならば、そいつは買い被りだよ」

「わしはいまだに追っておるのじゃ」

「そら、お前さんと比べられちゃ俺の立つ瀬はないがなあ。人は夢が無くとも生きていけるんだよ、ソルフォート。それどころか、むしろ通過儀礼でな、歳を重ねていくなかで、いずれ捨て去るものにすぎん」

 

 目元に宿っている感情は──温く、淡い。

 ハキムの瞳は、ソルの知らない色だった。

 

「夢を追えるのは若い時分のみよ。そして夢を終えるのは、その道中、すれ違いしなに出会った、守りたい何か(・・)を見つけたとき。お前さんは、夢以上の重みを、いまだ見つけられずにいる」

「何が、言いたいのじゃ」

「大したことじゃねぇよぉ。辞めたいときに辞めなって、ただ親友の老婆心だ。人間という生き物は存外にも適当でなあ、今日までは登り甲斐ある巍峨たる山々に見えてたものが、明日にはただ聳え立っている壁に見える……など、さほど珍しい話でもなかろう」

 

 余計なお世話だとわかっているがなあ──と、ハキムは笑みを滲ませて、先ほど吹き出した拍子に落とした枝を拾い、息を吹きかけて咥えなおした。

 ぎち、と歯が枝を軋らせる音だけがする。

 

「その、貴様が枝を咥えるのは……今の今まで変人の奇行とばかり思っておったが、もしや、煙草を吸わないわしに気を遣っておるつもりなのかのう?」

「馬鹿言え、お前さんのためじゃあねぇよお。口寂しさを紛らわすなら、枝転がすのが安上がりだ。ま、煙草は残り少のうてなあ、これも節制という奴よ」

「ふん。貴様も、変わってないのじゃ」

「いいや、変わり果てたさ。若気も涸れ尽くした俺には、お前さんが眩しくて……しょうがねえんだよ」

 

 ソルは首を傾げる。言葉の意味がわからなかった。

 するとハキムは薄い頭を掻き、目を背けた。

 枝の音だけが耳に届く。ぎち、ぎち、ぎち。

 

(懐かしい音じゃ)

 

 むかしハキムは、煙草代わりに枝を咥えながら言ったものだった。

 

 ──おいおい、ソルフォート。また鍛錬か?

 ──全く飽きねぇもんだなあ。ああ、俺か?

 ──メイにまたどやされてなあ、逃げてきたんだ。

 ──摘み食いくらいいいじゃねぇか、なあ?

 ──この『テンサイ』が毒味してるってのによぉ。

 ──あ? うるさい? 天才にゃ関係ないだろ?

 ──まあ、いいじゃねぇか。

 ──あとは、俺はここで大人しく見てるからよ。

 ──気にせず棒振り、続けな。

 

「ハキム、貴様は言ったな。夢を終えるときは、守りたい何かを見つけたときだと……ならば。ならば貴様は、貴様の人生で一体何を見つけたというのじゃ?」

「まあ、他愛ないモノだと俺自身でも思うがのう。最初は女房だった。だが、いまは違う」

 

 茶目っ気たっぷりに、口角の亀裂を深める。

 

「おっと、浮気者とは言ってくれるなよ、ソルフォート。言っておくがお前さんではないぞ。お前さんは俺の孫だが、そやつは俺にとって娘のような存在でな」

「娘? 貴様、メイとの子を設けておったのか」

「いいや。有り体に言えば、義理の娘だなあ。そいつが、いまの俺の出会った、夢より大事なものだ」

 

 あるとき子どもを拾ったのだ、とハキムは言った。

 遡るは七年前。ハキムは『根絶』戦のあと伝手を辿って、魔導技師に義手義足を誂えてもらった。そして逃げるように、激戦の傷跡が色濃く残るサルドナを去った。帰る家は破壊され、行き場などなかったのだ。

 当時のハキムは、傭兵上がりの根無し草。最愛の女房を失い、己の四肢をも失ったばかりか、己のいるべき家も、己が目指すべき進路すらも失っていた。

 しかし、彼は立ち止まる選択肢を選べなかった。

 

「夢に出て、眠れんかった。何かして気絶するように一日を終えんと素面になってしまう。とびきりの悪夢がずっと続いておることに気づいてしまう。だから、無理にでも目標を立てて……動き続けたのだ」

 

 気紛れのための目標は、随分とむかしの夢にした。

 十代の頃に抱えていた、澱のような名誉欲。

 上に、ただ上に行く、俺を嘲笑った身の程知らず全員に泡を喰わせてやる……なんて若い頃、憤怒によく似た泣き言ばかり思っていた──とハキムは言った。

 

「まだ、仇討ちの選択肢も頭に浮かばんかった。『根絶』討伐の考えが頭をよぎったのは、それこそ四大将の片腕に成り上がったあとだ。夢物語を根拠もなしに信じるには、俺も歳をとっておったからなあ」

「ほう。復讐というからに、『根絶』戦以降、怨嗟の七年間を過ごしてきた……のではないのじゃな」

「激情は長続きせんよ。義務か、使命に役割をすり替えていなければなあ。俺の復讐は、借りを返しに行くだけよ。他の者がどうかはさて置いてなあ」

「もう悲しくはないのか。怒りは……ないのか」

「ないわけがない。が、どれも終わったことだ」

 

 年月という疾風は、形無きものを風化させる。

 優しくも惨い、九相図に沿うように消えてゆく。

 

「それは救いだ。感情も過去も土に還り、風に消えねば、俺もおちおち棺で眠れんわい」

 

 そうして嗄れた声で、過去を再び紡ぎ始める。

 サルドナを後にして、向かった先はビエニス王国西部の大都市ハルナバード。成り上がりを考えるのならば、ここが狙い目だった。ハキムの見立てでは、当時の四大将のうちハルナバードの守護者が最も御し易そうだったのだという。人柄として、敵対者は力で捩じ伏せて道理をこじ開ける、がモットーの熱血漢だ。

 ハキムが得意とする性質の人間だ。

 失脚させ、簒奪する方法など幾らでも浮かんだ。

 

「ビエニス軍には入隊しておったが、お行儀よく成り上がるなど性に合わんかったからのう。それで、ハルナバードで、狙いの四大将『真杭の導翳し』を落とすため、方々に手を回していたある日のことだった」

 

 宵時の路地で、齢十幾つの少女に出会ったという。

 

「あやつは、可哀想な娘だった。俺が通りがかったとき、道端で濡れ鼠になっておった。中層の市民にしてはあまりにも見窄らしい恰好だったから……下層を抜け出してきた下層市民だとは、一目でわかった」

「下層から、とはよくわかったものじゃ」

「ビエニス王国の四大都市が三層構造をしておるのは知っとるだろう? 俺の拠点とした中層は、軍属と商人が大多数を占める場所だ。乞食連中はおらん。スラムを成す前に下層へ連行されていくからのう」

 

 ビエニス王国では苛烈な身分制社会を敷いている。

 それは、大都市の三層構造からも見て取れる。

 上層、中層、下層。上層市民は、王国を支え、連綿と紡がれてきた王侯貴族たちが多数を占める。中層市民は商人と軍人など、王国において庶民とされる人々の住む場所だ。それより下は悲惨だという。噂によると、下層では孤児、乞食、娼婦、犯罪者、精神異常者が珍しくもない、治安が最悪を極めた場所だという。

 中層にある路地裏には、乞食のひとりもいない。

 いたとしても、王国兵に迅速に連行されてゆく。

 

「俺は、あやつが下層から来たとわかった。そして、路地でへたり込むその娘の、奇妙さが気にかかった」

「奇妙?」

 

 その少女は血に塗れていた。

 紫紺の髪には黒に近い赤が混じり、元はドレスだったであろう衣類は淡い赤色の襤褸と化していた。擦り傷はあれど、大きな外傷がない割に、大量の血液が付着している。返り血を浴びている。それも一人や二人ではきかない人数のものだ。何より異様だったのは、辺りには数十もの刃物が散乱していたことだった。

 少女の深青色の瞳は何も映さず、眼前のハキムにも気づいているのかすら怪しかった。

 

「それが、あやつを……シャイラ嬢を拾った光景だ。ここからは知っての通り、あやつは破竹の勢いで高みまで登っていった。最終的に都市ハルナバードの四大将の座につき、俺も副官としての位置を手に入れた」

「おおよそはわかったのじゃ。しかし……よく、あの状況で娘を拾ったものじゃのう。聞くだに奇妙な話じゃし、ひとり匿うにも案じ事は尽きんじゃろうに」

「先にも言ったろうが、憐れに思っただけよ。あの頃は女房に先立たれたばかりだったからのう。──まあ、当時は単なる気紛れにすぎんかった」

 

 空を仰いで、まるで月に感慨を馳せるようだった。

 

「まさかそれが、こうも大きくなるとはなあ……」

 

 同時に、ばきり、と音が鳴る。

 咥えていた小枝を噛み砕いたらしい。

 ハキムは口内に残った残骸を吐き捨てた。

 

「なあ、お前さんからはシャイラ嬢がどう見える?」

「素晴らしい英雄じゃ」

「細かく言え、お前さんの得意技だろう」

「それは……そうじゃのう。らしくない御仁、とは思うのじゃ。あそこまでの高みにおる人間、才能に恵まれた人間は、どうしても立ち振る舞いにも堂に入るものじゃ。しかし、ベクティス殿は真逆じゃ」

 

 ソルは腕を組んで、答えを絞り出す。

 シャイラの異様な点は、外面と内面の隔たりだ。

 産まれながらに美貌と才能を持てば、自信や野心に満ちた人間になりやすい。そこに本人の善性は関係ない。人間の性格はほぼ環境によって形作られる。特出した能力が幼少期より発現していれば、周囲はそれを誉めそやし、よい結果に繋がる──そうやって自己の価値を知り、その高値に胸を張るようになれる。

 尚武の気風を重んずる王国ならば、なおさらその傾向は強くなるだろう。

 

(そんな環境にありながら、彼女は卑屈じゃ)

 

 謙遜という域を越えている。人の目に怯え、主張も弱く、気概というものが見えない。性格だけ切り取れば、そこらの町娘と大差ないほど英雄らしくない。

 ハキムは濁った色合いの目を細める。

 

「あやつは、不安定だ。それは最初から変わらぬ。あの性格は、俺と出会う前に形作られとったようだ」

「待つのじゃ。貴様から聞くのは流石に悪いのう」

「いずれにせよ、俺も詳しく知らん。知っとるのは、シャイラ嬢は下層で数ヶ月生きとったこと。そして、あやつ血縁者には調べがついとる程度だ。六年間、あやつの過去に深入りはできんかった」

 

 夜鷹が鳴く。虫たちのさざめきは、老人の呟きを掻き消そうと躍起になっていた。

 

「臆病になっておるのかのう。俺という奴は」

 

 その男は、踏み込めず立ち竦んでいた。

 無遠慮に触れては、傷つけると思ったのだろう。

 手で触れずに知れる程度のことを調べて、おっかなびっくり娘を抱え込んだ。適切な距離感を図りかねているから、溝を挟んだような事務的な会話に終始し、時には突き放したような言い方をするのだ。

 なんと不器用な男か。ハキムに対し、初めてそんな感慨を抱いた。いつも不器用だと笑われていたのは、いつだってソルフォート・エヌマだったから──。

 

「おい。ほうら、行きな。呼ばれておるぞ」

 

 ハキムは顎で、背後、集落の方向を指し示す。

 確かに、大樹の根の向こうから薄い少女の声が響いてくる。呼びかけている特徴的な渾名を聞くに、イルルが集落内を探し回りつつ、声を張り上げているらしい。そろそろ姿を見せねば不審がられるだろう。

 ソルはすくと立ち上がり、ハキムに背を向ける。

 彼は動く様子がない。ここで月を眺めるらしい。

 まさか、風流を重んじる男とは思わなかった。

 

「草木も眠る深更に、シャイラ嬢は湖におる」

 

 ソルは歩き出しかけたが、声に引き止められる。

 

「なぜ、わしにそんなことを? そもそも、わしにベクティス殿の話をした本意はどこにあるのじゃ?」

「別に裏はねえよお。シャイラ嬢は、お前さんを何かと気にかけておるようだからなあ。あやつの息抜きにちぃとばかし付き合ってやってくれんか、とな」

 

 まあつまり、と首筋を掻き掻き。

 

「俺の孫として、俺の娘とじゃれてはくれんか、と言いたいワケだ。いつも何もしてやれん不器用な爺としてはなあ。さしあたって、あやつの抱えとる歪みを知っておいて欲しかったのさ」

 

 それに、これはお前さんにも益のある話だ──。

 ハキムは口角の皺を深め、話を続けようとした。

 ソルは「湖じゃな」と言い捨て、踵を返した。

 

「知ってはいたが、二つ返事たあな」

「ふん。胡散臭いがのう。断る理由もなし、構わん。大英雄殿と話ができる機会が増えたのじゃ。願ったり叶ったりなのじゃ。貴様に言われるまでもなく、星の光が薄まるまで語り明かそうではないか」

 

 だから、これは違う。ソルは自らに言い聞かせた。

 ハキムの願いを、素直に聞き入れたわけではない。

 老いた友人の瞳に宿る、まるで溶けてしまうように暖かな、知らない光を見てしまったからではない。ただ己に利があるから引き受けただけだ。有り難うよ、という老人の独り言を小さな背中で受け止めた。

 今度こそ、集落内に戻ろうと地面を蹴り──。

 

「ソルフォート。最後にひとつだけよいかのう」

「くどくどと、今度は何の用事なのじゃ」

「せめて服を着てから戻れ」

「────」

 

 



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16 『黎明の導翳し』

「あらナッド。せっかく回収しに来てあげたけれど、貴方の寝床もそこでよさそうね。馬小屋がよく似合っているわ。朝餉も藁に変えてあげましょうか?」

「馬鹿。さっさと戻れ。俺は別に酒でぶっ倒れてたわけじゃないからな。ひとりでも戻れる」

「そう」

 

 ナッドは嘆息混じりに言って、卓上の蝋燭を消す。

 仄かな光が、蜘蛛の子を散らすように部屋の四隅から逃げていった。それを見届けて、ナッドは節々の痛みをほぐしながら、あばら家の敷地を跨いだ。

 外気は涼やかだった。いつの間にか夜闇はその濃度を増しており、空の月は凍っているように蒼白い。日中の熱気もどこへやら、思わず両脇に手を差し込む。

 賑々しい雰囲気は、すっかりなりをひそめていた。

 集落に灯っていた篝火はほぼ消えている。就寝時間を迎えたためだろう。集落の内外を隔てる壁際に点々と並んだものだけが、相変わらず燃え続けていた。

 さて、あの皮肉屋はどこかと視線を彷徨わせる。

 

「よかった、それなら貴方ひとりで帰りなさい。はいさよなら──とはいかないのよ、残念だけれど。私は帝国小隊の副官だから責任を追及されてしまうのよ」

「何かあったのか?」

 

 マジェーレは、あばら家の壁に背中を預けていた。

 腕組みした彼女は、横顔でじろりと見返してくる。

 

「ハキム・ムンダノーヴォ御大将様による、直々の命よ。今夜の単独行動は厳禁。厠にも複数人で向かうように、とね。あと門衛当番がピリついていたわ」

「今夜に何かある……ってことだろうが」

「断言はできないわね。確かな情報はないし」

「ムンダノーヴォから事情は聞いてないのか?」

 

 力なく首を振る仕草に、肩を落として応じる。

 警戒心を煽る指示をしておいて、その所以を告げない理由がわからない。数日過ごして度々思うが、あの老爺の思考の筋は全く読めない。ナッドは正面きって対峙したことはないが、彼の、古井戸の水面のような瞳は、推察を拒むほど淀んでいるように見える。

 マジェーレは眦に墨色の目を寄せて「それはそうと貴方」と、あばら屋に視線を注ぐ。

 

「こんな小屋で何していたの? 貴方の前にイルル・ストレーズが飛び出してきたのは見たわ。頭がお花畑だから、宴会の彩りにはちょうどよさそうだけれど」

「ああ、まあな。ただ別に宴会してたわけじゃない。少尉たっての希望でな、そのデュナム人と一緒に魔術講座を一席ぶってたんだよ。講師役が俺とあのデュナム人で、生徒役が少尉でな」

「ふうん」

「興味を失う速度が速すぎるだろ」

 

 墨色の髪を乱して、虱を潰し出したマジェーレ。

 ナッドの額に血管が薄すら浮いた。

 

「別に興味をなくしたわけじゃないわ。あ、そういえば私、あの子が魔術を使ったところを見たことない」

「ほとんど使えないんだよ。俺も、さっきの魔術講座で初めてわかったことだけどな。少尉は風属性の魔力を持っているんだが、大気のマナを取り込むことが苦手みたいで、初級魔術すら使えない状態だ。何でか知らないが体内魔力の扱いはこなれていて、マナ結晶の魔力を魔導具に注ぐこともできたんだが……」

「へえ、才能がなかったのね、残念」

 

 マジェーレは眉ひとつ動かさず言いきった。

 唾を飲み込む。心臓を鷲掴まれた心地になる。

 これはナッドにも身に覚えがあるからだ。才能がないことに気づいた瞬間の失望。脳裏をよぎるのは──硝子から差す斜光、並んだ兄弟姉妹、父親の瞳、妹の憂いもなく喜ぶ姿。そんな過去の古傷がじくじくと痛む。たとえ自分に向けられていなくても、非才という現実を突きつけられる光景は正視にたえない。

 ──でも、才能か。俺がずっと恨んだもの。

 

「まあ、なくてもいいんじゃないか」

「無責任な返答ね。現代の戦闘は魔術師でなくとも魔術を使うのよ? 使えないことで負う不利は、言葉以上に大きいわ。常時、他の人より切れる手札が一枚以上少ないということよ。これはあの子の天井を決めかねない。あの子も結局、すぐに用済みになるわ」

「……道理だとは思うけどさ」

「何? 変な目で見ないでくれる?」

「お前、少尉のことをそんなに心配してるのか」

 

 は? と言いたげにマジェーレは顔を歪める。

 

「いや、何でもない。忘れてくれ……とにかく、お前の言ってることは間違いないと思う。俺も何も知らねえ素人じゃないからな。わかっているが、でも少尉に限っては……なくてもいいって思うんだよ」

「それは、どうして?」

 

 純然な問いが、周囲に降りた宵闇に溶ける。

 そこには嫌味も皮肉もなく、さながら幼子が大人に訊くような響きがあった。

 

(マジェーレ?)

 

 顔色を窺うが、彼女の面差しは真剣そのものだ。

 ナッドは戸惑いつつも夜空を見上げて、そこに少尉の姿を思い描いた。

 

「魔術が使えなくたって他で補える。それは少尉の目指しているものに直結はしていないからだが……そうでなくてもさ──たとえ才能がなくても目指すことはできるんだって、俺は教えられたようなもんだから」

「目指すだけで叶えられなくてもいいの?」

「全然いいわけじゃないだろうけど」

 

 焦点を合わせた星が、ひとたび瞬いた。

 

「少尉は、夢を目指していくのも夢のうちなんだよ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 雲もない真夜中、蒼褪めた月は水面に浮かぶ。

 シャイラ・ベクティスはそのことを知っている。寝つきの悪い彼女は、こっそり寝床から抜け出して夜な夜な湖畔に足を運んでいるからだ。手近な集落の壁を飛び越えて、鈴虫の調べに導かれるように獣道を歩けば、普段は水場として活用しているそこに着く。

 お気に入りは、小高い丘のように隆起した場所だ。

 広い湖を一望できるそこで、大木に背中を預ける。

 そして、ぼうと水面を眺めることが日課だった。

 

(夜は、やることもないですからね)

 

 獄禍討伐隊は日中に活動する。夜間は、役職持ちや備品管理を担う人々が走り回る場合もあるものの、それ以外の隊員は早々に褥につく。ハキムの言を引用すれば「十分な休息あってこその万全」とのこと。さらに続けて「逸る気を抑えられんのは、戦の前から戦に飲み込まれとる小童だ」とまで言っていた。

 このハキムの考えが、夜間活動を行わない理由だ。

 シャイラの実力が卓抜していれど、単独で獄禍討伐に赴かないのもそうだ。

 

(私は別に……どちらでもいいのですけれど)

 

 ここは、シャイラにとって居心地がよかった。

 月明かりも水辺の湿気も、好むところだった。

 小綺麗で広々とした空間と、埃っぽくて狭い空間が苦手な彼女の、絶妙な需要を満たしている。自国の城内にも存在しない好条件が奇跡的に揃っているため、夜間の大半をここで過ごしていた。四大将としての品格を求められず、落ち着ける空間は貴重なのだ。

 シャイラがひたすら瞳に閉じ込めるのは──時折、波間に揺らいで崩れる、顔色の悪い月。そうしているだけで心が安らぐ。彼女にも理由はわからないが、胸底に溜まる澱んだ感情が撹拌されるようだった。

 穏やかな胸中に浮かぶのは、昨日からの出来事。

 

(ソルちゃん……)

 

 恩人であるハキムの孫と交流した時間を振り返る。

 

(全然上手く喋れませんでした──)

 

 顔を覆い、悶える。

 今夜のひとり反省会の議題は難渋極まっていた。

 だから、早々に腰元から水筒を取り出した。

 中には琥珀色の液体が満たされており、水面に月が浮かんでいる。昨晩に尽きた酒は、集落の酒蔵から補充していた。ただ、補充できるのは今日が最後となるだろう。元々シャイラが秘密裏に発見し、いままで占有していた酒蔵だったが、今夕、他の討伐隊員に見つかってしまい、宴会に使われてしまったのだ。

 だから一滴一滴、大事に呑まねばならない──。

 

(でも)

 

 わかっていながら、水筒の傾斜を強くする。

 

(遠慮してはお酒に申し訳ないです)

 

 酒気が身体を巡ってくると、浴びるように呑むのが礼儀という気がしてくる。舌を湿らせるだけの飲酒などと、そんな軟派な真似はできない。そもそも、日中に溜まった鬱屈を発散せんがために呑んでいるのだ。

 その発散行為に自制をかけて、満足に酔えないのでは、本末転倒に他ならないではないか。

 

「深酒は身体に毒ですのじゃ」

「っ~~~~~~~!」

 

 悲鳴を押し殺して、視線を上げる。

 そこには、湖を背景に佇んでいる──白い女。

 月光を浴びて、なお際立つ白。それは老衰したものではなく、艶を保った雪白の髪。立ち昇る雰囲気は清く儚げ。その印象に孔を穿つのは、黄金の双眸だ。意志という鋼鉄を融かして、固めたような光を放っている。そんな彼女の立ち姿から、現在のビエニスを統べる女を想起してしまって、息が止まった。

 シャイラは瞬きして、それが幼女だと認識する。

 

「ベクティス殿。お休み中に失礼いたすのじゃ」

「……え、あ、はい! いつ、いつから……?」

「つい半刻前ですのじゃ。大事な瞑想を邪魔してはならぬと、僭越ながら機会を窺わせていただいておりましたのじゃ。酒を嗜まれ出しましたので」

「あ……ああー」

 

 随分、長いこと待っていたらしい。

 ソルは感嘆したように幾度も頷いていた。

 

「その集中力、見習わせていただきます。わしが近寄れど気取らぬほどとは感服いたします」

「あの、その。です、ね」

 

 ソルが目を輝かせてシャイラを持ち上げるが、当の本人は曖昧に笑って流す。

 

(夢中でお酒を飲んでいた、なんて言えません……)

 

 熱の籠もった視線は痛みを与えてくるほどだった。

 いたたまれず、シャイラはソルに来意を尋ねた。

 夜中、集落から離れた湖に来る理由はないはずだったが──ならば、と視線が鋭くする。

 

「集落で何か……起きて、その連絡と、か……?」

「いえ、集落は平穏そのものでしたのう」

「あ、そ、そうですか」

 

 思いきりあてを外して、面映くて仕方なくなった。

 早目に話題を流そうと続けざまに推測を口にする。

 

「あのその、えと、では、水浴び……ですか?」

「いえ、すでに汗は流しております。わしはベクティス殿にお会いしたい一念で参じましたのじゃ」

「お会いしたい一念……」

「ですのじゃ」

「ハキムさんに言われて、ですか」

 

 人物名を挙げると、如実な反応が返ってきた。

 幼女は表情を引き締める。しかし、罰の悪そうな顔を隠しきれてはいなかった。シャイラは少なからず覚えた落胆を紛らわすため、緩慢に深呼吸する。

 ハキムの遠回しな親切心を邪険に扱いたくはない。

 だが、てっきりソル自身の意思で、わざわざシャイラを探しに来たのかと思ってしまったから。そんな勘違いをしたことに、自己嫌悪が止まらなかった。

 この頃にはすっかり酔いも冷めていた。

 

「いま言うと、まるで言い訳のようになってしまいますが、あの爺……ちゃんに頼まれずとも、ベクティス殿とは親睦を深めたく思っておりましたのじゃ」

 

 気を遣わせている──こんな小さい女の子に──。

 シャイラの自尊心は傷だらけだった。

 だが、シャイラは曖昧な笑みを浮かべる。

 

(ソルちゃんの厚意は甘んじて受けましょう。このまま帰してしまうのも申し訳ないですし……また会ったときに気まずいですし……ハキムさんも私なんかを慮って、ソルちゃんを差し向けたのでしょうし……ね)

 

 ソルは一礼すると、隣に胡座を組んで座った。

 さて、どの話題で親睦を深めるつもりだろうか。

 不安が六割、期待が四割の心持ちで言葉を待った。

 

「えっと」

 

 気詰まりな沈黙が唐突に訪れ、ただ、戸惑った。

 シャイラは視線を湖に逃がす。湖面の静けさとは対照的な心臓の脈動で、自分の緊張が浮き彫りになっている。嫌な汗が背筋をそろそろと這う。話をしにきたという当人が、一向に口火を切ろうとしていない。

 強烈な既視感を覚えた。理解は予感を伴っていた。

 まさか、と悪寒が走る。

 

(また……? もしかして、またお姉さんの私から話を振らないとなんですか……? だとしたら、あ、ああ、安易に引き受けてしまいました……)

 

 脳裏には、昨日の夕間暮れの交流がよぎっていた。

 再び、シャイラの前に困難が立ちはだかる。

 もはや手札は使い切っているというのに──。

 

(よ、夜に天気の話題は使えないですよ……)

 

 会話の種など易々と浮かばない。

 浮かぶような人間性であれば、夜半にひとりぼっちで湖に来やしないのだ。

 だが、下駄を預けられては腹を括るしかない。

 誰の意にも染まぬ沈黙のなかに、身を浸し続けられるほどシャイラの心は強くないのだ。ゆえに、会話の糸口になり得るものがないか視線を巡らせる。必死で探しに探し、ようやく一縷の光明を掴んだ。

 おずおず指さすは、幼女が腰に帯びている──。

 

「あの……その剣、見せて、もらっても……?」

「のじゃ」

 

 会話が成立したことに、ひとまず胸を撫で下ろす。

 シャイラは、差し出された剣に指を這わせる。

 傷だらけの剣身だ。表面の鋼には、無数の痕が年輪のように刻まれている。銘は彫られていない。年季に擦り潰されたわけでもなさそうだ。ならば、少なくとも名うての鍛治屋に打たれたものではないだろう。

 しかし、ナマクラではない。

 むしろ業物と言える出来栄えだろう。

 

(かなり、年季が入ってますね……それでも、刃は光を失っていません。手入れを欠かしていない証拠だとは思いますが……骨董品の類いにも見えますね)

 

「何年物、ですか?」

「確か、もう三十年にもなりますかのう」

「さんじゅ……!? 年代物じゃないですか……!」

「酒ではないですがのう」

 

 到底、現役で振るえる剣の寿命ではない。

 

(表面には聖文字の形跡もないですが……これは)

 

「ベクティス殿から見ても特別に見えますか」

「は、はい。ほ、これ、本当にずっと使って……?」

「それは間違いないです。あ、もちろんわしは八歳のため、数年程度しか保証はできませんのじゃが、前の持ち主である育ての老爺からはそう聞いております」

「こ、れを打った方について、は……?」

「ええ。ある程度知っております。もちろん、これも育ての老爺からの聞き伝えではありますが──」

 

 ソルは、思い出すように目線を宙に向ける。

 

「老爺の知る限り、最高の鍛治師が打った、と。老爺は彼女と浅からぬ縁がございまして、何振りか打ってもらっていたようですのう」

「そうなんです、ね。他の作品……見たい、ですね」

 

 はっとシャイラは唇に指を当てた。

 迂闊に、図々しい願いを零してしまった。

 ソルは気にした素振りもなく「残念ですが」と困ったというように細い眉を折った。

 

「他は使い潰してしまい、残っておりません」

「そっ、そうですか、そう、ですよね……」

「しかし、ベクティス殿。他の作品も見たいとは、そんなにその剣を高く評価いただいのでしょうか」

「いえあの! ひょ、評価なんて……そんな」

 

 迂闊な発言を会話で拾われ、変な声が出る。

 想定外の方面に進められると必要以上に動転する。

 シャイラは弱い生き物だった。だが、弱い生き物なりに、抱いていた感情を少しずつ言葉にしていく。

 

「ただ、あの……どんな、気持ちでこれを打ったんだろう……って。丈夫さを第一に、切れ味はその次にして……魔剣のように剣の寿命も長い、ことを考える、と……その。もしかして、打った人は『ずっと剣を握っていてほしい』って願ってたんじゃ、なんて」

「それは、興味深いのう」

「大したことじゃ……私は、腐っても魔術属性があれなので、剣のことなら……少しはわかりま、す」

 

 そう、剣のことにならば多少の自信が持てる。

 シャイラは鋼に手を添えたまま、視線を落とした。

 

「英雄になって欲しかったのでしょうな」

「え?」

「あの老爺は、執念く英雄という存在を羨んでおりました。そんな、見様見真似で技を会得しては、見過ぎ世過ぎの方便(たすき)とする男に……夢や理想という名の空理空論に縛られた、そんな男に……それでも、いつかは英雄になって欲しかったのでしょうな」

「ソル、ちゃん」

 

 ソルの双眸は正面、湖の先を見つめていた。

 否、きっと湖の先ではなく過去を見ているのだ。

 そんな遠方を見据える目の下では、一体何の想念が渦巻いているのか。推し量る術はない。彼女はただ、胡座をかいた両膝の間で、両手の指を編んでいた。

 呼吸さえ憚られる静寂がしばし、辺りに満ちる。

 

「鍛治師のその願いが意固地だったのかどうか、結局はわからずじまいにはなりましたが……本当に。本当に奇特な奴ですのう。そして、あの老爺は──」

 

 瞳は天から投じられる月光を吸って、鮮やかさを取り戻すと、ふっと力なく相好を崩した。

 

「実に……恵まれた男ですな」

 

 息を呑む。かけようとした言葉は烏有に帰した。

 

「お爺さんは……なぜ、英雄に憧れたんです、か」

「聞いた話によれば、幼き日に触れたエイブロードの英雄譚がきっかけのようですのじゃ。かく言うわしも彼に憧れて、剣と英雄に熱を上げ始めた口でして」

「エイブロード……」

「わしの、最も尊敬している英雄ですのじゃ」

 

 久方ぶりに耳にした名前だった。

 

「ベクティス殿はエイブロードをご存知ですかのう」

「はい。まあ……大陸で、知らない人のほうが、珍しいか、と。よほどの僻地でない、と……私も、最初に触れた英雄は、その、彼……でした、し。ずっとむかし、の話ですが、一番好きだったのも、彼、でした」

「ほう! ベクティス殿もそうでしたか」

 

 ソルの頭が、ぐいとこちらに向いた。

 その急な喰いつき方に、シャイラはたじろいだ。

 

「む、むかし……ですよ?」

 

 顔をわずかに引きながら、か細い声で付け足す。

 口走った瞬間に、すでに後悔していた。シャイラは面食らったあまり、自己防衛的に予防線を引いてしまったのだ。ソルとの思いがけない共通項を発見したのだから、これ幸いと話の種に使えばよかったものを、自らドブに捨ててしまうとは何たる失態か。

 何事も、不慣れな者は相応の準備期間が必要だ。

 それは対人関係でも変わらないのだが、十分な準備期間を用意するにはシャイラの肝が小さすぎた。

 

(そ、無理に即答してしまいました……で、でも、会話の調子が私のせいで止まるのも……うう。それで大して面白いことも言えず、あまつさえ引いた予防線で話の展開を阻むなんて……私って一体)

 

 脳裏では悶々の情が席巻していた。

 しかし、対面する幼女は話の導線を絶ったことを気にした風もなく「ならば」と瞼の曲線を弓のように張る。如何にも興味津々といった様子だった。

 ちょうど頭上の月が雲を抜けたのか、ひときわ強い蒼白の光が彼女を照らす。

 

「興味がありますのう。むかし最も好きだった英雄はエイブロード。では、いまや英雄となった貴女が、最も好んでいる英雄とは誰なのでしょうか?」

「す、好きというか……ちょっと、語弊、なんですけど、その、一番尊敬している人は……陛下です、ね」

「現ビエニス王ですか。確か名前は──」

「アルカディーナ・フレージェン」

 

 当代ビエニス王。屍の上に君臨する絶対覇者。

 ビエニスという力の殿堂、その王座に最年少で就いた実績さえ挙げれば、彼女による無類の驍勇や多大な功績を列挙する必要はない。歴代のビエニス王たちと比べても突出している。シャイラの記憶に残る、彼女の勇姿──高貴な家名を背負い、自ら下層に降って、下層民の叛乱を鎮めたのは一里塚にすぎなかった。

 あの頃、窓越しに見たアルカディーナの凱旋。

 何も知らない頃のシャイラは、ただ目を奪われた。

 アルカディーナ自身によって『黎明』と名付けられた自分より、よほど日輪に相応しい姿だった。

 

「ディナとは……陛下とは、幼馴染、なんです」

「おお、かの大英雄と。初耳ですのじゃ」

「え、ええ。私の、家名……その。あの頃は高名でしたから。両親と兄様に……付いて、いった場所で……初めて、幼い頃の陛下とお会いしまし、た」

 

 アルカディーナとは盤上遊戯で仲良くなった。

 当時シャイラは盤上遊戯に熱を上げていて、アルカディーナが指せるとわかった時点で、高い好感を抱いた。趣味の理解者に恵まれなかったからこそ、巡り逢えたときの高揚感は凄まじい。幾度か指すうちに距離を縮め、結果的に良き友人となったわけだが、まさか人生唯一の友人になるとは思わなかった──。

 彼女との思い出話を言葉少なに話したあとは、話の流れで英雄譚談義となった。

 ソルは好きな英雄、注目する新鋭について語る。シャイラは相槌を打ちながら、時折、知り合いの名前が上がると印象について一言三言話す。それを感心して聞いたソルが、話を広げて、シャイラも思わず口元が綻ぶような着地を見せて、次の話題に行って──。

 シャイラは崩れていた脚を直しつつ、思う。

 

(こんなに楽しいのは……)

 

 長い睫毛を震わせ、目を伏せる。

 

(昔の私に似てるから、なんて。烏滸がましい。そんなわけないのに。あってはならないのに)

 

 英雄に対して幻想を抱き、憧れていて──。

 英雄譚が大好きで、本ばかり読んでいて──。

 頑張れば認めてもらえると勘違いしていて──。

 頬を真っ赤にして、好きなものを語って──。

 

(でも、きっと緊張していないのはそういう側面があるのでしょう。ディナとのこともハキムさんに話したことないですし、家族の話も……もう私は、本も、英雄も、駒遊びも好きじゃないですが、こんな時代があったな、なんて思えて、つい口が滑ったのでしょう)

 

 ソルは喋りすぎて、舌足らずの声がなおさら頼りなく丸まっていく。水を勧めようと水筒を渡そうとしたが、寸前で内容物が酒だったことに気づいた。この素振りだけで水分補給を察したのか、ソルは「あひがはいのじゃ」と怪しい滑舌で言い、湖まで駆けていく。

 ソルの後ろ姿を、シャイラは目尻を下げて見守る。

 

(うん。微笑ましい、というか。こうしてみれば、ソルちゃんも年相応の子供ですね)

 

 いまや、夙悟と言える態度はなりをひそめている。

 きっと、環境がソルをちぐはぐにしたのだ。現実主義者の帝国軍人たちに囲まれ、切った張ったを繰り返す。血濡れた身体で刃を振るうたび、感覚と感情をすり切らす毎日。それを凌ぐために、自分の境遇を納得するための諦観を、毎夜すり込んできたのだろう。

 憐憫、というより一種の共感めいた感情が湧く。

 自分とソルは近しい存在なのかもしれない──。

 しゃがんだ幼女は、掬った水を口に運んでいた。

 

(ハキムさんがソルちゃんを差し向けた理由、少しだけわかったかもしれません。……ハキムさんには、感謝しないといけませんね)

 

 あの老爺は、いつも裏側で気を配ってくれる。

 彼は最初から優しかった。街の隙間、空の底で落ちぶれていた自分を──身寄りも、生きる価値もなくなった傷だらけの亡者を、事情も訊かずに救い上げた。

 彼は決して本音を漏らさない。それでいて、煙に巻くような言葉ばかりを吹聴する。迂遠な気の遣い方をするから、優しさを理解するまでに時間を要する。最近は諫言が多くなったが、それも四大将の身であるシャイラのためだとわかっているつもりだ。

 自分のような人間に、暖かい厚意を向けてくれる存在には、有り難い気持ちで一杯で──。

 

『また勘違いしていますよ、シャイラ・ベクティス』

 

 悍ましい声が、内側から湧き出てくる。

 シャイラはぎゅうと胸骨を抑える。

 心臓が早鐘を打つ。呼吸が乱れる。

 頭蓋を巡る血液が熱を持ち、思考を溶かしていく。

 

『あの男が、お前のためを思って厳しいことを言っている? とんだ自意識過剰ですね。あの男は、お前に利用価値があるから、義理の娘として引き取り、いままで育ていただけです』

 

 手元の水筒を口許に持っていき、一気に呷る。

 だが、ほとんど残っていなかった。舌を濡らすのは数滴。唾液とともに流し込むが、()を掻き消すほどの酒精は望むべくもない。

 

『皆が求めているお前は、力を持ったお前だけです。その、罪深い力を持ったお前だけ』

 

 分かっている、分かっているから──どうか。

 どうか、それ以上言ってくれるな──。

 シャイラは念仏のごとく謝罪を唱え、祈る。

 

『自覚しなさい。そして、二度と忘れないことです。お前は『黎明の導翳し』。黎明の導を、天に翳す者。すなわち、太陽に影を落とす罪人であると』

 

(ちゃんと、わかっていますから……私は、価値を示し続けなくちゃ。また、皆に見捨てられないように。ハキムさんにまで捨てられたら、私は……)

 

 唱え続けていると、ようやく発作が鎮まってくる。

 熱い息が唇から這い出た。じっとりと肌着の背中側が濡れて、得体の知れない寒気が体表をなぞる。きっと発作が収まった理由は、体内の酒精だろう。直前に口に含んだ酒は微々たる量で、酩酊感は薄れてはいるものの、幼女が訪ねてくる前に散々飲んでいた。

 蓄積は力だ。シャイラは今更ながら、自分が存外、酔っ払っていることに気がついた。

 

(あの()はいつだって正しい。正しいから、耳を塞ぎたくなってしまう。罪深い、卑怯な私は……)

 

 あの()はシャイラをあるべき姿に糺す。

 勘違いしがちな罪人を『黎明の導翳し』の形に整えるのだ。

 

「……ベクティス殿?」

 

 気がつけば、困ったような瞳が目前にあった。

 鼻腔を掠めるのは、かすかな汗の匂い。

 

「ご、ごご、ごめんなさい。少しだけ、ぼうとしてしまって……もう一度、その、言って」

「申し訳ないですのう。気をつけてはいたのじゃが、わしの話ばかりしておりましたな。ベクティス殿に退屈を強いてしまっておりました……のう」

「いっ、いえ、そんな……!」

 

 そんなつもりはなかった。むしろ楽しかったのだ。

 慌てたシャイラは、思わず大仰に否定してしまう。

 この時間が打ち切られてしまうことを惜しんだためだったが、その真剣味を汲んでくれたのか、ソルは、また隣に腰を落ち着けた。また会話に花を咲かせられるかと思うと、心が浮き立って仕方ない。あの内側からの声を恐れつつ、シャイラは微笑みを零す。

 夜は長い。語り合いに飽きることもないだろう。

 では、と二人は仕切り直して話題を探す。

 

「わしには英雄と剣以外の事柄が、とんと思いつきませぬ。見聞の狭さに恥じ入るばかりで……」

「いえ、そんな。私だって、似たようなもので……」

「ならば、英雄譚の話題に戻るとしますかのう」

「あ、あの、待ってください」

 

 だから、ただの気まぐれだったのだ。

 

「ソルちゃん。もしもの話、なんです、が……」

「はい。もしも、ですか」

「はい……もしも、もしもです、よ。願いをひとつ叶えてくれる、存在がいたとし、て──ソルちゃんは、自分が英雄になれるよう、お願いします、か?」

 

 こんな、益体もない問いをしてしまったのは。

 

「それは……如何な意図の問いかけでしょうか」

「あああ、あの! ええと、言葉通りで! もっと、その、ソルちゃんのことが知りたいな……と思ってあの……全然、試す意図とかは全くないので、その……気を悪くしないでください……」

 

 問い返されたことで我に返った。

 自身を庇う言葉はみるみる声が小さくなっていく。

 喉が不自然に渇き、言葉の最後のほうは口のなかで呟くに終わった。やらかした。話の種に困っていたとは言え、唐突に、益体もないもしも話(・・・・)を始められるほどの関係性を築けていなかったのに。

 数日前が初対面だったのだ。ソルからすれば「憧れの『黎明の導翳し』」でしかない。どこか浮かれていたのだろう。愚かにも距離感を測り違えたのだ。

 目を合わせられず、ソルの腹部を凝視していた。

 恥ずかしさのあまり、頭が熱暴走を起こす。

 

(まずい、まずいです。引かれました、これは間違いなく引かれました。言ったあとに後悔なんて……私)

 

 引かれた証拠に、ソルは不審な挙動を見せていた。

 白髪を弄ろうとして、触れかけた指先を止める。そして、そろりそろりと元の位置まで手を戻す。あれが気まずさの露われではないならば、何だと言うのか。

 不安に押され、ようやくソルの顔を窺ったとき、ちょうど、彼女が息を吸うところだった。心根の真摯さに裏打ちされたような、澄んだ瞳に見据えられる。

 淀みない気持ちを乗せられるはずだった言葉は。

 

「わしは──」

「待って」

 

 ついぞ、空気を震わせることは叶わなかった。

 唐突。この一瞬に行動を終えたのは、シャイラ。

 もはや自動的とでも形容できる対応速度だった。息を吸い、マナを取り込んで魔力を出力。シャイラは宙空に一振りの直剣を生み出した。その柄頭に手の甲で触れる。それだけで剣は、湖の方向に撃ち出された。

 鋼鉄の光は、風を唸らせ、月夜に奔る流星だった。

 空を映した水面は飛沫を弾き、線が引かれていく。

 突然、線が途絶える。雑音塗れの鳴き声が、する。

 

「■ル■■■■、や■■■■■■」

 

 それは、月下の湖面。

 空の黒を映すだけの鏡面。

 そこに、異物の影法師が、伸びていた。

 

「来ました、ね」

 

 口に出せば、浮ついていた感情が冷えていく。

 新来の、奇妙な人影が、すぅと湖上を移動する。

 それは一切の重力を受けた様子もなく、滑る。

 シャイラは立ち上がり、見下ろす。あの影とは顔を合わせたばかりだ。ケダマ討伐の途上に遭遇したクロカゲ。子飼いの獄禍と違って自由行動できるため、こうした遭遇戦は珍しいことではなかった。

 ただケダマ討伐のとき同様、何事か鳴いている。

 

(昨日からクロカゲが変化している? ハキムさんもわからないと言っていましたが、どうも不気味です)

 

 述懐は苦い。その苦味は唾液とともに飲み干す。

 指と手の動きで、幾本もの剣を虚空に生み出した。

 そして一歩。前に出ることで、幼女を背後に置く。

 

「ソルちゃん──じっと……していて下さい。私がすぐに終わらせますか、ら」

 



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17 『過去との分水嶺1』

 剣、剣、剣──数十もの剣が舞う。

 それらは月光を浴び、流星となって夜を駆ける。

 殺到する場所は、ただ一点。

 湖上に浮かぶクロカゲに目がけて、だ。

 

(凄まじいのう)

 

 ソルは生暖かい唾を嚥下して、蹂躙劇を見守る。

 無数の剣先を前に、クロカゲは避けようとしない。

 一本目が接触した、と同時に光と音の華が咲いた。

 月下に散華した火花とともに、剣の影が舞った。

 クロカゲが己の腕で打ち払ったのだ。いまも二本、三本、四本──と次々飛来する剣の流星を、クロカゲは腕と思しき突起で端から弾き飛ばす。残像が見えるほど迅速に、そして確実に捌いていく。そのたび、火花が上がり、辺りに硬質な音が響き渡る。

 ソルは黙然としながら、息を呑んでいた。

 わずか数秒の戦闘だが、驚嘆に値する。正確性と速度は人間離れしていた。事実、クロカゲは怪物に違いないが、同じく人間離れした存在である英雄でも、果たしてこの領域で戦える者がどれだけいるのか。

 あれは、落ちる雨粒をすべて弾くようなものだ。

 土砂降りの雨を前にしても、クロカゲならば唐傘なしに凌げてしまうだろう。

 

(正面からあの物量を受けて無事。わし程度の人間では、一も二もなく回避を考えるところじゃ。ラムホルト殿の炎塊の雨とは違う。剣は空気抵抗を受けずらい形状ゆえ、まさしく風濤のごとき速度が出ておる)

 

 確かにクロカゲは驚異的な処理速度を見せている。

 だが、着実に限界の際に追いやられているようだ。

 ついぞ、十二本目を捌いたとき、小振りな直剣が腕のわずかな間隙を抜けた。

 その白刃が、クロカゲの胴体を突き破らんとする。

 

「■■■■■■■■」

 

 だが、一撃でクロカゲを砕くには足りない。

 剣は拍子抜けたような音を伴い、あらぬ方向へと回転を帯びて、とぷんと湖に没した。片やクロカゲのつるりとした光沢を放つ表面には、綻びひとつも生まれていない。そもそも、あの怪物は白刃を拳で弾き返している。もしや胴体も同等の硬度なのかもしれない。

 さりとて、クロカゲの劣勢を覆すのは難しい。

 熾烈な弾幕が途切れぬ限り、防戦一方は免れない。

 

(ベクティス殿は剣属性の魔力を持つ。体力が尽きない限り、無尽蔵に剣を生成できる。このまま射撃が続けば、雨垂れが石を穿つようにクロカゲの胴体もいつかは砕けよう。もはや趨勢は決しておる、か)

 

 この場の圧倒的な支配者は、目前の女だった。

 シャイラは、やおら右腕を広げる。

 すると、人体大の白繭が一列、空中に現れた。

 まるで肌の表面を押して肋骨が浮き上がるように。

 すでにそこにあったかのように──須臾に十つ。

 それら繭は蠢き、織り直されては剣を象ってゆく。

 刃先から鋼に変質していき、種類豊かな刃物に変貌する。両手剣、刺突用の片手剣から、演舞用の刃、儀礼剣、騎兵用の槍に似た幅広の剣まで──。

 広げた右腕の先にある手で、緩慢に拳をつくる。

 

「飛、べ」

 

 剣が風に融けて、十七陣目となる死の風が吹く。

 ソルは彼女の圧倒ぶりに思わず後退ってしまった。

 

(これがベクティス殿の本領。わしとの模擬戦や獣の狩猟では拝見できなかった姿。疾く、鋭く、際限なく理不尽を叩きつけ続ける戦闘方法)

 

 怒涛の剣の波。嵐とも呼ぶべき熾烈な猛攻だった。

 最初は迎撃できていたクロカゲも、早期に許容量を超してしまい、見るも無惨な姿に変わってゆく。慇懃に磨き上げられたかのようだった表面は、度重なる刃の波に浸食されていき、漆喰めいた色はずたずたに削られ、見窄らしい廃材の様相を呈してゆく。

 だが、このまま果てるほど獄禍は生半ではない。

 

「■■■■■、■■」

 

 身体は正面を向いたまま、クロカゲは後方に飛ぶ。

 否、高速の平行移動という言葉が正確だ。脚力をバネにした様子もなく、一切の予備動作を匂わせない退却だった。クロカゲの脚が、湖面を割るように轍をつける。それを追うように、無数の剣が月明かりの尾を曳いて宙を流れた。速度は、わずかばかり剣に軍配が上がる。クロカゲは初速を維持できていない。

 獄禍に思考能力が備わっているか定かではないが、クロカゲに一定の思慮が備わっていると仮定する。おそらく彼は、正面突破は分が悪いと見たのだろう。ソルは頷いて、自らが柄を掴んだ剣を見下ろす。

 このまま引き下がるのならば、これの出番はない。

 

「■■■■■■」

 

 向かいの岸まで、あと一秒とかからない。

 風のなか、クロカゲと着実に差を詰める剣の群れ。

 追い縋った切っ先が、彼の全身を捉える直前──。

 忽然と、その姿が掻き消える。

 盛大に湧き立った水柱(・・)によって。

 

(ほう。目眩しか)

 

 餌を求めた群れは、滝のごとき水柱を食い破る。

 勢い余って、対岸の先にある暗い森林に吸い込まれていった。続くのは刺突音と轟音の重奏。大木が薙ぎ倒されたのだろう。月光を浴びていた背の高い影が、一本、二本と闇が溶けた深林に沈んでいった。堪らずといった声を上げて、夜鳥たちが飛び立っていく。

 水柱は重力の理に従い、滝のように流れ落ちる。

 雫に溶けた月光は、数百の破片として砕け散った。

 しかし、肝心のクロカゲの姿は、湖上には影も形も見当たらない。

 

(否、()か)

 

 思い当たったと同時、湖上で水が跳ねる。

 張った膜を突き破るように、黒い塊が飛び出した。

 ソルの場所にまで水飛沫の流れ弾が飛んでくる。手を翳すことでそれを防ぎつつ、得心する。先ほどの猛烈なまでの水柱は、クロカゲの潜水による産物だったのだろう。瞬発的な推測は正鵠を得ていたようだ。

 しかしながら、わずかな違和感を覚えた。

 

(あのクロカゲの体格で、あれほど大規模な……高いというより、広い水柱が立つじゃろうか)

 

 ソルは観察を続けるなか、鼻頭に風を感じた。

 大気に触れたクロカゲが頭を揺らしていた。舞う水滴が月光で灯るなか、円弧を描いて散っていたのは、またしても剣である。視線を走らせると、次なる剣波が押し寄せていた。その源流である『黎明の導翳し』は、一切の感情を見せずに指揮を続行している。

 ソルの喉が鳴る。あの剣の英雄は、寸分の狂いもなく、クロカゲが浮上するであろう位置と頃合を計っていた。その上で、あらかじめ剣を生成して射出していた。ソルの小さな胸を満たしたのは、何も驚愕や恐怖だけでなく、安堵感にも似た、奥まで沈み込む熱。

 これぞ英雄。憧れた御伽話での活躍そのもの──。

 

(いまわしは『黎明の導翳し』の英雄譚の一幕を見ておるのじゃな……模擬戦でわしは恐れ多くも演者として、ここでは観客として居合わせておる。もっとも、舞台劇ではないため、観客側が巻き込まれる可能性もあるが……いやしかし、実に見事。実に胸躍る!)

 

 上気した観客(ソル)に押されるように、敵役(クロカゲ)も力を奮う。

 クロカゲは、二の轍は踏まぬとばかりに加速する。

 向かう先はシャイラ──ではなく、自らの後方。

 剣の衝撃で仰け反ったまま、湖上を自在に滑る。

 先ほどとは異なり、美しい曲線を描いて剣の群れを避ける。速度の加減を調節しながら、時に刃を掻い潜り、時に華麗な反転を決め、正確無比な剣波を乗り越える。さながら嵐の海を渡る、凄腕の船乗りだ。

 ソルは熱量を高くし、柄を強く握り締めていた。

 

(距離を稼いでの大回り。ベクティス殿の力量を測った上で、回避に主眼を置き直したのじゃな。正攻法で分が悪いのなら、真っ向勝負は避ける……当然じゃ)

 

 そして、クロカゲは一向に撤退する素振りがない。

 彼の速度ならば、一目散に湖から退くのは難しいことではないはずなのに。

 

(つまり雌伏(・・)。クロカゲは機を窺っておる)

 

 結論を裏づけるように、クロカゲの滑走は大きな蛇行を繰り返しながら、軌道を変える。雲霞のごとく押し寄せる剣の群れを引き連れながら、こちらへ──シャイラの立つ方向へと滑ってくる。

 機は熟したということだろう。彼は、超人的な速度と体裁きをもってして、シャイラと間合いを詰めて、優勢な流れのままに押し切ろうとするつもりだ。

 クロカゲの取った選択肢は間違っていない。

 クロカゲが途中で動きを止めて(・・・・・・)いなければ(・・・・・)

 

「■■■……! ■■■」

 

 クロカゲからは、呻きのような雑音が漏れた。

 湖面を自在に動き回っていた彼が、即座に止まる。

 まるで、月下の舞台に縛り上げられた糸操人形。

 ソルの想起したその比喩は、的を射ていた。

 

(これは……魔力物質化。不可視の刃じゃ)

 

 見るべきは、中空で藻掻くクロカゲではない。

 ソルの視線が向かった先は、目前にある背中。

 『黎明の導翳し』。シャイラが水平に伸ばした右手には、いつの間にかひと振りの剣が握られていた。剣身は、濡れたようにぬらりと光っている。

 月光の反射ではない。花緑青の燐光を認めた。

 無論、あれは物質に魔力が流れた証──魔力光。

 

(あれは模擬戦でも見た不可視の刃じゃろう。ベクティス殿は、あのとき伸長した剣身を生ぶ刃のようにしておったが……鋭利にしておると、厄介極まりない)

 

 ソルは眉間に皺を寄せ、大きく瞳を張る。

 それでも見えない。不可視の刃の具体的な形状を、この目に認めることができなかった。わかることは、クロカゲの胴体と四肢を絡め取る形状であることだけだ。藻掻けば藻掻くほど、刃が身体を傷つけ、金属音を鳴らしている。呻吟のような音が怪物から漏れる。

 模擬戦の題目のおかげで、ソルに振るわれなかった

 だが、この場において斟酌は加えられない。

 

(人体相手に振るわれればと思うと……脅威じゃ)

 

 縛られたクロカゲに、容赦なく剣の激流が迫る。

 もはや、抵抗も回避もできない。

 

「■■■■■■──!?」

 

 眠る草木を叩き起こす轟音が連なり、響き渡る。

 直撃する剣の群れはすべて、獲物にありつけた喜びに跳ねると、水面に沈んでいく。

 派手な金属音の重奏に、怪物の嘶きも重なる。

 けたたましいそれは、悲鳴にも、己を鼓舞する咆哮にも聞こえた。

 

「■■■■抵■──!」

 

 クロカゲは、空に飛んだ。

 不可視の刃による拘束が解けたのだ。正確には壊れたのだろう。幾十もの剣の衝突で、クロカゲより伸長した刃のほうが耐えきれず、粉々に砕け散ったのだろう。さもありなん。それほどの猛攻だった。

 クロカゲも瓦解寸前だ。飛び上がった衝撃でか、片手が力なく落ちていく。あと一度でも剣の奔流を受ければ、今度こそ身体は千々の欠片に変わるだろう。

 そして、シャイラに容赦や抜け目はない。

 楽団の指揮者のように手指を動かし、上空のクロカゲには、大量の剣を差し向けている。これが躱せなければ、目前の舞台は幕引きということになる。

 

(あれは……口か?)

 

 ソルは視線を、クロカゲの特定箇所に絞る。

 人体における口許にあたる箇所が──人型を成す円盤のうちの二枚が、不揃いの欠片に砕けた。欠片は意思を持ったかのごとく落ちず、細分化されたまま楕円を象った。さながら人の唇だ。そんな直感的な発想が浮かぶも、それにしては大きすぎる。

 ソルは程なくして、ぴったりの比喩を思いつく。

 あれはまるで、城砦に設えられた大口径の砲台(・・)だ。

 

「な」

 

 直感が脳髄に迸る。直後、喉が干上がった。

 ソルの経験が言う。あれは、まずいものだ。

 切り札とは、最後まで隠し通してこそ切り札。

 雌伏のときを過ごしながらも、クロカゲは隠し持っていたのだ。卓を引っ繰り返す、切り札を。終始、劣勢に甘んじていながらも、その瞬間を狙っていた。

 クロカゲは想像以上に知能を持ち合わせている。

 

「ベクティス殿……!」

 

 ソルは回避を進言しようとした。

 あれが大砲ならば、射線上にはソルとシャイラがいることになる。加えて、肌身に感じる怖気が確かならば、放たれるだろう砲撃を受ければ只では済まない。

 しかし、決して忘れてはならないことがある。

 シャイラは、単なる英雄の枠に収まらないのだ。

 

「【そうして私は目を瞑る】」

 

 シャイラの一言は独特な発音を擁していた。

 魔術の詠唱だ。ソルは凝然としながら、聞こえる言葉を耳で必死に拾う。

 

「【千の位階の片翼】【その視座は空にありて】【箱のなかはなか】【そとはそと】【此岸と彼岸めく空想と現実】【憧れの肖像とは交わり合えない】──」

 

 それは、耳馴染みのない節回しだった。

 詠唱は『魔術で如何なる事象を引き起こすか。その想像を固めるためのもの』でしかない。だから本来であれば、詠唱はどんな文面であっても問題ない。当人の想像の補強に役立つのであれば、他人には無意味な語彙のみを使って詠むこともできる。

 だが、一般に浸透した現代魔術の観点からすれば、定型文を用いない詠唱文は珍しい。

 

「■■■■■■──」

 

 詠唱の中途で、雑音塗れの咆哮が引き裂いた。

 そして圧倒的な白が、ソルの網膜を焼いた。

 遂に、クロカゲの口腔から閃光が放たれたのだ。

 熾烈──と、ただその言葉に尽きた。

 迸る烈白の熱線は大気を焼く。音が焦げつき、水は蒸気へと変わる。その勢いたるや、追い込まれ続けたクロカゲの鬱憤を放逸させるがごとし。その進路を何者も阻むことはできない。寄せる剣の大群を飲み込んでゆく。先頭のほうから、熱線の高熱で融けて、光のなかに霞んで消える。抵抗の一切はきっと無駄。

 直撃すれば、英雄とて瞬時に蒸発する一撃だ。

 

(ベクティス殿はこれを正面から受けるのか……!)

 

 接近する白の暴威を前に、詠唱は続けられていた。

 その後ろ姿には、動揺も恐怖も感じられない。

 

「【貴方はさながら世界の聴き人】【空想と現実により螺旋を為す世界、その超克】【それこそが私と貴方の使命と刻め】【ええ、でも私は】」

 

 最後の一節は、酷薄なまでに耳に焼きついた。

 

「【もう夢は見たくない】」

 

 シャイラの目前に、細長の白繭が形作られる。

 魔力放出で剣を紡いだときと同じ現象だった。

 ならば当然、この詠唱で生み出されたのは『剣』。

 あの、奇妙な詠唱でどんな剣が生み出されたのか。

 

(否……剣、なのか?)

 

 白繭は鋼に変じて、具現した剣は目を疑う代物。

 どんな英雄譚にも登場しない魔剣。

 それは、見る者に剣の概念を見失わせた。

 

「『螺旋現実』アンシャート」

 

 それには剣に必要な『刃』が存在しなかった。

 剣士の在り方を落とし込んだような、背筋を伸ばした『剣身』もなく──対峙する者たちの肌を喰い破るような、猛獣の輝きを瞳に灯す『鋒』もない。

 彼女の握る柄から伸びているのは、二枚の鋼鉄だ。

 蒼白を映すこの二枚が螺旋を描いている。糸が絡まり合うかのような、否、正確には、四辺形をした二枚の紙を折り編んだかのような形状だ。その終端は、交差するように二つの角を出していた。

 剣としての枠に当て嵌めるのならば、剣身は二重螺旋の金属板、鋒はその角ということになるのか。

 

(斬るにしては、剣身の縁に一切の鋭利さがない。突くにしても、先端に尖鋭さがない。あれでは、単に板の角が突き出とるに過ぎん。相手をひき潰すことはできるが、理に適った形状ではない)

 

 それに、死の足音はもう目前まで迫っている。

 一刻の猶予どころか、もはや手遅れだった。

 白き閃光は、シャイラの姿を呑み込もうとする。

 真白な光の本流は人体を焼き尽くすに足る威力。

 何も為せぬまま、シャイラは光のなかに──。

 

(くだ)れ螺旋」

 

 観察する限り、シャイラは何もしなかったはずだ。

 ただ、奇妙な剣を腰溜めに構えていただけ。

 ただ、それだけで、熱線は四散五裂する(・・・・・・)

 人体を溶解せしめる熱は、闇に融けて消えてゆく。

 白い閃光はシャイラを避けるように、捩れた縄が解けてゆくようにして、左右に流れてゆく。白が黒に飲まれる只中にあって、シャイラはただ立っていた。

 閃光が途切れると、彼女は悠然と歩き始める。

 紫紺の髪は、仄かな燐光を翳すように踊る。脚は、降り注いだ光を蹴散らす。さながら星の海、その浅瀬を渡るかのようだった。

 

「■■■! ■不■■て■■■!」

 

 捕食者を前にすれば、矮小な被食者は慄く他ない。

 シャイラが距離を詰め始めると、クロカゲは一気に距離を離さんとする。平行移動で湖の対岸まで戻り、体勢を立て直すつもりか。否、クロカゲに戦闘続行は厳しい。腰回りの円盤が落下しており、崩壊は間近に迫っている。今度こそ逃走を図るのだろう。

 背後に移動──するかに、思われたとき。

 

(のぼ)れ螺旋」

 

 クロカゲは移動しながら、痙攣し出した。

 震えが頂点に達したとき、胴体から剣が生えた(・・・・・)

 急速に育った植物が土を割って、顔を出すように。

 一本、二本、三本……刃がクロカゲに茂っていく。

 白刃たちは月光に煌めき、黒い破片が飛び散った。

 

「なっ……!?」

 

 クロカゲは最大限の足掻きを見せる。

 再度、砲口を開いて、苦し紛れに奔らせる白光。

 だが、閃光は一陣の剣の風を薙ぎ払うに留まった。

 シャイラに迫った途端、再び光は霧散した。

 

(これは……何が、起こっておるのじゃ……)

 

 ソルは、そんな光景に目が釘づけになる。

 あり得ない。魔力の出力先がクロカゲ内部に設定しているとしか思えない光景だった。魔力の出力先にできる有効範囲は、術者本人を中心にした範囲で、術者本人の力量や特質によって広狭は変わるが、原則として他人の魔力(・・・・・)が存在する(・・・・・)位置を出力先(・・・・・・)にできない(・・・・・)

 生物には、多かれ少なかれ体内魔力が巡っている。

 つまり、他者の身体内部に己の魔力を現出させることは常識的にはあり得ないのだ。

 

(それを実現させておるのが、つまり……)

 

 あの奇天烈な形状をした魔剣の力、なのだろう。

 以前、酒場で聞いた元傭兵の言葉が脳裏に蘇る。

 

『なあ、爺さん。人が肉塊になる瞬間を見たことあるか? 剣刃の針鼠になった旧友は? いつの間にか腕に得体の知れねぇ刺傷があった経験は? 思い出すだけで震えが止まらなくなる経験は? 俺ぁさ、目ぇ閉じるたびに瞼裏にさあ、あんときの赤が、あんときの光が、ずっとこびりついて離れねぇんだよぉ』

 

 彼の経験談の一部は、この不可解な現象を語っていたのかもしれない。

 

(それを為したのは、定型文のない詠唱で生み出した魔剣『螺旋現実』。唯一の剣属性ゆえに、定型が存在しないため、独学の詠唱になっておるのかもしれぬ)

 

 ソルは詠唱文の点から解釈を行う。

 現代魔術師の詠唱には定型文を用いる。

 定型文は、魔術の一般化に必要なものだ。学舎などで大人数に魔術を教える場合、一人ひとりが自分に合った詠唱を考えるのは非効率的だ。間口を広げるためには、魔術で起こす事象、その想像を万人が共有できる詠唱文を構築せねばならないわけである。

 そのため、詠唱文は大陸神話を下地にしている。 

 これが定型文と呼ばれる。土属性の魔術ならば、土神アニマに纏わる単語を挿入し、炎属性ならば、炎神ウーズに纏わる単語を挿入する。子どもの頃、眠りに落ちるまで聴かされた神話は、大陸で生きる人間にとって、想像力の補強にうってつけなのだ。

 そうこうソルが思考の海に潜っていると、気づく。

 視界の端に、不自然に伸びる影があった。

 

(新手か)

 

 ソルは脊髄反射的に飛び退いて、状況を俯瞰する。

 ソルとシャイラの立つなだらかな丘は、正面に湖が広がり、左右には木立が並んでいる。新来の敵は、左方の林から攻撃を仕掛けてきた。ソルが剣を抜いて身構えたときには、すっと二本の影が伸びてきていた。

 ひとつの影は、黒い槍としてシャイラに迫る。

 そしてふたつ目は、黒い鞭としてソルを狙う。

 同時多発的な攻撃。仕掛ける時期も実に効果的と言える。ちょうどシャイラは湖上のクロカゲに意識が向いている。ずっと好機を窺っていたのだろう。

 クロカゲは想像以上の知能を持ち合わせている。

 

「ベクティス殿! 攻撃が西から来ております!」

「?」

 

 せめて伝えるだけ伝えて、対処を行う。

 ソルは唇を窄めて息を吐き出す。肺を慎重に萎ませるような呼吸。そうやって頭に空気を回すことで、思考に帯びた温度を冷ます。瞬時に判断を下すなら、脳内に熱は残っていないほうが望ましい。

 鞭の軌道は目で追える。シャイラとクロカゲの高速戦闘で、目を慣らしたおかげだろう。冷静に観察すれば、直撃を避けることも不可能ではないと判断した。

 蛇のような軌道を見切り、身体を──。

 

「なッ!」

 

 確かに目で追っていた黒鞭が、分裂した。

 しなるようにブレて見える。鞭という武器は瞬発的な速度が売りだ。ならば、速度が視認できる範疇を越えたため、視界に残像として残しているだけなのか。

 否、その推測は誤りだ。鞭はすべて軌跡が違っており、明らかに実体がある。事実、鞭が五本に数を増やしているのだ。軌道を読むのは即座に諦めた。

 全く挙動の異なる鞭。三本までなら読み通せたかもしれないが、五本は限界を越えている。

 ソルが対応方針を固めかけた、その一瞬。

 

「心配ない、です」

 

 刹那の間に落ちた一言が、すべてを杞憂に変える。

 

「もう、終わっています(・・・・・・・)

 

 シャイラはまたしても何もしなかった。

 至近に迫った黒槍は、先端から分解されてゆく。

 さながら空気に溶かされるような光景だった。

 同時に、ソルに向けられた黒鞭が痙攣を始める。

 空中でうねる五本の鞭から、幾十もの剣が生えた。

 苦しむように、のたうつ鞭が轟音を鳴らす。

 

「■■■■■──あが■」

 

 だが、ものの数秒で力を失った。

 地面にへばりついて、死んだように動かなくなる。

 ソルの耳がぴくりと動く。黒鞭が萎れる寸前、黒槍と黒鞭が繰り出された根本にあたる左方で、ぱきりと硬質な破壊音が響いたのだ。同時に断末魔と思しき雑音が放たれたあと、辺りは静寂に包まれる。

 ソルは、摺り足で左方の深林に近づいた。

 林のなかを覗き見る。そこには黒い円盤を重ねた人影の残骸が転がっていた。子どもが投げて壊した玩具の部品のような有様で、白刃が幾本も生えている。かろうじて形状を残してはいるものの、もう動かないだろう──伏兵だったクロカゲの事切れた姿だった。

 こうして、月下の蹂躙劇は幕を降ろした。

 圧倒的な力量差を示し、主演が舞台で佇んでいる。

 ソルの口から、ようやく感嘆の声が漏れる。

 

(これこそが『黎明の導翳し』)

 

 ソルとの模擬戦で見せた戦闘なぞ、シャイラの本領の一割にも満たない。瀑布のごとき物量。風濤のような速度。一切の手間をかけず、状況に応じた魔剣を生成できる応用力。視界外も十全に把握する洞察力。

 彼女にとって、クロカゲという獄禍は十把一絡げの巻藁のようなもの。それこそ五十に及ぶ数を相手取ったとて、なるほど傷ひとつもつかないはずだ。

 改めて思う。これこそが大英雄。

 下層から努力で這い上がり、いまや空に昇る者。

 憧れ焦がれる、ソルの目指す頂に近しい存在。

 

「ソルフォ■■■■■」

 

 耳喧しい雑音を他所に、熱視線をシャイラに送る。

 御伽噺の主役を称えたい。英雄狂いの血は騒ぎに騒いでいた。演劇好きが、終演後に舞台俳優に駆け寄りたいと思うようなものだ。目前で、御伽噺の一頁が実演されたのだ。内心の熱狂ぶりは天井知らず。

 だが、そんななか緩慢に理解が追いついてきた。

 

「待て……いま、なんと言った」

 

 到底、看過できない言葉が聞こえた気がした。

 死に瀕した怪物の放つ、途切れがちなうわ言。

 その、雑音塗れの鳴き声のなかに、ソルにとって耳馴染みのある声が紛れていたような──。

 なぜか、過去に対面した女の言葉が脳裏をよぎる。

 ハキム同様、傭兵時代を歩んだ幼馴染のもう一人。

 

『それ、よくも飽きないものですね』

『ハハ、私たちはいつまでも運命の奴隷人生ですよ』

『夢なんてですね、才能がある連中しか持っちゃ駄目なんですよ。叶う保証がないものを持たされて右往左往、右往左往。あー堪ったモンじゃない』

『でも……アンタは絶対に諦めないでくださいね』

『アンタが英雄を目指すことが、私の夢』

『アンタの夢を叶える剣は、私が打ちますよ』

 

 ソルは、知らず知らずのうちに構えを解いていた。

 視線の先は、湖面に漂うクロカゲの残骸。

 あのうわ言は、確かにクロカゲから発された。

 かすかな、雑音に満ちた声に、必死で耳を傾ける。

 それはたとえるなら、曖昧な時間の形を掴まえんとするようなものだった。あるはずのない、形ないものを手繰り寄せようとするようなものだった。

 無価値で愚かな行為だ。単なる錯覚にすぎない。

 ソルの理性を司る部分は、そう断じた。

 

(ハキム。貴様)

 

 ──ああ、錯覚ならどれだけよかっただろう。

 

あの嘘つきめが(・・・・・・・)

 

 

「見つけ■■■よ。ソルフォート」

「メイ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 一方、シャイラは安堵を噛み締めていた。

 戦闘中に取り巻いていた剣はすでに消えている。

 『螺旋現実』も同様に、手のうちから散じていた。

 見下ろすのは、湖上に無惨な姿で浮かぶクロカゲ。

 

(嫌に手こずりました。いままでに出逢ったどの個体よりも強敵で……クロカゲも、本腰を入れて討伐隊と事を構えるつもりなのでしょうか……)

 

 シャイラは、黒い残骸から目を逸らせないでいた。

 死体を見物する趣味はないが、惹かれてしまう。

 そう、死体だ。シャイラはクロカゲを見て死体だと感じていた。無論、獄禍は人に化けている怪物。生物の枠組みに入るため、死体という認識は正しい。

 だが、彼女の感想はそんな原義的なことではない。

 身内の死のみが、少なからず関係性を築いた相手の死のみが実感を伴う永訣であるように、シャイラはクロカゲの残骸に死臭を感じ得たのだ。つまり不思議なことだが、クロカゲに親しみを覚えていたのだ。

 胸中には、拭いきれない蟠りがこびりついている。

 

(どうしてでしょう。何百体も壊してきたから?)

 

 人間の死体にも獄禍の死体にも、思い入れはない。

 だが、クロカゲの残骸にだけには──。

 

(本当、どうかしています)

 

 緩く首を振って、感傷に区切りをつけた。

 ともあれ、クロカゲは無事に撃退したわけだ。

 ソルも無事である。ハキムの指示通りクロカゲ戦はシャイラが全面的に引き受けている。違背すべからざる彼の命を遵守した上で、彼の大切な、本当の家族を守れたのだ。その事実が欣快に堪えなかった。

 シャイラは湖に背を向けて、幼女の元に戻る。

 

(次……早く集落に戻りますか。クロカゲの襲撃は私たちだけ、とも思えません。ハキムさんが今夜中の襲撃を警戒してくれていたおかげで、寝込みを襲われたりは……しないでしょうけれど)

 

 クロカゲの襲撃、それ自体は予測されていた。

 かるがゆえに、クロカゲの魔の手が討伐隊のほうへ伸びていたとして、対応はできているはずだ。

 

「ベクティス殿」

「は、はい? どうか……しましたか?」

 

 幼女の双眸が、月光を浴びて金色に輝いていた。

 雪白の髪は、毛先が微風に揺れている。

 丘の上方に立っているため、シャイラが屈まなくとも目線を対等な位置で交わすことができた。

 

「ハキムに会うたら伝えておいてくれませんか」

 

 穢れない髪。真摯な面構え。引き締めた口許。

 まっすぐな性根が現れた姿は、自分の過去とは重ならず、やはりアルカディーナの御姿に似ている。

 

「ふたつほど……『借りは帳消しでよいな?』と」

「え、えと。あの……?」

「『貴様も呆れるほど変わっとらん』と。頼みます」

 

 シャイラは疑問符を浮かべながらソルに近寄る。

 淡々と告げられる言伝の意図がわからなかった。

 ただ、茨めいた厭わしい不安感が首に纏わりつく。

 

「ソル、ちゃん? その、伝言……」

「必ず伝えておいてほしいのですじゃ」

 

 どういうことか、という問いは口内で溶けた。

 シャイラの立つ脇を、幼女が歩いて通る。

 引き止めようと伸ばした指が途中で止まる。おずおずと引っ込めた。敵意のない唐突な行動に、どうしていいのかわからず見送る。杞憂かもしれないのに、不吉な予感だけを根拠に呼び止めていいのかどうか。

 交錯する、ほんの一瞬──時間は粘性を帯び、追い抜く幼女の後ろ髪が視界を横切った──。

 ソルの小さな背中は、湖畔の縁に近寄っていく。

 

「え、ソルちゃ……だめ、ですよ……!?」

 

 制止の声が出たのは決定的な瞬間を迎えたあとだ。

 シャイラは当然だが、ソルも勘づいていたはずだ。

 水中に(・・・)何か(・・)が潜んでい(・・・・・)ることに(・・・・)

 

(クロカゲが湖面を逃げ回り、身を隠すために水柱を立てたとき、明らかに水柱の勢いが変でした。まるで、下から意図的に(・・・・)吹き上げた(・・・・・)みたいに(・・・・)

 

 ソルが近づいた途端、湖面が膨らんだ。

 水を分けて出現したのは黒色の球体だった。

 おそらくはクロカゲと同系統の獄禍だ。形状が特徴的だ。黒い円盤が何層にも重なって、球形を象っている。クロカゲには個体差はあるが、完全な球体の個体は見たことがない。直径は湖面の三分の一を占める。

 その天頂は、見上げねば視界に収まらない。

 

「迎え■きた■。■ルフォー■」

「っ……! ソルちゃん、どいてくだ……!」

 

 シャイラが剣を生成、射出──する前に。

 

「ベクティス殿は集落に戻られよ」

「え……!?」

 

 白尾を跳ねさせて、ソルが振り向いた。

 そのときの表情はぎこちなかった。

 眦は半端に曲線になっておらず、眉尻は下がりきらず、かといって口角は中途から上がっていない。

 まるで慣れていない、人を安心させようとする笑顔だった。

 

「わしは大丈夫。すぐに戻りますのじゃ」

 

 背後の黒い球形の表面に亀裂が入り、裂ける。

 巨大な口のようだと思ったのも束の間、ソルは蒼白い光を受けながら、背中から口のなかに飛び込んだ。

 

「な、え……あ……?」

 

 シャイラは目を剥いた。

 決定的だった。ソルは自らの意思で(・・・・・・)飛び込んだ。

 愕然として棒立ちになってしまう。どうしていいのかがわからなかった。彼女に思惑があるなら、果たして横槍を入れていいのだろうか。

 その逡巡の間に、ばぐんと口が閉じてしまった。

 穢れのない白髪も、月光色の素肌も、すべて黒球に覆われて見えなくなると──球体は湖に沈んだ。

 

「何が……起き、て?」

 

 歩き出そうとして、脚が縺れ、片膝をつく。

 身体的な異常はない。混乱、ただ混乱していた。

 

(待って、待ってください。ソルちゃんには何かの思惑があったんですよね? それで、あの獄禍に飛び込んで……ですが『すぐに戻る』って……)

 

 最後のソルの表情が眼底に焼きついていた。

 不器用な笑顔。彼女は信用に足る人物だとは思う。

 だが、彼女は突飛な行動を取ることがある。模擬戦の事例を例証にすれば、命綱なしに崖から飛び降りる真似をする可能性が捨てられない。信頼ができない。

 結果的に、自死となったとしても不思議ではない。

 胸部が拍動する。痛覚に訴えかけてくる。

 現実が、内側から溢れる()を借りて、胸倉を掴んで責め立ててくるようだった。

 

『またお前は繰り返したんですね』

「あ……」

『あの男の唯一の家族を見殺しにした』

「あ、ああ……」

 

 シャイラはただ呆然と、その場に立ち尽す。

 そうだ、またこの手は何も掴めなかった。

 要らないものばかりが纏わりついて、本当に守りたいものには置いていかれてしまう。最初から、英雄としての栄達を求めていなかった。割れんばかりの喝采が欲しいわけではなかった。ただシャイラは──。

 両手を顔に押し当て、ひとりごちる。

 

アンシャート(・・・・・・)。私は、どうすればい、い」

『シャイラ。お前は相変わらずですね』

 

 独り言のはずが、返答があった。

 声は、いつもシャイラの内側から発されるもの。

 酒気の力を借りて抑えつけていた()だった。

 

『普段は私の言葉に聞く耳を持たないくせ、こんなときには頼る。判断を委ねる。恥ずかしいとは思わないのでしょうか? いつまで経ってもお前は子ども。忠告を無視しては、痛い目を見て泣きついて……』

「ごめんな、さ……い」

『何度、お前のそれを聞いたかわかりません』

 

 心底呆れ果てたような声音に、本能的な恐怖が掻き立てられる。

 

『お前がやるべきことは、すでに言われていますが』

 

 そうやって、声はソルの台詞を繰り返した。

 ベクティス殿は集落に戻られよ──と。

 討伐隊の拠点に戻る。この選択肢は間違いない。

 幼女があのまま咀嚼されて肉塊に変わっている場合でも、幼女には思惑があり、身の心配が不要だった場合でも、取るべき行動だろう。まずハキムに報告した上で、今後の対応を協議する必要がある。帝国側の隊員にも動揺はあるだろうし、士気にもかかわる。

 それに現在、湖同様に拠点が襲撃されているかもしれず、であれば皆、援護を欲していることだろう。

 

『一般論を述べましたが、知っていますよ。お前の魂胆は。お前、これを承知した上で(・・・・・・・・・)訊いたでしょう』

 

 声は、半ば最終的な決断を見透かしたようだった。

 

『承知した上で……現実を私に語らせた上で、お前は反しようとしている。私を頼るときはいつもそうですね。もっとも、お前の行動原理通りですが──』

「ごめんな、さ……い」

『実にお前らしい強情さですよ』

 

 シャイラは立ち上がって、己の呼気を意識する。

 遅きに失したとは言え、まだ取り返せる段階だ。

 ソルの思惑とは異なるのだろうが、無謀としか感じられない行動を見過ごせるわけがない。

 

『何より家族が大事なお前は、ハキムの家族を連れ戻す。最悪、家族の骨だけでも持って帰る、のですね』

「はい。まだ、遅く──ありませんよね」

『首肯しましょう。あの小さな身体が、獄禍の体内で消化されるまでには間に合うでしょうね』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「げほっ……ごはあ……っ!」

 

 シャイラは咳き込んで、口内から水を吐き出す。

 川縁に手をつく。息が乱れ、肩が上下する。

 腕に力を入れ、川中から脱する。着の身着のまま水中に入ったためか、身体が重い。濡れた長髪を引きずりながら、ようやく地上に足をつけた。

 軽量とは言え、鎧を纏いながらの水泳は堪える。

 全身に倦怠感が満ち、いまにも足を止めたくなる。

 

(一応、軍服と腰差しの剣は置いてきましたが……)

 

 シャイラが最後に選んだのは、か細い糸。

 拠点に背を向け、湖に沈んだ黒球を追った。

 どうにもあの獄禍は、どこかに向かっていった。

 湖から伸びる川は、ここ一帯に枝葉のように広がっている。もしかすると、クロカゲたちは水中を通路として使っているのかもしれない。地上は地形と森林が邪魔であり、水中を進んだほうが移動しやすい。そんな新情報を見出せたのは重畳だった。

 シャイラは黒球を追い、ここに辿り着いた。

 しかし、まんまと誘き出されたのだと自覚する。

 

(あの獄禍。本当に、最悪ですね)

 

 シャイラは空を仰ぐ。

 そこには濃紺の夜天も、散らばる星々もない。

 川縁にあるはずの木立も、薄靄の向こう側だ。

 一面が白の膜がかかった世界に、彼女はいた。

 

「霧──」

 

 深い霧が緞帳のように、己と周囲を隔てていた。

 決して自然現象ではない。シャイラは胸を抑える。

 押し寄せるこの重圧、この閉塞感、この息苦しさ。

 高濃度の魔力に近寄ったとき特有の感覚だった。

 予感に焙られて、意識が過熱する。

 シャイラは視線を尖らせて、口のなかで呟く。

 

「……ファニマール」

 



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