共生〜罪滅ぼし零れ話〜 (たかお)
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贖罪

 人口2万人余りの廃れた地方都市である鹿骨市は、岐阜県北部、律令制下では旧飛騨国に属した高原都市である。日本海側気候のため冬には豪雪地帯となるこの地方も、この6月は気温も高くなり、今年は全国的に空梅雨で湿気も少ないためか、夏の到来と早合点した蜩蝉が一足早く鳴きはじめ、向日葵たちもはなさいでいる。

 当市に属する雛見沢村は、もとは鬼が淵村と言い、伝承によるならば、この村にある鬼が淵沼から人喰い鬼たちがあらわれて村人を襲ったが、「オヤシロさま」と呼ばれる神が顕現し、鬼たちと村人との調停役となったという。

 明治維新以後、新政府がこうした鄙びた寒村に残る酸鼻な因習を嫌ってか、改名の命が下り雛見沢村となった。名前は変わっても周囲の部落も雛見沢を敬遠したためか、あるいは村自体が封建的でまわりとの交流を嫌ったためか、なんにせよ永らく独立した自治体だったが、1950年代の昭和の大合併によって鹿骨市に吸収合併されることになった。件の大災害の際は、全国的には鹿骨市の名前がニュースに踊り、大きな風評被害を受けたそうだ。近隣地域にも避難命令があったために、いっとき差別の対象になったという。

 そんな鹿骨市も、大災害自体が風化したいま、都会の喧騒から遠く離れた駅前の低層ビルや商店街の下を歩く疎らな人影に、閑静な住宅街が連なり、学校や小病院をこえると、見渡す限りの田園風景が広がる、日本中にどこでもある無個性な田舎街と変わりなかった。

 市街地をこえた先の坂を登ると旧雛見沢村に至る。まだかつての「ダム戦争」を思わせる立て札が僅かに残っていた。雛見沢村へと繋ぐこの急坂は、黄泉の国と現世を隔つ三途の川のように、異空へ続く道に思われた。鬼の出でし沼より這い出た瘴気が、この先には渦巻いている。

 

 

 

 

 エンジンを切り、カーラジオから一方的に語りかけてきた声が途切れると、静寂にまぎれて窓越しにも蜩の合唱が聞こえてくる。夜の森閑とした廃車の中で、世界から切り離されて、ひとりで震えていた少女と、今の自分。礼奈には少しも変わっていないように思われた。堆い塵山に埋もれ、「竜宮レナ」はあの日死んだのだ。竜宮礼奈はその残骸である。

 いっとき茨城県に住んでいた彼女は、両親の離婚によって父と共に故郷の雛見沢村に戻って以来、「い」やなことを忘れようと、「レナ」と名乗っていたが、大災害のあと、ふたたび本名である礼奈と名乗るようになった。あの災害を忘れようとすることは、死んでいった皆に対する裏切りに思えた。

 澱んだ空気に耐えられなくなって、車窓を開けると、初夏の熱気を帯びて吹きつける薫風が、小豆色の髪を撫ぜた。

 竜宮礼奈は今年で37歳になる。雛見沢に住んでいたのはもう22年も前のこと。あの頃と比べると、瑞々しかったかんばせには、薄化粧では隠しきれない皺が刻まれていた。あの日以来笑顔を見せなくなった礼奈の表情は、均整のとれた顔だちを年齢以上のものに見せている。快活ささえ取り戻せば、10は若く見られる美貌を備えているにもかかわらず。

 バックミラー越しにくたびれたその面差しを見つめると、礼奈はひとつ溜息をついてからシートベルトを外し、躊躇いがちに車外へ出た。

 

 

 

 

 二十年ぶりの雛見沢は、礼奈の記憶の中と変わらず、まるでタイムスリップしてきたようだった。清流は淙淙とせせらぎ、茫漠とした空はどこまでも青く澄み渡っていた。惜しみなく照りつけてくる陽光が、夏花の新芽で緑滴る山々に漉されながら、あたたかく降り注いでいる。硫化水素のガスが蔓延したと思えないほど空気も澄んでいて、爽風は山の香を孕み、草花をさやらせ、一歩進むたびに感じる、草いきれの蒸れた温気との対比を生み出していた。

 歩きだしてしばらくして、目的地である建物が目に入った。くたびれた木造の二階建ての校舎に、雑草がところせましと生い茂る、でこぼこ土のグラウンド。この興宮小学校の雛見沢分校は、雛見沢営林署の建物を間借りしていた。意外にもまだ学校の間取りを覚えていて、古い木造校舎の床をギシギシと音を立てながらも、待ち合わせ場所の教室へは迷うことはない。

 教室の扉を前にして、礼奈はふと上を見上げた。いつも扉に何かトラップを仕掛けていた北条沙都子の顔が過ぎったのだ。戸を開けて室内を見渡すと当時のまま机が並んでいた。レナの席。両隣に前原圭一と園崎魅音。沙都子の隣の席が古手梨花。5人は特に仲がよく、放課後は決まって「部活」の名目でボードゲームに興じていた。

 普段より早く登校した時のように、誰もいない静かな教室。礼奈は、窓を見つめながらぽつねんと佇んでいた。もうすぐみんなが登校してくる時間で、全てが妄想だったように思えてくる。

 そんなふうにしばらく現実から逃避している彼女の耳に、やがて複数の足音が聞こえてきたが、それは明らかに成人男性のものだった。

 

「竜宮さん」

 

 粘性を含んだ声を聞いて振り返った先には、きれいに梳られた白髪に深い皺を刻んだ老人がいた。この老人、大石蔵人はかつて、鹿骨市は興宮警察署に勤務していた刑事で、雛見沢村での一連の事件を追っていた。今回雛見沢村の封鎖が解除されたとあって、検査入院の予定を先延ばしにしてまで来訪したが、矍鑠たる立ち居からはそれを窺い知ることはできない。

 彼の後ろには二人の男性がいる。そのうちの一人、精悍な容貌と鍛え抜かれたであろう体躯の中年男性は、最近大石と連名で、雛見沢村の事件、災害をまとめた本を上梓した赤坂衛である。赤坂は警視庁の公安部で長年最前線で駆け続けたために会得した、鷹のように鋭い眼光を礼奈に向け続けている。

 もう一方の男性は、赤坂の大学時代の後輩で、自衛隊に所属している。彼だけは雛見沢と関わりがないため、礼奈の知らぬ顔であった。しばらくの間沈黙が続いたが、やがて大石が機先を制して、相好を崩しつつ口を開く。

 

「どおもぉー、竜宮レナさん。お待ちになりましたか?」

「いえ……先程来たばかりです」

「そりゃあよかった。いやぁねぇ。どうしてもあの時のお話が聞きたくて」

 

 レナはあの時、鷹野三四という女性からスクラップ帳を渡された。鷹野は雛見沢に唯一の医療機関たる入江診療所の看護婦で、猟奇趣味、民族学的趣味から一連の事件を推理していたが、寄生虫説やら、宇宙人説やら突拍子ない考察を、スクラップ帳に書き込んでは地元の子どもたちに吹き込んでいた。そんな眉唾話を信じ込み、学校を占拠して爆破未遂事件をおこした「少女A」こそが、竜宮礼奈である。

 

「どうしてそんな馬鹿な話を信じて、あんな大それたことをしたのか、自分でもわからないんです。当時は、家でいろいろあって、精神的に疲れていたのだと思います」

 

 家でのこと。礼奈の父を美人局のターゲットにし、食い物にしていた間宮リナと北条鉄平を、その手で命を殺め、あまつさえバラバラにして埋めた。その罪は、あの大災害で有耶無耶になり、一生糾弾されることはないかもしれない。

 だが礼奈は、今もあの鉄パイプで殴打した時の、頭蓋が砕けてひしゃげた音だけは、今でも克明に覚えている。

 

「それを圭一くんに諭され、悪い夢から醒めて、全てが終わりました」

「私にはねえ、全てがあなたの悪い夢や妄想だったとは思えないんですよ。あの日の夜に入江先生が服毒自殺、古手梨花さんは他殺体で発見され、その未明に唐突なガス災害で村が全滅。これほどの事件が立て続けに起こるなんて、どう考えても偶然とは思えないんですよ、私にはね」

「竜宮さん、あなたあの事件の後、長い間病院に入られてましたよね。大丈夫、ここは病院じゃあない。私たちに、あなたの知っていること、思っていることを教えてくれませんか」

 

 礼奈は目を見開き、前歯を噛み締める。

 

「竜宮さん!それがあの大災害で死んでしまった前原さんや園崎さん、北条さんや古手さんの無念を晴らすことになるんですよ!」

「知らない……知らない、私には、何もわからない!わからない!」

 

 数十秒ほど。荒い呼吸を整え、ようやく落ち着いてきた礼奈は、絞りだすように、

 

「ただ……ただ私は、梨花ちゃんに大きな秘密があったように思う時があります。魅ぃちゃんは御三家ではあったけど、宇宙人や細菌と関係があるとは思えなかった」

「……」

「でも、梨花ちゃんは明らかに関わりがあった。何かを知っていました……」

 

 

 

 

 雀色に染まる夕暮れの下、4人は雛見沢ダムの工事現場跡地に来ていた。かつてこの村には、ダムを誘致する計画があった。昭和50年10月に内閣府により告示された、「雛見沢発電所電源開発基本計画」は、列島改造論が日本中を包んだ当時の流れに沿るものだったが、役人側の説明不足が住民の反発を招き、雛見沢村で権勢を振るっていた御三家、とくに園崎家が陣頭に立って抵抗運動をおこしていた。

 閉鎖的な村にみられる強固な結束により、一部の村人によるゲリラ行為が起きるなど、激化する反対運動もあって計画は中止、その後の大災害によって事実上頓挫することになった。その間、当時の犬飼建設相の孫の誘拐事件があったが、これが警視庁公安部の赤坂と大石の邂逅で、後に共闘関係を結ぶに至った端緒であった。

 そんなダム工事現場の跡地には、不法投棄された粗大ゴミが、山のように積み上げられていて、さらに奥には廃車が置き去りにされていた。家に帰りたくないとき、この車は雨露をしのぐ絶好の場所であり、ここを見つけてからレナにとって秘密の隠れ家となった。

 レナは学校帰り、いつもまっすぐ家には帰らなかった。間宮リナが家に出入りしてから、レナの居場所はなくなった。だからこのゴミ山の秘密基地に来て、誰からも必要とされなくなった塵芥に囲まれて、なんだか心が安らいでいたのだ。

 

「ここで梨花ちゃんは私に言ったんです」

 

 怖がらないで。私はあなたを助けに来たんだから。おもむろに注射器を取り出して、あなたを楽にしてくれる注射だ、とレナに言う梨花。そして……どうせもうすぐ滅ぶ世界だ、と……。

 

「滅ぶ?」

「そこにいたのは、私の知っている梨花ちゃんじゃなかった。別の古手梨花。いつもの梨花ちゃんじゃない梨花ちゃんが、時々私たちの前にいた……」

 

 村の高台に鎮座する古手神社は、信仰する村人を失っても、荘厳さをたたえている。4人は苔むした石段を上って神明造りの鳥居をくぐり、賽銭箱の前に立った。

 

「ここなんですね。梨花ちゃんが殺された場所……」

 

 礼奈にとって、梨花が殺されたことは信じられなかった。当初、豹変した彼女への恐怖から、犯人達の一味だと確信していた。しかしその梨花は腸を裂かれ、夥しい鴉の群れに集られて死んでいるところを発見されたのだという。

 古手神社の高台からは、村の全景を見渡せる。村から人がいなくなっても、自然の美しさだけは変わらない。礼奈は欄干に両手をさしのべて、小さく呟いた。

 

「できるなら……あの輝いていた雛見沢に、戻りたい……」

 

 そう、雛見沢は輝いていた。この景色のように……

 

 

 

 

 

 雛見沢大災害。昭和58年6月26日深夜から27日早朝にかけて、鹿骨市の雛見沢地区にある鬼ヶ淵沼より、硫化水素等猛毒の火山性ガスが発生。数時間かけて雛見沢地区全体に蔓延し、村民2000名余りが死亡、近隣地区60万人が避難するという未曾有の大災害であった。今年、平成17年に解除されるまで22年にわたり立入規制が敷かれていた……

 これを人為的に起こすことは不可能に思われる。だが梨花は、滅ぶ世界と口にしており、大災害が起きることを知っていたようだった。何者かによる計画的犯行だった可能性もある。だとしたら、梨花は何故逃げなかったのか、という疑問が生じる。あの時梨花は、礼奈を助けに来た、と言った。それがもし本当だとしたら……

 大災害は礼奈から全てを奪っていった。ふるさと、父、そしてかけがえのない仲間たち。みんな死んでしまった。

 

(魅ぃちゃん、あんなに殴って、痛かったはずなのに、一言も反論せず、耐えていたんだよね。あなたに謝りたいのに、もうそれができない……)

(沙都子ちゃん、悟史くんがいなくなってから、強くなろうとあんなに努力していて、いつか悟史くんと会えるはずだったのに……)

(梨花ちゃん、しっかり者で、半ば村八分にされた沙都子ちゃんをいつも庇っていた。みんなから崇拝されても、それを鼻にかけたことは一度だってなかった……)

(そして……圭一くん。ちょっぴりデリカシーが足りないけれど、時に優しい、まっすぐなあなたのことが好きだった……)

 

 少女の頬にさした淡い薄紅色は、地獄の沼から湧き出た瘴気の漆黒に塗り潰された。

 みんな死んでいったのに、なぜ自分だけが生きているのだろうかと、礼奈はいつも悔恨の念にかられる。礼奈があの日雛見沢にいなかったのは、あんなことをして警察に連行されたからなのだ。罪を犯し、皆を傷つけたのに、そんな自分だけが何故生き残ったのか。

 罪悪感で押しつぶされそうになるとき、ほんのわずかの間、どす黒い感情が礼奈を支配する。自分ひとりを残して、先に死んだみんなが憎い。みんなと一緒に死にたかった。罪を償う相手もいないのに、どうやって罪滅ぼしすればいいのか。これから死ぬまで苦悩し続けなければならないのだろうか……

 

(私の罪は、償うことすら許されないほど深いのか!)

(ああオヤシロさま、もし大災害があなたの祟りならば、なぜ罪深きこの身ではなくて、みんなを祟ったりしたのでしょうか。祟られるべきは私なのに! )

 

 ペタペタ、ペタペタ。

 そのとき、ふいに足音が聞こえてきた。

 ペタペタ、ペタペタ。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 誰かの謝る声が聞こえた気がしたのと同時、礼奈の視界は暗転した。

 

 

 

 

 

 見渡す限り遥か彼方までへと続く空間。そこに割れたビー玉の破片のような、きらきらとした欠片が無数にただよい、それらが万華鏡のように乱反射している。その幻想的な光景は、ここがあの世だと言われても論駁できないだろう。礼奈には、自分がいつからここにいたのかは分からない。ただふわふわとした、宙に浮かぶ感じが心地いい。

 ふいに、何かが目の前に姿を現し、森厳な口調で語りかけてきた。

 

「竜宮レナ」

 

 目の前の存在こそが、オヤシロさまなんだと、礼奈にはなんとなく分かった。

 

「戻りたいですか?」

(どこに?)

「輝いていた日々に」

(戻りたい。またみんなと会いたい、部活がしたい、恋をしたい……)

「人の子よ、あなたも梨花と同じく、永劫に続く茨の道を歩むかもしれない。その覚悟はあるか?」

(なんでもいい、私はただ、みんなにもう一度会いたい……謝りたい……)

 

 瞬間、眩い光が視界を襲った。そこで礼奈は目を覚ました。




ニコ生は見てないです


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神は奇数を喜ぶ

 鶏鳴も聞こえぬ朝まだき、枕元に立つあえかな気配に、古手梨花は微睡んでいた瞳を薄く見開くと、隣で静かに寝息を立てる北条沙都子を起こさぬようにと、やおら布団から起き上がった。梨花の目にやどる深い知性を湛えた怜悧な瞳は、小動物のような緩慢な所作に似合わないが、しかし稚き少女にいっそうのアンバランスな魅力を漂わせていた。

 いましがた感じた気配は、梨花にとってよく知るものであり、それはこの村において「オヤシロさま」と呼ばれて崇敬を集むる存在であった。少女は努めて平坦な口調で、

 

「羽入……なにかあったの?まだ明け方じゃない?」

 

 と呟くと、羽入と呼ばれた存在は、梨花とは対照的にいとけない口調で、

 

「あうあう……梨花……起こしてしまってすみませんです」

 と答えた。桔梗色のつややかな髪には左右に2本の突起物がある。それは鬼の角を思わせるが、まだあどけない少女のような顔立ちからは、とてもおどろおどろしさを感じることはできない。声色も少女のそれであり、オヤシロさまとして信仰されるイメージの峻厳さは微塵もない。だが、矮躯に纏った緋袴と小袖に、玲瓏さをたたえた瞳の光輝はまさしく神性を帯びており、羽入と呼ばれた少女が人ならざる者であることを証しているようである。

 

 

 

 

 

 空を見ようと、梨花は窓へと向かった。繰り返す時間の中で、天気だけは、気まぐれで予定調和を裏切ってくれるから、少女は空を眺めるのが好きだった。窓を開けて空を見上げると、その中天いっぱいに、明明とした朝焼けが広がっている。朝焼けや夕焼けの、朱に染まる空を見上げている時、梨花はいつもえもいわれぬ感慨が浮かぶ。この百年のあいだ、何度も血にまみれ、朱色を飽きるほどみてきたはずなのに、この空に胸が締め付けられるのは、永劫回帰する人生を送る梨花にとって、始まりと終わりを象徴する自然法則にたいする憧れがあったからだろうか。

 そんな感傷に浸る梨花は、もはや人生そのものに飽いていた。肉体は抜け殻であり、何度繰り返しても昭和58年の6月を越えることはできず、いまでは過去へ遡れる時間は徐々に短くなっている。精神の死を迎えるのは時間の問題に思われた。

 しかし、奇跡はおこった。

 圭一が、別の世界の記憶をもとに、暴走するレナを止めた。その後梨花はたしかに命を落としたが、ここ数十年はなかった希望の焔が、梨花の目に灯った。そして今回。どこがとは言えないものの、レナの行動や態度がいつもと違うように感じられた。

 押入れの奥から取り出したベルンカステル・ドクトールを、製氷室の氷を入れたお気に入りのグラスにゆっくりと注ぐ。無言でそのさまを見咎める羽入に、梨花はグラスを傾げつつ、

 

「ねえ、レナの様子、おかしいと思わない?」

「なにがいいたいのですか?」

「レナも……圭一みたくあの時のことを覚えているんじゃないかってこと。はっきりと覚えていなくとも、ぼんやりと記憶に残っているのかもしれない」

 

 羽入は押し黙る。沈黙のあいだ、梨花はかすかに俯き、赤紫色をしたワインの表面の揺らめく波紋を見つめている。やがて羽入はぽつりと口を開き、

 

「どうせ今回も……だめなのです。大きすぎる期待が成就しなかったとき、梨花の落胆は如何程か。僕にはそんなあなたを見るのが辛いのです」

「じゃああなたは、期待してないっていうの?」

「……」

「あなたも私も、諦念に侵されてはいるけれど。本心の部分では、まだ僅かに期待しているの。この永劫回帰を打ち破る何かが、いつの日か現れることを。3.5の期待値しかない賽の目でも、6の目が出続けるような奇跡を」

「梨花……」

「それくらいの奇跡がなければ、私たちは報われない。だってこの百年のあいだ、ずっと1の目ばかりを見続けてきたんだから」

 

 まだ羽入は悄然とした表情を浮かべていたが。会話を打ち切り、ちびちびと口つけていた赤ワインを一気に飲み干すと、梨花の双頬に仄かな赤みがさした。ほろ酔いをさまそうと、もう一眠りするため床へ向かう。すると、気配に気づいたのか、沙都子がぼんやりと眠気まなこをこすっていた。

 

「梨花ぁ、もう起きたんですの?まだ明け方でしてよ」

「沙都子、起こしてしまってごめんなさいです。今日はお休みの日だから、もう少し寝ていていいのですよ」

 

 季節の変わり目の6月。梅の子黄ばむ芒種では、気温の上昇とともに、日の入りはだんだんと早まっていく。空は色彩を変え、薄黄色の光芒が射していき、やがて白みを帯びはじめた。羽入の気配は、いつのまにか消えていた。



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交叉

 先ほどまでとはうって変わって、平静を取り戻した「少女A」の、無数の引っ掻き傷がみとめられるか細く、仄白い両腕を、二人の警察官がやや荒々しくつかんでも、彼女が抵抗の姿勢を見せなかったから、彼らはようやく張りつめていた心身が弛緩して、つかんでいた力をわずかに撓めた。すると、つい数分前まで校舎を占拠し、爆弾を仕掛けた凶悪犯とは思えないほどしおらしくなった少女に、憐憫の情を覚えているのを二人は自覚した。こう見ると、まだ14歳という年齢相応の、幼さの残る顔立ちである。この少女が何を思ってこんな過ちを犯したのかは彼らには知る由もないが、少女のこれからを思うと暗澹たる気分になった。少女のもとに、同級生たちが駆け寄ってくる。

 

「レナ!」

 

 心配そうに、少女の名を呼びかけたのは、今しがた屋上で満月を背に、少女と干戈を交わした前原圭一だった。少年の顔を一瞥したレナの瞳に、わずかな揺らめきが認められたが、すぐにその目は夕凪いだ水面のようにおだやかになった。続けて、園崎魅音、北条沙都子ら、レナと仲がよかったクラスメイトがレナの名を呼ぶ。同じくいつも一緒にいた古手梨花は、輪から離れてひとり滂沱と涙を流している。その涙は、悲喜こもごもで、纏綿としていて、およそ余人のあずかり知らぬ想いがこめられているように見える。

 刹那のあいだ、仲間の一人一人と瞳を交わしたレナは、なにも言わずに背を向けると、そのままパトカーに乗り込んだ。何も語らなくても、心は繋がっている。レナにも、仲間たちにもそんな確信があった。だから不思議と別れは悲しくなくて、レナはいつか自らの罪を滅ぼしたときこそ、またその輪に入ろうと思った。

 パトカーの固いシートに坐り、少女はみずからの脆い決意が鈍らないうちに、目をとじて、綾なき暗闇にその身をまかせる。エンジンをふかした音がつんざき、勢いよくパトカーが発進した。幾らか空いた車窓の外からは風が強くふきつけてきたが、全き闇の中、走行音にまぎれてさっきまで鳴いていたひぐらしの声はもう聞こえなくなった。でも遠くから、仲間たちの呼ぶ声が聞こえた気がして、わずかに口元がゆるんだ。

 

 

 

 

 

 興宮警察署で拘留されたレナは、一夜あけると岐阜市の警察病院に護送され、圭一との格闘での負傷や、自傷行為の治療を受け、その翌日に精神鑑定を受けた。事件のいきさつを包み隠さず話すと、医師の目にわずかなとまどいと、あわれみ、そして畏れが浮かんでいたのを、レナは不思議におもった。茨城県に住んでいたときも、暴行事件をおこして精神科医の診断を受けたことがある。彼らの患者に向けるまなざしは、実験動物にたいするそれのようで、なんらの感情も読み取れないのを、経験則から知っていたから、医師の瞳に浮かんだたゆとうている色に、レナは戸惑った。

 しばらく話したあと、待合室に戻ってふと辺りを見回すと、本棚の横に全国紙から地方新聞が無造作に置いてあった。その一面に、見覚えのある字が踊っていた。

 

「雛見沢村」

 

 自分の事件の報道だろうか。未成年の学校占拠と爆破未遂はさぞインパクトのある事件だろう。そう思って手にとった新聞を開くが、信じがたい内容が書かれていて、レナの脳は思考を停止した。

 

「え……」

 

 声にならない悲鳴が口から零れて、レナの意識は反転した。

 

 

 

 

 

 授業の終わりを告げる鐘が鳴り、レナの意識は覚醒した。汗で額にへばりついた髪にやや不快感をおぼえて、それをかきわけると、茫洋としていた思考が徐々に戻ってくる。

 

(またあの時の夢か……)

 

 雛見沢が消えた日。レナは村から離れていたから自分だけは助かった。その自責の念にずっと苦しめられてきた。あの時の夢は、今でもたまに見る。

 

「どうしたんだ、レナ。授業中に寝てるなんて珍しいぞ」

「なんだかうなされていたみたいでしたわ」

「何か心配事?おじさんでよければ相談に乗るよ〜?」

 

 仲間たちが次々と心配そうに声をかけてくる。大災害後、雛見沢村の生存者だったレナにも心無い差別があり、また前科はつかずとも、青春時代を閉ざされた病室で過ごしたレナは、退院後も孤独だった。そんな経歴が、レナの顔に暗い影を落とし、ますます周囲と打ち解けることができなかった。だから、彼らの何らのおもねりも感じさせぬ誠実な友情が、ささくれたレナの心に染み入った。レナはわざと明るく繕って、

 

「はうー!なんでもないよー」

「心配してくれる梨花ちゃんも沙都子ちゃんも可愛いよー!お持ち帰りー!」

 

 などと言ったから、みんな安心したようすを見せた。

 

「レナはいつも元気だなぁ」

「そこがレナさんのいいところですわ」

「でもレナ、なんかあったらすぐに言ってね」

「おう、なんたって俺たち、仲間だろ!」

 

 この赤心を大事にしようと、レナは思った。この仲間たちを死なせてはならぬ。来る大災害まで、残された時間はあとわずか。いずれ皆に胸襟を開く時が来るだろう。

 そのとき、梨花と目が合った。冴え冴えとした双眸を、じっとレナに向けつづけている。しばらく視線を交わしたあと、レナは決意を込めた表情で梨花に呼びかけた。

 

「梨花ちゃん、放課後ちょっとだけ時間あるかな?かな?」

「……ありますのですよ、にぱー」

 

 

 

 

 

 

 梨花を呼び出した先は校舎裏。ここなら人けは少なく、落ち着いて話せると思ったからである。レナは何度か口を開こうとしては噤んでいる。そのようすを、梨花は一種超然として黙して見つめている。視線に耐えられなくなって、やがておずおずと、梨花ちゃん、とレナは呼びかけた。

 

「みー?なんですか?」

 

 梨花の返事が、平生のそれとまったく変わらない、あどけない口調だったから、レナは幾分気持ちを落ち着けることができた。

 

「じつはね、梨花ちゃんに聞きたいことがあったの。その……聞きづらいことだけれど」

 

 一呼吸置いてから、まくしたてるように、

 

「単刀直入に。綿流しのお祭りの日に毎年人が亡くなったり、いなくなっちゃったりするでしょ?梨花ちゃんはそのことについて、何か知ってることはないのかな?かな?」

「もちろん、梨花ちゃんのご両親も亡くなってるし、安直な質問だとは思う。でも、古手家の当主として、オヤシロさまの巫女として、知ってることがあるんじゃないかって思ったの。例えば……今年の綿流しのお祭り。誰か危ない人とかいないかな?」

 

 梨花はしばらくきょとんとしていたが、やがて考えこむ表情になった。どこからどう話そうか、論理を整理しているのだ。

 

「富竹と、鷹野。この2人だと思いますです」

「……!」

 

 それがあまりにも突然だったから、レナは咄嗟に言葉がでなかった。

 

「どうして、そう思うの、かな」

「もう決まっていることなのです」

「決まっていること……」

 

 富竹と鷹野が死ぬことは既定路線だと言うことか。ではなぜ梨花がそれを知っているのか。

 

「梨花ちゃんはどうしてそれを知ってるのかな」

「逆にレナに聞きます。レナは二人の名前を挙げられて驚いているようだけれど。その驚きはなぜそれを知っているのか、という類いのものにみえました。レナはなぜ、二人が死ぬと思っているのですか?」

 

 梨花の瞳は、かすかに揺れている。この問いにたいして、レナは誠実に応じようと思った。

 

「うん。思ってたよ。というより知っているの。信じてもらえないかもしれないけれど、私は過去に戻ってきてしまったみたいなの。だからこれから起こること、ある程度分かると思うんだ」

 

 レナは、こんなに突飛なことを、臆面もなく言ってのけた解放感と充足感で満たされた。だが、およそ現実感のないレナの科白を、梨花はこれ以上ないほど真剣に聞いているように見える。梨花の瞳がレナの瞳と交錯する。ついで小さな瞳はせいいっぱいに見開かれ、汗がしとどに流れ落ちる。その様は、梨花の驚きの深さを証するようだった。梨花はごくりと唾を飲み込むと、か細い喉を震わせながら、

 

「レナも……なのですか……?こんなこと、ありえないはずなのに……」

 

 と呟いた。

 

 

 

 

 

 梨花の告白は、レナをたいそう驚かせたが、それと同時に、自分と同じような境遇の人物が他にもいるという事実に、ひそやかな安寧を得られた。梨花もまた、この百年来いちどもなかった出会いに、前の世界の圭一の奇跡と同じ運命を感じた。この世界に混じり込んだ異物は、もうひとつの異物と邂逅し、交叉し、世界の色に塗りつぶされないようにとたがいに深く連帯した。ふたりが抱えていた孤独感はいまや完全に霧散し、固い結束が交わされた。

 もっともふたりの事件にたいする方針は、たがいの持つ情報の差異によって錯綜した。梨花が雛見沢大災害を知らなかったことは、レナにとって予想外だったが、考えてみれば、人生を繰り返す梨花は、自分の死んだ後雛見沢がどうなるかは知る由もなかったのである。自分になにかあれば大変なことになる、女王感染者だという自覚はあっても、まさか自らの死を契機に村人が全滅するというのは、想像の埒外であった。

 いっぽうのレナも、雛見沢村の奥深くに棲みついた禽獣の、その歯軋りと唸りを、その鋭利な牙と眼光を、いまや明瞭に知覚することができた。梨花の情報を整理すれば、この山狗、陸自の特殊部隊こそが黒幕と考えてまず間違いなかった。

 

「本当なのですか?本当に山狗たちが事件を?」

「梨花ちゃんは、山狗が自分を守っていると思っているようだけど、それは大きな思い違い。それは警護でもあるけど、同時に監視なんだよ」

「富竹さん、鷹野さん、そして入江先生までもがその連中と関係あったなんて……三人の死は、十中八九その連中となにかあったんだよ。それは派閥争いなのかもしれないし、蜥蜴の尻尾切りなのかもしれない、それはわからないけど」

「この辺鄙な村で、あんな大それたことをできる力をもった存在は、それこそ国、軍隊ぐらいなものだよ」

 

 あくまでも山狗を擁護しようと試みる梨花にたいし、冷静に、一つ一つ客観的な事実を提示してゆく。梨花はやがて反駁を諦め、会話の主導をレナがとることになった。

 

「山狗が関係しているかもしれないのはわかりました。でも、なぜ彼らがボクを殺める必要があるのですか。ボクが死ねば、たいへんなことになるって、彼らだって知ってるはずなのに……」

「梨花ちゃんを……殺す……ことが、あの雛見沢大災害を人為的におこす、そのためのトリガーだったとしたら……」

「つまりね、梨花ちゃんが死んだら、村人がみんなおかしくなっちゃうから、それを防ぐって名目で村ごと……」

「そんな……そんなことをして、誰に何の得が!?」

「村一つを丸ごと消滅させるなんて、実際にやったら、どんな理由があれ、その責任をとる人がでてくる……そういうことなんじゃないかな?」

 

 レナの冴え渡る推量に、梨花は二の句が継げなかった。これまで自分を傷つけるはずがないと思っていた根拠が、根底から揺らいだのだ。古手梨花という導火線に、悪意をもって火をつける者の存在を、梨花は認識できてしまった。

 

「山狗が黒幕だとしたら、何度運命に抗っても成就しなかったのも当然なのです。でも、彼らはとても強大な存在。警察にも関係者はいると思うので、頼ることはできないのです」

「ならば、わたしたちでなんとかする、しかないね」

「でもっ……」

「梨花ちゃん、梨花ちゃんにとっては例え死んだとしても次の雛見沢がまだあるかもしれない。でも、他の人は違うんだよ。わたしだって、死んだら終わりだと思う」

「……」

「梨花ちゃんは知らず知らずのうちに、自分の生命だけじゃなくて、雛見沢村に住むみんなの生命を軽んじてしまってるような気がする。厳しいようだけれどね」

「わたしね、大災害のあと、何が一番辛かったっていうと、その記憶を誰とも共有できなかったことなの。わたしだけが運良く生き残って、他の村人はみんな亡くなってしまった。地震とか、災害で多くの人が亡くなると普通、生き残った人たちの中でその記憶は生き続けるじゃない?そして被災者たちの姿を通して、日本中がその災害を忘れないように前を向いていく。だけどあの大災害は、わたしだけだったんだ。だから驚くほど風化は早かったよ。日本に住む、一億のうちの、たった二千人、それもほとんど外部と隔離された村人が死んでも、ほとんどの日本人には何の関係もないことなの」

「もしかしたら大災害は防げないかもしれないよ。たとえそうでも、一人でも多くの人に生き残ってほしい。そして、この村のことを覚えていて欲しい。だから、わたしは一人でも、山狗と戦うよ」

 

 梨花は今まで、自分が最もこの雛見沢村で苦しんでいる存在だと、どこか特別な存在だと驕っていたのかもしれない、と自らを戒めざるをえなかった。レナは、あれから25年の永き月日、たった一人、孤独に打ち震えていたのだ。いやレナだけでなく、大災害で死んでいった村人一人一人にそれぞれの人生があり、展望があり、無念があった。その当たり前な事実を強く噛みしめる。

 

「レナの言う通りだと思います」

「ボクは、いつからか少しでも上手くいかない世界だったら、そこで諦めてしまっていました。次の雛見沢でまた頑張ればいいと、皆を見捨ててしまっていたのかもしれません」

「梨花ちゃん……」

「ボクも再び、この運命に抗います」

「レナ、ありがとう。貴女のおかげで、自分のやるべきことがわかりました」

「わたしこそ梨花ちゃんに感謝してるよ。わたしが今まで、蛆虫とか、祟りだと捉えていたものに、雛見沢症候群っていう明確な解答をくれた。ああ、あの時のわたしの、ぐちゃぐちゃだったものに、はっきりとした輪郭を与えてくれた。だから、梨花ちゃんの話を信じられる、信じたいのかもしれないね」

 

 レナは梨花に、そっと手を差し出す。梨花がその果敢ない掌に触れる。レナは梨花の頼りなく小さな掌に触れる。ふたりは互いの存在を確かめるように強く握って、しばらくその手を離さなかった。




文章書くの難しい……


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深海魚

 今年の6月は空梅雨だが、その日はなかんずくよく晴れわたっていた。一点の雲もとどめぬ空に、朝の太陽は自らの輪郭をくっきりと浮かべている。レナの清しい気分とすっかり照応した、まばゆいばかりの白い朝。

 レナはいつもの通学路、未舗装の砂利道を歩み、やがて圭一といつもの場所で落ち合い、とりとめのない会話をして、お互いに笑いあった。圭一にとってはたわいもない日常だが、レナにとってはずっと焦がれてきた時間だった。この倖せな、宝石のような時間がずっと続けばいいのに。昨日は梨花にたいして、あんな崇高なことを大上段に構えて言ってのけたが、人間の決意というものは脆いもので、楽なほう、楽なほうへと流れてゆく。だが、なけなしの理性で、その流れを堰き止めなければならない。戦わねばならない。レナが夢にまでみた雛見沢での日常を、他ならぬその日常を守るために手放し、強大な組織に立ち向かわねばならない。

 先ほどまで喋り倒していたのに、急に黙りこんだレナを心配して、圭一が声をかけてきて、はっとしたレナはなんでもない、とうそぶいて、14歳のころの自分を演じきる。この時期は人前で楽天的な素振りをして、本心の暗鬱な部分を隠していた。他者にたいしてのみならず、自分自身にたいしても、幸せなのだと言い聞かせるための媚態。不幸な人生を送る少女の処世術。

 しかし自分自身を偽り続けることで、その仮面は徐々にレナの顔と同化してゆく。永いあいだ被りつづけて、くっついて剥がせなくなった仮面。それはもはや仮面とは呼びえず、素顔と呼ぶべきかもしれない。

 しばらくして魅音と落ち合い、お喋りに花を咲かせたが、興が乗りすぎて学校への歩みは遅々として進まない。時間に気づいた圭一の焦り声で、3人は駆け出し、辛くも遅刻は免れたのだった。

 

 

 

 

 

 楽しい部活の時間はあっという間に過ぎ去って、学校からの帰り道、圭一たちと別れたレナは、家とは反対方向へ歩き出す。過去に戻ってきてからはまだ一度も行っていない場所、レナだけの秘密の隠れ家。梨花とは、雛見沢ダムの建設予定地を今後の情報交換の場と取り決めた。人目につかず、誰も訪れない。誰からも忘れられたあの場所ならば、万に一つも耳をそばだてられる心配もあるまい。どこに山狗たちが潜んでいるかはわからないため、慎重を期したのだ。

 堆く積み上げられた塵山を慣れた足どりで登り、廃車へと向かうと、すでに梨花が待っていた。

 

「あ、遅くなっちゃったかな?」

「今きたところなのですよ」

「あ、中入って。見た目はちょっと汚い感じだけれど、中はレナが整理してあるはずだから」

「は、はい」

「助手席で靴だけ脱いでね」

 

 梨花を車内へ招き入れる。考えてみれば、このレナだけの城に他人を入れたのは初めてだ。以前梨花がレナの元を訪い、注射器を示したときも、窓一枚を隔てていた。自分だけの秘密の場所が、自分だけの場所でなくなる感傷もあったが、秘密を共有できた喜びもまた同居した。

 すでに外は火点し頃、塵山に囲まれているおかげで車内は薄暗く、レナは小型の電気スタンドの灯りをともした。この車には、棄てられていた何本かの延長コードを、工場跡の電源コンセントに繋いでいるため、電気が使えるのだ。梨花はやや落ち着かぬように目線をさまよわせている。

 

「驚いた?電気もつくんだよ。梨花ちゃんはここに入るのは初めて?」

「ボクも、レナがここを隠れ家にしていることは知っていましたが、実際に中に入るのは初めてなのです」

「あ、そのへんにある文庫本とかぬいぐるみとか、持っていってもいいよ。お菓子もあるけど食べる?」

「あ、お構いなく、なのです」

「梨花ちゃん、口調。戻してもいいよ」

「え?」

「あっちが素の梨花ちゃんなんでしょ?」

 

 梨花はしばらく迷ったようだったが、やがて、

 

「そうね……いまさらあなたに猫被っても仕方ないわね。まず……何から話せばいいかしら」

 

 レナは前日梨花から、東京や山犬のこと、症候群の話は聞いていたのだが。梨花は何度もループしたという、「平行世界」について詳しく語り出した。

 

「ある世界では、おかしくなってしまうのは圭一。レナや魅音が、圭一を心配させまいと怪死事件を隠したこと、それが小さな種火となって燻り、鬼を手繰り寄せようとする大石によって不信の根は育まれた。だんだん圭一は皆のことを信用できなくなって、あとはレナと同じ。最後にはレナと魅音を撲殺したの」

「またある世界では、詩音がおかしくなってしまう。圭一が何気なく言った一言に魅音が傷つく。魅音が圭一に恋しているのは、レナも知っているでしょ?そのことを詩音に相談してしまうの。詩音には、自分が恋した悟史はいないのに、魅音には圭一がいる。詩音の中に封じられていた鬼の血脈を呼び覚ましてしまう。魅音、沙都子を殺し、追い詰められた私は自害するの」

「この世界は本当に袋小路。沙都子の叔父が帰ってきてしまう。粗野な叔父の暴力になすがままの沙都子、それを見て義憤にかられて叔父を殺す圭一。ただ叔父が沙都子の元に戻ってくる確率は相当低い」

「そして、竜宮レナがおかしくなってしまうパターン。これは、説明はいらないでしょう」

「……うん」

「いくつか細かい点で異なることはあるけれど、大勢に影響はない。この4パターンが基本線」

「私たちが打ち破らねばならない錠前は3つ。一つは雛見沢症候群による惨劇、これを便宜上、ルールXと呼ぶわね」

「富竹、鷹野、私の3人は、何度繰り返しても死を回避できない。この絶対の意志……東京の計画。これをルールY」

「そしてこれらの惨劇を容認する風土、オヤシロ様の祟りの名の下に、綿流しのお祭りの日に人が死んでもだれも不思議には思わない、村の封建的な土壌……これをルールZ」

「この3つの錠前を、すべて開かなければ、惨劇は防げない……」

 

 梨花はここまでまくし立てるように話し、レナを窺う。

「ここまで、何か質問はある?」

 

 レナはやや思案しつつ、

 

「梨花ちゃんが何度も人生を繰り返しているっていうのは聞いたけど、その世界ごとにずいぶん違うんだね。私を救ってくれたあの圭一くんが加害者になるだなんて……」

「そのことなのだけど、前回の世界では、圭一は別の世界の記憶を思い出したのよ」

「え?」

「圭一はレナと魅音をささいなことで疑って、自分を見失いその手で殺めたことを思い出したの。それは、奇跡。賽の河原でただ石を積み上げるように、もはやただ精神の死を待つばかりだった私を、再び立ち上がらせてくれた。本当は、レナが発症した世界では、例外なく校舎の爆発でみんな死んでしまう。でも、圭一のレナを信じ抜き、救いたいと言う信念が、レナの迷妄を打破した。私はその甲斐なく殺され、またその後に雛見沢大災害でみんな死んでしまったわけだけど……大きな前進だった」

 

 圭一はルールX、雛見沢症候群を打ち破ってみせた。結局梨花は命を落としたが、一つのルールを破ったならば、他の二つを破り、昭和58年7月へと至ることができるかもしれない。

 

「そっか……じゃあやっぱり、私が大災害後も生き延びたのも、何かの意味があったのかな。自分が罪を犯したばっかりに、私だけが生き延びてしまって、苦悩したものだけれど」

「レナ……」

「圭一くんが私を救ってくれたから、ずっと生き続けた。オヤシロさまに導かれて、いまここにいる。これも何かの使命なのかもしれないね」

 

 圭一がレナの疑心暗鬼を啓いたことが、自分がいまここにいる緒となっている。そのことに、レナはどこか運命的なものを感じずにはいられない。

 

「それで、話を戻すよ。どうしてこんなにいろんなことが変わるの?」

「それは、人の意志の強さによるものよ。たとえば魅音は放課後部活がしたい。これは絶対だけれど、なんのゲームをするかはその場の気分によるものなの。あとは天気とか、気温とかでも変わってくる。外がすごく暑いとか、雨が降ってるときは屋外でのゲームはやらないわけ。私は同じ6月を繰り返してはいるけど、厳密には全く同じではないわけね」

 

 天候や気温。こういう自然現象の類いは、多くの複雑な偶然の要素が絡み合っている。そして、ほんの僅かの間の小雨でも、人間の行動を左右しうる。それが巡り巡って、世界の様相をまったく変えてしまう。

 

「魅音の気まぐれによって部活の内容は決まる。でも部活をすることだけは絶対の意志を持っているから、どの世界でも変わらないのよ」

「なるほど。つまり梨花ちゃんがいろんなことに気づけたのは、毎回必ず起こることと、起きたり起きなかったりすることを見てきたからなんだね」

「そういうこと」

「じゃあまず、圭一くんや詩ぃちゃんが発症しないようにしなくちゃいけないね。そして万一発症してしまったら、早期に治療薬を打つ。小柄な梨花ちゃん一人なら厳しいけど、私もいればなんとかなりそうじゃない?」

「そうね……あとはレナのことだけれど。間宮リナがレナの家にくるようなら、鉄平もレナのところに来る。魅音に相談すれば、二人をなんとかしてくれるはず……」

「圭一くんは、仲間に相談しろって私に言った。考えてみれば、美人局をして生計をたててる連中なんて、園崎家にとってみたら小悪党みたいなものだもんね」

「ええ。でも問題は、北条鉄平が沙都子のもとに帰ってくるケース。滅多にないけれど、この場合児童相談所もすぐには動けないし、どうしようもない……」

「諦めちゃだめだよ、梨花ちゃん。何か打つ手は必ずあるはず。北条鉄平が沙都子ちゃんのもとに帰ってきたなら、すぐにみんなに相談しよう」

「……ええ」

 

 梨花の返事は歯切れが悪かった。何度児童相談所に陳情に行っても、その度に体良くあしらわれてしまう。だが、現時点では低い確率だ。鉄平が沙都子のもとに帰ってこないことを祈るばかり。

 

「圭一くんが発症の気配を見せたら、連続怪死事件について包み隠さず話す。詩ぃちゃんのは、つまり圭一くんが魅ぃちゃんにお人形を渡せばいいわけでしょ?そうすれば詩ぃちゃんは傷つかない」

「そういうことになるわね……とにかく、ルールY打倒の前に、まずは誰かが発症して惨劇が起こるのを防ぎましょう」

 

 残された時間は少ない。綿流しのお祭りまでもほとんど猶予はない。だが、レナも梨花も、まずは仲間内で疑心の芽をつむことを優先した。雛見沢大災害を信じてもらうためにも、まずは皆の結束が必要だと考えたからである。ふたりはもうしばらく意見を交わしてから、塵山を後にした。

 

 

 

 

 

 梨花と別れた帰り道、すでにあたりは暗くなりつつあった。今朝はあんなに快晴だったのに、どんよりとした雲が棚引いている。もしかしたら一雨くるかもしれないと、レナはやや足どりを早めて帰路についた。薄闇の中、電灯のついたレナの家のまわりだけ、ぼんやりとした光が漏れている。その門口の脇には見慣れないバイクが一台とまっていた。ドアを開けると、玄関先には派手な赤いピンヒールが一足。そのすぐ横にある、レナの父の安物の地味な靴との対比が甚だしい。レナのただいま、への返事は、父のものではなく、間宮リナのものであった。

 

「あらー、礼奈ちゃんおかえりー。今日も遅かったけど、また宝探し?」

「あはは……。リナさん、いらしてたんですか」

 

 その猫撫で声と笑顔にレナは虫唾が走り、表情に出さないようにするので精一杯だった。リナはそんなレナの心境に気付く様子もなく、明るく話しかけてきた。

 

「ねえ、今日ね、お父さんと一緒にお昼は穀倉まで行ってきたのよ。キーマカレーがとってもおいしいお店でね?今度また3人で行きたいなー、なんて」

「それは楽しみです。リナさん、ありがとうございます」

「それで、おみやげにレトルトを買ってきたから、あとで食べてみてね。おいしいよー。礼奈ちゃんはこのお店、知ってる?」

「いえ。それよりも、今日は父と少し、話したいことがあるので、お引き取り願えますか?」

 

 レナの、自分でも驚くほど不躾な言葉にたいして、父がそれを見咎めた。しかしリナは気にした素振りもなく、

 

「……そうよね、たまには親子水入らずも大事よね。お邪魔虫は退散〜」

 

 軽やかな足取りで帰っていった。彼女が去ってから、父はリナとの別れがよほど名残惜しいらしく、少し語気を強める。

 

「礼奈、どうしたんだ。おまえらしくないぞ。いつもはあんなに仲がいいじゃないか。今度リナさんには謝っておきなさい」

「うん……」

 

 やはり、すでに父はリナに毒され、骨抜きにされている。覚悟はしていたレナにとっても、リナにおもねる父親の姿は見ていて辛かった。レナは決意を込めた表情で、父に対峙する。

 

「お父さん、お話があるの」




大災害の日付を間違える痛恨のミスを犯していた模様


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お魎に萌えるだけの話。


 魅音に請じ入れられて、園崎家の敷地に入る。彼女の親友たるレナは当然、この家には何度も足を運んだものだ。とはいえ、これだけ広大な敷地だから、門まで辿り着くのにもひと苦労。魅ぃちゃんはいつも、登下校でこの道を歩いて疲れないのだろうか、などと場違いな思考で、レナは自分の緊張を直視せぬようにと努めた。

 ようやく部屋に辿り着くと、魅音はお茶を入れて来ると言ってその場をあとにしたため、レナはひとり残された。湿気と暑さで汗がへばりついた服に、扇風機から流れる生ぬるい風を受けて、ぼんやりと涼んでいるレナの姿をみとめた一人の老婆が、しわがれた声で語りかけてきた。

 

「おぉおぉ、レナちゃん、来とったんかい。ゆっくりして行きん」

「あ、おばあちゃん」

 

 園崎お魎。この雛見沢村で、誰もが畏れ、こうべを垂れる存在。歳をとってもなお、その眼光は鋭く、見るものを縮み上がらせる。だがレナは、この老婆が本当はとても優しい人だと知っていた。常に村の行く末を案じ、毎年起こる連続怪死事件に胸を痛めている。ましてや、自分の発言ひとつで、「気を利かせた」「憂慮した」何者かによって事件が起きていると思っている彼女だ。誰よりも、この村の現状に心を痛めているにちがいない。

 村に住む子どもたちは、たいてい興宮の小学校に通学している。これは、雛見沢分校が正式な教育機関として認可されておらず、行政側としてはあくまでもなんらかのやむを得ぬ事情をもつ児童に限って登校を認めている、という建前があるためである。そして一旦この村から出て、不便なこの村にわざわざ戻ろうとする者はごく少数で(雛見沢症候群による帰巣本能は、過度なストレスなどの内的要因のない限りは、今日ではさしたる影響を与えないようだ)、将来的には村の高齢化は拍車がかかることだろう。だから、分校に通う子どもたちを、この老婆は格別に愛情を持って接しているつもりなのだ。無論、それが分かるのは家族か、はたまたレナのような、勘の鋭い者くらいだろうが……

 

「ほらほら、婆っちゃははやく出てった出てった」

「なんじゃ魅音。わしの分の茶はないのか」

「ないない。お茶代もただじゃないんだよ」

 

 お茶を運んできた魅音に締め出されるお魎。そのようすを見つめていたレナは目を細めて、

 

「やっぱり仲がいいんだね」

「うーん、まぁそうかもね。婆っちゃがどう思ってるかは知らないけどさ」

「おばあちゃんは絶対、魅ぃちゃんのこと大切に思っているよ」

「あんたってときどき、恥ずかしいこと臆面なく言ってのけるね……それに、婆っちゃのことをおばあちゃんなんて呼び方できるのは、雛見沢狭しといえどもレナくらいのもんだよ」

「広し、でしょ?レナにとってみたら雛見沢はじゅうぶん広いよ。というか、お婆ちゃん優しい人だもの。レナにはわかるよ」

「それ聞いたら婆っちゃは喜ぶね〜」

 

 素直になれぬ祖母の性格は、魅音にも無事受け継がれているようである。しばらく世間話を続けてから、レナは本題に入った。魅音の表情が徐々に厳しいものに変わっていくのが分かった。

 

「レナのお父さんがねー……」

「そうなの。貯金も湯水のように引き出していって、その女の人に貢いでいるみたいで。でも、あの人……母と離婚してから男手一つでレナを育ててくれたお父さんに対して、これまで強く言えなくて……昨日ようやくそのことをお話したんだけども」

 

 そう、結局レナは父を説得することはかなわなかった。父はリナに隷属していて、その眼には、彼女の行為ひとつひとつが総て好意的に写るのだ。曇ったその両目は、レナがみずからの再婚を受け容れられぬから、駄々をこねているように写ったわけだ。レナも、この時点では容易に説得しきれるとは思わなかったが、実の娘の言葉より、赤の他人である女の言葉を優先されたようで、多少の不快をもって父に接してしまった。途中から説得というより論戦になったのは、自省すべきなのだろう。人間はときに、理性よりも感情が上回る。それは、鷹野のスクラップ帳に惑わされたレナにとって、痛いほどわかることだったから。それがたとえ、雛見沢症候群によって疑心暗鬼に陥っていたのだとしても。

 

「なるほどねえ〜……うーん、とりあえず本家の方でも話を通してみるよ。その間宮って女が美人局をしているなら、ほかにも悪事の証拠があってもおかしくないからね」

「ありがと、魅ぃちゃん……」

「ちょっ……レナ……なにも泣かなくても……」

「え?」

 

 魅音の不意をうった言葉に、レナは反射的に目尻に指をあてて、自分の目から、涙が零れているのを確かめた。レナの視界はぼやけて、眼前の魅音の顔がゆがんでみえた。涙。涙だ!

 もはや泣き疲れて、渇ききったはずの瞳から零れる涙。それが一滴、一滴と零れ落ちるたびに、屋上での圭一のことばをひとつひとつと思い出していき、いったん意識してしまうと、あとはとめどなく零れ落ちた。

 突然嗚咽を漏らし始めたレナの背中を、優しく撫でながらも、魅音はレナの涙に見入っていた。零れ落ちた少女の涙は、まるで濾過された純水のように、完全に純粋で、どこまでも透き通っていた。その空知らぬ雨が七つの海に降り注いだならば、この世の総ての不幸を溶解して、あまねく生命を照らしゆくのだろう。この世でもっとも純粋なもの、産まれたばかりの嬰児が、たゆたい、守られてきた母の海から顔を出して、初めて世界の色を知ったときに流すあの涙のように、透明で、それでいて見る者の心の芯にまで染み込んでゆくような、純真無垢な涙。

 魅音はレナの涙を眺めつつも、彼女にそんな感情を抱かせたレナの父親を恨んだ。だが、魅音は気づけない。レナの涙は、魅音の言葉にあったから。相談することができたから。こんなに簡単に、協力してくれたから。仲間に相談するという、誰でも思いつくとても簡単なこと。みずからの矮小さをみとめ、他者に協力を求めること。たったそれだけで、灰色だった世界は色づき、たがいの色を讃えあう。世界じゅうの人たちが、みんな自分の弱さを曝け出して、誰かに相談することを厭わなければ、みずからの矜持をも抛つことができれば、大地に染み込んだ血の量は、いまより少なくなりえたのだろうか?

 

「ごめんね魅ぃちゃん。突然泣き出しちゃって。レナって、思ったよりも子供だったみたい」

「レナは子供だよ、おじさんに比べたらね」

「魅ぃちゃんがおじさんなら、レナはおばさんだよ」

「はいはい。でも最終的には、レナの家庭のことだからね。レナが解決するんだよ。私が手伝うのはほんのちょっとだけ。あとはレナにかかってる」

「わかってる。ありがと」

「じゃ、また明日学校でね」

「うん!またね!」

 

 レナの口調からは、もういつもの快活さが戻っているように見えた。本当にレナは、自分に話しただけで、気持ちが楽になったのだろう。そう思うと、やはり親友冥利につきる。魅音はレナから全幅の信頼を寄せられていることに高揚し、必ずレナの力になると誓った。肝心なところで能動的に動けぬ魅音。仲間からの救いの声に、手をさしのべてあげることができなかった。そんな少女もまた、数多の世界で日々成長しているようだ。

 さて、レナが帰ったのち、魅音はお魎に顛末を話したところ、お魎はおまえに任せる、と言ったきり口を噤んだ。相談されたのは魅音なのだから、魅音がやりなさい、といったところだろうか。つまり魅音が親友のために、園崎家を動かしても、お魎は黙認するということ。魅音は無言で頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

「お父さん」

「なんだ礼奈?」

「昨日のお話なんだけど」

「……」

 

 魅音に相談してから2日後の夜。レナは食卓の沈黙を破って口を開くが、リナの勤務する風俗店、「ブルーマーメイド」での彼女との逢瀬で、せっかく機嫌が戻ったのに、また蒸し返されるのが癪に障るのか、彼はとりあわずに自室へ戻ろうとする。

 別に彼とて、レナを嫌っているわけではなく、むしろ大事な一人娘なのだ。相応に愛している。あの女について行かずに、娘に自慢できることなど何ひとつないこの駄目な父親を、レナは変わらず慕ってくれる。離婚の傷心を癒せたのは、間違いなくレナのおかげだった。だが同時に、間宮リナも自分を求めてくれた。娘からの家族としての無条件の愛に比べて、赤の他人であるリナが自分を見いだしたことは、彼の男としてのちっぽけな矜持を再生し、レナに対しておざなりの対応をしてしまう。レナにはそんな父の複雑な心境がわかっていた。

 

「昨日はごめんなさい」

「……」

「あれじゃあ、私がただリナさんを罵倒しただけに聞こえるよね」

「……」

「だから今回は、証拠を示そうと思って」

「証拠?」

「うん、証拠」

 

 間宮リナが、北条鉄平という無頼とともに、興宮方面で狼藉をはたらいている証拠など、園崎家にとってみれば容易に見つけられた。また、調査の過程でリナが園崎家への上納金に手を出そうと目論んでいたことも詳らかになった。もっとも、その杜撰な計画は、竜宮家という打ち出の小槌を見つけてから中止になったようだが。

 園崎家としても、このような俗物にいつまでも大きな顔をさせていられないのだろうし、この2人と同じように、虎の威を借る狐たちへの見せしめもあるのだろう。驚くほど早く悪事の証拠をかき集めてくれた。友人の危機をも家の利になるように仕向ける魅音の当主としての器量は、やはり卓抜していると言えたが、レナとしては、魅音の無償の好意にただ感謝するばかりである。

 

「お父さんだってほんとはおかしいってわかってたんじゃない?そんなに都合よく女の人がよってくるはずないって。でも見ないふりをしてたんだよね?」

「それは……」

「リナさんが出入りし始めたとき、違和感はあったはずなのに、私もそれを見ないようにしてたんだ。娘の私がお父さんにどこか遠慮してたから。あのとき、浮気相手の男を知ってるって言ったときのお父さんの泣きそうな表情、ずっと憶えてたから。お父さんに幸せになってほしいって思ってたから」

「礼奈……」

「でも、やっぱりわたしたち、家族なんだよ。2人しかいない、家族なんだ。お互いにもっと話し合えば分かり合えるんだよ」

「そうだな……お父さんは、離婚してから、お前に全然お父さんらしいこと、してこなかったもんな」

「わたしは、そんなことちっともつらくないよ。お父さんが前向きになってくれれば、それだけでいいの。だから……」

「だから?」

「通帳と、印鑑は没収ね」

「ええ!?」

「働かなくても、慰謝料もらってお金はあるから、堕落しちゃうんだよ。わたしはそういうの、よくないと思う」

「真面目に働いて、もう一回ゼロからやりなおすの。それで、お父さんを本当に好いてくれる人を見つける。これが当面の竜宮家の課題です」

「うーん、やりにくくなっちゃったなぁ。誰に似たんだ?」

「お母さん、かな?」

「……」

「いつか、許せる時がくるかもしれないね。わたしも、お父さんも」

「……そうだな」

 

 いつか母を許せる日。

 齢を重ねたレナには、母の気持ちも少しはわかるようになった気がする。人は誰かに、寄りかからずにはいられない。人間社会は、そうして形作られているのだ。母もまた、他人には見えないところで、絶え間ないプレッシャーと格闘していたのだろう。父ひとりに寄りかかったならば、たやすく共倒れてしまうような、大きな圧力と。小さい頃はあれほど強く見えた母は、じつは脆くて弱い、ひとりの人間だった。母だけではない。父もレナも、みんな小さくて弱い。母もいつか、その罪を滅ぼす日がくるのだろう。

 

 

 

 

 

 

「ありがと、魅ぃちゃんのおかげだよ」

「そんなことないって。最終的には、レナの説得が通ったんだよ。で、これからどうすんの?」

「今はレナが通帳と印鑑と管理してて、あと銀行の口座も変えたよ。お父さんの就職がうまくいくまで、当分このままのつもり」

「ははっ、話を聞くともうそれは、どっちが親でどっちが子かわかんないねぇ!」

「ほんとだよ、だいたい家に居ても家事を手伝ってくれるわけでもないんだよ?それなのに味には注文つけてくるから」

「レナの料理が美味しい理由がわかった気がするよ」

「あはは。それでね、お父さんったら……」

 

 レナからの報告を聞いて、魅音は一つ安堵の息をもらす。彼女は普段より饒舌で、随分と長電話となってしまったが、十分な収穫と言えるだろう。

 

「魅音!もう電話は終わったのか?」

「うん。婆っちゃ、レナの件、無事解決したみたいよ」

「そうかい、レナちゃんもほんによかったなぁ」

「そのレナから、おばあちゃんにもありがとうって伝えて、ってさ」

「わしはなんもしとらん」

「そう?婆っちゃがそういうならそれでいいけどさ」

 

 魅音は何気なくお魎に目をやると、しわくちゃの目元が、濡れそぼっているように見えた。そして、その両の瞳が、蛍光灯の明かりを反射して光っているのが見えた。視線に気づいたか、表情ひとつ変えずに老婆は欠伸をひとつして誤魔化してみせたが、魅音が口元に笑みをたたえたため、不機嫌そうな顔つきに変わった。これがいわゆる鬼の目にも涙というやつだろうか。そんなお魎から目を逸らして視線を上げると、窓にうつった夜の月は、薄雲に隠れてなんだか縹渺としていた。今日はずいぶん珍しいものが見られたから、明日は雨でも降るのだろう。

 

 

 

 

 

 

「そう……間宮リナの件は無事解決したのね」

「うん。梨花ちゃんのおかげでもあるよ、ありがと」

「……圭一は親類の葬式に行かなかったし、例の人形を渡す日は、もう過ぎているから、残るは、綿流し」

「富竹さんと鷹野さん……」

「レナによれば山狗に殺されるわけだけど……どうする?二人に予め警告する?」

「でもそれだと、私達の正気を疑った二人によって、山狗に情報がもたらされたらアウトだよ。いかに信用してもらうか、だね」

 

 ……この時点で、まだレナは鷹野を疑いえない。東京の関係者だと知っても、富竹と同様に彼女が祟りの犠牲者であるという方に意識が向いてしまうから。そして梨花にとっても、幾多の世界で観測した鷹野は、民俗学的な趣味があるだけの研究者にしか見えなかった。もっともそれは鷹野にとって、完全な擬態ではなく、彼女という人物を構成するある一面なのだが。

 鷹野はやがて知るだろう。窮鼠がときに、猫をも噛むように、2人の少女は、地べたを這いながらも、そのちいさな牙を鋭利に研いでいる。その牙が天翔る鷹に届くかは、まだ分からなかった。




うーんこの父親


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天翔

短めの挿話です。
作者は天翔記よりも創造が好きです。


 まだ夜気はひんやりとしていて、冷たい風は容赦なく彼女の頬を吹きつける。寒々とした心には、このくらいの風がちょうどいい。せっかく氷のように固く閉ざしたその心を、たやすく溶かしてはしまわぬように……

 今日はとくに月が綺麗な夜だ。こんな夜だから、少しもの思いに耽ってしまう。もう戻れぬ日々。それは、亡き祖父との穏やかな時間か、それとも、こんな自分を支えてくれた、いつも朗らかで、かけらの邪念のない、あの実直な彼とのたわいもない逢瀬なのか。

 

(いや、そもそも……)

 

 両親が事故で亡くなる前の、世界の裏側など何も知らずに、洋々と広がり続くこの海の果てまでも、辿り着けると信じていたあの頃。デパートのレストランで手に入れた、お子様ランチの旗を一つ一つ眺めては、世界を旅する、無邪気な夢想をしていられた、幼き日々。自分が本当に戻りたいのは、陽の光を浴びても平気でいられた、田無美代子なのかもしれなかった。

 強大な力を得たのと引き換えに、自分のなかのどこかがおかしくなって、歯車は噛み合わなくなってしまった。何かを得るためには、何かを失ってゆく。小さな両手でつかんだものが大きければ大きいほど、指のあいだからこぼれ落ちていくものも多くなる。大事なものは、いつも失ってから気づくものだという。彼女にとっての故小泉翁もまた、そのひとつだった。

 

(小泉のおじいちゃん……)

 

 ずっと、心のどこかで蟠りがあった。どれだけ支援してもらっても、彼に心を開くことはなかった。祖父と昵懇の仲で、祖父の偉大な研究を皆に認めさせると言ったのに、蓋を開けてみたら、だれもがあの論文を愚弄し、祖父を嘲弄し、縋る自分を罵倒して、打擲して、薄ら笑いを浮かべて去っていった。

 そんな嵐の後。失意の祖父に対する慰めは、彼の最後の矜持を砕き、少女は初めて祖父から叱責を受けた。それは、祖父と少女だけの世界が、崩壊した瞬間だった。期待を持たせられた分、それが裏切られた時の失意は大きくて、小泉を恨んだものだ。

 けれども、小泉は高野の生前に、力になってやれなかったことを終生悔やみ、三四に対しては徹頭徹尾味方になってくれた。

 いつも会うたびに、開口一番、詫びを入れる小泉。三四はいつしか、それを当たり前のものとして受けとめてきたが、祖父の死後、天涯孤独になった彼女にとって、彼との日々は、存外に心地よいものだった。

 そんな彼の死は、またしても三四に孤独を強いた。雛見沢症候群の研究が着々と進み、いつか偉大な祖父の名を残すという、その矢先のことだった。

 突如、東京での入江機関の旗色は悪くなり、一時は研究の即時停止を要求されたほどであった。入江の説得もあり、かろうじて平和的、人道的研究に限って3年の猶予が与えられたが、三四にとって何らの気休めにもならなかった。3年経ったら、この研究は完全に抹消され、人々の記憶に残ることもなく、一切が闇に沈む。三四は祖父を神にするつもりが、祖父の存在を消し去ってしまった。祖父を、本当の意味で殺したのは、他ならぬ自分なのだ!

 

 深い悔恨。苦悩。絶望。生きる意味をも失った三四の前に、悪魔が手を差しのべた。悪魔の甘言は心地よくて、聞いてはならぬのに、三四は気づけば先を促してしまっていた。それを見た、あの悪魔の笑み! 自分が利用されるだけだと知りながらも、一縷の望みにかけてその魔手をとった三四を見下したときのあの哄笑! あの蔑視!

 ……何を聞いたのかも分からなくなって、覚束ぬ足取りで雛見沢まで戻った彼女は、まるで一匹の雛鳥のよう。決して孵化せぬままに、やがて郭公によって、巣から叩き落とされてしまうだろう。それでも、後戻りはできない。後戻りなど、できはしない!

 その日から、地に墜ちた雛は再び大空を目指した。我こそは、誇り高き鳥類の王者! 鷹は決して下を向かず、ただ上を向くのみ。祖父の届かなかった遥かな高みに、祖父を連れてゆく。この天翔を妨げるものは、たとい神であろうと、この爪の餌食となろう。オヤシロ様などという、祟ることもできぬ無力な神は死ぬ。祟りは、他ならぬ自分が起こすのだ。自分こそが神になる!

 

 

 

 

 

 思考が戻ってくる。

 滾る血潮が戻ってゆく。

 首元に手をあてて、いつもの冷静さを取り戻していく。

 少々、長居しすぎたようだ。冷え切った肌が青ずんでいる。漆黒の外套を纏い、闇と同化したように見える彼女に向かって、迷彩服を着た一人の男性が声をかける。

 

「鷹野三佐、こちらにおられましたか」

「あら、ごめんなさいね。ちょっと夜風にあたりたくてね?」

「はあ……」

「それより、何か?」

「はっ。Rがここ最近、頻繁に外出しているようで。同居している北条沙都子を伴わずに、夕方から夜にかけて、旧ダム工事現場跡地を訪れているようです」

「あらあら。するとそれはどういうことかしら?」

「はっ。何者かと密通している可能性があります。念のためにご報告致しました」

「人目を忍んでそんな場所でねえ。大石さんとかかしら?古手梨花は、何かに感づいたのかしら」

「いえ、そのようなことはないはずですが……」

「まあいいわ。監視を続けなさい。この土壇場で、あの廃棄されたゴミに躓いて頭打って死にました、じゃあ意味がないもの」

「かしこまいりました」

 

 古手梨花は、両親とは異なり、一貫して機関には協力的だった。だから、外部の人間ではもっとも事情に精通しているうちの一人だろう。そんな彼女が、定期的に誰かと密会している可能性があるという。杞憂ではあろうが……

 今は終末作戦執行のための、最後の詰めの段階だ。何か一つのイレギュラーも許されない。山狗の連中も、いくらプロといっても人間である限り、やはり過敏になっているのだろう。三四はそう考えてその場を後にしたが、心の片隅に、何か引っかかるものを感じたのだった……

 月は、太陽と対になる存在。夜の世界の支配者。日が沈み、闇に染まったこの世界を、妖しく照らし続ける。

 夜はまだ、続いていく。

 




【悲報】たかのん、富竹への言及はたったの三行のみ。


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訣別

誰か文才くれ……


 俗にゴミ屋敷とよばれる家の住人が、なんらかの特異な精神疾患を抱えているという研究がなされるようになったのは、つい最近のことだ。

 今日ではホールディング障害またはディオゲネス症候群などと命名されたそれは、患者の従来の性格、家庭状況その他多くの要素により発症するが、特に幼少期から青年期に受けた心的外傷が大きな要因の一つだという。

 まだ新しい研究分野であり、様々に議論も続くが、日本国内のみならず、ゴミ屋敷は世界的に問題となっており、WHOなどの国際機関もこの病を認定するかの対象としているようだ。

 ニュースなどでよく報道されている、敷地外にまでゴミが侵食したような異常なケースにばかり目がいくものの、大量生産・大量消費の、物質にあふれた世界を生きるわれわれ現代人は、多かれ少なかれ皆何かのコレクターになりうる。本来の用途を超えて、必要以上に蒐集する行為は、度が過ぎれば、この障害の罹患者とみなすことも可能である。

 

 海外のとある報告によると、この病の疾患率は、軽度のものも含めれば、2%から5%程度であるという。こうした調査結果が示すように、決して珍しいものではない。

 一見して見た目には清潔で、何らの問題も無さそうな人物であっても、物を捨てられず、部屋の中がゴミで埋まっているという人は近年増えている。皮相的に「正常な」人間が、しばしば異常さを孕んでいることは、説明するまでもなく自明だろう。

 ここに二つの事例をとりあげる。

 

 ……ある幼い少女が、家族と行ったレストランで貰ったお子様ランチの旗を、全て揃えたらいいことがあるかもしれないと、箪笥の抽斗の中に入れて集めた。

 

 ……ある少女は、母親の不倫を機に、母親に対するそれまでの愛情や羨望、同一化したいという願望を、激しい憎悪に転換し、その面影を残すものを手当たり次第に破壊し(この少女の場合は、自分自身をもその対象としたようで、しばしば自傷行為を行なった)、自分と同じように打ち捨てられ、汚れた粗大ゴミを部屋に持ち込むといういわば代償行為を、「宝探し」と称して行った。

 

 前者は正常で可愛らしく、後者は常軌を逸したように思えるだろうが、これらの心の動きは同一ないし非常に近しいものとみなすこともできる。集めるという行為そのものに目的を付与し、それに価値を見出しているからである。

 

 治療法は確立されていない。大抵の場合複数の精神疾患を併発しており、また前述したように、患者が従来から何か大きな心の病、トラウマを抱えていることが多く、その根を除かない限りは、行為は繰り返されるからだ。

 重度の患者により蒐集されたものによって、衛生面、安全面上の問題があると判断されうる場合、公共の利益を害するとみられる場合、行政が不要な蒐集物を廃棄することで一時的な解決にはなるものの、個人の財産権は憲法でも保証された権利であり、ゴミと財産の明確な線引きは困難である。

 だが、医師や周囲の人々の助力を得つつ、患者が自ら心的外傷を克服することによって、根本解決になりうる。あらゆる心の病は畢竟、患者側が自らの意志をもって克服するしかないのかもしれない。

 

 

 

 

 

「礼奈、いったいどうしたんだ!?」

「あ、お父さんお帰りなさい。ちょっとお掃除しただけだよ」

 

 家に帰った父親の驚いた声に、普段通りの声音で返事をしたレナ。彼が驚いたのは無理もない。竜宮家から、昨日まであった「宝物」がすっかりなくなっていたからに他ならない。

 

「掃除って、だってお前……宝物だって言い張って、俺が捨てろって言っても、一向聞かなかったじゃないか」

「うーん、それはそうなんだけども。もう今の私には必要なくなったものだから」

「いや、捨ててくれるのはありがたいんだが」

「……今まで迷惑だったよね。ごめんなさい」

「いや、礼奈も色々あったからな、仕方ないさ」

 

 レナが「宝物」を捨てたのは、かつての竜宮レナとの、弱さとの訣別である。父はあれほど熱を上げていた間宮リナと訣別し、新たな一歩を踏み出そうとしている。今日もこうして、職を探してきている。ならば、今度はレナの番だった。

 それは期末試験の直前になって慌てて勉強を始める学生が、散らかった机の上を整理しだすのに似ている。本来ならば勉強に充てねばならぬその時間を、整理整頓に使うことは決して意義のないことではない。

 物を整理することで、心を整理する。部屋を掃除することで、心を掃除する。ゴミを処分したことで、レナは自分の魂も、なんだか浄化された気がした。それなのに、一抹の寂しさが心に去来するのはなぜだろうか。

 ……喪失の寂寞は、成長への寂寞である。即ちこの日、レナは一歩成長したのであった。

 

「今日は俺からも報告がある」

「え?」

「次の職を見つけてきた」

「え、もう見つけたの?」

「早い方がいいだろう。いや本当に運が良かったんだ」

 

 父はあの翌日から鹿骨市にある職業安定所に通いつめていたが、まさかこれ程すぐに見つかるとは、レナは露とも思っていなかった。

 母の補佐をしていたという父のデザイナーとしての腕前は、実のところレナには与り知らぬものだったが、彼の地道な貢献を評価してくれていた顧客がいたらしく、そこから方々に伝わっていったようだ。彼を望む会社があったらしい。

 もはや無駄になったと思っていたことが、巡り巡って有益になることもある。まさに人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄の如し。

 未来への期待を膨らませ、子供のように目を輝かせる父を見ると、レナにはその姿が眩しくて、とても尊いものに映った。

 

 

 

 

 

「ねえ梨花ちゃん、そろそろみんなに話そうか」

「……大丈夫かしら?」

「やっぱり、躊躇する?」

「……」

 

 梨花とてこれまで、ただ手をこまねいてきたわけではない。数多の世界で、部活メンバーはもとより、周囲の大人の中でも信頼できる者に、雛見沢で起きる惨劇を伝えたこともあった。だがいずれも一笑に付されるか、冗談を言っているように見られて真剣に取り合ってはもらえないのが常だった。

 今度の世界。前回圭一が示した奇跡、今回レナという理解者を得た幸運、それらによって築かれた梨花の自信が、もし皆に話して信用されなかったらと思うと、容易に瓦解してしまいそうで怖かった。もしそうなったなら、自分はこの先彼らを仲間と、はっきりと胸を張って呼べるのだろうか。

 

 レナという存在を得たことが、梨花の仲間たちへの執着を、無自覚にも多少なり薄れさせてしまっているのは皮肉である。自分の総てを明け透けにして、心の奥底までを裸にできた、羽入以来の人物。互いを理会し、共鳴し合えた、何にも変え難い喜び。

 今回のレナは、特別なのかもしれないことは、梨花にはよくわかっていた。次のレナが未来の記憶を維持する保証など、どこにもない。だからどうしても、今の状態を長引かせようとしてしまう。前に進むことで、失われてゆく何物かを、果たして直視することができるだろうか。

 

 梨花にとっての最も恐れることは、この百年の業苦の旅路に、何らかの意味を探していたはずなのに、その実、歩みゆく道の果てにあるのは、徒なるものに過ぎないと確信してしまうことだ。

 もっともその瞬間の訪れを、梨花は決して知覚しえないのだが。なぜならそれは、梨花の精神の死と同義だろうから。

 永劫回帰に対して倦怠し、いっそ死を望みつつあるはずの少女は、それと同じくらい精神の死を恐れていた。肉体の死と精神の死が乖離する少女にとって、この二つの死の意味は、一方は既知で、一方は全くの未知である。未知に対する底知れぬ恐怖。人間にとって生の月日の長さと、死への恐怖は比例するものなのかもしれない。

 

「梨花ちゃん、怖いんだよね。みんなに信用してもらえないんじゃないかって」

「レナは、怖くないの?」

「……怖いよ」

「え?」

「怖くてしかたがないよ。でも、それと同じくらい、みんななら信じてくれるって期待があるの」

 

 いかなる期待も、不安と同居していないものは、期待とは呼びえない。期待は、不分明な未来に対する、底知れぬ不安と恐怖によって練磨されてゆく。初めから知りうる箱の中身に、一喜一憂する酔狂な者が果たして存在し得ようか?

 

「じゃあこうしよ?まず、祭りの日に富竹さんと鷹野さんを何者かが殺そうとしてるってことを言う。それだけならまだみんな信じてくれるかもしれないよ」

「……」

「二人で言おっか、一人なら不安でも、二人ならきっと大丈夫」

 

 それは何の根拠もない、およそ楽天的な、ありきたりの言葉だったのに、梨花の揺れる心に不思議と染み入って、不安は幾分和らいだ。梨花は一つ溜息をついて、

 

「私は百年を生きてきたっていうのに、だめね、あなたに諭されてばっかり」

「梨花ちゃんは百年を生きてきたわけじゃないよ、言ってみれば、百年間ずっと子供でいたんだよ。わたしにとってみたら梨花ちゃんはまだまだ子供だよ」

「……そうかもね。今回のレナは、随分年寄りくさいこと言うものね」

「年寄りはなくない?わたしはまだ……」

「三十余裕に超えてたら、私達子供からしたらもう年寄りよ」

「……」

「子供扱いするからよ」

 

 ……梨花ちゃんには敵わないなぁ、とレナはひとりごちた。

 

 

 

 

 チャイムが鳴り響き、授業が終わる。日常が終わる。

 レナが小さく目配せをして、梨花がそれに応えた。クラスメイトたちの喧騒も、二人には聞こえていなかった。

 魅音が部活を始める音頭をとる前に、機先を制してレナが口を開いた。

 

「みんな、ちょっと聞いて欲しい話があるんだけど」

 



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祭りの前に……

 綿流しのお祭りは3日後である。

天気予報が伝えるところによると、当日の飛騨地方はあいにくの雨模様で、天候が安定し出すのは週明けからだという。村人らは、そんなことはおかまいなしに、来たる祭りに向けて準備を進めている。羽入は無言でそれを見届けていた。

 

 つい数年前までは、廃れていた祭事。

 時の流れとともに、信仰が次第に打ち棄てられてきたのは、何もこの村に限った話ではなく、高度経済成長以後の日本の田舎の多くにみられてきた現象である。

 如何に閉鎖的な村であっても、科学文明はその鞏固な網を容赦なくかいくぐる。かつて村の信仰の中心であった古手神社は、在りし日の面影を日ごとに稀薄にさせていた。神社は子どもらにとっての格好の遊び場であり、大人らにとってはいわば公民館の体を成していた。オヤシロさまに目を向ける者など、一部の信心深い者のみであった。

 村の歴史と伝統の象徴である綿流しのお祭りもまた、鬼ヶ淵死守同盟の、赭顔の老人らによる飲み会にまでその価値を貶めていた。

 

 そんな祭事が、年々復興に向かっている。村中、時には興宮方面からも人が集まり、しきたりに沿って荘厳な儀式が執り行われる。オヤシロさまの巫女たる古手梨花が、よどみなく祝詞を唱え、ちいさな身体で懸命に鍬を振るう。大勢の見物人が見守る。鍬を掲げる。布団を裂く。使命を終えた、汗水漬くになった少女を労うように、歓声が上がる。声量は年々いや増すばかりである。

 綿が流されてゆく。白い綿には、穢れが込められていた。夜の月明りに照らされて、水に浮かぶそれらは白銀のように、きらきらと輝きだす。流れ流れて、やがて消えてゆくまで、村人たちはその光景を見続ける。自らの穢れが祓われていくのを見届ける。

 誰もが祟りから目を背けていた。お祭りの間だけは、村人たちは頭を空っぽにして、ただただ呑んで食べて、歌って踊って、ちぎって流して……瞬間瞬間を全力で楽しんでいた。鬱積も、不安も、恐怖さえも忘れて、ただただ……生きていた。

 

 言うまでもなく、オヤシロさまの祟りを鎮めるために、祭りの復興がなされてきた。神は、祟ることでしか人間世界に干渉できない。だから、羽入の声は、村人たちに届くことはなかった。ただ一人の例外を除いては。

 オヤシロさまを崇める祭りが、血の代償を支払わせて蘇ったのは、争いを好まぬ羽入にとってはなんとも皮肉である。この皮肉には、何やら暗示的なものを感ぜられた。

 

 羽入が村人たちを見る。村人たちは羽入を見ない。

 視線を外して、あちらこちらさまよわせると、その先に富竹と鷹野がいた。

 そのとき、鷹野と目が合った気がした。昏い目だった。その瞳は絶望も、恐怖も写してはいないのに。ただ、昏い、虚無的な瞳。

……胸さわぎがした。梨花のところに戻ろうと、羽入は思った。

 

 

 

 

 富竹と鷹野が、今度の綿流しの日の犠牲者であると聞いた皆の驚きは、筆舌に尽くし難かったが、皆の疑問は二人が犠牲となる理由から、なぜレナと梨花がそんなことを知っているのか、に推移しつつあった。

 この辺りは示し合わせて、適当な理由をでっちあげることもできたが、二人はあえてそれを選択しなかった。それでも信じてくれることを期待したからだろうか。

 

「なんで知っているのかの理由は……言えないの」

「言えないって……なんでだよ!?」

 

 真っ先に声を荒らげたのは圭一だった。顔を赤くしながら、二人に詰め寄る。

 

「俺たち、仲間だろ?梨花ちゃんもレナも、俺にとって大事な仲間だって思ってる。仲間うちでは、隠しごとなんて無しじゃないのか?なぁ、魅音、沙都子」

「圭ちゃん、仲間だからって、何でも話さなきゃいけないなんてことないと思うよ」

「え?」

 

 自説を当然擁護してもらえると思ったのに、それが叶わなかったから、圭一は意表を突かれたようだった。魅音は続けて、

 

「そりゃあ、信用されてない気がするのも分かるけどさ。でもレナも梨花ちゃんも、たぶん二人で話し合った結果、まだ私たちに言うべきじゃないって思ったんじゃない?」

「そうですわね。レナさんも梨花も、圭一さんなんかよりよっぽど考えて行動してますわ。わたくしは、二人のことを信用してましてよ」

「……」

 

「圭ちゃんは、雛見沢に来る前のこと、包み隠さず私たちに話してる?」

「それは……」

「誰しも、知られたくないことの一つや二つ、ありますわ。それを無理に知ろうとするのは、よくないことでしてよ」

「よく、誰かの為につく嘘とかって言うけど、誰かの為に秘密にすることだってあるんじゃない?おじさんなんて、それこそ人前で言えないこといっぱいしてきた自負があるよ」

 

 彼女らの忠言は、熱く滾っていた圭一の頭を、急速に冷やしてゆく。一刹那して、圭一は自分が他者の心傷つけかねない危険な言葉を放っていたと自戒した。

 

「確かに、言う通りだな。俺が軽率だった。レナ、梨花ちゃん、ごめん。二人とも、俺たちのことを思って、言わなかったのにな。そんな単純なことに気づかないなんてな」

 

 

「でも、そんな大事なこと、もっと早く相談しろよ!最近レナも梨花ちゃんも、なんだかうわの空で、なんかあったのかって心配してたんだぜ」

「そうですわ!梨花も夜に外出したり、なんだか様子が変でしたし」

「みー、まさか沙都子が気づいているとは思わなかったのです」

 

 仲間たちは、自分たちの様子がおかしいことには気づいていたようだ。魅音だけは、レナから家庭の事を相談されたため、レナの変化の原因をそこに見出していたようだが。

 

 ともあれ、このままでは話が進まないため、魅音が一等明るい声を出す。

 

「さーて、諸君傾注!富竹さんと鷹野さんが何者かにより綿流しの日に殺害されるというレナと梨花ちゃんからの情報!みんなの意見を聞きたい!」

「言うまでもありませんわ!二人を死なせるわけにはいきませんもの。ひとまず警察に……」

「でも、情報ソースがないよな」

「そんなの無くったって、誰かが話しているのを聞いた、とか言っておけば……」

「普通は半信半疑だけど、大石あたりなら、それでも数人警護をつけるくらいはしてくれそうだよね」

「そのことなんだけど……」

「なんだ?レナ」

「私、警察関係者も疑った方がいいと思うの。大石さんは信頼しても大丈夫だと思うけど」

「そうだねぇ、だったら……」

 

 ああでもない、こうでもないと、議論が交わされている。三人寄れば文殊の知恵と言うが、五人寄れば何というのだろう。梨花はぼんやりそんなことを考えていた。

 みんな、真剣になってくれているのだ。胡散臭い話なのに。それがただ、うれしい。富竹と鷹野の絶対の死の運命。もしかしたら……もしかするかもしれない。

 

(でしょ、羽入?)

(……そうですね)

(……羽入?)

 

 羽入は一瞬浮かない顔をしていたが、すぐに表情を繕って、

 

(あうあう、きっとうまくいきますです!)

 

 さっきのは気のせいか。梨花は再び会話の輪に加わった。

 

 

 



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赤坂

時系列シャッフル的な。


 赤坂の後輩に興宮まで送ってもらった大石と赤坂は、予約した旅館の部屋で、四半世紀越しに訪れた雛見沢村について議論していたが、長きに渡り自衛隊によって封鎖されていたこともあって、当然何かの証拠が残されていることもなかったためか、口調にも勢いが見られない。二人の表情には若干の失望も見られたが、たとえ何も見つからなくとも、あの村に行けば、何かが変わるという確証なき予感が、空振りに終わったからと見えなくもない。

 会話は怪死事件と大災害の疑問点をつぶさにあげつらう大石と、それに質問を投げかける赤坂の、何度繰り返したかわからない不毛なやりとりに終始していた。するうち、大石の分の酒が尽きて、それと同時に彼の口も閉ざされた。これを見計らって赤坂は、彼らが敢えて避けていただろう話題を口にする。

 

「大石さん、竜宮礼奈の話、どう思います?」

「うーむ、彼女が知っていることで、真新しい情報はないようですなぁ、古手梨花のことを除いて、ですが」

「古手梨花が、滅ぶ世界と口にしたこと……彼女は大災害を予期していたのか……?」

「しかしそうなると、あなたへの予言で大災害のことを伝えなかった理屈が通らない」

「そうですね……」

 

 梨花はかつて、村を訪れた赤坂に救いを求めて、これから起きる惨劇を予言してみせた。しかし、その予言の中に、大災害は含まれていなかったのである。このことから、古手梨花は大災害を知らなかったのではないか、という推測が成り立つ。だがこれも、赤坂が初めて予言のことを大石に語った日の結論と、たいした逕庭はないように思われた。

 

 赤坂も大石も、しばらく互いに沈黙が続いた。酒ばかりで食事がおざなりになっていたが、今は二人とも無言で箸を進めている。やがて大石はぽつりとこぼすように、

 

「……赤坂さん、雛見沢連続怪死事件のこと、雛見沢大災害のこと。あとはあなたに託したいと思います」

「大石さん、何を」

「私はもう永くない……医者に言われずとも分かってます。それに、最近頭が働かない。認知症だそうで。いやはや……」

「大石さん……」

 

 大石が検査入院の予定を先延ばしにしたのは聞いていたが、そこまで身体が悪いようには見えなかったから、赤坂は驚きを感じた。

 

「私はね、赤坂さん、あなたからあんな話を聞かなければ、もう雛見沢に関わらずに生きてこうと思っていたんですよ。なんといってもあんな大災害では捜査のしようがない。君子危うきに近寄らずが、本来の私のモットーでしてね、ええ。おやっさんのことは確かに悔しいですが、世の中どうにもならんこともある、そう思って無理にでもやり過ごそうと思ってたんです」

 

 大石の口から、弱音ともとれる言葉が溢れる。現役時代を知る同僚らが聞けば、その変容に戸惑いを覚えることだろう。

 

「それが、あなたの熱意……古手梨花に救いを求められたのに、それを見過ごしてしまったことへの悔恨……その若い、大きな感情に揺さぶられて、私ももう一度、事件の真相を暴いてやろうと思ったんです。いわばあなたが端緒なんですよ」

「私が……」

「赤坂さん、私は、あの事件を捜査するのに、何のバイアスもない、あなたのような外の人間がふさわしいと思っています。現に私はずっと園崎家を疑っていましたが……どうにもこうにも。竜宮礼奈の話を信用するかぎりは、少なくとも園崎魅音は何の関係もないんでしょうなぁ」

「……」

「刑事を辞めてから20年余りになります。私自身の県警への影響力はすでに無いに等しい。昔みたいな無茶も、もうできないんですよ。対して赤坂さんは警視庁公安部の警視正であらせられる。あなたがお一人で調べられた方が効率はいいでしょう」

「大石さんは、それで納得するんですか?諦めてしまえるんですか?」

「諦めるために、雛見沢に来たんです。長期封鎖が解除されて、ようやく訪れることができたあの村でも、何も手がかりを得ることができないのならば、それまでだろうと」

「……」

「事実、たいしたものは得られなかった。竜宮礼奈の証言も、状況を好転させるものにはならなかった」

 

 捜査は完全に行き詰まっていた。共著した本にも、藁にもすがる思いで情報提供を呼びかけたが、有力なものは届いてこない。もはやこの状況を「捜査」と呼んでいいのかさえ、わからなくなっていた。狭霧広がる霊峰で遭難して、方角を示すものはあいにく持ち合わせていない。帰り道は、自らの勘に頼る他にない。加えてこの霧は、時間の経過とともにいよいよ濃さを増していく。今はかろうじておぼろげにでも見えている何物かも、そのうち見ることができなくなるだろう。そういう状況であった。

 雛見沢大災害は、時の魔力に染められて、「事件」から、「歴史」になりつつあった。事件は刑事の領分だが、歴史は歴史家の領分である。今はまだあやふやなこの境目が、やがて明確になったときこそ、雛見沢大災害が真に迷宮入りする日であろう。

 

 それでも、諦めていいわけではない。ここで諦めたら、今までの捜査はなんだったのか。ただ死して安らかに眠っている村を、捜査の名目で再び好奇の視線に曝してしまっただけではないのか。

 赤坂はもう一度大石を見る。大石は、俯き加減に食事を続けながら、まだ喋り続けている。

 小さくなったなと、赤坂は思った。在りし日のこの男は、こんなに小さくはなかった。恰幅のいい体格と、経験に裏打ちされた絶対の自信、絶対の存在感。いまや老いた大石のなかから、かつてあったそれらは、すっかり消えてなくなってしまっていた。

 そんな大石を見る赤坂の目には、寂寥と、ほんの小さな恐れが同居していた。赤坂は、自分の将来を、眼交にやどる老人に、無意識のうちに重ねていたのかもしれなかった。

 しばらく考えているうち、まだ続いていた大石の話に相槌を打っていなかったことに気づいたが、大石は赤坂の挙措に目をやっていないようだった。誰に話をしているのでもないのかもしれなかった。赤坂は再び耳を傾けはじめた。

 

「今の私でも影響力を持っていると言えるのは、この鹿骨の市議会議員さんくらいなもんです」

「議員?失礼ですがどんな関わりが?」

「彼は昔の後輩なんですよ。ああ、そういえば竜宮礼奈の事件の際も、一緒にいたなぁ」

「その議員さんにお話を聞くことは?」

「どうかなぁ、多忙でしょうし。ちょいと連絡してみましょうか」

 

 

 

 

 

 一般に地方議員といえば、自治体に様々な影響力を有する、いわゆる権力者である。とは言え、しょせん人口2万ぽっちの片田舎では、最も権力らしきものがある存在にすぎない。仕事のイロハを叩き込まれた、厳しくも憧れた元上司から、久々に会って話をしたいと言われたら、断れないようであった。

 

「大石さん、ご無沙汰です」

 

 赤坂は、大石に平身低頭する議員を見て、大石の歴史を垣間見た気がした。

 

「金田くん、久々ですなぁ〜。紹介しますよ、彼が東京は警視庁公安部からはるばるお越しくださった、赤坂さんです」

「赤坂です、お見知り置きを」

「これはどうも、市議会議員なんてやらせていただいている、金田と申します。大石さんは、私が警察官だったころの大先輩でして」

「私も、大石さんとは組ませていただきましたよ、大変でしたでしょう、彼の勘と経験に基づく捜査は、なかなか逸脱していますから」

「わかります、一見して合理的には見えないのに、気がついたら正しい道を選んでいる、そんな感じでしたから、ついていくのに必死でしたよ。それにしても警視庁の方と組むなんて、大石さん何やったんですか?」

「まあまあ、積もる話は一杯やりながらで!ってお二人さん、随分相性良さそうですね〜」

 

 

「それにしても、お二人は雛見沢に行かれたんですね」

「ええ、つい先日封鎖が解かれたので、都合のいい日を合わせて、名古屋で落ち合ってここまで来たんですよ」

「私は北海道で悠々自適な隠居生活ですが、赤坂さんはそうもいかない」

「私は、先日大きな仕事を終えまして、溜まっていた有給消化も兼ねて来ています。半端に地位が上がると、実戦から離れる寂しさもありますが、こういう時だけは便利です」

「私も刑事としての下積み時代が懐かしいです。いや都会の議員はそれこそ山のように仕事があるんでしょうが……」

 

 かつては武闘派で鳴らした赤坂の鋼の肉体も、年を重ね、細胞の死とともに衰えが見えはじめていた。管理職となり、直接前戦に赴かなくなってから久しく、それは赤坂に安全を保証したが、その代償として、常に心のどこかがズキズキと疼くようになっていた。梨花を救えなかった嘆き、怒りを仕事にぶつけることができなくなり、裡に秘める虚無は広がりを見せていた。大石だけではなく、人は皆老いてゆく。赤坂は、この金田と名乗った中年の議員も、自分と同じだけの虚無が巣食っているのだろうかと思った。

 しばらくして本題に入った。

 

 

「竜宮礼奈……例の少女Aですか」

「ええ。私は、彼女が起こした事件の際に居合わせていませんでしたから。籠城事件での彼女のこと、何か気づいたことがあったらと。もう随分昔のことで、無茶を言っているのは承知しているんですが」

「確かに印象深い事件でしたが、数日後にもっと衝撃的出来事がありましたから。これは言わずもがなですが」

「……」

「竜宮礼奈を連行して、パトカーで彼女の隣に座りましたが、彼女はとても落ち着いていまして。とてもあんな事件を起こす子に見えなかったんですよ」

「……落ち着いていたんですか。大石さんの話だと、随分派手にやった印象だったんですが。すぐに落ち着けるものなんでしょうか」

「まぁ……私も籠城事件の細部まではもう覚えていないんですがね、赤坂さん。ただ、彼女はどこまでも冷徹に、周到に狂っていた。そんな印象です」

「矛盾していますね」

「ええ、矛盾していました」

 竜宮礼奈の犯行は、大石から見ても極めて計画的なものだった。中学生の少女が考えを振り絞って、時限式タイマーだのを持ち出したのと同じ口で、村人は宇宙人に支配されているなどという妄想を、大真面目に語っていたのだ。ただ狂っている、と断じるだけでは足りないような、そんな名状しがたい雰囲気を、少女は醸し出していた。

 幸い事件は軽症者数名を出すのみにとどまったが、前原圭一があの場にいなかったらと思うと、大石はぞっとしたものだ。もっとも、せっかく助けられた彼らは皆、数日後には還らぬ人となるわけだが……

 

「……それにしても、彼女は今も無事生きていたんですね。大災害で村人が全滅してしまって、彼女のあの友人たちも皆亡くなってしまったんでしょうが。なんとなく、彼女も彼らに殉じて……という雰囲気がありました」

「それは、どういう?」

「いえ、赤坂さん。つまり、それだけ彼女とその友人たちは、何か深い縁で結ばれているような、そんな気がしたんですよ。赤の他人の目から見てもね」

 

(深い縁か……)

 

 竜宮礼奈が、古手梨花とも親しかったことは、大石から聞いて赤坂も知るところだ。そういえば、梨花の予言も友人に言及していたなと赤坂は思い起こした。

 

「大好きな友人たちに囲まれて、楽しく日々を過ごしたい……それだけなの。それ以上の何も望んでいないの」

「梨花ちゃん……」

「死にたくない……」

 

 大好きな友人たち。竜宮礼奈も、梨花の言う友人たちに当てはまるのだろう。

 

(梨花ちゃんは、竜宮礼奈の妄想を、どんな顔をして聞いていたのだろうか? 私に予言を伝えたときに見せた、何かに耐えるような、あの氷のように無機質な表情だろうか。それとも、初めて会ったときのような、あの天使のように無垢な表情だろうか?)

 

 

 

 

「ふう……」

 

 大石と金田はすでに酔い潰れて眠ってしまった。あまり酒を飲む気になれなかった赤坂だけが起きていて、二人が風邪を引かぬようにと毛布をかけてやった。

 あの日もこんな感じだったなと、赤坂は思った。梨花の発したSOSに、手遅れになってから気づいたあの日。赤坂は、あれほどの熱量を持っていたのに。待ち望んでいた封鎖解除で、雛見沢村に足を踏み入れてたにもかかわらず、今は当時ほどの心のざわめきはない。

 どうしてだろうか、と赤坂は自問する。

 今も昔も、この事件を解決したい気持ちは変わらない。それなのになぜ……

 

(いや……わかっているじゃないか)

 

 赤坂は疲れたのだ。日々の激務の寸暇を縫って、妻の死、怪死事件、大災害を調べ続けても、いっこうに解決の緒をつかめない。そんな状況が5年、10年、20年と続き、精も根も尽き果ててしまった。

 いや、もっと言えば飽きたのだ。大石とは違い、赤坂にはまだ残りの人生が待っている。結局何の成果も残せぬだろう仕事に、打ち込み続けることはできない。

 それでも、そんな自分を誰が責めることができようか。自分は精一杯やったのだ!

 梨花の予言をさして重視せず、大石らに伝えることもせずに、妻の死という悲しみに酔い続けて、少女が差し伸ばした救いの手に、まったく気付かずに終末を迎えた。その罪滅ぼしを、今日までしてきたのだ!

 

(……醜いな)

 

 かつての自分はこうではなかったのに。

 考えが悪い方に向かって行く。するとそれを拭おうと、つい都合のいい空想をしてしまう。あの予言を思い出して、事件から、大災害から梨花を救いに行く。そんな都合のいい展開。

 

(馬鹿げている)

 

 自分も少し酔いすぎているのかもしれないなと、赤坂は思った。

 

 



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追憶と、少女の予言

「まもなく、名古屋ー、名古屋です」

 

 東海道新幹線の、柔らかなシートに凭れながら、降りる駅を報せる、間延びしたアナウンスとともに、赤坂の目は覚めた。何か夢を見ていた気がしたが、あいにくと覚えていない。夢とはたいていそんなものである。

 乗車口が開き、せわしなく人々が電車から降りてゆく。行き交う無数の群衆。皆顔を合わせることもなく、表情も歩き方も服装も、似たり寄ったりで、無個性であることが個性であるとでも主張したげである。赤坂もまた、そんな彼らの中の一人であった。

 赤坂が村を訪れるのに、深い理由はない。

 ただ、毎年この時期の妻の命日から、なんとなく逃げ出したかったのかもしれなかった。仕事が忙しければ、全てを忘れて仕事に没頭できる。だがあいにく、つい先日に大きな事件を解決したばかりで、働き詰めの赤坂を見計らって、上司が休暇を勧めてきた。有給休暇もなかなか消化する機会はなく、申し出をありがたく受けたが、本音のところ、この時期に東京で一人では心は休まらなかっただろう。

 赤坂は北陸地方のとある有名な温泉街へと静養へ行く道中に、懐かしくも忌まわしき、あの村を訪れようとしている。何が自分を駆り立てるのかは、赤坂にも分からなかったが、なぜだか、いてもたってもいられなかった。

 

 

 

 名古屋駅から電車を乗り継いで、三時間ほど経ち、いよいよ目的地である興宮駅が近づいてきた。車窓に目をやると、都会の景色とは全く異なる、見渡す限りの大自然が広がっていたが、それに感嘆する余裕はあまりなかった。

 大都市の中心部を走る電車と異なり、このあたりは駅と駅の区間が広いため、体感時間は余計に長く感じられる。ローカル線のくたびれた電車内はいまだ空調が完備されておらず、照りつけてくる陽射しが余計に暑さを助長している。滴り落ちる汗を幾度となく拭きながらの長旅は、体力には自信のある赤坂をしても疲労させた。

 電車は興宮の二つ前の駅に、数分の間停車していた。すると、人の疎らで静かな車内に、ひぐらしの鳴き声がよく聞こえてくる。それは否応なしに夏の訪れを予感させるものだった。彼らの声は、赤坂の耳には自分を歓迎しているようにも聞こえた。

 

(そういえば、以前ここに来たときも、この蝉の鳴き声が聞こえていたな)

 

 ……興宮の改札を出てすぐ、5年前と変わらぬ風采を保つ大石が赤坂に気づいて、声をかけてきた。

 

「おおーい、赤坂さーん。こちらですよー」

「大石さん、お久しぶりです」

「いやぁー、見ないうちに立派になっちゃって。顔もすっかり精悍になりましたなぁ」

「そういう大石さんは、変わっていないですね。一目でわかりましたよ」

「いやぁー、私も定年間際で、そろそろ身体に変調をきたすころなんですがね、ありがたいことにまだ健康そのものです」

 

 ここ数年、赤坂と大石のやりとりは、年賀状を交わすのみとなっていたが、かの建設大臣の孫の誘拐事件の際に、共に死線をくぐり抜けた者として、年月を経ても互いの信頼関係は失われていなかった。今回赤坂から連絡を受けた大石は、懐かしい顔を一目見ようとこうして真っ先に迎えに来たのである。

 久々の再会で、二人は羽目を外して遊び倒した。麻雀はあいも変わらず赤坂の独壇場で、密かに腕を磨いていた大石は、またしても人生の先輩としての面目を失ったが、それならばと女や酒の席に赤坂を引っ張るも、これまた既に青さを乗り越えていた赤坂が、存外に胆力を見せたことは、大石を喜ばせた。いつだって、青年の成長ほど見ていて嬉しいものはない。それが共に闘った仲間ならば、喜びもひとしおである。

 

 

 

 

「……今年で5年目ですか?」

「ええ。妻の実家の方とは、当初こそ連絡は密にとっていましたが、最近は……向こうも私を見るのが辛いようで」

「それは……なんとも」

 

 赤坂の妻、赤坂雪絵は、彼が雛見沢に訪れている間に事故死してしまった。当初は殺人も視野に入れたが、調べるほどに事故死以外の結論を導くことはできなかった。もうすぐ彼女から、新たな生命が産み出されるという、その矢先のことで、赤坂の落胆は甚だしかった。あの時、梨花の警告を聞いていれば……赤坂は何度もそう思わずにはいられなかった。

 雪絵が事故死した当日、赤坂は誘拐犯との激戦を終えて、疲れた身体を慰めようと、妻に電話をかけようとした。ところが、診療所内の電話、そして村に二つしかない公衆電話、そのいずれの受話器のコードも、不自然に切断されていた。犯人は梨花であった。

 

「なっはっは。偶然でしょ。古手梨花のイタズラが、折悪く赤坂さんの不幸と重なった。そういうことでは?」

「……大石さんは以前私に、古手梨花はオヤシロさまの生まれ変わりだとか言っていましたよね」

「ああ、あれですか。まぁ村の老人らによると、知らないはずのことを知っていたり、未来を予言したりと。眉唾ですがね」

「予言……?」

「赤坂さん?」

「……」

 

 はっとしたまま口を噤む赤坂のようすを、怪訝に思った大石が声をかけるが、聞こえていないようである。それというのも、彼はある記憶を、思い起こしていたからであった。

 

 

 

 

「……平和が?この村に?」

「これから毎年、血生臭いことが起きるのに?」

「私ね、あと何年かすると、殺されるの」

「多分、決まっていることなの」

「それを私も、知りたいの」

「これを伝えても、何も変わらないかもしれないけど」

「……私は、幸せに生きたい。望みはそれだけ」

「大好きな友人たちに囲まれて、楽しく日々を過ごしたい」

「……それだけなの、それ以上の何も望んでいないの」

「……死にたくない」

 

 ……死にたくないーー

 

 

 

 

「そうです!予言です!」

「あ、赤坂さん?」

 

 突然大声を上げた赤坂に驚く大石だが、赤坂はそんな彼に気づくことなく、

 

「どうして私は忘れていたんだ!あの少女は確かに言った!自分は殺される、死にたくないと!なぜ今の今まで……!」

「……赤坂さん。落ち着いて下さい。そりゃいったい何の話です?」

 

 大石の眼光は鋭く変わっていた。赤坂は我に返り、幾分冷静さを取り戻す。

 

「大石さん、いくつかお聞きしたいことがあります。あの、私と雀荘で麻雀を一緒に打った、あの……現場監督。彼がバラバラの遺体になって発見されたということは?」

「……ええ、たしかに。あれは赤坂さんが来た翌年でしたかねぇ」

「では、その翌年、ええと、サトコさんという方のご両親が、転落死……」

「ああ、北条夫妻ですね。沙都子さんはその娘さんです。しかし赤坂さん、よくご存知ですなぁ、娘さんの名前まで」

「ではその翌年、古手梨花の両親が亡くなり、さらに翌年、先ほどの沙都子さんの叔母が亡くなっているとか……」

「……赤坂さん、それをどこで知ったんです?古手夫妻はともかく、北条家の叔母については秘匿がかかっているはず」

「そしてその翌年……」

「……なっはっは。そりゃ今年ですよ、赤坂さん。酔ってます?」

「古手梨花が、殺される」

「……」

 

 大石はしばらくの間絶句していたが、放心しつつある赤坂に対して、真剣な眼差しを向けた。

 

「少し、詳しい話を聞かせて下さい」

 

 

 

 

 

 空は赤く染まり始め、疎らな家々にも電灯の明かりが灯り出していた。梨花たち五人は帰り道を、なるべくゆっくりと歩いてゆく。彼らの表情には、それぞれに何らかの強い意志が見て取れた。オヤシロさまの祟りを防ぐという使命は、彼らを興奮させるに足るものであったらしい。やや不謹慎ながらも、部活の延長としてこの状況を捉えている節があったが、それこそ恐れを知らぬ少年少女たちの美徳でもある。

 ……結局、富竹と鷹野の死を回避する有効な手立ては浮かばず、警官に護衛してもらうか、自分たちが護衛するかの二択ということになった。もっとも納得はいっておらず、こうして帰路につきながらも各々思考を続けていた。

 そんな彼らの元に、一人の男性が声をかける。

 

「おやぁ、皆さんお揃いで。遅い帰りですなぁ、もう日が暮れますよ」

「大石っ……」

「大石さん……」

 

 部活メンバーの表情に緊張が走る。

 大石は、彼らにとって最もよく知る警官だ。幼少より敵視していた魅音などは、良くも悪くもその性質を熟知していた。また、過去もよく知っていた。

 ……この男は、要するに親しい人物の死の謎を説明できる何かを欲しているのだ。目下のところ、園崎家が裏で手ぐすねを引いているという脚本が、彼の復讐にとって最も都合がよいから、そう信じているにすぎない。まもなく定年を迎える大石に残された時間はなく、仮令どれほど眉唾な話でも、鵜呑みにしかねない危うさがあったが、それはつまり、富竹と鷹野の死を伝える場合、ひとまず信用してくれそうな人物でもあった。

 だが、あいにくと大石一人というわけではないようである。

 彼らの視線は、大石の後ろにいた人物に向けられた。精悍な容貌で、年の頃なら20代後半といったところだろうか。柔和な表情を浮かべているが、がっしりとした体格とその姿勢は、何らかの武術を習得しているように思われた。この村では見かけない、田舎の匂いのしない洗練された男性。はたして梨花は、その人物を知っていた。

 

「赤坂……赤坂なのですか?」

「久しぶりだね、梨花ちゃん」

 

 梨花は、感極まったように、揺れる瞳で赤坂を見上げていた。赤坂は小さな梨花を見下ろさないようにしゃがむと、その頭を撫でて、

 

「君の予言を思い出したんだ。辛かったね、梨花ちゃん」

「……っ」

 

 その言葉に、耐えていた梨花の涙腺が決壊した。年齢相応の子供のように、泣きじゃくる梨花を、皆は不思議に思いながら見つめている。わけてもレナは、赤坂を知っていた。

 

(この人、大石さんと一緒にいた……)

 

 自分に証言を求めてきた大石と行動を共にしていたということは、彼もまた、雛見沢大災害の解決を希う一人なのだろう。赤坂の瞳を見つめてみたが、誠実そうな外見同様に、裏表があるようには見えなかった。梨花の態度からすると、以前交流があったのだろうか。

 そこではたと、レナは思い直す。

 梨花は、徐々に過去に戻れる時間が短くなってきている、とこぼしていた。ならば、もしかすると赤坂との再会は、彼女にとっては数十年ぶりくらいのものなのかもしれない。梨花と赤坂の温度差は、ここにあるのだろう。

 梨花がこれほど、衷心から感情を表にあらわすのは稀だった。そんな彼女が信用する赤坂も、ひとまず信用してもよさそうである。

 いっぽう、事情をあずかり知らぬ圭一、魅音、沙都子の3人は、「予言」という言葉に疑問を呈する。

 

「あの、赤坂さん、でよろしいんでしょうか、予言っていったい何のことです?」

「失礼だけど、君は?」

「前原圭一と言います。この雛見沢に最近引っ越して来ました。でも、梨花ちゃんは俺の、俺たちの友人です」

 

 圭一の発言につられるように、魅音と沙都子も、赤坂に質していく。赤坂が、彼らに伝えてもいいものかと思案していると、掌に小さくも、暖かな体温を感じた。梨花であった。

 赤坂の手をきゅっと握って、彼を見上げている。その透き通るような眼差しは、どこか既視感があったが、不安の色も見てとれた。

もう一度、彼らを見る。皆、梨花のことを心配しているのだろう。梨花もまた、彼らを信頼しているのだろう。

 梨花は、予言のことを伝えて、彼らの信用を失うことを恐れている。だが、決してごまかしを許さぬだろう視線に、真摯に応えようと思った。

 梨花の手を強く握り返す。少女は驚いて見上げてきた。赤坂は無言だったが、視線だけが雄弁に語っていた。

 

(なにも心配しなくていい)

 

 やがて梨花は、小さく首を縦に振った。

 

 

 

 

 

 

 

 




・地元出したかっただけ
・どうみても事案


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結集

「これが、私が5年前に梨花ちゃんから聞かされた予言だよ」

 

 古手梨花が、5年も前に連続怪死事件を予言していたという赤坂の言葉に、皆はしばし言葉を失う。当然であった。しかし、レナだけは冷静に赤坂の言葉を受け止めている。

 

「……君は驚かないのかい?」

「……ええ。私は聞かされていましたから。もっとも、つい最近のことですけど」

「ちょっと待て、レナは知ってたってのか?」

「うん。富竹さんと鷹野さんが危ないってことは話せたけど、どうして知ってるのかを言えなかったのはこういうことだよ。ちょっと信じがたいでしょ?」

 

 レナの言葉で皆は複雑そうな顔つきになった。たしかに、梨花の予言で知ったというのは現実的ではない。情報源を明らかにできなかったのもやむを得ないところだろう。だが圭一は、それを否定する。

 

「でも、俺は信じるぜ!」

「……!」

「いや、まあ確かに梨花ちゃんの予言だってのは普通は信じられないだろう。でも、結局のところ予言がどうとかどうでもいいんだ!梨花ちゃんが救いを求めている、それだけで俺たち仲間は動くだけだ。そうだろ、みんな!?」

「……そうだね。予言だから信用するしないじゃなくて、梨花ちゃんが言うことだから信用する。それだけだね!」

「そうですわ!梨花が嘘を言うはずありませんもの。レナさんにだけ話したのも、きっと何か訳があるんですわ」

「……みんな」

 

 やはり、皆は梨花の言葉を信じてくれた。この少女は、幾度も期待を裏切られ続けた結果、他者の心に踏み込む能力を退化させてしまっている。おそらく、かつてまだわがままで、不合理な死を知らず、太陽の下で限りない生を謳歌していたころは身につけていただろう能力。

 圭一たちは、始めから梨花に手を伸ばし続けていた。それを受け止めるのも跳ね除けるのも、梨花次第である。

 

「ボクの言うことを信じてくれてありがとうです。ボクは全てをお話ししたいと思います。もちろん、赤坂と大石にも」

 

 

 

 

 

「では、みんな座ったところで、お話をさせていただきますです」

 

 梨花と沙都子が生活を送るこの部屋に、これほどの人数を招き入れたことは当然なく、ただでさえ狭い部屋はより狭く感じられる。彼らは皆黙して梨花の言葉を待っている。かくして梨花は静かに語り始めたのだった。「東京」のこと、雛見沢症候群のこと、山狗のこと。

 まるでSF小説のような内容に、最初に疑問を呈したのは、やはりこの中で最も頭が固い大石だった。梨花が語り終えたおかげで部屋に戻った静寂を、やや疲労の色を携えた声色が破る。

 

「まぁ……梨花さんの言うことを疑うわけではないんですが。こういっちゃなんですが、赤坂さん。こういう話はあり得るものなんですかね?」

「東京という機関があるのは間違いないでしょう。中央で裏仕事をしていると、そういう連中の影がちらつくことはあります。秘密結社というと穏やかではないですが、某二大政党の支持基盤にも、怪しげな団体は星の数ほどあります」

「ふーむ……」

「雛見沢症候群。これについてはなんとも言えませんが、村の歴史を鑑みても、厳格な掟や昔話は、その風土病と共生していくための教訓といえるでしょう。……大石さんも、薄々感じていらしたでしょうが、あの建設大臣の孫の誘拐事件は、田舎のいちヤクザにすぎない園崎家の規模では実現は不可能です。連続怪死事件にしても、国家の一組織の暴走というストーリーのほうが辻褄は合います。とすると実力組織として山狗という連中がいるのは当然です」

 

 現役の公安警察である赤坂が梨花の説明を支持したことで、にわかに現実味を帯びた話に思えてくる。話の内容よりも、それを誰が言ったかが注視されるのは、不変の真理だった。

 

「でもあれだな、全部が園崎家の掌の上、っていう考え方は冷静に考えるとおかしいもんな」

「園崎さん。本当に園崎家は一連の事件には無関係だと?」

「一種のブラフだね。婆っちゃが笑みを浮かべると、周りのみんなが勝手に都合よく解釈するわけ。それにしても、うちも連続怪死事件を利用したことは否めないけど、わけのわからない連中の隠れ蓑にされていたってのは腹が立つね!」

「……」

 

 難しい顔をした大石。頭では理解していても、感情がそれに及ばぬことは往々にしてあるものだ。

 園崎家を敵視して5年。ダム現場監督の仇を討つとその亡骸に誓ってから、無我夢中で真相を追い求めてきた。今回その真相は、園崎家が全くの無関係であるという姿で大石の目の前にぶら下げられた。一旦それに飛びついてしまえば、今までの自分の捜査は水泡に帰すように思われた。自らの過ちを素直に認めるには、大石には若さが足りなさすぎたのだ。

 そんな彼に、レナが声をかける。

 

「大石さん、園崎家は無実なんですよ。魅ぃちゃんに謝らなきゃ」

「竜宮さん、しかし」

「……大石さん」

 

 レナの口調に、断固たるものが感じられて思わず大石は口を噤む。

 レナは視線を梨花にやる。梨花は自分に向けられた瞳の意図がわからず、小さく首をかしげる。だが大石は、レナの言わんとすることがわかったような気がした。

 梨花は話す勇気を示した。

 ならば、自分も受け容れる勇気を示すときなのだろう……そう思えた。

 

 

「……そうですね。園崎さん、大変申し訳なかったです」

「……いいよ。紛らわしいことしてきた婆っちゃが一番悪いんだから。大石さんには散々煮え湯を飲まされ続けてきたけどさ、ここにいる以上大石さんも仲間だから」

「そうそう、魅ぃちゃんの言う通り!大石さんも過去は水に流してあげてください」

「……ええ。竜宮さん、ありがとうございます」

 

 園崎との確執は、簡単には払拭されない。だが、和解を示したという事実が大事なのだった。

 

 他方、沙都子は何やら放心しているのか、うわの空で皆の会話を眺めている。やがて、

 

「……梨花。まさかいつも打っている注射って、そういうことでしたの?」

 

 小さくこぼれたその言葉に、さっきまでの喧騒は嘘のように、しんとした静寂が再び部屋を領した。

 梨花が話せなかった理由はここにもあった。人には、知らなくてもいいことがある。沙都子にとってのそれが雛見沢症候群であることは言うまでもない。

 

「注射って、何のことだ?」

「……沙都子は、毎日2回のお注射をしています。雛見沢症候群の末期症状を抑制する薬なのです」

「末期症状!?」

「はい。沙都子には、入江の研究の協力のための注射で、見返りに生活費をもらっている、と説明してきました」

「そんなっ……梨花、何を言ってるんですの?」

「……沙都子。大丈夫、あれは事故なのです。沙都子のせいではないのですよ」

「うっ……うぅ……!」

 

 嗚咽が止まらない沙都子を、梨花は優しく宥める。

 暫くして落ち着きを取り戻した沙都子は、泣き腫らして瞼を赤く染めながらも、もう立ち直ったような気配を見せていた。それは、強くあらねばならないという悟史の呪いか、あるいは梨花の為か。いずれにせよ、沙都子は梨花の仲間として、梨花に並び立つ。

 もっとも、本題はここからだった。

 

「さて、実はもっと恐ろしいことが雛見沢で起きます。こればかりは、さすがに信じられないかもしれませんが……雛見沢村は、6月26日、あるいはその前後に全滅します」

「……は?」

「えっと、全滅って?」

「鬼が淵村から火山性の毒ガスが湧き出て、一夜にして村人が全滅するということです」

「なっ……」

「……それも予言なのか?」

「はい。そしてこの災害は、先ほどの山狗が関係していると思われますです」

「……なるほど。梨花ちゃんの死がトリガーになるということか」

「流石赤坂なのです。ボクが死ねばみんな大変なことになる。それを防ぐために村人をみんな死なせてしまおうと、そういうことらしいのです」

「そんなっ……!」

「マジかよ……!」

 

 これには皆色めき立つ。

 ここまで富竹、鷹野、梨花の3人を守ることが当面の目標と思われていたのに、自分たちも含めた村人らの生存も勝利条件に加えられてしまった。

 自分たちだけの生存を考えるのならば、今すぐに皆で雛見沢から離れればよい。大災害が起きたなら、それは死を免れたことになるし、起きないのなら、梨花の死という必要条件を満たせなかったために、計画が中止されたことを意味する。ほとぼりが冷めたころに村に戻ってきて全て一件落着と相成るかもしれない。しかし、大災害が起きないというのは希望的観測にすぎまい。また、自分たち以外を全員見捨てることに他ならない。

 

「かといって、村人みんなが信じてくれるわけはないし……」

 

 しかしここで、魅音が口を開いた。

 

「村人みんなを、村から脱出させられる人が一人だけいるよ」

 

 

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 古手家へと入っていった彼らを見届けると、監視を続けていた男は、無線機で上司に連絡をとる。Rへの警戒を強めろという指示は、男には理解の及ばぬことであったが、彼女の勘も、あながち的外れなものではないらしい。

 

「鷹野三佐、Rが友人らと、刑事を含む大人2名を自宅に招き入れました」

「……刑事、って誰かしら?」

「興宮署の大石刑事です」

「それじゃあもう一人の大人は大石さんの部下かしら?」

「いえ、もう一人は見覚えのない男性です。ただ、立ち振る舞いから、ひとかどの人物だと思われます。村の人間ではないでしょう」

「工作部隊である山狗の、あなたたちがそう言うのならば、外部の人間なんでしょうね……至急調べなさい。万一はないとは思うけれども、不確定要素はない方がいいわ」

「はっ」

 

 白衣姿で無線機を扱う姿は、診療所の和やかな雰囲気と対照的で、あまり似合ってはいない。やはりこういう仕事をするときは、あの黒い外套がよく映える。

 これから人を殺す算段をするのにもかかわらず、人を救うための看護服を纏っているのは、なんとも皮肉が効いているが、もはやその種の感傷を抱くには罪を重ねすぎたなと、鷹野は思った。

 椅子から立ち上がって先程飲み干したカップにコーヒーを入れると、立ち昇る湯気は香りも芳い。口をつけ、渋い苦味を味わう。こうしていられるのも、もう残り僅かだった。コーヒーとともに、忘れ得ぬ苦い記憶も、あらかた飲み干してしまえた気がした……

 

 

 

 

 

 

 




3話の修正するっていったけど、適切な言い回しが浮かばなくて。もう少しばかりお待ちを。
12話は明日、13話は明後日。たぶん。


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蠢動

 外はすっかり夜の帳が下りていた。圭一、レナ、魅音、3人は神社の石段を下りながら帰路につく。祭りの設営はだいぶ進んでいるようだった。このぶんなら、当日はつつがなく催されることだろう。

 赤坂は、梨花らを護衛するためにしばらく同居するのだという。なぜだか梨花は顔を赤らめながら猛然と反対していたが、彼女の命に代えられるものはない。多数決であえなく梨花の意見は退けられた。

 大石とは先ほど別れた。彼は、本当に信頼できる者に鷹野と富竹を護衛させる気らしく、一足先に署に戻っていった。

 やがて魅音とも別れ、帰る方向が同じ圭一とレナの二人きりになった。

 嵐の前の静けさともいうべき静寂さが、雛見沢を包んでいる。この数日よくすだいていたひぐらしの声も聞こえてはこない。二人も言葉少なで、足取りもゆったりしている。

 

「なぁ、レナ」

「なに、圭一くん」

「お前さ、なんていうかちょっと変わったことないか?」

「え?」

 

 圭一の言葉に、レナは意表を突かれたような素振りをみせる。

 

「ううん、でも変わったように見える?」

「ああ、なんだか雰囲気が変わったような気がする。はうーとか、お持ち帰りーとか、そういうの言わなくなったからさ」

「……そうかな?かな?」

「いまさらそんな口調になっても遅いぞ」

「あはは、そうだね」

 

 レナは自分では、14歳を演じきれていると思っていたが、いつも一緒にいる圭一には容易に見抜かれていたらしい。このぶんだと、何も言わぬ魅音や沙都子もそうなのだろう。

 

 今は、圭一と二人きりだ。

 彼を意識しだしたのは、いつからだったろうか。もはや思い出せぬほど昔のことだ。底抜けに明るく、騒々しく、時に頼りになる存在。前の世界では被害妄想に囚われながらも、彼のことだけは信じられた。

 羨望があったのかもしれない。圭一の明るさ、それは当時のレナのように、内々の鬱屈した感情を誤魔化すための、見せかけの明るさではない。雛見沢での日々を、心の底から楽しんでいるからこそ溢れる笑顔。その笑顔が、レナにはあまりに眩しくて……

 そして、校舎の屋上で、満月の下で干戈を交わしたあの夜……

 圭一の金属バットと、レナの鉈が、同時にぶつかり、金属音は心地よく響もして、激しく火花が散る。宇宙人も、寄生虫も、雛見沢で蠢く陰謀も、なにもかもがどうでもよくなって、レナは楽しくなった。レナはあの瞬間、久方ぶりに屈託なく笑えた気がした。圭一も同じように笑っていた。彼の笑顔は、今まで以上にレナを魅し、眼交のレナを写すその瞳の、燃えるような色に吸い込まれて、しばらく眼を離せなかった。

 彼の一撃は、どれも重かった。彼の一撃は、どれも美しかった……

 全力で戦った。レナも圭一も、しだいに疲労の色が濃くなって、得物を握る力も緩みはじめる。やがて最後の時が訪れる。果たして、勝者であるはずのレナは泣いていた。敗者であるはずの圭一は小さく笑みを湛えていた。圭一は、試合には負けたが、勝負には勝ったのだった、レナの虚妄を打ち破るための、彼自身の戦いに。

 圭一はレナを優しく抱擁して、仲間を信じるという、当たり前で、とても大事なことを教えてくれた。何事も、他者の力を借りずに独力で成功することはない。人々は今日も誰かを支えながら、あるいは支えられながら生きてゆく。圭一は身命を賭してそのことを教えてくれた。

 あの瞬間、レナの圭一に対する寄る辺ない、淡い思いは確かな恋心に昇華された……

 

「でもさ、今のレナの方が自然な気がするな」

「本当?」

「ああ、だからこれからは無理して明るく取り繕わなくていいぞ」

「……うん」

 

 

 

 

 

 

「あれ、富竹さんと鷹野さんじゃないか?」

「え?」

 

 レナの家が近づき、二人きりの時間が終わりを告げるかというところで、圭一は富竹と鷹野が、なにやら話しながら歩いているのを見つけた。富竹は愛用の自転車を両手で押しながら、鷹野の歩幅に合わせている。やがて二人もこちらに気づいたようで、

 

「やあ、圭一くん。それにレナちゃんも。こんな時間に二人で帰るなんて、最近の子どもは進んでいるなぁ」

「そんなんじゃないですよ、富竹さん」

「おや、そうかい?彼女の方は、満更でもないようだけど」

「あはは……富竹さんの方こそ、鷹野さんとデートですか?」

「あ、いやこれは……」

「そうよ、レナちゃん。ジロウさんったら強引でね。こんな時間からじゃ撮影なんてできっこないわ」

「いや、まいったなぁ」

 

 和やかに会話が進む。二人を見ていると本当にお互いを信頼しているようで、レナも圭一も、こんな二人がもうすぐ殺されてしまうなんて考えたくはなかった。

 

「あの、お二人ともちょっと真面目なお話があるんですが……」

「おや、なんだい圭一くん、改まって」

「実は……今度の綿流しのことなんです」

「あら、前原くんは最近引っ越してきたばかりだから初めてよね?都会の子はあまり楽しめないかもしれないけれど」

「いや、お祭りのことじゃなくて、綿流しの日に、いわゆるオヤシロさまの祟りってヤツが起きるじゃないですか」

 

 圭一が「祟り」の言葉を口にすると、二人ともさっと顔色を変えた。富竹はいくぶん真剣な口調で、

 

「……一部の村人たちが、綿流しの日に何年か続けて起こった事件を関連づけてそう呼んでいるのは間違いないよ。でも、個別の事件に関連性はないし、客観的に見ると、偶然の事件なんだよ」

「いえ、今年の祟りのことなんです」

「……どういうことかしら?」

「えっと、今年の祟りの対象が、その……」

 

 流石に当人らを目の前にして、二人が祟りにあうと言うのは、圭一をしても憚られたようだったが、レナがその言葉を引き継いだ。

 

「今年の祟りの対象が、富竹さんと鷹野さんになるという噂があるんです」

「僕たちが!?嫌だなあ、レナちゃん、冗談にしては面白くないよ?」

「……」

 

 レナの言葉に大仰に反応した富竹とは異なり、鷹野はなんの反応も示さない。

 

「あくまでも噂なんですが……ただ、お二人にはどうか身の安全を考えて頂きたくて。祟りが今年も起きない保証はどこにもないですから……」

「そうです!それに、そういう噂を真に受けて本当に実行する奴がいるかもしれないでしょ?」

「うーん。まっ、一応気をつけておくよ」

 

 二人の熱情に絆されて、多少の譲歩をみせた富竹だが、やはり本気で信じてはくれないのだろう。子どもが何を言っても、彼ら大人は笑いながら受け流す。むしろ不快感を見せぬあたり、彼は出来た大人なのだろう。

 だが、鷹野はやはり表情を変えない。

 ふいに、彼女が口を開く。

 

「……その情報、誰から聞いたの?」

「えっと、それは……」

「それが分からないんです。私たちも偶然聞こえただけなので。誰かがそんな会話をしていたんです」

「……そう」

 

 富竹と違い、思った以上に真面目に考えてくれている。もしかしたら、彼女は信用してくれるかもしれない。そして彼女の言うことならば、富竹も受け止めるだろう。少しだけ道が開けてきた気がした。しかし、鷹野は二人になんの脈絡もない問いを投げかけてきた。

 

「ねえ、二人とも。オヤシロさまの存在って、信じる?」

 

 

 

 

 

 興宮地区にある小此木造園は、表向きはなんの変哲もない小さな造園会社だが、実際は山狗によるダミーカンパニーだった。無論、通常の造園業務も営んでいるし、これは立派な建設業にあたるため建設大臣への許可申請も済ませてある。もっとも、例の大臣孫誘拐事件とは無関係であるし、要件を満たす以上建設大臣はこの申請を無下にできない。しかしこの会社で数年も地元住民と交わるうち、彼らは立派にこの地方に溶け込んでいた。潜入工作で大事なことは、平時においてはその対象に貢献することだ。小さいながらも確かな技術をもとに、人々に恩恵を与え、信頼を重ねている。雛見沢分校の造園業も委託されているが、言うまでもなく古手梨花の監視と護衛も兼ねているだろう。

 営業時間もとうに過ぎていたが、電話が鳴り出した。緊急用の電話だった。小此木は静かに受話器を取る。

 

「鷹野よ」

「こんな夜更けにどうされました、鷹野三佐」

「……作戦が漏れているということはない?」

「はい?」

 

 小此木はこの質問に対して、若干の苛立ちを込めて返答する。なぜなら、潜入工作を得意とする山狗が慎重に慎重を重ねているのだ。彼女の問いは、山狗を信用していないと言っているのに等しい。

 

「三佐、日にちが近づいて不安になるのもわかりますが、なんも心配はいりません。万事我々にお任せを」

「……私と富竹が綿流しの日に祟りにあうという噂が流れていても?」

「……どういうことですか?」

「どうもこうも、近所の子どもから伝えられたことよ。どれだけ噂になっているか知らないけれど……」

「……わかりました。大至急調べます」

「ええ、大至急よ。……そういえばさっき調べさせた大石と一緒にいた男、何者かしら」

「それについては判明しました。どうも公安の者のようでして。例の大臣孫の誘拐事件のときに潜入した公安の男と同一人物ではないかと。自分ともう一名は、その男と対峙しましたから顔は覚えています。裏付けはまだですが間違いはないでしょう。赤坂衛。あの若さで当時警部でしたから、キャリア組です。今は警視でしょう」

「……その公安に作戦が漏れていないという保証は?」

「……あり得ないとは言えません」

「なら大至急調べなさい!もうすぐ綿流しなのよ!余計な横槍を入れられるわけにはいかないわ」

「はい、承知しました」

 

 鷹野からの電話が途切れると、小此木は作業服姿の男たちを睥睨しつつ、

 

「把握したな?公安が一匹潜りこんでいるようだ。中央の公安の動きを注視しろ。あとは赤坂以外に本当にネズミがいないかもう一回洗え!」

 

 彼らへの指示を一通り終えると、小此木はまた電話をかけはじめた。自分とこの相手に繋がりがあることは、鷹野には言えないだろう。所詮は保険のための連絡手段だったが……

 

「……作戦の修正が必要だな」

 

 受話器を耳にあてながら呟く。しばらくしてから電話が繋がった。

 

 

 

 



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秒針

 縁側で夕涼みをしながら、梨花は自作のてるてる坊主を見つめていた。明日は晴れて欲しかった。

 母は天候に一喜一憂する梨花を、最期まで理解できなかった。驟雨に見舞われて、びしょ濡れになった身体を震わせながら、何が楽しいのか、上機嫌になっていた少女。晴天に辟易して、雨が降るようにとてるてる坊主を逆さまに吊るしながら、退屈そうな表情を浮かべる。一挙手一投足が、母には不気味なものに見えたのだろう。

 別に雨を欲しているわけではない。

 どんな雨も、少女の喉の渇きを満たしてくれはしない。気まぐれだけが、枯れゆく心を癒してくれた。やがて緩慢な死を迎えるにしても、退屈だけは嫌だった。

 けれども。明日だけは、晴れて欲しい。

 綿流しの日の天候は、比較的ランダムで、大雨の世界もあれば、晴天に恵まれる世界もある。梨花がこのてるてる坊主を、正しい用途に使ったのは初めてだった。

 

 てるてる坊主のルーツを辿ると、「坊主」の名を冠してはいるが、もともとは女の子であった。古の中国は北京の、ある六月のことである。突如として激しい雨におそわれた街は、甚大な被害を受けたという。

 そんな水漬く街並みを見て、深く嘆き悲しんだ晴姫という少女は、雨が止むように天に願い、祈りを捧げた。

 晴姫のもとに、天から声が聞こえてくる。

 

「東海龍王が、晴娘を太子の妃に所望している。これに応じなければ、北京を水没させようぞ」

 

 心優しい少女は、果たしてこの提案を受け入れた。一陣の風とともに、少女は忽ち天へと召され、街は、人々は救われた。雲間からは光が差し込み、雨水は大地へと還っていった。

 後年、人々は6月に雨が続くと、街の娘らに人型の切り紙を作らせて、門に飾るようになったという。切り紙を生業としたという晴姫を偲んでのことであった。

この話が日本に伝わり、今日のてるてる坊主に繋がったというのが、最も有力な説らしい。

 

 天候を操るのは、神の所業だ。人の身にはおこがましい。それでも、人々は、ある時は晴れを、ある時は雨を願って、さまざまに知恵を働かせてきた。

 神の火を開発し、月にまで到達した現代人は、いまだ天を領してはいない。人間は自然を征服した気でいながら、人間自体も自然物であることをしばしば忘れる。人間が真に自然を征服するのは、人間を征服したときである。

 

 

 

 

 

 切らした豆腐を一緒に買いに行こうと、梨花に声をかけようとして、沙都子は押し黙った。縁側にかけられた、少しくたびれた、一体のてるてる坊主。それを見つめる梨花の表情に、何かしらの、端倪すべからぬものを見た気がしたからである。

 こういう梨花を、沙都子は知っていた。

 

 梨花との邂逅がどんな形だったかは、遠い記憶の彼方で、もはや思い出すことはできない。いつしか、自然と仲良くなっていたのだろう。

 幼い二人は、お互いどこへ行くのにも、いつも一緒だった。うららかな春、だだ広い草原に二人で寝そべり、爽やかな風に吹かれながら、何するでもなく笑いあった。

海のない雛見沢では、盛夏は興宮にある公営プールへ毎年のように行った。秋深まる日々には、赤く彩られた山々の、なだらかな稜線を目指して、山道を探索した。歩き疲れて、梨花も沙都子も泣きじゃくって、大声をあげると、決まってやまびこが返ってきて、その間抜けな響きに二人して笑いあった。厳寒の冬は、雪かきに勤しむ村人らを尻目に、互いに雪を投げ合った。

 春夏秋冬を二人で楽しみ、また一年、一年と過ぎていった。月日が経つほど、二人の友情は強くなっていったのに、二人をとりまく環境は、比例して厳しいものになっていった。

 北条家と園崎家の対立。ダム賛成派と反対派の対立。

 いずれも大人の事情である。オヤシロさまの巫女である梨花と、村八分にされた北条家の娘である沙都子の間に、露骨なまでの差別がなされた。

 

 梨花と豆腐を買いに出たある日、沙都子には売ってくれなかった。そのくせ同伴した梨花が同じように買い求めたら、何事もなかったように応対する。沙都子が小銭を落とす。誰も拾わない。梨花が拾いだす。するとそれを合図に、村人たちは拾うのを手伝った。沙都子は、いつも惨めな気持ちになった……なぜ梨花だけが!

 

 梨花の挙措に、自分を慮るものを感ぜられればそれだけ、沙都子は梨花に対して複雑な感情を持つようになった。

 梨花は皆に愛されている。

 自分は誰からも嫌われている。

 聖人君子ではない沙都子は、梨花に対して黝い思いを抱くことはあった。それでも、あくる日、梨花と登校し、二人で会話を重ねるうち、そんな思いも吹き飛んでいった。どうして仲良くできるのだろうか?

 そこに明確な理由なんてない。沙都子は梨花だから親友になれた。梨花は沙都子だから親友になれたのだ。

 

 そんな梨花は、まだ何か大きなものを抱えている。何か大きなものに苦しんでいる。沙都子にはそれが、ありありとわかる。

その梨花の重しを軽くしたのが、レナだろうことも、沙都子には分かった。それが口惜しい。レナへの嫉妬心ではなくて、自分が不甲斐なくて、口惜しいのだ。

レナと梨花が今年の祟りのことを教室で話したとき。沙都子は魅音に追従したが、心境としては圭一寄りだった。今回のことに限らず、梨花は話してくれないのだ。予言のことだって、沙都子は一度だって聞かされたことはなかった。梨花は、大事なことを自分と共有していない。

 たまに心が折れそうになるけれども。それでも、悟史が返ってくるまでは……

 強く、ありたい。

 やっぱり一人でお豆腐を買いに行こうと、沙都子は思った。

 

 

 

 

 今年も、綿流しの日がやってくる。

 これ程待ち遠しく、しかしこれ程来ないで欲しい日もない。楽しいお祭りが終わると、必ず誰かが死んで、誰かが消えてゆく。去年もそうであった。

 魅音は、園崎家が自分たちの影響力を失わせないように、全ての元凶であると振る舞う姿勢を、内心快く思っていなかった。

 どれだけの人が、自分たちの見栄の為に、恐怖に打ち震えていることだろうか。去年失踪した、北条悟史も正にそうだった。

 魅音は、悟史に恋をしていた。

 当時は恋といえるほどの、明確な感情なのかはわからなかったけれど、後から振り返るとあの感覚は、いま圭一に対して抱くものと同じであった。

 悟史と圭一は、およそ性格も風采も違っているのに、何か芯の部分で相似していた。だが、そんな二人の決定的な違いは立場だった。

 村となんらのしがらみも持たない圭一に対して、村八分にされた家の子。魅音は悟史を憎からず思っているのに、悟史は気軽に接してくれる魅音に感謝しつつも、どこか抵抗もあったのか、無意識下で警戒心を抱いていた。

 悟史をなんとかしてあげたいと、魅音は思っていたのに。結果として、それは最悪の形となって現れる。春の陽だまりのように穏やかで、すべてを包み込むような優しい少年は、皆の前から姿を消した。

 後悔先に立たず。人心を収攬する技術に長けていても、肝心要では怯懦な魅音は、己の消極さをひどく憎んだが、それ以上に、詩音は自分を憎んだことだろう。

 悟史が失踪した後。激情した詩音から詰め寄られたあの瞬間。魅音は詩音の瞳に、詩音の、村への憎悪、お魎たち園崎家への憎悪、魅音への憎悪、沙都子への憎悪、そして失踪した悟史への憎悪、果ては、自分自身への憎悪……自らをとりまく全てのものに対する、限りのない憎悪を垣間見た。魅音はその目に耐えきれなくなった。目の前にいる、自分と良く似た、憎しみに身を焦がす少女は、ありえたかもしれないIFの自分の姿なのだ。

 あの日、鬼の刺青を入れた日……「詩音」は「魅音」とたわいもない理由で入れ替わったために、一生消えぬ証がこの背平に刻まれた。その日、詩音として生を受けた少女は、魅音として生きることとなった……

 園崎家の次期当主として、周りからは畏れられてばかりだが、その実魅音は怪死事件については知悉していなかった。だが、今年は少なくとも、標的となる者を事前に知っている。暗躍する連中の目的を、未然に防げるのだ。

 

 ……思考に耽っていた魅音は、ふと時計を見上げると、時刻は間も無く正子に近づいている。明日に備えて、そろそろ床に着かなければならない。

 

(これ以上、この村で勝手はさせない)

 

 

 

 

 

 前原圭一が村に引っ越してきたのは他でもなく、勉強のストレスからBB弾で小学生を失明寸前に追い込んだ例の事件がきっかけである。

 過去の罪業を置き去りにして、リスタートを切る。許されざる行いとは知りつつも、圭一は自分を変えたかった。

 村に来て、両親とも随分と話すようになった。以前は仲が悪い訳でもないのに、特段会話はなかった。これが都会の魔力なのかもしれない。家族同士の間にすら、見えない壁を創りだす人工的な魔術。

 だが、都市の雑踏と狂乱の混沌から遠く離れたこの地では、人間の心の距離はずいぶんと近い。都市の人々は、死への不安と、生の桎梏から逃れるかのように寄り集まっては密集するのに、田舎の疎らに定住する人々のほうが、かえって人間的に近しくあるのは、逆説的に、人間というものの本質を物語るように思われる。現代人は、肌と肌を重ねれば重ねるだけ、お互いに心は離れてゆくだろう。古代から連綿と続いてきた、愛し合う行為に潜む神秘の意義も、いまやすっかり喪失し、皮相的に結ばれる契約に堕された。契約は書面となり、心の軛となり、彼らの人生を縛り付けることだろう。

 ……その点でいえば、雛見沢という村は、この古代の神秘を僅かなり受け継ぎ、われわれが持て余す自由とは別の、真なる自由を保証しているようにも見えなくはない。

 

 ……そう、圭一は自由を得た。

 常に急かされ、進歩することを強制する街から解放され、ゆっくり歩くことの意義を知った。前だけしか見ずに、足早に歩いていては見えぬもの。太陽の変化、雲の変化、風の変化、蝉たちの鳴き声の変化。ふと足を止めると、昨日までは蕾だったものが、今日にははなさいでいるありきたりな神秘。水浅葱の夕空が、広大な田畑一面を美しく照らす。少年の頬に生える微かな産毛の一毛一毛が、秋の豊穣な稲穂のように黄金色に輝きだす。穏やかに流れる時間が作り出す瞬間瞬間の奇跡……

 

 このひと月ほどは間違いなく、彼の歴史の中でもっとも生命力が充溢した日々であった。初めて、生きていることを実感しているような気がした。以前は得られなかった仲間にも恵まれた。雛見沢がいっぺんに好きになった。

 村はお祭り一色で、初めて参加する圭一も楽しみにしている。だが、その祭りに水を指す「オヤシロさまの祟り」が今年も起きる。そして大災害が起きる。必ず防がなくてはならない。

 以前、あたりが漆黒に包まれる夜、見晴らしのよい古手神社の高台から俯瞰したあの景色を思い出す。あれほど広大に思えた雛見沢のかくも小さいこと。この小さな村に住む人々の命。家々の電灯の点々とした光、あれらの一つ一つに生命が宿っている。過去と今と未来が宿っている。

 ようやく見つけた居場所を、壊されるわけにはいかない。圭一の胸に熱いものがこみ上げて来る。この熱情を忘れてはならないと思えた。

 

 

 

 

 

 

 時計の針は進む。

 それぞれの想いを斟酌せずに。時間を誰にも平等に与えてゆく。

 秒針が、上を向く分針と完全な符合を見せた。

 かくして運命の日が、雛見沢に訪れる。

 ……符合したのは一瞬だけだった。秒針は止まらないでただ進み続ける。

 

 

 

 

 




次話は綿流し。


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 誰だって幸せに過ごす権利がある。
 難しいのはその享受。

 誰だって幸せに過ごす権利がある。
 難しいのはその履行。

 私だって幸せに過ごす権利がある。
 難しいのはその妥協。




 四半世紀の歳月が流れ、もはや風化しつつあったかの雛見沢大災害が再び脚光を浴びはじめたのは、言うまでもなく雛見沢村の封鎖解除によるものだった。節操のない週刊誌などの一部マスコミは、過去の事件を掘り起こしては死者を冒涜するのに余念がない。オカルトマニアやミステリーマニアなども同様で、彼らの信奉する真相やら陰謀やら、そうしたものに客観性、信憑性を付与するために、この廃村を訪れては村人たちの安らかな眠りを妨げる。

 しかし極稀に、彼らとは異なる理由で真相を追究する者たちもいる。大石蔵人と赤坂衛がそれであり、彼らは自費で「ひぐらしのなく頃に」なる本を出版し、大衆に向けて情報提供を呼びかけてきたが、封鎖解除後の雛見沢を訪れたことで、この本の一部改訂を行い再版した。その中には、学校籠城事件を引き起こした「少女A」もとい竜宮礼奈の証言も、彼女から許可を得て収録されている。

 後年、竜宮礼奈はとある零細記者から大災害を予期していたのかとの問いを受けた。記者は、たまさかこの本を手に取る機会があったらしく、報道家らしい身勝手な使命感を携えてやってきたわけだが、彼女はそれには答えずに、譫言のようにこう繰り返したのだという(とはいえ記録されていた当日の天候とは合致しないことから、この某記者が記事に奥行きを与えるために挿入したものと思われるため、注意されたい)。

 

「あの日は、雨が……」

 

 

 

 

 

 

 空は晦冥としていて、朝ぼらけだというのに、諸生命を彩るあのあたたかな陽光は感じられず、ただ梅雨の湿気の鬱屈した気配だけが立ち込め、目路の限りに広がる暗雲が空を縁取っていた。

 沙都子も、赤坂も眠っている。羽入は見当たらない。大事なときに、ふらふらと出歩く神様だが、そのうち戻ってくるだろう。

 晴れて欲しいという梨花の願いは届かなかった。でも、傘は持たないで外に出た。傘を差して歩くことで、天が少女へ与える小さな気まぐれを見落としてしまうかもしれない。だが、気まぐれは必ずしも少女に利するものとは限らない。

 やがて、小さな雨粒が頬に降りかかる。冷たい、冷たい滴。歩くうち、徐々に雨粒は大きくなってゆく。雨は次第に篠突いてきて、少女を襲った。

 遠雷が轟いた。どこかに落ちたのかもしれない。にわかに荒れはじめた風は草花をおののかせ、茅屋は軋り音を上げた。少女の肩までかかる長く、濡れそぼった髪を容赦なく吹き荒ぶ。

 息を荒くして歩く。呼吸を求めて口を開くたびに雨水が侵入する。あっという間に、からだじゅうが冷え込んでしまった。

 

(冷たい……)

 

 世界はかくも冷たいものなのか。

 数えきれぬほどの試練を、この身は与えられてきたはずなのに、天はそれでもなお満足してはくれないらしい。

 梨花の心に宿ったはずの希望の灯火が、雨風にさらされて消えそうになる。こんなに儚い焔……

 だが焔は小さくとも何かに燃え移り、一度燃え移れば際限なく燃え広がる。希望とか、勇気とか、この種の心の焔とも言うべきものは、完全に滅せぬ限り、どれほど小さくとも別の何かに着火して、絶望の闇の底にあっても皎々と光を放ち続けるだろう。

 雨はまだ降りしきるも、心なしか弱まってきたように感じられる。雲間から一条の光が射し込んでくる。空を見上げた梨花は、何かを求めるようにその光芒に手をかざして、捉えようと試みる。こんなに微かな光でも、闇を手懐けることだってあるかもしれない。

 そんな少女のもとに、傘が差し伸べられた。

 

「傘も差さずに、風邪ひいちゃうよ」

「レナ……」

 

 不思議と驚きはなかった。

 レナの傘は、赤い。

 

「こんな早くに、どこへ行くの?」

「なんでもないわ。ただ歩きたかっただけ。……本当よ?」

「……そっか」

 

 いまだ降り続く雨音のおかげで、沈黙は苦にならない。二人は噛み締めるように言葉を交わす。

 

「いよいよ今日だね」

「ええ。綿流しの日。そして数多の世界での富竹と鷹野の命日」

「この世界では、防がないとね」

「ええ」

「みんないる。赤坂さんも、大石さんもいる」

「うん」

「……がんばろ?」

「……うん」

 

 

 

 

 

 

 夕刻の古手神社は提灯と露店で華やぎ、行き交う人々が天にかざした雨傘が様々に色を与えている。

 年に一度の綿流し祭は、雨天でも恙無く決行されるが、やはり例年より人足は多少見劣りするようだ。それでも人々は、お祭りという非日常を謳歌する。幼い子供たちが風船を片手に駆け回り、大人たちを和ませる。若者は都会に移り、村では年々子供の姿を見かける機会が減ってきている。お祭りの場に集まった若い活力が、人々にとってどこか懐かしいものに思われた。

 レナは圭一、魅音と共に、梨花たちを探す。この雑踏の中で、人々の差す傘で視界も遮られているから、なかなか彼女らの姿を見出すことはできないでいたのだが。

 

「こんばんはなのです」

「お、梨花ちゃん、沙都子、赤坂さんも!」

「遅いですわ、皆さん!」

「やあ、3人とはあれ以来だね」

 

 梨花は巫女装束を身に纏い、いつにもまして神聖さを備えている。沙都子は軽口を叩きつつもそんな梨花に寄り添っている。護衛役の赤坂だが、数日前よりは幾分表情が柔らかい。

 

「おおっ!梨花ちゃん、今年も衣装決まってるじゃん!」

「梨花ちゃんのは本物の巫女服なのか?」

「これは婆っちゃのお手製なの。本格的でしょ?」

 

 梨花は例年祭りの終わり頃、祭壇で儀式を行う。たとえ幼くとも、古手家の当主は祭りの実行委員であり、この大役も今年が初めてというわけではない。

 

「毎年やってるんだな、大変だろ?」

「お仕事はお祭りの最後だけなのです、例年それまではゆっくり遊んでいるのですよ」

「せっかくの梨花の晴れ舞台、圭一さんも赤坂さんも御覧になるといいですわ」

「……ハードル上げられると恥ずかしいのです」

 

 

 

「あ、魅ぃちゃん。今年はあれやるの?」

「あれ?あー、五凶爆闘……って赤坂さんも入れて六凶かな?」

「……なんだそれ?」

「部活の御披露目をお祭りでやるんだよ、結構村のみんなにも好評なんだって」

「面白そうじゃねえか……でも遊んでもいられないんだよな」

「そうだねぇ……残念だけど」

「とりあえず、富竹さんたちを探そう」

「あれ、そういえば大石さんは?」

「大石さんなら、すでに警備の指揮をとっている頃だよ。配置するのも彼が信用できる人物に絞ったらしい」

「それがいいな。警察内部も信用できないし」

 

 話し込んでいると、一瞬眩い光とともにシャッター音が聞こえてくる。

 

「やあ、みんな」

「富竹さん!」

「おや、今日は見かけない顔の人と一緒だね。初めまして、僕は東京の方でフリーカメラマンをしている富竹です」

「……赤坂です。あなたのことは彼らから聞きましたよ」

「……みー。富竹は人に断りもなく、所構わずシャッターを切る変態なのです」

「あと一向に売れないカメラマンさん」

「君たちには参ったなぁ、僕は真面目なんだけど」

 

 そういって富竹は快活に笑うも、場の雰囲気に違和感を覚えて思い巡らすと、圭一とレナの2人の忠告が思い出された。彼らを見遣ると、やはり心なしか表情が芳しくない。おそらく皆の間で広まっているのだろう。とはいえこの場には初対面の赤坂もいたから、富竹は深く追求はしなかった。

 

「あれ、鷹野さんは一緒じゃないんですか?」

「ああ、彼女もお祭りには来るよ。ただこういったお祭りには人が集まるし、怪我やら不測の事態に備えなきゃいけないからね。入江先生と打ち合わせしているのさ」

「じゃあ鷹野さんとのデートはお預けですか?」

「デートって、ははは。まぁ彼女とはあとで会う予定さ」

 

 

 

「じゃあそれまで富竹さんを護衛します」

「レナちゃん……またその話かい?」

「でも鷹野さんは信じてくれてるようでしたよ、それなのに富竹さんは信じてくれないんですか?」

「うーん、わかった。とりあえず鷹野さんと落ち合うまではみんなと行動を共にしよう。それでいいかい?」

 

レナの雰囲気に呑まれる富竹。それを見た魅音は、

 

「……ただ一緒にいるだけじゃあ、つまらないよねぇ」

「え、魅音さん、まさか」

「部長、園崎魅音の名において、富竹さんを我が部への入部を許可する!」

「おいおい、そんな場合かよ?」

 

この状況下で暢気に遊ぶことは憚れたが、意外にも赤坂は魅音の提案に賛成のようだった。

 

「いや、この大人数で何もしていない方が返って目立つよ。それなら、富竹さんの護衛も兼ねて適度にお祭りを楽しんだ方がいい」

「僕は赤坂がそういうのならそうするのです」

 

 

 

 

 

 

 富竹は童心に戻ったようだった。

 近頃は鷹野も東京の上層部との接衝に耐えかねてなのか、くたびれた笑みを浮かべるばかりで、2人きりのデートの場でもどこか雰囲気は重々しかった。

 東京はアルファベットプロジェクトを平和裏に終えようとしている。小泉氏の死を契機に、東京内部では世代交代の波がおしよせて派閥は激変した。新しい幹部らは、殊に軍事にまつわる計画を槍玉に挙げて旧派閥を口汚く罵倒する。当然、その監査役を務めた富竹も矢面に立たされたのだ。

 鷹野への情か、組織への忠誠か。

 前者を選べば、富竹は失脚するだろう。事故に遭い、自衛官として第一線で働けなくなった非キャリアの彼は、通常なら予備役に配されるところだが、そんな富竹が射撃教官の任に就くことができたのも偏に東京という組織の末席に連なっていたからだ。組織に感謝の念はある。しかし、任務を遂行しようと冷徹になろうとすればするほど、鷹野のあの哀しい顔が浮んできて頭から離れない。誰にも見せぬ、自分にだけ見せたあの哀しい素顔……研究者としての鷹野ではない、ただの鷹野三四。否、あれこそが田無美代子なのだろう。鷹野が非人道的ともとれる行為を是とする度に、あのもう1人の彼女は泣きじゃくってきただろう、あの幼き内面を心の澱に沈め、彼女は精神の均衡をはかってきたのだろう。

 そんな彼女を思うと、富竹もまた悲しくてやりきれない。せめて残された時間を彼女の好きなように研究できるよう取り計らうだけ。富竹は自らの唯一の助力を惜しまぬつもりだった。

 プロジェクトが終われば、富竹もその任務を解かれ、自然雛見沢との距離は遠くなる。彼女との思い出深きこの村を少しでも記憶に留めようと、少年少女らとお祭りを駆け回った……

 

「ここが最後!」

 

 魅音が指さしたのは射的屋だった。

 3発撃ってより大きな景品を得た者の勝ちというシンプルな勝負だった。

 中でもひときわ大きな景品はあのくまのぬいぐるみだろう。やや不安定な台に鎮座するが、コルク栓3発では心もとないかもしれない。

 じゃんけんで順番が決まり、いよいよゲームスタートだ。

 まずは魅音が横に3つ並んだお菓子の箱を目掛けて射撃する。3発で見事全て落としてみせた。いつのまにか集まっていたギャラリーから歓声が上がり、魅音は余裕の表情でそれに応えた。

 2番手の沙都子、3番手のレナはともにくまのぬいぐるみを狙うが、健闘するも落とすには至らない。

 4番手は赤坂だった。現役の刑事である赤坂の腕前はやはり卓越していて、目を眇めて狙いをつけると、正確無比な弾道がぬいぐるみを襲ったが、それでもあと一歩届かない。

 そしていよいよ圭一の番になった。しばらく悩んだあげく、店主に頼んで3丁の銃を貰うと、不敵な笑みを浮かべた。それを見て、魅音が圭一の策を看破して同様に笑った。

 

「つまり、一番時間がかかってるのがこのコルク弾の装填なんだよ」

「じゃあ、先に弾を詰めた鉄砲を3つ並べておけば……!」

 

 これぞ現代に蘇る織田信長の三段打ち。すっと深呼吸してから一気呵成に連射すると、衝撃に耐えきれずついに標的は落下した。ギャラリーからは今日一番の大歓声があがった。

 このため富竹は結局腕前を披露する機会はなかったが、彼らの健闘を見ているだけでも楽しめた。しかし、赤坂の腕前を見てやはり一角の人物ではないと警戒を強める。すると赤坂が声をかけてきた。

 

「たまには子供たちの輪に入るのもいいものですね、なんだか若返った気がします」

「同感です、彼らを見ているとこちらが元気になれます」

「富竹さんもやってみます?意外と難しいですよ、勝手も違います」

「……やはり、あなたは」

「隠しているつもりではなかったのですが……私は警視庁の公安の者です」

「公安!?そんな方がなぜ……」

「前原くんや竜宮さんから聞いたのでしょう?」

「いや、しかしまさか……」

「公安としても、ある程度の情報は得ています。彼らの情報は確度が高いものと見ています」

 

 勿論これは赤坂のはったりで、動いているのは赤坂1人だ。しかし富竹の警戒心を上手く引き出せたようだった。

 

「……わかりました、用心しましょう」

「ありがとうございます」

「……しかしなぜ初めからあなたが話さないのです?子供たちから言わせるより信用させ易いはずなのに」

「無論そうですが。彼らの熱意ですよ。富竹さんを救いたいというね。あなたもそんな彼らに応える必要があると思います」

「……そうですね」

 

 富竹は、自分は大人になったのだと思った。

 かつて、決してこうはなりたくないと思っていた無色な大人たち。

 子供のころとなんら変わらぬ未熟な精神を薄い膜で覆って、もっともらしく振舞う。成長とはこういう者になることだろうか? あの時が永遠に感ぜられた若き日々を、たしかに生きていたはずなのに。

 子供たちを知らぬうちに侮っていたのかもしれないと、富竹は恥じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 大きな鼓の音があたりに響く。

 祭りもそろそろ終幕に近づいていた。

 

「そろそろ出番なのです」

「じゃあ僕も梨花ちゃんと一緒に行くから、みんなとはここで。この人混みだから急がないといい席で見れないかもしれないよ」

「そうですわね、では梨花、頑張ってくださいまし」

 

 2人は雑踏の中へ歩んでいく。赤坂の差す傘の下で並んで歩くその姿は、見る人が見れば親子のようにも思えるだろう。2人の姿は徐々に小さくなっていき、やがて人混みの中に溶け込んで消えていった。

 一同は無言でそれを見送っていたが、もう一度大太鼓の地響きを立てるような音で沈黙は破られた。

 

「やばっ、もう始まっちゃう」

「急ごうぜ!」

 

 祭壇に近づくにつれ人混みは増していき、その合間を縫って進んでいくと、レナがはぐれそうになっているのが見えたから、圭一はその手をつかんで先導する。一瞬だけレナの顔色を伺うと、仄かに頬を赤らめているようにも見えたが、圭一はそれには気付かぬようにと無言で遮二無二歩き続けた。レナも無言で彼の背中だけ見ながら歩いた。先ほどの赤坂と梨花は、親が子に手を引くように並んで歩いていたけれども、圭一とレナは歩く速度も合わなくて、不揃いでどこか不恰好だったが、お互い嫌な気はしなかった。

 

 古手神社の祭壇前に群がる人波をかき分けて、一足先に着いていた魅音と沙都子の元へ行く。松明の炎は揺らめきながら、雨を吹き飛ばすかのような勢いでメラメラと燃え上がっている。夜にもかかわらず、そのまわりだけは真昼の明るさを取り戻していた。

 とりわけ観衆の視線を集めるのは山のように積み上げられた布団だ。布団は注連縄で結ばれているが、やはりどこか祭りの場に相応しい物には見えなかった。圭一は疑問符を浮かべて問いかける。

 

「あの布団をどうするんだ?」

「見てればわかるよ」

 

 その時、また地鳴りがした。大太鼓がひときわ大きく打ち鳴らされると、開始の合図と悟ったか、その場が静まり返る。すると、神官役の老人らとともに梨花が姿を現した。梨花はその手に大きな鍬を携えている。

 祝詞が終わると、その鍬を布団へ振りかざしていく。

 

「布団を突いてる、というか叩いてる?布団叩き?」

「まぁ当たらずとも遠からずってとこかな」

「人間の代わりに病魔を吸い取ってくれた布団を清めているんだよ」

「へー、変わってるな」

「……梨花」

 

 先ほどから黙したままだった沙都子の呟きに圭一は心配か、と声をかける。

 遠目に見ても、大きな鍬は重みを主張していて、それを振り回した梨花の身体がふらふらと左右に揺らされる。滝のように汗も流れていて、相当な重労働に見えた。

 

「梨花は毎日毎日、餅つきの杵で練習してましたから……きっと大丈夫ですわ」

 

 沙都子はきゅっと両手を組んで、梨花を凝視し続けていた……

 すると急に、梨花の舞が様になり出した。

 先ほどまで鍬に振られていたのが嘘のように自在に操りだした。優雅な所作。小雨はやや強い風に煽られて横に流れ、巫女服を僅かに濡らす。雨と汗が松明の光に照らされて艶美さを増し、さながら神と交わったかのような神性を宿している。しかし神懸かりは一瞬で、また梨花に戻ったようだった。

 しばらく無言で見つめていると、大太鼓が鳴らされ、梨花はやや疲労の色を浮かべながらも黙礼し、万雷の拍手がそれを迎えた。沙都子はようやく組み続けていた両手をほどくと、あとは普段と変わらぬ様子に戻った。沙都子だけではなく、皆心配だっただろう。梨花は祭壇を去りしな、視線を彷徨わせて何かを呟き、やがてこちらを見つけると小さく微笑んだ。

 

 神官たちは布団を担ぎながら石段を降りてゆく。見物人たちも皆あとに続いて、さながら大名行列が出来あがった。圭一たちは行列の最後尾だった。

 

「今度はなんだ?布団を川で洗濯か?」

「あはは、だから、綿流しだって」

 

 沢のほとりにやって来て、人々は一箇所に集まりまた列をなした。

 

「圭一くんも並ぼう。綿を貰いに行くんだよ」

 

 布団を引き裂いて中身を出し、小さくちぎって丸めていく。人々は綿を受け取ると、次々に川に流していく。

 

「圭一くんは初めてだから、レナのやり方を真似をするんだよ」

 

 右手の綿を額、胸、臍に持っていき、最後に両膝を叩く。これを3回繰り返して川に流していく。こうすることで、魔を綿に移すのだという。

 みんなでオヤシロ様への感謝を込めて、川縁から順番に綿を流していった。綿は次第に米粒みたいに小さくなっていく。夜の漆黒の下、下流へ流れていく無数の綿は、流したときには1つ1つ別個の存在だったはずなのに、寄り集まって繋がって見えた。さらに流されて視界から消えても、白い残像は朧げに残っている。何かを暗示しているようなその光景に、一同は口を閉ざしたまま、じっと見つめていた。

 




最近首が痛い。


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後夜祭

 

 水面に浮かんだ綿は、刷毛で掃いたように何条にも連なって川下の方へと下っていく。川は鬼ヶ淵沼に繋がっている。沼があれほどの瘴気を宿しているのは、人々の災厄を請け負った綿が無数に流れ込んで沈んでいるからに違いない。

 光を纏う綿は、夜闇で蛍が発光しているかのように幻想的な光景で、そんなまばゆい光を見つめながら、レナはオヤシロ様との邂逅を反芻していた。

 

 

 

 

 両親が離婚して心に傷を負ったレナは、精神科に通院するたび決まってあの赤いカプセルを飲まされた。

 赤く、毒々しいあの薬……

 前頭葉の一部を摘出するという、非人道的な精神外科の分野が世界的に禁止されると、入れ替わるように登場した向精神薬は瞬く間に医療の現場で用いられるようになったが、当時はまだその副作用や危険性は顧みられることは少なかった。

 実際、あの薬を飲んだことでレナの心は確かにざわつかなくなったが、何も思考することができず、ただ焦点の合わぬ目で一点を見つめるだけだった。時間の感覚も分からず、まるで生きているのか死んでいるのかもわからない。あれが治療されて健康な状態なのか……

 医師らに異常と診断されたレナの感情は、確かにレナの生きた感情だった。たとえ寄生虫が精神に何らかの作用を与えていたとしても、まぎれもない生の発露だった。赤いカプセルはレナの生を引き裂き、レナの秩序をばらばらに分解していった。一度ばらばらになったものは、なかなか元には戻らない。レナの精神状態が治療を受ける度悪化して見えたのも当然かもしれなかった。

 

 行き場のないレナの激情は、いよいよ自らの肉体に向けられていく。腕や、首や、脹脛から、あるいは身体のもっと芯の部分から耐えられないほどの痒みを感じて、掻いて、掻いて、掻いていって……

 爪で割いた肌から現れた血はどす黝く泥々としていて、目を凝らすとわらわらと、蛆虫たちが蠢いているのがわかる。蛆虫たちはその数を増やして、血液の色を塗り潰すかのように乳白色で蠢き、腐食した傷口を、我競うように食い散らしている。最初に彼らを見たときは、発狂しそうになったレナだったが、何度か経験するうちに慣れてきて、ぼんやりと眺めていると、自分の内から這い出た彼らに親しみの感情を抱き始めたことに気づく。

 蛆虫たちは、私の穢れを食べてくれる。

 そう考えたら、自分が浄化されていくみたいで、彼らにもっと御馳走をくれてやろうと思った。

 けれども、散々食い散らかされて、傷口から覗くとそこにはもう肉という肉はなくなり、骨だけになったところで、蛆虫たちはもう用済みとばかりに消えてしまった。蛆虫にすら見捨てられ、残っているのは心臓まで搔きむしりたくなるこの不快な穢れた身体だけ……そんな自分を罰してくれる何かを求めて叫んだとき……

 

 光芒が射した。

 どこまでも清浄な光。そんな光の向こうに、何かがいて、その何かは同じ言葉を繰り返しているように見えた。直感的に、何かはオヤシロ様なんだろうと思った。

 

 オヤシロ様は謝ってくる。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 

 なぜ自分に謝ってくるのか?

 謝られたということは、悪いのはオヤシロ様であって、レナではなかった。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 

 その謝罪で、レナは救われた。

 

(私には罪はないんだ)

 

 いつのまにか、腕の痒みを感じなくなっていた。腕の傷口を見ると、血の色はちゃんと赤くて、肉は失われていなかった。もう少しで壊れてしまいそうだったレナの心は、この邂逅で間一髪繋がった。

 オヤシロ様はまだ謝り続けている。

 虚ろで、無感情な音色だったけど、レナには、確かな悲しみを感じとることができた。それはそうだろう。謝るということは、何か後ろめたさがあるということなのだ。

 だから、レナはなおも謝罪を続けるオヤシロ様に、せいいっぱいの感謝を込めて、

 

「ありがとう」

 

 と、そう返した。

 

 

 

 

 

 

「レナ、おいレナ?」

「あ、圭一くん?」

「圭ちゃんが何度も呼びかけたんだよ、どうしたのさ」

「ううん、なんでも」

 

 しばらく呆然としていたらしく、仲間たちが心配そうに声をかけてきた。なんでもないと嘯いて立ち上がると、鷹野の姿があった。

 

「あら、みんなお揃いね。こんばんは」

「鷹野さん」

「みんなはもう綿流しは終わったの?」

「ええ、ちょうど流し終えたところです」

「鷹野さんは?」

「私は今からよ」

 

 鷹野の手から白い綿が離されて、水面に浮かぶ。流れてゆくそれを見やりつつ、ぽつりと、

 

「……オヤシロ様は、私の穢れも祓ってくれるのかしら」

 

 そう呟いた鷹野の表情を窺うと、無表情の中にも微かに悲しみの色が垣間見えた気がした。

 そういえば、自分たちは鷹野のことを何も知らない。前の世界で唯一まともに話を聞いてくれた、鷹野のことを知りたいとレナは思った。

 

「鷹野さんは、雛見沢に来る前はどうしてたんですか?」

「私?」

「今更だけど、鷹野さんのこと何にも知らないなぁって」

「……雛見沢に来る前は、祖父と2人で暮らしていたわ」

「お祖父さんと?」

「ええ、両親は幼い頃事故で他界したものだから」

「……すみません、嫌なことを聞いてしまいました」

「ああ、いいのよレナちゃん」

 

 そう言うが、鷹野の表情は芳しくはない。

 

「祖父は身寄りのいない私を引き取ってくれたの。祖父がいなければ、今の私はないのでしょうね……」

「いいお祖父さんだったんですね」

「雛見沢に来る少し前に亡くなってしまって。受けた恩を返すことができないまま……」

「そうだったんですか……」

 

 そこで会話が途切れ、一同は口を噤んだ。

 髪を掻き撫ぜる夜風は雨を含んでじめじめとして不快だった。

 そこに、見知った顔が近づいてくる。

 

「あ、梨花ちゃん! 赤坂さん! 大石さんも」

「梨花ちゃんお疲れ様、かっこよかったよ」

「ありがとうなのです」

 

 梨花は先ほどの奉納演舞が終わったあとも、いくつかの儀礼があったため、ようやくこちらに合流できた。

 先ほどまでの重苦しい場の雰囲気は打って変わり、一同は梨花の労苦をねぎらう。皆に褒めそやされて、少し照れくさそうにしている姿は、年相応に思える。

 

 

「そういえば、赤坂は鷹野と会うのは初めてなのです」

「赤坂さん……でよろしいかしら。私は鷹野、診療所の看護婦をしていますわ」

「はじめまして、赤坂です」

 

 赤坂と大石はさっそく鷹野と富竹に警護をつけると言った。鷹野は最初やんわりと拒否していたが、彼らの説得に加え、富竹も賛成したため折れたのだった。

 大石は無線で熊谷を呼び出し、2人の警護に当たらせる。彼らは5分ほどでこちらに合流するとのことだった。

 

「それにしても、ジロウさんまで警護に賛成するとは思わなかったわ、私はジロウさんと2人きりで帰りたかったのだけど……」

「はは、それは光栄だなぁ」

「あっ、富竹さん顔真っ赤!」

「お若いですなぁ、私ももう少し若ければ……」

「富竹、オヤシロさまは縁結びの神様でもあるのですよ。鷹野と一緒になりたかったら、また村に来てくださいなのです」

「……梨花ちゃんまで。参ったなぁ」

 

 その後、熊谷らが来るまで終始和やかなムードは続いたのだった。

 

 

 

 

 

 

「僕たちが祟りに遭うという話は赤坂さんや大石刑事も認識を共有しているみたいだね、僕も用心することにするよ」

「……彼ら、山狗を嗅ぎ付けたのかしら」

「かもしれないね。もしかしたら山狗の中に、僕たちを貶めようとする者がいるかもしれない、鷹野さんもくれぐれも用心を」

「わかっているわ、ジロウさん」

 

 一同と別れた鷹野らは、大石の部下で彼が信頼を置く熊谷勝也ら3名に警護されながら帰路についた。富竹が忘れ物をしたと言って診療所に入り、鷹野もそれに続いた。刑事らはまさか診療所内なら大丈夫だろうと考え、入口で待機している。

 富竹は東京に持ち帰る、入江機関の監査報告書などを整理しながら鞄に詰めていく。雛見沢に長期滞在するのはまた来年の6月ごろになるだろう。

 これまで数日で済ませる短期の定期監査は年に4回ほどあったが、東京内におけるアルファベットプロジェクトの立ち位置の変化にともなって削減された。恋人の鷹野とは仕事で雛見沢を訪れることで身体を重ねてきたが、今後はそういう機会も減るだろう。

 

(ここに住むのも、悪くないのかもなぁ)

 

 村の自然を気に入ったと話すと、圭一や魅音らから冗談まじりに、村への定住を勧められた。雛見沢村はかつての封建的な思想から脱却し、新たな風を呼び込もうとしている。曲がりなりにも村に関わった者としては、時の流れが緩やかに進むこの村で、のんびり過ごすのも悪くないような気がした。

 いずれにせよ、入江機関の最後を見届けてからの話だが、富竹が村に住んで、休日は朝から野鳥の観察に鷹野を誘うのもいいだろう。症候群の研究という生きがいを失った鷹野の傷心を、少しでも癒せるかもしれない。とはいえ、下心が全くないと言えば嘘になる。数年続くこの関係を、一歩先に進めるタイミングを図っていたのも事実だった。すると、富竹の考えを見透かしたかのように、鷹野は近づいてきて、そっと手に指を絡めてきた。

 

「ねえ、ジロウさん。とても真面目な話があるの。聞いてくださる?」

 

 富竹の困惑をよそに、鷹野は耳元にまでその唇を近づけ、囁くように言葉を並べていく。その言葉は支離滅裂で、会話は噛み合っておらず、富竹に語っているというよりも、独り言を漏らしているかのようだった。だが、鷹野の挙措が、今まで見たことがないほど妖艶だったから、彼女が言わんとすることを理解しようにも富竹の思考はぼやけてしまっていた。

 鷹野は、何か大切なことを伝えようとしている。その何かは、これまでの2人の関係を破壊するような危うさを孕んでいるようだった。何も分からないままに、彼女の口からその致命的な言葉が紡がれるのを遅らせようと、無意識のうちに口をまごつかせる。

 

「……私の夢が叶う日が、やって来るの」

「君の……夢……」

「そう。私の夢。話したことあったわよね?それとも、ベッドの上で話したことは記憶に残らないのかしら……?」

 

 ぼやけた思考で記憶を掘り起こしてみるが、あいにく富竹は覚えていないようだった。そして、破滅の言葉が紡がれた。お別れの夜が来たの、と……

 彼女の言葉を理解するのを拒否してか、富竹はこの後に及んでも反応は鈍い。

 鷹野はそんな彼との別離の意志を、距離で示すように重ねていた指を解き、ぴったりとくっついていた身体を離し、何歩か後ずさった。いつのまにか、先ほどまでの蠱惑的な瞳は、ひどく冷徹な色に変わっていた。

 そして、選択を迫る。鷹野の、危険な眼光に貫かれてようやく思考が戻って来た。

 

「まさか、君は……」

 

 鷹野を信じたい感情と、理性が鬩ぎ合う。やがて富竹は立ち上がり、鷹野に対峙する。

 富竹の決断を受け止め、鷹野もまた富竹と対峙した。しばらく睨み合いが続いたが、やがて鷹野は会議室の重々しいドアをゆっくりと開いた……

 

 

 

 

 

 

「遅いな……」

 

 少し忘れ物があったから取りに行くといって診療所に入った2人を待つこと20分余り。普通ならばもうとっくに戻ってきているはずである。

 

「まさか、何かあったんですかね?」

「いや、ここは診療所の中だぞ?」

 

 彼らも薄々は気づき始めていた。

 大石からは、目を離すなとの厳命を受けている。鷹野らの安否に楽観的なのも、要するに自分たちの失態から目を背けているとも言える。

 

「……大石さんに連絡しましょう」

「そうだな」

「残念だけど、その必要はないわ」

 

 振り向くと、鷹野が戻ってきたようだった。3人はようやく緊張が解けたようで、口々に彼女の遅延を責める。しかし、富竹の姿がないのに気がついた。

 

「富竹さんは?」

「ジロウさんはいないわ」

「は……?」

「あなたたちも、すぐに彼の元にいくのよ」

 

 言葉の意味を質そうと、熊谷が身を乗り出したところ、

 どさり、と何かが倒れる音がした。

 倒れたのは熊谷だった。頭部から血を流して倒れこんでいる。残る2人の刑事は、あぁ、これは即死だな、と映画か何かを見ているような感想を抱く。

 それくらい、現実味のない光景だった。

 数秒して立ち直り、倒れ伏す熊谷に慌てて駆け寄ろうとした2人は、しかしすぐにその思考を停止させ、物言わぬ骸となった。3人の刑事の遺体を一瞥した鷹野は、

 

「おやすみなさい……」

 

 それだけ呟いてから、診療所の駐車場へ向かった。

 

 

 

 

 駐車場では、鷹野の車の前に山狗の隊員が2名ほどいた。2人は作業服を纏って車の点検作業でもしているように繕っている。刑事が入口に待機していたため、念を押したようだ。

 

「お疲れ様です」

「お疲れ様。ジロウさんは?」

「はっ。手筈通りトランクの中です。富竹の自転車は後部座席に」

「ありがとう」

 

 エンジンをかけて、ブレーキペダルを離し、徐々にアクセルペダルに体重をかけていく。富竹を載せた車が闇の中へ溶け込んでいった。発進したからには、もう後戻りすることはない。信号もなく、鷹野の車を遮る障害はまったくなかった。強いていうならば、止んだかと思えばまた降り出す気まぐれな雨粒くらいだが、視界を遮るほどでもない。

 しばらく走って、急坂を下ったあたりで、ガタンと車が大きく揺れた。村の砂利道から、街の舗装道路へと変わる段差によるものだったが、その衝撃に運命的なものを感じ、鷹野は車を停めた。ヘッドライトを消すと、あたり一面は完全な闇に包まれている。手袋をはめてトランクを開け、富竹の身体を放り出す。

 これで、富竹が次に目覚めたときは末期症状によって自傷行為に走るだろう。より確実性を上げるため、付近にあったコンクリートの角材を置く。これで幻覚の敵に対して反撃できるだろう。暴力は脳内物質の分泌を促進させ、自傷行為も激しくなるに違いない。

 

 富竹とはすでに別れは済ませてある。未練はない。富竹がこちらの誘いに乗ってくれれば心強かったし、鷹野個人としてもその方が良かったが、それでは好きだった富竹ではない。どのみち2人は違う世界の住人だった。

 車に戻った鷹野は、富竹の身体を写さぬように、バックミラーの角度を変えた。再び車が動きだすと、今度こそ鷹野の中から富竹という人間が消えていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 東京の夜は長い。

 首相官邸には、スーツ姿の初老の政治家や役人らが極秘に集まっていた。

 時の首相は驚愕の表情で配布された資料に読み入っている。

 

(無理もない)

 

 自分だって、いきなりこんな話を聞かされたら、頭がおかしいのかと怒鳴りたくなるほどだ。そうしないのは、曲がりなりにも一国を預かる者としての器の違いだろうか。そんなことを考えながら、官房長官は自責の念に駆られていた。

 

 ひと月ほど前。懇意にしていたある大物政治家の死で、政界、とくに「東京」組織内の勢力図が激変する中、彼の権力基盤にも少なからず動揺があった。そんな折にかかってきた電話は、その政治家が信を置く女性エージェントからのものだった。彼女の陰謀に乗せられる格好となったのも、彼が弱味を握られているからに他ならない。

 政治家は、一度不正に手を出したのならば絶えず不正をし続けなければならない。それこそが、長年の経験で得た政治の世界を生き抜く術である。ある意味でこれは麻薬に近い。権力という人間性を堕落させる麻薬……この麻薬によって、彼は事ここに至るまで自分が何をしたのか、どんな陰謀に加担したのかを振り返ることはなかった……

 女からは数日前にも電話があった。女は舞沢と名乗るが、彼女の名前ほど意味を持たないものもないだろう。

 女によると、公安の警視が1人例の村を訪れているのだという。表向きは有給休暇を消費しての私的旅行というが、それを信用する者たちではない。警視という半端な階級も、怪しむ理由の一つだ。捜査員としては不自然に階級が高いからである。

 

「公安にマークされるといささか面倒かと」

「とはいえ、1人なのだろう?何を恐れることがある」

「閣下、今の段階ではまだ公安も我々の証拠を掴んではいないのでしょう。しかし時とともにいずれ彼らは真相に近づくでしょう。そうなると、閣下とてただでは済まされません」

「うむ……」

「まだ彼らが本腰を入れていないうちに全てを消しさってしまいましょう。今ならまだ彼らが勘付いたとしても圧力をかけることは可能です。警視1人の喪失なら、公安側も許容できる範囲でしょう」

 

 女は、官房長官の権力欲を刺激するのも忘れなかった。

 

「もちろん、鷹野三佐にも御退場いただきますわ。入江機関は消滅。そのとき、アルファベットプロジェクトが不正にプールしていた資金は閣下のものです」

「……プロジェクトを立ち上げたのは小泉先生だがな」

「だからこそです。彼らは先生の後押しで設立されたにもかかわらず、あの施設を我が物顔で使用し、挙句予算を食い物にしています。亡き小泉先生が知ったらお嘆きになることでしょう」

 

 そう言って女はひどく残念そうな声色で話す。白々しい演技なのに、聞いているうちにだんだん乗せられてくるのは不思議である。女にはアジテーションの天稟があるのかもしれない。世が世なら、表舞台で華々しく演説し、兵士は何の疑問も抱かずに死地に向かっていったことだろう。

 

「ご安心ください。総理の周りはすでに固めてあります。この件で閣下が責められる恐れはありません」

 

 最後に彼の保身と罪の意識を見透かして、女はひときわ強い口調で釘を刺してきた。

 

「閣下、小泉先生からの恩顧を努努お忘れなきよう……」

 

 

 

 

(ふう……)

 

 いつのまにか、首相は資料を読み終えたようだった。その表情は絶望的で、顔からは大粒の汗が滴っている。

 

(そもそも、あなたが首相をすることが間違いなのだ)

 

 官房長官の目から見て、首相は無能ではなかったが、首相という職務につくにはあまりに向いていなかった。

 優柔不断で、権力よりも自己保身に走るさまはむしろ小市民的でさえある。こんな決断を下さなければならないのは彼にとって辛かろう。次官くらいまでなら、優秀に責務を果たすこともできる男なのに。図らずも総理大臣になってしまったことが彼の不幸と言えた。

 その優柔さにつけいられ、彼は今から非道の決断を下すことになる。すでに周囲は首相に意見を求めているのではなく、ただ決裁を求めているだけだった。

 

「総理、ご決断を」

「総理!」

 

 彼は周囲の圧力から逃れるかのように、自らの良心を封じ込みながら、やがて――。

 

 

 




仮タイトル「時報」
鷹野が富竹に別れを告げて注射打つあたり好きだから仕方ない。
原作で鷹野はベッドの上で話したことは覚えてないのかって言ってたけど、コンシューマー版だと私の話したことなんか~に改悪されてたことに気づいた。梨花の酒→ぶどうジュースもそうだけど、正直こういう修正は好きじゃない。


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井戸

 
 井戸の外にはどんな世界が?
 それは、知るために支払う苦労に見合うもの?
 
 井戸の外にはどんな世界が?
 それは、何度も墜落しても試すほどに魅力的?

 井戸の外にはどんな世界が?
 それを知ろうと努力して、落ちる痛みを楽しもう。

 その末に至った世界なら、そこはきっと素敵な世界。
 例えそこが井戸の底であったとしても。

 井戸の外へ出ようとする決意が、新しい世界への鍵。
 出られたって出られなくったって、
 きっと新しい世界へ至れる……



 熊谷から連絡が途切れたことで、にわかに危機感が募ってきた。普段ならばいざ知らず、最も警戒すべき綿流しの夜に、連絡を忘れたという可能性は低いだろう。彼らは何者かに襲撃され、連絡をとれない状況下にあるのかもしれない。

 大石はすぐさま無線で赤坂にこの事を伝えた。赤坂も同様の想定をしたようだった。

熊谷にはパトカーで2人を護送するよう指示を出していた。鷹野は興宮の住居まで、富竹が宿泊予約を入れているというホテルもそこからほど近い市街地の中心部である。まず問題は起きないはずだったが、見通しは甘かったということだ。

 熊谷から連絡が途切れて1時間ほどしてからだろうか、今度はパトロール中の署のパトカーから遺体を発見したという連絡があった。大石はすぐさま現地に向かう。嫌な予感はしていた。あたり一面暗闇に包まれた一本道の、路肩付近。そこに男性が倒れていた。すでに鑑識が遺体を撮影しているところで、フラッシュの光が闇を払う。

 

「富竹……ジロウ」

 

 大石は臍を噛んで悔しがった。オヤシロ様の巫女からのお告げで、富竹の死は前もって予言されていたことだったが、それを防げなかった。だが今は悔恨の念にかられている暇はない。

 遺体の状態は異常さをきわめていた。

 富竹の喉からは大量の出血がみとめられ、これが直接の死因とみてよさそうだった。両手の爪は赤く染まっている。喉の傷口はちょうど爪で引っ掻いたように細長い痕があったことから、富竹は自分で自分の喉を搔きむしって出血多量で死に至ったとみられる。にわかには考え難い状況だったが、このような症状を引き起こす風土病の存在を、つい先日知ったばかりである。

 遺体のすぐ脇には角材があった。富竹の遺体は、直接の死因こそ喉の傷だったが、いたるところに打撲痕が散見され、複数人から暴行を受けたと分かる。衣服にも多少の乱れがあることから、この角材を武器に何者かと争ったと推定された。

 

「大石さん、入江先生がお見えになりました」

「ああ先生、どうもどうも」

 

 入江もまた遺体が富竹であること、そして死因に動揺を隠せないようである。こうした錯乱状態に陥らせる薬物の存在についてあえて問い質してみても、彼はただ譫言のように、ありえない、を繰り返していて、もはや聞こえてはいなかった。入江から離れて、職員らにいくつか指示を出すと、一度車に戻った。深く倒したシートにもたれかかり、目を瞑ってひとつ息を吐いた。

 

 

 

 身元不明の死体が、隣県の山中で発見されたとの報告が、部下から入った。焼死体で、ドラム缶の中から見つかったのだという。歯型が一致するかの確認はこれからだが、古手梨花の予言とも合致するため、これが鷹野の遺体ということだろうか。

 そう考えた大石だったが、直後の報告でその認識を改めることとなった。

 

「そりゃあ本当ですか?」

「間違いないです」

「……なぁるほどなあ」

「……大石さん?」

 

 どうやら自分は、富竹の遺体が見つかったこともあって、古手梨花の予言を信用しすぎていたようだ。いや、今更彼女を疑いはしないが、予言も万能というわけではなさそうだった。天網恢々、疎にして漏らさずなどとはいうものの、意外とオヤシロ様も見落としているものだな、と大石は思った。逸る気持ちを抑えながら、赤坂に連絡をとる。

 

「……でねえ、うちのパトに通る車をチェックさせてたんですが、鷹野の車が通ったって言うんですよ。興宮方面へ通過していったんだとか。ちなみに富竹が見つかった道は、村から興宮に通ずる一本道です」

「まさか、鷹野が」

「おそらく。鷹野1人が乗っていたんだそうで。熊ちゃん達が鷹野らを護送しているはずなのに、彼らは行方不明になり、富竹は死体で発見された。御誂え向きに山中で身元不明の女性の焼死体だ」

「……その死体は鷹野だってことにしたいんでしょうね」

「例の山狗でしたか?その連中ならそういう工作できそうですなぁ」

「……そうですね」

「とにかく、鷹野三四を重要参考人として手配します。圧もかかるでしょうが、やってやれないことはありません」

「大石さん、それをするとあなたも危険になってきます。くれぐれも慎重に」

「梨花ちゃまによるならば、あと数日したら村が滅ぶそうじゃないですか。それに、おそらく熊ちゃん達は消されました。私だけが逃げるわけにはいかないんですよ」

 

 

 

 

 目下のところ、村民らは綿流しの日の祟りには怯えるが、おおむね平穏に暮らしているといえた。そんな彼らを「雛見沢大災害」から避難させるのは至難の業に思えた。しかし、園崎お魎の鶴の一声ならば、住民らも従うだろう。一同は数日前、園崎お魎に事情を説明し、また園崎組の助力を得ることに成功した。荒唐無稽なその話に当初難色を示していたが、前原圭一が啖呵を切ったことで、彼女の心境に何らかの変化を与えたようだった。

 

 かくして村民二千人の避難計画が議論されることになるが、これが難航する。山狗が力を発揮できぬ白昼に堂々と、不自然にならないように大義名分をかざして避難する必要性があるからだ。

 最終的には、鬼が淵死守同盟の再現をする、という方針になった。雛見沢のダム計画は中止はしているものの、廃止になったわけではない。その計画が再燃しているというデマを流し、それに怒ったお魎が、村民総出で抗議に行くという筋書きだった。無論これは一時凌ぎにしかならないが、山狗らの注意さえ引きつけられれば十分だ。戦力を固めた園崎組が一気呵成に診療所を急襲する! 山狗は戦闘部隊というわけではないというから、いかに自衛隊といえども、戦力は劣るだろう。数多くの抗争をくぐり抜けてきた園崎からすれば、不意をつけば攻略できない相手ではないとの自負があった。

しかし、事態は想定をはるかに上回るスピードで進行していた。

 

 

 

 

「三佐、野村さんからの電話です」

「ありがとう」

 

 隊員から受話器を受け取った鷹野は、一呼吸置いてから耳に当てた。この女の、人の心の根底をも見透かしたかのような声色は、何度聞いても慣れるものではない。

 

「鷹野です」

「三佐、すでに総理は苦渋の決断をしてくれましたわ。当初の想定よりは幾分早いですが、滅菌をお願いします」

「……ええ」

 

 滅菌作戦。

 女王感染者たる古手梨花の死後48時間以内に、症候群の感染者全員が急性発症し錯乱するという説が、症候群の発見者である高野一二三氏により提唱されているが、村民はみなこの症候群に感染しているため、言い換えれば村民全員が錯乱し、凶行に走るということである。これを防ぐ名目で、当地で任務につく山狗部隊によって、古手梨花に万一のことがあった場合、感染者全員を「処分」するという措置が図られる。作戦は、古手梨花を殺害し、この緊急マニュアルを引き起こし、これを政治利用するものだ。二千名の無辜の民を抹殺することは、この国ではいかなる理由があろうとも許されない。最終的には許可を出した政府の基盤も揺らぐだろう。

 当初の予定では、研究の終了に絶望した入江京介が、富竹・鷹野を殺害、次いで古手梨花を殺害したあと自らも自殺、という筋書きで、綿流しの日から数日後に作戦が行われる予定だった。しかし、公安の介入を嫌った野村の意向で、綿流しの翌日未明より作戦が開始されることになった。鷹野としてもこの変更を拒む必要はなく、むしろより祟りの神秘性が増すと思われた。

 

 いったんは小康状態になっていた雨は、日付が変わってから再び強さを増し始めている。この天気だから、ひぐらしの声も聞こえず、雨音だけが響きわたっていた。まもなく時刻は午前1時。作戦開始の時刻だった。

 

「三佐、予定時刻です。R宅には例の公安がいますが排除してよろしいですか」

「ええ、始めなさい」

「鳳1より全隊員に告ぐ。突入準備。公安は実力で排除せよ。ただし発砲は許可せず、テーサーを使用せよ」

 

 4人の作業服の男たちが、闇の中から音もなく姿を現し始めた。ぬかるんだ泥道も男たちを妨げることはない。むしろ強まった雨音は彼らの隠密行動に利するようでもある。あっというまに目的のプレハブ小屋の引き戸の前まで来ると、あらかじめ用意していた合鍵で開錠し、突入する。開錠音は気付かれた可能性もある。電撃的に制圧しなければならない。しかし、階段を恐るべき速度で上る彼らの耳に、二階から大きな物音が聞こえてきた。その音の正体を確認するより早く、

 

「勘付いたぞ、窓から飛び降りた!茂みへ逃走している!」

「制圧しろ!」

 

 怒号のように飛び交う無線機から状況を把握した4人は、すぐさま引き返して外へ出る。すると、確かに古手梨花らが逃走する姿がみとめられた。それを追おうと、走り出そうとした時、破裂音とともに白煙があたりに立ち込めた。一瞬ひるんだことで、梨花たちに逃げ出す時間を与えてしまった。

 

「あらあら、今のは沙都子ちゃんのトラップじゃないかしら。あの子からはよく聞かされていたのよ」

「……そんな子供騙しに引っかかりやがって。民家に逃げこまれるな!さっさと制圧しろ!」

 

 

 

 

 古手梨花はいま混乱の極致にあった。

 梨花がこれまで経験してきた数多の世界で、綿流しの夜から少なくとも2日後までは殺された記憶はなかった。綿流しが終わった夜にすぐ殺されるなんてことはなかったはずなのだ。

 

(それがなぜ?)

 

 無論、まったく警戒していなかったわけではない。しかし、まだこちらの反撃準備は整っているとは言い難かった。

 

「梨花ちゃん、当て所なく逃げても仕方ない。ひとまず園崎家に向かおう!」

「ええ!魅ぃの家の地下の隠し部屋なら安全なのです!」

 

 園崎家の隠し部屋には、多数の武器も備え付けられている。また、秘密の通路を通れば裏山に抜けることも可能だ。無論その存在を知るのは園崎家のごく一部に限られるため、山狗もすぐには追ってこられないだろう。

 

「それにしても、どうして今日なのっ」

「おそらくだけど、鷹野三四。彼女が黒幕だからだ」

「そ、そんな!だって鷹野は」

「確かに焼死体で発見されたよ」

「なら……!」

「ところが、大石さんによるとあの後鷹野が運転する車が確認されたんだそうだ。富竹さんも、護衛していたはずの警官らもいない」

「つまり鷹野さんが、富竹さんと警察の皆さんを殺したと、そういうことでして?」

「ああ。鷹野の死は偽装だ。そして我々から気をつけろと言われれば言われるほど警戒しただろうね、作戦が漏れているのではないかと」

「だから急いだと?」

「たぶんね」

 

 梨花にとってずっと山狗とは、自分を警護してくれる味方だった。レナによってその認識が覆されたものの、富竹と鷹野の2人は数多の世界で必ず殺されることから、無意識のうちに疑うことをしてこなかったのだ。

 もっとも、今は悔やむことよりもまず追っ手から逃れることに集中すべきだった。

 

 どれほど走っているかも分からなくなったとき、沙都子が躓いて転んでしまった。すぐに赤坂が彼女を拾い抱えて窮地を脱したが、追っ手との距離がだいぶ縮まってしまった。このぶんだと、いずれ追いつかれる。その際、2人を守りながら戦うよりは、彼らを撃退してから合流したほうがいいと赤坂は判断した。自分1人を相手にするなら発砲もあるだろうが、それを退ける自信もある。

 

「梨花ちゃん、沙都子ちゃん。2人は先に行って」

「そんな、赤坂も一緒に」

「大丈夫。彼らを撃退して園崎に向かうよ」

 

 赤坂の意志は固い。

 おそらく、説得も聞き入れないだろう。

 梨花と一緒でなくなれば、山狗に躊躇う必要はなくなる。あらゆる手段で、赤坂の命を奪おうとするだろう。

 

「大丈夫だ。また会おう、梨花ちゃん」

 

 そう言って微笑むと、赤坂は踵を返して山狗らへ向かっていった。それを見た梨花が彼を見捨てて逃げるのに躊躇するが、沙都子が懸命に諭した。赤坂さんの行動を無駄にしないためにも梨花は逃げるんですの、と。涙をこらえて、2人は闇の中をひたすら駆ける。一瞬だけ後ろを振り向くと、赤坂の姿は豆粒みたいに小さくなっていった。あれほど大きな背中が、こんなに小さく見えるとは。とめどない不安が渦を巻いて梨花を襲うが、赤坂の最後の微笑が脳裏に浮かんできて、ほんの少しだけ和らいだ。なぜなら梨花は、もはや信じることしかできないのだから。

 

 

 

 梨花と沙都子を見失ったか、追っ手の気配はなくなっていた。今や2人は走ることもままならず、鉛のように重くなった足を恨めしく思いながら前へと進める。何度か転んでできた擦り傷は、本来なら痛むはずだが、足の重さで感覚は麻痺したようだった。ぬかるんだ道は、走るのに適さない。靴下の中にまで泥水が染み込み、ただただ不快だった。それでも歩みを止めはしない。

 しかし、不運にもついに1人の隊員と遭遇してしまった。男は無線で場所を知らせたようだ。まさしく絶対絶命だった。

 男は下卑た笑みを浮かべながら、もう走る気力もない梨花に向かってゆっくりとその手を伸ばし……

 

 そこで意識を失った。

 

「大丈夫か、梨花ちゃん!沙都子!」

「み、みんなっ」

 

 

 

 

 部活メンバーと合流したことでかろうじて危機は乗り越えた。梨花はレナに、沙都子は圭一におぶわれ、魅音は周囲の警戒をしながら先導している。後方は梨花と沙都子が担当した。

 深夜の雛見沢村は、異常なまでにひと気がなかった。祟りを恐れてか、近頃は祭りの後は村人たちが出歩くことはなくなったためだ。

 5人は無言だった。赤坂については何か察したのか、圭一たちは聞いてくることもない。闇の中、しばらくそうして無言で歩みを進めていたが、園崎家まで到着し、ようやく5人は緊張から解放された。

 地下の秘密部屋に入り、重たいドアを閉めて施錠すると、先程まで以上の闇が5人を襲った。

 

「待って、今電気つけるから」

 

 魅音がそう言って何かスイッチを押すと、パッと明かりが灯った。薄暗い照明はそれでも皆の心も少しだけ明るくさせたが、疲労からか軽口を叩き合う余裕はなかった。薄暗がりの中、古びた豆電球から迸る光の放射がかえってこの場を静寂に包んでいる。もしこの光さえなければ、彼らは互いの存在を確認する作業、不安をおしこめるための無意味な会話を強いられていたことだろう。無言でいることこそが、互いへの信頼の証左である。

 この静寂な空間は、各々が思考を巡らすのに貢献し、冷静になる余地を与えた。危急のときこそ、滾る熱い精神と、氷のように冷徹な思考が等しく同居することを求められる。この均衡をとるのに一呼吸おいてから、一同は地下通路へと向かっていった。

 

 

 

 

「これを……」

「降りるんですわね……」

 

 園崎が拵えた抜け道は、この隠し井戸から裏山の古井戸につながっている。園崎家が代々死体を隠匿するのに使ったという曰くつきだからか、その深淵からは死者の怨念のような、不気味な気配が揺曳しているように思われた。魅音の話によれば、隠し通路へ繋がる横穴までも30mほど先にあるという。井戸に備えられた錆びた梯子から、もし足でも滑らせたら一巻の終わりである。

 先導役として魅音がまず梯子に手をかけ、順繰りに降りていく。殿は圭一が務めた。途中梨花が態勢を崩しかけたものの、10分近くかけてなんとか横穴へ辿り着くことができた。横穴を歩いていくと、冷たい風が頬を撫でてきた。外の世界へと近づいているのが分かった。しばらくして行き止まりになったと思ったが、よく見れば梯子がかかっていた。

 

「ここを登ると、裏山に出るよ」

 

 隊列は降りたときと同じように組んで上へと登ってゆく。散々走り、一息入れてから降りて今度は登って……とくに幼い2人には酷だったが、さりとてそうもいってはいられない。手探りでなにか光明を求めるかのように、ひたすら登ってゆく。長く険しいこの道程の先に再び苦難が待ち受けていようとも、ただ登りきると誓おう。井戸の外には、新しい世界が広がっているに違いないのだから。

 

 



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闇の絵巻

 古手梨花を見失ったとの報告を受けた鷹野は、当初はこの山狗の失態を叱責しつつも表情に焦りはなかった。しかし一刻してなおも好転せぬ状況に、徐々に苛立ちを隠せないようである。隊長の小此木に対してその無能を散々詰り、無線機に半ば罵声ともつかぬ指示を飛ばしていた。それというのも、つい先程野村から作戦の遅延を非難する連絡があったからだった。もっとも急に予定日を変更してきたのはそっちだろう、と鷹野は電話口で怒鳴り散らさぬように耐えるのに必死であり、その発散を隊員たちに向けているという面もある。

 

「小此木! 一刻も早くRを見つけ出しなさい! 外が明るむ前に!まだ間に合うのよ!」

「……はっ」

 

(焦っているな、お姫様)

 

 古手梨花が何かしら勘付いたという予兆はあった。しかし山狗を疑っている様子までは見えなかったのだが。

 

(それにしても)

 

 数名の隊員から連絡が途切れている。

 いずれも、例の公安の刑事を発見したとの報告を受けた後だ。あの青二才がいつのまにやら成長していたのか、彼らはあえなく返り討ちにあったと見ていいのだろう。

 

(使えない奴らだ)

 

 山狗は所詮工作部隊だ。それも6年もこのぬるま湯に浸かってきた。入隊時の艱難辛苦は今や遠い記憶の彼方にあるだろう。小此木にしてみれば山狗は軍隊とは名ばかりの、平和ボケした惰弱な素人集団である。先祖以来の土地を死守するために立ち上がった村民らの方が、まだしも戦闘に使えそうで笑えなかった。

 小此木は監視カメラ越しに見た赤坂を思い起こす。肉体もさる事ながら、顔つきが数年で変貌を遂げていた。あの精悍さと、鋭利な眼光。いずれも闘争の中に身を置いた者特有の気配が漂っていた。隊員らでは勝てないのも詮無いことかもしれない。小此木は不敵に笑みを湛えながら鷹野に言う。

 

「三佐、俺が出ますわ」

「……大丈夫なんでしょうね。あの公安の男に散々やられているんでしょう?」

「もちろん殺す自信はありますんね。許可さえ頂ければ……」

 

 ここで「勝つ」ではなく「殺す」と言う辺りが彼らしかった。小此木は根っからの軍人である。

 

 

 

 

 

 微かに後ろを振り向く。梨花と沙都子の姿はもう見えない。安心して視線を前に戻した。

 前方には作業着姿の男達が5名ほどいた。先ほどまで背中を見ていた相手が、突然反転してきたことで驚いているようだ。その一瞬の隙が命取りになるにも関わらず。

 赤坂が、裂帛の気合を込めて咆哮すると彼らはたじろいで、慌てて臨戦態勢に入るがもう遅い。

 瞬く間に1人の懐に入り、最短距離で拳を突き出す。正拳突き。空手において最も基本の技と言えるこの一撃で男の身体はたやすく沈んだ。赤坂は相手が倒れるのを確認するよりも速く動きだして回し蹴りを繰り出す。2人目も地面に伏した。それからは拍子抜けするほど呆気なかった。残りの3人も打ち倒す。

 こうして逆走を続けた赤坂は、同様の要領で隊員達を蹴散らしていく。彼らは未だ発泡許可が出ていないからか、数の有利はあれど徒手空拳で赤坂という徹甲弾に特攻せざるを得なかった。無論鋼鉄の肉体にいくらかの傷をつけることも叶わずに跳ね返されていく。

 さて、と一息つき梨花たちの元へ合流しようと踵を返した赤坂に声がかけられた。

 

「待ちな」

 

 振り向いた先にいたのは粗野な男だった。赤坂は警戒を強める。先ほど倒した男たちのように行儀良く戦ってはくれない相手だ。同時に、どこか既視感を覚えて困惑した。

 

(なんだ?)

 

 その疑問に応えたのは相手の男だった。

 

「へへ……覚えちゃいねえか? あん時も確か雨が降ってたか、こうして森ん中で殺り合った仲じゃねえか」

「……あの時?」

「肩に一発くれてやったろ? 殺すなって命令がなければ今頃てめえはあの世にいるはずだがよ」

「まさか……あの時の誘拐犯!?」

「あの時殺さんで正解だったわ。こいつらではどうにもならん、俺が殺してやる」

「……今度は逃しはしない」

「へへ……やってみろ!」

 

 小此木はインカムを外し、拳銃などの装備を遠くに放り投げた。防弾チョッキすら脱ぎ捨てて、身軽になった身体をアピールするかのように軽くその場でジャンプする。その様を赤坂は油断なく睥睨する。

 先手を仕掛けたのは小此木だった。赤坂の空手と比べ、小此木の喧嘩殺法は荒々しく、しかし故に正攻法の赤坂には効果があると思われた。

 だが赤坂もさるもの、そうした荒くれ者には慣れているようで、軽くあしらわれると、腹部に一撃を食らった。考えれば彼は公安でいくつも死線を潜り抜けてきたのだろう。錆びついた今の自分の技倆では、彼には勝てないと、一瞬の攻防だけで悟った小此木は賢明である。大きく後退し、傷んだ腹部をさすりつつ、皮肉げに笑みを浮かべている。

 

「へへっ……勝てんなぁ、てめぇにゃ勝てねえ」

「ならばどうする、降伏するか」

「誰がするかよ!」

 

 再び小此木は真正面から突撃してきたから、赤坂はわずかに違和感を覚えた。この狡知に長けた冷静な男が、先ほどの攻防で格闘では赤坂に通用しないと分かったはずだが……

 この一瞬の違和感を信じ、周囲への警戒を怠ったことが分水嶺を分けた。すなわち、赤坂は背後から右肩に銃撃を受けたのである。それは、先ほど小此木が拳銃を放り投げた方向からだった。隊員が1人、意識を回復したことを察知した小此木は、しかし武器を失っているために起き上がらないと判断し、投げてよこしたのである。小此木はどこまでも冷静だった。

 

(くっ!)

 

 肩の痛みで繰り出そうとした右拳を思うように動かせなかった。小此木はすでに拳を繰り出している。顔面に死が迫っているのが分かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 丑三つ時である。草木さえも深い眠りにつき、雛見沢に点在しているわずかな街灯の微光も今は遠く、視界一面には再び闇が飛び込んできた。光明は未だ見えない。

 とはいえ、今この時ばかりは彼らは半ば闇を愛しかけていた。闇と同化したことで、不安や恐怖を覚えるよりも、むしろ何も見えぬことが安心を生み出す。眠りにつく時のような闇が約束する穏やかな時間では、感情の振幅もほとんどない。もし光が射すならば、それは曙光かあるいは山狗が装備する暗視ゴーグルが増幅させた光だろう。

 細雨は山の樹々に茂る無数の葉脈を襲い、雨音が一層激しく響いてくる。風も樹々をいちいち大袈裟に煽りたてる。山道のそこかしこに散乱した、泥濘んだ落葉を踏みしだくたびに不快な足音がする。いずれにせよ、闇の安らぎの中で響くこうした音だけがそれを妨げる。全てを抱擁する闇に身を預けながらも、意識を保てていられるのはこの音の効果によるところが大きいだろう。

 視覚を奪われた闇の中で、ひときわ大きく反響する雑音は音楽的な諧和をそなえている。しかしそうした調和を乱す破滅的な音色が、複数人の足音であると気付くと、緊張感が高まってきた。足音は次第に大きくなり、高まる鼓動の旋律とともにこの場を侵食しつつある。こちらの居場所をわかっているようで、誰かがごくりと喉を鳴らした。

 ここにいたっては、彼らの安心を保証していた闇の効能は何らの意味もなさない。

 後方を振り向くと、足音の主人達の姿が、おぼろげながらようやく見えてきた。規模は数人ではない。十数人、あるいはそれ以上で、規則的に歩を進めている。隊列は決して崩さずに、こちらとの距離を徐々に徐々に、縮めてくる。それを見た圭一が、強張った表情を笑みに変えた。

 

「……っへへ」

 

 突然笑い声を上げた圭一に怪訝な表情を向けていたが、やがてその意を汲んだように、魅音と沙都子が軽口を返した。

 

「圭ちゃん笑ってるねえ」

「そりゃそうだろ、あいつら俺たちを舐めてやがるぜ」

「そうだね、私たち相手にあの人数でどうにかなると思ってるのかねぇ」

「ウズウズしてきますわ、いよいよ本気の罠を御披露目できますから」

「魅音、沙都子、ひょっとしてお前もこういう状況を望んでたんじゃないか?」

「圭一さんこそ」

「部長として部員に命ずる! あの不届き者どもを一網打尽にせよ!」

「おおー!」

 

 レナは会話に加わらずぼんやりと聞いていた。3人の表情はすでに覚悟が備わっている。彼らは死ぬだろう、その勇猛さゆえに。彼らは山狗を苦戦させるだろう、とはいえ多勢に無勢だ。結束は固いほど解けたとき脆くなる。1人が脱落すればなし崩し的に崩壊へと向かうだろう。しかし山狗という軍隊は1人が倒れても隊列を乱さない。十分な準備をしているならともかく、そうでない限り勝てる見込みなど万に一つもなかった。

 3人ともそんなことは分かっている、それでいて視線だけはレナに、梨花を逃せと雄弁に語りかけてくる。

 レナは頷いた。ちゃんと頷けているかどうかも覚束ない。なぜなら涙で視界が潤んでいるから。肩が震えているせいで、首の筋肉をちゃんと動かせているか判別がつかないから。でも3人には伝わっていた。彼らはつとめて明るく、

 

「何泣いてんだよ、レナ。我が部の誇る無敵のかわいいモードはどこにいったんだよ」

「そうだよレナ! まぁあいつらちゃっちゃと倒してそっち行くからさ、心配しないで」

「そんな状態でレナさんは、梨花を逃がすことができまして?」

 

 ここまできてようやく梨花にも状況が掴めてきた。彼らは自分たちが囮になるからそのうちに逃げろと言っているのだ。

 

「待って、みんな、待って!」

 

 悲痛な叫びだった。

 ようやく秘密を打ち明けられた。本当の意味で仲間と心を通わせた、初めての経験。今それが梨花の前から奪われようとしている。

 梨花は3人の表情を窺うが、少しも変わってはいない。死地に赴く騎士のように高邁な表情。いかなる説得も振り切って、死ぬために戦う表情。

 だがレナなら。

 自分より遥かに人生経験を積んだ今のレナなら「大人」として「子供」を諭すことはできるはずだ。何か言いくるめてしまえるはずだ。そんな淡い期待を込めてレナを見る。

 

「……」

 

 レナは無表情だった。無表情なのに、その眼からはとめどなく涙がつたい落ちている。

 そういえば、レナは大災害後泣けなくなったと言っていたなと、なんとなく梨花は思いだした。

 

「なぁレナ」

「圭一くん」

「それに梨花ちゃんも。俺たちはもしかしたら死ぬかもしれないけれど」

「……」

「また会える。絶対会えるさ、だから」

 

 だから、と圭一が続けようとしたが、それを待たずレナは言う。かつてと同じように。

 

「今度は普通に遊んで、普通に笑い合って、普通に恋をしよう。絶対に互いを疑わない。互いを絶対に信じ合う」

「! それは……」

 

 レナが前の世界で、圭一に語りかけた言葉。レナが如何なる想いで再度圭一にその言葉を紡いでいるのか、梨花にはわからない。

 

「何言ってんだレナ? 俺たちはお互いを疑いなんかしないし、信じ合ってるだろ?」

「……うん。何言ってるんだろうね、おかしいね」

 

 レナは笑みを浮かべていた。その眼にはもう涙はなかった。

 

「うわぁー、レナってばこの場面で、告白とかする?」

「レナさんったら大胆ですわ」

「え? 何がだ?」

「レナが圭ちゃんに恋をしよう、って」

 

 それを聞いて圭一の表情に赤みがさした。慌てて、

 

「なっ……そんなんじゃねえよ、なぁレナ?」

「レナは圭一くんとなら……」

「っておいー!」

 

 圭一をからかいながら、一同は笑い続ける。この時ばかりは梨花も笑った。笑いの後に涙がまたこみ上げてきた。その時だった。

 

「あ……」

 

 降りしきっていた雨が、止んだ。

 雨はもう、涙を隠してはくれない。だからそれが合図になった。

 

「行かなきゃな」

「じゃあレナ、梨花ちゃんは頼んだよ」

「梨花に何かあったら承知しませんことよ」

「うん、任せて」

 

 こうして、5人は2人と3人に分かれた。振り向いたら未練が生じると分かっていたから、決して振り向かないと決めた。

 対する山狗の隊員らはふた手に分かれた様子を正確に捕捉し、梨花が逃げた方向も分かっていた。焦ることはない。目の前に疾走してきた3人の蛮勇を讃えつつ、彼らを殺してから向かうのみ。すでに鷹野には梨花らが逃げた方角を報告し終えていた。雨が降り止んだおかげで暗視スコープ越しの視界も良好である。時間はかかったが、なんとか作戦は軌道修正できたようだ。ただ、仲間のために犠牲になることを受け容れた少年少女らに、ほんの少しだけ哀憐と憧憬を覚えた……

 

 

 

 

 

(どうしてなの……)

 

 うまくいっていると思っていた。

 もしかしたら、この迷路を抜け出せると期待した。現実は暗闇の中、レナと2人きり。息は上がり、足は鉛のように重い。ところどころついた擦り傷や切り傷が痛む。そうした一つ一つの絶望的な事実は、梨花の心も蝕んでいた。

 

(羽入! 羽入!)

 

 その名を呼ぶことに意味はない。もとより羽入はこの世界に干渉することはできない。ただ、一番辛いとき、彼女にも側にいてほしい。

 だが返事はない。そのことが梨花の弱った精神を逆撫でにした。やるせない思いをぶちまけていく。

 

「なんでなの! どうしていつもこうなるの!?」

「梨花ちゃん……」

「どうせこうなるなら、希望なんて見せなければいいのに! どうして期待させるの!? もう放っておいてよ!」

 

 走りながら喋るせいで、語気もしだいに荒くなる。自分の叫びによって、山狗に居場所を知らせているのかもしれない。しかしそれすらもどうでもよくなっていた。

 

「レナもレナよ! なんでさっきみんなを行かせたの!? あなたなら、大人なら、みんなを説得してみなさいよ!」

 

 その時である。レナは走りながらも、梨花に拳骨を落とした。一瞬梨花は痛みで視界がぐらついた。レナの一撃はそれほど重い。おそらく、加減など一切せずに殴ったのだろう。

 

「あなたは生きるの! 生きて記憶を繋ぎとめるの! それができるのは、あなた以外にいない!」

 

 その一言で、はっと我に返る。急速に頭が冷えていった。

 

「……そうね。ごめんなさい」

「ううん、気にしないで」

「鷹野こそが黒幕だった! 守ってくれていると思っていた山狗こそが敵だった! そして……ちゃんと伝えればみんな信じてくれた! そのことを忘れない! 私は絶対に忘れない!」

 

 梨花の魂の叫びに呼応しようと、レナが口を動かそうとしたその時だった。

 

「あらあら、それは困るわね」

 

 聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 パン、とこの場に似つかわしくないような小気味よい音が闇の中で響く。レナの眉間にはもう、銃弾が迫っていた。

 




うまくいかないのが人生。


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 レナの脳裏には昔、まだ竜宮家が円満だったころの記憶が走馬灯のように蘇っていた。分校で小さいけれど運動会があって、校庭には心配そうな表情をした両親がレナを見つめている。位置について、用意の掛け声とともに訪れる、須臾のあいだの静寂。それを切り裂く合図とともに脇目も振らずに走り出す。しばらく走ると、風景は目まぐるしく移り変わっていってレナは驚きに眼を瞠るけれど、共に競い走る仲間たちは変わらなかったから、幾分不安は和らいだ。目線を前に戻して、ひたすら走る。

 ゴールテープはまだ見えない。時間の感覚もわからず、一瞬とも永遠ともつかないが、走り疲れて、足が悲鳴をあげているのはわかる。そろそろ限界が近づいていた。息を切らして走るレナの脳内には酸素が十分に行き渡らないためか、思考はだんだんと単純化されていく。同じ問いがレナの頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。なぜ自分は走っているのか?ゴールには何が待っているというのか?と……

 

 前方に長い髪をした少女の姿が見えた。小さな背中は何かに怯えるように震えていて、そんな梨花を守らなければと思い、もう一度気合いを入れ直して身体いっぱいに力を込める。するとさっきまでと一変して、鉛のように重かったはずの身体が不思議と軽くなった。重力を感じず、自由な風に身を預けたようで、まるで鳥になった気分だった。

 やがて梨花に追い付き、そっと手を取ると、驚いたように見上げてくる。梨花の驚きを怪訝に眺めやりながらも、レナはその万能感に半ば陶酔していた。今ならどんなことだってできる気がする。だがふいに視線を下げると、どこか違和感があった。自分は土のグラウンド上を疾駆していたのではなかったか。これではまるで……

 

 その時、再びあの音が聞こえると、すべての陶酔は冷めやり、レナは背中の翼を血で赤く染めながら地上へ真っ逆さまに堕ちていくのを感じた。落下しながらも振り向いて後ろを見ると、翼は銃弾の勢いに負けて折れかけていた。このままでは無事には済まないかもしれない。それでも梨花だけは救おうと、血が付着せずに、白いまま無事でいられた羽根を何本か毟って、梨花の手に差し出した。血で滲んではいないから、羽根の効力は失われずに済んだだろう。

 羽根は梨花の両手に包まれると質量を増して、まるで綿のように膨らんだ。指のあいだから細くて白い羽毛がするりと抜け出して、宙で煌めくそれらは割れたガラスの欠片みたいで、そんな神秘の光景を目の当たりにしたレナは、薄れゆく意識の中、梨花の背中に小さくとも確かな、白い翼が生えるのを見た。

 

 この継承を最期に、レナは死んだ。

 その銃声が人間1人の生命活動の機能を永久に失わせる割には、そうした重みに似つかわしくないほど軽いものだったため、梨花は目の前であまりにあっけなく命が奪われたそのさまを、現実のものとして認識するのに困難を要したが、それを認識すると同時に、死の本当の意味を百年の時を経てようやく理解できた気がした。

 梨花はこれまで、死んでは過去に戻るを繰り返してきたが、今際の記憶を忘却の彼方へ置き去りにしてきた。そのため、次の世界の梨花は死することの本然を会得してはいなかったのだった。死ぬということが、終わることと同義だという本然を……

 

 頭部に銃弾を浴びて即死したはずのレナは、しかしすぐには倒れずに、しばらく梨花を庇うように鷹野の前に立ち塞がった。梨花はレナの髪に顔を埋めて呆然としている。鷹野もまたその様子を信じられないものを見たような目をして見つめている。鉄のような血の匂いは、今しがたまで降っていた雨の匂いと混じり合って鼻腔を強く搏つ。夥しいまでの血の海が銃槍から迸り、梨花の視界が赤く染まった。赤は梨花の眼に強く鮮明に焼きついた。

 時間遡行を繰り返す梨花は、死の直前の記憶はいつも曖昧になるが、この激烈な真紅のイメージは脳裡に直接流れこんだかのようにも感じられて、次の世界で最初に目を開いたときにも、同じように世界は赤く染まっているに相違ないと思われた。

 一刹那後に、レナは抱いた梨花もろとも倒れ伏し、もはやさっきまでの神秘性、生と死の狭間で揺曳する神々しさを失い、ただ死した肉の塊としての存在と成り果てた。それを見てようやく我を取り戻した鷹野は、梨花を眠らせようと近づく。すると梨花は決意を込めて、鷹野に語りかけた。

 

「私を殺すのね」

「……ええ、殺すわ」

「そう」

「怖くないの?死ぬことが」

「怖いわ、今も身体が震えてる」

「ならどうして……」

「鷹野、私を殺しなさい」

「だから殺すって」

「今ここで、殺しなさい」

「……」

 

 古手梨花を殺害することは、鷹野にとっての最低条件にすぎない。彼女が神の領域に辿り着くためには、梨花にはより残酷に、宗教的意義をもった死に方をしてもらわなければならない。これは特段東京の思惑にはなく、ほとんど鷹野のある種の信仰心からによるものであり、彼女の人生に物語性を付与するための儀式の色合いを帯びていた。

 だが梨花は、それを否定する。

 

「ここで殺すの。その拳銃で」

「……」

「鷹野、あなたは私を殺すことに意味を持たせたがっているようだけど、お生憎様。あなたの言う通りには死んでやらないわ」

 

 これは、梨花のせいいっぱいの抵抗だった。レナは梨花に、生きろと言った。生きて記憶を繋ぎとめろと言った。でも、この状態では少なくとも生き延びることはできそうにない。だが何か一つだけでも鷹野の思惑通りにさせないことが必要だった。それだけでも、きっとこの敗北は徒じゃない。皆の死は、自分の死は徒じゃない。仮に記憶を継承できなくとも、きっといつの日かどこかの世界で、この一欠片が紡がれる時が来ることを信じて……

 

 鷹野は、嬰児を抱く母のように梨花を守りながら伏すレナの身体を、どうにか退かそうと試みた。しかし、身体は不思議に離れない。確かに人間1人の体重を動かすのは女性の力では難しいが、何も持ち上げようというのではない。少しだけ退かせば十分なのに。苛立ち、めいいっぱい力を込める。けれどもレナの身体は微動だにしない。梨花の表情を窺うと、そこにはもはや怯えの色はまったくなかった。それどころか、梨花はこの状況にはおよそ似つかわしくない自然な笑みを浮かべていた……

 その笑みの比類なき美しさに、鷹野は目が離せなくなる。生きることを放擲した投げやりさとは似て非なる、穏やかな表情。少女は死を受け容れたものにしか見られぬであろう、ある種の絶対的な気高さを会得していた。奇しくもそれは、先ほどの別れの際に圭一たちが浮かべたものと同じだった。

 

 高野一二三は生前、死ぬことではなくて、忘れられることを恐れていた。その点で言うと、梨花やレナの死は見た者の瞼に焼きついて、永久に記憶にとどまり続けるのだろう。そしてそういう存在を、祖父は神と呼んだのではなかったか。もしそうなら、他ならぬ鷹野自身が2人を神の次元へと引き上げたのではないか。

 いまや梨花とレナは同化していた。継承の儀式を経て魂の縫合手術は成功し、2人は生死をも超克した存在に昇華した。

 鷹野はそれが許せなくて、認められなくて、ほとんど悲鳴と区別がつかぬ絶叫を上げながら引鉄に力を込めて……

 半狂乱となって梨花の眉間に銃弾を撃ち込むと、それきり梨花の瞳から生気は失われ、あとには鷹野の荒い息づかいだけが残った。

 

「あははは……」

 

 鷹野は乾いた声で、嗤う。

 嗤い声は絶叫に変わる。

 その悲劇的なまでの声色は、帰る場所を失った者特有の悲嘆を備えていた。

 なんという皮肉だろうか。神の座を目指し、立ちはだかるものすべてを打ち破り、今まさに座らんとするすんでのところで、その椅子には既に先約がいたことに気づいてしまったのだから。やはり自分は、いつからか過ちを犯していた。そんなことはとっくに分かっていたはずなのに……

 両親、祖父、小泉が死んだ。富竹を殺した。雛見沢はもうすぐ滅ぶ。まもなく、鷹野三四という人間を形成したものはこの地上からすべて滅ぶ。あとには何も残らない。

 ならばせめて、最後まで。

 この手で滅ぼさねばならなかった。

 

 

 

 それからおよそ2時間ほどして、村は滅した。それと平行して、山狗たちは災害派遣されてくる自衛隊への引き継ぎの準備に追われている。予てからの計画通りに、火山性ガスの噴出に偽装するため、村一帯に少量の硫化水素を放射すると、鳴いていたひぐらしの声も聞こえなくなる。雛見沢の土の中で産まれ育った蝉たちも、雛見沢の命である。長い時を経てようやく外に出られたのに、崩壊した世界で人工的に命を刈られていくよりかは、地上の悲劇を何も知らぬまま、その命脈尽きるまで地中に閉じこもっていたほうが彼らにとって幾分幸せなのだろうか。それともたとえ一声でも、自らの存在を主張するように集く方が、彼らにとって幸せなのだろうか……

 

 梨花とレナの遺体は死後山狗の隊員らによって運ばれ、レナは他の射殺された犠牲者同様に行方不明者扱いとなったが、梨花に関しては他の射殺体と同じように行方不明扱いにはできない。梨花だけは、遺体が保存されている必要があるからだ。だが射殺体では実力装置の山狗に疑惑の目が向けられる恐れがあった。

 しかしここで園崎家の存在が幸いする。生粋のやくざであり、過去の経歴から園崎家であれば実弾を保持していても不思議ではなく、なんらかの権力争いに絡めて古手梨花を射殺したのだと説明つけることは不可能ではない。村が滅びたこの期に及んでも、村を支配する暗黙のルールだけが生き続けるのは不思議だった。

 こうして、山狗部隊はすべての作業を終えて通常部隊へと引継ぎ、数年にわたった雛見沢村への潜入工作は、村の抹殺という形で終わりを告げた。鷹野も入江機関の消滅に伴い三等陸佐の階級を失う。最後の訓戒を形式的にこなすと、つい今まで味方だったはずの山狗は鷹野の外側になり、小此木二等陸尉以下山狗部隊はもう彼女を伺うことはしない。鷹野はひどい孤独を感じた。もっとも、神という存在はいつだって孤独なものである。

 

 

 

 

 

 梨花とレナが命を落とした森の中で、二対の木立から伸びゆく影が闇の中でも地面にくっきりと刻まれていた。今は亡き、かの二人の生と死を讃えるようにただそこに佇んでいる。さわやかな夜風が木立を吹きすさび、木の葉を揺らし、葉擦れとともに葉脈についた水滴が滴り落ちていった。そこでは生命が揺れていた。万物は生と死の狭間で絶えず揺れ動く、儚きものに違いない。

 死した村は自然に満ちている。人間社会という軛から免れ、この肥沃の土地には絶対的な自然が蘇る。あたかもかつて自然が、人間たちが自然と呼ぶその諸生命が、地上を支配していた時代に戻っていくようだった。

 

 沈黙した村は時が止まっているかあるいは遡っているように見えたが、実際はもう朝が迫っていた。雨は止んでからというもの、降る気配はさらさらない。雲間からは絶えず微光がわなないている。空を覆う闇が遠近法を失わせているため、その光の位置は判断しかねたが、無垢で清浄なその光はあたりに遍満して、たちどころに闇を漂白していく。光はやがて2人の血が染み込んだ地上に優しく降り注ぐ。朱色は鮮やかに照らされると黄金色をも帯びた。夜明けはもうすぐそこだった。

 




もうちっとだけ続くんじゃ


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魔女は賽を振らない

超短いです。
謎理論ですがスルーしてください。



 くすくす。

 え?何がおかしいかって?

 このカケラよ。

 滑稽だったわ。

 何が滑稽かって?そうね……

 

 例えばこの罪滅し編のカケラ。一見するとただのカケラだけれども、ほら、ここをご覧なさいな。

 もっと小さな、細かいカケラがたくさん付いているでしょ?

 これはいわばカケラのカケラ。

 この空間に存在する、古手梨花が辿ってきた幾通りもの記憶のカケラは、実はそれぞれ決して静止せずに漂っているのよ。

 ほら、このカケラも、微妙に動いているのが分かるでしょ?

 なぜ動いているか分かる?

 他のカケラに出逢うためよ。

 平行世界の記憶同士が結びつくことで、古手梨花はより上位の存在に昇格するの。

 

 ……けれどそれは、幾星霜もの歳月がかかる。

 その過程で、ごく稀にカケラ同士がぶつかって、欠けた小さなカケラが生まれることもあるのよ。

 

 普通は、ごく微細なカケラが大きなカケラに付着するだけ。

 こうして別の世界のほんの一瞬だけ、断片的な記憶があたかもその世界でも体験したように感じられる。俗に言う、デジャヴというやつね。

 普通に暮らしていてもそういう体験は得てしてあるものだけれど、罪滅し編のカケラみたいに、これほどたくさんの小さなカケラがついていると、それは普通じゃない。

多くの偶然の要素が重なり合った、奇跡的なケース。

 これによって罪滅し編の世界では、前原圭一が「思い出す」ことができた。そしてひとまずの惨劇は「回避」された。

 

 

 

 

 でも、こっちのカケラはそんな高尚なものじゃない。一見してさっきの罪滅し編のカケラとよく似ているけれども。

 おそらくAとBというカケラ同士が、非常に大きく衝突して、それによって生まれたBの世界のカケラのカケラが、Aの世界のカケラに突き刺さったようなもの。

 だから、このAの世界のレナは、Bの世界のレナの記憶をかなり多く保持しているのよ。

 

 でもこれはおそらく、自然に生まれたんじゃない。

より上位の存在が、戯れか何かでこの精神世界に干渉してきた結果じゃないかって思うのよ。

 もしそうだとしたら、その存在は何をしたかったのかしら?

 この存在によってレナは二度の死を経験せざるを得なくなった。

 一つの人格が、二回も終わりを迎えるなんて矛盾してるでしょ。

 ああ、古手梨花は何度も死んでいるけど、死の直前の記憶をいつも保持していないから除くけれど。

 

 だから、このカケラは無意味。

 出来の悪い、いびつな代物。

 この存在はこれだけ強引にカケラを動かしたのに、結局惨劇は止められないだなんて、滑稽じゃないかしら?

 くすくす。

 

 え?……なに?

 ここを見ろって?

 

 ……あら。

 もう少しで見落とすところだったわ。

 

 もう一つ、Bの世界のカケラにも、小さなカケラが刺さっていたのね。あまりにも小さすぎて見えなかったわ。

 どうやら、もう少しだけ続くみたい。

 どうせ何も変わらないのでしょうけど。

 

 ……何も変わらないかはわからないって?

 ……そうかもね。

 じゃあ、覗いてみましょうか。

 どうせこの世界にいても、私たち「古手梨花」には退屈なだけだし、ね?

 




さてカケラって言葉何回出たでしょうか←
一応次で最後の予定です。


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空夢(終)

 
 運命に泣かず、挫けることを知らない。
 そんな彼女は美しかった。

 誰にも媚びず、最後まで1人で戦った。
 そんな彼女は気高かった。
 
 彼女は眩しくて、ただただ神々しくて。
 私には、そんな彼女が必要だった。



「……さん、竜宮さん!」

「……え」

「どうなさいました?」

 

 大石は何度か礼奈を呼びかけたが返事がなかったため、ようやく反応を見せた礼奈に怪訝な表情を向けた。

 

「あ、いえ。すみません、少しぼーっしていたみたいで」

「ずっと反応がなかったからどうしたのかと思いましたよ」

 

 西日が強く射し込んでいるせいで村の輪郭は朧げに見える。カナカナ、とひぐらしが時折鳴き声を上げている。

 まだ夢見心地な礼奈は、現実に立ち返ると自分が古手神社の高台にいることを思い出した。大石らに請われて、封鎖解除された村を訪れていたのだ。彼らの様子から、かなり長い間礼奈が無反応だったと分かる。だが、この場所に見るべきものは何もなかった。

 

「戻りましょうか」

「……ええ」

 

 

 

「送らなくて大丈夫ですか?」

「ええ、車で来ましたから。私は1人で帰れます」

「わかりました。今回はわざわざありがとうございました」

「いえ」

「暗くならないうちに帰られた方がいいでしょうなぁ、電気も通っていないから何も見えなくなりますよ。このあたりでは幽霊話までありますし」

「……幽霊、ですか?」

「ただの噂なんですがね。自分が死んだことを知らない村人たちが、夜は今も村で生活をしている、とかなんとか。怪談話に尾ひれがついています。もっとも彼らの霊は、成仏できていないのかもしれませんがね」

「……」

 

 幽霊でもなんでもいいから、みんなに一眼会いたいと一瞬思ってしまったのは無理からぬことだ。だが一方で、その話を聞いた礼奈にはこんな思いが渦巻き始めた……

 

(もしかしたらみんなは、あれからずっと成仏できていないのかもしれない)

 

 先に死んでいった皆を理不尽に責めたこともあった。生きている方が辛いとも思った。だがやはり、死ぬ方が辛いのかもしれなかった。

 

 そうして大石達が去っていき、村には礼奈一人が残された。蝉の声はもう聞こえない。大石の言う通り、そろそろ日が暮れるのだろう。湿気を帯びて生暖かかった南風が少し冷たくなってきた。

 礼奈は村に来たら一度だけ寄りたかった場所があった。それは大石や赤坂が一緒に居たのでは寄り得ぬ場所。なぜならそこは自分だけの秘密基地だから。どうしてか、帰る前に一度寄って行こうと思った。

 

 塵山に着く頃には、もう陽は沈んでいた。入れ替わるように空には月が浮かび上がっている。今宵は満月だった。

 暗くなったため、塵をかき分けて進むのにも多少の注意を払う。あの頃は、昼でも夜でもここはレナの支配下にあって、廃車までの道を自在に進めたが、礼奈の記憶は薄れてきていたから、辿り着くのも一苦労である。

 幸い、廃車はそのままだった。行方不明者の捜索などで自衛隊がここを見つけていたとしたら、片付けられていたかもしれない。

 当然だが電気は流石に通らなかった。ドアを開けると礼奈は少しむせた。車内にはとうに朽ち果てただろうお菓子やら、よれよれの文庫本やらが埃を被ったまま放置されている。被った埃の分だけ年月を偲ばせた。

 やがて夜が訪れ、塵に囲まれているせいでここには一片の光も差し込まず、車内は酷く暗い。携帯電話の明かりを頼りにして、ようやく後部座席に座った。座ると一日の疲労がどっと押し寄せてきた。肉体よりも、精神の疲労だろう。それにしても、なぜ自分はこんな狭く暗いところにいるのだろうか?かつてはここが自分の居場所だと思ったこともあったのに。大人になって、身体が大きくなって、この狭い城では満たされなくなったのか。

 ……考えるのをやめ、暗闇に身をあずけてまどろみを深くしていく。深く、どこまでも深く……

 

 

 

 いろいろあったものだから、高校、大学に進学することは叶わず、生活の為、夜の仕事にその身をやつすことも厭わない気持ちでいた礼奈だが、いざ面接に赴こうとすれば心のどこか芯の部分、奥底の部分が悲鳴をあげて結局断念し、定職につかずに無目的に生きる日々が続いた。礼奈の二十代前半、女性としてもっとも美しくあるその時期を無為に過ごしたこともあり、現在に至るまで彼女には交際経験がない。言い寄ってくる男性もいないではなかったが、彼らの瞳に広がる言いしれぬ虚無と、前原圭一が最期に見せたあの瞳の輝きを比較してしまい、どうしても拒絶してしまうのだった。無意識のうちに圭一に操を立てているのかは、彼女自身にもあずかり知らぬことである。

 その後、知人の伝手で今の会社に就職して一先ずの安定は得られた。生命保険の会社の事務屋だったが、あまり評判は芳しくない会社だった。礼奈はそこで様々な人を目にしてきたが、世の中には悪人という人種が、自分が思っていたよりも跋扈していたことに驚かされた。間宮リナのように、平気な顔をして他人を騙せる者も多くみてきた。自分の仕事が彼ら彼女らに加担しているのではないかと煩悶する日もあったが、まっとうな仕事をして給金を得る資格を、もはや自分は持っていないようにも感じていた。のうのうと生きることが許されないように感じていた。礼奈は、自分の魂を汚すことこそが、友人たちにできる唯一の餞になると信じた。もっとも、その身を汚す職に就かなかったこととの矛盾には気づかぬまま……

 それから月日が流れ、村の封鎖解除をニュースで知った。にわかに事件が蒸し返されて、礼奈は顔を顰める。テレビの向こうで訳知り顔で事件を解説するコメンテーターたち、大仰に相槌を打ちながら、好奇心に溢れた善良な視聴者の求める、通り一遍の意見を述べる薄っぺらなタレントたち……彼らはみな、村とは無関係なのだ。無関係だから無責任なのだ。見るに耐えなくなってテレビを消す。消すと同時に礼奈は悟った。村に関係ある者は、いまや全世界で竜宮礼奈だけなのだと。無性に悲しくなって、泣きたくなって、だが泣くことさえ叶わなかった。礼奈の涙腺は機能を停止して久しく、20年ぶりの感情の奔流に呼応することはできなかった。死した者のために涙を流せない自分を余計に恨めしく思った。

 大石から連絡があったのはその日の夜だった。礼奈はなぜだか彼に協力することが自然に思えた。滅ぶ前の雛見沢を知る人間はこの世界にあと何人残されていようか……そして礼奈はこうして雛見沢にいる。ひとりぼっちで。

 

 

 

 

 

 今、夢を見ている。それは不思議な夢だった。

 過去へ戻り、大災害を防ごうとする。そこで礼奈は、古手梨花が何度も人生を繰り返して、もう百年もの間袋小路を彷徨っているのだと知った。少女が時折見せる未来予知や、諦念に満ちた表情、夜の廃車で注射器を受け取らなかったレナを見限ったときの残酷なまでの哄笑、それら全てに合点がいった。オヤシロ様の力は、幼い少女には呪いだったのだ。決して死ねない呪いである。

 しかしレナと仲間たちに、再び死が訪れる。死の間際、反射的に梨花を庇うため、目前の銃弾を受け容れた。

 ……所詮は空夢である。自分の罪の意識を少しでも減らすために作り出した都合のいい妄想だ。あの年の6月は空梅雨で、綿流しのお祭りから数日の天候は晴れわたっていたはずなのだから。目が覚めればおそらく、この夢の記憶は失われるだろう。ただ、どこかからその光景を俯瞰していた礼奈は。小さな背中に生えた白い翼から目をそらすことができないでいた。

 そのうち、自分も翼を広げて宙に浮かんでいることに気付く。いつのまにやら、皆も同じように翼を広げてその光景を見つめていた。梨花は最後に鷹野へ何やら言葉を紡ぐと、至近から銃弾を浴びて死んでいった。すると梨花もまた、いつのまにか仲間の輪の内に加わっている。誰も何も言えないでいたが、こういう時のいつものように圭一が静寂を破った。

 

「俺たち、死んじまったんだな」

 

 ぽつり、とこぼされたその一言にどんな意味が込められていたのか。しかしそれほど無念さを感じさせないのが不思議だった。

 

「まあ、ちょい時間がなかったかもねー。もう少しあったら、おじさんならあんな連中一捻りだったんだけど」

「そうですわ! トラップも不本意な出来でしたし。次は負けませんわ」

「みー、沙都子の被害に遭う山狗はかわいそ、なのです」

 

 なぜ彼らがこれほど軽い調子でいられるのか、礼奈には想像がつかなかった。

 

「みんな……ごめんなさい」

「どうしたんだよ、レナ」

 

 礼奈は今自分が彼らと同じ年齢の姿をしていないことに気づいていた。にもかかわらず、礼奈をレナだと分かってくれた。それが少し嬉しかったが、同時に悲しかった。謝罪の言葉は、意図せず口をついて出た。

 

「……あの時、私があんな馬鹿なことをしでかして、私だけ捕まって、そのせいで生き残って……」

 

 喋っているうちに、だんだん語気は強くなっていったが、感情を制御できない。

 

「圭一くんにあんなに酷いことを言って、魅ぃちゃんにあんなに痛い思いをさせて、沙都子ちゃんにも梨花ちゃんにも酷いことばっかり言って……罪を犯した私だけのうのうと生き延びて。自殺しようって何度も考えたのに、そうする勇気もなくて……あまつさえ、封鎖が解除されたことを知るまで、私は心のどこかで、村のことを、みんなのことを忘れようとしてたんだ!」

 

 竜宮レナが、再び竜宮礼奈に戻った日。いやなことを忘れるために礼奈の「い」を抜いて名乗りだした名前だったが、いつしか「レナ」のいやなことの方が比重が大きくなっていった。礼奈と名乗ることで、なんだかんだと言い訳をつけて、その実心の奥では「レナ」だったことを消し去ろうとしていた! なんて醜い欺瞞だろう、なんて醜い保身だろう!

 

 竜宮礼奈の、竜宮レナの、張り裂けるような心の叫び。半ば狂ったように、謝罪の言葉を続けた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 

(ああ、また首が痒い! 腕が、脹脛が、身体中が痒い!)

(痒い、痒い、痒い、痒い、痒い、痒い!)

 

 一時は収まっていたはずの痒みが再燃して、衝動に任せ、爪を立てて首を掻きむしろうとしたその時。礼奈の、レナの細い手首が、掴まれた。

 

「……!」

 

 はたしてそれは、圭一だった。彼は何も言わず、レナも何も言わない。睨み合いが続いた。

 

「……放して」

「駄目だな」

「放して!」

 

 そうして必死に振り切ろうとするレナを、圭一もまた必死になって掴みかかった。二人は宙に浮かびながら、器用に倒れこんで争った。

 

「どうして掻かせてくれないの! 痒いのに! 痒くて痒くて堪らないのに! こんな気持ち、圭一くんには分からない!」

「分かる! 俺にも分かる! 俺も同じだった! 無抵抗のレナと魅音を殴り倒して、馬鹿みたいに見えない何かに怯えながら、首筋を掻きまくって、そうして死んだんだ!でもレナは違う! 違うだろ?」

「はぁ? 何言ってるの圭一くん、レナがいつ圭一くんに殴られたの!? 魅ぃちゃんを殴ったのは私だよ? この私! だいたい圭一くんに黙って殴られるほど私は馬鹿でもお人好しでもないよ!」

「確かにレナは魅音を殴ったさ、俺も殴られたさ! でもレナは違う! 正気に戻ったんだ! みんなに謝れたんだ! ちゃんと警察に捕まって、罪を償ったんだ! それすらできずに死んだ馬鹿とは違うんだ!」

「あぁもう! 何なの? 何で圭一くんはいつも私の邪魔するのかなぁ? もう放っといてよ!」

「放っておけるかよ! 俺たち仲間だろ? 仲間が泣いているのに放っておけるかよ!」

「レナは泣いてなんてっ……え?」

 

 気付けばレナは泣いていた。大災害以来流せなくなっていた涙。圭一は赤いハンカチを取り出すと、レナにそっと差し出した。

 

「ほら、涙拭けよ」

「……そこは、圭一くんが拭いてくれるところじゃないかな? かな?」

「いや、それはさ……」

「圭ちゃんはヘタレだからしょうがないよ」

「魅音ー、お前に言われたくねえ! てかお前ら見てないでレナを止めるの手伝えよ」

「レナを止めることができたのは後にも先にも圭一だけなのです。だから圭一を信じていたのです」

「夫婦喧嘩は見てる分にはおもしろかったですわ」

 

 沙都子が茶化すと、圭一がそれに噛み付いた。すっかり雰囲気はいつも通りだった。

 

「なあレナ。まだ痒いか?」

「ううん」

「じゃあもう掻くなよ」

「うん」

「おう」

「あのね、圭一くん」

「ん?」

「このハンカチ、貰ってもいいかな? かな?」

「別にいいけど、こんなのでいいのか?」

「うん」

 

 レナは涙で染み込んで濡れたハンカチを大事にポケットにしまった。圭一はまた皆から茶化されていた。すると梨花は輪から離れてレナの元へ寄ってきた。

 

「レナ」

「梨花ちゃん……」

「ありがとう」

「え?」

「あなたのおかげで、私は諦めないと誓った。あなたは最後に私に、生きて記憶を繋げって言った。結局すぐ死んじゃったから、次の世界の私は黒幕が鷹野だってこと、忘れちゃうでしょうけども。このレナのことも忘れちゃうかもしれないけども」

 

 梨花は視線を外さない。

 

「それでも私は、いつの日かこの惨劇を乗り越えてみせる。この世界を絶対に無駄にしない。簡単なことだったんだ」

「梨花ちゃん……」

「私は、どんなに絶望的な状況でも、その世界を見捨てない。この決意だけは、忘れないようにするわ」

「……うん」

「あ、もう時間ね」

「時間?」

「ええ、だってこれはあなたの夢だもの。朝が来たのよ」

 

 そう言うと梨花の身体は薄く透明になっていく。圭一も、魅音も、沙都子も、そして他ならぬレナ自身もそうだった。明けない夜は決してない。曙光は平等に世界を照らす。

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 まどろみから醒めて、真っ先に思ったのは、身体の節々が痛んだことだ。痛みを和らげるためゆっくり身体を起こす。車の中にいた。

 

(ここは……)

 

 車のドアを開いて外に出ると、視界には見渡す限り塵が溢れていた。そこでようやく、礼奈は自分がどこにいるのかを悟った。

 

(そっか、秘密基地。私寝ちゃったんだ)

 

 遠路はるばる雛見沢まで来て、肉体も精神も疲労のピークにあったのだろう。そう結論づけた。それにしても、暑い。

 携帯電話の天気予報を見ると、温度はそれほどではないが湿度が高い。ましてこの不衛生な塵に囲まれて、余計に蒸し暑く感じるのかもしれない。来た道を通って塵山を抜け出すと、太陽は燦燦と白い輝きを放っていた。額から滴る汗を拭おうとハンカチを取り出す。すると、それは見覚えのない、赤いハンカチだった。自分のものとは色が異なるのだ。

 

(……あれ?)

 

 大石たちの私物だろうか?それにしてもなんだか随分古いもののようだ。

 裏返して見ていると、礼奈はぎょっとした。名前には「前原圭一」と書かれていた。鼓動が早鐘のように打つ。だが礼奈は、なぜだかこれが圭一の物だという確信があった。大石や赤坂が悪戯でこんなことをするとは思えないが、何より前日聞いた幽霊話が礼奈の頭に残っていたからだ。

 圭一がなぜこれを自分に渡したのかは分からないが、なんだか礼奈はすこぶる明るい気分になった。久しくない感情だった。

 その時、足音が聞こえた。かつて聞いた時はそれが随分恐ろしいもののように感じたけれども、今の礼奈には恐れはなく、むしろ微笑さえ湛えていた。

 

 かくして雛見沢村の幽霊話は礼奈にとって確信になった。そして皆の迷える魂を、天に導く役目を与えられたと諒解し、そのためにお墓を作らなければならないと思った。封鎖が解かれてからも、この忌まわしい土地に進んで関わりたがる物好きはいない。当時の死者は簡素な共同墓地に埋葬され、ろくに親族もいないため大半は無縁仏となってしまっている。

 しかし、村人の多くは先祖伝来の土地を矜りに、それを守るために闘ってきたのだ。彼らを村で弔う。そうすることで、初めて彼らは死ぬことができるだろう。同時に、礼奈も罪に引き摺られるのではなく、苦い記憶と共に生きてゆく権利を与えられる気がする。

 

 こうした唐突な使命感が、まるで水のようにひび割れた心に沁みわたり涵養されていったが、なぜそう考えたのかも自分ではわからない。先ほどの有りうべからざる2つの現象が複合して、天啓のようにも、あるいは放置していた夏休みの自由研究を思い出すかのようにも、ともあれ礼奈の中で成し遂げなければならない何事かとして、眼前に立ちはだかったというべきである。

 とはいえ一民間人でしかない礼奈はその手段が浮かばない。大石たちに相談しようと、携帯電話で連絡を取る。おそらく一泊しただろうから、まだ彼らは興宮に滞在していると思われた。直接会って話したい、と言うと、大石からの快諾を得られた。礼奈はさっそく興宮へ向けて車を走らせた。

 

 

 

「ああ、竜宮さん。こちらです」

 

 待ち合わせた店内からは落ち着いた音楽が流れていたが、それには似つかわしくない際どい衣装を着たウェイトレスが接客を行なっている。礼奈はこの店を昔から知っていた。

 エンジェルモート。

 かつての園崎組の系列店で、園崎詩音が勤務していた店だ。大災害を免れた数少ない人物の一人である詩音は今も興宮方面で健在で、葛西とともに散り散りになった園崎組の再建を果たしたらしい。規模は随分小さくなったが、それでも興宮周辺を縄張りとする程度の力は保てた。とはいえ近年の暴力団排除の時代の煽りを受けて、年々勢力を弱めているのだという。大石からそんなことを聞かされて礼奈は初めて詩音が生き延びていることを知った。

 園崎詩音。

 魅音の双子の妹だが、その生い立ち、境遇故に雛見沢へ足を踏み入れることが制限され、それによって辛くも大災害を免れた。そのためレナとはあまり関わりらしいものはなかった。しかし間宮リナの本性を目の当たりにした際、助力を得るため詩音と少しだけ話をした。魅音と対象的ながら、本質の部分では同じだった。そんな彼女もまた、この街に生きているという……

 卓には大石、赤坂、礼奈の他にもう一人見知らぬ男性が座っていた。前日赤坂の案内役を買って出た彼の後輩とはまた別である。赤坂の紹介によれば、金田というその男は鹿骨市の議員なのだという。議員という響きに俗世の汚濁を感じとり、礼奈は警戒を強めた。しかし赤坂によるならば、彼は興宮署で長らく大石の旗下として働き、雛見沢とはダム戦争以来の因縁があるのだという。大石がその死の無念を晴らそうと、連続怪死事件の究明に乗り出す端緒となった、あのダム現場監督とも知己にあったそうな。籠城事件当時も現場におり、実際自首したレナをパトカーで護送したのは彼だという。当然礼奈の方に覚えはないが、多少の縁を感じる。

 さっそく礼奈は今朝思いついた内容を彼らに話す。すると例の議員が人好きのする表情を礼奈に向けて言う。

 

「そういうことなら協力できますよ」

「本当ですか?」

「ええ、市議会の方でも、せっかくお国から返還された土地をあのままにしておいてももったいないという話はあります。誰も住んでいなくても、市は雛見沢を管理する義務を負っていますから」

「……」

「大災害を供養する石碑を建立し、将来的に村を再生開発する計画も持ち上がっているんです」

「村を、再生……」

「偉い学者さん達によれば、あの土地で有毒ガスが発生したのは天文学的な確率であって、再び起こることはまずありえないのだとか。でしたら災害記念館のようなものを建てて、観光資源にでもしたらどうかと」

 

 話がなんだか俗っぽく傾いてきた。礼奈は静かに反感を示した。

 

「私は、雛見沢には静かに眠っていて欲しいんです」

「……確かに、怖いもの見たさで来る輩もいるでしょう。しかし今のままでは雛見沢は無法地帯です。オカルト好きの連中が好き勝手にやってきては、有る事無い事インターネットに書いています。慰霊碑を建てることによって、そんな人々の意識も少しは変わるかもしれませんよ」

「なるほど……」

「別にいいんじゃないかい?」

「え?」

「あなたは……」

 

 突然話に割り込んできた女性の方を振り向くと、礼奈は息を呑んだ。それは、もし魅音が成長して自分と同じくらいの年齢になったならば、こういう顔立ちをしているだろうと想像していた姿にあまりに酷似していたから。彼女が魅音ではないことは明白だから、おのずとその正体は絞られる。

 

「詩ぃ……ちゃん?」

「……はい、レナさん。お久しぶりですね」

 

 

 

 

 

 平成22年の立秋である。暦の上では過ぎ去ったはずの夏の、蒸した空気、太陽の灼熱はいまだ健在であったが、炎天下の中で鬱陶しいほどに眩しかった木漏れ日が、あとからあとから降らせてくる光は徐々に柔らかさを帯びてきて、たしかに秋の到来を予感させた。

 5年ぶりに訪れた興宮駅は土曜日にもかかわらず閑散としている。二十四節気では、立秋の次候は「寒蟬鳴く」とあるが、蝉たちの鳴き声はもう聞こえなくなっていたから、静寂が余計に際立っている。この地方では例年蜩は早くから鳴き始めるからか、鳴き終わるのも早い。雛見沢を思い起こすときはいつも、判で押したように夕間暮れに響く蜩の合唱が浮かんでいたから、礼奈は少しだけ寂しさを覚えた。

 改札口を出て時計を見ると、待ち時間にはまだ30分近くあった。駅構内の小さな土産物店の前にある休憩スペースに腰掛けて時間が経つのを待っている。

 しばらくして声をかけられた。

 

「お忙しい中わざわざすみません」

「いえ」

 

 赤坂とはあれ以来、5年ぶりの再会だった。

 

「あとは園崎さんですね」

「ああ、詩ぃちゃんは先に向かうって連絡がありました」

「そうでしたか」

 

 2人はレンタカーを借りて雛見沢方面へ向かった。赤坂が運転し、礼奈は助手席で俯き加減に座っている。道中、車内には沈黙が漂っていた。この2人に特段の話題がないということもあったが、それにしてもこの重い雰囲気はどこか沈痛の響きがあった。それを察してか、礼奈が沈黙を破って口を開く。

 

「あの、大石さんは……」

「大石さんは……以前お会いしてしばらくしてから容体が急変したそうで……去年の暮れ頃でした」

「やはりそうでしたか……今回お誘い頂いたメールの差出人に、赤坂さんのお名前しかなかったもので、薄々そうなんじゃないかとは思っていました」

「大石さんは私に事件のことを託すと言いました。身体のことは自分が一番よく分かっていたのでしょう、らしくもない弱音も吐いていましたから」

「大石さんが、ですか……」

 

 5年前、いまだ事件の真相究明を諦めず、礼奈に対しても声を荒げながら質してきたあの老人はもうこの世にはいない。不思議な感覚だった。

 赤坂は強い表情をしている。さながらかつての大石の面影が見出された。

 

「大石さんは、さぞ無念だったでしょう」

「……」

「今回、本の改定をすることになったのも、大石さんの意志を継ぐためです。事件は私などがどうこうしたところで真相が明らかになることはないのかもしれない。いえ、おそらくそうでしょう。しかし、大事なのは真相を追求するという、行為自体にあるのかもしれません。最近はそう考えるようになったんです」

「……お強いんですね」

「いえ……そんなことはないです」

 

 赤坂とて、何度諦めようと思ったことか。封鎖解除後に手がかりを得られなかった落胆は甚だしく、大石の死さえなかったら、雛見沢から手を引いていたのかもしれない。幸絵のことさえ忘れて再婚でもして、穏やかに余生を過ごす。自分はもう十分罪を禊いできたのだから、それを忘れるのも一つの選択だったはずだ。

 そんな心境を知ってか知らずか、礼奈は赤坂に聞こえないほどかすれた声量で、独り言のように小さく呟く。

 

「私は、弱いから」

 

 その時、ガタンと大きな音がしてその声をかき消し、車内が揺れた。舗装道路から砂利道に変わった時の段差である。かつて園崎が健在だった頃は、その筋の議員が議会に働きかけて、この道を舗装させる計画があったようだが、例の大災害でひと気がなくなってからというもの立ち消えになったらしい。封鎖解除された後も市は雛見沢地区をないものとして扱っているため放置されたままである。税金を払う住民がいないのではそれもやむなしだった。もっともそのおかげで、村と街を分かつ明確な境界が示されているが、道路の利用者からは不便を訴える陳情がある。以前とは状況が変わってきているのだ。雛見沢の道路が舗装され、街との境目がなくなる時こそ、興宮と雛見沢を隔てていた見えない段差、言うなれば人と鬼の差別も取り払われると思われる。

 

「ここを訪れる人も増えましたね」

「……ええ」

 

 無論、有名な観光地に比べればまだまだ交通量も少ない。とはいえ以前来た時には他に車は走っていなかった。今では県外からもたまに車が訪れる。

 

 雛見沢についた2人はさっそく詩音と合流を果たし、目的地へと向かった。今年の6月に落成したばかりの慰霊碑はまだ真新しく、古い家々と対比された。併設された案内板の揮毫は鹿骨市長が入れたのだといい、随分堂に入っている。

 大災害直後は雛見沢出身者たちの奇行が盛んに報じられ、メディアはそれを雛見沢症候群などと命名して差別を煽ったが、沈静化した今では、市民らも村への差別意識よりかは災害の悲劇を鎮魂する想いが強く、反対する者は少なかった。市民の災害への意識が強まっていたことも追い風となった。何にせよ時代が進んでいく中で、封建的な思想は徐々に薄れていったのである。オヤシロ様は人と鬼との融和を祈ったそうだが、ついにそれが叶ったというべきか。

 案内板にはしめやかにこう刻まれている。

 

 雛見沢大災害供養慰霊石碑

 昭和五十六年六月二六日未明より火山性有毒ガスが雛見沢村全域に噴流、ほぼ全村民が罹災し死者行方不明者は二千人余を数える。

 災害対策基本法に基づく雛見沢地区の警戒区域の解除を記念し、この悲劇の記憶を後世に留めんとここに記す。

 

 雛見沢大災害慰霊碑設置事業

 代表 鹿骨市長 〇〇 〇〇

 市議会議員 金田 〇〇

 鹿骨市商工会長 〇〇 〇〇

 npo法人 〇〇 代表 竜宮礼奈

 

 あの後礼奈は自分が大災害の唯一の生存者であることを公表した。それは同時に、学校籠城事件を引き起こした「少女A」であることの、過去の罪の公表でもある。そして雛見沢を後世に引き継ぐべく、仕事を辞めて赤坂や詩音らの助力を得つつ慰霊碑の維持管理と、大災害を後世に伝える活動を行う非営利法人を設立した。このため、大石と赤坂の共著本の改定作業には礼奈も加わった。

 「少女A」が学校を占拠して寄生虫や宇宙人の陰謀論を述べ立てたことは一部で知られていることだ。自らを公表したことで時に好奇の視線に曝されることもあったが、礼奈は動じることはなかった。この頃多くの取材を受け、時に礼奈1人が生き残ったことを批難する低劣な記者にも遭遇した。それでも、時間を割いてあらゆる取材に応じた。

 これらはすべて、大災害を人々の記憶に残すためである。

 

 慰霊碑は、数え切れぬほどの名前で埋め尽くされていた。犠牲者の名簿である。ここにある名前はもはや意味を失った文字の羅列にすぎない。大勢の死は、悲しみの総量と比例せずいつも無機質だ。

 礼奈が雛見沢に住んでいたのは茨城に転校する前、まだ小さかった頃と、最後の2年だけである。四半世紀前の話であり、犠牲者名簿を見ても顔と名前が一致する者は少なかったが、仲間たちの名前にはやはり目が止まった。

 

「園崎 魅音」

「古手 梨花」

「北条 沙都子」

「前原 圭一」

 

 ……目をそらすまい。

 礼奈は彼らの死から目をそらすまい。

 生は一度しかないから輝きを増す。死は誰にも平等に訪れる。ごく当たり前のことだった。

 磔刑に処せられて生きてきた。脱け出すことはかなわないと思い込んできた。しかし、手脚の緊縛はとうに仲間たちが解いてくれていた。俯いていたから気づかなかっただけだ。

 永遠に許されぬ罪はあろうか。永遠に滅ぼせぬ罪はあろうか。

 

 墓銘は陽光を反射して輝きをはなっていた。大災害で亡くなった、二千名の犠牲者の名前。その記念碑からは無数の鬼哭が聞こえてくる、そのひとつひとつに耳を傾け、ひとりひとりの無念を癒す。この記念碑が、一人でも多くの人の記憶に刻まれますように……

 いつのまにかひぐらしたちが鳴いていた。やや季節外れのこの虫たちのすだきが、人々への鎮魂の歌のように聞こえたから、礼奈は目を閉じて祈りを捧げた。

 

 

 興宮駅は地方のローカル駅のため、快速も止まらず、電車は一時間に一本あればいい方だ。赤坂は一泊してから帰るそうだが、礼奈は翌朝には東京についていなければならない。翌日は講演の予定があるからだ。今、竜宮礼奈は東京のみならず忙しなく全国を巡っている。多くの人と出会い、人々の哀しみに触れた。彼らと接すると、いつまでも自分だけが悲劇のヒロインでいることが恥ずかしくなる。悲劇を乗り越えるのではない、悲劇を携えながら生きていく。大なり小なり、誰でも同じだった。

 電車が来た。礼奈はポケットに忍ばせたハンカチをそっと握った。大丈夫、私は生きている。

 座席に座ったら、うんと眠ろう。幸い乗り換えは終点だから、乗り過ごす心配もない。ここ数日は睡眠を疎かにしがちだが、健康によくない。肌にもよくない。最近は悪夢に苛まれることもなくなったから、きっとよく眠れることだろう。

 やがて電車は発車し、興宮から遠ざかっていって、ついに街は視界から消えたが、礼奈はもう振り返ることはしなかった。

 ――終点が来たら、また歩き出さなければならない。

 




 活動報告の方に長いあとがきを掲載しましたので良ければどうぞ。
 耳目を集める内容ではないのに、当初の想定を上回る過分なご評価を頂きました。偏に原作人気ゆえですね。
 最後駆け足になってすみません。


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番外
冬の陽


「愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ」

 サン=テグジュペリ「人間の土地」




 日曜日はいつも、朝早くから雛見沢村で唯一の診療所へ出掛けるのが習慣になっていた。都会と違って人間同士の距離は甚だ近く、情報はすぐに村中に広まるため、園崎詩音の診療所通いは皆が知っていたが、村を牛耳る園崎家で微妙な立場にある少女に面と向かって問い質す者はいない。園崎本家はかつては伝統に則って詩音を敬遠していたが、前原圭一が新しい風を村に持ち込んだことで、そうした前時代的な考え方は一掃された。以前なら、詩音が日の出るうちから大手を振って村を歩くことなど、考えられぬことだった。

 

 その日はたいそう雪が降る朝で、窓の外を見やると、朝の凍てつく風が枯木を吹き飛ばすかのように強くて、余計に寒さを感じさせた。テレビのスイッチを入れる。画面の向こうに映る東京の晴れ渡った青空がうらめしい。向こうは今週は気圧も安定していて、晴れの日がしばらく続くらしい。冬場はほぼ白一色に染まるこの地方からすれば同じ日本ではなく、どこか外国のように感じられる。彼らのほんの微かな雪が降るだけで、爆弾テロでも起きたかのように騒ぎ立てる様は、見ていて滑稽だった。

 

 ーー雪は、あまり好きじゃない。

 

 詩音は太陽に焦がれた。近づく物総てを焼き尽くすエネルギーを内包しているのに、遥か遠くにいるとかえって生命力を与えてくれる。朝の太陽の光は眩しくてあたたかく包み込んでくれる。陰という陰を無量の光が塗り潰していく。日陰を歩いて生きてきた少女がずっと手に入れたかったものはそれだった。

 雪の降る日、太陽は雲間に覆われてその姿を見せてくれない。かわりに空から注ぐ無数の白は、地に落ちるとやがて溶けて色を失ってしまう。それはあまりに冷たくて、心まで凍らせてしまいそうだった。

 

 積雪には慣れているから、少しくらいなら単車で村まで走ろうと思ったが、思ったより視界は悪い。この様子では危険そうだったためお付きの葛西に車を出して貰った。彼は詩音に従順で、幼い時分から勝手知ったる仲だからかついつい頼りがちだ。

 

「葛西、すみません。せっかくの日曜日に私に付き合ってもらっちゃって」

「その御言葉は先週も聞きましたよ」

「あれー、そういうこと言います?葛西も私と一緒で嬉しいでしょ?」

「もちろん、詩音さんの運転手を勤めることは光栄なことです」

「固いなぁー。葛西は固い!」

 

 けらけらと、少女が無邪気にからかう相手は園崎組きっての武闘派。そんな彼も詩音を前にしては表情を緩める。だが、バックミラー越しに見える少女の表情がいまいち冴えないのを、葛西の眼光は見落とさない。

 

「北条悟史君は、最近どうです?」

「……まぁー。お変わりないです。悟史君は穏やかに、すやすや眠ってます。……その顔が本当に可愛くて!いつまでも見ていられます」

「……そうですか」

「おっ、葛西。嫉妬ですか?可愛いところありますね〜」

 

 葛西はそれには答えない。詩音、入江、赤坂とともに、彼も診療所を強襲し、富竹を奪還することに成功したが、その際に固くベッドに括り付けられた少年を見ていた。園崎本家には忠実だが、心情的に詩音寄りな彼はその姿にひどく胸が締め付けられるのを感じた。詩音には普通の恋愛をすることにさえ、障害が多すぎたから。

 それでも、自制して彼の帰りを一途に待ち続ける詩音を葛西は立派に思う。彼からの伝言を実直に守り、甲斐甲斐しく北条沙都子の面倒を見ている。悟史への愛情を、沙都子に仮託している向きはあるが、少なくとも自分の愛情を歪めて、沙都子に憎悪を向けないのはひとえに彼女の心の強さ故である。詩音の強さが、いつの日か悟史を闇の底から救い上げることはほとんど確実に思われた。

 

「あーもう、葛西ってば、からかい甲斐がなさすぎです。そんなんだから母さんに振られちゃうんですー」

 

 ……痛いところをついてくる。いつ知ったのかはわからないが、詩音は葛西の泣き所を正しく知悉している。詩音は頬を膨らませて黙り込むと、目を閉じてすぐに寝入った。人前では心労は見せないが、彼女の鬱積は相当のものだろう。葛西は眠り姫を起こさぬように、スピードを落とそうとアクセルを少し緩めた。車は雪の積もる畦道に、清冽な轍を刻みつけながら前進を続けていった……

 

 

 

 

 

 

「それでは、私は本家の方に寄って行きますから、帰る頃になったらそちらに連絡して下さい」

「はいはーい、母さんと仲良くね」

 

 今日は茜がお魎の元に遊びに来ているらしい。眠る前に有耶無耶になっていた葛西への弄りを続けるが、彼はまたしても無言を貫き、黒塗りの車へ乗り込むと、早々に走り去っていった。葛西の車が完全に見えなくなるまで見送ってから、詩音は診療所に入った。

 

 日曜日は休診日のため、診療所には人けがない。たまに学校帰り、平日に訪れるとスタッフたちも詩音の姿を覚えていて、一瞥するなり入江を呼びに行ってくれる。事情をあずかり知らぬ彼らは詩音の目的を微妙に誤解しているようだが、入江に対する感謝の念も強いため、特に訂正していない。悟史の入院を知る者はスタッフの中でも極一部のため、詩音の診療所通いを理由づけるのにはむしろ都合がよかった。だが今日は診療所に居るのは入江だけだから、詩音も擬態は必要なかった。

 

「詩音さん、お待たせしました」

「はろろーん、監督。私に会えなくて寂しくなかったです?」

「そうですね、1週間あなたの元気な姿を見られないと、やはり彼も寂しいのでしょう。詩音さんが来てくれることでこちらも助かります」

 

 2人はそれ以上社交儀礼を交わさず、特に何を話すでもなく歩き進めた。休診日のためか所内はほとんど消灯していて、午前中だが太陽が見えない天気のため夜のように薄暗い。そうして一般患者が訪れない奥の方まで進んでいくと、傍目にはそれと判別し難いところに階段が続いているのが分かる。その階段を降りていき、1分ほど歩くと、巨大で無骨な鉄扉の前に辿り着いた。

 

 入江は扉の横に設置された機械に慣れた手つきで数字を打ち込み、指先をかざした。いわゆる指紋認証というやつで、この時代にしては最新鋭の設備だった。パスワードと併せて2つとも正常に識別されたことで、地下区画への秘密の入口は開かれる。中はセキュリティルームのようで、壁一面にテレビ画面のようなものがいくつも設置されていた。監視カメラの画像だった。

 

 ……これらはいずれもかつての山狗が利用していた施設だった。山狗の権限は剥奪され、入江機関自体もアルファベットプロジェクトから新しい幹部たちに移管されたが、彼らも研究を即時中止はさせることができなかった。これは、東京にうまく掛け合ってくれた富竹の尽力が大きいだろう。富竹は鷹野と山狗の不明瞭な資金の流れを不審に思い、その調査を行なったことで、自身も一時山狗に拘束されたが脱走に成功、番犬部隊を雛見沢村に派遣させて一連の事件を解決してみせたいわば立役者だった。彼は調書で、入江が如何に研究者として人道的かつ熱心で、のみならず診療所の所長として村から信頼を寄せられているかを語り、入江が以後も安心して研究を続けられるよう最大限に便宜を図ってくれたのだ。

 結果、東京は入江二佐に監督者の責任として一部俸給の返上と一階級降格という処分を与えたが、所長の座は据え置きとなった。余談だが、入江が二佐から三佐となったことで、富竹の口から「二佐」もとい「リサ」が聞けなくなってしまい、入江は密かに残念に思っていた。

 

 かくして、入江は雛見沢症候群の研究を続けている。そしてその強い原動力になっているのが、今彼の後ろについてきている少女と、北条沙都子の元に、必ず彼を返してみせる、という決意だった。

 地下区画は24時間、休みなく電気がついているから随分と明るい。この診療所に限っては地上よりも地下の方が明るいという矛盾。それは入江にとって、これから向かう彼、北条悟史という光が、自分の道筋を照らしてくれているように感じられた。

 

 

 

 その部屋に足を踏み入れると、ひときわ明るい光が迎えてくれた。一面に張られたガラス窓が電灯の光をあちこち反射しているせいだろうが、詩音はその光は悟史だと信じた。病室に入る。ベッドの上で悟史は穏やかに眠っている。横には大きなぬいぐるみが鎮座してある。悟史が妹のために買ったものだ。詩音は悟史の手を握って口を開く。

 

「悟史くん、おはようございます」

 

(おはよう、詩音)

 

「聞いてください、沙都子ったらまた私が作ったお弁当のブロッコリーを残したんですよ。あの子の野菜嫌いをなんとかしなきゃいけません。何かいい案ありませんかー?」

 

(あはは、沙都子は野菜嫌いだからなぁ。ところでブロッコリーって何色だったっけ……?)

 

「もー!この兄妹は!緑に決まってます!白はカリフラワー!いい加減に覚えてください」

 

(むぅ……)

 

「そ、そんな不意打ちしても駄目です!」

 

(……)

 

「聞いてます?悟史くん。あれ、寝ちゃったなぁ。もう」

 

 そう言って詩音は悟史に語りかけるのをやめた。傍目から見ていても詩音が1人で話しているだけだったが、北条悟史の治療には、実際こうした詩音の呼びかけが一定の効果をもたらしていることを入江は知っている。彼女が悟史に語りかけた日と、そうでない日の脳波を比較すると、明らかな変化が認められたからだ。人間の身体というものは、どれほど医学が進歩しても不思議なもので、結局のところ心という、極めて抽象的なものに左右される。病は気からという昔からの諺。今日の医療を鑑みても、大半の病気の原因はストレスによるものだ。人間の思考を司る、脳。すべて人間は脳から与えられる電気的信号によって思考や感情を可能にする。しかし人間の心という、脳を、医学を超越した何かの存在を、入江は信じるようになった。

 

 詩音が脳内で悟史との会話を作り上げていることは容易に見てとれる。もしかしたら、詩音には自身の妄想が肥大化していて、本当に悟史の声が聞こえているのかもしれない。しかし入江はこの頃、こういう場面を見てもそれをすぐに危険だと断ずるのをやめるようになった。

 

 雛見沢症候群は確かに被害妄想を生み出す。

 村で生まれた詩音も、体内に寄生虫を飼っているだろうから、潜在的な患者である。

 しかし、寄生虫は何も雛見沢症候群だけじゃない。そして我々の身体には今この瞬間も、ありとあらゆる菌が体内に生きている。それら微細な菌は、人間に悪さをするものもあるが、大半は無害なものだ。ある側面において有害であっても、実は別の働きをしているためにそれがなければむしろ健康を害する、ということもある。雛見沢症候群も、悠久の時を経て、すっかり住民たちの体内に安住して、もはや住民の一部になりつつある。寄生虫を殲滅することが、かえって住民たちにとって芳しくない結果をもたらすことも考えられたのだ。

 

 そのため、このころ入江は雛見沢症候群の撲滅よりも、寄生虫との共生により重きを置くようになった。勿論、悟史のような末期患者を救うためにこの先も研究を続けるつもりだが、なにしろ世の中には1か0、白か黒かで決められないことがあまりに多い。寄生虫を撲滅するかしないかではなく、彼らと共生する。

 実際のところ、この寄生虫によって、村にもたらされたものもあるだろう。例えば、村の結束。他のコミュニティではまず見られないほどの団結力は、間接的に寄生虫がもたらしたものと言えた。帰巣性だって、解釈次第では悪いことじゃない。これからの日本は地方の過疎化が進み、人口の半数が65歳以上の住民になる自治体も、21世紀には珍しくなくなるだろうと、朝のテレビで専門家たちが警鐘を鳴らしているのを入江は見た。だがこの雛見沢村では、今目の前にいる詩音、悟史。そして前原圭一、竜宮レナ、園崎魅音、北条沙都子、古手梨花。それ以外にも、次の世代を担う子どもたちが、元気に過ごしている。彼らは皆この村を愛し、この村を守りゆくことだろう。

 

「詩音さん、そろそろ時間です」

 

 名残惜しいが、悟史と詩音をずっとそのままにしておくわけにはいかない。悟史は曲がりなりにもL5発症者であり、本来ならこうして至近距離で身体に触れることも避けるべき。そのために厳重に拘束されているわけだが、万が一ということもある。

 

「……おや?」

 

 返答しない詩音を怪訝に思い、近寄ると詩音は小さく寝息をたてていた。陽だまりのように穏やかな表情で、それはすぐそばで眠る悟史にあまりに相似していた。

 

(やれやれ)

 

 本当なら、無理にでも引き剥がすべきなのだろう。これ以上は危険だと言って。しかし入江は黙って彼らを見守った。自分でもなぜそうしたのかはわからない。ベッドの横には入江と同じように、巨大なぬいぐるみが優しい表情で2人を見つめていた。

 

 

 

 

 

 診療所を出ると雪は止んでいた。30分ほど前に葛西に電話を入れたから、もうそろそろ迎えが来る頃だった。案の定、黒塗りの高級車がその威容を表した。詩音は軽く礼を述べて助手席に座る。車は来た道とは反対に坂を降っていく。

 

「今日は、いつもより少し時間がかかりましたね」

「いやー、悟史くんの近くでウトウトしちゃいまして。いつの間にか寝ちゃってました」

「行きの車内でも寝てましたが。睡眠不足ですか?」

「うんにゃ。普通だと思う」

 

 実際のところ、悟史の側にいると、詩音はよく眠気に誘われた。それは別に悪い意味ではなく、彼がぽかぽかと暖かく、春の陽気に包まれているように気持ちよくて、ついつい目を細めてしまうのだ。いつもは入江が起こしてくれるのだが、今日に限ってはなぜかそのままにしておいたという。

 詩音にとって、悟史はいつも太陽だった。太陽は太陽でも、全く弱くて頼りなくて、そのおかげで近づきすぎても火傷することはなかった。そのくせ光ばかりは眩しいほど強烈で、詩音の陰をものともしない。始めあまりの眩しさに、路地裏から大通りへと去っていく彼を直視するのに困難を要したほどだった。

 葛西の車は道路間の段差によって揺れた。舗装道路に変わったから、興宮はもうすぐだった。

 詩音が育った町。悟史と出会った町。

 

 自分は本当は魅音のはずなのに、どうして詩音なんだろうかと、未だに思う。

 そう思う時、いつも彼との思い出が浮かんできた。それは、大石に追い詰められた悟史を救おうと、詩音が詩音だと名乗った日。

 騙していたことを謝る詩音に、悟史はまるでなんでもないことのように朗らかに笑うと、詩音に言った。

 

「初めまして、じゃないんだよね?」

「え、と……はい。そうなります」

「そっか。しおんってどう書くの?」

「詩を詠むの詩に、音で詩音です」

「詩音……うん」

「うん?」

「いい名前だね」

 

 ……それは、生まれて初めて、詩音が詩音として認められた瞬間だった。悟史には何の阿諛もなく、ただただ純粋に、そう思ったから彼は口にした。それがどれほど詩音の心を救ったか、悟史には分かるまい。

 

 車はいつの間にかもう興宮を走っていた。大通りには光が差している。晴れ間が見え始めているのだ。眩い、溢れんばかりの光が地表に降り注ぎ、雪を溶かし出している。詩音はその眩しさと暖かさで、家もほど近いのに、このままだときっとまた眠ってしまいそうだと思った。

 




 クリスマスに短編として投稿しようとして間に合わなかったので、とりあえずこっちに載せます。
 本編とは何の関係もないです。


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