BLOOD-C Light which cultivates darkness (MIDNIGHT)
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人物設定

【主人公設定】

 

名前:一条 真夜 (いちじょう まや)

容貌:黒髪ポニーテール(戦闘時は首筋で束ねる) 黒瞳

性格:優しく人当たりがいいが、時折ずばっと毒舌を混ぜる。物事を冷静に捉える反面、一人で抱え込む。

イメージCV:日笠陽子

 

備考:BLOOD-Cの結末に納得がいかず、いろいろ考えている時に女神の不注意で死んでしまい、転生した。その際に「小夜」と「真奈」から名前をつけた。転生の際にハッキングの知識と技術、小夜と同等の身体能力をもらった。

 

 

【その他】

 

名前:月詠 凛 (つくよみ りん)

容貌:セミロングのライトブラウン 黒瞳

性格:無邪気だが、執着心が強い

イメージCV:田村ゆかり

 

真夜や真奈と同じ十字学園2年生。

生徒会副会長を任されている才色兼備ながら、あどけなさの残る気安い性格故学年を問わず人気がある。

七原文人の腹心である『九頭』の妹。真夜に対して興味をもつ。



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前奏
零話


初転生もの挑戦作です。
いろいろ未熟なところもありますが、よろしくお願いします。

・小夜×文人好き
・オリジナル展開嫌い
・主人公チート気味苦手

といった方はご遠慮いただければと思います。



読んでいた小説を閉じ、深々とため息をついた。

 

「はぁ…小夜をもっと救ってあげられなかったのかなぁ」

 

なんとはなしに私は今まで読んでいた小説『BLOOD-C THE Last Dark』を置いて呟いた。

 

私、アニメ好きのオタ女子校生ね。CLAMPが加わったアニメは全部観てるわよ!

 

アニメで見た小夜ちゃんのあの状況からどんな物語が展開されるのかと約一年間楽しみにして遂この間公開された映画も観てきた。それだけに留まらず、小説も買って全部読み終えた。

 

そして思ったのが、冒頭の言葉だ。

 

「結局、真奈ちゃんとも再会しないままだし…小夜ちゃんも本当に救われたのかな……」

 

目的を達しても観る限りは小夜ちゃんの方に救いがあったとは思えないんだよね。せめて真奈ちゃんやサーラットのメンバーといっしょになれていたら、少しはマシだったのかも。

 

でも物語はここで終わり…あの後どうなったかは結局自分で予想するしかない。

 

もし私だったら、絶対HAPPYENDを目指すんだけどね。

 

そのまま電気を消し、私はそのままベッドに入った。

 

明日からまた学校だな…せめて小夜ちゃんが幸せになった状況でも妄想しながら寝よう。

 

 

 

『あの…もしもし』

 

「誰? まだ眠いんだけど」

 

身体が睡眠を欲しているのだ。まだ眠いと手を払いのけるも、しつこいぐらいさすってくる。

 

「もう、なに…!」

 

鬱陶しくなって身体を起こすと、そこには見慣れぬ女性が一人…うわっ、なにこのゲームに出てきそうな女神っぽい人。

 

『あの……非常に申し上げにくいのですが…貴方は、今死んでしまったんです』

 

「はい……?」

 

思わず頭に?マークを浮かべる。

 

いきなりこの人は何電波なことを言っているのだ。なんで私が死んだのよ……と何気に見やると、私が下で寝ているではないか。

 

っていうか、なんで私は自分を見下ろしているのだろう…って、よく見たら私顔白いじゃん! 血出てるじゃん! 本棚の下敷きになってるじゃん!

 

「これって…私、死んだってこと……?」

 

『はい…本当にゴメンなさい!』

 

その女神っぽい人が土下座して謝ってくるものだから、私の混乱は増すばかりだ。

 

「と、とにかくどうなってるの……」

 

自分でも驚くぐらい冷静になっている。いや、だってね…こんないきなり死んだと言われて普通信じられないでしょ。

 

ひたすら謝る女神さん(こう呼ぼう)を落ち着かせて理由を聞くと……神様が管理している人間の生死――謂うところの寿命を記載してあるリストを整理中に思わず飲んでいたコーヒーを零してしまったらしい。

 

そのページには私の寿命が記載されていたみたいで、汚れた部分をすぐに拭き取ったらしいんだけど、なんでもその際に誤って寿命の数字も消してしまったらしい。

 

寿命の数字が消える―――即死亡……ということらしい。

 

『ほぉぉぉんとぉぉぉぉに、ごめんなさぁぁぁぁいぃぃ』

 

事情を説明し終えると、女神さんは再び土下座した。

 

いや、そんなことってあるんですね……はぁ、私の人生…10代で終わりか………まだ読んでないライトノベルとか、始まるアニメとか続きを見ていないアニメも結構あったんだけど……

 

『あの、そのお詫びなんですけど…貴方を貴方の望む世界に転生させようかと』

 

落ち込む私に掛けられたその言葉に、思わず顔を勢いよく上げた。

 

「それって…まさか、転生!?」

 

何を隠そう、私はネット小説のヘビーユーザーでもある。最近読んでいたのが現実から二次元に転生するものだ。まさか、その権利を私にくれるのか。

 

「それって、好きな世界にいけるってことですか!?」

 

掴み掛るような勢いで迫ると、女神さんは若干引きながら頷いた。いや、でもこれって凄いことなんですよ。

 

『貴方のこの世界での肉体は死んでしまったのですが、別の世界に新しい肉体を再構築して魂を定着させます』

 

おお、そんなこともできるのか! 流石ご都合主義!

 

「行きたい世界って選べるんですか?」

 

ここ重要だね。それこそまったく興味のない世界に否応なしに送られるのだけは流石に嫌だし。

 

『はい、貴方が望む世界に送ってさしあげることができます。その際に、望むならお好きな能力も付与できますし』

 

それってチートの魔改造もOKってことだよね。

 

「お願いします!」

 

「分かりました。では、どういった世界に…?」

 

勿論決まっています。

 

「『BLOODーC』の世界です」

 

小夜ちゃんを…みんなを助け、絶対にHAPPYENDを実現させる!




取り敢えず導入部分――いろいろ転生を書かれる方は本当にすごいですね。
この転生の流れが非常に難しいです。
さて、次回から主人公の奮闘を描いていきます。


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壱話

東京都内にある某マンション……その一部屋に突如として粒子が集まり、形を作っていく。

 

それらは徐々に大きくなり、人の形を成していく。やがて光が霧散し、その後から現われる人影――腰まで届くほどの黒い艷やかな髪が一瞬浮き、やがて重力に従って落ちる。

 

無言で佇む少女の瞳がゆっくりと開かれ、何度か瞬きながら覚醒する。

 

「着いた…のかな?」

 

少女はポツリと呟き、恐る恐るといった様子で周囲を見渡す。

 

視界に飛び込んでくる小さなキッチンとテーブル…眼を動かせば、壁に沿って部屋が二つほど。少女には見覚えのない光景だった。

 

次に自分の身体を見回す。手を握っては開けを繰り返し、感覚を確かめる。

 

「これが私の新しい身体かぁ」

 

女神の不手際で死んでしまった少女だったもの…感慨深く新しい身体の感覚を確かめていたが、やがて今の自分の顔はどうなっているのかを確かめようと部屋の端にあるバルコニーへと続くガラス戸に歩み寄る。

 

そとは夜だった―――そのおかげか、ガラスは鏡のように反射し、今の自分の顔を見せてくれた。

 

「うわっ、本当にCLAMP顔だ」

 

若干驚いたように顔を凝視する。黒髪が合う少しキレ眼の美人といった感じだ。少なくとも、漫画でしか見たことがない顔が今の眼の前にあり、それが今の自分の顔だという実感がなかなか沸かない。

 

なんとはなしにバルコニーに出てそこから見える景色を一望する。

 

「あ、東京タワー…それに、スカイツリーも」

 

一目で分かる東京のシンボル…煌めくビル群に下を走るネオンの輝きと車両の走行音。どう見ても馴染み深い東京の光景だ。

 

「本当にBLOOD-Cの世界なのかな」

 

見える光景は前の世界でも当たり前の光景で、いまいち実感に沸かない。

 

暫し夜風に当たっていたが、やがて部屋の中に戻り、そのまま廊下に沿ってある部屋を開けると、そこには畳が敷かれただけの何もない部屋。そしてもう片方の扉を開けると、そこには机とベッド、クローゼットがある。

 

先程と違い、整った部屋に入ると、ベッド脇にかかっていた制服が眼に入った。

 

「うわっ、これって十字学園のやつじゃん」

 

ハンガーに収まり、壁に掛かる学生服のデザインは、確かに映画で見た"柊真奈"が通っていた十字学園の制服だ。そして、その意匠はあの浮島地区で設定された仮想の学校"三荊学園"の制服に類似していた。

 

紺色とも取れる色彩に胸元の鎖がアクセサリーなのか、鈍く光っている。それを指で弾く…そして、徐々にここが紛れもなく自分が望んだ世界であると理解してくる。

 

「ってことは、私は十字学園の生徒ってことか」

 

ここが"BLOOD-C"の世界だとして、自分のこの世界での立ち位置はそもそもどうなっているのか。無意識にポケットに手を入れると、そこに感触があり、なんとはなしに取り出すと、一枚の紙切れがあった。

 

それを広げると、そこには文章が羅列されている。

 

「えーとなになに…『ちゃんと送りましたが、無事に着いたでしょうか? その世界での貴方の戸籍を記しておきます』」

 

女神からの手紙には、今の自分の戸籍――この世界における設定が記されていた。

 

「親類なし。天涯孤独…高校進学と同時に施設から出所。現在十字学園2年生…また随分ヘビィな」

 

確かにある程度のことは任せたが…まあ、独りの方が気が楽だしと気を取り直す。

 

「しかしこれって明らかに真奈ちゃんと会うよね…今、何時ぐらいなんだろう?」

 

そもそも今はあの世界における時間軸はどの辺なのだろうか。すぐさまリビングに戻り、備え付けのテレビに電源を入れる。

ちょうどニュースが流れており、時間列で言えば、5月といったところだ。

 

「だったらまだ浮島の実験は実施されていないのかな」

 

TVを見ていてあの実験が行われていたのが確か夏の短い間――ハッキリとした時間はなかったが、だいたい約1、2ヶ月といったところだろう。

 

なら、今この時期は七原文人に血を抜かれ、"更衣小夜"の記憶を植え付けられている頃あたりか。

 

「でも、そこには無理、だよね」

 

あの時間列には介入しにくい。いや、あの実験で小夜は自分を取り戻し、この東京へとやって来る。

 

そして、あの映画での事件が起きる…あの最後を変えるために自分はここへ来たのだ。なら、それを変えるために自分にできるのはこの東京で来るべき時のために準備をすること。

 

「そのために、チート能力貰ったんだから」

 

反則技だが、EDを変えるために頑張らなければと奮い立たせる。

 

「ガンバ、新しい私……一条真夜っ」

 

『小夜』と『真奈』――二人の名前からもらってつけた自分の新しい名…これでもって、必ずあの最後を変えてみせる。

かつて少女だったもの――真夜は決意を固め、これからの方針を考え始めた。

 

「まずは"塔"のことを調べないと」

 

自分が持っているのはTVや映画で観た知識と多少設定のみ。正直、それだけでは心許ない。なにせ、相手は世界に名を轟かせる巨大企業だ。

 

「サーラット…この時期にはまだ都市伝説研究フォーラムっていうコミュニティでしかないんだっけ?」

 

そしてもう一つ大事なのが後に小夜が接触する塔と対立する組織『サーラット』…設立された時期は明確にはなっていなかったが、メンバーの一人となっていた"鞘総逸樹"がこの実験に参加していたことを考えると、既に活動を始めていると考えてもいいだろう。

 

「接触――ダメ、迂闊に入り込むのはまだ危険かな」

 

メンバーとなる松尾伊織と藤村駿が掲示板で活動している小さな集まりでしかないただのネットサークルコミュニティに資金を提供し、後にリーダーとなる男―――

 

「"殯 蔵人"――サーラットのパトロンでありながら、七原にも通じていた奴」

 

今は『シスネット』というIT企業の経営者のはずだ。こちらの動向にも気を配っておく必要があるかもしれない。

 

それにこの時期はまだ柊真奈もメンバーではないはずだ。後々のことを考えると、まだ接触するべきではない。

 

「そして……」

 

塔と対立する以上、必ず現われる『古きもの』――それと戦わなければならない。

 

(大丈夫、大丈夫!)

 

弱気になる自分を励ますように勇気づける。

 

頭で妄想していた事が現実になり、不安が出てくるのが抑えられない。それを制するように、真夜はこれからのことを考えながら、疲れが出たのか、そのままテーブルに突伏して寝てしまうのであった。

 

 

 

 

「……という訳で秋葉原到着」

 

ホームから降り立ち、空を仰ぎながら小さく呟いた。

 

「でもホント同じだったなぁ」

 

電車の路線の配置も名前も…何もかもが同じだ。自分は本当にどちらの世界に居るのか未だに判断に困ることがある。

 

「流石にそこまでサービスはしてくれないよねぇ」

 

溜め息混じりに肩を落とす。

 

ある程度整理し、いざ情報収集、というところで部屋にパソコンがないことに気づいた。

 

あらかじめ部屋にあったのは必要最低限の家具調度類のみで、あとはすべて自分で揃えなくてはならない。しかし、肝心金銭的な面はどうしようかと悩んでいたのだが、テーブルの上にはそれを見越したように通帳が置かれていた。

 

「それでも額多過ぎですって」

 

内心、用意した女神の感覚のずれにツッコミを入れる。

 

気を利かせてくれたのだろうが、通帳に記載されていた額は余程の贅沢をしなければ、恐らく十年単位で生活できるだろう。あの部屋にしても身寄りのない一介の女子高生が独りで住むには明らかに異常だが。

 

まあ、正直その好意はありがたく受け取ろうと気を取り直す。

 

「当面は大丈夫でも…バイトでも探しておいたほうがいいかも」

 

何があるか分からない以上、多少は働く必要もあるだろう。幸い、十字学園はアルバイト禁止にはなっていなかった。後日探してみようと決め、まずは今日ここへ来た目的を達しようとする。

 

手近なお店に入り、店員の説明を受けつつ、パソコンを一台購入し、ネット環境の申し込みを行なった。

 

つつがなく終わり、真夜は購入したパソコンを宅配で送る手筈を整えると、今度は裏道へと歩を進めた。

 

目的は――ハッキングのための改造ツールだ。ベースとネット環境はともかく、あとはマシンのスペックだ。シスネット、セブンスへブン…どれも超巨大企業だ。当然、そう簡単に探りを入れられないだろう。となれば、あとはハッキングの腕とスペックがものを言う。

 

(ハッキングに必要な知識を貰っておいてよかった)

 

内心、安堵するように漏らす。

 

こちらの世界に来る際に願った能力――プログラミング能力とハッキングの技能だ。古今東西、昔から戦いを制するのは"情報"だ。とにかくネット環境の発達したこの現在において、いかに正確な情報を手にしておくかで勝敗が決する。

 

(思えば、サーラットもそういったネットワークを一つの武器にしてたしね)

 

あまり描写こそ無かったが、シスネットの情報網にはそれに登録している人が情報を瞬時に流し、サーラットの情報収集にも一役買っていた。

 

だからこそ、今後のためにそういった環境は必要なのだが、生憎と自分はその分野に関しては不得手だ。

 

(前の世界で多少理系かじってたけど…まあ、知識は欲しいし)

 

もらった知識を整理し、最適なツールを組み上げるために所狭しと並ぶパーツ類を見ながら、選り分けるように取っていく。

 

それを繰り返しつつ、あるパーツの前で立ち止まり、悩むように顎に指を這わせる。

 

(どっちもいいんだけど…)

 

並ぶ二つのパーツはどちらも共に一長一短のもので、特にどちらが優れているということはないのだが…悩みを繰り返し、その場に佇んでいたが、やがて決めたのか、小さく頷く。

 

決めたパーツに手を伸ばした瞬間―――

 

「あ、そっちのパーツにしたんだ」

 

「へ?」

 

不意に背後から掛かった声に手を止め、思わず振り返る。その声の主を確認した瞬間、真夜の思考が一瞬固まる。

 

「あ、ごめんなさい。随分真剣に悩んでいたみたいだから……」

 

苦笑するように困った顔を浮かべる少女――無論初対面のはずなのだが、ある意味でよく知る人物だった。

 

「私もそのパーツ使ってるからなんか凄く親近感沸いちゃって」

 

そんな混乱を余所に話す少女に、心の中で思わず叫んだ。

 

(原作キャラに逢っちゃったぁぁぁぁぁ)

 

眼前で微笑む少女――後に重要なキーパーソンとなる"柊真奈"がそこに佇んでいた。




導入部分は一人称にしたのですが、どうにも書きづらく、今回の形式にしました。
ようやく主人公の名前が出せました。楽しんでいただければ幸いです。


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弍話

「へぇ、真夜ちゃんも十字学園に通ってるんだね」

 

「う、うん…」

 

ぎこちない返事を返しながら手元のコーヒーを掻き混ぜる。

 

はからずもエンカウントしてしまった真夜は、そのまま流れるように真奈に捕まり、秋葉原の喫茶店にて会話を交わしていた。

 

(はぁー正直このタイミングで知り合うことになるなんて……)

 

気づかれないように内心で溜め息をつく。

 

いずれは接触することを考えていたが、こうも早く出逢うことになるとは……おかげでこちらは何の心構えもできていなく、少し戸惑っている。

 

(でもまあ、どうやって近づこうか考えてたし、これで良かったのかな)

 

結果オーライと捉え、今は取り敢えず彼女との会話を進めるべく、相槌を打つ。

 

「でも、驚いたな。同じ学園に通ってる人の中で私と同じ趣味を持ってる人いたんだね」

 

悪意のない笑顔で言われるも、返答に困る。なにせ、自分がこの世界に来たのは昨日だ。それまでの生活は与えられた知識の中での記憶でしかない。

 

「うん、私も驚いたかな。でも、私が興味持ったのって遂最近だから」

 

「そうなんだ。ねえ、なにか解らないところがあったら、アドバイスするけど」

 

眼を輝かせて身を乗り出さんばかりに話し掛ける真奈に、真夜は戸惑う。

 

(こんなに話すんだ……)

 

彼女の中には、知識としての彼女しかない。父親を無くし、自分を責めている――それが彼女に抱いていた印象だったのだが、彼女自身の全てを見たわけではない。

 

この頃はまだ父親も傍にいて、塔とサーラットの抗争など、遠い世界のことでしかない。

 

「あの~真夜ちゃん……?」

 

「あ、ご、ごめんなさい。何だっけ?」

 

先程から反応を返さない真夜に首を傾げると、慌てて返事をする。

 

「だから、何か分からないことがあったら、遠慮なく訊いてねって」

 

「あ、う、うん」

 

「じゃあ、私のアドレス教えておくね」

 

いそいそと取り出すそれは、馴染み深いモバイルフォン端末――そこで、自分は持ってないことに気づいた。

 

「あ、ご、ごめん。私、この間壊れちゃって今新しいの探してる途中なんだ」

 

「あ、そうなんだ。それじゃメモに書いて渡しておくから、何かあったら連絡して。うち、お父さん仕事で遅いからだいたい返事はできると思うよ」

 

改めてメモとペンを探してバッグを見る真奈に、聞き逃せないことがあった。

 

(やっぱり、まだお父さんは無事なんだ)

 

そこまで考えて不意に頭を擡げた。

 

この先に起こる事――なるべくイレギュラーを起こしたくはない。下手に干渉し、なにか予測不可能な事態になったときに、自分の持つ知識のアドバンテージがなくなってしまう。

 

だが、こうして屈託なく真奈と話し――本当の彼女は明るい女の子だったんだと改めて思った。だが、それも曇ってしまう――父親の失踪で…自らを責め、そして苛まれる。

 

自分はこの先に起こる悲劇を知っている――できるのなら、この笑顔を曇らせたくはない。物語の中の登場人物の一人でしかなかった『柊 真奈』という存在に触れて、そういった想いが湧き上がってくるのを止められなかった。

 

なにより、その父親は"古きもの"となり、そして小夜に討たれる―――その事実を知ることなく二人は別離する。その結末を自分はどうしたいのか……今は答が出なかった。

 

「はい」

 

そんな真夜の心情に気づかず、メモを差し出す真奈に、ぎこちないながらも笑顔で受け取る。

 

分かれた後にも――その小さな葛藤を胸に抱いたまま、真夜は帰路に着いた。

 

 

 

 

それから翌日――真夜は緊張した面持ちで鏡の前に佇んでいた。

 

鏡に映る自分の姿は、あの十字学園の制服姿――学生であるのだから、ごく自然の格好のはずなのだが、どうにも違和感というか、戸惑いが大きい。

 

この辺のギャップは未だに大きいのだが、いつまでもこうしている訳にはいかない。

 

徐に、自身の髪を触る。腰まで届く黒髪なのだが、どうにも動きづらい。仕方なく、髪を後ろで束ねて頭上で結び、根本でまとめる。所謂ポニーテールだ。初めてやったのだが、なかなか様になっている――そのまま用意していた鞄を抱え、新しい学び舎に向けて駆け出した。

 

十字学園はマンションから電車で30分ぐらいの位置にあり、駅を降りると同じ制服を着た学生達が学友と話しながら学園に向けて歩んでいる。

 

その光景が、どこか非現実的なものがあったが、真夜も意を決して歩みを進める。

 

知識の中にある記憶―――それらを整理しながら、校舎に入り、自分のクラスへと入る。

 

「あ、一条さんおはよう」

 

近くにいた女生徒が挨拶してくれ、その顔を知識の中から呼び起こし、名前を一致させながら応じる。

 

「お、おはよう」

 

多少ぎこちなくなってしまったが、そのまま自分の席と思しき場所へと小走り気味に寄り、腰を落とす。

 

小さくため息を零し、肩を落とす。この世界に違和感なく溶け込んではいるが、自分にとってこの世界は今までとまったく別の世界のため、どうにもズレのようなものがある。

 

だが、それをどうにか直していくしかない。教室を見渡し、顔と名前を一致させる作業を内心で始める。気持ち的には転校したてのクラスに馴染もうとする感覚に近いのか――と、考えていると、不意に背後から声を掛けられた。

 

「一条さん」

 

「え…あ、なに?」

 

「別のクラスの娘が来てるけど」

 

慌てて振り返ると、クラスメイトがドアを指し、そちらに視線を移すと、そこには真奈の姿があった。小さく手を振りながら笑顔を浮かべている。

 

「あ、ありがとう」

 

席を立って真奈に近寄ると、小さく笑う。

 

「よかった、クラス間違ってなくて」

 

「ごめんね、わざわざ」

 

「ううん、いいよ」

 

「あ、昨日あれからあたらしいモバイル買ったんだ」

 

懐から取り出す新しいモバイル――黒で統一されたそれを見せ、真奈も喜んで話に加わる。

 

それは、嵐の前のほんの一時…だが、それはやがて嵐になることを真夜はひしひしと感じながら、この世界に存在する。




遅ればせながら弍話です。

真奈のキャラって映画以前の性格が掴みにくいので、結構想像で書いてます。


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参話

マンションの自室にて真夜はキーを叩きながらパソコンに向かい合っていた。

 

画面にはいくつものウィンドウが現れては消え、次々と表示される。

 

「っと、ここで回避っと」

 

何気にポツリと漏らし、画面上に映っていたセキュリティを回避する。こうしてハッキングに勤しんで既に数週間ほどが経っていた。

 

ネット環境を構築し、購入したPCにツールを施してハッキング用に処理能力を上昇させた改造キットを組み込んで実践したのがついこの前―――手元のコーヒーを飲みながら、技術を教えてくれた親友に感謝した。

 

十字学園で真奈と親しくなったおかげか、休み時間やお昼を一緒にするほどまでになった。これまで身近で自分の得意とすることで話せる相手がいなかった反動なのか、とにかく真奈は楽しそうにしていた。

 

それこそ、自宅に招待するまで――彼女の家で彼女のハッキング能力の凄さを垣間見、そしてその技術を教えてもらった。ある程度の知識はもらったが、いざ実践するとなるとまた違ってくる。

 

だが、教えられた基礎知識が情報とうまくリンクし、より高度な方法へと応用がきく。そのため、僅か数日で真夜は真奈に匹敵するほどのハッキング技術を身につけていた。

 

(原作でも月山比呂に教えてた、って言ってたしね)

 

サーラットのハッカーである中学生の女の子――彼女の紹介で真奈はサーラットに加わったのだろうか……そもそものサーラットの活動の詳しいことは分からない。

 

だが、いくら能力があっても中学生をメンバーに加えるなど、殯は何を考えていたのだろうか。

 

「案外、ロ○コンだったりして…」

 

相手の実態が分からずに少し苛立つも、思考は別のことを考え始める。

 

(優しそうな人だったな……)

 

不意に脳裏を掠めたのか、先日真奈の家にお邪魔した際に邂逅した彼女の父――柊真治……文人によって古きものとされ、真奈を襲い、そして最期に…小夜に討たれる――――

 

手が止まり、消沈した顔で俯く。

 

(どうしたらいいんだろ……?)

 

真奈と出会ってからずっと胸で燻り続けている問い――知らなければ、真夜はそのまま見て見ぬ振りをしたかもしれない。だが、出会ってしまった…知ってしまった……

 

真奈にとって大切な肉親――優しく微笑む姿が、瞼に焼き付く。

 

父親を喪い、真奈は心に大きな傷を負う。自分はそれを知っている…運命の糸が絡み、真奈は自らのハッキングを封印してしまう。

 

その真相を知ることなく―――果たして、自分はどうしたいのか。

 

いや、本音は既に決まっている。見殺しにしたくない―――眼の前で死ぬと分かっている人を見捨てるほど、真夜はリアリストでもない。

 

以前までなら、この世界はただの物語の中と割り切り、そして納得できたかもしれない。だが、この世界で生きているのは紛れもない。

 

「どうすればいいのよ……」

 

助けて…本来死ぬはずであった人間を助け、予想もできないイレギュラーを呼ぶことを恐れているのか……ただ、それだけが心にブレーキをかけている。

 

深く考え込んでいたが、唐突に鳴った音にハッと我に返る。

 

画面では、警告を告げる表示がされており、慌ててコンソールに向き直る。

 

「やばっ」

 

今はハッキング中だったと意識を切り換える。そうすることで、今の葛藤を内に押しやるように…そうこうしている間にも真夜の指は滑るようにキーを叩き、次々と画面を表示させ、処理されるデータの波が瞳に反射する。

 

「出た…っ」

 

プロテクトを破り、たどり着いたのはセブンスヘブンのメインサーバーに記録されている膨大なデータ。

 

その無数のデータ量に真夜はキーワードを打ち込み、データを検索する。それは少しの時間を要してデータを拾い上げ、表示された。

 

 

――――ロールプレイング『ザ・サバイバル』

 

 

七原文人が企画・立案し、小夜の記憶を封印して行なった実験。その概要が表示されていく。

 

企画の趣旨は主人公である『更衣小夜』が記憶を取り戻す過程の実験であり、それはメインキャストのみにしか知らされていない。

 

「ここまでは原作どおり…実験はどこまで進んでるんだろ?」

 

実験の経過を見るべく、さらにデータを進め、やがて進行状況を記したものにぶつかった。

 

それは舞台である浮島地区に設置された何百台という監視カメラから撮られた映像だった。その映像ファイルには、浮島の生活の全てが事細かに記録されている。

 

日常生活に溶け込む小夜だけでなく、浮島で生活する多くのエキストラと呼ばれる人々の擬似生活までもが見逃すこともなく残されている。

 

徹底した管理と秘密主義――一度入ったら、逃げることは叶わない檻…エキストラ達はそれを知ることなくその生活を送る。

 

だが、その裏で多くの人間が殺されていた。

 

映像ファイルと共に添付されているのは、古きものに喰われる役になったエキストラが本人に知らされることなく載っている。そのファイルだけでも何人もの人間が載っており、全て『死亡』という文字が羅列されている。

 

「っ……」

 

真夜は言い知れぬ息苦しさと寒気、そして吐き気を憶えた。

 

アニメを観たときはほとんど描写されていなかったが、古きもののために…そして実験のためだけに、これ程の多くの人間が犠牲になっていた。

 

それすらも、完全に隠匿して――思わず止まってしまった手を動かし、次のファイルをクリックする。

 

表示される映像ファイル――それは、小夜と古きものの闘いの映像だった。浮島に現れる古きものはすべて七原文人によって使役されている。故に、これだけ鮮明な映像が記録できているのだろう。

 

御神刀を振るう小夜が闘うのは、電車の車輌に取り憑いた古きもの――この話は憶えている。映像の記録を見ると、それは一昨日の日付だ。

 

「ってことは、まだ時間はあるってことか」

 

時系列を把握し、今後のスケジュールが立てられる。

 

だが、真夜の思考はそれを一瞬の内に掻き消した。映像の中で闘う小夜の姿を――どこか魅入られたように見入っていた。

 

人ならざる「古きもの」と闘う彼女の姿…創りものの映像ではない。現実として今そこにある光景――古きものは確かに初めて見た瞬間、思わず身震いしてしまった。

 

頭では理解していたものの、その人智を超えた存在とこの先において対峙することになるであろうものに心が思わず拒否反応を示した。

 

正常な神経の人間なら当然の反応であろうが、それはほんの一瞬だった。それ以上に、真夜は小夜の姿に眼を奪われた。

 

雄々しく…そして凛とした中に混じる狂気にも見える気配――それは、彼女の持つ美しさを際立たせていた。非現実の中で闘う彼女の姿は、確かに見る者にとっては忌避するかもしれない。だが、見る者によっては強く惹きつけられる魔性のようなものを放っている。

 

(七原文人が執着した理由――なんか、分かっちゃったかも……)

 

内心、あれ程小夜に――己の存在を賭けてまで求めた気持ちが少しは分かるような気がした。

 

「でも」

 

そう――だからといって、今更同情することなどできない。真夜は、小夜の未来を変えるためにこの世界に来たのだ。

 

気持ちを奮い立たせ、もう少しなにか情報を引き出せないか、データバンクを見ていると、そこに別の映像ファイルがあった。

 

これだけが浮島での映像と違うファイルに保存されていた。気に掛かったため、そのファイルを開くと、やや粗い映像が出てきた。

 

画面も粗く、また映像も今ではほとんど見ない白黒のどこか時代を感じさせるものだが、映っているのは軍の基地のようだ。

 

暫しその映像が続いていたが、映像の中から銃声と人の悲鳴が突然響いた。息を呑むと同時に映像が切り変わり、軍人が銃を手に何かに発砲している。

 

喋っている言葉は聞き取りにくいが、英語のようだ。それに軍人達の出で立ちから、アメリカ兵のようだと認識する。

 

いったい、兵士達は何に驚いているのか――それは次の瞬間、画面に映った巨大な影によって分かった。

 

「古きもの…っ」

 

黒く大きな異形の生物が兵士達を襲っている。懸命に応戦するが、何の意味も成していない。

 

その間にも次々に襲われ、兵士達が喰われていく。その光景に嘔吐感が込み上げてくる。いつまで続くのかと思っていたが、映像を撮っていたと思しき者が声を上げた。

 

《Lucy!》

 

声と共に向けられた先には、ウエーブのかかった髪を靡かせる軍服の女性の姿。

 

《Leave here.》

 

女性は慌てるでも動揺するでもない。古きものを相手にしているというのに少しも臆していない。

 

《It asked――SAYA》

 

「え…?」

 

画面の奥で発せられた名に、眼を見開く。

 

ルーシーと呼ばれた女性が不敵な笑みのまま一歩下がり、その奥から別の人影が姿を現す。手に日本刀を構えるセーラー服の少女――小夜が立っていた。

 

小夜は無表情のまま刀を抜き、古きものに対峙する。

 

だが、それも一瞬。振りかぶった小夜の刀が振り下ろされた瞬間、古きものは一刀両断され、その姿を崩れさせていく。真っ二つになった古きものの体内から噴き出す鮮血を浴び、小夜は静かにそれを見詰めている。

 

どれ程経ったのか、ルーシーが穏やかな表情で声を掛けた。

 

《Tired with labor.》

 

労いに対しても小夜は無表情のままだ。だがそれでもそれを振り払わないのは、この女性に気を許しているのだろう。

 

「ルーシー……」

 

その名には聞き覚えがある。真夜はファイルを閉じ、セブンスヘブンのサーバーから離脱する。いくつものダミーを経由し、完全に痕跡を隠してからログアウトする。

 

作業を終えると、真夜は椅子に身を預ける。疲労を感じるのも無理はないが、すぐさま身を起こし、再度パソコンに向き直った。

 

そして再び別のサーバーへのハッキングを試みる。

 

場所はアメリカ――国防総省……その中にあるであろう『ルーシー』と呼ばれた女性のデータを求めて。




なかなか本編に入らない・・・汗

今回で小夜(間接的にですけど)をやっと出せました。
しかし、また当分出番ないんだろうな。


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肆話

麗らかな日差しのなか、十字学園の屋上で真夜は真奈とランチタイムを楽しんでいた。

 

「でも真夜ってすごいね。ちょっと教えただけですぐ自分のものにしちゃうんだもん」

 

バッグからお弁当箱を取り出しながら、感心した声を漏らす真奈に首を傾げる。

 

「あ、分かってない…普通、あんなに早く上達しないんだけどね、ハッキング」

 

「そ、そんなことないと思うけど」

 

尖った口調で詰め寄る真奈に、思わずたじろぐ。

 

ここ数日、真奈にハッキングの講義を受けながら、真夜は徐々に腕を上達させ、そのスピードに真奈自身が舌を巻いていた。

 

「あーあ…なんか、嫉妬しちゃうな」

 

教える側として不満なのか、頬を膨らませる様子に可愛いと内心思いながら、真夜もお弁当を取り出す。

 

蓋を開き、中身が見え、真奈は思わず覗き込む。

 

「うわぁ、真夜って料理も上手いんだね」

 

「独り暮らしだし、別に大したことじゃ…それを言ったら、おじさんの分まで作ってる真奈の方がすごいよ」

 

元々、料理は嫌いな方ではなかったし、なにより今は独り暮らし。経済的には余裕はあるが、それでも自分で作った方が早いし、なにより気分も紛れる。

 

「あ、でも喫茶店でバイトしてるって言ってたね? それじゃ今度行ってみようかな」

 

「ただのウエイトレスだから、調理はしてないよ」

 

数日前から近所の喫茶店でバイトを始め、現在は放課後と休みにシフトに入っている。夜は主にハッキングに勤しんでおり、ここ最近は忙しくなっている。

 

(それに、もう少し調べなきゃいけないことがあるし)

 

ここ最近は夜遅くまでハッキングのために寝不足だ。

 

定期的に情報を閲覧し、把握する。一筋縄ではいかないところの連続で、痕跡を隠してログアウトするのも一苦労だ。小さく欠伸を噛み殺しながら、真夜は眼をこする。

 

「寝不足? 次体育だけど大丈夫?」

 

「うん、大丈夫だから」

 

流石に体育で怪我をするほどではないが、それでもランチの後は少しキツイかもしれない。

 

「それより早く食べないと「うんうん、時間に遅れちゃうしね」

 

不意に頭上から掛かった別の声に顔を上げると、そこには見慣れぬ女性が佇んでいた。

 

「はろはろ~♪」

 

手を振って笑顔を振り撒く拍子に淡いライトブラウンの髪が肩で揺れ、無邪気さを醸し出す。

 

見覚えのない顔に一瞬思考が止まるも、隣から驚きの声が上がる。

 

「つ、月詠さん!」

 

普段はきかない上擦った慌てた真奈に真夜は面を喰らったように眼を丸くする。

 

「真奈、知り合い……?」

 

その問い掛けに真奈は大きく肩を落とし、眼前の女性は一瞬眼を瞬くも、苦笑いを浮かべる。

 

「あははは、ボクってそんなに覚えられてないんだ~」

 

そう言われるも、本当に覚えがなく―――真夜自身の知識の中にもなかなか該当しなかったが、僅かにずり落ちたメガネを直しながら、真奈は小声で囁く。

 

「もう、副会長だよ。月詠副会長、私たちと同じ2年生だけど、生徒会に入ってる人だよ」

 

「え……?」

 

流石に予想外だったのか、小さく固まる真夜は、ゆっくりと前を向き―――それに対して相手も覗き込むように見やる。

 

「はい、ご紹介に預かりました! 月詠凛ちゃん、親しみを込めて凛ちゃんって呼んでいいよ」

 

無邪気にはにかむ様に、真夜は固まったままだ。

 

だが、冷静に考えてみれば与えられた知識は自分の周囲に最低限のものだけ――普通の学園なら、生徒会ぐらいはある。そのメンバーの顔までは把握していなかったミスなのだが、それに気づかず凛は話を続ける。

 

「いや~ここに人来るのって珍しいからね~~」

 

「副会長はいつもここで食べられてるんですか?」

 

「まあね~ここだと独りで静かに食べられるし~~今日はちょっと生徒会で遅くなっちゃたんだけど」

 

横で会話を続けるなか、凛は徐に二人の前のベンチに腰掛け、弁当を拡げる。

 

「ま、ボクだけの秘密の場所ってとこかな、柊さんに一条さん」

 

唐突に名を呼ばれ、固まるも、悪戯っ子のよに笑い返す。

 

「これでも学年の生徒全員覚えてるんだよ~えっへん!」

 

胸を張る姿に真奈は感心しつつも、真夜は軽く困惑していた。

 

(こんな人、原作にいたっけ?)

 

少なくとも、記憶にも知識にも該当する人間がいない。だが、学園の中には居たという可能性もある。表になっていないだけで、この世界は単なる設定の虚構ではない。

 

今、ここに確かに存在する。多くの人間が住み、そして流れていく世界は真夜に物語の世界であるということを徐々に薄れさせていった。

 

「およ、どうしたのかな?」

 

視線に気づいたのか、箸を含みながら見やる凛に、真夜は慌てて被りを振る。

 

「い、いえ…なんでもないです」

 

「そう? じゃ、早く食べないと…授業に遅刻しちゃダメだからね」

 

軽く睨むようになるも、むしろ可愛いという仕草だったが、時間的にもそろそろ準備に入らなければならないことに気づき、慌てて箸を進めた。

 

 

 

ランチを終えて、真夜達は体育の時間になっていた。

 

十以上のクラスがあるため、体育は三クラスの合同で行われる。この日は男子がグラウンドでサッカー、女子は体育館でバスケだった。

 

真奈のクラスも隣のため、一緒の授業だが、その中には先程の月詠凛の姿もあった。

 

チーム分けを行い、真夜はコートに立つ。やがて、ボールが互いに打ち合い、クラスメイトがボールを持ってドリブルで相手と接戦するも、マークが厳しく抜けない。

 

そこへサイドに入った真夜に気づいた相手がそちらにボールを飛ばした。

 

「一条さん!」

 

コートをバウンドしたボールを受け取り、真夜はドリブルで相手の陣に突入する。

 

それを阻もうと二人がガードに入るも、真夜は僅かな間隙を縫うようにそれをすり抜けた。一瞬の内に抜かれたことに相手は戸惑い、その場に硬直する。

 

その間に真夜は一気にゴール下に到達し、軽く跳躍し、ボールを投げる。

 

そのまま綺麗にゴールを貫通し、観戦していた生徒達から歓声が上がる。真夜はどこか上の空だった――ガードが来たときに見えた微かな動きの隙……それを抜けきったことに、改めて自分の身体能力が向上していることを実感した。

 

(今までやったことかなかったからな……この機会に少し把握しておかないと)

 

この身体の身体能力を発揮することがなかったためにイマイチ実感が沸かなかったが、改めて感じつつ、身体を慣らそうと真夜は相手を翻弄した。

 

そのため、余裕で一回戦を勝利できた。

 

「一条さん凄い!」

 

「ホントホント!」

 

クラスメイトの称賛に乾いた笑みで応じながらコートを出ると、端で観戦していた真奈が近づいてきた。

 

「真夜凄いよ、私すごく興奮しちゃったっ」

 

普段はあまり見ない面持ちで話す真奈に、真夜は苦笑する。

 

「そんなことないよ」

 

「ううん、凄いよ、本当だよ!」

 

「まあ、頑張るから」

 

被りを振りつつ、話す真夜と真奈だったが、その様子を隣のコートで遠巻きに見詰めながら、凛は興味津々と含んだ笑みを浮かべていた。

 

真夜のチームはそのまま連勝し、最後の一試合に臨むことになった。

 

相手のチームに凛の姿を確認し、小さく眼を見張る。そんな真夜の前に移動し、凛ははにかむ。

 

「いや~すごいね、真夜ちゃん。でも、ボクも運動神経には自信があるから……勝負だよ♪」

 

「あ、ははは…お、お手やわらかに」

 

意気込むように告げられ、引き攣った声で頷く。

 

背を向ける凛に気を抜いた瞬間、ぞわっと身が引き立つような感覚を憶え、眼を見張る。

 

「え……?」

 

思わず顔を上げるも、そこには自陣に戻ってポジションにつく凛だけ。当惑したように佇んでいたが、クラスメイトの呼び掛けに我に返る。

 

「一条さん、ポジションついて」

 

「あ、うん」

 

慌てて配置につくと、真夜は先程の感覚を気のせいかと思い、胸にしまい込んだ。やがて開始のホイッスルが響き、ボールを取り合う。

 

「一条さん!」

 

これまでの試合で実力を目の当たりにしたクラスメイト達は真夜へと積極的にパスを回していた。ボールを受け取ると同時に真夜は相手陣内へと突入する。

 

そこへさっと割り込むように立ち塞がるのは凛。対峙するなか、真夜は相手の出方を窺いながら抜ける隙を探す。

 

「にゃははは、真夜ちゃん怖いよ。で、も……」

 

強ばった顔でボールをキープする真夜に愛想笑いに近いものを浮かべた瞬間、凛が一気に踏み込んだ。

 

「え?」

 

小さな衝撃とともに今まで手の中にあったボールの感触がなくなり、凛の姿が後方へと離れる。

 

その凛の手にはボール―――抜かれたという感じよりも、どうやって取られたのか分からない感覚の方が強く、茫然となる。

 

「いただき! そんな怖い顔してたら楽しめないよ!」

 

嗜めるように背中に響く声に我に返り、真夜は慌てて追うも、僅かに遅く、凛はそのままディフェンスを抜き、バックステップで跳びながらフリースローを決める。

 

その光景に観戦していた生徒達は一斉に歓声を上げる。

 

それにサムアップで応えながら、凛は擦れ違いざまに真夜の肩を叩く。

 

「次も貰うよ」

 

無邪気な挑発だったが、それが真夜の気持ちを刺激したのか、表情を引き締める。

 

再びポジションにつき、ボールが放たれる。パスの中を受け取り、真夜はドリブルで相手陣へ突入する。それをカットするように割り込む凛。

 

だが、真夜は視線をサイドのクラスメイトへ向け、ボールを回す。

 

「そんなのはお見通しだよ」

 

素早くそのパス線上に回り込むも、真夜は小さく笑い、持っていたボールの向きを下へと捻った。

 

放られたボールはコートでバウンドし、もう片方の手に収まり、空いた空間を駆け抜ける。フェイントをかけられた凛が踏み止まるも、それより早く真夜はボールを投げる。

 

ゴールネットを突き抜け、再び歓声が上がる。

 

それを受けながら、真夜は凛を見やり、静かに頷く。図らずも意趣返しをされ、凛も不敵に笑い返した。

 

それからも真夜と凛の攻防が続いた。互いの身体能力と技、そしてチームメイトを駆使して点を取り合う様は、さながらプロの試合のように白熱し、生徒達も興奮を誘う。

 

同点のまま迎えたラスト――ボールをキープしたまま対峙する真夜と凛。時間上、これがラストとなる……だが、流石に抜く隙が見れず、焦る真夜に凛は不敵に笑う。

 

「驚いたよ真夜ちゃん、ボクとここまで張り合える娘が居たなんて――ボクとしたことが、とんだ見落としだったよ」

 

相手の言いたいことが分からずに困惑する。

 

その隙をつき、凛は瞬時に飛び込む。手を叩くようにボールを振り落とし、そのまま離れていく。

 

「……っ」

 

慌てて後を追う――その僅かな刹那、真夜は全力で駆けた。

 

「もらったよ……っ」

 

後一歩でゴールという瞬間、凛は背後から現われた真夜にボールを奪われ、そのまま真夜は相手の陣へと駆け抜け、ゴール下で跳躍した。

 

高く跳ぶ真夜の手からボールがゴールに叩き込まれ、地面を叩く音と着地する音が反響する。

 

真奈を含め、教師も何が起こったのか実感できなかった。真夜が一瞬の内にゴールまでを決めたのがあまりに速いものだったので、理解が追いつかない。

 

勢いでバウンドしたボールが数回跳ねた後、静かにコートを転がる――やがて我に返った教師が笛を吹き、得点と試合終了を告げる。

 

その瞬間、固まっていた生徒達が今まで最大の歓声を上げた。

 

小さく息を整える真夜は自分の身に起こった出来事に困惑する。自分自身でも何が起こったのか自覚できずにいるなか、声が掛けられた。

 

「にゃはは、すごいね真夜ちゃん。思いっきりやられちゃったな~~」

 

「あ、いえ…月詠さんこそ、すごいですよ」

 

「む~それは謙遜かな?」

 

睨むように顔を寄せる凛に引き攣った笑みで引く。

 

だが、それを遮るようにクラスメイト達が一気に押し寄せてきた。

 

「すごいよ一条さん!」

 

「カッコいい~!」

 

「一条さん、運動部入らない?」

 

もみくちゃにされる真夜に、凛は肩を竦め、背を向ける。

 

ほんの一瞬―――背中越しに見やった彼女の眼には、どこか剣呑な鋭さが宿ったことに誰も気づかなかった。

 

 

 

 

 

その夜――――――

 

鼻歌でも歌うようなご機嫌な顔で凛は自宅の廊下を歩いていた。

 

どこまでも続く木製の廊下を抜け、リビングのドアを開ける。灯りのついた室内の中央に置かれたソファには、一人の男が座っている。

 

「あれ珍しい? 帰ってたんだ?」

 

軽く驚きながら、それでも気にも留めず凛は横を過ぎり、制服の上着を脱ぎながらハンガーにかける。

 

男はそんな仕草に注意を払うことなく手元の書類の束を凝視しながら時折捲り、内容を確認している。それを背後から覗き込むように見やり、凛は軽く一瞥する。

 

「新しい被験者候補?」

 

「ああ、そうだ」

 

無愛想に返す男はこちらを見ようとしないまま、リストに載っている人物の記録に眼を通していく。

 

「まったく、いったいぜんたいそんだけ人集めてどうしようっていうのかな~」

 

不可解とばかりに鼻を鳴らす様子に、それまで反応すらしなかった男が睨みつける。

 

「口の聞き方に気をつけろ、凛」

 

「おおこわっ…ま、ボクには関係ないですし。家のしきたりも興味ないし」

 

「フン」

 

「でも、最近は特にそうだけどね……文人さま、ずっと浮島にいるんでしょ。傍にいなくていいの、九頭兄さん」

 

その言葉に若干、苦虫を踏み潰したように顔を顰める。

 

「あの方が決めたことに口を挟むつもりはない」

 

「そうですか」

 

「お前こそ、今日はやけに機嫌がいいな」

 

お返しなのか、背中越しに話し掛けられ、凛は満面の笑みを浮かべる。

 

「うん、今日面白い娘に会ってね……すごく興味があるんだ―――」

 

歳相応の無邪気な顔――だが、それが微かに歪む。

 

「身体が火照るぐらい――欲しくなっちゃた……」

 

陰りを帯びながら狂気を孕むその顔は、間違いなく男の顔と同じものだった。




今回は随分と時間が掛かりました。

またオリジナルキャラ登場です。いろいろ悩みましたが、この方向で行くことに決めました。


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伍話

「え? アメリカ?」

 

驚いたように反芻する真奈に、小さく頷く。

 

「うん。来週から試験休みに入るし、ちょうどいいと思って」

 

相槌を打ち、手元に淹れてくれたコーヒーをブラックで飲む。だが、聞かされた真奈は首を傾げたままだ。互いに制服のまま、今日まで十字学園は試験期間であり、明日から約1週間試験休みに入る。その後は、少し間を置いて夏期休暇だ。

 

「でも急にどうしたの?」

 

淹れた自分のコーヒーを手元に置き、真奈も真夜に向かい合うように椅子に腰を下ろす。

 

二人が今居るのは、真奈の自宅だった。試験終了と同時にそのまま彼女の家にお邪魔し、最初にこの休みにアメリカへ行くことを告げた。

 

それに対し、疑問を憶えるのも当然だろう。

 

「うん、ちょっとあっちで用事ができちゃって」

 

言葉を濁しながら、苦笑で返す。既に自分が独りで暮らしていることは伝えている。それだけに遠く離れた外国に何の用事で出向くのか、腑に落ちないのだろう。

 

「そっか。この休みにいっしょに居られると思ったんだけどね」

 

腑には落ちないが、それ以上追求しようともしなかった。短い付き合いながらも、そこまでは踏み込まないと決めているのであろう。

 

「帰ってきたら…話すから――」

 

どこか苦い口調に、真奈は笑顔を浮かべる。

 

「うん。お土産のお話、楽しみにしてるね。おかわり飲む?」

 

「うん、ありがとう」

 

それ以上は真夜の気持ちが落ち着いたら話して欲しいという言葉が込められており、少し荒れていた胸が温かくなるような気分だった。

 

一口含むコーヒーは身体の芯に染み渡るような感触だ。

 

「そう言えば、前に話した月ちゃん、今度話してみたいって言ってたよ」

 

話題を変えようと彼女が口にした名は、先日聞かされた。

 

月山比呂――ネットサークルで知り合った中学生であり、真奈の数少ないハッキング仲間だ。それを聞いたとき、真夜の脳裏を過ぎったのは、サーラットのことだった。

 

既に活動を始めているサーラットの実情を調べるため、真夜はシスネットのメインサーバーに探りを入れていた。そこから代表である殯の動向にも注意を払っていた。

 

そして、既にサーラットが活動を行っていること――メンバーの何人かが浮島地区への潜入を試みているという動きを掴んだ。前身である同好会のメンバーの松尾と藤村の二人は既に実質的なメンバーとしてこの東京を中心に活動しているらしい。そこへ最近加わったのが不登校の不良女子中学生ハッカーである月山比呂――

 

ネットサークルコミュニティでありながら、松尾はそちらの方面はさっぱりであり、藤村はそこそこの腕前といったところ。だが、月山は飛び抜けた技術と才能を持っている。

 

(まだ、サーラットのことは伝えていないのかな…?)

 

真奈は彼女に自分のことを話し、そこから興味を持たれたようだ。だが、真奈はまだ彼女がサーラットに所属していることを知らないところを見るに、そこまでは話していないのかもしれない。

 

「分かった。それじゃ、帰ってきてからまた決めるよ」

 

「うん、そうしてあげて。でも、そうなると月詠さん寂しがるかもね」

 

「あ、あはは……」

 

乾いた笑みで肩を落とす。あの体育の一件以来、事あるごとに二人――というよりも、主に真夜に対して積極的にスキンシップを取るようになってきた。

 

ランチタイムや休憩時間は勿論、放課後も連れ出されてしまったこともある。

 

「なんか最近、貞操の危機を感じるんだけど…」

 

「副会長、スキンシップ激しいからね」

 

真夜を抱き枕よろしく抱きしめるようなこともしばしばだ。いったい、何を気に入られたのか――微妙な疲れを滲ませる真夜に苦笑しつつ、不意に時計を見やると、話し込んでいたのか、既に7時を回っていた。

 

「もうこんな時間なんだ、遅くなっちゃったし、夕飯食べて行ってよ」

 

徐に席を立ちながら告げると、上擦った声で応じる。

 

「い、いいよ。すぐ帰るし」

 

「気にしなくていいから。私も独りで食べるの寂しいし…お父さん、最近帰り遅いから」

 

キッチンに向かいながらポツリと漏らした一言に小さく息を呑む。

 

「おじさん…どうかしたの?」

 

「うん、次の記事の取材だって。今度はセブンスへブンを記事にするんだって言ってたから、今忙しいんだって」

 

真夜は自分の憶測が間違っていなかったことを悟り、口を噤む。

 

今日まで棚上げにしていた問題―――ということは、もうすぐ真奈の父親はセブンスヘブンに捕まり、実験を施される。結局、こんな瀬戸際でも答は出ていなかった。

 

「私は正直どうしてって思ったんだけどね。セブンスヘブンって確かに大きいし、うちの学校にも出資してるぐらいだし。でも、だからといってそこまでやらなきゃいけないのかなって」

 

そんな真夜の葛藤に気づかず、真奈は背を向けて調理を行いながら疑問を口にする。

 

父親の取り組み方はかなりの入れようだった。セブンスヘブンとまでいかなくとも、大きな組織にはそれだけいろいろと裏がある。

 

表沙汰にはできにくいこともあるが、今の真奈にはそこまで気に掛かるほどのものでもなかった。

 

「もうそろそろ半年になるんだけどね」

 

だが、真夜はそんな話を聞いておらず、ただひたすらに葛藤だけが渦巻いていた。どれだけ俯いていたのか、唐突に手を強く握り締め、意を決したように顔を上げる。

 

「あ、あのさ、ま……」

 

「ただいまー」

 

掠れた声を出そうとしたが、それを遮るように玄関から響いた声に掻き消され、真奈には届かなかった。

 

「あ、お父さんだ」

 

玄関に向かうと、間髪入れず中年の男が顔を見せる。

 

「お帰り、お父さん」

 

出迎えながら上着を脱ぐ父親のスーツを受け取り、空いた手でネクタイを緩める。

 

「ああ、ただいま。一条くんも来てたのか」

 

リビングに座る真夜に気づき、真治が疲労を漂わせた顔にぎこちない笑みを浮かべる。それに静かに頭を下げ、黙り込む。

 

「うん、ちょうど夕飯食べていってもらおうと思って。私、お風呂の準備先にしてくるね」

 

上着を預かったまま真奈はパタパタとリビングを横切り、玄関脇の浴室に向かっていった。それを見送ると、真治は真夜の前の椅子に腰掛け、大きく息を吐き出す。

 

「すまないね、みっともない姿見せて」

 

「いえ……」

 

苦笑いするも、被りを振って視線を逸らす。暫し無言が続いていたが、やがて意を決したように視線を上げる。

 

「あの、真奈から聞いたんですけど…セブンスヘブン、取材してるって」

 

「ああ、もう半年になるんだけどね」

 

なかなか思うように進まなくてね、と…上から圧力が掛かり、独力で調べられる力には限界があり、なかなか思うように進んでいないため、苦笑いだ。

 

「どうして…記事にしようと思ったんですか?」

 

下手な世間話かと思い、相槌を返すが、あまりに真剣に尋ねる真夜に、真治はやや面を喰らったように眼をシロクロさせるが、やがて小さく頷いて口を開く。

 

「そうだね…最初は、僕もただの好奇心だったんだ」

 

半年前――次の記事の対象として悩んでいた真治の眼に止まったのが、都内における行方不明事件だった。地方から都内に出た行方不明者の捜索記事。それを調べていく内に、都内における行方不明者の数が増加していることを掴んだ。

 

これだけの大量の失踪が起こっているのは、何か大きな裏があるのではないか――そう勘ぐり、調べていく内にひとつのキーワードにぶつかった。

 

失踪したと思しき場所が、すべてセブンスヘブンの関連施設だったのだ。他にも、セブンスヘブンがいくつもの企画を開催し、人手を集めているという情報を掴んだ真治は、セブンスヘブンへの疑惑を強めた。

 

「元々、良くない噂も多い会社でね。ちょうど、今の会長になった七原文人に代替わりした辺りからかな」

 

表向き、セブンスヘブンは慈善事業や社会情勢への経済的介入など、変わったところはない。だが、ここ最近は強引なやり方で他企業を買収し、傘下に組み入れている。

 

そして、政府へも強いパイプを持ち、都内における条例などへも異例とも思える介入を始め、実質日本を裏から掌握できるほどの影響力を有している。

 

先代まではそこまでいかなかったのだが、七原文人が代表に就いてから強引な部分が目立つようになったのは確かだった。

 

「それに、七原文人が幾人もの生物学者や大学教授、歴史考古学者なども集めていると聞いてね。だけど、その彼らもある日突然に失踪しているんだ」

 

何気に漏らした一言に真夜は眼を見開く。

 

「それらの謎を解明したい。もし、セブンスヘブンになにか表にできないものがあるのなら、そういった社会の裏の罪を僕はペンの力で世に知らせたい」

 

強く語る真治の眼は、揺るがない正義感と信念が宿っていた。

 

その気持ちは分かる。だが、相手はそんな甘いものではない。真治の正義感など、簡単に踏み躙ることさえ、容易にできる相手なのだ。

 

「おじさんの気持ち、分からなくはないです。でも……っ」

 

顔を上げる真夜は、今まで胸中に秘めていた言葉を口にした。

 

「セブンスヘブンだけには、関わらないでくださいっ」

 

頭を下げて言い放った真夜は、震えるように口を噤む。

 

きっと真治は訳が分からずに混乱しているだろう。突然こんな事を言われても、戸惑うなという方が無理だ。だがそれでも、言わずにはいられなかった―――

 

頭を下げたまま黙り込む真夜だったが、静かにその肩に手が置かれた。

 

「心配してくれてありがとう。だけど、そこまで気にすることじゃないさ」

 

違う――と、声を荒げたい。

 

真治は単に不安から話していると思っているのだろうが、相手の恐ろしさ、そしてその結末を知るが故の真夜の切実な叫び。

 

思わず顔を上げ、再度言い募ろうとした瞬間、真奈の声が響いた。

 

「お父さーん、お風呂沸いたから先入ちゃってー」

 

奥から聞こえる声と共にパタパタとリビングに入ってくる真奈に、真治は真夜を見ることなく視線を外す。

 

「ああ、分かった」

 

そのまま振り向き、リビングから出て行く真治の背中に声が出ず、掠れる。逡巡する間に、真治の姿は消え、その場に茫然と立ち尽くす。

 

「どうしたの、真夜?」

 

そんな様子に不思議そうに声を掛ける真奈に、真夜は俯いたまま、沈痛な表情を浮かべたままだった。



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陸話

抜けるような空――

 

だが、照りつける日差しは強く、思わず掌をあげて眼を覆う。

 

「やっと着いた……」

 

疲労を滲ませながら、深々と溜め息をこぼす。

 

眼前に拡がる荒野と遠くに見える山脈――乾いた世界を前に佇む真夜。彼女は今、アメリカに来ていた。

 

先日の柊邸でのやり取りから数日――結局、真治の気持ちを思い止まらせることはできなかった。忸怩たる思いで、最後は真奈に注意を促すことしかできなかった。

 

それでどこまで変えられるか…後ろ髪引かれる思いだったが、内心これでよかったと思うことも少なからずあり、自己嫌悪と葛藤を抱きながら、真夜は単身アメリカへ渡米した。

 

飛行機を乗り継ぐこと半日、そして車で移動すること数時間――まさに一日掛りで真夜はアメリカ中央の小さな街を訪れた。

 

「Thank you」

 

ここまで送ってくれたドライバーに礼を述べ、真夜は街へと歩みを進めた。

 

街といってもそれ程大きなものではない。家は点在し、家畜の牛を飼っている家が多少ある。娯楽もなさげな片田舎の村という表現がいいかもしれない。

 

家先に居る老人たちは、歩く真夜の姿にまるで宇宙人でも見るような怪訝としたものを浮かべている。

 

ほとんど外界との接触がないせいなのか、奇異な視線に真夜は内心不快な気持ちだったが、こんな場所へ来たのはいざこざを起こすためではない。

 

(本当に、この街に居るんだろうか……?)

 

不安を憶えながら歩んでいた真夜の進路上に、突然人影が立った。

 

「Hey,Japanesegirl.It came by what business to such the country?(彼女、こんな田舎に何の用?)」

 

声を掛けてきたのは、真夜と同い年か、もう少し上といった感じの金髪の男だ。

 

「People are looked for. (人を探しているんです)」

 

「You may be the back if it is one with that right, and right. Associate for a while. (そうなのか、それなら後でも構わないだろ。少し付き合えよ)」

 

ナンパだろうか。

 

まあ、娯楽のなさそうな街だし、こうして訪れる人間が居ないから珍しいのだろうと真夜は心に嘆息すると、軽く一瞥した。

 

「Although I am sorry, since it is hurrying.(申し訳ないですけど、急いでますので)」

 

そう…こんなところで時間を割いている余裕などない。

 

そのまま横を過ぎろうとしたが、片腕を相手に掴まれた。

 

「Heartless.I will play with me.(つれないこというなよ、俺と遊ぼうぜ)」

 

軽薄な様子でしつこくからんでくる様に真夜はうんざりした面持ちを浮かべた刹那、掴まれていた手を返し、相手の手首を握り締め、瞬時に己の懐に引っ張る。

 

咄嗟のことで反応の取れなかった男の腕をそのまま絡め取り、担ぐように相手を背負投げた。

 

衝撃が周囲に木霊し、様子を遠巻きに窺っていた人々は眼を剥き、当の投げ飛ばされた男は何が起こったか自覚できずに呆然となっている。

 

そんな様子を無視し、真夜は小さく一瞥した。

 

「Impolite.(失礼)」

 

そのまま足早にその場を去っていく。

 

歩きながら、真夜は思わず自身の掌を見つめる。この身体になった時にもらった身体能力――学園の体育の時間などでその片鱗を発揮することは何度かあったが、実際に一回り大きい男を投げ飛ばせたことには若干驚愕し、内心バクバク状態だ。

 

昂る気持ちを抑えながら、真夜は街外れへと進んだ。

 

 

 

数分後、真夜は街外れに在る一軒の家の前に佇んでいた。

 

白亜のコテージに見立てた小さな家だ。だが、柵で隔てられた庭先には、花々が咲き誇っている。手入れが行き届いているのだろう。こんな荒野の中でも一際目立っている。

 

だが、そんな感想はすぐに引っ込め、真夜は眉を顰めながら家を見上げる。

 

この家に居るはずだ―――真夜がアメリカまで足を運んだ理由……セブンスヘブンのデータから見つけた映像記録に残っていた女性――

 

(小夜のことを知る唯一の存在――ルーシーが、ここにいる)

 

映像の中で小夜とともにいた女性――ルーシーと呼ばれた人物の行方を捜し、真夜は国防省のメインサーバーにハッキングを仕掛け、彼女の存在をようやく掴んだ。

 

(随分と厳重に保管されていたな――まあ、でも時代が時代だし、情報が残っていただけでもありがたかったけど)

 

彼女がアメリカ軍に在籍した年数はハッキリしなかったが、半世紀以上前の大戦後において参謀本部直属の内偵を務めていたことを掴んだ。

 

彼女が所属していたのが第2部――だが、公にはそんな部署は存在しない。

 

そこで何をしていたのかはほとんど資料として残っていなかった。ただ、気になったのは彼女は一時期日本にて活動を行なっていたという点。

 

小夜との接点は見出せなかったが、それでもその名は真夜の知識の中に残っている。

 

今は少しでも情報が欲しい――小夜のこと、セブンスヘブンのこと、そして真夜の知らないこの世界のことを…そのために、ルーシーの所在を捜していた。

 

軍のデータベースでもほとんど隠蔽されていたが、そこは流石に裏事の人間か…退役後もその所在を把握していたようだ。

 

だが、さすがにこんな片田舎に居るとは予想外だった。意を決して真夜はドアのノックを叩く。

 

「Who is it?(どなたですか?)」

 

間髪入れず返ってきた返事とドアの開閉。奥から姿を見せたのは、アッシュブロンドの髪をウエーブ状にした女性――その姿は、映像で見たルーシーに酷似していた。

 

一瞬、眼を見開くように瞬いて硬直する。その様子に怪訝な顔になる相手にハッと我に返った。

 

「Here, is Ms. Lucy being home? (こちらに、ルーシーさんという方はご在宅ですか?)」

 

発した名に、相手が眼に見えて強ばった顔で睨むように見る。

 

「There is no such person,p .Please return. (そんな人は居ません、帰ってください)」

 

無愛想にドアを閉めようとするが、慌てて口を開く。

 

「There is something to ask!  Thing of SAYA――Thank you for your consideration! (訊きたいことがあるんです! 小夜のことを…お願いします!)」

 

声を荒げて叫ぶように告げ、頭を下げる真夜に相手は困惑した面持ちのままだったが、やがてドアを閉めた。

 

閉じられたドアを前に真夜は沈痛な面持ちのまま、落胆する。

 

すんなり行くとは思っていなかったが、取り付く島もない状態だ。どうするか―――そんな考えを巡らせながら暫し佇んでいたが、徐にその場を離れようとした瞬間…ドアが再び静かに開けられた。

 

「――please.(どうぞ)」

 

短く、そしてどこか憮然とした面持ちで促す女性に、安堵し、頭を下げた。

 

家内へと招かれ、そのまま通路を進み、やがて一つの部屋の前へと案内された。女性がドアをノックし、数拍後静かにドアを開けた。

 

続くように入ると、整然とされた部屋の窓が隣にあるベッドに腰掛ける人影が見える。

 

既に色素が抜け落ちた真っ白な髪だが、それでも腰まで伸びるそれは眼を引く。入室に気づいたのか、こちらを振り向く。顔はいくつもの皺が刻まれていたが、浮かべる貌には、穏やかな気配が漂う。

 

(この人が……)

 

確かに、年数を考えれば、かなりの高齢だ。正直、会えるかどうかも半信半疑だっただけに、その場に立ち尽くす。そんな真夜を横に案内してきた女性は部屋を退室し、その場に残された。

 

暫し無言で互いに見つめていたが、やがて女性は口を開いた。

 

「こんな状態でごめんなさいね」

 

「あ、いえ……」

 

思わず上擦った返事をしてしまう。年齢に合わず、明瞭な口調にやや驚いただけだ。

 

「話があるのでしょう…こちらにいらっしゃい」

 

聞こえたのは流暢な日本語だ。眼を瞬く真夜に微笑む。

 

「日本に居たこともあるから…いらっしゃい」

 

その言葉に促され、真夜は徐に歩み寄り、ベッド脇に置かれていた椅子に腰掛けた。

 

「ルーシー…さん、ですね?」

 

「……懐かしい名だわ」

 

問い掛けると、遠くを見やるように懐かしむ女性――ルーシーは困ったような笑みを浮かべる。

 

「それで…私に何の用で来たのかしら?」

 

「……小夜のことです」

 

既に聞いていたかもしれないが、真夜は改めて彼女を捜していた目的を話した。

 

「貴方は昔、小夜と行動を共にしていた―――」

 

ルーシーは返事をするでも否定するでもなく、ただ無言で聞き入る。

 

「彼女は…小夜は今、日本にいます。七原文人によって記憶を消され、偽りの世界で生きています」

 

淡々と語る彼女の話に一瞬、眉を顰めたが、そのまま静かに聞き入る。

 

「その偽りの世界はもうすぐ崩れます―――そして、小夜は……」

 

思わずそこで言い淀む。

 

アメリカに渡る直前に確認した記録で、求衛姉妹が舞台から退場したことを知った。となれば、既に物語は半分を切っている。間もなく、虚構の舞台は崩れ去り、小夜にとっての復讐が始まる。

 

そして――小夜は孤独の路に進む……その光景が浮かび、未だにどうしていいか分からない自分自身に酷く腹が立った。

 

この世界に来る前は本当に簡単に考えていた。よく読んだ小説のように簡単にいくと――だが、この世界はそんな短慮な考えなど、簡単に一蹴した。

 

どうすればいいのか、肝心の部分が浮かんでこない――だからこそ、知りたいと思った。

 

この世界のことを――この世界に生きる人達のことを――そして…小夜のことを………口を噤み、俯く真夜にルーシーは暫し無言で見つめていたが、やがて視線を脇の窓に向け、その先の遠くを見やりながら、懐かしむように微笑む。

 

「私があの娘と…小夜と出会ったのは、もう何十年も前――――――」

 

語りだしたルーシーに真夜は顔を上げ、静かに聞き入る。

 

内偵としてヨーロッパに派遣されていたルーシーは『古きもの』の存在を知り、それと闘う小夜の存在を知った。

 

彼女は何百年も昔からこの世に在り、古きものと闘い続けていたこと――人間が自らの平穏のために彼女を利用し、そしてその都度裏切りを行なっていたことを知った。

 

彼女の口から語られる内容は多少記憶にある。だが、実際に本人から聞かされると、その凄惨さが強く伝わってくる。同時に、幾度も裏切られた小夜の哀しみも―――――

 

「あの娘のあの顔だけは、今でも忘れられないわ……」

 

ルーシーの脳裏にはあの光景が焼きついている。すべてに絶望し、そして疲れきった荒んだ眼――生きたまま棺に入り、そのまま眠らせて欲しいと願った彼女……同情がなかったわけではない。そんな彼女の運命を憂い、なんとかその運命を変えたいと願ったルーシーは、その過程で『七原』を知った。

 

「朱食免――貴方は知っているの?」

 

唐突に尋ねられるも、真夜は小さく頷き返す。

 

「それを管理する七原――だけど、それは時代の流れと共に歪んでいった……」

 

日本で小夜の記憶を消し、絶望の過去を七原の秘術によって封印した。だが、それも長くは続かなかった――数年の後に徐々にそれは解け、やがて彼女は記憶を取り戻した。

 

だが、彼女はそれに悲観しなかった。たとえ一時でも、心安らかに生きられたのだから――その言葉に、真夜は浮島の情景が過ぎる。

 

偽りの中で愛されること…人間の暮らしの中で生きることを渇望する彼女の願望―――歪でも、その中で笑う彼女は確かに幸せだった。

 

だからこそ、小夜の絶望と憎しみは大きく肥大したのかもしれない。

 

「思えば…あの時彼女を止めていればよかったのかもしれない―――」

 

数年前――ルーシーの許に一つの報せが舞い込んだ。

 

小夜の記憶を封じること――自分と同じ理想を持っていた旧友『七原真人』が逝去した。その報せを送ってきたのが孫である『七原文人』。その死を悼み、そして哀しんだ――だが、既にルーシーもまた老いた身。遠く離れた日本へ出向くことができない状態だった。

 

それを知った小夜は自身の代わりに日本へと出向き―――そのまま消息を絶った。

 

「小夜を…彼女を救う方法は、ないんですか……?」

 

その願いに対し、ルーシーは首を振る。

 

訊くまでもなかったかもしれない。もし彼女がそれに達していれば、今の小夜は居ないのだから――

 

結局、世界が小夜を縛り続ける限り――彼女は久遠の運命からは逃れられない……その事実を改めて突きつけられ、真夜は無力感に苛まれた。

 

 

 

一夜が明け、真夜はルーシーの家を後にする。

 

あの後、好意で一晩泊まらせてもらい、もうすぐ昨日手配した迎えの車がやって来る。

 

真夜は今一度ルーシーに向かって頭を下げた。

 

結局、『答』は得られなかった――だがそれでも、真夜はやろうとすることを止めるつもりもなかった。

 

「貴方がどこで小夜を知り、そして彼女のことを思うのか、私は知らない―――」

 

背中越しに語られる言葉に歩を止める。

 

考えてみたら当然だろう…何の関わりもない自分が小夜のことや朱食免、そして七原のことを知っているのか――話せない秘密ではあるが、それでも怪しいことには変わりない。

 

「でも…あの娘のことを思ってくれる人がいるのが、私は嬉しい」

 

その言葉に眼を見開き、息を呑む。

 

「小夜を…助けてあげて………」

 

消え入るような細い声で告げられる懇願にも近いもの――抱えていたであろう想いを口にしたルーシーに、真夜は振り返ることはしなかった。

 

だが、小さく頷くことだけはできた。それに満足したのか、微笑むルーシーに背を向けたまま、真夜は部屋を後にした。

 

閉まるドアを見詰めながら、ルーシーは小さく溜め息をこぼした。

 

徐に、サイドボードから一枚の写真を取り出す。その写真には、軍服を来た男と和装の男が映っている。

 

「あの娘なら…貴方達のように小夜を支えられるかもしれない………」

 

彼女が最初にここに来た時は驚きを隠せなかった。

 

何故『小夜』を知っているのか――訊かなければならないことはあったが、それは彼女を見た瞬間、掻き消えた。

 

それは、彼女の姿にかつての自分を重ねたからかもしれない。救いたいと思いながら何もできずに葛藤する過去の自分自身に――だからこそ、信じてみたい。

 

身を横にたたえるルーシーは天井を眺めながら、静かに眼を閉じる。開けかれた窓から吹く風がカーテンを揺らす――安からな微笑みを浮かべる彼女を明かりだけが照らす。

 

これが、真夜にとってルーシーと最初で最期の会話となることを知るのは、全ての後となることを―――この地より離れる真夜は知る由もなかった。




今回はいろいろ難産でした。
「ルーシー」は小説にもちらっと登場したのですが、そのへんの人となりはある程度オリジナルで書いています。

次回はいよいよあの人も登場。
あと2、3話で本編に入れる……といいな…………


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漆話

多くの人が行き交う―――

 

学生や若者、そしてサラリーマンに主婦……多くの人が行き交う東京の渋谷の街を真夜は歩いていた。

 

アメリカから帰国したのが数時間前――ルーシーとの邂逅で、"答"を得ることは叶わなかった。だが、多くのことが聞けた。

 

彼女が知る限りにおける『小夜』のこと、『七原』のこと、『朱食免』のこと…そして、『小夜の血』のことも――ある程度知識として知っていることを裏付ける程度ではあったが、それでも不足していた部分を補えたという意味では大きい。

 

そして今――真夜が向かっているのはある"ミセ"だった。

 

対価を払う代わりに願いを叶えるというミセ。小夜に助言を出していた四月一日君尋の店だった。前店主である壱原侑子から引き継いだ店を運営する彼の屋敷を探すために、真夜は原作で小夜と真奈が訪れた渋谷へとやって来た。

 

正直、どうやって辿り着くのか、まったくアテはなかったが、真夜はそのまま奥へと歩みを進める。どれだけ歩いただろうか――気づけば、周囲に聞こえていた人々の声が途切れ、静寂が満ちる。

 

歩みを進める道は人の気配が消え、まるで別世界に紛れ込んだように錯覚する。そして進む中、視界に古びた建物が飛び込んできた。

 

和と洋のコンストラストが合わさった――バランスが少し妙な屋敷だ。だが、周囲に囲うように立つビルの中で一際異色を放っている。

 

まるでここだけが切り離されたような―――そんな錯覚を憶える。だが、その屋敷は間違いなく真夜が捜していたものだった。

 

暫し屋敷の前で逡巡していたが、やがて意を決して足を踏み入れる。

 

ドアを潜り抜けると、玄関の前に立つ。奥はまるで果てしなく続いているように薄暗い。どうしたものかと悩んでいると、奥から声の気配が響く。

 

「珍しいな――ここに人間のお客が来るのは………」

 

その声と共に奥から姿を見せる人影―――チャイナドレスのような意匠の服を着込み、メガネをつけた男性がゆっくりと歩み寄り、小さく微笑む。

 

「いらっしゃい――ようこそ、願いを叶える店へ」

 

掛けられた声と共に笑うこの店の店主―――四月一日君尋を見た瞬間、真夜は一瞬眼を瞬き、どこか呆然と見入る。

 

直に接すると分かる…何か不思議な気配、とでもいうべきもの―――彼自身も、元は人間だったはずだ。

 

「どうかしたのかな?」

 

「あ、いえ……」

 

反応のない真夜に尋ね返すと、慌てて返事する。

 

そんな様子にクスッと笑みを零し、静かに奥へと促す。気づくと、いつの間にか足元にはスリッパが並べられ、真夜はおずおずとあがり、後を追っていった。

 

通されたのは、劇中で見たことのあるあの塔のような区画だ。家具の配置も、窓の位置も…すべてが見た通りのものだ。唯一違うのは、この場に居るのは自分と四月一日だけということか。

 

渋谷に着いた時はまだ昼を少し回ったぐらいなのに、窓から見える外の空はうっすらと紫に染まっている。

 

「珍しいかな?」

 

「あ、はい…その、不思議な感じがして――」

 

「変わった店だからね…さ、取り敢えず座って。今、お茶を淹れよう」

 

席へと促し、四月一日は横にいつの間にか置いていたティーセットを取り、ゆっくりとカップへと注いでいく。椅子に座りながらそれを見ていると、淹れ終わったカップを真夜の前に差し出した。

 

微かに湯気を立てるカップからは、ほのかな香りが漂う。徐に手を伸ばし、そっと持ち上げて口に含む。

 

酸味と甘さが適度に同居したような気持ちが落ち着く感じに頬が緩むと、見ていた四月一日が微笑む。

 

「気に入ってもらえたようだね」

 

どこか恥ずがしがるように小さく頷く。

 

「それで…君は、どんな理由でこの店を訪れたのかな?」

 

ある程度落ち着いたところで、切り出した四月一日に真夜も微かに表情を顰めるも、カップを置き、ゆっくりと顔を上げる。

 

「……武器が…欲しいんです――――――」

 

四月一日を見据え、真夜は静かに――ハッキリとした意思を込めて告げた。

 

「救いたい人を助けるために」

 

無言で真夜を見据えていた四月一日は、ジッと凝視する。

 

どれだけ経ったのか、徐に席を立ち、静かに呟いた。

 

「ついてくるといい」

 

返事を待たずして歩き出す四月一日の背中を、真夜は慌てて追った。

 

 

 

そのまま案内されたのは、店の奥の倉庫と思しき場所だった。

 

だが、その広さは異様だった。その部屋の間取りは外から見たときはどう見ても有り得ないほどの奥行と幅があった。整然と整えられた棚には様々な物が並べられ、床には様々な武器が並べられていた。

 

四月一日はそこまで案内すると、背中を壁に預け、微笑を浮かべて促す。

 

恐る恐る部屋へと足を踏み入れ、真夜はそこに収められる武器を一瞥する。台に固定されたラックには西洋の剣や中国の剣、はては槍などがいくつも立てかけられ、脇には弓矢が寄り掛かっている。

 

そして、壁際にはまるで展示するように並べられた日本刀が幾つも横たわっている。それらを一瞥しながら、真夜は戸惑う。

 

(どれを選べばいいのよ……?)

 

正直、これ程の量があるとは予想外だった。

 

どれがいいのか戸惑っていると、キセルを手に喫煙していた四月一日が軽く失笑する。

 

「―――願えばいい」

 

「?」

 

不意に掛けられた言葉に首を傾げる。

 

「ここは願いを叶えるミセ…君が何を目的にし、何を願うために必要なのか―――そう念じれば、武器は応えてくれる」

 

意図は図りかねたものの、真夜は言われるままに眼を閉じ、心に思う。

 

この先に必要となることを―――人ならざるものと闘うために必要な…救いたい人を助けるための力を――――――そう強く念じるように集中する。

 

やがて、暗闇の中に一条の光が差し込んだような錯覚を憶え、思わず眼を開く。

 

そして、そのままゆっくりと歩み、刀が並ぶ前に立つ。無意識に手を伸ばし、黒く染まった柄の刀を取り、胸元に引き寄せる。

 

黒一色統一されたそれは、見るものが見たらみすぼらしい…古びたものに見えるだろう。だが、真夜はこれになぜか強く引き寄せられた。

 

鞘を持ち、右手に柄を握りながらゆっくりと引き抜く。

 

解き放たれた刀身は、眩いばかりの鋼の光を煌めかせ、触れただけで切られるような鋭さが漂う。

 

刀身を立て、その刃に自身の顔を映す―――その様子に四月一日は小さく笑う。

 

「どうやら―――その刀が君を選んだようだな」

 

まるでそれ自体に意思があるかのような言い回しだが、当の真夜には聞こえていなかった。

 

ただ静かに…刀身を眺めながら不思議な昂ぶりを憶えながら、静かに鞘に収めた。四月一日に振り返り、窺うように問い掛けた。

 

「これの対価は……?」

 

そう――このミセは願いを叶える代償として対価を擁する。

 

それは依頼主によって様々だ。単純な金銭ではない…四月一日の言葉を待ちながら佇む真夜に対し、四月一日は一度視線を逸らし、一服する。

 

「―――今はいい」

 

視線を合わせないまま、それだけ告げた。

 

 

 

その後、真夜はミセを後にし、最後に玄関で四月一日に深く一礼すると、静かに去っていった。

 

それを見送る四月一日は終始笑顔だった顔に微かな陰りを見せる。

 

「君が払う対価は―――大きいものかもしれないな……」

 

どこか憂いを漂わせながら漏らす。

 

彼女に見えたもの―――それがどんな未来を齎すのか、今の四月一日には知る由もなかった。

 

 

 

四月一日のミセを後にした真夜は気づけば既に陽が落ち、夜の帳が満ちていた。

 

まるで夢の中にいたような…今まで自分がいた場所さえ曖昧なものだったが、手の中に収まる刀の重みが現実だったことを教えてくれる。

 

袋に収められたそれを強く握り締めながら、真夜は帰路を急いだ。

 

(そうだ、真奈に連絡しておこう)

 

日本に戻ったことを伝えようと真夜は携帯をかけるも、コールしたまま出る気配がない。

 

いつもならすぐに返事を返してくれる真奈らしくなく、眉を顰める。だが、同時にえも言えぬざわめきが胸を疼く。

 

不安を抱えながら、マンションに辿り着き、そして自室へと戻る廊下に出た瞬間、ドアの前に座り込む人影が見えた。

 

「真奈……?」

 

廊下の薄暗がりの中ではあったが、それは真夜にとって見間違えるはずがない。

 

その声が聞こえたのか、抱え込んでいた頭を上げ、こちらを見やる真奈の表情は暗く、慌てて駆け寄った。

 

「真奈! どうしたの?」

 

腰を落とし、覗き込むと、真奈の顔は酷く憔悴し、眼も虚ろだった。まるで生気が抜け落ちたような―――そこで真夜は最悪の可能性を思い浮かべる。

 

間違いであってほしいと願うも―――それは真奈の言葉によって霧散した。

 

「まやぁ…お父さんが…お父さんが………っっ」

 

弱々しい声で呟きながら真夜の胸に顔を埋め、決壊したように真奈は嗚咽を漏らした。

 

響く真奈の悲しみ―――それに罪悪感を憶えながら、真夜は己を責めるように歯噛みし、拳を握り締めた。




ようやくこの前奏も終わりが見えてきました。
次回は遂に主人公が闘います。
これが終わったらいよいよ本編です。

気長にお付き合いいただければ幸いです。


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捌話

薄暗い部屋の中―――真夜はモニターを睨むように見詰め、一心不乱にキーを叩きながらデータを検索していた。

 

焦燥を抱きながら叩くなか、内心で己の短慮を責める。

 

不意に手を止め、背中越しに振り返ると、ベッドに眠る真奈の姿がある。

 

それを見詰めながら、数時間前のことを思い出していた。

 

 

 

帰宅した真夜は部屋のドアの前に座り込む真奈に抱きつかれ、泣かれた。

 

掠れる声で漏らす内容は明瞭ではなかったが、真夜にはそれが何であるかはすぐに察せられた。

 

どうにか真奈を落ち着かせ、家の中へと招くとイスに座らせ、水を差し出す。どこか震えるようにグラスを掴み、虚ろなまま飲み干すと、窺うように問い掛けた。

 

「……落ち着いた?」

 

コクりと頷き返すと、そのまま前に腰掛け、真奈を見やる。

 

「おじさん…どうかしたの?」

 

――――正直、こんな事を訊く自分自身を酷く罵倒したい気分だ。自分はこれが起こることを知っていたはずなのに…と―――だが、今は訊かなければならない。

 

葛藤を抑え込み、真奈の言葉を待つ。

 

「お父さん…セブンスヘブンの七原文人に会うって――そのまま、帰ってこなくて……」

 

あの日――真夜がアメリカに発った日…セブンスへブンの調査で煮詰まっていた真治を見かね、真奈はこっそりとセブンスヘブンのシステムをハッキングし、ある事実にたどり着いた。

 

「"塔"……セブンスへブンが裏でそう呼んでいるものが、人を集めて何かをしてるって…でも、その人達の行方が、全員分からなくなってて」

 

独力で掴んだ事実は断片的なものだった。

 

だが、それと真治が集めていた都内で行方不明になっている人々のリストが一致した。真治はそれで確信し、行動に移した。

 

そして、その目的は――――

 

「浮島の実験……」

 

無意識に漏らしてしまった真夜に、真奈がハッと反応した。

 

「知ってるの!?」

 

迫る剣幕に漏らしてしまった己の迂闊さを毒づく。

 

「ねぇ、知ってたら教えて! 真夜!」

 

真夜の肩を強く掴み、縋るように募る真奈に、罪悪感がこみ上げてくる。だが、今更言い繕うことはできない。真夜は表情を顰めながら、小さく頷いた。

 

「少し前に――偶然だったんだけど、セブンスヘブンのグループ会社がある企画を立ち上げて、そのために人を集めてるっていうのを知ったの」

 

これは事実だった。無論、原作の知識があるのでそれを確信した上でのことだったが、セブンスヘブンの『ザ・サバイバル』の情報を探る上で知った。

 

「その人達が集められたのが『浮島』っていう場所―――でも、そんな場所は何処を探しても存在しない。それに、集められた人達のほとんどが、行方不明になってるって――」

 

「そんな……」

 

その話に、真奈は力が抜け、そのまま椅子に座り込む。

 

「だから…言ってたんだね……セブンスヘブンに関わらないでって――――――私のせいだっ」

 

呟いた後、真奈は声を荒げて手を胸の前で強く握り締める。

 

「私が軽い気持ちでっ――真夜の言葉も聞こうとしないで………っ」

 

「真奈…っ」

 

「私がお父さんを……っ」

 

「真奈っ!!」

 

激しく自虐する真奈を押さえつけ、制する。だが、真奈の顔は涙でグシャグシャになってとても見ていられなかった。涙を溢れさせながら真奈は真夜に縋った。

 

「ううぅぅ…うあぁぁぁぁぁぁぁっ」

 

真夜の胸に顔を埋めて泣き募る真奈を慰めることもできず、かといって元気づけることもできない。この先に起こる悲劇を知るが故に―――いったい、なんて言葉をかければいいのか……

 

そんな葛藤の中、ただ真奈は泣き続けた。

 

 

 

数時間前のことを思い出し、真夜はギリっと奥歯を噛み締める。

 

(私のせいだ……)

 

こうなると分かっていながら…真奈が傷つくと分かっていながら、曖昧なまま放っておいた自分の責任だ。

 

出会わなければよかったのか―――だが、出会ってしまった…今更、やり直すことはできない。それを何度も渇望した――だが、この世界は自分の思い通りになどなってくれなかった。

 

安易な気持ちでこの世界へと来たことを今更ながら後悔していた。

 

「でもっ」

 

もう物語など知ったことではない。もはやこの世界は自分の知るものと変わってきている―――今更、イレギュラーなことを起こすのに躊躇うことなどない。

 

真夜は何かを振り切ったように画面に向かい合い、ひたすらデータを検索していた。

 

(真奈の話だと、おじさんが消えたのが四日前―――なら、どこかに移動させられたはずっ)

 

真治は『浮島』での証拠を持って七原文人に会うため、まずその企画を立案したグループ企業へと出向いた。七原文人は公には姿をほとんど見せず、現況を知ることは容易ではない。だからこそ、まずはそちらから当たろうとしたのだろう。

 

真夜はその企業のコンピューターにアクセスし、当日の入管理や来客録をしらみつぶしに検索をかけた。

 

そして、それらを開始して数時間――ある情報に行き着いた。

 

「企画参加者の移送……?」

 

それは企画に応募し、抽選した人々の移動記録だ。今まで、そうやって集めた人々を『エキストラ』と称して浮島へと送っていたらしい。だが、その日の移送は違っていた。

 

企画の応募が締め切られ、最後に集められた人々を別の施設へと移送していた。その先は、くだんの郊外にある『塔』の本拠ではなく、別の施設だった。

 

そこに何かを感じ取り、その場所を検索したが、アクセスエラーで弾かれる。

 

「特Aクラスのプロテクト?」

 

その場所は最重要機密となっており、何重にもプロテクトがかけられていた。

 

真夜はそこへ絞って様々な角度からアクセスを試みる。幾重にも張り巡らされたプロテクトの壁と網――迂闊に触れようものなら、その場でアウト。

 

針の穴に通すような繊細な作業のなか、ひたすらにアクセスできるパスコードを捜して検索をかける。

 

無数に現れるウィンドウを超えていくなか、張り巡らせていた網に目的のものが引っ掛かった。刹那、崩壊したようにすべてのロックが突破され、真夜はコンソールを叩きながら奥へと進む。

 

そして、出たのは一つの工場の座標――それは臨海部の工場地帯のなかに設けられたある製薬会社の工場だった。表向きはセブンスヘブンとは関わりのない企業だが、そこへ臨床試験として幾人かの人達が入館している。

 

「製薬会社…?」

 

思わず引っ掛かる。

 

セブンスヘブンは様々な医療知識や薬剤師といった専門家を招集していた。その目的は――『小夜の血』。人間を『古きもの』へと変えるための実験…それは塔の本拠で行われているとばかり思っていた。

 

だが、よくよく考えてみれば原作で真治は施設を抜け出し、地下鉄までたどり着いた。あの立地から考えても逃走してもすぐに発見される恐れがある。

 

なら、件の実験は塔だけでなく別の施設でも行われていた可能性が高い。

 

「おまけにここ、シスネットの協賛じゃない……」

 

会社概要を調べる内に、そこに絡んでいる相手も繋がり、真夜は確信した。

 

柊真治は、ここにいる―――そこで真夜は振り返り、ベッドで眠る真奈を見やる。

 

曇った表情のまま眠る真奈を見つめ、真夜は決意を固める。徐に立ち上がり、クローゼットの奥に隠していた漆黒のコートを取り出し、羽織る。

 

髪を解き、それを首筋で束ね、鏡に映る自分を見据える。

 

そこに立つのはこれから闘いへと臨む顔だった―――そして、手に入れたばかりの相棒を持ち、真夜は静かに部屋を後にする。

 

今一度マンションを一瞥し、それを振り切るように真夜は夜の街を駆けた。

 

 

 

 

マンションを経って数十分後―――タクシーを乗り継ぎながら真夜は目的の場所の近くまで到着した。

 

流石に深夜だけあってこの辺り一帯の人気はほとんどない。建物の陰に身を潜めながら真夜は目的の工場を見やる。

 

見た目は製薬会社だけあって清廉とした白亜の建物だ。だが、警戒は厳重に見えた。

 

無意識に身を震わせ、胸に抱く刀を握り締める力が強くなる。この先は生か死か―――二つに一つ…なにより、あの中には人間だけではない。古きものが潜んでいる可能性もある。

 

今更ながらに、戦えるのかという不安が胸中を駆け抜ける。

 

だが、脳裏に泣きじゃくる真奈の顔が過ぎり、それを抑え込む。できる…いや、やってみせる――――――この世界に来る時にわざわざ力を貰ったのはこんな時のためではないのか。

 

自分を信じる―――そう己を奮い立たせ、真夜は闇に紛れながら近づいていく。ほぼ眼前にまで辿り着くと、門の前には守衛と思しき警備員が二名―――一見しただけでは分からないが、正面ゲート以外に入り込めそうな場所に見当もつかない。

 

時間も限られる――今は深夜零時を回った…明るくなる前に実行しなければ、危うくなる。

 

その決めるやいなや、真夜は脇に刀を構え、腰を落として目標を見据える。どこからか水滴の滴り落ちる音が響いた瞬間、真夜は一気に駆け出した。

 

物陰から飛び出した真夜に欠伸をしていた守衛は反応できず、薙がれた一撃が身体に深く抉り込まれる。

 

潰されたような呻きを漏らす男――鞘越しのため、殺傷力はないが、打力は高い。肋が折れたかもしれない。そのまま倒れ伏し蹲る同僚にハッと我に返るもう一人の男に対して回転するように刀を叩きつけた。

 

鞘は相手の警棒を持った腕を捉え、その衝撃で腕がくの字に曲がる。

 

悲鳴を上げる警備員に追い討ちをかけて上段から叩きつけ、その場に沈める。気絶し、ピクピクと痙攣する二人を見下ろしながら、真夜は止めていたように息を吐きだし、肩で呼吸を荒げる。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

握り締める手が震える。

 

それは初めて力を振るったことに対する怖れ―――だが、そんな感傷をしている暇はない。

 

真夜は警備兵の腰に掛かっていたホルダーを取り上げ、中から一枚のカードキーを取り出す。それを握り締め、今一度眼前に立ち塞がる建物を見据える。

 

それはまるで地獄へと続く門――不安を抱きながら、真夜はゲートを跳び越え、そのまま正面玄関に向かっていった。

 

その真夜の姿を建物の上から眺める影―――ひんやりとした夜の風が髪を靡かせる。

 

その影は口元に愉しげな笑みを浮かべ、身を翻すように建物の中へと消えていった。




次くらいでこの前奏も終局です。
最後の流れはTV版のような展開に持っていきたいと思っています。


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玖話

非常灯の灯りのみが照らす薄暗い廊下を警戒しながら進む。

 

真治の行方を追って真夜はセブンスヘブンと関係があると思しきこの工場へと潜入した。エントランスを警備員から奪ったカードキーで解除し、上手く潜り込めたものの、正面ゲートでの異変はすぐに伝わるだろう。

 

あまり油断もできなければ時間もかけていられない。だが、少し様子が妙だった。いくら深夜とはいえ、警戒があまりになさすぎた。

 

監視用カメラが備わってはいるものの、それ以外に巡回や夜間の担当員といった人の気配がなかった。訝しげになりながら歩みを進める。

 

途中で見かけた案内板――この施設は一階はエントランスや事務室が主であり、それより上は研究施設になっている。そして、肝心の工場ブロックは、地下に設けられていた。

 

「地下―――」

 

そこに引っ掛かりを憶え、真夜は地下へと続く道を捜す。

 

監視カメラを掻い潜り、地下へと続く階段を見つけ、下りていく。通路を進むと、ガラス張りの地下工場が見える。眼下の空間では、多くの機械が無人で薬品を量産している。

 

ベルトコンベアで運ばれながら回る光景は何処にでもありそうなもの――だが、ほとんど人の気配を感じない。

 

(どういうこと……?)

 

流石に不審感が拭えない。

 

これだけの規模の工場ともなれば、ある程度は自動化されているとは思っていたが、それでも当直や管理する人間が居るとばかり思っていた。

 

しかし、実際に真夜が会ったのは先程倒した正面の守衛のみ。いくら気を失わせたとはいえ、正面の異常に気づいてもいいはずだ。

 

なのにこの静けさ―――嫌な予感が先程から拭えない。

 

それを抑えつつ、真夜は施設を奥へと進む。だが、進んだ先は行き止まりだった。落胆し、肩を落とす。

 

データを進んだ先で見つけたのだ――ここに間違いはないと思うが、焦りが内を侵食し、不安が押し寄せる。どうしたものかと壁に背を預ける。

 

考えても展望が見えず、思わず持っていた鞘を背後の壁に打ち付けた。

 

刹那、響いた音に真夜は眼を見開き、振り返る。拡がる壁に向かって再度鞘を打ち付けると、軽快な音が響く。いや、壁の向こう側に音が木霊している。

 

通常の壁ならば、こんな音など響かない。

 

「――もしかして」

 

何かを確信し、真夜は壁を伝いながら感触を確かめていく。一面を手でなぞっていると、突如壁の一部が指の圧力で押され、凹む。

 

息を呑む真夜の前でそれに連動し、壁が音を上げ、次の瞬間壁面の一部に筋が走り、それが横へとスライドする。

 

開かれる壁の奥には、更に地下へと続く階段が現われた。覗き込むと、一寸先すら見えない暗闇―――それに畏怖を抱きながらも、意を決して足を踏み入れる。

 

壁をつたいながら降りていく。暫くはまったく見えなかったものの、やがてこの暗闇に眼が慣れてきたのか、僅かばかり周囲の様子が見え始めた。

 

だが、それは変わらず階段がひたすら下へと伸びるだけ―――まるで地獄への入口のように……身震いしながらも、ひたすら降り続け、やがて終着点に辿り着いた。

 

暗闇の奥に立ち塞がる扉――重厚な作りの取っ手を掴み、それに力を入れて押す。

 

「……っ」

 

小さく歯噛みしながら力を込めると、やがて扉が奥へと開いていく。鈍い音を立てて開く扉の隙間から差し込む光に視界を覆う。

 

やがてその光に慣れ、眼を凝らす。

 

奥に見えたのは、『紅い』空間だった―――――――――

 

覗き込んだ先は、広大な空間だ。天井の高さは軽く見積もっても数十メートル以上――足を踏み入れた真夜の視界に飛び込んできたのは、その空間を埋め尽くさんばかりに並ぶカプセルの群れだった。

 

そのカプセルの中を満たす溶液は、血よりも紅く染まる――それらが反射し合い、この空間をより紅く、紅く染め上げている……足元から照らす青白い光が屈折し、まるでカプセルの朱を吸い取ったように浮かぶ。

 

さながら、地獄の風景―――『血の池』という場所が『彼の世』にはあり、そこに堕ちた命を喰らうかのようだ。

 

気圧されながらも、真夜はその空間に歩を進める。

 

犇めくカプセルに近づくと、その溶液の中に浮かぶ影が見える。立ち止まり、その中を見上げる。

 

「っ!?」

 

真っ赤な溶液の中に浮かぶ影――それが人間である―――いや…かろうじて『人間だったもの』の成れの果てであるということを………

 

眼を大きく見開き、息を呑む。

 

頭髪はまばらに抜け落ち、身体や四肢は大きく肥大し、爪は獣のように鋭く伸びる。変貌したその顔を恐る恐る見やる――大きく開かれた口は、人間よりも大きく裂け、歯が巨大な牙となっている。開かれた眼は眼球ではなく、まるで人形のように生気がない無機質なもの。

 

だが―――その顔は大きく歪んでいた…『恐怖』と『苦痛』という絶望に…………

 

反射的に幾つも並ぶカプセルに眼を走らせると、全てに影が浮かんでいる。かろうじて四肢を残しているのはまだマシな方――中には、判別すら難しい異形に変わり果てたものまでいる。

 

そして、カプセルの下には被検体ナンバーが刻印されたネームプレートのみがその個体を識別するように添えられてる。

 

「これは…小夜の血の―――――」

 

カプセルに手を触れ、思わず漏らす。

 

『小夜』の――古きものに連なる血を使って実験された人の成れの果て……まさか、真治もこの中に――嫌な予感が渦巻くなか、カプセル内に微かな気泡が木霊した瞬間―――――静寂に包まれていた空間に鋭い音が響き渡った。

 

 

 

 

 

「ぐっっ…くくっ」

 

呻きながら必死に耐える真夜。

 

それに反応できたのはまさに紙一重だっただろう……突如として現われたその凶刃に向けて反射的に抜いた刀で受け止めれたのは。

 

後少しでも遅ければ、間違いなくこの身を斬り裂かれていただろう。

 

耐える真夜に向けて刃を振り下ろそうと向ける男――奇妙な装飾のハチマキをつけた男の顔を、真夜はよく知っていた。

 

(なんで、こいつが……っ)

 

内心に向かって叫ぶ。

 

眼前に立つ男の名は―――九頭……『七原』の守護者――――――九頭は真夜に対して小さく感嘆する。

 

「ほう? 俺の一撃を受け止めるとは…貴様、ただの鼠ではないようだな」

 

それは侮りでもなく素直な感想だった。自身の一撃――しかも死角からの強襲に近い不意打ちを受け止めてみせた相手に驚きを隠せない。

 

だが、真夜には応える必要もなければ余裕もなかった。

 

力比べでは分が悪い。真夜は抜き放って下に落ちた鞘を咄嗟に踏みつけた。刹那、梃子の原理で跳ね上がった鞘がそのまま交差していた両者の間に上がり、九頭の腕に当たる。

 

小さく怯む隙を衝き、真夜は強引に弾き、空いた九頭の身体に蹴りを叩き入れた。

 

衝撃で小さく吹き飛ぶ九頭と距離を取り、身構える。すぐの追撃こそなかったが、さしたる痛みも感じていないようにユラリと顔を上げ、ニヤリと笑う。

 

それに気圧され、息を呑みながらもなんとか堪える。

 

次の瞬間――真夜は反射的にその場から跳んだ。虚空を過ぎる弾丸と響く銃声。九頭の左手にはデザートイーグルが握られている。

 

(しまった! こいつ、確か…っ)

 

何故九頭がこの場にいるかなどもうどうでもよかった。現実に眼前にいるこの相手をどうするかが最優先だった。必死に記憶を手繰り、九頭の闘い方を思い出す。

 

その間にも必死に逃げ、カプセルの後ろへと身を隠すも、相手はそんなものを意にも返さず、カプセルごと撃ち抜いてくる。

 

貫通する弾丸が過ぎり、衝撃でカプセルが破砕する。溢れる溶液が流れ、周囲に血の臭いが充満する。

 

頭を低くして走るもとめどなく撃ち込まれる弾丸が次々とカプセルを破壊し、ガラスの破砕音が幾重にも木霊する。

 

撃ち続けていた九頭はそれを止め、消えた真夜の姿を探すように周囲を見渡す。割れたカプセルから溢れた血の溜まり――これが何であるかはよく知っている。意にも返さず、流れ落ちた『モノ』を何の躊躇いも感慨もなく踏みつけ、周囲を鋭く見渡す。

 

(フン、あいつの言ったこともたまには当たるものだ)

 

内心悪態を衝く。

 

九頭がここに居るのは妹から忠告を受けたからだ。近々、誰かがこの施設へと潜入すると―――そこで待ち伏せていれば、鼠が一匹迷い込んだとばかり思っていたが、ただの鼠ではない。

 

気配を張り巡らせるその背後から飛び出した真夜が刀を振り被る。

 

だが、九頭はそれすらも見えていたように振り返りざまに受け止める。

 

刃が弾かれ、九頭は横に薙ぐ。それを跳んでかわし、着地と同時に突きつける。突かれた先に九頭のデザートイーグルがあり、瞬時に引いたものの銃身を裂かれ、素早く振り捨てる。

 

近づく真夜に向かって拳を握り締め、殴りつける。不用意に前に出ていたため、それをかわすことも構えることもできず、重い一撃が真夜の腹部を捉え、衝撃に声が潰れる。

 

「っ」

 

掠れた声を漏らし、吹き飛ぶ真夜はカプセルに叩きつけられ、痛みに呻く。

 

「ごほっ、げほっ」

 

呼吸がもどかしく、胸が苦しい。

 

今まで感じたこともない痛みが全身を駆け巡っている。身体を強化してもらっていなかったら、間違いなく死んでいたかもしれない。

 

(死―――)

 

初めてそれを明確に実感した。

 

不安が恐怖に染まり、痛みが真夜を死へと誘おうとする。

 

(……ダメ―――っ)

 

それを必死に自制し、恐怖を振り払うように歯を食い縛り、フラフラと立ち上がる。

 

呼吸を荒げながら立ち上がった真夜に九頭は感嘆の声を漏らす。

 

「そんな状態で――どこまでやれるかっ」

 

駆ける九頭に真夜も顔を上げ、振り下ろされる斬撃をかわし、横殴りに斬りつける。それを瞬時に返した刃で受け止め、剣先が鍔迫り合いをしながら床へと落ち、互いに均衡する。

 

歯噛みしながら対する真夜に涼しげな九頭。両者ともに均衡した状態で離れようと駆け出す。互いの刃を抑えたまま駆ける二人の剣先が床を掠め、火花が散る。

 

その均衡が崩れ、九頭が刃を振り被る。

 

「おおおっっっ」

 

猛々しく叫びながら上段から振り落とす刃を後ろに跳んでかわし、構えると同時に刃を水平に立て、駆け出す。

 

「えええぃぃ」

 

突く一撃を顔を逸らしてかわす。

 

真夜はそのまま強引に刃を下段へと振り下ろした。九頭が微かに眼を細め、篭手で弾く。

 

その感触に何かの防具を纏っていると気づき、弾かれた衝撃で仰け反りながら距離を取る。追撃をかける九頭が連撃で斬りつけ、真夜はそれをさばきながら転がるように離れ、落ちていた鞘を拾い上げ、起き上がりさまに投擲する。

 

それを左手で弾く九頭に向かって駆け、斬りつける。

 

応戦する九頭もまた振り上げた刃で受け止め、擦れ合う音が響き、互いに押し合う。

 

「女――なかなかの腕だな。どこでそれ程の腕を極めた?」

 

必死に押す真夜に対し、九頭は余裕を崩さない。

 

「応えぬか? フン!」

 

鼻で笑い、力任せに弾き飛ばす。

 

「お前が何者であるかなどどうでもいい――だが、貴様ほどの者なら、いい実験体となる」

 

「実験―――」

 

聞き逃せぬ単語に思わず反芻する。だが、それが九頭の興味を煽った。

 

「ここへ忍び込んだのはそれを知ってか…ならば、ますます見逃すわけにはいかんな。あの方の理想の礎となるがいい」

 

ますます負けるわけにはいかなくなった。

 

真治を助けるばかりか、このままでは自分の身も危うい。捕まれば、自分も同じように実験体とされてしまうかもしれない。それだけは何としても避けなければ。

 

そのためにも、この場を切り抜ける―――決然と身構える真夜に九頭が襲い掛かろうとした瞬間、横合いから何かが飛来し、九頭の眼前を過ぎる。

 

床に突き刺さったのは、一対の薙刀……ハッとその方向を振り向くと、そこには人影が佇む。その出で立ちに真夜は息を呑む。

 

顔を覆い隠すように被るのは『般若』の仮面――突如現われた鬼に慄く真夜とは対照的に九頭は眉を顰める。鬼はそのまま九頭の許まで歩み寄る。

 

ゆっくりとした動作だが、隙がなく呆然と見入る。

 

九頭の前で立ち止まり、鬼は突き刺さった薙刀を抜き、それを振り薙ぐ。大仰に振られ、空気を裂くように構える薙刀の切っ先を真夜へと向け、指された真夜は思わず身構える。

 

「どういうつもりだ?」

 

そんな鬼に対し、九頭が声を掛けるも、応えない。

 

「好きにしろ」

 

無言の鬼に対し、気が削がれたか、白けた表情で悪態を衝き、刃を下ろす。

 

「女――もしまた生きて会えたなら、決着をつけよう」

 

背中越しに伝え、九頭はその場より離れていく。その様子に戸惑う真夜だったが、今は突如現われたこの『鬼』だった。

 

薙刀を両手で構えたまま無言の型を取る。その仮面故に相手が誰かは分からないが、仮面越しにも感じる殺気は鬼の形相といっしょになり、言い知れぬ威圧感を与えてくる。

 

その覇気は先程の九頭にも劣らない。

 

未知の相手の出現に困惑と不安を抱くなか、鬼が駆け――――――衝撃が周囲に木霊した。




すいません、終わりませんでした。
九頭との戦闘はもう少しあっさりさせるつもりだったのですが、思いのほか長くなってしまい、ここで切ることにしました。

映画でのあの戦闘シーンを思い浮かべながら書いていますが、戦闘は難しいです。やっぱり視覚効果は大切ですね。


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拾話

真っ直ぐに襲い掛かる夜叉の繰り出す薙刀の一撃を真夜は横へと跳んでかわす。

 

目標を失った穂先はそのまま背後のカプセルを貫き、破砕音が響く。夜叉は柄を回転させるように引き抜き、その拍子に割れた亀裂から噴き出す紅の溶液が足元へと流れていく。

 

紅く染まった穂先を振り払って落とし、拭うと同時に再度床を蹴って突貫してくる。

 

無数に繰り出す突きを真夜は刃を振り上げて捌きながら押される。的確に衝く突きに歯噛みしながら距離を取る。

 

それを視認し、夜叉は柄を大きく引き、一気に跳躍するように突き放った。真夜は着地するとともに迫る刃に反射的に刀を振り上げた。

 

激突する甲高い音が周囲に木霊し、空気を振動させる。

 

「くっ」

 

踏み堪えながら耐えるも、夜叉はその均衡を破ろうと押してくる。

 

峰を押さえる左手の力を弱め、相手の刃を逸らす。押し込んでいた夜叉は僅かに前のめりになり、真夜はその場から離れる。

 

床に刺さる穂先で身体を支え、背中を向ける夜叉だったが、真夜は仕掛けることができない。

 

背後で靡くライトブラウンの髪が揺れ、ゆっくりと薙刀を抜き、こちらを見やる。

 

真っ赤な空間で対峙する真夜の前に構える夜叉―――薙刀を構えながら対峙する中、真夜は困惑を隠せなかった。

 

(誰……?)

 

『古きもの』ではない―――間違いなく人間だ。

 

だが、こんな人物は存在していなかったはずだ。九頭があっさりと退いたことからも、七原の関係者であることは分かる。

 

その感じる気配――殺気は、仮面越しからでもひしひしと伝わってくる。間違いなく…この夜叉は九頭に匹敵する敵であるということが――――――

 

疑念と不安が胸中に渦巻く。

 

夜叉は再び大地を蹴って仕掛けてくる。それに対し、真夜も応戦するように飛び込んでいく。

 

軽やかに薙ぐ連撃をさばき、かわしながら距離を詰めていく。

 

(懐に飛び込めば―――!)

 

接近戦で得物のリーチは長い方が有利だ。だが、間合いを詰めれば小回りのきく刀が有利。そこまで接近しなければならない。無数に繰り出される刃をすべてかわせず、突かれた一撃が避けそこねた真夜の頬を掠め、微かな一閃が走る。

 

「っ」

 

飛ぶ鮮血に夜叉が僅かに硬直する。

 

その一瞬の隙を衝き、真夜は懐へと飛び込んだ。

 

「たぁぁっ」

 

気合とともに繰り出した一撃に夜叉は身を逸らすも完全にかわせず、鬼の面を掠められる。

 

距離を取る夜叉に真夜は息を荒げながら相手の出方を窺う。致命傷を与えられてはいない――せいぜい面を掠めた程度…夜叉は仮面を押さえるも、傷つけられた亀裂から破片が落ちていく。

 

「いやぁ~……やっぱり凄いね」

 

今まで無言だった夜叉から唐突に発せられた声―――その声に真夜が眼を見開き、息を呑む。

 

今の声は―――聞き間違えるはずがない……だが、同時に信じられない思いが湧き上がってくる。

 

(そんな…今の声―――)

 

動悸が激しくなり、心臓が不規則に音を内に奏でる。

 

混乱する真夜の前で面の亀裂が拡がる音が響く。ゆっくりと手を離す夜叉の面が左右に割れ、音を立てて崩れ落ちた。床を跳ねて落ちる面―――その下から現われた顔……

 

見間違えるはずのないその顔――真奈とは違う意味でこの世界で親しくなった相手………閉じていた眼をゆっくりと開き、瞬く。

 

セミロングに切り揃えられた髪が靡き、その瞳が真夜を見据える。

 

「久しぶりに会えて嬉しいよ―――――真夜ちゃん」

 

無邪気に――そして聖母のように微笑むのは…月詠凛だった。

 

だが、その笑顔に慄き、真夜は掠れた声を漏らし、後ずさる。

 

「そん…な――…どう、して………?」

 

思考が混乱し、言葉がうまく纏まらない。

 

そんな真夜の言葉を聞き取り、凛は自分を指差す。

 

「ボクが何でここに居るか? それは簡単だよ…君を待ってたから♪」

 

酷く楽しげに囁く彼女の姿は、いつも学園で見ていたものと同じで――まるでここだけが切り離されたような錯覚を憶える。

 

何故彼女がここにいるのか――何故、彼女と自分は闘っているのか………いや、それ以前に眼前の光景が現実なのか―――

 

「現実だよ」

 

真夜の心情を見透かしたように放たれた言葉が、真夜を射抜く。

 

「ボクがここに居るのは現実――唯一違うのは、ボクと君の関係かな」

 

首を傾げながら考え込む仕草を見せつつ、片手で身の丈もある薙刀を振り回し、背後で構える。

 

「ボクはここの関係者で、君は部外者――そして………侵入者――――――!」

 

一気に床を蹴って迫る凛が薙刀を下方から振り上げる。

 

「っ!?」

 

反応の遅れた真夜は反射的に身を逸らし、鋭く斬り上げられた一撃が眼前を掠める。ニッと笑い、凛は柄の真下をそのまま突きつける。

 

それをかわせず、柄が真夜の身体に迫り、身を抉る。

 

「あ、がっ」

 

腹部に響く痛みに呻き、そのまま吹き飛ばされ、壁へと打ち付けられた。

 

強か打ち付け、壁を擦るように崩れる。もどかしい呼吸がほうけていた真夜に現実を強く感じさせる。

 

夢でも幻でもない―――この眼前の光景全てが現実なのだ。

 

「っ、ぐっ」

 

歯を噛み締め、なんとか立ち上がる。

 

その姿に凛ははにかんだ笑みを見せる。

 

「あはは、やっぱ凄いね。普通なら、今ので大体は壊れちゃうんだけど――兄さんとも打ち合えるわけだ」

 

心底驚いたように称賛するも、今聞き捨てられない内容が混じっていた。

 

「あ、に……?」

 

「うん、さっき真夜ちゃんが闘ってたの。一応、ボクの兄さん。ボクとしては血が繋がってるとは思いたくないんだけど」

 

不満ですとばかりに眉を顰める凛だが、そんな事はどうでもよかった。

 

「それ、じゃ…あなたは、セブンスヘブンの――!」

 

「やっぱそこまで知ってるんだ。そうだよ――『七原』をずっと昔から守護してきた一族…それがボク達、『月詠』だよ」

 

薙刀を戻し、佇みながら告げる凛。

 

「ま、ボクはそんな家のしきたりには興味ないけど―――」

 

つまらなさ気に呟き、肩を竦める。

 

いつから仕えているのか――何代にも渡って守護の役目を担ってきた一族…長い歴史の中でそれが変えられたことはなく、党首である『九頭』の名も兄が継いだ。

 

「ボクは文人様のやろうとしている事には何の興味もないし、兄さんのように心酔している訳でもないしね」

 

周囲のカプセルを見渡す。

 

だが、妹である自分には何の関係もないことだ――兄のように主である『七原文人』に心酔している訳でもない。ただ都合がいいからだ。

 

「ボクが興味あるのは――ボクを熱くさせてくれる相手が欲しいだけ」

 

それまで無機質だった瞳にねっとりとした熱が宿り、真夜をゆっくりと見据える。だが、真夜はその意図が掴めず戸惑う。そんな様子に凛は微笑を漏らす。

 

「その顔も可愛いね。今までいろんな相手と殺り合ったり、時には犯したけど―――」

 

ぎゅっと手を握り締め、身体を縮こませる。

 

疼くのだ――はっきりとしたものではなく、ただ心の奥底から…『月詠凛』という本質が求める…この疼きを、乾きを満たしてくれるものを………

 

ハッキリとそれを自覚させたのは幼少より叩き込まれた家の『業』故か――これを満たすために、凛は生死を懸けた闘いに幾度も臨み、時には肌を重ねもした。

 

だがどれも一時のものでしかない――すぐに冷めてしまう……そんな空虚な日々の中で出逢った――――――

 

「私をこんなにも熱くさせてくれたのは君が初めてだよ」

 

『真夜』という存在――他とは違う何かを感じさせてくれ、それは今刃を交えたことで確信した。

 

「だからボクは君が欲しい――君と殺り合いたいんだよ………」

 

まるで恋人をデートに誘うような仕草で言い放つ凛に、真夜は息を呑む。

 

感じたのは『畏怖』だった――まっとうな神経ではない。『狂気』とも違う―――ただ純粋に求める様…その眼を、真夜は知っていた。

 

反応が遅れ、一気に駆け出した凛が薙刀を振るい、真夜は屈み込んでかわす。空を切りながら回転し、再度足払いのように振るう刃を跳んでかわし、着地とともに距離を取る。

 

それを逃さず、飛び込む凛の刃が迫り、刀で弾く。

 

体勢を崩す凛に真夜は刀を振り払うも、凛もまた身を屈み込ませてかわし、突いてくる。

 

身を捻ってかわし、打ち合う音が周囲に木霊する。ぶつかる衝撃のなか、互いに刃を交えて硬直する。

 

「っ」

 

歯噛みする真夜に対し、凛は笑みを崩さない。

 

薙刀を逆手で逸らし、真夜の軌道を逸らすと前のめりになる真夜に蹴りを回してくる。

 

それをかわせず打撃を受け、怯む。咄嗟に腕を引いたおかげで倒れるのは堪えたものの、腕が衝撃で麻痺する。

 

よろめく真夜に仕掛ける凛。振り下ろされる刃に持ち手を左手に変えて弾き返す。その反応に眼を瞬かせる。

 

「驚いた? ひょっとして両利き? また君の新しい発見だよ♪」

 

はにかむ凛だが、真夜には余裕がない。ただでさえ、九頭との闘いでも大きな疲労と傷を負っている。正直このまま凛と闘い続けても分が悪い。

 

(けど……っ)

 

結論から言えば、ここは逃げるべきだ。だが、ここに潜入したのは真治の行方を追ってだ。それを掴めず、このまま逃げることに迷う。

 

「む? 今真夜ちゃん私じゃなくて別のこと考えてたね?」

 

そんな真夜に眉を吊り上げ、なじるように問う凛に注意を引き戻される。

 

「なんか赦せないな~……君にはボクだけを見ていて欲しいのに」

 

嫉妬するように考え込むと、何かを思いついたように不敵に笑う。

 

「じゃ、もっと闘えるようになってもらおうかな?」

 

その言葉に構える真夜だっが、彼女の口から放たれた言葉に驚愕する。

 

「ボクに勝てたら――真奈ちゃんのお父さんのこと、教えてあげる」

 

「っ!? どうして―――!?」

 

一番知りたかったことを告げられ、狼狽する真夜だが、凛は得意気に笑う。

 

「あ、やっぱりこれが正解? 君がここへ来たのは?」

 

失言だったと後悔するも既に遅い。

 

「偶然だったけどね――彼女のことも調べたから。友達思いだね」

 

真夜のことを調べる過程で親しい真奈のことも調べた――そこで知った彼女の父親がセブンスヘブンの取材をしていること。その過程で囚われたことを―――真夜がセブンスヘブンを知っているのなら、友人の父が絡んでいるのを知って動かないはずはない。

 

それは彼女の人となりを見てきた凛にとって確信できたことだった。

 

「さあ、どうする? ボクを倒して聞き出すか…ボクに殺られるか…それとも、逃げるか―――」

 

からかうような口調で選択を突きつける。視線を落とす真夜―――握り締める手が震えている。それは怒りなのか…それとも――――それを証明するように顔を上げた真夜は一気に駆け出した。

 

「うぁぁぁぁぁっっ」

 

必死の形相で斬り掛かる真夜の一撃を凛は冷静に受け止める。

 

だが、先程よりも重い――対峙する真夜の顔は、鬼気迫るほどのものだ。それに笑う。

 

「そうだよ――いっぱい殺り合おう!」

 

ここからが本番とばかりに凛もステップを踏むように薙刀を背中に回し、回転させて交錯を外す。真夜も瞬時に外し、距離を取り、間合いを逃さず連撃を繰り出す。

 

四方八方から斬り込む真夜に凛は薙刀を突きながら捌いていく。

 

空中で激突し、甲高い音が響く。衝撃で痺れる手を引き、歯噛みしながら後ずさる真夜に逃さないとばかりに迫る凛が繰り出す突きを横へと跳んでかわす。

 

突き出された刃が先にあったカプセルの基盤に突き刺さり、火花を散らす。それを一瞥して引き抜くと、亀裂から飛び出したケーブルが垂れ下がり、闘いで破裂したカプセルから溢れ出た血と接触し、一気にショートする。

 

火花が散り、基盤から炎が噴き出す。炎はそのまま大きくなり、二人の間を裂くように舞い上がり、思わず真夜は眼を覆いながら怯む。

 

炎はそのまま他の機械やカプセルを侵食し、炎に包まれながらカプセルの中で屍を晒す骸を包み込んでいく。

 

紅蓮の炎が舞う中から、灼かれる怨念のような叫びが聞こえるような錯覚を引き起こす。

 

『助け』を求める声―――聞こえるはずのないそれらが一気に流れ込むように真夜は恐怖する。その瞬間、炎を裂くように飛び出した凛が突き出した一撃をかわせず、左肩を掠めた。

 

「うぁっ」

 

飛び出す鮮血――呻きながら傷を押さえる。

 

溢れ出す血で染まる右手と苦悶を浮かべ、凛を見やる。振り返った凛の顔には、先程の交差時に飛び散ったのか、真夜の血が付着している。

 

頬を伝う血をなぞり、真夜は恍惚するように微笑む。

 

「愉しいな――もっともっと、愉しもうよ!」

 

跳躍して襲い掛かる凛の攻撃は先程よりも勢いを増し、真夜は防御するので精一杯だった。

 

受け止め、捌き、かわす――防戦一方のなか、薙刀を引き、一気に跳び込む凛が至近距離で拳を突き出した。

 

眼を見開いた瞬間には、真夜の身体に凛の拳が数回叩き込まれ、圧迫感と衝撃で真夜は吐血する。

 

「がはっ」

 

肺から噴き出す鮮血に吹き飛び、倒れ伏す。

 

背中の衝撃よりも呼吸が苦しい―――そんな真夜を見下ろしながらクスクスと笑う。

 

「ボクがコレしか使わないと思った? 残念♪ これでも兄さんと同じく体術も多少は使えるんだよ」

 

意識が飛びかけている真夜にはそんな言葉はほとんど聞こえていない。だが、少なくとも間合いをあけても懐に入り込まれても自分の分が悪い。

 

か細い呼吸でよろめきながらなんとか立ち上がる。

 

「あは、やっぱり凄いね。友達思いなんだ…ちょっとあの娘に妬けちゃうな」

 

口を尖らせながらなじられるも、真夜は既にボロボロで刀を支えになんとか立っているのがやっとだ。

 

だが、真奈の姿を思い浮かべ、必死に刀を構えて対峙する。

 

「いいね――ますます君が欲しくなっちゃったよ!」

 

駆け出す凛の斬撃をなんとか受け止めるも、勢いを止められずにそのまま下がり、追い詰める凛に後退しながら進むと、壁にぶつかり、息を呑む。

 

跳び掛かる凛の勢いを受け止めるも、その衝撃で背中の壁が後ろへと開かれ、真夜は後方へと倒れ込む。

 

なんとか倒れるのは堪え、横へと身を逸らす。耳に飛び込む水の流れ―――横に流れるのは、工場の排水路。轟音を立てて流れる水に気を取られたが、再度振るう薙刀の一閃を屈み込んでかわし、穂先が壁へとめり込む。

 

それを引き抜く凛に真夜は思考を巡らせる。このまま闘い続けても勝機が薄い――いや、既にこうして立っているだけでどんどん体力が奪われていくようだ。

 

迂闊に懐に飛び込むのは危険だが、ここは勝負に出るしかない。

 

構える真夜に何かを感じ取ったのか、凛もまた薙刀を上段へと構える。水の流れが木霊する地下で全神経を集中させて対峙する。

 

真夜が小さく顎を引いた瞬間、一気に駆け出す。

 

水平に構えて駆ける真夜に凛もまた薙刀を正面に構えて無数の突きを繰り出す。間隙なく迫る薙刀の軌道を必死に追い、それらをかわしながら大きく突かれた一撃をかわし、後一歩で凛の懐へと到達する。

 

(この間合いなら―――!)

 

それを確信した瞬間、凛の口端が小さく歪む。

 

「甘いよ」

 

突き出した薙刀の上半分が突如外れ、柄の内部から鋭い刃が現れる。

 

(っ――――!?)

 

それが仕込み刀と気づいた瞬間、振り下ろした凛の刃が真夜の身体を斬り裂いた。

 

「あ――――――」

 

身体から噴き出す鮮血―――どうしようもない熱さが身体を侵食する。

 

感覚を自覚できないまま、真夜は大きくよろめき、そのまま排水路へと落下した。大きな音を立てて水中へと落ちた真夜の姿はそのまま水の流れに掻き消され、完全に消え失せる。

 

それを一瞥する凛は静かに見下ろす。

 

「やっぱり凄いよ、真夜ちゃん。ボクに傷をつけたのは、兄さん以外じゃ初めてだよ――――――」

 

小さく腕を伝う紅い血―――あの瞬間、真夜の斬撃もまた浅かったものの、凛の腕を捉えていた。後少し踏み込みが深ければ、凛の方の傷が大きかっただろう。

 

後方の施設から炎が噴き出す。それを横に凛はゆっくりと歩き出す。

 

「今度逢う時は…もっと愉しませて――――――」

 

次に訪れるであろう邂逅を思い、凛は静かにその場より去った。

 

 

 

 

 

 

夜の静寂を破るように燃え上がる炎――――――

 

紅蓮の炎が施設そのものを覆い、太陽のように周囲を照らす。火災に鳴り響くサイレン…パニックになる工場区より離れた場所にある海岸付近に、一つの影が浮かぶ。

 

砂浜を這うように身体を引き摺りながら水中から上がるのは、真夜だった。

 

「う、うぅぅぅ―――」

 

胸を流れる傷を押さえながら、身体がなんとか砂浜に上がったところで力が尽き、仰向けに倒れる。

 

あの後―――水中へと落とされ、激流に抗う力さえ無かった真夜はそのまま流され、海へと放り出された。海流に流され、運良くここまで辿り着いたものの、真夜はボロボロだった。

 

身体は元より、心も――霞む視界のなか、見上げる空は雲一つない――憎らしいほどの星空だった。

 

真夜の視界が滲み、瞳から雫が零れ落ちる。頬を伝う微かな熱―――それは、悲しみでも怒りでもない………『悔しさ』だった――――――

 

 

―――――真奈を悲しませてしまった自分……

 

―――――凛の素顔を見抜けなかった自分……

 

―――――力を信じて甘く考えていた自分……

 

 

何もかもが悔しかった。

 

こうして無様を晒していること―――無力だった自分自身に哭いた…………震える身体を抱きしめるように蹲る。

 

 

 

 

どれ程そうしていたのか―――やがて、真夜はゆっくりと身を起こす。

 

まだ血は止まっていない。それでも、ゆっくりと―――その姿を離れた場所で見詰める影。

 

レンズに反射させながら見詰めるのは、四月一日君尋だった。閉じていた眼を開き、真夜を静かに見詰める。

 

「二つの運命が同じ道を辿ったか――――――」

 

彼の眼に見えていたのはここだけではない。

 

遠く離れた地にて今の真夜と同じように運命に翻弄された一人の少女の結末――おぼろげながら視えていた未来……だが、少女は新たな願いのために起ち上がった。

 

そして―――四月一日の見詰める先で真夜が静かに起ち上がった。その背中が…重なる。

 

「それでもなお進むか――願いのために………」

 

淡々と語る四月一日の視線はどこか寂しげだった。

 

見守るなか、起ち上がった真夜はゆっくりと顔を上げる。

 

月に照らされる中で浮かぶ彼女の顔は……新たな決意を秘めていた。

 

この先に起こる運命を必ず変えてみせるという意思に―――――見詰める先にある炎上する施設を一瞥し、真夜はゆっくりと背を向ける。

 

風が髪を靡かせ、彼女を包む。

 

 

 

 

次なるステージへと導くように―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

To The Last Dark.........




ようやく前奏完結です。
最後の真夜のシーンはTVの小夜をイメージして書いてみました。純潔パラドックス何度も聴きながら試行錯誤しましたが、うまくできたかな?

次回から本編へと突入していきます。

今回はいろいろ悩んだ部分ではありましたが、楽しんでいただければ幸いです。


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The Last Dark
第壱夜


「真夜…どうして、お父さんを助けてくれなかったの………」

 

眼前で佇む真奈が顔を伏せてなじるように問い詰める。

 

「真奈……」

 

それに対して、どうしても答えることはできない。

 

「返して…お父さんを返して―――!」

 

罵る真奈の言葉が胸に刺さり、真夜は耳を抑えて被りを振りながら心の中で絶叫を上げた――――

 

 

 

 

ベッドで眠る真夜は魘されていたが、やがて眼を覚ます。

 

「っ!?」

 

ハッと眼を開き、ガバっと身を起こす。

 

「はぁ、はぁ……ゆ、め――――」

 

呼吸を荒げながら、額を押さえ、沈痛な面持ちを浮かべる。

 

カーテンの隙間から差し込む光――それは窓越しでも分かるほど蒸し暑く、全身に汗がにじみ出ている。

 

静かに身を起こし、姿見の前に立ち、服を脱ぐ。汗で湿ってしまった服を脱ぎ捨てると、露になった真夜の胸には、大きな傷跡が残っている。

 

それを見るたびに、真夜は自身の無力さと罪悪感に苛まれていた。

 

「もう、一ヶ月か……」

 

佇みながら胸元で拳を握り締める。

 

真治の行方を追ってセブンスヘブンの施設に忍び込み、そこで月詠凛と闘い、真夜が敗れて既にそれだけの時間が経過していた。

 

あの後、夜明けにボロボロの状態でなんとかマンションまで戻った真夜だったが、真奈にどう説明したらいいのか――それだけに足踏みしていたが、幸か不幸か、真奈は既にマンションを後にしていた。

 

迷惑をかけたことを謝罪し、父親を自分なりに捜してみると書き残して……それに安堵したのは他ならぬ真夜だったのかもしれない。

 

気力だけでどうにか辿り着いた真夜はそのまま部屋で倒れ、ドロのように深く眠ってしまった。

 

あまりに衝撃が続き、大きかったために真夜の疲労も限界に来ていた。眼が覚めたのは翌日の陽が昇りきった後――だが、真夜の気分は曇ったままだ。

 

どうするべきなのか―――真奈は真治を捜すと言っていたが、ハッキングという一番情報収集に不可欠な術を封印してしまった真奈にはどうすることもできないだろう。そして彼女は招かれる…サーラットへと。

 

そして真夜自身がまったく知らないイレギュラーである『月詠 凛』―――彼女の強さは桁違いだった。さらに真夜に執着している。

 

なんとか今回は逃げ切れたものの、凛も真夜が死んだとは思っていないだろう。

 

となると―――自分のことが七原文人に伝わってしまう可能性がある。この場所に留まるのは得策ではないと思い、真夜はすぐさまマンションを引き払い、新たなる部屋を確保してそこへと隠れ移った。

 

同時に十字学園のホストコンピューターにアクセスし、当面病気で休学するようにデータを書き換えた。

 

傷を癒す意味もあったが、なにより真夜は混乱をどうにか収めたかった。

 

「もう浮島での実験も終わった―――」

 

あれから調べた結果、浮島の実験はあの日――真夜が負けた日と同じくして終わりを告げ、浮島の記録は抹消された。

 

そこに居たすべての人を古きものに喰わせて…小夜独りを残して――――――最後に残ったデータから得た独り地獄となった浮島で佇む小夜の映像…それが、一ヶ月前の自分と重なった。

 

未来を変えるために来た自分のせいで、新しい悲劇を起こしてしまった――そう考えると、真夜の心は深く沈む。

 

その場に座り込み、膝を抱えて顔を埋める。

 

「なんでこうなっちゃったんだろ……」

 

こんなはずじゃなかった―――ほんの半年ほど前だというのに、まるでもう遠い過去のように思える元いた世界で聞いた言葉が胸中を過ぎる。

 

『あの結末』を変えたくて、ただそれだけで…自分はなんでもできると疑いもしなかった。だけど、結果はなにも変えられず、異なる未来を呼び寄せてしまった。

 

「けどっ」

 

顔を抱えながら拳を握り締める。

 

もう今更後戻りもやり直しもできない――自分にできるのは、ただ一つだけ………未来を変えるために今を闘うこと。

 

戻れない過去も予想もできない未来もない――『今』を最善の未来を掴むためにも。

 

顔を上げた真夜は、陽射しを受けながら思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

夜の帳が世界を包む。

 

地上には人の造った人工の光が煌き、本来の輝きを覆い隠している。

 

そんな世界を見下ろすように見つめる男――セブンスヘブンと塔を掌握する七原文人が高層ビルの執務室のバルコニーに腰掛けながら静かに見下ろしていた。

 

まるで、望めばそんな世界など、簡単に壊すことも手に入れることすら容易いと思えるように…事実、それだけの力がこの男にはあった。

 

だが、そんな野心など微塵も感じさせず、ただ静かに見下ろすのはまるで聖人のように見える。

 

そんな文人の背後に気配が現われ、振り返らずに軽く首を傾けた。

 

「九頭か」

 

「はっ、ご希望されていました資料をお持ちしました」

 

先般の戦装束ではなく、スーツに身を包んだ九頭がデスクに数枚の書類を置く。

 

「やれやれ…戻ってから休む暇もないね」

 

軽く首を振りながら肩を竦め、徐に身を起こすとそのままデスクへと移動する。

 

文人が浮島から戻って一ヶ月――それは、小夜との実験が終わってからの時間が経っていたが、戻った文人の前にはセブンスヘブンの会長としての雑務があった。

 

流れるように案件を片付けていくも、文人は不満だった。

 

「こういった雑事は誰かに片付けてもらいたいね」

 

愚痴るように呟く。浮島に居た時はこうした煩わしいことから解放され、のびのびとできたものだと内心独りごちる。

 

だが、その時間を終わらせたのは文人自身だ。それに後悔などしてはいない――暫し書類を眺めていたが、何かを思いついたように顔を輝かせた。

 

「そうだ、こういった雑事をやってもらえる秘書でも雇おうかな」

 

名案とばかりに顔を綻ばせるも、無言で佇んでいた九頭がむっつりと苦言を漏らす。

 

「文人様、よかならぬ存在を招くことはお控えください」

 

「大丈夫だよ…それに、九頭が護ってくれるだろ? そんな時は?」

 

そう返され、さしもの九頭も口を噤む。

 

秘書のようなことをしているが、本分は裏事だ。それに、文人に危害を加えようとするならば、言われるまでもなく相手を八つ裂きにするだろう。

 

「ね?」

 

そんな心境を見透かしてか、悪意のない顔で同意されるも、九頭は表情を変えない。だが、それが了承であると付き合いの長い文人は理解している。

 

「それじゃ誰にしようかな……」

 

椅子に背を預け、考えるように首を捻るも、該当者はすぐに浮かび上がった。

 

「そうだ、彼女にしよう…約束も叶えてあげなきゃいけないしね」

 

ニコニコと笑いながら決めると、弾むように書類に向き合う。それは、こんな雑事とすぐに離れられることに対しての興奮だったが、ふと何かを思いついたように手を止めた。

 

「そう言えば―――僕の留守中に研究所が一つ焼けちゃったんだったよね?」

 

「はっ、侵入者によるものかと」

 

表情を変えないながらも、苦い口調で同意する。

 

文人が浮島から戻った日――湾岸部の実験施設の一つが炎上した。幸いにも地下施設は延焼し、単なる事故として片付けた。

 

「蔵人が煩かったしね」

 

ここに居ない従兄弟の顔を思い浮かべ、小さく笑みを零す。

 

正直、施設を喪ったことに対してはさして動揺もしていなければ、怒りを感じることもない。それより興味深いのは――――――

 

「興味あるね、その侵入者ってのに? 九頭とも渡り合うなんて…普通は考えられないよ」

 

組んだ手の上に顎を置き、細くなる視線は獲物を求めるように染まる。

 

九頭の実力は文人自身が一番理解している。それこそ、『人間』なら敵うどころか、瞬殺されるだろう。それと互角に打ち合ったというだけでも驚きだというが、その相手が少女だったということだ。

 

「映像も残っていない――見てみたかったね」

 

施設に侵入した少女――実際に闘った九頭が言うには、黒髪の少女だったという。

 

一瞬、文人の脳裏に浮島で過ごした小夜の姿が浮かぶも、それはあり得ないと即座に否定する。

 

ならば、いったい何者なのか――施設に侵入したことからも、『古きもの』の存在を知っていた可能性が高い。だが、その姿は文人には分からない。

 

施設の監視カメラのデータはなぜかすべて消されていた―――もっとも、いくら火事とはいえ、その程度で失うほどチャチなものではない。

 

では何故消えているのか――考え込む文人だが、既に答は出ているのかもしれない。

 

「侵入者は凛の奴が始末しました」

 

淡々と告げるも、文人は小さく眉を顰める。

 

「凛ちゃんね――本当に、いいタイミングで居てくれたよ」

 

称賛するも、彼女の行動にも疑問が残る。

 

侵入者の事を警告したのもまた彼女だ――そして、最後に施設に居たのも………

 

「奴に吐かせましょうか?」

 

実の妹に対しても何の感慨も情けもないとばかりに言い放つも、文人は首を振る。

 

「いや、いいよ――兄妹で喧嘩はして欲しくないしね。それに―――」

 

まだまだ面白いことが起こりそうだと―――内心に零し、文人は静かにほくそ笑んだ。



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第弍夜

照りつける夏の日差しもまた夕方になれば多少はマシになる。

 

だがそれでも、漂う空気はねっとりと熱と湿気を帯び、道行く人々はそれに辟易する。そんな様子をどこか遠い光景のように真奈は見つめていた。

 

彼女が居るのは、外とは打って変わって快適な温度が保たれた車内だった。

 

エアコンから流れる風は冷んやりと涼ませる。時折横を過ぎる車を見やり、視線は落ち着かない。

 

「柊、もう少し行ったところでいいか?」

 

「え…あ、うん。その先ぐらいでいいよ」

 

不意に前からの呼び掛けに遅れるも、なんとか反応できた。

 

真奈の前には、車を運転する長身のキレ眼の男。微かに生える無精髭が目立つ。運転中のため、振り返らない男の横に座るメガネをかけた童顔の男が振り返る。

 

「真奈ちゃん、あまり無理しないでくださいね」

 

「うん、ありがとう」

 

人懐っこい笑顔にぎこちない笑顔で返答する。

 

彼女の前に居るのは松尾伊織と藤村駿といった。

 

学校での友人でもなければ、親類というわけでもない。彼らと出会ったのはほんの一週間ほど前だ。

 

父親が失踪して既に一ヶ月――真奈はその行方を捜していた。といっても、一日中人が行き交う往来をただ眺めているだけ。道行く人の中に父の姿を追って…それがどんなに無駄なことであろうとも。

 

あの日以来、真奈はハッキングができなくなってしまった。触れようとするたびに父親を喪った恐怖が全身を縛り、震え上がらせた。

 

父親を喪ったのは自分のせいだ――そう責められているように……それが酷く彼女を苛め、そしてハッキングができない自身の無力感を思い知らされた。

 

一ヶ月が過ぎ、どうにかメール等や電子機器へ触れる程度にまでは心が落ち着き、その過程で父親の失踪前に知り合った月山比呂と久々に話せた。

 

月山も突然連絡の途絶えた真奈のことを心配し、再び連絡が取れたことを喜んでくれた。

 

その過程で自身の現状を伝えると、月山は彼女を誘った。『サーラット』と呼ばれる組織へ―――月山自身もそこに所属しており、ネットサークルの集まりかとも思ったが、真奈の想像以上に大きな組織を持っていた。

 

彼女が指定したのはシスネットの代表である『殯 蔵人』の屋敷であり、彼自身がパトロンとなっている大きなものだった。

 

そこで出逢ったのが元の母体であった『都市伝説研究フォーラム』の発起人である松尾と藤村だった。藤村は中学の同級生であり、アプリ同好会で一緒に活動したこともあるから余計に驚いた。

 

彼らはそこで都市伝説の中に隠された真実や、それに通じる謎を追っていた。正直、淡い期待を抱きつつもハッキング能力を封印してしまった真奈にはそこへと参加することは躊躇われたものの、殯の言葉に参加を決めた。

 

「絶対に、セブンスヘブンの謎を暴くっすから!」

 

ガッツポーズで奮起する藤村に数日前の出来事に耽っていた真奈はハッと引き戻された。

 

「……うん、ありがとう」

 

ぎこちない笑顔で応じながら、小さく俯く。

 

殯はセブンスヘブン――七原文人に浅からぬ因縁があり、そのためにサーラットを組織したと真奈に語った。

 

ここに居れば、父の行方を掴めるかもしれない…そう思うと真奈には選択肢はなかった。そして、サーラットに所属して数日――月山や藤村に微力ながらアドバイスをしつつも、真奈は自分の存在が酷く曖昧なことに後ろめたさを感じていた。

 

数分後、車は道路脇で止まり、真奈は車から降りた。

 

「柊、あんま落ち込むなよ」

 

「そうっすよ、元気出して」

 

励ます二人に小さく笑みで頷くと、二人はそのまま車で去っていった。

 

それを見送ると、俯いた表情で真奈は家への帰路を歩き出した。その足取りは酷く重い。

 

以前は違った――父親が帰る前に帰り、食事の支度をして明日の学校のことを考えてと、弾んだ気持ちでいられたのに、今は誰も居ない…帰らない家に独りで居ることが辛かった。

 

父親のことばかり思い出し、家に居ることが苦痛のように思える。その事をふと月山に漏らしてしまい、月山が殯に相談すると、家の空き部屋を使っても構わないと申し出てくれた。

 

そこまで甘えることに抵抗はあるが、家に戻りたくない真奈にとってはありがたかった。近いうちに最低限のものだけ持って移ろうかと考えている。

 

そこまで追い詰められていることに真奈は自分が最悪の可能性を既に感じ始めているからかもしれないと恐怖していた。

 

『父親の死』――核心へと触れることへの怖れが、真奈にハッキングを封じていた。

 

(真夜、どこいっちゃったんだろ……)

 

落ち込む中、真奈は親友のことを思い浮かべた。

 

父親の失踪を伝えた翌日――真夜は部屋に居なかった。悪いと思いつつも、真奈はそのまま部屋を後にした。数日後、訪れてみると、真夜はいなかった。

 

部屋を引き払い、連絡を絶った。それが真奈の混乱を煽った。

 

何故真夜までいなくなってしまったのか――自分が原因ではないのかと、不安ばかりが募る。

 

「あれ、真奈ちゃん?」

 

不意に掛けられた声に顔を上げる。

 

進路上に見慣れた顔があった。

 

「月詠、副会長……」

 

「やっほ」

 

白いワンピース姿で凛が軽く手を振りながら近づく。

 

「どうしたの、元気ないね?」

 

覗き込むように見る凛にバツが悪いように引き攣ったまま応じる。

 

「あ、なんでもないんです。気にしないでください、副会長」

 

「凛でいいよ。フーン…今、時間いい?」

 

覗き込むように顔を寄せる凛の表情が、今まで見ていたものと違い、どこか陰りを帯びていることを無意識に感じ取るも、真奈は小さく頷いていた。

 

その仕草に表情が戻り、ニコリと微笑みながら凛は真奈の腕を取り、そのまま手近な喫茶店に入った。

 

「ボクの奢りだから気にしないでね」

 

席に着いて告げる凛に気後れしながら頷き、コーヒーを頼む。

 

暫く経つと、コーヒーが二つ並べられ、それを飲む。夏とはいえ、陽も落ちると少し温かみが身に染みる。

 

「落ち着いた?」

 

同じく飲んでいた凛がタイミングを見計らって問い掛けると、やや落ち着きを得たのか、幾分か緊張感が解れた表情で頷いた。

 

「そ、じゃあ本題――何かあった、真奈ちゃん?」

 

優しく問い掛けられ、真奈は俯いたまま話し始めた。

 

ハッキングやセブンスヘブンのことは流石に言えなかったが、父親が失踪したこと、その原因が自分のせいであること…どうやって父を捜せばいいのか悩んでいること―――それらを掻い摘んで伝えた。

 

「そっか、お父さんが……」

 

話を聞いた凛は考え込むように表情を顰める。

 

「すいません、変な話しちゃって」

 

凛に話してどうこうなる問題ではないが、こうして話を聞いてくれただけでも大分気が楽になった。

 

「気にしなくていいよ。でも大変だよね…お父さんがそんなことになって」

 

「……はい」

 

俯く真奈に凛が思い出したように問い掛けた。

 

「そう言えば、真夜ちゃんはどうしてるの?」

 

唐突に話題が切り替わり、一瞬眼を瞬く。凛には当たり前のように訊かれたかもしれないが、真夜のことは真奈にとっても答えにくいものだった。

 

「その――ここ最近、会ってないんです。どこに行ったかも分からないままで……」

 

「そうなんだ。学校にも突然休学届けなんて出すぐらいだから、どうなのかなって思って」

 

「え……?」

 

自然に出た言葉に顔を上げ、乗り出すように声を絞り出す。

 

「真夜、学校休んでるんですかっ?」

 

初めて聞く事実だけに、声も上擦っている。それに対して、凛も小さく頷いた。

 

「うん、夏休みに入ったぐらいだったかな…病気で暫く休学するって――ボクも気になったんだけど、連絡が取れなくて」

 

「そんな……」

 

力が抜けたように座り込む。

 

「その様子じゃ、真奈ちゃんも知らないんだね」

 

凛も肩を落とし、溜め息を零す。

 

真奈は改めて、自分が何も知らないことを知った。

 

暫く沈黙が続いていたが、やがて店を後にし、真奈は凛に頭を下げた。

 

「真奈ちゃん、あまり無理しちゃダメだよ」

 

「はい…ありがとうございます」

 

もう一度会釈し、分かれようとすると、凛が言葉を投げ掛けた。

 

「ねえ真奈ちゃん、一つ訊いていい?」

 

背中越しの言葉に歩みを止め、振り返ると凛が小さく問い掛けた。

 

「真奈ちゃんは、どうしたいの? 父親を捜したいのか…それとも、真実を知ることが嫌なのか―――」

 

唐突に放たれた言葉はまるで鋭い針のように真奈の胸中に刺さる。

 

改めて突きつけられたのは、今自分が最も悩み、揺れていることだ。二つの相反する思いの中でジレンマを抱え、どうすることもできずにいる自分自身―――それに答えられず、動悸が激しくなり、両手を強く握り締める。

 

小さく震える真奈に凛は肩を竦め、真奈の前に指を立てて眼前に近づける。

 

「最後にもう一つ――自分にとって大切な人が二人いるとして、どちらか一人は絶対に助けられないとしよっか」

 

突然謎かけのような言葉を発する凛に真奈は呼吸を抑えるように聞き入る。

 

「肉親と親友―――どちらかを選べと言われたら、真奈ちゃんはどっちを選ぶ?」

 

訊き入る凛の表情は、まるで人形のように硬い――だが、突きつけられた問いの意図が分からずに戸惑う。

 

そんな真奈に凛は無表情を隠し、無邪気な笑みを見せる。

 

「次に会うときには、答を聞かせてね」

 

そのまま踵を返し、凛は静かにその場を去っていく。

 

だが、真奈は固まったまま――凛の姿が見えなくなり、少ししてようやく止まっていたように呼吸を行った。

 

全身の力が抜け、思わずその場に座り込んでしまいそうだった。心臓を鷲掴みにされたような嫌な感覚を憶えながら、真奈は震える全身を抱きしめ、帰路へとついた。

 

陽はすっかり落ち、周囲は暗く染まる。

 

夜道を歩きながら、心ここにあらずといった様子で、真奈は先程の凛の問い掛けを反芻させていた。

 

いったいどういう意味なのだろうか―――意図も掴めず、答も出ない。ぐるぐると思考がループするなか、自宅マンションの前に辿り着くと、エントランスに人影が居ることに気づいた。

 

思考が纏まらないなか、思わず眼を凝らして凝視する。エントランスの灯りが後ろ姿を照らし、人物が振り返ると、真奈は驚愕に眼を見開いた。

 

「真夜っ!」

 

叫ぶと同時に真奈は駆け出していた。

 

突進するように佇む真夜に抱きつき、真奈は声を荒げながら泣いた。

 

「真夜、真夜っ」

 

親友が眼前にいると確かめるように名を呼んだ。

 

いったい何処に行っていたのか――何故自分には何も話してくれなかったのか…訊きたいことが山ほどあった。

 

「……ごめん」

 

小さく謝る真夜にその顔を見ると、何かに耐えているような――酷く辛いものを堪えているような表情だった。その様子に真奈は何も訊けなくなる。

 

ただ、抱きしめる力だけは込めたまま…その存在を離さないように――――――



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第参夜

都心のビル群のネオンが犇めく東京の街並み。だが、それとは然程離れていない都心の中でその場所はどこか似つかわしくない様相を醸し出す。

 

近代的なビルの中で洋風の館に和の庭園が拡がる。一見するとミスマッチだが、それは絶妙なバランスで調和し、この屋敷全体の持ち主の品格をそのまま示しているように見える。

 

そこは、都内でも有数のIT企業であるシスネットの代表『殯 蔵人』の屋敷だった。

 

明治より続く華族――財閥の流れを汲む血筋である殯であったが、とある事情でこの屋敷からはほとんど動かない。

 

代表といってもITで起業しただけに、仕事などパソコンが一台あれば、事足りるため、実際の社屋には秘書を通してしか指示を出していない。

 

そのためか、この洋館もどちらかといえば別荘に近く、人は然程必要ない。

 

隣には純和風の屋敷が隣接し、客人のための宿泊施設にもなっている。そして、今この洋館は彼がリーダーを務めるもう一つの組織『サーラット』の活動拠点として使用されていた。

 

その一画――簡易キッチンが設けられた多目的室に、真奈はいた。

 

コーヒーを手に時折顔を水面に映しながらも先程から視線はチラチラと隣の部屋に続くドアに向けられている。

 

「…気になるのか、柊?」

 

そんな様子に溜め息をつきながら松尾がどこかぶっきらぼうに尋ねると、慌てて返事をする。

 

「あ、うん……」

 

「あの人、真奈ちゃんの学校での友達なんですよね?」

 

「うん――私の、大切な友達…向こうもそう思っててくれたら嬉しいんだけど」

 

藤村に乾いた笑みで応じながら、言葉を濁す。

 

(真夜―――私達、友達…だよね)

 

内心に問い掛けながら視線が俯く。

 

真夜と一ヶ月振りに再会した翌日――真奈は真夜にサーラットに案内して欲しいと告げられ、驚愕した。

 

サーラットのことは何も話すどころか、伝えることすらしていなかったのに――真奈自身もここ一ヶ月の真夜のことを聞き詰めた。

 

だが、彼女は言葉を濁すだけで、何も伝えてはくれなかった。

 

ただ謝罪だけを繰り返す彼女に、それ以上訊くことができなかったのだ。その真夜が何故サーラットを知り、そして接触しようとしているのか、まったく見当がつかなかった。

 

そして、今夜――隣の殯の書斎にて秘書である矢薙を交えて少し前に会い、今も話が続いている。

 

防音もそれなりにしっかりとしているため、中の声は聞くことは難しい。

 

真夜が一緒にサーラットに加わってくれることは嬉しいものの、真奈には真夜との間に何か壁のようなものができたような気がして仕方がなかった。

 

またも溜め息を零す真奈を後ろから誰かが抱き締める。

 

「真奈、元気ない?」

 

背中越しに覗き込むのが、ここにいるメンバーの中でも最年少の月山だった。

 

懐かれているのか、不安げに見やる月山に小さく笑い返す。

 

「心配ないよ、月ちゃん」

 

手を添えながら応じるも、表情は晴れない。

 

「あの人――真奈の大切な人?」

 

月山の質問に真奈は迷うことなく応じた。

 

「うん――私の、大切な友達…ううん、親友だよ」

 

それだけは真奈にとって譲れないものだった。父親が失踪した時に一緒に居てくれた――今、自分と一緒にいてくれる大切な人だった。

 

その答えに月山はどこか不遜な面持ちで抱きしめる腕に力を込める。

 

その表情は、どこか拗ねているようだ――その様子に松尾が小気味よく笑う。

 

「なんだ、月ちゃん…大好きな柊が他の奴に夢中だから拗ねてんのか?」

 

からかうように話し掛けると、ますます表情が不機嫌なものに変わっていく。

 

「まっさん、もう頼まれてたハック、してあげない」

 

プイっと頬を含ませて顔を逸らす月山に、松尾が慌てる。

 

「ええっ! ちょ、冗談だって! 謝るから! ほら、フジも謝れって!」

 

「なっ、ボクは関係ないじゃないっすか!」

 

突如巻き込まれるも、頭を押さえられて一緒に謝されるも、月山はもう完全に無視状態だった。

 

そんな様子に真奈はどこか表情が和らぎ、少し気が紛れる。今一度、隣の書斎を見やり、不安な面持ちを浮かべた。

 

 

 

 

 

空気が重い――書斎机の微かな照明と仄かな灯りが拡がる薄暗い書斎で矢薙はそんな感想を抱いた。

 

いつもは何とも思わない壁面一帯を埋め尽くす書架の棚がそれをさらに助長するように妙な圧迫感を憶えさせる。

 

そんな空気を醸し出しているのが、この部屋にいる自分以外の人物――片方は自分が秘書を務めるシスネットの社長である『殯 蔵人』。そして、もう片方の相手を今一度見やる。

 

黒髪をポニーテールで束ねる少女――だが、その瞳はどこか普通とは違う鋭さを宿しているのを矢薙は無意識に感じ取っていた。これでも一企業の秘書を務めている――多少は人を見る眼があるつもりだ。

 

その少女――『一条真夜』に抱いた感想は、あまり印象のいいものではない。言葉にはしにくいが、見た目以上に内側にある『モノ』がどこか得体の知れないものを憶えさせる。

 

かといって、怖れといったものはない――有り体に言えば、掴みどころのないという曖昧なものだろう。

 

そう感じたのも、彼女が開口一番にした内容のせいかもしれないが。

 

「……『浮島』について、何処で知ったのかな?」

 

暫し続いていた静寂のなか、主である殯が相手を見据えながら問い掛けた。

 

真夜は殯に対して最初に口にしたのが、『浮島』のことだった。

 

数ヶ月前からネット上で囁かれ始めた都市伝説――信州にあるという浮島地区にいた住人が突如として姿を消したという『ウキシマデンセツ』…それが単なる都市伝説ではないと知っている者は極限られる。

 

かくいう矢薙もその一人であり、その地名には些か不快感を憶えるものだ。

 

「地図にもどこにも存在しない土地…だけど、それは実在した。人によって作られた幻として――そして、そこに居た人達が消えたのは事実。あるモノによって、この世から滅された」

 

眼を閉じ、そう告げる真夜の発した内容に殯の表情が眼に見えて強ばる。

 

「原因は――『古きもの』……そう呼ばれる異形の存在―――――伝承や伝説の中に残るモノの元になったモノ」

 

日本に限らず世界中に残る伝説や伝承――その中に現れるこの世にあらざる異形のモノ達…神や悪魔の遣いとして語られるそれらは、『彼の世』より『此の世』へと現われ、人を喰らい続けた。

 

気の遠くなる程の刻を――それが、ルーシーから聞かされた歴史の裏側だった。

 

「私の力は、真奈やそちらに居るハッカーと同じ――それに、浮島には私の知り合いも関わっている」

 

「だから調べた――か」

 

コクリと頷き返す真夜に殯は警戒を強めているのを感じ取る。

 

正直、一介のハッカーが辿り着く情報ではないが、ここで自分の有用性を示しておけば、注目は集まる。取り込むか、それとも排除されるか――そこは賭けだった。

 

「それに裏で関わっていたのがセブンスヘブン――その目的は、ある人物に関わるもの」

 

「そこまで知っているのか?」

 

「詳しくは知らない。けど、その人物の名は知っている――『小夜』…それが、浮島の中心にいた人物」

 

「そうだ――そこまでは、サーラットの情報網で調べられた」

 

浮島に潜入していたサーラットのメンバーである鞘総逸樹によって、得ていたデータ――殯はそれを机上に放り投げ、真夜の眼に触れる。

 

端末ボードには、無惨な遺体が撮されており、凄惨さを醸し出している。

 

「君はそれを知った上で、サーラットに加わると――何のために?」

 

真夜が思ったよりも動揺していないことからも、既に知り得ているからであり、尚且つ相当の情報も得ているのだろう。恐らく、巷で騒いでいる誰よりも真実に近く辿り着いている。

 

故に意図が掴めない――普通ならば、好奇心の範疇を超えている。睨むように見る殯に、真夜は眼を閉じ、口を噤む。

 

徐に胸元に手を寄せ、強く握り締める。

 

「友達を――大切な人を、悲しませたくないから………」

 

開いた瞳はどこか憂いを帯び、傍で見守っていた矢薙は思わず息を呑む。

 

とても、十代の少女が見せるような表情ではない――そして、その返答を聞いた殯は、暫し逡巡していたが、やがて姿勢をただす。

 

「いいだろう―――君の加入を歓迎する」

 

その言葉に、室内の張り詰めていた空気が僅かに緩和されたように矢薙もホッと肩の力を抜く。

 

「……感謝します」

 

淡々とした口調で真夜は頭を下げ、殯は矢薙を見やった。

 

「矢薙君、彼女を他のメンバーに紹介してくれ」

 

「分かりました」

 

応じると同時に真夜を促し、隣接する部屋へと向かっていく。

 

「君の端末もすぐに手配しよう――期待している」

 

真夜はそれに一礼し、矢薙の後を追って書斎から出て行った。

 

扉が閉じられると、殯は椅子に深く身を預け、腕を組んで思考に耽る。

 

(知りすぎている――気になるな)

 

徐に引き出しを開け、そこから一枚の新聞を取り出す。

 

一ヶ月前の日付が記載されたその紙面の一面には、臨海部における大規模火災が取り上げられている。

 

それを一瞥すると、殯は懐から携帯を取り出し、ボタンを操作してアドレスよりある人物を呼び出し、通信する。

 

暫しのコールの後、通信が繋がり、口を開いた。

 

「俺だ―――至急、確認したいことがる」

 

それから数分の後、携帯を切り、殯は薄暗い書斎で真夜のことを警戒するように思考を巡らせた。

 

あの少女は、近いうちに障害になるのかもしれない。ならば、今の内に飼い殺しておくべきか――それとも排除すべきか、その天秤を揺らしながら、眼を閉じた。

 

 

 

数分後、真夜はサーラットのメンバーと邂逅し、互いに自己紹介を交わしていた。

 

(後は…小夜が来るまで)

 

サーラットに合流することは元から考えていたことだ。『朱食免』のことまで話さなかったのは、まだそこまで不用意に警戒されるわけにはいかなかったからだ。

 

だが、あそこまで伝えた以上、自分への警戒は強まる。真夜にとってここも敵地であることは変わりない。油断はできない――視線が、傍で佇む真奈に向けられる。

 

真奈はどこかぎこちない笑みで見るも、それが今は酷く傷い。

 

葛藤と張り詰めた中、真夜は独り舞台へと立つ。

 

終わりと始まりの戦いへ――――――



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第肆夜

夢を視ていた―――

 

視界の先に人影がある。人数は二人…いや、実際は見ているよりも『視ている』というような酷くぼやけた感覚だった。

 

思わずその顔を確認しようと眼を凝らす。

 

(真夜――?)

 

片方の人物は自分がよく知っている少女だった。

 

だが、その傍らに立つのは誰なのだろう。背中を向けているため、その顔は分からない。真夜と同じ黒髪が特徴的な同い年ぐらいの少女――見覚えはない。

 

何故知りもしない少女と真夜が一緒にいる光景を見ているのか――いや、そもそも何故自分はこんな光景を見ているのかが分からない。

 

ただ、二人が並んでいる姿が酷く不安を掻き立てる。

 

ああ…これはあの時と同じ――父親が最後に見せた姿と同じものだった。やがて、真夜は傍らの少女と共に背を向け、歩き出す。

 

小さく、遠くなっていく背中に思わず手を伸ばし、叫ぶ。

 

だが、声は出ない――伸ばす手も見えない壁に阻まれているように届かない。

 

その間にも距離は開き、視界がぼやけ、意識が引っ張り上げられる。その感覚に絶叫した――――

 

 

 

 

「っ」

 

ハッと我に返り、周囲の光景が飛び込んでくる。

 

視界に入るのは街並みを歩く人々の姿…子供を連れた親子、楽しげな学生、睦まじいカップル、仕事に急ぐサラリーマン、勤しむ主婦…多くの人々が視界を過ぎり、やがては消えていく。

 

(そうだ、私……)

 

内心、自分が何故ここに居るのか、一瞬分からなくなったが、思考が徐々に落ち着いてきた。

 

柊 真奈は、朝からずっとこの通りを眺めていたのだ――その事実を理解し、真奈は身を包むコートに寄せた。

 

あれから早いもので半年――父親が失踪してからそれだけの日数が経っていた。

 

あの後、実に真奈の環境は目まぐるしく変わった。だが、変わらずに続けているのがこの父親を捜して一日中街を眺めるということだった。

 

父に縁のある場所は元より、人の多い場所に真奈はその姿を追い求めていた。

 

季節は過ぎ、今は寒さが身を刺すような冬だった。朝からここに居たため、身体もすっかり冷え、思わずうたた寝をしてしまったのだ。

 

今一度コートと首に巻くマフラーを着込み、体温を逃さないようにすると、手元の携帯端末を操作する。

 

画面に表示される交流サイトに途切れることなく書き込まれる内容を時折眺めながら、真奈は先程の夢を反芻する。

 

(何だったんだろ、あの夢……?)

 

夢の中で見た親友と見知らぬ誰か――不意に、真奈の頬に冷たい感触が過ぎる。

 

思考を遮る感覚に顔を上げると、陽は落ち、暗い空の上から白い結晶が舞い降りてくる。

 

まるで天使の羽根のように舞い落ちるそれは、再び真奈の手に収まり、その体温に触れて輪郭を失って消えていく。

 

その光景を静かに見詰める真奈の耳に、街頭スピーカーから音声が流れた。

 

《東京都よりお知らせです。東京都では、青少年保護条例に基づき―――》

 

数ヶ月前に施行された条例の連絡と、それに伴い監視員としてタウンガーディアンが街路路に姿を見せ始めた。その姿に人々の間にあった空気が僅かに変わる。

 

だが、それは二分化されている。条例に反する二十歳未満の青少年達は嫌悪感と怖れを抱き、遠巻きにしながら帰路に急ぐ。そして、治安と若者の夜の恐怖に怯えなくなった大人達―――

 

様々な感情が混じる中、真奈も徐に腰を浮かした。

 

真奈もまた対象の年齢のため、急いで戻らねばならない。

 

「帰らなくちゃ」

 

今一度、捜し人の姿を求めて街を振り向くも、それは落胆にしかならない。

 

再び前を向き、真奈は無性に真夜の顔が見たくなった。

 

あんな夢を見た後で、不安が大きくなる。ただでさえ、ここ最近は真夜との間に壁ができたような気さえして、まともに接していないのだ。

 

無意識に足早になる真奈の吐く息は、白く虚空へと霧散していく。

 

 

 

 

刻を同じくして真夜もまた空を見上げていた。

 

(積もる、かな)

 

降り始めて既に数時間――陽が落ちたこともあり、断続的に降り続ける雪はやがてコンクリートや建物に積もっていく。

 

近年まれにみる寒波だというが、人々はまるで気にも留めていない。

 

ただ冷たくなる空気に足早に暖かな場所を求めて移動するだけだ。そんな人波のなかで佇む真夜は、出した掌に舞い落ちる雪の雫を受け止める。

 

だがそれは、すぐに体温に溶けて消えていく。

 

どれ程そうしていたのか、不意に懐から着信を告げるメロディが流れる。

 

間髪入れず、取り出した携帯端末を繋ぎ、耳に当てる。

 

「もしもし」

 

《お、繋がった繋がった》

 

聞こえてきたのは、出会って数ヶ月になる男のものだった。

 

その声色が元の世界で視ていたキャラにそっくりで思わず『姫』と呼んで相手に引かれたのは印象深く残っている。

 

《あんたの言ってた連中、動いてるぜ》

 

男――サーラットの松尾が口にしたのは、彼らが追っている『塔』のことだった。

 

サーラットに加わって真夜は月山や藤村をすぐに驚かせた。真奈直伝のハッキング技術もだが、なにより松尾と組手をして投げ飛ばしたことからも、実働的なこともできると今では組織内で重宝されている。

 

それだけ、殯からは目を付けられてはいるが、それも範疇の内だ。

 

そして、塔の行動を追いながら、真夜は今日という日をひたすら待ち続けた―――そして、見張っていた松尾と藤村が塔の動きを掴んだ。

 

何かを追って実働部隊が慌ただしく動いている。

 

それを聞いたとき、真夜は確信した。十中八九、『古きもの』――真治の脱走だ。最も、彼が乗り込んだ駅なども元の記憶が曖昧なこともあり、真夜もハッキリと日付と場所を把握できずにいた。

 

実際、あの湾岸の施設の炎上によって状況が変わってしまっている以上、どんなイレギュラーが起こるか想像もできない。それだけに、今のところは原作通りに進んでいることに安堵すると同時に、嫌な葛藤が内を穿つ。

 

無意識にもう片方の手に握る力が強まる。片手には、袋に入った刀が握られている。

 

「それで――目標は?」

 

内心の動揺を押し隠しながら問い掛ける。

 

《ああ、ちょっと待ってろ。今フジに…って、おめえまだ食ってやがんのか!》

 

向こう側で怒鳴る松尾に意味不明な声が木霊する。

 

大方、好物のチュッパチャップスを頬張っているのだろう。溜め息をつくと、携帯を受け取ったのか、別の声が聞こえてきた。

 

《はひはひ、すんません、真夜さん。お待たせしました、例の古きものって思しき男達が、地下鉄に入ったそうですよ!》

 

興奮する藤村の声だったが、真夜は聞き逃せない単語が混じっていたことに眉を顰めた。

 

(―――達?)

 

混乱する真夜を他所に藤村の言葉は続いていく。

 

《連中の無線から拾ったんですけど、目標は今、丸ノ内線の淡路町駅内を移動中っす。地下鉄に乗るつもりですかね?》

 

キーを叩きながら地下鉄内の監視カメラの映像を呼び出し、目標の姿を確認する。

 

《こいつら――ですかね? 明らかに目立ってますよ》

 

《確かにな、この寒さでこの格好はねえだろ》

 

生憎と映像を確認できない真夜には分からず、また不確定要素なキーワードに内心苛立ちと焦りが滲み出るのを隠せなかった。

 

「特徴は?」

 

半分問い詰めるような口調で言うと、慌てて返事が返ってくる。

 

《あ、す、すいません! え、と…特徴はコートに病院服みたいな薄手のシャツに半ズボン、それにサンダル姿です。見ればすぐ分かると思います》

 

確かに、言われるまでもなく不自然だろう。

 

「分かった。今、大手町駅の近くに居るから、地下鉄で移動する」

 

この近くを歩いていたのは偶然だった。だが、運が良かったというのか――それとも……不意に聞こえた轟音に真夜は顔を上げた。

 

冬の空に不釣合いなローター音が轟く。並ぶビルよりも高い位置を飛ぶヘリ――だが、鉄褐色剥き出しの機体は、暗闇に溶け込んで不気味な様相を醸し出す。

 

通常の民間で使われているものではない――まるで、軍隊が使用するような威圧感がある。思わず視線が細くなる。

 

一瞥するや否や真夜は駆け出す。

 

丸の内線というオフィス街を走る車輌のため、時間も相まって周囲には帰宅のサラリーマンや学生も多い。

 

そんな人混みの中を駆けながら、真夜は聞き過ごせなかった単語を問い返した。

 

「目標は、一人ではないの?」

 

上擦った、それでいてどこか掠れるように問い返す。

 

《ええ、移動しているのは二人みたいっす》

 

「分かった。後でまたかけ直すから」

 

すぐさま受信を切り、息を切らしながら走る。

 

(どういうこと…やっぱり、もう違いが出てきてるっ)

 

明らかに違いが出てきている。やはり、自分がここにいることが既にイレギュラーなのかもしれない。

 

(けど……っ)

 

だが、ここで挫けるわけにはいかない。

 

やっと今日という日が来た――小夜との邂逅…終わりと始まり――――――それらの最初の分岐点。

 

真夜の戦いは、ここから始まるのだ。

 

駆ける真夜と道路を挟んで反対の路地――すれ違う人々の中でも目立つどこか薄汚れたコートを着込んだ少女…虚ろな眼を彷徨わせる少女が不意に反対側を見やる。

 

駆ける真夜を視界に留め、微かに足を止める。だが、真夜の姿は分け隔てる道路を走る車によって掻き消され、消えてしまった。

 

暫しその軌跡を見ていたが、やがて視線を前へ戻し、歩き出す。降り注ぐ真っ白な視界の中、徐に空を見上げる。

 

「………文人」

 

ポツリと漏らした声は低く、雪の結晶の中へと溶けていく。

 

 

 

 

 

 

降り注ぐ雪が舞う中、犇めくビルのネオンを更に見下ろす場所――その最上部に佇む人影が薄らと笑みを零す。

 

吹き荒む風は髪を強く靡かせる。

 

だが、それに抗うことも耐えることもしない…まるで、受け入れるように両手を虚空へと伸ばす。

 

 

「―――Happy to holy night」

 

 

まるで唄うように囁く声は、風と雪によって掻き消え、まるで運ばれるように消えていった――――――



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第伍夜

小走りで真夜は地下へと続く階段を降りていく。

 

降る雪の影響で、段は濡れ、滑りかねないがそんな事は気にも留めずに降りる様にすれ違う人々は眼を丸くする。

 

ホームに降り立った真夜はICで止まることなくホームに入り、目的の路線へと到着する。

 

《間もなく、2番線に池袋行きが到着します―――》

 

ホーム内に流れるアナウンスに真夜は慌てて最後尾の車輌に飛び乗った。

 

ほどなく動き出す車内の中、タイミングよく携帯端末に受信音が響き、懐から取り出す。

 

画面をなぞると、シスネット・トークのサーラット用に設けられた専用チャットワークに松尾の呟きがアップされていた。

 

【mat_3_jarnal》丸の内線乗ってる人、挙手】

 

なんとも彼らしいアカウントでの呟きに登録されているメンバーから次々と返信が上がってくる。

 

好奇心の強い学生がほとんどだ。情報収集としては、リアルタイムでのやり取りが可能だが、このネットワークも命のやり取りが絡んでいるほど危険なものだとはほとんどの人間は思わないだろう。

 

(ビンゴってとこか)

 

内心、安堵の溜め息をつく。

 

どうやら、くだんの便に乗れたようだ。真夜は徐に車内を移動する。

 

夕方の帰宅ラッシュも相まって、車内は空いているとはいえないが、動けないほど混雑しているわけでもない。人を掻き分けながら真ん中あたりの車輌に入り、移動していると、不意に視界に入った人物に思わず足を止めた。

 

(あの人―――)

 

眼に留まったのは、座席に腰掛けてメイクをしている派手な装いの女性――その姿は、真夜の記憶の中にある。

 

古きものに喰われる女性だ。隣でうたた寝をしている中年のサラリーマンも見覚えがある。

 

刹那、内に大きな息苦しさが襲う。今、眼前にいる人達がこれから死ぬ――そんな未来が待っていることを露も知らず、彼らにとっていつもの日常に過ごす姿は苦しみを誘う。

 

喉が枯れ、鼓動も速くなる。立ち眩みすら起こりそうだが、それを必死に堪え、真夜は眼を背けた。

 

視線を合わせないように落としながら前を過ぎる――残酷かもしれない…非情かもしれない……だが、自分に何ができる―――間もなく化け物に襲われるから気をつけてください…こんな馬鹿なことを言ったところで信じるものはいない。

 

人間は…起こってしまった現実しか見ようとしないのだから――――俯いたまま、真夜は車輌を抜け、次の車輌へと入った。

 

ドアが閉まると同時に葛藤は大きくなるが、振り返ろうとはしない。

 

《間もなく、淡路町駅―淡路町駅――お出口は――》

 

車内に響くアナウンスもどこか遠いものに聞こえてくる。そのままおぼつかない足取りで歩く真夜の耳に、聞き慣れた声が聞こえた。

 

「真夜」

 

ハッと顔を上げると、ドア付近に付けていたイヤフォンを外し、弾んだ面持ちで歩み寄る真奈がいた。

 

電車は淡路町駅に到着し、ドアが開くと同時に人が出入りする。そんな中を抜けながら、眼前まで歩み寄ると、小さく息を吐いた。

 

「よかった、会いたいって思ってたんだ」

 

近くまで寄ると、笑顔で話し掛けるも、真夜は小さく応じるしかできない。

 

サーラットに加わってから、真夜は真奈と距離を置いていた。それは、父親の一件での負い目――そして、これから自分が成そうとすることへの罪悪感からだった。

 

やがて、ドアが閉まり、電車は動き出す。運命の瞬間に向けて―――

 

「それ、傘?」

 

真夜が握る布で包まれた細長い棒のような物に首を傾げる。

 

「な、なんでもないよ」

 

思わずそれを後ろにやり、気を逸らす。

 

「さっき、松尾君からシスネット・トークにあったんだけど…変な人って何だろうね?」

 

メンバーである真奈も当然ながらあの発言を見ている。

 

だが、どう説明すべきなのか――言い淀むなか、視線を逸らす真夜に、真奈は意を決して声を発する。

 

「あ、あのね真夜――」

 

振り絞るように発した声は、奥から響いた悲鳴に掻き消された―――――

 

ハッと振り返る真夜につられるように真奈も奥へと視線を投げる。隣の車輌から人が次々に雪崩込んでくる。口々に「逃げろ」や「助けて」といった悲鳴がまじる。

 

サラリーマンや学生が我先にと佇む他の乗客を押し退けながら走る姿に不審に思った周囲の人々は眼を凝らしてその車輌に眼を向ける。

 

「ね、真夜……」

 

不思議に思い、声を掛けようとしたが、それは寸前で呑み込まれた。

 

前を見据える真夜の視線は、今まで見たことがないほど、鋭く睨んでいる――まるで、その先にいる何かを忌避するように。

 

やがて、人の波が途切れ、事態を呑み込めていなかった真奈を含めた乗客達がその車輌を見た。

 

ドア一枚隔てた先の車輌からは完全に人の気配が消える。その異質な空間の中心に、二つの影が立っている。フード付きのコートの下に薄手のシャツと半ズボンが見える。だが、それは所々擦り切れ、今にも破れそうだ。

 

その下に見える身体は、人のモノとは思えぬ肥大した姿だった。伸びる腕の先を見やった瞬間――誰かが悲鳴を上げた。

 

「っ!!?」

 

真奈も口を両手で押さえ、眼を見開く。

 

獣のように尖った爪で抱えられる球状の物体から零れる紅が床を真っ赤に染めている。

 

アレは何なのか――並ぶ影のま近くの座席には、首のない人の身体が力なく転がっている。周囲の床や壁…天井や窓には、夥しいほどの真っ赤な液体が飛び散っている。

 

いや、他にも人の腕や脚といったものが足元に転がっている。

 

そして―――影の抱える先程から流れる紅を零すものは…ヒトの首だった――――――――

 

それを理解した瞬間、真奈は無意識に視線を逸らした。それは自己防衛本能故の行動だったのだろう――だが、顔を上げた瞬間、それと眼があった。

 

人形のように無機質な瞳と剥き出しになった歯茎とその回りに付着する紅い液体。それに見入られ、真奈は全身が大きくざわめく。

 

誰もがその現実味のない異様な光景に動けないなか、影は持っていた首や手を放り投げ、ゆっくりと歩き出した。その姿は、餌を求める猛獣のようだった。

 

近づく姿に我に返った乗客達は我先にと逃げ出した。少しでも離れようと――動いている車内でそれがどれほどの意味があるのかすら考えずに。

 

ただ『生きたい』という生存本能に突き動かされているに過ぎない。そして、そのために他者を犠牲にすることすら厭わない。押され、転倒する者を踏みつけては離れていく乗客や、誰かを後方に投げやって時間を稼ごうとする者――阿鼻叫喚、地獄絵図とはこのことかもしれない。

 

その光景は、真夜にとっては理解できる部分に見えた。

 

真夜も分かる――自分も何の力もない人間であったなら、逃げていたかもしれない。結局、此の世こそが、本当の地獄かもしれない。

 

真夜は逃げようとはせず、そのまま佇む。だが、真奈は真夜の腕を掴んだまま離さない。

 

ただ眼前の光景に思考が追いついていないのかもしれない。その一方で、真夜自身もまた混乱していた。

 

(小夜がいない……?)

 

そう――本来なら、ここに小夜がいたはずなのだ。

 

だが、小夜の姿はなく…そして、古きものも二体になっている。この差異は、自分がここにいるからなのか―――真夜はガラス越しに相手を見据える。

 

歩く影は二つ――片方は、先頭を歩くのよりも若干細く、また半ば抜け落ちているが、肩まで伸びる毛髪から女性かもしれない。

 

(真治さんなの…!?)

 

この先頭を歩く男は真治なのか――その判別は、既にできないほど容貌が変わっている。

 

この二人もまた、七原文人の実験の犠牲者なのかもしれない。ただ生きたい――それだけでここまで逃げ延びてきたのだろう。苦しさともどかしさ、そして苛立ち哀しみ…言葉にはできないほどの息苦しさが身を張り裂けそうだった。

 

小夜がここにいない以上、真夜しかこの古きものを止めることができる者はいない。決意すると、真夜は真奈の手を解き、怒鳴るように叫んだ。

 

「真奈、下がって!」

 

ビクッと身を竦めて固まる真奈の前で、真夜は布袋から刀を取り出す。

 

鞘を引き抜いて構えた瞬間―――古きものが吼えた。

 

それは、鬼と錯覚するような本能の叫びだった―――刹那、ドアが吹き飛び、その衝撃で車輌内の電球と窓が一瞬の内に砕け散った。

 

包まれる闇のなか、さらにパニックになった乗客に向かって男と女は車輌に駆けるように侵入し、その豪腕を振るう。

 

眼前にいる真夜に向けて薙がれるも、真夜は眼を見開き、刀を振るった。

 

斬り裂かれた腕が舞い、車内に叩きつけられるように落ちる。噴き出す赤黒い血が周囲を染める。真夜にも降り掛かり、視界が一瞬遮られる。

 

「―――っ」

 

微かな動揺があったためか、舌打ちした瞬間、衝撃が襲い掛かった。

 

女の手が男の背後から迫り、真夜の身体を掴むように伸び、堪えきれずに座席の端の支柱に叩きつけられる。

 

アルミの頑強な柱はその衝撃で大きくひしゃげ、背中の痛みに真夜は小さく呻く。

 

こちらを見る女の眼は、赤黒く光り、大きく裂けた口から剥き出しになる歯茎は、肉食獣のように鋭い。

 

こもれる呼吸は荒く、そこに理性はない――逃げようとするが、それより早くもう片方の手が振られ、真夜は反射的に首を下げた。

 

目標を見失った手は荷棚を歪ませ、その隙に真夜は刀を握る手を逆手で振り払った。

 

刃が女の顔を斬り裂き、痛みで悲鳴を上げながらもがくように離れる。片眼を失った女は憤怒に駆られたのか、腕を我武者羅に振り回し、真夜の動きを抑制する。

 

歯噛みするなか、男の方がボタボタと血を流す右腕をだらんとさせながら、呆然と座り込む真奈へと歩み寄る。

 

「っ、真奈!」

 

眼を見開くも、真夜は近づけない。

 

その間に男は真奈に近づき、その顔を間近へと寄せる。

 

掠れた声を漏らしながら視線を向けられる真奈は、眼前に迫るその異形に意識を保つのが限界だった。伸ばされた指の爪が頬を触れた瞬間―――糸が切れたように真奈は意識を手離した。

 

全身から力が抜け、崩れ落ちる真奈に真夜は声を上げる。

 

「真奈!」

 

焦る真夜の前で、男は倒れる真奈の身体に触れる。強引に突破しようとした瞬間、視界に突如光が差し込んだ。

 

電車は神田川の上を過ぎる橋に差し掛かったのだ。暗闇から突如差し込むビルの光に真夜は思わず眼を逸らす。それを逃さす、女は跳び掛かり、真夜は反射的に刀を振り上げて突き出す爪を受け止めるも、相手の突進で身体が反対側のドアに叩きつけられた。

 

衝撃でドアは左右に大きくひしゃげる。苦悶する真夜の前で、男は真奈を抱え上げ、脚でドアを蹴り破った。

 

そのまま走る車内から虚空へと跳び出した。

 

「真奈―――!」

 

真夜の叫びは虚しく、その姿は虚空へと消え、そちらに気を取られてしまった隙を衝かれ、女は再度力を込めて押し込み、重みに堪えきれず、ドアは左右へと離れ、真夜の身体は押し出された。

 

女ごと走る車内から虚空へと投げられた真夜は、重力に絡め取られ、墜ちていった――――――



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第陸夜

陽が完全に落ち、夜の冷たさが降る雪をさらに顕著にしていた。

 

誰もが白い息を吐きながら寒さに耐え、移動する中にあって、その少女は無言のまま歩いていた。

 

学生が好むコインローファーのコートを着込んでいるが、そのコートはどこかくたびれ、また薄汚れていた。コートの下は、セーラー服という傍から見れば寒く見えるものだろう。

 

だが、少女には関係なかった…人間ではないのだから――――――

 

(文人―――)

 

くすんだ、暗い瞳の中に見える微かな灯――"復讐"だけが少女、小夜の目的だった。

 

あの浮島での出来事から、小夜は文人だけを狙って、ここ東京へとやって来た。道中、いろいろなところで騒ぎを起こしながら、なんとか辿り着いたのは、この地に感じ取ったからだ。

 

小夜の狩る『古きもの』の臭いが――そして、その背後には必ず奴がいると信じて…小夜は東京の街を徘徊していた。

 

雪はますます酷くなり、人の姿もまばらになってくる。

 

信号の前で佇む小夜の耳に、獣のような声が木霊し、ハッと眼を上げた。

 

周囲の誰も反応した者はいない――だが、確かに小夜の耳には聞こえだ。幾度となく聞き、そして相対してきた気配。常人には見えない虚空を射抜くかのごとく見る小夜の眼は、狩人そのものだった。

 

ビル群の隙間――一際高く設けられた高層ビルの建築現場に設置されたクレーンの最上部から跳ぶ姿を捉えた。

 

 

 

 

 

―――逃がさない

 

 

 

 

 

内に響く己の声に誘われ、小夜は身を翻してその場より駆けた。

 

突如駆け出した小夜にすれ違う人は何事と驚くも、そんな事に構わず、小夜は獲物が逃げた先へと向かう。

 

小夜が走り去った道路脇に、松尾のミニバンが停められていた。

 

「くそっ、一条の奴全然出やしねえ」

 

大仰に悪態をつき、携帯端末を乱暴に切る。

 

塔の実働部隊がターゲットを追っているという情報を伝え、そのまま問題の路線に乗るという連絡を最後に真夜とのコンタクトは途絶えている。

 

「真夜さん、問題の便に乗ってたんですかね?」

 

藤村も不安な表情を隠せない。

 

真夜は大手町駅からくだんの便に乗った――ターゲットはその次の淡路町駅だ。そして松尾と藤村は次の到着地である御茶ノ水駅へと先回りしてきた。

 

暫く駅出入口を見張っていると、黒塗りの大型バンが急停止し、黒スーツの男達が数人構内へと入っていった。

 

「…塔の連中だ」

 

それは確信的なものだった。

 

「塔が古きものと繋がってるって噂、本当だったんすね!」

 

時を置かずして、構内から切羽詰った客が次々と出てくる。必死の形相で逃げる乗客に周囲の人達は不審そうに見やっている。

 

その原因を知っている二人は逡巡を巡らせていた。

 

「あいつら、派手に動いてやがるな――」

 

駅の周囲にはパトカーや救急車が囲うように到着し、不穏な空気を漂わせている。

 

だが、こうも外で見ているだけでは、何があったか皆目分からない。

 

「行ってみるか」

 

苛立ち混じりに呟く。

 

このままここでいるよりも、野次馬よろしく構内に入ってみるのも手だった。

 

うまくいけば、古きものとやらが拝めるかもしれない。塔の中でもほとんど情報がないものだけに、少しでも掴みたいところだ。

 

「待ってください――」

 

そんな松尾に待ったをかけ、藤村は口内の飴を動かしながら手元の端末を操作し、塔の通信網にハッキングを仕掛ける。

 

やがて、ヘッドフォンから盗聴した無線通話がノイズ混じりに聞こえ、それに神経を集中し、言葉を拾う。

 

「いない!? 逃げたって」

 

「何!?」

 

聞こえた言葉に思わず声を上げ、松尾も顔を寄せて手元を覗き込む。

 

「別部隊が、再補足したって言ってます――!」

 

「どこだ!?」

 

ターゲットは既にこの場から逃走した。

 

慌ててサーチを再開し、松尾はハンドルを切ってミニバンを急発進させた。

 

エンジンを唸らせ、神田川沿いの外堀通りを東京ドーム方面へと一気にスピードを上げて走っていった。

 

 

 

 

墜ちる――――

 

その感覚を肌で感じながら、真夜は神田川の上に身を投げられた。

 

古きものに押し負けて車外へと落とされた格好だが、このままでは川へと落ちる。

 

「っ」

 

空中で体勢を整えながら、真夜は視界に飛び込んだ川に掛かる枝に向けて手を伸ばした。

 

掴んだそれは大きく曲がるものの、真夜の体重と落下スピードを受け止められず、根元から折れた。だが、僅かにでも落下を軽減し、またしなった枝によって軌道が変わり、真夜の身体は川の脇に岸に投げられた。

 

着地できずにそのまま身を打ちつけて転がりながら身を丸める。

 

暫し回ったところで止まり、真夜は苦悶の表情を浮かべる。

 

「たたたた」

 

冬の川にダイブしなかっただけマシだが、それでも全身を強く打ってしまった。

 

ヨロヨロと立ち上がり、顔を上げる。

 

「追わなくちゃ」

 

古きものの一人が真奈を連れ去った。ならば、やはりあの男は真治なのか――だが、小夜があの地下鉄に乗っていなかったことから、真奈の連れて行かれた場所に現われるという可能性も半々だ。

 

最悪、真奈も喰われてしまう――他ならぬ父親に…それだけは絶対に阻止しなければ。

 

痛む身体を奮い立たせ、上がろうとした瞬間――頭上から影が舞い降りた。

 

獣のような咆哮を上げて真っ直ぐに降下してくる真夜と一緒に落ちた古きもの――爪を突きたてて迫る姿にハッと振り返った真夜は、刀を頭上に向けて振り下ろした。

 

刃が煌き、鮮血が夜に舞い、白くなっていた草木を紅く装飾する。

 

爪ごと腕を真っ二つに斬り裂かれ、溢れる自らの血に叫び、悶える女は腕を押さえながらその場から跳躍する。

 

「っ!」

 

人間ではあり得ないほどのジャンプで真夜の頭上を超えて跳ぶ女はそのまま橋を踏み台に離れていく。

 

「しま――っ」

 

完全に理性を失ってしまい、暴走している。

 

あのまま街に入れば、多くの犠牲者が出る――だが、脳裏に真奈のことが過ぎる。

 

踏み止まる真夜の耳に、空気を裂くローター音が響く。ハッと顔を上げると、下部のライトで地上を照らすヘリが見える。

 

ここに留まるのは危険だ。真夜は逡巡を振り払い、女が消えた方角に向かう。

 

河岸を上がり、進入防止のフェンスを蹴って飛び越える。突如現われた真夜に周辺を歩いていた人々が驚きに眼を丸くしているが、そんなものに構っていられない。

 

腰に引っ掛けておいた鞘に刀を戻し、真夜は女の後を追って夜の街を駆けた。

 

 

 

 

男は静かな場所を探し、夜の街を跳んでいた。

 

既に全身は大きく肥大し、もはや完全に人間としての姿をなしていない。それは化物と形容する体躯であった。その能力を本能の赴くままに発揮し、片腕に抱える真奈を掴んだままビルの屋上から跳び、ガラスを蹴って降りていく。

 

突如現われ、亀裂を走らせていく影にビルの人々は眼を見開き、驚愕する。

 

必死に逃げる男の脳裏には、先程の地下鉄での光景が恐怖として刻まれている。

 

自らの片腕を落とした女――あの女から逃れるため…この抱える若い肉を喰いたいという衝動を抑えながら必死に逃げていた。

 

地上間際のビルの屋上に降り立った瞬間、男の背筋がぞわりと震える。

 

それは、獣が持つ本能――狩人に対する恐怖心だった。

 

それに突き動かされ、男は必死にその場から去った。少しでも遠くへと――光のない静かな闇の満ちる場所へと………

 

だが、その姿を小夜は捉えていた。

 

人の気配のほとんどない住宅街の中を駆ける小夜の瞳には、遠くのビルや電柱を伝い、移動する男の姿が映っていた。

 

(奴は―――?)

 

追う相手は間違いなく古きもの――だが、気配が違った。

 

今まで相対してきたものとは違う何かが混じったような異質なもの…それが何なのか、小夜には分からない。

 

その疑念を内に抑える。今は古きものを追うことが先決だった。それは永い生の中で根付いた執念に近いのかもしれない。

 

影はそのまま木々の茂る住宅街には不似合いな公園の中へと消えていく。

 

小夜は刀を包んでいた布を払い捨て、鞘を左手に構えてさらにスピードを上げた。

 

男がたどり着いたのは、後楽園駅の裏手にある礫川公園と呼ばれる小さな霊園だった。コンクリートの堀に囲まれた東京都戦没者霊苑。

 

薄らと白く覆われたそのコンクリートの広場に男は降り立ち、抱えていた真奈を横たえる。拍子にかけていた眼鏡が顔から落ちる。

 

男は荒い呼吸を繰り返しながら真奈の顔を覗き見る。

 

喰いたい―――その衝動をもはや抑えることはできなかった。口が大きく裂け、その牙のような歯が触れようとした瞬間、男は突如苦しみだした。

 

掠れた声を漏らし、片腕で頭を押さえてよろめきながら後退する。

 

鋭いメスで頭の中を抉られるような激痛が全身を襲い、もがき苦しむ。数メートル離れた場所で蹲り、這うように身体を逸らし、苦痛から逃れるように全身をコンクリートに擦らせる。

 

その声に気絶していた真奈は微かに意識を取り戻す。薄らと眼を開き、小さな口から白い息が漏れる。

 

落ちている眼鏡のレンズ越しに誰かがいるのが見えるも、未だ焦点は合わず、夢心地だった。

 

その間にも男の苦痛は続く――そこへ、男の命を狩る狩人が現われた。

 

鉄製の門を超え、階段を駆け上がりながら進む小夜の眼前に高く聳えるコンクリートの壁――だが、そんなものは小夜には何の意味もない。

 

スピードを上げて壁の前で大きく大地を蹴って跳躍する。

 

高く舞い上がる小夜の眼下に、獲物の姿を捉える――刹那、小夜の瞳が紅く染まり、右手に刀を抜いた。

 

 

 

―――還れ…在るべきところに

 

 

 

小夜の赤い唇から言葉が零れた。

 

落下スピードと合わせて急降下してくる小夜は両手で構える刀を顔を上げた男の頭頂目掛けて白刃を振り下ろした。

 

頭頂から顎までを貫かれた男はそのままコンクリートの床へと叩きつけられた。

 

既に痛覚すらまともに機能していたのかも分からないほどだったが、それは命を一瞬にして奪うには充分だった。

 

貫通した刀はコンクリートの床で先端が砕け散った。

 

倒れ伏す男から噴き出す鮮血が薄らと積もった雪の白に真っ赤なまばら模様の血化粧を施す。

 

飛び散った血は小夜にも掛かるも、そのまま絶命した男の死体から刀を抜き、ゆっくりと立ち上がる。

 

もはや使い物にならなくなった刀を無造作に捨てる。

 

小さな金属音を響かせ、転がる柄に雪が降り注ぐ。その音で真奈は意識を完全に取り戻した。

 

ぼやけた視界の中に佇む人影――一瞬、あの男かと思ったが、背格好が違いすぎた。

 

手探りで眼鏡を探し、すぐ傍に落ちていたそれを拾い上げると、かけ直す。明瞭になる視界に、横たわるものが飛び込んでくる。

 

それは、自分を襲ったあの男だった――だが、その死に顔を隠すように小夜は着込んでいたコートを脱ぎ、返り血で真っ赤になったそれを男に向けてふわりと被せた。

 

雪がちらつく漆黒の世界で静かに見下ろす小夜の瞳には、深い哀しみが漂っているように感じられた。

 

「貴方は…誰なの―――?」

 

身を起こしながら囁く真奈に小夜が顔を上げた瞬間――甲高い声が響いた。

 

ハッと顔を上げると、空中から降下してくる男と似通った容貌を持つ化け物――小夜が歯噛みし、振り返った瞬間…その前に割り込むように影が飛び込んだ。

 

煌く白刃が、降下してきた化け物の首を胴体から斬り離した。

 

刹那、胴体から噴水のように噴き出す鮮血が周囲に拡散する。雨のように降り注ぐ血が小夜だけでなく、小夜を守るように現われた人物にも降り注ぐ。

 

舞い上がっていた黒髪がふわりと落ちると同時に、首を喪った身体はその場に崩れ落ちた。

 

小夜が眼を見開くなか、眼前の少女が構えをとき、右手に握る刀を下へと下ろす。間近で浴びたため、自分だけでなく相手も僅かに血に濡れている。

 

やがて、少女がゆっくりと小夜と…真奈に向けて振り返る。

 

「ま、や……―――」

 

血まみれの姿で振り向いた親友に、真奈は掠れた声を漏らす。

 

真夜は静かに小夜を見据え、小夜もまた真夜を見つめている―――小夜の瞳には驚きと警戒が漂い、真夜の瞳には哀しみと微かな怒りが漂う。

 

微風が髪を揺らし、小夜の真紅の瞳と真夜の漆黒の瞳が絡み合う。

 

向かい合いながら対峙する二人に真奈が呆然となるなか、突然激しい風音が耳に木霊し、同時に眩しい光が周囲を照らす。思わず顔を上げると、上空を一機のヘリが航行し、サーチライトで地上を照らしている。

 

光に晒され、化け物の死体の上に佇む二人の輪郭を浮かび上がらせ、表情が陰に覆われる。

 

だが、そんな周囲など気にも留めず、真夜と小夜は互いを凝視していた。

 

 

 

 

 

運命は、二人の少女を邂逅させた――――――



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第漆夜

激しい風が突風となり、雪を粉にして舞い上がらせる。

 

低空飛行するヘリコプターから降り注ぐサーチライトの中、真夜は対峙する小夜を見詰め、その視線が彼女の足下へと向けられる。

 

コートに隠されたそれは、自分が見た古きものにされた人間の片割れ――真治かもしれない男の成れの果てだった。

 

その現実に唇を噛み、握る力が強く震える。

 

その様子に当の小夜は不審な眼を向け、口を開こうとした瞬間、不意に素っ頓狂な声が響いた。

 

「うわぁぁっ、し、しししし死体っ死体!」

 

尻餅をつく藤村は、そこに横たわる死体に慄き、声が裏返る。

 

傍らの松尾も驚きを隠せずにいる。

 

いや、古きものの遺骸もだが、それより眼を引いたのは、その傍らで佇む小夜と真夜にだ。

 

「一条? それに、あんた―――誰だ?」

 

傍らに立つ片方は自分も知っている少女だ。だが、紅く濡れて佇むその姿は、いつもの彼女ではなく、まるで遠い世界の存在のように見える。

 

松尾の声が聞こえたのか、それまで俯いていた真夜がハッと顔を上げる。

 

ゆっくりと振り向く真夜はいつもの彼女だ。だが、その瞳は今の自分の状況に些かも動揺していない――まるで、こうなるとあらかじめ決意していたような強さを宿している。

 

こちらに気づいた真夜に再度声を掛けようとした松尾の耳に、弱々しく呟く声が届く。

 

「松尾、くん? 藤村くんも……」

 

振り返ると、照らされた輪の外側に身を起こす人影があり、それが真奈だと気づき、さらに戸惑う。

 

「柊? なんでお前もここに――!」

 

慌てて駆け寄る松尾とは対照的に藤村は取り出した端末のカメラで横たわる遺骸に向けてシャッターを切った。

 

眩いフラッシュの光がその非現実的な光景を収め、低空飛行で微かに捲れた遺骸の死に顔を見せ、またも引き攣った声を漏らす。

 

「これが……古きもの」

 

思わず漏れたその呟きに煩げにヘリを見上げていた小夜はピクリと反応した。

 

だが、それより早く松尾が叫んだ。、

 

「馬鹿野郎! 早く逃げるぞ!」

 

真奈を引き起こし、よろめく身体を支えながら出口に向かっていく。

 

あのヘリが塔のものであることは明白であり、ここで自分達の顔が見られてしまったら、厄介なことになる。

 

藤村はさらに近づことしたところで踏み止まり、踵を返す。

 

「一条! お前も早く来い!」

 

階段を降りていく松尾の眼に反対側の春日通りの方から何台もの黒塗りの車が止まり、幾人もの人影が降りてくるのが見えた。

 

それが警察といったものではないことは明らかだ。

 

「連中もう来やがった! 柊、フジ、一条、逃げるぞ!」

 

「待ってくださいよ!」

 

慌てて後を追ってくる藤村に対し、真奈は未だ動かずにいる真夜と小夜を見やる。

 

だが、身体は松尾に引っ張られ、気持ちとは反対に連れられていく。

 

離れていく真奈達を見送り、真夜は意識を覚醒させる。耳にはこちらへと近づく足音が聞こえてくる。正直、九頭や凛以外ならどうにかできるが、この時ばかりは逃げる方が先だった。

 

刀を鞘へと収め、すぐさま小夜の腕を取る。

 

微かに息を呑む小夜に対して気遣うでもなく腕を引き、真夜は走る。今はただ―――彼女と共に逃げるために、松尾のミニバンが止めているであろう場所に向けて。

 

一度、上空を飛ぶヘリを見やった。こちらを射抜くようにサーチライトを晒す様子に、嫌なものを感じ、走るスピードを上げた。

 

 

 

眼下の惨状は、ヘリに内蔵された暗視カメラによって正確に撮られていた。

 

二人乗りのヘリのコックピットには、重装備をしたパイロットがヘルメットに備わったゴーグルに送られてくる映像を捉え、ズームする。

 

計器類の中に備えられたモニターには、眼下の状況が拡大される。

 

そこに横たわる二つのモノに、照準が合わさる。コートに覆い隠された男と首を落とされた女、傍らに転がる首と切り離された胴体から夥しい血が雪に飛び散り、斑模様の血化粧を施している。

 

「対象の損壊を確認しました」

 

「見れば分かるよ」

 

パイロットの呟きにもう片方のサブシートに座る人物が面倒臭そうに返した。

 

肌を一切覆い隠したパイロットと違い、こちらはこの設備が充実した機密ヘリには不釣合いな白のセーターに赤いコートを羽織った少女だった。

 

「ちゃっちゃっと回収させて。地下鉄と同じく痕跡を残さず、ね」

 

投げやりな口調でニコリと笑う少女にパイロットは背筋がぞわっとおぞける。

 

「りょ、了解。回収班、目標の回収を急げ」

 

上擦った口調で指示するパイロットを横に、少女の視線はモニターに映る二人の少女に向けられていた。

 

白と紅の空間に佇む真夜ともう一人――兄が持っていた資料で読んだ、あれが古きものを喰らう鬼―――

 

「小夜、だったっけ……フーン、文人様が執着するわけだ」

 

納得したように肩を竦め、注意が横の真夜に逸れる。

 

「でも、ボクの意中は――よく、惨劇の場には血の雨が降るっていうけど、君は本当に血の雨を降らすんだね……」

 

見惚れながらくつくつと笑う。

 

「凛様、目撃者二名は、いかがいたしましょう?」

 

「回収部隊から適当に振り分けて。もうすぐ地下鉄のチームも来るでしょ」

 

「はっ」

 

パイロットが作業を進める中、少女――凛はモニターの映像の中で小夜の手を引いて走っていく真夜を見つめる。

 

(ここまで来た甲斐があったね――ますます君が気に入ったよ、真夜ちゃん)

 

血に濡れる真夜の姿に、凛は身体が熱く火照り、顔を上気させる。

 

それは、恋人との逢瀬を想う乙女のようだった。

 

 

 

 

松尾達がバンに向かう中、その視界に眩いサーチライトが映る。

 

公園の正面入口――ゲートで隔てられた先に何台もの黒塗りのワゴンが横付けされ、そこから幾人もの気配が出てくる。ゲートを突破してくるのも時間の問題だ。

 

「急げっ」

 

抱える真奈を気遣う余裕もなく、藤村もひたすら逃げる。

 

反対側の国道沿いに止めてあった愛車まで辿り着く。松尾はすぐさま運転席に乗り込み、藤村も助手席に飛び込む。

 

「乗ったか?」

 

後部座席には、真奈の姿がある。あとは真夜が来るのをまつだけ――後ろを振り返った瞬間、反対側のドアが開き、あの少女が押し込まれるように席に着いた。

 

その後から真夜が入り、ドアを閉めた。

 

「ええ? な、何ですか?」

 

「一条、お前っなんでそいつを――」

 

訳が分からずに戸惑う二人に真夜は低く言い放った。

 

「出して! 早く!」

 

有無を言わせない威圧感を纏い、その気配に呑まれる。

 

「奴らに追いつかれる――」

 

押し込まれたことに対して何の感慨もない声色で、少女――小夜が紡ぎ、ハッと我に返った松尾が霊苑を見ると、車を降りた男達がこちらを指差しながら駆け寄ってくるのが映る。

 

同時に、上空からヘリのサーチライトに照らされる。このままでは補足されてしまう。

 

「くそっ」

 

悪態を衝き、反射的にギアを入れ、エンジンを噴かす。

 

「柊、一条、シートベルト閉めとけ! あんたもだ! 飛ばすぞっ」

 

やや引き攣った声で松尾はアクセルを踏み、ミニバンは急スピードで歩道を後退し、一気に春日通りの国道に躍り出る。

 

夜の春日通りは交通量が多く、普段は徐行しなければならないが、そんな余裕はない。突如国道に割り込んだミニバンに走っていたトラックが急ブレーキをかけ、クラクションを鳴らす。

 

だが、今の松尾にはそんな些事を気に掛ける余裕はない。国道に出るや否や、ギアを戻し、ハンドルを切ってアクセルを全力で噴かした。

 

「このまま街中を走って、下手に裏道に入ると危ないから」

 

「分かってるよっ」

 

背中越しに指示する真夜に、ヤケクソ気味に怒鳴り返す。

 

言われるまでもなく百も承知だ。口は悪いが、自身の信念と仲間への篤さでは譲れない松尾は、塔に捕まるつもりはない。

 

無意識にアクセルを踏む力が強くなり、ミニバンはスピードを上げていく。

 

それを追ってヘリが上空より追跡し、サーチライトの光がミニバンを捉える。周囲を走るドライバー達は何事と怪訝そうに減速する。

 

だが、松尾達は止まるわけにもスピードを落とすわけにもいかない。

 

車線変更を繰り返しながら撹乱しようとするも、上空を飛ぶヘリとでは些か分が悪い。ビルやマンションが密集している都市部だからこそ、思い切った低空飛行などはしてこないと思いたいが、そういった常識の物差しで図れないのが『塔』なのだ。

 

執拗に照らすライトにガラスに顔を張り付かせて見上げる藤村はライトに顔を照らされ、慌てて引っ込める。

 

「全然離れませんよ!」

 

「うるせえっ」

 

「藤君!」

 

「後ろからも来る」

 

その言葉にミラーを見ると、迫るように追いかけてくる黒いワゴン車が数台――そのスピードが段違いだ。

 

「奴らかよっ」

 

苛立ち混じりに歯噛みする。

 

「フジ、道案内は任せたっ」

 

「は、はいっ」

 

慌てて膝上のノートパソコンを開き、ネットワークを開きながらヘッドセットのマイクに叫ぶ。

 

「本部! サーラット! こちら藤村、ヘリに…塔に追われてます! 助けて、矢薙さん!」

 

情けない声で慌てふためく藤村の耳に、スピーカーから冷静な声が返ってきた。

 

《落ち着きなさい、藤村君》

 

サーラット本部に居る矢薙の声だ。

 

その声に僅かに落ち着いたのか、全神経をスピーカーに集中する。

 

《ルートは、一分以内に指示します。その間に、貴方が現場で取得した古きものの記録を、本部に転送してください》

 

「わ、分かりました!」

 

具体的な指示が出され、落ち着きを取り戻した藤村は急ぎ取得した映像を転送する。

 

少しは活路が開けたかと思ったものの、執拗に追跡してくるサーチライトと、後方から迫るワゴン車――都心部では稀に見る大雪により、路面が僅かに凍結し、雪に慣れていない都会の車がスローペースで車間を空けて走行している間隙を縫い、松尾のミニバンはスタッドレスタイヤのおかげで凍結する路面をしっかりと掴み、小回りを活かして車の間をすり抜けていく。

 

松尾のハンドル捌きには脱帽ものだが、ワゴン車は周りの車をぶつけ、強引に割り込んで追いかけてくる。

 

「まだか!」

 

一分という時間をこれほど長く感じたのは初めてかもしれない。

 

苛立たしげに歯噛みする松尾の横で、藤村も今か今かと待ち侘びるなか、データが転送されてきた。

 

「来ました!」

 

顔を輝かせ、忙しなくキーを叩き、本部から転送されてきたルートがナビにも転送され、奇妙なマスコットが矢印を持ってルートを表示する。

 

「この先の信号を右です!」

 

「よしっ」

 

瞬時にハンドルを切り、松尾は右折車線に入り、すぐさま曲がろうとするも、そこは信号のない曲がり車線で、絶えることなく車の流れができており、そこへ強引に割り込んだ。

 

ミニバンが交差点に猛スピードで進入し、対向車線を走る車が一斉にクラクションを鳴らし、迫る車に松尾はブレーキとハンドルを切る。

 

「ここ違いますぅ!」

 

「うるせぇ!」

 

悲鳴を上げる藤村に松尾は怒鳴る。

 

「きゃあ!」

 

回転する車体の遠心力に飛ばされそうになる。激しく揺すられる身体を必死に堪え、ミニバンはなんとか車線をかわし、脇道に入った。

 

だが、このスピンと混乱でヘリは一瞬であるが目標を見失い、サーチライトの照射は外れた。

 

そのまま直進するミニバンの前方に眩いライトが入り、中型トラックの影が映る。

 

「左へ!」

 

眼を見開く松尾の背後から真夜の鋭い声が響き、反射的にハンドルを切り、ミニバンはトラックと擦れ擦れでかわしたものの、右側のドアミラーが相手の車体に吹き飛ばされ、無残に後方に落ちた。

 

だが、なんとか正面衝突は避けられたことにしばし呆然となっていた松尾と藤村の思考がようやく動き出す。

 

「ルート、外れてます……」

 

眼鏡をずり落ちさせながら、掠れた声で呟くと、松尾は大仰に返す。

 

「仕方ねえだろっ」

 

「戻します!」

 

急ぎルートを再検索しようとした瞬間、後方から眩いハイビームが照射され、身を強張らせる。

 

「藤くん」

 

「う、うわぁ、きたぁ」

 

数台の黒いワゴンが猛スピードで迫る。

 

直進距離での最高速度は段違いで、ますます距離が詰められる。

 

「くそっ、ダメか――!」

 

さしもの松尾のテクを持ってしても性能差まではカバーできない。

 

「ああ、矢薙さーん!」

 

頭を抱えて叫ぶ藤村の声に矢薙の冷静な声がスピーカーを通して響いた。

 

《そのままよ。もっとスピードを出して》

 

進行方向には大通りがあり、交差点の直進信号は赤を表示している。さらにスピードを出せば、間違いなく無事では済まない。

 

「どうなっても知らねえぞっ」

 

だが、後方から追われる以上、今は信じるしかなかった。

 

指示に従い、松尾はさらにアクセルを踏み込み、ミニバンは最高速度に達する。

 

エンジンが限界を超えるように唸り、急加速でGが身体を圧迫するなか、猛烈な勢いで交差点に突入する。

 

眼前に迫る光景に藤村は悲鳴を上げ、真奈は思わず眼を閉じて身を低くする。だが、真夜と小夜は冷静に見つめていた。

 

刹那――信号は青に変わった。

 

前振りもなく急に変わった信号に交差点を走っていた車は混乱し、一斉に急ブレーキをかける。だが、そのおかげで僅かな隙間ができ、その間隙を縫って、ミニバンは交差点を一気に駆け抜けた。

 

交差点を抜けた先は緩やかな坂となっており、スピードにのっていたミニバンは空中に浮き、大きな衝撃とともに着地した。

 

松尾のミニバンが交差点を横切ったと同時に本部で動きを把握していた矢薙と月山は、交差点の信号を切り替えた。

 

複数のネットワークを操るマルチタスクを駆使し、交通システムを掌握した月山は、信号を戻し、再び青く点灯した信号に従って車が一斉に動き出す。

 

僅かに遅れて交差点に進入した塔のワゴンは強引に突破しようとしたが、眼前に現われた大型トラックを避け切れず、荷台に衝突し、僚車もまた後方から次々と激突し、交差点は多重事故で止まる。

 

それを見ていたように月山は交差点周辺の半径数キロに渡って電力網をカットした。

 

刹那、事故現場を中心に周辺の光が落ち、停電となる。

 

暗く染まり、パニックになるなか、上空でワゴンを誘導していたヘリは目標を見失い、空中を旋回する。

 

「凛様、これは……?」

 

「引き揚げ」

 

困惑するパイロットに凛は素っ気無く告げた。

 

「これ以上は無意味だよ。速やかに引き揚げ――元々は、脱走した被験体の回収」

 

当初の目的は既に達した。

 

もう興味はないとばかりに凛は身体をシートに預け、身を沈める。

 

信号の切り替えと撹乱、それに停電――正直、ここまでしてくるとは思っていなかった。

 

だが、逃したところで構わない――どうせ、行き先は分かっているのだから………もっとも、帰ればこの事を兄に報告しなければならない。

 

それが面倒だな、と――凛は小さく欠伸を噛み殺した。




お待たせしました。
今回は本編のカーチェイスです。


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第捌夜

背後でクラクションやサイレンが鳴っている。

 

走る道路が完全な暗闇に包まれていることに、松尾と藤村はどこか釈然としない面持ちだった。

 

「月ちゃんね」

 

その周囲の様子を一瞥し、そう漏らした真夜に二人は納得したように肩の力を抜いた。

 

月山がうまく撹乱してくれたおかげで、もう後方からのハイビームは見えない。

 

「フジ、追跡は?」

 

念には念を――確認すると、ヘッドセットで相手の回線に盗聴する。

 

「……えっと、ないみたいです。撤退すると指示が出ているみたいで――」

 

歯切れが悪いものの、上空から追いかけてくる気配もない。完全に追跡を振り切ったことで、どうにか一息がつけたのか、車内に緊張の糸が緩む。

 

「このまま逃げるぜ」

 

闇に紛れて、念のためにこのまま住宅内を動き回り、車は一路大通りに戻った。

 

先程までのカーチェイスの緊迫した空気はなく、穏やかに帰宅の路につく車の中に混じり、どうにか真奈もほっとした面持ちで息を吐いた。

 

端に座る真夜も、緊張の糸が緩んだのか、小さく息を吐いた。そんな真夜を小夜はどこか警戒するように見つめている。

 

トンネルに入ったミニバンの車内に、坑内の灯りが差し込み、オレンジ色に彩られる。少し先で事故があったのか、道は渋滞しているが、松尾は疲れとどこか憂鬱気にため息をついた。

 

塔を振り切ったことは、今までの活動の中でも大金星であろうが、その代償として愛車はボロボロだ。修理やその後を考えると気が重くなる。

 

「俺の車、ボロボロになっちまった……」

 

「名誉の傷じゃないですか」

 

軽く受け答えながら、藤村も一息つこうとチュッパチャプスに手を伸ばす。

 

そんな中、真奈は隣に座る少女を見た。

 

セーラー服の下から見える肌は雪のように白く、そして冷たげだ。所々に朱い斑点が服だけでなく、肌にも付着している。

 

それは、霊苑で見た怪物の返り血なのだろうか。

 

その少女は、先程から端に座る真夜を睨むように見ている。

 

不意に、真奈はネットで噂になっている『ウキシマ伝説の少女』を思い出した。

 

浮島という街で住人すべてを喰らったや、斬り殺したなど――物騒な内容ばかりが過ぎる。ネットの話では、本当の怪物のような人相まで描かれていた。

 

だが、この少女は、そんな人相とは似てもにつかない。人形のように完成された『美』を持っている。

 

(それに――)

 

その視線を追って、真夜を見る。彼女もまた、同じように朱く汚れていた。顔にも飛び散った血が、不思議と彼女に似合っている。

 

この二人は、どこか雰囲気が似ている。

 

「あ、あの真夜――血が……」

 

いつまでも黙り込んでいる空気に耐え切れなくなったのか、真奈は真夜の顔に付着した血を拭おうとハンカチを手に腕を伸ばすも、真夜はそれをやんわりと制した。

 

「真奈、あまり触れない方がいい。これは、古きものの血だから」

 

ハンカチを取り、自らその汚れを拭う。

 

その意図を図りかねるなか、小夜の視線が一気に鋭さを増す。

 

「何故、古きものを知っている」

 

睨む視線に微かな殺気が混じり、向けられてはいなくても真奈はビクッと身を震わせ、運転していた松尾や藤村も息を呑む。

 

「――生憎だけど、私は貴方の探し人がどこにいるかは知らない」

 

だが、真夜はそれを受け流し、ジッと小夜を見据える。

 

その言葉に小夜は動揺し、息を呑む。

 

「知っているのかっ」

 

次の瞬間、小夜は眼に見えて顔を険しくし、やや語尾を荒げながら掴み掛かるように手を伸ばし、掴まれた肩ごと真夜は扉へと押し付けられる。

 

「真夜っ」

 

「おいっ、何やってんだっ」

 

その様子に真奈は動揺し、松尾も些か慌てる。

 

「文人は…どこだ――っ」

 

だが、そんな制止など聞こえず、小夜は真夜を睨んだまま、低く問い掛ける。その視線に晒され、握られた肩に込められる力が強く響く。

 

事の顛末を知っているだけに、真夜はそれ程の感情を滾らせる小夜の瞳の奥に、言い知れぬ負の感情を感じ取り、気圧されそうになる。

 

だが、それを奮い立たせ、ゆっくりと手を伸ばし、小夜の顔に付いた血を拭った。

 

「っ?」

 

その行動に小夜は微かに眉を顰める。

 

そんな小夜に真夜は精一杯、笑い掛けた。

 

「女の子は、そんなに血を付けてちゃいけないから」

 

ぎこちないながらもそう話し掛け、毒気を抜かれたのか、握っていた力が弱まる。

 

やがて、手を離し、そのまま気まずげに視線を逸らす。緊張感が弱まったためか、車内の空気が僅かに緩和される。

 

改めて、真奈は小夜を見詰める。どこか畏れるような様子だが、あの男から自分を助けてくれたのは、この少女なのだ。

 

そう思うと、その感情も徐々に薄れていく。

 

顔に付着した血を拭き取ったものの、セーラー服の襟元は依然血で汚れている。

 

「ねぇ……あの人、死んじゃったの?」

 

絞り出すように問い掛ける。

 

だが、小夜は応えない。ちらちらと横眼で様子を窺うも、表情はずっと寂しげなまま――不意に視線を上げると、そこにはどこか辛そうに唇を噛む真夜の顔があり、真奈は息を呑む。

 

「真夜――どうかした?」

 

「……なんでもないよ」

 

そう言って視線を逸らす。

 

何故、そんな顔を浮かべるのか――真奈には分からず、胸中が不安にざわめく。

 

「おい、一条――あそこで…いや、地下鉄で何があった? あの化け物みたいな奴らが、例の――」

 

そんな真奈の不安を横に、松尾が背中越しに問い掛けてくる。

 

「地下鉄で騒ぎを起こしたのが、あそこで死んだもの――塔の古きもの……」

 

そう呟いた瞬間、息を呑む音が響く。

 

「あれが、そうだったんですね――」

 

「なら、あの化け物はなんで死んでたんだ?」

 

詳細を聞き、疑問が頭を擡げる。

 

真夜の説明や塔から拾った情報では、あの古きものと呼ばれるものは、人間では敵わない相手だ。

 

顔を上げた松尾の視線が無造作に顔を上げた小夜とかち合った。

 

「――私が殺したからだ」

 

別に問い掛けたつもりではなかったのだが、そう応えた。

 

「正確には、一体は私が――だけど」

 

「うえええっ!?」

 

被せるように紡いだ真夜に、藤村は驚愕に眼を見開き、松尾も衝撃にハンドルを切りそうになった。

 

真奈は声を上げはしなかったものの、驚きに眼を見張っている。

 

「え、お――マジかよ」

 

ニット帽が僅かにずり落ちながら、呂律の回らない上擦った声で問うと、静かに頷いた。

 

実際に投げ飛ばされたこともあるので、確かに腕っぷしはあると思っていたものの、まさか古きものを相手にすることもできるのは、予想外だった。

 

だが、あの場で死んでいた以上、状況から考えても他に思い当たる理由もない。

 

あの古きものと呼ぶ怪物は、警察でも相手にできないほどと言われているからだ。真夜はどこか自嘲気味に肩にかけていた愛刀を鳴らす。

 

暫し車内の空気が静寂に包まれるなか、松尾は小さく嘆息してから小夜を見やった。

 

「――で…あんた、何者なんだ?」

 

なし崩し的になったものの、自分達はこの少女の名すら知らないのだ。だが、小夜は応えようとしない。その時――スピーカーから別の声が車内に響いた。

 

《更衣小夜》

 

その名に、小夜は初めて動揺したように表情を変化させた。

 

《七原文人を、討ちたくはないか?》

 

続けて告げられた内容に、小夜は息を呑み、ここには居ない誰かを求めるように表情が変わる。

 

「文人……!」

 

噛み殺すように囁く名――無意識の内に強張る小夜の瞳が、紅く染まるのを、真奈は見逃さなかった。

 

だが、そこに浮かんでいるのは、霊苑で見た古きものに向けたものではなく、純粋な怒りの感情だった。

 

「これ、殯さんだよな?」

 

「ええ」

 

直接連絡してくるなど珍しい。どこか呆気に取られている中、スピーカーの向こうで、殯は言葉を続けた。

 

《小夜、君を招待する。詳しくはその時に》

 

それを最後に殯の声は途切れ、一行は小夜の動向を窺うように見やるも、当の小夜は先程までの表情を隠し、黙り込んだ。殯にしろ、小夜にしろ何を考えているのかは分からないが、とにかく一度本部に戻らねばならない。

 

トンネルを抜け、渋滞が緩和されるなか、ミニバンは少しずつスピードを上げていく。

 

窓に映る東京の街並みをミラー越しに見据えながら、小夜は口を開き、無意識に呟く。

 

 

「……勝者には褒美を。敗者には、罰を――」

 

 

静かに呟くその言葉は何を指しているのか――真夜は無言で小夜の手を握り締めた。

 

その仕草に小夜は怪訝そうになるも、真夜は俯いたまま、視線を合わせなかった。

 

 

(罰は――誰に与えられるんだろう……)

 

 

最初の幕は終わり、休むことなく次の幕は上がる。

 

 

 

 

 

 

東京の街が見下ろせる超高層ビル。

 

高さは天まで届くかと思うような壮健さを誇る。その最上階の一室――執務室の外壁に備わったテラスの手すりに両腕を預け、舞い落ちる雪を眺めている。

 

舞い降りる雪の向こう――遥か眼下には、無数のビル群が立ち並び、色とりどりのネオンが煌びやかに夜の世界に輝く。

 

「いや~何度見ても絶景だね~~」

 

その光景にうっとりとしながら、凛は手を伸ばし、翳す手のひらに舞い落ちる雪の結晶を受け止めるも、それはすぐに溶けて消える。

 

「これを好きな人と見れたら最高なんだけどね」

 

やや嘆息しながら、肩を竦める。

 

その仕草は、歳相応の少女のそれ――だが、その心持ちを図りかね、ずっと眺めている優花は落ち着かなかった。

 

優花が凛と会ったのは、あの浮島から戻って間もなく――どうにか、あの惨状を目の当たりにした衝撃から落ち着きを取り戻した頃に、彼女は邂逅一番、「コスプレの秘書さん、高校生は楽しかった?」と、無垢な笑顔で尋ねてきた。

 

おまけに、浮島で撮った写真まで突きつけて――それが、僅かな羞恥と嘔吐感を引き起こし、再び身体を壊した。

 

それから、彼女に対して苦手意識を持つようになり、できる限り、眼を合わさないようにしている。

 

だが、その掴みどころのない無邪気さが素なのか――それとも…この少女も、眼前の主のように裏の顔を持っているのか――優花の視線が動き、手前の執務机に座る主――セブンスヘブンの総帥、七原文人を見やった。

 

当人は、先程から興味深げに凛から渡された写真を眺めている。

 

数枚の写真を交互に見ており、そこには、あの霊苑での一部始終が写っており、僅かに見えたものに優花は息を呑んだ。

 

そこに写っていたのは、あの浮島で自分を偽って接していた小夜だった。主人公の相談役という役回りで、演じるなか、自ら裏切った相手――あの浮島で死んだとばかりに思っていたが、彼女は生きてこの地へとやって来た。

 

その目的が何なのか――嫌でも察しがつく。

 

「どうしたんだい、優花くん?」

 

内心の動揺を察したのか、写真を眺めていた文人が徐に見やり、心臓が大きく脈打つ。

 

向けられる視線はひどく穏やかで、まるで聖人のように思えるが、その奥に潜む冷酷さを知るが故、心臓を鷲掴みされたような感覚を憶える。

 

「いえ、なんでも…ありません」

 

必死に動揺を押し殺しながら、抑揚のない声で被りを振る。

 

それに対して追求することなく、文人の視線は再び写真に向けられる。

 

視線が外れたことに安堵するのも束の間、優花の横に立っていた大柄のスーツ姿の男――九頭が低く声を発した。

 

「凛――これはどういうことだ?」

 

施設より脱走した被験体の追跡を指揮していた凛が戻り、事後報告を受けてから、九頭の妹に対する対応は固いものだった。

 

対象の損壊と回収、そして現場の処理に情報規制――これはいい。だが、目撃者を見逃してしまった。塔に失敗は赦されない。当然ながら、任務に失敗した実働部隊は、既に処分した。

 

たとえ…逃亡先が分かっているとしても―――だ。

 

睨む先――妹に対して疑心を込めた声を発するも、当人は背中越しに聞きながら、流している。

 

リズムに乗るように凛は、手すりの前を回転し、ごく自然に床を蹴って手すりに片手をつきながら逆立つ。

 

その様子に優花は眼を見開く。いうまでもなく、ここは地上から考えても相当の高さだ。だが、凛はまるで意にも返していないように、軽業師のように片手で器用に回転し、視線を外へと向ける。

 

「世間じゃ高いっていうあのタワーもこうして見ると、小さいもんだねぇ」

 

視線の先には、近年完成したばかりの電波塔――だが、こうして逆さに見ていると、それも小さく見えてしまう。

 

 

 

 

 

全地は一の言語一の音のみなりき

 

茲に人衆東に移りてシナルの地に平野を得て其處に居住り

 

彼等互に言けるは去來甎石を作り之を善くやかんと遂に石の代に甎石を獲灰沙の代に石漆を獲たり

 

又曰けるは去來邑と塔とを建て其塔の頂を天にいたらしめん斯して我等名を揚て全地の表面に散ることを免れんと

 

ヱホバ降臨りて彼人衆の建る邑と塔とを觀たまへり

 

ヱホバ言たまひけるは視よ民は一にして皆一の言語を用ふ今旣に此を爲し始めたり然ば凡て其爲んと圖維る事は禁止め得られざるべし

 

去來我等降り彼處にて彼等の言語を淆し互に言語を通ずることを得ざらしめんと

 

ヱホバ遂に彼等を彼處より全地の表面に散したまひければ彼等邑を建ることを罷たり

 

是故に其名はバベルと呼ばる是はヱホバ彼處に全地の言語を淆したまひしに由てなり彼處よりヱホバ彼等を全地の表に散したまへり

 

 

 

 

 

不意に、凛はそう言葉を発した。

 

優花は理解できなかったものの、九頭は眼に見えて視線が鋭くなり、睨む。

 

そこで身体を回転させ、凛は笑顔を浮かべたままこちらを――文人を見やった。

 

「創世記第十一章――天を目指した愚者の塔の章―――」

 

天を目指し、神の怒りによって崩壊した塔。名は――バベル………その皮肉めいた内容に、九頭が動こうとした瞬間、文人がやんわりと制した。

 

「九頭」

 

その声に、顔に皺を寄せながら押しとどまる。

 

やがて、凛は手すりから跳んで足をつけ、文人に近づく。

 

「成る程――彼女が凛ちゃんの想い人かい?」

 

ソファに身を預け、楽しげに話し掛けると、凛は屈託なく笑う。

 

「文人様――心変わりだけは赦しませんよ?」

 

ニコリと微笑みながらも、向けられる気配は冷たい。それこそ、相手を殺しかねないほど――それに対し、文人は薄く笑った。

 

「分かってるよ。気にはなるけど……これでも、僕は一途なんでね」

 

悪意のない笑顔で応え、文人は一枚の写真を持ち上げる。

 

そのままソファから立ち、入れ替わりにテラスへと移動し、小さく囁く。

 

「小夜が来た―――」

 

妖しく笑う文人の瞳の色が僅かに変わる。

 

唐突に吹き荒れる風に持っていた写真が手から離れ、宙を舞う。

 

「……面白くなりそうだね」

 

不適に笑う文人。その笑みを背中越しに感じた優花は視線を落とす。

 

デスクに放り投げられた写真には、小夜ともう一人――黒髪の少女が写っている。小夜と同じく古きものの血に染まるこの少女は―――いったい……

 

この場にいる中で、優花だけがその答えを持ち合わせておらず、残りの面々は、各々の表情を見せている。

 

唯一分かっているのは…あの浮島と同じ――いや、それ以上の何かが起こるということだけ。

 

理解していたとしても、優花には何もできない。彼女が望むのは、権力だけなのだから――そのためだけに、文人についているのだから。




今回は塔側まで書きました。
原作のコピーにならないように自分なりに噛み砕いていますが、これがなかなか難しいです。
次は屋敷編――ただ、あまり変更がないので、もしかしたら軽く触れてすっ飛ばすかもです。


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第玖夜

都心のビル群のネオンが照らす中、都心の中心部にある殯の屋敷へと真夜達は無事にたどり着いていた。

 

追跡の眼を掻い潜り、重厚な門を抜けて屋敷前にミニバンを止めると、真夜はすぐにドアを開けて、外に出た。

 

そのまま雪が降る空を仰ぎながら小さな吐息を零す。

 

白い息が靄となって霧散し、真夜はどこか苦く雪空を見上げる。

 

「真夜……?」

 

その様子に戸惑いつつも、おずおずと声を掛ける真奈に振り返り、苦笑を零す。

 

「なんでもない……さ、降りて」

 

軽く首を振ると、会話を切って未だ車内にいた小夜を促す。

 

その不自然な会話の切り方に真奈は先程から一抹の不安を拭えずにいた。慣れない動作で降りようとする小夜に真夜が手を伸ばすも、小夜はそれを取らずに刺々しい雰囲気のまま、無言で車外に出た。

 

「はぁ~無事に戻って来れてよかったです~~」

 

続けて車外に降りた藤村が眼に見えて安堵のため息をつき、肩を落とす。

 

「おかげで俺の愛車は傷だらけだっつーの!」

 

どこか苛立ち混じりにドアを乱暴気に締め、それに縋りながら項垂れる松尾だったが、藤村は快活に笑う。

 

「尊い犠牲じゃないっすか」

 

藤村としては塔に対しての白星を上げたことに浮かれていたためか、慰めのつもりだったのだが、そのドヤ顔に松尾は小さく歯軋りし、無意識に足元の雪を掴み、掌の中で強く固める。

 

「うるせえっ」

 

「ぶへっ」

 

怒りをぶつけるように投げた雪玉が顔面に直撃し、仰け反る藤村。

 

「ぷはぁ、なにすんですかっ」

 

雪を払いながら藤村がお返しと雪を投げ返し、それに応戦するように松尾も投げ返す。

 

その応酬に真奈はオロオロするも、真夜は小さく肩を竦め、未だ抜き身のように気配を尖らせている小夜に話し掛ける。

 

「気にしないで、いつものことだし。真奈、二人は放って先に入りましょ」

 

正直、氷点下に近い外でこうしているのは身体に応える。

 

「あ、でも……」

 

「ただの戯れ合いだから」

 

傍から見れば子供の喧嘩にしか見えない。

 

軽く流しながら小夜を伴って玄関ホールに入ると、屋敷のドアが呼応するように開かれ、その奥から矢薙が姿を見せる。

 

「おかえりなさい」

 

「矢薙さん、ただいまっ」

 

優しく微笑む矢薙に安心したのか、真奈は弾んだ面持ちで挨拶し、小さく頷く。

 

「真夜さんも無事でなによりだわ」

 

「ありがとうございます」

 

軽く一礼する真夜に小さく笑みを零すと、背後で未だ雪合戦を繰り広げる二人に気づく。

 

「何をやっているの、あの二人?」

 

「いつものことですから。飽きたら入ってきますよ」

 

「それもそうね…貴方が、小夜さん?」

 

軽く肩を竦めると、改めて真夜の背後に立つ小夜に眼を向ける。

 

警戒を見せる小夜だったが、そこへ真夜が口を挟む。

 

「矢薙さん、殯さんに会う前に顔、洗っていいですか? 私もこのままだと、少し……」

 

そこで初めて矢薙は真夜の顔に赤い液体が付着しているのに気づき、小さく息を呑んで一瞬硬直するも、すぐに気を取り直す。

 

「ええ、そうね。タオルを用意するわ」

 

頷き、屋敷内へ促すと、真奈が続き、真夜は未だ警戒を解かない小夜の手を取る。

 

「さ、いこう」

 

戸惑う小夜を尻目に手を引き、二人もまた屋敷内に入っていく。

 

こうして誰かに手を引かれるなど久しい――小夜の心はどこか不思議な浮つきを覚え、小さく口を噛んで首を振る。

 

静まれ――と…もう、感情などすべて『あそこ』に捨ててきたのだ。そう言い聞かせていると、真夜は小さな洗面所に入り、小夜の手を離す。

 

感じていた温もりが離れたことに小さく息を呑み、どこか呆然と握られていた手を見つめる。

 

「あ、真夜……」

 

「真奈さん、貴方は先に殯さんに報告をお願い」

 

「あ、はい」

 

うしろ髪を引かれながらも、真奈は先に屋敷の奥へと消えていく。

 

真夜は小さく微笑し、そのまま洗面所の蛇口を捻る。流れる熱湯に水を混ぜながら出てくるお湯は湯気を立てる。

 

そこへ手を入れる。火傷しそうなほどの熱が冷え切った手を通して伝わり、真夜は小さく顔を顰める。だが、その熱が徐々に真夜の荒んでいた心を静めてくれた。

 

流れるように熱湯を顔にかけ、付着していた血を洗い落としていく。

 

お湯とともに指の隙間から落ちる朱は、溶けるように流れていく。やがて顔を上げ、小さく振って水滴を飛ばすと、後方の小夜を見た。

 

「どうぞ、少し熱いかもしれないから気をつけて」

 

身体をどかして促すと、小夜は警戒しながらも洗面台に近づき、流れる熱湯に手を触れさせる。

 

(熱い……)

 

手を通して伝わる感覚――こうして熱湯に触れるなど、久方ぶりのことだ。

 

熱湯に触れながらも、小夜の白い手はほとんど熱を宿さない。そんな己の手に何の感慨も抱かず、小夜は流れるお湯で顔を洗った。

 

飛沫と叩く音が小さな洗面所に木霊する。

 

どれだけそうしただろう…やがて、小夜は徐に蛇口を止め、お湯の流れが止まる。微かな湯気が漂うなか、見下ろす小夜の瞳に湯に混じった朱い筋がゴボリと音を立てて排水口に消えていく軌跡が映る。

 

頬から水滴が落ちると、徐に顔を上げる。そのままセーラー服の裾で顔を拭こうとして背後から投げられた何かに気づき、振り向きざまに受け取る。

 

掴んだそれは、真っ白な清潔感のタオルだった。

 

「拭くならちゃんとした方がいいよ」

 

小さく笑いながら自身もタオルで拭く真夜に小夜は憮然としたまま、タオルで顔を拭く。

 

ここまでの一連の動作すべてが、懐かしく、そして小夜の心を掻き乱す。不意に見た鏡に映る己の顔に僅かな変化が現れそうになるのを、必死に抑え込んだ。

 

「準備はいい?」

 

それを外で見守っていた矢薙が促すと、真夜と小夜はその後をついて屋敷内を進む。

 

屋敷内はどこかしも電気が落ちており、廊下など僅かな灯りのみだが、それでも暖房が効いているのか、寒さは感じなかった。

 

「この屋敷、人はほとんど居ないから…持ち主が変わった人だからね」

 

無言で歩く小夜に首を向けてそう話す真夜だったが、返事はない。

 

代わりに、矢薙からはどこか咎めるような視線を向けられたものの、真夜は小さく肩を竦めるだけだ。

 

通路内に道標のように轢かれた赤絨毯を進み、階段脇の壁に備わった暖炉には、火が燃え盛り、暗い廊下を紅く照らす。

 

その火を一瞥し、一行は階段を上り、一枚の彫刻が施された扉の前に着いた。

 

矢薙が控えめにノックする。

 

「入れ」

 

扉越しに聞こえてきたのは、車の中でスピーカー越しに聞いた男の声だった。

 

どこか冷ややかな声に気にした素振りもなく矢薙は扉を開け、二人を促す。真夜と小夜が入室すると、部屋奥の書斎机の前に真奈が立ち、部屋の中は照明器具がなく、壁面の暖炉が不規則に照らし、唯一書斎机の上のスタンドだけが灯っていた。

 

その席に主たる男――殯蔵人が車椅子の上で座っていた。

 

「報告は十分だ。ありがとう、柊くん」

 

「はい…」

 

淡白な労いにやや気後れしながら頷くと、真奈は一歩引いて書棚に下がり、真夜もその傍で止まり、どこかホッとした面持ちになる。

 

窺うように見ると、心配ないと軽く首を振り、真奈は小さく頷きながら視線を戻す。小夜が殯の前まで歩き、動きを止めるとその顔を確認するように見上げた。

 

「ようこそ、更衣小夜。殯蔵人だ」

 

眼鏡の奥の吊り上がった切れ目な視線を向ける男が発した名に、小夜は内に激しい感情が沸き上がりそうになる。

 

「なぜ…私を知っている?」

 

熱くなるそれを必死に自制し、抑揚のない声で問い掛けた。

 

それに対し、殯は臆した様子もなく、視線を逸らして淡々と応じた。

 

「浮島――地図にも載っていない場所…そこにいた住人すべてが、一夜にして殺された」

 

手元のタブレット端末を操作し、ある画像を呼び出すと、それを小夜の元へと回した。

 

その画像は真奈にもハッキリと見えた。

 

―――真っ赤な血で染まる死体が写っており、真奈は数時間前の光景が脳裏にフラッシュバックし、顔を蒼白にして唇が震える。

 

無意識に真奈は真夜の手を握る。震える手を真夜はそっと握り返し、窺うように視線で問うと、真奈は小さく首を振った。

 

「それはまさに、地獄と呼ぶに相応しい凄惨なものだった……」

 

静かに語る殯の言葉に反応するように画像が次々と再生されていく。

 

湖の向こうに見える街――炎の燻る家屋、倒壊したビル、大きく破壊された道路、そしてその上に横たわる無数の死体……そのほとんどが、何かに喰われたように身体のパーツが欠けていた。

 

腕をもぎ取られた死体、股から身体を真っ二つに裂かれた死体、首のない死体、口から何かが貫通したように巨大な空洞ができた死体――どれも人間の手ではできないような猟奇的なものばかりだ。

 

改めてそれを見たことで、真夜も険しい面持ちで口を噛む。

 

その様子をレンズ越しに一瞥した殯は最後の画像を指差す。

 

「ただ、その実験で唯一生き残った者がいる。これに映っているのは君だね――」

 

画像が終わり、動画のような映像が流れる。

 

湖面の奥で浮かぶ異形なものの上に折れた刀を手に独り、佇む少女――それは、紛うことなき小夜だった。

 

その姿は吹き荒む霧の中へと消え、映像は途切れた。

 

「これらはすべて、ここで行われた実験――更衣小夜、君の記憶を封じるという実験のためだけに、集められた。それを行ったのが、七原文人……」

 

その名を出された瞬間、小夜の眼に怒りの色が宿る。

 

「なぜ、お前がこれを持っている?」

 

「――逸樹が、俺達に送ってきてくれた」

 

予想外の名を出され、小夜の瞳に動揺の色が走る。

 

「君の前では、鞆総逸樹と名乗っていたと思うが……」

 

殯の言葉は小夜には入っていない。

 

彼女の脳裏には、捨てたはずの浮島での優しくも偽りの記憶の中で笑う彼の顔が過ぎる。そして、最期に自分を庇って撃たれ、小夜の前で事切れる顔も―――無意識に握る手に力がこもる。

 

「彼は、セブンスヘブンのイベントに参加し、命懸けで俺達に監視カメラの画像を送ってきてくれていた」

 

「あの、その人って……?」

 

思わぬ言葉に真奈が反応する。

 

浮島のイベントに参加していたなら、父親の行方を知っていると思ったからだ。

 

「私達と行動を共にしたことはなかったけど、サーラットのメンバーでした」

 

殯の代わりに答えた矢薙に次の言葉を続けようとして、真夜が遮った。

 

「真奈、今殯さんが言っていたとおりよ。浮島で小夜以外に生き残った人はいない……七原文人を除いて」

 

冷静な口調でそう諭され、真奈は口を噤む。

 

「それに、逸樹はいくつかデータを送ってくれていたんだが、生憎と暗号化されていてこちらでは分からなかったが、彼女がそれを解析してくれた」

 

不意打ちに近い言葉に真夜がハッと顔を上げる。

 

殯の視線につられて小夜が真夜を見やる。

 

「彼女がデータを解析してくれなければ、君のこともそこまでは分からなかっただろう。そうだろ、一条くん?」

 

その問い掛けに、真夜は視線を逸らす。

 

(ここで私に…小夜への警戒心を煽るつもり?)

 

真意は図りかねたものの、真夜は一拍置いて声を発した。

 

「ええ、生憎とセブンスヘブンのメインサーバーから抜き取ったデータだったから、迂闊に開けず、暗号化されていたけど、解析することができたわ。そこで、実験の詳細、そしてそれを行ったのが、『塔』と呼ばれる組織」

 

重い口調で告げた真夜の言葉に暖炉の薪が反応するように崩れ、炎が揺らめく。

 

真夜はそのまま小夜の傍まで歩み寄り、タブレットを操作してある企業のデータを呼び出す。

 

セブンスヘブン――あらゆる事業に手を伸ばす巨大複合企業、その代表者のところに小夜にとって忘れられぬ男の顔が載せられていた。

 

「……文人」

 

苦々しくその名を零す。

 

浮島で幾度となく接してきた微笑を携えて映る仇敵の顔に、無意識に手の力が強くなる。

 

「表向き、文人はセブンスヘブンの会長として、活動している。その企業規模ゆえに、政界とも強いパイプを持っている。浮島の実験を隠蔽することなど造作もないだろう。それに、新しく施行された青少年保護条例にも一枚噛んでいるらしい。もっとも、あの男が興味があるのは、もうひとつの方だろうがな」

 

そこで殯は車椅子を動かし、執務机から移動して、小夜の傍に移動し、暖炉の前で薪を取り、放り投げる。

 

放り投げられた薪は火に呑まれ、炎をまた強く燃え上がらせる。

 

「文人は、『塔』であることを成し遂げようとしている」

 

「……あること?」

 

文人の動向に注意が向き、殯に向き直るも、小さく首を振った。

 

「あること――としか分かっていない。何をしようとしているのか、正確なところは掴めていない」

 

落胆の色は見えなかったが、小夜はどうしても引っ掛かりを覚えた。

 

「なぜ…そこまで文人のことを……?」

 

「七原文人が、俺から自由を奪った男だからだ――」

 

平淡な口調で告げられても、殯の様子が変わったことに、小夜も眉を寄せる。

 

「本当に――それだけですか?」

 

そこへ意外な一言が投げかけられた。

 

全員の視線が集中する――先程の言葉を発した真夜に。当人は、その視線を受けても平然といている。

 

「どういう意味かな、一条くん?」

 

「――いえ、私の思い過ごしです。気にしないでください」

 

殯のどこか低い声にはぐらかし、手元のタブレットを操作し、一枚の写真を映し出す。その写真に小夜は小さく動揺する。

 

それは、小夜にとって偽りの中であっても確かに感じていた幸福な時間の記憶――ギモーブで笑い合う小夜と文人……その写真を一瞥し、真夜は小夜に向き直る。

 

「鞆総逸樹――彼が送ってくれたデータは、断片的ではあったけど、浮島での実態を僅かながら理解することができた。そして…貴方が、今とは別人のように振舞っていたこと。それがすべて七原文人に仕組まれたことだということは分かったわ」

 

どこか悲しげに見る真夜に、憐憫を感じ、小夜は視線を逸らす。

 

「小夜――君は、文人を捜してここ、東京までやってきたんだろう?」

 

「なぜそう思う?」

 

「浮島での実験が終わってから今日まで、君はここに近づきながら、その先々で文人を捜して騒ぎを起こしていたからな。もちろん、ニュースなど世間には知られていないがね」

 

浮島から飛び出し、去った文人を追ってきた小夜は、皮肉にも与えられた偽りの記憶の中での知識から、どうすればいいかを理解できた。

 

それが更なる怒りを煽り、ここに辿り着くまでに文人に関するものに当たれば、手当たり次第に探っていた。

 

そのほとんどが、空振りではあったものの、小夜はこの地へと辿り着いた。

 

「なら―――」

 

「噂にはなっていましたから」

 

ここで初めて矢薙が口を挟んだ。

 

「信憑性にかけるものだったけど、こちらで裏を取りましたから」

 

今の日本はネットというひとつの無限空間を形成している。いくら世間には隠せても、人の噂までは消せない。眉唾なものから始まり、それらの情報の整合性を図るのは、並大抵ではないものの、サーラットにはそれを成せるだけの人材があった。

 

「今、日本――特に、東京はネット規制が厳しいけど、うちには優秀なハッカーがふたり…いえ、さんにんいるわ」

 

矢薙はドアに手をかけて開くと、向こう側から耳をそば立てていた松尾と藤村が雪崩込むように倒れた。

 

その二人を尻目に、この場には似つかわしくない小柄な少女が覗き込みながら、眼を輝かせて飛び込んできた。

 

「真奈ちゃん」

 

「月ちゃん」

 

「おかえり、真奈ちゃん」

 

一直線に真奈に抱きつき、笑顔を浮かべる月山に真奈も微笑み返す。

 

「うちの優秀なハッカーのひとりはが彼女、月ちゃん――月山比呂さん。そして、もうひとりは貴方の隣にいる、一条真夜さん」

 

その言葉に小夜は警戒しながら真夜を見やる。どこか苦い表情でぎこちなく笑うと、小夜は顔を顰めたまま逸した。

 

「そしてもうひとり――」

 

矢薙の視線が倒れているふたりに向けられ、藤村が自己主張しながら立ち上がるも、次の言葉に肩を落とした。

 

「かどうかは別にして、メガネの子が藤村駿くん。そして、大きい方が松尾伊織くんよ」

 

その紹介に藤村は空笑いで頷き、松尾はぶっきらぼうに返した。

 

「あとは――柊真奈さん」

 

「よろしくね」

 

真奈もぎこちない笑みを浮かべて会釈するも、小夜の興味はない。

 

「小夜さん――私は矢薙春乃。殯さんの秘書をしています。以上が、サーラットの主力メンバーよ」

 

「他にも、ネットを通してサーラットい協力してくれている人達はたくさんいるの」

 

「みんな、今の青少年保護条例やネットの規制、変な法律とか条例を廃止させたくて、頑張ってるんすよ!」

 

自分達の主張を高らかに告げられるも、小夜の興味はない。

 

もっとも、小夜にとっては主義主張や倫理観など関係ない。彼女の求めることは唯一つなのだから――さして感慨も抱かず、視線を殯に向ける。

 

「文人は今、どこにいる?」

 

「文人は公の場にはほとんど姿を見せない上に、居場所も明らかにしていない」

 

その返答に明らかに落胆したように小夜は眉を顰める。

 

「知らない――ということか」

 

なら、ここに用はないとばかりに身を翻しそうになる小夜を殯は言い止めた。

 

「手立てはある」

 

その言葉に再度視線を向けると、小さく微笑む。

 

「彼らを中心に、シスネットのシークレットネットワークを通じて協力しているサーラットが、君に七原文人の情報を提供しよう――」

 

語られる内容は小夜にとって不利益なものではない。

 

どの道アテなどないのだ。このまま闇雲に捜すよりも、効率はいい…だが、小夜とて永く生きてきた身――多少の駆け引きは心得ている。

 

ただの善意で協力するなど、ヒトが持ちかけるはずなどないことを―――嫌というほど……

 

「――対価は、私の力か?」

 

「ああ…文人の下には、古きものがいる。それらにはさすがに対抗手段がない――」

 

だが、小夜はやや不思議そうに視線を真夜へと向ける。

 

「…どうだろうか? 悪くはない取引だと思うんだが」

 

小夜の様子に気づかず、そう問い掛けると、一拍置いて小夜は小さく肩を竦めた。

 

そして、視線が手元のタブレットへと向けられる。

 

「……いいだろう。だが、七原文人は私の獲物だ――それを忘れるな」

 

鋭くなる視線で画面で笑う文人を――そして、過去の自身を睨む。

 

向けられたわけではないというのに、威圧感のようなものを覚え、執務室の空気がどこか重くなった。




さらっと流すつもりがつい書いてしまった屋敷編。

次は少し話を挟んでミセ編に入ります。
その後小話挟んでいきます。


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第拾夜

書斎でのやり取りから暫し後――隣の談話室では、小夜と彼女の案内と世話を任された真夜と真奈を除いた面々が顔を突き合わせていた。

 

いや、その表現はあまり的確ではない。

 

正確には、中央のソファにドカッと腰掛け、ふんぞり返った態度でどこか不満を張りつけた顔を浮かべる松尾に、こちらはどこか口を尖らせて拗ねたような傍目には微笑ましい顰め顔でキーを叩く月山。だが、その顔と同じくキーを叩く手はどこか苛立たしげで忙しない。

 

そして――取り纏め役たる矢薙は腕を組んで無言で壁際に佇んでいる。

 

どこかギスギスした空気に気が気ではない藤村は、簡易キッチンでそそくさとコーヒーメーカーで沸かしたコーヒーをカップに注ぐ。

 

「お、お待たせしました~~」

 

ぎこちない顔でコーヒーを持ったトレーを片手に、ポットと各々のカップを持ち込む。

 

カップもそれぞれの個性が表れており、誰が誰のか一目瞭然だ。それぞれ注いだコーヒーを渡していく。

 

「はい、まっさん」

 

「おう」

 

どこか不遜気味に無骨な保温マグカップを受け取る松尾。

 

「矢薙さん、どうぞ」

 

「ありがと」

 

こちらは少し大人のオシャレなデミカップを受け取り、優雅な仕草で微糖のコーヒーを呑む。

 

「月ちゃんはカフェオレでよかったよね」

 

拗ねた表情のまま、どこかひったくるように水玉カップを受け取り、それをどんと横に置いて視線をディスプレイに戻し、キーを忙しなく叩く。

 

かわいいのだが、その視線に晒された藤村は触らぬなんとやらで、給仕のような仕事を終えて自身の飾り気のない100均カップに砂糖とミルクを加え、松尾の横に座った。

 

無言の空間に月山の操作音だけが響いていたが、やがてその沈黙に耐えられなくなったか、それとももやもやした苛立ちが限界にきたのか、松尾が頭を掻き毟る。

 

「だぁぁぁぁ! つうか、殯さん何考えてんだ!」

 

隣にいる本人は聞かせられないような口調で愚痴る様に、矢薙は咎めるような視線を向けるも、口にはしなかった。

 

「ホントにいいんすか――あの子、仲間にして」

 

挑むような視線を向けられた矢薙は視線を逸らし、コーヒーを呑む。

 

「――殯さんの決定よ」

 

一拍置いて口にしたのはそんな言葉――松尾の懸念は、矢薙も僅かながらに感じてはいたが、感情よりも理性を優先した。

 

自分達の――組織のリーダーの決定だ。

 

それに従うのが秘書であり、組織の役目だ。

 

だが、その答えに松尾は不満を崩さず、なおも憤るように愚痴る。

 

「不信どころか怪しさ満載じゃねえっすか! 信じろって言われても無理っすよ、無愛想だし、偉そうだし――だいたい、一条のやつはなんであんな奴に構うんだよ!」

 

本音はそこか――と、横眼で一瞥する。

 

あの公園からずっと小夜に対して親しげに接する真夜の態度には、矢薙も少しばかり引っ掛かりを覚えていた。

 

不意に――彼女と初めて会った日のことが過ぎる。浮島での実験について知り得ていた彼女――そのことを考慮するなら、小夜のことを知っていても不思議ではないが、それだけではあの態度の説明には弱い。

 

人間は不確かなもの、曖昧なものに不安を抱き、怖れを憶える―――人と異なる存在という小夜に対しても、松尾ほどではないにしても、矢薙とて猜疑心を拭えない。

 

なのに、真夜はまるで気にもせずに接しており、隣でいた真奈がハラハラしていたほどだ。少なくとも――知り合いどころか、今日まで二人が出会ったことがなかったのは小夜の態度からも明らかだ。

 

その様子を考慮してか、小夜の世話係りには、真夜と真奈が任され、つい今しがた隣の離れに案内されていった。

 

「でも、すんごい美人ですよねぇ…真夜さんも美人だし、並ぶと絵になるっていうか――」

 

そんな松尾の苛立ちと矢薙の懸念を他所に、呑気な言葉を漏らす藤村に松尾の眉が吊り上がる。

 

「おいこら、フジ! お前美人ならなんでもいいのかよ! このムッツリやろう!」

 

鼻の下を伸ばす藤村の首に腕を回し、ロックしながら片方の手で頭をグリグリされ、藤村が呻く。

 

「ちょ――や、やめてくださいよっ、そんなんじゃないっす!」

 

顰めっ面で抗議するも、松尾は鼻を鳴らして一瞥する。

 

「とにかく! 俺は気に喰わねぇっての! それに……」

 

言いよどみながら、松尾は難しげに顔を顰める。

 

「どうかしたの?」

 

不審に思った矢薙が尋ねるも、松尾自身も明確に言葉にはできないのか――それとも、口に出すのも躊躇われるのかは分からなかったが、答えずに頭をガシガシと掻き毟る。

 

「だぁぁっ、もう! とにかくアイツのせいで、なんかイラつくんすよ! 一条の奴もなんか変だし…なぁ、月ちゃんもそう思うよな!?」

 

今まで会話に加わっていなかった月山は、先程からモニターを凝視したまま、キーを叩いているが、その指使いはどこか荒く、また拗ねるように口を尖らせている状態からも、明らかに不機嫌なオーラが漂っており、松尾は思わず不味ったと、内心後悔する。

 

それは藤村も感じ取ったようで、宥めるように口を挟んだ。

 

「つ、月ちゃんが機嫌悪いのは、せっかく真奈ちゃんと真夜さんが帰ってきたのに、殯さんから新人さんのお世話係りに任命されちゃって、一緒に遊んでくれないことだよね?」

 

月山は、真奈と真夜に懐いている。単に同性ということよりも、二人のプログラミング技術に興味を唆られているという面が強い。中学生ながら、高い処理能力を持つがゆえ、同世代はおろか、そういった話で付き合える人もいなかったため、余計だろう。

 

だが、それは今の彼女にとって図星な上に禁句でもあった。

 

「フジくんもまっさんも、昨日落としたにゃんこの動画、見せてあげない」

 

「「えええええ!?」」

 

プイッと視線を逸らし、不機嫌な面持ちで悪態をつき、二人が眼に見えて狼狽する。

 

「お、俺は関係ねえから、見せてくれよな! フジはいいからよ!」

 

「ちょっ、先輩それはヒドイっす!」

 

大の男二人が中学生の女の子に必死に拝む姿は傍から見ているとかなりシュールであり、矢薙は深々とため息をつく。

 

これが、『サーラット』という組織の中心メンバーかと思うと情けないやら、呆れるやらなのだが、それでもこうして和気藹々とするのは年相応

 

ではあるし、なにより『塔』との抗争は、文字通り『命懸け』――下手をすれば、命そのものすら危うくなる。

 

あの『鞆総逸樹』のように――そんな死と隣り合わせの状況の中では、こうして僅かでも気を抜ける時間は貴重だ。

 

常に張り詰めていては、その能力も活かしきれなくなる―――だからこそ、矢薙は彼らを補佐するのだ。

 

(でも、彼女は――)

 

矢薙の脳裏に浮かぶのは一人の少女――真夜が古きものを倒したという報告を受けたときは、さすがに耳を疑ったほどだ。

 

実際の瞬間を見たわけではないものの、直後と思しき映像と彼女に付着していた血から推察するに、おそらく事実なのだろう。以前から謎の多い子だとは思っていた。

 

殯の指示で、彼女の経歴を調べてはみたものの、別段怪しいところはなかった。

 

それだけに、彼女がどこで古きものや塔のことを知ったのか、未だに分からないまま――もしかしたら、真夜のその秘密に、小夜が関わっているのではないか……殯もそれを見越して彼女を招き入れたのではないのか―――――

 

だが――と、矢薙の顔が曇る。

 

真夜とは違い、小夜には確かに違和感を憶えた。殯の話によれば、彼女は人間ではない――そして、彼女が現われたことで、これまでほとんど接触する機会すらなかった塔と直に事を交える結果となってしまった。

 

何かが動きだした――そんな予感を抱き、矢薙は未だ眼の前で騒ぐ松尾達を見やり、必ず彼らを死なせはしないと――誓を新たに固めた。

 

 

 

ちょっとした騒ぎが起こっている本館とは打って変わり、隣接する純和風の離れの廊下を歩く真夜の姿があり、その後ろには小夜と最後方で真奈が気まずげに歩いていた。

 

洋風の廊下からやがて離れの入口に続く木製の廊下に着くと、真夜が靴を脱ぎ、小夜は無言のまま無造作に靴を脱ぎ捨てる。

 

さすがに土足で上がるほど無神経ではなかったらしい――真奈は場違いな安堵を憶えるも、その間に二人は歩みを進め、慌てて後を追う。

 

廊下は歩くたびに音を立て、外へと続くガラス戸は半透明な鏡となって動く三人を映す。

 

ガラス戸の向こう側には、雪化粧に包まれる日本庭園があり、暗闇にその美しさを醸し出す。

 

先頭を歩く真夜と小夜という人物がそこに入ると、まるで絵画のように見え、思わず見惚れそうになる。

 

真夜は真奈の眼からみても整った顔立ちをしているが、小夜はそれに輪をかけて美しい――おおよそ、欠点というのもが見えない完成された『美』……人形のような美しさも、彼女が人間ではないからだろうか。

 

殯もハッキリと言ってはいたものの、未だ真奈は半信半疑だった。だが、思わず見蕩れてしまうぐらいには浮世離れしていると実感はした。

 

もしかして、真夜も彼女の持つその人ではない妖しさに魅入られているのだろうか――と、考えていると不意に小夜が背中越しに見やった。

 

「何を見ている?」

 

「え―――?」

 

思わぬ不意打ちにハッと息を呑む。

 

先程から交互に見ていたことに、途端に気恥ずかしくなり、慌ててしまう。

 

「あの、えっと……さ、小夜って綺麗だなって」

 

ぎこちない顔で応えるも、小夜は不機嫌な顔を浮かべたままだ。そんな顔も絵になるから不思議だ。

 

もっとも、口走った当人も何を言っているのか分からずにいるため、会話が続かない。

 

「まあまあ、褒めてくれてるんだし」

 

「――興味がない」

 

真夜が相槌を返すも、小夜は心底どうでもいいと言い捨てる。

 

「さ、小夜って名前も綺麗だよね? 更衣って苗字も」

 

どうにか会話を続けようと再度話し掛けるも、その内容は小夜の感情を刺激し、眉が僅かに吊り上がる。

 

「――更衣は私の名前じゃない。それは、文人の次に私が嫌いなものだ」

 

射抜くような視線で睨まれ、地雷を踏んだ真奈は思わず竦む。

 

空気が凍るなか、手を叩く音が響き、それが緩む。

 

「はいはい、あまり私の親友を睨まないで。悪気はなかったんだし…これから一緒に行動するんだから、ね」

 

二人の間に入ってそう言い、ウインクしながら小夜と真奈の手を取って握手させ合う。

 

その行動に小夜は困惑し、真奈は戸惑いながらもどこか嬉しそうに真夜を見つめる。

 

そうしている間に目的の部屋まで到着し、真夜が障子戸を開く。

 

8畳ほどの部屋には、化粧台の小さな机、そして布団が置かれている。

 

「ここ、使って。何か必要なものがあったら、言ってくれれば、殯さんが用意してくれるから」

 

どこか悪戯めいた顔でそう話し掛けるも、小夜は硬いままだ。

 

「あ、その左が私の部屋で、右は真奈の部屋になってるから」

 

部屋の壁を仕切るようになっている襖を指差す。人数に合わせて調節できるようになっているため、ちょうど小夜に充てがわれた部屋を挟む形で真夜と真奈の部屋はある。もっとも、真夜も時々泊まる程度だから、さほど私物は置いていないが。

 

「――そうか」

 

だが、小夜は素っ気なく答えるだけで、そのまま部屋に入ろうとする。これ以上、誰かと話すつもりもなかったのだが、その腕がガシッと掴まれた。

 

身体が引かれ小夜は、うるさげに腕を掴む真夜を睨む。

 

離せと、視線が訴えているのだが、真夜は動じた様子も見せず、ニコリと微笑む。

 

「休む前にお風呂入ろ。身体も冷えたしね――お風呂と洗面所の場所も、ついでに教えるから」

 

小夜の抗議を無視し、真夜は腕を引いてそのまま進んでいく。

 

「なにをする、離せ!」

 

「はいはい~一名様ご案内~~」

 

予想外の展開に真奈は眼を白黒させ、ポカンとなっていたが、我に返ると慌てて後を追った。

 

真夜は小夜を引きながら離れの奥へと連れ立つ。

 

ここには来賓者用にやや大きめの入浴施設と洗面所が備えられている。見た目は年月を感じさせるのだが、ここに入っている浴槽には最先端の浄化装置が取り付けられているとかで、24時間入浴ができる。

 

もっとも、主に使用するのはサーラットの女性陣に限るのだが……ドアを開いて入ると同時に小夜が力任せに手を振り払った。

 

「何のつもりだ!?」

 

声を荒げるも、真夜は苦笑するのみで、困ったようにしている。

 

「だから、お風呂――ひょっとして、お風呂に入ったことない?」

 

「それぐらい――っ」

 

羞恥に顔を染めるも、その表情がどこか苦く陰が差し、口を噤む。

 

「はぁ、真夜」

 

そこへ追いついてきた真奈が窺うように見やっており、真夜は小夜に話し掛ける。

 

「ね? お風呂に入って温もれば、少しは気分も落ち着くし――あ、なんなら脱ぐの手伝おうか?」

 

向ける視線と言葉に小夜は窺いながらも戸惑う。だが、やがて観念したように胸元のリボンをほどく。

 

「それぐらい…一人でできる」

 

顔は相変わらずの不機嫌顔だが、素直に従ってくれたことに真夜も笑顔を見せる。

 

「うん、ありがと…あ、真奈も入る?」

 

「え? あ…う、うん」

 

事態の推移に呆気に取られていたが、真夜に促され、どこか気まずい空気のなか、少女達は服を脱ぎ、身体を晒す。

 

「中に一通り揃ってるし、バスタオルはここに置いてあるから」

 

ハンドタオルを渡し、説明を終えると真夜がドアを開く。

 

奥には湯気の熱気が漂う浴室があり、その空気が肌を刺激する。

 

小夜はどこか戦場にでも赴くかのような強ばった面持ちで足を踏み入れる。続いて真夜と真奈が入り、ドアが閉められる。

 

そのまま檜でできた湯船に浸かろうとする小夜の手を真夜が取り、有無を言わせず洗い場に連れて行く。

 

「はい、座って」

 

「自分でできるっ」

 

先程から子供扱いのようにされることに苛立つも、真夜は気にした素振りもみせず、座らせた小夜にシャワーのお湯をかける。

 

もう無駄だと悟ったのか、されるままだった小夜だが、背中越しに流れる熱さが心持ちを僅かに宥める。

 

こうしてお湯に身を委ねるなど、数ヶ月ぶりだ――その熱さに身を委ねる小夜の背中に、真夜がそっと囁いた。

 

「過去は消せないかもしれないけど――小夜はここにいていいんだよ……」

 

不意打ちに近いその言葉が、小夜の心を大きく揺さぶり、眼を見開く。

 

刹那、飛び跳ねるように身を起こす小夜に弾かれ、真夜が後ろに尻餅をつく。

 

「真夜っ」

 

慌てて真奈が駆け寄るも、小夜はどこか畏れるように真夜を見つめ、やがて何かを振り払うように唇を噛み、浴室から飛び出していった。

 

その背中を呆然と見送ると、我に返った真奈が再度真夜に声を掛ける。

 

「真夜、大丈夫?」

 

「平気…ちょっと強引すぎたかな」

 

苦く笑いながら肩を落とす真夜に、真奈は戸惑う。

 

「真夜…どうして、あの人にそこまで関わるの?」

 

さっきからの真夜の小夜への態度には、どこか釈然としないものを憶え、なにより不安が真奈の胸中を過ぎる。

 

その問い掛けに対して、真夜は困ったように顔を顰める。

 

「うーん……どう言えばいいんだろ――ただ、放っておけないから…かな」

 

そう言って浮かべる表情は同情とも違う――ただ、小夜の身を案じるかのように……その原因の一端を知るだけに、真夜は曇る。

 

「彼女――戸惑ってるだけなんだと思う。それに、このまま他のみんなとの関係がギスギスしたものだと、ね?」

 

納得はまだできかねたが、真奈も小夜を悪い人だとは思っていない。

 

助けられたのは事実だし――なにより、彼女のお世話係りを頼まれたのだ。未だ、サーラットに対して満足な働きが返せていない真奈は、どうにかして小夜と松尾達他のメンバーとの架橋になりたい。

 

「だから…真奈も小夜のこと、気にかけて欲しいんだ」

 

その言葉が何より嬉しかった。

 

親友である真夜からそう頼られることが――なにより、彼女の、そしてサーラットの力になれる。それが真奈の気持ちを奮い立たせる。

 

「うん、私もできるだけ話しかけてみるよ」

 

「――ありがと」

 

「ううん」

 

「さて、と――それじゃ、私達も早く休もっか。明日も忙しいし」

 

区切りをつけて、立ち上がった真夜がそう呟くと、真奈は首を傾げる。

 

「明日は、出かけるから」

 

どこか謎かけのようにウインクする真夜に、真奈は考え込むだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

風呂場から逃げた小夜は、そのまま充てがわれた部屋に飛び込み、ピシャリとドアを閉める。

 

息を乱しながら、ドアを背にその場に座り込む。

 

先程の醜態を思い出し、自己嫌悪するように頭を掻き毟り、歯噛みする。

 

真夜の言葉が、小夜の心を揺さぶる。

 

そして、どこか怯えるようにバスローブ姿の身体を抱きしめる。

 

 

捨てろ―――と……

 

忘れろ―――と……

 

 

自身の奥が叫ぶ。

 

温かな記憶と憎悪がせめぎ合い、小夜は隙間から差す月明かりのなか、その身を縮める。

 

 

まるで闇に怯えるように―――――




大変お待たせしました。
今回は最後のお風呂のシーンはどこまでならいけるのか悩みましたが、
まだ内容的なものを考慮してあっさりしたものにしました。

いや、書いてみたいんですけどね――お風呂場できゃっきゃするの。
次回はミセ編です。
気長にお待ちいただければ幸いです。


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第拾壱夜

人が大勢行き交う。

 

信号が青になると同時に一斉に歩行者が道路に雪崩込み、人に溢れるのが、東京の若者達の街、渋谷のJR渋谷駅ハチ公前スクランブル交差点の日常だった。

 

人が途切れることがないと言われている交差点には、若者を中心にサラリーマンや子供連れ、老若男女問わず行き交っている。

 

街頭モニターには、ファッションの最先端をいくと評されるように華やかな映像が流れている。だが、その映像の中に時折、東京都の青少年保護条例をPRする広告映像が混じると、十代の若者達はこぞって顔を顰める。

 

街角には、タウンガーディアン達が立ち、若者の動向に眼を光らせて監視している。その姿に悪態をつきながら距離をとる者、あからさまに嫌悪する者など、若者の反応は総じてマイナス的だ。

 

だが、関わりだけはしたくないとそれを視界に入れず、後数時間の一時を謳歌するべく興じている。

 

そんな様子を一瞥しながら、歩く人波に混じり、小夜と真夜、真奈の三人は歩いていた。

 

三人とも年相応のコート姿のため、不審に思う者はいない。先頭を無言で歩く小夜のすぐ後ろを並んで歩く真夜と真奈だったが、真奈は小声で呟いた。

 

「ねぇ、真夜…よく出かけるって分かったね?」

 

思わず昨夜のやり取りが思い出される。

 

お風呂場で真夜が告げた『出かける』という言葉を証明するように今朝方、小夜が突然出かけると言い出し、指定された場所への行き方を尋ねてきた。

 

その時に真夜を見てしまったのは仕方ないだろう。真夜は小さく笑いながら小夜に応じ、案内すると言い出した。

 

昨夜の一件のせいか、小夜はどこか真夜に対して警戒を見せていたが、拒否はしなかった。

 

そして、小夜が出かけると言ったのは既に昼を過ぎての時間であり、指定された場所があまりに予想外であったために、真奈も戸惑いを隠せない。

 

こんな場所に何の用があるのだろうか――そして、真夜はなぜ小夜の動向を知り得たのか…分からないことだらけで、疑問と好奇心を掻き立てさせられ、ちらちら視線が両者を行き交う。

 

それに対して真夜はどこか苦笑い気味だ。

 

分かれる道をセンター街に入ったあたりで、小夜が突然立ち止まり、顰めた面持ちで振り返った。

 

「なぜ付いてくる?」

 

どこか横柄な口調だが、その視線――もとい、彼女の纏う迫力だろうか、それに思わず真奈は気圧され、後ずさる。

 

まるで、抜き身の刃を相手にしているような鋭さがあり、しろどもになる真奈だが、真夜が横から小さく促し、昨日決意したように、意を決して話し掛ける。

 

「あ、えと――小夜って、し、渋谷初めてだよね? 一人じゃ危ない……ってことはないかもしれないけど」

 

なんとか会話のきっかけをつかもうと、必死に考え込む真奈は何かに閃いたように、すぐさま携帯端末を取り出した。

 

「ほ、ほら…携帯――小夜って、持ってないでしょ? 何かあったら、すぐ連絡できるようにって……」

 

引き攣った顔でそう告げるも、小夜は黙ったままだ。

 

言葉が出てこず、隣にいる真夜に助けを求めたい――だが、真夜もまた黙ったままだ。

 

「また…あんな目に遭いたいのか」

 

どこか脅すように告げられた小夜の言葉に、ハッと昨夜の記憶が甦る。

 

表情は変わらないものの、その言葉に、真奈の身を案じているのだと察し、無意識に感じていた警戒心が薄れる。

 

「その…小夜と、一緒にいたいんだ――」

 

小さく囁く。

 

あんな怖い目に遭うのは確かに嫌だったが、それ以上に小夜ともう少し話したいと思ってしまった。

 

そんな真奈の肩を真夜が軽く叩き、褒めるように見つめ、今度は真夜が小夜を見やる。

 

「心配なんだよ、真奈は――もちろん、私も」

 

「……なぜ?」

 

厳しかった表情から、どこか畏れるように見やる小夜に、真奈は父親の姿を重ねる。

 

あの時――古きものを殺した後で垣間見たどこか寂しげな…それでいて、決して変えられない覚悟を秘めたあの表情―――今思えば、セブンスヘブンへと取材に出向くと決めた父親もどこか覚悟を決めていたのかもしれない。

 

だからこそ、真奈は小夜といたいという思いが強くなる。

 

言葉にできない思いに俯く真奈と気遣いながら窺う真夜に、小夜は諦めたように言った。

 

「付いてきたければ、付いてくればいい」

 

ぶっきらぼうに言った言葉に真奈が顔を綻ばせて上げるも、小夜は含むように続けた。

 

「ただ――付いて来られればの話だが」

 

再び背を向けて歩き出す小夜に真奈は一瞬疑問符を浮かべて真夜を見やるも、真夜は苦笑を浮かべたまま軽く促し、離れていく小夜に気づいて慌てて後を追った。

 

 

 

数分後―――真奈は自分が立っている場所に違和感を覚えていた。

 

小夜の後を追いながら付いていくなか、途切れず聞こえていた人々の声や鳴り響く音楽、動く車両の音すらも一切聞こえなくなり、周囲を見渡せば、見慣れない光景が飛び込んでくる。

 

高く聳えるビル群の隙間から傾く陽の光が反射し、茜色の色彩が映える。

 

センター街を宇田川へと続く道を歩いていたはずなのに、いつの間にか眼前に大きな屋敷が佇んでいた。

 

「え? え?」

 

思わず上擦った声で周囲を見渡す。

 

ビルに囲まれたその屋敷は首を傾げるほどの立地だった。というよりも、こんな場所にこんな屋敷がある事自体がなにか違和感がある。

 

「こんなところに、こんなお屋敷があったなんて……全然、知らなかった」

 

ポツリと呟いた真奈の言葉に一歩前で佇んでいた小夜が振り返った。

 

「見えるのか?」

 

「え? 大きなお屋敷が見えるけど…他に何かあるの?」

 

尋ねる真奈に答えず、小夜は視線を真夜に向ける。

 

「迷子にならずによかった――さ、入ろ」

 

その言葉に小夜は顔を顰める。

 

「知っているのか?」

 

「―――来たこと、あるから」

 

何のために――とは言わなかったが、それでも若干驚きを含んだ小夜に真奈が戸惑う。

 

「真夜、知ってるの? このお屋敷」

 

「うん――ここ、お店なんだ」

 

「お店?」

 

「そ、入ろ」

 

驚く真奈を横に再度促す真夜に困惑しながら、小夜は店へと続く門を潜り、玄関まで続く石畳を歩く。

 

勝手知ったるとばかりに扉を開き、躊躇いもなく開かれる扉の奥へと進む小夜に遅れて真奈と真夜も入る。まるでそれを確認したように扉が静かに閉まり、一瞬ビクっと身が震える。

 

静まり返るなか、とても真奈が想像したものと違っており、先程から平然としている親友と当人に問い掛けた。

 

「ねぇ、勝手に入っちゃって大丈夫?」

 

それに対して真夜は苦笑気味に相槌を返し、小夜は一人店の奥を見据える。衝立の向こうには薄暗い廊下が果てしないように続いており、外から見えた屋敷の奥行から考えても視認できないほどだ。

 

こんなに奥行があっただろうか――と、首を傾げる真奈の耳に、声が聞こえた。

 

「久しぶりだな、小夜」

 

不意に聞こえた声に驚き、その主を探して視線が動くも、姿は見えない。

 

動いていた視線がぐるりと一周し、下を向いた瞬間―――上がり框のところにちょこんと座る猫のように小柄な茶色の見たことのない犬がいた。

ジッとこちらを見る視線に真奈が驚く。

 

声を上げなかったのは、思考が追いつかないせいか――だが、小夜は気にもせず、応えた。

 

「まだ、三ヶ月しか経っていない」

 

その返答に真奈は口をあんぐりと開けてしまい、思わず真夜を見ると、小さく笑みを噛み殺している親友がいた。

 

小さく肩を震わせる真夜は視線を犬ではなく屋敷の奥へ促し、それにつられて真奈も視線を奥へと向ける。その時、暗闇の奥から人影が現われる。

 

同じように眼鏡をかけた藤村とは違い、どこか落ち着きを感じさせる物腰の青年だった。

 

柔らかな微笑を浮かべる青年が後ろ足で首を掻く犬を持ち上げ、笑いかける。

 

「いや――本当の小夜に会うのは、久しぶりだよ」

 

笑いかける青年に小夜は無言のままだが、そこまで至って真奈はようやく自分が一人、醜態を晒したことに気づき、思わず真夜を睨む。

 

口を尖らせる様に小さく謝罪しながら、真夜は青年を見据えると、青年も振り返った。

 

「いらっしゃい、また来てくれて嬉しいよ」

 

「ご無沙汰しています」

 

頭を下げて応じる真夜に、先程の言葉が事実だったと実感し、真奈はますます混乱し、小夜は驚いた面持ちで二人を交互に見つめる。

 

「そちらのお嬢さんは初めてだね――ようこそ、願いをかなえるミセに。四月一日君尋です」

 

温和な笑みを零しながら、奥へと促す様に、三者三様の形で進んでいった。

 

 

 

一行は夕陽の差し込む部屋へと案内されていた。

 

差し込む光が部屋を橙に染め、灯りのないこの部屋の唯一の明るさといってもいい。部屋の形や位置からすると、外から見えた塔のように高い場所だというのは真奈にも理解できた。

 

だが、この部屋の中に漂う何とも言い難い空気はどうなのだろう――真奈は落ち着かない状態でテーブルを前に座っている。

 

小夜は窓の外を見つめたまま佇んでおり、真夜を窺うと、四月一日が抱えていた犬を手元で撫でながら、その喉元を軽く弄っている。それが気持ちいいのか、犬は緩んだ面持ちのように甘えている。

 

何故このミセのことを知っているのか、四月一日という青年は誰なのか、そもそもここは何なのか――などなど、次々と疑問が湧き上がるも、訊くタイミングが掴めず、先程から真奈の耳に聞こえるのは壁に取り付けられた大きな時計の振り子のみだ。

 

だが、その時計も針が止まったまま――時間を告げるという本来の役割を放棄しているこの時計はいったい何のためにここに取り付けられているのかと、余計なことにばかり思考が向く。

 

肝心の四月一日は案内すると同時にどこから取り出したのか、ティーセットでお茶を淹れている。その仕草はとても様になっており、テレビなどで見るプロとも遜色ないように見える。

 

やがて、四月一日はすっと真奈の前に紅茶を差し出す。

 

「どうぞ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

そう返事するのが精一杯な真奈に小さく微笑し、犬と戯れる真夜の前にも差し出す。

 

「その子がそこまで懐くのは珍しいね」

 

「そうなんですか? あ…」

 

首を傾げる真夜の手から一瞬の内に離れ、テーブルの上をトコトコと歩きながら四月一日の前にやって来ると、真夜はどこか非難めいた視線を向ける。

 

軽く失笑すると、残る一つを小夜の席にも置くと、未だ背中を向ける小夜に声を掛けた。

 

「小夜もどうだい?」

 

「――いらない」

 

背中を向けたまま平坦な声で応える様子に怒るでもなく、小さくため息をつくと、自分の席に座った。

 

それを確認すると同時に犬が四月一日の腕に飛び込み、それを受け止める。

 

その様子を見守っていた真奈だったが、手元に置かれた紅茶から漂う花のような柔らかな、それでいて芳しさの中に甘味を感じさせる香りに心が落ち着く。

 

「い、いただきます……」

 

「どうぞ」

 

先程から事態の推移の把握に勤しんでいたため、喉がカラカラだった。

 

誘惑に抗えず、恐る恐るカップを手に取り、口に含むと、ふわりと香りが口の中に広がり、程よい渋さが舌の上を過ると甘さが後から広がる。

 

「美味しい――」

 

思わず口に出してしまう。

 

「それはよかった」

 

ニコリと微笑みながら、視線が真夜へと向く。

 

「君に渡した刀――うまく使ってくれてるかな?」

 

「はい――今日は持ってきてないですけど、大切にしています」

 

呑んでいたカップを離し、そうハッキリと応えると、四月一日も満足気に笑い返す。そのやり取りを見ていた真奈は、ようやく思考が落ち着いてきたのか、思っていた疑問を口にした。

 

「あの…ここは、どういうお店なんでしょうか?」

 

小夜が目的とし、真夜も利用したことがあるとい――外見からはそう見えないだけに、不思議そうに問うと、四月一日は微笑んだまま告げる。

 

「願いを叶えるミセ――だよ」

 

出会い頭でも言われたが、真奈にとっては答えになっていなかった。

 

「ひょっとして…占いのグッズとかそういったものですか?」

 

真奈の脳裏には女の子が好むファンシーな雑貨類から、それこそ黒魔術にでも出てきそうなオドオドしいものまで様々なものが過ぎるも、それを察してか、小さく失笑する。

 

「なんでも屋さんかな」

 

少し考える仕草を見せて告げるものの、真奈は疑問を払拭できないまま、首を傾げる。

 

自然と視線が先程から会話に加わっていない小夜に向く。

 

「小夜は――ここの常連さんとか、なの?」

 

その問い掛けに初めて反応し、振り返る。

 

「何度か来ただけだ」

 

ぶっきらぼうに告げ、視線が四月一日に向けられる。

 

「欲しいものが――ここにある」

 

挑むように告げる小夜の視線は、まるで懇願するように見て取れる。

 

「真夜は――?」

 

「――一度だけ来たことがあるだけ。私の場合、ここしか思いつかなかったっていうのもあるんだけど」

 

苦笑気味に漏らす真夜だが、どこかその表情が憂いを帯びたように陰りが入り、視線を落としている。

 

まただ――再会してから見せるあの顔……何故そんな辛そうな顔をするのか、未だに真奈には分からずにいた。

 

「それにしても――小夜が誰かと一緒だとは驚いたな」

 

「――連れてきたわけじゃない」

 

犬を撫でながら、小夜に話しかけるも、当人はからかわれたように感じたのか、不機嫌そうに言い返す。

 

「あ、わ、私達勝手についてきたんです!」

 

間髪入れず真奈が立ち上がり、声を上げる。

 

思わず口を挟んだものの、四月一日は変わらぬ笑みで小さく失笑する。

 

「でも…それを許した、と」

 

意表を衝かれたのか、口を噤むも、刺々しさはなく、どこか苦い顔だ。四月一日も小夜との会話を楽しむようなやり取りだが、不意に笑みが消え、犬を撫でる。

 

「浮島では、この子を通じて傍にいたけれど、役に立ったとは言えなかったな」

 

どこか申し訳なさげに告げる四月一日の言葉に真奈はハッとする。

 

浮島での一件は真奈も詳しくは知らない。だが、少なくとも真夜は自分よりも知っている――そして、この四月一日という青年も何かを知っているのかもしれない。

 

「君は――自分で自分を取り戻した」

 

「それでも――掛けられた言葉は、キッカケにはなった」

 

それが小夜なりの感謝だと四月一日は再び微笑を携え、問い掛けるように告げた。

 

「なら―――今日は?」

 

訊くまでもないかもしれない――向かい合うように振り向く小夜は、四月一日を正面から見据える。

 

「……また、刀が欲しい。強い、刀が―――」

 

懇願するように――そして、渇望するように告げる小夜に、反応したのは四月一日の膝下でくつろいでいた犬だった。

 

突然四月一日の動作が止まったことを感じ取り、窺うように見上げると、四月一日は微かに眼を細めてなにかを考えるように小夜を見つめている。

 

どれだけそうしていたのだろうか――四月一日が席を立ち、犬を床に下ろすと戸口へと促した。

 

 

 

数分後――一行はミセの奥にある倉庫のような場所に通されていた。

 

薄暗い部屋は僅かなランプ灯だけしか灯りがなく、奥までハッキリと認識できない。真奈は真夜と部屋に入った場所で佇み、小夜は一人倉庫の中を物色するように見回している。

 

四月一日は戸口に背を預け、煙管から白い煙を空中に霧散させながら天井を仰いでいる。

 

両の壁に備えられた棚には陶器の壺や皿、それに巻物や掛け軸、はては花瓶に楽器類、化粧箱や家具調度品まで置いてある。中央には台座に固定された槍や弓矢、刀剣類が置かれており、その様はまるで骨董品屋にいるように錯覚させる。

 

四月一日が漏らした『なんでも屋』という単語が的を得ているなと真奈は思った。不意に、真奈は横で平然としている真夜を見る。真夜にとっては二度目の光景だけに驚きは少ないのだが、真奈は思わず囁く。

 

「ねぇ、真夜――このお店、こんなに広かった?」

 

奥行を見る限り――というよりも、外観で見えた建物の大きさから考えるに、これだけの広さがあるのが信じられなかった。

 

「まあ、不思議なとこだから――なんなら、奥まで探検してみる?」

 

「え、遠慮しておくね」

 

好奇心がないわけではないが、なにか深く入り込んだら抜け出せないような感覚を抱き、苦笑気味に応える。

 

そうこうしている間にも、小夜は品定めを続け、やがてその動きが止まる。小夜が立ったのは、日本刀が何本も並べられた棚だった。それを一瞥し、その内の一振りを手に取る。

 

両手で鞘と柄を持ち、ゆっくりと引き抜く。抜き取った刃が微かな灯りに反射し、刀身に己の顔を映す。

 

美しくも妖しい刃紋を見据える小夜は周囲を威圧するようなものを感じ取らせ、真奈を動揺させる。真夜はその様子に息を呑む。その刃の向こうに見えるのは、己が狙う相手のみ―――鋭利な気配が充満するなか、四月一日はポツリと呟いた。

 

「やはり…それを選んだか」

 

まるで最初から分かっていたとでも言いたげに戸口から見る四月一日に小夜は刃を鞘へと収め、ゆっくりと向き直る。

 

「対価は?」

 

小さく問うと、四月一日は表情を隠し、一瞬真夜を見やった。

 

ほんの一瞬だったため、真夜も小さく眉を顰めるが、考え込むように煙管を噴かすと、応えた。

 

「……いい」

 

「――どういうことだ?」

 

予想外の答えだったのか、小夜が怪訝そうに見るも、四月一日は煙を吐き出す。

 

「対価は――いや、今はいいだろう。また、ここに来たときでいい」

 

どこか優しく見る四月一日に小夜は不可解ながらも、小さく頷き、真夜と真奈は困惑したまま顔を見合わせるのみだ。

 

 

 

「そばにいてやってくれるかな」

 

玄関まで見送りにきてくれた四月一日が掛けた言葉に真奈は思わず声を上げる。

 

「え?」

 

「小夜の――」

 

その言葉にブーツを履く手を止めてしまった真奈だったが、一足先に立ち上がった真夜は真剣な面持ちで見ている。

 

「――でも、その…迷惑がられてるんじゃ……」

 

無言の真夜に対して、真奈はどこか辛そうに言うも、四月一日は微笑む。

 

「心配ない――そう思っているなら、ここまで連れてはこないさ。それに、君らは店に入ってこられた。それだけで十分だ」

 

ますます分からなくなり、真奈は首を傾げる。

 

「……あの、二人はどういう………?」

 

小夜もそうだが、ここまで肩入れする四月一日との関係が気になったのか、思わず問い掛けると、四月一日は小さく笑う。

 

「店主と客…だよ」

 

簡素な答えだったが、答えながら犬の顎の下を指で掻くように撫でると、犬が気持ちよさそうに眼を細める。

 

「でもね、同じように永く生きていると、情も移る――」

 

発せられた声は優しげで――それでいてどこか儚く聞こえる。

 

「――はい」

 

応えずにはいられなかった――そんな安っぽい同情などではなかったが、真夜は静かに…それでいてどこか強い意思を感じさせる口調で頷いた。

 

それに満足したのか、真夜に笑いかける四月一日に頭を下げる。

 

「真奈、先いくね――小夜放っておいたら先にいっちゃいそうだから」

 

どこか悪戯っぽく告げると、真夜は先に屋敷を出た小夜を追って戸をくぐっていく。

 

「あ、ま、待って!」

 

慌てて履くのを再開し、紐を締めると踵を合わせながら立ち上がる真奈に、四月一日は声を掛けた。

 

「――彼女を支えてやってくれ」

 

四月一日が視線で差した先には、店の外に出た小夜を追って扉をくぐった真夜の背中が見え、真奈は驚いた。

 

「真夜…ですか?」

 

思わず問い返すと、小さく頷く。

 

いったいどういうことなのだろうか――困惑する真奈だったが、ある一点が引っ掛かる。

 

「でも――真夜は……」

 

再会して以来、どこか溝を感じる真夜との距離―――サーラットに加入すると同時にメンバーからすぐに頼られる存在となった。近くにいるはずなのにどこか遠いと感じる彼女。

 

「君しかできない――心配しなくていい」

 

そんな真奈の心情を察したのか、そう声を掛けられ、真奈は幾分か不安をやわらげた。

 

「ありがとうございます!」

 

頭を下げて礼を述べると、外で待ってくれている二人を追って外へと駆けていく。

 

閉まる扉の向こうで二人に追いつく姿が見え、やがてバタンという音とともに扉が閉じる。

 

「小夜――君の対価…そして、彼女の願い―――縁はもう…繋がっているから―――」

 

無音に包まれる屋敷のなかで、静かに呟く四月一日の言葉は溶け、まるでその存在すらなかったように屋敷内は静寂に消えた。




お待たせしました。
ミセ編終了です。
次回はもどって屋敷編。次にオリジナルのエピソードを挟んで学園編です。


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第拾弐夜

久しぶりに書いたので、前回投稿したのいつだっけ?と思い、確認すると………6年前(汗



四月一日のミセから戻った時には既に夜の9時を回っていた。夜の9時以降は未成年の外出が規制されるため、ギリギリだったのだが、そんなものに関係なく問題は起こった。

 

「だから、危ねえって言ってるだろうが!」

 

事の顛末を聞き終えた松尾がテーブルをバンと叩き、睨むように声を上げる。その勢いに真奈は若干引くも、それだけ心配してくれたことには嬉しく思う。

 

屋敷に戻り、暖房の効いたリビングに入った真奈を出迎えた面々に、帰宅途中でタウンガーディアンとトラブルになったことを伝えた。

 

四月一日のミセを出た後、帰宅途中でタウンガーディアンに職務質問を受けた。まだ条例で定められた21時ではなかったから、どうにかやり過ごそうとしたものの、小夜が持っていた刀を指摘され、言葉に詰まった。ただでさえ、個人IDなど持っていない小夜が、銃刀法違反で検挙されたら、どうなるか分からない。

 

監視員達が囲うように動くなか、小夜の動きは速かった。瞬時に足払いで監視員を転倒させ、まともに受身も取れなかった監視員は地面に強か身を打ちつけ、悶絶する。

 

そこで監視員達は携帯武器を取り出し、警棒で叩き伏せようと襲いかかってきたが、標的にされた真夜はその腕を受け止め、同時に絡め取って相手の突進を利用して膝蹴りを相手の腹部に叩き入れ、呻き声を上げて崩れ落ちる。

 

残りの一人も小夜に襲い掛かるも、それは空を切り、小夜は手にした刀を鞘ごと振るい、腕に叩きつけた。骨が妙な方向に曲がり、苦悶の悲鳴が響くも、間髪入れず、足払いされ、転んで気を失った。

 

瞬く間に一掃した小夜と真夜に真奈は呆然となった。

 

「すごい……」

 

純粋にそんな言葉しか出てこなかったが、真夜がすぐさま真奈の手を取った。

 

「ほら、逃げるよ! 小夜も!」

 

真奈の返事を待たず走り出し、仏頂面の小夜に叫ぶ。

 

「面倒事は御免でしょ!?」

 

そう指摘され、小さく舌打ちして後を追って走り出した。三人はそのまま裏通りを抜け、表通りに出るやいなやすぐさま人ごみに紛れていく。

 

渋谷の街はちょっとした迷路だ。まだ午後9時までに時間はあることから、少しばかり攪乱するように走り、そのまま駅まで向かった。

 

真夜に手を引かれながら、真奈は思わずその手を強く握り締める。離れることへの不安、そして真夜がどこへ向かおうとしているのか、それを知りたいと―――

 

ちょっとした冒険譚のように語った真奈に、聞いていた松尾達は大仰にため息をついた。月山は不安がまだ拭えないのか、真奈に抱きついたままだ。

 

そんな月山の頭を撫でながら、苦笑する。

 

「それにしても、もう話題になってますよ。顔を撮られなかったのが救いですね」

 

藤村がノートパソコンの画面を見せる。渋谷の路地裏に設置された街頭カメラが監視員を相手に立ち回る小夜と真夜の姿を捉えていた。だが、距離があり、また映像も夜ということで、傍目には顔の認識は難しい。

 

この後すぐに、この様子を遠目で見ていた人間がすぐさまSNSで呟き、お祭り騒ぎになっている。タウンガーディアン相手の立ち回りなど、滅多にお目に掛かれないだけに、シスネット・トークでもスレッドがいくつも立っている。

 

女の子であるということまでは分かったが、その素性に関してはいろいろな憶測が飛び交っているが、内容が内容だけに松尾達の心配も冷や汗ものだ。

 

「それにしても、やっぱり真夜さんも普通じゃないですね。あんな風に相手取れるなんて―ったぁ」

 

思わず口にした藤村の頭を松尾が叩き、月山の睨む視線で失言に気付き、委縮する。

 

「とにかく、次危ねえってことになったら、すぐに逃げろよ!」

 

口が悪いものの、そう気遣う松尾に苦笑しながら、真奈はまだ胸の高揚を抑えることができなかった。

 

 

 

 

その頃、真夜は小夜と共に殯への報告に訪れていた。

 

ちょうど食事の時間だったようで、無駄に長いテーブルの上座にて並べられた豪華なディナーを食すなか、その対面の席に座らされた真夜と小夜の前にも同じものが並んでいるが、どちらも手をつけていない。

 

「口に合わないかね?」

 

食事をする手を止め、そう問い掛ける殯に小夜は無言のまま、真夜はやや困ったように笑う。

 

「ダイエット中で」

 

誤魔化しにも似た言い訳だったが、真夜は内心警戒を高めていた。屋敷に戻ると、矢薙から小夜といっしょに報告に来るようにと言われたからだ。

 

それには首を捻った。小夜のことは分かるが、別段自分には報告するようなことはなかったし、こんな展開は『元の』流れにはそもそもなかったはずだ。

 

戸惑う中、部屋へと通された二人の前には既に食事が用意されていたが、この屋敷では迂闊に口にするのは躊躇われるため、適当に誤魔化す。そのタイミングで殯に今日の行動を訊ねられたので、小夜を見やるが、当人は無言で無愛想なまま、我関せずといった態度だ。

 

(これって、私が説明するの?)

 

殯からも無言の圧力を感じ、内心でため息をつきながら、仕方なく四月一日のことはうまく誤魔化し、小夜が新しい『刀』を手に入れたこと、そして帰宅中に都の監視員に職務質問を受け、どうにか振り切ったことを報告した。

 

報告を終えると、両者を挟んでテーブルの真ん中で話を聞いていた矢薙の表情がみるみる顰まり、眉間に皺が寄っていくも、聞き終えた殯は食事を止め、一息つくようにポツリと呟いた。

 

「刀―――ね」

 

胸元のナプキンを取り、口元を拭いながら、興味深そうにしているも、矢薙は内心、そうじゃないと声を出したかった。

 

とはいえ、それを口にしなかったのは既に前例があったからだ。やや恨めしそうに真夜を見る。彼女がサーラットに加わった際、帯刀することを許可して欲しいと申し出た。

 

矢薙は一瞬、何を言われたのかまったく理解できなかった。一介の女子高生がそもそも真剣を持ち歩くなど、彼女の常識の範疇外だったとしても責められまい。

 

いや、それ以前に日本には銃刀法という法律がある。許可のない銃刀の所持は違法なのだが、それを真顔で言うものだから矢薙は大いに混乱した。だが、彼女はこれは『古きもの』と戦うために必要なものだと譲らなかった。存在は知っていてもその姿を見たことがなかった矢薙にしてみれば、さらに不可解なことになったことだろうが、殯はあっさりと許可を出し、それどころか隠蔽のための手配まで行ったのだから、今回も同じだろうと嫌でも察した。

 

「分かった。君にも一条君と同じ許可を出そう」

 

殯の言葉に矢薙は心中にため息をこぼす。

 

組織のトップが決めた以上、矢薙には異論を挟むことはできない。自分がこの非合法的な組織にあって常識人としての役割を担っているという自覚はある。

 

「矢薙君、武器の偽装の手配を頼む」

 

「―――承知しました」

 

そんな矢薙の気苦労を知らず、難題をあっさりと指示する殯に頷いた。そして、食事もそこそこに、胸にかけていたナプキンで口元を拭き、そのまま殯は車椅子を動かし、小夜と真夜の二人を促し、部屋を後にしていった。

 

一人残された矢薙はようやく重い息を吐いた。

 

都の監視員を相手に立ち回ったなど、頭痛もいいところだ。いかに自分達が危ない橋を渡っているのかは今更のことだが、自分が考えなければならないのは組織のことだ。自身がこの組織内で求められているのは、バランスを保つこと。

 

殯も冷静な人物であり、事業者としての培われた故の判断力もある。だが、車はアクセルだけではダメだ。適度にスピードを調節し、時には制止させるブレーキが必要だ。矢薙がサーラット内で求められているのはその役割だ。

 

元々、七原文人とセブンスヘブンの後暗い関係を実証するだけでよかったのだ。それは、浮島での情報を得たことで十分だった。

 

(思えば、『彼女』が加わってかしらね―――)

 

浮島での情報を得て確信を持ったというタイミングでサーラットに加わった真夜。殯も彼女に対してはどこか他のメンバーよりも気に掛けている素振りがある。

 

そして今、小夜だけでなく彼女まで連れて行ったことからもそれは確信をより強めた。秘書である自分よりも優先されている彼女の背景は気になったが、殯が自分には必要と判断したのだろう。

 

なら、自分の役割は小夜のことが露呈するリスクを少しでも軽減させるための手を回すこと。それがひいては、組織のためになるのだから。

 

そう、頭を切り替えるも、心労は隠せず、矢薙は無意識に深くため息をこぼした。

 

 

 

 

 

 

車椅子に乗った殯が先導する後ろを小夜と真夜は付いていた。二人は屋敷内の殯の私邸―――サーラットのメンバーも立ち入りを禁止されている場所へと連れてこられていた。

 

整えられた板張りの廊下に障子が閉じられている部屋の上には鬼面がいくつも魔除けのように飾られている。だが、反対を見れば外の景色が見えるはずの窓は硬く木で覆われ、星明かりすら差し込まない。

 

僅かに灯る非常灯のような照明だけが、頼りだった。

 

「―――小夜、と呼んでも?」

 

無言が続くなか、不意に殯が口を開いた。振り向かずに真っ直ぐ前を見たままだが、問い掛けられた小夜が抑揚のない声で応じた。

 

「好きにしろ」

 

「では小夜、塔が君を捜している」

 

短い言葉でその背景を告げた。渋谷区での立ち回りは既にセブンスヘブンの知るところとなり、都を通じて通達が降り、要注意人物として逮捕命令が出ていた。

 

タウンガーディアンはもとより、警察組織といった取締機関まで動き出しているという情報もある。

 

「そして一条君――君も、捜索のターゲットになっているようだ」

 

不意打ちのように告げられた言葉を傍観気味に聞いていた真夜は、虚を突かれたように息を呑む。

 

「小夜といっしょにいたところを監視カメラに撮られたようだ。小夜の協力者として捜査が進んでいる」

 

苦く顔を顰める。周囲には注意していたつもりだが、やはりそう上手くはいかないらしい。とはいえ、相手側には既に真夜のことは知られている。

 

(それに、『あなた』も、でしょ)

 

内心で舌打ちしながら、できる限り動揺を隠し、無言で応える。

 

「あまり、今回のような騒ぎは控えてもらいたい」

 

「―――善処します」

 

自分で言って白々しい―――互いに矛盾したやり取りだが、どちらにしろ、最悪の場合は既に覚悟している。真夜の言葉を一瞥し、殯は小夜に話しかけた。

 

「小夜、文人を殺す機会は必ず俺がつくる―――それまではおとなしくしておいてくれ」

 

言葉の中に混じる明確な敵意――それは、真夜も感じ取った。小夜も眉を顰め、疑問を返した。

 

「お前と文人の間に、なんの因縁がある?」

 

「俺と文人は、『従兄弟』同士だ」

 

刹那、小夜の気配が明確に変わる。歩みを止め、刀の柄に手をかけるが、それを制するように殯も動きを止め、車椅子を器用に振り返させる。

 

「この事は、サーラットの誰にも伝えていない―――一条君は、あまり驚いていないようだ」

 

小夜の疑惑を帯びた眼が真夜に向けられ、内心、殯に毒づく。

 

「詳しくは知りません。ただ、セブンスヘブンに詳しいとは思ってました」

 

誤魔化すように話を逸らす。関係どころか、より詳しいなどと口が裂けても言えない。その答に納得したのか、それとも疑っているのか、表情からは読み取れなかったが、殯がそれ以上追求することはなかった。

 

再び前を向き、車椅子を操作して動き出す様子に、促されるように後を歩き出す。

 

「『朱食免』を、知っているな?」

 

「―――ああ」

 

唐突に口を開いた殯から出た言葉に、小夜の警戒は上がるが、抑揚のない声で応じた。

 

「一条君は?」

 

さっきから随分と構ってくる―――自身のことを探っているのか、それとも小夜の疑心暗鬼を煽りたいのか、判断はつかないが、下手に全て知らぬ存ぜりはできない。

 

「ある人からその存在は聞きました。古きものと古に交わされたものと」

 

嘘は言っていない―――ルーシーに心で謝りながら、深層には触れず、その存在を知る者が得ているであろう事実のみを告げた。

 

「そうだ。『古きもの』と呼ばれる異形と人間が交わした約定。ヒトを喰らってもよいが、定数を守れと書かれた免状―――俺と文人は、代々朱食免を隠し、そしてその隠すものを守る役目を負った一族の末裔だ」

 

殯はさらに詳細を語ってくれた。

 

それがいつ交わされたのか、確かなことは分からない。記述によれば、それこそ今尚確かな記録が残らない西暦以前ともされる。まだ、人が自然を畏れ、人ならざる存在を信仰していた時代において、古きものはその対象だったのかもしれない。

 

どのような理由でそんなものを結んだのかすらハッキリとは分からない。今となっては、ただ『朱食免』という約定があるということだけ。

 

「表の殯が時代の政を操る者達と折衝し、免状の存在を遵守させつつ、権力者に悪用されないよう隠し、裏の七原が血族のみが受け継ぐ秘術で殯を守る。それが、『塔』と呼ばれる者達だ」

 

古きものと交わした『朱食免』を掲げ、彼の者達は、時の権力者に働きかけ、そして世の混乱を誘発させた。人の世に混乱が起こるときは、古きものが人間を喰いやすくなる。

 

元禄時代に連なる戦、日本が二つに割れた幕末、近代化に伴う侵略戦争、そして半世紀前の国土を灼いた大戦―――多くの人が死んだ。その裏で古きものは朱食免に記された定数分の人間を喰らっていたのだ。それは、戦火の混乱に紛れて、決して表の記録には残らない。

 

「胸糞悪くなりますね―――一部の人間に忖度されていたなんて」

 

記憶としては知っていても、殯の口から語られた内容を改めて聞くと反吐が出る。知らぬところで、一部の人間に命を好き勝手されるなど、気分のいいものではない。

 

そんな嫌味に対し、殯はまったく動揺も見せない。そんなものは、今日に至るまで数え切れないぐらい聞いてきたのだろう。

 

「だが、そのおかげで人の世の調和が保たれているのも事実だ」

 

古きものが見境なくヒトを喰えば、この世は当に滅んでいただろう。それに、今の時代――年間、この国だけでも何十人と行方不明者が出る。見知らぬ他人が消えたところで、騒ぐのは極一部だ。

 

多数を生かすために少数を切る―――いつの時代においても横行する現実だ。

 

「ふたつの家は、互いを支え合い、今日まで続いてきた―――文人が道を違えるまでは」

 

朱食免を持つ者達を時の権力者達が疎ましく思うのもまた事実だった。あわよくば、それを自らの手中にせんと画策する者も少なくはなかった。それらから殯の一族を守護してきたのが七原だ。故に、この国において両家は権力者に近い立場で今日まで来た。

 

それが今後も変わらずにいくかと思えたが、それを壊したのが『七原文人』だった。

 

やがて、一行は廊下の突き当たりに当たる場所へと着いた。古びて錆びたような鉄格子の柵に覆われた一枚のドア、その前には入るのを拒むように大きな南京錠が取り付けられていた。

 

殯は懐から一つの鍵を取り出し、錠の鍵穴に差し込むと、苦もなく外れ、そのまま固定していた鎖を外し、鉄格子の柵を引き開けた。

 

奥にあったドアが開くと、小さな部屋―――やや古びているが、それはエレベーターだった。殯が促すと、小夜と真夜は先に奥へと入り、殯の車椅子がバックで入室すると、両サイドからドアが閉まり、小さく揺れながらエレベーターはゆっくりと地下へと降下していった。




まず、お待たせして申し訳ございません(土下座

この作品を待っててくださった方には、本当にお待たせしました。の割にはあまり話は進んでませんが(汗

現状も、コロナ下でリアルが忙しく、なかなか、執筆する時間が取れないのもありましたが、話題の「鬼滅の刃」、そして「BEM」を視聴して、結構BLOODシリーズに通じるものがあるなあと思い、昨年から少しずつこちらの執筆欲が出てきました。

現状はまだ、クロアンの方が進むのですが、こちらも並行で少しずつ書いていきますので、気長にお付き合いいただければと思います。


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