このダンジョンに神殺しが居ることは間違っている。 (みころ(鹿))
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 命を救ったのは一つのじゃが丸君でした

 

・・・

 

 

 

庭園の中、とある墓の前で一人の青年が手を合わせている。

鉄で造られた墓標には幾つかの名前、彼とその家族の名はこちらの言葉で書かれているがその意味はしっかりと伝わった。

 

『両橋夏目、ここに眠る』

 

かつて『少年』だった白髪の男は、微笑みを浮かべてかつての仲間を思い出す。

その物語は紡がれるべくして紡がれた。神殺しの逸話、獣の序章を語るには今から十数年前に遡らなければならないだろう。

ベル・クラネルは目を閉じる。今は亡き仲間を想って、ゆっくりとその記憶を辿り始めた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「やばい、飢えた」

 

 

迷い込んだ森の中で俺は息を漏らし口を開けながら、まるで亡者のように重い脚を擦るように進ませていた。

 

思えば…森には食べ物がある、という先入観がよくなかったのだろう。

特に森に詳しいという訳でもない俺は何が食べれるかが解らず…というか、木や藪ばかりで何も食べれそうなものは見当たらず、飢えを満たす術を持っていなかった。

 

――俺は妹と従弟の三人で、山奥に道楽がてらに「狩り」をしにきていた。

 

なので勿論山奥だからと食べ物は大量に持ち込んできてはいたのだが、獲物の一匹を敷地内から逃がしてしまい、俺だけ逃げ出した獲物の追跡を始めた。

 

…結果として獲物に追いついた俺は狩りを完遂することはできたのだが些か愉しみすぎたらしく、気づけば俺は完全に山で遭難していた。

 

 

「腹減った…」

 

 

体格がでかいせいでというべきか、185cmもある巨体は何かと便利だがその分エネルギー消費が激しい。

一食でも抜かすと死にそうなほどの空腹が腹を襲うのは昔からだった。

 

…そして獲物を食べるという選択肢こそあったが、カニバリズムは発症していなかった。

 

 

――獲物とは「人間」のことだ。

 

 

…決してウサギや、もみじなどではない。

そして簡単に言って、俺達は何人かの人間を拉致し、さながらスプラッター映画よろしく面白おかしく殺していた。

しかしその中の一人が何の偶然か、敷地内から逃げ出してしまった。

幸いにもすぐに逃げ出したことに気が付けたので、俺はそれを追跡し(まぁせっかくなら楽しもうとジワジワと追い詰めながら)、体力が尽きたところを惨殺した。

 

…今頃は細切れになって、虫にでも食われているころだろう。

 

 

だが今の問題は飢えて死にそうだという事。

 

残念なことに着ているコートの中にも、シャツやジーンズの中には食べ物は無く。

腰に付けているグローブは金属製で…いや、革なら食えるとも思ったが圧倒的に栄養が足りないだろう。

 

あまりにも馬鹿馬鹿しい死に方だ。

何より予想外だし、死ぬなら死ぬで派手な死に方をしたかった。

誰にも気づかれず、ひっそりと死ぬなどと言うのは正直…

 

 

「…マジ、か」

 

 

視界が前に揺らぐ。

足に力が入らなくなった俺はガクンと膝を折り、その場に倒れ込んだのだった。

 

――()()()()()に。

 

 

 

・・・

 

 

 

「あの…大丈夫ですか?」

 

 

声が聞こえた俺はガバリと顔を上げると、見上げる。

正直このまま行けば死にそうだが、まだギリギリ動くだけのエネルギーは残っていた。

そして口を開く。

 

 

「腹が…」

 

 

視界は霞んでいるが、そこには真っ白な何かがいた。

…とはいえ前後不覚な俺は、ただ食欲のままに答える。

そしてそれに合わせるかのように腹の虫がギュルルと鳴いた。

 

 

「あーなるほど…でしたら、これどうぞ!」

 

 

白い何かは納得したかのようにガサガサと自らの身体をまさぐると、何かを俺の顔の目の前に差し出した。

 

 

「たいしたものじゃないですけど…」

 

(揚げ物…?)

 

 

なんだか懐かしいような油の香りだ。

どうやら食べ物を恵んでくれているらしい。

 

なんにせよありがたい、俺は震える手を伸ばすとそれを受け取る。

 

 

「…うま」

 

 

かじりつくと肉汁があふれだし、芋の甘味が舌を包んだ。

衣がサクサクと歯に当たり、油が滲みだした。

 

…いやそれは幻覚だったのだが、腹の減りすぎた俺はそのように感じた。

空腹は最高のスパイスとはよく言った物だろう。

 

 

ガツガツと貪るように、それを食べ終えた俺は腹の全てが満ちるには全然足りないが、だいぶ落ち着いたのを感じた。

そして視界もだいぶはっきりとし始め、身体に力も入るようになった。

 

俺は腕を地面に立てると身体を起こす。

そしてその場に胡坐をかくと「命の恩人」を見上げた。

 

心配そうな顔をして、しゃがみ込んで俺を見ていた「白髪の少年」は笑顔を見せる。

 

 

「…良かった!」

 

(うわまぶ)

 

 

屈託のない、純粋な笑みだ。

純粋な善人君子だろうが何だろうが殺してきた俺だが、それが命の恩人ともなれば話は別だ。

それだけでも好意を抱くに足りうるというのに、更にという話だ。

 

 

(あれ、俺死んだ?)

 

 

もはや天使のような少年に一瞬現世であることを疑ったが、たとえあの世であろうと、とりあえず窮地を救ってもらったことは感謝しなければならないだろう。

 

 

「えーと…ありがとうございます?」

 

 

なかなか感謝の言葉など述べないので、少し硬い感じになってしまった。

…が俺はなんとか頭を下げ、感謝の姿勢をとることができただろう。

 

 

「いえいえ!お互い大変でしょうけど頑張りましょう!」

 

 

…少年は何やら革の鎧のようなものを着ている。

最近の山の狩人はそんな恰好をするのか、同職と間違えられているようだ。

というか山で行き倒れて救われるなど、奇跡に――

 

 

「あ?」

 

 

――辺りを見渡した。

 

 

まず座っている地面には石畳が敷き詰められていた。

硬い石はヒンヤリとしており、触り心地はザラザラとしていた。

そして町並みはどこかRPGを彷彿とさせるものだった。

夜も明けており、朝焼けの澄んだ空気は気持ちの良いものだった。

辺りにはこの少年以外には人は見当たらず、町は静寂を携えていた。

 

…端的に言って、気づけば山から知らない町にいた。

 

 

「どうかしましたか?」

 

 

ポカンとした俺に、再び心配そうな顔をした少年が尋ねてくる。

俺は余りの情報量と、現実離れした(事態には結構慣れているが)状態に思考停止していた。

そしてただ困惑という感情のままに尋ねる。

 

 

「えーと…ここ、どこ?…ですか」

 

「ここ…?あぁ、ここは――」

 

 

一瞬怪訝そうな顔をした少年は、すぐパッと顔を輝かせると立ち上がって答えた。

 

 

「――ここは、迷宮都市オラリオ!世界で唯一迷宮のある街ですよ!」

 

 

そう言って彼はある方向を指さす。

釣られるように俺もそちらを見た。

 

…そこには「塔」が建っていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「迷宮…?」

 

 

もう何が何やらといった感じだが、少年は嬉しそうな顔をすると鼻息荒く続ける。

 

 

「その反応解ります!僕もここに来た時は右も左も解らなくて…やっぱり何も()()がない状態で冒険者になるのって凄い大変で、それに何より僕なんかは――」

 

 

…どうやら「冒険者」というのと勘違いされているらしい。

RPGぐらいでしか聞く事の無いその単語に、俺は更に困惑を極めた。

少年は何やらしゃべり続けており、俺は思考を整理する余地も無かった。

 

 

「ちょい待ち」

 

「はい?」

 

 

嬉しそうに語っていた少年を俺は手で制する。

少年が笑顔のまま振り返り止まると、少しだけだが俺は思考を整理する時間を得た。

 

 

(え、サバゲ?)

 

 

何かしらの秘境のテーマパークにでも迷い込んだのか、と常識(?)で考えればそうなるだろう。

しかし規模が大きすぎるし、迷い込んだはずの山のようなものは周囲に見えなかった。

 

 

(え、異世界?)

 

 

もはや現実では無い気がする。

やはりあの世なのか、それとも森に迷い込んだ拍子に最近妹の読んでいたラノベが如く異世界にでも迷い込んでしまったのかもしれない。

 

…中々に馬鹿にできない可能性だ。

 

俺はため息をつくと、片目だけ開けて尋ね直す。

 

 

「…それで、なんて?」

 

「ですから僕のファミリアにどうですか!?」

 

「…」

 

 

また知らない単語だ。

察するに「パーティー」のようなものだとは思うが、まだ情報量が足りない。

 

 

「あー少し考えても良いか?」

 

「はい」

 

 

…何だか誠実そうではある。

そのファミリアとやらに参加して、まずは情報収集をしてもいいのではないか?とも俺は思ったが、基本的に人に頼るというのは好きじゃなかった。

 

 

「…ちなみに名前は?」

 

「僕の名前はベル・クラネルと言います!…あなたは?」

 

 

髪色と目の色的にやはりと言った感じだが、日本人では無いらしい。

 

俺は内心ため息をつくと、自らの本名を告げた。

 

 

「両橋 夏目(りょうはし なつめ)…仲間からは略してリョナなんて呼ばれてたな」

 

「リョナさんですね!」

 

 

特に何の違和感も抱いていないらしく、少年は頭を下げた。

 

――ここで俺は向こうとは別世界だと判断する。

 

両橋とは向こうでは名の知れた名家であり企業であり、知らない人のいないほどの知名度を持っているのからだ。

だが同時に俺はその家の名前が嫌で、普段はほとんど本名を名乗ってはいなかった。

 

…しかし少年はそれに何の反応も示さず、ただの名前だと感じた。

たまたま少年が世間知らずという可能性もあるが、急にワープしたことや知らない単語からしてここは異世界という可能性の方が自分の中で高くなった。

 

――それになにより異世界など珍しくも何ともない。

 

 

「じゃあリョナさん!もしファミリアに入ることになったらぜひうちのヘスティア・ファミリアへ!それじゃ!」

 

「…あっ」

 

 

少年…ベル・クラネルが遠くに見えた塔の方角に向かって走り始める。

恐らく少年も冒険者で、冒険者はあの塔で「冒険」する…というのは何となく察しはつくが、システム的なことやもう少しこの世界についてのことを聞き出したかった。

…命を救ってもらった身で、がめついとは思うが。

 

俺は立ち上がると、伸びをする。

 

凝り固まった身体がぽきぽきと鳴り、だいぶ頭がすっきりとし始めた。

そして同時に――

 

…ぐー

 

――腹もなり始めた。

 

 

「腹減った…」

 

 

ひとまず何か食べれるモノを探そうと決めた俺は、何の目標も無く歩き始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

とはいえ、どこに向かえば良いかすら解らない。

随分朝早いらしく空気は澄み、人通りは無く、道沿いには何個もの店が並んでいるのは解るが人は立っている様子は無かった。

それに文字も解らず、店の看板に書いてあるものは判読不可能だった。…数字はあるようだが。

 

 

「はー…」

 

 

相変わらずゴギュルルと腹の虫は鳴き続けている。

その度に耐えがたい苦痛が俺を襲い、身をくの字に折り曲げそうになった。

 

俺は腹を自らの手で抑えながら、まるで浮浪者のようによろよろと石畳の道を歩いていた。

 

 

「あー…ここが迷宮か」

 

 

そして気がつけばかなり大きな広場についていた。

噴水のある広場には先程までかは何人かの人間が見え、往来が見えた。

 

 

その人間達は噴水広場の奥にある建物、ひいてはその上にある塔の中に入っていく。

 

 

「いやでもなぁ…」

 

 

そもそも冒険者が職業なのかすら怪しい。

実は道楽であって、金は貰える職業では無いのかもしれない。

 

――現在の目標は金だ。

 

いや厳密に言えば腹を満たす事なのだが、そのためには食べるものを買わねばならず、やはりそのためには金が必要だろう。

そして日本円はそもそも使えないだろうし、そもそも持っていなかった。

 

なので恐らく職業である冒険者になり、金を稼ごうというのが現在の目標だ。

…とはいえ、そんな急になれるものかと普段ならば考えるだろうが、空腹で余裕の無い俺にそんな思考の余地は無かった。

 

まぁ何はともあれ人はいるのだから、追いはぎするなり尋ねるなりはできるだろう。

 

 

俺はよろよろと噴水の前を横切ると、その建物に近づく。

 

 

「…」

 

 

巨大な塔は見上げるほどに高く、横幅もあった。

 

 

「あ、でも喉乾いたな…」

 

 

そういえば水も飲んでいない。

あのベルクラネル君には食べ物を恵んでもらいはしたが、喉を潤す術はくれなかった。

 

噴水の水を反射した光が、目に入る。

 

…町の噴水などというのはあまり綺麗では無いだろうが、多少ならば問題ないだろう。

 

俺はよろよろと倒れ込むようにして噴水の縁石に倒れ込む。

そして冷たい噴水の水に手を入れると、まずはバシャバシャと顔に水をかけた。

 

 

「はー…」

 

 

だいぶ心地よい。

汚れを取り除くのは動物としての基本原理であり、身だしなみを直すというのは猿でも行っている事だ。

 

俺はブルブルと顔を振ると、服の袖で顔を拭う。

そして次は手で水をすくうと、喉を鳴らして飲み干した。

 

 

「うま…」

 

 

乾いた大地に染みわたるように、水は喉の飢えを癒すと俺の気分をだいぶ楽にした。

そして空腹が最高のスパイスのように、乾ききった喉は至福を俺に与えた。

 

…俺はまるで犬のように噴水の水を直接飲み始めた。

 

 

「あの…?」

 

 

いやしかし美味い。

若干土の味こそすれ癒しとは極限状態だからこそ楽しめるものだとすら感じられる。

こんどは獲物に極限状態を味あわせてから癒しを与え、そこで殺すというのもいいのかもしれない。

あるいは「癒し」と「家族」何かを選択させても――

 

 

「あの!」

 

「あ?」

 

 

何やら声をかけられていた。

見れば噴水の水はもうほとんどつきかけており、底が見え始めていた。

 

 

「お腹壊しますよ!?」

 

 

そして気づけば俺の隣には眼鏡をかけた女が立っていた。

耳が異様に尖っており、その服装はどこかスーツを連想させた。

 

 

「あー…自分胃が凄い強いってのと、そうしなければいけない理由がございましてー」

 

 

どちらも嘘では無い。

胃は誇れるほど強いし、そうしなければ喉の渇きで死んでしまうだろう。

 

というのを身振り手振り真顔で説明しながら、立ち上がる。

 

見れば周りには野次馬…という程では無いが冒険者が何人か立ち止まってこっちを見ており、噴水の水を飲み干す俺を見ていたらしい。

 

…そして若干毛色は違うがその中の人が心配して声をかけてきたということだろうか?

 

俺の身長の高さにその人は一瞬驚いたようだが、気丈な顔に戻ると責め立てるように俺に食って掛かった。

 

 

「…確かに噴水の水を飲んではいけないなんて決まりはないですが!あなたも冒険者なら自分の健康ぐらい…いやそもそも常識として」

 

 

真面目な人らしい。

そもそも噴水の水など飲まないという前提に気づいたようだ。

 

俺は肩を竦めると、反論した。

 

 

「いや喉が渇いて仕方なかったんだって…それにそもそも冒険者じゃないしな」

 

「はぁ…?…それに冒険者じゃないって…」

 

 

彼女は驚いたような顔をする。

…そんなに冒険者のような恰好をしているだろうか?

黒いコートにTシャツ、ジーンズという格好は確かにこの世界では珍しいだろうが、所謂甲冑のような冒険者の格好では無い気がする。

 

 

「…ご職業は何を?」

 

「現在無職。というかそんなに冒険者に見えるのか、この恰好?」

 

「…えぇ、名を上げるためにそういう奇抜な格好をする冒険者はたまにいますので…」

 

 

まぁ…不可抗力という奴だった。

俺は内心溜息をつくと、困惑した様子で何かしら考えている彼女に声をかけた。

 

 

「なぁ、冒険者ってどうなったらなれんの?」

 

「へ?…まずは神の恩恵を受ける為にファミリアに入って、ギルドで登録すれば…」

 

「はぁ!?」

 

 

思わず「神」という単語に、いや「神の恩恵」という言葉に素っ頓狂な声をあげてしまう。

…しかしそもそもこの世界の神と、もといた世界の神では意味合いが違うのかもしれないと自分を諫めると、息を吐いて落ち着いた。

 

 

「え、つまり冒険者になるためにはファミリアに入る事が絶対条件?」

 

「はい、私達人にはモンスターと戦う力はありませんので。そんな危険な行為をギルドは認める訳にはいきません」

 

 

ギルド、というまた新しい単語が飛び出す。

俺はあえてそれを考えないようにすると、次の質問をした。

 

 

「ちなみに冒険者はどこから金を貰えるんだ?」

 

「…あぁ、モンスターを倒した時に出る魔石をギルドにある換金所に持って行けばその量と質によって報奨金を出します…それが冒険者の主な収入源です」

 

「モンスター…魔石…」

 

 

その二つの単語は考えずとも意味ぐらいは解る。

迷宮なのだから魔物ぐらいいるだろうし、殺せば何かしら価値のある者がドロップするだろう。

 

 

「…ということは冒険者志望の方ですか?確かに体格などは良いですし、よければギルドの方で求人を出しているファミリアをお探ししましょうか?」

 

「ん…」

 

 

親切な人だ。

ファミリア、というのがいまいちよく解らないが冒険者になるためにはそれが必要らしい。

そしてそれを紹介してくれるらしい。

 

だが問題は――今すぐにでも金を手に入れて、物を口にしないと死ぬという事。

 

 

「あー…ヘスティアファミリアって知ってる?」

 

「え…あぁ…はいそれはもう」

 

 

どこか遠い目をした彼女に俺は嘘をつく。

 

 

「実はそこに入ってて…」

 

「え!?」

 

 

勿論入ってすらいないし、詳しくもない。

しかしすぐにダンジョンに入る為には、知っているファミリアの名前を借りるしか無かった。

 

 

「あーじゃああれが冒険者登録だったんですねー知らないでサインしてましたー」

 

「…」

 

 

彼女はどこか怪訝そうな顔をしている。

…勿論知識が無い状態での嘘など、嘘くさいに決まっているだろう。

それを判断することさえできない俺は、()()()

 

 

「じゃあ俺これから迷宮行くんでな!」

 

「ちょっと、待って!――あぁ、行っちゃった…」

 

 

俺は塔に向かって走り始める。

その下には大きな口が開いており冒険者達はこぞってその下に、その更に下を目指して歩みを進めていた。

 

そして腹を空かせた殺人鬼も、迷宮に一歩を踏み出した。

 

 

 

・・・

 

 

 

迷宮の中は水晶で十分に照らされていた。

どこか洞窟を彷彿とさせる場所ではあるが天井はそれなりに高く、閉所での息苦しさなどは無かった。

 

 

「腹…減った…」

 

 

噴水の水を大量に飲んだ為、空腹は一時的にはしのげたが、やはり栄養が圧倒的に足りない。

…かなりふらつきがきていた。

 

 

「うー…」

 

 

俺は唸りながら歩く。

空腹を癒す術を探しながら。

 

 

「…」

 

 

視界がまた揺らぎ始めた。

前後不覚になり、世界のなにもかもが霞み始める。

身体が脱力を始め、左右にぶれ始めた。その様はどこか幽鬼のようであり、まさしく殺人鬼のそれだった。

 

 

「…なぁ聞いたか、あの話…」

 

「…何だ?…」

 

 

その時遠くから声が聞こえた。

俺は少し活力が湧くと、睨むようにそちらを見る。

 

…するとそこには四人組の男たちが歩いていた。

歩き始めてからはや二十分、だいぶ人は少なくなってきたと思っていたが、偶然にもパーティに巡り合えたらしい。

 

 

「…何でも噴水広場の噴水を飲んでる変な格好した男がいたらしいぜ?…」

 

「…はぁ?いくら目立ちたいからってそこまでするかね普通…」

 

「…まぁギルドのねぇちゃんが声かけてたらから問題ないとは思うが…」

 

 

耳も遠くなったらしい、彼らの話す言葉を俺は理解することは出来なかった。

しかしそんなことは余り関係が無い。

 

恐らく彼らはバックパックを背負っている辺り、食料や水なんかを持ち込んできているはずだ。

快楽以外の殺人はあまり好きでは無いが、こちらも生きる為だ…ダンジョンで人が死んだところで誰も気に留めないだろう。

 

俺は腰に付けてあったグローブを手探りで外すと、自らの手に付けた。

そして指を曲げ、()()()()()()を軽く出し入れすると、自虐的に微笑み、いつも通りの口上を述べた。

 

 

「神よ…今あなたの眷属を殺します」

 

 

 

・・・

 

 

 

「何だお前…ギャア!?」

 

「ローレン!?クソ!」

 

 

獲物は四匹…いや今は三匹。

完全に不意をついた俺は一人の首を刎ねた。

…世界は変わっても人間の柔らかさと、俺のグローブに収納されたワイヤーの鋭さは変わらないらしい。

いとも簡単にかかったワイヤーは、一番後ろを歩いていた人間の首を落としていた。

 

しかし一人を殺したことで、他三人が臨戦態勢になってしまう。

 

斧を構えたのが一人。剣を構えたのが一人。特に大きなバッグを背負い、クロスボウを構えたのが一人の計三人が臨戦態勢に入る。

全員困惑と焦りの表情を浮かべてはいたが、その目に闘志は宿っており、俺を殺すことに躊躇いは無さそうだった。

 

 

「…いいね」

 

 

皆殺しが目的の俺としては面倒くさいと言えばそうだが、殺し合いというのもそれなりに高揚感がある。

それに万全の状態でない俺は、殺されてしまうかもしれなかった。

 

俺は少し微笑むと、ふらりと前に倒れ込むように歩き始める。

 

そして体を左右に揺らしながら、右手のワイヤーを射出した。

 

 

それぞれの指の関節部に入れてあるワイヤーが勢いよく飛び出し、斧を構えた男に向かう。

 

 

ワイヤーの先には鋭い返しの付いた棘がついており、そのままの勢いで行けば男に突き刺さり激痛を与えるだろう。

一般人の目ではとても視認できないそれは確実に男の両目、喉、心臓を狙っておりいくら甲冑を身に着けているとはいえ傷つきそうだった。

 

男は驚愕の表情を浮かべ――斧をうまく使ってワイヤーを跳ね除けた。

 

 

「おお」

 

 

短い金属音が断続的に四つ響く。

男は斧を回すようにして確実に急所を狙ったワイヤー四本を全て弾いていた。

 

 

「だけど一本足りねぇよな」

 

「ぐっ…」

 

 

男の心臓のある場所から少しずれた位置から血が滲み始める。

五本あったワイヤーの内の一本が俺のグローブから男の胸に続いていた。

俺は拳を握り締め、弛緩した糸を張り詰めるように伸ばすと、走り始める。

 

 

「ぐあああっ…!?」

 

 

ワイヤーの位置が動く。

するとそれに合わせるように男の身体は横に切れ始めた。

まるで甲冑などないかのようにスルスルと動くそれは男の胸を裂くと、血を噴出させた。

 

 

「仕上げだ」

 

 

俺は男の横を通り抜けると、拳を振るかのようにして空を殴る。

それに合わせてワイヤーが伸縮し、男の身体を完全に両断した。

…別たれた男の上半身がボトリと地面に落ち、構えていた斧がカランと音を立てながら転がった。

 

 

「…割とやるんだな」

 

 

これが神の恩恵とやらなのだろうか?

一般人なら今の攻撃には対応できていないだろうし、五本すべて当たれば急所を抉り、最大の苦痛を与えながら男の身体をバラバラに切断することが出来ただろう。

 

 

「ふーん…」

 

「コイツ!」

 

 

素直に感心して、立ち止まってしまっていた。

そんなところを剣を構えていた男が斬りかかってくる。

 

しかし剣の男は仲間が一瞬で裂かれたことに恐怖したのか、震えており、明らかにその剣筋は揺れていた。

とはいえ疾いそれを俺は――左手で握り締めた。

 

 

「なっ…!?」

 

 

金属製のグローブは剣を受け止めており、金属と金属のぶつかり合うガキィンという不快音が辺りに響き渡った。

 

 

「はっ…」

 

 

俺は鼻で笑い、未だ斧の男の身体に刺さっていた棘を片手間に引き抜くと、巻き取り式のワイヤーがギュルルルと回り、棘が俺の拳に戻ってくる。

 

そしてそのままの勢いで男の首を殴りつけた。

 

 

「カハッ…」

 

 

棘が半分出た状態のグローブは男の首を貫通すると、気管に穴を開けた。

俺が拳を引くと血が噴き出す。

 

 

「――!?」

 

 

だが風切り音を聞いた俺は、剣の男の首を左手で掴んだ。

そしてクロスボウを構えていた奴の方に向けた。

 

 

「アッ…カッ…ハッ…」

 

「嘘だろ…!?」

 

 

盾にされた男の背中に三本の矢が突き刺さる。

そして同時に衝撃と、血煙が上がった。

 

 

「飛び道具か…」

 

 

俺も飛び道具兼近接武器を扱ってはいるが、やはり対峙した時こそその危険性を再確認できる。

 

 

俺は手に持った死体の脇からクロスボウの男の方に右手を伸ばす。

 

 

そして手首を身体とは反対側に折る。

するとガコンという音を立てて、グローブの手首から中指程の大きさもある巨大な針が射出された。

 

…クロスボウの男は斧の男ほど反射神経は良くなかったらしい。

 

何の対応も出来ない男の脳天に針が突き刺さると、男は白目を剥いて前に倒れ込んだ。

 

 

――そこには四人の死体と、俺だけがいた。

 

 

「ふぅ」

 

 

俺はため息をつくと、左手に持っていた死体を投げ捨てる。

既に絶命していた身体は力なく地面に転がった。

 

 

「うっ…」

 

 

今の動きで大分カロリーを消費したらしい。

先程よりも酷いめまいが俺を襲い、空腹が俺の胃を責め立てるように締め付けた。

俺はとりあえず自らの身体に殺人の痕跡が残っていないかを確認すると、クロスボウの男の方に近づく。

そして頭を動かすと、額に深々と刺さった針を引き抜いた。

 

 

「よっ…と」

 

 

それから男の身体から、バックパックをはぎ取る。

この男だけバックパックが大きかったのを鑑みるに、荷物運びの役割を担っているのだと考えられた。

 

俺は奪ったバックパックを地面に立てると、蓋をあけ、その中身を雑に地面にぶちまけた。

 

 

「…おっ、これか」

 

 

中身は良く解らない物が多かったが、その中に明らかに弁当のような四角形の包みが四つ、重ねるように置いてあった。

俺は試しにその中の一つを開いてみる。

 

 

「おぉ…」

 

 

中身は結構幕の内弁当に近い感じだった。

だが明らかに精の付くものが多く入っており、肉体労働者に好かれそうな素材が多く入れられていた。

 

俺は涎が溢れ出るのを感じながら、すぐにそれの蓋を閉じた。

 

流石に今この状態で、殺人者だとばれるのは辛い。

痕跡は残っていないので俺がやったという事がばれる事は無いだろう。

しかしここで呑気に弁当に食べていれば、疑われてしまうのは必然だ。

 

俺は残り三つの弁当を重ね持つと、早々と立ち去ったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

かなり遠くまで来た。

歩いたのもそうだが、何個か縦穴のようなものを降り、だいぶあの四つの死体からは全くの無関係の位置にこれたんじゃないだろうか。

…というか正直俺の空腹は限界を超えており、これ以上歩けそうもなかった。

 

 

「ここでいいか」

 

 

腰ほどの高さのある丁度いい窪みを見つけた俺は、そこに腰かけると足元に弁当を三個置いた。

そして手に残った弁当の蓋を開けた。

 

 

「ふぅ…いただきます」

 

 

俺は膝の上に弁当を置くと、合掌する。

そして涎が垂れるより早く、蓋の裏に挟んであった木箸をパチンと開くと、弁当の中身を掴んで口の中に放り入れた。

 

 

「…は」

 

 

短い間隔で息継ぎを繰り返すと、ガツガツと弁当の中身を喰らう。

凄い勢いで弁当の中身が減っていき、三十秒ほどで空になった。

 

 

「…次!」

 

 

俺は空になった弁当箱を投げ捨てると同時に足元に重なった弁当箱の中身をひっ掴んだ。

そして蓋を開くとまた口の中にかき込み始める。

 

同じ味というのは気に入らないが、空腹の俺には満足だった。

 

 

俺は二つ目も同じように喰らい終えると、箱を跳ね、また次の弁当箱に手を伸ばす。

 

 

「ふー…」

 

 

三個目を食べ、若干息を吐き出すと、俺は四個目に手を付ける。

そして流れ作業の如く、胃に詰め込んでいった。

 

 

「はー…」

 

 

胃が大体四分の一くらい満たされた俺は、ひとまず満足感で満たされ、両手を窪みにつけた。

そしてクリスタルに青く照らされた天井を仰ぐと、息をついた。

 

…思えばこの世界に来てから空腹で落ち着くという事が無く、半分とはいえ満足したことで初めて思考が冴えてきたような気がした。

余韻に浸るのもいいが、いい加減ここがどこなのか何故ここにいるのかみたいな事を考え始めた方が良いような気がした。

 

 

「コシュ―…」

 

 

だが考えている暇はないようだった。

 

目の前に「モンスター」が現れる。

 

下膨れした腹、灰色の肌、ぎょろっとした瞳、額から生えた角、人間ではない低い背丈。

 

 

…それは所謂「ゴブリン」という奴だった。

 

 

通路の角から現れたそいつは俺を見つけると、俺を睨み始めた。

そして唸りながら石の棍棒を構えると、にじり寄るようにこちらに歩き始めた。

しかしどこかその動きには余裕があるように感じられ、自らが死ぬとは微塵も考えていないようだった。

…確かに俺は武器らしい武器は持っていないので、そう見えたのかもしれない。

 

俺は軽く見られたものだと溜息をつくと、右手をにじり寄ってくるゴブリンに向ける。

そして関節を曲げると、金属グローブの関節部からワイヤーを射出した。

 

五本のワイヤーはもれなくゴブリンの身体に突き刺さり、ゴブリンが苦悶の表情を浮かべる。

そして数秒苦しんだ後、何か綺麗な石を落として消えた。

…食後はあまり動きたくない俺だが、地面に落ちたそれに興味が湧く。

 

俺は拳を握り締めワイヤーを巻きとると、立ち上がった。

 

 

「これが…魔石か?」

 

 

そしてゴブリンが死んだ辺りに近づき屈むと、紫色をした水晶のような石を拾い上げる。

その石は内側から妖しく光っており、何だか引き込まれそうな芸術的価値のありそうな灯を抱いていた。

これがあの醜いゴブリンの内側から出てきたと思うと少し複雑だが、これだけ見れば綺麗で、何だかお金に換金してしまうのはもったいない気さえしてきた。

しかし今食べた弁当だけでは恐らく明日の朝まで持たないだろう。

 

何個で何円なのかも解らない以上、できるだけ多く、できるだけ…まぁ見ても解らないが質の良い魔石を集めなければならない。

…今晩の夕食のために。

 

 

「コシュ―…」

 

 

そして見ればまた新しいゴブリンが通路の先でこちらを睨みつけていた。

…それも群れ単位で。

 

 

「…まぁ食後の運動程度にはなるかな?」

 

 

俺は両手から全てのワイヤーを垂らすと、地面に触れされる。

そして犬のように前傾姿勢をとると、ゴブリンの群れに向かって走り始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

――何だか身体が軽い。

 

ワイヤーで引っかけた巨大なアリのようなモンスターの首を刎ねると、ボールのように他のアリに蹴りつけて牽制する。

 

――それに何だか、最高の「切り裂き具合(げいじゅつひん)」に出会った時が如く、気分も高揚していた。

 

蟻が数匹集団で飛びかかり、噛もうとしてくる。

退路が無いその攻撃を、俺は逆に全方位の空間をワイヤーで斬りつける事で回避した。

 

――切れ味も良くなってるか?

 

巨大アリの群れに完全に囲まれているとはいえ全く負ける気のしない俺は、笑いながらワイヤーを振るい続ける。

ワイヤーが刺さり、剣戟のように動くその度にアリの体液が飛び散り、魔石が地面に落ちた。

 

 

「あーでも流石にか?」

 

 

グルルと腹が鳴る。

戦い始めてからはや10時間以上、移動しながら戦い続けていた俺は、敵を斬り続けていた。

最初の頃は弱いゴブリンだけだったのが、何だかトカゲのような奴やカエルみたいなやつに変わっていき、人型の影のような一群を裂いた後は気づけばここにおり、巨大なアリに囲まれていた。

身体が軽いのはそうだが、敵を殺す度に魔石を拾っていたので魔石を入れているコートはずっしりと重く、ポケットははちきれんばかりにパンパンになっていた。

 

それに何より腹が減った。

 

 

「キィィィ!!」

 

「はい、邪魔!」

 

 

思考の為に止まった俺の動きを見てか、アリの一匹が飛びかかってくる。

完全に背後からの動きを俺は()()()()()()ワイヤーの一つに蹴り飛ばして一刀両断にする。

そして空中で分解したそいつの魔石をキャッチした。

 

 

「う…」

 

 

そして気がついた。

 

腹が減ったところでは無い。

切り続ける事の高揚感で空腹が大分薄れてしまっていたらしく、気づけば俺は全体量の10分の一ほどのエネルギー量しか蓄えていなかった。

もしこのまま戦い続ければ(ではあるが)確実に死ねる。

 

 

「…えーと、それじゃ!」

 

「キィィィ!!」

 

 

俺は設置してあったワイヤーを強引に引き抜くと、丁度アリのいない出口に向かって走り始める。

そしてそれに合わせるかのようにアリの群れも、それぞれがガチガチと牙を鳴らしながら追いかけ始めた。

 

…俺と仲間の復讐に燃えるアリのレースが始まったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ぜー…ぜー…」

 

 

結局アリの群れから逃げ切れた俺だったが、もう戦えないというのに階層ごとに様々なモンスターの群れにぶつかった。

そして何の恨みがあるのかその全てが追いかけてきて、休む暇などなく、あのアリの群れから迷宮の出入り口まで全力疾走で駆け抜けてきたのだった。

 

走るのと歩くのとではカロリー消費量はそこまで変わらないが、純粋な体力がかなり削られており、俺はだらだらと汗を流しながら、出入り口の柱に手をついて息を整えていた。

 

空を見ればもう夕暮れに染まっており、出入り口前の噴水広場も朝とは比べ物にならない程賑わっていた。

それに出入り口から帰ってきた冒険者がぞろぞろと歩いており、一度噴水広場を経由してから町の方々に向かっているようだった。

やはりパーティを組んでいる冒険者は多く、楽し気に会話する塊が多かった。

 

 

「はあ…はー…」

 

 

大分息の整った俺はその場に座り込みたい欲求を排し、振り返ると、歩き始めた。

…しかし疲労と空腹でかその歩みは朝の極限状態よりもフラフラとしたものになり、首もすわらなかった。

そして同時に行きとは比べもにならない程薄汚れた服と相まってか、もはや自分が化け物のようだった。

それは道いく冒険者の何人かは見ており…主に好奇の視線に晒されているようだった。

 

 

(あ、やば)

 

 

そして自分が思うより早く限界は近かったらしい。

視界がチカチカと点滅すると、途端に足が抜けた。

ガクンと首が揺れると、俺はそのまま地面に――

 

 

「…大丈夫、ですか?」

 

 

――しかしそんな俺の身体を支えてくれる人がいた。

 

何やら良い匂いと、柔らかい感触が俺の身体を下から支えていた。

俺は久しいその感触に驚くと、目を見開いて、見下ろす。

 

綺麗な金髪をした女が俺の身体を支え、無感情な瞳で俺の事を見上げていた。

 

しかし俺よりも小柄な彼女に俺の巨体を支え続けさせるわけにはいかない。

俺は死力を振り絞ると地面に片足を突き刺し、自らの身体を自らで支える。

 

 

「あぁすまない。少し足がもつれたんだ」

 

「…そう」

 

 

俺から身体を離し、舌を動かすのも辛く謝ると、年下に見える女は頷いた。

そして一瞬まだつけていた俺のグローブを凝視した後、顔を上げた。

 

 

「おーいアイズた~ん!行くで~!?」

 

「あ、私行かないと…それじゃあ」

 

 

かなり遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえ、彼女はそれに反応する。

青と白の鎧を纏った彼女はこちらに軽く手を振ると、無表情に去って行った。

 

残された俺は肩の力を抜くと、美しくも可憐に歩いていく彼女の背中を眺めながらこんなことを思っていた。

 

 

――殺したい、と。

 

 

 

・・・

 

 

 

「あぁここか…」

 

 

あの金髪女に助けられた俺はそのまま何とか戻した身体のバランスを維持し、ギルドなる場所に向かっていた。

とはいえ迷宮の出入り口から近く、多くの冒険者が向かっていたギルドを見つけるのは容易かった。

 

 

「う…ふん!」

 

 

少しの段差ですらきついが俺は何とかそれを乗り越えるとギルドの中に入る。

 

中には何個かの受付のような場所とソファー、スーツのような恰好をした人たちと、冒険者たちがいた。

そしてその冒険者の多くが列になって受付の左にある窓付きのカウンターに魔石を入れ、金貨のような物を受け取っていた。

 

 

(あそこで換金できんのか…)

 

 

システムを理解した俺はとりあえず3列あるうちの一つに並ぶ。

だいぶ長い列ではあったが、交換率は早く列はすぐに進んだ。

 

 

「えー…」

 

 

そして俺の順番になる。

俺は引き出しのようなそれに、まずはポケットにぎっしり詰めてあった魔石を全部入れた。

そして次に靴、グローブ、ジーンズ、内ポケットというように詰め込んであった魔石を取り出していき、気づけば箱一杯、いやそれ以上に山盛りになった量の魔石がそこには詰まっていた。

 

 

「す、少しお待ちを…!」

 

 

それを見た窓の向こうの職員は慌てたように立ち上がると、足早にどこかに行ってしまった。

 

 

「おお!?兄ちゃんスゲー量持ってきたな!!」

 

「…え?あー…はい」

 

 

そしてその山盛りになった箱を見て、後ろで見ていた中年冒険者が驚いたような顔をして騒ぎ立てる。それは更に後ろの列に伝わり、ざわめきが広がり始めた。

そしてそのパンパンになった引き出しを見ようと、それぞれが身体を列から出し始めた。

 

少し面倒だなと俺がうんざりし始めたところで、先程の職員が何かの袋を持って帰ってきた。

 

 

「大変長らくお待たせしました。こちら十万と五千ヴァリスです…!」

 

「十万ヴァリス!?」

 

 

またも後ろの中年冒険者が素っ頓狂な叫び声をあげる。

そしてそれも口々に後ろに伝わっていき、俺には驚きと称賛の視線が集まりつつあった。

 

 

「チッ…!」

 

 

俺は舌打ちをして職員の置いた袋を掴むと、内ポケットに強引に押し込みその場を去るべく歩き始めた。

 

 

(飯屋の場所聞こうと思ったのに!)

 

 

土地勘の無い俺が一人で動くより、誰かに聞いた方が早い。

と思ったが、今俺は何故か好奇の視線に晒されており、恐らく大金を持っている事を知られている。そうなればたかられるのが世の常だ。

俺は姿を覚えられないように動き始めると、顔を隠しながらギルドの出口に向かった。

 

幸い人目のあるここではなのか誰も手を出しては来ず、そのまま外に出る事が出来た。

 

 

「ふぅ…だけどどうしたもんか…」

 

 

抜け出せたは良いが、ここからどう動くかの指標は無い。

ひとまず飯屋に入って何かを口にしなければ死んでしまうだろうが、その飯屋が具体的にどこにあるのか冷静でない俺には解らなかった。

 

しかしこれだけ人がいる町だ。

 

飯屋など歩けばどこにでも見つかるだろう。

もはや今動き出さなければ死にそうだと直感した俺は歩み出そうと――

 

 

「待って」

 

 

――俺のコートを誰かが引き留めた。

 

 

(女?)

 

 

俺が振り返るとそこには朝、噴水広場に居た時に声をかけてきた女が少し息を切らしながら、俺のコートの裾を力強く握っていた。

俺は見下ろすようにその茶髪の女を眺めると、女が息を整えるのを待った。

 

 

「…何の用だ?」

 

 

そして大分彼女が落ち着いたところで声をかけた。

彼女は顔を上げるとコートから手を離し、背筋を正す。

そして真っすぐとこちらを見ると、強めに、小声で、責め立てるように言った。

 

 

「…あなた、冒険者じゃないですよね?」

 

「あぁそうだが?」

 

「…そんな、あっさり…!?」

 

 

彼女の言葉を肯定すると、彼女は少し眉をひそめた。

そして彼女が次の言葉を言うより早く、俺は腹を抑えて提案する。

 

 

「悪いが今ここで質問されても困る。何か飯屋にでも入ってゆっくり話さないか?」

 

「…なぜ?」

 

「腹が減って死にそうだ」

 

 

そう言うとそれに反応するかのように腹の虫がゴギュルルと怪音を立てる。

女はそれにぎょっとしたような顔を見せると、すぐ平静を取り戻し、チラリと自分の服を見た。

 

 

「だけど私、まだギルドの制服だし…」

 

「じゃあ店を指定しろ、着替えてくる合間先行って食ってる」

 

「…逃げない保証は?」

 

「言っておくが腹が減りすぎて逃げ出す力なんてない」

 

 

女は俺の疲れ切った顔を見て、ひとまず納得したようだ。

そして少し考えた後、目の届く範囲にはある一つの店を指さした。

 

 

「豊穣の女主人、あそこで待っていて」

 

「あいよ」

 

 

俺は彼女に背を向けるとその「豊穣の女主人」とやらに歩き始める。

そしてその後ろをあの女が走り去って行った。

 

 

 

・・・

 

 

 

「一名様ご来店にゃー!」

 

「あー後から一人来る」

 

「これは失礼しましたにゃ!」

 

 

猫耳と尻尾の生えたウェイトレスが元気よく出迎えてくれる。

俺はマジで限界が近い事を悟りながら、フラフラと案内されたテーブルに向かった。

四人用の席に着いた俺はひとまずグローブを外し、腰につけ、内ポケットから金の入った袋を取り出すと机の上に置いた。

そして疲れで席で死んだようにだらけた。

 

 

「どうぞ」

 

 

ウェイトレスの一人――薄緑色の髪をした少し眼光の鋭い女が水の注がれたグラスを机の上に置く。

俺はそれをだらりと掴むと、流し込むように飲み干した。

女は少し目を細めると空になったグラスに、水差しから水を注いでくれた。

 

 

「ご注文お決まりでしたらお呼びください」

 

 

そして動かなくなった俺を見て立ち去ろうとする。

 

 

「あーちょい待ち」

 

「はい?」

 

 

しかし文字が読めない。

テーブルに備え付けのメニュー票には恐らくこの世界の言語が書いておりいくつもの料理があるのは解るのだが、内容は解らなかった。

 

 

「何かオススメとかある?」

 

「…はい、でしたら」

 

 

我ながら良い作戦だと思う。

文字は解らないが言語は解るのだから、言葉で聞いたら何となくのニュアンスで解るだろう。

 

 

「こちらの山椒と魚のスパゲティなどいかがでしょう」

 

「あー…じゃあそれで」

 

 

味が合うのかは解らないが、この際腹に入ればそれでいい。

俺はウェイトレスが指さしたメニュー票のそれに頷いた。

 

 

「かしこまりました、暫くお待ちください」

 

 

そしてお辞儀をしたウェイトレスは今度こそ立ち去った。

…割と良い女だったのだが、空腹と疲れで視界が霞み始めていた俺はそれに気がつかなかった。

 

俺は木張りの椅子にもたれかかると瞳を閉じてため息を吐いた。

 

 

(十万は流石に大きいだろ…)

 

 

日本円感覚では十万は日当で考えれば大金だ。

とはいえ物価が解らない為なんとも言えないが。

 

…まぁ最悪あの女に奢らせでもすればいいのだ。

 

 

「お待たせしました」

 

 

何てことをぼんやりと考えていると、大分早く先程のウェイトレスの女が手に皿を持ってやってきた。

その皿の上には大量の麺と魚介類、そしてかけられたホワイトソースと大量の山椒が彩を添えていた。

一般的に考えれば結構な量があるそれを女ウェイトレスは片手で軽々と運び、俺の机に置いた。

 

…良い匂いがふわりと広がる。

 

俺は涎が垂れそうになるのを必死に耐えながら、彼女が皿を机の上に置き終わるのを待つ。

そして同時に置かれるフォークを恭しく眺めていた。

 

 

「…ところで」

 

「あ?」

 

 

そして彼女が全てを置き終わり、俺がフォークを掴んだところで、ウェイトレスの方から喋りかけてきた。

正直早く食べ始めたい俺は、少し殺意のこもった視線を彼女に向けた。

…しかし彼女はそれに一切それに動じることなく、鋭い眼光のまま尋ねる。

 

 

「お代は確かに出せますでしょうか?」

 

「いくら?」

 

「…900ヴァリスです」

 

「そんなもんか、ほれ」

 

 

俺は少しイライラとしながらも、机の上に置いていた大金の入った袋の口を開いて見せた。

ウェイトレスはチラリとそれを見ると、頭を下げる。

 

 

「失礼な事を尋ね、誠に申し訳ございません」

 

「あーいいから」

 

 

そう言ってヒラヒラと手を動かすとウェイトレスは下がる。

…何だかだいぶ失礼なことを尋ねられていた気がするが、俺にはそんなことはどうでも良かった。

 

 

(やっとか…)

 

 

俺はやっと「もの」を食える喜びに、内心泣きながらフォークを握り締める。

そして震える手で麺を巻き取ると…口にいれた。

 

――食べ物でも理性が吹っ飛ぶことはある。

 

 

 

・・・

 

 

 

私はギルド制服からの私服に着替えると、家を出た。

そして不安な気持ちに囚われながら、豊穣の女主人に向かう。

 

 

(あの男は…)

 

 

不安の原因は一人の男だ。

 

…最初見た時からおかしな男だった。

彼はその長身を折り曲げるようにして、まるで犬のように噴水の水を飲んでいた。

頭がおかしいのかと思った私だったが、何にせよそんな迷惑行為をするようなら注意喚起をしようと思った。

 

だが声をかけた男は…何というか悪い人間には見えなかった。

…むしろ好感が持てる程だ。

 

しかし言葉を交わすうち、男は異常だという事に気がついた。

 

 

――何も知らなさすぎる。

 

 

それこそ生まれたての赤子のように、この町の事を知らないのだ。

 

…だが、だというのに冒険者だと言い張り、ファミリアに所属しているとまで言った。

恐らくそれは嘘だ。男には迷宮に行きたいという思惑が見え隠れしていたし、神の恩恵も受け取ってすらいないように見えた。

 

しかしそれならば腑に落ちない事がある。

 

だがそれならば何故――?

 

 

「いらっしゃいませにゃー!」

 

「へっ…!?」

 

 

気づけば私は豊穣の女主人に辿り着いていた。

そして顔だけは知っているが会話のしたことの無いキャットピープルのウェイトレスの大声は、思考していた私に寝耳に水だった。

 

 

「おひとり様ですかにゃー?」

 

「…あ、いえ、待ち合わせをしているんですが」

 

「はっ、じゃああのお客さんですかにゃ!?」

 

 

何だか興奮気味な猫ウェイトレスはとあるテーブルを指さす。

 

 

「!?」

 

 

皿が山のように重なり合っていた。

十枚の大皿が重なり、その山が机の上に所狭しと並び、食後であるという証拠である汚れがついていた。

…その皿の山の中心で、あの男が貪るように皿に盛られた料理を喰らっている。

 

そして周りの席からはヤジが飛び、それを肴に盛り上がっているようだった。

 

 

「あのお客様凄いにゃ!一人でもう四万ヴァリス分くらい食べてるにゃ!」

 

「ええー…?」

 

金額もそうだが、皿の数も規格外だ。

私は少し唖然とすると息を吐き出す。

 

 

「おい、エイナ」

 

「あっミアかあ…じゃなくてミアさん。ご無沙汰しております」

 

「なんだいその堅苦しい挨拶は。ミア母さんでも構いやしないよアタシは」

 

 

厨房に立っているミア母さんに声をかけられる。

そういえば久しく顔を見せていない私はぺこりと頭を下げると、自然と笑みを漏らした。

 

…ミア母さんも若干笑みを浮かべる、がすぐ顔をしかめるとちょいちょいと手招きをする。

 

私もそれに釣られるように少し不安な気持ちになると、内緒話をするときのようにカウンターに近づいた。

そして小声で会話を交わす。

 

 

「…なぁエイナ」

 

「何でしょうか?」

 

「あの男…つまりはアンタの連れだろ?」

 

「…えぇ…まぁそういうことになりますね」

 

 

私がため息まじりに返答すると、ミア母さんは少し凄みのある声で更に尋ねた。

 

 

「何者なんだい、あれは?」

 

「なんでしょうね…?」

 

「…知らないのに連れなのか…まさかアンタ」

 

「いえ、別に脅迫されてるとかではないのですが…」

 

 

そこまで言うと、ミア母さんは目を閉じ、少し考える。

 

 

「まぁうちとしては金払いが良いのは嬉しいけど、厄介ごと持ち込まれるのだけはねぇ…汚いのはこの際いいけど」

 

 

確かに、見ればあの男泥や何かの粘液で全身が汚れていた。

…努力の証ともとれるそれではあるが、飲食店としてはあまり好ましくなく、何だか貧相にも見えた。

私は決意を固めると、カウンターから少し身を離し、ミア母さんに微笑みかける。

 

 

「安心してください。私が何とかしますから」

 

「…解ったよ。でも気をつけてな」

 

 

私は振り返るとあの男のいる席に向かい直し、ミアの視線を背中で受けた。

そしてあのヤジの中心にいかなくてはならないのかと少し憂鬱になると、重い一歩を踏み出した。

 

 

 

・・・

 

 

 

「お?」

 

 

気づけば大分空腹は和らいでおり、視界もハッキリとしていた。

確かメニュー票にあるものをとりあえず全てくれと言ったところまでは覚えているが、それ以降の記憶は無くなっていた。

 

目の前には食べ終わった後の皿が山積みになっており塔を築いていた。

その存在に気がついていなかった俺は、それに驚く。

 

そして何より一番の変化は、あのギルドの女が目の前に座っていることだろう。

皿の塔の合間からこちらを、所謂ジト目で睨む彼女は先程とは違う服装をしており白のブラウスという出で立ちだった。

水の並々入ったグラスを片手で持っており、チビチビとそれを飲んいるようだった

 

俺は持っていたフォークを皿に投げ捨てると、軽く息をついた。

そして極めて軽い調子で話しかけた。

 

 

「よう、女」

 

「…満足しましたか?」

 

「まぁ腹六分目ってとこだが結構満足だわな」

 

「はぁ…まだ食べれるんですか」

 

 

俺が肩を竦めてみせると、女はため息をついた。

 

 

「とても人間の食べれる量じゃないですね…」

 

「高スペック高燃費って考えてくれたらいい」

 

「はぁ…」

 

 

まぁ何となくは納得したらしい彼女に、俺は軽く指をさす。

 

 

「ところでお前何て名前だ?」

 

「…私はエイナ・チュール、ギルドの職員をしています。あなたは?」

 

 

渋々といった様子のエイナと名乗る女は、逆に聞き返してくる。

俺は特に何のためらいも無しに答えた。

 

 

「俺は両橋…いや、リョナだ。歳は21で日本人。趣味は機械いじりで、職業は無職」

 

 

まくしたてるように述べる。

するとエイナは驚くでも無く少し思案すると、尋ねるようにして確認した。

 

 

「リョナさんは…冒険者ではありませんね?」

 

「そうだねぇ」

 

「…ファミリアには所属していないと」

 

「そもファミリアが何なのかすら解らない」

 

 

俺が鼻で笑いながら返すと、エイナは頷く。

どうやらそこまではあくまで確認であって、解っていたことのようだ。

 

そしてエイナが次の質問をする前に俺は再び遮った。

 

 

「まずお前の目的はなんだ?」

 

 

とても先程人を殺したことの断罪のようには見えなかったが、一応それを尋ねる。

というかそちらの方がこちらとしても解り易かった。

 

エイナは自らのグラスから水を少し飲むと、答えた。

 

 

「ギルド職員としての義務と…個人的疑問の解消です」

 

「ふーん」

 

 

まずギルドというのが何なのか解らないが、個人的疑問ということならば落とし前とかの話ではなさそうだ。

人を殺した事以外ならば特に質問に答えない理由は無い俺は、グラスを傾け酒を飲みながら頷き、促した。

 

…エイナは頷き返すとグラスを置き、質問する。

 

 

「まず…あなたはどこから来たのでしょうか?」

 

「異世界」

 

「は?」

 

 

流石に予想外な返答だったのか、エイナは澄ました顔を崩すと、驚いた顔で俺の方を見た。

そして俺の真顔に嘘では無い事を悟ると、首をギギギと傾けた。

 

 

「…異世界?」

 

「いや俺もビックリしたんだけどよ、気づいたらこの町に居てー」

 

「だから何も知らなかった…?…いや、でもそんな非常識な…!?」

 

 

一瞬何か納得したエイナだったが、すぐ何かに打ち消されたようで考え込み始め、すぐ我に返った。

 

そしてゴホンと咳払いすると、目を細めてこちらを眺めた。

 

 

「次の質問です、先程の十万ヴァリスですが…」

 

「あーお前の情報通りにダンジョンでモンスター倒して魔石?っていうの結構集めてきたら貰えたな。というか十万って大金なのか?」

 

「大金ですよ!」

 

 

金銭感覚も解らない辺り本当なのか、とかブツブツ呟いているエイナは、だいぶストレスが高まっているらしい。

少し不機嫌そうな顔をした顔をしたエイナは口を開く。

 

 

「ですが神の恩恵も無いあなたがどうやって…!?」

 

「普通に切り裂いたら死んだが?」

 

「はぁ…!?…まぁ確かに凄い体格ですけれども…そんな一般人が…!?」

 

 

困惑を通り越し、驚愕した様子の彼女は目を閉じ、頭痛でもあるのか頭を抑えた。

そしてふっと糸が切れたかのように落ち着くと、俺の姿を眺め、何かに気がつく。

 

 

「その服装は…?」

 

「あー俺の世界の服だ。コートにTシャツ、これはジーンズだな。…やっぱり奇抜か?」

 

「奇抜というか…見慣れないですね」

 

「だろうな」

 

 

そりゃ世界が違うのだから当たり前だが向こうの世界の服装はこちらではだいぶ目立っていた。

…だからかは解らないがこの店の中でもだいぶ注目されているようだった。

 

実際はその皿の枚数によってなのだが。

 

 

「ところで武器は…?」

 

「あー…これだ」

 

 

確かに今店にいる他の冒険者などが持っている剣などに比べれば、俺は武器らしい武器は持っていない。

俺は腰に付けていた金属製のグローブを外すと、木の机の上に置いた。

 

エイナは不思議そうな顔でそれを見る。

 

 

「これは…手甲ですか?少し複雑な機構のようですが…」

 

「まぁ見た方がはやいな。すいませーん」

 

 

ウェイトレスがすぐにやってくる。

 

 

「おっ…」

 

 

中々の美人だ。

先程まで碌に見れなかったが、薄緑髪のウェイトレスは眼光が鋭く、ひやりと冷たいナイフを連想させるようで、俺好みだった。

 

 

「ご注文はなんでしょう?」

 

「あー…何か果物丸々食いたい気分何だわ。何か無い?」

 

「かしこまりました。少々お待ちを」

 

 

そう言って、ウェイトレスは頭を下げるとすぐ奥に行った。

俺は品定めするかのようにその後姿を眺めると、やはりあれはいい女だと直感して内心感心していた。

 

 

「まさか…気に入ったんですか?」

 

「…まぁ向こうよりかは面白そうな人間は多いな」

 

「…ところで何をするんですか?」

 

「見てからのお楽しみだ」

 

 

俺は軽く笑うとグローブを掴んで指に嵌めた。

そしてガチンガチンと指を鳴らすと、指に慣らした。

 

…ウェイトレスが片手にリンゴを持って、綺麗な布で拭きながらやってくる。

 

 

「こちらをどうぞ。30ヴァリスです」

 

「ありがとさん…ところでウェイトレスさんは何て名前なの?」

 

「…はい、私ですか?」

 

 

リンゴを渡し、既に立ち去ろうとしていたウェイトレスが立ち止まり、振り返る。

俺は頷くと、ウェイトレスは少し困ったような表情をしたが、答えてくれた。

 

 

「…私の名前はリューと申します」

 

「リューさんね、なるほど…」

 

 

俺は目を細めながら、記憶する。

 

 

「おいアンタ、うちのウェイトレスにはナンパ禁止だよ」

 

「え、あぁ、申し訳ない」

 

 

だが女主人なのか、厨房にたった大柄な「お母さん」のような人に釘をさされる。

いつもなら気にも留めない俺だが、その人の強さに気がつくと軽く頭を下げた…それにそこまで今に執着する必要は無かった。

 

 

「呼び止めてすまんね」

 

「いえ、お構いなく」

 

 

謝るとリューも頭を下げ、下がった。

 

 

(…狙うか?)

 

 

割と惚れたと言っても良い域だ。

 

 

「あの…!」

 

「おっと」

 

 

だがエイナのジト目に俺は気がつくと向き直る。

そしてグローブの指関節からワイヤ―を引き出すと、机の上のリンゴに当てた。

 

 

「え…!?」

 

 

するとストンと何の抵抗も無く、リンゴは真っ二つに斬れた。

 

 

「ただの糸がそんな…!」

 

「これは向こうの技術でな、金属で編んだ糸だ」

 

「金属で…?」

 

 

こちらの世界にはそこまでの技術力は無いらしい。

俺は肩を竦めると、巻き取り機でガルルとワイヤーを巻き取った。

それを見て更にエイナが驚いた顔をする。

 

 

「これを…こう、ぴゅーんって飛ばして、斬りつけるんだ」

 

「はぁ…」

 

 

弾丸のように、などと言ってもきっと伝わらないだろう。

エイナは困惑した表情ではあったが、まぁとりあえずは頷いた。

 

そしてまた顔を上げると、今日一番に真剣な顔をした。

 

 

「…では最後に忠告と、質問です」

 

「…」

 

 

極めて真面目な顔だ。

俺は斬ったリンゴを一口で飲み込むと、促した。

エイナはゴホンと咳ばらいをすると、ゆっくりと述べた。

 

 

「…まず、神の恩恵を受けていない人間…つまり冒険者以外は迷宮に潜る事は禁止されています。ギルドは冒険者登録をしていない一般人が迷宮に潜る事を看過できません」

 

「理解」

 

「ちなみに異世界から来たというお話でしたが、その空腹と何か関係が?」

 

「いや…単純に行き倒れただけだからそこまでは俺も解らん」

 

「…では質問を」

 

 

エイナはため息をつくと、少し身体を弛緩させ、グラスを傾けた。

そして今までに比ると多少軽い口調で尋ねた。

 

 

「あなたの目的は何でしょう?」

 

「…」

 

 

その質問は俺の思考に空白を作り出した。

というかその目的を判断できるほど情報収集出来てはいなかった。

早速殺したい女や惚れた女はできたが、元の世界に戻る方法なんかは知る由も無かった。

 

…だから至極基本的な答えがそこに発生する。

 

 

「…生きる?」

 

「…」

 

 

日々を生き残る。人よりも食べなくてはならない俺はより多くの金を稼ぎ、より多く殺さなくてはならない。

冒険者というのはあくまで目についた手法であって、労働しお金を稼いで生きるというのはかなり基本的な「生きる」ということそのままだった。

 

 

「だからひとまずの目標はその…ファミリア?っていうのに入って冒険者になるのが目的かな」

 

「ふぅ…」

 

 

溜息をしたエイナはひとまず疑問は解消されたらしい。

頷くと薄眼で俺を眺めた。

 

 

「本来ならそんな危険行為をした人間は冒険者にもなれませんが、私はそんな事知りませんでしたし、他のギルド職員も気づいていないでしょう」

 

「その方が助かる。…ちなみにファミリアってどうやって入るの?」

 

「…誰かの勧めか、ツテとかで入るのが普通ですね。まぁアナタ程の体格があれば割とどこにでも入れそうですが」

 

 

エレナは俺の巨大な体躯をチラリと見ると、更にグラスを傾けた。

俺はなるほどと頷くと、酒をあおる。

 

 

「…そういえば何でヘスティアファミリアを知っていたんですか?」

 

「ん…それは俺の命の恩人の…確か名前はベル・クラネルとか言ったか。可愛い感じの白い髪の少年が食い物くれたんだよな」

 

「え゛っ゛!?」

 

 

先程以上に濁った驚き声が出る。

何だかそれはあたかも知っているかのような声だった。

 

と、その時――

 

 

「冒険者さん!」

 

 

――銀色の髪をしたウェイトレスが、入り口の方で声を上げた。

 

俺がそれに視線を向けると、丁度入り口から白色の髪をした少年が店に入ってきていた。

 

 

「あぁ、噂をすれば」

 

「ええー…」

 

「おおいベル君!」

 

 

完全に固まったエイナを無視し、俺は立ち上がるとカウンター席に腰かけようとしていたベルに手を振った。

 

 

「朝の…リョナさん!」

 

 

するとこちらに気がついたベルはぱっと顔を明るくすると、駆け寄ってきた。

 

 

「朝ぶりですね!リョナさん!」

 

「あぁ朝ぶり。あの時はありがとうなー」

 

「いえいえそんな!…ってあれ?エイナさん?」

 

 

そして同時に俺と向かい合って座ったエイナに気がついたようだ。

驚いた顔をすると、目を見開いた。

 

 

「まぁとりあえず一緒に食おうぜ、座れよ」

 

「はい!」

 

 

俺の呼び掛けにベルは元気よく返事をした。

 

 

 

・・・

 

 

 

机の上から皿の山が撤去され、残るはベルの分の食事と、俺の最期の食事が乗っていた。

…とはいえ二人の食べ物は一般より多い量がよそってあり、今まで大量に食べていた俺には普通あり得ない位の量だった。

 

 

「だけど本当に良いんですか…奢ってもらうなんて…!?」

 

「あぁ、命の恩人だからな。それに何より一食程度はした金だろ」

 

「は、はした金…」

 

 

なんだか少し落ち込んだ様子のベルだったが、俺はその理由は解らず軽く首を傾げた。

そして最初は謙遜していたベルは食べるうち、やはりお腹が空いていたのか成長期だからか普通に食事してくれていた。

 

明らかに年下ではあるが、恩の前にはそんなこと関係ないだろう。

 

 

「ふう…ところでリョナさんとエイナさんはどういった関係何ですか?」

 

「え!いや違うのベル君これはね!?」

 

「あぁ、俺がナンパしたらエイナちゃんがついてきた。それだけだ」

 

「な!?」

 

 

エイナが驚いた表情でこちらを見た。

俺はアイコンタクトで「本当の事言うよかマシだろ」と伝えると、エイナも(悔しそうだったが)頷いた。

そして青筋を立てながら、笑顔でベルににこやかに説明した。

 

 

「そ、そうなのよー!帰り道で声かけられて、そこから一緒にご飯食べる事になってー…」

 

「へぇーそうなんですかぁ!」

 

「…うぅ」

 

 

何だか落ち込んでいるエイナを俺は鼻で笑うと、気になることを尋ねる。

 

 

「ところで逆に二人の関係は?」

 

「え、あぁエイナさんは僕のダンジョンアドバイザーで、凄いお世話になっているんです!」

 

「ほーん…」

 

 

まぁ何となくだが、どうやらギルドというのは冒険者の補助的な役割にあるということを俺は察する。

そして警告してきた当たり迷宮の管理のようなこともしているのだろうか。

 

 

「じゃあベル君は冒険者なわけか…」

 

「駆け出しですけどね!」

 

 

元気がよく、感じの良い少年だ。

それに行き倒れの人間に食べ物を恵む優しさを兼ね備えている。

…中々見ないタイプだ。

 

 

「じゃあやっぱり…ファミリアっていうのに所属してるのか?」

 

「はい、朝言ったヘスティアファミリアに」

 

 

…やはり知り合いがいた方がそういった組織には入りやすいだろう。

それに何よりこんな善良な少年が所属している組織だ、性質としては同じだろう。

朝言っていた感じでは募集もしていた様子だし、入る事も容易そうだ。

 

俺は入ることが出来るかを尋ねようと――

 

 

「ご予約のお客様、ご来店にゃぁ!」

 

 

――猫耳のウェイトレスの声で、意識がずれた。

 

そして店の扉が開くと、ぞろぞろと「団体客」が入ってくる。

 

 

「ッ!?」

 

 

と同時に俺はその先頭の赤毛のポニーテールの女から目が離せなくなった。

 

 

(身体が…熱い!?)

 

 

衝動のような、内側から食い破られるが如く感覚に俺は囚われると、拳を握り締めて堪える。

そして手のひらから、滲んだ血が零れるころには大分落ち着いていた。

 

生まれてこのかた感じた事のないその感覚に俺はブルリと震えると、ゆっくりと息をする。

そして今すぐにも動き出し、血のままに殺したいという黒い欲望を薄く消し去って行った。

 

 

(心当たりはあるが…つまりはそういうことか)

 

 

神が地上に居る、ということはつまり普通にそこらを歩いているということだ。

一族の誉れ、いや呪いから見れば獲物がいくつも現世に居るという事であり、それに反応を示すというのは当たり前のことだった。

 

 

「…って、あれ?」

 

 

だが俺はそんなことに驚く間もなく、あの女がいる事に気がついた。

ダンジョンから出てふらついたところを、支えてくれた金髪のあの少女が団体の一番後ろを歩いていた。

先程まで着ていた青と白の鎧は脱いでおり、白いぴったりとした服装を身にまとっていた。

 

 

「ふーん…?」

 

 

恐らくあの赤毛の女が神だとして、つまりはあの金髪はその眷属ということだろうか。

そして恐らく団体客の人間達も同じだろう、何より他の一般人に比べ内に秘めた力など比べ物にならなかった。

 

 

「…」

 

 

少し期待値が高い。

あぁいう力を持った人間こそ、散る時は美しく輝くものだ。

 

 

「は、はわわ…」

 

 

と、俺はベルの様子がおかしい事に気がつく。

あの団体、特にあの金髪のことを凝視したまま赤い顔をして固まっていた。

明らかにおかしなその様子に俺は困惑の視線をエイナに向ける。

 

すると呆れ顔のエイナは小声で伝えてくれた。

 

 

「…ベル君はあのアイズ・ヴァレンシュタイン氏に惚れてるんです…!」

 

「あー…」

 

 

まぁ確かになんだかそういう、初々しい反応だ。

リョナは青春を見つめるのように、顔を赤らめているベルを眺める。

 

 

「…あれはロキファミリアというファミリアで、このオラリオきっての実力を持っているファミリアです。その中でもアイズヴァレンシュタイン氏は剣姫と言われて中核を担う人材なんですよ」

 

「…憧れかな?」

 

 

目の前に座るベルと、あそこにいるアイズを比べたらその力は天と地ほどの差がある。

もしこの少年が、その力を目の当りにしたら(まぁ直接見た訳では無いので断言は出来ないが)憧れもするだろう。

 

そんなリョナの言葉に、エイナは何も答えず、グラスに口をつけた。

 

リョナは未だに紅潮したままアイズの事を見続けているベルに声をかける。

 

 

「おいベル君」

 

「…はっ、はい?」

 

「恋路は長いからこそ、結ばれてからが最高だぜっ…!」

 

「へっ…!?」

 

 

更に顔を赤くしたベルは隣に座るエイナの事をバッと見ると、照れたかのように自らの皿にまだ半分以上残った魚を食べ始めた。

 

 

(若いっていいな…)

 

 

もはや初々しいというか可愛らしいその反応に、思わず俺ははニコリと笑みを浮かべた。

そして自分自身の青春時代を思い出させられて少ししみじみとされられる。

 

 

「――よっしゃあ!」

 

 

その時、ジョッキの置かれるガンという音と共に若い男の声が聞こえた。

終始騒がしいこの店のでは珍しくも何ともないそれだったが、先程のロキファミリアが座った席からの音だったので、リョナは興味本位でそちらを見る。

 

すると、狼のような男が大分酔った様子で話していた。

 

 

「アイズぅ、そろそろあの話してやれよ」

 

「…あの話?」

 

「あぁ、俺達が帰る途中に逃がしちまった何匹かのミノタウロス。最後の一匹アイズが5階層で掃討したろぉ?」

 

「…」

 

「そんで俺、その時いたトマト野郎のいかにも駆け出しの青くせぇガキが、斬られたミノタウロスの血にまみれてトマトみてぇになっちまってんの!それで変な声上げてどっか走りさっちまってさぁ…アイズは助けた相手に逃げられちまってんだよ!…情けねェったらねぇよなぁギャハハ」

 

 

聞くに堪えない。

何が面白いのか微塵も解らないただの罵倒のようなそれにリョナは顔をしかめると、まぁ酒の席だと溜息で流した。

 

そして目の前に座った二人の様子がおかしい事に気がついた。

 

ベルはとても辛そうな顔をして拳を握り締めており、エイナはそれを心配そうな顔で見つめていた。

 

 

「…まさか」

 

 

ベルの白い髪の先端が、少しだけ赤いことに俺は気がつく。

…が、もう気づいたその時には何もかも手遅れだった。

 

 

「あんなのがアイズヴァレンシュタインに釣り合うはずねぇんだよ!」

 

「待って、ベル君!」

 

 

あの狼男の最後の言葉に合わせてベルが勢い良く立ち上がり、出口に向かって走り出す。

 

…つまり、きっとそのトマト野郎というのがベルの事だったのだろう。

 

直接陰口を言われるようなものだ。しかもきっと気にしている事を。

俺は胸糞悪いと思いながらも走り去るベルの背中を、何も出来ずに見つめた。

 

 

「なんやぁー?ミア母ちゃんの店で食い逃げとはええ度胸やなー!」

 

 

そしてその背中にいくつものやじが飛ぶのを聞きながら、エイナを見た。

エイナは不安そうな顔をしており、走り去るベルの事を見つめていた。

だが追いかけようとまではしなかった。

 

…しかし、そんなベルの事を追いかける影が二つ。

 

銀髪と金髪の影は、片方はウェイトレスであり、もう片方はアイズだった。

 

 

(俺も…いや、やめておくか)

 

 

追いかければ、追いつくことも容易いだろう。

しかし男の涙を拭えるほどの共感性は俺には備わっていなかった。

 

 

「チッ…」

 

 

そもそもヘスティアファミリアに入りたかった俺としてはその橋渡し役がいなくなるのは困…いや、ただただ純粋な少年が傷つけられるのが気に入らなかったのだろう舌打ちをした。

 

だが、そこで憤りを感じれる程俺は人間が出来ていない訳では無い。

…少し疲れた程度だ。

 

 

「イデデデデデ!!?」

 

「酔いを醒ませ、愚か者」

 

 

そして見れば先程の狼男が吊られていた。

あの男とは違い、他の連中はそれなりに理知的な連中らしい。

まぁ報復で許されるという訳では無いが、俺は少しだけ気が晴れると溜息をついた。

 

そして目の前に座るエイナに今一度視線を向ける。

 

 

「あーエイナちゃん」

 

「ちゃん付けはやめてください」

 

「ヘスティアファミリアってどこにあるんだ?」

 

「…まさか」

 

「あぁそのまさかだ、俺はヘスティアファミリアに入る」

 

 

俺の言葉に、エイナは考え込むと、頷いた。

 

 

「…不本意ではありますが、それを決められるのは私ではないです。ヘスティアファミリアはこの近くの教会にありますので、店を出たら教えます」

 

「…素直じゃねぇか」

 

「本来ならあなたのような不審者に教えたくはありませんが、どうせ探し当てるでしょうし、どうせなら手の届く範囲に置いておく方が安心ですから」

 

「手の届く範囲…まさか」

 

「そのまさかです」

 

 

少し尊大な態度を見せたエイナは、ムスッという顔をする。

 

 

「私はヘスティアファミリアのアドバイザーです。ですからもしあなたが冒険者になったら私の指示に従ってダンジョンを攻略してもらいます!」

 

「あー…はいはい」

 

「まぁそもそも入れるかどうかも解りませんが」

 

 

俺は鼻で笑うと、自らのグラスを一気にあおった。

 

腹は十全に満ち、それなりに気分も晴れやかだ。

走り去ってしまったベル君のことは心配だが、あとで会う事もできるだろうから、大人として助言することも可能だろう。

 

エイナも気づけばちゃっかり一皿食べきっており、グラスも空になっていた。

 

…そして話すべきことももうないのだから、ここに留まる必要は無い。

俺は会計を済ませようと、ウェイトレスを探し――

 

――戻ってきたアイズヴァレンシュタインの姿を見つけた。

 

 

少し落ち込んだような表情の彼女は迷わずロキファミリアの席にツカツカと戻る。

…と、吊られたままだった狼男がそれを見つけると、またも吼える。

 

 

「おいアイズゥ!テメェは優しすぎんだよぉ!?さっきだってきったねぇクズに肩貸したりよぉ!?」

 

「あ?」

 

 

アイツまだ言うか。

俺は思わず睨むと、僅かながらも殺気を出す。

 

 

「…汚れてるのは頑張った証拠」

 

「へっ…地面転がりまわってしか金を稼げねぇ能無しに何か価値ねぇんだよ!」

 

 

流石にここで何もしないという選択ができる程、人間が出来ていない。

というか人間が出来ていたらきっと殺人などしないだろう。

 

俺はつけっぱなしだったグローブをガチリと鳴らすと、勢いよく右手を上げた。

 

 

「すいませーん!お勘定いいですかー!」

 

 

…勿論ブラフだ。

右手を上げると同時に、忍ばせたワイヤーが放たれる。

 

――ブチッ…。

 

 

「は?…ぎゃおんっ!」

 

 

狼男を吊っていたロープが切れる。

支えの無くなった狼男の身体はそのまま落下し、受け身をとる間もなく床に叩きつけられた。

 

…店内が爆笑の渦に包まれる。

 

騒々しいその中に、俺がロープを切ったという事に気がつく者はおらず、騒々しい故にギュルルと巻き取られていくワイヤーに気がつく者はいなかった。

 

そしてそんな中をウェイトレスのリューがやってくる。

 

 

「お待たせいたしました。計算に時間がかかってしまいまして」

 

「うんそれでおいくら?」

 

「お連れ様のも含めて…9万5000ヴァリスです」

 

「はいよ…っと悪い、自分でとってくれないか?」

 

「改めて聞くと凄い金額ですね…」

 

 

俺は十万と5000ヴァリスが入った袋をリューに渡す。

すると呆れた顔をしたエレナがこちらを呆れた表情で見ていた。

 

 

「まぁ結構酒も頼んだしな」

 

 

俺は肩を竦めるとリューを見る。

金額が金額ではあるがその手は迷いなく袋から金貨を抜き取っており、ドンドンと袋から厚みが消えていっていた。

…まぁいくら飢えていたとはいえ自分でも良く食べれたとは思うが。

 

 

「お待たせいたしました」

 

「いややってくれてありがとう」

 

 

俺はリューの渡してくる残り1万ヴァリスの入った袋を受け取る。

 

 

「是非、またのお越しを」

 

 

そして立ち上がると、それにエイナも合わせるようにして立ち上がった。

リューが頭を下げ、俺は伸びをすると歩き始める。

 

まだ騒々しい店内は俺達が出ていくことにも気がつかず、俺が鉄のグローブを着けている事にも気がつかない。

そしてガチャリとドアを開けると、俺は気がつけば夜になっていた店の外に一歩踏み出した。

 

 

 

・・・

 

 

 

何か見慣れない物が飛来していくのが見えた。

モンスターかと思った私はそれを叩き落そうと思ったが、、素手では危険かと勘繰った。

…そして勢いの良いそれはベートを吊っていたロープを切ると、シュルシュルとまるで蛇のようにまた元来た道を戻って行った。

 

私はそれを目で追うと――

 

 

(…あれ?)

 

 

――それは見慣れない黒鉄のグローブに行きついた。

 

 

だがその黒鉄のグローブをつけた主には見覚えがあった。

 

 

黒い髪、整った顔、見慣れない服。

それは先程私が肩を貸した冒険者の男だった。

 

 

「…」

 

 

名前も知らないその男だったが、私はそのグローブには興味が湧く。

あれがなんだか解らないが、「変なもの」を射出しているように見えた。

それにロープを切ったという事は…。

 

 

(しかもあの子と関りがあるかもしれない)

 

 

あの走り去ってしまった男の子。

どうやらあの席から走って行ったように思える。

傷つけてしまったようだから、謝りたいのだが、どこかに行ってしまった。

 

だけどあの男を追えば…?

 

 

「アイズたーん!」

 

「…!」

 

 

しかしそこでロキに呼ばれてしまう。

私は少しそちらに意識を逸らしつつ、そのまま去る男の背中を眺める。

 

――そして男が店から去る頃にはその姿を完璧に覚えてしまっていたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




感想などお気軽にどうぞー

※この物語は作者が9巻を読んだ時点でラストまで考えています。
それと個人的なお願いではありますが序盤は自分でも酷いと思うレベルなので是非最新話まで読んでみてください。
読んで?(はぁと)


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 神殺しのリョナ厨

おっランキング乗ってる(心肺停止)

一話から沢山のお気に登録と高評価あざー!


・・・

 

 

 

とある路地の、とある袋小路。

青い月明かりに照らされた小道は人通りなどあるはずも無く、寝息さえも聞こえない。

生気の感じられない道はどこか恐ろしさすらあり、静寂だけがこの場を支配しているように見えた。

 

しかしその袋小路には男が一人、確かに立っていた。

 

真っ黒なコートを纏った男は、息をひそめているのかピクリとも動かず、音を発しない。

その姿はどこか亡霊の様であり、今でこそ月に照らされているが、影に入ってしまえばその姿形は霧散してしまいそうだった。

 

そして男の目の前、袋小路の脇には教会が建っていた。

 

ツタの生えた壁、尖った屋根、ところどころ剥げた塗装に、はめこまれたステンドグラス。

その全てが青い月光に照らされ、静けさを携えており、どれをとっても神秘的で、夜の魔法はベールのように厚く滑らかにかけられていた。

 

 

…男は教会を見上げ、呟く。

 

 

「…ボっロ…」

 

 

俺は目の前の廃墟のような、いやもう廃墟と言っても差し支えない建物に素直な感想を口にする。

そして鼻白んだような顔を浮かべると、溜息をついた。

 

…豊穣の女主人から出た後。

 

俺はエイナにヘスティアファミリアへの道順を聞き、そこで別れた。

ちなみに家まで送って行こうかと提案したら断られたとかは言うまでもない事だろう。

 

そしてそこまで複雑ではない道を緩慢に、散歩の如く俺はエイナに教えられた通りに歩き、この袋小路に辿り着いたのだった。

既に辺りには一切人の気配は無く、店は閉じ、町全体が寝静まっていた。

…時計を持っていないので解らないが、だいたい二時とかその位だろうか?

 

 

「ここ…だよな?」

 

 

俺はいかにもぼろい教会を見上げ、そう呟くと、先程のエイナの去り際の顔とセリフを思い出す。

 

 

(ちなみにヘスティアファミリアの現在の拠点は教会です…って言ってたもんなぁ)

 

 

目の前の建物は教会のようにも見える。

だがたとえ教会だとしても窓が割れていたり、ツタがはびこっていたりと手入れはされていない様子だった。

故にとてもじゃないが人の住んでいるような環境には見えず、何だかその理由も解るようで、俺は中に入る事をためらっていた。

 

…しかし他にアテがある訳でも無い。

 

俺は諦めとも困惑ともつかない溜息を吐き出すと、教会の敷地内に足を踏み入れた。

 

 

「…!?」

 

 

その時、またも血が滾った。

言いようのない衝動に、俺の身体は疼き始める。

…が、この感覚は二回目だ。俺は荒く息をつくと、何とかそれを抑え、先程のように沈静化させる。

そして同時にふと視線を上げると、気がついた。

 

――神は、当たり前のようにそこに立っていた。

 

美しい。そう形容するしかない少女が、俺を見上げていた。

黒いツインテールは美しく流れ、目は澄みきっている。

顔の造形もそうだが、雰囲気からして人ならざる気配が漏れ出ており、思わずハッとするような、背筋を正してしまうようなものが少なからず感じられた。

それは所謂「神気」という奴であり、人にとっては不思議と心地よいものだった。

 

月明かりに映し出された少女はまるで光り輝くように、美しく、奇跡そのものを体現していた。

 

 

(こいつが神か)

 

 

思ったよりもずっと身長が低い。

下手すればベル君よりも低い身長をした神様は、教会のぼろい壁に背を預け、不審者でも見るかのようにこちらを見上げていた。

一見すると少女のようにしか見えない彼女だったが、俺は神だと直感すると、少しばかり緊張する。

 

流石に神と直接会話するなど初めてだし、衝動的なものがいつ出てくるかも解らなかったからだ。

 

 

「なんだい君は?…こんな夜中に」

 

 

しかし怪訝そうな顔をした神、「ヘスティア」が、彼女から尋ねてくる。

なるほど、確かにこんな真夜中に自宅を訪ねる人間がいれば不審に思うのは当然だ。

事実ヘスティアは不安そうな、怪訝な顔をしており、突如現れた俺の事を見ていた。

 

だがてっきり俺から喋りかけるつもりでいた俺は、少し口ごもる。

 

それを見たヘスティアは顔の怪訝さを強めると、ふっと疲れたように溜息をついた。

そしてひらひらと手のひらを振ると、首を振った。

 

 

「何にせよ今はやめてくれ。僕の大事な眷属がまだ帰ってきてないんだ…僕はここで待っていなきゃいけないから用事があるのだとしても聞いてやれないよ」

 

 

ぶっきらぼうなその言い方に、少し我に返った俺は尋ねる。

 

 

「…その眷属はもしかしてベル・クラネルって名前じゃないか?」

 

「何、君もしかしてベル君が今どこにいるか知っているのかい!?」

 

 

まさか俺の口からベルの名前が出てくるとは思わなかったのだろう。

驚いたヘスティアは目を見開くと、身体を預けていた教会の壁から身体を離し、俺に掴みかからんばかりに詰め寄ってきた。

…幼い身体にはやや不釣り合いともいえる巨乳がバインと揺れる。

 

だが焦った様子のヘスティアとは対照的に冷めた俺は、ゆっくりとヘスティアの質問に答えた。

 

 

「今どこにいるかは解らんが、なんでここ…つまりは自宅に帰ってないかの理由は解る」

 

「…!」

 

 

ヘスティアは悔しそうな顔をした後、緊張と悲しみ入り混じったような複雑な顔をする。

俺は特にそれに何の反応も示さず、続けた。

 

 

「馬鹿にされた」

 

「…は?」

 

「弱いって馬鹿にされたんだ」

 

 

そう言って肩を竦めるて見せるとヘスティアは軽く俯くと、まず怒りの感情を瞳に浮かべ、すぐ消した。

そして「じゃあダンジョンに…?」と呟くと、再び心配を顔に表した。

 

俺は欠伸をしながらその工程がすむのを待つと、ヘスティアが顔を上げるのを待つ。

 

そして再び顔を上げたヘスティアは怪訝そうな視線を俺に向けた。

 

 

「じゃあ…君は何者なんだ?」

 

 

なぜそんな事を知っている、と続けるヘスティアに俺は軽く笑うと答える。

 

 

「たまたま命を救ってもらって、たまたま食事の席で一緒になった者だ」

 

「…はぁ…」

 

 

ヘスティアは冗談のようなそれに、困惑気味に頷く。

…が、俺は畳みかけるように用事を述べた。

 

 

「そしてヘスティアファミリア志望者だ」

 

「…へぇー…え?今何て?」

 

 

興味無さげに再び下を向いていたヘスティアだったが、俺の一言にバッと顔を上げる。

俺は若干タイミングが悪かったか?という思いを軽く流すと、もう一度言う。

 

 

「ヘスティアファミリアに入りたい」

 

「…!」

 

 

驚きと、若干の嬉しさを顔に浮かべたヘスティアは俺の事をマジマジと見つめ――

 

――首を振る。

 

 

「…ダメだ、さっきも言った通り今僕はベル君の帰りを待っている。今君を相手している暇はないんだ…何にせよ今はタイミングが悪い、また明日来てくれ」

 

「あー…」

 

 

やはり、タイミングが悪い。

俺を見る視線や、僅かな喜色からして前向きには検討してくれているようだが、それ以上にベルの事が心配なのだろう。

そりゃ見ず知らずの人間より、恐らく仲の良い自らの眷属の事を気にかけるのは当然だと言えた。そして心配な時に他者に構っている暇など無いだろう。

 

だがそれだと問題が一つ。

 

 

(今晩どこで寝りゃいいんだ、ってことになる)

 

 

出来るならば汗や土で汚れた服を洗濯し、身体を洗い、フカフカのベッドに眠りたい。

野宿もとい道の上で眠ること自体はできるが、身体が痛くなるし、何より外で眠ると寒い。

それにクタクタに疲れた体は柔らかいベッドを欲しており、安眠を求めていた。

 

案外さっくり入れると思っていた俺は、完全に計算違いだと内心舌打ちすると、もはや話はここまでといった風に俺から視線を逸らして足元の石を見始めたヘスティアに()()()()

 

 

「もし…実は今晩の宿がなくて困っているのです」

 

「…」

 

 

まだいたのかという様子のヘスティアは、少し面倒くさいふうに俺を見上げる。

俺はコートの内ポケットをまさぐると、かなり使ってもまだ一万ヴァリスの入った袋を取り出した。

 

…ヘスティアはまるで説教をするように、目を閉じ、指を振る。

 

 

「いいかい?いくらベル君の知人だろうが何だろうが今日知り合ったばかりの君を、誰もいないホームに入れてあげる事はできない。それに――」

 

「これ少ないかもしれないですが、僅かばかりの俺の心です」

 

「――ホアア!?」

 

 

何やら述べていたヘスティアだったが、突如として現れた袋の中の大量の金貨に驚愕する。

そして何やら計算し始めると、またも突拍子の無い声を上げた。

 

 

「一万ヴァリス!?」

 

 

今日稼いできたのが十万五千ヴァリス。そのうちの9万は(まぁ今日は特に食べたが)食費に消えた。

なので残ったのは一万ヴァリス。最初あったうちの十分の一ではあるが、普通の一皿がだいたい600~900ヴァリスなのを見るにそれでもかなりの金は持っていると言えた。

 

ヘスティアは目を白黒とさせて、一万ヴァリスの入った袋を見つめたまま固まる。

俺はそれを内心鼻で笑うと、慣れない丁寧口調で続けた。

 

 

「できればー、一晩だけでもお部屋をお借りできればと思っているのですがー」

 

「う、ぐぐぐぐぐ…!」

 

 

何やら辛そうな顔をしているヘスティアは、うめき声をあげ、考え込む。

どうやら先程言ったこととの矛盾や、金で買収されることへの抵抗感があるようだったが、結構心は傾いているようだった。しかし顔は辛そうでも片腕はギギギと袋を掴む方へと動いており、指はワシワシと開いたり閉じたりしていた。

 

そして若干恨めしそうにヘスティアは、袋を受け取る。

 

 

「…どうやら君は信用に値する人間のようだ。全く持って遺憾だが、特例だが、君がとりあえずここで休むことを許そう…!」

 

「ふっ、金で買える信頼ですか」

 

 

そう言って鼻で笑ってやると、ヘスティアはとても悔しそうな顔をし、涙目ながら声を荒げ教会の扉を指さした。

 

 

「教会を入っていくと奥に地下に続く階段がある!そこを好きにするといいさ、汚さないようにね!」

 

 

こう見ると神には全く見えないものだ。

俺は身長の低いヘスティアが顔を赤くしてまくしたてるのを思いっ切り見下ろした後、その脇を通り、教会の今にも外れそうなドアを押した。

ドアはギィーという音を立てながら開かれ、立て付けが悪いのか勝手に戻り始める。

 

俺は扉が閉じきる前にするりと中に入ると、後ろでドアがぱたりと閉じた。

…閉じる前に後ろから「ベル君…僕はお金には勝てなかったよ…」という声が聞こえた気がした。

 

…中の様子は外とそこまで変わらない。

敷かれたカーペットは所々裂け、幾つも置かれた長椅子は転がったりバラバラになっていたりと散乱しており、外から見て割れていたのだから当たり前だが窓は割れていた。

そしてその割れた窓からは風が入ってきており、僅かだが部屋の温度を下げてしまっていた。

 

 

(ここで生活できる訳はないが、なるほど地下か)

 

 

…納得した俺は乱雑に放置された長椅子の合間を通り、奥に向かう。

 

するとそこには確かに開かれた扉と、地下へと続く階段があり、そこからは生活臭がした。

つまり教会はあくまで玄関なのであって、教会自体では生活している訳ではないので別にぼろくても構わない…という訳だろう。

 

 

(どちらにしてもだ)

 

 

俺は地下へと続く階段を前に、一度振り返る。

そこにはまるで荒らされた跡のような散乱具合と、全く手入れされていない物の汚れが蓄積されていた。

一般人が見れば、いや誰もがこの景色を見ればこう思うだろう…「直せばいいのに」。

 

しかしそれをしないという事は、出来ない理由があるという事になる。

 

そして先程の神であろうはずのヘスティアの一万ヴァリスを見た時の反応、そして今は誰もいない本拠地(ホーム)という言葉、それらを集積するに…。

 

――俺の思いは、確信に変わる。

 

 

「…もしかしなくても一般以下なんじゃないだろうか?」

 

 

俺は――ヘスティアファミリアが貧乏なのだという事を知った。

 

 

 

・・・

 

 

 

階段を降りるとそこは狭い一部屋、いやどうやら奥に簡素ながらもシャワールームのようなものも見えるので二部屋の本拠地があった。

 

見える限りにはひとまず欲していたベッドと、ところどころ中身が出てしまっているソファ、そして本棚と洋風の机がある。

奥には台所なのか水回りと、棚があり、その手前には小さな洋服ダンスが設置されているようだった。

 

 

(まずは身体洗うか…)

 

 

正直今すぐにでも寝てしまいたい。

だが身体に張り付いたシャツの感覚は気持ち悪く、何やら自分の身体から異臭がしているような気がした。

…風呂にも入りたいくらいだったが、流石にそこまでの贅沢は言っていられないだろう。

 

俺は重い脚を引きずり、部屋を横切るとシャワールームに辿り着く。

 

そして丁度良さそうな何も入っていない桶を見つけると引っ掴み、それを持って中には入った。

 

 

(うわせま)

 

 

何とか二人入れるかどうかの広さしかないシャワールームに俺はとりあえず服を着たまま入る。

そして桶を置くと、しゃがみこみ、流石に置いてあった石鹸を蛇口を捻って水を流し込みながら桶に溶かした。

 

 

「よし…」

 

 

俺はちゃぷちゃぷと石鹸水の入った桶の中を軽くかき回し、頷くと腰に付けてあったグローブを外した。

そしてひとまず足元にカチャリと置いておくと、立ち上がり服を脱ぎ始めた。

 

 

「おー…きったねぇな」

 

 

モンスターの体液や土埃もそうだが、それ以前から元いた世界でも失踪していたのだ。

服は痛みこそしていないようだが見かけでも大分汚れており、汗のせいでか臭っていた。

 

俺はすぽぽんと全裸になると、服をまとめて桶の中に入れる。

そして水を流しながら一つ一つ手で洗い始めた。

 

…一回こする度に茶色い土が流れ、水を染める。

 

そして何とか綺麗にした服は水でゆすぎ、設置したグローブから伸ばしたワイヤーに(切れないように)吊るした。

 

 

「腰いった…」

 

 

30分後。

何とか全て洗濯し終わった俺は立ち上がり伸びをする。

そして長らく動いていなかったせいで凝り固まった身体をほぐすようにさすると、痛みを和らげた。

 

 

「ふぅ…」

 

 

やっと身体が洗える。

正直疲れ切った身体は今すぐ眠る事を推奨していたが、軽く頭を振り、眠気を頭から追い払った。

 

俺は熱いシャワーを全身に浴びながら、石鹸を泡立たせると身体に擦り付けていく。

 

できれば手ぬぐいなんかも欲しかったが、見たところ周囲には身体を拭くためのタオルしかない。

俺は手で全身を擦ると、地肌から汚れを取り除いていく。

 

そしてその全ての泡を汚れごと洗い流すと、タオルで全身を拭いた。

 

 

「はー…」

 

 

だいぶ、というかかなりスッキリした。

朝も噴水の水で顔は流しこそたが、やはり温水の方が効果が格段に良い。

 

体中の汚れを落とせた俺は満足し、身体を拭き終えるとタオルも軽く水で洗い、絞り、ワイヤーにかけた。

そしてシャワールームから出ると――気がついた。

 

…替えの服が一切ない事に。

 

 

(…)

 

 

常識的に考えれば、仮にも神とはいえ女性が生活している空間で全裸でいるというのはよろしく無い。

しかし俺の思考は強烈な疲れによる眠気で鎖がかかったようになっており、そんな事を思っている余裕など無かった。

 

俺は一応フラフラとタンスに近づくと、空ける。

 

すると中には女ものの服が何着かと、男物とはいえ明らかにサイズの足りない服が一着入っていた。

着れるものは無いと悟った俺はタンスをバタンと閉め――

 

――迷いなくベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。

 

 

(ねむ…)

 

 

そして俺は、割と何もかもがどうでも良いと思いながら、柔らかなベッドで眠りについたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「おい、起きろリョナ君!」

 

「んー…」

 

 

誰かの呼ぶ声が聞こえる。

声の高い女の子の声だ。

一番近いのは妹なのだろうが、妹は俺をあだ名で呼ばないし君付けする事も無かった。

 

正直言ってもう少し眠っていたい俺は、身体を動かさない。

 

…しかしいつうつ伏せになったのだろうか。

普段はあおむけで寝ている俺は息苦しさを感じ、無意識ながらを寝返りをうとうとした。

 

 

「わ!?寝転がっちゃダメだリョナ君、ただでさえ見えそうなんだから!!?」

 

 

背中を抑えられる。

柔らかい手からのじんわりとした温もりに俺は心地よさを感じ、同時に欲望が沸きあがるのを感じた。

 

意識が急に覚醒する。

 

目を開くとそこには見慣れない景色。

 

 

(そうか、異世界だった)

 

 

なんだか異世界もののテンプレートを辿るようだが、俺は異世界に来てしまっている事を再確認する。

そして眠気から解放された俺は柔らかなベッドに腕を突き立てると、立ち上がろうとした。

 

 

「わ!あわわ…」

 

「ん…?」

 

 

そして気がつけば隣には何とベル君が寝かされていた。

頭には包帯が巻かれ、顔色も悪く、死んだように眠っていはいるが無事のようだった。

 

俺はベッドの上に座ると、目を細めてベルを見る。

 

恐らく弱いと言われ、命がけの特訓でもしてきたのだろう。

そして怪我をして、帰ってきたのだろう。

 

…若くて、青い。

 

だが嫌いじゃない。

死んでしまったら何もかも無駄になってしまうが、努力の出来る人間というのは好きだ。

最初から何もかも諦めた人間を殺すのは余り楽しくないからだ。

…まぁ最初無抵抗だったのに、身体の一部を失ってからの泣き叫び方のギャップを楽しむのは悪くないが。

 

まぁ何にせよ生きて帰ってこれたのだ、それだけ充分だろう。

 

 

俺はベッドの上で胡坐を掻き、思い切り伸びをすると――ベッドの脇で硬直したヘスティアに気がついた。

 

 

ヘスティアは驚いた状態(何故か髪の毛も飛びのき空中で硬直している)で、目を丸くし、これ以上ないという程驚き…いや、唖然という顔を浮かべていた。

 

俺は首を傾げ、なぜヘスティアが驚愕していたのかを確かめる為、彼女の視線を追うと――

 

 

「あっ」

 

 

――自分がまだ全裸である事に気がついた。

…そしてもう何もかもが彼女には見えているということも。

 

 

「きゃあああああああああああああ!!?」

 

 

結局俺は彼女の悲鳴と同時に出された「神の恥じらいビンタ」とでも言うべき代物を、余裕で避けたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…まったく。貸すとは言ったけど何で全裸で寝てるんだい君は!」

 

 

ヘスティアは(まぁこちら側からは見えないのだが)不機嫌な顔をして、何とか乾いた服をワイヤーから下ろしている俺に背を向けながら説教を垂れていた。

俺はまだまだ生乾きの肌触りの悪いTシャツに袖を通すと、ひとますコートを残し、ジーンズとTシャツという姿になった。

 

そして伸びをした後、グローブを回収し腰に付け、コートをソファの背に投げ置いた。

 

 

「…着ましたよっと」

 

「まったく!まったくだよ君は!」

 

 

俺が告げると、未だご立腹な神様は顔をしかめたまま振り返る。

そしてムスッとした様子でベル君の寝ているベッドの端にこしかけ、ソファに座った俺と少し離れてはいるが対面する形になった。

 

 

「ふぁ…」

 

 

俺はソファにくつろぎ足を組み、大きく欠伸をすると、首を傾げるようにヘスティアを見る。

ヘスティアも特に臆する事も無く俺を眺めると、真面目な顔をして俺の全身を眺めてきた。

 

そして数分ぐらい眺められてから、昨晩の続きを尋ねてくる。

 

 

「それで君は…冒険者になりたいんだよね?」

 

「んー…まぁそうなりますかね」

 

 

俺は特に偽る事も無く頷く。

するとヘスティアは少し嬉しそうな笑顔を見せた後、すぐ我に返ったように真面目な顔に戻った。

 

そして指を二本立てる。

 

 

「じゃあ…君がこのファミリアに入るために、僕が君に求めるものは二つだ」

 

「…それは?」

 

 

入社試験のようなものだろうか。…まぁどんな人間かを見極める為にはそうするのが一番なのだろう。

俺が内容について尋ねるとヘスティアは得意げに、指を折りながら答える。

 

 

「なぜ冒険者になりたいか、それと君自身のことについて自己紹介をしてもらおうと思うんだ!」

 

 

そう言うとヘスティアは少し落ち着き、神秘的な笑みを浮かべ、ベッドに座りなおすと、ゆっくりと質問を始めた。

 

 

「じゃあ早速…君はなぜ冒険者になりたいんだい?」

 

 

ヘスティアはそう言うと軽く首を傾げた。

俺はいたって単純で、平凡で、簡単な答えを即答する。

 

 

「生きる為…いや、この場合金を稼ぐため、と言った方がいいですかね」

 

「…まぁ、そうだよね。うん」

 

 

俺は神の恩恵や、ダンジョンへの憧れなどというものに興味は無い。

故に俺はただの目に着いた職業としてか冒険者というものを見ていなかった。

現状では冒険者という仕事が割に合った仕事なのかは解らないが、モンスターを倒すこと自体はそこまで重労働でも苦痛でも無かった。

 

その答えを聞いたヘスティアは表情を変えずただ頷き、またも尋ねる。

 

 

「じゃあ次に…君は何者だい?」

 

 

二個目だ。

何だか随分と曖昧な質問だが、普通に自己紹介するのでいいだろう。

…とはいえ俺はどこまで言っていいものかと考え、答えようとした。

 

 

「言っておくけど」

 

 

――だがそれよりも先に、少し小悪魔的な顔をしたヘスティアに釘を刺される。

 

 

「僕に嘘は通用しないよ」

 

 

その瞳に宿るのは知性だ。

創世より存在する神に、ちっぽけに生きる人間程度知性では嘘など通用しないだろう。

 

とはいえ最初(はな)から嘘をつく気も無かった俺は軽く笑うと、自己紹介…というか身の上話をし始めた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「なるほどなるほど…実は君は異世界人で、飢えて倒れてたらベル君が助けてくれて、とりあえず日賃を稼ぐために神の恩恵も無しにダンジョンに潜って、実際結構稼いで、ご飯を食べに行ったらベル君に会って、丁度ベル君に誘われたから僕のファミリアに来たと…」

 

「おお、そうですな」

 

 

俺が何の躊躇いも無く頷いたのを見ると、ヘスティアは唖然とした表情を浮かべる。

そしてそれが嘘ではないという事が解ると、ツインテールを大きく振り、唸った。

 

…嘘が解るという事はつまり、俺の話した内容が全て真実だという事が解るという事なのだから。

 

 

「うぅ…異世界は存在自体は知ってたけど、まさか僕たちの知らない子供たちがいるなんて…!」

 

 

ヘスティアはぐだりと上半身ごと項垂れると、プルプルと震ながら、両目をきつく閉じて何やらぼやいていた。

だがすぐに上半身を起こすと、俺のことを睨む。

 

 

「だけどそれはこちらに来てからの事で、君自身の事についての説明では無いだろう!?」

 

「あっ…」

 

 

確かに考えてみれば、自己紹介だというのにこちらに来てからの事ばかりを話していた。

ヘスティアが聞きたかったのは、つまり俺がどういう人間なのかという事であり、経緯ではなかったはずだった。

 

俺はため息をつくと、少し()()()()

どうせ嘘が通じないのならば、そして俺自身を「神様に紹介にする」ならば、「絶対に欠かしてはならない要素」がそこにはあった。

 

 

そして俺は――()()()()を語り始めた。

 

 

「…むかしむかし、かつてある神様がきまぐれで人間を一人、創り出しました」

 

 

俺は子供の頃聞かされたおとぎ話を、いや英雄譚を思い出しながらなぞる。

そして突然始まったお話に、ヘスティアは困惑と共に興味を示した。

 

俺は言い聞かせるように、ゆっくりと語る。

 

 

「だが気まぐれで創られた人間は何を思ったか、一瞬だけ背中を向けた神様を背後から一撃で殺してみせました」

 

「…親殺し!?」

 

 

少し訝し気に話を聞いていたヘスティアだったが、神を殺したという単語に、流石に深刻そうな顔になり、驚愕の声を上げた。

そして次をせがむように、片手をついて前かがみになる。

 

俺はあくまで表情は変えず頷くと、続ける。

 

 

「そしてその人間は瀕死の神の身体を喰らい、異形の権能と――」

 

 

俺は一度言葉を切ると息を吐き出し、思い出すようにして言った。

 

 

「――()()()()()()()()()()()

 

「…!」

 

「そして神を食った人間に称号…いえ、その()()はすぐに人間の全身を廻り、骨髄にまで染みわたりました」

 

「ただの人間にはそんな…!」

 

 

ヘスティアの言う通りだ。

 

――それは余りにも残酷な結果をもたらす「(しるべ)」となるのだから。

 

俺はその結果を伝える。

 

 

「しかしその結果、その人間は神様から目をつけられ、命を狙われるようになりました…それはそのはずです、神殺しなどという不名誉な称号と、()()()()()()()()を放っておく理由などないのですから」

 

 

それは恐怖によるものだろう。

自らを殺しうる存在があるなら、それを恐れるのは神だろうと人だろうと変わらない。

…そして殺されるくらいなら、先に殺してしまおうと思うのは当たり前だろう。

 

しかし――述べる。

 

 

「だが神々に命を狙われた我々一族は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()…まぁ時間はかかったし、結構犠牲は出たらしいですけどね」

 

「…いや、待てその言い方じゃ!?」

 

 

ヘスティアが驚愕の色を浮かべるのを無視して、俺は続ける。

 

 

「それでも何とか殺して殺して…俺より四世代だったか五世代前だったかの先祖様が最後の神を追い詰め、神殺しの称号でもって、殺しました」

 

「…」

 

「そこから世界は人間だけのものになって、俺達の世代での神様はおとぎ話の中だけの存在になりましたとさ」

 

 

かつて俺達の先祖は神を殺し、恨まれ、逆に殺し返した。

「神殺しの称号」は今でもこの血には流れてこそいるが、元の世界には肝心の神がいない…それはつまり、命を狙われるという事が無くなったという事でもある。

 

故に今まで「神殺しの称号」が疼くことは無かった。

 

…しかしこの異世界では、この神の降りてきた世界では、「神様(殺さなければいけない存在)」が目の前にいる、目の前に座っていた。

 

 

…神殺しの称号は俺の殺意に息を吹きかけ、衝動を加速化させ、欲望の毒で思考を支配しようとする。

もはや標的がいなくなり、血の奥底に眠っていた神殺しは、異世界の神を前にして、まるで子供が新しいおもちゃを手に入れた時のように歓喜して、吼えていた。

 

 

――俺はヘスティアを眺め、神を殺したいという渇望が全身を滾らせるのを感じながら、自己紹介を終える。

 

 

「つまり…俺は、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

・・・

 

 

 

「さて?俺の自己紹介は以上ですけどいかがでしょう?あ、それとも基本的な名前とか趣味とか好きな物とか言った方がよろしいですかね?」

 

「うん…まぁ、それはいいよ」

 

 

ヘスティアは少し暗い顔で頷き、悩む。

余計だったかなと俺は内心思いながら、お腹が減り始めているという事に気がついた。

 

…ヘスティアは少し考えた後、笑顔を見せる。

 

 

「まぁ…いいんじゃないかな?」

 

 

正直意外だ。

この世界での神殺しの意味は向こうとは違うかもしれないが、神様が「神殺し」を身近に置いておきたいわけが無い。

…少なくとも話しながら地雷を踏んだかと後悔していた俺は、そう思っていた。

 

ヘスティアは少し神気を漂わせながら、手を差し伸べる。

 

 

「別に君自体が何かしたわけじゃあないんだろ?なら問題ないさ」

 

「…」

 

 

何か神殺しの称号を持っていて、今まで困った事は無かった…それは俺のご先祖様方が向こうの世界の神々を全て撃ち滅ぼしてくれたおかげだ。

だが許されるという行為は神の専売特許であり、人は何だかそれで救われるような気がする。

俺は何故か感動したような気持ちになった。

 

そしてヘスティアは立ち上がり、俺の近くまで歩くと宣言する。

 

 

「じゃあリョナ君。君はこれからヘスティアファミリアの一員。そして…僕の眷属だ!」

 

「アザース」

 

 

一応軽く頭を下げる。

そしてヘスティアが神らしいポーズを決めるのを無視して、またも欠伸をした。

 

…それに気がついたヘスティアはムスッと不機嫌そうな顔をする。

 

 

「リョナ君!君は異世界から来たんだろ、まず敬意とかそういう常識から覚えてもらおうか!?」

 

「えぇ…あぁいや必要か」

 

 

――ヘスティアに認めてもらえた俺は、ファミリアに入れてもらえることになった。

 

…これで一応地盤を固めることが出来るだろう。

 

しかしまだまだこの世界の知識が足りない。

そしてそれを教えてくれるというのであれば、やぶさかでは無かった。

 

だが――

 

 

ゴギュルル。

 

 

――それよりもまず、腹が盛大に鳴る。

 

 

「…お腹、減ってるのかい?」

 

「えぇ、まぁ、はい」

 

 

ヘスティアが微笑みかける。

俺は素直に頷くと、ヘスティアは少し考え、力こぶをつくると自信満々に言った。

 

 

「じゃあまずは僕が朝ご飯を作ってあげよう!」

 

 

…そして俺は神様お手製の朝ご飯を振舞われることになったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「なるほどなるほど不味いつまり神様は天界に不味い飽きて地上に不味い降りてきたと」

 

「そんなに不味いのかい!?」

 

 

俺はヘスティアの作った芋のスープを飲みながら、ヘスティアからこの世界のことについて教えてもらっていた。

…が塩を入れ過ぎであり、けっこう、だいぶ、いやかなり不味かった。

 

とはいえ栄養だけ回収できれば良い俺は()()()()出さず、ヘスティアからの話を聞いていた。

そして食べ終わる頃には神の恩恵や、この町、ダンジョン、ギルドについての基本的な事を教えてもらっていた。

 

 

「ふぅ…ご馳走不味い様でした」

 

 

俺は両手をあわせると立ち上がる。

…まぁ正直足りないが、昼までは持つだろう。

 

ヘスティアは不機嫌そうな顔をすると、自らのスプーンを皿に置く。

 

俺は立ち上がるとついでにヘスティアの皿を回収し、台所の方に持って行き、水回りにとりあえず置いておいた。

そしてソファに戻ると、ヘスティアの隣に座る。

 

するとヘスティアは逆に立ち上がると、リョナを見て、片目を閉じて手で隠しながら欠伸した。

 

 

「ふぁ…じゃあそろそろ神の恩恵をあげようか」

 

 

だいぶ眠そうではあるが恩恵をくれるらしい。

 

 

「はいじゃあ上半身脱いで」

 

 

俺は頷くと、Tシャツを脱ぐ。

するとその下からは鍛えられた上半身が現れ、割れた腹筋や、服の上からでは解らない厚い胸板が硬くそびえたっていた。

…やはり拉致や切断にはそれなりの筋肉が必要であり、普段から鍛えている。

自分で言うのもなんだが「筋骨隆々」という言葉が相応しかった。

 

 

「そこでうつ伏せに寝てくれ」

 

「あぁ」

 

 

俺が寝転がるにはこのソファは少し小さいが、何とか片腕を垂らしながらうつ伏せに寝る。

 

 

「よっ…と」

 

 

するとヘスティアはまるで少し大きい段差を乗り越えるみたいに腰に手をかけると、俺のお尻の上に乗っかった。

…柔らかな太腿の感触などもそうだが、神と直接触れる事で俺の<神殺し>は反応し、結構な我慢が必要となる。

 

 

「じゃあ始めるよ」

 

 

ヘスティアは俺の上で、どこから取り出したのかナイフを手に持つ。

そして鞘から引き抜くと、現れた刀身で自らの人差し指を軽く刺した。

 

つぷり、と血が出る。

 

雫となった血をヘスティアは俺の背中の中心、背骨の真上に持っていくと…唱えた。

 

 

「今ここに…君が神ヘスティアの眷属であることを認め、神の恩恵を授けよう」

 

 

唱え終わると同時に雫が垂れる。

緋色の雫は重力に抵抗することなく落ちると、背骨に当たり黄金色の波紋を現した。

そして青く輝くと、黒色の文字の羅列が幻想的に、神秘的に浮かび上がってくる。

 

俺は今まさに俺の背中で行われている奇跡に、興味を示しながら、少しだけ始めて注射をされる子供のような不安感を抱いていた。

 

…そしてそれらはすれ違い、入れ違うと、文字列となり――最後には「ステイタス」となる。

 

 

「はい終わったよ!」

 

「ふぅ…」

 

 

実際は短かったのだろうが、とても長い時間弄られていた気がする。

俺はため息をつくと、立ち上がろうとする。最初はみな恩恵の「ステイタスの値」は変わらないというし、強くなれるのはまぁ嬉しいが、それよりも今は身体を仰向けの姿勢から逃れたかった。

 

 

「…あぁ待って。一応最初は記録しておかないと」

 

 

そう言ってヘスティアは何やら一枚の綺麗な紙を取り出し、俺の背中にピッタリと貼り付けた。

そして剥がすと、今度こそ俺の背中から立ち退いた。

 

俺は上半身を起こし、腕を回すと、すぐにTシャツを纏う。

そしてチラと背中を見ると、Tシャツの首元からまるでタトゥーのような、ステイタスの黒い線が僅かに見えている事を確認した。

 

 

「一応見るかい?」

 

 

ヘスティアが紙を渡してきた。

俺はそれを受け取る。

 

 

(…何語?)

 

 

やはり文字が解らない、紙には何かの文字の羅列が何個か並んでいる。

数字ならば1とか0とかは解るのだが、俺にはそれ以外は皆目見当もつかない文字がバラバラに配置されているようにしか見えなかった。

 

 

「あぁそういえばステイタスの説明はまだだったね。上から力、耐久、器用、敏捷、魔力。その下が魔法で、そのもう一個下がスキルの欄だよ」

 

 

確かに言われてみればそういう風に見えなくもない。

一番上のが題字のようなものだとして、その下の数字の横にあるのが力や耐久なのだろう。

全て10で統一されており、初期パラメータであることを覗わせた。

 

そしてその一個下の空欄があるのが魔法で、その更に下が――

 

――思わず見入った俺に、ヘスティアは優しく微笑む。

 

 

「何てことはないさ!君は体格が良いし、今はステイタスの値は低いけど順番通りにやっていたらすぐに強くなれるよ!」

 

「…あの、ヘスティア様…」

 

「ん?何だい改まって」

 

 

そう言って首を傾げるヘスティアに、俺は紙を見せるとスキルの欄の下を指さした。

 

 

「じゃあこれは何の欄です?」

 

「何々…えっ」

 

 

ヘスティアは覗き込み、改めてマジマジと俺の指さした一点を見るとパチクリと瞬きをする。

そして唖然とし、俺の手から紙をひったくると、スキル欄に書かれたそれを見て驚愕の声を上げた。

 

…俺が指さしたのはスキル欄の下。

 

そもそも何もはいっていないはずのその場所には、俺には読めない一文が追加されており、空白では無くなっていた。

 

書き間違いか、あるいはまだ説明されていない項目かと思った俺はそういう意味で尋ねる

 

 

だがヘスティアの目に映ったそれは――

 

 

「――何でもうスキルを持ってるんだ!!?」

 

「ヘスティア様、ベル君起きますよ」

 

「あっ…うん、そうだね」

 

 

仮にも怪我人が寝ている部屋だ。

俺があくまで冷静に諭すと、ヘスティアは首を縦に振る。

 

が興奮冷めやらぬと言った感じで俺のステイタスの書かれた紙を穴でも開けるかのように凝視すると、突然「物凄い良い笑顔で」振り返った。

 

 

「リョナ君」

 

「はい?」

 

「きっとこれは写し間違いという奴だよ、いやぁ流石の僕もミスしてしまう時くらいあるからね!とはいえもう一度写し直したいから、服を脱いでくれ!」

 

「はぁ…」

 

 

俺は何故かとても良い笑顔のヘスティアに首をかしげつつも言葉に従い、もう一度Tシャツを脱ぐ。

そして背中を見せた。

 

 

「そもそもスキルというものはモンスターを倒した時に得られる経験値を、僕たち神が形にするものであって、人が最初から持ってる訳――持ってるぅぅぅ!?」

 

「ベル君が…」

 

「あっうんごめんね…」

 

 

またもヘスティアは素っ頓狂な声を上げる。

そして諫められつつも興奮気味に俺の背中に張り付いた。

 

 

「いやでもなんでこれ…?」

 

 

立ったまま向けた背中を、ヘスティアに指でなぞられる。

俺は「ステイタス」の写された紙の方で、「スキル」と思わしき欄の下を眺めた。

…確かにそこにはヘスティアの説明した分より多い一文が追加されているように見える。

 

だがその一文は俺には読めない。なのでその内容を尋ねようと――

 

――それより先に、ヘスティアは呟いた。

 

 

「…切り裂き魔の高揚(リッパーズ・ハイ)…?」

 

 

聞きなれない単語に、俺は首だけ振り返ると驚愕の顔をして背中のステイタスを読んでいるヘスティアを見下ろすようにして尋ねる。

 

 

「それがスキル名ですか?」

 

「…うん」

 

「効果は?」

 

 

少しの合間の後、頷いたヘスティアは更に視線を下げる。

そして指で辿り、読み上げた。

 

俺のスキル――切り裂き魔の高揚(リッパーズ・ハイ)の効果を。

 

 

「…斬りつければ斬りつけるほど鋭さを増し攻撃力が高まる。しかしその効果の持続力は一日で失われてしまう、そして――」

 

 

ヘスティアは一際、困惑した声音を見せる。

 

 

 

「――そして、それはやがて神を屠る刃となる…?」

 

 

 

・・・

 

 

 

結局「なぜそれを持っているか」や、「どんな能力なのか」は考えても解らないので、仕方ないという事で会話が終了してしまった。

俺としてはスキルの内容の方には多少心当たりはあったが、それ以上にヘスティアは眠そうであり、困惑しており、半ば強引に話を切られてしまったという方が正しかった。

 

 

「ふぁ…僕はこれからひと眠りするけど、君はどうするんだい?」

 

 

大欠伸を浮かべたヘスティアは髪止めを解くと、ベル君の眠っているベッドに近づきながら俺に尋ねてくる。

Tシャツを着て、少し考えた俺は答えた。

 

 

「とりあえずギルドの方にいって…それから町でも探検しようかなと」

 

「まぁまずはこの町に慣れるところからだろうね…あ、そうだ」

 

 

答えを聞いて頷いたヘスティアは、胸元から何かを取り出す。

そして俺に向かって投げてきた。

 

俺はずっしりと重いその「袋」を片手で受け取る。

 

 

「昨日君に貰った一万ヴァリスだ、それでお昼ご飯とか欲しいものを買ってくるといい」

 

 

確かに色々と必要だろう。

俺は(元々は自分のものなのだが)それをありがたく受け取ると、腰のグローブの隣に結び付けた。

 

 

「ふぁ…じゃあおやすみ」

 

 

そう言ってヘスティアはボスンとベル君の隣に倒れ込む。

そして抱き着くようにして、眠り始めた。

怪我人の寝ているベッドに一緒に入るのはどうなのか、とか、抱き着いたら傷口が開くんじゃ、みたいな倫理的な疑問はあるが、もう既に可愛らしい寝息を立て始めたヘスティア様に俺が思う事はただ一つだった。

 

凄く…無防備だ。

 

 

「…行くか」

 

 

――今ならば、という思いが頭をよぎるが俺はそれを抑え込む…何よりその隣には命の恩人が寝ていたからだ。

 

俺はソファの背にかけていたコートを掴むと、立ち上がる。

 

そしてバサリとはためかせ羽織ると、ぴったりと落ち着くような、身体に馴染むような感覚に少し微笑んだ。

 

 

「まずは…飯だな」

 

 

俺はだいぶ減ってきた腹をさすると、教会に通じる階段を伸びり始める。

 

――時刻は十二時を回ろうとしていた。

 

 

 

・・・

 

 

 




まぁ今後書いていくかは解りませんが、リョナのステイタスをば。

力  0→I10
耐久 0→I10
器用 0→I10
敏捷 0→I10
魔力 0→I10

<魔法>

<スキル>
[切り裂き魔の高揚]
・斬れば斬るだけ、武器の鋭さと攻撃力が増していく。
・増加された攻撃力は日が変わると共に初期化される。
・そして神を屠る刃となる。

では次回もー



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 感謝

ダンメモ楽し、今石を4000個まで溜める計画をしております。
現在2400。
サブタイが本編以上の重さ。

あと気がついたんだがこの物語のメインヒロインってベートだと思うんだ、ツンデレ属性の。






・・・

 

 

 

「うぅ…」

 

「おぉ、起きたかベル君」

 

 

ベッド上から呻き声が上がると同時に、ソファで本を読んでいた俺は片手で本をパタンと閉じる。

そしてのそりと立ち上がると、若干凝り固まった身体を伸びをしてほぐしながらベッドの近くに歩いていくと覗き込んだ。

 

――頭に包帯を巻き、掛布団から白い頭を出したベル君が、目を薄く開けて俺を見上げる。

 

そして長らく声を出していなかったせいだろう、若干しわがれた声で呟いた。

 

 

「あれ…なんで…リョナさん…?」

 

「ん、とりあえず何か異常はあるか?頭痛いとか」

 

「…いえ、特には」

 

 

そう言ってぼんやりとしたまま目をパチクリとさせたベルは片手をベッドにつくと、上半身を起こす。

そして頭に巻かれた包帯をちょいちょいと触った後、ベッド脇に立った俺を見上げてきた。

 

…俺は身体欠損や脳内出血の兆しが無いのを確認し、安堵混じりに溜息をつくと、壁にもたれかかって口を開く。

 

 

「いや良かったよ、お前丸一日眠ってたんだぞ」

 

「そんなに…!?」

 

 

昨日ベルが朝早くに運び込まれてから一日中、ベルはまるで死んだように滾々と眠り続けて、それをヘスティアがずっと看病(という名の添い寝)をしていた。

どうやらただ単純に疲労というだけの様だったのでいつかは目覚めるだろうというのがヘスティアの見解だったが、その間俺は暇で、ダンジョンに潜る気も起きなかった。

 

なので俺はその合間街に繰り出すと、ギルドで冒険者としての登録を済ませ、歯ブラシやコップなどの日用雑貨を買いそろえた後に帰ってきた。

 

――それから俺は「本」も買ってきた。

 

いや、本と言うより「絵本」に近い。

俺は町の本屋らしいところで、可愛らしいイラストの付いた子供向けの絵本を五冊ほど買ってきていた。

…とはいえ俺に幼児趣味があるとか、暇つぶしとかでは無く、そこにはれっきとした理由があった。

 

理由は単純に――「文字」の解読を試みる為。

 

比較的優しい言葉遣いがなされているであろう絵本ならば、憶えやすいだろうという予想を俺はたてていた。まぁ例えばリンゴの絵が書いてあれば、その脇に書いてあるのは「リンゴ」という単語であるからして…という風に日本語に置き換えれるという算段だ。

しかしこれが予想外に難しい。読み始めたのは日暮れだったのにも関わらず、そもそものストーリーを理解するころには、すっかり小鳥が鳴き始め、朝の真っ白な光がぽつぽつと穴の開いた天井から降り注いできていた。

 

そして完徹程度ではさして疲れないが、そろそろ朝ご飯でも作ろうか…等と思っていた時にベッドの方から呻きともとれる目覚め声がきこえてきたのだった

 

…というところで現在に至る。

 

俺はベッド脇の壁に寄りかかると、掛布団から上半身だけ出してベッドに座ったベルを見る。

綺麗な白髪は包帯より白く、全体的に色素が足りないその中で赤い目だけが彩を持っていた。

 

 

「…それで、どうしてリョナさんがここに?」

 

 

まだ頭がちゃんと働いていないのかベルは軽く頭を振ると、目を細めて俺を見上げてくる。

とはいえ喉も乾いているだろうし、まずは水差しでも持って来てやろうかと思っていた俺だったが、とりあえず質問に答えてあげた。

 

 

「ベル君の誘いに乗って昨日、ヘスティアファミリアに入ったんだ」

 

「なるh…へ?今何て?」

 

 

流石神と眷属と言ったところか、リアクションが全く同じだ。

俺は驚いた顔をしたベルに肩を竦めてみせる。

 

 

「ヘスティア様の眷属になった…と改めて言うと何か凄い癪だが、つまりはファミリアのメンバーになった。よろしくな」

 

「ええええええええ!!!」

 

 

ベルは驚きの声を上げる。

…新鮮なリアクションは結構だが、そこまで驚くようなことだろうか?

確かに聞くところによると(やはり)ヘスティアファミリアは弱小ファミリアらしく、今までベル君しか団員がいなかったので新しく入ってくるという事自体が初めてらしいから…まぁ彼にとっても実際に新鮮な出来事なのかもしれなかった。

 

ベル君はひとしきり驚いた後、キラキラとした嬉しそうな顔を浮かべる。

 

 

「こちらこそよろしくお願いします!…うわぁ初めての他の団員だ…」

 

 

そしてこれまたキラキラとした視線で見上げられる。

彼から見て俺がどういう風に見えているかは解らないが、年上だし、新しい同居人なのだから半ば期待のこもった見られ方をされるのは半ば自然な事と言えた。

 

そんな視線で見られたことの無い俺は若干の居心地の悪さに苦笑する。

 

 

「…ありがとうございます!」

 

「いや、別に感謝されるような事ではないだろ?俺もファミリアに入りたかったしなー」

 

「あぁそうですね、すみません!」

 

 

そして何故か感謝するベルに、俺は軽く笑うと首を振る。

それにつられてベルも笑い、軽く頭を下げたのを確認すると、俺は壁から背中を離した。

 

 

「喉乾いたろ、それに腹も」

 

 

そして促すように、ベルの喉と腹を指さしてみせた。

ベッドに座ったベルは自らの喉を深刻そうにさわると、頷き、見上げる。

 

 

「はい、流石に」

 

「じゃあとりあえず飯にするか、少し待ってな」

 

 

腹が減っては何とやら、俺はパンと手のひらを打つと、とりあえず水差しをもって来てやろうと台所に足を向ける。

そして恐らくベルのコップに水を並々と注ぐと、持って行ってあげた。

 

 

「ほらよ」

 

「ありがとうございます!」

 

 

コップを受け取ったベルは、すぐに口をつけ、喉を鳴らして朝の冷えた水を飲み干していく。

そして半分ほど残して一度息をついた。

 

 

「じゃあ俺メシ作ってくるわ」

 

 

俺は安心し軽く頷くと、再び台所に向かう。

 

 

「あ、ちょっと待ってください」

 

 

…しかし朝ご飯の準備に取り掛かろうとした俺を、ベルは止める。

足を止めた俺は軽く振り返ると尋ねるような視線をベッドの上の彼に送った。

 

そして真剣な顔をしたベルは、所在を訊く。

 

 

「その、今神様はどこにいるんですか?…僕、心配かけちゃったみたいで」

 

 

そう言って不安そうな顔をするベルに俺は、怪訝そうな視線を向けざるをえなかった。

というのもそれは余りに簡単な質問で、というか気づかないのかと内心首を傾げる。

 

そしてベルの足元を軽く指さした。

 

 

「ほらそこ」

 

「…へ?」

 

 

ベルは今初めて気がついたのか、足元の違和感に顔を強張らせる。

きっととても柔らかいその感触にベルは青ざめると、恐る恐る自らの腰辺りにまでかかっていた毛布をめくった。

 

――そして、絶叫する。

 

 

「神様ぁぁ!!?」

 

 

まるで当たり前のようにヘスティアが添い寝している光景に、ベルはまるで毛を逆立てて驚く猫のようにその拘束から逃れる。

…確かに色々と刺激の強いお年頃だろうし、ヘスティアの身体が密着したならば男児にとってとても危険ではあるだろうが、そもそも、いやだからこそ気がつかない物だろうか。

 

俺はベッドの上で未だぐっすりと寝ているヘスティアにペコペコと頭を下げるベルを尻目に鼻で笑うと、さて何を作ったものか…と、台所に向かったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「うわぁ…お料理上手何ですね!」

 

「むぅ…確かに…これは…」

 

 

あの後ヘスティアが起きる時に(図ってか図らずか)ベルに抱き着くという事件はあったが、それ以外は特に何も起こらず二人共起床した。

そして俺が朝ご飯を作っている後ろで、仲良くソファに座り、朝のまったりとした時間で何やら一昨日の事についての謝罪している様子だった。

 

 

「まぁ…まぁな」

 

 

そこらにあったピンク色のエプロンをつけた俺は賛辞を若干渋りながら受け取り、苦笑しながら最後の皿の一枚を机の上に置いた。

 

――今、二人の目の前の机の上には俺の作った料理が並んでいる。

 

一口サイズにカットされたふかし芋には、適量のコショウと溶けたチーズが絡み、味のコクと深みを出す。

新鮮な野菜はパリパリ、シャキシャキと口の中を爽やかに駆け抜け、皿に彩を添える。

ベーコンとトウモロコシのスープは、具材の良さを際立たせ、煮詰める時に出た肉の微かな旨味が滲み出ていた。

 

そして極めて一般的なパンを付け加えた、ありもので作った料理達だったがどれも美味しそうに見える。

 

…料理の腕は中々上手いと自負している。たまに自分で作る程度の習熟ではあるが、今回の朝食は自分でも上々に感じるくらいには料理は成功している。

それに何より二人の反応も中々(何故かヘスティアは悔しそうな顔をしているが)良く、好感触だろう。

 

とはいえ味が全てだ、俺は代わりの椅子が無いので地面に腰かけると今度は少し高い位置となったソファに座った二人をチラリと見上げた。

そして食べる様子が無い二人を促すように、自分でだけ掌を合わせた。

 

 

「いただきます」

 

 

それなりに腹を空かせていた俺は、二人を無視し自分の分の料理に手をつける。

味は…まぁそれなりに良い事が解った。

それに合わせるように二人も手のひらを重ねると、料理を食べ始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「んー…ふぅ」

 

 

30分後、俺は教会の外の袋小路でゆっくりと身体を伸ばし、今は所謂上体逸らしをしていた。

 

食後の運動、という訳でもないが俺は教会の前の道で柔軟運動をしている。

身体をゆっくりと伸ばし、戻すのは完徹の少し緩んだ身体に一時的とはいえ張りを与え、緊張できる状態にまで戻す。

時刻的にももはや朝の澄んだ空気とは言えないものの、深呼吸すれば新鮮な酸素が肺に取り込まれ、頭は冴え渡り、身体から疲れを追い出した。

 

 

「まだかな…」

 

 

柔軟の片手間に俺は振り返ると教会の扉をチラリと見る。しかし壊れかけの扉は開く様子は無く、中からベルの出てくる様子は無い。

 

――朝食後、ベルはダンジョンに行きたいと言った。

 

怪我人とはいえ若さ故か、そもそも傷が浅かったからかベルはかなり回復しており、ヘスティアもそれを許した。そして「新人の教育」という形で俺と一緒にダンジョンに行くことになったのだった。

それは俺としてもやぶさかでは無く、むしろダンジョンの歩き方などは知っておいて損は無いと判断し、もうすぐにでも行ってしまおうという話になったのだった。

 

しかしその前に「ステイタスの更新」をするとヘスティアは言った。

 

そこらの事はまだ詳しくないが、やはりステイタスの更新を行う事で蓄積分の経験値が反映される。故にステイタスの更新はこまめにやっておいた方がいいという話だった。

そして更新自体はすぐだそうなので、俺だけ外で待っているという事になり、その間暇なので俺は準備運動でもすることに決めたのだった。

 

 

「んー…」

 

 

この前ネットに書いてあった腕を入れ替えてのブリッジをしながら、もう一度教会の扉を見る…しかし扉はまだ動く気配は無かった。

 

とはいえ、いくら人通りが少ないこの袋小路でも、この世界には無い黒いコートで、この高身長で、ブリッジみたいな(ある意味奇行な)事をしているとそれなりに目立つ。

俺は身体の柔軟性を極限まで使い逆再生のように立ち上がると、汗をかいた額を拭った。

 

 

「お?」

 

 

その時、ガチャリと教会の扉が開く。

俺は振り返ると――残念な視線を向けた。

 

 

「ってなんだヘスティア様か」

 

「何だって何だい失礼だな、君は」

 

 

何だかご立腹らしいヘスティアは余所行きの服なのか清潔感のある服に身を包んでいた。

 

そして不機嫌な顔から一転、真面目な顔をすると身を寄せ、耳打ち(しようとして身長差的にできなかったので俺の膝を折りながら)する。

 

 

「…悪いが僕は数日間留守にする。ベル君より君の方が素人ではあるが、ベル君の傷は完治していないから、出来る限りフォローしてあげてくれ」

 

「はい、勿論」

 

 

事も無げに頷くとヘスティアは、少しため息を漏らし、気分でも入れ替えるつもりなのか笑顔を見せた。

 

 

「あるいは、いやむしろベル君が危険になったら君はその巨体でベル君をかばえ。いいな、このこの!」

 

 

そして毒を吐きながら俺の胸の辺りを小突いてきた。

俺はポコポコと擬音でも付きそうな軽い突きを苦笑で流すと、立ち上がる。

 

…それに合わせるかのようにヘスティアも道に足を向けた。

 

 

「じゃあ任せたぜ!」

 

 

そしてそう言って、ビシリと人差し指を向けて歩きはじめたヘスティアに俺は軽く手を振ってみせたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「すいません、お待たせしました」

 

「ん、気にすんな」

 

 

神様が出て行ったあと僕は、すぐに冒険者の装備を整え外に出た。

するとそこでは少し汗をかいたような姿をしたリョナさんが、グググと伸びをしながら待っていた。

 

 

「じゃあ行こうぜ」

 

 

伸びを終えたリョナさんは軽く肩を回した後、僕に言う。

意味はそのままダンジョンに行こうぜ、ということなのだろうが、リョナさんは何も武器らしい武器を持っているようには見えず、黒い服は装甲としての役割を持っていないように見えた。とてもじゃないがダンジョンに行こうという装備では無いけど、ファミリアの入りたての頃はこんなものだろう。

…それに今日はそこまで深いところにまで行くつもりはないので、安全だとは思うけど…。

 

しかしそれよりまず――

 

 

「すいませんリョナさん、その前に寄りたい場所があって…」

 

「ん?まぁ構わないぞ」

 

 

リョナさんは軽く首を傾げたが、頷いてくれる。

僕の勝手な用事に付き合ってもらうのは少し気が引けたが、何としてでも出来る限り急いで片づけなければならない案件だったため後回しにすることは出来なかった。

 

そして僕が歩きはじめるのをリョナさんが追うように、二人で歩きはじめる。

 

…。

 

 

「なんだ、豊穣の女主人か」

 

 

…歩きはじめて十五分後。

人通りの多い街道を二人で歩いて着いた先は、一昨日僕が「食い逃げ」をしてしまった豊穣の女主人だった。

 

 

(行きづらいなぁ…)

 

 

謝罪しに行くという事にだいぶ気まずさを覚えた僕は大分逡巡した後、Closedと立札のあった木製の扉を開ける。

そして足を踏み入れると、カランカランと扉についた鈴が鳴った。

 

 

「申し訳ありません。当店はまだ準備中ですので、時間を改めておこしくださいませ」

 

「まだミャーたちの店はやってないのニャー!クローズって書かれていたはずニャー!!」

 

 

入ったと同時にテーブルクロスをかけていたエルフとキャットピープルの女性ウェイトレス二人が声をかけてくる。

…どちらも凄く可愛い。こんな状況でなければとても胸ときめくだろうが、ただただそれは僕の緊張を増させるだけだった。

 

近づいてくる二人に僕は縮こまると、若干どもりながら答える。

 

 

「えっと僕はそのお客ではなくて…その…シルフローヴァさんと女将さんはいらっしゃいませんか…?」

 

 

答え、顔を上げるとキャットピープルの方のウェイトレスが目を丸くして驚いた後、怒気溢れる修羅のような顔になった。

 

 

「あぁ!?コイツあん時の食い逃げヤローにゃ!!?シルに貢がせるだけ貢がせといて必要無くなったらサヨナラしたあん時のクソ白髪野郎ニャ!!テメェどの面下げて…」

 

「よしなさいアーニャ、それに食い逃げではないでしょう…まぁ確かにシルの厚意を無下にする行為は許されませんが」

 

 

そう言って責め立ててくるキャットピープルの女性をエルフはの女性は諫めたが、その後冷たく、鋭い視線を向けてきた。

僕はそれに更に震えると、恐怖に竦んだ。

 

――だが、後ろから一つ足音が聞こえた。

 

 

「邪魔するぞ」

 

 

くぐり抜けるようにしてリョナさんが店内に入ってきた。

…逆光でその顔は良く解らなかったが、影に入ればリョナさんはこの場の雰囲気に興味津々といった表情を浮かべている事が見て取れた。

 

――と同時にその姿を認識したキャットピープルのウェイトレスさんは、先程までの修羅のような表情はどこへやら満面喜色の笑みを浮かべると、飛び上がるようにして喜ぶ。

 

 

「あー!()()()()ニャ!!」

 

「…!」

 

 

そして驚く僕の脇をスルリと通り抜け、リョナさんに抱き着いた。

 

 

「ごめんニャさーい今店はやってにゃいんですけど、今晩来てくれたらニャーのニャーによるニャーでニャニャンなサービスができるにゃん?」

 

 

テンションの差もそうだが、明らかに彼女のリョナさんへの対応は一般以上な気がする。

抱き着いた彼女は足をからめるようにしてリョナさんに言葉をかけており、尻尾をうまく使ってリョナさんの腰回りを撫でていた。

 

…気でもあるのだろうか。

 

 

「やめなさいアーニャ」

 

「ブゲニャッ!!?」

 

 

だがその「接客」はエルフの女性の一撃により、失神という形で終結する。

あまりにも早すぎる手刀は僕の目では追えなかったが、キャットピープルの女性の首に吸い込まれ、同時にその身体をカクンと折らせた。

 

そしてエルフの女性は雑にキャットピープルの女性を片手で持つと、リョナさんに頭を下げる。

 

 

「申し訳ございません、ご無礼を。ただ彼女はあの日普段の三倍の給金を貰って、だいぶ興奮していたようなので」

 

「いや気にしないでくれリューさん」

 

 

呆気にとられている、というのが素直な感情だ、何だか目の前に起こっている事が信じられなかった。

しかしそんな僕の困惑をよそに、リョナさんはリューと呼ばれたエルフのウェイトレスの女性に尋ねる。

 

 

「それで…ベル君は何の用事だって?」

 

「あぁそれでしたら…」

 

 

リューとリョナさんに呼ばれたウェイトレスさんが僕を振り返る。

そしてその後、カウンターのある店の奥の方を見た。

 

 

「ん…何だいアンタ達ちゃんと仕事を…と、何だいお客かい」

 

 

その時丁度、ドンとカウンターに荷物を置いた巨体の女将が現れる。

謝らなければならないその人の登場に、僕は胃が締め付けらるような感覚を覚えた。

 

 

「…ご自分で」

 

「はい、ありがとうございます…」

 

 

リューに僕は頭を下げると、おずおずとカウンターに近づく。

 

――その途中で、カウンターの奥からシルさんが出てきた。

 

どこか暗い表情をした彼女に僕は足を止めかけたが、なけなしの勇気を振り絞り、二人の前に立った。

そして腹の底から声を出し、頭を下げる。

 

 

「一昨日は、すいませんでした!…その…食い逃げをしてしまって…!」

 

「…いえ、大丈夫ですよ。こうして戻ってきてもらえただけで私は嬉しいです」

 

 

そう言ってシルさんは悲し気にすぐに微笑んでくれる。

僕はだいぶそれに救われながら、気を緩めないように懐からあの日払えなかった分の金貨が入った袋を取り出した。

 

…そして女将に渡そうとする。

 

 

「これあの日払えなかった分の代金です!…遅れてしまってすいませんでした!」

 

「ふん…」

 

 

女将はそれを受け取らず、腕を組むとため息をつき――呆れ顔で、少し表情を和らげた。

 

 

「…既に受け取ったものは受け取れないね」

 

「え…?」

 

 

僕は驚きの表情をし、顔をあげる。

堂々とカウンターに立つ女将は、顎で入り口の方を示した。

 

…僕は振り返る。

 

 

「…確かにいきなり走り去るのはマナー違反だが、そもそもあそこの男はお前の連れだろう?お前の分も払ってくれたさ」

 

「あ…」

 

 

リョナさんは入り口でリューと話している。

確かに思えば奢ってくれるという話だったが、つまり払ってくれたということなのだろうか、確かにそれならば食い逃げという事にはならないだろう。

…しかし僕はそれに感謝もせずに走り去ってしまった。

 

――それはとても失礼な事だ。

 

 

「だからあんたが謝るとしたらシルと、あの男だよ」

 

「…はい!」

 

 

何かが吹っ切れる。

元気よく返事をした僕はまずシルさんに身体を向けた。

 

 

「せっかく呼んでくださったのに、急に帰ってすいませんでした!」

 

「…はい、許します♪…ですけど…」

 

 

シルさんが身体を寄せ、耳打ちしてくる。

 

 

「…今夜はぜひお連れの方と、豊穣の女主人で♪」

 

「は、はい!」

 

 

ぞわりと総毛だつような艶のある声に、僕はそれを打ち消すように返事する。

それを聞いたシルは身体を離すと嬉しそうに微笑み、チラリとリョナさんの方を見るとカウンターの奥の方に小走りにかけていったのだった。

 

 

「…ふぅ…よし」

 

 

僕は振り返ると次にリョナさんに身体を向ける。

そして数歩前に進むと、腹から声を出した。

 

 

「リョナさん!」

 

「お?」

 

 

リューと談笑していたリョナさんは、僕の声に緩慢に顔を向ける。

 

僕はその試すような表情になお緊張すると、頭を下げた。

 

 

「すいませんでした!」

 

 

今度はすぐに顔をあげる。

そして手に持っていた袋を差し出した。

 

 

「これ一昨日の払ってもらったぶんです!あの時はお礼も言わずに逃げてしまってすいませんでした!!」

 

「…」

 

 

リョナさんは表情を変えない。

僕は少し身体を緊張させたまま、困った顔を浮かべてしまう。

 

…そしてリョナさんは肩をすくめた後、軽く笑って見せた。

 

 

「…だから、恩だって。奢ったんだから払う必要ねぇし受け取れねぇ」

 

「でも…」

 

 

今度はリョナさんが少し困った顔を浮かべる。

 

 

「そうしなければ気持ちがはれない…か?」

 

「そんなことは…」

 

 

否定しかける…が、僕はそれが事実であり何も違わない事に気がついた。

…ただ僕は謝罪の為にお金を払いたいだけなような、そんな気がする。

 

リョナさんは苦笑し、肩を竦める。

そして天井を仰ぐと溜息をついた。

 

 

「…じゃあ受け取るか」

 

 

しかしリョナはすぐに顔を戻すと、僕の差し出していた袋を受け取った。

受け取れない、とはっきり言っていたのを聞いていた僕は少しあっけにとられる。

 

…だがリョナは悪びれもせずこんな事を言った。

 

 

「だからこれで奢ったのは無しだ。その代わりに俺のお前への恩はまだ返せていない」

 

「それは…!?」

 

「…何も言わないでくれよ」

 

 

僕にしてみればたかがじゃが丸君一個だ。

それをこんな重く見られるのは間違っていると思う。

 

…しかしそれはきっとリョナさんにとっても辛い選択だったのだろう。

何せ僕は送られた恩を一度返してしまったのだから。

 

そしてリョナさんは少し悲しそうに僕の言葉を否定した後、笑顔を見せた。

 

 

「さて話は以上か?悪いんだが俺は今リューさんを口説くのに忙しくてn…っていねーか」

 

 

気がつけばあの薄緑髪のエルフの女性はいなくなってしまっていた。

それに対してリョナさんは苦笑する…そして勢いよく振り返ると逃げるようにして豊穣の女主人から出て行ってしまった。

 

…少しズルいと思う。結局僕は言いたい事を言えず、リョナさんには逃げられてしまった。

 

 

「…」

 

 

でも謝る事はできた。

わだかまりはあるし、結局それは事態の先延ばしに過ぎないのかもしれない。

…だが、少なくともそれだけでも僕は救われたようなそんな気がした。

 

そして僕は最後に振り返ると、頭を下げた。

 

 

「…場所お借りしてしまってすいませんでした!」

 

「構いやしないよ、ただ今晩来るんだったら一品多く頼みな」

 

 

女将さんは軽く笑うと、手首をくいくいと傾ける。

それに僕はつられるように少し笑い返すと、リョナさんに続いて外に出ようと歩きはじめ――

 

 

「あっ、待ってくださいベルさん」

 

 

――カウンターの奥から出てきたシルさんに呼び止められた。

 

 

「ダンジョンに行かれるんでしたらこちらを受け取ってもらえませんか?」

 

 

シルは大きなバスケットを手渡してくる。

 

 

「今日はシェフが作ったまかない料理なので味は折り紙付きです。二人分には少し足りないかもしれないですが、何かの足しになればいいと思います」

 

「いや…でも、何で?」

 

「差し上げたくなったから…じゃダメでしょうか?」

 

 

そう言って少し照れくさそうに苦笑するシルさんの顔を見れば、僕でもその意味は解る。

元気づける、いや応援してくれているようだ。

 

 

「ありがとうございますシルさん!」

 

「いえいえ」

 

 

僕はシルさんからバスケットを受け取ると、今度こそ歩きはじめる。

 

 

「行ってきます!」

 

 

そして元気よく扉を開け手を振ってくれているシルさんに手を振り返した僕は、リョナさんの所に向かったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「せいッ!はッ!」

 

 

目の前のコボルトに、ベルは裂帛の気合と共にナイフを叩き込む。

凶悪な顔を浮かべた狼顔のモンスターはその一閃を回避する事は出来ず、鮮血を噴き出して倒れた。

 

 

「ふぅ…大丈夫ですかリョナさん?」

 

「あぁー安全だよ」

 

 

一息ついたベルは指でナイフの血を拭いながら、振り返る。

すると後方3mぐらいの地点で、シルからもらったバスケットを手に持ったリョナは少し欠伸をかみ殺したかのような表情でベルの後をついてきていた。

 

…現在、二階層。

 

かたや怪我人、かたや素人。

ベルとリョナは最初の予定通り深くは潜らず、緩慢に散歩をするかのようにダンジョンの中を二人で歩いていた。

そして歩きながらもベルは、リョナに対してダンジョンの歩き方やモンスターの事を説明していた。

 

 

「どうする?そろそろメシ食うか?」

 

「そう…ですね。そうしましょう!」

 

 

リョナの提案にベルは大きく頷く。

時間的に言えば丁度お昼時であり、それにベル自身も何度かの戦闘でそれなりに腹を空かせていた。

 

 

「…あ、あそこで食べましょう」

 

 

そう言ってベルの指さしたのは少し辺りより高くなった場所。

あそこなら見晴らしが良く奇襲などはされないだろうし、バスケットを置いて二人が座るにしても充分な広さを確保できていた。

 

二人は緩やかな坂を登るようにそこに辿り着くと、胡坐を掻く。

 

 

「ほう…」

 

「おおー!」

 

 

そしてリョナさんがバスケットの蓋を開ける。

 

――その中に入っていたのは、見るからに美味しそうなサンドイッチだった。

 

これならばダンジョンの中でも簡単に食事を済ませることができ、後始末にも困らない。

それに腹にも溜まりやすく、味も見るからに美味しそうだった。

…二人共思わず声を漏らす程度には。

 

 

「いただきます」

 

「いただきます!」

 

 

そして二人で食べ始める。

男二人の手は早く、バスケットの中にあったサンドイッチはみるみるうちにその数を減らしていった。

量的には確かに少なかったがサンドイッチ一つ一つの味は良く、美味しい。

軽く談笑しながらの会話はベルにとっては初めての経験であり、誰かと囲む食事の楽しさを経験できた。

 

――そして二人共結構満足してきた頃、バスケットの中身は二つが残った。

 

 

「あれ、これサンドイッチじゃねぇな」

 

「!?」

 

 

しかし最後に残ったのはサンドイッチでは無く、白と赤の二つの包み。

片方を見た事のあるベルは少し表情を硬くした。

 

とはいえそれを知る由も無いリョナは二つを掴むと眺め、白の方を手渡した。

 

 

「これはお前宛だな」

 

「はい…」

 

 

断頭台にあげられる気分でベルはそれを受け取る。

…そして挟み込んであった紙に気がついた。

 

(ベルさんへ、冒険者のお仕事頑張ってください。シルより…かぁ)

 

勿論ありがたい。酷い事をしたというのにそれを許してくれて、その上厚意を向けてくれている。

だが自らが吊るされる予定の首縄を見ているような、そんな気さえした。

 

ベルは少し気分を変える為、引きつった笑みでリョナの方を向く。

 

 

「…ところでリョナさんは誰からなんですか?」

 

 

赤色の袋をこねくり回すように見ていたリョナは、その袋についていた紙を一枚取り出した。

そして中身を開くと、困惑した顔でベルの方に差し出した。

 

 

「すまん、文字が読めない」

 

「あ、はい」

 

 

てっきり読めるものだと思っていたベルは内心驚くとそれを受け取り、中身を読む。

…非常に乱れた、ありていに言って汚いその文字を。

 

 

「え、えーと…『お得意さんへ。シルの賄いをあげるって話にゃったけど、お得意さんの食欲てきに考えて絶対足りないから、ニャーの昼ごはん少しわけてあげるニャ!…アーニャより』…ということです」

 

「あぁーあの猫か!」

 

 

どうやら豊穣の女主人の猫ウェイトレスかららしい。

何だか随分と仲が良さげだったし、そのくらいおかしくないのかもしれない。

 

 

「ありがとベル君」

 

「いえ、そんな」

 

 

ベルが紙を返すと、リョナは片手でそれを受け取り、もう片手で早速赤い袋を開いていた。

 

ベルは若干名残惜しくそれを渡すと、自らの膝の上に置いた白い袋を見つめる。

 

 

「…!」

 

 

そして決意を固め、包みを開けると更に決意を固めた。

 

 

「うっ…ふぅ」

 

 

中に入っていたおかず一品…いや「それ」をベルは認識する。

 

そして数瞬の後覚悟を決めると、「それ」を食べ、味わい、飲み下す。

一瞬の出来事だが永遠のように感じられるそれを脳裏に焼き付けたベルは、少し涙目になりながら食事を終了する。

 

 

「ありがとうございました…シルさん」

 

 

そして感謝の言葉を述べると、リョナの方を見る。

 

――困惑した顔のリョナが、箱の中から生魚を取り出しているところだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「フッ!」

 

 

短く息を吐きながら繰り出される斬撃で、コボルトの身体が切り裂かれる。

相手は雑魚だがそれでもリョナさんの…(明らかに年上だが)後輩の目の前だ、危険にさらすわけにはいかないし、情けない所も見せられなかった。

 

…残りは二匹。

 

かかっていった一匹が瞬殺されたのを見て若干怯えているようだったが、それでも闘志は失われておらず、牙を剥き出し、低く唸っていた。

 

決して油断はしない、そう改めて自身に言い聞かせた僕はにじり寄るようにしてコボルトに近づく。

 

 

『グォァ!!』

 

 

モンスターの一匹が我慢できなくなり、襲い掛かってくる。

 

大きく口を開け、鋭い爪を振りかぶってくるコボルトは、僕と同じぐらいの体格でありこのまま何もしなければ首筋を嚙み千切られ、爪で顔が引き裂かれてしまうだろう。

 

しかしそうならない前に僕はコボルトの懐に潜り込む。

 

そしてその犬頭の喉笛に、下からナイフを突き立てた。

…喉笛が掻き切られ、すぐに血が噴き出ると、コボルトの頭はだらり垂れる。

 

 

「よっ…と」

 

 

僕は殺したのを確認すると、すぐにナイフを引き抜く。

すると支えを失ったコボルト身体がどちゃりと地面に落ちた。

 

そしてそのままの動きで、完全に足を止めていたもう一匹のコボルトとの距離を詰めると胸の辺りを切り裂いた。

…コボルトは特に何の抵抗も出来ずにその刃を胸に受け入れると、絶命する。

 

 

「…よし!」

 

 

目に見えていた範囲の敵は全滅させた。

この程度の敵ならばもう遅れをとる事は無いだろうということに僕は少し喜ぶと、ナイフに着いたコボルトの血液を払い、戦闘によって緊張した身体を一瞬弛緩させた。

 

 

「きゃーベル君かっこいいー」

 

 

その時、黄色いような気だるげな声援が飛んだ。

僕はリョナさんのいる方に振り返ると手を振る。

 

 

「もう安全ですよー」

 

「あいよ」

 

 

少し離れた場所からリョナさんがあのバスケットを片手に近寄ってくる。

何も武器も防具も装備していない、丸腰のリョナさんの安全が解った僕は少し安心した。

 

リョナさんは歩く道すがらバスケットに魔石を回収していく…シルさんのバスケットをそんな使い方をして良いのかとは思うが魔石自体は綺麗なので問題は無いだろう。

 

 

「…ところでリョナさんは何か使いたい武器とかってありますか?」

 

「あ?あー…」

 

 

腰を屈め魔石をとってくれていたリョナさんが顔をあげる。

そしてバスケットに三つ全てを放り込んだ後、困ったように頭をかいた。

 

僕はその大きな身長を鑑みて、考える。

 

 

「基本的にリョナさんならどの武器でも扱えると思いますけど…」

 

「まぁ…追々な」

 

 

基本的によほど特注の品じゃない限り基本的な武器は何かしらギルドが支給してくれる。

現に今僕のメイン装備であるナイフなんかはギルドの支給品であり、他には長剣や斧、槍なんかがあったように見えた。

それは確かに今決めずとも後でエイナさんにでも掛け合えば支給してくれるはずであり、いずれ解決できる。

 

だが問題はどちらかというと――

 

 

「――防具…はどうしますか?」

 

「ん…?」

 

「流石にリョナさん程の高身長に合わせた量産品の防具はないですから…」

 

 

服のサイズが合わないのと同じだ。たぶんどこの鍛冶屋でもリョナさん程の巨体に合わせた量産品の鎧を販売しているわけが無い。勿論理由は、需要は少ないからだ。

 

とはいえ勿論製造自体が出来ない訳では無く、それはつまり――オーダーメイドという事になる。

 

…そしてオーダーメイドにするととんでもなく高い。

 

 

「急所だけ守る装備にしたら…?」

 

 

例えば今僕の着ているギルド支給の鎧なんかは全身を守れていない。

と、言うと聞こえは悪いが胸周りや頸部は守れており、人体の大事な部分だけは隠れている。

そうなれば素材費は安くなるし、何なら裁縫で自作できる範囲だ。

少し見栄えは悪くなるかもしれないが、命には代えられない。事実僕もこの範囲の狭い鎧にどれだけ命を救われたか…。

 

 

「まぁベル君。それも追々ってことでいいよ」

 

「…そうですね」

 

 

僕はリョナさんの斬ったら何の抵抗も無さそうな黒い服をチラリと見ると、また歩きはじめる。

時間はもう既に四時間は経っただろうか。そろそろ僕のダンジョン豆知識は底をつき始めてきたし、怪我をした膝は少し痛み始めてきた。

帰りの時間の事も考えるとそろそろ引き上げた方が良いだろう。

 

 

「リョナさん、そろそろ帰りましょう」

 

「おう…そうだな…」

 

 

リョナさんは何故か少し残念そうな声で頷く。

その理由が解らない僕は不思議に思いつつも、帰り道の方向に足を向けた。

 

が――

 

 

『ガラリ』

 

「!?」

 

 

――にわかに帰る為の道の壁が崩れ落ちた…その数7個。

ボロボロと壁面が地面に落ち、、灰のように崩れ去った。

 

そしてその壁の中からコボルトが生れ落ちる。

 

生まれたばかりのコボルトたちは顔を見合わせると、一番近くの標的…つまりこちらの臭いを嗅ぎつけると、憎悪の視線を向けてきた。

 

 

「リョナさんは下がっていてください…!」

 

「…おう」

 

 

初心者ならば、駆け出しならば、逃げ出すべきところだ。

…七体一はどうあがいても囲まれてしまう。それはつまり圧倒的不利を意味し、背中をとられてしまう。言わずもがな危険だ。

 

――だがそれは初心者の場合だ。

 

朝のステイタスの更新で、僕のステイタスは大幅な上昇を見せていた。

異様、といっても過言ではないその上昇で僕の動きは昨日とは比べ物にならないほど良くなっている。

 

…神様と、無理はしないと約束した。

 

だがこれは無理じゃない。

相手はただのコボルトだ、落ち着いて対処すれば今の僕にも安全に殲滅できるはずだ。

 

それに――リョナさんには良い所を見せたかった。

 

初めての他の団員だ。初めての後輩だ。

良く見られたい、良く思われたいと思うのは人として当然の事なんじゃないだろうか。

 

僕はリョナさんのような…「カッコイイ大人」に頼られる姿を想像し、それも良いと夢想する。そして、少し笑顔を浮かべると、脚を踏み出した。

 

 

 

・・・

 

 

 

「はぁ…はぁ…」

 

 

七匹のコボルトに囲まれて五分程度。

僕は荒く息を吐きながら、コボルトの猛攻を受けていた。

 

僕は体力は大幅に削られ――苦戦していた。

 

…まず敵が殺せない。

 

連携がなされている訳では無い、もし一匹を殺そうとした場合他のコボルトから攻撃される。それが一匹か、三匹かはともかく確実に攻撃される隙を作ってしまう。

…数が多すぎる、もし攻撃を受け倒れでもすれば残った六人に集団で食い殺されてしまうだろう。全くの偶然から生まれたフォローのし合いは自然とはいえ「囲う」という一つの陣形であり、一人の僕が対処できるものでは無かった。

 

…それにそうじゃなくても挑んだからには、怪我をするわけにはいかない。

 

 

「!…ふッ」

 

 

囲むようにして構えているコボルトの一匹が飛びかかってくる。

僕はそれを身体を捻るようにして避けると同時に、脇を通り過ぎていくコボルトにナイフの刃を当てようとする。

…カウンターだ。

 

(届かなっ…!)

 

だが回避行動中の一瞬。

捻った身体から精一杯伸ばしたナイフは空を切った。

それに膝の痛みもそれを増長させていた。

 

『ガゥルルル…』

 

僕に飛びかかり損ねたコボルトはそのスピードを緩める事無く僕を囲う輪に戻る。

…さっきからずっとこんな調子だ。じりじりと牽制のように削り、隙を見られていた。

周期のバラバラな攻撃は僕の緊張を解かせず、集中力もそうだが、物理的にも体力を削り、荒く息をつかせていた。

 

段々と隙を見せかける場面が増え、疲労は蓄積していった。

 

 

そして輪の中の()()()隙を見計らい、ほぼ同時に飛びかかる。

 

 

一匹避けるのがやっとの跳びつき。それはとても危険であり、それは――

 

 

(来た!)

 

 

――それは、ベルの待っていた事でもあった。

 

 

七匹の中の二匹が攻撃をしかける。

普通に考えれば確実に一撃は与えられるそれに、フォローは必要ない。

故にそれがコボルトたちの隙なのだった。事実油断した残りのコボルトたちは動く様子は無かった。

 

 

僕は強く踏み込むと、襲ってきた片方のコボルトに立ち向かう。

 

 

そして思い切り殴りつけた。

 

飛びかかってきたコボルトは空中で回避行動もとれず首を殴られ、『ボキリ』という嫌な音共に首があらぬ方向に折れ曲がった。

 

…しかし背後にもう一匹が迫ってきていた。

 

その鋭い爪が、牙がベルに迫る。

しかし――

 

――それは同胞の身体に吸い込まれた。

 

首の折れたコボルトの身体を僕は、もう一匹に投げつける。

 

まるで抱き着くかのように死体がコボルトにぶつかり、その姿勢をよろけさせた。

 

 

「あああああああ!!!!」

 

 

僕はナイフを逆手に持つと、叫びながらコボルトの頭に振り下ろす。

 

コボルトの狼のような頭から骨の砕ける音が手を伝い、瞬間的に弱くなっていく鼓動を訊いた。

そして喉笛の辺りからナイフの切っ先が見えたのを確認した僕は、ナイフを引き抜く。

 

 

『グオオ!!』

 

 

だが勿論終わりじゃない。

残りは五匹、二匹を殺されたコボルトたちは一斉に僕に向かって襲い掛かってくる。

 

僕は先駆けた一匹を一撃で仕留めると、走ってくる四匹の動きを見る。

 

――しかし「囲い」は解かれた。

 

もう終わりだ。

「囲う」という唯一のアドバンテージを本能の外に捨ててしまったコボルト達に僕が負ける事は無い。油断さえしなければ確実に全滅させることができるだろう。

 

もはや群れですら無くなったコボルト達に、僕は油断せずナイフを構える。

 

僕は一番近いコボルトに狙いを定め、一歩を――

 

 

(え…?)

 

 

――膝が、抜けた。

 

 

確かに、痛んでいた。

…とはいえ怪我をしていた足に無理をかけた訳では無い。

 

ただ怪我の痛みと、疲労で、膝から力が抜けてしまっただけだ。

しかし、それが、それのせいで――命を落とすことになる。

 

カクンと折れてしまった膝は身体を支える事など出来ず、僕の身体は地面に近づく。

同時にコボルト達の凶暴な顔も近づく。

それはつまり死であり、痛みであり、恐怖だった。

 

…何も出来ない僕は、四つのそれを見上げる。

 

いくらステイタスが上がっても、いくら自身がついても。

死ぬときは死ぬ、偶然だろうが必然だろうが冒険者は死んでしまう。

 

それは…避けられない運命のようなものだ。

 

 

コボルトが目前まで迫る。

 

 

(約束したのに…!)

 

 

走馬燈のように神様の言葉が脳裏に浮かぶ。

 

 

『絶対に、無理はするんじゃないぞ…約束だぜ?』

 

 

そう約束したはずだ。

それなのに僕は、こんなところで…!

 

 

(ごめんなさい神様、僕約束守れませんでした…!)

 

 

 

――僕は、死を覚悟して目を閉じた。

 

 

 

・・・

 

 

 

『グエ』

 

 

 

 

先頭を走るコボルトの口が、喉を絞められたような声を上げる。

勝ちを確信した声にしては間抜けだが、僕はそれに更に恐怖と後悔の念を強めた。

 

…。

 

中々訪れない。

それにコボルト達の足音もしなくなった。

 

不審に思った僕は恐る恐る瞳を開けた。

 

 

「うわっ!?」

 

 

目の前にコボルトの顔があった。

鋭い牙と硬い毛皮、血のように赤い舌はだらりと垂れ、今にも僕に噛みついてきそうだった。

 

 

「!?」

 

 

だが否、その目には生気が宿っていなかった。

 

 

「死んでる…!?」

 

 

僕がその事実に気がついた時、前かがみになっていたコボルトの身体が崩れ落ちる。

()()()()()()()その身体は何の抵抗も無く地面にべしゃりと落ちると、僕の服の一部を血で濡らした。

 

 

『グルル…!』

 

「ッ!?」

 

 

まだ三匹のコボルトが残っている。

僕は驚き立ち上がろうとするが、脚の痛みで立ち上がる事で再び怯んでしまった。

 

 

「…?」

 

 

しかしコボルト達は、こちらを睨んでくるばかりで一向に襲ってくる気配がない。

僕はその理由が解らず、ただピクリとも動かないコボルト達を見つめてしまった。

 

そして――

 

 

「あれ…?」

 

 

――その、コボルト達が襲ってこない理由に気がついた。

 

 

 

空中に――糸が引かれている。

 

 

 

ピンと張った薄く、細い糸。

良く目を凝らさなければ見えないそれが三、四本。空中で、まるで僕とコボルトを区切るように張っていた。

そしてそれからはコボルトと同じ赤い血が滴り、それ故に濡れて輝き目立ちやすくなっていた。

 

 

「何だ…これ…?」

 

 

僕はそれに手を伸ばす。

キラキラとしたそれ僕は触れようと――

 

 

「ベル君やめろ!指とれるぞ!!」

 

 

――遠くから聞こえたリョナさんの声に僕は手を止める。

 

そして声のした方に首を向けた。

 

 

「良かったー、流石に焦ったぜ?」

 

 

そこにはリョナさんがいた。

いつものように何てことは無く、無傷で、丸腰だった。

 

そして安心したようにこちらに手を振っていた。

 

 

「リョナさん!逃げて!」

 

 

素人に四匹を相手にしろというのは酷だ。

それに何も装備していないリョナさんが、倒せるわけが無い。

 

僕は叫ぶと――リョナさんの指から何か伸びている事に気がついた。

 

 

やっとピントが合うかのように、その糸に気がつく。

 

 

キラキラとしたそれは続き、僕の目の前を横切り、リョナさんの片手に伸びていた。

 

そしてその手に、黒い鉄のグローブがつけられている事に初めて気がつく。

 

 

『グルルルゥ…』

 

 

そこで残ったコボルト達も少し離れたところに居るリョナさんの存在に気がついたようだ。

低く唸ると、一斉にリョナさんに向かって走り始める。

 

 

「危ない!」

 

 

コボルト達が迫る。

僕は叫ぶが、リョナさんが動くことは無かった。

 

…リョナさんは――肩を竦めて、笑う。

 

 

「…ベル君の話も面白かったけど、そろそろ身体動かさないとな」

 

 

リョナさんは糸の伸びていないもう片方の手を伸ばすと、指を一本曲げた。

 

 

『ギャオンッ!!?』

 

 

今度は、僕でも見えた。

 

リョナさんの指…いやグローブから棘が射出される。

かなりの速度のそれは走ってくるコボルトに向かうと――貫く。

脳漿をぶちまけたコボルトは痛みに叫び声をあげると、ひっくり返るようにその場に倒れ伏した。

 

 

(一撃で…!?)

 

 

全く知らない武器。

…だが初心者が扱うにしては威力が高く、モンスターをいとも容易く葬るには小さすぎるような気がした。

 

リョナさんは更に二本の指を曲げる。

 

 

「また…!?」

 

 

更にコボルト一体が二本の針を一身に受け、倒れる。

的確に頭を狙った二つの針は、コボルトを貫き殺す。

 

…だが最後の一匹が迫っていた。

 

倒れた仲間の事など気にもせず、その合間をすり抜けたコボルトはリョナを眼前に捉える。

そして吼えると、踏み込み、リョナに飛びかかる。

 

 

「危ない!」

 

 

初心者で、防具もつけていないリョナさんが、モンスターの攻撃を受ければそれは再起不能の一撃にもなりうる。

 

それにどうやらあの武器は遠距離攻撃のようだし、あそこまで近くだと撃てないだろう。

 

僕はリョナさんの身体がコボルトの爪に引き裂かれるところを想像してしまう。

 

 

「はい、終わり」

 

 

しかし、リョナさんは伸ばした腕をドアノブでも捻るかのように回す。

 

――コボルトの走る脇には今まで射出した棘と同じ数、挟み込むように三本のワイヤーが伸びていた。

 

ギチチ…と死体ごと回転したワイヤーが狭まる。

糸の結界と名付けるべきそれは、その中を走っていたコボルトの行動を制限する。

もはや逃げ場がない事に気がついたコボルトは足を止めると、迫ってくる糸に怯えるような声を上げた。

 

そして糸がコボルトの身体に食い込むと、血を噴き上げ、切断した。

 

 

「んー…終わった」

 

 

そしてリョナさんは両手を振りかぶると、ギュルルルという音と共にコボルト達の死体から、僕の目の前の糸ごと巻き取られていった。

そして棘がグローブに収納された後、リョナさんは身体を伸ばした。

 

 

「…凄い」

 

 

別世界の戦いだ、次元が違う。

理解不能なその強さに、僕は困惑と…少しの憧れを向けた。

 

 

「ベル君―大丈夫かー?」

 

 

…リョナさんは極めて軽い調子で手を振りながら、こちらに駆け寄ってくる。

そして未だ地に伏している僕と視線を合わせるかのようにしゃがみこむと、覗き込むように僕の足を眺めた。

 

 

「怪我の具合は?」

 

「…あ、そうですね。多分大丈夫かと…ッ!?」

 

 

僕は立ち上がろうと、足を地に立てる。

しかしだいぶ負荷をかけてしまっていた膝は痛み、僕は竦む。

 

…するとリョナさんはやれやれといった風に、背中を見せた。

 

 

「おぶってやるよ…掴まれるか?」

 

「え…?…そんな」

 

「あぁ、気にすんなって。ベル君なら軽い軽い」

 

 

どちらかというと、恥ずかしい。

だが怪我を悪化させないためにも、それが最善だという事は僕も解っていた。

 

僕は腕を伸ばすとリョナさんの肩を掴み、上半身の力だけで身体を引き上げた。

リョナさんはそれを確認すると立ち上がり、僕の脚を掴むようにしておぶる。…緩く掴まれているので膝は痛まず、楽な姿勢をとることが出来た。

 

 

「じゃあ帰るか」

 

「…はい、お願いします」

 

 

リョナさんが歩きはじめる。

今はまだ二階層だから、帰るのにもそこまで時間はかからないだろう。

僕はリョナさんの背中に揺られながら、若干の気恥ずかしさと、その優しさに触れていた。

 

そして僕は呟くように、感謝を述べる。

 

 

「…さっきはありがとうございます」

 

「あ?この程度何かするうちにも入んねぇって」

 

「いえ、さっきもコボルトから助けてくれましたし…」

 

「ん…まぁ気にすんな。入ってからずっと守ってくれてただろ?」

 

 

…あれほどの強さがあれば、僕が守る必要は無かったんじゃないか?

という思いを僕は飲み込み、リョナさんを見る。

 

――大きな背中だ。

 

僕はそれにさえ僅かな憧れを抱きながら、背中に回されたリョナの手を見る。

…そこには黒鉄のグローブが嵌められていた。

 

 

「…ところでリョナさん」

 

「なんだ?」

 

「そのグローブ…武器、何ですか?」

 

「…あぁ、そうだぞ。これはな――」

 

 

リョナさんは嬉々として説明を始めてくれる。

なんでも自作のそれは、返しのついた棘と切断性能をもったワイヤーなるものを射出できるらしい。扱いは難しいが上手く使えば近、中、遠距離に切り替えて対応できるそうだ。

 

…僕は一応理解する。

 

だがそんな見た事も無ければ聞いた事も無い謎の技術に僕は、興味と…強さへの憧れを抱く。

そして、すぐに――諦めた。

 

真似できそうにない。

 

異様すぎる闘い方は到底僕が真似できるものでは無いし、異様な武器は僕が扱えれるものじゃないだろう。

 

 

それに憧れは――1つに絞るべきだ。

 

 

僕は瞼を閉じると、剣姫――アイズ・ヴァレンシュタインの姿を思い浮かべる。

 

目指すべき目標が多すぎれば、結局どこに進めばいいか解らなくなってしまうから。

 

 

 

…だが仲間として、尊敬するくらいならばいいんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

疲れ切った僕はリョナさんの背中でそのまま眠りに落ちたのだった…。

 

 

 

 

 

・・・

 

 




ヘスティア不在の為ステイタスの更新は無し。


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 ウナギのかば焼きを食べようとして死にかけた男の話

・・・

 

 

 

「…よし、痛まないか?」

 

「はい、ありがとうございます!」

 

 

俺は噴水の縁に座らせたベルの膝の包帯を巻き直していた。

 

だいぶ無理をして戦っていたとはいえ元々軽かった膝の怪我は悪化はしておらず、これならば普通歩くことも走る事も出来るだろう。

それに背負っていた合間に寝ていたからか体力面も回復していたようで、今はすっかり元気になっていた。

 

しゃがみこんで包帯を巻いていた俺は立ち上がると、ベルを見下ろす。

…キラキラとした表情を浮かべたベルは俺を見上げていた。

 

 

「どうする、このまま豊穣の女主人行っちまうか?」

 

「そうですね…そうしましょうか!…あ」

 

 

今晩の予定は豊穣の女主人で決定している。

時刻は夕暮れ近くだし、それなりに二人とも腹を空かせているからすぐに豊穣の女主人に行くことは、服が少し汗臭いかも…という事を除けばむしろ効率が良かった。

 

首を縦に大きく頷かせたベルは、自らの隣に置いてあったバスケットに気がつく。

 

 

「でもまずは今日分の魔石を換金した方がいいかなって…」

 

「お、それもそうだな。じゃあここで待ってな、俺行ってくるから」

 

 

俺は腕を伸ばし、ベルの脇の置かれたバスケットを掴むと肩にかけ、ギルドのある方向の道に足を向ける。

 

 

「はい、待ってます!」

 

 

そしてベル君に見送られながら俺は道を横断する。

 

――道を行く冒険者の一行が目に入った。

 

一般的な冒険者のパーティに見える三人組は、どうやら俺と同じようにギルドに向かっているらしい。

順序的に俺は同方向なのだからその後ろに着くと、何気なくその会話を聞き始めた。

 

…髭面の男が隣の屈強な男に喋りかける。

 

 

「…そういや、ローラン達のパーティが全滅したらしいぞ」

 

 

屈強な男は驚いた顔をする。

 

 

「嘘だろ、確かに最近見ねぇとは思ったが…クソ」

 

「…まぁ、珍しいことでもねぇがよ。やっぱり最近まで酒を酌み交わしてた奴らが死んだっつーのは後味悪いな…」

 

 

どうやら知り合いがダンジョンで死んでしまったらしい。

珍しいことでは無いのかと俺は知ると、そんなものかと半ば納得した。

 

…その時、今まで喋っていなかった三人目が険しい顔で会話に加わる。

 

 

「…仲間割れって話もあるぞ」

 

「何だと?」

 

 

つられて二人も険しい顔になる。

切り出した三人目はそのまま続けた。

 

 

「なんでもソーマファミリアのサポーターの男を雇ったらしくて、その男の持ってたクロスボウが他の奴の死体に刺さってたって聞いたんだが…」

 

「あぁ…?」

 

「とはいえ噂の域を出ないが…ソーマは良い噂聞かねぇよな」

 

「…チッ」

 

 

ソーマファミリア、という単語が出てきた所で目の前にギルドに到着した。

俺は意識を切り替えると、三人組の後に続いて建物の中に入った。

 

…いない。

 

ギルド内はそれなりに賑わっているが、あの眼鏡エルフはいなかった。

見つかると色々と厄介なので、俺は少しでも高身長を隠すようにして換金所の列に並ぶ。

 

…相変わらず回転率が速い列は順番が回り、すぐに俺の番がやってきた。

 

 

「ハッ…おまえは…!?」

 

 

カウンターの向こうの職員が俺の顔を見て驚きの声を上げる。…見れば初めてここに来た時に大量換金したあの職員だった。

とはいえ俺はそれを無視し、持っていたバスケットの蓋を開ける。

 

…職員がゴクリと唾を飲み込んだ音が辺りに響き渡る。

 

 

――カランコロン。

 

 

バスケットの中身を開ける…が、その見た目の大きさとは合わず十数個ほどの小さい魔石が転がり出た。…前回俺が稼いできた量とは比べるまでも無く少ない量の魔石が換金所の机の上を転がった。

 

 

「…なんだビックリさせやがって…はいよ5000ヴァリス」

 

 

何だか物凄く不遜な物言いだが俺は特にそれを気にせず、カウンターから出てきた金貨を雑に掴む。

そしてポケットに入れ、バスケットを担ぎなおすと足早に立ち去ろうとした。

 

…とギルドにいたほかの冒険者の会話が耳に入る。

 

 

『…そろそろ怪物祭だなぁ』

 

『お、もうそんな時期かぁ…』

 

 

怪物祭?という単語が妙に気になった俺は足を止めかけ、その会話の方向に首を向けかけた。

だが――

 

 

『あ、エイナ休憩終わり?』

 

「い!?」

 

 

――同時にあの女エルフの名前が聞こえた俺は、足早にギルドから走り去ったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

数日後、俺はダンジョンに一人で潜っていた。

 

 

「おら死ね」

 

 

ここら辺の敵はだいぶ殺しがいがある。

 

俺は凶悪な顔をした火を吐く狼の頭をグローブ越しに、純粋な握力だけで握りつぶす。

…狼は断末魔の声を上げると首から上を潰され、だらりと身体を垂らした。

が血や脳漿で汚れてしまったのを眺めた。

 

――辺りには狼と兎の死体の山が築き上げられている。

 

多くは切断され、多くは急所を貫かれたような死体が、何度も何個も地面にくたびれたように落ちていた。

無数の傷がつけられた死体たちからはとぷとぷと血が流れ、血の海となり、乾いたダンジョンを濡らす。

 

…戦闘終了、襲い掛かってきたモンスターの群れを俺は全て全滅させた。

 

 

「…っ…うわ」

 

 

どうやら先程戦っていた時に、狼の吐いた炎がかすめたらしい。

俺は前髪をちょいちょいと触ると、炭化した僅かな髪が指についたのを指の腹で払った。

 

 

(まともにくらうとヤバかったな…)

 

 

流石に…今は14階層にまで潜ってくると、敵が強くなってきた。

 

攻撃力と、(こっちは若干なのだが)速度は『切り裂き魔の高揚(リッパーズハイ)』で切り裂く度、際限なくあがっていくので今のところ問題は無いが、「耐久力」は圧倒的に足りなくなってきた。

…割と体捌きと直観で何とかしてきた俺だが、階層数を上げる度モンスターの攻撃は避けづらく、モンスターの繰り出す一撃には毎回命の危険を感じた。

 

(60…いや、61か?)

 

そして――攻撃回数を記憶する。

自分でもこの能力がどんなものかは解ってはいないが、こうして回数と体感どれだけ攻撃力が上がったかを覚えておけばそのうち能力の仕組みも理解できるだろう。

 

 

「…う」

 

 

だが、まぁ今その事は後回しだ。

昨晩からダンジョンに潜ってきた俺の腹は限界が近かった。

いくら最初の時とは違い食べ物を持ちこんで途中軽食ができたとはいえ、今はもう次の日の早朝三時ぐらいだろう。腹はかなり減り、ズキンと刺すような痛みが腹を襲った。

 

俺は顔をしかめると辺りに散らばった魔石と死体を眺める。

 

 

「めんど…」

 

 

俺はため息をつくとしゃがみ、散らばった魔石を腰につけた袋に入れていく。

 

…正直、面倒くさい。

数が数だし、散らばっている魔石をいちいち屈んで回収するのは骨だ。

一つ一つが重くないのが救いだが塵も積もれば何とやら、何十個もの魔石を腰につけて歩くのは重いのもそうだが、重心がずれるのは戦闘に影響が出てしまうだろう。

 

…そのための非戦闘員のサポーター、ということらしいが分け前はその分減ってしまうだろうし、どうやって雇えばいいかも解らなかった。

 

――否、どうすれば出会えるかは解ったがその方法は最悪すぎた。

 

 

「…よし、帰ろう」

 

 

魔石を全て拾い終えた俺は立ち上がると、腰を伸ばし、歩きはじめた。

幸いなことに空間認識能力と記憶力は良い、帰り道はほぼ完全に覚えているし、ダンジョンから出るのにそこまで時間はかからないだろう。

 

俺はモンスターの死体を踏み越えると、天然の洞窟のような薄暗いダンジョンの中を歩く。

若干湿ったようなこの階層は他の階層に直接つながる縦穴のようなものがあり、比較的他の階層との行き来がしやすい。

 

俺は道に転がっていた小石を蹴とばすと、欠伸しながらグローブについてしまったモンスターの血を見る。

中々錆びない素材でコーティングしてあるとはいえ、グローブの隙間から血が染み込んでくる感覚は流石に慣れるものではなかった。

 

…今すぐにでも洗いたい。

 

俺はため息をつくと帰路についたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「おはようございます!」

 

「え…あぁ、おはよう」

 

 

ギルドの前に着くと、掃除をしていたピンク髪のギルド職員の女の子が笑顔で挨拶をしてくる。

快活なその挨拶に俺は少し困惑しつつ挨拶をし返す。

 

ダンジョンから帰った俺は魔石の換金のためにギルドに向かった。

入ったのが深夜で長い時間潜っていたので時刻はすっかり朝になっており、早朝だからか冒険者通りどころかどこにも人は歩いていなかった。

…ダンジョンからの帰り何度かモンスターに襲われこそしたが、その都度ワイヤーの錆にして血に汚れたグローブはいい加減腰に取り付けた。

 

俺は一度ギルドの建物を見上げると、開きっぱなしのギルドの中に足を踏み入れる。

ギルドの中はまだ朝日が十全には行き届いていないので薄暗く開けられた扉から光が眩しいくらいだった、そしてまぁ外にも人気が無いのだからいつもの冒険者の賑わいは無かった。

俺は高さの充分にある扉をくぐると、ここにくるほぼ唯一のもくてきである魔石の換金をしようと換金所の方を向く。

 

…それが油断だったのだろう。

 

 

――バタン。

 

 

「!?」

 

 

振り返ったがもう既に遅い。

申し訳なさそうな顔をした先程のピンク髪のギルド職員がギルドの扉を閉めていた。

 

俺は慌てて扉に近寄ると開けようとする。

しかし扉は外側から閂でもかけられているのかガチャガチャと鳴るばかりであり、押しても引いてもびくともしなかった。

 

 

「っあ゛!!?」

 

 

ぞわり…と背中が粟立つような感覚が俺を襲う。

紛れもない恐怖という感情に、俺は背後から突如として現れた殺意ともとれる気配に振り返った。

 

 

「随分と、お久しぶりですね。リョナさん」

 

「…そ、そうだな。俺が冒険者登録した時以来か?」

 

 

そこには――満面の笑みを浮かべたハーフエルフ、エイナがいた。

 

…人は極限まで怒った時にも時折笑みを浮かべる。

エイナのそれも同じものであったが、半分であり、もう半分は獲物が罠にかかったのを喜ぶ子供の笑みのようでもあった。

 

(…はめられた…!)

 

 

つまり――エイナの罠にかかった俺は、今回ばかりは諦めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「目撃証言があります」

 

 

対面するかのようにソファーに座ったエイナは、相変わらず静かな怒りを孕んだ笑みを浮かべており、ただ淡々と言葉を紡ぎ始める。

 

非常に居づらい俺は机を挟んで反対側のソファーに腰かけて身をくねらせていた。

 

 

「何でも、黒い外套のようなものだけを纏った不審な大男が十三階層で見かけられたとか。しかも昨晩のお話です」

 

「おう」

 

「そしてその男は剣を握るわけでもなく遠くにいるモンスターを倒してたとか何とか」

 

「…おう」

 

「いやーそんな冒険者もいるんですねー、魔法使いの方でしょうか?まぁなんにせよ一人でそんな階層にいるのは馬鹿ですけどね」

 

「……おう、それ俺だわ」

 

「はい、そうですね――」

 

 

間違いなく俺だ。俺は反論の余地もなく頷いた。

 

エイナはバンッと机を叩くと、立ち上がる。

そして今度は先程の笑みとは比べ物にならない憤怒の表情を浮かべ、吼える。

 

 

「――って十三階層って馬鹿ですかアナタは!!?」

 

 

…俺は…こうなる事が解っていたからエイナに会いたくなかった。

 

事態の先延ばしかもしれないが、とりあえず俺はこの説教を避けたかった…明らかに精神的に痛みを伴うそれを。

 

――エイナはまくしたてる。

 

 

「死ぬ気ですか!?死にたいんですかアナタは!!?全くの初心者が中層に行って生きていること何て奇跡で――というか普通は四階層で――いやそれより先に防具を――あああああ!!?」

 

 

壊れた。

キャラとか理性とか色々な物が崩壊したエイナは叫ぶ。

 

溜まったものがあったんだろなぁ、と俺は頭の片隅で思いながら言い訳する。

 

 

「いやほら…行けちゃったからよ」

 

「普通行かないっていうのが常識ですから!?」

 

 

噛みつくがごときエイナの反論に俺は苦笑する。

エイナは実に渋い顔を浮かべるとため息をつく。

 

 

「普通こういうのって同じファミリアのメンバーが教えてくれるものですけど、ベル君だけに任せた私にも…いや話を聞かないリョナさんの方が悪い。というかリョナさんここのところ私のこと避けてましたよね?」

 

「あー…ばれてた?」

 

「だから来るタイミングで罠を仕掛けました」

 

 

さらっと言うがタイミングの図り方とか困難だろうし、実に緻密だ。

罠にかかった時の絶望感を思い出した俺は素直に感心する。

 

とはいえ中層の方が――

 

 

「でもよ…」

 

「あなたが何と言おうともダメなものはダメです!禁止!」

 

「えええー!?」

 

 

――中層の方が換金効率が良い。

 

質もそうだが魔石というのは大きさで値段が倍以上になっていく、らしい。

てっきり一グラム当たりの値段だと思っていた俺は、わざわざ危険は冒さず低層のモンスターだけを数を狩ればいいと思っていた。

しかしより大きな魔石を落とす下の階層での狩りの方が換金効率が良いのなら、そこに行くのが人間というものだろう。

 

 

「ギルドは、冒険者の過ち、特に命にかかわることを看過することはできません!というか死にたくなかったら私の言うことを聞いてください!」

 

「へいへーい…じゃあどうすれば中層行っていいんだ?」

 

 

俺の言葉にエイナはいつもの生真面目な顔に戻ると、思案する。

そして頷くと顔を上げた。

 

 

「…そもそもの冒険者の常識の詰め込み、それと最低でも二級防具の購入…いやそうでなくてもレベル1の冒険者が行くというのは無謀な気がするんですが…」

 

 

そう言うとエイナはリョナのことをちらりと見る…正確にはその腰についたグローブを。

…未だ血の付いたそのグローブを。

 

 

「…倒せているんですか?」

 

「おう」

 

 

そもそもなぜレベル1冒険者が中層に行ってはいけないのか。

それは単純に「殺せず」、「殺される」からだ。…というかそもそも攻撃が当たらないかもしれない。もしレベル1冒険者が上層へやってきた中層のモンスターを相手にしたら逃げるべきだ。

 

…つまりステータスの足りない冒険者達は中層のモンスターを相手にしても全く勝てないからだ。

 

だが言ってはいないが切り裂き魔の高揚、確かに耐久で関しては全く劣るが攻撃力と速度で言えば中層だろうが通用する。

 

 

「うーん…じゃあこの際レベル1だから、という理由は省きます。というかリョナさんの場合言っても聞いてくれなさそうですし…」

 

「やったぜ」

 

「ですが!防具の購入とダンジョン知識の詰め込みはみっちりとさせてもらいますからね!」

 

 

そういえばベル君が「最初エイナさんにはみっちりダンジョンの知識を詰め込まれたときは大変でした…」と言っていた。

…正直物凄く嫌だ、時間をとられるのも勉強するのも。

 

そして防具…つけているのが想像できないため何とも言えない。

しかしむしろ防具の重みで敵の攻撃が避けづらそうだ。

 

とはいえ…面倒くさいのは先に片づけるのが性分だ。俺はため息をつくと肩を落とす。

 

 

「はぁ、じゃあ今日その講習やっちまおうぜ?これから時間あるか?」

 

「…え?今日は怪物祭ですし、そっちの方の仕事があるので…」

 

 

怪物祭――?

どこかで聞いたことのある単語をエイナは言いながら、さも当然かのように首をかしげる。

そして気が付いたようにあっと声を上げた。

 

 

「そうかリョナさんは怪物祭のこと知らないんですね。えーとつまり怪物祭っていうのは――」

 

 

――その時閉められていた扉が丁度開いた。

 

…そして入ってきたのは先ほどのピンク髪の職員。

中の様子を窺うように恐る恐る入ってきた彼女は、俺のことを見ると「あ」と声を上げる。

 

そして一応エイナの俺の捕縛計画の片棒を担いでいたわけなのだから、申し訳ないと思っていたらしい。

…少し悪戯心の沸き上がった俺は、ねめつけてみる。

 

 

「ひっ…!?」

 

 

だが些か驚かせすぎたらしい。

彼女はびくりと体を震わせ涙目になると、ソファに座っているエイナの方に走り始めた。

そして隠れるようにして俺からの視線を切る。

 

俺は表情を戻し、軽く鼻で笑おうと――エイナの怒気を孕んだ笑みを見て目を逸らした。

 

 

「エイナ~…」

 

「ごめんごめん…」

 

 

ピンク髪はしばらくエイナに泣きついた後、顔を上げる。

 

 

「…ところで、祭りの見回り当番もうすぐだよ?」

 

「あ、いっけない。すぐ準備しないと」

 

 

再びの祭りという単語。

なるほど、思えばベル君は明日はダンジョンには行かないと言っていたし、街中も何だか忙しそうな人にあふれていた。

 

 

「というわけでごめんなさい。私これからギルドの仕事がありますので!――あっ、防具については後日追って」

 

「…解った、呼び止めてすまんな」

 

 

そう言って忙しそうにエイナはピンク髪の職員とともにカウンターの奥に消えてしまう。

祭りの情報を尋ねようとしてした俺は隙のないその動きにため息をついた。

 

…が――

 

 

(――まぁ、行ってみたら解るか)

 

 

思い直した俺は開かれたギルドの出口から外に踏み出したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「おおー…?」

 

 

一度帰った俺は血に濡れたグローブを洗い、身体を洗い、服を洗い、それらが乾くまで全裸で(いや決して性癖とかではなく替えの服が無いので)眠りについた。

そして数時間ほどして目覚め、まだ生乾きの服を身に着けるとギルドで聞いた「祭り」という単語を頼りに町に繰り出したのだった。

 

ちなみにヘスティアは未だ帰ってきておらず、ベル君も何故かいなかった…まぁ男の子だし遊びに行くのが道理だろう。

 

そして少し大きな街道に出れば――そこは既に祭りの様相だった。

 

逆に、街道にはいつもより人が多い。確かにこの人間の乱雑さは「祭り」だった。

街道の脇にはいつもは見ないような露店が立ち並び、人々がそれを買う。

どこかからか祭囃子…ではないが、クラシカルな音楽が絶え間なく聞こえ、陽気な笑い声が常にどこかで発生していた。

 

 

「ふむ…」

 

 

俺は人の流れに逆らわないようゆっくりと歩きながら周囲を見渡す。

…が特に目に付くような事はない。周囲では極めて一般的に、町全体で祭りが行われているだけだった。

露店や酒、美味しそうな料理が目に入る。

 

 

「…どうしよ」

 

 

「祭り」とは「楽しむ」ものだ…古くから、神様と人間が。

 

故に、勿論人間である俺が楽しめない訳ではない。

露店で何か買ったり、食べたり、酒を飲んだりすれば楽しむこともできるだろう。

 

だが――

 

 

「ボッチって…」

 

 

――1人で楽しめる気がしない。

 

基本的にこういうものは妹や従弟、友達と来ていたし、一人で楽しめる気がしない。

テレビゲームに例えるならば祭りはソロ専用ではなく、パーティ専用のゲームのようなものだ。一人で黙々とこなしていくには辛すぎるだろう。

 

 

「帰るか…?」

 

 

身体はそこまで汚れているわけではないが、一晩中ダンジョンに潜っていたのでシャワーを浴びたい気はする。

…それに家にベル君がいるならば――二人なのだから充分楽しめるだろう。

 

 

「…帰ろ」

 

 

完全に萎えた俺は一度帰ろうとヘスティアファミリアの方に足を向けた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「申し訳ございませんリョナさん。私はまだ仕事が残っておりますので」

 

「………あっ、いえこちらこそお仕事のお忙しい中私事でお邪魔してしまって大変申し訳ございませんでした……」

 

「…すいません」

 

 

最後にリューさんはまた頭を下げて、仕事に戻っていった。後には灰が残った。

 

…家に帰った俺はまずベル君がいないことに落胆し、ありもので軽食をとった。

そして30分ほど遠くから聞こえる祭りの喧騒を聞いた後、祭りとは何たるかを思い出した。

 

――祭りにリューさん誘って一緒に遊べたら最高じゃね?…と。

 

 

「おうふ…」

 

 

…まぁ結果は爆散だったわけだが。

 

一気に生きる意味を失った俺は、軽く全てに絶望すると振り返った。

 

 

「帰る…帰るんだぁ…」

 

 

だいぶ精神的にダメージを負った俺はよろよろと歩き始める。

半ば涙目になりながらホームを目指した。

 

…正直、祭りを楽しむ余裕なんて無かった。

 

 

「うぐっ…ひぐっ…」

 

「ままー、あのお兄さんなんで泣いてるのー?」

 

「あぁ…あれは失恋というやつよ。ふっ…男はね、あれを経て強くなるのよ…!」

 

「マジで!?」

 

 

嘘だろあの母親なんでそこまで解るんだよ…、と道行く母子の会話に俺は苦笑しながら(泣きながら)歩みを進める。

…いやそもそも別に失恋したというわけではないのだが。

 

 

「はぁ…」

 

 

俺は疲れと共にため息をつく。

確かにリューさんの件は残念だったが、まぁそもそも約束していたわけではないので…仕方ない、本当に仕方ない。

諦めのついた俺は、今度はトボトボと歩き始める。

 

 

(帰ったら一回グローブの整備しよ…)

 

 

そしてとりあえず帰ってからの目標を決めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

祭りに特に思い出はない。

精々高校の文化祭の時に焼きそばを焼いたとか、隣町の祭りのどさくさに紛れて通り魔的に殺しをやったことがある程度だ。

 

だが祭りの雰囲気に当てられたのか、俺にはこの人ごみの足音の間に、日本的な祭囃子を聞いた気がした。良く妹と一緒に聞いたものだ。

 

そして祭りと言えば――特徴的なあの匂い、味を思わず思い浮かべてしまう。

 

…となれば後は簡単な欲望の話だ。

 

俺は歩きながら呟く。

 

 

「ウナギのかば焼きが食いたい…!」

 

 

祭りと言えばウナギ、そしてかば焼き。

しょうゆベースの甘辛たれでこんがりと焼いたかば焼きは、外は墨の香りと皮の触感が舌を楽しませる。そしてふわふわな肉はつぶつぶで噛み応え、舌触り、香ばしさの点で文句のつけようがない。その全てが調和し、口の中で踊るっ…!

 

――完全に癖になる、めちゃくそ美味い。

 

 

「はぁ…」

 

 

だがうなぎの蒲焼などあるはずがない、ここは異世界だ。

いかにウナギが祭りの定番といってもそれは日本の祭りの中でだけだろう。

 

(はっ…ミスった!?)

 

というかまずい、考えてしまった。

よだれが走り始める、しょうゆベースの甘辛だれの妄想が脳裏を貫いてしまった。

 

とめどない欲求が溢れて、止まらない。

 

 

「ぐっ…」

 

 

空腹が痛みになって襲ってくる。

家に帰った時、軽く腹に食べ物を入れこそしたが微々たるものだ…昨日から戦闘をしてきた空腹を満たすにはその程度では満足出来るはずもなかった。

 

腹減った、その思考に俺は支配される。

 

 

「…どうする!?」

 

 

周りを見渡すと道に並ぶ幾つもの露店、食べ物には困らない。

 

しかし――どちらかと言えばというか、口の中がウナギのかば焼きを受け入れる形に出来上がっていた。

つまり食欲が――うなぎのかば焼きを食べたいという欲望に負けていたのだった…!

 

(ないんだけどねー!)

 

俺は道のど真ん中で立ち止まり空を見上げると、じりじりとした空腹に耐えながら目をつぶる。そして心の中にウナギのかば焼きを思い描き叫んだ。

 

(食いたいッ…!)

 

 

俺は半ば朦朧としながら無心の縁に――

 

 

――鼻腔がぴくりと動いた。

 

 

様々な匂いの中、自らの望んでいた香ばしい匂いが織り込まれていた。

絶え間なく、それでいて軽やかで重厚な食欲をそそる香りが乾いていた俺の口内によだれを運びこぼれさせる。

 

…目を開いた。

 

俺はスンスンと鼻を鳴らすとそのしょうゆベースのにおい(・)を嗅ぐと、ごくりと唾を飲み込む。

そして――心の中、欲望のままに叫ぶ

 

(ウナギのかば焼きだぁぁぁぁっぁぁ!)

 

求めていたその匂いに俺は歓喜し、ほぼ理性を失いながら心の中で叫ぶ。

そしてもう一度大きく鼻呼吸をすると、どこからか漂ってくるその匂いを追跡し始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

(あった…!)

 

どこか知らない広間にたどり着いた俺は、赤と青の暖簾がかかり何と漢字で「祭」と書かれた露店を発見する。

確かにそこからしょうゆベースの香りが漂っていた。

 

 

「言語、不要…!」

 

 

俺は直進し人ごみをかわすと、その露店の前に移動する。

そして打ち払うかごとく暖簾を払った。

 

 

「たのもう!」

 

「はっ敵襲!?」

 

 

中にははっぴ姿の女の子が一人、カウンターの向こうに座っていた。

そしてその目の前には――炭火焼セット!

 

 

「ウナギのかば焼きを…!」

 

「…お客様…!」

 

 

急な来客に驚いたのか、刀を手に取り臨戦態勢になっていたポニーテールの女の子は俺のウナギのかば焼き発言に目の色を変える。

そしてふー…と息をつくと刀を置き、改めて俺に向き直った。

 

 

「お客様、解っておりますね」

 

 

言外に「通」だと言われて嬉しくない日本人はいない。

…しかし俺には喜ぶ余裕も、なぜ少女が日本的なのかを気にしている暇はなかった。

 

 

「…御託は良い、我慢できないんだ俺は。だから早くウナギのかば焼きを…!」

 

「ですが…その…」

 

 

少女は言葉をため、悲壮な顔をする。

何故言葉をためたのかも理解できない俺は嫌な悪寒を覚え、理性の蒸発しかけている頭で様々な状況を考えた。

 

 

「…うなぎは出せません…!」

 

「何だと…!?」

 

 

ここまで来て…!

 

状況は完璧だ。ウナギのかば焼きを食いたい俺と、それを出せる環境…!ほかに何が必要だと――

 

 

「――ウチは、焼き鳥屋なのですから!」

 

「…」

 

 

(しょうゆベースのたれぇぇぇぇっぇっぇっぇぇぇぇぇっぇぇ!!!!!)

 

万能たれ…それはウナギのかば焼きのみならず、焼き鳥のたれとしてもッ!たれとしてもッ!!

 

 

「あ、じゃあ焼き鳥ください」

 

「はーい」

 

 

ウナギのかば焼きを食えないと知った俺は颯爽と意識を食欲に切り替えていたのだった…

 

 

 

・・・

 

 

 

「ふぅ…」

 

 

広場のど真ん中、ど真ん中にしては人通りの少ない場所で俺はかなり食欲の満たされた腹をさすりながら左手に持った数本の櫛から焼き鳥を食べていた。

味は…まぁそこそこだが日本らしい食べ物ということで俺は十分に満足できていたし、しょうゆベースのたれに舌は喜んでいたのだった。

 

 

「…そういや」

 

 

ふと食べる手を止めた俺は後ろを振り返る。

そこには先ほどの赤と青の露店があった。

 

(何で焼き鳥?)

 

文化的には西洋っぽいのに何故あそこの店だけ焼き鳥なのだろうか?それに店の女の子も「ウナギのかば焼き」という存在自体を知っていた。

 

(…)

 

もしかすると、俺以外にも日本から来ている境遇の奴がいるのか?それともただ単純に文化が流入してきた…?

 

(…いや)

 

…可能性は色々と考えられるが、結論は一つだ。

それは打ち崩された願いであり、不死鳥のように焼き鳥から復活する。

 

(探せばウナギのかば焼きもどっかにあんじゃねぇか!!?)

 

 

「ふ…」

 

 

自然と笑いがこみあげてくる。

もはや人生の目標となりつつある(ない)ウナギのかば焼きを食べるという目的に心を馳せたのだった。

 

――のだが、一つだけ「違和感」を思い出した。

 

それは――

 

 

(――鼻、どうしたんだろう)

 

 

スンスンと鼻を鳴らしてみる。

…匂いが鮮明に広がる。

 

道行く人間の整髪剤の匂い、歩いていく子供が持っているお菓子の甘い匂い、遠くに見える露店の男の汗の匂い、先ほどの店の女の子がつけていた薄い香水の匂い、果ては道に染み付いた靴の匂いまで解る。

明らかに、異様なまでに俺の鼻は良くなっていた。

ウナギのかば焼きを望むあまり、人類の脳に隠された領域が解放されたと考えることも出来るが流石にそんなことで寿命を縮めるつもりは無い。

 

俺は嗅ぎ分けるように鼻を鳴らすと、今までには無かった新しい感覚に困惑していた。

 

 

「ん…!?」

 

 

だが――なぜ急に鼻が良くなったのか考えるよりも先に、鼻が「異臭」を捉える。

祭りの場にあるはずのない野生の匂い、血と土の匂いの混じった汚臭が急速に周囲の匂いに混ざり始め…俺の鼻に届く。

 

 

「…こっちか…!?」

 

 

異常事態だと判断した俺は、振り返るとその匂いの出所を探る。

 

そこには――

 

 

「――コロッセオ?」

 

 

遠目に、いくつかの建物の向こう側には「円形闘技場」があった。

今までこの町にそんな建物があることを知らなかった俺はとりあえず驚くと、そちらから漂ってくる獣臭に眉を寄せた。

 

(拳闘…?…だが…!?)

 

コロッセオであるならば、戦士と獣が戦う催しなんかもあるのかもしれない…ただでさえ祭りなのだから。

だがその匂いはどこか嬉し気で、とても飼われた獣のそれとは違う歓喜を感じた。

 

――自由になった獣の狂喜を。

 

 

 

「キャアアアアアアアア!!!!」

 

 

 

…その時、悲鳴がコロッセオの方面から聞こえた。

 

絶叫と表現するにふさわしいその悲鳴は、この広場にも響き渡り、道行く人々に不安を与えた。

俺はやっぱり、と顔をしかめると腰についたグローブに手を伸ばす。

 

 

――そしてドスンという衝撃がかなたで聞こえた後、何かが影を落とした。

 

 

「!?」

 

 

建物の屋上から現れた「そいつ」は白い毛を風になびかせながら、その引きちぎられた黒い拘束具をジャラジャラと鳴らしていた。

息は荒く、肩を鳴らし、何かから逃げるように、だがどこか笑みを浮かべているかのようなその獣は屋上から広場全体を見渡し――

 

『GYAAAAAAAAA!』

 

――吼えた。

 

「逃げろ!シルバーバックだ!」と誰かが叫ぶと同時に、広場全体がパニックになった。

各々が走り出し、叫び、悲鳴を上げる。

 

俺はその喧騒の中で獣から目を離さず、息を吐きだした。

そして腰につけたグローブを取り外すと、手に付け始める。

 

(ゴリラ…?)

 

シルバーバックという名前のモンスターは屋上から逃げ惑う人々を注意深く観察している…まるで誰かを探すかのように。

俺としては知らないモンスター、だが見かけそこまで強そうには見えないし殺せないことは無いだろう。

 

(とはいえ…)

 

どこぞの獣かは知らないが、良い迷惑だ。

管理するのであれば逃げ出すなど言語道断だろう。

 

 

…まだ日は浅いとはいえこの町に住む者として、害虫駆除程度容易い。

俺はグローブを取り付け終えると、獣から目を離さないまま伸びをする。

 

 

周囲から人々は既に逃げており広場にはもう俺しか人がいなくなっていた。

獣は未だ残っている、咆哮を聞いてもなお残っている俺に視線を向けた。

 

 

「グルルルル…!」

 

「来いよ…!」

 

 

そして俺はグローブを構え、臨戦態勢をとり向かってくる獣を迎え撃とうと――

 

 

『ガウッ』『ドンッ!』

 

「は!?」

 

 

――獣が地を踏み、空を跳んだ。

 

砕けた屋上の破片が散らばり、巨大な影が移動する。

俺はそれを見上げ、頭上を通り越していったシルバーバックに思わず身体が硬直する。

 

そして振り返ってみれば、広場の反対側の建物に乗り移った獣が「ドシン」という音とともに屋上を砕いているところだった。

 

 

(――襲われない!?)

 

 

確かにあの獣何かから逃げている様子だったが…それでも俺は「殺意」を出した。

 

…獣は殺意に敏感だ。確かに殺意に当てられ逃げ出すということはままあるが、それは圧倒的に強さに違いがある場合で、正直な話今の俺と奴とでは大した戦闘能力に違いは無いと言えた。

 

 

(…理性でもあんのか?)

 

 

獣らしくない行動、となれば知性があり何か「別の目的」があると考えれる。

というかそうとでも考えなければ不自然すぎた…まるで何かを探すかのようなその視線は。

 

 

「はぁ…」

 

 

俺は構えを解くと、首を傾げ、誰もいなくなった広場に一人立ちすくむ。

そしてシルバーパックの逃げていった方向に目をやり、匂いは追えるがどうしたものかと――

 

 

「――そこの人!!」

 

 

背中から声をかけられた。

俺はすんと鼻を使いその匂いから女だと判断し、振り返る。

 

…そこにはオレンジ色の髪をした少女が、息も絶え絶えに立っていた。

杖を片手に持っているその少女はそして息を整えると俺に視線を向ける。

 

 

「…俺?」

 

「そうです!今この町には逃げ出したモンスターが…ってあれ?冒険者の方でしたか」

 

 

ようするにこの子は、逃げ出したモンスターから人々を逃がすためのギルド職員か何かなのだろう。

私服なのを見るに非番のところをかりだされたようだが…。

 

 

「あ、いたいたレフィーヤ。そんな急いだってアイズには追い付けないってー」

 

 

その時、少女の駆けてきた方の路地から褐色の肌をしたアマゾネスが飛び出てきた。

そして眩しいばかりの笑顔でレフィーヤと呼ばれた少女に喋りかけ、同時に俺に気が付いた。

 

 

「あれ?そいつ誰?」

 

「ティオナさん!…えぇとこの人はたまたまいた冒険者の…えーと…」

 

 

少女の視線に俺は流れで名前を告げる。

 

 

「リョナって名前だ」

 

「へーリョナ君ってんだー、よろしくねー!」

 

 

明らかに自分より年下の女の子に君付けとはいかに、と俺は顔をしかめると目の前の少女に目を向ける。

 

短い髪は黒く、その瞳は黄褐色に光っていた。…そして、可愛い。容姿は野性味がありつつも、(もうこの世界においては珍しくないのだが)美しかった。

…だがあえていうならば貧乳なのが――

 

 

「――おーいティオネー、こっちこっちー!」

 

「はいはい、解ってるわよ」

 

 

ティオナは路地裏に呼び掛ける、すると路地裏からまたもアマゾネスが現れる。

 

…ティオナに似た、だが髪は伸び、胸は豊満な少女がそこには立っていた。

 

 

「レフィーヤあなた、いきなり走り出すんじゃないわよ」

 

「す、すいません。でもどうしてもアイズさんに追いつきたくて…」

 

「あなたの足の遅さじゃあエリアルで強化されたアイズの足に追いつけるわけないでしょうに…はぁ、まぁ良いわ。…ってあら、そちらの人は?」

 

「あっはい、たまたまいた冒険者のリョナさんです」

 

「へぇ…」

 

 

ティオネという少女は聞いておきながら興味なさそうにティオナの方に身体を向ける。

そして会話を終えたレフィーヤは視線をこちらに戻した。

 

 

「ええと実はリョナさん?も冒険者だったらご存知でしょうけど、実は今あの剣姫アイズヴァレンシュタインさんが逃げ出したモンスターを倒して回っていまして、事態は沈静に向かっています。なので逃げるか、逃げ遅れた一般市民の避難を手伝っていただけるとたすかるんですが…」

 

「あぁ…おう」

 

 

突然、というわけでもないが現れたレフィーヤとアマゾネスの二人の話に俺は頷く。

逃げ出したモンスターが他にもいるというのは軽く驚きだったが、それも沈静化に向かっているというのであれば安心だ。あのシルバーバックが「知性」を持っているというのであれば予想以上に危険だろうが、このレフィーヤという少女の言い方的にどうやらそのアイズヴァレン何某は相当に強いらしいので少しくらいゆっくりとしても良いだろう。

そしてアイズヴァレンシュタインという単語にどこか聞き覚えがあるような気がして、記憶を漁り始めた。

 

確かベルがらみのことでその人名を聞いたはずだが、確か――

 

 

「ねぇねぇ!」

 

「あ?」

 

 

気が付けば目の前にニカッとした笑みを浮かべたティオナが立っており、若干の前かがみもあってか上目遣いで俺に喋りかけてきた。

俺は一度記憶をたどるのをやめると、疑惑の視線を目の前の少女に送り次の言葉を待った。

 

 

「えーと、リョナ君のその服どこの?」

 

 

…ティオナは俺にスッ―と近づいてくると、コートの縁を摘まんできた。

なるほど、確かに現代の服は珍しいし、というか奇異の目で見られることが多いし、ティオナが興味を持つというのも解る。

だが現世だとか異世界だとか説明するのも面倒だし、前々からこういう事態は想定していたので俺は迷いなく返答する。

 

 

「オーダーメイドだ」

 

「あぁーなるほどねー!」

 

 

町は非常事態だというのになんと平和的な会話だろう。

何というか、気の抜けた俺は息を吐くと、鼻を鳴らす。

 

…するとどこかから花のような甘ったるい香りがした。

先ほどまでこんな匂いはしなかった気がするが、先ほどまでは色々な匂いが混濁していたので気づかなかっただけかもしれなかった。

 

 

「ん…」

 

「え、何々考え事?」

 

 

…見れば、ティオナは服を摘まめるぐらいの至近距離にまだ立っていた。

 

何でコイツ離れないんだ?と俺は近いティオナのニコニコとした顔を怪訝に眺める。

そしてもしかして、という仮説にいきつく。

 

 

「…もしかして花の香水かなんかつけてるか?」

 

「え?うーん、つけてるときもあるけど今日はつけてないかなぁ」

 

 

ティオナの体臭かとも思ったが、どうやら違うようだ。ただでさえ近くに立っているから可能性の一つとしてあると思ったのだが。

 

俺は改めて鼻をならすと、花の匂いがまだしていることを確認し出所を探ろうとする。

しかし匂いは四方八方、上下左右様々なところから漂ってきており出所は解らなかった。

 

…というか、「鼻が良くなった」というのもただの自意識過剰かもしれない。

だがほぼ汚臭といっても良い甘ったるい匂いが周囲に漂っているにも関わらず、目の前のティオナは顔色一つ変えていない…つまり相対的に俺の鼻がよくなっているはずだ。

 

 

そんな俺の視線に、不思議そうな顔を浮かべたティオナは、特に気にすることもなくまた快活な笑顔を見せると尋ねてくる。

 

 

「ところでさ、リョナ君も冒険者なんでしょ?どんな武器使うの?」

 

「ん、あぁ…」

 

 

というか話的にティオナも冒険者なのか。

確かベル君は「基本的に他のファミリアとの関りは危険なんです!」とか言っていた気がするが、まぁ別に…危険になったらその時だし、目の前の少女には悪意のようなものは感じ取れなかった。

 

ティオナの期待のこもった視線の中俺はコートを少しずらすと、腰についていたグローブを取り外す。

 

 

「ほら、これだ」

 

 

そしてティオナの前に差し出し、ティオナが「なにこれ?」という怪訝な表情を浮かべたとき――

 

 

『――ドォン!!』

 

 

地面が揺れた――

 

 

 

「…は?」

 

 

 

――否、地面が割れた。

 

 

 

広場を覆う石畳が一瞬、途方もないほどの力で粉砕されひびが入る。

そして爆発的に隆起すると、その中から「緑色をした蛇」が地面をかき分けるようにして現れた。

 

――「俺の足元に」。

 

 

一瞬の浮遊感。

跳びすさるティオナと、その奥で会話していたレフィーヤとティオネが驚く顔を最後に見た俺は、石畳に出来た地割れに落下した。

そして出来たひび割れの奥から緑色をした何かがしなやかに、圧倒的速度と破壊力で迫ってきているのを見た俺は、とっさに腕を交差させ防御姿勢をとった。

 

 

(…あれ)

 

 

――『ボンッ』という音を聞いたのと同時に、俺は空にいた。

 

どうやら衝撃でそのまま空に打ち出されたらしい、地上には地面から生えたようになっている緑色の蛇とぽつんとした三つの点が見えた。

少なくとも地上20m以上、落下すれば死ぬかもしれない。

 

――と同時に『ズキリ』痛みが走る。

 

見れば両腕は完全に折れていた。

まるで熟したトマトのように赤くなった腕は両方とも中ほどで大きく腫れあがっており、複雑ではないようだが綺麗に二つに折れていた。

それにどうやら肋骨の幾本も折れているらしい、突き刺さっていないといいが俺は一度だけ出来た呼吸のしづらさに気持ち悪さを覚えた。

 

 

 

――そして至極当たり前のことだが、俺は落下する。

 

 

 

リンゴが重力に勝てないように、一瞬の対空時間の後、俺は地面に向かって加速を始める。

まるで引き合うかのように近づいてくる地面を前に、俺はぴくりともしない身体を諦め、周囲に目を向けた。

 

…やけに世界はゆっくりとしている。

 

砕けた石片で綺麗だった広場は酷く汚れてしまっていた。そしてその中心ではその「原因である緑色の蛇が何本もの触手を揺らめかせ君臨している。

 

そしてその向こう側には必死な顔をしたティオナとティオネ、レフィーヤがいた。

 

…どうやら俺を助けようとしているらしい。

だが俺の落下地点に行こうとするたび、目の前を阻む蛇の触手に阻まれ攻撃されてしまっていた。

せめて武器があれば、そんな風に口が動いたティオナは、先ほどの笑顔とは違い、悔しさと激憤が入り混じった表情を浮かべていた。

 

 

(そんな顔するなよ、今日初めて会った他人だろうに)

 

 

今から死ぬというのにしてはまぬけかもしれない。

だが今俺の頭には死への恐怖はなく、ただ俺の死が彼女の今後の人生にトラウマを与えてしまわないかという懸念しか存在しなかった。

 

 

(とはいえ…)

 

 

俺は改めて近づいてくる地面を見る。

そして次に今もティオナ達と戦っている緑色の蛇を見た。

 

――こちらに何の注意も払っていないその蛇を。

 

 

 

(…生きてたら、絶対殺してやる)

 

 

 

やられたらやり返す、そんな事を最後に思った俺は地面に叩きつけられたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…!」

 

 

『ドスッ…』という鈍い音とともにリョナの身体が地面に叩きつけられた。

同時に散華、まるで水風船を地面にぶつけたときみたいに真っ赤な血が花開いた。

 

 

「ティオナさん…!」

 

 

ティオナとティオネ、そしてレフィーヤはそんな残酷な光景を目の当たりにしていた。

 

たまたまいた見慣れない冒険者、だが偶発的に遭遇した事件で命を落とす。

それは冒険者である彼女達にとっては、ただの事故で済んだし、いつもならば気にすることでもなかった。

 

…だが、「救おうとした」…!

 

目の前にある命を気まぐれに救おうとした、だが死んでしまった。

手を伸ばしたものが届かなかった虚無感は大きく、手を伸ばしただけダメージは大きい。

 

 

青ざめた顔をしたレフィーヤはティオナの名前を呼ぶ。

…真っ先に「助けよう」と提案した彼女の名を。

 

 

「クソッ…クソォ…!」

 

 

ティオナは渾身の力を込めて、迫りくる触手からレフィーヤを守るようにして殴る。

しかしその力は弱り、その小さな肩は今泣き出してしまいそうなほどに震えていた。

 

だが――

 

 

「ティオナッ!!!」

 

「!?」

 

 

――「一喝」。

 

 

ティオナに迫っていた触手の一本を『バシッ!!』という小気味の良い音と共にティオネは蹴り弾く。

そして瞳に僅かな雫を携えたティオナを一瞥すると、吼えた。

 

 

「ティオナッ!今は目の前の敵だけを見なさいッ!でないと死ぬわよッ!!」

 

「で、でも…もうリョナ君は…!」

 

 

そういうとティオナは遠くに転がったリョナを見る。

 

身体の前面から地面に叩きつけられたリョナの身体は胸や肩と言った部分が完全にひしゃげており、潰れていた。

服を着ているため未だ出血は解り辛いが、それでも水たまり程度の血だまりが出来上がっておりひび割れた地面を濡らしていた。

そして一番ひどいのは腕だ、一度折れていたのが地面にぶつかった影響でかあらぬ方向に曲がっており、今にも引きちぎれてしまいそうだった。

 

…見える部分はその程度だが、あれほどの高さから地面に叩きつけられたのだ。

身体の内部への影響、内臓が破裂していてもおかしくないだろう。

 

――死んでいる、もはやそれは凄惨な死体でしかなかった。

 

 

…あまりにも残酷なその死体にティオナは目線を逸らす。

 

 

「目を逸らすなッ!」

 

「…!?」

 

 

だが、ティオネはまたも吼える。

 

…ティオナには、ティオネの言っていることが解らなかった。

 

 

「でも、目の前の敵だけ見なさいって…」

 

「同じこと!」

 

 

ティオネは回るようにして迫りくる触手の一本をまたも退ける。

そして回転そのまま振り返ると、ティオナと相対した。

 

 

「冒険者なら常に最善をとり続けるべきだってこと!!ならアレが生きている可能性のために闘うの!!!解った!!!!?」

 

「え…」

 

 

…確かに冒険者は頑丈で、しぶとい。

だがあそこまで破壊されてしまったら、いくらなんでも…。

 

だがティオネに言っているということが正しいことくらいティオナには解っていた。

彼がもし「生きている」ならば、今すぐこの緑色の蛇を倒して回復させなければ本当に死んでしまう。

 

それが「最善」、ダンジョンの中で生きるために必要な判断。迷ったものから死んでいく。

 

ティオナはもう一度リョナの身体を見る。

…凄惨の一言に尽きるその怪我は、痛々しい。

 

 

――だからこそ早く助けねばならない。

 

 

「…ありがとね、ティオネ」

 

「ふん、私は『死体のそばでロキファミリアが戦っていた、あれ、あの死体ロキファミリアが守れなかったんじゃね』って言われたくないだけよ」

 

「ははっ、確かにね」

 

 

感謝の言葉を鼻で笑ったティオネの言葉に、ティオナは心の中でもう一度感謝を述べる。

そしていつものような笑顔を見せると、それをレフィーヤに向けた。

 

 

「ごめんねレフィーヤ!もう大丈夫だから!」

 

「…い、いえ!…その、私はティオナさんとティオネさんに守ってもらってるおかげで今ここにいられるわけで、何というか……気を落とさないでください!」

 

「ははっ、だから大丈夫だって!…それよりも、早くアイツ倒してリョナ君を助けに行こう?」

 

「…!…はいっ!解りました!!」

 

 

そう言って青ざめていた顔から決意しなおした顔で杖を握りなおしたレフィーヤを見たティオナは拳を握る。

そして――空高く伸びた蛇の胴体を前に拳を構え、吼えた。

 

 

 

「行くぞッ!!」

 

 

 

同時に走り出した双子は、大きく跳んだ。

 

 

 

・・・

 

 

 

――花の匂いがする。

 

ぴくりと鼻が動く。

 

瞼を開けると、だいぶ霞んでいて周囲の様子は解らなかった。

 

遠くから戦闘音が聞こえる。裂ぱくの気合のこもった一撃が肉に当たる音と、巨大な職種が這いまわるゴロゴロという音。

 

それと温かさ、まるで風呂にでも入っているかのように全身が暖かかった。

 

…そういえば風呂なんていつ以来入っていないだろう。

日本からこちらに来てからはシャワーしか使っていなかったし、こちらに来るまえは遊びで忙しく水浴びをしていた程度だ。

 

だから…数か月程度?短いような長いような、微妙な時間。

だが久しぶりの感覚は非常に心地よいようで、真冬の朝のベッドでの惰眠のように起きたくないと思うものであった。

 

…それこそ永遠に眠ってしまいたい。

俺は暖かさと眠気に従うまま、そのまま瞼を――

 

 

――その時、視界の中で「緑色」が「赤色」を叩いた。

 

 

すると赤色は、まるでギャグのようにあまりにも簡単に視界の中を水平に横切って行った。

 

俺はそれに興味を覚えると、もはや感覚の死んだ首をずりずりと地面にこすりつけるように動かし赤色の飛んで行った方を見ようとする。

 

 

(…えーと、レフィーヤ…)

 

 

首を十数度ほど動かし終わった俺の視界はわずかにはっきりとした。

すると吹き飛ばされた赤色が人型であり、その赤が彼女の着ていた上着の色だということを思い出した。

 

 

――赤色が垂れた。

 

 

赤より少し上、肌というかもはや白色に見える位置から赤が垂れ始めた。

 

絵具でも足しただろうか、俺ははっきりとしない頭でぼんやりそんなことを考えると一度瞬きをした。

 

 

(…!…)

 

 

また一段階はっきりとした。

 

痛みに嘆くような、怒るような顔をしたレフィーヤが広場にあった露店の残骸の上に、叩きつけられたように乗っていた。

どうやら骨は折れていないようだったが内臓にダメージがいったのだろう、その口からは一条の血がツッー…と垂れていた。

 

…でも、なぜそんなことに?なぜ彼女は怪我をしているのだろうか?

 

 

――また、花の匂いがした。

 

 

左側からしたような匂いに俺は、今度は首を左側に向ける。

そこで起こっていたのは――死闘。

 

緑色の何本の触手が、褐色の肌をした女の子二人に襲い掛かり、逆に襲い来る二人から本体を守っていた。

 

 

(…ティオネと…ティオナ、だっけ?)

 

 

確かその二人の名前はそんなだったはずだ。

 

とはいえなぜ町に魔物がいるのだろう。

その緑色の蛇はどこかで見たようなそんな気がするが、地面から生えたその蛇はとてもダンジョンから出てこれる大きさには見えず…あぁ、だから地面を掘ってきたのか。

 

…いや、脱走したんじゃなかっただろうか。確かコロッセオから…シルバーバックが…。

 

それと、ティオナとティオネ。

なぜあんなに必死何だろうか。確かに非武装の人間が戦うには辛い相手だろうが、それ以上に彼女たちの表情には鬼気迫るものがある。

 

何か俺の知らない理由がある…というのも当たり前だ、なんせ俺と彼女たちは会ったのが今日が初めてなのだから。

 

 

…会って…話して、それから…どうなったんだったっけか?

 

 

「…レフィーヤさん…!」

 

 

今朝聞いた声、これはエイナだ。

 

俺は知人の声に反応し、首をレフィーヤがいた方に向ける。

 

すると先ほどのレフィーヤがいた露店の前にギルドの制服を着たエイナと、同僚のピンク髪の職員がいた。

 

仕事中だったと思うのだがどうしてここに…っと、考えてみればモンスターが逃げ出したのだからギルド職員であるエイナがモンスターのいるここにいないはずがない。

 

とはいえいいタイミングだ。

俺はピンク髪と協力してレフィーヤを地面におろそうと、真剣な顔をしているエイナの顔を見ながら喋りかける

 

 

 

 

 

 

 

 

…なぁエイナ、ぶっちゃけ一人で祭りとかつまんねぇからさ。仕事終わったら付き合えよ。おごってやるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…あれ、違う。

 

エイナは怪我をしてレフィーヤを見つけんだから、これから治療なりなんなりしなくてはならない、そのために露店からおろしているんだから。

それにモンスターが脱走したとあっては祭りどころの騒ぎじゃない…こんなことならさっきの焼き鳥、一本でもとっておいてやるんだった…

 

 

俺はそんなに仕事が大事かねぇ…と半ば呆れた視線をエイナに送ってやる。

 

 

俺の視界の中、エイナとその同僚によって座るようなかたちで起こされたレフィーヤはポーションを飲まされ、少し血色が良くなったようだ。

そして意識がはっきりとすると、むせるようにせき込み――

 

 

 

――こちらを、指さした。

 

 

 

エイナが振り返る。

そして声にならない、悲鳴をあげると、それをかみ殺すように立ち上がりかけてきた。

 

…どうした?エイナ?走って。

 

顔を伏せるようにして、一秒でも早く辿りつきたいという思いが現れているかのような走りで、エイナは俺まで短い距離を走り抜ける。

 

 

そして両膝をつき――悲鳴を上げた。

 

 

「リョナさんッッッッ!!!!!リョナさんッッッッッ!!!!!」

 

おいおい、どうした。そんな悲鳴みたいな。聞こえてるって。

 

「返事をしてくださいッッッッ!!!!!リョナさんッッッッッッ!!!!!」

 

は?何を言って…

 

 

――振り返る。

 

 

言葉を出そうとする俺の口からはとめどなく血が溢れているだけで、言葉など一言も出てきていなかった。

レフィーヤはあの蛇にやられ、怪我をした。

ティオナとティオネはいまだ残ってあの蛇と戦い続けている。

今エイナが膝をついている場所は俺が流した血でできた水たまりだ、今もギルドの制服が血を吸い赤黒く染まっていく。

暖かかったのは血液に浸かっていたから。

 

身体が動かないのは――「俺があの蛇に空高く吹き飛ばされたから」。

 

 

――俺は急速に迫ってくる「死」を「思いだした」。

 

 

 

「…せーのっ!!」

 

 

 

エイナは掛け声と共に俺の身体をひっくり返す。

『びちゃっ』という音と共に血だまりから血液が撥ね、エイナの服や手を汚し、波紋を作った。

 

…そしてエイナは俺の頭の方に這って移動すると、俺の視界にその泣きそうな顔を見せた。

 

 

「リョナさん!…嘘、呼吸してない…!」

 

 

顔はおろか、もはや眼球を動かす余力のない俺は、エイナがせわしなく動いているのを感じながら、再び遠くなった耳で遠くの戦闘を聞く。

…まだティオナ達は戦ってるのだろうか?素手ではあの巨体と力は俺が戦っても難しいだろうか?

 

空を仰ぐ。さっぱりと晴れた良い青空だ。

こんな天気の日はこもりがちな妹を連れ出して公園にでも遊びにいくのが良いだろう。

…妹は、あの日俺が失踪してから妹はどうなっただろうか。…いや、きっとアイツならしぶとく生きているだろうしきっと別段心配もしていないだろう。

 

 

――「花の匂いがした」。

 

 

甘ったるい匂いが鼻腔の隙間に、むせかえるような血の臭いの合間を縫ってやってくる。

断続的に、強制的に脳裏に浮かんでくるその匂いは俺の精神に何かを訴えかけるように、いまだまどろむ俺の思考を揺り動かす。

 

 

「リョナさんッ!飲んでッ!!頼むからこれを飲んでくださいッッ!」

 

 

…?口元に何か当てられているのだろうか?

必死な顔をしたエイナが青い液体の入ったビンを手に何か叫んでいる。

確か市販のポーションか何かだったはずだ、あれを俺に飲ませようとしているのだろうか。

 

とはいえ無駄だ。もはや喉を動かす力はおろか、体のどこにも「感覚」というものは存在しなかった。

まるで神経を丸ごと引っこ抜かれたような…いや単純に麻酔をかけられたかのようなそんな感覚だ。

 

 

…だが、代わりに急激な「冷たさ」が来ている。

 

 

血だまりに横たわった暖かさとは違う、寒さ。

それは末端から徐々に、頭を目指すように着々と。震えることもできないこれまで経験したこともないような冷たさが伝わってきていた。

 

怖いのに、どうすることもできない。初めての恐怖、という感情を覚える俺は同時に反面納得しており、落ち着いていた。

だがそれはあまりにも自然な反射、本能による直感がまるで赤子をあやすかのように俺を諭した。

 

 

――「これが死ぬという事なんだ」と。

 

 

 

(…)

 

もはや言葉は無く、俺に許されたのは瞼を閉じるだけのほんの最後の振り絞った活力。

生きて死ぬ、当たり前のことで同時に瞼を開けて閉じるのも当然の摂理だ。

 

もはや後悔は無く、感傷もない。というかそんなものがあったとしても俺の思考はそんな感情に対して返答することは無い。

 

 

 

今度こそ息を止めた俺は――その冷え切った身体に別れを、告げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッフ…!」

 

 

…何かの吐息が聞こえた。

 

 

「…ッフゥ…!」

 

 

…また、聞こえた。

それはまるで息を吹き込むかのように、必死で、頼りない希望に縋っているようだ。

 

 

「…ッフゥッ…!!」

 

 

 

 

――暖かい。

 

どこか、温かい。

ここはどこだろう、頭だろうか、腹だろうか、足だろうか――

 

 

 

――いや、これは、「唇」。

 

 

 

じんわりと唇が何かに覆われていて、そこから熱が供給されている。

 

…それは弱々しい熱だ、だが凍り付いたような俺の身体にその熱は渇望に値するものであり、無意識に気持ちが良かった。

 

しかし――暖かさが離れてしまう。

 

それはまるで世界の終わりのように訪れ、音もなく離れ、俺の身体は再び死に始める。

 

 

「…ッフゥ…!!!」

 

 

だが喜ばしい事に、吐息と共にまた暖かさが戻ってきた。

…どうやら吐息が合図のようだと俺は、無意識に理解する。

 

そしてまた暖かさが離れ、吐息と共に戻ってくる。

 

暖かさがある時はむさぼるように、離れてしまったときは親鳥を待つひな鳥のように俺はその過程を繰り返す。

そして無心にその暖かさに浸っているうち――

 

――喉の感覚が戻ってきた。

 

そして驚くことに何かが喉の中を流れている、最初のころは血かとも思ったがその液体は甘く、非常に美味しい。

と同時にそれ自体も熱を発しているようで通って行った喉、食道、胃などを熱く温めていき――

 

――それは全身を温めるに至った。

 

 

目を、開ける。

 

 

(エイナ…!)

 

 

エイナの顔が目と鼻の先にあった。

いつもかけているメガネは外され、髪は俺の顔に垂れ、思いつめたようにその瞳は閉じていた。

 

 

 

――人工呼吸。

 

 

 

それにあわせるかのように、ポーションを口に含み、それを飲むことのできないリョナに口移しする。

息を吐き終えたエイナは唇を離すと、ポーションをあおって口の中にためる。

そしてそのままリョナと唇を合わせるとポーションを口移しにし、息を吐きだしていた。

 

懸命な応急処置、死にかけ冷え切った命の息を吹き込む直接的でいて愛の溢れた行動…そしてそれはエイナに残された唯一の手段だった。

だが――友人の命を救うのに何の躊躇いがあるだろうか。

 

 

 

――エイナは繰り返し、繰り返し、何度も、何度もリョナに口づけしていた。

命という炎が掻き消えないように、吹き消えないように。

 

 

 

しかし――

 

 

 

「――ッ…嘘ッ!?」

 

 

 

エイナはポーションの入っていた瓶から口を離すとそれが切れてしまっていたことに気が付く。

 

確かに冒険者は頑丈だ、それに回復力も高い。そしてそれは魔法によって生成されたポーションを格段に補助される。

恐らくここまで回復したリョナであればかなりの数の上級ポーションも併用すれば、全快もそう遠くないはずだ。

 

 

――だが、身体は死に向かっている。

 

 

今も血は流れているのだが、ポーションを使うことでそれを一時的に回復へと向かわせることは出来たが――

 

――今この場に全快させられるだけのポーションが無ければ意味は無い。

 

 

「ミィシャ!!他にポーションは!!?」

 

「えぇ…今使ったのが最後だよ…!?」

 

「そんな…!?」

 

 

エイナはミィシャに尋ね、目を見開き、涙を溢れさせた。

 

それもそのはずだ、なぜなら――万策尽きた。

 

もはやエイナがリョナに対して何もすることはできず、死から逃す術は無い。

それはつまり救える人がいなくなったということであり、自覚ではなく事実として「リョナの死」を意味していた。

 

事実の前には何も、意味が意味をなさない。

例え俺が死ななくてはならない理由があったとして、エイナが涙を流したとして、これから何が起きたとして――

 

 

――意味は無い、だから――

 

 

 

―――「エイナが俺に口づけした」のに俺は驚いた。

 

 

 

もはや口に含むポーションは無い。

運べる熱量にもたかが知れている。

 

…その口づけには何の意味もない。

 

エイナは泣きながら俺の唇にしゃぶりついてくる。

喉の奥から嗚咽のような音が漏れ、伝った涙が俺の頬を滴り落ちる。

 

もはやエイナにとってしても自分が何をしているか解っていないのだろう。

…人は、例え意味が無くとも行動する時があるのだ、例え死ぬとしても感傷的に。

 

 

「エイナ…もう…」

 

「…!」

 

 

ミィシャがエイナに声をかける。

今すべきはもはや彼をどう助けるかではなく、現在進行形で戦闘の行われているこの場所から自分たちだけでも離れるべきだった。

 

…それは…俺としても同じだ。

 

俺のせいでエイナが死んでは、後悔が残る。

それにむしろ最期に、最期だけでも暖かさを知れてだいぶ楽になったようなそんな気さえした。

 

…俺は未だ唇を離さず、嗚咽を漏らしているエイナの顔を見つめる。

そしてお前はよくやったと、言葉にしようとし…ふつ、と眠気に瞼が下がった。

 

俺は、再び眠りについたのだった――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――花の、匂いがする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もはや何度目なのかも解らない、甘ったるい胸やけするような匂い。

どこかで嗅いだことのあるような、記憶の靄に焼け付く匂い。

その香りは俺の死にいくシナプスを刺激し、俺の精神に作用する。

 

――このクソッたれな匂いを俺は知っている。

 

知っている、この匂いに何をされたか。

知っている、この匂いに何を思ったのか。

知っている、この匂いがどこからするか。

 

 

――「華」だ、あの華が――

 

 

 

 

切れかけていた俺の思考は冴え、そして――ある一つの「感情」が産まれた。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

(…舌いれたろ)

 

 

「!?…むっー!!?」

 

 

突如唇を割って口の中に舌を入れられたエイナは驚く。

そして涙に濡れた目を見開くと、慌ててリョナの確認のため顔を離そうとした。

 

…しかし『ガッ!』とリョナの手によって頭を押さえられ、身動きをとることは出来なくなっていた。

 

 

「っむぅぅうーー!!?」

 

 

所謂ディープキスなのだが、その感触は男性経験の少ないエイナにとって初めての感覚であり、半ばパニックに陥った。

…そしてなされるがまま口の中をなめまわされる。

 

 

「!?」

 

 

だがそこでは終わらない、何とリョナは上半身を起こそうとしていた。

折れていたはずの腕を地面につき、潰れた胸を立てようとする。

 

気が付いてしまったエイナは止めようにも傷口に触れることは出来ず、せめてそれを助けた方が早いと判断するとリョナの腰に手を回して支えた。

――だが失策とも言える、腰に手を回してしまった事で更に口が押し付けられてしまったのだから。

 

…舐められるのを耐えながらエイナは、ゆっくりとリョナの身体を立てる。

 

そして――

 

 

「ぷはぁっ!…リョナさんッ!?」

 

「おう」

 

 

――しっかりと目を開き、意地悪く微笑んで見せるリョナを確認すると安堵した。

 

 

「…ってなんで舌入れたんですか!!?」

 

「あぁ、いやすまんまだ口の中にポーション残ってる気がしてな…ごっつあんです」

 

「もう…馬鹿!」

 

 

冗談を言うリョナに、涙を拭ったエイナは軽く笑う。

 

そして改めて全身の傷が初めてよく見えた。

前身は血まみれ、腕はポーションの効果でか位置がもどりこそすれまだだらんと垂れ、折れていることを伺わせる。

胸は不自然にへこみ、足は強い打撲によるためか今も不規則に震えていた。

 

エイナは…その惨状に改めて気を引きしめつつも感心する。

…この傷で良く生きているものだ、冒険者は本当にしぶとい。

 

 

「え!?起き上がってる!!?」

 

 

遠くでレフィーヤの治療をしていたミィシャがこちらに気が付き、驚いた声を上げる。

そちらをちらりと見たエイナは大きく頷く――その時、『ドズンッ…!』と大きく地面が揺れた。

 

それは緑色の蛇の触手が地面をたたいた音、ここは未だ戦場だ。

逃げなければならず、怪我も癒さなければならない。

…リョナさんとともに。

 

 

「リョナさん、ここはまだ危険です。引きずっていきますね」

 

 

緑色の蛇のいる反対方向、メインストリートへと続く道を見たエイナは軽く指さすとリョナの片側に回り、両腕の下に手を回す。

そしてできるだけ怪我に障らないようにゆっくりと、エイナの筋力では思いリョナの身体を引きずろうと――

 

 

――リョナの手によって、引きずるその手を掴まれた。

 

 

がしりと腕を掴んだリョナは遠くで今も行われているティオナ、ティオネそして緑色の蛇との戦いを凝視していた。

そして振り返るでもなく、ただただ軽い口調でエイナに尋ねた。

 

 

「…なぁエイナ、俺のグローブ知らねぇか?」

 

「グローブ?」

 

 

確かリョナの武器だっただろうか、黒い鉄でできたグローブをエイナは頭に思い浮かべる。

そして周囲を見渡すと、それなりに遠い場所に黒いグローブが一組、無造作に落ちているのを発見した。

 

しかし首を振ると、諭す。

 

 

「冒険者にとって武器は一番大事なものだっていうのは解りますけど命あっての物種です。ギルドの方で何としてでも回収しますので今は――」

 

 

 

ふとリョナの様子が普段と違うような気がした。

背筋を蛇が伝うようなぞわりとした悪寒、本能的な恐怖を覚えたエイナは思わず口を噤んでしまった。

 

にわかに息が荒くなる、汗が噴き出る、恐怖する。

 

 

――そしてリョナが振り返った。

 

 

「なぁエイナ、俺の武器知ってんならとってきてくれよ」

 

 

そこにあったのは――狂気。

否、今は非常に理性的であって同時に一つの目的のためならば全てを投げ捨て顧みない修羅の顔をしていた。

 

思えば目覚めたあの時既にリョナは、「ただ一つの感情」に支配されていた。

 

その目に宿るのは――「憤怒」。

 

執念深い漆黒の業火を見たエイナは圧倒され、たとえ今ここでそれを断りさえすれば彼が何もできないということを知っていながらもリョナの肩から手を放してしまった。

そしてあまりにも強い意志に侵されながら、グローブを取りに行く。

 

まさか、そんな、という願いがエイナに真実を見失わせ、彼がどうするつもりなのかを知っていながらもエイナはグローブを手に取る。

 

…意外と軽いグローブはあっさりとエイナによって運ばれ、上半身を立て、ゆっくりと深呼吸をしていたリョナの元に運ばれる。

 

 

「…左手につけてくれ」

 

 

もはや頷くほかない。

恐怖に支配されたエイナはリョナの左手に黒鉄のグローブはめ込める。

 

左手についたグローブの感触を確かめるように、リョナは指をゆっくりと開け閉めする。

そしておもむろに右腕の、丁度骨が折れ始めたところを掴むと――

 

 

――『ガシューッ!!』という駆動音と共に五本のワイヤーを射出し、右腕に巻き付けた。

金属で編まれた糸でできたワイヤーは、折れた右腕に巻き付け、補強する。

そしてワイヤーの限界まで巻き付いたとき、リョナの右腕は全てワイヤーに覆われ振ることを可能にした。

 

 

「右手だ」

 

 

補強された右腕をリョナはエイナの前に差し出す。

すると先ほど同様エイナは右手にもグローブをつけた。

 

 

「よし…」

 

 

これで準備はできた、そういうとリョナは右腕を地面に突き立てると立ち上がってみせた…粉砕された全身を。

そして若干割れたようになった呼吸を大きくすると――エイナに背を向けた、緑色の蛇の方へと。

 

 

――まるで呪縛から解かれるがごとく、正気に戻ったエイナは叫んだ。

 

 

「何を考えているんですか!!?死ぬつもりですか!!!?そんな傷でッ!!馬鹿なんですかッッ!!!!?」

 

 

リョナは…止まらない。

そんな言葉を背中に受けながら一歩、確実に進んで見せた…その限界まで壊れた身体で。

 

正気ではない、面食らったエイナはそのあともリョナを止めるための言葉を吐き続ける。

だがリョナの歩みは止まることは無く、またエイナの瞳から流れ始めた涙も止まることは無い。

 

もはや何も解らなくなったエイナは――尋ねる。

 

 

「待ってくださいッ!!なぜッ!!?あのモンスターはいずれ倒されますッ!重傷を負ったあなたが倒す必要はッ!!?…うぅ」

 

 

その言葉も、きっと彼に届かない。半ばあきらめていた彼女は嗚咽を漏らす。

 

 

「…」

 

 

だが、足を止める。

初めてエイナの言葉に興味を示したリョナは、首だけを振り向かせ――

 

――その憤怒を顔にした。

 

 

 

 

「あの花を絶対殺す、そう決めた」

 

 

 

 

何だそれは、一気に力の抜けたエイナは放心状態のようにその場に座り込む。

そして目の前を歩いていってしまう重症の彼に吐き気を催しそうなほどの心配をエイナは覚え、ふと――

 

 

――花の匂いがした、そんな気がした。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

「ティオナッ!」

 

 

ティオネが走りこみながらティオナの背後に迫っていた触手の一本を蹴り飛ばす。

 

戦闘が始まってから三分程度、短いと思うかもしれないが、こと戦闘において、そしてリョナの命がつきてしまうかもしれないタイムリミットを考えればそれはあまりにも長すぎる時間だった。

 

…二人は、焦っていた。

本体である蛇の胴体に辿りつき、本来であれば破壊力は相当にあるはずの蹴りや殴打をお見舞いすることは出来る。

しかし打撃耐性が異様に高いのか、そのほとんどがコイツにダメージを与えることは出来ず、ティオナの武器であるウルガなどの切断できる武器がなければ倒すことはできなかった。

膠着状態、姉妹側はその攻撃の全てを弾き、お互いとどめを刺せずにただずるずると時間だけが経過していた。

 

 

――だが、戦場が動く。

 

 

「!…ティオネっ!!」

 

「え…キャアアアアアアッ!!?」

 

 

触手の一本がついにティオネの片足を捉えていた。

そして足を掴まれたティオネはそのまま空中に引っ張られ他の触手にも巻き付かれ、完全に身動きが取れなくなる。

 

 

「ティオネッ!!?」

 

「馬鹿ッ!私に構ってる場合じゃないでしょうがッ!!」

 

 

ティオナが叫ぶその背後、ティオネを捉えた時と全く同じ動きでティオナも捕縛され、空中に固定する。

 

 

「なっ…!?」

 

 

――そして、「花弁」が開いた。

 

『ギィッイイイイ!!』

 

中から現れたのは鮮すぎる赤の、毒々しい巨華。

今まで蛇だと思っているそれは巨大な花、触手だと思っていたものは根か蔓か何かだった。

 

華はまるで観察するかの如くティオナ達を凝視すると、その触手をドクンと脈動させると吼えた。

 

 

――息苦しくなるのも一瞬、そのあと全身に悪寒が走った。

 

 

「も、もしかしてこれ…魔力吸われてる!?」

 

「チッ厄介!ティオナ、早く抜け出すわよ!」

 

 

魔力とは精神力、魔法を殆ど使うことのないティオナとティオネには関係のないステータスだが精神力の上限というものが存在している。

そしてその精神力が尽きれば――「マインドダウン」意識が飛んでしまう。

 

幸い魔法系の職業の筋力ではこの触手は振りほどけずジリ貧だろう。

 

しかし魔法系の職業の精神力が強いのに対し、ティオナとティオネはそれほどでもない。

つまり早く振りほどかねば手遅れになってしまうということだった。

 

 

「くっ…これ中々…!?」

 

 

触手は力もそうだが、ティオナが手をかけようとするたびうねり受け付けない。

何かナイフでもあれば突き立てれたのだが。

 

 

「んっ…うっ…!」

 

「ちょっとティオナしっかりっ…くっ…!?」

 

 

思ったよりも精神力の減衰が激しい。

逆に精神力を吸った花は先ほどよりも元気になっていき、締め付ける力が増していく。

 

目の前が暗くなっていくような気持ちの悪い感覚に二人は必至で抵抗するも現状は変わらない、そして――

 

 

 

『ギィッ!?』

 

 

 

――ワイヤーが飛んだ。

 

四本のキラキラとした糸が、華の目の前にまるで首を絞めるかのように華の首筋に回っていく。

華はその糸に気が付くと、本能的に命の危険を覚えたのかその巨体を揺らし、首をかすめ取るかのように急速に巻取りを始めたワイヤーを避ける。

 

 

 

 

「…一本足りないだろうが!!」

 

 

 

それは時間差。

目の前にちらついた四本のワイヤーに気をとられていた隙間に、最期の指から出たワイヤーが滑り込む。

 

そして『ギュルゥゥゥ!!!』という駆動音の後、一瞬の煌きを見た刹那ティオナとティオネのことを締め付けていた触手は二本いともたやすく両断された。

 

 

「…ッ!」

 

 

二人の身体が地面に落ちる。

先ほどのリョナ程ではないといえそれなりの高さだ、二人は落下の衝撃に息を止め反射的に怪我だけはしないように触手に絡まれた身体で受け身をとる。

そして先ほどまで魔力を吸われ、意識を失いかけていた頭で――

 

――巻き取られていくワイヤーの先を見て、驚愕した。

 

 

「リョ…リョナ君ッ…!?」

 

 

「華」の向こう側、華によって陰になったこちら側ではなく陽の当たる側。

良く見れば解らないほど短い鋭利なワイヤー達は、ある一点に収束し引き戻されていく。

 

――そこには、リョナが立っていた。

 

 

「リョナ君、無事でっ…ッえ…!!?」

 

 

ティオナは一瞬、立ち上がっている彼が無事だったのかと安心しかけた。

しかし彼のはめている篭手のようなものにワイヤーが巻き取られていくのを見て、今の攻撃をしたのがリョナなのだと解った。

 

そして――その傷がまだ癒えていないことも。

 

 

「何でッ…!!?」

 

 

前身から血が滴りおち、紅に染まったその顔の表情は読み取れない。

左手は折れていた右腕を掴んで支えており、右腕はだらりと垂れ下がていた。それに合わせるかのように上半身も力なくいまにも前に倒れこんでしまいそうだ。

その胸は潰れ、大切な内臓を守る肋骨や身体を支える背骨、どこまで折れているかは解らないが、全身の骨が折れていてもおかしくないほどの高さからリョナは落下し、出血し、潰れている。

まるで幽鬼のごとき立ち姿、血に濡れた上着はゆっくりとはためき陽の中にありながら影に住まっているようだ。

 

砕けていたはずの両腕、確認こそできていないが絶対に、最低でも立つことは叶わないであろうほどのダメージを受けた両足――

 

――立てるはずが無い、一度肉塊とまでなりはてたその傷では。

 

 

「何でそこにッ…!!?」

 

 

何故、もっともだ。

怪我をして立ち上がれないなら――そのままだ。

怪我をしても立ち上がれたなら――逃げるべき、逃げてもいい。

 

だから怪我をして立ち上がったのに――なぜ、戦うのか。

 

 

「…!?」

 

 

ティオナは思わず立ち上がろうと、蔦にけ躓く。

そして切り離された触手であるにも関らず、未だ締め付けてくることに顔を険しくする。

 

 

「ティオネ…!」

 

「…」

 

 

名を呼ぶ…が、ティオネは既に気を失ってしまっていたらしい、ぐったりとしたまま動かない。

 

――もう一度もがく。

 

幸い生きている触手ではなく、これは絡まった糸に過ぎない。

時間さえかければ抜けることができるだろう。

しかし――それでは前身の潰れた傷だらけの彼が死んでしまう、また助けられないなど耐えられない。

 

 

――『ドムッ!』

 

 

視界の端、巨大な触手が振り下ろされる…それもリョナのいた場所。

地面には衝撃が走り、更にひび割れる。破壊が巻き起こり、息が止まる。

 

土煙が巻き上がるのをお構いなくティオナは振り返った。

そして――

 

 

(疾い…!)

 

 

――同時に視界の端、ティオナはリョナの姿を捉えている。

 

思っていたよりもずっと疾い動き、とても名前の無い「雑多」の中の冒険者ではできない身のこなし。

振り下ろされた高速の触手を避けたリョナは、先ほどと同じ幽鬼のように右腕を抑え、触手の振り下ろされた場所の何メートルかを移動していた。

 

そして――「ゆらり」と前に倒れこむと同時に回転し、右腕を振る。

…ワイヤーが射出され、未だ振り下ろされたままの触手を襲い、その指の数だけ切り裂いた。

 

『ギギィ!!?』

 

紫色の血液がまき散らされ、鳴いた華は切断された触手から血液を周囲に散らしながら身体を引く。

そして痛みにもだえるかのように全身を震わせた。

 

(あの切れ味…!)

 

なんだあの武器は、先ほどもそうだが瞬間的に触手断ち切って見せた…剣を振るでもなく、槍でつくでもなく――

 

――何とか頑張って視認できるような、細い糸で撫でただけで。

 

 

(ッ…今はそれよりも…!)

 

 

疑問が溢れ出てくるのを抑え、身体に巻き付いた触手に集中する。

 

それはこの触手を振りほどいてからでも遅くない、否――

 

 

――リョナをあそこから助けてからでないと遅い。

 

 

そしてぐっと息を止めたティオナは身体を縮ませ、一本ずつ触手をほどき始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

(殺す)

 

 

それだけだ。

 

触手を撫で切りにされた華は痛みにもだえて身体をよじる。

それをゆっくりと観察した俺はワイヤーを回収した。

 

――片腕。

 

右手にワイヤーが収納されていく微細な衝撃に骨が軋み、肉から血が滲んだ。

押さえつけた右腕が悲鳴を上げるのを俺は静観する。

 

――せめて両腕使えたら、なんて考える。

 

だが片腕使えるだけで奇跡だ、これでアイツを殺せるのだか。

 

 

(感謝?神に?…冗談)

 

 

「ッ!?」

 

 

痛みから回復したのか華が触手を数本振り絞っていた。

 

(間に合うかッ…!)

 

無理だ、死を覚悟する。

放たれた神速がごとき触手が空気を裂き、迫る。

 

俺は砕けた足で地を踏むと、前進する。

そして…神回避、紙一重で触手を避けた。

 

(よし、殺せる…)

 

 

「…ッ!」

 

 

隙を見つけた俺は、右手を華首に伸ばし握りしめる。

 

前進したことで懐に潜り込めた俺は、ほぼ真下から花の首にワイヤーをひっかける。

そして握りしめ――巻き取った。

 

『ギッ…!』

 

ブチュ…という水音とともに華の首がワイヤーによって切り飛ばされ、ドンッと飛んだ。

紫色の血液に濡れたワイヤーが目的を果たしたかのように緩み、地面にぽてりと落ちる。

 

そして――ドズンッ…と重い音とともに巨大な華の首が、俺の脇に落下した。

 

…地が揺れ、身体がふらつく。

一段と華の匂いが強くなり、切断された茎から噴きこぼれた紫色の血液が滝のように降り注いだ。

 

 

(…やった)

 

 

殺せた、圧倒的に格上の存在を。自分を殺しかけた存在を。

降り注ぐ血液の雨に打たれながら俺は強い達成感と、脱力感に襲われた。

 

――何故戦ったのか。

 

何度か聞いた単語だ、しかしなぜ何故と聞くのか解らない。

それは理由であり、彼女達が知っているはずもない未知だ。

 

ちなみに理由だが…殺されそうになったら殺す。言ったことは守る。

…ただそれだけのことだ、それを理由と言わないのであれば話は別だが。

 

そしてあえて付け加えるなら――あの花の匂いが癪に障ったから、だろうか。そうとしか言いようがない。

 

 

「殺った…!」

 

 

俺は達成感とともに口を開く。

いや本当に頑張った俺、おめでとう。

ぼろぼろに破壊された身体で、自分よりも格上の敵を殺せた。未だあの腹立たしい匂いは周囲に漂ってこそいるが次第に周囲へ溶けていくだろう。

 

だが――流石に――アドレナリン切れだ。

 

「殺った」という一言のために、口が動き、喉が動き、肺が収縮する。

身体が動く、その度に全身の傷口がわずかに開き、骨が軋み、痛みが声を上げる。

 

しかし脳内物質、つまりアドレナリンが「憎悪」という感情によって最大限引き出されていた。

だが目的の達成によって感情が薄れ、アドレナリンも薄れる。つまり――

 

 

――痛みが走る、気が付かなかった今までの痛みが。

 

 

「あ…」

 

 

空を仰ぐ。

ぐにゃりと歪んで、紫色の涙で全てが染まった。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

――絶叫。

 

肺が歪み折れた骨が内臓に食い込む。そしてその痛みでまた叫ぶ。

 

叫ぶ、叫ぶ――痛みに耐えるため叫ぶ。

しかし全身の痛みは叫んだところで何も変わらなかった。

 

 

「あッ…アッ…Aa…!?」

 

 

見たことのある症状が自分に起きていることだけは解った。

人は限界まで追い詰めたとき、機能が以上をきたす。

 

目の前が明滅し、汗が止まらなくなり、寒くて、熱くて、震えて、青ざめる。

 

絶え間ない痛みと、不調という気持ち悪さが吐き気を催した。

だが同時に抑える、この状態で何か喉を通そうとしたらそれこそ痛みで死ぬ。

 

 

「ゴフッ…ゴフッ…!?」

 

 

そのかわり咳が出た。肋骨に痛みが走るがそれは大したことは無い。

しかし咳には大量の血液が混じっていた――頭がくらつく。

 

(失血が多すぎるか…!?)

 

ポーションで血液まで回復するか、最初の怪我からこぼれ続けている俺の血は既に死んでいてもおかしくないほど失血していた。

 

 

「リョナさんッ!」

 

 

寒気を覚えながら振り返ると、エイナが右手を伸ばし駆け寄ってきていた。

華が死んだから駆け寄ってきたのだろう、そしてその顔には心配と涙が張り付けてあり、その走り方は出来る限り先を急ごうとするものだ。

 

(あ…)

 

色々な思いが噴き出てくるが、痛みで思考がまとまらない。だがもう敵はいないはずだ、エイナにポーションでももらってこの痛みを抑えなければ、俺はこの気の狂ってしまいそうな痛みに耐えきれなくなるだろう。

 

俺はぼんやりとかけてくるエイナを眺めながら――

 

――花の匂いを嗅いだ気がした。

 

 

「エイナッ!!」

 

「ッ!?」

 

 

ほぼそれは殴りつけると言って近しい。

意識を強引に覚醒させた俺は、走ってきたエイナを片腕を振って突き飛ばした。

 

――地面が割れる。

 

エイナを突き飛ばしたこちら側に、緑色の壁が生える。

それはぐにゃりと歪曲を始めながら、俺の目と鼻の先をかすめながら伸びていく。

 

(――華?)

 

それはいましがた殺したはずの華の茎。

 

何故生える、それは俺の知らない未知。

だが未知だろうが何だろうが現実は変わらない。

 

『ギィイイ…!』

 

華が吼える、どうやら産まれて初めての獲物に興奮しているようだ。

 

 

「まだいたって事かよ…」

 

 

華が口を開き、足元に立つ俺を見下ろす。

まぁ一本いたのだから二本目もいたっておかしくはない…いやまぁこのままだと確実に死ぬが。

 

(いけるか…)

 

吐き気はまだするし、頭がおかしくなりそうな痛みだってある。

それに一度気を抜いた身体は、急激に疲れが出ており、今すぐにでも崩れてしまいそうだった。

 

…眠い、今すぐにでも寝てしまいたい。それに先ほどとは別個体だからか、憎悪なんて感情も湧いてこない。

しかし今コイツを倒さねば――エイナに気が付くかもしれない。

 

 

「ッ行くぞ俺…!」

 

 

そして自分に激励し、一歩踏み出し――

 

『ドォォッ!』『ドズンッ!』

 

――二回(・)地響きが鳴る。

 

 

思わず振り返るとそこには二本の華。

成長した華は花開き、その毒々しい顔をこちらに向ける。

 

計――3本。

 

 

(はは…)

 

 

思わず笑みがこぼれる。俺はなけなしの恐怖を押さえつけるかのように左手で折れた右腕を握りつぶすかの如く掴む。

 

『『『ギィッイイイイイイイイイ!!!!!!!』』』

 

 

――そして華たちは、触手を振り下ろしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

――死線。

 

…まぁもう既にこと切れていてもおかしくは無いのだが。

 

 

(89…90…)

 

 

壊れ切った身体でリョナは跳び、駆け、腕を振るう。

しかしその度、アドレナリンの切れたこの身体は絶叫と嗚咽の入り混じった悲鳴をあげた。

 

だが――

 

 

(91…92…93…94)

 

 

――その度、疾くなる。

 

それは五本の糸がより集まった綱渡りに過ぎない。

ボロボロになったその身体で、極限まで狭い奇跡みたいに細いワイヤーの上を歩いていく。

 

…普通ならば死んでいる。しかし格上に対してのしぶとさでいえばリョナは特別と言えた。

 

 

切り裂き魔の高揚(リッパーズ・ハイ)――どこまでも早くなっていく刃のおかげで、リョナは三本の華に相対して、戦闘を続けられていた。

 

 

(95…96…97…98…99)

 

 

リョナの頭は数字を数える事だけしか覚えていない。

ただ腕を振る度増していくその数字が自分ですら到達したの事のない領域に辿りつこうとしていることも解らなかった。

 

…三本の華が同時に触手を振るう。

 

計5本、全方位からの同時攻撃。

もし普段のリョナが例え怪我をしていなくても避けるのが不可能な数多の触撃…もし、それがカウントゼロだったならば。

 

 

(100…!)

 

 

迫ってくる触手の一本を切り飛ばす。

そして開いた空間に身を投げた。

 

――避けれる。

 

風圧がまるでぼろ雑巾のように俺の体を吹き飛ばし、地面を転がした。

 

 

「カッ…ハッ…!?」

 

 

激痛に悶えた俺はうずくまり、血を吐く。

…びちゃびちゃりと地面に血液と肉片が落ちた。

 

 

「…!?」

 

 

補強した右腕で地面を殴りつける。

するとその反動で身体が跳ね、後方に移動する。

 

…ズドンッと触手が今まで俺のいた場所に突き刺さった。

 

 

(隙…!)

 

 

気が狂いそうなほどの激痛と共に訪れる、流石に二回目は避けられるとは思えなかったのだろう三本の華の、全てに生まれた大きな大きな隙。

 

3対1、例え一本を強引にとろうと思っても、残り二本に殺される。

だから隙を待っていた、例え持久戦が激しい痛みを伴ったとしてもそうするしかなかったから。

 

俺は相対する一輪の華に目をつけると、その首を狙い――

 

 

――固まった。

 

 

…最初は怪我のせいだと思った。

 

血液が震え、全身が拍動する。

俺の一番深いところが遠吠えを上げ、牙をむく。

 

「獣」が、見える。

「神」が、見える。

 

まるでシーンカットのように、サブリミナル効果のように、俺の視界が色々な光景を垣間見る。

仲間が死に、敵が死に、眷属が死に、神が死ぬ光景…そして脈々と受け継がれてきた――「憎悪」。

 

 

それはつまり――「神殺し」の見せた景色。

 

 

(100か…!?」

 

 

カウント数が関係していると考えるのが妥当、本能的に、切り裂き魔の高揚との効果とも考えてそれが正しいと言えた。

 

急激な活力、一時的にストックされた残りエネルギーはきっと祖先たちの憎悪だ。

感情を燃やし、駆動する。

 

それはただの「偶然」に過ぎない、しかしその偶然がリョナの隙をつく攻撃を確かなものとした。

 

 

俺はコンマ何秒幻覚が治まるのを待つ、そしてギッ…と噛み締めると見上げ、血まみれの顔で笑う。

 

――今なら三本とも殺せる、と。

 

 

「【ウィーシェの名のもとに願う 森の先人よ 誇り高き同胞よ 我が声に応じ草原へと来れ 繋ぐ絆 楽宴の契り 円環を廻し舞い踊れ 至れ 妖精の輪 どうか ― 力を貸し与えてほしい】」

 

 

――突然、強風が後ろから俺の背中を押し、コートをはためかせた。

そして日中であるにもかかわらず、強すぎる光は影を作り、華を照らした。

 

――森の、爽やかな匂いだ。

 

非常に心地よいその匂いに俺は—―振り返ると、光輪を纏ったレフィーヤが決意を目に杖を構えていた。

 

…魔法、その発動準備。

なるほど、確かに予感できる。その魔力量であれば俺よりもはるかに確実に華たちを駆逐できる。

 

それに…暖かい。

 

 

(あ、でもここにいたら巻き添えか)

 

 

射線上にいる俺はレフィーヤの魔法を真っ先に食らってしまう位置にいる。

とはいえ今の残エネルギーであれば、限界まで華を引き付けた後離脱することも――

 

 

――華の全てが、レフィーヤを向いた。

 

 

(まずいッ…!?)

 

 

傷ついた獲物より、自らを殺しうる存在を先に狙う。

至極当然な本能が警鐘を鳴らし、華をレフィーヤに向かせたのだろう。

 

触手をくゆらせた華たちは吼えると、未だ集中し詠唱を続けるレフィーヤに攻撃を加えようとする。

 

 

「…ッあ、グっ…!?」

 

 

踏み込むと、また折れた。

きっとエネルギーは足りるだろうが、あまりにも遠い…あそこまで到達するのであれば触手のほうが圧倒的に早い。

 

…身体を顧みなければの話だが。

 

 

「ッ…がッ…」

 

 

…もともと脆くなっていた部分、特にひびが入っていたような場所が一歩踏み出すごとに折れていく。

汗が吹き出し、寒気が走る。

 

…だが前には進めている、あとはこれを繰り返せばいいだけ。

 

 

「ああああああああぁーッ!!」

 

 

そして咆哮と共に俺は、レフィーヤの前に身体を滑り込ませる。同時に右手を掴んでいた左手を離し、大の字に屹立した。

 

――気づけば触手たちが目の前にまで肉薄していた。

 

勢いよく迫る幾本もの触手の先端は鋭く、力強くて速い。

貫くことに特化したその動きは、事実俺の身体に容易く風穴を開けれるだろう。

 

…だが――それでいい、俺が死ねばすくなくともレフィーヤは助かるのだから。

 

 

「…」

 

 

さっきみたいな突然のことじゃない、確実な死が目の前に迫っている。

今日何度死を覚悟したか考えると笑えてくるが、それもここまでだ。

 

…随分と長い間戦っていた気がする、

 

空に吹き飛ばされ、意識が混濁した。そこからエイナに治療され、復讐を果たした。しかし三本追加され、絶望的な状況に陥った。

体感で言えば二時間ぐらいずっと死線をくぐっているぐらいのつもりだが、実際は15分くらいしか経っていないのかもしれない。

 

とはいえ――やっと眠れる。

 

正直限界だ、肉体も精神も。

俺は完全なエネルギー切れを迎え、ほぼ活動を停止した脳で先ほど見た幻覚や、ベル君やヘスティア、妹のこととかをぼんやりと想う。

そして極度の疲労を感じながら、ゆっくりとその瞼を閉じたのだった。

 

 

 

そして触手は迫り、その停止した身体を貫こうと――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――リル・ラファーガ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――瞬間、剣戟が空間を薙いだ。

 

疾風が巻き起こり、あらゆるものを吹き飛ばす。

 

それは嵐のごとく破壊力で、突風のようにまっすぐに、一直線上のもの全てを破壊する。

 

 

そしてそれは――黄金の風。

 

 

「――アイズさん!」

 

「レフィーヤ、ごめん。待たせた」

 

 

暴風は、破壊の限りをつくすと何食わぬ顔で立ち止まる。

 

そこにいたのは――アイズ・ヴァレンシュタイン。ロキファミリアの一級冒険者。

リル・ラファーガを放ち、ひとまず襲い掛かろうとしていた触手を欠片も残さず吹き滅ぼした張本人。

 

 

「…時間を稼ぐ、レフィーヤはそのまま撃って」

 

「!…はいっ!」

 

 

アイズは振り向きざまちらりとレフィーヤの前に屹立した男を見る。

そして剣を構えると触手を破壊されたことへの怒りの声を上げる三本の華たちへとトンッ…とあまりにも軽く、疾く駆けていった。

 

 

「【終末の前触れよ、白き雪よ。黄昏を前に風(うず)を巻け。閉ざされる光、凍てつく大地。吹雪け、三度の厳冬――我が名はアールヴ】 」

 

 

詠唱は続く、その一語ごとに途方もない魔力を込めながら。

 

 

「ウィン・フィンブルヴェトル!」

 

 

そしてレフィーヤは杖を掲げ、魔力を開放する。

 

それは土砂崩れ、ダムの決壊。ため込まれた魔力は自由になった事を喜ぶかのように、産声代わりの閃光でこの空間を照らした。

 

 

――その時、茶色の塊が跳ねた。

 

 

ダダダダッ!と上下するそれは何かを抱えたまま高速移動し、息も荒い。

そしてそれは閃光の目の前に立ったままの男を見つけると、跳躍。

そのまま一気に距離を詰め足元に到着すると、抱きかかえ、そのままの勢いでその場から離脱した。

 

 

――初めてティオナは安心したように、笑みを浮かべていた。

 

 

『ギッ…!?』

 

 

――華たちは遠方の少女を仰ぎ見る。

 

そこには華たちの知らない「冬」が凝縮された魔力が彼女の身体を覆っていた。

 

本能的に恐怖する間もなく少女の杖から魔力が自分たちに放出される。

寒い、冷たい、痛いなど様々な感覚が華たちを襲い、その口から断末魔が零れた。

訳の解らない恐怖に包まれたまま華たちは息絶えると、全身凍り付き――砕け散る。

 

 

――そしてすっかりと氷漬けになった広場に、天空へと回避していたアイズが降り立ったところで、今回の事件は閉幕となったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

 



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 看病

かなり長い


・・・

 

 

 

発情期、というものをご存じだろうか。

 

それは例えば犬や猫、狼などに存在する…所謂生殖によって妊娠が可能、つまり子供が作れる時期のことを言い、あるいは繫殖期という言葉にも言い換えることができる。

故に落ち着きがなくなったり、盛ったり…まぁ見ていておかしいと思うかもしれないが生物の本能的にそれは当然のことであり、子孫を残さねばというのはごく自然というか、推奨されるべきであることでもある。

 

しかしその点、人間には発情期というものがない。

 

何故ないか…はこの際置いておいて(いやホント置いといてください説明し始めたら一話分使える)、年がら年中盛っているかというとそういうわけでもない。

 

とはいえそれが人間が理性を持つものだからと説明したいわけではなく、ここでは「特例」を説明したいのだ。

 

 

それは――その「特例」はある瞬間、人――いや「オス」には盛る時が必ず存在する。

…して、その特例とは――

 

 

――死にかけたとき、自らの子孫を残そうとオスは立ち上がるのだ。

 

 

 

・・・

 

 

 

目を開けると知らない緑色の壁紙の天井。

ホームで使っていた、町の道具屋で格安で買ったぼろい安ベッドとは違う心地よい感触。

 

(どこぞ?)

 

目覚めがいつもの通り良い俺は「ここがどこなのか?」という問いに少し逡巡すると、全くわからず息をつく。

そしてもう一度天井を仰ぎ見て、とりあえず身体を起こせば「解る」と――

 

 

「――あ?」

 

 

全く身体が動かないことに気が付き、声を上げた。

何かに固定でもされているのか体のどこも頑として動かない。

 

 

「ッーー!?」

 

 

同時に痛みが走る。言葉を出した瞬間あごと喉周りの筋肉や骨が激しく痛み、俺は悶絶する。

…俺は痛みが治まるのをまつと、嫌な汗を拭いとることもできずに荒い息をした。

 

(そうだ思いだしてきた、確か俺は――)

 

そして若干の呼吸に伴う痛みに頭の記憶領域が刺激され、何があったのかを思い出し始めた。

 

 

――だがその時、遠くで『ガチャリ』と扉が開く。

 

 

「…リョナくーん?起きてるかーい…?」

 

 

キー、パタン…というドアの音と共に誰かが入ってくる音と抑えたような声がした。

どこか聞き覚えのあるような声の主はパタパタという足音を立てながら恐らく俺の寝ているベッドに近づいてくる。

 

そして覗き込んだ。

 

 

「ありゃ、今日も起きないか。…全く、君がモンスター騒ぎで大怪我してからはや数日。君のいない日々は退屈で張り合いがないよ」

 

(あっ、ヘスティア様だ…数日?)

 

 

随分と久しぶりに見た主神のロリ顔に俺は驚く。

そしてヘスティアの言葉…「モンスター騒ぎ」という単語に、俺は華に襲われ大怪我を負ったということを思い出した。

 

しかしここはヘスティアファミリアのホームではない、とはいえヘスティア様もいる。

…ということは何らかの医療施設、またはギルドの一部屋だと推測された。

 

(つか目開いてたはずなんだが…)

 

目をかっぴらいて起きているがどこを見て「起きていない」と判断したのだろうか。

…まぁ、何にせよ声をかければ起きているとわかるだろうが。

 

それに「君のいない日々」と言ったが俺はヘスティアと過ごしたことは無い…そのセリフはどこかわざとらしかった。

 

 

「…まぁボクとしてはもう少しベル君と二人っきりの方が――」

 

「それが理由かアンタ」

 

「――ひゃッ!!?リョナ君ッ!!?」

 

 

思わず痛みも関係なしに声を出していた、痛い。

とはいえやましい事のある表情をして足早に帰ろうとしていたヘスティアは俺の言葉にビクンッと総毛立ち、立ち止まると恐る恐る振り返る。

 

 

「わ、わ~!リョ、リョナ君、やっと目が覚めたんだね~!僕は君が目覚めるのをずっと待って…」

 

「嘘つけ、このままずっと目覚めないならベル君と二人っきりじゃね?とか一瞬は考えたくせに」

 

「な、ななな何を失礼な!?僕は君の親だぞ!子供が目覚めなければなんて考える親がいるわけないだろう常識的に考えて!」

 

「神の名に誓って?」

 

「…神回避ィ!!」

 

 

そういって汗をダラダラと流したまま言い逃れするヘスティアにため息をついた俺は、喋ることによって発生する激痛に耐える。

そしてぼんやりと何を言わないといけないかを気が付いた。

 

 

「…ヘスティア様、何か迷惑かけたみたいですみません」

 

「ほんとだよ!帰ってくるなりなんで死にかけてるんだい君は!」

 

「さーせん」

 

 

俺の顔を覗き込みプンプンと怒るヘスティアに俺は視線だけで謝罪する。

軽くないかい?と呟いたヘスティアは、未だ怒った様子で方頬を膨らませたままふんぞり返った。

 

 

「…フン、だがまぁ生きて帰ってきたし、実質これはガネーシャたちへの貸しだ。慰謝料とかで君の法外な治療費はまかなえたから――許す!」

 

「あざー」

 

 

そのままプリプリと怒ったままだったヘスティアは俺の顔を暫く見ると、フッと表情を柔らかくする。

 

 

「まぁ訊きたいことは山ほどあるだろうがそれはボクじゃなくて当事者である彼女に訊いた方が早いかな…それに君が起きたのを知ったら喜ぶだろうしね!」

 

「…はぁ、俺としてはこの拘束具何とかしてほしいんすけど」

 

「まぁまぁそれも彼女がやってくれるだろう…じゃあ僕は呼んでくるから少し待っていてくれたまえ」

 

 

そう言ってヘスティアは俺の視界から消える。

彼女というのに心当たりがありすぎる俺はまたもため息をもらし、ため息による痛みに耐え、天井を見ながら待つ。

 

…意外に早く五分後。

ドアの向こうから走るようなカッカッカッという音と、女の声が聞こえた。

 

そして――

 

 

「リョナさんッ!」

 

 

――ドアがバタンと空くとそこにはエイナがいた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「馬鹿ですか!!?」

 

「おう」

 

 

第一声はそれだ。

「怒っている」ということぐらい解っている俺は甘んじてその言葉を受け止める。

 

しかしただその一言だけ言ったエイナはそのあと小さく「馬鹿…」と呟いた後、俯き涙を拭い黙ってしまった。

てっきり三時間くらいは怒鳴られ続けられると思っていた俺は少し驚きつつも、ベッドわきの椅子に短く腰かけたエイナを眺める。

 

メガネをかけなおしたエイナは俺を見返すと、笑う。

 

 

「そうだ、固定具外した方が楽ですよね」

 

 

エイナは立ち上がると俺にかけられていた掛け布団に手をかける。

そして傷への配慮か慎重にめくった。

 

(…思ったよりかは酷くないな)

 

もっとこう「潰れている」かと思ったが、俺の身体はもう半分以上8割方回復しているように見えた。

折れた骨も結構治っているようだし、臓器についた傷もだいぶ癒えたようだった。

服は脱がされており、全身には包帯が巻かれ…何故かその上からは拘束するための縄がかけられているようだった。

 

 

「…てか何で縄?息苦しいんだけど」

 

「リョナさん寝相悪すぎるんですよ!まだ治ってないのにいきなり立ち上がろうとした時はギルド中大騒ぎで…」

 

「あーていうかやっぱりギルドなのか」

 

「え…あぁ、はい。そうです」

 

 

頷いたエイナはベッドの下にあるであろう結び目を解きにかかる。

そして解きながらここ数日のことを説明してくれた。

 

…何でも、怪我をした俺はその場でたまたまアイズヴァレンシュタインの持っていたハイ・ポーションのお世話になったらしい。

そしてそのままアイズとティオナの手によってギルドの怪我人用の空き部屋に移送され、大量のポーションによる治療が始まった。

しかしポーションにも中毒症状というのもあるらしく、俺の回復によって消費される体力も鑑みて数日に湧けた治療をすることになった。

…その間ヘスティアやエイナ、そしてベル君が殆どつきっきりで水や粥と言った食べ物を摂取させてくれていたらしい…感謝だ。

 

ちなみに今回のことの元凶?であるガネーシャファミリア、というのが主神みずから謝罪に来て医療費全てを負担するという話になったらしい。

…先ほどヘスティアが貸しだとか言っていたのはそういうこと何のだろう。

 

俺は今は部屋の隅の椅子の上で本を読んでいるヘスティアをちらりと見る。

するとその視線に気が付いたヘスティアもこちらを見て「何だい?」と不思議そうに首を傾げてみせた。

 

 

「…はい、解けました」

 

「おぉ、すまんな」

 

 

ベッド脇で立ち上がったエイナの言葉と共に身体を軽く締めていた縄が緩くなる。

俺はさっそく身体を起こそうと――

 

 

「ッ!?」

 

「あっ!まだダメですよ完全には治ってないんですから!」

 

 

――力が入らず崩れ落ちた。

 

すかさずエイナが駆け寄ってきて身体を支えてくれる。

俺は支えを利用し何とか身体を起こすと、あまりの疲労にかいた汗を手の甲で拭いた。

 

 

「…ポーションで怪我を直すのにも体力使うんです、今のリョナさんはポーションによって数か月以上かかる傷を数日で直したんですよ。その分体力消費は激しいはずです」

 

「な、なるほど…」

 

 

同時にグッー…と腹が鳴った。疲れたら腹が減る、当たり前のことだ。

身体を支えれる程の近い距離で俺の腹の音を聞いたエイナは頷くと、笑みを見せる。

 

 

「おなか空いてるんですね、リョナさんの食べっぷりから考えると少ないかもしれませんがお粥の材料買っておいたんですよ。少し待っててもらえますか?」

 

 

そう言うとエイナは俺から身体を離す。

 

――空気が動き、良い匂いがした。

 

思えば鼻が異様に良くなっている、その鼻がエイナの匂いを捉える。

花の良い香りもそうだが、その中にエイナ本来の汗の匂いが混ざったものが鼻腔に刺さり、生理的に好ましい匂いだと思った。

そして特に気にもしていなかったエイナのうなじ周りの綺麗な素肌に目がいく。

 

妙に…色っぽいと思ってしまった。

 

 

「あれ、リョナさんその膨らみは何ですか?」

 

「ッ!!?」

 

 

――俺は慌てて突然に盛り上がった股間周りの膨らみにシーツをかけなおす。

 

こういうのは大人だし、普段は制御できるのだが何故か勝手に立ち上がった。

 

…流石に恥ずかしいし、自分の身体の異変に恐怖する。

 

 

「…リョナさん?大丈夫なんですかそれ…!?」

 

 

…エイナは本当に心配した顔で膨らみ見てくる…ベッドに突如として現れた突起物を。

恥ずかしみが深い俺は、なんでコイツこんなマジマジ見てくるんだ…!?と困惑する。

 

 

「んー?…ブッフォッ!?」

 

 

――だが、遠くにいたヘスティアがふとこちらに視線を向け、吹きだすと慌てて立ち上がり自分よりの長身のエイナの肩を掴んだ。掴んでくれた。

そしてそのまま膝をつかせ耳に口を寄せると、ごにょごにょと何かを呟きはじめた。

 

…合間合間にヘスティアの呟きが耳に入る。

 

 

「…だから…つまりあれは…リョナ君の…!」

 

「…ッへ!?」

 

 

渋い顔をしたヘスティアの言葉に、最初は普通だったエイナの顔がゆでだこよりも赤くなる。そしてもう一度リョナの布団の膨らみを見ると、恥辱の極みといった表情を浮かべ――

 

――捨て台詞。

 

 

「リョナさんのバカァァァァァァッッ!!」

 

 

顔を真っ赤にしたエイナは叫びながら、部屋のドアをバタンと開けると逃げ出す。

 

…残されたのは生娘の反応に静かな視線を向けるヘスティアとリョナ。

 

振り返ったヘスティアは、まるでゴミでも見るかのような視線を俺に向ける。

 

 

「献身的に介護してくれる女の子に欲情とか…流石にドン引きだぜ、リョナ君」

 

「待てい、不可抗力だ」

 

「というか君のは大きすぎるんだよ!例え生娘じゃなくても逃げ出すレベルだぜそれ!?」

 

 

そう言って顔を赤らめたヘスティアは、ズビシと俺の股間を指さした。

 

確かに俺のは、通常の人のより遥かにでかいが…とはいえ確かにかけられたシーツの上から解るではなく、むしろ突き上げているレベルだ。

例えるならコーラのペットボトルより少し大きいくらいだろうか、太さは逆に少し細いくらいだが。

 

…だからこそ何か別の物にも見えなくない、それこそ立ち上がっているのではなく何か物を入れているようにも見えた。

 

 

「はぁー…まぁ何にせよエイナ嬢も落ち着いたら粥を持って来てくれるだろう。その時までに何とかそれを鎮めて、謝るんだ。解ったね?」

 

「イエス、マム!」

 

「よろしい!では僕はそろそろバイトの時間だ!数日はここでしっかりと休んで、必ず元気になってからホームに戻ってくるんだ!いいね?」

 

「おぉ、了解しました」

 

 

なんやかんややっぱり良い人だ、その向けられた優しさに俺は感心する。

事故で怪我をしたのはそれなりに噂になっているだろうし、それはこっちに来てから関わってきた人たちにそれなりに不安を与えてしまっているだろう。

 

ホームで不安そうな顔するベル君の表情が目に浮かんだ俺は、早く直さねばとため息を吐く。

 

そして改めて大きく頷いた俺は、「じゃーねー」と言って扉から出ていくヘスティアに手を振ったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

(どうなってんだ…!?)

 

 

今まで通りじゃない、怪我をした身体はどこか変になってしまっているのだろうか。

俺はいっこうに収まらない自分の「それ」を、焦りと共に見つめる。

 

…いつも通りであれば自然と収まるか、割と強制的に落ち着かせるぐらいのこと容易いのだが。

 

 

「…はぁ…」

 

 

俺は大きく、ため息をつく。

そして落ち着けと心を鎮めていく。

 

(そうだよ、何で全身くったくたなのに、ここだけ元気なんだよ…!)

 

遺された体力など微塵もないはずなのにここだけやる気満々というのもおかしな話だ。

…いや、逆に疲れているからこそ立ち上がるという事例もある。特に俺の場合は生死のはざまをさまよったからこそなおさらだ。

 

 

「…」

 

 

それに元々限界は近かったのかもしれない。

性欲が薄いというわけではなかったが大人としての分別として、こっちの世界に来てから(狭いホームの中でそんなこと出来ない)自分で処理するという事はしていなかったし、相手もいなければしている暇も無かった。

 

つまり溜まっている、今まで抑えつけていたものが身体の弱った隙に付け込んで、放出(いや放出はしていないが)されているというわけだ。

 

 

「…うーむ?」

 

 

打開策、これは二つある。

一つは自分で処理してしまうこと、しかしエイナも来るであろうこの部屋で致すわけにはいかないし、何より自分でできるだけの体力すら俺には残っていない。現状、腕すら上げるのが苦なのだから。

 

二つ目、誰かにしてもらう。

これは動かなくて済むし、最悪痕跡なども残さないで済むかもしれない方法。

しかし怪我をした状態でそんなことをすれば悪化は必至だし、一番の問題として相手がいないのだから立ち行かない。電話で一本…などと都合よくないのだこの世界は。

 

 

「…うん、無理だわ」

 

 

現状思いつくのはその二つの方法しか思いつかない俺は苦笑しつつもあきらめる。

そして自らのものを眺め「自然に収まんねぇかな…」という一縷の希望に望みをかけ、全くもって無為な時間を過ごしたのだった。

 

 

――しばらく後、不意にガチャリと扉が開く。

 

 

そしてそこから顔を覗かせたエイナはいつも通りの平常な顔で、声だけ恐る恐る喋りかけてきた。

 

 

「…リョナさん…?」

 

「お、おう」

 

 

エイナが顔だけ部屋に入れ、俺の様子を覗き込んでくる。

そして先ほどと全く変わっていない体勢、同時に変わらない膨らみを確認したエイナは再び顔を赤くすると、視線を逸らした。

 

(まぁ…なぁ…)

 

男性経験のないエイナにとってもはやこれは恐怖の対象だろう、流石にあの歳になって全く見たことがないということはないだろうが…ここまでの大きさのものは絶対にないだろう。

…また逃げ出してしまうかもしれない。

 

 

「…んふっ…」

 

 

しかし意外なことにエイナは軽く(変な)咳ばらいをした後、部屋の中に入ってくる。

見ればその手には盆があり、盆の上には湯気をあげる鉢が乗っていた。

 

…エイナはできるだけこちらを見ないようにカニみたく歩いてくると、盆ごとベッドの脇にあった小机に置き、背もたれのない小さな椅子をベッドのそばに移動させた。

そして腰かけると鉢と一緒に盆の上に置いてあったであろうスプーンを取り出し、鉢の中身をかき回し始めた。

 

 

「…」

 

 

恐らくとても暑い粥を冷ますためにスプーンでかき回しているエイナの顔はいたって真剣で、それは集中しているように見えた。…だがその頬はわずかに上気しており、スプーンで回す手はどこか別のことを考えないためのようにも見えた。

 

そして――いつもの20割増し美人に見える。

 

(…!)

 

俺は沸き上がってくる劣情を抑えるため、一度エイナから視線を外すと窓の外の景色を眺めた。

 

…目覚めた、と言ってももう夕方近いのかもしれない。

カーテンの開かれた窓から見えるのは恐らくギルド正面玄関の、建物を挟んで反対側の道。

人通りの少ないその道は幾人かの通行人たちに赤い影を落としながら、どこかゆっくりとした時間が流れているように見えた。

非常に穏やかな光景、並大抵ならばこんな景色を見れば静まりそうなものだが――ちらりと自分の物を見た俺は、未だ全く治まらないそれに軽くため息をついた。

 

 

「…リョナさん?」

 

「え、あぁ、おう?」

 

 

エイナに呼ばれる。声に反応した俺は慌てつつ(今更かもしれないが)平然を装い振り返る。

そこにはスプーンに粥をすくい、首を傾げたようにして俺を見ていた。

 

(リンゴとチーズのリゾット?…レベル高いなぁ)

 

エイナのその仕草が色っぽいとかは今は置いておき、そのスプーンに盛られた粥を見る。

どうやら摩り下ろしたリンゴとチーズを白米と共に煮込んだリゾットらしい、ほのかな甘い匂いとチーズのコクのある匂いがスプーンと鉢から漂ってきた。

…元からお腹は空いていた、とはいえ一時的に勝っていた性欲を凌駕させるほど食欲をかきたてるとは、なかなか美味しそうな皿と言える。

 

 

「では…はい」

 

「あ…おう」

 

 

そしてエイナはスプーンを手渡してくる。

まぁさもありなん、俺はそのスプーンを受け取るべく右腕を――怖いくらいにまったく上がらない。

 

 

「…」

 

「え…む…」

 

 

そして非常に情けなくなった俺は、非常に惨めな視線をエイナに送る。

捨てられた子犬のような視線を送られたエイナは最初困惑の声を上げたが、同時に今のリョナは腕も上げられないほど衰弱していることを思い出した。

そして「はぁ…」とため息をつき口を一文字に結ぶと――軽く頬を染めると俺の口元にスプーンを向けた。

 

 

「…あーん…」

 

「すまんな…」

 

 

俺は口を開けるとエイナのスプーンを口の中に受け入れ、そのまま食べさせてもらう。

同時に気が付くのだがこれ彼氏彼女の関係でもない限りとてつもなくお互い恥ずかしい、エイナは瞬間的に先ほど以上に顔を赤くすると思わず顔を背けて見せた。

 

――だが俺はそれどころではない、その粥改めリゾットの美味しさに目を見開く。

そして疲れを感じつつも咀嚼し、味わい、飲み込むと――顔を背けていたエイナに勢いよく食ってかかる。

 

 

「これエイナが作ったんだよな!?」

 

「えっ…!?…あぁ、はい。そうですけど…それが何か?」

 

 

リョナの食いつきぶりにエイナは驚き頷く。

…ただただ純粋にその味に感心していた俺は、笑顔を見せた。

 

 

「いやこれ凄い出来がいいじゃん、めちゃ美味いわ!」

 

「!…あ、ありがとうございます…」

 

 

ぎこちなかったエイナの表情は完全にほぐれ、笑顔で軽く頭を下げた。

そしてどこか嬉しそうにスプーンで再度鉢からリゾットをすくうと、俺の口へ向ける。

 

 

「はいあーん…」

 

 

かなりの美味に一時的にとはいえ食欲が性欲を凌駕した俺は、何の躊躇いもなくまだ湯気をたてるリゾットの乗ったスプーンにかぶりついた。

 

 

「ぁアッツゥッ!!?」

 

「あぁ!?ごめんなさい!!?」

 

 

しかし鉢からすくわれたばかりのリゾットは相当に熱い。

口の中で焼け付きそうなそれをえづきながら飲み込んだ俺は、食道をゆっくりと下っていく熱に身もだえた。…とはいえ喉元過ぎれば熱さを忘れる、とりあえず口内に火傷をしていないことを確認した俺は安どのため息を漏らす。

 

 

「うーん…」

 

 

熱いままのほうが味は良い、しかしエイナに任せる以上適度に冷ますというのも難しい。

まぁこの際完全に冷ましても摂取できる栄養は変わらないのだからそれでも問題は無いのだが…感情的には味の良いこの一品、このまま食したかった。

 

――いや打開策自体はあるにはあるのだが俺からそれを提案するというのは非常に難易度が――

 

 

「あのっ…い、息をっ…!?」

 

「!?…おう」

 

 

唯一の解決策、所謂「息でふーふー」。もっとも効果的かつ、人体で一番温度の変化が判別しやすいといわれる唇が近づくことで他社に食べさせるにしても適温にすることが可能…!

 

とはいえその行為の恥ずかしさは状況にもよるが時に「あーん」を超えるッ!

 

 

「…でもいいのか?俺は別に完全に冷めてからでも…」

 

「い、いえ。リョナさんもお腹空いてるでしょうし…」

 

「う…まぁ確かにそうだが…」

 

 

そしてエイナは耳まで赤くしながらスプーンでリゾットをすくい、横髪を耳にかけ、ふーふーと息を吹きかける。

 

(あ…やばいな)

 

献身的、かつ若干の恥じらいが垣間見えるその姿は非常に「ぐっ」とくる。

何故ここまで献身的なのかとか考えるべきことより先に生唾を飲み込んだ俺は、エイナから視線を逸らさなければならないという思いとは裏腹に、その一連の動作から目を離せなくなってしまっていた。

 

 

「…はいリョナさん、あーん」

 

「あ、おう…」

 

 

そして数にして三回目のスプーン。エイナの吐息によって適度に冷まされたそれは微かに湯気を立て、食べやすそうだった。

 

俺がまるでひな鳥のように口を開けると、そこにエイナはスプーンを入れ食べさせてくれる。

…非常に食欲をそそる味というのもそうだが、空腹は最高のスパイスであり、疲労は至高の調味料でもある。段々と俺の思考はこれを食べられるなら何でもいいという風に変わっていった。

 

 

「熱さ大丈夫ですか?」

 

「おう、丁度良い」

 

 

返すとエイナは少し嬉しそうに微笑み、またスプーンで粥をすくうと息をふーふーと吹きかけ始める。

 

――そこからは言葉のない繰り返しだった。

 

エイナがリゾットをすくい、冷まし、俺に食べさせる。

その度に俺の腹は膨れ、空腹は薄れていった。…俺はその間、エイナから目を話す事ができなかった。

 

 

そして――

 

 

「ふぅ…」

 

 

――丁度三十分後、鉢は空になった。

 

食べ終わった俺は久しぶりに腹に何か入っている感覚に息を吐く。

正直あの鉢一杯では全く満足できないのではと危惧していたが、弱っている身体にはその程度で充分らしく満腹を覚えた。そして軽く眠気を感じながら、エイナに視線を向ける。

 

 

「…足りましたか?」

 

「おう、流石にそんなに食えんからな」

 

 

エイナの質問に俺は軽く頷く。

 

頷いたのを確認したエイナは持っていたスプーンを鉢の中に入れると、座ったまま俺の方に向いた。…どこかその表情には影が差しているように見えた。

そして俺が味について褒めようとする前に――おもむろに頭を下げた。

 

 

「あの時は(・)ありがとうございました…!」

 

「…あの時…?…あぁあの時か」

 

 

突然頭を下げたエイナに、俺は驚きつつもエイナの言う「あの時」というのを考える。

そして「あの時」というのがどの時なのか解ると、なんて事は無いという視線を彼女に向けた。

 

 

「いや気にすんな…というかむしろ俺のことが心配で走ってきてくれたんだろ?その気持ちは嬉しいし、というかあの時は実際ぶっ倒れそうだったから…まぁその結果自分の身を危険にさらしちゃわけないが」

 

 

あの時、というのはつまり俺が「一本目の「華」を倒した後」のことだ。

 

敵がいなくなって痛みに叫んだ俺の元に心配したエイナが走ってきた。

しかしそこで丁度エイナの足元から華が生えそうになり、俺が突き飛ばさなければあえなくエイナは天空50mへ旅立ってしまうことになっただろう。

 

…まぁ言ってしまえば命の恩人なわけだが、その前に俺はエイナに命を救われている。

というか何なら俺が抵抗しなければ、エイナが命を危険に晒す必要は無かったまであるのだが…。

 

 

「というかあの時力の加減が出来なかったんだが…確か、肩か?跡になってないといいんだが…?」

 

「…少し」

 

「そうか…すまん」

 

 

今度は俺が頭を下げる、正直俺は身体にどんな跡が残ろうが問題は無いがエイナはそうと限らないだろう…ただでさえ女性なのだから。

 

 

「でもこの数日でどんどん小さくなっているので…気にするほどじゃないですよ」

 

「いやそういう問題じゃ…まぁ、解ったが」

 

 

煮え切らない。俺としては殴ったこと、エイナにしては「走って行ってしまった」こと。

それらがどこか心のどこかに引っ掛かり、(二人の性格的には後に引きずるようなものではないが)今この時だけの会話に影を落としていた。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

俺はすっかり黙り込んでしまったエイナを「どうしたものか」と半ば焦りながら見る。

 

(というか帰ってくれ(・)…!)

 

性欲が強くなっている以上、エイナがこの部屋にいるのはお互いに危険だ。

 

用事というのが「食事」という事だけなのであれば俺は後は眠るだけだし(というか眠いし)、股間に悪いので帰ってもらったほうが好ましい。

とはいえ俺からはとてもそんな事は言えないし、用事がないのであればすぐ様に帰って次あう時にはケロッとお互いしていたい。

 

(いや待てよ…?)

 

しかし…ここまで帰らないとなると他に何か用事があるのかもしれない。

それが何なのかは解らないが、場の空気が悪いから切り出し辛いのかもしれなかった。

 

俺はエイナの悩んでいるような顔を見ると…本当にそんな気がしてくる。

 

そして俺は、なら空気を変えないと…と早くも寝気が襲い始めたぼんやりとした頭で、何か話題になりそうな事がないかと思考を巡らし始め――記憶を漁り終えた俺はエイナに関して「そういえば」と思いだし呟いた。

 

後から考えれば…悪い思考が先行した結果の話題作りなどするべきではなかったのかもしれなかった。

 

 

「あの時はすまんというかありがとうというか…まぁなんだ、つってもお前も大人だし救命行為だしなー…」

 

「え…何の話ですか?」

 

 

話の趣旨が見せない俺の言葉に困惑気味のエイナは、向けられる嘲笑に眉をひそめて更に困惑する。

そして瞬時に嘲笑をやめた俺は道化のように表情を消しまるで祈るかのように目を閉じると、「あの時」の感触を思い出しながら滔々と語りはじめた。

 

 

「いやー美味かったなー…エイナの口移しポーション(・)」

 

 

――それはつまりエイナが俺にしたキスの話題。

 

一瞬、何の話か理解できなかったエイナだったがすぐに自分のしたことを思い出して『ボンッ』と顔を赤くする。そして手をバタバタと振りながら何か釈明しようとするが慌てた様子のエイナは口が回ることは無かった。

…その反応にふっと笑った俺は、続ける。

 

 

「最初はほぼ死にかけてたんだが、唇の感触で何とか意識が取り戻せたんだよなぁ。そっからはポーション流し込んでくれてるのに気が付いて、何とか持ちこたえたっていうか…あぁ、そのあと舌入れたんだっけか。」

 

「ッーー!?」

 

「いやー…何であれってあんな気持ちいいのか…っと、違うぞ?俺ハ朦朧トシテタンダ」

 

 

というかポーションの効果って凄いよな、と続けた俺はしみじみと頷くと、朧気ではあるが舌を入れた時の感触を思い出し思わずにやけた。

そしてエイナが顔から蒸気をあげながら顔を伏せているのを見て――あぁ、初めてだったやろなぁと若干感慨深くなる。

 

…ちなみに俺は彼女がいたことはあるので既に色々経験済みだが、どの女の子とも長続きしなかった。理由は様々だ、殺したり殺されたり向こうから別れてくれと言われたり。

 

俺は一度言葉を切ると、顔を伏せたエイナに笑いかける。

 

 

「――なんなら責任とるぞ?」

 

「冗談ですよね!!?」

 

「おう、冗談だ」

 

 

バッッと顔を上げたエイナに俺はくくくと笑う。

するとエイナは、うー…と唸りながら涙目で睨みつけてくる…がもはや言い返すこともできず、黙る。

 

(ふむ…)

 

唐突ではない、やはりエイナは美人だ。

例えそれが涙目で顔を真っ赤にしていたとしても造詣の整った顔は美しく、綺麗なその肌は男として汚したいという欲求がむくむくと湧いてくる。

 

(…)

 

というか、場を制圧しすぎた。これではエイナも喋り辛いだろう。

ならば場の制圧権をエイナに渡す…つまりここは「下手を打つべき」だ。

 

――とはいえそこに全くの邪念が無いかと言われればそうではないのだが。

 

 

…性欲のままに俺は下手を打って見せる。

 

 

「でもキスできたくらいだから下の処理も出来んじゃね?唇にするか違うところにするかだし」

 

 

勿論、最低だ。

セクハラもいいところだし、現代でそんな事を言えば捕まってもおかしくないレベルだ。

しかし…まぁ友人?でもあるし、俺の性欲の高ぶりからしてそういった発言になってしまうのは仕方ない…と自分を正当化するぐらいには今の俺は下半身でものを考えていた。

 

そこにはちゃんとした理由もあったが、少しの希望も確かにあったわけだから許されない。

 

 

(で、どうするかだよなぁ)

 

 

恐らく、エイナの対応はマジ切れするか、少し怒って拒絶するかのどちらかだ。

もし前者であれば立ち去るだろうから後で謝ればいいし、後者であれば当初の目的である場の空気を掴ませるということに成功するだろう。

 

俺は突然の下ネタに驚いているエイナに冗談めいた笑みを見せつつ、内部ではその表情を冷静に観察していた。どうやらその様子から察するに言った意味は解ったようだ。

 

(怒れ)

 

とはいえ俺は何の期待もせず、ただエイナの反応を待つ。そして若干の眠気とを感じながら、本当にこれで良かったのかをぼんやりと考える。しかし思考は上手く走らず、欲だけが根をはるかのように先行していた。

…そして同時に、現在進行形で沸き上がっている自分の下心に半ば諦めと共に呆れを覚えた。

 

 

「――い」

 

 

エイナが、声を漏らす。

それはきっと拒絶の言葉だろう、嫌だ、とかいやぁぁぁだとかの当然の反応。

赤くなっていたのはどこへやら、どこか怒っているような冷たい表情に見えるエイナは呟くように少し溜めるようにして言葉を吐く。

 

そして俺はエイナから来るであろう非難の言葉を待ち――

 

 

 

「――いいですよ」

 

 

 

…。

 

 

「…は?」

 

 

声が出る。意識に空白が生まれ、慌ててエイナを見た俺は――思わずハッ…と下がりかけていた瞼を見開いた。

 

――夕暮れに染まる彼女の瞳はどこか濡れている。

 

その肩は震えており、綺麗な栗色の髪はさらさらと煌きながら揺れていた。

妙に前傾、太ももの合間に挟まれた両手は無意識なのか否か、加えてタキシードのようなギルドの少しきつい制服ではその胸が強調されてしまっていた。

そしてその頬は薄紅に紅潮しており、かつて触れたことのあった唇は先ほどの言葉を吐いたままの形で止まっていた。

 

…どこか切なげで、艶がある。若い女の色気が匂いのように俺の鼻腔を刺した。

そしてとめどなく溢れ出てくる唾を飲み込むと、「冗談だろ?」と笑おうとする。

 

 

「…!」

 

 

エイナが立ち上がった。その目にははっきりとした意志が垣間見え、据わっていた。そしてきめ細やかな肌をした右手をベッドわきに置くと、上体をまるで寄り添うかのように俺の身に近づけた。

 

ぐっ…とエイナの顔が近くなる。

 

ゆっくりと呼吸をしているためかその唇からは甘い吐息が漏れ、水気を孕んだそれは熱く俺の頬にかかった。さらさらとした髪がおでこに当たり、くすぐったさが伝わる。

 

 

――止めるべきだ。

 

 

ここから先は冗談では済まない。それが例え一時の迷いであっても後悔しても遅い。

正しく今のエイナがそれだ、少し親しくなった男に命の危険を救われ…吊り橋効果、というやつにあてられている。

 

…いや、勾引かわした。

 

冗談で言ったつもりだった、それを受け取る側が曲解した。

…許されるわけがない、言った当人がその気が無くとも受け取る側には冗談か否かは解らないし、「伝われ」というのはただの怠慢であり許されない傲慢なのだから。

 

(…)

 

故に今必要なのはたった一言、謝罪すれば誤解は解けるだろう。

 

――解けてしまう。

 

 

(…最低だなー)

 

 

据え膳食わぬは男の恥、上は洪水下は大火事。

性欲にまみれた俺の思考は自らの思考を正当化し始め、ありとあらゆる常識をなきものにし始める。

最低だが…男とは雄とは時にこういうものだ。

 

それにエイナの匂いはあまりにも俺の欲を刺激する。

それは食欲によく似ていた…食べてしまいたいという性欲、喉奥がうずくような「貪りたい」という欲求。

 

 

「っはぁ…」

 

 

吐息と共に左手が俺の右頬に触れた。…柔らかく、温かくて、気持ちいい。

顔の位置を調整される、ゆっくりと首が倒され俺の口が彼女の唇に向いた。

 

――ゆっくりと左手が身体を撫でていく、それに合わせエイナの顔も近づいてくる。

 

指がそれぞれ動き包帯が巻かれただけの胸の上をさすっていく。そしていつの間にかエイナは顔を傾け、頬を染め、目は閉じていた。

そして――「キス」するために唇をわずかに突き出していた。

 

 

夕暮れに染まるギルドの一室、白磁のベッドに座り込んだ俺にエイナが身体を寄せて息を漏らす。

その手はまるで快楽を求めるかのように下腹部を目指し、唇は触れ合いを求めるかのようにお互い近寄っていく。

 

 

 

もはや思考停止した俺はただ求めるままに、エイナの唇を――

 

 

 

「エイナーまだ帰んないのー?」

 

 

 

――『ガチャリ』と扉が開いた。

 

 

 

「うおうっ!?」

 

「ッ…ハッ!!?」

 

 

思わず俺は声を出す、するとその声に驚いたのかエイナはビクリと震え身体を離した。

そして振り返ると――そこで初めて扉が開いていることに気が付いたのかベッドから慌てて更に数歩離れた。

 

 

「エイナー?」

 

 

扉が完全に開かれ、そこにいたのはエイナの同僚のミィシャ。

ピンク色の髪と瞳をもった彼女はいつも着ているギルドの制服ではなく、私服を着ておりその顔には疲れがにじみ出ていた。

そしてあくびをしながら部屋の中に入ってくると、目じりに涙を溜めながらエイナに喋りかける。

 

 

「あぁいたいたエイナ、今日帰りご飯食べに行こうって約束忘れたのー?。…ふぁ…外回りの仕事から帰ってきたらエイナいないし運び込まれた怪我人冒険者さんのところにいるって言うからきたけどさー…別にそんなすぐに起きるわけ――起きてるーー!!?」

 

 

ミィシャはまるでコントのようにオーバーリアクションで驚き、目を丸くすると身体を起こしている俺に呆れの混じった視線を送った。

 

 

「ええー…あの傷を数日って……あ、だからエイナ看病しに来てたってことか」

 

 

同時に自分で結論を出し、それに納得する。

 

(元気な奴だな)

 

隙あらば笑みを絶やさず、見ているこっちも楽しくなってくる。

それはどこかあのアマゾン娘の雰囲気に似ているものがあった。

 

(というかエイナは…)

 

エイナを見る。

 

(…ゆでだこ?いやこれはパプリカとかトマトに近いな)

 

今更自分のしようとしていたことを恥じらっているらしい、耳の先まで真っ赤になった彼女は半ば狼狽しながら口元を手で覆い、先ほどまでの行いを思い出しながらこちらをチラチラと恥辱にまみれた視線をこちらに向けていた。

 

 

「ん…?」

 

 

ミィシャがこちらに視線を向ける。

その視線の先には顔を赤らめたエイナと俺。

 

 

「…もしかしてエイナ何かあった――」

 

「――何もない!」

 

 

何か様子がおかしいと感じ取ったミィシャにエイナは慌てて詰め寄る。

そして真っ赤になった顔のままミィシャの手をとると部屋の外に連れ出すため引っ張りはじめた。

 

 

「えっちょっとエイナ…!?」

 

「いいから…!…あっそれとリョナさん」

 

 

おもむろにエイナは振り返ると夕焼けに染まった部屋に取り残された俺を見る。

 

 

「どうせこれから数日動けないんです、なので前言ったダンジョンの知識を覚えてもらいます!」

 

「あぁ…そういやそんなのあったな」

 

 

祭りの前に彼女と約束したことだ、適当にごまかそうとしていた俺は逃れられないことに気が付くとため息をついた。

 

 

「それと――」

 

「?」

 

 

扉に手をかけていたエイナは去り際、もう一度振り返る。

そしてだいぶ赤みの引いた顔で俺にも聞こえるように声を張り上げていった。

 

 

「――リョナさんが目覚めたことはそれなりに噂になっていますので、明日からお見舞い(・)に来る人がいると思いますので!それでは!」

 

 

バタンと扉が閉じる。

誰もいなくなった部屋で、誰かが来る可能性を待つことになった俺は…恥ずかしながら口惜しさを感じていた。

 

(…はぁ)

 

おあずけを食らわせられたような虚無感を覚えつつも俺は、強さを増した眠気にあくびする。

そして――

 

 

「ふぁ…」

 

 

――転がるようにして寝転がると、その意識を完全に落としたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

――目が覚めると、そこには象の顔があった。

 

 

「俺がガネーシャだッッ!!」

 

「うおっ!!?」

 

 

象の顔が吼えたように見えた俺は本気で驚き、瞳孔を見開く。

 

するとその声に合わせて象の顔が離れていき、それが男の顔であるという事が解った。

 

 

「…」

 

「俺がガネーシャだ!!」

 

「いや解ったからうるせぇよ…」

 

 

ガネーシャと名乗る男はベッド脇に立つとズビシッと自分を指さしながら大声で名乗りを上げる。…とても大きい声は耳に響き、寝起きの俺には辛いものがあった。

 

(…というか、ガネーシャ…?)

 

確か今回俺が怪我をした原因についてヘスティアはガネーシャファミリアがどうとか言っていたはずだ。そしてガネーシャと名乗るからには――?

 

(もしかしなくても神か?)

 

確かにどこかヘスティアのような神気のようなものを感じなくもない。

 

 

…とはいえ起き上がらなくては何も始まらないだろうか。

俺はいつのまにかほんの僅かに回復した体力でベッドに右腕をつくと、ゆっくりと上半身を起こす。

そしてベッドの上に座ると、下半身だけにシーツをかけ、上半身は壁に任せた。

 

 

「…うおおお!!?」

 

 

今度も本気で驚く。

 

――部屋の中にガネーシャのような象のお面をつけた男たちがずらっーと並んでいた。

 

同じ格好をした男達が目覚めたら部屋にたくさんいた…軽くホラーだということは確かだ。

とはいえ確認というのは重要で、パニック状態となった俺にはテンプレートな言葉しか言えなかった。

 

 

「お前ら…ガネーシャファミリアでいいか?」

 

「いかにも—―そして、すまなかった!」

 

「…ガネーシャ様!?」

 

 

突然頭を下げるガネーシャに俺が驚き、その行動に並んでいた恐らくガネーシャファミリアの団員達も困惑しているようだった。

しかしこの団員達なかなか出来るようで、自らの主神だけに頭を下げさせているわけにはいかないと全員が頭を下げた。

 

…ガネーシャが頭を上げると、団員達もそれに倣う。

そしてあっけにとられている俺に言葉をかけた。

 

 

「此度のその怪我、もはや死に至るそれだったと聞いている!そしてそれが俺のファミリアの不手際で逃がしてしまったモンスターによるものだとも!」

 

「あぁ…そうらしいな」

 

「子供のやってしまったことは全て俺の責任!さぁ、罵るなら俺を罵れぇぇぇ!!」

 

「いや別にいいよ…」

 

 

正直うるさい、それに罵れと言われて罵れる奴は中々いない。

俺はその声量にわずかに眉をひそめると首を振った、そして「あ」と気になっていたことがあったのを思い出すとガネーシャに尋ねる。

 

 

「そいや他に怪我したやつとかいなかっただろうな、シルバーバック?っていうゴリラ一匹逃がしたんだが」

 

「否!君以外の怪我人はいなかった!…しかし自分が怪我しておきながらも群衆を気遣うその器の大きさッ…俺は今とても感動しているッ!!」

 

 

そしてガネーシャは(何故か面から涙を流しながら)ぐっと俺に身を寄せ右手を持つと、勝手に握手してくる。

 

 

「君はヘスティアファミリアの…名前は?」

 

「…リョナだが?」

 

「リョナ!良い名だ!これから困ったときはうちに来いッ!俺たちに出来る事であれば何でも手伝おう!!」

 

「が、ガネーシャ様…!…そういった事は軽々しく…」

 

 

流石に後ろの男たちの中から一人歩み出ると、興奮によってか半ば暴走状態にあるガネーシャを止めようとする。

…が、しかしガネーシャがそんなことで止まるはずもなく――何故か、指さした。

 

 

「待てお前らこれを見ろッ!!」

 

 

ガネーシャが指さしたのは俺の股間。

どうやら一晩越してもこちらも暴走状態らしい、反り立ったそれは巨大な膨らみをつくっていた。

 

…男たちの視線が集中する、あまりの大きさに(畏怖的な意味で)唾を飲んだものもいた。

 

 

「これこそ真の『益荒男』よッッ!!!!」

 

「「「おぉ…ッ!!!」」」

 

 

そしてガネーシャとともに男たちの尊敬の眼差しが向けられることになり――流石に俺は昨日のエイナのごとく顔を赤くしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「地獄かよ…」

 

「ははは…ガネーシャ様って熱いお方だから…」

 

 

ベッド脇に立ったエイナが笑う。

 

…ガネーシャファミリア一行をギルドからたたき出したエイナが来る少し前、俺はガネーシャファミリアに朝ご飯をご馳走になっていた。

内容は新鮮な果実を剥いたもので、あっさりとしていて非常に食べやすそうだったのだがその食べさせ方が――

 

 

「だけど神自らあーんって…くく」

 

「言っとくが笑えないぞアレ…」

 

 

――ガネーシャファミリア主神ガネーシャ自らの手ずからによる「あーん」。

 

男同士であーんなどというのは正直気持ち悪いし、どこか興奮した様子のガネーシャは抵抗してもやめてくれなかった。

…結局エイナがやってくるまでそれは続き、「怪我人にやめてください!」という一喝で終了した。

 

だいぶツボっていた様子のエイナだったが一度笑い終え、今度は俺に微笑みかける。

 

 

「でもだいぶ気に入られていたみたいでしたけど、なにか言ったんですか?」

 

「いやー…別に…?」

 

 

そして朝から散々だ、とため息をつくとエイナを見上げる。

…なんて事は無い、いつも通りの彼女だ。まるで昨晩のことなど無かったかのように自然な笑みを浮かべていた。

 

 

「ところであそこのとこが治療費もってくれるって聞いたんだが?」

 

「あぁ、はいそうですね。この部屋の借用代とか治療に使ったハイポーションなんかも全部払って頂きました…まぁヘスティア様はそれ以外にも何かせしめている様子でしたが…」

 

 

処女神から貧乏神になりそうな自らの主神の(ケチな)所業に俺は呆れつつも、まぁそれでかけさせてしまった心配が解消されるならとも考える。

 

 

「あ、そうだ。これを」

 

 

エイナはぽんと手を打つと部屋にあった机の引き出しを開け、その中から青い液体の入った瓶を取り出した。

 

 

「はいこれが今日の分のポーションです。一気に飲むと今のリョナさんの身体には負担が大きいですから、少しずつ飲むようしますね」

 

 

そう言うとエイナは当然のように俺にポーションを飲ませようとする。

しかしそれは上げられた右手によって阻まれた。

 

 

「いやいい、自分で飲むから」

 

「!…はい、どうぞ」

 

 

俺の身体が動くとは思っていなかったのだろうエイナはもう身体を動かせるのかと驚きつつも、俺にポーションの入った瓶を渡した。

…とはいえ少しポーションを渡すとき残念そうな顔をエイナがしたのは気のせいだろう。

 

 

「ぷ…はぁ、やっぱ甘いな、これ」

 

 

エイナの言う通りゆっくりと喉にポーションを流し込んだ俺は息をつく。

そしてそれを数度繰り返しポーションを空にした。

 

 

「?…何見てんだよ」

 

「いえ別に?…はい」

 

「ん」

 

 

俺がポーションを飲むのに悪戦苦闘しているさまをエイナがどこかニコニコとした様子で見ていた。

そして手を差し出したエイナの手に空になった瓶を渡す。

 

 

「♪」

 

 

どこか上機嫌のエイナは瓶を腰にひっかけると、俺の顔を見下ろしてくる。

そして少し考こむそぶりを見せた。

 

 

「食材は足りてるから良いとして…あとは包帯のまき直しよね。…ところでリョナさん、何か欲しいものってありますか?」

 

「欲しいものかぁ…」

 

 

しいて言うなら女、と本当に言いかけるが喉元に抑えておく。

そして真剣に考え始めると、すっかり忘れていたことを思い出した。

 

 

「…そういや俺の服は?それとグローブ」

 

「あぁー…」

 

 

思えば今俺が着ているパンツは恐らくギルド支給のもので自らの服では無い。

 

頷いたエイナは先ほどのポーションを取り出した机に近づき、開ける。

そして両手で中の物を掴むと、取り出す…出てきたのは俺のグローブ。

 

 

「グローブはここに入れてあります。服の方は血まみれで、洗濯したから今乾燥中です」

 

「あい解った」

 

 

頷いた俺にエイナはグローブを机の中に戻すと、引き出しを戻す。

そしてベッド脇を通り越して扉の方へ歩き始めた。

 

 

「そうだ、それともう一つ」

 

「はい?」

 

 

エイナがドアを開けたタイミングで俺は呼び止める。

振り返ったエイナは首を傾げてみせた。

 

 

「ベル君に会ったらで良いんだがホームから俺の本を持って来てくれるように言ってもらえるか?それで伝わるはずだ」

 

「へー…読書ですか。確かに暇ですもんね。…どういう本読むんですか?」

 

「絵本だ」

 

「…え?」

 

 

俺の言葉にエイナの表情がぴしりと固まる。

とはいえなんて事は無い俺は身振り手振り説明する。

 

 

「いやほら、俺の世界の文字とこっちの文字って違うからな。もうそろそろ解読が終わりそうなんだ」

 

「あ、はい解りました…それじゃあ安静で」

 

「おうまたな」

 

 

どこか表情が硬いままエイナは扉を閉じて去っていった。

…そして、まぁ、確かに大の大人が絵本読んでいるというのもある意味ショックなのかなと納得した俺は…納得はしつつも若干傷ついたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

『ガチャリ』とドアが開く。

ただひたすら暇な時間を過ごしていた俺は、エイナが昼飯を持って来てくれたのかと、視線を窓から入口の方にやった。

…全てのことを世話してもらうというのは中々気恥ずかしいものがあるがそれでも腹は減るし、早くも空腹を覚えていた俺は期待をこめてドアの方にいるはずのエイナを見る。

 

 

「…!?」

 

 

だが扉を開けてそこにいたのは――猫耳の少女。

若草色の長袖服とこげ茶色のスカートを履いた彼女は、透明感のある茶髪の合間から同じ色をした猫耳を生やし、肩からはそのスカートと同じ色をした小型のショルダーバッグを下げており、くりくりと丸いその瞳をこちらに向けてどこか嬉しそうな笑みを口元に浮かべていた。

 

――俺はその美少女を見るなり、とりあえず思った事を口にする。

 

 

「誰だ?」

 

「ニャッーーーー!!?」

 

 

どこか自慢げなドヤ顔で、まるで自分の服装を見せつけるようにして歩いてきていた美少女は俺の言葉に、叫びながら昭和のノリでづっこける。…異世界であろうが何だろうが鉄則は鉄則らしい。

 

盛大に受け身をとった彼女は腕をつきよろよろと立ち上がり、修羅と呆れと驚きのハイブリッドのような表情を俺に向けると表情は変えずにギギギと首を傾げて見せた。

 

 

「…冗談にゃ?」

 

「ん、言われてみればどこか見覚えが…ちょっと待て、ここまで来てるんだが…」

 

 

尋ねる猫耳少女に俺はトントンと頭をつつきながら、その少女の容姿に記憶を照らし合わせる。

全体のパーツパーツの一つ一つは見覚えがあるのだが、そのパーツが何か「足りない」ような気がした…しかし切り離し可能な部位を持つ人間などいないし、そんな解りやすい大怪我もしていないように見えた。

 

だが懸命に思いだそうとしている俺に、そもそも覚えてないのがありえないにゃとか呟いた少女は目を見開いて呆れた顔をする。

そして少し逡巡した後何かに気が付いたかのようにあっ…ではなくニャッと声を上げると――

 

――おもむろに自らのこげ茶色のスカートの紐を緩め始めた。

 

 

「!?…は!?ちょっと痴女の知人とかいないんですけど…!?」

 

「にゃっ!!?違うにゃ!!いいからこれを見るにゃっ!!?」

 

 

そして少女はスカートを下す…訳ではなくくるりとその場で一回転すると、お尻をぐいと突き出した。

 

…今度はこっちがあっけにとられ、驚きで動きがとまる。

しかし固まった視線の先のスカートが突然むくむくと動き始め、膨らむと、まるで中で蛇か何かが這いずるかのようにのたうち回った。

そして出口を求めるかのようにそれは上を向くと――

 

――ポンッとスカートの隙間から猫のしっぽが飛び出してきた。

 

 

「あぁ!お前アーニャか!!」

 

「はー…やっと解ったかにゃ、お得意様?」

 

 

にゃー…とため息(?)をついたアーニャは尻尾をそのままに一度緩めたスカートの紐を結び始める。

 

彼女は豊穣の女主人の従業員で俺が行く度絡んでくる猫人…キャットピープルという亜人の種族の子だ。あそこでの金払いはいつも良いので殆どの従業員(ミア母さんは変わらない)に好かれているが、特に俺を気に入っているように見えるのがこのアーニャだ…それが営業スマイルか否かは解らないが。

 

ちなみに何故気づかなかっただが、店以外で会うことが無くいつもは緑色の制服と白いエプロン姿しか見ていなかったため、私服姿の彼女が解らなかったから。

そして――

 

 

「…ていうかお得意様、自分でやっといてニャンですけどアーニャの尻尾見て初めて気が付いたかにゃん?」

 

「あぁおうそうだが…まぁ俺興味以外の事はすぐ忘れちまうからな」

 

「ってことはあれにゃん!?アーニャは都合の良い尻尾でしかないにゃん!!?」

 

 

――彼女の尻尾は見ていて飽きることが無い。

 

というのもいつも俺は豊穣の女主人にてかなりの頻度で夕食を食べているのだが、同時に酒も飲む。そして酔っぱらうと…たいてい目の前をゆらゆらと歩いていく尻尾に気がひかれて、結局酔いが覚めるころには頭には尻尾が揺れているイメージしか残っていなかった。

…ちなみにミア母さんがブチ切れるので触ることは叶わないのだが。

 

 

「都合のいい尻尾っつっても触った事ねぇけどな」

 

「当たり前にゃん。そうやすやすと触れるものじゃあ…」

 

「ほい」

 

「ンニャアアアアアアアア!!?」

 

 

とはいえここは店ではないし、ミア母さんもいない。そしてスカートの紐を結ぶためにアーニャは背中を向けていたし、俺の目と鼻の先ではアーニャの尻尾が誘うようにゆらゆらと揺れていた。

 

…俺が掴まないわけがない。

 

瞬間触り心地の良い毛並みがさわさわと俺の掌を刺激し、長い間目をつけていた目標を達成したことに快感を覚える。

そして尻尾の根本辺りを掴まれたアーニャは叫び声と共に『ビクンッッ!』と身体をのけぞらせ、全身の毛が逆立ち震えた。

 

 

「あー…ええ感触…」

 

「にゃっ!!?にゃっにゃっ!!?」

 

 

犬を飼っていたことはあったが、猫を飼っていたことは無い。これまた違う毛並みの感触に俺は早くも病みつきになりつつ、根本から途中までをしごくように往復して撫でる。

…しかし極めてソフトタッチを心掛けたつもりだったのだが俺の掴んだ手が上下する度アーニャはビクンとのけぞり、鳴き声をあげていた。

 

そして上下が10を超えた辺りで唐突に振り返る。

 

 

「いい加減に~…するニャアアアアアアアア!!!」

 

 

アーニャは涙目で思い切りよく殴りつけてくる。怪我人だろうと一切容赦なく。

その拳にいつぞやの「神パンチ」を重ね見た俺は軽く躱す。

 

 

「にゃにぃっ!!?」

 

「へっ可愛い猫のお嬢さんに拳は似合わねぇぜ…?」

 

「えっにゃにそのカッコイイセリフ、アーニャ的に最高にゃんですけど…じゃにゃくて!」

 

 

持ち前のノリの良さでつい俺のボケに乗っかってしまうアーニャだったが、それ以上にご立腹のようでフンスと腕を組むと、不機嫌そうに尻尾を揺らして見せた。

 

 

「お得意様は知らにゃいそうですけど、キャットピープルのアーニャみたいな可愛い女の子は尻尾とか耳とか不用意に触らせないにゃ!」

 

「え…なんで?」

 

「何でって!例えるなら人間の雌の胸や尻をいきなり鷲掴みにするのと同じにゃ!?」

 

「ん…待て、では猫人の胸はいきなり揉んでもいい?」

 

「何でそうなるにゃ!?」

 

 

俺の(ひどく)洒落のきいた冗談にアーニャはニャー!と吼え暫くニャーニャー!と怒った後、にゃふ…と疲れたようにベッド脇に座り込むとため息をつく。

そして落ち着きを取り戻したのかいつも通りの表情に戻ると、呆れのこもった視線を俺に向ける。とはいえそれが大好物の俺はにっこりと笑顔で返して見せ、ふいに真顔に戻ると首を傾げた。

 

 

「ところでお前何で来たんだ?」

 

「ん、お見舞いですけどにゃ?」

 

「…お前一人で?」

 

「にゃん」

 

 

アーニャは頷く。しかし解せない、俺が大怪我したという噂がどこまで広がっているかは解らないが、なぜ一番に来るのがアーニャなのか。

確かに仲は良いがそれでも私服で、仕事の合間にちょっと様子見てくるというわけでもなく、本格的に来るのか。

 

――いやわざわざお見舞いに来てくれたのにこの物の考え方は物凄く失礼だとは解っているが、それでもアーニャのキャラ的に真っ先に来るというのは非常に違和感があったのだった。

 

とはいえ――俺はそんなことよりも遥かに重要な事をアーニャに尋ねる。

 

 

「…お前一人…?…リューさんは?」

 

「あー今日夜までシフトにゃ」

 

「…え、俺の生きる意味は?」

 

「もー!こんな超絶美少女を前にして他の女の話をするんじゃないにゃー!!」

 

「うるせー!お前の価値なんて尻尾しか…ぐっ…!?」

 

 

リューさんが来ない悲しみがアーニャへの怒りに変化しかけた時胸に痛みが走る。

…まだ傷は完治していないのだ、興奮状態の叫びは流石に傷に障ったようで俺はせき込む。

 

 

「ゴホッゴホッ!?」

 

「あーもう…この際今聞こえた気がする失礼は聞かなかったことにして看病してあげるにゃん!」

 

 

そう言ってアーニャは立ち上がると俺の背中をさする。

柔らかい手が俺の背中を行き来し、かなりの痛みを伴う咳は数度続いた後完全に止まった。

 

 

「…ふぅ、すまんな」

 

「まぁ一応お見舞いにゃしにゃ」

 

 

アーニャは俺の咳が止まったのを確認すると再び席に腰かける。

そして暫く沈黙し、俺の全身を品定めするように眺めると怪我を確認しようとする。しかしそもそも骨折など内面的な怪我で表面的には解らないし、上半身は所々包帯が巻かれている程度ではあるが、そも下半身にはシーツがかけられているので全体を見るというのは難しい――

 

 

「――…ん?」

 

 

アーニャの視線が一か所で止まる。

そしてパチクリと瞬きをすると、小首を傾げた。

 

 

「お得意様」

 

「ん?なんだ?」

 

「えーと…それ何にゃん?」

 

 

アーニャの指さした先を見ずとも何か解る。

指さしたのは俺の下腹部、大きく盛り上がったソレをアーニャは不思議そうに見つめた。

 

…朝から常に「これ」は張っている。

流石に一人になって外の風景でも眺めていれば「これ」も治まるだろうと考えていたが一向に収まる気配は無く臨戦態勢だ。それに感度も高くなってるようで履かされているパンツと少し布擦れするだけでも若干の良さが走っていた。

 

とはいえ今までも大きかったわけでこれまでアーニャが触れなかったのは気を使っているのだと思っていたのだが、ただ単純に気が付かなかっただけのようだった。

 

 

「これは…そうだな…」

 

「?」

 

 

何だかただ単純に「立ち上がっている」というのもプライド的によろしくない。

というかコイツの場合そんなこと言おうものなら「えっまさかアーニャに欲情したにゃん?うわこれはリューに報告しないとにゃ!」という事態になりそうで、今後豊穣の女主人に顔を出しづらくなってしまうだろう。

 

それにまだ若いしエイナのように耐性が無いかも…いやこの前同僚と思い切り下ネタ言い合っているのを見かけたし知識はあるだろうが。

 

とはいえ俺は厳かに、エイナの問いに答える。

 

 

「…バナナだ」

 

「…バナナ?」

 

 

故にここでの最適解は「隠語」。冗談で済ますのが一番だろう。

 

――俺の言葉を聞いたアーニャは、首を更に反対側に傾げる。

 

 

「まぁ流石にその大きさはチン〇じゃにゃいとは思ってたけど…バナナってなんにゃ?(・)」

 

(!…しまったぁぁぁぁこの世界にバナナ無かったあぁぁぁぁ!!)

 

 

…思えばガネーシャの朝ご飯、この世界の珍しくて美味しい果物を集めたと言っていた。しかしその顔の割には(まぁ勝手なイメージの問題なのだが)バナナは無かった。…食べそうな顔なのにだ。

 

とはいえこれでは隠語として成立しない、それどころかアーニャは自分の知らない単語に更に興味津々といった視線を俺の「俺」に向けていた。

 

…あるものが無い衝撃で俺は慌てると、思わずバナナの説明をし始めてしまう。

 

 

「そ、そのだなバナナというのは南国のフルーツで、黄色い皮を剥いたら甘い実がある黄色い…」

 

「えっ何それめっちゃ気になるにゃん!…隠してないで見せるにゃー!!」

 

「うおっ、ちょっまっ」

 

 

だが説明は逆効果だったらしい、更に興味を示したアーニャは目を輝かせると、がばぁっと俺にとびかかってくる。

予想外の行動に俺はとびかかってくるアーニャを片手で止めようとする。

…しかし疲れで動きの鈍った俺の片手をアーニャは予想以上に俊敏な動きで避けると、脚の上に飛びついてくる。足は折れていたはずだがアーニャの体重程度では痛くはなかった。

 

 

「んー…何か臭いにゃあ…」

 

「…!」

 

 

そして何の躊躇いもなくアーニャは俺の下半身にかけられたシーツの中に潜り込んでくる。

もぞもぞと足回りで動く蠢く犯罪的な膨らみに思考停止した俺は、一瞬物理的な対処が思いつかず硬直した。

 

 

「くんくん…あ、でもこの臭さ嫌いじゃにゃいかも…」

 

 

もぞもぞはくぐもった声で何かを喋り続け、熱い息を肌に吹きかけながら俺の脚をペタペタと触りつつ北上し始める…まだ見ぬ「バナナ」を求めて。

 

 

「あ…これにゃ!」

 

「ちょっ…!?」

 

 

流石に身体の硬直が解ける。

股間近くに至りそうになっていた彼女の頭と思わしき膨らみを俺は両手で抑えると、力の入らない腕で押し戻そうとする。

しかし割と今の俺の力など幼児並みだし、体力も早くも切れそうになっており、息も切れそうになっていた。

 

 

「ぐ…」

 

「にゃー!独り占めは卑怯にゃー!」

 

 

だが意地でもここは死守しなければならない。俺はシーツの中から怒った猫のような声を聞きながら必死の攻防戦を繰り広げる。

 

…しかし体力差。じりじりと距離を縮めてくるアーニャとは対照に徐々に俺の抑える力は弱まっていく。さながら「攻城兵器」、狭い隙間から無理やり押し込むかのようにアーニャは自らの頭をぐいぐいと押し付けやがて突破し――

 

 

『ガチャリ』

 

 

――反射的に、アーニャの頭を少しでも起伏が目立たないようにするために、俺は片手で上からアーニャの頭をベッドに押し付けるようにして抑えつけた。

 

 

「…んー…!?」

 

 

くぐもった声が聞こえるがそれどころではない。慌てつつも俊敏に周囲を見渡し痕跡がないか確認する。

しかし奇跡的にアーニャの全身はシーツで隠れているため、異様に乱れたベッド以外はアーニャの痕跡は見当たらなかった。

 

全ての確認を終えた俺は加速した思考の中でゆっくりと開こうとしているドアの方を見やる。ゆっくりと開いていくその扉から出てくるのは鬼か蛇か――

 

 

「リョナさん!」

 

「…ベル君じゃねぇか!?」

 

 

――否、それは真っ白な兎であった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「いやー傷もだいぶ治ったようで良かったです!」

 

「おう心配かけたようで悪いな」

 

「いや全然そんな!」

 

 

俺は未だ下半身でもごもごと動こうとしているアーニャを片手で抑えつけながら、ベッドわきの椅子にニコニコと笑いながら座っているベル君と言葉を交わす。

…一瞬即発の状況ではあるにもかかわらず押さえつけられたアーニャは息苦しいのか抵抗してくる。

 

(ばれたらお前もやばいだろこれっ…!?)

 

珍しく冷や汗を背中に感じながら俺は何とか笑みを浮かべてアーニャの頭をぐぐぐと押していた。

 

 

「…えーとそうだな。どうだ、最近良い事あったか?」

 

 

まともな思考が出来るはずもない、久しぶりにあった親戚のおじさんみたいな質問を不甲斐なくも俺はする。

しかしベル君は実際嬉しい事があったようで、ぱっと顔を明るくすると腰をまさぐり始めた。そして――ヒエログリフの刻まれたナイフを取り出して見せた。

 

 

「これ!どうですか!」

 

「ほぉ…中々の業物に見えるな!」

 

 

ナイフにそれほど詳しいわけではないが、こと刃物に関して言えば鋭さくらいは解る。

ベルの取り出したそのナイフはこの前持っていたナイフとは比べ物にならないぐらいの鋭さを持っていることが見てとれた。

 

…俺の言葉に嬉しそうにベル君は頷く。

 

 

「はい!これはヘスティア様からいただいたものなんです!!」

 

「へー…うちの財力でそんないいもん…いや、今はそんな事良いか。で、使い心地はどうよ?」

 

「実はまだダンジョンでは使えてないんですけど…実は街中で襲ってきたモンスターをこれで迎撃して…」

 

「…あ、もしかしてそれ白いゴリラみたいなやつじゃなかったか?」

 

「え、何で知っているんですか!?」

 

「いや実はそいつ俺が逃がしたやつでな…倒せたのか?」

 

「…はい!何発か貰っちゃいましたけど最後にはきっちり!」

 

「ならよし!」

 

 

そう言って…二人で笑い、久しぶりに再会した二人は喜びを分かち合う。

そして楽し気に二言三言言葉を交わすと、丁度俺の腹がぐーとなった。

 

 

「あっそうだこれ!」

 

 

ベル君は気が付いたように腰についたポーチから「じゃがまる君」を取り出す。

そしてとびきりの笑顔を見せると、手渡してくる。

 

 

「…あー…うめぇ」

 

 

必然と懐かしい味、このじゃが丸くんはこちらに来てから飢えて初めてベル君がくれた時のじゃが丸君と同じ味だった。あの後もちょくちょく食べてはいたがベル君からもらうじゃが丸君は格別というか、特別美味しいような気がした。

 

かっくらった俺はじゃが丸君を下し、息をつくとベル君を見る。

 

 

「ふむ美味しかったありがとう。だがもし俺以外に見舞いに行くときは油物より果物とかあっさりしたのが喜ばれるぞ」

 

「あっ確かに…!すいません気が利かなくて」

 

「だけど俺の時はじゃが丸君で頼む」

 

「え…あぁ、はい解りました」

 

 

何だか言っていることが矛盾しているように聞こえたであろうベル君は頷く。

 

…そしてやはりみな気になるのだろうか、ベル君は俺の全身を眺めるようにして怪我の度合いを確認し始める。しかし俺の身体の上にはシーツがあるわけで…以下は略すが、結局下半身の膨らみに気が付いた。

 

 

「えっと…リョナさんそれは…」

 

 

ベル君は顔を赤くし、俺のそれを指さす。しかし顔を赤くしているあたりそれが何なのかは理解はしているようだった。

ここはひとつ生協…ではなく、まぁ男同士なのだから何もためらうことなどないだろう。

俺はまっすぐにベル君の顔を見ると、いかめしく伝える。

 

 

「邪神マーラ…男なら誰しもが持つ悪徳よ…」

 

「いや…でもなんでそんな大きくなって…!?」

 

「あー…ベル君も大人になったら解るぜ!」

 

「は、はい…!?」

 

 

子供をだますというのは気が引けるがベル君にはいつまでも清いままでいてもらいたい、何とかごまかせた(?)俺はふー…と一仕事終えた職人がごとくため息をつくと余っていた片手で額の汗を拭った。

 

――だが事態は急変する、眠っていた獣がその鎌首をもたげる。

 

 

「――…少年…!…いますぐ…アーニャを…助け…!」

 

「…あれ?リョナさん今何か人の声が聞こえませんでしたか?」

 

「い、いやいやいやぁ!?あー多分あれだわ!俺のマーラがベル君と喋りたがってんだわ!?」

 

「あはは…」

 

 

少しの合間おとなしくなっていたアーニャだったが俺とベルとの会話で自分のいる付近に視線が近づいていることを知ると、また暴れ始めた。

本格的に状況を理解していないアーニャの頭を思い切り押さえつける。

 

(とはいえどうやってベル君を帰らすか…!?)

 

もはやこうなっては時間稼ぎでは足りず、帰らせるよりない。

アーニャの頭を抑えつけているのにも限界があり(というか限界超えている)、気が付いていないようだが身体をジタバタとされてはベル君も気が付いてしまうだろう。

 

であるならば何か帰らせる理由が――!?

 

 

「――ッ――…にゃっ…!」

 

(…っ!?)

 

 

アーニャ、最大の抵抗。反動をつけたそれは大きく俺の手を押し返す。

圧倒的パワーが手のひらから伝い、危うく負けそうになる。しかしベル君の手前、そんなショッキングな光景を見せるわけには――

 

 

(おおおおおおおおおお!!!)

 

 

――必死の覚悟、今持てる最大の力で俺はそれを押しとどめる。

 

 

「…な…にゃっ…!?」

 

 

激しい攻防、だが所詮首と背筋だけの力。全身を込めて止めようという俺の鉄の意思に負けた抵抗は徐々に力を失っていき、その頭を地に落とし始める。

 

――崩壊は、ここで留まった…!

 

(完・全・勝・利!)

 

女の子に腕力で勝ってうれしいって倫理的にどうなの?というのはさておき、俺は喜びに思わず笑みを漏らす。

そしてアメフトのタッチダウンが如くまた元居た位置に戻――

 

 

「…んにゃっ…」

 

「アフンッ――あっ…!?」

 

 

――元居た場所にはならない、少し…位置がずれた。しかしそのずれは先ほどとは意味合いが全く違う。

 

…声が漏れ、快感が伝う。

絶妙の柔らかさが擦れ、押すでもなく潰すでもなく…頭がおかしくなりそうなほどの刺激が襲った。

 

(…!)

 

そこで俺はアーニャの頭がわずかにずれてしまっていたことに気が付く。

しかしアーニャは元々ギリギリまで狙いに近づいていた、ずれによって極限まで「壁」に近づいた頭はぶつかると直角に落ちる。

 

――つまり棒と玉ッ…!

わずかにずれたアーニャの頭はっ…!…その「玉」の方にっ…!

 

 

「リョナさんどうしたんですか?」

 

「まっ…マーラ様の容態が悪化した…!」

 

「…むしろ元気みたいですけど…」

 

 

ベル君が珍しく下ネタ言った!とか今は気にする余裕がない。

 

…それにあまりにも直接的な快感に性欲のスイッチが入ってしまったようだ。

顔の表面が急激に熱くなり、息も荒くなる。事が始まったと勘違いした身体は本能のままに濡れる。

 

みるみるうちに理性が失われていくのを感じ取った俺は、残された思考でベル君に語り掛けた。

 

 

「すまんベル君…!…エイナから話聞いたか?」

 

「え…いや、言っていいよって言われただけですけど…」

 

 

頷いた俺は熱い息を吐きだす。

そして何とか思いついた「ベル君を帰らせる方法」を告げる。

 

 

「ほら今とかはベル君はいるからいいんだが、いないときは暇で暇で死にそうなんだ?」

 

「あー…なるほど、動けないですもんね」

 

「だからホームから俺の本を何冊か持って来てもらいたいんだ?」

 

「なるほど解りました!任せておいてください!」

 

 

よし何の疑問も抱いていないッ!というのも…お見舞いの途中で帰らせるような言動はまず真っ先に避けるべき。しかしそうは言ってはいられない事情が俺にはありわけで、騙すようで悪いが純真なベル君はそれに対し嫌悪感を催さない。

 

で、あるならば…この場凌ぎさえ出来てしまえばいいこの状況、乗り越えるのはもはや容易い。

 

(マジで助かれッ…?)

 

ある意味、もはや手遅れ感は否めない。

しかしアーニャが呼吸をするだけで、少し身をよじるだけで危機感が増していく。

もう一刻の猶予もないこの状況で願うのはアーニャがこれ以上暴れないこと、そしてベル君が早く帰る事、同時に偶然エイナが来ない事。

 

 

「それじゃあまたすぐ戻ってきます!」

 

「ゆっくりでいいぞー」

 

 

とはいえ事態は一個の収束に向かう。立ち上がりドアを開けたベルは笑顔で俺に手を振って去っていった。

一見、自分以外誰もいなくなった部屋の中で、嵐(のようなベル君)が去っていったのに安堵しため息をついた。

 

 

「はぁ…」

 

 

…落ち着く、べきだ。

俺はゆっくりと深呼吸をすると、燃えるような理性を排熱する。

 

そしてそうなった原因である「元栓」を締めるべく、意を決するとシーツをめくった。

 

 

「…」

 

 

――言わずもがなと、したい。

そこにアーニャは確かにいたが仰向けのままピクリとも動かず、ただ顔をうずめていた。

 

 

「…おい、アーニャ」

 

 

とりあえず俺はその名前を呼ぶ。

…しかし彼女は返事はおろか、呼吸すらしていないように見受けられた。

 

 

「おい!?」

 

 

流石にこれは異常だ、慌てた俺は疲労した腕を伸ばしアーニャの肩を掴む。

そして何の抵抗もないその身体を、俺はゆっくりと転がすと――

 

 

「あっ…」

 

青ざめた顔、剥いた白目、涎の垂れただらしなくも開いた口。

嗚咽が漏れ、異様な汗を流していることはその匂いから察することが出来た。

そして…その全ての情報が一つの結論を俺に示す。

 

 

――彼女が失神していることを確認したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…リョナさん?」

 

「おやすみエイナ」

 

「いやちょっと待ってください!?何でさっきベル君が豊穣の女主人のところのキャットピープルの女性を運んでいたんですか?」

 

「あぁ…?…あぁー…何かあれだよ。猫って驚くと死んだふりするらしいじゃん?」

 

「まぁ確かに今のリョナさんは驚くべき状況にありますけどっ…!?…ってリョナさん眠ろうとしないでください!!?」

 

「疲れてんだよ…眠らせろよ…」

 

「そもそも何で疲れてるんですか!?それにダンジョン知識を教えるって約束は…!」

 

「パスぱすぱーすぅ…ふぁ…おやすみ…」

 

「ちょっリョナさん待って…あ」

 

「zzz…」

 

「…おやすみなさい」

 

 

 

・・・

 

 

 

目が覚めるともう朝だった。喜ばしいことに今朝は目が開くとすぐに象の顔があるという事は無い。

 

(ん…おぉ)

 

とりあえず上半身を起こそうとした俺はだいぶ体力が戻っていることに気が付くと、回復しているということに喜びを覚える。

そして喜びのままに立ち上がろうとしてみた。

 

 

「フンッ…!」

 

 

反動をつけ、起き上がる。容易く起き上がった全身に俺は更に喜びを感じると、ベッドから足を下す。素足にひんやりとした感触がピタリと伝い、久しぶりに背骨への負担を覚える。

 

(…!)

 

確か背骨は折れてこそいなかったが(というか折れてたらポーションあっても数年かかってしまうらしい)、負担によってか背骨にわずかな痛みを覚えた。

まだひびが入っているのかは正直レントゲンでもとらない限り解らないが…触ってみた感じ、無理をしなければ問題ないだろう。

 

 

「ふぅ…よし」

 

 

手をつき、ゆっくりと立ち上がってみる。

めまいのようなふらつきが一瞬頭を襲うが、俺は何とか力を込めると立ち上がる。

 

 

「うー…」

 

 

…ゆっくりと、伸びをする。

 

久しく動かされなかった身体が気持ちいいほどに引き延ばされ、全身の何か所かがボキボキと音を経てた。

 

…どうやら脚も腕も完全に折れているのもどこへやら、問題なく立てるようだ。

 

 

「ふぅ…」

 

 

伸びをやめ、ため息をつく。

 

 

「はぁ…」

 

 

そしてもう一度ため息を、視線を下して今度は大きくついた。

 

(まだ収まんねぇのか…)

 

全くもって、度し難いほどに大きくなって変わらない。もはや三日間ともなると慣れてきたが、いい加減男としては発散させてしまいたい。

 

 

「ふむ…」

 

 

とはいえ既に疲れを覚え始めた俺はベッドに座る。

そしてうなだれるようにして自らのそれを見ると、どうやって発散させるかを考える。

…この回復した体力ならば自分で、というのも考えられるが…?

 

 

――『ガチャリ』と扉が開く。

 

 

「あっリョナさん、起き上がったんですね…って、無理してませんか?」

 

 

開けられた扉、そこからいつものようにエイナが顔を出す。

座った状態の俺はその心配そうな顔に首を振って見せた。

 

 

「いや結構回復した、立つのは流石にまだ体力的にきついが座ってる分には問題ない」

 

「そうですか、それは良かったです!」

 

 

そう言うとエイナは笑顔を向け、部屋に入ってくる。

そしてベッド脇まで移動すると、手に持っていた盆と湯気を上げる鉢、皿を俺に見せてくれた。

 

 

「これ、朝ご飯です!」

 

「おぉ…お?」

 

 

見えたのは前と全く変わらない「リンゴとチーズのリゾット」そして皿の上にはパンとグラス。

 

(…まさか)

 

…そのまま前と同じように盆をベッドわきの机の上に置いたエイナの表情にほの暗いものを感じた俺は「もしかして」と問いかける。

 

 

「お前それしか作れないとか?」

 

 

エイナの身体がビクリと腰のあたりで震える。しかし思い切りよく図星をついたにも関わらずエイナは全く表情を変えずスプーンを手に取ると、リゾットをすくい俺に向け、笑顔を見せた。

 

…まるで俺の発言などなかったかのように。

 

 

「…リョナさんいくら動けるようになったからって疲れているでしょう?食べさせてあげますよ、あーん」

 

「いやだからそれしか作れないのかって」

 

「あーん」

 

「スマンかったから押し付けるのをやめろ、いただきます」

 

 

そう言って俺はエイナの強制的なあーんによって朝食を済ませたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

――地獄だった。

なるほど、ベル君が地獄と表現するのも解る。

 

朝食後、エイナは「さて」とばかりにサディスティックな笑みを浮かべると(少なくとも俺の目にはそう見えた)、約束であった「ダンジョン知識の教育」を始めた。

 

…しかしそれは「教育」というよりも「ねじりこむ」という方が近い。

強制的に、脳にゴリゴリと刷り込むように俺はエイナによって…およそ二時間ほどだろうか、ダンジョン知識を教え込まされていた。

 

ちなみに具体的な教育方法については…。

 

(うおう…)

 

ぶるりと身体が震える、もはやトラウマのようなその記憶を俺は思いださないようにする。

そしてため息をつくと去り際にエイナが置いていったポーションに口をつけた。

 

 

「うーん…美味さが薄れてるような…不味いような…」

 

 

昨日のように甘くない。前はかなりの美味さに一気飲みまでしたのだが、今日のポーションはどこか薬臭く、とても美味しいと言えるものではなかった。

色とか違いは見かけでは解らないのだが、そもそもポーションの種類が違うのか、それとも怪我の度合いによって味が変わるのか。

 

 

「くん…いや、匂いは変わんねぇよな」

 

 

薬草の青い匂いは変わらないし、やはり後者かそれ以外の理由なのだろう。

 

 

「…ん、ぷは」

 

 

とはいえ不味いそれをチビチビと飲みながら俺はただ過ぎていく時間を過ごし…ていたわけではなく、ピラリと片手で膝に置いた本を開く。

可愛らしい絵で描かれた本は恐らく児童向けなのだが、問題はその絵と文字の関係性だ。

 

(え…い…ゆ…う…は解るとして、書いたときの法則性が独特だなぁ)

 

この文字列だが完全に横の文字とつながっている。

最初のころはどこからどこまでを一文字として区切ればいいかすらも解らなかったし、同じ絵なのに文字列が全く違うという事態まであって大変困惑した。

 

しかしその一つ一つを比較し、何とか日本語と当てはめることに成功した。

唯一の救いとして喋る言語が(いやもしかすると何らかの魔術で直されているのかもしれないが)ひとまず俺の耳には日本語に聞こえたので、時折絵の意味をベル君に教えてもらえたので助かった。

 

 

「ふむ…『エイナのメガネを○○で○○にして○○したい』」

 

 

俺はひとまず練習として机の上に置かれた紙にペンを走らせる。

…達筆なのかどうかすら解らないが、ひとまずこれで意味は通じるだろう。

 

他に文法などが存在しているかはともかく、これで何かしら簡単な伝言を残すことは出来るわけだ。他の本を読むことなども可能だろうし、そうなればこの世界への理解も深まるはずだ。

 

――そして理解が深まれば一時的な現世への帰還方法なんかも見つかりやすくなるかもしれない。

流石に妹や従弟に何も言わずに行方不明になってしまったのは気が引けるし…替えの服なども欲しかった。

 

 

「あっやべぇこれ消せねぇ…まぁ後で処理しとくか」

 

 

とはいえ俺は思わずふざけた内容の事を書いてしまったため、紙に書かれたその文字を消そうとするが、インクペンで書いたためそれだけ消すということは出来ない。

 

…とはいえこんな紙の一枚や二枚じたいは隠し持っておくことは造作ない。

 

ひとまず紙を二つに折りベッドの下に投げ入れた俺は、ベッドの暗闇に紙が溶け完全に隠れたことを覗き込んで確認して安堵する。

そして余った紙に向き直ると、何を書いて練習しようかを考えはじめ――

 

 

――もう幾度聞いたか解らないが『ガチャリ』と音を立てて部屋の扉が開いた。

 

 

「おっ…?」

 

 

音が聞こえた瞬間俺は反射的に鼻を使う。エイナやベル、ヘスティアなどの匂いは覚えているので嗅げば大体誰が来たかくらいは解る。

 

…しかし思わず声を出した俺の鼻に届いたのはそのどれとも当てはまらない匂い…だがそれでいてどこかで嗅いだような匂いだった。

 

それに――

 

 

「リョナくぅぅぅぅん!!!」

 

 

…しかし俺が誰かを特定するより先に本人が入ってきてしまう。

 

勢いよく部屋に入ってきたその少女は、まるでクラウチングスタートでも決めたかのごとく最初からトップスピードで狭い部屋を横切りベッドに突っ込む。

もはや人間砲弾ともいえる高速のそれはその勢いのまま進むと、たまたま座禅を組んでいた(恐らく組んでいなければそのまま足に激突してまた骨を折っていたのではないだろうか)俺の前で、ベッドの足元に『ぼふんッ!』と盛大にダイブすると、ベッドを大きく揺らしながら完全停止した。

 

そしてその人間弾頭は寝転がったまま、三日前と何一つ変わらない「太陽のような笑み」を俺に見せるとその小麦色の肌の口を開く。

 

 

「起きたんだねリョナ君!」

 

「おぉ…ティオ…ティオ…ティオナ!」

 

「正解!」

 

 

五日前、華が地面から生えてきたときにいたアマゾネスの少女、ティオナがそこにいた。

…一瞬ネかナか解らなかったがどうやら合っていたらしい、ティオナはぐっと親指を立てる。

 

 

「来てくれたのかぁー。そういやあの時はティオナも戦ってたよな、お前は怪我しなかったのか?」

 

「え、私?私が怪我するわけないよぉー…それよりさ、リョナ君の方はどうなの?見た感じ元気っぽいけど」

 

「んー、立てるようにはなった」

 

「へぇー良かったねぇー!」

 

 

俺は足元のベッドにうつ伏せに寝ころびながらはみ出た足を揺らすティオナと言葉を交わす。まだ知り合ってから時間にして数時間しか接点のない二人だが、やはり一緒に戦った仲だからか、特に何の躊躇いもなく話せていた…それともお互いそういう性分だからかは解らないが。

 

ティオナの笑みに、つられて笑みを浮かべた俺は軽く肩をすくめる。

 

 

「つっても体力がなくてなぁ…」

 

「あー大量にポーション使った後ってキツイよねー」

 

「あぁ…」

 

 

とはいえ…俺はせっかくお見舞いに来てくれたティオナとの会話に集中できていなかった。

 

 

(…誰だ?)

 

 

――二人だ。

 

最初に嗅いだ時、匂いは確かに二つあった。ティオナの匂いの背後に…もう一つ。

ティオナの言葉に生返事しながらも俺はドアの先の廊下を見る。

 

…しかしそこには誰も見えず、気配も感じられない。

となれば――

 

(ティオナを尾行してた…?)

 

ティオナに気が付かれること無くただ匂いだけを残す、何が目的なのかは知らないが闖入者の可能性は捨てきれない。

 

俺はティオナに眉をひそめ、ティオナに視線を戻す。そして俺の真剣な表情に首を傾げるティオナに尋ねる。

 

 

「なぁティオナ、お前一人で来たのか?…他に誰かいないよな?」

 

「え」

 

 

俺の問いかけにエイナは文字通り「え」と驚いた顔をする。

そして振り返ると、先ほどの俺と同じようにドアを見て…笑った。

 

 

「あぁなんで入ってきてないんだろ、お-いおいでよ!」

 

「…」

 

 

何だティオナの連れだったのか、と息が漏れた。

 

(疑り深いか…?)

 

なんて軽く自己分析をしつつ俺は「じゃあ何で入ってこなかったんだ?」と内心首を傾げ、恐らくティオナが走っていったので入るタイミングを失ったのだと推理する。

 

…とはいえティオナの連れとは誰だろう。

いや特定は余裕だ。俺にお見舞いにくるのはあの時あの場にいた人物だけ、それかたまたま俺のお見舞いに来ていたリューさんと途中でティオナがたまたま出会って意気投合した場合のリューさんだけだ。

つまり三分の二でエルフ、残りの確率でアマゾネス…予想としてはティオナの連れなのだからティオネだろうか?

 

ティオナの呼びかけにドアの外にいた「連れ」が反応し、僅かだが足音を立てる。

ベッドに胡坐をかいたままドアに顔を向けた俺は、いったい誰が来るのかと期待して――

 

 

「失礼します」

 

 

――金色の風が部屋の中に入ってきた。

 

その片手には茶色のバスケットが提げられ、歩くに伴い揺れた。

私服なのか白い服の裾は静かにたなびき、一見半目のような眼はその奥に光のような意志を見せる。

肌は白く、歩き方は凛としていながらもピクニックに行くような物。

 

そして――見覚えのある綺麗な金髪を優雅にも流していた。

 

 

「っ…お前は…いやお前がっ…!?」

 

 

確かこの世界に来て初めて「殺したいと思った女」、その女は綺麗な金髪をしており、五日前の戦いの一番最後の記憶に焼き付き、名前も知っている女。

この世界に来てからのすべての記憶からあ断片的に情報が汲み取られ、パーツが組み合わさっていくように彼女の名前が出来上がっていき、靄が晴れていく代わりに納得感が満たされていく。

 

俺は「知っていた」その名前を――思わず指さし口にする。

 

 

「アイズヴァレンシュタイン!!」

 

「…?…はい、そうですけど」

 

 

 

そして名前を呼ばれたアイズヴァレンシュタインも、不思議そうに頷いたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「そうか…お前が」

 

「…(こくり」

 

 

ベッド脇の椅子に座ったアイズヴァレンシュタインを俺は全身を舐めるようにして見ながら、話に聞いたその人を観察する。

 

…ただの少女にしか見えない体躯と若さの象徴のような綺麗な肌、そして美しい芸術品のような金髪と容姿。

溢れんばかりの生気と、いい匂い。

 

(――やっぱ殺してぇえええええ!!?)

 

うがぁぁぁぁ、と内心悶絶した俺はアイズヴァレンシュタインの破壊衝動をそそる美少女っぷりに圧倒されていた。

 

性欲も相まってなのかは知らないが滅茶苦茶にしたいという欲求がむらむらと沸き上がってくるのを俺は止めることが出来ない。喉が疼き、手が一人でに動き出す。

 

(…落ち着けぇ俺?)

 

しかしこんなところで手を出せるはずもないし、何ならアイズヴァレンシュタインがただの少女だったとしても今の俺では返り討ちにされる可能性もあった。

 

…俺は性欲やその他もろもろを落ち着かせるため瞳を閉じると大きく息を吐く。

 

 

「どうしたの?」

 

「うおっ!?」

 

 

声を上げると、すぐ目と鼻の先にいたティオナもその声に不思議そうに顔を傾げる。

 

足元にいたはずのティオナがいつのまにか四つん這いの姿勢で近づいてきていた。

目を閉じていたとはいえ全くその動きに、気が付かなかった俺は普通に驚き、胡坐のまま後ずさる。そして思わずむっときたティオナの女の子っぽい匂いに性欲的な危険を感じた。

 

(まずいか!?)

 

勿論股間にまずいかという意味だ…もう既に全たちの状態ではあるのだが。

とはいえこのまま先ほどのように突っ込まれても困る、俺はティオナが次にどう動くのかと視線をやり――

 

「…」

 

――四つん這いの下面、ひどくまっ平らな胸を目にして…だいぶ落ち着いた。

 

 

「…ティオネだったらやばかったな…」

 

「ん?ティオネがどうかしたの?」

 

「いや何でもない」

 

 

気が抜け思わずあくびをした俺は後退しつつベッドに座りなおす。

そしてティオナと充分な距離を稼げたのを確認すると、その場にあぐらをかいた。

 

 

「♪」

 

 

すると真似るようにティオナもその場に胡坐をかいてみせる。

何たるやと俺は一瞬苦笑すると、ティオナに向き合う形で座ることになった。

 

 

「…」

 

 

とはいえすぐに話題は出てこない。そして何か話題提供しようとするより先にティオナから喋りかけられてしまう。

首を傾げたように笑うティオネの声は若干掠れたように「謝った」。

 

 

「ごめんねーあの時助けれなくてー」

 

「ん…?」

 

 

そう言ってティオナは笑いつつ、冗談でもいうかのように謝ってくる。

 

…しかし俺は、若干影のさしたような笑みの意味が解らない。

冗談であるならば謝罪する必要が無い、その上で謝罪するのは後ろ暗いことがあるからだろうか。俺は困惑しつつもティオナのことを観察し、あの時のことを思い出しながら当然のことを当然のように吐く。

 

 

「いやあれは事故だろ?誰がいきなり地面から巨大な花が生えて空に打ち出されるって思うよ、あんな馬鹿みたいな事態で助けるのが無理だわ」

 

「うん…まぁ…そうだよねー!」

 

 

何だか煮えくらない様子のティオナは、言葉の途中からいつも通りの笑顔に戻る。

 

(そんなもんじゃねぇな…)

 

きっと気休めだったのだろう、独りよがりの救済とそれが為しえなかったことへの謝罪。謝らなければ気が済まないから会いに来た…例え本人から悪くないと説明されても、そもそも理屈ではないのだから納得することは無い。

 

…かけるべき言葉を間違えた。

 

空から落下している時に見た彼女の悔しそうな顔を思い出ながら俺は…何だか腹が立つよ、その笑みを張り付けたようなティオナの頭に手を伸ばし――置いた。

 

 

「!?…何を?」

 

「…」

 

 

俺の突然の奇行にティオナは笑みをやめ、目を見開く。

 

…見上げるようにして怯えるようにして尋ねた彼女に、俺は若干イラつきながら返事もせず黙って頭を少し荒々しいくらいに「撫で始めた」。

 

 

「ッ…――……」

 

 

唐突に撫でられ始めたティオナは困惑し、驚愕し、何か声を出そうとしたが――

 

 

「……ぅ」

 

――俺の目を見る、「お見通しだ」と書いてあるそれにティオナは更に目を見開くと恥ずかし気に僅かに頬を赤くする。

そして諦めると顔を伏せ、次第に黙りただ撫でられるのみとなったのだった。

 

…ベッドわきの椅子に座ったアイズヴァレンシュタインの方はバスケットからいつのまにか出したのかじゃが丸君をかじりながら二人の様子を見ていた。

 

 

――暫く時間が経つ。

 

 

あれ、そもそもなんで撫でてたんだっけ?と俺が忘れ始めたころ、ずっと撫でられたままになっていたティオナがついに我慢の限界が来たのかついに爆発した。

 

 

「うがああああああああ!!離れろぉぉぉぉ!!」

 

「おう」

 

 

まるで万歳するかのように両腕を振り上げたティオナの頭から手を離す。

ティオナはそのままの勢いで後ろに倒れこむ…が、その顔が真っ赤になっていることを俺は見逃さなかった。

 

 

「あー、もう…髪めちゃくちゃじゃん…」

 

 

頭を撫でられ続けたせいか、髪がだいぶぼさぼさになってしまっていたティオナは寝転がったまま前髪を弄り始める。その手のせいでその顔は見えないが明らかに赤くなっており…まぁこの年頃の娘になかなか恥ずかしいことをしてしまったのかなと少し思い直す。

 

 

というのを一瞥した俺はふと、アイズヴァレンシュタインの方を見る。

 

 

…とっくにじゃが丸君を食べ終わっていた様子のアイズヴァレンシュタインは、ベッド脇の椅子に背筋よく座ったままぼんやりと部屋の窓から空を見ていた。

その眠たげな顔を見ていたらふつふつと疑問が湧いてきた俺は思わず喋りかける。

 

 

「なぁアイズヴァレンシュタイン…いやなげぇな、アイズで良いか?」

 

「構わない」

 

「あぁ…じゃあアイズ。何で来たんだ?確かにお前華倒したときにいたけど特に俺と交流は…」

 

「ん、疑問があって」

 

 

…疑問?

何か疑問に抱かれるような行動をしただろうか。

 

俺はそれが何かを思い出そうとしつつ…それが何かをアイズに尋ねようと――

 

 

「ところでリョナ君ってさー!…あれ?アイズ話してた?」

 

「うん。でもティオナの後で構わない」

 

「そっかーありがとー」

 

 

――丁度髪を直し終えたのだろう(というかむしろ顔の色を直し終えただろう)ティオナが身体を起こし、俺に喋りかけてきてしまった。

…そのせいで俺はアイズに喋りかける機会を失う。

 

(…まぁ後で良いか)

 

薄くため息をついた俺はティオナに視線を戻す。

すると先ほどのように胡坐をかいたティオナは先ほどとの薄っぺらい笑みとは違う、太陽のような自然な笑みを浮かべた。

 

 

「で――リョナ君って冒険者なんだよね?」

 

「おう」

 

「どこのファミリアなの?」

 

「…ティオナ」

 

 

アイズが少し目を細めて注意するようにティオナの名を呼ぶ。

ティオナはまるで悪事が友達にばれた時のような顔をすると、アイズに人差し指を唇にあてるようなジェスチャーをしてみせた。

 

…確かファミリア間の交流は避けるべきことだったか、ならば今ティオナのしていることはいけない事なのだろう。何故避けなければいけないのかも知らないので、俺は別に構わないが。

 

 

「でー…どこのファミリア?」

 

「ん、ヘスティアファミリアってとこだ」

 

「へー…ごめんね、知らないや!」

 

「あぁ…まぁ弱小だからなー…」

 

 

この町で生活していて解ったのだが、廃教会の地下室に居を構えている神などいない。

…それが何故かはわからないが、まさに極貧だという事だけは解る。

 

弱小、と聞いたティオナはどこか計算するような顔をすると、笑いながら首を傾げた。

 

傾げながら――

 

 

「じゃあさ!ウチに来ない(・)?」

 

「…!?」

 

「ティオナ…!?」

 

 

――とんでもない事を言いはなつ。

 

流石のアイズも驚いたのか俺と同じように目を見開く。

そして完全に固まった時間の中で俺は考えもしなかった「移動」の意味を考える。

 

(というかそもそもファミリア同士って移動できんのか!?)

 

あまり他所のファミリアと関わらないという鉄則と、移籍できるルールというのは状況として稀有だ。

それはあの眠そうな顔をしたアイズの驚愕の表情を見ても解る――

 

――つまりこの娘、なかなか突拍子もないことを言っている。

 

…とはいえアイズの方が驚きは少なかったようで、また瞬時にいつものような眠そうな表情に戻ると、ティオナに疑問がありありとわかる視線を向けた。

 

 

「…何で?」

 

「うーん…気に入ったから?」

 

 

事もなげにティオナは答える。

…思えば最初からすり寄ってきていた感はあるがまさかそういった思惑があったとは流石に思わなかった。

 

 

「でも絶対フィンとかリヴェリアは許さないと…思う」

 

「あー…確かにここに来るのも大反対だったもんねー…うーんそうなったらロキに直談判かなー」

 

「ロキなら…気分で許すかも」

 

「お酒持ってこー!」

 

 

何だか楽し気に会話しているが、俺はそこに混じることは叶わない。

 

ちらりとこちらを見たアイズはすぐにティオナに視線を戻してしまう。

 

 

「確かに体格はいいね…」

 

「そうでしょー?それに顔も良いしー」

 

「…好きなの?」

 

「えそれ本人の目の前で訊くー?」

 

 

…ここだけ聞くとただの女子同士の恋バナだが、その品定める先が俺だからわけない。

とはいえ二人の話していることは仮定のはずなのだが、その口ぶりは何故か「俺がその申し出を受け入れることを前提に」しているように感じられた。

 

それが気のせいと思えなかった俺は…僅かに眉を寄せると「そもそも」に気が付くと、会話に混ざる。

 

 

「そもそもお前たち…冒険者、なんだよな?」

 

「え?なんて?」

 

 

アイズと楽し気に喋っていたティオナは俺の言葉が聞こえなかったらしく、こちらを向くと訊き返してくる。

 

(…冒険者だってのは解ってたな)

 

質問しておいてなんだが冒険者だというのは解っていた、むしろ聞き取られなかったのは僥倖かもしれない。というより、この場合俺が訊きたかったのは――

 

 

「――そもそもお前ら、でいいのか。どこのファミリアなんだ?」

 

「…え?なんて?」

 

 

…。

今度はこちらを向いていたのに聞き逃したらしい、俺はまたも訊き直してきたティオナにやれやれと首を傾げた。

そして今度はゆっくりと、アイズとティオナを順番に指さして言い直す。

 

 

「だからお前らどこのファミリアだ?」

 

「えぇー…なんかマジっぽいし…マジで?」

 

 

どこか卑屈っぽく笑うティオナに俺は反対側に今回は違う意味で首を傾げると、頷く。

 

…するとティオナは目を見開き、「マジでッ!?」と叫び四つん這いになると、言葉の度ににじり寄ってくる。

 

 

「いや私はともかくとして!アイズは!この町で!一番有名な冒険者だよ!」

 

「お?そうなのか?」

 

 

目と鼻の先まで必死ともとれる表情で迫ってきたティオナに俺は頭を掻いて見せる。

俺が覚えているのは前にアイズと会ったことがあったという記憶と、五日前の情報しかない。

 

…そういえば、この前エイナが何か言っていただろうか?全く覚えていない。

 

俺の言葉を聞いたティオナは大きくため息をつきがっくりとうなだれると、また元いた場所に後ずさった。

 

 

「あーなるほど確かに、思えばなーんか最初から躊躇いが無いなって思ったんだよねー…そっかー知らなかったからかー…」

 

「…あぁまぁ確かに興味ない事はとことん興味ないタイプだ」

 

「はぁ…」

 

 

もう一度ため息をついたティオナは今度はなぜかその場に正座する、そしてどこか据わった眼で俺を見ると人差し指で頬を掻いて「んー…どこから」と悩む。

そしてひとしきり悩んだ後、ぽんと掌を打った。

 

 

「じゃあ最初から説明しよう!私たちの所属しているファミリアはロキファミリア!この冒険都市オラリオで1,2を争うファミリアなの!そしてここにいるアイズはこの冒険者で知らない人のいない最強の冒険者!二つ名は剣姫!レベル5!」

 

「へー」

 

「反応薄っ」

 

 

何から何までティオナは説明してくれたようだが、俺としてはそれで?というのが本音だ。

「レベル」というものがどんなものなのかを俺は知らないし、レベル5というのは最初の村付近のスラ〇ムを狩っていれば一瞬で到達できるぐらいの認識しかない。

 

――オラリオ最強の冒険者、『剣姫・アイズヴァレンシュタイン』

 

(レベル5で最強…この少女が?)

 

目の前に座ったアイズを見る。

…剣を振る事も叶わなそうな細腕で、土埃などついたことのないような綺麗な肌だ。

 

(神の加護…ねぇ?)

 

恩恵というのはこのような少女でさえも強化する。

それはベル君のような少年でも「その歳では為しえない」動きをしていたことからも実感済みだ。

 

…最強、というのがベル君と比べどれほどなのかは解らないが。

 

とはいえ俺の無知に呆れたのか「ふぅー…」とため息をついたティオナはベッドに腕をつく。

そして俺の事を眺めるようにしてだらけた。

 

 

「…はー…なんか気が抜けちゃったなー…というかリョナ君そういうのギルド入る時自分の主神なり先輩に教わらなかったの?」

 

「あー…入るのが急でな、入ってすぐに何か数日間開けるとかで教えてもらう暇も無かったんだ」

 

「へー…」

 

 

だらけた状態のテォオナはそのまま生返事をするとベッドにだらりと溶け崩れると、仰向けに寝転がりながら窓の外をぼんやりと眺め、ベッドからはみ出した足をぶらぶらと揺らし始めた。

自由だなー…、というか親友の家に来て何もせずただだらける奴だこれは。まどろみながら彼女は非常に無気力なオーラを醸し出していた。

 

 

「ん?…いや、でも数日間って言っても…あれ?」

 

 

――ティオナの足がピタリと動きを止める。

背筋のみで逆再生のように起き上がると、腕を組んで深刻な顔をする

そしてそのままあぐらをかいたティオナは何かブツブツと呟きはじめると、首を傾げた。

 

…しかし何を悩んでいるのかは知らないがその悩みはどんどんと深まっているらしく、何か呟く度その顔は険しくなっていく。

 

そして耐えられなくなったのか顔を上げると、その険しい顔のまま俺を見た。

 

 

「リョナ君って…何レベル?」

 

「1」

 

「ええええええ!!?」

 

 

もうコイツ驚きすぎて死ぬんじゃないかという勢いでティオナは驚く。

同時に俺は何に悩んでいたのかを内心納得する。

 

(何だ、俺のレベルが知りたかったのか)

 

そして一度のけぞるように離れた後また身を乗り出すように俺に噛みつくがごとく食って掛かる。

 

 

「嘘だぁ!?だってあの華をあんな簡単に…レベル1には無理だって!?私てっきりレベル3ぐらいかと…!!」

 

「いやそもそも…ステータスの更新?ていうのもやったことないんだが」

 

「…!」

 

 

彼女は切り裂き魔の高揚のことを知らない、なので俺が際限なく強くなっていくことを知らない。

もはや嘘にすら聞こえる俺の真実に言葉を失ったティオナはそのまま固ま――

 

 

「いや今はいいや!そのへんもろもろウチに来てから全部聞かせてもらうから!それにレベル1だっていうならむしろ興味湧いたよ、ワタシ!」

 

 

――るような性格ではなく、あくまで笑顔で言い放って見せる。

 

…しかしそこが一番「解せない」俺は腕を組む。

 

 

「というか何で俺がその…ロキファミリアに行くことになってんだ?」

 

「え来ないのッ!?」

 

「おう、断る」

 

 

さも当然、という顔をしていたティオナは俺が首を横に振ると、またずいずいと四つん這いで進行してくると焦ったような表情で詰め寄ってくる。

その剣幕に若干押されるように俺は反対にのけぞった。

 

 

「だって…来たらいいことづくめだよっ!?強い冒険者とパーティでダンジョン攻略できるよ!!?」

 

「…だから?」

 

「だから!安全に、かつ効率よく強くなれるの!それに実入りも良くなる!」

 

 

つまりゲーム開始直後にギルドに入ったら自分よりレベル高い人に補助してもらえるようになるということ。しかもダンジョンの特性上経験値や金も稼ぎやすくなる。

…その点確かにベル君は先輩ではあるが俺よりも弱い、知識面は別として戦闘面で教わることなど何もない。

 

 

「並みの冒険者なら断るはずないよ!こんなチャンスめったにないもん!」

 

「あぁ…まぁそれは何となくわかる」

 

「!…じゃあ?」

 

 

解ってくれたか、というふうに期待の目でこちらを見るティオナに、首を振る。

 

 

「断る、悪いが俺は移動する気はない」

 

「えぇっ…!?…何で!!?」

 

「うーん…簡単に言えば、恩かなぁ…?」

 

「…恩?」

 

 

頷いた俺はあの時、「死にかけていた時の空腹」を思い出しながらティオナを見る。

 

 

「拾ってもらった恩だ、俺は命の恩をまだ返せていない」

 

 

いつだったかちゃんちゃんと言ったかもしれない、しかし命とあんな程度の事は釣り合わないと俺は思う。感謝の念はいつも忘れていないし、家の中に入れてくれたヘスティアにも感謝をしていた。

 

…だというのに「あっちの方が金払いがいいからバイバイ」など出来るはずもない。

 

 

「…」

 

 

理由がある、そう告げられたティオナは少し残念そうに顔を伏せると「そっかぁ…」と呟く。

その様は告白を振られた少女のように暗く、悲しげなものだ。俺は思わず声をかけたくなる衝動に襲われるが、それでは諦めもつけさせてあげられないだろうと止める。

 

そしてティオナはがっくりとうなだれた姿勢から――

 

 

「でも…その恩を返し終わったらいつでもウチに来ていいからね?」

 

「!?」

 

 

――潤んだような蠱惑的な表情で俺を見上げ、震えた声で囁いてくる。

 

いつもとのギャップ、誘惑するようなその表情に俺は思わず少女の顔に女性的な艶を垣間見て焦る。

 

(不意打ちやめ)

 

そして胸の動悸が治まるのを待つと、全くもって股間に悪いとため息をついたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

数秒後、すぐにやる気の満ちた顔に戻ったティオナは再びいつもの明るさを取り戻すと、立ち上がりガッツポーズを出しながら宣言する。

 

 

「うん、私はあきらめないよ!リョナ君の気が変わるまで声をかけ続けるからね!」

 

 

…どうやら面倒くさい方向にやる気を出すようになってしまったようだ。

そして「えいえいおー」と一人でかけ声を出しながらティオナは、めらめらと燃えるようなオーラを出しながら、その場で拳をッ天にッラオウし始める。

 

暑苦しい少女の熱気に顔を焼かれる思いで俺は顔を背けると、思わずアイズの方向を見る。

しかし熱気にあてらながらアイズは全く顔をそむけてはいなかった。

 

 

「…ティオナ。話、終わった?」

 

「あ、終わったよー!…うおおお、わが生涯に――」

 

 

ティオナの言葉にこくりと頷いたアイズは今度はその眠そうな顔をこちらに向ける。

そして髪の色と同じ金色の眼で俺の事をじっ…と見つめた。

 

 

「…」

 

「…なんぞ?」

 

 

ピクリとも動かないアイズはそのまま黙ってしまいそうだったが、割とすぐにまた口を開いた。

 

 

「…」

 

 

…口を開いた。

 

 

「…」

 

 

――口を開いた。

 

 

「…」

 

(何か喋れよ!!?)

 

 

アイズは、口を開いたまま喋らない。

何か訊きたいことがあったのではなかったか?と言っていた彼女が「何もしゃべらない」という事態に困惑する俺は思わず呆れた顔をする。

 

(…何で何喋らない?――!?)

 

しかしそこで終わらない、アイズは口を開いたまま混乱したのか腕を振って何かを表現するかのように――創作ダンスを始めた(・)。

 

 

「…!」

 

 

アイズは腕をビュンビュンとしならせるように動かせたり、指をわしわしと動かしたりする。そして何かを思い出すかのように遠い目をしながら、おかしなダンスを繰り返していた。

 

どこか笑えるその動きではあるのだが、目の前のアイズは至って真剣だ。

俺を見つめるその眼はやはり何か考えつつ、俺に何か伝えようとしているようだった。

 

(…えぇー…)

 

その動きに何か意味があるのかと、観察はしてみるが何も意味があるようには見えなかった。

 

…あえて言うなら蜘蛛がわしゃわしゃと動いた後に宇宙までぶっ飛んでいき、そこで小規模の爆発を起こしているように見えた。

 

――なんにせよそんな哲学は俺にする質問ではない。

 

 

「…ビューン、ギュルギュル」

 

 

ついに擬音が。

しかしある意味でそれは彼女の考えがまとまってきているとも言えた。

 

(…最初からまとめてこいよ、何だこの時間は?)

 

――天然、なのだろうか?

 

 

「…ズバッ…いやズビシュッ…?」

 

「何だその擬音…ってもしかして攻撃音か?」

 

「…うん」

 

 

どうやら合っていたようだ…ズバッやズビシュッは日常的な擬音ではなかなか使われない。

 

俺の言葉にアイズは少女のようにこくりと頷くと、ダンスっていた腕を下す。

そして今度は腕は上げずに少し考えると、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 

「…あなたの武器…グローブ?…見たことがある…」

 

「…おう」

 

「気になる」

 

 

――俺の武器が気になる。

 

なるほど確かにあれはこの世界には無い技術が使われているわけだし、こちらの人間からしたら非常に興味を引くだろう。

…思えば初めてベル君に見せた日の夜には使わせてあげたんだったか、あらぬ方向に飛んで壁に穴が開いたのは良い思い出だ。

 

そしてアイズもどこかで見て興味を抱き、今日そのためにここに来たということだろうか。

全く表情を変えないままアイズは先ほどの動きの一部をもう一度繰り返す。

 

…「ビューンギュルギュル」、今となればアイズの言っていたことが解る。

つまりそれはグローブから棘が射出され、戻っていく擬音だったのだろう。

 

最初からグローブと言っていれば万事解決なのでは?というのは天然ということで納得がいく。

 

 

――そしてアイズは今度はその美しい腕を伸ばした先で、その中間つまり「腕」を指さし、首を傾げた。

 

 

「…糸?」

 

 

射出巻取り共にかなり高速なため中々目が良くないと捉えきれないワイヤーだが、ただ一般人にも「何か飛んできている」ぐらいは解る。

しかしそれが「糸」だと言い当てたのは今まで誰一人いない、俺は少し驚きつつも頷いた。

 

 

「あぁそうだ。だが見せた方が早いな…ティオナ」

 

「え?何?」

 

 

そして視線をそのまま雷に打たれそうになっていたティオナに送ると、くるりとその場で振り返る。

…その顔が一瞬彫りの深い顔に見えたが、またすぐにいつもの笑顔に戻っていたからきっと気のせいなのだろう。

 

俺はティオナの後方を指さす。

 

 

「そこの机あるだろ?」

 

「あぁこれ?」

 

「おう、そこの一段目開けてくれ」

 

「ほう私をあごで使うとは…」

 

「また頭でも撫でてやろうか?」

 

「いらなーい!」

 

 

そう笑うとティオナはまるで飛び立つかごとくベッドで反動をつけぴょんとジャンプし、低い天井でもないのにかかわらずくるんと縦に一回転すると着地する。

ぎしりと床を鳴らした彼女はそのまま数歩進み机の前につくと、一段目の棚に手をかけスパンと開け、その中身を見るや否や目を輝かせた。

 

とはいえそこで遊び始めるのは良くないと思ったのか割とすぐに中身を手に取ると、軽くふみこみまた跳躍。

ティオナの身体はぽんと跳ねると、空中を移動しそのままベッドの上に落ちてきた。

 

 

「お待たせー」

 

「おう」

 

 

そしてあぐらの姿勢でぼふんとベッドを揺らしたティオナは、手に持っていたグローブを俺に手渡した。

 

黒鉄でできたグローブがかちゃりと鳴ると、俺の手の上に慣れ親しんだ重みが乗る…重すぎず、軽すぎない。

手に取ったその感触に俺は落ち着きつつも、早くも覗き込んでくる興味津々といった感じのアイズにもよく見えるように突き出した。

 

 

「…全部鉄でできたグローブ?」

 

「持ってみるか?」

 

 

頷いたアイズにグローブを渡す。

チャキリと鉄の触れ合う音とともにアイズの小さな手の平にグローブが置かれ、僅かに重みで彼女の手が下がった。

 

 

「…」

 

 

アイズはグローブの重みを確かめるように軽く放り、摘まむように下から見たり、眺めるように駆動部を遠ざけて見た。そして第二関節に当たる辺りを折り曲げ――ひび割れた関節の隙間から現れた返しの付いた棘を見て「おぉ」と子供のような純粋な声を上げた。

 

 

「私にも見せてー…おぉ」

 

 

覗き込んだティオナも同様に声を上げる。

 

鉄でできたグローブの陰から生えているその鋭い棘はどこか異物であり、奥まったように収納されたそれはこの世界の技術力では想像できないものだっただろう。

アイズは指の部分を伸ばしたり曲げたりすることでその棘が出たり入ったりするのを見て、その眠そうな目を少し輝かせて見せた。

 

 

「…」

 

 

そのままアイズはガチャガチャとグローブをいじり、ティオナはベッドから興味津々といった様子でそれを眺める。

 

 

「ん…」

 

 

…どうやらアイズは「糸」を探しているらしい。

全体を眺め、収納されたワイヤーが外からでは見えない事を知ると少し不満そうな顔をした。

 

 

「…つけてもいい?」

 

「あー…先にちゃんと動くか確認していいか?前の戦闘で壊れてるかもしれないしな、グローブ貸してみ」

 

 

こくりと頷いたアイズからグローブを受け取ると、久しぶりに指にはめる。

 

…グローブの中のメッシュの感触がさわさわと伝い、指を一度大きく折り曲げると関節部がガチリと噛み合うような音がした。

内部構造は五つのリールのような器官とそれに巻き付く極細ワイヤー、そして射出と巻取りを兼ね備えた圧縮機が個別に搭載されていた。

射出方法は関節部にある「くぼみ」を軽く押しながら指を曲げるだけ、そうすれば俺が作った圧縮機が急速で圧縮をはじめ、棘が尾のようにワイヤーを引きながら人の目では捉えきれない速度で射出される。

 

…可能にしたのはひとえに素材だ。極限まで軽くした鉄は良く跳び、硬度もある。

扱うのは難しいが技術さえあれば人の身程度容易く裂ける。しかし棘だけは誰が扱っても鉄程度の硬度であれば突き刺さる。

 

つまり――あまり子供に持たせていいものではない。

 

特にどこも壊れていないことを確認した俺はグローブを外しながら、どうやってワイヤーを射出すればいいかを説明する。

 

 

「えーと、はめたらくぼみがあると思うからそこに関節を当てて指を曲げれば勝手に射出されるぞ」

 

「へー…?」

 

 

俺が関節のあたりを指さしながら説明すると、感心したようにティオナが声を漏らす。

そしてアイズもこくんと頷いたのを見ると俺はグローブの甲辺りを指さしながら、そこにうっすらと書かれた「ライン」をなぞる。

 

 

「ここ解るか?だいたいこのラインに沿って飛んでいく、勿論殺傷能力はあるわけだから絶対に人に向かって撃つなよ?いいな?」

 

「うん」

 

 

若干色が薄いようなそれをアイズは見つけると、指でなぞるように示した。

そして俺から差し出されたグローブを受け取ると、もう一度甲のラインを見つめ、左手の方を膝に置き、右手の方のグローブを――

 

 

「…」

 

 

――恐る恐ると言った感じにはめた。

 

 

「…?」

 

「ど、どんな感じ?」

 

「変な感じ…」

 

 

少女の右手には黒鉄でできたゴツゴツとしたグローブ。

まるでそれは変生、美しい腕の先だけがまるで鬼の手になってしまったように醜悪だった。

 

メッシュ素材などこの世界には無いだろう。

さらさらとザラザラを併せ持ったようなその感触に戸惑った顔をしたアイズは、グローブを顔の隣まで持っていき困ったような視線を送る。

 

…そしてカチャカチャとグローブを回しながらひとしきり観察すると、今度はその視線を俺に送った。

 

 

「…」

 

「あー…」

 

 

アイズの意図を理解した俺は、周りを見渡してみる。

そして良い「的」を見つけると、アイズに視線を戻し指をさして教えた。

 

 

「あそこ狙ってみ」

 

 

俺が指さしたのは部屋の天井の一角。文字通り部屋の隅のそこは若干影になっており、少しくらい穴が開いても目立たなさそうだ。

…少しずれても問題がなさそうなくらいには。

 

 

「…」

 

 

俺の言葉に頷いたアイズは関節のあたりを俺の指さした部屋の隅に向ける。

目が細まり、ゆっくりと狙いを定めるかのように黒い鉄のはまった指の先がゆっくりと動いていった。

 

そして人差し指がガチリと曲がり――

 

 

『ギューンッ!ガツッ!!』

 

「ッ!…はずれた」

 

「いや初めてにしては上出来だ」

 

 

――射出された棘はワイヤーを引きながらまっすぐに天井の角に向かっていった。

 

しかし途中で重力の影響で棘の先端は僅かに下を向き、軌道がずれる。そしてそのずれはやがて大きいものになり、角のかなり下の方に突き刺さった。

 

 

「そこから指をまっすぐにして、もう一度曲げると巻き取れるぞ。だが先に棘を引き抜いてからの方が効率が良いな」

 

「うん」

 

 

…とはいえまずはワイヤーの方が気になるらしい。

アイズは自らの指から生えたようなワイヤーを不思議そうに見つめると、光にかざしてみたり目を細めて見たりと観察する。

 

 

「…これ、触ってもいい?」

 

「ん…気をつけないと指ぐらいなら簡単に切れるからやめておいた方がいいぞ…爪なら弾けるかもしれんが」

 

 

そう言ってやるとアイズはさっそく自らの爪をワイヤーに引っ掛けてみる。張り詰めたワイヤーはまるで弦のようになっており、アイズがつま弾くと僅かに揺れた。

 

 

「…硬い」

 

 

それで解るものなのかと言いたくはなるが、この世界毛糸はあっても鉄の糸は無いのだから比較すればそういう感想になるだろう。

 

 

「鉄の糸…」

 

 

…とはいえひとまず観察し終えたのかアイズは呟くとぐいと腕ごと棘を引く抜く。返しがあるので結構な腕力が必要なはずだが、アイズは容易くぽんと棘を引き抜きそれに合わせるようにして指を曲げワイヤーを巻き取る。

…まさに「ギューン、ギュルギュル」高速で巻き取られたワイヤーは中のリールに、棘はガチンと内部機構にはまりその頭部が見えるだけとなった。

 

ちなみに肉体に棘が刺さった状態で巻き取ると激痛が走り、肉ごと抉る構造になっているのだが、天井の壁の方は小さな穴が開いた程度で済んだようだ。

 

――そして俺の注意がそちらに逸れたタイミングで今まで黙っていたティオナの我慢が限界に達する。

 

 

「…私もやるー!」

 

 

…と、ティオナはアイズの膝にのせてあった左手用のグローブを手に取る(というか奪う)と、自らの手に装着する。

そして俺の抑制も間に合わず、構えると同じように天井の一角を狙い思い切り指を引いた――

 

 

『ギューンギューンギューンギューンギューン!』

 

「あっ…」

 

「ちょっ!?」

 

 

――指五本全部。

 

全部の指から射出された棘はそれぞれの方向に飛んでいき、部屋の中の様々なところに穴を穿つ。

蜘蛛の巣のように張ったワイヤーはどこか芸術作品のようにベッドに座ったティオナから張っていた。

 

 

「えへへ…ごめんごめんついつい握りしめちゃった…すぐ戻すから!」

 

「ごめんで済むか…ってオイ!待て!」

 

「え」

 

 

照れくさそうに笑ったティオナが棘を抜くために腕を「ぐい」と引く。

 

しかしそのやり方では棘に抜ける力がまっすぐかからない、例えばアイズのように棘が一本だけならばワイヤーから垂直に力がかかるので言うなれば正しく抜ける。

だがワイヤーが五本で、棘も五本となると正しく力が加わらずに斜めの力が加わってしまう棘が必ず存在してしまう。

 

そしてなまじ返しが付いているぶん――

 

 

『べりりっ!』

 

 

――棘と共に壁紙が少なからず引き裂かれ、更に大きな穴が開いた。

 

 

「…」

 

「…」

 

「…ってへ」

 

 

流石に俺も頭を抱える。ここは借りている部屋だというのに、こんな傷をつけてしまったらエイナがどこまで怒るか…想像もしたくない。

 

ティオナは慌てたように棘全てを巻き取ると、その全ての棘をガチンとグローブの中に戻す。

その衝撃で棘の先についていた木片が完全に落ちたのを確認したティオナは助けを求めるようにアイズの方に向く。

 

しかしアイズの方も呆れた視線をティオナに送っており、その眉は咎めるように八の字を描いていた。

 

…もはや救いもなく、どうすればいいかも思いつかないティオナは俺の方を恐る恐る見てくる。

 

――怒りの視線を送り返した。

 

 

「お゛ぉ゛い゛ティオナぁ…」

 

「ひゃいっ!?」

 

「とりあえず返せ」

 

 

ぶんぶんと首を縦に振りながらティオナは慌ててグローブを外し、手渡してくる。

俺は片手だけのそれを受け取ると、返し手で――『ゴツン』と拳骨をいれる。

 

 

「いったぁい!」

 

「反省しろ!」

 

 

ティオナが頭頂部を抑えてうずくまる。

昭和的拳骨はアマゾネスにも効果的だったらしく、うぅー…と唸るのみとなった。

 

(…しかしどうしたもんか…いやこれどうすることも出来ないですねぇ、怒られるしかないっぴ…)

 

俺は部屋の惨状を眺める、そしてもはや修復は不可能だと知った。

…逃げることもできなければ、抗うことも出来ない。もはや鬼神エイナの召喚条件はそろってしまっていた。

 

 

「はぁ…」

 

「うぅ…ほんとごめんねリョナ君」

 

 

思わずため息をつくとティオナは涙目のまま謝ってくる、ガサツな性格少女は本当に反省したようでいつもは笑みを絶やさない顔を俯きがちにしゅんとさせていた。

 

――とはいえそれも一瞬で、またすぐに笑顔に戻る。

 

俺の持っているグローブをちょいちょいと撫でるように人差し指で触ると、何か気になるのか首を傾げた。

そしてずいずいとあぐらをかいたまま擦り寄ってくると、見上げてくる。

 

 

「ねぇねぇリョナ君!」

 

 

一転攻勢、というかあまりに急な雰囲気の変わりように俺は本当に反省したのかと疑いの目を向ける。

そしてその視線に気が付いたのかティオナは流石に「たはは」と気まずそうに頬を掻きながら笑うと…そのままの指でグローブを指さした。

 

 

「このグローブってさ、なんて名前なの(・)?」

 

「――は…名前?」

 

「うん、まぁそもそもこれがグローブなのかはさておき。ただグローブって呼ぶ以上の愛着はあると思うんだ!」

 

 

名前。

それは時に愛着ある道具や生物につける言霊で、ものを識別するためにも使う。俺の中でグローブといえば「これ」だったので特に意識していなかったが、愛着ならば確かにあった。

 

それにかの名刀村正やゲイボルグとか、考えたこともなかったが名前がある武器というのは少しカッコイイかもしれない。

 

 

「でぇー…名前は?」

 

「…ねぇな」

 

「えー!?もったいないよー!つけようよー!」

 

「まぁ…それもいいかもしれんな」

 

 

…吾輩はグローブである、名前はまだない。なぜならばつける必要が無かったから。

とはいえつけるからにはどんな名前をつけたのものか…名づけの経験など無いし、どう考えたらいいかもわからない。

 

 

「じゃあ私も一緒に考えてあげるね?」

 

「ん…まぁいいか。頼む」

 

「わーい」

 

 

戦力が加わる分には良いだろう、俺は元気よく手を上げたティオナを一瞥すると腕を組んで考え始める。

 

 

「…んー…何も思いつかん」

 

 

五分ぐらい経っただろうか…なかなか思いつかずただただ時間だけが過ぎているような気がする。

 

気分転換がてら俺は目の前で同じように考えている様子のティオナに視線をやる。

俺の視線に気が付いたティオナは真似なのか腕を組み「んー」と悩むように声を漏らすと、顔を上げて目を見て提案してきた。

 

 

「ん、黒王号とかどう」

 

「いや馬じゃないし…」

 

「え何の話?」

 

 

そういって本当に不思議そうな顔をするティオナを見た俺は「いやいい…」と呟く。

 

「良いと思ったんだけどなー」と呟き顔を伏せるティオナに俺はもう何も期待しないことに決めてまた考え始める。

そして幾分間頭に思い浮かんでくるフレーズを組み合わせ、ティオナに提案してみた。

 

 

「血吸篭手…いや血吸い蝙蝠じゃないし…全テ切リ裂キ貫ク妖手なんてどうだ?」

 

「うん、クソださい!」

 

「そっかー」

 

 

…まぁ多少自覚はあったのだがダサかっただろうか?もう半分くらいはカッコイイと思っていたのだが。

 

 

「…っつってもどうすっかな…」

 

「あ、サウザーとか」

 

「なしで」

 

 

とはいえ何も思いつかない。

…名前をつけるのがこれほどまでに難しいとは思わなかった。

 

(特徴…特長なぁ)

 

例えば炎の出る剣ならば焔、とか紫炎だとかは俺でも思いつく。

 

しかし棘を飛ばすグローブを表現する言葉など存在するわけもなく、そう簡単に易々と表現することもできない。

 

 

「…うーん」

 

「…うーん」

 

「…ん?」

 

 

その時、今まで会話に混ざらず自らの手についていたグローブを見ていたアイズは俺とティオナの二人が悩んでいる様子であるのを見ると、何事かといったふうに首を傾げる。

 

すると悩み腕を組んでいたティオナは「あ」と呟き、腕を解くとベッドについて身体を支えるとアイズに笑いかけた。

 

 

「アイズならさー、どんな名前つけるー?」

 

「…なにに?」

 

「話聞いてなかったの?それだよそれそれ!」

 

 

ティオナがグローブを指さすと、アイズは自らの手にはまったそれを天にかざすようにして眺めはじめた。

 

…一応考えてくれているようだ。

 

 

「ぎゅーん…」

 

「!?」

 

 

――そしてアイズは見上げたグローブを見ながら唐突にそんな単語を口にする。

 

(…なんだ、嫌な予感が…!?)

 

たったそれだけの単語にかかわらず、それが耳に入った俺は背筋が固まるような不安感を抱く。理由の解らないそれに俺は、アイズは天然で何を言い出すか解らないというのが恐怖心を煽っているだけだと自分に言い聞かせると落ち着こうとする。

 

しかし――

 

 

「ぎゅるぎゅる…ぎゅるぎゅる…?」

 

「!?」

 

 

――追い打ちのように擬音が追加される。

 

更に増した俺の不安感はもはや留まるところを知らず、冷や汗が垂れる。

もはや何故自分がここまで狼狽しているのか解らない俺は、その少女を止めなければという思いにすら駆られた。

 

 

…しかしそんな心の叫びなどつゆ知らず、アイズは暫く何度かその言葉を繰り返すと、「ポン」と掌を叩いた。

何か思いついたらしく、彼女にしては珍しく微笑んで。

 

 

「『ぎゅるぎゅる丸』はどう?」

 

「!?」

 

「あーいいじゃーん、可愛いー」

 

「!?」

 

 

――ぎゅるぎゅる…丸?

 

擬音を名前に使うというのは新しいとは思うが、あまりカッコイイ名前とは思えない。

それを聞いたティオナは目を輝かせ「可愛い」なんて言っているが、大の大人が持っているグローブの名前がぎゅるぎゅる丸というのはなかなか気恥しいものがある。

 

…それに愛着があるからこそ、もっとましな名前は無いものかと。

 

 

「いやぁ…男でそれは…」

 

「えー…でも他になんかあるの?」

 

「む…それは…」

 

 

確かに他に何か代案があるわけでもない。

それにある意味このグローブを表現する言葉を(擬音ではあるが)取り入れているわけで…。

 

 

「じゃあ決定ね!異論は認めない!」

 

「えぇ…」

 

 

俺が結論を出す前にティオナに強引に決められてしまう。

その目には「いいでしょ?」と書いているようであり、その性格強引な性格は俺も別に嫌いではない。

 

…まぁもう少し良い名前でも良いと思うが。

 

(ぎゅるぎゅる丸…か)

 

突如としてつけられた自分の武器への名前を俺は口の中で反芻する。

 

そして――諦めと共に自分の中でも決定すると、晴れてぎゅるぎゅる丸はぎゅるぎゅる丸となったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…でも、これ、どうやって斬ったの?」

 

「あ?どういう意味だ?」

 

 

アイズは右手から外し、膝の上に置いた、ぎゅるぎゅる丸を見ながら俺に尋ねてくる。

 

 

「糸で斬る…?」

 

「あー…なるほど貸してみ」

 

 

糸で斬る、これは別にこの世界じゃなくても理解が追い付かないときがあるだろう。

 

俺はアイズから差し出された右手のぎゅるぎゅる丸を受け取ると、はめる。

そして左手も同様にはめると、馴染ませるように指を動かした。

 

 

「…何か切るもの…ティオナ」

 

「え!?私斬るの!?」

 

「いやそういう意味じゃなくてだな、何か無いか?」

 

「あぁそういうこと…なら」

 

 

勘違いの溶けたティオナは、アイズの持って来ていたバスケットの中身を漁ると中からリンゴを取り出す。

 

 

「これでいい?」

 

「あぁそれでいい」

 

 

いつだったかエイナにも同じようにリンゴで説明したんだったか、真っ赤なリンゴを受け取った俺はしみじみとそれをベッドの上にのせる。

 

そして右手第二関節の棘を摘まむと引っ張り、ワイヤーを引っぱりだすとリンゴに当ててすっぱりと切った。

素手で触れば返しで怪我する棘だが、グローブでなら触ることも出来るし引っ張り出したワイヤーを包丁代わりにも最悪できる。

 

 

「見ての通りこのワイヤー自体でもかなりの切れ味はある、だが一直線に飛んでいく棘ではこのワイヤーを当てることは出来ない…そういう質問だよな?」

 

「うん」

 

 

直線で進むなら相手に棘が刺さるだけ、しかしこの前のリョナは棘を刺すわけではなく最初から切断していた。

 

しかしそれは――針が直線でしか進まないのならばの話だ。

 

俺はふー…とため息をつくと半分になったリンゴを左手で放り投げる。

 

 

「ふッ!」

 

 

そして解りやすいように、右手でワイヤーを射出するといつもより大きめに腕を振った。

 

 

「!」

 

 

勿論そんなことをすれば針はまっすぐに飛んでいかない。

途中で軌道を変えた針は曲線を抱き――

 

 

「!?」

 

 

――その曲線がリンゴを真っ二つに切り裂いた。

 

 

「どういうこと…?」

 

「あぁー…その前にティオナ、悪いんだが落ちたリンゴ拾ってくれないか?」

 

「えぇー…解ったけど」

 

 

四分の一となったリンゴの切れ端二つは空中で弾き飛ばされ、一つは遠くへ、もう一つはベッドの下の方へ転がっていってしまっていった

俺が笑いかけるとティオナは渋々と言った感じで落ちたリンゴを拾いに行ってくれた。

 

それを確認した俺は改めてアイズに向き直ると、説明を始める。

 

 

「つまりわざと軌道をずらしてんだ」

 

「わざと…?」

 

 

――直線を放物線にする、と言えばわかるだろうか。

 

わざと軌道をずらし、たゆませることで途中の線をたゆませることで擦るように目標物に触れさせる。しかしその際勢いはあるので接着面は切断できる。

詳しくは無いが鞭に基本的なところは近いだろうか、ただこちらの場合は射出機があるので勢いがつくので完全な放物線にはならずに確実にワイヤーが目的のものに擦れるようになってはいるが。

 

 

「…?」

 

「あー…」

 

 

とはいったもののアイズがそれで理解するはずもない。

俺はもっとかみ砕いて説明できないものかと考える。

 

 

「…こう…こうだ」

 

「こう…?」

 

「いやもっと…こうっつーか」

 

 

言葉ではなかなか伝えづらいので腕で説明を始める。

腕をまず直線に伸ばしていき、その途中で曲げてみると、アイズも同じように腕を動かす。

 

…天然のアイズにはこちらの方が伝わりやすいだろう、と思ったのだが。

 

 

「こう?」

 

「あぁー!そうそうそれそれ!」

 

 

実際伝わったらしくアイズは腕をギューンと伸ばす。

そして「なるほど…」といった感じに頷く。

 

 

「これで疑問は解消されたか?」

 

「あ…うん。…そういえば、前ベートの縄を切ったのもそれ?」

 

「べーと?…いやスマン、解らん」

 

 

べーと、というのが何なのかは解らないが、ともかくアイズの疑問は解消されたらしい。

どこか満足したような顔をしたアイズはムフーとため息をつくと、ふと眠そうな目で俺を見る。

 

 

「…ちょっと欲しいかも」

 

「マジでかッ!くくく…笑える…」

 

「…本気」

 

 

アイズは少しむっとした表情で俺を見つめてきた。

しかしどう考えても冗談としか考えられない俺は、笑いながら真面目に応対してあげる。

 

 

「うーんそもそも扱いが難しい…てのは練習すれば何とかなるが、すまんが今の俺にはこれをもう一回作れるだけの設備と素材が無いんだ、諦めろん」

 

「…解った」

 

 

どこか不機嫌な様子のアイズは、渋々うなずく。

しかしそもそもこれは――

 

 

「――というか剣との両立はなかなか難しいと思うんだが」

 

「…まぁ、確かに」

 

 

純粋に射出する棘として使うのならばまだしも、剣を振るいながらワイヤーを制御するには――鉄を操るでもしない限り、不可能だろう。

 

 

「…ま、そんなことできんが」

 

 

魔法なんてものがこの世界にはあるらしいがそれを使えばワンチャンあるが、今のところ俺には発現していない。

 

呟いた俺はぼんやりとぎゅんぎゅん丸の改善を考える。

 

(腹減ったなぁ…)

 

そういえば昼頃だ、『グルル』と腹が鳴ると空腹を覚える。

 

やはり体が治ってきているからか…空腹感も増している、腹の騒音もそれにつられてか大きくなっていた。…ちなみに性欲はわずかに後退しただろうか、息子のほうはあいかわらずだが身体の火照りは会話に集中していたからか治まってきていた。

 

(…こいつらいつ帰るんだろ)

 

暇なのでいてくれる分には問題は無いが、用事はもう済んだように思える。

俺はアイズの虚空を眺めるようなぼっーとした表情をちらりと盗み見た。

 

…と、腹が再び『ぐー』と鳴った。

 

ひと際大きいその音はまるで魔物の唸り声のように、低く俺の空っぽな胃袋で響いた。

一瞬アイズがこちらを見たが腹の音だと解ると興味を失ったようにまた呆け始めた。

 

(あぁそういやリンゴあったな)

 

俺は足元で転がっていたリンゴを軽く掴むと放り投げ、まるごと口で受け止めた。

 

 

――『ゴチンッ!』

 

 

足の下から鈍い音が響く、そういえばリンゴの片割れの片割れがベッドの下に転がっていったのだった。つまりそれを拾いに行ったティオナは今ベッドの下に潜り込んでいるという事なのだろう。

 

…その鈍い音がなんなのかは知らないが。

 

 

「…ん?」

 

 

次いでゴロゴロと何かが転がる音がベッド下から聞こえた。

本格的に何をしているか訝しんだ俺は、ポンポンとベッドを叩く。

 

そして暫くごそごそという音が続いた後、「いたぁぁぁぁい!!」とベッド脇からティオナが立ちあがった。

 

 

「というか今ここにモンスターいなかった!?」

 

「あぁそれは俺の腹の音だ」

 

「でかすぎッ!頭打ったじゃん!」

 

 

たんこぶのできたティオナは不機嫌な顔でむくーと膨れると、腰に手を当てて怒って見せる。…その右手には片割れの片割れが二つ握られている辺り、しっかりとリンゴは回収してくれたらしい。

 

 

「リンゴくれ」

 

「え、いいけど…落ちたやつだよ?」

 

「三秒ルールって知ってるか?」

 

「知らないけど三秒以上は経ってることは…あっ」

 

 

ティオナから差し出されたリンゴを受け取った俺は軽く汚れを払うとためらわず口にする。

…みずみずしい果実はシャクシャクと甘みを含み、果汁を滴らせて俺の喉ごと潤していった。

 

 

「もー!お腹壊しても知らないよー?」

 

 

そう言ってティオナは可愛らしくも怒る。

 

そういえばてっきり(発育的に)ティオネの方が姉と思っていたが、どこかティオナのこの世話を焼くのに慣れている雰囲気は姉に近いものがある。

 

…つまり合間をとって双子――

 

 

「ティオナそろそろ帰ろう…その紙どうしたの?」

 

「あぁ何かベッドの下に落ちててつい拾っちゃった」

 

 

――ティオナが左手に握っていた紙切れをアイズは見つける。

 

笑いながらティオナは軽く見せびらかすようにその二つに折りたたまれた紙切れを振って見せる。

 

 

「んっ…?」

 

 

思わずつられるようにして、何故か俺も笑ってしまう。

ティオナの持っているその紙はベッドの下にあったにも関わらず綺麗な白色をしていて、その真っ二つに折られたその紙片からして中に何か「書かれている」ことを伺わせた。

 

(あれーどこか見覚えがあるゾー…?)

 

というか、見覚えしかない。

 

 

 

あれは――間違いなく、俺がふざけた内容の練習をした封印指定の紙切れだった。

 

 

 

「あれ?中になんか文字書いてるよ?」

 

「ちょーーーっと待っ…ゴホッゴホッ!!?」

 

 

勿論のごとくティオナはその紙を開こうとする。俺は慌ててそれを止めようした…が、肺に障ったようで痛みが走り、せき込んだ。

 

 

「わ、リョナ君大丈夫?…大丈夫っぽいねー!えー何々―…?」

 

 

俺はせき込みながら止めようと腕を伸ばす、しかし伸ばした先のティオナがそのたった一行を見るなどという至極簡単な出来事を邪魔することなど叶わない。

 

 

「待っ…ゴホッゴホッ!?」

 

 

ティオナがゆっくりと紙を開いていくのが見える。

もはや万事休すか、読まれてしまったならしらばっくれるしか――

 

 

『バタンッ!』

 

 

――勢いよく扉が開いた。

 

三人の視線が否応なしにそちらに向き、僅かに殺気すら放つ。

その場所に立っていたのは――ツインテールロリ女神ヘスティア。

 

扉を開け放ったままの姿勢で、どこか神威すら漂わせたような彼女は雰囲気からして明らかに憤怒していた。

 

 

「リョナ君!聞けば君エイナ嬢に大変な無礼…を…?」

 

 

どこで聞いたかは知らないが(というかアイツ吹聴…してるわけないか)ヘスティア様は、どうやら俺がエイナにしたことに対してお怒りらしい。そして怒りそのまま俺の部屋に直行して叱りつけようとしたのだろう。

 

――しかし入ってくるなりの怒号は尻すぼみするかのように縮んでいき、憤怒の表情は驚愕と唖然といった感情に塗り替えられていった。

 

 

「き、君は…アイズヴァレンシュタイ何某!?」

 

 

その理由は部屋の中にいたアイズ。…いやアイズヴァレンシュタイまで言ったのならわざわざ何某をつける必要はあるのだろうか、意地だろうか?

 

一度見たら見間違えることのない金髪美少女を前にヘスティアは、まるで天敵でも見つけたように臨戦態勢をとる。それに対してアイズはキシャ―と威嚇する神様に不思議そうな眠そうな視線を送っていた。

 

 

「それにロキファミリアの…!?リョナ君!一体これはどういうことだい!?」

 

「お見舞いに来てくれたんすよ」

 

「お見舞い!!?」

 

 

お見舞いという単語にまるで世界の終りでも見るがごとく驚嘆するヘスティアはオーマイゴッド!と天を仰ぐ。…仰ぐ必要があるかは疑問だが。

 

ヘスティアは大いに嘆いた後、再び憤怒の視線で部屋を見回し、俺の事を見据えると本来の目的を思い出したがごとくツカツカと歩み寄ってくる。

そして胸倉を掴まん勢いでベッド脇に立つと、致命的な欠陥を発見したかのような「問題視」をしてきた。

 

 

「…リョナ君、君には常識が足りない」

 

「いやお見舞いのシステム解ります?別に俺が呼んだわけじゃ…」

 

「うるさいよ!そもそも君は最初からだな!」

 

 

何の因縁があるのかは知らないがどうやらヘスティア様はアイズのことが嫌いらしい、あからさまに彼女のことをみてから不機嫌そうなむくれた顔をしていた。

そしてその不機嫌な感情は八つ当たりのように俺に向いており、もともとの説教魂に火をつけてしまったらしい。

 

 

「あー…長くなりそう。邪魔しちゃ悪いしそろそろ帰ろっか、アイズ」

 

「うん」

 

「あっお前ッ…!?」

 

 

明らかに面倒くさそうなヘスティアにティオナは逃げるようにたははと笑うと、頷き立ち上がったアイズとともに部屋の出口に向かう。

しかし先ほどの紙の件が片ずいない、慌てて俺は歩き去るティオナを止めようとする。

 

 

「ん?…あぁじゃあ明々後日ぐらい豊穣の女主人とかで食べようよ、待ってるからー。じゃあねー!」

 

――『キー、パタン』。

 

 

無情にも笑顔でティオナは、開け放たれていた扉を閉めて帰ってしまう。

 

別にご飯食べようと言っていたのに具体的な約束をしていなかったので引き止めたかったわけじゃない俺は、そもそも明々後日とかテキトーだなと内心突っ込む。…まぁその頃には立ち歩けるぐらいまでは回復しているだろうが。

 

(…どうだか)

 

最後に紙を持っている様子はなかったのだが、もうこうなると運に任せるよりなくなる。

忘れていてくれないものかとため息をついた俺は、彼女の去った後の扉を祈るようにして眺めた。

 

 

「おいリョナ君…何でご飯の約束なんてしてるんだろうね、怪我人の君が」

 

 

――すっかり忘れていた、荒ぶる神がすぐ隣に立っていたのだった。

 

もはや阿修羅のような、怒りに沸ききったヘスティアはメラメラと燃えるように、視線だけで人を殺すかのように俺を見てくる。

 

…ところで子供が怒っていて恐怖する大人はいるだろうか?まぁいるのかもしれないが、俺は全く恐ろしいと感じない。

 

とはいえ「とても」怒った様子のヘスティア様は、その情熱のまま俺の肩をガシリと掴む。

そして笑いかけるようにして…子供に語り掛けるように「諭して」きた。

 

 

「いいかい、リョナ君。だいたい神同士ってのは不干渉ぐらいが丁度良いんだ、すぐトラブルになるからね。故にその子供たちもなるべく縁を持たない方が、火種を作り作らないためにも最善なんだ」

 

「へーい」

 

「だから他のファミリアの子とご飯なんてもってのほか!それに特にあそこのファミリアの主神はたちが悪い!どうせアレはお局とかでお金巻きあげられるのがオチだ!」

 

「いやウチと違ってお金に困ってないでしょうからそんな事する意味ないのでは?」

 

「ええいうるさい!いいから禁止!神様権限で禁止だ!」

 

 

最初は諭すようだったのに段々見かけ通りの怒り方になっていく。

 

(まぁ落ち着いたあたりで説明すりゃ治まるかな)

 

流石に怪我をした時に助けてくれたのがあの二人なのだと説明すればヘスティアも考えを改めるだろう。

…現状は何を言っても聞いてくれなさそうだが。

 

 

「…ん?」

 

 

――相変わらずベッドに座る俺の、張ったテントがヘスティアの目に留まった。

…それが「油」になったのか、「火」はさらに大きく燃え上がる。

 

 

「そういえば!君エイナ嬢にとても失礼なことをしたらしいじゃないか!!?」

 

「あー…」

 

 

これに関して「だけ」は完全に俺に非がある。

あの時の事を思い出して軽く頭痛すら覚える俺は、大きくため息を吐く。

 

非常に、打って変わって落ち込んで見せた俺の様子に、どこか得意げになったヘスティアはふふんと鼻で軽く笑ってみせた。

…が、また怒りを露わにしてみせる。

 

 

「性欲に任せて、あんなことを臆面もなく言うなんて!大人として恥ずかしくないのかい!?」

 

「うっ…」

 

「それに彼女の気持ちを考えもせず!突然に!こと女の子は繊細なんだ、エイナ嬢は表には出さないけども恐らく多分きっと絶対内心傷ついているに違いない!!」

 

「うぅっ…」

 

 

ズバリ俺の後ろ暗いところを突いてくる。

物理的に心臓の痛くなってきた俺は、ヘスティアの湧いて出てくるような攻め言葉に言い返すことも出来ずに顔を伏せた。

 

…とはいえ全く、というのも心傷的にもよろしくない。

 

 

「第一僕は言ったよな?あの時ソレを抑えるようにって!どうして抑えなかったんだい!」

 

「は、いや全くその通りで。ですがこういうのって中々自分でではですね…というか少し異常と言いますか…」

 

「へっ言い訳なんか聞きたかないね!」

 

 

うぜぇ…全く反論できないのが更に腹立たしい。

 

 

「――後で謝っておきます」

 

「うむ、それが正しい」

 

 

腹立たしいが、完全敗北であることに変わりない。

 

完全に言葉によって打ちのめされた俺は得意げな顔でふんぞり返るヘスティア様を見下ろすと、極めて苦い苦笑をする。

そしてもしかしてこのネタで暫く弄ばれるのではと考えると、割と本気で震えが来た。

 

 

「む、どうしたリョナ君。風邪かい?」

 

 

あんたのせいだ、という言葉を俺はぐっと飲み込むと首を振る。

するとヘスティアは少しだけ笑みを見せると、安心したように頷いた。そしてふと怒りの感情が霧散したかのようにコロリと優しい表情を見せる。

 

 

「ところでリョナ君、怪我の具合はどうだい?」

 

 

飴と鞭だろうか?なるほど落差で人を落とすのは非常に効果的だ、そういうところは知性が蓄積された神様っぽい。せめて身長と艶やかさが欲しいところだが。

 

 

「立てるようにはなった、明日明後日ぐらいには帰れますかね」

 

「ほう、そいつは僥倖」

 

 

そういってヘスティアは頷くと、俺の上半身を眺める。鍛えられた身体は今も包帯が巻かれてこそいるが目立った外傷はなく、血色も良い。

内部の事を言い始めればいくつかの骨にほんの僅かなひびが入っているようだが、それもポーションを飲めばすぐにくっつくだろう…前よりも固くなって。

 

 

「ふむ、ステータスの更新も思えば一度もしたことが無かったな」

 

「…今ここで?」

 

「いやそれは君が帰ってからにしよう。…言っておくけど君帰ってきたら暫くダンジョンに行かせないからな。本来じゃなくとも君の場合教えなきゃいけない常識がごまんとある」

 

 

講義は完全にエイナで懲りていた俺は今から震えがくるとともに、どうやって逃げるかを計画する。

 

…いや必要だとは自分でも思うのだが、完治した場合ダンジョンに行かなければその日の食費代がまかなえず死ぬという可能性があった。今はまだ大丈夫な域だが…身体が治ればその分食欲も増すだろう。

 

 

「とはいえそれも怪我が治ってからだ。ちゃんと完治させてから帰ってくるんだぞ、僕とベル君に元気な姿を見せてくれ」

 

「あーい…あ、でも明々後日の夜は予定あるんでご飯一緒に出来ないです!」

 

「懲りてないな君は!!?」

 

 

予め伝えておけば問題ないよね!?然とした俺にヘスティアはため息を吐く。

吐き終えると頬を膨らませぷいと振り返り、そのまま歩み去っていってしまう。

 

その小さな背中を僅かに驚きながら眺める視線の先で、ドアを開けたヘスティアはくるりと回転した。

そして非常に不機嫌そうな、でもどこか嬉しそうにも見える表情で吐き捨てる。

 

 

「いいから、早く戻っておいで!待っているからな!」

 

 

――母性を垣間見る。

 

その表情には母の優しさが、向ける腕には包容力が、こちらを見つめる眼には子を想う暖かさが。その少女の容姿であるにも関わらず、端々から滲むように母性が伝う。

 

(マジかー、これは神様っぽいわー)

 

その見かけ道理の年齢ならば持ちえぬ深み、それに処女神だというのだから笑い話だ。

しかし幾星霜もの歳月を生きていたのであれば、この程度の母性を持ち合わせる事は容易なのだろう。

 

 

(…)

 

 

多々、思うところのある俺はなんだかふざけることも出来ずにただ軽く手を振った。

 

手を振られたヘスティアはニッ…と笑うと、手を振り返してくれる。

 

 

「じゃあね!」

 

 

そして何だかそれだけのことで少し嬉しく思ってしまった視線の先で、ヘスティアは「パタン」と扉を閉めたのだった。

 

…一人残される。

 

先ほどまでの喧騒のぶん静かになってしまった部屋は、どこかがらんとしているように見える。…それは空腹と相まって尚更。

空虚さに胸が(というか腹が)すくような思いに苛まれた俺は、エイナはまだかと扉に視線を向ける。

 

(…)

 

向けつつ「先ほどの例の紙」が落ちてないかを一応確認する。

しかしそこにはうっすらと埃が積もるばかりで紙の一片すら残っていなかった。

 

 

「はぁ…」

 

 

来客も来客で疲れるものだ、それにはしゃぎすぎた感はある。

少し身体に重さを感じた俺はゆっくりと壁に背を預けると、疲れのままにベッドを深く沈めた。

 

眠気もあるが、それよりほんの僅かに食欲が勝る。そしてそれ以上に精神的な倦怠感が覆っていた。それに加えて流石に同じ種類の食事がこう立て続けると、どんなに美味しい料理だろうと飽きてしまうものだ。

 

 

「ふぁ…」

 

 

間延びしたあくびが出る。本当に今日は色々な事があった。

ぼんやりと見舞いに来てくれた数少ない知人たちのことを思い出しながら俺は、ぼんやりと部屋の扉を眺めながら、スンと鼻を鳴らした。

 

 

――怒りの匂いがする。

 

 

いや具体的に言うとこれは先ほど嗅いだ荒ぶる神様の――!?

 

 

『バタンッッ!!?』

 

「リョナ君!!」

 

 

なんと本日二度目。

激怒したヘスティアは「ズガガガッ!!」と掘削音のような走行で急速接近すると、そのまま扉を先ほどのように「バンッ!」と開けた。

 

そして何故帰ってきたし?と思うより先に――彼女の手に握られた「一枚の紙切れ」を見て全てを察したのだった。

 

 

「君はああぁぁぁぁぁ!!!」

 

 

つまりあのアマゾネス、廊下に落としていきやがった。

それをたまたま拾った神様は赤面、そしてその後にこれを書いたのが俺だという事に気が付くと急いで戻ってきたのだろう。

 

…もし書いたのが俺じゃなかったらとばっちりだが、書いたのは俺だから仕方ない。

 

 

そして奇声を上げながらヘスティアがとった構えは――「神パンチ」。

 

 

踏み込み、右ひじは曲げられた上に最大まで引かれ、拳は固く引き締められる。

闘気は満ち蒸気のごとく立ち上り、その眼は目前の敵を打ち砕かんとカッと見開かれ、歯を食いしばって拳を放つまでの「溜め」を耐え抜こうとしていた。

 

 

「馬鹿何だなぁぁぁぁっぁぁぁァ!!!!」

 

 

――「咆哮」。

 

もはやそれは殺意、圧倒的な拳圧とともに放たれた神パンチは俺に向かって振りぬかれる。

怒りを乗せたそれは一切合切の撃滅、そして躾を目指して進む…のだが。

 

 

(腕だけパンチだこれ…)

 

 

悲しいほどの腰が入っていない、素人丸出しの腕を突き出すだけのパンチ。

というかもはやそれはツッパリと言っても差し支えなく、まっすぐに進む拳は見切るのが非常に容易い。

 

 

(どうするかなぁ…)

 

 

先ほどの匂いと音で完全に目を覚ましていた俺は、考える。

当たったら当たったで怪我に障るし、当たらなかったら確実にお説教コースだ。

 

…前者は一回で済むがヘスティア様は心残りに思うかもしれないし、後者は疲れで死んでしまうかもしれない。

 

……当たるべきか当たらざるべきか?

 

 

(うん避けよう)

 

 

痛いのは嫌だし、説教なら聞き流せば良い。

それにこの程度の避けれないと思われるのも何だか癪だった。

 

…このままの軌道だと、俺の頬を直撃するだろうか。

それを確認した俺は避けるために、ベッドに腕をつくと――

 

 

「ッ!?」

 

 

――思い切り滑った。

 

元々疲労の蓄積していた腕は上手く力が入らず、ベッドの皺の部分に引っ掛かる事無く滑りずれる。

 

 

…身体全体がガクンと落ちた。

 

 

頭が落ち、胸が落ち、滑った下半身は僅かに下に…そして「あご」も。

 

――滑り落ちつつ、拳が見えた。

 

直進する拳は何のためらいもなく進み、全く軌道を変えていない。

 

 

…そして力が抜けた俺は既に抗うこともできずにただするりと身体を落とし――

 

 

 

 

――吸い込まれるようにあごに、拳がさく裂した。

 

 

 

 

「…ぐ」

 

 

あごへの振動は例え軽微な力でも、隙間を埋める大体の「水」を揺らす。

そして土台である水が揺れれば、「脳」も揺れる。

 

…いともたやすく俺は視界が狭まっていくのを感じて、いとも簡単に意識を手放したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「え、リョナ君?突然白目向いて…!!?」

 

 

神パンチとはいえ神威を奪われた僕に一撃で大の男を失神させる力はないはずだ。

しかし僕の拳を受けたリョナ君はくたりとその身体を脱力させ、白目をむいていた。

 

 

「ちょっとリョナ君!…あぁ揺らすのは良くないんだっけか」

 

 

慌てて彼の身体を肩を掴んで揺らす、しかし確かこういう時は揺らさない方がいいというのを本でいつか読んだのでピタリとやめた。

そして少し考えると、寝かせた方がいいという判断に至る。

 

 

「よっと…!」

 

 

重い体を何とか持ち上げ、ベッドに寝かす。細いように見えて意外と筋骨隆々なその身体は重く、なかなかに重労働だったが何とかこなして見せる。

それから掛け布団をかけなおすと「はて?」と首を傾げた。

 

 

「もしかしてボク、やっちゃった?」

 

 

親ともあろうものが子供に手を上げ、気絶させるなど言語道断。

ほんのおふざけのつもりだったのだが…思えば怪我人にそういった類の冗談は配慮が足らないのではなかろうか。

 

 

「息は…してるか」

 

 

一定間隔で呼吸は繰り返されている、死んではいないようだ。

白目をむいていることを除けば安眠しているように見える、それにどこか安らかなようにも…見えそうだった。

 

とはいえ起こすのも可哀想だ。

…願わくばこのまま目を覚ましたころに記憶を失わんことを。

 

 

「…?」

 

 

数歩そそくさと帰るために歩き、振り返った僕は白いベッドに横たえ安眠したリョナ君の全身を眺める。

ほんの確認のつもりだったのだが、ふとその姿に「違和感」を覚えた僕は立ち止まると首を傾げた。

 

 

「…??」

 

 

何か違う気がする、しかし具体的に何が違うのかいまいち解らない。

ボクは頭の先から眺めるように、つま先までゆっくりと視線を流していく。

 

 

「あ」

 

 

気づいた――「突起」がない。

 

あそこまで主張していたリョナの腰に合ったふくらみが嘘のように消えていた。

なるほど流石に気絶すればそちらの元気はなくなるのか、と僕は頑固な油汚れがやっと落ちた時のような達成感を何故か覚える。

 

しかしある意味ではリョナ君も自らの性欲に悩んでいたのだし、霧散したのなら、救ったのでは?(と都合よく自己解釈する)。

 

(うん、ならリョナ君はボクに感謝してしかるべきだよね!)

 

 

――意気揚々と自分勝手に上機嫌になった僕はリョナに手を振り、家路についたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

…ちなみに数日後、普通に覚えていたリョナから報復があったことはヘスティアファミリアの中でだけの話。

 

 

・・・

 

 

 



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 LOST

高評価ありがとうございます
ではどぞー


・・・

 

 

 

――「お兄さんがた、お兄さんがた、白い髪と黒い服のお兄さんがた」。

 

 

ふとダンジョンへと向かう朝の喧騒の中、ベルは立ち止まると振り返った。

 

そのことで微かに聞こえた「声」が自分たちを呼んだものなのだと気づいたリョナも振り返る…前に、最近癖となってきた「嗅ぐ」という動作をする。最近劇的に良くなった鼻はモンスターの索敵などに便利だし、町でも癖になりつつあった。

 

…しかしダンジョンへ向かう冒険者たちの群れの中では嗅ぎ分けるには至らず、誰が声をかけてきたのかまでは解らない。というかこんな朝早くに喋りかけてくる知人などあまり心当たりはないのだが…?

 

(まぁ見れば解るか)

 

…と、被りを振ったリョナもその場でゆっくりと振り返った。

 

 

「…ロリ?」

 

 

――そこにいたのは10歳くらいの少女。

 

思わず感想を口にしたリョナの視線の先にはとても巨大なバックパックを背負った少女が一人、見上げるようにして深く被ったフードの合間から期待を込めた笑みでこちらのことを見上げていた。

 

子供…だろうか?この町には小人族という種族もいるため一概に容姿で年齢を区別することは出来ないが、先ほど聞こえた「声」から鑑みてもこの少女が二人の事を呼び止めたと考えられた。

 

…とはいえその呆れるほど小さな少女に、そのバックはいささか大きすぎるように見えたが。

 

 

栗色の髪をフードから覗かせた少女は、少し痛いくらいにこちらを見上げると笑顔を見せ、今度ははっきりと、先ほどの声で二人に喋りかけてきた。

…と同時にリョナがベルの方を見れば、どこか驚くような様子でその少女の事を指さし、わなわなと口を震わせていた。

 

 

「き、君はっ…!?」

 

「初めましてお兄さんがた!突然ですがサポーターなんかはお探しではありませんか?」

 

 

ベルの言葉を遮るように少女が「提案」してくる。

 

――サポーター?

 

リョナはベルのうろたえぶりを横目に見流しつつ、少女の言葉に耳を傾ける。

…幼い少女の声が耳朶を震わせるのと同時に匂いを確認してみると、生ごみのような放置された干し草のような汚臭が僅かにリョナの鼻腔を刺した。だいぶ不快感のある匂いだが…この少女のものとはイメージとは違いすぎてリョナは受け入れることは出来なかった。

 

(…サポーターか)

 

リョナは少女の提案を頭の中で計算する。

 

…そもそもサポーターというのは、冒険者の補佐だ。

戦闘に専念したい冒険者だがダンジョンに潜る以上、予備の武器や食事のための缶詰、野営のための器具などが必要になってくる。

つまりそれら様々な道具を「運ぶ役割」――それがサポーターだ。

 

(うーん…)

 

とはいえこの場合、この少女を「雇う」ということになる。

とはいえサポーターの存在は人数の少ないヘスティアファミリアの二人には、だいぶ助けられるとは思う。

 

雇うこと自体はリョナ個人としては助かるのでともかく、リョナとベル「二人」はそもそも――

 

 

「…どうしたんですか白髪のお兄さん?お顔色が優れないようですが」

 

 

――少女はベルの顔を覗き込むと眉根を寄せていた。

 

…見ればベルは、青ざめているというわけではないが、だいぶ混乱している様子で少女のことを指さしつつも固まっていた。

それはまるで死んだはずの友人が生きていたかのような、ありえないものを見る驚愕の極みといった呆然とした視線が少女を捉えているだけ…のようだった。

 

そんな唖然としたベルに少女は苦笑するように口角をあげると、可愛らしく首を傾げてみせる。

 

 

「混乱なさっているんですか?でも状況は簡単ですよ、冒険者さんのおこぼれにあずかりたい貧相で貧乏なサポーターが卑しくも自分のことを売り込んでいるんです!」

 

 

少女の言葉にベルは目を見開くと、狼狽するがごとく慌ててぶんぶんと首を横に振る。

そしていつもより少し大きく呼吸しながら首を傾げた。

 

 

「え、そ、そうじゃなくて、君はっ昨日の…?」

 

「…はい?お兄さん、リリとお会いしたことがありましたか?昨日…いえ、リリは覚えていないのですが…」

 

「あえぇっ…?」

 

 

そう言われてしまったベルは更に驚き、予想外だったのか間抜けな声をあげた。

 

(む…)

 

間抜けな少年の声が響いたせいか、周囲を群れるようにダンジョンへ向かっていた冒険者たちの好奇の視線が集中してきた。

…まぁ気にするほどのことでもないが、とリョナは散漫とさせた注意をまた目の前の二人に戻すと、ベルと少女の奇妙な会話を眺める。

 

 

「それで!お兄さんがたどうですか?サポーターは…いりませんか?」

 

「えぇ…あぁ…うん欲しいか――」

 

「――待った」

 

 

のだが、思ったよりも早く結論付けてしまいそうな二人の会話に、思わず待ったをかける。

そして驚き固まった二人のうちベルの方を掴み、少女のほうへ背を向けて会話が聞き取れないくらいの距離をとると、ぐいと顔を近づけひそひそと尋ねた。

 

 

「……えっと、それで?あの子とは知り合いなのか?」

 

 

勿論リョナにあの少女との面識はない、しかしベルの方は彼女に見覚えがあるようだ。それも話を聞く限り特に昨日。

…と同時に少女の方は知り合いではないと言っているのが非常に奇妙ではあるのだが。

 

俺の質問にベルは一瞬目を見開いた後、少し悩むように熟考して…やはり、と首を傾げた。

 

 

「いえその、昨日男に追いかけられている女の子がいて思わず助けちゃったんですけど…」

 

 

何とも物騒な話だ、痴話喧嘩だろうか?それにそれを助けるとはお人よしも良いところだ。

男と女の問題は例えどこだろうと変わらないのだろうかとぼんやり思ったリョナは「つまり」と付け加える。

 

 

「…つまりその女の子ってのが?」

 

「…はい、凄く似ていると思ったんですけど…」

 

 

何があったか詳しくは知らないが、ベルが似ていると思ったのなら実際そうなのだろう。

しかし当の本人が「知り合いではない」と言っているのだから「似ている」の域を出ない。

 

…恐らくその修羅場のような状況でベルがちゃんと確認できない可能性の方が大きいのだから。

 

 

「…む…」

 

 

昨日出会ったような気がする少女が、面識が無いと雇われるために近づいてきた。

 

何だか一瞬とてつもなくきな臭く感じたようなリョナは頭をひねる。

しかし何がきな臭いのかも解らないので、それについて考えるのは無意味だとやめた。

 

それからベルは俺のことを見上げると少し不安そうな顔で尋ねてくる。

 

 

「あ、それとリョナさん。サポーターを雇う事についてなんですが」

 

「ん…あぁまぁそれはベル君が決めてくれて構わないぞ。どうせ俺たちは――」

 

「――結論は、出ましたか?」

 

 

気づけば会話をしていた二人の背後に少女が忍び寄ってきていた。

バッと振り返った二人に心配そうに(どこか泣き出しそうに)首を傾げる少女に、ベルは慌ててフォローをいれる。

 

 

「い、いや!ぜひサポーターをやってくれないかな?いいですよね、リョナさん!」

 

「おう」

 

「やった!ありがとうございます!」

 

 

リョナが頷くと、少女は嬉しそうに軽く手を打つと頭を下げる。

そして巨大なバックパックごと身体を戻すと、見上げてきた。

 

…そんな少女を前にベル君は少し照れたように頬を掻くと、「えっと…」と呟く。

 

 

「名前は…?」

 

「あっこれは失礼いたしました。リリは自己紹介をしていませんでしたね」

 

 

少女は一度軽くバックパックの肩ひもをかけなおすと、ベルとリョナ二人の顔を交互に見た後、自己紹介をし始める。

 

 

「リリの名前はリリルカ・アーデと言います。お兄さんがたの名前は何と言うのでしょうか?」

 

 

巨大なバックパックと小さな身体が特徴的な少女、リリルカ・アーデは二人の事を見上げると――

 

――その円っこい瞳をどこか計算するように一瞬歪ませ、睨みつけるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

(ちょろい…)

 

リリは今朝出会った冒険者二人と共にダンジョンの七階層、洞窟のような岩壁の道を周囲に警戒しながら歩く。

その足並みは極めて平凡ではあるが、先頭を歩く先ほどまで柔和な笑みをしていた白髪の少年からはピリピリとした殺気が滲み出ており、臨戦態勢であることを伺わせていた。

 

…リリはすぐ目の前を歩くベルの背中を追いかけながら、改めて「ちょろい」と思う。

 

今朝声をかけてからリリは一度バベル二階の公衆食堂に一緒に行き、そこで何個か質問されたが最終的には「耳」を見せた。

すると白髪の少年は驚き、謝るとあっさり「疑問は解消された!」とばかりにリリの事をサポーターとして改めて契約してくれた…普通、もう少し疑ってかかるのだが。

 

――勿論、リリとこの少年は初対面ではない。

 

昨日、とある冒険者に追われていた折この白髪の少年にぶつかった。

すると何とこの少年は追ってきた冒険者に相対し、その腰につけていたナイフを抜いた。

 

…その後もっと恐ろしい誰かが事態を収めたのだがリリにとってそれは重要な事ではなく――

 

 

――少年の持っていた「ヘファイストスの刻まれた」鞘のナイフ。

 

 

「ヘファイストス」の刻印が刻まれた武器は高く売れる。何故ならその名を連ねる武器はどれも最高峰の質を誇り、もうその名前自体がブランドとして成り立っているからだ。

故にその武器を扱うのは冒険者の中でもトップレベルの人間たちが主に扱っている。

 

…あえて不安要素というなら「ここ」だ。いかにも駆け出しといったこの少年が、そんな最上級の武器を持っているものだろうか?と。

しかしファミリアの名前を聞いてみても無名、もしただの駆け出しが何の間違いかヘファイストスの武器を持っているなら――良いカモだ。

 

リリは前を歩く少年の腰にかけられた鞘、その中に存在するであろう「金づる」に微笑むように、内心にやけた。

 

――しかしそんな邪悪な笑みはすぐにひきつることになる。

 

 

「…ふぁぁ」

 

「ッ!…」

 

 

突然、この緊張した空間に似つかわしくない欠伸が聞こえた。なんとも間の抜けた、それも真にリラックスした欠伸にリリは逆に緊張した。

 

(…何なんですか、この男は)

 

ちらりと振り返ればもう一人の方の男…確か名前はリョナといったか、全身黒い見慣れぬ服を着た高身長の男が大幅に歩き、今まさに欠伸を終えて眠そうな眼を擦っていた。

 

(見たところ…)

 

黒い髪に黒い瞳、整った容姿はどこか人を引き寄せるものがある。

そして細い体躯は黒く長い服と相まってか、ダンジョンの暗がりの中どこか幽鬼を連想させた。

…見たことのないタイプだ、それに――

 

(――武器を持っていない?)

 

いや、武器どころか防具すら装備しているように見えない。

たまに自らの武器を隠すようにしている冒険者はいるが、リョナはその身にただの服を着ているようにしか見えず…せいぜい腰に黒い篭手を引っ提げている程度しか持っていないように見えた。

 

(…)

 

何故?と考えてみる。

武器を持たずにダンジョンに入るなど自殺行為に他ならない、ダンジョンに入るものは誰であろうと必ず何かしらの武装をする。

サポーターであるリリもそうだ、自衛用のクロスボウや一応としての虎の子で「魔剣」なんかも懐に持っていた。

 

ならば…何故コイツはここにいるのだろうか?

 

最初に声をかけた時、てっきりベルとパーティを組んでいる冒険者だと認識したのだが、ここまで来る道中に出会うモンスターは全てベルに任せてリリと一緒に遠くから見ていたぐらいだ。

思えばバベルの食堂にてベルと話している時もぼんやりとしていただけで…凛とした容姿とは正反対にうどの大木なのだろうか。

 

(何でここにいるんでしょう?)

 

リリはなんとものほほんと間抜けな顔を晒している「後ろのそれ」を蔑むように見る。

 

――「今」を必死に生きているリリにとって、その男の穏やかな態度はただ何となく腹が立ち、不快でしかなかった。

 

 

「来たっ!」

 

「!?」

 

 

ベルの声が狭いダンジョンの中に、短く切り裂くように反響する。

 

慌てて立ち止まると、目の前に立っていた少年は既にその腰についていたナイフを引き抜き構えていた。

そしてその視線の先には――モンスターの一群。だいたい10匹はいようかというキラーアントの大群が、ガチガチとその歯を鳴らしながら近づいてきていた。

…運が悪い、モンスターは群れていることがままあるが10匹の大群となるとなかなか出会わないものだ。

 

そんな絶望的な光景に思わずリリが息を飲むと、同様に少し焦ったような顔をしたベルはナイフを構えたまま振り返る。

一瞬何か声をかけられるのかとリリは身構えたが、ベルの視線はその先、リリの後ろにいるリョナに向かっていた。

 

 

「リョナさん!」

 

「あ?」

 

 

ぼんやりと迫りくるアリの大群を見ていたリョナは、ベルに喋りかけられると「なんぞ?」と視線をベルにやる。

するとベルは「くい」とリリの事を指し示し、リョナの背後を指さした。

 

 

「目の前のキラーアントは僕がやります、ですので――」

 

「――もし他の奴にコイツが襲われそうになったら守れって事だな?解った」

 

「はい!お願いします!」

 

 

そう言うとベルは雄たけびをあげると、一人でアリの大群に突っ込んでいく。

 

その後ろ姿を見ながら、まさかとリリは目を見開き驚く、何故ならベルが「手を貸してください」と言うと思ったから。

ベルの実力はここまでの戦闘でなんとなくわかる、レベル1の中ではそれなりといった感じの強さでキラーアントの数匹であれば敵ではない。しかしまとめて10匹ともなると話が別だ、それなりの苦戦が予想される。

 

(…ッ)

 

そこでやっとベルが何を考えていたかリリは理解し、顔をしかめた。

 

…苦戦となれば、ベルにはリリを守る余裕がなくなる。

なればこそもう一人のリョナに頼んだ――

 

――つまり、戦力を割いて「リリを守る」ということを。

 

コイツが戦力になるかはともかく…わざわざ自らが楽になる選択をせず、他人のためにも茨の道を選択したのだ、他人であるリリが他のモンスターに襲われないようにするために。

 

 

「…なぜ…何ですか?」

 

 

奮戦、10匹のキラーアントに囲まれた少年が勇ましく戦う姿を眺めながらその背中に小声で問いかけてみる。

…しかし遠くで、必死に戦っているその少年が返答をするはずもなかった。

 

(…)

 

解らない、リリにはもしかして「自分のために戦っている」かもしれないベルがなぜ戦うのかの理由が解らない。

 

――いや解らないというよりかは、「経験したこと」が無いので「知らない」。

 

全くの別世界、住んでいるところが違うように感じたリリは軽く眩暈のような気持ち悪さを覚えると嫌悪感に何故かイラつき、歯噛みした。

 

(…とはいえここで不審がられては……)

 

そう、怪しまれたら危険だ。物が無くなっていたと知った時に真っ先に疑われてしまう。

 

リリは落ち着くために目立たないよう深呼吸すると、油断せず無意識にクリーム色の愛用コートの中に隠したクロスボウを触った。

…同時に触った時に、予めつけておいた方がいいかなと思い直すと服の中から取り出し右腕の中ほどに固定するように巻き付ける。

 

 

「…」

 

 

巻きつけながらリリは、チラリとリョナの方を盗み見てみる。

 

すると全体的に黒いその男は細く鼻歌を歌いながら、腰についていた篭手を取り外し、緩慢な動きで自らの手に嵌め、慣らすように伸ばしたり曲げたりを繰り返していた。

…と、指を見つめていたはずの男は首をぐりんと曲げ、こちらを見た。

 

(…ッ!)

 

思わず顔を逸らす。

別にやましいことなど何もないはずなのに何故かこの男と目を合わすことは危険な気がして…これでは逆に怪しまれてしまうかもしれないというのに。

 

 

「あー…まずいな、完全に死角とられちゃって…」

 

 

ふと男が呟いたので再び男を見る。

グローブを嵌め終えのんびりと伸びをしていた男は少し面倒くさそうに目を細めて――リリの先を眺めていた。

 

(――ッ…!?)

 

発言の意味が解ったリリは瞳孔を開くと、出来る限り早く振り返る。

 

 

「あっ…!?」

 

 

視線の先でベルは一見、優先だった。あれだけいたアリもその数を五匹にまで減らしており、その多くが岩壁に追い詰められて『ギィギィ』と弱々しく鳴くのみとなっていた。

反対にベルの方は優勢だからか動きは良く、恐らく全てキラーアントを殺すことは可能だろう。

 

 

しかし実際の状況として、優勢なベルの背後にはキラーアントが迫っていた。

 

 

…例え、物を盗んだとしてその後捕まってしまっては意味が無い。

 

息を殺すキラーアントは背中を見せるベルの鎧の隙間、柔らかな首筋を狙っており、同時にベルは全くそれに気が付いていない。

そしてじりじりとにじり寄るようなキラーアントはついに我慢できなくなったように、「踏ん張った」…跳びかかる為に。

 

キラーアントは大きく鳴き声を上げると、かぎ爪と顎を大きく広げて地を蹴った。

 

 

『ギィッイイッ!!――』

 

「――ベル様危ないッ!」

 

 

距離にして10mもない、しかし近距離武器は届かない…だがクロスボウであれば届く。

叫んだリリは一秒でも早くクロスボウを向けられるように全身を使い、可能な限り早めたその動きを腕の筋肉だけで固定した。

 

 

――『ガチンッ!!』

 

「!?」

 

 

逸れたならばベルに当たってしまうことなど考えずに、リリは何のためらいも無しに引き金を引いた。

しかし鳴ったのは空虚な鉄と鉄のかち合う音、その音にリリは目を見開き視線を落とすと自らの腕に巻き付いたクロスボウを見る。

 

(しまった…装填し忘れたッ…!)

 

先ほどつけたばかりのクロスボウにはボルトが装填されていなかった。

安全装置もないクロスボウは装填したまま持ち歩くには危険すぎ、ボルトは脚につけたホルスターの中に収納されている。

 

リリは慌ててそれに手を伸ばすッ…が、それでは既に飛び上がったキラーアントをしとめることは出来ない。

 

 

…改めてベルに視線を戻す。

 

 

そこには後ろから跳びかかってくるキラーアントに今も気が付いていない少年の姿があった。…その柔らかそうな白い首筋はアリの鋭い牙であれば容易く噛み切るだろう。

 

――あの少年が死んでしまう。

 

つまりそれはあのナイフの回収が困難になるということ、粗方ベルを殺し終えたキラーアントは今度はこちらに向かってくるだろう。

そうなればリリは逃げるしか叶わず、食い散らかされた死体からあのナイフを回収することは出来なくなってしまう。

 

(くっ…!?)

 

しかしそれ以上にリリの心が沸き立つ、あの少年が死ぬことに。

別にアレが死のうが関係ない、あのナイフだって諦めればいいだけだ。

 

…だというのに、だというなら何故こうもリリは焦っているのだろう。

 

 

――クロスボウを軽く構えた視線の先で、少年が死ぬ。

 

 

(…ぁ……)

 

 

少年の首が飛ぶ数舜前を、虚ろに遠視していたリリはせめてあの少年の死ぬところなど見たくないと顔を伏せ、目を背けた。

深く被ったフードでは向こう側は何も見えない、逆に誰にも見られていないフードの中でリリは歯噛みした。

 

別に、諦めるのは慣れている。

それに自分は何を期待していたのだろうか、弱い自分は誰かに頼ることさえ許されないというのに。

 

すべての要因から考えて「助けるのは無理だ」そう諦めたリリは――

 

 

 

『ギュルーッゥゥゥゥー!!!』

 

 

 

――頬の隣を通り抜けていく「風切り音」にハッと顔を上げた。

 

 

『ギィッイイ!!?』

 

 

遥か遠く感じるベルにとびかかっていたキラーアントが空中でのけぞり、激しく黄緑の血液を噴き上げながら急制動がごとく強引に止まった。唐突に腹が裂けたキラーアントはあからさまに「驚愕」しており、熱が引くようにその命が失われていくのが手に取るように解った。

 

そして鮮血はまるで飛沫のように、やけに鮮やかに無垢な空中を汚しているのがリリの眼にははっきりと見え――

 

――同時にそのアリから顔の横に伸びている「糸」を発見した。

 

 

(編まれた糸…?)

 

 

ピンと張った糸は同じ鈍色をした細い糸が編まれ、一本を成している。キラキラと光るそれは顔のすぐ隣を走っており、僅かにリリのフードを掠め、切り裂いていた。

それは、いやそれが何かは解らないがキラーアントの腹部を刺したのは明らかであり…リリはその細い糸を目で追って――振り返った。

 

 

「…!」

 

「なんとか間に合ったー」

 

 

向いた先の奇妙な光景に、リリはポカンと空きそうになる口を慌てて閉じようとする。

 

…ソイツの出した右手、そして伸びていた糸がそのグローブに続いていることを確認する。

 

見たことのないそのグローブと糸はリリにとって未知であり、何故か本能的に恐怖を覚えて冷や汗を流し、ありのままの現状が理解できずに半端に口を開けてしまっていた。

 

そして男が「んー…」とワイヤーを弛ませながら伸びをして、グローブを握りしめたのを眺めるとワイヤーが巻き取られ…同時にキラーアントが『ズズズッ…』と引きずられていくのを見て我に返った。

 

 

「なぁーリリルカちゃん、魔石とるの得意なんだろ。めんどくさいし、よろ」

 

「…!」

 

 

喋りかけてきた男はリリの足元のあたりでキラーアントを止めると、ぐいとその腕を引く。

すると糸が抜け、その先にあった凶悪な棘が露わになり、超速で『ギュルルッ!!』と駆動音と共に空中を踊ると彼の腕に戻っていった。

 

(何だ…あれは?)

 

全く見たことのないその武器にリリはまたも固まりかけるが、震える足でその場に膝をつく。そして服の中からナイフを取り出すと、完全に息絶えたキラーアントに目を向け、魔石がある場所に突き立てた。

 

 

「~♪」

 

 

キラーアントを解体しながらリリは、鼻歌を歌う男を盗み見る。…特にその伸び曲げさせた遊んでいる指にはめられた黒鉄のグローブを。

 

(…)

 

手際よく解体し、魔石を取り出す。緑黄色をした透き通った魔石はその内部に弱々しい光を内包しており、僅かにキラーアントの体液で濡れていた。

若干の湿りのついた魔石を服の裾で拭うとリリはそれをとりあえず腰につけた袋の中に入れた。

 

(あれは…)

 

もう一度あの「篭手」を見る。あれはつまり…武器、なのだろう。

てっきり非武装だと思っていたが、目に見える位置にそんな武器があるとは思わなかった。

 

それに――あの威力、速度。

 

発射したところは見えなかったが、あの小さな棘をあの速度で、それもキラーアントを一撃で仕留めるほどの威力を伴っていた。比較対象として少なくともリリの装着しているクロスボウより速く、あの糸も恐らく切断性能を持っていることを考えれば殺傷性能は高い。

 

 

(いずれにしても売れる…!)

 

 

例えどんな状況だろうとリリの頭は計算高く思考する。

それが何のオーパーツか、はたまたどこの国の武器かも解らないが「あんなものは見たことがない」。

 

そして人々は往々にして常に「未知」を追い求めているものであり、「あれ」は未知たり得る。物好きな貴族階級やコレクターなど上手くやれば高く売れる。

問題はそれをどうやって作動させるかだが…篭手なのだから、つけてみれば解るだろう。

 

 

「どうしたリリルカちゃん、そんな熱烈に見られても何も出ないぜ?」

 

「い、いえ。すいません」

 

 

慌てて顔を落とす、驚きで思わずそのグローブを見入ってしまっていた。

 

(どうしましょう…)

 

思えばあのナイフと比べると…見劣りするかもしれない。かたやヘファイストスの刻まれた鞘付きナイフ、かたや高く売れそうなガラクタ。

一番高級そうなもの一つのみがなくなれば落としたで済むかもしれないが、二つとなると疑われる確率が格段に高くなる。

 

(となると…)

 

目を細めながらリリは計算する、どちらの方が利益を出せて安全なのかを…同時にどう「奪う」かも。

 

 

「リョナさん、終わりました」

 

 

――と、ふと顔をあげれば戦闘を終えたベルが戻ってきていた。

 

その背後にはキラーアント9体分の死体、特に目立った外傷のないベルは軽い足取りでナイフについた体液を軽く払うように指の腹で撫でながら歩いていた。

そしてリリの前を横切るとリョナの前に行き、頭を下げる。

 

 

「ありがとうございました!」

 

「おう」

 

 

リョナが興味なさそうに頷き、ベルは頭をあげると少し疲れたような笑顔を見せる。

 

 

「リリも待たせてごめんね?」

 

 

そして振り返るとリリに笑顔のままで喋りかけてくる。

…慌ててリリも「いいえ」と首を振ると、自分の仕事を思い直す。

 

立ち上がるとキラーアント9体の死体が散らばっている方に向いた。

 

 

「あ、ありがと!よろしくね!」

 

 

歩いていく背中に少年の声がかけられる。

リリはそれに返事することなくナイフを取り出すと一番近い死体の解体に取り掛かった。

 

…するとそこまで遠い距離でもないのでベルとリョナの楽し気な会話が耳に入ってきた。

 

 

「今日はどこまで行くん?」

 

「そうですね、今日は少し8階層を覗いてみようと思っています!」

 

「あぁ初めて何だっけ?…ほーん、まぁ今のベル君だったら大丈夫だと思うけど注意するのじゃぞ」

 

「はい!とはいえ今日はリリがいてくれるのでだいぶ楽です!」

 

「…まぁ魔石持たなくていいってだいぶ楽だよなー」

 

 

その会話に何か違和感を覚えつつもリリは解体を終える。

取り出した魔石9個分を袋の中に入れると立ち上がり、膝についてしまった汚れをポンポンと払うと振り返って幾歩分かを二人の前に進む。

 

…進みつつも、いつもの「笑顔」を作って喋りかけた。

 

 

「お待たせしました!魔石の回収は終わりましたよ!」

 

「おう、お疲れさん」

 

 

労いの言葉を呟きつつリョナは準備運動のように腕を交差させ、伸びをした腕の両手にはひとまず「ターゲット」となった篭手がはまっていた。

リリは一瞬欲の染まった瞳でそれを見かけるが、目の前だと思い直すとすぐにいつも通りの笑顔であどけない少女を演出する。

 

しかしそんな笑みにリョナは全く注意を払わず、伸びを終える。

そして――

 

 

「ッ!?」

 

 

――瞬間的に、表情が変わった。

 

引き締まる、という表現が正しい。欠伸の延長線上のような呆けた顔ではなく、やる気に満ちた表情をしており、それでいて嘲笑するような薄ら笑いと生気の溢れた瞳からは本能的な「恐怖」を覚えてしまっていた。

 

今まで見ていてどこか感じていた引っ掛かり、それは姿は見せぬまま明確な恐怖に変わってリリの足を一歩下げさせる。

 

そして男は歩き始める。手首をぶらぶらと揺らしながらリョナはまるで散歩のごとくベルとリリの前を通り過ぎると、その広く引き締まった背中を見せて先頭に立つ。

 

それから首だけ振り返り、にっこりと笑うと――

 

 

「んじゃベル君また後でなー」

 

「…えっ?」

 

「はい、リョナさんもお気を付けてー!」

 

 

――掻き消えたと錯覚するかのように、その場にしゃがみ込みクラウチングスタートを切った。

 

それからは疾い。もはや暴力的なまでの力が地面に突き立てられその巨体を前に運び、獣のように低姿勢のまま走り去る。

もはや気持ちいいぐらいの疾風の速さで去っていくその背中にニコニコとベルは大きく手を振り、リリはポカンとして呆けた視線をダンジョンの暗闇に溶けていくリョナとその黒鉄の篭手を向けていた

 

(何でっ…!?)

 

理解できない行動、ダンジョンの中で「別れる」?

複数人で行動せず個人で行動するメリットが何一つないこのダンジョンでわざわざ単独になる意味が解らないし、それは自らの危険が増すことを意味していた。

 

故にその突発的な行動に驚き、固まり、困惑して疑問が混濁する。

 

 

…やがてその足音も聞こえなくなったころ、ベルは振り返ると変わらないその笑みでリリに微笑みかけた。

 

 

「じゃあ僕たちも行こっか!」

 

「…!」

 

 

何ら変わらない笑顔、ということはそれが何もおかしくないということ。ベルさえもがその行為に何も疑問を抱いていないという事に、リリは驚くとあの男がいなくなったからか比較的動けるようになっており…噛みつくように、慌ててベルに詰め寄った。

 

 

「な、なぜなんですか!?」

 

 

もはや営業スマイルなど関係ない、リリは困惑のままにベルに問いかける。

 

――あの男の「突然」の行動を。

 

 

「なぜ…あの人は一人で…!…お二人はパーティでは無いのですか!?」

 

「あー…」

 

 

必死なリリの質問にベルは口から笑み混じりのため息を漏らすと、苦笑した。

それから少し考えこみ…頬を掻くと、遠い目をしてリリに身振り手振り説明を始める。

 

…あの男の事を。

 

 

「えーっとねそもそも僕とリョナさんは同じファミリアで、僕の方が先輩なんだけど…リョナさんと僕はパーティじゃないんだよ」

 

「!!………はい、それは解りました。ではそれは何故…?」

 

 

それが事実だというのなら頷くしかないが、それは「何故」なのかはリリには解らない。

「人数であぶれた」とか理由はあるがそれはあくまで一流ファミリアにしかありえない、彼らのような底辺ファミリアであえて組まない理由など存在するのだろうか。

 

…困惑し表情を引き締めたリリに対し、ベルは頷き返すと腕を解き最大級の笑みを浮かべると、続ける。

 

 

「だけど…リョナさんって凄い人なんだ!」

 

「…は?」

 

 

――話が180%シフトした。

 

思わず顔をあげると非常にキラキラとした目をしたベルの「熱」が視界に入り、リリは唖然とする。

見上げるような呆れの視線の前で腕を組んだベルはうーんと唸ると、非常に心酔したような尊敬の口角で、早口に「熱弁」を始める。

 

 

「僕より後に入ってきたのにあっという間に…ていうかリョナさんの場合ステイタス関係なしに強くて…!…見た、あの武器?」

 

「え…あぁ、あの篭手みたいな…」

 

「そう、ぎゅるぎゅる丸!」

 

 

ぎゅ、ぎゅるぎゅる丸?

奇怪な名前だが、篭手の方も奇怪なものなのでそれぐらいが相応しいのかもしれない…とリリは困惑しつつも一応納得し、記憶する。

 

 

「もちろんリョナさんの身体能力もすごいんだけどこのぎゅるぎゅる丸がホント強くて…えっと確か今は17階層までは行けたって言ってたかな…」

 

「17階層!?おひとりでですか!!?」

 

 

とてもレベル1冒険者の成しえる事ではない――しかも一人。

それは…化け物級の素の身体能力と伝説級の武器を持ち合わせていなければ不可能だろう。

 

(やはりリリの眼に狂いはなかった…ですかね)

 

断定はしない、しかし期待値が高い。

もしかするとヘファイストスの武器並みの値が付く可能性もある。

 

…とはいえ、あらかた計算を終えたリリは本筋について改めて考えると小首を傾げ、疑問で目を細めると顎を触りながら「なら」と尋ねた。

 

 

「…なら、なおのこと一緒の方がいいのでは?実力差うんぬんの話はリリには解りませんが、何にせよ一人というのは危険です。今からでも追いかけてパーティで行動すべきでは…」

 

 

いや実力差ぐらいは解る、17階層までソロでいけるというのならリョナの方が強い。

 

…となると実力差、つまり「階層差」があるためにお互い別行動をしているのだろうか。

17階層ではベルには荷が重いだろうし、逆に7階層程度はあの男にとって「欠伸が出るくらい」退屈なのだろう。

 

一見合理的には見えるがダンジョンでパーティを組むのは基本であって、ソロというのは謙遜なしに危険なのだ。…そんなわざわざ、「組まない理由」がない限り。

 

リリの真摯な言葉に少しベルは照れくさそうに頭を掻く。

 

 

「いや僕もそうしたかったんだけど…リョナさんの方から断られちゃって」

 

「…それは」

 

 

やはり実力差なのだろうか、リョナの方には断る理由がある。先ほども言ったがそれはこの階層ではリョナの方は退屈なのだろう。

 

とするとベルにとってそれはあまり触れられたくないことなのかもしれない、そう考えたリリは一度言葉に詰まると、視線を落とした。

 

しかしベルはリリが暗く瞳を下げたのを見たからか極めて明るく笑うと、そんな理由ではないと手と首を振った。

 

 

「えーと、リョナさんの武器ってソロ向きじゃないっていうか…早すぎて万一の時味方ごとやっちゃうかもしれないから、パーティを組むのは僕じゃまだ危険かもってリョナさんに言われちゃって…まぁ結局は僕の実力不足なんだけどさ」

 

 

ベルは「たはは」と隠し切れない若干の悔しさを滲ませながらそう笑う。

 

(…どうなんでしょう)

 

なるほど確かに棘を射出した後振り回せば無差別にかなりの空間を攻撃できる。それをあの速度でされたならベルにそれを避けることは、ただでさえ「敵と相対している」中では難しいかもしれない。

 

瞬間的に構造を理解したリリは算段をつける。

 

それにもしパーティを組むのであればナイフを扱うベルが前衛、遠距離武器であるアレを扱うリョナは後衛ということになる。ならば…少なくとも背中から飛来するそれが間違って飛んできた場合それを避けられる程の能力が無ければパーティを組む方が危険という事態にもなりかねない。

 

ならば二人がパーティを組まないという理由も、それならばリリにはまだ納得できた。

 

…しかしあの男ならば――

 

(…ッ)

 

――本能的に恐怖を覚えたあの男の顔を思い出してリリは今更になって身震いする。

 

たまに「殺意」の大きな者はいるが、何と言うかあれは実際に人を殺して楽しむ狂気の類に見えた…そして同時にその瞳の奥に沈む知性も。

 

(…)

 

何というか「危険」だ、本能的なものでしかないができれば一緒にいたくないような…それでいて無意識に興味を抱いてしまうような…。

バラの美しさに引かれるのではなく、棘があるから近づいてしまう…なんて愚鈍極まりないと思うのだが。

 

まぁ何はともあれ、あの男ならばベルの事を避けて敵のみを切り裂くぐらい容易そうだということだ。

確かにベルの実力は追い付いていないがリリには何か別の理由があるようにしか――

 

 

「何だか長話しちゃったね!もうそろそろ移動しようか、リリ」

 

 

――ベルが歩き始める。

 

 

「あっ、はい!」

 

 

頷くと、その後をついていく為に一歩踏み出す。

 

目の前を歩く白いアーマーを装着した少年の腰にはヘファイストスの刻まれた鞘とそれに収まった切れ味の良い業物のナイフ。

 

…「獲物」が目の前にあった。

 

(…むしろこっちの方が都合が良いかもしれないですね)

 

――後ろには先ほどまでいたリョナがいない。

 

ならばその分隙は多くなるはずだし、フリーになったナイフを盗める機会が増える。

常軌を逸した行動に本来の目的を見失っていたが、むしろ別行動をしてくれるなら「盗みやすい」。これならば、この少し悪意には疎い少年ならば簡単に盗むことは出来るだろう。

 

(…)

 

むしろ反対にリョナの持っていたあの武器は盗む機会が無くなったわけだ。

両取りも一応視野に入れていたリリにしてみれば少し惜しいともとれる。

 

 

「――どうしたのリリ、考え事!?」

 

「あっ申し訳ございません!今行きますから」

 

 

考え事をしているうちベルと少し距離が離れてしまっていた。

彼の言葉にリリはバッグをかけなおしいつもの営業スマイルを見せると、追い付くため走る。

 

(まぁ…ヘファイストスの武器だけでも十分ですからね)

 

 

そしていとも容易く「あの」事を諦めると――目の前のナイフに卑しいまでの微笑みをむけたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「良かったー毒じゃなくてー」

 

「はい、リリもベル様がご無事でよかったです!」

 

「はは、ありがとう」

 

 

テキトーな嘘をついてダンジョンを早く切り上げさせた。

 

バベルの長い階段から降りた二人は、夕暮れの柔らかな光の挿し込んでくるバベルの出口へと向かってゆっくりと疲弊した身体を運ぶ。

そして一歩地上へと踏み出すと一瞬の明るさの違いに瞳孔を収縮させ、んー…と新鮮な空気を肺に取り込んだ。

 

 

「んー…リリ、今日はお疲れ様」

 

「はい、ベル様も」

 

 

伸びを終え笑いかけてくるベルにリリも微笑みながら頷き返す。

 

今日は八階層をぶらぶらと探索した後またもモンスターの大群に襲われたが、幸い統率の取れていない群れだったのでその場でベルがその全てを殲滅した。

リリには危険は及ばなかったし、その過程でそれなりの数の魔石も集まった。

 

――そしてもう「ナイフ」は頂いた。

 

自らの懐に隠し入れた抜身のそれをリリは服の上から確認すると、リリは先に数歩歩いた少年の腰の空になった鞘を見る。

 

(やはりちょろい…)

 

見られていないことを良い事に、リリは自らの仕事の成果にほくそ笑む。

たったこれだけのことで度肝を抜かすような大金が手に入るのだ、それにこれを売れば念願も叶うかもしれない。

 

リリは少年の後ろを実に嬉しそうに、それなりに疲れた足でステップするかのごとくついていく。

 

 

「あそうだリリ」

 

 

ベルが歩きながら振り返る、そして極めて真面目な顔で問うてきた。

 

 

「分け前はどうしよっか」

 

「あぁ…それでしたら今回リリは受け取らなくても結構です!」

 

「え!?何で!!?」

 

「ふふ、初回サービスというやつですよベル様!…今後ともごひいきにしていただければリリはそれでいいですから!!」

 

「えぇっ!?…でも……」

 

 

あくまで無垢な少女を演出する。それに金にがめつい冒険者たちはこう言われると悪い気はしない。

すぐさまリリを疑うという事が無くなるし、リリとしては今日の分の分け前が無かろうとそれよりも大きな利益を貰っているので少しぐらい渋る理由でも無い。

 

それでも驚きと戸惑いで僅かにベルの足が鈍る、リリは少し強引だが「そのまま帰ってしまおう」とベルの事を追い越し――

 

 

「え」

 

 

――道の真ん中に落ちている「もの」に、思わず作った笑顔をピシリと固めて足を止めた。

 

 

バベルから出てすぐの「冒険者通り」、ダンジョンから帰ってきた冒険者たちがぞろぞろと疲弊した波を作り、石造りの道に雑踏からなる喧騒を響かせている。

その多くはパーティで似た色の服を着たパーティなんかもあるが全体としては実に様々な色をしており、多色で出来た川のようにゆっくりと流れていた。

 

…しかしそんな流れの中に一つ「岩」が。

 

道行く冒険者たちはそれを見ると大体が嘲笑、一部が呆れた顔を浮かべ乗り越えるようにして二つに別れ、流水のようにまた一つに戻っていっていた。

とはいえ川は川でも人の波、そして川底は整備された石造りの道となれば「岩」など精々噴水かぽつぽつと出ている露店ぐらいしかない。

 

 

「…」

 

「なに?いきなり立ち止まってどうしたのリリ?」

 

 

呆れと驚愕の表情でぽかんと口を開け、立ち止まったリリの後ろから追い越されていたベルが肩越しから覗き込む。

 

そして――道のど真ん中に人が倒れているのを見ると目を見開いた。

 

…とはいえその人が「見慣れた服装」だということ気が付くと「あっ」と声を出して、リリの呆れたような表情とは反対に納得したような顔をすると、慌てて駆け寄った。

 

 

「リョナさん!大丈夫ですか!」

 

 

――道の真ん中にリョナがうつ伏せに倒れていた。

 

ベルにとって見慣れた黒いコートがだらしなく地面に広がり、ぐだりと意識を失ったように見えるその身体は打ち捨てられたように石造りの道に転がっていた。

 

とはいえ目立った外傷もない事を確認したベルは、頭の側に回るとその傍らに膝をついてうつ伏せになったその顔を確認する。

見えなくなっていた顔はリリの角度からは見えなかったがベルには見えたらしく、息をしていることを確認でもしたのか安堵の表情を浮かべた。

 

 

「ふぅ…よし」

 

 

それからベルはリョナの腰のあたりをまさぐると、パンパンの限界まで膨らんだ茶色い袋を取り出す。

恐らく魔石の入っているであろうその袋の量にリリは圧倒され、思わず欲が走りかけるがぐっとそれを堪え…ただ単純に一人でその魔石を稼いだのかと驚愕した。

 

そしてその量が入った重い袋を手に取ったベルが、既に今日の稼ぎが入った袋をつけた腰の隣にそれを取り付けたのを見届けると帰ってしまうために再び歩き始めたのだった。

 

 

「あっ、待ってリリ。僕たちこれから夜ご飯食べに行くんだけどそれだけでも一緒にどうかな?分け前の代わりじゃないけど僕が奢るからさ!」

 

「えっ…いや、私は…」

 

 

思わず足を止める。正直言って早く帰ってしまいたいリリはその言葉に困惑すると、内心苦虫を噛み潰したかのように「自分が失敗したこと」を何となく悟る。

 

――恐らく、この少年は優しすぎる。

 

普通に金を受け取った方がこのように気は遣われず、そのまま立ち去ったところで優しいのだから何も疑われずに済んだだろう。

…何とも面倒くさい、普通の冒険者とは違うこの少年の優しさが。

 

 

「い、いえ…私はこの後別の用事が…」

 

「あっ…そう…」

 

 

こう言えば流石にこの少年でも引くだろう。

事実盛大に話を折られたベルは頷くと、少し残念そうにその会話を終了させた。

 

それからふと腰についた袋の重さを思い出すと、未だにうつ伏せに倒れているリョナの事を見て今度はギルドの方を向いた。

 

 

「それじゃあ僕はこれから魔石の換金に行くから…えっと、リリは帰っちゃうんだよね?」

 

「はい…すいません」

 

「ああいや別にそんな気にしないで!…じゃあ、また明日もよろしくねリリ!!」

 

 

リリが軽く頭を下げるとベルは最後に笑顔を見せ、最期に手を振って――通りの人ごみの中に消えていった。

その白い背中がゆさゆさと雑踏の様々な色に流されていったのを見届けたリリは「また明日」という言葉に軽く失笑すると、あのしつこいまでの優しさがやっと離れたという事に安堵する。

 

(…ありますね)

 

懐に手を伸ばし、ナイフがあることを直接触って確かめる。

盗んだ抜身のナイフの柄は自らの体温でかなり暖かくなっており、心地よいと言えば心地よい…それにこれからこれを売れるという事を考えると今から心が躍った。

 

リリはフードの中から手を出し、ダンジョンで汚れた身だしなみをパンパンと叩いて払うと一度周囲を見回してみる。

道の真ん中で立ち止まるリリ(と主に倒れている男)に奇怪なものを見る視線を向けてくるものはいるが、それ以外の多くはこちらには興味を示すことなくただ歩きすぎていく。

 

とりあえず誰もリリを疑っていない、今回もひいてはこれまでのことについて追手は存在しないらしい。まぁ疑われるはずもないのだが。

 

 

「さて…」

 

 

この後の予定を頭の中で組み立てる…と言ってもとりあえずいつもの通りアシの付かない質屋で換金するだけなのだが、それより先に何はともあれ「変装(シンダーエラ)」もかけなおさなくてはならない。

 

とはいえ今すぐここでシンダーエラを使うわけにはいかない…それに少ないとはいえ視線が集まってしまっているこの状況は落ち着かない、ひとまずここを離れたい。

そう決めたリリは深くため息を一つつくと、バックパックの肩ひもを掴んで歩き出す。

 

――と、ふと足元に何か引っかかる。

 

見れば倒れたリョナの投げ出された腕を軽く蹴飛ばしてしまっていた。

とはいえ未だ気絶しているのか何の反応もないリョナに、リリは特に興味を抱かず踏み越えようとする。

 

 

「…そういえば!」

 

 

上げようとした足を宙で止める。

そして「そういえば」可能性から外してしまっていた「あれ」の事を思い出すと、先ほどのベルのように跪く。

 

(…落ち着け)

 

それから出来るだけリョナの身体を刺激しないようにゆっくりと動かすと、僅かに持ち上げる。そして裾口の長い…コートといったか衣服を捲ると、慎重にその暗闇の中に手を入れた。

 

――ほどなくして硬いものに手が当たった。

 

リリは思わず笑うと、目当ての物が手に入ったことに指先から喜びが伝うのに震える。

そして撫でると形状を確認し…昼間見た「アレ」の形と同じなのかを確認した。

 

それからリリはぐいと腕を引くと、シュルシュルと緩く結ばれていた紐が解けていく感覚に――

 

 

 

――1兎を追って2兎を得る、そんな幸運が成功したことを確信したのだった。

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

非常に美味しい匂いがしたところから俺の人生は始まる。

 

ぴくりと鼻腔が入り込んできた香しい美味の臭いに自動的に反応し、脳髄から胃袋にかけて電流が走るかのように痙攣する。

そしてつっぷしていた机から冷たくなった体のどこにそんな活力があったのか上半身をガバリと上げると――驚愕した。

 

 

「…!」

 

 

泣きそうになるほど美しい光景。

湯気を上げた皿の上からその下にかけて芸術的な麺の稜線、木々の代わりに咲いた一口大の肉や野菜たち。流れる白濁の川はその全てを優しく抱きしめ慈愛のごとく濡らしていた。

 

…その名は「マウントスパゲティ~ホワイトソースを添えて~」

 

山のごとく大量で、悪魔のように食欲をそそる。

 

 

つまり――例のように理性が崩壊した俺は叫んだ。

 

 

「ユニバァァァァァァァァァァァァスッッ!!!」

 

「うるさいリョナ!黙って食いな!!」

 

 

遠雷ように何か聞こえたがもはや気にしない、もはや空腹で絶景にしか見えないその光景に俺は(置いてあったフォークをひっつかむと)ダイブする。

そして――胃袋が痙攣するのに構わず絶景を胃袋の中にぶちこんだ。

 

 

「うめぇぇぇっぇぇ!!」

 

 

やはり空腹は最高のスパイスであろう。

空っぽになったからこそ染み渡りやすく、腹に何も無いからこそ渇望する。

 

狂ってしまいそうなほどの美味に俺は内心むせび泣きながら、フォークで料理を口に運ぶのはやめない。

…そしてとてつもない勢いで山が減っていくのを見計らってかコトリ…と「新しい景色」が机の上に追加された。

 

 

「お待ちどーさまにゃー」

 

「んっ…ぐっ…おうアーニャ、酒」

 

「どんぺりこすニャ?」

 

「ビールだろjk」

 

「解ったニャー…っと、少年は?」

 

「あ、いえ僕はこれで…」

 

「にゃー、いっぱい食わないと大きくなれないにゃー」

 

 

フリフリと尻尾が目の前を横切り去っていく。

しかし今はそんなことは重要ではなく、俺はさっそく新しい景色に取り掛かる。

 

見えたるは「血の海」、芋や肉が小島として浮かぶビーフシチュー。トマトベースの香しい匂いがまたも鼻腔を刺す。

フォークを投げ捨てた俺はスプーンに持ち帰ると獲物を見定める合間手で躍らせる、そして角度をつけ――差し入れた。

 

溢れんばかりのスープでも腹は膨れない。しかし飢えとはもはやコップ一杯の水でも救済されるもの。

付け合わせのパンに手を伸ばした俺はかっさらうように摘まむと、自らの皿に投げ入れた。

 

 

「むッ!」

 

 

技術…今までの自分の経験全てを総動員し、皿の中にスプーンを挿し込むと浸かったパンをくるりと回転させ押し付けると上面にも染み込むように濡らした。

それから芋を支点とし、ずぶぬれになったパンを空中に打ち上げると――

 

 

「はむッ!!」

 

 

――喰らった。

 

…勿論本気だ、こんな体質だからこそ飢えがどれほど辛いかは人一倍理解している。

まさかこんなベタな例えを持ち出すとは思わなかったが、あえてこう言おう…食卓は、戦場だと…!

 

それから具を全て食い尽くし、皿を掴んだ俺はグッと傾けると直接スープを飲み干して息を吐く。

 

 

「お待たせにゃー」

 

 

空になった皿を机を置くと、それに合わせてアーニャが新しい皿を持ってくる。加えて今度は「ドン」という音と共に樽ジョッキが出された。

息を吐き終える俺はほぼ間髪入れずそのジョッキの持ち手を掴むと、口元にあてて一気で飲み干す。

安酒ではあるが、渇いた身体にはよく効く。五臓六腑を手もみ洗いされるかのような刺激が体の芯に染み渡り、薄く痺れさせる。

 

並々注がれていた麦色の液体の全てが喉を鳴らしながら通り過ぎ、舌の奥を熱くしていくのを感じた俺、は空になったジョッキを机に叩きつけんばかりの勢いで戻す。

そして未だ立ち去っていなかったアーニャに目を向けると、泡の付いた口を開けた。

 

 

「おかわり!」

 

「相変わらずはえーにゃん、待たれよ」

 

 

いつも通りの俺のパターンを知ってか「待っていた」アーニャは、にゃーとため息なのか鳴き声なのかをあげながら頷くと、机の上に置かれた空になったジョッキを両手で掴んで運び去っていった。

 

――現在「豊穣の女主人」、とあるテーブルに腰かけた俺は絶賛生命活動中。

 

ダンジョンで疲労し、何とか出口から数歩進んだところまでは覚えているがそこから先の記憶はないのだが、気づけばここにいた。

恐らく倒れてくれたところを――机の反対側に座り自分の分の夕飯を食している少年が連れてきてくれたのだろう、今までも何度かあったパターンだ。…そのまま帰ってしまう事も多いが、今日は一緒にご飯を食べる予定らしい。

 

ちなみにこうなるとヘスティア様がだいぶ落ち込むので何かしらの土産が必要となる。

 

…教会の前で石でも拾っていこう、ビールによって熱くなった息を吐きだした俺はそう決めた。

 

 

 

・・・

 

 

 

それからリョナが20枚目の皿をこなし、だいぶ腹が落ち着いてきたころ。

皿で机の上が埋まり始めたのでリョナは食べ終えた皿を重ねるように置くと、一度溜まったガスをげふー…と大きくため息を吐いて息抜きをした。

 

そして新しく入ってきていた皿に手を付けながら、ふと対極に座ったベルの方を見る。

…しずしずと食事をしているベルの顔にはいつものような若々しい…生気のようなものが感じられず、非常にしょんぼりとしているように見え、思わず食べる手を止めた。

 

 

「…ん?どうしたベル君、何か良い事あったのか?」

 

「え、あぁ結果的には良い事だったんですけど…まぁ僕的には反省というか」

 

 

…何だか嬉しいような悲しいような、複雑な表情をしたベル君は声をかけられると自らの皿の上を突っついていたベルは顔を上げ持っていたフォークを置くと、珍しいしょんぼり顔のまま何やら腰ベルトをガチャガチャと鳴らし始めた。

そしてナイフの入った鞘を取り外すと、ベルはそこで爆発したのか若干涙目で、感情的に鞘を見せつけてくると、ナイフを指さし熱っぽく語る。

 

 

「これ一回失くしちゃったんです!」

 

「あー…なるほど」

 

 

確かヘスティア様からの贈り物だったかそのナイフにベルは相当入れ込んでいたし、かなりの業物であるからして失うには惜しすぎる。

ベルが落ち込むんでいるのはつまりそんな大事なものを失くした、という行為自体に落ち込んでいるのだろう。

 

なるほど、と納得した俺は一口皿の上をさらいながらゆっくりと思案する。

 

(…あ?)

 

しかし噛み締め飲み込んだ頃に、「一回失くした」という単語に違和感を覚え目を細めた。皿から視線を上げ目の前にある鞘とナイフに目を向ければ、確かにそこにある。それはつまり――

 

 

「――え、何ダンジョンで落としたってこと?」

 

「あ、はい…多分」

 

「…ぁー多分?」

 

「えっと…拾ってくれた人がいたっていうか」

 

 

ダンジョンで落とし物を誰かが見つけたとして、それが本人の手に戻ることはまずない。

 

例え持ち主が解っていたとしても届けず金に換えるような奴しか潜らないのがダンジョンだというものだ…あぁいや、ベル君は例外だが。

それにダンジョンは広いためまず物が発見されることも可能性として少ない。

 

だというのに拾ってくれた人がいた…というのはどんな状況だろうか?

 

 

「というかリリが拾ってくれたんですけど…」

 

「…あー、あのサポーターの?」

 

「はい、落としたのを拾ってくれてたらしくて…」

 

 

あの巨大なバックパックを背負った少女。可愛らしいと言えば可愛らしかったが、どこか卑屈っぽくて何だか好きになれなかった…こじ開けるというのは気分によっては良いが、最初から素直の方が叫びとか出させるのに面倒くさくない。

 

…というのはともかく、なるほど一緒にいたであろうあの少女がベルの落としたナイフを拾って渡してくれたとそう考えればまだ理解できる。

 

であれば落としたのは一瞬、音を立てて落ちたナイフをリリが拾ってくれたという情景が簡単に目に浮かぶ。

しかしそうであればベルがここまで落ち込むはずは無いので…音もなくナイフは落下したのだろうか?そんなバカな。

 

どうにもきな臭い、落としたのに拾われたという事態が引っ掛かる俺は皿の上をぐちゃぐちゃとかき回しながら、イラつく。

 

 

「とにかく!リリがいなかったら今頃僕とヘスティアナイフは…!」

 

 

もはや涙目のベルはヘスティアナイフを崇め奉る勢いで安堵の表情をまき散らす。

 

ふっー…と息を吐きだすと、一度かき回す手を止めて頭の中を空にする。

最終的には戻ってきているのだし、ヘスティアナイフにはベル君の匂いが染み付いている。

 

ようは、もし誰かに盗まれたとして――奪い返せばいいのだ、探し出し疑わしきものを皆殺しにすればいい。

 

…第二関節がぴくりと疼いたのを感じた俺は、苦笑してベルに肩をすくめて見せる。

 

 

「まぁ…なんつーか落とし物には気を付けるんだぞ、ダンジョンで落としでもしたら普通戻ってこないじゃんし」

 

「はい!今後気を付けます!」

 

上手い事まとめると、ベルはいつもの明るい表情に僅かに戻って頷いてくれた。

 

…ダンジョンは広い。もし落としたことにも気が付かず、通り過ぎて帰ってしまったらもう失ったものは帰ってこないだろう。

たまに極まれにそういった遺失物が裏通りの店に流れていることもあるが見つけることも買うことも難しい。…砂漠の中で一粒の砂金を探すのと同じだ。

 

故に(ベル君を馬鹿にする気は無いのだが)ダンジョンで物を落とすのは一番避けねばならぬ愚の骨頂、落とすなどというのは中々に間抜けもとい馬鹿野郎と罵られてしかるべきだ。

 

その点、別に俺は普段から特段気をつけていないがそもそも大事なものであるグローブはもっぱら手に嵌めているので落とすことはありえない。

…まぁ、あえて唯一の可能性を述べるのであれば――

 

 

「ところでリョナさんは今日どこまで行ったんですか?」

 

 

ベルがナイフをしまうと、再び皿の上を貪り始めた俺に尋ねてくる。

 

 

「…ッ!!?」

 

 

その言葉に思いだそうとした俺の脳に強烈なフラッシュバックが走る。

 

咆哮する見上げるほどの腔、震える空気、肌で感じる衝撃波…そして振り下ろされる拳と、真っ黒に縁取られた巨人の姿。

忘れようにも忘れられない「恐怖」――圧倒的な実力差を今日俺は見上げたのだった。

 

まさにそれは化け物で…血が冷めるような、思わず一歩引きさがってしまうような「圧」。

 

俺は口の中に入れていたものを一度強引に飲み込むと、背筋を伸ばして「今日」を振り返り…身震いした。

 

そして今日の体験を簡潔に説明する。

 

 

「…18…に行こうとしたんだが」

 

「えっ!!?」

 

 

18階層、ダンジョンにあるいくつか存在するセーフティゾーン。その階層はモンスターも少なく自然豊かで、安全ゆえに町すら存在している。

そして駆け出しの冒険者たちにとって18階層がまず目指すべき「目標」であり、ベルには先に行ってしまうリョナが少し羨ましくも思った。

 

…しかし同時にそれが「第一関門」だということにも気が付く。

 

 

「ご、ゴライアスはどうしたんですか!?」

 

「ん、あぁだからアレだろあのでっかい巨人みたいなやつ…」

 

「は、はいっ!それですっ!」

 

 

17階層から18階層に続く大空洞「嘆きの大壁」、唯一安全圏へと続くその道は呆れるほどに高く広い。

 

その理由は――階層の主、迷宮の孤王「ゴライアス」巨大すぎる赤子をくるむためには揺り籠も大きくなくてはならない。

ベルも直接見たことがあるわけではないが話に聞くその黒灰の巨人は、それに至るまでに戦ってきたモンスター達とは比べ物にならぬほど強く、レベル1冒険者などいとも容易く屠ることが出来る。

 

ベルにとって未知数の話、しかもリョナが今ここにいるという事は少なくとも「相対して生き延びた」という事。

それは――非常に興味がある。既にリョナのわんこした皿で埋まりつつある机に手を突き身を乗り出したベルは、リョナさんの話をよく聞くために集中した。

 

…のだが、リョナは珍しく「恐怖」の感情を顔に浮かべ苦悩すると、反対に苦笑すると何かをブツブツと呟く。

 

 

「…でかい…とにかくでっかい…それにデカブツのくせに速い…あと切れないってのがなぁ…」

 

「ぎゅるぎゅる丸でも…!?」

 

 

ファーストインパクトを避け、地面に突き刺さった拳に反射的に切りつけたがその肌はワイヤーを撫でるように受け付け火花を上げるだけで全く切り裂かなかった。

 

鉄でも切り裂くぎゅるぎゅる丸のワイヤーの鋭さはベルも知っている。それが届かないというのであれば…ベルのナイフでは到底、突きささりもしないだろう。

 

 

「そ、それでどうなったんですか!?」

 

「いやどうすることも出来ずに敗走しか出来なかった、割とマジで死にかけたしなー…113ぐらいだったか…もうちょっとカウント稼いで行ったら…いや解んねぇなぁ…」

 

 

リョナですら勝てない存在。レベル1冒険者では太刀打ちの出来ない強さの相手だということにベルは少し将来的な不安を感じつつ、流石のリョナでも勝てない、というか勝たなかったことに少し「普通」を感じると嬉しく思った。

 

それから「うんうん…」とゴライアスに勝つ方法を悩んでいるリョナの姿に、喜んじゃだめだよねと思い直すと、見たことのないリョナの敵に思いを馳せる。

 

…そしてリョナと同じように悩んでみると、腕を組み首を傾げた。

 

 

「…というか避けて通るというのはダメなんですか?」

 

「うーん…まぁそれなら多分できるけど、倒したいじゃん?」

 

「あぁー…」

 

 

必ずしも絶対に乗り越えなくてはならない壁ではない、しかしそこは意地として何となく理解する。そこに壁があるなら、乗り越えたくなるというのは男の性だ。

 

できるなら18階層に行く前にゴライアスを自らの手で超えたい。しかしゴライアスなどの迷宮の弧王は普通は幾人もの冒険者達で組んだ大隊規模のレイドで攻略するもので、個人が相対するものではない。

 

…その上で勝つ方法?

 

(僕には思いつかないかなぁー…)

 

何だかあまりにもスケールの大きな話だ、それにゴライアスに直接会ったことも無いのでただ妄想の中でだけ勝利する方法を模索するのは中々に困難だった。

 

とはいえ助言が全くできないわけではない、ベルは前々からリョナ自身が常々言っていたことを思い出すと軽く笑いながら確認してみる。

 

 

「そういえばリョナさん、前からぎゅるぎゅる丸の整備をしたいって言っていませんでしたか?ひとまずそれをするというのは…?」

 

「おおナイスアイデア!確かに何の整備もしてないから諸々ガタが来てたし、何だったら改良するってのもいいかもな」

 

 

ベルの言葉にリョナはその手があったかと掌を打つ。

といってもこれは前からリョナ自身が「したいしたい」と言っていることであり、機会が無いからか中々出来ていないことであった。

 

冒険者と武器の関係は「×」。

冒険者自身が強くなればその武器をもっと巧く使いこなせるし、反対に武器が強くなれば冒険者もより容易くモンスターを屠れるようになる。

 

…至極当然の事をベルとしては言ったつもりだったのだが、リョナにはそれは盲点だっったらしく非常に上機嫌な笑みを浮かべていた。

それから「どう改良するか」や「そもそもどこで整備しよう」とか何言か少年のようにリョナは笑い、語る。

 

 

「―♪」

 

 

とはいえ「実物を出した方が早いか」、と呟いたリョナは鼻歌交じりにテーブルに乗せていた腕を下ろし、コートの中に手を入れぎゅるぎゅる丸のついた腰に手を伸ばす。

そして恐らく紐を外しているのだろうゴソゴソと漁ると――

 

 

「ん?…ん、ん?」

 

「…どうしたんですか?」

 

 

――ピシリとその表情が固まり、ゴソゴソという手の動きが早くなっていくのをベルは不思議そうに見る。

 

テーブルに隠れた机の下はベルには見ることが出来ず、どうなっているかは見えないが…リョナが内心どんどんと焦りを募らせている、という事は何となくだが解った。

 

ベルはつられて不安になると、怪訝な視線を思わずリョナに送る。

 

そして――リョナのせわしなかった手が止まり、絶望した表情で顔を上げたのを見て「まさか」と目を見開いた。

 

 

 

「――失くした」

 

 

 

「……ッは、あのもしかして…!?」

 

 

それからリョナの物とは思えない非常に仄暗く絶望した声に、ベルはわなわなと震えるとその「最悪の予想」が外れていることを祈り――掠れそうな息を吐きながら尋ねてみる。

 

…するとリョナは変わらない表情でガクガクと震え始め、ガバリと立ち上がると――

 

 

「ぎゅるぎゅる丸、失くしたァァァ!!!!?」

 

「うるさいねリョナ、いい加減追い出すよ!!」

 

 

 

――豊穣の女主人の騒がしい店内に、「ダンジョンで物を落としたら戻ってこない」と言った口から、「物を失くしたこと」に絶望した叫びを響き渡らせたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

 




日常感を演出したかったんだがなかなか難しい・・・

今回からリリルカ・アーデ編!ロリ最高だぜ!予定では三話ぐらいで終わらす!(なお予定を語ると二倍になる法則)

あそれとタイミング的にリョナは一度ヘスティアからステイタス更新を受けているんですが(考えてなかったんで)次回まとめて書きます!

では次回!


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 日間盗人少女リリ

サブタイなんやこれ…って思うかもわからんけど読み進めると大体解るはず…?

というか寒くなって指先がかじかんでカジカジしてまいりました…みんなも凍傷には気を付けるんじゃぞ?





・・・

 

 

 

「…なるほど、つまりリョナ君はダンジョンでぎゅるぎゅる丸を落としてしまったと」

 

「はい…そうみたいなんです」

 

 

廃教会の地下、ヘスティアファミリア本拠地。

 

ぼろいソファに座った主神と白髪の眷属は暗い顔で向き合い、「うーん」と顔を落とす。

時刻はすっかり夜、月明りでは心もとない地下室にはろうそくが一本たてられ薄ぼんやりと照らしていた。

 

――「ダンジョンで物を落とせば、落としたものは帰ってこない」。

 

それは至極当たり前のことで、言うなれば砂漠の中から一粒の砂金を見つけ出すようなもの。…同様にヘスティアナイフを落としたベルの場合、たまたま砂金を拾っていた友人が近くにいたといったところだろうか、何にせよ運が良かっただけで繰り返せるものでない。

 

 

「うーん…」

 

「…どうにかならならないんでしょうか、神様?リョナさんすごい落ち込んでしまって…」

 

「うー…ごめんね、神威があるならまだしも今の僕にできることは無いかな…」

 

 

やはりどうすることもできないのではないか、という思いに二人の面持ちは更に暗くなる。

そして自然と部屋の隅に目を向けると、そこにうつ伏せに寝ている既に全裸の男の背中を見る。

 

ホームに帰ってくるなりリョナはすぐさまシャワーを浴びると、そのまま自らの(狭いスペースに強引に詰め込んだ)ベッドに倒れこんだ。

…その様は終始ぼんやりとした物であり、いつもの大人の余裕というようなものは微塵も感じられず、すぐさま寝転がったのもふて寝のようであった。

 

 

「…いったいどうすれば」

 

「……どうするかはリョナ君が決める事だ、もう夜も遅いしベル君も寝た方が良い」

 

「はい…おやすみなさい、神様」

 

「何だったら明日の朝僕が話してみるよ、だから安心して…おやすみなさい」

 

 

家族とはいえ人のために頭を悩ませていたベルにヘスティアは諭すと、立ち上がる。

すると元から眠かったのだろうベルは素直に頷くと、そのままソファに寝転がり瞼を閉じた。それからすぐに意識を落とすとすぐに寝始め、静かな寝息を立て始める。

 

(やっぱり優しいんだね、ベル君は)

 

ヘスティアはその可愛らしい寝顔に微笑むと、家族とはいえ他社の悩みに真剣になれるベル君の優しさに嬉しく思った。

 

そんなベルの寝顔をいつまでも見ていたいとヘスティアは願うが…すぐに、自分を律し立ち上がると振り返る。

…そこには裸で寝ているリョナが。

 

 

「全く!風邪をひくぞ君は!」

 

 

ヘスティアはリョナの足元に丸まっていた集めの毛布を掴むと、荒々しくリョナの全身に(目を逸らしながら)投げつけるようにかけた。

…リョナはうつ伏せのままベッドに顔をうずめており、全く反応はない。

 

それでもヘスティアには眠ったリョナの内心の焦りが手に取るように解った…それは「親」だから。

 

 

「全く…」

 

 

毛布を掛け直す。

そしてベッド脇に腰かけると、その背中に触れた。

 

…暖かい、というか熱いその背中はヘスティアの掌をじっくりと――

 

 

「ッ!?…やっぱり…」

 

 

――ピリッ…とした痛みが走り、思わず反射的に手を離す。

 

親だというのに、子供に触れることも叶わない。

ヘスティアは離してしまった自らの手をしげしげと眺めると、悲しみに満ちた瞳で「神殺し…」と一言だけ呟いた。

 

 

「…」

 

 

その広い背中を見下ろしながら、特殊なこの子の身柄を案じる。

 

(…といっても、解らないしなぁ…)

 

「神殺し」について――今までも何度か考えてみたが到底解らない、それに不用意に他の神に相談する事も出来なかった。

しかし一つだけ変化がある、それはあの大怪我を経てからリョナの身体に触れる度に痛みが走るようになったこと。

 

もしかすると…大怪我をしたことで何かリョナの中にあったものが覚醒したか、あるいは――

 

 

「――ふぁ…僕も寝よう」

 

 

どうせ考えても答えは解らない。眠気に欠伸を浮かべたヘスティアは今日の労働を思い出しながらリョナのベッド脇から立ち上がると、緩慢に伸びをする。

 

そして自らのベッドに向かうと…途中で思い直し、振り返る。

 

 

それからソファの方に近寄ると――スースーと寝息を立て始めるベルの上に、まんまと潜り込んだのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

時刻は僅かに戻り、夕刻――『ダイダロス通り』。

 

かつての偉人…いや、奇人ダイダロスが創り出した迷宮。

オラリオでも貧民街となっているここは度重なる区画整備と増築のせいで道は複雑怪奇、ときには上下左右どこに進んでいるか解らなくなるほど混迷しており、初見の者が安易に踏み込むと帰ってこれなくなるとまで言われていた。

 

(…)

 

そしてそんなダイダロス通りでも「浅い」石造りの道に、注意深く進むフードを目深に被りやけに巨大なバッグパックを背負って進む小人族が一人いた。

周囲を警戒しながらゆっくりと進むその者が果たして稀に襲ってくる野党の類を警戒しているのか、あるいは道を間違えないように注意しているのかは解らないが、どちらにせよそれは正しい…ことこの場所において警戒しておくにこしたことは無いのだから。

 

…とはいえコートのパルゥムは十分に周囲に気配を配りながら、比較的軽い足取りで自らの目的地に向かっていた。

 

 

「…!」

 

 

――目の前に黒猫が現れる。

 

スタッと軽く着地するように小道から出てきた黒猫は尻尾をゆらりと揺らめかせ、ゆっくりと我が道を歩んでいた。

…進路に歩み出てきた黒猫に、思わずそのパルゥムは立ち止まり注視する。

 

すると黒猫もまたこちらに気が付いたのかのんびりとこちらに顔を向け、黄褐色の瞳を細めると…退屈そうな顔でニャアと鳴いて、来た時と同じようにフワリとその場から立ち退いた。

 

 

「…」

 

 

馬鹿にされた感はある、しかし猫一匹気にしない。

 

猫にからかわれたパルゥムはまた歩み始めると、目前にまで迫った目的地の看板を見つけるとバックパックを背負い直す。

 

…夕暮に染まった道には他に人影は無く、その小人族の足元にだけ淡い漆黒が揺らめいていた。

そしてそのパルゥムの少女が目当ての「質屋」に辿りついた時、夕日は迷宮に影を落としたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ふむ、ダメじゃな。押しても引いても切れぬ…刀身が死んでおるわい」

 

「そんな…!?」

 

 

目を見開いて驚いたリリは、目の前に座る老人に驚愕の視線を送る。

そしてカウンターの向こう側でベルから盗んできたヘファイストスのナイフの先を撫でる姿に、その言葉が嘘ではないのだと知ると知った。

…もし、昼間ダンジョンで見たあの鋭さに指を這わせようものなら老人の皺塗れの皮膚など容易く裂け、今すぐ鮮血を噴き出させているのだろう。

 

しかし――何故?

 

 

「お前さんがこんなガラクタを持ってくるとは珍しいのぉ…まぁ間違う事もあるじゃろうて」

 

「ま、待ってください。それはヘファイストスの――」

 

「これが?」

 

 

そう言って老人は目じりに皺を作ると、何も切れないナイフの刃で指を撫でる。

リリは自分でも説得性がない事を理解すると、悔しそうに歯を食いしばる。

 

そしてあの「ヘファイストスと刻まれた鞘」さえあればどうとでもなると瞬間的に思い浮かぶと、落胆に気分が悪くなりつつある喉奥からため息を吐いた。

 

 

「…まぁそう落ち込むで無い、ホレ」

 

 

そう言って老人から手渡たされたナイフをリリは受け取ると抜身のまま切れなくなったナイフを胸元にしまい込む。

 

 

「それに――」

 

 

老人の言葉が続く。

その顔は正に満面喜色、老人であってその笑みには少年のごとく「新鮮なもの」への喜びを覚えているようだった。

 

そして座ったままその短い腕を精一杯に伸ばすと、カウンターに乗っていた「それ」を掴む。

 

 

「――こんな面白いものを持ってきたんじゃからなぁ!」

 

 

そこに置かれたるは――「黒鉄のグローブ」。

 

カウンターの上に置かれた二対の黒鉄は狭い店内に置かれた唯一のランタンの光を鈍く反射させ、その隙間から見える凶悪な造詣をした棘を照らしていた。

 

そして老人が手に取ると複雑な関節機構がくいと曲がり、かちゃりと音を立ててカウンターから浮かび上がる。

 

 

「ふぅむ…」

 

 

手に乗った二つのグローブを老人は回すように見上げる。

ゴツゴツとした黒い外部装甲、中張りにされた交差したレースのような生地、指の第二関節及び各所に仕込まれた複雑な機構の数々…それは素材、技術共に未知でありこの世界では誰も見たことが無いもの。

 

そしてそれはこの老人も同じだ…その全てを目にいれた老人は小さく落ちくぼんだ眼を歪ませ笑うと渇いたため息を吐く。

それから満足そうにしげしげとグローブを眺めるとその視線をリリに移す。

 

 

「…やはり、儂も長い合間色々珍妙なものを見てきたつもりじゃがこんなものを見たことが無い!オーパーツと言っておったがこんな物どこで拾ってきたんじゃ?」

 

「…そうですね、ダンジョンで拾ってきたんです」

 

 

思わず笑みをこぼしかけたリリは冷静に答える。

しかしその胸の内では既に先ほどの落胆は薄れ、誤算が功を奏したことへの喜びが熱くなってきていた。

 

…リリとしての本命はナイフの方だったが、まさかグローブの方でここまで期待値が高くなるとは思わなかった…それにナイフの方はあの鞘さえ手に入ればという状況なのだから。

 

内心ワクワクとリリは、グローブを手にした老人の動向に注視する。

そしてその観察の後、提示されるであろう金額に思いを馳せた。

 

 

しかし――

 

 

 

「じゃがのぅ…これは買えんな」

 

「…!」

 

 

 

――老人は残念そうにグローブをカウンターの上に置く。

 

 

「何故ですか!?」

 

 

思わずカウンター越しにリリは老人に詰め寄る。カウンターさえ無ければ掴みかかっているほどの勢いのリリは睨むようにして老人を見上げると…僅かに慌てと困惑で計算し、冷や汗を垂らしていた。

 

ガゴンッ…とカウンターに体当たりせんばかりのリリに老人は眉をあげると目を細める。

…そして「いやいや」と首を振るとその小さい腕を組んでみせた。

 

 

「これは確かにウン千万ヴァリスは下らん…上手くすればウン億ヴァリスはする代物じゃろう」

 

「…!」

 

 

想像以上の質屋の見立てにリリは目を見開く。

しかし、なればこそ…!?

 

 

「だったら…!?」

 

「うむ、だからこそ今儂はそんな手持ちは持っておらんし、なにより――」

 

 

…なるほど、ここいらで名は知れているとはいえただの質屋が即金でウン億ヴァリスを用意出来るはずもない。

 

ハッと老人の言葉に気が付いたリリはいきりたった肩を収めると老人の次の言葉を待つ。

 

 

「――7日、いや8日後にとある豪商がオラリオに来るんじゃが、そやつは随分と物好きな奴での…こういったモノに対して金に糸目はつけんじゃろうて」

 

「…!…」

 

「勿論確約は出来んが…奴とは個人的な付き合いがあるからの、数億ヴァリスの交渉も全然ない話じゃないのぉ」

 

 

生唾をリリは飲み込むと計算する。

豪商、というのがどこまでかは解らないが趣味のためにウン億ヴァリスを出すというのであれば相当…!

 

 

「して、どうする?今儂は買えんが8日後であれば確実に高値で買えるじゃろうて…勿論手数料は頂くがの?」

 

 

キラリと微笑みながら尋ねてくる老人の目が光る。

その質問は選択を迫るが答えはお互い知っているようなものだ…選択の余地がない質問にリリも軽く笑い返すと…頷いた。

 

 

「えぇ、そういう事でしたら私も構いません…いえ、むしろよろしくお願いいたします」

 

「ふむ、こちらこそな」

 

 

…盗んできたわけだから、出来るならば今日中に売ってしまいたいという思いはある。

しかしそういう話なら、というかそれしかないのであれば仕方ない。

 

スケールが万を飛んで億の額、8日という長さは危険だが、リスクに怯えていては盗みなどできない。

…それに痕跡は残していないし、荷物全てを漁られるでも無い限りバレるはずはないのだ。

 

(…できる)

 

「8日間」、どうとでもなると確信したリリは床を見ながら目じりを緩める。

そしてされさえ過ぎてしまえば「目標の金額」さえ飛び越え、暫く生活にも余裕が出るという事に安堵を覚えたのだった。

 

 

「…ちなみにそれまで儂がここで保管しておいても良いぞ?そうすれば査定効率も良いじゃろうて」

 

「お断りします」

 

「そうか、それは残念じゃのー」

 

 

勿論お断りだ。

この老人とは懇意ではあるがダイダロスの住人に何かを預けるというのはもうそれは帰ってこないのと同じ、預けてしまえば最後「はてそんな物あったかの?」とはぐらかされて騙されるだろう。

 

老人は大して残念そうじゃ無そうげに肩を竦めるとカウンターの上に置かれたグローブをリリの方に押し出す。

その際カチャリ、と小さな音をたてたグローブをリリは軽く手を伸ばすと掴んだ。

 

 

「…ん」

 

 

手ごろな重さが手のひらの上に乗り、カウンターから引いた腕に微かな負荷がかかる。

そしてゴツゴツとしたそれを服の内側に入れるとリリは服の上からそれが目立たないかを確認すると、僅かに冷たいそれが自らの体温で暖まっていくのを感じほくそ笑んだ。

 

(…楽しみ、ですね)

 

不安もある、しかしそれ以上にこの現状の打開への「カギ」と考えると、最終的には手放しはするが愛着すら湧いてくる。

 

――8日後、その時まではこれはリリの宝物なのだから。

 

 

「それでは」

 

 

老人に目をやって軽く会釈をした後振り返ったリリは店のドアを開ける。

その時、これの持ち主の顔が一瞬思い浮かんだが…「何をいまさら」一蹴すると邪悪にも笑う。

 

 

「…気を付けてな」

 

 

そしてその背中に老人の言葉がかかり、後ろ手に扉が閉まった後リリは質屋を後にしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ん…」

 

 

目を開けると、珍しく寝ざめが悪い。昨日の酒のせいでか頭は重いし、身体は妙に気だるい。

 

…朝なのだろうか。仰向けの状態からズリ…と顔だけを動かし見上げると、朝の透明な光が部屋の中に差し込んできているのが見える。

 

 

「う…」

 

 

腕をベッドに突き立て、身体を起こす。

全裸で寝ていた身体は凍えており、重くなった上半身だけを起こした俺は一度ブルリと震える。

 

この部屋は地下ではあるのだが天井は穴が空いており、朝の冷気が降ってくるので俺の肌を刺している。つまり全裸で寝るには向いていない環境なのだが、完全に悪癖になってしまっているため(というか大して大事でも無いため)中々治せる事ではなかった。

…というかせめて天井の穴だけでも直せればいいのだが。

 

 

「ふぁ…」

 

 

凝った身体をほぐすため伸びをする、するとゴキリという音とともに背骨が鳴った。

痛くは無いが無防備にさらされた上半身は寒い、慌てて俺は毛布を体に巻くと何とか暖をとる。

そしてミノムシのようになりながら部屋の中を見渡してみる。

 

 

「ぐごー、ごぐー」

 

 

…ソファに非常にだらしない恰好をしたヘスティアが、涎とかをまき散らしながら大いびきで寝ていた。

恐らく、というかいつも通りヘスティアがベルの寝ているソファに潜り込み、それでベル君が押しのけて出ていった結果、そのまま一人で寝ているということになるのだろう。

 

その安らかな(というかある意味大胆な)寝姿を見ていると、本当に人間と変わらないように見える。威厳が感じられないのは別に起きていてもだが…神性、というか神威の発動が認められないというのだから尚更だ。

 

(…)

 

というか、ベルの姿がない。

いつもは俺と同じかそれよりも早い時間に起きて、ダンジョンに行く準備をしたり朝ご飯の準備をしたりしている…のだが、今日は狭い部屋のどこにも元気な少年の姿は見られなかった。

 

(状況的に考えて、まぁ俺が寝坊したって感じだな…)

 

鼻を鳴らして匂いを嗅いでみる。

残されたベルの臭いはだいぶ薄れており、朝の澄んだ空気というにはだいぶ濁っている。

…推察するに時刻は9時半ぐらいだろうか。

 

 

「ふぅー…」

 

 

それ以外特に違和感が感じられなかった俺は、ベッドに座ったまま大きくため息をつく。

ミノムシ状態から出るのは非常に心苦しいが、そろそろ出ていかなくては。

 

俺は普段着のある位置、ベッド脇に畳まれた自分の服を見ると、一瞬全裸になる恐怖と寒さに戦慄く。

しかし一日寒さに怯える訳にはいかない、俺は覚悟を決めると毛布をはだけた。

 

 

「ッ!」

 

 

一瞬、寒い…が余裕で耐えられる程度の寒さだ。俺は置かれた自らの服に手を伸ばし急いで着る。

緩いインナーシャツと下着、そしてジーンズを履き靴下をつける。そしてコートはさておき――

 

――腰につけるための「ぎゅるぎゅる丸」に手を伸ばし、そこに何もないことに思わず指を竦めた。

 

 

(…どうしたもんかな)

 

 

竦めた腕を力なく下した俺は反対の手で髪を掻き上げるとため息を吐き、朝の錆びついた思考を解すように思案する。

 

俺の唯一の向こうの世界からの持ち物、ぎゅるぎゅる丸。作ったのは俺が十代の頃で、そこからずっと愛用してきた。

思い入れは…かなりあると言っていい、常に身近にあったそれはもはや身体の一部と言っても過言ではなく、あの手慣れた重さが無くなったのは異様なまでの寂しさがあった。

 

 

俺は軽くなってしまった腰をベッドからあげると、再び伸びをする。

 

 

「どうしたもんかな…」

 

 

呟きながら台所に向かって歩く。

それから鼻を使い戸棚の中に放置されていたチーズの欠片を探し出し掴みだすと、食べながら再度思案する。

 

思案する内容は勿論「ぎゅるぎゅる丸」について。

 

まず状況として、俺はぎゅるぎゅる丸を事もあろうにダンジョンに落としてしまった。

理由は疲労と不注意だろう、昨日は地上に戻る際にゴライアスとの接敵で慌てていたし、帰りは運が良かったのか敵と会わずぎゅるぎゅる丸も装備していなかったため、落としたとして気が付かない可能性もあった。

 

(…)

 

ヒントは、ダンジョンという以外何も解らない。

それは常識的に考えてもうぎゅるぎゅる丸を永遠に失ったと言っても過言ではない。

 

しかし――

 

 

(――探そう)

 

 

だがそれはあくまで俺以外の場合において。

 

とはいっても確実な方法があるわけではなく、あくまで可能性がある方法を俺が持ち合わせているだけということ。

 

 

「鼻」を使えば自らの武器の臭いを追跡できる、鼻の利く俺はもしかするとダンジョンの中で落としたぎゅるぎゅる丸の在りかを探ることができるかもしれない。

 

 

…とはいえ自らの臭いというものは慣れすぎているので追うことが中々に難しい。加えてダンジョン中濃い血と獣臭に塗れているため中々に難しい…というか、無理難題だ。

 

しかしいくら見つかる可能性が低かろうと…諦める訳にはいかない、あれは唯一無二のオリジナルなのだから。

それに大切な自らの宝ものだ、必死にならずしてどうする。

 

 

「よし…!」

 

 

昨日眠る前考えたことを俺は再度確認すると、決意を固めた

落とし物を探す、ただそれだけの事に躊躇いも無い。

 

チーズを数個食べ、保存された水を飲むと俺はコートを肩に引っ提げる。

そして一度ソファの上に寝ているヘスティアの方を見ると、ふっー…と重くため息をつく。

 

 

「…行ってきます」

 

 

それから振り返りつつコートを羽織ると――失ったぎゅるぎゅる丸を探すべく地上に向かう階段に足をかけたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ん…あれ?」

 

 

廃教会のぼろい扉を後ろで閉めた俺はふと大切な事に気が付く。

 

 

「武器なくね?」

 

 

俺はぎゅるぎゅる丸以外の武器は所有していない。

しかしきっとぎゅるぎゅる丸はダンジョンの中に落ちているわけで、これから俺はダンジョンに向かおうと思っていた。

 

しかし俺といえども武器が無い状態でダンジョンに潜るのは自殺行為なわけで――

 

――モンスター相手に徒手空拳?んな馬鹿な。

 

 

「…まずは何か武器を見つけないとか」

 

 

んー…と瞼に力をこめ武器の工面に悩む俺は、そのまま教会の狭い敷地の外に足を出す。土から石造りの道では踏みしめる感触が違う、コツンという乾いた音が靴底から鳴った。

 

それから清々しいまでの青空を見上げると、どこで武器を買ったものかと考える。

…しかしゆっくりと流れる白雲には良い武器屋の場所など描いているはずもなかった。

 

(こんな事なら普段から探しておけばよかったなー…)

 

ぎゅるぎゅる丸以外の武器を持つつもりなど無かったので、武器屋にはあまり興味を抱いていなかった。町を歩くと時たま鍛冶をしていたり武器を並べたりしている店はあったのは知っているが…買うのであればやはり良い剣が欲しい、少なくともぎゅるぎゅる丸を見つけ出すまではその代わりになるのだから。

 

(というか金は)

 

コートの中に手を入れてその中から財布代わりの包みを取り出す。

ずっしりと重いそれを俺は軽くポンと投げると、掌の感覚で何ヴァリスぐらい入っているかを確認してみる。

 

…1万ヴァリスくらいはあるだろう、最近数え方を知った程度なので詳しくは解らないのだがそれくらいはあると感じた。

これで足りるのだろうか、ホームには貯金が幾ばくかはあるのでそれを持って来ても良いが、とりあえず店を探してからでも遅くはないだろうが武器の値段というのがいくらくらいなのか俺は知らない。

 

…うーん…と腕を組みながら歩き始めた。

 

 

「…ん?」

 

 

ひとまず大通りに出れば、何かしら店が見つかるかもしれない。あるいは最悪そのままギルドに向かい、エイナに会えば何かしらいい店を教えてくれるだろう。

 

そう思い、俺は大通りの方向に足を向ける。

 

しかし…そこには箒を携え、「店」の前をせっせっと掃除している犬耳の女の子がいた。女の子は箒を巧みに縦横無尽に丁寧に動かして塵芥を飛ばし、店前を綺麗に清掃しているのだった。

…確かお隣さんだったか、ミアハファミリアの…名前は…。

 

 

「よぉ…えっと、ナァーザちゃん」

 

 

何とか名前を思いだした俺はテクテクとその女の子に近づくと、声をかける。

 

お隣のというか近所の薬屋の店は「ミアハファミリア」という…ヘスティアファミリアと同じ零細貧乏ファミリアだ。

そして言うなれば商業系ファミリア…のようなものらしい、ヘスティアファミリアと違いミアハファミリアはダンジョンに行って魔石で生計を立てているのではなく、薬を売って生活している。何でも神の恩恵には戦闘面だけでなくそういった生産系のスキルもあるらしく、ポーションの効果を高めるものなんかもあるそうだ。

…まぁそれ以上詳しい事は知らないのだが、そういうファミリアもあるのだとこの時初めて知った。

 

そしてこのナァーザ…エリスイスちゃんはそのファミリアの唯一のメンバーだ。

いつもは店番をしており、ベルなんかが良く店を利用するためついでに俺も店内に入ったこともあった。

…まぁ会話したことは殆どないのだが。

 

 

声をかけられたナァーザは丁寧に掃いていた道から目をあげると、その半分閉じたような眠そうな藍色の瞳をこちらに向ける。

 

そして極めて無表情のまま、だらしないとも言えるにへら顔で近づいてくる俺の顔を眺めると、箒を軽く握ったまま首を傾げてみせた。

 

 

「…何か?」

 

 

そばで立ち止まると、160cmくらいのナァーザを見下ろす形になる。

リリルカアーデ嬢程ではないが…二日酔いがまだ残っているせいか若干首が痛くなった。

 

逆に見上げてくるナァーザの薄灰茶色の緩くカールし編みこまれた触り心地の良さそうな髪と耳に思わず触れたくなるがアーニャ曰くとても失礼ニャそうなので何とか自制する。そしてこの世界特有の容姿の整い方に(いつも通り)嗜虐心を刺激されるが、嫌悪ならまだしもナァーザのあまりにも無表情なその顔に性欲が失せるレベルで思わず苦笑した。

 

 

「…いや、なんてことないただの挨拶だ」

 

「そうですか、ではおはようございます」

 

 

あれ、何で声をかけたんだろう。

…可愛い女の子が店先で箒をかけていたから思わず声をかけた、とか理由としてどうだろうか?

 

ともかくぎゅるぎゅる丸を失った寂しさを埋めるためなのかは知らないが、とにかくナァーザと何か会話をしたい俺は何か喋る話題が無いかと話のタネを模索する。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

しかしこの子の事を何も知らないし、共通の接点があるわけでもない…何なら隣に住んでいるというだけでもはや関りが無いとすら言えた。

 

(…ふーむ)

 

差し障りない話題、といっても俺はこの世界に慣れかけてきたばかりだ。むしろ常識だとか雑学だとかで言ってしまえば俺の方が詳しくない。

 

…仕方ないのでそのままナァーザが掃除する様を、割と至近距離で観察する。

すると非常に丁寧に掃除をしていた彼女は、未だ立ち去っていない俺の足が視界に入ったのに少し眉をひそめ怪訝そうな顔をして俺の事を見上げてきた。

 

 

「…邪魔です」

 

「失礼」

 

 

数歩退くと、ナァーザはまた顔を落とし掃除を再開する。

完全に無表情というわけではなくただ表情が乏しいだけなのだなと解った俺は少し納得すると、その小さく箒を小刻みに動かしながら掃除を続けるナァーザの背中に、俺は何も考えずにただふと思ったことを尋ねてみる。

 

 

「もしかしてナァーザちゃんは俺の事が嫌いか?」

 

「…はい?」

 

 

質問の意味はそのままだ、何だかナァーザは俺の事が嫌いなように見えた…ので尋ねてみた、それだけだ。

 

そんな俺の単純な疑問に、先ほどより眉をひそめたナァーザは一度掃除をする手を止め顔を上げる。

 

(あ…いい表情…)

 

若干怒気が混じったような困惑と蔑視の混ざったような顔であっても美少女っぷりが崩れないのも良いが、そのふと抱いてしまう感情を見たからこそ苦痛に歪むような絶望に明け暮れるような他の表情を見てみたくなる。

 

…しかし今の目的はあくまで会話だ、苦悶を味わう暇はない。

 

渇いた食欲と性欲にも似た欲求を俺は口惜しくも飲み込むと、少し自らの発言の意味を考え(何も理由など無いのでは?と思いつつも)説明してみる。

 

 

「いやー…何かベル君とは対応違うなーって…」

 

「はぁ…」

 

 

そういって、何となく納得したナァーザは視線を落としあごに手を当てると少し思案する。

それからチラリと自らの家の方…つまり店内を見るとその後俺の事を見上げてきた。

 

 

「だってあなたは店の物を買っていかないから…ベルはいつも買っていくから客…」

 

「あー…そういうこと」

 

 

俺はバベル内のギルドがやっている店でポーションを買うのは済ましてしまっている。というか怪我をしても唾つけとけば大体治るので、使う機会も少ないので買う機会が珍しい。

 

それで対応が悪いのはつまり…ミアハファミリアの店にベル君の付き添いなどで行くものの冷やかしばかりで金を落とさないため、俺の事を客ではないと判断したというわけだろう。

…まぁこのミアハファミリアは下手をするとヘスティアファミリア以上の経済難らしいので、現金な性格なのは仕方ないことかもしれないが。

 

頷いた俺はそういうこと、と納得するとそれをそのまま話のタネにしてみる…対応について。

 

 

「しかし対応良くしたら、もしかしすると何か買っていく気分に変わるかもしれんぞ?」

 

「…なるほど、一理ありますね」

 

 

日本的な接客かもしれないが、例え物を買わない客でも最高級の対応を一応する。それは物を買ってもらう可能性を上げるという実利的な意味合いもあるが、継続的に通ってもらうために気持ちよく利用させるためだ。

 

お客様は神様だ…なんていう言葉でそれは解るだろう。

 

 

「…」

 

 

俺の言葉に一応の理解を示した様子のナァーザは一度顔を下げると、箒を一度手の中で回転させ――今度は顔を上げると、微笑んで見せた。

 

…所謂営業スマイルというやつだ、しかしそれは微笑みというには余りに変化に乏しく口角も精々2、3度くらしか上がっていない。まぁ元々が無なので微妙な変化であろうと笑っているのだと解るが。

 

しかし――

 

(それだけではつまらんな)

 

――微笑むだけで何も喋らず、見上げてくるナァーザに俺は少し悩む。

そして「頭」を見て対応を決めると、からかう為に意地悪く俺はニッと嗤う。

 

 

「『お座り』」

 

 

…。

犬、というか犬人なのだが、その耳を見ていると何だかそれが一番正しい対応のように思えてくるから脊髄反射というのは本当に恐ろしい。

 

とはいえナァーザがそれに応じるかというとそれはまた別の話だ、見下ろし爽やかな笑みでお座りを要求してくる俺に微笑みから驚愕、そして恥じらうように頬を染め表情を変えると――

 

――手に持った箒を一度地面に置き、その場で「お座り」するのだった。

 

 

「…ッ…」

 

 

頬を大幅に染めぷいと顔を背けるナァーザは、非常に恥ずかしそうな顔で俺の足元に手をつき、律義にも足をM字に開いてその場に座っている。

そのいでたちはシルクっぽい服、下は長いスカートなので例えそんな座り方をしても何も見えないが、つい気になった俺は腰を曲げて覗き込んでみる。

 

…するとまぁ案の定というか、恥じらいを強めたナァーザはハッと目を見開くと何も見えないように若干股を閉じた。

 

しかし曲げられた太もも、伸びた背筋、僅かに寄って強調された胸などその程度では隠し切れないエロさ…もとい恥ずかしさが滲み出ていた。

 

 

(やばい、楽しい)

 

 

朝っぱら婦女子を捕まえて何をさせているんだという声が聞こえてくる気がするが、というか早くぎゅるぎゅる丸を探しに行かなくてはならないのだが、常に欲望に忠実でなければ快楽殺人などやっていられない。

 

そのナァーザの恥じらう顔に思わずにやけた俺は、犬のようにお座りするその姿をゆっくりと観察し堪能すると、「次」を命令する。

 

 

「『お手』」

 

「…!」

 

 

今度こそナァーザは顔を真っ赤にする。最大限驚いたその表情は最大限恥じらいを称えており、泣き出しそうなその瞳は濡れ、とんでもない命令をしてきたその男の屈託ない笑顔を震える瞳孔で見上げていた。

 

…しかしナァーザは数舜考えた後、頬を染めたまま顔を背ける。

 

 

「いや…です」

 

 

まぁそうだろう、お座りとお手どちらが恥ずかしいかと言われれば確実にお手の方が恥ずかしい。なぜならお座りだけなら野生の犬でもままするが、お手は完全に屈服の証…人にしつけられた犬のみが行う行為だからだ。

 

とはいえ犬人の場合そこまでの意味はないとは思うが、恥ずかしい事であるということには変わらないだろう。

事実として頬は赤く上気しているし、物を買うかもしれないというだけではとてもじゃないが到底「お手」などしてくれないだろう。

 

故に――俺は「カードを切る」。

 

 

「あー…あっついなー…」

 

「!?」

 

 

ポンポンと胸元を擦りながら、パタパタとコートをはためかせる。

しかし朝、日本の夏でもないこの世界は寒くはあっても絶対に熱くはない。

 

――俺の手がコートを揺らすと、ジャラジャラと胸元に入った一万ヴァリスが鳴る。

 

それはきっとナァーザにも見えていただろう、丁度俺の触った辺りを見ていた彼女ははだけたコートの内側に、かなり大きめの袋が釣り下がっているのが見えただろうし、音と金属の匂いでその中身が全て金貨なのだという事を知って目を見開いていた。

 

…一万ヴァリスは俺にとってもそれなりに痛い出費だが、今の欲を満たすためなら全て投げ打とう。それにカードとしてこれ以上のものはない、彼女とミアハファミリアにとって1万ヴァリスはかなりの大金…言うなれば臨時ボーナスか、それ以上のものだ。

 

 

そんなものが目前をちらつけば――ナァーザも流石に目の色を変える。

一瞬、恥じらいすら忘れた彼女は一度だけリョナの胸元から見えたその袋とその中身がいくらばかりかを懸想し、手に入れたところを想像し…手に入れ方を思い出すとまた顔を紅に染めた。

 

 

「…さて何だっけ、お手する?しない?いや別に嫌ってんなら強制はできんが…ね」

 

「…!…」

 

 

手を差し伸べる。しかしそれは救いの手ではなく、言うなれば「いじり」の手で意地悪い手。

その手をとれば大金が手に入る可能性さえあるが、悪魔に魂を売るがごとく…恥ずかしい。

 

ナァーザは目の前に差し出されたそのやけに大きく感じる手をじっ…と、見つめる。

相変わらずその整った顔は赤く上気しており、藍色で横長の瞳は濡れて、唇は三角形のようにキュッと結んでいた。

それはまるで禁欲するかのような…必死に自らを抑え、我慢しているかのような様相だった。

 

しかし明らかに…もう心は折れかけている。

それは彼女の頭、そして背中から腰回りを見れば一目瞭然――彼女の頭についた小さな耳は可愛らしくピクピクと揺れ、背中周りの服は尻尾を振っているのかブンブンと膨れて揺れていた。

 

(あぁー…やばいかも)

 

良い表情だ。侵したくなるし、犯したくなるし、殺したくもなる。

まるで誘っているかのようなナァーザの堕ちそうなその顔に、俺は様々な欲を掻き立てるのを半ば抑えることができない。

 

というか抑える必要があるのだろうか、もうこうなれば今すぐに攫って――

 

 

――ぽん、と掌に柔らかい感触が乗ったのに気が付いて正気に戻った。

 

 

見ればナァーザは「お手」をしていた。

赤くなった顔を背け、目を背け、最大限恥ずかしがっていたが、その手でだけは差し伸べた俺の手の上にスルリと乗っていた。

若干湿ったようなナァーザの柔らかな指はぴとりと俺の肌に触れる。そして緊張しているのか異様に体温の高いその掌で俺の手を温めると、若干に擦れる度現れる異性特有の柔らかさに更にピリリと欲を刺激された。

 

 

(うん、攫おう)

 

 

例え俺じゃなくても我慢できないだろう、こんな可愛らしくお手をして瞳を濡らす犬人の女の子の様子を見れば。

 

恥じらい、真っ赤になって震える美少女を眺める。

すると鎌首もたげた性欲が、食欲がいますぐ行動を起こせと語りかけてくる。

体の芯が寒気でじん…と震え、指の関節が一人でに動いて疼く。

 

そして俺がどこに攫ったものかと悩み始めると――

 

 

「ナァーザ…おや?」

 

 

――『カランコロン』と音を立てて、ミアハの店の扉が開いたのだった。

 

中から出てきたのは紙袋を一抱えにした痩身の男。

その容姿はとてもこの世のものとは思えず、もはや美しい――つまり、神。つまりミアハという名そのものがそこには立っていた。

 

そして…扉を閉めたミアハは振り返ると、店の前で掃除をしているはずの自らの眷属に声をかけるのだった。

 

しかしご覧のあり様、見れば自らの娘が――隣に住んでいる男の前にお座り、あるいは蹲踞しており、ひどく赤くなった顔でその男の手に自らの掌を重ねていた。

それから…その娘が濡れた瞳で驚き振り返るのを見た日には、親としては怒ってもいいのかもしれない――

 

――だが、ミアハはそんな娘の様相に優しく笑うと、全て解っていると言わんばかりに大きく頷いて、自らの娘にゆっくりと語り掛ける。

 

 

「そうか…ナァーザにもついに想い人ができたのだな。てっきりそういった事には無関心なものとばかり心配していたが…親が心配する間もなく子供はいつのまにか成長しているもの、か…」

 

 

…。

 

…まぁそう見えてもおかしくないのかもしれない。

他者から見れば完全にナァーザの姿はオスに媚びるそれであり、濡れた瞳は少女の恋慕そのもに見えるだろう。

 

完全に勘違いしているミアハは、娘の成長に涙ぐむような素振りを見せるとコツコツとこちらに歩みこんでくる。

そして完全に固まったナァーザを一度置いておくと、俺の方を向き顔を覗き込む。

 

 

「おぉ…君はヘスティアのとこに来た新しい子…確か名前は…?」

 

「リョナと言います」

 

「そうだ、リョナだ。…ふむ、何と言ったものか、かけるべき言葉はいくつか見つかるが…まずはおめでとう」

 

「ありがとうございます?」

 

 

ノリで頭を下げてみる、すると固まっているナァーザは首だけ振り返り「何故!!?」と目で問うてくる。故に普通に考えて祝福されたら感謝の言葉を述べるだろう?と肩を竦めると、何となくはニュアンスは伝わったようで怒ったのか睨みつけてきた。

 

俺が頷いたのを見てうんうんと表情は乏しいが頷いたミアハは、「それに」と観察するように俺を眺めてくる。

 

 

「ヘスティアの選んだ子なら私も安心だ、異なるファミリア間の恋愛はあまり良くないがヘスティアと私は仲が良いし、何ならお隣だし問題はないだろう」

 

「ミアハ様!」

 

 

固まっていたナァーザがついに動き始める。

顔を真っ赤にさせたままとりあえずミアハの顔を見上げると叫んだ。しかし当のミアハは、よいよいとばかりにナァーザを制止するとまるで全てを解っているがごとく頷いてみせた。

 

 

「良いんだナァーザ、思えば俺が不甲斐ないばかりに生活に余裕も出来ず恋愛もままならなかったのだろう。何、ファミリアの事は気に病むことは無い、私が何とかしてみせるからお前はお前の幸せを掴め」

 

「いえ、そういう事ではなく…!…どこに!?」

 

「む、いつも通り営業だ。ナァーザもいちゃつくのも良いが、出来る限り店番を頼むぞ。…リョナ君も大人としての対応を頼む」

 

「い、いえですからそういうことでは…!…お待ちくださいミアハ様ァー!!」

 

 

じゃあ後は若いものに任せて…とばかりにスタスタと歩き去っていくミアハと、それに叫ぶナァーザ。

しかし必死なナァーザの制止にも関わらず、笑顔で手を振るミアハは足を止めずにそのまま大通りの方を見据えると優雅に歩を重ね、角を曲がりスッ…っと視界外に消えていった。

 

 

「…ぁ」

 

 

ナァーザの差し出した手が空虚を掴み、力なく萎れ…がっくりと肩を落とすと、うなだれた。

 

それから悲しみを全てせおったような小さな背中で――立ち上がると、両手で箒をグッと力強く握りしめた。

…そしてくるり、と振り返ると俺の顔を見上げてくる。

 

 

「ッ…」

 

 

恨めしい、が微笑ましい。

頬を染め、目じりに涙をため、いつもは眠そうな半目に精一杯な恨みを込めて、こちらを睨みつけてくる。

 

…しかし悲しいかな、「身長差」。20cmの高さの差ではどうやっても恨みこもった視線でも上目遣いにしかならず、全く怖くないというか…可愛い。

 

 

そして俺は本来なら恨みのこもったその表情に最大限のにやけ面で返し、ふとその頭を撫でようと――

 

――スパンと鋭い動きで弾かれたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ふーむ…」

 

 

とはいえ数分後、カードを切った代償として俺はミアハファミリアの薬店の中にいた。

全体的に薬臭い店内は俺の鼻には少し刺激が強めだが、慣れればどうということも無くのんびりと棚に綺麗に並べられた薬瓶達を眺めていたのだった。

 

 

「…」

 

 

チラリと後ろを振り返ってみる、するとそこにはぼんやりと頬杖をついているナァーザの姿がある。

 

…よほどショックだったのかナァーザはあの後すぐに奥のカウンターに引っ込み足の長い椅子に座ると、先ほどまでの激情もどこへやらぼーっと虚空を眺めていた。

ついからかうつもりがエスカレートしたのは確かだが、ミアハ様の登場するタイミングが最悪すぎたのだから仕方ない。…しかし逆に完璧とも言える、あれ以上遅く登場していたらそもそも、ナァーザはあそこから忽然と姿を消すことになったのかもしれないのだから。

 

ふぅー…とまだ残滓のように残っている「火照り」をため息で体外に排出しつつ俺は商品の並ぶ棚に視線を戻す。

 

 

(つってもなぁ…)

 

 

胸元を探ると、ギルドで買った普通の回復ポーションが二つ。これ以上持っていてもかさばるだけだし、どうせあまり使わない。

 

…今買っても無駄な出費だというのは目に見えていた。

 

 

「うーん…」

 

 

目に入るのはポーション、そしてマナポーション…はそも馬鹿高いし魔法など使わないので需要が無い、それと状態異常を抑えるという魔薬が数個にそれらにハイがつく強化種そして――エリクサーあります、という紙の立て札。

 

悲しいのはポーションなど比較的安いものは入れ替えがまだあるからか真新しいものも多いが、値段の高いものに従い被る埃が厚くなっていること…相場で大体50万ヴァリスもするエリクサーの立て札にいたっては半ば風化していた。

 

 

(何か資金援助したくなってくるレベルだなぁ…)

 

 

俺も食費にだいぶとられ、最近ではヘスティア様に上納(という名のお小遣い)を上げたりしているので入りに対して残金が対して残るわけではない。

それでも今は何とか15万ヴァリスくらいの貯金はしているのでそのいくらかを――

 

(――あれ、というか今日の飯どうしよ)

 

ふと頭に浮かぶ。動けば動くだけ腹が減る性質なので、逆に温存していけば余りお腹は空かないのだが、いつもの様に馬鹿喰らえば貯金が一瞬で溶ける可能性があった。

 

思ったよりも、他人の心配をしている場合ではないのかもしれない。

 

…とりあえず俺は後で豊穣の女主人に寄って(いつも食べるものは決まっているので)暫くはあの量を出さなくていいと伝えなくてはと決める、ことあの店で無銭飲食などした日には最悪ヘスティアファミリアが燃える。

 

 

「はぁ…」

 

 

そして俺はため息をつくと目の前の薬の中から何を買うかを悩む。しかし欲しいものなど無く…悩んだ末に俺は一番安いポーションを2つ引っ掴む。

 

これなら最悪ベル君にプレゼントすれば良いだろう、そう高を括った俺は振り返るとナァーザのいるカウンターに近寄りその上にポーション2つを置いた。

 

 

「ポーション2つ、いくら?」

 

 

尋ねるとぼんやりとしていたナァーザは俺の顔を見て、眉を顰めると視線を落とす。

そしてカウンターの上に雑に乗っけられた2つのポーションを見ると少し落胆した後…少し考え顔をあげるといつものような無表情で俺の顔をじっ…と見つめて答えた。

 

 

「5000ヴァリス」

 

「ぼったくってんなぁ…」

 

 

相場の価格でポーション一個500~1000ヴァリス、一個当たり2500ヴァリスのポーションはどう考えてもやりすぎだ。

 

呆れと苦笑で口角を歪ませた俺に、しかしそれでも無表情なナァーザは全く悪びれることなく指を一本前に突き出すと、まるで当然のことと問いかけてくるように小首をかしげた。

 

 

「…サービス料です」

 

「なるほど…いや、お座りとお手だけだよね?高くない?」

 

「往々にして初物は値が高騰します」

 

「あっじゃあ俺ナァーザちゃんの初めての男だって自慢してくる」

 

「待ってください」

 

 

まぁ普通シアンスロ―プにお座り要求する変態はそうそういないし、お金のためにそれにホイホイ乗ってしまうシアンスロープもいない。ナァーザが今までお座りとお手をしてこなかったのも…というかその行為に値が付くというのが中々奇跡というか病的だ。

 

振り返った俺の手をカウンター越しにガシリと掴んだナァーザは、先ほどのお手を思い出したのかすぐに手を離す。

再度振り返りカウンターに向った俺はやはり睨んでくるようなナァーザの表情に、やはり笑い返すとナァーザは更に怒ったのかこちらを見ないように顔を背けた。

 

(…払ってやるか)

 

とはいえ俺は5000ヴァリス払うことにする。

 

俺も持っている金に余裕があるわけじゃないがサービス料というくらいには楽しめたし、何より可愛い女の子の目の前でカッコつけたいのは男の性だろう。

 

顔を背けているナァーザの横顔に苦笑した俺は胸ポケットに手を入れ、財布を取り出そうと――

 

 

「…!」

 

 

――カウンターに座るナァーザの、更に奥の柱にかけられたものに視線が吸い寄せられる。

 

 

それは――「直剣」だった。

 

 

鞘に収まった何の変哲もない剣が、木の柱に打たれた釘に鞘のベルトで吊り下げられ静かに壁にもたれかかっていた。

 

握りの部分は皮、鍔の部分は若干の流線型で何の飾りも無い。鞘も良く見かけるような茶色の革製で何の変哲もない。

 

本当にどこにでもあるような――ただの、何の変哲もない、直剣がそこにはかけられていた。

 

 

「なぁ、その後ろの剣なんだが…」

 

「?…あぁ、コレですか」

 

 

尋ねる、とナァーザは俺の視線を追って背後に吊られた剣に振り返る。

 

――それは至って凡庸ではあるが、「武器」であることに変わりない。

できるならば良い武器とも考えていたが、思えば貯金も心もとないしどうせぎゅるぎゅる丸を見つけるまでの合間だ…使い捨ての武器でも構わないだろう。

 

(武器の良し悪しとかわかんねぇけど、これなら絶対安いよな…)

 

思い直した俺は壁にかけられたその剣を観察する。

本当に特徴のない剣だ、注意して見なければ…というのは大げさだが、例え武器であってもその剣は柱にかけられていることが何も違和感が無く、鞘や柄部分に目を引くものが何一つない。

 

…そしてナァーザが剣を手に取り振って返り、カウンターの上に置くまで目で追う。

コトリ、という音とともに木目のカウンターに鞘の背が落とされるとナァーザは疑うような視線で俺の顔を見据えてきた。

 

 

「…コレが何か?」

 

 

そういって尋ねてくるナァーザに俺は目の前に持ってこられた直剣を見下ろしてみる。

 

…やはり特徴が無い。何かしらの刻印も見受けられないし、大量生産されてばら売りされた剣の一振りと考えるのが妥当だろうか。

 

 

「これって…売ってるのか?」

 

「…この剣ですか」

 

 

尋ねてみるとこちらをぼんやりと眺めていたナァーザの瞳がキラリと輝いたのが見えた。

 

それから計算するように一瞬だけ目を下ろし置いてある剣をチラ見すると…至って『悲しそうな』顔になって視線をあげてきた。

 

 

「この剣は…昔、ファミリアにいた子が使っていた剣なんです。しかしその子は不慮の事故で死んでしまい、この剣だけが形見として残りました…」

 

 

…嘘くさい話、というか今瞬間的に考えている話くさい。

しかし断定する要素も無いわけだし、俺は表面だけ驚き悲し気な顔を演技すると、目を伏せながら話を続けるナァーザに言葉を促す。

 

 

「そんな剣を私は売ることもできず…ちなみに今おいくらお持ちですか?」

 

「あ?1万ヴァリス」

 

「ですが苦渋の選択と言いますか、お金の無い私はこの拾ってk――形見の剣を売ろうとしました…しかし、ご覧の通り特徴は無いこの剣は取り扱ってもらえず…」

 

 

露骨というか、むしろ楽しんでいるとさえ感じる。

恐らく「俺がどうしてもこの剣を手に入れたい」という事を食いつきぶりから察したナァーザは、この「何の価値もない剣」に無理やり価値を付けようとしていた。

 

…それからナァーザは涙を拭うそぶりを見せると――訴えかける。

 

 

「しかし!私とミアハ様にとってこれはあの子の形見…!値段など本来つけられませんが欲しいという人がいるのであれば、売ってあげたほうがあの子も本望のはず…!」

 

「あぁ…じゃあいくら?」

 

「ポーション二つと合わせまして1万ヴァリスです」

 

 

酷い、というか惨い。

俺の疲れたような笑みにナァーザはぬけぬけと答える、きっとさっきの事のやり返しの意味もあるのだろう…単純にぼったくっているだけなのかもしれないが。

 

(まぁ買うけど…何かなぁ)

 

とはいえ寸劇を入れられなくても、別にポーションを付けられなかろうが一万ヴァリスでこの剣を買ってもいいのだ。…良し悪し関係なく、値段は手持ち以内ならば関係ないのだから。

それに俺は早いところ武器を買いたい訳だし、それを見抜かれたからこそ…というか所持金を聞かれてその通りにぼったくられたというわけだ。

 

 

…しかしわざわざ騙されにいくというのは…あんまり気に食わない。とはいえ別に値段に不満はないわけで――

 

――何だかなぁ。

 

 

「…買った」

 

「まいどあり」

 

 

釈然としない俺は、先ほどの悲し気な演技、もとい表情から一転したナァーザの笑みにため息を漏らすと胸の内に手を滑らす。

そして硬貨の詰まった硬い袋を掴むと、結んでいた紐を指先で解き机の上に置いた。

 

…俊敏な動きでナァーザが袋を掴むと、その中身を確認する。

 

 

「あー…釣りはイラネ」

 

「!…どうも」

 

 

厳密に1万きっかりあるとは思っていない、多分1万とちょっと多いくらいの金貨が中に入っている事だろう。

 

失礼にならないレベルで嬉しそうに目を見開いて、軽く頭を下げたナァーザに俺は苦笑する。それからまずカウンター上に置かれたポーションを胸の内に、それから――

 

 

――直剣を掴むと肩紐を腰のベルトに絡ませ、括り付けた。

 

 

「…!」

 

 

しっかりと括り付けられているかどうか確認するために俺は軽く腰を振る、するとまずは落ちないという事を確認でき…ぎゅるぎゅる丸とは違う重さが纏わりついてくる事に若干の新鮮さを覚えた。

 

そして腰に手を回し握りに手をかけてみると――

 

(あれ何か楽しくなってきた?)

 

――新しいおもちゃを買ってもらった少年の如きワクワクが襲ってくるのを感じる。

 

思えばこんな状況ではあるが現世で真剣など扱ったことなどなかったし、武器として使うことは無かった。こちらの世界に来てからも触ったことなど無かった。

 

 

「む…」

 

 

そして体が疼く。

今すぐに剣を使いたいという衝動が肉を滾らせ、にぎにぎと握りの部分を揉ませる。

 

 

「じゃあ…じゃあな」

 

「またのお越しを」

 

 

 

振り返った俺の背中にナァーザの声がかけられると、軽くそれに手をあげて返した。

しかし頭の中はそれどころではなく、早く剣を振るいたいという思いしかなった。

 

そして――店の扉が『カランコロン』と鳴り終えたタイミングで遠くに見えるバベルに向かって軽く走り始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 




あああああリョナりたいけど結構難しいんです許したまへェ!!

…それとステイタスを次回書くと前回言ったな、テキトーな切り方をした結果今回書く予定のものが次回にずれ込んだ!すまねぇ!!

更新遅れてすまねぇ!

謝ってばっかですまねぇ!

…ゲシュタルト土下座?強そう() 
では、ばいにゃー


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 暗黒微笑の神曰く

すまんセイレムに出張で遅れた(あ、FGOね)
あとねこパラやってたら猫人の良さに目覚めたので必然的にアーニャが酷い目にあいます()
理不尽?愛ゆえにですよー


・・・

 

 

 

「おぉいリョナ君!起きろ終わったぞ!」

 

「Zzz…解った、解ったからヨスガとか馬鹿な事抜かすな…」

 

「何を言ってるんだい君!?」

 

 

ぎゅるぎゅる丸紛失から4日後の朝、ヘスティアファミリアホームの大きなベッドの上にて。

全裸でうつ伏せになったリョナの腰の上には茶色のブランケットがかけられ、その上には神ヘスティアその人(神?)が腰かけていた。

そしてヘスティアの手の中には一つの儀礼用ナイフ、僅かに刃先が神血(イコル)で濡れたそれは清廉であり雑菌などが入らないようこの雑多な部屋であっても良く手入れされていた。

同時にヘスティアの右指の腹には赤い雫が数滴分膨らんでおり、その美しい無垢な指に朱の水路を作り出している。

 

…赤、赤と言えばリョナの背中もそうだ。

筋肉質なその背中には神聖文字で彩られたホログラフのような「ステイタス画面」が赤く浮き出ており、半透明に輝いていた。

脈動するそれは機械仕掛けのように折りたたまれていくと、リョナの背中に戻る。そしてやがて赤熱した鉄が冷めていくかのように赤は黒に変わると単調な文字列に戻っていった。

 

 

(ねむ…)

 

 

ここのところの無理な探索に流石に疲労が溜まっているのかリョナは、前まで普通に起きれていた時間に自らのベッドに横たわり…つつも、ヘスティアの(朝っぱらからよくもまぁ)元気なツッコミに瞼を重く上げ「うー…」と唸る。

 

 

「ベル君を待たせてるんだろ!?」

 

「あっそうだわ、おはようございます」

 

 

しかしそう長い事眠っている訳にはいかない、相変わらず早起きなベル君は先に表に出ており…待たせてしまっている急がねば。

 

ヘスティアの柔らかな重みがリョナの上から離れると、リョナはゆっくりと身体を起こし頭をボリボリと掻く。

そして同じベッドに座り何やら紙を一枚眺めているヘスティアに視線をやると、次に自らの服に手を伸ばし着始めた。

 

…同時にベッド脇に座ったヘスティアを見やれば何やら肌色の紙を手に持っているのが見えた。

 

 

「んー…はぁ…リョナ君、はい」

 

「む、あざす」

 

 

ヘスティアが手に持って眺めていた紙を手渡してくる。

リョナは最後のコートを羽織り終えるとその紙を受け取る。

 

そこには――

 

 

リョナ

 

Lv.1

 

力:E483

 

耐久:D566

 

器用:E492

 

敏捷:E452

 

魔力:H10→H10

 

 

[魔法]

 

[スキル]

切り裂き魔の高揚(リッパーズハイ)

・斬れば斬るだけ、武器の鋭さと攻撃力が増していく。

・増加された攻撃力は日が変わると共に初期化される。

・そして神を屠る刃となる。

 

 

――リョナのステータスの写しがそこには書かれていた。

 

…低い、と思う。

ステータスはレベル1の段階で0~999が上限、この一か月ほどで貯めにためたその経験値(エクセリア)は俺の主観としてもっと多くて良いと思う。700とか。

何せEは下から数えて4個程度だ、それにあまりゲームはやらないので解らないがレベル1など(期間にするとOPムービー挟んでチュートリアルでレベル2ぐらいの)一瞬の踏み台であることは知っていた。

 

 

「んー…やっぱり君は常軌を逸脱してるよ、いい意味でね」

 

「…」

 

 

しかし…異常らしい。

困ったような表情を浮かべたヘスティアは口元にだけ笑みを浮かべると、首を傾げた。

 

 

「えっと…今は17階層だったか、強いモンスターを倒せればそれだけ上質な経験値(エクセリア)が手に入るわけで君の成長はある意味()()で極めて邪道だよ…リスキーすぎるってのは君も解っているだろう?」

 

「む…おっしゃる通りで」

 

 

つまり普通の駆け出し冒険者とリョナでは食っている「もの」が違う。

カスみたいなものを食べて細く成長するのと、美味くてデカいものを満足に食べた方が早く太く成長できるというものだ。

 

…リョナとしては過食気味だった割に思ったより成長していない事に疑問を感ぜざるを得ないが。

 

 

「まぁ17階層じゃあ紙に等しいですけどねっ」

 

「だから僕は心配なんだけどッ!?…あぁ流れで止める事の出来なかった過去の僕を叱りたい…!」

 

「まぁー…今に始まったことじゃないですからねー」

 

「他人事だな君は!!?」

 

「虎穴に入らずんば虎子を得ず?」

 

「随分と広い虎穴(ダンジョン)だな!!」

 

 

ひとしきり怒鳴り散らしたヘスティアはむっすーと不貞腐れ顔で頬を膨らませる。

その様子にリョナは「たはは」と笑うと立ち上がり、ベッド脇に乱雑に立てかけられていた「直剣」を手に持ち腰のベルトに納めた。

 

…この三日間でこの剣にもだいぶ慣れた、それに――ダンジョンの攻略法(この剣の使い方)も思いついている。

そしてふとヘスティアを見やればぽてりとベッドに頭を落とすと、リョナに背中を向けていた。

 

 

「…二度寝ですか?」

 

「ふぁ…言っておくけど今日僕はいつもより2時間は起きるのが早いからね?全く、帰って来てからすぐ寝てしまうからって早朝に起こされる僕の身にも…!」

 

「はいはい、ありがとうございます神様…では、おやすみなさい」

 

「いってらっしゃーい…」

 

 

その声をリョナは背中に受けながら、上にいるベルに追いつくために教会を後にした。

 

 

 

「…」

 

 

 

…人気のなくなった本拠地(ホーム)の中に『ピラリ』と乾いた音が一枚した。

 

それはヘスティアが捨て置かれたリョナのステータスを確認する音。

横になったヘスティアはまだ暖かさの残る寝床の中からそのきめ細やかな肌をした腕を伸ばし、リョナの投げ捨てた紙を仰向けに仰ぎ見ていた。

 

肌色をした紙に書かれた我が子の成長を眺めながら彼女は既に眠くなりつつある瞼を緩慢に動かしながら思案する。

そして――

 

 

「ん…」

 

 

――『ごそごそ』と手を伸ばしベッド脇に置いてあった紙束を漁ると「もう一枚の紙」を取り出した。

 

 

「…はぁ」

 

 

それから手の中にある二枚の肌色の紙を見上げ、比べるとヘスティアはため息を吐く。

何と言うか…その内容はどちらも稀有過ぎた。

 

それは――片方は『ベルのステータスの写し』。

 

耐久以外400オーバー、敏捷に至っては500もあるステータス。

何でもリョナとは違い未だ「低階層」を普通に攻めているはずの少年は、この異常なまでのステータスの伸びを見せていた。

 

――憧憬一途(リアリス・フレーゼ)、思いの程に成長する。

 

とてもじゃないが一か月そこらで到達しえないそのステータスは彼がある日習得したスキルによって成され…現在も(悲しい事に)爆発的に稼働していた。

 

 

…とはいえ今はそんな事は問題ではなく――

 

(――僕の眷属って二人とも変だなぁ)

 

 

「ふぁ…」

 

 

なんて、そう吞気に考えながらヘスティアは欠伸をすると、睡魔に毒された脳みそから意識をするりと抜け落としたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

――美が横たわっている。

 

 

白く純白な絹の上、一糸纏わぬその姿はルネサンスの元祖であり、現在であり、全てが目指し志すが未来永劫を費やしても決して辿りつけぬ完成系、至極であり、美麗であり――このような言葉が霞むほど美しい。

 

…実際、今までどれほどの男達が彼女のことを言葉で飾ろうとしただろう。

その中にはきっと巨匠と言われる文豪や、愛の言葉で女性を口説く事に長けた軟派な男もいただろうし、彼らの囁く珠玉のような言葉は洗練されて女性の心に彩を飾り持たせただろう。

 

しかし――

 

 

「くだらないわね」

 

 

――微笑みと共に一蹴。

 

何故か、それはそもそも「言葉」という前提が間違っているから。

 

彼女が美の最高峰であり、たかだが人の創り出した言葉程度では表現することすら能わない。

…生憎と理解はできる、しかし人にも時に神にもそれを表現する術は持たないのだ。

その上で彼女の寵愛に預かりたいというのであれば、「気まぐれ」彼女がこちらに興味を抱くぐらいしかない。

 

その上であえて言葉で表現するならば彼女の「名」こそが美の象徴だろうか。

 

 

…ゆっくりと目が開かれる。

 

 

微睡むような瞬きが数度行われ、美しい肌が滑らかに動く。

ただそれだけ、瞼を動かすだけのその動作に世界は感嘆する…それは当然のこと、美の化身である彼女の事を()()()()()()()()()()

 

美しい彼女が猫のように優雅に身体を伸ばし起こすと、身体にかかっていた絹のかけ布がするりと落ちていく。

美しく付いた筋肉、滑らかな肢体が露わになり白妙の肌にかかった白銀の美髪はそのゆるりとした動きに合わせてさらりさらりと零れ落ちた。

 

 

「ん…ふ…」

 

 

淡い吐息が漏れる。

ゆっくりとした伸び、豊満な双丘が僅かに広がり突先が軽く揺れた。その口からは実に気持ちよさげな声が漏れ、常に絶えない微笑の中に悦が混じる。

 

 

「…ふぁ」

 

 

瞼尻に珠のような涙が浮かぶ。

それにはたと気が付いた美は笑うとスラリとした指先で拭った。

 

 

「…」

 

 

――「スタリ」と脚がベッドから下ろされる。

 

そしてもはや芸術品に等しいその両足に負荷がかかるとゆっくりと立ち上がった。

僅かに肌寒い外気に全身が晒されるが美はあくまでも優雅に、その身体を動かす。

 

それにこの身体に恥じるところなど無い、全く躊躇いのないその所作さえ美しく…とはいえ誰もいない部屋において彼女は全裸だった。

 

 

「…」

 

 

――窓がある。

上ったばかりの朝日が静かに差しこむ壁全面に張られたガラス窓、曇り一つないそれは少し眩しすぎる程だが見通しは十分に良い。

 

そしてその窓の前に立った彼女は白い光を全身に浴びながら眼下に広がる広い世界を見渡す、かつては狭いように感じていた世界だがここに降りてからは本当に広く感じる…故に面白いものがすぐに見つからない、つまり見つける楽しみがあるというものだ。

 

とはいえ…美は一度その星のような瞳を絹のような瞼で隠す。

それは物理的な事で言えば2秒ほど、しかし余りに美しいそれが隠れている時間にしては長すぎる。

 

そして――今ひとたび開かれたその瞳は僅かに虹色に輝いていた。

 

 

「…!」

 

 

世界の印象が彩となり溢れる。元見えた世界も十全に美しいが、この淡く縁取られた様々な心達の移ろいを彼女は愛してさえいる。

 

…とはいえ早朝、まだその色はまばらであり、この広いオラリオの町において小さな蓮の葉のように浮かぶだけ。

 

しかしそれ故に――()()()()()()

美がこの時間帯に起きたのはそれなりに理由がある、それは最近気にかけている子もまたこの時間に起きるから。

 

 

――美の神フレイヤは、いつもの冒険者通りに白兎を発見する。

 

 

…綺麗だ、無垢な白さは雪花のごとくはっきりと縁取り、余りにも小さく掌の上に乗る。

可愛らしい、という一言に尽きるその少年は瞳の中でちょこちょこと動き、こちらに向かって小動物のように歩く。

 

そうあの子「ベル・クラネル」は冒険者だ。

今日もきっとダンジョンに向かい、ヘスティアの元に帰るのだろう。

 

…冒険者の中に置いてあの子は優しい…つまり「異質」だ。

荒々しい、雄々しいが代名詞の冒険者の中で対極である冒険者、それは様々な色を見てきたフレイヤにしても鮮やかに見え興味を引いた。

つまるところ、新しいもの好きなだけかもしれないが…美しいもの、綺麗なものに心惹かれずしてなんとする。

 

 

「…♪」

 

 

フレイヤは心の色を見る。

…そして今日も今日とて少年の綺麗な穢れのない雪のようなその心に食指が動く。

 

(汚すもよし、そのまま食べるもよし…あぁ本当に楽しみね)

 

選択肢こそ一番の魅力、とも思っていないがフレイヤはあの少年を手に入れた時の事を想像すると思わず「濡れる」。

もう暫くは泳がせておくつもりで、それまでに少しは汚れてしまうかもしれないが…上手く誘導してしまば問題はないだろうし、清い身体を手に入れられるだろう。

 

…フレイヤは純白のような清廉な美しい色を性欲に塗れた美しい「捕食者」の笑みを浮かべるのだった。

 

しかし――

 

 

「…!」

 

 

道を歩く少年の顔がにわかに明るくなった。

石造りの道を歩いていたベルは後ろから呼ばれたかのように振り返り、誰に呼ばれたか気が付くと嬉しそうな顔を浮かべる。

そして少年が腕を振る…その先には疾走する黒い影。

 

…全くもって比喩で無い「心の色」を女神の瞳は識別する。

 

(…!?)

 

それは…黒く粘つくような漆黒が渦巻いていた。

表面は泡立ち、周囲に漏れだそうと躍起になるように器を揺らし今にも零れんと飛沫を飛ばす。

 

それは総じて――「欲」だ。

 

人の心に様々な形はあれど、みな暗き欲を持つ。

…しかし所詮「人の欲」、黒いものが心という器に一滴垂れても黒一色に染まるわけがない。

その上ここまでの欲に染まることが出来るのは「狂気」かあるいは…「怨嗟」に()()()()()

 

 

――「白」は「黒」にいとも容易く汚される。

 

 

追い付いた黒い男はベルの隣に並ぶ立つと、一緒にダンジョンに向って歩いていく。

 

…腹立たしい。

心は隣り合うと侵食する。それがただでさえ黒…しかも周囲を喰らわんと猛るそれ。

 

(私より先に()()なんて許さない…!)

 

怒りが噴き出る。

眼下の黒く、醜く、私の獲物を汚そうとする獣をフレイヤは睨みつける。

見慣れぬ服をしたその男は気持ち悪いほどの欲を、彼女自身ですらバラバラになり耐えきれないはずの黒い激流をその身に宿したままベルの隣で笑っていた。

 

フレイヤは自分の獲物に泥を塗る闖入者を睨みつける、許さない…憎悪をフレイヤは視線に込め美しい笑みの端に黒いモノが混じった。

そして煮えるような欲の海を眺めると黒い感情そのままに見下し、醜いそれを「消す」方法を想像し始めた。

 

しかし――ふと「欲海の波」が収まる。

 

まるでそれは嵐の海が巨大な気まぐれな神の掌で強制的に押さえつけられたように、不自然な程平らになると黒い粘性の湖と化した。

 

 

――そして、フレイヤが驚く間もなくその湖面に「穴」が空く。

 

 

ぽっかりと開いた穴の中に欲が流れ込んでいき、静かにとめどない粘性の液体をその中に溜めこむ。

奈落のようなそれの底は見えず、引きずりこまれてしまうような暗闇が広がっていた。

それはまるで貯めこんだ液体の栓を抜くように、しかしそれでいて粘ついたタールのような液体はゆっくりと内側にめり込んでいく。

 

…心に様々な形はあれど、穴が空くなど見たことが無い。

 

突然の容の在り方の変化にフレイヤは思わず目を見開き、ざわめくような不安に顎を触る。

しかし――好奇心、フレイヤにも存在するその感情は「穴の底」を見たいと囁き撫ぜた。

 

 

…フレイヤは今も流れ落ちていく暗闇の底を虹色に輝く瞳で覗き込む。

 

 

「はッ…!!?」

 

 

――『()()()()()()()』。

 

唐突に、突然に穴から熱気が吹き上がるかのように錯覚した後穴の底で青い炎が揺らいだ。

まるでロウソクのようにか細く立ち昇ると、穴の底でのみゆっくりとその小さな炎の姿を見せる。

 

まるで見られたから見返した、とでもいうようなその小さな炎の出現にフレイヤは驚き――「恐怖」した。

 

…余りにも小さな、ちっぽけなその炎にフレイヤが恐怖する謂れはない。

しかし――その炎を見ているとどうしようもなく心がざわめく、本来なら安堵を与えるはずの炎がこんなにも身体を竦ませた。

 

 

「…ふ…ぅ……ぁ…」

 

 

眩暈を覚えたフレイヤは窓際に置いてある赤のバッキンガムチェアに倒れるように座り込む。そして熱く疲れを覚えた瞳を閉じて、額から噴き出る冷や汗を拭った。

気持ち悪い、吐き気がする、頭が痛い、生理的に受け付けない…苦しくて、視界が揺らいでまともに立っていられない。

強烈な熱に当てられたようなフレイヤは内臓がかき混ぜられたような不安に苦い息を吐きだすと、舌の根に残った粘つくような感覚を乾かすために口を開け新鮮な空気を取り込んだ。

 

 

――『コンコン』。

 

 

部屋の扉が二回、決まったリズムで叩かれる。

この時間、この部屋(私の寝室)に訪れる…いや訪れられる人間は数えられるほどしかいない。

…それも音からしてきっと彼だ、フレイヤは少しドアをノックした存在に落ち着くと椅子から振り返り「いいわ」とだけ力なく答えた。

 

 

「失礼いたします」

 

 

ガチャリとドアが開く。

…茶の漆が塗られた扉が開かれそこから姿を現したのは――「巨躯」。

 

筋骨隆々、背丈は2mも超えようかという強面の猪人が扉から顔を覗かせていた。

朝の鍛錬からの上りなのか僅かにその髪からは湯気が立ち上っており…朝の給仕をするためこの部屋にやってきたと見えた。

 

そして武人は自らの主人が窓際の椅子に腰かけていることに気が付くと、部屋を横切るようにしてその重厚な歩みを進める。

 

 

「おはようございます、フレイヤ様」

 

「…えぇ、おはようオッタル」

 

 

猛者、オッタル。

このオラリオにおいて最強であるLv7の彼は、その荒々しい巨体で、かいがいしくもフレイヤの脇で頭を下げる。…フレイヤは眩暈を覚えながら軽く手を振りそれに軽くこたえた。

 

オッタルは軽く頭を下げたまま、チラリとフレイヤの顔色を確認する。

そして明らかに青く、汗が珠と浮かんだ様相を見るとその厳めしい顔の眉根を寄せた。

 

 

「…今朝はいかがなされましたか。失礼を承知で申し訳あげますが、お顔色が優れないように見受けられますが…?」

 

「構わないわ、オッタル。でも風邪というわけではないの」

 

「…ですが」

 

「…そんなことよりオッタル、見なさい」

 

 

余りに具合の悪そうな主人の様相にオッタルは反論しかけるが、フレイヤがあくまで優雅に窓の外を指さしたのに口を噤み…振り返る。

といってもどこを指さしているかをオッタルは既に知っている、その猛獣じみた視力でオッタルは眼下を見渡すと噴水のある通りの一つを見つけた。

 

…そこには楽し気に連れ歩く二人の小さく矮小な…主人の獲物とそれに纏わりつく羽虫。

 

 

「…」

 

 

見つけたオッタルは特に表情を変えるでもなく主人に振り返る。

オッタルが見たのを確認し、その表情が変わっていない事に少し安堵したかフレイヤは少し落ち着くと、一度大きく息を吐く。

 

そして穏やかな、いつも通りの笑みを見せるとオッタルに問いかける。

 

 

「解るかしら、アレは…『刺激が強すぎる』もの、きっとあの子の成長を歪ませるわ――それに…私より先に汚すなんて許せない」

 

「…では」

 

「えぇ、あの子には健やかに育ってもらうつもりなの。だから――」

 

 

厳つい表情のまま尋ねるオッタルにフレイヤは笑う。

 

そして歪んだ瞳に恨みを込めて――最強の手(オッタル)に命令した。

 

 

「――付いた虫は潰さないと…ね?」

 

「御意」

 

 

 

その言葉だけで充分、主神の命令にオッタルは深く頭を下げる。

 

そして――自らの最強の膂力をもって()()()()()()()を始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「388―…389-…」

 

『ギャアッ!?…ギィッアッ!!?』

 

 

剣を振り下ろす度、踏みつけたコボルトが痛みで鳴き吼える。

しかし死ぬことすら許されない刺突は肉を抉るのみで止まることは無く、その度僅かな血が撥ねた。

 

――「カウント稼ぎ」。

 

一言で表現するならばそれだ。

ダンジョン3階層の広けた空洞、そこにはリョナと「手足が踏みつけられたコボルト」の姿がある。

 

 

「はぁ…」

 

 

一度剣を振り下ろす手をリョナは休めると、眼下のコボルトを眺めた。

 

…コボルトの手足は折られ、身動きがとれないようになっている。そしてそれにマウントをとったリョナは剣を振り上げ、その切っ先を勢いよく突き刺していた。

 

しかし――急所を外している。

 

決して殺さず切り裂き魔の高揚(リッパーズ・ハイ)のため()()()()だけをリョナは稼ぐ。

コボルト程度であればリョナでも一撃で殺せる、しかしそれではあまり効率が良くない…ので生かさず殺さず、のが一番良いのだ。

 

 

「よっ…390!」

 

『ギャアアアアア!』

 

「…うるせぇ!」

 

『ガッ…!?』

 

 

剣をコボルトの左肩に振り下ろすと丁度神経の密集している場所だったらしい、薄く鳴いていたコボルトが一際大きく吼える。

思わず煩いその声に俺は剣を抜き下ろすと、コボルトの喉奥に突き入れた。

 

そしてかき混ぜると舌や喉奥を切り裂く。

瞬く間に血が溜まっていき、コボルトの毛や地面を濡らすと…やがてカチンと地面を突いた。

 

 

「ふんっ…!」

 

 

切断する、すると『ブチリ』と筋肉の裂ける音と共に口から上が分断された。

それから半分になった頭が地面を転がり…黒い靄となり蒸発すると淡い紫色をした魔石がコロンと落ちる。

 

 

「カウント…392?いや393か…」

 

 

切り裂き魔の高揚、攻撃の度鋭さと速さが増す俺のスキルはカウント数が全て、故に俺は攻撃数とどれだけ鋭さが増すかを確認してきた。

そして今では「どれだけ増すか」が感覚で解るようになったほどだ、握りしめた拳の感触を確かめた俺はそろそろ行くかと剣についた血を払う。

 

しかし…攻撃、というのが判定として「どこからどこまで」なのか解らない。

 

切断、刺突、爆破、殴打、関節を折るなどはカウント数に確実に含まれる。

しかし…例えば軽く小突く、だとか怪我をさせることもない行為はカウント数に含まれるのか。まぁその程度含まれないのは確認済みだが、境界線は曖昧だ。

加えて先ほどコボルトの口内に剣を突き入れた時、それは()()()()()()つまり「長い一回」と考えるか「細かい一回の連続」と考えるか――

 

 

――まぁ大体で構わない、今は600程稼げば17階層のミノタウロスでも何とか殺せるのだから。

 

 

「ん…」

 

 

つまりあと300程度、一日をまたげば消えてしまうカウント数なのだから時間との勝負だ。

 

剣を一度鞘に納めたリョナは鼻を鳴らすと獲物(カカシ)を探る。

そして重ねたカウント数の身体を慣らすため一度跳び――走りはじめたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「あー…もうホントどこいった…」

 

 

ダンジョンからの帰り道、悪態をつきながら俺は重く身体に纏わりついてくる霧を掻き分けつつ歩む。

 

今日は…14、13階層を探したが探しつくしたがどこにも臭いすら残っていなかった。

ここ数日間、徐々に階層を上げてぎゅるぎゅる丸を探しているのだが「見つからない」、いるのはモンスターばかり…いい加減、肉体的にも精神的にもキツイし不安が募る。

 

 

「はぁぁ…」

 

 

ため息を吐いた俺は周囲を警戒しながら警戒しながら、疲労した身体で引きづるようにまばらに草の生えたダンジョンの乾いた地面を歩く。

 

…それと一応道すがらぎゅるぎゅる丸が落ちていないものかと探しはするが、既に帰路…疲労した身体と頭では見つけるのは中々困難だ。

 

――加えて、この「霧」。

 

現在10階層。濃霧の立ち込め始めるこの階層は今までの階層の構造とは変わり、草原にまばらに木が生えているような地形になっている。

しかし霧のせいで3m先も見渡せない視界、加えて深く生えた雑草のせいでモンスターの足音は聞こえない。

 

…つまるところモンスターの奇襲パラダイス、前後左右どこから襲ってくるか解らないモンスターの陰に怯えながら冒険者は進むことになる。

それに――

 

 

「…相変わらずくっせぇなぁここ」

 

 

――鼻が利かない。

 

何と言うか階層全体に沼みたいな霧臭い…霧臭いというのが何なのかは解らないが水の腐ったような匂いがしているのだ。

故に悪臭で鼻が詰まったようになっており、単純に気分が悪い上に嗅ぎ分けも困難を極める。

 

 

「うーん…」

 

 

やっぱりこの階層は嫌いだ。

臭いし、周囲は警戒しなければならないし、先が見渡せないと生えている木にぶつかったりも(中々ないが)たまにする。

 

 

そしてこの階層において――パープルモス、多分こいつが一番ヤバイ。

 

 

だいたい七階層に入ってぐらいから目にするモンスター、パープルモスは紫色をした蛾のような見た目のモンスターなのだが、まず見た目と能力からして嫌いだ。

デカい複眼はハッキリ言って気持ち悪いし、毒性のある鱗粉をまき散らす翅は痺れと毒状態を起こす危険があり…空中からそれを冒険者の頭の上に振りかけてくる。

 

――それをこの霧の中でされると本当に「解らない」。

 

考えてもみて欲しい、まず霧の中を微音で飛び回り見つけられた冒険者の頭上にパープルモスが寄ってくるとする。

この際他の階層ならば少しでも見上げればその姿はすぐに見つけられるだろうし、降ってくる禍々しい紫色の毒の粉も見えるだろう。

 

しかし霧の満ちたこの階層、上を見たところでパープルモスが飛んでいるのはまず見えないし、周囲の警戒を念頭に置いている冒険者たちは顔の横を通り過ぎていく粉に中々気が付かない。

 

それはまさしく暗殺者…気が付いたときには毒の粉をたっぷり吸いこんだ冒険者は毒状態になっており、内臓に響くような毒に苦しむことになる。

 

 

「…」

 

 

チラリと上を見上げてみる。

覆うような濃い霧を注意深く睨みつけ…ひらりと舞うような影が無い事を確認すると、ひとまず安心し視線を下す。

 

(…もうそろそろ上か?)

 

ご覧の通り危険だし、嗅いだこの臭いはキツイし堪える…早く通り過ぎるが吉。

何となくは上に行くための道は解るので俺は霧の中を進んでいた。9階層から霧は無いのでほぼ何の注意もしなくても進めるが、疲れている身としては早いとこダンジョンから出たかった。

 

 

「…腹減ったしな」

 

 

腰につけた魔石入れを俺は握るように触る。ぎゅるぎゅる丸を持っていた時ほどではないがそれでも道中出てきたモンスターを屠るだけで相当魔石が集まった。

勿論前のようにはいかないが…これならば豊穣の女主人でも食事ができるだろう。

 

もはや慣れた空腹の虚無感に俺は半ば自嘲気味に…というか辛すぎてか自然と漏れてくる笑みに任せて見せた。

そして少し無理してでも走るか、そう決めると――

 

 

「あいだッ!!?」

 

 

――思い切り鼻を打った。

 

悲しきかな、恐らく生えている木にでもぶつかったのだろう。

…そんな影は見えなかったと思ったのだがこの霧だ、犬が歩くだけでも棒に当たるのだから走ったら木にぶつかるのは必然といえた。

 

鼻血などは出ていないようだが、岩に打ち付けられたような痛みに俺はその場にうずくまると鼻頭を押さえて耐える。

そして痺れるような痛みが引くのを待つと、反射的に少し零れた涙を拭った。

 

 

「…ん?」

 

 

視界が晴れると地面が見える。

灰色をした長草が付いた片手の指の隙間から伸びており、乾いた感触が素手を撫でていた。

 

そして――丁度俺がぶつかった先、そこには「黒と黄土色をしたブーツ」の先が覗いていたのだった。

 

 

「うおおお!!?」

 

 

つまり、「人」がいる。

 

まさか人にぶつかったとは思わなかった俺はその場から数歩飛びのくと、尻もちをつく。

そしてブーツから足、腰、胸、顔と見上げると――

 

 

「――デッカ!?」

 

 

2mはあろうかという巨躯の男。全てが太く、見ただけで鍛えつくされた筋肉を纏っていることが解り、胸には心臓のみを隠した赤のライトプレートを装備していた。

しかし…それ以外はただの布、まるで自らの身体こそ鎧だと言わんばかりのその体躯に俺は圧倒されるとただただ驚愕し、困惑していた。

 

(何だコイツ…!?)

 

厳めしい顔に茶髪、そして何やら動物の耳がついた頭。

睨みつけるように見下ろしてくる男は無言でただただその場所に立っており、壁のように屹立しており…その背中には剣の柄が見え、手には赤い篭手がはめられていた。

 

というか――

 

 

「あー…もしかしてお前にぶつかったか?」

 

 

――てっきり木にぶつかったと思ったのだが、コイツにぶつかったのだろう。

 

この筋肉だとぶつかった時の硬度は(筋肉硬度とか言葉にすると中々だが)相当のものだろうし、それこそ鉄に殴られたのと変わらないだろう。

とはいえ何でこんなところに突っ立っているかは解らない訳だが…走ってぶつかってしまったのはこちらだ、もしかすると厳しい視線を送ってきているのはこいつも痛くて怒っているのかしれない。

 

霧のせいで僅かにぼんやりとした男の顔を見上げた俺は、パンパンと汚れを払い謝りながら立ち上がる。

 

 

「いやーすまん、急いでたもんでな。それにこの霧だろ?ぶつかったのにも少しは情状酌量の余地はあると――」

 

「――()()()()()

 

「は?……ッッ!!?」

 

 

短く、低く呟いた男から瞬間的な殺意が放たれる。決して大きくない殺意、しかしそれは鋭く俺の全身を撫でると何の抵抗もなく切り裂いた。

上級者の殺気はそれだけで人に死んだ錯覚させると聞く、傷口が冷たくなりバラバラになって落ちる感覚に俺は全身総毛だち、筋肉全て竦むと内臓全てがひっくり返るような感覚を覚える。

 

それから男が動き出す。

 

巨腕が背中に伸び、背負った剣の柄を掴むと一切の無駄が無い動きで引き抜いた。

それからそのまま最上段、天を指した巨剣がその姿を現し――全身の筋肉が圧縮された後、振り下ろされる。

 

 

「はッ…あッ…ッ!!」

 

 

空間を裂くような一撃…といっても詳しく俺にそれを観察するような余裕は無い。

極長のリーチの外に逃げるように俺はなりふり構わず飛びずさると地面を転がる。

 

 

――『ドゴォォッッ!!!』

 

 

地面が大きく揺れる。それは圧倒的な破壊の音、一切合切の躊躇なく振り下ろされた極大剣は大地を容易く砕きクレーターのごとく大きく穴を開け、ひび割らせる。

…そして地面を転がっていた俺にも間接的に強大な衝撃が伝わり跳ね上がらせた。

 

 

「…!?」

 

 

軽く浮いた空中からその破壊の痕跡を見る。とても人業とは思えないその一撃は大地を深く切り裂き、めくりあがらせていた。

巻きあがった土埃が霧に混ざり、剣圧によって風となった霧は大きく対流すると渦を巻く。

 

 

「よっ…はっ」

 

 

落下を伸ばした腕で軽く受け止めると、バク宙の要領伸ばした反動で距離をとる。

そして両足で軟着陸すると男の剣によって割れた大地に数歩よろめき、破壊の中心にいる男の姿を凝視した。

 

今はもう殺意を感じないその男ではあるが先ほどの明らかな敵意と殺意…確実に「殺しに来ている」。

 

 

「…お前、誰だか知らねぇが俺を襲う理由は何だ?」

 

「…」

 

 

尋ねてみる、が男からの返答はない。

 

振り下ろした剣を僅かにズシリと地面から持ち上げ、男はその厳めしい顔を俺に向けた。

最初に見上げた時から一切変わっていない表情は睨むようで、感情の起伏を感じない。

 

(何で攻撃してきた…?)

 

気になるのはそこだ、ダンジョンで襲われる理由はめったにないが他冒険者への略奪や怨嗟しかない。しかし前者は一人でやるものではないし多分この男「強い」…それこそ他者を襲う必要など無いはずで、先ほどの一撃などカウント数を600稼いだ俺がギリギリ避けれたくらいのものだ。

 

とはいえ後者は…こちらの世界に来てから恨まれることはしていない、あるいは足の付くような真似はしていないはずなのだ。

それに何故だろう、俺に()()()()()()()()()――

 

 

「――…待てよお前確か…!?」

 

 

否、見たことは無いが「聞いたこと」がある。

というのも似顔絵――この前アイズに会った後少し気になった俺はオラリオの冒険者の中でも「トップランク」と言われる者たちをエイナに頼んで教えてもらったのだ。

 

といっても詳しい事を教えてもらったわけではなかったし、殆ど忘れてしまったのだが、「一番」だけは覚えていた。

 

 

「最強」――レベル7冒険者「オッタル」。

 

 

確かこんな顔の巨漢だったし、剣を使うということだけは覚えていた俺は――更に困惑する。何故ならこちらから一方的に知っていることはあってもオッタルが()()()()()()()()()事はあり得ない。…同時に殺意を抱かれるわけも。

 

 

「フレイヤファミリア、オッタル…最強冒険者様が一体俺に何のようだ?」

 

 

何も言わずオッタルは巨剣をズシリと持ち上げ、獣のような視線でこちらを睨んでくる。

しかし自らの破壊、到底人の為せない現象には「当たり前なのだろう」驚く節もなく眉の一つも上げない。

 

そして片手で巨剣を軽々しく持ち上げると、肩にガチリとかけ口を小さく動かす。

 

 

「…答える必要は無い」

 

「…ということは何か『理由』はあるのか、無目的ではないんだな」

 

「…!」

 

 

理由が無ければ答えることは無いが、何か隠し事があるならばはぐらかす。

 

嵌められたオッタルは少しムッとした顔をすると、更に表情を険しくした。

とはいえ理由まで解ったわけではない、俺は疲労した頭で「何かしたか」と思案すると再度頭を捻る。

 

 

「俺恨まれるようなことしたか…?…まだこっちに来てからは何もしてな…あ?」

 

 

そういえばこちらの世界に来てから一番最初、弁当を奪うために殺した冒険者のパーティがいた。まさか…いや、ダンジョンで殺したしあれからだいぶ時間も経った可能性は低い。

 

 

「だから違う…それに…」

 

 

それに――ならばわざわざ最強の戦力を単騎で派遣する意味が無い。

 

そう「最強の戦力」、「一人」というのには何かしら意味があるはずだ。

自らのファミリアに害為すものあれば大々的に、見せしめという形で滅ぼすのが最適解のはずだ。

 

しかしこの状況は真逆、目立たず静かに――

 

 

「――暗殺?いやそれこそ解んねぇけどなぁ…」

 

 

暗殺というのが正解に思える、それにこの霧もその一助となるはずだ。

…それはそれで暗殺される理由も解らないが。

 

 

「…考え事は終わりか?」

 

「…あぁ、まぁな」

 

 

と考えたところで状況は変わらない。

 

訊いてくるオッタルに俺は頷くと――目の前に立つ巨大な武人に視線を向ける。

纏うような殺気は極限まで薄く鋭く、鍛え抜かれた鉄のような筋肉と、明らかに業物と解る巨剣の存在感と圧迫感は思わず足を震わせ身じろぎするもの。

 

余裕を漂わせたオッタルが一歩踏み出し、ニジリと足元を踏みつける。

反射的に腰に手を回した俺はそこにぎゅるぎゅる丸が無い事を思い出すと、余りにも心もとない直剣を掴み引き抜き、構えた。

 

 

「では――」

 

 

更に一歩、オッタルが歩みを進める。

剣を掴む腕に力が込められ、踏みしめた足に血管が浮き出た。踏まれた地面が網目状に更に砕かれ、ピンと張った気そして獲物を真っ直ぐに射止めた視線が俺の動きに注視されていた。

 

そしてゆっくりと肩にかけられた剣が小さな弧を描くように持ち上がったのを確認した俺は、腰を低くし剣を構えると衝撃に備え歯を食いしばる。

 

 

 

 

「――死ね」

 

 

 

 

瞬間的にオッタルの身体が膨張する。

 

少なくともリョナの視界ではオッタルの全身が瞬く間に霞み、まるで水蒸気のごとく爆発的に大きさを増した。

同時に巻き上がる圧力、抑えつけられるような重力に身体が動くことを忘れ竦む。

 

そして――「1歩」。

 

捉えきれない瞬歩の後に繰り出された一歩は俺のだいぶ前の地面をやけにゆっくりと砕き石片をまき散らすとグリと踏み込んだ。

それから視界の端で銀色が輝き、瞬く…流動的に動くオッタルの手に握りしめられた巨剣が滑らかに、横薙ぎに動き、俺の身体を裂くただその一転に特化した最適化された動きを実行する。

 

 

(あ、これ死んだ)

 

 

余りに早く、余りに強すぎる。強制的に分泌された大量のアドレナリンによってだいぶ遅延した世界で剣を観察する。

 

まず速さ、避けることも芯を捉えることも出来ないその動きは半ば輪郭がぶれており辛うじて軌道が解る程度。

次に力、何とか構えていた剣を受けることは可能かもしれないのだが…まともに受けれる気がしない。この剣で受けようものなら小枝を折るより容易く真っ二つ、身体ごとへし折られぶった切られるだろう。

 

そんな単純な二つの要因。しかし二つにして全、圧倒的な基礎能力差は覆せるものではない。

 

 

――「レベル7」。

 

 

たった6違いの数字の差など俺は大したことは無いと思っていたし、切り裂きの高揚で600は稼いだ今ならば殺せるかもと思っていた。

しかし…足りない、どれだけ稼いだら追い付くのかも解らない程の高みがそこにはあり比べることも出来ない実力差があった。

 

 

(…)

 

 

避けることも受けることも出来ない、つまり…詰んでいる。

確実で簡単な死は軽く運ばれてきて、上半身と下半身をぱっくりと別つ。

 

…死ぬ。

 

 

(…嫌だ)

 

 

ここにきて初めてというわけではない、はっきりと「嫌だ」と思った。

ベル君とかヘスティア様に別れの言葉を言えてもいない、アーニャとか豊穣の女主人の面々は待っているだろうし、ティオナとは次の約束をしてしまっている。

こんなところで、あっけなく、道端にいた虫を踏んでしまったが如く殺されるなど御免だった。

 

だから――

 

 

「…ッ!」

 

 

――何とか、思いつく。

 

 

『剣を盾』に、横に薙ぐようなオッタルの巨剣に合わせるように俺は直剣を縦に合わせる。

豪風のような破壊に対して余りに無力なその剣は簡単にへし折れてしまうだろう。

 

しかし――両足で支えてみてはどうだろう?

 

腕ではダメだ、両足で支えてのみ何とか生き残る可能性が生まれる。

 

 

故に、計算した。

丁度剣がぶつかる一瞬の、極めて難しいタイミングを目で何とか測った俺はそれに合わせ――

 

『ガギィィンッッ!!!』

 

 

 

――『()()()()()()()()()()()()()()』。

 

 

 

ようはドロップキック。片手で剣を持った状態で足を浮かせ、曲げ、盾にした剣を蹴りつける。そしてそれをオッタルの振った巨剣のぶつかるタイミングにコンマ単位で合わせる。

 

…火花が散る、鉄と鉄が合わさり噴き出るような火花が空中を舞った。

 

それから――

 

 

「うおおおおおおおおおおおおお!!?」

 

 

――()()()()()()()()()()

 

必定、蹴りつけたことで剣が折れるのは防げたが、それ以外の力は全て俺の身体への推進力に変わる。

ただでさえ支えていない身体は一直線に『バフン』と空気の壁をぶち抜いて飛ぶ。

 

空中を舞っていた真っ赤な火花、白い霧が俺の身体を包んでは攪拌した。そして視界が前に流れていき、全身に風を浴びた後のコートがバサバサと揺れたのを見た。

 

(バットで打たれるボール…つってもそれを飛ばすバッターの方の力がなけりゃとばねぇが…)

 

空中を飛ぶ、距離は稼げたしこの霧だ…「逃げれる」。

 

防御と脱出、二つを兼ね備えた一手はレベル7冒険者の一撃をもって為す。

問題は着地がかなり痛い事だがここまでの速度だ、とてもじゃないが人に追いつけれるものでは――

 

 

「なるほど、考えたな」

 

「ッ!――…は!!?」

 

 

――怪物(オッタル)は並走していた。

 

空を切り裂きながら一直線に飛ぶ俺の隣を、左手に持った剣を軽く肩にかけたオッタルは「ズドドドドドドドドドドドドドドドドドッッ!!!」と猪突猛進といった様子で走る。

…それに平然と言った顔はこちらに向いており、まだまだ余裕が満ちていた。

 

スタートダッシュといい反応速度といい正に化け物…否、それができるから最強なのか。

実力差を痛感した俺は何もすることが出来ずただ目を見開く。

 

 

「おまッ…!?」

 

「発想は良い、しかし――足りんな」

 

 

――言葉と共に腕が伸びてきた。

 

凶悪なまでの右腕、そして赤い篭手のつけられた巨大な掌が、全く動くことのできない俺の喉を『ガシリッ!!』と捉えると――

 

 

『ッッズドォン!!』

 

 

――まるでボロ人形のように軽く、直角に、地面に叩きつけ止められた。

 

 

「ガッ…はッ…!!?」

 

 

痛みと衝撃が全身を打つ、喉奥から血が溢れ口の端から流れ出る。

呼吸が出来なくなり見下ろすようなオッタルの顔が霞んだ。

 

(ッつーかやべぇこのままだと首折られる!!!?)

 

グググ…!…と途方もない膂力が俺の首にかけられる。それにマウントで2mもある巨体の全体重をかけられては抵抗の余地も無い。

酸素を取り込むことも出来ない俺はオッタルの右腕を振り払うため身をよじり、掴み抵抗するが鉄のようなそれは揺らぎすらしない。

 

 

「かはッ!…ぐッ…!!?」

 

 

押し付けるようなオッタルの手が一度引かれる。

そして無言のままもう一度殴りつけるように『ドスンッ!!!』と地面に打ち付けられた。

 

…頭を打った俺は意識が更に遠のくのを覚え、痺れるような感覚に思考能力が落ちるのを感じた。

段々とオッタルの腕を払おうとする力も弱まっていき、オッタルの無慈悲なまでの力はどんどんと強まっていった。

 

 

「あァ…はッ…!」

 

 

苦しい、落ちる。ミシミシという首の軋む音をどこか遠くに聞きながら俺はブラックアウトしそうな意識を必死に繋ぎ止める。

ギュ…ギュッ…とかけられる圧力に残った力を振り絞り何とか抵抗した。

 

 

「あ…ぁ……」

 

 

しかし――無駄な抵抗、永遠のように感じる時間が過ぎた。

 

 

オッタルは足元に転がる長身の男の顔を見下ろすと、その厳めしい顔の表情を変えぬまま、かけていた手の力を緩める。

 

 

「…落ちたか」

 

 

オッタルはリョナの首から手を離すと、蔑むように男の顔を見下ろす。

 

口から垂れた血と涎、完全に剥いた目にぐだりと横たえられ弛緩した全身。

首を折る前に気絶したのは無為と思えた抵抗のためか、しかし結果に変わりない。

 

 

「惜しいな、だが我が(フレイヤ)の命令だ…その命差し出してもらおう…!」

 

 

ガチャリ、と左手で持っていた巨剣を両手で掴み直す。

そして今度こそとどめを、眼下に気絶した男の心臓部に向け――オッタルは振り下ろす。

 

 

――『ガッ』!

 

 

「…!…」

 

「あー…今の避けるとかホントふざけんなお前バケモンかよ…」

 

 

オッタルの顔に突き上げた直剣は予備動作なし(ノーモーション)、かつ()()()()()していた。

 

しかしいい加減見ていて腹の立つ顔に突き上げた直剣は紙一重的に顔を逸らされ躱される。

流石のオッタルも落ちていたはずの意識からの反撃は予期していなかったのか眉を上げて驚いた。

 

…気絶は確かにした。しかし瞬間的に強制的に起きた、というか「起きれた」。

そこから手元に落ちていた剣を掴んで真上に突き上げるのは方法に難くない。

 

 

「…レベル1でこれか、実に惜しいと思うぞ貴様」

 

 

ぐしぐしと顔についた血や涎や涙を拭う眼下のリョナにオッタルはすぐには剣を振り下ろさずに声をかける。

その顔には先ほどの驚きと微かな悩みが混ざったような表情――そして大きく息を吐いた。

 

そして元の厳めしい表情に戻ったオッタルは、「ギチリ」と両手に持った巨剣を構え直す。

 

 

「悪いとは思わん、我が主のためその命もらい受け――」

 

「――どうでもいい」

 

「…何だと?」

 

 

顔を拭い終えたリョナは赤く腫れた瞳を見上げ、剣を突き上げ続ける。

そして噛み締めた口に力を込めたまま開けると熱い息を吐きだし、睨んだまま声に出してみた。

 

 

「そもそも理由なんて解りきってた――()()()()()()のに理由何ていらねえもんな」

 

「…何の話をしている?」

 

 

狂ったか、オッタルは眼下に寝ころんだ瀕死の男を見下ろす。

 

しかし――今際の際にありながら、リョナは殺意と生気に満ちた瞳で空を睨んでいた。

この状況で、最期の一撃すらも躱された…絶望を覚えて然るべき、生を懇願し死を嫌悪して…殺意を抱くはずが無い。

 

それに――「笑う」。

 

リョナは口端に歪んだ笑みを浮かべると、やけに理性的に静かな声で答える。

 

 

「お前が俺を殺す理由なんてどうでもよかったって話だよ、オッタル。お前が誰の命令で殺しに来たのかは知らねぇが――()()()()()()()、理由なんて躊躇なんていらねぇ。だから――」

 

 

リョナの瞳孔が収縮する。

顔は憤怒に塗れ、頂点に突き上げた剣を掴む腕が僅かに震えていた。

食いしばった口からは漏れるように熱い息が漏れ、死をもたらすものへの怨嗟が殺意に混じる。

 

しかし…それは『オッタルに向けられたもの』ではない。

 

――通り過ぎた、向けたる視線の先は天頂に。

だがそれは剣を構えたオッタルの顔ではなく…剣の先、()()()()()()に向けられていた。

…精々、あるのは濃く流れる霧と木々から伸びた枯れ枝の先くらいのもの。

 

流石のオッタルもチラリと振り返り見た、どうせこの男へのダメージは相当のものですぐに逃げ出せれるような物ではないし、今コイツの持っている剣で斬りつけられても傷つけられるはずが無い。

 

しかし…そこには何もなく、あるのはただの「虚無」のみ。

 

無を睨む、など狂人のそれだ。

オッタルは「やはり狂人の戯言か」と吐き捨てるとリョナに視線を――

 

 

「――…ッ!まさか貴様ッ…!!?」

 

 

狼狽する。レベル7、オラリオの最強冒険者であるオッタルが。

目を見開き、無を睨んでいるだけのレベル1冒険者に驚愕する。

 

そして…リョナの殺気はやがてより濃く凝縮されると、言葉に乗せて…放たれた。

 

 

 

 

「―――…殺すぞ、()ァ…!」

 

 

 

 

()()()()()()()()のだ』。

 

 

 

 

 

 

 

 

『キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!???』

 

 

 

 

 

 

 

 

突如、女の悲鳴が響き渡る。

絹を裂くような、耳をつんざく悲鳴が耳朶を叩き、意識を鮮明に刺すような雷光が走った。

…同時に如何に必死かも解った、今にも殺されそうな女の悲鳴は聞くものの心を無意識下で不安にさせる。

 

 

「なっ…!?まさかこれは――」

 

 

悲鳴に、オッタルは立ち上がった。

 

天を仰ぎ、耳で無く頭の中で鳴いたその悲鳴の主が――「見ていた」場所を仰いで叫んだ。

 

 

「――フレイヤ様ッ!!?」

 

 

レベル7冒険者の咆哮が階層全体をビリビリと強く揺らす。

その振動を背中で受けながら俺は殺意を「本当に何も無くなった」虚空に送るのを止める。

 

 

――バベル、フレイヤの私室。

 

 

赤いソファにくつろぎながら「羽虫の虐殺」の様子を眺めていたフレイヤは…絶叫していた。

その虹色の瞳に浮かぶのは恐怖、怯え、混乱…パニック状態になったフレイヤは目を剥き細い洞から通り過ぎるような悲鳴を、額から珠のような汗が噴き出しては垂れ輝きながら床に落ちた。

 

…恐慌、正しくそれ。理由は――

 

――「未知」、今まで見たことの無い伝えられたことのない感情を彼女は知る。

 

 

美の神フレイヤは「世界」に愛されている。

何の誇張でもない、彼女を愛さないものはいないし、嫌うものなど存在するはずが無い。

 

 

…増してや「殺意」など今まで向けられたことも無かった。

 

 

「はぁっ…はぁッ…ぁ…!」

 

 

荒く、乾いた呼吸で涙を零しながらフレイヤは先ほど見たものを思い出す。

 

見上げていた、男の視線に混じった、濃く青い炎。

目を焼くようなそれは轟々と剣先から噴き出し、終いには私の視界全てを燃やし尽くした。

 

 

そして…理解させた――「殺しうる」と。

 

神威を纏わずとも、死ぬことの無いはずの()が死ぬ可能性をまざまざと見せつけられ、0が1に変わった瞬間を暴力的なまでに押し付けられる。

 

死ぬはずが無かった…人間しか、生物しか持ちえない「死への恐怖」を彼女は理解してしまった。

 

 

 

 

「貴様ァァッ!!何をしたァァァッ!!!」

 

 

 

 

怒号が俺の身体を貫く。

 

「最強」の真の憤怒、惜しみない感情の発露に俺は生存本能ごとブルリと震えると何とか身体を起こすと…笑う。

そしてひび割れた大地の上に胡坐を掻くと、激昂し今にも跳びかかってきそうなオッタルの振り上げた巨剣に心底恐怖しつつ制止した。

 

 

「何をしたか、ねぇ。もしかすると今すぐ助けに行かないといけない事態かもしれねぇぞ?それこそ俺に構ってたら手遅れになるかもしれない事態――そんなことしてる場合かよ?」

 

 

ブラフ、俺もオッタルも信じる必要のない明らかな嘘。

しかし――

 

 

「…グ…!」

 

 

――少しでも可能性があるならば、オッタルは今すぐに戻らずにはいられない。

 

巨剣を肩に戻しつつ、オッタルは俺への憤怒に満ちた視線を外さずに堪えるようなうめき声を漏らす。

 

そして…背を向けた。

それから――首だけ振り返ると殺意のこもった燃えるような視線を見せる。

 

 

「いつか…必ずッ…!」

 

「おー怖、二度とくんなよー」

 

 

バイバイ、と手を振るとオッタルは走り出す。

ドドドドドドドドドッ!…と荒々しく走り出したオッタルは瞬間的に知覚外の外に出ると、霧の中に消えた。

 

 

 

…そして残すような大地を揺らす爆音が消え去った後――「静寂」が訪れたのだった。

 

 

 

「…生き残った?」

 

 

 

静寂に問いかけてみる。…返答が無い、ただの静寂のようだ。

 

 

「はは…」

 

 

嵐が過ぎ去ったような静寂に俺は心底安堵する。

というかあの暴虐の化身を前に生き残ったのだ、と考えると涙が出る思いだった。

 

 

「ふー…」

 

 

ダンジョンの中に横たわる。

ここも安全な訳ではないが、アイツがいないというだけでもはや天国のように思えた。

背中に当たるひび割れた少し痛い地面と乾いた草、閉じた瞼の裏の暗黒が心地いい。

 

 

(…結局、何だったんだろうな?)

 

 

眠るように、考える。

 

最強の武人と、虚空から盗み見ていた女神。俺を殺す理由…何故?

退却させられたのは完全に運が良かった、今も握ったままの剣の感触を確かめるが何だか生の感覚は薄い。

 

それに――さっき視界で瞬いた()()()は?

 

 

「答えは出ず…か」

 

 

解らない、がアンサーだ。悲しいまでに人間は神の用意した現状を受け入れるしかなく、その理由など説明されるはずもない。

 

…呟いたリョナは考えることをやめ、目を開ける。

 

 

 

「…あ」

 

 

 

ぱらぱらと降り注ぐ紫色の粉と、上空を旋回する淡い影。

霧の中をゆっくりと飛ぶそれは何だか天使のように、ここで終わりだと言わんばかりに死を告げていた。

 

 

…って死んでたまるか、全く気が付かなかった俺は笑うと――

 

 

――霧の満ちた階層の中に舞う影に直剣を投げつけるのだった。

 

 

 

・・・

 

 




パープルモスとか状態異常系の敵が一番嫌いってことを伝えたかった、そんな作品でした(大噓)

いやーしかしオッタルに狙われるとか生きた心地しねぇなぁ、肌に切りつけても刀が折れそう。


んでま、多分次回が年最後ですかねー?
待たれよー


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「999」の感情追跡

メリーボッチマス(思いをこの一言に集約)

あ、今回いつもよりちょっち長め。
それと全国の紳士&同士諸君――――待たせたな。




・・・

 

 

 

「…は?魔法?」

 

「はい!そうなんです!」

 

 

まだ朝靄のかかる冒険者通りと中央広場(セントラルパーク)、そこには所々点在する噴水の縁に座るかなり興奮した様子のベルと、何故か顔に真っ赤な「手形」を作ったリョナの姿があった。

 

まだ人通りも少ない朝のこの時間だが、時折通り過ぎる冒険者の一群がバベルに入っていくのが遠くに見え、二人同様に歓談しながら人を待つパーティもいくつか見受けられた。

…そして仰げば空は晴れ、太陽はまだ低いがそれでも世界に十分な明かりを満たしている。

 

――だがリョナの前に座り、喜ばし気に語る白い少年の笑顔の方が、天に昇った太陽以上に明るいことは確かだった。

 

 

「『ファイアボルト』っていう炎をこうズバッーンって出す魔法なんですけど!」

 

「へぇー良かったねぇ、カッコよさそうだし後で見せてくれ……だけどどうして急にまた?魔法ってそんな急に覚えるもんだっけ」

 

「え!?…えっーと、それは…」

 

 

ベル君が魔法を習得したというのは素直に喜ばしい事だが、余りに急なこと過ぎる。

昨日帰ってきたときは椅子の上で変な姿勢で寝ていただけでそんな話一切無かったわけだし、寝て起きたら魔法が使えるようになっていた…何て、いくら何でも成長期真っ盛りのベル君でもあり得ない話だろう。

 

疑惑の孕んだリョナの視線に、自分の魔法『ファイアボルト』について嬉しそうに語っていたベルの顔は、途端にしどろもどろと言った表情に変わる。

そして視線を慌ただしく動かしながら、必死にひり出すかのように身振り手振り…一言。

 

 

「ぐ、魔導書(グリモア)なんてありませんよっ…!?」

 

「え魔導書、何それ?」

 

「あっ!…いえ、何でも」

 

「ベル君ー」

 

 

墓穴を掘って大量に冷や汗を流しつつ顔を背けたベルの脇の下に、リョナは手を伸ばす。

はっ!?…と気が付いて躱そうとしたベルだったがそこはリーチの差、大した距離も稼げずにリョナに捕まると…くすぐられ始めてしまった。

 

 

「ちょっ…ひっ…やめっ…」

 

「ねーベル君ーグリモアって何ー?ねぇ教えてー!?」

 

「あはっ、あはははは!?」

 

 

執拗に続くリョナの指技の前にベルは身体をくの字に曲げて笑いもがくが、完全に背後をとられたベルに抜け出すことは叶わない。

 

…五分後、たっぷりとくすぐられた後やっと解放されたベルは道にしゃがみ込み、ひっー…ひっー…と笑いすぎてしゃがれてしまった声を力なく漏らしていた。

そして笑いすぎて出た涙を軽く指先で払うと立ち上がり、ニヤニヤと笑うリョナに振り返ると、少し息を漏らし観念したように笑った。

 

 

「解りました…あ、でも他の人には言わないでくださいよ?」

 

「当たり前だ、ベル君は俺が信用できないっていうのかい?」

 

「いやそういうわけじゃないんですけど、神様がリョナさんにも秘密だーって言ってたので」

 

 

またあの女神のせいか、帰ったらとりあえず寝てても裸でも高い高いしよう。子ども扱いされるのが基本的にあの神は嫌いなので、一番効果的だったりする。

 

…と一瞬本気で考えた後、ベルに視線を戻す。

ベルはまた先ほどの位置に座り直すと、昨日「読んだ」事について説明してくれた。

 

しかし…話の突飛さにリョナは眉を顰め、口をへの字に僅かに開けて困惑することになった。

 

 

「豊穣の女主人で借りた本が魔導書で、それを読んだら魔法が手に入った?…えぇ?」

 

「えっと、まぁだいたいそういう感じなんですけど魔導書っていうのは――」

 

 

――魔導書、というのはこの世界において「魔法顕現装置」なのだそうだ。

 

魔法職かあるいはそういうスキルを習得した眷属が書いた魔導書は、読んだものに魔術的な作用を働かせ、その者の元々ある魔法を発露させる。

簡単に言ってしまえばポケ〇ンの秘伝書のようなものだ、対象者に半ば強制的に魔法を覚えさせることが出来る便利な魔具(マジックアイテム)…つまりそれをベル君が使い、魔法を覚醒させたということだった。

 

…そして効果は「一度きり」だとも。

 

 

「え、でも絶対それ高――あ」

 

 

気づいた、豊穣の女主人から借りたと言っていたがそんな使い捨てのもの絶対に高いし貧乏ファミリアであるウチが…というかベル君が賄えるはずが無い。

 

つまり――あの女神、隠蔽しようとした。

 

弁償するのは無理だから、そもそも無かったことにしてしまえば良い。

そうすればそもそも「存在しない」のだから弁償する必要がなくなる。

 

…事実、正しい判断なので否定できないのは癪だが、そのために俺にも情報を遮断し、ベル君にかん口令を敷いたのはミスだ。

俺を仲間はずれ(ボッチ)にした時点で「ヘスティア様公開高い高いの刑」は決まったようなものなのだから。

 

幼稚なヘスティアの行動に多少の頭の痛みを覚えたリョナの口から自然とため息が漏れる。

 

 

「はぁ…それで?」

 

「はい、それでさっき豊穣の女主人に行って謝ったんですけど、けっこうアッサリというか許してもらえました」

 

「そっかー」

 

 

まぁ話を聞く限りどうやら誰かの落とし物のようだし、豊穣の女主人側も問題を起こしたくはないのだろう…というかミア母さんは真摯に謝ればだいたい許してくれる、逆に隠蔽とか嘘とかは嫌いな性格の人だ。

 

――まぁともかく「負債回避!」「ベル君魔法習得!」円く収まれば全て良しだ、というか振り返ってみれば何だか良いことだらけな気さえした。

 

頷き肩を落としたリョナは人のいない中央広場をぼんやりと眺める。

…隣に座ったベルはその呆けたような表情を、いやその未だに「赤くなった頬」を見ていた。

 

 

「あの…ところでリョナさん」

 

「お?」

 

「その…ギルドで何があったんですか?」

 

「あー…エイナに殴られた」

 

「えっ…!?」

 

 

豊穣の女主人に謝りに行っていたころ、頃合いを見たリョナはギルドに行っていた。

 

ぎゅるぎゅる丸を失くしてから色々忙しく(というか現在進行形でそんな暇は無いのだが)暫く顔を見せていなかったのだが、現状を説明すれば何か情報を得られるかもと思い直しエイナに会いに行ったのだ。

 

しかし、結果は――

 

 

「――何か現状説明したらいきなり平手された…」

 

「えー…!?」

 

 

未だヒリヒリと痛そうな頬を撫でるリョナに、というかエイナの行動にベルは驚きの声を上げる。

 

…しかしエイナの行動は至極「ごもっとも」だ。

 

冒険者で、元々危なっかしい人が数日顔を見せない、つまり…「死んだ?」

だがベルからはそんな言葉はなく――それこそ思わず平手をしてしまうぐらい心配していたのだろう。

 

殴られて然るべき、と言えた。

 

 

「そ、それで…どうなったんですか!?」

 

「あー…めっちゃ謝ったら許された、でも何で怒られたか解んねぇー…ベル君解る?」

 

「僕ですか!?…いや、すいません解んないです」

 

 

とはいえそんな女心を本人と少年が解るはずもなく。

うーん…と二人は噴水縁で悩むと、解るはずもなく首をひねり思考停止した。

 

…コポコポという平和な水音のみが流れていた。

 

 

そして――ふとベルは腰のポーチをさわると、「あっ」と声を漏らす。

 

 

「そういえばポーション切らしてたんだった!…えっと、リョナさん僕ちょっと急いで買ってくるので代わりにリリの事待っていてもらえませんか?」

 

「あー俺もそういや前投げたんだった、ベル君の分も出すから俺にも一本買ってきてくれないか?」

 

「な、投げた…?…あ、はいありがとうございます!それじゃあちょっと行ってきますね!」

 

 

リョナから少し多めに1000ヴァリス貰ったベルは頷くと自分の薄い小銭入れの中に入れ座るリョナを残すと、薬店(ミアハファミリア)へ脱兎の如く走り去った。

 

…かなりの速度で走るベルの姿を見送った俺は、ため息を吐く。

 

 

 

「ふー…」

 

 

 

一人残された俺は噴水の溢れるコポコポという音だけを聞きながら、僅かに人通りが出てきた冒険者通りを眺める。

 

…様々な冒険者がバベルに向かって歩みをすすめており、ひとまずその中に大きなバックパックの少女の姿は見えなかった。

 

 

しかし――心は他に、その人の群れに別の物を見つけようとする。

 

 

(…いねぇよな)

 

 

安堵のため息が漏れる。

僅かに増えてきた人の波の中に…無意識に俺は――オッタル(恐怖そのもの)の姿を探していた。

 

「昨日」俺はオラリオ最強の冒険者、猛者オッタルに襲われ何とか命拾いをした。

しかしそのせいで今日は全身打ち身だし…無意識で探してしまうくらいのトラウマを植え付けられたのだった。

 

常に命を狙われているかもしれない…その恐怖は精神の負荷となる。

 

 

「…」

 

 

…そして静かで時間が出来ると人は、得てして考え始めてしまうものだ。

それも…たいてい「良くない」事を。

 

――その例にもれず俺は空に流れる大きな雲の1つを仰ぐと、大きく「焦燥」を吐き出した。

 

(だいぶ()()んなぁ…)

 

吐き気のするような焦り、息が詰まるような喉奥の圧迫感が苦しい。

そう…苛立ちだ、この胸の中には煮えたぎるような恋焦がれるような「ぎゅるぎゅる丸への執着」がある。

 

 

今日で――「五日目」。

 

 

失くしたぎゅるぎゅる丸をどれだけ必死に、幾度も死ぬような思いをしてダンジョン内を駆けずり回って探しても見つからない。

…とてももどかしい、落ち着かないし精神的にくるものがある。

早く手に取り戻さねばならないのに、本来なら今この手に収まっているはずのものが無い。

どうやったって心の隙間は埋まらないし、空いた穴から冷たい焦燥が流れ込んで…苦しい、痛い、叫びたくて、頭がおかしくなりそうだった。

 

表面にこそ出していなかったが、リョナは相当イラつき余裕が無くなっていた。

 

次第に冷静さが失われていくのが自分でも解るし、熱に浮かされたように泥の中をもがいているような感覚が寝ても覚めてもへばりつく。

 

――もし今この瞬間、この数コンマの時間が過ぎていくだけ、ぎゅるぎゅる丸が永遠に失われてしまうのではないか?という考えがどうやったって頭から離れてくれなかった。

 

 

「…はぁ…」

 

 

吐いても気持ち悪さの拭えないため息を出しながら俺は、仰いだ空から地上に視線を戻す。

…見れば、少し中央広場には人気が増してきていた。歩く冒険者のパーティの数は明らかに増えてきており、穏やかな活気満ちつつあった。

 

この程度の時間経過であればベル君はまだ帰ってこれないだろうし、あの少女(サポーター)も視界に入ってこない。

 

…そのせいで腹が立つ、という事は無いが今は「何もせず待つ」ことがたまらなく辛かった。

無意識に動く足を止めることも無く、俺は…だらりと力なくもう一度清涼感を求めて青空を仰ぐ。

 

 

 

 

そして――匂いを嗅いで目を見開いた。

 

 

 

 

姿勢を正し、横を向いた俺は恩恵(ファルナ)によって僅かに強化された視力を、通り脇に小さく生えた木立の中に向ける。

 

…樹木に阻まれ何も見えない、しかしそこからは――「知った匂い」がした。

 

 

「…」

 

 

立ち上がり、もう一度匂いを嗅いでみる。

 

…間違いじゃ無い、増えてきた匂いの中には一つ「お世辞にも良いとは言えない」彼女の臭いが混じっており、それはあの木立から漂ってきていた。

しかし――何も無いただの林だ、何故そんなところからあの犬人(シアンスロープ)の少女の臭いがするのだろう。

 

歩き始め、通りの半分を横切った俺は刈り込まれた低い生け垣前から中を覗き込んでみる。

だが…覗き込むより先に新しい匂い――木の樹液の臭いと、男が複数人。

 

(ホント、何してんだ…?)

 

一人でいるのも大概だが、複数人でいるのも異様だ。

 

疑問を抱きつつ俺は大股で生け垣を乗り越えると、とりあえず中の様子をうかがうえそうな手ごろな木の陰に隠れる。

そして一応…コートを片手で払い、万が一の時のために腰にささった直剣を確認すると木の縁から顔を出して奥の様子を確認した。

 

 

「いいから…寄こせっ!」

 

「もう私にはそんなものないッ…ですから!!?」

 

 

…一瞬、唖然とした。

 

 

大の男が三人、鬼のように歪んだ形相で「少女」一人に詰め寄っていた。

 

囲まれるように大きなバッグを持った少女は腕を掴まれ、叫ぶような怒号を耳元で叫ばれながら俯きがちに首を横に振っている。

…恐喝をされている少女の姿はまるでぼろきれのように弱々しく、掴まれている腕はコートに皺がより今にも折れてしまいそうだった。

 

しかし、そんなことより少女に対し恐喝する男どもの「顔」に驚く。

 

 

――少女1人に大人が寄ってたかって、という中々下衆な状況はまだ「()()」。

 

 

この文化レベルならば、子供から巻き上げるような恐喝は存在するだろう。

小遣い稼ぎか何かは知らないが、万全な法治国家でもないこのオラリオのどこかしらで恐喝が発生するのは仕方ないことと言えた。

 

しかし…囲んでいる男たちの「必死」な表情は何だろう、まるでこの少女から金を巻き上げなければ自分たちが死んでしまうかのような必死さ。

まるで洗脳されたような、自然には人が持ちえない感情の見えるその顔に――

 

――俺は、自然と足を一歩踏み出していた。

 

 

「おい」

 

 

声をかける、するとリリの腕を掴み一際顔を歪ませていた男はリリへの恐喝を止めると、瞬時に冷静な表情に切り替え、他二人と共に俺に視線を集中させた。

 

それから…リリの腕を離すと、観察するように僅かに首を傾げて俺に尋ねる。

 

 

「…何のようで?」

 

「…はぁ?」

 

 

何も考えず飛び込んだせいで、尋ねられても空っぽの頭には回答など用意されていない。

思わず間抜けな声を出してしまった俺は男三人、そして――栗色の瞳で見上げてくる少女を見渡した。

 

(…とりあえず助けるか)

 

何も考えていなかった…が、とりあえず今この状況を見れば「助ける」というのが最適なのだろう。

自分より背の低い亜人の男の目を見返すと俺は、軽く口元だけ微笑んで見せた。

 

 

「えっーと、悪いんだがそいつ俺の連れの連れで探してたんだわ、返してくれねぇか?」

 

「……はぁ、そうなんですか。でもすまねぇんですがあっしらとコイツは同じ()()()()()でしてね、少しそっち関係で話さなきゃなんねぇことがあるんですわ。ですから少し待っていただいて…」

 

「…返してくんねぇか?」

 

 

ファミリア関係、というのを強調した男にリョナは「繰り返す」。

頭を軽く下げ朗らかに笑むようにして謝っていた男は、言葉が通じないかのようなリョナのその態度に作り笑いを止めると眉をひそめた。

 

非常識とも言えるそんな態度に見かねてか、黙っていた二人の男のうち一人がダンッと一歩踏み出すと、俺の胸倉を掴まんばかりに詰め寄って――

 

 

「オイてめぇ!いきなり出しゃばってきて調子乗ってんじゃねぇ…ぞ」

 

 

――見上げ、その目を見て尻すぼみに立ち止まった。

 

 

()()()()()()便()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

…殺意の出し入れぐらい心得ている。

実際この三人相手にカウント0の今の俺がどこまでやれるかは解らないが、強めの殺気ならばブラフくらいにはなるし、なった。

 

明らかに委縮した男は無意識的に数歩下がると…最初話した方に男に肩を掴まれた。

肩を掴んだ男はおもむろに笑うと、肩越しに俺の事を見上げる。

 

 

「いやぁ…兄さんにはかないませんなぁ、ファミリアの大事な話し合いだったんですがあっしらは後にさせていただきやす。…おい、行くぞ」

 

 

…冷静すぎて逆に怖いくらいの男は他の二人を付き従えサッサと木立の中から去っていった。

その後ろ姿を見送りながら俺は何だったんだアレは、と眉をひそめ軽く頬を噛んで考える。

 

 

「あの…」

 

「あ?」

 

 

服を後ろからくいと掴まれる。

振り返ると――バックパックを背負った少女が見上げていた。

しかしそのコートは大きくよれており、見れば顔にも殴られたような跡があった。

 

 

「すいません、リリなんかを助けていただいて…」

 

 

俯きがちに、悲し気に明らかに落ち込んだ表情でリリはただ吐き出すように謝罪の言葉を述べて、大きく頭を下げてきた。

助けた、襲われてる少女を助け、然るべき感謝を受ける。

 

しかし――どうでもいい。

 

 

「おい、今のはどういうことだ」

 

「…!」

 

 

明らかに異常な状況、あの男達は男達でおかしな精神状態だったが…それに狙われる、しかも同じ「ファミリア」の構成員。

一概に狙う方が悪いとは言えない、狙われる方にもまた「狙われるだけの理由」が存在するはずだ。

 

詰め寄るように尋ねた俺にリリは完全に俯き、自らの足元を見始める。

 

 

「…」

 

(…チッ…)

 

 

だんまりを決め込むリリに内心舌打ちをする。

そして――

 

 

「…解った、俺には言わなくていい。でもベルが待ってるはずだから、ベルには理由を必ず言えよ」

 

 

――吐き捨て興味を失い振り返ると、苛立ちながら生け垣に向かって歩き始めた。

 

俺とこのサポーターの少女は余り接点がない。最初こそいくつか受け答えはしたが、何せぎゅるぎゅる丸失くしたせいで余裕がないし、余り興味も無かった。

故に俺より、ベルの方が仲が良いし喋りやすいだろう…その情報をもとにそこから何かするというのは今の俺では思いつかないが、最悪ベルに話せば「なぜあんな状況だったのか」を聞くことが出来るだろう。

 

木を幾本か躱し、ため息を吐いた俺は生け垣を乗り越え石造りの道に出る。

…リリも『ガサガサ』と背後で音が鳴らしながら、生け垣を掻き分けてついてきた。

 

 

「さて…とぉ」

 

 

さほど時間は経っていないが、ベルは戻ってきただろうか?

人の流れが出来ていた冒険者通りを見渡した俺は、先ほどの噴水周りに目を向け白い兎の姿を探す。

 

…遠目に見渡してみるが、噴水周りには誰もいない。しかし思ったよりも目の前に、ベルの姿はあった――

 

――目つきの悪い男に絡まれている状態で。

 

 

「あぁ…!?」

 

 

知らない男にベル君は肩を絡まされ、下卑た笑いから漏れた臭い息を嗅がされていた。

…絡まれた少年は心底嫌そうに、男からの言葉を小さく否定の言葉を漏らしながら聞いていた。

 

(…殺すか)

 

ベル君に絡んだ時点で有罪(ギルティ)、どうせ気弱そうなベル(しろうさぎ)を狙って金でもカツアゲしにきたんだろうが…良い度胸だ、お前の方を1ヴァリス金貨サイズ毎にカットしてバラまいてやろう。

 

更に気分の悪くなった俺はためらわず直剣を掴みながらベルの元に歩き出す。

…まぁ、道で斬りつけることはできないが思い切り柄で殴りつければかなり牽制になるだろう。

 

 

「絶対に…嫌だッ…!!」

 

「こんのクソガキがぁッ…!!?」

 

 

しかし辿りつく前にベルの方から男を突き飛ばした。

姿勢を崩された男は一瞬目を見開き、瞬間キレるとベルに「手を伸ばしていた」。

 

 

「ふんッ!」

 

 

一歩踏み込むと空中に伸びた男の腕に詰め寄り、殴りつけて払いのける。

逆関節でもないので特に身体破壊には至らなかったが痛みは充分、横合いから突然腕を殴りつけられた男は元々姿勢が崩れていたせいか尻もちをついた。

 

 

「リョナさん!」

 

「んだっ…テメェ!?」

 

 

ベルの喜ぶような目、尻もちをついた男の見上げる毒々し気な視線。

明確な敵意ある後者を優先、その場でついた足首を回転させた俺は、男のあごに狙いを見定め、蹴り抜いた。

 

…ゴッ、という骨が打ち付けられるような鈍い音が小さく響くと男の目がくるりと剥く。

脳震盪、あごこそ砕いてはいないが思い切り蹴りつけた衝撃そのまま伝えられた脳は振動し意識を失った。

 

 

「はぁ…」

 

 

完全に意識を失い、ドサリと男の身体が倒れる。

今一度男が失神したのを確認した俺はため息をつくと、何だか虚しい気持ちになって肩を落とした。

 

 

「リョナさん!…えっとありがとうございます!」

 

「…いや、すまん。別にベル君一人だけでも対処できただろうに」

 

 

対して強くなかったし、ベル君に掴みかかろうとしたとはいえすぐに殴る必要も無かった。

…言い訳のようだが、こんなところでも判断力が無くなっている。その結果周りの冒険者からは相当目立ってしまったし、奇異の視線が集中するのが痛いくらいに解った。

 

(落ち着け…)

 

そう自分に言い聞かせてみるが、苛立ちと気持ちの悪い虚無感は消えない。

 

…やはりぎゅるぎゅる丸がなければ、ぎゅるぎゅる丸は一体どこに――

 

 

「――リョナさん?」

 

「…おう」

 

 

視線を上げるとベルが心配そうにこちらを見上げていた。

そうだ、絡まれていたのはベルであって心配するのは俺の方だ、決してされる方じゃない。

 

頷くと俺はひとまず男の方を放置し、振り返る。

…そこには大きなバックパックを背負った小さな少女が。

 

 

「リリ!良かった、無事だったんだね!何だか男の人たちに絡まれてるみたいだったから僕心配して…あ、もしかしてリョナさんが?――」

 

「――待った、ベル君」

 

 

嬉し気にリリに喋りかけるベルのことを腕で、そして心配顔で見上げてきた視線に真剣な顔で制した。

俺は壁を作るようにベルの前に立つと、目の前に立った少女の事を、イラつく感情そのままに見下ろす。

 

 

()()()()()()()()()()()()()だ、噴水で待ってろ」

 

 

未だ少し離れた位置の噴水を指さし、少女にそう告げる。

 

…リリは、少し緊張するような顔をした後「…解りました」と一言呟くように顔を伏せたまま噴水の方に歩き始めた。

その驚くほど小さな背中を俺は見送ると――振り返る。

 

 

「…どうしたんですか?」

 

「…見たのか?」

 

 

困惑したようなベルの表情に尋ねる。

更に目に疑問を躍らせたその表情に俺は目立たないように先ほどリリが絡まれていた「木立」の中を指さした。

 

…ベルは「心配」そうな顔をする。

 

 

「さっきリリが木立の中で絡まれてたのですよね?はい、助けに行こうとしたんですけど、この人に絡まれて行けなくなっちゃって…」

 

「…なるほど」

 

「それでもしかしてリョナさんが助けてくれたんですか?」

 

「…あぁ」

 

 

つまり腕を掴まれているのは見えただろうが、あの異常な表情までは見えなかったのだろう。…ただ見えたから、助けようとした、という訳だ。

 

頭を掻いた俺は何だか鉛の詰まったような頭を鈍く使いながら――「丸投げ」する。

 

 

「…じゃあベル君、悪いんだが何で絡まれたのかとか聞いといてくれないか?どうにもあの…リリルカアーデ?だっけ、また襲われる気がしてならないから、理由だけでも聞いといてくれ、判断は任せるから」

 

「…解り、ました」

 

 

実にどうでもいい、ベル君の事は心配だが早いところダンジョンに行ってぎゅるぎゅる丸を探したいという理性の方が強い。

 

俺は無慈悲に感情のまま突き離すと、明らかに落ち込んだベルの表情を見ないように――

 

 

「リョナさん」

 

 

――笑顔だ。

 

向けられた笑みに俺は『ッ…!?』と()()()()()()()()()()()()――目を見開いた。

 

 

 

「だから――だからこそ――」

 

 

 

 

屈託のない笑みを浮かべた少年は救うように笑う。

笑って、それから――

 

 

 

 

 

 

「リョナさんが――――」

 

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

「…ソーマ?」

 

「はい、例のサポーターの所属しているファミリアなんですが…」

 

 

カウンター越しにエイナが深刻な面持ちで頷いた。

聞き覚えはないその名前に俺は少し逡巡すると、エイナに「それで?」と訊き促す。

 

 

「主神であるソーマは酒造りの神、神威を失った今でも酒を()()()造り続けているそうなんですが、今作った神酒にも強い中毒作用があるらしくて…」

 

「…それ()()()()()ってこと?」

 

「…はい、情報源によると」

 

「へー、ちょっと飲んでみてぇかもな」

 

「冗談じゃないですよ!?なんでもファミリア内でもかなりの額を上納しないと飲めないらしく、そのためにソーマファミリアはかなり強引なやり口で、時には仲間内ですら集金という名の強奪をするらしくて…すべてはお酒のために。…こういってはなんですが、ほぼ麻薬です」

 

 

酒に憑りつかれた眷属、争いあう子供たちを止めずに、酒造り(しゅみ)のために必要な金を受け取るだけの主神。

腐りきった体制と、関わるもの全てに毒をまき散らす――それこそ「麻薬」。

 

…エイナからの説明を聞く度俺は、あの光景の「理由」が解っていった。

 

 

「なるほど…?」

 

「ですからあのサポーター…リリルカ・アーデさん、でしたっけ。…ベル君が関わるのは危険じゃないかなと…なので一度リョナさんの方から声をかけてもらえませんか?」

 

「んー…」

 

 

――「7()()()」。

 

夜、ギルドに来た俺はエイナに「相談」されていた。

話題は…ベルについたサポーター、リリルカ・アーデとそのファミリアについて。

 

エイナの言葉を受けた俺は頬を軽く掻き「あー…」と少し考えると軽く苦笑混じりに首を傾げる

 

 

「危険性は解るが…まぁベル君も馬鹿じゃないし、危険だって解ったら自分で避けれると思う…大丈夫じゃねぇかな」

 

「でも…」

 

「ベル君の事信用しろって、心配なのはわかるけどベル君もあぁ見えてちゃんと男だし、俺達が信じてやらなくてどうするよ」

 

「…」

 

 

ひとえに、エイナは心配なのだ。

しかし一介のギルド受付嬢に出来ることは少なく、故にリョナに頼んでどうにかならないものかと頼んだ。

 

だが…断られてしまった、同時にリョナの言い分に理解もしてしまう。

どこか不満げに、抱いていた心配を顔に出しつつエイナは頷き、息を吐き視線を落とすと俺の腰回りを見て、少し疑問を抱くようにリョナを見上げた。

 

 

「そういえば…その、ぎゅるぎゅる丸は見つかりそうですか?」

 

「む…あぁー…中々難しい」

 

 

――七日、焦がれるには余りに長すぎる時間。

 

遠い目をして、流石に疲れたように笑ったリョナは目を閉じカウンターに肘を立てる。

 

 

「今日は10階層の探索がやっと終わった、霧の中で物探しとかホント地獄でしかない」

 

「…ということは残り9階層…ですか。それは――いえ、何でもありません…」

 

 

口を噤んだエイナだったが、言われなくても続きは解る。

 

――「絶望的」。

 

事実として狭まっていく可能性、残された階層とただただ無為に過ぎていく時間。

イラつきと、狂気にも似た意識の混濁がただただ雫のように満ちていく。

 

それが…大事なものであればあるほど。

 

 

「…じゃあ俺明日も早いから、またなー」

 

「!…はい、頑張ってください」

 

 

――しかし、リョナは笑う。

 

気がふれた訳でもなく、いつも通りの楽し気な笑みを浮かべたリョナはカウンターから身体を離すと、エイナの不安げな目を微笑みを含んだ瞳で見返した。

 

手を振って去っていったリョナの背中をエイナは見送ると、その確かな足取りが剣帯を揺らすのに不安げな表情をいくらか緩和させた。

ベルも、リョナも心配だが二人とも大切な…友人、だ。

 

信じるか信じないかで言えばエイナは信じたい、「信じたかった」。

 

(…でも)

 

やれることはやろう、そう決めたエイナはとりあえず誰にも見えないように冒険者の殆ど消えたギルド内で大きく欠伸をする。

それから今日はもう帰ろうと振り返ると、帰り支度を始めるために歩き出す。

 

 

 

そして――ついに、8日目を迎えたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

…仰げば、曇天。

 

昨日の夜から小ぶりに降り注いでいた雨は上がり、平たく作られた石材の道を所々黒色に濡らして、一個一個をまるで氷片のように冷やしている。

待ち望んだ太陽は未だ現れず、厚く渦巻く白雲の向こうで鈍く光るばかりでその姿を見せない。

 

 

「…」

 

 

噴水からの静かな水音、遠くから聞こえる冒険者たちの喧騒。

纏ったコートのおかげでこの刺すような空気でもそこまで寒くはないが、鼻や足回りなど露出しているところは痛いくらいに冷たくなっていた。

 

 

しかし――心は「熱い」。

 

 

…否、踊っているというべきか、

 

ついに「8()()()」。

待ち望んだ今日は私が解放される日で、もうひと頑張りする日。

 

午後になればあのおじいさんのツテでオラリオにやってくる豪商と取引し、あの「篭手」を売り払える。それで私はソーマファミリア(あしかせ)から解放され、やっと自由の身になる。

 

――やっとだ、心の内で喜びがむくむくとその鎌首をもたげ始めていた。

 

…これまで持ち主であるあの男には幾度か会って、一度だけ「見られてしまった」こともあったが疑われている様子はない。

それどころか最初こそ必死になってダンジョンで探索をしていたようだったが、最近は…何だか穏やかであり「諦めた」ようにも見受けられた。

 

そして――

 

 

「…あっ、リリ!お待たせ!」

 

「ベル様」

 

 

――もうひと頑張り、ヘファイストスのナイフなど手に入れば最高だ。

 

走って駆け寄ってきた白髪の少年にリリは「いつも通り」の笑顔を見せると、僅かにもたれかかっていた噴水から数歩身体の向きを合わせる。

それから僅かにバックパックの肩ひもを直すと、最大級の営業スマイルを見上げたベルに向け、わざとらしくもあどけない声を作る。

 

 

「おはようございます、ベル様!リリは少しも待っていないですよ、ついさっき来たばかりです!」

 

 

嘘だ、10分は待った。

いつもはベルの方が早く来ているのだが、気がせいたのか今日は私の方が早く来てしまったのだった。

 

軽く肩で息をしながら立ち止まったベルは自然な笑みを浮かべると、背筋を正してリリを見る。

…そして、いつもの通り目の前にそびえたつバベルを見上げ、促した。

 

 

「じゃあ、行こうか!」

 

「あ、いえお待ちくださいベル様。提案なのですがよろしいですか?」

 

「え、提案?…う、うん良いけど…」

 

 

さっそくダンジョンに向おうとしたベルのことをリリは引き留める。

足を止めたベルは振り返ると、僅かに困惑したような表情で見返してきた。

 

そして頷いたベルにリリは、予め「用意しておいた」回答で答える。

 

 

「今日は()()()()まで行ってみませんか?」

 

「えっ…どうして急にそんな…?」

 

「…ベル様、リリの眼はごまかされませんよ。ベル様はとうに10階層を突破できるだけの実力を持ち合わせているはずです」

 

 

半ば、事実だ。

8日間この少年の後ろからずっと眺めていたが実力の「伸び」が他の比じゃない、メキメキと実力をつけていくベルの背中を見ながら――

 

――10階層を「ギリギリ」超えられると判断した。

 

 

「でも…僕ソロだし、10階層って()が出始めるんでしょ?」

 

「確かに私がいるとはいえソロのベル様が、霧の出る10階層に行くのは奇襲などには弱いかもしれません。ですがそれは…いつか超えなければならない壁ではあります」

 

「…」

 

 

力説にベルは少し考えこむ。

半ば本当、半ば虚勢で作られた自分の理論の成果をリリは見上げると「もしこれが折れたら」と不安になった。

 

しかし…うん、と頷いたベルに表の顔も明るくする。

 

 

「そうだね、リリがそういうのなら10階層に行こうか!」

 

「はい、ありがとうございます!それに危険なら逃げてしまえば良いんですからね!」

 

 

そういうことなら頑張っていこう!と張り切り始めたベルにリリは少し顔を伏せ、ほくそ笑む。

容易くリリの言葉に乗ってきた少年はいわば既に術中、この8日間考え続けてきた「ナイフをいかに奪うか」の計画のレール上を走っていた。

 

あとは10階層で隙を伺えば…。

 

 

「…?」

 

 

計画を再確認しつつ見たベルの姿に何か違和感を覚えた。

確かこの時間、ダンジョンに行く際には解れるとはいえ、いつもはもう一人――

 

 

「――ベル様、リョナ様は今朝はどうされたのですか?」

 

「あぁリョナさんはねー…今日は朝早くから出かけちゃったみたいなんだ、理由は解らないんだけど…」

 

 

そう説明したベルにリリは少し驚き、安堵にも似た息を吐きながら「そうですか」と頷いた。

 

…いや、むしろこれで良かった。

どんなに完璧な計画でも不測の事態(アクシデント)はある、今日に限ってあのリョナが同行するなんて言い始める…なんてことがあるかもしれないと僅かではあるが懸念していた。

 

しかし…結果的には、来さえしてない。

 

(ふふ…)

 

つまりあの男は今頃ダンジョン内であの篭手を探している、そう考えると何だか笑いがこみ上げてくる。

 

――ありもしないぎゅるぎゅる丸(たからもの)を必死に探しているというのはなんだか滑稽だった。

 

 

「リリ?」

 

「あ、大丈夫です!」

 

 

『本当に』笑ってしまっていたリリはいつも通りの営業スマイルで応する。

そして改めて計画を再確認し、『できる』と自分を鼓舞してベルの腰についたナイフ(目標)に狙いを見定めた。

 

 

「じゃあ行こうか!」

 

「はい!」

 

 

ベルの言葉に大きく頷くと、連れだって歩き出す。

目指すは10階層、彼にとって初めての階層で、その白い鎧の内に渦巻くのは期待と不安。

 

しかしなんて事は無い、危なくなったら逃げてしまえば良いのだ――

 

 

――勿論、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

・・・

 

 

 

霧の中、目を細めてゆっくりと手に装着したクロスボウの狙いを見定める。

 

ゆっくりと漂う白霧は重く纏わりつくが、ここは「外せない」。

眼下で戦っている少年の背中を目で追いながらリリは、その腰で激しく動く剣帯とウエストバッグに注視する。

 

…そして片手間にコートのポケットをまさぐると「とある物」を探し始めた。

 

 

「――ファイアボルトォ!!」

 

 

相手にしているオーク。3mはある上、生えた樹木で武装していた。

長さのある樹木を振り回せば相当のリーチになり、威力はかなりのものとなる。

 

しかし…その動きは鈍重だ。

 

硬いとはいえ跳ね回る白兎にオークは全く反応することが出来ず、声と共に放たれた稲妻のような白炎に顔を焼かれて今すぐにも倒されてしまいそうだった。

 

 

(…)

 

 

コートの中から袋を1つ取り出す。

片手で袋の紐を僅かに緩めながら眼下で終了してしまいそうな戦闘に僅かに焦る。

 

…ようはタイミングとあの少年の立ち位置が重要だ。

 

クロスボウの照準を常に少年に合わせながらリリは袋の中に手に入れる。そして柔らかいようなブヨブヨとした塊の感触を確かめると眼下の戦闘に集中する。

 

 

そして――少年が足を止めた。

 

 

オークの顔にファイアボルトを当て怯んだ隙を走り、ベルはその肥えた胸に飛び込むと両刃短剣(バゼラート)を突き立てる。

瞬間紫色の血がほとばしり、オークは醜く『ぴぎぃッ!!?』と鳴いた。

 

…抉るようにベルはナイフを更にオークの体内の奥深くへと突き入れていく。

 

 

「ファイアボルト!」

 

 

咆哮と共に魔力が動く。

白く立ち昇った魔力が鈍く光るようにベルの心臓から腕を覆うようにして伝い、やがて掌を輝かせると、その白炎は短剣の刃を輝かせた。

 

そして――体内で爆ぜる。

 

全身を覆った硬皮が殻のようにひび割れ、肉が焼ける匂いと共に白い閃光をまるでランタンか何かのように漏らした。

豚のような鼻から血が噴出し、苦し気な声が弱々しく吐き出される。

 

 

「ファイアボルトッ!ファイアボルトッッ!」

 

 

しかしまだ絶命には至っていなかった、少年は両刃短剣(バゼラート)を持つ手に力を込めると繰り返し自分の魔法の名を叫ぶ。

その度オークの身体は白く輝く炎を内包し、やがて――『ボンッ』と爆発した。

 

…辺りに紫色の血肉が散らばり、地面に散華する前に黒く蒸発する。

 

 

「はっー…はっー…!」

 

 

魔法の連続使用、マインドダウンにこそ至らないが精神を強く消耗したベルは膝に手をついて荒く息をする。

そしてかいた汗を拭うと、近くで待っているはずのリリに――

 

 

――「今」だ。

 

 

「ッこれは!!?」

 

 

草の生えた地面に何個かの丸い紫色をした球体が転がる。

掌大の大きさのブヨブヨとした家畜の肉で出来た球体は幾度か地面を跳ね、その動きを止めるとベルの足元に散らばった。

 

そして…瞬間的にまき散らされる「悪臭」。

 

 

「うっ…確かこれって…!?」

 

 

散らばった球体は、確かモンスターを臭いでおびき出すためのトラップ。

町の雑貨店に安値で取引されているそれは、家畜の肉を丸められて作られており…モンスターを引き寄せるとんでもない悪臭を放つ。

 

耐えられない程では無いが、酷い悪臭にベルは思わず鼻を抑えると口呼吸で周囲を見渡す。

何故急にそんな…困惑しつつ原因を霧の中で必死に探した。

 

 

――ゆらり。

 

 

「えっ…!?」

 

 

霧の中で巨大な影が動く。

その数は四個、白い霧に黒い影を落としながら若干くぐもったような声を漏らしながら近づいていた。

 

 

そして――オークが4体、その姿を見せた。

 

 

「ッ…!」

 

 

一体でも相当苦労したオークが4体こちらにむかってゆっくりと歩んできていた、臭いからと言って鼻を抑えているわけにはいかない。

 

周囲、全方位からやってくるオークの位置を確認したベルは、油断なく両刃短剣(バゼラート)を構えると、逃げることも視野に入れて――

 

 

瞬間、聞こえた風切り音。

 

 

――とすっ…と音もなく、腰につけた剣帯に僅かな衝撃。

 

 

気づき、見やればポーションなどを入れていたポーチに「縄のついた矢」が突き刺さっていた。

 

 

 

(かかった!)

 

 

 

ちゃんと狙いを定めたかいがあった。

クロスボウから続く縄の先、ベルの腰についたポーチに射出されたボルトは迷いなくその茶色のなめし皮に突き刺さり、返しの付いた矢じりは確かな感触を伝えている。

 

…そしてこの程度であれば、僅かとはいえステイタスに強化されたリリの腕力でも引きちぎることは容易い。

 

 

「よっ…と!」

 

 

クロスボウをぐいと引っ張る。

するとベルの剣帯が雑に弾け、ポーチだけを引きちぎると空を舞う。

 

霧を切り裂きながら飛んできたポーチをリリは片手で掴むと、眼下を見下ろす。

 

 

…そこには目を見開き、驚いた表情で高台に立った私(こちら)を見上げてくるベルの姿が。

 

 

「リリ!!?…うわっ!?」

 

 

さっそく攻撃してきたオーク一体の攻撃をかわしたベルの事を静かに見下ろしながらリリはぺこりと頭を下げた。

 

 

「ごめんなさいベル様…ですが、ありがとうございます」

 

 

そして顔をあげた時には、()()()()()の微笑みを向ける。

 

 

「これでリリはいくらかお金がもらえます」

 

「待って、リリ!いったい何を言って…!!?」

 

「ですが…ベル様はもう少し人を疑う事を覚えた方がいいと思いますよ?ほんの老婆心ですが、リリからの最後の助言です」

 

 

何だそれは、困惑するように顔をしかめた優しすぎる少年の顔を出来るだけ見ないようにしながらリリはくるりとベルに背中を向ける。

…それから首だけ振り返り、笑うと今は戦闘中のベルにも聞こえるように喋りかけた。

 

 

「それではベル様は隙を見て逃げ出してください、()()()()()()()()()()()()()()()んですから!ベル様さようなら、もう二度と会うことも無いでしょう!」

 

「リリ!リリ、待って!!――あーもう、邪魔だぁぁぁぁ!!!」

 

 

未だ後ろから戦闘音は鳴り響き、私の名前を呼ぶ声が続く。

…それに僅かに、ちくりと胸が痛くなったが、何故痛いかも、その痛みの名前すらもリリは解らなかった。

 

 

(…)

 

 

…何にせよ、ナイフと鞘は手に入ったのだ。

霧を掻き分けながら手に持ったポーチの重みをリリは確かめながら、その中に入っている「目当ての物」に心を躍らせようとする。

 

そして――上の階に上がるころには心を痛ませる声は届かなくなっていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「オラァ!」

 

 

男が吼え、繰り出された蹴りが私の腹部に炸裂する。

 

慣れた痛み、しかし絶対に耐える事の出来ないどうしようもない痛みに、空気が漏れるようなうめき声を漏らすと、身体を折ってその場にうずくまった。

 

 

「アッハッハッハッ!!大当たりだなぁ、糞パルゥム!!ッオラァッ!!!」

 

「ふッ…ぐぁッ…!!?」

 

 

地面に丸くなり防御しようとした私の腕ごと男は、何度も何度も笑いながら踏みつける。

体重の乗った痛みが腕に走り、たまにすり抜けた足が身体を蹴りつける度耐えがたい苦痛が何度も何度も走った。

 

 

「はっー…はっー…よし」

 

 

ふいに、いつ終わるかもわからない苦痛が後を引いて止まる。

…何も出来ず、ただ蹴られるのみとなってうずくまっていた私は痛みに耐え、涙を零していた。

 

荒く息をしていた男は腕を伸ばすと、抵抗のしようのない私の髪を掴むと強制的に立たせた。

…その弾みで背負っていたバックパックが地面に落ち、ドサリと音を立てた。

 

 

「…!」

 

「喰らえ、これが今までのテメェがしてきたぶんの()()だ!」

 

 

男の下卑た笑いが見えた。

 

 

…天罰?あぁそれは…この痛みは――

 

 

――次の瞬間、顔の骨が砕かれんばかりの衝撃と髪が千切れるかのような痛みが走る。

 

 

「ッ…かッ…」

 

 

殴りつけられた私の身体は地面を幾度かバウンドしながら…跳んだ。

地面が擦れる度、胸から息がたたき出され蹴られる以上の痛みと衝撃が全身を襲った。

 

…そして、たらりと頭に暖かいものが垂れるのを感じると顔が濡れていくのを感じた。

 

 

「どうだ、思い知ったかこのコソ泥が!!()を張ってればいつか絶対捕まえれると思ってたぜぇ!」

 

 

7階層に上がったばかりの私はルームに飛び込んだ。

その先ではこの男が待ち受けており…逃げることも出来ずに蹴りを喰らわせられた。

 

――「網」というのはつまり、誰かと共謀して階層の要所を抑えていたということか。

 

並の冒険者であればリリを捉えることなど可能だし、一人ずつ散開しても全く問題が無い。

…まんまと、罠にはまったという訳だ。

 

 

「よぉーし…じゃあそろそろぶっ殺す前の手荷物検査といきますかァ!俺から盗んでった剣以上の落とし前はつけさせてもらわなきゃなんねェしな!!」

 

 

バックパックを引きずりながら男は私の傍に近寄ってくる。

…そして、私の頭を踏みつけグリグリと地面に擦りつけると、身に着けていたコートに手をかけた。

 

それから乱暴にコートを剥がされると、ごろりと地面を転がった。

布の服だけになったリリは…男が自分の装備品を漁り、金品を物色していくのを、潰されそうな痛みに耐えながら見上げることしか出来ない。

 

 

「…おぉ!?すげぇ、金時計に魔石に…それに、魔剣!?こんなものまで貯めこんでやがったのか!!やるじゃねぇか糞パルゥム!!」

 

 

コートの中に潜ませていた盗品をゲドは手に取り、高額なものを見つける度歓喜する。

そしてその嬉しそうな声の度、興奮したゲドの重い脚は私の頭は更に地面に押し付けた。

 

…痛い、しかしそれ以上に――悔しくて、惨めだった。

 

 

「やってますねぇ、ゲドの旦那」

 

 

金品を手に持ち、眺めていたゲドに声がかかる。

踏みつけられながらリリは目を動かし声のした方を見ると、その「知った顔」に驚き、納得していた。

 

…そこにいたのはいつだったか絡んできたソーマファミリアの冒険者の男、白い袋を担いだその男は朗らかな笑みでこちらにゆったりと歩いてきていた。

であればあの時から既に狙われていた、つまり…「協力者」はコイツ()だったというわけか。

 

 

「おー早かったじゃねぇかカヌゥ、聞けよこのクソガキ魔剣何かもってやがって…待てよ、今バックパックの方も探す」

 

「いや、探す必要はありませんぜ」

 

「は?それはどういう…」

 

 

リリの頭から足を離し、投げ出したバックパックの口を開こうとしたゲドにカヌゥは近づく。

そして――ぽん、と今まで手に持っていた白い包みをゲドの足元に投げ捨てた。

 

 

「ッ!?」

 

 

一瞬、理解が追い付かない。

 

無造作に投げ出された白い包みの中からは()()()()()()()()()が覗き出ていた。

 

 

「なぁっ…正気かァッ、テメェぇぇぇぇぇぇ!!?」

 

 

瀕死のキラーアントは仲間を呼ぶ、見るからに弱っている包みにくるまれたキラーアントは弱々しくギィギィと鳴き、人には解らないフェロモンを垂れ流す。

 

――ぽすっ、ぽすっ。

 

しかし、更に加えられる。

いつのまにか近づいてきたカヌゥの仲間、一様に白い包みを担いでいた彼らはカヌゥの投げ捨てた袋のあたり、自らも同様に袋を投げ捨てた。

 

…計3匹、同じように瀕死となったキラーアント達はいったいどれほどの蟲を呼び出すのだろう。

 

 

「いやぁ最初は俺ら全員でかかれば…なんて思ってやしたが確実じゃねぇ。ですんで万が一を排するこーいう方法をとらせていただきやした」

 

「だからって…つまりテメェ!?」

 

「旦那ぁ…金目の物も良いですが、命あっての物種というでしょう。()()()()に殺されたくなけりゃ早く逃げた方がいいですぜ?」

 

「ひっ…!?」

 

 

振り返れば、さっそく集まってきたキラーアントが五匹。

通路から伺うようにルームの中を覗き見て、自らを呼ぶ弱った味方三匹を見つけ怒りの混じった鳴き声を出す。

 

…しかしそれは先駆けだ、五匹でも充分に厄介だがこの数は10倍、20倍に膨れ上がっていく――それは、絶望。

 

 

「くたばれッ、冗談じゃねぇ!!くそっ、クソッタレが!!」

 

 

ゲドはわき目もふらずに、まだ何もいない通路に向って走り始める。

…当然の判断だ、間もなくここは怒りに駆られたキラーアント達で埋め尽くされることになり、その生存率は1コンマ毎に下がっていく。

 

 

そして――通路に消えたゲドの悲痛な悲鳴が響き渡った。

 

 

「ッ!」

 

「あれま、ゲドの旦那は本当に運がわりぃな」

 

 

絶叫に、カヌゥとその仲間達が笑う。

 

…しかし、とてもじゃないが笑う気にはなれない。

びくりと身体を震わせたリリの、注視した通路の先から一様に全身を朱色に染めたキラーアントが三体ほど現れ、ガチガチとその僅かに血肉の付いた口を鳴らし始めた。

 

 

――次に、あの肉片になるのは。

 

 

「おい、だいぶやられたみてぇだが大丈夫か、アーデ?」

 

「ひ…か、カヌゥさん…」

 

 

視線を、未だ先にいるキラーアントから、頭上で笑みから非常に冷静な顔に変えたカヌゥに移す。

包囲されつつあるこの絶体絶命の状況で「そんな顔」ができるのは、この男が自分の命を軽視しているからでなく、命以上に金、その先にある「神酒(ソーマ)」以外重要なものなどないから。

 

…憑りつかれた人間、それは時にキラーアントよりも恐ろしい。

しかし残された理性では、死地に自らを追いやるまでの狂喜は浸食していない…つまりそれは、かなりの高確率でここから逃げ出す術を持ち合わせているという事でもあった。

 

 

「助けに来てやったぜ、こんな危険な場所になぁ…ほれ、見えるか?」

 

「…!」

 

 

怯え、萎縮した私をカヌゥはまるでぼろ雑巾でも掴むかのようにひょいと持ち上げると、それなりに広いルームの全てが見えるようにする。

 

見えたるは増え続けるキラーアント、目の前に広がる絶望にリリは息を飲み、悲鳴を上げると…もがいた。

しかし、太い腕に抱きかかえられ傷付けられた身体は全くと言っていいほど動かない。

 

 

「やべぇよなぁ、こんなところに危険を顧みず…なぁ、アーデ」

 

「ッ…はい…」

 

「言いたいことは解るな?」

 

 

見返りに、金を寄こせ…言われなくても解る。

僅かに強くなった腕の締め付けに「殺される」と思ったリリは、そうでなくとも恐怖すると選択の余地が無い事を悟る。

 

…リリは震える手で首にかけていた「鍵」を取り出し、カヌゥに差し出した。

 

 

「オラリオの東区画にあるノームの貸金庫の鍵です…」

 

「保管庫のことか?…だが、あんなちいせぇ場所に何を入れられる?」

 

「…ノームの宝石に換金してしまってあります」

 

「なるほどな」

 

 

貸金庫は狭いが、ノームの宝石に換金しておけば場所はとらない。

貴重な鉱石であるそれらは、ヘファイストスとまではいわないが信頼にあたるものであり、上手にやれば買った金額よりも高値で売れるときもあった。

 

…カヌゥは受け取った鍵をしげしげと眺め、自らのポケットにしまう。

それだけでかなりの喪失感だが、宝石はまだ盗まれても良い。

 

問題は――

 

 

「…あ、あのカヌゥさん…!」

 

「ん?」

 

「…その中に一つ篭手が入っているんですが、それだけは……その、親の形見なんです!お願いです、どうかそれだけは…!たいしたお金にはなりませんから…!!」

 

「おう…」

 

 

――その貸金庫にはあの『グローブ』も入っているということ。

 

普通の人が見ればただの篭手にしか見えないそれは、換金することは出来ず強引に押し込んだ。

 

…最悪あれさえあれば、ソーマから逃れる事が出来る。

今日の豪商との商談には間に合わないかもしれないが、それでも…あれさえあるならば。

 

 

――だから絶対に、あれだけはカヌゥに奪われてはならない。

 

 

「つってもなぁ…」

 

 

興味なさげに首をかしげるカヌゥを必死な思いで見つめる。

あれはよほど詳しく見なければ高価なものだとは解らないし、ただの篭手のようにしか見えない。

 

咄嗟についた形見という嘘は、金に目のくらんだカヌゥに効果が薄いかもしれないが――ようするに、金にならないと思わせればいいのだ。

 

あご髭を撫でたカヌゥはいかに金が稼げるかを、冷静に計算しているように見える。

しかし…カヌゥは、ふっと残念そうな顔で首を振ると、明らかな失望を顔に表す。

 

 

――その顔が、リリには一番恐ろしかった。

 

 

「アーデ、状況解ってんのか?周りを見て見ろよ。かなりヤバイ状態だぜ?――そんなこと、()()()()()()()

 

「…!」

 

 

周りはもはや一面見渡すほどのキラーアント、それをカヌゥの仲間の二人が何とか押しとどめていた。

 

…もはやこの状況では、私はおろかカヌゥ達も逃げる事はできない。

そういう意味でカヌゥはまだ辛うじて理性が残っていた、グローブの話などしている場合ではなかった。

 

呆れたように尋ねたカヌゥは、それでいてこの状況にありながら自分の死に絶望している様子はない。

そして…下卑た笑みで軽く声を漏らすと、私を両手で()()()

 

 

「なっ、カヌゥさん何をッ!?」

 

「だからよ、囮やってくんねぇかアーデ?俺たちはお前があれの相手をしているうちにあの通路から逃げる、時間さえ稼いでくれれば俺達でも蹴散らせるだろうぜ」

 

「あ…や…」

 

「それにアーデ、危なかったら()()()()()()()んだぜ?…まぁ逃げれるわけねぇだろうがな!グハハハハハハハハハ!」

 

 

――奇しくも、同じ言葉。

 

最後に笑いながら、投げつけられたリリの身体はいとも容易く宙を舞う。

笑いながら去っていくカヌゥとその仲間達の声を聞きながら、小さすぎる身体は浮遊感を得た。

 

 

 

…世界が、回転しながら目に入る。

 

 

 

一面のアリ、アリ、アリ。

 

死をその牙に、爪に、全てに宿したキラーアント達は、ガチガチと牙を鳴らしながら宙を舞う獲物(少女)の到来を待っていた。

 

それは、望まれている…()()()()には望まれないのに、死に私は激しく渇望されている。

輪のように私を囲み、地面から見上げてくるキラーアントと、巻き上がるような死の気配が地面から手を伸ばしていた。

 

 

 

…それに捕まえられてしまったら――

 

 

 

 

「…あっ……!?」

 

 

 

 

――気づいたときには、地面がこんなにも近く。

 

 

 

僅かばかりの痛みと、『ドサリ』と地面にぶつかった衝撃。

背中から走った鈍い痛みにリリは、どうしようもない強張りと全てが終わってしまった虚無感が伝わるのを感じた。

 

 

そして――真の意味で、力が抜ける。

 

 

とっくに動かなくなっていた腕が垂れた、そういう訳じゃない。

拭うことも無い血が頭から無造作に地面に暖かくも零れた、だから絶望したわけでもない。

 

 

「あぁもう死ぬのなら」幾つもの死に囲まれたこの状況で、私は――生きなくてもいいんだ。

 

 

(…)

 

 

ごろりと転がり、仰向けになる。

見えたのはダンジョンの天井、聞こえるのはガチガチという音とギィギィという鳴き声。

視界の端にはキラーアントの赤い脚が僅かに動き、早くその足を動かたしそうに疼かせていた。

 

…絶望的な状況がそこにはあって、私はそれを余すところなく受け止める。

 

そして、そんな世界を見て――

 

 

――こんなところで、こんな世界で私が生きる必要は無いと思ってしまった。

 

 

何を必死に生きようとしていたのだろう。

何を私は必死に執着していたのだろう。

 

こんなに辛くて、こんなに苦しくても救われない「生」ならば、いらない。

存在するだけで疎まれ、見たくもない現実を見るならば死んでしまいたい。

 

今ここで死んでしまえば、生きなければもう楽に、苦しまずに。

 

 

 

――それにもう見る必要も無い、やけに安らか気持ちで私は瞳を閉じて、呟く。

 

 

 

「…もう、逃げなくてもいいんだ…」

 

 

 

 

呟いたら何だか…穏やかになって、悲しくなった。

 

それに今私がここで死ぬのもきっと「天罰」なのだろう。

これは今までしてきたことの神様からの制裁なのだろう。

 

こんな苦しい状況でも、悲しい状況でも、与えられる「死」は等しい。

 

 

 

…それに、目を閉じれば何も見えなくなって、もう何をしなくてもいいから――

 

 

 

「――違う…ッ!」

 

 

瞼の裏に、少年の笑顔を見た。

その笑みは明るくて、私が何をしても変わらず、いつものような常に笑顔だった。

 

それはまるで――何をしても感謝されるような、「存在するだけ」で愛されるような。

…死んでしまっていいなんて、そんなことないとと否定するような。

 

 

――優しかった、知らなかった。

 

 

今までに出会ったことも無かったその笑みは最初理解できなくて、疎んで…「切り捨ててしまった」。

 

…しかし今となって気が付く、あれは…本当に私の事を想ってくれていた。

 

激しい後悔が身体を冷たくし、それでも…知らなかったと言い訳を、心の中で叫ぶ。

何故そんな優しさを私に向ける?理由が無い、ただ知り合っただけの私にあんな優しさを向けたのか?

思えば最初から、あの時ゲドに襲われた時から…何故助けたのか?

 

 

「ベル様ッ…何故なんですか!?」

 

 

思わず目を開き、空に尋ねた。

余りに単純な事さえも知ることの無かった少女は、何故だか止まらない涙を流し、全てを、存在理由を知りたかった。

 

 

…あの少年に会いたいと願い、私は、私は――

 

 

 

 

「あ…」

 

 

 

 

――私は、キラーアントのかぎ爪を見た。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

遠く、腹部を裂かれた少女がいる。

 

無数のキラーアントに群がられたその少女は、ゆっくりと赤い血だまりを身に纏い、小さなその身体を横たえていた。

そしてアリのガチガチとなる牙、鋭い爪が振り下ろされる度、びくりと手足が短く痙攣しているのが見えた。

辺りには血煙が立ち上り、それを嗅いで喜ぶかのように周囲を囲んだキラーアント達がギィギィと鳴いて――

 

 

――胸焼けするような彼女の血の臭いに、俺は今ひとたび一歩を踏み出した。

 

 

『ギィ?…ギィッ!!』

 

 

ルームに入ってきた新たな冒険者(人間)に、最後尾にいたキラーアント達は気が付くと、振り返って鳴き声を上げる。

しかし――「遅れた」俺に、その相手をしている暇は無かった。

 

 

「…邪魔だ」

 

 

()()()()は充分、羽のように軽い身体で俺は見渡す限りのキラーアントの群れに走り始める。

 

そして――噛みつこうとしたキラーアントを純粋な速度だけで振り切ると、跳んだ。

 

 

「…!」

 

 

ルーム中に満ちたキラーアント。

思ったよりも高く跳んだ俺はその全体を見る。

 

…まるで、アリの巣だ。蠢くキラーアント達を空中から見下ろし、徐々に落下していきながら俺は――「1番」アリが群がっている場所を見定める。

 

 

「…ふんッ!」

 

 

緩やかに地面へ近づくと、着地がてら群がっていた二匹の頭を踏みつける。

『ぺしゃり』と卵の殻が割れたような音が鳴りその小さな頭が足の下で潰れる。

そして衝撃を残さないように踏みにじると、そのままの動きで他に群がっていたキラーアント達を蹴り飛ばす。

 

 

「ギィッ!?」

 

「ギィギィッ!!?」

 

 

突然の闖入者に驚いたのかキラーアント達は数歩後退する。

それは仲間の二匹がいとも容易く踏みつぶされたからだろうか、少なくとも周囲を覆うようにしていたキラーアントの中にほんの少しだけ空間が生まれた。

 

俺はそんな蟻たちの視線を一心に受けながら、特に慌てもせずに普段のように立つ。

 

 

そして――見下ろした。

 

 

「…あー」

 

 

解ってはいたが、破損が酷い。

 

全身は打ち付けられたように青あざを作っており、無数の切り傷、特に腹部に大きく穴が空いて、その「中身ごと」食い荒らされていた。

加えて辺りには幾つか肉片が散らばり、中身もいくつか外に出てしまっていて、その全てを濡らすような出血で辺りはもう海のようだし、全身の皮膚は土くれだったように色を失っていた。

 

 

「はぁ…」

 

 

俺は「それ」の脇にしゃがみ込むと、その顔を確認する。

 

そして次に胸に手を当てると――「それ」が動いていない事を確認した。

 

 

「あー?めんどくせぇなぁ…」

 

 

死んでいる、足元に転がった「物」に俺はため息を大きく吐くと、地面に散らばっていた「内臓」の一つを掴む。

 

ぬるぬるとした感触と柔らかい肉で出来たそれを俺は潰さないように持ち上げると、少女の切り裂かれた赤い腹部の中に放り込む。

そして同じように落ちていた幾つかの腸のような内臓や、血液の上に揺蕩っていた細かな肉片を全て摘まむと投げ入れていく。

 

(もし、まだ《大丈夫》なら…)

 

死体の肉を漁っても意味が無い、そんなことで「死人」は生き返らない。

 

…そんなこと百も承知なリョナはコートの胸の中に入れていたポーションを3本ばかり取り出す。

そして全ての口を開けると――その中身を少女の開いた腹部に注ぎ、かけた。

 

 

「…!」

 

 

目まぐるしい変化、というわけでは無かった。

しかし…ポーションのかかった場所は目で解る程度に徐々と「埋まって」いく。

肉が僅かに回復し、その上に皮膚が覆いかぶさるように作られていっていた。

 

それは大きく広がっていくと…やがて、腹の傷は全て修復される。

内部がどうかは知らないが、少なくとも外見は無傷に見える状態に回復した。

 

 

…しかし――「死んでいる」。

 

 

「チッ…」

 

 

舌打ちをして、リリの顔を見る。

 

相変わらずその顔には生気は無く、皮膚は土くれだって血が通っていない。

そして…胸の中のその心臓はピクリとも「動いていなかった」。

 

 

「…まだだ」

 

 

右腕コートの腕をまくると手首を出す。

露出した手首を左手で掴み、そこに流れる自分の拍を測るとそのタイミングを記憶し、リリの心臓がある上部に乗せた。

 

 

そして――ワンプッシュ。

 

 

自らの鼓動に合わせ、胸を強く押す。

タイミングよく、自分の脈に合わせ、こぎみいいリズムで2度3度と続けて、その止まった心臓から全身に血液を送り出すように押し続けた。

 

…血が「死んでいるならば」、もう手遅れだ。

しかし…「生きているならば」――

 

 

「――…ッ…カハッ…ッ!」

 

「!」

 

 

…少女が、せき込む。

 

頭が僅かに地面から浮き、詰まっていた血液が喉のせき込みに合わせてぴしゃりと吐き出された。

全身に回った血液がその肌の色を暖かくしていき、みるみるうちに血色が良くなっていた。

 

つまり…痛みによるショックで心臓が止まっただけだったのだ。

腹部以外に致命傷は無く、そこさえ塞いでしまえればあとは「完全に死んでしまわないかぎり」血液循環を促せば、また「生き返る」。

 

 

そして――やがて、力なく瞼が開かれた。

 

 

「…やっと起きたか」

 

「…ぁ…」

 

 

まだ霞んでいるのか、声をかけても反応が薄い。

それにポーションによる急速回復の疲労のせいで眼球を動かすのも大変だろう。

 

…荒く息をつき、滝のように汗を流しながらリリは視線を声がしたこちらに動かした。

 

そして――はっきりとこちらを見据え、口を慣らすかのように幾度か動かした後――

 

 

 

 

「…殺して、ください……」

 

 

 

 

――呟いた。

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

 

「…は、何で俺がお前を殺さなきゃいけない?」

 

「…お願い…します……私は…ぐっ…もう…」

 

 

願い、嘆願する。

しかし、しゃがみ込んでこちらを見下ろしてくる(リョナ)は表情を変えず、ただ単純に首を振った。

 

 

「言っておくが、今のお前には()()()()()()()

 

「…私には…もう、()()()()()()()()んです…だから…」

 

 

精一杯に、絞り出すように声を出す。

呆れたように見てくるリョナに、リリは必死の思いで見つめ返す。

 

しかしリョナはため息をつき、目を閉じながら話にならないとばかりに首を振った。

…そして私の顔を覗き込むと、イラついた表情で問いかけてくる。

 

 

「というか、どうでもいい。お前喋れんなら一つだけ教えろ」

 

「…」

 

「お前俺の()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「…!」

 

 

問いかけに、一瞬で頭が冴えた。

 

その質問の意味はつまり――リョナは「私がぎゅるぎゅる丸を盗んだ」と解っている、ということ。

何故気が付かれた、いつ気が付かれた、そんな素振りはなく、何故このタイミングで。

 

質問に舌の根が痙攣する思いでリリは、口を開けたり、閉じたりを繰り返す。

そして…驚きのまま、足らぬ舌で、まるで子供のように問いかけた。

 

 

「…な、ぜ…?」

 

「……もしかして何で俺が気がついたか…ってのを聞きたいのか?」

 

 

やれやれとリョナは首を振る。

そしてまるで思いだすかのように、僅かばかりに遠い目をすると口を開いた。

 

…リョナは鼻を掻き、初めて「苦々しく」笑う。

 

 

「…まぁ、最初はまっったく気がつかなかった。というかダンジョンに落としたっていう考えに凝り固まってた」

 

「…」

 

 

――不意に、リョナは立ち上がる。

 

そしておもむろに剣を抜くと、近づき襲ってきたキラーアントの一匹に斬りつけた。

切り飛ばされたキラーアントは容易く身体が裂けて、二つに別れて地面に紫色の血液をまき散らしながら転がる。

 

 

「それから色々あって、冷静になれて…あぁ、クソッ。単純なことで、馬鹿みたいに簡単なことなんだ、前置きなんていらねぇ」

 

 

襲い来る無数のキラーアントを斬りつけながらリョナは、イラつきながら回答を出す。

…そして隙を見て振り返り、紫色の血の付いた剣を私に向けた。

 

 

――その目には、殺意と冷静さ、そして――

 

 

「お前『犬人(シアンスロープ)』じゃねぇだろ?」

 

「…あ…!」

 

 

思えば殴られたせいで変身(シンダーエラ)は解けてしまっている。

私の頭には既にシアンスロープ特有の犬耳が無くなってしまっていた。

 

しかし…そういう事ではない、変装が解ける以前にリョナは「気が付いていた」はずなのだ。

 

一瞬驚きつつリリは視線を見上げ直す。

 

何か数えるように自らの指を折るリョナは振りかると…馬鹿にするように、嗤った。

 

 

「何で気が付いたって顔してるが、お前()()()?本当に鼻の利く奴だったら自分の臭いが()()()()だったら耐えられない」

 

「…」

 

 

自分の鼻を掻きながら、リョナは笑う。

 

しかし私の鼻では「自分の臭い」など解らない。

 

 

「そっからは順序立てて、いろいろ考えてったらお前だって解った。…なんて、大層なこと言ってるが冷静にお前ら二人を見てみれば一目瞭然だったな」

 

「そう…ですか」

 

 

未だキラーアントと戦うリョナの姿に目を見開いた。

まさかそんなことで、まさか変装のせいで怪しいと思われるなんてそんなこと思いもしなかった。

 

…そう解ると何だか、笑えてきた。

 

 

「…何笑ってんだお前…で?ぎゅるぎゅる丸はどこだ?」

 

 

自然と笑っていたらしい、リョナに言われて初めて気が付いた私は先ほどの事を思い出し、惨めで悔しくて、悲しくなった。

そして…その質問に、目を伏せた。

 

 

「その…さっき鍵を…」

 

「奪われたって感じか、なら――よし、臭いは残ってんな」

 

「…」

 

 

鼻を鳴らしたリョナは初めて「安堵した」ように肩を落とした。

 

しかし…もはやこの状況ではリョナも助からないだろう。

周囲にはキラーアントが溢れ、助けは無く、二人しかいない。

 

…では、何故こんなところに来たのだろう?

…まさか、たったそれだけの事を訊くためだけに?

 

 

「う…!」

 

 

立ち上がろうとする。

しかし疲労で指はピクリとも動かず、筋肉の一本一本が凍り付いたかのように痛んだ。

 

声を漏らし、汗を流した私にリョナは振り返ると呆れたように見下ろしてきた。

…やはり状況は変わらない、それに「盗まれた側」であるリョナがいるというのは更に状況が悪くなったという見方が出来る。

 

 

――しかし、私はどうせ死ぬ。そう考えたら変わらない。

むしろ…「天罰」というのであれば、物を盗まれ私を恨むリョナが殺すというのであれば「妥当」と言えた。

 

 

「あ…リョナ…様」

 

「あ?」

 

「私は…」

 

 

見上げ、何とか考える。

言葉を紡ぐと、波のように寄ってくる吐き気を抑えながら語り掛ける。

 

キラーアントの声を聞きながら私は何だか悲しくて穏やかで…それでいて「慌てていた」。

 

 

「私は……ベル様から…」

 

「…」

 

「いえ、それだけじゃなくて…私は、今までたくさんの人から物を盗んで…だからこれは…天罰、なんです…」

 

 

時折向かってくるキラーアントと渡り合っているせいでリョナはこちらを見ていない。

しかし…もはやこれは独白に近い、熱病に侵されたように「自分の罪」を吐くリリにはもはや相手が聞いていなくても構わなかった。

 

 

「…それに、ベル様を私は…」

 

 

オーク4体に囲まれたベルの姿を思い出す。

それに…4体だけじゃない、ここほどではないがベルの実力ではきっと…死んでしまっている。

 

――向けられた優しさを、仇で返した。

 

無い話じゃなかった、この世界には優しさなんて無いと思っていたから仇で返しても良いと思っていた。

しかし…あった、あの少年だけは優しさを持っていた。

だというのに、知らなかったから、知らなかったから…!

 

 

 

「私は…殺して…()()()()()()()()()()…っ!!」

 

 

 

言葉にすると、深い後悔が涙を流した。

 

知らなかった、そんなことではすまない。

どちらも死ぬのだからもう謝ることも出来ず、謝っていいのかすら解らない。

 

 

えずきながらリリは…残った力を振り絞り、泣きながら――叫んでいた。

 

 

 

「そうじゃなくても…私は…逃げることもできない愚図で、弱くて…もう何もする資格すらないからっ…!死んで、天罰を受けて許されるしかないからっ……!!」

 

「――よっしゃぁ!カウント()()()到達っとぉッ!!」

 

 

 

目を見開き、眼球を僅かに動かしてリョナの姿を見る。

 

――笑っていた。

直剣をキラーアントの腹部に突き刺し、紫色の鮮血をその傷口から噴き出させながら蹴りつけ直剣から抜いていた。

 

…暫く見えていなかったうちにその身体はだいぶ汚れていた。

返り血、それと牙によってつけられた噛み傷や、爪によってできた切り傷が至る所にあり、地面を転がったせいかジーンズは土で茶色に染まっていた。

 

 

(999…?)

 

 

それが何を意味するかは解らない。

しかし…思えば、この人も私のせいで死んでしまうのではないだろうか。

そう考えると、申し訳なくて、胸が締め付けられるような思いだった。

 

 

「あ…の…」

 

「――ふー、初めてこんなところまで来たが…で、何だっけ。殺してくれだっけ?」

 

 

ごめんなさい、そう自然に言おうとしていた。

しかし…くるりと振り返り、剣を肩にかけながらスタスタと歩んできたリョナの顔を見ると何だか言葉に詰まってしまった。

 

…しゃがみ、私の顔にかかった髪を少し払ったリョナは私の顔を観察してくる。

 

 

そして――心底嫌そうな顔で諦めたように、ため息を吐き気怠そうに口を開いた。

 

 

「…まぁ、なんつーか俺はお前の事情は全く知らん。だが、俺のぎゅるぎゅる丸を盗んだ時点で死刑確定、俺の全力をもってできるだけ苦しむように殺してやるつもりだった」

 

「なら…」

 

「だが――」

 

 

恨まれて、然るべき。

しかしリョナは首を振る、そして頭を掻くと首を軽く振った。

 

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「…え…?」

 

「ったくあの少年は…俺に余裕が無いってのにいきなり約束で縛りやがって…まぁそのおかげで冷静になれたんだが…」

 

 

 

 

 

 

――「三日前」の事だ。

 

 

 

 

 

 

余裕の無かった俺に、少年はずるいくらいに優しく笑う。

 

 

 

「――だから、僕がいない合間はリョナさんがリリの事を守ってくれませんか?」

 

「…それは…もし、お前が何か面倒に巻き込まれてもか?」

 

「はい、僕はどうなってもいいですから」

 

「…!」

 

 

一瞬、何を言っているか解らなかった。

狼狽した俺は目の前でなおも笑うベルに、目を見開いて詰め寄っていた。

 

 

「な、何でだ!?それはおかしいだろベル君、お前は…何で他人にそこまで!!?」

 

「え、何で、ですか!?そ、それは――お、女の子だから?」

 

「はぁ!?」

 

 

聞いてみたが、更に困惑した。

…もしかするとこの少年とんでもない馬鹿なのかもしれない、そう思ってしまうぐらいには。

 

 

――しかし、呆れた故に落ち着きが戻ってくるのを感じた。

 

 

そして気が付いた。

どっちが馬鹿だ、「人に優しくする」方が本来()()()()なのだ。

現世、異世界関わらず人が人としての当たり前を、持ち合わせていないから時に人は勘違いするだけなのだと。

 

…気が付かされた俺は、そうですよね…と笑う少年の顔を驚きと共に見つめる。

 

 

――大きく、頷いた。笑って、頷くしかなかった。

 

 

「…解った、ベル君のお願いだ。例えベル君が死んだとしても俺はあのリリを守ろう」

 

「いや何もそこまでは――」

 

 

 

――そうして、二人で笑いあって…「約束」したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「だから俺は――お前を『守り』に来た」

 

「…ッ…ぁ…!」

 

 

――そんなやりとりがあったのか。

 

リリはとめどなく溢れてくる涙を拭うことも出来ず、ただ嗚咽を漏らす。

 

あの少年は…本当に…優しくて、だからこそ私は許されなくて。

 

 

「ああああ…あぁぁ…ふ…ぁぁ…!」

 

 

ただ、泣く。

その優しさが悲しくて、謝る事ができないのが悔しくて、弱い自分が恨めしい。

喉が鳴って、熱い雫が頬を垂れ、私は――

 

 

「ああ…私はッ…わたしをっ…殺してくださいっ…私は、ベル様に謝ることさえできないっ…!死ななきゃいけないんですっ…!」

 

 

――許しを懇願した。

 

思い出すように笑っていたリョナに私の嘆願を聞くと、「優しい笑み」を浮かべる。

その微笑みは…どこか、ベルの暖かさを、真似たような。

 

 

「だから、殺せねぇんだって。…てかお前謝る事が()()()()っつったが、何でだ?」

 

「…それは…」

 

 

子に語り掛けるように、リョナは疑問を問いかける。

リリは濡れた瞼を細めると、とめどない涙に視界を霞ませながら「ずっと思っていたこと」をただ叫ぶ。

 

 

「…私が、弱いからっ…弱いと何もできないからっっ…!!」

 

「…」

 

 

言い訳のように、答えた私にリョナは苦笑を浮かべる。

そして少し真剣な表情になると――「頷いた」。

 

 

 

「あぁ、確かにお前は弱い」

 

「っ!……は…い…」

 

 

 

リリは少し顔を暗くする。

それは事実だった、しかし…悲しい事実だ。今までずっと苛んできた現実だった。

 

 

だから…リリはリリが嫌いだった、弱いから――「仕方が無かった」。

 

 

 

「だけどそれが関係あるか?()()()()()()だろ?」

 

「…えっ…?」

 

「あー…何つーか、弱くてもいいんだ。確かに世の中理不尽な事で溢れてて、強者が弱者を虐げることは多い。だけどそこで諦めたら終わりっつーか…」

 

 

 

しかし――いとも容易く、打ち砕く。

 

目を見開き、リョナの困惑したような顔を見やった。

それは…言われたことの無い言葉。

 

『弱くても良い』何て、聞いたことも考えたことも無い。

知らない言葉、知らない概念、全くの新世界を見たかのような気がして私は、ただその言葉を呆けたように聞くしかなかった。

 

見下ろし悩んでいるように見えたリョナは何か決めたように目を見開くと、真剣な顔で見つめ返して…一個一個、踏みしめるように言い放つ。

 

 

 

「――だから!お前は、謝ってもいい!会ってもいい!逃げてもいい!立ち向かってもいい!弱くたっていいし、言い訳したっていい!それから――」

 

 

 

その言葉に、嗚咽さえ漏れないのに涙だけが零れていた。

 

その一言一言に救われる、ずっと募らせていた思いが解けていく。

 

その『肯定』を、私は知らなくて、今まで出会ったことも無くて。

 

 

 

 

「――お前は今()()()()()()()()()()()()()!弱くても、自分のしたい事をしてもいいんだ、解ったか!!!?」

 

 

 

 

…声にならない声が漏れた。

 

理屈は解らない、理由も解らない。

だが今肯定されることがこんなにも心地よくて、泣きそうで、今までの悪い事全てが無くなったようで。

 

(何だ…私は――死ななくてもいいんだ)

 

いとも容易く、私は救われる。

 

否定されてきた、世界から否定されていると思って、自分で自分を否定していた。

今まで肯定などされたことが無かった、だけど肯定されて…たったそれだけと思っていたことがこんなにも「暖かい」。

 

肯定してくれる人がいる、きっとベルも今までずっと存在を肯定してくれていたのだろう。

それを否定したのは…きっと許されないことだ。

 

 

だけど――

 

会っていいのなら、謝ってもいい。

 

謝っていいのなら、許されてもいい。

 

許されていいのなら、生きてもいい。

 

――存在(じぶん)を、肯定できたなら。

 

 

「あ…」

 

「あ?」

 

「…あ、ありがとう…ございます…!」

 

 

泣きながら、感謝の言葉を述べた。

何とか笑おうとしたが、ぐしゃぐしゃに崩れた顔では上手く笑えているかは解らなかった。

 

感謝の言葉を受けたリョナは驚いたように目を見開いて、笑って、頷いたのだった。

 

 

 

…しかし――状況は変わらない。

 

 

 

「です…が…この状況…は…!?」

 

「あー…」

 

 

 

ルームは変わらずキラーアントに満ちている。

この部屋において二人だけの生者である二人を取り囲むようにキラーアント達はガチガチと牙を鳴らし、爪を地面に引っ掛けていた。

 

生きてもいい、しかし――生きれない。

 

状況は「必死」、肯定しなければ少女は生きれなかったが、このままでは二人とも殺されてしまう。

 

 

「…結局、この状況は罰当たりなリリが招いた天罰なんじゃ…」

 

「はっ…かもな、だが生憎とこっちには()()()()()()()がある」

 

 

リリは本当の意味で、焦る。生への執着を抱き、産まれて初めて死にたくないと思った。

それに…私だけじゃない、このままでは自分の天罰に関係のないリョナまで巻き込んでしまう…それは何だか嫌だった。

 

しかし――リョナは立ち上がると、笑い飛ばす。

 

この人は何で笑っていられるんだろう?

いくら強いと言ってもレベル1、足手まといなリリを守りながら孤軍奮闘で生き残れるわけがない。

逃げることも出来ず、殺されるのを待つしかないこの状況で笑う事なんてとてもじゃないが出来なかった。

 

 

「それにな、天罰っていうなら――」

 

 

振り返り、リョナは背を向ける。

呟くようにリリへの言葉を空に吐くと、アリたちの巣くう方に数歩大きく歩む。

 

そして…呆けたようにゆらりと視線を伏せたリリへと戻した。

 

 

――見上げた、その瞳は。

 

 

 

 

 

「――俺がその天罰ごと()()()()()()()

 

 

 

 

 

何を、と尋ねる間もなくリョナが剣を構える。

 

しかし――見たことの無い構え。

 

左手で自らの直剣の根元を掴み耳元へ、まるでそれはヴァイオリンを奏でるかのように。

コートが揺れ、その向こう側では幾千ものキラーアント達がギィギィと鳴いて、まるで「それ」が始まるのを心待ちにするかのように、その目を輝かせていた。

 

黒いコートを纏ったその広い背中、土で汚れた黒い群青のジーンズ。

高い身長に、広い肩幅、そして…その身体には、確かに「神を殺しえる可能性」が流れていた。

 

 

 

――左手から剣を、引き抜く。

 

 

 

…その刃に撫ぜられた左手から血が迸った。

 

真横一文字、掌に赤く深く溝が出来た。

空中に新鮮な血液がまき散らされ、まるで噴水のように噴き出た。

濃い赤が無に溶け、ぼたりぼたりと地面に落ちた。

ルーム中に鼻を衝くような血の臭いが巻き上がり、それに喜ぶかのようにキラーアント達もギィギィと鳴いた。

 

 

…突然の自傷行為は、リリからも見えていた。

 

 

赤く、強く切り裂かれた掌から鮮血がまき散らされ、切り裂いた剣は最大円を抱きながら弧を描いていた。

理解出来ない行動、しかし…その噴き出た鮮血と輝いた刃は、光景はどこか美しかった。

 

その左手に注視する。

切り裂かれた肉、まき散らされた血液。

振り抜かれた剣についた紅は僅かに撥ねて、空中を舞っていた。

 

…やけにそれがゆっくりと見えた。

 

剣が弧を描いている。

腕が振り下ろされていき、剣先が「蒼く」――

 

 

 

――剣が、地面を打った。

 

 

 

『ガキィィン』と、鈍い金属音が不快音をまき散らす。

それは空間ごと揺らし…打っているように思えた。

 

鼓膜が揺れ、まるで魂が震えるような、背中が熱くなるような「不安」。

 

それは――「眷属」だから持ち合わせる、()()()()()()()()()()()()()()という恐怖。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――青い爆炎が、左手から噴き出した。

 

――巻き上がるコート、空中で蒸発する赤血、とてつもない量の熱量が、「白痴蒼炎(はくちそうえん)」が立ち昇る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空間(ルーム)が青く、白く照らされた。

 

目を開けていられない程の熱風に目を閉じていたリリは、僅かに目を開け焦げるような空気の中で「青い火柱」がそびえたっているのが見えた。

 

 

 

――「綺麗」だった。

 

 

 

激しく踊る青い炎、時に白く交わり、縁取るように蒼炎が暴れる。

空気を焼き、ダンジョンを焼き、その炎に怯えるようにキラーアント達は数歩後退した。

核となる蒼い炎は色濃く、外につれて薄まって、時折稲妻のように白炎が走りいつしか泡沫(うたかた)のように溶け消える。

 

 

そして――そこは先ほどまでリョナが立っていた場所だった。

 

 

「いったい…何が…?」

 

 

渦巻く炎を眺めながらリリはただただ困惑し、リョナの姿を探す。

しかし…目に入るのは青くて、白い炎ばかりで黒いコートなどどこにもない。

 

 

――火柱を見る。

 

 

蒼く、白い。

美しく、激しい。

 

それは神を殺す炎、それは子供の抱いた愚かな幻想の末路。

 

 

見やれば白痴蒼炎の中、影が1つ「ゆらり」と揺らめいて――

 

 

吹き上がる蒼い炎、渦巻く白い篝火。

 

その一切合切を切り裂き、その火柱を塵芥とふき飛ばして、余りに大きすぎる巨剣(見たことも無い剣)が火炎ごと真っ二つに裂き、振り抜く。

 

そして「人影」、二つに薙いだ炎の中に何も無い空間が産まれ…更に濃く、蒼くて白い鬼炎(おにび)が沸き上がる。

 

熱風によってはためいた髪が耳元で鳴り、どこかから()()()()()()()()()()()()()音を聞いた気がした。

 

 

――全身を鉄で打ち、狼を象った鉄兜(フルヘルム)全身装甲(プレートアーマー)を身にまとう『騎士』が現れたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

――これは?

 

蒼い炎が視界を覆った、白い(ほむら)が全身を焼いた。

痛い、肉が焼け爛れ、脳髄が焦熱で沸騰する音を聞いた。

あらゆるもの、自分を構成するもの全てを蒼い炎が侵食し、まるでそれはとってかわられるような気持ち悪さを覚えながら、やがて微睡むように意識さえも燃え解けていった。

 

 

…全身の痛みに俺は、身体が溶けるように錯覚しながら倒れこみ、その場に丸くなる。

 

 

全身を包みこんだ蒼い炎は、伏した俺を激しく燃やしてまるで染み込むかのように内側に逆巻いた。

 

 

――。

 

 

肉体が溶けていく、意識が溶けていく。

自分を構成するあらゆるものが蒼と白に変色し、焼け消えて萎んでいくのが手にとるように解った。

やけに眠くて、解けてバラバラになった意識では何も考えることが出来ず、思考が成り立たない。

 

…そして、ふいに「意識」にすら蒼と白が混ざった。

 

それはまるで周囲から俺の精神の中心に向かって根を張るように、黒色に蒼と白を垂らして侵食するかのような。

俺の意識に、精神の中に「何か別の物」が入ってくる感覚に俺は気づかない。

 

 

もはや俺は…「俺」ではなくなっていた。

 

 

――あ…れ…?

 

 

気が付けば、炎が晴れていた。

身体を焼いていた炎は消え、痛みすら残っていない。

溶けて霧散したはずの意識の穴を埋めた「何か別の物」に思考が走り…目が開いた。

 

 

――ここ…は…どこ…だ……?

 

 

知らない場所、知らない壁。

 

どこかに寝かされているのだろうか、緩やかに灯されたロウソクが枕元に立ち、ベージュ色のベッドは柔らかくて、同じ色をした掛け布団は暖かかった。

視界一杯にそびえたつ壁面は土で作られ、立ったロウソクが暖かく光臨を作り上げて、どこかから漂ってくる干し草の臭いが鼻を衝く。

 

…何だか、それは懐かしい場所だった。

 

やけに落ち着く、壁もこのベッドも匂いも空気も涙が出る程懐かしい。

身体が勝手に動く、まるで求めるかのように掛け布団を払いのけ手を出すと、土づくりの壁に手を伸ばして掌で触れた。

 

 

――…あれ、これは…いったい…?

 

 

ザラザラとした感触が掌を伝う、しかし…その感触は余りに「狭い」。

というのも見れば…「細い」、「小さくて」「狭い」。

 

 

 

 

 

それは――『()()()()』だった。

 

 

 

 

 

白く、綺麗な肌をした小さな子供の腕が俺の視界の中伸びて土で出来た壁を撫でていた。

…触る度、撫でる度ザラザラとした感触が伝う、それはつまり…「自分のもの」だということ。

 

 

――あぁ…だけど、これが「僕」の腕か。

 

 

しかしそれが自分の腕だ、()()()()()()()()()()()

違和感を覚える気も無く僕は、掌をそのまま柔らかな手触りのするベッドにおろした。

余りにも小さなこの腕と、掌で掛け布団を掴むと小さく皺が寄るのが見えた。

 

 

 

「ん…う…」

 

「…!」

 

 

 

突然に――背中から、女性の声が淡く漏れる。

 

今までいるかどうかも解らなかったが、背後から気配がしており、柔らかな感触が確かにしていた。

これは…抱き着かれている?横になった身体には腕がかけられ、僅かな重みと理解不能なまでの安心感を覚える。

 

声に合わせ、もぞりと女性の身体が動いた。

 

背中から腕を回され、漏れた吐息がゆっくりと首筋にかかる。

良い匂いがして、柔らかなその身体は暖かく触れていた。

 

 

――あぁ…落ち着く。

 

 

深い充足感と微睡み。

暖かくて、安心して、あるべきところにいる感覚。

 

これは…「――(知らなかったもの)」?いや、あるいは「――(知らないもの)」なのだろうか。

何にせよ子供が抱かれるのは自然なことで、つまりこの「女の人」は――

 

 

「…ふ、ふふ」

 

 

軽やかに、ふわりとした笑い声が聞こえた。

幸せそうな喜色の満ちたその鮮やかな微笑みに、何だかこちらまで嬉しくなる。

 

それに…笑い声はこちらに向いていた。顔は見えずとも嬉しくなる、嬉しくなった。

抱きしめられ、微笑まれる。それだけで幸せで、心が躍るようだった。

 

 

しかし――不意に、その暖かさが離れる。

 

 

抱きしめられていた腕が解かれ、がさりと掛け布団が一部剥がれた。

背中に触れていた柔らかな暖かさが離れ、代わりに凍えるような肌寒さが背中を撫でる。

 

…突然の事態に驚き、思わず振り返ろうとした。

その暖かさが離れてしまうことが…とてつもなく恐ろしくて、寂しかった。

 

 

――あ…僕は…

 

 

細い腕で掛け布団を払った。

そして露わになる白くて、細い子供の身体。白い薄布一枚纏ったその肉体に違和感(いつも通り)と感じた僕は、寒くて思わず全身を強張らせる。

小さな身体を温めるように掌で撫でると、寝起きで重い瞼を幾度か瞬かせた。

 

…首だけ、振り返る。

 

 

――狭い部屋だった。

 

 

土で作られた狭い一部屋、煤で薄汚れた小さな机とその傍に置かれた火の付いていない竈、壁には小さな窓があるがこの身長では低すぎて外は見えなかった。

自分のいる木製のベッドの上には柔らかな藁が敷かれ、その上には白い雑布が二枚乗っており、それに挟み込まれるように横たえられていた。

枕元には小さな木箱があり、その上にはロウソクが立てられ部屋をぼんやりと照らしていた。

 

…狭くて、落ち着いて、居心地がいい、自分の家。

 

 

 

そして――「見渡す限りの()」。

 

 

 

形容、そこには深い青色をした髪が輝いていた。

そして次には残酷なまでの漆黒をして荒々しく揺れていた、次には空色を反射し穏やかに垂れていた、次には白く泡立ち吸い込むように巻き込んだ、虹色に輝き陽の光を反射してキラキラと輝いていた。

 

それは――全て海、瞬間的に変容し表情を変え続ける海色の髪。

 

吸い込まれるような藍が、蒼が、青が毛先を伝って撥ねていた。

輝き、纏い、全てを包み込んで揺れ、その神威を何の惜しみも無くまき散らす。

 

…地面にまで垂れ長く揺れるそれは遠く、胸のすかれるような思いを抱く。

時折自ずから波を描くように編みこまれていくその髪はきめ細やかで、毎秒毎に「色」を「形」を変えていっていた。

 

――美しいその後ろ姿に涙が伝う。

 

僕は()()()見たその姿にただただ感動していた。

熱を持った愛が溢れ、自分の存在がこのためにあったのだと確信した。

 

 

それを…「神」と言わずして、何とする。

 

 

自らの愛するもの、自らを捧げるもの、彼女のためなら死んでもいいし、永遠にその存在に抱かれ続けたいと切に願った。

 

()()()()()時既に抱いていたその愛情に胸が熱くなるようで、その姿に絶大の安心感を抱かざるを得ない。

 

そして――打たれた少年に、気が付いたその人(神様)は、ふと向かっていたこの部屋唯一の机から首だけ振り返ったのだった。

 

 

 

「――あ」

 

 

 

髪が揺らいだ。

振り返ったその薄く微笑んだ口元、微睡むような垂れた紅の瞳。

 

 

 

 

 

 

美しいその顔は正しく神様で、僕はそれを愛していて――

 

 

 

 

 

 

「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

――気がつくと、叫んでいた。

 

 

意識が黒く塗りつぶされていく、自分の思考がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、自分が自分は自分で自分じゃなくなっていた。

 

見渡し、枕元を見る。

 

たてられたロウソクの陰になった場所に鈍く輝く「鉄製のナイフ」があった。

 

 

―――待て、やめろ。

 

 

無我夢中でそのナイフを掴む。

ほんのりと温かい金属製の握りの、つるりとした感触を強く握りしめるとベッドから跳ね上がった。

 

 

――だめだ、それだけはダメだ!

 

 

目の前には髪を大きくたなびかせ、美しく姿勢を伸ばし首だけ振り返る女神。

微笑みかけ、海色の髪を纏い、紅色の瞳はまっすぐこちらを捉えていた。

 

柔らかな肌が見えた、穏やかな笑みが見えた。

それだけで幸せで、それだけが僕の存在理由で――

 

 

 

 

 

――だから、殺さなくてはならない(殺してはいけない)と、そう思った。

 

 

 

 

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ァッッ!!」

 

 

 

 

 

叫びながら床を踏む。

ナイフを構え、走ると神様への距離は一瞬だった。

 

 

そして――気持ちの悪い手の感触、一瞬何が起こったのか解らなかった。

 

 

()()()()

 

 

何か聞こえた気がしたが、僕に見えたのは『赤』だけ。

 

 

見れば…その背中にはナイフが深く突き刺さっていた。

 

 

染み出した紅が纏った純白の絹を濡らしていき、やけにはっきりとそれが色彩をなしていた。

肉を裂くその感触が生々しくて、恐ろしくて僕は何も考えれずに数歩後退する。しかし強く握ったナイフは掌から離れることは無く、そのままナイフを引き抜いた。

 

――『ドサリ』。

 

支えを失い、容易く女神の身体が落ちた。

その姿に熱が引く、突然の衝動はまるで最初から無かったように霧散していった。

 

身体が震えた、両手に掴んだナイフ…その先に見下ろす。

 

 

…そこにあったのは――「死」。

 

 

口元から垂れる一筋の血。

熱の失われていく瞳。

弛緩した全身から色が失われていき、その海色をした神は急速に死んでいた。

 

 

「――あ…あ゛あ、何で僕が…俺が…」

 

 

何故?――自然と声が漏れていた。

その声は自分の声であったが少年の声と本来の俺の声が混じり、どこか飛び飛びで…悲しみに満ちていた。

 

複数の「人格」が混濁した頭に統一された疑問が一つ浮かび上がった。

 

 

――何が生きてもいい、だ。

 

――それだけはしてはいけない、何があったって許されない。

 

――許せなくて、何より自分が許さない。

 

――ありえない、許容できない、そんなことがあってはならない。何より自分は僕は私は俺は()()()彼女の事を――

 

 

 

「俺がッ…僕がぁッ…貴方をぉッ……なんでぇッ…」

 

 

 

殺す必要が無い。

殺したくない、何故殺さなくてはならない。

 

――なのに、自分は殺していた。

 

肉を裂いた感触が忘れられない、最期に見た彼女の微笑みが頭から離れない。

足元で横たわった熱の失われていく彼女の身体は、いとも容易く死を告げる。

 

疑問が噴き出た、感情が脳髄を貫いた。

吐き気のするような「憎悪」をそのまま言霊にして、吐き出していた。

 

 

それは彼女の事を愛していたから。愛していた彼女が――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――なんでッ……僕がぁッ…『お母さん(かみさま)』を殺さなくちゃいけないんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァァッッ!!!!!!!!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空虚な、引きちぎれるような叫びに従い蒼き炎が沸き上がる。

 

自分を中心に巻き上がった炎は(ごう)と焼き払うと、この狭い部屋にあるもの全てを蒼く染めた。

机も、ベッドも、壁も、天井も、母さん(かみさま)も、全てを焼いて、焼き尽くす。

 

愛していたはずの全てが燃えた。

「在る」のは自分と、手の中に納まった「ナイフ」だけ。

 

 

…許されない二つだけ、焼かれない。

 

 

 

 

――ああ、全てが憎い(お母さんが死んだ)

 

 

 

 

それは白痴蒼炎、愚かな憎悪の炎。()()()()()()に任せるまま、蒼色に染まった思考で吼える。

憎悪、憎悪、憎悪、全ての感情、一切合切の憎悪を燃やした。

 

それは――ひとえに、「世界」への憎悪。

 

 

――なぜ僕が母さんを殺さなくてはいけなかった。

 

 

それはきっと自分のせい、他人のせい、愛したもの愛さなかったもの全てのせい。

関係ない、母さんがいなくなった。

 

母さんのいない世界が憎い。そんな世界に価値は無い。

だから全て殺す、全て壊す、全て燃やす、全て、全て全て全て全て全て全て――

 

 

 

――この世界の全てを憎悪しよう。

 

 

 

…そして、自分の中の憎悪が炎になった。

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ…つまり…ただの()()()()()()だってのか」

 

 

 

 

 

 

 

――気が付けば、俺に戻っていた。

 

切り離された感情(じんかく)は蒼くて白い炎の中に溶けていった。

掌の中には相変わらず鉄製のナイフがあり、少年の身体ではやけに大きかったそれは片手に収まる程度で、先ほどまで付いていた血はいつのまにか蒸発していた。

 

 

俺は…蒼い炎の中に立ち、先ほどまで見ていた光景の意味を考える。

 

 

「あれは――つまり、原初の記憶?言い伝え通り…ってわけでも無かったな」

 

 

俺の先祖が犯した「原罪」。

 

自らの(おや)を殺し、神殺しの称号と異形の権能を手に入れた結果全ての神々から憎悪され、逆に殺し返した『英雄譚』。

 

 

しかし――今見たのが「一番最初の記憶」だというのなら、最初に憎悪したのはこちら側だ。

 

 

八つ当たりに近い、子供の癇癪。

しかし信じ込んだその憎悪だけは本物で――「神」さえ殺す。

 

狂気に堕ち、怒りに満ちた先祖(しょうねん)は文字通り「全て」を恨んだ。

この世界を構成するあらゆるもの、例え一切の正当性が無くても、「自分がやってしまった」事でも、その責任を世界に向けた。

 

 

 

誰かを恨まなければ――あまりに悲しくて、苦しかったから。

 

 

 

「…解るよ。悲しいよな、苦しかったよな」

 

 

 

記憶の追体験。

 

――カウント1000。

 

神殺しの血の中に何かが「見える」。

その結果、()()()()()()()()()そのまま味合わされた俺は、半ば強制的にその感情を理解させられることになった。

 

 

「…はぁ」

 

 

しかし…余りに強すぎる憎悪。

全てを恨む、そんなもの人が持ち得ることは「不可能」だ。

 

人の脆い器では全てを認識することも、狂気に沈んだとはいえそれを恨むことも出来ない。

…持ちうるには異形の権能、あるいは「選択」すれば。

 

 

――問題は先祖の残した憎悪が俺の一部になりつつあること。

 

 

人が持ちえないのに、血の中の記憶はそんな光景を見せてきた。

これでは否応なし炎が噴き上げ、憎悪に身体が侵される。

確かにこの炎が手に入れば神を殺せる、しかし今現状これほどの憎悪を持ち合わせることは俺には出来ない…そんな「矛盾」が生じていた。

 

…その憎悪を「継承させる」つもりでは、ないのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――では、貴様は何を恨む?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!…」

 

 

突然に、唐突に「炎」が尋ねてきた。

 

この炎は「最初」の創り出した憎悪…つまり、あの少年の全てへの憎悪の炎だと思っていた。

 

しかし…見やれば炎の気配は、複数。

重なってはいるが、複数どころではない。まるでこれは今までの家系、神殺しの種族(俺の先祖)全員が募ったような。

 

 

 

――全ては未だ不可能だ…しかし今、貴様が抱くその憎悪は『()()』である。それはやがて全てを焼き尽くす業火となり、「次」へと繋がる。

 

 

 

幾代も繰り返し、神々を狩ってきた。

しかしたった「1」では足りない、例えそれが100年後でも1000年後でも我々は数を増し、憎悪を募らせ、炎を絶やさないように繋ぐ。

 

その在り方が、その在り方こそが「俺」自身で、いつしか作り上げてきた我々のスキル(募らせ方)だった。

 

 

(…そういうことか…)

 

 

理解した。俺の幾代か前に、俺の世界の神々は既に死んでいた。

故に理解する必要が無く、こちらの世界に来て回数を重ね初めて自分の過去を知った。

親から伝承を聞かされたことはあっても、システムを知らない親が「血の憎悪継承」について説明されたことは無かったのだ。

 

しかし結果的に説明など不用だ――自動的に、憎悪は継承される。

 

 

 

――して、我々の末席よ。遥か彼方へ繋いだ我らが子孫よ。貴様はこの世界の何を恨む?それを我らが憎悪の(かたち)とし、それへの憎悪を核として、残りの()()()()()を引き渡そう。して…貴様は、何を恨んだのだ?

 

「…」

 

 

 

炎が尋ねてくる。

様々な歳、老若男女関係なく複数重なったような声が頭に直接響き渡った。

 

余りに大きすぎる世界への憎悪。

その中の一つだけを選択し、ひとまずその「火種」だけを受け取る。

 

それはやがて燃える、神への、全てへの憎悪となり、やがて来る終焉まで力となって血に受け継がれていく。

回数を重ね、憎悪を募らせれば募らせるだけ鋭さは増していく。

 

 

1で殺せなければ100、100で殺せなければ999と自らの1を足して――カウント1000。面々と受け継がれた「募らせた憎悪(999)」に、今自らの「憎悪()」を加える。

 

 

しかし…俺は、何を恨めば(火種にすれば)良いんだろう?

 

 

憎悪の全容を見て、何を恨めばいいか解らなくなった。

自分、状況、世界、恨むものが多すぎて何を選択すればいいか解らなくなってしまったのだ。

 

蒼い火を眺め、目を細めた俺は…『尋ねる』。

 

 

 

「…なあ、ご先祖様」

 

――。

 

「俺は…別に憎悪したいわけじゃないんだ」

 

――…何だと、貴様我らの(憎悪)を否定する気か。

 

「いや…そういうわけじゃない。確かに神を殺すにはその憎悪は不可欠だ、アンタらが練り上げてきた炎がなければ神を殺すのは難しい。だが俺自身が誰かを殺したいって思ったことは…あんまりない」

 

――…ほう

 

 

 

理解したように炎が揺らぐ。

 

俺は今までだって()()()()()()()殺したまで、純粋な憎悪で人を殺すなんてしたことがない。

一族の悲願、募らせてきた想いを理解こそすれ、今はその全てを理解することは出来なかったのだった。

 

…果たして恨んでいいものか、と。

 

 

(…だが)

 

 

しかし――その上で、一つだけ疑問はあった。

 

先ほどの情景、先ほどの記憶の中で見つけた理不尽(不可解)が掌の中から離れない。

それは憎悪に満ちないのかもしれない、狂気でもなく憤怒でもなく、ただ理解が至らない。

 

 

そもそもそれが――「原罪の一部」なのだから。

 

 

蒼い憎悪の炎を見つめ、俺はその腕を振り上げると思いだす。

疑問をそのままに、理不尽を恨み、自分勝手に憎悪する。

 

そして――見下ろしてくる蒼い炎(ご先祖様)に自らの殺意を乗せて、手に持っていた「鉄ナイフ(母さんを殺したもの)」を衝き向けた。

 

 

 

 

「その上で、あえて憎悪と言うのなら――」

 

 

 

 

手に持ったナイフが蒼く、白色の炎に反射する。

鉄で出来たそれは美しく、余りにも愚かで自分自身を投影したかのような。

 

許せない、しかし――それ以上に何よりも。

 

 

 

 

 

 

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

――…では、如何にする?しかと言霊にするがよい。

 

 

 

 

 

 

 

「俺は――『()()()()』。こんなものさえなければ母さんは…母さんは死なずにすんだァッッ!!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

涙が零れ、蒸発した。

 

そうだ、何故あんな場所にこんなものがあった?

こんなものさえなければ、こんなものさえなければ母さんはきっと俺に殺される事なんて無かったはずだ…!

 

 

 

…掌に収まったナイフはやけに冷たくて、この熱く燃え盛る憎悪の中で唯一「1つ」だった。

 

 

つまり――これは俺だけの憎悪、俺が初めて抱いた――「カウント1」。

 

 

 

 

返答を受け、炎が様々に、叫ぶ。

 

 

 

 

――了解した。鉄、それが貴様の憎悪。それを核とし、異形の権能を与える。やがて募らせた憎悪は血に刻まれ、我らが炎の色を増すだろう。滾らせよ、滾らせよ我が末裔よ、恨めば恨むだけ貴様の刃は研がれ、その力を、疾さを増していく。それこそが我らが悲願、我らが宿業であり、貴様の望んだ憎悪そのものの形であるとしれッ!!

 

 

 

炎を見つめた。

蒼い火は荒々しく逆巻き、その勢いを増していく。

 

その炎の募らせた一族の憎悪、その全てを見て俺は「理解」を、「肯定」してしまう。

自分の憎悪が自らの中で核となっていき、己を構成する全てに蒼炎が灯されていくのが解った。

 

火は変容する、叫び、泣き、怒り、様々な憎悪を抱えたまま、俺を囲み――尋ねる。

 

 

 

 

 

 

――確認だ、我らが末席。その血に刻まれた一族の原罪、それは世界への恨みを募らせる事でしか晴れぬ、許されぬ。では、如何にする?では?では?では?神のいない世界でしか生きられぬ我々は如何にする…!?

 

 

「――()()()()…!!」

 

 

 

 

 

 

解り切った問いに、答える。

 

するとその答えに炎達は満足したかのように「――然り!然り!然り!」と騒ぎ立て、狂喜に踊った。

 

 

そして、やがて…「収束」する。

 

 

俺を中心に渦巻くように炎が凝縮され、吸収されていく。

 

炎達は吸い込まれながら、俺に使役されながら、大音声で叫ぶように笑いながら吐き捨てた。

 

 

 

――宣言せり!!今ここに『999』の我らが憎悪、そして貴様の抱いた『1』の疑問を集約し、統括し、合わせ砕いて、総じて焼灼(もや)し、新たな憎悪の火種を成す!!!…これを持って――――

 

 

 

 

鉄が、打たれた。

 

 

手に持ったナイフが憎悪の炎によって打たれる。

掌の中で溶け、液体のように蒼く熱せられた溶銑が指の隙間から零れ落ち、伝わっていく。

 

蒼く赤熱した鉄は限界まで白くなり地に触れると――まるで泡のように膨張し、俺の全身を「包み込む」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――これを持って、ここに「神を殺す刃」はなった!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…視界が、()()()()()()

 

 

 

・・・

 

 




待たせた割にはグロ表現が足りねぇッ!!とは思いつつこの文字数でしょ?

あと主人公覚醒!・・・みたいな?
それと勘の良いガキは嫌い(ツンデレ)だけどお母さんの描写で誰か、解る人は解るかもしれない・・・マイナーかつ動機はオリジナルだけど・・・まぁ多少はね。

ではでは良いお年をー!!!!!


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 白痴蒼炎を打つ狼

はい戦闘回です。そして必殺技みたいなの必要かなーって思ってたらすっごい(恥ずかしい)のを創ってしまった…まぁ必要だからね、仕方ないね。

そして「あれ?前話が年最後だったんじゃ?」…という小さな事に気が付いてしまった勘の良いアニキは、新年を安らかに迎えられなくなる粘着性の呪いをかけます。
何か休日利用してばっーって書いたら4日でいけました、普段からやれよ。




・・・

 

 

 

ルームが、蒼く染まる。

 

岩で作り上げられた部屋の中心には大きな火柱が立ち、時折響くような金属音が鳴り響いていた。

その周りを囲むようなアリ達と、そのすぐそばで寝ころんだ少女の恐怖に歪んだ瞳には鮮やかな青と閃光(ひか)る白色が稲光のように映る。

 

 

突如現れたこの世のものではない火炎、心に波紋を広げるように鳴り戦慄く不快音。

 

 

そして――その中から現れた鉄騎士に、この部屋の恐怖全ては向けられていた。

 

 

…巨躯、そして広い肩幅を覆った全身鎧は荒々しくも美しい。

 

その全身は鈍色をした「鉄片(パーツ)」に覆われて構築されている。

 

不格好なまでの様々な形をした、不揃いな大きさの「鉄の切れ端」。それが幾重にも合わさり重なり、まるでジグソーパズルのように噛み合って、一つの「鎧」を成していた。

個々が身体の上を敷き詰めるような全身鎧はその身体を動かすたびに蒼い火を反射し、金属片は関節ごとに容易く折れ曲がる。

 

それは言うなれば――「廃材の騎士」。

 

それは(かたち)のみ完成された、粗雑な鉄で打たれた器。

普通の鎧と同じく装飾こそあれ不格好、未熟な鍛冶師が打ったような鉄片の集合体。

蒼い火の中で燃え上がる騎士はただだらりとその場に立ち、まるで吊られたように空虚なその体勢は意志すら感じさせずに天を仰いでいた。

 

狼を象った兜は鋭く、牙を剥いている。

狼は憤怒を吼え、今すぐにも噛みつかんばかりの迫力と畏怖を周囲に撒き散らしていた。

まるで生きている狼のようなそのヘルムだけは鉄片で構成されておらず、まるで名だたる名工が打ったかのように完成していた。

 

鉄片で構成された鎧は幾つもの「隙間」を作っている。

不完全故だ。ひび割れたように幾つもの溝が、穴が、まるで深淵のような暗き虚構を作り出し、鉄片の合間に影を作り出していた。

 

その全てから――『蒼炎』が噴き出す。

 

まるで内に閉じ込められた炎が逃げ場を求めるかのように、鎧の各所に作られた穴から燃え上がって、叫び出した。

燃え出た炎は、鎧の上全てに巡って、その鉄片の上を跳ね、蛇のように走り、空中へと伝播して、鈍鉄に蒼く輝き焦がしていた。

背中についていた一際大きな溝からはマントのように、特に濃く蒼い炎が垂れさがり、白い炎が縁取って大きくはためいた。

 

 

「…」

 

 

見やれば、右手に確かな感触。

そこには、その騎士と同じかそれ以上の長さはあろうかという巨剣があった。

 

(これは…俺が『()()()()()』のか?)

 

鎧と同じように幾つもの鉄片で構成された巨剣。

握りの部分は元の直剣と変わらないが、それ以外はもはや見る影もない。

 

横幅は約20cm、刃の部分こそ辛うじてかつての面影はあるが以前よりも鋭く、刃以外のところは幾つもの溝と、穴、そしてデコボコとしたとっかかりが幾重にも出来ていた。

 

それは…鉄塊、巨大な剣の形をした鉄片の集合体といえた。

 

 

「…あ…お…」

 

 

左手を持ち上げてみる。

 

やけに刺々しく角ばった鎧に覆われた左手はいつもより重く、ゆっくりと指を握りしめると『ギチリ』と金属同士が触れる音が僅かに鳴った。

そしてそれに合わせるかのように腕から掌から這い出た炎が伝い、指先や拳の至る所でちろちろと揺れ始めた。

 

(…心地いいな)

 

その炎は最初に触れた時は熱く、痛かったが、何だかその憎悪を理解した今は暖かい。

まるで自我を得たように踊るそれは、実際いつかの家族なのだから安心しない訳が無い。

鎧のせいで見えないが、俺の身体から直接染み出していると考えると少し恐ろしくもあったが、

 

そして…その奥に宿る憎悪は本物だ。

 

全てを焼き、全てを壊したいと願った憎悪は、神さえも殺す破壊力を内包していることだろう。

しかし同時に「火種」でもある。この炎は可能性を指し示す篝火であり、未だ小さな種火…これを燃やしていけばいつか世界すら焼き尽くす炎となると知った。

 

 

「…とはいえ、今は火種だけで()()だが」

 

 

拳を更に強く握りしめると『ボッッ!!』と勢いよく拳が燃えた。

 

蒼い火を纏った「俺」は全身に空いた穴から、試すように最大の炎をまき散らすと、自由に空を撫でさせた。

千切れ、岩壁を焦がしていった蒼炎はやがて空中に溶け、消えたが…また新たな火は追加されて消えていった。

 

重ささえ増した巨剣を持ち上げ俺は紗に構えると、その先に広がる景色に瞳の炎を大きく燃やす。

 

 

「いくぞ、アリども」

 

 

――内包した憎悪に従い、キラーアント達に疾く一歩を踏み出した。

 

 

 

・・・

 

 

 

踏み出し、足元で広がっていた炎が大きく波紋を成した。

 

しかし次の波紋は生まれない、白痴蒼炎を残してリョナの身体は大きく前に瞬歩しその場から掻き消えていた。

 

 

「――フンッ!」

 

 

炎が剣を纏った。

憎悪を操り巨剣に纏わせた蒼炎は大きく噴きあがると、裂帛の気合と共に振り下ろされて炸裂する。

空を裂いた剣戟はカウント1000を超えた速度で膂力で、生命の存在を許さない。

 

 

――『ドォンッ!!…ゴォォッッ!!』

 

 

大地が割れ、蒼い爆炎がその場に荒れ狂う。

 

キラーアント達の中心に振り下ろされた巨剣は数匹のアリの胴体を地面ごと叩き潰し、瞬間的に絶命すると、死骸となったその全てを放出した炎で魂ごと焼き払った。

そして炸裂した炎は地を這うと、付近にいたアリに引火し、そのこと如くを瞬間的に炭とした。

 

大地はひび割れ、先ほどの比でない火柱が立ち、その中心に立つ狼騎士の姿が蒼く白く照らされる。

 

 

――『ギィ』と鳴く暇さえなく、十数匹のキラーアント達がたったの一振りで絶命した。

 

 

「…」

 

 

火力は充分、それにカウントも稼ぎやすい。

ただの軽い一振りで「コレ」なら、合格点だろう。

 

笑うように瞳に宿った炎を揺らすリョナは地面を砕いた巨剣を両手で掴み上げ、更なる炎を()()()

すると大剣の中ほどに空いた幾つもの隙間から蒼炎が更に放出され、たらりと赤熱し溶けた鉄がゆっくりと剣先に向かって垂れた。

 

そして――

 

 

「消し…飛べェッ!!」

 

 

――円を描くように、力任せに周囲を斬りつける。

 

業火を纏った大剣が振り回され、激流のような炎が荒れ狂った。

 

仲間を殺された報復に丁度跳びかかってきていたキラーアントの一匹と周囲にいた約八匹ほどのアリ達の頭部や足、胸部を弧を描きつつ大回転した巨剣の大刃が捉え、そのまま振り抜き、断ち切る。

そして二つに解れた虫の肉体は宙を舞うと、放出した炎の中で『ジュゥッ!』と瞬間的に蒸発させ、僅かに残った燃えカスから黒煙が細く立ち昇らせた。

 

…しかし、それだけで留まるはずもない。

 

全方位10mほどに撒き散らされた炎は荒れ狂い、その場にいた生命のこと如くを灼熱地獄へと堕とす。

まるで炎嵐、蒼く高く巻き上がった旋風はダンジョンの天井を焼き、キラーアント達の足を、頭を、胸を、胴を、硬い装甲であるそれらに勢いよく抱き着くと、「ギィイイイイッ…!!?」と悲痛な断末魔をあげさせた。

 

その数、実に32匹。剣で切り裂いたアリを合わせ41匹ものモンスターたちがただの一撃で死滅する。

焼き払った岩盤上にはいまだ蒼い炎がメラメラと残り、不幸にも蒸発できなかったアリの数匹が悲鳴をあげながら火だるまとなってやがて力尽きていった。

 

…全てを焼き尽くした憎悪の炎は、揺らめく。

 

そして――リョナのスキルによって、僅かにその色を濃くしていく。

 

破壊の中心に立った騎士は巨剣を握りしめ、白痴蒼炎を纏って屹立する。

その一挙手一投足の度に炎が蠢き、とめどなく溢れ出る憎悪の炎で世界を灼熱と変えた。

二筋立ち昇った瞳の炎はその動く度後を引くように揺れて、見える世界の全てを憤怒するように瞬き蒼く輝いた。

 

気分が高まる、衝動のままにGuRuuu…と喉を鳴らした。

手に入れた力の高揚感は強く、周囲から憎悪するように睨んでくるキラーアント達が蒼く映った。

いまだかなりの数がいるアリ達は仲間を殺された憎悪を一心にこちらに向けており、炎を反射したその瞳も『蒼く』燃えていた。

 

 

蒼起三爪(ソウキノミソウ)ッ…!」

 

 

憎悪には憎悪で。

剣を頂きに向けた俺は、今持てる憎悪の総べてを募らせる。

 

言の葉に従い蒼炎は巨剣に集うと、とてつもない密度で燃え盛り始める。

濃く、蒼く、白さえ消えたその焔は轟々とリョナの掌の中で燃えると「爪」の様相を形作った。

先を三つに分けた巨爪は鋭く、醜く、圧倒的破壊力をもって屹立していた。

 

巨大な破壊が収束したそれは、振り下ろせば直線的な憎悪を道のように「三本」流すだろう。

大地には三つの爪痕が残り、岩を溶かして、その場に存在するあらゆる物、生命、神、魂、あらゆる事象を憎悪という感情で上書きし、真っ直ぐに破壊する。

 

ダンジョン内の湿った空気が熱風によって逆巻き、疾く流れた。

蒼く巨大な「破壊」を目前したキラーアント達は確かに恐怖しており、数歩後ずさりはじめる。

 

 

そして――振り下ろされる、それより先に恐怖に駆られた数匹が「狙い」を変えた。

 

 

「ッ!!?」

 

『ギィギィッ!!』

 

『ギィイイイッ…!!!』

 

 

目の前の強大な敵に確実に殺されると確信したのか、最前にいた数匹が非常に人間的な打算的行動を始める。

 

それは…せめて「弱り倒れ伏せた敵」に狙いを変えて殺すという思考。

 

強すぎる恐怖に侵されたキラーアント達は叫びながら唐突に走り始めると、俺の脇を通り抜ける。

足元を走り抜けていくアリ達はかなり俊敏にダンジョンの床を駆け、俺が目を見開き振り返る頃には「護衛対象(リリルカ・アーデ)」の目前にまで肉薄していた。

 

 

「ッ…!」

 

 

追い詰められた生物は時に本能にそぐわない行動を起こす時がある。

そしてアレの数匹程度殺す事は容易いと侮っていたが、俺の敗北条件はあの少女が殺されることだ。

 

――キラーアント達数匹に殺された欠けた少女の恐怖に染まった瞳が見えた。

 

 

(どうするっ!?こうなったら蒼起三爪を…いや、ダメだ!アイツごと死ぬッ!!)

 

 

初めて使う技だがこれは言うなれば俺の「全力」だ。

振り下ろせばリーチは足りるだろうし、あのアリ数匹をダンジョンの岩壁ごと大きく削り取って殺せるだろう。

しかし…あの少女も確実に巻き添えで死ぬ、全力で燃やした炎に焼かれ小さな肉体はいとも容易く蒸発する。

 

…せっかく溜めこそした、蒼起三爪(ソウキノミソウ)は、使えない。

 

 

「…ならば、()()()()っ!!」

 

 

選択肢を「考えるまでも無い」数コンマ、炎を剣から離す。

力を蓄えていた炎が鎧に逆流し、流動的な憎悪を俺は手操ると創造(イメージ)する。

 

そして――剣を()()()()

放り投げるように空中に投げつけた巨剣を俺は…「殴りつける」。

 

 

――『ガイィィィィンッッ!!』

 

 

不快音が、鳴り響く。

 

それは鉄が鉄を打った音。

鎧に包まれた拳が、回転しながら落ちていく巨剣の中ほどを捉え、炎を放出した。

 

その瞬間――「変色」する。

 

鈍色に輝いていた鉄片の集合体はその拳の触れたところから蒼く侵食していく。

まるで波紋のように一瞬で広がったそれは瞬間的に、纏わりついた炎と同じ真っ青に光り輝き…『ぐにゃり』とまるで溶けたチョコのように折れ曲がった。

 

そして――そのままの勢いで空中を一直線に飛んだ。

 

 

「…あッ…いやぁッ!」

 

 

少女は叫ぶ、その目前にはキラーアントが迫り、今まさに跳びかかっていた。

牙を鳴らし、爪を振り上げたアリは空中から少女の胸部、そして首を狙い、いとも容易く切り裂くだろう。

 

あの騎士は遠く、誰も自らを助けるものはいない。

身体は指の一本さえも動かず、避けることも叶わない。

 

自らの腹部を裂いていた光景が少女の脳裏に浮かび上がる、正しくそれは恐怖であり、彼女は死を覚悟する。

 

 

「ベル様ッ…!」

 

 

無意識に少年の名前を呼びながらリリは目を閉じる。

そして来たる痛みを想像し涙を目に溜めると、ぎゅっと拳を握りしめた。

 

 

――『ザシュッ!!』

 

――『ギィッッ!!?…ギ…イイィ…?』

 

 

しかし、何かが突き刺さるような細い音が絶え間なく通り抜ける。

キラーアントの苦し気な鳴き声が複数、それも近くから聞こえた。

 

…恐る恐る、目を開ける。

 

 

「ひっ…!」

 

 

――そこは、槍の森だった。

 

少女の身体を囲むように、指程の細い鉄針が幾本も幾本も地面に突き刺さっていた。

まるでばらまかれるかのように不規則に地面から乱立した鉄針は少女の身体には刺さっていないが、かなり近い位置にまで迫ってきており――跳んだキラーアント達の身体を貫いていた。

 

串刺しになり、それぞれ十数本ほどの鉄針に貫かれた身体は至る所穴だらけとなって、紫色の鮮血をゆっくりとその身体を貫く鉄針に伝わせていた。

絶命し、宙に吊られたアリの身体はぐたりと垂れ、リリの顔を覗き込んでいた。

 

…ガチャリ、ガチャリと近づいてくる足音を少女は聞く。

 

 

「…何とか、間に合ったか」

 

 

見上げてくる少女の事を無視し俺は集中する。

そして足元に散らばった幾本もの鉄針の先端に蒼炎を灯すと、「再び」打ち直すために軽く指で弾いた。

 

ガイィィィィンッという不快音が響き、地面に刺さった針たちが蒼く赤熱すると深く共振する。

そして…やがてどろりと溶けると宙を浮き、リョナの掌に帰ると先ほどの巨剣に還った。

 

 

「鋳造…便利な能力だな」

 

 

――鉄を恨んだ。

 

鉄なんて無ければいいと、そう願った。

鉄を打って、恨んで、刃じゃ無くすればあの人は死ななかったなんて後悔した。

 

故に――『鉄を打つ能力』。

 

白痴蒼炎で鉄を慣らし、溶かして、恨んで、その形を「強制的」に変える。

支配下に置いた鉄を恐怖によって変質させ変容させ、拳を叩きつけてその形を、命令を与える。

 

(鉄を操る狼…か)

 

そして、きっとそれが俺の異形の形なのだろう。

まさに怪物、人界には無い化け物の権能(ちから)

 

――初めて使った力はとても良く馴染んだ。

 

間に合わず、数が多いが個が弱いのなら面攻撃。

巻き込まないように最大の注意を払いつつ鉄針を可能数まで「鋳造」した俺は降らせる。

 

鋳造、蒼時雨。幾重にもなった細槍の雨。

 

鋭く鋳造したそれは雨のように、空を飛んでいたキラーアント達の身体を捉えると地面に縫い付けた。

 

 

そして、少女には傷一つついていない――結果は上々だった。

 

 

「あの…っ!」

 

「む?」

 

 

自らの力に満足し、打ち直した巨剣の出来栄えを確認していた俺を眼下の少女が呼ぶ。

 

蒼い火の灯った瞳を下げるとリリは、困惑したように俺の身体を、全身を包んだ鎧を、手に持った巨剣を観察した後、俺の瞳を見つめ返してくる。

その瞳には確かな恐怖と、強い混濁した疑問が渦巻いていた。

 

 

「…リョナ様…なんですか?」

 

「あぁ、そうだが」

 

「…!」

 

 

少女は目を見開く。

 

…思えば確かにそうか、主観で言えばこれはカウント1000による自然現象と解るが、客観的に、リリの眼から言えばこの鎧を着ているのが「俺」だと判断する術がない。

加えてこの炎、人の持たざる憎悪の炎は存在自体が信じ難い禁忌であり…というか、いきなり鎧を取り出し、瞬間的に纏う早着替えなど無いからしてありえない。

 

 

「これは…そうだな。鎧の早着替えだ、それとこの蒼いのは何かの魔法だ、訊いてくれるな」

 

 

しかしあり得ないとしても「真実」を教える訳にもいかない。

 

きっと尋ねたいのだろう、嘘だと解っている少女は口を幾度か開けるが「訊くな」と言ったリョナの蒼く燃える瞳を見て、口を噤んだ。

 

疑問を目に宿した少女が一先ず諦めたことに安堵した俺は、巨剣を肩にかけると振り返る。

噴き上げた炎が万が一にも彼女の身体を焼かないように注意を払いながら一歩歩むと、再びキラーアント達の群れと相対した。

 

…とりあえず道を作ろう、そして出来た道から彼女を拾ってこの場から離脱することに決める。

 

そして――その後にまずベル君、その後ぎゅるぎゅる丸を回収するのだ。

 

 

()()()()蒼起三爪(ソウキノミソウ)は最適だが、またさっきみたいなことが起きても大変だしな…)

 

 

チャージに時間がかかるし、その度リリが襲われては元も子もない。

であればもっと早く、道を切り開けるだけの火力を――

 

 

「――八ツ白牙(ヤツシロキバ)…!」

 

 

構えは、脇構え。

右足を一歩引き、剣先を引き落として右脇から斜めに下、正面から身体で刀身が隠れるように握りしめる。

 

そして左足を沈めるように落とし、屈みこむように体躯を前傾させ、それに相反する剣先を吊り上げた。

 

 

――白い炎を寄り集め、純度の高い「牙」を構成する。

 

 

蒼炎から白痴が溶けだし、抽出されたそれが剣先に集中し始めた。

それはやがてぼんやりと白く輝き、淡く空を渇望して「八つ」その牙を形作る。

鈍色の剣の周囲には白牙が纏まり、鋭い拳ほどの炎が八個装填された。

 

燃え上がる、輝く白炎で出来た大牙はやがて揺らめき剣先で廻る。

 

 

「――噛み殺せッ!」

 

 

そしてリョナは一歩踏み抜き、大地を砕く。

ギチリと大鎧が鳴り、目に灯った火が激しく燃え上がった。

 

そして――全身を回転させ、「空を」切る。

 

大剣が空中を真横に薙いだ、その剣先は何にも触れておらずブンッ!!と強く風切り音が振動する。その重い一閃は何者も傷つけることは無く、憎悪の蒼い炎さえもまき散らさない。

 

 

しかし――それで「指標」の役目は成る。

 

 

八ツ白牙は、起動した。

導に従い自立したそれぞれの牙たちは空を駆けるとキラーアント達の目前に舞う。

 

そしてやがて上に四つ下四つに「噛み合う」と、狼口のように強力な熱気を発して微かに…笑った。

 

 

――焼き払う。

 

 

白く燃えた大牙は空中に「牙」の紋章を焼き付けた。

 

拳ほどの大きさから膨張した牙は空間に噛みつき、その合間にいたキラーアントのこと如くを「切り裂き」「燃やす」。

 

…横に薙いだその剣の軌道に従い、八ツ白牙は総じて燃やし、噛み殺した。

 

だが――

 

 

(…あれ、何か思ってたんと違う!?)

 

 

――あくまで「面攻撃」。

 

火力こそ充分以上、取り囲んでいたキラーアント達の7割方を巻き込み燃やし殺し、噛み千切った巨大な白牙はあくまで「横」に展開していた。

ルームに大きな牙の紋章を焼き付けたその一撃は白く輝き、その岩壁ごと周囲を取り囲んだキラーアント達を溶け殺したが…「道」は出来ていない。

 

 

(イメージ優先しすぎて一点特化じゃ無くなったか…)

 

 

牙を模した白は、面攻撃。

爪を模した蒼は、線攻撃。

 

思い付きで作り出した二つの技はどちらも鋭く、憎悪の炎を伴ってその(ことごと)くを焼き払う。

であれば蒼き炎は全てを掻き抱き、白い炎は全てを飲み込み噛み(なぶ)る。

 

神殺しの狼の吼えた権能は大地に焼け付き、その白痴蒼炎(憎悪)を伴って形となり――それはやがて、神殺しの刃と呼ばれるようになるだろう。

 

…とはいえそれもすべて使いようだ。

てっきり真っ直ぐに道を作るつもりだったのだが、横に焼き払ってしまった。

 

(…もうここまで来たら全滅させた方が早いか?)

 

八ツ白牙で取り囲むように群れていたキラーアント達の七割方は燃え死んだ。

大半は切り裂かれ篝火のように伏し白い煙をあげ、あるものは紫色の血液を激しく噴きあげながら苦痛にその身体を躍らせていた。

焼けることを免れた個体は前に進めば死ぬことを知ってか、その瞳こそ憎悪を滾らせていたが前には進んでこなかった。

 

であれば…残り三割程度、殲滅してからこの場を離脱する方が早いかもしれないし、あるいは隙間の空いた包囲を強行突破するのも良いかもしれない。

何にせよ八ツ白牙が晴れたなら――

 

 

 

 

 

「…『ファイアボルト』ォッ!!」

 

 

 

 

 

――気迫の満ちた声が聞こえた。

 

やけに聞き覚えのあるその声に俺はヘルムの下で目を見開くと、それの聞こえた方向…つまり、牙の向こう側に目を向ける。

 

 

――遠雷、白く稲光を携えた一筋の光条がとてつもない速度で迸り、八ツ白牙を貫いた。

 

 

貫通力のある雷、赤く白く真っ直ぐに伸び、蒼く白い炎に混ざると吹き飛ばす。

空中に焼き付いていた紋章に穴が空き、元のダンジョンの岩盤が見えた。

破壊の中心だったはずのそこはアリ一匹、足一本さえ残っておらず、溶けた大地は赤熱してゆっくりと垂れていた。

 

 

「おっ…!」

 

 

そして出来たその空間を、白兎が走り抜けてくる。

 

ボロボロだが、危険な状況と訊いていたその少年の元気な姿に思わず笑みが漏れた。

ナイフを構え、まるで疾風のように駆けてくる少年は裂帛の気合を纏い、それなりの殺意を持って炎の下を潜り抜ける。

時折襲いかかってくるキラーアント達にファイアボルトを浴びせかけ、強行突破してくるその姿に俺は思わず口を開いていた。

 

 

「べルく…――あ」

 

 

先ほどのリリの疑問に満ちた表情を思い出す。

こんな姿でいきなり声をかけても驚かれるだけだろうし、今声をかけても恐怖されるだけだろう。

 

それに…今このタイミングである必要も無いし、()()()()()()無い。

 

 

「リリィィィィィィィィッッッ!!!!」

 

 

少女の名を叫びながら、ベルはルームの中に飛び込んでくる。

キラーアント達の合間をすり抜け少年は少しボロボロになった服で走り、地面を燃やす蒼炎を踏み抜き倒れ伏せた少女の姿を発見した。

 

そしてひとまず安堵のため息を漏らし――守るようにその目前に立ち、剣を構える巨漢の騎士の姿を見つけ、身体を強張らせた。

 

白痴蒼炎を身にまとい、その身の丈ほどもある巨剣を携えたその騎士は、瞳に宿ったその憎悪の炎をこちらに向ける。

仰向けに寝転んだ少女の前に屹立し、まるで守護するかのようなその立ち住まいにベルは…抜け目なく、ナイフを構えた。

 

 

「…あ、あなたはっ誰ですかッ…!?リリに危害はッ…!!?」

 

「…」

 

 

その炎は充分に恐怖の対象たりえる。

瞳に怯えの色を現したベルは、それでも身体を後ろには退かず真っ直ぐに俺の炎を見つめてきた。

 

…異形と言えど人型の鎧、「あなた」ということは、一応冒険者に見られていることだろうか?

 

(どうするか…)

 

ベルの主観から言って、リリを助けに来たのだろう。

自分を騙した少女の事を救うためにキラーアントの群れに突っ込んでくるなんて正気の沙汰ではないが、ベル君ならば「やる」。

しかしその場には妖しい炎を纏った冒険者ともモンスターともつかない存在。

 

(…まぁ元々約束は()()()()()()()()()()()()()()()だったからな、俺はここらで消えるのがいいか。…キラーアントもここまで減ったらベル君でも対処できるだろ)

 

ふっと視線を少年から落とす。

本当はもう少しこの力を試してみたかったのだが、それ以上に俺には「やらなければならない」ことがあったから。

 

そして…何も口にすることは無く、巨剣に拳を打ち付けると再び鉄を打つ。

 

 

「…!」

 

 

蒼い炎が渦を巻き、そこから現れたるは――「馬」。

 

騎士に見合った背丈の巨大な鉄馬。

鼻や眼から蒼い炎を噴出させた馬は生き物のようにブルヒヒ…と鳴くと、その馬鎧のみで構成された身体を大きく揺らした。

 

 

「行くぞ」

 

 

騎士はおもむろにその背中に手をかけると、ズンと地面を揺らして跳んだ。

その巨躯に『ガチンッ!』と金属音をさせて大きく跨ると、ゆっくりとその炎で出来たたてがみを撫でてみた。

 

…鋳造した馬鎧は生きている訳ではないが、その中にある炎を操れば実際の馬のように動かすことは出来る、重い剣を運ぶよりかは足にした方が早く走る方が幾分かマシだろう。

名前は、オルフェーベルとかキングカメハメハとか…いや競走馬ではないのだが。

 

大きく息を吸い込んだ俺は、場にある匂いを確認する。

カウント1000を超え、更に良くなった鼻は血液、アリ、少女と少年、そして――「標的」の微かに残った匂いを捉えた。

 

…であれば、「追える」。

 

炎へ更に憎悪をくべると、火力をあげた俺は匂いの痕跡を手繰る。

そして、いざ追うために馬鎧に作られた手綱を握りしめると軽く馬の腹をかかとで蹴りつけた。

 

 

『ヒヒィィィィンッ!!』

 

「――ちょ、ちょっと待ってください!せめて名前をッ…!?――」

 

 

突然「剣」が「馬」に形を変えたことに驚き目を見開いていたベルは、その停止させていた思考をまた動かし始め、手を伸ばして一歩を歩んできた。

しかし…聞く耳を持つ必要も無い、ベルにはベルのやることが、俺には俺のやることがある。

 

背中に受けた二つの疑念に俺は炎の勢いを増して応える、

その憎悪に喜ぶかのように馬鎧は戦慄き後ろ足のみで立ち上がると力強く大地を踏みしめた。

 

鉄で構築された馬はとてつもない勢いで駆けていき、包囲したアリたちの数匹を踏みつぶし、まるで熟れた果実が破裂するかのように紫色の鮮血を地面に撒き散らした。

鉄が地面を打ち付ける音が断続的に木霊し、やがて狭い通路の奥に消えると僅かな蒼い残滓を残して跡形もなくいなくなった。

 

 

「…あれは?」

 

 

残された少年は脳裏に焼け付いたあの姿、あの炎、あの力を思い出すと眉を顰める。

あんな冒険者もいるのだろうか、しかし…纏う雰囲気(ほのお)はどこか知っているようで、見ているだけで恐ろしいような昔見た御伽噺に出てくる化け物のような。

 

それは――冒険者というよりモンスターと表現するほうが近いように思える。

 

炎を纏った鉄の狼、僕が見えたのはリリの前に屹立する姿のみ。

しかし…強大な牙のような炎があった、もしあれをあの騎士がやっていたのだとしたら…キラーアントを殺していた。

 

(…やっぱり、冒険者の人だったのかな?)

 

リリを守ってくれていたように見えたし、僕が来たらすぐにどこかへ行ってしまった。

剣を馬に変えた時は驚いたが、そういうスキルか魔法も恩恵(ファルナ)によってはあるのかも…しれない。

 

――その時、頭によぎったのはリョナとの「約束」。

 

(まさか…ね)

 

約束こそしたが、所詮口約束。

できれば履行する程度のあやふやな笑いあい。

 

それに…あの蒼い騎士がまさかリョナのはずは無いだろう、常識的に考えて。

 

 

「って、今はそんなこと考えてる場合じゃない、まずはアリを何とかしないと!!」

 

 

見やれば白い炎は完全に霧散し、怯えていたアリ達もまた包囲を復活させ始めた。

だいぶ死体も転がっているが、その数はまだまだ多い…全力で戦わなければ、後ろに倒れている少女ごと死ぬ。

 

ナイフを構え、息をゆっくりと吐きだしたベルは目前に広がったキラーアント達の群れを睨みつけ――その右手を向けた。

 

 

「――ファイアボルトォ!!」

 

 

 

・・・

 

 

 

「上手くいったなぁ、カヌゥ!」

 

「…おう」

 

 

三人の男達がダンジョン内の細道をゆっくりと進んでいる。

一人は巨大なバッグをその肩に背負い、その手には思い思いの金品が幾つか握りしめられ、顔には見ていて吐き気のするような下卑た笑いが張り付いていた。

 

そんな中でも一人したり顔を浮かべるカヌゥの首には鍵が一つかかっており、先行する二人の仲間の背中を見ながら指で鍵を弄っていた。

 

 

「…つってもいくらぐらいあるんだ?」

 

「さぁな、だがノームの宝石ってだけでも相当な稼ぎだ。まぁまず間違いなく――」

 

「――今月の神酒(ソーマ)は俺たちのもんだ!ガハハハ!」

 

 

上納金下位ギリギリでお猪口一杯程度、上位でジョッキ瓶一杯くらいは楽しめる。

勿論その分多量の金貨が必要になるが…今リリに奪った魔剣や金時計、それに合わせてノームの宝石ともなればジョッキの3杯程度容易く手に入る。

 

――上機嫌になるのも当然だ、神酒に縛られた脳髄は常に渇きを訴えているのだから。

 

 

「ところで残った金はどうすんだ?」

 

「そりゃあ…勿論3分割だろ」

 

「あるいは俺が全部預かっといてやろうか?」

 

「ばっかお前に預けたら盗まれちまうだろ…それこそアーデみたいなやつにな!」

 

 

そう言って3人で深く笑う。

 

7階層から早足に進んでもうすぐ地上。

あの少女は既に死んでモンスターたちの餌になっているだろうし、金は大量に手に入った。

 

そして――3人それぞれ神酒の味を思い出しながら、暫く歩む。

 

 

「…ん?」

 

 

最後尾を歩くカヌゥがふと後ろを向く。

何か背後から音が聞こえた気がしたのだが、それはこのダンジョン内で聞こえるはずもない生活音。

幻聴か、あるいは何か他の音を聞き間違えたのか…何にせよ聞き間違いだろうと判断したカヌゥは暗いダンジョンの闇から視線を前に戻す。

 

 

――『…ガチャラッ…ガチャラッ…ガチャラッッ!』

 

 

最初は擦れるような音だったが、やがてそれは大きくなっていく。

金属が離れ、またぶつかり合い――地面を打ち鳴らす「ひずめ」の音。

 

ダンジョンに馬などいるはずがない、狭いダンジョン内ではいかな名馬と言えモンスターに怯えたりと使い物にならない。

故にダンジョン内で馬の高らかなひずめの音など聞くはずが無い…「無かったのだ」。

 

聞き間違いでないその怪音に思わずカヌゥは立ち止まり、再び振り返ると徐々に近づいてくるその音に心がざわついた。

 

 

――そして、暗闇の中に蒼い炎を見る。

 

 

「なッ…!?」

 

 

炎は瞬間的に、爆発的に大きくなっていく。

瞳に映った炎は瞬き、輝きながら近づいてきていた。

 

白く蒼い炎は激しく上下し、その暗黒の中に肉食獣のような瞳が2つはっきりとこちらを睨んでいた。

 

 

「あれは…モンスターか?」

 

「あ?モンスター?――ってなんだぁありゃあ!!?」

 

 

カヌゥの呟きに仲間二人も振り返り、一様に蒼い炎を発見する。

ダンジョン内で激しく燃えるそれはまるで馬のように疾く、狼のように力強い。

全く見たことも聞いたことの無いモンスターの襲来に、3人は恐怖をその瞳に焼き付けた。

 

 

――ついにその姿が露わになる。

 

 

まるでそれは死霊騎士。

蒼い炎を纏った馬鎧を纏った巨馬はとてつもない速度でダンジョンを駆け、その背には全身鎧(フルプレート)を身に纏った大男。

その目には蒼い火が細く揺らぎ、肉食獣のように3人の男の事を憤怒でもって睨みつけていた。

 

そして――蒼く白い炎がその身体から高く立ち昇り、激しくダンジョンの壁と床を燃やし、光源のない通路を激しく照らしていた。

 

 

「…あッ…なッ…!?」

 

 

異様な光景、巨大で俊敏なその獣の姿に3人はその動きを完全に停止する。

蒼い火を纏った化け物、圧倒的な殺意の集合体に圧倒され僅かな言葉を漏らした。

 

(なんだこれは何だコイツはッ…!?)

 

ダンジョンのモンスターでは見たことも聞いたことも無い新種、しかし圧倒的な火力をもったその化け物はこの階層ではありえない「死」そのものの具現。

全てを憎み燃え滾るような瞳は完全にモンスターそのものであり、同じ鉄でできた馬も同種の化け物と見えた。

 

 

――馬は勢いよく駆け、3人の目の前に急停止する。

 

 

手綱を勢いよく引いた騎士に合わせ、ヒヒンと鳴いた馬が後ろ足で立ち上がる。

威圧的な光景、鉄で作られたひずめが目前で振り上げられ、カツンッと乾いた金属音をたてて地面を叩き周囲に響き渡った。

 

 

「…」

 

 

高い馬上を見上げ、その狼の(ヘルム)についた傷痕に灯った焔を見る。

細く立ち昇った蒼炎は明らかにこちらを睨みつけ、ゆっくりとその瞳を自分たちの顔に向けていた。

 

…まるでそれは、明確な「意思」があるかのような。

 

目前で立ち止まったモンスターに3人は自らの武器を取り出す事も出来ずに、立ちすくむ。

たった一匹、巨大な狼騎士は馬上から動くことも無くただ自らの纏う蒼炎を揺らし、ただ存在するだけで場の空気を圧倒していた。

 

 

そして――やがて、ゆっくりとその狼兜を揺らす。

 

 

「…貴様らに、問う」

 

「…なッ!!?」

 

 

突然にゆっくりと言葉を紡いだ()()()()()にカヌゥは思わず声を漏らし、口を開けた。

喋るモンスターなど聞いたことが無い、深みのある男の声にカヌゥは更に恐怖し、混乱する。

 

…言葉を失ったカヌゥに、馬上の「モンスター」は尚も言葉をしゃべりかけた。

 

 

「貴様らは先ほど少女から鍵と所持品を奪った一党か?…で、あるならば――」

 

 

どうしてそれを、まさか…見られていた?

しかし…モンスターが何故鍵の事を知っているのだろうか。

 

などと――思う間もなく、言の葉が続いた。

 

 

 

「――返せ、さもなくば貴様らの悉くを殺す」

 

 

 

蒼い両目が火力を増した。

 

ボウッ!と瞳が燃え上がり、激しい殺意がまるで突風のようにカヌゥたち3人の全身を刺す。

恐怖に脊髄ごと凍てつき、向けられた憎悪に魂ごと焼け付くような感覚を覚えた。

 

――シャキン、と金属の擦れるような音が背後でする。

 

 

「くっ、クソがァァァァァァッ!!!」

 

「なっ…待て、やめろぉ!!」

 

 

咆哮に合わせ、仲間の一人がカヌゥの脇を通り抜ける。

その手には抜身の剣が一振りあり、顔は最大の恐怖で強張っていた。

 

恐怖に耐えきれなくなり、おもむろに走り始めた男をカヌゥは止めることは出来ない。

一番前に立っているからこそ解る、これはもう個人で対処できる存在じゃない。それは大きすぎる力量差で…確実に、死ぬ。

 

 

「死ねぇぇぇぇぇッッ!!!」

 

「…」

 

 

直剣を構え叫びながら突撃する男に、馬上のモンスターは迷うかのように僅かに首を傾げる。

そして…カヌゥの首周り、そこにチラリと「鍵」を発見すると躊躇わず向かってくる男に腕を伸ばした。

 

 

「なっ…掴んッ――」

 

「――死ね」

 

 

突き上げてきた剣を空中で、ガシリとモンスターは右手で掴む。

かなりの速度であったのにも関わらず容易く掴んだモンスターに男は完全に委縮し、その神業に怯えた声を漏らした。

 

低い憎悪の詰まった一言に従い、剣と触れたモンスターの手から蒼い炎が噴き上がる。

刀身に炎が巻き付き、憎悪の熱に侵された剣が蒼く溶け液状化すると、男の持った柄の部分を残してぐにゃりと歪曲した。

 

 

「ひっっ!!?なんだこれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっあっぢぃぃぃぃっあぢいよぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!!!?」

 

 

――鉄が膨張し、赤熱したまま男の身体を包み込む。

 

鉄の溶ける融点は1538°C、男の皮膚を包み込んでいく鉄の持った強すぎる高温に男の全身からは水分が蒸発し、焼け付いた皮膚が弾け飛び血液が水風船を割った時のように噴出した。

 

肉体が一瞬で消し飛ぶことも無く、神経をじかに炙っていくような苦痛が毒のように男の身体を巡る。

熱でできた液体は首を目指し、身体の上を駆け巡るとその身体を焼いていきながらその身体を包み込んでいく。

 

そして――球体。首、四肢を残して胴体を球状の鉄が覆った。

 

もう激痛などという言葉では足りない、高温によって空気はとてつもない速度で上昇気流を発生させ、限界まで乾燥した男の顔と両手両足は半ば自然現象的に燃え上がる。

焼けた皮膚が赤黒く変色しだらりと垂れさがるとどろりと溶け始め、その眼球は――

 

 

「あ゛…ぁ゛…が……だぁ、だぁずげ…」

 

 

――勢いよく燃え上がった男は、溶け落ちた硝子体越しに助けを求める。

 

しかし燃えダルマのようなその姿に二人は指一本すら動かせず、ただその異様な光景と絶叫に恐怖していた。

 

 

…『ドシュッ!!』

 

 

肉の裂ける音とともに完全な球体が完成する。

鉄球から出ていた頭、手足の根元が塞がれ、ポンッとそれぞれのパーツが宙を舞う。

同時に瞬時に冷却された赤熱した鉄が元の鈍色に戻るとゴチンッと地面を落ち金属音を鳴らした。

 

鉄球の表面には飛び散ったような血液が付着し――切断され燃え尽きもはや誰のものかも判別できない頭部と四肢が転げ落ちた。

 

 

「ひぃっ!!?」

 

「…はー…はー…っ!!?」

 

 

削げ落ちた肉体に、残った二人は恐怖する。

今すぐこの場から逃げたいという思いに駆られるが、この至近距離ではそれは叶わず先ほどの異様な力を見て頭は「殺される」という一念に縛られていた。

 

…馬上のモンスターは鉄が丸く完成する様をゆっくりと観察しているように見えたが、やがて荒く息をする男二人に視線を戻す。

 

 

「…して」

 

「ッ!」

 

「返すか、死ぬか?」

 

 

これみよがしに馬が片足を振り上げ、炭化した頭を踏みつぶす。

ぐしゃりと内部に残っていた赤色の脳漿がまき散らされ、黒い細々とした粒子が空中に漂った。

 

噴きあがった炎に恐怖し、幼子のように涙を流すカヌゥは竦んだ指で何とか首にかかった小さな鍵を取り外そうとする。

そして強張った指で震えながら鍵を掴むと、倒れそうな足で数歩近づきモンスターに差し出した。

 

 

「ひっ…」

 

 

鎧に覆われ炎の噴出した指がゆっくりと伸び、カヌゥの持った鍵を掴むと受け取った。

 

近づいてくる炎と指、先ほどの光景も合わさってカヌゥは短く声を漏らすと、その恐怖そのものの姿を仰ぎ見る。

 

蒼い火を纏った狼、鉄を操る化け物。

見たことも無いその姿、喋り、見たことも無い強大な力で人一人を瞬時に惨殺した。

ダンジョン内で死を覚悟したことなどいくらでもあったがこれはもうそういう次元じゃない、神酒に侵された脳みそさえ焼け付くような恐怖があった。

 

 

「お、おいっ!お前もはやくしろぉッ!」

 

 

振り返り仲間に怒鳴りつける。

呆けたように直立した男の背には少女から奪った金目のものがひとまとめにされた袋があり、その手には魔剣が握られていた。

 

並のモンスター一体程度であれば容易く吹き飛ばせる魔剣は普通大きなアドバンテージだが、コイツに対しては何の役にもたたない。

カヌゥは仲間がさっき死んだやつみたいに無謀な行動にでないか、心臓をバクバクと鳴らしながら恐怖する。

 

 

「あっ…あぁ…」

 

 

とはいえ杞憂に終わる、男は背負っていた袋を下ろし震える手で握っていた魔剣もその中に入れると数歩進んで馬上に差し出した。

重いそれをモンスターは片手でむんずと掴むと軽々しく馬の背にドスンッと置く。

 

 

「…以上か?もしまだ隠しているようなら…」

 

「い、いえぇっ以上でっ…!」

 

 

蒼い火がこちらを向き、尋ねてきた。

それに対してカヌゥは必死な思いで頷くと、生きた心地を覚えぬままその姿を見上げる。

 

そして涙しながら…蒼い恐怖にあてられ、純粋な疑問がふいに口を割ってしまっていた。

 

 

「…ひぃっ…あ、あなた様はいったいどなたなんでぇ…?」

 

「…俺――いや、我か?」

 

 

尋ねて、後悔した。

立ち去ろうとしていたモンスターは足を止め、カヌゥのことを見下ろすと目を燃やす。

 

手綱から一度手を離し、あごを触って考え込み始めてしまった。

カヌゥは唾を飲みこみ、モンスターがこちらを見るのを恐怖しながら待つ。

 

 

そして――化け物は実にそれらしく、仰々しい喋り方で答えた。

 

 

「我は…神に仇なすもの。泣き叫べ眷属よ、我は貴様らの親を殺そう。疾く伝えよ、我は貴様ら神々を常に狙い、その喉元を食いちぎらんとしている事を…我の名は――」

 

 

 

その名前を語った後、騎士は馬を駆り去った。

 

蒼い炎が目を焼いて、床に残り燃えた炎さえ消えてからカヌゥは膝をつくと、余りに冒涜的なその内容に――完全な狂気に陥るのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

…仰げば、今日も曇天。

 

空は淡く輝いて、白い雲は僅かばかりの日光を隙間から地上に漏らしていた。

道に敷かれた石は冷たくもないが暖かくもなく、噴水の縁の代理石は触るとザラザラとしていてひんやりと冷たかった。

 

 

「…」

 

 

――不安だった。

 

あの後謝罪すると、少年はずるいくらいに優しく笑って許してくれた。

だが私は彼に、もう顔も見たくないと怒られても仕方ないくらい酷い事をした。

会えなくても、いや会わなくても良いとさえそう思っていた。

 

少女は歩きながら、本日何度目かも解らないが深く被ったフードの陰から曇り空を仰ぎ見る。

背負ったバックパックは昨日の影響で大きく焼け跡がつき、その一部は染料をぶちまけたかのように蒼く変色していた。

 

 

「…」

 

 

しかし…私はどうしたいのだろう?

私なんかがいないほうが少年のためになるはずだ、だが私はこれからどうすればいいのかも解らないし元の泥棒生活に戻ってはあの少年と男の言葉を否定するようで嫌だった。

 

(私は…?)

 

今までソーマファミリアから逃げる事だけを考えて、痛くて、そんなこと考えたことも無い。

あるのは卑屈な思考と、意地汚くて弱い金への執着…それを捨てた今考え始めて、それ以外持っていない事に気が付いた。

 

 

だが――暖かいモノを教えてくれた人はいた。

 

 

「サポーターさんサポーターさん、冒険者を探してはいませんか?」

 

「…えっ…?」

 

 

声をかけられ、バベルに向けていた足をリリは止める。

驚愕の声をあげ、フードから見上げると――笑顔を見た。

 

 

「混乱しているようですね、ですが状況は簡単ですよ?サポーターさんの手を借りたい半人前の冒険者が自分を売り込みに来ているんです!」

 

「おーおー若いねぇベル君」

 

「ちょっと笑わないでくださいよリョナさん!」

 

 

白髪の少年と男が笑いあってそこには何の嫌みも無く立っていた。

二日ぶりのその元気そうな姿に、かけられた言葉に私は零れた涙を慌てて拭った。

 

後ろに立つリョナを振り返り言葉を交わしていたベルは振り返り、再度笑うと、言葉を続ける。

 

 

「だから…もう一度僕と一緒にダンジョンに潜ってくれないかな、リリ?」

 

「はい…喜んで!」

 

 

やり直しの合図。

リリは笑って、頷いた。

 

頷いて、気が付いた――私は、こうなりたかったのだと。

 

一言、そう言われただけでこんなにも嬉しいのだ。

私はこの少年と一緒にいたい、肯定してくれたこの少年からもらった優しさを少しでも返したいとそう思った。

 

差し出された手にリリは手を重ね、掴む。

笑いあって、温かくて…二人でいれることが嬉しかった。

 

 

――そして気が付けばお腹を触られていた。

 

 

「ってきゃああああああああ!?」

 

「リョナさん何やってるんですか!!?」

 

「いや大怪我したって…」

 

「セクハラです最低です死んでくださいリョナ様ァ!!」

 

 

横合いから腹を触ってきたリョナからバッと身体を離した。

怪我が治ったとはいえ一度切り裂かれた腹部はピリリと痛み…というか普段撫でられることも無いお腹をずるりと触られ気持ち悪かった。

 

蔑んだように見下す視線にリョナは不服そうに首を傾げると、立ち上がる。

 

 

「医療行為であってセクハラじゃねぇだろ?つーか10もいかないガキの身体触ったくらいで大げさな…」

 

「私は15歳です!」

 

「マジでっ!?…あーでも俺の妹もまだ体つき…でもベル君より年上って…」

 

 

頭を抱えたその姿は、最後見た時と全く変わらない。ひとまず怪我をしていない事にリリは内心安心しつつ…ほんの少しばかり恐怖していた。

そして――その左手に、蒼色の獣のタトゥーのようなものが彫られている事に気が付き、「アレ」が嘘じゃないことにどこか不安で、どこか物語を見ているかのような非現実感に疑惑を覚えた。

 

 

「リョナさん、リリは小人族(パルゥム)ですから…」

 

「俺いまいち亜人のこととか解んねぇんだよなー…あ、でも猫人(キャットピープル)は尻尾握るとキレるぞ」

 

「…試したんですか?」

 

「アーニャ」

 

「あっ…」

 

 

その一言に全てを察したベルはただ納得したようにゆっくりと頷いた。

仲のいい二人のやり取りを見てリリは自然に少し笑うと、目の前の二人も私の笑顔につられて笑ってくれた。

 

そして――リョナは見覚えのある鍵を取り出し、私の前に差し出した。

 

 

「…!」

 

「そういやこれ()()()()()()()…もしかしてお前のじゃねぇか?」

 

 

微笑のまま語り掛けてくるリョナの嘘に私は困った思わず眉をひそめてしまう。

しかし…どちらにしても少年には言いにくい話題だ、きっとこれはリョナなりの優しさなのだろう。

 

 

「…はい、ですがもう私には必要ないものです。()()リョナさんに差し上げます」

 

「…そうか、だけど場所が解んねぇし後で案内してもらっていいか?」

 

「えぇ、もちろん」

 

 

リョナは頷くと鍵を自らの首にかけ直す。

 

…別にノームの宝石などもう惜しくない、それに元々アレはリョナのものだ。

だから差し上げるなどとんでもない…返す、が正しいのだ。

 

私とリョナのやり取りにベルは首を傾げるも意味は解っていないようだった。

別にリョナからぎゅるぎゅる丸を盗んだとて謝ればベルは許してくれる、そんな確信にも近い思いをリリは持ってはいたが、自分から言い出すのは怖かった。

 

 

「ところで…左手の具合はいかがですか?」

 

「…さぁ、なんのことだ?」

 

 

そう言ってリョナは左手をひらひらと私の目前で振る。

斬りつけたはずの傷は完全に塞がっており、代わりに一昨日までは無かった蒼い狼の紋章。

 

それだけが二日前見たあの異様な光景の証明であり、いかに痛みで朦朧としていたとはいえ見間違えようのないあの「炎」がリョナのものであると笑っているようだった。

 

(この人は…何者なんでしょう?)

 

蒼い炎を纏った鉄の狼、穏やかな表情を浮かべた目の前のリョナ。

ベルと同じファミリアの構成員だというが、余りにその力は異様すぎた。

 

(…)

 

正直に言って、「怖い」。

何だか見ていたら身体の竦むような炎、足元の基盤丸ごと燃やされるような感覚。

だがそれでいて…仲間だというのなら少し心強くて、無条件に信用してしまいたくなるような。

 

警戒と…僅かな何に対してかも解らない期待をリリは見上げるようなリョナの顔に向ける。

 

そんなリリの視線の先、鍵を首に提げ終えると振り返りリョナはベルを見やる。

そして朗らかに笑うと「そうだ」と白い鎧に覆われた肩を掴んだのだった。

 

 

 

「ベル君、そろそろパーティ組もうぜ?」

 

 

 

・・・

 

 

 

後日譚、というか都市伝説。

 

オラリオに「ある噂」が広まった。

 

なんでもダンジョンから出てきた二人組の冒険者がいたらしく、余りに殺気立ったというか恐慌に陥ったような尋常でないその姿にギルド職員が声をかけた。

野次馬のようになった冒険者が言うには男たちの姿は全身を焼かれたようになっており、情緒不安定な男たちは何かをブツブツと呟いたり突然に叫んだりととても正気では無いようだった。

 

そして…狂ったようなまともに会話が成り立たない二人にギルド職員すら諦め、周りの野次馬たちも消えかけたころ。

 

突然男はダンジョン前のロビーいっぱいに聞こえる大音声で「とあるモンスターの情報」を叫んだ。

 

…何でもそれは喋り、炎を操り、ダンジョン内で馬を駆って鉄を打つ人型の狼。

鉄を操り、憎悪を吼える異形の化け物。

 

それから「それ」が「何を」言ったのか、それといかな名前だったのかを告げ、男はその場にいる全員にその存在を、味わった恐怖を警告した。

 

 

――哄笑。

 

 

その場が笑いに包まれた。冒険者たちは蔑んだかのように笑い、公的な立場にあるギルド職員も苦笑していた。

 

何だそれは、御伽噺の化け物か。

なんにせよ冗談か、あり得ない類の話。誰も真剣に受け取らず、その話の肝その化け物が「何を」言ったのかを馬鹿にした。

 

男二人はそのまま叫ぶようにその場を去り、後には誰も本気にしない馬鹿話のみが広がり、暫くオラリオで笑い話として噂されることになる。

 

 

絶対不変の存在である神を殺すと宣言した愚かなモンスター――

 

 

 

――その名を「神殺しの狼騎士(ウルフェンハザード)」、その噂の一つ目として。

 

 

 

・・・

 

 

 




はいというわけでリリ編は終了ー次回からは日常的な何かをやる予定です。

あちょっとだけ解説。
カウント1000でリョナは「狼騎士」を発動可能。
切り裂き魔の高揚でのステイタス向上もさることながら「蒼い火」と「鉄を打つ能力」を扱えるようになり大幅パワーアップ。

あれだね、無双状態だね。

※銑鉄って言葉をこれから多用していくんですが、誤用しています
この世界線では「温度で融解した液状の鉄」の事だとお思いくださいませ


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 新居

大の男が少女をシングルファーザー的な男手一つで育てるのっていいよね…戸惑いつつ育てる不慣れみたいな。
…え?解んない?解れ。

はいーというわけであけおめ、暫く日常編です。
と言ってもベルがアレにアレされるまでの…5日間くらいかな、短い間になると思うんですが、楽しくいこう、楽しく。
では今年もよろ



・・・

 

 

 

「ぎゅるぎゅる丸ゥー!」

 

「…」

 

「ぎゅるぎゅる丸ゥ久しぶりー!!」

 

 

少女の手渡した黒鉄のグローブをリョナは少年のように喜びながら受け取り、抱きしめる。

実に10日ぶりの再会は影の差した路地裏で行われ、久しぶりに主の元に戻ったぎゅるぎゅる丸も嬉しそうに(?)かちゃかちゃと鳴っていた。

 

――リリと再会した後、ベルと一度別れた二人はそのまま「オラリオ東区画」に向かった。

 

そこにあるのは「ノームの貸金庫」、店番に小さなしぼくれたノームの老人が座った路地裏にある店舗の中には幾つもの小さな金庫が入っており、沢山の鍵穴が暗い目で通りを見ていた。

そして…リョナから鍵を受け取りノームに金庫を開けてもらったリリは、その中に入っていたぎゅるぎゅる丸を取り出し、「鍵ごと」返したのだった。

 

 

「…すいませんでした!」

 

 

同時にリリは…頭を下げる。

タイミングとしては正しく、盗んだものを()()()()()()なんていう異常な状況で謝るのはここでしかありえなかった。

 

真摯にぺこりと頭を下げるリリにリョナは笑うのを止めると、真に微笑んだ。

 

 

「許す。ベル君に言われたからとかじゃなくて、盗まれた俺が許そう。生まれ変わる前のお前がやったことだし、何より返ってきた…それで十分じゃろ?」

 

「…!…ありがとうございます」

 

 

絞り出すように明るい声を出したリリは顔をあげる。

初めて笑ったその表情に、何だか少し安堵した俺は、戻ってきたぎゅるぎゅる丸を軽く持ち直した。

 

とはいえ…一緒に握らされていた鉄色の鍵を指でつまんで俺は、リリにちらつかせるように振って見せた。

 

 

「…というか本当に残りの宝石は良いのか?けっこうあったように見えたが…」

 

「…いえ、良いんです。リリは生まれ変わったので」

 

 

確か盗品を全て宝石に変えたと言っていた。

先ほど金庫が開いたときもキラキラとした綺麗な宝石が底に敷き詰められていたし、相当な額があるように見えた。

…とはいえ盗品、いわくつきの金であるならば今のリリには必要ないものなのだろうし、そこから足がついてしまうかもしれない。

 

ならば――確かに、まだ俺が受け取っておいた方が安全だろう。

 

頷き、鍵についた紐を首にかけた俺はとんでもないものを手に入れてしまったのかもしれないとため息を吐いた。

 

(つってもあの宝石よりぎゅるぎゅる丸の方が代えがたいけどな)

 

重要なのはそこだ、金庫の中にしまってあったぎゅるぎゅる丸が帰ってきた。

 

これでやっとダンジョン探索でモンスターに囲まれたら逃げなくて済むしカウント稼ぎも楽になる。愛用武器は…やっと帰ってきて、俺の腕の中に戻ってきた。

俺は、手の中に納まった黒鉄のグローブを感慨深くも眺め――

 

 

「…あっれ?」

 

 

――「壊れていること」に気が付いた。

 

右手は人差し指以外のワイヤーが、左手は中指と薬指以外の巻き取り機が壊れてぐちゃぐちゃに綻んでいる。

装甲には大きくひびが走り、分解しないと詳しく解らないが内部構造も大きく摩耗しているように感じた。

 

これは…最低でも幾つかのパーツの換装をしなければまともに使えない。

修復不可能という最悪な状況というほどでも無いが、確実に…「厄介」であることは確かだった。

 

 

「あのっ…もしかして壊れて…?」

 

 

気が付けば後ろからリリが覗き込んできていた。

察したように俺の手の上でひびわれたぎゅるぎゅる丸を見てしまった顔は青ざめており、栗色の瞳は大きく目を見開いていた。

 

おおかた自分の責任だと思っているのだろうが…それは否だ、俺は笑って首を振る。

 

 

「いや確かに壊れてるがお前のせいじゃない、元々壊れかかってたのがついにキタってだけなんだ」

 

 

思えば元々酷使していて、手入れをしようと思った矢先盗まれ、狭い金庫の中に無理やり押し込まれた結果壊れるのは…まぁ仕方のない事と言えた。

仕方ないのだが…割と問題は切迫しているのも事実だった。

 

笑いながら困ったように影る俺の表情に、リリは簡単に慌てふためき詰め寄ってきた。

 

 

「な、何か私に出来ることは…?」

 

「カーボンファイバー、ジェラルミン、チタン合金…あるいはアルミニウム、スカンジウムetc」

 

「え…な、何ですかそれ?」

 

「…だよな、すまん変な事聞いて」

 

 

ひとまず復元しようと思ったら必要になる「向こうの世界の」素材を羅列してみた。

しかしリリは困惑の度合いを深めるばかりで、心当たりはないようだ…当たり前だ、こちらの技術はそこまで進歩していない。

 

つまりそもそも「素材」が手に入らないから――詰んでいた。

 

(…修復…どうしたもんか…)

 

それに素材があったとしても俺は精々趣味レベルで、というか両橋家の最新施設があったからこそ「これ」を作れたようなもので、知識として原理は理解していても「技術」は備わっていない。

 

いわゆる鍛冶、鉄を溶かし打って…ぎゅるぎゅる丸の修復をするしか方法は無いのだろうが――つまるところ「素材」も「技術」も足りていなかった。

 

 

「ふぅ…」

 

 

しかし悩むのは後だ。責任を感じてしまっている少女の前でいつまでも落ち込んでいられない。

一度表情をリセットした俺はぎゅるぎゅる丸を腰につけ、そのやっと戻ってきた「手慣れた重さ」に安心し笑うと、リリの手ごろなフードを被った頭にぽんと掌を乗せた。

 

 

「…っ…何を?」

 

「あー…良いんだよ別に、心配かけられたっていいしこれだって必ず直せる…だからそんな顔すんな」

 

 

そういってリリの頭をフード越しにガシガシと撫でる。

俯いた少女はフードの下で少し驚いたような表情を浮かべた後、少し笑ってくれた。

 

それに少し()()した俺は息を吐きだし…何故自分が安堵しているか解らなくて目を見開いた。

見開いてから…今はどうでもいいかと首を振る。

 

 

(…何にせよ、まずは『場所』だな)

 

 

そして「ぎゅるぎゅる丸修復の手はず」を考え始めるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「――家を?」

 

「あぁ、ぎゅるぎゅる丸を直す…『鍛冶場』みたいな場所が欲しいんだ」

 

「なるほど…とはいえリョナさん、予算はおありなんですか?」

 

「ん…まぁそれなりにな」

 

 

リリから預かった鍵、その貸金庫の中に大量にあったノームの宝石。

換金すれば相当な額があったそれは、それこそ家一軒くらい買えるだけの金額があった。

 

鍵を胸元から出し、カウンター越しに俺の提示した額にエイナは「…大丈夫そうですね」と頷くと、戻ってきたぎゅるぎゅる丸に少し喜び微笑んでくれた。

 

――家を購入することに決めた俺はギルドに来ていた。

 

 

「あーだからベル君―!?暫くパーティ組めないけどごめんねー!」

 

「…へ?あぁいえ僕はいつでも構わないので!先にぎゅるぎゅる丸を直してください!」

 

 

ギルド、面談用のボックスカウンターに座ったリョナは、相対したエイナから振り返ると、遠くのソファでリリと一緒にいるベルに声をかける。

ぎゅるぎゅる丸が壊れてしまった以上ダンジョンに行くより、正直それを直す方が優先度が高い…であれば当分ベルとパーティを組むのも先になる。

 

リョナの方から声をかけたのだが、ベルは特に気にしていないようで、というかむしろ嬉しそうに笑って手を振ってくれた。

 

それに俺は頷き手をぶんぶんと振り回し返すと――ムスッという顔を浮かべたエイナに身体を戻した。

 

いかにも不機嫌な彼女の様子に俺は「面倒くせぇ…」と内心ぼやきつつ、笑いながら椅子にもたれかけなおす。

そして…彼女が組んだ指でトントンと卓上の木目を叩き、メガネを午前10時の陽の光に反射させた。

 

 

「…というかリョナさん」

 

「おいおいコボルト面してどうした?」

 

「いや怒ってないですけどコボルト面ってあれですか犬面ってことですかそうですか」

 

「うん悪かった、悪かったから頬を摘まむな」

 

 

ほんの場を和ますための冗談のつもりだったのだが更に怒らせてしまったようだ。

無表情に頬をつねりあげてくるエイナにリョナは苦笑すると離してくれるまで待つ。

 

そして白いすべすべの掌が離れ、エイナがため息を吐いてひそひそ声で喋りかけてくるまで痛みに耐えた。

ヒリヒリと痛む頬を擦りながら俺は自虐的の口端を吊り上げると、顔を近づけてくるエイナに合わせるように少し身を前に乗り出す。

 

 

「…それで?結局どうなったんですか…!?」

 

「…何が?」

 

「…あれです、()()()…!」

 

 

声量を抑えたエイナと小さな声で喋りながら、彼女が小さく指さした方向を振り返る。

 

――そこにいたのはベルと「リリ(少女)」。

 

(そういえばコイツ気にしてたんだっけ…)

 

ベルの周りにいるソーマファミリアのサポーター。

思えば最初それをリョナに忠告してきたのはエイナだった、それ以外にもいろいろと手を回してはいたそうだし、リリと一緒にいる「この結果」が気になるのは当然だろう。

 

 

「あーそうだなー…大天使ベルベルの慈愛によって世界は救われましたとさ、以上」

 

「はぁー?…あぁ、あなたに聞いたあなたが馬鹿でした…」

 

「あん?良いんだよ別にこれで。確かに以前のアイツはロクな奴じゃなかったが、それなりに生まれ変わったからな。むしろこれからのこと見てやってくれ」

 

「…」

 

 

不服そう、だが頷いたエイナにリョナはふー…と満足げに息を吐く。

 

――様々な要因があった、しかし結局ベルがリリを許したという結果以上のことは説明する必要が無いし、心配する必要も無い。

勿論、今後も何かに巻き込まれるかもしれない。だが仲間になったのなら、俺があるいはエイナが…大人が許さなければ誰が許すというのだろう。そして…誰が守ってやれるかも。

 

いつになく真剣な表情で語るリョナにエイナは少し驚いたかのように考えた後、再び頷き微笑んだ。

 

 

「…まぁ、リョナさんがそこまで言うなら解りました。私も信じてみようと思います」

 

「信じなさい、無条件で信じなさい。そしてこの壺を購入するのです」

 

「最後にそういうこと言って台無しにするのホンット良くないと思います!」

 

 

むくれたエイナにたははと笑った俺はぐっと背中を伸ばした。

そしてそれなりに間を取りカウンター上にゆっくりと腕を組み直すと…本来の目的を促すことにした。

 

 

「…それで、家は売ってるのか?」

 

「あぁ、そういえばそうでしたね。…少しお待ちください」

 

 

頷いたエイナはカウンターからすっくと立ち上がると、何かを探しに書類棚の方に向かい歩いていってしまった。

 

…歩き去っていく彼女の味気ない尻を笑い飛ばした俺は振り返る。

 

昼も近いギルドにはかなりの冒険者がいる、様々な匂いが入り混じった空間はもはや慣れたものだが、増えてきた情報量にたまたま嫌気がさす時もある。

そういう時は見知った匂いを探すと落ち着くのだが…例えばベルの少し甘い匂いとか、リリの…あいつには良い石鹸を買ってやろう。

 

そして――混じったような黄金の匂い。

 

(…気のせいか?)

 

知った匂いではあるが視界内にはいない。

ソファで何やら喋っているベルとリリの姿を眺めながら首を振る、鼻の先を掻くと嗅ぎ間違えであったと自分で自分にうそぶいた。

 

 

「…お待たせしました」

 

「おう」

 

 

声をかけられ振り返る、カウンター越しのエイナは十数枚程度の紙を脇に抱えており、それをカウンターの上に置きながらまた高椅子に座り直していた。

俺はエイナが何やら紙を整理していくのを見ながら頬杖をつくと、少し暖かい陽気に大きく欠伸をついた。

 

 

「あ」

 

「ん?」

 

 

声を漏らしたエイナに視線を落とす。

首を傾げた俺にエイナは紙束の中から一枚抜き取ると――俺に見せてきた。

 

 

「――こことかめちゃくちゃ良いですよ!」

 

「ほう?」

 

 

何だか少し興奮したようなエイナから手渡されたA4ほどの大きさで出来た用紙を俺は片手で受け取る。

俺は解りやすいレイアウトで「物件の情報」が書かれた紙を眺め見ると…僅かに眉を上げた。

 

手渡したエイナは少し興奮したように説明する、その様はどこか毅然とした受付嬢というより素のエイナ自身が興味を寄せているようだった。

とはいえ…パッと見た紙の情報自体は至って普通のようなのだが。

 

 

「ここ、()()()にギルドに売却された家なんですが家具付きお手頃価格、土間があってそこで鍛冶もできそう。しかも庭付きですよ!」

 

「いやそれはいいんだけど…」

 

 

狭い一軒家、四角い土地にL字型の物件。余った土地に庭。

内装などは見てみないと解らないが確かに相場に比べるとだいぶ安い価格が書かれていた。リリから貰ったノームの宝石で予算はそれなりに確保出来ているが、この価格ならばその全体の4割程度の値段で済む。

 

しかし――これは逆に安すぎる。

 

それにエイナがここまで勧めてくる理由が解らない、勿論安いのは良い事だがたったそれだけの理由でわざわざ一枚推すだろうか?

 

(…)

 

安すぎる物件、エイナのような女が気を引く話題、そして(自分で言ってて悲しいが)多少面倒を被せても生き残る友人…となれば――

 

 

「――何か…いわく付きとか?」

 

「あーダイダロス通りにあるってのも理由なんですが…」

 

 

住居の場所を見る。

ダイダロス通りの…だいぶ「浅い」場所、立地は悪くないのだが、治安はあまり良くない。

それに貧民街というイメージが良くない、一般人であるならば少し値段が張っても普通の住居

 

ここ(ダイダロス通り)…であるというだけで価値が低くなるのは半ば自然で、仕方がない事だった。

 

そして視線を上げエイナが目をそらして笑い続けるのを、目を細めて見送った。

 

 

「いやー噂に過ぎないんですが数年間にわたってこの家から悲鳴が聞こえるとか何とか…前の住人は頑なにそれを認めなかったらしいんですが、最終的に逃げるように退去していったとかで…本当に出るのではという噂に…まぁ、はい。いわく付きでお安くなっております!」

 

「…」

 

「でもまぁリョナさんなら気にしないですよね!」

 

「いや…まぁ確かにあんまり気にしないけどさ」

 

 

決めつけられるのは違うというか、開き直るのも何だか腹が立つ。

 

…というか完全に興味本位、知り合いに「悲鳴の聞こえるいわく付き物件(ゴーストハウス)」を買わせて、その実どうだったのかだけを知りたいだけ。

 

(鉱山のカナリアよりひでぇ…)

 

ため息を吐いたリョナは紙を見下ろし、その条件に目を通す。

 

悪くは無いように見える。正直条件と言っても充分な場所さえあればいいし、安いのであればいわく付きでも良かった。

はめられたのは癪だが、幽霊なんて怖くもないむしろ来いスタンスの俺としてはそれ以外良さげなこの物件を押さえておくに越したことはない。

 

カウンター上に紙を投げ捨てたリョナは複雑な表情で数度頷く、それにエイナは頷き返すと「では」と営業スマイルを浮かべて見せて尋ねてきた。

 

 

「視察に伺いますか?」

 

「おう、頼む」

 

「では…いつ頃にしましょう?私は今日でも構いませんが」

 

「んーそうだな…」

 

 

ひとまず流れとしては内装を見て、よければ契約して買い取り。

善は急げというし、できるならば今日中に視察に行って早いところぎゅるぎゅる丸を直すてだてを整えたい。

 

(つっても流石にヘスティア様にも言うべきかなー…ベル君は…?)

 

一時的な購入かもしれないが家を買うとなると報告するべきかもしれない。

…まぁ逆に住みつかれそうで言いたくないというのもあるが。

 

(というか自由なスペースが欲しい…)

 

教会地下の一室では余りに自分のプライバシーが無い。

これでは女を連れ込むことも趣味を育むこともままならない、正直前々から自分だけの部屋が欲しいとは思っていたことではあった。

 

21歳男、言葉にすると悲しいが色々と性急に飢えていた。

 

俺は席上で首だけ振り返り、ひとまずベル君の予定が空いているかどうか尋ねようと――

 

 

「おーいベ…ル…君?」

 

 

――何故か、修羅場があった。

 

ソファの付近に顔面蒼白で立ったベルとその腕を引っ張るように掴んだリリ。

猫をかぶっていた時からは考えられない程の警戒心を滲ませながら少女は強くベルの腕を引き、睨むようにベルの前に立った女を睨みつけていた。

 

それは――黄金の風。

 

 

「あ」

 

 

話に集中していて臭いに全く気が付かなったが、そこには知った匂い。

綺麗な金髪を黄金に輝かしながら垂らし、白いぴったりとした服と青いブーツを身に纏った良い匂いの少女。

 

知っているその後ろ姿に俺は席から立ち上がると、絶賛修羅場(?)っぽい環境に足を踏み入れた。

…そして特に剣呑な空気に躊躇うことも無く少女の背中に――レベル6冒険者「アイズ・ヴァレンシュタイン」に声をかける。

 

 

「よぉーアイズ」

 

「あ…えっと…リョナ、久しぶり」

 

 

少女は前見た時と変わらない無表情でぴくりと声に気が付くと、視線をチラリとこちらに上げた。

その手にはエメラルドグリーンの…確かベルの手甲だったろうかアームプレートが持たれており、彼女自身と僅かに「霧の臭い」がこびりついていた。

 

そして声をかけてきたのが知人であることを知るとくるんと振り返り、ぼんやりとした黄金の視線で「なにか?」といった風にじっと観察してきた。

 

(何か調子狂うよなぁ…)

 

目尻以外は凛とした容姿と反対にぼんやりとした中身、完全に喋りかけられる待ちなその姿勢に俺は八の字に眉を顰めると顎を触る。

それから何故ベルのグリーンサポーターを持っているのかを訊こうと――

 

 

「あ、横」

 

「えっ」

 

 

――ひょいとアイズが唐突に左を指さす。

つられて俺がそちら、つまりギルド入り口の方を見る間もなく…視界の隅で超高速な「褐色」が入り口から突っ込んでいるのを僅かに知覚したのだった。

 

 

「リョナくぅぅぅんッ!!」

 

「なッ…グハッァ!!?」

 

 

黄色い叫び、そして吐血。

 

何かと見やる暇も無く横っ腹に何かを叩きつけられる、否、俺は――「抱きつかれかれていた」。

 

瞬間、衝撃。あばらの軋む音が聞こえ、レベル…5?冒険者の見事なクラウチングスタートをもって切られた通称アマゾネスタックルが激痛とともに訪れる。

 

身体が短く1メートルほど吹っ飛び、低いカウンターに背中が叩きつけられた俺は一瞬で遠くなっていくベルの驚いた顔から更に視線を落とすと、自らの身体に抱きついた少し柔らかいような硬いような飛来物に揺らいだ視界で注視する。

注視しながら…衝撃で揺れたカウンターから降ってくる埃を頭で受けながらただ静かに吐血していた。

 

そして――腹の上に乗った『アマゾネスの少女』に、それはもう悲しいぐらいの笑みを浮かべる事に決めたのだった。

 

 

「…よ…ぉ、ティオナ…」

 

「リョナ君ー久しぶりぃー!元気してたー?」

 

「元気ではないけど…ティオナ…会うたびに死にかける俺の気にも…ごふばっ!?」

 

「えー女の子に抱きつかれただけで死にかけるとかリョナ君貧弱ーこれはもっといいファミリアに行くしかないんじゃないかなーかなー!?」

 

 

言葉とともに締め付けが強くなる。何が彼女をここまで執着させるのかは俺は知らないが、実害が(肋骨に)出るためいい迷惑だった。

 

つまり定期的にやってくる勧誘という名の脅迫(抱きつき)をしてくる少女、ティオナ・ヒリュテが俺の腹の上には乗っていた。

相変わらず太陽のように明るく元気な良い笑顔を浮かべる小さく褐色な彼女だが、会うたび抱き着いてくる…つまり死にかける。

 

悲しい事に()()()を持っていない彼女のそれはもはや殺人的であり、果たして誘惑なのか脅迫なのか解らないという(むしろ)悲しい結果に終わっていた。

 

 

「せめて…おっぱいが…!」

 

「あばら、逝っとく?」

 

「いやもう逝ってるから…」

 

 

微笑んでくるティオナに悲しみと嘆き(溢れ出る吐血)を拭いながら俺は、肋骨が本当に折れていないかどうか確認する。

()()とはいえレベル差4のタックルは正直シャレにならない程の威力がある、それはオッタルとの戦闘で身に染みた。

地力の差が桁違いだと猫のじゃれつきもネズミにとってすれば惨殺にも近い、というわけだった。

 

…とはいえ折れていない、ひとまずため息を吐いた俺は抱きつき見上げてくるアマゾネスに困惑を込めた視線を送りつける。

というかどけよ、と思いながら腹上に乗っている彼女に疲れたように笑った。

 

 

「うん、まぁ久しぶりだな…相変わらずのタックルのキレ…感服しました」

 

「君もロキファミリアに入ってこのタックルを身に着けよう!」

 

「ごめんそれにはマジで魅力を感じない」

 

 

タックルが上手くなるファミリアってなんだよ…。

 

ちなみに――モンスター騒ぎ以降ティオナとはちょくちょく会っている。

会っている…というか俺が飯を食っているといつのまにか現れたり、道を歩いていたら(親方)空から降ってきたりと神出鬼没にコイツと出会う。

…その後は酒飲んだり飯食ったり一緒に遊んだりと、結構仲良くはなっていた。

 

しかし…ぎゅるぎゅる丸を失くして忙しいから暫く会えない、そう伝えると結構アッサリ引きさがって事実絡んでくることが無くなった。

とはいえ見つけたから適当にこちらから声をかけようと思っていたのだが…何故解ったのか、野性の勘か。

 

 

「…で、何でお前いんの?」

 

「えー…たまたま?」

 

「…」

 

 

まぁここは冒険者ギルドだし、トップクラス冒険者である彼女が利用したとして全くおかしな話ではない。それに彼女と仲の良いアイズがここにいるのだから何となくついてくることだってあるだろう。

 

とはいえ…その結果死にかける、何故ギルドの外からの助走なのに俺が中にいる事が解ったのか、野性の勘か。

 

 

「――あのッリョナさん大丈夫ですかッ!!?」

 

「ベル君…お前が天使か…」

 

 

カウンターに打ち付けられ腹の上にあばら粉砕機(アマゾネス)を乗せた俺に、ベルが慌てて近づいてきてくれた。

酷い仕打ちに会ったばかりの俺にとってそれはもはや暗雲を切り払う太陽のようで…清涼感と元気が溢れてくるのを感じ、胸が無くても良いんだ!…と思えるほどの感傷を抱かせた。

 

そして差し伸ばされた手を掴み、ぶらんと垂れた褐色に首筋を抱きつかれたまま立ち上がると、痛むあばらを抱えたままその大地に二本の足を踏みしめたのだった…!

 

 

「というか…お二人はどういう関係なんです?」

 

「彼女」

 

「おい、嘘つくなティオナ…というか俺の彼女とかなってどうする…」

 

「…それは、いろいろあるし…ゴホン、初めまして私ティオナ・ヒリュテ!君はリョナ君のファミリアの人?よろしくね!」

 

「…あ、はいどうも初めましてティオナさん僕の名前はベルと言いまs…ティオナ・ヒリュテ!?」

 

 

その名前にベルは驚愕の表情を浮かべる。

俺の首にぶら下がったままのティオナは「そうだよその反応だよ!」と呟き、大きく頷くとぶら下がったままゲシゲシと俺に蹴りを入れてきた痛い。

 

仮にもこれでもトップランク冒険者、知名度はあるらしくベル君は知っていたのだろう…俺とは違って。

驚愕の表情を浮かべたベルは俺の事を見上げると、困惑と驚愕の入り混じった声を絞り出す。

 

 

「りょリョナさんの交友関係って…というかさっきもしかしてアイズ・ヴァレンシュタインさんとも…!?」

 

「…確かに知り合いだけど、全て成り行きだぞ…というか肋骨が犠牲になってる分ロクな交友関係じゃないです」

 

「そ、そうですか…」

 

 

首にぶら下がるティオナを指さしながら首を振る。

納得したのかしてないのか解らないが頷いたベルに、経験者は語るといった風に説明した俺は悲壮露わに再度首を振った。

 

とはいえ――そういえばベルはアイズの事が好きだった。

 

すっかり忘れていたが、高嶺の花的な恋をしていたはずだ。

それに普段話さない事から鑑みるに接点も無し、想うばかりで奥手なベルには会話すらままならないはずだ。

それでも…身内に接点を持っている人がいたのにそれを知らなかったのはそれなりにショックだったのかもしれない。

 

今更だが紹介してやればよかったと、少し申し訳なくなった俺は顎を掻く。そしてちらりとアイズの方を見やるとどうしたものかと眉を寄せた。

 

 

「あのリョナさんー?契約放置して遊ぶのはやめていただけますー?」

 

「あっすまんエイナもうちょい待って、なぁアイズ」

 

 

――のだが放置していたエイナから半ば蔑んだような視線が飛んできた。

ひとまず謝った俺は「きっかけでも作ってやるか」と気を利かせると、相変わらずぼっーとこちらを俯瞰していたアイズに声をかけた。

それからその手に持たれたエメラルドグリーンの篭手を指さすと、少し早口に指摘する。

 

 

「お前ベルに用事あんだろ?」

 

「あっ…うん、そう」

 

「ぼっ僕に!!?」

 

 

頷いたアイズがベルの方を向く。

その黄金色の瞳に見つめられたベルは全身の毛が逆立たせるように全身跳ねると、その驚きのまま走り去り逃げようとした。

 

 

「逃げんな」

 

 

かなりの速度で逃走を図る赤くなったベルの首筋を俺は視界外でガシリと腕を伸ばすと掴む。

真っ赤になった白兎は逃げることが叶わない事を悟ると、涙目を浮かべると振り返り、情けないまでの声を俺に向けた。

 

 

「ひ、ひどいですよぉリョナさん…!」

 

「いや何で逃げんのかも解らんけど…あれベル君のだべ?」

 

「え!?…あぁーー!!?」

 

 

アイズの手にしたグリーンサポータを指さすと、今の今まで気がついていなかったようでベルが叫んだ。

…何故アイズがそんなもの持っているかは知らないが、きっとそれが彼女のここにいる「理由」なのだろう。

 

(まぁ後は若いもんに任せて…)

 

何でそれを!?と先ほどまでの逃げ腰もどこへやら躊躇いなくアイズに詰め寄ったベルに安堵の息を吐いた俺は振り返る。待ってくれていたエイナに向き直ると数歩進み、先ほどまで座っていた椅子に近づきギシリと座り込んだ。

 

…そして、首周りにかかっていた迷惑生物(ティオナ)が、何故か俺の膝の上に座り直し、首に腕を絡めてくるのに苦笑する。

 

 

「…何か増えてません?」

 

「気のせい気のせいー!それでー?何の話ー?」

 

 

膝の上にティオナを乗せた俺に軽蔑の目線を向けてくるエイナに「違う俺のせいじゃない」と目で訴えかけながら、さりげなくティオナの膝に手を乗せてみる。

 

…何の抵抗も無い、やったぜ10代少女の太ももを撫で放題だッ!

 

 

「…」

 

「ごほん…いや…うん、ほんとごめん」

 

 

とはいえ良い加減エイナの視線が殺人的なので手を離す。

お互い合意ならええやんッ!…というか何故エイナがそこまで怒っているのか解らない。

 

悲しくなった俺は絶賛膝の上で自由行動しているティオナに視線を落とした。

…身長差があるとはいえ髪が顔にかかる、髪のつんつんとしたところが地味に刺さり…というか膝丈ほどの童女ならいざ知らず(胸以外は)標準的な彼女を膝の上に乗せているのは何だかとてつもなく違和感があった。

 

(つかカウンター見えねぇ…)

 

細く小さな身体とは言え机の上の書類は全く見えない。

反対にティオナはカウンター上に躊躇いなく目を通しており、キスするくらい近い距離で振り返ってキラキラとした目で俺の事を見上げてきた。

 

 

「もしかして…リョナ君家買うのッ!?」

 

「お、おう」

 

「へーそっかー!…あ、私極東のヒノキブロ?っていうの興味あるんだけど置いていいよね?」

 

「あー檜風呂いいねぇ、この世界にもあんのかーちょっと奮発するかー…って待て何で来る前提で話してんの?」

 

「同棲?」

 

「ッ…」

 

 

心なしかエイナの視線の鋭さが増した。

睨むようなその視線に俺は(びびって)その小さな頭をぽかりと叩くと、エイナの視線を無視して無言のツッコミとした。

 

とはいえ檜風呂か…ここのところシャワーばかりだし、肩までお湯につかりたいと思うのはもはや日本人の本能に近かった。

公衆浴場という選択肢もあるが、せっかくなら毎日浸かりたい。

 

 

「…それで!視察はいつにしますか!?」

 

 

明らかに不機嫌になったエイナが少し荒々しい語気で尋ねてくる。

その様に俺は苦笑しながら少し考え、答えた。

 

 

「うん…この後すぐ頼むわ、別に用事ねぇし」

 

「はい、かしこまりました。今準備してまいりますので少しお待ちください」

 

「私も行くー!」

 

「…あぁ?断る、というか真面目な話だから…エイナも何か言ってやりなさい」

 

「…私は、別に、構いませんけど」

 

「やだこの子すっげー不機嫌!?」

 

 

しかめっつらのまま席を立ったエイナはそのままどこかに去ってしまった。

 

 

「じゃあ行っていいよね!決定!!」

 

「…」

 

 

ついてくる宣言をし、にははと笑うティオナにため息を吐いた俺は力なくその場にうなだれる。悲しい事に純粋な腕力では勝てないし、この少女はやるといったら絶対にやる。

 

――ロクなことにならなきゃいいが。

 

 

「あっアイズも行くー?リョナ君がじゃが丸君奢ってくれるってー!!」

 

「!…行く」

 

「被害が拡大するッ!」

 

 

…結局、アイズとベルとリリ、そしてエイナとティオナと俺で視察に行くことになり、俺は全員分のじゃが丸君を奢らされることになったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「はぁッー…」

 

 

時刻は既に夕暮。

楽しいようなやかましいような時間はあっという間に過ぎていき、一人「家」に残された俺は長い息をゆっくりと吐きだす。

 

あの後視察に行った俺はその場で家の購入を決定した。

エイナと契約を結び、貸金庫に走ってノームの宝石を必要分換金してダイダロス通りにあるその家を土地ごとまるっとごりっと一括買いした。

 

そして――そこからが大変だった。

 

まず外観は良い、L字型の木造建築。少しボロイが芯はあり、「家の寿命」としては特段問題無い普通の家。

 

しかし…内装。家の中に入った瞬間「気持ち悪い」。

 

大きく区分して右側に台所、左手にベッドの置いてある居住区、そして左奥に土間、そこから縁側があって小さな庭に続いていた。

パッと見日本家屋、台所にはかまどが置かれ、ベッドスペースに畳何か敷いてしまえば完全に日本建築そのもの――しかし置かれた家具の趣味が悪すぎた。

 

…例えば、ベッド。

 

 

「oh…」

 

「うわ見てこのベッド!ゴブリンの顔がいっぱい彫られてるよ!?なんで!!?」

 

「何でゴブリンに見つめられながら寝なきゃならん…」

 

 

家具のおおむねがこんな感じ、汚くは無いが整合性すら感じさせる趣味の悪さに改めて見て辟易した。

 

――いわゆる「怪物趣味」。

というほどでは無いのかもしれないが、モンスターが好きなど頭がおかしい。

否、竜女などたまに美しいケースがあり欲情する輩がいてもいい、だがゴブリンフェイスに見られながら寝るのはレベルが高すぎる。

 

結果家具全て買い直し、せっかくなら掃除もということで大掃除することになったのだった。

 

――そういう意味では人手があったのは助かったのだが。

 

エイナは流石に帰ったが、「リフォーム」をベルやリリ、それに残ってくれたアイズとティオナが手助けしてくれたのだった。

 

 

「アイズお前それ重く…なさそうだな」

 

「…ん?」

 

 

まず家の中の悪趣味な家具を全てゴミに出した。

アイズなど一級冒険者はその力を余すことなく発揮し、重いベッドなどを軽々と持ち上げて移送してくれた。

ステイタスで強化された冒険者たちは運送業者としてピカイチで…多分世界で一番非効率な使い方だった。

 

ものによってはばらばらにしてくれたし、粗大ごみはとんとん拍子で一瞬で片づけられた。

…ティオナが木彫りのゴブリンフェイスを身に着けて跳びかかってきたのは笑った。

 

――次に家具購入。

 

これはティオナとリリが詳しく、日本っぽい桐ダンスや落ち着いた色のベッドなどを購入することが出来た。

二人の案内で俺が店をめぐり、購入した家具をアイズとベルが協力して家に運ぶ…という行程は運搬役の二人に負担がかかりすぎかなと思いこそしたが…きっかけ作りのため、何かしら進展しろと願った結果だった。

 

ついでに檜風呂など建築する業者(ファミリア)とも契約してきた、明日以降になってしまうが内装に至っては完成の目途が立った。

 

ところどころ木壁の禿げた部分が気になるので補修作業はしたいが…充分に満足できる一軒家になったのは明らかだった。

 

 

――かくして僅か一日で匠によるリフォームは完遂し、俺は「俺の家」を手に入れたのだった。

 

 

「だいぶ…疲れたけどな…」

 

 

すぐふざけようとするティオナと良く解っていない天然レベルMAXのアイズ、アイズに委縮しすぎてまともに動けていないベルと前の怪我がまだ残っているため無理はさせられないリリ…4人を纏めるのはそれなりに疲れた。

 

まぁその結果結構良い内装の家が完成した。日本風の家は静寂漂い、夕日を浴びて赤く杢目の付いた床に差す光条に落ち着いた。

今日買ってきた椅子にぎしりともたれかかった俺はもう一度家の中を見渡してみる。

 

 

「…」

 

 

玄関は引き戸、L字型の家の中には壁というものが無く言わば一つの部屋になっている。

入ってすぐ右側に台所、かまどが置かれ水場が一つと空いたスペースに大きな樽が幾つか置かれ、食事用のテーブルと現に俺が座っている椅子が二個ほど置かれていた。

 

そして左側はフローリング、一段高くなったそこには元々悪趣味なベッドと家具、訳の分からない調度品なんかが所狭しと並んでいたが現在はベッドと桐ダンスだけが置かれていた。

本当は畳にしたかったのだが…設計上難しい、明日くる風呂業者に出来るかどうか訊いてみるつもりだが結局家具代やらなにやらで予定金額をかなりオーバーし、宝石の7割程度は使ってしまった…あんまり無駄な浪費はしたくない。

 

 

「鍛冶場…まぁ足りなかったら増築すっか」

 

 

左奥、土間。

ござが敷かれ、石造りの炉が置かれたその場所は他に比べると綺麗で使われた形跡も無い。

低い椅子が置かれ、鉄を冷やすための入れ物ととりあえず適当に見繕ってきたハンマーなどが雑多に置かれていた。

 

…思ったより狭い、まぁ庭には何も無いので最悪そちら側をぶちぬけば縁側のスペースも物が置けるだろう。

そして右奥、小さな庭には何もないが台所側への小窓があり会話できるようになっていた。

 

 

「…良い感じだな」

 

 

質素な木造建築。

別にぎゅるぎゅる丸が直るまでの付き合いでもいいとさえ思っていたが、一人暮らししていくにはこの家は申し分ない。

電撃購入ではあったが実に日本らしい家を俺はもう既に気に入り始めた。

 

 

…先ほどまでの喧騒もどこへやら静寂の支配した部屋の中、俺は欠伸を一つ浮かべる。

 

 

手伝ってくれた四人には素直に感謝で、楽しい思い出もいくつか出来た…最後ティオナに檜風呂を約束させられたのは極めて遺憾ではあるが、まぁ少しくらい使わせてやってもいいだろう。

それに何やらアイズとベルは話せているようだったし、俺は少し距離感が遠かったリリと仲良くなることが(多分だが)出来たはずだ。

 

 

――年の離れた友人たちの去った部屋、俺は一人伸びをする。

 

 

 

 

 

 

 

「…さて」

 

 

 

 

 

 

楽しい時間は過ぎた、家の中にも満足したしそろそろ立ち上がろう。

テーブルに手をついた俺は身体を持ち上げる、と疲れた体をぐっと伸ばす。

夕暮に染まった「自分の家」をもう一度眺めると、伸ばした身体を弛緩させ――「剣を掴んだ」。

 

 

 

「どこらへんだろうなぁー…」

 

 

 

呟きながら剣を引き抜くと現れた刀身が赤く陽に照らされ輝く。

 

狼騎士(ウルフェンハザード)」の解除と共に元の何の変哲も無い直剣に戻った剣は、唯一の名残としてその刃先をほのかな薄青色に変色させていた。

 

慣れてきた握りの感触を確かめ直した俺はくるりとその剣を手の中でくるりと回す。

 

そして――鼻を鳴らすと、ゆっくりと家の中を歩き始めた。

 

 

「…あー…」

 

 

刃先で床を傷つけないように撫でながら歩く。

良くなった鼻を使い俺は大方の予測をたてると台所からベッドの辺りにまでやってきた。

 

――追跡、この満足な家にある唯一の違和感。

 

 

「…ここか?」

 

 

踏むとギシリ、と床が鳴る。

軋んだ床に呟いた俺は剣先を振ってコンコンと叩いてみた。

 

――空虚な音、まるでそこに空洞でもあるかのような。

 

 

「ふー…やるか」

 

 

息を吐き、決意を固める。

直剣を逆手に持つと、グッと握りしめた。

 

そして――振り下ろす。

 

 

 

「…ッ…いぃー!?ぐっせぇぇ…!!」

 

 

 

刃が床を割り、木が弾け、汚臭が噴出した。

 

爆発のように何かも解らない悪臭が突き立て、()()()床から漏れ出てくる。

涙が出るような刺激臭に堪え切れえなくなった俺は顔を逸らすと、チラリと空いた穴を見た。

 

 

「…くそ、まだわかんねぇ…!」

 

 

未だ小さな穴では「その先」が見通せない。

もう一度剣を振り上げた俺は削るように、床板を突き砕き始める。

汚臭に耐えながら振り下ろした刃が柔木を容易く切り裂き、周囲に小さな木片が飛び散った。

 

 

「…ッ!」

 

 

――そして現れたのは、地下への入り口。

 

パラパラと落ちる木屑の先、押し扉は既に開けられており梯子の続く先の虚無にブラブラと揺れていた。

明かりの一つも無いそこは暗く、石で造られた壁は夕日で赤く縁取られ穴のような床は見通せなかった。

 

 

「やっぱり…あるのかぁ」

 

 

掃除をして、新しい家具を搬入している時に気が付いた。

どこからか知ったような汚臭が漂い、最初こそ気のせいかと思ったのだが結果としてこの穴を嗅ぎ開けてしまった。

 

酸っぱいような腐臭の漂う地下への通路。

『張り直された床板』の下にあったそれは作為的で…隠されていた。

 

――睨みつけるようにその「死体の臭い」が漂う穴の底を覗き込む。

 

 

「…はぁ…行くか」

 

 

剣を鞘に戻した俺はため息を吐く。

そして梯子に足を伸ばし耐久度が充分な事を確認すると、くるりと半回転し片足をかけると、エイナに説明されることの無かった地下室へ――

 

 

「あ、そうだ」

 

 

――その前に拳を握る。

 

 

「…ッく…ぬん……よし、何とか出来たな」

 

 

炎を灯す。

 

カウントゼロの今の俺の「憎悪」では殆ど火力は出ず、何も燃やせない。

…が代わりに周囲を照らす炎を作れる、それこそ拳大の火球を(何とかではあるが)生成することができるようになったようだった。

 

手を離し、空中にふよふよと漂う蒼い火球がついてくるのを確認すると今一度穴の底を振り返り見る。

死臭漂うその穴は未だ暗く――何故こんなものがあるか、俺は何となく察し始めていた。

 

そして蒼い火球を頼りに、()()()()()の地下室へ続く梯子に足をかけたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

深いといっても十数段、思いのほか浅かった穴の底にすたりと着地する。

汚臭は更に濃くなってきており、うすぼんやりと照らす火球が茶色に汚れたがれきのような石壁を見せていた。

 

 

「…」

 

 

人の気配は感じられない、しかし警戒の手は緩めずに周囲を見渡す。

靴裏に石の硬い感触を覚えながら腐臭に耐えると…振り返った。

 

――小さな、一部屋。

 

蒼い火球に照らされた地下の個室は薄暗く、ぼんやりとそこに「あるもの」の輪郭を見せていた。

 

拷問器具の数々、拘束用の鎖。

汚れたベッドと、その上に無造作に置かれた擦り切れた鞭。

壁には燭台がまだ残っており、ひとまず俺はそれに蒼い炎を移して部屋全体を照らした。

 

 

――至る所に、様々な女の死体。

 

 

片手を鎖につながれ、口元から血を垂らして死んでいる金髪の女。

服こそ着ているが汚され、僅かに見開かれた碧い瞳は暗く虚空を見つめていた。

 

その隣には股から引き裂かれた女が内臓を垂らしながら倒れ伏せていた。

そしてその全身は皮膚病…否、生前性病だったのだろう、梅毒のように赤いできものが全身に発作し美しかったであろう顔も醜く爛れていた。

 

逆さに吊られた少女がいた。

左足を荒縄で縛られ、幾重にも跡になった紫色のあざが痛々しい。

服を着せられていない彼女はきっとここにきてからずっとそのままだったのだろう、そのまま奉仕させられ…最後には、面白半分に吊られていないほうの足を捥がれた。

渇いた太ももの切断面、苦痛に歪んだ顔と痛みで剥いた白目がせめて失神のまま死ねた事を教えてくれた。

 

 

――見渡す限りの惨死体、打ち捨てられた奴隷達の築く山。

惨死の限りが尽くされた悪逆舞台、欲に満ちた汚臭が未だ濃く残り、赤黒くおぞましほど錆びついた部屋の中で様々に色を失った肌が重なり、暗く感情の失った瞳が虚空を見つめていた。

 

そして…俺はこの臭いを知っている、自らを殺す者への憎悪を吐き出すことも出来ぬまま死んでいく者たちが弄られ続けた「()()()」の臭い。

 

鎖と苦痛、棘と欲で作られた殺人鬼の拷問部屋、それがこの部屋の正体。

 

 

「…」

 

 

この家の前の持ち主はつまりここで買った奴隷を「使って」いた。

悲鳴があがっていた、ということはまともな性癖では無かったのだろう、別に買ったものを何しようが個人の自由だが、余りやりすぎると周囲の視線が厳しくなる。

 

故にここは別荘だった、ダイダロス通りであれば気にする人間はいない。

地下室を作り、そこに奴隷達を押し込めて自らの汚い欲望のはけ口にした。

 

そして――飽きて、捨てた。

最後に自らの手かあるいは他人の手で奴隷を弄り殺し、隠蔽工作してギルドに売却した。

 

 

「…こんなところか」

 

 

惨殺された彼女たちの死体を、部屋の中心で見渡しながら予測する。

詳細は解らないが…エイナから聞いた噂から考えてもそう見るのが妥当だ。

 

それに…憎悪が見える。蒼い炎を通して見ればこの部屋に渦巻く憎悪が見えた。

どれだけ酷い出来事があったのかは知らないが、それはきっと――

 

 

「――俺の言えた義理じゃない、か…」

 

 

呟き、ため息を吐いた。

しかしこの部屋に満ちた憎悪を俺は理解できてしまう、満ち満ちたどす黒い雰囲気は重く正者を縛り付け、自らを殺した者への憤怒を激しく逆巻かせていた。

 

(埋葬かな…)

 

かなりの数の死体、とりあえずこのままでは浮かばれないしどこかに埋めて墓を建てるべきだ。

というか流石に自分の住む家の地下に大量の死体を放置したまま住めるほど図太くない、名前が解らないのが悔やまれるが自分に作れる一番立派な埋葬をしてやろう。

 

 

「はぁ…とりあえず数を数えて…」

 

 

もう陽が落ちるのも近い。

埋葬は明日するとして、とりあえず今日は死体の数を数えとりあえずまともな服を買ってこよう。

 

端からその凄惨な彼女たちの死体を1つずつ数えていく。

やけに亜人の数が多いようなその死体達に俺はゆっくりと息を吐きながら歩いた。

 

 

「1…2…3…」

 

 

目をそらさず、何をされたかを見ていく。

 

興奮する気にもならないそれらは――何というか「矜持」が無い。

 

ただの性のはけ口、苦しませるのは良いがこれは…例えるならば子供の工作のようで、中途半端なのだ。

 

殺す時は殺す、苦しませるときは苦しませるのが芸術なのであって…おもちゃを振り回すような弄び方。

…正直、気に入らなかった。

 

 

「4……5…6…」

 

 

くだらない感傷だと、昔の俺なら笑っただろう。

しかし少年の優しさに触れ、憎悪を理解した俺は彼女たちの事を想ってしまう。

 

…笑うでもなく、泣くでもなく。

 

複雑に見つめた死体の前に足を止める。

いい加減慣れてきた汚臭にため息を吐き、凄惨な傷跡に眉を顰めた。

 

 

「あぁ…この奥にもいるのか…」

 

 

重なった死体を1つ、横にどかす。

その奥にはもう一つ死体があった。

 

――この中で一番綺麗な死体。

 

まだ艶を残した銀髪、血色は無いが白くて僅かに汚れた肌。

目は閉ざされ、こげ茶色のぼろきれを身に纏い、何かを抱くように石床の上にうずくまっていた。

そして亜人なのだろう、その頭には…「耳」が。犬のような三角形の銀色の耳が力なく垂れていた。

 

腹から大量の血を流したその死体は何かを抱いているように見えた、手を伸ばした俺はその腕をどける――

 

 

「…なッ!?」

 

 

――抱いていたのは、幼子。

 

何か個人を特定できるものをと思って動かしたその腕の中には、余りに小さな、5つもいっていない幼子が仰向けに寝かされ抱かれていた。

 

…同じようなぼろきれ一枚を身に纏い、肌は汚れ、切ったことが無いような長い彼女の小さな身長と同じ長さの銀髪と獣の耳…そして、ホオズキのように赤い「瞳」。

唯一の違いといえばその前髪の跳ねた一房。

 

つまり、親子。

 

自らの子を抱いたまま、美しい奴隷は死んでいた。

せめて最期、自らの子を掻き抱き、その命尽きるまで小さな身体を温めていたのだろう。

捨てられ、逃げるだけの力も無く…暗く寒い地下室の中でただ息絶えるのを待ち――

 

 

――「子供だけが生き残ってしまった」。

 

 

「…ッ…」

 

 

自らの――死んだ親の腕に抱かれた幼子を見つめる。

 

表情が無い、死んでいるかのように「彩」の無い赤い瞳。

ぴくりとも動かない身体だが、静かな呼吸の度小さな胸が僅かに上下する。

 

だが意識が感じられない。

呆けたように、魂が抜け落ちたように幼子は虚無を見つめている。

まるでそれは死んでいるようで――確かにこの子だけは生きていて――

 

 

(――いつからだッ…?)

 

 

何秒、何時間、何日だろう。

この親が死んでから、子供がその冷たくなった腕に抱かれていた時間はどれほどだろう。

 

幼子故理解すらしてなかったのかもしれない、否救いだ。恐らく理解が及んでいえれば精神が崩壊する。

最愛の人が目の前で死んでいる、変わらず自分を抱きしめている親が死んだ。

 

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「…それ…は…!」

 

 

同じだ、親を殺した()()()と同じだ。

 

親を失った苦しみ、悲しみ――「憎悪」、どうすることもない蒼い感情は、それこそ死んだように正気を失う。

 

…それは、同情なのかもしれない。

 

しかし親を失う痛みを、俺は知っている。

例え狂気に堕ちても良い、一生を引きずることになっても良い…だからせめてこの幼子(同じ境遇の者)を救いたい。

 

 

「……!?」

 

 

抱きしめようとした。

伸ばした腕を少女の肩にかけ、俺は持ち上げようとした。

 

――床に何か書かれていた。

 

親が書いたのだろうか。

指で引っ掻いて彫ったような、誰に向けたかも知れない言葉。

 

 

 

『 こ の 子 は 世 界 を 知 り ま せ ん 』

 

 

 

血のにじむような、誰かに届くかも定かでも無い祈り。

 

つまりそれは…この幼子が、ここで育ったということだろうか?

ここで産まされ、それでも愛し、まともに育てることさえ出来ず、ただ自らの熱だけを伝え数日だけ生き永らえさせた。

 

…この幼子が感情を抱いていないのもそれが原因だろう。

 

それこそ「白痴」、まだこの子は世界に生まれてすらいない、例えどんなに願っても母親の腕から、この部屋から出る事さえ叶わなかった。

 

何も知らず、何も感じず、憎悪すら覚えない、ただ「無色」な幼子。

 

――産まれる前に親が死んでしまった少女は、ただ死んだ瞳を見下ろしてくる男に向けていた。

 

 

 

 

「…その祈り、俺が聞き届けた」

 

 

 

 

呟き、少女の肩を抱き上げた。

余りに軽く、脆いそれを壊れないように持ち上げると、片手で抱く。

 

そして流れていく涙そのままに梯子にまで歩くと『パチン』と指を鳴らした。

 

 

 

――ボっ…と静かに、蒼い炎が引火する。

 

 

 

部屋に満ちた憎悪がまるでガスのように蒼い炎に呼応する。

まるで溶けるように部屋中に炎が広がっていくと、彼女達を優しく抱きしめた。

 

悲しい記憶ごと、憎悪の炎は糧とする。

 

その憎悪を薪として、ゆっくりと溶かすように鎮魂歌をメラメラと唱えた。

 

 

そしてやがて死体達は黒く変色していき、塵となって消え行く。

その頃には部屋に満ちていた憎悪は満足したように燃え尽き、また静かで冷たいあの部屋に戻っていった。

 

 

…男の腕に抱かれた少女は、光を失った紅の瞳で残った最後の蒼い燃え残りを見る。

 

 

 

かつて母親だったそれに少女は何の感傷も抱かず、ただ初めて自分の意志でぴくりとその口元を動かすと――

 

 

 

 

――僅かに「きれい」と口を動かしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 




たまたま買った家の地下に死体がたくさんあったうぇい、現実的に考えて最悪ゥ!

というわけで前書き通り買った家の地下に幼女がいる話です(違う)
いやちゃうねん、五才ロリを育てるみたいな話が書きたかったんや。

なーのーで「とりあえずぎゅるぎゅる丸を直す事」をテーマに少女と過ごすみたいな日常編となります。
…はぁ、たまんねぇぜ。

ではまた次回ー。


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 ウェアウルフ

えー後から来た人には関係ない話ですが、15から3話消して書き直し足して纏めましたスマヌ。
一応理由を書いておくと関係ない話が長すぎて本質が見失われつつあったというか、ぱぱみが足りなかったんですよね、取り戻せたかな…?
んで前半は前までの12話と大体同じなんですが、だいたい後半から展開マルッと違います、日本語ロールに成功したら斜め読みでいいのよ(ファンブラー)

あと唐突ですが高評価お願いします定期、凄い励みになるんで
では本編どうぞ




・・・

 

 

 

「はぁ…」

 

 

梯子を上り切った俺はため息をつきながら、手をついて身体を床の上に持ち上げる。

砕けた木片の欠片の上にあぐらをかいて、流れていた涙を手の甲でグシグシと拭うと腕の中で丸くなっている少女を見た。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

相変わらず虚無を見つめている幼女に、意識があるかどうかは解らない。

 

銀色の腰まである髪と耳、尻尾…何かしらの亜人、身長は俺の膝丈くらいで、その体重は羽のように軽すぎる。

ぼんやりとした垂れ目はルビーように美しく、綺麗で――光が灯されていなかった。

 

 

「ひとまず…名前?…いや、メシかな」

 

 

目を細め、少女を観察したまま思案する。

幼子とはいえ余りに細く、軽すぎる。何日間食べていないか知らないが、今すぐ何かを食べさせないとぽてりと死んでしまいそうなほど衰弱しているのは明らかだ。

 

…この際少女の自意識が無い、とか考えている場合ではない。俺は一刻も早くこの子に栄養補給をしてあげなけければならなかった。

 

 

「よし…!」

 

 

名前とか、とりあえずお風呂に入れてあげたいとか、服とか、この子をこれからどうするかだとか考えなければならない事は多い。

とはいえひとまずこれは「ぎゅるぎゅる丸より優先すべきこと」だ、あんな光景を見て、こんな小さな幼女を抱いておいて、最優先にしないという選択肢は無かった。

 

 

――子育てとかやったことは無いが…何とかなるだろう。

 

 

家の引き戸をがらりと開けた俺は少女にご飯を食べさせるため、少し暗くなり始めた道を走り始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「いらっしゃーせーにゃー!…ってお得意様久しぶりニャ!?」

 

「おう久しぶり、とりあえず…そうだな、粥か何か貰えるか?」

 

「かゆ…?…っていうか何ニャその子!?」

 

「いいからいいから」

 

 

久しぶりに豊穣の女主人に入った俺は肩で息をつきながら出迎えたアーニャにオーダーを頼む。

その片腕に小さな少女が抱かれている事に気が付くと目を丸くしたアーニャは驚きつつも振り返り、注文を厨房に届けに行った。

 

酒に酔った冒険者達で賑わう店内を見渡した俺は適当に空いた席を見繕う。

そして2-2の席を見つけると、その片側に少女を乗せて自分は反対側に座った。

 

…靴すら履いていない素足が垂れる。

机から僅かに覗くように見える少女は床の一点を見つめており、やはり何か明確な意思だとか意識などは感じられない。

 

――騒がしいまでの喝采のような喧騒に照らされた少女の姿は銀色で、汚れているにも関わらず無垢な天使のように美しい。

丸みを帯び、僅かに垂れたぼんやりとした紅瞳(べにひとみ)をした稚児は身じろぎ一つせずに椅子の上にちょこんと座り、力なくその手足を弛緩させて口は緩く結ばれていた。

 

 

「…お得意様来店ニャー!…」

 

「戦闘配備ィ!」

 

「いつからだ…いつから私はあの人がこないと錯覚していたッ!?」

 

「私…帰ったら結婚するんニャ…」

 

「ふっ…別に調理してしまっても構わんのだろう?」

 

「「「「I am the born of my food…!」」」」

 

「おう、頑張ってニャ」

 

 

オーダーの到着と共に遠くの厨房(せんじょう)が一気に死亡フラグで溢れる。

何でも忙しさが当社比三倍らしい、その分給料も上がるらしいのだが厨房連中からは俺の存在は悪魔だとか神だとかまことしやかにささやかれているようだった。

 

しかしとりあえず粥だけだ、いつものようにメニュー三周とかはするつもりは無い。

 

一気に静かになった厨房を遠く感じながら俺は机の上に腕を組んで、少女の事を観察し、何をしなければならないかを考え始めた。

 

…というか粥でいいよな。いきなり固形物は喉につかえるかもしれないし、離乳食という歳でもないだろうがあごも衰弱しているだろう。

 

 

「水、お持ちしました」

 

「あぁリューさん、あざっす…ふぁ…」

 

 

コトリと水の入ったグラスが二つ机の上に置かれる。

盆に乗せて運んできたリューはいつもの通り無表情で、俺の挨拶に頷くと…チラリと少女の方を見やる。

 

 

「…リョナさん」

 

「ん、何ぞ」

 

「ミア母さんからの伝言なのですが、そちらの少女は?」

 

「あー…やっぱ聞きますよねー…」

 

 

喉が渇いているはずだが子供用の小さなグラスにさえ興味を示さない少女に俺は頭を掻きながらうなだれる。

 

そして――自分と、この少女の関係をどうしたものかと考えた。

 

 

「えー…俺の娘ですね」

 

「…」

 

「…はいすいません、拾った子です」

 

 

とりあえず嘘をついてみるが瞬間ギロリとリューに睨まれ、すぐに本当の事を漏らした。

テキトーに笑う俺にリューはため息を吐くと、少し考えこみ丸く座った幼女の事を観察する。

 

…そして彼女なりの心配、睨むように眉を寄せて俺に忠告した。

 

 

「リョナさん、あなたはこの(オラリオ)に来てまだ日が浅いから知らないのかもしれないが、このように()()()()子供は本当に多い。それがただの同情だというのなら…」

 

「いや解ってますよ。俺だって、道端の子を拾った訳じゃねぇし」

 

 

無責任に子供を作って捨ててしまう冒険者が結構いる。

その結果道端に捨てられた赤ん坊が泣いていたり、小さな子供が凄い強烈な視線を通行人に送ったりしていることが時たまあった。

とはいえそんなものいちいち拾っていたらキリが無いし…例えあのベルであろうと可哀想と思っても拾うことは無い。

 

――ただ、あんな光景を見てしまったら。

 

 

「では?」

 

「んー…まぁ、結局縁があったってだけなんですけどね……まぁ店に迷惑をかけることはしないので、ここは大目に見てくれませんか?」

 

「…」

 

 

リューは少し考え始めると、再び少女を見つめ直す。

 

足まで無造作に伸ばされた銀色の長髪が小さな全身に大きくカーブしながら巻かれ、その隙間から見える、陽にあたったことの無いような病的なまでな白い肌。

湖面に浮かぶような暗い紅の瞳をぼんやりと床板に向けて、枝のように細い手足を椅子の上から力なく垂らしていた。

 

意志の感じられないその少女にリューは眉を顰める。美しい顔に寄った皺は深く、その矛先は絶えず吞気な笑みを浮かべるリョナに向くと…ふぅ、という物憂げなため息を共に解かれた。

 

 

「…解りました、ミア母さんには上手く伝えておきます」

 

「あなたが女神か…結婚しよ」

 

「お断りします」

 

 

普通に断られた。

頭を下げたリューに逃げられるようにそのまま歩き去られた後、残された俺は力なくどさりと机の上に崩れ、突っ伏した。

 

そして机の木目から視線を上げると目の前にちょこんと座る幼女に目を向ける。

 

(まず『身体を洗って』あげて…それから『服』かな)

 

見たままの感想として、汚い。

母親は美人でこの子も地は可愛らしいと思うのだが、それを帳消しにするほど肌や髪は汚れている。

それに着ている服もまさにぼろきれといった感じで、とても「人」が着ていい服では無い…否、服ですらない。

 

それに獣だって身づくろいする、()()()()()()は解らないが少女としても気持ち悪いだろう。出来るならば今すぐにでも全身くまなく洗ってあげたかった…勿論健全な優しさ的な意味で。

 

(うーん…)

 

前者はさして問題ではない、自宅の風呂の工事に数日はかかるだろうが本拠地(ホーム)のシャワーとか、そうでなくとも濡らしたタオルかなんかで身体を拭いてやるだけでも充分違う。

後者もまぁ服といっても亜人とそこまで人間と大差ないだろう、明日服屋に行って何かしら見繕えばそれで…

 

 

「かゆ、お待たせニャー!」

 

「…おぅ」

 

 

アーニャが運んできた木椀が机の上に置かれるカタンッという音に思考を一度止める。

そして自分のグラスを傾けるとぐいと冷えた水を大きく飲んだ。

 

…木椀の中にはほかほかと湯気を出す粥があり、どろどろになったそれは少女でも食べやすそうだった。

同様に木製の小さなスプーン、これならば怪我をすることも無いだろう。

 

アーニャがぺこりと頭を下げて、去っていくのを俺は見送ると、お腹が減っているはずの少女の方に視線を戻した。

 

 

「…食わ…ねぇよな」

 

 

例え、飢えていたとしても少女は動かない。

変わらず椅子の上に座り、俯いたまま床をじっと見つめていた。

 

――『自らスプーンを手に持ち、粥を掬って食べる』という方法を彼女は持ち合わせることは無かった。

 

…あの地下室で何を食べていたのかは解らない。

しかしきっとロクなものじゃないはずだ――それこそ目の前にあるものが、食べ物だと解らない程に。

 

 

「…よし」

 

 

俺は「ならば」と軽く椅子を蹴りながら立ち上がると、机を回って少女の左側の椅子を引く。

そして稚児の横顔を見ながら椅子の上に足を組んで座り、その獣耳の生えた頭をゆっくりと右手で撫でた。

 

(やっぱり洗って…服も買ってやらないとな)

 

その可憐であろう銀髪は油で汚れ、服は余りにみずぼらしい。

造形自体は母親似で非常に可愛らしい子だと思うし、ぺたんと潰れた耳と尻尾も風呂に入れてあげれば非常にふさふさとした毛並みに戻るだろうなということを伺わせた。

 

 

「…っと」

 

 

今はそれより先に少女に粥を食べさせるのが先だ。

机の上に置かれた椀に手を伸ばした俺は、軽い木製スプーンを掴むと粥の中にいれ、ドロドロになったそれを少し冷ますためにかき回す。

良い匂いが溢れだし鼻腔をくすぐると、俺の食欲も刺激され自然と口内に涎が溜まった。

 

俺は木匙を動かし粥をひとさじ掬い上げ、ぱくりと一口食べてみる。

 

 

「んー…まぁ大丈夫か?」

 

 

少し熱い程度の粥、どうせ少しずつ食べさせるつもりだったのでこの程度ならば火傷することも無いだろう。

 

幼子の体躯に合わせスプーンの底の半分程度の量粥を掬うとそれを少女の唇に向ける。

これならば水分も充分、本当は点滴などが良いのだろうがそんなものないし、少女の身体に負担をかけることもない…はずだ。

 

左手でスプーンを持った俺は右手を少女のおでこに当てる。

そしてこそぐように多すぎる前髪を払いのけ、その血色の感じられない唇を露わにすると、俯いたその頭を『食べさせやすいように』カクンと上に仰がせた。

 

 

「…頼むから、食ってくれよ」

 

 

呟きながら少女の上を向き少しだけポカンと空いた口にスプーンをあてがう。

口内を傷つけないように注意を払いながらゆっくりと抵抗のない唇を割ると、木匙を傾け僅かに乗っていた粥を流し込んだ。

 

 

「…」

 

 

もしここで食べてくれなければ少女は死んでしまう…身体が受け付けない場合かなり困難な状況になるだろう、ここで食べてくれることを俺は真摯に願っていた。

木匙を口から離した俺は、口の中に粥を入れた少女のことを見守る…見守ることしか出来ない。

 

そして緊張した俺の視線の先で――少女の喉が確かにコクンと鳴った。

 

 

「おぉ…!」

 

 

食べた、食べさせられた。

重力に従いゆっくりと粥が喉に落ちていき、食道を伝うと胃に向かう。

 

何日ぶりか、はたまた初めてかもしれない食事を少女の「身体自体」が拒否してしまうかもしれないと不安だった俺は少し目を見開き笑っていた。

 

…相変わらず少女に「反応」はない、それでも命を繋ぐことが出来た――それだけで俺は嬉しかった。

 

 

「よしよし…!」

 

 

少女の額を撫でながら俺は再度スプーンに粥を掬う。

ふっーと息を吹きかけ冷ますと少女の唇に運び、その口の中にぼとりと落とし、食べさせた。

またも少女の喉が僅かに上下し、確かに食べたことを俺は確認するとその度一喜一憂した。

そして詰まらせないように最大の注意を払いながら俺は粥を掬っては食べさせる、繰り返すその行為さえも何だか嬉しかった。

 

――かくして、少女は命を取り留めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

片腕に座らせるように抱いた銀色の少女を見下ろしながら俺は夜道をゆっくりと歩く。

豊穣の女主人からの帰り道、すっかり暗くなってしまったダイダロス通りは人気が全くと言っていいほどなく、時折早足で駆けていく影が遠くに見える程度。

 

まだ慣れない家路を辿りながら、俺は「これから」についてぼんやりと考えていた。

 

 

「帰ったら…まず…」

 

 

水自体はもう通っているはずだが我が家に風呂はまだない、かといって少女をこのまま寝かせるというのも忍びない。本格的では無いにしろ、何かで身体を洗ってあげれたらいいのだが…というかどこで寝かせたものか、ベッドは一つしかないが。

 

(疲れてんのに考える事多いこと多いこと…!)

 

ぶっちゃけ眠い、体調が悪いとかでは無いが今日は家買ったり少女を拾ったり色々な事が起きて疲れた。

まだ片方だけ…家を買う事と少女を見つける事が別々であればマシだったのだろうが、悲しい事にセットだったわけで、明日の予定もスケジュールは相当密なものになってしまっている…備えて早めに休みたい。

 

とはいえ…まぁこれが子育ての大変さなのだろう、全身汚れてまともな服を持っていない子供を急に育てなければならなくなったというのを子育ての内と言うのであればだが。

 

 

「…っと」

 

 

考えているうちに自宅の前についていた。

簡単な、だが背丈ほどはある塀に囲まれた敷地は道に面して柵状の鉄扉があり、締めるための鎖と南京錠が巻き付いている。

 

左手でジーンズのポケットをまさぐった俺はザラザラとした感触の錆びた鍵を取り出す。

…これは入るのだろうか?と思うのだが南京錠の鍵穴に少し強引に入れ、ジジ…と回すとカチリという子気味良い音が鳴り、力なくその口を開いた。

 

巻き付いた鎖を解いた俺は錆びついた鉄柵をキィ…!と甲高い音を鳴らしながら足で押す、出来た隙間に少女ともに入りこんだ俺は――

 

 

「…ん?」

 

 

――(なに)か、視線を感じた。

 

敷地内に入った俺は首だけ道に出すと左右を見渡してみる。

…月に照らされた馬車二台ほどが通れるかという太さの道、同じような家々が幾つかと、あとは掘っ立て小屋のようなぼろ屋が立ち並んでいた。

「深い」ところは見ているだけでスラム特有の見ているだけで嫌になるような治安の悪さが見て取れるが、ここは極めて浅く、加えて住宅街ということもあってか道は静けさに満ちている。

 

(…!)

 

しかし――暗い、がその中に先ほど折れた曲がり角に影を見た。

闇の中で屹立するそれは俺が注視すると、僅かに動揺したように揺れる。

 

(尾行…?…いや、だが…)

 

遅い時間に帰ってきたのだ、人気のない道を不自然についてくる輩がいたら疲れていてもすぐに気が付く。

尾行の達人という可能性もあるが、しかし今ここで気が付かれる程度の使い手で、これまで気が付かれずに尾行できたはずが無い…まるで「突然現れたかのような」、それでいて明らかにこちらを見ていた。

 

(…盗賊か何かか?)

 

特に俺個人を狙ったわけではなくただ夜道を歩いていたのを見かけたから、隙を見れば身ぐるみ奪うもの剥ぎの類だろうか。

それならば尾行というよりは短い距離だという事も理解できるし、突発的な犯行をするような大したことの無い技術の盗賊というのも頷ける。

 

 

「…」

 

 

瞬きをすると既に影はその場から消えていた。

俺が見たからか目的を果たしたかは定かでは無いが何にせよ物騒な話だ、これがダイダロス通り流の日常風景なのだろうが。

…まぁそれに恐らく後者、突発的な強盗だろう。現在進行形で最強(オッタル)のいるファミリアに狙われている(はず)の俺ではあるが、あれ以来特に接触も無いし差し向ける尾行にしては雑すぎる。

 

何にせよ敷地内に入ってきたら殺せば――いや少女にこれ以上「死」など見せられない。

 

 

「…ま、いっか」

 

 

それ以外に人の気は無い、消えたというのであれば警戒していたとしても意味が無い…というより疲れるだけだ。

ため息を吐いた俺は身体を敷地内に戻すと勝手に動いていってしまう鉄柵を掴むと引き戻す。

 

そして一瞬鎖を付け直す事も考えたが――大丈夫だろと振り返り、そのまま引き戸をガラリと開けたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

()()()()()…かな?」

 

 

 

――数分後、俺はテンプレを吐きながらベッドに座らせた少女の腕をあげさせその一張羅を剥ぎとっていた。

 

…バサリと髪が跳ね、少女の病的なまでに白い肌が露わになると非常に小さな面積の全身を銀色の毛が流れていく。

服に引っ張られあげられた枝のような腕が力なく垂らされ、下着などつけていない内股に落ちた。

 

(うん、汚ね)

 

手に残った隅々まで汚れた服の形をしたぼろきれをベッド上に投げ捨てた俺は、その見えないところまで汚れた少女の肌を見る。

全裸となったその白い身体は黒く穢れており、銀色の長髪は油でまみれていた。

 

…小さなスケール、触れれば折れてしまいそうな細い手足と浮き出たあばら。

一度も日にあたった事の無いであろう白すぎる皮膚と、その上に這うような銀髪がスルスルと垂れていた。

起伏のない身体、稚児らしい体躯と服を脱がされても一切動揺も何もない紅い瞳、頭に付いた銀色の獣耳と尻尾。

 

(…)

 

加えて少量の『(アザ)』。

皮膚上に青緑色の跡を残したそれは面積こそ狭いが――殴られた跡だということは明らかだった。

 

胸の中央辺りに出来た青あざを指先で撫でた俺はその中が折れていない事を確認する。

…軽く押してみると折れてはいないようだ、どうやら治りかけの古い痣のようだしかつては折れていたのかもしれないが、今見て取れるのはその跡だけだった。

 

 

「…さて」

 

 

少女のロリボディを観察し終えた俺は改めて手を伸ばす。

とはいえその柔らかそうな頬を触る為…とかでは断じてなく、用意した熱湯入りのボウル内のタオルを掴むためだった。

 

 

「…」

 

 

ちゃぷちゃぷという音と共に差し入れた手を湯が熱する。

温度を確かめるために安易に突っ込んだ手を少し後悔しながら引っ込めると冷ますために軽く振り、放り投げていたタオルを一枚取り出した。

 

 

「あっ…つー」

 

 

呟きながら持っているだけで熱いそれを急いで折りたたみ絞った。

ジョボボ…と絞られた水がボウルに落ちていき水を撥ねさせると床板に幾つか染みを作る。

 

(…まぁあんま長い合間裸でいさせても風邪ひくしな)

 

手の中で完成した熱い水気のだいぶ残ったおしぼりを掌の中で転がしながら、俺は胡坐を掻いたまま今なお全裸でベッド上に座っている少女に向き直る。

そして一歩分床を擦って移動すると手ぬぐいを広げ、少女の腕をとった。

 

 

「痛かったら言えよって…言いたい」

 

 

全身汚れた少女の赤い瞳を見ながら尻すぼみに言葉を紡いだ俺は口角を少し上げるとその細枝のような腕にタオルを当てる。

 

(というかさすがに火傷しないよな…しないでくれよ!?)

 

充分に冷ましたつもりでいるが、充分でない可能性がある。

 

反応を示さない少女の目を見ながら未だ熱いタオルを当てたり離したりして反応を見る。

何せ子供の弱い肌だ、何か反応があるのならともかくやりすぎて火傷になってしまわないか不安だった。

 

…子供というと妹の顔が頭をよぎる、妹の世話ならば過去いくらかしたことがあるが、むしろ要求過多というか我儘の化身みたいなやつだったので何をすればいいか明白だったというか。

例えるなら物言わぬプリンに熱した紙やすりをあてるような…いやそこまででは無いにしろ、主観としてはマジでそのくらいの気持ちでいた。

 

 

「うーん…まぁ大丈夫か…?」

 

 

とはいえ冷め始めたタオルで皮膚は火傷を起こしていないようだ、手ぬぐいを当てた辺りは少し赤く火照るようになっているがこの程度ならば火傷することもないだろう。

再び少女の腕に暖かいタオルを乗せた俺は痛くならないように最大限注意を払いながら、軽い力でゆっくりとなぞるようにその細い腕を優しく拭き始めた。

 

 

「…おーう汚い…」

 

 

幾度か撫でてみるとだいぶその肌から汚れが落ちる。

つまりその分の汚れは手ぬぐいに行くという事で…見てみると手ぬぐいは埃混じりに黒々と染まっていた。

 

 

「…」

 

 

脇の下から柔らかな二の腕、短い距離をゆっくりと往復し、湿らせながら手首の方まで辿っていく。

ほんのうわずみだけ、それだけでも充分落ちていく黒さに俺は半ば呆れ混じりに笑いながらほのかに白くなっていくその肌を少し喜んだ。

 

…同時に、もっとまともな風呂で洗ってやりたいとも。

 

もう片腕、指先まで手ぬぐいで洗った俺は真っ黒になったタオルをボウル端にかけると、まだほかほかと温かいボウルの中に手を入れ新しいタオルを一枚取り出す。

じょぼぼと強めに絞ると少女に向き直り、ベッドに乗って背後に回ると背中から脇、腰回りを後ろから丁寧に拭いていく。

 

(本拠地かな…)

 

どちらにせよ明日の朝廃教会の地下に行く気でいた、ヘスティア様に新居を買ったことを報告しに行く気でいた。

ならばあそこで少女の身体を洗ってやるのが良い、明日風呂工事に来るのだからつまり今この家には風呂というものが無い…とんだ欠陥住宅だった。

 

ともあれあそこならば気心知れた場所だし、少女の呆れるほど長い髪を洗うのにどれだけ時間をかけようと文句は言われない、構わないだろう。

…まぁ狭いしたまに水しか流れないしこの前洗ったがところどころカビ生えてるかも解らないしぶっちゃけ言ってしまえば貧乏ゆえに良い環境じゃない。

 

(我がファミリアながら情けない…いや俺だけ家買ったけど)

 

自分だけ良い環境に行くのは何だか気が引けるが、というか多分あの貧乏性の女神の事だ…絶対寄生しようとしてくるに決まっている。

まぁ絶対言いくるめる自信はあるが、明日が楽しみだ。

 

 

「…」

 

 

綺麗になっていく少女の狭い背中を見て満足した俺はベッドから降りる、そしてタオルを持った手を入れ変えるとその僅かに前に傾き気味な肩を押した。

少し姿勢を正すように保たせると再びその胸に出来た青あざと対峙し、その鎖骨辺りから幼子の前面を拭き始める。

 

 

「…ん」

 

 

胸と言ってもこの齢の子供の身体はそこまで変わらない。

平坦なその身体を拭きながら俺は「意識したら負けか…」と首を振ると、丁寧に胸から腹へと拭いていく。

 

…オイ誰だ今ロリコンって言った奴、確かに美少女だけどもこんなんで興奮したら殺人鬼の倫理にも差し障る。

というか何が据え膳だ、叩き割るぞ。

 

(つかあいつだけで充分だわ…)

 

ヨスガとか夜這いしながら言ってくる妹の事が一瞬脳裏をよぎった俺はため息を吐く。

というか流石に五才児レベルでは無いがアイツももう少し成長しないものか、年相応的な意味で。

 

 

「んんっ…」

 

 

まぁそれなりに心配だが今は妹の事よりこの少女の事だ。

胸と腹を拭き終えた俺はそのタオルを一度ボウルで他の物に交換すると、残りの手ぬぐいの数を確認する。

 

…今手元にあるもの含めて二枚、まぁあとは脚と顔だけだし全体的にパーツが小さいので余裕で足りるだろう。

 

だが――

 

 

「アッ…」

 

 

――倫理の壁(うちまた)にぶち当たる。

 

(お、落ち着け俺…膝丈幼女の股間を洗ったところで何も問題は無い…!)

 

もし俺が少年のような心であればためらいなく洗ったのだろうが、いささか俺の精神は汚れ過ぎているらしい。

御年21、もはや娘がいてもおかしくない年齢…正直幼女の股を洗うことを気にするような歳でもないと自覚しているのだが、躊躇うことも無いと思うのだがッ!

 

(…よ、世のお父さんはこんなことをやっているのかッ!?そこに少しもやましい気持ちは無いんですかッ!!?)

 

いや絶対無いだろ…愛ゆえにだよ、と自分で自分にツッコミつつ。

 

 

「よ、よし…できるだけ優しく…優しく…!!」

 

 

決意を固めた俺は下腹部に震える手でタオルを軽く当てるとゆっくりと撫でおろしていく。

そして緊張の一瞬、反応のない少女の股下に――俺はタオルを突っ込んだ。

 

 

「あっ…うん、そんな感じねーはい解りましたー」

 

 

…まぁ実際にやってみると大したことは無い、何を躊躇っていたのだろうか。

すべすべとした内股から太ももにかけなぞるように指を肌にたてた俺は手早く拭いていく、少しピクピクと少女が動いた気がしたが…まぁ気のせいだろう。

またぐらを数度往復し、軽くではあるが幼女の下腹部を拭き終えた俺は一仕事終えた職人の如く額の(冷)汗を拭った。

 

(…というか立たせるか)

 

小休憩ついでに改めて少女を見ると、このままの女の子座りでは足が拭きづらい。

 

股下にタオルを入れたまま俺は少女の脇に手を入れるとひょいとその小さな身体を持ち上げる。

ぷらぷらと垂れた少女の脚と髪を見ながら俺はベッドの上にその小さな足を立てると…自分の意志で少女が立たない事が解った。

 

 

「あれっ曲がる、強度ゼロ的な奴だこれ…」

 

 

そも力を入れようとする意志すら無いのだから簡単に膝が曲がってしまう、綿の詰まった人形を座らせるのは出来ても立てるのは難しいということだ。

 

 

「んー?…まぁ仕方ないか」

 

 

一瞬どうしたものかと悩んだ俺は仕方なくベッドの縁に少女の足を垂れさせるように座らせ直す。

そして床に膝をつくとタオルを手に掴み、幾分か拭きやすくなった目の前の身近な少女の白い太ももをだいぶ慣れてきた力加減で優しく撫でていく。

ふくらはぎにかけ足回りは他と比べると心なしか強めに汚れており、回すように曲がった関節を伸ばしながら、かしずくようにその幼く柔らかな脚を拭いていった。

 

 

「…」

 

 

タオルを裏返し綺麗な面を開くと指の隙間を撫でていく、細く浅い窪みは積み重なるように黒ずみが溜まっており…拭くと塊のようにポロポロと落ちていった。

少し臭うような汚れがタオルにこびりつく度、拭いても落ちない僅かな汚れが露わになって、白い肌が垣間見える度、少し嬉しくなる。

 

 

「はい立ち上がって」

 

 

脚を拭き終えた俺は少女の身体を再び持ち上げる、そして臀部…つまりおしりを覗き込むとそこも他と汚れていることを確認する。

くるりと軽い身体を裏返すと、そのフニフニとした薄い尻を太ももにかけ数擦りほどで洗った。

 

 

「よし身体終わり」

 

 

少女の身体は最初に比べてだいぶ白くなった、まだ全身は僅かに黒く汚れており本格的に洗いながさねばそれは落ちないだろうが…それでもする前より段違いだ、ひとまず抱きしめても何の不快感も無いほどに。

 

再び少女の身体をベッドにおろし俺は、その未だ汚れた頬を撫でる。

無機質に見上げてくる少女の赤い瞳に少し苦しいように感じた俺は…微笑んで見せた。

 

少女から手を離し、振り返るとボウルの中の温水からタオルを入れ換える。

振り返ると改めて少女の頬に触れ、その髪を掻きあげると手ぬぐいを当て濡らした。

 

 

「ん…」

 

 

頬から首にかけ拭くと、返す手で鼻筋をゆっくりと撫で、瞼を瞬きのタイミングで少し強引に拭く。

一回タオルをひっくり返すと額を少し強めに押し付けて、ハンコを押すかのように汚れをしみとった。

…髪と獣耳、尻尾を除いて全身これで洗うことが出来た、後はどうにかして明日風呂に入れてやろう。

タオルで撫でた全身は白く、細い少女の身体。未だ髪は黒くべたついているが、洗ってやればきっと綺麗で可憐だろう…まぁ流石に切らないと日常生活に差し障る長さだが。

 

綺麗になった少女の頬を微笑みながら指先で撫でる、その柔らかな肌を少し不安になりながら微笑んだ。

そして頭に手を伸ばすと、少しべたつきを覚えながらゆっくりと掌で小さな頭を覆って温めるようにゆっくりと撫でる。

指に少女の獣耳が辺り、自然反射なのかピクピクと動くのは少し可愛らしいとも言えた。

 

 

「というか…」

 

 

他と比べ少し薄い銀色をした耳を弄るように撫でながら俺はふと疑問を抱く。

覗き込み、ベッドの腕に広がった長髪の中に紛れ込んだ太いぼさぼさとした尻尾を見た。

思わずそちらも撫でかけるが亜人は尻尾を触られるのが余り好きではない事を思い出すと、手を引っ込める。

 

 

「…何の亜人だ?」

 

 

――亜人(デミヒューマン)と一言で言っても様々な種族がいる。

 

例えば身近なところではアーニャとクロエは猫人(キャットピープル)、お隣のナァーザは犬人(シアンスロープ)、身近と言いたくないがオッタルは猪人(ボアズ)と様々な獣のフレン…改め獣人がこの世界にはいるのだ。

 

最初この世界で見た時はそれなりに驚いたが、正直ケモミミなど俺の世界にも概念としてあるわけだしすぐ慣れた。

そして俺はこの世界に溶け込んでいる彼らは鋭い五感と類い稀な身体能力を持っているらしく、獣の時の習性などを有している…程度の事しか知らない。

 

(…ん?)

 

故に――ぼさぼさな毛並みだと何の亜人なのか解らない。

立った耳と太い尻尾、何て特徴だけでは詳しくもない俺が見分けることなど出来ないし、せいぜい「猫人では絶対ないな」と思う程度だ。

 

(こんなことなら訊いときゃ…いや明日で良いか)

 

何の亜人なのか気になりはするが、別に急を要する話でもないし明日ヘスティア様辺りに聞いてみれば解るだろう。

何となく形状的に犬人なのでは?と思うがそれにしては少し逞しいというか――

 

 

「――というか、このままだと風邪ひくか…」

 

 

全裸の少女を撫でているこの現状、犯罪臭もするがむしろ幼女の身体を冷やしてしまうという方が良くない。

頭を少しの間撫でてやりたいとも思うが、それで体調を壊しては…というか未だ衰弱ぎみなこの子が風邪を引いたら本当に死んでしまう。

 

(何か服を…いや…)

 

頭から手を離して俺は今まで少女が着ていた服を見る。

しかし汚れ切っているそれは着るぐらいなら風邪を引いた方がマシなぐらいのただのぼろきれだ…そもそもこんなもの以外の服を着せる為に明日服屋に行くのだから何だか少しでもこの布を着させることに抵抗があった。

 

 

「…」

 

 

見れば少女は僅かに首をうつらうつらと前後させている、眠いのだろうそのぼんやりとした瞳は僅かに開いたり閉じたりを繰り返していた。

その肌は湯タオルで拭かれだいぶ綺麗になっており、僅かに湿っているが何かかけてさえしまえば寒くは無いだろう。

 

(ならこのまま寝かせるか)

 

掛け布団は少し厚めのを買ったし、裸のまま少女を寝かせるのも一つの手だ。

風邪を引くことも無いだろうし、何なら抱いて寝れば少しは暖かくもなるだろう。

 

問題点が一つあるとすればそこだ、ベッドは一つしかないのでどうしても二人で寝ることになる。

…裸の幼女と添い寝とか完全にエイナなどから蔑んだ目で見られる案件、というかもはや事案だが他に選択肢が無いのだから仕方ないし正直俺自身も眠くてそれ以外思いつかない。

 

 

「…よっと」

 

 

ゆっくりと少女の脇に手を入れ、持ち上げる。

一度抱き上げると片手で掛け布団をめくり、髪が絡まらないようにベッドの上に少女を寝転がせた。

それから掛け布団を少女にかけ直すと、閉じている時間の長くなった少女の額を指先で撫でると…少し愛おしくなった、覗き込んで、微笑む。

 

 

「……おやすみ」

 

 

言葉に合わせて少女の瞼が音もなく落ちた。

元々希薄だった意識も深く落ちて、触れた頬も穏やかに上下を始めた。

布団をかけ直すと白い肩が隠れるように寝かしつける、変わらない表情に俺は息を吐くとゆっくりと頭を撫でて立ち上がったのだった。

 

 

(さて…)

 

 

少女の着ていたぼろきれを掴み、首を揉みながら振り返ると、冷えてしまったぬるま湯の入ったボウルと今まで少女の身体を拭って黒くなってしまった手ぬぐいが幾枚か。

全体的に汚れたそれを見た俺は、指で挟みこむようにボウルを掴みその中に汚れた服とタオル数枚を投げ入れる。

…即座に服の中から汚れが溶け始め、ボウルの中のお湯にどす黒い淀みを発生させ、拡散するように黒い汚れを噴出させていた。

同時に傍に置かれたお湯の入った小鍋の取っ手を掴んだ俺は息を漏らす。

 

 

「ふぁ…」

 

 

欠伸を一つ浮かべると両手に鍋とボウルを持ったまま庭に向かう、途中砕いた床の破片を避けると揺れた水滴が地下へ続く鉄扉に跳ねた。

構わず部屋を横切り、土間を通って縁側に立った俺は足で僅かに空いた雨戸をガラリとこじ開ける。

 

夜の冷気が身体を差すのを感じながら縁側に腰かけると置いたボウルの中に視線を落とした、夜のとばり並みに暗いその汚れはゆっくりと流れを作り、時折その中で踊っている汚布の姿を現していた。

出来上がった汚水の中のものを見定め俺は手を突っ込むと軽く揉んで汚れを落とす、振ると更に濃くなっていく汚れに少し眉を顰めた俺は揺蕩う布の一枚を取り出し…再利用不可能だと諦めた。

丁寧に服以外の手ぬぐいを取り出していくと縁側にべちゃりとひとまとめにして置いておく、黒ずんだそれはもはや原型すらなく捨てる他ない。

 

だが…服の方は何とかしたい、それほど面積も無いので明日中に乾いてはくれるだろうが…汚れが落ちるかどうか期待は出来なかった。

 

ボウルのぬるま湯の中に手を入れぼろきれを軽く揉む、尋常でない黒が再び溢れだし渦を巻くとまたゆっくりと沈殿を始めた。

ひとまず取り出し絞ってみると真っ黒な液体がぼちゃりぼちゃりとボウルに落ち、ツーンと鼻につく酸っぱい悪臭が鼻をついた。

 

 

「…」

 

 

明日までの辛抱とはいえこれは流石に…しかし他に少女に着させられる服も無い。

一度僅かな月明りに服をかざし見た俺は顔をしかめると立ち上がる、そして尋常でない汚水の詰まったボウルを掴むと庭に降り、狭い庭の片隅の雑草生える場所に捨てた。

 

縁側に座り戻るとまだお湯でしかない小鍋の中をボウルに移し、透明な湯の中に服を再度つけ、汚れをこしとる。

一瞬で濁っていくボウルの中を見ながら服を繊維ごと揉んでいくと更に濃い汚れが噴き出した。

 

(…これ以上は無意味かな)

 

ボウルから取り出し服を絞るとまたも真っ黒な汚水がボウル内に落ちる、しかし絞られた布の方はその色をだいぶ薄くしており、本来の色なのか白も少し見えかけていた。

だがそれ以上の汚れは染みのようになっており、正直手洗いだけでは落としきれない。

 

服を一度縁側に置き、再びボウルの水を庭に捨てに行った俺は欠伸をする。

眠いし、早く終わらせようと買ってきていた物干し竿をセットするとそこに雑に少女の服をかけ、物干し用のスプリング製木製はさみで挟んで留めた。

 

そして手ぬぐいを捨てるのは明日やるかと今一度欠伸を浮かべると家の中に戻り雨戸を閉めると――

 

 

「ん…」

 

 

――服を脱いだ。

 

…。

どうも俺はこの世界に来てから寝相が悪い、おおかたまくらが会ってないとかそんな理由なのだろうがここ最近寝て起きると「勝手に」服が脱げている。

別に露出癖など無いのだが自分の意思とは関係なしに脱げてしまっているのだから俺のせいではない。

 

故にならばもう脱ぐ前、つまり寝る前に脱いでおけば特に夜中動き出すことも無いという訳だ。

朝脱ぎ散らかった服を見るとだいぶよれてしまっていることが多いし、畳んで置いておく方がダメージが少ない。

 

 

「…ふぁ」

 

 

剣を壁に立てかけ、最後の靴下をスポンと脱ぎ捨てまとめて他の服と一緒に置いた俺はベッドをめくる。

すっかり眠ってしまった全裸の少女の事をその銀髪ごと少しどかすとその横のスペースに潜り込んだ、全身に布がすれる感触が触れ少女の柔らかな肌が触れる。

 

(…まぁエイナにだったらマジギレられるだろうなぁ)

 

掛け布団をかぶりながら穏やかに寝息を立てる少女を見る。

未だ汚れた肌、衰弱し痩せた頬、太陽を見たことの無い閉じられた瞼の透明な銀色に輝くまつ毛。

それでいて全く褪せることの無い美しい目鼻立ちと、小さく薄い可愛らしい唇は母親譲りで――

 

 

――何だか惜しいと、そう思ってしまった。

 

 

今はこの子だけ見れば良い、だがどうしてもこの家の前の「加害者(もちぬし)」、()()()()()()()()()()ソイツの事をどうしても考えてしまう。

もう過去に起きたことはどうしようも出来ない、しかしそいつがいなければこの子はもう少しでも長く母親と一緒に入れたのではないだろうか?

 

こんなこと考えても仕方がないのかもしれない、しかしあの蒼炎に反応した以上憎悪は堆積し、きっとその矛先は――

 

 

(――…やめよう)

 

 

胸の中で蒼い炎が鎌首をもたげるのを俺は大きく目を閉じて抑える。

そして再び少女の穏やかな、顔を見て…微笑んだ。

 

今、この子は生きている――それ以上に喜ばしい事はないはずだ。

 

先さえ見れればそれで良い、この可愛らしい少女がいつか過去に縛られること無く幸せに生きることができたなら、その時その瞬間からあの場にあった憎悪など霧散して意味を失う。

わざわざ過去をつつく必要もないし、これから笑いかけ続ければそれだけで充分なはずだ、俺が守れば、俺だけでも味方がいればいいはずだ。

 

それまでが俺とあの母親との約束で、あの光景を見届けた俺の使命で――

 

 

 

…こんなにも、愛おしいのだから。

 

 

 

――すやすやと眠る穏やかな少女の寝顔に祈りながら、俺もまた少女の傍で眠りにつくのだった。

 

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

 

 

…少し濡れたぴたっとひんやりした冷たい感覚に目が覚めた。

瞬きがてらに瞼を開けるとそこには新居の面影と寝る前と同じ少女の横顔があり、顔にかかった銀髪が微かにその規則的な吐息でふー…と細かに揺れていた。

 

風邪という雰囲気でもない、安心した俺は横になったまま腕を広げググッと小さく伸びをすると欠伸を浮かべる。

 

 

「ふぁ…」

 

 

しかし何だか今朝は寒かった、というより何やら身体を覆うような『冷たい感触』に随分と早い時間に起きてしまったらしい。

まだ日の出前なのか家の中は暗く、ぼんやりと青い影を残して新居を淡く象ったまま生活感の余り無い新品の家具たちを映し出していた。

 

腕をつき、身体を起こした俺は久しぶりに外気に触れた上半身をブルリと震わせる。

寝ぼけた頭を右掌で押すように撫でると、そのまま手の甲で目をこすり大きく息を吐きだした。

 

 

「む…五時くらいか…?」

 

 

意識が緩やかに覚醒していくのに合わせ本当に早く起きてしまった事に気が付く。

いつもも六時ぐらいに起きてこそいるが日も出ていない時間はある意味新鮮だ、少女はともかくきっと早起きのベル君でさえもこの時間には起きていないだろう。

 

(ん…というか…)

 

再びゆっくりと伸びをしながら未だ掛け布団のかかった下半身を見る。

寝起きの生理現象はこの際置いておくとして…「冷たい感触」、まるで水をかけられたような…不可思議な、だがどこかで経験したことがあるような感触がぴったりと覆っている。

それは別に早起きしたから寒いとかではなく、もっと直接的に冷たい異変。何が原因か解らないが、俺はいいとして少女が風邪を引いたら大変な事になるだろうし調べなくてはならない。

 

(なんだ…これ…は…?…あっ)

 

…徐々に覚めていく思考の中、少し考えれば解りそうなものだが俺は躊躇いなく掛け布団を掴みあげると――

 

瞬間、薄いアンモニア臭。

閉じ込められていた匂いは昨日洗った汚れの汚臭と少し似ており、同時に脳を貫く刺激臭によって俺の意識は完全に覚め…一瞬の驚きの後苦笑いに変わる。

自分の腹辺りとベッドを濡らしてしまっている『それ』に冷たさを感じると、少女の顔を見て未だに寝ているその小さな頭をゆっくりと撫でた。

 

…まぁそんなこともあるだろう。

 

 

「――『おもらし』かぁ…」

 

 

ふっーと息を漏らし、子供特有の朝一に起こされることになった俺は「とりあえず…洗濯だな」と呟くとベッドから降りたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…よし!」

 

 

パン!と洗濯し終えた掛け布団を桶の中から取り出し張ると、完全に石鹸ごとゆすぎきって綺麗になった布団カバーを仰ぎ見る。

小庭に置いた桶と洗濯板の前にしゃがんだ俺は石鹸水で手を濡らしながらおもらしによって汚れたシーツやら毛布を全てまとめて洗っていた。

 

…起きてから小一時間程。

とりあえず少女と自らの身体を拭き、服を着た俺はずっと洗濯板を擦っている。

ずっとしゃがんでの作業は腰に来るし、太陽もまだ出ていないこの時間に外で水を弄っていると非常に冷たいが…しないというわけにもいかなかった。

 

(う…)

 

布団カバーを手に持ち立ち上がった俺は軋むような腰の痛みに軽く伸びをすると、外気に触れた身体をブルリと震わせる。

手についた水滴をぶんぶんと振って払いながら桶を乗り越えると、昨晩から設置している物干し竿に持っていた布団カバーをばさりとかけ洗濯バサミで端々をバチリと留めた。

 

 

「ふ…う」

 

 

急遽洗わなくてはならなくなった物はこれで全て終わりだ、幾枚かがかかった物干しざおの前で俺は軽く息を吐きだすと揺れる布の合間から「光明」を見た。

 

(…もう日が出てたか)

 

左右を家に挟まれており塀に囲まれているこの家の庭からでは、日の出はすぐに見えない。

急速に白み始めた空を見てそうかとも思っていたが、目を刺すように輝く発光を見てそれは核心に変わった。

青くなっていた空に浮かんだ太陽は白雲を引き連れじりじりと天を昇り、見上げてくる地上に白い光を照らしている。

 

絶好…かどうかは解らないが、今日は良い洗濯日和だろう。

 

数度目を瞬かせた俺は「今日中に乾いたら良いけどな…」と呟くと並んで軽く揺れる洗濯もの達に希望的観測な視線を向ける。

そして一度冷えた手をこすり合わせると()()()()()()()()()その姿で振り返った。

 

 

「…」

 

 

――縁側には少女がちょこんと座っている。

 

とりこまれた(少し生乾き感はあったが妥協点だった)ぼろきれを身に纏い、その長い銀髪をこげ茶色をした縁側の上に蔓のように広げた少女はその赤い瞳でこちらをじっと見つめていた。

変わらず女の子座り、身体を拭いてあげている最中に起きてしまったせいか少し眠そうに銀色のまつげをゆっくりと揺らし、目尻の垂れた瞳を首ごと上下していた。

見える手や足、頬の肌はまるでこの世のものでは無いかのように白く、広がった銀色の髪と刺すような暗い紅の瞳、果てはその汚れたぼろきれも相まってか…まるで天使のように、美しく見えた。

 

そして――その背には黒いコートがかけられている。

 

無論俺のコート、朝の外気は幼子に堪えるだろうという事で薄い布切れ一枚を纏った少女に被せて、くるんだ。暖かいということはあまりないだろうが…ないよりかはマシだろう。

少女に一張羅を貸し与え短い袖のTシャツ一枚、それだけでは朝の作業は辛いがまぁ少女にこんな思いをさせるよりかは良かった。

 

手についた石鹸液をジーンズで拭った俺は桶と洗濯板を纏めて縁側の端に立てかける、影となった床に僅かに水を滴らせると濡れた染みを作っていた。

 

 

「ん…」

 

 

ゆっくりと伸びをした俺はやり残したことが無いかと確認すると、一人でに頷く。

それから少女の方に数歩近づくと…どさりと広がった髪を踏んでしまわないように縁側に座り込んだ。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

俺は片足を組み頬杖をつくと、ぼんやりと遠くを見ている少女の事を見おろす。

 

…意識はあるが感情は無い、声を聞いたことも無いし反応も示さない。

 

 

「…」

 

 

少女は身じろぎ一つせず空を見ている。

 

青い空、回るように軽やかに過ぎていく白い小雲は輝き、見返すように太陽は少女の白い肌を照らし、僅かばかりにキラキラとその瞳孔を反射させていた。

 

――まるで初めて世界を見たかのような。

 

(…この子は世界を知りません、か)

 

世間知らず、という事ではなくもっと直接的な意味での『無知』。

 

触れたことのない感触、感覚、今まで知覚することを許されなかった「外の世界」に今彼女は触れている。

肌寒い外気に頬を撫でられ、眩しい陽に指先がじんわりと白く暖かくなる、触れた縁側のザラザラとした感触が足を覆い、物干し竿にかけられた洗濯物からぽたぽたと落ちる水滴が見えた。

それは少女にとって初めて見る光景、初めて知った感触と事象…既知などどこにもなく、未知に包まれた彼女は――見たまま、反応を示さない。

 

(質問攻めにあうくらいが普通だと思うんだがな…それ以前の問題か)

 

子供は興味心の塊というイメージがある、自分の疑問に思った事を躊躇わず大人に訊くのが子供の在り方で、年相応の「良さ」だと俺は思う。

…未知がそこにあり興味を持ってそれについて質問してくれれば答える、というコミュニケーションを期待していた、何であれ会話が出来れば信頼関係を築けると思っているがそもそも話せないのだから意味が無い。

それは彼女の心が――

 

 

「…」

 

 

穏やかな時間が流れる。

相変わらず外は寒いが、縁側に座った薄着の二人は動かない。

少女は空を見つめたまま、俺は少女の事を見守ったままただ時間が過ぎていくのを感じた。

 

…ただ一緒にいられるだけでいい、長い銀色を視線で追った俺は一度組んでいた足を解く。

年季の入った板に腕をつくと息を吐きだし、ふと少女の瞳に映るものが解ると少し呆れたように眉を顰めると――唯一かける言葉を思いついて笑った。

 

 

「…太陽を直視するのは目に悪いからやめとけな」

 

 

手を伸ばすと、少し覆うように小さな頭を下に傾ける。

無意識に太陽を見続けるのは目に悪い、キラキラとしたそれを子供の時分は良く見ていたが少女の場合延々と見続けてしまうだろう。

 

カクンと首をおろした少女に苦笑すると、俺は撫でるように手を離す。

何に興味を示すでなく、触れた俺を意識すらせずに少女は庭を見続けていた。

少しべたついた掌を縁側に擦りつけながら俺は腹の底から息を漏らすと「さて…」と一つ呟いた。

 

 

(今日の予定は…)

 

 

とはいえいつまでも縁側でぼんやりとしているわけにもいかない、少女を見ながら俺は今日する予定だったことをゆっくりと思い出し始める。

まずは…『朝ご飯』だろうか、ずっと洗濯をしていてお腹も減ったし、少女もお腹が空いている事だろう。

ワンパターンかもしれないが、ひとまずここは粥でも作って――

 

 

「って、食材買ってねぇわ…うわぁ…」

 

 

――割と後悔した。

 

別に一人だけなら外食も出来るし、というか朝は食べなくても別に良いぐらいの考えだったので昨日食材を買うことはしなかった。

故に今この家に食料の備蓄は無い、俺の料理スキルが火を噴くことは出来なかった。

 

…どうしようもないが、買っておけばよかったと今更になって後悔する。

 

 

「はぁー…どうするか…」

 

 

縁側にだらりと寝転がると考える、食材が無いとなると今すぐ調理は当たり前だが無理だ…これから買ってきても良いが時間がかかるし…というかこの早朝にわざわざ開店している店があるかどうか…。

 

青空を仰ぎ見ながら俺は現実的じゃない考えにうーん…と唸ると、少し肌寒い空気に当てられブルリと震えた。

それから流れていく雲を一つ見送ると、あくび混じりに結論を導き出す。

 

(…どうせ本拠地(ホーム)行く予定あるし、向こうで作るか)

 

幾つかの私物回収とヘスティア様への報告があるので教会地下には午前中の内に行くつもりだった。

あそこであれば食材の買い溜めもしているはずだし、粥くらいの軽食であれば俺の分も作れる。

それにこの時間であれば…ベル君も起きているだろう、ヘスティア様含めて異世界風の朝食を振舞うのもやぶさかではない。

 

一石二鳥、唯一問題があるとすれば午前中に来ると言っていた「風呂業者」の応対をしなければいけない以上長居は出来ない点だが…まぁ流石にまだこんな早朝からは来ないだろう。

 

 

「…よし」

 

 

立ち上がった俺は少女の肩にかかっているコートをとる。

ばさりとはためかせて身に纏うと少女の脇に手を入れ持ち上げ浮かせるように小さな身体を左手に抱いた。

縁側から家の中に入るとベッド脇まで行き、一応直剣を手に取りぎゅるぎゅる丸を腰に片手で取り付けていく。ガチャガチャと金属の擦れる音が鳴ると、慣れ親しんだ重みが腰にかかり重心が僅かにずれた。

 

振り返る、忘れ物はないはずだ。

左腕に座った少女の頭が胸に微かな重みを加えるのを覚えながら、ガラリと玄関の引き戸を開けた俺は本拠地へ歩み始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

廃教会の地下へと通じる狭い階段を少女を胸に抱きながら降りていく、ところどころ壁の剥がれた足元の暗い階段は天井が低く幅も狭いため、185cmある俺は軽く身を屈めて歩くしかない。

毛先が地面に触れてしまっている少女の髪を踏まないように気を付けながら階段を一歩一歩踏む、年季を感じさせる不揃いな切石が小さな音をトーン…トーン…と響かせると微かに埃が舞った。

 

慎重に歩みながらふと視線を上げる、と明るい朝日が見えた。

瞳孔を僅かに収縮させた俺は白い光に向かって降りる速度を僅かにあげ、雑に造られた階段のでこぼことした感触を足裏に感じながら進む。

 

 

「…ッ!」

 

 

部屋の中に入ると小さな明るさに目を細める。

天井に空いた穴から差し込むノーカットの忌々しい透明感ある木漏れ日に軽く手をかざして部屋の中を見渡すと…生活感あふれる本拠地の中心に座る少年を見つけた。

 

 

「おはよう、ベル君」

 

「…あれ、おはようございますリョナさん!どうしたんですか?」

 

 

ソファに座ったベルはライトプレートを身体に装着する作業から目をあげると、少し驚いたような表情で階段入り口に立つ俺を見る。

…のだが、その腕から長い銀髪が垂れ、非常に小さな少女が抱かれていることに口を僅かに開けて驚愕に眉を顰めた。

 

 

「いや実は向こうの家に食材を買い忘れてな、朝はこっちで作って食べようと思ったんだが…ベル君はどうする?もう食べたか?」

 

「…え、いや、実は今日ちょっと急いでて食べないつもりだったんですけど…」

 

「五分で作れるぞ?」

 

「あー…じゃあいただきます!」

 

「そうかそうか」

 

 

頷くと自らのスペースに向かって歩んでいく。

床の上に敷かれた寝袋、その上に置かれた言語研究ノート改めこの世界の文字がのたくった紙数枚とインク付きペン、それと子供向けの絵本。

枕元、というか頭のすぐそばの床には今までの貯金を入れた下膨れのよれた緑色の袋が腰かけていた。

 

…驚くほどモノが少ない、必要が無いと思っていたので買っていないがこれから鍛冶をするかもと考えると、そろそろ替えの服を買うことを考えてもいいかもしれない。

どうせ少女の服を買うのだから、その時一緒に買おう。

 

 

「ところで…あの…」

 

「んー?」

 

 

そんなキャンパーも真っ青な自らの領域から物をどかして軽く繕う、寝袋の上でも比較的柔らかな場所を探しあて少女の事を座らせる。

ソファにいるベルと机を挟んで丁度対面に座した少女は寝袋をお尻でくしゅりと軽く潰すと、長い銀髪を広げてその紅い瞳をぼんやりと少年に向けた。

 

手を離して座らせた少女が倒れてしなわない事を数秒確認した俺は安堵の息を漏らす。

振り返って改めて少年を見ると、ベルは不思議そうに困惑したように目を瞬かせ眉を持ち上げ指を持ち上げると座らせたばかりの少女を恐る恐る指さした。

 

 

「その子は…?」

 

 

…あぁそうか、そりゃあベル君が困惑するのも致し方無い。

何せ俺は昨日までこんな少女を所有していなかったし、見たことも無かったわけで、しかもその少女が見て解るほど汚れていれば、まず何か面倒ごとがあるべきと思って然るべきだ。

 

(嘘を言う必要も無いが、どうする?)

 

説明、全て言うのであればあの地下室の発見から惨状まで事細かにベル君に語り聞かせる。

だがそれはつまり結果的に「ベル君を巻き込む」ということに変わりない、否、「勝手にベル君が巻き込まれてくる」という方が正しい。

何せオラリオ1お人よしの少年だ、あの地下室で生き残った少女が困っているとなれば…まぁまず間違いなく全て投げうって手助けしようとしてくれるだろう。

 

それは少年の長所ではある、だがお人よし過ぎるというのも問題だ。

きっと今かいつまんで聞かせてしまったら少年は急いでいるにも関わらず足を止め、間髪入れずに俺に「何か手伝えることはありませんか!?」と詰め寄ってくることだろう。

 

…申し訳ない、とは思わないし人手がある分には助かるが。

 

まぁ急いでいる「今」でなくて良いだろう、タイミングを見て何かしら説明するとして今は――

 

 

「――娘だ」

 

「…え?」

 

「昨日拾った」

 

「…えぇー?」

 

 

そう告げるとベル君は、驚きを通り越して呆れたらしい。

思わずライトプレートを取り落とすと極めて不思議そうに、酸っぱいものを食べた時のように眉をハの字に曲げると改めて少女に視線をやった。

 

…説明を求めるように俺の事を見上げる、まともに説明する気のない俺は肩を竦めると少女の事をチラリと見下ろした。

 

 

「まぁなんだ、昨日のことなんだが…えー…」

 

 

とはいえ何と説明するべきか。

テキトーな嘘は幾百万と思い浮かぶが、適当な嘘は一つたりとも思い浮かばない。

ベルに心配、だとか同情させた時点でアウト。だが少女の身体が汚れている以上まともなエピソード足りえることはまずない。

 

 

「…そう、昨日空から女の子が落ちてきてな。受け止めようとしたんだが結局たまたまあった泥沼に全身落ちちゃって命からがら助けたんだが身元不明なうえに一言も喋らないし、何だか娘になりたそうにこっちを見てたから俺が面倒を見ることにしたんだ、世の中珍しいこともあるもんだな」

 

「え、嘘ですよね…?」

 

「…さて、メシ作るか」

 

「あ、逃げるんですかリョナさーん!」

 

 

早口にまくしたてると台所に逃げる。

咎めるようなベルの視線を背中に受けながら数歩離れると、食料を入れる棚を開けて中を確認し――

 

 

「あ、そういえば」

 

 

振り返る、人数を確認する。

 

 

「がー…ごー…」

 

 

見れば背景に完全に同化してしまっていたが神様が1柱いびきをたてながら寝ていた。

諦めたのかベルはライトプレートを付け始め、寝袋の上に座った少女はその様子を意味もなく見つめていた。

…加えて俺で四人前、少女は半人前で俺は一と半人前だから四人前。

 

――食料を備蓄している棚に振り返ると、その中身を覗き込み何を作るかを考え始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「――狼人(ウェアウルフ)、か」

 

 

廃教会の地下から出た綺麗に晴れた青空の下、俺は片手で抱いた少女を見下ろし歩きながら、先ほどヘスティアに教えて貰った少女の情報に納得しながら呟く。

銀色のぴんと立った三角形の耳と太い尻尾、どこか犬らしいとは思っていたが改めて狼と言われると不思議な納得感があった。

 

(…)

 

あの後ベル君に朝飯を…ちなみにオムレツを振舞い、急用があるという少年を慌てて見送ると、少女と自分の分を作って食べた。

そして相変わらずだらしなく寝ているヘスティアを尻目に本来の目的であるシャワールームに向かうと少女の身体を洗い始めた。

 

…身体、そして髪。

撫でる度、指で梳くたびに汚水が溢れる。

狭いシャワールームで汚水が撥ね、その度に身体は綺麗になっていく。

指の隙間にこびりつく油汚れを厭わずに根気よく汚れを洗い流していくと、やがてタイルの床は黒く染まった。

獣耳を掻き、輝くような銀色の太い尻尾を付け根まで洗うと――二時間ほどかけて少女の身体を洗い終えたのだった。

 

シャワールームから出るとその身体を大きめのタオルでゆっくりと拭く。

全身をくまなく洗われても相変わらず無反応な少女のすっかり綺麗になった身体を支え立たせると身体を拭き――髪を切った。

流石に足先より長いのは長すぎる、その銀髪を手に取ると腰の辺りでバッサリと切った。

髪質がかなり痛んでしまっていたのでいっそのことショートヘアにしてしまうことも考えたが、床屋でも無い素人なのに短くしすぎるとおかしな形になりかねない。

ロングぐらいの長さに濡れた髪を切るとタオルで挟むようにして水気をきり、ヘスティアから貸りたヘッドブラシで髪を梳こうとしたのだが…ぴょこんと端々が跳ねた、痛んでいるというよりどうやら元々くせっ毛らしかった。

それから他に着せれる服も…いやヘスティア様のいつものがあったのだが胸部がガバガバというかダルンダルンだったので、ひとまず元の服を着せた。

 

…戻るとヘスティア様が起きている、作り置いておいたオムレツをガツガツ食べていた、美味しかったらしい。

自らの寝袋の上に戻り少女の事を膝の上に乗せると、少ない自らの所持品を纏めつつ、その間ソファの上に座って暖かい飲み物を楽しむヘスティアに家やら少女やら様々な事を説明し始めた。

 

――お叱りを受け、号泣された。

 

まぁ摂理なのだが、何も言わずに家を買ったことをまず怒られた。

そして少女の事をありのまま伝えると、わんわん泣いた。惨状を憂い、悼み、少女を想って、自分の事のように悲しんだ。

…見ず知らずの初めて会った少女の悲惨な話を聞いて、涙を流せる人だった。

 

数十分後、泣き止んだヘスティア様に暖かいココアを振舞いながら俺は少女の事について相談した。

主に服と名前、そして亜人の種類について、その結果狼人だという判断を下されたのだった。

 

アルバイトがあるというヘスティアと別れ、廃教会から出ると教えてもらった服屋に向かった、現在に至る。

 

 

(…というかアルバイトはともかくベル君は何で慌ててたんだろ?)

 

 

朝慌ててベル君は飛び出していった、リリとの約束であそこまで慌てることも無いだろう。

それにどこか楽し気なようにも見えた、思えば昨日アイズと話していたし…何か匂う、今度臭いを追跡してみるか。

 

 

「…む」

 

 

少女がズリズリと落ちてしまっている、支え直すと石鹸の匂いが漂った。

まだ若干湿った癖のある銀髪が揺れると、綺麗になった肌が嬉しくて笑ってしまう。

だがその分異様に汚れた服が目立ち、道行く人々の奇異の視線が時折向けられた…黒コートのせいで元々目立っているのが更に。

 

気にせずヘスティアから教えられた目的地にオラリオを歩いていく、今日は天気が良いし朝干した洗濯物もよく乾くだろう。

知らない街道に目新しさを感じながら道行く様々な人種、耳と尻尾の生えた亜人やエルフ、小人族など観察し、遠目に狼人の旅人風の人影が消えたのを見て肩を落とした。

 

 

(そろそろか)

 

 

目的地、つまり少女の服を買うための店への道を辿る。

道行く人ごみを避けながら、ヘスティア様から教えて貰った角を曲がり見上げると――

 

 

「お…お!?」

 

 

――明らかなレディース服店の前に、俺は立っていたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

店内から一歩外に踏み出した俺はげっそりと、苦い息を吐く。

本拠地から持ってきた私物を入れた風呂敷と、少女のために買った服と下着をいれた包みを持ち直すと…左手に抱えた「白いキャミソールワンピース」を着ている少女を抱き寄せた。

 

――少女服と、下着を買った。

 

…故に、精神的な消耗が激しい。

体力にはかなりの自身があるが、一時間程のショッピングであったにも関わらずこんなにも疲労困憊しているのは…ある意味自明の理でもあった。

 

いや、何も変質者を咎めるような視線で見られたわけでも、女児向けの洋服を買うことが辛かったわけでもない。

むしろ店員さんは非常に良くしてくれたし、店内にいた他の客は若いお父さんと娘とでも思ってくれたのか特に気にもされなかった。

 

…だが、何というかあの空間は完全に女性オンリーの結界が張られている。

別に恥ずかしいとかは全くこれっぽちも思わないのだが、いるだけで息苦しいというか、女性向けの場所というものはそもそも男の生存を許すように作られていないのだ。

 

――圧倒的場違い感に潰されそうになる、というのが一言で非常に解りやすい。

 

反対に女性に説明するとなると…立ちション…否、割と女性はどこにいても違和感ないのではなかろうか、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花と言うくらいだし。

 

 

「…」

 

 

まぁ何にせよ少女の服を買えた。

流石にブラジャーはまだ必要ないし、汚れた服は捨て、パンツとサンダルを履かせ、白いフリルの付いた肩の出たキャミソールワンピースを着せた。

 

――外面は完全に普通レベルに、いやそれ以上に可愛らしい姿に少女はなっていた。

 

 

「…あとは、名前か」

 

 

買ったばかりの綺麗な服を着た少女を腕に抱いた俺は、家への道を歩き出しながらあと少女に必要なものを数える。

すっかり外見はまともになったわけで、必要な日用品も本拠地から借りてきた。

ならばあと最低限この子に必要なものは…『名前』、識別情報であるとともにそれは親の祈りでもある。

 

 

「むー…」

 

 

少女の脚が揺れる。

悩みながら天を仰ぎ、帰路を歩きながら少女の名前を考えるが――

 

あの母親の願いは「この子に世界を教えてあげたい」だったと思う、少なくとも俺はそういう意味で受け取った。

しかし狭い一室に縛られていた少女を外に連れ出し、世界を教えてあげたいという祈り…それはある意味こうして外に抱かれて歩いているだけでも完遂されているという事になる。

冗談、ともあれそういった意味合いの長居を名前に込めるべきなのだと思う。

 

――適切な言葉が思い浮かばない、生半可な単語を名前にすることは出来なかった。

 

 

「帰ったら考えるか…」

 

 

今も考えてはいるが。

そもそも日本人らしい名前を付けるべきなのか、それともこの世界の例に倣うべきなのかを考えるべきだろう。

 

(あぁ…そういえばぎゅるぎゅる丸も…)

 

今日はもうダンジョンに行くどころか外出もしないだろう。

家を買った目的はそういえば壊れたぎゅるぎゅる丸を直す事だったし、家に帰ったら一度分解し壊れたパーツを確認する作業に徹してもいいかもしれない。

…まぁ、既に疲れたので一日くらい少女に構って怠惰に過ごすのもありだが。

 

 

一度思考を止めると歩みを続けたまま少女に目を落とす。

 

 

フリルの付いた白いワンピース、未だ長いが切られたくせっ毛の強いうなった銀の髪、見違えるように綺麗になった白い肌、小さい身体、整った顔立ちと紅い瞳をした垂れ目。

 

…傍から見れば狼人の美少女、しかしその目は変わらず何も見ていない。

 

外面は最低限、いや清潔感は十二分以上にあるし匂いだって漂っていた死臭が消え石鹸の良い香りがする。

だが朝ご飯を食べさせ、髪を洗い身体を洗い、服を買って抱いて歩いて新しい世界を見せたところで少女は視線の一つも動かさない。

 

――少女は、何も見ていない。

 

内面的な話、少女が何を見てきたかは知らないがきっとそれは「悲しすぎる世界」だったのだろう。

見るに堪える現実、見たくないから心を閉ざして『0』…いや『マイナス』になって感情を殺した。

故にその目はただ紅いだけだ、自意識だとか感情だとか少女の心と呼ばれるものはきっと壊れているのだろう。

 

(…)

 

つまるところPTSD、精神的ショックによるストレス障害。

強すぎる心的外傷(トラウマ)から自分を守るために「トラウマを感じている自分自体」を失くそうとする行為、同種の人間の自己防衛機構としては自らの神に無条件に縋るなどがある。

 

…だがあの地下室に神がいたとは思えない、少女はきっと今世界を見たくないだけなのだろう、少なくとも俺にはそう見えた。

 

(なら)

 

専門知識は持っていないがどうすべきかは決まっている。

 

――俺は俺として、子供(かぞく)になった少女に家族らしく接するだけだ。

 

愛するという表現も正しい、ただ暖かい食事を与え、身体を洗い、頭を撫でるという行為を繰り返す。

そしてそれがいつかマイナスを帳消しにし、1になって世界を見ても良いと思えるように待つ。愛とはスポイトを差すがごとく地道な繰り返しであり、心という器に注がれることで本来の色を成すものだ。

 

…特別な事は当事者でない俺には出来ないとも言える。

だが過去は過去にしかすぎず、所詮過去を変えることも見ることも出来ない、それどころか見るな聞くな触るな、積極的に醜い古傷を抉ることも無い。

無かったことにする気は無いが、あったことにする気も無かった。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

少女から視線を離す。

つまるところやることは変わらない、考えるべく悩みごとはそれなりに多いがもうこの少女は俺の娘なのだから一緒に生活していく以上の事は無い。

 

…だがいつまでも少女、少女と呼ぶのもいい加減悲しい限りだ。

まず名前をつけてあげなくては最低限を満たさないのだから人としての心を取り戻す以前の話だ、また初めに戻る。

 

街道を歩きながら俺は空を見上げる、快晴だと思っていた青い空にはぽつんと一つだけ白い雲が浮かんでいた。

様々な思いが去来するが…暖かい陽気に俺は割と能天気に身構えていた、結局これからなのだと日常を謳歌する気で欠伸を浮かべていた。

 

軽い少女と共に家に向かいながら、ふと空腹を覚えた俺は周囲をふと見渡すと――

 

 

「…あ」

 

 

――もう昼飯時が近い事に気が付いた、街道沿いの青果店が目に入る。

家に食材が何もない事を思い出した俺は買い出しのためにその店に近づいていくのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




書き直す勇気、実際めっちゃ勇気いりましたw
でもねーやっぱり展開に心残りがあったらしくて書き直したら…こう心が晴れやかになったというか、キモティ…

というわけで少女の話を長引かせずに一話に纏めたのが今回です、後半キングクリムゾンが大暴れしていましたが日常感あるかな?あったらいいな?と思ってやりました後悔は無いですが反省点は次回に活かします。

…まぁあえてコメントすることも無いんですがロリとキャミソールワンピースが至高とだけ言っておきます、断固として異論は認めません。

ではではー


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 外壁上にて

・・・

 

 

 

――ダンッ!!

 

強く左で踏みこむ、間合いを大きく詰めると素早く逃げていた兎とついに肉薄する。

体勢を崩されていた白兎は上体を揺らがせたまま瞳孔を開くと、辛そうな顔のまま何とか腕を胸の前に交差させ防御の姿勢をとった。

 

だがそれは解り易すぎる、まだ踏み込んだだけの俺は『先ほどのように』拳を引きながら()()()()()()

 

 

「ッ!?」

 

 

大振りのフェイント、再び石畳が揺れる。

白兎の驚いた顔が見えた、すっかり拳に釣られてしまっていた少年は警戒していたはずの脚を見ていなかった。

 

右足が内側に回る、踏み込んだ勢いが身体を伝う。

構えていた拳は解かれ、振り向いた上半身に合わせて黒いコートが翻り少年の視界を奪った。

一瞬地平線から昇る日の出が視界に映る、一回転した世界で金色と銀色の中で見た俺は吼えるような気迫と共に左足を――ブン回す。

 

 

『ゴズンッ!』

 

「ぐわぁッ!?」

 

 

鈍い音と共に俺の放った回し蹴りは()()の顎を捉えていた。

抉るように迫った(かかと)にベルはスローモーションのように顔を面白いことにさせると、元々ふらついていたということもあったからか吹っ飛び外壁の固い床の上にどさりと鈍い音をたて落ちた。

 

蹴り飛ばした俺は「あ、やべ」と足をおろす、いくら『特訓』と言っても怪我させちゃわけねぇ!と慌てて駆け寄る。

 

 

「お、おい大丈夫かベル!?」

 

「…」

 

 

声をかけてみるが返事がない。

うつ伏せに倒れている少年の身体を起こしその顔を覗き込むと白目を剥いて気絶していた。見ればあごには痛々しい痕が残っており…まぁ呼吸は安定している、軽い脳震盪ですんだようだ。

 

良かったと肩を落とした俺は少年の頭を石床の上に横たえる、暫く寝かせておけば復活するだろう。

 

(…)

 

息を漏らした俺は立ち上がる、戦い終えた後の暖かい身体に朝早い外気が心地よい。

ふと外壁の上、遠い日の出に照らされ始めたオラリオが美しく彩を輝かせ始めるのを見下ろし、その感嘆たる光景に微かに目を細めると――

 

 

――あれ、そもそもどうしてこうなったんだっけ?と思い出しながら、振り返るのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

時刻はほんの僅か1時間程度だが前に戻る、自宅にて俺は隣に座らせた狼人の少女に朝ご飯を食べさせていた。

 

 

「ふぁ…」

 

 

欠伸を一つ浮かべながら俺は隣に座らせた少女の口に朝食の粥を運ぶ。

微かに湯気を立てるそれは少し薄味だったが食べやすく、特に咀嚼せずとも少女に食べさせることが出来た。

最後の一口を流し込んだ俺は少女の口かられんげを離す、空になった茶碗の中にカランと投げ入れると隣に座らせた少女を撫でる。

 

 

「美味いか?」

 

「…」

 

 

声をかける、しかし変わらず少女の視線が俺に向くことは無い、その紅い瞳は机の上の椀に向けられている。

暖かいご飯が喉を落ちても、指で細い銀髪を梳かれても少女は何の反応も示さない…だが別にそれでも構わなかった。

 

俺は微笑んで少女の綺麗な銀髪から手を離す、再び出てきた欠伸を噛み殺し机の上の椀を二つ持って立ち上がると、のんびり歩いて台所の流しの中にコトリと椀を置いた。

キュッキュッと蛇口を捻り椀に水を溜めるとついた汚れを落とし始めながら…呟く。

 

 

「…名前なぁ」

 

 

――少女を拾ってから三日目の朝が来た。

 

昨日の午後は結局少女の名前を考えているうちに夜が来てしまい、買っておいた食材で夕食を作って寝た。

少女を暖かい寝間着に着替えさせ…おねしょを何とか出来ないものかとトイレでお腹を擦ってあげると弛緩したらしく十秒ほど弱々しいアーチを描いた。

…そして今朝も早く起きた、昨晩させたおかげで今日は冷たい感触で起きずに済んだ。

少女を寝かせたままベッドを抜け出し粥を作った俺は、少女をゆり起こして食べやすさ重視の粥を全て食べさせ今に至る。

 

(一人で考えるのも無理あんのかなぁ…)

 

とはいえ昨日からの悩み事…少女の名前、部屋の隅を見ればごみ入れの中には少女の名前候補を書いたくしゃくしゃに丸められたメモが溢れんばかりに入っている。

思いついては書き、納得できずに捨てた結果なのだが…名づけというものは本当に難しい、全然思いつかないというか行き詰っている感覚がした。

いやそれ以前に思い付きで決めるというのもいかがなものか、なんて思い始める始末で結局何も成果をあげられていない。

 

事件は迷宮入りどころか入り口にすら立っていないような感覚で、小さなため息が漏れた。

 

俺は椀を洗いながら食卓の椅子に座っている少女に目を向ける、名無しの少女に早く名前を付けてあげたいという思いはあるが…

 

(だけどテキトーな名前もつけられんしなぁ)

 

…焦っておろそかな名前にすることもできない、深刻視もしていないが出来る限り早い方が少女の自意識にも良いというだけだ。

とはいえ一人にできる限界というものがあるわけで…躊躇うことも無い、こういうことは誰か慣れている人に手伝って貰うのが良いだろう。

 

俺はじゃばじゃばと二つの椀を洗いながら名前を考えるのを手伝ってくれそうな人を考える。

 

…身近で言えば、例えばヘスティア様とか――

 

 

ドドドドドドドドドッ!

 

――ドンドンドンドンドンッ!

 

「…リョナくぅぅぅぅぅぅん!!いるんだろぉぉぉぉぉぉ!!!」

 

 

強く地面を揺らすような足音、突然玄関の引き戸が強く叩かれ始め、同時にその向こうから凄く必死な声が聞こえた。

椀を洗い終えた俺は怪訝な視線をやりつつ水道の蛇口を閉じると、あぁ噂をすればか…と濡れた手を拭きながら玄関に近づき、開けた。

 

…するとそこには息を切らしたヘスティア様の姿があった。

 

 

「おはようございますヘスティア様、何の用ですか?」

 

「お、おぉ!?おはようリョナ君!それがだな――」

 

 

朝っぱらから騒がしい女神を見下ろす、昨日住所は教えていたので特定されていることに疑問は無いのだが…こんな早朝から何の用だろうか?

どこか慌てている様子の暖かそうなコートを羽織ったヘスティアは非常に真剣な表情を浮かべており、玄関から出てきた俺の姿に目を見開くとブルンとその乳を揺らし片手を上げて挨拶する。

そして一度家の中をチラリと覗き込んでくると、怒気を孕んだ目で見上げてきた。

 

 

「――ベル君こっちに来てないかい!?」

 

「は?…あぁー」

 

 

そういえば昨日の朝ベル君はいつもより早く、それこそヘスティアが起きるより早く本拠地を出ていた。

その理由は解らないが、つまり今日も早く出たということだろう…そしてふといつもより早く目を覚ましたヘスティアがベル君のいない事に混乱(パニク)ることもまぁあるだろう、その後アテを探して俺の家に突撃してくることもまぁあるだろう、非常に迷惑だが。

 

 

「えっーと…来てないですけど、どうしたんですか?」

 

「それが今朝僕が珍しく早く起きたらベル君がいなかったんだ!って来てないだと!?じゃあ君何か知らないか、知ってるだろ、知ってるだろうな!!?」

 

「いや知らないものは知らないですが…」

 

「何ィ~使えんッ!…じゃあ主神命令を下す!!」

 

 

しゅ、主神命令…?

随分と横暴なもの言いで見事な三段活用を使いこなすヘスティアに唖然としつつ俺は肩を落とす、玄関先でプリプリと何故か俺に怒っている様子の主神様に苦笑を漏らした。

 

そして偉そうに踏ん反りがえったヘスティア様はビシリィ!と俺の事を指さすと、主神命令(?)を下す。

 

 

「いいか?君は今からベル君を探してくるんだッ!そしてもし誰か悪女にたぶらかされていたら…潰せィ!」

 

「えぇー…」

 

 

グッと親指が下に向けられる、全く笑っていないヘスティアの目に俺は呆れを軽く通り越し笑うと開けた引き戸に軽くもたれかかる。

 

(…まぁ、俺も気になるっちゃ気になるけど…)

 

あの真面目を絵にかいたような優しい少年が、親から隠れて朝早くこっそりと抜け出す理由、しかも二日連続。

ヘスティアが心配するのもわかるし、何かやましい事でもあるのかなーと気にはなる。

だが…別にわざわざ探してまで知りたいかと言われると否だ、それにあれはあれで男の子だし何かあるにしても邪魔するのははばかられた。

 

 

「…うーん」

 

「むっ、主神命令だぞ!まさか聞けないっていうんじゃないだろうな!?」

 

「えぇー…まぁ、いいですけど…」

 

「よろしい!」

 

 

とはいえ渋々承諾する、頷くと強引なヘスティア様は子供のようにニッコリと笑って見せた。

やれやれと首を振るとため息をつきもたれかかった引き戸から身体を離す、軽くこきこきと首を曲げ「まぁ追跡は楽か…」と呟くと鼻を鳴らし、ふと気が付いた。

 

 

「あ、そういやヘスティア様」

 

「ん、なんだい?」

 

 

首を傾げるヘスティアを尻目に振り返ると、少女の身体を抱き上げいつもの位置に支え直す。

軽い感触を確かめながら石鹸の匂いのするふさふさの頭を抱きよせるとヘスティアの元に戻って少女の事を掲げて見せた。

 

 

「実はこの子の事でちょっと相談があるんですけど…」

 

「あぁー、あれから何か問題かい?初めての子育てなら戸惑うことも多いだろうし…ふふ、その点僕は経験豊富だからな、大船に乗ったつもりで何でも相談してくれよ!」

 

「いやというか子育て以前の問題でして…名前のことで少し」

 

「……あ、そっか。まだ決まってなかったんだっけ」

 

 

処女神なのに経験豊富とはこれ如何に、という言葉をグッと飲み込んだ俺は困った感情そのままにヘスティアを見つめる。

まぁ名づけの相談先として、俺の狭い知人内でこの(かみ)以上に最適な相手もいない…はずだ…いちおう神様だし、読書家だから語彙力もあるはずだし。

 

 

「うーん昨日から考えてはいるんですが全然思いつかなくて、良い名前を付けてあげたいんですが…何かアドバイスないですか?」

 

「んー名づけかー…そーだなー…」

 

 

ヘスティアは腕を組むと俺の腕に座る狼人(ウェアウルフ)の少女に目を向ける。

垂れた尻尾からくせの強い銀髪、頭の獣耳に視線を上げていき、俺の胸に預けられた無表情な顔を観察し始めた。

 

『きっかけ』でもいいのだが、アドバイス。

何か考え方でも教えて貰えれば…と期待の目を向ける。

 

…しかしヘスティアは暫く少女を観察した後、目を逸らすとがっくりとうなだれてしまった。

 

 

「…いや、ごめん。よく考えたら僕家庭の神ではあるけど子供の命名に困った親はだいたいヘラとかの方に流れちゃってぶっちゃけ経験が薄いというか…名づけに関してはあんまり力になれないかもしれない…」

 

「あぁー名声の差ですか?」

 

「ぐっ…意外と痛いところついてくるね君!」

 

 

まぁ確かヘラは結婚の神みたいな風に記憶している、ヘスティア様も家庭と孤児の神であはあるが名前の相談(しんたく)を受ける親が行くとしたら(順序的に)前者の方だろう

 

…しかし『こっちの世界』では実際どうなのだろう、名声の差は明らかなようだが。

 

思えば神話体系自体は同じだ。今まで深く考えてこなかったが、俺の世界の神は全員死んでいるはずだというのに、こちらの世界には知っている神話の神々が生きている…平行世界ということなのだろうか?

 

少し悔し気に、だが開き直ったヘスティアはフンと鼻を鳴らす。

 

 

「ふんっ、これから有名になるからいいさ!というか君が親として接していればいつかは必ず思いつくとも、焦らなくて大丈夫!!」

 

「まぁ…そうなんですけど」

 

 

どうやら怒ってしまったらしい、少し不機嫌になったヘスティアが頷くのに俺は眉を顰める…結局アドバイスは無く地道に候補を絞っていくしかないようだ。

一度少女に視線を落とすと紅い瞳でじっと虚空を見つめていた、いろいろと思うことはあるが、焦らずゆっくりと決めよう。

 

 

「じゃあベル君のこと、任せたよ!他の相談にはいつでも乗るからな!」

 

「あいー」

 

 

そして背を向け猛牛のように去っていくヘスティアに軽く手を振りながら俺は家の中を振りかえる、一応直剣だけ腰に差すと腕の中の少女に目を向けた。

…置いていくのは不安が残る、今は少しでも目を離すのが怖いしダンジョンに行くでも無いので朝で肌寒いが少女に世界を見せるための散歩感覚と思えば良い。

 

(まずは本拠地から行ってみるか)

 

とりあえず目的地を決めた俺は戸締りを終えると少女を片手に朝のダイダロス通りを歩き始めたのだった。

 

 

 

――数十分後、街道に片膝をついた俺は鼻を鳴らしてベル君の匂いを追跡していた。

 

 

 

「こっちか…」

 

 

知った匂いの痕跡がついた道を指先で撫でると、どちらの方向に続いているか確認する。

本拠地から出て本来ならダンジョンに向かうはずの匂いはまだくっきりとその痕を残しており…迷宮の入り口があるはずのバベルとは反対方向に向かっている、やはり何かあるということを伺わせた。

 

一度大きくスンと息を吸った俺は立ち上がる、少女の事を抱え直すと人気のない早朝の道を見渡し匂いの後をまっすぐにつけていった。

まだかすかに仄暗い道を歩くと朝の冷気が皮膚を差す、胸に抱いた少女は寒そうにはしていないが少し赤くなった肌が見えた。

あまり外気に触れないように抱き直すと、軽くその頬を撫でつつ歩いていく。

 

そして――

 

 

「お、ここか?…って、ここは…」

 

 

――見上げる、気が付けば俺はオラリオの外壁付近にまで来ていた。

 

高い石壁、ぐるりとこの町が囲まれているのは知っていたが近くに来るとその巨大さが良く解る。

ここまでやってきたことの無かった俺は数秒圧倒され少し白み始めた空を背景に高い壁を仰ぐと、今一度匂いを嗅いだ。

 

(ん…?)

 

ベル君の匂いは確かに外壁上に登るための尖塔のような場所に続いている、だがそれ以外にも何か知っているような匂いがどこか漂っているような気がする。

影の中で首を傾げた俺は、いったいこんなところで何してんだ?と呟くと尖塔に近づき取り付けられた木のドアの蝶番がガチャリと開くのを確認し中に入る。

 

…暗い塔の中、手すりのついた螺旋階段が続いているのを見て軽くため息を吐いた。

 

 

――意外と早く頂上に到着する。

 

 

螺旋階段だったのは最初だけで後は斜めに30段ほど登れば頂上の光がすぐに見えた。

少女を両手で抱いた俺は足元に気を付けながら進むと、どこかから金属の触れ合う音を聞きながら外壁上についたのだった。

 

 

「…?」

 

 

まだ夜明け前の濃く青い空、強く吹く風に鼻先が冷たくなる。

高所、二段飛ばして石床に足を付けた俺はまだ日の当たらないオラリオの街を見下ろし、同じ方向に少女の髪がたなびくのを見送りながらベルの姿を見渡す。

 

そして――短く踏まれる足音、何かがぶつかり合うような音に振り返ると目を見開いた。

 

 

「あ、アイズ!?…とベル君!!?」

 

 

たなびく金髪、振りかぶられる青い細剣、しきりに動く赤い瞳と白髪。

 

見れば白いライトプレートを装備したベル君と、かのレベル6冒険者のアイズ・ヴァレンシュタインが戦っている。

まだ暗い中でアイズの剣が素早く振られ、それがベルの身体かナイフに当たるたび鈍い音を発していた。

 

(どういう状況だ…?)

 

朝抜け出した少年が他ファミリアの一級冒険者と人気のない外壁上で戦っている。

…こんな朝早く、女の子に会いに行っていると言えば正しいが戦う為とはこれいかに。

いやそれ以前に襲われ…るような仲でも無いか、戦う理由が見当たらなかった。

 

(いや…修行ってことなのか…?)

 

一瞬唖然とそれを見ていた俺だったが、二人の様子を観察すると何となく事情を察する。

そもそもアイズとベル君で殺し合ったところで話にならずに瞬きする間に殺されるだろう、よくよく見るとアイズの剣は鞘がつけられたままだし明らかに手加減しているようだった。

 

 

「…」

 

 

二人は集中して戦っている、断続的な足捌きが躍るように走り、荒い息がこだまする。

一方的な攻め、アイズは前に進みながら容赦のない剣戟を浴びせかけており、対して既にぼろぼろなベルは守るのに精いっぱいで反撃はおろか時折鋭い一撃を受けては身体を揺らがせ汗を飛ばしていた。

 

…レベル1とレベル6だったか、圧倒的実力差があるうえでの実戦形式の修業はまぁこういうことになるだろう。

おおかたベルがアイズに頼み込んで朝だけ稽古をつけて貰っているというところか、やましく思ってしまうあたり青春だが。

 

――まぁつまるところベルはアイズに修行を付けて貰っていたと、非常に健全だがそのままヘスティア様に報告すると角が立ちそうなので、というかそも報告義務はないわけで言わないことにしよう。

 

一人納得した俺は手を振りながら遠く戦っている少年少女に声をかける。

 

 

「おーい」

 

「…あ、リョナ」

 

「えッ、リョ、リョナさん!!?」

 

 

短い距離を詰めながら声をかけるとアイズの細剣がピタリと正確に止まる、振り返ると汗一つかいていないいつも通りの無表情で俺の事を見上げ、荒い息をつきながらベル君は驚愕の表情を浮かべていた。

 

…戦いを一度をやめた二人の傍に俺は近づいていく、冷風が強く吹いてくる方向にチラリと目を細めると遠い山の黒い稜線が見えた。

怪我一つないアイズとかすり傷を大量に作ったベルに軽く手を上げながらその合間ぐらいに立つ。

 

 

「よぉー二人で修行か?」

 

「…うん、そんなとこ」

 

「えっ…あの…!?」

 

「アイズがベル君に教えてあげてる感じか?」

 

「う…具体的な事はあんまり…教えるのは得意じゃない…」

 

「あーだから実戦形式なのか、まぁそれで得られるもんも多いだろ」

 

「だよね…」

 

「あの!!」

 

「「?」」

 

「…何で、ここに、リョナさんがいるんですか?」

 

 

アイズと話していると耐えられなくなったようでベルが声を張る。

…あぁそういえばベルとしてはやましい気持ちが少なからずあるようで、おおかたそれを気にしているのだろう。

 

少女の事を抱きよせながら俺は外壁の側面に背中を預ける、少女に風があたらないように風上から身体で守れていることを確認すると二人に笑いかけた。

 

 

「んー気にすんな、俺はこいつと散歩に来ただけだからな、別に誰かに言うこともねぇよ。…暫く見てても良いよな?」

 

「…そ、そうなんですか?…僕は別に良いですけど、アイズさんは…」

 

「…構わない」

 

「そうかそうか、じゃあ足休めがてらここで暫く見学させてもらうかな…あ、アダルトな予定があるなら帰るけど」

 

「無いです!」

 

「…?」

 

 

無いらしい、少女に見せる訳にもいかないので安心した俺は外壁の上に腰をおろす。

組んだ足の中に少女を座らせると手持ち無沙汰にその小さな頭の上に掌を置いた。

 

(少し寒いが…)

 

まぁ風邪をひくほどのものでもない。

せっかくだし、ベルとアイズの戦っている様子を見ていくのも悪くないだろう…あんまり教育上良くないかもだが、殺し合いというわけでもない。

 

…視線を上げるとアイズが金色の瞳でこちらを見ている、いや正確には俺の膝に乗った少女を見ているようだった。

 

 

「…かわいい」

 

「お?」

 

 

長い銀髪小さなパーツ、白い肌と紅い瞳を見るに…容姿も当社比2倍ほど、一般(へいきん)から言っても非常に可愛らしい傾国の美少女と言える。

アイズはそういうものに興味がないと思っていたが、流石にそれなりの感性は持っているようだ。

 

 

「…」

 

「ん…」

 

 

…アイズのぶれない視線がじっと少女に注がれる、無機質なそれは見られていると少し居心地が悪いくらいで…明らかに少女のことを触りたがっている、ピクリともせずに完全に固まっていた。

まぁこいつも年頃の女だし、少女は可愛いしで触りたがるのも必定か。どこか向けられている目はキラキラとしているように見えるし、軽く居ずまいを正すかのように重心を揺らしては大きく鼻で呼吸しているように感じた。

 

(まぁ触りたいならいいんだが…)

 

撫でて壊れるものでもなし、ちょっと怖いが言われれば頭を撫でさせるくらいわけない。

その点アイズは目が物語っているというか、明らかに耳と尻尾を触りたがっているようなのだが…一言も喋らずただ立っている。

 

(あれなんかデジャブ…)

 

テコでも動かないこの感じ、こちらが察して何か提案してあげない限りずっと立っていることだろう。

何かアイズに抱かせる理由が欲しい、基本超天然だし自ら理由を思いつくというか提案することがまずない、だが俺がただ抱かせると修行の邪魔をするみたいでベル君に迷惑をかける。

 

となると…「何か」を探して俺はアイズからベル君に視線を移す、そしてボロボロになった姿と修行という状況に「あ」と、一つ思いついた。

 

 

「あーベル君」

 

「あ、はい、何ですか?」

 

「いや、アイズとの修業の成果はどうだ?」

 

「う…正直あんまり実感はなくて…」

 

 

確かにあの防戦一方では実感も何もないだろう、レベル6の全力では無いだろうがあの速さを知っておくというだけで経験にはなるのだろうし…反撃への道は遥か遠いだろうが、意識が慣れればいずれ反撃することもできるだろう。

 

そういって残念気に唇を歪ませるベルに笑いながら俺は座ったばかりだが立ち上がる、アイズに歩いていきながら首を提案した。

 

 

「――じゃあ一度俺とやってみないか?」

 

「…僕とリョナさんが、ですか!?」

 

「おう、アイズと戦うのも良いが一回同じくらいのステイタスの奴と戦うのも良い経験だと思うしな、今の自分の実力ってのが図りやすいんじゃないか?」

 

「おぉ…それもそうですね!僕の方からもよろしくお願いします!!」

 

 

パッとベル君の顔が明るくなる、とっさの案だったが喜んでくれているようなら何より。

経験になるのは間違いないし、時間の無駄ということにはならないだろう。

 

 

「と、いうわけだからちょっとベル君借りるぞアイズ?」

 

「…え?…そもそもベルは私のものじゃないけど…」

 

「いやそういう意味で言ったわけじゃないんだが…まぁいいか、それで俺が戦ってるあいだコイツのこと預かってもらえないか?」

 

「…!」

 

 

少女のことを差し出すとアイズの無表情が僅かに変化した、眉が下がると微かに口角が上がる。

…あぁこれ笑っているのだろうか、表情の変化に乏しい彼女だが少女の事を抱きたそうにはしていたしそれなりに嬉しいのだろう。

 

アイズは少女を両手で受け取ると腕の中の動かない少女を見つめる、軽く抱きしめると笑みを浮かべて頭を撫でた。

 

 

「…かわいい」

 

「はは、そいつは何より…あぁ、だけど怪我させたら承知しないからな?」

 

「…了解」

 

 

頷くと今度はアイズが外壁の手すり壁に寄り掛かり座った、剣姫様は少女に夢中らしく膝の上に乗せた銀色の髪を鼻息荒く弄り始める。

そんな手の離れた娘の様子を微笑み見送りながら俺は先ほどまでアイズの立っていた場所に歩むと、振り返る――ベル君と相対した。

 

 

「さてと、ベル君や」

 

「はい!」

 

「ちょっとやるか…やらないか?」

 

「え、なんでそこ言い直したんですか?」

 

 

深い意味は無い、と返しつつ、俺は身体を解すためにゆっくりと柔軟しながらベル君を観察する。

 

全身に白いライトプレート、右手にはヘスティアナイフ、ひどくボロボロで先ほどまで息も絶え絶えだったが、若さか今はもう呼吸も整い元気そうだ。

対して俺は直剣のみ、防具は無いし装備の差は歴然、それに先ほどまで戦っていたのでベル君の身体は暖まっている。

とはいえ最後ステイタスを見た時は確か俺と同じくらいだったはずで、経験と体格の差は圧倒的にある。『()()()()()()』、少しくらい手を抜こう。

 

柔軟を終えた俺はブラブラと手首足首回す、一度全身の力を抜くとベル君に笑いかけた。

 

 

「…じゃあお互い()()で、いくぞベル君!」

 

「はい!」

 

 

ベルが腰を落とす、元気のいい気迫と共に頷くとナイフを構える。

なかなか様になっていると言えた、向けられる視線には僅かではあるが殺気が混ざり我流の構えは上半身をしっかりと守っていた。

前に出る右足が石床を踏み直し、引かれた左足に絞られた弓のような力がこもる。

 

…闘気は充分、3mほど離れた俺の事を見ながら神聖文字(ヒエログリフ)の刻まれたナイフの切っ先を油断なくこちらに向けていた。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

まるで待ち合わせするがごとく非常に自然体でその場に立った俺は真剣に構えたベル君と、朝風の吹く外壁上にて相対する。

まさに一触即発、冷たい外気が早く流れるのを肌で感じながら乾きそうになる瞳を俺は大きく瞬きした。

 

 

 

――のだが、ベルはナイフを構えたまま「あれ?」と首を傾げる。

 

 

 

構えを一度解くと、解り易い困惑をその目に携えた。

 

 

「あの…リョナさん」

 

「おん、どうした?」

 

「剣は…抜かないんですか?」

 

「あ」

 

 

そういえば腰に差した直剣を抜いていない、それどころか俺は構えらしい構えを一切取らずに直立していた。

根が優しい少年の事だ、剣を抜いていないどころか構えてすらいない俺を攻撃することは無いだろう。

 

…別に俺は構わないのだが。

 

 

「あー…大丈夫大丈夫、遠慮せずにぶつかってきなさい」

 

「え…でも…」

 

「おいおいまさかベル君は背中を向けている敵に挨拶して、剣を抜くのを待ってあげてから攻撃するのか?いやそうじゃなくても、今もし俺が素手のまま殴りにいったらパニクってまともに対応できてないんじゃないか?」

 

「う、確かにそうかもしれないですね…解りました、今度からは油断しないようにします」

 

「よろしい、今度から俺の時はそうしなさい」

 

 

頷く、さりげなく今度からと言ったが二度目があるのだろうか。

 

ベルがナイフを構え直す、俺もそれっぽく見えるように軽く両手を上げた。

 

(怪我はさせられねぇからな…)

 

首など急所は狙えない、この後があるのだろうし関節なども狙うのは良くない。

まぁそもそも寝技は使う気は無いし、負けるつもりも無いが…戦い方を教えるわけではないし、技術的なことよりも戦うことに意義がある。

 

…とはいえ経験は俺の方が持っている、『ステイタスが同じ』以上戦闘経験で勝っている俺が負ける道理が無い。

胸を貸すつもりで、体格差と戦闘経験の差のみで戦おう。

 

一度大きく息を吸い直すと言葉は無いがお互い仕切り直しとする。

瞬きして、先ほどと同じように構えるベルに俺は視線を向けた――

 

 

『ダンッッ!!』

 

「うおおおおおおおおおおおッ!!」

 

「はッ…!?」

 

 

――もう既に目の前に、ナイフが迫っていた。

 

それは明確な油断だった、純粋な速度で振り切られた疾走はただナイフを突き出すため。

両手で強く握られた短刀はまっすぐに、直線に走って突き出すという単純な動作が俺の胸部を狙っていた。

 

…白い兎の、本気の表情が見えた。

 

それは油断である、しかし瞬きの隙間を駆け抜けるに等しい実力があいまって初めて衝ける程の、『短い見落とし』に過ぎなかったはずだ。

 

 

(――疾ッ!?)

 

 

前と比べるべくもない、これはいくらステイタスによる補正があるにしても成長が早すぎる。

疾風迅雷が如く、予想の遥か上を行く速度に俺の油断は完全に引きはがされた。

 

短い距離を一瞬で純粋な速度で駆け抜けてきたベルのナイフの軌道を読む。

幸いフェイントも何もない刺突は、全く身体が反応していないことを除けば解り易く避けやすかった。

 

だがそれ故に脅威――このままでは純粋な速度でもって振り切られ、胸を刺される。

 

 

「くッ…!」

 

「!?」

 

 

何とか手を当てる、突き出される手の甲に掌をぶつけ軌道をずらしながら飛びのいた。

脇の下をナイフが通過していく、切っ先がコート端を僅かに掠めながら空を切ると少年の身体が後ろに流れていった。

 

…数歩距離をとる、すぐ体勢を立て直した少年の敵意に俺は目を見開くと思わず手を前に出していた。

 

 

「――待ったァ!…あ、ほんとに待って、さっきあんなこと言ったけど待って」

 

「ッ!…え?…あぁ、どうしたんですか」

 

 

構わず切りかかろうとしてきた少年に再び制止を促す、すると少年は今度こそ止まり不思議そうにナイフをおろした。

その様子に俺は安堵のため息を漏らしつつ…先ほどの『速度』を思い出す。

 

(やばいな…)

 

正直思った以上の早さだ、見切れなくは無いが常時あの動きをされるとなるといつまで躱せるか解らない、せめて切り裂き魔の高揚(リッパーズ・ハイ)のカウントが100はあれば変わったのだが生憎今はゼロだ。

 

…というか前までステイタスにそれほど差はなかったはずなのに、圧倒的な差がついている。確か『憧憬一途(リアリス・フレーゼ)』と言うんだったか、その対象であるアイズと共に修行することはもしやとてつもない進化を促すのではなかろうか。

 

 

「……」

 

「…リョナさん?」

 

「すまん、ベル君――俺、本気じゃなかった」

 

「え…?」

 

 

油断したとはいえ、何て言えない。

 

ただ俺は少年の事を下に見ていただけだ、見た目通り前と同じ弱い少年だと。

 

…だが今見せつけられた速さ、敵意、強さは今の俺が手を抜いていい相手じゃない。

だというのに見誤った、それは例え相手が少年でも失礼というものだ…いや認めたくは無いが現状『身体能力で負けている』。

 

 

――この少年は今、俺が全力を出さなければならない相手だ。

ステイタスという差を埋めるための「本気」、あまり使いたくは無かったが使わざるを得ない。

 

 

袖をまくりながら少年への認識が誤っていたと息をつく。

 

一度目を閉じた。

 

ゆっくりと呼吸する、意識を切り替えていく。

全身の筋肉を確認し、一種の瞑想状態に精神を落とした。

それは回路の接続である、普段あまり使わない『それ』をスイッチを入れるがごとく俺自身に繋げていく。

…収納されていたものが出てくる感触がした。

 

 

「…?…ッ!?」

 

 

目を開ける、ゆっくりと構えをとる。

それは我流に見えた、拳でなく掴むような平に構え、右半身を前に出すような大幅なスタンス。

だが古流でもあった、それは練り上げられた古武道の複合系であり、重厚かつ丁重で一部の隙も感じさせない。

 

それは…対人に特化させた、人が人を倒すための「武術」であった。

 

 

「だからベル君、いや()()――」

 

 

息が長く吐き出される、真剣なリョナの眼差しが目の前のベルに向けられる。

 

圧が発せられた。それは武芸者が持つ特有の、殺気というにはあまりに鋭く磨き上げられた技自体が持つ『人を倒してきた歴史』。

向けられた刃のような敵意に、普段のリョナからは想像も出来ないような拳にハッと息を飲んだベルは自然とナイフを構えていた。

 

 

「――これからは()()()()()()、行くぞ」

 

「ッ…はい!」

 

 

かくしてお互い本気になった俺とベルは向かい合う。

昔取った杵柄、懐かしい感覚を、自分の「武器」を確かめながら…俺はゆっくりと歩み始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「――え」

 

 

リョナのその歩みがベルには全く見えない。

早いわけではなかった、むしろ普段より遅いその数歩ほどはあまりに自然で、敵意は確かにあるはずなのに警戒が出来ない。どこにどう歩いていくかも解らず、歩き始めたのがいつかも解らなかった。

 

ただの微かな重心の移動、初動を見せない歩法「浮き身」である。

 

決して地に足着けることなかれ、バランスを崩しながら歩むその様は棒が倒れかかるように、踏ん張るのではなくまるで寄り掛かるように動く。

その上で軸は崩さない、無拍子で動けても次の攻撃につながらなければ意味が無い。

 

 

それは極意だ、水の上を滑るように消える「忍術」をリョナは容易く行使する。

 

 

純粋速度による縮地とは違う目の前にいても気が付かれない歩み、ゆっくりとベルとの間合いを詰めたリョナは阻まれずに拳を動かす。

そして――強く、踏んだ。

 

 

「…フッ」

 

「!?」

 

 

特徴的なのはその震脚、中国武術の中でも屈指の破壊力を持つ「八極拳」。

 

石床が踏まれる、だが一切の音はたてないそれは微かに石の地面を割ると同時にリョナの拳が動いた。

鋭く短い()に合わせ、咄嗟とはいえガードが間に合ったベルの腕に向かって一撃が繰り出される。

 

 

――ドンッ!

 

「ぐっ…!」

 

 

それは極めて短い音、腹に響くような一度きりの衝撃。

だが()()、交差されていたはずの腕が上に弾かれ、麻袋を落としたような鈍い音と共にリョナの拳が弾丸のように振り抜かれる。

強い痛みと衝撃にベルは危険を覚えたのか目を細める、極めて単純な近接特化の拳はただ実用効果のみを追求した簡潔な一撃であり、軽い少年の身体を僅かに浮かせていた。

 

 

「…!?」

 

「すー…」

 

 

リョナが()()()()()()、息を吸い直してスッと拳を引いた。

間髪入れず呼吸を止めたまま脇を締め、上体の乱れたベルの腹部に腰を回した拳を叩きこむ。

 

 

「がっ…はっ…!」

 

 

「空手」、追撃で幾分か軽くなったとはいえ鋭い拳が少年の腹を抉った。

腹から強制的に息が吐きだされる、激しい痛みを覚えながらそれが先ほどとは違う流派であること見たベルは驚きつつも身体をよじる。

 

石で殴られたかのような痛みに歯を食いしばる、追撃を避けるため逃げるように飛びずさって距離をとった。

 

 

「…っ…!」

 

 

油断なくベルはナイフを構える、殴られた腹部の強烈な痛みに軽く唇を噛んだ。

今の息を吸ってからの拳、先ほどガードを壊された強い踏み込みと同時に放たれた掌底。

 

警戒すべきは後者、前者が拳銃だとすれば大砲ほどの威力の差。

ズドンと地を揺らすような踏み込みと圧、そして力場によって凝固した空気を貫くように鋭角的に迫ってきた拳。

それが腕に当たった瞬間に弾かれた…いや弾かなければ壊されていた、あんなものマトモに喰らえば意識を剥がされる、腕なぞ容易く折られていたことだろう。

 

今でも痺れている腕にベルは力を入れ直す。

背中を向けた黒コートの男が重い数歩で振り返り、息を吐きながら構えをとるのを注意深く見て、その足がまだ動いていない事を確認した。

 

…雰囲気が鋭い、殺気が立ち昇っているとは違う、その目は肉食獣であらず、ただ緩慢に構えているようだが一切の隙を感じさせない。

普段の飄々としているが人を惹きつけるような雰囲気とも、ダンジョン内で時折見せる濃い殺気とも違う…人を遠ざける冷たさというか、針先が向けられているかのような落ち着きのない不安感。

 

袖をまくったリョナの構えの中に悪寒を見る、それは相対したくない強者の、一切乱れることのない呼吸だった。

 

 

「……!」

 

 

ベルは再びリョナの足を見る、先ほどの動きと踏み込んでからの突き、少年にとってそれはどちらも脅威たりえた。

否、浮足に関しては対策どころか何が起きたのかさえ理解していない、震脚さえ見れば拳はガードできるがあの消える移動は…!

 

ベルは赤い瞳をまだ動いていないリョナに向ける、構えをとったまま確かめるようにリョナは拳を開閉しており今まさに跳びかからんばかりの視線をこちらに油断なく見つめている。

対策が出来ない技を相手が持っているのなら、それを使われる前に攻撃してしまえば良い、そのくらいベルも知っていた。

 

ナイフを握る手に力がこもる、最後の息をスゥと吸い込むと一歩を踏み出す。

ただ初撃のみを考え、拳を引き、前傾姿勢のまま真っ直ぐに走って――

 

 

「ッ…やッ!――って、え?」

 

 

――懐に飛び込んだベルのナイフが煌めく、斜めに振られたその腕は…『止められる』。

気が付けば後ろに崩れかかっている自分の身体に困惑しながら軽く足を払われたことに気が付く。

 

リーチの差はあれど短い剣先はリョナの肩に向かった。しかしガシリと目的を果たすことなく振られていた腕は力強く掴まれる、ぐいと身体が引っ張られると今度は反対側に肩を押し出された。

足が乱れる、身体の軸が崩れるとベルは体勢を立て直すためたたらをふんだ。

 

「柔術」、初歩の技ではあるが『待っていた』リョナによってベルの体幹はやんわりと押され、崩れる。

後ろに倒れるように離れたベルにリョナは歩む――

 

――ダンッ!

 

強く左足が踏み込まれた、それは先ほどと同じ強力な震脚。

八極拳、また強烈な拳が来ると警戒したベルは動くリョナの上半身に注視する、腕で先ほど殴られた腹部と胸部を守るように交差させた。

 

だが――二歩目、更に距離が詰められる。

先ほどより強い衝撃が床を砕くと、右足が内側に回る。コートがはためき視界を覆うと、リョナの身体が見事に回転し…ベルはデジャブを見た。

 

踵がベルのあごに鋭角的に向かう――回し蹴り、ただの脚の回転によりゴヂンと骨同士が触れ合う鈍い音を鳴らすと、その身体を吹っ飛ばしたのだった。

 

 

「ぐわぁッ!?」

 

「あっ…」

 

 

本気の手合わせとはいえ頭はまずい、首はもっとまずい。

構えを解いた俺は走ると、日の出を目尻に感じながら少年の身体を起こしに行った。

 

 

 

・・・

 

 

 

「あー…」

 

 

回想終了、そういえばそんな感じだった。

足元で白目を剥いて倒れているベルを見る、思った以上の速さだったが動きは何というか単調で、正直戦闘スキルはあんまり感じなかった…まぁここらへんは経験の差か。

視線を上げれば今もアイズが膝の上に乗せた少女を撫でている、戦闘時間的には短いしまだお楽しみのご様子だった。

 

頭と耳を撫でられている少女を眺め、微かに暖まり始めてきた身体を揺すりながら俺は自らの拳を見る、久しぶりの動きではあったが…腕は鈍っていないようだ。

 

(…武術なんて使ったのいつぶりだろ)

 

『神殺しの家系』の性質上最強であることを望まれた俺は幼いころから世界各国、地上に存在する殆どの武術の真髄を分け隔てなく叩きこまれてきた。

その道の極意と言われるもの、構えから殴り方、蹴り方、様々な攻撃法防御法、おおよそ強いと言われる体術は全て身に着け習得したし、加えて様々な流派の日本剣術や拳銃の扱い方、棒術槍術など多くの武器の扱いと対策法、『人が人を殺す法』を覚えさせられてきた。

幾重もの技、歩き方から呼吸法、その道の到達者を下し得てきた技術を組みあわせ、次の瞬間には全く別の流派に変わる戦い方は名前を持たない、故に無形の闘法、故にどんな状況にも即せる技の集合体、両橋の家に生まれたものが習わされる「武芸」という枝分かれした概念そのものの極致(こんげん)

 

それが俺の本来の戦い方だ、例え一つで勝てなくとも様々な武術による手数の多さと両橋の肉体を併せ持ったほぼ最強とも言える複合武術。

答えは無く、決まった勝ち筋も無い、一瞬ごとに変化していく技術の編纂。

 

(だけどなぁ…面白くはないんだよなぁ)

 

別に使わない理由こそないのだが、俺はこれをただ何となく今まで忌避してきた。

何というか…これは勝って当たり前の闘法なのだ、素手の相手に銃を使うようなもので、まだ何も考えずに力に任せた拳を振るっている方が楽しい。

毎回一撃で終わる戦闘に感慨など無いように、いつしか自分にセーブをかけるようにして無意識に封印してしまっていたというのが正しかった。

 

…それに幼少期に強引に詰め込まれたというのも嫌悪感の理由だろう、特に修行が辛かったとかではないのだが、如何せん言いなりになっていた事実が頭に残る。

 

(まぁそんなこと言ってる場合でも無いか…)

 

強いことは良いことだ、例え自分自身が面白くなくともタメにはなるわけで…まさかこんな事態を想定したわけではないだろうが、教えさせてくれたことを家に感謝しても良いぐらいなのかもしれない。

 

武道の開放、あまり乗り気とは言い難いがもし素手で戦わざるえない場合これからは両橋の技術を使っていこう。

とはいえモンスター相手に使える技術でも無いし、使い始めたからと言ってレベル6の戦闘力を手に入れる訳でもない、精々ベルぐらいの実力の冒険者を瞬殺できる程度のものなのだ。

 

…2tを出すロボットアームと腕相撲をするようなものだ、例え両手になったところで勝てる技術ではないということだった。

 

(あー…でも流石に西洋剣術とかはやんなかったなー…)

 

元々アジア圏の武術が多かったというのもあるのだろうが、剣道を習いこそすれまさか異世界に来て西洋剣で戦うことになるとは思わないわけで。

 

腰に差した直剣を見下ろす、手に入れてからそれなりに使っているので愛着はそれなりにあるが、達人のように扱えるわけでもない。

日本刀のように振るえれば鉄でも斬る自信があるのだが、握りの関係上教わってきた剣術の大半は使えない、基本は同じなのだろうが、どうにも。

 

…この前町を歩いていたら日本刀を売っている店を見つけたし、いつかは太刀とかも買っていいのかもしれない、そっちの方が強い――その前にぎゅるぎゅる丸だが。

 

 

「ん…終わった?」

 

「おう」

 

 

アイズが金色の瞳で見上げてくるのに頷く。

どうやら少女を触り満足しているようで、どこか上機嫌に見えるその顔を見下ろし、膝の上に乗っている少女を見て俺も少し微笑んだ。

 

 

「というかすまん、ベル沈めた」

 

「構わない…いつものこと」

 

「は、いつものこと?」

 

「うん…」

 

 

いまいち要領を得ないがもしかしてことあるごとに気絶させられているのだろうか。

再び獣耳を指先弄り始めるアイズに苦笑しながら俺は絶賛気絶中のベルをチラリと振り返る…強く生きろ少年、そして気絶させたのはスマン。

 

 

「なぁアイズ」

 

「…ん」

 

「修行ってことだが、ベルには多分経験が足りんだけだ」

 

「わかってる」

 

 

先ほどのナイフの振り方、走り方動き方、はては呼吸の仕方からして単調すぎる。

今まで我流で戦ってきたと言っていたがあれでは俺じゃなくても少し武術の心得のあるものが相手では絶対勝てないだろう。

 

 

「駆け引きが足りない…」

 

「あー確かに、フェイントとか全然噛ましてこなかったしな…動体視力自体は良いからやり方さえ覚えたらだいぶ違うと思うんだが」

 

「うん」

 

 

俯いたアイズが頷く、癖の強い銀髪を抑えようとしてポンと跳ね返されていた。

為されるがままの少女は前に立った俺のスネ辺りを眺めており、アイズの太ももに軽く手をついていた。

 

俺は屈むと手を伸ばす、少女の両脇に手を差し込むとアイズの膝から持ち上げ抱きしめる。

少しは暖かいだろう、コートの中に少女の冷えた手を入れてあげるとくるむようにして腕の中に抱いた。

 

見下ろすと…先ほどと一転非常に残念そうな顔をしたアイズがいた。

もはやここまでくると解り易い、八の字を描いた眉の下から少女の事を見つめているアイズに俺は苦笑交じりに手を伸ばす。

 

 

「また撫でさせてやるからそんな顔すんな」

 

「…!」

 

 

パッと明るくなる、というには表情の変化が乏しすぎるが微笑を浮かべたアイズは俺の手を取る。

驚くほど軽すぎる身体を引き上げると、金髪が揺らぎ、すっくと鎧姿の美少女は立った。

 

目の前に一級冒険者が立つ、先ほどまで幼子を可愛がっていた十代の女の子は華やかな微笑みを浮かべており、とても自分より強いとは思えない…というかだいぶ感覚がマヒしてるがこう見るとただの十代の女の子なんだよなぁ…。

 

 

「それで、今の戦いのことなんだけど…えっと、リョナの戦い方見たことない」

 

 

視線をおろすと真面目な表情になっている、というか少女にお熱で手合わせの事など見ていないと思っていたが案外しっかり見ていたらしい。

 

(まぁ武道(そっち)に突っ込むよな)

 

そしてその反応を見るにやはりこちらには少なくとも東洋の武術は伝わっていないようだ、初めて見る戦い方にアイズは興味津々を地に真剣な眼差しを俺に向けていた。

…とはいえ、どう説明したものか。

 

 

「んー…」

 

「教えて」

 

 

要求は端的だった。

しかし今見せただけでも浮足、八極拳と空手、柔術。別に隠す必要も無いのだが、この場合の教えては理論の説明ではなく習得を指しているわけで…ぶっちゃけ指導となると面倒くさい、特に相手が超の付く天然の場合もっと面倒くさい。

 

 

「ぜったい、教えて」

 

 

…逃れられないらしい。

ため息を薄く吐いた俺は剣姫に武道を教えるため、少女をベルの上に乗せるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「おーい」

 

 

活気の満ちてきたバベル前の噴水広場にやけに大きなバックパックを発見する。

手を振った俺は喧噪に消されないように声を張りながら近づいていくと、深くフードを被ったやけに小さなシルエットが振り返った。

 

 

「よっ」

 

「…おはようございます、リョナさん」

 

 

影に隠れるように立っていたリリが少し不機嫌な表情でぺこりと頭を下げる。

少女を小脇に抱えた俺は人の流れから抜け出すと、リリのいる人の目が通り辛い木陰を見渡し…軽く崩れかけている塀に腰をおろした、こうしないと目線があわないのである。

 

 

「まず端的に用件を伝えようと思う」

 

「はい」

 

「ベルが、遅刻している」

 

「でしょうね」

 

 

栗色の瞳は解り易く怒っている。

 

…結局あの後ベルが起き、何ですかあの動き!?と詰め寄られ、アイズとベルに武道のなんたるやを小一時間程教えることになったのだが、ベル君はどうやら気絶した影響でリリとの待ち合わせがあったことを頭の中からスポーンと忘れてしまっていたらしい。

やはりベル君か、と思いつつも俺が気絶させてしまった手前、大幅な遅刻の尻拭いに先に一人外壁を降りてここまで走って来た次第だったのだった。

 

 

「…ちなみに、理由をお聞きしても?」

 

「寝坊だ」

 

「…新居にお住まいのはずのリョナさんが、ベル様の寝起き事情に精通しておいでなのですね」

 

「お」

 

 

どうやらアイズとの修行はベルにとって秘密らしいし、誤魔化してあげようと思ったのだが意外と鋭い。

お怒りのご様子のリリの瞳がキラリと…というか獰猛な小動物の様相を呈して俺の事を睨みつけている、別に俺は悪くないのになぁ。

 

 

「実は寝ぼけて歩き回ったり俺と修行したりしているが何の問題も無い、寝坊だ」

 

「!」

 

 

実際のところ昨日はアイズと二人きりだったろうし、今日も終わりの小一時間だけ修行しただけなのだが嘘は付いていない。

俺の説明にリリは、なるほどだから昨日はあんなにボロボロで…と相変わらず不機嫌ながらも事情を察してくれたらしい。

 

 

「…解りました、許します」

 

「おう、それは何より」

 

 

ぜひ本人に言ってもらいたいものだが。

初めて微かに笑ったリリに肩を落とす、少女を抱え直そうと指三本ほどを小脇に入れると持ち上げた。

 

 

「よいしょっと」

 

 

軽い身体をひょいと持ち上げるとコートの中に入っていた銀髪がバサリと勢いよく解放される、言うなればカンガルーみたいなものだ。

それはさながら髪が溢れ出てくるようなもので、角度によっては服の中から少女を取り出すかの如く恐怖映像になりかねない。

 

 

「…そ、その子は…!?」

 

 

少なくともリリにはそのように見えたらしい、いや例え誰でも人の胸部から少女が溢れたら驚いてしかるべきだ。

…それが初見ならなおの事、そういえばリリには少女の事を紹介したことが無かった。

 

 

「娘だ」

 

「…」

 

「ん、新鮮なリアクションはよ」

 

「…すいません、声が出ません」

 

 

フードの下で目をクリクリと見開くリリはしっかり驚いているらしい、俺の膝上に座った可愛らしい少女を観察したまま固まっていた。

…そして渋いというか、だいぶ強めに眉を顰め困惑した目で俺を見上げる。

 

 

「…ええと」

 

「ところでリリよ、ベルはもうすぐ到着するはずだ。今頃こっちに走りながらどう謝ったものか必死に考えているに違いない」

 

「……聞かれたくない、ということでよろしいですか?」

 

「具体的に言うとそうなる…いや、別にお前だったら良いのか?いささか事情がこみ入っていて説明が面倒くさいんだが」

 

 

とはいえ言いふらすものでもないとも思う、ヘスティア様には説明せざるを得ないが憐みの視線を向けられて欲しいわけでもないのだから。

その点娘という説明は前提であり、これからの少女の行く末を考えるとそれ以外考える必要がない。

 

目を伏せたリリは少し考える、抜け目ない思考の末にリリは首を振る。

 

 

「…いえ、教えていただかなくて結構です」

 

「おう」

 

 

賢明な子だ、賢明にならなくてはならなかった子だ。

膝上少女の頭を撫でながら表から顔を隠すためにフードを深く被っているリリに目を向ける、変身魔法なるものに加えあの騒動で死んだと思われているからまず追手は無いと説明されたが念には念を、追跡対策にちゃんと()()()()()()()()人目を避けていたのだった。

 

…とはいえ、呆れたような表情はどこか明るい。お互い詳しい過去は知らないがここまで明るい表情が出来るのなら及第点なのではなかろうか。

 

 

「ですがリョナさんは凄いというかお忙しいかたですね。おかしな魔法を使ったり、数日ぶりにあったと思えば娘さんを連れていたり」

 

「まぁな」

 

 

こちらの世界に来てからと言うべきか。

そういう意味で昨日の午後は随分と久しぶりにゆっくりできた気がする、特段肉体が疲れているとかは無いのだが流石に色々と立て込んでいたせいで結構安らげた。

 

 

「…でもお前も大変じゃないか?あれから大丈夫か?」

 

「えぇ、おかげさまでベル様のサポーターを続けられています。追手もないようですし、このまま姿を隠していれば忘れ去られることでしょうね」

 

「そうか、それは良かった」

 

 

軽く笑う、するとリリは少し不思議そうに少女を撫でる俺を眺めてきた。

ヘスティアファミリアに入っていないらしいリリは本拠地に住んでいない、ベルとはほぼ毎日会っているらしいが無力な彼女が別居しているのは不安ではある。

 

(まぁ別にそれは良いんだが…)

 

寄宿先であるノームの質屋というのがダイダロス通りで俺の家から存外近い、最悪こちらに逃げ込んでくることも可能だろうし駆けつけることも出来る訳で…何か遠慮して別居しているのはあまり合理的では無いが構わない、居住スペースの狭さってこともあるのだろうが事件手前居づらいだろう。

 

しかしあえて文句、というか解せない点があるとすれば…それは「持ち物」の方だった。

 

 

「だけどなぁ、やっぱりこれだけでも持っておいた方が良いと思うんだが」

 

 

コートをまくった俺は腰ベルトに差しっぱなしになっている短剣を鞘ごと外す。

赤い綺麗な装飾をした鞘を確かめ、宝石のあしらわれた柄をリリの方に差し出すと首を傾げた。

短いそれを見たリリは癖なのだろう軽くバックパックを指でかけ直す、フルフルと首を振ると無理に軽くはにかんだ。

 

 

「…それは、盗品ですから」

 

「ん、お前の気持ちは解らんでもないが…これ強いんだろ?使い捨てっつっても、もしもの時のために持っておいた方が良いんじゃないか?」

 

 

――魔剣。

 

元々リリの持ち物だった魔剣を鞘から引き抜くと空にかざす。

薄いガラス細工のような刀身は赤黒く太陽光を透過させており、キラキラと輝くその様は霊験あらたかな儀礼剣を思わせた。薄氷のように割れてしまいそうなそれは空気に触れさせておくには怖い、鞘にあてがうと音もなく元に戻った。

 

しかし芸術品のようなこれも、振るえば海さえ焦がすと言われた魔剣…の短刀であるらしく、その破壊力は使い捨てだが一振りだけで劣勢を覆せるなんて話を聞いた。

見た目はただの綺麗な短刀、魔法の力なぞ感じることのできない俺にしてはただそれだけのものであり、正しい使い方を知っているリリに持たせた方が安心だし効率的でもある…のだがリリは受け取ってくれない、言い分も心情も解りはするが…。

 

 

「いえ、それでもリョナさんが持っておいてください。リリにはベル様がいますし」

 

「いや、そうは言うが正直俺が持ってても使い道がないし、そもそも暫くダンジョンに行く予定も無くてだな…やっぱりお前が持ってた方が」

 

「いえいえ」

 

「いやいや」

 

 

オラリオ広しと言えど、魔剣の押し付け合いという光景はなかなか珍しいのではなかろうか。

人目のない木陰でリリと俺はお互いに魔剣を譲り合う、いっそのこと換金して折半したぐらいの方が後腐れ無いのかもしれない。

 

(うーん案外強情だな…)

 

暫く渡そうと試みるが全くこれっぽちも動じない…まったく誰に影響されたのか、あるいは自分に素直になったからか。

流石にここまで断られるとこれ以上推し進めるのも何だか気が引ける、仕方ないとため息を吐いた。

 

 

「解った解った、俺が預かっておくから」

 

「それは リョナさんの ものです !!」

 

「お前せっかく俺が譲渡をだな!…あーもういい解った、じゃあこれは俺のもんだ。後で言っても返さんからな!?」

 

「はい♪」

 

 

嬉しそうに笑うリリ、座ったまま肩を落として魔剣をベルトに戻す俺…事実上の敗北である。

 

(まぁ持っててもいいか…)

 

多分持っていても存在を忘れると思うのだが、忘れたまま使う事もなく無駄に一生を終えると思うのだが。

 

…とはいえリリが楽しそうでなによりである、自然な笑みを浮かべた小人族の少女を見ながら俺は軽い息を吐き出す。

良いんじゃなかろうか、笑えれば。過去のしがらみに真っ向から立ち向かう必要もない、今の彼女に気負う事など今はないだろう。

 

――ふと小さい彼女の事を見ていると、聞きたいことがあったのを思い出した。

 

 

「あ、そういやお前を見込んで聞きたいことがあったんだった」

 

「私に、ですか?」

 

「うむ、実はぎゅるぎゅる丸の事なんだが…補修用の素材を売ってる店かなんか知らないか?」

 

 

こちらぎゅるぎゅる丸、最新素材をふんだんに使った贅沢な一品となっております。

…高望みはしない、カーボンファイバーみたいなものなどはないわけだし、型落ちでも何か代替になる素材を使うしかない。

 

そしてこのリリルカ・アーデさんはこの町に詳しいらしい、完全に丸投げなのだが鉄くずか何かを売っている店を教えて貰えないかと思った次第だった。

 

 

「素材ですか…」

 

「おう、鉄素材を溶かして色々試そうと思っているわけなんだが」

 

「なるほど」

 

 

リリは頷くと頭を捻る、どうやら候補は幾つか上がるらしい。

…理想は合金、こちらにも様々な鉄素材があるようだし型から作ることを考えると量も必要になってくる。

とりあえず素材の特性を見るために品ぞろえの多い店が良いのだが…知っているだろうか?

 

 

「…安い方がよろしいですよね?」

 

「ん、まぁな」

 

 

手持ちはそれなりにある(はずだ)が、安いにこしたことはない。

キラリと光ったようなリリの眼に肩を竦めた俺は頷く、何だかまた黒い事を考えているようだ。

 

 

「でしたらオススメの店が、全品格安ですし時折アダマンタイトさえ安い値で流れていることもあるんです!少しだけ治安が悪いところにはあるんですが、リョナさんなら――」

 

「――あ、それはダメだ。コイツを連れてけない」

 

「…そ、それもそうですね、すいません」

 

 

少女を掲げるとリリは「あっ」と目を見開き慌てて頭を下げる。

家に置いていくわけにもいかないだろう、いや数時間ほどなら寝かせておいて問題ないだろうが、この後冷やかしに行くつもりなのでいちいち戻るのも面倒くさい。

 

 

「だから出来る限り品ぞろえが多くて安心安全なデパートみたいな場所が良い」

 

「でぱーと?…というのはリリには解りませんが、でしたら良いお店があります」

 

「ほう」

 

 

鉄素材を売っているデパートなぞあるのだろうか、ってそういうことではなく。

 

普通に微笑むリリはチラリと少女の事を見つつ俺のことをまっすぐ見上げてくる、そして広場を見渡し方向を確認すると一方を指さした。

 

 

「『マーニファミリア』という大手商業系ファミリアの店舗なのですが、品ぞろえも豊富ですし表通り(メインストリート)にあるので娘さんとでも安全かと。行き方は――」

 

 

 

・・・

 

 

 

「いらっしゃいませー!」

 

「おおぅ…」

 

 

リリに教えられたとおりに進むと、といっても街道をまっすぐ歩いてきただけなのだがいかにも盛況そうな店が目に入った。

この町の規格の中で間違いなく最大のその店構えは三階建ての邸宅、質素な木造の外観は白く清潔で入り口もこれまた広かった。

 

(…うわ広っ!?)

 

そして店内も広い、陳列された商品は棚毎に綺麗に種別に並べられ、解り易い商品の配置は気持ちいいまでの開放感を感じさせた。

真ん中には巨大なレジがあり、受付に立った店員の女の子たちが大勢いる客を次々と捌いては笑顔で頭を下げている。

 

明るい居心地の良ささえ感じさせる店内、豊富な品ぞろえに愛想の良い店員たち。

マーニファミリアというのは大手商業系だと聞いたが、なるほど良い店を持っているようだ。

 

(オラリオでこんな光景を見るとはな…)

 

それにこの広さでここまで賑わっている店をオラリオで見たことが無い、客層も冒険者から一般人と様々だが見渡す限り店内の至る所を闊歩している。

静かな喧噪が軽く響き、朝だというのに盛況ぶりを伺わせた。

 

店の入り口で圧倒されていた俺は大きく吸っていた息を吐きだす、勢いよく挨拶をしてきた店員の女の子の可愛らしい制服をチラリと見た後歩き出した。

 

 

「少し見て回るか…」

 

 

せっかくだから素材探しついでに品揃えを見てみる、棚と棚の間に入ると歩きながら商品を見て広い店内をまわり始めた。

一つの棚に入る…ここはポーションなどを売っている棚らしい、綺麗な瓶の中には様々な薬品が入っており、かなりお手頃価格で販売されている。

 

(なるほど、だから冒険者も来るのか)

 

うちは目の前に薬屋があるが、普通の冒険者はこういうところに買いに来るのだろうか。

この時間帯は「あ、やべポーション足りねぇ!」系冒険者で溢れるだろうし、この時間の賑やかさも頷ける。

それに匂い袋のような便利グッズから、一般家庭が使うような石鹸なども売っており…本当にデパート感覚だ、系統ごとに様々な客層が買い物を楽しんでいるようだった。

 

…ふと棚を見送っていくとひと際輝くような商品を見つけた。

 

 

「…え、エリクサァー…!」

 

 

とんでもない数の丸が書かれた値札と共に緑色の液体が入った瓶が数個ほど置かれている。

圧倒的存在感(と金額)に押しつぶされそうになった俺は瞬きを数度すると、じっくりと観察してみる。

 

(現物は初めて見たな…万能薬だったか)

 

というか現物が置かれている状況、緑色の綺麗な液体はどこかメロンソーダを思わせ少し美味しそうだ…ではなく、こんな馬鹿みたいに高額の商品を良くそのまま置いてあるものだ、それだけ余裕があるということか。

あるいは万引き対策が完璧だとか…もしかするとここだけ重点的に監視されているとか、そう考えると居心地が悪い。

 

 

「ほ、他は…」

 

 

止めていた足を動かし始める、棚を抜けると鉄素材を探しながら賑やかな店内を歩き始めた。

 

…様々な目新しい商品が目に留まる度足を止めては見る、これが中々に楽しい。

少女を抱えながら様々な日用品やダンジョン用品、果ては魔法の道具のようなものが売られ、時折手にとっては目新しさに声を漏らしていた。

 

(――っと、そろそろ探さないとな)

 

なんて暫くショッピングを純粋に楽しんでしまっていたが、素材探しを忘れかけていた。

本来の目的を思い出した俺は軽く背伸びがちに店内を見渡す、そういえばかなり歩き回ったが目当ての物は見ていなかった。

 

 

「…」

 

 

な――…いような気がする。

如何せん店内が広いし人も多い、どこに何があるか解り易い棚の配置ではあるが、初見で攻略しきるのは目でも鼻でも難しい。

 

(…聞いた方が早いか)

 

よっぽど店員の方が見つけやすい、一番最初に視界に入った陳列作業をしていた制服姿の店員に近づいていく。

 

 

「ちょっと聞きたいんだが」

 

「あ、はい!」

 

 

声をかけると兎人の店員が慌てて立ち上がる。

綺麗な紫色の髪をした兎耳の女の子は補充用の商品を入れていた箱を一度置くと、良く練習されている可愛らしい営業スマイルを見せた。

 

 

「何でしょう?」

 

「あー…曖昧で悪いんだが、鉄素材みたいなものを売ってる場所ってあるか?」

 

「――そういうことでしたら、二階へどうぞ!」

 

 

店員は笑顔で店の一角を指し示す。

割と入り口の方に近いその場所には巨大な階段があり…灯台下暗しというほどでは無かったのだが、気が付かなかった。

 

 

「また何かございましたらお申しつけください!」

 

「おう、仕事邪魔して悪かったな」

 

 

軽く店員さんに会釈した俺は二階への階段に歩き始める、そこだけ人の少ないように感じる店内を通りながら重厚感のある階段の一歩目に足をかけた。

 

短い折り返しの階段を登りきると、そこもまた広いフロアが広がっていた。

 

(…あぁ、三階建てだったしな)

 

つまり一階が雑貨、二階で素材や武具を売っているということなのだろう。

見れば広いスペース、一階に比べて賑わいは少ない。相変わらず見通しのいい配置だが棚というよりか机の方が多く、その上には質の良さそうな剣や盾、様々な色や形をした素材…らしきもの達が乗っていた。

 

…半々というところだろうか、右側は剣や防具の置かれたショーウインドーの多いスペース、左側は少し雑多に素材や道具などが売られているらしい。

 

 

「…」

 

 

流石に朝からこちらに来ている客は少ないようだ、一階の盛況っぷりに比べるともはやがらんどうのように見える店内には作務衣の客が数人いるだけで…売っているものからして、人を選ぶ。

武器や素材しか扱われていないのならば鍛冶師や冒険者しか来ないだろうし、時間帯関係なく一般の客は少ないのだろう。

 

とはいえ品ぞろえ豊富な店内を歩く、足下から俺は一階の喧騒を感じながら、何故か色々な臭いをさせている素材棚の方に釣られるように歩き始めた。

 

 

「おぉ…?」

 

 

ここはモンスターのドロップアイテムを売っている場所らしい…っとどこか見覚えのある黒い皮のようなものが机の上の一番目立つ場所に置いてあった。

触れてみるとザラザラとした質感のそれはどこか皮膚のようであり、気のせいだろうか、値札にはゴライアスと書いてある気がする。

 

(あんな化け物の身体を素材として売ってんのか…確かに加工したら硬いがなんだかなー…)

 

かつて相対した黒い巨人の姿が頭をよぎる、攻撃を当てすぐに逃げてしまったがぎゅるぎゅる丸を表皮で弾かれたことは覚えている。

カウント1000を超えた今の状況なら倒せるかもしれないが…いや、そういうことではなく一部とはいえあんな化け物が売買されていること自体が少し驚きというか、人間の欲って凄いなとしみじみ実感する。

 

 

「こっちはキラーアントの牙か、こう改めて見ると新鮮だな…」

 

 

モンスター素材棚、その隣には棘棘としたフォルムの牙が置かれている。

時折コートの端に引っかかってうっとおしいとは思っていたが予想以上に派手な返しの付いた牙は鋭く、それ以外の場所を撫でると非常に虫らしいツルツルとした感触が指で触れた。

 

(あー面白いなー…ってこれじゃただの二の舞か)

 

普段相手取っているモンスターたちの素材に少し少年心を躍らせかけたが大量にあるそれらを見ていっては時間が足りない、まずは鉄素材を見ようと決めたはずだ。

 

再び店員に聞こうと俺は周囲を見渡す――するとそこには何か布で覆われた箱を運んでいる体格の良い制服姿の男がいた。

 

 

「ちょっと聞きたいんだが」

 

「ん?」

 

 

何か運搬中だったらしいスキンヘッドの男は足を止める、振り返りながらチラリと手に持った箱を見下ろすと、その強面には似合わないニコニコした営業スマイルで俺の方を向いた。

…筋骨隆々な身体に肩だしエプロンがけっこう様になっている、身体の傷跡が少し威圧感を与えるがどこかその雰囲気は柔和に感じた。

 

 

「おはようございますお客様!如何されッ…まし…た…か……?」

 

 

――のだがしかし、振り帰り俺を見た瞬間に言葉が詰まる。

一瞬愕然と目を見開き持っていた箱を取り落としかけるが、何とか取り繕うように持ち直しぎこちない笑みを浮かべた。

冷汗が額を垂れ、素早く上唇を舐めるとごくりと喉が上下するのが見えた。

 

具合でも悪いのだろうか、急に顔色が悪くなったが…とりあえず無視して喋ってみることにする。

 

 

「実は鍛冶を試そうとしていてだな、その素材を探しているんだが…この店は鉄か何か売ってないのか?」

 

「ッ!…あっ…その、少々お待ちを…!!」

 

「ん?…まぁ構わないが」

 

 

男は慌てて走り去っていく、手の中の箱が揺れるとかかっていた布がずれ…「鉄格子」のようなものが見えた。

 

(んー…トイレかな?)

 

なるほど急な腹痛が来たと考えると納得できる、そういえば学生時代ボコした不良が俺に会うたびあんな顔をしていたが…『面識』はないはずだし、それ以外あの動揺に説明がつかないのではなかろうか。

 

男が走り去った方向を見送る、そこにも上に続く階段があり…封鎖されていた、エプロン姿の男は張られていたロープを超えるとライトの付いていない暗闇に消えていった。

…どうやら三階は売り場じゃないらしい、あの様子を見るに倉庫かスタッフルームか。

 

 

「…」

 

 

しかし待てとはこれいかに、なぜ俺がアイツのトイレが終わるまで待たなければならないのだろうか。

他の店員を探しても良いのだろうが…待てと言われれば暫く時間潰し出来るくらいには周りには面白い商品がたくさんある。

 

一度少女を抱え直した俺はそこらにあるモンスターの身体の一部を見ていく、まだ見ぬモンスターの身体を一部とはいえ見るのは軽いネタバレ感があるが…元々の姿に想い馳せるのもそれはそれで面白かった。

 

 

「…ッ…あいつ…も……かして…ここが…!!?」

 

「……馬鹿な!…だろうな!!」

 

 

ふと天井から言い争うような声が聞こえた。

見上げると天井は軽くギシギシと揺れており、途切れ途切れだが片方はさっきの男の声のような気がする。

 

(…?)

 

何かきな臭い、嫌な予感というか…いや、物理的にどこかで嗅いだことのあるような。

 

それはダンジョンの匂いだ、正確にはモンスターの臭いだ。血と混ざった獣の汚臭があの三階からしている…気がする。

一度鼻を鳴らした俺は少女の頭を胸にぎゅっと抱く、ライトのついていない会談への暗闇を見つめると――

 

 

「…こっちか?」

 

「はい、こちらです!」

 

 

――階段をおりてきた二人組の男を見る。

 

片方は先ほどのエプロン男、慌てて階段を駆け下りると張ってあったロープをいそいそと外し…後から来た非常に肥えた男が通りやすいようにする。

 

深い緑色の貴族服のようなジャケット、皺一つない白いパンツ。

撫でつけられた金髪の先は不機嫌に揺れ、緩慢そうな顔には小さな碧い瞳とちょび髭が乗っていた。

はちきれんばかりの腹の下には短い脚がつき、年齢感としては四十代だろうか、不快感は無いがいかにも高慢そうな見た目をしていた。

 

(う…)

 

そしてここからでも解るほどのキツイ香水、どこか鼻に詰まるような臭いは思わずくらりとくるほどで思わず顔をしかめた。

 

 

「こちらです、ガル様」

 

「…!」

 

 

しかしこちらに来るようだ、エプロン男の随分とへりくだった案内でその顎の垂れた偉そうな男はこちらに歩いてくる。

指し示された方向にいる俺の姿を見ると軽く眉を上げ、すぐさま自然な笑顔を見せると早足でこちらにやってきた。

 

 

「…おはようございます、お客様!私この店のオーナーをしておりますヒューキ・ガルと申します、以後お見知りおきを!」

 

「お、おう…」

 

 

身長が低いヒューキ・ガルと名乗る男は厚ぼったい手を差し出してくる、きつすぎる匂いに辟易しながら俺は一応その手をとると握手をかわした。

 

(ってオーナー?)

 

何故そんな人物が出てきたのだろうか、ヒューキ・ガルの後ろでニコニコとした笑顔を浮かべているエプロン男にチラリと視線を向けるが何も解らない。

 

手を離す、少し湿っていた。

営業スマイルを浮かべるヒューキ・ガルは細めた目で俺の全身を一度じっくりと見る…まぁこの世界では珍しい恰好なのでなれてはいるが。

 

…そして軽く首を傾げると尋ねてくる。

 

 

「――それで、今日は、どういった御用で?」

 

「ん、鉄素材があれば買いに来たんだが」

 

「……ハ…それだけ、でしょうか?」

 

「それだけと言われてもな…あぁ、だがここは良い店だな。買う予定は無いがモンスターの素材とか見ていて楽しかった」

 

 

ヒューキ・ガルの顔が一瞬訝し気なそれに変わる、まさかと一瞬口が形作られたような気がするがすぐにまた貼り付けたような笑顔に戻ってしまっていた。

それから傍らにあった先ほどのゴライアスの肌を見おろし…見間違いだろうか、口元に軽く恍惚とした表情を浮かべながらその肥えた掌で撫でると、また元の笑みで俺に視線を戻した。

 

 

「そうですかこれは失礼、鉄素材がご入用でございましたか!てっきり私の客人かと思った次第でして…」

 

「…でも初対面だが?」

 

「いやはや全くその通りでございます!しかし(わたくし)商いをやっておりまして顔が広くなってまいりますと、どうしても()()()()()()お方の名前がある場合がございまして、この場合この者の早とちりだったのですが勘違いに巻き込んでしまったようでございます、誠に申し訳ございません!」

 

「!…はい、大変申し訳ございません」

 

「あぁ、そういうことか」

 

 

顔と名前を覚えておくことの辛さは解る、つい気を抜いてたりすると全く覚えていないこともあるし、知人面されると知っていた気になってしまうのもまた然りだ。

 

頭を下げるヒューキ・ガルとエプロン男に俺は頷く、それこそ天敵でも来たかのような態度だったがもしかすると誰か注意している人物と勘違いされたのかもしれない…なら別に怒る通りも無いだろう。

 

 

「それで鉄素材でしたな、おいセーグ君、ご案内さしあげなさい」

 

「はい、こちらに」

 

 

エプロン男に案内されヒューキ・ガルと共に店内を移動し始める、店の奥まった場所に来るとそこには…様々な金属素材があるようだった、鉱石のままの物や金属の延べ棒、あるいはくず鉄のようながらくたがばら売りされていた。

 

 

「おぉ、これこれ」

 

「…!」

 

 

一番下の棚に置かれた金属の延べ棒を手に取りながら俺は少女を一度綺麗な床上に座らせる。

綺麗な鈍色をした鉄は触れていると少し心躍る、冷たい金属を軽く浮かせたりすると並んでいる他の金属にも目を通す。

 

…ミスリル、リリの言っていたアダマンタイトに、一つだけショーケースに入ったオリハルコン。

徐々に値段の上がっていくそれを見ながらオリハルコンの驚愕の価格に目を見開く、あんなもの買った日には全財産どころか臓器の数個が吹っ飛ぶだろう。

 

(俺今いくら持ってたっけ…)

 

ふと気になりコートの中に手を入れる、軽くまさぐっていつも財布をいれている場所を探ると…何もない事に気が付いた。

 

 

「あ…やべ…」

 

 

朝いきなり出たし、あの時はまだ買い物をする気も無かった。

それにしても財布を忘れるのはどうかと思うがないものは仕方ない、出直そう。

 

立ち上がった俺は少女の事を拾い上げる、再び少女の顔を胸に向くように抱くと、相変わらず立っていたヒューキ・ガルの方を見た。

 

 

「…すまんが持ち合わせが無かった、また来るわ」

 

「そ、そうでございますか、それは残念です…!」

 

 

チラチラとヒューキ・ガルは少女の事を見ている、どこか冷静とは言えない表情に俺は目を細めるが…気のせいだ、と割り切ると一階への階段に向かって歩き始める。

また明日来よう、どちらにせよ鉄を買うとなると少女を置いていかなくてはならないし、ぎゅるぎゅる丸の解体にも着手しなければいけない。

 

 

「またのお越しをお待ちしております、()()()()

 

 

ヒューキ・ガルの肥えた声を背中に受けながら、俺は少女と共に階段をおり始めるのだった――その少女の眼差しが、『()()』事に気づかずに。

 

 

 

・・・

 

 

 




あいー武術のエキスパートだったと(総まとめ)…ってそろそろリョナ自身について纏めないとアカンな、次回ちょっと両橋について纏めみたいなことするかも。

で、最近ちょっと技法とか考えすぎている節があるんで次回は頭空っぽにして書こうと思います、自分の書きたいものを書くのが一番なんでね。
…というか一年くらい書き溜めしたいまである、やらんけど

ではではァッッ!!


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 イチニチフツカ

・・・

 

 

 

――沈んでいる。

 

暗く深く、蒼い濃度の液体に抱かれた瞼をゆっくりと上げた。

 

それはまるで羊水のように居心地のいい空間だった、遠く上を仰げば水面が淡くキラキラと輝いているのが見えた。

 

やけに暖かい蒼が全身をゆったり重く撫でる、余りに白すぎる細泡が身体から溢れると輝きながらふわりふわり浮かんでいく。

 

 どこかで覚えたような安心感にも似た充足、微睡みのまま意識を預けてしまいそうな柔らかな腕の中。

 原初のスープに身を浸し、揺蕩う白痴を貪りながら、ゆっくりと沈んでいく蒼い海を見送っていた。

 

 …非常に緩慢に、だが確かに俺の身体(にくたい)は水底を夢見て沈み続ける。

 

 

『殺せ』

 

 

 蒼が囁く。

 

 満ちた液体の欠片達は漂い、語り掛ける。

 

 時に楽し気に、時に虚ろに、ただ総じてそれを当たり前と認識していた。

 

 …そうそれが当たり前なのだ。この空間(ぞうお)の中にいるものはみな生者であろうと死者であろうと、この海から生まれた子供達なのだから。

 

 

『殺せ 殺せ』

 

 

 俺も、そうだ。

 

 心地よい蒼に身を委ねながら、甲高い音を発するかつての家族達が周りでゆったり浮遊していくのを目で追う。

 

 遠巻きに俺の身体が沈んでいくのを楽しんでいるようで、いつも通りに当たり前を告げた。

 

 

『――神を 殺せ』

 

 

 それが俺の宿命(あお)、生まれ落ちた時から持った運命(しろ)

 

 沈みゆくのもまたそうだ。深い蒼の中は居心地が良く、水深(カウント)が増していく度に何処へとも解らない郷愁が増していく。

 血が否応なしに騒ぐのだ、『あれは』きっと今まで裂いてきた肉の中で一番気持ちいいぞ、と当然のような事実を俺の精神に極上の蜜のように見せつける。

 

 …しかし今はそれが煩わしいと思った。

 

 

――華のツインテールをした少女の、暖かい笑みが脳裏をよぎる。

 

 

 …俺はきっと彼女とあの少年が好きなのだろう、お人好しな彼らにあてられた俺は変わったのだろう。

 無償の愛を知った、共感を知った、居心地の良い暖かさを彼女から感じた。

 それは何となく一緒に居たくなるような、まるで炉の前で寝ころび微睡むかのような安心感、二度と抱かれるはずのない子供が求めていた慰め。

 

 

 俺は、彼女を、()()()()()()()()()()()()()()()()

 ふと良い匂いがしても、無意識に食指が動いたとしても切り裂きたいなんて絶対に思わない。

 いつしかあの空間が自分の空間になり、感化された俺は、少女を拾った俺は、もう二度と()()()()()なんて――

 

 

そんなことはしたくない、欲望以上の輝きがあそこにはあるはずだ。

 

 

例えそれが《親の言葉でも》、いやだ、いやだいやだ嫌だ――

 

 

「――ぐぁ……い…がぁ…!?」

 

 

途端に、息苦しくなる。

 

否定しようと開いた口から大きな泡がゴバリと溢れ出る、ゆっくりと揺れながら水面に向かっていった。

 

 重い水圧の中でもがく、抵抗すればするだけ身体に液体が粘り付き肺の中に蒼が溜まる。

 

 

 …意識に鈍い痛みが広がっていくのを感じながら、俺はケタケタと嘲笑う声を聞く。

 

 

『抗えば 苦しいぞ』

 

 

 知っている、だが彼らを傷つけるくらいなら。

 せめて俺一人が苦しみを耐えるだけであの居場所を守れるのなら例え息が出来なくたって俺は――!

 

 

『クク… ()()()()() か ?』

 

「…!」

 

 

様々な反応を示していた蒼霊達はみな一様に嘲りながら、ただ吐き捨てるようにそう嗤うと海中をふわりふわり散り散りに去っていく。

 

耳障りな声を激痛の端で聞きながら俺は水面を目指しもがく。

 その度崩れ割れるような冷たさと身を丸めたくなるような寂しさがどうしようもなく身を焼いた。

 

 水中を腕が掻く。

 

 足を蹴ると微かな浮力が身体を運んだ。

 

 響いていた言葉が消え去るのに合わせるように、俺は自らの身体を見下ろしていた。

 

 

 ――そこにあったのは青より遥かに蒼い毛並み。

 

 

 鋭い牙、尖った爪。

 

 白に覆いかぶさるよな鮮やかな蒼い毛並み、太い骨格で形成された胸と背中、そして太い尻尾。

 

 液体の中で揺れる身体、激しくもがく肉体、蒼い憎悪を称えた瞳を苦しそうに歪ませたその四本足の化け物は海面を目指し、抗い、水中を蹴る。

毛並みの揺らぐ獣の脚が絡みつく液体を掻くと、小さすぎる浮力が解らない程度身体を上に向かわせ、その度呼吸の出来ない肺と脳漿に激痛が走った。

 

 

 「あ…がぅ…っ…!」

 

 

 ()()()()()()()()

 

 カウントを重ねた先、肉体の変化を続けた俺の末路であり本性。

 神殺しの獣、原典(オリジナル)に近づいていくシステムはいつか俺の肉体を元に戻す。

 勝手に濃くなっていく血は神を殺すための力を与え、いつしか俺が人である必要性は薄れていく、瓦解した器は憎悪と溶け、いつしかその身体は『獣』そのものになる。

 

それは打てば打つだけ元の(カタチ)から離れ、鋭くなっていく銑鉄のようなものだった。

 

 

 ――こんな身体では、愛されない。

 

 

『狼』は涙を零す、初めから相容れる事など無かったことを知った。

 

 やけに綺麗に光る涙の粒が暗い視界で光りながら落ちていくのを見送るとだらりと脱力した。

 

 蒼に絡めとられ意識を完全に失った俺はゆっくりと瞼を閉じると、また遠い水底を夢見て沈み始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ッはぁ…!?」

 

 

毛布を跳ねのけて飛び起きた俺はびっしりと冷や汗をかいた肩を荒く上下させる。

また悪夢を見た、ここのところ寝相が悪いどころか、まだ日の出ていないような時間に目を覚ましてしまうことが多かった。

 

――ぎゅるぎゅる丸が帰って来て、少女を拾ってから一週間ほどが経った。

 

(今のは…『催促』、か)

 

肉体が狼になる夢、俺の四肢は獣のそれに変わり、海のような場所を沈む。

亡霊から告げられる神を殺せという言葉を獣の口で否定しようとすると途端に苦しくなり、激痛と共に失神するいつもの夢。

 

悪夢の余韻から目を覚ました俺はゆっくりと息をつき安堵する、結局今見たものは血の中の蒼達が神の肉を求め、イラつき見せている催促の夢でしかない、迷惑極まりないがこうして起きてしまえば煩わしい声もなりを潜める。

少し肌寒いまだ暗い家の中を見渡し落ち着いた俺は握っていた毛布から手を離す、抱いた不安にも似たストレスを大きく吐き出すとベッド上に腰かけ直し、酷い悪夢を頭から追い出すように身体の感覚に意識を向けようとした。

 

 

「…」

 

 

だが考えてしまう、深層心理に見る夢の中に嘘が無いようにあの光景は真実だった。

恐らく俺はカウントを稼ぎすぎると人の身体を保てなくなる、この身体は神を求め神を拒む、やけに居心地の良いどこかに俺は今も沈みこんでいるのだろう。

 

…そして、そんなどうしようもない事実を()()()()()()()()も。

 

 

(神殺しの獣ね…)

 

 

力と共に徐々に身体が狼に変質していく呪い、血が濃くなるに連れ近づいていく原初の姿。

 

――()()()()()()の居るこの世界で、神殺しの血筋に産まれてしまった俺は今も生きている。

 

 

(一回振り返ってみるか…)

 

 

思えば余り深く考えたことが無かったが何より早起きしすぎてしまったし、というか神殺しとか自分の変化を考えるためにも一度纏める必要があるだろう。

 

隣に寝ている少女の寝息がスースーと聞こえてくるのを覚えながら、まずは自分の名前から思い出すことにした。

 

両橋(りょうはし) 夏目(なつめ)、両橋家の嫡男。

年齢26歳の男、結婚歴はなく妹と従兄弟が一人いる。

身長185cm、体重73kg、肩幅は広く、全身には最上質の筋肉が美しくついており、黒髪黒目の日本人。

何でもそつなくこなす器用さを持ち、戦闘面におけるここ一番の集中力と発想、直感は天才的、驚異的な身体能力をもつ肉体と子供の頃より教え込まれてきた武術により通常の人間社会ではほぼ最強といえた。

性格は社交的だが積極性は低い、基本年相応な振る舞いをするが時折少年心を見せる時がある。しかし同時に数少ない親しい存在に対してはなんやかんや世話を焼きな一面を見せることも多い。

好きとか嫌いといった食べ物は特に無いが、今食べたいものがあるとすればうなぎのかば焼きだろうか。

そして最近娘が出来た、子育ての経験など無いので最初は難儀すると思っていたが現在四日目の朝、相変わらず反応は無いが何とか上手くいっていた。

 

次に、両橋という家について。

数世代前に神を殺した一族だ、年代を追って説明すると1000の時に見たのが初代、それから襲ってくる神々から逃れ時に狩り返しながら生き延び遂に悲願を成就、強い母体と種をかけ合わせながら現代まで強靭な子孫を残してきた。

その人を惹きつける容姿と力、その在り方にいつしか『()()()()()』が付き、両橋を当主に掲げる『企業』となった。

 

具体的な事業を興し始めたのは神を滅ぼした数世代前より、今まで世界各国を転々とし世間への露出を避けてきた当時の両橋…いや両橋という名前はその頃よりか、時の当主は日本に根を下ろし、協力者と共に地盤を固め始めると、様々な商売に才能を発揮、爆発的に各方面のシェアを獲得し、日本経済を独占し、僅か一代で巨大企業となった両橋は9割がた日本という国を実質支配している。

独占禁止法なにそれおいしいの、巷では批判する輩もいるようだが支配から100年経った今ではもう両橋失くして日本は無く、崇めこそされ反逆しようにもされないのが現状だった。

 

次は、俺について。

そんな家に生まれた俺は物心つく前から将来を見込まれ武術を叩きこまれてきた、幼いころは現当主である父と欲深い理事会連中に利用されていた。

既に神の居ない世界、特に使命も無く自分の欲望の赴くままに時折家業を手伝いながら何となく生きてきた。

 

…故に神殺しについて今まで深く考えたことはなかった、というか考える必要がなかったというのが正しい。

こちらの世界に来てからは狼騎士だとか色々解ってきたことは多いが、これまでは自分の肉体自体を特別に意識したことは無かった、まだ人間の範疇だと思っていた。

 

神殺し(バケモノ)の血筋、俺はその成功例。肉体は人類の到達点、故に一番人間離れしているとも。

 

…そしてその反面、神殺しの血にかけ合わせた母体が弱く負けた場合、人と化け物の均衡が『崩れる』ことがある。

例えば妹と従兄弟、血は妹の身体に一切馴染まず…極限まで弱くなった、妹は18歳だというのに身長が120cmも無い、体重も30あるか、ないか。

成長が止まってしまったのだ、両橋の求める肉体という基準において、いや自然界においても妹は最弱の烙印を押された――『出来損ない』だった。

…まぁその分頭が極端に良いので家の中でむしろ良いポジショニングをとっていたのだが。

 

逆に従兄弟は血が濃すぎた、あいつは一日一回血清を打たなければならない身体だった。

妹と違って腕力などはあるが…如何せん血の異常が多すぎる、無口だが良い奴だ。

 

その点俺は成功例として肉体は完成され、神殺しの力も異常なく持っている。

狼騎士も発動したわけで、このまま順当にカウントを重ねていけばいつかは立派な神殺しの獣になれることだろう。

 

(いやいや)

 

いきなり人間やめますか?と聞かれて頷けるほどこの身体に愛着が無いわけじゃない、例えそれが本来の姿だったとしても。というかむしろそれが一番の異常なのではなかろうか。

それに流石に受け入れられないというか、鼻が良くなっているのがその兆候なのは解るが、全身が狼になってしまうとなると…少し恐ろしいし、実感がわかない。

 

 

(やっぱ考えても解んねぇよな…)

 

 

重要な情報(ピース)に限って手の中に無い。

知った情報をそぞろに纏めてはみたものの、そもそも『(理由)』と『花びら(目的)』が無いから何の華か解らないというか。

 

そもそも何故あの時『俺』はお母さん(カミサマ)を殺してしまったのか、神殺しの獣という俺達の存在理由がただの生存ためなのか。

前提である二つの情報に限って解らない、ただ()()()()()()()()というのは何となく推測できるし憎悪を持ってしまったのも見たが…何かが引っかかった。

 

自分自身の事が解らない恐怖、いつかカウントを重ねた海の底で真実が解る日が来るのだろうか。

 

 

――ただ神殺しであることに変わりはない。

 

 

考えたところで否応なしに俺の肉体は神を拒むし、神に拒まれる。

妹や従兄弟と違い血の異常は無いが、通常通りにいけばいつしか狼になってしまうだろう。そしていずれ「彼ら」と無条件に殺し合うような関係になるのは明白だ、化け物が世界に相容れることは無いのだから。

…どうすれば、いいのかも、解らない。

 

とはいえ無駄足、どうしようもない事だけが解った俺は思考を閉じた。

 

 

「ん…う」

 

 

少しため息交じりにゆっくりと腕と身体を伸ばす、しっかり戸締りはしているのだがやっぱり裸で寝ているため肌寒い…この身体まず風邪は引かないが寒いものは寒い。

肩口でブルリと震えた俺は腕をおろす、はっきりしつつある意識の中で隣に寝ている少女を見下ろすと、軽くその顔にかかってしまっていた吐息で揺れる髪を指先で払った。

可愛らしい寝顔をしている、白く柔らかな頬をゆっくりとつつくとぷにぷにとした感触に指が沈んだ。

…それに合わせ押した方の片耳がピクピクと動く、反応というにはあまりにそれは小さすぎるが愛おしい。

 

(可愛いな…)

 

拾ってからはや5日ほど、慣れないながら世話をしてきて少女に対してそれなりに愛着も湧いてきた。未だ何の反応も示してくれないし、甲斐性のない事に名前も付けてあげれていないが、次第に…自分でも不思議なことにこの小さな存在を大切だと感じるようになってきた。

父性という奴だろうか、自分にそんなものはないと思っていたが中々どうしてこの子の事を大事に思えるものだ。

 

少女の頬を撫でながら自然な笑みを浮かべる、穏やかな寝顔を見ているとそれだけで幸せで、柔らかな頬に触れた掌は心地いいほどに暖かかった。

 

 

「…」

 

「…って、あ、すまん」

 

 

少女の瞳がゆっくりと開かれる、起こすつもりは無かったのだが撫ですぎたらしい。

目覚めた少女は一切表情を変えず瞬きを繰り返すとまたその紅い目で天井をジッ…と見つめ始めた、微動だもしない。

 

(……まだ、か…)

 

少女は未だ喋らない、少しだけ心が痛む。

一度ゼロになった心がすぐに癒えるものではないと理解はしているが、俺の事を全く見てくれないとなるとやはりへこむ、やはりこれだけ世話を焼いておいて何の反応もないとなるとちょっとだけ悲しい。

 

 

「おはよう、今日は…ちょっと早いな、まだ寝ててもいいんだぞ?」

 

「…」

 

 

それでも声をかけ続ける、ゆっくりと髪を梳きながら微笑みかける…が少女は天井を見続けるだけで何の反応も示さない。

軽くむぅと肩を落とした俺は少女の身体を持ち上げると座らせる、カクリと首が下を向いたのを確認した後ベッドから立ち上がると全裸のまま背筋をぽきぽきと逸らしながら大きく息を吸い直した。

 

(まずは…)

 

少女の事はとりあえず置いておいて、服を着ながら俺は今日の予定を考え始める。

 

…やりたいのは数日前から行っているぎゅるぎゅる丸の解体作業。土間に置いた作業机の上に広げられた風呂敷の、穏やかな緑色の上に置いてあるぎゅるぎゅる丸はおおよそ8割方解体されており、箇所ごとに置かれた精緻なパーツ達は朝の暗がりの中で微かに鈍色の光点を端に作り出していた。

今日終わらせるのも良いだろう、時間がかかるのが難点だがどうせ今日はもう他に用事もない…いや早く終われば鉄を買いに行こう、結局数日前マーニファミリアの店に行ったは良いが何となく買えずじまいでいた。

 

それと早く少女の名前をつけてあげなくては、何だか少し方向性が解ってきたような気がするがまだ思いつけていなかった。

 

ならまずは少女をトイレに行かせ、朝ご飯を作って――

 

 

「…あっ」

 

 

――って、いや、行かなければならない場所があった。

 

明日も来てください!と言ってきた昨日の少年の楽し気な笑顔を思い出す、ここ数日武術を教えている二人はそれはもう熱心で…熱心すぎる、新しい技術を教える度彼らはそれをスポンジのように吸収し、せがむようにされて数時間も朝修行に付き合わされることになる。

 

…まぁ別に教えるのは良いのだ。

だが人目を避けるために寒い外壁上、しかも数時間ともなると正直面倒くさいし疲れる…行きたくない、本音を言うと行きたくない。

だが純粋な眼…あんな真摯にお願いされては行かざるをえない、おのれ天使。

 

(…とりあえず、粥でも作るかぁ……)

 

服を着終えた俺は大きくため息をつく、実に安直だが食べやすい流動食を作りに台所へと向かうのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

ドドドドドドドドドッ!

 

――ドンドンドンドンッ!!

 

 

「お得意様ァァァァァァッ!!大っ変っニャアああああああああああッッ!!?」

 

「……」

 

 

何というか、デジャブだ。

地面を揺らすような足音の後、家のドアが壊れんばかりに叩かれ始めた。

 

時刻は11時ほど、朝修行から帰ってきてからずっと作業机の前に座ってぎゅるぎゅる丸の解体作業に集中していた俺は、やけに聞き覚えのある声に辟易しながら膝の上に乗せていた少女を抱き上げると激しく揺れる玄関の引き戸を開けに立った。

 

 

「あー…うおっ!?」

 

「ほわぁっ!?」

 

 

ガラリと扉を開けると引き戸を叩いていた手が勢い余って俺の顔面に向かう、慌てて体捌きで避けるとそこには息を荒くつき汗をダラダラ流した制服姿のアーニャ嬢の姿があった。

…何でコイツ俺の家を知っているのだろうか、まぁ別に良いが。

 

顔を真っ赤にして荒く息を整えながらアーニャはいつになく必死、というか軽くパニックな様子で俺に跳びかからん勢いで数歩詰め寄ってくる。

何というかその様は発情期の猫を思わせた、大変だとか何とか言っていたがこれはむしろ変態なのではなかろうか。

 

 

「おぉっおととととお得意様っ!!」

 

「落ち着け何の用だ、用だけ言って帰れ」

 

「なにげ酷くねッ!?…っていやそういうことじゃニャくて、大変なんにゃッ!!ちょっと一緒に来てほしいにゃっ!」

 

「あぁはいはい大変なんだな、お疲れ様でーす」

 

「ちょっと待ってにゃあああああッ!!おたすけぇぇぇぇッ!!」

 

 

閉めようとしたドアがギギギ…と意外にも強い力で阻まれる、悲しいことに引く力と押す力では後者の方が強かったりするのだ。

 

(絶対めんどくさいじゃん…)

 

まず猫人という種族からして面倒くさい、滅びろ。

ではなくアーニャが尋ねてきて大変だとか騒いでいる、絶対厄介事なのは火を見るよりも明らかだ、相手をしないに限る。

 

 

「あのっ…ちょっとっ…ホント話聞いてにゃっ…!」

 

「知らん、帰れ」

 

「いやっ、ほんと助けてほしいんだにゃァッ!豊穣の女主人が大変な事にっ!」

 

「悪いが俺には関係のない話だな」

 

「ええええっそうにゃつれない事言わないでにゃっ!?」

 

 

扉を閉めようとしながらアーニャは軽く涙目で床を踏みしめる、しかしここは心を鬼にせねば絶対後々後悔すると強引に扉を閉めようとするがガタガタと力が拮抗するだけだった。

扉を押しながらアーニャは足りない脳みそを回し始める、苦し気な表情でぷすぷすと頭から湯気を発し始めた。

 

 

「にゃ、にゃんかお得意様が来たくにゃるものをぉぉぉ……脱ぐとか?…いやそれ前やって殴られたニャっ……って、あっそうにゃ、リューもお得意様を呼んでたにゃッ!!」

 

「話を聞こう」

 

「にゃんか不本意ッ!?」

 

 

手を離すと同時に解放された扉が急にバタンと開かれ、掴んでいたアーニャの身体がグリンッと一回転し、着地した。

まさに扉相撲、彼女は特殊な訓練を受けています。

 

 

「で、何の用だ?ったく早く話せお前、尻尾抜くぞ」

 

「いやだからさっきから話そうとしてるにゃぁ…ま良いニャ、えーと、その、簡単にじょーきょーを説明すると――」

 

 

ため息をついたアーニャは渋めな顔で肩を落とす、パニクっていた猫人はだいぶ落ち着いたようで改めてその場に立ち直すといつになく深刻気な表情で俺の事を見上げる。

狭い玄関先、少女を片手に持った俺は昼空の暖かな匂いを鼻先に感じながら、どこかアーニャから化学系の臭いを嗅いだようなそんな気がした。

 

しかしいくらアーニャ嬢が馬鹿とはいえここまで必死になる理由は少し気になる。豊穣の女主人が大変みたいなことを言っていたが、あのミア母さんやリューのいる超武闘派店舗が揺らぐことなどそうそうないのではなかろうか。

 

 

「――シルの弁当が爆発したニャ」

 

「 お わ っ た 」

 

 

終わっていた。

諸君は知らないかもしれないが実はラグナロクというものがこの世には実際に物として顕現しており――

 

 

「って暴発だとぉぅ!?」

 

「あいにゃ、あのシル野郎転んでアレの中身ぶちまけやがったニャ!んで店内が汚染されて…ミア母さんも倒れちゃったのニャ!」

 

「なん…だと…!」

 

 

正しくバイオテロ、ふざけろシルの弁当。あれの中身は言ってしまえば経口摂取できる化学兵器そのものである。

勿論食べて良い類のものでは無い、死を覚悟しSAN値の6は減る覚悟で喉に押し込み何とか食べることができるようなできないような、つまりそれを食べさせられるベルは不定の狂気を発症しかねない悲しみの連鎖。

 

そしてそんな危険物が爆発、つまりぶちまけられた…状況は見ないと解らないが、ミア母さんでさえ気絶しかねないことになることもうなずける。

毒ガスの拡散、例えステイタスで強化された身体であっても意識など簡単に刈り取ることができるだろう、それがシルの弁当というものだ。

 

 

「…で、生き残ったのは?」

 

「えーと…アーニャとリュー、それとちゅーぼ-に二人…あ、あと磔になってるけどシルがいるにゃ」

 

「それだけか!?」

 

「にゃ、にゃあ…だからアーニャが増援を探してくるように言われて、思わずお得意様のところまで来ちゃったにゃあ…あ、でもほんとにリューも『できればリョナさんが良い』って言ってたにゃ!」

 

「なるほど、そういうことか…」

 

 

恐らく凄惨な現場、あのミア母さんでさえ倒れたというのなら死者は相当な数になるだろうし、外部に助けを求めざるをえない状況が容易に想像できる。

しかしその対象が俺であるというのは…まぁいくら金落としたか途方も無いし、まぁお得意様と呼ばれる程度に信頼は獲得している、というか俺自身手助けすること自体やぶさかではない。

 

そういう事情であるならば。覚悟を決めた俺はシルの弁当の味を思い出す、胃酸が口内に染み出してくるのを感じながら改めてアーニャの不安気な表情に力強く頷いた。

 

 

「…解った、残りは向こうで聞く!」

 

「ほんとニャッ!?あ…ありがとにゃあお得意様、じゃあ早速戻るにゃッ!!」

 

「おう!!」

 

 

本当に嬉しそうにパッと表情を輝かせたアーニャは一瞬俺に跳びつきかけたが何とか自制したらしく踵だけ浮かせ、にやけ面のままくるりと振り返りかえると元きた道へ動き始める。

頷き俺は片脇の少女を抱え直す、後ろ手に玄関のドアを閉め息を肺の下まで大きく吸うと俺は早速走り始めたアーニャの背中を追いかけ始めた。

 

…だが俺は思えばこの時「何を手伝うのか」を聞いていなかった、この事を向こう数日間後悔することになったのだった、

 

 

 

・・・

 

 

 

「連れてきたにゃぁーー!!」

 

「ッ…リョナさん、来ていただけましたか」

 

「あー…うわぁー…」

 

 

十数分後、店内に足を踏み入れた俺は広がる地獄絵図に思わず声を漏らしていた。

色覚を催させるぶちまけられたゲル状の何か、泡を噴いて倒れている店員達、拡散した悪臭が蝕むように脳を痺れさせ、生存本能に訴えかけるような根源的恐怖が自然と一歩後ろに下げさせる。

つまりシルの弁当が爆発していた。たかが弁当と侮ることなかれ、一口すれば固形物と流動体の境目が解らなくなった結果精神は瓦解し、臭いを吸っただけで意識を奪われるほどの危険物…シルの弁当を覗く時シルの弁当もまたこちらを覗いている、冗談じゃなく目が付いている場合があるのだった。

 

…まぁ流石に食べても『死ぬほど』のレベルであって、実際に死ぬことは無いのだが周囲には確実に意識が薄れる臭いが溢れていた。

 

 

「リョナさん、深く息を吸うのは危険だ。その子にもこれを」

 

「あっ、はい」

 

 

そんな危険物を口元に布を一枚だけ覆って掃除していたリューさんから手渡される白い布を鼻に巻く、もう一枚で抱えていた少女の口周りを覆うと長い銀髪を持ち上げ頭の後ろで結んであげた。

少女の鼻を隠して垂れた薄い逆三角形の出来栄えを確認した俺は改めて両手に箒とちりとりを持ったリューに視線を向ける。

この生き地獄の中であっても彼女だけは凛とした目元を保っており、果敢にも今までたった一人で暗黒物質と戦ってきたようだった。

 

 

「まずは来ていただき感謝を、アーニャもご苦労様です」

 

「もごもご…ん?たいしたことないニャ!」

 

「では店の換気をしてきてもらえますか、あと少しで掃除が終わりますので」

 

「あいにゃ!」

 

 

ナプキンを付け終えたアーニャは元気な笑顔を浮かべズビシと敬礼すると店正面の窓を開けに走りはじめた。しかしなぜか口元を覆っているナプキンは正三角形、つまり逆に付けられており…やはり猫人か、愚かな。

 

だいぶ奇抜な恰好をしたままのアーニャを見送った俺は少女を一度綺麗なテーブルの上に座らせる、サンダルを履いた脚が垂れたのを確認すると軽くその頭を撫でた後リューに視線を戻した。

右手に箒、左手にちりとり、口元にナプキンを巻いた完全装備のその姿はまさに掃除戦士といった感じであり、いつもと変わらない美しいサファイアの瞳を細く俺に向けていた。

 

 

「…事情はアーニャから聞いていますか?」

 

「ん、まぁ大体は」

 

「そうですか…ではさっそくお願いしてもよろしいでしょうか」

 

 

ここまで来て断る理由がない、大きく頷いたリューはほんの目尻に微かな微笑を浮かべると胸を撫でおろした。

 

(…まぁいいか)

 

この表情を見られただけでも来たかいがあったというものだ、そういえば何を手伝えば良いのか聞いていないが…まぁたいしたことではないだろう。

リューはちらりと地獄絵図な周囲を見渡すと軽く重心の位置を揺らし、ふっーと息を吐きだした。

 

 

「見ての通りシルの弁当のせいで八割方が死…気絶してしまい、動けるのは私とアーニャ、そして厨房に2人だけ、まぁ簡単に言ってしまえば人手不足なのですが…」

 

「…んぁ、というかそもそも何でその四人は無事だったんです?」

 

「あぁそれでしたら私とアーニャは食料の買い出しで外に出ていて、厨房の…イーミンとコハルと言うのですが、二人は地下の食糧庫で在庫の確認作業をしていたので助かりました」

 

 

つまりそれ以外の場所にいた者は全滅したということなのだが、流石シルの弁当、炸裂範囲の広さよ。

 

 

「…そこで私が掃除、アーニャがあなたを呼びに行き、厨房組の二人には気絶した他の店員達を休憩室に運んでもらっているのですが…残念なことにミア母さんも気絶してしまい今は女手しかなく…彼女達だけで人の身体を運ぶとなるとかなりの時間がかかってしまう」

 

「あ、なるほど。つまり俺の仕事は」

 

「はい、まずは転がっている死た…おほん、気絶している者達を休憩室に運ぶのを手伝っていただけますか?」

 

 

要するに力仕事だ、いつもはドワーフのミアさんがやっていたようだが確かに酒など食材を箱ごと運ぶとなると女性店員では力が足りない。

…それに今のフロアに長くいすぎると確実に頭をやられる、早いところ運んでやらないと本当に気絶じゃすまなくなるかもしれないし何かと男手が必要だったというわけだ。

 

まぁ手助けとしては順当なところだ、空いた手で床に落ちていたウェイターの…クロエとルノアを拾い上げた俺はそれぞれ腰の細い部分を抱えると両腕に持つ。

別にこの程度の重さならばステイタス込みならば余裕だろう、問題は何やら触ってしまった場合後でボコられる点だが流石に気絶しているしバレないだろう。

 

 

「休憩室にはベッドが二つありますが入りきらなければ最悪床に転がしておいていただいても構いません、あぁそれとさっき言った二人と途中出会うかもしれませんが…恐らく名前を出せば向こうはリョナさんのことを知っているかと思います」

 

「了解。あぁそれとコイツここに置いておくので見ておいてくれませんか?」

 

「なるほど、解りました。ではよろしくお願いします」

 

 

ぺこりと頭を下げたリューに娘二人を抱えたまま頷き返した俺は一瞬机に座っている少女にチラリと視線を送った後、休憩室に足を向けた。

 

 

 

・・・

 

 

 

両手に提げたクロエとルノアの手足が揺れるのを覚えながらカウンターの横を通り抜け。バックヤードの中に入ると暗い廊下につながっていた。

シンプルな床板を踏みしめながら数歩進むと微かに明かりが漏れ出ている半開きの扉が二つあることに気が付いた。

 

(こっちは…厨房か)

 

廊下から部屋の一つを覗き込むとそこは厨房のようだった、ここにも何人か人が倒れたままになっており、下準備の途中だったのか食材が床に転がってしまっていた。

俺は簡単に見渡し終えとりあえず倒れてしまっている人数だけ確認しておくと、振り返ってもう一つの部屋のドアを足で開けると休憩室の中に入った。

 

――そこには磔にされたテロリストがいた。

 

 

「…あれリョナさんなんでここに!?ま、まぁ何でもいいのでとりあえず助けてくれませんかっ!?」

 

「…」

 

 

窓付きの休憩室、その片隅には二段ベッドが置かれ、簡素なテーブルとイスが置かれ…何故か十字架も置いてあった。

かなり巨大なそれには細いロープが何重にも括り付けられており…何故かそこにはぐるぐるに巻かれたシルがいた。

 

…あぁ、磔って物理的にそういうことなのか。

 

 

「聞いてください私弁当作ったのを落としちゃっただけでっ、別に何も悪い事してないのに磔にされてっ!」

 

「…」

 

「いや確かに何もないところで転んじゃいましたし中身を丁度ミア母さんの顔にかけちゃったとかありますけど、別にわざとじゃないっていうか!だからここから降ろしてくれるとありがたいなーなんて――ちょっと待ってくださいよリョナさぁぁぁんっ!」

 

 

もはやかける言葉もない。

残念なテロリストに背を向けた俺は後ろからの泣き言を無視しながら二段ベッドに近づくと一段目を覗き込む。

 

(あ、ミアさんはもう運べたのか)

 

ミアの巨体がそこには横たえられていた、どこか不機嫌な表情のまま意識を失っている彼女は丸太のような足を揃えて寝転がされており、呼吸の度胸が大きく上下していた。

…何というか、重そうである。先に死体運びをしているという二人が何とか運んだのだろうがかなりの難題だったことだろう。

 

 

「とりあえずここで良いか…」

 

 

二段目もあるがミアが寝ていてもベッド一段目にはまだ余裕がある、両手に担いだクロエとルノアを持ち上げた俺は暗いベッドの中に二人を投げ入れると背筋を伸ばした。

あとはこれの繰り返しである、とりあえず十往復ぐらいすれば全員収容することができるだろう。

 

(というか…)

 

他に生き残ったという二人に会っていない、気絶した者を運んでいるという話だったがここまで殆ど一本道だったし行き違いになることはないはずだ。

…確か名前は『イーミン』と『コハル』といったか、いったいどこに――

 

 

「――リョナッ!覚悟ッッ!!」

 

「ッ!?」

 

 

頭上から聞こえてきた女の声、同時にばさりとかけられていた白い毛布が跳ねのけられた。

この部屋の中で唯一隠れられるベッドの二段目から勢いよく飛び出してきた小柄なコック姿の女は鋭い気合と共に俺の首を狙って手刀を振り下ろそうとしており、横髪で結わいた赤い三つ編みが揺れているのが見えた。

 

 

「オラァ!」

 

「ぐふぅっ!?」

 

 

とはいえ何とか躱して腹パンする。威力はだいぶ緩めたのだが何だか竜の昇る拳のようになってしまったパンチは的確に突然の襲撃者の腹を抉り、ベッドの二段目から跳んできた白いコック姿の女は腹をかかえ辛そうなうめき声を漏らしながら床をゴロゴロと転がりはじめる、俺は注意しつつも今更襲撃されたことに驚いていた。

 

やがて腕をつき身体を起こした女は腹をおさえたまま痛みに青ざめた顔をあげる、悔し気に歪めた顔は…何というか東洋系の美人なのだが小柄な身体とコック服とは違和感がある、小人族とか種族的なことではなくその外形はちょっとだけ大人ぶった子供のように見えた、ロリロリしい。

 

 

「くぅぅ…女に手を上げるとは聞きしに勝るクソ野郎と見た、よくもやってくれたなこの悪魔め!!」

 

「…は?」

 

 

悪魔呼ばわりとはこれいかに、というか最初に襲ってきたのはそちらからだと思うのだが。

というかこいつシェフ姿だしもしかしなくても先に動いていたという二人のうちの一人なのでは。

 

(うーん…?)

 

一人に襲われたのだから二人目にも襲われる可能性も高い、何故襲われるのかは知らないが何にせよ警戒を解くのは危ないだろう。

というか本当に何故襲われるのか、確かに一部の都市最強に命を狙われてはいるが豊穣の女主人の店員に恨みを買うようなことは無いはずだ。

 

一応周囲を警戒しつつ足を曲げた俺は襲ってきた女の前にしゃがみこむ、そしてその顔を覗き込むと別段殺気なども出さずに声をかけた。

 

 

「おい、お前」

 

「な、なななんだっ!?言っておくが私は暴力には屈しないぞっっ!!?」

 

「いやしねぇよ…」

 

 

どうやら本気で命を取りに来ていたわけではないらしい、しゃがんでシェフ東洋ロリの顔を覗き込むと明らかな動揺を浮かべ唇をがくがくに震わせながらたじろぎ始めた、必死に俺の事を睨みつけていた目も怯えてか瞳孔が収縮しており、恐怖に瞬きが増えた。

…まさか本当に悪魔と思われているのだろうか、いやまさかそんな。

 

しかし怯えているということはこれ以上こいつに襲われることはまずまず無いだろう。少し安心した俺はため息交じりに肩をおろす。しゃがんだまま小柄な女に呆れの視線をおとすと右髪にだけある真っ赤なおさげが揺れるのを目で追った。

 

…とりあえず聞きたいことは二つ、こいつが『何者なのか』ということと『何故襲ってきたのか』ということ。

確かに俺はどこぞの都市最強に命を狙われている節があるが、別にそれ以外は()()()冒険者していただけで命を狙われるほど恨まれることをした覚えはない。

ましてやそれが豊穣の女主人の店員となると更に謎が深まる、それにウェイター連中とは面識があるとはいえバックヤードの厨房組とはまったくもって関わりあいがないわけで、この赤毛の女とも初対面だ。…あぁそういう意味で前者は『何者』というより名前を聞きたい、先ほどリューから聞いた先に死体運びをしている『どちらか』なのは予想できた。

 

 

「えっと…そうだな、お前名前は――」

 

「――お得意様ぁぁぁぁぁッ!」

 

 

だが聞こうとした矢先扉の方からから黄色い声と床の踏みしめられるギシィッ!という鈍い音が聞こえた、次から次へと息をつく間もない。

同時に知っている猫人が急いで動かした視界の端で既に地面から離陸し、空中で満面の笑みを浮かべながら腕を広げているのが見えた。

 

(あぁこれは跳びかかられるな)

 

最近こういう展開が多いからかどうなるのか頭が状況を理解する前に解った、このままだと部屋の外から助走をつけて走ってきたアーニャが俺の首に抱き着いてきて確実に脊髄が折れて死ぬだろう、確実に。

しかし慣れとは恐ろしいもので、似たような輩に終始肋骨を粉砕され続けた結果抱き着きに対して俺は異様なまでに反射できるようになっていた。

 

…身体が勝手に動く、しゃがんでいた割に俺は自分でも驚くほどの超反射で一歩下がっていた。

 

 

「ふッ」

 

「改めて来てくれてありがとぉ――ニ゛ャ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!?」

 

 

魚雷のような猫が脇の下を通り抜けてそのまま二段ベッドに突っ込んでいった。いったい何が目的で俺に抱き着こうとしてきたかは知らないが、いや多分無目的だと思うのだがアーニャは不幸な事にベッドの木組みにガツンッ!と激しく顔面からぶち当たった…かなり痛そうだ。

 

(あっぶね…)

 

だが躱さなければあの衝撃が俺の首に当たっていたと考えると申し訳ない気持ちなどは全くと言っていいほど湧いてこない、むしろうるさいのでそのまま気絶しておいてほしい。

足元で死にかけのダンゴムシよろしくぴくぴくと震えているアーニャを自然災害的に捉えながら俺は軽く首を回すと腕を組んだ。

 

 

「おっ、お前ぇぇぇアーニャまでもぉぉぉっ!」

 

「いや今のは俺のせいじゃねぇだろ…」

 

 

なのだが赤毛の女がまた吼える、何だか目の敵にされている感じを覚えながらやれやれと首を振ると、猫人を無視して再び女の尋問を開始しようとした。

 

――が、ベッドががたりと揺れる。

 

 

「……ひっ…ひぉっ…お、落ちりゅっ…!?」

 

「はっ?」

 

 

再び頭上、見上げるとベッドのふちから今まさに誰かが落ちようとしていた。

どうやら先ほどアーニャがベッドにぶつかった衝撃でバランスが崩れたらしい、赤毛女と同じ白いコック服がバタバタと慌てながらゆっくりとこちらに傾いてきていた。

 

…しかしアーニャと比べると実に緩慢である、余裕で自分の腕が空いていることを確認した俺は腕を伸ばすととりあえず「それ」を受け止める準備をした。

 

 

「よっと」

 

「キャッ…!?」

 

 

ぼふんと落ちてきたやつを受け止める、平均よりは少し大きめの女の膝裏と背中を支えると軽く身を落として衝撃を緩和させた。

掌に微かな柔らかさを感じながらいわゆる「お姫様だっこ」状態の女のくの字に折れた部分からその顔に視線をずらした。

 

(こいつは…)

 

思わず受け止めてしまったが服といい同じ場所に潜伏していたといいこいつも赤毛女の仲間だろう、何故こちらは襲いかかってこなかったのかは解らないが二人の内の片割れであることは火を見るより明らかだった。

 

目元まで隠れたぱっつん髪、長い黒髪を二つ編みで後ろにおさげにした…何というか図書室で永遠と本を読んでいそうな地味な顔。

しかし赤毛とは対照的に肉体の方は全体的に大きく、手に持っているため流石に全体像こそ解らないが身長は170cmくらい、胸もなかなかのものをお持ちのようだった。

 

…だからといって何かあるわけでもない、ただ淡々と俺は受け止めた黒髪おさげ女の事を間近で見下ろすと尋ねた。

 

 

「大丈夫か?」

 

「あっ…そのっ…ありが…」

 

 

どうやらベッドからの転落でかなり動揺していたようだがしっかりと受け止めたおかげで精神的な復帰も早い、黒髪おさげ女は俺にお姫様だっこされたままゆっくりと俺の顔を見上げると――

 

 

「あ、ありが…っ!?」

 

 

――何故か支えた身体が震え始めた、俺の顔を視認した瞳が激しく収縮すると隠れた前髪の隙間からブンブンと視線が上下左右に動くのが見えた。

 

(…?)

 

いきなりなんだこの変化は、まるで心臓発作でも起こしたかのように息は荒くどんどん顔色が青ざめていく。

そして黒髪おさげ女は震える口をわなわなと開けると漏れるようなほんの小さな声を出した。

 

 

「お、お、お…」

 

「お?」

 

「お、おちょこのひとッ…!?」

 

「…はっ!?」

 

 

その言葉を最後にピーンと身体を硬直させた後おさげ女が顔面蒼白で気絶する…気絶した!?余りにも突然に女の身体が腕の上で脱力する、白目を剥いた女は完全に意識を失っていた。

 

(な…どういう…!?)

 

立ち上がった赤髪が掴みかかってくる、必死な形相で俺の手から気絶したおさげを奪うと心配そうにその顔を覗き込み、キッとまるで俺が気絶させたかのように咎める視線を俺の方に向けてきた。

 

 

「お前なんてことをするんだッ!()()()はなぁ、コハルはなぁ…」

 

 

なんてこと、と言われても俺はおさげを受け止めただけだ。そして気が付いたおさげが俺の顔を見て失神した、別に経絡をついたわけでもなし俺は何もしていないはずだというのに。

 

(いや…待てよ…!?)

 

そもそも赤毛女に襲われた理由が俺には解らない、それにさきほど悪魔とか何とか言っていたし向こうは俺の事を知っているようだ。

つまり俺はいつのまにか悪魔になっていた…!ではなく、悪魔と呼ばれるほどの行いを何か俺でも気がつかないうちにしていたのではなかろうか――

 

 

「――コハルは、男性恐怖症なんだよ!」

 

「あー…知らん」

 

「くっ…覚えてろよっ!いつかお前のオーダー全部の塩と砂糖間違えてやるからなぁ!うわああああああ!!」

 

 

赤毛が涙目で捨て台詞を喚きながら黒おさげを引きずっていく、というか結局俺のせいではなかった。

とはいえ豊穣の女主人の店員には個性的なのが多いとは思っていたが、接客しない厨房組にそんなやつがいるなど思いもしなかった、この店もまだまだ闇が深いらしい。

 

(まぁ…名前は解ったが)

 

赤髪が黒髪を何とか引きずっていくのを呆れと共に片目で見送りながら、俺はやっとどっちがどっちなのか解明できたと肩を落とす。

あの男性恐怖症の黒髪お下げがコハルであるならば、つまりあっちの東洋赤毛がイーミン。名前が解りやっとモヤモヤが解消された、ため息交じりに苦笑を浮かべると凸凹な二人組の名前を覚えておいた。

 

とはいえ結局「なぜ襲われたか」は解っていない、豊穣の女主人の店員に襲われる心当たりは相変わらずなかった。

これから死体運びだというのにまともに遂行できるのか不安に思いながらため息を吐くと…まぁ襲ってきたらまた殴ればいいかと思い直したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 



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 イチニチフツカ2

 

・・・

 

 

 

「よし、これで終わりっと」

 

 

既に人でぎゅうぎゅうに詰まっているベッドの二段目に手に持っていた店員を投げ入れる、中で身体が折り重なったのを確認した俺は飛び降りるようにしてはしごを降りるとぱんぱんと掌をはたいた。

たいした労働でもない、気絶した被爆者達を運び終えたベッドからはうめき声が何重にも立ち昇っており、かなりの負荷によって木枠は軋んでしまっていた。

 

(…まぁミアさんが寝てた時からこんなんだったし大丈夫か)

 

かなり頑丈な造りの木組みをぽんぽんと触った俺は息をふすーと吐き出す、人間詰めのようになったベッドから俺は一歩離れると足に何か当たった。

 

 

「…こいつまだノビてたのか」

 

 

見下ろすと足元にアーニャがうつぶせに気絶していた、10分ほど前ベッドに激突したまま気絶した猫人はいまだ床の上でぐったりとしており何だかよく解らない液体で水たまりをつくっていた。

…バカだし大丈夫かと思っていたが意外と重症なのかもしれない、少し眉を顰めた俺はアーニャの肩近くに膝をつくと若草色の狭い背中を揺すった。

 

 

「おい、起きろアーニャ」

 

「…」

 

 

反応が無い、ただの猫人のようだ。

 

(困ったな…)

 

まぁ別にこのまま床に転がしておいても良いのだが突っ込み方が突っ込み方だったしいつも明るく元気でタフなアーニャが起きないとなると異常事態だし…そう、ほんの少しだけ心配になる。

軽く唇を噛んだ俺はアーニャの肩を持ち上げると、その顔を覗き込み揺すった。

 

 

「おい、アーニャ…!?」

 

「…うーん…むにゃ…ダメにゃお得意様…そこはダメ…にゃぁん……♡」

 

「オラァ!」

 

尻尾(そこ)もダメにゃあああああああああああああッ!!?」

 

 

心配して損した。

無性にイラッときた俺はただ寝ていただけのアーニャの尻尾を思い切り掴む、ボワッと全身の毛を逆立たせたアーニャは全身をばたつかせると逃げるようにして飛び上がった。

 

 

「いきなりにゃにするにゃお得意様!アーニャの尻尾はでりけーとだっていっつも言ってるにゃっ!」

 

「良い夢見たか?」

 

「あれ、そういやお得意様いつ服着たニャ?」

 

「いつ俺が脱いだことになってんだよ…」

 

 

はぁ…とため息をついた俺は立ち上がる、床に座ったアーニャの手を持ちあげると軽い猫人の身体を立ち上がらせた。

何故か嬉しそうな顔で手を放そうとしないアーニャの手を煩わしく振りほどくと扉の方に振り向いた。

 

 

「気絶しているやつは運び終えた、一回リューさんに報告に行くぞ」

 

「にゃ?…解ったにゃあ」

 

 

鳴き声と共に頷いたアーニャを従えながら休憩室から廊下に出る、未だ掃除をしているはずのリューに会いに行くためフロアに向かって一歩進んだ。

 

(…そういえばあいつら見てないな)

 

運び始める前に襲ってきた二人組…いや襲ってきたのは片方だけだが、とりあえずアレ以降見ていない。

方々で倒れている店員達を休憩室に運ぶために店内を動き回ったのだがどこにもいなかったし、もしかするとまた隠れているかもしれなかった。

…というかもう一度襲われかねないのでは、何が目的か解らないがまたデスフロムアバムされるのは勘弁だった。

 

一応天井を注意しながら廊下を歩く、だが相変わらず暗い廊下には灯りのついていない魔石灯が釣り下がっているだけで誰も張り付いてなどいなかった…考えすぎか。

 

 

「…なっ…本気で言ってるのか…!?」

 

「…っ……」

 

「ん…?」

 

 

進行方向から微かな声が聞こえてきた、微妙に遠いため会話は途切れ途切れにしか入ってこないがどうやらリューとあの赤毛、イーミンが話しているようだった。

普通にいるものだ、警戒を解いた俺は何やら険悪な雰囲気に眉をひそめながら歩くと扉を開けてフロアに足を踏み入れた。

 

 

「…やっぱりどう考えても無理だ!考え直せ、リュー!」

 

「っ…解っています。ですが私はどうしても()()()()()()()のです、イーミン」

 

 

…何だか修羅場っぽいものができている。

掃除の終わった店内、シルの弁当が除去されたことによって店の中は普段を取り戻しており漂っていた悪臭も消え去っていた。

 

そしてテーブルの一つを挟んでリューとイーミンが話し合いをしている、丁度俺が少女の事を座らせたテーブルの両脇に二人は腰かけており、興奮した様子のイーミンが机に身を乗り出す度小さな身体が前後に揺れていた。

 

(まぁあの程度ならいいか…ん?)

 

一瞬ぶちのめす思考が来たが別に直接的な被害が出ていないし許せた、赤い髪を揺らしているイーミンの隣を見ればあのコハルという黒髪おさげ女が身を縮めるようにして座り自らのグラスにちょびちょび口をつけていた。

 

(うーん…)

 

何だか険悪な雰囲気だが、別に俺とは関係なさそうだしここで臆していては何も始まらない。

背中からアーニャが飛び出そうとしてくるのを無視しながら俺は歩き出すと口論している二人に近づく、ため息を吐くとリューの傍に立ちその顔を覗き込んだ。

 

 

「リューさん、死t…気絶している奴らを運び終えたんだが何か他に手伝えることはあるか?」

 

「っ…あぁリョナさん、ありがとうございます。他にお願いできることは…今はありませんね、申し訳ない」

 

「チッ…」

 

 

少し難し気に眉を寄せたリューさんが瞬きをしたと同時に俺の顔を見たイーミンが首を斬るジェスチャーをしながら舌打ちしてきた、殴って良いのだろうか。

 

 

「…ひゅぉ…!?」

 

「ん?」

 

 

思わずイラっときて拳を握りしめイーミンを見ると、何やら風船の抜けたような音がした。

 

(あぁ…なるほど)

 

そのまま視線を横にずらすとコハルが顔を青くしてがくがくと震えながら俺の事を見上げている、その様はなんというか運悪く肉食獣に鉢合わせてしまった草食獣のようで…理解不能だった。

確か男性恐怖症といったか、さっきキャッチした時に気絶してから意識は取り戻せたようだが向こうの席に座ったコハルはそれはもう尋常でない震え方をしており、俺の視線に気が付くとビクンと身体を震わせイーミンの影に飛び込むようにして隠れてしまった。

 

(うーん…)

 

まぁ別に特段仲良くしたいわけでもないしコハルに特別な興味もそこまでないのだが、何もしてないのに怖がられるのはちょっと気になる。

だがまた気絶されても面倒だし、あそこまでの恐怖症だともう手出しのしようが――

 

 

「…なにジロジロ見てるんだ、この変態野郎。もしコハルに手を出そうとしたら容赦しないからな!」

 

「あぁ?」

 

 

気になって見過ぎた、嫌悪感を丸出しにしたイーミンに睨まれ視線を肩をいからせた赤毛に戻すと本気の殺気を出しかけた。

…だが立ち位置的に机の上に座った少女が近すぎる、それに下手をするとリューさんに制圧されかねないし結果的に出さなくてよかった。

 

小さい身体のくせにやけに尊大な態度のイーミンとその狭い背中の後ろでブルブルと震えている目元まで髪で隠れたコハルにため息を吐いた俺は少女に目を向ける。

もうすぐ昼時だ、いつもならばお昼ご飯の時間だしそろそろお粥を食べさせてあげたい。

 

(…)

 

どうせ今は手伝えることがないのなら少し考えがある、しかし協力してくれるかどうか…いや別に一人でも良いのだが。

 

 

「どうしたにゃお得意様?」

 

「ん?あぁ実は――」

 

 

するりと片腕に擦り寄ってきたアーニャに考えていたことを耳打ちする。

身長差に背伸びして頷いていた猫人は一瞬首を傾げると俺の顔を見て笑った。

 

 

「――別に勝手にやってもいいんじゃにゃい?」

 

「いや流石にリューさんに言った方が…」

 

「そうと決まったら行くニャー!」

 

「ちょっ、おまっ」

 

 

こいつ結構力がある、グイグイと引っ張られ始めた俺は話を聞かないアーニャと共に元来た道を戻り始めた。

 

バックヤードの扉に消えた猫人と高い黒コートの背中にイーミンはフンと鼻を鳴らす、不機嫌気に顔をしかめると再び腕をテーブルにつき身を乗り出した。

 

 

「おいリュー、あの男いつまで置いておくつもりなんだ?あんな部外者何するか解らないし、何より()()悪名高いリョナだろう?…私は即刻叩き出して塩でも撒くべきだと思うけどね」

 

「イーミン、リョナさんは決して噂通りの人ではない。あなたの()()()恨みたくなる気持ちも解らなくないし彼に全く責任が無いとは言わないが、彼に悪意があったわけではない…それに現にこうして手助けをしてもらっている、信頼に足る方だと少なくとも私はそう思っていますが」

 

「む…ふん、どうだか」

 

 

まっすぐなリューの視線にイーミンは若干身体を引くとどさりと椅子に座り直す、だがあくまで鼻から息を吐きだすとテーブルの上で指を組んでリューを見た。

 

 

「――まぁ良い話を元に戻そう、リュー。()()()()()()()と言うが…結論から言って、不可能だ」

 

「それは…解っています、しかしミア母さんならば今この状況でも営業を続けると言うはずです」

 

「…まぁミア母さんなら言うだろうね。だが現実的に考えて無理だっていうのはリューにも解っているだろ?」

 

「…」

 

 

イーミンの言葉に俯いたリューが微かに頷く、説得というにはあまりにやり取りが短すぎたが満足げに息をついたイーミンは腕を組むとどっしりと椅子に座り直した。

…が、その肩がちょんちょんとつつかれる。首を傾げたイーミンは振り返ると今まで背中に隠れていたコハルを見た。

 

 

「…ねぇイーミンちゃん、あの男の人行った…?」

 

「うん、行ったよ」

 

「そっかぁ…!…良かったぁ…!」

 

 

イーミンが頷くとコハルはほっと胸を撫でおろす、目元まで隠れたぱっつん髪の下で安堵の笑みを浮かべるとよいしょといった感じで自らの椅子に戻ると長いおさげを垂らした。

そして一度自らのグラスに口をつけたコハルはこくりと喉を鳴らすと、背中を丸め両手に丸いグラスを持ったままイーミンの事を見上げた。

 

 

「…ところでさイーミンちゃん、さっきから不可能不可能言ってたけど、何が不可能なの…?」

 

「え、話聞いてなかったのかい?」

 

「いや…聞いてはいたんだけど、全然…」

 

「そっか。…って言っても別に単純だよ?問題は単純に――『人手が足りない』」

 

 

そう言うとイーミンは両手で2本ずつ指をたてる、テーブルに置いたそれぞれの手を二人で見ながら説明を始めた。

 

 

「まず厨房だが、生き残ったのは私とコハルだけだ。今日は団体様の予約はないけど通常営業するにしても二人じゃいつもの注文量を流石に捌ききれない」

 

「うん…ちょっと大変だね…」

 

 

たどたどしくコハルが頷く。

だろ?と苦笑交じりイーミンは返すともう反対の手を振った。

 

 

「で次にフロア。こっちも生き残ったのは二人だけ、ウェイターはリューとアーニャしかいない。…リュー、二人だけでフロアを回すことは可能なのか?」

 

「…いえ、難しいですね、オーダーを受けることから配膳、片づけ、会計など考えると4人…いえ、かなり大変にはなると思いますが何とか3人で――」

 

「――いや、それだけじゃあないだろ?(ドリンク)はどうするんだ?」

 

「カウンター、ですか…」

 

 

誰も立っていないカウンターを見る、ミア母さんの巨躯があったその場所はいつにもましてがらんとしており絶対の存在がいないことにリューは強い虚無感を感じ唇を噛んだ。

視線を上げる、カウンターの背中の棚の中には各種酒が並んでおり綺麗なグラス達の上で極彩色の点がいくつも揺れ動いていた。

 

カウンターの主な仕事は酒の用意、注文にあった酒を棚から出しグラスにいれてウェイターに渡すこと。だが厨房にも直接繋がっているカウンターは料理をウェイターに仲介する役割も担っており、店を回すという点においてまさに心臓部であると言える。

しかしそれができたミア母さんは現在倒れており、激務では無いし特別な技能も必要でこそ無いが…人手が足りない。

 

 

「…最低でも一人は必要ですね」

 

「うん、だから必要なのは4人…いや厨房とはアクセスが早いから兼任できるかもしれないし厨房3人にしておこうか、かなり無理があるけどね」

 

 

頷いたイーミンは両手の指を一本ずつ増やす、合計6本の指を見つめた後背筋を伸ばすとまっすぐにリューを見ながら口を開いた。

 

 

「…つまり()()厨房とフロアに1人ずつたりない。補充するには外からの増援っていう手しかないが、よほど器用か場慣れしている奴でもない限り即日バイトなんて邪魔なだけだ。かといってそんな暇人どこから見つけてくる?」

 

「…」

 

「改めて言うぞリュー、無理だ。人手は足りないし解決策もない、ミア母さんたちが復活するまで店は()()()()()しか…ないんだ」

 

「…」

 

 

リューの瞳が閉じられる、彼女もそのどうしようもない事実を理解していた。

腕を組んだイーミンは困った顔を浮かべると落ち込んだリューを見た。

 

 

「別に私は意地悪を言いたいわけじゃない、これは…仕方ないことだろ。あんなことがあって店を続けるなんて存外無理な話だし、きっとミア母さんも解ってくれるよ」

 

「……そう…ですね。仕方ないですよね…」

 

「うん、なら今日はもう店を閉めて…あの男も、追い返そう――」

 

 

頷いたリューにイーミンは椅子からぴょんと立ち上がる、入り口のかけ札をひっくり返すために足を向けたのだった。

 

 

「――お待たせにゃぁーーーー!」

 

「なっ…!?」

 

 

元気な声と共にアーニャがバンと勢いよく机の上にお盆を乗せる。

一度跳ねた盆の上には陶器でできた丸い器が4つ置かれており、その脇には鉄製の急須が置かれていた。

 

そしてその中身は――銀色の華、丸く綺麗に並べられた銀鱗の付いた肉厚な切り身、薬味に散りばめられた長ネギの緑とまばらな白ゴマ、微かに漂う醬油の香り、そこにはとても美味しそうな『海鮮丼』が乗っていたのだった。

 

 

「はいどーぞにゃあ~」

 

 

アーニャは楽し気に盆上の海鮮丼を座った3人の前に置いていく、それぞれの前に置かれた美しく盛りつけられた丼の中身を覗き込んだ各人はその出来栄えに目を見開く。

バンとイーミンは机を叩いて体勢をたて直すとキッとした視線をアーニャに向ける、鋭いその視線には困惑が混じっていた。

 

 

「あ、アーニャ、これはいったいどういうことだ!?お前じゃこれは…いやこんな出来の良い料理誰だって数分で作れるはずないだろう!?」

 

「んにゃ?あー、にゃんか『作りすぎたからおすそ分け』って言ってたにゃ!…うーん美味しそうにゃぁ~」

 

 

答えながら自分の丼を掴んだアーニャは匂いを嗅ぎながら歩くとリューの隣の席に腰かける、一度丼を置きぱんと手を合わせると「いただきますにゃ!」と能天気な声を漏らしたのち早速箸で食べ始めた。

 

身を乗り出したイーミンはまさかと刹那逡巡すると、続けざまにアーニャに詰めより吼える。

 

 

「誰が!?」

 

「んごふっ…お得意様にゃけど?」

 

「――あ、あいつに厨房を使わせたのかッ!!?」

 

「え、別に減るもんじゃねーしいいにゃん?」

 

「おっ…おまえぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 

激昂したイーミンは机の上に飛び乗るとアーニャに跳びかかる、そしてその細い首にチョークスリーパーをかけるがアーニャの丼を食べる手が止まることは無かった。

話を聞いていたリューは海鮮丼に視線を戻す、綺麗な花形に盛り付けられた丼は美しくその出来栄えはかなりの技術があることを思わせ、同時に冷静な彼女であってもその味に興味をそそられた。

アーニャと同じように箸をとったリューは軽く指を動かし持つ、暫し考えるように海鮮丼を見つめると箸先で艶やかで甘そうな米を掻き分けようとした。

 

…が、カウンター横の上に開くタイプのスライドドアがパタンと開かれるとそこから片手に小鉢を持ったリョナが出てきた。

 

 

「…ふー」

 

 

俺は片手に持った少女用のミニ海鮮丼を見る、小さな器に多めに盛ったそれは固形物が少し多いがどれも几帳面に小さく切られており噛まなくても食べられるように作られていた…というか作った。

もう片方の手に自分の大きめの器を持った俺はカウンターから出る、両手にそれぞれ違う重さを感じながら四人の方を見ると器を持ったまま固まっているリューと視線が合った。

 

(うーん…)

 

やっぱり勝手に厨房を使ったのはまずかったろうか、アーニャに流されて色々と使ってしまったがこういう状況にそういう自由行動はよくなかったかもしれない。

四人の方に歩きながら俺は少し目を細める、四人の座った机の隣のテーブルの上に両手に持っていたどんぶりをコトリと置くと四人の近くに数歩で近づいた。

 

 

「あー…その、リューさん」

 

「リョナさん、これはあなたが作ったのですか?」

 

「え、まぁ、はい」

 

 

謝ろうとしたのだが軽く自ら掲げた海鮮丼を指さしたリューに遮られる、まっすぐに見つめてくるサファイア色の瞳に気圧されつつ俺は彼女の持った銀色の切り身魚の海鮮丼をちらりと見ると頷いた。

 

 

「…なるほど、これを。そうですか」

 

「ん、まぁそうなんですがそのために厨房を勝手にお借りしたと言いますか」

 

「はい?…いえ、別にその程度構いませんが」

 

「――いいやっ!構うねっ!!」

 

 

首を傾げたリューに安堵するのも束の間アーニャの首を絞めていたイーミンが再度跳びあがる、敵愾心丸出しで俺の事を睨みつけアーニャのことを踏み台にすると机の上に登りカツカツと俺の方に肩をいからせながら歩いてきた、その様に流石のリューも呆れのため息を漏らし、再び箸をとると自分の海鮮丼を食べ始めた。

 

目の前に立ったイーミンは俺のことをわずかに見下ろす、机の上でふんぞり返るとまるでゴミでも見るかのように目を細め指さしてきた。

 

 

「調子に乗るなよお前、手伝いだかなんだか知らないが私の目の黒いうちは豊穣の女主人での勝手は許さないからな!」

 

「はぁ」

 

 

喚いているイーミンに曖昧に頷きつつ俺は隣の少女を抱き上げると怒り続けている赤毛を無視して振り返ると海鮮丼を置いておいたテーブルの椅子の一つに腰かけ少女を膝の上に横向きで乗せる。

そしていつも通り軽く少女のおでこを押して上にむかせると、箸で掬った小鉢の中の海鮮丼を食べさせ始めた。

 

 

「――ッ話はまだ終わって…!」

 

「…イーミンちゃん、行儀悪いよ…」

 

「…解ってる!」

 

 

見上げたコハルにイーミンは腹立たしげに机から跳び降りると自分の椅子に座り直す、腕を組むとチラリと器の中に入った銀色の刺身を見て眉を顰めた。

 

(……まさか)

 

首を振るともう一度少女にご飯を食べさせている俺の事を睨みつけ、隣に座ったコハルに視線を戻した。

 

 

「って食べてる!?」

 

「へ…え、うん…」

 

 

背中を丸めて静かに箸を動かしていたコハルに絶対食べるものかと思っていたイーミンは愕然と身を引く、てっきり同じ考えだと思っていたぶん驚きは大きく強張らせていた身体から力が抜けた。

 

 

「…おいしいよ?」

 

「そんなこと聞いてない!何で食べちゃうんだよ!?」

 

「ご、ごめん…!?…で、で、でも…美味しそうだなーって…」

 

 

確かにリョナの作った海鮮丼は美味しそうに出来ていた、刺身は実に綺麗に盛り付けられているし微かに漂う醤油の香りなどは非常に食欲を誘う――だからこそイーミンは腹立たしく思っていた。

 

 

「だ、第一だな!あいつは私たちの厨房を勝手に使ったんだぞ!?そんな奴コハルは許せるのか!!?」

 

「…まず厨房はみんなのものだと思うんだけど…それに、美味しそうに出来てるし…多少はいいんじゃないかな…ほら、イーミンちゃんも…」

 

「べ、別に全然たいしたことないし…!」

 

 

ゆっくりとコハルに見せられる椀から目を逸らしたイーミンは俯く、自分でも解るほど怒りという感情が薄れていってしまうのが感じ取れた。

 

(っ…それにあまりに時間が短すぎるじゃないか!)

 

リョナとアーニャが消えてからリューと話していたのは精々5分ほど、その合間にこれほどのものを盛り付けるなどどれほど手際が良ければ可能なのかイーミンには解らなかった。

 

無心で食べていたアーニャがぴたりと止まり尻尾をぴんと固まらせる、どうやら喉にものを詰まらせたらしく自らの胸を叩くと軽く咳払いして息継ぎした。

 

 

「ぷはあ…ホントうめーにゃコレ!店で出したら金とれそーにゃん!」

 

「くっ、魂まで売ったかバカ猫め…!」

 

「にゃん?…よくわかんねーけど文句は食べてから言うにゃ」

 

「むぅっ…!?」

 

 

アーニャの言葉がイーミンの料理人としてのプライドを著しく刺激する。

確かに自分の料理が食べられもせずに否定されるなど考えただけで虫唾が走る、それでリョナに対する嫌悪感が拭われるわけではないがどんぶりは食べてやろうという気になった。

…そこに興味が一ミリもないのかと言われれば疑問なのだが。

 

 

「は、はんっ!確かに盛り付けは綺麗なようだが、味の方が良いわけがないだろう!どうせ時間通りの手抜きに決まって…!」

 

 

捨て台詞のようなものを吐きながら座り直したイーミンは箸を掴む。自分の器をぐいと引き寄せ一度美しく盛りつけられた海鮮丼を覗き込むとその中に箸先をさし入れ、刺身に米にくるむようにして一口取り上げた。

肉厚な切り身を微かに潤す醤油の香り、灯りに反射する鱗はざらざらとした質感をしており、艶のあるお米は暖かな湯気をたてていた。

 

ごくりと生唾を飲み込んだイーミンは震える手で箸を口に運ぶ、目前の美味しそうな一掴みを睨みつけるように見ると意を決しぱくりと食べた。

 

 

「うッ…!?」

 

「どうにゃ?」

 

 

目を白黒とさせたイーミンにアーニャが尋ねる、一口入れたイーミンはそのまま身体を折り曲げると床を向いて咀嚼した。

して、その味の感想は――!?

 

(う、うまい!…何でここまで美味しくなるんだ…!?)

 

見た目通りの美食、緻密な味わい、丁寧に調理された食材たちが繰り出す味の波動にイーミンは自然な笑みを浮かべる。

不味いわけがなかった、刺身の柔らかで食べ応えのある肉感、舌をぴりぴりと刺す醤油の優しい鼻に後味を残す辛み、粒粒とした米の暖かく甘い味、刻まれたネギが舌の上で確かな存在感を発し、程よいアクセントと調和を全体に生み出していた。

 

美味い、悔しいほどにおいしい。

たった一口に強い敗北感を覚えてしまったイーミンは歯を食いしばりながら箸を握りしめると今一度リョナを見る…少女にご飯を食べさせている男は別になんてことはなさそうで、更にイーミンの感情を逆なでした。

 

(そ、それでも…言うんだ、言ってやるんだ!まずいって…!)

 

あそこまで言っておいて今更美味しいなんて言えない、いくら何でもそれは恥ずかしすぎる。

顔をあげたイーミンは息を浅く吸いこむ、一口だけ食した海鮮丼を見下ろし汗を流しながら『まずい』という形に必死に口を動かした。

 

 

「ま…ま…まぁまぁ、かなっ」

 

 

どうしようもない美味さを感じてしまった舌の最低限の譲歩のようなものだった。

精一杯視線をずらし二口目の誘惑から目を逸らしたイーミンは震える手で箸を机の上に置く。

確かに美味しい、だがそれはまだ我慢ができるレベルで――

 

 

「えーまぁまぁかにゃ?だったら残りアーニャが食べてもいいにゃん?イーミンは好きなの自分で作ればいいにゃ!」

 

「ま、待て!!?…はっ!?」

 

 

アーニャが手を伸ばしたのを見て慌てたイーミンは自らの器を持ち上げ身体ごと逃げる、そして明らかに逃げすぎな自分の姿を鑑みて顔をボッと赤らめるとどんぶりを持ったままアーニャの事を睨みつけ指さした。

 

 

「そっ、そもそもお前まだ半分残ってるじゃないか!?」

 

「んにゃ?あー確かに…じゃあこれ食べきったらそれくれにゃ?」

 

「そういう問題じゃ…!」

 

 

半分になった海鮮丼の器を元気よく見せられるがイーミンは小刻みに首を横に振る。

しかしイーミンの言葉に聞く耳持たず、早速アーニャは残った自分の分を食べ始めようと――

 

 

「――アーニャ、ステイ」

 

「にゃぅ?」

 

 

俺が制止するとアーニャはピタリと動きを止める、俺は立ち上がり少女を一人椅子に座らせたまま少女用の小鉢を持つと四人のテーブルの傍に立った。

…瞬間コハルが顔を逸らしたのが見えた。

 

 

「どうしたにゃお得意様?」

 

「ん、半分なんだろ?今から面白いものを見せてやるよ」

 

 

三人ほどの視線を感じながら俺は未だ盆の上に乗っていた鉄製の『急須』を手に取る、円形の細い持ち手に軽い暖かさを感じながら重いそれを持ち上げると自分の方に引き寄せ、かたりと置いた小鉢の中に少しだけ残ったミニ海鮮丼へ渋い錆色をした注ぎ口を向けた。

 

――ほわりと、ほうじ茶の香ばしい香りが広がる。

 

 

「茶漬けだ」

 

 

湯気を立てる透明なこげ茶色の液体がとぷとぷと注がれる。

心をくすぐられるような匂いを拡散させながらほうじ茶は落ちていくと広げられた刺身の上で踊り染み込んだ、薬味のネギやゴマをさらいながら食べ終えた後の空白に流れ込むと小さな対流を引き起こし、まとまりきらなかったお米が一粒ずつ浮かんでは回りながら光った。

 

数秒後、そこにはほうじ茶に浸った『海鮮茶漬け』があった。

湯気をたて、香りを変えたそれは先ほどまでのどんぶりとは全くの別物であり、一線を画す存在感を発していた。

その場にいた全ての者の鼻腔がくすぐられる、顔を背けていたコハルでさえも半分ほうじ茶に浸った茶漬けに視線をやり目を丸くしていた。

 

 

「ご自由に」

 

 

それだけ告げるとリョナは小鉢を手に帰っていく、再び膝の上に少女を乗せると茶漬けをふーふーと冷ましながら少女を食べさせ始めた。

 

…後に残ったとんでもないものを見せられた四人は静寂を保っていた。

 

 

「…まずは、アーニャが行くニャ」

 

 

まぁそれはとても自然な流れだろう、珍しく緊張の面持ちで猫人はほうじ茶の入った鉄瓶を手に取る。

そしてみなの視線が集中するなか自らの器の中にほうじ茶をこぽこぽと注ぎ込むと、ゆっくりと箸を使って口をつけた。

 

 

「…」

 

「あ、アーニャ?」

 

 

ずずずと無言で器を傾ける猫人にイーミンが恐る恐る声をかける、しかしいつもならバカ元気よく返事を返すはずのアーニャは神妙な面持ちで静かに茶漬けを食しており、その様は借りてきた猫のように黙々と箸を動かしていた。

 

(あのアーニャさえ黙らせるだと…!?)

 

がっつかずに静かに咀嚼しているアーニャにイーミンは目を見開く。食事中であっても、いやいかなる時であっても静かになることのないあの猫人が穏やかな表情を浮かべたまま食事と言うものを楽しんでおり、もはや何か悟ったような雰囲気さえ醸し出していた。

 

 

「では次は私が」

 

 

特に臆することもなくスッと手を伸ばしたリューが急須を手に取る、6割ほど残った自らの器にほうじ茶を注ぎ込むと再び箸を掴み軽く箸先で一口涼し気にすするように食べた。

器が唇から離れる、目を閉じ数度咀嚼したリューはぴんと張った背筋を軽く上下させながら喉をならすと、ほうと暖かい湯気を短く吐きながら微笑みを浮かべて見せた。

 

 

「なるほど…これは…」

 

 

クールの権化のようなリューの笑みなど見ようと思って見れるものではない、微かに口角を持ちあげながら彼女は器を持ち上げ二口目を食べこくりと飲み込むと、がくがくと震えながらこちらを見ているイーミンに視線を向けた。

 

 

「…あなたもいかがですか?」

 

「わ、私はっ…!」

 

 

ゴクリ、とイーミンは涎を飲み込む。

リューに向けた視線を海鮮丼に移し、そしてほうじ茶の入った湯気のたつ急須を瞳孔を開き見ると、抗うようにフルフルと震えた。

 

しかし…芳醇な茶の匂いが唾液腺を緩めさせる、先ほど一口食べた海鮮丼の味が忘れられず、それにあのお茶の味と香りが加わったらと考えるとお腹が締め付けられるような思いだった。

 

 

「う、く…おおおおおおおおおっ!」

 

 

もはや我慢の限界、どうすればいいのかも解らずイーミンはやけになるとリューの前に置いてあった急須を掴み自らの海鮮丼にぶちまけた。

ほうじ茶が器の中に満ちていく、良い薫りと共に薬味が浮かぶと刺身の小島を残して海鮮茶漬けが出来上がった。

 

 

「ッ…!」

 

 

前後不覚に近い渇望に突き動かされイーミンは机の上から奪うように箸を掴み取る、たぷんたぷんと揺れるお茶漬けを器で掴むと、飲み込むようにして大きく一口ずずずとすすった。

 

――口の中で海鮮と香ばしい醤油の塩、濃く甘いほうじ茶の風味が混ざり合う。

 

少し熱めのお茶が舌を覆う、流れる白米が味覚を撫でると後から来た塩気が擦りつけるように細かくはじけた。

刺身の滑らかな感触が歯をくすぐり、噛み締めた米の甘さが解放されると強い多幸感が口内に溢れた。

 

暫くの咀嚼、もごもごと口を動かしていたイーミンは一息にごくりと喉を動かし飲み込むと熱い息を吐きだした。

 

 

「ま、ま、ま…!」

 

 

肩が震えた、深刻な面持ちでイーミンは顔を伏せると箸ごと拳を握る。

微かに口を開きながら声を漏らすと勢いよく立ち上がり、器を持ち上げ、涙目で笑っていた。

 

 

「まっ…まずいわけがないじゃないかああああああああっ!?うまぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」

 

 

優しいまでに美味しい、プライドなどかなぐり捨ててイーミンは美味さに泣く。

食べる前に抱いていた嫌悪感を思わず忘れるほどイーミンはどうしようもない幸せを感じると勢いよく座り二口目をかっ喰らい始めた。

 

端的に言って堕ちたイーミンを尻目にリューは再び茶漬けに口をつける、温かいそれをゆっくりとすすり感嘆の息を漏らすとコトリと器を机に戻し、隣のテーブルで少女を膝上に乗せたリョナに身体を向け直した。

 

 

「…リョナさん」

 

「ん?」

 

 

リューに声をかけられる、少女にご飯を食べさえ終え自分の分に手をつけようかと思っていた俺は振り向くと珍しいことに微笑みを浮かべるリューを見た。

何だろうか、いつも凛とした彼女にしては上機嫌のようだしお褒めの言葉だろうか。

 

 

「もしよろしければなのですが、今日だけでも構いませんので――()()で働いていただけませんか?」

 

「…あ?あー…うん?」

 

 

お前は何を言ってるんだ、働くということはつまり…働くということか。

 

(あー…)

 

そもそも手助けに来たのは人手が足りないのが理由であって、この後も手伝いをすること自体は何らおかしい話ではない。

ただ厨房で働くとなるとかなり予想外だ、別に出来ないとかそういうわけでは無いのだが単純にその可能性を考慮していなかった。

 

(まぁ…別に良いか)

 

厨房で働くということはコックをするということになる、家庭レベルの料理しかしたことはないが知識はあるしレシピさえあれば宮廷料理だろうとなんだろうと作れる自信はあった。

少し前後を考えた俺はリューを見上げる、軽く肩を竦めると少女の事を撫でながら綺麗な瞳を見返した、求められているというのならそれに応えるぐらいの甲斐性はあった。

 

 

「…俺で良ければ?」

 

「っ!…本当ですか、ありがとうございますリョナさん」

 

「なっ…本気かリュー!?」

 

 

笑みを浮かべたリューにイーミンは目を見開く、しっかりとその手には茶漬けが握られており、片手に持った箸でピッと俺の事を指してきた…別に不快とも思わないが行儀が悪い。

 

 

「こんな奴を豊穣の女主人で働かせるなんて!そ、それに――厨房だとっ!?…ありえない、私は反対だっ、大反対だっ!!」

 

「…イーミン、こんな奴とは言いますが今あなたが持っているそれは彼が作ったものです、腕は確かだと思いますが?」

 

「た、確かにこれはそうだが…!」

 

 

椀を持つ手に力がこもる、素晴らしい一杯の巧さは素でイーミンを惹きつけるものがあり、料理時間や味、盛り付けの綺麗さなどからリョナの料理人としての腕が相当であると彼女に知らしめていた。

まごうことなき即戦力、厨房の手伝いを否定するだけの材料をイーミンは持ち合わせていなかった。

 

(なっ、何かないのか…!?)

 

歯噛みしたイーミンは何か考えようと必死になって頭を回す、苦しそうな表情でうんうん唸り始め、何か気が付いたようで目を見開くと指を一本たててみせた。

 

 

「そっそれに!まだ()()()に足りてないじゃないか!!どのみちあと一人フロアにいなければもう今日は店は閉めるしかないだろう!?」

 

「それは、そうですが…」

 

 

最低限必要な人数は6人、もし仮にリョナが加わり百人力だったとしてもそれは厨房にであってフロアの人数不足は変わらない…実は分身の術が使えるなどの夢機能はリョナに備わっていないのだから。

 

今度はリューが顔を伏せた、営業を続けたい彼女にとってリョナが承諾してくれたことは非常にありがたいことではあったが、このまま人数が足りなければそれも無意味に成り下がってしまう。

 

 

「あ、あの…イーミンちゃん…今大丈夫?」

 

「な、なんだコハル?」

 

 

深く考え始めたリューの前、影が薄かったがイーミンのすぐ後にお湯を注ぎ茶漬けにして食べていたコハルがもじもじとイーミンの方を向く。

首を傾げたイーミンにコハルは指の先を擦り合わせながら前髪で隠れた目元の下で視線を上げると小さく口を開けた。

 

 

 

 

 

「…シルちゃんは?」

 

「「あっ」」

 

 

 

 

 

完全に忘れていた二人の声が揃う。

顔を覆ったイーミンと対照的に凛とした顔のまま元気よく立ち上がったリューがコハルの事を指さした。

 

 

「それですコハルよく思い出してくれました!これで6人、イーミンも文句はありませんねっ!?」

 

「もういいよそれで…」

 

「では早速行動を開始します!まずアーニャは食べ終わったらで構いませんのでみんなのぶんの食器を下げてください!」

 

「りょーかいニャ!」

 

「次にイーミンとコハルは罪人(シル)の解放!事情を説明し、その場で逃げようとしたらその時はお任せします!」

 

「「…了解……」」

 

「最後にリョナさん!()()を支給します、私と共に更衣室へ!」

 

「…ぷは。ん、了解」

 

 

最後に指さされた俺は飲みほした茶漬けの器をテーブル上にカタリと戻す、少女の事を抱き上げ立ち上がるとのろのろと立ち上がるイーミンとコハルを尻目に、颯爽と歩き始めるリューの後を追い始めるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ふぅむ…?」

 

 

姿見を見る、そこにはスタンダードなコック服に身を包んだ自分の姿があった。

普段は黒いコートばかり着ているから白い服は多少違和感があるが、まぁ普通の制服だし着心地も悪くない。

 

(まさか俺がこういう手伝いをすることになるとはなぁ…)

 

料理人のアルバイト、しかもテロ(笑)が起きてかなり逆境な豊穣の女主人で。敵対している奴がいたり俺の事を怖がっている奴がいたりとちょっと面倒くさい気もするが、何よりリューさんの頼みだしやらねば。

軽く前髪を弄った俺は振り返る、遮っていたカーテンに手をかけるとシャーと音を鳴らして待っているはずのリューに声をかけた。

 

 

「待たせましたリューさぁ―――…んっ?」

 

「…はっ」

 

 

狭い縦長の更衣室、置かれたベンチには少女が銀髪を広げてちょこんと座っており、その前に膝を曲げてしゃがみこんだリューさんが俯いた少女の顔を覗き込むようにして少女の獣耳をちょんちょんと触っていた。

 

(可愛いかよ…)

 

俺が着替えている合間だけ少女の事をリューさんに預けていたのだが、あのケモ耳は恐らく思わず触りたくなる魔性のようなものを内包している、見ているうちにあのリューさんでさえ触りたくなってしまったのだろう。

 

声をかけられ俺の存在に気がついたリューは短く息を発してぴんと立ち上がる。若干顔を逸らしながら背筋を正し一度コホンと咳払いすると、振り返りいつも通りの凛とした雰囲気で事もなげに俺のことを見上げてきた。

 

 

「着替え終わりましたかリョナさん、サイズは…丁度良いようですね」

 

「おう」

 

 

リューが手を伸ばす、軽く背伸びして俺の肩に撫でるように触れると肩口の位置を直した。

ささやかなボディタッチの後に白く柔らかな掌が離れる、一瞬近くなった顔が離れると微かに果実の甘い匂いが後を引いた。

 

 

「似合ってます?」

 

「はい、とても」

 

 

頷いたリューは踵をおろし一歩離れると確かめるように俺の全身を見回し最後に不思議そうに俺の顔を見上げ、大きくひと呼吸ぶん見つめてくる。

そしてもう一度踵を上げトンとすぐに戻すと振り返り、背中を向けてしまった。

 

 

「…では早速厨房へ、お伝えし忘れていましたがこの後すぐに――」

 

「――着替え終わったにゃ?」

 

 

ふとアーニャが更衣室の中を覗き込んでくる、興味津々といった様子で人懐っこい笑みを浮かべると俺の姿に気がつき歩み寄ってきた。

目の前に立ったアーニャは俺の全身を舐めるようにつま先から頭まで眺め、目を輝かせた。

 

 

「…おー、にゃんか新鮮にゃ!お得意様こういう服もよく似合ってるにゃ!!」

 

「ん、まぁ普通にな?」

 

 

そう言ってから抱き着こうとしてくる猫人を弾きつつ。

ぐぐぐと頬を押さえられたままアーニャは俺の白衣を見ると尻尾をくるんと回してリューに視線をやった。

 

 

「でもよく男物のコック服なんかあったにゃね、しかもサイズぴったりにゃ!」

 

「そうですね、私も男性の従業員がいたという話は聞いたことがありません」

 

 

確かに女しかいない豊穣の女主人で男物の制服があるのは異質だ、それに180以上ある俺にサイズが合っているとなると誰用なのか解らなくなる…別に誰のであろうと気にしないが。

 

 

「…ところでアーニャ、イーミンたちは大丈夫でしたか?」

 

「あーお盆片づけた後に見に行ったけど追いかけっこしてたにゃ、たぶんもう捕まえたとは思うにゃ」

 

「…シル」

 

 

呆れながらリューはやれやれと首を振る、どうやらあのテロリスト逃走を図ったらしい。

 

 

「まぁいいリョナさん、早速厨房に向かってください。何をすればいいかはイーミンに聞いていただければ解るかと」

 

「え、アイツですか…?」

 

「彼女も悪気があるわけでは…ない…はずなのですが……」

 

 

敵対されている相手に教えて貰うとか普通に考えてよろしくない。

…のだが極めて人員不足な現状、もう一人は喋るだけで気絶しかねない奴だし、これから一緒に働く以上仲の改善を図るべきだ、ただでさえ何故襲われるのか解らないのだから。

 

 

「…まぁ何とかしますわ」

 

「お手数かけます。では後ほど、アーニャも行きますよ」

 

「解ったにゃ、じゃあお得意様また後でにゃあ~」

 

 

ぺこりと頭をさげたリューと手を振ったアーニャが去っていく、更衣室から二人が出ていくのを俺は見送ると少女の事を抱き上げた。

 

(さて、と…)

 

厨房に行くより先に少女の事をどうするか考えなければならない、恐らく激務だろうしできれば目の届く範囲に置いておきたいが厨房にそんな余裕はないように見えた。

腕の中に抱いた少女を見る、小さく軽い身体を愛おしく撫でながら俺は少し考えると「休憩室に置いておこう」という結論に至った。

 

更衣室から外に出る、暗い廊下に出ると正面に厨房を見ながら俺はすぐ隣の休憩室の扉を開けた。

 

 

「…ここでいいかな」

 

 

端にあったクッション付きの椅子の上に少女を座らせる、目を離すのは怖いが基本動かないしここであれば行方不明になることも無いだろう。

背もたれに少女の背中がおさまったのを確認した俺は背筋を伸ばす、ぽんぽんとその頭を撫でると微笑み少し不安ではあるが休憩室を後にした。

 

 

「ッ…お前!」

 

「…ん?」

 

 

廊下に出ると丁度イーミンと鉢合わせになった…いやよく見るとイーミンの小さな背中の後ろにコハルが隠れるようにしている、二人組がいた。

俺の姿を認識した瞬間に怒気を顔に出したイーミンは目を細めると手を伸ばす、胸倉を掴もうとしたようだが身長差で届かない事に気が付くと服の腹辺りを潰してきた。

 

 

「…まず!…だな…その…」

 

 

少し考えるように忌々し気にイーミンは俺の顔を見上げる、一度顔を背けると悔し気な表情で俺の事を睨みつけ服を掴む手に力を込めた。

 

 

「…さっきの料理は、おいしかった」

 

「あぁ?…あー、そりゃどうも」

 

 

喧嘩を売られると思って身構えていた俺はただの料理の感想に肩の力を抜く、ちょっと拍子抜けと思いながら息を漏らすと若干顔を赤くしている赤毛女のことを見下ろした。

…しかし再びキッと俺の事を見上げると歯を見せ歯噛みするようにしながら吼える。

 

 

「だからお前が厨房に入ることまでは認めてやる!だがな、ちょっと美味しいご飯を作ったからって調子にのるんじゃないぞ!本当なら一緒に働くなんて論外なんだからな、精々こきつかってやるから覚悟しろ!!泣いて謝ってもお前に地獄を見せ続けてやるからな!!」

 

 

最後にハンと鼻を鳴らしたイーミンは厨房の中に入っていく、苦笑を浮かべた俺はイーミンの背中に張り付いているコハルを見ると「ひゅぉぅっ!?」と悲鳴をあげて身を竦める黒髪おさげにため息を吐いた。

そしてこの仕事の大変さを別の意味で再認識したのだった。

 

 

 

・・・

 

 



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 イチニチフツカ3

・・・

 

 

 

「…オーダー入りました!4番テーブル様カルボナーラ二つです!!」

 

「了解!」

 

 

シルから渡されたオーダー表をチラリと確認した俺はもはや何個積まれているか解らない紙束の中にそれを突っ込む、作業工程を頭の中に刻み込むと他の二人がせわしなく働いている厨房に戻った。

 

 

「イーミン、カルボナーラ、ベーコン!」

 

「くっ…解っている!」

 

 

単語で叫ぶと奥で作業の掛け持ちしてくれているイーミンからくぐもった返事が返ってくる。

急ぎ足に調理熱で暑い厨房内を走り抜け、空いていた寸胴鍋を掴み水場に置くと綺麗な水を最大の勢いで中にぶちまけた。7割方水を貯めると重いそれを持ち上げ魔石コンロの火にかけると塩を一つまみ中に放り込みスプーンで軽くかき混ぜる。

在庫内からパスタを大量に抜き取りもう片手に卵を三つ掴みとると振り返り、『白衣』を揺らし歩きながら片手で卵にひびを入れていく、同時に一度パスタを投げ置きボウルに三つ同時に卵を開けた。

 

 

「7番テーブル、魚…」

 

 

振り入れた粉チーズとともに卵をカチャカチャとかき混ぜながら追い付いていない作業を頭の中に思い浮かべる、山のような作業量を段階的に捉えながら全力で思考と身体をブン回していく。

 

――先ほどから足を止める暇も無い、積み重なっていく仕事を余裕もなく駆けながら厨房で身を粉にして働いていた。

 

 

「へっ…ひぉぅっ!?」

 

「うおっ…!?」

 

 

ドンと腰に柔らかないものがぶつかる、振り返ると青ざめた顔をしたコハルが逃げ出そうとしているところだった。

…忙しいというのに気をつかっている余裕などない、小走りに去ろうとする背中に俺はちょっとだけ苛立ちながら担当を思い出し鋭く指示を出す。

 

 

「7と9が遅れてる、急いで頼むっ!」

 

「ひぅっ…!」

 

 

短い悲鳴を漏らしたコハルが身を竦めながら走り去っていくのを見送る、聞いたか聞いてないか解らないがしっかりと背中に声をかけた俺はため息を漏らすとまた作業に戻る。

…男性恐怖症でも何でも良いがこの激務の中で相互情報伝達がうまく出来ないとなると困る、今さらどうしようもないが物凄く困る。

 

(逆にっ!)

 

あれほど嫌がっていたイーミンとうまく連携できていたりする。

元々あいつからの一方的な敵愾心ではあったが、お互い尋常じゃない忙しさの前ではそんなものを持っている暇さえなく、がっつり協力して幾つもの料理の山を築き上げていた。

 

一掴みに持ってきたパスタを鍋の中に茹で入れる、体内時計をセットすると振り返り同時進行している幾つもの料理たちに目を向けると全体の行程を見た。

 

 

「ッ…皿洗いか!イーミン5分!あと4のパスタ見といてくれ!」

 

「…解った、なんとかしてみせる!」

 

 

営業が始まってから既に数時間以上経ち、そもそもを乗せる皿が尽きかけている、今すぐ洗いにいかなければ全体の進行が乱れかねない。

イーミンの背中に声をかけながら俺は大型の水場に詰める、山のように積まれた使用済みの汚れた皿たちを前にコック服の袖を捲ると早速水道の蛇口を捻ると皿洗いを始めた。

 

 

 

・・・

 

 

 

遠くから聞こえてくる店の喧騒、落ちていく水音、厨房に満ちた汗ばんだ熱、手にかかる痺れるような冷たさを覚えながら皿についた汚れを落としていく。

窓から差した最後の橙色が急速に消えていくのを俺は単純作業の中で見る、頭と身体を切り離しただ黙々と手を動かし続け皿を高速で処理し続けた。

 

(…急がんとな)

 

息をつく間もない激務、これから更にダンジョン帰りの冒険者たちが来ると思うと皿洗いにかまけている暇はない。

皿達に纏めて洗剤をかけ、一枚ずつ水ですすぎ()り分けながら俺は服の袖で額を拭う、いつもと違うサラサラとした感触に視線を上げると見慣れない白いコック服がそこにはあった。

 

数余時間以上前リューさんから支給された何の変哲も無いコック服だ、上下白いしっかりとした造りのいわゆるコック服と言われて最初に思い浮かべるコック服だった。

とはいえ女ばかりの豊穣の女主人で男物かつサイズが合っているコック服が良くあったものだが偶然にも更衣室の奥の方に誰の者とも知れない服が仕舞われていたらしい。

いつも黒っぽい服ばかり着ているからか、というか普通に考えて上下白という組み合わせは違和感があった…まぁ別に機能性はあるし飯を作るのに似合っているいないは関係無いからいいのだが。

 

そして服を着替えた後、逃げようとしたシルをみんなで説得(物理)し働く約束をさせ少女を休憩室の椅子に座らせてから、レシピをざっと見てすぐに営業が始まって今に至る。

 

(大丈夫だろうか…)

 

休憩室ならば大丈夫と思ったがしばらく少女を見ていない、いくら人がいる…といっても殆ど気絶しているし、未だ動いてくれないとはいえふとした拍子に椅子から身体が落ちてしまっている可能性は捨てきれない。

…とてつもなく不安だ、思えばあの日から片時も目を離したことの無かった少女が初めて目の届かない場所にいる。感覚で言えば初めてのおつかいみたいなものと思うかもしれないが、あの子の場合些か状況が特殊過ぎた、まぁ物理的にいなくなることは無いだろうが…寂しいとか思っていないだろうか。それにもしこのタイミングで少女が何かリアクションを示していたら――

 

 

「――う…よし!」

 

 

今戻って確認している暇はない、物凄く見に行きたいが今俺が抜けたら他二人に大変な負担がかかってしまう。

手に痺れるような痛みを感じながら俺は最後の皿を布巾で拭く、綺麗かどうかを確認し皿洗いを終えた。

 

(戻ろう)

 

両手に山のような皿を一度に持つととんでもない重さが両腕にかかる、バランスを何とか保ちつつ半端ない重さに若干ふらつきながら厨房に戻ると、瞬間イーミンの怒号に迎えられた。

 

 

「リョナ遅い!」

 

「すまん、4は!?」

 

「今やってる!皿!」

 

 

皿を厨房の各位に補充しながらイーミンの手元を覗き込む、全て材料を混ぜ込んだ暖かな麺がチーズの濃い香りをほかほかと掻き立たせしっとりとした黄色に輝いていた。

俺が皿を置くとちらりとそれを確認したイーミンはボウルの中のパスタをトングで掴み大きく持ち上げると、くぼみのついた皿の上にぼとりとカルボナーラを盛りつけた。

 

…美味しそうである、カロリー消費はそこまでではないが昼飯からこのかたずっと働き続け何も食べてない。

思わず涎が口内に溢れてくる俺の前でイーミンはしっかりと皿を掴むと振り返る。

 

 

「よし、じゃあ私が――」

 

「…リョナさん!そろそろカウンターお願いします!」

 

「解った!俺が持ってく!」

 

「っ…頼んだ!」

 

 

イーミンが皿を持ちあげると同時にフロアから顔だけ覗かせたリューに声をかけられる、短く頷き返した俺はイーミンから皿を受け取り厨房からカウンターへ続く出口へと足を向けた。

 

かかったのれんを頭で押す、フロアに足を踏み入れると聞こえてくる喧騒が大きくなった、強烈な光度の違いに俺は大きく瞬きすると瞳孔を慣らして辺りを見回した。

横に長い年季の入ったカウンター、様々な冒険者達で賑わう店内、暗い窓の外では街灯の灯りが丸く並んでおり、意気揚々と笑いあっている客たちの合間をせわしなくウェイター達が走っている。

…若干うるさいいつも通りの豊穣の女主人だ、違うのは視点と一人一人にかかる負担だけ。

 

痛いまでの活気を肌で感じながら、俺はカウンター越しにリューさんのお盆にカルボナーラを二つ乗せる。

皿から立ち上る良い匂いを嗅ぐとリューに頷き疲労で重い肩を落とした。

 

 

「では」

 

 

軽く目配せしたリューがお盆を片手に配膳しに行ったのに合わせ俺はカウンターから疲れた身体を離す。軽く首を回し痛んだ肩を持ち上げると息をつき、一瞬だけ気を抜くと白い上下コック服のままカウンターに立った。

 

いつもミア母さんが立っている場所で背筋を伸ばすとそれなりに疑問の混じった視線が集まる、無視して台の上を覗き込むと俺は酒の注文票を見る。

 

 

「えっ!?あれっ!!?」

 

 

カウンター席についた冒険者が何故か素っ頓狂な声をあげた、無視したままオーダーをざっと読みこんだ俺は振り返ると必要分のグラスやジョッキを指先で幾つか手に取り台の上にコトコトッ!と手早く置いていく。

 

…厨房での作業が終わったわけじゃないのだ、接客もある程度はこなさなくてはならないが酒のオーダーを片付けている合間にも料理のオーダーは増え続ける。そのためできれば早く、そして器用に酒の調合を終わらせねばならなかった…開店してからずっとこれの繰り返しだ、厨房とカウンターの往復は距離としては短いが何回もとなると流石に疲れてきた。

 

幸い一番注文の多いビールはウェイター達でも注げるので俺のところには来ない、というか酔えれば良い主義の荒くれ者ばかりなので酒の味など気にしていない奴が殆どだ。

しかしワインは銘柄などが少し特殊だしカクテルやウィスキーなどは俺が出さなくてはならない、ステアやシェイクなど一通り出来るので作ること自体は問題では無いのだがやはり量と時間がネックになる。

…居酒屋というかバーの仕事だ、まぁそこは気にするところではないのだが。

 

 

「よし、次はっと…」

 

「な、何で…!?」

 

 

とりあえず必要なグラスを用意し終えた俺はウィスキーのボトルを掴む、透かした中身を確認しキュポンと栓を抜くとグラスの中に滑らかな琥珀色をとくとくと流し込んだ。

…また何か聞こえたような気がしたが酒を早く用意せねばならない、再度無視して他の酒を取り出し栓を開けた。

 

 

「…り、リリ…あ、あれ…!」

 

「…嘘です、きっと他人の空似とか見間違いとかですよベル様…!」

 

「ん?」

 

 

とはいえ見知った単語に俺は一度顔をあげる、見渡すと右奥の方のカウンター席に白い後頭部と薄栗色のフードが見えた。

…明らかに彼らである、忙しくて来店に気が付かなかったがダンジョン帰りにご飯でも食べに来たのだろうか。

 

(まぁいいか)

 

酒を作り続けながら視線をおろす、忙しいし構ってやってる暇もない、無理に関わってこなければお互い無視でも――

 

 

「――あの、リョナさん!」

 

「…どうしたベル、注文か?」

 

 

まぁ躊躇いが無いのがベルの良さみたいなところあるし、こうなることぐらい解っていた。

コンマの隙も無く喋りかけてきた少年の戸惑いの表情を見下ろしボトルを傾けたまま俺は首を傾げる。

改めて俺の顔を確認しベルは唖然とした表情を浮かべるとこれまた呆れたような表情を浮かべるリリと顔を見合わせ前のめりに軽く腰を浮かせた。

 

 

「何で、リョナさんが、ここにっ――」

 

「――おーい来たぞミア母さん~!…って、ありゃ?なんでバカ食い野郎が立ってんだ?」

 

「ん、代役でな。あとバカ食い野郎言うな」

 

「おーそうか、じゃあ俺ビール」

 

「俺ラム酒」

 

「あいよ」

 

 

冒険者のパーティが来店する、既に酔っているようで陽気に能天気な彼らはミア母さんの代役とか一切気にする様子もなくわいわいと席につくと喋り始めた。

テキパキと酒を造り続けながら、俺はあまりの情報量に振り返ったまま固まってしまったベルを無視するとコック服の袖に撥ねてしまった水滴を見下ろす。

カコンとグラスを鳴らし無心でオーダーをこなしていくと遂に終わりが見えた。

 

 

「あとラム酒だけ作ってと…よし、リューさん酒できた!戻る!」

 

「解りました!」

 

 

呼びかけると机を拭いていたリューさんが遠くで頷く、ずらりと並んだ様々な色の酒が入ったグラス達を確認し一度ぽきぽきと手首を鳴らすと振り返り『あー忙しい…』とぼやきながら、固まったベルを後に厨房に戻ったのだった。

 

 

「だっ、代役って何のことですかぁぁぁぁ~~っ!!?」

 

「…ベル様、リョナさんはもういませんよ」

 

「はっ!?」

 

 

…その後、フロアから何か聞こえたような気がしたが既にその頃に俺は厨房での料理に集中していたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

だいぶ減ってきた作業の片手間にイーミンは一緒に働いている男を見る、豊穣の女主人のコック服を身に着けた黒髪長身の男は一切止まる事無く働き続けている。

 

広い背中を軽く曲げ、包丁をトントントントンッ!と寸分たがわぬ見事な手捌きで上下させるとまな板の上に乗った野菜達が一瞬のうちに食べやすい大きさに切り別けられた。

躊躇いなくまな板上の野菜達を既に煮立っている鍋の中にあける、投げるように包丁を持ち替え今度は魚を捌き、的確に腹に刃先を入れ上下させるとものの数秒で開き終え器用に骨を取り除いていた。

 

 

「…」

 

 

めざましい働きだ、今日が初めての現場だというのにも関わらずリョナは実質この店の中核を担っている。

とてつもない手際の良さで厨房のオーダーを片付け、呼ばれるか暇を見つけては颯爽とカウンターに戻って酒を作り笑い声と喧噪を生み出すとまた帰ってくる。…ちなみにさっきは知り合いが来てたようで悲鳴と笑い声がクロスカウンターを決めたみたいになっていた、具体的に何が起きたかは知らないが、どうやらリョナが知りあいにジャイアントスイングを決めたようだった。

 

とはいえ遊びを含めずとも尋常じゃない作業量だ、料理に関していえば私も同じくらい働いているが奴はその上でカウンターの業務もこなしている、それに最初こそ私が指示していたが今ではすっかり奴が全体のコントロールをして私が指示を受けていた。

 

――最高以上の助っ人だ、確かに忙しいがこのリョナという男でなければそもそも店を回せなかったと思えるほどに。

 

(だけど…!)

 

だからこそ噂、いや抱いたイメージと違いすぎる。

それこそ悪魔のような奴だと思っていた。しかし目の前で働いている男は…まず実力はあるし…ここ数時間一緒に働いていてちょっとは頼りがいを感じたり…ちょっとは信用できるかも…なんて思ったり。

それに、前アーニャが言っていた通り顔もなかなか――

 

(――いやいやいや!何考えてるんだ私!!)

 

人は外見が全てではない、いや内面もなかなかとか考えてしまっている気がしないでも無いが、ともかく私はリョナのことをあのバカ猫よろしくカッコイイなどと思ってなどいない…いないよな私、その程度で恋愛感情を抱いたりする私ではないはずだ、ちょっとタイプとして頼りがいのある男らしい男が好きなだけで、リョナの事をちょっと逞しいな…とか全然思ってなどいなかった。

それにあんな敵対しておいて今更恋人はおろか仲直りも恥ずかしい、あいつは何も気にしていない様子だが私から謝るのはプライドが許さなかった。

 

ぶんぶんと頭を振ると赤い三つ編みが大きく揺れる、どうも今日は冷静じゃない、恐らくシルの神経ガスをちょっと吸い込んでしまったせいだろう。

止めてしまっていた調理を再開する、無心で作業に没頭するとアイツの腕筋肉質でちょっと触ってみたいなー…とか思わずにすんだ、いやそもそも思っていなかったということにした。

 

 

「おいイーミン」

 

「はっ!?な、なんだお前ぶっ殺すぞ!!」

 

「いきなりストレートな喧嘩売られてもな…」

 

 

…のだが、いつのまにか近づいてきていたリョナが肩にぽんと手を置いてきて再び動悸が激しくなる。さっきまで変な事を考えていた手前一気に心臓が早鐘を打ち始め、それを感じたころには思わず動揺して考えてもいない事を口走ってしまっていた。

細いがしっかりと筋肉のついた手が肩から離れる、腰とか掴まれたら絶対抵抗できないな(笑)とか本能が言うのを無視しながら慌てて振り返ると、そこには呆れ顔のリョナがやれやれと言った感じに目を閉じ立っていた。

 

(ち、近い…!?)

 

恐らくこいつの感覚で言えば私はとても小さいのだろうが、私の感覚で言わせてもらえばこいつは馬鹿デカい…つまり距離感が違う、こいつにとっては普通の立ち位置のつもりで私に喋りかけてきたのだろうが、見上げると私には奴の顔がやけに近いような気がした。

 

私は顔が熱くなっていくのを感じながら俯きがちに顔を逸らす、意識するなと自分に強く言い聞かせ少し強張った口を何とか動かした。

 

 

「そ、それで!?何か用事か!!?」

 

「いや用っていうか…在庫がもうない」

 

「…あっ…そ、そういうことか」

 

 

リョナの指さした先を見ると確かに厨房内の食糧がもうない、初めから下ごしらえが無かったため素の食材を料理していたのだがどうやら尽きてしまっていたようだ…リョナのことを見ていて気がつけなかった。

 

 

「それで地下の食糧庫?に取りに行きたいんだが」

 

「む、確かにそれしか方法はないが…取りに行っている余裕なんてあるのか?」

 

「あぁそういうことなら安心しろ、さっきフロア見に行った時にはもうだいぶ客足も減ってきてたからな。これからオーダー数も減ってくだろ」

 

 

もう陽が落ちてから数時間以上経っている、激務のピークは過ぎ去りあんなに騒がしかった賑わいも今ではもうなりを潜めている。

ゴールまであと少し、言うなればここからはラストスパートというところだった。

 

なるほどと頷いたイーミンは視線を平然とした表情を浮かべているリョナに戻す、顔が赤くなってないことを祈りながら平然としたその顔を見上げると少し複雑な、何故か恥ずかしいような気持ちに見舞われた。

何故だか恥ずかしいしあまり一緒にいたくない、少し間をおいて私は肩をおろすと小さく喋りだす。

 

 

「…なら私が一人で――」

 

「いや、俺と二人で行くぞ」

 

「――…へっ!?」

 

 

狭い地下の食糧庫、男女が二人何も起きないはずが無く。

 

(う、うわああああぁぁぁぁぁぁっ!?)

 

つまり食糧調達という理由をダシに私と二人きりになり、そのまま声も通らない地下室で私の事をぺろっと美味しくいただいてしまおうという算段なのではなかろうか。

相手と比べ遥かに小さなこの身体ではまず抵抗はできないし、リーチ差から考えて逃げることもままならない。

 

(こ、このままではっ…)

 

行ったら最後確実に犯される、体格差通り組み伏せられ犯され弱みを握られ言いなりにされて最終的にこいつの子供を産むことになる、そんな展開御免だ。

思考が頭の中を駆け巡る、全身の血が沸き立つように熱い、頭から物理的に湯気をたてながら睨むように見上げると困惑というか不安そうな顔をしたリョナが私の事を見つめていた。

 

 

「おいお前顔色悪いぞ、大丈夫か?」

 

「つ…ついに本性を現したなこの悪魔っ!い、いや…この変態がっ!!お前の企みなんて全てお見通しなんだよっ!」

 

「…は?いや、企みっつーか、単純に一人だと量が多すぎるだけなんだが」

 

「……え」

 

 

さっきとは違う意味で汗が噴き出す、見上げるとリョナは不思議そうな顔で『変態とは…?』と逡巡していた。

 

(つまり勘違いか…やっぱりどうかしているぞ今日の私!)

 

そんなエロ小説じゃあるまいに、もしかして私の頭の中の方が変態なのかもしれない。

というか普通に気を利かせてくれているだけだった、だというのに私は勘違いとはいえなんと恥ずかしい暴言を瞬間的に言えたモノだ。

 

顔を合わせることも恥ずかしく私は顔を伏せる、軽く呼吸を整えると改めて思案を巡らせ一つ咳ばらいをすると「無かったことになれ…!」と心の中で呟きながら再びリョナの顔を見上げた。

 

 

「そ、そういうことなら私とコハルだけでもいいんじゃないか?」

 

「ん、まぁ別にそれでも良いんだが、量が量だし俺が行った方がいいかと思ってな」

 

 

実に妥当な理由だった、やっぱり下心を抱いているとかありえなかったのだろう。

遠くで働いているコハルを見る、男性恐怖症である彼女とリョナという組み合わせはありえないし、ウェイター連中にわざわざ声をかけるのも違う。つまり誘うとしたら私以外いなかったという訳だ、それを私の事を狙ってるとか勘違いしたわけで。

 

(あーーーーもう!!)

 

なるようになれ、幸いリョナはそういうところでは鈍感というか気にしていないというか、あくまで私内部で妄想が先走ったというだけの話だ、それに別に(暴言は出たが)妄想の内容までは口に出してはいないのでこれ以上恥じる必要はない、墓まで持っていってやる。

 

自己嫌悪に陥りかけた精神を蹴飛ばし私はリョナを見上げる瞳を細める、物理的に目尻を吊り上げると再び睨みつけた。

 

 

「ふん、解った一緒に行ってやる!だけど変な気起こしたらすぐぶん殴るからな!!」

 

「いやしねぇよ、行くぞ」

 

 

苦笑混じりに厨房から出ていくリョナについていきながらふと振り返る、遠くで作業をしていたコハルがいつのまにかこちらの方を前髪の下からジッ…と見つめており、どこか不安げな表情を浮かべているような気がした。

ちょっと行ってくる、私は笑顔で親友に手を振ると厨房を後にしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「「「お疲れさまでしたっっ!!」」」

 

 

声が重なりガチンとグラスがぶつかり合う、互いに激務を乗り越えあった俺達は客の居なくなった静かな店内で軽い打ち上げをしていた。

すっかり日は暮れ表の道に人気はない、一切休みなく働いていた面々にとってかなり遅い夕食はちょっぴり豪華で机の上にはそれなりにお酒も並べられていた。

 

みな疲労している、しかしその顔には疲労したなりの笑みが浮かべられており、艱難辛苦を乗り越えた達成感で自然と朗らかな気持ちになっていた。

乾杯を終え一人隣の机に戻った俺は、黄金色をした炭酸の入ったジョッキを大きく傾ける。

 

 

「ぐっ…ぷはぁ」

 

 

疲れと共に息が漏れる、背もたれに全体重を預けると脱力し立ち上がる気力も失せてしまった。

木製のジョッキを机の上に置く、疲労に任せ数度うめき声を漏らしながら左隣の椅子を見る、長い銀髪を垂らした少女が相変わらずちょこんと座っている。

…結局営業終了時に慌てて見に行ったのだが少女は椅子の上から一センチも動いていなかった、俺が安堵に胸を撫でおろしたのは言うまでもない。

 

(食べさせないとな…)

 

俺と少女だけが座っている机にはきっちり二人分の料理が乗っている、俺もかなり腹が減っているがそれより先に少女に食べさせなくてはならない、口にこそださないがいつもなら数時間前に夕食をとっているしそれはもうお腹を空かせているはずだった。

 

疲労した脊髄をメキメキという破壊音つきで何とか起こす、俯いている少女の頭をくしゃくしゃと撫でると不思議な気力が湧いてきた。

今日はトマト風味のリゾットだ、酸味のある良い匂いを漂わせた黄色のリゾットを木のスプーンで掬うと息を吹きかけ熱い湯気を飛ばす、例によって(もう慣れてきた)少女のおでこに手をあてがうとかくんと首を上に向かせその小さな唇を割るようにして食べさせる。

毎回むせないか不安になるのだがこくんと細い喉が確かに鳴った、口元についてしまっていた食べかすを指で拭うと笑みを漏らし指先についたリゾットを食べた。

 

 

「…」

 

 

何の反応も無い、休み休み交互に俺の皿もつまみながら食事する。特に言葉も無く食べていくが美味しいし、空腹だった胃に栄養が染み渡るようで安心感を得た。

 

(あっちはどうだ?)

 

ちらりとかなり姦しい隣の食卓を見ると随分賑やかに酒を飲んでいる、基本的にはアーニャがボケてイーミンがそれにツッコみ、仲介としてシルとコハル、静かにご飯を食べつつ冷静なコメントを入れていくのがリューさんみたいな感じで非常に楽しそうにわいわいとやっていた。

それにやはり彼女達も空腹だったのか随分と食事のペースは早く、それにつられてか酒もぐいぐいと飲まれている…多少は良いと思うしそこまで度数の高い酒でも無いが酔われると面倒だ、おもに快方が。

 

(…はっ)

 

とはいったものの、酔った女子が普段の数割増しに可愛く見えるのもまた事実。

他の有象無象どもは正直どうでもいい(というか面倒くさいだけだ)が、あの常にクールなリューさんが酒に酔って弱くなってしまう、みたいなシチュエーションは是非見たい、全身全霊をかけて見てみたい。

 

両手で丁寧にジョッキを持ち、平然と酒を飲んでいるリューさんに熱い視線を送る、しかしその顔は極めていつも通りであり、耳の先まで真っ赤とか全然そんなことはなかった。

 

…顔色一つ変わってない…ちくせう…どうにかして酔わせられないものか…。

 

などと邪な視線を送ってもんもんとしていたのが気がつかれたようで、リューはぴくりとサファイア色の瞳を俺に向けると不思議そうな顔をした後静かにジョッキを机に戻し、改めて座り直し身体をこちらに向けてきた。

 

 

「リョナさん」

 

「…はい?」

 

「今日は本当にありがとうございました、アナタがいなければ今日この店は続けられなかったでしょう」

 

 

そういうとリューはペコリと頭を下げる、アーニャ達がふざけているのが背景でもその姿は凛としたもので、真面目というかそれでも感謝されることは素直に嬉しかった。

邪な考えを振りほどいた俺は軽い笑みを浮かべる、同様に身体を向け直し軽く頷くと頭をあげたリューの顔を真っ直ぐに見据えた。

 

 

「まぁ、でも、みんな頑張ったというか――」

 

「――ですので、リョナさんもこちらに机にこられては?」

 

 

あれ、ちょっと変なタイミングで話をぶった切られた。

見るとリューは手招きをしている、確かに一人だけ離れている俺に近寄るように言うのは別に不思議なことではないが…何というか勘の良いリューにしては変な言葉の被せ方だった、それに俺を見ているはずの瞳もどこか焦点が定まっていないような…いや、気のせいか。

 

(…そっちはなぁ)

 

改めて誘いのことを考える、ありがたいにはありがたいが、別に席が足りなかったから俺が離れて座っているというわけではなかったりする。

チラリと視線を上げ女子五人の座っているテーブルを見る、完全に酔っている様子のアーニャはいいとして視線を横に向けると男性恐怖症のコハルがいた。

…確かにそっちの机の方が賑やかで楽しそうではある、だが俺が同じ机にいるとあの子は楽しめないだろう。

 

ああいう手合いが友人にいたがちょっと距離を置くつきあい方のほうがうまくいく、思い出しながら軽く目を閉じた俺はリューに首を振った。

 

 

「いや有難い話ですけど俺は別に――」

 

「…」

 

「――…んんっ?」

 

 

断ろうとリューさんを見るとまるで何事も無かったかのように身体を正面に戻してグラスを傾けていた。

リューさんから振った話だったのでてっきり返答待ちだと思っていたのだが別にそんなことは無かったらしい。拍子抜けした俺はぽかんと、酒を結構早いペースで飲んでいる彼女の朱など混じっていない澄ました横顔を眺めると首を傾げた。

 

(なーんか…?)

 

先ほどから違和感があるようなないような、表情に変化はないのだがリューにしては珍しく会話のミスが目立つ。

それにジョッキの傾き具合は小さくお嬢様のような飲み方をしているのだが絶えずのどぼとけが上下しており水のように…というかあれだけ酒じゃなく水なのでは?と思わせるほどの飲みっぷりをしていた。

 

(いや、うーん…まさか、な…)

 

いやいやと首を振った俺は視線を横にずらす、既に食事を終えた彼女たちはちびちびと酒を舐めながら会話に花を咲かせており、赤くなった顔には笑みが浮かんでいた。

 

――夜は進む。

 

少女にリゾットを食べさせ終え、残るは自分の皿のみとなった俺は適度に酒をあおりだらだらと食事をつまみながら立ちっぱなしだった足をだらけさせると、少し酒が回ってきたのか急激に眠くなってきた。

 

 

「にゃぁん…お得意様ぁ…!」

 

「あぁ…?」

 

 

すっかり出来上がっているアーニャが甘ったるい声をあげながらふらりと絡んでくる。だらしなくにやけた真っ赤な顔でするりと俺の首筋に両腕を回し、尻尾で艶っぽく円を描きながら太ももの上に滑り込んでくると、酒臭さの混じった熱い息を頬に吹きかけてきた。

 

(…まぁ良い匂いもするな…アーニャのくせに…)

 

太ももに乗ったアーニャは濡れた瞳をきらきら輝かせ至近距離から嬉しそうに、どこか微睡んだような表情で俺の顔を見つめている。

酒臭いし汗の臭いもする、しかしぴったり密着させてくる身体はやはりどこも柔らかく、女性特有の甘い匂いみたいなものもふわっと髪先から漂っていた。

 

若干酔った思考の中で俺はアーニャを見る、馬鹿なのが難点だが身体は普通の女…まぁ猫人ではあるが、人懐っこいしあからさまに好かれてるし悪い気はしない。

それに酔っているからか何となく可愛く見える、いつもなら普通に殴るところだが疲れているというのもあって遠ざける気にならなかった…それに結局性欲処理できていなかったりする、華で倒れた時ほど飢えてはいないがここまで抱き着かれたりすると、くらりと頭の中で理性が薄れていく気がした。

 

 

「ちゅ~~♡」

 

 

そしてついに耐えられなくなったのかアーニャは首筋に回した腕を引き寄せると自らの身体を近づけ、軽く目を閉じ唇を突き出すと一直線に迫ってきた。

柔らかな力に首筋をロックされ逃げ場も無い、至近距離からのキスを避ける時間も気力もなく頬ぐらいならいいかと俺は、寄りかかってくる熱い身体と向かってくる柔らかそうな桜色の唇を重い頭で見つめていた。

 

のだが――

 

 

「ほらアーニャ、行きますよ」

 

「――…に゛ゃう゛っ!?」

 

 

唇が頬に触れるかという寸前にアーニャの身体がリューによってひょいと首筋辺りで持ち上げられる、何というか子猫が首を掴まれて運ばれていくような姿だが、実際はリューさんは無造作にアーニャの首を掴んでおり完全に息を止めていた、アーニャの驚きと苦しみの入り混じった顔が離れていった。

 

視線を上げると当然の事ながらむんずとアーニャの事を掴んだリューが立っている、それとその後ろにはどこか困ったような苦笑を浮かべたシルがいた。

リューさんの視線がこちらに向く、軽くにこやかに会釈すると綺麗に姿勢を整えた…のだが目はどこか据わっているというか誰もいない明後日の方向を向いているような気がした、とはいえ相変わらず顔色は平然そのものなのだが。

 

 

「ごちそうさまでしたリョナさん、夜ご飯もおいしかったです」

 

「えっ…あ、はい」

 

「ところで明日の話なのですが明日も来ていただくことは出来ますか?」

 

「ん」

 

 

またも唐突な喋り方のリューに戸惑いつつ俺は眉を上げる。

明日もか…今日が激務だっただけに少し面倒くさい、というか明日くらい休みにしても良いと思うのだがリューさんにその気はないようだ。

 

(…いい加減ぎゅるぎゅる丸直したいけどな…)

 

恐らくシル弁の被害者たちが目を覚ますのは明後日くらいだろう、明日も手伝うのは良いがちょっとだけぎゅるぎゅる丸の修繕と少女の名前付けというmustが頭の中をちらついた…まぁ断るという選択肢は無いのだが。

 

 

「…解りました、明日も手伝いに来ます」

 

「そうですか!ありがとうございます!!」

 

 

そういうとリューは微笑みを浮かべて嬉しそうに頷く、その程度のことで活力を見出してしまうあたり俺はチョロイのかもしれないがリューさんが相手ならば別にそれでも良かった。

 

 

「シル、行きますよ」

 

「えっ、うん」

 

「…ち゛ゅ゛~~!!お得意様とちゅうするに゛ゃぁ~~~…!!!」

 

 

くるりと振り返ったリューさんは酔ってじたばたと大泣きしているアーニャをずるずると引きずりながらシルと共にバックヤードの方に消えていく、三人の後ろ姿(まぁアーニャは表だが)を見送った俺は、はぁとため息をつくと皿に残った最後の一口を飲み下した。

 

もう夜も遅い、これから帰って風呂に入ると考えると寝るのはだいぶ遅くなってしまう、それに少女を夜更かしさせるのも大変よろしくない…明日も手伝うというのならなおさらだった。

 

 

「…それでさーあいつがさー?食糧庫行ったらさー…えっと…なんだっけ?」

 

「あははぁ…イーミンちゃんさっきらおんなじ話ばっかしとうよぉー?」

 

 

声の方を振り返ると完全に出来上がっている様子の二人が残っていた、顔まで真っ赤にさせて酒に酔っている彼女達は共に楽しそうな笑みを浮かべており非常に舌足らずな様子で喋っていた。

…酔いが覚めた、絵面としてはそこまで酷くないが聞くに堪えない酔っ払い同士の会話に現実に引き戻されてしまった、いっそのこと同じくらい酔えばこんな風には思わなかったのだろうが行く先は泥沼でもあった。

 

というか絶対にこちらから関わりたくない、確実に面倒くさいことが目に見えている。

ちらりと酔っぱらっているイーミンを見る、耳の先まで真っ赤にさせた彼女はコハルと楽し気に会話をしており――俺と視線があった。

 

 

「あ゛っ」

 

「むっ…おまえぇー…何ガン飛ばしてんだよぉーっ!?」

 

 

瞬間睨みをきかせてきたイーミンは立ちながら不機嫌そうな顔を浮かべ、ふらふらとこちらのテーブルにまで歩いてくる…最悪だ、最悪の絡まれ方だった。

何とかこちらまで歩いてきたイーミンはダンと机に腕をつく、焦点の合ってないにやけた笑みで精一杯俺に睨みを利かせると、不規則に頭を揺らしながら俺の胸倉を掴んできた。

 

 

「おい、りょなぁ……お前ぇちょっと仕事できるからってぇちょうしのってんじゃねいろぉ!!?」

 

「おぅふ…」

 

「まーぁ?お前が働けちぇるのもぉ…しゅべてぇ…私のおかげ?みたいなところ?あるけどなっ!ははははははは!!」

 

 

最高にめんどくさい、そしてうざい、なんならアーニャ以上かもしれない、新記録だ。

爆笑しながらグングンと首元を掴んで揺さぶってくるイーミンから視線をずらし俺は遠い目を浮かべる、こいつ悪酔いにも程があるだろう。

 

ひとしきり馬鹿みたいに笑い終えたイーミンは酒臭い息をつく、顔を赤くさせたままぼっーとした視線で(仏頂面をしている)俺の顔を見てきた。

 

 

「…あのバカ猫もこんなののどぉこが良いんだか……ふん」

 

「は?」

 

「あっそーだぁ!おまえちょっと腕触らせろよぉぉぉっ!!」

 

 

もはや全くの行動予測が出来なくなった生物が叫びながら俺の腕に跳びついてくる、二の腕に頭ごと突っ込んでくるイーミンの頭を俺は抑えようとすると意外にも機敏な動きで躱してきた。

 

 

「ッ…!?」

 

「うーん…やっぱ男の筋肉っていいなぁー…」

 

 

ぺたぺたとイーミンは悩まし気に二の腕を撫でてくる、確かめるように筋肉を揉んだり突いたり頭をつけたり揉んだりするとまた笑った。

 

 

「あー…81てぇんっ!あははははははっ!」

 

 

何が楽しいか知らないがこいつが笑い上戸だということだけは解った、多分明日このことを思い出して後悔する…ぜひ後悔してほしい、後悔しろ。

 

(こいつ俺の事嫌いじゃなかったのかよ…!)

 

酒のせいだとは解っているがあれほど嫌われていた相手にこうも密着されると違和感(ギャップ)が凄い、ついでに勢いも凄い。

まぁ一方的な敵愾心、逆の立場だったら溝は深まるばかりだったろうが俺は別に嫌悪感など無いので悪化することはない、絡み方が鬱陶しいというのは確かだが。

 

(…というか)

 

そもそも何故こいつ俺の事を嫌っていた(る?)のだろうか。コハルの方は男性恐怖症という明らかな理由があるが、結局最初何故襲われたのかも解っていない。

…本人に聞くのが一番早い、今は酒に酔ってるし何かとハイテンションだし口を割りやすいかもしれない。相変わらず俺に心当たりは一切無いが、悪い奴じゃないし何より俺自身が気になった。

 

 

「おいイーミン、お前何で俺の事嫌ってたんだ?」

 

「ん~…あー…?」

 

 

尋ねるとイーミンは俺の腕を触ったままぽやんとした表情を浮かべ間の抜けた声を漏らした、ちゃんと答えるかどうか微妙だが一応酔いながらも考えてくれているようだった。

うめき声を漏らしながらイーミンは首を傾げる、おかしな重心でふらふらと頭を振ると、少しムッとした顔で呟いた。

 

 

「…うでまくら」

 

「は?」

 

「うでまくらしてくれたら話ーす!」

 

 

意識が遠のく、お前は何を言ってるんだ。

 

 

「んーそうだなぁ…これをこうして…ん!」

 

「…え、マジで?」

 

「ん!!」

 

 

手早くパパッと机の上から皿をどかしたイーミンは机の上に乗る、よいしょと座り寝そべると『早く枕!』とでも言いたげにバンバンと机を叩き始めた。

…ストレス値が高い、何で俺がそんな馬鹿みたいな…いや実際かなり馬鹿だ、何でそこまでして情報を引き出さなくてはならないのか、ただの腕枕ではあるが何故腕枕なのかという強烈な疑問で頭がおかしくなりそうだった。

 

 

「はよぉ~!」

 

「…」

 

 

やるしかないのか。

酔っ払いに屈するみたいで非常に癪だが情報の為には致し方ない。

 

若干震えながら俺は右手を差し出す、子供みたいに楽し気な笑みを浮かべてテーブル上に横たわっているイーミンの首辺りに手を伸ばすと寝やすいように角度を確かめながら上向きに腕を差し入れた。

 

 

「よっこらせっと…おおー、たくましーじゃーん!?」

 

 

髪がさわさわと腕をくすぐる、若干身体の位置を調整したイーミンは俺の顔が見えるように横向きに寝ころぶと感嘆の声を漏らした、何が良いのか解らないが…喜んでくれて何よりだ。

俺の腕を枕にしてイーミンは寝ている、伸ばした腕の先には確かな重さがかかっており、楽しそうにイーミン頭の感触を確かめたり目を閉じたり俺の顔を見たりしていた。

 

 

「んー腕はいいけど…机硬い!」

 

「だろうな」

 

「じゃあ何とかしろよぉ」

 

「はぁー…」

 

 

ぱんぱんと寝ころんだまま腕を叩いてくるイーミンにため息を漏らす、この酔っ払いホント用がなかったら簀巻きにしているところだ。

面倒くささに再びため息をついた俺はイーミンの赤い髪を見下ろす、完全に酔った顔に呆れながらふとこのまま寝られたらまずいと気が付いた。

 

 

「おい、してやってんだから早く教えろ」

 

「え?…何がぁ?」

 

「いやだから、何で俺の事嫌ってたんだって話だよ」

 

「あー…それねー…」

 

 

既に随分眠そうだ、若干いがらっぽくなってきた声に焦りながら俺はぼんやりと考え始めた腕に頭を擦りつけそのまま寝てしまいそうなイーミンを見る。

そして眠そうなままゆっくりと喋る…かと思いきや、眠そうにしていた目をいきなりカッと見開いた。

 

 

「――…お前、食いっすぎ!」

 

「は?」

 

「毎日毎日ただでさえ忙しかったのに一人で何人前も食いやがってよぉー!お前のせいで私たちは毎日腱鞘炎になって…もぉーほんと鬼!悪魔!リョナ!…ほらぁ、コハルもなんか言ってやれよぉ!」

 

「へぇっ?なぁにーイーミンちゃん~…って男の人ォ!?」

 

「いまさらぁ~」

 

 

ビビるコハルに疲れたように笑うイーミン、言葉の意味を俺はかみしめていた俺は酔った思考でしばし考えるとやっと解った…つまり、俺のせいで作業量が増えて腱鞘炎になり恨まれていたと。

 

(知るかッ!)

 

思えばダンジョン帰り毎日のようにとんでもない量の食事を頼んではいた、しかしまさかそんなことで恨まれることになるとは思いもしなかった。どこの世界に飯屋で食べ過ぎて料理人に狙われる奴がいるんだよ、俺だ。

 

(地獄とかよく言えたなコイツ…!)

 

…まぁ彼女なりに辛かったということではある、思わず俺の首を狙う程度には。

だがここまで引っ張っておいて、というか何かしてしまったのではないかと心配していた割にはしょうもない、腕枕するほどの情報の価値は絶対になかった。

 

安堵のため息が漏れる、まさかではあったがその程度の事なら大丈夫だ。それに最初はそれで嫌われていたかもしれないが、今はそれなりに仲良くなった…と思うのでこれ以上気にする必要もなくなった。

 

 

「でさぁー噂でりょなってヤツがめっちゃ食ってるって聞いてさぁー?…絶対殴ろって思って…」

 

「待て、その発想はおかしい」

 

「……うっさい、ばーかばーか!…あーあとアーニャが言ってたんだけど……言ってたんだけど…」

 

「ん、言ってたんだけど?」

 

「えっと…あー…確か……ないす、ちん…?」

 

「な、ないすちん?」

 

「……うへぇ…」

 

 

謎の言語を残してイーミンはがくりと落ちる、幸せそうな寝顔を決めたまま俺の腕を枕にして涎を垂らして寝始めた。

 

(クッソ…)

 

言葉の続きが気になる、でもどうせアーニャの噂などろくなことじゃない。

腕を枕に眠り始めやがったイーミンに俺はイラつきつつ息をつく、落ち着き隣の少女の事を見下ろすと座ったまま寝息を立てていた、ふざけている場合じゃなかった。

 

(服着替えて…それから…)

 

本当は皿洗いなど明日の仕込みをすべきなのだろうがまぁ最悪明日にでもできる、それと目の前に寝転がっている馬鹿の快方…もとい酔ってる奴全員家まで送り届ける?時間がかかりすぎるだろう。

…とりあえずコック服から着替えて、それからだ。

 

 

「ふー…――はッ!?」

 

 

たらりと枕にしていた腕に液体がかかる、ビクンと身体を震わせた俺は慌ててイーミンの首筋から腕を引き抜きため息を吐くと、服の袖で拭いながら立ち上がる。

とりあえず少女の事を置いておき…ちょっと慣れた、疲れた身体を引きずながらりバックヤードの更衣室に足を向けた。

 

暗い廊下に入り込む、今日は色々な事があったなぁ…とか吞気に考えながら休憩室の隣の更衣室に向かうと閉まった扉を開けて中に入った。

 

 

「…あっ」

 

「な」

 

「にゃ?」

 

「え…きゃあっ!?」

 

 

――思えば先に消えていた三人がどこに行ったかなど容易く予想できただろうに、酒に酔った思考と痺れた鼻では全く気が付くことが出来なかった。

 

ぽかんと口が開く、目の前に散乱する女性モノ下着と綺麗な肌色に思考が強制的に停止し、やがて凍り付いていく血の感覚と自分が震えているということに気が付いた。

しかし何もかももう遅い、胸元を隠して逃げたシルがロッカーの陰から顔を出したころ、ブラジャーのみで完全に目の据わっておられるリューさんが無表情にも俺の目の前に立っていた。

 

 

「…少し、痛いですよ」

 

「あっ、できれば痛くない方でおね――」

 

 

――リューの姿が霞んでから、その日のことを俺はもう覚えていなかった。

 

 

 

・・・

 

 

 



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 イチニチフツカ4

・・・

 

 

 

――発勁(はっけい)、と言っても様々なものがある。

 

豊穣の女主人でボコボコにされ命からがら逃げかえってきた次の日、いつも通り肌寒い朝の外壁上、構えを取りながら対峙している弟子二人を俺は少女を抱き時折欠伸を浮かべながら眺めていた。

先ほどから二人は同じ構えをしたまま同じ動きを繰り返しており、時折合図しては相手の身体に拳を当て合っていた。

 

(…)

 

ここ数日で二人は、特にベルは目覚ましい成長を遂げている。

意欲があるからなのか、あるいは恩恵のおかげなのか二人は俺の教える技術をスポンジのように吸収し、本来なら数年はかかるような技も実戦レベルとは言い難いが既に幾つか習得しかけており、ステイタス的にも対人術的にも格段に強くなってきていた。

…驚異的である、成長が早いとは聞いていたがこれほどまでとは思わなかった。

 

そして今教えているのは中国武術などに用いられる発勁、なのだが。

これは一つの技名と言うより『効率的な力の運用方法』であって…その、こちらの世界を生きる超天然と少年には理解し難い原理が多数含まれていた、二人のぽかんという表情が記憶に新しい。

体重移動までの説明は良かった、しかしその後運動エネルギーを身体の中で伝播させて放つと言っても全然理解されなかった。深く理解に至れば内臓系に作用したり末端を痺れさせたりと人体にかなり有効なのだが…覚えられないものは仕方がない。

 

(まぁ…)

 

とはいえ例え頭では理解していなくても、身体で覚えることは出来る。

故に俺は限定的な『突き飛ばし』を型まで指定して教えることにした、脱力による拳は普通のそれより重く相手を転ばせやすい。

原理を知らなくとも出せなくないし、実際二人も練習して以前より重い掌底を出せるようになって――

 

 

「あっ」

 

「へっ!?」

 

 

――まぁそのぶん粗削りになるので、アイズに試し撃ちされたベルがここのところ良く吹き飛ばされるのだが。

少年の身体が宙を飛ぶ、全力とまではいかないだろうがアイズの掌は確実にベルの身体を捉え振り抜いていた。

 

 

「うわぁーーーっ!?」

 

「…あ、ごめん」

 

「って、またかああああああっ!だからアイズ、ベル相手には威力抑えろって言ってんだろがぁぁぁっ!?」

 

「う、うん……」

 

 

もう何度目か解らない失敗に流石の俺も怒号をあげる、当の本人は不思議そうな顔を浮かべており…まぁ悪気は無いのだろうがここまで繰り返しベルが吹き飛ばされるとなると怒らざるをえなかった。

 

ここで、そもそもアイズに発勁が必要なのか?という疑問が湧いて出る。

ブルドーザーが発勁を使ったところで人が吹き飛ぶという結果には変わりないし、そもそも本当に発勁が使われているのか判断する術がない、上級者同士の戦いで活かせるかも解らなかった。

 

(うーん…)

 

恐らく構えや体重移動は良いし、同じ動きを繰り返す練習のかいあってか使えているとは思うのだが…まぁそもそも新しい技術を知れただけで彼女は満足みたいだし、ベルの方は確実に強くなっているので無駄ではない。

 

それにそれも『明日』までだったりする。何でも『遠征』なるものにアイズは明日から行くらしく、彼女に対して俺が教えるのもそれまでだったりする、そもそも二人の特訓がそれまでだったらしいので外壁で教えるのは明日が最後だった…ベルと続けるのかどうかはまだ決めていない。

 

 

「リョナ、私のハッケイ?を受けてほしい」

 

「……はっ!?」

 

 

――気が付けば目の前に教えた通りの構えをしたアイズが立っている、その顔はいつもより真剣ではあるが今は真剣なのが一番怖かった。

 

 

「いやいや待て!俺にはこいつがだな!!」

 

「?…問題ない、これを使ってもただ転ぶだけだから、リョナもそう言っていた」

 

「確かに効果としてはそうっつったけど、今ベルのこと数メートルは吹っ飛ばしてただろうが!!?」

 

「大丈夫…次は、うまくいく」

 

 

何その自信どこから来るの、と尋ねる間もなくアイズが動く。

金髪が目の前で揺れ、明らかに大きすぎる勁が動いているのを感じながら俺は少女手放さないように胸に抱くと、腹に当たった掌底から確かに勁が作用しているのを――

 

「ぐはぁーーーっ!?」

 

――解ることも無くただ先ほどのベルのようにふっとばされていた、今日もいつも通りの修業になるようだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「お前を殺して私も死ぬゥゥゥゥッッ!!!」

 

「いいから落ち着けぇぇぇぇぇっ!!!」

 

 

朝修行を終えて二人と別れた後、早速豊穣の女主人に来た俺はヤンデレみたいなセリフを叫ぶイーミンに襲われていた。

髪はボサボサ、二日酔いか顔色は悪く、一応着替えたのかラフな白色の可愛らしい寝間着を纏った赤毛の彼女は寝起きだというのに物凄い激昂しており、その片手にはしっかりと包丁が握りしめられていた。

 

朝から何この修羅場、泣いたような怒ったような、とにかく必死な表情で包丁を突き出してくるイーミンを俺はこれまた必死になって止めながら慌てて座らせた少女を見下ろす。

…大丈夫だ、例え目の前で生死をかけた修羅場が展開されていても少女はぴくりとも動じていなかった、巻き込まれなければ安心である、よかったよかった。

 

(って大丈夫じゃねええええええっ!?)

 

ちらついた刃先が良い感じにギラギラと光っている、それに叫びながら前へ前へと踏み込んでくる赤毛ロリさんは顔こそ涙とかでぐちゃぐちゃだが充分以上の殺気を放っており、かなり本気だという事を伺わせた。

抵抗しなければ有言実行は免れない、力では負けてないが油断するとどうなるか解らなかった…というかこいつ何を必死になっているのだろうか、いや確かに初対面で襲われたこともあるけども。

 

 

「ッ…オラ!」

 

「いっ!…うわぁ!?」

 

 

下手に殴るのもまずい。

グググと力が拮抗していたイーミンの腕を俺は横に流す、手刀で包丁を手から叩き落とし、刃先がカコンと足元に落ちたのを確認すると、体幹の大きく揺らいだイーミンの身体を発勁で緩く突き飛ばし、寝間着をステンと後ろに尻もちをつかせた、痛みはないはずだ。

 

(あぶねー…)

 

こんなことで怪我はしたくない、ヤンデレの無力化に成功した俺は安堵のため息をつくと、襲い掛かってきたイーミンのことを色々な疑惑を込めて見下ろす。

 

 

「…っ」

 

 

…武器を失いぺたんと床に座ったイーミンは驚きの表情で目を見開いていた。激情が激情だったために失敗したというショックはかなり大きかったらしく、相当絶望しているというか、暫く放心状態でいた後――

 

 

「…うっ…へえええええええええええええんっ…」

 

「泣くなよ…」

 

 

――ついには、泣きだしてしまった。

 

子供のように泣きじゃくり始めるイーミンに俺は呆れた表情で立ちつくす、むしろ泣きたいのは臨時バイト先で刺されかける俺の方だと思うのだが。

情けない泣き顔を晒しながら液体を漏らしているイーミンの前に俺はしゃがみこみ視線を合わせると、困ったような表情を浮かべたままとりあえず尋ねてみることにした。

 

 

「…つかそもそも何で斬りかかってきたんだ?」

 

「だってぇぇぇぇぇぇ…昨日あんなごどしたからぁぁぁぁ…もう死にたいんだぁぁぁぁぁ…死んだ方がマシだぁぁぁぁぁ……!」

 

「あー…」

 

 

確かに思い出すと俺もかなり恥ずかしい、いくら酔っていたからといってあんなことするとは思わなんだ、死にたくなるほどではないのだが。

とはいえじゃあ勝手に一人で死ねよ、と切り捨てるのも同僚だし道徳的にも出来ないし、その結果俺に斬りかかってきたのであれば、少しは慰めてやる道理くらいあった。

少し呆れたまま俺は軽く頭を掻き思案を巡らせると同情的な表情でずびずびと鼻を鳴らしているイーミンを見下ろす、身振り手振り動かすとあまり経験は無いが泣き止ませようとポンポンと肩を叩いた。

 

 

「…まぁ、酒のせいだろ?気にする必要ないって」

 

「うっ…ひぐぅっ……ほんと、か…?」

 

「おう、別に俺がお前に腕枕したとか全然たいしたことない……ぶふっ!?いやごめんよく考えたら笑えてきた…ふははははははっ!」

 

「うっ、うわああああああああっ!?やっぱ死ねぇええええええええええええっ!!」

 

 

つい笑ってしまった、昨夜のこともそうだが全て覚えていたイーミンが起きた時にどんな絶望的な顔をしたのか容易に想像できて吹き出してしまった。

再びブチギレ叫びながら立ち上がったイーミンは、今度は大粒の涙を流しながら殴りかかってきた。

 

…その後、暫くして自分の姿が寝間着のままだということに気が付いたイーミンが違う意味で顔を赤くして逃げるまで、涙の追いかけっこは続いたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「リョナさん」

 

「おー、おはようございますリューさん」

 

 

コック服に着替え終わり少女を抱えながら廊下に出ると、丁度休憩室からリューさんが出てくるところだった。

既に制服に着替え終えている彼女は先ほどのイーミンとは違い身なりを凛と完璧に整えており、二日酔いなども一切なさそうだった。

 

 

「…来て、くださったのですか?」

 

「はい?」

 

「いえ、実は今日もお手伝いいただけないかリョナさんに相談しようと()()思っていたのですが、私としたことがお伝えし忘れてしまいまして…」

 

「ん…?」

 

 

若干驚いたように目を見開いているリューさんに首を傾げる、昨晩から感じていたことだがどうもおかしい。

 

(もしかするか……?)

 

昨晩は酔っていて気が付かなかったがもしかする、そういえば昨日のリューさんはどうも受け答えがおかしかった。

 

 

「あのリューさん、奇妙な質問なんですけども」

 

「はい」

 

「…昨日の記憶っていつまであります?」

 

「…」

 

 

そう尋ねるとリューの時間がぴしりと止まる。

大きく首を傾げ考え始めると、彼女にしては珍しく困惑の感情を露わにして眉をかなりひそめた。

 

 

「思えば…皆で乾杯をしたところまでは覚えているのですが、確かにそのあとの記憶が全くと言っていいほどありません。もしかして既に約束をしていた、ということでしょうか…?」

 

「…!」

 

 

つまり、ああいう酔い方だったということか。

記憶に全く残らないタイプ、というかそもそも酔うような人じゃないのだが昨日は極度の疲れで奇跡が起きた。

そして悪酔いの結果俺に対しての言葉も忘れ…あの暴行も忘れている、もう怒っていないというか何が起こったかさえ憶えていないというのはむしろ喜べばいいのかもしれないが、反面俺の頭の中ではやれたやれたとは思えないの大議論が委員会形式で行われていた。

 

 

「うっ…ぉぉぉ…?」

 

「リョナさん?顔色が優れないようですが大丈夫ですか?」

 

 

後悔。いや少女もいたしどうやったってナニもできなかったのだが、例えそれが1パーセント以下だろうが那由他(なゆた)のかなたの可能性でも、そこに据え膳ルートがあったのかもしれないと考えると男として思うところが多々あった、今更考えても後の祭りでしかないのだが。

 

(心頭滅却…おぅ…)

 

心配そうに見つめてくるリューさんの視線が申し訳ない、抱いた少女のことを見おろすと冷静さをとりもどした。

 

 

「ふぅ…復活」

 

「…?」

 

「で、今日は下準備を…する前にコイツを休憩室に置いてこなければ」

 

 

怪訝な顔をされるのを気にせずに休憩室のドアに手を伸ばす、今日も少女は休憩室でお留守番だ…改めて不安だ、せめて下準備が終わるまでは厨房に居させようか…。

 

 

「お待ちを」

 

「うおっ!?」

 

 

ドアノブにかけた手をリューさんにガシリと掴まれる、すべすべだなーとか感想を抱くより先に昨日ぼこぼこにされた記憶が蘇り思わず身体がビクンと驚いた。

 

…嫌だ、後頭部を瞬間十六連打はもう嫌だ、自然に身体と本能が震えた。

 

――静かに、膝をつく。

 

 

「昨日の事でしたら誠に申し訳ございませんでした、今すぐ腹を切りますれば何卒この子だけは…」

 

「?…先ほどから何をおっしゃられているか解りませんが、今休憩室の中は…阿鼻叫喚?…いえ、彼女達が身支度を整えていますので入らないほうがよろしいかと」

 

「あっ」

 

 

危うく土下座し時代劇が始まりかけた俺にリューさんは不思議そうに答えた、自然と声が漏れた。

というかもはやその言い換えだけでなんとなく中の様子が想像できる、今俺が行ったら寝起きの彼女達に襲われ確実に死ぬだろう、むしろリューさんに助けられた。

…そういえば昨日俺は家に帰ったが、他のメンバーは全員休憩室に泊まっていったらしい。まぁみんな疲れていたしこの文化レベルの夜道を女の子だけで歩くのは肉食獣の檻の中に羊をいれるようなものなので泥酔しているいないに関わらず妥当な判断といえた。一部逆に肉食獣を殴り倒すような輩もいるが、そちらの方が安全だろう。

 

(なんか二日酔いに良い朝飯作ってやらんとな…って普通に考えてるあたり…)

 

リューさんは問題なさそうだがイーミンなどはだいぶ辛そうだった、女性陣はもう少し時間がかかりそうだしそれまでに何か…しじみの味噌汁とか作れるだろうか。

 

 

「あ、それじゃあリューさんがこいつのこと置いてきてくれますか?俺は先に厨房の方行ってるので」

 

「えぇ、かしこまりました」

 

 

少女の事をリューさんに手渡す、腕を伸ばしたリューは少女のことを両手で受け取ると逡巡し最終的にお尻の辺りを支えて座らせた。

まだちょっと不安だが、預けるのにこれ以上の相手もいない。リューさんの腕の中に座っている少女に微笑みながら、振り返った俺は二日酔いに効く食材を頭の中に羅列しながら厨房に向かったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「――あっ」

 

「ん?…うわぁ」

 

「なんだよその反応ーー!?」

 

 

営業を開始した豊穣の女主人の昼時。

二日酔いに良い朝飯で何とか回復した面々で下準備をこなし、二日目の営業を開始した。

といっても昼時の今はまだそれほど忙しくなく、客層も家族連れであったり休憩中の職人だったりと、昨晩と比べると非常に落ち着いた雰囲気の静かな店内になっていた。

 

…つまり酒の注文など来るはずもない、はずだったのだが暫く厨房で働いていた俺に酒の注文が舞い込んできた。

そしてこんなまっ昼間から酒を頼むとかどこの暇な老人だ、とカウンターに向かった俺の目に入ってきたものは――黒いツインテールの主神様、つまり我らが女神ことヘスティア様のお姿だった。

 

 

「何やってんすかアンタ…」

 

「何ってお客さんさっ!何でもうちの問題児がアルバイトを始めたってベル君に聞いたからちょっと様子を見ようと思ってね!!」

 

「うっわぁ…」

 

「だから何で引いてんの!?」

 

 

あのベルよりによって一番面倒くさい相手に報告しやがった、あとでお仕置きせねば。

カウンターに一人座ってはしゃいでいるヘスティアに冷たい視線を送りながら俺は一枚だけ置かれているオーダーを見る、案の定酒の注文はカウンターから来ていた。

 

昼間から酒とはこれ如何に、それに明らかに働いている俺を見に来る目的で…授業参観?と考えると少し笑えてくるが、出てくるのは疲れと呆れの入り混じった嘲笑だけだった。

肩を落とす。

 

 

「…ははーん、その恰好良く似合ってるじゃないか!」

 

「そりゃどうも」

 

「で、どうだい調子は?人助けってベル君は言ってたけど」

 

「ん、それなりに」

 

 

重いため息を漏らしヘスティアの酒を作り始める、楽し気な女神の視線を受けながらボトルを開けると何か違和感を感じたような気がしたがワインの匂いに意識を目の前のグラスに戻した。

 

ぶどう色の豊潤な液体をグラスに開ける、ワインの揺れる卵型のグラスを回すとカウンター越しにヘスティアに差し出した。

するとヘスティアは飛びつくようにグラスを掴むと、大きく傾ける。

 

 

「うっ…ぐっぐっ…ぷはぁ!」

 

 

…何の躊躇いも無くグラスを掴むと確認もせずに一気に飲み干しやがった、いつもお前が飲んでる安酒とは違うのだが…っではなく、ちゃんと味わってもらえないのは作ったものとして頂けないが、別にオッサン飲みに怒ってなどいなかった。

 

 

「うーん美味しいなぁ!……というかあの子は?留守番させているわけじゃあないんだろ?」

 

「…裏に置いてます、一応店の人が見てくれてるので大丈夫かと」

 

「そっか、それは良かった!」

 

 

ちなみに今朝見に行ったら何人かの気絶者が目覚めていた、といっても完全に毒が抜けているわけではなく会話こそできるが朦朧としていた。

一応クロエあたりに少女のこと見ていてくれるか頼んではみたが、返ってくるのはうめき声ばかりであまり信用できるものとは思えなかった。

 

 

「何なら僕が預かっていても良いんだぜ?アルバイトであんまり時間ないけど、もし僕で良かったら…」

 

「…ハッ、昼間っから酒飲んでる女神様だったら安心だな」

 

「むー!?…確かにそーだねッ!だからおかわり!!」

 

「まだ飲むのかアンタ…」

 

 

開き直ったヘスティアに呆れつつ空になったグラスを受け取る、先ほどのオーダーに追加を書き込みながら同じワインを注ぐとまたヘスティアの元に差し出した。

 

(…ん?)

 

また何か違和感、というか疑問があったような…全然解らんが。

再びぐいとグラスを傾けたヘスティアに呆れつつそれほど人のいない店内を見渡す、今はまだ忙しくないし少し咎めるように通り過ぎていったリューさんに見られていたがちょっとくらい話す程度ならば問題ないだろう、あとでイーミンあたりに怒られそうだが多少は構わないだろう。

 

 

「…次は、リョナ君のオススメ頂戴!」

 

「ん…まぁ構いませんが」

 

 

というかこの人酒の注文しかしないつもりか、流石に頬が赤らんできてはいるがまだまだ飲みそうな雰囲気はあった…時間はあるし、酒しか飲まないのであれば暫く付き合ってやっても良いだろう。

 

グラスを受け取った俺はとりあえず酒の調合を考える、ヘスティアが好きそうなものを考えると珍しく親切心で行動する…しかし、俺は暫くの別居生活でこの女神の姑息さをすっかり忘れていたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

数時間後、べろんべろんに酔った処女神改め酔いどれ神ことヘスティア様のお姿がそこにはあった。

既に開けた酒は数知れず、真っ赤になった彼女はにこやかな笑みを浮かべたまま俺の出す酒を次々と呷っては幸せそうな息を漏らしていた。

 

 

「うぇ~い…もっろぉ!」

 

「わはは、凄い飲みっぷりじゃのぉこの女神さんは」

 

 

既に夕暮手前、ダンジョン帰りの冒険者たちもちらほらと見え始めた店内は徐々に活気を見せ始めており…主に昼頃からずっと飲み続けているウチの主神様が一番騒がしかった。

 

(俺としたことが…!)

 

作ったあっさりめのカクテルをべた褒めされ、ついついアルコールを与えすぎてしまった。具体的に何が悪いとかは無いが、その結果既に出来上がっているというか限界突破している女神に俺は内心頭を抱え、止められなかったことを後悔していたのだった。

 

 

「おーい代理、俺にもあの女神さんと同じのくれよ~」

 

「あ?…おう」

 

 

とはいえその豪快過ぎる飲みっぷりで店の売り上げと雰囲気にも貢献している(?)。

カウンターについた他の冒険者の男に酒を出しながら俺は増えてきたオーダーに眉を顰める、これからは倍々式に忙しさが増していくと思うと、それなりに楽しくもあったがヘスティアの相手はしていられそうもなかった。

 

グラス片手に幸せそうな顔をしているヘスティアを見下ろす、神だからといって酒を飲み過ぎては結局明日辛いことになる、一応二日酔い対策のおつまみなんかもあげたりしたが確実に明日の午前中は地獄を見ることになるだろう。

 

 

「おいヘスティア様、そろそろ帰れ。酒ももうナシだ」

 

「あー?こんらチャンスめったにないんだからぁ~…飲まなきゃそんそん、だって!」

 

「いやチャンスだか何だか知らねぇが、あんま酔いすぎるとベルにも心配されるぞ?」

 

「うっ、それ言われると弱いなぁ僕…」

 

 

弁慶の泣き所をつつかれたヘスティアは顔をしかめる、ことりと飲みかけのグラスを名残惜しそうに俺に手渡し立ち上がった。

やっと帰ってくれるらしい、ふらふらと定まらない女神の視線に俺はやれやれと首を振る。

酔ってはいるが流石に一人でも帰れるかと勘繰ると、にこにこと一緒に飲んでいた冒険者たちに別れを告げている女神を尻目にオーダーを手に取った。

 

 

「はい勘定…――ッ!?」

 

 

チラリと書かれた内容を見下ろすと感じていた疑問が露わになる、注文紙にはヘスティアが今までに飲んだ酒がずらりと書き並べられており、その合計金額はかなりのものになっていた。

出しかけたオーダーを慌てて引いた俺は横に並んだ酒の金額を頭の中で足していく、どう考えてもヘスティアの支払い能力の域を超えている内容に俺は微かに血の気が引いていくのを覚え、目を見開いて視線を上げる。

 

 

「おいヘスティア様、あんたこれどうやって払うつもりで――」

 

「――あ~っと!?僕、財布忘れてきちゃったみたいだぁ~!!」

 

 

わざとらしい演技でヘスティアはパンと腰ポケットを叩く。

例え財布があったとしても彼女の払える金額ではないのだが、たまたま大金を手に入れたとかそういう可能性は消え失せた。

それにわざとらしい演技的にもこの女神が財布をただ忘れたとも考えにくい、ということはこいつ初めから金を持たずに店に来たという事か?…何にせよ、嫌な予感がした。

 

 

「かーっ!僕としたことがこんなにお酒飲んじゃったのに一文も持ってないとはなー!でも払えないんじゃあ仕方ないよな~!」

 

「はっ!?おい、待てあんた支払いはどうするんだよ!!?」

 

 

ふらふらと出口の方に向かうヘスティアを慌てて呼び止める、赤い顔の女神は取っ手に手をかけると振り返り、最高の笑顔で俺に言い放った。

 

 

「うーん…ツケで!」

 

「――通るかッ!んなもんッ!!」

 

「じゃあリョナ君が払っておいてくれたまえ!じゃあねー!」

 

「待てやぁぁぁぁぁぁぁ!クソァァァァァァッッ!!」

 

 

ふざけろ、あの女神そもそも払う気など毛頭なかった。

流石に身内なら代わりに代金を払わないといけない、それにこれからの忙しさを考えると追う事も出来なかった。

利用された、チャンスとか言っていたのはそういうことに他ならない、はなから財布を持ってこないで酒を飲むだけ飲み、支払いだけ俺に押し付けて帰っていった。

 

残ったのは他人が飲んだ高額な酒の代金、まんまと神に嵌められた男の絶叫、それを肴に飲む客達の哀れみと好奇の視線。

 

(俺は…!)

 

どうすればよかったのだろう、それにこのたまの親切心が変容した行き場のない怒りはどこに向ければ良いのだろう

あんの下衆女神絶対許さねぇ…俺の払えない額じゃないが昼頃から飲み続けた酒代はかなりのものになっており、かなりの痛手にまで膨れ上がってしまっていた。

 

しかし他人の酒の代金を俺が払わなければならないという事実が、精神的に重く俺にのしかかる。

 

 

「…リョナァァァッ!いつまでサボってんだ帰ってこいッッ!!…」

 

 

とはいえイーミンの怒鳴り声が厨房から聞こえてくる、正直今すぐカウンターを跳び終えあの女神に制裁を加えたいがそんな事をしている暇もなかった。

絶望と怒りを飲み下す、あとで然るべき復讐をと考えながら俺は厨房に急激な疲れで重くなった足取りで歩き始めた。

 

 

「…リョナさん、後でお話がありますので」

 

「…はい」

 

 

…が、いつのまにか背後に立っていたリューさんに釘を刺される。

多少許してもらえないか期待していた俺はちょっとした脱力感に苛まれ、止められなかった財布へのダメージを背負いながらこれから忙しくなる厨房に足を踏み入れたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「――あっ」

 

「ん?…おぉ、ティオナ!」

 

「リョナ君!ホントに働いてたんだねー!」

 

 

徐々に忙しさが尋常じゃなくなってきた夜頃、賑やかな喧噪の聞こえてくるカウンターに出てくるとそこにはティオナが一人で座っていた。

パッと笑顔を花開かせる彼女の前には冷めたスパゲッティが置かれており、いくつかつついたような跡があるが半分ほどしか食べられていなかった。

 

ひとまずオーダーに目を落とした俺は昨日よりも僅かに減った注文を手早く頭の中に入れる、必要なグラスを効率よく並べていくと数を確認し終えた。

実は昨日よりは余裕があったりする、実は今日は昨日の激務を考えた結果作るのに手間のかかるメニューを幾つか減らしており、フロアはともかく俺と厨房の負担はだいぶ軽減されていた。

 

 

「で、今日はなんで来たんだ?お前一人で飯ってのも珍しいと思うんだが」

 

「ふふん!リョナ君のいるところに私あり、だよっ!…まぁホントはアイズからリョナ君がここで働いてるって聞いて見に来たんだけど…」

 

「へーそうか」

 

 

そういえば今朝アイズには俺が豊穣の女主人で働いていることを伝えていた、そこ経由でティオナにも話が伝わっていてもおかしくない、そして興味本位で来店するのも。

 

 

「でも何でここで働いてるの?転職?」

 

「いやまぁ内輪ネタなんだが、シル弁当というものがあってだな――」

 

 

表情豊かに笑うティオナと喋りつつ俺は酒を作り始める、いくら余裕があるとはいえ長話も出来ないが、せっかく来てくれたというのなら何かサービスの一つや二つしないことも無かった。

 

ティオナのテーブルを見る、食べかけの料理のほかには水のグラスが置いてあるだけで酒の注文などはしていなさそうだった。

 

 

「…ところでお前何かドリンクは頼んでないのか?」

 

「え、いや、頼んでないけど?」

 

「……そうか残念だな。お前のためだったら特別丁寧に作ってやろうと思ったんだが…」

 

「ッ!…待って!今すぐ注文するから!!」

 

 

瞳孔を見開きティオナは慌てて俊敏な動きでメニュー表を手に取る、パラパラと真剣にめくり始めた。何故慌てているかは知らないがどうやら飲んでいくらしい、ただの贔屓かもしれないが接客のようなことが出来て少し嬉しくもあった。

 

…が、隣から野太い横やりを入れられる。

 

 

「リョナく~ん♡私にも特別丁寧に作って~♡」

 

「うわぁ…やめろよ…」

 

 

話しかけてきたのはティオナの隣に座っていた常連だという冒険者の男とその後ろで笑うパーティ仲間の二人、ティオナの真似をしているのか赤ら顔で気色悪い声を出してくねくねと身体をよじりながら笑っていた。

名前は知らないが昨日カウンターをしていて知り合った三人組だ、こいつらとは年も近いし陽気だし悪ふざけが過ぎるところがあるが嫌いではなかった。

 

 

「リョナく~ん♡…うぇへぇむせたっ…ゴホォッ!」

 

「そんな喋り方すりゃあそうなりますわ…ちなみに特別丁寧ってのがリョナの本気だったら今俺達が飲んでるのは何なの?普通なの?特別普通なの?」

 

「俺達のはテキトーなのかよー!?」

 

「安心しろ、お前らのは特別テキトーだ」

 

「真面目に作れぃっ」

 

 

カウンター連中と喋りながら酒を作り続ける、大した量でもないしすぐに酒を用意し終えるとカウンターの上にあげた。

…本来ならもう厨房に戻るのだがまだこれからティオナが注文するし少しくらい待っても良いだろう、足を止めるとメニュー表を真剣に覗き込んでいるティオナに再び視線を落とした。

 

 

「でも良かったよなこの嬢ちゃん…というかロキファミリアの人…御方?」

 

「嬢ちゃんでも良いんじゃね?ともあれそうだなぁ、確かに良かったな」

 

「ん?何がだ?」

 

 

しきりに良かったと頷いている男達に首を傾げる、ティオナが良かったとそのまま言葉にすると何か卑猥臭がするがそういう意味ではないだろう。

尋ねると一人が肩を竦める、ちらりとティオナの方を盗み見るとメニューに夢中で話を効いていない事を確認した。

 

 

「…いや実はさっきまでこの嬢ちゃんつっまんなそーな不機嫌顔でメシ食ってたのよ。それがお前が来た瞬間これだ」

 

「そうなのか?」

 

「あぁ…何つーか雰囲気で人を殺しそうなほど暗い顔してたな…」

 

 

ほぼティオナの明るい表情しか見たことが無い俺にはそんな顔をしているところなんて想像も出来ない、精々奇跡的にタックル(あいさつ)を躱せたときにちょっと不貞腐れたような顔をされた程度だ。

とはいえ陽気な彼らが怯えているのも解る、一級冒険者冒険者であらせられるティオナ・ヒュリテ殿がすぐ隣の席で剣呑な表情を浮かべていたら怖いと思うのはレベル1や2の彼らにとって当然のことだった。

 

 

「はー全くこれだからイケメンは…」

 

「リア充爆発しろっ」

 

「でも正直羨ましいとは思わないっ…確かに可愛いけどあの手のアマゾネスとか死ぬまで搾り取られそうだし…」

 

「ヒモでも情夫(イロ)でも強く生きろよっ」

 

「「「末永く、お幸せにーっ!」」」

 

「…あ?何の話だ?」

 

 

息の合った連携で何か三人に言われたが喧騒にかき消され全く何も聞こえなかった、それに言うだけ言ってバッと顔を背けてしまったので答えもされなかった…微妙に腹が立つ。

何だこいつら、と思っているうちにティオナが満面の笑みで顔をあげる。

 

 

「リョナ君リョナ君、決まったよ!」

 

「ん、どれだ?」

 

「このカクテル!」

 

 

そういってティオナが指さしたのは果実系のカクテル、俺の世界で一番近いものといえばカシスオレンジなどが近い。

フルーティな口当たりの初心者向けの酒だ、アルコールも薄いし…正直未成年に飲ませるとか倫理的にどうなの?と思わないこともないがほぼオレンジジュースなので罪悪感も薄かった。

 

 

「ちょっと待ってな」

 

「うん!」

 

 

振り返った俺はタンブラーグラスを用意する、綺麗な氷を中に転がしリキュールと果汁の入ったボトルを取り出した。

どこかそわそわとしているティオナを尻目に栓を開け、リキュールとジュース1対4の割合でビルドし始める…手の感覚で計っているが、割合はベストマッチに出来ただろう。

先にリキュールを注ぎグラスを傾ける、縁から壁を這わせるようにゆっくりと回し注ぐと淡く二層に色が別れた。

 

出来上がった綺麗なオレンジ色のカクテルの出来を確認する、爽やかな酸味のある甘い匂いがぴりぴりと鼻先を刺激し、自分でも満足な出来に美味しそうだった。

カウンター越しにティオナの前にグラスを置くと彼女の目が嬉しそうに輝く。

 

 

「ほら出来たぞ」

 

「おぉー美味しそー!ありがとー!」

 

 

褐色の指がグラスを掴む、回すように綺麗なカクテルのニ色を見ると嬉しそうに微笑み口をつけた。

…まず驚き、次に笑み。目を見開き今一度カクテルを見下ろしたティオナは笑みを浮かべると再び一口カクテルを飲みこんだ。

 

 

「どうだ?」

 

「…うんすっごい美味しい!飲みやすいね、これ!」

 

「そうか、それは良かった」

 

 

笑みが漏れる、やはり自分の作ったものを褒められるのは嬉しいものだ。

楽しそうに酒を飲んでいるティオナを見おろす、年若い友人は良い笑みを浮かべており釣られてこちらも笑っていた。

 

…とはいえそろそろ帰らないとイーミンにどやされる、それなりに楽しい時間ではあったが厨房にもオーダーは来るし戻らなければならなかった。

 

 

「じゃあ俺もう戻るわ、ティオナもゆっくりしていけな」

 

「…えっ戻っちゃうの!?ちょ、ちょっと待ってよ!?」

 

 

軽く手を振りその場を去ろうとすると、愕然とした表情でティオナに呼び止められる。

足を止めた俺は振り返ると軽く腰を浮かせたティオナに眉を顰める、何が用事かは知らないが長居は出来ない、あたふたと視線を泳がせている彼女は「えーと!えーと!」と荒く呟くといつもの二割増し虚勢の笑顔で俺の事をズビシと指さした。

 

 

「私とお喋りする権利をあげよう!住み込み三食ご飯付き!」

 

「……何の話だ?」

 

「あっ今のナシッ!色々願望が混ざったっ!!」

 

 

願望?本当に何の話なのだろうか。

 

(うーん…)

 

一人で店に来て寂しいのは解るし、ティオナが喋り相手を欲しがっているのは一目瞭然ではあるのだが…俺も忙しいし構ってやってる暇も無い。

とはいえこのまま強行して行ってしまうのも可哀想だし(というか後が怖いし)、かといって満足するまで喋っていたらイーミンに殺されるだろう、どうすれば如何に早く切り上げられるだろうか。

 

 

「そのだね!…えっと…この前ヒノキブロ借りに行ったじゃない!?」

 

「おう、だから?」

 

「だから……その、また今度行ってもいい!?」

 

「あぁ?いや、まぁ別に構わんぞ?」

 

「そ、そっか!ありがと!!」

 

 

そう言って嬉しそうに笑うティオナに首を傾げつつ。

そういえばこの前業者が着て檜風呂を作っていった、出来上がった檜風呂はそれはもう素晴らしい仕上がりになっており、ついでに剣で開けた『地下室』への穴を床板ごと補強して閉ざしておいた。

 

(…)

 

で、その後ティオナがやってきたのだが。

風呂に入ると言って全裸を晒してきたり、身体を洗う事を要求してきたり、勝手にベッド上をごろごろしたり、少女を撫でたり夕飯をご馳走したり…あぁ何という暴虐の限りか、楽しかったが何となく妹のことを思い出して頭が痛くなった。

 

 

「で、話がそれだけならもう行っていいか?正直俺も忙しいんだが…」

 

「うぇ!?ちょ、ちょっと待ってよ…!…え、えっとさ…!?」

 

 

無限ループな気がする、これコイツが考えつく限り永遠に続くのだろうか。

いい加減テキトーに流すことを考え始めた俺は小さく息を漏らす、よっぽど俺の事を引き止めたいのか真剣に話題を考えているティオナをカウンターに頬杖ついて見下ろした。

 

暫く苦し気にうんうん悩んでいたティオナだったが何か思いついたらしい、パッと顔をあげ目を見開くとぶんぶんと激しいジェスチャーと共に口を開く。

 

 

「あっそうだ!この前聞いた面白い噂なんだけどね!えっと…確か名前は――神殺しの狼騎士(ウルフェンハザード)、だっけ?」

 

「はいはいうわさな…って、は?お前今なんつった!?」

 

「えっ?…あ、リョナ君興味あるのこの噂!?」

 

 

テキトーに聞き流そうとしていた俺の耳に聞き逃せない単語が入る、細めていた目を見開き思わず声を荒げてティオナを見ると「食いついた!」という顔を浮かべていた。

 

(…まずいな)

 

時間はこの際いい、今の一瞬で優先順位が入れ替わった。

暫く冒険者ギルドにも顔を出していなかったし彼らの間でどんな噂が広まっているのか知る由もなかったが、『神殺しの狼騎士』――つまり俺の事が話にあがっている。

それは逃げ出したあいつらが誰かに話したという事であり…完全に俺のミスだ、あの時は良いかと思っていたが、現状この力の露呈は死を意味する。

とはいえ噂、それに今襲われていない事を鑑みるに認知されているわけではなさそうだが、存在を知られること自体避けたかった。

 

(どこまでだ…?)

 

反射的に蒼い獣の紋章の刻まれた左手を引きながらティオナを見る、早急に噂というのがどれほどの情報を持つのか、真偽は確かなのか確かめなければならない。

だが同時に先ほどのように声を荒げては不審に思われるし、冷静に訊きだすことが重要になってくる。

 

一度呼吸を整えた俺は目を伏せる、改めて頬杖をつくと冷静を装って首を傾げた。

 

 

「…すまんな。で?その噂がなんだって?」

 

「うん!なんかねーえっとねー…!」

 

「うん?」

 

「…何だっけ?」

 

 

頬杖から頭がズリンッと落ちる、目の前でティオナは笑顔で首を傾げていた。

 

(コイツ…)

 

今日はいつにも増して酷い気がする、完全に期待を裏切られた俺はうめき声を漏らしながら上体を起こした。

 

 

「…おいお前ら。まさかあの噂してんのか?」

 

「なにぃ、知っているのか男A!?」

 

「おう知ってるぞ!…男えー?まぁいいか…」

 

 

先ほどの男の一人が喋りかけてくる、良いヤツだ、名前は知らないが。

だいぶ赤い顔でビールを一口飲んだ男はごくりと喉を鳴らすと息を漏らし、改めて俺と座り直したティオナを見て喋り始める。

 

 

「で、だな。その狼騎士っつーのはなんでも新種のモンスターだと」

 

「あっそうだ!それそれー!」

 

 

隣でティオナがしきりに頷いているのを尻目に流しながら、男に目を戻すと少し考えた後唇を舐めて喋り出した。

 

 

「確か…7階層だか4階層に出てきたモンスターだったか。噂によると遭遇したどっかパーティが迎え撃とうとしたんだが即何人か殺されちまって、残りの奴らは命からがら逃げだしたんだと。何でも強さが階層に全然合ってなかったらしいとか」

 

「ほーん…」

 

 

迎え撃とうとした、というのは多少語弊があると思うが大まか『あの時』の状況に合っている。それにモンスター扱いというのも…ある意味好都合かもしれなかった。

 

 

「…それで?」

 

「でよ、こっからが話の肝なんだが、そのモンスターの外見ってのが狼騎士っていうぐらいだから2m以上ある狼面の鎧巨人で全身から炎吹き出してるって話らしいんだがよ…いやそんなモンスターの見た目もありえねぇって話だが、それより何でも――喋るらしい」

 

「あっ私も思いだした!モンスターが喋るわけないじゃんって思ったんだよ聞いた時!」

 

「…まぁ、そりゃな」

 

 

どうも人語を話せる異様なモンスターと思われているようだが、外見の特徴が結構しっかり伝わってしまっている…よろしくはない。

 

 

「でー…いやまぁ、はなっから眉唾な話なんだが、その中でもとびっきりの眉唾がそいつの話した内容ってやつでな。枕詞になってるくらいだから察しはつくと思うが――」

 

「――神殺し、か」

 

 

俺が答えると男は少し顔をしかめて頷く、同時にティオナは呆れとともに鼻で笑っていた。

とびっきりの禁忌、ティオナはそうでもないようだがやはりこの世界においての神は向こうの世界と遥かに重要度が違う、道を歩けば目の前にいるのだから。

 

 

「神様への宣戦布告だと。まぁ噂は噂だし、本当にそんな化け物がいるかどうかも解らんけど、モンスターが神殺しとか…少し不気味じゃないか?」

 

「そうかなぁ、むしろそこが笑い話なんだと思うんだけど!神殺しとか確かに不謹慎なこと言ってるけど、不老不変の神様殺すってそれこそ冗談みたいな話じゃない?御伽噺(アルゴノォト)みたいなもんでしょー!」

 

「かー、一級冒険者様は違うねぇ!…最近ダンジョンも何かおかしいし、変な噂も出てくるし、いったいこれからどうなっちまうのかねぇ…」

 

 

…セーフだ。

危険視どころかいるかいないかもあやふや、それどころか笑い話として扱われているのであれば人の噂も七十五日というしすぐに忘れ去られる事だろう。

 

(良かった…)

 

身体の力が抜ける、元々素性がバレる可能性は低かったが今の俺には少女(アイツ)がいるし決して無理は出来ない。

生死の瀬戸際にはいない事に安堵した俺はゆっくり息を吐きだすと、会話している二人を見下ろし軽い笑みを浮かべてみせた。

 

 

「ふ…ま、おかしなモンスターもいるもんだな。ちなみにそいつについて他の噂とかってあるのか?」

 

「そうだなぁー…あー、聞いた話じゃ実はそいつは幽霊で、塩をまきながら踊ると苦しみながら去っていくとかなんとか」

 

 

なんじゃそりゃ、一気に質の下がった話に俺は眉を顰める、それ他の噂と混ざっていないだろうか。

 

(まぁ気を付けよう…)

 

けっこう詳しいところは詳しく伝わっている節がある、鉄を打つ能力は知られていないようだが逆にそれ以外の情報はかなり知られているようだ。

 

(ん…?)

 

そういえばあれ以来「催促の悪夢」は時折見るが「あの力」を発動していない、というかそもそもダンジョンにすら行ってすらいない。

であればあの力も自分の一部ではある訳だし本来ならば何回か使って試してみる必要があるのだろう、しかし本能でなんとなく解る節も大きいのも事実だ。

 

特に鉄を打つ能力なんかも感覚だ、よくよく考えれば形を思い浮かべて燃やすだけで鉄が変形するというのも物理法則を無視している。

そして本能が「大きい物や硬すぎるものにはもっと火力(カウント)が必要だ」と教えてくれており、鉄の形状変化のほかに硬くしたり柔らかくすることも可能だということも解っていた。

 

…なのだが今一度自分の能力を考えると何かが引っ掛かった、喧騒の中で大きく首を傾げた俺は暫く長考した後、閃いた。

 

 

「――あっ!?…うわぁ…」

 

 

気が付く、俺の能力で小さい金属なら時間こそかかるがある程度複雑に鋳造できるということを――それこそ機械パーツのような。

 

(ぎゅるぎゅる丸…なんで今まで気がつかなかった!?)

 

今まで普通に鉄を打ってぎゅるぎゅる丸を直すことしか考えていなかったが、よくよく考えると俺の力を使えば一発で解決する話だった、何を難しく考えていたのだろうか。

それに壊れたパーツは一部現代の特殊素材が必要でこちらの世界では修復不可能だったので代用を考えていたのだが、むしろ自分の能力で作れば自由がきく、加工技術も必要なければ何なら素材も特別なものを必要としなかった。

 

…思わず遠い目になる、いくら最近手に入れた力とはいえ普通気がつくだろう普通。それにけっこうぎゅるぎゅる丸で悩んでいたし苦労していたしでこんな身近な解決策が灯台下暗ししていたというのは少しだけショックだった。

 

 

「どうしたのーリョナ君?何か打ちひしがれたみたいな顔してるけど」

 

「いや…自分の愚かさが嫌になってな…」

 

「へーリョナ君にもそんなことあるんだ!…まぁあんま気にしない方が良いんじゃない?何に悩んでるか知らないけど!」

 

「おぅ…」

 

 

ティオナの言う通りあまり気にすることでもない、元より別に急ぐ必要も皆無だったわけだしむしろ全くの手探りで鍛冶を始める前に気が付けて良かった。

それに直せるか解らない不安が消えただけマシだろう、確実に直す手はずがそこにはあった…という元から手の中にあった。

 

(…ふむ)

 

とはいえそのためにはダンジョンに行く必要がある、攻撃回数を稼がなければならないし…まぁ家の中で鎧を纏ったとしても誰に気が付かれることも無いだろうが、もし蒼い炎を見られたらと考えるとリスクが大きすぎた。

 

…となると久しぶりにダンジョンだ、流石に腕がなまっているということは無いだろうがカウント1000稼がないといけないのは変わらないので時間がかかる。

となれば早朝ぎゅるぎゅる丸のパーツを持ってあのマーニファミリアの店に行き、元となる素材を買ってダンジョンに行くことになる。少し身重になるかもしれないが、そこまで深い階層に行く必要も無いので危険もそれほどない。

 

むしろ問題はいつ行くかだが…明日行って良いぐらいだ、どうも問題を抱え込んでいるというのは性に合わなかった。

 

(…よし)

 

――明日ダンジョンに行こう、別に明後日でも明々後日でも構わないがこういうのは早めに終わらせておくのが吉だ。

ベルとの約束もあるし、やはり手慣れた武器を早く手元に戻しておきたい。

 

そう決めた俺はカウンターで一人頷く、カウンターからティオナの疑惑の視線を感じながら明日になったらダンジョンに行こうと自分の中で決めたのだった。

 

 

…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…おい、リョナ」

 

「あ」

 

 

ところで俺の決意と厨房の忙しさに関係があるのだろうか、いやない。

ないのでサボりは正当化されるわけもない、ご立腹の様子のイーミンがいつのまにか隣に立っており、青筋を浮かべながら充血させた目で俺の事を恨むように俺の事を睨みつけており、ストレスでなのか赤い髪を一筋咥えていた。

そして…その手には包丁が。

 

 

「い、イーミンさん?厨房から包丁持ってきちゃったのカナー!?危ないですヨー!?」

 

「…あぁこれか?これはただのサボり魔に刺す棒だよ、既にシルを仕留めてきた」

 

 

いやシルさんは死んでないと思うんですけど。

ただ相変わらずこいつ殺気だけはある、今朝は自暴自棄気味だったため狙いがブレブレだったが、今は的確に腎臓辺りを刺してきそうだった。

 

…深くため息をついたイーミンは肩をおろす、包丁をおろすと浸かれたように殺気を潜め空いた手で俺の胸倉を掴んできた。

 

 

「ふん…戻るぞ!」

 

「うおぉ!?」

 

 

ぐいと上半身を引き下ろされ体勢が崩れる。前のめりにイーミンの肩が近くなると、そのまま襟を引っ張られ前のめりに引きずられ始めた。

…まぁ無傷のお迎えなら上々なのだろう、子供に引きずられるようかの姿のまま包丁を持った彼女のことを間近で見下ろすと俺は若干の気恥ずかしさに眉を顰めた。

 

 

「ちょっとぉ私がリョナ君と喋ってたんだけどー!誰だか知らないけどいきなり連れてこうとしないでよ!!」

 

「む…客か」

 

 

そのまま厨房に戻ろうとしていたイーミンの足が不機嫌気なティオナの声で止められる、お互い不機嫌そうな顔でカウンター越しに視線を交錯させると若干お互いを睨みつけた。

 

(…何だこの殺気?)

 

縄張り争いする天敵同士が遠目から威嚇しあうような。

カウンターという垣根がなければお互い即座に胸倉を掴み合いそうなガンのつけ方だ、恐らく初対面同士だと思うのだがそれとも以前何か不俱戴天的な因縁でもあるのだろうか…まぁ世の中気に入らない奴の一人や二人いるのが人の世でもあるのだが。

 

イーミンに襟を掴まれたまま俺はただならぬ敵意を出している二人を見比べる、このまま喧嘩になったら勝つのは確実に腕力に軍配が上がるティオナの方だが、巻き添えで俺が死ぬ可能性も充分以上にあった。

だがむしろ女の闘いとは純粋な拳より舌と頭の戦いだ…いや俺も詳しくないが、むしろそういう口喧嘩を始めたら年上のイーミンの方に軍配があがるような気がした。

 

一瞬即発…なのか知らないが二人はそのまま無言で睨み合う。

少しはらはらとする俺の前で、意外にも早く視線を逸らしたのはイーミンの方だった。深くため息をついた彼女は目を閉じると、一度俺の襟元をぐいと近づけ呆れた視線をティオナに送り付ける。

 

 

「…こいつの予定はもう私との(というか厨房の)先約で埋まってるんだ。こいつとアンタにどんな関係があるのかは知らないけどな、客の都合でいつまでも拘束されてるとハッキリ言って、迷惑だ」

 

「なっ…!?」

 

 

いやむしろお前の方がはっきり言いすぎなのでは、とはいえ接客慣れしていないイーミンに求めてはいけない。しかしかのティオナ・ヒリュテ一級冒険者様にこの大口を叩けるのは…彼女が一般人だからだろう、知らない相手に抱く訳も無し、冒険者ならば力量差に恐れをなすだろうが、常に不遜なイーミンにはティオナの姿がただの迷惑な客としか映っていなかった。

 

 

「…なんだなんだ喧嘩か!…ってありゃあ片方『大切断(アマゾン)』じゃねぇか!?」

 

「アルファ…!」

 

「俺の目的はアマゾンを一匹残らず潰すことだ」

 

「何お前ら溜まってんの?」

 

 

対立する敵意同士に徐々に喧嘩好きの野次馬根性猛々しい店中の冒険者たちの視線が集まってきた。一部ティオナを見て奇妙な発言をしている輩がいるようだがきっと酒のせいで前後不覚になっているのだろう、可哀想に。

それに女同士というカードも珍しい、片方がこちらの界隈では有名なティオナであれば尚更だった。

 

いとも容易くイーミンに吐き捨てられたティオナはふるふると震えている、いくら冒険者で戦闘面のメンタルは強いといってもこっち方面の精神力はただの十代でしかないためだいぶダメージを受けたようだ…こっち方面というのがどっちの方面なのかは知らないが。

 

(…でも立場的にはイーミン側に立った方が良いんだろうなー)

 

そも俺は厨房に戻らなくてはならなかったわけで、帰るタイミングを作ってくれたイーミンは味方なのだろう、それにお互い何で敵視しているかは知らないが少なくともイーミンは至極真っ当なことを言っている。

 

…ここは後でティオナに殴られることを恐れずにイーミンに助勢するべきなのだろう、ティオナが不機嫌になりかねないが店の事を考えるなら最善だった…肋骨の一本や二本は覚悟するしかない。

 

なんて、俺が迷っているうちにティオナは顔を赤くしながらイーミンに食って掛かっていた。

 

 

「――べ、べ、別に迷惑とかかけてないし!そっちこそ先約とか言ってリョナ君のこと独占しようとしないでよこの泥棒!!」

 

「はぁ?泥棒呼ばわりとは大層だな、別にこいつはお前のものじゃないだろ。それに独占とかくだらんな、お気に入りのおもちゃとられて不機嫌な子供かよ」

 

「なぁっ!?」

 

 

やはり口ではイーミンの方が上か、精神年齢的にも殆ど実力差は拮抗していると思うのだが冷静な分イーミンの方が口回りが良いようだった。

 

(というか止めないとなぁ…)

 

このままだと二人は確実に喧嘩し始める、そうなると俺が巻き込まれるのもそうだが仲裁とか面倒くさすぎて想像を絶する。

だが今もうこの状況が軽く理解を超えているのだから仕方ない、発射された弾丸を弾倉に戻す方法なんてこの世の中にあるのだろうか。

 

どうすれば事態の収拾が出来るかぼんやり考えながら、俺は二人が無意味な闘争を始めるのをただ見送るのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

はっきり言おう、そして自分の非を認めよう。

 

――状況は、悪化している。

 

いや言わずもがなじゃねと、こうなるのは目に見えていたはずで、きっと何かしらの解決手段もあったはずだ、いや無くとも何とかして止めるべきだったのだ。

だが目の前で加速度的に絡まっていく紐を解く方法は困難を極める、止める事の出来なかった事態を前に、俺は湧く冒険者たちの喧騒の中でキャットファイトをしている二人を見ていた。

 

…叩いて被ってジャンケンポンをしている二人に。

 

 

「――この貧乳!」

 

「お前もだろぉぉぉぉぉ!この赤毛チビぃぃ!」

 

「言ってはならない事を言ったな貴様ぁぁぁぁぁッ!!」

 

 

振りかぶられる丸められた紙束、がごんとそれを弾くお盆、剣と盾の乗せられた小さな机を挟んで罵り合う彼女達は激しい攻防を繰り返しており、殺傷能力の無い紙束にも関わらず互いに真剣なせいか当たったら本当に死にそうな威力を持っているように見えた。

 

ため息が漏れる。最初はただの口喧嘩だったのだが、次に取っ組み合いの喧嘩になり、何故か良い勝負になってしまい、女同士の寝技の応酬という物好きにはたまらない展開になった…泥沼とも言う。

そこでいつまでも終わらないというかそもそも勝利条件のはっきりしない戦いに俺がルールを決め、試しに叩いて被ってジャンケンポンを教えて見たのだが、これでも決着が決まらずかれこれ10分以上やっている。

 

どちらも一歩も譲らない戦い、力量差を考えればティオナが圧倒的なはずの戦いは何故か互角で進んでおり、紙がお盆を叩く激しい攻防が繰り広げられていた。

…何が二人をそこまでかきたてるのか解らないが、絶対に負けられない意地がそこにはある。終わらない闘争に呆れた俺は正座のままもうひとたび、深くため息をついた。

 

 

「リョナさん」

 

「うおっ!?…リューさんか」

 

 

いつのまにか忍者のように背後に立っていたリューにびくんと肩を強張らせる、振り返ると澄ました顔の彼女が立っていた。

俺の身体の端から繰り広げられる激戦を覗き込んだリューは軽く目を細めた後、少し怪訝な視線を俺に向けてきた。

 

 

「これは…一体なぜこのようなことに?」

 

「いや俺にもさっぱり…プロレスが長引いたんでルールを決めたんですけど全然終わらなくて…」

 

「…そうですか、ですが困りましたね…」

 

 

リューが眉を顰める、それもそのはずあの喧嘩のせいで店は営業を続けられていない。

元々ぎりぎりの人数での営業だったのにも関わらず二人サボっている状況、それにただでさえ俺が何人分かの働きをしていたので、現状店は正常な機能は保ててはいなかった。

 

その結果がこのどんちゃん騒ぎでもある、ミア母さんがいなければこんな無礼講とうてい許されなかっただろうしこれを止めるのも俺の役割だったのだが…止められなかった俺の責任もある、そこは単純に申し訳なかった。

 

 

「ふぅ…解りました。では彼女達は私が止めておきますので、リョナさんは厨房に戻っていただけますか。コハルだけでオーダーをこなすことはできませんので…」

 

「あ゛ぁ゛ー…」

 

「…なにか?」

 

 

思わず喉奥から声が漏れ、リューに首を傾げられる。

…恐らくそれが最善の選択だというのは理解しているし、最悪それならば何とか無理すれば店を回せることも知っていたが、同時に俺にはここを動けない理由もあった…居たいわけでは無いのだが。

 

 

「…ちょっとリョナ君こいつ今お手付きしたんだけどぉ!?その場合は即敗北でいいのかなぁ!!?」

 

「はぁー!?今のはどう考えても触ってなかっただろ!どうなんだリョナ!!」

 

「…いや、見てなかったんだが」

 

「「はぁぁぁッ!!?」」

 

 

素直に言うと二人は鬼のような形相を浮かべドンと机を拳で殴る。俊敏にこちらに駆け寄ってくると、ブチ切れた様子で俺に腹パン数発スネ蹴り数回息の合ったコンビネーションでドスドスドスと素早く叩き込み、再び机に戻って再開した。

…どうやら今のはノーカンになったらしい、瞬間的に与えられた俺の痛みは消えないが。

 

 

「ブー!」

 

「ちゃんとジャッジしろよぉー!」

 

 

腹を抑えた俺に周りの冒険者がこぞって親指を下にさげてくる中、リューさんが膝をつきかけた身体を支えてくれた。

 

 

「ぐふぅ…」

 

「大丈夫ですか?…というか今のは?」

 

「いやぁ…何か審判役をやれと……」

 

 

生半可にルールを教えたのが不味かった、ゲームの第一人者としていつのまにか審判役にさせられていた。

そして不備があれば暴力、逃げようとしても暴力、まき散らされるブーイング、道具のように扱われる時間、また暴力。

 

つまり痛みに屈した俺はそんな理由があって動けずにいた…奴隷かな…。

 

 

「…なるほど、なんにせよ先に彼女達の戦いが終わらない限りリョナさんは動けないということですか」

 

「あい…」

 

「…」

 

 

ふらつきながらも何とか立った俺から支えていた手を離したリューは二人が行う高速の戦いを見ながら黙り込む、状況が理解不能過ぎて例えあのリューさんであっても解決策を探りあぐねているようだった。

 

(何で喧嘩してるのか解ればまだ仲裁できるんだがな…)

 

何か問題があるなら合間に割って入れるものをこいつら何で喧嘩しているのかイマイチよく解らない。

それに何故か決着がつかないのも問題だ、ティオナが手加減しているのかイーミンが頑張りすぎているのか知らないが両者とも一進一退の攻防を繰り返しており、激しいドラマが生まれる度冒険者達は湧いていた…むしろ早く決着がつけばいいのだが、両者の実力が拮抗している分だけグダグダと勝負が長続きしてしまっている。

 

絶対に負けられない戦いがそこにはある、しかしそれで他人にかかる迷惑というのも考えてほしかった。

 

 

「はぁ…ん?」

 

 

呆れながらふと見ると、きょろきょろとあたりを見渡す黒髪おさげのコック女が、喧騒に参加せず料理を食べている黒く長いフード付きローブの近く、バックヤードに続く扉から店の中を覗き込んでいた。

 

(あぁ、コハルが出てきたのか)

 

おおかた戻ってこない俺達と溜まっていくオーダーに耐えきれず様子を見に来たのだろう、しかし男性恐怖症である彼女にとって男冒険者達のひしめくフロアは厳しすぎる。

実際長い前髪から店内を覗き込んでいるコハルは大きな体を小動物のように縮こまらせており、警戒するように辺りを見回しながら誰かの声がする度ビクッと肩を震わせていた。

 

(…声をかけるのが良いんだろうが)

 

怯えているコハルが男ひしめく店内を横切ってこちらに来れるとも考えにくい、それに彼女にとってはこの空間にいるだけでストレスになると思うので、出来る限り早く帰してあげた方が良いだろう…気絶されないためにも。

 

ただ問題は声をかけようにも俺がここを動けないという事、動こうとすればまた殴られるし、結局二人の戦いが終わるのを待つしかない。

絶賛じゃんけん中の二人に目を向ける、本気で命のやり取りをしているかのような二人は何故か服がボロボロになっており、体には幾つもの痣を作って…これ叩いて被ってジャンケンポンだよな?と思わず疑ってしまうほど激しく、勇ましかった。

 

――絶対に負けられない戦いがここにある、何が彼女達をここまで必死にさせるのか解らないので共感は出来ないがともかくお互い全力でお盆を叩いたり叩かれたりしていた。

 

 

「「ッ…!」」

 

 

しかしそんな戦いもついに終局を迎える、高速でやりあっていた両雄…訂正、両雌は一度距離をとると睨みつけ合う。

既に双方満身創痍、片や一級冒険者であるティオナでさえ続く連戦に息も絶え絶えになっており、イーミンは…何がお前をそこまで焚きつけるのか知らないが死にそうな表情を浮かべそれでも闘気に満ちた鋭い視線をティオナに送り付けていた。

 

誰かが息を飲む、騒いでいた冒険者達も何かを察知し黙り一瞬のうちに静寂が訪れる。

次で勝負で決まる、示し合わせたように誰もがそれを察知し張り詰めたその場にいる誰もが緊張に肩を強張らせた。

 

そして――ついに、戦いが始まる。

 

 

「「じゃーんけーん…!」」

 

 

二人が動き始める、拳を引き、腰を落とした構えからゆっくりと身体を回す。

集中と、観察。いかに早く相手の頭に紙束を叩きこみお盆でガードするか、そしていかにじゃんけんで勝利する運を引き寄せるか。

 

勝つ、疑わない事だ。迷いは敗北を呼び込み、コンマに生きる彼女たちにとって一瞬の油断が死を招く。

 

既に何十回と戦ってきた相手、互いに次の手を予測し、勝利を欲した。

気持ちでは負けていなかった、例え素の身体能力で圧倒的であったとしてもどちらが勝ってもおかしくなかった――そう、こと叩いて被ってジャンケンポンの世界では。

 

…叩いて被ってジャンケンポンってなんだっけ?

 

 

「「……ぽん!!」」

 

 

ともあれ手が出された、その瞬間。

時間を止めねば解らない程の刹那、二人の手はイーミンがパーに対し――ティオナが、グー。

 

イーミンの勝利、しかし本当の勝負はここから、叩いて被ってジャンケンポンはまだ終わらない。

 

先に手を出したのはイーミン、机の上の紙束をティオナよりも早く寸分たがわぬ動きでつかみ取る。精神的動揺はなかった、何よりここで勝利を引き寄せることを信じていた。

振りかぶる、今までの全ては準備にしか過ぎない、紙束を万力の力で掴みこみ、踏み込み、一瞬でも早く打ち込むためにイーミンは全てをかけていた。

 

反対にティオナは、動揺していた。

負けた自分の手に目を見開き、判断が遅れる。

慌ててお盆を手に取り防御姿勢を構えるが、明らかにイーミンの一撃に耐えられるほどの構え方では無かった。

 

 

「うりゃああああああああああああああっ!!」

 

「くっ…!?」

 

 

ついに勝者が決まるか、紙束が振りかぶられる。

最初こそティオナの圧倒的優勢かと思われた勝負はイーミンの勝利で――

 

 

「あいだぁッ!?」

 

「…はっ!?」

 

 

――イーミンは紙束を横に振り抜いていた。

 

ちなみに俺のシマでは普通に反則である、というかそんな行為が許されるルールなど聞いたことが無い。

身体の軸を回転させイーミンは紙束で思い切りティオナの手の甲をはたく、勢いに乗ったそれは柔くお盆を持っていたティオナの手を強打し離させると、盆を空中に飛ばしていた。

 

(…まずい!?)

 

衝撃の結末、まさかのイーミン反則負け。最後の最後で動揺したか知らないが行われる明らかなルール無視に誰もが息を飲み幕切れにため息をつき戦いは終了の予感を見せた。

 

のだが、むしろ問題は弾き飛ばされた鉄製のお盆の方だ。

ティオナの手から離れたお盆はかなりの勢いでフリスビーよろしく空を飛び、鉄製のお盆が誰かに当たれば怪我をしかねない

だが幸いなことに普通に食べていた冒険者達の机に突っ込み、テーブル上のものを弾き飛ばしながら何とか止まった。

 

しかし奇跡とは得てして起こるものである、少なくとも鉄製のお盆で怪我する物はないと安堵した刹那机の上に置いてあったどんな因果かワインボトルが宙を飛んだ。

某ピタゴラなんとかを彷彿とさせるテコの原理が作用する、ガコンッと挟まりこんだお盆はグググと力をため込むと、吹き飛ばされた力をそのまま勢いよく返した。

 

そして――その先には、コハルがいた。

 

綺麗な放物線を描くワインボトルの先にいるコハルは長い前髪のせいで自分に危険が迫っていると気が付けてさえいない、それに周りの人間もまた言い争いを始めた二人を見ていてリューさんも気が付いていないようだった。

解っているのは俺だけだ、ガラス製のボトルは勢いよく飛んでいるしまだコルクが閉まったままなので中身も詰まっている。あの重さのものが当たるのはどこだろうと怪我は必至だし、ただの一般人である彼女にとって当たり所が悪ければ最悪本当に死にかねない、叩いて被ってジャンケンポンなど比較にならない危険がそこにはあった。

 

 

「――ッ…!」

 

 

また一歩何も考えずに走り始める、既に空中にあるボトルを止めることは出来ない。

 

(間に合えっ…!)

 

置いてあった椅子を蹴るように踏み台にする、次に出した足で机を踏みつけ大きく跳んだ。

飛び越えた足元から全ての冒険者とティオナとイーミンたちの驚きの声があがるのを無視し、置いてある机たちを短距離走よろしく踏んでいくと幾つかグラスを倒して水が撥ねた。

 

速度を計算する。ボトルは緩やかに、だがかなりの速度で放物線を描き、回転し、コハルの頭部を目指している。

掴むのはきっとリューさんでも無理だ、それだけの速さと足場の不安定さがあるし、何より向かってくるボトルを掴むのと、飛んでいくボトルを追って掴むとなるとまた話は別となる。

故に選択肢は二つ、片方は彼女を突き飛ばすか合間に入るか、どちらか、何も考えずに飛び出した俺には決めあぐねていた。

 

 

「えっ…!?」

 

「コハルッ!」

 

 

机を渡り飛んでくる俺にコハルは前髪の下で目を見開く、そして同時にその上でこちらに飛んでくるボトルの赤紫色に気がつき困惑した表情を浮かべた。

まぁ一種の恐怖映像でもある、例え男性恐怖症でなくても大の男の必死な全力疾走の矛先が自分というのは恐ろしいものだし机の上を跳んでいるとなると尚更だ。

 

だが体面を気にして何も守れないのは真の愚か者だ、例えカッコ悪く立って迷惑かけたって、結局守れたか守れなかったかの違いでしかない。

 

最後に黒いローブの冒険者のいる机の端を踏み床に降り立った俺は全身全霊で前に進む、困惑と驚きと恐怖を口元に浮かべたコハルを目前に俺は床板を軋め、後先の事など考えず――

 

 

「ッ…!?」

 

 

――跳びつき、抱きしめた。

柔らかな感触など考えず全身を守れるように身体を近づけると、飛んでくるであろうグラスに対し覚悟を決める。痛いは痛いだろうが恩恵の与えられた俺の身体ならば怪我をすることは無いだろうし、彼女の脆い身体が怪我をするのに比べればまだマシだった。

 

(…!)

 

身体を強張らせ、背中に意識を集中させ痛みに耐えることだけを考える。

大きく重いボトルは果たしてどれだけの破壊力を持っているのだろうか、今まで避けたことはあってもまともに受けたことが無い痛みはもしかして大したことも無いかもしれないが、万が一怪我することも頭に浮かんで消えた。

 

息を大きく吸い、大きく吐く。覚悟完了している俺は背中に当たるボトルを待った。

 

 

「…?」

 

 

いつまでたっても来ないボトルに俺が疑念を抱いたころ、サクリという微かな音が耳に届く。

いや正確にはデジャブのように疑念を抱く少し前にその音は届いていた、しかし余りに小さく軽快な音は何か判断するにはあまりに微かで解らなかった。

 

(何が…?)

 

音を確かめるためにコハルを抱いたままゆっくりと振り返る、いつまで経っても当たらないワインボトルを見ようとするとそこには――

 

――黒ローブの冒険者が立っていた。

 

 

「…!?」

 

 

視線を遮った全身を覆う黒いローブ、後ろからはその顔も見えずただ片腕を持ち上げていることだけ解った。

こいつがボトルを止めてくれたのか?目を開いた俺は視線を上げ、ふとなぞるように伸びた腕先を見るとその手には一般的なフォーク、そして信じられないことに三つに分かれた刃先に『ワインボトルのコルク』は深々と突き刺さっていた。

 

()()()()()()ッ!!?んなアホなッ!?)

 

飛んでくるボトルにフォークをぶつけるのはそう難しくない、それにコルクにフォークを突き刺すのも簡単だ。

だが空中で回転するボトル、その先端についたコルクにフォークを突き刺すのはとんと難行になる、たった簡単な事を二つくっつけただけで遥かに難しくなるのだから人間の能力は(ひとえ)だ。

 

見ていなかったため解らないがそれは神業だったのだろう。回転するボトルの部位で一番速い先端に狙いを定め、重いボトルを細いフォークで支え刺す。それは常人が起こせば奇跡に並び数えられるほどの行為であり――この神のいる世界では話の種にもなりえない、きっとこいつにとってこの英雄譚は道端の石を蹴飛ばすより簡単だったのだろう。

 

瞬時に理解する、目の前にいる黒ローブが凡百の冒険者ではなくティオナやアイズに属する『高レベル冒険者』なのだと。

 

 

「…なぁあんた、助かった。ありがとう」

 

 

同時に助けてくれた相手だ、誰なのかは知らないがその背中に感謝の言葉を述べた。例え格上であろうとも助けてくれた事実は変わらないし、恐怖を抱く必要もない。

それでも少し動揺しつつもごく自然に出てきた言葉に黒ローブはぴくりとも反応せずただ静かに腕をおろし、フォークからボトルに手を持ち替えた。

 

(…?)

 

沈黙している黒ローブに眉を顰める、顔すら見えない冒険者は助けてくれたわけだし悪いヤツではないと思うのだがなぜか目の前に立っている恩人は黙りこくっていた。

別に特段顔を見たいとかそういう訳ではないのだが少し不自然である、自分が助けた相手から感謝を受けてなんの反応も示さないどころか顔も向けないなんてことがあるのだろうか。

 

 

「…あの?」

 

「…」

 

 

再び声をかける、すると今度は肩をぴくりと反応させたそいつはゆっくりと振り返ると俺の方を見た。

 

(っ!…イケメンだな)

 

金髪と碧い瞳、そして細く整った容姿。

黒いフードで顔しか見えないその男は控えめに言って美しい、少し眉を顰めたように冷ややかで鋭い視線を俺に向け、極めて冷静な氷のような表情で俺の事を見据えていた。

 

ある意味特徴のない中世的な顔ともいえるが整い方は綺麗であり、放たれた矢の鋭さを思わせる雰囲気は男らしさを思わせた。

 

 

「お…あぁ、誰だか知らんが助かった。ありがとう」

 

「…」

 

 

改めて感謝を口にすると男は何も言わずに頷く、静かな動きでフォーク付きのボトルを掴むと元居た机の上に置いた。

 

(…てか誰だコイツ?)

 

客の一人なのは間違いない、そして高レベル冒険者であるというのも予測できる。

しかし辛うじて都市最強(オッタル)は知っていてもそれ以外の人間の顔と名前などいちいち記憶していない…二つ名とか覚えづらいモノばかりで覚える気すらしなかった。

かなりの美形だし、恐らく有名なのだと思うのだが…。

 

 

「リョナさん、大丈夫ですか?」

 

「お、リューさん」

 

 

ごったがえした客の集団を迂回してリューさんが正規ルートを歩いてくる。心配気な表情を浮かべたその顔は少し不安げなそれが混ざっており、どうも反応に遅れたことを少し悔いているようだった。

ツカツカとこちらに歩んでくる彼女はふと視線を横に向ける、そこに立った黒ローブの男を見ると少し驚いたような表情を浮かべた。

 

 

「あなたは…!」

 

「…!」

 

 

黒ローブの男は目を険しくする、どうも知った風なリューから顔を隠すようにして振り返ると、躊躇いなく歩き始めてしまった。

足早に出口へ向かう男の背中をリューと共に見送りながら半ば困惑すると、カランコロンと音を鳴らして外に出ていってしまった後に肩をおろした。

 

 

「ってアンタ勘定は!?…っと」

 

 

慌てて見ると、今まであいつの居た机の上に幾つか金貨が置いてある。

 

(几帳面と言うか…)

 

無駄以上にかっこいい、つまり無駄じゃなく格好いい。

明らかに大きな釣りが来る程の金額に食い逃げじゃない事に安堵した俺はため息をつく、出口に目を向けたままのリューに視線を戻すと彼女にしては珍しくかなり驚いている様子で眉を大きく上げていた。

 

 

「で、リューさん。あれは誰なんです、知ってるイケメン?」

 

「…知らないのですか?あれは――レベル5冒険者のオリオ・シリウス、二つ名を『閃輪(サイス)』」

 

「…オリオ・シリウス…?」

 

「ここ数年姿を見せなかった彼が何故このようなところに…?」

 

 

口の中でリューに教えて貰った名前を呟く、どうもそれがあの男の名前らしい。

閃輪という二つ名はともかくレベル5、ティオナと同じレベルで、リューよりも一つ高い強さ、そしてレベル1の俺と比べれば4も違う、それは天と地ほどもの差があった。

 

机の上のコルクに刺さったフォークを見る、前衛的な芸術作品のようにも見えないことも無かった。

だが親切なことは確かだろう、助けてくれたしきっと良いヤツだ。少しリューさんが深刻気な表情を浮かべているのが気になったが、別に俺とは無関係な話なのだろう。

 

(うーん…まぁいいか)

 

何か頭に引っ掛かった気がしたが気にしないことにした、何より全て事態は終わったわけだし、そんな事を考えている暇があるならば後を処理しなくてはならなかった。

 

例えば腕に抱いた男性恐怖症の女の子、とか――

 

 

「ひゅぅ…!?」

 

「あっ!す、すまん!」

 

 

――すっかり忘れていたコハルは俺の腕の中でブルブルと震えながら俺の事を前髪の隙間から見上げていた、仕方がなかったこととはいえ男性恐怖症の彼女には刺激が強すぎた。

慌てて腕を離すと数歩下がる、密着していた柔らかな身体は締め付けていた俺の腕から解放された今でも恐怖に震えており、その顔は青ざめて俯いていた。

 

 

「…すまん」

 

「あ…うぇ…」

 

 

改めて頭を下げる、守る為だったとはいえ考えなしの行動だ。

男性恐怖症の彼女にはかなりの恐怖だったと思うし、傷つけてしまったかもしれない。

 

(辛い…)

 

そう思う程度には。

 

真剣に頭を下げた俺にコハルは少し動揺したようにあたふたと手を動かす、きょろきょろと周囲を見渡しリューの事を見つけるとぱたぱたと駆け寄りその手を掴んだ。

 

 

「ふむ?…なるほど。リョナさん」

 

「…はい?」

 

「彼女からの伝言です…ありがとう、と」

 

 

顔をあげた俺はリューの言葉に目を見開く、全くもって予想外な言葉に虚をつかれた。

てっきり更に嫌われたものと思ったが、思えば抱きしめて気絶しなかったし一日二日のことではあるが好感度は感謝されるまでに上がっていたらしい。

 

(良かった…)

 

報われた、ただそれだけのことで嬉しい。

思わず軽い笑みを浮かべてコハルの事を見ると茹で上がるように顔を真っ赤にさせてリューの陰に隠れてしまった。新しい反応だ、悲鳴をあげて逃げられるよりも全然マシだった。

 

 

「なんですコハル?…解りました、では私もついていきます。リョナさんも二人の戦いが終わったのですから早く厨房に戻ってください」

 

「ん、解りました。すぐ行きます」

 

 

恥ずかし気なコハルに急かされリューは目を細め俺に軽く会釈した後コハルと共に、すぐそばのバックヤードへと続く扉に消えた。

それをいい気分のまま俺は見送ると、安堵のため息をゆっくりとつき一度喧噪で騒がしい店内に目を向けたのだった。

 

 

「リョナ君!大丈夫だった?」

 

「リョナ!コハルは!?」

 

 

今度は喧嘩をしていた二人が小走りに俺のところまで来た、ティオナはそれほどでもないがイーミンはかなり必死な表情を浮かべており、既にいないコハルを探してぶんぶんとあたりを見渡し始めた。

…それもそうか、自分のせいであんなことが起きた訳だし責任を感じてもおかしくない。

 

 

「おいリョナ答えろコハルはいったいどこに…!?」

 

「ん、コハルなら先に戻ったぞ?」

 

「そ、そうか!それは良かった…!」

 

 

良かった?安堵している様子のイーミンに少し「それは少し違うんじゃないか」と疑問に思う。

いくら悪気が無かったとはいえ、怪我をしなかったとはいえ、その手前までは行ったわけだし…少しは申し訳なく思って然るべきなのではなかろうか。それにコイツには色々言いたいことがある、何で店が忙しいタイミングで喧嘩しなくてはならなかったのかとか問いたださなくてはならない点が多々あった

 

 

「おいイーミン、そもそもお前があんなめちゃくちゃな振り方しなけりゃあんな事故も起きかねなかったんだ、解るか?」

 

「うっ…確かにそうだがお盆でボトルが飛ぶなんて予想できるわけないだろ!?あの時は夢中で…!」

 

「確かにな、だがそもそも何でお前客と喧嘩してるんだよ。そこで夢中になるのがおかしい」

 

「むぅ…!」

 

 

未だに何故コイツラが喧嘩し始めたのか解らない、目と目が合ったら勝負とかそういうことなのだろうか。

少し苛立たせた言葉でイーミンを責める、ガチの説教にイーミンは顔を伏せ悔しさを滲ませると拳を握っていた。幾つか問題点を丁寧に説明し、反省点を述べていくとイーミンも理解してくれたようでゆっくりと頷いた。

 

 

「やーい!怒られてやんのー!」

 

「なっ…!?」

 

 

あぁもうまたそういう煽り方するから…。

せっかく落ち着きかけたイーミンがまた怒りの表情でティオナを見る、止める間もなくまた睨み合いを始めるとそのまま第二ラウンドに突入しそうな勢いだった。

 

 

「こいつ…!」

 

「ふふっ!悔しかったらここまでおい――でぇッ!!?」

 

 

追いかけるイーミンと逃げるティオナ、だったのだがティオナの頭ががくんと揺れる。

あまりに唐突な出来事に俺とイーミンは立ちつくすと、ゆっくりと崩れ落ちていくティオナの背後から現れた悪魔のような形相の女に震えを覚える。

 

――ティオナの姉であるレベル5冒険者、怒れるティオネに。

 

崩れ落ちている妹の胸倉を掴んだ姉は怒髪天の如き表情で吼える。

 

 

「ティオナぁッ!あんたまだ明日の遠征の準備終わってないのにどこほっつき歩いてんのよ!!」

 

「…」

 

「…ったく!男っ気が出来てもこれだから!…いっそくっつけた方が早いか…?」

 

 

じろりと睨みつけるような視線が俺に向く、肉食獣のような目に俺はブルリと震えるとティオネが脱力したティオナの事を抱えるのを何もできずに見送っていた。

 

 

「はいこれ勘定、お釣りはいらないから…足りるわよね?」

 

「え、あぁ」

 

「じゃ」

 

 

片手間に金貨を何枚か手渡され頷くしかない俺は、ティオネが肩に抱えたティオナを米俵のように運んでいくのをただ見送った。

 

そして――残されたイーミンと二人、暫くして俺はぽつりと呟いた。

 

 

「…あいつが今日の客の中で一番男らしいな…」

 

「…何の話だ?」

 

「いや、こっちの話だ」

 

 

潔いというサッパリしている、ティオナの回収という至極解り易い目的で、恐らくこの店に来てから5分と経たずに帰っている。

カッコイイとかそういうのとは違うと思うが、迫力といい何といい一番男らしいように感じた…いや漢らしいと感じた、重要な事だ。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

また沈黙に戻る、何というか動くのも億劫で、惨状の跡をまるで作り上げた工作の完成を見るかのようにその全てを二人でしげしげと眺めていた。

治安が悪化し騒がしすぎる冒険者達、喧嘩と先ほどの机渡りで倒れたグラスや割れた皿、溜まっているオーダー、普段とはちょっぴりかけ離れた豊穣の女主人。

 

 

「今日は色んなことがあったな…」

 

「…そうだな」

 

「特に朝イチ」

 

「あれは…忘れろっ」

 

 

軽く横腹を殴りつけられる、にやけながら見れば彼女もまた堪えきれないように笑っていた。

何が楽しいのか解らないが、自分でも何で笑っているのか解らなかった。

 

 

「…ふっ」

 

「ふふっ」

 

「「フーハハハハハッ!!」」

 

 

お互い良い大人なはずなのだがさながら青春の一ページを飾るように笑う、いったい何が楽しいのか解らないが二人で高笑いを始めると止まらなかった。

喧噪に負けないように、人は理解できないことが続くと何故だか笑えてしまうものだ、もはや仲の良い二人はただ笑っていた。

 

夜はふける、これから現場の処理も残っているが跡それももう少しだけの話のようだ。

しかし楽しい、今日はあと数時間の営業を残して二人は理解も無く、今はもう少しだけ笑い続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…が、話はここで終わらない。

 

 

「「はっはっはっ!…ハッ!?」」

 

 

笑っていた二人はバッとバックヤードへと続く扉へと振り返る。

楽しかったという感情は一瞬のうちに消えゆき、ただ生存本能を震えさせるような事態が直接「近づいてくる」ということに目を見開いた。

 

ドシンドシンと床を震わす足音、思えばあの事件より一日と半分ほどの時間が経っている。

果たしてロクな看病をしていなかったとはいえ、例えその人が巨体だったとはいえ毒は抜け起きてくる可能性も充分にあった。

 

そして――ヤツがこの惨状を目にしたら。

 

 

「お、おい扉を押さえつけろリョナ!」

 

「…無理だっ!時間が足りないっ!!」

 

 

対処法が思い浮かぶことも無く。

 

――無情にも、重い足音が扉を開ける。

 

そこに立っていたのは巨体、いつも通りの不機嫌な…いやそれ以上のブチ切れ顔、漲る四肢、迸る圧。

 

…鬼、そこには、復活した「ミア母さん」が立っていた。

 

 

「「…!」」

 

「…」

 

 

冬眠から目覚めた熊のようにミア母さんは店内を見渡す、その目に映ったものは治安の悪い店内とところどころ割れた食器類、そして最後に先ほどまで高笑いしていた、ここにいるはずのない厨房のイーミンと、何故かコック服を着た常連だった。

 

――誰が悪いのか。

 

そもそも何故営業しているのかという疑問はすっとばされる、起き抜けのミアの思考には目の前で行われている店の異常事態と、恐らく事の発端なのだろう罪人しか見えていなかった。

 

…さぁ、目覚めの体操が始まる。

 

 

「とりあえず…アンタら、覚悟しな」

 

「「うっ…うわあああああああああああッッ!!?」」

 

 

鬼を前に、二人は絶叫を上げる。例え起きたてだろうとこの人に勝てるわけがないと2人は知っていた、まるで悪戯書きをした子供のように避けることのできない親のお叱りを甘んじて受けることになった。

 

 

「あっミア母さん!死んだんじゃなかったのか…!?」

 

「馬鹿野郎ミア母さんが何があったって死ぬわけねぇだろ!…っていうか俺達やばくね?武力制圧されね?」

 

「に、逃げるか…?」

 

「逃げたきゃ逃げろ!これからは俺達も参加するんだよッ!!」

 

「ヒャッハーッ!第2R(ラウンド)の始まりだぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 

…こうして乱れた豊穣の女主人は治安を取り戻し、俺の豊穣の女主人コックアルバイトは終わったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 



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 壁と再戦

―前回までのあらすじ―

一週間と少し前、『カウント1000』に到達したリョナは『神殺しの狼騎士』という新たな段階で窮地にあったリリを助け、盗まれていたぎゅるぎゅる丸を返して貰う。
…が、しかしそのぎゅるぎゅる丸は何のせいかは解らないが壊れてしまっていた。修繕する場所を確保するために家を買ったリョナは友人たちの助けもありその日のうちに家具など揃え、一人暮らしを始めるが…封のされた地下室の存在に気が付いた。

箱を開けてみれば地獄絵図、虐殺の限りを尽くされた奴隷達の一室、そしてその中に『少女』はいた。

少女との生活が始まった。
最初こそ手慣れなかった二人の生活に今ではリョナもすっかり慣れ、長く綺麗な銀髪をした紅い瞳の狼少女は急速にリョナの中で大きくなり、今ではかけがえのない存在になってきた…それはリョナ自身の変化も影響したのだろう。
未だ思いつかない名前、外壁上の早朝特訓、豊穣の女主人でのアルバイト、オラリオでの穏やかな生活は賑やかであり彼にしてもそれが楽しい日々だったことに疑いはない…例え少女が何も喋らなくても、何の反応も示さなくても、時間さえかければ大丈夫だと信じていた。

そしてリョナは狼騎士でぎゅるぎゅる丸を直す事を思いつく、久しぶりにダンジョンに潜ることに決めたのだった――果たして獣の行方は、そして少女の『名前』は。


・・・

 

 

 

『マーニファミリア』の店から踏み出し見上げた空は、透き通るような快晴だった。

 

(…良い日だ)

 

曇り一つない青空と真上にある日輪、彼方に現れた薄い青月、昼の暖気。

がやがやと賑やかな大通りの端の方で、俺は風呂敷を手に綺麗な空を仰ぎ、ちょっとの重さの買い物に肩をおろすと空いた片手で懐を開く。

 

買い付けた手のひらサイズの鉄の塊、修復用の素材が包まれた袋を手の上で俺は転がし沈むような重さを確かめるとコートの懐に入れて結び付け、かかる負荷に俺は肩を慣らすと息を漏らした。

 

(ちょっと重いか…?)

 

その隣に同じように結びつけられた袋、その中に入っている分解したぎゅるぎゅる丸のパーツ群と合わせて考えると、ダンジョンに行くにしては少し荷が重いかもしれない。だが重いにしても今日はどうせ中層には向かわない予定だし、この程度の重さであればそこまで重心に影響することはないはずだった。

 

――今日はダンジョンに行く日だ。

 

昨日ティオナに聞いた『俺』の、『神殺しの狼騎士(ウルフェンハザード)』についての噂。そして思いついた鉄を打つ力でぎゅるぎゅる丸を直すという方法。まさに鍛冶屋いらず、規模や能力はまだ詳しく試せていないが鉄に対しての万能能力を俺は持っており、それを使えばぎゅるぎゅる丸を直す事も造作ないと予想していたのだった。

…いやむしろ何故今まで気が付かなかったのかという感じだが、忘れていたものは仕方がない、少女の事や朝修行などで頭が一杯だったというのも原因だろう。

 

ともあれこれでやっとぎゅるぎゅる丸を直せる、リリから盗まれた期間を考えれば半月以上もの合間愛武器が使えなかったわけで、その間直剣で代用してきたしなんなら直剣での戦いに慣れてきたぐらいだがやはり現代武器のアドバンテージを考えれば直さない手はない。

 

 

「…よし」

 

 

空から視線を落とした俺は、鉄を買い付けたマーニファミリアの店の軒先から多くの人々が歩いている大通りに紛れるように踏み出す。

先日下見に来たこの大型店舗は品揃えも多く、接客も最高級なのか俺が店に入ると前回にも会った店長がすっ飛んできたのが記憶に新しい。

 

(少しサービス精神旺盛過ぎた気もするが…一流店の嗜みってやつか?)

 

そう遠くないバベルを目指し大通りの中を人の流れに沿って歩きながら、先ほどの店での事を思い出す。

相変わらずエプロンをかけた強面の店長はニコニコと俺の元に走ってやってくると要件を尋ね、鉄を打っていた場所まで案内し、必要な分の鉄を買い終えた俺が店から出るまで見送ってくれた。

 

…VIPでもないのにあの神対応、少し行き過ぎたおもてなしのような気がするのだがまぁそういうこともあるだろう。

それにああいう経験がないわけじゃない、妹に連れられて(荷物持ちとして)どこぞの服屋に行った時も店員の付き添いが二人ぐらい出来た…まぁあれは両橋の名前ありきの対応だったのだが…気にするほどのことでもないだろう。

 

 

「…」

 

 

暫く歩みを続けているとバベルが近づいてくる、見覚えのある冒険者通りに入ると道行く雑踏が少し減った。

一般人はともかく。この時間にダンジョンに向かう冒険者は少ないが居ない訳じゃない、というのも昼飯を食べてからダンジョンに向かう冒険者がいるからだ。

 

時折冒険者のような格好の人影を見かけつつまばらに人が動いている冒険者通りを俺は歩いていくと、遠目に白い大理石でできたギルドの建物を見つけた。

 

(あー…いや、いいか)

 

一瞬エイナと話でもしていこうかとも思ったが、特に用事も無いので訪れる理由もない。

あえて話題を作るというのならギルドで託児はできるのかと尋ねてみるくらいだが、流石に徒労に終わりそうだし、早く用事を終わらせることの方があの子のためにもなるだろうと考えを改める。

 

見覚えのある噴水が見えてきた、誰も近くにいない噴水は絶えず水を噴き上げており、キラキラと光を反射しては飛沫となって消えていた。

一度足を止めた俺はゆっくりと伸びをする、極めて柔らかな身体は隅々まで健康であり…昨日ミア母さんにボコされた痛みが若干残っているが、肉体は万全そのものだった。

 

 

「必要な物は…」

 

 

視線を落とし、コートをめくった俺は所持品を確認し始める。

腰に差した直剣とコートの内側に括り付けたぎゅるぎゅる丸と鉄素材を入れた袋二つ、少なくともこれらさえあれば今日の目的は達成できる。一応ポーションなども持っているが上層相手のモンスターならば使う機会もないぐらい楽勝になるだろう。

 

――目的はカウント1000、そして狼騎士によるぎゅるぎゅる丸の修繕。

 

そのためには攻撃回数を稼ぐための剣と、素材さえあれば良い。カウントを稼ぐだけなら非効率だが例えゴブリン1000匹殺すだけでも狼騎士になれるのだから深くダンジョンに潜る必要も無い。

…簡単な作業でしかない、油断しても良い、探索しきった自分の庭で雑草を刈り取ることに特別な準備はいらない。

 

ただ問題があるとすれば――『時間』、家であの子が待っていた。

 

(4時間…いや、3時間で帰れるか…?)

 

ほんの十数分前、昼ご飯を食べさせ終えた少女を俺は家に『留守番』させている。

 

いくら上層とはいえ危険なダンジョンにあの子を連れてはいけない。

かといって誰かに預けるというのも…信頼できる相手は、例えばヘスティア様だったり豊穣の女主人だったりと思いつかない訳ではなかったが、ヘスティア様はバイトだし、豊穣の女主人は今日休みだったりと預けられない理由があった。

 

それに何となく申し訳なく思ってしまう以上に、『一人でも大丈夫だろう』と思っている自分もいた

細い枝のような少女が最初は目を離せば折れてしまうんじゃないかと不安でしかなかったが、昨日一昨日のアルバイトである程度そんな不安感も緩和されていた。

 

(…)

 

昼飯を食べさせた少女をベッドに寝かせた時の事を思い出す、置いていくことに不安が全く無いわけではないが、急げば帰ってくるまでに数時間もかからないだろう。

それに自宅だし、鍵も閉めたし、例え万が一にも盗人が入ったとしてベッドに寝かせ毛布をかけた少女に気が付く事もない。

 

――安らかに眠っているだろう少女の事を想う、大切で、だからこそ不安にも想うが、何の保証も無いが危険も無いから大丈夫だと思っていた。

 

 

「…行くか」

 

 

思い出し微笑みを浮かべ、あらかた装備を点検し終えた俺は噴水広場から目の前のバベルに目を向ける。空高くそびえ立つ巨塔は大きく、どこか神気を纏っているようにも見えた。

視線を落とす、塔の麓には巨大なエントランスホールがその口を大きく開けており、冒険者達やギルドの職員が出入りしていた。

 

既に準備は完了している、歩き始めた俺はダンジョンに向かう。

爽やかに吹く風で前髪が揺れ、コートの端が揺れた。懐に入れた鉄素材が重力に従いコートの肩を引っ張っており、身体が揺れる度素材の擦れるチャカチャカという音が鳴っていた。

 

巨大なバベルが近づいてくる、大きく空いたダンジョンへの入り口はすぐ目の前に差し迫っていた。

 

 

「…ッ!」

 

 

――ふと指先がピクリと動く。

 

足を止めた俺は自分の掌を困惑しながら回し見る、まるで武者震いするかのように勝手かつ無意識に動き今は何もなかったかのようになりを潜めていた。

 

(…?)

 

たまたま、というには不穏な気がする。

それがたかが癖だと自覚はしているが、何か嫌な予感がした。

傷跡の残った左手をしげしげと眺める、紋章(タトゥー)の入った手の甲は違和感なくそこにあった。

 

何が心配かすら解らずに、俺は再びバベルに目を戻す。

気のせいかと浅く瞬き繰り返し、肩を落とすと息をついた。

 

そして――また、緩やかに歩き始めるとダンジョンに向かった。

 

一瞬の戸惑いを切り捨て、何の迷いを持つ必要もない『ちょっとした用事』を片づけるために鉄素材を引っ提げた俺はバベルの中に足を踏み入れる。風通りの良いエントランスホールの中を通り抜け、ダンジョンの中に入り込んだのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

暗がりの中木製の階段を上る、足元を見ずに音をたてずに歩みを進めた。

何度も歩き慣れた階段は下の綺麗な階段とは違い、何の変哲も無く手入れも行き届いていなどいなかった。

 

 

「…」

 

 

短い階段を登りきると三階に着く。

消えかけの魔石灯のついたところどころ壁紙の剥がれたような廃れた廊下、使われていないドアが幾つもある人気のない空間が細長く続いており、どこか埃っぽい臭いを充満させていた。

 

お世辞にも綺麗といえない廊下をゆっくりと歩く、敷かれた薄い絨毯を踏み一つのドアの前に辿りつくと足を止めた。

他のドアと違い『特殊器具倉庫』と書かれた名札と、『一般従業員の立ち入り禁止』の張り紙のついた木製のドアに手をかける、ザラザラとした感触の錆びついたドアノブを回すと鍵がかかっていることに気が付いた。

 

…用心深いこの部屋の人間らしい、嗅ぎつけられることなど微塵もないと確信しておきながらまだ押し入られる可能性を捨てきれないでいるのだろう。

だが同時に自分の目的のためなら手段を選ばない人だ、これからすることを考えれば用心深いから程遠い。

 

目を細めドアノブから手を離すと扉を静かにノックする、確かに響いた音から数秒後中から「通しなさい」というそっけない声が聞こえてきた。

そして慎重な足音、擦り寄ってくるような気配がドアの向こうで動きやがてカチャリと鍵が開けられると、小さく軋むような悲鳴をあげて薄い扉が開けられた。

 

 

「!…よし」

 

 

中から覗いた茶髪の強面はこちらの姿を確認すると小さく頷く、扉が押され開くとムッとするような熱気が部屋の中から漏れ出てきた。

完全に開いた扉の中からエプロン姿の男に出迎えられる、セーグという名のこの男は下の店で店長をしていると同時に運び屋という役割を担っていた。

 

 

「どうぞ」

 

 

迎えられるまま部屋の中に入る、耐えがたい臭いと熱気の漂う暗い部屋の中を数歩進むと背後でセーグが扉を閉めた。

 

 

「…」

 

 

暗い部屋の中は倉庫になっていた。

 

壁際に沿うように置かれた長い棚とその中に几帳面に陳列された大小様々に折り重なった檻達には厚ぼったい布が被せられており鉄格子の中身は見えないようになっている。

幾つもある檻を余り気にしないように部屋の中を歩く、それほど広くない部屋の中を横切ると薄汚れシミのついたベッドが置かれていた。

…特に興味はない、無視してその隣を通り抜けると部屋の最奥に置かれた巨大な()()()に辿りついた。

 

締め切られたカーテンを背景に置かれた黒檀の机の上には大量の書類が置かれ、かなり質の良い高価なものを使用していたはずだが今ではすっかり使い潰されており、何か肉食動物がつけたような爪痕がいたる場所につけられていた。

 

そしてその机には――肥えた男が座り、豚のように食事をとっている。

 

湯気をたてるステーキ肉、男は太く肉の付いた手でナイフとフォークをカチャカチャと動かしステーキを切り別けだらしなく二重あごの弛んだ口の中に放り込んでいた。

 

金髪、青い瞳、肥えた身体。

身に纏ったものはどれも一流のものであり、パッと見は貴族さながら装飾品はどれも美しく妖しい光を放っている。

しかし初対面に悪い印象は与えない、それどころか好印象を与えることの多いその姿は商人である彼にとって普段着であり、清潔感を保っていた。

 

その男の名前を『ヒューキ・ガル』という。

 

マーニファミリアが構える店の三階、一般人はおろか従業員ですら入ることのできないこの空間は殆ど物置としてしか使用されていなかった。

しかしこの一室だけはオーナーであるこの男が自分の部屋として利用している。反面自分の仕事場として、反面自分の趣味を突き詰める場所のために、自分の『遊び場』としてこの場所を確保し隠していた。

 

 

「…」

 

 

ステーキの最後の一片が食べられるのを待つ、ぺろりと肉を平らげたガルは数度咀嚼を繰り返し飲み込み、極めて丁寧にナプキンで口周りを拭い始める。

動かずただその様を見ていると長い時間をかけて広い口元をガルは拭き終えナプキンを机の上に置く、満足げなため息を漏らし背もたれに巨大な身体を預けると太い指を膝の上で組んだ。

 

そして暫く悠々自適に余韻に浸った後、こちらに弛んだ視線を向ける。だがその瞳の奥には愉し気なそれが踊っており、計算高く様々な思考が渦を巻いているように思えた。

 

 

「…それで?首尾はどうだったかね?」

 

「はい、ガル様」

 

 

ガルの言葉に頭を深く下げる。それは服従の表れであり、今自分は仕えているのだと再認識させられる…そこに、喜びは無いが。

頭をあげる、すっぽりと顔を覆っていたフードを払いのけると『彼』の顔が明らかになった。

 

――『オリオ・シリウス』、第一級冒険者は氷のような表情でマーニファミリアの任務をただ静かに報告し始める。

 

 

()()は成功です。対象は店から出た(のち)、そのまますぐダンジョンに向かいました、家に帰ってなどもいません…第一フェイズは成功かと」

 

「ほう?…まぁオリオが言うからにはそうなんだろうが、ただの鉄塊をダンジョンに持っていくのは些か奇妙ではあるな…数日間監視していた君ならば何か解るかね?」

 

「…いえ、私には」

 

 

首を振る、何故あの冒険者があんなものをダンジョンに持っていったのかなど皆目見当がつかなかった。

オリオ・シリウスは碧眼を伏せる、奇妙な監視対象の事を思い出し目を細めると主に見えないように軽く拳を握りしめた。

 

 

「まぁ良いだろう、彼が()()()()()()()()()()事さえ確かでさえあれば我々の目的は達成できる…ちなみに誰かに尾行を気づかれた可能性はあるかね?」

 

「いえ、絶対にありえません」

 

 

相手はたかがレベル1、レベル5冒険者かつ隠密に長けたオリオが勘づかれる訳も無い。

それに弱小ファミリアの仲間は朝のうちにダンジョンに向かったことも確認している――故に『無防備』であることは既にガルによって計算され尽くしていた。

 

考えながらヒューキ・ガルは顎を撫でる、用心深く欲深いガルは疑問を残しておくことを好まない。

…が、考えても仕方ないと思い直すとパンと掌を叩き、重く立ち上がると部屋の中にいる二人に脂ぎった笑顔を向けた。

 

 

「よろしい!では第一段階は無事成功した、ということでいいだろう!『目標を確保する』のに十数分もかからない!ダイダロス通りである以上たいした騒ぎになることもない!計画は完璧だ!」

 

「はい、ガル様」

 

「…」

 

 

満足げにガルは身体をくゆらせて笑う、それに頷くセーグと対照的にオリオは更に拳を硬く握りしめるとその端正な瞳で床を睨みつけた。嬉々として罪を犯す彼らの片棒を担ぐのに苦痛が走った。

 

 

「ふっほっほっ…ちなみに何か質問はあるかね?」

 

「ではガル様、一つだけよろしいでしょうか?」

 

「ふむ、何かねセーグ君」

 

 

オリオの隣に立ったセーグはエプロン下の筋骨隆々な腕を律義にあげる、強面をガルに向けると不思議そうな顔を見せた。

 

 

「あの男についてなのですが、始末してしまった方が早かったのでは?暗殺であれば我々だということも気取られなかったでしょうし、あの男は所詮レベル1なわけですし…そちらの方が手っ取り早いと思ったのですが」

 

「なるほどセーグ君の言う通り確かにその方法は極めて簡単だがね、別に私は彼を殺したいわけじゃない。いやむしろ感謝しているくらいなのだよ、よもやあの『ゴミ箱』から宝石を見つけてきてくれるとは…全く、何故彼は隠蔽工作を施した地下室に気が付けたのか…」

 

「なるほど、流石ガル様はお優しい!」

 

「ほっほ、世辞はやめたまえセーグ君。それにお客様の恨みを買うのは私の本意ではないのだよ…ただ『落とし物を返して貰う』たったそれだけのことなのだからね」

 

「…」

 

 

そう言ってセーグに笑いかけるガルに誠実さはない、あたかも当然の権利のように喋るヒューキ・ガルにオリオは更に強く拳を握る。

彼らが物のように語るあの子と彼の日々をオリオは見続けていた、本当はこの好機も伝えたくはなかった…だがオリオ・シリウスは逆らえない、それは――

 

 

――『ガタガタッ!…ガシャン!』

 

 

棚に並べられた荷物の一つがひとりでに大きく揺れる、オリオが振り返ると積み重なっていた檻の一つが大きな金属音をたてて床に転がってしまっていた。

…上にかかっていたはずの厚ぼったい黒布は衝撃でずり落ち、鉄格子の隙間から暗闇が垣間見える。

 

 

「ほほ、活きの良い!セーグ君、なだめておやりなさい」

 

「はい、ガル様」

 

 

笑みを浮かべたガルが檻をちょいと指さす、苦笑しながらセーグは檻に近づくとエプロンを垂らして横に倒れた鉄格子を慎重に拾い上げた。

 

…赤い双眸がその中で揺れるのが見えた。

 

 

「よしよし良い子だ…ふふ、やはり仕入れたては違いますな」

 

「ふむ、ならば後で私も可愛がるとしましょう。だがまずは目の前の目標だ、二人とも準備が済んだならそろそろあれを回収してきなさい」

 

 

時間が来る、命令は既に下されていた。

ヒューキ・ガルの笑みが向けられる、セーグが空の檻を担ぐのを尻目に見送りながらオリオ・シリウスは拳を握る。だが彼は欲に染まった男を止められる手段を持っておらず、レベル5冒険者の力をしても頷くことに抵抗できなかった。

 

オリオ・シリウスは頷く、人を騙し自らの欲望のためなら手段を選ばない男の手先として。

 

 

「――あぁ。それともし彼と鉢合わせてしまったら、その時は仕方ないし殺してしまっても構わんよ。もし抵抗されても厄介だし運が悪かったと諦めて貰うほかないだろう。ですが勿論痕跡は残してはならんぞ、我がマーニファミリアに繋がる痕跡はな」

 

 

何の躊躇いも無く、興味もなくガルは言う。ただ目的しか見ていない男は檻を見ながら卑しい笑みを浮かべていた。

そしてゆっくりとこちらを向く、いつも通りの笑みでもう何度目かも解らない最後の言葉を告げた。

 

 

「では頼みましたよセーグ君、オリオ。確実に()()()()をここに連れてくるのです」

 

「…はい、()()()

 

 

レベル5冒険者オリオ・シリウスは振り返る。握りしめた拳の痛みに耐えながら早速空の檻を掴んだセージと共に、もう幾度目か解らない薄汚れた仕事に向かうのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

狼騎士(ウルフェンハザード)

 

 

言葉と共にダンジョン内に蒼炎が吹き荒れる、肌を焦がすような熱波がダンジョンの壁に反射し、立ち昇った火柱の中で鈍色のナイフが煌き溶けた。

 

左手から零れた液状の鉄が身体を覆うと同時に鎧が形成され、蒼炎に打たれた鉄は徐々に本来の色を取り戻していく。

やがて掌大の鉄片によって形成された全身鎧(フルメイル)と狼の(フルヘルム)が身体に纏われ、直剣がはちきれるように膨張し、最後に蒼い炎のマントが広げられると――狼騎士は成った。

 

片手にひび割れた巨剣を携えた神殺しの獣は憎悪に染まった瞳を篭手のはまった左手に向ける、最適化された鎧は俺の身体に良く馴染み、チロチロと輝くような白痴蒼炎は掌の上でくるくると踊っていた。

 

 

「…よし、成功だな」

 

 

人気のないダンジョンの一角、『第9階層』のとあるルーム。

カウント1000を稼ぎ終え、早速能力を発動し狼騎士になった俺は確かめるように全身から膨らむような蒼炎を噴き上げる。全身に満ちる(ぞうお)が神を求めピリピリと訴えているのを無視すると、光が目立たないように極力巻き上がる炎をセーブした。

 

これで二回目の力、実は使えなくなっていたらどうしようと考えていたが問題なく能力は発動できるようだった。

自由に操れる炎をゆらゆらと揺らしながら俺はウルフヘルムのスリットから右前の地面に突き刺さっている巨剣に燃える瞳を止める、少し遊び心で掌を向けると炎を操り、そのデコボコとした剣の腹に蛇のような炎をゆっくりと這い上がらせた。

 

 

「って遊んでいる暇があるか…よっこらせ」

 

 

甲冑のまま俺はどしりとその場に腰かけ、胡坐を掻く。

何故か今日はモンスターが少なかったせいでカウント稼ぎが捗らず、予定よりだいぶ遅れてしまっているので油を売っている暇など無い。時計が無いので正確な時間は解らないが既にダンジョンに潜ってから4時間ほど、帰るのにそれほど時間がかからないとはいえ急がなければこのままだと夕方ごろに家に到着する事になってしまうだろう…別に時間制限などあるわけでは無いが、暗い家の中で少女を待たせたくはなかった。

 

(…)

 

一応周囲を見渡す、ダンジョンでも人の通りの少ないここのルームは比較的作業に向いている。

この前ぎゅるぎゅる丸の探索でダンジョンを隅々まで駆け回った俺は幾つかこういう安全地帯…では無いのだが人気の少ない場所やモンスターの通りが薄い場所を見つけていた。

ここに来たのはモンスターを探してだが丁度良い、出来るかぎりモンスターには作業を邪魔されたくないし、ましてや冒険者にはこの姿を見られただけで噂にされるだろう…そうなれば、口封じか逃げるか選ばなくてはならなかった。

 

 

「まぁ見つかる前に直せばいいだけの話だ…よし、始めるとしよう」

 

 

あの子の為にも自分の為にも早く終わらせた方が良い、気持ちを入れ替え俺は軽く手首を回すと――左手で自らの胸を叩いた。

 

一瞬鎧の下のコートからどうやって鉄素材を取り出したものかと逡巡したが、俺は胸周りの装甲を一時的に炎で溶かして透過させることができた。穴が空いたようにドロドロになった蒼鉄の中に手を突っ込むとまさぐり、必要な袋を二つ探し当て取り出すと床の上に置いた。

…高熱の銑鉄を通り抜けてきたはずの布の袋には燃え跡などは無い、実際の銑鉄につけたらただの布など即発火は免れないのだろうが、どうも温度を変えることで鎧の下の所持品を安全に取り出すことが出来るようだ。まぁそうでもなければ俺の身体などとうに燃え尽きているだろうし、いちいち能力解除しなくていいので助かった。

 

 

「…」

 

 

篭手のまま取り出した袋の紐を解く、鎧で精密作業とか正気の沙汰じゃないが例えいつもより自由に指を動かせなくても結び目を解くぐらいは出来た…変身する前に準備をしておけばよかった気がしないでも無いが、まぁそれはそれ。

 

二つとも袋を開き中の素材を確認する。ぎゅるぎゅる丸のパーツ群はさておき俺は手のひらサイズの鉄球を取り出すと軽く掌の中で転がし、早速炎に当てられ端が蒼く染まったそれを軽く投げると間髪入れずに左手を叩きこんだ。

…ゴヅンッという鈍い音と共に拳に鉄球が触れる、その瞬間噴き上げた炎が鉄球を包み込み鈍色が澄んだ蒼白に浸透したのが見えた。

 

(だいたい鋳造に一秒ってとこか…剣の方も一秒半って感じだし、よほど大きな『もん()』じゃない限り時間の変化はしないのか?……いやむしろ問題は拳を当てるまでの時間だな…戦闘中にどう使うか…専用の戦い方は…)

 

考え始めた俺の前に、カランと鋳造されたミニチュアサイズの果物ナイフが転がった。

鉄球をそのまま伸ばした小さなナイフは切れ味こそ良くできているが短く、俺が扱うには長さが足りない。

どうやら質量保存の法則は適用されているらしい、『覚醒時に持っていた直剣(巨剣)』と『能力発同時に出せるナイフ()』だけは変身時のみ特別なようだが、当たり前の話鉄の膨張などは出来ない訳で、やはり鋳造するにはそれなりのリソースが必要なようだった…まぁ中身を空洞にすれば張りぼてのようなものは作れるのだろうが。

 

(素材が余ったらアイツになんかオモチャでも作ってやれなくないのか…っと、いかん。早く作業始めねば)

 

ぼんやり考えていた意識を目の前の鉄に戻す、能力の確認も終えたことだし俺は本格的な修繕作業を始めていくことした。

 

 

パーツ群を地面の上に広げる、床の上に転がった細かな部品達の中から俺は、ちょいちょいと覚えておいた壊れているパーツを手早く摘まみ上げ選り分ける。

ところどころ亀裂や損耗の激しいパーツ達で山を造ると、失くしてしまわないように山を手で視界内に寄せ集めた。

 

…本来なら現代設備を使わねば修繕できないような部品たち、しかし例え鉄を二倍三倍に

することは出来なくても俺の能力は鉄の性質を変える事ができる、ならば特殊素材無しでも代用ぐらいはできると踏んでいた。

 

一度鉄球を打って作った刃渡りの短いナイフを右手の指先で掴む、軽くくるりと手の中で回すとしっかりと持ち柄に近い『腹』の部分に左拳を慎重にカチンと当てた。

瞬間蒼炎が再びナイフを包み込む、鉄が外側から光り始めると次第に熱を持ちどろりと液化して刃の端が溶けた。

しかしそれ以上の変形はせず溶けた状態を保ち、まるで棒につけた溶けかけのチーズのように刃先に鉄がずり落ちてゆくと、表面張力で水滴を作り出した状態で止まった…どうやらただ溶かす事もできるようだ。

 

刃先に蒼い液体を垂らしたナイフを俺は手の中で確かめるとペンのように持ち換え右手を軽く揺らす、左手でパーツ群の中から一つ摘まみ上げ小部品に入った亀裂に溶けた鉄をつけた。傷になぞるようにナイフを当てる。刃先についた液体を擦り付け、粘度の高い銑鉄を慣らすようにして傷跡の上に液体を成形し始めた。

 

――簡単に言って、即興のグルーガンである。

 

蒼い銑鉄が傷口を埋める、元の容を思い出し水滴ほどの鉄を延ばすと撥ねた起伏を指やナイフで極力無くしていった。

そして壊れる前の容にまでパーツが修復され、特にこれといった問題がない事を確認した俺はパーツを両手で包み込み、掌の中の炎で焼くと形そのまま溶接し終えた。

これで一つ完成である。手の中の新品同然となった部品の出来栄えを俺は確認すると一人で頷き、壊れていないパーツの山の上にそれを置いた。

 

銑鉄の簡単な維持、かつ瞬間溶接の出来る炎。

本来なら現代設備が無ければ修繕出来ないような部品、しかしこの能力さえあればただの鉄素材でことたりる。本来なら素材同士の硬さが違えば脆くなるが一度パーツ全体を溶かす事で鉄の性質も均一にすることが出来た。

…鉄に対しての万能能力と言ったが本当にその通りである、今のところこの姿にならないと使えないのが難点だがそれを除けば鋳造溶接造形なんでもできた。

 

ヘラ代わりのナイフから蒼い鉄が垂れる、徐々に溶けていく資材(リソース)は手のひらサイズと小さいが、それほど多くないパーツを直すには充分な量があった。

とりあえず一つ修繕を完了した俺は満足のゆく出来に安堵すると肩を揺らす、また新しいパーツを掴むと傷を確認し、また溶けた鉄をその合間に補強し始めた。

 

――後はこれの繰り返しである、パーツを拾い、ナイフで傷に銑鉄をつけ、修繕する。

 

地道なかつ丁寧さが求められる作業だ、どっかりとあぐらをかいたまま俺は塗装のようにちょんちょんと銑鉄を付けては両手で包み込んで鋳造し、また次のパーツに移る。

かといって一つ一つ疎かには出来ない、関節部などは修復面にミリ単位で凸が生じると駆動しない可能性があるし、何よりイメージで鋳造するのでいくら現物が目の前にあるとはいえ少し気を抜けば炎が乱れ大きくパーツの形を変えてしまう可能性があった。

 

 

「…~♪」

 

 

鼻歌を混じりに無心で作業に没頭する、集中力を切らさないようにしながら俺は炎の中胡坐をかき、時折肩を回しながらカチャカチャとパーツを直していく。

ダンジョンの淀んだ空気の中で蒼炎をふかし、黙々と鉄に向きあっていると流石に鎧の下で汗が垂れた。とはいえ単純作業にそこまでの疲労は無く、数をこなせばおのずと細かな炎熱の出力にも慣れてきた。

 

そして――徐々にすり減っていくナイフが足りるのか不安になったころ、全てのパーツの修復は完了した。

目の前で山となった全て治ったパーツ達を踏まないように俺は一度凝った足を伸ばす、つまようじほどの大きさになってしまったナイフを投げ捨てると、大体一時間程度かかったかと頭の中で計算し息をついた。

 

 

「ふー…よし!」

 

 

とはいえまだ作業は終わりではない、また手を動かし始めた俺はパーツ群の中でもとりわけ大きいものを掴む。

いわゆる基盤であるそれは所謂大本であり、組み立ての基本だ。手の甲である装甲を床の上に置き、ざっとパーツ群の配置を確認した俺は急ぎぎゅるぎゅる丸の組み立てを始める。

最近解体したぎゅるぎゅる丸の構造は完全に頭に入っており、というかこれを作ったのが俺なので構造ぐらい完璧に理解していた。

 

両手同時進行で器用にパーツを組み立てていく、流石に篭手を付けたままだと難易度が高いが、ネジ締めからワイヤー配線まで何回か失敗してでもこなしていく。

足りない部分は強引に鋳造しながら複雑な機構を積み上げると徐々に床上のそれは手の形を成していき、神速で基本射出機構を完成させると最後に装甲部の取り付けにかかった。

黒鉄に蒼炎が反射した、てらてらと光る硬いチタン装甲を確かめつつ俺はその一つ一つを基部にはめ込み固定する。

 

そして――最後のパーツが、パチリとぎゅるぎゅる丸にはまり込んだ。

 

 

「…よっしゃあ!ぎゅるぎゅる丸完成ッ!」

 

 

思わず声をあげた俺は遂に修復されたぎゅるぎゅる丸を掴み上げる。

慣れた重みと手触り…は鎧を纏っているので解り辛いが、どこにも傷は見当たらない完全な状態となったぎゅるぎゅる丸がそこにはある。

 

思えば二週間以上前、リリによって盗まれたぎゅるぎゅる丸。それを返して貰った時ぎゅるぎゅる丸は壊れてしまっていたが、何とかこうして修復にまでこぎつけた。

この能力は手に入れたが、まぁそれはそれとしてお気に入りの武器の復活。これさえあれば遠距離攻撃が出来るし、カウントの無い通常時でも中層のミノタウロス程度なら倒すことが出来るようになる。

 

ついに長い時を経て、俺は心残りだったぎゅるぎゅる丸を修復したのだった。

 

 

「……感傷に浸ってる場合か、まずは動くかをだな…」

 

 

思わずガッツポーズを上げていた俺は溢れ出た歓喜の感情を抑え、冷静に見た目は完璧に治ったぎゅるぎゅる丸を見下ろす。

直ったように見えても実は詰まっていて機能しないとか十二分にありえる、手の中のグローブに目を落とした俺はまず指の駆動範囲を確かめそして腕に嵌めようと…既に自分が篭手をしていることに気が付いた。

 

(うーん…?)

 

鉄であるぎゅるぎゅる丸ならば俺の能力と相性がいい。流石に直剣のように巨大化は出来ないだろうが、ぎゅるぎゅる丸を付けたまま狼騎士を発動させることも出来るような出来ないような気がした。その場合篭手の分は上塗りにするのか他の装甲に当てるか悩むが…まぁ何にせよそのためには一度能力を解除する必要がある。

 

一度胸装甲に穴を開けその中にぎゅるぎゅる丸を放り込んだ俺は左手に意識を集中させる、炎の出力を抑えナイフのイメージを保ち、十秒もすると全身の鎧が蒼みを帯び始めた。

 

(とはいえ…)

 

解除する合間に考える、もしここでぎゅるぎゅる丸が完全に治っていなかった場合もう一回解体しどこが直っていなかったのか改めなくてはならない。

しかし既にダンジョンに潜って5時間ほど経ってしまっているし、あの子が家で待っている以上時間をかけることは出来ない…例え壊れていたとしてもそれはまた別の機会という事になるだろう。

 

意思に合わせ鎧が溶け始めた、徐々に狼の顔が崩れ始めると炎も散り――

 

 

 

 

 

 

――『ドシンッ!』と重い足音が、ルームの外側から聞こえた。

 

 

 

 

 

 

「ぁ…!?」

 

 

ルームに繋がる通路の一つ、灯りの差さない暗がりから響く音。

それは重くダンジョンに響き渡り、明らかにこちらに向かっている事が解った。

 

ダンジョンの空気が変わる、明らかに異質な圧がその通路から漏れ出ており、可視化されたような久しぶりの殺意に俺は視線を向けると解除しかけた能力をまた構成した。

溶けかけた鎧がまた固まっていく合間も殺意の主はこちらに近づいてくる、只者ではない雰囲気に俺は警戒しながらどこか嗅いだことのあるようなその匂いに恐怖が走るのをどこか遠く感じていた。

 

 

「…!?」

 

 

……俺は、穏やかな生活の中で忘れていたのだ。

 

あの時感じた恐怖と痛み、高すぎる壁、これっぽっちも届かなかった圧倒的な存在との邂逅を――

 

 

「また会ったな()()…いや、『狼』」

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

足が竦む、肩が震える、知らずと瞬きの回数が増え、俺は目の前に現れた存在に声にならない絶叫を上げる。

生存本能が最優先を吼え、今すぐこの場から逃げ出したいと骨髄が叫ぶのを感じた。

 

高い体躯、広い肩幅、筋骨隆々な手足、片手に担いだ特大剣、まき散らされる暴力的なまでの圧、しかしこちらを見竦めるその瞳は冷たく、これから行うであろうことに微塵も恐怖など抱いていなかった。

 

人類の到達点はいとも容易く俺の目の前に現れる、都市唯一のレベル7冒険者『都市最強』は通路からその姿をゆっくりと現し、不愛想な表情で俺の事を見ていた。

 

そう、こいつにとってこれは些事に過ぎない。自分の庭の雑草取りに死を予感する人間がいないように、道を歩く蟻を踏みつぶすことに何の躊躇いが無いように――

 

 

 

「『蒼起三爪(ソウキノミソウ)』」

 

 

 

そこに一切の迷いはなかった、その姿を確認した瞬間に俺の身体は自然と動いていた。

 

白痴蒼炎が再度燃え上がる、巻き起こった火柱がダンジョンを見境なく焦がす中腕を延ばすと地面に突き刺さっていた巨剣を勢いよく掴み、ズンッと深く構えると剣に寄り集まった蒼が破裂するように膨張し、三本爪の容を作った。

 

全身を覆った恐怖を糧に憎悪は燃えあがる。

 

それは生存本能から滲み出た狼狽であり、二度と出会いたくない強敵に対する恐慌じみた肉体の怯えだった。

しかし炎は恐怖を許さない、感情を燃やす炎は恐怖を溶かし勢いを増す。お陰で強張りかけた身体は自由に動き、まるで精神に麻酔を打ったかのように後ろ向きな感情を抑制してくれた。

 

それに――死ぬわけにはいかなかった、家にあの子が待っているのだから。

 

炎叫、天井に爪を立てる蒼が揺れる。

俺の想いに火は大きく呼応し、『絶対的不利(神殺し)』を謳った。

 

例えそれがどんな無理難題だろうと、巨剣にかける力は一切減らなかった。

ただ前へ、それ以外の選択肢を捨てた俺は一歩を強く踏み込んだ。

 

 

――『猛者(おうじゃ)』オッタル、現れた絶対的恐怖の壁に俺は蒼炎の爪を振り下ろしたのだった。

 

 

 

 

 




オッタルとかガチムチ筋肉ムキムキマッチョマンの変態はいるだけでキャラ立つから良いよね、単純にすこです。
あ、あと戦闘中解り易いようにオッタルの剣は表現上「特大剣」で、リョナの剣は「巨剣」に分けました。だけど前回登場した時は多分逆なんで…まぁそのなんだ、そういうつもりで(なげやり)。

ではではー


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 神話再現

大体FGOと少女前線ってやつが悪い、周回がががが
あと今回は長め、クオリティとモチベの維持が難しい…まぁ書きたいことは全部かけたんで良き良き

では本編どぞ



・・・

 

 

 

蒼く太い三本爪が振り下ろされる。

天井を鋭い爪先が掠め、石つぶてをまき散らしながら火花をたてた。

空気が鳴く、蒼炎は憎悪を吼え、獲物を求めて爪をかき鳴らしていた。

 

ありったけの力を込め巨剣を振る狼の周りには纏った蒼炎が流れるように空間を焼き尽くしており、その燃える双眸は剣を担いだまま微動だにしないオッタル(最強)に注意深く注がれていた。

 

裂帛の気合を放つ、呼応するように憎悪の炎は激しく脈打ち爪を掻き鳴らすと獲物に向かって殺意を漲らせる。

巨剣は覆った蒼炎を巻き上げ、ダンジョンを削り燃やしながら一直線に相対す強敵に向かうと蒼起三爪(ソウキノミソウ)は振るわれた。

 

――『ドゴォンッ!』と鈍い音がダンジョンを大きく揺らした。

 

カウント1000の重みを乗せた全力攻撃、蒼爪は地面に叩きつけられると爆発する。

強い衝撃に土煙と瓦礫が舞った、一瞬視界を閃光にとられてしまい炎に包まれたオッタルの姿が影法師となって瞬きの裏に消えていった。

 

衝撃と熱風が鎧に吹き付ける、狼は表情一つ変えることなくただ爆心地を見据えると意識を集中させる。

これで終わりとは思えない、狼騎士の全力はダンジョンの壁を溶かし三本の破壊痕を深く残しており、吹き荒れる余波でルームの至る所に飛び火していた。

 

普通の人間、いや仮に中級冒険者であっても容易く粉砕する炎撃。

 

憎悪の火柱をまともに喰らおうものなら爆発によって皮膚は消し飛び肉は焼かれ、鋭い三本爪の斬撃によって広範囲を切り刻まれる。

人の身では為しえない化け物じみた一撃、全力を帯びた憎悪の蒼炎は(ことごと)くを焼き払い、神殺しの獣としての片鱗を大地に刻み込む。

 

しかし――相手も化け物なれば。

例えそれが千の全力だとしても所詮爪先で傷つけるほどの威力にしかならない。それは前回の邂逅で嫌というほど味わった実力差…到底、この程度の攻撃で猛者が死ぬなど考えることすらできなかった。

 

警戒した視線の先、ぱらぱらと小石を落とし炎柱をあげる爆心地の中からゆらりと巨大な人影が現れる。

思わず剣の柄を握りしめた狼の目前、凄惨な破壊の中からノシリと歩み出てきたオッタルは事も無げに特大剣を肩にかけ直した。

オッタルはまるで俺の一撃など無かったかのように屹立し、細く鋭い眼光を俺に向けている。頑強な身体はところどころ焦げたような箇所はあれど傷一つなく、表情一つ変えないその姿は背負った業火も相まって鬼神のように見えた。

 

瓦礫を踏みつぶしながらオッタルは鋭い眼光を自らの身体に向ける。何かあるのかと警戒を強めた狼の殺気に気負うことなく『都市最強』はつまらなそうに自らの服の端で燻ぶっていた蒼炎を握り潰し、臨戦態勢で構える狼を見下ろすと鼻で笑い飛ばした。

 

 

「…ふむ、奇妙な力を手に入れたと聞いてはいたが所詮はこの程度か」

 

「…!?」

 

 

やはり、ノーダメージ。例え今の全力であろうと壁は揺るがない、カウント1000ではまだ足りない。

しかしあくまで『そちら』は予想の範疇、だがオッタルの言った「力を手に入れたと聞いた」という単語に俺は狼兜の下で目を見開いた。

 

(どこでそれを…いや…?)

 

神殺しは露呈するだけで命を狙われかねない危険な事実だ、故に俺は神のいるこの世界で存在を知られてはならないし、狼騎士の力に至っては目撃者であるリリ以外には隠して、気が付かれていないはずだった。

 

だが――思えば『あの女神』は遠見のような能力を持っていた。

前回オッタルに殺されかけた時もあの女はこちらのことをどこかから魔法的に見下ろしていたし、あの力さえあれば日常的な監視はおろか『一週間前の覚醒時も見られていた』可能性さえあった…ここのところ時折視線を感じたのはつまり奴が俺の事を見ていたからなのだろう。それが事実であるならば危険だ、あの女神が俺の事を都市中に言いふらせばその時点で処刑されてもおかしくない。

 

(奇妙な力、か…)

 

しかし俺の心までは覗かれていないはずだ。例えあの女神が白痴蒼炎を見て恐怖を覚えたとして、それが直接『神殺しの獣』という確信に繋がるとは思えない。

故に奇妙な力という言い回しなのだろう、ただ『良く解らない恐怖の対象』として最強を差し向けた。

 

 

「…ッ」

 

 

状況は最悪ではない、ここさえ乗り越えることが出来たならまだ俺には帰ることのできる場所がある。

巨剣を握りしめ炎を滾らせる。帰るための死闘は目の前にあった、鋭い眼光で見下ろしてくるオッタルに俺は巨剣を構え睨みつけた。

 

――放出された狼の殺意に、オッタルは緩慢に特大剣を持ち上げた。

 

 

「なるほど良い殺意だ、やはりただのレベル1ではないな貴様。……まぁいい、どちらにせよ今日は()()()が目的、流石にその力は『あの壁』程度には過ぎる…貴様にあの方の邪魔はさせん、ここで死んでゆけ」

 

「…待て、足止めだと?それはいったいどういう…?」

 

「答える義理は無い――さて、やるか」

 

 

疑問を抱くより早くオッタルが特大剣を緩く構える、僅かに向けられる刃と殺気に俺は目を見開くと、守るように炎を身体に纏った。

こいつの前では一瞬の油断も命取りになる、今まで培った全ての技術を総動員し、今燃やせる憎悪を全て叩きつけてもまだ足りない。

 

腰を落とし巨剣を構える、蒼炎に満ちた瞳は残滓を残しながらオッタルを睨みつける。

相対したオッタルは重厚な特大剣を片手で緩く構えて直立しており、真剣さこそ感じないもののその眼光だけが鋭くこちらに向けられている。だが彼我の戦闘力の差を考えればそれは路傍の石を蹴飛ばすには充分すぎるほどの力だ…例え油断していたとしても『壁』は高く、呆れるほど遠かった。

 

じり、と構え互いに地面を踏む。

 

相対した強者と弱者はそれ以上の言葉は無く、ただ闘争本能からくる身体の熱さと過剰分泌されたアドレナリンによって冴えた頭で二人しかいないルームを獣のように見ていた。

 

あるのは二つの肉体と、常人の身には余る巨大すぎる剣。

静かに呼吸を交わした敵同士は殺意を振り撒き、かたや殺さねばならぬ理由と帰らねばならぬ理由をその胸に宿して――

 

 

『ギッ…ィッッリィィィィッッ!!!!』

 

 

――大きく一歩踏み込み、二振りの刃が激しくぶつかり合った。

 

火花が散る、互いに地を砕いた瞬歩、炸裂した蒼炎の中で刀が交差し、途方もない力をこめた鉄同士が触れる、つんざくような怪音に空が揺れた。

見た目の体躯は鎧込みで同格、しかし内包された力は天と地ほどの落差、自らの打った巨剣と目の前に迫る特大剣は鋭く、歪に、持ち主の殺意を具現化していた。

 

…だが、拮抗はしていなかった。

 

 

(押し切られる…ッ!)

 

 

全身の肉が爆発しそうなほど熱く張り詰める、押し込まれる山のような荷重に巨剣を支える腕と肩は悲鳴を上げて震え、筋断裂のような痛みと共に手首が壊れかけた。

刀がかち合った瞬間自分の身体が鎧ごと強引に一刀両断にされる自分の姿が見えた、全力で特大剣を受けそれでもなお鎧ごと潰される未来が見えた。

 

…解ってはいたがまともに受ければ即死は免れない、だがほんの一瞬刃を受けられるようになっただけでも1000カウントを稼いだ意味はあった。

 

だがどちらにせよこのままではすり潰される、ただ『持ちこたえているだけ』では死は確定していた。

 

 

「ッ――ラァッ!!」

 

 

押し返すことは不可能、全身の筋を廻すように受け流す。

下手をすれば刃が身体に当たり死んでしまう死線、太刀筋を素早く計算し、腕を折り曲げた俺は特大剣を地に落とさせた。

 

1000カウントの俊敏性で鎧のまま前後左右駆け抜ける。掠るだけで絶命しかねない一撃をくるりと回避した俺はコンマの中で巨剣を握り直し、掌から巨剣に濃い蒼炎を充填させると回転するように弐太刀目を斜めに振り下ろした。

 

躱そうともしないオッタルの首筋、蒼炎を纏い鉄片を鋭く尖らせた巨剣は空気を裂きながら筋肉質な肩から袈裟に振り下ろされ――鈍い音をたて、何の抵抗もなく食い込んだ。

 

 

「……それで終わりか?」

 

「ッ…!?」

 

 

切り裂くどころか傷一つない、首筋に刃をあてがわれなおオッタルは涼し気な表情を浮かべており、肉が壊れるのも構わず振り下ろした巨剣は肌に触れたままそれ以上進まず、止まっている。

 

これでは足りない、鋼鉄のような肌はこの程度の鋭さを到底通さない。

 

 

「――おおッ!」

 

 

獣のような咆哮を滲ませると、身体中から放出される火力を倍増させた。

掌から伝った蒼炎は(たきぎ)のように柄から刀身を包み込む、視界が蒼に染まるのもお構いなしに炸裂させ、オッタルに触れた刃先を爆心地に二人のいる空間を丸く焼き払い、まるでドームのように包み込んだ。

 

もっと激しく、もっと苛烈に。濁流のように鎧の上を流れていく白痴蒼炎が揺れる、巨剣を握りしめる拳に力を込め、カウントと共に更に巨剣へと憎悪をくべる。

既に常人が触れれば即時燃え移るほどの熱を持った蒼炎は周囲を包み込んでおり、人の生存を許さない空間を作り上げていた。

 

 

「…フン」

 

「ッ!?」

 

だが――足りない。

 

視界を覆った蒼炎をズンと掻き分け剛腕が伸びてくる、反応するより早く強引に無骨で巨大な掌が俺の鎧の首元を掴んだ。

抵抗する暇も無く足が浮いた、晴れかけた蒼炎の中で火傷一つないオッタルが無表情に俺に腕を伸ばしており、例え濃い蒼炎の中であってもその体躯は一切揺らいでいなかった。

 

(まずッ――)

 

オッタルは重心を回しゆっくりと拳を引く、レベル7の力を込めた拳は硬く、あらゆるものを一撃で粉砕する。

急速に集中し始めた力に目を見開いた俺は一瞬回避を思い浮かべたが、抵抗しようにも掴まれてしまった鎧はぴくりとも動いてくれなかった。

 

巨剣を引く、まるで大砲のような拳は限界まで力をため込んでおり、例え鎧を着こんでいても当たれば即死しかねない。

武芸者の呼吸にタイミングを合わせる、オッタルの身体に最も力が集まる瞬間、ただでさえ大きな肉体が二倍近く膨れ上がり、霞むようにして巨大な拳が動くのが見えた。

 

……ボン!と拳によって圧縮された空気が音をたてて破裂した。

 

 

「ふッ…!」

 

「くッ……ぐぁぁっ!!?」

 

 

咄嗟に構えた巨剣の腹にオッタルの拳がドォンッと音をたて、重く突き刺さった。

瞬間かかる拳圧、放たれた大砲を両手で受け止めるかのような感覚、全身を覆う余波と潰されるような鈍い痛み、一撃必殺の理は巨剣をバキバキとひび割れを作りながら砕き、そして――宙を飛んだ。

 

世界が前に流れる中でパキンと高く金属の割れた音がした。突かつ面の破壊は手の中の巨剣を容易く二つに割り、衝撃波で俺の身体を拭き飛ばす。

激しく揺れる視界、三半規管は破裂しそうなほどかき乱され、時折見える地面に自分が回転している事を悟った。

 

 

「ッ…!」

 

 

ルームは広いが距離による威力減衰は望めない、このまま高速で飛べばダンジョンの壁に当たり、死ぬまではいかなくとも全身の骨が折れ確実に再起不能になる。

 

何とか腕を伸ばす、高速移動の中俺は篭手の指先を岩盤にブチ当て食い込ませると失速を願った。

爪のように尖った鎧の指先が岩に刺さる、それでもなお止まらない推進力につぶてが飛び、火花を散らした。

 

もう片方の手をかける、まるで前傾姿勢をとるように両手で地面を掴んだ俺は身体の向きを固定し、鉄爪を突き立てるとズガガガッ!と十数メートルほど傷跡を残しながら軟着陸に成功した。

犬のように座った状態で俺は揺らいだ視線をあげる、体の節々の痛みもさることながら鎧の消耗も激しい、地面には蒼い炎をあげる10本の筋が深く残っており、かなり遠くで拳を振り抜いたままのオッタルがいた。

 

(…ほんと、なんっつー威力だ)

 

解ってはいたがどの攻撃も当たれば即死級だ、例え狼騎士の鎧を纏ったとしてもオッタルの拳はそれを貫き、現に余波だけで鎧の各所が潰れ、損耗していた。

 

たったの5秒足らずでこの有様だ、全身は痛みを覚えて本能に逃走を訴えかけ、この数瞬のうちに途方もない実力差を改めて感じさせた。

巨剣は折られ鎧は擦れ、攻撃は効いている様子もなく、一撃でもまともに喰らえば即死しかねないクソゲー状態は変わらない。

 

しゃがんだまま目の前に転がった巨剣を見下ろす、共に吹き飛ばされてきた真っ二つに折れた剣と先端の欠片はどちらも手の届くところに落ちており、もし咄嗟に巨剣を盾にできなければ二つになったのは俺の身体だっただろう…否、折れる前に貫かれるか。

 

(4回…いや、5回か…?)

 

オッタルが特大剣を拾い上げる。同時に『()()()()()』俺は慌てて胸を叩き、目の前に転がっていた折れた巨剣とその片割れを殴りつけるようにして炎を纏った両手でそれぞれ掴むと、衝撃に備えた。

鋭い眼光が少し離れた俺に向けられる、拳で死ななかったことに特に驚きもせず息をゆっくり吐きだすと、大きすぎる剣を握りしめ半歩前に踏み出していた。

 

 

「…ッ」

 

 

恩恵(ファルナ)による強引な瞬歩、そして特大の鈍器を用いた最上段からの叩き潰し。

距離を詰めてきたオッタルは軽く身体を捻り、そして体重を乗せた踏み込みで腕を振るう。

目の前に現れた最強は疾く重い鉄塊を真上から落としてきた。触れただけで吹き飛ばされそうな剣圧を纏ったそれはしゃがみこんだ俺の頭をまっすぐに狙っており、目の前に現れたオッタルの攻撃がもし当たれば俺の鎧程度粉砕されることは解り切っていた。

 

(…!)

 

そしてすぐ目の前の地面がオッタルによって踏み砕かれ、片手で振られる特大剣が振り下ろされ――

 

 

 

『…ガゴンッ!!』

 

「……なに…!?」

 

 

 

――金属を弾くような音とともに、あのオッタルの特大剣が()()()()()

 

流石のオッタルも目の前の光景が予想外だったのか驚きの声を上げ、自らの特大剣を弾いた今までルームの何処にもなかったはずの『鉄製の盾』に目を見開いた。

 

掲げられた左手の甲の上、折れた刃先でしかなかった鉄はその姿を青みを帯びた中程度の大きさの盾に変えていた。

持ち手つきの騎士盾は硬く、そしてつぎはぎのような構造上隙間がある程度の衝撃を吸収してくれる。勿論それを支える側の筋力も必要になってくるが防御に特化した装備は巨剣で受ける何倍以上も自分の事を守りやすい……今まさに、()()()()()()()()()()()()()()()()ように。

 

――鋳造、折れた剣先は騎士盾へと姿を変えていた。

 

1秒で修繕された鎧を纏った俺は兜の下でにやりと笑みを浮かべ。、鉄を打つ力を知らない様子のオッタルが一瞬の狼狽を浮かべたのを俺は見逃さず、隠していた右手を翻すと数歩分離れたオッタルに突き出した。

 

 

「ッ!?…なッ!!?」

 

「…フッ!」

 

 

回避しようと巨剣の間合いから下がったオッタルを『長槍』が追撃する、蒼い光沢を放つ長槍は持ち手の部分は元の直剣と変わらないが、その刃渡りは実に巨剣の1.5倍は長く、先端は細く鋭かった。

針のような槍先がオッタルの胸板を正確に突く、皮膚こそ貫通しない弱い攻撃は一瞬のうちに細かく六回全て肉に弾き返された。

 

だが――それで、良かった。

 

 

「…面妖な技を。だが、次の一撃で殺す」

 

「はっ、やれるもんならやってみな…!」

 

 

たなびく蒼炎のマントを広げながら立ち上がる、左手に盾を、右手に長槍を構えた姿は正しく騎士であり、その憎悪に満ちた獣瞳は愉しげにオッタルに向けられていた。

 

 

例え剣が傷をつけなくとも、例え炎が皮膚を焼かなくともそれは等しく『攻撃回数(カウント)』に含まれる。

切り裂き魔の高揚(リッパーズ・ハイ)、今はまだオッタルと言う壁に爪先すら引っかからないかもしれない。だが10で足りなければ100で、100で足りなければ1000で、俺は幾度となく成長を重ね、攻撃回数を増やせば、必ず――『到達する』。

 

これはそういう能力(チカラ)だ、圧倒的逆境であっても、例え相手が人智を超えた絶対の存在だったとしても、いつか必ず追い抜きその喉元に食らいつく。

その在り方は無限の進化を体現しており、あらゆる逆境を打破する可能性を秘めたそれは――『神殺しの力』と呼ばれた。

 

そして――『打ち直し』。

激戦の中鎧と武器がいくら壊れすり減ったところで問題は無い。『鉄を鋳造する能力』さえあれば例え鎧が摩耗としようと、剣が真っ二つに折れようと俺には修復することが出来る…つまり肉体にさえダメージが入らなければ。

 

 

「…フー……」

 

 

…息をつく、結局一撃即死の状況であることに変わりない。しかし戦い続けていくことができれば、戦う事を諦めなければ俺に勝機はある。

騎士盾を前に、長槍を後ろに、僅かに濃さを増した蒼炎を漲らせ腰を落とす。眼は油断なく特大剣を構えたオッタルに向けられ、殺意と闘気を今一度燃やした。

 

 

「――はッ…!」

 

 

裂帛、共に足を踏み出す。瓦礫を踏み砕き、俺は特大剣を構えたオッタルに向かう。

後手に回るつもりは無い、前へ前へ、幾度となく牙を突き立て、何度弾かれようとも蒼爪を振るうつもりだった――例えそれが背水の陣だとしても、そこに一縷の勝機があるならば。

 

特大剣と長槍が交わる、高い金属音が響き渡り、そして蒼炎が渦を巻いて翻ると開戦は成る。

 

そして火花が滝のように散る中、神殺しの狼と都市最強の一戦は、ルームにぶつかった圧による破壊をもたらしながら始まった。

 

 

 

・・・

 

 

 

――『届け』。

 

あるのは千変万化の死線、触れ合い潰音を奏でる鉄と悲鳴を上げ続ける蒼炎、荒い息の音、強く踏まれる大地の鼓動、無限に変わる手数、武芸百般を極めた狼は己が鍛えた技の全てを懸け、例え何度阻まれようと手を変え品を変え幾度となく壁に飛びかかっていた。

…既に戦闘開始から数十分もの時間が経過していた。

 

特大の剣が振られる、当たれば即死を免れない一撃必殺の重撃を狼は俊敏な足捌きで稲妻のように回避し、剣圧が身体の上を撫でるのを無視して更に一歩、鋳造したての双剣で過去に習った数多の剣術をなぞり、交互に回るように6回その厚い身体を斬りつけた。

 

 

「ッ…!」

 

 

傷は無い、そして引き際を間違えれば潰されかねない。

迫る特大剣を距離をとって鮮やかに回避、後方に跳びながら刃の潰れた双剣に拳を打つと完全把握したリーチのギリギリ先でベクトルを反転させ、息をつく間もなく鋳造した薙刀が形を成す前にまた跳んだ。

 

(届け…届け…!)

 

一コンマごとに死を覚悟する、瞬間ごとに振るわれる剣戟はもはや数える事など叶わず、一瞬の余裕もない激闘に肺は酸素を求めて喘いでいる。

もはやカウントを数える脳領域は残されておらず、ただ『届け』という言葉を意識の片隅で盲目的に唱えながら一手間違えれば叩き潰されるデスゲームを一心不乱に走り続けていた。

 

――ここまでの闘いを生き延びたのは奇跡だった。

 

剣端に蒼炎を灯らせた精悍な造りの薙刀を前に『浮き身』をしながら狼は飛ぶ、容易く行使された忍術にオッタルは目を見開きつつもしっかりと足の動きを目で追った。

フェイントに引っかかったオッタルを前に薙刀を小さく縦に振りおろす、今度は目の前でちらついた刃に視線を盗られた最強を確認しつつ――槍のように切っ先で腹を裂く『霞二段』、超高速で行われたフェイント攻撃にオッタルが気が付いたころに狼は既にリーチ外に逃げ、また手の中の武器を蒼く変形させていた。

 

刀と脇差、大小それぞれ長さの違う二振り。

 

打った双刀を狼は走りながら手の中で『逆手』に持ち変え、身を低くし獣のようにオッタルに突進すると踏み込み斬りかかった。

特大剣が掠める、身体を回転させ躱した一撃が空を切る、そのまま太ももとすねを斬りつけた狼は再び振るわれる刃を転がり避けると、刀を持ったままの両手を地面に突き立てた。

 

瞬間蒼炎が視界を覆う、今までに比べ物に慣れない程濃く満ちた蒼炎が二人を包み込むと周囲一帯が煙幕のように何も見えなくなった。

オッタルの肌を蒼炎が叩く、全くダメージの無い攻撃をオッタルは無視し――気配も無い事に気が付いた。

無音がドーム状の空間を支配する、鎧を身に着けたはずの鉄狼の足音は聞こえず、気配も影もどこにもなかった。

 

 

「…――ッ!?」

 

 

背中を刃が撫でる、オッタルは特大剣を背後に振るうと音もなく影が蒼炎の中に消えていくのが見えた。

 

『火遁』――目くらましの炎の中を狼は自由に駆け、獲物に飛びかかる。

 

全方位、オッタルの死角、隙を狼の鋭敏な嗅覚は見逃さない。

レベル7の超反射の合間に狼は刀を振るう、逆手に持った刀と脇差は素早く急所を切りつけ、また炎の中に音もなく逃げる。

時に跳び、踏み、回転し、斬撃を繰り出すその姿は暗殺者のそれであり、一切の油断も無ければ容赦もなかった。

現れては消える、それは幻影のように揺れ、刃を蒼く輝かせ腕を振るうと確実にカウントが増えた。

 

だが…傷も無い。

 

 

「ッ…!」

 

「ぐっ…!?」

 

 

走り、死角をついた疾走をオッタルはレベル7冒険者の異様なまでの反応速度で予測し、振り返ると今まさに炎から飛び出てくる狼を確かに見た。

ヤバイと思って身を引いたが遅い、蒼炎を割って突き出されてくる剣先を身をよじって躱そうとしたが左腕の近くを剣先が掠め、鎧を砕くと二の腕の辺りが熱くなった。

 

冷静にバックダッシュで距離をとる、オッタルの剣の腹には真っ赤な血がべったりとついており、自分の左腕を見下ろすと鎧は大きく歪んで破損し、その隙間から大量の血を溢れさせていた。

幸い痛みは異常分泌されたアドレナリンで感じない、息をつき右拳で破損した鎧の近くを小突く、蒼炎が覆うと鎧が変色を始め、壊れてめくれていた部分がスライムのように元の位置に戻っていくと鎧は修復された。

 

…危ないところだった。鎧がなければ、そしてもしあと数センチでもオッタルの狙いが正確だったなら二の腕を持っていかれていた。

熱く長い傷跡を鎧の上から掌で覆う、呼吸を整えると、晴れた蒼炎の中から特大剣を構えたオッタルが踏み出そうとしているのを見据え、二振りの刀を打つと今一度巨剣に戻した。

 

 

――『ガァンッッ!!…ギィィィィィィッッ!』

 

 

手の中で鋳造された巨剣でオッタルと鎬を削る、純粋な力のぶつかり合いは先ほどよりも長く続き、衝撃で空気が揺れるのがビリビリと肌に伝わってきた。

 

それからは互いにリーチの中で剣を交え、巨剣を振るい弾かれ、特大剣が振るわれ躱し、余りに長く多すぎる剣戟の応酬だった。

離れる、また近づき剣を打ち合う。足を踏み込み、回り、少しでも有利に、躱し、不快音を連続させ、前に前に、連撃を繰り返し、一撃を受け続け、肉体が、魂が強張らないように――

 

――無限の剣戟の中で、俺は吼えていた。

 

 

「ぁぁぁぁああああああああああああッッッ届けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッッッ!!!」

 

 

絶望を燃やし、恐怖を燃やす。

特大剣が迫る、巨剣ではじく。巨剣で斬りつける、手で振り払われる。

もはやカウントを数える暇も無く、彼我の戦力差も解らない。

 

だがどうでもいい、ただ超える。ただ吼え、刀を振るい、前に踏み出す。

それだけが生きる道、それだけが――俺が帰る手段だった。

 

肉薄したオッタルとの死闘、急激に増していくカウントの中で俺は蒼炎を纏い噴きあがらせる。

剣が当たり、離れ、そしてまた角度を変えてぶち当たる。コンマ毎の激戦、瞬き、切り結んだ数はもはや解らず、弧を描いた剣戟達は最後の残滓を残しながら幾度となく産まれ、消えていく。

 

 

「貴様っ…その力いったいどこからっ…!」

 

「ッ…!」

 

 

呟いたオッタルの戸惑いの言葉を無視し、振り下ろされる特大剣を切り流すとその胸に一撃を加え、弾かれた剣を足捌きで構え直した。

既に力・敏捷ともに千の頃とは五倍以上の差、俊敏に前へ後ろへ飛ぶ足は鋭く、オッタルに打ち込む巨剣の圧も格段に増しており、傷を負った腕ももはや常人には捉えきれぬ疾さに進化している。

 

鉄が交わり、数舜後には互いに立っていた場所が変わる。

剣が振われ、力同士の圧で空が圧縮されると遅れてきた高音と混ざり、砕けた鎧と傷一つない肉体に火の粉を振りかけた。

 

狼はなおも吼える、それは自分の生存のため、家で待っているあの子のため、一歩だって退くことのできない絶死の劇場の中で力の限り、命を燃やして巨剣を振るい、感情を糧に憎悪を獣の如く吼え続けた。

 

 

「ああああああああああああああああああッッ!!!」

 

「くっ…!?」

 

 

そして更に前へ一歩、盲目的に踏み出した足は白痴蒼炎を纏う。

振り切れた頭が状況を俯瞰しだすのを無視して地面を踏みつぶし、そこに全体重を乗せると体幹の上を熱いエネルギーが流れていくのを感じた。

 

肩を回す、今までで一番の全力が巨剣を握りしめる。はちきれそうになる頭が喉が潰れるような咆哮をあげ、前のめりに巨剣を構えると、追い付かせるように刃を前へ、加速度的に増していく力を考えなしに腕と肩へ足していくと、呼吸と共に巨剣を袈裟に振り抜いた。

 

 

 

――『ゴァンッッ!』

 

 

 

オッタルが構えた特大剣に力任せに巨剣を叩きつけた瞬間身体が弾かれる、余りに巨大すぎる力に踏ん張っていた足が一瞬浮いた。

 

(…剣はっ!?)

 

そして――手の中に納まっていたはずの巨剣も、衝撃で手の中から離れてしまっていた。

 

上を見上げる、全力の一撃に耐えきれなかった巨剣は真上に弾かれ中ほどで歪みながらくるくると回っており、戻ってくるまでにかなりの時間がかかりそうだった。

俺の武器はあれだけだ、あれが戻ってくるまで無手で特大剣を装備したオッタルとやりあうのは流石に厳しい。

 

 

 

だが同時に――()()()()()()()()も空へと飛んでいた。

 

 

 

手の中で弾けた規格外の二振りは空中で廻る、『あのオッタルも剣を保てなかった』という信じられない光景をアドレナリンで満ちた脳内で認識しながら不意にオッタルのことを見ると、猛者もまた全く同じタイミングこちらのこと見下ろしていた。

思わず笑ってしまうような戦場の奇跡、しかしそんなもの二人に関係ない。一瞬の逡巡もなく、目があった敵同士はまるでそれが当然だとでもいうかのように――()()()()()

 

 

「「…ぐッ!!?」」

 

 

肉が叩かれる音、クロスカウンターが互いの頬に炸裂する。

 

飛んできたオッタルの剛腕に左拳を乗せ、篭手のままオッタルの頬を殴りつける。同時にオッタルの拳が頬を掠り、大したクリーンヒットでもないくせに兜の表面が砕け、下あごが吹き飛ばされたかのように錯覚する強烈な痛みが走った。

 

二人の足が拳圧で自然と後ろに下がる。生粋の戦士は強くお互い踏み出すと闘争本能そのままに咆哮を上げた。

 

 

「「おおおおおおおおおおおおッ!!」」

 

 

肉薄したままのフルコンタクト、足捌きと体重移動で咆哮をあげながら二人の戦士はインファイトでの殴り合いを始める。

 

剣戟とは比べ物にならない程速い格闘、霞むように互いの拳が振るわれ、拳筋が炸裂する。

流石にレベル7ともなれば戦い方が素人ではない、被弾を恐れず前に踏み出してくるボクシングスタイルは正しく重戦車であり、対して俺は洗練されたフットワークに加えて様々な徒手空拳の宗派をなぞり、一呼吸ごとに構えを変えていく。

 

応酬、拳を当てると拳を当てられる、繰り出された重い一撃を体裁きで躱しカウンターを当てる。

硬い肉を幾度となく叩き、体裁きで躱しきれなかった拳が掠るように全身を襲った。鎧の上からだというのに生身の拳は俺の身体にとてつもないダメージを与え、血が滲んだ。

砕けていく鎧を直す暇も無く殴り合う、蒼炎を纏った鉄拳はオッタルの肉体をがむしゃらに殴りつけ、避け切れなかったオッタルの拳が俺の身体に当たる度に骨が軋み肉が潰され、激しい出血とともにとてつもない痛みが走った。

 

在るのは拳と肉体、技術は僅かに俺の方が上。

それでも捉えきれないジャブが身体に当たるたびに肉体が死に、隙を見ては篭手の拳を可能な限り多く叩き込む。

 

 

「ぐぁッ…ぐぅっ…!」

 

 

壊れかける身体を堪え、倒れかけた身体を足で強く支える。

鋭く拳を振るい、重い一撃に耐え、息を漏らすと、ただ生きるために戦った。

飛びそうな意識の中で少女を見る、物言わぬ愛しい幼子との生活が脳裏にじんわりと染み出してきた。

 

ようするに走馬燈というやつだった。こういう時に見る幻影は非常に危険だというのは解っていたが、どうやったって止まってくれなかった――

 

 

今なら、最高の名前をつけてあげられそうだった。

 

 

――記憶(のうり)から湧き出た活力と共にドズンと大地を踏みつける。微かな思いは濃く高く蒼炎を焚きつけ、キャパシティーオーバーを起こすかのように一気に溢れ出た炎の中で力を込めた俺は目を見開いた。

異様に冴え渡る頭で今日一番の集中をオッタルに向けると、再び全力で打つ覚悟を決め、拳構え、放つ。

 

 

「うおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

「グッ…なっ!?…ッ…!」

 

 

オッタルのガードの隙間を狙いすました拳が貫く、オッタルの顔面を右拳が全力で殴りつけると同時に炎を放出しながら吹き飛ばした。

相変わらずダメージは無い、だが確かに全力の拳はオッタルの体幹を揺らすとその大山のような巨躯を後ろに傾けさせた。

 

――落ちた『剣』が金属音をたてた。

 

オッタルはすぐに姿勢を元に戻す、顔に纏わりついた蒼炎を振り払うと淀まない視線を前に向ける。

自らの特大剣はすぐ目の前に突き刺さっている、周囲を焼き払うような蒼炎は絶えず噴き上がり、その中心に立つ狼騎士は満身創痍でありながら強い意志を持った瞳でこちらの事を見据えていた。

 

――その鉄肌を切り裂くだけのカウントは充分にあった。

 

落ちてきた巨剣を掴むと同時に拳を叩きつけると狼は息をついた、敵前でありながら一度瞳を閉じ深く集中した。

そして手の中で変わりゆく蒼い銑鉄をゆっくりと掲げると――『野太刀』、自らの体躯を優に超える長く鋭い薄氷のような一刀が打たれた。

 

 

「…!」

 

 

まるでそれは今までの激しい戦いが嘘のように緩慢な動きだった。

 

100から0へ、遅く脱力した構えにオッタルは思わず注視した。

それは舞いのように静謐な動き、ゆっくりと足を引き、両手をその太刀に揃えるまでの所作は美を感じさせるまでに至り、目の前の存在が反転したようにさえ見え、思わず目を奪われた。

 

――『明鏡止水』、狼は無の果てに剣舞の極致を見る。

 

まずい、そう思ったオッタルが特大剣に手を伸ばすより早く俺は目を見開く。

本能に任せた音のない喝と共に前に重心を倒すと、自分に出来る全てをこの一撃に注いだ。

 

今までの戦闘もカウントも、何もかもがこの一瞬のためにあった、

 

始めから俺の狙いは一つだけだった、どうやったって傷つけられない壁を一度で戦闘不能にする急所、そこさえ切り裂ければ『勝てる』自信さえあった。

 

今可能な鋳造で造る、ただ鋭さだけを求めた太刀。

 

薄く、脆い、到底武器とは呼べないような一振り。硬すぎるレベル7の恩恵を切り裂けるだけの鋭さを作り上げるためだけに膨大なカウントは稼がれ、たった一度振るうだけで砕けてしまう、この瞬間を斬るためだけに在るその太刀は――故に、『刹那』と呼ばれた。

 

 

 

 

 

「死ねッ!狼ッ!!」

 

 

 

 

 

吼えるオッタルを前に恐怖は無く、振りかぶられる特大剣を前に構えを解くこともない。

 

軸を回す、鍛錬によって得た最も疾く刃を届かせる技、ゆっくりと心無く脱力しきった身体には余計な力が無く、また一切の力は必要なかった。

ただ触れさせるだけでこれは切り裂く、覚えた型を寸分違えずなぞると、今まさに特大剣を振ろうとしているオッタルに流水のような初動を繰り出した。

 

――空が一刀両断される。

 

微かに引っかかるような手ごたえと、手の中でパリンと割れる飴細工のような太刀の最期。

目の前には特大剣が迫り、武器を失った俺にはそれを阻む手段はなく、相も変わらずその力は俺の事を蟻のように潰すには充分過ぎた。

 

すんでの所で特大剣を躱す、距離を取りつつ炎を撒き手の中に残っていた柄頭に拳を叩きこむと空中に砕けてしまっていた破片を回収した。

巨剣を打つ、もはやそれを持つのも億劫で、集中の切れかけた俺は戦闘終了もしていないのに疲労を訴えてくる身体を鼻で笑うぐらいしかなかった。

 

だが――既に、一閃は振るわれていた。

 

 

「なっ…貴様、俺の()()を…!?」

 

 

再び形を成し始めた巨剣でオッタルの追撃を受ける。溶けかけの銑鉄が雫となって散り、重い剣戟を再開する中、新鮮な赤い血がオッタルの利き腕である右手を伝うのが見えた。

 

――『その五指(ごし)はらりと落とせば』。

 

敵の戦闘能力を奪うという点において。真に剣を極めし者は太刀の切っ先にて剛力など用いずにゆるりと敵の指を落とし、たったそれだけで人を無力化してみせる。

というのも指という器官を落としてしまえばもう如何な剣豪であろうと刀を持つことが出来ず、わざわざ命を奪わずとも戦闘能力を失わせることができる…その時点で投了である、勿論大怪我というのもそうだが何より指が無くては人は武器を扱えない。

掴む、とは人類最大の武器だ。指で掴むからこそ人は道具を扱うことが叶うし、道具が扱えるからこそ人は強い、それこそかつての原子の頃を人が生き延びることができたのはその類い稀な発達した前頭葉と投擲能力があったからであり、武器を持つ持たないでは天地の差が生まれる。

 

そしてオッタルとてその例外ではない、利き手である右手を斬られたオッタルは現在左手のみで特大剣を振るっており、血を垂らした右手は親指をピクピクと痙攣させたまま動いていない。

 

これこそ狙い通り…では生憎ない。俺としては五指全てを根元から太刀で斬り飛ばすつもりでいたのだが、どうやらレベル7の超反射か何かで剣筋をずらされ親指の腱のみを小さく斬る結果に終わっている。

とはいえ結果としては同じ事だった。これでオッタルは右手で剣を『掴む』ことが出来ない。片腕でしか振るわれない特大剣の威力は純粋に二分の一にまで落ち、それでも油断できないが今まさに斬り合っていても先ほどまでの剣圧は完全に消え失せていた。

 

 

「ッ…!?」

 

「おおおッ!!」

 

 

押し付けられる特大剣に競り負けず俺は鎬で均衡を保つ、困惑と怒りを混ぜたような顔をしたオッタルの顔が目の前に近づいた。

 

――傷つけたという事実が戦場を支配する。

 

誰がレベル1冒険者がレベル7冒険者を傷つけられると思うのか、誰が路傍の石に怪我をさせられると思うのか。

危険のないと確信したものだからこそ人は安堵する、しかし同時に安全だと思っていたものに怪我をさせられて初めて――『脅威』と感じるのだ。

 

(一回…!)

 

一回傷をつけられたなら、二回目も傷をつけられる。いくら先ほどの太刀が鋭さのみを追い求めた鋳造だったとしても、全体的なカウントがオッタルに近づいてきていることは間違いない。

 

たかが指一本――されど絶望的な0(ゼロ)から狼は初めてカウントを増やした。

 

巨剣を引いて息をする。やっとここが折り返し地点だ、具体的に見えてきた勝機は近い。やっとかかった爪一本、それはたった一歩に過ぎない、まだ壁は遠い、だが――俺が諦めていない限り、必ず届く。

 

一歩前へ、激しい剣戟の中で俺は成長し続ける。

特大剣を受け、巨剣で斬り返す。一瞬の中で叫び一太刀ごとに魂を込めた、それでも足りない分は感情を燃やし、巻き上がる蒼炎の中で死線を踏み越えた。

もはや鋭さと速さの増した剣は威力の落ちた片腕のみで振るわれる剣と対等に渡り合う、隙をつく機会も増え、狼自身の動きも時折捉えきれないものとなっていた。

 

…剣が振るわれる。

 

 

「…!」

 

 

オッタルが踏み込み特大剣を横に薙ぐ、片腕でありながら振られた一撃は触れれば俺の鎧程度一刀両断し、余りにも容易く骨肉を潰す。

膝を落とす、一瞬で脱力した俺に合わせ軋んだ鎧は柔軟に折れ曲がると、断潰の斬撃が目の前を通り抜けていくのが見えた。

蒼炎を充填する。握りしめた巨剣を這わせた炎は濃く燃え上がり、ゆっくりと剣先へと流れながら時折空気に手を伸ばしては消えていった。

 

――再びチャンスが訪れた。

 

しゃがんだ状態からばねのように跳ね上がり俺は巨剣を斜めに斬り上げる。

溜め込まれた膨大な蒼炎がカーテンのように幕を引く、太く大きな刃がオッタルの硬い胸板を斬り押しその体勢を崩させた。

 

オッタルの視界を覆った蒼炎、その中心で俺は巨剣を打つ。もう一度カウントを込めた鋳造は鋭さのみを追い求めた太刀、リンと音を響かせた鉄は蒼く熱を帯びた。

狙うは右脚の筋、もしこの上移動力まで削げたなら勝ちはぐっと近くなる。巨剣に拳を当てた俺は狙いを足に定め、また目の前にいるオッタルに意識を集中させた。

 

(いけるッ…!)

 

オッタルに勝てる。化け物以上に化け物なあの最強を、絶対の壁を超える。

このまま刀を振るい、もう一箇所でも身体を動かなくすればさしものオッタルと言えどその戦闘能力は激減する。

そうすればすぐにはオッタルを殺せずとも、確実にカウントは稼ぎやすくなる。既に壁は近い、もう一本爪をかければ、勝利は目前だった。

 

勝利を確信した俺は目を見開き刀を再び上段に構える、心を明鏡止水に保とうと息を吐きだすと、再び全てを斬り裂く強いイメージを思い描き、変わり始める巨剣の中で――

 

 

 

 

 

 

 

「はっ…!?」

 

 

 

 

 

 

 

――蒼炎を薙ぐ黄金の疾風が吹いた。

 

視認できない瞬歩、一直線にルーム外から突っ込んできたその影は軽く跳ぶと、金色の残像を跡にしながら蒼炎を切り拓く。

美しい剣技、細い剣筋は炎を木端に斬り飛ばし、踏み込んだ烈風とともに散り散りになった蒼炎が空の中に溶けて消えた。

 

トンと軽い音で着地したその剣と目が合う、聞きなれた呼吸と共に目の前の少女はゆっくりと腰を落とし構え、重い『震脚』の後しなやかな一撃を繰り出した。

 

 

「ッ…――ぐぁぁっ!!?」

 

 

腹部を襲う重い一撃、体重移動による突き飛ばし。視認してからでは遅い、ルームの中に疾風のように駆けこんできた黄金は瞬きの内にオッタルと狼の合間に立つと構え、真っ直ぐに俺に拳を飛ばしてきた。

 

鎧を着こんだ身体が吹き飛ぶ、まともに当たった高レベル冒険者の一撃は俺の内臓をかき混ぜ、ダンジョンの壁に叩きつけると激痛と共に肺の中の空気を全て押し出させる。

たった1秒未満の出来事、余りに速すぎるその動きに刀の鋳造は中断され元に戻った巨剣が地面の上を転がった。

 

…痛みに悶えながら狼は地面の上にどさりと落ちると、勢いよく詰まるような咳をした。

 

 

「がふっ!?…こッ……!!?」

 

 

兜の中に血が溢れる、位置をずらされた内臓から血が吐き出され兜の中を赤く染めた。

同時に呼吸が出来ない事に狼は気が付く、ダンジョンの壁に背中を預け激痛の走る腹部を抑えると、どうやら自分の内臓系がかき乱されたということを察知した。鎧越しだというのに激しく揺らされた体内の内臓は本来の位置からずらされてしまっており、このままだと手遅れになりかねない。

 

――発勁。

 

落ちかけそうな意識の中、掌を振りかぶった狼は掌底を自分の腹に叩きつけると『勁』を流す。座ったまま先ほど喰らった勁を相殺すると力技で内臓を本来の位置へと押し戻した。

最後の血を吐き出したは甘い酸素を吸う、舌を覆った鉄の味を確かめるとひとまず大事にはならなかったとあぐらをかいたまま安堵し、壁に預けた背中を脱力させた。

 

呼吸を整えながら俺は目の前で何故か戦っている二人の争い視線を向ける、突然現れた金色にオッタルは特大剣を振り下ろし、対して金色はその髪をたなびかせながら俊敏に一撃必殺の攻撃をいなしていた。

 

アイズ・ヴァレンシュタイン、美しい金髪をたなびかせた天才剣士は疾風迅雷を体現させた動きで剣を振るう。

そして『発勁』。昨日までの段階ではまだ碌に使えもしなかった武術をアイズはいきなり実戦で使い、いとも容易く膨大な強さの勁を鎧の中の俺の身体に通して見せた。

重い発勁は外殻ではなく内部を壊す、皮肉なことに非常に上手に繰り出された発勁の浸透するような大ダメージによって内臓はかき乱され――危うく、俺の教えた技のせいで死にかけるところだった。

 

振り下ろされた特大剣が地面を揺らす、アイズは俊敏な足捌きで片腕のみの一撃を躱すと反撃などはせずにただ距離をとった。

着地と共に剣を構えたアイズは回避の瞬間壁際に叩きつけられている俺に敵意に満ちた視線でこちらを見る、そしてただの()()()()()()()()()()俺に剣を向け直すと駆けた。

 

しかしその疾走は再び『オッタル』によって阻まれる、特大剣によってアイズの細剣は止められ金属音と共に衝撃を鳴らした。

 

 

「…なんで、邪魔するのっ…!?」

 

「フン、あれは俺の獲物……むしろ邪魔をしているのは貴様の方だ、小娘!」

 

「――うぁっ…!!?」

 

 

言葉と共に踏み込んだオッタルの剣がアイズの腹を鈍く直撃する、弾き飛ばされたアイズの身体は一直線に飛ぶと先ほどの俺のように壁に叩きつけられた。

痛みに顔を歪めたアイズはのめりこんだダンジョンの壁から立ち上がろうとする、しかし片腕と言えどオッタルの一撃をまともに受けた彼女は傷こそないが壁にのめりこんだまま暫くは動けそうもなかった。

 

俺に襲い掛かるアイズを力強く斬りとばしたオッタルはゆっくりと息をつくと振り返る、何とか巨剣を地面に突き立て立ち上がった俺の方を向くと見下ろした。

先ほどの発勁でずれた内臓の位置は戻しこそしたがそれも所詮荒療治に過ぎない、レベル6冒険者の一撃は確実に俺の体内にダメージを残しており、何とか立つことこそできたが既に戦えるような身体ではなかった。

 

…しかし俺の体たらくを見てオッタルは闘気も出さず左手で特大剣を肩にかける、そして深く息をつくとすぐに襲い掛かってくるような事はせず喋りかけてきた。

 

 

「…ふー……先ほどまでの勢いはどうした、狼。早く剣を構えろ」

 

「……はっ、もう余裕かよ」

 

「フン…それは違うな。俺は最初から余裕だった、というのが正しい。誰が羽虫を叩き潰すのに全力を出す?」

 

「…」

 

 

オッタルの言うとおりだ、どこに道端のアリを踏みつぶすのに死力をつくす人間がいるのだろうか。それだけ彼我の実力差は大きく、壁は遠い。

 

特大剣を左肩に預けたオッタルは俺の姿を眺める、すぐに斬りかかってくるのかと覚悟したが何故かオッタルは少し考えこむように目を細めると、本当に暫し逡巡した後、珍しく眉を寄せ、そして傷を負った右手を掲げてみせた。

 

 

「…しかしだからこそこの傷は()()。例えいくら油断していようとこの俺が遥か格下の貴様から傷をつけられるはずなど無かった…というのに、貴様は現にその奇妙な力でこの俺を斬り、レベル7冒険者の親指を奪ってみせた」

 

 

そのレベル差は実に6、もしこの力が無かったならばなすすべなく殺されていただろう。

ひとえにそれは今までの積み重ねだ、俺のこれまでの人生を全てかけた激闘、その果てにやっと都市最強の親指を斬った。

 

それは小石だと思っていたものが、実は牙を備えた獣だったかのような驚き。

 

必然かつ死力、生半可な力ではそんな奇跡が起こることは無いとオッタルは知っている、そして何より『傷つけた』という事実が――

 

 

「…惜しい、とは思わん。ただその力は確かに俺に迫った。故に誇れ、この俺に傷を負わせたその力に敬意を払い――貴様を、俺の強敵(とも)として認めてやろう」

 

 

――脅威、として認識させた。

 

黙ってオッタルの話を聞いていた俺は一瞬ぽかんとした表情を浮かべると、思わずおかしくなって痛む腹を折り曲げながら――盛大に吹き出した。

 

 

「ふっ、ははははははっ!これから殺す奴を認めるとかお前いつの時代の武士かっての!いや武士道にしたって真面目過ぎるわ!!」

 

「ブシドー?が何かは知らんが……何、ここまで俺を熱くしてくれた貴様へのせめてもの感謝だ。それに今言わねば二度と言えないのでな、ありがたく受け取って逝け」

 

 

何となくオッタルの性格が解ってきた、ただ寡黙な奴かと勘違いしていたが、こいつはただ馬鹿みたいに真面目なだけだった。

 

(悪い奴じゃないんだよなぁ…)

 

絶対恐怖の存在、会えば死ぬような強敵を恐れるのは至極自然だ。

しかし話してみると別にこいつ事態が悪人という訳ではない、ただお互いの立場から命を狙っているだけであり…もし違う場所で会ったなら普通に友人にだってなれた気がする。

 

――それが、人と化け物の宿命なのだろう。

 

…確かに、別にオッタル相手に惜しいとは思わないが。

緊張の解けた俺はあの子の姿を思い出す、そしてゆっくりと微笑みを浮かべると巨剣を構え、再び白痴蒼炎を燃やした。

 

帰るためには、オッタルと戦うしかなかった。

 

 

「…嫌だね。生憎とこっちにゃ死ねない理由がある、それとも友達ってんならここらへんで見逃してくれるのか?」

 

「もちろん否だ、生憎とこちらにも退けない理由がある。それよりも早く剣を構えろ狼、ここからは俺も本気だ!貴様のその力で――俺をもっと熱くしてみせろッ!」

 

「はっ…言われなくてもなぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 

 

言葉と共に互いに踏み出し、世界を揺らすような一撃は狭いルームの中でぶつかり合った

 

相まみえたオッタルの特大剣は両手の時よりも遥かに重く、蒼炎を滾らせた狼の巨剣は先ほどよりも疾く鋭く…負けられなかった。

蒼炎がルームに燃え移る、もはやそこに普段のダンジョンの姿などどこにも無く、呼応するように剣戟に、蒼炎に、強く鼓動を打った。

 

 

絶対に帰る、それから――あの子に名前をつけてやるんだ。

 

 

化け物を認めた英雄と、帰るべき家の情景を胸に秘めた獣の一戦は再び先ほどよりも熱く、今、熱を帯びた。

 

 

 

・・・

 

 

 

それは神代の戦だった。

御伽噺(アルゴノート)に記された英雄と獣の美しくも残酷な争い、超常的な力を備えた力ある人間とそれに牙を剥く魔物の一騎打ち、遥か昔から続く殺し合いは今ここに再現されており見るもの全てを魅了する。

 

ルームに踊る蒼炎、短く断続的に響き渡る金属音、混ざり合う殺意、骨肉を削る一撃。

巨人のような英雄と、禍々しい形を成した獣は人の身に余る大剣を振るう。ぶつかり合う衝撃で大地が網目を作り、砕け散った鉄片が地面につかないうちにまた次の一撃へと繰り返される。

 

霞む剣戟の中で獣は衝動のまま吼える、鼓膜をビリビリと轟音が叩きつけ、時折その獣のようなめちゃくちゃな動きの過程で四足になりながら蒼いマントを揺らし、鉄の身体から鮮血を噴き出すのもおかまいなしに英雄に飛びかかっていた。

対して人の身、英雄はボロボロになったその身体はいたるところに打撲や切傷を作っており、余裕なく特大剣を振るっては狼を吹き飛ばし、歯を食いしばってまた重く一歩前に踏み出す。

 

――長く繰り返されてきた神話、今まさにその一ページは紡がれている。

 

 

「凄い…」

 

 

目の前のルームで繰り広げられる激戦にアマゾネスの少女は感嘆の声を漏らす。目前で行われる神代の戦、それはまさに彼女が子供の頃から好きだった御伽噺(アルゴノォト)そのものであり、ページをめくるより早く次のシーンへと目の前で移り変わる。

 

ティオナ・ヒリュテ、ロキファミリアの遠征でダンジョンに潜っていた一級冒険者は目の前で行われる神話の戦いに為すすべなく立ち尽くしていた。

行軍の途中で聞いたミノタウロスの話に走り始めたアイズを追ってきたに過ぎない彼女はルームへ続く通路からその戦いに目を奪われ、ただ子供のようにその光景をじっと見つめていた。

 

感動さえ覚える力強い剣戟の数々。美しく舞う蒼炎。鉄の狼の吼え声も、英雄の息遣いも、英雄譚に記されたそのままの全てが彼女の心を躍らせ、手を当てなくても解るほど心臓は大きく高鳴り、興奮で足の先まで血は熱く沸騰しているのが自分でも解った。

 

(あれって…やっぱり噂の……?)

 

冒険者の動体視力をしてかなり疾い戦いを、一瞬でも見逃さないように集中しながらティオナは『獣』の方に注意を向ける。

蒼く白い炎を噴き上げながら巨剣を振るう化け物、人型の獣はその身に鉄片で構成された鎧を装備しており、その頭には狼を象ったようなフルヘルムが憎悪に満ちた瞳を宿していた。

見たことの無い新種のモンスター、噂通りの化け物は驚異的なバネで人外の如き一撃を繰り出し、あのオッタルと互角に渡り合っている。

 

 

「…」

 

 

その姿に不思議と恐怖は感じなかった、それは彼女がこの光景をどこか現実離れした物語の「登場人物」として見ているからなのかは解らないが、その化け物の凶悪な姿を見ても何故か怖いとは思わず、むしろ死力を尽くして戦うその姿をティオナはカッコイイとさえ思えた…何となく、無茶をしてでも頑張るその姿は…いや、きっとこれは気のせいだろう。

 

強い影を作った通路、隣に立ったティオネとベートもまた自分と同じように棒立ちで目の前の光景を眺めており、その顔には驚きや困惑が滲み出ている。

そして戦場を眺めていたベートは眉を顰めると、獣の方に向かってポツリと小さく呟いた。

 

 

「なんっだありゃ…モンスター、なのか?」

 

「え、ベート知らないの!?あれって噂の――」

 

 

呟いたベートにティオナは振り返る、しかしその時ルームの方から炎の音に混じって励ますような大声が聞こえてきた。

 

 

「――アイズ!しっかりしろ!」

 

「…!」

 

 

蒼炎で燃えているルームの中からフィンとリヴェリアが壁沿いに通路の中へ走ってくる。全身を煤で焦がした二人は脱力したアイズの肩を支えており、長い合間蒼炎にさらされマグマのように液化し変形している地面に足をとられないようにしながら、二人は何とか火の手の回っていない通路に逃げようとしていた。

 

決死の救出劇である、激戦の繰り広げられるルームの惨状に最初ここに来たロキファミリアの面々は呆気にとられ、同時に倒れている人影に気が付いた。

そして中でも一番レベルの高い二人が戦闘に巻き込まれないようにしながら壁沿いを伝い、燃え盛るルームの中からアイズの事を救出することになった。幸いなことに英雄と獣は視界の隅で動く影には興味を示さず戦い続け、余波さえ喰らわなければ特に問題も無く救出は順調に進んでいた。

 

そして炎を抜け通路に入ってきた全身汗まみれの二人は、ついに肩で支えていたアイズと共に危険域から助けだした。

 

 

「ふっ…はぁ…はぁ…よし、着いた!私が回復する!」

 

「いや、リヴェリアは回復にMPを()がないでくれ。幸い外傷は少ないし、この後の事を考えればポーションを使った方が良い」

 

「…この後、か。解った」

 

 

リヴェリアが頷く前でフィンは腰ポーチからポーションを取り出すと、慣れた手つきで栓を開け、その中身を地面に寝かせたアイズの全身に振りかける。

すると微かに甘い香りをさせた液体はすぐに効能を発揮し、元々そこまでの重症ではなかったのだろうアイズはポーションに濡れたまつ毛をゆっくりと持ち上げた。

 

 

「んっ…」

 

「アイズ、立てるかい?」

 

「……うん」

 

 

腕をついたアイズは頭を軽く振りながら上体をあげる、その顔には珍しく不機嫌な表情が含まれており、状況を理解するためか座ったままアイズは周囲に目を向けると今もルームの中で続いている戦いに気が付いた。

 

 

「行かなきゃ…!」

 

「待ってくれアイズ、その前に何があったのか聞きたい」

 

「…」

 

 

起きたばかりだというのに剣を掴み、即座にあの戦いに参加しようとしたアイズをしゃがんだままのフィンが制する。

少し迷ったアイズだったがフィンの真剣な目に気圧され、剣先をおろすとトスとお尻を地面に戻した。

 

そして他の五人の視線にアイズは少し考えこむと地面を見つめ喋り始める。

 

 

「私がここに来た時にはもうオッタルと『あれ』が戦ってた…それで『あれ』の方にだけ攻撃しようとしたらオッタルに邪魔されて……俺の獲物だって…」

 

「…察するにその時オッタルに気絶させられたって事か、確かにダンジョンで獲物の横取りはマナー違反だけど…」

 

 

それは例え一級冒険者のオッタルやアイズであろうと適用される無駄な衝突を避けるためのルールであり、破れば例え殴られても文句は言えない。

とはいえ傷つけられた事に怒りが無いわけではない、ベートなどは極めて不機嫌そうな表情を浮かべており、ベートほどとはいかなくとも他のメンバーも同じように顔をしかめていた。

 

そして激戦の音を聞きながら訪れた静寂を破るようにリヴェリアが口を開く。

 

 

「…それでフィン、お前の()の相手はアイツで良いのか?」

 

「解らない、でも親指がここまで疼いたのは初めてだ…てっきりミノタウロスかと思ったけど、まさかこんなことが起きているなんて…」

 

 

全員がルームの中の激戦に目を向ける。

あの都市最強であるオッタルと互角に戦っている獣はロキファミリアにとってまったくの予想外であり、一級冒険者である彼らにして脅威と思わせた。

 

それは遠征の行軍中、他の冒険者から聞いた『剣を持ったミノタウロス』の噂から始まった。

武器を扱うその化け物を神の戯れではないかと疑ったロキファミリアの面々は9階層で見たというそのモンスターを探しにここまで来て――そして、ミノタウロス以上の脅威を見つけたのだった。

 

 

「というかそもそもアレは『何』なんだ?神の戯れにしても禍々しすぎる、あんなモンスターを作ろうとするほど頭のおかしい神はこのオラリオにいない」

 

「それに何故オッタルがここにいるかも疑問だな、普段ダンジョンにいないアイツが今日に限ってここにいるのは何か理由があるはずだ…あるいは、あの化け物が目的か?」

 

「…可能性は高いね。あのオッタルと()()()()()程の化け物だ、あそこの女神ならば秘密裏に処理しようと画策するだろうし…」

 

 

フィンとリヴェリアの会話の中、不機嫌気に顔をしかめていたベートがふとティオナを見る。

ティオナは続く激闘に再び目を奪われており、どこかぼっーとした様子にベートはケチをつけようとしたが、それよりも先ほどティオナが言いかけたことを思い出した。

 

 

「――おいティオナ!そういやお前さっき『噂』とか言ってたよな、まさかテメェあのモンスターの事知ってんのか!?」

 

「…噂?」

 

「へっ?」

 

 

他全員の視線にハッと我に返ったティオナは一瞬事情が分からずポカンと口を開いたがすぐにあの獣の事だと気が付くと、どうしたものかと腕を組む。

そして鉄が触れ合う音のする通路で、暫しの逡巡の後そのまま話すかと決心するともったいぶって話し始めた。

 

 

「えっーと…あくまでこれは聞いた噂話なんだけど、あれは『神殺しの狼騎士』って言って――」

 

『――ギィッンッッ!!』

 

 

しかしティオナが喋り始めるより早く、ルームから一際大きな金属音が響き。同時に絶え間なく続いていた剣戟が止んだ。まさか決着がついたのか、とロキファミリアは慌ててルームの中を覗き込んだ。

 

 

「くっ…ふぅっ…!」

 

「はっ…はっ…はぁっ……!!」

 

 

そこにいたのは膝をつき全身で荒い息をする獣と、屹立したまま肩で息をする英雄。

その様はどこかオッタルが優勢に見えた。全身から血を流す獣は既に瀕死で、対するオッタルは全身を焦がしところどころ血を滲ませていても確かにその場に立っていた。

 

死闘の果て、二人の立つルームはもはや原型無く体内を蒼炎で燃やしており、蒸発した血煙の臭いは濃く辺りに漂う。

巨剣を地面に突きうなだれたまま苦しそうな呼吸を繰り返す狼騎士をオッタルは鋭い眼光で見下ろす、最後に長く息を吐きだすと特大剣を肩にかけると喋りかけた。

 

 

「どうした狼、だいぶ辛そうだがもう終わりか?」

 

「はっ…はぁっ……まだだ、まだ終わらせん!」

 

 

油断なくオッタルの事を睨み上げる満身創痍の狼騎士は蒼い双眸を強く光らせており、全身を覆う蒼炎は揺らめきながら掴んだ巨剣に流れている。そして何とか立ち上がった狼騎士は巨剣を持ち上げ息をつくと、刃を構え直し再び殺意を漲らせた。

 

一方、通路にいるロキファミリアは全員唖然とした表情で固まっていた。

 

 

「…しゃ、喋った!?今喋ったよね!!?」

 

「オイ嘘だろ!喋るモンスターなんて聞いたこともねぇぞ…!?」

 

「や、やっぱりあれって噂の…!?」

 

 

鎧越しで聞き取り辛いくぐもった声、しかし明らかに人類にとって意味を成す言葉の羅列はロキファミリアの冒険者達を震撼させる。

喋るモンスターなど聞いたことも見たことも無い、だというのに目の前で巨剣を構えた狼騎士はオッタルを前に息も絶え絶えながら確かに喋ってみせた。

それは彼らの常識から逸脱した事態であり、いわば異常慣れした彼らであっても思考の空白を開けさせるには充分過ぎる衝撃だった…唯一、事前に予測していたティオナを除いて。

 

通路から動けないロキファミリアに特大剣を肩にかけたオッタルは一瞥をくれる、そして既に限界を超えそれでもなお戦う意思を向けてくる狼に目を細めた。

レベル7のオッタルをして激闘だった、互いの全てをぶつけあった攻防は確かにオッタルを削り、そして遥か格下に存在する狼騎士は今この時間を過ぎてもまだ巨剣を構え立っていた。

 

偉業だった、本気のオッタルを前に狼は生き残る。不可能を可能に、それは神殺しという性質を最大限まで利用した死線であり、苛烈な争いを続けてきた。

だがそれももう限界である。狼の肉体は既に終了を迎えつつあり、今まで良く持たせた方だが巨剣を構える腕は震え、荒く上下する鎧からは絶えず赤黒い血が流れ続けていた。

人としての限界をとっくに超えた姿、それでいて人間としての闘いを心得た狼騎士は人類の到達点にその指を確かにかけた。

 

オッタルは健闘に、そして自らを脅かした強敵(とも)に称賛を贈る。

しかしそれももうここまでだ、如何せん狼がオッタルを喰らうには土台が違い過ぎた。

 

 

「…おい、狼」

 

「ッ…何だ?」

 

「提案がある、次で――終わりにするぞ」

 

「それは…!」

 

 

狼騎士はもってあと一撃。狼の残り体力を見抜いたオッタルはあえて持久戦になど持ち込まず、特大の一撃で競い合う事を告げる。

もう胸熱く戦い続ける事は不可能、なればその終わりこそ華々しく。何より確実に勝つ方法など今まで行ってきた生死を分ける激戦への侮蔑であり、何よりオッタル自身が面白いとは思えなかった。

 

それは厳命を受けた「従者」としては間違っているのかもしれない。しかしオッタルは蒼炎に魅せられた「戦士」として、激闘を繰り広げてきた相手へのせめてもの心遣いとして『最大級の一撃』を提案した。

 

 

「フン…何より通路にいるネズミ共に邪魔をされてはかなわん、それにそちらの方が貴様にとっても都合が良いだろう?」

 

「……そうか、解った」

 

 

もっともらしい理由に頷いた狼騎士を前にオッタルは特大剣をゆっくりと構える。その巨大な身体から息を徐々に吐きだしながら腰を下ろすと、その剣腹を背中にあてがい、空いた右手を目標に向けた。

 

そして長く争い合った相手への最後の名残惜しさを手放しながら、軽度に嗜虐的な微笑みを浮かべて狼騎士に最期を語りかけた。

 

 

「心しろよ狼、次の一撃は俺の全力。貴様がどれほど強くなっていようが関係ない、貴様はこれより――殺される」

 

「ふざけろッ!…死んで、たまるかァッ!」

 

「その意気だ、精々足掻くがいいッ!行くぞッッ!!」

 

 

――『英雄』と『獣』。

 

放たれる、今までの比ではない殺意が空間を砕く。

吸い込んだ空気によってオッタルの身体は膨張し、密すぎる力の圧に地面は小刻みに揺れ始めた。

特大剣が握られる、その巨躯に合わせて作られた無骨な刀はレベル7の全力を余すことなく伝え、それでもなお溢れ出た力の奔流が可視化されるかのように濃く形を成し、硬質化し始めた。

 

都市最強、猛者、レベル7。

それは人類という一つの生物が、神という存在に恩恵を与えられて完成した人類の到達点。

膨大な力、天を裂き地を砕き、圧倒的な力を持って災厄から人類を護る英雄。その力は決して人理では辿り着くことは無かった、しかし人を愛する神の手によってその存在は大きく昇華され、神に仇なす怪物をその圧倒的な力を持って粉砕する。

 

纏った殺気が蒸気のようにオッタルの身体を包み込み、ジリと力んだ余波だけでルームに巨大な亀裂が幾筋も走った

もはやその身に雑念は無く、深く針先のように鋭く集中したオッタルは約束の通り一撃に全力を込める。

 

傷ついた身体、使えぬ右腕、しかしその上で出来る最大。

オッタルは特大剣を構える。それは余りにシンプルな解、純粋な腕力をもって勝利を奪い取らんとする一撃はその準備を終えた。

 

 

 

 

蒼起三爪(ソウキノミソウ)――」

 

 

 

 

狼騎士は呟く、自らが使える最大の一撃の名前を。

蒼い炎が拠り集まる、纏った炎の中から抽出された蒼は構えた剣先に伝った。

ゆっくりと持ち上げた巨剣、縦に構えた三爪、徐々に形を成していく炎は濃く、狼騎士の意志に呼応するように激しく燃え上がる。

 

傷ついた肉体、消耗した体力、それでもなお身を焦がし続ける白痴蒼炎、もとより砕けた全身鎧は血に塗れて濡れていた。

少しでも気を抜けば崩れ落ちてしまいそうな酷使してきた身体をそれでもなお感情を火種にした炎で支える、ここで倒れることは出来ないという決意は瀕死だった狼の炎を確かに増させた。

 

蒼起三爪、積み上げてきたカウントは最初に放った一撃とは比べものにならない程の焦熱と鋭さを持っており、ルームの天井にその爪を這わせながら暖かな風をダンジョンに吹かせる。

それは間違いなく今の狼騎士に出来る最大の攻撃、例え肉体が怪我を負っていてもカウントが削がれたわけではない。今までの死闘で稼いだカウント分だけ力は増し、振り下ろされる一撃は自然界に存在する(ことごと)くを燃やし斬る。

 

――だが、足りない。

 

目の前で滾る猛者の力を前に、狼はこの程度の炎では『かき消される』ことに気が付く。

蒼起三爪、狼騎士が繰り出せる最強の一撃はもはやレベル1という段階をとうに超え、神殺しの獣としてもかなりの進化とカウント更新を重ねた。

 

だが相手は神に仕える冒険者の中で頂点の存在、あと『一歩』届かなかった高い壁は宣言通りの全力を出し、蒼起三爪を凌駕していた。

カウントの果て、猛者の本気、目の前で構えた鬼神のような表情を浮かべる男はまごうことなき都市最強は、その特大剣から神話級の破壊をもって狼騎士の事を蒼起三爪ごと圧殺せんとしている。

 

狼は自分の死を見る、構えた巨剣から迸る蒼炎ではあと『指一本』足りないという事実がやけに緩慢に脳裏を走った。

持てる感情の全てを燃やしそれでもなお足りないオッタルを前に狼は、『何か』を探して記憶を辿る。

 

何か、あと少しの『奇跡』で良い。

それさえあれば覆すとまではいかなくとも拮抗する事は出来る、あの最強の全力を跳ね返すだけの『一割』がどこかにあると狼は記憶の中を探す。

 

そして鎧下で何かが赤熱している事に気が付くと――

 

 

「…!」

 

 

――左手で、胸を叩いた。

 

燃える巨剣を右腕で支えたまま狼は自らの鎧に左拳を叩き込む、白痴蒼炎を纏った篭手はじんわりと鎧を蒼く犯すと泡立たせた。

熱によって溶けた鎧の胸元に丸く光る銑鉄が縁取られる。丁度心臓の真上で液化した蒼鉄はどろりと溶け落ち、そしてその「穴」は掌大の大きさにまで広がると容器に入れた液体のように揺れ始めた。

 

狼騎士は勢いよく銑鉄の中に手を入れる、人の身など焼き尽くす高熱の液体を荒くかき回すとその『何か』を探し当て掴んだ。

腕を勢いよく引いた狼騎士は蒼い雫を飛ばす。光り輝く銑鉄はひび割れた篭手に纏わりついており、飛沫を飛ばすと同時に『赤い短剣』で斬り飛ばした。

 

――それは魔剣と呼ばれた。

 

コートの下から取り出した赤く短い魔剣は絡みついた銑鉄を飛ばしながら赤く光り輝く。

銘の無い『使い捨て』の短剣は、かつては小人族の少女リリが盗んだものであり、キラーアントの一件からリョナが預かってからずっとコートの下に忍ばせていたものであった。

 

そして同時に使うことも無いだろうと思っていた、赤く輝く力の結晶はそのまま破壊が詰め込まれており、その強すぎる破壊は自分自身すら砕く。

自壊属性、使い捨ての道具はあくまで借り物という認識。故にリョナはこの魔剣を自分のために使うつもりは無かったし、使うにしてもそれはあの盗人少女のためだけと考えていた。

 

しかし…ここで、共に潰されるくらいなら。

 

(すまん、借りるぞ…!)

 

心の中でリリに謝ってから狼騎士は左手で魔剣を握り潰す。

パリンとガラス細工のように透明で美しい赤剣は余りにも容易く砕け散ると赤い残滓が空に散り、噴き出した蒼炎によって荒々しく攫われた。

 

狼騎士は赤い粒子を纏った拳の中で魔剣を新たに鋳造する。魔法で打たれたという鉄は内包した破壊を強く叫んでおり、今まで打った素鉄とは違いまるで意志を持つかのように変形することに抵抗した。

火力が増す、指の隙間から蒼炎が溢れ掌の上で魔剣の破片が溶ける。本来の効果である火炎が手の中で暴れ、爆発的な破壊力が今にも爆発しようとその矛先を外側へと向けていた。

 

その剣は振られ砕ける時に刀身より魔法を放ち、穿つ炎は海を裂き天を焼き払うとまで謳われる『使い捨ての魔剣』。

掌の中にあるのはその断片、流石に伝説の通りとはいかないだろうが、それはまるで星の最後の瞬きのように、内包する火炎はかなりの威力をもっており――故に、『あと少し』足りえた。

 

自壊する劫火(ごうか)という性質をそのままに魔剣の外殻を融かした狼騎士は掌の中の赤熱に耐え、渦巻く魔力を蒼炎で屈服させると拳を握りしめる。

異種の炎が溢れた。纏った赤黒い粒子は蒼炎の中で活性化し、輝きながら拡散と収縮を繰り返していた。

 

 

「フッ…!」

 

 

――蒼起三爪を宿した巨剣に、赤炎を纏った拳を叩き込む。

 

柄に近い剣の腹、一呼吸の内に巨剣にめりこませた拳が鉄片を微塵に砕き、蒼い火の粉を撒き散らす。全力を込めた拳によって巨剣には穴が開いており、手を入れたその中では濃い蒼の炎が網の目のような鉄片の上を駆け巡っていた。

 

巨剣という名の炉の中で狼騎士はゆっくりとその手を開き、掌で覆っていた純粋な破壊の結晶を埋め込む。

まるでそれは檻の中で暴れる獣のように、巨剣の中に囚われた魔剣は出口を求めて廻り、鋳造を終えた巨剣はその腹の中に新たな炎を宿すと震え、赤と蒼、『破壊』と『憎悪』という二色の双炎を交わらせた。

 

魔剣の中核、蒼起三爪(ソウキノミソウ)

巨剣の腹に埋め込まれた魔結晶は赤炎を放ち、蒼炎に呼応すると心臓の鼓動のように空間を揺らす。

 

そして――熱波。

 

バンッ!と何かが弾けるような音と共に巨剣から熱波が吹き荒れる。

今までの比ではない熱量、肌に吹き付ける熱風は(から)く、勢いよく髪を揺らしながら危険なまでに焦熱で全てを燃やした。

勢いよく炎風が破裂する。赤蒼の交差するルームの中、狼騎士の鎧を覆っていた血液をジュッ!と瞬間的に蒸発させ吹き飛ばし、ダンジョンの壁を容易く融解すると脆く崩れさせた。

通路で覗き込んでいたロキファミリアが強すぎる熱波から慌てて逃げ出し、今まで彼らが立っていた空間が轟と焼かれると、喉を潰し胸を焦がすような熱い空気圧がその場に発生した。

 

緩やかに構え直される巨剣上、鉄片の隙間に構成された剣先へと続く溝の中を魔剣の(コア)から溢れ出る赤炎は血液のように疾く伝う。

魔剣の鼓動、蒼炎の呼応に合わせて濃赤の液体はその色と同じ炎を輝かせながら巨剣の上に幾筋も這わせ、蛇のように締め付けながら三爪に迫る。

 

 

「――紅蓮四爪(グレンシソウ)ッ!」

 

 

限界の死力、それに『あと少し(魔剣)』を加えた()()()

蒼い三爪の端に新たに生えた紅蓮の爪は蒼起三爪に劣らず程鋭く、激しく燃え盛っており、破壊という魔剣の性質をそのままに閉じ込めた。

 

爪がかき鳴らされる、ダンジョンを()かす巨大な篝火は突風と轟音を巻き起こし独自の力場を発生させる。

蒼起三爪、紅蓮四爪。その炎は高く、その爪は鋭い。イレギュラーさらなる進化を遂げた狼の牙は(ことごと)くを燃やし――今、最強と相対する資格を得た。

 

 

「……猛撃(おうげき)

 

 

英雄と獣。

拮抗した二つの力が咆哮を上げる。

かたや海を裂く超力、かたや天を焦がす劫火。剣の形を成す人知を超えた力の収束体は神代の中でも高次の力域に到達し、拮抗した。

 

これが最後にして最強の一撃、後は無く、勝者は一人しかいないたった一度の立ち合い。

互角。初めから高みにいた人間と、無数の研鑽と無限の肉体の果てに高みに至った化け物。

間違いなくこの世界において最高峰の一戦、神に愛された英雄と神殺しの獣は殺し合う宿命にあり、傍観こそすれ誰にもその戦を阻むことなど敵わなかった。

 

剣を構え、互いに一歩踏む。

既に双方ともに射程内、身に着けた筋肉が限界まで膨らみ、異様なまでの集中力が一点に向けられた。

 

そして――

 

 

「「――――」」

 

ドォッッッッッ!!

 

 

――ついに、終幕は降ろされる。

 

もはや言葉は無用、余りに疾くコンマの瞬間、二人の戦士は寸分違わぬタイミングで歩み出すと『最大』を繰り出した。

力と力がぶつかり合う、それは化学反応のように空中で混ざり合い火花を潰すと風切り音を弾けさせ、小爆発を長く広く巻き起こした。

 

しかしそれはまだ先駆けに過ぎない。強すぎる威力を考えればそれは星と星の表面が擦れたような現象に過ぎず、本核が壊れ合うにはまだ数瞬の猶予がある。

だがその破壊は在るだけで動くだけでダンジョン内部を壊し、重い剣圧と激しい豪炎は裂き燃やしながら、巨大すぎる力をたった一つの命を奪うために使う。

 

 

……ォォォォォォ…――ドゴオオオオオオオオオオンッッ!!!

 

 

低い重低音と共にダンジョンが上下し、余波が終わる。

剣を象った『圧』と『炎』が強くぶつかり合うと均衡を保ち、最大規模の強力な爆発を起こした。

 

それは天地開闢(てんちかいびゃく)にも等しい光景だった。

 

剣が空を切り裂く。纏った気が襲い来る炎を打ち払い、炎は迫りくる気を燃やし殺す。

視界は蒼く、赤く、白く染め上げられ、瞬間人の知覚できる音が消え去り、代わりに惑星の鳴動するような振動が全身の骨髄をカタカタと打ち鳴らす。

白煙を伴いながら肌に吹きつける突風は鋭針のように痛く、目を開けていられない程乾燥し疾く渦巻いており、急速に上昇したダンジョン内の熱が人の生存を許さない。

 

溶ける、裂ける。

最大級の二つの攻撃は真正面からぶつかり合い、覇を競う。

それは余りに強すぎる個同士が故の破壊現象。爆発、爆裂、星の最後の瞬き(超新星)のような巨大爆破、爆風と轟音が吹き荒れ、ただ暴力的な閃光が幾重にも折り重なり広範囲を破壊しながら膨張し続けた。

 

光の中に二つの影が霞んだ。

 

何もかもが破壊され無に還される美しい光景、視界いっぱいに広がる光は既に虹色をしており、蔓延する熱も鼓動も人体には余りにも危険だというのに心奪われる。

声は無く、死塵の光に満ちた戦場は透明かつ単純で、生存どころか呼吸すら難しい。

 

ただ在るのは真空さえ発生させる剛剣と、破壊と憎悪を糧にした炎を纏った廃材の爪。

 

宣言通りの全力同士は更に前へと死力を尽くし、互いの存在を懸けて争いあう。

そして時間にして僅か一瞬、その向き合った破壊は地面を大きくめくりながら目にも止まらぬ速さで広がり、知覚器官の全てが塞がれた。

 

 

そして――灰塵を積み上げながら、神代の闘争は終わりを迎えたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

光と音が止まらない。

レベル7の知覚能力をもってしても、狭いルーム内の何一つ感じ取ることができない。

それほどまでに先ほどまでの一撃は鋭く、強く、熱過ぎた。

 

…しかし、一つだけ解ることがあった。

 

 

「ふー……フン!」

 

 

少なくとも、自分(オッタル)は死んでいない。

 

うっすらと見えてきた視界を覆う黒煙を、軽く身体を力ませるだけで吹き飛ばしたオッタルは痛みと共に自分が怪我をしたことに気がついた。

視線を下におろす。徐々に聞こえ始めた聴覚が意味をなさない雑音をかき鳴らすのを聞きながら自らの胸を見下ろすと、大きな切り傷が四本血を噴き出しており、大きく破れた服から見える硬肌にはいたる所に深い火傷を作っていた。

 

 

「…」

 

 

髪に何かがかかり、視線を上にあげる。

 

――()()開いていた。

 

パラパラと落ちる砂埃、爆発によってルームの上部は軽く吹き飛んでおり、爆発によって上の階層へ巨大な縦穴がぼたぼたと雫を垂らしながらその口を開けており、上の階層の天井が黒く煤けているのが下からでも見えた。

驚きはない、あれほどまでの力のぶつかり合いならば9階層の天井程度容易く壊れる…否、むしろ狼騎士の炎で溶けたのが大半か。

 

 

「…!」

 

 

そして地面もまたそうだ。元々戦闘によって脆くなっていたダンジョンの床は爆発によって下の階層にまで抜けており、こちらもまた溶けた岩石を下の階層に垂らしている。

とはいえ身体が阻んだからか丁度自分が立っている場所だけが残っており、柱のように出来た脆い足場の上に何とかオッタルは立っていた。

 

――『三階層ぶちぬいた大穴』がそこには空いていた。

 

神話級の威力を持った対戦は文字通りその爪痕を大きく残し、もはやルームの原型さえなく残ったモノは唯一『オッタルのみ』だった。

感覚が完璧に回復する。狭かったルームはその大きさを数割ほど増しており、(ともしび)のようにそこかしこで燻ぶった蒼炎が黒煙を昇らせていた。

 

そして――剥がれ落ちたような鉄片がルームに繋がった通路に落ちていた。

 

 

「…フン」

 

 

天地開闢を成す一撃、その結果は『対等』だった。

ぶつかり合ったその力は全くの同格でなまじ剣同士が触れ合わなかったために真正面から拮抗し、どちらかを消し飛ばすことも無く混じり合い階層を開けるほどの爆発を引き起こすと、剣圧と爆炎はオッタルを残してルーム内の悉くを消し去った。

互いに死力、英雄と獣の放った竜攘虎搏の全力は示し合わせたかのように釣り合い、神話級の破壊をもたらした…オッタルほどの『耐久力』が無ければ生存できない程の破壊を。

 

故に狼騎士の姿はどこにも無かった。

最強と渡り合い、本気で覇を競い合った相手は蒸発し、残ったモノは通路に落ちた鉄片だけ。

オッタルは鋭い視線を通路に向ける、地面に突き刺さった鎧の破片は先端に蒼炎を灯しており、まるでそれだけが生き残ったかのようにも見えた。

 

しかし同時にレベル7の視力が通路の先に続く血液と鉄片を見つけた、キラキラと輝くそれは『落とし物』であり通路の先の暗がりにまで続いていた。

 

 

「――……()()()()、相変わらず逃げ足の速い奴だ」

 

 

もしあの狼騎士が今の爆発を喰らったなら余波だけでもひとたまりもなかったはずだ、しかしアレには――『鎧』というアドバンテージがあった。

鎧自体の強度はそれほどではない。現にオッタルの構えるアダマンタイトの特大剣でさえ微かに表面が溶けているほどであり、あの程度の鎧ならば即座に蒸発してもおかしく無い。

 

とはいえ無いよりマシである。少なくとも皮膚が一枚増えた程度なのかもしれないが鎧さえあれば爆発の余波を一瞬耐え、この場から逃げ出すくらいならば可能だった…否、あの男のセンスならばそのくらい容易く(おこな)ったことだろう。

 

 

(追うか?……いや…)

 

 

道標(みちしるべ)は続いているし、追跡する事はそう難しくない。

だが剣の刃は潰され、瀕死とまではいかないまでもオッタルも久々にかなりの大怪我を負うことになった…無理に追撃する必要は無かった。

 

しかしオッタルは()()()()()()()はずだった。オッタルにとって扱う武器が鈍器になろうが拳になろうが特に問題はない、手元にあるハイ・ポーションを使えばこの程度の傷など即座に完治できたし、この程度のけがであれば戦闘続行も充分可能な域のはずだった。

 

 

「…フッ」

 

 

それをしなかったのは――ひとえに、もう満足だったからだろう。

 

魂躍る神話級の闘い、激しく剣を交わす打ち合い、そして命を取り合う全力の存在のぶつけ合い。身体は傷つき、芯からぼろ雑巾のように疲弊している。

こんな感覚は久しぶりだ。都市最強などと謳われるようになってから今回のような死線は殆どなく、与えられるのは小さな仕事ばかりでまともに力を振るう機会には恵まれなかった…今の位置に不満があるわけではないが、振るわぬ刀が錆びていくのを見るのは戦士として思うところが多々あった。

 

しかし今日の闘いはそんなオッタルの乾いた心を充分に満たし、久しぶりの感覚を思い出させてくれた。弱者でありながら対等に渡り合ってくれた狼騎士にはもはや感謝の一言に尽き、一人の戦士としての敬意と信頼を寄せるにはあの闘いぶりは充分過ぎた。

 

主命には逆らっているのかもしれない、追えるというのに追わないというのは殺せという命を受けたはずのオッタルにとって何より優先すべき行為のはずであり、追いつきさえすれば満身創痍の狼騎士を殺せることは確実なはずだった。

 

だが――『期待』がそれを上回る。何より今日の闘いは熱く、次があるなら、そしてその次の闘いがもっと滾るものであるならば、見逃すという選択肢は極めて自然的と言えた…まぁ、主神からのお叱りは免れないだろうが。

 

 

「…さて、帰るか」

 

 

闘いを終えた戦士は傷ついた身体を帰路に向ける。

珍しくため息をつき、いつものように顔をしかめたオッタルは特大剣を肩にかけると全身の怪我をそのままに、ルームに空いた大穴を飛び越えるとズシンと重く着地する。

衝撃に傷口が開き血が落ちたことに更に眉を顰めたオッタルは思わず腰ポーチに手を伸ばしかけるが、深層モンスターの皮で作った頑丈なはずのポーチが焼け爛れその中身も全滅していることに気が付いた。

 

一度視線を後ろに向ける。

大破壊の跡は深く、凄惨で、これまで行われた闘争の結末が全て詰められている。

壁は溶け、剣戟の痕跡を残し、今まで立っていた最後の足場が崩れ完全な穴となった。ダンジョンには自己修復機能があるため如何な破壊であってもいつかは直されるが、これほどの大穴ともなれば完全に塞がれるまでにはかなりの時間がかかりそうだった。

 

そして対岸の通路でロキファミリアの連中がかなり混乱した様子で変形したダンジョンに驚愕の声を挙げているのを鼻で笑うと――

 

 

「……助けて…下さい…このまま、では…私の仲間が……ベル様が…!」

 

 

――その背後から小人族の少女がよろよろと近づいていくのを興味なさげに見送り、オッタルはその場を後にしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クソ……いってぇ…!」

 

 

オッタルとの死闘から命からがら逃げだしてきた俺は痛む腹を抑えながら夕暮れに染まるダイダロス通りを歩く。

手持ちのポーション全てを使っても全快に至らなかった全身の傷は痛み、未だ折れている肋骨が一歩踏み出すたびに軋んだ。

身体を引きずりながら行く人気(ひとけ)の無い帰路はどこかから喧騒が聞こえ、汚れた石畳みの道路は血液を大量に失ったからかどこか霞んで見えていた。

 

 

「……ッ…!」

 

 

激痛が走り、足が止まりかける。

一時間にも及ぶ激戦と爆発によって負った傷は重く痛み、酷使した骨と肉が反動で限界を迎えていた。

とはいえ五体満足なだけ奇跡に近い。特に最後の爆発など一瞬でも逃げ出すのが遅れていたら圧死していたし、表面を巻き込まれた鎧は酷く変形してしまっていた…まぁまたナイフに戻せたし、鋳造すれば元の鎧に戻せそうではあるが。

 

問題は肉体、幸いどれも致命傷には至ってはいないがポーションで治療しきれないような大怪我が多く、元々無理をしていたがダンジョンからここまでの道のりで体力はほぼ底を尽き、歩くのも辛かった。

 

――それでもまだ歩けるのは、家にあの子を待たせているからだろう。

 

 

(あれから何時間経ってんだか…ったく)

 

 

ただでさえ遅れたぎゅるぎゅる丸の修繕と完全に予想外なオッタルとの戦闘。予定より数時間は遅い帰宅、その分だけ少女は家で一人であり、何も言わないあの子を長く置いていくのは不安だった。

…だが一時間ちょっと前まで帰れるかどうかも解らなかったと考えれば大分マシである、それにベッドに寝かせたあの子が一人で怪我をするはずもない。

 

 

「……急がんとな」

 

 

それでも少し不安に思いながら俺は帰路をまた歩き始める。全身は死にそうなほど痛かったが何とかまだ生きているし、何より家はもうすぐ近くだった。

 

(――……名前、か)

 

夕焼けの差す家々が立ち並ぶ路地を歩きながらふと戦闘中に思ったことを考える。

この一週間程悩み続けていたあの子の名前、母親譲りの美しい銀の髪を持った少女は名前を持たず、かといって十月十日の猶予も無かった俺には名づけという作業は余りに難しすぎた。

焦れば良い名前はつけられない、とはいえ名前が無いというのも可哀そうだ…何より、呼ぶことが出来ない。

 

しかし――今なら。

 

 

(…)

 

 

遠くでカラスが鳴く。赤い落ちかけの日差しに影を落とした町は徐々に灯りをつけ始めており、傷ついた背中を肌寒い風は緩やかに押した。

足を引きずりながらあの子の姿をぼんやりと思い浮かべる、名前の無い少女にはどんな名前が合うのかを考えながら見えてきた自宅の影に俺は疲れた微笑みを浮かべた。

 

心残りだったぎゅるぎゅる丸の修復も何とか終わった、これからはもっと少女の事を考えられる。

それでもすぐには無理かもしれない。ただ一緒にいることさえできれば、いつか良い名前だって――()()()()()()()()()事だって、必ずできるはずだった。

 

 

希望を活力に俺は歩く。ダイダロス通りは濃い夕焼けによって美しく橙色に染め上げられえており、徐々に近づいてくる玄関先にもやけに濃く黒い影を作っていた。

自宅の外壁に腕をつき、重い身体を押し支える。瀕死の身体はもう立っているだけでも限界だったが、すぐそこで待っている少女の事を想うとまた謎の力が湧いてきた。

 

遠い最後の数メートルを気力で進み、酷い倦怠感と無事に帰ってこられたことへの喜びに疲弊した身体が芯から熱くなるのを感じた。

そして最後の角を掴み、もたれかかるように石柱を曲がると、俺はいつも通りの玄関へ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――…………は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思わず脚が止まり、白紙の生まれた思考から声が漏れた。

 

――玄関は破壊されていた。

 

壊された引き戸、強引に家の中に押し倒された扉は二つに割れ、砕けた硝子と木片を辺りに撒き散らしながら差し込んだ夕暮れに朱く染まっており、虚空のように空いた入り口からは仄暗い家の中が見えてしまっている。

 

 

「――」

 

 

ふらりと何も考えられず家の中に入った。足の裏で潰された木片の破片がパキパキと音をたてた。

 

暗く、一条の夕日が差した家の中。

開かれたままの戸棚、乱雑に蹴り飛ばされた椅子、壊された家具、知らない人間の匂い、余りにも解りやすく触られ荒らされた部屋中の痕跡。

土足で踏み込まれた家の中はいつもと全く違う場所に見え、通っていく風が髪を小さく揺らした。

 

ゆっくりと視界を移しながら自分の呼吸が荒くなっていくのが解った。

 

非日常的な目の前の光景が俺には理解することすら叶わず、盲目的に理解することを受け付けない。

恐怖と動揺が脳髄を抱きしめている。残り少ない脳領域で理解できることは少なく、ただ自分の心臓の鼓動と荒い呼吸だけが爆音のように耳元で響いていた。

 

「――」

 

そして――真っ先に気が付いた。

 

乱暴にめくられたベッドシーツが皺を作っている、かつて小さな存在が寝かされていたその場所は侵され今ではその跡が余りに浅く残していた。

 

もはやまともに動いてくれない足で何度も躓きながら俺は短い距離を走る。荒らされた部屋の中を移動し『()()()()()()()』の横に立った。

 

震える手で柔らかなベッドに触った。

しかしそこには何もなく、熱さえ残っていない。

 

脳が圧迫されるような感覚、理解を超えた事態は俺の脳領域を容易く食い潰し、それでもなおこれが現実だと訴えかけてきた。

 

 

 

――――――――――あの子は、少女はどこにもいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「『――』」

 

 

 

 

 

 

 

 

瞬間、感情が弾けたことだけを覚えている。大切な存在が何者かに攫われたという衝撃は容易く俺の精神を瓦解させ、濃い憎悪を白痴蒼炎に引火させた。

まるで堰をきったような想いの濁流。それになんの抵抗も出来ずに飲み込まれた俺は理性を失い、憎悪に溺れ、咆哮をあげながら、無我夢中で蒼炎の中に燃えるナイフを掴んでいた。

 

既にカウントは充分にあった。

俺の中は少女への想いが変質し蒼く染まっていた。

呼吸のできなくなった「俺」の意識は深い液体の中に倒れこみ、ただ純粋な『憎悪』だけが残された。

 

 

 

蒼い液体に抱かれた俺は一切抗う事を止めることにした、暖かな液体の中は居心地がやけに良い。

いつかこの中で蒼霊が言った、抵抗すれば苦しいと。しかし白痴蒼炎を完全に受けいれてしまえば完全に俺は神殺しの獣になってしまう、故に今までこの炎を抑制してきたし、自分を明け渡すことなど絶対にしてこなかった。

 

だが――今はそれで良いと思った、例え化け物になってでもあの子を救うことが出来たなら。

 

 

 

 

その場に残る微かな匂いだけを頼りに追跡を始めた狼騎士(ウルフェンハザード)が駆け消えた後に残ったものは放出された蒼炎の残滓だけ。

誰もいなくなった家の中には焦げ跡になった獣の足跡が床を抉りながら残っている。

宿主の憎悪を喰らった白痴蒼炎は本来の輝きを取り戻し、嬉しそうに笑いながら獣のように踊っていた。最後の夕暮れがその身を落とし、急速に暗くなり始めた室内で花びらのような最後の蒼炎が空気に溶けて消えた。

 

 

そして――

 

 

 

――――夜のとばりの中、『月』は遂にその姿を現したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 




ラスト駆け足だけどフラグは立ててたからまぁ多少はね?もうちょい少女への想いを書きたい感あったけど
で次回も戦闘回かなーと、オッタルは前哨戦でしかないっていう。持ってくれよ俺のバトルインスピレーション。
あと良ければ高評価よろ!

次回もお楽しみに!ではでは!


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 灰塵騎士

・・・

 

 

 

獣は壊れかけの身体で走る。

 

 痛み、感情、憎悪、悲しみ、怒り、そして――目的。

 

 頭の中で渦巻く全てがぐちゃぐちゃに混濁しながらただ蒼く染まっていく。

 

 その先に行けばもう戻れないと知っていた。だがそれを止める『自分自身』がもう獣の中には存在しておらず、例えあったとしても()()()()()()()()()

 

 

 …夕暮れの街を獣は疾走する。

 

 

 人気の無い路地を行くことが殆どだったが時折悲鳴のようなものが聞こえた気がした。

 

 しかしそんな事を気にする必要もない、『蒼炎』が優先すべきことはただ一つしかない。

 

 

 

 ――ただ主人の命令を叶えるために、目的に起因する感情を更に激しく燃やす為に。

 

 

 

 『rr…』

 

 

 化け物は、走る。

 

 

 

・・・

 

 

 

夜が都市を包んでいた。

空には星々が瞬き、負けじと都市光が人々の熱気を帯びながら煌く。

街はまだ眠らない、橙を灯す歓楽街を満月が静かに見下ろしていた。

 

オラリオ北部。富裕層の邸宅が多いこの区画は豪邸が多いためか人の行き来が少なく、ところどころに設置された魔石灯の明かりだけが道に円く光源を落としている。

そして――都市でも1、2に入る商系ファミリアである『マーニファミリア』の本拠地(ギルド)もまたここにあった。

 

広い敷地とその中央に造られた大理石の豪邸。どこか荘厳な神殿を思わせる建造物は大きく豪勢で、閉められた窓から明かりが淡く漏れており、月明かりに照らされて白くその身体を闇夜に映し出している。

閉じられた鉄扉から本拠地へと続く手入れの行き届いた庭園には生えた木々がぼんやりとその輪郭を象っており、風に木立が揺れガサガサと静かな音を立てていた。

 

正面の豪邸、神殿のような巨大な建物の脇に隠れるようにして木造の建造物がひっそりと建っている。

木造の一軒家、正面の本棟と比べれば遥かに見劣りする建物は古く、清楚で落ち着きこそあるが富裕層の邸宅にしては場違いで、屋根には三日月の紋章が掲げられていた。

 

隣接する二つの建物の一階にかけられた渡し廊下。

木製の通路は外に出ずとも互いに行き来できるように設計されており、屋根こそすれ壁の無い廊下は何の抵抗も無く夜風が吹き抜けていた。

 

 

「……」

 

 

どこかから犬の遠吠えが聞こえた。

渡り廊下に立った『女神』が立ち止まって夜の静寂を見つめていた。

 

後ろで一つに結んだ黒い髪、黄色の瞳。身に着けた薄緑とこげ茶色の地味な服、清廉で美しい顔立ちは化粧こそ必要としないがその表情は険しく、笑えば華咲きそうな可憐さも眉に寄った深い皺と鋭い眼光の陰に隠れている。

引き締まった身体には薄緑と焦げ茶色をした極めて地味な服が着られており、健康的な美しさはどこか深森の若鹿を思わせ、同時にその服装は自らの神気(そんざい)を『目立たせないように』しているようにも見えた。

 

女神は険しい顔に不安げな色を見せる。その目は豪邸へと続く大理石の美しい継扉に向けられており、きゅっとその白い拳は握りしめられていた。

息を吸う、目を伏せて少し逡巡した女神は夜空をスッと見上げると浮かんだ満月に手をかざした。

 

月は無機質に地上を見つめている、透明な光は美しい光を丸く描いていた。

いつもと変わらない美しい満月、何年も見上げてきた精緻な月を女神は見つめる。

 

――月神・マーニ、彼女は権能を封じられた身体で月を仰ぐ。

 

ため息交じりに肩を落としたマーニは再び大理石の扉に目を向ける、そして新しく作られたファミリアの本拠地にその足を踏み入れた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

マーニファミリア団長、ヒューキ・ガルの執務室は広い。

絨毯の引かれた部屋に建ち並んだ幾つもの石柱は高い天井を支えており、至る所に蔦のような装飾が施されている。

置かれた机や椅子は全て最高級の品質のものが揃えられており、良く掃除の行き届いた黄金装飾のされた棚には埃一つ積もっていない。

 

部屋の主、大商人ヒューキ・ガルは部屋の奥にある黒檀の執務机にゆっくりと腰かけている。

脂の乗った微笑みを浮かべるガルは柔らかな椅子にその肥えた全身をどっぷりと預け、時折満足げな息を漏らしながら自らの顎を撫でていた。

その弛んだ瞳は机の上に理路整然と片づけられた書類の隣、余りに広い机の中心に置かれた小さな檻へと向けられており、かけられた深い色をした赤幕はその中身が見えるように一部分だけはだけられていた。

 

部屋の中を静寂が包んでいる。薄暗い部屋の中に差し込んだ月灯がシャンデリアに薄い影を落とし、執務机の上に置かれた橙色のスタンドライトだけがぼんやりと辺りを照らしている。腰かけたガルの後ろにはフードを目深に被ったオリオ・シリウスが気配を殺して佇んでおり、その鋭い瞳を閉じながらどこか深刻気に俯いていた。

 

豪華絢爛な部屋。貴族階級の住まいを思わせる執務室は暗く、静かで――どこか()()

それはほんの僅かな、常人には全く解らないほど微かな獣臭。

停滞した空気の中に染み付いたその悪臭はどこかあの『地下室』を思わせた。

 

かけられた絵画にはおぞましい化け物が描かれている。

置かれたベッドには実在するモンスターの顔が彫られ、優雅に見えた部屋中の装飾にも目を凝らせば各所に怪物の姿があり、建てられた石柱にも至る所にモンスターの顔や身体が刻まれていた。

 

 

それは――『怪物趣味』と呼ばれた。

 

 

人類の敵であるはずの化け物(モンスター)に興奮を覚える特殊性癖。

とてもじゃないが悪趣味としか思えない調度品の数々、言葉の通り怪物趣味の家具に囲まれた部屋は主人を映すかのように醜く、汚れ切っていた。

 

大商人ヒューキ・ガルの裏の顔、化け物を愛でる狂った本性。

 

手下である冒険者達にモンスターを捕えさせ、時に怪物を都市外に卸し、時に自らで楽しむ。

しかし容易い道のりでは無かった、自らの欲望を実行するためだけにヒューキ・ガルはここまでマーニファミリアを巨大にし、団長という地位を『利用』して、今ではその歪んだ欲望を素直に吐き出せるようになった。

 

――それ以前はあの地下室がこの男の欲望を満たすための城だった。

本当のモンスターで遊べるようになる地位と権力を手に入れるまで、隠れ家を使い獣人の奴隷にそのどす黒い欲望をぶつけ、最後は全て『処理』した…したはずだった。

 

 

「……フ」

 

 

スタンドライトの明かりだけが檻の中に影を落としている。

鉄製の鎧は冷たく暗く、牢獄のように鉄格子を降ろし、その中の『モノ』を閉じ込めていた。

重くのしかかるような影の下で『それ』はぴくりとも動かない、ただその小さな手を鉄板の上につき長い銀髪を渦巻かせながら座っていた。

 

ガルの手が伸びる。太い指が檻の入り口を掴み、手で開けられる型の鍵をかちゃりと開くと軽い鉄格子を引いた。

白い寝間着の端が暗闇から見えた、下卑た笑みを浮かべたガルはその手を牢の中に緩慢に伸ばすと捕らえられた『少女』の頬へと触れかけた。

 

 

「…ヒューキ・ガル!」

 

 

その時、バタンと部屋の扉が開け放たれた。

ガルの手がピタリと止まる、開け放たれた扉から女神マーニはその姿を現した。

ちらりと机の上を見たガルは扉側からは赤幕で檻が見えない事を確認すると、椅子から勢いよく立ち上がった。

 

黒いポニーテール、睨みつけようにマーニはガルを見る。

その視線は自らの眷属を見る視線にしては鋭すぎた、弛んだ身体が跳ね上がるのを見送るとマーニは気丈なハッキリとした歩みを部屋の中心へと進めた。

 

 

「これはこれは、遅い時間によくいらっしゃいましたマーニ様!本日はいかがされましたかな?」

 

「っ…()()もまた私の家、その他人行儀は無礼と知りなさい」

 

「これは失礼いたしましたマーニ様。しかしそこまでおっしゃられるのなら、あのようなボロ屋敷いい加減取り壊してこちらの部屋に移動なされてきては?」

 

「なっ…!?」

 

 

マーニファミリアの旧館、それはファミリアがまだ名も無い頃から思い出の場所。

かつてまだ幼い『二人』とマーニが過ごした旧館は、ガルが主神でさえ止められない程の派閥を築いて暫くが経った今では彼女ただ一人が住まう空虚な城になってしまっていた。

 

その背景には何より――オリオ・シリウス、ファミリア内で一番の実力を持つ彼がガルの下についたのが大きかった。

 

(何故です、オリオ…!?)

 

顔をしかめたマーニはガルの後ろで顔を伏せたまま動かないオリオを哀しみと共に見る。

自分の一番の味方であったはずの眷属(こども)は今ではガルに付き従い、その汚れ切った『仕事』を文句も言わず手伝っていた…それが何故か、マーニには理解できなかった。

 

視界を遮るようにガルがこちらに歩んでくる。その立ち振る舞いにはどこか余裕が滲み出しており、実際ファミリア内の影響力の差を考えればその余裕も頷けた。

目の前に立ったガルは仰々しく改めてマーニの事を見下ろす、口髭を弄りながらマーニを見下ろすその瞳は微笑みながらも何か打算的な考えが見え隠れしているようにも見えた。

孤独な女神は歯噛みする、自らの眷属の暴走を止められなかったという後悔がその象徴的ともいえるガルの前で溢れ出した…だが、同じ以上に親としての使命感も強かった。

 

 

「とはいえ…まぁそれにつきましては女神様にも何やらお考えがあるご様子、そう急く必要も無いでしょう。それで、今宵はいかがされましたかな?少し遅い時間ではありますがお茶ということでしたらお付き合いしますよ?」

 

「茶などいりません、今日私はあなたの悪行を正すためにここへ来たのです!」

 

「…ほう。と、言いますと?」

 

 

気丈に言い放ったマーニにガルは首をかしげる。

白々しい態度に月神は更に顔をしかめると、睨みつけるようにマーニの弛んだ顔を見上げた。

 

 

「はじめにファミリアの私物化!あなたは私が与えた団長という地位を濫用し、自らの欲望を叶えるためにこのファミリアを堕落させました!そして――」

 

「お待ちを!言っている意味が解りませんな、ファミリアの財に貢献こそすれ私がいつファミリアを堕落させたと…!?」

 

「黙りなさい!多くの無垢な子供達を騙し、怪物の売買を行わせていることを堕落と言わず何と言うのですか!何より――あなた自身が、忌まわしい怪物趣味などに手を染めた!!」

 

「…」

 

 

初めてガルが表情を崩した、少し不愉快に瞳を細め僅かに目を逸らすと痛みに耐えるように数瞬を考えた。

そして何か口を開き、閉じるとまたマーニを見下ろすと、()()()()ように苛立つように冷酷な声を出した。

 

 

「怪物趣味、ですか。私がそうだという証拠はおありなのですか?」

 

「それはっ……ありませんが…!」

 

 

マーニはガルが怪物趣味だということは知っていたが、詳しく何をしているかまでは知らなかった。隠れて何かをしているということは解っても、主神という立ち場でしかない自分では証拠を集めることさえままならなかった。

自分の無力さを女神は歯噛みする、ここ数年孤軍奮闘してきたがガルを追い詰めるようなことは出来なかった。

 

マーニはふとガルの執務机の上を見る、綺麗に整頓された机の上には厚ぼったい紺色の布がかけられた四角い何かがあった…が、それが何かまでは解らなかった。

ヒューキ・ガルが呆れたようにため息をつく、やれやれと首を振る大商人はマーニの事を見据えると軽く首を傾け口を開いた。

 

 

「ふぅ……一人でお暮しになっているうちに随分と妄想がお得意になられたようですな、マーニ様。そのような根も葉もない戯言をおっしゃられては団員達の風紀に関わるというもの――それこそあなたが『本来の名前』を名乗って頂けるのなら――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――……ドォンッ…。

 

 

 

 

 

 

 

その時、窓の外から何かが爆発するような音と共に振動が伝わってきた。

蒼い光が炸裂する。カーテン越しに明暗が瞬き、まるで何事もなかったかのように消えた。

 

訝し気な表情を浮かべるガルとマーニが視線を向ける中、窓際のオリオはその氷のような表情を変えぬままカーテンをめくる。

少しの合間窓の外を確認すると、表情を変えぬまま二人の方へ向き直った。

 

 

「…どうやら敵襲のようです、庭園に侵入する影が見えました」

 

「ほう?どこのファミリアの手先か知らないが、敵陣に一人でくるとはなんと愚かな……」

 

「っ…大丈夫なのですか!?」

 

「ほっほ、そうご心配なされなくてもご安心を。おおかたうちをただの商系ファミリアと侮っての襲撃でしょうが、うちには優秀な冒険者も充分に多い。…すぐにコトは片付くとは思われますが、万一に備えマーニ様はお隠れになられますようお願いしますよ」

 

「……解りました。くれぐれも気を付けるよう(みな)にも伝えておいてください――では」

 

 

頭を下げたガルにマーニはどこか心配げな表情を浮かべちらりとオリオに視線を向け、くるりと振り返ると開け放たれたドアから颯爽と立ち去った。

女神を見送ったガルにオリオが近づく、マーニファミリア最高位冒険者のその表情(かお)は例え敵襲だとしても一切変わらず、むしろ滅多にありえない非常事態だからこそ落ち着いていた。

 

 

「…いかがなさいますか?」

 

「ふむ、オリオ君はどう思うね?」

 

「……可能性は高レベル冒険者による単騎襲撃、ですがそれでは先ほどの爆発は余りにずさん過ぎるかと思われます。あるいは斥候かと」

 

「なるほど、では全員を召集し正面玄関で迎え撃つことにしましょう。バリケードを設置し、階段の踊り場から魔法と矢を撃てば守り易い。絶対に庭園に討って出てはいけませんよ、それこそ罠の可能性が高い。あと非戦闘員は隠れるように…それともし火をつけられたら非戦闘員を援護しながら規定通り避難するように伝えるのですよ」

 

「はい、かしこまりました」

 

「あぁ、それと――」

 

 

最後に数言交わした後オリオは会釈してから部屋を出ていった。彼の伝令であればすぐに防衛線は引かれ、マーニファミリアの有能な冒険者達であれば必ず賊も撃退することができるはずだ。

 

まだ見ぬ襲撃者にため息をついたヒューキ・ガルは肩を落とすと自らの執務机に戻る、どさりと自らの闘いには赴けない肥えた身体を落とすと息を漏らしながら背もたれを押した。

開け放たれた鉄格子を見るとその中のモノが身動ぎ一つ動いていない事を確認し、笑みを浮かべた。

 

だがふとその表情がはたと戻る、怪訝な表情で眉を顰め既に過ぎ去ったと思った可能性を考えた。

とはいえ…まさか追跡は不可能だろう、そう自らの思い付きの鼻で笑うとその視線を窓から見える高い月へと向けたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…おい、そこの机をこっちに持ってきてくれ!」

 

「おう!」

 

 

マーニファミリアの一階、宮殿のような正面玄関では冒険者達によって襲撃者に備えたバリケード建設が急遽行われている。

普段は団員達の交流などが行われている広間には長机が倒され、作業に走る武装した冒険者達が忙しく準備を進められていた。

 

二股に分けられた階段下、バリケードの設置された広間には完全武装した冒険者が25人。

そしてアーチ描いて合流する階段の『踊り場』には遠距離攻撃あるいは魔法が扱える恩恵を持った冒険者が6人、いつでも支援と攻撃ができるように備えている。

平均レベル3、全員が良く鍛えられたマーニファミリアの冒険者達は強く、連携を得ていた。

 

 

「…よしバリケードはそんなもんで良い!下の奴らは装備確認してからそのまま隠れて待機!魔法使い連中はいつでも詠唱できるように準備しとけ!待機っ!!」

 

「はい!」

 

 

大広間を見下ろせる階段の踊り場から全体の指揮していたレベル4冒険者セーグは張り詰めた声をあげる。

 

スキンヘッドの大男、セーグ。筋骨隆々な身体は盛り上がり、その特殊な戦い方から『鎖檻人(キーパー)』という二つ名をつけられていた。

普段はマーニファミリア本舗の店長をしている彼はその特徴的ともいえるエプロンを外し、代わりのチェインメイルとその手には鎖が巻き付けられていた。

 

(…襲撃者、か)

 

数分前、オリオの伝令から作られ始めたバリケード。

全員に伝えられた謎の襲撃、敷地入り口からの爆発音は館にいた者になら聞こえており、事態を察知した一部の冒険者は既に交戦する準備を進めていた。

だが当のオリオは伝令を伝えたすぐ後に去ってしまった。それが何故かは知らないが、とはいえこれだけの戦力があればいかな襲撃者の対処も容易いことだろう。

何より敵は一人と聞く、それに例えファミリア最高戦力である奴がいなくともここには自分がいた。

 

(どこのどいつだか知らねぇが…倒せば一緒だろ)

 

握りしめたセーグの鎖がギチリと鳴った、まだ見ぬ敵への殺意に血潮が熱く触れた。

 

――シャンデリアの明かりが消える。

 

物陰に潜んだ冒険者達の息遣いだけが微かに聞こえる大広間、縦に長い窓は大きく透明な月を遥か闇夜に映し出す。

 

この中の全員が敵が誰か知らない、しかし自らのファミリアの領域を侵犯する外敵への容赦など存在するはずもなく、その武器を振るうことに何の抵抗も無かった。

静かな闘気が流れた。場を掌握したそれはマーニファミリア全員に一種の連携感を与え、例えどんな強襲であってもはねのけられる確信を持たせた…事実冒険者達の防衛線は堅く、()()レベル3だという事を鑑みてもこの数の力は圧倒的と言えた。

 

誰かが武器を握りしめた。大理石で構成された玄関は暗く、広い。

音のしない空間はまるで無人のようであり、何人もの冒険者達が獣のように息を殺してその身を潜めている。

 

戦いの時は近い。

どこかから僅かに金属の擦れるような音が聞こえた、ドアの外に誰かが立っていると冒険者達が気が付くより速く――

 

 

蒼い炎の残滓が窓の外で攪拌した。

真理の蒼、この世のありとあらゆる色を拠り集めても創れない色は濃い。

窓から見える僅かな視界を埋め尽くすかのように舞った火の粉は徐々にその勢いを増していき、やがて激流のように渦巻くと鼓動した。

 

美しい光景だった。

蒼い散炎で出来た翼、視界を埋め尽くす未知の光。

それは終極の狼煙、驚愕する冒険者達の目前で蒼炎は激しく揺らいでいた。

 

そして炎はやがて三つの爪の形を象ると天を指し、激しく爪を掻き鳴らすと余った白火が収束した。

 

 

――炸裂する、放たれた熱量に扉と壁が歪曲し、膨張すると限界を迎えて弾け飛んだ。

 

肌に吹き付ける熱波、乾いた圧が空気を揺らす。

たった一度の攻撃で吹き飛んだ壁には巨大な風穴がこじ開けられ、炎によって強引に吹き飛ばされた扉と壁の残骸が燃え尽きながら宙を飛ぶと、鈍い音をたてながら地面を転がった。

 

煙の臭いが鼻をついた。立ち上った巨大な煙柱は濃く、周囲は蒼炎で広く延焼している。

突如起こった強い爆発に冒険者達は驚愕し、そして爆発を引き起こした『誰か』の姿を探して白煙を睨みつけていた。

 

そして――――遂に、それは姿を現した。

 

 

「…ッ!?」

 

 

煙を割りながら現れたのは、廃材の騎士。

狼の兜を抱き、規格外の巨剣を引きずりながら歩むその姿はどこか『苦痛』を思わせる。

纏った蒼炎はこの世に存在するどんな色よりも濃く、沸き立つ火炎は舐めるようにして周囲を熔かしながら揺れていた。

 

それは人の形をした何か、意志の感じられぬ歩みは止まらない。

外から広間の中に入ってきたその騎士は瓦礫を踏み潰しながら足を引きずっており、よろめきながらただ前へと進むその姿は隙だらけのように見えた。

 

冒険者達に一瞬の困惑が走った。

 

謎の襲撃者の存在、それは恩恵すら持たぬ木っ端なのか、あるいは敵対ファミリアに属する冒険者のどちらかだと誰もがそう考えていた。

しかし目の前に確かに存在するソレはまるで、火を纏った化け物を無理やり人間という形に押し込めたような姿であり、何か特殊アビリティを発現させた冒険者というには余りに禍々し過ぎた。

 

何故、ここにモンスターが?

ダンジョンにしか存在しないはずの化け物、それが何故地上に現れ自分たちのファミリアを襲撃しているのか。

咄嗟に答えが出てくるはずもない疑問にさしもの歴戦の冒険者達もその動きを止め、この場にいる全ての者が一瞬その炎の騎士に注視し固まった。

 

 

「…一番槍は、この俺が頂いた!」

 

 

――その一瞬を動いた者がいた。

 

バリケードの横を走り抜ける三人組、それは偶然にも今マーニファミリアで期待の寄せられるホープであり、勇猛果敢さにかけては他に並び立つものはいない。

 

 

「待ッ…!?」

 

 

だが今回は何かがおかしい、その勇気は軽率過ぎる。

セーグはレベル3の三人を止めようとするが既に疾走している彼らに届く声は無く、踊り場にいるセーグではその腕を掴むことは出来ない。

 

先頭を走るのはリーダーである槍使い、整った容姿と鋭く鍛えられた身体はマーニファミリアにおいて中堅の強さを誇っており、そのポテンシャルは順当に育てばオリオにまで並び立つと謳われていた。

そして続くパーティメンバーの二人、一人は盾と短刀を構えた小男、最後には直剣を構えた紫髪の兎人の女が続いた。

 

若手筆頭、全員がレベル3のパーティ。

その実力は確かであり、今マーニファミリアの中で一番勢いを持っている…だからこそ未知の敵でも臆さず飛び出した。

 

既に狼騎士との距離は近い、それぞれの武器を構えた三人は鍛え上げた恩恵で走る。

目の前の狼騎士は文字通り隙だらけであり、襲い掛かる冒険者達には油断こそ無かったが余りに急な出来事に誰も支援に入れていなかった。

 

そして槍を構え、勇士達は襲撃者に飛びかかり――

 

――今まで、地面ばかりを向いていた狼騎士と眼があった。

 

 

「…おおおおおおおおおッ!俺の名前は()()()!!?」

 

 

余りに容易く巨剣が振るわれた。

剣を握りしめた騎士は刹那その身を翻すと先ほどとは打って変わる俊敏な動きで、迂闊にも間合いの中で名乗りを上げようとしていた男の腹を切り飛ばした。

強い踏み込み、そして放たれた重い斬撃。ひたすらに走っていた男はその一閃を避ける術を持たず、咄嗟に防御しようとした長槍ごと真っ二つに男の身体を斬り裂いた。

 

刀身が男の肉体にめり込むと鈍い音をたてながらあり得ない方向に折れ曲がった。

鮮血が撒き散らされる。巨剣の描く軌道は赤色に染まり、振り切られた剣先が地面を砕くと、遅れて二つに別たれた身体がぼとりと地面に転がった。

 

 

「ッ……がぼぉっ!?」

 

 

巨剣から手を離した狼騎士は、肉薄した二人目に素早く鉄その拳を叩き込む。

鎧に覆われた2m近くの身体から放たれる拳は速く、直線的に小男の顔面に突き刺さると炸裂した。

 

顔面が陥没し、その威力もさることながら放出された炎によって小男の顔面は焼け爛れた…その拳筋は鋭く、たった一撃でレベル3冒険者の硬さを貫く程の威力と熱を持っていた。

 

 

「な…えっ……?」

 

 

即死し吹き飛んだ小男を避けた兎人の少女は思わず足を止める…仲間二人の余りに早すぎる死に足を()()()()()()()

その瞳に映ったものは蒼炎を纏った一匹の獣、廃材で造られた鎧、蒼い炎のマントを翻して地面に突き刺さっていた巨剣を持ち上げた。

 

そして――自らの死を見た。

 

 

「あ…やっ……――――」

 

 

最上段に構えられた巨剣、向けられた狼騎士の蒼く燃えた瞳。

その視線は極限までの殺意に満ち、その蒼炎を照らす剣身は濃い鮮血で濡れていた。

死が迫る、生じた刹那に自らを殺す相手を兎人は確かに見る。

それは余りに唐突で、しかし吹き付けてくる熱と殺意は紛れもない現実で、為す術はなく、心の中で祈る時間さえ残されていない。

 

…無慈悲に巨剣は振り下ろされる。

特大の質量で構成された鉄塊は兎人の女の頭に叩きつけられ、その勢いのまま縦に押し潰した。

 

それは水風船が破裂するような光景だった。化け物は全身で巨剣を振り下ろし、何の抵抗も出来ずただ茫然と立った兎人を殺した。粉砕され、不快音が木霊し、兎人の中に詰まっていた血液が噴きあがった。

 

誰もがその早すぎる結末に声を漏らした、その中で返り血にまみれた狼騎士はガコンと巨剣を持ち上げる。するとそこにはかつて兎人の少女だったひしゃげた肉塊が、その原型すらなくミンチのようになって半ば地面に埋まっているのがほんの少しだけ見えた。

 

 

「…!」

 

 

それは余りに一瞬の出来事、誰もが突如現れた『襲撃者(モンスター)』に目を奪われたその刹那。

迂闊に先行したレベル3冒険者三人はみなただの一撃で一刀両断、あるいは原型すら残らぬほどの哀れな最期を迎え、余りに早く――ただ、殺された。

 

恐怖、あるいは戦慄が走った。

ある者はファミリアでもそこそこの実力を持っているはずの彼らが瞬殺され、またある者はそれを行った敵の戦闘能力を図って歯を食いしばった。

少なくとも冒険者にしてレベル5以上の実力、加えて謎の火炎を操るその能力は強敵以外の何物でもない。

 

そして――

 

 

 

 

 

『aa…GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!』

 

 

 

 

 

蒼い獣が咆哮した。

ビリビリと鼓膜と建物が震える。その声は紛れもなく人のそれではなく、聞くもの全てに頭まで鳥肌をたたせた。

しかしその咆哮は憎悪以外にもどこか悲哀や苦悩といった感情がぐちゃぐちゃに入り混じっていた。

 

纏った蒼炎が炎柱のように燃え上がり、館に移ると煌々とその熱を湛え始めた。

暗闇の中で恐怖を浮かべる冒険者の顔と、巨剣を構えた獣のおぞましい姿が浮かび上がる。

狼騎士の身体にかかっていた返り血が瞬時に蒸発すると、辺りには血煙の臭いが漂った。

 

まごうことなき化け物の咆哮、人の心に恐怖を植え付ける特大の声は怒りに、憎悪に満ちており、理性など一切感じられなかった。

 

 

――同時に冒険者達は理解した、あれはダンジョンに住まうはずの人を憎悪する化け物(モンスター)だと。

 

 

「うろたえるなッ!」

 

 

声を張り上げたセーグは今一度鎖を握りしめる。

突如現れた灰塵の騎士と異界の炎によって冒険者達はかなり混乱してしまっており、蔓延する恐怖と動揺でこのままでは戦線が崩壊しかねない。

 

(何っだありゃ……深層のモンスター、なのか?…何でこんなとこにっ……!?)

 

高レベル冒険者による単騎突入、否、突如地上に現れた高位のモンスターによる襲撃。

 

ダンジョンから出ることが出来ないはずのモンスターが何故ここにいるのか、何故自分たちのファミリアなのか。

セーグとて現状を正しく理解していない。ただ目の前で起こった事だけは事実であり、あの『モンスター』がとてつもない戦闘能力を持っていることは明らかだった。

 

仲間達の視線が自分に集中していた。

抗戦か、撤退か。みながその指示を待ち、それを考えるのは自分だけ。

彼我の戦力差、しかし人間ならまだしもあの化け物を相手に撤退などしたら、いったい何人の被害者が出るか解らない、それほどまでにあの獣は強大だ。

 

ならば――ここで、倒すしか無い。

 

 

「…レベル3以下の冒険者は全員支援!レベル4以上の奴は一発でも喰らったら終わりと思え!後方部隊はすぐに詠唱開始しろ!――ここで、倒すぞ!!」

 

「「…はいっ!」」

 

 

命令に冒険者達が応えた、辛うじて残った士気を振り絞った彼らはそれぞれ己の武器を握りしめると、狼騎士に立ち向かう。

階段の踊り場からセーグは飛び降りる、ドン!と膝で衝撃を殺すとジャラリと金属音が鳴り響き、鎖とその先に結ばれた檻が鎖帷子の後ろに見えた。

 

狼騎士が巨剣を握りしめる。

その眼に理性は無く、ただ獣性に満ちた憎悪だけが牙を剥いていた。

微かに息を漏らすとゆらりと前面に倒れこみ、獣の視線を前に向けたまま歩み始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

詠唱終了まで残り60秒。

幾つもの魔法陣が展開された踊り場、バリケードから走り出た冒険者達とそれに相対した狼騎士。

蒼炎に濡れた大広間は咆哮の余波によって至る所が炎上し、存在するありとあらゆるものが陽炎に透かしたように淡くその輪郭を熱と揺らしていた。

 

一対全(ワンマンアーミー)

孤立した獣に向けられる敵意は鋭く、巨剣を構えた化け物はその蒼い瞳に憎悪を滾らせ巨剣に炎を充填する。

走り出した双方は恨み合う定めに従った人とモンスター、既に戦いの火蓋は切って落とされていた。

 

 

『Gaa…!』

 

 

狼騎士は熱息を漏らし、自らを取り囲んだ冒険者達を見渡す。

手際の良い連携、即座に包囲された状況、敵委に満ちた邪魔者達の姿に獣は優先順位を変更すると一番手近な冒険者に狙いをつけ、化け物じみた動きで走行を直角に折り曲げた。

 

 

『ra……!』

 

「クソ、俺かよっ!?」

 

 

巨剣が振り下ろされる。踏み込み、体重、全てが込められた強烈な一撃は先程兎人の少女を潰したときの一閃と変わらず、鬼気迫る鉄塊は余りに容易く死を運んだ。

まともに触れれば誰であれ即死しかねない、標的に選ばれたレザーアーマーを着た男は恐怖を顔に浮かべると振り下ろされる厚い刃先に注視した。

 

男の身体の隣を紙一重で巨剣がすり抜けた。

絶死の一撃、その身の丈と変わらない巨剣を軽々と扱う身体能力はかなりの脅威となる。

 

だが――その人外の動きは極めて単調だった。

何も考えず、ただまっすぐに斬りこんでくる動きはレベル4冒険者にとって読むのは容易く、如何に速かろうと避けるのは簡単だった。

 

とてつもない威力で振り下ろされた巨剣が大理石の地面にのめりこんだ。

当たれば即死、狼騎士の攻撃をすんでのところで躱した男は砕かれた石片が足にかかるのを見下ろすとその顔を歪めた。

 

レベル4の動体視力と身体能力を持っていれば狼騎士の巨剣を躱すことはそう難しい事ではない。

しかし肌で感じた威力と熱、先ほど目の前で余りに容易く殺され殴られ潰された仲間三人の事を思えば一切の油断は出来なかった…今の一撃だって、躱せなければ即死していた。

 

 

『rr…AAAAッ!!』

 

「…ッ!?」

 

 

巨剣を振り下ろした後、当たらなかったことを悟った狼騎士は化け物じみた反射で落ちていく剣から手を離すと先程のように拳を振りかぶった。

蒼炎で出来たマントがはためく、咆哮と共に狼騎士は左拳を握りしめると最短で男の顔に突き出した…余りに素早く流れる弐撃目に反撃の隙さえ無かった。

 

 

「っ…おおッ!!」

 

 

男は自らの得物である長い双剣を交差させ拳を防御する。

ガゴンと金属音をたて拳は踏ん張った男の構えた双剣に止められ、それでも殺し切れなかった威力が男の身体を宙に浮かした。

 

数メートル飛ばされた男は何とかその足を地面につけると踏ん張り耐えた。

高位の化け物の一撃、だが充分耐えられると解った男は恐怖と共に希望を抱く。耐えて耐えて魔法で逆転さえしてしまえば勝機はあると確信――

 

 

「……は?」

 

 

それより速く、男の構えた双剣が蒼く染まり光り輝いた。

大きく男の顔に光条が差した。一瞬の出来事に男は双剣を手放すことも出来ず、光が最大級を迎えるとその容をどろりと崩した。

 

――『パァンッ!』

 

鋳造された双剣が炸裂する。

暴力的な熱量に耐えきれず限界を迎えた蒼鉄は僅かに膨張すると、強い破壊を巻き起こした。

 

腕、胸、下顎。

火炎と鉄、撒き散らされる破壊は鉄片を撒き散らす榴弾にも似ており、至近距離の男の身体を吹き飛ばした。

恐らく即死、体中に砕けた鉄片が突き刺さった男は虚ろな瞳で後ろにゆっくりと倒れる。両腕と顎を失った男は血を噴き、地面を転がった。

 

狼騎士の背中に双剣の破片がパチンパチンと反射する。

…僅か、5秒にも満たない死だった。

 

 

『GAAA……』

 

 

目の前で起こった無惨な最期に再び固まった冒険者達の中で狼騎士は熱い息を吐きながら次の得物へと狙いを定め、剣を振るう。

謎の力、無惨な死を遂げた男の事をセーグは頭の中でぐるぐると困惑しながら冷静に包囲の輪を狭めていった。

 

 

『AAAAAAAAA!』

 

 

戦い、人と化物の殺し合いは荒れ狂う業火の中で行なわれる。美しい蒼炎は影を落としながら徐々にその勢力を拡大し、天井に吊り下げられたシャンデリアに燃え移ると巨大な篝火となって大広間を蒼く照らした。

 

巨剣が振るわれるたび血が流れる。

全方位から襲い来る高レベル冒険者達の猛攻を狼騎士は人外の動きで躱し、咆哮を轟かせながら回転した。

強力な破壊と憎悪を乗せた巨剣が冒険者に触れると装備に関わらず、ただそのたがの外れたような力で真っ二つに斬り飛ばされる。

 

しかしそれだけが脅威ではない。蒼炎、肉体、そして鉄を鋳造する力。狼騎士は自らに迫る武器を掴み、鋳造すると炸裂…いや、『暴発』させた。

破壊を具現したような巨剣、そして拳に触れた鉄が炸裂する異形の能力。ただでさえ疾く力強い狼を、冒険者達は連携し()()しようとするが逆に包囲網を食い千切られてしまっていた。

 

殺し、殺して巨剣が回る。

獣の歩みは死を引き連れ、纏った蒼炎はその色を更に増していった。

戦闘開始から40秒程が経つ、しかし既に何人もの冒険者が狼騎士によって殺されており、原型を留めていない死体が足元に転がっていた。

 

状況は一方的なはずだった。

だが人の形でありながら獣じみた闘い方の前に冒険者達は一人、また一人と殺されていった。

 

 

「くっ…このっ……ぎぁ!?」

 

「セリア!くそっ、やらせるかぁぁぁぁっ!!」

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

余りに容易く斬り飛ばされた腕が地面に落ちる。血塗れになった腕を抑え、痛みに倒れた仲間のために立ちはだかった冒険者に狼騎士はまた強く咆哮を上げた。

構えられた巨剣が強引な腕力によって物理法則を無視した一閃を繰り返す。絶大な破壊力を持った一撃は誰にも止めることなど出来ず、いくらその剣筋を『読む』ことが出来たとして次第に速くなる巨剣を躱すことは難しくなっていた。

 

息が切れる。盾を構えた女冒険者は良く耐えていたが、疲労した一瞬の虚をつかれ両脚を中心から斬り飛ばされた。

また炎が大きくなる、重なった絶叫をあげる二つの身体に巨剣を振りおろした狼騎士は淡々と二人に止めをさすと、濃い炎で散らばった血液を死体ごと蒸化した。

 

もう何度目か。

再び、潰された肉塊が出来上がった。

 

 

「おおおおおおおおおおおおおお!」

 

 

セーグが走りこんでくる。

一歩踏み出すたびに拳に巻いた鎖がジャラジャラと鳴り響き、そして蒼炎を踏み潰しながら狼騎士へ肉薄するとその拳を振るった。

狼騎士の瞳が緩慢にセーグに向けられる、乱雑な邪魔者達のうちの一人として認識するその瞳は殺意と憎悪に燃えており、獣のようなため息を漏らしながら再び巨剣を持ち上げた。

 

 

『AAAッッ!』

 

「おらぁっ!」

 

 

咆哮と共に繰り出された大振りな縦振りをセーグは躱す、振り下ろされた鉄塊が地面を砕く隣を、鎖を引きずりながらセーグは走り抜けると狼騎士の肩に『檻』を叩きつけた。

鎖の先に括りつけられた黒鉄檻、武器としては些か不向きなようにも見える立方体の鉄箱は硬く、狼騎士の身体を強く揺らすとうめき声をあげさせた。

 

檻を纏った強烈な拳、セーグの放った一撃は狼騎士の身体にかなりのダメージを与えたはずだ。

しかし鎧を纏った獰猛な獣の勢いを止めることなど出来ず、傷ついた身体を強引に振るいながら狼騎士は再び巨剣に力を込めた。

 

 

『gaa……a…?』

 

()()()っ!」

 

 

――しかし肩が動かない、まるで何かに『引っ張られる』かのように狼騎士の肩は前に進まず『鎖と檻』で固定されていた。

 

そこには『檻』があった。いつのまにか肩に埋め込まれた鉄檻、肉体と鎧を貫通して設置された檻は痛み無く狼騎士の肩を固定しており、檻から地面に続く鎖が行動を強く制限していた。

それは今までセーグの握っていた檻だった。殴りつけた際に設置された檻によって狼騎士の動きと思考に一瞬の隙が生まれた。

 

発展アビリティ『設置』、半ば魔法に近いその力はこと『拘束』することに関しては都市一番かもしれない。

セーグの扱う武器が檻に繋がれた鎖なのもこれが理由である。『固定した』檻で幽閉(とら)えた物を更に繋がった鎖で地面と壁とを繋ぎ、束縛するその力は檻を壊せば自動的に解除されるが良く鍛えられた鎖と鉄格子を壊すことは難しい。

 

空間固定、僅かに次元を歪め檻は狼騎士の肩を貫通しているが実際に突き刺さっているわけではない。

故に血は出ていない、ただ狼騎士の右肩はその駆動域を5cmほどに留めており咄嗟に巨剣を振るおうとした狼騎士の動きを鎖で拘束していた。

 

 

『GAA…!』

 

 

煩わし気に肩に固定された檻を睨みつけた狼騎士は一切の躊躇なく動ける左拳を振りかぶる、自らの身体付近という事をお構いなしに再び鉄を炸裂させようとしているのは明らかだった。

 

 

「やらせるかよぉっ!!」

 

『g…ッ!?』

 

 

檻に迫った左拳を阻むようにセーグの二つ目の檻が拘束する。

右肩に辿り着く前に左拳を包み込んだ檻はその勢いを完全に殺すと、鎖の反動で拳を撥ね返した。

少し緩い、しかし確かに拘束した左手は右肩には届かない。

 

狼騎士は脅威だ、しかしいくら強かろうがその動きを止めてしまえば殺すのは容易い…特に、パーティ戦では数秒の隙は大きい。

 

 

「流石ですセーグさん!――()()()()しました!!」

 

「おうよ!」

 

 

踊り場からの声に腰から三つ目の檻を取り出したセーグは狼騎士の足にダメ押しの『設置』を施す。

ガチンと足の甲に叩きつけられた檻は鎖を必要とせず足先を地面と共に拘束すると固まった。

 

 

『aaaaa……!』

 

 

檻で三つに縫い付けられた狼騎士は低く震えるように唸りながら、蒼い瞳を上に向ける。

階段の踊り場、幾重にも展開された魔法陣の後方には杖を構えた魔術師たちが魔力を乗せた詠唱を繋げ、今まさにその光は最高潮に達しようとしていた。

 

それを見上げる狼騎士の身体は荒々しく身体を揺する、しかし高出力の一撃を前に身体は動かず――やがて、魔術で編み上げられた砲塔はその身体に向けられた。

 

 

――――――――ッッ!!

 

 

光が攪拌する、魔力を帯びた粒子は瞬き収束すると力を打ち放つ。

それは光塵の矢、虹色をした魔力は高所からまっすぐに狼騎士に突き刺さると纏っていた蒼炎さえ吹き飛ばし、激流となってクレーターを作り出した。

音が掻き消えた、視界を白い火花が覆いつくした。魔力の放出に合わせ距離をとった冒険者達は傷ついた身体で魔法使い達によって行われた多重詠唱の衝撃に耐え、掌で瞳を隠した。

 

光が開ける、高出力エネルギーの放出は僅か3秒ほどで消えた。

しかしその短い時間で貯めこまれた全ての魔力は放出され、空間を振動させながら絶大な破壊をもたらした。

 

強力な魔法威力。いかに高レベルな魔物であったとしても今の一撃を受けて無傷でいられるはずがない。

誰もが狼騎士の死を信じた、破壊光の中では何もかもが崩れ消えていく。あの中で生物が生き残れるはずがない、どれだけあの化け物が強くともあんな魔法をまともに受けて死なないはずがなかった。

 

煙が晴れる。徐々に見えるようになってきた視界は微かに青みを帯びており、強く鮮やかな光の残像を残して感覚を取り戻した。

捲れ破壊された地面、強力な破壊の中心には未だ稲妻を内包する雷煙がバチバチという激しい音をたてながら渦巻いており、やがて薄れた。

 

 

「何だと…!?」

 

 

…人影が一つ、見えた。

巨剣を地面に刺し、その影に隠れるようにしゃがみこんだ狼騎士は肩で荒く息をしながら確かに生き残っている。

高威力の一撃、狭められた身体はギリギリ巨剣を扱うには足りたらしく、狼騎士が巨剣を盾として使って魔法を防いだことは明らかだった。しかしあれほどの攻撃、直接触れなかったとはいえさしもの全身鎧と言えどダメージは大きかったらしく、かなり損耗した狼騎士は全身から血を流してその炎も勢いを弱めているように見えた。

そしてその肩と拳、足からは檻が外れていた。直撃ではなかったとはいえあれほどの魔法を耐える程の耐久性はセーグの檻には無く、その残骸だったものが狼騎士の足元には転がっていた。

 

(あの巨剣を何とかしねぇと…!)

 

極長のリーチと破壊力を持つ巨剣、今まで数知れないほどの仲間達の命を奪ってきた。

身体の拘束は外れてしまった、魔法で仕留めきれなかったのは残念だがあの巨剣を縛ることが出来たなら勝機がぐっと近くなる。

 

息をつき覚悟を決めたセーグは再び狼騎士に走り出す、その手には最後の檻が握りしめられており、蒼炎を鈍く反射していた。

これを巨剣に設置する、鎖で縛り付けてしまえば狼騎士と言えど巨剣を扱えないし、武器さえ奪ってしまえば討伐は楽になる…それが出来るのは自分だけだ、あれを倒せるかどうかはセーグの一撃にかかっていた。

 

追い詰められた獣にセーグは油断せず距離を詰める、規則的な足音に気が付いた狼騎士がぐりんと蒼い瞳をセーグに向けやはり巨剣を持ち上げた。

狼騎士の動きは単調だ、しかし高速で動かされる巨剣に檻を当てるのは危険、そうでなくとも斬り殺されないようにするのは難しい。

 

そして強く踏み込んだ、瞬間巨剣が横薙ぎに空間を刈りとった。

 

 

『GAAッ!』

 

「くっ…!」

 

 

生じた空気を肌に感じながら潜り込んだセーグの肩を巨剣が掠める、装着した鎖帷子に引っかかった刃先に引っ張られ痛みを感じた後に鎖が弾け飛んだ。二回目の巨剣を何とか避けた。

ひび割れた地面に手をついたセーグは反動をつけながら仰ぎ見ると拳を握りしめた狼騎士が体重を乗せて打ち下ろそうしているのを感じた。

 

 

「解んだよっ!」

 

 

鋭い拳、しかしもう何度も見たその攻撃をセーグは吼えながら地面を転がる。

蒼炎を纏った篭手が空を切った、再び地面に腕をつき片膝をついたセーグは狼騎士の無防備な巨剣の腹へと檻を叩きつけた。

ガシャンという金属音、巨剣と檻の合間の空間が歪みねじれこむと同化し、蛇のような鎖が強く縛り付けた。

 

 

「今だっ、やれっ!」

 

 

一番の脅威である巨剣は封じた、この隙に全員でかかれば必ず狼騎士を殺せる。

残された仲間達にセーグは視線を向ける、勝利を確信したセーグはただ巨剣を縛ることだけを考え、事実それだけが冒険者達の勝機だったように感じられた。

 

しかし…もしも、まだセーグの手元に檻が残っていれば、()()()()()()()()()べきだったのだ。

 

 

「後ろ――」

 

 

周囲を囲んだ冒険者の一人がセーグの後方を指さす。

 

――武器を失った狼騎士の口が開いていた。

 

それはただの狼兜のはずだった。噛み合わせた牙は硬く閉じられ、無機質な憎悪を象っていたはずだった。

吐息が漏れた、蒼炎が舌先のようにチロチロと揺れ、鋭い牙先がゆっくりと擦れ合う。開けられた鉄の口腔は涎を垂らし、生々しい挙動で狼騎士の声をトレースし、セーグの肩を掴みながら大きく開かれた。

 

 

「…がぁああっ!?」

 

 

セーグの首に、獣が噛みついた。

鋭い鉄牙は容易く男の首筋に突き刺さり、その口元に血を満たす。

激痛に抵抗するセーグを巨体で抑え込んだ狼は素早く何度も首に噛みつき、貫いた。

セーグは狼の胸を殴り、押し、逃げようとするが化け物の身体は一切揺らがず、やがてその抵抗も血が噴き出す度に弱弱しくなっていった。

 

狼騎士がセーグを突き倒す。潰すような力にセーグは抵抗することは出来ず、既に落ちかけている意識の中でマウントを取られてことだけが解った。

牙が大動脈を切り裂いた、噴水のように宙を濡らす血の中で狼騎士は何度も何度も肉をブチブチと食いちぎり、その口元には赤黒く染まった肉片がだらりと垂れているのが見えた。

 

唯一見えるセーグの足が痙攣していた、肉に顔をうずませ喰らう化け物は赤色を撒き散らし、身体を揺すりながらセーグの内臓を牙で貫き潰していた。

血が噴き出る度その場にいる全員が身を震わせた、あれが()()()()()()()()()()と考えると恐怖で足が後ろに下がった。

 

全身を朱に染めた狼騎士が立ち上がる。

その身は肉片に塗れ、足元には血肉を引き裂かれたセーグの無惨な死体が転がっていた。

食い散らかされたその身体は血を流し、首元だけでは無く肺や心臓まで食い荒らされていた。

 

 

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAァッッ!!』

 

 

 

炎輪を背負った狼騎士が再度咆哮した。

勢いを増した炎によって全身を覆っていた血潮がブシュゥと消し飛び、空気を揺らがせながら感情を伝播させると周囲の物に燃え移る。

どこかその咆哮は悲哀に満ちており、発狂しそうなほどの苦しさと怒りが混じっているようにも聞こえた。

 

狼騎士が振り返る。

恐怖に竦んだ冒険者達では阻むことも出来ず、何ら不自由は無く獣は巨剣の元に戻ると縛り付けていた檻を踏み潰し壊した。

誰かが魔法を求めた、しかし既に一度放たれた魔法はまだ詠唱を終えておらず、何より縛られていない狼騎士に当たるとは限らない。

 

 

『YAAAAAAATUUUUU…KIIIIIBAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……!』

 

 

終わりの時は来る。

まるで人間の構えのように巨剣の剣先を後ろに向けた狼騎士は何か呟くと炎の中の白を抽出する。

まるでそれは牙のように、それぞれが噛み合った八つの牙は巨剣の上を火花をたてながら走ると刃先で揺れた。

 

一呼吸、一歩を踏み出した狼騎士は巨剣を振り上げる。

それで指標の役目はなった、刃先から射出された『八ツ白牙』は宙を舞う。

 

白い炎、眩しい光の浮遊体は燃え盛りながら未だ生き残っていた冒険者達の胸を貫くとその体内を焼き尽くし風穴を開けて通り抜けた。

そして階段の踊り場、魔術師たちの中心に再収束するとその紋章のとおり噛み合うと斬り裂き、最後に一際強く輝くと――溶かした、炸裂した白炎が全てを消した。

 

 

『aa…ga…a……』

 

 

皆殺した。

八ツ白牙を撃ち終えた狼騎士は倒れそうになる膝を巨剣に寄りかかって耐える。

既に肉体は死にかけていた。オッタルとの死闘、手強かった冒険者達、魔術師達が繰り出した全身を焼く一撃。

その運動量は人としての限界を超えていた、倒れこみそうな意識が血を吐いた。死にかけていた、その身体を支えるのはただ少女へのひたむきな想いであり――止まるわけにはいかなかった。

 

獣は前へ進む。

踊り場の爆心地へ跳び乗り、巨剣を引きずりながら瓦礫を踏み潰すと先ほどまで生きていた魔術師の手だけが一階に落ちていく。

ただその胸にある感情を糧に炎が燃えた、身体の痛みが心臓に達し、心の痛みが脳にまで達した。

 

その感情は愛と呼ばれた、なりふり構わず前へ進む、全ては少女のために。

狼騎士はそれでも蒼い炎を燃やした。

 

 

 

・・・

 

 

 

目につくもの全てに巨剣を振るった。

男も、女も、子供も。逃げようとするものも、立ち向かおうとするものも、泣くものも、叫ぶ者も。巨剣が(ことごと)く殺した、狼騎士が殺した。

肉が裂け、骨が砕ける。子供を殺された母親を潰し、低レベルにも関わらず戦おうと立ち向かってきた男の身体を袈裟に斬り飛ばした。

 

廊下を走り抜けながら狼騎士は蒼炎のマントを翼のように広げ、怒りに任せた咆哮で雑多な音を掻き消す。

その足が血を踏む反動に鎧の隙間からは血が溢れ、その度蒼炎の熱によって蒸発し空中に霧散した。

 

そして――遂に、狼騎士は巨大な扉の前に辿り着いた、

 

 

『aa…!』

 

 

匂いは扉の向こうに続いている、行く手を邪魔する木製の巨大な扉を前に狼騎士は唸り声をあげると巨剣を振り下ろした。

強烈な破壊音、木の張り裂ける異音と共に巨大な扉は砕け散り、吹き飛んだ。

重い足音が響く、燃える風穴を潜り抜けた狼騎士は熱い吐息を漏らすとその蒼い瞳で部屋の中をぐるりと見渡した。

 

月明かりの差した部屋。貴族階級を模した豪華な部屋の中は暗く、淀んだ空気はどこか臭う。

警戒しながら歩みを進める、暗闇の中でぼんやりと浮いている家具を避けながらカーペットに足を沈めると音が消えた。

 

 

『…』

 

 

蒼炎が揺れる。焦熱が黒い足跡を残し、火の粉が散りながら周囲を照らしていく。

窓際に置かれた執務机に目を向けた、背を向けた椅子には逆光で顔の見えない男が座っており、肥えた指を机の上で組んでいるのが見えた。

 

 

『…gaa……!』

 

「下の者は…殺され、ましたか。残念です」

 

 

狼騎士に巨剣を向けられる、目を伏せたガルは動じることも無く立ち上がると窓から月を見上げゆっくりと息を漏らした。

そして肥えた身体を揺らすと振り返り、狼騎士のことをじっくりと眺めると鼻を膨らませた。

 

 

「フン、よもやモンスターが襲撃に来るとは。各所にそういった()()()があるのは知っていますが…なるほど、貴方がここに来たのはお仲間の復讐ですか?それとも――」

 

 

ヒューキ・ガルは手を伸ばす。

どこか観察するように狼騎士の事を見据えながらその動きには一切の迷いがなく、執務机の上に置かれていた四角い赤幕を掴むと捲った。

そして丁寧に箱を持ち上げ、その中身を狼騎士の方に見せると瞳の端に笑みを浮かべた。

 

 

「――この子、ですか?」

 

 

そこに少女はいた。

美しい銀髪をした狼人の少女は細く小さな手を檻の底につき、俯いていた。

 

炎の勢いが瞬間的に増す、バチバチと形を変える炎は逆巻き、瞳の色が明確に濃くなった。

死力が籠る、更に純化された神殺しの獣は感情を燃やす、衝動的にこみ上げる全てを憎悪にくべた。

 

 

『GAAAAAAAAAAAEEEEEEEAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッッ!!!』

 

 

その声は何故か――返せ、と言っているように聞こえた。

 

咆哮は入り混じった感情の全てを乗せ、全てを燃やす。狼騎士を起点に部屋中に炎が燃え移り、暗かった部屋はにわかに蒼光で満ちた。

 

血で引き絞られた身体が前へ跳ね飛んだ。少女の姿を前に狼騎士は何の躊躇いもなく巨剣を握りしめ、吼えながら一歩でも早く前へと踏み抜いた。

残された鎧と鉛のような身体、そして蒼く染まった魂と自我、取り返しのつかなくなることなどお構いなしにただ、前へと疾走した。

巨剣が感情を灯す、床を斬り裂きながら走る狼騎士に追随すると蒼い火花を跳ね飛ばし、触れるもの全て燃やし壊した。

 

刃が迫る、それでも一切動かないガルは檻を持ちながら目を細めた。

ガルに戦闘能力は無い、巨剣を避ける素早さも無ければ止める力も無い彼には狼騎士を退けることなど出来ず――

 

故に、この部屋には「ファミリア最強」が控えていた。

 

 

「――やりなさい、オリオ」

 

 

鉄同士が触れた。

巨剣を阻んだのは薄く黄色い光を放つ鋭鎌、オリオ・シリウスが握りしめた微かに魔力を放つ鎌は狼騎士の強烈な一撃を確かに止め、高い金属音をたてた。

 

割り込んできたオリオに狼騎士は憎悪を向ける、どこかで見た顔だったような気がするが敵の区別などいちいち解らない。

狼騎士は炎の出力を上げてオリオを焼き殺そうとする、しかしその前に鎌から手を離したオリオに腹を蹴り飛ばされた。

 

鎧越しにもかかわらず強烈な威力、弾き飛ばされた狼騎士の身体が数メートル飛んだ。

忌々し気にオリオを睨みつけた狼騎士は炎を滾らせ巨剣を握る、対するオリオは氷のように感情を表に出さぬままローブをはためかせ、先ほどまで『一本だけだったはずの鎌』を交差させるように構えていた。

 

両雄が向き合う。

かたや灰塵の騎士、かたや銀月の狩人。

巨剣と三日月の鎌、鋭く蒼炎に燃えた部屋の中で鋭い刃先が光塵を反射し互いの瞳を照らした。

 

 

『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

「…っ!」

 

 

憎悪を吼えた狼騎士の炎は燃え盛り、月の加護を受けた狩人は()()()()()()()()()()()

 

そして一呼吸の後に走り出すと――獣と人の闘争は幕を上げたのだった。

 

 

 

・・・

 

 




無双ものって良くあるけど結構難しいすね…個々にスポットを当てると長引くし、かといって描写だけだと時間経過させ辛いし残虐さに重みが出ない。研究せねば。

まぁ今回は前回が熱くなり過ぎたんで軽めのクッション回でもある、緩急つけないとな。
果たして次回はどうなることやら、ではでは!


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 銀月狩人

作者の戦闘描写能力が底を尽きかけている…オッタルの時点で尽きかけている…。
では本編どぞ



・・・

 

 

 

オリオ・シリウスは鎌を振るう。

三日月を模した長鎌は鋭く、レベル5以上の実力と研鑽を持って振るわれるそれはかの都市最強であるオッタルの一撃に重きを置いた特大剣よりも――速い。

 

 

『AAA…!』

 

 

蒼炎の中、徐々に火の手が回る部屋の中で幾度となく剣戟を合わせた。

鉄同士が触れる。咆哮をあげる狼騎士の巨剣をオリオは月鎌でいなし、超高速で返される二閃を狼騎士は巨剣で受けた。

高次の戦闘、傷ついた獣と万全な狩人は互角の戦いを繰り広げる。剣戟を力で強引に突破しようとする狼騎士をオリオはその洗練された技で翻弄し、絶大な力を込めた巨剣が空を切る度に忌々し気な咆哮が部屋を揺らした。

 

死に体とはいえ猛者と対等に渡り合うほどの実力をもった狼騎士を相手にオリオは互角以上に立ちまわる、巨剣を機敏に避け疾風のように鎌を翻すその動きは速く…レベル5というには()()()()

 

 

『GAAAッ!』

 

「フッ!」

 

 

振り下ろされた巨剣が地面を砕き、華のように蒼炎がふわりと空間を焼き払う。

身を屈ませながら左右にフェイントをかけるオリオの動きは素早く、静かに獲物を見据えながら両手の鎌を掴み直した。

 

発光する刃先が二方向から狼騎士に迫る、魔力を宿した月鎌はどのような能力を持っているか解らない。

右下の鎌を巨剣の腹で阻んだ狼騎士は振り下ろされる左上の鎌を超反射で掴みこむ、篭手に握りしめられた刃先は火花をたてながら止まり、魔力の籠った鉄は力を込めると白色の鱗粉を撒き散らして砕け散った。

 

巨剣に抑えられていた三日月鎌を引き抜きオリオは後方に跳ぶ。攻撃の失敗を悟り撤退するその判断は鮮やかの一言に尽き、一撃離脱(ヒットアンドアウェイ)の戦法はただ力を振るうだけの狼騎士相手にはとても理にかなっていた。

 

距離をとりながらオリオが()()の長鎌を撃ち放つ、体の回転と共にグローブを離れたそれぞれの鎌は揺れる蒼炎を裂きながら狼騎士へと飛来する。

乾いた金属音が三つ響いた、寸分たがわぬ太刀筋で鎌を叩き落とした狼騎士は唸り声を上げ遠方で着地したオリオの事を睨みつけた。

 

その手には鎌が一本、しかし瞬きの後()()()。二本、三本と手品のようにオリオの鎌は増えていき、写し鏡のような同じ鎌がオリオの細い身体から牙のように四本構えられた。

だが狼騎士の理性ではその光景を正しく理解することは不可能であり、オリオがそのうちの一本を地面に突き刺したことに何の疑問も抱かなかった。

 

オリオが鎌を二本ブーメランのように投げ、走る。狙いすまされた投擲は180度の放物線を描き、それに合わせて鎌を構えたオリオが駆けてきていた。

三方向からの同時攻撃、刃先を地面に掠らせながら進むその姿は正に処刑人であり、冷徹なその表情は例え炎を踏み越える中であっても変わることは無かった。

 

 

『GAAAAAッ!!』

 

「…ッ!」

 

 

狼騎士が拳を振るった、今まで巨剣しか扱っていなかった狼騎士の拳は速く、何より直線的に走っていたオリオにとって完全に予想外だった。

鎌の柄に狼騎士の蒼く染まった拳が直撃する。金属音が響き、防御したオリオの身体が踏みとどまることも出来ず吹き飛んだ。

遅れて飛んできた鎌を狼騎士が一刀のもと斬り落とす、蒼炎にあおられた月鎌は砕け散り先ほどと同じように白銀の粉と消えた。

 

 

『ga…?』

 

 

狼騎士はオリオに視線を戻すと、声を漏らす。

地面に突き刺した鎌の脇で膝をついているオリオの手には先ほど殴りつけたはずの鎌が収まっており、酷く歪曲したそれはもう使えそうもなく白く砕け散った。

しかしその材質は鋼鉄だったはずだ。暴走状態にある蒼炎に殴られただの鉄がその原型を保てるはずがない。

蒼く爆発するでもなくただ砕け散るのは奇妙だ、この蒼炎を耐えうるのは最鋼と謳われるアダマンタイトか、あるいは――

 

 

『GAAAAッ!!』

 

「ッ…!」

 

 

憎悪を吼える狼騎士と、鎌を使い潰しながら巧みに対抗するオリオ・シリウス。

戦いは更に激しさを極めていき、時に巨剣が家具を粉々に叩き潰し、時に大鎌が大理石に爪痕を残した。

前へ、両者一歩も退かない戦いには炎嵐が吹き、焼け落ちた天板が時折燃えながら落下し床の上でのたうち回った。

 

――「鏡偽月(コピーライト)」、それがオリオ・シリウスの能力(アビリティ)

 

偽物の三日月、魔力で編まれた模造品、合わせ鏡の実体を備えた鎌は本物と何ら変わらない鋭さと硬さを持ち、砕ければ月の残滓と消える。

その材質はただの真鉄(ミスリル)、しかし偽鉄とでもいうべき鎌はオリオ自身の魔力で複製されたものに過ぎず、故に狼騎士の鋳造の干渉を受けない。

そして複製には資源(リソース)としてオリオの魔力を消費する、魔術師ではないオリオの魔力はそれほど多くはないがそれでも残り『500本』程度ならばマインドダウンする前に造り出すことが可能だった。

 

無限にも近く増殖する鎌と、その特性を最大限に活かしたオリオの闘法。

レベル5の身体能力は疾く鎌を振るい前後左右に床を踏みながら、白銀の粒子を纏って三日月の刃先を狼騎士に突き立てる。

 

戦局は五分。

しかし長期戦は血を流し続ける狼騎士にとって不利であり、同時にそれを理解しているオリオは強く踏み込むようなことはせずただ戦い続けるという状況を作り続けていた。

巨剣が空を切る、普通なら疲弊して倒れかねない運動量で滅茶苦茶な動きを繰り返す狼騎士の激しい攻めをオリオは躱し続け、攻防という形を取り続けた。

 

既に戦い始めて10分、荒い息と速く鼓動する心拍音だけが煩わしく狼騎士の耳朶を叩いた。

 

 

『GYAAAAAッ!!』

 

 

中々狩人を殺せない事に憤りを覚えた狼騎士が前に出る。自らの身体が壊れることを厭わないような踏み込みは強く木っ端を吹き飛ばし、その身体はまるで炉心のように湧き出る蒼炎を滾らせた。

前進と共に狼騎士は咆哮をあげる、死力を振り絞るような化け物の絶叫には血が混じる。冷静に自らに迫る重戦車のような狼騎士を眺めたオリオは即座に振り返ると背を向けた。

 

その先にあったものは大理石の円柱、悪趣味な装飾の施された高く太い石柱へと駆けるオリオを狼騎士が追いかける。

憎悪を吼える獣はまっすぐにオリオの背中に迫り、巨剣で触れるもの全てを砕きながら追い走るとグッと力を込めて渾身の一撃を繰り出すために踏み込み構えた。

 

ズガン、と巨剣が横薙ぎに石柱からその巨大な刃先分を切り取る。

刃先が届く前にオリオは軽い踏み込みで柱に足をつくとトンと蹴り飛ばし、身軽な動きで空中を舞った。

強力な破壊によってその支えを失った柱が揺らぐ、ぐしゃりと落下しながら解けた石材がスコールのように狼騎士の身体にジャラジャラと降りかかり…その視界からは完全にオリオが消えていた。

 

 

『GuAッ!?』

 

「…」

 

 

肩に二本、後方一回転しながら二双の鎌を構えたオリオは狼騎士の背後からその鎧の継ぎ目に鎌の切っ先を振り下ろした。

血が溢れ、筋肉の裂ける確かな音がした。オリオのつけた初めての傷は深く、両肩にはオリオの手放した鎌が突き立てられたまま残った。

 

しかし――まだ、終わらない。

 

声を漏らした狼騎士は最効率で振り向く、消えない憎悪を灯した瞳でオリオの事を睨み見下ろすと暴力的な殺意を暴風雨のように撒き散らした。

叫び、狼騎士は射程圏内のオリオに向けて巨剣の切っ先を突く。全身の踏み込み、シンプルだが化け物の全力で突き出される巨剣は重圧を纏い、空間を穿つと鋭い剣先がオリオの胸に迫った。

 

 

『Gu…!?』

 

「…フッ……!」

 

 

――鎌の刃先が、正確に巨剣の先を捉えた。

 

全力を込めた一撃が止まる、肩を裂かれた狼騎士はその力を半減させ本来の力を振るえない。

それにオリオの針先で針先を止めるかのような神業、極小の接面だけで巨剣を阻んだオリオの動きはまるで飛んできたワインボトルをフォークで刺し止めるかのように正確で、天性の勘と超集中によってのみなせる技だった。

 

巨剣を止められた狼騎士の動きが前に流れる、一瞬の硬直の後鎌を引いたオリオは巨剣の左縁に合わせるように回る。

そしてすれ違いざまにオリオは、今まさに生成された月鎌を振るった。鋭い鎌の刃先が狼騎士の左腹を貫いた。

 

苦痛に満ちて掠れた、余りに小さな声が狼騎士から漏れた。

貫通した鎌の腹からはとめどない量の血が溢れ、鎧の上を伝ってまた弱まった蒼炎に溶けて消えた。

 

それでも振り返ろうと狼騎士は激痛に耐えながらゆっくりと足を入れ替えた――その左太腿をオリオの鎌が貫いた。

血が溢れた、ビクンと跳ね上がる肢体、太腿を深く貫いた鎌は正確に鎧の継ぎ目を突き通しており、肉の裂ける感触と共に狼騎士の足を完全に静止させた。

自らの足を貫通した鎌に狼騎士はその手を伸ばす、激痛に耐える篭手は強く震えており炎で消せなくなった血の流れが指先まで撥ねた。

 

手甲、そして二の腕。飛来した鎌が右腕に突き刺さりバジュンッと内側に跳ね飛ばした。

二本の鎌が狼騎士の右腕を貫いている、肉体から噴出した鋭い刃先が黒い血液を地面に飛ばした。

体勢を崩した狼騎士の身体が流れた。鎌で貫かれた足が浮き、また地面を踏むと傷口から血を噴き上げた。

 

血が流れる度、狼騎士の炎は弱まる。

身体を貫いた鎌の傷は深く、風前の灯火のように震えた身体は今にも倒れかけていた。

 

――そこからは、一方的だった。

 

狼騎士の身体をオリオの鎌が貫いた。

蒼炎の隙間を走り抜けながら掌の中で鎌を増殖させた狩人は無表情にその鎌の刃先を狼騎士の鎧の継ぎ目に叩き込み、走り去る。

両肩、腹、左太腿、そして右腕の全て。新たに身体の幾か所も大鎌が貫いた、狼騎士の身体が動く前にその全てをオリオは鎌で縫い付け、刃先が肉を抉る度に血が溢れた。

もはや抵抗も無く、ただなされるがまま鎌で貫かれ続け、もはや粒と小さくなった炎で蒸化できないほどの量の血液を流し続けた。

深く、浅く、鎌が狼騎士の全身を突き刺す。腹、足、胸、背中、針鼠のように全身に鎌が残り、肉を裂いて骨にまで達した。

 

既に死んでいてもおかしくなかった。

全身を鎌で貫かれた狼騎士はそれでも立ち続けていた、地面を見据える空虚な蒼い瞳は切れかけの電球のように不規則な明滅を繰り返し、垂れた腕は巨剣を軽く握りしめていたが鎌に貫かれた部分が異様な方向に折れ曲がってしまっていた。

 

そして、遂にその膝が落ちる。

力を失った脚が折れる。ガシャリと鎧に覆われた膝が地面に落ち、全身を月鎌で貫かれた狼騎士の時間は膝立ちのまま停止した。

感情のままに燃え盛っていた蒼炎は今まさに消えようとしており、濃く放たれていた殺意もいつのまにか薄く霧散してしまっていた。

 

……最後に、その瞳に残っていた蒼炎もぷつりと消えた。

 

 

「――終わりだ」

 

 

処刑人は走る。狼騎士の首に狙いをつけて三日月鎌をその手の中で双に増やし、構えた。

脱力した獣は動かない、ただ塊のような血液をぼたりぼたりと地面の上に落としながら最期を待つ罪人のようにその首を差し出していた。

 

蒼い炎はついてくれない。全身の傷は致命傷こそ避けているが、肉は裂け、元々ひびの入っていた骨は何か所も折れている。狼はもう立ち上がることは出来ない。

初めから不可能だったのだろう、まるで夢物語のような話だったのだろう。狼騎士はここで死ぬ、自分の限界をとうに超え、傷つくことさえ厭わずに燃え続けてもまだ足りなかった。

 

――あるいは、そもそもの「目的」がそう大切ではなかったからではなかろうか。

 

所詮、一週間程面倒を見ただけの他人だ。

長い人生から見れば余りに短い付き合いの相手がどれほど大切だというのか。ただあの地下室で拾った命を自分は、いつものような気まぐれで少し面倒を見て、それを玩具を取られた子供のように取り返しに来ただけだろう。

 

何が、愛だ。ただ状況に流され、軽々しく救って、機械的に世話をしただけじゃないか。

命をかける価値など無い、そもそもアレは自分の子供ですら無い――あの子を救う必要も、理由も、俺には無かった。

 

 

 

(――――――……そんなもんじゃ…ねぇだろ…!)

 

 

 

蒼い泥の中で呻いた。

全身が痛くて仕方がない、消えていく命の灯火に寒さを震えながら両橋夏目は手を伸ばす。

微かに残った意識、唇にすがった淡い気泡を飲み込むように必死に呼吸を繰り返しながら諦めようとしている身体を繋ぎとめ、血を吐きながら吼えた。

 

 

(――――――……()()()て思ったんだ…あの子のために少しでも生きようとして、最期まで希望を諦めなかった母親に…俺は…!)

 

 

あの日見た地下室、凄惨な視界、娘を抱きしめる母親と、母親の亡骸に抱きしめられて生きていた余りに小さな命、そして、壁に刻まれたたった一つの想い。

名前さえ知らない母親と、その娘。

その人生はきっと悲嘆に暮れていた、それでも外の世界を見たことも無い娘の幸福を母親は願った。

 

そんな想いを俺は見た。

例え血肉塗れた景色の中でもその感情は美しく、温かかった。

素直に憧れた、俺の持ちえなかった感情を持つ母親と娘のその姿に。

 

 

(何より――――――――親が子供を愛するのに、理由なんかいるかよぉッッ!)

 

 

必要も、理由も、いらない。

 

例え死後だろうと、その想いは俺が受け継いだ。

例え血が繋がっていなくても、俺がこの子を守ろうと決めた。

必要も理由も関係ない、ただ俺があの子を愛してやらねば――他の誰が愛せるというのだろう、他の誰があの母親の想いを果たせるのだろう。

 

ただ俺はあの状況にいただけだ、状況の通りに少女を助け面倒を見てきただけだ。

 

だが――この思いにだけは嘘はない。

あの母親の想いに感化された両橋夏目という人間は、あの少女を愛さずにはいられなかった。この少女を愛してやれるのは、自分だけだから。

 

世界が牙を剥いても、命をかけても(いと)わない。

必要もない、理由も無い、絶対に俺はあの子を絶対に助け出す。

それが死んでしまったあの子の母親の、そして――それは――――――

 

 

――――――――俺の、願いでもあった。

 

 

 

『「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」』

 

 

 

1で足りなければ10で、10で足りなければ100で、更に前へ。

神殺しの力は想いを糧に成長する。本来それは憎悪で満ちた蒼色であり、使役者の心をも染め上げるほど濃い。

しかし――今だけは、綺麗に澄んだ水色をしているような気がした。

 

咆哮、その声はやけに人間的な声をしていた。

今一度、今までで一番強く噴き上げた炎が狼騎士の身体を纏う。

強い意志を持った瞳が駆けてくるオリオの姿を直視し、苦し気な吐息を燃やしながら残った左腕を鎧にドンと叩きつけた。

 

『鋳造』、鎧が変形する。

バキンと引き締まった鎧が全身に突き刺さった鎌の刃先を同時にへし折った、魔力で編まれた鎌は傷口に残ることなく白銀の粒子と消え去ると炎の中に消えた。

しかし傷口が治ったわけではない、鎧の下では至る所を裂かれ砕かれた傷のままになっており、このままでは立ち上がることも出来ずオリオに首を刈られるか出血で死ぬ。

 

故に――もう一度、鎧を鋳造した。

 

更に鎧が引き締まり、俺は自分の()()()()()()()()()

折れた骨が鉄で繋がれ、断裂した筋肉さえも強引に接続した。全身に食い込んだ鎧はその装いを変える、鉄片で構成されていた鎧はその網目のような隙間を無くすと密着し、スマートなラインをしたある意味前よりも「鎧らしい鎧」となると、行き場を無くした炎が全て巨剣に拠り集まってきた。

 

狼騎士の串刺具(ウルフェンハザード・エリザベート)、とでも言うべきそれは傷口を全て塞ぐ。貫通した穴を埋める銑鉄によって出血は一時的にだが抑え、砕かれた骨肉が強引に補強する。

 

 

『「Guu(ぐぅぅ)…ッ!」』

 

「…ッ!?」

 

 

右脚と、左腕。何とか動かせた二部位、激痛が走る身体を起き上がらせ狼騎士はオリオの鎌を巨剣で弾き飛ばす。

体内を鉄で繋ぎとめる荒業の肉体的負担は大きい。全身の傷はそのまま激痛を電撃のように脳髄へと走らせ、強引に動かした肉体がブチブチと砕けていくのが自分でも解った。

 

荒い息をつきながら巨剣で身体を支える。

残された体力、残された身体。頭に氷水を垂らされるような冷たさが染み始め、勝手に落ちようとする瞼が不規則に揺らいだ。

負担は大きい、既に限界など超え、無理をした身体は今にも死にかけている。だが全て、『「あの子のためなら」』、例え足一本と腕一本しか使えなくても――

 

 

『「――…絶対、取り返す…!」』

 

「…!」

 

 

殺意とも違う、強い意志。

ずれた重心、左手で巨剣を掴む狼騎士は鎌を構えるオリオを見る。

五体は使えない。残ったものは片腕と片足だけ、感覚の通わない肉体を引きずり、死に近づき、例えどんな逆境でもなお立ち向かい続ける。

 

その炎は澄んだ水色をしていた、白くも蒼くもない火はどこまでも綺麗で透明だった。

感情に呼応した炎が剣の先で波紋を広げている、焦熱が空気を揺らがせた。

 

巨剣と、鎌が握りしめられる。

立ち向かった人と『「(ヒト)」』は走り出し、地面を踏んだ。

殺し合う、その目的は。獲物同士が触れ合う度空気が揺れ、荒々しく燃え盛る広い部屋の中に生々しい戦闘音を響かせた。

 

 

「…!」

 

 

その力は先程の半分以下のはずだった。しかし優勢だったはずのオリオを狼騎士は圧倒し、右脚だけで踏み込み左腕だけで振るわれる巨剣はこれまでよりも遥かに強く、速い。

暴走状態ではありえなかった鋭い太刀筋、明確な意思の力に炎が反応し、鉄で無理やり接続されたちぐはぐな身体がいつもより良く動いた。

 

巨剣が切り上げられ、両断された模造品の鎌がオリオの手の中で消滅した。

距離をとったオリオは部屋の中心、地面に突き立てられた鎌の元に跳んで戻ると再び手の中で長鎌を増やす。

三本の鎌を構え、衰えぬ勢いで地面を踏んだ狼騎士は巧みな瞬歩で距離を詰めると身体を引きずった満身創痍の狼騎士へ交差させるように振りかぶった。

 

左腕だけで掴んだ巨剣、向けられる刃に右脚を踏み出した狼騎士は巨剣で薙ぐ。

綺麗な水色の火が灯された巨剣は極めて理論的な挙動を描き、空間に美しい水色の軌道を残した。

それは武芸に長じた者の一閃、両橋夏目の技で振るわれる洗練された一撃は、残された獣の肉体を最大限に活用し斬り飛ばした。

 

鎌と巨剣が交錯する。

もう幾度重ねたか解らない剣戟は――狼騎士が競り勝つ、左腕だけで振るわれた巨剣はオリオの鎌を押し込み、支える足を浮かした。

巨剣と触れた鎌が溶け始める。塞がれた鎧、全身を覆っていた炎はその行き先を無くし、逃げ場所を探すように巨剣へと拠り集まる。結果的に全身の熱を集積した巨剣は比べ物にならない程の熱量を持ち、鋳造せずとも模造品の鎌程度ならば容易く熔かした。

 

 

「…ッ!?」

 

 

遥かに予想以上の熱量に歪曲した鎌刃が断たれ、近くを走っていた弐本目の鎌が溶け爛れたことに流石のオリオも目の色を変えた。

オリオは残された鎌を増殖させ、狼騎士へ多彩な攻撃を繰り返す。しかし炎の一閃は向かってくる刃の殆どを融解させ、機敏に回避を繰り返すオリオの身体の端々を幾らか焼いた。

 

オリオの血が流れる。狩人の卓越した戦闘スキルを前に、片腕片足のみで前へ進む狼騎士は止まらない。

鎌を熔かし、切断し、強い一歩。ほぼ無限に増える鎌を振るい潰しながらオリオは最善を尽くして闘うが、徐々に狼騎士に追い詰められていっていた。

 

そして――オリオの手の中で最後の一本が砕け散った。

 

 

「くっ…!?」

 

 

炎がオリオの身体に食らいつく、到底生身で受けることの出来ない熱はオリオの皮膚を強く蹂躙すると跡を残す。

再びの跳躍、逃げたオリオは部屋の中央に戻ると地面に突き刺した鎌へ手をかざす、すると即座に掌へ白色の粒子が収束し始め、形を成そうとした。

 

その能力はあくまで『鏡偽月(コピーライト)』、1を2に増やすことは可能でも0を1にすることは出来ない。

故にオリオは手元の鎌が全て無くなれば一度地面に突き刺した「オリジナル」の元へ戻らなければ武器の補充は出来なかった。

 

決められた行動パターン、手持ちの鎌を全て壊せばオリオは必ず部屋の中心に戻る。獣の時には気がつけなかった、しかし――両橋夏目がそれを見逃すはずがない。

残された右足で狼騎士はオリオを追う、空で身体を回し最大限の遠心力を巻き起こすと巨剣を握りしめた左腕を千切れんばかりに振り下ろした。

 

破壊が上から、足を止めたオリオに迫る。

格段に威力と熱を増した一撃は巨爪、オリオの手元にはまだ使い潰せる模造品は生成されておらず――

 

 

「ぐ……ハァァァッ!」

 

 

――「オリジナル」、地面に突き刺していた最初にして最後の一本を手に取ったオリオは裂帛の気合と共に斬り上げた。

それは間違いなくオリオの死力だった、慢心は無く最善を尽くす狩人の全力は疾く狼騎士の左手を超絶の技巧をもって撃ち抜いた。

 

会心の一撃、巨剣を持った左手のみに当たった鎌は貫くことは叶わずただ弾き飛ばすと、金属音を奏でレベル5の筋力をもって吹き飛ばした。

狼騎士の手放した巨剣が天を舞った、武器を失った狼騎士を前にオリジナルを握りしめたオリオは意識を集中させる。

狙うは、首筋。隙間を埋めた鎧は先程のように容易く貫けない、しかし兜と装甲の隙間にある一瞬の隙間、今のオリオの集中力ならばそれを断つ事は充分に可能なはずだ。

 

返す刀、弐撃目の三日月が横薙ぎに放たれた。

左手を弾かれた狼騎士は傾いた姿勢のまま拳を握りしめる、巨剣は遠く、例え巨剣があったとしても遅すぎた。

 

 

『「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA(らぁああああああああああああああ)ッ!」』

 

 

――――バシュン、と左手の装甲が一時的に開放(パージ)されると炎が溢れ出た。

 

傷ついた全身を鉄で繋ぎ止める狼騎士の串刺具(ウルフェンハザード・エリザベート)、鉄片で構成された鎧は引き締められ『抜け道』であるところの隙間が全て埋められた姿は、その拳から炎を放っていない。

だが今まさに解放される、左手を締め付けていた鉄片が血煙を噴き上げながら焦熱を排出し、生じた隙間から捕らえられていた炎がその顔を見せた。

強い光を放つ炎が左拳を纏った、水色の焔は鉄片の網目からとめどなく噴出させて明滅した。

 

炎拳と月鎌、それで全てが決まる。

蒼炎で満ちた世界、絶えず暗がりを落とした部屋の中心、遂に雌雄が決した。

 

 

「ぐッ……!?」

 

 

――叩きつけた拳が、「オリジナル」を砕いた。

 

完全に粉砕された鎌が白い粒子になることもなく鉄片となって地面に落ちる。

熱で溶けた月鎌の柄だけがオリオの手元に残り、壊れてしまった鎌はもうこれ以上増やすことは不可能だった。

 

オリオの手の中で残された鎌の柄が蒼く膨張する、既に鋳造された月鎌は左腕の炎に侵されており瞬く間にその色を染め上げた。

オリオの手の中で光が溢れた、もはや逃れることの出来ない爆発を前にオリオは目の前の狼騎士に目を向けると、丁度回転しながら落ちてきた巨剣を狼騎士は力強く受け止め踏み込んでいるところだった。

 

――隻腕の一撃、されど避ける事叶わず。

 

掌の中で鉄が炸裂すると同時にオリオの身体を巨剣が薙いだ。遂に捉えた一撃が狩人の腹を強く叩き斬り、とても人の身では耐えられない一撃で骨を砕き肉を裂くと内臓の破裂する音を響かせながら両断した。

 

…真っ二つに裂けた肉体が一直線に宙を飛んだ。

オリオの肉体は炎を纏いながら勢いよく部屋の入口に残されていたドアの残骸に突っ込むと完全に破壊し、廊下に消えた。

 

急速に音が失せた、静寂が訪れた部屋の中にはパチパチと爆ぜる炎の音だけが時折耳に届いた。

残されたものは血と散らばった月鎌の欠片だけ、荒い息をついた狼騎士は全身の力を持って振り抜いた巨剣を下ろし、死戦を乗り越えた身体を上下させながら落ち着けた。

 

オリオ・シリウスは死んだ。

レベル5冒険者、このファミリア最高戦力であるオリオ・シリウスを倒し狼騎士は遂に激闘を勝利した。

そして――残されたものは、三人。

 

 

「…馬鹿な……オリオが倒された、だと…!?」

 

 

戦闘から離れた執務机の奥、少女の入った檻を抱え二人の闘いを静観していたヒューキ・ガルは目を見開き驚愕していた。

最強の矛であり盾、オリオ・シリウスが敗れるなど到底考えていなかったガルは予想外の事態に狼狽し、自然と檻を掴む手に力を込めていた。

 

ひとしきり呼吸を整えた狼騎士は巨剣を肩にかける、ガチャリと金属音をたてて狼騎士はゆっくりとガルに視線を向けた。

残された障害は一つだけ、遂に辿り着いた目的を前に熱い息をついた狼騎士は傷ついた身体を引きずりながらヒューキ・ガルへとゆっくり足を進めた。

 

 

「ッ…ちっ、近寄るな化け物!」

 

 

もはや邪魔をする者は残っていない。

狼騎士の串刺具(ウルフェンハザード・エリザベート)、全身の怪我を鉄牙が縫い留める。

かかる負荷は強く、前に歩くだけで自分の肉体のどこかが壊れていく感覚が走った。

左手で巨剣を掴み、右足で全身を引きずる。その蒼い瞳は怯えたじろぐ商人の抱えた鉄格子へとまっすぐに向けられており、砕けかけの足は止まること無く前へと進んだ。

 

行く手を遮る執務机が狼騎士の巨剣で粉砕され、部屋が大きく揺れる。

ひしゃげた机が真っ二つにひしゃげ崩れ落ちると蒼い炎に覆われ、五秒と経たないうちに景色の中に溶け消えた。

 

 

「く…!」

 

 

迫る狼騎士を前にさしものガルの表情からも余裕が消え失せている。

戦闘能力のないガルがこの場を凌ぐ方法は無い。オリオは死に、肥えた身体では逃げることもままならない。

狼騎士の気迫にたじろいだガルは冷や汗が噴き出してくるのを感じながら必死にシナプスを繋ぐ、出来うる限りの命乞いを考えて目を回し見上げた。

 

そして、ゆっくりと巨剣が天高く構えられた。

 

 

「ま、待て解ったこうしよう!特別に()()は譲る!金ならいくらでも払う!だから私の命だけは――ぐああああああああああああッ!?」

 

『「…」』

 

 

大上段に構えた巨剣が振り下ろされ、正確にガルの左腕を斬り飛ばした。

血が流れる。痛みに絶叫した商人がのけぞり倒れる最中、取り落とされた檻を狼騎士は慌てて受け止める。

 

ガシャンと静かに篭手が鉄格子を確かに掴んだ。片腕しか扱えない事に苛立ちながら「俺」は床の上に座り、半ば強引に檻の扉を千切ると投げ捨て余り揺らさないように気をつけながら全身の炎を消すと、左腕の装甲も一時的に閉じた。

 

自然と心が震えた、不安と心配でごちゃ混ぜになった感情が喉奥からこみあげてきた。

俺はゆっくりと手を伸ばす、黒い鉄格子は軽く歪曲しているものの頑丈で中身にまで怪我をするはずがない…していないでくれと、そう強く願った。

 

 

『「…っ」』

 

 

だから――傷一つない少女の無事な姿が見えた時、自然と涙が溢れた。

 

今朝ベッドに寝かせたままの姿。

長く美しい銀髪と紅い瞳、余りにか弱く小さな手足は雪のように白く、抱き寄せた左腕に力無くもたれかかる。

軽い、が確かな重み。怪我をしていない身体、少女が無事な事が俺にはただただ嬉しくて、とめどなく涙を流しながらだというのに苦しいぐらいの笑顔が止まらなかった。

 

深い安堵に全身の力が抜けるようだった、死力の末に辿り着いた燃える部屋の中で俺は遂に少女を取り戻した。

折り曲げた膝の上に座らせた少女を燃やしてしまわないように細心の注意を払いながら俺は軽く抱き寄せると、感情のままにひきつるような嗚咽を漏らした。

 

強い喜びに全身の痛みも消えたようだった、俺は静かに声を漏らしながら少女への想いが溢れ出て、そのまま涙になった。

()()()()()()泣くなんて生まれて初めてかもしれない。子供のように泣く姿はどこか気恥ずかしくて少し前までは絶対に出来なかっただろうが、この子の為に泣くことには何の躊躇いも抱かなかった。

 

舌の奥が塩辛くて目元も染みるように痛い…泣くってこんな感覚なのか。

でも悲しくはない。むしろ胸に満ちたこの感情は暖かくて、緊張の糸が切れた俺の心をほぐしてくれた。

涙の匂いが嗅覚をつついた、鎧の下で流した涙はそのまま炎の中に消えていき、その度水色の炎が強く揺れた。

 

 

「ぐぅうううううっっ…何故だっ!?なぜ、お前はぁっ…!!?」

 

『「…」』

 

 

右腕を両断され、文字通り全身から液体を噴き出しながら悶えるガルの姿は醜い。

握りしめられた右腕はその切断面から大量の血を溢れさせ、それを必死に止めようとして二の腕を握るガルの手で皺を服に作っていた。

 

誘拐犯、少女を奪っていった男は…マーニファミリアの店で会ったあのヒューキ・ガルという肥えた男。

何故コイツが少女のことを攫ったのか、精々コイツが少女の事を見たのは一度きり。動機などは正直どうでもいいし、こうして取り返すことが出来たので良いのだが…それ以外関りがないことを考えると少し奇妙だった。

 

 

「何故…お前はぁ…ッ……そんな価値も無い、()のために…!?」

 

『「物何かじゃねぇッ!大切な、俺の、()だ!」』

 

 

断言した。

すると驚愕の表情を浮かべたガルは痛みに脂汗を浮かべ床に這いつくばりながら俺の事を見上げる、膝をついて少女を抱いた俺を困惑と共に見つめると、ふっと下卑た笑みを浮かべた。

 

 

「フッ…情が移ったか、この化け物めッ!貴様にとってそれにいったいどれだけの価値がある!?大切などとふざけたことを抜かせ!所詮そんなものゴミだめに落ちていた廃棄物に過ぎんだろうがッ!!」

 

『「黙れぇッ!!」』

 

 

狼騎士の怒りに広大な執務室が揺れ、鳴りを潜めていた蒼炎が再び噴き返す。

何が、ゴミだ。彼女達のいたあの地下室は確かに凄惨だった、しかしたった一人の娘を護るために死んだ崇高なあの母親をゴミ呼ばわりすることは何としても許せなかった…それは、生き延びたこの子のためにも。

 

狼騎士は巨剣を握りしめる、俺がその刃を向けようとするとガルは地面に突っ伏したままその瞳を強く歪めて笑った。

…まるで、全てお見通しだとでもいうように。

 

 

「勘違いするなぁ!そもそも()()()()()の主は私だ!その娘も私の所有物の一つに過ぎない!ただ偶然に見つけたお前にそれの所有権などないッ!」

 

「なっ…!?」

 

 

変わらず少女への物扱いを続けるガルへの怒りを抱く前に、瞬間訪れた困惑に強く頭を殴りつけられたかのように愕然とした。

何故コイツがあの地下室のことを知っているのか、主とはどういう意味か。その口ぶりはまるで全てを知っているかのようであり、まるで俺のことも少女のことも全て前から解っていたかのように笑う。

 

(…ッ!)

 

思えば。

思う事すら出来なかった獣の時は気が付けなかったが、この部屋の臭いはどこかで確かに嗅いだことがある。

蒼炎で燃え盛る部屋、光と熱で揺らぐ景観、悪趣味な家具の数々は確かにどこかで見たことがあった。

 

…記憶が、一直線に繋がる。

いわく付きの家を買った自分、あの地下室を引き払った何者か――そして、生きているはずのなかった奴隷の少女(イレギュラー)

口封じ、迂闊にもあの店でガルは少女が生きていたことを知り、誘拐することを画策した。

見覚えのある悪趣味な部屋の内装と、俺の鼻でなければ解らない程微かな悪臭。その全てが目の前のコイツが同一人物だということを指し示していた。

 

つまり――地下室の彼女達も、あの母親も、コイツが。

 

 

「くっくくッ!お笑いだな、化け物が奴隷の娘を愛でようなど!まだ私が飼った方がマシというものだ!…もっとも、飽きたならあの奴隷達のように死ぬまでだがなぁ!」

 

『「――…もう、いい。疾く…死ね」』

 

 

これ以上、少女の前で一言も喋らせたくなかった。

痛みに耐えながら大声で笑い続ける商人の言葉は強く俺の精神に痛みを与え、燃えているはずの身体の芯が恐ろしいまでに冷たくなっていくのを感じた。

 

もう全て、終わりにしよう。

少女の因縁も、あの地下室の感情も、俺が断つ。

やけに澄んだ思考の中で巨剣を握りしめた狼騎士は滾らせた憎悪でガルを睨みつける、巨剣の放つ蒼炎は冷たくなびくと収束した。

 

そして俺はヒューキ・ガルに止めをさすため、立ち上がろうとすると――――

 

 

『「な…?」』

 

 

自分の意思とは関係なしに、炎が動く。

巨剣の先から零れた蒼炎が腕を伝い、まるで蛇のように鎧の上を這い降りるとスルスルと跡を残して伸び続けた。

腕から肩、そして腹の上を素早く移動し胴に巻き付いた蒼炎はその鎌首をもたげ、まるで獲物でも見定めるかのようにゆるりと周囲を見渡し、その目標を『膝の上』に定めた。

制御の出来ない炎が腹の上で牙を剥いた。完全に俺の意志に反した行動をとる蛇火は俺の膝上に座った少女をまっすぐに見つめており、まるで舌なめずりをするかのようにチロチロと空気を舐めた。

 

どうして勝手に炎が動いているのか、そして――なぜ、自らの意思に反し少女の事を狙っているのか。

 

動揺した俺の身体の上、蒼い蛇は鋭い牙を剥き鋭く吼える。

そして縦に裂けた瞳で少女の狭い背中を見定めると、軽く力を込めた後空中に飛びかかったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

私は地獄を歩いた。

…果ての無い、地獄を歩いた。

 

渡り廊下を抜けた私は大広間に辿り着いた。

蒼炎で満ちた正面玄関は轟々と燃え盛っており、至る所を煌めき熔かす綺麗な火は見ているだけで恐怖に本能がざわめくようだった。

 

砕け落ちた家の中、散らばった瓦礫の隙間からは余りに多すぎる血が流れている。

目につく限りの人、死体、命を失った眷属たちの姿を見る度に心が折れてしまいそうだった。

 

涙を流し、嗚咽と黒煙に咳込みながら私は無数の死体の転がる大広間を抜け、立ち込める煙を避けて力無く二回へと続く階段を上る。

長い廊下、蒼く燃える屋内では虐殺の限りが尽くされていた。老若男女関係なく殺された跡は濃く残り、その大半が蒼炎に包まれいくつもの影を落としていた。

全て愛した者達だった。私は絶望に声にならない悲鳴をあげながらこの惨状の中で生きている者を必死に探し、瓦礫を踏み越えよろめきながらでも歩き続けた。

 

私は地獄を歩いた。

愛する者達が路傍で燃える地獄を苦しみ悶えながら歩いていた。

 

そして――

 

 

「あ…あぁ……!」

 

 

――地獄の終点で、破壊された扉の木片と共に横たわる最愛の息子を見つけた。

 

その身は一刀両断にされ『上』だけになっている。

腰から下を失った上半身は大量の血を吐き出し、ズタボロにされ血に染まったフードはこびりついた蒼炎が覆いかぶさるように静かに音をたてて燃えていた。

まるで吹き飛ばされたような長い血の跡は廊下最奥の団長室から続いており、その目は硬く閉じられていた。

 

 

「オリオ……嘘っ…嘘ですっ……!」

 

 

崩れるように私はその傍らに跪く。

強く賢い私の一番の眷属がそこで死んでいた。

絶望に視界が揺らいだ、このまま死んでしまえたらどんなに楽かと苦痛に喘いだ。

上下を分離させたオリオの身体、散らばった内臓と血は黒く、蒼い炎が涙に反射して呼吸が辛くなった。

そして半ば虚ろにその手をオリオの身体に闇雲に伸ばすと――

 

 

「…おやめ、ください……マーニ、様」

 

「オリオっ…あなた…!?」

 

 

――蒼い炎に触れかけた、その手をオリオに制止された。

 

虫の息となったオリオは閉じられていた瞳を開き、血に塗れた掌で私の腕を強く掴んだ。

それは死力だった、死の間際に振り絞られた力は余りに強く私の腕を掴み…誰が見ても、それが長続きしない事は明らかだった。

 

 

「…何故、何故あなたがっ……!」

 

 

冷たくなった手を握りしめる。

今まさに消えようとしている命は大切で、何故失われなければいけないのか解らなかった。

何故この子なのか、他の誰かではだめだったのか、意味のない問答が喉奥で悲鳴となって漏れ出ると痛くなった…感情のままに想いを全て吐き出してしまっていた。

 

 

「…何故、あのような男のためにっ…!?……あの男は私利私欲のためにファミリアを堕落させ…そのせいで(みな)もあのような…!」

 

「…」

 

「ですがそれも…全てあなたが私の元にいてくれれば止められたはずなのに……どうして、あなたは…!」

 

「…マーニ様」

 

 

それは今までに抱いた想いの全てだったと思う。蓄積した後悔や寂しさは強く、もう()()()()()()と悟ってしまったから自然と口にした。

思いのたけを吐き出していく私の手を握りしめたオリオの身体は冷たく、零れ落ちた涙がその蒼白い手首を伝って血溜まりの中に溶けていった。

 

…そう時間は残されていない、まっすぐとマーニを見つめるオリオの瞳はどこか据わっていた。

 

 

「そのようなこと…おっしゃらないでください。…確かに、あの人は自分の目的のためにファミリアを利用しました…ですが同時に、彼ほどファミリアのために尽力した人もいなかった」

 

「ですが…!」

 

 

事実マーニファミリアがここまで成長できたのはガルが牽引してきたからだ、その商才を最大限に活用し死に物狂いで努力してこなければここまでの地位を獲得することは出来なかっただろう。

 

 

「…ですが、怪物趣味などっ……!」

 

「それは…あの人自身ずっと悩んでいました。何故自分は()()()()()()()()()()

 

「えっ…?」

 

「時折、言っていました。これは自分の生まれ持ってしまった(さが)なのだと。どうしても変えることのできない自分の欲、なのだと。そう言っていつも諦めたみたいに笑って…自らの嘘を肯定するかのように更なる凶行に手を染めていきました」

 

「…っ」

 

「私は…そんな彼を止めたかったのです。ですが、あの人には心の拠り所が必要だったから…私では、彼を赦すことは出来なかった」

 

 

何故オリオがガルの傍にいたのか、その理由。

そんなこと全然知らなかった、オリオが絶え絶えに語る衝撃的な真実は茫然とした私の心を静かに打った。

何故か涙が溢れ出た、ハッと我に返った私は再びオリオの手を両掌で握りしめた。

 

 

「……ですが!だからといって!あなたが…オリオが死ぬ必要は無いはずですッ!!あなた一人なら逃げることだって出来たはずなのにッ…!」

 

「…そんなこと……」

 

 

悲しみに任せて叫んだ私に、少し悲し気な表情を浮かべたオリオは首を横に振ってみせる。

確かめるようにゆっくりと私の掌を掴み直した、焼け落ちる蒼炎に照らされた最愛の人の姿を見下ろした。

弱々しく消えかける命の灯火は揺らぐ。しかし悲嘆に暮れた私の顔を見上げるオリオの表情は青白く、それでいて――どこか柔らかく、ゆっくりと微笑んでいた。

 

 

「……そんなこと…できるわけ、ないじゃないですか。だって…あの人は…かけがえのない……()()()()()()()()()()、ですから――家族を、見捨てられません」

 

 

そう言ってオリオは死の縁で笑った、私が『諦めていた想い』を語って目尻を緩めた。

そこには兄を想う弟の姿があった。家族という名の絆は強く、例え怪物趣味を持っていようとも、他の誰にも代えられない。…故に嫌いになってしまったら耐え難いし、かけがえないから大切に思うことができる。

 

あぁそうだ、私だって最初はそう思っていたはずだ。

彼らと過ごした日々に偽りはない。まだ幼い兄弟に出会ったあの日から私は人並みの幸せというものを感じ、愛情を抱き、この満ち足りた生活がいつまでも続けばいいと願いさえした。

だがいつの頃からだろう。彼らの成長に合わせ日常は変化し、その変化を私は受け入れることが出来なかった…親、だというのに。

 

オリオの力が更に弱まり、微笑んだ瞳の色が瞬く。

掴んだ掌が落ちかける、その呼吸に苦し気な息が混じり始めると共に微笑んでいたオリオの顔が苦痛に満ちた。

もう限界だった。それでもオリオは必死に私の手に縋りつき、何も見えなくなった眼で私の事を探して血を吐いた。

 

 

「……お願い、します…どうか…どうか…兄さんを連れて……お逃げ…ください……――様………今まで、ありがとう…ござい…………」

 

 

最期の言葉は聞こえなかった。

目の前でオリオがこときれる。その瞳は光を失い、脱力した身体が床に沈み込むと、今まで痛いくらいに握りしめられていた掌が血の跡を残して地面に落ちた。

まるで伝播したかのように震える手で私はその瞼をそっと下ろす、たった一言を伝えてくれた息子はどこか満足気な顔をして眠っており…もう二度と、目覚めることはない。

 

願わくは、このまま彼と共に眠ってしまいたい。

崩れるように泣いて、そのまま蒼炎に彼と共に溶ける事を考えた。

 

だが――涙を流す暇さえ、ないから。

 

震える手を握りしめる。

大きく息をつき立ち上がった私は長く忘れていた感情を決意に、その濡れた瞳を鋭く廊下最奥の部屋へと向けた。

 

――その感情は、『愛』と呼ばれた。

 

それは親としての当然の感情だった、ただ接し方が解らなかっただけでいつだって私は彼らの事を愛していた。

家族として見捨てられない、為さねばならないことは明白で、例え()()()()()()()()()()()()()()()厭わない。

 

月の女神は地獄を歩く。

その歩みは誰が為に、例え蒼炎に身を焼かれようとも止まることは無い、向かうは子の待つ執務室――

 

――絶対に助け出す、一人の親としての覚悟を空に浮かぶ満月はただ静かに見下ろしていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

『「――やめろッ!」』

 

 

少女に飛びかかろうとする『自分自身の蒼炎』を俺は慌てて握り潰す。

膝の上、握り潰した炎は掌でのたうちまわる、言わば主である俺の命令に従わない蒼蛇はビタビタと抵抗した後ひとりでに霧散すると消えた。

 

(なんだ…!?)

 

今までこんな事は無かった。まるで意志を持ったかのように蛇炎は勝手に動き出し、あろうことか少女に襲い掛かろうとした。

俺自身は炎を動かしておらず、ましてや少女を傷つける意思など持てるはずがない。

 

では何故『蛇』は産み出され、ましてや無垢な少女の事を傷つけようとしたのか。

そもそも蒼炎は『自分の力』として俺が完全に制御できていたはずだ。しかしそもそもこの炎は感情の塊であり、神殺しという強い目的をいつだって願っている。

 

(…炎の成長に合わせて自我を得た……いや、()()あった意思が強まった!?)

 

ここまで稼いだ相当数のカウント、千の頃から数倍にも強まった火力と神殺しの力。

加えて俺の傷は深く、強まった欲望を完全制御するほどの精神力は辛うじてしか残っていない。

故に一部の制御権を奪われた、まるでそれはコップから溢れた雫のように少量ではあるが蛇の形をとるには充分な量があった。

 

だが…だからといってそのことと少女を襲うことにいったい何の関係があるというのか。

 

(感情を燃やし…神を殺す炎)

 

炎の根底にある基本目的は『神殺し』、そして滞りなく前者を遂行するための宿主である俺の『成長』。

蒼炎の反乱だろうが例え自由になったとしてもその目的は変わらないし、逆を言えばその意志にそぐわない無駄な行動はしないはずだ。

勿論少女は神ではなく、故に炎が少女を狙う必要は無い。

 

ならば、何故――――?

 

 

『「…」』

 

 

膝の上に乗せた少女を見つめる。

取り返した小さな背中は愛おしく白く、流れる銀髪はくねったウェーブを描きながら蒼炎の光を反射させており、あの蛇に狙われる理由はやはり見当たらない。

それとも本当にたまたまだったのだろうか、制御を漏れた蛇炎に理性などなくただ目についた標的を襲おうとしたという可能性だってないわけじゃない。

 

目を閉じ考えていた俺はもう一度少女に視線を向ける。

刹那、少女の姿が紅く揺れた気がした。気のせいかと瞬きした俺の視界、やはり消えない紅い靄のようなものに包まれた少女は――

 

 

 

――少女は、手を伸ばした。

 

 

 

『「なっ…!?」』

 

 

まるでそれは求めるかのように、苦痛に悶える商人に伸びた手は雪のように白く…確かに、動いている。

今まで少女が動くことは無かった、その手も身体も今まで一度だって意思を持ったことはなかったはずだった。

 

それが何故今になって。

濃くなっていく紅い靄、困惑しながら俺はとにかくその肩に手を伸ばし――

 

――触れた瞬間、全てを理解した。

 

狼騎士の姿だからこそ解る少女の中の感情の膨大さ。

その小さな身体の中には余りに多く埋め尽くすほどの、ドロドロになった感情が詰まっていた。

故に蛇もこの子を狙った。強い感情を喰らえば炎は更に成長する、これほどまで大きく純度の高い感情はさも良質の餌に見えたことだろう。

 

 

『「……っ」』

 

 

ずっと俺は勘違いしていた。

あの地下室で少女の心はマイナスになってしまったのだとずっと思っていた。

だが実際はその逆だった。心を器とするならば少女の心は空ではなく、思考の余地も無いほど深紅に満たされていた。

0ではなく100、強すぎる想いや感情は時に人間の脳を支配する。それほどまで大切だった、失った痛みに思考領域は埋め尽くされ、幼い少女は自らの感情をどうすることもできずに口を閉ざした――

 

――『憤怒』。少女は自らの感情に飲み込まれ、それをどうすることもできない。

 

触れた部分から伝わる少女の容量超過(キャパシティーオーバー)な怒り。

余りに強すぎる感情は少女の中から意思を奪った、心は紅い液体の中で目を閉じた。

その紅の瞳に俺の姿は映ってさえいなかった、心の器に満ち満ちた粘土の高い紅い液体が静かに対流していた。

 

その感情を少女は抱かざるをえなかった。あの地下室で何が起きたかを俺は知らない。この世界で一番大切な者を…母親を失った衝撃は俺には解らない、この子の感情はこの子だけのものだった。

ただそれほどまでの感情を少女に背負わせた環境を恨んだ、自然に溢れ出る悔しさの感情に俺は涙を流しながら炎を燃やした。

 

いつだってそうだ、子供は環境を変えられない。だからこそ親は家というものを安らげる場所にしてあげなくてはならない。

だが――少女にとってあの地下室が『世界の全て』だった、環境は全て赤く染め上げられ、唯一頼れる相手さえも殺されてしまった。

 

途方も無い喪失感と憤怒、それは幼いこの子が抱くには余りに大き過ぎる感情。

自分では燃やすことも出来ない、ただ溜まった怒りは行く当ても無く少女の心を溺れさせた。

では…どうすればいいのか。()()()()()()()()()

 

 

『「くっ…ぐぅ…ッ……!?」』

 

 

答えは、すぐに解った。

少女が今動いた理由、それはずっと求めていた相手がいたからだ。

自らの感情をぶつける相手、自らの母親を殺した相手。

 

ヒューキ・ガル――少女の『復讐』は、今しか成しえない。

 

 

『「あぁぁ……ああああああああッ!!」』

 

 

背中を押すことは呆れるほど簡単だった。

許されるわけがない、それはつまりこの子に『人殺し』をさせるということだ。

だがそうでもしなければこの感情は消すことは出来ない、世界で一番大切な者を奪われた痛みは消えない…このままでは一生、物言わぬままだ。

だからといって一生消えない業を負わせるのは本末転倒だ、この子の幸せを願う俺がそんなことを推していいはずがない。

しかし何よりこの一瞬しかない。死にかけの商人を殺すにはもう時間が残されておらず、今を逃せば少女は一生復讐の機会を失う。

 

その手で殺さねば復讐は果たせない――何より、『神殺しの力』とはそのためにある炎なのだから。

 

身を屈めて苦悩した。声をあげて震えながら俺は少女の背中に絶叫した。

嫌だ、この子に人を殺させたくない。だが真に少女の幸せを想うのなら、ただ一度のチャンスを奪いたくもなかった。

状況は完璧だった。少女の中の感情は余りに大きく、心を埋めてしまった憤怒を晴らさないことには少女が世界を見ることは――叶わない。

 

(俺は…最低だ……)

 

これからすることは、人の理から外れた行いだ。

とても人の親などと誇れない。化け物だからこそ、俺が神殺しの獣だからこそできる少女への手向けはきっと残虐で…それでも、この子に世界を見せるためならば。

 

(それで…この子に明日があるのなら…!)

 

嗚咽を漏らしながらゆっくりと俺は拳を握った、完全に消し去っていた炎の明かりが瞬いた。

余りに小さな背中だった、愛おしい背中だった、今まさに自分でしようとしていることに吐き気を催し、憎悪し、叫びながら期待した。

 

俺は――爪先に小さな火種を灯す。

 

この炎は感情を糧にして燃える。

それは真っ赤な燃料の海にマッチを一本落とすかのような行為だった。

荒療治にも程がある、下手をすれば感情を入れた心の器を傷つけかねない…しかし感情に溺れたままの少女の想いを果たすにはこれしか方法が見つからなかった。

 

手を伸ばした。

蝋燭の先のようにゆらゆらと揺れる蒼炎は綺麗で、精一杯の願いを灯す。

迷いはまだあった、それでも大きく息を吐いた俺は覚悟を決めた。

 

 

『「――――」』

 

 

爪と白い少女の背中が触れたその瞬間、視界が炸裂した。

引火した紅い靄、火種となった小さな蒼い炎は少女の中に入り込むとその感情に共感するように火をつけた。

炎塊、膝の上に座る少女を中心に憤怒は煌々と燃える。とてつもない勢いの炎柱の中で俺は必死に少女を探した。

 

そしてやがて視界が晴れると――

 

 

「――ああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 

――少女は、走り出していた。

 

燃やすは憤怒。

その手には()()()()()()、長く美しい母親譲りの髪の上では感情を燃やして生まれ出た濃い蒼炎が躍っている。

少女の足はまっすぐに倒れた商人の元へ向かい、纏った全身の炎がその感情のままに少女の身体を動かした。

 

今まさに彼女のしようとしている行動、それは『神殺し』と言われた。

雄叫びを上げる少女は蒼く、紅く、白い。

譲火、その炎は美しく、どうしても少女が前に進むには必要だった。

 

膝の上から走り去った少女の背中を俺は強い後悔と共に見送った。

果たして俺の選択は正しかったのだろうか、少女の身体は果たして蒼炎に耐えるのか。

巨剣を拾い上げた俺は深く息をつく、中腰に構えたままいつでも合間に割って入れるように慎重に見守ることに決めたのだった。

 

 

 

『「…?」』

 

 

 

しかし、そんな時だった。

不意に俺の鼻孔がとても興味をそそられる臭いを捉えた。血と汗に塗れた臭いはどこか甘く美味しそうで、瞬間的に口内に涎が溢れた。

 

反射的に振り返った俺が見たものは、一人の女の姿だった。

部屋の中に入ってきたボロボロの、黒い髪を一つに結わいたその女は苦し気に胸を抑えながら歩んでおり…とても『()()()()()』に見えた、無意識に歩み出そうとしている自分に気が付き躊躇った。

 

女が泣き腫らした瞳を俺に向ける。

苦しみや悲しみが混ざった表情、しかしそれでいてその瞳には信念が込められており、確かな気迫がその意志の強さを物語っていた。

咎めるような鋭い視線。伝わってくる憎悪の匂いは濃く、それ以上に本能に訴えかけてくる欲求が熱く体内に広がった。

 

そして――凛として、震えた声が部屋の中に響いた。

 

 

「…これ以上私の大切な眷属を!家族を!絶対に!あなたに殺させるわけにはいきません!」

 

 

自分の欲望に抗いながら俺はその女の声に聞き惚れていた。

白痴蒼炎が強まる、脳内を侵す蒼に再び俺は呼吸が出来なくなるのを感じた。

まるで抑えの効かない子供のような感情は徐々に俺の事を支配し、巨剣を持つ手が震えていく。

 

女が言葉を続けた、その度狼騎士の呼吸は乱れていった。

 

 

「私はお前を!子供達を殺したあなたを許さないッ!例えこの地にいられなくなったとしても!主神として、親として、あの子を護ってみせる!」

 

『「や…め…――!」』

 

「神威…解放ッ!」

 

 

止める暇は無かった。

瞬間、光に包まれたその身体。場を埋め尽くす原始の力の奔流に晒され、俺は再び意識を失った。

 

そして――光が晴れる。

 

そこにいたのは「月」。

一切の比喩なく、蒼炎を掻き消すほどに白い光を照らし出す人型の光条。

神秘の集合体、顕現した満月の化身は黄金の瞳で下界を見下ろした。

最大限に放出された神威が反重力を生み出し、瓦礫と共に美しい裸の足が宙に浮く。

拘束を解かれた黒髪が翼のようにたなびきながら神威に染まり変色していく。

光がその身体を覆い、一際大きく輝くと――純白、美しいこの世のどこにも存在しない素材で編みこまれた長いドレスへと変化した。

 

どこかその姿は花嫁のように見えた。

美しい女神の降臨は静かで、彼女を中心にするように世界へと波紋を広げる。

神威解放、地上の神々に禁止されたその行為は天界への強制送還という重いペナルティを科される行為。

しかし同時にマーニは理解していた。その炎を見た瞬間、今目の前にいるこの化け物を地上に残してはいけないことを理解した。

そのためならば道連れでも、他の神々の為に、眷属ではない地上の子らの為に、ガルの為に戦うことに何の躊躇いも無かった。

 

 

「――アールヴァク!!」

 

 

神威を乗せた澄み切った声が響き渡る。

天を仰ぐ女神の呼びかけに世界は強く反応し、魔法何かより遥かに古く強い理によって()()()()()()

 

そしてにわかに聞こえてくる蹄の音、天上より鳴り響く力強い振動は大気を突き破る音に他ならない。

見上げた夜空、浮かんだ満月の傍を白い光が揺蕩う。彗星のように天空を横切ったそれは途轍もない速度で地上に向かって疾走するとこちらに向かって落ちてきた。

 

天井が突き破られる。

轟音とともに瓦礫が部屋中に降り、外気に触れた蒼炎が強くたなびいた。

大きく開け放たれた丸い穴から綺麗な夜空が見えた。天から飛来した『何か』は人の視力では捉えきれない程の速さで光の残像を残しながら部屋を一周すると、女神の隣に煙をたてて停止した。

 

――それは、『戦車』。

 

白銀に輝く美しい鉄馬車、二頭の機械仕掛けの馬が引くその戦車は月を運ぶ担い手。

持ち主の呼びかけに応じ参上したチャリオットは女神と同じ神威を纏い、神話の世界からそのままに飛び出してきた。

 

近寄ったマーニはゆっくりと馬達の頬を撫でる、その顔には懐かしさが詰まっていた。

 

 

「…久しぶりですね、二人とも。また私のために走ってくれますか?」

 

 

女神の言葉に馬達は鼻息で答える。

満足気に頷いた女神は戦車に乗り込みながら、再び敵意の籠った視線を茫然と立った狼騎士へと向ける。

 

 

「お前は…()()()()()()()()()()()()()()()()!人を殺し、神を殺すお前など化け物に過ぎない!」

 

『g…GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

高密度の神威に当てられ理性を失った狼騎士が叫ぶ。

神殺しの獣を前に銀月の女神は三日月を象った神弓を構える、荘厳な装飾の施された聖遺物は満月に照らされ透明に輝いた。

 

 

「我は月!銀月の狩人にして月運びの担い手!今古い約定により真名をもって敵を撃ち滅ぼそう!我が名マーニ!我が名は――」

 

 

今、神話が再び歩み始める。

壊れた身体で狂ったように駆けだした蒼炎の獣と、美しい光を放つ女神。

殺し合う運命に導かれた神代の戦は遂に、その口火を切った。

 

 

「――我が名は()()()()()!狩猟の神の全力をもって、お前を狩る!」

 

 

明日は、近い。

 

 

 

・・・

 

 

 




補足
オリオの能力について。
狼騎士鋳造チートに対策するための『使い捨て鎌』使い。
こんなスキルありなのかは原作準拠じゃないかもわからんね、ドリームマッチ故致し方なし。ちなみにコピーはオリジナルよりも柔らかい設定あったけどリョナ君の前では殆ど関係ありませんでした☆

マーニ改めアルテミスについて。
本来なら強制送還で地上で神威解放した瞬間問答無用にBANだった気がしないでもない。
あえて理由をつけるなら蒼炎がジャマ―になったってことでここはひとつ、というか戦わせねぇともうお前らも収まんねぇよなあ?

ちな何故マーニを名乗ってたかはまた次回!少女はいったいどうなってしまうのか!ではでは!

※報告
リョナ君は今まで26歳設定でしたが過去文章含めて21歳に改めました。深い意味は無い。


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 複合神性

・・・

 

 

 

昔々、とある賢者がこう言いました。

「復讐は無意味である」と。例え殺し返したところで、そこには争いしか生まれないと。

実に多くの人間がこれに賛同しました。その言葉は人から人へと語り継がれ、世界中に広がりました。

いつしかその言葉は人々のルールになり、各地で繰り広げられていた戦争も終結し、世界には平和が訪れました。

 

――それでも、人は人を殺しました。

 

理由は実に様々です。

怨恨から、欲望から、狂気から。

どんな理由であれ間違いを犯さない人間などこの世界にはいません。

過ちを犯した一部の人間が、罪のない他人を、時には家族さえもその手にかけます。

 

これは明確なルール違反です。

人々は罪の数だけ罰を作り、時に過ちを犯した人間を隔離施設に閉じ込め、時に処刑と称して殺しました。

これにて事件は一件落着です。罪に罰は正しく執行され、過ちを犯した人々は隔離され塀の中に閉じ込められました。

 

 

 

 

では――――残された者達はどうなる?

 

 

 

 

愛する者を殺された。

怨恨から、欲望から、狂気から。

どんな理由も理由にはなってくれない、納得できるはずがない。

世界で一番大切なモノを奪われたのだ。その間違いは取り返しがついてはくれない。

その痛みは脳を埋め尽くす、それは間違いなくあなたにとって世界で一番の苦しみになる。死者はどうしたって帰ってこない、取り返しがつかないこそ、現実を理解したくない。

憎悪、憤怒、様々な感情が痛む。その感情は極めて正当なものであり、その感情を抱くことは何も悪い事ではない。

 

しかしルールは復讐を許さない、その感情も痛みも一生消えてくれることはない。

苦しみを抱えたまま残された者は生きていかなくてはならない、時間は解決してくれない…いつだって脳裏には悲しみが浮かぶ、長い時間をかけ忘れようにも心から笑うことができない。

 

不公平だと思った。不条理だと思った。

命を奪うという行為は余りに一方的過ぎる。殺された者は残りの人生を、残された者はこの世界で一番の苦しみを押し付けられる。

殺してやりたいと思うのは自然で当然のことだった。それだけ大切だったのだから、そうでもしなければ囚われた感情に狂ってしまいそうになるのだから。

 

――果たして、復讐は無意味なのだろうか。

 

確かに、殺し返す事だけを見れば無意味だ。

例えその相手を殺したところで、失った者が返ってくるわけではない。

悲しみや、痛みが消えてくれるわけではない。

 

だが――憎悪や憤怒だって立派な感情の一つだ。

 

人は恨まずにいられない。自らの親を、子を、家族を奪った存在を。

強すぎる感情は毒となる。人の脳髄の活動を阻害し、正常な判断を奪う。

その感情を果たさねば――精神(こころ)を縛り付ける『しがらみ』を壊さねば――人は世界を正しく見る事は叶わないから。

 

少なくとも、少女には必要だった。

その身にため込んだ怒りをぶつける相手が、自分からあの小さな世界の中で一番大切なものを奪い去った相手が、感情を果たす復讐という手段が。

 

脳内に巣食った憤怒が、蒼く燃え盛っていた。

少女の中に満ちた感情は紅く、タールのように沸騰している。

心はその奥底に沈んで、痛みを晴らすためにもがく。その手には神殺しのナイフ、両橋夏目から借り受けた火種は『彼女の世界の神』も殺すことだろう。

だが同時にその強すぎる感情に脆い身体が耐えきれなくなるまで、そう時間は残されていなかった。

 

少女の身体が燃える――あの地下室と同じように。

 

 

 

・・・

 

 

 

ビリビリと叩きつけるような獣の咆哮を背中に受けながら、裸足で駆ける少女が砕けた床を強く踏む。

その手にはナイフ、蒼炎に照らされる鉄刃は鋭く、彼女の憤怒を表すかのように紅く縁取られている。

 

 

「――」

 

 

今まで溜め込んだ感情の分だけ少女は咆哮する。

掠れるような怒りの声には強い殺意と、増幅された憤怒が乗っていた。

蒼炎を這わせた長い銀髪がたなびく。纏わりつく炎が少女の動きに合わせて揺れ動き、溜まった感情に引火するたび炎心が強く鼓動する。

その紅い瞳には、地面に尻餅をついたまま這いずるように必死に逃げようとしている仇敵のみが映り、一直線に進む走行には躊躇いなどなかった。

 

少女は恨んでいた。

母親を殺した相手を、()()を。

その想いが蛇を呼んだ、その想いが少女の思考を奪い、その想いがあったからこそ炎は強く燃え盛っていた。

 

 

「ひっ…!?」

 

 

そしてナイフが振り下ろされた。

素早く、鋭く。少女の心を表した鉄製のナイフは両橋夏目のものとも違う、彼女だけの武器(かんじょう)

光を受けた刃先は商人の胸に向かい、竦んだ商人は片腕を失った身体で避けた。

 

余りに容易く刃が空を切る、宙に跳び全身でナイフを振り下ろしていた少女は大きく体勢を崩すと半ば転びかけた。

 

 

「はぁっ…はぁっ…!?」

 

 

荒い呼吸を繰り返しながら商人は狼人の少女を見る、何とか姿勢を保った少女の太刀筋は滅茶苦茶だった。

 

そもそも少女の身体は戦う事はおろか、歩くことすらままならないはずだった。

衰弱は免れた身体、今まで一切動いてこなかった身体はリハビリしなければ立つ事すら叶わないし、いくら意志があったとしても覆るものではない。

 

だが――蒼炎が強化した。

 

狼騎士から受け取ったたった一滴の力、だが感情に引火したその炎は憤怒を燃やし続けえる限り少女の肉体を強引に強化する…神殺しの力を与え続ける。

故に少女は走ることが出来る、故に少女はナイフを振るうことが出来る、故に少女はたった一度の復讐の機会を得た。

同時にそれは賭けでもあった。蒼炎が肉体にかける負担は強い、しかし少女の身体は未成熟で、器としての耐久性など欠片ほどもなかった。

 

憤怒を晴らさなければ。

想いを果たさなければ。

少女の身体が壊れるよりも速く。

 

復讐は蜜の味もしなければ、甘美でも無かった。

苦くて、辛い。それでも、意味はあると信じて前へ。

ナイフを痛いくらいに握りしめた掌は白く小さく、罪の味を噛みしめながら声にならない絶叫を力の限り吼える。

 

 

「――」

 

「はぁぁっ…はぁぁっ…!」

 

 

振るわれたナイフが空を切る。

強化された肉体は少女の想いを果たすために、短刀は復讐を遂げるために。

しかしその動きは全くの素人、そもそも少女は『動く』ということ自体に慣れておらず、その剣筋はいかに肉体が強化されていようともぎこちない。

 

何度も飛びかかる少女の攻撃が商人の身体をかする。殺意に満ちた攻撃は拙い、それでも鋭い刃先が何度か逃げ腰の商人の腕や足に引っかかると切り裂き血を滲ませた。

その迫力は鬼気迫る、まるで憑りつかれたかのように豹変した少女の姿にガルは狼狽え、狼騎士に切断された腕を抑えながら逃げ惑った。

 

 

「くっ……近寄るなぁっ!」

 

「――ゥッ…!?」

 

 

恐怖に満ちたガルは怯えながら肥えた腕を力任せに振るった。

太く重い腕は横薙ぎに振るわれると飛びかかってきていた少女の腹を捉えると、鈍い音をたてて強く弾き飛ばした。

激痛に呻きを漏らした少女が床の上を転がる。弱っているとはいえ大人の腕力をまともに喰らえば少女は悶絶するしかなく、鈍痛の走り続ける場所は骨が折れているかもしれなかった。

 

子供では、大人の力に抗う術はない。

 

 

「は……はは…!」

 

 

気迫の割には、何と呆気ない。

そう驚いたガルは目の前にいるのがただの子供だということを思いだす。

戦闘能力のないガルでは狼騎士に勝つことは万に一つもありえないが、目の前のこの子供ならば別だ。

尻餅をついたままガルは少女の傷ついた姿を見ると下卑た笑いを浮かべ、自らを鼓舞するように声を張り上げた。

 

 

「しょ、所詮はただのガキ…そう、お前は所詮奴隷に過ぎなぁいッ!主である私に歯向かったところで、ゴミでしかないお前が勝てるわけないんだァッ…!!」

 

「――」

 

「く、くくく……そうだ…私は間違ってない………!」

 

 

少女がよろめきながら立ち上がる。

その手にはナイフ、瞳には憤怒が燃え、殺意も死んでこそいないが腹の痛みからかその呼吸は乱れている。

それでも止まれない、再び走り出した少女は輝く短刀を構えて蒼炎を纏った。

 

 

「……ふんッ…!!」

 

「――ッ……!」

 

 

再び少女のナイフは空を切り、今度は鳩尾の近くをガルの拳が捉えた。

鈍い音が響いた。吹き飛んだ少女の身体が床の上を転がり、激痛に悲鳴する少女の声だけが響いた。

 

余りに小さな少女の身体に、余りに強すぎる大人の腕力は絶対的だった。

とても耐えきれない威力の攻撃に少女の身体は容易く破壊され、全身が苦痛に満ちた。

喉の奥は干からびたように乾き、冷たい汗が背中を伝い、痛みによって発された警鐘が脳の奥を強く痺れさせていた。

 

 

「――」

 

 

ナイフを構え走り出した少女は一切の躊躇いなくガルの元へと向かうとその腕を振るった。

再び立ち向かう大人は強大で、あの地下室で正に神の如き存在だった。

 

 

「――ッ…!」

 

 

走り、吹き飛ばされ、それでも少女何度だって立ち上がった。

殴られた傷が痛み、張り裂けた皮膚が血を漏らしても止まるつもりは無かった。

少女の身体が幾度となく床を転がる、激痛に耐えながら腕をつき立ち上がると弱く脆い身体で商人へと走った。

 

 

「――ゥッ…!」

 

 

肥えた腕に少女は苦悶の声を挙げ、商人が息を切らし、全身に酷い痣を作って、それでも少女は復讐を止めようとはしなかった。

 

 

「――ゥゥッッッ……!!」

 

 

その殺意は何がため、その復讐は何がため。

雄叫びをあげて飛びかかってくることを止めない少女に、息を大きく切らしたガルは段々と苦し気な表情を滲ませる。

 

 

「はぁっ…はぁっ……しつこいぃ…!…お前は…何を…そこまでぇ…!」

 

 

そんなこと、解り切っていた。

これは復讐だ、醜く汚く、どれだけの理由があろうとも人殺しに他ならない。

 

――全て、母のために。

 

感情、想い、自らの中で燃える真火が少女の身体を強化した。

少女は何度でも立ち上がる。蒼炎が傷ついた身体の上で弾け、体の奥底から濃い力が溢れ出す。

 

 

「――ゥゥッアアアアッッ!!」

 

 

ただでさえ瀕死だったガルは荒い息をつき始める、決して諦めることの無い少女の機敏な動きに徐々に対応できなくなってきた。

ナイフが身体を切り裂く、肌を舐めた刃先が血を溢れさせ雫のように流した。

あともう少し、徐々に少女はガルを追い詰めていた。

 

 

「ぐぅっ…!?」

 

 

ガルは顔を歪める。痛み、失った片腕は恩恵を受けていない身体であったなら即死しかねない程の出血はすぐにポーションをかけなければ危険だ。

かといって逃げようにも目の前には少女、そして片腕を失いバランスを失った身体は上手く立ち上がることもできない。

這いつくばって逃げようとするガルは周囲を見渡す、蒼炎に満ちた視界の中で自らが助かる方法を模索した。

 

斬り飛ばされた自らの腕が転がっていた、血の気を失った商人の片腕は床の上でパチパチと爆ぜていた。

その指には指輪。戦闘能力のない彼がもしもの時のために作っていた月を模した指輪は透明で、魔石特有の輝きを宿していた。

 

眼の色を変えたガルは慌ててその指輪を指先から外す、そしてまだ残っている手に付け直すと叫んだ。

 

 

「『月甲』ッ!」

 

「――ゥッ…!?」

 

 

少女のナイフが、ガルを中心に球状に展開された琥珀色の魔力壁に弾かれる。

ガルの指輪に格納されていた魔法、「月甲」の構造は魔剣に近い。高位の魔法使いの結界を閉じ込めた指輪は消耗品の割には高い買い物だった。

だがその効果は折り紙付きだ、オッタルや狼騎士ほどの強者には数秒ともたないかもしれないが、レベル4程度の冒険者の攻撃は受け付けない――ましてや、少女の攻撃など。

 

感情に任せて振るわれるナイフが薄い魔力の盾に硬く弾かれる、それでも諦めない少女は雄叫びを上げながら商人と自分を阻む壁に斬りかかり続けた。

指輪をつけた手を少女に向けるガルは荒い息を整える、展開した魔法を少女は突破することは出来ない。

 

これで形勢逆転だ。何よりあの狼騎士も気が付けばいない。

自分も速くポーションを使って治療をしなければ危ういが、少なくとも目の前のコイツに殺されることはない。

 

 

「私に逆らった罰だ…お前は全身犯し尽くした後でモンスターの檻に放り込んでやる…!」

 

 

少女の身体がふらつく。燃え盛る火に体は負けそうになって、残された体力はそれほど残っていない。

そんな少女の様子に再び笑みを浮かべた商人は『復讐を誓う』、自分勝手な誓いは人としての何かが欠けている。

 

それはある意味憤怒に支配されていた少女のように、心の余裕が無い状態なのかもしれない。

故に商人は少女の怒りを感じもしなければ、自分の行いに苦しみもしなかった。

…ただでさえ自分自身の問題というものは一人では解らない、心の余裕がなければなおさらだ。

 

いつしか座り込んだ少女を前に商人は完全に整った強く吹く。

そして――

 

 

「……それとも、お前の母親のように腹から裂き殺してやろうか」

 

「――ゥ…?」

 

「お前の母親はお前の乳を出すために他の奴隷達から少ない飯を分けてもらっていた。だが愚かな女だ、毒入りの飯だということは獣人ならば解っていたはずだろうに」

 

「――ゥ…ァ…」

 

「故に私は毒に侵された腹から治してやろうと思ったのだが、腹を貫かれたままあの女は最期までお前の命乞いをしていた。その様子が傑作でな、余りに死に物狂いだったから思わずお前には手を出さない事を約束してしまった…まぁあの女も、直接私が手を下さずとも毒で勝手に死んでいただろうがな」

 

「――ァァァァァァッッ!!」

 

 

それより先の言葉は少女の咆哮が掻き消した。

だが月甲は硬い。蒼炎を寄せ付けず、鋭い刃先を阻む。

笑みを浮かべる商人と、魔力壁を挟んで憤怒を吼える少女。

 

だが声は届いた、姿も見えた。

 

商人の言葉に少女は怒りを更に滾らせる。その身の限界はすぐそこだ。

肉体の激痛と精神の沸騰に幼い少女は悶えながら身を振りほどくとそのナイフを取り落とした。

鉄製のナイフが床を転がる、叫び声を上げながら少女は一度のけぞると本能に任せるかのように両腕を地面についた。

 

蒼炎が紅に揺れた。

小さな獣は熱い吐息を繰り返す。

更に(かさ)を増した感情に、少女という器を溢れた憤怒がその瞳から粘度の高い紅の液体となってぽたぽたと零れた。それは涙というには余りに紅く、血のように少女の瞳を染め上げ燃えた。

 

それは少女というには余りに荒々しく、余りに化け物じみている。

新鮮な感情に嬉々としてその身を投げた蒼炎が激しく燃え上がった、長く美しい銀髪が重力を無視して浮かび上がると四散し、翼のように狼の存在を大きく見せた。

 

それは炎翼、憤怒の獣。

燃え盛る業火は絶えることはなく、月の護りを前に更なる感情を燃やす。

四足の獣は咆哮した。死体の山を越えて、紅の涙を流して――自らの復讐を燃やした。

 

 

 

・・・

 

 

 

昔々、あるところにムンディルファリという男がおりました。

男は自身の2人の子供が余りに美しい事から息子にソール(太陽)、娘にマーニ《月》という名をつけました。

ですが神々はこれに怒り、2人を捕らえると空を行く衛星を牽く馬車の馭者という役割を押し付けました。

 

一見すると不条理で余りに突然な出来事、しかし神々が二人をムンディルファリから取り上げたのには理由がありました。

何故ならこの星運びの仕事は世界の終焉を目論む狼から常に逃げ続けなくてはならないという極めて過酷な激務で、神々の誰もがこの仕事をやりたがらなかったからなのです。

加えて予言通りならばいつか狼は馬車に追いついて飲み込む、そんな運命がこの役割についていたというのも理由の一つでした。

 

つまり二人はその名前を「良い口実」に自由を奪われ、汚れ仕事を押し付けられた。

しかし双子はいつか殺されると解っていても押し付けられた仕事をこなし、必死に走り続けました。

 

――そして、ラグナロクの日。

 

遂に太陽と月を邪悪な獣が飲み込み、大怪我を負ったマーニは瀕死になりながら草原に逃げ落ちた。

既に馬車を失い、兄弟はどこにもおらず、初めから逃げる力など与えられていない。

ここで死ぬのか。草原に寝ころび、闇より出でた化け物たちに囲まれながらマーニは諦める。疲弊した身体は動かず、運命の通りでも構わないから出来る限り苦しまずに楽になりたいと願った。

 

その時、数多の光矢が闇夜を切り裂きマーニに飛びかかろうとしていた化け物たちの身体を貫いた。

一瞬の出来事、荒い獣たちの吐息に支配されていた草原はにわかに静かになった。

 

 

「…大丈夫、ですか?」

 

 

マーニの顔を覗き込んだのは利発そうな女神。

透明な髪、携えた月弓、美しい狩りの女神。放つ力強い神威はマーニには無いものだったがどこか自分と近しいものを感じた。

 

力の限り言葉を交わした。

これからラグナロクに馳せ参じるというこの女神はたまたまここを通りかかったらしい。

そして何と自分と同じ月の女神らしい。

酔狂な神もいるものだ。あんな面倒な仕事したがる神様が他にいたということにマーニは驚き、もっと話をしてみたいと思った。

 

だが、マーニには時間が残されていなかった。

 

 

「…そうですか。では私の中にいらしてはいかがでしょうか?」

 

 

何を言ってるんだこの女神様は。

とてもじゃないが神格が違う、だというのにこの『アルテミス』という女神は同じ月神である自分を取り込んで永らえさせようとしている。

馬鹿なことはやめろと否定した、だがアルテミスは不思議そうな顔を浮かべただ一言。

 

 

「同じ月の女神同士、何か問題ありますか?」

 

 

大ありだよ、とそう返そうとしたマーニの口は乾いてもう動かなかった。

返答がないことを了承かと思ったのか満足げな表情を浮かべるとその手をマーニに差し伸べた。

 

 

「誇り高き逃走の月神よ、同輩としてその労を称えます。その偉業に畏敬の念を示し、今は私の中で…お休みなさい」

 

 

触れた指先から暖かな感覚が伝わっていく。暖かで血の通った感覚は優しくマーニの眠気を誘い、その瞼をゆっくりと下げさせる。

死にかけの身体がアルテミスの中に取り込まれていく、それに合わせるように消えかけだった意識が混濁してきた。

 

 

「あなたは私、私はあなた。今神威は混じり、神性をここに束ねる。あなたはアルテミス、私はこれより――マーニです」

 

 

気まぐれに殺されて、気まぐれに生かされるものだ。そう思ったのを最後にマーニは優しく微笑むアルテミスの中に溶け消えたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

神話をここに、少女が走り出した背後にて。

月を牽く戦車を前に神殺しの獣は巨剣を構え、片腕片足の身体で咆哮する。

その手には巨剣、握りしめられた掌から伝わった神殺しの蒼炎は狂喜に躍る。

殺し合う定めにある神と獣は決して相容れることの無い詩を紡いだ。

 

 

『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

蒼炎に満ちた世界、獣の咆哮がビリビリと空間を叩きつける。

もう一つの神殺しが幕を開ける。蒼炎を滾らせた狼騎士は機械仕掛けの戦車の上に屹立する月の女神に人外の巨剣を向ける。

神威を纏った月の女神はその荘厳な神秘を携えた三日月弓を構え、花嫁のような純白のドレスを反重力に任せて浮いていた。

 

――狼が一歩踏み出すと同時に、戦車を牽く二頭の機械馬がいななきをあげて走り出す。

 

地面を砕く神獣の蹄鉄が高らかに木霊した。

月を担う神代の戦車、かつて邪悪な狼より逃げ続けた女神マーニの神器、災厄より逃げ続けた伝説を体現するその戦車は()()()に疾い。

空に浮かぶ巨大な星、地の果てから果てへとたったの一日で運ぶ馬力は他に類するものなどなく、空をかける機械馬に誰も追いつけはしない。

 

光の残滓が蒼炎に満ちた部屋を切り裂く。

残像だけを残して走り出した戦車の姿が霞んだ、視界内を亜音速で駆けていく馬の姿は狼騎士の動体視力をもってしても正確には捉えきれない。

瞬く間に最高速に到達した月明の戦車は執務室の中を駆け巡った。視界内を横切る光点は人間では追う事さえ出来ず、ただ戦車の通り過ぎた破壊痕だけを残した。

 

その動きは正に疾風迅雷にして縦横無尽。

銀月を牽く担い手は獣から逃れ続けた逸話をそのままに駆ける、白銀の神威を纏った戦車は人の身では捉える事すら叶わない。

 

 

『……r』

 

 

狼騎士の瞳孔がせわしなく空を切る。

宙を駆ける戦車は床に限らず、天井や壁をも駆けた。

超高速移動、月光の残像を残す神の戦車。蒼く照らし出された室内を駆け巡る戦車の軌道を追いながら狼騎士は油断なく巨剣を構える。

 

――見上げた極光、既に目の前には巨大な神威の煌めきが十字を結んでいた。

 

 

『…ッ!?』

 

 

それは狩人の矢。それは魔を撃ち滅ぼす神罰の具現。

遠矢射る。世界に様々な逸話や伝説、英雄譚があれど現を生きる狩猟の女神の弓術に勝る者などいるはずもない。

数多の魔物を狩り、オリュンポスの神々として終末を生き残った女神アルテミス。

その神格は例えマーニと混ざった今でも極めて高い位にあり、その神威を乗せた一矢は破格の威力を誇っている。

 

神威を纏い白い光を輝かせた一条の矢は鋭く、正確無比に狼騎士を襲う。

思考よりも速く、気が付けば膨大な量のエネルギーが目の前に迫っている事に気が付いた狼騎士はそれでも超人じみた反射で巨剣を動かすと刃腹から蒼炎を噴き上げた。

 

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!』

 

 

極光と蒼炎がぶつかり合う。

混ざり合った二つの力は全く相反する事象、空間に染みのような力場を発生させながら蒼炎は弓矢を切り裂くと破裂音と共に神威を粉々に散らした。

巨剣を振り抜いた狼騎士は薄く息を吐く、何とか斬り飛ばす事は出来たが神威を持った矢はオッタルの攻撃並みに重く、速い。

 

マーニの持つ亜音速の戦車、アルテミスの神域を超えた弓術。

部屋中を駆け巡る光点から放たれる一筋の神威、加速した弓の射撃は正確に全方位から狼騎士に迫る。重く、速い。高位の女神の力は複合され、更に強化された。

視認したころにはもう目の前に光条があった、戦車の姿は遥か彼方に消えている。

狼騎士は何とか片腕で振るう巨剣で自らの身を護りながら反撃の機会を探る…が呼吸すらままならない矢継ぎ早の連撃に呼吸をするのもやっとだった。

 

 

『g…!?』

 

 

――白く輝く神威を纏った二頭の機械馬が、狼騎士の目の前に稲妻の如く躍り出る。

 

純白の神獣は力強く大地を踏みしめ狼騎士に向かって疾走した。

完全に予想外な戦車の走行、月を牽く馬車による「体当たり」。人間の反応速度を超えた速さで現れた巨大な戦車は一切その力を緩めることなく狼騎士へと向かってただ駆けた。

 

 

『GAAAAAAAAAAAAAAAッ!!?』

 

 

巨馬にぶつかった狼騎士の身体が、そのまま強い衝撃と共に戦車で運ばれる。

音さえ置き去りにする戦車の疾走、その矛先で狼騎士はバラバラになりそうになる衝撃に全身で耐えながら巨剣を握りしめる。

吹き付ける圧で身体は一切動くことはなく、衝撃で体内の何かが破裂した音がした。

それでも意識ははっきりと女神の姿を捉えていた、戦車に轢かれながら狼騎士は戦車に立つ月神アルテミスの朧げな姿へと殺意を向けた。

 

――ドガァンッ!!

 

鈍く巨大な音をたて戦車が狼騎士ごと執務室の壁に突っ込む、大理石で造られた壁に大穴を開けると轟音と共に大小様々な瓦礫を飛ばした。

重い一撃、たった数瞬とはいえ月の戦車に轢かれ吹き飛ばされた狼騎士の身体が宙を浮き重力に従って土の地面に叩きつけられると転がった。

 

執務室の外、戦車に吹き飛ばされ夜闇に包まれた庭園に狼騎士は腕をつく。

月の戦車による強烈な突進は狼騎士の全身を砕いた、武器である巨剣を失わなかったことだけは幸いだが鎧の下では更に出血が悪化し激痛が走っている。

 

巨剣を地面につき、蒼炎に輝く瞳を周囲に向ける。

マーニファミリアの庭園、本棟に辿り着くまでに狼騎士も歩んだ前庭は広い。

良く手入れされた植木が強風にざわめいている。腰程の高さしかない藪がある程度の歩道には隠れられる場所は無く、天井を()くアルテミスの戦車からは良い的だ。

肌寒い夜の外気が蒼炎を揺らし、かぼそい星明かりと停止した満月だけが地上を照らす。

闇夜を光点が切り裂く。狼騎士を吹き飛ばした月の戦車は頂を蛇行する、広い天蓋を疾走する担い手は流れ星のように駆けると彼方から光の一夜が飛来した。

 

再び空間を穿ったアルテミスの矢撃を巨剣で打ち払う。

死角から、真上から、直撃すればただではすまない極光が闇夜を切り裂き目の前に迫った。

防戦を強いらながら狼騎士はアルテミスの姿を追う。純粋な神殺しの獣と化した狼は本能に任せて憎悪を募らせるが、理性を失った割には冷静にその動きを観察していた。

 

目標への衝動、だがそのために死に急ぐことはない。

そういう点において今の狼騎士は両橋夏目の戦闘スキルを保持したまま蒼い。感情に支配されるよりも遥かに原始的な「生物としての根幹」がアルテミスの神威によって目覚めさせられた今の状態ならば、理知的に計算することも可能だった。

 

極光、蒼炎。

狼騎士の剣舞が爆発を纏う神矢を斬り裂き、人ならば触れる事すらままならない高エネルギー体を蒼炎が殺す度稲光のような歪が走って消えた。

神代の闘争、殺し合う定めにある一柱と一匹は争い合う。

 

 

『GURAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!』

 

 

矢を切り裂いた狼騎士が咆哮を挙げ、にわかに強く一歩を踏む。

装甲の解放された左手に満ちた蒼炎が大きく輝くと、巨剣に新たな蒼炎が充填された。

その瞳は高速で移動している戦車の姿を追っていた。人類の反応速度を超えているそのスピードは執務室中を動き回り、高位の冒険者であろうと姿を捉えることは、ましてや攻撃を当てることなど不可能に近い。

 

だが――既に狼騎士は人間じゃない。

 

 

『G…AAAAAAAAAAAAAッ!!』

 

 

蒼炎を秘めた巨剣があらん限りの腕力を持って振るわれる。

輝いた剣筋、滴らんばかりの熱量を込めた一撃は轟音と共に空間を裂くと「飛沫」を飛ばす。

巨剣より産み出された「蒼い炎の斬撃」は冷えた夜の外気を焼きながらまっすぐに天へと向かうと戦車のすぐ側をすり抜け大輪の華のように爆発した。

 

偏差斬撃、月神の戦車は確かに速いが狼騎士に捉えきれない程ではない。もしあれが地上のみ走る戦車であれば幾らでもやりようはあっただろう。

闇夜を駆ける光点、むしろ問題はその距離。天を駆け、遠距離から絶大な攻撃を繰り出す女神は一方的で、余りに狼騎士からは遠い。

 

だが――それでも、一度でも届けば。

 

 

『ヤツ…シロ……!』

 

 

幾つもの神の矢が地面にクレータを作る、破壊の中を走りながら狼騎士は白に拠る。

握りしめた巨剣に牙を模した白炎が濃く充填され、歯並びを合わせるかのように噛みしめると激しく燃えた。

 

白痴蒼炎、対するは銀月女神。

神代の戦はここに、夜の外気が吹き付け静止した満月が見下ろす中狼騎士は咆哮する。

 

 

『牙…ァッ!!』

 

 

振るわれる巨剣の先で、指標は成った。

 

 

 

・・・

 

 

 

執務室の中、憤怒に燃える少女の身体を纏った炎が際限なく膨れ上がっていく。

神殺しの火はその感情に起因して燃え上がる、蒼くて紅くて白い巨炎は美しく少女の身を焼いた。

肉を薪に、感情を燃料に。神殺しの獣ではない少女はリスク無しにその炎を燃やせない、その炎が大きくなればなるほど危険性は増していく…それでも少女は己を炎にくべ続けた。

 

やがて炎が広い部屋の中を満たし、やがて月甲に包まれたガルの視界を三色の炎が覆い尽くす。

そしてその中で商人は――赤より紅い、獣瞳を見た。

 

 

「ぎゃっ!?…――――なッ…!?」

 

 

ガルの視界に光が焼け付く、瞬間膨れ上がった炎の閃光に網膜が焼け付くような激痛が走る。一瞬何も見えなくなったガルは強く瞼を閉じ、反射的に流れた涙が落ちていくのを待つと擦れるような金属音に再び目を開けた。

 

 

 

いつのまにか炎の消えた室内、ガルの周囲に張り巡らされた防御壁「月甲」。

生半可な攻撃では傷一つつけることのできない魔法壁は使用者の精神がある限り破られず、今この状況において少女の火力では破ることは叶わない…はずだった。

 

執務室に満ちた紅炎、視界を覆う業火の中から飛び出てきた憤怒の獣はそのナイフを絶対防壁に突き立てる。

小さな身体に纏われた炎翼が揺らぎ、長い銀髪が撥ねた。その手に持った短刀は鋭い、魔力の壁に火花をたてながら拮抗した。

 

そして――まるでバターのように容易く月甲が縦に裂ける。

 

余りに呆気ない、並みの冒険者の攻撃を弾く盾が嘘のように容易く溶ける。

強く痺れるような恐怖が商人の心を縛った。

 

目の前に立つ業火、蒼い炎を噴出させ、その瞳から紅の液体を零れ落とす化け物。

翼のように広げた銀髪とその上に流れる炎が輝く。手にした鈍色のナイフは部屋に満ちた蒼炎の色を反射し、蒼く、白く、紅く燃えていた。

 

 

「くっ……!!」

 

 

咆哮。

余りに容易く裂かれた月甲の隙間から獣のように走りこんできた少女の姿にガルは呻く。

憤怒に燃えた獣の姿は恐ろしく、何より月甲を破られたことへの困惑と衝撃で思考はまともに働かなかった。

少女の身体が蜃気楼のように揺らぐ、火事場の馬鹿力か走馬灯かガルにはそれがやけにゆっくりとしているような気がした。

 

 

「――……らぁっ!!」

 

「――――ゥッ…!」

 

 

試しにガルが腕を振るうと少女の頭に握りしめた拳が鈍く当たった、少女の形をした化け物は声をあげてその場に倒れた。

月甲を突き破ったにしては弱い、何より自分の拳が容易く当たったことに驚きながらガルは痛みに悶えている少女を茫然と見下すとこれが現実だということを確かめる。

 

そして――思い切り、踏みつけた。

 

 

「おらっ!おらっ!おらぁっ!!」

 

 

柔らかい肉が足元で潰れる感覚、息を切らしながらガルは少女を踏みつけることに興じる。

次第に笑みを浮かべながら商人はその小さな身体に馬乗りになると、今度は()()を交互に少女の身体に振り下ろし始める。

 

子供の腕力で大人に勝つことは出来ない、きっと月甲が破られたのも何か間違いに違いない。少女は少女のままで、いつのまにか部屋中で燃えていた炎も感情も消えている。

やけに()()()()()ことにも気が付かず、ガルは既に反応の無い少女の身体を殴り続ける。

 

そしてとっくに少女の身体が潰れた頃、荒い息をつきながらふとガルは周囲を見渡した。

 

そこはいつもの『地下室』だった。

ガルの醜い本性を晴らすための遊び場、暗く冷たい石で出来たおもちゃ箱はいつものように臭う。

部屋の中心に立ったガルは驚きに目を見開きながらゆっくりと周囲を見渡すと、()()()()()の奴隷達が怯えた視線で自分の事を見ている事に気が付いた。

 

 

「は…はははは……!」

 

 

まるで時間が巻き戻ったような感覚。

ガルは自然と笑みを浮かべながら、奴隷の一人に歩み寄りその髪を掴んで立ち上がらせ殴りつけた。

肥えた身体は以前よりも生気に溢れ、容易く奴隷の息の根を止めると骨肉を砕いた。

 

笑いながらガルはあの日をなぞるように奴隷達を殺す。

裂ける肉の感触、響き渡る悲鳴、命の止まる音が掌の中で聞こえ、返り血を浴びてもガルは止まらない。

そして何かを呻く最後の女を剣で腹を貫いて殺すと荒い息をついて商人は血で濡れた頬を拭った。

深い満足感がガルを満たした。どうして自分が「こう」なのかはもはや解らないが、歪んだガルの思考は自己の感情を優先し、余裕のない器を喜びで満たした。

 

しかし――何か忘れているような気がした。

 

 

『…許さない』

 

 

どこかから小さな声が聞こえた。

暗い地下室でガルは振り返る、しかし自分以外に人はおらず、あるのは奴隷達の死体だけ。

 

 

『憎い…何故…私が…』

 

『生きたかった…もっと…』

 

『…殺してやる……絶対に殺してやるッ!』

 

『死にたくない…嫌だよ……神様…』

 

 

どんどんと大きくなっていく声にガルの呼吸が荒くなる。

見渡す限りの紅、自分に向けられる憤怒は商人には解らなかった、解るだけの心の余裕が無かった。

だが今は違う、それは彼女たちの声だった、ガルに届くことの無かった感情は何故か直接商人の脳に響くと痛んだ。

 

その足を死体から伸びた手が掴んだ。

殺したはずの惨死体達が立ち上がり、一様にガルへと手を伸ばす。

憤怒、憎悪、悲哀。理由は人それぞれ、だが満ちた憤怒に従うように伸ばした腕は商人の身体を伸ばすと強く握りしめた。

 

 

「あぁ…あぁぁ……!」

 

 

死体に押しつぶされながらガルは動かない。

ただ網膜に焼き付いた感情から、自分の犯した罪の重さに気が付いた懺悔する。

後悔しても既に取り返しがつかない、死んでしまったら命だけはそこまでなのだから。

そんな当たり前の事を今まで考えもしなかった、ただガルには…他人のことを考える心の余裕が存在しなかった。

 

幾重にも重なる腕の中からガルは地下室の壁を見る。

刻まれた小さな文字、母親に抱かれた少女の紅の瞳が瞬く。

死体に飲まれながらガルは激しい後悔に飲まれる、深い懺悔の涙を流しながら――その意識を失ったのだった。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

八ツ白牙(ヤツシロキバ)が空を喰らう。

その巨剣が示すのは宙を自由に駆ける戦車、最高速を超えた銀月の担い手へと放たれた白炎の牙は強力な噴射炎(バックファイヤ)を空に刻みつけながら飛翔する。

人の物理法則では測ることのできない無軌道な光に牙を模した炎は縋りつく、噴き上げた白痴に気が付かずに八ツ白牙は空を切る。

 

――轟音、爆発。

 

夜空に炸裂する白い牙。

悉く空間を燃やし尽くす噛み合った破壊、押し寄せ吹き付ける熱波に庭園内の草木が強く倒された。

遥か上空で重なり合った業火は蒼く星の最期のように瞬き、鋭い獣の牙を模した。

 

狼騎士の八ツ白牙、重なり合った牙の隙間を月神の戦車がすり抜ける。

その火力の側を純粋な速度でもって通り抜けた戦車は破壊を免れ、広い夜空を旋回しながら幾重にも連鎖する白牙の爆発を肌一枚で回避していった。

 

 

『g…!』

 

 

当たらなかった事を悔やむ間もなく、極光を蓄えた神の矢が飛来する。

爆発の合間を縫って放たれたアルテミスの弓矢は速く、地上に立つ狼騎士へとまっすぐに落ちてくるとその神威を開放する。

咄嗟に蒼炎を展開し巨剣を構えた狼騎士の目前、爆裂した神威のエネルギー体が空間を満たす。原子レベルでの分解、視界を満たした白い月光に狼騎士は飲まれ、激痛に咆哮しながら神殺しの炎で神威に抗った。

 

 

『a…g……!』

 

 

光が引き、膝をついた狼騎士は抉れた地面の上に蒸発しきらなかった大量の血を吐き出す。

ただの人の子が神に勝てぬ理由、高濃度の神威はこの世界に存在するあらゆるものを溶かす。狼騎士が対抗出来るのはひとえに神殺しの炎が相殺するため、狼騎士は未だ完全体ではないので絶対耐性とまではいかないがそれでも怪我程度に抑えることは出来る。

 

血反吐を吐きながら月神の矢を受け切った狼騎士は視線を上にあげる、闇夜を切り裂く光点からはまた極光が射出されていた。

地面に巨剣をつき立ち上がった狼騎士は自らを鼓舞するように咆哮すると巨剣を振るう、神矢が炸裂する前に蒼炎で斬り落とした。

 

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

そこからは、死線だった。

遥か天高くより神威の矢を撃ち降ろすアルテミスに対し、狼騎士は隙を見て八ツ白牙を放ちながら立ち回る。

砕け散った神威が粒子となって弾け飛び、目の前に十字の極光が迫る度に狼騎士は巨剣を振るった。骨に直接響いてくるような衝撃は空間を圧迫すると、神威に抗う狼騎士の巨剣に重くのしかかった。

 

激しい損耗が迫り、神威で焦げた空気に呼吸が詰まる。

落ちてくる極大の神威が炸裂するたび身を護るために放出した蒼炎が削りとられ、空駆ける戦車に白炎を放つ度に炎の総量が減っていった。

感情を燃料にする炎は絶えず燃え続けているが、猛攻の前に需要は供給を追い越している。貯蔵はじわじわと消費され、火力が足りなくなれば矢を払うことすら出来なくなるだろう。その前に、この状況を打開せねば勝てる見込みは無かった。

 

頭の端に微かに残された戦闘理論を最大限に活用した狼騎士は咆哮しながら巨剣を振るう。

夜空を駆け巡った戦車を見上げた獣はその動きをゆっくりと観察すると、次に放たれた極光の軌道を読んだ。

 

 

『ッ…!』

 

 

巨剣を矢先に叩きつけた狼騎士が蒼炎を巻き上げる。

左腕より伝い巨剣の中に充填された神殺しの火は強く天に噴きつけると大地を砕いた。

天駆ける戦車より見下ろしたその巨大な熱は篝火のようであり、前庭を濃い蒼明で染め上げながら閃光を瞬かせると視界を阻んだ。

 

まるでそれは噴火寸前の火山のように、膨張した炎塊は強い上昇気流を発生させて丸く揺れる。巨剣内の貯蔵を大量に吐いた大火、地上を焦がす熱は嵐のように渦巻くと凝縮した。

そして一際大きく輝き膨張すると炎はついに限界を迎え破裂すると、噴火した火口のように、あるいは熟れた果実のように炸裂する。

真火を纏った狼騎士を中心に全方位へと炎の切れ端が撒き散らされ、数あるものは流星群のように前庭へとクレーターを作り、噴炎のように幾つかは天へと巨大な火を打ち上げた。

 

 

「ッ…!」

 

 

戦車に迫る視界を埋めるような火球にアルテミスは目を細める。天を焦がす巨大な炎の塊は空を駆ける月の戦車を面で圧倒しており、視線を阻まれた地上が濃い影によって一瞬隠された。

迫る熱気を肌で感じながら戦車は噴き上げた蒼炎の隙間を走り抜ける、呼吸の詰まるような焦熱が戦車へと手を伸ばしたが捉えることはできなかった。

 

噴き上げた巨炎の下、蒼炎に侵された地表は今まさに流星群のような炎の雨が降り注いでいる。宙から舞い落ちる蒼火は空爆のように前庭を焼き尽くし、蒼く輝く火粉を撒き散らしながら燃え広がっていた。

もはや美しかった庭園は見る影もない。先ほどまで夜闇に包まれていた庭園は眩しすぎる光に包まれており、その中心で的のように蒼く光っていた狼騎士の姿はいなくなっている。

破裂した炎、降り注ぐ炎は濃く、そのどれかに狼騎士が隠れている可能性が高い。

一方的だった状況は破られた、撒き散らされる焔によって狼騎士の居場所は解らなくなり、速く特定しなければ狼騎士に大きな隙を与えることになるだろう。

 

眼下を睨みつけたアルテミスは神威の月弓を強く引く。

狙うは降り注ぐ幾つもの火球、矢継ぎ早に放たれた光塵が収束し、正確無比な射撃が雨のように前庭へと降り注ぐ炎弾の中心を貫いた。

霧散した蒼炎が空に溶ける。靄のように一瞬歪んだ前庭は至るところが燃えており、陽炎(カゲロウ)の消え去った視界には狼騎士は映らない。

天を駆ける戦車から狼騎士をアルテミスは探す。しかしどれほど見渡しても蒼に延びた炎の中には影は無く、矢先を向けた地上から獣の息遣いは感じられなかった。

 

 

『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

「なっ…!?」

 

 

強い衝撃と共に、戦車の後部が大きく落ちる。

瞬間つんざくような耳元で叫ばれたような咆哮に月の女神は速く振り返ると、そこには蒼炎を噴き上げる左腕が神鉄の戦車を握り潰すほどに掴んでいた。

篭手の爪が戦車の鋼板を切り裂きながら狼騎士の身体を持ち上げる、高速で天を駆ける戦車に乗り込んできた狼騎士はその蒼い双眸をすぐ目の前に迫った女神の姿へと向けると熱い息を漏らして戦車の上に立ち上がった。

 

最初に打ち上げられた巨炎、そして次に雨のように降り注いだ炎弾。

見下ろした前庭は蒼く燃え、アルテミスはそのどこかに狼騎士が潜んでいると考えた…そもそも、翼のない獣が空を飛ぶはずがないと。

地上に巨剣を残し、炎に紛れ、狼騎士はそのカウント数によって強化された身体を使って高く跳躍した。狼騎士自身体験したことの無い高みは冷たく、重力に引っ張られる先には月戦車が走っていた。

 

 

「…!」

 

『GRAッ!』

 

 

限りなく近い至近距離、狼騎士の間合い。

戦車の上、巨剣を持たない狼騎士と弓を構えた女神の一瞬。

踏み込んだ狼騎士が拳を引く。もはや此処は弓の間合いではなく、例え巨剣を持たずとも狼騎士の方が速い。

蒼炎と極光が交錯する。至近距離から放たれた女神の一矢が鎧越しに頬を掠め、火花が散った視界の中で狼騎士は左腕を振るった。

 

 

「くッ…!」

 

 

鋭く繰り返される拳戟、逃げ場のないアルテミスは俊敏な動きで蒼炎に包まれた拳を躱し、奇跡的にいなす。

しかし触れる蒼炎は神威を貫き確実に女神の皮膚を焼いた。概念に直接響くような激痛にアルテミスは顔を歪め、今まで感じたことの無かった死の恐怖に荒く息を吐いた。

 

 

「…アールヴァクッ!!」

 

 

女神の呼びかけに応えた機械仕掛けの馬がいななく。

鋭い外気を貫きながら天を駆ける戦車は更に速度を上げ、そのままきりもみに激しく回転した。

強く外側に引っ張られるような衝撃に狼騎士の身体が揺らぐ。吹き飛ばされないように伸ばした左腕が空を切り、置き去りにされた狼騎士の身体が宙を飛んだ。

蒼炎が闇夜に千切れる。暫くの自由落下の後、狼騎士の身体が地面に落ちる。前庭に軟着陸することに成功した狼騎士は衝撃を緩和させると蒼炎の中を走り、巨剣を回収した。

 

見上げた夜空、旋回する戦車は高く、速い。

しかし一度は指先が引っかかった。狼騎士のことを見下ろす女神の表情は険しく、その背後にある満月も手が届きそうなほど近い。

巨剣を握りしめた狼騎士は天を仰ぐ。前庭を焼く蒼炎が気流を発生させ、咆哮する獣の炎を揺らがせた。

 

だが――万年(よろずよ)を生きる狩人の神性が、この程度で朽ちることはない。

 

 

「…夜雲よ!」

 

 

夜空にかざした掌と共に、女神は世界へ呼びかける。

それは原始の理を用いた現実の捻じ曲げ、神威を乗せた声は響き渡る。

まるでそれは歯車が強引に回されるかのように。夜闇をゆっくりと横切っていた暗雲が急速に加速を始め、早送りするかのように星々の光闇が瞬くと静止した満月の前に拠り集まり始める。

美しくはっきりとした月面が黒雲に隠され始める。女神の呼びかけに従う夜雲は天上からの月光を遮断し、遂にはすっぽりとその姿を覆い隠した。

地上から月光が消える、見上げた夜空には星明りが輝くばかりだ。

 

月の在り方。太陽のように自らは輝くことの無い星は何かに遮られれば容易く消える。

満月、三日月、新月。様々な顔を持つ彼女は古くはその度に名前を変え、上辺の性質さえ変容させる。

今宵は満月。しかし原始の理が世界に作用し、本来時間の満ち欠けでしか変わることのない月が女神の手によって永く隠されてしまった。

 

――――気が付けば、戦車は消えていた。

 

 

『…?』

 

 

パチパチという蒼炎の弾ける音だけが庭の中に響く。

見上げた夜空は暗く、先ほどまで白く美しい神威を振りまいていた月の女神の姿は無い。

訪れた静寂はまるで波紋のように広がる、その中で巨剣を構えた狼騎士は蒼い双眸で天を仰いだまま警戒する。

 

その肩口を、何かが貫いた。

 

 

『g…!?』

 

 

針が体内を通り抜けていくような感覚。同時に溢れ出した血液が鎧を濡らし、鈍い痛みと共に「攻撃された」ことに気が付く。

それは確かに不可視の一撃だった、神威を警戒していた狼騎士の警戒をすり抜けて先程までの極光がその身に届くはずがない。

威力はかなり絞られている、しかし見ることの出来ない神矢は狼騎士の鎧を貫くには十分すぎる程鋭く、速い。

 

光の届かない月は何人にも見ることは叶わない――――『夜兜(ヘカーティア)』、文字通り闇夜に()()()透明の戦車は疾く、女神は暗黒を踏んで狼騎士へと神矢を放つのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

痛みの走った眼球を少女は強く抑える。溢れ出していた深紅の涙が掌に滲み、蒼く紅い色をした痛みが引くまで耐えた。

やがて少女の視力が戻る、蒼炎に包まれ半壊した執務室の中に立った少女は傷だらけの身体で荒く呼吸を繰り返すと自らを焼く炎を大きく揺らした。

 

 

「あ…が……ぁ…」

 

 

ゆっくりと向けられる燃瞳の先、『月甲』に阻まれた絶対空間の中で商人がうめき声をあげている。

泡を吹いたガルはまるで悪夢でも見ているかのように苦し気にもがく、幻覚に侵された病人のように瞳孔を激しく収縮させ、上下左右を行き来した後バタリと大きな音をたてて倒れると動かなくなった。

同時に使用者の精神力を用いて貼られていた月甲がその中心から溶けていく、まるで飴細工のような魔法壁はゆっくりと消え去るとそこには痙攣したままのガルが倒れている。

 

商人の瞳は蒼く『焼きつけられていた』。

少女の纏った感情の炎、それはあの地下室という世界で生まれた憤怒。少女が見たままの景色を内包する炎は膨れ上がり、少女の中の全てを喰らいつくしてただ爆発した。

瞬間部屋の中を埋め尽くした閃光。月甲さえ通り抜けた思いの光は商人の目に強く焼け付き、脳内を『少女の見た景色』で埋め尽くして意識を奪った。

それは幻覚よりも遥かに直接的な眼への貼り付け、少女の憤怒を商人の瞳に焼き付けた閃光はその象景を蒼炎で焼き写し、その火力の殆どを消費して商人の瞳を燃やした。

少女の強すぎる感情を消費したその技は半ば偶発的な発言ではあったが少女の力であることには変わらず…それほど神殺しの炎に侵食されてしまったということでもあった。

 

だが――もう、炎は必要無かった。

少女の行く末を阻む壁は消え、目の前には意識を失った商人が倒れている。

 

 

「……」

 

 

炎翼を纏う少女は一歩を踏み出した。

蒼炎が照らす広い執務室の中、傷ついた身体を引きずる幼い少女は絶えず赤色の涙を流し、その瞳と同じ紅の焔を散らして空気を焦がす。

歩く度全身に激痛が走り、朦朧とする頭が酸素を求めて荒く掠れた息をつかせた。砕けた瓦礫が素足に突き刺さり、ふらふらとした子供の足取りを赤くにじませた。

 

少女の歩みは苦痛に満ちたものだった。

それでも少女の復讐すべき相手は目の前にいた、自らの母親を殺した憎き相手がそこにはいた。ただ自らの抱いた感情のおもむくままに、明確に言葉にすることは出来なくとも少女は止まることは無かった。

 

 

「……」

 

 

目に見えるあの地下室が少女にとって世界の全てだった。

とても幸せと呼べる環境では無かった。行われる行為の意味は解らずともおぞましく、とても満足といえる量の食事をした試しがない。

 

それでも少女には自らを愛してくれる母親がいた。

いつだって優しく微笑んで抱き寄せてくれた母親は柔らかく、頭を撫でてくれる掌は暖かくて大好きだった。

それだけだった、それでも少女にとって彼女は母親で、神様にも等しい存在で、たった一人だけの家族だった。

 

そんな母親が、殺された。

 

 

「…………」

 

 

砕けた床の上に転がっていたナイフを傷だらけの少女は拾い上げる。

授けられた鉄の短刀は凍るように冷たくなっており、吸い付くように手になじんだ。

乾いた涙の上を溢れた薄紅色の液体が覆った、ゆっくりと歩む少女は商人の元へ近づきながら消えかけの炎で髪先を灯す。

 

復讐は、すぐ目の前にまで迫っていた。

 

 

「…………ぁ」

 

 

足元で気絶している商人の姿を少女は見下ろした、痙攣するその男は瀕死だがまだ息がある。

ゆっくりと、その太い身体に少女は跨った。肥えた身体の上で少女は体勢を整える、細い足で気絶し無防備になったガルの身体を挟み込む。

手が震え、息が乱れた。ナイフを逆手に持ち直した少女は、冷たい短刀を両手で掴んだ。

 

それは、復讐だった。

自らの全てを殺された少女は憤怒を見た、地下室に囚われた魂は限界を超えて紅く燃えた。

全ては少女の愛した母親のため、復讐を果たさなければ少女は自らの憤怒を燃やせない。

 

故に――

 

 

「…………ぁぁぁぁぁああああああああああああああああああッッ!!!」

 

 

――少女はその腕を振り下ろす。

 

 

 

・・・

 

 

 

静寂の中、不可視の神矢が狼騎士へと迫り来る。

天を仰いだ獣は蒼炎を噴き上げ巨剣を構えながら庭中を走り周り、その憎悪に満ちた双眸を満月の隠れた夜闇に向けていた。

 

疾走する狼騎士は荒く呼吸を繰り返しながら、最大限に研ぎ澄ました五感で闇夜を感じとる。

微かに耳に届く風切り音を頼りに地面を踏む狼騎士は狙いを外すように立ち回り、背後で神威を帯びた小規模な爆発が炸裂する度強く地面を踏みしめる。

 

闇夜に潜んだ狩人から放たれる神威の矢。

降り注ぐ銀色の破壊は狼騎士を正確に狙い、走り抜けた後を抉り取って融解させる。

その規模は先程の極光と比べれば半分以下にも満たないが、細く鋭い神矢は矢継ぎ早に狼騎士を狙い続けている。

 

 

『GRR…ッ!』

 

 

仰ぐ夜空、駆ける月神の戦車は確かにそこにいるはずだが、その姿は全く見えることはない。

その神性は「月光の届かぬ暗闇での透過」。地球の影に隠れた新月に光が届くことはなく、月身の顕現であるアルテミスとその戦車もまた姿を隠した。

届くのは神域から放たれる光矢の風切り音のみ、闇夜に満ちた前庭を片足のみで駆け回りながら狼騎士は僅かな音を頼りに神威の爆発を回避し続けていた。

 

 

『ッ…RAAッ!』

 

 

焦土を踏みしめた狼騎士は音の聞こえた方向に巨剣を振るう。

確かな手応えと共に刃先では一矢が粉砕され、滴るほどに充填した蒼炎で溶け消えた。

それはまるで銀色の蝶を握り潰したかのような光景だった、儚い力は粒子となって消え去り彼方へと運ばれていった。

 

だがそれだけだった、たった一度の攻撃を阻んだところで状況は変わらない。

 

 

『――ッ!?』

 

 

背後で矢の放たれる乾いた音が複数響いた。

至近距離、打ち返すことは出来ないほどの近さだと瞬時に判断した狼騎士は避けるために横に跳ぼうとした。

 

その身体を月の戦車が前方から轢く。

背後から放たれた弓矢、そして神速で前面に回り込んできた戦車の突進。本来の物理法則では不可能な挟み込みは避けることすら叶わず狼騎士の身体を叩きつける。

見えたのは自らの蒼炎に照らされ半透明になった戦車の輪郭と、背中に幾本も突き刺さった矢の鋭さ。

吹き飛ばされた身体は風を斬りながら小石のように飛ぶ、そして大理石でできた本拠地の壁に強く叩きつけると肉の潰れる鈍い音をたてて砕いた。

力無く炎の消え去った身体が地面に落ちる、隙間の空いた左手と兜から溢れ出た血が地面に池となり、その中心に決して手放さなかった巨剣と共に座り込んだ狼騎士の眼窩は真っ暗な空虚で満ちていた。

指先で揺れていた蒼炎が消える、闇に溶けた戦車の上で女神はその月色の瞳を閉じる。

鼓動は緩やかに終わりを告げており、流れ続ける血も急速に熱を失いつつあった。

 

それでも狼騎士は、神殺しの獣は目の前に神が在る限り諦めることは無い。

 

 

『……』

 

 

全身を貫く死に抗いながら、巨剣をつきたて狼騎士は立ち上がる。

その瞳に宿るのは風前の蒼火、死にかけた身では立つことすら不可能だっただろう。

それでも立つことが出来たのは執念か、あるいは交わされた約束を果たすためか、あるいは――たった一人の少女の手を握りしめるために。

 

炎は煌々と燃える。

闇の中で細く揺らめいた炎はその意志を強く滾らせた。

思いは死なない、抱いた憎悪と願いが入り混じり蒼く燃え上がる。

 

よろめきながら庭の中心へと歩いていく狼騎士に女神の弓矢が向けられる。

闇夜に潜んだ狩人の守神はその神秘を最大限に研ぎ澄まし、解放した神威を濃く凝縮させ集まり始めた。

 

透明な極光が集う弓矢の差し示す先、巨剣にもたれかかった狼騎士はその蒼く燃える瞳で闇夜を睨みつける。

僅かな星明かりしか存在しない夜空は暗く、鎧の隙間から血を流した騎士は巨剣を構えずただ僅かな炎を揺らしていた。

 

狼兜の口が開く。

並んだ鋭い獣牙、蠢く蒼炎の舌、鉄でできた口腔は滑らかに開閉し熱い吐息を漏らす。

やけに生々しいその口には球状に膨らんだ真炎が渦巻いていた。それは今までとは少し違う、変質された炎。まるで(コア)のような小さく濃い炎は不規則に揺れ、口内で激しい明滅を繰り返していた。

 

放たれる真炎の核。

天へと昇る球状の光は揺れ動き、暗円(ブラックホール)のように内側へと蠢動する。

やがてアルテミスのいる位置よりも高く昇った核は、星々の一つのように蒼く点と化した真炎は、地上の狼騎士の咆哮に合わせて展開された。

 

――『疑似太陽・蒼』。

 

それは人工で造られた恒星。

折りたたまれていた星の設計図のままに夜闇に輝く小規模な太陽は燃え、閃光を撒き散らす。

巨大な火塊、プロミネンスを発生させる蒼い星は急速に膨らみながらにわかに周囲を照らし出す。

本物の太陽程の熱は持たない星は脆く小さい、しかしその輝きは僅かな時間地上に光を届かせるには充分過ぎる程であり、隠れた()()の姿を朧げに映し出せるだけの輝きは内包していた。

 

明らかになる女神の姿、半透明だったその神性が蒼く縁取られる。

戦車の上に屹立した花嫁は月神の弓は引き絞り狼騎士へとその狙いを定めていたが、突然の天上からの蒼光に驚愕し、思わずその視線を上げてしまっていた。

徐々に落ちてくる脆い天蓋を前にアルテミスは急遽弓先を真上に向ける。天に輝く小さな星には破壊力こそ無くその不安定さから既に綻び始めてこそいたが、それでもその輝きを無視することは難しかった。

 

溜め込まれた神威、放たれる極光は天を裂きその真核を正確に貫いた。

遥か天上で疑似太陽が風船のように破裂する、脆い炎塊は鋭い白光にその原型を保てず、微かな瞬きの後強烈な熱波となって吹き付けた。

 

星の最期、一際大きな輝きの中。

目を開ける事すら困難な吹き付ける熱波に耐えながら眼下を見下ろしたアルテミスは狼騎士の姿が消えている事に気が付く。

焦土と化した庭は見る影も無く、隠れられるような場所は存在しない。しかし狼騎士の鎧はどこにも見ることはできず、その身体を隠せるほど巨大な炎は存在していなかった。

頭上はありえない、銀色の粒子と共に走る戦車から眼下を探す、砕かれた大理石に残った血の跡はそのまま壁を伝い、建物の天井へと向かっていた。

 

 

「…!?」

 

 

白亜の本拠地の屋上、狼騎士はそこにいた。

 

斜面に片膝をつき、爪を突き立てて身体を固定した身体は芯を通したかのように上体は伸ばす。

その瞳は上空に浮かぶ半透明の戦車を見据え、穏やかに呼吸をするその様は荒々しい化け物には似つかわしくほどに落ち着き、明鏡止水の如く鋭くゆっくりと溜めを作る。

 

――その手には極大の鋭弓。

 

鉄片で構成された蒼き機械弓、人が扱うには余りに長く細い握幹は狼騎士の手の中で鈍色に光る。張られた鉄糸につがえられた螺旋状の槍矢の尾には濃い蒼炎が灯り、弦を限界まで引き絞る右腕は強制的に動かされる反動に鎧さえ砕けて血を噴き上げているのが見えた。

 

それは狩猟の女神が一瞬でも見惚れる程、綺麗な型だった。

屋上の斜面に膝をたて、上体を伸ばしたその佇まいには武芸者が持つ一種の清廉さが静かに内包されており、弦を引く腕は大怪我をしているにも関わらず完璧な位置で留まっており、その者の完成された技術の高さを解らせた。

 

静かに燃える蒼い双眸と月を移したかのような女神の視線が刹那の中でピタリと合う、天地に座した神と獣はその瞬間全てを悟る。

遠い此方の距離、解り合うことの無い両者はただ静かに互いの瞳を見つめ、互いに通じ合うことも無くただその時が来ることを待った。

 

そして――遂にその規格外の槍矢は、放たれた。

 

地上から打ち上げられた蒼火はまるで光線のように空を切り裂き、音を貫き、闇夜の中で天を駆けていたアルテミスの戦車に着弾すると静かに、蒼く爆発した。

遥か天上で機械仕掛けの戦車がバラバラに砕け散るのが見えた、衝撃と共に空間を吹き飛ばした蒼炎に二頭の馬が消し飛び、塵のように弾けた白い欠片だけが闇夜の中に落ちていった。

 

 

『…』

 

 

その破壊力を実感するには余りに遠すぎる距離、比喩でも無く天翔ける月を落としてみせた狼騎士は油断なく弓を少し容積の減った巨剣に鋳造し直すとその瞳を高い空へと向ける。

丸く広がる濃煙、仰いだ夜空に漂う煙は千切れ拡散する。その中から一際強い神威が白煙の尾を引いて落ちていく、戦車を破壊され移動手段を失った女神は脱力したまま重力に従い、地上への自由落下を始めた。

 

たなびく髪、だが確かに生きている神威の匂い。

全身が蒼炎に焼かれたその姿を見上げた狼騎士は少しの思考の後、大理石の屋上から飛び降りる。

弾けた右腕を無視し、頭から隕石のように落ちてくる女神を仰ぐと緩やかに巨剣を構えた。

 

最高速に到達した女神がそのまま土埃を巻き上げて地面に激突する、並みの生物ならば死滅する程の衝撃が焦土と化した前庭を砕いた。

衝撃波に目を細めながら狼騎士は土煙がひくのを待つ、前庭の中心から丁度狼騎士と相対する場所に落ちた女神はクレーターを作り、身動き一つしていない。

 

 

「……カハッ!…く…ぁぁ……!!」

 

 

そんな窪みの縁を血に濡れた御手が掴んだ。

引き上げられる身体は見る影も無い。美しかった花嫁衣装は至る所が灰と化し、神威でも防御しきれなかった神殺しの炎に赤黒い火傷を幾つも創りだし、その腹部には巨大な貫通痕が残っていた。

 

髪は乱れ、苦痛に満ちた顔は既に満身創痍だということを伝えている。

その足は火傷に侵されとても立てるような状態じゃない、全身から流れ出る血は濃く灰と化した地面に垂れ始めた。

 

例え神だろうと戦えるような状態では無かった、それでも女神は狼騎士の前へと踏み出した。

決して諦めないその姿は狼騎士のそれとよく似ていた、自らの子の為に命を削るその姿はリョナと同じ親としての在り方そのものだった。

 

 

「……みんな…オリオ…ガル…!」

 

『GRR…!』

 

 

子供を愛さない親などいない。

怪物趣味でも、人殺しであっても親と子供の関係が変わるわけじゃない。

犯した罪は消えない、それでもどんな代償を払っても子供を大切する気持ちにだけは偽れない。

 

偽れないから、両者は殺し合う定めにいた。

互いの子を護るため、絶対に譲れない願いがぶつかり合う。

例え歪んでいたとしてその愛に偽りはない、例え拾っただけの関係でもその愛に嘘は無い。

 

 

「怪物趣味でも!なんでも!あの子は私の子供だッ!私の子供だから…やらせるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!』

 

 

咆哮がぶつかり合う。

瞬間放たれる濃い神威と、感情に起因する蒼い神殺しの炎。

月弓を構えたアルテミスに拠り集まる原始の力、狼騎士の握りしめる巨剣から放たれる三本爪の蒼火。

 

両者は膨れ上がっていく自らの最大級を持って対峙する。

月の女神の一撃は白銀、神性を最大限に活用した文字通りの全て。

くべられる感情は濃く蒼炎を滾らせ、片腕で構えられた巨剣に充填されていった。

二対の破壊が巻き起こす対流は不穏な突風を発生させ、軋んだ物理法則が強い地震を発生させながら崩壊していった。

 

弦を引き絞った姿は強くその輝きを増していき、研ぎ澄まされた神威とそれに対を成す蒼炎が最大限にまで達した瞬間に放たれた。

 

――ぶつかり合う光芒、神話によってのみ語られる幻想の衝突。

 

 

「…月運之矢(ルナリア)ァァァァァァァッッ!」

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

蒼起三爪(ソウキノミソウ)月運之矢(ルナリア)

拮抗した二つの力は溢れ出す熱と紫電によって空間を焼きながら混ざり合う、衝突した想いの炎が強く刹那を光で満たし、瞬く間に何も見えなくなってしまった。

 

青と銀に支配された世界の中で、全身にのしかかる重圧に押しつぶされそうになりながら。

狼騎士はただ自らの巨剣だけを握りしめる、今にも弾け飛びそうな力との拮抗を押さえつけ抗う。

蒼起三爪、振り下ろした死力は片腕のみの力、吹き飛びそうな自らの足を、身体を支え、全身の鎧が砕けるほどの衝撃波に血を吐きながら全身にかかる激痛と今にも吹き飛ばされかねない圧力に耐えた。

 

 

『――――AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!』

 

 

その口から、自然と咆哮が漏れる。

生死をかけた衝撃が狼騎士の全身を押しつぶそうとした、

 

それでも狼騎士は一歩を踏む。

牙が砕ける程食いしばり、例え全身が砕けたとしても蒼起三爪を纏った巨剣だけは手放さない。

 

光に塗りつぶされる視界の中で狼騎士は少女の姿を思い出す。

浮かんだ小さな存在、母親譲りの銀髪はたなびき、その紅色の瞳は何も見ていなかった。

諦められなかった。交わした約束が狼騎士の足を前に進ませ、少女のへの想いが巨剣を強く握りしめた。

 

ただ感情のままに、咆哮する獣はたった一人の少女のためにその命を燃やす。

光の中でもがき、ただ思いのたけをぶつける。感情をくべる度、炎はその勢いを増していく。

ここで死ぬわけにはいかないという想いが強く体内を駆け巡る度、その輝きを更に濃くしていった。

 

もはやその身は人間ではない、神殺しの獣としての完成も目前に近い。

それでも狼騎士は自らの愛した少女のために、あの時交わした約束のために。

 

――白痴蒼炎に消え去った狼は、その巨剣を振り下ろした。

 

 

 

・・・

 

 

 

天を裂く三本爪の蒼火。

闇夜に拠り集まる叢雲を吹き飛ばした狼騎士の一撃は天を焦がすほどの炎嵐となり、月を覆っていた八雲を消し去った。

 

放たれた月運之矢(ルナリア)と、振り下ろされた蒼起三爪(ソウキノミソウ)

最高級の激突に打ち勝ったのは蒼炎、輝きを増した神殺しの炎は神威を叩き潰した。巻き起こる爆発エネルギーは全て天に向かい、伸ばした獣腕は月にまで届いた。

 

 

『……』

 

 

破壊の余波によって巻き上がる炎獄の中、狼騎士が足を引きずり歩く先には一人の女神が倒れている。

焼け爛れた花嫁衣裳、白い肌は血に汚れ、失った肉体からは真っ赤な血液が水たまりのように広がっていた。

 

女神アルテミス。月の運び手であり、高位の狩猟神。

その終末、存在は今や淡く消えかけ、神核は手遅れなほど蒼く焼けついた。放射状に広がった髪は端を蒼く燃やし、まるで簪華のように揺れていた。

 

永久に不滅の神は化け物に敗れ、今まさにその神話を終えようとしている。

 

 

「…」

 

『…』

 

 

微かに開いた瞳でアルテミスは自らのすぐ隣に立った狼騎士の姿を見る。既に満身創痍といった様相の獣は意志を感じさせない瞳で女神の身体を見下ろしている、その手には蒼炎を纏った巨剣を持っており…()()()をさしに来たのだと解った。

 

狼騎士が巨剣を構える、同時に放たれる冷ややかな殺意は濃くその憎悪を思わせる。

女神は目を閉じる。敗者の末路は知っている、覚悟を決めた月神は涙を流し、最期に最愛の者達の事を思い出し「ごめんね」と心の中で呟いた。

 

そして巨剣は振り下ろされ――

 

 

「ッ………?」

 

 

――目を開けると、自らの身体を潰すはずだった鉄塊が宙で止まっている。

 

狼騎士の手は震えていた。

巨剣を持った腕はまるで抵抗するかのように固まり、そして強く震えたまま引かれると、やがて()()()()()()()()()

 

 

『……a…』

 

「…?」

 

 

不可解な行動に女神が混乱する中、苦し気に声を漏らす狼騎士は悶える。

嗚咽のようにも聞こえるその声に耳を傾けながら女神はぼんやりと狼騎士の姿を眺め、司馬らの後自らの横に膝をついたその騎士は血に混じった半透明の液体を零しながら狼牙を開いた。

 

 

『「――――…俺…は…アンタを…殺したいわけじゃないんだ…!」』

 

「…」

 

『「――――ただ…あの子を守れればそれで良かっただけなのに………なのに…なんで…ッ!!」』

 

 

少し目を見開いた女神は改めて狼騎士の姿を見る。

狼兜、全身に纏った蒼炎。神殺しの化け物、それが狼騎士のはずだ。

だというのに目の前に膝をつき顔を覗き込んでくる獣はまるで子供のように涙を流し、苦悶を叫んでいる。

 

どこか化け物への見方が変わってしまったアルテミスはくぐもった感情を聞く、ひび割れた口を何とかして開けると声をかけていた。

 

 

「あなたもまた…子供、なのですね…」

 

 

自然に漏れ出た言葉に狼騎士が激しく揺れる瞳をこちらに向ける、その瞳に殺意など一切感じられず…苦悩する人間らしさに満ちていた。

蒼炎に侵されながら女神は最期の力で話そうとする。しかし余力はそう残されておらず、痛みで思考は纏まってはくれなかった。

 

故に…死にゆく身体で、ただ思いを語る。

 

 

「…子供は、親を選べない。あなたは神を殺す者として生まれ、その使命を押し付けられた」

 

『「…」』

 

「ですが…子どももまた一人の人間、親から押し付けられる考えや価値観が必ずしも合うとは限らない。故に親は…私はありのままのあの子を受け入れて、その上で諭すべきだった…」

 

 

アルテミスは親として間違えた。

子供のことを考えるばかりに自らの考えを曲げれず、意地を張ってヒューキ・ガルを拒んだ。

その結果ガルは間違いを正されぬまま育ち、平行線になってしまったアルテミスと自らも距離を置くようになってしまった。

 

最愛の親に在りのままの自分を拒まれ、否定されることほど辛いものは無い。

長く続く苦しみに、いつしかガルは否定される分だけ自らを過剰に肯定するようになり、何故解り合えないのかと苦しみながら逃げるようにして凶行に手を染めるようになった。

 

唯一の子供、唯一の親。

この世界で最も大切で、最も距離が近いからこそ傷つけあう。切れない縁だからこそ問題を

解決出来なければ苦しいままだ、そのまま別れてしまったら悲しいままだ。

 

冷静に状況を見て、話をするべきだった。仲直り、なんて当たり前の事をしなかったせいでこの状況は生まれた。

そのための心の余裕をアルテミスは持っていなかった、その()()()()()()()()は重く脳内を締め付けていた。

 

女神の瞳から涙が落ちる、濡れた眼を白い建物に向けたアルテミスは手を伸ばす。

 

 

「ごめんなさい…ガル…オリオ……私がもっと…ちゃんとしていれば…!」

 

 

蒼炎の向こう側、白亜に揺れる建物が惜しい。

気が付いたころには何もかも遅すぎた、今からでは取り返しがつかなかった。

 

膝をついた狼は口を閉じて、女神の懺悔に耳を傾ける。炎獄の中で子供達への想いを語る女神の姿は…不完全な人間と変わらない、親の姿でもあった。

嗚咽を漏らしながら狼騎士に目を向けたアルテミスは遠く目を細める。

思い返すのはラグナロク、世界の終わりの戦争で見た天を衝く化け物。

 

そして――この世界の終焉。

 

この人間らしい化け物に伝えなければならないと女神は酸素に喘ぐ。

手を伸ばし、冷たさを感じながらその瞳を見た。

 

 

「…昔、()()()()()()()()()()()()()()。神を殺す巨大な化け物…世界を…滅ぼすという獣は……全て…あの…女神が…」

 

『「――――」』

 

 

言葉半ばにアルテミスが崩れ落ちる。

急速に霧散していく神性、光り輝いていた神威は枯葉のように消え、美しい七色の光は衰えていく。

 

建物へと向けられた手が地面に落ち、脱力した瞼がその動きを止めた。涙を流したままの瞳が彩を失った。唇はもう二度と動く事を放棄した。

最期の言葉は聞き取れなかった、反射的に狼騎士はその掌に手を伸ばした。

 

 

『「…ッ!」』

 

 

瞬間、触れるより先に女神の身体は白銀の粒子に分解された。

細かな神威の粒はまるで蝶の鱗粉のように揺れていた、かつて神だったものは美しい粒子の集合体に変換されてしまった。

 

女神は死んだ、神殺しの炎に殺された。

白銀の粒子が空気に乗る、花粉のようにふわりと巻き上げられた神威の粒は風に吹かれて空に向かう。

 

暫くは集まっていた銀色もやがて解け、月に照らされた夜空の中へ溶け消えた。

神威はもうどうこも残されていなかった、ただ蒼い炎の中に包まれながら…拳を握りしめた狼騎士は立ち上がる。

 

俺が握るのは彼女の手ではない、俺が握るのは――――

 

 

 

・・・

 

 

 

その部屋の中に少女はいた。

死体の上に腰かけた幼き女の子は嗚咽を漏らし泣きじゃくりながら、掌で自らの瞳を覆っていた。

 

その足の下には胸に短剣を深々と突き刺した死体があった。

蒼炎に包まれたその死体は取り返すのつかないことをした。当然の報いだった、それでも殺すという事は、少女が背負うには余りに辛過ぎた。

 

 

「はぁッ…ぐッ……!」

 

 

それでも、足を止めるつもりは無かった。

全身は血に塗れ、片足で重い身体を運ぶ。

息は乱れ、激痛が走る度意識が落ちそうな感覚に襲われる。

 

あと少しで良い。鎧を解いた身体で必死に歩く俺は願う。

震える少女の側へ。死ぬわけにはいかない、まだ約束は果たしていない。

美しい母親譲りの銀髪は蒼炎を反射し輝き、感情のままに泣くその姿は独りぼっちだった。

 

少女は一人で立つことが出来ないほど弱い。

だから誰かがその手を引かなければならない、死んでしまった母親の代わりに。

 

 

「…」

 

 

見下ろした少女は俺の姿に気が付かない程泣いていた。

それほどまでの感情の発露は嬉しくもあり、同時に悲しくもあった。

膝をついた俺は気合を入れる。銀髪の少女の事を見つめ、軽く涙を流しながら何とか動く左腕を持ち上げた。

 

 

「――――……?」

 

 

少女は、頭の上に乗せられた掌の感触に泣きじゃくるのを止める

母親と良く似た感触に少女はその瞳に涙をためたまま振り返り見ると、そこには自分と同じように涙を流す男の姿があった。

 

ゆっくりと少女の頭を撫でる手は母親じゃない。それでもそこにはしっかりとした愛情がある。例え血は繋がっていなくても、両橋夏目はこの子を愛している。

 

――確かに小さなその身体を抱きしめた。

 

 

「…俺がいるっ…俺は、一緒にいるから…ッ!…だから…帰ろう――――『ハティ』…!」

 

 

 

…もう、少女の側に母親はいない。

それでも抱き寄せられた少女は向けられる愛情に安堵する。喪った悲しみに涙を流しながら、変わらない柔らかさで自らの居場所を教えてくれた男の腕に体を預けた。

 

ゆっくりと抱き寄せられた狼人の少女は月を見る。

その瞳に映った満月は煌々と輝き、その手前では月まで届いた三本爪の巨炎が今まさに崩壊を始めている。

 

どこか見とれてしまうその景色は美しくて、抱き上げられた少女は母親に教えてもらった唯一の言葉を呟く。

 

 

「…きれい」

 

 

その銀色の髪先から、最後の蒼炎がひらひらと零れ落ちていった。

 

 

 

・・・

 

 

 




次は本日中に投稿出来るかと思われ。


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 いつかその手を月に伸ばして

後日譚、というかとある獣と少女のお話。

 

あの夜の翌日。マーニファミリアの襲撃と崩壊は瞬く間に都市の噂になった。

構成員や子供まで惨殺された今回の事件は痛ましく、前庭に至ってはその殆どの土地が抉られており、何らかの魔法が使われたのではないかと考察された。

同時に複数の目撃証言も上がっており、真夜中に天を貫くような巨大な蒼い火柱がマーニファミリアの方向に見えたという人間が少なからず存在した。

 

そして主神であるマーニが消えたというのもこの事件の謎をさらに深めた。神威を使用して天に送還された形跡も無く彼女は完全にオラリオから消え去っており、その神性の行方はどの神にも解ることは無かった。

 

ファミリア間の怨恨を線に捜査を始めたギルドはまず、第一容疑者としてフレイヤファミリアを挙げた。

その理由は単純にマーニファミリアを皆殺しに出来る程の力を持つファミリアが他にはおらず、前庭の破壊痕など含めて可能な存在がそれ以外にいなかったからである。ロキファミリアならばという意見もあったが遠征中の彼らがダンジョンから出た形跡は無かった。

 

だがフレイヤファミリアは関与を完全に否定。

事実両ファミリアに怨恨の理由は無く、状況証拠も動機も無かったのですぐに疑いは晴らされた。

 

では誰がやったのか?

ギルドは凄惨な現場の調査を続けるらしいが、燃え跡から何かを見つけ出すのは難しいだろう。

人々の噂の中に様々な憶測が飛び交った、やはりフレイヤファミリアだと論じる者もいればロキファミリアがやったのだと語る者がいた。

 

だがその中の一人が「狼騎士の仕業だ」と言った。

忘れ去られかけていた噂、蒼い火を吐く神殺しの鉄狼。

確かな証拠はない、だが目撃証言と失踪したという女神。

人々の疑惑は深められ、遠征から戻ってきたロキファミリアが新種のモンスターの報告をするまでこの状態は長く続くことだろう。

 

 

そして、生き残った二人は今――――

 

 

 

・・・

 

 

 

「…よし、こんなもんかな」

 

 

小さな庭の片隅で作業を終えた俺は立ち上がる、片手に纏っていた蒼炎を払うと数歩後ろに下がり、出来上がった『それ』の出来を確認する。

 

鉄製の墓標、丸みを帯びた鈍色は輝く太陽を反射し微かに碧い光を漏らしていた。

満足のいく出来だ、地面に建てた足元のシンプルな墓は面白くはないかもしれないが頑丈に作られていた。

 

 ――『Dear.名前も知らない彼女達へ』

 

 墓の下にはかつて奴隷だった彼女達が眠っている、棺桶にしては少し大きすぎるかもしれないが今は安らかに眠ってほしかった。

 鉄を溶かして彫った文字を見下ろす、勢い余って日本語で書いてしまったが…いつか、あの子には意味を教えてあげよう。

 

 

 ――『そして世界で一番の母親へ、今は安らかな眠りを』

 

 

「……ハティ、おいで」

 

 

振り返る、縁側に座って静かに泣いていた少女は俺の言葉に息を飲んだ。そして俺の顔を見上げ数舜目を閉じると…覚悟が、出来たようだ、手の甲で頬を流れていた涙を拭うとゆっくりと立ち上がった。

 

ふらふらと、ハティはまだ歩きなれない足で進む。

 

 余りに小さすぎる身体は存在そのものが奇跡で、今まさに変わろうとしている少女の姿が嬉しくて、思わず泣いてしまいそうになって息を飲んだ。

 

 真っ直ぐにハティは墓に向き合う、泣きはらした両目で鉄の墓標を見つめていた。

 

 少女が足元を通り過ぎていく、力強く握りしめられた手の中には片側が紅く、反対側が蒼い一輪の華が咲いていた。

 

 

――『抱いた憤怒は当然でした、ですがもうこの子にはもう必要ないものです』

 

 

見送った小さな背中が墓標の前に膝をつく、儚すぎるその姿にどうしようもない不安を覚えながら俺は…それでも、少女のために少しだって表情に出さないように必死になって努めた。

 

視線の先、ハティは紅蒼の華を抱きしめる。

 

今ひとたび頬を涙が伝った、珠のように輝く雫が地面にぽたりと跡をつくった。

 

震える肩が大きく上下する、墓前で少女は身を焦がしながら声を漏らして最後の涙を流していた。

 

 

――『あなた達の憎悪は晴らしました、それが正しいことだったかは解りませんが、もう泣かなくて良い』

 

 

…やがて、少女は強く握りしめていた片手を開く。

 

指先から離れた華はゆっくりと落ちる、大きな花弁は鉄の土台に軽く跳ね返り転がると供えられた。

鉄で出来た墓標、その前にかつて憎悪と憤怒を纏っていた華は静かに揺れる。

 

 

――『悲しみに花を、痛みに炎を。その心に永遠の癒しが訪れるように。』

 

 

どれだけ名残惜しくてもハティは、もうお別れだと知っていた。

 

一人立ち上がると、ゆっくりと後ろに数歩下がる。

 

 隣に立った少女は()()瞳で添えられた華、そして墓を確かに見据えていた。

 そして今にも泣きだしそうになる震える口を僅かに開くと、小さく、だが微かに風の隙間から呟く。

 

 

「……さよなら、まま」

 

 

 強い風が吹く、銀髪が揺れコートがはためくと同時に華の鮮やかな花びらたちが離れると彼方に飛び立ち…ぼっ、と蒼い火の粉がついた。

 

 

 

 

 

 

 

――『P.S. こ の 子 は 世 界 を 知 れ ま し た』

 

 

 

 

 

 

 

 空へと燃えゆく花びら達が、空高く、空高く飛んで、淡く溶けていくのを見上げながら、もう紅くない少女は、俺の服の袖をぎゅっと掴む。

 弱々しくもしっかりと引っ張られながら俺は、ハティと一緒に空を仰いだ。

 

 

「…きれい」

 

「っ……あぁ、そうだな」

 

 

 産まれて初めて空を見上げた少女はごく当たり前の言葉を呟く、でも何だかその一言がやけに嬉しくて、悲しくて視界がぼやけた。

 揺らぎそうになった身体を今一度しっかりと立たせる、澄んだ高い空には雲一つなく、本当に、本当にこれまで見たどんな空よりも綺麗だった。

 

 小さな存在を感じる、任されたその少女は何より愛おしく、もう二度とだろうと離したくはない。

 

 

 

 ――託された母親の願いは、いつしか俺の願いにもなっていた。

 

 

 

これからはこの子に、ハティにきれいなものをたくさん見せてやろう。

これからは初めてばかりだ、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に産まれて初めての世界を見ていこう。

 

全てこれからだ、悲しい過去にさよならを、この子の未来に祝福を。

 

 

――花弁は解けて消えた、残された少女と二人、いつまでも空を仰ぐ。

 

 

小さな狼と共に墓前に立った俺はただその柔らかな掌を、しっかりと握って離さないと花弁舞う綺麗な青空に誓うのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




少女はあの商人を殺したことを一生背負って生きていくことになる。ナイフが肉を切り裂く鈍い感触も、徐々に冷えていく命の温度も忘れることはなくなった。
それは悲しい事だと思う。命を奪う、例え復讐のためであったとしても、例え相手がどんなに悪い奴だとしても、残りの人生を閉ざしたという事実は残る。
とても子供が陥っていい状況じゃない、幼い子供が背負うには余りに大きく重い。

それでも、いつだって両橋夏目は少女の傍から離れることはないだろう。どれだけ間違ったって、どれだけ苦しんだって、いつだって狼は少女の味方だ。
たったそれだけで良いのだと思う。子供にとって苦しい時でも一人じゃなければ、無条件の味方でいてくれる親さえいれば。
いもしない神様なんかに頼らなくても良い。

高評価など頂けると励みになります、ほんと。
ではでは次回!また暫く日常編が始まりますのでごゆるりとどうぞ!



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 特に何も無い日に

あぁ~穏やか~
つってもシリアス+日常の半々みたいな感じなんですが。これからの日常を送る前に書いておきたいことを詰め込んだらこんなんなりました。
ゆっくり見れるかなぁ…ではほんへ


 

・・・

 

 

 

あれから数日が経った。

大怪我を負った俺はポーションを使いながら傷を治すことに努め、ほぼ死にかけていた身体は回復に向かっている。

弓を放つ時に無理をしたのが祟ったのか今でも右腕を動かすことは少し難しいが、まぁ時間をかけて安静にしていれば治るはずだ。

 

そして少女…いや「ハティ」もまた元気だ。あの日から俺は世話をしながら絶えず声をかけ続け、それでも時折母親を思い出して泣いてしまう夜もあったがそんな時は抱きしめたまま一緒に寝た。

むしろ気になるのは別け与えた蒼炎の後遺症がないかだったが、今のところ何か異常を感じたりはしていないらしい。火種自体はまだ残っているはずなので不安だが、穏やかな生活を送っていく分には問題無いだろう。

 

 

「~♪」

 

 

鼻歌を歌いながら俺はハティの長髪にシャワーをあてていく。

銀色の髪に指を梳き、手にした毛先に勢いを緩めたお湯をかけていくと洗い流された大量の泡がゆっくりと排気口に集まってふわふわと揺れていた。

ヒノキの爽やかな薫りに包まれた浴室内は濃い湯気が立ち込めており、浴室に膝をついた俺は目の前に座らせた少女の身体を隅から隅まで洗っている。

 

 

「んー……」

 

 

頭皮を流れていく温水の感触に目の前に座らせたハティが声を漏らす。

指でマッサージするように泡を落としていくと、目を閉じたハティはその度気持ちよさそうな声を漏らし、リラックスした気の抜けた声を出した。

 

 

「かゆい所ないかー?」

 

 

泡を流しながらハティに声をかける。

反響するような俺の声にハティはピクリと反応すると、軽く首を傾げてみせた。

 

 

「かゆ……?」

 

「ん。あぁ、痒いってのは…むずむず?というか、掻きたく…さわりたくなる事というか場所というか」

 

 

知らない言葉をすぐに質問をしてくれることは良いのだが、感覚的な事をハティの解る言葉で説明しようと途端に難しくなる。

とりあえずハティの頭をくすぐるように掻きながら説明すると少し考えるようにハティはぺたぺたと自分の体を触り、最後に自分の両耳をぺたんと押さえつけた。

 

 

「耳の裏か?」

 

「…」

 

 

コクコクと頷くハティの耳裏に手を伸ばし、その獣耳の後ろ側をくすぐるようにして掻く。シャワーノズルを向けて温水をかけるとハティは満足げな鼻息をフスーと漏らし微かに緩んだ笑みを浮かべて見せた。

未知の感覚の方が多いこの子の反応は面白いし可愛い。少し前まで全くの無反応だったことのギャップもあり、ハティが嬉しそうな顔をしていると俺まで幸せな気持ちになれた。

 

暫くお湯をかけていると長い銀髪から真っ白な泡が殆ど落ちる、顔や体にも一通りシャワーを流していくと小さな身体を綺麗に洗い終えた。

 

 

「よし、もう目を開けていいぞハティ」

 

「ん…」

 

 

声をかけながら合図のようにぽすぽすとハティの小さな頭を撫でると、見下ろしたハティが手の甲で目元をゴシゴシと擦り始める。

手を伸ばした俺は元栓を閉めシャワーヘッドを収納しまだ軽く違和感のある右手をさすると、目を擦り終わったハティの紅く垂れた瞳と丁度目が合った。

 

 

「じゃあお風呂行くかー」

 

「んー…だぁー…」

 

「おー、だっこな」

 

 

気だるげに両手を伸ばしてくるハティの細い身体を抱き上げる。

慣れた形に少女の身体を持ち直すと白い肌が密着し、体重を預けてくるハティの濡れた長髪が足にかかった。

 

ハティと共に湯船に向かう。微かに痣の残った小さな身体と共に檜風呂へ足をつけると順に肩までつかり、脚の上に小さな身体を乗せて水面から首が出るように高さを調整した。

長い髪が浮いて水蓮のように広がる、首から上だけ見えるハティの後頭部を見ながら俺は息をつく。

ヒノキの薫りの暖かさが傷だらけの身体で染みる、湯治というほど効能のある水ではないが建築系ファミリア「オオヤマ」に特注した風呂はかなり品質が良く居心地良い。

ハティも最初こそ少し風呂というものに難色を示したものの今ではお気に入りだ、頭が出ないので座れないというのは難点だがまぁ俺が一緒に入っているうちは問題ないだろう。

 

 

「……あぅー」

 

「ん」

 

 

膝上に乗ってくつろいでいたハティが何か見つけたらしく手を伸ばす。

その視線の先には湯船から島のように出ていた膝に乗せた俺の左手があり…どうもハティは左手が御所望なようだ。

試しに左手をハティに預けてみる。すると自らよりも何倍も大きな手を掴んだ少女は興味津々といった様子で鼻息を漏らし、俺の指先で遊び始めた。

小さな手で掌を弄ぶ少女は無邪気に俺の手を観察する、そしてぐいと弱い力で自らの顔の前に引き寄せると大きく口を開き――そのまま、ぱくりと咥えこんだ。

 

 

「んむぅ……」

 

 

ハティに指を甘噛みされる。弱い力に加え乳歯なのでそこまで痛いわけではない、とはいえいきなりのテイスティングに少し驚いた。

あらゆるものに興味津々な年頃のハティは時折こうやって口にして確かめる。子供はそういうものではあるが、暫くは小さいものを飲み込んでしまわないように気をつけなければならないだろう。

 

 

「んー……むー!?」

 

「ははははっ」

 

 

時折ハティの小さな口内に指先で悪戯しながら穏やかな時間を過ごす。

その頭をゆっくりと撫でていると自然と微笑みが漏れ、ちゃぷちゃぷという水音だけがゆっくりと湯船を揺らしていた。

 

とはいえハティもそろそろのぼせてしまう頃合いだろう、お湯の中から右腕を持ち上げるとハティの頭の上に乗せた。

 

 

「…そろそろ出るか」

 

「……んぅ」

 

 

頷いたハティの口から解放された左手はべたべたになっていた。

左手を軽く湯につけ涎を取りながら、俺は脚の上に乗せたハティの身体を抱き上げる。

檜風呂から立ち上がると僅かに頬を赤く染めたハティは眠たげにうつらうつらとしており、どうやら温かさの中で眠くなってしまったらしい。

 

 

「髪乾かしてから寝ようなー」

 

「……」

 

 

もう夜も遅い。

反応の薄いハティに声をかけながら俺は湯船から上がる。眼を閉じた少女の穏やかな表情に微笑むと左手で撫でる。

抱き上げた眠り姫と共に浴室を出ると、軽く上体を逸らした俺は小さな欠伸を噛み殺した。

 

 

 

・・・

 

 

 

次の日、豊穣の女主人の休憩室にて俺はミア母さんに頭を下げていた。

 

 

「――というわけで俺がダンジョンに行っている間、豊穣の女主人でハティを預かって頂けませんか?」

 

「…」

 

 

椅子に腰かけたミアは太い腕を組み、目を閉じている。

置かれた机の上には俺の買ってきた菓子折りが置いてあり、道すがら茶毛の猫に半分ほど奪われたが…まぁ手土産としての体裁は一応整えていた。

 

今日俺が豊穣の女主人に来た理由は「託児が出来ないかの相談」…と、謝罪。

もう何か月も前の出来事のように感じるが数日前、シルの弁当によって起こされたバイオテロ、その最中にアルバイトとして助太刀した俺は店内の風紀を乱したとしてミア母さんに処刑されている…まぁあの時は別に俺が悪いわけでは無かったのだが。

 

とはいえ今日豊穣の女主人に来た主な目的はあくまでハティを預かれないかの相談。

俺がダンジョンに行っている合間まだ幼いハティが家で一人きりでは不安だ。もう意図的にハティを狙う人間はいないとはいえダイダロス通り周りの治安は良いとは言えないし、何より寂しい思いをさせたくはなかった。

 

 

「フン…」

 

 

頼み込む俺に腕を組んだ机を挟んで対面したミアは気難しく表情をしかめ、細く開いた瞳で俺のことを睨みつける。

豊穣の女主人的には特にプラスではない完全に業務外の頼み、特段無理な願いでは無いと思うがミア母さんが受ける理由もまた無かった。

 

まるで蛇に睨まれた蛙のように感じながら俺は真剣な表情で見返す、鬼のようにどっしりと椅子に座ったミアは太い腕を組みゆっくりと考え始めた。

 

(ほかの場所は…やっぱ無いよなぁ)

 

一応色々考えはしたのだが、頼れるような場所はここ以外思いつかなかった。

ヘスティア様はバイト漬けなのでこれ以上負担をかけるわけにはいかないし、神殺しの因子を持ったハティが長時間一緒に居ることで起こる双方への悪影響は充分に考えられる。

それ以外の知人と言えばエイナかミアハファミリアだがどちらも日中は仕事があるわけだし時間的余裕は無いだろう。

 

その点、豊穣の女主人ならば常に人の目もあるしハティが寂しい思いをしないですむ。

時間的にも俺がダンジョンに行っている昼間と営業時間は合うし、色々な人間と接することはハティの刺激にもなって良いはずだ。

 

…とはいえそれはあくまでこちらの都合であって、豊穣の女主人側には何のメリットも存在しないのだが。

 

 

「…」

 

 

長い沈黙が流れる。

穏やかな日光の入り込む休憩室。どこかから「きゃー何この子可愛いぃー!」みたいな女達の嬌声が聞こえる中、品定めするかのようなミアの視線がゆっくりと俺の事を観察すると、ついに口を開いた。

しかし次にミアの放った重苦しい言葉は俺にかなりの衝撃を与えることになった。

 

 

「…なぁリョナ、アンタ――――冒険者を辞める気はないかい?」

 

「ッ!?…それは…」

 

「目を見りゃ本気だってことは解る。だが、そんなにあの娘のことが大事だってんなら、いっそのこと冒険者を辞めるってのも一つの選択さね」

 

 

ハティのために冒険者を辞めるという選択を考えなかったわけじゃない、そう言って俺の事を見つめるミアの瞳には強い思いが見えた。

ミアは組んでいた腕を机の上に乗せる、ふぅ…と長く息をつくと少し目を伏せ再度喋り始めた。

 

 

「…あたしゃね、地上に大切なもん残したまま帰ってこなかった大馬鹿を何人も知ってる。あくまでこれはあたしの考えだがね、死ねない理由のある奴はダンジョンに行くべきじゃあない」

 

「…」

 

「それにリョナ、あんたは…大金とか名声が欲しくて冒険者をやってる輩とは違うんだろう?」

 

 

少し考えた後慎重に頷く。そもそも俺が冒険者になったのは手早く金を稼ぐため、だが貯金もかなり残っている今金銭的な理由で冒険者という職業を続けていく理由は無い。

それにミアの言う通り俺が死んだらハティは再び一人になってしまう、絶対の無いダンジョンで必ずしも帰ってこれるとは限らない。

それに…神殺しの獣をこれ以上成長させないためにも、これ以上戦闘をするのは避けた方が良いのかもしれなかった。

 

 

「選ぶのはあんたさ、だがあの子の親だってんならその選択にはあの子の命の責任が乗る。満足に食べさせてやるには金が必要だ…といっても娘一人養うためだけに冒険者って仕事をやる理由も必要もない」

 

「…仕事、か」

 

「――それに」

 

 

そう言ってミアは再び腕を組む、瞳を閉じ少し口を閉じると厳めしい顔のまま…少しバツが悪そうに片目を開いて俺の事を見た。

 

 

「…それに、あたしがいない日に店を手伝ってくれたそうじゃないか。カウンターと厨房を掛け持ちして」

 

「?…まぁ、はい」

 

「で、どうにもその時の馬鹿連中が口を揃えてあんたのことを褒めててね。聞いた限りじゃ能力的には問題ないし、いい加減カウンターの出来る奴が他にいないと困るからね」

 

「……何の話です?」

 

「フン、解らない奴だね。うちで雇ってやるって言ってるんだよ」

 

「…!」

 

 

俺は少し動揺しつつミアがくいと顎で示した背後に振り返る、すると休憩室の入口には菓子を齧りながら室内を覗き込んでいた猫女と赤毛ロリと男性恐怖症が慌てて逃げていくところだった。

 

 

「そっちの方があんたにとっても都合が良いんじゃないかい?冒険者ほどの稼ぎは無いが、二人ぐらいだったら充分食っていける。命を落とす心配は無いし、あのおチビを休憩室(ここ)に置いておけばすぐ様子を見れるさね」

 

 

まぁ女しかいないってのは辛いかもしれないが、と続けたミアは笑う。

料理人という職場、ダンジョンほどじゃないが安定した稼ぎ、ハティとの穏やかな生活。

それだけで十分幸せだ、多くを望む必要は無かった。ミアの言葉はぶっきらぼうだがその提案は確かな思いやりに満ちていた。

 

 

「俺は…」

 

「…どうする?それでもダンジョンに行く理由があるってんなら話は別だ、無理に引き留めはしないよ」

 

「…」

 

 

考える俺にミアはゆっくりと声をかける。

ダンジョンに行く理由、金以上…何よりハティ以上の何かがあるのか。

死ぬリスク、神殺しのリスク、オッタルに命を狙われるリスク、考えれば考える程ダンジョンに行く必要は無いように思えてきた。

 

(…)

 

だが――

 

 

「俺は…あの子が大事だ、世界で一番大事だ」

 

「なら?」

 

「――だけど先約があってな。一緒にダンジョンに行く約束した奴がいる」

 

「…あぁ、あの小僧か。なるほどね」

 

 

このまま冒険者を辞めてもベルは別に文句を言うことはないだろう、だがだからといって約束を反故にしていい理由は無い。

パーティでダンジョンへ。あれだけ楽しみにしていたベルの気持ちを無駄にはしたくはない、その思いを裏切るわけにはいかなかった。

 

(それに…)

 

神殺しの獣の影響なのか、最近ダンジョンに何か感じるものがある。

それはきっと俺の能力と何か関係があるのだろう、きっとダンジョンには何かある…自らを解き明かす何かが。

 

 

「…フン、まぁ良い。アンタの気がすまないってんなら満足するまでやりな、ダンジョンに行ってる合間あの娘を預かってやるさ!……その代わり絶対に死ぬんじゃないよ!!」

 

「承知!」

 

「あとあの子の為にも三日にいっぺんはちゃんと休む!それと代金代わりにこきつかってやるから時々バイトしていくこと!解ったかい!」

 

「応!…おぅ」

 

 

頷いてから渋い顔になった、ミア母さんのこき使うは本当に容赦がない気がする。

まぁハティを預かってくれると考えれば安いものだ、俺は笑みを浮かべながら休憩室に来て初めて安堵のため息を吐いた。

 

 

「ぱー…!」

 

「ん、どうしたハティ?」

 

 

振り返り見れば、ハティがいた。

白いワンピースと麦わら帽子を被った少女は両手を伸ばし、紅い瞳を少し泣きそうに潤ませながらふらふらとこちらに歩いてきていた。

 

立ち上がった俺の足にハティが小さな手でしがみつく、太腿に顔を押し付けるとくぐもった声を漏らした。

その頭に手を乗せ撫でる、ミアと話している合間従業員たちに預けていたのだが何かあったのだろうか。

 

 

「ハティちゃーん!絶対可愛くなれるから全部お姉ちゃんたちに任せて――あ」

 

「おい」

 

 

満面の笑顔を浮かべたシルがどこから持ってきたのかきわどい洋服や櫛などを両手で山ほど持ちながら休憩室を覗き込む、だが俺の事を見た瞬間にその動きを止める。

確かに見ておいてくれとは言ったが玩具にしていいとは言っていない、何よりハティを泣かせた奴に容赦する理由があるわけなかった。

 

 

「てめぇら俺の娘に手ェ出してんじゃねぇえええええええッ!」

 

「のわぁあああああああああああッ!?」

 

 

抱き上げたハティと共に逃げたシルへと報復に向かう。

俺が部屋から走り出ていった後、休憩室であきれ顔を浮かべたミアはため息を漏らす。

銀髪の揺れる昼下がり、結局この後奪われたハティが従業員たちと仲良くなるまでにそう時間はかからないのであった。

 

 

 

・・・

 

 

 

道を歩いていると、エイナと会った。

 

 

「あっ」

 

「おっ、久しぶり」

 

「ほんと久しぶりですね」

 

 

いつもと変わらないギルドの制服、何やら手に持った紙を覗き込みながら早足にせこせこ歩いていたエルフと曲がり角で出会う。

少し疲れたような表情を見せていたエイナは俺の顔を見ると笑みを浮かべ、足を止めた。

同じように足を止めた俺は行き先が途中まで同じだと気が付くと一緒に歩くように促した。

 

人気(ひとけ)の少ない路地を輝く木漏れ日が彩る。

微かにそよぐ春終の風が温かく髪を揺らし、石造りに造られた町は歩くたびに新しい発見がある。どこか彫刻のような街を散歩するように穏やかに歩きながら息をつき、出来るだけ身体を揺らさないように気をつけながら俺はエイナと歩幅を合わせた。

 

 

「確かその子って…?」

 

「ん、あぁ遊び疲れて寝ちまってな。名前教えてなかったよな、ハティってんだ」

 

「へぇー…ハティちゃん、っていうんだ」

 

 

腕の中の少女を軽く持ち上げながら答える。

体力の無いハティは豊穣の女主人で一時間ほど遊んだらすぐに疲れて眠ってしまった。初対面で押しの強い従業員達をハティは怖がり俺の側から離れようとしなかったが、次第に慣れたようで最後は笑顔で遊んでいた…その様子は少し涙が出るくらい幸せだった。

 

 

「ふふ、可愛い」

 

 

穏やかなハティの寝顔を覗き込んだエイナは笑顔を浮かべる。

実際ハティは可愛い、その子供特有の愛くるしさは庇護欲を駆り立てられるものがあり、母性をくすぐられるあどけなさは思わず抱きしめたくなる魔性があった…まぁ親バカ補正かもしれないが少なくとも俺の中では世界で一番可愛い。

 

眠っているハティを起こさないように気をつけながらエイナと歩く、穏やかな寝息に幸せを感じながら軽く背筋を伸ばすとエイナに視線を戻した。

 

 

「それで、最近はどうだ?」

 

「それはむしろ私が聞きたいんですが。リョナさん最近ギルドに顔も出してないし、ダンジョンにも行ってないですよね?」

 

「ん、まぁな」

 

 

ここ数日は傷を癒すことに専念していたし、あの家を買った日からはギルドに顔を出していない。

日にちにして二週間ほどだろうか、ダンジョンには入ったがギルドに顔を出してはいなかった。

 

 

「あでも、ベル君から聞きましたよ。朝に稽古してもらってるって」

 

「あぁ、俺の知ってる技を教えてやってるんだが、あぁ楽しそうにやってもらえるとこっちもやる気出てな。今まで人に教えるなんてこと無かったが、他人の成長を見るのも思ったよりも楽しいかもしれないな」

 

「へぇーそれは良かったですね!…あ、じゃあ私でも使える技とかありませんか?出来るなら自分の身は自分で守りたいですし!」

 

「チンコを蹴れ」

 

「はーなるほど、試していいですか?」

 

「待って」

 

 

今エイナはヒールのある靴を履いている、弱点特攻だ。

逃げるのが一番だと言い直してから再び歩き始めると楽し気なエイナが少し距離を詰めてくる、軽口を交わしながら歩く路地は建物に隠れ徐々に影がさしてきた。

隣同士で歩きながら俺はエイナが胸に抱えた書類の束を見る、進行方向的に考えてもギルドへ向かう途中だろうし、おおよそ外回りからの帰りだろうか。

 

 

「仕事の帰りか?」

 

「あ…えぇ、まぁはい」

 

「…何かあったのか?」

 

 

明らかに表情の曇ったエイナに俺は少し尋ねたことを後悔しながら、どこか彼女の匂いに覚えがあることに気が付いていた。

それは焼け跡の匂い、俺は極めて平静を装いながら尋ね直すとエイナはちらりと手元の書類を見下ろし薄くため息をついて見せた。

 

 

「まぁリョナさんなら良いかな…えっと、マーニファミリアが崩壊したっていう話は知っていますか?」

 

「あぁー…確かにそんな噂どこかで聞いたかもな、大きいファミリアなのか」

 

「えぇ、といっても武闘派ではなかったんですが。それでも一晩で全滅させられるようなファミリアじゃなかった」

 

「……闇討ちか」

 

「…恐らくですが」

 

 

ファミリア間同士の抗争、やはりギルドはその線で調査しているらしい。

再びため息をついたエイナは手にした紙を軽く手で整える、俺の顔を見上げ少しの合間見つめると肩をすくめ笑みを浮かべて見せた。

 

 

「それで今ギルドが原因を調査してるんですけど、私連絡係としてギルドとファミリア跡を凄い往復させられることになっちゃって。もう足とかパンパンだし、書類処理とかで残業続きでろくにご飯も食べられてないし…」

 

 

そう言いながら笑うエイナの顔色は確かに悪い。

焼け落ちた廃墟、隕石でも落ちたかのような破壊痕、直接見たわけじゃなくとも素人であるエイナにとってあの現場はかなり衝撃的だったことだろう。

となれば疲労の原因は俺だ、いくら仕方なかったこととはいえエイナの激務は俺のせいとも言い換えられなくともなかった。

 

 

「無理すんなよ?」

 

「えっ…あ、ありがとうございます」

 

 

責任感から声をかけると困惑気味にエイナが頭を下げた、だが言葉だけでは彼女の体調は回復していなさそうだった。

何か埋め合わせをした方が良いだろう、責任感を感じながら俺は何か出来ないか考える。

 

 

「確か飯食えてないって言ってたよな、なんなら俺が晩飯作ってやろうか?そういやあの家を紹介してくれたお礼してなかったしな」

 

「…へっ?そ、そそそそれって…私がリョナさんの家にお邪魔するってことですか!?お一人様ってことですか!!?」

 

「あん?…いやハティもいるし、何ならベルとかも呼ぶか?」

 

「あ…」

 

 

少し頬を赤らめたエイナは足を止めて前髪で顔を隠す、だがその僅かに高い耳は隠せておらず真っ赤に染まっているのが見えた。

もしかすると風邪だろうか、体調も良くないと言っていたし何か温かいものを作ってやった方が良いかもしれない…うどんとか食べたくなってきた。

 

 

「い、いえやっぱり私だけで!手間増えちゃいますもんね!」

 

「ん、そうか?…まぁいいや。仕事終わったら家来いよ、奢ってやるから」

 

「はい、よろしくお願いします!じゃあ私はこのあたりで!」

 

 

そう口早に言うとエイナはぺこりと頭を下げて違う道へと走り去る。

やっぱり元気なのかと困惑した俺は、陽の照らす道へと元気よく走っていくエイナの笑顔を見送りながら安堵のため息を吐き出した。

そして片腕で抱き寄せたハティの身体を揺らさないように気をつけながら、今夜の献立をゆっくりと考え再び歩き始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




まぁまとめると
冒険者は続行、ダンジョンに行っている合間はハティを豊穣の女主人に預ける。
時々豊穣の女主人でバイトすることになった。
エイナはうどんで眼鏡が曇った
これだけ

あぁあと感想返信しなくなるかも…いや今の気分だから全部返す可能性もあるし、絶対返すわけじゃないってことね?
でも感想貰うのはメチャクチャ嬉しいのでくだしぃ…(乞食)

ではでは次回ー


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 少女の見た世界

てわけでハティ主の三人称視点日常回なんですが、まぁ慣れないw
もっと精進せな(でも持ち味を活かせッって勇次郎も言ってたし…まぁ両方使えて損はないか)

ほんぺ


・・・

 

 

 

「…んぅ」

 

 

少女は布団の下で目を開く。

遠くから聞こえてくるトントントンという子気味良い音に耳をすまし、全身を包むシーツの軽やかな温度にゆっくりと瞬きを繰り返した。

気が付けば自らを抱きしめていた暖かさは消えている、微かに残されたベッドの窪みにハティはその小さく白い手を伸ばすと掴んだ。

 

 

「ぱー……」

 

 

少し心細さを感じながらハティは柔らかなベッドに腕をつき身体を持ち上げる。白い寝間着を纏った少女は何とか自らの手でシーツを払いのけ座ろうとするが、弱い筋力では上手く身体を支えることが出来ずうつぶせにくてんと倒れこんだ。

 

布団と格闘すること数十秒、もぞもぞと布団から這い出たハティはやっとの思いでベッドの上に座ると両手で目を擦る。ふさふさとした尻尾を軽く上下させ欠伸にも満たない小さな声を漏らし、ぼんやりとした視線を周囲へ向けた。

 

 

「…きれい?」

 

 

早朝の静かな日が差しこむ家の中、きらきらと輝いているように見える家具達はどこか輪郭が曖昧で青い。

澄んだ空気に満たされた空間は少し肌寒くもあるが静かで、少し遠い台所に立った黒いTシャツの後姿からはフライパンの焼けるジューという音が響いていた。

 

 

「…ぱー」

 

「ん。おぉおはようハティ、よく眠れたか?」

 

「おー…」

 

 

か細い声で呼ぶと厨房に立っていたリョナが振り返る、自作の箸を手にした(ぱー)はおきあがった自分の姿を見ると満面の笑みを浮かべ、いつものように挨拶を返してくれた。

まだ慣れない言葉に戸惑いながらハティはそれだけの事に安堵の息をつく、いつものように腕を伸ばした。

 

 

「だー…」

 

「あー今は朝ごはん作ってるから、だっこはちょっと待っててな」

 

「…んぅ」

 

 

だが今度は断られてしまう。自分よりも遥かに大きな彼は笑みを浮かべたまま振り返り、楽し気に肩を揺らしながら朝食の準備を再開した。

だっこを拒否されたことにハティは少しムッとし視線を落とすと、軽くいじけてベッドを掴んだ。

 

さて何をしよう?ハティは部屋の中を見渡す。

ここ数日のように彼はかまってくれない、少女にとって生まれて初めての『暇を潰す』という行為は全くの未知から始まった。

 

 

「…?」

 

 

まずハティが目に付けたのはベッドの上に置かれたブランケットの塊、先ほどまで自分の上に被さっていた薄布は微かに生暖かい。

試しその端を小さな両手で掴み持ち上げてみる、軽い布の集合体はふわりと空気を孕んで膨らむとまたすぐに萎んで落ちていった。

 

数度引っ張ったり押したりして遊んでみる。

とはいえただの布の塊に少女の心を惹きつけるような面白さは無い、あまりお気に召さなかったようだ。

ハティは何の変哲も無いブランケットから手を放す、少し気だるげに鼻息を漏らした少女は新しい何かを探した。

 

 

「…!」

 

 

次に見つけたのはベッド端に置かれた使い古された黒コート、彼がいつも身に着けているそれはだいぶよれてしまっているが、逆にそれが良い味を出していると言えた。

数割増し興味津々なハティはベッド上を這って黒コートの側に近づく、目の前に広げられたリョナの服を見下ろすとその小さな手を伸ばした。

引っ張ったコートをぺたぺたと触ってみる、ポケットの中に手を入れてみたり裾を持ち上げてみたりすると少なくともブランケットよりかは面白かった。

 

 

「…すぅ……すんすん…」

 

 

試しに手に取ったそれの匂いを嗅いでみる。

コートに残されたリョナの匂いは濃い、石鹸の甘い匂いの下にある染み付いた彼の匂いはいつも自分のことを撫でてくれる掌の匂いと一緒だった。

 

くんくんと嗅ぎながらハティの尻尾が自然と横に振れる。未知なる匂いの探索をしながら揺れる銀色の尻尾は座ったベッドをぱたぱたとはたき、知らない臭いと出会う度に好奇心で獣耳がぴくぴくと反応していた。

 

 

「ふんー…」

 

 

どうやらかなり満足したらしい。

ご満悦といった様子でコートから顔を離したハティは鼻息を漏らし手を放す、ベッドの上にかなり乱れたコートを置くと再び台所に立つリョナに視線を向けた。

 

しかしまだ時間がかかりそうである、せっせと朝ご飯を作っている彼はまだ構ってくれそうにない。

ハティは再び周囲を見渡してみるが、もうベッドの上に暇を潰せるようなものは残っていなかった。

 

 

「…んぅ」

 

 

意を決したハティはベッド端まで這っていく、見下ろしてみると綺麗に掃除されたフローリングの床が遠くに見えた。

いつもならリョナが抱き上げ降ろしてくれるベッド、だが今は自分の力だけで降りなくてはならなかった。

 

 

「むー…」

 

 

足を先におろしたハティはベッドにうつぶせになって降りようとする。

綺麗に掃除されたフローリングの床はハティにとって高く、ただ足を垂らすだけでは床に着くことはできない。ベッド端を掴んだハティは足先で床を探す、身体をよじりながら足を降ろそうとするが…結果的にずり落ちることになった。

 

ベッド端を緩やかに滑り落ち、床の上にぺたんと座ったハティは今まさに自分の降りてきた落差をぼんやりと見上げる。

とはいえ一人で降りれたことに特に感慨があるわけではなく、慣れない手つきで身体を支えふらふらと立ち上がると振り返って家の中を見た。

 

 

「おー…」

 

 

何か興味の引く物がないか探しながらハティは歩き出す。

素足でぺたぺたと床を踏むと張られた木板が小さく軋んだ、広い家の中には色々なものが置かれておりハティにとっていくらでも探検のしがいがあった。

 

右手には玄関、左側にはキッチンとその奥には縁側へと続く作業スペース。

キッチンに立ったリョナは未だ忙しそうだ、自由に歩くハティは獣耳をたてながら小さな歩幅で家の中を進む。

低い視界から見える世界は新しいもので溢れており、朝の静かな活力で満ちた少女は楽し気に周囲を探して散策を始めた。

 

まず向かったのは作業机のある一角、キッチン脇の食卓をとことことすり抜けてハティは作業机のそばに近づいた。

見上げるような木製の机は足が太く重厚感があり、自らの背丈よりも高い卓上は見えない。もし椅子に乗ることが出来ればハティの身長でも見る事が出来たのだろうが、重そうな椅子はしまわれてしまっておりよじ登ることは難しそうだった。

 

 

「…!?」

 

 

不意に忍び込んできた隙間風がハティの尻尾を冷たく撫でる。

ハティはブルリと震えると振り返る、見れば換気の為か縁側への引き戸が少し開けられていた。僅かな隙間からは明るい光が差し込んでおり、紅の垂れた瞳には朝日に照らされた小さな庭が見えていた。

 

あの扉の開け方は知っている、今ならば庭に出ることが出来るだろう。

好奇心のまま隙間に手を入れたハティは全身で扉を横に押す、するとガラガラと音をたてスライド式のドアは開いていき少女が通れるくらいの隙間に広がった。

 

 

「ん…ハティ?庭に降りるんならちゃんとサンダル履くんだぞー」

 

 

ドアの開かれる音にキッチンのリョナが反応する。

視界外からの言葉にこくりと頷いたハティは引き戸の隙間に身体を潜り込ませると縁側に出た。

 

少し肌寒い外気に包まれた小庭、雑草のまばらに生えた庭にはこれといって何もないが端の方には確かに鉄でできた墓標が建てられている。

縁側に立ったハティはしゃがみ見下ろすとそこには緑色のサンダルが一組置かれていた。

 

 

「んー…」

 

 

彼の言葉を思い出す。

地面に降りるためには靴を履く必要がある、だがそもそも暇を潰すためだけに降りなくてもいい気がする。

 

 

「おー…」

 

 

そのまま縁側に座ったハティはぼんやりと庭を眺める。

綺麗な緑色、見上げれば透き通るような青い空と白い雲。髪を小さく揺らす肌寒い風、どこかから漂う知らない臭いを嗅ぎながらハティは尻尾を上下させる。

周りを眺めているだけではあるが彼女にとって充分楽しい、真新しいものを探しながら少女は楽し気に獣耳を動かしていた。

 

一人の時間が流れる、縁側に座った少女は欠伸を浮かべる。

真新しい世界を眺めながら尻尾を揺らし、新鮮な空気の中で呼吸していた。

 

だが不意に――ぴょん、とその小さな膝の上に何かが乗ってきた。

 

 

「っ!?……?」

 

 

驚き見下ろしたハティの視線の先、膝の上には草と同じ色をした小さな何かが乗っていた。触角をアンテナのように揺らし、真っ黒で無機質な瞳をしたその生物は足が長く、爪があり、身体の脇には薄い翼のようなものがついていた。

 

生まれて初めて見る生物にハティは困惑し、それでも興味を消しきれずに膝の上に乗ったそれに恐る恐る手を伸ばした。

だが手が届く前にその謎の生物はまたぴょんと逃げてしまい、ゆっくりとしたハティが目で追うより断然早く雑草へ溶け込むと見えなくなってしまった。

 

ハティは結局捕まえることのできなかった生物を見送る、その瞳はどこか残念そうであったが同時に好奇心でキラキラと輝いていた。

 

 

「ハティー、ご飯できたぞー!」

 

「!」

 

 

まだみぬ生物との邂逅、それがただのバッタという虫であったとしてもハティの興味はつきない。

立ち上がった少女ははちきれんばかりに尻尾を振りながら急いで家の中に戻る、今はまだあの生物の名前も解らないけれど初めて知りたいと思った生物のことを少女は忘れないだろう。

甘い匂いのする食卓に戻ると、抱き上げるために腕を広げたリョナの胸の中に飛び込んだのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「いらっしゃいませー!…って何だ、ベル君とリョナ君とハティちゃんか!今日はどうしたの?朝修行の帰り?」

 

「はい!」

 

 

ヘスティアのバイト先、じゃが丸君の屋台にて。

ベル、リョナ、そしてその腕に抱かれたハティの三人は、朝の訓練からの帰りに部活感覚でここを訪れた。

とはいえベルにはリリとの約束があるのでそう長居は出来ない、リョナは今日ダンジョンに行かずにこのままハティと共に豊穣の女主人へバイトに行く予定だった。

 

 

「へっへっへ、まぁあのヴァレン何某じゃなければ良いさ…」

 

 

女神は下衆な笑みを浮かべている。

リョナの腕の中に納まったハティはその紅色をした垂れ目でぼんやりと朝の街道を眺めていた。

朝の街道には様々な人間が歩いている、一人として同じ姿のいない人々の多さを見送りながらハティは垂れた尻尾を振っていた。

 

 

「おほん、さて注文を聞こうか?ちなみに僕のおすすめは新作のナタネアブラ味だよ!」

 

「じゃあ僕はプレーンシュガー味で」

 

「俺はジロウ味メンカタカラメヤサイダブルニンニクアブラマシマシ」

 

「おいおい朝っぱら飛ばすねリョナ君!おっちゃん二つ!」

 

「…ハティは何か食べたいのあるか?」

 

 

彼の言葉にハティは屋台に視線を戻す。

漂ってくる油と砂糖の甘い匂い、抱きかかえられたまま少女は身を乗り出し店の中を覗き込むとサンプルなのか幾つかのじゃが丸君が並べられていた。

 

 

「まぁ初めてだし俺が選んでもいいぞ」

 

「んぅ」

 

「うーんそうだな初めてだし普通に…生クリームとか?」

 

「あぁそれ女の子に一番人気なやつだよ」

 

「じゃあそれで」

 

 

リョナがまとめて代金を支払う。

既に作り終えていた屋台のおっさんが紙に包まれたプレーンシュガーをベルに手渡し、リョナにハティの分も含めた二つのじゃが丸君を渡した。

 

少女は目の前に差し出された揚げ物の匂いをくんくんと嗅ぐ、白いクリームのかけられたそれは甘い匂いがして美味しそうだ。

 

 

「自分で持てるか?」

 

「ん」

 

 

リョナから紙袋に入ったじゃが丸君を受け取ったハティは匂いを嗅ぐ。

小さな両手でも持てる揚げ物を見下ろした少女は落とさないように気をつけ顔を近づけると、勢いよくかじりついた。

 

瞬間、口の中に広がる甘い感触。

暖かい揚げ物のサクサクとした感触と芋の滑らかな舌触りに口内が覆われる。

そして確かめるように咀嚼し飲み込むとこくんと小さな喉が鳴った。

普通に美味しい揚げ物、甘いクリームと芋という組み合わせは悪くない。尻尾をぱたぱたと揺らしながらハティは手の中のじゃが丸君を一心不乱に食べていく。

 

 

「それでベル君、今日の朝修行はどうだったんだい?」

 

「好調です!あ、それと今日はハティちゃんも一緒に柔軟したんですよ!」

 

「へー!それは僕も見たかったなー!」

 

 

今日はリョナの誘いでハティも柔軟を始めた。

だが今まで動かされなかった身体は幼児とは思えない程固く凝り固まっており、成果が出るにはまだまだ時間がかかりそうだった。

 

 

「こふっ…」

 

「はは、良く噛んで食えよ」

 

「…んー」

 

 

むせた少女の頭を彼が撫でる。

ウェーブを描く銀髪を指がかき分け、嬉しくて気持ちいい。

もぐもぐとじゃが丸君を食べ終えた少女はリョナを見上げると、彼もまた嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

 

 

「美味しかったか?口元についてるぞ」

 

「ん…んぅー」

 

「はい、取れたっと」

 

 

クリームがべったりとついて真っ白くなっていた少女の口周りをリョナが指先で押し付けるように拭う。

綺麗になった口元を自分でも触りながらハティは腕の中から彼を見上げると、丁度指についたクリームを舐めとっているところだった。

 

 

「じゃあリョナさん僕はこのへんで!じゃが丸君ごちそうさまでした!」

 

「おう、今日も頑張れよ」

 

「はい、ハティちゃんもまたね!」

 

 

話していたベルが別れを告げて、走り去った。

リョナに合わせて弱々しく手を振ったハティは視線に気が付き、自らを見ていたヘスティアを見返すと笑みを投げかけられた。

視線が上がる、リョナを見上げたヘスティアは軽く首をかしげて尋ねかけた。

 

 

「それで、最近はどうだい?」

 

「まぁ幸せですよ、可愛い娘と一緒に暮らせて」

 

「犯罪臭」

 

「愛ゆえに何だよなぁ」

 

 

そう言うと彼はぎゅっとハティの身体を抱きしめる。

少し息苦しさを感じながら少女は固い胸板に顔を埋め、回された両腕に身体を預けると家の石鹸と同じ匂いがした。

 

 

「困った事とかは?」

 

「特には」

 

「ホントに?」

 

「あぁそういえばハティに何か玩具でも買うか作ってやろうと思って」

 

「…そう」

 

 

一瞬だけ目を伏せたヘスティアと、無意識に左手を下げたリョナ。

じゃが丸君の売り子衣装で頭にぽんぽんをつけたヘスティアは顔をあげ…笑った。

 

 

「なら僕から言うことは何も無いね。何でもそつなくこなしてしまう君は安心だけど、全く頼られないってのも親としてはちょっと複雑かなぁ」

 

「安心してくださいおばあちゃん、こんなに大きくなりました」

 

「うわムカつくー」

 

 

親の親なのだから祖母でも間違いないだろう。

苦い表情を浮かべたヘスティアは毒気混じりに肩を揺らす、そして笑みを浮かべたままハティのことを見た。

 

 

「ハティちゃんも、いつでも僕に頼ってくれていいからね!」

 

 

女神の笑顔に、リョナの腕の中で首を傾げた少女は確かに小さく頷いたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「むー…」

 

 

豊穣の女主人、厨房に立ったリョナの後姿を廊下から覗き込んだハティはむくれる。

忙しく働いている彼は全くと言っていいほど少女に構ってくれない、加えて厨房の中にハティは入ることが許されていなかった。

不機嫌に尻尾を垂らしながら少女は彼の姿を遠くから眺める、時間さえあればもっと頭を撫でたり抱き上げたりしてほしかった。

 

 

「…ぱー」

 

「ハティ」

 

 

呟いたハティの背中に声がかかる。

薄暗い廊下から厨房を覗き込んでいたハティは振り返りぼんやり見上げると、そこには若草色の制服を着たエルフがこちらのことを見おろしていた。

 

 

「…にゃ?」

 

「アーニャは仕事に戻りました、私はリューといいます」

 

「ゆー」

 

 

休憩室にいる人間が持ち回りでハティの世話をしているのだが、丁度順番が入れ替わったらしい。

時刻は既に夕暮れ、昼頃から何人かが入れ替わりでハティの面倒を見てくれた。とはいえ美少女の世話を嫌がる者はおらず、むしろ嬉々として行うものばかりだった。

 

少女はリューを見上げる。

凛とした表情で見つめてくるエルフの印象は鋭く冷たく、ちょっぴり怖い。

尻尾を垂れさせた狼人の少女は耳をぺたりとつけると僅かに目を細め、不安を覚えて眉をひそめた。

 

そんな微かに怯えている様子の少女のことをじっと見おろしたリューは一度大きく瞬きをした後、廊下にしゃがんだ。

膝丈程の少女と目線を合わせ見つめ合うと、凛とした表情のままその視線を厨房の中へと上げた。

 

 

「ハティはリョナさんのことが…お父さんのことが好きですか?」

 

「…ぱー?」

 

「はい、ぱーです」

 

「すきー」

 

 

一瞬にしてハティの耳と尻尾の元気がピンと戻る。

楽し気な笑みを浮かべた少女は振り返り、厨房内でテキパキと働いているリョナを見ると軽く尻尾を揺らした。

 

そんな天使のような少女の笑顔を見たリューは少し目を見開くと考え、呟くように再び口を開いた。

 

 

「…好き、か」

 

「?」

 

「いえ、それより休憩室に行きましょう。生憎私は遊ぶことが得意ではないのですが、リョナさ…ぱーはもう少しだけ待てば必ず来ますから」

 

「んー…」

 

 

少ししぶるハティは俯く。

目線を合わせたままのリューは表情一つ変えず返答を待つ。

そして暫く尻尾を揺らし少女は顔を上げた。

 

 

「ゆー」

 

「はい」

 

「だー」

 

「…っ」

 

 

リューに向けてハティが両腕を伸ばす。

目をそらすことも出来ない程の至近距離でその可愛さという爆弾が炸裂した。あどけない表情で小さな腕を伸ばしてくる少女の姿にリューは一瞬言葉の意味を考え、そして驚き竦んだように胸を抑えた。

 

 

「だー…」

 

「は、はい。だー、ですね」

 

 

少女の催促にリューは慌てて頷くと手を伸ばす。

その小さく細い身体に腕を回し支え、お尻を腕に乗せるように抱き上げると少女が首筋に抱き着いてきた。

香る石鹸の匂い、柔らかな感触、小さな身体。ビクンと肩を震わせたリューは腕の中に納まった銀色を見る、幼い少女は自らに身体を預けており…何とも愛らしい。

 

 

「なるほど、確かにこれは…可愛い」

 

 

少し動揺しながら、友人たちの言う事の一端を味わったリューであった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「よーし、散歩だ」

 

「さん…さんぽー!」

 

 

早足に歩く彼に肩車されながら、少女は夜の繁華街の輝きを見る。

道行く人々は楽し気で、賑やかで、赤ら顔で、少女もそんな雰囲気に当てられていつもよりテンションが高い。

尻尾を垂らし、彼の頭に抱き着きながらハティは鼻息荒く周囲へと視線を向けた。

 

 

「何か気になるものあったら言えよー」

 

 

この散歩の目的地は無い。

ただ気の向くままぶらぶらと親子は行く。

分かれ道ではハティの指さした方向に行き、時にまだ幕の降ろされていないショーウインドーを外から冷やかし、時にパルクール感覚で月夜に飛んだりした。

 

 

「どっせーい!」

 

「せー!」

 

「楽しいなーハティ!」

 

「なー!」

 

 

男と少女の楽し気な笑い声が町に木霊する。

屋上から再び人通りの多い道に(落ちて)戻ってきたリョナとハティは周囲から奇異の視線を向けられながら、特に気にすることなく歩いていく。

 

 

「あ、ちょっとこの店寄ろう」

 

 

ふと足を止めたリョナが店の中に入る。

少女がちらりと見たショーウインドーには何かこうもこもことした、家のブランケットに似た何かが並べられていた。

 

数分後、店内から出てきたハティの手の中にはくまのぬいぐるみがあった。

おろしたてのタオルのような感触をした人形は柔らかく小さい。手足が長いのが特徴的なくまさんは布と糸で上手く笑顔が造られており、新しいというか初めての玩具にハティも興奮を隠せずにいた。

 

 

「むふー……」

 

「大事にするんだぞー」

 

 

リョナの肩に座りながら少女は満足げに息を漏らし、手に掴んだ熊のぬいぐるみを何度も見る。

そして笑みを浮かべて抱きしめると、リョナの肩の上で一緒に街を見ることになった。

普段だったらもう眠くなる時間だが、昼寝をしたことと興奮で少女の目はいつもより冴えていた。

 

 

「どこか入りたい店とかあるか?」

 

 

肩車した親子と、新しく加わったくまは賑やかな繁華街を自由に散策する。

少しペースを落としゆっくりと町を見て回ると、様々な景色や人々に出会った。

少女は時に頭上からそれらを指さし、リョナは解る範囲で解説し、時折買い食いなどして楽しんだ。

 

 

「んー…」

 

「え、あそこか?あそこはハティにはまだ早いと思うが…まぁ社会勉強ってことで良いか」

 

 

ハティが次に指さしたのは路地裏にひっそりと建つ小洒落たバーだった。

穏やかな雰囲気の酒場は大衆を寄せ付けない雰囲気を漂わせており、実際穴場なのかぱっと見ただけではそこに店があること自体解らない。

店名は「ヒルデガ」、ハティの行くような店じゃない事は確かだし正直面白さがあるかは微妙だが、少女の興味は確かにその店へと向いていた。

 

リョナがバーの扉を押す。備え付けられたベルが小さく鳴り、足を踏み入れた者の耳に届く。

店内は狭く、落ち着いた雰囲気。客は少なく、バーカウンターでグラスを磨くマスターとやけに大柄な男が一人静かに酒を飲んでいるだけだった。

 

 

「…いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」

 

 

壮年を過ぎた巨体のマスターが低い声で告げる。

ヤクザの頭を張っていてもおかしくないような強面の男は小さな眼鏡をかけており、その奥から覗く鋭い眼光で肩車した親子の姿を見つめていた。

そして巨大な傷跡のある無骨な手でカウンターの端を指し示すと、再び拭いていたグラスに視線を戻した。

 

頬に物理的に傷のある男にリョナは少し警戒しつつ、ハティのお腹を持ち上げると腕の中に抱き直す。

くまのぬいぐるみを持ったハティも静かな雰囲気に口をつぐみ、ただきょろきょろと薄暗い店内を見渡していた。

 

 

「隣失礼」

 

 

一人飲んでいた男の二つ隣にリョナが座る。

カウンターによくある高い丸椅子は6つしか置かれておらず、自らの身体を挟むようにしてもう一人客の反対側にハティを座らせた。

高い椅子に座った少女はくまの人形を膝の上に乗せ、カウンターの上に手を乗せると再び周囲を見渡し始めた。

 

 

「ご注文は?」

 

「あー…この子にはミルクを、俺には薄めのを何か」

 

「…かしこまりました」

 

 

頷いたマスターがグラスを用意しはじめる。

ハティに視線を向けたリョナは眺めると、笑みを浮かべてその頭を撫でた。

少しくすぐったそうにした少女は彼を見上げると、嬉しそうにくまぬいぐるみを掲げて見せた。

にっこりとした笑みを浮かべる愛らしい少女の姿にリョナは心と脳が溶かされそうになりながら人形を受け取る、その手足を動かしハティの頭を撫でると少女は目を輝かせて喜び、握手してみたりくまの方から抱き着いたりして人形遊びに興じた。

 

 

「…お待たせしました」

 

 

カウンター越しにマスターがグラスを差し出す。

リョナには水色をした綺麗なカクテル、ハティには気遣いなのか小さなグラスには牛乳が半分ほど注がれていた。

目の前に置かれたミルクに興味津々といった様子でハティは水面を覗き込む、透明なグラスに入れられた乳白色の液体は甘く乳臭い。

そしてリョナに促され少女は両手で持ったグラスに鼻ごと突っ込んでミルクを舐め始める、ふんふんと鼻息を漏らしながら舌を浸すとぴちゃぴちゃと甘い牛乳を楽しみはじめた。

 

そんなハティの様子にリョナは苦笑いを浮かべながら自らのグラスを握る、カクテルの匂いを確かめると一口飲み込んだ。

…だが、最後にリョナの目の前につまみを入れた小皿がコトリと置かれる。

 

 

「それと、これはあちらのお客様からです」

 

「?」

 

 

小皿の中にはピスタチオのようなナッツが盛られている。

いまいち奢られた理由の解らないリョナは小皿を見下ろし首を傾げる、他の客は隣に座っている男しかいないはずだし、後姿しか見ていないがあんな知り合いはいないはずだった。

リョナはグラスに口をつけたままマスターの指示した方向に振り返る、誰だかは知らないが奢ってくれることに感謝しようと――

 

 

「誰だか知らんが悪ブフッ!!?」

 

 

――が、思い切りリョナは噴き出す。

それもそのはずだ。そこにいた男は一級冒険者、猛者、先日狼騎士と死戦を演じた最強の戦士。

 

 

「お、おおお前…オッタル!?」

 

「フン…久しぶり、というほどでもないか」

 

「ッ…」

 

 

そこにはオッタルが腰かけ、グラスを片手にくつろいでいた。

盛大にカクテルを吹いたリョナは目を細めると後ろ手にハティの腰に手を回す、いつでも走り出せるように腰を浮かせ膝を曲げた。

超集中、深く意識を研ぎ澄ませたリョナはオッタルを見る。彼我の戦闘能力を考えれば逃げることは出来ない、何より彼の背後には少女がいた。

 

グラスを片手にしたオッタルは男の真剣な表情を見下ろす。

その細い瞳でゆっくりと表情を観察し、ちらりとその背後にいる少女を確認するとゆっくりと息をつき瞳を閉じた。

 

 

「生憎と、今の俺は()()()()()で休職中だ。よってお前を襲う使命も今は無い…まぁ座れ、喋ろう」

 

「…」

 

 

そう言うとオッタルは前に向き直り、グラスをあおった。

どうやら本当に敵意は無いらしい、最悪の邂逅に動揺したリョナは最大限警戒しつつも殺意を感じられないオッタルを前に席へ戻る。

それに前回の戦闘で拳を交わし、何となくだが騙し討ちのようなことをする奴ではないと直感していた…それに騙し討ちも何も、その気になれば店に入った瞬間にでも殺されていたことだろう。

 

居心地悪く座り直しグラスを掴んだリョナは隣に座ったオッタルを見る。

私服なのかシャツと長めのパンツを着た巨漢は武器を持っているように見えず、ただ酒を飲みに来たようにも見えた。

 

 

「…娘がいるのか」

 

「まぁな」

 

「そうか、意外だな」

 

 

ミルクを舐めている少女にオッタルがちらりと視線を向ける。

かつて殺しあった二人はカウンターに並んで酒を飲みながら会話を続けた。

 

 

「…つか休職って、お前」

 

「あの後主神よりお叱りを受けた、目的を達成できなかったから当然だろう」

 

「目的、か…まぁそのお陰で今の俺があるわけだし良いけど。あ、ハティこれ食うか?」

 

「んぅ…なー?」

 

「ピスタチオ、ちゃんと噛むんだぞ」

 

 

少女がピスタチオを食べる。香ばしい豆をかじると目を輝かせて尻尾をパタパタと振った。

 

 

「つか何であの時俺を見逃したんだ?お前だったら追撃も出来ただろ?」

 

「否だ、あの時既に俺も怪我を負っていた。追うことは出来ただろうが、もし追っていたら俺もただではすまなかっただろう」

 

「…てっきりあの女神に心酔してるもんだと思ったが」

 

「確かに、自分でも予想外だ。だがあの炎に焼かれ、俺の中の何かが変わった…長い間忘れていた闘争本能をお前は思い出させてくれた」

 

「……そりゃどうも」

 

 

肩をすくめたリョナは酒を一口飲む、別にそんなことを言われてもあまり嬉しくない。

 

 

「それよりも貴様の事だ、リョナ。その力と技、いったいどこで手に入れた?」

 

「ん…待て。お前ら、というかお前んとこの主神って俺が何者か知らないのか?」

 

「…さぁな。ただ俺はお前があの少年の成長の妨げになる邪悪な存在だから消せと言われただけだ」

 

「あ?何でそこでベルが出てくんだよ」

 

「我が主神はベル・クラネルにご執心だ」

 

「…!?」

 

 

衝撃の事実。

ならばリョナが今まで狙われていたのは、ただ邪魔だったからというしょうもない理由。

勿論神として何かを感じたというのも理由としてはあるのだろうが、『神殺しの獣』という概念自体には気が付いていないようだった。

 

(…)

 

今まで、フレイヤファミリアに神殺しだということをばらされないか怯えて生きていた。

だが今解放された、疑われている事に変わりはないが胸のつかえが降りた気分だった…代わりにベルが災難な事を知ってしまったが。

 

 

「あー…悪いが力については言えない、技は…世界中で修業した」

 

「なるほど、道理で面白い戦い方をするわけだ。深くは詮索しない、お前にも都合があるだろう」

 

「助かる」

 

 

一種の信頼を感じながらリョナは笑みを浮かべる。

酒がうまい、それにオッタルの真っすぐな性格は好感が持てた。

全てを語りあえるわけじゃない、それでもかつて殺しあった男たちは肩を揃えて酒を飲み交わす。

やがて酔いも回りとりとめもないことを語りながら、いつしか生活や食事といった余りダンジョンに関係ないことも喋りあっていた。

 

気が付けば一時間が経っている、どこか眠そうな表情を浮かべているハティに気が付いたリョナは席を立った。

 

 

「そろそろ行くわ」

 

「俺も良い気晴らしになった。だが忘れるなよリョナ、次会うときは…」

 

「――あぁー次は俺が奢るから、ここはお前が奢りな」

 

「な…いや、そういう意味では…!」

 

「じゃあなー」

 

 

そう告げるとオッタルの言葉も間に合わずリョナは少女とくまぬいぐるみを抱えカランコロンとドア鈴を響かせて店から出ていってしまった。

残されたオッタルは唖然とした表情でその後姿を見送る、そして大きくため息をつくとカウンターに向き直る。

 

 

「ふっ…全く、おかしなやつだ」

 

「いいのか?見つけ次第という話だったはずだが」

 

「解っている、ダンジョンで会えば容赦するつもりは無い…だが、共に酒を飲むくらい良いだろう」

 

 

新たな愉しみを見つけたオッタルは鼻で笑う。例えそれが主神に逆らう行為だとしても、グラスを片手に新たにできた飲み仲間に思いをはせ、バーの中で一人酒をあおったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




読者の男女比年齢比が気になるお年頃、運営導入してくれねーかなー(他力本願)
ところでゾンビランドサガを見よう、とりあえず7話まで。
あとステイタスはよって言われてたけどもうちょっと待って


では次回ー


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 ラブコメが夢の跡

下ネタの鐘の音
まぁ色々と実験を兼ねて色々した結果がこれですね(言い訳)
うーんとりあえずハティ回ではない、前回可愛い言ってくれた方アリガトウ…ウレシイ…ウレシイ…

ではほんへ


・・・

 

 

 

「狼騎士」

 

 

呟きと共に左手のナイフから装甲が溢れ出す。

鋳造された鎧、視界を覆う蒼炎、濃い神殺しの力は形を成し全身を纏った。

背負った直剣が重さと長さを増す、肉体を包み込んだ鋼鉄は鈍色に冷却されると蒸気を噴き出しながら廃材の鎧へと変化した。

 

その手には巨剣、揺蕩う濃霧の中で青い焔が明滅する。

狼騎士、神殺しの獣は熱気を帯びた息を吐きだすとその鉄製の身体を伸ばした。

 

 

『「…ふぅ」』

 

 

とある日の11階層、霧に覆われた湿地帯に獣は立つ。

周囲には灰化した枯樹、一寸先も見渡せない濃霧の中で狼騎士になった俺は拳を握る。

今日の目的は肩慣らしだ、怪我明けのリハビリを兼ね一人でダンジョンに来た俺は久しぶりとなる狼騎士の力を試していた。

修繕したぎゅるぎゅる丸を使ったカウント稼ぎは極めて捗り、ここに来るまでに相当数の魔石も集まった。

 

(浸食は…まだ、耐えられるレベルか)

 

アルテミス殺害後初めての変化。進化した狼騎士の力を使うことに躊躇いはあったが、万が一の時に使えなくては困る。

見下ろした左手には以前よりも遥かに濃く深い刻印が広がっている、甘い神殺しの誘惑は更に強くなっているが耐えきれないほどではなかった。

 

 

『「…」』

 

 

掌で蒼炎を遊ばせながら俺は背負った巨剣を握ると、ざりざりと背中に擦りながらゆっくりと構えた。慣れた獲物の負荷を確かめながら俺は再び息をつくと、全身から強く炎を強く噴き出した。

ハティは豊穣の女主人に預けているが、夕暮れまでに帰らないと心配されるので長居は出来ない。ここは霧が濃いので目撃される心配は少ないし、まずは匂いで索敵してモンスターを狩っていくのが良いだろう。

狙い目は群れ、色々と試してみたい事があるので手ごたえのある奴が良いのだが――

 

 

『「――!?」』

 

 

吸い込んだ俺の鼻孔に、知らない臭いが()()()()から届く。

振り返った視界、霧に覆われた階層の中でぼんやりと影が浮かび上がる。

それは見上げる程高い巨影、人外の匂いは濃く漂い、そして濃霧を切り裂き地響きをたてて目前へと迫った。

 

翡翠色の堅鱗を纏う鋭い爬虫類種の爪が大地を震わせる。

現れたのは巨大なトカゲ、黄土色の瞳は眼下の狼騎士を睨みつけるように見据え、鋭く長い牙からは長い赤銅色の舌を蛇のように覗かせている。

 

――インファントドラゴン、霧の中に潜む希少な竜種は確かにそこにいた。

 

巨剣を構えた狼騎士は龍を見上げる、階層主ほどの力を持った化け物は本来低レベル冒険者が束になってかかっても勝つことは出来ず、一級冒険者のパーティでしか勝つことは叶わない。

だがこちとら都市最強とほぼ互角だったのだ、鼻で笑った狼騎士は濃い蒼炎を滾らせる。

 

 

『「…肩慣らしには丁度いい、試したい技あるからちょっと耐えろよ?」』

 

 

咆哮する緑龍がそのかぎ爪を振り上げた。

向き合った狼騎士は巨剣から蒼炎を走らせインファントドラゴンに向かう、狼と龍の殺し合いは鉄と爪から生じる火花と共に始まったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

豊穣の女主人、ダンジョン上がりに夕飯を食べに来た俺は酒を飲む。目の前には料理が三人前程度、神殺しの力が最適化(フォーマット)されてきた影響か知らないが最近は腹持ちが随分と良い。

 

 

「あっはっはっはっ!」

 

「むふー!?むふふふぁー!!?」

 

「ごめんねリリ…ごめん…」

 

 

そしてその隣には謝罪をし続けながら食事をとるベルと、何故か縄で縛られ猿轡までされたリリが転がされている。対して向かいの席にはハティがリューに手伝われながら食事をしていた…リューからの申し出で、半ば強引に。

 

さて事の発端に至るには数十分前まで遡る。

ダンジョン帰りのリョナがベルとリリに出会い、夕飯を一緒に食べようと提案したところベルは快諾してくれたのだがリリにはいつものように断られてしまった。

…ので縛って持ってきた、特に意味はない。

 

 

「何だか今日のリョナさん上機嫌ですね、何かあったんですか?」

 

「酒」

 

「いや、会った時点で相当テンション高かったとおもうんですけど…リリも縛ってきちゃうし」

 

「むぐ~っ!!むごごごご…!」

 

「あっはっはっはっは!」

 

 

縄から逃れようともがいて赤くなったり青くなったりするリリの様子を肴に爆笑しながら酒を飲む、いや別にそういう目的で縛ったわけではないのだが。

グラスを机の上に置いた俺は脱力する、息をつき頬の熱さを感じながらリリを見下ろすと猿轡を外しながら肩をすくめた。

 

 

「はー…まぁ何だ、たまには付き合えよ。これからパーティ組むんだし」

 

「ぷはっ!?ならこんな方法とらないでくださいよ!リリにも色々都合ってもんがあるんですから!!」

 

「まぁまぁ。その代わりといっちゃあなんだがここの代金は俺が持つ、それなら問題ないだろ?」

 

「む…まぁそういうことでしたら、ちょっとくらいいいですけども?」

 

 

貸しを作りたくないリリは奢りを避ける、だが慰謝料という事なら話は別なようだ。

縄を解かれたリリは軽く身体を回し解りやすく俺の事を睨みつけ、そしていそいそとベルの隣に軽く触れるように座ると自らの食事をとり始めた。

俺は再びグラスに口をつける、自己満足を鼻で笑うと肉の切れ端を口に入れた。

 

 

「ハティ、あーん」

 

「あー…むっ」

 

 

向かいの席ではハティがリューにご飯を食べさせてもらっている。

休憩中だった彼女が何故そこまで献身的なのかは解らないが、ハティの分の夕食を息で冷ましたり食べさせてくれたりと中々にありがたかった。

 

(何でだろ…まぁ良いけど…)

 

余り子供が好きなタイプではないと勝手に思っていたのだが、実は世話好きだったりするのだろうか。まぁハティの可愛さはヤバい級なので単純に堕ちた可能性もあるのだが。

何てぼんやりと考えていたら不意に尿意を催した。

 

 

「トイレ…ハティはおしっこ大丈夫か?」

 

「むー…だぃー」

 

「ん、いつでも言っていいからな。てわけでリューさんハティのこと見ててくれますか?」

 

「……はい」

 

 

立ち上がった俺は少し酔いの回った頭を振ると歩き出す、バックヤードに続く暖簾へふらつく身体で歩いていくと通り抜けた。

そしてトイレの前までやってくると中に誰もいない事を確認しドアを開け、中に入ってから後ろ手にぱたんと閉じると便座をあげてジーンズのチャックを下ろした。

 

 

「なるほど、それはそういう仕組みになっているのか」

 

「そうなんすよ~何とか再現しようとはしてるんですけど結構難しくて、やっぱりもっと鉄への見聞を深めていかないと…えっ」

 

「あぁ私にはお構いなく、何なら用を足しながらでも構わない」

 

「いやいやいやいや」

 

 

狭い個室の中、気が付かぬうちに一緒に入ってきていたリューに俺は首を振る。緑髪のエル

フはいつものように澄ました顔で目と鼻の先に立っており、狭いトイレの中で膝先が触れる程の至近距離で俺の事を見つめていた。

 

(いつのまに…)

 

いくら酔っていたとはいえ全く気が付かなかったが、そもそもここはトイレであって、お一人様専用の個室である…まさかついてきているとは思わない。

 

 

「あの…ハティは?」

 

「大丈夫です、残った二人に任せた」

 

「あぁまぁそれならいいんですけども…」

 

 

疑問は残る。

至近距離に立つリューから半歩離れようとした俺の(かかと)にトイレがぶつかった。

綺麗な肌が近い。かなり非常識な行動をとっているリューは動揺した様子も無く俺の顔をサファイア色の瞳でまっすぐに見上げてきており、リューの甘い匂いと酔いで何だか頭がクラクラしてきた。

 

 

「それで、何故ここに?」

 

「…実は折り入って話したいことが」

 

 

トイレで、折り入って。

出来ればもう少し場所を選んでほしかった…あるいは本当にトイレのお悩みなのだろうか、水のトラブル的な。

 

(詰まりが悪い…つまりリューさんのお水トラブル?)

 

トイレと結びつけて考えるとどうしても下ネタになってしまう摂理。

多少呆れながら俺はリューを見下ろす、表情の変わらないエルフは重く口を開くと遂に要件を告げる。

 

 

「端的に言おう」

 

「はい」

 

「――あなたには、()()()()()()()()()()()()手助けをしてほしい」

 

「…はい?」

 

 

予想外なのが来た、少なくともトイレとは関係なさそうだ。

 

(あー…?)

 

見ていればシルがベルの事を好きなのは解る、だがそれをリューが手助けしてほしいと言ってくるのはおかしい。

リューを見下ろした俺は眉を顰める、正直事態は全くと言っていい程飲み込めていなかった。

 

 

「というのもシルはいわば私の恩人でして、何とかして彼女の恋愛を応援してあげたいのですが…生憎と、私は今まで異性と付き合ったことがない。恋愛経験のない私では力不足だ」

 

「…つまりリューさん、今まで一度もの男性経験がないと?」

 

「はい。今まで言いよられたことは少なからずあるのですが、知らない方と付き合うつもりは無かった」

 

「へぇー」

 

 

つまりシルとベルの恋愛の手助けをしたいが自分は恋愛経験がないためどうすることも出来ず、まずは自分が恋愛について知ろうと思ったと。

 

(…んー)

 

二人の関係、というかベルの周りの女性関係は複雑だ…具体的に言うとフレイヤファミリアあたりが。

まぁアドバイス程度なら問題ないと思うが、もし介入するならば慎重な立ち回りが要求される、下手をすればまたオッタルとの戦闘になりかねない。何より見下ろしたリューさんの表情を見れば相当困っているようだし、断ることもしづらかった。

 

 

「…ん、でも何で俺なんだ?恋愛ってんなら他の従業員連中に聞けば俺より断然詳しいと思うんだが」

 

「いえ彼女達には明かせません、このことはシルの秘密ですから。その点あなたならば口は難いでしょう?」

 

「そりゃご信頼どうも」

 

「…それに私にとって初めて興味を持った異性の友人だ、あなたなら信頼できる」

 

「おぅ」

 

 

それだけ信頼されていると知ると少し嬉しい、肩を降ろした俺は苦笑を浮かべる。予想外の相談ではあったが困っているというのなら手助けするのもやぶさかではない…まぁ俺も別に恋愛マスターではないのだが、一般常識からアドバイスくらいは出来るだろう。

俺は上目遣いのリューに笑む、ハティの世話をしてくれている彼女に何か恩返しが出来るのならぜひ返したかった…トイレだとか色々とツッコミ所は多いのだが。

 

 

「お願いだリョナさん、私に協力していただけないだろうか?」

 

「まぁ俺でよければ」

 

「ではさっそく」

 

「ん~!?」

 

 

リューに腕をガシリと掴まれる、狭い個室の中では逃げることも出来ずそのまま力強く押し倒されると俺は強引に便器に座らされた。

物凄い握力に押し倒されたことに驚く間もなくリューの細い脚が俺の膝の上に乗ってくる、柔らかな感触が太腿を覆い、胸板に掌が乗せられると同時にその顔がぐっと近くなった。

 

 

「な、何をするおつもりで!?」

 

「性交渉ですが?」

 

「ド直球(ストレート)!」

 

 

いっそ漢らしい。

まさか俺が女に犯されそうになる日が来るとは思いもしなかった。

というか展開が飛躍しすぎて流石の俺もついていけない。回される腕が首筋を撫で、至近距離から見える唇の桜色がやけに鮮やかに映えていた。

 

 

「何故っ!?」

 

「何故と言われても…愛を育む行為と聞いたのですが?」

 

「確かに育まれるけども!取り返しのつかないものも育まれちゃうから!」

 

「つまり愛は取り返しのつかないものだと…なるほど、深い」

 

「納得しないで!?」

 

 

首を傾げるリューにツッコミを入れる、どうやら本格的に恋愛偏差値と性知識も無いらしい。

膝上に美女を乗せたまま俺は呻く、自分の中にあった彼女のイメージが音をたてて崩壊していった。

両腕を拘束されたまま俺は息をつく、多少の呆れを感じながら眉を顰めているリューを見下ろすと困ったような表情を浮かべて見せた。

 

 

「というか愛を知るために性行為って…」

 

「やはり実践して学ぶことが最善だと思いましたので」

 

「それ最終実技!というかシルにはそんな生々しい手助けじゃなくて、お付き合いするまでの手助けを考えれば良いのでは!?」

 

「はっ……なるほど勉強になる、流石ですねリョナ。では性行為をする必要もない」

 

「ないわ!」

 

 

何とか解ってくれたらしい、やっとリューの拘束が外され腕が自由になる。

そりゃ美人を抱けるというのなら男としては据え膳だが、ハティもいる中できちゃった婚とか最悪だし、手を出したとか知れたらミア母さんからぶち殺されるし…口ぶり的に初めてなのにトイレじゃまずいだろう。

 

(人は見かけじゃねぇな…ホント)

 

アイズ然り、ヘスティア様然り、残念美人しかいないのだろうかこの町は。

膝上に乗せたリューを見ながら俺はやっと肩の力を抜く、お尻と太腿の感触は変わらず危険だが少なくとも貞操の危機は去ったようだ。

 

 

「んっ…」

 

 

膝先がリューの股下を通り抜ける、その細い肩がピクリと反応し声が漏れた。

…動き辛いし降りてくれると有難いのだが、膝先に乗った彼女は顔を上げる。

 

 

「しかしシルの手助けをしたいというのは本当なのです。リョナさん、私に男女の恋愛についてご教授いただけないだろうか?」

 

「…いやまぁだから、俺で出来る範囲でなら手助けしますけど」

 

「本当ですか!では明日からよろしくおねがいします、リョナ!」

 

「…明日から?」

 

 

そう言うとリューは笑う。

どこかその笑みは微かな朱を帯びており、自然と握られた拳が自分ですら気が付かないほど小さく高鳴る胸の前に持ち上げられたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「じゃあハティ、行ってくるな」

 

「んぅ…」

 

 

とても辛い。

次の日、豊穣の女主人。俺は休憩室のドアでしゃがみ、くまのぬいぐるみを抱えた少女の頭を撫でる。

普段は嬉しそうにしてくれる頭撫でも、今のハティ悲しそうに俯き太い尻尾もしょんぼりと垂れさがってしまっている。

 

(あ゛あ゛ああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?)

 

少女の影った顔を見ているだけで物凄く辛い、吐きそうだ。

ハティを預ける時はいつも悲しい、誰が好んでこの子に寂しい思いをさせるか。

願わくばずっと一緒に居てあげたいが、そういうわけにもいかない。

それでもこの子を不安にさせないよう笑顔を浮かべて見せる、最後にその小さな身体をぎゅっと抱きしめると後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。

 

 

「じゃあ頼む、アーニャ」

 

「らにゃ!さーぁハティ、向こうでおねえちゃんと一緒に遊ぶにゃー!」

 

「んむ…にゃー」

 

 

休憩室の中にふらふらと歩いていくハティの背中を見送ると俺は振り返る。一歩ごとに激痛を覚えながら何とか店内を横切ると、カランコロンと音をたてて入り口から外に出た。

昼間、街道には多くの人々が歩いている。生憎と今日は白く曇っており、ダンジョンには関係ないが何だか一雨降りそうだった。

歩き出した俺は重く息を吐く。ただでさえハティの別れは辛いというのにこれから行くのは()()()()()()()()()、まるで騙しているようで俺の気持ちは重く沈んでいた。

 

 

「はぁ…」

 

 

人の流れに沿って道を歩いていく。

以前よりもはるかに良くなった嗅覚で町の匂いを嗅ぎ分けながら俺は菓子の売られている露店を眺め、知らない道に踏み込んでは新しい景色に瞬きした。

暗い路地裏を通り抜けると街道に出る。人通りの少ない並木道は明るく、風にざわめく広葉樹の緑色が濃く雑音を鳴らしていた。

 

 

「…」

 

 

石造りの街並み。見渡した視界の彩は鮮やかで、丁度道の交差点にあたるところには噴水がある。

静かに水を噴き上げている円形のアーチは薄い光を反射させており、水しぶきの中には微かに虹色が浮かんでいた。

 

噴水を背に設置されたベンチに緑髪のエルフが一人姿勢よく座っている、手のひらサイズの小さな書籍を片手にした彼女は縁の広い黒眼鏡をかけておりその頭にはベレー帽を乗せていた。

そのコーディネートは袖をまくった白いオーバーシャツと白黒ストライプのインナー、脚のラインが良く解る黒く細長いパンツ、ラフなスニーカー。

眼鏡をかけたその装いはどこか知的で、涼し気なその衣装は美しい石の町の中で一番鮮やかに見えていた。

 

 

「どうも」

 

「あぁ、リョナ」

 

 

声をかけるとリューは手にした小説から視線を上げる。

文庫本をぱたんと閉じた彼女は立ちあがる、薄い小説をポケットの中に入れて上体を逸らした。

 

私服なのか、いつもと雰囲気の違う気の抜けたリューは息を漏らす。

眼鏡の位置を直したエルフは俺の事を見上げ、いつも通りの凛とした表情で姿勢を正した。

 

 

「…待たせたか?」

 

「いえ、今来たところです…こう言えば良いのですか?」

 

「普通は男が言うもんかと」

 

 

俺は再びため息をつく。

今日はリューさんとデートだ、ダンジョンに行くふりまでして作り出した時間は苦しみで出来ている。

約束した手前断れなかったデート。ハティを豊穣の女主人に預け、休みをとったリューと待ち合わせた俺は恋愛について教えることになっていた。

というのもいきなり性交はありえないが『実践して学ぶ』ということは存外間違っていなかったりする。恋愛というものを知るためにデートをしてみるというのは、まぁ経験として悪いことではないだろう。

そんなこんなで遊びにいくことになった。

 

 

 

「…」

 

「…ん?あぁ…」

 

 

碧眼にジッと見つめられ気が付く。

このデートはあくまで勉強なのだ、よっていわゆる『テンプレ』と呼ばれるものをしていかなければならない。

俺にラブコメの知識など毛ほどしかないが、デートで男が女の服を褒めるということぐらい知っている…というかかなり気合を入れているようだし、わざとらしく服の端を振ってみたり普段はしないような露骨なアピールを俺にしてきていた。

 

 

「あー…リューさん今日は私服かー、可愛いなー」

 

「ふふ、ありがとう。…なるほど、服程度と思っていましたが褒められるとそれなりに嬉しい」

 

「まぁ、相手にもよるけどな。俺の妹曰く好きでもない奴に服を褒められても全然嬉しくないらしいし…まぁ当たり前っちゃ当たり前だけど」

 

「ほう、妹がいるのですか」

 

「…だいぶ変人だけど一応」

 

 

変人というか変態だが。

満足したらしいリューは笑みを浮かべ軽く俺の肩に触れる。ずれていたコートの端を丁寧に持ち上げ直し、軽くぽんぽんと叩いた後腕を下ろす。

 

 

「では行きましょうか、リョナ」

 

「はいよ」

 

 

彼女と共に歩き始める、こうして心なしかテンションの高いリューとのデートは始まったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「時に質問なのですが」

 

「あん?」

 

「ハティもコウノトリに運ばれてきたのですか?」

 

「…あー」

 

「冗談です」

 

 

隣に歩く彼と雑談を交わしながらリューはふと男を見上げる。

渋い顔をしている彼は背が高い、身に着けているコートの下にある身体はちゃんと戦うための身体をしていた。

着痩せして見えるが自分よりも一回り大きい肩幅は男らしい…のだろうか、この前イーミンが熱く対格差の良さについて語っていたがリューには良く解らなかった。

 

 

「ところでどこか行きたい場所とかあるんです?」

 

「えぇ、一応私の方でも勉強して幾つかの候補は決めてきました」

 

「…もしかしてさっきの本」

 

 

ポケットには恋愛小説が入っている、創作の中の恋愛ではあるが男女のデートスポットは幾つか把握できた。

 

 

「まずはここです」

 

「あぁ、本屋」

 

「はい、互いの趣味を知ることもできるし実用的でもある」

 

 

暫く歩き辿り着いたのは小さな古書店、開け放たれた店内に並べられた本棚にはひなびた本が幾つも並べられており、おすすめなのかたてかけられた一部の本は表紙の挿絵が見えていた。

二人が店の中に入ると静かな古紙の匂いに包まれる、店奥のカウンターにはエプロン姿の女性店員が一人腰かけ本を熟読しているようだった。

 

 

「…何か気になる本はありますか?」

 

「そうだなぁ、ハティに新しい絵本でも買っていこうかな」

 

 

無数に並ぶ本の中をゆっくりと彼と歩きながら言葉を交わす。

気になる本の前で立ち止まったり、時折手に取って確かめたりした。並んで本を読む、肘が触れたような気がしたがお互い何も言わなかった。

 

 

「読み聞かせたりはするのですか」

 

「寝る前に少しだけ。面白そうに聞いてくれるんだが、くてんって感じですぐ眠っちゃうんだよなぁ」

 

「ふふ、それはまた可愛らしい」

 

 

共通の話題はおのずとハティについてのことになる。

豊穣の女主人でのハティや、逆に家でのハティの様子を尋ねながらページを捲り文字に目を通していく。

 

 

「お、この本とか面白そうだな」

 

「何という本です」

 

「鬼将軍ノッブvs痴将ミッツン!真夏の本能寺裏徒競走対決!」

 

「…それ本当に面白いのですか?」

 

「パッと見た感じラストは涙無しには見られませんね、特にノッブが溶鉱炉に落ちかけたミッツンを助けたところは最高だった」

 

「溶鉱炉?」

 

 

とはいえ買わないらしく本棚に絵本は戻される、結果的にはそっちの方が良いのではなかろうか。

結局何も買わずに店を出る、冷やかしになってしまったが店員は私達が店に入ったことにも気が付いていなさそうだった。

 

 

「さて、本屋はどうでしたか?楽しかったですか?」

 

「まぁ刺激的かって言われると微妙かもしれんが普通に楽しかったかな、ベルも最近本は読んでるらしいし候補としてはアリかと」

 

「なるほど」

 

 

再び歩き出しながら評価を聞く。

少し道を眺めながら考えると尋ねた。

 

 

「刺激と言いましたが、やはり必要ですか?」

 

「まぁそりゃあ相手に意識してもらうためにはドキドキしてもらう必要がある。魅力のアピール然り、ときめかせるってことも重要になってくるのでは」

 

「ときめき…具体的には?」

 

「んー…軽めのボディタッチとか、ふとした瞬間の優しさとか。でもまぁそれは人によると思うし、ある程度演出できるもんかと…あぁそういえば壁ドンなんてもんもあったな」

 

「…壁ドン?何です、それは」

 

 

彼から話を聞く、何でも壁ドンというものは意中の相手を壁に押し付け顎を持ち上げ告白する手法らしく、多少強引な手段ではあるが密着度が高くなり、顔も近づくためときめき指数も高くなるらしい。

 

 

「そんなことでときめくのですか?」

 

「まぁ一部人間は」

 

「では試してみましょう」

 

 

そう言って民家の壁を背に立つ。

姿勢を正し、まっすぐにリョナの事を見つめると私は気合を入れた。

 

 

「さぁ、私に壁ドンをしなさい!」

 

「えぇ…言われてやるもんじゃ…」

 

「早く、時間は有限だ」

 

「あっはい…」

 

 

困惑していた彼だったが渋々といった様子で近づいてくる、そしてゆっくりと息を吐きだし視線を合わせるとドンと壁に左手をつき身体を寄せてきた。

顔が近づき自然と肩がビクンと跳ねる、真剣なその目線はまっすぐに自分のことを見つめており、両足の合間に挟み込まれた固い膝先に下半身が捕まえられてしまった。

右手が伸びてくる、露骨過ぎず肩に触れた指先がつー…と首筋をくすぐったく撫でてから顎先をくいっと持ち上げられた。

 

 

「…俺のものになれよ」

 

「なりませんが?」

 

「ですよねー」

 

 

耳元で囁かれた言葉を断ると、密着していた彼は身体を離しがっくりと肩を落とした。

若干乱れた服を戻した私は息をつく、それでも心臓は今更になって自分でも解るくらい動悸を速めていた。

 

(一瞬…ですが)

 

逃げようと思えばいつでも振りほどけただろう、だが顎を触られ視線を合わせられた瞬間私は身体の動かし方を忘れてしまったかのように立ち竦んでしまった。

それが触れ合わんばかり近い顔のせいか、あるいは顎を触られ勝手に持ち上げられるという行為によるものかは解らないが確かに動揺したし、彼の言うようにときめいたのかもしれなかった。

 

少なくとも壁ドンというものが何かは解った私は頭の中で情報をまとめる、赤面を隠すように口元に手を当てると俯きがちに歩き出すと小声で呟いた。

 

 

「…なるほど、確かにこれは効果的なようだ。シルにも教えねば」

 

「あっ、ちょっ速っ!?」

 

「行きますよリョナ、次はお茶を飲みに行きましょう」

 

 

次の目的地へ向けて早足に歩き出した私は彼の足音を背後に聞きながら、頬の熱が引くまで逃げ続けたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




リューさんと何か関係結ばないとなーって思ったらこれしかありませんでしたわ
結構中途半端な終わらせ方しちゃいましたが後のデートはご想像にお任せします

では!


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 アントダウン

書きたかったことを小出しに、短いし拍子抜けかも解らんね
というかデータが飛んで若干萎え気味なのはある、おのれマイクロソフトいつもありがとうございます絶対に許さんからなお前()

ではほんへ



・・・

 

 

 

「最近うちの娘が可愛すぎて辛い」

 

「ハティちゃんですか?」

 

「聞いてくれよ…今朝なんて起きたら俺の胸の上で涎垂らしててさ、頭撫でてあげたら幸せそうな寝顔でぎゅって抱き着いてきてさぁ!

 

 

ダンジョンを歩きながら隣のリリと会話する。

目の前には索敵しているベルが警戒しながら先行しており、第9階層の通路を降りながら下の階層を目指し歩いていた。

今日は初めて組んだ三人パーティでの試運転だ、中層である13階層の一歩手前まで行く予定だった。

 

 

「ハティ可愛いよハティ…」

 

「はいはい可愛い可愛い」

 

「今日は何か買ってってやろうかな…いや早く迎えにいってやったほうがいいのか…」

 

「ちょっとリョナさん、ぼっーとしてると危険ですよ。いくらベル様が警戒してくれているからと言ってそんな調子じゃ…」

 

「大丈夫だって、そんな不意打ちとか滅多にな――ゴブォッ!?」

 

「ほらー!油断してるからー!」

 

 

その横腹に何かが勢いよく激突する、ベルなどと違って鎧を着ていないリョナは体内の空気を全て吐き出さされた。

やけに勢いの良い物体はそのまま男の身体を吹き飛ばす、尻餅をついたリョナは激痛に呻くと声を漏らしながら転がり始めた。

 

 

「敵ですか!?」

 

 

先行していたベルがナイフを構えながら戻ってくる、そしてリョナにぶつかったそれを見下ろすと困惑した表情を浮かべ刃先を下ろした。

そこにいたのは…何か良く解らないどこかウサギのような形をした肉の塊だった、血を流しているそれには短い手足と小さな目がリョナのことを見つめており、他二人が見る前に蒸発してしまった。

そして一瞬の逡巡の後ベルは振り返ると、倒されたリョナをリリが介抱しているところだった。

 

 

「ちょっとリョナさん、傷は浅いですよ。早く起き上がってください」

 

「…よっと。ゴラァ!どこ見て走ってん…ってあれ、ベル今ここに何かいなかったか?」

 

「え、あー…いたんですけどすぐ逃げちゃいました、何かまではちょっと」

 

「ん、そうか…」

 

 

見たことも無いモンスターの説明しようがなかったベルは咄嗟に嘘をつく、どこか兎のようにも見えた肉塊の姿を思い返し首を傾げると、痛そうに横腹を抑えたリョナを見た。そんなベルにリリが小声で喋りかける。

 

 

「…あの、ベル様」

 

「何、リリ?」

 

「リョナさんについて何ですが、明らかにおかしいです」

 

「…何が?」

 

 

そう言うリリの表情は深刻だ、ベルは再びリョナの事を見ると別に普段と何も変わらないように見えた。

 

 

「見ていて解らないのですか、さっきの体当たりだって以前のあの人だったら絶対に避けれていたはずです」

 

「う、うーん…リョナさんでも油断することはあるんじゃないかな?」

 

「それはそうかもしれませんけど…この前だって私を縛ったり…何というかそのテンションがおかしいんです、いつもどこか上の空というか」

 

 

なるほど確かに、言われてみればテンションが高かったりぼっーとしてみたりと以前とは違う。時折ふざけることもある人だったが、ここまで気の抜けたような雰囲気は無かったはずだった。

 

 

「でも何でだろ、リョナさんがおかしくなっちゃう理由か…」

 

「いや理由自体は明らかだと思うのですが…」

 

「神様だったら解るかな」

 

「あぁ…まぁ確かにあのお方ならぬるっと解決してくれるかもしれませんね」

 

「おい二人とも、何喋ってるかは知らんが――来てるぞ」

 

 

先程何かが突っ込んできた通路をリョナが指さす。暗いその通路には何もいるようには見えなかったが、耳をすませば確かにモンスターの蠢く足音が遠くから聞こえてきていた。

瞬く間に大量のキラーアントが通路に溢れ出す。ガチガチと牙を打ち鳴らす蟻たちは敵意を剥き出しにしてまっすぐにこちらを睨みつけており、かつて多数のキラーアントに襲われたリリがビクンと肩を震わせたのが解った。

迫る蟻たちを前に全員が自らの得物を構える、直剣を肩に構えたリョナが指示を出した。

 

 

「前線はベルと俺、リリは下がって援護。俺は下がって戦うから背中は任せろ、暴れてこいベル!」

 

「はいっ!行ってきます!」

 

 

白兎が弾丸のように駆けだす、迷いなくキラーアントの群れに中に突っ込むと蟻の反応速度を遥かに超えた動きで食い破った。

無駄の消えたその疾風迅雷の如く動きは両橋夏目に師事したことが大きい、自己流ということに変わりないが細部を見直され、加えてレベル2となった彼は今では中層までのモンスターでは敵なしとまでになっていた。

キラーアントたちに囲まれながら少年はナイフを振るう、その度蟻の悲鳴と共に粘液が飛び散った。時には蹴りや跳躍を駆使したその闘法は以前よりか様になっており、一切の油断のない真剣さも相まってか鬼神のような働きに見えた。

 

一切攻撃の当たらない、逆にどんどんと仲間が殲滅されていることに恐怖したキラーアント達の数匹が白兎以外の二人を見つけ近づいてくる。

リリがクロスボウに重矢を装填するのを横目に、リョナは一歩を踏み出した。

 

 

「フンッ!」

 

『ギシャッ…!?』

 

 

振り下ろされた直剣がキラーアントの硬皮を切り裂き、叩き潰す。

その巨躯から繰り出される一撃は重く、アルテミスを殺したことで更に進化した肉体は例えカウントを稼がなくても人間という枠組みを遥かに超えていた…その恩恵を別にしても。

 

駆けてきていたキラーアント達が仲間の死に足を止める、死骸から直剣を持ち上げる男の姿を見上げると流れるような動きで白刃が振るわれた。

最効率の斬撃が蟻達を纏めて数匹葬る、白兎よりは遅いが力に重点を置いた連撃は次々とキラーアントを駆逐していった。

 

――ズドンッ!

 

リリから放たれたボルトがリョナの背後を飛びかかろうとしたキラーアントの腹を貫き弾き飛ばす、深く背中に矢が突き刺さった蟻は数メートル吹き飛ぶと痙攣の後絶命した。

目の前に迫った蟻達を手早く殲滅したリョナがベルに追いつく、強靭な顎で少年の足に噛みつこうとしていた一匹の首を刎ねとばした。

 

 

「呼吸が乱れてるぞ」

 

「はっ…はぁっ…まだまだっ!」

 

「はっはっは、無理すんな」

 

 

ベルの動きは良くなったがそれに体格と呼吸と言った基本的なところが追い付いていない、今以上の戦いをするならばもう少しスタミナが必要だろう。

それでもリョナのフォローが入り負担が減る、交差し輪を描いた二人の斬撃は小人族の慎重な援護の中蟻達を狩っていった。

瞬く間に蟻達の数が減っていく、そして最後の一匹、築き上げた魔石と虫の死骸の山の中で一際大きな個体にリョナから伸びたワイヤーの先端が蟻の身体を貫いた。

 

 

「ベル、トドメッ!」

 

「っ…!」

 

 

鋭利なワイヤーをスライディングで通り抜け飛んだベルがそのナイフを蟻の身体にねじ入れる、力を込めて回すと蟻は弱々しく痙攣した後絶命した。

少年が蟻の身体からナイフを引き抜く、霧散した肉体から転がり落ちた魔石を拾い上げたベルは振り返る。

良い連携だった、初めてのパーティは確かな確信と共に次の階層へと再び進み始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「あー…親の自覚ってやつじゃないかな?」

 

「親の自覚?」

 

 

昼下がりのヘスティアファミリア本拠地、地下室のベッドにうつぶせになったベルは腰の上に乗ったヘスティアに最近どうも様子のおかしいリョナについて相談していた。

その背には赤いステイタス画面が浮かび上がっており、ヘスティアが両指で操作するたび数値が激しく変動しているように見えた。

 

 

「ほら、リョナ君っていきなり親になったじゃない?だから本来親として感じる自覚ってやつがまとめてやって来ちゃったんじゃないかな、いわゆる親バカってやつだね」

 

「…それで、どうすれば良いんでしょうか?」

 

「んー…愛情が暴走してるともとれなくはないけど別にそれ自体は悪いことじゃあないからなぁ。まぁ一時的なものだと思うし、放っておけばそのうち収まるとは思うけど…っと、ステイタス更新終わったよ!今日も良く頑張ったね!」

 

 

腰の上からヘスティアが降り自由になったベルは身体を起こす、シャツを着た少年はヘスティアからステイタスを写された紙を受け取ると眺め始めた。

 

 

「次、リョナ君!君ここ数週間ステイタス更新してないんだからちゃんとしていきな!」

 

「はいよ」

 

 

振り返ったヘスティアはソファの上でハティと遊んでいたリョナに声をかける。立ち上がったリョナに続いてハティが床の上に降りる、ベッドに向かうリョナに追いつこうと小さな歩幅で走り始めた。

上着とシャツを脱いでリョナはその傷だらけの身体をうつぶせに横たえる、その後ろをトコトコとついてきていたハティもベッドによじ登ると上裸の背中を見下ろした。

そしてヘスティアの真似なのかリョナの腰の上に座ると、ぺたぺたとその筋肉質な背中を触り始める。

 

 

「ハティちゃんも手伝ってくれるの?」

 

「おー…」

 

「そっかぁありがとう、じゃあお姉ちゃんと一緒にやろうか!」

 

 

ヘスティアもハティの真後ろに腰かけるとその小さな頭越しに神血(イコル)を一滴垂らす、するとリョナの背中に封入されていたステイタス画面が浮かび上がり、赤い神聖文字(ヒエログリフ)が幾何学模様を描いた後展開された。

目の前に広がった光の文字列にハティは目を瞬かせる、行使されている魔法に興味津々といった様子で手を伸ばすが赤い粒子は指の合間をすり抜けてしまいホログラフのように触れることは叶わなかった。

 

 

「…なー?」

 

「えっとこれは僕の与えた恩恵だよ。これがあるおかげで眷属はダンジョンでも生き残れる力まで成長…を…」

 

 

ハティへ恩恵を説明しながらステイタスの更新作業を行っていたヘスティアが言葉を詰まらせる、見下ろした神聖文字を凝視したままその指が止まった。

確かめるように何度も文字を目で追い間違いがないことを確認すると、考えるように遠くを見つめた後再びステイタス画面の操作に移った。

そして微かに震える手でステイタスを紙に写し取ると、立ち上がる。

 

ステイタス画面の消えた背中にハティが飛びついた、そのまま起き上がるリョナにおんぶされた少女は嬉しそうに尻尾を振っていた。

 

 

「それで、結果はどうでした?」

 

「…これ」

 

「…!」

 

 

手渡された紙を覗き込んだリョナが目を見開く、そこにはヘスティアが言葉を失うのも納得の理由があった。

 

――ランクダウン、消えることのない神と眷属の絆は変調をきたす。

 

大幅なステイタスの減少、以前と比べ二分の一になった数値は駆けだし冒険者のそれと変わらない。

神殺しとしての成長は以前よりも強くなった肉体はつまり、恩恵さえ消しさる。

 

両橋夏目、レベル1、神殺しの獣。例え偉大な冒険をしたとしてもそれは神に捧げられることは無い、あるのは化け物としての成長のみ。

繋がったパスさえも食い潰すその力は…確執の証明であった。

 

 

「…さては、サボりすぎたんじゃない?リョナ君にはもっと頑張ってもらわないとなぁー!」

 

「…そうかもな、最近ダンジョンには入ってなかったし」

 

「もー!ハティちゃんだっているんだからしっかりね、最近気が抜けてるんじゃないかい!」

 

 

それでもヘスティアは変わらず笑う。

それは両者とも事実から目を背けているだけなのかもしれない、それでもこの縁だけは変えたくなかった。

ふっとヘスティアの表情が悲し気な微笑みに戻る、見上げたリョナを数秒見つめるとゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 

「君は…君なんだから、それで良いんだよ」

 

「…えぇ、解ってます」

 

 

…それだけではすまない運命は、既に絡まり始めていた。

蒼い火は自らを鎮めようと努める、それはその力で大切な存在を傷つけないようとするため。

それでも神殺しの成長は止まらない、例えその先に待つ運命が黄昏であったとしても決して止まることは無いのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




というわけでレベル2にはならないです(二つ名考えたくなかったわけじゃない)
とはいえ身体能力的にはレベル2、3相当ということで人間は辞めてる。
まぁ今回は未来への布石だからボリューム少なくても仕方ないね、その代わり次回は…次回は真冬に夏回だ!海行くべ海!

ではでは


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 メレン

クリスマス気分で真夏回を書きました、クリスマスは実家でした、以上です
頭空っぽにして、ほんへ


・・・

 

 

夏がやって来た。

少し前まで感じていた肌寒さが嘘のように冒険都市にはうだるような暑さが到来し、クーラーなどあるわけない人々は汗ばんだ身体で溶けながら残酷にも地上を照り付ける太陽を睨みつけていた。

今年はどうやら稀に見る猛暑らしい、日本と違って湿度が高くないのが救いだがそれでも暑いものは暑かった。

 

 

「~♪」

 

 

カラッと晴れた青空の下、一人手綱を握った俺は馬車を走らせながら鼻歌混じりに静かな振動を楽しむ。

正直こういう形での馬の扱いは初めてだったが速度もそこまで早くないし、何より馬が道を覚えているらしく手綱を握っているだけで前の馬車についていってくれるようなので楽にすんだ。

 

草原の街道を馬車が行く、見渡しの良い草原は長く小高い丘のようになっている。

強い風の吹く草原はジリジリとした炎天下の中でも涼しく、身に着けたTシャツの下にはうっすらと汗が滲む程度だった。

遠くを見れば深い森が見える。オラリオから東に半日ほど馬車を走らせた草原には何もなく、ただ馬車用の(わだち)がどこまでも丘向こうの入道雲へと続いているだけだった。

 

 

「…ぱー」

 

「ん、なんだハティ?」

 

「これー」

 

「お、ありがとう」

 

 

馬車の(ほろ)から御者台に顔を出したハティがその小さな指でつまんだクッキーを差し出してくる、シルから借りたシュシュで高めのポニーテールにした愛娘の姿は可愛らしい。

手綱を握ったまま俺はクッキーを口で受け取ると食べる、笑みを浮かべながら開けた片手で小さな頭を撫でると満足げにむふーと息を漏らしまた幌の中に戻っていった。

 

(元気そうで何より)

 

馬車酔いとか心配していたのだが今のところ問題無いらしい、クッションを持ってきているのでお尻が痛くなることはないだろうがそれでも長く馬車にいて疲れてしまわないかは心配だった。

ちらりと後ろを振り返る、幌の切れ目から覗いた馬車の中には六人。右側の席に膝の上にハティを乗せたリューとその奥には馬車酔いしてダウンしたイーミンを介抱しているコハル、左奥には自分の荷物を漁っているアーニャと何やらぶつぶつ呟いているエイナの姿があった。

 

二泊三日の海旅行、猛暑の中で集まった俺たちは観光都市『メレン』に馬車を走らせている。

 

海に行こうという話になった時俺はとりあえず知り合い全員に声をかけたのだが思いのほか人数が集まったものだ、前の馬車にはベルとヘスティア、リリ、そしてシルが乗っており空いたスペースには荷物を纏めて乗せていた。

脅威の女性率八割強、男の知り合いというとオッタルぐらいしかいないし既に11人というかなり大所帯だ、これ以上の増員は望ましくないだろう。

ともあれ楽しみであることに変わりはない、海遊びなど久しくしていないしハティに海を見せられる楽しみもあった。

 

 

「…第一違反なんですよ違反、冒険者を都市の外に出しただけでも懲戒免職ものなのにそれに同行とか…同行とか…!」

 

「まだ言ってんのかよエイナ、お前海行きたくないのか?」

 

「そりゃ行きたいですけど!ギルド職員としての使命がぁ~!」

 

 

呻いているエイナに肩を竦め俺は御者の仕事に戻る。

何でも一般人よりも遥かに力の強い冒険者達は世界情勢のパワーバランス的にあの都市から出ることが原則禁止されているらしい、ぶっちゃけた話今回の旅行は規則違反なのだがアイズみたいな有名人ならまだしも無名ファミリアの低レベル冒険者が数人居なくなった程度気が付かれるはずもなかった。

 

再び前方に視線を向けた俺は欠伸混じりに手綱を握る、そろそろ変わらない景色にも飽きてきた。

それに体力的には問題ないが振動で尻が痛い、これから泳ぐと考えると中々痛い。

そろそろ退屈になってきた、ぼんやり考えていると前の馬車の幌から白い頭が飛び出した。

 

 

「ん、どうしたベル?」

 

「御者さんからの伝言でっ、もう少しで着くらしいですっ」

 

 

前の幌から顔を出したベルが必至な表情で伝言を告げ、まるでゾンビに掴まれた生存者のようにまた引き戻されていった…中の様子は想像に難くない。

前方に目を向ける。緩やかに続いていた丘陵は遂に終わりを告げ、なだらかな下りへと車輪が入る。

 

 

「…!」

 

 

瞬間、視界が広がる。

代り映えしなかった草原の彼方、横に広がる群青色の輝きとその麓に見えるカラフルな街並み。

見えたのは観光都市メレン、その奥に広がる雄大な――海。

 

 

「ハティハティハティ!」

 

 

慌ててハティを呼ぶ、振り返って幌を捲るとハティはリューの隣でくまぬいぐるみと戯れているところだった。

ぴくりと獣耳を反応させた少女が首を傾げる、腰かけていたクッションからおりて近づいてくると御者台によじ登り座った。

 

 

「なー…?」

 

「あれが海だぞ!海!」

 

「…?」

 

 

まだ遠いが数キロ先に見えた輝きを俺は興奮気味に指さす、俺の隣に腰かけた少女は背筋を伸ばしその紅い瞳にキラキラとした輝きを写すと…疑問符を浮かべて固まってしまった。

事前に多少説明はしているが、確かに初めて海を見たとしてそれが何かを理解できるとは限らない。

町へ続く緩やかな坂を下る馬車を操りながら俺は少女に笑いかける、徐々に広がっていく大海原を眺めると不意に運ばれてきた潮風がぴりぴりと鼻先をくすぐったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「では二日後にまた来やす、楽しんでー」

 

「おう、頼んだ」

 

 

支払いを終えた馬車業者のおっさんに手を振り二台の馬車が連なって去っていくのを見送る、後続の馬車に誰も乗っていないのを見るあたり本当に手綱を握っているだけで良かったらしい。

振り返ると自分の荷物を取り上げる、はちきれんばかりに物の入れられたリュックサックは重い。すぐそばには麦わら帽子を被ったハティがキャミソールワンピースと熊ぬいぐるみの上半身が覗くシンプルなポーチという出で立ちで俺の事を見上げていた。

 

メレン、町はずれのキャンプ場。林にあるあまり人気のない宿泊地にはまばらにテントが張られており、その奥の森林手前のスペースには何件か木造のコテージが建てられていた。

今回の旅行中はこのコテージを貸りて泊まる予定だ、テントの方が安くは済むがこの人数だしせっかくなので部屋の多い屋内に泊まることになっている。

 

 

「鍵借りてきたよー」

 

「入るべ入るべ」

 

 

鍵を受け取りに行っていたヘスティアが戻ってくる、ガチャリと開けられたコテージの扉に全員が雪崩れ込むと。

コテージの中は二階建ての木造建築になっている。入ってすぐのリビングには小綺麗なカーペットが敷かれ、歓談用のスペースがソファと広いテーブルなどが置かれていた。

右奥にはキッチンスペースがあり簡単な料理などが作れそうだ、反対の左奥には吹き抜けになった二階へと続く螺旋階段と風呂場など水回りとトイレが確かにあった。

がやがやと全員で階段を上る、柵越しに下を見下ろせる二階は横に長い廊下になっており左右に三つずつの扉があった、どうやら部屋は六つらしい。

 

 

「よしお前ら荷物置いて着替えたら浜辺で集合、とりあえず海行くぞ海」

 

「どこの部屋なら海見える?」

 

「左でしょ左」

 

「ベルく~ん、一緒の部屋泊まろうぜー!」

 

「えっ!?」

 

「男はこっちだ、こっち。ハティもたまには別のところで寝るか?寂しかったらいつでも来れるし」

 

 

結局俺とベルが一番右端の部屋、その隣二つが空き部屋になり、左端の部屋がイーミンコハルアーニャ、その隣がヘスティアリリエイナ、そのまた隣がシルリューハティという風に別れた。初めての一緒じゃない夜ではあるがシルとリューと一緒だし問題無いだろう、それに寝る場所が違うだけだしすぐ会えた。

 

荷物を持った俺はベルと共に右端の部屋に入る。丁度海とは反対側のこの部屋は窓から海など見えない、代わりに青々とした森林が見えた。

ベッドが二つ置かれた部屋には小さな椅子と机、大きめのタンスが設置されており、宿泊施設としては問題ないだろう。

 

 

「お前どっちのベッドが良いとかある?」

 

「いえ特にはー…」

 

「じゃあ俺手前のベッド~」

 

 

夜這い対策として奥のベッドに寝かせる、決して手前の方が楽だからとかではない。

自分のリュックサックをベッド上に置いた俺は上蓋を開ける、パンパンに詰まっているリュックサックからとりあえず着替えや麻布に纏めた生活用品を取り出すとこの前買ってきた自分とハティの水着を取り出した。

 

 

「忘れてた、ちょっとハティに水着渡してくる」

 

「あ、はーい」

 

 

着替え始めているベルを背後に俺は部屋から出る。手に持ったのはハティの身体にあったスカート付き赤ビキニ、可愛い。

ハティのいる部屋に俺は向かう、水着を片手に茶色の木扉をノックすると返事と共にがちゃりとドアが開けられた。

 

 

「リョナ、どうしました?」

 

「あぁちょっとハティの水着を届けに」

 

「なるほど、丁度探していたところだ」

 

 

顔だけを出したリューに水着を手渡す、僅かに開けられたドアからはハティとシルの声が聞こえてきた。

扉の中からハティとシルの会話が聞こえてくる、ついさっき離れたばかりだが上手く出来ているかどうか気になった…少しぐらい問題無いだろうと僅かに空いたドアから覗き込もうとした。

…が、リューの白く綺麗な指に視界を遮られる。

 

 

「着替え中です、覗きは犯罪ですよ」

 

「あーハティが気になって、もうシルが着替えてたか」

 

「いえ、私です」

 

「は?」

 

 

確かにリューは扉から首の下を出そうとしない、確かにその肩にはブラジャーの肩紐が覗いていた。

まさかの下着で応対である、見ればその頬は僅かに紅潮しているような気がした。

 

 

「じゃあ何で下着で出てきた…」

 

「まさかあなただとは…あ、あまり見ないでください」

 

「俺もうアンタの恥ずかしいの基準解んねぇよ!」

 

 

この前は強引に犯そうとしたくせに今は下着で恥ずかしがっているし、痴女なのか生娘なのかはっきりしてほしい。

何はともあれ目的は果たした、水着も渡せたことだし自分の息をついた俺はその場を離れようとする。

 

 

「じゃあ俺はここで…」

 

「待ちなさい」

 

 

行きかけた俺の手がリューに掴まれる。咄嗟だったからかとてつもない腕力が腕を圧迫し、振り返るとリューの強い眼光と目が合った。

 

 

「…忘れていませんよね?」

 

「あー…」

 

「約束です」

 

 

実は今回の旅行にはサブミッションがある。

それはベルとシルを付き合わせる手伝いをする約束、それは勿論今回の旅行中も適用される。何でも彼女曰く今回はチャンスらしい、よってこの旅行中は二人で協力して恋愛を手伝わなくてはならなかったりする。

まぁ旅を楽しむことについては一致しているが、幾つか考えているレクリエーションの中でベルとシルをくっつけるように立ち回らないといけなかった。

そういう約束である、正直面倒くさいが約束は守りたい…というか今の問題は別にあった。

 

 

「あー…その、解ってはいるんですけど」

 

「ふむ、なら良いのですが。何か気になることでもあるのですか?」

 

「下見えてる、下」

 

 

俺の腕を掴むことに意識を集中させ過ぎたのか、気が付けばリューの下着は露わになってしまっていた。

見られている事に気が付いたリューは今度こそ赤面して胸を隠す、そして俺の事を睨みつけ目にも止まらぬ動きで腹に蹴りをいれ、勢いよく扉をバタンと閉めた。

 

 

「…とりあえず、水着着るか」

 

 

理不尽な腹の痛みに耐えながら、俺は自室に戻るのだった。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

「ゆー…なー?」

 

「あぁ、あれはヤシ。上についている実の中にはジュースが入っているとか」

 

「じゅー…」

 

 

キャンプ場から続く雑木林の中、木の板が並べられた遊歩道を手を繋いだリューとハティが歩いている。

影の多い林の中は涼しく、南国らしい植物の生えた遊歩道はサンダルでも歩きやすい。

ハティはいつものように知らないものを指さす、散歩しながらリューは逐一答えていた。

 

既に他の全員はこの遊歩道を抜けた先のビーチに遊びに行っている、ハティの水着を着替えさせる時間で同室のシル含め他全員は既に海へ走っていってしまった。

遊歩道はそれほど長くない、少女の歩幅に合わせて歩いていくと程なくして雑木林は途切れ光が満ちた。

 

透き通るような青空には潮の匂いのする太陽、目の前には輝くようなビーチ。

白い波の寄せる砂浜には既に様々な人たちががやがやと騒がしく遊んでおり、幾つものシートとビーチパラソルがまばらに並んでいた。

キャンプ場から数分で来れるこのビーチはそのままメレン中心部の海岸にまで続いている、歩いて行けば十分ぐらいで町にまで行けるし買い出しもそう難しくないだろう。

正に夏、陽気な空気に包まれたビーチは暑い。

 

 

「さて…まずはリョナを探しましょうか」

 

 

喧騒に近い砂浜の中で人を探すのは難しい、見渡しても彼の姿はどこにも見えなかった。

ふと自分の姿を改める、黒いビキニとその上に着た薄手の白いパーカーはどちらもシルに見繕ってもらったものだが地味過ぎないだろうか。

例えば参考までにハティの姿は銀髪ポニーテール赤いフリル付き水着と可愛らしい。彼が買ってきたのなら良いチョイスだろう、その綺麗な瞳の紅色とよく合っていた。

 

 

「ハティ?」

 

「なー?」

 

 

そう言ってハティが指さしたのは海、キラキラと輝く波打ち際を紅い瞳でジッと見つめた少女は興味津々と言った様子で動かない。

リョナを探そうとしていたリューは足を止める、海を口で説明しようとするが難しい事に気が付いた。

 

 

「…先に海を見に行きましょうか、あれは見た方が速い」

 

 

柔らかく小さな手を握ると歩き出す、砂浜にざくざくと足をとられながらハティと共に海岸線に向かう。

シートやパラソルを避けながら波打ち際まで歩くと濡れて固まった砂にサンダルの底が軽く埋まった。

 

 

「ほら、これが海ですよ」

 

「…!?」

 

 

波打ち際に立ったハティが目を見開く、近づいてくる波の音に驚いたのか慌てて逃げる。

くるぶしあたりまで海水に浸かったリューに助けを求め必死に腕を伸ばす、しかし表情を変えずリューはその場にしゃがみこむと指先でちゃぷちゃぷと海水かき回した。

 

濡れて重い砂をすくう、視線を合わせたハティに微笑みかける。

すると怪訝そうな表情を浮かべた少女も同じようにしゃがむ、ちゃぷちゃぷと海水を指先で触ると泥をつまみ持ち上げた。

波が引いていく、ハティの足の周りを細かな砂が流れていき、今まで感じたことの無いくすぐったさに声が漏れでたようだった。

 

 

「ふむー」

 

「波を掴まえるのは難しいですね」

 

 

引いていく波を掴まえようと手を伸ばすハティに笑みを向けながらリューは立ち上がる、再び寄せてくる波にハティが流されないようにその小さな背中を抑えた。

波と共に昆布が流れてくる、しゃがんだハティのお腹に寄せてきた波がぶつかり尻餅をついた。

 

 

「…なー?」

 

「ん、それは…」

 

 

ハティが海の中から布のようなものを持ち上げる、紐のついたそれは明らかに女性ものの水着の一部であった。

恐らく落とし物だろう。波に流されてきた水着がここにあるということは持ち主はかなり困っているだろう、ハティから水着を受け取ったリューは周囲を見渡し探してみる…が人混みの中でそんな人間を見つけるのは難しかった。

 

 

「ゆー、なー?」

 

「またですか」

 

 

リューの足元でパシャパシャと波で遊んでいたハティが再び何か見つけたらしい。

水着片手に振り返ったリューは少女の指さす方向を見ると、波によって漂着した何かが浜辺に残されていた。

…それは上半身裸の猫人のように見えた、というか間違いなく知り合いだった。うつぶせに脱力したアーニャっぽい誰かの周りを砂が引いていく。

呆れと共にリューはそのそばに近づくと、同じく流れ着いていた木の枝を拾い上げそのまま躊躇いなく振り下ろした。

 

 

「いてぇッ!何するにゃッ!?」

 

「いえ、たまたまです」

 

「そうかたまたまなら仕方ないにゃ」

 

「それよりも前を着なさい、ほらこれ」

 

「あれ、何でリューがアーニャの水着を…波に飲み込まれたところまでしか覚えてないにゃー」

 

 

水着を手渡すとアーニャが手早く身に着ける、いったいどこから流されてきたのかは知らないが誰かに裸を見られてもいないだろう。

アーニャの髪についた泥をとる、息をつき立ち上がるとアーニャもまた立ち上がった。

 

 

「いやーさっきまでイーミン達と遊んでたんにゃけど、ここどこにゃ?」

 

「さぁ…ところでリョナのことを知りませんか?ハティを届けなくてはならないのですが」

 

「あぁお得意様にゃらあそこのパラソルいると思うにゃ」

 

 

そう言ってアーニャが指さしたのは遠くにささった青と黄色のパラソル、どうやらそこにリョナはいるらしい。流されてきたときはどうなることかと思ったが思わぬ情報源だった。

 

 

「アーニャも来ますか?」

 

「うんにゃ、アーニャはイーミン達探すにゃ」

 

「そうですか、では行きますよハティ」

 

「おー…」

 

 

波と遊んでいたハティを立たせるとアーニャに別れを告げ、教えて貰ったパラソルの元にまで歩き出す。輝く太陽の下、夏休みはまだ始まったばかりだ。

 

 

 

・・・

 

 

 

一方その頃、砂浜に敷かれたレジャーシートとたてられたパラソルで出来た影の下で俺はずっと日曜大工まがいのことをしている。シートの上には木材や金属が少ないが並べられており、中心に座った俺は適宜素材を取って作業を続けていた。

だがレクリエーション係として、ひいてはハティを楽しませるための下準備を怠るわけにはいかない。

 

 

「…釣りもしてぇな、後でベル誘って…船借りて海に出るのも良いな…」

 

海の家でボートと釣り竿を借りられることは確認済みだ。岩場から糸を垂らすもよしボートを借りて海釣りもよし、もし魚が釣れたら料理にするのも悪くないだろう。

影の中作業しながら考える、ふと視線を上げれば燦燦と輝く太陽の下蒼い海で楽し気に浜辺で遊ぶ様々な人々の姿が見えた。

漂ってくる潮風で普段より鼻が利かない、どこかで仲間達が遊んでいるはずだがどこにいるかまでは解らなかった。

 

 

「…ん?」

 

 

作業を続けていると誰かの影が視界に入る、物を作りながら俺は視線を上げると緑色のシンプルな水着を身に着けたエイナが立っていた。

メガネをつけていないエイナは既に疲労困憊といった様子で荒く息をついており、そのままパラソルの影に膝をつくと水着のままシートの上に倒れ込んだ。

 

 

「ほれ、水」

 

「あ…ありがとうございます…」

 

 

水筒を渡すと死にかけのエイナが受け取る。赤く頬を火照らせた彼女は腕だけ伸ばし水筒を受け取ると、生暖かい水を勢いよく喉を鳴らしながら飲み下し口を離すと疲労からか強く長く息をついた。

 

 

「ひぃ…つら…」

 

「辛いってお前まだ海に着てから一時間も経ってないぞ」

 

「だって普段こんな動かないし…イーミンさん達意外と体力あって…」

 

「デスクワークの悪い所だな、無理すんなよ」

 

 

体力の尽きたエイナは水を飲み終えると再び倒れ込むと仰向けに寝始める、若いし影で休めばまた遊べるようになるだろうが冒険者でもないエイナは脆弱だし日射病などには気を付けて欲しかった。

背中の見えているエイナを尻目に作業を続ける、丁度手の届くところに彼女のお尻があるのだが流石に触るわけにもいかなかった。

 

 

「リョナさ~ん…ここ寝心地悪いんですけどぉ…どうにかならないんですかぁ…」

 

「無茶言うなよ、それともいったん部屋戻って休むか?」

 

「一人とかいやぁ…もっと遊びたい…」

 

 

くぐもった声のエイナと会話する、どうやら遊びたい気持ちだけはあるらしい。

浜辺にシートを敷いただけでは寝心地が悪いのも当然だ、疲れているエイナにとってここはとてもじゃないが休みやすい環境では無いだろう…かといってどうにかする方法も無いのだが。

うつぶせに寝たエイナは呻きながら視線を上げる、そして作業を続けている俺の身体をジッと暫く見つめると、ふと思いついたように口を開いた。

 

 

「…リョナさんの身体って男らしいですよね」

 

「ん、そりゃな」

 

「というかまた傷が増えてません?」

 

「そりゃな」

 

「もー」

 

 

鍛え上げた傷だらけの肉体は普段着痩せしている分浮き上がって見える。広い肩幅と厚い胸板には余分な肉が一切ついておらず、完成された身体は逞しく男らしいと言えば男らしい。

傷だらけの広い背中を眺めながらエイナはうつぶせに息をつく、生返事に作業を続ける後姿を眺めながらその疲労を癒していた。

互いに無言でただ時間が過ぎる、どこか浜辺の喧騒を遠く聞きながらパラソルの下で他愛ない会話をしながら過ごしていた。

 

 

「…ここでしょうか?」

 

「ぱー…!」

 

「おーハティ、リューさんに連れてきてもらったんだな」

 

 

ハティをつれたリューがパラソルの中を覗き込む、瞬間俺の姿に気が付いたハティが目を輝かせぴょんと抱き着いてきた。

ちょっと暑い、濡れた肌からは海の匂いが漂っておりどうやら既に海に入ったようだった。

 

リューがシートの中に入ってくる、黒いビキニの上に白いパーカーを身に着けたリューはエイナと反対側の空いたスペースに女子座りで腰かけるとサファイア色の瞳を穏やかに瞬かせ、微笑みを向けてきた。

 

 

「すいません、先に海へ連れていってしまいました」

 

「まぁそれは良いんだが…反応は?」

 

「…大変、愛らしい姿でした」

 

「ほう…また後で詳しく」

 

 

ある意味共通の趣味かもしれない、ハティを愛でるという事に関してだけ二人は本気だった。

俺のかいたあぐらの中にハティが座る、嬉しそうな少女の尻尾と髪が胸と腹をくすぐった。

エイナが

 

 

「…あれ、リョナさんとリューさんってそんなに仲が良かったですっけ?」

 

「あぁハティの世話を焼いてくれてな、利害の一致みたいなもんだ」

 

「利害の一致…そうですね。リョナとは職場を共にすることになった仲ですし、彼には色々と助けられている」

 

「…へー、そうですか」

 

 

どこか影のあるエイナはうつぶせに寝転がったまま顔を逸らしてしまった、不機嫌そうだが理由は解らない。

無視してハティに視線を落とす。海に入ったという身体は一部砂がついており、海水は乾いたようだった。その子供特有の肌は弱い、白い皮膚は以前に比べたら健康的だがこの日差しの中何の対策も無しに外で遊んだら焼けてしまうだろう。

 

 

「ハティ、日焼け止め塗ろうか」

 

「…ひやー?」

 

「そう、ちょっとぬるぬるするぞ?」

 

 

作業をしていた素材たちを脇にどかし俺はハティを立たせると、遠くに置かれていた日焼け止めの入ったボトルを手に取った。ぱちんと蓋を開き中身を手のひらに絞り出すと、乳白色の液体が結構な量溜まった。

花の匂いのする日焼け止めに興味津々なハティはくんくんと鼻を動かしている、そのお腹にぺとりと乳液を撫でつけると身体をビクンと跳ねさせた。

 

 

「ひうっ!?…ぱー…やぁー…!」

 

「大丈夫大丈夫、任せておけばすぐ良くなるから」

 

「んぅ…」

 

 

字面だけ見ると犯罪だが断じてただの日焼け止めである。

くすぐったそうなハティの全身にあくまで真剣な俺は、手に取った日焼け止めを余すところなく塗っていく。細い内股や足首、腕、お腹から背中にかけて満遍なくオイルを塗っていき、最後に首筋と頬に乳白色の跡を残すと擦り伸ばした。

 

 

「よしよし、くすぐったかったな」

 

「すんすん…おー?」

 

 

日焼け止めを塗った身体からはちょっぴり甘い匂いがしており、先ほどまでくすぐったそうにしていたハティも今では嬉しそうである。

自分の匂いを嗅ぎ始めたハティの様子に微笑みを浮かべ俺は息をつく、赤い水着を着たハティは本当に可愛らしい。

合流も出来たことだし一度作業を中断してハティと共に海に行くのも悪くない、海中で目を開けるのは良くないが多少泳ぎ方を教えるのも良いだろう。

 

 

「…ところでなのですが、やはり日焼け止めは塗った方が良いのでしょうか。このような薄着と日差しは初めてでして」

 

「ん、まぁ火傷だからなぁ…発がん性、はともかく肌の為には絶対に塗った方が良いかと」

 

「なるほど、少し借りてもいいですか」

 

「あぁどうぞ」

 

 

日焼け止めの入ったボトルを手渡すとリューは手にした容器に目を落とす、既に塗った後の消えたハティを見るとやっぱり塗ることにしたのか蓋を開けた。

リューは羽織っていた白いパーカーを脱ぐと丁寧に折りたたみシートの脇に置く、黒いビキニを身に着けた姿は思った以上に起伏に富んでおりかなり扇情的だった。

 

そんなことを考えながら脳内フォルダの容量を埋めていた俺に蓋の開けられたボトルが渡される、困惑するより早く目の前にリューが寝転がっていた。

 

 

「では、お願いしますリョナ」

 

「…え、何が?」

 

「私だけでは手の届かない場所もありますので」

 

「「!?」」

 

 

うつぶせに寝たリューが水着の肩紐をほどく。固く結ばれていたビキニがはらりとシートの上に落ち、豊満な横乳が押し付けたシートの形そのままにたゆんだ。

きめ細やかな肌、細く柔らかな肢体、目の前に広がる白い背中を前にボトルを片手にした俺は燦然とした事実を受け止めきれずにいた。

 

(お、おおお落ち着け俺は童貞じゃない…!?)

 

説明しよう、俺は童貞じゃない。何なら日焼け止めを塗るなんて行為がちゃちに思えるようなこともしてきた。

だがしかし長く続いた禁欲生活、性欲を溜め込んだ俺には刺激的過ぎる最上級の身体、それだけで俺の理性は揺らぎ、刺激物に対する耐性と思考は童貞にまで低下してしまっている。

 

(許されるのかそんなことがっ…!?)

 

ハティの目前である、正直この極上の身体に触れて我慢できる気がしない。

愛娘の前で無様なテントを張るような真似は絶対に嫌だ、父親としての威厳もそうだがこの海パンが耐えられるかどうか正直怪しい。

それでも据え膳であることに変わりない、男として好みの女からの誘いを断りたくはない。何よりただ日焼け止めを塗るだけの作業だ、別にやましいことでもないのかもしれなかった。

 

生唾を飲み込んだ俺はボトルから日焼け止めを手に取る、そのいかにも触り心地のよさそうな柔肌を見下ろし俺は理性が溶ける音を聞きながら手を伸ばした。

 

 

「――ちょっと待ったぁぁぁぁッ!!」

 

「ぐおっ…!?」

 

 

渾身のストップ、今まで顔を背けていたエイナが上体を起こし日焼け止めを持った俺の手を強く握って止めてきた。

あと少しである、あとほんの数センチで俺は一線を越えていたというのにこのハーフエルフに邪魔された。

 

 

「貴様っ、我が覇道を邪魔するかッ!?」

 

「は、覇道!?いやそんなことよりも男女で日焼け止めをっ、その塗るなんて…そんなこと破廉恥です!」

 

「破廉恥!?はぁ~どこらへんが破廉恥か教えて貰いたいもんですなぁ、この淫乱エルフ!!」

 

「淫乱!?」

 

 

怒りと恥辱でエイナの表情が真っ赤に染まる、女子の腕力ではあるが手首をつかむ腕がギリギリと締め上げられ興奮からか身体がどんどんと近づいてきた。

こいつ無関係なくせに何をここまで躍起(やっき)になっているのだろう、同族というか同性だからだろうか。

 

 

「ハティちゃんの前で卑猥な事しようとしてるあなたに言われたくありません!この変態!」

 

「ぐっ…!?」

 

「第一!エルフは親しい人間でもない限り身体を触られるのは嫌うんです!特に男!!リューさんも触られたくないですよね!?」

 

「私は別にリョナならば問題ないですよ?そもそも私から誘ったことだ」

 

「なぁっ!?でもこんな公衆の面前でそんなこと…」

 

()()()()()()()()()()、触られることに抵抗はありませんから」

 

「…っ」

 

 

見上げたリューとエイナの視線が交差する。変わらないリューとは対照的にエイナの表情は困惑や動揺など様々な色に移り変わり、息をつくと最後は真剣な表情になった。

時間にして一瞬、見つめ合った二人の女の合間にはピリピリと緊張した空気が漂っている。

 

エイナが俺の手を離す。隣に立った彼女は深刻な表情で俯き震えており、その表情は良く見えないがさっきよりも真っ赤になっているような気がした。

そして何か吹っ切れたようにガバリとリューの隣にエイナがうつぶせに飛びつく。

 

 

「だぁぁああっ!もう、私だってリョナさんとは長いんですから!肌に良いって言うなら私にも日焼け止め塗ってください!!」

 

「え、なに張り合ってんのお前?」

 

「ッ――――良いから!早く!」

 

 

エイナが自らの水着の紐を外すと、シートの上に水着の端が落ちた。

リューほど大きな胸は無いが女性らしい丸みを帯びた柔らかな身体は綺麗な肌をしている、うつぶせに寝転がり圧迫された胸は寄っており、白い肌をした背中と腕は充分すぎるほど刺激的過ぎる。

 

目の前に若いお尻が二つ並ぶ、もはや経緯は解らないが美女二人に日焼け止めを塗る権利を得た。

俺の中の獣が言っている。ユーやっちゃいなよと、子孫を残しちゃいなよと。

 

(『いや別に言ってないけど…』)

 

神殺しの獣から返答が来た、尊厳の問題らしい。

ともあれこの状態で二人の身体に触れれば確実に自我が崩壊し海パンがお釈迦となる、自分の身体のことは自分が一番解っていた。

 

ハティを見る、マイペースに砂を弄っている少女の前で化け物になるわけにはいかない。

息をついた俺は絶望を吐き出す、据え膳を投げ捨て父親でいることを決意した俺は二人の身体を前に日焼け止めのボトルをシートに戻した。

 

 

「ハティ」

 

「おー…?」

 

「日焼け止めさ、おねぇちゃんたちに塗るの手伝ってくれないか?」

 

「!」

 

 

例え男らしくないと非難されても良い、苦肉の策を提案するとハティは嬉しそうに目を輝かせた、どうやら興味はあるらしい。

這って近づいてきたハティの手に俺は粘度の高い日焼け止めを垂らす、掌に溜まった乳白色の液体を見下ろした少女は軽く鼻を鳴らしながら尻尾を揺らした。

両手で器を作り日焼け止めを貯めたハティを脇の下から持ち上げる、そして寝そべった二人の背中の上にまで運ぶと降ろした。

 

 

「あ、あれ、ハティちゃん?リョナさんがするんじゃ!?」

 

「…まぁ私はハティでも構いませんが」

 

 

背中に乗った少女は二人を見下ろすと小首をかしげる、隣に座った俺のことを見上げると可愛らしく指示を仰いできた。

その手首を優しく掴む、自由にさせてもよかったがもしかするとまだ未練があったのかもしれない。

 

 

「俺が動かすからハティはぬりぬりしててくれ」

 

「おー」

 

 

頷いたハティの腕をクレーンゲーム感覚で動かす、作っていた器を横に離させると二人の白い背中に日焼け止めが流れ落ち冷たい飛沫がパシャリと撥ねた。

 

冷たい感触に二人が色っぽい声を漏らす、無視した俺はハティの腕を動かすと早速日焼け止めを塗り始めた。

ハティ越しならば何の問題もない、俺はその小さな手を操り間接的にその身体に触れていく。

 

 

「あっちょっ…そこは、ダメっ…!?」

 

「んっ…」

 

 

ハティの手できわどい所を塗っていく、少女の手ならばどこを触っても問題ないので躊躇いなく胸や内股に手を入れさせしっかりと日焼け止めの液をなじませた。

ヌルヌルとした少女の手に身体を揉まれ二人が声をあげる、感度の良い女子二人はきわどいところを撫でられ身体を跳ねさせた。

柔らかい身体を触るハティは興味津々に揉む、無慈悲な指使いによってエイナとリューはかなり苦しめられることになった。

 

数分後、白濁にまみれた二人が…ではなく、満遍なく全身に日焼け止めを塗った二人が息をつく。

身体を(もてあそ)ばれた二人は荒く肩を上下させており、その身体にはうっすらと汗が張っていた。

 

 

「よーしよし、上手く出来たな。えらいぞハティ」

 

「むふー」

 

 

満足げなハティの頭を撫でる、酷いイベントだったが何とか回避した…俺はまだ父親でいられるようだ。

もうこれ以上悪いことなんて起こりようがないだろう、二人の身体を見下ろした俺はやり遂げた感と共に息をつく。

日焼け止めを塗る作業は終わった。ハティと共に海に行くことに俺は想いを馳せる、かくして日焼け止めを塗り終わった俺は解放されたのだった――――

 

 

「ぱー…も、ひや?」

 

「えっ」

 

 

――――否、まだ一人日焼け止めを塗っていない奴がいる。

 

ここにきて言語能力の飛躍的な向上をみせたハティが両手を伸ばしてくる、その奥で被害にあった二人がよろよろと身体を起こして怒りに燃える瞳で振り返ったのが見えた。

それは復讐の鬼、二人の鬼は凄まじい豪気を発しながら立ち上がり俺の側に近づきながら日焼け止めのボトルを回収する。

 

 

「…ナイスアイディアですハティ、男は日焼け止めを塗っていけないなんてことないですよね?」

 

「…よくもハティちゃん越しとはいえ好き勝手やってくれましたねリョナさん!覚悟!」

 

「はっ!?あっちょっそこはらめッ…あああああああああああああああーーーッ!?」

 

 

飛びかかってきた二人に押し倒された時点で俺の敗北は決まっていた。

上体を固定された俺の上に乗っかった二人とハティはその手に貯めていた日焼け止めを目にも止まらぬ早業でパァンと俺の胸に叩きつける。

逆襲、三人によるオイル攻撃に今度は俺が喘ぐことになるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

夕暮れ、様々なことをしてクタクタに遊び疲れた面々は海からコテージに引き上げていた。

そして軽めにシャワーを浴びた俺は現在イーミンコハルの料理人コンビと共に夕食の準備をしている、コテージに備え付けのキッチンはそれほど大きくないが役割分担をしているのでそこまで互いに邪魔になることは無かった。

 

 

「…やっぱイーミンは作業が一つ一つ丁寧だよな、性格の割に」

 

「褒めてんのか馬鹿にしてんのかはっきりしろよ」

 

「いや褒めてる褒めてる」

 

 

釣ってきた魚を捌いているイーミンを横目に俺は鉄板に纏めた麺たまねぎもやしを焼く、シンプルなソース焼きそばを作る予定だったりした。既にフライパンからは良い匂いが漂ってきており、先に焼いておいた豚肉を追加すると既に美味しそうだった。

 

 

「少なくとも町の料理屋レベルじゃねぇよな、料亭とか行ってたとか?」

 

「あー…まぁ乙女には色々と秘密があんだよ、聞くな」

 

「乙女?…あっ、お前がか」

 

「文句あんのかゴラァ!?」

 

 

流石に乙女は無いだろう、乙女は。

逆上するイーミンの手元、まな板の上に乗せられた魚は極めて丁寧に捌かれている。

性格はともかく腕は確かだ。食材に対する知識もあるし時折意見を交換しては喧嘩している、互いの知識の方向性というか時代が違い過ぎるのが問題だろう。

まったくとむくれたイーミンが作業に戻る、手早く魚を捌くと刺身にして円形の広い器に盛りつけていった。

昼間釣りをしにいって獲れた魚の一匹である。昼間試しに釣竿を借りたのだが、試しに岩場からハティに糸を降ろさせてみたところ三十分で四匹釣るという驚異の結果になった。隣で釣っていた俺が一回もヒットしなかったあたりこの子実は持っているのかもしれない、あるいは魚からもモテモテなのだろうか。

正に『ハティ爆釣伝説~第一章、出会い~』の幕開けであった。

 

 

「…逆にコハルは性格の割に雑だよな」

 

「いっ!?」

 

「あぁ…それは私も昔から言ってるんだけどな…」

 

「い、イーミンちゃんまでぇ…」

 

 

背後の小テーブルでシーザーサラダの盛り付けをしているコハルが肩をびくつかせる、半熟卵付きの美味しそうなサラダを人数分小皿に分けている彼女は前髪で隠れた顔の下で涙目になっていた。

とはいえ全体的に粗いのも事実だ。よくよく見ると千切ったレタスは大きすぎるし、包丁を扱わせると見ていて危なっかしい。まぁ大雑把なものを作ることに関しては彼女が一番だろう、不味くはないが大雑把なりの味だ。

意地悪さに関して息の合う二人はコハルをいじりながら調理を続ける。

 

 

「刺身出来たか?」

 

「五分」

 

「解った、先に焼きそば持ってくわ」

 

 

鉄板で焼き終えた大量の焼きそばを大皿に移す、火元を閉じると重い皿を両手で持ち上げた。

焼きそばを持ったままキッチンから出るとリビングに向かう、リビングにはソファーと背の低い長机があり、床の上に座れば全員で食事が出来そうだった。

ソファーにはベルが一人で腰かけている、疲れた様子の少年は膝を抱えてウトウトとしていたが焼きそばの良い匂いにハッと覚醒すると目を擦った。

 

 

「あ…できましたか?」

 

「おう」

 

 

座り直したベルの前を横切ると長机の上に焼きそばの乗った大皿を置く。シンプルな焼きそばは濃く熱気をたてており、茶色の麺の中には肉と玉ねぎが入っていた。

ベル以外の面々は風呂に行っている、冷めてしまう前に食べてもらいたいのだが予測することはできなかった。

とはいえもう一時間以上入っている、もうそろそろ出てきてもおかしくない頃合いだろう。

 

 

「…皿運ぶか」

 

 

何度かキッチンと机を往復し皿やグラスを人数分運ぶ、途中サラダを完成させたコハルと共に小皿を並べていった。

暫くすると笑い声と共に風呂場からぞろぞろと女性陣が溢れ出す、甘い洗剤の匂いと共に風呂上がりの湯気をあげた寝間着姿の女性達はリビングに入ってくると各自料理に目を向け落ち着く位置に腰かけた。

マットの上に胡坐をかいた俺にハティが近づいてくる、頬を上気させたハティは隣にぺたんと腰かけ見上げてきた。

どうやらちゃんと洗ってもらえたらしい、海で遊んできた少女の身体はかなり汚れてしまっていたが今は…ちょっと髪がゴワゴワしている気がするが綺麗だ、肌も少し焼けて健康的かもしれない。

 

 

「よっしゃー会心の出来だー!」

 

「「おー!」」

 

 

イーミンが歓喜の叫びと共に皿を持ってくる。大きな皿には豪華なお頭付きの刺身料理が美しく盛り付けられており、量もさることながら美味しそうなその見た目からかなりの力作だということを伺わせた。

机の中心に置かれたメインディッシュを前に散々遊び疲れ腹をすかせた一同は期待に胸を膨らませる。

 

 

「じゃあ…頂きます!」

 

「食うべ食うべ」

 

「酒だ!魚だ!…あとこれ何?」

 

「焼きそば」

 

 

始まった宴会は楽し気な笑い声と共に過ぎていく、新鮮な魚の刺身に舌鼓をうった一同は焼きそばに苦戦しながら夕暮れを越したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「じゃあおやすみ、しっかり休めよベル」

 

「はいおやすみなさいリョナさん、ふぁ…」

 

 

食事のあと風呂に入った俺とベルは部屋に戻ると特に話も無くベッドに横になる、互いに疲れていてそんな余裕などなかった。暗黒の訪れた部屋の中は僅かな月明かりが差すのみとなり、横たわり見上げた天井にゆらゆらと影を作るだけだった。

寝間着の下を掻いた俺は目を閉じる、意識を半覚醒状態にして身体を休めると深く息を吐きだし脱力する。

ほどなくしてベルの寝息が聞こえ始めた、昼間ヘスティアとリリやシルに振り回されかなり疲れた様子だった少年はどうやらもう眠ってしまったらしかった。

 

(…)

 

規則正しい呼吸を繰り返しながら俺は木々のざわめきを聞く。

何もせずただ過ぎていく時間は微睡みの中にあり、ぼんやりと明日の予定を考えながらあくびをついた。

恐らく今日も悪夢を見るだろう、久々に一人で寝る夜は別に俺は構わないのだがハティが心配だった…まぁ見た感じリューさんに添い寝されるようだったので寂しくは無いだろうが。

 

静寂、夜闇。

ただ透明な月明かりのみが落ちる部屋、穏やかな空気の中で眠る。

何も動かない部屋の中は静かで、とはいえ深い眠りに落ちてしまえば小さな物音程度には気が付けない。

 

 

「…」

 

 

足元の先、ゆっくりと部屋の扉が開けられる。

木造の扉は古く音が鳴りやすい。慎重かつゆっくりとした挙動により一切の物音をたてずに扉は開けられていく。

そして人一人通れるくらいに開けられた隙間からそれは入ってきた、濃い影を身にまとったその人物は低く身を屈めながら部屋の中を横切ると目的の物を見つけ、忍び足のまま慎重かつ大胆に床を踏んだ。

だがその直前、侵入者は背後から放たれる殺気にびくりと肩を震わせる。

 

 

「おい」

 

「ほわぁっっ!?」

 

 

声をかけると忍び込んできていた女神が声をあげる、髪を降ろした寝間着姿のヘスティアは驚愕の表情で俺の事を見上げてきており、恐怖なのか顔面蒼白のままがたがたと肩を震わせていた。

それもそのはずだ、夜這い中に邪魔されたら誰だって驚く。

 

(やっぱり来たか…)

 

半覚醒状態の俺はベルへの夜這い警護をしていた、寝ているというかほぼ瞑想に近いそれは寝れているわけではないが休める事は出来る。

とはいえそもそも夜這い自体が杞憂という可能性はあった、だがこうして馬鹿が一人引っかかったあたり無駄ではなかったらしい。

跳ね起きた俺は顔面蒼白な女神な女神の前に立ちはだかる、不純異性交遊の番人を前にヘスティアは震えるしか出来なかった。

 

 

「…それで、一応聞くが何してんだアンタ?」

 

「あ、あー…人肌恋しい瞬間ってあるよねっ」

 

「真夏にゃねぇな」

 

 

現実は非常である。

開き直ろうとしたヘスティアに俺は胸元から取り出した黄色いカードを掲げる、それは旅行実行委員長にのみ与えられた特権であり、厳格な法の執行であった。

 

 

「そ、それは!?」

 

「イエローカード、これが二枚でレッドカード。レッドカードになった者には実刑が下され、コテージから追放になる」

 

「コテージから追放!?やり過ぎじゃない!?」

 

 

夜這い女神が良く言う。コテージから追放になったものはキャンプ生活だ、一人だけ仲間はずれなのは精神的に来るものがあるだろう。

ともあれ風紀は絶対だ、数少ない男二人としてかかる火の粉は何とかして払わなければならなかった…普通男女の立場が逆だと思うのだが。

 

 

「次はねぇ、キャンプ生活したくなかったら早く自分のベッドでおねんねするこったな」

 

「くぅっ…この僕がこれほどの辱めを受けるなんてっ…!」

 

「自業自得だろ、見つけ次第二枚目だからなー」

 

 

念を押した俺は開け放たれたドアを後ろ手に指さす、屈辱に震えている女神は抵抗することも出来ずに立ち上がるととぼとぼと歩いて行った。

自分の部屋に戻る情けない姿を俺はしっかりと見送るとため息をつく、へこたれない雑草魂をもつ彼女ではあるが今晩は流石にもう出没することは無いだろう。

扉を閉めた俺は欠伸を浮かべ自分のベッドに戻る、どうやらベルは安眠できているらしい。もう夜もくれだ、俺ももう少しだけ警戒して眠ることにしよう。

 

 

「愛の巣にようこそにゃお得意様、さぁ観念してアーニャと子供を…」

 

「はいイエローカード」

 

「にゃ゛~!?」

 

 

シーツを捲るとベッドの中に発情した猫が一匹潜り込んでいた、俺は首根っこを掴み引きずると流れ作業で外に放り投げる。再び欠伸をついてドアを閉めると今度こそベッドに寝転がった。

夜這いを警戒しながら、そんなこんなでメレン旅行一日目の夜は過ぎていくのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




まぁとりあえず一日目は導入、海に来たぞーって感じで。
というか何か普通のラノベみたいになってましたね、日常感を出したい。
ラブコメなぁ…書きたくはなるけど臭いって自分で思っちゃうんだよなぁ…まぁ作家見習いだし何でも挑戦だけど。

次回は来年ですな、体調には気を付けて良いお年をー!

※追記。何でもメレンは湖という話を投稿してから知ったのですが、少なくともこの世界では海都市です。今後の展開に出す予定も無かったので架空の都市名でも良かったし、つまり原作準拠である必要性も無いというわけで、海に行ったという事実が重要なんだよなぁ。


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 スイカ割りとか

あけましておめでとうございます!正月三が日くらいサボっていいべって思ってたらペース乱れました、あとは大体スマブラのせい。
でまぁ今回は夏らしいことを書きました、俺はリア充じゃあないんだが?
ではほんへ、ちょっとシリアスもある


・・・

 

 

 

朝靄が覆う世界で夢を見た。

海の側で目を閉じれば奇妙な夢を見ることは解り切っていた、それでも海に近づいたのは自分自身を知る機会を得たかったからだろう。

夢の中で俺の姿は狼に変質していた、粘度の高い羊水の中は暗く重い。

以前よりも遥か深く沈んだここからは水面の輝きも別世界に見えた、澱の混じり始めた液体の中はもがく俺の身体を強く拘束する。

 

いつも通りの澄んだ悪夢、狼へと変わった肉体が徐々に沈んでいく。

水底に辿り着くまで、あてのない眠りを続けて。変わらない苦しみの中、酸素に喘ぎながら。

 

 

『…!』

 

 

――だが今日はそれだけでは終わらなかった。

ぼんやりとした視界の中、振動と共に輝いていた蒼霊達の動きがにわかに騒がしくなる。

まるで蜂の巣をつついたようなありさまは騒がしく、暗い中海にあっても一瞬視界を覆うほどの閃光が明滅した。

やがて静寂と暗黒が訪れる、一筋の明かりに縋りながら俺はもがく。肺を満たしていく感情に激痛と苦しみを覚え、薄れていく意識の中で何とか目を見開くと『何か』を見ようとした。

 

目覚めは近い、このままでは手がかりを得れずに終わってしまう。

蒼黒い液体の中で目を見開く、周囲を見渡した俺はいつもより長く意識を保つ。

 

 

『キョウ…ダイ…』

 

 

やがて、海が振動した。

それは言の葉というには余りに大きな烈波、津波のような圧力に押しつぶされながら俺は声のした方向を見る。

 

――そこにあったのは、目玉。

 

自らよりも遥かに大きく巨大なエメラルド色の瞳がこちらを見つめている。

それはきっと最初からあった、日の当たらない暗黒だと思っていたそこには巨大な化け物が揺蕩っていた。蒼霊が逃げたのも頷ける、もしその化け物が指先を少しでも動かせば周囲一帯が薙ぎ払われ破壊されるからだ。

その身は山よりも大きく、その翼を広げれば空を覆う災厄。神話に名を刻む化け物、俺はその化け物のねじ曲がった爪の合間をすり抜けていくだけだった。

 

本能的に理解した、これが神殺しの獣の完成形なのだと。

神を殺す化け物の行きつく果て、天を衝き大地を砕く星の獣は全て海より生まれる。

同族の蒼、憎悪を身にまとう『兄弟』の姿に俺は手を伸ばす。

 

 

『「お前…はっ…!?」』

 

 

意識が落ちていく、伸びてきた化け物の巨大な掌が沈む狼の身体を支えた。波に飲まれ暗くなっていく視界の中で俺は余りに巨大なその姿が(ドラゴン)だということに気が付くのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…リョナさん!引いてますよ!」

 

「うおっ!?」

 

 

今朝の夢を思い出しぼんやりとしていた俺は手の中で暴れる感触に目を見開く、慌てて竿を力任せに引くとぷつんと音をたてて糸が切れてしまった。

どうやら大きな当たりだったらしい、離れた水面で大きな水しぶきが立ち上がる。

糸の切れた釣竿を持ち上げた俺はため息をつくとボートの底から替えの釣り針を取り出し切れた糸先に結び付け餌を付けると再び海面に投げ落とした。

 

 

「惜しかったですね」

 

「ん、そうだな…」

 

 

浜辺から少し離れたボート上、固定したパラソルの下で糸を垂らした俺とベルは揺られながら釣りをしている。強い日差しの下に反射した太陽は眩しい、波にあわせ揺れる釣り糸を見下ろしながらただうだるような暑さに耐えていた。

しかし今朝の夢のせいで余り集中できていない、今まで何匹かヒットしたが全てばらしてしまっている。

 

(…)

 

あの夢はどこまでが本当だったのだろう。俺以外の神殺しの獣、海の中で出会った黒い山のような龍の姿は曖昧でよく思い出せない。

あれがどこから来たのか、この海の底にいるのか。あれほど強大な存在が隠れている理由、俺がここに…いや、この世界に着たことに何か関係があるのだろうか。

 

 

「リョナさん」

 

「ん?」

 

「あの…大丈夫ですか?」

 

 

明らかに集中できていない俺を見かねてか心配げな表情を浮かべたベルが声をかけてきた。

身体的には大丈夫だ、だが精神的にはかなり動揺している。断片的な事実を見せられても焦るだけだ、何よりいつか自分がああなってしまうという現実をより鮮明にされただけだった。

 

(…心配させられねぇよな)

 

知らずにこわばっていた緊張をほぐす。息をついた俺は恐怖を押し込めるとベルに肩を竦めて見せ釣竿に意識を戻した。

 

 

「まぁ何だ、ちょっと暑くてな」

 

「…それ熱中症ってやつじゃ!?」

 

「そこまでじゃねぇけどよ」

 

 

釣竿を揺らしながらボートに座り直す、揺れる海面を眺めながら俺は少年と言葉を交わす。

今を守る為に俺は自分自身の事については知らなければならない、だがそれ以前にこの問題を悟られてはならない。

秘めた痛みに口をつぐんだ俺は当たり障りない返事をしながら釣竿を振るう、つんつんと餌を魚が突いているようだが中々食いつかなかった。

 

 

「というかどうだ、旅は楽しめてるか?」

 

「はい勿論!」

 

「そうか、それは良かった」

 

 

それから暫く話す。俺の釣竿に再び魚がかかる。ピンと張った釣糸が海面をかき回し、握りしめた竿に針から逃れようと跳ねる魚の体重がそのままのしかかった。

今度は力任せではなく魚を疲れさせるように糸を引く、数十秒の戦いの後隙をついて引き上げるとどことなく鯛っぽい魚がボートに跳ねあがった。

 

 

「よしよし、一匹目」

 

 

針を外した魚を足元に置いたバケツの中に放り込む。底の深いバケツには既にベルの釣った魚が泳いでおり、大きさの割には少し窮屈そうだった。

再び糸を垂らした俺は息をつく、そろそろ帰る頃合いだがもう旅も二日目だし『サブミッション』の方も進めなくてはならない、というか今日が本番だった。

ベルと海釣りを楽しみながら息をつく、普段の俺ならばこんな質問は絶対にしないだろうが聞かないわけにもいかなかった。

 

 

「…ところでベルさ」

 

「はい?」

 

「好きな女とかいないの?」

 

「ブファッ!?」

 

 

吹き出したベルがボートを揺らす。

動揺した様子の少年は顔を赤くしてむせる、どうやら丁度同じことを考えていたらしい。

 

 

「な、何でそんなことを!?」

 

「いや気になってな、今回の旅行は女性陣の方が多いし好きな奴でもいたら手伝ってやろうかと」

 

「えっ…いやぁ…」

 

 

気になるという体の調査だ。

 

(これでシルが好きってんなら楽なんだけどな)

 

もしそうなら空き部屋に放り込んでおくだけで事は済む。

しかし長い付き合いから…というか解りやすいベルの好意をよせている人間くらい知っている。

とはいえアイズはこの旅に来ていない、同時にチャンスでもあるのだ。

 

言い渋る少年を観察し終えた俺は釣竿を上げると竿に巻き付け船底に転がした。

 

 

「まぁどうでもいいや、喉も乾いたしそろそろ帰るぞ」

 

「どうでもいいって…リョナさんから聞いたんじゃないですかぁ…」

 

 

目的は果たした、オールを手に取った俺は浜辺へとボートをこぎ始める。

情けない表情を浮かべたベルとシルをくっつける作戦、展開する予定の「イベント」は二人を付き合わせるためには手段を選ばない。主に発案リューの作戦を俺は手伝うことになっているのだった。

 

(ほんとどうでもいいんだけどなぁ!)

 

拒否権は無い。

 

 

 

・・・

 

 

 

「んー」

 

「それは…ヤドカリだな」

 

「やぁー!?」

 

 

浜辺を散歩中、持ち上げた貝の中からもぞもぞとヤドカリが這い出してきたのを見てしまったハティは全身の毛を逆立て驚くとヤドカリを取り落とした。慌てて俺の脚の裏に隠れると砂に落ちたヤドカリがそそくさと多足で離れていくのを畏怖の念で見送る。

 

 

「あれはああやって貝の中に住んでる生き物だ、カニとかエビの親戚だな」

 

「なー?」

 

「ん、例えば…」

 

 

微妙なニュアンスから意図を組んだ俺は足元に落ちていた貝を一つ取り上げる。手のひらサイズの渦巻き貝は表面が虹色に艶めいており中は綺麗な空洞になっていた。

俺はハティの目の前でその表面をコンコンと叩く。

 

 

「貝は硬いからな、もし外敵…鳥とかネズミとかに襲われそうになった時にさっきみたいに引きこもれば自分の身を守れる。ヤドカリは家を背負いながら生きてる面白い生き物だ」

 

「おー…?」

 

 

貝の内側をなぞりながら説明すると声を漏らしたハティは興味津々といった様子で貝の表面を触る。その硬さを確かめると俺の言っている意味が理解できたのか興奮気味に尻尾をぶんぶんと振った。

初めての多いハティに新しいものを教えるのは楽しい、面白いと思ってくれていることに喜びを覚えながら俺は貝をハティに手渡す。

 

 

「それと、中身の無い貝からは海の音がするぞ?」

 

 

耳を指さしながら微笑みかけると、ハティは尻尾をゆっくりと揺らしながら両手で持った貝を見下ろし観察し始めた。

そして暫しの試行錯誤の末、貝の空洞部分を自分の獣耳に近づけると鋭敏な聴覚で何か感じ取ったのか目を見開く。

ゆっくりと貝を耳に近づけると少女の驚きは確信に変わり、ぱたぱたと尻尾を振りながら貝の音に耳を傾け始めた。

 

 

「聞こえたか?」

 

 

ゴォーという音にコクコクと頷く少女は興味津々といった様子で耳をぴくつかせている、不思議な発見に目を輝かせたハティは足を止め首を傾げる。

原理としてはただ耳の中の音が貝に反射して聞こえてくるだけなのだが、まぁその説明をする必要も今は無い。

 

 

「気にいったんなら持ち帰っても良いぞ?」

 

「…ん!」

 

 

再び嬉しそうに頷いたハティが貝殻を持ち上げる、綺麗な貝殻はハティにとってこの旅の宝物になりそうだ。

両手で貝を掲げた嬉しそうなハティと波打ち際を散歩する、午前中といってもそれなりに暑いがハティに様々なことを教えながら時間を潰すのは楽しく有意義だった。

 

 

「リョナさーん!」

 

「ん」

 

 

そんなこんなでハティと歩いていると遠くから声をかけられる、見慣れたパラソルの下から手を振る小人族の姿がそこにはあった。

貝殻を掲げた少女と砂浜を歩く、広げられたレジャーシートの傍まで近づくとそこには手を振る水着姿のリリとその後ろで寝転がっているシル、手ぬぐいで目隠しをして棒を持ったエイナが立っていた。

その少し離れた位置にはスイカが置かれている、状況から見てどうやら『スイカ割り』をしているようだった。

 

 

「スイカいかがですか?冷やしておいたのを取り出してみたのですが!」

 

「割るのはあれだがスイカは良いな、甘いからハティも好きだろうし」

 

「すいー?」

 

 

スイカ割りの注意事項は砂の上で割らない事だ、砂まみれになって食えなくなる。

レジャーシートの上に固定されたスイカは瑞々しく深い緑と黒を繰り返しており美味しそうだ、影の中に腰かけたリリの側には小皿が積み上げられていた。

 

 

「で、エイナが割る役なのか」

 

 

白い布で目元を覆ったエイナは手ごろな棒を持っている、掴みやすそうな棒はまさにスイカを割ることに特化している。

ただ非力なエイナに割れるかは解らない、まぁ粉々にされるよりかはマシだがそもそも割れるかどうかすら疑問だった。

 

 

「自信のほどは?」

 

「ないけどやります!」

 

 

意気込むエイナは集中した様子で棒を構えている、当たれば少しは割れるだろう。

本来ならベルがやるのが良いのだろうが、水着の少年はシートの向こう側でビーチバレー用の棒を設営しているところだった。

 

 

「まぁ頑張れ、ハティも応援するか?」

 

「おー…?」

 

「指示お願いします!」

 

「あ、私もー」

 

 

シートの影にハティと共に腰かけるとリリとシル含めた四人で、目隠しをしたエイナに指示を始める。ふらふらと歩き始めたエイナとスイカの距離はまだ遠い。

 

 

「右、もうちょい右です!」

 

「左じゃねぇか?」

 

「エイナさーん、こっちですよー」

 

「えっ?えっ?」

 

 

スイカ割りの恒例行事というか、その場にいる全員でがやがやと騒ぎながらテキトーな指示を飛ばしていく。

棒を構えたエイナは暗闇の中で声を頼りに進むしかなく、ふらふらとあっちにいったりこっちにいったりを繰り返す無様な姿を見せていた…まぁそれを楽しむものなのだが。

 

 

「っ絶対嘘言ってる人いますよね!?」

 

「リリはいつだって正直者ですよー!」

 

「信じろエイナ、今まで俺が嘘ついたことあったか?」

 

「割と」

 

「あったな」

 

 

憤慨するエイナに指示を出す、足元のおぼつかない彼女にみんなで悪ふざけを始めた。

八割嘘の指示によってエイナはおもちゃのように踊らされることになり、その細い身体はうっすらと汗ばんできた。

そして暑さによるイライラに耐えかねたのか遂にエイナは怒号を飛ばす。

 

 

「あーもう!暑いんですからいいかげん教えてください!スイカ食べたくないんですか!?」

 

「しゃあねぇな、とりあえず真後ろだ」

 

「…私もうリョナさんの言う事は一切信じない事にします」

 

 

本当のことを伝えたのだが疑心暗鬼になっているエイナは聞く耳を持ってくれないらしい、まぁ棒で殴りかかってこないあたり良心的だが。

とはいえあまり長引かせるとスイカがぬるくなってしまうのも事実だ、何とかしてエイナに指示を出す必要があった。

苦しそうなエイナを眺めながら俺は考える、まぁ他二人が指示を出しているので問題なく近づけてはいる。ふと隣を見るとハティがただ座ってエイナを見ていることに気が付く、興味がないわけじゃないらしく軽く尻尾を動かしながら固まっていた。

 

 

「…そうだハティ、エイナねーちゃんにスイカの場所を教えてやってくれないか?」

 

「?」

 

「あれがスイカ、あれがエイナ。目隠ししてるから声でスイカの場所を伝えるんだ」

 

 

首を傾げていたハティだったが理解してくれたらしい、嬉しそうにこくこくと頷くと再びエイナに視線を向けた。

 

 

「おー…!」

 

「あれ、ハティちゃんが教えてくれるの?ハティちゃんなら私も安心できるな~」

 

「ん!」

 

 

自信満々なハティは任せろといった様子で僅かに上体を逸らす。

そしてスイカに視線を向けると考え始め、遂に一つの結論を出すと片腕を持ち上げビシッと小さな指を伸ばした。

 

 

「そこー!」

 

「…え、もしかしてハティちゃん指さしてる?おねぇちゃん目隠しだから指さしだとちょっと解んないかなー…」

 

 

ただの目視確認である。

スイカを指さしただけのハティは伝わらなかったことが予想外だったらしく首を傾げる、きょとんとしているハティの様子は余りにも可愛らしく俺は思わず吹き出してしまった。

 

 

「なー?」

 

「はははっ…いやハティ、声で指示しないと」

 

「んぅ?」

 

 

理解できていなかったらしい。

再び首を傾げてしまったハティを無視してスイカ割りは進んでいく、これ以上参加できそうもないので身振り手振りハティに教えることにした。

 

 

「右とか左とか進む方向を伝えるんだ、リリとシルはそうしてるだろ?」

 

「おー」

 

「この前右と左は教えたよな、どっちが右か解るか?」

 

「みぎー」

 

「…そっちは左」

 

 

左手をあげたハティは再度首を傾げる。不思議そうに自分の掌を見下ろすとかなり長い時間を考え、気が付いたのか改めて右手を振り上げた。

 

 

「よーし正解だ、偉いぞハティ!」

 

「むふー」

 

 

笑みを浮かべハティの頭を撫でる、教えるべきことはまだまだ多いがその一つ一つが楽しみでもある。

尻尾をぶんぶんと振りしぼるハティとじゃれて遊んでいるとどうやらエイナ達のスイカ割りも終末を迎えたらしい。

 

 

「そこです、エイナさん!」

 

「いっけぇええええっ!!」

 

「てぇええええい!」

 

 

素人らしい大上段、ただ気迫だけは一丁前なエイナはスイカの前で棒を振りかぶる。

エイナの一撃は迷うことなくその足元に置かれたスイカに向かい、目隠しの中であっても割と正確に振り下ろされた。

ボスッと鈍い音をたてて棒先が地面に叩きつけられる、勢いこそ充分だった一撃は巨大なスイカの横を丁度すり抜けていた。

 

 

「あっえっ…あぁー!?」

 

「あー残念…!」

 

 

目隠しを外したエイナは惜しい狙いに落胆の声をあげる、そしてため息と共に棒を砂浜に突き刺した。

そして汗ばんだ身体でシートに戻ってくる、不機嫌な表情で腰かけると何故か俺に気だるげなジト目を向けてきた。

 

 

「もう割れなかったんですしスイカ食べましょうよ、リョナさん早く切ってください」

 

「いや流石に素手じゃな…やっぱり割って食うか?」

 

「ならリリが包丁を持ってきましょうか?少し用事もありますし!」

 

「あぁそういうことなら頼んで良いか?」

 

「あ、なら私も行きますねー」

 

「シルお前食材には触んなよ、今晩寝る場所が無くなる」

 

「あっはっはっは、リョナさんってば冗談が得意なんですからー」

 

 

冗談ではないのだが。

ともあれ立ちあがったリリとシルが包丁を取りにコテージに向かうのを見送る。二人とも用事というのは僅かに引っかかったがおおかたトイレとかそういうことだろう、深く追求するのはまずい。

 

 

「あー…あっつ…」

 

 

呻いたエイナがうつぶせに寝転がる。

包丁が届くまでくつろいでいても良かったがスイカを持ってくるくらいわけなかった。

立ち上がろうとした俺の隣でハティが這ってエイナに近づいていく、その隣にぺたんと座り込むと手を伸ばして先ほどまで目隠しに使っていたタオルを取り上げた。

 

 

「…?」

 

 

手に持った白い布をハティは不思議そうに見下ろす、少しの思考の後ハティはそのまま目元に布をあて真似なのか遊び始めた。

 

 

「ハティもスイカ割りするか?」

 

 

タオルを結べず何度も取り落としていたハティは俺の言葉に振り返るとキラキラとした表情で頷く、タオル片手に近づいてくるとピクピクと耳先を動かした。どうやらスイカ割に興味があるらしい。

俺はハティからタオルを受け取るとその目を覆うように布をかける、落ちないくらいのきつさでその後頭部に結び目を作った。

視界を奪われたハティは不思議そうに周囲をキョロキョロと見渡している、脇を掴んで立ちあがらせると先程エイナの突き刺した棒を抜き取り、ハティの手に握らせてみた。

 

 

「…ハティちゃんも挑戦するんですか?」

 

「おう、お前も指示側に参加してくれ」

 

「喜んでー」

 

 

エイナに手ごろだった棒はハティにはちょっと大きすぎるかもしれない、目隠しをした少女は手にした長い棒の重さを確かめている。

まだ歩くことに慣れていないハティに目隠しでスイカ割りをさせることは少し不安ではあるが何事も経験だろう、息をついた俺はエイナの隣に腰かけると白く小さな後ろ姿を見た。

 

 

「じゃあハティ、用意は良いか?」

 

「おー」

 

「行くぞー」

 

 

やる気満々なハティが早速歩き始める、エイナと二人で指示を出すとハティは棒の重さにかなりふらふらと歩きながら進んでいった。

立ち止まったり滅茶苦茶な方向に進んだりすることも多い、というかほぼそうだが奇跡的にスイカに近づく事に成功していく。

 

 

「ハティ、右だ!」

 

「みぎー…?」

 

「そっちは左!」

 

 

棒の重さに引っ張られ行ったり来たりを繰り返すハティは危なかっかしい。ひやひやとしながら指示を出す、やはりまだ方向がしっかりと解っていないハティにスイカ割りは速過ぎたかもしれない。

 

 

「あっ~そっちじゃないよハティちゃん、逆逆!」

 

「ぎゃくー?」

 

「それ左!」

 

「尻尾の方!」

 

 

声援にも熱が入る。

うろうろとしているハティは惜しいところを行き来しており、見ている方からはかなりもどかしい。

そして遂には砂に足をとられ、棒の重さにふらりと大きく身体を傾けると俺が反応するまもなく…そのまま浜辺にボスンと倒れてしまった。

 

 

「大丈夫か、ハティ!?」

 

「んぅ…」

 

 

慌てて駆け寄ると俺は砂まみれになったハティの身体を立ち上がらせ、ついてしまった砂ぼこりを払い落とし目隠しを外した。幸い怪我はしていないようだがその紅い瞳にはちょっぴりと涙が溜まっていた。

尻尾の垂れてしまったハティの頭を撫でる、スイカ割りに挑戦するにはもう少し勉強が必要そうだった。まぁ失敗から学ぶことも多いだろう、今回はダメだとしても色々な事を経験していけば出来ることも増えるはずだ。

 

 

「よしよし痛かったな…ん?」

 

「んぉ…?」

 

 

ハティをあやしながらふと気が付く。

先程ハティが使っていた棒が転んだ拍子になのか宙高く飛んでいる、青空と白い雲をバックに緩やかな放物線を描く棒はゆっくりと天を舞っており…その先には丁度スイカがあった。

俺とハティの見つめる先、ゆっくりと滞空する棒は遂に地面へ向かい――そのままスイカにザシュッと縦に突き刺さった。

スイカから伸びた真っすぐな棒、溢れ出した赤い果汁は甘い匂いを拡散させていた。

 

 

「大当たり…だな、凄いぞハティ」

 

「おー」

 

 

奇跡を前にポカンとしていた俺とハティは息をつく、ある意味スイカ割り成功である。

やはり釣りの時もそうだったがこの子は運が良いらしい、どうやったら放り投げたあの棒でスイカを貫けるのだろう。

転んだ痛みもどこへやら、自分のしたことをぼんやりと眺めているハティの潜在能力は計り知れない。

 

 

「リョナさーん、包丁持ってきましたよー」

 

 

そんなこんなでリリとシルが帰ってくる。

ハティの頭から手を離した俺は、とりあえず不動のまま動かない棒の先ついたシュールなスイカを持ち上げるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

スイカの爽やかな甘みとみずみずしさが口の中いっぱいに広がった。

切り分けたスイカの一片を手にした俺はシャクシャクとスイカを食べる。少しぬるくなったスイカには清涼感こそ無かったが、溢れんばかりの水分と青い甘さはこの暑さの中でかなり美味しい。

スイカ割りの少し後、パラソルの下レジャーシートにあぐらをかいた俺はスイカを手にビーチバレーを眺めている。隣では同じようにスイカを持ったハティがスイカにかぶりついており、新しい味覚を楽しんでいるようだ。

 

 

「どうだハティ、美味しいか?」

 

「ふむー」

 

 

ご満悦のようだ。

口元を赤く濡らしたハティはスイカを両手に頷く。半月状に切られた赤い果実は既に半分程度減っており、満足げな表情からもだいぶお気に入りなのだということが解った。

種を足元の皿に捨てながらハティと共にスイカを食べる、パラソルの下からすぐそばで行われているビーチバレーを観戦していた。

 

 

「サーブ行くにゃ~!」

 

 

ビーチにラインをひいて作られたコートと借りてきたネット、三対三の試合は遊びではあるが中々白熱している。

今ビーチボールを持ったアーニャとイーミンコハル料理人コンビを加えた三人チーム、対するのはリューシルエイナの三人。

 

 

「ニャァッ!!」

 

 

美しいフォームから鋭いサーブが放たれる、ギリギリでネットを乗り越えたバレーボールはそのまま砂浜にバウンドするとサービスエースを奪った。

持ち前の運動神経の良さでアーニャはチームを牽引している、逆に他二人が動けなさ過ぎてワンマンプレイともとれなくない。

反対コートのリューチームは極めて堅実なプレイをしており、若干シルの動きが鈍いがアーニャの猛攻を凌いで的確にコハルの足元を狙っていた。

今のところ互角、チーム力的にはそう変わらない両者ではあるがお荷物を抱えたアーニャは体力的にかなり辛そうだ…このまま戦えばアーニャの敗北だろう。

 

(とはいえ)

 

勝敗は正直どうでもいい。

為すべきことはただ無防備にも水着姿でバレーを楽しんでいる女性陣の焼けてきた肌を静観すること。

大小違いはあれど女子の肢体。サーブ、レシーブ、トスなど様々な動きの中で身体が揺れる。

元々プロポーションの良い面々は勿論、激しく動くアーニャの汗ばんだ身体も中々健康的で良い。

 

 

「ぱー?」

 

「ん、ハティもこれから大きくなるよ」

 

「…?」

 

 

首を傾げたハティは自分の身体を見下ろす、子供らしいぺったんこは年相応のものだ、大人との違いは大きい。

スイカを食べながらハティとバレーボールを観戦する。やはり当初の見立て通りアーニャチームは徐々に押されてきている、既にワンマンプレイに頼り過ぎたアーニャの息も切れてきていた。

 

 

「ぷー」

 

 

スイカを食べ終えたハティが口に残った種をお皿に吐き出していく、頬が必要以上に膨らんでいる気がするが可愛いし良いだろう。

ハティと穏やかな時間を送りながら欠伸をする、バレーを眺めて過ごす時間は極めて平和だ。スイカを食べ終えたハティはまた貝の海音を聞き始めた、ごろごろとくつろいでいる少女の姿に幸せを感じながら俺は長く目を閉じる。

今という平穏を享受して、夏の日差しを眺めて。波の押しよせる音を聞きながら俺は再び欠伸を浮かべたのだった。

 

 

「あっやっべにゃ」

 

「ふぐおっ!?」

 

 

何て考えていた矢先、俺の腹に誤って飛んできたバレーボールが素早く突き刺さった。最近腹への被害多すぎないだろうか。

鋭い痛みを覚えながら俺はボールを持って立ち上がる。穏やかな気持ちから一転、怒りに燃えながら歩き始めた。

 

 

「俺を巻き込んだ罪は重いっ、覚悟しろよアーニャぁぁぁっ!」

 

「に゛ゃ~~~~~ッ!?」

 

 

結局この後俺はバレーに参加し両チームで暴れ、ハティにバレーを教えたりしながらお腹を空かして健康的な午後を過ごしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「やっぱ海っつったらBBQだべ」

 

 

すっかり日も暮れ夕方。

串に刺され並べられた肉と野菜が鉄網の上でジューという良い音とともに熱せられている、夕暮れの砂浜に置いた自作グリルは今のところ調子がいい。

自分で鋳造した網に串肉を置いていく、イーミンコハルと下ごしらえした食材はまだまだあった。浜辺での食事は各自楽しめているようだ、見ると遠くでオレンジ色の太陽が順調に海面に消えていくのが見えた。

 

(仕掛けもあるしな)

 

昨日作っていたものは四つ。その一つがこのグリルなわけだがまぁそこまで複雑な機構でもない、隠れて能力を使えばすぐ作ることができた。

とはいえBBQという文化は皆に中々ウケがいい、ただ味付けした物を焼いているだけではあるが外で食べるというのは新鮮だったようだ。

 

そして二つ目が一番難しかったことは間違いない、浜辺ならば間違いなく()()()だろうがそもそも仕掛けがうまく作動してくれるかが怪しい。

まぁ作動しなかったら無かったことにすれば良いだけではあるが苦労した分上手くいってほしかった。

 

 

「おーいリョナ君、肉おくれよ」

 

「あいよ」

 

「いやぁ悪いね仕事させちゃって」

 

「ん、楽しませる側も中々悪くないですよ。あトウモロコシ食べます?」

 

「いいね、ありがとう!」

 

 

ヘスティアの持った紙皿に肉と輪切りにしたトウモロコシを乗せる、程よく色目のついたトウモロコシは甘く美味しい。

笑顔を見せたヘスティアがまた戻っていく、後姿を見送り俺はまた食材を並べた。

 

(ハティが楽しめたらそれでいいからなぁ)

 

全てはハティの為に、一人だけ店主のように働いていても特に苦でもない。

見ればハティは色々な輪に入り、喋り食べながら楽し気な笑みを浮かべている。

ちょっとした感動だ、前までのあの子ならあんな躊躇いなく笑うことも出来なかっただろう。

 

 

「俺も涙もろくなったな…」

 

「まだそんな歳じゃないでしょ」

 

「ん、エイナ。ぼっちか?」

 

「誰がぼっちか!仕事しているリョナさんに心優しい私が話しかけて上げたんです!」

 

 

コップ酒を片手に喋りかけてきたエイナの頬は既にちょっと赤い、どうせ明日は帰るだけなので大人達には日本酒…ではなくビールがふるまわれている。

量は少ないがメレンで買ってきた酒はこの世界基準でおいしい、俺も先ほど一杯飲んだが中々悪くなかった。

ほろ酔いに見えるエイナがコップに口を付ける、煽られて不機嫌気に見えるが彼女なりにBBQを楽しめているらしい。

 

肉を転がしながら隣に立ったエイナと会話する、少し煙にむせると焼きあがった肉と野菜を空いた紙皿の上に置いた…瞬間猫人がかっぱらっていった、抜け目ない。

他愛ない会話を繰り返す。時折俺も食事しつつ料理を続け、太陽が早送りのように水平線へ落ちていく。

緩やかにオレンジから暗闇へ移り変わる明暗の中でエイナの笑みは今まで見た中でも一番楽し気に見えた、賑やかなBBQは楽しい時間と共に過ぎていった。

 

 

「よっしゃ終わった、んー…」

 

「お疲れ様です、はいお酒」

 

「おう」

 

 

肉と野菜を焼き終える、後は各自食べたい分だけ取っていけばいいだろう。

エイナからビールの入ったコップを受け取った俺は口をつける、息をつくとグリルから離れ急速に暗黒へと染まり始めた海に視線を向けるともう一つの仕掛けの成否を見るために皆から少し離れた平べったい石垣に腰かけた。

 

 

「ところでなんですけど」

 

「ん」

 

 

夜の浜辺を横切り、ついてきていたエイナが隣に腰かける。

だいぶ酔いが回っているのか常に満面の笑みを浮かべた彼女はそのまま肩を触れさせると軽い体重でほんのわずかだがもたれかかってきた、髪が肩に触れる。

 

 

「あのグリルもそうですけど、昨日は何を作ってたんですか?」

 

「そうだなぁ…上手くいけばもうちょっとで見れるはずなんだけどな」

 

「何ですかそれー」

 

 

喧騒から離れた静けさの中、近い距離感を保ったまま酒をチビチビと飲んでいるエイナは楽しそうに笑う。

汗と甘さの混じったエイナの匂いが直に鼻孔へ届く、また良くなった鼻は敏感でここまで近いと刺激的過ぎるのだが、まぁ肩が触れているだけでまだボディタッチの域…なのだろう。

 

 

「…近くね?」

 

「こんなもんですって」

 

 

コップの酒を飲み干してしまった二人で時折会話しながら波の音を聞く、どれもこれも当たり障りのない会話だったが居心地は良かった。

すべすべとした肌が触れる、少し動揺しながら俺はいつものように冗談を返す。噴き出したエイナが腹を抱えて爆笑し、暗闇の中照らされた輝かんばかりの笑顔を見せた。俺は微笑みから涙を拭う仕草をするのを見ていられなくて海に視線を戻す。

いつもより頬が熱い、酒のせいだとは思うが何だかいつもより魅力的に見えた。その細い指先が俺の手の甲を撫でた、そして自然と乗せられた彼女の掌が何かを決意するかのように握る。

 

 

「リョナさん、あの…私…!」

 

「ん、何だよ」

 

「…っあ…その、呼んでみただけで」

 

「?」

 

 

瞬間耳の先まで真っ赤になったエイナは俺の肩に強くもたれかかると特大の息を吐きだし俯いた、何か言いたげだったが躊躇ったらしい。

互いに黙って海を眺めた、相変わらず近い距離感を保ちながらそれ以上の言葉も無く夜空に浮かび始めた暗い星々を共に見る。

都市光に邪魔されない星座の輝きははっきりと美しく、その中心に浮かんだ月は崩れかけのままでも白く麗しい。

 

ふと視線を下におろす。

オレンジ色に照らされた面々が食事を楽しむ中、銀色の長い髪をした少女が何かを探すようにキョロキョロと周囲を見渡しているのを見つける。

 

 

「おーいハティ、こっちだ!」

 

 

手を振り声をかけると俺の姿に気が付いたハティはパッと表情を輝かせ、闇の中を走り出す。やはり俺の事を探していたようだ。

その瞬間だった、海に流した船上で俺の仕掛けが作動した。

 

――ドォンッッ……ひゅ~~~~…。

 

力強い鼓動と共に打ち上げられた白煙、空気を裂く高い音をたてながらそれはぐんぐんと夜空に向かっていく。

そして一瞬の静寂の後パァン!と弾けると、火花と共に大輪の華を夜空に咲かせた。

 

赤、青、黄色、緑、白、様々な色の打ち上げ花火が夜空で煌々と輝く。

走りかけていた少女は浜辺まで届く光で出来た濃い影に振り返る、その瞳で見たものは夏の夜空に広がる光の紋様。

打ち上げ花火、日本の夏の定番。

星々なんて目じゃない程カラフルな打ち上げ花火たちは美しく広がり、そして消えていく。

生まれて初めての光景に少女はただ立ちつくし、彼方の夜空を見上げていた。

 

 

「たーまやー!」

 

 

僅か一分ほどの光の明滅に誰もが見とれていた。様々な色と(まばゆ)いほどの光に皆が圧倒され、驚愕とともに息をのんだ。

素人だしそれほどの量もつくれなかったが発射機構と時限装置だけつけた船を海に流したのは我ながら良い案だと思う、実際こうして良いパフォーマンスになった。

 

隣で光に照らされたエイナも花火の綺麗さに呆気にとられている。

立ち上がった俺はハティの元に向かう、食い入るように夜空を見つめている少女の隣に立った俺は満足感を覚えながらその小さな手を取る。

見上げたるは光の華、美しい輝きと色の中で、俺は最後の花火が儚く夜闇の中に消えていく光景をハティと共に見送ったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




花火ってこんな簡単にできるものじゃないと思うんですけど!!まぁハティに見せたかっただけだし是非も無いよネ!!

ではではー!


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 秘密結社

秘密結社と聞くとズヴィズダーが出る今日この頃、皆さんはどうでしょうか。
そういえばスマブラsp買ってました、今作からの初心者ですがダークサムスでVIP行きました(自慢)
それと一週間投稿できてるけど次は期待しないで…

ではほんへ


・・・

 

 

 

「俺の名前はヴェルフ・クロッゾ、よろしくな!」

 

「おう、ヴェルフで良いか?」

 

「あぁ呼び名は何でも構わない、クロッゾ以外ならな」

 

 

ヴェルフと名乗る赤髪の青年とガシリと握手を交わす、鍛冶師だという彼の掌は厚く力も強い。

これならば十分戦えるだろう、ベルが知り合いを連れてきたと言った時には大丈夫かと思ったがこれなら中層手前くらいでも余裕なはずだ。

朝の冒険者通り、人通りの多い噴水の側で手を離した俺は黒い作務衣を着たヴェルフを見る。軽装に巨剣…というか大刀を構えた青年は若さと気概に満ち溢れており、何だか志願兵を見ているような気分になった。

挨拶を終え俺は噴水縁に腰かけ鎧の位置を直しているベルに視線を向ける。

 

 

「…でベル、今日は何階層まで行くんだ?」

 

「いつも通り十二階層まで、今日はヴェルフさんもいますし無理しない範囲でモンスターを狩りましょう」

 

「おいおい、さん付けはやめてくれよくすぐったい」

 

 

曰くベルが今着ている鎧を作ったのはこのヴェルフという男らしい、その関係で知り合ったという二人は意気投合し共にダンジョンへ行くことになったとか。

何でもヘファイストスファミリアの鍛冶師である彼はパーティが組めていないらしく、今まではダンジョンでの経験値稼ぎや自分の作った武器の試し切りが出来なかったそうだ。

またベルのお人好しが暴発しパーティーメンバーが増えた、とはいえ悪い奴には見えないし何かしてからでも十分対応できるだろう。

 

 

「じゃあ早速行きましょうか!」

 

「おう、足を引っ張るつもりはないから背中は任せろ!」

 

 

ベルの掛け声と共に噴水広場からバベルに向かって歩き出す、装備を確かめた俺は少し遅れてついていくと、既に二人が話しており必然残ったリリの隣になった。

大きなバッグを背負ったリリのフード下を覗き込む、身長差があるので解らなかったが小人族の少女は極めて不機嫌そうな表情を浮かべていた。

 

 

「…一応聞くが、どうした?」

 

「…まぁ別にリョナさんが悪いわけじゃあないんですよ?いつも一人で歩いてくれますし、ベル様の隣を奪いませんし」

 

「嫉妬かぁ」

 

「そういった解りやすい言葉でリリのこの感情(センチメンタル)分別(カテゴライズ)しないでくださいっ」

 

 

反抗期も併発しているらしい、年頃の乙女だしこの程度で怒るほど器は小さくない。

ぷんすこと怒り始めたリリの隣で苦笑しながら俺は前方のヴェルフに目を向ける。これで前衛が二人、バランス的に次は後衛がほしい所だ。

ぎゅるぎゅる丸は便利ではあるが集団の戦闘には向かない、味方を巻き込んでしまう危険性を考えるとそろそろ次のものを作る必要があるかもしれなかった。

見上げたバベルの下、青空を仰ぎ俺は汗ばんだTシャツをあおる。とりあえず火薬から調達するかと頭の中で算段をたてながら、いつも通りダンジョンに潜るのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

肌が湿るほど濃い霧の中、駆けた俺は枯木を踏み台に宙へ飛ぶ。

 

 

「ラストォ!」

 

 

一瞬の浮遊感、背を向けたオークの頭に俺は思い切り振りかぶった直剣を叩きつける。

頭蓋骨を砕く感触と共にオークの身体が黒い靄と消えた、着地した俺は剣に着いた体液を払うと息をつき仲間達に向き直る。

 

 

「すまねぇ助かった、囲まれるときついな…」

 

「そのためのチームメイトだ、まぁとろいオークに背中をとられるのは注意力散漫だが」

 

「あぁ、次からは気をつけさせてもらう」

 

 

大刀にもたれかかり荒く息をついているヴェルフは片膝をついて汗を拭いていた。

第十三階層、霧の立ち込めるいつもの階層は視界が悪いので比較的モンスターに囲まれやすい。

ヴェルフをキャリーしながらの戦闘は今のところ順調ではある、まだ四人での連携こそできていないが特殊な戦況じゃない限り一人増えたアドバンテージは充分大きい。

 

 

「魔石回収行ってきます、二人は休んでいてください」

 

「おう、気をつけろよー」

 

 

霧の中では奇襲されやすいのでリリの魔石回収にベルが付きそう、リリに限らず一人で霧の中にいることはかなり危険だ。

魔石を回収しに行ったベルとリリを見送る。残された俺はパープルモスにだけ注意を払うと息をつき、やっと立ち上がったヴェルフに視線を向けた。

 

 

「ふぅ…いや本当に強いんだなアンタ、正直そんな差は無いと思ってたが戦闘技術に関しちゃ俺はまだまだだ」

 

「まぁ前線でモンスター何匹か相手にしてくれるだけでも相当助かるけどな、それに何匹か倒せてただろ?」

 

「そりゃあそうだが…」

 

 

実際その大刀の威力は高くヴェルフ自身何匹かはモンスターを倒している、地面に突き刺したままの太刀は鋭く中々の業物に見える。

他で見たことの無い形状をしているし恐らく自作だ、鍛冶師という話だったがどれほどの腕前なのだろうか。

ヴェルフと暫く会話を交わす、若い青年は向上心が強く鉄や鍛冶の話題には熱が入った。

 

 

「…ところであんたは防具をつけないのか?見たところその篭手だけに見えるが」

 

「ん」

 

 

少し前までは俺も鎖帷子ぐらい装備しようと思っていたのだが、ヘイトはベルが稼いでくれるし、結局当たったら鎧があってもどうせ怪我は避けられないので躱すことを優先させた。

それにいざとなったら狼騎士があるし防御も問題はない、利用できる鉄が増えるのは良いのかもしれないが手入れや重さを考えたらむしろ持たない方が良かった。

 

 

「これも何かの(えん)だ、良ければ俺があんたにあった鎧を作らせてもらうが…」

 

「いや遠慮するわ、こいつさえあれば大丈夫だし」

 

「そうか、出来るだけ多く造りたいからもし機会があれば是非声をかけてくれ。絶対に後悔はさせないからよ」

 

 

そう言って笑うヴェルフは確かに好青年である。

笑みで返した俺は彼に対しての警戒を緩めると、改めて新しい仲間として認めた。

その時である、霧の中からリリの声が強く聞こえてきた。

 

 

「オークとインプの混成パーティです!お二人ともサボってないで早く来てください!」

 

 

どうやら運悪く敵と遭遇してしまったらしい。

先程二人が消えていった方向からの声に直剣を引き抜いた俺はヴェルフを見る、赤髪の鍛冶師は地面から大刀を抜いているところであり丁度目が合った。

 

 

「しゃあねぇ、行くぞヴェルフ!」

 

「あぁ、背中は任せた!」

 

 

互いに得物を構えた俺達は、共に霧をかき分けながら走り出したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

ダンジョン帰りの倦怠感を感じながら陽が落ちた通りをベルと歩く、既に稼ぎを分配したリリとヴェルフとは解れ俺は豊穣の女主人に向かっていた。

やがていつもの店の外観を見つけると息をつく、ベルと共に店のドアを開けるとカランコロンと鈴が鳴った。

 

 

「らっしゃせー…ってお得意様にゃん」

 

「おう」

 

 

既に喧しい店内に入ると熱気とアーニャに出迎えられた、給仕の途中だった猫人は特にじゃれついてくることもなくそのまま去っていく。

今日は腹が減った、まずはハティを迎えに行ってからメニューを頼もう。

 

 

「ちょっと待ちな、リョナ」

 

 

ベルと別れハティの待つ休憩室に向かおうとした俺をカウンター越しにミアが呼び止める、疲労した身体で振り返りながら俺は嫌な予感のまま目を細めると腕を組んだミアがエプロンを外しているところだった。

 

 

「カウンターやりな」

 

「うげぇ…こちとらダンジョンあがりなんですが?」

 

「夕飯タダにしてやるからつべこべ言わずにさっさと着替えてくるさね、まだ余裕は残してんだろう?たまにはあたしを休ませるくらいの男気みせな」

 

 

お見通しである、ただ早くハティと戯れたかっただけだった。

はぁ…、と長くため息をついた俺はバックヤードに向かうドアを開ける。誰もいない暗い廊下を進み、とりあえず右側ドアから休憩室を覗き込むととりあえずハティに顔を見せることにした。

 

 

「ただいまー、ハティ」

 

「ぱー!」

 

 

声をかけると座っていた少女がぱっと表情を輝かせる、椅子から飛び降りたハティはくまぬいぐるみを片手にとことこと近寄ってくるとそのままポスンと膝先に抱き着いてきた。

とてつもなく可愛い、膝に抱き着き嬉しそうに尻尾を動かしている愛娘の姿に癒されながら俺はそのふさふさの頭を撫でる。

ふと何かに気が付いたのかハティが足から離れた、そのままUターンで机にまで戻り何かを取ってくると俺の前でそれを広げた。

 

 

「これ、ぱー!」

 

「おっ似顔絵かぁ、頑張ったな嬉しいよハティ」

 

「むふー」

 

 

掲げられた紙の上にはハティが描いたであろう似顔絵がミミズののたくったような線で描かれている、まるで鏡餅のような顔をしたお絵かきだが嬉しいことに変わりない。

満足げなハティがそのままだっこ要求してくる、腕を伸ばした少女をいつもなら抱き上げるところだが今日はカウンターに行かなくてはならなかった。

 

 

「ごめんハティ、俺まだカウンターの仕事あって…」

 

「だー…」

 

「また後でな」

 

 

両腕を伸ばすハティは悲しそうな顔をするとしょんぼりと尻尾を垂れ下げてしまった。

毎度のことだが心が痛い、最近こそダンジョンに行くときはそこまで悲くなくなったハティだがこういう延長が入るときは期待もあってか落差が大きい。

ぽんぽんとその頭を撫でる、くまぬいぐるみとお絵かきを描いた紙を持って机に戻るハティを心苦しく見送ると俺は廊下に戻り隣の更衣室の前に立った。

 

部屋のドアをノックする、今の時間は誰もいないはずだがもし他の店員と遭遇したら袋叩きにあってしまう。

誰もいない事を慎重に確認すると俺は部屋のドアを開け中に入る、そして手早く衣類を脱ぎ自分のコック服を着ると指先で襟元を直した。

 

 

「よし」

 

 

身だしなみを整え更衣室から出た俺は廊下を通り抜けると、今度は休憩室ではなく厨房に入る。

厨房では通常シフトの面々があくせく働いている、見知った同僚達と二言三言挨拶を交わしながら厨房を通り抜けカウンターに続く腰の高さほどのドアを開けた。

丁度ミアとすれ違う、エプロンを肩にかけたミアは男らしくただ拳を天に向けて言葉なく去ると俺とバトンタッチした。

店に出ると一気に喧騒が近づく、音の落差に慣れながら俺は息をつくといつもミアが立っている位置に立ちとりあえず酒の注文票に目を通す。

 

 

「おっリョナじゃねぇか、酒早くしろよ」

 

「今来たばっかだ、ちょい待て」

 

 

冒険者達のヤジを受け流しながら早速カウンターの仕事を始める、酒をつくり提供し時折見知ったゴロツキ達とコミュニケーションを交わしながら働く。

正直腹が減ったがこの仕事にも慣れたものだ、すっかり知り合いとなった冒険者達の愚痴を聞いたり相談に乗ったりして仕事をこなした。

 

 

「でよ~、その女がまた生意気なもんで…」

 

「まぁ明らかに本気じゃねぇっぽいしな、一回距離置いてそれでノーリアクションだったら諦めるってのも手だぞ」

 

「なるほど?」

 

 

恋愛相談なんかも時折受ける、客観的にアドバイスしているだけだが今のところ評判はいい。

息をついた俺は暫く仕事をこなした。喧騒を管理しながら酒を造る仕事は退屈だが自分に合っているとも思う、華が無いのが残念だが冒険者達との出会いは面白い。

 

 

「おーいリョナ、この子なんだが」

 

「ん?」

 

「ぱー…」

 

 

仕事の最中、振り返ると厨房から顔を出したイーミンが困ったような表情を浮かべていた。

その足元からハティが出てくる、どうやら我慢できずに休憩室から厨房に来てしまったらしい。

どこか神妙な面持ちのハティは厨房から顔を出したままじっとこちらを見ている、仕事中に来てはいけないとは言ってはいないがもしかして気をつかわせてしまっただろうか。

 

 

「よし、おいで」

 

 

腕を広げ膝を落とす、寂しい思いをさせるのもそうだが俺の都合でこの子に我慢とかさせたくはなかった。

笑顔を花開かせたハティが駆け寄ってくる、飛びついてきた小さな身体を抱きあげるとそのままいつものように頭を撫でながら軽くゆすった。

胸の中のハティはコック服を掴み大きく呼吸している、安らぎを得てくれているなら良い。

 

 

「お?リョナどうしたんだよその子」

 

「俺の娘」

 

「はぁお前子持ちだったのかよ!?」

 

 

ハティを抱え歩いていると荒くれ達に見つけられる、この子の可愛さは下劣な男共には余ると思うがまぁ多少は良いだろう。

試しにカウンターの上にハティを座らせてみる、だっこしたからか少しお眠なハティは赤い垂れ目でふわりと銀髪を垂らした小首を傾げている。

超絶に可愛い、もはや浄化に近い圧倒的美少女力に普段は口数の減らない冒険者達も目を奪われ唖然とし、あるものはそのまま心を浄化され自分の存在を改め、またあるものは天使の降臨にむせび泣いた。

 

 

「…嬢ちゃん、お名前は?」

 

「んぅ…はてぃ」

 

「ハティちゃんだね、俺の人生をあげよう」

 

 

重いのが来た、初対面でこいつはハティに対して人生に足る何かを見つけたのだろうか…いやまぁ絶賛人生を捧げている俺が言うのもなんだが。

そして意外にも俺も俺も!とその威光に触れた殆どの男共が殺到した、一様に魅了された男たちはむさくるしく(ただ手は出さない)ハティもうるささに寝ぼけながらちょっと不機嫌気だった。

殺到した人混みの中から一つ影が抜きんでる。その人影は俊敏かつ鋭い足技で一閃を繰り出すと冒険者達を退け、覇気と共に吼えた。

 

 

「身の程を知れ愚か者ども!ハティに触れることはこの私『ハティファンクラブ親衛隊隊長リュー』が許さないッ!」

 

「「「は、ハティファンクラブっ!?」」」

 

「ハティを遠くから見守り、時にバレない範囲で手を貸す!極めて健全な善意でなりたつ秘密結社!!その名もハティファンクラブ!!真にこの子を愛でるならば参加しその身を挺してハティを守れ、全てはハティの為に!!」

 

「「「おおおおおおっ!全てはハティの為にぃぃ!!」」」

 

 

勝手に盛り上がっている、何故か熱のこもったリューの演説に群衆はまとめ上げられ一様に拳を振り上げた。

その中心で当の本人であるハティは興味なさそうにうつらうつらとしていた、俺はただ呆れと共にその光景を見送る。

今宵ハティファンクラブは勝手に設立され、後に新選組ばりに堅い掟で縛られた巨大組織になるのだがそれはまた先のお話。

 

 

 

・・・

 

 

 

悪夢を見る。

メレンに行ったあの日から俺の繰り返される夢は変質した。

沈む…纏わりつく蒼い泥濘の中で落ちていく俺を、途方も無く巨大な化け物がこちらを見つめている。

 

災厄、その黒龍は鯨の何十倍か。まるで仏掌の中にいることに気がつけなかった猿のように、ただ無限に続くかのような指の隙間を濁った翡翠色の瞳に見つめられながら俺は海中を落ちていく。

あの日から黒龍は一言も喋らない、ただ俺の事を見守るように同種の化け物は掌の中を落ちていく俺を静かに見下ろしていた。

 

(…)

 

こいつは何者なのだろうか。

飽きもせず龍は俺が落ちていく様を見つめている、きっと俺が夢を見ていない合間もずっと。

もしかして暇なのだろうか。

それもそうか、もしこいつの本体がどこかにあるとしてこのレベルの化け物に喋り相手がいるとは思えない。大きくなり過ぎたせいだ、共に在ることが出来ぬほど力を持ち過ぎた化け物は究極の孤独に至った…それはつまり俺の未来でもあった。

 

その瞳から意図を汲むことはできない。所詮孤独も俺の推測に過ぎない、孤独を感じる程の理性が残されているかも解らなかった。

しかしもし喋れたなら…いや一回は喋ったし期待は大きい、こいつは何か神殺しの獣について知っていることは無いだろうか。

どうやら俺よりも成長した個体のようだし、そもそも俺以外に神殺しの獣がこの世界にいること自体が謎なのだ。

異世界について、あの母神について、そして俺の存在理由について。疑問は尽きない。

 

 

『「…ァ」』

 

 

試しに問いかけようと喋ってみるが口から漏れるのは泡とうめきのみ。

早々に諦めた俺はただ龍を見つめ返す、やがて酸欠が訪れ意識が遠のくといつも通りの夢の終わりを迎えたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

ハティファンクラブ創設以降ハティが店内に出没するようになった。

くまぬいぐるみを手にふらっと現れてはとことこと喧騒の中を渡り歩く少女の姿は実に愛らしく、時に知り合いに声をかけ、時に客の持つ知らないものを見つけてはジッと観察したりしてリョナの仕事を待つ間を有意義に過ごしているらしい。

そしてそれをハティファンクラブの面々は一様にほっこりとした表情でそれを見守り、時に荒くれには似合わない誠実さで少女とコミュニケーションを図ったりしていた。

後に会員NO.003になった男曰く。

 

 

「あぁ…俺は元々ミア母さんと喋るのが楽しみで通ってたんだけどよ、最近は楽しみが一つ増えちまったよ」

 

 

ちなみに俺は名誉会長としてNO.001になっているらしい。

まぁ拉致とか犯罪めいたことは無く親衛隊みたいな感じで見守ってくれているだけなので問題ない、むしろまだまだ危なっかしいハティを見ていてくれることはありがたいことなのかもしれないが人の娘で何勝手にファンクラブ作ってんの?という呆れは強く残っていた。

まるでアイドルである、確かにハティは世界で一番可愛くはあるが祀り上げて勝手に盛り上がるのは…何だか面白くない。

とはいえそもそも俺が店にいないときは干渉できない、これは俺がダンジョンに行っている合間の出来事だ。

 

今は夕暮れの豊穣の女主人休憩室、椅子に座ってお絵かきをしているハティは絵の完成に合わせ尻尾をピンと立ち上がらせる。

自分のイメージをそのまま表現したそれが描かれた紙を少女は両手で持ち上げるとまるで一流画家の如く出来栄えを確認し、息を漏らした。

 

 

「んふー…?」

 

 

緑と茶で描いたそれは少し前に庭で見たあの生物、俗にバッタと呼ばれるその虫の名前をハティはまだ知らない。

最初こそ「ぱー」に言葉で伝えようとしたのだがハティの言語能力ではまだまだバッタの特徴を言うのは難しく、今度は実際に捕まえて見せてみようとしたのだがバッタのジャンプ力の前に惨敗…小一時間程格闘したが触れる事すら叶わず、ハティの体力切れでゲームオーバーとなった。

 

そこで絵に描くという方法、これならば言葉はいらないしわざわざ捕まえなくともどんな生物なのかを尋ねられる。

…ただ問題は描いた絵がとてもバッタには見えないということ、うねった緑と茶色の集合体は良くてアメーバか何かであり十中八九バッタと見分けられる人はいないだろう。

 

 

「うん!」

 

 

とはいえ自らの絵の出来に満足したハティは大きく頷くと、紙を持ったまま椅子からぴょんと飛び降りる。

まぁ子供の絵だしこんなものだろう。自信満々といった様子のハティは絵を掲げたまま休憩室から飛び出ると、とりあえず「ぱー」が帰ってくるまで他の面々に絵を見せることにした。

 

まずハティは休憩室向かいの厨房に向かう。コック達が働いている厨房は調理音と美味しそうな匂いで満ちており、入る度意識と関係なく鼻がぴくつく。

忙しないコック達の仕事の邪魔をしないように気をつけながらハティは厨房内を横断する、まだまだ背の低いハティにはテーブルの上で何が行われているか見えないがそれが料理だということは何となく解った。

そんな中、イーミンがハティに気が付く。赤髪をおさげにしたロリは料理の片手間に膝を折ると自然な笑みを向けた。

 

 

「おっハティ、どうした腹減ったのか?」

 

「おー」

 

 

ひねくれている彼女だが子供に対してはそうではない。

優しい年上の気遣いをスルーしてハティは持っていた絵を掲げる、広げられた紙に描かれた緑茶の線を見下ろしたイーミンは眉を顰め困惑した声をあげた。

 

 

「なー?」

 

「あー…えっと、ミア母さんなら知ってるんじゃないかな」

 

 

名状しがたい絵からイーミンは目を逸らす、尋ねられてもそれが何かは彼女には解らなかった。

仕事に戻っていってしまったイーミンの後ろでハティは不満げに頬を膨らませる、紙を持ったまま厨房を抜けた少女はそのままカウンターに入ると、客と談笑していたミアの近くまで歩きその制服をくいくいと引っ張る。

 

 

「む、どうしたんだいおチビ」

 

「これー」

 

 

再びハティは頭の上で紙を広げる、相変わらず緑と茶色がのたくったようなその絵をミアはじっと見つめるが流石に理解することは出来ず目を閉じるといつも通りのしかめっ面でカウンターの上に手を伸ばした。

つまみのピスタチオから数粒取り出すとミアはその太い指で殻をパチパチと外していき、実だけにしてからハティに手渡した。

 

 

「…とりあえず、これでも食っときな」

 

「ん、おー?」

 

「しっかり噛むんだよ」

 

 

誤魔化された感じだがミアから渡されたピスタチオにハティの興味はそれる。少し緑っぽい豆からは香ばしい匂いが漂っており、早速口の中に入れてみると若干塩みのある甘さが広がった。

もぐもぐと咀嚼しながらハティはカウンター横から店内に出る、すっかり紙の事を聞くことを忘れていた少女だったが特に気にすることも無くピスタチオを楽しみながら手元の絵を見下ろした。

 

 

「…ん!」

 

「にゃ?エンドウ豆かにゃ?」

 

「んー!」

 

 

通りすがりのウェイター猫人に紙を見せる、エンドウ豆が何を言っているかは解らなかったが豆という言葉に聞き覚えはあるしきっと違うだろう。

首を振ったハティはぶらぶらと歩きだす、既に騒がしい店内はハティにとって広く色々な客達が酒を飲んでいる。紙を持ったハティは時に酒を飲んでいた冒険者達に絵を掲げ、仕事中のウェイターを呼び止める。

しかし誰も何が描かれているか解らずてんでバラバラな回答ばかり、満足いかないハティは僅かに眉を顰め垂れた瞳でバッタの絵を見下ろす。

テーブルの間を通り抜けると座っていた棒検査の男が気がつき、久しぶりに会った親戚のおじさんみたいな感じで喋りかけられた。

 

 

「おっハティちゃん、どうしたんだい?」

 

「これー、なー?」

 

「…うーん、おいテメェらハティ嬢が――」

 

 

召集をかけ始めた男を見上げハティは首を傾げる、手持ちぶさたに歩き回りながら尻尾を揺らしていると尻尾の先が誰かの足にぶつかった。

振り返ると反対のテーブルに座った若い男がこっちの事を睨みつけていた、どうやらこの人にぶつけてしまったらしい。

 

 

「…チッ、ガキかよ。いったいいつからここは託児所になったんだ?」

 

「あん?あぁ最近話題の…でもよく見りゃけっこう可愛いじゃねぇか」

 

「お前こんなんがいいのか?まぁ良い、ぶつかった落とし前はキッチリと…」

 

 

座った二人の男の片割れが手を伸ばしてくる。

怖い、恐怖の感情が膨れ上がり立ち竦む。逃げる事が頭に浮かばず少女は肩を震わせ、ただじんわりと涙を浮かべた。

同時に身の危険に反応し少女の魂に絡みついた蒼い種火が鎌首をもたげる、感情を糧にした炎はやがてその紅い瞳を縁取り始めた。

ハティに男の手が近づく。炎が爆発するかというその瞬間、横から伸びてきた手がそれを止めた。

 

 

「おい」

 

「あぁ?今度は何だ…よ……?」

 

 

男の手を止めたのは勿論ハティファンクラブの会員、レベル3というその男ははちきれんばかりの身体に上裸サスペンダーという威圧的な出で立ちであり、鬼神が如く表情でハティに手を出そうとした男に殺意を向けていた。

腕を掴まれた男は怒髪天の格上に完全に委縮する。レベル3の男の脇には同じ出で立ちの男がもう一人控えており、櫛で髪を整えながら舐めるように二人を見ていた。

まぁ普通に考えて敵う訳がない、今度は涙を浮かべる番になった男にレベル3の彼は強い鼻息をと共に問いかける。

 

 

「お前も…ハティちゃんの事が好きなのか?」

 

「なっ!?いやその」

 

「丁度良かった、俺もハティちゃんの事が好きなんだわ…なぁ、ハティファンクラブの先輩として色々と教えてやるからよ、ちょっと面ァ貸してもらおうか」

 

「連れのアンタも」

 

「えっ!?いや俺関係なッ」

 

 

有無を言わさぬ筋肉量。

掴んだ腕をそのまま持ち上げた巨漢は最後にハティへにっこりとした笑みを見せると、男を担いだまま店外へ消えた。連れの男も巻き添えで連れていかれる。

ハティファンクラブの掟は堅く、構成員の中には上級冒険者すら含まれている…このようにハティの身が脅かされる時、過激派によって連れていかれた不埒者には定められた作戦規定通り粛清と洗脳処理が施されることになる。これほどのシステムが瞬く間にハティファンクラブ末端にまで監視網が徹底されたのはひとえに親衛隊隊長過激派筆頭NO.002リュー・リオンの指示のおかげだろう。いや幼子一人に本気を出し過ぎな気もするが、増えすぎた会員の統制を図るためには掟で一体感を出すことはそう悪いことでは無かった。

 

残されたハティはぽかんとしつつ、助けられたことに感謝すると驚きが勝って恐怖も薄れたのか出かかっていた炎もスッと引っ込んだ。

 

 

「おーいハティちゃん」

 

「んぉ?」

 

 

先程絵を見せた冒険者のおっさんに呼ばれハティは近づく、するっと怖い思いをしたことは忘れた。切り替えは速い。

迎えられるように集まった大人たちに近づいたハティは紙を掲げると絵を見せる、男たちの視線が集中し一様に困惑した。

 

 

「解ってるなテメェら、ハティちゃんはこれをお望みだ!」

 

「おー」

 

「命を賭して持ってこい!ハティファンクラブのファーストミッションだ、総員かかれ!」

 

 

召集した男の言葉にハティが頷き、それを確認したおっさんの号令と共に「全てはハティの為に!」と叫ぶと既に酔っている会員達は猟犬が如く勢いで店から飛び出していった。

一種の借り物競争みたいなものだろうか、ハティのお絵かきを頼りにしたレースは熾烈を極めることになる。

数分後、戻ってきた一人が椅子に座ったハティの前で荒く息をつきながら持ってきたそれを差し出した。

その手にあったのは緑色の表紙で背が茶色の本、とてもじゃないがバッタには見えない。

 

 

「はぁはぁ…これ…じゃないか?」

 

「ハティちゃん、どうだい?」

 

「んー!」

 

 

いつしか司会となって脇に立っているおっさんの問いかけに、これじゃないとハティが不機嫌気に首を振ると本を持ってきた男はがっくりと肩を落とした。

それから男たちが様々なものを持ってきた、手がかりは緑と茶色という断片的な手掛かりのみ。

 

 

「キャベツ!」

 

「んー!」

 

「茶色の鍋!」

 

「んー!」

 

「魔石!」

 

「ん?…おー?」

 

 

単純な興味で魔石を受け取ったが違う、暫くその妖しい輝きを手の中で転がした後改めて首を振ると期待に胸を膨らませていた冒険者がまた一人崩れ落ちた。

気が付けば最初に参加した男達以外もゲームに参加している、ハティファンクラブの面々は勿論の事一般の参加者もハティの絵を頼りに店外へ駆けだし、様々な物を持ってきては首を振られる。

いつしか店全ての人間を巻き込んだレクリエーションはハティを中心に今宵のメインイベントになっていた。参加者は必死になって物を探し、それ以外のものはヤジや歓声を飛ばしながら酒のツマミにしていた。

騒ぎの中、仕事中の店員さえも便乗し物を持ってき始めた。カウンターのミア母さんは起こるに怒れずただ借り物競争大会と化した店内を呆れと共に見ていた。

バックヤードからリューが出てくる、すっかりお祭りのようなどんちゃん騒ぎの店内に彼女は眉を顰めると手近にいたハティファンクラブ会員に声をかけた。

 

 

「これはいったい何が起こっている?」

 

「隊長殿!ハティちゃんが何か絵に描いたってんで今はそれを全員で当てようとしているところであります!」

 

「ふむ…報告ご苦労」

 

「ハッ!」

 

 

正規軍のような敬礼を受け取った後、リューは騒ぎの中心にいるハティとその傍に積み上げられた不正解の山を見る。その一連の流れを確認し理解すると、司会のおっさんが持った絵を遠目から確認し目を細めた。

どうやら次の回答者は魔術師の女らしい、グラマラスなボディラインの彼女はローブ下の懐から何か取り出す。

 

 

「これとかどう、エメラルド。欲しくない?」

 

「おー?」

 

「そうだなぁ、ハティちゃんがもしおねぇさんと一緒に来てくれたら――」

 

「違反者だ!」

 

「粛清しろ、再教育だ」

 

「いやぁぁ!ちょっと魔が差したんですぅぅぅッ!」

 

 

ハティを光るもので釣る行為は禁止されている、魔女風の女は泣きながら過激派の男二人によって引きずられていった。彼女はこの後ハティファンクラブ鉄の掟を暗唱できるまで正座することになる、全101項目まで。

次の回答者が来る、凛としたその人物は何かを引きずりながら静かな所作でハティの前に立った。

 

 

「次は私です」

 

「おぉ、隊長殿だ」

 

「いったい親衛隊隊長はどんなものを…」

 

 

注目の集まる中リューが差し出したのはとある猫人、確かにアーニャは茶色の毛と若草色の制服を着ており配色的にはハティのお題に沿っている。

気絶させられたその猫人は白目をむいたまま床に転がる、確かに出来はともかく似顔絵というのは可能性として高い。

全員の視線が集まる、集中したリューは自身と共にただじっとハティを見つめていた。

 

 

「……ハティちゃん、判定は?」

 

「…んー!」

 

 

ハティが首を横に振り、張り詰めていた緊張がほどけるとともに落胆の声が上がる。

何の意味も無く気絶させられた猫人が撤去され、外したリューは潔く結果を受け入れると再び絵を見つめ何が該当するかを考え始めた。

 

 

「しっかし当たらねぇなぁ」

 

「うーん結構数は揃ってきたんだがな…」

 

 

それから何人もチャレンジするが当たらない。緑と茶色が揃ったものなんてそうないし成果を得られず帰ってくる回答者も増えてきた。

万事休すか、そろそろお開きが見えてくる。結局絵の内容は解らないまま、ハティも残念そうな顔で自分の絵を見下ろしていた。

そんな倦怠感の流れ始めた頃、店のドアがカランコロンと鳴って開いた。

 

 

「んー…今日も頑張った」

 

「ぱー!」

 

「おーハティ」

 

 

肩を回しながらリョナが店に入ってくる、全体的に黒い青年はやっとダンジョンから帰ってきたらしい。

椅子から飛び降りたハティがリョナに駆け寄る、柔らかい微笑みを浮かべたリョナは慣れた動きで腰を落とすと少女の身体を抱き上げゆする。

羨望の視線が集まる、ハティを抱いたリョナはふと視線をあげ集まった人間たちと山のように積まれた緑と茶色という普段とかけ離れた光景を見ると眉を顰め、少し考えた。

 

 

「…遊んでもらってたのか?ハティ」

 

「ハティちゃん、ぱーにはこの絵見せなくて良いのかい?」

 

「!」

 

 

リョナの腕の中でハティがパタパタと暴れる、その小さな身体を床に降ろしてもらうと急いで司会おっさんの元まで戻り絵を受け取った。

今度はリョナから近づく、紙を持ったハティは今日一番の期待を込めて絵を掲げてみせた。

 

 

「ぱー!これー、なー?」

 

「ん、どれどれ…」

 

 

そこに描かれていたのは緑と茶色がぐっちゃになった落書き。顎に手を当てたリョナは目を細めその絵を見下ろすと、すぐにあぁと頷いた。

 

 

「バッタだな、庭で見たんだろ」

 

「「「!?」」」

 

「ぴょんぴょん跳ねて、こう…触角のある、指先くらいの」

 

「っ…ん!」

 

 

リョナが手ぶりで伝えるとハティが初めて首を縦に振る。

周囲の人間は唖然とそれを見ていた、合っていることも驚きだがあの絵から何か読み取るという発想がそもそも彼らには無かった。

 

 

「よし解って良かったな、じゃあ夜ご飯食べるか」

 

「うん!」

 

「おーい注文良いかー」

 

「はーい」

 

 

アッサリと空いた机に座り注文を始めた親子を参加者全員が見送る、呆気なく勝利をもぎ取っていった男はハティの事に関しては紛れも無く一流だった。

圧倒的なハティ力の差を見せつけられ、人々は驚愕と共に尊敬の念を抱く。

 

 

「信じらんねぇ…なんてハティ愛だ、奴は化け物か…!」

 

「名誉会長…その名は伊達じゃない…!」

 

 

そんなこんなでハティファンクラブでもリョナは一線を画す存在として畏怖の念と共に見られることになるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




まぁ思いついたネタです、あとはホモ要員…じゃなくてヴェルフが仲間になったと、それだけだと短すぎたんでハティファンクラブを作りました。
とはいえあくまでフレーバーなんでリョナが冒険者達に命令が出来るようになったとかではないです、ハティの安全性が増した程度ってことで。

ではでは次回!そろそろシリアスさんがアップを始めますよ~


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 予兆

シリアスさんの影が伸びる。
遂に物語は佳境へ、ここからが神殺しの獣としての分岐。そして作者が一週間投稿を続けれるかの分岐…クオリティ重視したいんで時間はあまり気にしないでくだち。
ではほんへ



・・・

 

 

 

ぐらりと地面が揺れる。

思いのほか強い振動に俺は壁に手をつき耐えると、パラパラと落ちてくる砂埃が頭にかかるままにした。

 

(強いな…)

 

ダンジョン中層のとある回廊、誰もいない通路にて俺は一人地震を凌ぐ。落石に注意しつつ感覚を研ぎ澄ますと、揺れが過ぎるまで待った。

跳ねるような振動と轟音が長く続く、微かな余震の末に地震は消え去っていき完全に消え去るまではだいぶ時間がかかった。

立ち上がった俺は安全を確認すると息をつく。最近やけに地震が多い、地下であるダンジョンもそうだが地上でも一週間で何回か地面が揺れ、その度にハティなどは飛び上がるように吃驚していた。

 

 

「ふー」

 

 

何故こうも地震が多いのか。その原因までは解らないがまぁ地下にこんな巨大な空間があるのだからこれだけの頻度で地震が起きてもおかしくないのかもしれない。

ただ生き埋めになると困る、あと落ちた食器が一枚割れた、ハティが怖がる等々色々と問題があるので正直やめてほしい…思ってどうにかなる問題でもないが。

ともかく注意しておくにこしたことは無い、戦闘中に揺れないことを願うばかりだ。

 

 

「スー…」

 

 

無駄な戦闘を避けるため、俺は匂いでモンスターが近づいていないか確認する。獣臭はしない、どうやら近くにモンスターはいないようだ。

数日前、ベルと話した結果遂に中層に行くことに決まった。レベルも上がり、新しい仲間も増えた今前々からの目標だった中層へ行きたいとベルが言い出すのはまぁ必然ではあった。

何より中層経験者である俺とリリの存在が大きい、一人で中層に行っている俺が引率すれば比較的楽に探検できるし、知識面でリリがカバーしてくれればかなり安全に進行できるはずだ。

 

今日の目的はルートの確認、明日は早速中層に行く手筈になっている。とりあえず中層の雰囲気を確かめるだけではあるが数階層は降りてみようという話になった。

とはいえいつも通り連携すれば余裕だろう、モンスターの種類が変わるとはいえ実力自体は足りているはずだった。

 

 

「ここあたりか…」

 

 

来られるかは解らないが十六階層のとある地点に俺は目星をつける、今までの経路は比較的解りやすい道を選んできたし迷うことも無いだろう。

広く高低差のあるT字路、敵の見当たらない鍾乳洞の通路で俺は背を逸らし腕を伸ばした。

 

――おいで。

 

振り返ると蒼い髪が軽やかに通路の曲がり角へ消えていくのが見えた、一瞬にして心臓が早鐘を打ち始めるのを感じながら俺は通路を走り抜けると曲がり角を可能な限り早く覗き込む。

そこには誰もいなかった、微かに見えた蒼い残滓は幻のように消えていた。

 

 

「…」

 

 

ざらつくような不安が押し寄せる、確かに自分に対して向けられた言葉は聞き覚えのある声だった。

強く波打つ心臓が収まるのを待つ、幻覚は余りに美しく脳裏に瞬いた。これもまた深度の影響だろうか、カウントの弊害は何かの予兆のように訪れる。

神殺しの獣、女神を殺したあの日からもう戻れないと知っていた。俺の力は止まらない、いつかはあの黒龍のような孤独な化け物へと変化する。

 

それでも今を享受するために俺は不安を押し殺す。

深く息をつき振り返ると、いつも通りの日常へ帰るために足を向けたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

風呂場の中で穏やかに息をつく、膝の上で遊ぶ少女の水音が反射した。

長い銀髪が浮いている、毛先が当たるくすぐったい感覚にももう慣れた。

 

 

「~♪」

 

 

ハティがたどたどしく鼻歌を歌う、最初はどんな歌なのか解らなかったが何度も聞いているうちに俺の鼻歌を真似しているのだと気が付いた。

パシャパシャと水面を叩く少女の後姿を微笑み見ながら俺はくつろぐ、刺激の無いただの幸せを感じて息をついた。

 

ふと手を伸ばす、少女の隣から腕を伸ばすと先程まで遊んでいた辺りで指を組み合わせた。

ハティが見ている前で俺は水鉄砲を飛ばす、びゅっと鋭く放射されたお湯がアーチを描き壁にまで届くと撥ねた。

ただ水を叩いたりすくってたりしていたハティには革新的な出来事だっただろう、後姿から解るほど驚いたハティは興味津々といった様子で俺の手をぺたぺたと触ると見よう見真似で水鉄砲を作る。

とはいえ少女は自分の手に圧力を加えて水を放とうとするが、僅かな水がちょろっと零れただけだった。

 

 

「…?」

 

「…」

 

 

まぁ子供の手だとちょっと難しいかもしれない。

俺はハティの身体を持ち上げるとこちら側に向き座らせ直す、手元を見下ろし試行錯誤しているハティの手を取ると正しい形に直した。

もう一回と促すと今度は水が先ほどよりかは勢いよく出た、ぱっと表情を輝かせた少女は何度も水鉄砲を放った。

いたずら心が湧いて出る、今一度水鉄砲を作った俺は勢いを緩めて今度はハティの胸に水をかけた。

吃驚した少女は痛みが無いことに気が付くと俺を見る、次に自分の小さな水鉄砲を見下ろしどういう遊びなのか理解したのか今度は俺の胸に水をかけてきた。

それからは水鉄砲合戦だった。ハティがのぼせる寸前まで続いた遊びの中で俺は終始笑っていた気がする、少女との楽しい時間は何よりも幸せで瞬く間に過ぎていった。

 

 

 

・・・

 

 

 

悪夢。

水圧に抱かれた俺の身体は黒龍に見つめられながらゆっくりと沈む。あれから何度か意思疎通を図ろうとしたがそもそもこの液体の中では声を出す事すら叶わず、ただ苦しくなるばかりだった。

前足で粘性の液体を掻く、全身の体毛が乱れてクラゲのように揺れる。

黒龍の掌の中、もがきながら俺は気泡を吐き出した。今日もいつも通り終わるのだろうか、薄くなっていく意識は酸欠に喘いだ。

 

 

『…マダ』

 

 

その時だった、巨龍が一つ身動ぎした。

掌の中に生まれた強すぎる対流に引き千切られそうになりながら俺は黒龍の瞳を見る、その何を見ているか解らなかった瞳にはいつのまにか真剣さが籠っている。

苦しげに言葉を紡ぐ黒龍に余裕は感じられない、俺と同じようにもがき黒龍は海溝のような口を動かすと轟くような声を出した。

視界が暗転する、ただ爆音のような声が脳裏に焼き付いた。その痛みに満ちた声は確かに俺への想いが乗せられていた。

 

 

『マダ、マニアウ…ダンジョン二、イクナ』

 

 

 

 

・・・

 

 

 

「じゃあ行ってくるな」

 

「おー」

 

 

豊穣の女主人、笑顔で手を振りハティに別れを告げると歩き出す。今日も空は晴れていた、まだ微かに暑さの残る夏空を見上げて俺は一人街道を抜ける。

やがていつもの噴水広場が見えてきた。その傍では既にベルとリリが待っており、何故かいるヘスティア様も交えて談笑しているようだった。

近づくとベルがこちらに気が付く、俺は軽く手をあげてそれに反応すると合流した。

 

まだヴェルフは来ていないらしい、装備を確認しつつ俺は何故ヘスティア様がいるのかを真っ先に尋ねると初めて中層に行くからその見送りだと返された。

子供の見送りは親の務めらしい、そういって笑う彼女は心配していることをおくびにも出さない…何とも彼女らしい気の使い方だ。

 

コンデションや道順についてベルとリリの三人で相談しているとやがてヴェルフがやって来る。慌てた様子の鍛冶師はその手に大きな風呂敷を持っており、到着しまずは遅れたことを詫びると早速風呂敷を広げた。

他全員の視線が集まる中、風呂敷の中に入っていたのは赤い外套、「サラマンダーコート」というこの装備は使用者の火炎耐性をあげてくれるらしい。

ヘファイストスファミリアのコネで安価で手に入れてきたと語るヴェルフはどこか得意げだ、俺のサイズに合うものが無くて探しているうちに遅れてしまったらしい。

 

手渡されたサラマンダーコートにそでを通す、いつも着ているコートの上に着るとかなり暑いが地下に潜れば関係ない。

見た目はともかく着心地を確かめた俺は肩が回せることを確かめる、見れば他の三人も同じようにサラマンダーコートを慣らしていた。

 

 

「行ってらっしゃい!頑張ってね!」

 

 

ヘスティアの見送りに応え俺達はダンジョンへ歩き出す。

装備は万全、下見を終えた俺は慎重に、隣を歩く少年はまだ見ぬ階層への期待と緊張で瞳を燃やしていた。

微かな余震が足の下で起きる、それに気がつかないフリをして俺はベル達と共にダンジョン内へ入ったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

霧を割るような踏み込みと共に直剣を振り下ろす、重さを乗せた刃がモンスターの身体を切り裂き黒く蒸発させた。

残りの敵は少ない、一瞬だけ息をついた俺は再び動き出すと直剣を振るう。

瞬く間にモンスター達は殲滅されていった、やがて最後の一匹をベルが仕留めると全員が緊張を解き肩を撫でおろした。

 

中層直前。12階層での戦闘、もうここらのモンスターでは相手にならない。

ここまで戦闘を幾つかこなしてきたが全て数分程度で終わらせている、消耗も僅かで済んだ。

とはいえ魔石は回収していない、時間がかかるというのもそうだが初めての中層に向けてなるべく荷物は増やさない事に決めた…精々余裕があれば帰り道に拾っていく程度だろう。

 

 

「よし、行こう」

 

 

次の階層に向けてダンジョン内を歩く、俺を先頭に四人で中層に向かう道中は平坦なものではなかった。

濃い霧の中では匂いでの索敵にも限度がある。とはいえ気が付いた範囲で俺は他三人に指示を出しモンスターを迂回しながら霧の中を進んだ。

やがて浮き上がるように白霧から岩壁が現れる。黒い岩の集合体のような壁には下の階層へと続く巨大な穴が口開いており、四人の事を待ち構えていた。

振り返った俺はベルを見る、辿り着いた中層への入り口を少年はジッと見つめたまま固まっていた。

 

 

「…ここから先が中層だ、心の準備は良いか?」

 

「っ!…はい!」

 

 

緊張した様子のベルが頷く、笑みで返した俺は軽く肩を竦めた。

既にサラマンダーコートを全員が着ている、コンデションも良い。準備を終えた俺達は中層に足を踏み入れたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

高低差の多い鍾乳洞の洞窟、水っぽい匂いが充満する中層を歩く。

緩やかに続くアーチから下を覗き込むと、角の生えた兎型モンスターが闊歩しているのが見えた。

 

 

「いやぁ今日はベルが多いな」

 

「そうですね、ベル様が…三匹も!」

 

「…」

 

 

初めての中層探索はアルミラージを前に冗談を言えるくらいには余裕だった。

今までミノタウロスが二回、ヘルハウンドが一回出てきたがどちらも危なげなく倒せている。少なくとも戦闘においての不安は消え去ったと言っていい、気を抜いているわけではないが当初感じた嫌な予感は徐々に薄らいでいた。

 

探索は順調である、足を止めた俺達は言ってしまえば観光気分で下のアルミラージが跳ねているのを高い位置から見下ろす。

角が生えていることと武器を持って襲ってくることを除けば普通の白兎と変わらないアルミラージは中層でも比較的安全なモンスターであり、その小動物っぽさは色合い的にもベルと似ていた。

 

 

「…そんな似てます?」

 

「倒すのを躊躇うくらいには」

 

「あー解ります、ちょっと罪悪感ありますよね」

 

「えぇー…」

 

 

ベルを揶揄して談笑しながら中層内を進む。

霧の濃かった12階層とは違い本格的な洞窟なような中層には横穴やルームが多く、全体的に湿った空気が漂っている。地割れを飛び越え、高い段差で不機嫌なリリを引っ張り上げ、幾つも連なった水たまりの隣を抜けるとまた横穴に入った。

 

コケの生えた通路を歩いている途中モンスターの匂いに気が付く、前後を挟まれたこの狭い通路では迂回することも出来ないだろう。

首だけ振り返った俺は合図を出す、匂いでの索敵を詳しく伝えているわけではないが今のところ誤魔化せているだろうか。

 

 

「敵だ、前と後ろで挟み込まれてる。俺が前で足止めするから後ろのは三人で頼んだ」

 

「それだとリョナさんの負担が大きくないですか?」

 

「前の方は数が少ないから大丈夫だ、来るぞ!」

 

 

直剣を引き抜き通路の前方へ向き直る、雄叫びをあげたミノタウロスがその膨れ上がった肉体で突っ込んできているところだった。

突進に合わせ地面が揺れる、直剣を構えた俺はあくまで落ち着き息をつくと切っ先を角の先端に合わせた。

 

 

『ブモッ!?』

 

「っ…」

 

 

全身にかかる高負荷、若干後ずさったが俺はミノタウロスの突進を止める。

オッタルに比べればたいした重さじゃない、支えた直剣を切り払った俺は体勢を崩したミノタウロスの首筋を斬り落とした。

既に後方での戦闘は始まっている、前方の敵数体を見据えた俺は息をつくと気合と共に走り出した。

 

ミノタウロス二体とヘルハウンドが一匹。

火を吐くヘルハウンドを先に倒したいがその行く手をミノタウロスが塞いでいる、が狭い通路ではミノタウロスの身体が射線を切っていた。

それでも巨大な牛二体を同時に相手しなくてはならない、逃げ道の無い通路の中で俺は直剣を振るった。

 

 

「オラァッ!」

 

 

幾度かの鋳造を経て鍛えられた直剣は微かに蒼く、以前よりも遥かに鋭くなっている。

踏み込みと共に弧を描いた刃が伸ばされたミノタウロスの剛腕を切り払う、身体を掴まれるとかなり危険だ。

剣の間合いを測りながらミノタウロスの攻撃を避ける。二体のミノタウロスから放たれる攻撃は強烈かつ粗雑であり、隣をすり抜ける事の出来ない通路では普段よりも慎重さが求められた。

 

振るわれる巨拳が頬を掠める。殺意の込められた塊が勢いよくそれが通り抜けるのをちらりと見送った俺は呼気を吸い込むとともにミノタウロスの間合いの中に飛び込むと、獣臭い息を吐く牛の顔面を下からアッパーで突き上げた。

確かな感触と共に篭手の内部に仕込まれた針が喉奥を貫く。苦し気な声をあげたミノタウロスから拳を引き抜くと、ドシンと音をたてて巨体が崩れ落ちた。

 

 

「…」

 

 

残りはミノタウロスとヘルハウンド、左拳からぬめった血液が零れ落ちていく。

目を細めた俺は直剣を構え直し、流動的に間合いを取りながら化け物の様子を観察する。スペースが空いたことでノシリと前に出てきたヘルハウンドは灼熱の炎をその牙に湛えており、憎悪に染まった瞳でこちらを睨みつけながら低く唸り声をあげていた。

モンスターが連携して行動することは殆ど無いが、今の状況では敵の前衛後衛が決まってしまっている。ヘルハウンドを先に狙った方が良い、あるいは無理せずミノタウロスを削ってベル達を待つか。

 

 

『ブモォォォッ!』

 

 

そんな暇はなさそうだ。突っ込んできたミノタウロスは軽い跳躍と共に固く握りしめたアームハンマーを振り下ろしてきた。

迫る二つの拳を横に避ける、同時にその横腹を剣で斬りつけようとしたが浅く表皮を裂いただけだった。

 

 

「ッ!」

 

 

同時に火焔が飛んできた、ヘルハウンドの口から放たれた熱塊はダンジョン内で輝く。

当たれば大火傷は免れない、それに狭い通路の後方ではベル達が戦っている…ここで俺が躱せば彼らに流れる可能性がかなり高い。

直剣で受けることにした俺は覚悟を決める、炎弾といっても切れなくはないしちょっとくらい当たっても軽傷で済む。

 

飛んできた炎が剣の腹で炸裂した、瞬間飛散した火の粉が目の前で拡散した。

だが俺の身体に届いた炎はそのまま霧散する、身に着けたサラマンダーコートが俺を火から守ってくれていた。

痛みが無いことの処理を後回しにした俺はミノタウロスに直剣を振り下ろす。今度こそ致命傷を与えると暴れ牛の息の根を止め、そのままヘルハウンドに向かって一歩を踏み出した。牙を剥いたヘルハウンドは火が効かないと悟ったのか飛びかかってくる、攻撃を読みあった互いに一閃を交わした。

リーチ差で勝つ、牙が届くより早く直剣でその身体を切り裂く。着地と共にふらりと倒れたヘルハウンドはそのまま動かなくなり、息をついた俺は直剣を肩に引っ提げ一瞬だけ休む。

相手はそうでもなかったが地形が良くない、近道ではあったが帰りには使わないことにしよう。

 

 

「掃討戦です!リョナさんもこっちを手伝ってください!!」

 

 

リリに呼ばれる。

直剣を肩から降ろした俺は短い休暇を終え、振り返ると後方の戦線に加勢したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「チッ…結構長引いてんな、おいベル体力はまだ持つよな?」

 

「ふー、まだまだいけます!」

 

 

 

巨大なルーム、見上げる程高い空洞内は段差と横穴が多く存在している。

周囲を囲んだモンスターの群れの数は多い。上段からはヘルハウンドが炎球でスナイプしてきており、周囲には溢れんばかりのアルミラージが押し寄せる勢いで襲ってきていた。

アルミラージは大した相手ではない。ただその呆れるくらい多い数と地形を利用した上からの炎によって徹底防戦を強いられることになり、五分以上も膠着状態が続いていた。

 

 

「あぶねぇ!」

 

「っ…すいません!」

 

 

リリに迫っていた炎を直剣で切り落とす、すんでのところで小爆発を起こした火球は火花を散らしながら霧散した。

感謝する余裕も無く戦闘に戻る、互いのフォローをしている暇もないほど俺達は囲まれている。

 

呆れるほど数が多い、モンスターの群れ。

彼女にはクロスボウで頭上のヘルハウンドを狙ってもらっているが今のところ効果は出ていない、射角の厳しさからリリはボルトを外す度に悪態をついていた。

突破するにも先にヘルハウンドを倒さないと背中を狙われる、サラマンダーコートを着ているとはいえ直撃すればただではすまないだろう。

 

(…)

 

状況は良くない、高所に陣取ったヘルハウンドを倒さなければ危険だ。

今のままではいずれ周囲を溢れんばかりに囲んだアルミラージに削り切られることは明らかだ。とはいえ防戦でアルミラージの数はかなり減ってきており、まばらに空いた空間から強引に突破すること自体は可能そうではあった。

時間が経つほど危険になる、背中合わせになったベルと俺は言葉を交わす。

 

 

「ベル!お前一か所突破出来るか!?」

 

「ッ…出来ます!」

 

「よしベルを先頭に突っ切る!カウントしたら走り出すぞ!5…4…」

 

 

最善の選択に他二人も頷き、俺は大声で数え始める。

殿は俺だ、もし火球がふってきても少なくとも三人に当たることはないはずだ。それにサラマンダーコートを着ているところに当たれば軽傷で済む。

 

 

「3…2…」

 

 

襲ってくるアルミラージの一匹を直剣で吹き飛ばし俺は息を吸い込む。

走るのはベルの正面、最も薄くなった包囲網の先には横穴が続いている。

引き離すためにはかなり走らなくてはならないだろう、サポートすることを考えれば普通以上に体力を使うはずだ。

 

 

「1……ッ!?」

 

 

知らない匂いが視界端で動く。

振り返った先で見知らぬ一団がルームの中に走り込んできていた。

薄紫の和装、黒髪の冒険者達はヘルハウンドを引き連れながらこちらに全力疾走してきており「なすりつけ」ようとしていることは明白だった。

 

(タチわりぃ…が!)

 

いわゆるパスパレード。

しかしどうせこっちも逃げるつもりだったのだ、腹は立つが逃げてしまえば擦り付けられようが関係ない。殺意を漲らせたベルは既に走り始めている、俺もそろそろ動きださなければ遅れてしまうはずだ。

 

走り出そうとしたその時、地面が揺れた。

ここ最近でも一番強い地震が身体を浮かす、驚愕を覚える間もなく俺は三人についていこうと次の一歩を踏み出した。

 

――(ゼロ)、と共に再びダンジョンが鳴動する。

 

大地の擦れる音が響き渡った。

それは自然の爆発的なエネルギーによってもたらされた破壊、巨大なルームはまるで圧縮されるかのように割れる。

全てが崩落を始めた、地割れが走り天井からは大小様々な岩塊が落ちてきた。当たれば即死しかねない石が幾つも降り注ぐ、何匹ものモンスター達がそれに巻き込まれ絶命した。

命の危機を感じながら走る、立ちこめる土煙の中俺は前三人についていこうと何とか崩れゆく地面を踏んだ。

 

 

「…っ!?」

 

 

モンスターパレードをしてきたパーティの殿に目がいった。黒髪を一つに結わいたその女子は後姿しか見えなかったが、その頭上に巨石が迫りつつあった。

見ず知らずの他人、しかもモンスターをなすりつけようとしてきた相手。だがみすみす命を見捨てられるほどの経験を積んでいない。命の重さを俺は知っていた。

 

とっさに手を伸ばす。

その女の襟首を掴み思い切り引っ張るとすぐ後を巨石が掠め、彼女のパーティとの道を断った。

必死。激しさを増していく崩落の中、俺は破滅の音を聞きながらどうすることもできずに立ち尽くす。

 

 

「リョナさん!?」

 

 

崩落していく景色の中、体勢を崩したベルと目が合う。

かなり離れてしまった彼らの元に向かうことはできない、岩に阻まれていく視界の中俺達はただ意志を交わす。

灰色に狭まっていく視界、死の落石が降り注ぐ絶体絶命の予兆、俺はベルに届くように咆哮をあげた。

 

 

「絶対に死ぬんじゃねぇぞッ!!」

 

 

生き延びればまた会える。

吼えた直後ベルとの視線が完全に遮られた、鈍い音をたてて積み上げられた巨石が地割れを深く刻み込む。

ダンジョンの床が崩れ去り深淵が口開いた。瞬く間に姿勢が保てなくなり、足場が消え去った俺の身体は際限ない浮遊を始める。

翼を持たない獣はただ落ちるしかない。強い重力を感じながら俺の視界が暗転する。高い風切り音の中気の遠くなるような落下時間の後、俺の身体はドポンと深く液体に飲み込まれ、強い衝撃と共に意識は完全に途絶えたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 




水鉄砲って書いたけど正式名称違う気がする、まぁとにかくハティとお風呂で遊んだってことで良いんだよグリーンだよ。あとサラマンダーコートは炎の完全耐性じゃないので消え去る描写は比喩です。
ではでは次回、これからは展開がマックス大変身やぞ


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 17.5階層

うーん思ったよりこの話ってシンプル過ぎて弄りようがないんですよね…いやというか覗きイベントが主体であって、まんまそれ書くと二次創作の意味が無いっていうか。
てわけでオリジナリティを出しつつ駆け足です、原作の内容は殆ど書かないんで事前に確認しておいた方が解りやすいかと思われます
ではほんへ



・・・

 

 

 

リョナさんとはぐれてしまった僕達は中層を歩いていた。

時折訪れる地震に怯え、慣れない地形に体力をすり減らし、怪我をしているヴェルフを庇いながら進む。

リリの提案で僕達は地上ではなく18階層に向かう事になった、現在いる場所から地上に戻るよりいっそセーフティポイントであるリヴィラの町に向かった方が近い。

ただ問題は迷宮の弧王、数か月前ロキファミリアが倒したゴライアスの復活が近いという事、正直いつ復活するかは曖昧で明日かもしれないし一週間後かもしれない。

もし復活していたら通り抜けるのは絶望的だ、危険な賭けではあるが地上に戻ることに比べればまだ可能性があった。

 

 

「もう少し…!」

 

 

虹色の壁、ゴライアスの出現ポイントを見上げた。

その麓には下の階層へと続く横穴が伸びている、あの穴に入れさえすれば18階層に入ることが出来た。

既に意識の無い二人を担いだままベルは走る。絶えず余震は続いており、それは巨大な化け物の鼓動のように聞こえていた。

 

とはいえそのまま何事も無く少年は横穴に滑り込み、そのまま18階層へと傾斜を流されていく。

ゴライアスはまだ産まれない、余震は長く続いていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

少女が泣いている、

昨日初めて父親が帰ってこなかった。言葉に出来ない不安と悲しみに少女は涙を止めることができず、大声をあげてただ泣いていた。

一晩明けても涙は止まらない。いつだって側にいてくれた彼はどこにもおらず、慰めようとする者達の声が届くことは無かった。

 

私はそんな少女の悲哀に満ちた泣声に強い痛みを感じながら、朝の教会に並び目の前で頭を下げる和装の少年少女達に目を向ける。

どうやら彼らがモンスターを擦り付けた直後に地震が起きたらしい、話を聞いた限り彼らが悪いわけじゃなさそうだが主神のタケミカヅチはこうして早朝に頭を下げに来ていた。

 

大崩落、ここのところ続いていた地震によってもたらされた自然災害。

降り注ぐ巨石、ルームに空いた大穴。深淵はベル君達を飲み込み、彼らの仲間の一人も巻き込まれてしまったらしい。

 

 

「…」

 

 

一晩明けた今、彼らの安否は誰にも解らない。

しかし私は確信を得ていた、繋がれた恩恵から確かにベル君の命を感じる。きっとあの子はどこかで生きている、生きてさえいれば救いようがある。

しかし――もう一人は。

 

消えかけの恩恵では何も解らない。彼が今どこにいるかも、生きているかも。

少女の声が聞こえる、猫人に抱かれたあの子を泣き止ませてあげられる唯一の人間がこの場にいない。

 

(全く、そんなんじゃ親失格だぜ…リョナ君)

 

きっと彼は生きている、今はハティちゃんの為にもそう信じるしかない。

ならするべきことは決まっていた、迷子の子供達を探しに行くのは私の仕事だった。

顔をあげた私はその場にいる面々に目を向ける、息をつき柔和な笑みを浮かべた私はお願いがあるんだ、と切り出したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

気が付いた時、俺の意識は既に深海に包まれていた。

悪夢の中で俺はいつもとは比べ物にならない程の水圧に押しつぶされている、全身が砕けるような激痛に身体を丸めてただ耐える。

全身を裂かれるような痛みに思考の余地はない、激流に揉まれ見上げると黒龍がこちらを悲しげに見下ろしていた。

 

 

『――』

 

 

黒龍が口を動かす、だが立ちこめる泡の中で声は聞こえない。

ただその口はどこか「手遅れだ」と、そう言っているような気がした。

シェイクされるような暗黒、漆黒に紛れるような巨龍は遥か彼方を見つめている。それはまるで何かを待つかのような視線であり、強烈な震源を忌々しく睨みつけるかのような瞳だった。

 

世界がどこかで産声を上げていた。否、それは天地開闢よりそこにある根源。

全ての化け物はこの混沌から生まれた、生命という名のスープに名を与えた神格が全身を包んでいる。

それは耐えがたい安らぎだった、身体を一切動かせない痛みにさえ喜びを感じざるを得ない。

 

ここは母神の夢海、胎児の子宮そのもの。

山のような巨龍よりも遥かに大きな、もはや生物としての概念を超えた存在。強く抱かれた俺は蒼髪の幻覚を見る。

まるで海月(クラゲ)のように揺蕩うその女神は黒龍と言葉を交わしていた、そして俺を見つけると柔和な微笑みを浮かべ水圧の中を軽々と近づいてくる。

 

 

『あぁ…もうすぐかしら、愛しい我が子』

 

 

その女の顔は暗闇の中で良く見えない、だがどこか見覚えがあるような気がする。

鈴のような囁き声で笑いかけてきた女神は俺の頭に触れ、慣れた手つきで胸に抱く。たったそれだけのことで俺の意識は奪われた、深い安心感と共に訪れた微睡みはただ懐かしかった。

夢の終わりは近い、もはや引き返すことのできない水位に抱かれた俺は女神に抱かれたまま途方も無い水圧に点にまで圧潰されたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

目を覚ますと本当に水の中にいた。

口から大粒の泡が漏れる。慌てて俺は身体を動かすと水面に向かい、ブハァと息継ぎをすると荒く呼吸を繰り返しながら水を蹴った。

水面に浮かんだ俺は酸素の行き渡っていない頭を振ると周囲に視線を向ける、一番近い岸に向かって泳ぎ出すと水を吸った服が重く身体を引きずった。

 

 

「はぁ…はぁっ…」

 

 

這うようにして岸に辿り着くと腕をついて呼吸を整える、身体から滴り落ちていく水が小石の敷き詰められた岸に撥ねた。

身体が泥のように重い、疲労感の中で俺は濡れた頬を拭うと霞む視線を周囲に向けた。

 

(ここはどこだ…?)

 

広いドーム状の空間。

その端はもはや暗闇の中で見る事が出来ない程遠く、反対に天井はビルの3階程度で比較的近い。

目に見えて特徴的なのはまるで削り取られたような壁だ、歪曲した岩壁には巨大な生物がぶつかって出来たような破壊痕が幾つも作られており、まるでこの空間自体が何者かによって穿たれたかのように錯覚する。

 

 

「っ…!」

 

 

ここがどこであれダンジョン内なのは間違いない。どれほどの時間気絶していたか解らないが長く水に浸かっていた身体は極限にまで冷え切っており、このままでは体調を崩しかねない。

幸い怪我は殆どしていないようだ、水から上がった俺は岸から這って離れると石の上に座り込む。左手に意識を集中させ暗闇に何とか蒼炎をつけると、とりあえず足元の石を燃え上がらせた…可燃性のものじゃないのですぐに消えてしまうだろうが無いよりかはマシだ、何より手元が見えるのはありがたかった。

 

 

「ふー…」

 

 

改めて周囲を確認する、どうやら近くにモンスターはいないらしい。

とりあえず濡れた服を脱ごうと俺は直剣を外す、コートを脱ぎそのまま他の衣類も脱ぎ捨てパンツ一丁になると乾くことを祈って脱いだ服を火に近い石の上に並べた。

ダンジョン内でほぼ裸である、とはいえ人の目も無いし裸でだって戦える自信はあった。

 

石を円形に並べ焚き火を作ると冷えた身体を温め始める、揺れる小さな蒼炎は心もとないが手をかざすと熱がじんわりと指先に染みた。

せめて燃やせるものがあると良かったのだが所持品にそんなものはない、体育座りをした俺はぼんやりと明かりに照らされた範囲にあるものを眺めながら疲弊しきった身体を休める。

 

(あれからどうなったんだ…?)

 

地震が起きてダンジョンの床が崩落したところまでは覚えている、気が付けば水に浸かっていた。

いかんせん時間と場所の感覚が狂っている。

ベル達は今どこにいるだろうか、恐らく同じ穴に落ちたはずだが水流に流され運ばれているため同じ場所にいるとは限らなかった。

今ははぐれた彼らもどこかで生きていると祈るしかない、あれからどれほどの時間が経ったか知らないが…カウントが途切れているし日をまたいでいる事は確実だろう、それはつまり昨日の段階でハティを迎えに行けていないということを意味していた。

 

 

「…」

 

 

ぼんやりと辺りが蒼く照らされている。

ハティのことは心配だし早く帰ってあげたい、ベル達のことも気になるが今どこにいるか検討もつかないし体力が回復しだい地上に戻ろう。

蒼い火にあたりジッと動かないでいると体温があがり少し眠くなってくる、ここがどこなのか考え爆ぜる炎を見つめていると次第に目を閉じている時間の方が長くなってきた。

 

がくりと落ちた頭が膝にぶつかって目が覚めた、鈍い痛みにため息をついた俺は頭を振る。本当は眠りたいところだが休眠中にモンスターに襲われたりしたら洒落にならない、意識を保つように改めて気をつけた俺は周囲に視線を向ける。

暗い浜には文字通り何もなく、蒼い焚き火に照らされて俺の服が広がっているだけだ。目の前に広がった真っ黒な湖は時折波紋を広げており、ところどころ浅いのか幾つかの浮島が出来ていた。

 

 

「――…っ!?」

 

 

舐めるように浜辺を見ていると、俺は薄紫色の何かが流れ着いていることに気がつく。

立ち上がり小さな波が寄せる浜辺をまだおぼつかない脚で歩いた。見覚えのあるその後姿は近づくにつれ徐々に明らかになり、やがて倒れ込んだその後姿が穴に落ちる前に助けたあの女のものだと解った。

どうやら俺と同じようにここまで流れ着いたらしい、すっかり忘れていたが運よく崩落を免れたようだ。

 

だが生きているかは解らない、出来る限り急いでその女の側に駆け寄った俺は片膝をつく。

目に見えて外傷がないことを確認し華奢な身体を起こすと血色の悪くなった顔が見えた、服も濡れているしどうやら先程の俺と同じように身体が冷え切っているようだ。

呼吸は正常にしている、ただ気絶しているだけのようだし早く焚き火のところに連れていってやった方が良いだろう。

 

歳は16くらいか、まだ若い大和撫子を担ぐと焚き火の元に戻る。

とりあえず濡れた服を脱がさなければ命に関わるだろう、気絶している相手に悪いが俺は焚き火の近くに座らせた女子の装備や服を脱がせると乾くように火の側に広げて置いておく。

そして比較的平べったい石の上に寝かせ、その上に乾いていたサラマンダーコートを被せた。すぐにとは言わないがこれで体温も戻るだろう、火の側に横たわった大和撫子は寝苦しそうに呻いている。

 

 

「はぁ…」

 

 

少なくともこれで死にはしないだろう。

元いた場所に戻った俺は胡坐をかくとため息をついてこれからの予定を考え始めた。まずは服が乾くのを待ってから地上を目指すことになる、俺の服は生乾きだが脱がせたばかりの女の服の方はまだまだ時間がかかりそうだった。

焚き火にあたった俺は息をつく、本当は何か腹にいれたいが動かなければ充分に体力を回復させられるはずだ。

 

(…)

 

パチパチと炎が爆ぜている。

穏やかな時間だ、ここがどこかも解らないが今のところモンスターの気配はない。

周囲を見る、いつもなら壁や天井からモンスターが湧くはずだがこのルームは違うのだろうか。

 

 

「っ!?」

 

 

ふと暗闇の中から何かが自分を見ていることに気が付いた、瞬時に意識を覚醒させた俺は直剣を手に取ると腰を浮かせる。

それが徐々に近づいてくる、俺は緊張しながら呼吸を正すと僅かに柄を引き抜いた。

 

 

「…は?」

 

 

暗闇の中から現れたのは見たことも無い兎だった。

アルミラージとも違う赤い…そう、まるで肉塊の固まったような兎。

様々な生物の死体をこねてそのまま兎の形にしてみたようなその生物は…もはや生物のようには見えない。

一瞬戸惑った俺の眼前、その兎は跳ねてくるとそのやけに綺麗な瞳で俺の事を見つめまるでそれで目的は終えたとでも言うかのようにUターンして暗闇の中に消えた。

 

何だったんだ、そう呟こうとした俺の視界の端で湖がぼんやりと輝き始める。

 

徐々に強さを増していくその光はやがて水面を突き破りルーム内に差し込むと照らし出した。

先程の暗黒が嘘のような明るさが訪れる、思わず立ち上がった俺は輝く湖の水面を見下ろすと感嘆のため息を漏らした。

 

それは光を放つクリスタルの器。

湖の正体は光源水晶に溜まった広大な水たまりだった、その中心には天井から絶えず水が注ぎ込まれており白泡をたてている。

水底から放たれる虹色の光は幻想的であり、ダンジョンであることを一瞬忘れるほど美しかった。

 

 

「…!?」

 

 

徐々に地上のような明るさが増していくルーム内、瞳孔が開くにつれ周囲の様子が明らかになる。

湖の反対側に巨大な亀裂が走っているのが見えた、恐らくこのルームからの唯一の出口は巨大な湖を迂回していくしかない。

暗闇に消えた兎に振り返る。しかし逃げ道などないにも関わらずあの兎の姿はどこにも見えず――その代わりにかモンスター達が溢れんばかりに蠢いているのが見えた。

 

 

「骸骨…?」

 

 

骨の身体が起き上がる。

それはいわゆるスケルトンという化け物、中層では見たことの無いモンスターの話自体は聞いていた。

だがどこか様子がおかしい、武器を手にした骸骨たちの身体にはところどころに屍肉がついており、その瞳には濃く『蒼い火』が灯っていた。

無数に群れた肉付き骸骨達はこちらに気が付くと石の武器を構え襲いかかってくる。雪崩のように駆けこんでくるスケルトン達を前に、強く息を吸い込んだ俺は戸惑いながら直剣を振り下ろした。

 

 

 

・・・

 

 

 

あれから数時間が経つ。見たことも無い化け物達との戦いは予想以上に長引いている、周囲を囲んだ骸骨はその個々が今まで戦ったどのモンスターよりも強かった。

 

 

「はぁっ…はぁ…!」

 

 

オッタルほどではないにしろその骨の腕から放たれる一撃は重く速い、振り下ろされる石剣を躱すと脊髄にあたる部分に直剣を叩きつけた。

瞬間鈍い感触が手に伝わる…が、骨の身体に斬撃は効果が薄く、斬りつけたスケルトンも僅かに身体をよろめかせただけでまたすぐに武器を構えた。

明らかに強すぎる。階層を間違えてリスポーンあるいは迷い込むにはこの数は多すぎるし、何よりその蒼炎には見覚えがあり過ぎる。

 

(…おかしい)

 

闘っている中で感じた違和感が二つ。

一つは周囲を囲んだ化け物達が一斉に飛びかかってこない事、骨の化け物達は必ず一対一で勝負を挑んでくること。

もし周囲にいる最低でも100体以上の骸骨達が一斉に飛びかかってきたら俺はすぐに串刺しになっていたはずだ。しかし周囲を囲むスケルトン達は俺の姿を蒼く燃える瞳で俺を見つめているだけであり、ただ逃げられないように武器を構えている。

 

二つ、焚き火の側に寝ているあの女はまだ無事だということ。

本来モンスター達の行動原理は無差別攻撃であり、ただ目の前にいる人間を襲うだけの知性のはずだ。

しかし蒼い目の骸骨達は女に目もくれず俺を狙っている、まるで誰かに命令されたかのように。

 

(クソッ…戦わされてるのか?)

 

逃げられない骨のリング、その中心でスケルトンと戦わされ続けているような感覚。

これではただカウントが増えていくだけだ、あるいは()()()()()()()なのかもしれない。ならこいつらの『主』は決まっている、どうやってこのモンスター達を配置したかは解らないがそれならば辻褄は合うし…全てあの地震さえも女神の掌の上と考えるとここにいること自体が危険だった。

 

いい加減服も乾いたはずである、こいつらを全て相手していたらきりがない。

返す刀で一体と距離を取った俺は左手の中に顕現したナイフを握り潰す、溢れ出した粒子の中で俺は強く咆哮した。

 

 

「狼騎士ッ!」

 

 

咆哮と共に膨張した巨剣を骸骨に叩きつける、蒼炎を纏った大質量はスケルトンの身体を叩き潰し粉微塵に粉砕した。

狼騎士の登場に周囲の骸骨達は身じろぎし、歓喜に歯を打ち鳴らす。その中心で蒼い銑鉄が形を成し、狼をかたどった廃材の騎士は排気熱と共に巨剣を肩にかけた。

 

(…)

 

予定としてはあの女を助けてから脱出、いざとなれば見捨てる覚悟でいるが出来る限り助けたい。

そのためにはとりあえず周りのスケルトンを突破する必要があった、久しぶりの力の発動に掌を馴染ませた俺は息をつき巨剣を持ち上げると強く踏み込む。

 

 

『「ラァッ!!」』

 

 

鉄塊が横薙ぎに振るわれた。

炎を纏う重い一閃は骸骨達を脆く薙ぎ払うと吹き飛ばす、何体かはそのままバラバラになったが頑丈な骸骨達はまたカタカタと立ち上がろうとしていた。

時間はそう残されていない、跳躍と共に骨のリングを飛び越え消えかけの焚き火の側に着地した俺は巨剣を打つ。

散らばった服を拾い上げサラマンダーコートで巻いた女の身体を担ぎ上げると、鋳造し終えた鉄馬に乗せた。

 

蒼火を纏う巨馬は前足で地面を蹴っている、骸骨達に似た炎瞳で俺の事を見つめると荒い鼻息と共にたてがみを揺らした。

積み荷を固定した俺は鉄馬にまたがる、構造としては張りぼてに近い馬はしっかりと鎧を着こんだ身体を支えた。

 

 

『「…ハッ!」』

 

 

掛け声と共に馬が駆けだす。

既に立ち上がり武器を構えていた骸骨達の輪に突っ込むと鉄脚で踏み潰し、蒼炎を撒き散らしながらいななきをあげた。

目指すは湖の反対側、回り込んでいく岸辺にはまだ多くの骸骨達が手を伸ばしている。いちいち相手をする気はない、遠い目的地を眺めた俺は兜の下で息を吸い直すと覇気と共に馬を駆りだした。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ベル君!」

 

「神様!?なんでここに…」

 

「へっへっへー!来たぜぇー君たちのピンチにこの僕がッ!」

 

 

18階層、辿り着いたセーフティポイントでロキファミリアに助けられていたベルは上の階層から滑り降りてきた女神の姿に唖然とする。

ダンジョンにいるはずのない彼女はボロボロになったローブを身に纏っており、尻餅をついた痛みに涙を浮かべたまま明るい笑顔を浮かべていた。

 

 

「なぁに僕が来たからにはもう大丈ブゴホォッ!?」

 

「神様!?」

 

「失礼、膝が確定しました」

 

「リューさん!?」

 

 

次に穴から滑り降りてきたのは若草色のフードを被ったエルフ、リューの姿がそこにはあった。

ヘスティアに続きリューまでも、驚愕するベルは神様に手を貸し起こすと急速に訪れた強い安堵に涙が出そうなほどの嬉しさが溢れ出した。

 

それから数分後リリとヴェルフが合流し、横穴からはポンポンと救援隊が飛び出してくる。

その中にはパスパレードをしようとしていたタケミカヅチファミリアの面々、更にはヘルメスファミリアの主神ヘルメスとその団長であるアスフィ・アル・アンドロメダも参加していた。

 

 

「それで何で神様がここに?」

 

「うーん…居ても立っても居られなくなった、何て言えるほどカッコ良くないよなぁ僕…」

 

「?」

 

 

情報交換が始まる。

帰ってこなかった四人を探すべくヘスティアは有志を募って救助隊を編成したらしい。

 

 

「リューさんは何故?」

 

「ハティを泣かせる輩は必ず誅さねばなりません、故にあの男は必ず連れて帰ります…彼はどこに?」

 

「…それが」

 

 

はぐれてどこにいるか解らないと伝えると二人の表情が曇った。

丁度そのタイミングでアイズとティオナがやってくる、タケミカヅチファミリアの団長である桜花が周囲を見渡し視線を険しくした。

 

 

「うちの命が見えないようだが、いないのか?」

 

「…ごめんなさい、私達は見てないかな」

 

「謝るようなことでは…」

 

 

行方不明者二人の存在は奇跡の再会に影を落とした。

傷と疲労を癒さなければならない、この日は何もすることも出来ずに全員で身体を休めるのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

焚き火の前で俺は服を着る。

最初のルームから脱出して数時間が経つ、巨大な亀裂は確かに出口ではあったが始まりにしか過ぎなかった。

そこに広がっていたのは未知の階層、中層にも似たダンジョンは広く出口がどこにあるか探索しなければいけなかった。

 

(腹減った…)

 

鋳造した高台の下では骸骨達が大挙して押し寄せている、この空間にも満ちたスケルトン達は執拗に襲ってきていた。

現に巨剣を鋳造して足場を作らなければろくに休むことも出来なかっただろう、焚き火の前で鎧を解いた俺は休憩がてら乾いた服を身に着ける。

骨同士がぶつかりあう騒々しい音が絶えず聞こえていた、再び鎧を展開し俺は腰かけると側に寝かせた女子を見る。

 

サラマンダーコートで巻いた女子も先程服を着せたばかりだ、かなり時間が経ったにも関わらず目覚めない彼女は掠れた呼吸を繰り返している。

酷い熱だ、体力の回復に合わせポーションを飲ませたりもしているが効果は感じらない。苦し気に呻いている彼女の額を脂汗が流れていく、意識も戻らないし地上に急ぎ連れていかなければ危険だ。

 

 

『「…よし」』

 

 

まずは出口を探さなければならない、広い空間を眺めた俺は息をつくと立ち上がる。

サラマンダーコートで巻いた女子の身体を肩に担ぐと、足場だった鉄塊に篭手の拳を振り下ろした。金属音が鳴り響く、染み込んだ蒼炎が鉄を溶かし変形させると再び巨馬を鋳造した。

降り立った蹄鉄が集まっていた骸骨達を踏み潰す。噴き上げた蒼炎が周囲を焼き払い、馬の余剰分で作り出した長剣で馬上から骨の身体を斬りつけた。

 

騎兵。

休憩を終えた俺は騎剣で道を拓くと馬を走らせる、行方を阻むスケルトン達を鉄馬で吹き飛ばすとダンジョンではありえない速度で疾走した。

岩場を馬が跳躍する、どこを見てもスケルトンはいるがこの馬の速度には追いつけない。

鋳造された馬は恐怖とは無縁だ、その鋼鉄製の前足で頭蓋骨を踏み潰しいかなる包囲も突破する。

狭い場所はともかく通常戦闘に置いて馬に乗っているアドバンテージは大きい、その速度と高さは敵を寄せ付けない。

 

脳内にある程度の地形情報を詰め込んでいく、骸骨達をなぎ倒しながら知らない道を通って出口を探した。

亀裂や横穴を馬が駆け抜ける、騎剣で襲い来るスケルトンを斬りつけ探索を始めたのだった

 

 

 

・・・

 

 




何者かの意志が絡む、覗きイベントを避けたいという意思が絡む。
というか文字数の都合だけどまた一週間投稿出来ちゃいましたね、調子良いんだよなぁ
でそろそろ新人賞の応募原稿とか書きたいんで投稿が遅れる可能性が微レ存、まぁ構想段階なんでそこまで遅れないと思いますが。

ではではー


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 終末戦争

※この度、誠に勝手ながら本小説のタイトルを「ダンジョンにリョナ厨がいるのは間違っているだろうか?」から「このダンジョンに神殺しが居ることは間違っている。」に変更することに決定いたしました。
理由としましては今後の展開、初見のとっつきにくさ、それについての批判等。私自身悩みましたが最終的にこちらの方が正しいと判断しました。
変更は本話が投稿されてから24時間後とさせていただきます。何かご意見などございましたら受け付けますので感想あるいはメッセージまでお越しください。

つってもこのタイトルの方が良い奴おるか?まぁ名前変わるだけで内容は変わらんし心配なさるな。
ではほんへ


・・・

 

 

 

流れていく蒼の中に『それ』はある。

金色(コンジキ)の杯、紋様の刻まれた純金は魔力を灯している。

それは起死回生の器、数多の伝説に語り継がれる願いの行方――誰かが望む万能の聖杯。

曰くそれは全ての願いを叶えるという。巨万の富、世界平和、夢物語のような途方も無い祈りを満たした器は神聖で穢れなど存在しうるはずがない。

 

しかし今、沈んでいく杯から漏れだした血肉が黒く蒼を汚していた。

資格はあれど『それ』は万能機としての機能を果たすものではない。抱かれた腕に歪められた憎悪は、全知全能に値する『それ』の力をたった一つの目的のために特化させられた。

 

『…』

 

 

かつて聖杯たりえたもの。

ついに出来上がった金色の杯を蒼の化身は白い指でつまむ。幸せそうな笑みを浮かべた獣の女神は水圧の中に揺蕩いながら、指の合間で杯を弄ぶと精緻な芸術品を鑑賞するかのように目を細めた。

見下ろした杯の中には屍肉が詰まっている。生と死の円環を司る『神殺し』の中には並々満ちた蒼と底の方に堆積した肉塊、その肉に根を下ろした空色の華が水面で揺れている。

漂う血と華の混じった匂いに女神は感嘆の息を漏らした、指先で挟んだ聖杯を満足げに見下ろすと回すように揺らし始める。

 

それは聖杯というには穢れ過ぎている、掌の中に浮いた道具はかつて女神にさえ匹敵する叡智を宿していた。

この子の意識が無かったから自由に弄ることが出来たが、もしも起きていたらこのように操ることは出来なかったかもしれない…それほどまでの力がこの子にはあった。

 

 

『あら、ダメよ』

 

 

腕を伝って聖杯まで近づこうとした蛇を掴んで止める、肌の無い蛇はピギーッという鳴き声と共に暴れるとまた元いた裾の中へスルスルと戻っていった。

いたずら好きで可愛いらしい子、この子はまだ未成熟ではあるが完成ももう近い。愛おしさに溢れながら女神は杯から手を離す、どうせ水底はもう近いしある程度放置したとしても大丈夫だろう。

 

再び沈み始めた瘴気聖杯を見送り女神は振り返る。絶えず笑みを浮かべた彼女は赤い瞳を閉じ、意識をかなり上に向けると…深くため息をついた。

自らの体内を沈んでいくもう一人の我が子、今もなおじたばたと暴れているあの子は沈むことに抗っている。そこもまた愛らしいといえばそうだが拒絶されているみたいで少し悲しかった、それも成長すれば落ち着くだろうか。

 

 

『…あなたも興味があるのかしら?』

 

 

服の袖から蛇も頭上の闇を見上げている。人差し指でその頭を撫で女神は笑みを浮かべると、本当に手のかかるあの子の元へ上昇を始めた。

 

 

 

・・・

 

 

 

あれから何度かの休憩と仮眠を経て何時間も馬を走らせているが、結局この空間には出口がないことが解っただけだった。

ただカウントだけが加速度的に増えていく、邪魔な骸骨達はかなり数が減っていく。

とはいえ入っているのだから完全に閉鎖的な空間というのはあり得ない…おおよそ最初のルームの天井から湖に流れ着いたのだろうが、あるいは。

 

 

『「…試すしかない、か」』

 

 

こういう未探索領域は壁を壊した時に通常の通路に繋がっている事が多い。

馬を走らせながら剣で通路を撫でる、残っていた骸骨の一体を吹き飛ばし匂いを確かめながら無造作に斬りつける。

剣先に違和感を感じる場所を全て総洗いし破壊していくと、やがて空気の流れがある場所に気が付いた。

 

疾走する馬の勢いを乗せた騎剣で壁を貫く、崩れ去った壁が土砂と共に岩塊を吹き飛ばし新鮮な空気が全身に吹き付ける。

蹄鉄で緩やかに瓦礫を踏み越えるとそこは17階層のとある地点だった、やっと知っている場所に来られた俺は安堵と共に息をつくと騎剣を腰に差し直す。

馬の尻に乗せていた女を振り返ると長い間揺れていたからか更に体調が悪化しているらしい、急いで地上に向かわなければ危険な状態だ。

休んでいる暇は無い。手綱を振るった俺は早速地上に向かって馬を駆り出す、この時の俺に18階層へ向かうという発想は無かった。行ったことの無いリヴィラの町は存在感が薄かったし、ハティを待たせてはいけないという想いが無意識下で行動を決定させていた。

かくして俺達はすれ違う、地上を目指し手綱を握りしめた。

 

 

 

・・・

 

 

 

水晶の明滅、18階層において次の日。

昨日のうちに消耗品や装備は整え、体調も万全に回復させた。今日はロキファミリアが地上に戻る日だ、その後ろをついていけば比較的楽にダンジョンを探索することが出来る。

目標は行方不明のままになった二人の捜索、事情を話したところリョナと顔見知りだったアイズとティオナは先行しながら探してくれるらしい。

 

――そんな最中、ベルとヘスティアがどこかに姿を消した。

 

ロキファミリアが出発するまであと数分も無い。

運命の歯車は回り始めていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

17階層、狼騎士は騎剣でミノタウロスの首を切り裂く。

馬上からの戦闘は常に優位だ、広い中層内を駆けながら邪魔なモンスターの急所を剣先で貫いた。

鉄馬が地上へと最短ルートを駆け抜ける、既に膨大な量のカウントを溜め込んだ狼騎士の行進を止められる存在はこの階層にはいない。

速度と引き換えに蒼光と蹄音は大きく、釣られて寄ってくるモンスター達は呆れるほど多い。その全てを斬り殺しての行軍、地上に向けての進行は可能な限り早く。

乗せた女の容体は刻一刻と悪くなっている。焦りを背中に感じた、せっかく助けたというのに死なれては目覚めが悪い。

 

(急げ…!)

 

炉に炎をくべた。

狭い洞窟内を馬が跳ぶ、太腿でその背をしっかり挟みこみ騎剣を振るうとモンスター達の群れを切り拓く。

時間はそう残されていない、更に早く鉄馬を走らせる。17、16階層と次々に突破し狼騎士は咆哮と共に中層を駆け抜けた。

 

 

『「…ッ!?」』

 

 

斬り裂いたヘルハウンドの血が鎧にかかる前に蒸発する。

同時に辿り着いた見知らぬルーム、その中にいる一団に気が付き思わず馬を止めた。

そこにいたのは数週間前遠征に向かったロキファミリアの面々、通路の暗闇から現れた俺の姿に目を見開く彼らの中にはアイズとティオナの姿もあった。

 

数歩、馬は金属音をたてながら足を止める。

ふと以前のように喋りかけようとしたが、今の俺の姿ではいくら繕っても話をややこしくするだけだ。

現に冒険者達は通路から現れた蒼炎の化け物を警戒し武器を構えだしている、馬に乗った狼騎士の姿はダンジョンにおいても異質だった。

 

威嚇しないよう炎を最大限セーブし、俺は馬上から状況を確かめる。

高レベル冒険者達の中を強引に突破することは難しい、何よりこちらに争う気はない。

兜の下で息をついた俺はとりあえず戦闘の意志が無いと表すため、騎剣を腰に差し直そうとした。

 

 

「テンペスト!」

 

『「…ッ!」』

 

 

繰り出される疾風の一撃を騎剣で受ける。

風に巻き上げられた火花が宙を舞った、高い馬上にもかかわらず風の魔法を使ったアイズは瞬く間に距離を詰め跳躍、そして頭上から剣を振り下ろしてきた。

金髪が揺れる。振り下ろされるデスぺレートは重い、騎剣で受け止めたアイズの剣先には闘志と殺意が満ちている。

腕を振り切って吹き飛ばしたアイズは空中で一回転すると地面に軟着陸する、油断なく剣を構えた彼女の真剣な瞳には今まで見たことも無いような意志が内包されていた。

 

(…まぁそうなるか)

 

モンスターは殺す、冒険者なら常識だ。事前に意思疎通もなく互いに攻撃し合う、いやそもそも会話をすることが出来ないことが当然なのだから仕方ない。

…ただ知り合いに無条件で攻撃されることは精神的に辛いものがある、こちらを睨みつけるアイズの視線は完全に敵に対してのものだった。

 

この姿でいる以上、やはり対話は難しいのか。

武器を構えたロキファミリアの冒険者達はアイズの攻撃に合わせ臨戦態勢に入る、もはややり合うしか道は無い。

騎剣を構え直した俺はアイズを含む高レベル冒険者達を見る、数は多いがオッタルほど強くなければ突破は出来るはずだ。結果的に強行突破になってしまうが一方的に殺されるよりマシだ。呼吸に合わせ俺は強く手綱を握りしめると覚悟を決める。

 

 

「皆待つんだ!」

 

『「…?」』

 

 

だがいざという瞬間、冒険者の中から一人金髪の少年が歩み出てくるとアイズ含め冒険者達を制止した。

その男の名前はフィン・ディムナ。ロキファミリア団長である彼は見た目よりも経験を積んでいる。明らかな化け物を前に勇み足だった冒険者達は団長の制止に困惑し、アイズなどは珍しく憤りをその表情に浮かべていた。

 

 

「何で…止めるの?」

 

「オッタルとも対等に渡り合うほどの相手だ、いくら18階層で休憩したとはいえ何の準備も無しに戦って良い相手じゃない。それに…僕に考えがあるんだ」

 

「…」

 

 

諭されたアイズは悔しそうに唇をかむ、いつでもこちらを襲えるように剣を構えたが団長命令でそれ以上は動かないようだ。

一戦あると身構えていた俺にフィンが振り返る、警戒しつつ数歩近づいてきたその男はゆっくり息を吸い込むと確かめるように喋りかけてきた。

 

 

「まずは仲間の無礼を詫びたい、いきなり襲いかかり申し訳なかった。その上で虫が良いとは思うがこちらに交戦の意思は無い、これ以上の戦は無用なものと提案する!」

 

『「…許そう、衝突はこちらも望まない」』

 

 

喋ることは無意味と思ったが、どうやらアイズ一人の暴走だったらしい。肩を落とした俺は騎剣を腰に差すと馬上からフィンという男を見下ろす、まさか向こうから対話を持ちかけられるとは思わなかったがむこうも言葉が通じたことに安堵しているようだった。

 

以前オッタルとの戦いを側で見ていたメンバー以外の団員にはざわめきが走っている、彼らにとって喋るモンスターの存在など今まで見たことも聞いたことも無いのだろう。

奇異の視線が集まる、それを全て無視して俺はフィンに視線を送ると彼は親指を噛んでいるところだった。

 

 

「…尋ねたいことが幾つかあるが、構わないか?」

 

『「ダメだ、火急の用がある。ただちに道を開けさえすれば貴様らに危害を加えない事を約束しよう」』

 

「火急の用とは?」

 

 

問答をしている時間は無い、振り返った俺は今もなお悶絶している女を抱き上げる。

馬を回転させ冒険者達に見せると一様に目を見開き、再び武器を構えた。動じる事なく真っすぐに瞳を向けると、くぐもった声で答える。

 

 

『「この女は酷い熱を出している、急ぎ地上へ運ばなければ命を落とす事だろう」』

 

 

そう言うと俺から腕の中の女に視線が集まる。

汗を流す女は今もなお苦し気に呻いており、一目で体調がすぐれない事が解った。

驚いた表情を浮かべていたフィンは振り返るとリヴェリアとアイコンタクトを測る、そして慌てて俺に向き直ると早口に提案を述べた。

 

 

「こちらにはその女子を治療する手立てがある、救いたいというのであれば喜んで請け負わせてもらう!」

 

『「…なるほど、では頼もう」』

 

「リヴェリア!」

 

 

ポーションも効かなかったしてっきり地上に戻るしか道は無いと思っていたが、この世界には魔法という回復手段がある。

フィンの声に合わせ素早く駆け寄ってきた緑髪のエルフに馬上から女を渡す。受け取ったリヴェリアはすぐに床に彼女を寝かせると目を閉じすぐに詠唱を始めた。

魔力の匂いがする。やがて詠唱が終わり魔法が行使されると杖の先から魔法が女の身体に降りかかる。恐らく回復魔法と思われるそれの効果は絶大であり、あんなに苦し気な表情だった顔は和らぎ、熱も引いたように見えた。

完全に予想外な治療手段。これで命を落とすことは無くなっただろう、重荷が取り払われた俺は深く息を吐きだすと再びフィンに視線を向けた。

 

 

『「感謝を、貴君らの助けが無ければどうなっていたか解らない」』

 

「っ…いえこの程度はお互い様だ。彼女は我々が地上に連れていくということで良いだろうか?」

 

『「あぁ頼む、この身体では色々と不便でな…」』

 

 

見知らぬ相手ならまだしもロキファミリアなら信用できる。これで無理して俺が地上に運ぶ必要もなくなった。

息をつき安堵する。それからフィンを見ると真剣な瞳でこちらを見ていた、観察するような視線には期待と困惑とが入り混じっていた。

 

 

「幾つかお聞きしたい、彼女は?」

 

『「17階層で拾った、それ以上は知らない」』

 

「何故あなたが助けようと?」

 

『「…奇妙な縁だ、特別な理由はない」』

 

 

答えるとフィンは眉をひそめ親指を下唇に当てた、何故化け物が人助けなどしているか疑問なのだろう。

女を抱えたリヴェリアが戻っていく、ぐったりとした女の顔を覗き込んだティオナは驚きの声をあげた。

 

 

「あれ!?もしかして行方不明の(ミコト)ってこの子のことじゃない!?」

 

「命?ティオナは何か知ってるのか?」

 

「えっとタケミカヅチファミリアで行方不明者が出たっていう話を18階層で聞いて…」

 

「へぇ…それは良かった、地上に着いたら届けようか」

 

「あっ、でもちょっと待って。行方不明者はもう一人いるの!」

 

 

そう言うとティオナは真剣な表情でこちらを見た。

タケミカヅチファミリア、あの時のパーティは今18階層にいるらしい。

その上で、もう一人の行方不明者。不思議と誰のことか想像がついた。

 

 

「リョナ君っていう男の子なんだけど見てない!?こーんなに身長高くて全身黒っぽい…」

 

『「知らん、見つけたのはその女だけだ」』

 

 

俺の事だった。とはいえ自分のことですと言い出せるわけがない。

遭難してからどれほどの時間が経ったか解らないがどうやら行方不明者扱いを受けているようだ、当然といえば当然だがつまり地上のヘスティアが救助依頼を出したということだろう。

知らないと答えるとティオナが肩を落とす。おおかたタケミカヅチファミリアに頼まれたというところか。

 

 

「そっかぁーてっきり一緒に居るかと…うーん後からついてくるって言ってたけどアルゴノォト君達で見つけられるかなぁ」

 

『「…!?」』

 

 

動揺が走る。

アルゴノォトはつまりベルの事だ、一日以上の時間が経った今とっくに地上へ戻っているものと思っていた。

早口にならないように気をつけ俺は口を開く。

 

 

『「…待て、アルゴノォトと言ったがそいつは今どこにいる?」』

 

「えっ、最後に見たのは18階層…私達の後についてくるって話だったんだけど姿が見えなくて」

 

 

兜の下で驚愕しつつ俺は目を閉じ思考を巡らせる。18階層はセーフティポイントだ、ならばそこで一度は休むことはできただろう。

しかしあのお人好しは俺の事が見つかるまで探そうとするだろう、その合間に怪我をしたら本末転倒だ。早く合流しなければ今度はベルが行方不明になってしまう。

 

手綱を引いた俺は馬を反転させる、大和撫子も預けたしもうこの場にいる意味は無い。

 

 

「待ってくれ!君は何者なんだ!?」

 

 

強い語気で尋ねてくるフィンにちらりと視線を送る。

人助けをする知性を持ったモンスター、そんな存在に立場のある人間が興味以上の感情にかられることは当然と言えた。

だが正直には答えられない、去り際に俺は一言だけ告げた。

 

 

『「…ただの、化け物だ」』

 

 

馬が走り出す。

冒険者達を背後にダンジョンを駆ける、来た道を急ぎ戻り始めた俺は嫌な予感を感じながら騎剣を抜いた。

目指すはベルのいる18階層、出来る限り早く俺は更に深く地下を目指した。

 

 

 

・・・

 

 

 

冒険者達が少年を囲んでいる。

輪の中心で白い軽鎧を纏った彼は傷だらけになり、それでも戦っていた。

それは神様のため、拉致された女神を助けるために少年はナイフを構え続ける。

とっくにロキファミリアは出発しただろう、他の皆にも心配をかけているはずだ。

 

打撲が滲むように痛む、振るう腕から赤い血が垂れた。それでも自分の痛みよりも大切な人を探しに行けない事が何より苦痛だった。

 

 

「僕はッ…こんなところで遊んでる暇は無いんだッッ!!」

 

 

本気の少年は、かけがえのない仲間の為にナイフを振るう。

感情を乗せた一撃一撃が邪魔な冒険者を追い詰めていた。そのステイタスの上昇は留まるところを知らず、もはやその攻撃は相手には捉えることが出来ない。

舌打ちが聞こえる。勝ったと確信した瞬間、男がにやりと笑うのが目に見えた、

 

 

「…!?」

 

 

呟きと共に男の姿が消える。

慌てて周囲を見渡した少年の背中を何か透明なものが強打し、思わず膝をつき地面に倒れた。

不可視の敵、そう理解しても対処は出来ない。第二ラウンドは既に始まっていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

嘆きの大壁、18階層への入り口。

地震は強く、新たな怪物の誕生を祝う。割れる壁、響く振動と共に化け物の巨大な掌が岩を砕いて宙を掴んだ。

地中から現れた化け物はゆっくりとその巨体を引きずり出す。迷宮の弧王(モンスターレックス)、ゴライアス。産まれたての怪物は湯気をたて、頭髪から羊水を地面に零した。

鉄のような硬皮、隆起した肉体。人型の化け物はただただ巨大だ。呆けたように身体をしゃがみこみ、背を丸めたゴライアスはただ地面を見つめていた。

 

 

『…!?』

 

 

その巨大な双眸が視界端に蒼炎を捉える。

ゴライアスはゆっくりとその巨大な頭で振り返ると、いつのまにかルームの入り口に屹立した馬と騎士の姿を見下ろした。

纏うは廃材の鎧、右手で手綱を握り、もう一方の手で騎剣を構えたその姿は正に騎士そのもの。されどその兜は化け物を(かたど)り、噴き上げる蒼炎はこの世のものとは思えない。

その名を狼騎士、馬上にてもう一匹の化け物はゴライアスを見上げている。

 

 

『…スゥー…』

 

 

地面を揺らし立ち上がった巨人は息を吸う。本来ならば化け物同士で殺しあうことはめったに無いが、こいつは別だとゴライアスの中の()()がそう言っていた。

空気が吸い込まれていくにつれ徐々にその身体が膨らんでいく。やがてその膨張は限界を迎えると遂に解き放たれた。

 

 

『ガァァアアアアアアアアアアアッッ!!』

 

 

咆哮。

破壊を巻き起こす音の壁、鳴動するダンジョンに木霊する叫びはもはや攻撃に等しい。

狼騎士へ目に見えない一撃が迫る、冷静にその様を観察していた狼騎士はおもむろに騎剣を振るうと身体を押す風圧を切り裂いた。

 

見上げたゴライアスは大きい、いつぞやは倒すことが出来なかったが今の狼騎士にならきっと可能だ。

対象は一人、本来ならば冒険者達が何十人も集まりそれでもなお苦戦する化け物に狼騎士は相対する。

 

全てはかけがえのない仲間たちの為に、冷たく嫌な予感を打ち払うために俺は騎剣をゴライアスに向けた。

 

 

『「――…行くぞ、化け物」』

 

 

吹き付ける咆哮の中、狼騎士は馬で駆ける。

 

 

『「おおおおおおおおおおおおッ!」』

 

『ガアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!』

 

 

咆哮が重なる。

鏡面のような巨大なルーム、その中で狼騎士はゴライアスと殺しあう。

その大きさは実に十倍以上の差、ゴライアスにとって狼騎士は子猫かネズミ程度の大きさしかない。

 

落差二十メートル以上の巨拳が狼騎士へ迫る。

間一髪、鉄馬が駆け抜けた後の大地が吹き飛ばされ、後には悲惨なクレーターが残る。その巨拳の破壊力は大砲を軽く凌駕しており、今まで数々の冒険者達を文字通り潰してきた。

 

巨大な体躯から放たれる即死級の一撃、それに伴う圧倒的なリーチ差。

覆すことの出来ない『大きさ』というアドバンテージをもってゴライアスは狼騎士を追い詰める、その殺意に満ちた眼窩で足元を走る狼騎士を目で追った。

 

 

『「…」』

 

 

鉄馬が駆ける。

その四足は例え全身鎧を身にまとった狼騎士を騎乗させていても衰えることは無い、炉にくべられる炎のままに動くそれはむしろ機械に近い。

風に蒼炎がなびく、規則的に上下する馬上で狼騎士はゴライアスへと視線を向ける。その一撃はどれも喰らえば即死級、だがどの一撃も大雑把かつ直線的で避ける事は容易い。

オッタルに比べればこんなもの窮地のうちにも入らない、目の前にいる化け物はただ大きい『だけ』だ。

 

 

『「ハァッ!」』

 

 

大振りの拳を躱しその足元に飛び込む。案の定ゴライアスは近づいてくる狼騎士に反応することが出来ず接近を許した。

大木のような足が迫る、騎剣を構えた狼騎士はすり抜けると共に斬りつけた。

鋭く鍛えられた騎剣が何の抵抗も無くゴライアスの肌を裂く、狼騎士の通り過ぎた後に鮮血を降らせた。

 

 

『「ガァァッッ!!」』

 

 

怒りに満ちた叫びが巨人の口から漏れる。

ふくらはぎにあたる部分には大きな刀傷がついており、だらだらと血が流れている。

傷自体は浅い。だが確かな痛みにゴライアスは憤怒し、更に殺意を滾らせると足元を疾走する狼騎士を睨みつけた。

 

オッタルに比べればたいしたことはない、見上げたゴライアスに騎剣を向けた狼騎士は咆哮する。

 

 

 

・・・

 

 

 

冒険者達が戦っている。

ベルを助けに来たヴェルフ含む救援隊と集まったゴロツキ共。

現状は救援隊の方が優勢だ。レベル4であるリューが百戦錬磨の働きで幾人も男達を薙ぎ倒しており、数的不利を完全に覆している。

目指すは丘の頂上、そこにはひと際大きな人の輪があった。辿り着くにはもう少し時間がかかる、ベルを助けに来た面々は可能な限り急ぎ前に進む。

 

 

「なっ…!?」

 

 

一方、輪の中心でベルはハデスヘッドで透明化した男と戦っている。

完全に透明化した男の姿は見えない。どこからともなく飛んでくる攻撃にベルはただなぶられるだけであり、その全身には幾つもの痣や擦り傷が出来ていた。

だがそれも先程までの話だ。目を閉じたベルは足音を聞くことで男の攻撃を回避し、反撃を喰らわせていた。

 

 

「またっ…ぐぼぉっ!?」

 

 

攻撃を避けたと同時に震脚、放たれる発勁が男の鳩尾に突き刺さる。

まだ未完成とはいえ練習中の発勁が男の体内をかき乱した、透明のまま男は吐き気を催すと口を押える。

圧倒的有利な状況をベルの機転で返された男は憎悪を露わにする。しかしリョナに師事したベルの体術を捉えることは容易では無く、遂には頭につけていたハデスヘッドさえも蹴り飛ばされてしまった。

男の姿が現れる、発勁をもろに食らった男は気持ち悪そうにしながら剣を抜く。

 

 

「チィッ…ブッ殺す!」

 

「…!」

 

 

逆上して飛びかかってくる男を前にベルは冷静にナイフを抜く。

ここまでさんざ邪魔されて少年の怒りは頂点にまで達している、その氷のように冷たい視線は静かな殺意と共に男の事を見つめていた。

 

 

「――そこまでだ!」

 

 

二人が重なる寸前、神威に満ちた声が響き渡る。

その場にいる全員が振り返った、丘の入り口から聞こえてきたその気配には途方も無い力と威厳が含まれていた。

立ち昇る気配は白光と共に、髪の解かれた女神は蒼華を二輪浮かばせる。その重力を感じさせない歩みは光の波紋を広げた。

神威解放、神としての力の行使。ヘスティア本来の姿は美しく、慈愛に満ち溢れている。

 

その歩みに誰もが道を開けた。

闘っていた者達は手を止め、神威に満ちたヘスティアを通す。

荒くれ達も委縮し、目を奪われ、ただぼうっと道端に退いた。

原始の力を纏う女神は緊張した面持ちで丘を歩く。やがて少年を囲んでいた輪に辿り着くとその中に入りこみ、驚きの表情を浮かべたベルを見つけた。

 

 

「ベル君!」

 

 

神威が解かれると同時にヘスティアはベルに抱き着く。

ナイフの刃先が女神に触れないように気を付ける少年は神妙な面持ちで固まっていた。

遅れて救援隊の面々が辿り着く。周囲のゴロツキ達は気まずそうに逃げ始め、ハデスヘッドを被っていた男も腹を抑えたままふらふらと立ち去っていった。

 

 

「むぐ…神様、早くリョナさんを探しにいかないと」

 

「っ…確かにそうだね、急がないと――ッ!?」

 

 

女神が少年を離したその時だった。

地面が強く鳴動する。ここ最近で一番強い揺れ、立っていられないほどの地震は巨大な生物が壁の中を直接這っているかのようだった。

 

ダンジョンで神威が使われた、空気中にはヘスティアの匂いが濃く散布され残っている。

曰く『ダンジョンは神を憎んでいる』。その神威に反応し地震は最悪の化け物を生み出す。

 

 

「ッ…!?」

 

 

ガシャァァァッッン!と水晶の砕ける音が鳴り響く。

降ってきたのは身体を丸めた胎児、羊水と共に産み落とされた化け物は果実のように地面へ落ちる。

18階層の光源だった天蓋は砕け散り、にわかに本来のダンジョンの暗さが戻ってきた。

 

ドシンと強く地面が振動する。巨大な胎児はゆっくりとその身体を伸ばすと息を吸う。

灰化した白髪、赤く揺れる双眸。ゴライアスにもその姿は似ているが、通常個体よりもその黒肌は硬く、立ち昇らせる邪気は遥かに濃い。

ダークゴライアス、生み出された化け物は産声を上げた。

 

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオォォォォッ!!』

 

 

地震に咆哮が重なる。立ち上がった巨人の叫びには純粋な憎悪がこもっていた。

災厄の化け物、階層主よりも強大なモンスター。ロキファミリアはここにいない、落石によって17階層へ続く出口は完全に塞がれた。

今ある人間であれを対処するしかない――

 

――だが、地震はまだ続いていた。

 

 

「あそこ…何か来ます!」

 

 

リューが指さした先で地面が割れた。

空気中に満ちた神威が獣を呼ぶ。神殺しの化け物はその甘美な誘惑に抗えない、呼び起こされる本能が殺意と憎悪を溢れさせる。

 

地面を割り現れたものは、巨大な『金色の盃』とそれを支えるがしゃ髑髏。

華の紋様のあしらわれた盃にはなみなみと蒼炎が注がれ、下の骸骨が歩き揺れるたびにその中身が零れ落ちる。横に十メートル以上はある杯は薄く平べったく、その下では奴隷のような巨大骸骨が杯を担ぎ、落とさないように腕を広げ黄金の縁を掴んでいる。

 

盃を担ぐ巨大スケルトン、盃を奴隷のように支えるその大きさはゴライアスとそれほど変わらない。

杯の縁を掴んだ骸骨は周囲に視線を向け、丘にいるヘスティアの姿に気が付くと蒼い瞳をボウと燃え上がらせる。

細く白い骨の身体がその場で強く地団駄を踏むと、担いだ黄金盃から蒼い炎が溢れ撒き散らされた。

空中に飛沫が散った。憎悪の蒼はスケルトンの足元を燃え上がらせる、焼け野原の中から小型の骸骨兵達が立ち上がると石の剣を構えた。

死者の軍団が行進を始める。巨大スケルトンが歩むたびに盃から中身が溢れ、新たな骸骨兵が生み出された。

 

新種の化け物。迷宮の弧王にも並ぶ大きさのその怪物は蒼炎を纏う。

 

 

「…!?」

 

 

巨大スケルトンの開けた穴から()()()()が跳ね出し、地面に転がる。

それは全長7mほどの皮の無い蛇。眼や口といった部位の存在しないその化け物は成長しきる前に腹から飛び出したかのような赤子。

ただその背にあたる部分には龍のような翼がついており、赤く血管の浮き出た身体は鼓動を繰り返している。

やがてその顔の無い蛇は翼をはためかせ、重く身体を持ちあげるとふらふらと18階層の空へ飛びあがっていった。

 

 

「そんな…!」

 

 

計三匹、現れた規格外の化け物。

神威に反応した巨大な獣たちはその本能のままに進行を開始する、そのどれもが神話級の怪物。

絶望を産み出して地震は止まる。だが同時にそれは終末戦争(ラグナロク)の始まりでもあった――地獄は顕現する。

 

 

 

・・・

 

 

 

馬が強く大地を踏んだ。ゴライアスの巨碗をすんでのところで躱すと、すれ違いざまに樹木のような指の根元を斬りつける。苦痛に満ちた声が轟いた、無視した狼騎士は血を蒸発させグルルと唸り声をあげた。

戦い始めてから既に十分が経つ。状況は一方的、狼騎士にとってゴライアスはもはや獲物に過ぎない。巨人の硬皮には幾つもの刀傷がつけられている、血を流すゴライアスは肩で荒く息を繰り返していた。

 

 

『「…」』

 

 

瀕死のゴライアスを狼騎士は冷静に見つめる。

巨大な化け物は頑丈かつ強靭で、騎剣で斬りつけただけでは死なない。

もっと強力な蒼起三爪のような攻撃が必要だ。その為には一度馬を巨剣に鍛え直す必要がある、とはいえ馬を失う以上蒼起三爪を撃つための隙を作るしかなかった。

…ただ倒して良いのかは解らない。既にカウントの『更新』は近い、あれほどの巨体に蒼起三爪を撃ちこめば一気に成長が深まるはずだ。それではあの女神の目論見通りになってしまう、きっとこれ以上の戦闘自体が危険だ。

幸いなことにゴライアスの動きはかなり鈍くなっている、後は馬さえあれば余裕で横穴に入ることが出来るだろう。

 

 

『「よし…」』

 

 

迷わず逃げる事に決めた狼騎士は息をつく。

チャンスは多い、とりあえずゴライアスの攻撃を躱してから大壁へ駆けこめばいい。

手綱を強く握りしめる。腕を引いた巨人が拳を振り下ろそうとするのを睨みつけた。

蒼炎が揺れる、集中しゆっくりと流れていく時間の中で狼騎士はじわりと口内に甘さが広がることに気が付いた。

 

――それは神威の解放。

 

横穴から噴き上げた神の匂い。

鼻孔から中枢神経を伝い、痺れさせるように本能に呼びかける甘い匂いは確かに神威によるもの。

純粋かつ濃度の高い神力、これほどまでに強く漂う誘惑に『神殺しの獣』が気がつけないはずがない。

 

神威に触れた瞬間、身体中の血液が沸き立つような感覚がした。

呼びかけるような幻聴と強い破壊衝動がうなりをあげ、牙を剥くような獣性が鼓動を早まらせた。感情の濁流の中で狼騎士は驚愕し、必死に自分を保とうとする。

それはマーニファミリアの一件と同じだった。18階層で神がその本来の力を解き放ち、神威が濃く散布されてここにまで届いた。

漂ってきた神威には華と暖炉の暖かな薫りが混じっていた、その匂いは俺が良く知る女神の匂いだった。

 

ドズンッ!と間一髪で拳が馬の隣をすり抜けていく。

濃い神威に酔い、身体をよろめかせた狼騎士は何とかゴライアスの攻撃を躱し、馬を駆けさせると本能に抗いながら考える。

 

(…何で)

 

何故ダンジョンにあの女神がいるのか。

いや理由はおおかた想像がつく、ベル以上のお人よしであるあの女神は眷属が行方不明になったら例えダンジョンだろうが構わず探しに来るはずだ。

親として迷子を捜しに行くのは当然だぜ!…とか、言いそうな台詞が簡単に思い浮かぶ。

 

(…あのバカ女神はほんとに)

 

それで自分が怪我をしたら元も子もないというのに、どこまでも彼女らしい。

どうしようもなく呆れ笑みながら俺は、雄叫びをあげる本能が収まるのを待った。

幸いなことに神威が解放されたのは一瞬だったようだ、すぐに匂いも薄れていくと早鐘を打つ心臓を残して消え去った。

 

――だが嫌な予感は消えなかった。

もしあの女神がこの神威の解放まで計算済みだったなら。

 

その時、地面が鳴動した。

ゴライアスも思わず攻撃の手を止めるほどの激震。

幾つもの破砕音、岩の落ちる重い音とともに足元でガラスの砕け散るような甲高い音が鳴り響く。

 

 

『……オオオオオオォォォォッ!…』

 

 

化け物の咆哮が木霊した、しかしその残響も何かで塞がれたかのように途切れた。

聞こえた咆哮はゴライアスのものに似ている、もし下の階層に迷宮の弧王レベルの化け物が現れたなら。

 

 

『「…!」』

 

 

空気の流れで横穴が土砂で塞がれたことは解った。

彼女を助けるためには逃げられない、この身を賭すしか選択肢は無かった

 

地震が止まると同時に狼騎士とゴライアスは動き出す。

振り下ろされる巨人の拳は正に一撃必殺、空気を切り裂き狼騎士めがけて振るわれる拳は重い。

目の前に巨拳が迫る。咆哮をあげた狼騎士はぎゅっと手綱握りしめると走り出し、強く馬に地面を踏ませた。

 

すれ違う拳と狼騎士。

拳の破壊力が地面を砕く中、狼騎士を乗せた馬は高く跳躍していた。

 

 

『!?』

 

 

地面にめり込む拳に馬が乗った。

慣性を利用して馬は長く太い巨人の腕の上を駆け始める。硬い肌を蹄鉄が蹴りつけた、幾度も隆起する悪路を鉄馬は疾風迅雷の速度で駆けあがった。

驚愕の表情を浮かべたゴライアスが気がついたころにはもう遅い、慌てて振り払おうとするが既に狼騎士は最後の跳躍を終えていた。

 

騎剣が煌めく。

空中を横切る一閃はゴライアスの瞳を斬りつけた。

機能を失った巨人の眼球から血が迸る。

 

 

『ガァァァッッ!!?』

 

 

苦悶の表情を浮かべうずくまる巨人の遥か上空、容を変えた鉄馬が巨剣へとその姿を変える。

それは廃材の巨剣、炉のように感情を燃やす巨剣は狼騎士の手の中で激しく燃え盛る。

蒼起三爪(ソウキノミソウ)、狼騎士最大の一撃はかつてないほどの熱と破壊力を内包し拠り集まっていた。

 

 

『「…ッ!」』

 

 

この手を振り下ろせば、もう帰れないかもしれない。

極大の炎の中で俺は地上に残してきた最愛の娘を思い出す、もう帰れなかったらあの子はどうなってしまうのか。

それは最悪の未来だった、俺はこの手でその未来を選択しかねている。

 

(それでも…俺はッ!)

 

大切な人を失う事を諦められない、命を選ぶことなど俺には出来ない。

そこに少しでも希望があるのなら手を伸ばした、彼らを失うくらいなら。

 

 

『「――――蒼起三爪ッ!!」』

 

 

振り下ろされた蒼い三本爪がゴライアスの身体に叩きつけられる。

極大の炎は巨人の身体を焼き尽くし、生じた爆発エネルギーは振り下ろされるまま下に向かう。膨大なまでの熱が床を焼き切り、蒼く

爆音と共に大崩落が起こった。全てを溶かし尽くす熱と爆発が嘆きの大壁を破壊する。蒼起三爪を振り下ろした狼騎士はゴライアスの身体と共に開けられた大空洞へと落ちていく。

 

 

『ガァアアアアアアアアアアッ!!?』

 

『「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」』

 

 

何十メートルもの落下、風に蒼炎が千切れる。

重なる咆哮、最大級の一撃、狼騎士の放つ蒼起三爪は巨人の身体を焼き続けた。加速度的に増えていくカウントは遂に狼騎士の限界を超え、ゴライアスを燃やしてなお更新される。

 

突風を受けながらドクンドクン、と鼓動が脈打っているの感じた。

進化の兆し、重力の中で熱く灼熱する血潮が燃える。獣のような咆哮が口から漏れた、どうしようもなく溢れる衝動に身体が突き動かされる。

視界が蒼く充満した、鳴り響くような幻聴は次の段階を告げる。

 

振り切られた蒼起三爪が階層の床をブチ開け、狼騎士は18階層へとたどり着いた。

途中見覚えのある空間が視界に映った、そこは狼騎士が始め流れ着いた小さな空間。

その中心にあった湖は底から水が流れ出してしまっている。破壊された水晶の天蓋を通り抜けると血生臭さが鼻孔に伝わってくる、眼下では既に戦争が始まっていた。

 

遥か18階層上空。鼓動は遂に限界を迎え、その鎧が蒼く輝いた。

狼騎士は銑鉄へ還る。それは神殺しの獣、自らを打ち直し『鉄の狼』は完成する。

 

――今、両橋夏目は怪物になった。

 

 

 

・・・

 

 

 

現れた三匹の怪物。神威によって活性化した通常モンスターの襲撃で18階層の平穏は失われた。

狂暴なモンスターと冒険者達の戦いが各地で行われている。激しい戦禍の音、燃え上がる森、押し寄せるモンスター相手に冒険者は死線を繰り広げていた。

 

 

『オオオオオオオオオオオオオオォォォォッ!』

 

 

ダークゴライアスが吼える。

繰り出される音の爆撃は立ち向かう冒険者を吹き飛ばし寄せ付けない。

その力は通常個体の2倍かそれ以上、その一撃はどれも重く大地を粉砕する。

運悪く巻き込まれた冒険者は叫び声すら掻き消され、四肢をあらぬ方向に折り曲げられた。残ったものは鎧を粉砕された無惨な死体、当たれば誰であろうと大怪我は免れない無差別攻撃は周囲を蹂躙する。

加えて厄介なのは類い稀な回復能力、例え冒険者が傷をつけても修復される肉体はどう倒せば良いかすら解らなかった。

既にその咆哮と巨碗に何人もの冒険者がやられている。暴走する巨人の周囲は既に更地と化しており、リューやアスフィといった()()()レベルの高い冒険者達が果敢にも災厄へ立ち向かっている。果てしない戦いにリューは汗を流しながら荒く肩で呼吸を繰り返していた。

 

少し離れた森林では蒼い炎が燃え広がっている。パチパチと爆ぜる火の粉、たちこめる黒煙。火災は徐々に広がっており、まだ燃えていない安全地帯を求め逃げ惑う冒険者の背後を燃える骸骨兵達が追い立てている。その骨の身体は例え燃えても前に進む、蒼炎の中から現れる骸骨兵達はとにかく数が多い。

 

 

「あっちだ!逃げろ!」

 

「くっ…これだけの数がいつのまに!?」

 

 

見上げれば黄金の盃を担いだ巨大スケルトンが燃え盛る森の中を悠々と歩いている。その巨体が一歩進むと大地が揺れ、木々が薙ぎ倒される。同時に零れ落ちた蒼炎の飛沫が森を焼き払い、際限なく骸骨兵達を落としていった。

歩むだけで脅威足りえる怪物。着々と骸骨兵を増やし、森林を燃やして回るその様は災害という表現が近いかもしれない。

 

上空では顔の無い蛇が羽ばたいている。

今のところどの戦場にも加担していない蛇はただ自由を謳歌しているようであり、時折顔に当たる部位を地上に向けては首を傾げていた。

 

化け物の咆哮が続いている。各地での戦禍は苛烈、流血はとどまることを知らず、蒼い火の子散る戦場で人と獣の殺し合いは激化の一途をたどる。

それは地獄絵図だった。蔓延する血の匂いの中では弱い者から死んでいく。

 

 

「…これじゃまるで、ラグナロクじゃないか」

 

 

逃げてきた丘の上から眼下の戦いを見下ろしたヘスティアは呟く。

大挙するモンスター達と戦う人々、広がる炎、一際大きな化け物を倒すべく群がる勇者たち。

それはかつての終末戦争と似ていた。規模はだいぶ小さいが、行われる戦争の匂い…そして充満する絶望をヘスティアは確かに憶えている。

 

だがあの時と違って神々はいない、このままでは人々が負けることは明らかだ。

ただでさえダークゴライアスは強い。果たしてあの化け物でさえ倒せるか解らないというのに同級の化け物がもう一体、厄介な骸骨兵を産み出し続けている。

 

誰もが絶望していた。

何の準備も無く終末戦争に放り投げられた人々は絶望したうえで、息の根が止まるまで抗い続ける。

ダンジョンでは祈りも届かない、在るのは戦場。どうしようもない逆境と絶望――蒼炎。

 

 

「…また!?」

 

 

ダンジョンが揺れた。

強く小刻みに振動は18階層を揺らし、頭上からは破砕音が鳴り響く。

徐々に近づいてくるその咆哮はやがて限界を迎えると何かを打ち破った、残った余震もやがて消え去った。

 

 

「ヘスティア様、あそこに…!」

 

 

リリが指さした先。

ダークゴライアスの破壊した巨大水晶の大穴からそれは落ちてきた。

遠く、遥か上空。廃材の鎧、人の身に余る巨剣、狼兜に灯った蒼瞳。

狼騎士はそこにいた。ゴライアスを屠り、18階層へと辿り着いた狼騎士は地獄を見る。

ただ、その身は絶望を振りまく化身として運命に手繰り寄せられた。

 

閃光、蒼炎が噴き上げる。

それは心火。自らを打ち直す極大の炎。

恒星のように輝く蒼い焔は狼騎士、巨剣、ゴライアスの魔石さえ巻き込んで巨大な一つの球になった。

狼騎士は銑鉄へ還る。そこにあったものはドロドロに溶かされた液体状の鉄塊、宙に浮かぶ繭の中で進化は今まさに執り行われる。

 

誰もが手を止め、その光景を仰いでいた。

蒼く美しい炎。鳴り響く打鉄(うちがね)。煮えたぎる星の中で怪物は今一度鋳造される。

 

それは神殺しの獣。

在り方は不屈。壊れたとしても諦めず前へ。

その本質は逆境を打ち壊す為の力。無限に進化するその力は今まさに次の段階へと昇る。0から1へ、1から100へ。その成長は勝利するまで止まらない。

例え手に入れた力のせいで人間でいられなくなったとしても、大切な誰かを守れるためならば獣は決して絶望なんてしなかった。

 

――今、打鉄の音が高らかに止まる。

 

鋳造。

身体は鉄。決壊した銑鉄は容を成す。

水球から解き放たれた獣は地面に落ちる。実に100メートル以上の高さ、瞳では到底助からぬ高さを獣はドシンと膝を折り曲げるだけで難なく着地した。

地面が振動する。巻き起こった土埃はやがて完全に消え去り、現れた姿が明らかになった、

 

そこにいたのは――巨大な鉄狼。

 

その大きさは通常の狼の何十倍か、少なくとも人の背丈の4倍以上はある獣は遂に進化を終え戦場に降り立つ。

太い首、精悍な顔立ち、鋭い牙と爪。逞しい四足はしっかりと大地を踏みしめ、太い尻尾は揺れる。最も気高い生物、その身体は鉄で構成されていた。鈍色の牙や爪は刃のように砥ぎすまされ、その胴体の中心は炉のように銑鉄がたまっている。

毛並みは炎、噴き上げた蒼が滾る。その産まれたての蒼瞳が見開かれた。激しい感情を火にくべる巨狼は新たに湧き上がる力を持って顔をあげた。

 

 

『Grr…』

 

 

全ての逆境を覆し、神さえ殺す獣の完成系。

その名を『蒼狼・炉心(フェンリル・アイアンハート)』。

気高き巨狼は蒼炎を纏いて、遠吠えをあげる。

 

 

 

・・・

 

 

 



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 幕間の海溝

説明回を入れざるえなーい。予備知識は多少いる、まぁ流し見でも大丈夫
あと一話の初めにちょっとだけ書き足しました。



・・・

 

 

 

産まれ落ちる寸前。

自らの身体が作り変えられていく感覚、胎児のように身体を丸めた獣は銑鉄の中で夢を見る。徐々に現実と悪夢の境界が薄れていった。自分の身体が人なのか狼なのか判別がつかなくなってきた。

暗闇が視界を覆う。獣は目を細め警戒すると歩き出した、やがて幻覚の中で獣は蒼い女神に出会う。

 

 

『…あら、ここはバックヤードなのだけれど』

 

 

微笑みを浮かべる女神は獣にとって悪夢そのもの。

蒼く海原のような髪は見る度に輝きを変え、微笑みを浮かべた瞳は妖しくも獣を見つめる。

全ての化け物を産みだした「海」という名の母神。初めて良く見えたその顔は何故か懐かしい。

 

向かい合った全ての元凶に獣は牙を剥く。

今までとは違い身体は水圧の中でも自由に動いた。

 

 

『Grr…』

 

『まぁ怖い顔、夏目ったらお母さんに唸るなんて…やっぱり反抗期なのかしら?』

 

 

やれやれと首を振るその表情からは微笑みが絶えない。

深海の主神。その身は蒼白なれど多彩、まるで海のように移り変わる心は一切捉えることが出来ない。

 

――その目的は何だ。

 

かつてこの女神は自らの子供に殺された。

しかしその魂は血の中に生き続け、今なおこうして俺の目の前に現れる。

無意味とは思えない。自らを殺させてまで抱いた神代の妄執にはいったいどれほどの価値がある。

 

 

『A…Ga…お前…は…!』

 

『あら、もう喋れるようになったの?…良い兆候ね、お母さん嬉しいわ』

 

『黙れ…お前は、何者なんだ…!?』

 

 

水圧に加え、狼の身体では人語を話すことさえ難しい。

それでも何とか尋ねると、女神は微笑みを浮かばせたまま少し視線を流した。

もしかするとこの空間に俺がいる事自体が予想外なのかもしれない。彼女の思い描く本来のシナリオを俺は大きく乱しているような、そんな気がした。

 

 

『そうね、せっかくここまで来たんだもの。ご褒美に教えてあげてもいいかしら』

 

 

息をつくと女神は海中に腰を下ろす。

唸り警戒したままの狼は女神が口を開くのを待った。

その瞳が柔らかく獣の事を見つめていた。

 

 

『私の名前はティアマト・イフ・ニグラス。夏目、あなたのお母さんよ』

 

 

化け物を育む海洋の龍神。

神殺しの獣はこの女神によって生み出された。

蒼い幻覚が笑う、狼はティアマトと対峙していた。

 

 

 

・・・

 

 

 

『…ティア、マト』

 

 

呟いたその名に聞き覚えは無い。

確かバビロニアにおける最古の神だったはずだがそれ以上の事は詳しくない、こんなことならもう少し学んでおくべきだったが今更だ。

 

母親を名乗る女神。しかしこいつが俺の母親であるはずがない。

何故なら既に俺の母親は――

 

 

『あら、これ以上にもっと自己紹介が必要?それとも夏目はママ呼びの方が好きかしら。良いのよ、ママでも母さんでも自由に呼んでちょうだい』

 

『…お前の、目的は何だ』

 

『あら無視だなんてお母さん泣いちゃいそう。せっかく喋れるようになったんですもの、もっとお喋りして親子の愛を確かめましょう?』

 

 

楽し気に手を打ったティアマトの姿が消える。

嫌な予感に任せその場から飛びのくと、元いた空間に現れたティアマトが腕を広げ残念そうな表情で首を傾げていた。

この空間の絶対権は彼女にある。瞬間移動も何でもござれだ、抱き着こうとしてきた女神に俺は唸る。

 

 

『あら残念』

 

『ふざけるな、お前は俺の母親じゃない…!』

 

『全ての生物は元を辿れば私の子供だもの。実質母親だわ、あなた達の血統は特にね。それに――』

 

『御託は良い、お前の目的は一体何だ?俺達神殺しの存在理由は何なんだ!?』

 

 

言葉を遮られ息をついたティアマトは立ち上がる。

やれやれと首を振るとその笑んだ瞳で俺の事を見つめ、わざとらしく首を傾けた。

 

 

『存在理由…あなたがもっと素直でいてくれれば話す必要も無かったのだけれど。やっぱりあなたは特別なようだし、この際教えてあげた方が踏ん切りがつくかしら?』

 

『…』

 

 

揺蕩う女神は指先で水圧を撫でる。すると海中の力が拠り集まり、眼下に巨大な箱庭が生み出された。中身はかつて俺が追憶した親殺しの一室、その再現。見下ろした家の中では今まさに少年が女神の背を刺そうとしている。その瞬間だけがゆっくりと再生され続けていた。

バックヤード、というのはつまりこの映像を追体験させる場所ということなのだろう。

 

ふと視線をあげれば女神の笑みに何かが混じり始めている。

それは復讐心か。彼女の抱く感情は今まで見た中でもっとも蒼く、暗い。

神威というには余りに感情的なオーラ、女神の憎悪はもはや呪いに等しく、触れただけで引きずり込まれかねない。

恐怖したじろぐ獣の前で、映像をバックにしたティアマトは――語り始める。

 

 

『私の目的は「とある神」を殺す事。その神の名前は「白痴の魔王」』

 

『白痴の…魔王?』

 

『…私みたいな原始の神を除いて、殆どの神々は白痴の魔王の眷属、あるいは創作物でしかないわ。本人たちに自覚は無いでしょうけど、彼ら一人一人が夢の中から現世を感知する「根」の役割を果たしている。末端組織を全て壊さないと白痴の魔王は実体を持ちすらしない』

 

『いきなり何を言って…!?』

 

『ラスボスの出現条件みたいなもの、と言ったら解りやすいかしら。一定周期で目覚める白痴の魔王は地球を再構築する。その過程で地表の生物は存在すらなかったことにされるわ…事実上の世界の終焉ね、もしそうなったら強制的に神代の世界へ逆戻りよ』

 

『…!』

 

『私は何十回、何百回もその輪廻が繰り返されるのを見た。奴が起きる度に私の子供達は分解されて…世界はまた繰り返される』

 

 

世界の終わりを思い出したのだろうか、遠い目をしたティアマトの表情から初めて笑みが途絶え絶望が残った。どうすることもできずただ我が子が殺される光景、それはもはや獣には想像することさえ出来ない。

スイッチを押したように女神はまた余裕に満ちた微笑みに戻る、柔らかな視線で俺の事を見つめた。その復讐は狂気に憑りつかれている。目に見える狂気ではないが目的を果たす為ならばきっとこの女神は手段を選ばない。

 

 

『これで解ったかしら?あなた達は奴を殺すための特異点。奴が目覚める前に倒さないとまた地球が作り変えられることになる。そのためには神々を全員殺さなければ奴は現れない。どうしましょう、夏目が守ってくれないとお母さん身体の中までレイプされちゃう!』

 

 

規模が大きすぎてすぐには理解が出来なかった。

天地開闢、地球の輪廻。白痴の魔王という存在によって何回も作り変えられてきた世界と、そこに元々住んでいた女神。

ならば神とは何だただの偶像なのか、実在する生物なのか。そもそも本当の話なのか、だがティアマトが嘘をついているようには何故か見えない。

 

混乱する獣はとりあえず焦点を絞る、今俺が聞きたいことは何かを考える。

疑問は尽きない。とにかく小さい事から見つめた。

 

 

『じゃあ…アンタはその目的のために、自らを捧げたって言うのか?』

 

『あら気が付いた?白痴の魔王を倒すには神殺しの力は必要不可欠、私を生贄にするしかただの化け物を神殺しになんか出来なかったわ。だから私は』

 

『自分を殺させるように仕組んだ…!』

 

 

あの追憶の中で俺は何故枕元にナイフが置かれていたのか疑問でしかなかった。

だがそれは初めから自分自身を殺させるためのものだった、愛していたのに親殺しをするように仕向けた。

 

子供を利用してまで女神は復讐を遂げようとしている。

わざと俺達を苦しませ、憎悪の感情をあおり、成長させて神々を殺させる為に。

 

 

『お前ッ…俺達がどれだけ苦しんだか解ってるのか!?』

 

『…確かに私はあなた達に過酷な運命を課した、でもそうでもしなければ世界は輪廻から抜け出せないもの。仕方ないことでしょう?それとも今いる世界の人間全てが死んでも良いのかしら?』

 

『…!』

 

 

ティアマトの言う事が確かであるならば、俺が地上にいる神々を全員殺さなければ今の世界が終わり新世界に移行してしまう。

女神が虚空に手を伸ばす。すると眼下の箱庭の様子が変わった。

そこに映し出されたものはなんと豊穣の女主人の休憩室、見下ろした狭い一室では少女が泣いており、その周囲では見知った顔が慌てふためいている。

 

 

『ハティ…!』

 

『そう、ハティちゃん。可愛いわよね、でもあなたがこのままずっと抵抗を続けたままでいると…こうなってしまうかもしれない』

 

 

ティアマトが手で薙ぐと幻影が消える。

残ったものは暗黒のみ。再び深海の中で俺はティアマトと向かい合う。

しかし牙を剥くことは無い。どうすればいいか解らなくなってしまった。

 

俺がこの世界に来た理由。

世界の破滅を回避しなければハティやベルと言った仲間達が抹消される。

そのためには全ての神を殺す必要がある。だが全ての神を殺すという事は…その中には当然ヘスティアも含まれている。

 

狼は苦悩する。

天秤は余りに重く、量ることすら考えられない。

頭を下げた狼はただジッと深海を見つめている。悩んだまま動こうとしない狼にティアマトは目を細める、その微笑みが僅かに嗜虐的なものに変化した。

 

 

『――それとも、出来損ないのあなたでは力不足かしら?』

 

『…出来…損ない?』

 

『そもそも能力からして未熟よね、何故か解らないけれど一日でカウントがリセットされるなんてセーフティがついている。こんな半端な能力じゃまるで白痴の魔王を倒すのには足りないわ』

 

『…』

 

『それに神殺しの力も不十分。そのせいで理性が残っているって言えば聞こえは良いけれど、つまり神殺しの獣になりきれてないってことよね。中身は化け物なのに、みんなを騙して人間のふりをし続けてる』

 

『…』

 

『そして今はあろうことかただの道具でしかない神と世界を天秤にかけている。出来損ないの不適合者でもない限り迷う必要なんか無い。神殺しの獣にも人間にもなれない半端者、それが今のあなた。あなたなんか産まれなければ良かったわ』

 

『…黙れ』

 

『あぁ、でもあなたは悪くないものね。そもそも悪いのは出来損ないのあなたを産んだ――』

 

『黙れぇッ!!』

 

『――出来損ないの、死んだ、母親だもの』

 

 

――両橋夏目に母親はいない。

彼が産まれた時に死んだという、結局彼女は神殺しの血を受け入れられない程弱い母体だった。

 

たったそれだけのことだ。

たったそれだけのことだった。

初めからいないものをどうやって求めれば良いのだろう。

ただ去来するのは()()()()()()だ。呼吸が出来ない程の苦しさに襲われた獣にティアマトは近づき、笑みを浮かべその両手を広げるとゆっくりと抱きしめた。

柔らかく暖かな胸に抱かれた獣は目を見開く。

 

 

『でもね夏目、出来損ないでも良いの。あなたが私の子供で、愛していることに変わりはないわ。あの子にそう求めたみたいに、私があなたのことを愛してあげるから…ね。お母さんに全て任せて?』

 

 

あぁ、つまりこの充足感はずっと俺が求めてきたものだったのか。

抱きしめられた瞬間胸が詰まるような感覚に襲われ、獣は思わず喉を震わせる。

懐かしい匂いだ。知らないはずの柔らかさは居心地が良い。母に抱かれたことのない俺にはきっとその誘惑は強烈過ぎた――何もかも手放したくなるような、獣の微睡みに。

 

 

『ッ…あら、離れちゃうの?』

 

『俺は…!』

 

 

名残惜しくなる前に身体を離す。

半端者、出来損ない。その言葉が深く脳内で回っている。

泣き出しそうなほどの痛みに耐えながら、譲れないものを咆哮した。

 

 

『俺は…選べるかッ…そんなもんッ…!』

 

 

そう言うと狼はバックヤードから逃げるように出ていった。天秤にかけたものにどれほどの価値があるのか知らないが、どうやらあの子には迷うだけの理由があるらしい。

後に残されたティアマトは暗闇の中で再びため息をつき、笑みを浮かべると一人呟く。

 

 

『やっぱり半端ね、そこもまた可愛いところではあるけれど…そもそも私を拒絶する時点で…』

 

 

出来損ないと言ったが血が薄い訳じゃない。

ただその一日限定というピーキーな能力と、本来なら絶対権を持つティアマトという誘惑を払いのける何かがあの子にはある。これは本来の神殺しならばありえない事態だし、やはり何かが欠如していると考えるのが妥当だ。

 

 

『まぁ良いわ。どうせ手は打っているもの、あの子もすぐに決心してくれるはず…よね?』

 

 

深淵にて女神は笑う。

例え今逃げたとしてもどうせこの力は逃れられない。いつかあの子も自分の運命に向き合う日が来るはずだ、それが神殺しの血の定めなのだから。

ティアマト・イフ・ニグラス。美しい異形の女神は暗闇の中に溶けて消えていった。

 

 

 

・・・

 

 

 




何言ってんだこいつ…ってなった人は白痴の魔王で調べたら何か出るよ。まぁモチーフにした何かなんですが

次回更新はすぐだと思われ。
ではではー


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 炉心の獣

 

・・・

 

 

 

産まれ落ちたばかりの巨狼は鉄で構成された四足で大地を踏む。

蒼狼・炉心(フェンリル・アイアンハート)。炉心を内包した神殺しの巨狼、狼騎士を超えた鉄と蒼炎の魔獣。

唸りをあげる猛牙、全身から滴り落ちる銑鉄。狼を模した巨躯は蒼く灼熱し、排気熱を噴き上げ地獄に顕現する。

 

自らの身体を見下ろした狼は感覚の違いに戸惑う。

以前とは比べ物にならない高さの違う視点、地面に食い込む鋭い爪、何よりその四足。

内包した炉が感情を燃やし、今までとは比べ物にならない程の力を産み出し続けている。

 

 

『rr…』

 

 

神殺しの次段階。大型トラック程の大きさの炉心の巨狼は確かめるように太い前足で一歩踏み出す。

重い振動と共に低草が蒼い焔に揺れた。明らかに増した火力は狼騎士と比較にすらならない。美しく爆ぜる炎を纏いて巨大な獣は自らの進化を認識する。

同時に流れ込んでくる「匂い」という名の膨大な情報群。戦火で滾る18階層は血と煙の臭いで満ち溢れており、その中には予想外な人物の気配もあった。

 

溢れ出す力と共に神殺しの誘惑は更に強まっている。逆巻く炉心の中で聞こえる「神を殺せ」という言葉に脳内は鈍く支配され始めている。

獣に近づく思考。それでも薄く残された理性で巨狼は盲目的に今すべきことが解っていた。

行く先には群れるモンスタ-達。邪魔な肉人形共を睨みつけた巨狼は、作られたばかりの口腔で強く咆哮をあげる。

 

 

『…GAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!』

 

 

蒼炎を灯す爪がミノタウロスを踏み潰し、空間を切り取る白牙がシルバーパックの上半身を容易く噛み千切る。巨大な狼は一撃で化け物達を屠り、蒼炎を噴き上げ行進を始める。

目指すはダークゴライアス。巨狼はその圧倒的戦闘能力によってモンスターの群れを薙ぎ倒し、死体の山を築き上げていく。

例えその歩みが間違いだとしても、巨狼は蒼炎を纏いて走った。

 

 

 

・・・

 

 

 

意外にも、一番早く諦めたのはレベル4冒険者であるリュー・リオンだった。

ゴライアスと戦う彼女はこの絶望的な状況を誰よりも理解していた。溢れかえるモンスター、新種の巨大骸骨、目の前に立ちはだかるダークゴライアス。

幾度も攻撃を浴びせた巨人にはまだ傷一つない。時間遡行に等しい異常なまでの回復能力、勝つことは不可能な戦いに冒険者達は疲弊し、それでもなお戦い続けるしかない。

 

そんな絶望の中でリューの思考は一瞬迷った。

このままでは勝つことは絶対に不可能だ。その残酷な現実が疾風の戦士の足をほんのわずかに止めさせ、その隙をダークゴライアスは見逃さない。

 

鬼灯のような赤い双眸と目が合う。

咆哮(ハウル)と呼ばれる音の弾丸を喰らえばリューと言えどタダではすまない。

理解した恐怖に足がすくむ。既にその口内には充分な量の空気が溜まっており、それらの矛先は全て自分に向いている。

まだ死にたくは無かった。それはかつての仲間たちの為に、今の仲間たちの為に――生きるという、当たり前のことさえもこの地獄では許されない。

今この場に彼女の願いを叶えられるような英雄や神はいなかった。緑髪のエルフはどうしようもない絶望を見上げ、今まさに咆哮が放たれる瞬間を見た。

 

 

『GrAAAAAAAAAAAAA!』

 

「…ッ!」

 

 

大地を揺らし、割り込んでくる巨大な獣。

その身は鉄、巨人とエルフの合間に身体を滑り込ませた狼は咆哮を前に立ちはだかった。

巨狼の全身に高威力の咆哮が直撃する。踏ん張る巨狼の身体が破壊されていき、バキバキと音をたてて表面装甲が砕け散っていく。

音と閃光が連続する。攻撃を受ける巨狼から苦し気な唸り声が聞こえていた。ただ一人エルフを守るために狼はただ耐える。激しい衝撃に爪は地面に食い込み、漏れた風圧で草木が強く揺れる。

 

その背後にて、化け物に庇われたリューはただ茫然としていた。

見えるのは自らの前に立ちふさがる巨狼の後姿のみ。殺人級の咆哮を幾つも喰らい巨狼は大ダメージを受けているはずだ。

…それでも狼は一歩もたじろがず、自分を守ってくれている。

 

蒼炎が噴き上げた。

やがて咆哮は収まる。全ての攻撃を受け切った蒼狼はパラパラと装甲の端を落としながらそれでもなお屹立し続けていた。

ちらりとその瞳が背後のリューへ向けられる。振り返り見下ろした彼女の無事を確認した狼は再びゴライアスへ視線を戻すと牙を剥いた。

それは明確な敵意。新たに現れた化け物は天を仰ぎ、気高くも遠吠えをあげる。

 

 

『AOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOONッッ…!』

 

 

澄み渡るような声が十八階層に木霊した。

それは獣というには余りに清廉な呼び声、巨大な狼の姿は一種の完成された美しさを感じさせる。

この階層にいる誰もがその凛と響き渡る声を聴いた。遠く、高く。気高い化け物の遠吠えは孤高で、絶望の中にあった冒険者達に冷静さと勇気を与えてくれた。

 

それは獣の鼓舞。

たった一つの遠吠えで戦況は逆転する。人類を守り、巨人に牙剥く狼の姿に誰もが雄叫びをあげ確信した。

あの強大な化け物は自分達の味方であると。美しい咆哮に魅了された戦士達はその魂に蒼い希望を灯し、戦い始める。

 

蒼狼は大地を踏むとゴライアスに向かって駆け始めた、炉心を伴い巨人へと飛びかかる。

その大きな歩みを守られたばかりのエルフが追う。現れたこの化け物こそが唯一の希望だと信じて、彼女は巨大種同士の闘争に加勢するのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

遠吠えが聞こえる。

それはどこか金属音のように。静かに高く打たれた獣の声は十八階層に凛として響き渡る。

その力は『鋳造』。されど進化した蒼炎と、その中に内包された鉄を打つ能力は既に新たな段階へと至っていた。

 

蒼い火の粉が宙を舞った。

花弁のようにゆらゆらと、遠吠えによって現れた火の粉達は戦場の中を落ちていく。

緩やかな軌道を描き、やがて蒼炎は戦いの中で敗れた戦士達の元へ辿り着いた。

戦場の片隅。化け物に切り裂かれ、砕かれ、無惨にも打ち捨てられた死体達。その傍には彼らがかつて手にした武器、鉄製の得物は血に塗れたまま転がっている。

花弁はかくも落ちて。飛散した飛沫が武器に落ちる。触れた鉄を蒼く染める火の粉は雪のように積もり、溶かす。

 

それは想いでさえ鋳造する神殺しの炎。響き渡る呼びかけに鉄が、心が応える。

数多の無念、幾重にも存在した物語全て。彼らが残した意志、それぞれの武器を蒼炎が打つ。

新しく手に入れた力、先導する巨狼に魂は続く。

溶け落ちた銑鉄は容を成し始めた。

鋳造、新たな『獣』が液状の身体で立ち上がる。

 

 

 

・・・

 

 

 

「数が多いっ…!」

 

 

燃え広がる蒼炎、溢れかえる骸骨兵達。

臨時キャンプとして怪我人達の治療が行われていた森の一角にも炎は迫る。

骸骨兵達は倒しても次から次へ湧いてくる。防衛線を張る冒険者達は休む暇も無い戦闘に息を切らしていた。一体一体を倒す事はそう難しくない、ただ少しでも集中を切らせば濁流のような数の暴力に取り囲まれ串刺しにされる。

 

戦線を維持している冒険者達の中にはリリとヴォルフの姿がある。互いにフォローし合う彼らだが、長く続く戦闘にその動きは悪くなり続けている。せめて背後の怪我人と神様が撤退するまで彼らの闘いは終われない。

だが二人だけでは骸骨全てを相手にすることなど到底不可能だ。

 

 

「やばい、抜けたぞ!!」

 

「ッ…!」

 

 

溢れ出した骸骨数体がキャンプ内に侵入する。

穴が開いた防衛網では既に骸骨兵の全てを防ぎきれない。誰かを殺したのか血に塗れた骸骨が先陣を切って走っている。キャンプ内に降り立った骸骨兵達は武器を構え、その蒼く燃える瞳でまだ逃げていないヘスティアを睨みつけた。

リリとヴォルフが走り出すが此方の距離は遠い。

 

本来、不老不死の存在である神は傷つけられても殺されることは無い。

ただ骸骨兵が纏う蒼炎は神殺し、迫る骸骨を前にヘスティアは感じるはずのない死を感じていた。

遅い大上段に蒼が灯る。リリとヴォルフが手を伸ばす先、恐怖に身を竦ませた女神はただ「助けて」と消え入りそうな声で呟いた。

 

 

『――Grrッ!!』

 

 

誰もが間に合わないと思った。

女神の背後の茂みから弾丸のように現れたのは蒼い狼。鉄製の獣はまるで巨狼の頭身をそのまま小さくしたかのような容姿。

激しく唸りを上げる小炉の蒼獣は飛び出してきた勢いそのまま骸骨兵へ体当たりする。ヘスティアに斬りかかろうとしていた骸骨をその強靭な肉体で押し倒すと、開かれた鉄牙で頭蓋を噛み潰した。

 

現れた一匹の獣。

普通の狼と変わらない体躯、されど鉄と蒼炎で構成された肉体は美しくも強く鍛え上げられており、蒼く白い毛並みが風に揺れる。

その行動は明らかにヘスティアを守るものだった。骸骨兵を屠ってみせた狼は遠吠えをあげる。

その声に応えるかのように続々と狼達が集結し始めた。森の中から現れた10匹程度の群れはキャンプ内に駆け込んでくると神と冒険者を無視し、その圧倒的戦闘能力で瞬く間に骸骨兵達を殲滅した。

蒼狼の群れ、統率された鉄の獣たちは普通の狼と大きさはそう変わらない。一見すると個体差の無い獣たちではあるが、その端々には元になった武器の名頃が確かに残っており、それぞれの見分けがつかなくもない。

 

ぽかんとしていたヘスティアに『蒼狼の群れ』が近づいてくる。

一瞬蒼い炎が目についたが、彼らは確かに自分の事を守ってくれた。正直状況は良く理解できていない。見た目は怖いがそれでも助けてくれた相手だ、目のあった狼にヘスティアは困惑しながら感謝を告げる。

 

 

「えっと…助けてくれてありが――」

 

『『『バウバウバウバウバウッッ!!』』』

 

「えぇ~~~~~~ッ!!?」

 

 

感謝の声を掻き消しヘスティアに詰め寄った狼達は吼えたて始めた。

今まさに助けてくれたはずなのに牙を剥く狼達はヘスティアに食ってかからん勢いで吼え続けており、詰め寄ってくる蒼炎に女神の顔が恐怖でひきつった。

吼える狼達は殺気で満ち溢れているがこちらを襲ってくる気配はない。その本能は神殺しに準拠しているのだろうが、まるで誰かに命令されたかのようにその殺意を抑え込んでいるようだ。

 

 

『グルル…!』

 

『…ッ』

 

 

事態を静観していた耳の赤い狼が強く唸ると群れは吼えることを止め、牙を剥いたままではあるが数歩下がった。彼らにとって神は極上の獲物であるが、群れに所属する獣として上の命令は絶対だ。

どうやらあの赤耳がリーダー格らしい。赤耳は冷ややかな視線でヘスティアに一瞥をくれる。

 

 

「あ、ありが…」

 

『ガウッ!』

 

「無視!?」

 

 

馴れ合う気はないらしい、振り返った赤耳は号令と共に駆けだした。

群れがそれに追従する。蒼い鉄の狼達は編隊を組み、恐れることなく燃える森の中に飛び込むとキャンプに迫る骸骨兵達を狩り始める。

 

統率された化け物達、その目的はヘスティアを守ること。

それはヘスティアの元に化け物が届かないようにするため、素直じゃないが誰かの為に行動するその姿はどこか自分の眷属一人と重なるものがある。

命の危険を感じておきながら、ヘスティアはその背中を見送り目を見開き僅かに笑みを浮かべている自分に気が付いていた。

 

 

「おーい、大丈夫かいヘスティアー」

 

「わっ、ヘルメス!?今までどこに…」

 

「いやぁ僕もそこらじゅう逃げ回ってたんだよ。ふぅ、暑い暑い」

 

 

どこからともなく現れたヘルメスはいつものように笑っているが、その額にはだらだらと汗が流れている。

確かに燃える森の中は極めて暑い。しかしその汗はヘスティアと同じように死の危険を感じたからではないのか、余裕なように繕ってはいるがその内心はかなり焦っているはずだ。

 

神殺しの獣が現れた戦場。

状況は混沌としており、神でさえ何が起きているか把握できていない。

増え続ける骸骨兵達、新たに現れそれを狩り始めた蒼狼の群れ。ダークゴライアスとフェンリルの咆哮が彼方から聞こえている。

神威を持たない神は獣に守られた。反撃の狼煙は各所で上がっていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

とある高台では今まさにゴライアスへ向けて幾つもの魔法が放たれようとしていた。

詠唱中の術者達が襲われぬようその周囲には剣や弓で武装した冒険者達が警護に当たっており、側にはモンスターの死骸と砕けた骸骨兵の山が築かれていた。

眼下では新たに現れた蒼狼が巨人に立ち向かっている。どこからか現れたその巨大な化け物は同族のはずのゴライアスと殺し合いをしており、強烈な攻撃を放ってその動きを食い止めていた。

異常な光景ではあるがあの蒼狼が味方であることは事実だ、少なくとも遠吠えを聞いた者はそう確信していた。

 

 

「お、おい…このまま撃っていいのかよ?あの狼にも当たっちまうぞ」

 

「仕方ねぇだろ、動きの止まっている今しかチャンスはねぇ。あれも巻き込んじまう事にはなるが、これだけの魔法を当てりゃあ流石にアイツも倒せるはず…ッ!?」

 

 

リヴィラの町の顔役、護衛をしているボールスという眼帯の男が呟いたその時。

翼のはためく音と共に顔の無い蛇が上空から近づく。それは最初に現れた三匹のうちの一匹、顔の無い蛇。部位らしい部位の存在しないその蛇は目が見えているかすら解らない、ただ薄皮のような翼でホバリングしながらこちらに近づいてくる。

 

(…襲ってこないのか?)

 

緊張の面持ちでボールスは蛇を見つめる。

どこかその動きはふらふらとしており、殺意や敵意と言ったものは感じられない。

というか通常モンスターにある攻撃するような器官が蛇には備わっていない。勿論その巨体で体当たりしてこようものなら確かに脅威ではあるが、蛇は一定距離以上近づいてこようとはしなかった。

ただ観察されているかのような感覚、上空で滞空する蛇はジッと顔をこちらに向けている。

 

 

「このっ…!」

 

「待っ――」

 

 

弓を持った冒険者の一人が耐えきれずに矢を放つ。

制止すら間に合わず天高く舞った一矢は疾く蛇に向かい、その腹に突き刺さった。

微かに身悶えした蛇が空中で呻く。その腹に深々と突き刺さった矢からは『黄金色の血液』が溢れ出しており、ぽたぽたとボールス達の元へ降りかかった。

 

やがて蛇は苦悶の動きを止め、怒っているのか少し早く羽ばたき始めた。

同時に矢が突き刺さった周囲の筋肉が収縮を始め、突き刺さっていた矢を咀嚼するように内部へ取り込むと傷口からグリンと新たな肉が補填された。

 

 

「なっ…!」

 

 

ただ治ったのではなく、補填された傷口が()()()()()

空いていた穴に補充された肉はその形を変えると人間らしい瞳へとその姿を変える。腹に目の出来た蛇は新造の眼で周囲を見渡し始める。再生、それどころか進化。

やがて蛇は新しく出来た瞳で眼下にいるこちらを見つけると瞳孔を収縮させ、先ほど矢を射かけた一人とピタリと目を合わせた。

 

 

「ひっ…!?」

 

「俺はあいつに魔法を撃つぞ!構わんなボールス!」

 

「…あぁ、いっちょかましてやれ!」

 

 

一人だけ早く詠唱の終わった魔法使いが上空の蛇を睨む。

魔力を溜め込んだ術師は中断させていた詠唱を唱え終えると、白い魔法陣の中から光球を撃ちだす。

威力は充分、強い魔力の籠ったエネルギー弾が蛇に向かった。ホバリングしている蛇は眼球で光を見つめたまま動こうとしない、やがて魔法は蛇に直撃すると強い閃光と共に炸裂した。

一瞬蛇の身体がぐらつく、丁度目が合った部分の肉は完全に吹き飛ばされている。黄金色の血が先ほどよりも多く迸った、その半身を失った身体を見て誰もが殺したと確信した。

…だが、すぐに蛇の肉が巻き戻り始める。

 

 

「っ…あいつも『再生』持ちか!?クソッ面倒な奴が次々と!!」

 

 

やがて蛇の身体が完全復活する。

腹に空いた眼球は再びこちらを見つめ、今度は魔法を撃った術師の事を観察すると若干のタイムラグの後上下する。

今のところ蛇からの攻撃は無い、それでもその異常性をまざまざと見せつけられ冒険者達は身構える。

 

上空で羽ばたき続ける蛇の身体は沸騰を始め、ブクブクとその肉が泡立ち始めていた。

やがて地面を見下ろしていた眼球が破裂する。空いた空洞が横に開き、今度は白い歯と舌が生えてくる。

 

 

「今度は口か…何!?」

 

 

だが一つでは無かった。

その体表に幾つもの口が開く。蛇の身体は口というパーツの集合体のようになり、不規則に並んだそれぞれの口が産声をあげている。()()()()()()()()()()()()()()()()()と気が付いた時にはもう遅い、化け物は変化を終えていた。

 

奇妙、いやおぞましい怪物。部位の存在しなかった蛇は幾つもの唇を震わせる。

不死身の赤子はやがて泣き止むと全身を覆った口で一斉に息を吸い、おもむろに「詠唱」を始めた。

 

 

『『『『『――――』』』』』

 

 

展開された幾つもの白い魔法陣が蛇の周囲を取り囲む。

それは途方も無く折り重なった魔法の集合体、数えるのが馬鹿らしくなるほど多い魔法の同時詠唱。幾つもの口によって詠唱される詩は余りに巨大な輪唱を奏でた。何より支える魔力が膨大過ぎる。とても人間には扱えない量の魔力をその蛇はたった一匹で支えている。

 

 

「まずい…伏せろッ!!」

 

 

ボールスが周囲の冒険者達に呼びかけ、全員が地面に伏せた。

直後空中にいる蛇を起点にして恒星の如く大爆発が巻き起こる。吹き寄せる熱波は髪を逆立て、巻き起こる砂塵によって視界は奪われた。

地に伏せた冒険者達の背が焼ける。やがて閃光が収まり視線を上にあげると高台は焦土と化していた。もし伏せていなかったら足首を残して溶けていただろう、あれほどの爆発の中を冒険者達が生き残れたのは完全に僥倖だった。

 

身体を起こしたボールスは周囲の凄惨さに目を見開くと、先程蛇に矢を放った男に目を止める。伏せたその男の背中には先ほど放ったはずの矢が深々と突き刺さっていた、男は伏せたままピクリとも動いていない。

矢も、魔法も、意趣返しということだろうか。思えばあのモンスターは、こちらがしたことを全てそのままし返してきている。

 

 

「クソッ…何なんだいったい…!」

 

 

上空を羽ばたく蛇をボールスは見送る。

新しく出来たばかりの瞳で眼下を見下ろす蛇は楽し気に飛び回る。地上では人と魔物、蒼狼と巨人の激しい戦いが続いている。そんなことにお構いなしに顔の無い蛇は、新しく手に入れたおもちゃで遊ぶかのように歌い始める。

 

 

『Te――KeRrr――――』

 

 

 

・・・

 

 

 

その爪の一振りが蒼起三爪、その牙の示す先が八ツ白牙。

巨人に飛びかかる蒼狼は硬皮に白く燃え上がる牙で噛みつき、蒼い焔の灯る三本爪で切り裂く。纏う蒼炎がゴライアスの身体を燃やし続け、繰り出される痛烈な一撃にゴライアスの身体から血が噴き上がった。

蒼狼・炉心。鉄の巨狼は空気を焦がし、熱を噴き上げ、黒色の巨人と殺しあう。 冒険者達が周囲にいるとはいえ、ゴライアスとほぼ一対一で戦い続ける狼の戦闘能力は他に類するものなどいない。

 

 

『GRAAAAAAッ!』

 

 

その肩口に飛びついた巨狼がガパリと口腔を開いた。

並んだ超大な犬歯。鉄で出来た牙は白く燃え、その奥には灼熱の炉心が蒼く輝いていた。

ゴライアスの腕の付け根に巨狼が噛みつく。食らいつく鋭い牙が硬皮を貫き、肉に食い込む。その口内に鮮血が溢れ、血煙と蒸発させた。

もう片腕でめちゃくちゃに殴りつけてくるゴライアスの抵抗を無視し、そのまま更に力を込めると噛み千切りにかかった。

燃える牙が肉を切り裂きグググと閉じていく。やがてボギンッと骨ごと砕くとダークゴライアスの腕を完全に食い落とした。

 

 

『オオオオオオオオォォッ…!』

 

 

血が噴きあがり、切り離された腕が地面を転がる。

片腕を落とされたダークゴライアスは悶絶の声をあげ傷口を押さえつけると、最大の脅威である蒼狼の姿を憎悪と共に睨みつけた。

強靭な鉄の身体と、それに見合わぬ俊敏性。

炉心からは絶えず蒼炎が産み出され続けている。今まさにゴライアスの腕を千切った巨大な牙が血煙を漂わせ、殺気に満ちた視線でゴライアスに唸り声をあげる。

 

向かい合う二匹の怪物。

戦場の中心で行われる巨大種同士の闘争はとにかく規模が大きい。両者の攻撃によって岩山が抉れ、大地が深く割れ、木々を薙ぎ倒し周囲を無差別に爆撃しながら超大の一撃を応酬しあっている。

 

今のところ戦局は狼が圧倒していた、その俊敏さにゴライアスの攻撃は中々当たらない。

だがダークゴライアスの異常なまでの再生能力はフェンリルの猛攻さえ超えており、今まさに断ち切ったはずの片腕も徐々に戻りかけている。

獣の権能。神殺しの炎ではその不死に等しい肉体を殺し切ることは難しい。持久戦ではダークゴライアスに勝つことは絶対に不可能だ。

 

 

『オオオオ…!』

 

『…!』

 

 

息を吸い込んだ巨人の身体に力が入る。

それは咆哮の予備動作。破壊力のある音の砲弾はゴライアスの攻撃の中で最も速く、避け辛い。

放たれる咆哮が迫った。強く大地を蹴った巨狼は斜めに走りだすと、咆哮をかいくぐって巨人に近づく。その背後では避けられた咆哮が幾つもの爆発を起こし視界を揺さぶった。

 

光の明滅を紙一重で避け、力強く四足が駆ける。

近づくゴライアスとの距離。黒い肌、赤い双眸、完成された肉体。

狙うは首。今のところ奴に与えた傷は全て塞がれ腕さえ再生されたが、流石に首をもぎ取ってやれば少しは堪えるはずだ。

牙を剥いた巨狼はその蒼く燃える瞳孔で狙いを定める。強く大地を踏み、咆哮を飛び越えると口を開く。蒼き三爪が振り下ろされた。

 

 

『ッ!』

 

 

眼下のゴライアスは完全に狼の事を待っていた。

腕を広げた巨人は狼の動きを読んでいる、その跳躍はかなり安易であり偶々だろうが。

僅かに身体をずらしたゴライアスが蒼狼の腹を抱く。二本の強固な腕から抜け出そうと抗うが、抜け出せない。

 

 

『GAッ…!?』

 

 

そのままのサバ折り。

肉体を惜しむことなく使った関節技、巨人の全体重が蒼狼の腹にかけられた。

重い一撃に潰されかけるが何とか耐える。かかる激痛に空気が漏れ、銑鉄が吐き出される。

雄叫びをあげゴライアスは、動きの止まった蒼狼を高く掲げると若干の助走をつけ遠く彼方に投げ飛ばした。

 

巨体が宙を舞う。

鉄の狼は100メートル以上吹き飛ばされ、背中から地面に激突しバウンドするとリヴィラの町の外壁を破壊して着弾する。

その勢いのままに狼の身体が転がると建物やテントを破壊し、土煙をあげて停止した。

 

 

『…ッ』

 

 

視界が開け、瓦礫の中から蒼狼が立ち上がる。

巨人の重い一撃によって全身を覆っていた鎧皮は酷く砕かれており、全身から液体状の蒼い銑鉄がとめどなく流れている。

半壊したリヴィラの町の中心。痛みに激怒する狼は牙を剥き、よろめきながら瓦礫を抜けると倒れされた外壁の隙間から遠くゴライアスの姿を見た。

かなり吹き飛ばされてしまったらしい。眺めた巨人は今なお冒険者達と戦っている、魔法の閃光が空中で煌めき巨人の身体を爆破していた。

すぐに戻らなければダークゴライアスの矛先が「誰か」に向きかねない。

傷ついた身体で一歩前に踏みだしたフェンリルの前に、おもむろに空より現れたそれは目前で羽ばたく。

 

 

『Grr…!』

 

『rr?』

 

 

顔の無い蛇。

身体中に口を纏う異形の龍は目の前で羽ばたき、その金色の瞳で興味津々といった様子で狼の事を見つめている。

蒼狼が唸る。一切怯むこと無い顔の無い蛇はむしろ全身で笑みを浮かべ、まるでじゃれつくように蒼狼へとその全身を躍らせた。

 

 

『rr――!』

 

 

遊びに構っている暇は無い。

巨狼は飛びかかってくる蛇に殺意を向けると躊躇いなく爪を走らせる。溢れ出した金色の血が空中に飛散させた。

苦し気な声を漏らした蛇は悶絶する。翼を羽ばたかせ空中に逃げると今度は忌々し気に狼の事を睨みつけ、ダークゴライアスの如く再生能力で傷を治すと今度は殺意を持って飛びかかってきた。

 

 

『G…ッ!?』

 

『Syrrr…!』

 

 

再びの爪攻撃を蛇は避ける。

身体をしならせ飛びあがった蛇は長い体躯を伸ばし、狼の身体に完全に絡みつくとその動きを束縛した。

スーと蛇の全身に付いた口が一斉に息を吸い込む。

 

 

『『『――――』』』

 

 

同時詠唱、現れる無数の魔法陣が狼と蛇を包み込んだ。

視界を覆う白色の魔法陣、全身に固く絡みついた蛇の詠う輪唱。

コイツ自爆するつもりだ。危機を感じた時にはもう遅い。絡みついた蛇の身体を振りほどくことは既に不可能であり、仮に逃げられたとしてももう間に合わない。

 

歌が終わった。

刹那、魔法陣が輝きを増し炸裂する。ピカリという閃光の後、遅れて轟音が響き渡った。

それは恒星の顕現。無限の魔力が流れる黄金の血、狼を巻き込んだ蛇の自爆はまるで星の終焉のように僅かな余韻を残してリヴィラの町を消滅させた。

 

 

『rr…Ksyrrr…』

 

 

凄惨なクレーターの中心、残ったモノはズタズタになった蛇の肉片のみ。

盛大な自爆は蛇の身体を粉微塵になるまで壊している、だがその再生能力があればたいした問題ではない。

既に身体の再生の始まった蛇は生えたての翼でよろよろと空中を飛んだ、クレーターと化した周囲をキョロキョロと見渡すと狼の痕跡を探した。

 

 

『GAAAッ!!』

 

『rr!?』

 

 

急降下と共に振り下ろされた爪が蛇の翼を切り裂いた。

上空に跳躍していた蒼狼は隙だらけの蛇の翼をもぎとる、血が噴き出し二対の翼が地面に落ちる。

その身は決して爆発を避けられたわけじゃない。自爆に巻き込まれた鉄の身体からは幾つもの鉄片が剥がれ落ちており、先ほどよりも酷い傷を負っている。

 

流れ落ちる銑鉄をお構いなしに蛇の身体を踏みつけた巨狼はその牙を大きく開いた。

もがく蛇の頭部に噛みつくと全身の力を込めて引き千切る。首をもがれた蛇は悲鳴をあげ痙攣するともんどりうって抵抗し始めた。

既に頭部の再生は始まっている。口内の肉片を吐き捨てた巨狼は爪で押さえつけた眼下の蛇を冷静に観察すると再び口腔を開いた。

 

その奥に覗く炉心が滾る。

感情をくべる蒼き炎は激情に任せボウと燃え上がった。開いた牙の合間から火の粉が噴き上げる、放たれる焔の吐息が空気を焼き払うと火炎放射のように蛇の身体を焼き始めた。

猛火のブレス。至近距離から放たれる炎熱に蛇はもだえ苦しみだす。炎は再生能力を上回り徐々に蛇の身体を燃やすと血肉を蒸発させ消し炭にした。

頭部を失ってなお蛇は最後まで抵抗を続けていたが、流石にその能力は死者蘇生とはいかないようで灰からの復活は出来ないようだった。

 

 

『…r』

 

 

最後の肉の一片まで灰化させ、残った黒炭はもう再生しない。

火を放ち終えた狼は慎重に蛇を殺したことを確認すると、念のため黄金の血だまりを焼き払う。今度こそ全壊したリヴィラの町の中心から狼は走り始めると、改めてゴライアスの元に向かうべく辛うじて残った外壁を飛び越えた。

傷は深い。それでも巨狼が戦わなくてはゴライアスの攻撃が『誰か』に向きかねない、急がなくては誰かが死ぬ。

 

 

『アオーン!』

 

『…?』

 

 

走り出そうとした巨狼の元に、一匹の小狼が遠吠えをあげながら駆けこんできた。

首元の黄色いその狼は群れの中で伝令役を任された個体。蒼い炎を纏った狼達はみな巨狼の作り出した眷属であり、その全てに化け物を殺し「人」を守るように命令している。

群れ長である巨狼を前に息も絶え絶え辿り着いた黄首は耳を倒し、尻尾を垂らして報告をし始める。

 

 

『ウー…ガルルルル…!』

 

『…Grr?』

 

『ガウ』

 

 

どうやら緊急事態らしい。

森の中で暴れる巨大スケルトンに群れは苦戦しており、既に何匹か殺されてしまっている。

小狼の単体の戦闘能力はかなり高い。だが話を聞く限り巨大スケルトンとでは相性が悪いようだ、どうも爪や牙では効果が薄い。

 

助けを求め、服従の姿勢をとったまま動かない小狼を見下ろした巨狼は考える。

恐らく小狼達だけで巨大スケルトンを倒すことは不可能だ。しかし今ここで俺がゴライアスの相手をしなかったら被害が増し…その中に友人が入る可能性は否めない。

 

 

『GA…!』

 

『グゥ…ガウ!』

 

 

今はとにかく足止めしてもらうほかないだろう。

指示を出すと頷いた黄首は振り返り元来た道を駆け戻り始める、あいつから他の群れの個体に伝令が伝わるはずだ。

18階層に散らばった群れも一か所に集まりつつある。どうやら残った化け物はダークゴライアスと盃骸骨の二体のみ、あの最も強大な化け物を倒すことが出来ればこの戦争は終わる。

 

炉心の巨狼は駆け始めた。

全ては大切な仲間のため、その蒼炎は濃く燃え上がり空間を焼き払う。

巨大な体躯が戦場を走った。太く流線型の鉄爪が大地を蹴る、神殺しの獣は新たに手に入れたその身で闘争の坩堝に飛び込んでいった。

 

 

 

・・・

 

 

 

燃え盛る森の中心。

屹立する巨大骸骨の担いだ盃から蒼炎が零れ落ちる。飛散した火の粉は大量の骸骨兵を落とすと共に周囲を焼き払う。

在り方は災害そのもの。嗤うガシャ髑髏は地団駄を踏み、破壊を撒き散らしながら進行する。

 

その周囲では骸骨兵と狼達の攻防が繰り広げられている。

30体ほどの蒼狼の群れは連携して増え続ける骸骨達を狩っており、半数は果敢にも巨大スケルトンの足元に飛びかかっている。

蔓延する炎に木々が燃え、揺れる大地には煙が充満する。だが骨の骸骨にも鉄の狼にも関係ない。化け物同士の争いは苛烈を極めていた。

 

 

『ガルルッ!!』

 

『――――』

 

 

狼の一匹が巨大スケルトンの脛にかじりつく。

その牙は鉄、頭蓋を容易く噛み潰すほどの力を持つ顎。だが巨大スケルトンの骨身は他の骸骨よりも固い。

巨大スケルトンの歩みは止まらない。周囲を取り囲んだ狼達は唯一攻撃の届くその足に噛みつき、爪で攻撃するが、ダイヤモンドのような骨には傷一つついてはいなかった。

踏み潰されそうになった数匹が慌てて逃げる。その巨大な足が触れると地面が強く振動し木々をなぎ倒した。

 

その歩みの向かう先はダークゴライアス。

周囲を取り囲んだ狼達は必死になってその足を止めようとしているが傷をつけられないのではどうしようもない。

 

 

『――――』

 

『ギャンッ!?』

 

 

今まで何の反応も示さなかった巨大骸骨はふと鬱陶しさを感じたのか、脛にかじりついたままだった狼の一匹をむんずと掴む。

片手で盃を支えたまま掌の中の狼を持ち上げ、そのまま高く顔の前に持ってきた。

高い身長に仲間達は助けることすらできない、骨の指に強く拘束された蒼狼はもがくが抜け出せなかった。

そのまま巨大スケルトンはいらない玩具を捨てるかのように狼を足元に叩きつける。

ガシャンという金属音と共にバラバラになった狼の身体が銑鉄を噴き上げて転がった。ああなってしまってはもう再起動は不可能だ、事実上の仲間の死に狼達は若干怯む。

 

 

『ガウッ!!』

 

『ガァッ!?』

 

 

またも腕が上から伸びてきていた。

仲間の声が轟いたがもう遅く、近づいている巨大な骨の指に気が付かず狼が一匹捕まった。

上に持っていかれたら終わりだ。何匹もの狼がその拳に飛びかかり、牙を突き立てるが巨大スケルトンが動じている様子はない。

このままでは仲間が死んでしまう。それでもどうすることもできずに、狼達は悔し気な表情で牙を剥き持ちあがっていく掌から離れるしかできなかった。

 

 

「――その手を離せッ!」

 

 

走り込んできたのは白兎。今まで戦場を渡り歩き、狼と同様に骸骨兵を狩って来た少年は遂にその大本へ辿り着く。

ボロボロになったサラマンダーコートをたなびかせ、疾風迅雷の如く速さで燃える森の中から飛び出してきた少年は高く跳躍すると、巨大な骨の掌を強く蹴りつけた。

 

 

『――――』

 

 

強く押し込んだ打撃に巨大スケルトンが怯み指を離す。

ベルが着地すると同時に拘束を解かれた狼が地面に落ちた。もんどりうって蒼狼は転がったが死は免れたらしくよろめきながら立ち上がる。

 

思わず化け物を助けていた少年は目を細める。

周りに無数にいる狼達に視線を向けるが殺意は感じられない。人間を襲わないモンスターなんて初めてだ、そんな存在がいるのか僅かな困惑と迷いが少年に走る。

再び巨大スケルトンが一歩を踏んだ。迷っている暇は無い、ナイフを構えるとベルは狼達と共に厄災に立ち向かおうとする。

 

 

『…』

 

「わっ!ちょっ、何!?」

 

 

だが不意にサラマンダーコートが後ろからぐいぐいと引っ張られた。

慌てて後ろを見ると耳の赤い狼がコートに噛みつき首を振っていた。

ベルが振り返った事に気が付いたのか赤耳は口を離すとまっすぐに少年の瞳を見つめ、『ガウ』とだけ告げると背を向け歩き出してしまった。

取り残された少年は戸惑うが、何となく言っていることが解るような気がした。

 

(ついてこい、って事なのかな…?)

 

振り返った巨大スケルトンは狼達が抑えてくれている。

考えているうちに赤耳はドンドン前に行って進んでしまっている、動揺しながら少年は狼に導かれるまま燃える森の中を走り出した。

 

 

 

・・・

 

 

 

『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!』

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』

 

 

巨大な二匹の化け物。

闘争は炎熱を孕み、破壊を巻き起こしながら収束する。

蒼狼(フェンリル)巨人(ゴライアス)。怪物達は神話に詠われる終末戦争の一端を再現し、血で血を洗う殺し合いを繰り返す。

既に狼の呼吸は荒い。今まで幾度となく飛びかかり巨人の肉体を傷つけてきたが、その回復能力を前にただ攻撃回数を重ねることしか出来ない。

カウントが増える度に僅かに残った理性が消えかける、どちらにせよ持久戦は望ましくない。炉心へ更なる感情をくべた巨狼は(たけ)く唸り声をあげると巨大な四足で強く大地を踏みしめた。

 

振るわれるクレーンのような腕をスライディングして潜り抜ける。

地面に擦れた爪先から火花がたった。勢いよく距離を詰めた蒼狼はしなやかな動きで跳躍すると、激情のままに牙を開きその首筋に噛みつく。

太い首は一噛みでは落とせない。幾度となく噛みつき筋糸を切る、顔を覆った血肉が燃えて鉄臭い臭いを立ち昇らせる。

 

 

『オオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 

『Gッ…!?』

 

 

ダークゴライアスの強烈な反撃が腹部を襲う。

10m以上身体が吹き飛ばされた蒼狼は着地すると、口内に残っていた肉片を吐き捨てる。再び臨戦態勢を取りダークゴライアスを睨みつけると、あれほど噛んだ首筋の傷も既に完治が近い事が解った。

どうしても首を断ち切ろうとすると隙が大きすぎてゴライアスから反撃を喰らう、かといって腕を落としても再生されてしまうし至近距離の反撃を防ぐ術がない。

やはりゴライアスそのものを消し飛ばす程の一撃が無ければ勝つことは難しい。

苦悩、蒼狼が考える目前でゴライアスがドッと地面を踏んだ。

 

 

『オオオオオオッ!』

 

 

巨体が宙を浮く。

固く握りしめられた巨岩の様な両拳が振り下ろされ、狼へと迫る。

純粋な破壊。まともに喰らえば潰れかねないアームハンマーをすんでのところで躱した蒼狼は着地隙の生まれたゴライアスの足首に食らいつく。

鋭い牙がアキレス腱を切り裂いた。悶絶の声をあげる巨人を無視し、巨狼はかみついた足首ねじ切ると距離を取った。

所詮時間稼ぎにしかならない。もぎとった巨大な足首を吐き捨てた蒼狼はどうにかして奴を倒せないか思案を巡らせ始める。

万事休すか、悔し気に歯噛みする蒼狼の耳が何かを捉える

 

――リン…リン…。

 

それは微かな鈴の音。

獣耳をたてた蒼狼は燃える瞳で振り返ると、音のなる方へ視線を向ける。

そこにいたのは白い小英雄。巨剣を構え、迷いなく歩むその少年は透き通った紅の瞳でゴライアスを見据えていた。

 

――ゴォン…ゴォンッ…!

 

英雄願望。徐々に大きくなっていくその鈴の音はやがて大鐘楼へと進化を遂げる。

その能力は「力の蓄積(チャージ)」。見たことも無い大剣を構えた少年は、その器に溢れんばかりの力を蓄えながらゆっくりとこちらに歩いてくる。

光の化身のような姿は既に数多の戦場を駆け抜けボロボロとなっており、とても英雄と呼べるほどカッコイイものじゃない。だがその序章としてはどうか。打ち鳴らす鐘の音の中、人ならざるものの戦いに足を踏み入れようとする在り方は正に英雄そのもの。

 

蓄えられた力はもはや想像も出来ない程の量になっており、ベルという回路を発光させてなお増える。あの力さえあればゴライアスを倒すことが出来るかもしれない、その一撃に限り少年は世界一の英雄を超える。

だがそれはゴライアスも感じ取ったらしい。復活した足で立ち上がると鬼神のような表情を浮かべ、一番の脅威であるベルに向かって走り出した。

 

 

『GAAッ!!』

 

『ゴォッ!?』

 

 

駆ける巨人の横腹に蒼狼が体当たりする。

邪魔はさせない。よろめいたゴライアスが尻餅をつく、体当たりを成功させた蒼狼は空中で一回転すると丁度歩いてくる少年の隣に着地した。

 

大きな化け物と小さな英雄が並び立つ。蒼と白の両者はその在り方からして真逆であり、本来ならば協力し合う運命には無かった。

力を貯めながら見上げてくる少年を狼は視線を合わせるように見つめ返す。目の前では冒険者達によってゴライアスへ総攻撃が仕掛けられている。足止めにしかならないが勝機を感じ取った冒険者達の行動は正しい。

その身は怪物なれば。再会を喜びあう資格も無く、蒼狼はただ少年が無事であることを安堵した。座った蒼狼は微かに尻尾を揺らす。これで知人は全員確認できたと言っていい、解消された不安に狼は思わず息をつくと肩の力を抜いていた。

 

 

「あ、あのっ!」

 

『…?』

 

 

少年が話しかけてくる。

首だけそちらに向けた狼は発光するベルの必死な表情を見下ろした。

 

 

「その…モンスターにこんなこと言うっておかしいと思うんですけど、というか多分伝わってないのに意味無いかもしれませんけど!」

 

『?』

 

「それでも――助けてくれてありがとうございます!」

 

 

そこには変わらないベル・クラネルの姿があった。

感謝と共に向けられる感情は決して敵視するようなものじゃない。その身が例え化け物であったとしても…少し嬉しかった。

 

のそりと立ち上がり隣の少年に顔を近づけた蒼狼は鼻先で大剣の腹をつつく。

驚愕の表情を浮かべる少年の手の中で、大剣は蒼く(カタチ)を変形させていくと更に鋭く鍛え直された。新たに手にした規格外の業物を手に少年の覚悟が改まる。

これが狼に出来る精一杯の恩恵。こっちはお前に任せた、そう心の中で告げると蒼狼は戦場に背を向ける。

 

 

「道を、開けろぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

 

 

少年の叫びを聞きながら、蒼狼は自分の最後の役割を果たしに行くのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

ではその獣は一体何者なのか?

怪物でありながら人を守り、怪物を殺す手助けをする。

その正体は神殺しの獣であり、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。

 

両橋夏目は今なおその欲求に抗っている。

神に仇名す運命にあった男はあろうことか女神の為に、仲間の為に戦っていた。

その正体は猟奇殺人鬼に他ならない、今更仲間だとかそんなことを言っていい存在じゃない。余りにその手は血に汚れ過ぎた。

 

何者なのか、何の為に戦うのか。

両橋夏目は矛盾している。その在り方は余りに幼稚で…救いようがない。

例え何を成そうが、何を守ろうがそれは功績にはなりえない。

 

人にも、化け物にもなれなかった出来損ない。

その正体はどこまでも愚かで、矛盾した半端者に他ならない。

例え世界が終わるとしても、その未熟さゆえに今なお迷っている。

全てがティアマトの言う通りに。

 

(それでもッ…!)

 

華の髪留めをつけた女神と、今まで出会った仲間達。

変わらない日常は代えられない。誰かを犠牲にした平和など意味があるとは思えない。

例えその身体が化け物であろうとも、譲れない戦いがここにはあった

 

 

『Grr…!』

 

 

巨狼は大地を踏む。

辿り着いたのは森と戦場のはざま。背後では英雄がゴライアスを相手におとぎ話を紡いでいる。

大地を揺らし、木々を踏み倒して現れたのは巨大なスケルトン。蒼い瞳を灯す怪物は大量の生が集まる戦場を目指しており、もしも二体の怪物が合流してしまったら本当に手に負えなくなる。

ここで食い止めるしかない。蒼炎を撒き散らして進むスケルトンの前に巨狼は立ちはだかった。

 

その産まれは化け物。

蒼炎と鉄を撒き散らす狼は神殺し、されど炉心にくべる信念は友の為に。

銑鉄が滾る。上がっていく炉内の温度。見上げた巨大スケルトンの歩みを止めるため今、獣性を解き放った。

 

 

『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!』

 

 

走り出した蒼狼の身体が蒼く輝き始める。

力の滾りに任せた覚醒は容となり、狼の身体を包み込むと溜め込んだカウント全てを燃やした。

鋳造。鉄を操る狼は炉心から銑鉄を溢れさせ、流れ出す。地面に蒼い軌跡を残すその疾走はまっすぐに巨大スケルトンを目指し、咆哮する。

空気が焦げていた。噴出するアドレナリンによって瞳孔は見開かれ、心臓は熱い血液をかき回すように爆音を立てている。

溢れ出す力の奔流の中で狼は地を駆け、天を衝く。

 

かつて人は何故鉄を打とうと思ったのか。

それは神を殺すため。大自然の中で生き延び、のたまう化け物と災害に抗うため。産み出された鉄という存在そのものが神殺しの象徴に他ならない。

 

その真価は鉄の高速鋳造。

 

 

『――――』

 

 

スケルトンの巨大な腕が緩慢に伸びる。

駆け抜ける巨狼は銑鉄を零しながら、掌を避けると跳躍した。

骸骨の胸に巨体が飛び込む。輝きは止まらない、その炎は遂に最高潮を迎え摂氏何千度に到達し自らの身体さえ溶かし尽くす。

牙が胸骨に触れる瞬間だった。巨狼の身体は融解し、蒼く液状化すると()()()()()()()()

 

その身は液状なりて。

骨の身体を銑鉄がすり抜けていく。極限まで熱された鉄が骨の身体を濡らし、焦がした。

通り抜けた液状の鉄が再収束を始める。その間僅か一秒足らず、自分の身体を液化させた蒼狼は再び自らを鋳造するとスケルトンの背後に降り立った。

スケルトンの身体には大量の銑鉄がこびりついている。目的を果たした狼は天を仰ぎ、気高くも孤独に遠吠えをあげた。

 

それは故郷への郷愁。

零れだしていた銑鉄はそれに応え、鋳造される。

 

 

『AOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOッ…!』

 

 

突き上げる剣の森。撒き散らされ、液状だった銑鉄から一斉に噴き上げた刃は巨大樹となりて空間を切り裂く。周囲一帯から伸びた刃先は成長し、やがて視界を覆った。

体内から現れた鉄塊に巨大スケルトンは瞬く間に爆散し、担がれていた黄金の盃も剣先に埋もれて見えなくなった。

 

――『蒼獣住まう剣の森(ニグラス・アイアンワークス)

 

世界の顕現。

鉄刃で出来た牙の森は広く狼を中心に鋳造された。それは一種の結界とも言えるかもしれない、地面から生える刃の大樹達は広く景色を造り変えた。

刃の森。生み出した美しい鉄の世界の中心で巨大スケルトンを圧殺した巨狼は天を仰ぐ。

そもそもあの化け物は何だったのか。その答えを探し、樹海に造られた刃の天蓋を見つめる巨狼は目を見開いた。

 

この日、運命は『変質』を始める。

 

 

 

・・・

 

 

 

ダークゴライアスを倒した後、突如として現れた剣の森の中をベル達は進む。

鋭く巨大な刃が立ち並ぶ鉄森の中は視界が悪く、注意深く進まなければ怪我をする。

ここが巨狼の行く先だったはずの場所だ。巨大スケルトンもいつのまにか消えており、真相を確かめるためにベル達はその中心に進んでいた。

 

刃を避け、僅かに残った雑草を燃やす蒼炎を通り抜けたベル達は遂に森の中心へ辿り着く。

そこは僅かに開けた空間。巨大な骨の残骸が転がる剣の森の中心地には既に誰かがしゃがみこんでいた。

 

 

「リョナさん!?」

 

「ん?おおベル、久しぶり」

 

 

黒コートを纏った青年が振り返る。

遭難したはずの彼は余りに呆気なく、いつも通りにそこにいた。

だが…どこかその表情には切り詰めたような真剣さがある。

 

 

「な、何でここに!?」

 

「あー…俺も戦ってたんだがたまたま会わなかったっぽいな、心配かけた」

 

 

18階層は広い。

もし反対側にいたとしたら気が付かないこともあるだろう。

ともあれ仲間の無事に安堵しベルは再会を喜ぶ。これで心配していた神様も落ち着いてくれるだろう、ふとベルはリョナの背後の地面に誰かが寝かされている事に気が付いた。

 

 

「…!?」

 

 

そこにいたのは少女。

空色の髪、サイドテールを結わう王冠型の髪留め。

美しい顔立ちと童子の様な体格、身に着けた黒いドレスはまるで姫のように。

気絶しているらしい少女は非人間的な美しさを纏い、瞳を閉じて気絶している。

この世ならざる美少女、人間を超えた器。されど美しい面影にはどこかリョナに似ているものがあるようなそんな気がした。

 

 

「リョナさん…その子は…?」

 

「あぁ。こいつは――」

 

 

見下ろした少女にリョナは渋い表情を浮かべる。

どこかその表情には苦笑と呆れが入り混じり、それ以上に不安が占めていた。

少女がもたらすものは希望か、絶望か。軽く笑うリョナはあっけなく現実を告げる。

 

 

「――こいつは両橋・エリア・リップアウト。俺の妹だ」

 

 

 

・・・

 

 

 




てわけで第一章完!自分的にはここで一度物語は区切りとなります。(というかアニメに合わせてた)
まー新しい力だったですしもうちょっとリョナに無双させたかった感はあるんですけど、流石にベルの英雄願望を潰せないからなぁ。展開にちょっと心残りはある、まぁフラグ的には完璧何ですが。

ともあれ現れた『彼女』によって物語はここから更に加速します。果たして神殺しの獣の選択はいかに。
これから第二章も鋭意執筆していきますので応援よろしくお願いします!
ではではー!


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 両橋・エリア・リップアウト

てわけで過去編です。何故両橋夏目は人を殺すようになったのか?みたいな。
特にいう事も無いのでほんへ


 

 

・・・

 

 

 

あれから一日が経つ。

18階層で起きた事件から俺達は無事地上に戻ってくることが出来た。

久しぶりに見た空は茜色に染まっていた。新鮮な空気が甘く口の中に広がることに安堵しつつ、俺は真っ先豊穣の女主人へ向かうとハティのことを迎えに行った。

 

泣きじゃくる少女との再会は余りに悲しくて、涙が止まらなくなるほど嬉しかった。顔中涙と鼻水塗れになった愛娘を抱きあげると、くぐもった泣き声が胸を濡らし始めた。

それから面倒をみてくれた豊穣の女主人の面々に頭を下げに行ったのだが、その間ずっとハティは俺にぴったりと張り付き離れようとしなかった。

 

 

「…」

 

 

腕の中では泣き疲れたハティが穏やかな寝息をたてている。

夜闇と静寂で満ちた自分の家。ベッド脇の椅子に腰かけた俺は、抱いた銀髪をゆっくりと撫で息をつく。無事に帰ってくることができた安堵と疲労感が全身を覆い、目を閉じれば今すぐにでも眠れそうだ。

 

ティアマト・イフ・ニグラスから告げられた真実。蒼狼となり戦い抜いた戦場。様々な事が起き、死者も多数出た一連の騒動。

衝撃の連続に俺は肉体、精神共に疲弊していた。決断を先延ばしにすることは出来たが、後味の悪い焦燥感だけが残されていた。

 

魔石灯の明かりがぼんやりとベッドを照らしている。

そこに寝かされていたのは空色の髪をした美しい少女『両橋・エリア・リップアウト』。

18階層から背負ってきた彼女は意識が無いままであり、微かな呼吸で掛け布団を揺らし続けていた。

もはや懐かしさすら覚える妹の寝顔に俺は再び息をつく。掛け布団をめくり余ったスペースにハティを寝かせると、泣きはらした目元を拭って微笑んだ。

 

 

「…ふぁ」

 

 

欠伸を浮かべた俺は特徴的な空色の髪を見下ろす。何故コイツが18階層にいたのだろうか。

両橋・エリア・リップアウトなんて長い名前だが、コイツが俺の血の繋がった妹であることは間違いない。神殺しとは思えない華奢な身体の彼女と出会ったのはもう何年も前の話だ。

ベッド脇に腰かけた俺はゆっくりと思い出し始める。出来損ないとして産まれた、全知全能の妹との出会いを。

 

 

 

・・・

 

 

 

――あれはまだ俺が6になったばかりの事だ。

 

 

「…妹、ですか」

 

「そうだ」

 

 

庭園を望む大広間の中心。着物を流し畳の上に正座した少年は、遠くに坐した男の顔を見上げる。

厳めしい表情を浮かべた偉丈夫。白髪の混じり始めた短髪、壮年を過ぎ皺の寄り始めた肌。それでも男の体躯は40を過ぎたとは思えないほど強靭であり、纏った藍色の着物で解り辛いがその体格は異様なまでに発達している。

…俺は父、『両橋弧十郎』と相対していた。

 

 

「しかし父様、母様は私が生まれた時には…」

 

「当然だろう愚か者が、死人(しびと)と子は出来ん」

 

「…申し訳ございません」

 

 

身体の弱かった母親は自分を産んですぐに死んでしまった。

故に俺は母というものを知らない。知っているのは様々な勉学を押し付けてくる従者と退屈なばかりの学校、そして時折このように呼び出してくる常に厳しい顔をした父親。

だが感傷は抱いたことが無い。両橋に弱者は必要なく、血を受け入れる事の出来ない不完全な母体は死んで当然なのだから。

 

深く頭を下げた俺は目を細め罵ってきた弧十郎の気を見計らうと、顔をあげる。

決して不快にならない表情を作り、見下してくる父親の瞳を無感情に見返した。

 

 

「…どこぞの貴族の娘との子だ、昨日産まれた」

 

「…そうですか」

 

 

そんな話今まで聞いたことは無かった。こいつに俺の母親以外の妻がいる事も、顔も知らないその人が妊娠していたという事も今まで伝えられたことも。

 

だが弧十郎の思惑など解らないし、既に40は超えている弧十郎が今更になって子を成すことに驚きはない。

…弧十郎が俺に話をする時は「両橋」としてだけだ、長男の責務という名のくだらない会食に呼び出されたり政治的に利用されたり…否、それだって従者を通してであり直接言われるわけではなかった。

 

しかし時折このように、特に重要な事がある場合のみ弧十郎はこのように俺を呼び出し自ら用件を伝える。

…まぁ家族が増えることが弧十郎にとって重要な事なのかは知らないが、何かしらの意味はあるのだろう。

 

 

「ついてこい、今から会わせてやる」

 

「…はい」

 

 

細いが筋肉質な腕で畳みを押した弧十郎が屹立するのに合わせ俺は立ち上がる。

 

広間を横切り襖の前に立った「現両橋家当主」に合わせ、向かい側にいた着物姿の侍女がかいがいしく襖戸を引いた。

通り過ぎていく父の背中についていきながら俺は狭間を乗り超える。手をつき頭を下げたままの侍女の後頭部にチラリと視線をやり、すぐに無頓着に歩いていく弧十郎に戻した。

 

(…腹違いの妹、か)

 

目を細めた俺は何色にもならない世界を睥睨する。

どうせ面白くない、心の中で呟くと押しつけられ続ける無意味へとまた一歩進んだのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

今日はやけに人の往来が多い。

いつもは俺と従者数人がいるだけの無駄に広いこの邸宅に今日に限ってなぜこんなに人がいるのかと思っていたが、両橋に二人目の子供が生まれたとなれば挨拶やら何やらで様々な人間が尋ねてくるのは当然だろう。

 

(…()()()連中も来てるか)

 

廊下を歩きながら時折通りすがる従者付きの男達を確認する。

各界の要人が多いその中でも、特に屋内を悠々と歩いている両橋グループの理事会メンバーの名前と顔は嫌でも覚えていた。

 

…くだらない用事で何度相手させられた事か。

大体がクソみたいな連中だ。高慢で欲が深く、自分の事しか考えていない変態共。

建前ばかりのつまらない会話をしているだけで吐き気を催す、一緒の空間にいるだけで苦痛でしかない。

だが力だけは持っている。互いに牽制し合う事も多いが両橋全体への影響力は大きく…それが「腐敗」の原因にもなっている事を俺は知っていた。

 

 

「…ここだ」

 

「はい」

 

 

幾人か挨拶をしてくる要人達の相手を素早く終え、内廊下を通って屋敷で普段使われていない離れの一室に俺は弧十郎に連れられてきた。

…記憶している限り空き部屋だったが、誰かが住んでいたとしても俺は知らないし知らされない、だが連れてこられたということはつまりこの部屋に「その人」がいるという事なのだろう。

 

部屋の両脇に立っていたスーツ姿の護衛二人は弧十郎の姿に気が付くと、統制された動きで頭を下げる。

 

(…直属、まぁ当然か)

 

弧十郎の持つ私兵の中でも特に強い部類の二人、屋敷内に武器の類は一切持ち込めないが両橋の子供であれば狙われる。

直接的な行動を厭わない輩もいるだろう、戦闘能力の高い護衛が立つのは当然だった。

 

 

「…」

 

 

護衛達はキビキビとした動きで頭を上げるとそれぞれ襖に無骨な手をかける。

そして武芸者の脚の運びで、音もなく襖を開けると中に入る主人のため再び丁寧に頭を下げた。

 

特に声をかけるでなく、何も歯牙に留めぬまま弧十郎は部屋の中に一歩足を踏み入れる。

広い背中で部屋の中はまだ見れないが俺もその後に続き、提灯の灯りがぼんやりと照らす離れの中に入った。

 

 

「フィール」

 

「あぁ…弧十郎様…」

 

 

敷かれた布団の上には金髪の美しい女性が座っている。

フィールと呼ばれたその女は確かにどこか日本人離れした容姿と儚さを併せ持っており、その腕には白布で包まれた何かを抱いていた。

恐らくあれが赤子だろう。弧十郎から一歩下がった位置から俺はじっと白布を観察する。

 

 

「…具合は?」

 

「はい…大変、申し訳ございません。まだ、治りません」

 

「…そうか」

 

 

弧十郎は立ったままその女性を見下ろすと声をかける。

きっとその厳めしい視線は何者に対しても絶対に変わらないだろう。

 

(所詮配偶者か…)

 

結局道具と変わらないのだ、コレも優秀な子孫を生み出すための袋でしかない。

 

布団の上に横たわったまま目を閉じる女は軽く解る程度に頭を下げる。

気の弱そうな目を細めると、ゆっくりと頭を傾け弧十郎のことを見上げた。

 

 

「それで、今日はどんな御用向きでございましょうか…?」

 

「…今日は息子の紹介に来た、暫く一緒になるだろう」

 

 

暫く一緒…ということはここに住まうという事だろうか。

確かに現状日本においてこの屋敷以上に安全な場所は無い、それが最良の選択であることは確かだ。

 

 

「…夏目、来い」

 

「はい」

 

 

弧十郎の手招きに合わせ、前に出る。

並ぶように立つと背中を押され、横たわった女性の目前に出た。

 

 

「息子の夏目だ、今年で六つになる」

 

「…初めまして、フィール様。夏目といいます」

 

 

頭を下げる、女の視線がゆっくりとこちらを向いたのが感じ取れた。

すっかりやり慣れてしまった挨拶は寸分の狂いなく、絶対に他人を不快にさせないぐらいの卑屈が込められていた。

 

 

「…そうですか、初めまして夏目。…私に様は、その…」

 

「フィール、時間が惜しい。早くコイツにその子を見せろ」

 

「…は、はい」

 

 

頭を上げる、弧十郎の言葉に目を伏せたフィールは腕を持ち上げる。

雪のように白く綺麗な指でゆっくりと慎重に、白布の包みを裏返すと俺にその中身が見えるようにしてくれた。

 

 

「…ん」

 

 

静かな動き、布擦れの音。

向けられたフィールの視線は真剣なもの、最大の注意を払って徐々に見えたそれは…空色の赤ん坊だった。

 

(…!)

 

閉じた目、穏やかに上下する胸、短く曲げられた手は冗談か何かのように呆れるほど短く指など小指の第二関節ほどもないように見える。

肌は輝くように白く、頭部には透き通るような空色の産毛がうっすらと覆っている。

 

…思わず、眉が動く。

赤ん坊の顔など全て同じに見えるが、その顔には思わず息が漏れそうになるほどの「何か」あるような気がした。

 

急いで表情を戻した俺は、フィールに視線を動かす。

横になった彼女の美しい顔を見下ろすと、彼女の白い目に尋ねかけた。

 

 

「…これが…」

 

「…えぇ、そうよ。これがあなたの妹のエリア――」

 

 

フィールは初めて微笑む。

赤子を抱いたその姿は正しく母親のそれだった、向けられた幼子の視線には愛が満ち、口角には幸せが宿っていた。

 

フィールは優しく指先で赤ん坊の額を撫でると、俺の事を見上げて淡い息を吐く。

眠っていた赤子の瞼がピクリと動いた。

 

 

「――両橋・エリア・リップアウト。これから、よろしくね?」

 

 

赤ん坊が目を開く。

光に当てられ可変する空色の小さな瞳が俺の事を見上げると――微かに笑ったような気がしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

それから数年後、両端・フィール・リップアウトは呆気なく死んだ。

即死しなかっただけマシだが、結局彼女も両橋の…神殺しの血を受け入れることは出来ず衰弱死した。両橋に嫁いだ女の宿命だ。稀に生き残る場合もあるがその殆どは赤子に生気を奪われ殺される。

ただ疑問なのは何故弧十郎が元々身体の弱かったフィールを娶ったのかという点だ。どうせ死ぬことは目に見えていたはずなのに何故子供を産ませたのだろう。とはいえ弧十郎の考えを知るすべは俺にないし、死んだ弱者に興味を抱く余裕は無かった。

 

 

「クソッ…いってぇ」

 

 

11になった俺は修行の日々に追われていた。

武芸者達との激しい訓練で俺の身体からは生傷が絶えない。使用人に治療されたばかりの包帯からは血が滲んでおり、その全身は肌よりも包帯に巻かれた面積の方が多い。

俺は重い全身を引きずり、汚れた胴着のまま縁側を進む。すると人気のない縁側に山のように本が積まれているのが見えた。

 

 

「…よう、リップ」

 

 

本の中心には黒いドレスを身に着けた少女が一人座っている。やけに分厚い本を読んでいる空髪の幼子は、その脇に幾つもの本を積み立てまるで絵本を流すかのようにパラパラとページをめくっていた。

 

(無視かよ…)

 

本に目を落としたままリップはこちらに顔を向けようともしない。

いつもの事だ、時折こうして声をかけても今まで反応が返ってきた試しは無かった。

これは別に俺に限った事ではない、誰が話しかけてもリップが返答することは無く生まれてこのかた彼女が喋っているところを見た者はいなかった。

ただ一人、死んでしまったフィールを除いて。

 

 

「はぁ…」

 

 

俺は全身の疲れを吐き出しながら、気まぐれにリップの隣に腰かけてみる。

年季の入った縁側がギュッと鳴るのを感じながら全身を弛緩させると、痛んだ身体を着物の上から軽く揉む。

それから首を回すと、見飽きた庭から隣に座るリップに視線を落とした。

 

(ふん…)

 

初めて見た時から成長した身体。ひらひらとした洋風の黒いドレスを身に纏い、髪には宝石付きの小さな王冠がサイドアップと共に結われている。

膝の上に置いた大きな本を白く小さな手でめくり、覗き込んだ空色の瞳は書かれた英語の羅列をかなりの速度で追っては短く瞬きを繰り返していた。

 

(…()()()、か)

 

五歳、というにはリップの身体は『両橋の基準において』貧弱すぎる。

両橋の肉体は総じて屈強でなければならない、そのためわざわざ強い種、あるいは母体が選出される。

そうして産まれた子供はたいてい強靭な肉体と類稀な才能を併せ持ち、年端もいかぬ子供の時から『教育』を施されてきた。

 

…だが、時折異常(イレギュラー)は産まれる。

リップの身体は小さく、同年代の人間の女子と比べても遥かに弱い。詳しい事は未だ明らかになっていないがきっと『血』が薄かったのだろう。それでも濃さを保とうと身体を小さくすることで対応しようとした。

 

(…)

 

俺が五つの時には既に戦闘訓練は始まっていた、別にそれが当たり前と訊かされていたし躊躇いも疑問も無かった。

 

…なりそこないの「道具(こども)」はどうなるのか。

弧十郎が何を想ってこれを作ったかは知らないが、身体の弱い少女に毎日読書に耽らせるためではないだろう。

しかし無意味というのも違うはずだ、もっとマシな別の何かが――

 

 

「…というかお前そんなん理解できんのか?」

 

 

読んでいる本を覗き込むと、そこに書かれていたのは最近発表された量子力学の論文だった。

全て英語で書かれていることもそうだが最近俺自身も目を通したから覚えている、とてもじゃないが五才児の子供には理解できる内容ではなかったはずだ。

 

…ただ文字の羅列を見ているだけか、ページが捲られる速度は異常なまで速い。もっとマシな時間の過ごし方をしているものと思っていたがどうやら児戯に興じていただけらしい。

相変わらず反応を示さないリップに俺は再度肩を落とすと、立ち去ろうとして手をついた。

 

 

「おぉ夏目坊っちゃん、お久しぶりでございます」

 

「!…羽柴様、お久しぶりです」

 

 

縁側の端から現れたのは肥えた男。

羽柴兼蔵、今までくだらない立食パーティで何回か会ったことのある『理事会』の重鎮であり羽柴重工のトップ。

スーツ姿のじじいは全身脂ぎっており、見ているだけで不快感を催す。それでも瞬発的に愛想笑いを浮かべると立ち上がり、顔色を窺うと何故こいつがここにいるのか考え始めた。

…羽柴家に良い噂は聞かない。曰く武器の密輸を行い、両橋に牙剥こうとしているとか。

 

暫くの社交辞令の後、建前ばかりの会話の中で羽柴の目的を探る。

だがいつも以上にその意図は読めない。そもそもこの屋敷に今いるのは俺とリップ、それと使用人が数人いるだけだ。弧十郎に話があるわけではなさそうだった。

 

 

「いやはや、修行でお怪我をなさるとは弧十郎様も手厳しい。しかしこれも全ては夏目坊っちゃんを思ってのこと、立派な当主となるためにしっかりと励むのですよ」

 

「…はい。父の事は尊敬しておりますし、私自身いつか両橋の当主として責務を果たせるように――」

 

 

自分でも良く言ったものだ。

染み付いた社交辞令はロボットのようにスラスラと口を割って出る。

本心とかけ離れた言葉の羅列を語る俺は…正に道具だ。

 

ふと見れば、リップが俺の事を見つめていた。

その瞳の事は良く知っている。世界に何色も見いだせない無感情な視線。それは俺の瞳、それが今度は俺に向けられている。

透明な世界、だが果たして透明な世界に恭順する今の俺は何色なのだろうか。

 

気が付けばリップは本に視線を戻している。

何も言わず、何にも興味を抱かず、いつも通りただページを捲っていた。

結局この日、俺は羽柴の目的が解らなかった。ただ自分の中で何かが変わったことは確かだろう、ほんの僅かな色の違いが俺の中で渦巻き始めていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

その数か月後、リップが養子に行くことが決まった。

出来損ないは両橋にいらない。身体の弱いリップが弧十郎から捨てられることは当然だった。感傷は無い、同じ屋敷に住んでいたとはいえ一度も話したことの無い相手を惜しいとは思わなかった。

その事を知ったのはついさっきの出来事。

訪れた黒いリムジンに乗りこむ童女の後姿を見送った俺は目を細める。

細く白い手を引くのは羽柴兼蔵。養子先は羽柴家、理事会メンバーであり政界にも大きな影響を持つ羽柴へ行く事には大きな意味がある。

ただの失敗作である彼女が羽柴への『足がかり』になれれば本望だろう。リップがどんな扱いを受けるか知らないが想像に難くない、数か月前に羽柴が訪れたのはきっと下見の為だろう。

 

 

「…」

 

 

リムジンが走り出す。車窓から覗く羽柴とリップの横顔を見送った俺は振り返る。

これでまた屋敷の中に一人だ。まぁ元々いてもいなくても変わらないような奴だったし、元に戻ったと考えれば別に何も変わらない。

 

今日は珍しく修行が無い日だった。慣れ親しんだ孤独を連れて俺は行く当ても無く屋敷内を彷徨い始める。

誰も、何もない部屋の連続。広いばかりで空虚な空間。両橋に必要なものは強さだけ。

穴が開いているはずの心はとっくに麻痺して痛みを感じる事さえやめてしまった。

やがてとある縁側に辿り着く。そこはいつもリップが山のように本を積み上げていた場所、しかしここも今ではもう誰もいない。

無色透明な世界の中で彼女は何色だっただろうか。思えば物言わぬ彼女だけは綺麗な空色をしていた気がする。

 

気まぐれに縁側へ腰かけ空を見上げる。

修行終わりに時々こうしてリップの隣に座った。

こうしているとただページを捲る音がどれだけありがたかったか解る。訪れる静寂は重く空虚で、あんな奴でもいた方がまだマシだったと思わせた。

しかし奴はもう羽柴の家に行ってしまった。それが奴の運命だし…もう会うことも無いだろう。

 

(…俺は)

 

リップの視線を思い出す。

無色な世界に生きる俺は果たして何色なのか。

言われるがままに道具に甘んじ、捨てられないために強くあり続ける。

それが両橋に産まれた者の宿命、産まれた環境。

 

このまま無色な世界で生き続けるのか。

何にも期待せず、ただ定められた運命を歩き続ける。

変わらない運命を変えてくれる誰かになんて俺は期待していない。

 

 

「…!」

 

 

考えているうちに気が付けば夕方になっていた。

どれほど悩んでいたか知らないが、自分がどうなりたいか結論はまだ出ていない。

その答えは何故かあいつが知っているような気がした、一度も会話をしたことが無い空色の彼女が。

 

 

「…行こう」

 

 

立ち上がった俺はその「何か」を探すために歩き出す。あいつに会ってどうするのかは解らない、それでも会わなければ何も変わらないようなそんな気がした。

産まれて初めて抱いた意志。この行動が後に大きく未来を変えることを、この時の俺はまだ知らない。

 

 

 

・・・

 

 

 

都心にある広大な屋敷。

朧月夜、急造された都市光に照らされた東京。

人々のざわめきは程よく遠い。片田舎にある自宅からここまで数時間をかけてやってきた。

瓦の張られた屋上に立った俺は闇夜に紛れて身を屈める。身に着けたものは黒めの戦闘装束、いきなり正面から入れるわけがないので俺はこっそりと忍び込むことに決めた。

 

広い敷地内を上から見下ろす。

羽柴家の本拠地ともあってこの時間でも警備は厳重だ。敷地内には銃で武装した兵士たちが巡回しており、見つかったら殺されてもおかしくない。

俺の装備は投げナイフが一本。戦いに来たわけじゃないし使わない事を祈るばかりだ。

 

リップが今どこにいるか解らないがとにかく探すしかない。

屋根上から飛び降りた俺は音をたてず影に降り立つ。巡回する警備に気が付かれないように低姿勢のまま走り始めると羽柴家に潜入した。

軒下を潜り、人目を忍ぶと音や光を頼りに幾つもある部屋を改めていく。一瞬の隙をついて開けた廊下を走り抜け、背後から一人の警備を気絶させると空き部屋に放り込んだ。

 

(…こっちにはいないか)

 

気絶させた男を縛り上げ猿ぐつわを噛ませておくと俺は天井裏に潜り込む。

広い屋敷内の地形を頭に入れながら進んだ。音を殺し、聞こえてくる足音や話し声から憶測をつけて進む。

時間的にはもう寝所だとしてもおかしくない。襖を超えて幾つも部屋を巡り、橙色の灯火の下で護衛達をやり過ごすと更に奥へ進んだ。

足音をたてぬよう屋根裏を伝って行くとどうやら浴場の上に来たらしい。若干湿った天井板を通り抜けると、女の喋り声が聞こえてきた。

 

 

「…それより…ほんとお館様の趣味には困ったものよね」

 

「…そうよねー…」

 

 

世間話か。何かヒントを得られないかと耳をすました俺はジッと動きを止める。

どうやら女中が二人いるだけのようだ。下が何の部屋かは解らないが、チャンスかもしれない。

 

 

「…言っちゃなんだけど…あの見た目でねぇ…」

 

「…奥様もいるのに…それにあの子…変…」

 

「…洗ってても無反応だったし…不気味な…」

 

 

もしかしてリップの事を言っているのだろうか。二転三転する彼女達の会話から情報を取得することは難しい。

丁度仕事が終わったのか喋っていた女中の片方が部屋から去っていく。ドアが閉められた音を確認すると、俺は即座に天井板を外した。音も無く飛び降りるとそこは石鹸の香りのする脱衣所。俺は装束の中からナイフを取り出し、服を畳んでいるらしい女中の背中に近づき飛びかかった。

 

 

「ッッ!!?…――ッ!?」

 

「叫んだら殺す」

 

 

口を抑え女中の喉元にナイフを押し当てると声にならない悲鳴が聞こえてきた。

そのまま体重をかけ膝をつかせると三秒数える。抵抗の意志が無いことを確認すると耳に小声で語りかけた。

 

 

「知りたいのは羽柴…いやさっきまでアンタらが身体を洗ってた少女の居場所、素直に言えば命だけは奪わない」

 

「…!」

 

 

状況は理解しているらしい。

コクコクと頷いた女中の口から手を離す、改めてナイフの刃を押し当てるとひっと声を漏らし身体を竦ませた。その近くには籠が置かれており、中にはリップが着ていた黒色のドレスが丁寧に折りたたまれている。

怯えた女中は震えた声でリップがどこの部屋にいるのか教えてくれた。用済みになった女中を一撃で気絶させる、聞いた「離れ」の方角を確認すると目星をつけた。

これでリップに会いに行ける。息をついた俺は移動を始めようとする、その時丁度戻ってきた女中の片割れがドアを開けた。

 

 

「――」

 

「クソッ…!」

 

 

悲鳴が響き渡った。

このままでは声に反応した警備達が集まってくるだろう。

女中を押しのけた俺は脱衣所から走り出す。包囲網が締め切る前に突破するしかない、リップの元に急ぎ始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

羽柴邸では騒ぎが広がりつつある。

脱衣所で発見されてから数分。警備達の動きは活発化しており、至る所で足音と声が聞こえている。

だが幸いとも言うべきか悲鳴に釣られ混乱した警備達は揃って脱衣所を目指してしまっているらしく、警戒網にかなりの穴を開けていた。

 

巡回の減った回廊を走り抜ける。角から覗き込もうとしたところで運悪く警備と鉢合わせてしまった。

軽機関銃(サブマシンガン)を相手に正面から戦うのは両橋といえど無謀だ。故に銃口がこちらを向く前に倒す必要がある。眼を見開いた警備の男が軽機関銃を構えるより早く、その鼻にジャブを叩き込むと股間を蹴り上げた。

どうやらプロテクターはしていなかったらしい。悶絶しよろめく男に俺は重い一撃を加えると気絶させる。男の持っていた軽機関銃を拾い上げるか迷ったが、そのまま走り出した。

渡り廊下を抜け離れに近づく。並べられた障子を通り抜け、唯一明かりの透けた和紙を蹴り飛ばすと中に押し入った。

 

離れの寝所。

古式な畳み張りと敷かれた布団。たてられた行灯(あんどん)のぼんやりとした明かりが静寂で満ちた部屋に影を落としている。壁には掛け軸、日本刀や壺と言った骨董品が並べられていた。

部屋の中心、布団の上に寝かされているのはやけに薄着なリップ。空色の髪をした少女は仰向けに天井を仰ぎ人形のように固まっており、やはりのその瞳に生気は感じられない。

 

 

「なっ…!?」

 

 

その傍には半裸の羽柴兼蔵が驚いた顔で立っていた。

布団は一枚しかない、瞬間そのおぞましさに気が付くと隠しきれない殺意を抱く。いくら自らの所有物(こども)になったからとはいえリップはまだ五つだ。

吐き気を催すような変態さに思わず俺は羽柴を睨みつけていた。視線の先でひとしきり驚いていた羽柴だがふと目を細めると若干笑みを浮かべ声を張り上げた。

 

 

「侵入者はここだ!」

 

「ッ…!」

 

「必ず生きて捕らえろ!!」

 

 

背後に羽柴の護衛二人が駆けこんできた。

羽柴のトップだけあって状況の見極めは速い。今ここで捕らえられれば人質だ、両橋の転覆を狙う羽柴にとって俺は格好の交渉材料だろう。

いくら目的があったとはいえ軽率だ。敵陣の中心で俺は完全に孤立無援だった。

 

背後から近づいてくる二人の男に向き直る。

戦闘能力がない羽柴は無視だ。生け捕りの命令を受けてか銃を収めた男達は素手でじりじりと距離を詰めてきた。

ただの11のガキ、相手がそう思っているところに勝機はある。呼吸を整えた俺は強く一歩を踏むと距離を詰めた。

放つ拳は今まで鍛錬を積んだもの。鋭く顎を狙った一撃、数的不利を覆すためには出来るだけ早く一人を落とす必要があった。

パンッと短く肉のぶつかり合う音が響く。俺の渾身の拳は男の掌に止められていた。

 

 

「くっ…!」

 

「こいつ…ただのガキじゃないぞッ!」

 

 

どうやら今までの警備とは格が違うらしい。

明らかに手練れな二人組、羽柴にとっての直属。油断の無い兵士、銃を使われないだけマシだがそれが二人ともなると勝機はかなり薄い。

上から振り下ろされる拳を受け流す、身を翻しフェイントをかけると隙の出来た腹に反撃を入れた。実力は五分、俺の猛攻に男は防戦一方になっている。純粋な格闘戦を繰り返すと巻き添えになった行灯が倒され光を拡散させた。

男がよろめく。好機に追撃しようとしたところでもう一人から鋭い蹴りが飛んできた。

 

 

「がっ…!?」

 

 

大人の重い蹴りが背中に食い込む。

体重差は歴然。骨こそ折れなかったが肺の中の空気が強く押し出される感覚と激痛が全身を貫いた。

それでも俺は何とか地を踏みしめ戦い続けようとする。だがそんな抵抗もむなしく俺は背後から羽交い絞めにされると動きを制限された。

 

 

「大人しくしろッ!」

 

「ぐふぁっ…!!」

 

 

振りかぶられた拳が鳩尾に叩きつけられる。

動くことのできない無防備な身体に激痛が走り、意識から力が抜けた。

酸っぱいものがこみ上げてくる。抵抗する力すら奪われ俺は吐き気をこらえると、痛みに耐え霞んだ視線を持ち上げた。

 

 

「何という僥倖…これで両橋を…」

 

 

服を着直した羽柴はにんまりと笑っている。

これでは飛んで火にいる夏の虫だ。拘束された俺の前で兼蔵はゆっくりと歩んでくると顔を覗き込んでくる。

 

 

「些かお戯れが過ぎたようですなぁ、夏目坊っちゃん」

 

「くっ…!?」

 

「なぁに両橋の大事な子息を殺しはしません。ただ暫くの間拘束はさせてもらいますが…」

 

 

悪臭が漂ってくる。

睨みつけた兼蔵の表情は気色悪い笑みに変わり、今度は品定めするように俺の事を見下ろした。

 

 

「…それとも坊ちゃんが私と遊んでいただけますかな?あの子だけでは少々物足りないと思っていたのですよ」

 

「このっ…変態がッ!」

 

 

抱いた殺意は自分でも驚くくらい感情的だった。

今まで抑圧してきた全てが自分の中で燃え滾るような感覚。何色にも満たない少年が抱いた『憎悪』は自覚の無い火種。

その身は神殺しの獣。しかしまだ幼く、この状況ですら覆すことが出来ない。

 

――ただ炎はついた。

 

 

「なっ…!?」

 

 

倒れた行灯から零れた炎が広がり、部屋を燃え始めた。

攪拌する熱と光。畳から壁に走る橙色の火炎に兼蔵と護衛達の注意は一瞬削がれ、その隙を夏目は見逃さなかった。

ただ殺意のままに。身体を落とした俺は羽交い絞めにしていた男を投げ飛ばす。大の男が宙を一回転するとそのまま畳に叩きつけられた。

もう片方が反応する。ナイフを構えた俺は距離を詰めると、『殺すために』戦う。

振り下ろした刃が男に躱される。薄く咆哮しながら俺は更に一歩踏み出すと追撃を迫った。

 

徐々に炎は燃え広がってきている。

相手は大人。技術では五分、かなりの手練れを前に子供の身体で立ち向かう。

振るわれる拳を躱しその腕を斬りつけると血を滲ませた。男の蹴りを膝で受ける、首に反撃を入れようとすると避けられてしまう。

戻そうとした手首を相手の手刀が叩いた。取り落としたナイフが宙を吹っ飛んでいき壁に突き刺さる。

 

 

「…ッ!」

 

「スゥッ…!」

 

 

息を吸いながらゼロ距離へ。

震脚と共に流した勁が大腿から肩へ伝い、男の腹に当てた肘を押す。

発勁と呼ばれるそれは既に完成された一撃。ドンという音と共に畳を踏みしめ、流動的な勁を放った。

流石に身体をよろめかせた男を前に俺は判断する。燃える部屋の中、リップはまだベッドに寝たままであり逃げようともしていない。

 

数歩駆けた俺は飾られていた日本刀を手に取る。

模造刀かとも思ったが確かに真剣。鞘を抜ききった刀はかなりの業物、ギラリと輝く刃が炎に反射する。

剣術は既に極めた。息をついた俺は刃先を男に向けると踏み出した。

 

 

「クソッ!」

 

 

長いリーチ、鋭い刃。

銃には及ばずともその殺傷能力は極めて高い。悪態をついた男に真剣が振り下ろされる。

素手で日本刀を受けることは不可能。日本刀は交差させた男の両腕を切り裂くと、その肩口にまで食い込んだ。

骨を砕く鈍い感触、刀を引き抜くと血の泡を吹き男が倒れた。

 

始めて人を殺した。

だがそんなことを気にする暇も無く、投げた男がよろよろと立ち上がっている。

男はもはや命令を気にしている余裕が無いのかサブマシンガンを構えようとしていた。

銃口がこちらに向き、安全装置が外される。男の指がトリガーにかかり、背中にぶわりと冷や汗が流れた。

横に走り出すと同時に乾いた銃声が鳴り響く。木造の壁には幾つもの穴が開けられ、白い断続的な光が部屋を満たした。

 

硝煙が視界を覆う。

パチパチと爆ぜる炎だけが一瞬の静寂を乱している。

汗を流した男は緊張に耐えられずマガジンに手を伸ばし、カチリと外した。

 

 

「ッ…!」

 

「おおおおッ!」

 

 

瞬間、煙の中から刀を構えたまま突進した。

その身体からは数か所血が溢れ出している。右肩に当たった銃弾はそのまま貫通し、額にできた切り傷から流れた血で右目は覆われてしまっていた。

傷ついた身体、抜いたばかりのマガジンを慌てて差し戻そうとしている男に距離を詰める。間合いに入った瞬間に刀を突きあげると喉元にブッ刺した。

肉の裂ける感触がダイレクトで指に伝わってくる。血に濡れた刃の先では目を見開いたまま男が硬直しており、ぴくぴくと痙攣した後脱力すると完全に絶命した。

刀を引き抜くと返り血を噴き上げながら男が崩れ落ちる。息を吐きだした俺は肩に走る激痛に耐えると一瞬だけ死体を見下ろし、振り返った。

 

そこにはまだ羽柴兼蔵がいた。

腰が抜けているのか、地面に這いつくばった兼蔵は怯えた表情で血まみれになった俺の姿を見上げている。そして震える口で、俺に一言だけ告げた。

 

 

「ば、化け物…!」

 

 

化け物。

声の震える兼蔵に近づきながら考える。

今の俺はそう見えるのだろうか。だが身を包む高揚感は確かに常軌を逸している、今ならば何だって出来そうだ。

殺意のままに、感情のままに。見下ろした醜い男に俺は躊躇いなく刀を振り下ろす。兼蔵の血が飛散し、首を断ち切られた死体が地面を転がった。

これで三人目。唇についた返り血を拭う、刀を抜いた俺は息をつく。血潮が抜けていく感覚、冷めていく興奮の中で――

 

――俺は、微かな声を聞いた。

 

 

「んっ…んふっ……」

 

 

振り返ったそこは燃え続ける部屋。

赤く照らされる煙が濃くたちこめ、今まさに焼け落ちようとしている。

敷かれたものはただの布団だ。少女が寝かされていた布団は血で汚されており、いつのまにか掛け布団もめくれている。

 

その中心では空色の少女が寝ていた。

人形のような幼子は炎に脅かされながら声を漏らす。

動かず、喋らなかったはずの少女の着物はいつのまにかはだけていた。美しい少女の肌が見える。身体がゆっくりと揺れていた、白く細い腕が汗ばんだ下腹部に伸びていた。

 

快楽に従う少女はまるでそれ以外目に入らないかのように一心不乱に行為を続けている。

 

炎の中、少女は自慰に耽っていた。

 

 

「あぁ…あんっ…!」

 

 

即座に理解は出来なかった。何故少女がそんなことをしているのか。

徐々に熱が増していく艶やかな嬌声。五歳の少女が行うには余りに異常すぎる行為。

動かず喋らないはずの妹。

無色透明な世界で唯一色のついた少女は美しくも儚く、異常だ。

行為を続ける彼女の愉悦に満ちた目があった。綺麗な空色の瞳、無色な世界で俺が初めて見た色は、皮肉なことに色欲に塗れている。

 

ふと自らの手を見下ろした俺はそれが真っ赤に染まっている事に気が付く。

あぁ、俺は無色じゃなかったのだ。この手は産まれた時から血に染まっていた、何故なら俺の母親は俺自身が殺したようなものなのだから。

 

 

「…!」

 

 

気が付けばリップが目の前に立っている。

肩に着物をかけ、前面をはだけた少女の裸が見えた。

浮かべた笑みは子供とは思えないほど妖艶であり、今までの無感情と比べるとまるで別人のようだった。

 

 

「――ねぇ、お兄様?」

 

「っ…」

 

(わたくし)お兄様が人を殺す姿に一目ぼれしてしまいましたの、こんなに興奮したのは産まれて初めてですわ」

 

 

そう微笑むリップは濡れた指を舐める。

見せつけるように身体を晒すと、まっすぐに俺の事を見つめ嗤う。

両橋・エリア・リップアウト。出来損ないの空色はその小さな手を伸ばし、俺の頬をゆっくりと撫でた。

 

 

「――ですからこれからは。私の為に人を殺してもらえますかしら、お兄様?」

 

 

その瞳に宿す知性は底が知れない。

かくして炎と血の中で俺はエリアと出会った、無色だった俺の人生は再び始まったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

結局その後、エリアを担いだ俺は羽柴邸から脱出した。

怪我を負った身体ではあったが軽いエリアを担いで外壁を昇ることはそう難しくなかった。

火事が広がる屋敷を後にした俺達を待っていたものは迎えの車だった。どこから情報を掴んだのか知らないが両橋から回された車に俺達は乗るしかなく、そのまま自宅に連行された。

治療を受けた俺はエリアを探したのだが既に彼女の姿は無く、この日は眠る事しかできなかった。

 

次の日、目覚めた俺を待っていたものは何と弧十郎と黒いドレスを身にまとったエリアの姿だった。

 

 

「…羽柴兼蔵は理事会の中でも一番厄介な相手だった」

 

 

楽し気な笑みを浮かべるリップの隣に座り、いつも通り厳めしい表情を浮かべた弧十郎の話を聞く。

政界にも影響力を持ち、状況を混沌させるだけだった羽柴。日本の腐敗の原因とも言える奴を殺したことはかなりの意味を持つ。

 

 

「当初の予定ではエリアを足掛かりに徐々に突き崩していくつもりだった。何より直接手を下したことは愚かとしか言いようがない」

 

 

説教か。

顔をしかめた俺に弧十郎がピクリと眉を動かす。

つい顔に出ていたらしい。慌てて表情を戻そうとするが、今までどんな風に表情を作っていたのか解らなくなってしまっていた。

息をついた弧十郎があぐらをかいたまま腕を組む。

 

 

「だが」

 

「?」

 

「これで理事会連中を一掃することが出来る。目的がどうあれ…夏目、よくやった」

 

 

そう言って立ち去る弧十郎の背中を俺は呆然と見送る。

後に聞いた話ではエリアが弧十郎に何か掛け合ってくれたらしい。俺は咎められることは無く、結果として羽柴を殺したことが両橋の力を強めた。

 

 

「良かったですわね、お兄様」

 

「…あぁ、そうだな」

 

 

隣のエリアは全てを知っているかのように笑う。朝日に照らされた空色が世界で一番綺麗に輝いている。

かくして――少年は人を殺し、産まれて初めて親に褒められたのだった。

 

 

 

・・・

 

 




5歳だからR18じゃないな!(いやまぁ直接的表現してねぇからセーフ)
ともあれ異常を詰め込み過ぎてちょっと駆け足になっちゃいましたね、まぁ今後で解るということで。
ではでは


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 始まり

三月の敗因・花粉症とダークソウルとガス欠
リハビリがてら投稿、新キャラの紹介で乱れたなぁ…
ではほんへ


 

・・・

 

 

 

昔のことを思い出しながら、俺はいつのまにか眠ってしまっていたらしい。

椅子に腰かけ、布団に突っ伏していた俺は目を開く。柔らかな感触が視界を覆っており、何かに髪を撫でられていた。

冷えた身体を起こすと家の中はまだぼんやりと暗い。痛む肩を回し、目を擦って眠気を払うとベッドに視線を戻した。

 

そこにはエリアがいつものように微笑み、座っている。

十年前から多少は伸びたとはいえ幼いままの容姿、常人離れした空色の髪をサイドテールに結んでいる。

どうやら頭を撫でていたのは彼女のようだ。儚い印象を受ける妹の姿に俺は思わず姿勢を正す、余裕で満ち溢れたエリアの笑みは以前と何ら変わらない。

 

 

「ご機嫌ようお兄様、良い朝ですわね」

 

「あぁ…おはよう、リップ」

 

 

再会は静か過ぎるぐらいだ。

黒いドレスのままベッドに座ったリップは空色の瞳で俺の事を見つめる。

年齢不相応な妖艶さ。その未来予知にも等しい演算能力と引き換えに彼女の肉体は脆く、幼い。一日中寝ていたことを考えれば、心配にもなった。

 

 

「身体は大丈夫なのか?」

 

「あら、ちょっと記憶は飛んでいますけれど身体は健康そのものですわ。むしろ元気なくらいで…ところでお兄様、ここはどこなのかしら?日本には見えないのですけれど」

 

「あぁ今説明する。ここは――」

 

 

それから俺は時間をかけ、今まで起きた全ての事を包み隠さず説明し始めた。

遭難し、気が付けばこの世界にいたこと。この世界には神がいて、ダンジョンがあること。

出会った仲間達、俺の送ってきた日々。自分さえ知らなかった神殺しの力が目覚め、止まっていた運命が再び動き始めたこと。

先日起こった事件とティアマトから聞いた白痴の魔王、そして獣として完成した戦場でエリアを拾ったこと。

 

同じ『神殺し』である彼女には何も隠す必要が無かった。

喋るうち懐かしさは徐々に薄れ、静かに話を聞いているエリアの実体も明らかになっていた。

腹違いの妹。俺にとって唯一無二の家族。

両橋・エリア・リップアウトは――俺の過去そのものだ。

説明を終えるとエリアはふむと頷く。特に驚きもせず、澄ました表情のまま俺の事を見つめた。

 

 

「なるほど異世界転生、大体解りましたわ。幾つか気になる点はありますけれど…」

 

「お前は何も覚えてないのか?何で18階層にいたのか、とか」

 

「…私の憶えている限りでは…遭難したお兄様を千里と探しているうちに倒れてしまって、気が付けば身体が大きくなっていたような。それからずっと夢の中のようで…狼に襲われて…」

 

「…じゃあお前があの巨大骸骨!?」

 

「まぁお兄様の話を聞く限りそうでしょうね」

 

 

倒した位置からもそう考えるのが普通だ。

蒼炎という共通点(ヒント)もあった。同じ神殺しの獣であるリップも変身能力を有していてもおかしくない。俺と同じか、あるいはそれよりも深い位置からスタートしたエリアは既に神殺しとして完成しているはずだ。

ということはあの状態のままずっとダンジョンにいたのだろうか。あれほどの巨体がどこに隠れていたのかは知らないが、きっと俺がこの世界に来てからずっと理性を失ったまま彷徨っていたのだろう。

新しい神殺し、巨大骸骨の正体はエリアだった。お互いの状況を確認し少ない情報を整理した俺達はそう結論付けると頷きあう。

 

 

「ところでお兄様?」

 

「ん?」

 

「私の右脚に、何かがへばりついているのですけれど」

 

 

小首を傾げるエリアの足元、もぞもぞと布団の下で何かが動いている。

一瞬思案を巡らせた俺はあぁと声を漏らすと布団をめくり、眠っていたハティを発掘した。

エリアの足に抱き着いていた銀髪の少女は急速な光に辛そうな表情を浮かべると、エリアの足に顔を埋めた。

 

 

「えっ何この可愛い生物は」

 

「おーいハティ、朝だぞー」

 

 

呼びかけ小さな頭を撫でると、ゆっくりとハティの目が開く。

紅い垂れ目がぼんやりと周囲を眺め始める。ベッドに手をつき身体を起こした幼女はくてんと座りこむと、くしくしと手の甲で目を擦って愛らしくも欠伸を浮かべた。

 

 

「あらあらあらなんて可愛らしい!銀髪ケモ耳ロリとかマジ尊くないわけないんだよなぁこれには流石のリップちゃんも興奮を禁じ得ないというかいやホント可愛いなうぇへへ…」

 

「出てる、出てる」

 

「あら失礼」

 

 

早口になり涎まで垂らしていたエリアだったが俺の言葉にフッと表情を戻す。

我が妹は俗に言う陰キャである。普段はお嬢様という皮を被っているリップだが、その中身はただのオタクであり興奮すると口調が変わる。

 

懐かしい掛け合いで声をあげたからか、同じベッドにエリアがいることに気が付いたハティが首を傾げる。昨日は泣きっぱなしで気が付いていなかったようだ。少女は目の前に下見知らぬ相手に目を細めると、緩慢に腕を伸ばし俺の手をポンポンと叩いた。

 

 

「だれー…?」

 

「あぁこいつは俺の妹の両橋・エリア・リップアウトだ」

 

「…いも?」

 

「兄妹って言って…まぁ家族だ。そうだな、ハティにとっては叔母さ――」

 

「お兄様?私、まだ、15歳」

 

 

割り込んでくるエリアの笑みには静かな殺意が混じっている。流石にオバさん呼ばわりは嫌だったらしい。

解り辛く怒っている妹はハティに視線を向ける。ニコリといつものように妖艶な笑みを浮かべ、手を伸ばした。

 

 

「初めましてハティちゃん、私のことは気軽にリップお姉ちゃんと呼んで?」

 

「り?…り、り…りぷ…」

 

「まだちっちゃいツは苦手なんだよな。ほらハティ、リップ姉ちゃんだぞ」

 

「りぃー…りぷね?」

 

「おほぉっ」

 

 

リップがむせる。妹であり極めて身長も低い彼女が今まで姉扱いされることなどなかった。

ハティの自然(ナチュラル)な可愛さは妹の神に等しい演算能力を容易く破壊した。

咳込むエリアに苦笑しているとまだ眠たげなハティがくてんともたれかかってくる。昨日は風呂に入っていないからかその髪はぼさぼさに乱れ、若干汗臭いような気がした。

俺も数日風呂に入っていないし汚れを洗い流したい。それはリップも同じようであり、むせ終わった彼女と目があった。

 

 

「オホン。お兄様、私お風呂に入りたいのですけど」

 

「あぁそうだな、ハティも入ろうか」

 

「んぅ…」

 

「…あっハティちゃんがいると私お兄様を誘えないのでは?」

 

「洗ってやるから黙ってろ」

 

 

そういえばコイツ変態だった。

思いだした俺は息を吐きだすとハティを抱き上げ風呂場に向かう。

立ち上がったエリアのドレスが揺れた。容姿の幼さに対して大人びた立ち振る舞い。

天才にして陰キャオタク。常にぶっとんだ変態的なことや、途方も無い無茶ぶりを言って困らせてくるコイツとは絶対不変の腐れ縁であり、一緒に居て飽きることがない。

否応なしに俺の日常は変わるだろう。欠伸を浮かべた俺は僅かな呆れと笑みを滲ませながら風呂場に向かうのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「マジで?」

 

「マジですわ」

 

 

数時間後、案内がてら街に繰り出した俺は当のリップによって危機に瀕していた。

両手には既にパンパンになった買い物袋が四つ。袋の中には食材や、歯ブラシといった生活必需品が詰め込まれておりかなり重い。

というのもリップが必要以上に物を注文したからだ。特にシャンプーやリンスといった美容品は様々な種類を買い漁っており、自分に合うものを探す必要がある云々言われて押し切られてしまった。まぁ嘘では無さそうだし必要経費なら良いのだが、荷物を持つのは俺なので勘弁してほしい。

 

そして現在、女性ものを多く取り扱う服屋。

レジに詰まれた山のような服を前に俺は唖然としていた。様々な色の女性服はカラフルに折り重なり、いったいどれほどの数があるかも解らない。

 

 

「あー…いくらなんだ?」

 

「はい!合わせて1万ヴァリスになります!」

 

「いちまっ!?」

 

 

笑顔で告げる女性店員に俺の表情がひきつる。

参考までに挙げると豊穣の女主人で一皿頼むと300ヴァリス程度、円の感覚で言うと20万ぐらいになる。何にせよ1万ヴァリスはそう易々と出せる金額ではない。

胃がひきつる感覚を覚えながら俺はリップを見る。既に財布の中身はその大半が消失しており、ぶっちゃけ足りるかすら解らなかった。

 

 

「…ヘイ、マイシスター。一応申し開きを聞こうか?」

 

「あらマイブラザー、残念ですが正義はこちらにありましてよ」

 

 

ハティと手を繋いだリップがニコリと笑う。

似てはいないが年の離れた姉妹に見えなくも無い。何より両手の塞がった俺の代わりに見ていてくれるのは助かる。

 

 

「お言葉ですがお兄様、家に服が少なすぎるんじゃなくて?」

 

「え」

 

「先ほどチラッと確認させていただきましたけれど何着かしかありませんでしたもの。おおかたローテーションで服を洗濯して、ハティちゃんにも同じような服ばかり着させているのでは?」

 

「ウッ…」

 

 

着られれば何でも良いと思っていたし、女子のおしゃれというのも良く解らない。結果ハティにはいつも同じようなワンピースばかり着せてしまっていた。

ため息をついたリップがやれやれと首を振る。

 

 

「良いですかお兄様、女の子はオシャレをする生き物です。逆を言うとオシャレをしないと死にます」

 

「…百歩譲ってそうだとしても一万ヴァリスはやり過ぎだと思うが」

 

「多いにこしたことはありませんもの。それに三人分見繕ったらそのくらい妥当ではなくて?」

 

「三人?」

 

 

見れば服山の中にはハティのものとおぼしき服と、俺のものなのか男性服も幾つか含まれている。どうやら俺のものも選んでくれたらしい。

確かに三人分と考えればありえるのか、今まで買わなかった分だと考えれば1万ヴァリスはむしろ安いぐらいなのかもしれなかった。

とはいえ必要だからといって。ずしんと手荷物を地面に降ろした俺は震える手で財布を掴む、中身を確認するとギリギリ足りることに気が付いた。

 

 

「お会計よろしいでしょうかー?」

 

「くっ…これで…!」

 

「お買い上げありがとうございましたー!」

 

 

ヴァリスが飛んでいく。

これで五袋目、腕に食い込む紐が痛い。まだまだ買い物に付き合わされそうな俺は深くため息をつくと、先を歩き始めるリップとハティの後をよろよろと追い始めた。

 

 

 

・・・

 

 

 

その日の昼食。

買ってきた食材の一部を使い作り上げたオムライスにハティはかなり喜んでくれた。

テーブルについた俺は膝の上に乗せたハティの口元に残ったケチャップを拭う。若干眠たげな少女はボッーとなすがままにされていた。茶色の食卓の上には赤い跡の残る皿が二枚残されており、まだ食べていない俺のオムライスだけがまだ綺麗な黄色の稜線を描いていた。

机の反対側ではリップがナプキンで口元を拭いながら本をパラパラと高速で捲っている。昔から本を読んでいる時だけは真顔だ、いつもの笑みは消え失せ真剣な瞳だけが文字群を小刻みに追っていた。

 

 

「んふー」

 

 

ぶんぶんと尻尾が首下を叩いている。

数日ぶりの落ち着いた時間に少女は満足げだ。汚れたナプキンを机に投げ置いた俺は腕を回し緩くハティを抱きしめる。腹が空腹を訴えかけているが、それを上回る幸せを体温高めな少女に感じていた。

首だけのけぞったハティが楽し気にこちらを見上げている。自然な笑みを浮かべた俺は視線を合わせると顔を近づけ前髪に息を吹きかけた。

 

パタンと音をたててリップが本を閉じる。

瞳を閉じた妹は膨大な情報を瞬く間に処理すると、余裕の表情で顔をあげた。

彼女が読んでいたのはこっちの世界の童話。俺が文字研究に使った本の一冊は絵本と違い挿絵が少なく、初心者には読解すること自体難しい。

 

 

「解ったのか?」

 

「えぇ勿論、町の看板でだいたいの法則性は見えていましたし」

 

 

僅か数時間足らずだがリップには充分過ぎる時間だったろう。

文字解読程度なら彼女にとって片手間のはずだ。俺が数週間かかったことを考えれば余りに短い、その演算能力があれば文字の習熟は余裕である。

いつものことなので驚きはしないが妹に頭脳で負けるのはどうなのだろうか、とはいえ張り合うだけ無駄だということを俺は知っている。

自分の経験した苦労をいとも容易く越えていく天才に俺は肩を竦める。膝にハティを乗せたまま、とりあえず自分用のオムライスを食べようとスプーンを手に取った。

 

 

「こんちわー!リョナくーん、遊びに来たよー!」

 

「…お邪魔します」

 

 

玄関ドアが開くと同時に女子が二人入ってくる。

殆ど押し入りに近い。勢いよく飛び込んできたティオナの後ろを私服のアイズがついてきていた。

遠征前は良くこうして遊びに来たものだ。見慣れた光景ではあるが、あの時からだいぶ環境は変わっている。

 

 

「いやぁこの家も全然変わらな…」

 

 

膝の上に乗ったハティとリップの姿にティオナの動きが固まる。

ロリ二人。久しぶりにこの光景を見たアマゾネスにはきっと犯罪的な光景に見えただろう。

 

 

「…なるほど!説明次第で私のウルガが火を噴くぞー!」

 

「あら、どなた?」

 

「待て、順を追って説明するからその剣を降ろせ」

 

 

スプーンを置く。

笑顔のまま殺意を漲らせるティオナを鎮めるため立ち上がる。俺が昼食を食べるのはもう少し先の事になりそうだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

数分後、説明を終えた俺はオムライスを女子二人に奪われていた。

幸いケチャップライスは余っていたのでもう一つ作るはめになっている。といた卵をフライパンに流し込みながら、俺は背後の食卓に隣り合って座る二人と話していた。

 

 

「なるほろね。娘と…はぐ…妹?」

 

「ティオナ、喋りながら食べるの汚い…」

 

 

何でも昼飯を食べていなかったらしい二人は一つのオムライスを分け合って食べている。タイミング的にたかりにきたことは明白だが暴れられるよりかマシだった。

 

料理に意識を戻す。熱をあげる卵液が小さな泡を弾けさせる。軽く箸でかき混ぜフライパンを回すと丸く黄色い円が広がった。卵の焼ける匂いがする。頃合いを見計らいケチャップライスを上に乗せると軽く整形し、後は流れで皿の上に巻き置いた。

 

 

「…まぁ俺にも色々とあったんだよ」

 

「ふーん」

 

 

手を動かしながら背中越しに答える。

ティオナの座る机の反対側にはハティを膝に乗せたリップが楽し気に会話していた。

基本人見知りしないハティは早速リップに懐き始めており、ぱたぱたと尻尾を振りながら興味津々といった様子でリップの言葉に耳を傾けていた。

 

 

「どうもー、私ティオナっていうんだ!よろしく!」

 

「おー?」

 

「あらごきげんよう」

 

 

スプーンを置いたティオナが二人に元気よく混ざる。

オムライスを乗せた皿を手に俺は机に戻ると、姦しい空間を眺めながら席についた。

食べ始めようとしたところで視線に気が付く。見上げると完食したらしいアイズがスプーン片手にジッと俺のオムライスを見つめていた。

どうやら半分ずつでは足りなかったらしい。俺は深くため息をつくとスプーンで黄色い山を二つに切り分けた。

 

 

「…半分やるよ」

 

「!」

 

 

コクコクと頷くアイズにオムライスを半分やる。

花より団子。無邪気に食べ始めるアイズはまだ…子供だ。

 

(…)

 

自分の分を食べながら俺はぱくぱくとオムライスを消費していくアイズを眺める。

ほんの数日前僅かだが刃を交えた相手と俺は一緒の食事をとっている。狼騎士として訪れたルーム、今でもあの時向けられた殺意は鮮明に憶えていた。

 

 

「…どうかした?」

 

「いや、何…でも」

 

 

増した痛みを堪える。

額に浮かべた汗を隠しながら俺はオムライスを口にすると、暫く黙って咀嚼し始めた。

以前とは味の感じ方も変わってしまっている。味覚を上回った嗅覚が酸味を強く伝えていた。

同時に色覚にも障害が現れているらしい。痛みの波に合わせ視界から色が消え失せ、壊れたテレビのように砂嵐を発生させる。明滅する白黒の世界が消え去るまでにはかなりの時間がかかった。

やっと痛みが抜ける。背中に嫌な汗をかきながら俺は視線をあげると、仲睦まじげにしている女子達を見た。それは朗らかな痛みだ、かけがえのない平和は鮮やかに俺に選択を迫る。

 

あの日から力に抗う事は激痛を伴い、俺は慢性的に精神をすり減らしていた。

きっとこれから痛みが消えることは無いだろう。慢性的な苦悩は俺の日常の一部になっている。

 

 

「あ、それでね!私凄いもの見ちゃって何とあの狼騎士が――」

 

 

嬉々として話し始めるティオナの声がどこか遠く聞こえる。

そんな俺の姿を、リップはいつものように見つめていた。

 

 

 

・・・

 

 

 

日の落ちた夜庭で。

魔石灯が照らす縁側に腰かけた俺は半壊した満月を見上げる。

ティオナ達が帰り夜も更けた。見下ろした暗い庭ではハティのつけた線香花火が赤い火花をたてている。

しゃがみこんだ少女の側には水盆が置かれ、鮮やかな色の燃えカスが既に幾つか浮かんでいる。パチパチと小さな音をたてる花火に少女は興味津々であり、先ほどから火をつけては楽しそうに驚きの声を漏らしていた。

 

穏やかな時間の中で俺はティオナ達から聞いた話を思い出す。

ロキファミリアの見つけた新種のモンスター、狼騎士。蒼い炎を纏う獣は人語を解し、あの都市最強であるオッタルとさえ渡り合ったという。

これで今まで噂程度の存在だった化け物の存在が明らかになってしまった。狂人の戯言であれば誰も信じないが、あのロキファミリアの言葉であれば誰も無下にすることは出来ないだろう。すぐにでも狼騎士の存在は周知の事実になるはずだ、その先に待つものが破滅だという事は俺が一番理解していた。

 

 

「ねぇ、お兄様?」

 

 

隣に腰かけていたリップが話しかけてくる。

何の違和感も無く少女は隣で微笑み、空色の瞳で俺の事を見つめていた。

気が付けば彼女の指先にはコインが一枚挟みこまれている。リップはかざすようにコインを見せると、悪戯っぽい笑みを浮かべ指の合間でくるりと回して見せた。

もう片方の手には何も持っていない。軽く上に放り投げられたコインを掴むと両手を揃えて握り込み、再び開くとコインは掴んだ反対の手に瞬間移動していた。

 

 

「…手品だな、消えたコインはこっちにある」

 

「あら、お見事」

 

 

ドレスの袖を引っ張ると隠されたコインが縁側にチャリンと落ちてきた。

何てことは無い、初めから二つあっただけで器用さがあれば誰でも出来る手品だろう。

ただ眼で終えてはいない、最初から二つあったことには匂いで気がついていた。

 

 

「それだけか?」

 

「勿論これは手品、ではこちらはどうかしら?」

 

 

再びコインが投げられる。

思わず硬貨の軌跡を追った俺の視線の先で、夜闇の中を何か茶色い塊が上から落下してきていた。

やがてポスンと軽い音をたててそれは丁度リップの掌に落ちる。彼女の指に収まったそれは羽毛に覆われており、ぴくぴくと痙攣を繰り返していた。

 

 

「…雛?」

 

 

それは、鳥の雛だった。

見上げた俺はいつのまにか軒下に出来ていた巣を見つける。リップは先に気が付いていたのだろうか。

 

 

「カッコウに落とされたのでしょう」

 

「…」

 

 

リップがそう言うからにはきっと正しいのだろう。

だが彼女は一度だって上を見上げていない。時間も位置も解らない雛の落下を反射神経にも頼らず受け止めるなど不可能だろう、だが確かに夜闇の中で雛は彼女の手に収まっていた。

いったいどういう計算をすれば雛がカッコウに落とされるタイミングなど解るのか。俺には到底検討もつかないが、きっと彼女にとってはこの事象も計算済みだったのだろう。未来予知に等しい予測は常人にとって奇跡であり、リップのような天才にとっては当たり前のことでしかない。

 

 

「お前は何でも知ってるな」

 

「あら、何でもは知りませんわ。ただ目に見えるもの全て計算しているだけですもの」

 

 

それが凄いんだよ、そう苦笑しながら見下ろした雛は既に死にかけている。

どうやら受け止められる前から弱っていたらしい、曰く托卵にあった巣の子供はカッコウ雛に押しのけられ充分な餌を食べられない事もあるそうだ。小さな雛は彼女の掌の中で息も絶え絶えといった様子であり…瀕死のまま苦しむくらいなら、いっそ楽にしてあげた方が良いのかもしれない。

リップは慈愛に満ちた指先で死にかけの雛の頭を撫でる。到底子供にしか見えない彼女だが、その大人びた仕草と母性には目を見張るものがあった。

 

 

「可哀そうな子。産まれた環境を奪われて、羽ばたく前に死んでしまうなんて」

 

 

幾らリップの知能が高くても、この雛を救うことは不可能だろう。

人には出来る事と出来ない事がある。リップは本来持つべき身体能力と頑強さを失い、その代わりに絶大なる計算能力と頭脳を手に入れた。

結局のところ、子供は産まれた環境が全てなのだろう。地位や豊かさもそうだが、肉体や知能まで育つ環境に左右される。この雛もまたそうだ、同じ「巣」という環境にカッコウの雛がいなければ死ぬことは無かった。

 

リップの指の合間で雛は苦悶の声をあげていた。

柔らかな笑みを浮かべた少女は優しく赤子の首に指をかけると息を吹きかける。

その愛情はエゴでしかないのかもしれない。それでも苦しみの中で雛もまた看取られる事を望んでいるような気がした。

 

 

「でも大丈夫ですわ、あなたは何も悪くないですもの。()()()()()()()()()。ならせめて、次の夢で会いましょう?」

 

 

少女の力であっても、死にかけの雛を殺す事はそう難しくなかった。

首を手折られた雛がリップの手の中で脱力する。無力な赤子は空を知らぬまま息絶え、その残酷な一生を終えた。

瞳を閉じたリップは死骸を緩やかに握りしめている。悲しんでいるのだろうか、隣に座る妹の顔を覗きこむと顔を伏せた彼女は確かに楽し気な微笑みを浮かべていた

 

 

「おい…!」

 

「――いいえお兄様、まだこれからですわ」

 

 

目を見開いたリップの手の中で変化が起こる。

首の折れた雛の死体が蠢きだす。触れた少女の手から瞬く間に黒い泥濘が溢れ出し、雛の身体を包み込む。

呆気にとられる俺の前で少女は愛おしそうに掌の黒泥を見下ろしている。溢れ出す魔力によって空色の髪が揺れていた、異常な能力の行使は空間を虹色に染め上げると収束し始める。

それは刹那ほどの時間。拡散した光が逆再生のように全て泥の中心に巻き戻り、リップの手の中で容を成し始める。それはかつて雛の死骸だったもの、困惑する俺の目前で泥の塊は小さな球体となり――やがてゆっくりと、その羽を伸ばした。

 

 

「…!?」

 

 

少女の手中で小鳥が羽ばたく。

翠のような羽。死骸から産み落とされた小さな鳥は首を傾げ、新しく出来た瞳で世界を不思議そうに見つめていた。

妖しく微笑んだリップは小鳥の頭を撫でる。そこにあったはずの雛は消え去り、まるで生き返ったかのように別の生物がいる。

手品なんて生易しいものじゃない、これは本当の魔法。不可思議な現象そのものに俺は驚愕するほかなく、当の本人はただ楽し気に視線をなげかけてきていた。

 

 

「私の権能は()()()()()発動条件(トリガー)は私自身が殺すこと。皮肉ですわよね、弱者である私の能力が誰かを殺さないと発動しない力だなんて」

 

 

今まさに見せつけられたそれこそが彼女のスキル。

産みなおし。彼女曰く殺さなければ能力は発動しない…ということは死者蘇生ほどの能力では無いらしい。

瀕死だった雛は彼女自身の手によって殺された。肉体を再構築された雛は確かに生きている、今まさに自らを殺したリップの手に小鳥はじゃれつきピヨピヨと甲高い声をあげた。

死と生の円環。胎に入れず生命としての在り方を変質させる魔術。

 

俺が鉄を憎悪したように、彼女は何を恨んだのだろうか?

 

 

「お兄様は鉄の鋳造でしたわよね、ではハティちゃんは?」

 

「あぁ気がついてたか、ハティは…多分幻覚か何かだと思う、詳しいことは解らない」

 

 

視線を送るとハティの垂らした線香花火が闇の中でぱちぱちと火花を散らしている。

神殺しの獣、抱く蒼炎とその力。これから迫るであろう包囲の中で、俺達は命を狙われることになる。

神殺しの獣であるリップ、炎を分け与えたハティ。どちらもかけがえのない家族だ、俺が絶対に守らなければならない。

 

 

「…ねぇお兄様」

 

「なんだ?」

 

「白痴の魔王、のことですけれど」

 

 

曰くリップもまた夢を見ていたらしい。

それは原初を辿る獣の夢。少年が母親を殺したあの部屋でリップもまたティアマト・イフ・ニグラスに出会った。そして俺と同じように白痴の魔王の存在を告げられたという。

世界を終わらせる異界の神、神殺しである俺達の存在意義。

 

 

「…お前はどう思うんだ」

 

「さあ?この目で見てみないことには何も」

 

 

その神がどこにいるのか。ティアマトは全ての神を殺せば現れるとそう言った。

だがその道のりには血が待っている。殺し合いの中で俺は俺でいられるのか、何より彼らと戦う必要があった。

 

 

「ですが何も捨てずに何かを得ることは難しいですわよ、お兄様」

 

「…解ってるよ、そんなこと」

 

 

彼女はどこまで解っているのだろうか。

縁側に腰かけた俺は月を仰ぐ。静かな夜風が抱えた膝に吹きつけていた。

リップの手の上で小鳥は自らを作り直した新しい親にじゃれついている。

選択は穏やかに迫る。花火をする少女の背中が闇の中で白く浮かぶ、手にした赤い閃光が空中をゆっくりと落下していた。

俺の日常は変わる事だろう、空色の少女がもたらす波紋はいったい何色になるのか。

 

――屍肉聖杯、両橋・エリア・リップアウトは笑っていた。

 

 

 

・・・

 

 




次回は早めに、というか日本から四季が消え去ればもっと早くなります。まぁプロット書いてたみたいなところあるし是非もないよネ!
んではではー


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