紫陽花 (大野 陣)
しおりを挟む

Prologue

お初にお目にかかります。

月一更新を目指しますので、生暖かく見守っていただければ幸いです。


「なぁ、お二人さん。今日はどうする?ゲーセンでリベンジマッチといくか!?」

 

 赤毛長髪の少年――五反田 弾が声をかけた。

 中学一年の最後の日、最後のHRが終わった教室にはどこに遊びに行こうか、これからどうするかを相談する声が響いていた。

 

「いや、今日はやめとくよ。一夏も調子悪そうだし」

 

 声をかけられた少年の一人――斧崎 秋久が答えた。彼の隣の少年――織斑一夏は少し気怠そうに手を振って応えた。顔色はそこまで悪くはない。ただ、動きが緩慢ではある。

 

「悪いな、弾。身体の節々は痛ぇし、なんか喉もヘンなんだよ」

 

 そう級友に告げ、二つ、三つと咳払いをする。

 

「節々って…お前、爺むさいからこうなったんじゃねぇか?肉食ってるか?」

 

 ニヤリと口角を上げた。明らかに挑発の意を込めた表情を作る。彼なりに一夏を元気付けようとしたようであった。

 いつもなら一夏から反論がくるはずであったが、この時ばかりはなかった。代わりに、秋久から窘めるような視線と、不満を訴える一夏の視線が飛んできた。思い通りに励まされなかった親友達からのリアクションに、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「…あー…じゃ、数馬にもそう言っとくわ。んじゃ、お大事に~」

 

 ひらひらと手を振り立ちあ去る弾。

 二年に進級し、別々のクラスになるかもしれない。だからこそ、今日は遊び倒そうとも思ったのだろう。だが、四馬鹿の一人は体調不良である。ま、春休み中はいくらでも誘う時間があるさ。彼は頭を切り替え、四馬鹿の最後の一人、御手洗 数馬を誘いに行った。

 

 そんな弾を見送った二人は、どちらからともなく席を立ち、家路についた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「…そんなに爺むさいかな…俺…」

「いや、まぁ…若々しくはないわな」

 

 秋久はこれまでを思い返した。確かに、隣を歩く親友は若々しくはない。体の節々を庇って歩くせいか、余計に動きが年老いて見えた。いや、性格は溌剌としているし、動きも元気なときは俊敏ではある。ただ…趣味が若々しくない。

 以前、五人でファーストフードに寄った時もそうであった。炭酸の飲めない数馬はオレンジジュースを、鈴音――鳳 鈴音と弾と秋久はコーラを注文したが、一夏はウーロン茶を注文していた。その時だけではない。カラオケに行ってもポップスやロックではなく、歌謡曲と呼べそうな年代の曲を歌っていた。

 弾と数馬は一夏弄りのネタにするが、幼い頃から共に過ごしてきた秋久にとっては今更弄るようなネタではなかった。

 

「ホントに具合悪そうだな。病院行った?」

「昨日行った。たぶん、成長痛だろうってさ。インフルでも風邪でもないから、大人しくしとけってよ…あのヤブ医者め…」

 

 各関節の痛みを訴え、その声は少し掠れたような、少年のような、何ともいえない声色になっている。年齢は十三歳、熱もなく、免疫検査も陰性…となれば成長痛に変声期…と片付ける他はなかった。

 お前ももうすぐこうなるぞ、と秋久に言ってみたが、秋久は適当に流していく。

 

「成長痛ってもさぁ…アキの方が成長早い気がするんだよなぁ…」

「その辺は個人差なんじゃないかな。そういや、こないだまでは一夏の方が背、高かったよな」

 

 一夏と数馬が165cm前後、弾が170cmと少し、秋久が160cmほど…確かに一夏の方が高かったはずである。しかしながら、今では秋久の方が目線の位置が高かった。

 納得いかない、とふてくされる一夏。趣味は老成しているのに、中身はまだガキだなと呆れる秋久。

 

「そうだなぁ。他には…例えば、心因性…とか?」

「はぁ?」

「ほら、鈴ちゃん、中国に帰っちゃったじゃん。その辺でなんかあるとか、寂しいとか」

「んー…賑やかなヤツが減っちまったし、寂しくはあるけど」

「出発ギリギリまで二人っきりで話してたのに?」

「話つっても、あうあう言われた後に、アタシも忘れないからアンタも忘れんじゃないわよ~とか言われたぐらいだぜ?あ、あと帰ってきたら酢豚毎日おごってくれるって」

「はぁ?なんで?」

「知らねぇよ。俺に聞くな」

「で、お前はなんて答えたんだよ?」

「あぁ、忘れねぇよ、って」

 

 一夏はその時、鈴音の目線からでは素晴らしい微笑みを浮かべていたであろう。そんな一夏を見た鈴音は顔を真っ赤にし、走って行ったに違いない。

 甘酸っぱい青春の一ページになるであろうワンシーンだが、一夏は何も感じていなかった。フラグクラッシャー、乙女泣かせ、朴念仁…様々な二つ名を持つ彼ではあるが、彼はその由来を気付けていない。彼はあくまで善意で動いている。鈴音にとっては心に刻まれたワンシーンであっても、一夏にとっては仲の良い級友を送り出したワンシーンに過ぎなかった。

 

「鈴ちゃんも苦労するなぁ…」

「むしろ俺の方が苦労するよ」

 

 片やなかなか届かない級友の恋路について、片やエネルギッシュな級友について…見当違いの方向に少しだけ頭を悩ませた。もっとも、数秒後には違う話題に移ってしまっていた。

 

 他愛のない話に花を咲かせながら二人は歩く。秋久の住むアパートを通り過ぎ、そのアパートから徒歩数分の織斑邸へと二人は入っていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 ただいま、と二人揃って挨拶をし、織斑邸へ入った。

 

 一人暮らしの秋久はかなりの頻度で一夏の部屋にいる。秋久が自宅に居るのは夕食と入浴に就寝時ぐらいのものであった。その夕食も週に三日ほどは織斑邸で食べている。以前、振り込まれる生活費からいくらかを織斑家家長である織斑 千冬に渡そうとしたこともあった。しかし、彼女がそれを受け取ったことはない。曰わく、子供から受け取る金はない、その代わりといってはなんだが、これからも一夏を頼むぞ、とのことであった。また、ここを我が家のように思っていい、とも許可が出ている。ただし、彼女の部屋だけは立入禁止である。

 オイルの切れたブリキ人形のように歩む一夏を彼の部屋へ押し込み、勝手知ったる織斑家のキッチンから急須に茶葉、湯呑みのセットを取り出し、電気ケトルで湯を沸かす。準備が整うと、彼の自室へと向かった。

 

 秋久は器用に片手で盆を持ち、ドアを開けた。一夏はどうも部屋着に着替える途中であったらしい。制服の学ランは既にハンガーに掛けられていた。着替えてこないのか、とTシャツに袖を通しながら問う一夏に、面倒だ、と脱いだ学ランを椅子に掛けながら秋久は応えた。緑茶を淹れた一夏用の湯呑みを渡す。ついでに彼自身用の湯呑みも準備した。

 二人揃って茶を啜り、ほぅと溜め息を吐いた。爺むさい、と思いもするが、秋久自身もこの雰囲気が嫌いではない。

 

 

 

 その後は春休みの予定を二人であーだこーだと話し、二人で夕食を作り、少しだけテレビゲームを楽しむ。いつもなら二人の成績はほぼイーブンなのだが、この日は違った。明らかに一夏の調子が悪い。コントローラーを握りしめたまま、虚空を見つめていることが数度あった。

 

「なぁ、大丈夫か?お前」

「……え?何が?」

「ほら、今だって話聞いてねぇだろ?成長痛だけか?」

「大丈夫だって…医者にも行ったんだぜ?鼻に綿棒突っ込まれたし」

 

 元気!と両腕に力瘤を作る様な仕草をする一夏。とりあえず元気をアピールしたいようだ。だが、少し一夏の顔が赤く見える。熱でもあるのだろうか…と秋久は自分の額に手を当て、逆の手を一夏の額に当てる。差はないように感じた。そのまま一夏の後頭部を掴み、今度は自らの額と一夏の額をダイレクトに引っ付けた。やや一夏の方が高く感じるが、熱があるとは言えない温度。正常の範囲内といったところだろう。

 

「熱はねぇな」

「だろ?元気なんだから心配すんなって!どっちかっつーと今のはアキの方が暖かかったぜ?」

「いや、人肌なんだから暖かいだろ。冷たきゃ死んどるわ」

 

 秋久とて十三年の付き合いがある幼なじみの異変を放っておくほど薄情なつもりはない。一人で大丈夫だ!と主張する一夏に対し、調子悪いなら頼れよ、兄弟と譲らない秋久。最終的には、一夏の部屋に秋久が泊まることになった。

 織斑邸にはリビング・一夏の自室・千冬の自室・客間がある。基本的に秋久は客間で寝ることが多い。だが、今日は事情が違う。普段の一夏は健康優良児だ。そのことはずっと一緒にいた秋久が一番よく知っている。風邪など滅多にひかないし、怪我もほとんどしない。だからこそ、今回の様な体調不良の際、ダメージを大きく感じてしまうのだろう。

 秋久の脳裏に嫌な記憶が甦る。何故かわからないが、このまま一夏を一人で寝かせると、何か良くないことが起こる気がする。

 

「あー…でも、確かに疲れてるっぽくなってるっぽい」

「なんだそりゃ。ぽいぽい言い過ぎてわけわかんねーぞ」

「うっせ。ま、そろそろ俺も風呂行きてぇし、アキも帰れよ」

「……なぁ、一夏。泊まってもいいか?」

「お?どした?そんなに俺の顔色とかヤバそう?」

「いや、なんだろ…お前を一人にしたら不味い気がする」

「おーおー…愛されちゃってるねぇ。俺」

「あぁいしてるんだぁ君たちをぉぉ…ってそうじゃねぇよ」

「サンキュ、ノってくれて」

「どういたしまして…で、泊まっちまって大丈夫か?」

「大丈夫だ。問題ない」

 

 キリッと決め顔を作る一夏。アホなノリだが、中学生男子は往々にしてこんなものである。秋久が織斑邸に泊まることが決まった。織斑邸の客間には秋久用の着替えが一式置いてある。ちなみに、秋久の部屋にも一夏の着替えが置いてある。勉強会をしたり、遊びに夢中になってしまって泊まることがお互いに何度かあったからだ。もっとも上着などはなく、シャツや下着と寝巻を置いているだけではあるのだが。

 

「ふぃー。上がったぜー」

「おーう」

 

 濡れた髪を拭きながら一夏が出てきた。一夏の風呂は比較的長い。真夏でも入浴し、二十分以上湯船につかるような男である。顔を赤くし、湯気を纏いながら部屋に帰ってきた。水色のパジャマに着替え、寝る準備は万端。それを見届けた後、秋久は着替えを取りに客間へ向かい、そのまま風呂へ向かった。

 

 

 

 秋久が風呂から上がった。まさに烏の行水だ。風呂掃除も含め、三十分もかからない。さっさと寝巻代わりのシャツとパンツに着替え、客間へ向かった。客間にある布団を取りに行くためである。今日は一夏の部屋で寝る予定だ。彼を一人にするわけにはいかない…そんな気分であった。

 布団を抱えながら一夏の部屋のドアを開ける。部屋の主がベッドに上に胡坐をかき、虚空を見つめていた。大荷物を持って入室してきた秋久に反応を示さない。そんな一夏を気にしながら、布団を敷く。布団を敷いてる間も一夏は動かなかった。微動だにしないし、瞬きすらしない。流石に心配になり、声をかけた。

 

「んあ…?アキ…?」

「おう。そろそろ寝ようぜ」

「あー…そだな…ってお前まだ頭濡れてんじゃねぇか」

 

 しょーがねーなーといいつつドライヤーを取り出した。秋久をベッドにもたれさせ、髪を乾かし始めた。

 

「ったく…将来ハゲるぞ」

「嫌なこと言うなよ…」

「ならちゃんと乾かせって…うし、終わり!」

「ありがとな。じゃーそろそろ寝るか」

「もういい時間だしなー…っつーか、こっちで寝んの?」

「今更かよ?!」

 

 既に布団も敷き終わっている。秋久が布団を敷いていたことを知らない一夏からすれば、いきなり秋久が風呂から上がりいつの間にか布団を敷き終えていた…という形になる。

 一夏はいい時間と言っているが、まだ午後十時を回ったばかりである。普段から夜更かし癖のある秋久からすると、まだまだ夜はこれからだ。だが、不調を訴えている一夏がいる以上、夜更かしをするつもりもない。彼に合わせて秋久も横になり、眠れそうもないが眼を閉じた。

 

 

 

 草木も眠る丑三つ時…一夏は自室のベッドの上で悶えていた。

 寝苦しいからではない。確かにここ数日は春の陽気を越え、初夏ともいえる気温になっていた。だが、外からの熱ではない。この熱さは身体の中からだ。風邪の時の悪寒を伴う熱さではない。未経験の熱さに一夏は身体をくねらせ、はぁはぁと喘ぐことしかできなかった。布団を蹴り飛ばし、のた打ち回る。

 時折部屋に拡がる呻き声には少女のものとも、少年のものとも聞こえる響きが含まれている。

 

 数刻後、部屋に響きわたる呻き声は収まり、彼は気絶するように再び眠りに落ちた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「んぅ~…」

 

 姉である千冬からの躾のお蔭で、いつも通りの時間に目が覚めた。規則正しい生活は人生の基本。早寝早起きを習慣づけること。その影響でいつもの時間に眠くなり、いつもの時間に目が覚める。四馬鹿で夜通し遊ぼうとしても、毎回一夏が眠ってしまい、翌朝は一夏が最初に目覚める。

 

 ふあぁ、と寝転がったままの姿勢で伸びをし、軽く欠伸をする。

 伸びをしたとき、違和感を感じた。今までにない重心の移動があったからだ。違和感の元になっている、胸元に手を当てる。昨夜までの自身の胸元になかった柔らかさを感じた。一夏自身、触った記憶などは忘れているが、いわゆる、おっぱいがそこにあった。

 

「ゑ?」

 

 続いてパジャマの上から自らの股間に手を当てる。今までソコにあったはずのアレがなくなっていた。

 

「えぇ…」

 

 聞こえてくる声にも違和感がある。少なくとも、自分の声はこんなに高くはないはずだ。

 

 大変なことになった。とりあえず、横で心地よさそうに眠っている兄弟分に声をかけた。

 

 

 

 

 

 

 ―妙な夢を見た。

 誰かに揺すられる。聞いたことのない声が聞こえる。いや、千冬さんの声に似てるけど、違う。別人だ。

 

 一夏が一夏でなくなる夢を見た。一夏の身体がバラバラになり、再構築される夢だった。何度も彼は分解され、再び少し形を変えて人の形になる夢。彼が苦しそうに呻いているのに、秋久は何もできなかった。秋久も彼を助けようと足掻いているのだが、縛めは一向に緩まず、声すらも満足にあげられない夢だった。そんな夢から目覚めさせてくれた人物に感謝しながら、ゆっくりと目を開いた。

 

「ひぃっ!!」

 

 女だ。女が覆い被さっていた。見知らぬ女が秋久の顔を覗き込むように覆い被さっていた。反射的に布団を頭まで被り、胎児のように布団の中で丸くなる。恐怖から逃れるための反射的行動を取った。

 

「ちょ!アキ!?違うって!俺!一夏だよ!!」

 

 掛け布団の上から秋久を揺する。揺すっても彼は布団から出てこようとしない。一夏だと必死に主張するが、全く耳を貸す様子がない。掛け布団の中に潜り込んだまま、出てくる様子もない。

 

「あー!もう!チクショウ!」

 

 ばふばふと掛け布団を叩く。布団の上から秋久を叩いたときに、彼の身体が細かく震えているのを感じた。

 

 ―そうだ、忘れてた。コイツ、女がダメだったんだ。鈴と普通に話してたから、忘れてた。

 

「あー…アキ?悪かった…ごめん…とりあえず、部屋から出るから…落ち着いたら連絡くれ」

 

 充電器からケータイを取り出し、部屋の外へ持って出た。これなら、秋久が落ち着いたころに連絡が付く。

 

 

 

 一夏が部屋を出た。あれ以上部屋に居続けると、秋久がどうなるかわからない。とりあえずトイレに向かい、便座を上げ力を抜こうとしたところで気付き、慌てて座って用を足した。危なかった。この身体で男と同じように用を足せば、大惨事になるかもしれない。座ってやってみるも、力の調整が上手くいかなかったらしく、太ももなどにも飛び散ってしまった。予想外にこの身体の不便さを知った。

 

 手を洗いながら、鏡に目をやる。そこには千冬によく似た少女が映っていた。頬を抓ってみると、痛みを感じた。夢ではない、現実だ。

 

「どーっすかなぁ…コレ…」

 

 一夏は我が身に起こったことをとりあえず受け入れて、大きく溜め息を吐いた。




どうしてこうなった…
無駄に長くて申し訳ないです。

秋久がビビって布団に潜り込んだのは女性恐怖症なのと、知らない人が覗き込んでたからです。普通に驚くと思いますが。

誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep1.

『ケータイ』
 個人総合携帯端末の通称。携帯電話→フィーチャーフォン→スマートフォン→個人総合携帯端末(通称:ケータイ)。スマートフォンが更に進化したもの。イメージは映画版アイア○マンのトニ○・スタ○クスが持ってる端末。ハックしたりは出来ないけどホログラム投射ぐらいはできる。ジャ○ビスはいない。

 最後のみ秋久視点です。


「とりあえず、千冬姉には言わねぇとなぁ…」

 

 一夏は溜め息を再び吐いた。先ほどから溜め息ばかりが出てしまう。洗面所からリビングへ向かう。時刻はまだ午前七時になっていない。自室の前に戻らなかったのは、自らの声を秋久に聞かせないためだ。女性恐怖症の彼にこれ以上ストレスを与えるとどうなるかわからない。

 

 自身を落ち着かせるため、ほうじ茶を淹れて啜る。

 

 …こんな苦かったっけ?

 

 だが、その苦味が体を覚醒させていく。まさか、身体が変わったことで味覚も変わってしまったのだろうか。味覚とは人生経験によって形成されると聞く。ならば、変わってしまったことで味覚もリセットされたのであろうか。それとも、寝起きであまり頭が回らないせいなのか、濃く淹れすぎてしまったのだろうか。

 いつもより苦く感じるほうじ茶を、眉間に皺を寄せながら、一夏は啜った。ケータイのロックを解除し、千冬宛てにメッセージを作ろうとするも、なかなか筆が進まない。

 

 『女になっちゃった』…いや、違うな…『助けて!』…これも違う気がする…『大至急連絡ください』…うん。なんか勘違いされそう…『いきなり自撮りを送る』…んー…やったら面白いかも知んないけどなぁ…

 

「ま、電話すっか」

 

 当たって砕けろ、なんとかなるさ!

 一夏は大変な楽天家であった。星の廻りがいいのか、運がいいだけなのか、彼は今まで、今の今まで特に大きな不幸に見舞われたことがそこまでなかったし、何かあっても比較的速やかに救われてきた。

 

 

 

 無機質な呼び出し音が響く。五度目のコール音のあと、千冬が電話に出た。

 

『どうした?珍しいな、こんな時間から』

「もしもし。千冬姉?今日、何時ごろ帰れそう?」

『……おい、誰だ貴様は』

 

 千冬の声の質が変わる。声色が低くなり、警戒心を露わにした。

 

『私の弟に何かあったら…』

「いや、俺がその弟だって」

『黙れ。私に妹などおらん。いいか、そこを動くな。そのケータイの位置が少しでも変わってみろ。生まれてきたことを後悔させてやる』

 

 千冬はそれだけ言って、一方的に電話を切った。

 

「ちょ!?千冬姉!?もしもーし!!…ダメだ。話聞いてねぇわ」

 

 起床後三十分も経っていないが、何度目になるかわからない溜め息を吐き、天井を見た。とりあえず、千冬は全速力で帰ってくるのだろう。彼女が帰ってくれば、解決が近くなる。と思った。

 

「あ、アキに連絡しとこ」

 

 

 

『千冬姉帰ってくるって』

 

 秋久のケータイに一夏からのメッセージが届いた。だが、彼は布団から出れていない。布団の中にこもることで、呼吸や心拍は落ち着いてきた。また、一夏が早々に部屋を出たのも功を奏した。先ほど、彼のケータイが震えた気がしたが、気のせいかと放っておいた。

 何度もケータイが震える。連続でメッセージを受信しているようだ。少し布団をめくり上げ、周囲の様子を確認する。先ほどの女が部屋の中にいる様子はない。また、隙間を作ったことによって、ケータイのバイブレーション音をはっきりと確認できるようになった。通話とは異なる振動パターンである。

 秋久は布団から這い出して、震え続けるケータイを手に取った。ケータイの通知を確認すると、メッセージが八十件近く届いているようである。ロックを解除し、メッセージを確認する。

 一夏からだ。しかもスタンプを大量に送ってきている。『連絡ください』と泣いているキャラクターのスタンプが大量に送られていた。

 

『お』

『既読った』

「今見たよ。ごめん」

『いや、俺も悪かった。アキが女ダメなの忘れてた』

「さっきのって一夏か?」

『おう』

 

 信じられない。確かに、声は千冬に似ていたし、顔立ちも似ていたような気がする。織斑の血縁なら似ていて当然なのだろう。だが、一夏は男だ。一晩で性別が変わるということが信じられない。マンガやフィクションならあり得るが、これは現実だ。

 

「本当か?マジで?」

『大マジ』

『証拠は…ないかな』

「じゃあ」

「昨日数馬と遊びに行ったこと覚えてる?」

『は?昨日は真っ直ぐ帰っただろ?』

 

 秋久はカマをかけてみる。引っかからない。いや、これだけで判断するのは早計だ。

 

「晩飯美味かったよな、オムライス」

『ボケた?うどん食ったじゃねぇか』

 

 ボケ扱いされて少し頭にきたが、スルーした。そこで秋久は一つ思い出した。一夏のケータイは束特製のセキュリティがかかっているのである。確か…虹彩認証、静脈認証、指紋認証、そしてパターンロック。これらを同時に解除しなければ、一夏のケータイは触れない。つまり、今メッセージを送ってきている人物こそが本人である可能性が高い。

 

「ボケてねぇし。本人かどうか確かめただけだし」

『いや、だから本人っていってるだろ?』

『千冬姉も疑ってくるし』

『あ』

『千冬姉帰ってくるって』

「いつ?」

『知らん』

『春休み中でよかった』

「良かった…か?」

『学校始まってたら笑えねえぞ』

「いえてる」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 千冬は自らの家の玄関を静かに開け、懐に忍ばせた拳銃を手に取った。ゆっくりと音が鳴らないように注意して玄関を閉める。リビングに人の気配を感じる。確かに誰かいるようだ。銃の安全装置が解除されているのを確認し、リビングへつながるドアのノブをゆっくり回した。ドアが開いたことを確認し、銃のトリガーから指を外す。自宅で荒事はしたくないが、最悪の場合の覚悟はできている。

 静かに呼吸を整える。腹式呼吸を意識し、集中していく。改めて銃のグリップを握り直す。ドアの向こうにいる人物の位置を確認する。どうやらソファーに腰掛けてこちらに背を向けているらしい。好都合だ。

 静かにドアを開ける。秋久や一夏が手入れをしているお蔭か、音を立てずに開いた。ゆっくりと気配を殺し、ソファーへ近づく。銃口は少女に向けたままである。少女はケータイに夢中になっているのか、千冬に気付く素振りすら見せない。少女の後頭部に銃口を押し当て、感情を殺した声をかけた。

 

「動くな。ケータイをおいて、両手をテーブルにつけろ」

「あ、あの千冬姉?俺だって。一夏だって」

「無駄口を叩くな。撃つぞ」

 

 銃口を更に押し付ける。千冬が本気であることを感じた。刺激しないようにゆっくりとケータイをローテーブルに置き、両手を開いて着けた。銃口が一夏の頭から離れる。

 

「今から少し離れる。言っておくが、貴様の頭を狙ったままだからな」

「だから…」

「発言を許可していない。次はないぞ」

「……」

「よし。では、質問だ。弟は…一夏はどこだ?」

「千冬姉…俺が一夏だってば…」

「…そうか、口を割る気はないか…残念だ」

「ま、待って!」

「話す気になったか?」

「えーっと…千冬姉の今まで割ったコップは八つ!皿は十五枚!!洗濯機二台壊した!」

「……は?」

「それから、えーっと、えーっと」

 

「もー…ちーちゃん四十秒で来いなんて、映画じゃないんだから…」

 

 突如ドアが開き、リビングに能天気な声が響く。千冬が呼び寄せた束が到着した。彼女は愛する親友が、顔のよく似た少女に銃を突き付けている場面を見て、固まった。無理もない話である。

 

「わお。ちーちゃんと若いころのちーちゃんがいる」

「私を年寄扱いするな」

 

 

 

「で、この子誰?ちーちゃんの隠し子?」

「そんなわけあるか。大方、一夏を攫ったクズ共の一味だろ」

「攫ったって…とりあえず、その物騒なのおろそうよ」

「…お前と私ならコイツぐらいは抑えられるか…」

 

 銃を下すも、射殺すような視線を送り続ける。毎日見ている自分とよく似た顔を睨む、というのはなかなかに不思議な体験だった。千冬に睨まれ、視線を彷徨わせる一夏。唯一の肉親に尖った視線を向けられ、居心地が悪そうである。

 

 改めて千冬と束は少女の身なりを見る。一夏に去年の春ごろに買い与えた水色のパジャマを纏った少女。髪は鎖骨のやや下あたりまで伸びており、青みがかかった黒髪である。ただ、千冬と異なり癖は少なそうだ。瞳の色は千冬と同じくやや茶色がかっているが、鋭さがなくどちらかと言えば柔らかい印象を与える。パジャマを押し上げる胸元の質量はこの年代にしては豊かだといえそうだ。男物のオーバーサイズのパジャマを着ているせいで鎖骨は丸見え、胸元もかなり際どい状態になっている。

 

 不安そうに千冬と束を交互に見つめる少女。千冬は視線が合う度に眼力を弱めてしまうが、何とか精神力で元に戻そうと奮闘していた。

 

「そういえば、いっくんのケータイ触ってるよ?ねぇ、キミ?そのケータイどうやってロック解除したの?」

「…束さん…俺は一夏です。織斑一夏です。ケータイのロック解除ぐらいできますよ」

「ふぅ~ん…自分で?」

「当たり前ですよ…」

 

「おい、束。さっさと一夏と秋久の居場所を吐かせろ。時間があるとは思えん」

「んー…あっくんは上にいるでしょ?多分。あと、この子いっくんだよ」

「………お前まで妙なことを言うんだな…」

「妙でもないよ。束さん特製の指紋、静脈、虹彩、バイタル認証を全部突破したんだよ?それも一気に」

「…それぐらい」

「できないよ。同時にはね。もしやってたら…今頃いっくんは死んじゃってるんじゃないかな」

「なっ!?」

「大丈夫!俺生きてる!生きてるから!!」

 

 不穏なことを話し出す束に、驚く一夏と千冬。曰く、脅して解除させたとしても、長時間操作はできない、と主張している。

 

「それより、あっくん呼んできていい?」

 

 

 

「のっくしてもっしも~し☆」

 

 陽気な声を出しながら、束が客間をノックした。しかし、返答はない。当然である。秋久は一夏の部屋で眠っていたのだから。

 階下から一夏が声を上げた。束に自分の部屋で秋久が寝ていることを伝える。改めて一夏の部屋をノックすると、秋久の声が聞こえた。

 

「…束さん?」

「そ!おひさだね~…元気?」

「え、えぇ…まぁ…」

 

 ゆっくりと扉を開け、秋久が顔を出す。既に呼吸は落ち着いており、会話に支障もないようだった。

 

「うんうん。元気なのは何よりだ!それはそうと…セクシーなあっくんも嫌いじゃないけど…束さん、目のやりどころに困っちゃうな~☆」

「…?ッッ!!」

 

 扉が勢いよく閉められた。何をしていたわけでもない。先ほどまで眠る前の服装、Tシャツとパンツのみであり、そのまま顔を出しただけである。秋久はそれを意識していなかった。少しぼーっとしてしまっていたので、服装を気にすることなく、束の前に出てしまっただけであった。

 

「すっすすすすみません!ごめんなさい!!」

「あはは。気にしてないよー」

 

 部屋の中では大急ぎで秋久が一夏のジャージを引っ張り出している。もちろん、男物である。サイズ的にはほとんど変わらないので、問題なく着用できた。

 

「じゃ、先に降りてるから、あっくんも来てね?」

「はい!すぐに!!」

 

 

 

「そっかー…あっくんもボクサーブリーフ履くオトシゴロになったんだなぁ…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 秋久が織斑邸のリビングに降りてきたころ、一夏は束に抱き締められて撫でまわされ、すぐ近くでは千冬が溜め息を吐いていた。

 

「千冬さん…あの…?」

「おぉ。無事だったか、秋久」

「え、えぇ…なんか…あの子が大変なことになってますけど…」

 

 束に頬ずりされ、迷惑そうに押し退けようとする一夏。だが、天才的細胞レベルの存在には敵わない。一応の抵抗はしているが、ほとんど抵抗になっていなかった。

 

「あ~♡ちーちゃんならこんなことさせてもらえなかったもんな~」

「た、束さんっ!もうやめてってば!!」

「……おい、阿呆。秋久が降りてきたぞ。そろそろ本題に戻れ」

「はーい♪いっちゃんカッコカリ分も補給できたしね!」

 

 あっさりと一夏を解放し、集まった三人を見回す。

 

「さてさて、お集まりいただき」

「御託はいい。さっさと話せ」

「はいはーい☆さっきまでいっちゃんカッコカリから匂い、雰囲気、体温エトセトラエトセトラ…で、束さん特製セキュリティをなんなく突破したところを考えると…この子はほぼいっちゃんです!ってゆーことで!ちょっと借りるね!!」

「は?」「へ?」「え?」

 

 ひょいっとヌイグルミを抱えるかのように一夏を俵担ぎにし、束がドアを出た。抱えられた一夏すら何をされたのかあまり把握していないようで、目が点になったまま束に連れ去られてしまった。

 

「あ!ちーちゃん!あっくん!一日二日借りるだけだから!また連絡するね!」

 

 律儀にドアから再び顔だけだし、またドアの向こうに消えていった。

 

「…えーっと…」

「とりあえず、アイツが色々調べてくれるらしいな…」

「…そうですね…」

「果報は寝て待て、だ。さて、私も仕事に行かねばな」

「え?仕事、行くんですか?」

「当たり前だろう。束がほぼ一夏だと断定したんだ。心配はないさ」

「はぁ……いや、束さんを疑ってるわけじゃないんですけど」

「気持ちはわからんでもない。私だって心から信じているわけじゃないからな。ただ、仕事に穴を開けるわけにはいかん」

「…大変ですね。大人って」

「安心しろ。嫌でも大人になるさ」

 

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 翌日の昼前、俺の下に一通のメッセージが届いた。

 

『いっちゃんの検査が終了したのでお知らせしま~す☆

 発表場所はあっくんのお部屋!時間は15時!じゃすとオヤツタイム!

 頑張ってマッハで検査結果をまとめた束さんに、素敵なご褒美があると嬉しいな~☆

 そんじゃ!よろしくっ!!!』

 

 待って。束さん、色々ちょっと待って。

 多分束さんの要求してるご褒美っていうのは、前に作ったキャロットタルトのことだと思う。ただ、あれはパイ生地を作るのに時間がかかる。特にうちのキッチンじゃ難しい。材料も揃っていない。

 今は11時過ぎ。束さんが来るのが3時…無理だ。

 ごめんなさい、の意味も込めて、何種類か作ってお茶を濁そう。ついでに、千冬さんちから、ちょっといい紅茶を持って来よう。

 俺は束さんへのお礼の品を作るため、財布を持ってスーパーに向かった。

 

 

 

 時刻は14:54。カップも温めてあるし、束さん用のロイヤルミルクティーも準備済み。ケーキもカット済みで、あとは盛り付けるだけだ。何とか間に合ってよかった。

 洗い物も終わっている。一応、人を迎えられる体制は整っている。

 ケータイが震え、ディスプレイには『訪問者』の表示。今日も今日とてばっちりとスーツを着こなした千冬さんが映っていた。

 

「どうぞ。今開けますから」

 

 ドア開錠の操作をする。ドアが開く音がした。

 

「邪魔させてもらうぞ」

 

 ダイニングに繋がるドアを開けながら、挨拶をする千冬さん。自分ちを我が家のように思え、っていいながらも、こっちは我が家とは思ってないらしい。

 

「いえいえ。コーヒーでいいですか?あ、上着預かります」

 

 あぁ、といいながら、上着を脱いでこっちに渡す千冬さん。ハンガーにかけて、コーヒーを準備する。コーヒーは俺も飲むから、豆もサイフォンもある。

 ダイニングテーブルに座る千冬さんにサーブした。

 

 さて、俺の分も…と準備をしようとすると、ケータイが震えた。ディスプレイには相変わらずの束さんと、白いワンピースを着て、カチューシャをした女の子。多分、一夏カッコカリだ。

 

『もしもしひねもす~☆束さんだよ~☆』

「はい。開いてますんで、そのままどうぞ」

『もー。あっくんはノリ悪いなぁ~。ちーちゃんみたいになっちゃうぞ~』

「聞こえてるぞ。束」

『あ、もうちーちゃん来てたの?んじゃ、お邪魔するね~♪』

 

 ダイニングに入るなり、ひくひくと鼻を動かす束さん。

 

「いやぁ~さっすがあっくん!わっかってるねぇ~!!」

 

 どうやら、ロイヤルミルクティーの匂いを嗅いでたらしい。

 

「どうします?先に出しましょうか?」

「長くなるかもしれないし、先がいいなぁ。ちーちゃんは?仕事終わった?」

「あぁ、終わらせてきた。この後は特に予定もないしな」

「俺も大丈夫だぜ。っていうより、このままじゃどこも行けねぇよ」

 

 冷蔵庫を開け、諸々を準備する。温めてあったカップを拭き、ロイヤルミルクティーを淹れた。一夏と俺のコーヒーも準備した。

 

 本日のおやつはキャロットシフォンケーキと黄桃のパウンドケーキ、それとクリームブリュレ。

 千冬さんと束さんの前には全部準備して、俺と一夏の前にはとりあえず、シフォンケーキだけ。流石に和菓子を作る余裕はなかった。

 

 

 

「ほう。また腕を上げたか。秋久」

「ん~!一家に一台、あっくんだね!!」

 

 褒められるのは嬉しい。喜色満面の笑みを浮かべ、次々と口に運ぶ束さん。一口ずつ味わってくれる千冬さん。

 

「お代わりもありますから」

「ホント!?疲れた頭にスイーツが染み渡るね~」

 

 太るぞ、と釘を刺す千冬さん。ぜ~んぶ頭と胸に行くから平気だよー、と束さん。そんな二人を羨ましそうに見る一夏。

 

「いい一夏も食うか?」

 

 確か、洋菓子系はそこまで好んで食べなかったはずだった。

 

「いや、その……うん。欲しい」

 

 お代わりをいうのが恥ずかしいのか、準備したブラックコーヒーを啜った。

 

「苦っ」

「……ミルクと砂糖も準備してくる」

 

 シフォンケーキのほとんどを食べた一夏に、パウンドケーキとクリームブリュレを準備した。少し多めに付けたホイップクリームも、ほとんど使って食べていた。




お読みいただき、ありがとうございます。
次回こそ、いちかわいさを出せればと思っております。

誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


以下、人物紹介

織斑 一夏(♂)
・年齢 13歳
・身長 163cm
・体重 51kg
 原作開始の2年前の段階。ちょっと声も幼くなっている。
 家事スキルは既に主婦レベル。それ以外は原作準拠。

斧崎 秋久
・年齢 13歳
・身長 162cm
・体重 47㎏
 オリキャラ。女性恐怖症だが、慣れた相手だと普通に話せる。趣味、特技はお菓子作り。
 一夏と同じく家事全般ができる。ただ、洗濯、掃除が若干苦手。やり始めると徹底してやりたくなるから、なかなか終わらない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep2.

『秋久のアパート』
 間取りは1DK。玄関から正面にダイニングキッチン、左手に風呂、トイレと洗面所。それぞれ別にはなっている。が、広くはない。
 10畳のダイニングキッチンの奥は秋久の自室。ベッドと座卓、あとは本棚。マンガ類が少なく、小説類がメイン。特に好きなジャンルはないらしい。
 事情により一人暮らし。


 目の前に置かれた、たっぷりのホイップケーキが乗った、シフォンケーキの皿と一夏はにらめっこをしていた。

 

 昨日はいきなり束のラボに拉致され、昼食も夕食も摂らずに様々な検査をされた。身長・体重に始まり、血液検査に心電図等々。解放された時には既に21時を回っていて、束から出された食事はインスタントカレーとインスタント白米だけだった。

 翌日はそこまでの検査を受けなかったが、朝食は束と同じブロック栄養食。昼食はインスタントラーメンだった。

 つまり、今、自分の身体が目の前のスイーツを要求しているのは、あくまで昨日の食事が散々だったからであり、食の好みが女性的になったからではない。と誰にともなく言い訳した。

 いただきます、と四人で挨拶する。とりあえず、目の前のシフォンケーキを片付けることにする、一夏。

 

 パウンドケーキを綺麗にカットし、口に運んだ千冬。しっとりとした生地と、柔らかい甘さの黄桃が仕事の疲れを癒していく。もう一口、と口に運ぶ。バターを控えめにしているのだろう。千冬好みの味であった。

 

「ほう。また腕を上げたか。秋久」

 

 思わず口角が上がった。コーヒーを啜る。職場のインスタントコーヒーとは月とスッポンだった。

 

「ん~!一家に一台、あっくんだね!!」

 

 千冬の斜向かいで、束が声を上げる。キャロットシフォンケーキに山と6分立てのホイップクリームを乗せ、口に運ぶ。ふわふわとした優しい食感と、甘く滑らかなクリームがたまらない。ロイヤルミルクティーは蜂蜜入りのようで、ミルクと蜂蜜の優しい甘さが、束の疲れた頭にエネルギーと幸せを運んでいった。

 みるみるうちに、ケーキとホイップクリームが消えていく。途中でクリームブリュレにも手を付ける。口の中いっぱいに、カスタードクリームが拡がる。パリパリに焦がされたカラメルの食感と苦味が、次のもう一口を誘う。

 束は、はふぅ~、と幸せそうに溜め息を吐いた。元々、食にそこまでのこだわりを持たない彼女ではあるが、こういったスイーツが嫌いかといえば…そこは女性、全く別の話である。まさに喜色満面の笑みを浮かべ、皿を綺麗にしていった。

 

 一夏も束に習い、シフォンケーキを食べる。ふわふわで美味しい。確かに美味しい。だが、物足りない。それに人参の苦味も少し感じる。ホイップクリームを少し付けた。先程よりも苦味は抑えられたが、まだ足りない。もう少し、もう少し、とホイップクリームを乗せては口に入れる。いつの間にか束と同じか、少し多めのホイップクリームを乗せて食べていた。

 

「お代わりもありますから」

 

 『お代わり』の単語に束と一夏が反応した。スイーツのお代わりだ。一夏は顔を上げ、束が身を乗り出す。

 元々、一夏は洋菓子の類をそこまで好んで食べなかった。どちらかと言えば、和菓子派だった。洋菓子の甘ったるさが苦手であった。最近食べた覚えのある洋菓子といえば、誕生日ケーキぐらいのものだった。しかし、今は違う。身体はもっと甘味を求めている。

 

「ホント!?疲れた頭にスイーツが染み渡るね~」

 

 手が止まらない、と言わんばかりに食べ続ける束。そんな束を羨ましそうに眺める一夏に、秋久が気付いた。

 

「いい一夏も食うか?」

 

 彼の中ではまだ一夏は『慣れていない女の子』のようだ。中身が男の一夏であることは知っている。だが、わかっていても、出来ないものは出来ないのだ。

 一夏から視線を外しながら、立ち上がる秋久。束のお代わりを取りに行くようだ。

 

「いや、その……うん。欲しい」

 

 男がスイーツを要求する事が恥ずかしかったらしい。頬を赤く染め、俯く一夏。目に入ったブラックコーヒーを一口。

 

「苦っ!」

 

 スイカに塩をかけると甘味を強く感じるように、甘味のあとのブラックコーヒーはより苦く感じる。思わず、といった風に上がった一夏の声に秋久が応えた。

「……ミルクと砂糖も準備してくる」

 その声に一夏もまた、耳の先まで赤く染めながら、応えた。

 

「一夏、前までブラックを飲んでなかったか?」

 

 いつの間にか、クリームブリュレを片付けた千冬が問う。

 

「ほ、ほら、甘いの食べてたし」

「ふふっ。そういうことにしておいてやろう」

 

 顔を真っ赤にし、わたわたと顔の前で手を振り否定する一夏であった。

 

 

 

 一夏の目が見開かれる。目の前にパウンドケーキとクリームブリュレが並べられた。瞳を輝かせ、スイーツを見つめる。スプーンを手に取り、クリームブリュレのカラメルを割る。バニラエッセンスの香りが漂った。口に運ぶ。カスタードクリームの甘さがコーヒーの苦味を消し去っていった。

 次々口に運ぶ。気が付けば、三分の二がなくなっていた。

 パウンドケーキに手を伸ばす。蕩けるようなクリームブリュレと違い、しっかりとした食感だった。黄桃の甘さ。カスタードクリームの甘さとも、ホイップクリームの甘さとも違う。

 顔を綻ばせ、緩んだ頬が落ちないよう手を当てる。ん~、と声を上げてスイーツを堪能している様子は女子そのものであった。

 

 三種類の甘味を堪能するが、口の中をリセットしたくなった。コーヒーを飲む。秋久がミルクと砂糖を足したものだ。

 

「ヴッ…」

 

 苦味に顔をしかめる。

 

「こっちはどうかな?」

 

 飲みかけのロイヤルミルクティーを束が差し出した。

 一口飲むと、紅茶とミルクのコクで口の中がいっぱいになる。蜂蜜の甘さも嬉しい。

 

「美味しい!」

「でしょ!?」

「では、そのカフェオレは私が頂くとしよう」

 

 無言で席を立ち、ロイヤルミルクティーを淹れる秋久。もちろん、二人分である。後ろで一夏をからかう声がする。

 秋久の用意したスイーツは一時間ほどでなくなった。一応クリームブリュレを四つ準備したのだが、秋久の分は一夏と束の胃に消えていった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「さてさて~。宴もたけなわではございますが~…」

 

 やおら立ち上がり、宣言する束。このままお茶会、というのも悪くはないが、既にそれぞれが三杯目の飲み物に差し掛かっていた。

 

「いっちゃんの検査結果発表に移りたいと思いま~す!」

 

 わーぱちぱち~、と拍手を要求するが、一夏と秋久の遠慮がちな反応だけ。千冬は白けた目でジッと束を見るだけだった。ノリ悪いぞ~と頬を膨らませる束。

 

「まず、身長は153cm!ちょっと低めかな?これからの成長に期待ってことで!

 体重はオトメのヒ・ミ・ツ☆まぁ、重くはないよ~。スリーサイズは上からはちじゅ」

「もういい」

 

 千冬が制止した。

 

「聞きたいのはそんな情報ではない」

 

 更に眼力を強め、プレッシャーをかけた。

 

 ふぅ、と溜め息を吐く束。先程までのおちゃらけた雰囲気を切り替える。

 

「…昨日、ちーちゃんの家に寄って、いっくんのDNAサンプルを取ってきたよ。あと、ちーちゃんの前のDNAのサンプルもね。整合した結果、ちーちゃんとの関係は99.9%の確率で血縁者。いっくんとの関係はエラーが出たよ。ただ、マッピング解析の結果はほぼ同一人物。性別を分ける因子以外はね。

 あと、外性器も女性のそれだったし、精巣も前立腺も見つからない。子宮と膣は確認できた。脳内シナプスのマッピングは5.5割が女性型。

 結論は…この子は女の子になったいっくん、ってことになるね」

「……そうか」

 

 千冬は瞳を閉じ、天を仰いだ。昨日会った少女が一夏であることをどこかで理解していた。ただ、自分の中の常識がそれを否定していた。一晩で弟が妹になるなど、フィクションで十分だ。一夏は一夏で、束から突きつけられた事実に茫然自失となった。

 

「……元に戻る可能性は…?」

「そうだね…構造上、女を男にするのってすごく難しいと思う。男性に女性ホルモンとか投与したりすると、胸の乳房化とかペ○スの縮小が起こったりする。でも、女性に男性ホルモンを投与したりしても、ク○ト○スの男根化は起こらない。このことから、いっちゃんをいっくんに戻すのは…とっても難しいよ…」

「で、でも…現に俺は女になってるし…」

「限りなくゼロに近いけど、無理じゃないと思う。いっちゃんの血液からナノマシンの痕跡も発見できたし」

「だったら!ナノマシンで!」

「今まで、完全な性転換って聞いたことある?束さんも色々調べたけど、見つからなかったよ?

 もし、リスクなしで実現化出来るなら今までに商業化出来てるはず。それがないってことは、リスクが大きいと思う。今、いっちゃんがこうして生きてるだけでも奇跡的な確率の上なのかもね。

 …それをふまえて、ちーちゃん、いっちゃん。どうしたい?」

 

 沈黙が流れる。一夏は横目で千冬を見た。腕を組み、目を閉じている。

 

「…私はこのままでも構わない。男に戻そうとして、死なれでもしたら…世界を滅ぼして私も死ぬぞ」

 

 サラリと恐ろしいこと口にする千冬。ブリュンヒルデの称号を持つ彼女が言うと、実現できそうな分、洒落にならない。

 俯いたまま、千冬の言葉を耳にする一夏。彼女の想いを聞き、本当に大事にしてくれているのだと、改めて実感する。今の言葉を聞かなければ、リスクを承知で男に戻して貰おうとしただろう。

 

「…俺も一夏が死ぬのは嫌です。女の子っていうのは…その…な、慣れるのに時間がかかると思いますし、一夏も男に戻りたいと思ってると思います。でも、一夏に死んでほしくない…」

 

 親友もこう言っている。女の体というのは、勝手が違う分、不便かもしれない。だが、姉と親友の想いを裏切ることはできなかった。

 

「…俺も、このままで、頑張ってみます」

「わかった。私も元に戻れる方法はないか、色々やってみるよ」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「でさ、これからなんだけど…どうする?」

 

 しんみりとした空気が流れるが、やらなければいけないことは山積みである。

 

「どうする…とは?学校のことか?」

「かったいなぁ、ちーちゃんは…それも大事だけど、着るものどうするの?明日の分まではあるけど、それ以外に着るものないよ?今日だってコンビニの適当な下着だし」

 

 女の子がそんなのいつまでも着るもんじゃないよ~、と束が言う。

 

「確かに…私の物を着せるわけにもいかんな」

 

 そもそも、サイズがあわない。そして、一夏が自分のサイズの女性用衣類を持っている訳がなかった。

 

「明日はみんな休みだよね?」

「私は午前中だけ仕事だな。午後からは休みだ」

「俺らは春休みです」

「おぉ~…学生さんはいいねぇ~」

「お前も学生みたいなものだろ。どこで何をしとるのかは知らんが…」

「ちーちゃんってば、超しっつれ~!働いてはいないけど、ちゃんとお金は稼いでるよ!?」

「…どうやってかは聞きたくないな…」

 

「こ、この流れってまさか…」

「いっちゃんのお洋服とか下着だよ~☆」

 

 わはー☆と両手を上げて、高らかに束が宣言した。




今まで秋久の作ったスイーツは、鈴ちゃん経由でクラスの女子が消費していました。実は鈴ちゃんが転校して一番残念なのは、彼だったりします。

ということで、次回は一夏ちゃん、初めてのお買い物!です。

誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~酔っ払い二人~

Intermedio…幕間劇
劇の幕間に演じられる音楽。

小ネタをちょこっと入れていきます。
キャラが壊れたりします。
大体は3,000字未満の予定ですので、サクッと読める予定です。


 秋久の部屋でのお茶会のあと、織斑邸へ移動し、ピザを取って夕食とした。

 話がまとまった時点で18時を大きく回っていた上に、オヤツ…しかも、かなり手の込んだオヤツである…も秋久が準備していたし、夕食まで準備させることは、社会人側からしても気が引けたらしい。

 

 ピザのお供に、千冬と束はビールを、秋久はコーラ、一夏はグレープフルーツジュースを選んだ。

 秋久のウーロン茶にするか?という提案に、一夏はグレープフルーツジュースと恥ずかしそうに応えた。それが余りに可愛らしく、束に撫で回され、千冬に愛でられる一夏だった。

 

 時刻は23時。一夏はシャワーを済ませ、既に自室のベッドへ。秋久も織斑邸をあとにしていた。

 ダイニングテーブルには複数の空の缶ビールと、ウイスキーのボトル。そして、グラスが二つ。秋久と一夏が用意したツナの炒り卵やわかめと生ハムのスモークチーズ挟み、ナッツにクラッカーのクリームチーズにブルーベリージャムといった、いわゆるおつまみが並んでいる。

 

「しっかし…本当に驚いたよ」

「ね、こんなことって、現実にあるんだね」

 

 ほろ酔いの大人が二人。ちょこちょことつまみを食べつつ、グラスを傾けている。

 束はうさ耳を外し、千冬の部屋着であるYシャツを借りていた。胸元を開け、垂れ気味の瞳が更にとろんとしている。頬を赤く染め、だいたいの男であれば一発でオトせる魅力を漂わせていた。

 千冬も、自宅かつ目の前に居るのが幼なじみだけ、ということでかなりリラックスしていた。浮かべる笑みもより柔らかくなっている。もし、会社の女先輩にこんな風に微笑まれたら…おおよその男後輩はその場でプロポーズ間違いなし、という笑みだった。

 

 

 

「それにも驚いたが…それ以上に我が妹の可愛らしさに驚いたんだよ!なんなんだあの可愛らしさは!あの声と容姿で『お姉ちゃん…お願い…』とか言われたら!アメリカとロシアの大統領を同時に暗殺して一夏の元に戻ってくるまであるぞ!?」

「わかる!ちーちゃんほんとそれね!もう今日なんかホンッッッットヤバかった!!あっくんの手前チタニウム合金の自制心で頑張ったけど!鼻からリビドーが溢れ出ないかスッゴく気をつけたよ!もうね!第六世代ISを開発してプレゼントするまであるね!!」

 

 訂正。イイ感じで出来上がっているようだ。二人ともバンバンとダイニングテーブルを叩く。

 

「しかも!なんなんだあの髪質は!イイ感じにストレートとだし硬すぎず柔らかすぎずじゃないか!!私なんか毎朝そこそこ苦労してるのに!!目許もイイ感じにくりっとしてるし!私みたいにキツい感じが全然無いじゃないか!!姉妹なのに!姉妹なのに!!」

「わかる!私のもうちょい癖欲しいなってところを持ってるからスッゴいわかる!私も垂れ目なのコンプレックスだもん!いっちゃんも垂れ気味だけど私ほどじゃないもん!!羨ましい!!」

 

 一般的にかなり上位のルックスである二人だが、女性の美に対する欲求は留まる所を知らない。

 残っているウイスキーを一気に喉へ流し込む。一気飲みは危険です。

 

「たぁばねえぇっ!」

「ちぃちゃあぁあんっ!」

 

 ボトルからお互いのグラスに注ぎあい、もう一度一気に飲む。

 ふぅ…と軽く息を吐いた。

 

「あー…もうどこにも連れ出したくない。私が死ぬまで一生側に置きたい」

「ちょっ!ズルいよちーちゃん!束さんにも分けるべきだよ!」

「うるさい。私のモノだ」

「でもでも。そんないっちゃんも彼氏を連れてきたり…?」

「ふんっ。どこの馬の骨ともわからんクズに、一夏を任せられるわけがない。私より軟弱な男なら、その場で切り捨てる」

「あっくんだったとしても?」

「ぐうっ…」

 

 一夏はもとより、秋久のことも弟同然に可愛がっていた。それに、守りきれなかったという負い目もある。グラスの中身を一息に流し込んだ。カッと喉が熱くなる。一気飲みダメ。ゼッタイ。

 すかさず束がウイスキーをグラス半分ほど注ぐ。

 

「私の望みは…二人の幸せだ…二人が笑顔で満足なら…それで…充分さ」

 

 唇を湿らせる程度にウイスキーを飲む千冬。

 

「…それが一番…だよね」

 

 オトナの都合で、離別させられた妹に思いを馳せる束。カランとグラスが鳴った。

 

 

 

 姉同士の酒宴は日付が変わる頃まで続いた。




 千冬姉も束さんもオトナだからね!酒に溺れたい日もあるさ!二人ともストレス凄そうだし。

 というわけで、飲んだくれるお姉さまズでした。

 あと、一気飲みは本当に危険です。やらせるのもやるのもダメです。特にウイスキーなんかは一気に飲むものじゃありません。チビチビ飲みましょう。

 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep3.

『レゾネーア』
 一夏達の地元とは少し離れた地域のショッピングモール。
 国内最大級のモール。揃わない衣類はない、らしい。
 老若男女問わず人が集まる。ファストファッションからハイブランド、ベビーからシニア向けまで揃う。衣類以外の品揃えも豊富。


 午前6時45分。一夏が目を覚ました。ん~、と寝転んだままで伸びをする。まだ体に慣れていないせいか、眠りが少し浅かったらしい。くぁ…と可愛らしい欠伸が出た。

 まだパジャマを買い替えていないので、ダボダボの男物のパジャマを着ている。袖はギリギリ指先が見える程度で、裾は完全に引きずっている。肩幅も全くあっておらず、白く滑らかな肩と鎖骨が丸見えになっている。

 

「ねっみぃ~…」

 

 ずるずると裾を引きずってリビングに向かった。

 

 

 

 ダイニングテーブルの上には空き缶と空き瓶が放置されていた。グラスには氷の名残だろうか、僅かに茶色がかった水が入っている。皿には少しナッツが残っているのみで、他のつまみは平らげたようだった。まだ漂っているアルコール臭に、少し一夏は顔をしかめた。

 千冬は午前中のみ仕事だと言っていた。では、束はどこへいったというのか。皿やグラスをシンクに置きながら辺りを見回す。

 …いた。リビングのソファーの下で、丸くなっている。服装を見る限り、シャワーも浴びずに眠ったようだ。まだ7時にもなっていない。起こすのは可哀想だ。束の所在を確認した一夏は、とりあえず顔を洗ってサッパリ目を覚ましたあと、ダイニングを片付けることにした。

 

「えーっと…1.5センチぐらい出して…空気を入れるようによく泡立てる…こんなもんか?」

 

 今までは水で洗うだけだった。だが、昨日の朝、束に注意されてしまったのである。正しいやり方を教わり、それを実践しようとしていた。

 

「指先は肌に付けずに泡で洗う…」

 

 目を閉じ、もふもふと肌に直接触れないように洗う。ぬるま湯で何度も泡を落とす。

 

「次は…どれだ…?」

 

 束から引き締め用の化粧水、保湿用の化粧水、乳液と渡されたのだが、どちら引き締め用かがわからない。

 

「ま、いっか。混ぜちまえ」

 

 乳液はとりあえずわかった。他の二つを少しずつ手の平に出して混ぜる。顔になじませたあと、乳液を顔に付けた。

 

 自室の時計を見る。慣れていないせいか、30分以上洗面所にいたらしい。

 いつまでも、パジャマのままでいるのは少し気が引けた。かといって、昨日着ていたワンピースを着るのも何となく気が引ける。クローゼットを開けると、今まで着ていた制服用のYシャツが目に入った。パジャマからYシャツへ着替える。着てみると裾が太股半ばまで達していた。家だしいっか、と勝手に結論付けて部屋を出た。途中、『家』と『いっか』がかかっている事に気付き、笑いが漏れた。今日は良いことがありそうだ、と。

 

 洗い物が終わっても、束はまだ眠っていた。もうすぐ8時である。待ち合わせは14時。レゾネーアまでは30分ほどかかると考えて、13時半には昼食を終えて家を出る必要がある。そろそろ起きて朝食を摂ってもらわないと不味い。

 

「束さん、束さん。朝だよ。起きてっ」

 

 ゆさゆさと肩を揺さぶる。ん゛~と寝返りをうつ束。深酒の上に堅い床で眠っていたせいか、こちらも熟睡出来ていないようだ。

 ペシペシと束の額を叩く。呻き声を上げ、ゆっくりと束が起き上がった。

 

「あ、起きた。朝飯作っとくんで、シャワー浴びてきてくださいね。着替えとかのバッグは脱衣所に置いてますから」

 

 束が目覚めたのを確認し、キッチンへ向かう一夏。正面から見ると、Yシャツにエプロンという装いであったが、後ろから見ると、全く異なって見えた。『彼シャツ+エプロン』である。シャツの裾から覗く、白い裏腿が眩しい。

 

「……襲われても文句言えないよ。いっちゃん…」

 

 TSしても相変わらずな一夏だった。

 

 シャワーを浴び終えた束がリビングにやってきた。流石に千冬のように下着姿ではないが、それでもパーカーにデニムパンツとラフな格好ではある。

 いただきます、と二人で挨拶をする。ハムエッグに簡単な野菜サラダ、甘めのフレンチトーストが今朝の献立である。一夏は牛乳9に対しコーヒー1の割合で作ったミルクコーヒー、束は牛乳とコーヒーを1対1にしたカフェオレを飲んでいる。両方ともそこそこの…いや、なかなかな量の砂糖が入っている。一夏に至ってはホットミルクといっても差支えがないように思う。だが、彼女は否定するだろう。これはカフェオレなのだと。

 

 

 

「そーそー、いっちゃん。夕べちーちゃんと話してたんだけどね」

 

 朝食も終わり、テーブルでカフェオレを飲み寛ぐ束。

 

「学校はどうしたい?転校?それとも、このまま通いたい?」

「いや、流石にこのままは通えないぜ、束さん。できれば転校したくないけどさ」

「じゃあ、偽名使って通おっか」

 

 しれっとぶっ飛んだことを話す束。呆気にとられる一夏。

 

「最強ちーちゃんと天才束さんのコンビに不可能はないよ?」

「……マジでいってんの?」

「マジもマジ。おおマジだよ~。そもそも、この状況が非常識なんだしね。

 まぁ、いっくんに戻るか、戻る手段が見つかるまでって感じになるね。設定はこっちで考えとくよ」

「設定って…そういや、転校する場合って?」

「んー…特に考えてないなぁ…でも、状況的に、あっくんが近くにいてくれた方がいいと思うんだよね。性を偽って生活するのも、結構なストレスだと思うし。そこを開放できる場所があっくん的な、ね。

 もし、転校したいなら適当に候補探しとくけど…どうする?」

 

 カフェオレを飲み終えた束が、洗い物をしている一夏に近づく。

 

「まぁ、いきなり今決めろって話じゃないからね。ゆっくり考えるといいよ。ただ、一週間ぐらいで返事は欲しいかな。私もちーちゃんも、それでやること変わっちゃうからね」

 

 春休みは短い。新年度までに色々とやることはある。

 

「その辺はぼちぼち考えることにして、今日はたっくさん楽しもうね☆」

 

 難しそうな顔をする一夏の肩を叩く束であった。

 

 

 

 パタパタと家事をこなす一夏。今朝と変わらない服装のままで家中を動き回る。リビングのソファーでは束が一夏を元に戻す方法について調べていた。が、あまり集中できていないようではあった。昼食が出来上がったことを一夏が告げる。ほどほどに昼食を済ませ、出かける準備に入った。

 

「じゃーん☆」

 

 束がバッグから取り出したのは、淡い桃色の膝丈ワンピースとネイビーのレギンスだった。一夏にこれを着ろ、というつもりらしい。

 一昨日はいきなり連れ去られ、抵抗するまもなく脱がされ、病衣のままで一日を過ごした。昨日は昨日で出掛ける寸前まで慌ただしかった上に、秋久の部屋についてからもバタバタしていたのでそんなに気にならなかった。ただ、今日は少し違った。明らかに女性用の衣服を、今から、意識して着なければいけないようである。

 

「束さん…これって…」

「もっちろん☆いっちゃんの服だよ?こっそりポチっときました~☆あ、心配しないでね?可愛い靴も買ってあるから☆」

 

 いつの間に…とは思うが、一夏にも気付かれないうちに、勝手に届け先を織斑邸へ指定し、購入したのであろう。ほーら着替えて着替えて、と一夏のボタンを外し始める束。流石に恥ずかしいのか、抵抗を始める一夏。

 

「女の子同士なのに、何が恥ずかしいのかな?いっちゃんは」

「この歳になって着替えさせられるのが恥ずかしいんだよ!!」

「でもさ、この服の着方、わかる?」

「わかるっつーの!!その前のボタン外して頭から被るんだろ!?」

「ざんね~ん☆これは飾りボタンだから外れませーん。正解は…バックファスナーでしたー☆ということで脱ぎ脱ぎしましょうね~」

 

 なんだよ飾りボタンって!!という一夏の叫びは無視され、束による着せ替えが完了した。




…おかしい。3000字も使ったのに、まだ家から出ていない…何故だ…

ということで、次回こそ…次回こそ、お買い物編です。

秋久視点で進む予定です。

誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep4.

『花時計前』
 レゾネーア最寄駅の駅前にある花時計。その前が待ち合わせスポットとして有名。
 乗り換えを繰り返せばIS学園行のモノレールにも乗れるが、一夏たちの地元から向かった方が早い。


 今回は秋久視点です。


 待ち合わせの時間よりも、かなり早く花時計前に着いた。別に待ち合わせが楽しみだとか、これからの行動が楽しみってわけじゃない。遅刻するのが嫌いなだけだ。遅刻するくらいなら、早めに到着して待ち惚ける方がマシだ。

 鞄から文庫本を取り出して、時間を潰すことにした。電子書籍の方が多いけど、俺は紙媒体派だ。ケータイは電池を気にしながら読まなきゃいけないし、太陽の下だと読み辛いし、長いコト読むと目が疲れてくる。その点、本は太陽の下でも簡単に読めるし、電池なんか気にしなくていい。文庫本ならそんなに嵩張らないし。紙媒体バンザイ。文庫本バンザイ。

 

 

 

「一番乗りか。殊勝だな」

 

 文庫本に影が差した。姿を見なくても、その声でわかる。千冬さんだ。

 顔を上げた。薄いベージュのスキニーパンツに濃いめ青シャツ、薄いグレーのジャケットを着こなしている。そのシャツの胸元にはサングラスが引っかかっていた。いわゆる『落ち着いた、デキる女ファッション』のお手本みたいな服装だった。キリッとした千冬さんの雰囲気に、よく似合ってる。

 

 周りからの視線も千冬さんに集まっていた。それから、俺を見て『なんでアレと待ち合わせ?』な視線が刺さる。目は口ほどにものを言う…金言だ。ホントに。

 

「カッコいいです。千冬さん」

 

 思わず口から出た。

 

「男から女への『カッコいい』は褒め言葉になるのか?」

 

 少し納得いかない、という表情の千冬さん。言われ慣れてるでしょ?と思う反面、少し申し訳ない気持ちになった。

 

「まぁ、女性の服装を褒めるという点では合格だ」

「じゃあ…綺麗です」

「じゃあ、とはなんだ」

 

 褒めるなら、じゃあ、なんて付け足すんじゃない、と苦笑いとお小言をもらった。

 時計に目を向けるとあと10分で14時になる。そろそろ、あと二人も来るかもしれない。千冬さんも腕時計で時間を確認していた。

 

「お、お待たせ~」

 

 よたよたと、女の子が近付いてきた。薄いピンクのミニ丈ワンピにネイビーのタイツ、多分履きなれてない白っぽい…なんだっけ、パンプス?ワンピが胸の下で絞られている分、より女っぽく見えた。昨日とは違ってカチューシャはしてない。ただ、化粧をしてるのか、唇が薄いピンク色でツヤツヤしていた。グロスとかいったっけ。

 

「お、おう…」

 

 コレが一夏か…本当に元男か…あまりの変身っぷりに誰だかわからなかった。

 

「へいへ~い☆あっくん。ちーちゃんはサラッと褒めるのに、いっちゃんは褒めてあげないのか~い?」

「そんなにおかしい…かな?」

「そんなことはないぞ。随分と可愛らしくなったな、一夏」

 

 一緒に来てたらしい束さんが絡んでくる。いつもの髪を二つに分けて三つ編みにして、前に垂らしてる。さらに黒縁の伊達眼鏡までかけていた。服装も黒いセーターに茶色のカーディガン、ふわっとした感じの白いロングスカート。いつものファンシーさとは真逆の服装の束さんがいた。

 ごめんなさい、その絡み方、ちょっとウザいです。

 

「や、やっぱり…変?」

「そっそそそんなことないっ!にあっ似合う!」

 

 下から一夏が覗き込んでくる。見た目だけは美少女化してることを自覚してほしい。可愛らしい上目遣いになってしまっていた。気恥ずかしくなって、顔を思いっきり背けてしまった。

 

「…そんなに気持ち悪ぃかよ。アキ…」

「あっ、いっちゃん4ポインツッ!」

 

 俺のリアクションが一夏を傷つけたらしい。しょげた声で呟く一夏。あと近い。元々距離が近いヤツだったけど。

 ズビシッ!と効果音をつけても良さそうな勢いで、一夏を指差し束さんが宣言した。

 一夏がやっちまった~、と両手で顔を押さえて天を仰ぐ。しかもややがに股で。女の子がスカートでそんなことしちゃいけません。

 

「いっちゃん5ポインツッッ!!」

 

 ビシッビシッと二度も一夏を指さす束さん。止めろ、とその指を千冬さんに掴まれる。

 

「あだだだだ!ちーちゃん曲がんないから!そっちに指曲がらないから!!」

「…あの、そのポイントってのは…」

 

 ゆっくり、小さく手を上げて質問する。

 

「今日はいっちゃんの女の子訓練デーでもあるからね☆女の子っぽくないことをしたり、男の子口調で話す度にポイントが加算されていくよ!やったね☆いっちゃん☆ちなみに、何のポイントかはナイショ!」

「ってことで、全然束さんも教えてくれねぇんだよ…」

 

 がっくし、という風に肩を落とす一夏。脚はがに股のままだった。その後ろで6ポイント~と呟く束さん。ただまぁ、束さんだし、無茶なことはさせない&しないと思う。でも、むやみやたらとポイントを貯めるのも良くないと思うぞ、一夏よ。

 

 誰一人遅刻することなく揃った。とりあえず、レゾネーアに向かうことにした。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 女性のショッピングは長く、エネルギッシュである。

 チラッとケータイで時刻を確認する。15時33分。12時間表記なら、3時33分。ゾロ目だ。

 今の店で3件目。千冬さんと束さんは楽しそうに一夏の服を見繕っている。着せかえ人形にされてしまった一夏も疲れているらしく、俺の隣で二人をぼんやりと眺めている。

 いっちゃ~ん、と束さんが一夏を呼んだ。美少女一夏ちゃんのファッションショーが再開されるらしい。

 

「着方わかる?着替えさせたげよっか?」

 

 一夏が大丈夫です、と服を受け取って試着室へ入っていった。いっちゃん冷た~い、と束さんがぶーたれた。束さんもめちゃくちゃ忙しい人だし、久々のショッピングでテンションが上がってるらしい。

 試着室のカーテンが開いた。そこには、初夏の装いという感じの一夏がいた。フリフリの白いミニ丈ワンピに七分丈のデニムジャケット。爽やかさを持たせつつも、女の子らしい可愛らしさは損なわれていない。ただ、タイツを履きっぱなしなので、ちょっと違和感がある。

 

「よくお似合いですよ~」

 

 すかさず店員さんが話しかけてくる。横では束さんがうんうん、と満足そうに頷く。

 

「でも、いっちゃん。レギンス脱がなきゃダメだよ」

 

 束さんの言葉に素直に従って、レギンスを脱ごうとスカートに手を入れる一夏。俺と束さんで慌ててカーテンを閉めた。

 

「え、えっと~こちらのブーツですとか合わせていただくと~」

 

 若干引きながら営業をかける店員さん。この人、プロだわ。

 サイズは?と、束さんが食いついた。チラリと見えた値札には、五桁ほどの数字が見えた気がした。気のせいだ、と見なかったことにした。

 

「一夏、これなんかどうだ?」

 

 今度は千冬さんが来た。手には淡いブルーの服とやや濃いめの紫の服があった。へ~い、とやる気のなさそうな声が試着室から聞こえる。後ろで束さんが16…と呟く声が聞こえた。

 

 

 

 

「なぁ…千冬姉……どこに着てくんだよ。これ」

 

 試着室から出てきたのは、濃い紫のドレス風ロング丈ワンピに、薄いブルーでレースの入った丈の短いジャケットを着た、お嬢様がいた。顔が死んでるけど。

 元々、織斑の顔立ちが上品なのか、フォーマルな雰囲気の服装がよく似合ってる。いいとこのお嬢様だ。

 

「ふむ。なかなか様になってるじゃないか」

「だからさぁ、どこに着てくんだっての」

「どこに行くかは置いといて、そういうのを一着ぐらい持ってても構わんだろ?」

 

 確かに、こんな格好の人がファーストフードとかファミレスに居たら浮くな。確実に。どっかのレストランにならたくさん居そうだけど。

 

 

「なぁ、秋久。どう思う?」

「普通に似合ってますよ」

 

 またそれか、とつまらなさそうにする千冬さん。一夏もつまらなそうに溜め息を吐き、カーテンを閉めた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「普通に似合ってますよ」

 

 何度目かの賞賛を一夏は聞いた。正確には18回目である。九回までは吃音ってみたり、照れてみたり、と色々な反応をしてくれていた。幼なじみのそんな反応を自分が引き出している、そう思うと着せかえ人形にされるのも、悪い気はしなかった。また、千冬と束のセンスが良いことも幸いした。渡される服は一夏によく似合い、大変見栄えのするものであった。着替える度に自分自身の纏う雰囲気が変わる。自分の知らない自分が見つかる。なるほど、世の女性たちが多くの衣服を求め、彷徨い歩く理由が少しわかった気がした。

 だが、九回目以降、秋久の反応が固定化されてしまった。確か、12回目のコーディネート…白いノースリーブのタイトなサマーセーターに濃いめのデニム色をしたミドル丈のタイトスカートの時も同じ反応をしていた。あの服装は身体のラインが完全に出てしまうので、着替えてから他人に見せるのを躊躇った。千冬と束はセクシーだ、と褒めてくれたが、秋久は似合うとしか言ってくれなかった。

 

「はぁ…またそれか」

 

 千冬が溜め息を吐いた。釣られて、一夏の口からも漏れてきた。カーテンを閉め、紫のワンピースを脱ごうとする。試着室の鏡を見ると、疲れた顔の少女が写っていた。服が良くてもモデルがこんな表情をしていては、褒められるものも褒められないだろう。だが、気持ちとしては、やはり褒めてもらいたい。別に秋久のため、というわけではないし、秋久が女性恐怖症気味なのは知っていている。理屈では、頭では分かっている。ただ、気持ちがそれに従ってくれるかというと、それは別の問題だ。毎回似合う、の一言だけでは文句の一つでも言いたくなる。

 せっかく着てるのに、もうちょっとちゃんと見てくれもいいのに…と。自然と眉間に皺が寄った。マズい。これではまた不機嫌な顔になってしまう。

 ニコリ、と鏡に向かって微笑みかける。これなら文句はあるまい。釣られて、得意気な表情になった。少し高飛車なお嬢様に見えた。

 まだ元気だ、わたしもなかなかやるじゃない…といったところで、自らの思考に気付いた。

 違う。今俺は何を考えていた。鈴のあの時の気持ちがわかったなんて、女の子の考え方じゃないか。俺は男だ。男に戻ることを諦めた訳じゃない。束さんだって元に戻る方法を探してくれてる。これは着疲れだ。気疲れでもあるけど。だから、気付かれないようにしなければ…

 三つもかかった事に満足しかけたが、一夏の気持ちはなかなか晴れてくれなかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「そろそろ、どこかで休憩しませんか?」

 

 四件目を回り終えた。時刻は16時過ぎ。一夏もだいぶ疲れてるように見えた。お姉様方は元気だけど。

 

「そうだな。時間もいい頃合いだな」

「結構買ったしね」

 

 ショッピングカートには紙袋が七つ。凄い量だ。カートを押すのにも少し力が要る。ポーターサービスを使わないと、持って帰るのにも一苦労だ。なお、一夏ちゃんは無言で俺達の後をついてきている。着せかえ人形にされて疲れたのか、レディース服を着せられて男のプライドが削られたのか、あるいは両方か。

 

「そこの店なら待たなくていいみたいですよ。ほら」

 

 ケータイをプレゼンモードにして、ホログラムを投射する。さっきインストールしたレゾネーアのアプリだ。ホログラムにはカフェのオススメメニューと待ち時間が表示されていた。

 

「フォンダンショコラがオススメなんだね~」

「ケーキ!?」

 

 一夏が食いついた。やっぱり疲れには甘いものがいいみたいだ。コイツは性転換してから、急に甘いもの好きになった気がする。元が爺臭かった反動なのかも知れない。

 

「いこっ!どこ?」

 

 あそこ、とカフェを指差してやる。一夏が駆け足でカフェに向かった。これじゃまるで子供だ。苦笑いがこぼれた。千冬さんも同じ反応だった。

 

 カフェの前で一夏を捕まえて、店に入った。パラパラとメニューをめくって、さっさと決まったらしい千冬さん。横では一夏と束さんが頭を突き合わせてメニューとにらめっこしていた。

 とりあえず、俺はブレンドコーヒーだけにしよう。大人組に結構出費を強いてると思うし。

 

「まだ決まらんのか?」

 

 ウエイトレスが水を持ってきても、二人はまだ悩んでた。

 

「パフェも良さそうなんだけどね~」

「オススメのフォンダンショコラも捨てがたいし…」

「ハニトーも美味しいそうだもんね~…ちーちゃんは?」

「私か?私はミルクレープだ。大体、その辺なら秋久も作れるだろう?」

「作れなくもないですけど、パフェはちょっと…準備大変そうですし」

 

 パフェを作るなら一気に五人前ぐらい作りたい。材料無駄にしたくないし。それに、パフェグラスもない。

 

「じゃ、パフェかぁ…」

「パフェ縛りでも悩んじゃうよねぇ」

 

 確かに、パフェのページでも数種類ある。

 

「俺に店の味を求めないで下さい…候補、決まってます?」

「失礼しちゃうなぁ、あっくん。あっくんの手作りスイーツとこんな店の大量生産品を比べちゃあ、あっくんのスイーツに失礼だよ?」

 

 褒められてる…んですよね?束さん。あと、俺が作ったお菓子も、原材料はスーパーの大量生産品です。ここの方が良いもの使ってますよ。多分。

 

「昨日の、とってもおいしかったもんね。候補は…ん~…イチゴとチョコと…」

「やっぱ定番品は外せないよね~。それと、このシトラスパフェも気になるんだよね」

 

 わかりました、と二人に告げて手を挙げる。ウエイトレスが近づいてきた。二人が今候補に挙げた、パフェとミルクレープを注文した。セットドリンクは俺と千冬さんがブレンドコーヒー、一夏と束さんはロイヤルミルクティーを頼んだ。

 

「三つとも頼みましたから、お二人でシェアしてください」

「アキは?食べないの?」

「そこまで甘いの好きじゃないし」

 

 どちらかといえば、食べて嬉しそうにしてる顔を見る方が好きだ。

 

 お待たせしました~、とパフェとミルクレープ、それぞれの飲み物が運ばれてきた。パァと顔を輝かせる二人。千冬さんは変わらなかった。四人でいただきます、と挨拶し、それぞれが目の前のスイーツに手を伸ばした。ふむ、と味わう千冬さん。なかなかだね~、と束さん。美味しい~、と顔を綻ばせる一夏。三者三様の反応だった。

 

「アキ、ホントにいらないの?」

「いいってば。全部食っちゃえ」

 

 コーヒーだけを飲んでると、一夏が話を振ってきた。俺が手持ち無沙汰に見えたらしい。この店、お代わりオッケーだから、何杯か飲もうと頑張ってるだけなのに。

 

「まぁまぁ、遠慮せず…ほら、あーん」

 

 シトラスパフェをスプーンに取り、俺に差し出す一夏。わざわざ斜向かいから身を乗り出してきている。あーん、といった本人のお口もあーんしている。

 

「ほら、遠慮しないでってば。あーん」

 

 視線がスプーン、一夏の口許、千冬さん、束さんとせわしなく動く。全く落ち着かない。顔が熱い。パフェのクリームが溶け出し、零れそうになっている。

 

「照れてないでほらっ。あっ零れちゃうっ!早くっ」

 

 更にスプーンを突き出す一夏。

 

「いっちゃんも大胆だねぇ~」

 

 何が?と一夏の動きが止まった。

 

「自分の使ってたスプーンを男の子にあーんかぁ~…いやぁ、青春だね。甘酸っぱいね。御馳走様って感じだね?ちーちゃん?」

「全くだな。見せつけてくれる」

 

 一夏が周りを見回す。あちらこちらのテーブルから、生暖かい視線が注がれている。見られて恥ずかしくなったらしい一夏が、スプーンをそのまま自分の口に入れて、着席した。髪の間から見える耳が真っ赤になっている。俺は束さんに弄られ、さらに顔が熱くなった。

 もし、あのまま食べていたら…BでLな関係になるんだろうか。いや、ねーわ。自分で想像しかけて気持ち悪くなった。気持ち悪さと恥ずかしさを、少し冷めたコーヒーで流し込んだ。

 

 

 

 ややトラブルはあったが、全員注文したスイーツを平らげた。時間もいい具合だし、あとは晩飯の買い物をして、みんなでご飯…と思っていた。

 

「それではお待ちかね…中間発表でーす☆」

 

 …待って、束さん。今『中間』って言った?

 

「なんといっちゃん…23ポインツッ!!これは結果が楽しみになってきたよぉ~」

 

 もうどうにでもなーれ、と色々と諦めた表情の一夏。確かに、ペナルティは恐ろしい。

 

「束さん、今、中間って言いました?」

 

 そだよ?とキョトンとした顔をする束さん。

 

「いやいや…もう5時前ですよ?」

「でも、まだ大事なのが残ってるじゃない」

 

 大事なのって…なんだ?まだ服買うの?制服は確か専用の店で買う必要があったと思う。ただ、それよりも晩飯の準備時間の方が気にかかる。流石に四人で寂しくカップ麺、は嫌だ。

 

「大方、夕食のことを気にしてるんだろう。今日ぐらいは私たちに甘えてくれ」

 

 既に六桁は出て行っているというのに、この余裕。オトナってスゴい。

 

「あ、化粧品?」

 

 一夏が思いついたらしい。コイツの口から化粧品、なんて単語が出るとは思わなかった。

 

「それも大事だけどね。正解は…」

 

 ドゥルルルルルルルと一人でドラムロールを口ずさむ束さん。無駄に器用だ。音も無駄に本物っぽい。

 

「じゃんっ!ドキドキ☆わくわく!はじめてのらんじぇりぃ~☆」




『ポーターサービス』
 ドローンを使った、買った物を自宅に届けてくれるサービス。衣類用、什器用、生鮮食料品用のサービスがある。重量と距離によって値段が変わる。人は運べない。動詞として、ポタる、という使われ方もする。


 秋久の独白にもありますが、この世界の束さんはキレイな束さんです。天災的なことはしない設定です。ただ、世界的な有名人であることに違いはないので、ある程度変装はしています。
 千冬姉は変装してもしなくてもあまり人が寄ってこないとわかったので、好きな服装をしています。

 やっぱり一人称は書きやすいです。特に男性一人称。そして、長くなる…
 おかしい。お買い物編は今回で終わるはずだったのに。これも全部一夏ちゃんってヤツのせいなんだ。おのれ一夏ちゃん。可愛い。

 ご愛読ありがとうございました。
 次は男子禁制のアレです。
 当然、秋久は店の近くで待機しているので、あまり出てきません。

 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep4.5

 男子禁制なお店のお話です。R-15タグだからね。大丈夫だよね。
 女性物下着の描写とかが苦手な方はブラウザバック推奨です。
 申し訳ありません。次回更新までお待ち下さい。



 お気に入り登録100件越え、ありがとうございます。
 細々と更新していきますので、お付き合いいただければ幸いです。













「なぁ、千冬姉……入んなきゃだめ?」

「いっちゃん24ポインッツ!」

 

 一夏の隣で束が騒ぐ。三人はランジェリーコーナーの前で並んでいた。男性の立入を阻むように、ブラジャーとショーツを着けたマネキンが並んでいる。気恥ずかしくなってきたらしい、一夏が視線を千冬に移した。

 

「馬鹿者。お前の下着を買うのに、お前がいなくてどうする」

「はいっ!いっちゃんリテイク!!」

 

 束がやり直しを要求する。一夏は少し悩んだみせたあと、改めて千冬に向き直った。

 

「ねぇ…お姉ちゃん……どうしても、ダメ?わたし、恥ずかしいの…」

 

 胸の前で手を組み、上目遣いで千冬を見る一夏。恥ずかしいのか、頬が赤く色づいている。

 

「……しょ、しょうがないなぁ、一夏は。お姉ちゃんが適当に買ってき」

「ダメだからね。ちーちゃん」

「自分で言ってたじゃん。いっちゃんがいなきゃ意味ないって」

「す、すまない……一夏が余りにも可愛くてな」

「それに、いっちゃんもだよ。古くなったらどうすんの?毎回私たち呼び出すつもり?」

「そんなつもりはないけど…っていうか、そんなに長く女のままなの?」

「なるべく早く解決するつもりだけどね。ただ、普通に考えても二年はかかると思うよ?」

 

 束曰く、一夏が誘拐された時に、何かされたようだった。誘拐事件を起点に考えると、二年ぐらいで身体が変化したようである。ただし、この二年は比較的低リスクで元に戻る方法を実施してから二年である。方法がわからなければ、その先はもっと長い。

 

「一夏も成長期だからな。特に、女子は大きく体型が変わる可能性がある。私ぐらいの体型になってもおかしくはない」

「それに、女の子から男の子になるからね。もし、いっちゃんの胸がこの先二年で垂れちゃって…男の子に戻った時にだるんだるんの胸になったら…イヤでしょ?」

 

 胸部だけが垂れ下がった自らの体を想像し、顔を青ざめさせる一夏。もちろん、想像するのは男であった時の自分の体だ。

 

「大丈夫だ。今のお前は可愛らしい女の子だ。誰も変に思わんさ」

「ってことで、れっつらごー!」

 

 束に背中を押され、男子禁制、一夏からすれば禁断のエリアに入った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 目の前に拡がる、色とりどりのブラジャー。一夏も千冬のものを洗濯したりするときに見慣れてはいるが、流石にこれだけの量を目にしたことはない。また、店内にいる人間が全員が女性、というのも恥ずかしさに拍車をかけていた。いや、一組だけ男女のカップルがいた。二人とも自然な感じで下着を吟味している。お互いに体を寄せ合い、小声で話をしていた。

 

「あぁいうのを、バカップル、という」

「で、あのバカップルみたいなことをカフェでしてたのが、いっちゃん」

 

 カフェでの一幕を掘り返され、顔を赤くする一夏。バカップルと連呼されると流石に恥ずかしい。

「照れるぐらいならするな。ほれ、行くぞ」

 千冬が一夏に声をかける。俯いたまま顔を赤く染め、千冬に続いた。

 違う、あれはアキが悪い。アキが照れて食べなかったからだ。いや、それよりも何も頼まないアキが悪い。変なところで遠慮しちゃって。あ、でも、アキが頼んでくれたから三種類もパフェを楽しめた。優しく気遣ってくれたのは嬉しい。でも、アレは…と考え事をしている間に、違うところに迷い込んだらしい。千冬が見当たらない。

 キョロキョロと辺りを見回す。目に留まったのは赤いレースのシースルータンガである。うわ…と口を半開きにしながら手に取って眺める。透明の樹脂ハンガーに掛けられていたそれの先には、向こう側の景色が見えていた。

 

「お前にはまだ早いぞ」

 

 いつの間にか近くにいた千冬に話しかけられた。驚いて振り返る一夏。

 

「お前のはあっちだ」

 

 千冬が指差す先には、可愛らしいパステルピンクやブルーのブラジャーが陳列されている。千冬姉もあんなの穿いてんのかな…と想像したが、頭を振り、妄想をかき消した。

「まぁ、私もそれぐらいなら穿くがな」

 思考を千冬に読まれ、顔をトマトのように染める一夏。そそくさとタンガを戻し、一夏は指差された売り場に向かった。

 

「で、サイズは?わかるのか?」

 

 束は既に陳列棚を物色しだしていた。先日の身体検査時にわかっていたらしい。

 

「さぁ…束さんに教えてもらえばいいんじゃないの?」

 

 束が探していると思しきエリアを探し始める一夏。慣れてきたのか、恥ずかしさはほとんどないように見える。

 

「はぁ…お前というヤツは…店員にキチンと測ってもらえ」

 

 すみません、と店員を呼び止める千冬。

 

「こいつのサイズ測ってもらえますか?初めてのブラなんで」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

 

 にっこりと一夏をアテンドする店員。

 

「しっかり測ってもらって、着け方も教えてもらえよ。一夏」

 

 

 

 試着室に店員と一夏が入った。一夏はワンピースを腰の位置まで下し、ブラトップだけの状態である。下着まで脱ごうと、手をかけたところだった。

 

「では、手を上げていただけますか?」

 

 よくわからない、という表情でとりあえず真っ直ぐ両手を上げる一夏。失礼します、と店員が手を回した。下着の中に手を入れられ、ビクッと反応するが、彼女は気にした様子もなく採寸を続ける。アンダーバスト、バストトップと手際よく採寸していく。

 

「お客様ですと、D65ぐらいがいい感じですね」

 

 D65…と呟く一夏。ワンピースを戻しながら、店員の説明を聞く。

 

「ただ、少し大きいかもしれませんね。その場合はセミオーダーもございますので、お気軽にお申し付け下さい」

 

 そう言い残し、失礼します、と試着室を出て行った。

 

 試着室のカーテンを開けると、千冬と束が待ち構えていた。両手に数着のブラジャーを持っている。

 

「とりあえず、色々試着してみろ」

「デザインとかで着け心地変わるから、いいのがあったら教えてね☆」

 

 さぁ!と突き出されるブラジャー。こんなに試着しなきゃいけないのか、少しげんなりしながら、一夏はブラジャーを受け取った。

 

 店員の指導通り、背中に手を回し、一番外側のフックを止める。適当に腋から背中に寄せて、ストラップを肩にかけた。少し余っていたので、調整した。

 

「千冬姉!すっげぇ軽い!!」

「そうかよかったな。とりあえず閉めろ馬鹿者」

 

 感動から試着室のカーテンを開け、声を上げる一夏。もちろん、上半身はブラジャーのみである。素が出てしまっているため、羞恥心がどこかに飛んでいってしまったのか、初めてのブラジャーに感動したのか。確かに、ブラジャーを着けることで肩への負担は軽減する。体にホールドされているため、動きやすくなる。ほぼノーブラ状態で過ごしていた一夏からすれば、大変な驚きであっただろう。

 偶然にも次の試着分を持ってきたため、千冬が素早く閉めた。パステルピンクの可愛らしいデザインのものを着けた一夏が、脳裏から離れない。こうして少女から女になっていくのだな、と自分が通り過ぎた道を思い返し懐かしむ。一方で、この大胆さというか、考えのなさを改めて躾けなければいけない、と思い直した。

 

 束は店員から色々と説明を聞いていた。素材的な部分でもかなり進歩しているらしい。自分が一夏ぐらいのころにはなかった新素材の話を興味深げに聞いていた。お連れ様のご年齢ですとこの辺りなんかが~と一帯を指す。ふむふむ、と束が眺める。

 

「束、これが気に入ったみたいだぞ」

「着け心地とかも?」

「あぁ、このシリーズがいいようだな。まぁ、アンダーが少し余るのか気になるみたいだが…」

「ん~…いっちゃんだったら、もう少し大きくなると思うしなぁ…」

「そうだな…あぁ、すみません。セミオーダーだといくらぐらいですか?」

 

 一夏本人がいないところで、着々と商談が進められていく。束が先ほど一夏を採寸した店員と話していたようだ。お連れ様の体型とご年齢ですと~…と、次々に提案が出てくる。一夏が試着した結果を全て千冬がヒアリングしているため、どんどんと話がまとまる。一夏抜きで七着の下着のセミオーダー注文が完了した。

 

 結果、数日用の下着として、三着。それと下着用のランドリーネット三つと、サニタリーショーツを二枚。春用のナイトウェアとナイトブラを三着。そして、一夏の知らないセミオーダー分。

 ここでも大人組の散財は続く。いくらスプリングセール期間中とはいえ、やりすぎている感は否めない。もっとも、束は年齢の割には収入を得ているし、千冬にも十二分に蓄えはある。

 

「…そういえば、千冬姉たちは買わないの?」

 

 キャッシャーで梱包されていく自分の下着を見て、ふと思い出したように一夏が問うた。今までのショッピングでは、ついでに、といった形でいくつか千冬も束も自分のものを購入していた。だが、今回は一夏のものしか購入していない。

 

「私たちのはあっちだからなぁ」

 

 クイ、と顎で方角を指す。その方向を見ると、今までとは別の雰囲気で近寄りがたいコーナーがあった。インポートブランドものである。雰囲気もアダルティックだ。

 

「まず、サイズがないもんね~」

 

 いつの間にか千冬の後ろに回り、ぽよぽよと千冬の胸を弾ませる束。素早く束の手を取り、自らの指で締め上げ、束の指を横に曲げていく千冬。

 

「お前のもないだろうが!」

「ちーちゃんギブ!ごめんなさい!」

 

 じゃれ合う?二人を見る一夏。確かに大きい。自分のものと比べると、かなり大きく見える。

 

「まぁ、何事もほどほどが一番いい、ということだな」

 

 うぅ~、と涙目になって手を握っては開きを繰り返し、手の動きを確認する束のことは無視していた。

 

 

 

 ランジェリーコーナーから少し離れたソファー。そこで秋久は本を読んでいた。秋久の周りにも男性がたくさん座っている。皆、同じような目的でいるのだろう。近づいていく一夏に視線が集まる。その容姿からか、一夏は注目を集めてしまっていた。パンプスで歩くことにも慣れたらしい。しっかりとした足取りで秋久に近づいていった。

 

「おまたせっ」

 

 空になったショッピングカートに一夏が紙袋を入れていく。また沢山買ってもらったらしい。既にポーターサービスは手配済みなので、あとは手で持って帰ろうと思っていたが、まだまだカートは必要なようだ。

 下着でこんなにも買うのか…と驚いてた秋久に、千冬が告げた。

 

「まぁ、今回は下着だけではなく、ナイトウェアも買ったからな」

「あとは…簡単なメイクセットとケア用品だね~☆」

 

 え?と驚く秋久。そういえばそうだ、と思い出す一夏と千冬。一夏は先ほどのランジェリーコーナーの衝撃で忘れていたようだ。

 

 時刻は18時45分。すっかり日も落ちている。まだ、ショッピングは終わりそうにない。




 ということで、下着編だけ分けました。

 次は化粧品編…はボチボチにして、話を進めたいと思っております。


 ご愛読いただき、ありがとうございます。

 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep5.

やっと話が進みます。
ダラダラやりすぎました。反省します。



今回は秋久視点です。


 一夏の下着を買ったあと、30分ほどかけて一夏のメイクセットとケア用品を購入した。その場にはいなかったけど。何故かというと、化粧用品エリアの臭いが苦手だからだ。吐き気がするし、胸の奥がザワつく。

 束さんたちが買い物してる間にサービスカウンターまで戻り、追加でポタった。積載量ギリギリだったらしく、追加料金はかからなかった。ラッキー。

 

 化粧用品エリアから少し離れた休憩エリア。そこには、同士の皆さんが集っていた。奥さんか彼女か姉妹か従姉妹か…誰を待っているかは知らないけど、連れの女性に待たされている同士たちだ。皆さん、一様に疲れた顔をしていらっしゃる。お疲れ様です。あ、俺もか。

 

 

 

「待った?」

 

 晩飯の店を探していると、一夏の声がした。顔を上げた。そこには、薄目の化粧を施された一夏がいた。元々の顔立ちがいいせいで、より化粧映えしている。ナチュラルメイク、ってヤツだろうか。待ち合わせの時も可愛いと思ったけど、より可愛く見える。華はあるけど、ケバ過ぎない。愛らしいけど、あざとくない。コレがプロの仕事か…

 

「い、いや。全然。それより、顔…」

「うん。売り場の人にメイクしてもらったんだ。わたしなら、これくらいがいいんだって」

 

 嬉しそうに微笑む一夏。似合う?なんて聞いてくるけど、赤べこのおもちゃみたいに頭を上げ下げする事しかできなかった。顔が熱くなる。照れてる~、なんて一夏がからかってくる。口調も女口調が板についてきたらしい。

 周りからの視線も痛い。『あの子とあんなのが付き合ってんの?』な視線だ。違います。付き合ってません。コイツの中身は男です。俺はゲイな方じゃありませんから。

 

「いやいや~青春ですなぁ~」

「あぁ、見てるこっちも恥ずかしくなるな」

 

 一夏の後ろでニヤニヤ笑いを浮かべているお姉さま方。指摘しないで欲しい。

 

「そっそれより!ばば晩飯!!どうします!?」

 

 慣れている二人に話すだけなのに、吃音ってしまった。恥ずかしかったせいか、思ったより大きな声が出た。周りの人も驚いて見てくる。もっと恥ずかしくなった。

 

「ん?秋久が調べてくれてるんじゃないのか?」

「調べましたけど、何がいいんですか?」

「ん~…もう時間も遅いし、軽いのがいいね~」

「じゃあ、5階の和風パスタ屋にしましょう。待ち時間もほぼゼロみたいですし」

 

 いいね、と皆の同意を得た。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 晩飯のメニューはあっさりと決まった。そこそこに空腹だったらしい。俺も結構腹ヘリだった。一夏はツナと大根おろしのパスタ。千冬さんはカニの和風クリームパスタ。束さんは和風カルボナーラで、俺は和風ミートパスタ。俺と束さんのパスタはどこが和風なのかはわからなかったけど、とりあえず食べた。味は普通に美味しかった。

 

「そういえば、今回はそんなに買わなかったんですね」

「まぁな。私たちも分も足りないものを足したぐらいだしな」

「わたしは結構買ってもらったよ?体に塗るっぽいのとか、シャンプーとかも買ってもらったし」

 

 ぽふぽふと横に置いてある紙袋を叩く一夏。確かに、一夏のだけは大きい。

 

「持てるか?帰り、ちょっと手伝うぞ?」

 

「だーいじょーぶ!」

 

 ぐっ、と左手で力こぶを作ってみせたつもりの一夏。つい一昨日までは確かに力こぶがあったけど、今ではすらっとした柔らかそうな二の腕があるだけだった。

 

「あれあれ?あっくん~。束さんたちのはお手伝いしてくれないのかな~?」

 

 ん~~?と束さんが横から絡んでくる。変装してても、キャラは束さんのままだ。

 

「もちろん、お手伝いさせてもらいますよ」

「よろしい!」

 

 ぺしぺしと肩を叩く束さん。向かい側では、千冬さんがやれやれ、な感じの呆れ顔、一夏があははは…な感じの苦笑いを浮かべていた。

 

 

 

 滞りなく晩飯は終わり、三人分の荷物を持って一夏たちの後をついていく。美女美少女三人に、その後ろで化粧品ブランド?の紙袋をたくさん持って歩く冴えない男。うん、よく見る光景だ。レゾネーアから駅までの道を歩いた。

 

「アキ、大丈夫?」

 

 いつの間にか隣に来ていた一夏が話しかけてくる。驚いたが、荷物を落とすようなことはなかった。俺を心配してくれてるらしい。いい子だ。男だった頃からそうだけど。

 

「あぁ。大丈夫だ」

「ホント?わたしの、結構重くない?」

「全然。軽いぐらいだよ」

 

 性転換してから筋力が落ちたらしい、心配そうに見る一夏に荷物を持ち上げてアピールする。逆の手には千冬さんと束さんの紙袋を持っている。こっちは本当に軽かった。もちろん、一夏の荷物も全く重くはない。

 納得してないような表情で、一夏は自分の腕をさすっていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一旦織斑家に荷物を置きに行って、自宅に戻った。玄関のドアを開けて時計を見ると、9時45分過ぎだった。風呂に入ったりするとちょうどいい時間になる。テーブルに隠し持っていた紙袋を置いた。一夏たちが下着を買いに行っていた隙に買った、シュシュとヘアピンだ。伸びた髪の毛が邪魔なんだと思う。食事中や移動中に何度もかきあげていたのが気になった。今日のうちに渡そうと思ったけど、渡せなかった。まぁいいや、明日にでも渡そう。

 ケータイが震え、着信を知らせる。

 

『夜分遅くに失礼する。明日は午前10時にウチへ来てくれ。 千冬

 追伸 来なくてもいいが、お楽しみを見逃すことになるぞ』

 

 あの人らしい、固いんだかノリがいいんだか判断しづらい文章だ。10時は少し早いけど、頑張って起きよう。お楽しみっていうのも気になるし。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 午前9時50分。俺は織斑家の前にいた。少し眠い。結局、今朝もギリギリまで寝ててしまった。春眠、暁を覚えず。二度寝サイコ―。ダラダラしててもドアは開かないので、インターフォンを押した。

 

『ハ~イ』

「斧崎です」

『今開けまーす』

 

 電子ロックが開錠された。ちなみに、今の声は一夏だ。ドアを開けて中に入る。

 

「おじゃ」

「おはよう、アキ」

 

 お邪魔します、と挨拶する前に一夏に遮られた。わざわざ玄関まで出迎えに来てくれたらしい。昨日ルームウェアとして買っていた、薄いグレーのパーカーにデニムパンツ、初日のダボダボな服とは違い、マトモな格好だった。

 

「おじゃまします、じゃなくて、おはよう、でしょ?朝からただいまっていうのもおかしいしね」

「…おはよう、一夏」

 

 よろしい、と言わんばかりの笑顔を作る一夏。

 

「千冬姉も束さんも待ってるよ。いこっか」

 

 

 

 織斑家リビングには二人が待っていた。おはよう、と挨拶されたので、おはようございます、と返す。年上だし、つい敬語になってしまう。テーブルに着くと、一夏がコーヒーを出してくれた。多分、千冬さんと同じくブラックだ。

 

「で、アキはちゃんと朝ご飯食べた?」

「…うん。食べたよ」

「ウソだ。こっち見て返事してよ。わたしの目を見て」

「まだ慣れてないから無理」

「……後でアキの部屋行くからね」

 

 お前は俺のオカンか、母親の顔忘れたけど。一応アンパン食べたから嘘じゃない。大方、食器が出てないことをツッコんで、食べてないじゃん、って言うんだろうな。一夏は。

 

「朝から見せつけてくれちゃうね~」

「仲良きことは美しき…だな」

 

 ほら、茶化された。

 

「そんなことより…家でも女言葉なんだな、一夏」

「まぁね。リラックスしてる時でもボロ出さないように、って千冬が」

「秋久の部屋、且つ二人っきり以外の時は男言葉は禁止だ」

「ずっと女の子口調でもいいけどね。せっかく可愛くなったんだし」

「束さん…結構疲れるんだよ?意識してこういう風に喋るの」

 

 一夏が頬を膨らませて抗議した。女の子化して精神的に幼くなった気がする。そんな風に怒っても可愛いだけだぞ、と千冬さんが茶化す。更に一夏がへそを曲げた。

 

「で…今日集まってもらったのは…結果はっぴょ~☆」

「あ、昨日のポイントの?」

「そそ。なんと今回…32ポイント!でした~☆」

「で、それは何のポイントだ?」

 

 ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる千冬さん。この人、内容知ってて言ってるな。

 

「実は」 ピーンポーン

 

 チャイムの音が束さんのセリフを遮った。一夏が来客に対応して、束さんがグッドタイミーングと喜ぶ。千冬さんは薄ら笑いを浮かべたままだ。嫌な予感がする。

 

「束さん、なんかいっぱい荷物が…」

 

 一抱え出来るダンボール。60cm四方ってとこか。それがもう二つあるらしい。俺も玄関から持ってくるのを手伝おう。

 

 リビングにダンボールが三つ。俺と一夏で運んできた。割と軽かった。

 

「さぁさぁ開けてみて?あ、カッターは使わないでね」

 

 ガムテを剥がす。中には…なんだこれ?衣装?

 

「なにこれ…」

 

 一夏が箱の中身を持ち上げる。どう見てもバニーガールの衣装です。色はピンクだけど。ご丁寧に黒いウサ耳まで同梱されている。

 

「ということで…可愛い子にはコスさせよ!いっちゃんコスプレ撮影会~☆」

 

 高らかに宣言する束さん。呆気にとられる俺と一夏。一夏に至っては口をパクパクさせている。困惑の余りに声がでないらしい。千冬さんはいつの間にかカメラを準備している。

 

「32ポイントだから、この中から三種類選べるよ」

 

 織斑家のリビングには計12種類のコスチュームが並んでいた。バニーガール風が三種類、メイド服風が三種類、巫女装束風が三種類、学生服風が三種類。待って、なんで東中(ウチ)の冬夏のセーラー服があんの?あと、このブレザーどこの学校の?

 

「私はこのバニースーツかなぁ~」

 

 白いバニースーツを持ち上げる束さん。胸元の白いファーが可愛いらしいが、なかなかエグい切れ込みになっている。ちなみに、一夏はまだフリーズしたままだ。

 

「なるほど…なら、私はこのメイド服を選ばせてもらおう」

 

 千冬さんが選んだのはロングスカートのメイド服。ヘッドドレスまでついてる。

 

「あっくんは?どれがいい?」

「えっと…じゃあコレで…」

 

 俺が選んだのは赤袴の巫女装束。一番露出が少ないものを選んだ。制服姿はこれから毎日見れる訳だし。

 

「さて、いっちゃん…あれ?まだフリーズしてるね」

 

 おーい、と一夏の顔の前で手を振る束さん。一夏からの反応はない。しょうがない、と束さんは一夏と自分が選んだ衣装を抱え、風呂場に向かっていった。




『東中』
 一夏と秋久、弾らが通う公立中学。なお、市内の公立学校は小中高共に制服で、男子は学ランで統一されており、襟元の校章と学年章で区別される。女子は小学校がジャンパースカートとジャケット、中学はセーラー、高校はブレザーである。なお、今回出てきたブレザーは公立高校のものではない。




 次回は一夏ちゃん撮影会です。
 需要が無ければさっと流しまして、話を進めようと思います。

 …私に一夏ちゃんの可愛さを表現出来る力量があれば、ですが…


 ご愛読ありがとうございました。
 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep6.

今回も秋久視点です。
いちかわいい成分控え目でお送りします。


 一夏と衣装を抱え、束さんがリビングを出て行った。ドアの向こうでようやく再起動した一夏が騒いでいる。多分、着替えさせようとした束さんに一夏が抵抗してるんだろう。

 俺は席を立ち、一夏の部屋に向かおうとした。その行動を不思議に思ったのか、千冬さんが声をかけてきた。

 

「どうした?トイレか?」

「いや、一夏の部屋に行ってます。一夏も俺には見られたくないでしょうし」

 

 あと、俺もあんまり見たくない。兄弟分のバニーコスとか…誰得だよ。あ、束さんと千冬さんには眼福か。ドアの向こうではまだ騒ぎ声が聞こえる。かなり必死に抵抗してるらしく、やめろぉー、なんて叫び声まで聞こえる始末ではある。そんなに一夏の着替えを手伝いたいのか、束さん。

 

「…そうか……まだ、女の肌を見るのは辛いか?」

「………画面越しなら大丈夫ですよ」

 

 千冬さんの返事を聞く前に、リビングを後にした。なるべくおどけた声と笑顔を作ったつもりだけど、千冬さんに通用したかどうかはわからない。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一夏の部屋に入った。相変わらず綺麗に掃除されてる。勉強机はすっきりと片付いてるし、床にゴミやら服が落ちてるっていうこともない。とりあえず、持ってきた紙袋を置いた。

 家具類はほとんど装いは変わってないけど、変わってるトコがある。匂いだ。こないだまではなかった甘い匂い。いつの間にか設置されてたドレッサーを見つけた。多分、あそこに化粧品やらケア用品やらがあるんだろう。

 

 ふぅ、と溜め息を吐き、ベッドに腰掛けると、軋んだ音が響いた。気にせず、そのまま横になる。

 匂いが強くなる。化粧水やらの匂いがベッドに染みついているんだろう。今まで何度も一夏のベッドを借りて昼寝したり、寝転んで本を読んだりしたことはある。その時は何も気にならなかった。俺も一夏も男だったから、匂いは気にならなかった。でも、今は違う。一夏は女になっちまった。たった二晩でここまで変わるなんて思わなかった。今までの一夏とは違う一夏になっていく。

 

「どうすっかなぁー…」

 

 声が漏れた。本当にどうするつもりなんだろう。さっき届いた衣装の中に東中(ウチ)の女子制服があった。ということは、あのまま通学するつもりらしい。一夏が東中(ウチ)に通うことは問題ないと思う。問題は一夏の扱いをどうするか、だ。

 性転換をしたことを告げて、一夏として過ごす?それは色々問題がありそうだ。一夏が知らないところで結成されてるファンクラブも大変なことになると思う。それに性転換の精度?が完璧すぎる。違う意味でパニックを起こしそうだ。どう扱うかもややこしい。トイレとか体育の授業の着替えとか。あ、プールの授業も困るな。中身は男だけど、身体は女だ。流石に今の状態で女子と一緒にプールに入れるとなると、女子から反対…されないか。元々イケメンモテキャラだし、むしろ女子は一夏だけなら喜んで迎え入れそうだ。一個問題解決。そこだけだけど。

 別人として転校してきたことにする?一夏の面影もあるし、千冬さんにもよく似てるから、流石に別人と主張するには無理がある気がする。他人の空似、で片付けるか?それとも親戚扱いにする?あと、一夏の変な不器用さも怖い。そのままの名前で通えるとは思えないから、偽名を使うことになると思う。でも、偽名を使ったら、一夏が返事をしない可能性もある。かといって、一夏がツンとしたクールキャラを演じられるとは思えない。女言葉を使うよりもすぐにボロが出そうだ。

 

 取り止めのないことを考える。どうすれば妥協点を生み出せるか。目を閉じ、思考に集中する。どうしよう、どうすればいいんだろう。もういっそのこと千冬さん経由で政府に頼んで重要人物保護プログラム入りにしてしまうか。いや、それは千冬さんが許さないか。束さんも大激怒しそうだ。あの二人は敵に回したくない…というか、あの二人を敵に回して無事で居れそうな人物はほぼいない。それより、一夏が東中(ウチ)に通学するっていう前提を覆してる。ダメじゃん。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「おい、秋久。起きろ」

 

 春は寝やすくていい季節なんだけど、コレがダメだ。いつの間にか寝てたみたいで、千冬さんに起こされた。

 

「一応ノックはしたんだがな。返事がなかったから勝手に入らせてもらったぞ。しかしなんだ、女子のベッドを使って堂々と寝るとは…なかなか女子慣れしたんじゃないか?」

「違いますよ…一夏は男です。だから、ココは男のベッドです」

「そうかそうか…今までの愚弟のベッドとは色々と違うと思うんだがな?」

 

 ニヤリと笑いかけてくる。外ではキリッとしてカッコいいのに、家ではこんな感じでよくからかってくる。さっきも下で茶化されたし。

 寝起きでうまく動かない頭で、言い返す文句を考える。なかなか出てこない。

 

「それはそうと、昼飯だ。食っていくだろう?」

「あ、はい。いただきます」

「そろそろ準備ができるから、下りてきてくれ」

 

 それだけ言って、千冬さんは部屋を出ていった。なんだろう、嫌な予感がする。嫌な予感というより、またからかわれそうな地雷がある気がする。

 

 

 

 リビングに戻ると、ソースの匂いがした。焼きそばか焼うどんの匂いだ。いや、この家に冷凍中華めんはなかったから、焼うどんか。キッチンに目を向けると、メイドがいた。踝ぐらいまであるロング丈のエプロンドレスに、白いフリルのついたヘッドドレス。一夏だ。まだコスプレをさせられているらしい。キッチンで焼うどんを作るメイド。なんだろう、おかしくないけどシュールだ。

 

「…まだその恰好してんの?」

「あ、おかえり。アキ」

 

 ただいま、と小さく返事をする。いや、おかえりって変じゃないか?リビングから出てったのは出てったけど、別に家から出てったわけじゃないし。

 

「メイドさんのカッコは罰ゲームの続きなんだって…ひょっとしたら、今日一日このカッコかも…」

 

 眉を顰めて呆れたような顔の一夏。マジか…哀れな…でも、似合ってるから哀れでもないか。本人は困ってそうだけど。

 

「あー…ご愁傷様?」

「ありがと。とりあえず、お皿出してもらえる?いつものトコだから」

「はいよ」

 

 なお、お姉様方は撮った写真の整理に夢中な模様。テーブルの上で頭を突き合わせて、時折奇声を上げていた。アレが世界最強クラスの人物とは思えなかった。

 

 

 

 一夏の作った焼きうどんをテーブルに並べた。皿を持ってきたときに、束さんが俺に初めて気がついたらしく、大声をあげた。

 

「ごめん!あっくん!!巫女服のターン終わっちゃった!代わりに画像いっぱい送るから許して!!」

「いえ、大丈夫です」

「いらないの!?いっちゃんの白バニー姿とか見たくないの!?白スト装備でぴょんぴょんしてるのもあるんだよ!?」

「いや、秋久は巫女服がいいんだろ。ほら、この画像なんかどうだ?」

 

 千冬さんがモニターを見せてくる。巫女服に着て、可愛らしく照れ笑いを浮かべる一夏が映っている。髪を後ろの低い位置でくくってるからか、清楚な巫女に見えた。確かに似合う。次は正座をして瞑想してる様な一夏を俯瞰で撮った画像だ。この家のフローリングで撮った筈なのに、少し神秘的な感じがする。

 

「もぉ、まだやってるの?」

 

 両手に焼きうどんを持ったメイドがやってきた。家庭的なんだか、そうじゃないんだかよくわからない。それぞれの前に焼きうどんが置かれた。

 

 

 

「あれ?いっちゃん、カツオ節ないの?」

 

 あ、と声を上げる一夏。忘れてたらしい。

 

「ごめん。すぐ持ってくるね」

 

 一旦キッチンに引っ込んで、カツオ節の小分けパックを持ってきた。封を切って束さんに渡そうと手を伸ばした時だった。

 

「いっちゃんにかけて欲しいなぁ~…美味しくなぁ~れ♡って可愛くね☆」

「え」

「そいつはいいな。一夏、私のも頼む」

 

 それ、メイドカフェでオムライスにやるヤツじゃ…まさか束さん、このために…

 

「オ、オイシクナーレ…」

「ダメダメ!声が固いよいっちゃん!もっと可愛く!」

 

 一夏が少しカツオ節をかけた所で、束さんがストップをかけた。恥ずかしさからか、トマトみたいな顔をして、固くなる一夏。ダメ出しする束さん。なんだこれ。

 

 しばらくして、ふぅ…と息を吐く一夏。覚悟を決めたらしい。何回もやり直し食らったら、焼きうどんがカツオ節まみれになりそうだもんな。

 

「美味しくなぁ~れ♡美味しくなぁ~れ♡はいっ、美味しくなりました~♡」

 

 甘い声を作って、カツオ節をかけた一夏。最後には両手でハートマークを作って束さんに向けた。真っ赤なひきつり気味のウィンク付きで。

 

「………かっわいいいいぃ!ヤバいね!!もうヤバいしか表現ができないよ!向こう三年は無補給で戦えるね!!」

「…何と戦ってたんですか?」

「あぁ、わかる。わかるぞ、束。横で見ているだけの私にも凄まじい余波が来たからな。さぁ、一夏!」

 

 スルーされた俺のツッコミ。

 

「美味しくなぁ~れ☆美味しくなぁ~れ☆お姉ちゃんっ、い~っぱい食べてね♡」

「………いちかああぁぁぁ!いくらでも食べてやる!!何皿でも持ってこい!!」

 

 可愛いけどなんなのこの人たち。ストレス溜まってんの?一夏は顔を真っ赤にしたまま席について、もうやだぁ…なんて呟いて顔を両手で覆ってる。あれは恥ずかしいわな。

 

 

 

 いつもより賑やかな昼飯だった。昼飯のあと、千冬さんは仕事先へ向かっていった。明日は月曜だから仕事があるらしい。一夏のおかげで気力も体力も有り余るぐらいに回復した、といっていた。一夏ちゃんマジ半端ねぇ。束さんはもう二、三日こっちにいるらしい。一夏の教育のためなんだとか。どんな生活なのか全く謎な人だけど、本人が大丈夫って言ってるし、大人だし大丈夫だろう。織斑家で千冬さんの部屋に泊まるらしい。

 夕食の買い物は流石に着替えて行った。束さんは最後までメイド服を推してたけど、涙目の一夏には勝てなかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一夏が女になって五日目の夜、束さんからメッセが届いた。

 

『もういっちゃんは完璧だよ☆』

 

 そうか。よし、やるか。ケータイを取り出して、メッセを送る。

 

『オッス』

『もう寝た?』

【一夏じゃねぇんだから、まだ寝てねぇよ】

『明日時間ある?』

【昼過ぎなら】

『じゃ、3時ぐらいにウチに来てくれ。コーヒーゼリーぐらいなら出す』

【楽しみにしとく】

『よろしく』

【了解】

 

 一夏にも『明日はウチに来てくれ』とメッセを送る。だけど、既読がつかない。もう寝てんのかよ…小学生か、アイツは。まあ一夏の方が起きるのは早いし、適当な時間に来るだろう。流石に3時過ぎに来ることはないだろう。無いと思いたい。

 さてと…舞台は整った。一夏ちゃんのお披露目だ。なんとなく予想はつくけど、不安要素が大きすぎる…ぶっちゃけ怖い。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 枕元でケータイが鳴った。多分、一夏が来たんだろう。俺の安眠を妨げるような時間に来るヤツは一夏ぐらいだ。机の上のデジタル置き時計は10時45分。割とよく寝た方かも知れないけどまだ眠いし、4月になったとはいえ、寝起きは寒い。ベッドに入ったまま、ケータイを操作する。

 

「はい…」

『…寝てた?』

「今起きた…開ける…」

 

 一夏の声が聞こえる。解錠操作をして、画面を閉じた。まだ眠くて頭がうまく働かないし、寒い。

 

「うーっす…って、アキ。まだ布団から出てねぇのかよ…」

 

 布団にはいったまま、引き戸を開けて部屋に入ってきた一夏を見る。紺のスカートに黒いストッキング、白いシャツに薄いピンクのカーディガンを羽織っている。左手には俺が買ったシュシュを着けてるし、ヘアピンも髪に着けている。見た目だけなら清楚系美少女だ。ただ、言葉遣いが男に戻ってる。束さん、完璧って言ってたのに…大丈夫か?不安が頭をもたげた。一夏はダイニングと俺の部屋を繋ぐ引き戸の前で腕を組み、仁王立ちをしているが、背が低いせいか全く迫力がない。

 

「うん…今起きたし…」

「はぁ…朝も食ってねぇんだろ…でもなぁ…時間も微妙だしなぁ…」

「いいよ…アレ飲むから」

 

 気合いを入れてベッドから出る。アレっていうのは、ここ数ヶ月で出た高機能栄養ドリンクのことで、1日分のカロリー以外全ての栄養素が入ってる優れもの、というキャッチコピーで販売されているドリンク剤のことだ。料理するのが面倒な時に割とよく飲んだりするんだけど、たまに一夏に見つかって呆れられる。

 

「…またソレかよ…背ぇ伸びねぇぞ…」

「大丈夫。一夏よりはデカくなったからな」

「…テメェ…戻ったら覚えとけよ…」

 

 恨み言を呟く一夏を無視して、ベッドから抜け出した。ダイニングに移動して、冷蔵庫から栄養ドリンクを出した。封を切ると、薬のような独特な強い匂いがする。いつもの匂いではあるから、一気に喉に流し込んだ。腹は膨れないけど、あと1時間ちょいで昼飯の時間になるし、昼飯とコーヒーゼリー作りの同時進行もしなければ…三人前だし、そこまで面倒くさいわけじゃないけど、何の準備もなし、というわけにはいかない。コーヒーは俺が飲むついでに淹れて…あ、一夏はどうすんだろ。

 

「一夏ー…コーヒー淹れるけど、飲む?」

「…コーヒー飲めねぇの知ってんだろ?こないだのミルクティーがいい」

「へいよー」

 

 電気ケトルでお湯を沸かしながら、コーヒー豆を挽く。せっかく豆から淹れるコーヒーなのに、それでコーヒーゼリーを作る事に少しもったいなさを感じ始めていた。なんだろうかこの贅沢感。ついでに、ミルクパンに弱中火で牛乳を温め、一夏用のロイヤルミルクティーの準備をする。ミルクが温まったらティーバッグと蜂蜜を少し入れて、紅茶を煮出す。今回はロイヤルミルクティーゼリーも作るから、少し多めにロイヤルミルクティーを淹れる。一夏にもコーヒーゼリーを食べてもらおうとしたけど、無理っぽいし。あ、昼飯も作んなきゃ…とりあえず、適当焼き飯でいっか。

 

 

 

 15時18分。なかなかヤツがこない。コーヒーゼリーはとっくに固まってるし、一夏用に淹れたロイヤルミルクティーは飲み干されてしまっていた。とりあえず、蜂蜜入りのホットミルクを作って渡してはいるけど。

 ホットミルクを飲みながら、俺の部屋のテーブルでティーン向けのファッション誌を眺める一夏。どこからどう見ても完全に女子だ。何となく落ち着かない。ちなみに、俺はコーヒーを啜りながら、自分の机で春休みの課題をこなしている最中である。なお、一夏ちゃんには課題がない模様…一夏の場合、課題をやらなくても成績には問題なさそうだし、そもそも転校生扱いだから課題が存在しない。まぁ、春休みだから課題もそんなに多くない。俺もここ数日だけでほぼ終わらせているし、問題の質もそこまで難しくない…弾はやってないかもしれないけど。

 

 

 

 机に置いてあるケータイが震えた。噂をすれば…というやつだろうか、赤毛にトレードマークのバンダナ、長袖のシャツに太めのデニムパンツ…五反田 弾くんである。彼を迎えに玄関に向かった…あ、一夏の靴が出しっぱだ。サプライズを演出するためにも、靴箱に隠しておこう。ドアを開け、弾に声を掛けた。

 

「よっす」

「よっ。珍しいじゃねぇか、秋久が家に来いなんてよ」

「ちょっと話があってさ…ま、上がっててくれよ」

「おっじゃまー」

 

 ドアを開ききり、弾を迎え入れる。弾はこっちを見ずにダイニングへ向かっていった。彼は何度もウチに来てるから、勝手知ったるなんとやら、って感じなんだろう。ダイニングのドアが開く音とほぼ同時に玄関に鍵を掛けた。

 

「オヤツと飲み物準備してるから、先に部屋行ってて」

「おう」

 

 弾を先に部屋へ向かわせ、俺は冷蔵庫からコーヒーゼリーとロイヤルミルクティーゼリーを取り出す。飲み物は…ミネラルウォーターでいっか。コーヒーゼリーとコーヒーってのも変な組み合わせだし、ペットボトルを三本取り出した。

 

 弾が俺の部屋へ続く引き戸を開けた。

 

「あ、弾。いらっしゃい」

「ア、チワッス」

 

 で、閉めた。

 

 

 

「…秋久クン?」

「待て、落ち着け。多分凄い勘違いしてる」

 

 引き戸を閉めた弾は俺を睨みつけて、肩を組んできた。抵抗しようとも思ったけど、オヤツとミネラルウォーターの乗ったお盆を持ってるから、何もできずに弾に肩を組まれる形になってしまった。

 

「いーや!してないね!お前アレか、彼女欲しいって言い続けてる俺に対する嫌がらせか!あんな可愛い清楚系彼女が出来たことを自慢したいわけですね秋久クンは!!」

「違うって!アレは一夏なんだよ!」

「ハァ!?んなわけねぇだろ!」

「気持ちはわかるけど、あの子は一夏なんだよ…」

 

 俺から離れ、腕を組み考え事をする弾。

 

「……はっはーん…そうか…今日はエイプリルフールじゃねぇか…」

「あ」

 

 …忘れてた。今日は4月1日だ。タネがわかったといわんばかりに、引き戸を勢いよく開く弾。なんかマズい気がする。

 

「弾、いらっしゃい。何騒いでたの?」

「…ふっふっふっふっ…なかなか女言葉もサマになってんじゃねぇか…」

「そうかな?でも、ありがと。特訓したからね」

 にっこりと弾に微笑みかける一夏。

「だがよぉ…さっさとヅラ取りやがれ!」

「きゃっ」

 

 弾が一夏の髪を掴み、引っ張った。でも、一夏の髪は頭から離れない。ヅラじゃないから離れるわけがない。そんな弾のアクションに対し、可愛らしい悲鳴をあげる一夏。

 

「あ、あれ…?」

「痛っ!痛いってば!やめてよ弾!」

 

 ぐいぐいと髪を引っ張り続ける弾。一夏の抗議でようやく手を話したけど、まだ納得いってないのか、呆然と自分の手を見続けている。

「もう…第一、声だって違うでしょ?」

 手櫛で弾にボサボサにされた髪を整える一夏。その仕草はまさに女の子のソレだった。

 

「そこは…ほら、ボイチェンとか…」

「残念だけど…弾、その子は一夏だ。信頼できるトコで調べてもらったから」

「……マジかよ…」

 

 がっくし…とオーバーに両膝と両手を床につける弾。そこまでオーバーリアクションじゃなくてもいいと思うんだけど、これも弾らしいキャラの一つではある。

 

「で、弾には協力してもらいたいんだ」

「…は?」

 

 

 

「一夏はこれから東中(ウチ)に通う予定なんだよ」

 

 各々にオヤツを出して、俺は早速本題に入った。

 

「…本気か?」

「本気…で、弾には俺と一緒に、一夏のフォローをしてもらいたいんだ。大丈夫、次も同じクラスになるらしいし。

 そんじゃ、説明してくから。まず、名前は『折浦 美智華』。一夏の親戚で、ドイツからの帰国子女。時々日本に来て俺や一夏と遊んでた、って設定だ」

「まぁ、昔馴染みなら秋久も喋れるわな」

「そういうこと…続けるぜ?今回は日本人だけど、日本文化に触れたいってことで、東中(ウチ)に転校してきたって話になってる。両親は既にドイツに戻ってるから、いつ戻るかはわからない」

「わたしもいつ男に戻れるか、わかんないからね」

「…授業中とかに戻んのは勘弁してくれよ。野郎のセーラー服なんざ見たくねぇ」

「で、俺と弾で一夏をフォローする。具体的には、一夏が変なことを言い出したり、やり出したら、止める。無理そうならどっかに気を逸らして、やり過ごす。

 例えば、体育の授業で着替えるためにこっちに来たりしたら、止める。ホントは女子の協力者がいればいいんだけどさ」

 

 こういう時、頼りになりそうな鈴ちゃんは既に中国に行ってしまった。いや、彼女に任せるのも酷な話か。

 

「わかったけどよ…なんで俺なわけ?」

「俺だけじゃ無理だから。あと、弾は次もクラス一緒らしいし、口堅いからな」

「はぁ………わーったよ。協力するぜ」

 

 頭を垂れ、かなり重たい溜め息を吐きつつも一応は同意してくれた弾。これで少しは俺の負担が減ったはず…だ。

 

 

 

「…でさ、その子ホンッットに一夏なんだよな?」

 

 本題も終わってティーブレイク。全員がぼちぼちとゼリーに手をつけている最中に、弾が改めて切り出した。

 

「そうだよ。試してみる?」

 

 ふふん、と自信あり気な表情の一夏。調子乗って大失敗フラグかな?

 

「よし……じゃあ…秋久のチ○毛が生えたのは?!」

「なんで俺に火の粉飛んでんだよ!」

「小五の秋。修学旅行の時に恥ずかしいからって抜いたら、わたしたちも生えてて逆に恥ずかしがってた」

「一夏も答えんな!!」

「……本物だな…秋久がネタのために、そこまで女子いうとは思えねぇ…」

「おーう…信じてもらえてなによりだよ」

 

 俺のSAN値がっつりもってかれたけどな。中身が一夏ってことは理解してるけど、女の子の声でそんな話をされるのはなかなかキツい。

 

 

 

「…一夏……」

「なーに?」

 

 幸せそうな表情でミルクティーゼリーを頬張る一夏。グラニュー糖と蜂蜜が入ってる分、かなり甘めのはず…市販のミルクティーよりも甘いはずなのに、美味そうに食べている。そんな幸せそうな表情のまま、一夏は弾に返事をした。

 

「親友と見込んで、頼みがある」

 

 緩みきった一夏とは対照的に、弾は鬼気迫る表情。ある種の迫力すら感じる。弾が正座して、背筋を伸ばした。一夏はキョトンしている。

 

「オッパイ揉ませて下さいッッッッ!!」

 

 正座から滑るように土下座に移った弾。

 

「ヤダ」

 

 コンマ数秒で断る一夏。

 

「なんでだよ!!お前も男ならわかるだろ!?わかってくれるだろ!?」

「ヤダってば。そもそも目ぇ血走ってるし、そんな顔で言われたら気持ち悪い」

「いいじゃねぇか!減るもんでもねぇだろ!?」

「気持ち悪い。無理。男が男に迫るとか、無理」

「わかった!ワンタッチ!!ちょっとだけでいいから!!」

「もっと無理。必死すぎて気持ち悪すぎ」

 

 ゴミを見る目つきで弾を見る一夏。弾が一夏に頼む度に、一夏の視線の温度が下がっていく。必死の形相で弾は頼み続けていた。




 野郎同士メッセなんてシンプルなもんです。たまにネタスタンプ爆撃かますぐらいで。

 秋久は自分で食べるなら何でもいいや、なタイプです。最低限の調理しかしないし、カップ麺でも野菜類ぶち込んでオッケーな人です。自分しか食べないときは。


『適当焼き飯』
 その時の冷蔵庫の野菜類と肉を入れて、醤油などで適当に味付けした焼き飯。なお、今回は冷凍ミックスベジタブルと合い挽きミンチだった。

『人物紹介』
織斑 一夏(♀)/折浦 美智華(おりうら みちか)
・年齢 13歳
・身長 153cm
・体重 ■■kg
 女の子になった一夏。束の教育の結果、女言葉をほぼマスターした。現在は教本としてわたされた少女マンガを読み勉強中。
 秋久のスイーツを食べて以来、和菓子派から洋菓子党和菓子派に改宗した模様。苦味と渋味、香辛料系が苦手になった。顔立ちは千冬に似ているが、目許がくりっとしているため、千冬と比べると優しそうな印象を受ける。髪は鎖骨よりやや下のセミロング。




 ご愛読ありがとうございました。
 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep7.

『五反田食堂』
 いわゆる大衆食堂。確かな味と値ごろ感、愛らしい看板娘たちの活躍により、食事時は基本的に満席。三階建てのビルの一階にある。二階と三階は五反田家の居住スペース。


 今回はいちかわいくないです。

 秋久視点でお送りします。
 途中で三人称視点に変わりますが、基本的には秋久視点です。


 弾が一夏に対して暴走した翌日、俺と一夏は商店街の文房具店を訪ねた。今日、聖マリアンヌ女学園中等部への入学式を終えた、蘭ちゃんへの入学祝を受け取るためだ。

 俺も一夏もよく知らなかったけど、入学した学校は私立女子中で、なかなかのお嬢様学校らしい。ということで、アルファベットで蘭ちゃんのフルネームを入れてもらった、万年筆風ボールペンとシャーペンを二人で資金を出し合って買った。お嬢様学校だし、ファンシーな筆記具よりもああいう高級そうな筆記具を使ってそう、っていう俺たちの勝手な思い込みの一品でもある。

 一夏も俺も、五反田家の皆にはよくしてもらっている。俺たちが中学に上がった時も、豪華は夕飯を御馳走してもらったりした。その恩返し…というわけでもないけど、何もしないっていうのも不義理だと、俺も一夏も感じていたから。

 

 弾からの情報だと今日一日店を閉めて、蘭ちゃんのお祝いやらなんやらをするらしい。家族水入らずらしいから、俺たちは夕方にお邪魔することにしていた。ペンとシャーペンだけだと寂しいから、タルトケーキも用意している。五反田家のみんなで楽しんでもらえるよう、甘さ控えめのクリームチーズタルトだ。

 

「蘭、喜んでくれっかな?」

「言葉戻ってるぞ…まぁ、一夏が選んだものなら何でも喜ぶと思うけど」

 

 昨日も何とか弾の暴走を諌めた後、蘭ちゃんへの説明をどうするか、という話になった。もちろん、一夏は蘭ちゃんからの想いに気付いていない。この唐変木め。先延ばしにして一夏がどこかに行ったことにするか、ありのままに伝えるか…結論として、蘭ちゃんにはありのまま伝えることにした。残酷なようだけど、変に期待させるより、嘘を吐くより、そっちの方がいいだろうって話にまとまった。

 

「…はぁ…」

「なんだよ。そりゃ蘭は寂しがるかもしんねぇけど、それぐらいだろ?お祝いムードに水差すけどさ」

「だから言葉……この朴念仁め…」

 

 一夏を睨み付ける。睨まれた一夏は首をかしげている。コイツ…全く蘭ちゃんの気持ちをわかってない。

 本当のことを伝えた時、蘭ちゃんがパニクって泣き出すだけならまだしも、本当にどうなるかわからない。気が重い。ちなみに、俺は先延ばし派だった。それに、何も今日言わなくてもいい気がする。蘭ちゃんと話す機会が今日しかないわけじゃない。学校が始まってからでもいいし、来月だって問題ないはずだ。

 五反田食堂へ向かう足取りが重くなる。でも、行かないわけにはいかないし、何より今の一夏が一人で行ったら、それこそどうなるかわからない。コイツの場合、ボロを出して変な混乱を招きそうだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 五反田食堂に着いた。いつもの店の入口には暖簾がかかってなくて、『本日店休日』の張り紙がある。弾に到着したことをメッセで伝えた。しばらくすると、入口が開き、弾が顔を出した。妙に店が騒がしい気がする。

 

「他にも誰か来てんの?」

「あぁ、蘭を祝いたいって言ってくれた常連さんが何人か。最初は結構大人数だったらしいぜ?」

「さすがは五反田食堂の看板娘だな」

「おう。自慢の妹ってヤツだ。ま、入ってくれや」

 

 弾が賑やかな店の中に案内してくれた。五反田家のみんなと、何人か見知った顔の人。蘭ちゃん非公式ファンクラブとか言ってた人たちだと思う。明るい空気の中心にいる蘭ちゃんを見つけた。

 

「蘭ちゃん、入学おめでとう。これ、俺と一夏から」

「あ!秋久さん!ありがとうございます!あれ?一夏さんは?」

「あー…一夏はちょっと海外に行かなきゃいけなくて…」

 

 『ご入学祝』と書かれた箱を渡した。咄嗟に出た一夏が海外へ行ったという嘘を話すと、少し寂しそうな顔をした。蘭ちゃんが一番祝って欲しい相手だったんだろうな、やっぱり。違う姿で後ろにいるけど。

 

「あと…そちらの方は?」

「あぁ、ドイツからこっちに越してきた、一夏の親戚。折浦っていうんだ」

「折浦 美智華です。一夏くんがお世話になってました。それと、入学おめでとう」

 

 にっこりとほほ笑んで、手を差し出す一夏。蘭ちゃんはその手を両手でとって、固い握手を交わしていた。一夏が海外へ行った嘘を、嘘の紹介でさらに塗りつぶした。嘘に嘘を重ねる、最悪の手段だ。

 

「ありがとうございます!どうぞ、いっぱい楽しんでくださいね!」

 

 蘭ちゃんマジでいい子。こんな子に嘘を吐いた罪悪感で、胸が痛くなる。ただ、まだ空気に水を差す時間じゃない。蘭ちゃんの隣で、弾が複雑そうな顔をする。相変わらず、考えが表に出やすいヤツだ。

 一夏の顔を見たとき、一瞬だけ、蘭ちゃんの表情が変わった気がした。

 

 

 

「でも、寂しいです。一夏さん、何も言ってくれないなんて」

「まぁなぁ…俺にすら一言もなかったよ。後で千冬さんから連絡が来て、海外にいるって知ったぐらいだし」

「そうなんですか…一夏さんなら、そういうの欠かさなさそうなのに…」

「いや、ホントに急だったらしいし。ドタバタで出て行ったみたいだし、そのうちひょっこり帰ってくるんじゃない?」

 

 コレも嘘。あと二年は居ない。束さんからも二年は戻れないと言われている。そして、俺たちはこの後、それを蘭ちゃんに言わなければならない。気まずい。そして、怖い。

 店内は蘭ちゃんの入学祝いというよりも、目出度さにカコつけた宴会場みたいな形になっている。いつもは厳しい巌さんも、蘭ちゃんの入学祝いで甘くなっているらしく、特にお咎めがない。

 蘭ちゃんの表情を盗み見る。蘭ちゃんは、弾と蓮さんと話している一夏をじっと見ていた。談笑する三人を眺めている感じじゃない。どうも気になるらしく、観察している、という表現があってるぐらいに見ている。

 

「美智華が気になる?」

「いえ…でも、何か引っかかるんです」

 

 女の勘、とかいうヤツか。心の中でもう一度、彼女に謝った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 大分陽が落ちた。来たときは夕暮れにもなってなかったのに、今はすっかり空が赤い。

 なんだかんだで出ていた料理は全て平らげられていた。宴会は終わって、五反田家のみんなと俺、一夏の七人で店内を片付けていた。俺たちは手伝わなくてもいいと言われたけど、この後に蘭ちゃんとの話もあるし、俺たちだけ弾の部屋にいるのも気が引けるから、手伝うことにした。持ってきたタルトを七人で食べた後、蘭ちゃんと一緒に四人で弾の部屋へ向かう。さて、正念場だ。

 

 

 

「蘭ちゃん、改めておめでとう」

「……ありがとうございます」

 

 俺たちの緊迫した空気を察知したのか、下で応えてくれた時よりも声が固い。いつもならヘラヘラと笑いを取りに行く弾も、この時ばかりは何も言わなかった。弾の部屋で、俺たち四人は居心地悪く座っていた。

 

「…それと、ごめん。先に謝っとく」

「………」

「なんとなく気付いてるかも知れないけど…その…美智華は一夏なんだ…」

「ウソ…」

 

 蘭ちゃんの目が見開かれる。蘭ちゃんがすんなり信じたのも、なんとなく予感がしてたのかもしれない。それでも、目が見開かれたのを見る限り、心底驚いているみたいだ。この後に言葉を続けるのが怖い。

 

「嘘じゃねぇよ、蘭」

「ゴメンね?ビックリしたよね?」

「だって…この人、女の人で…美智華さんって…」

「なんでかはわかんないけど、一夏は女になったんだ」

「そんな…ウソ…だって……」

「嘘吐いてゴメン。あと…戻れるかもしれないし、戻れないかもしれない。今、戻れる方法を必死になって探してるし、探してもらってる」

 

 蘭ちゃんの目に涙が溜まっていく。一日に遅れのエイプリルフールにしては悪質すぎる。自分の想い人が性転換しました、だなんて、悪い夢にも見たくない。

 蘭ちゃんが俯く。目に溜まっていた涙が床に零れた。俺が悪いわけじゃないし、ここにいる誰が悪いわけでもない。嫌な沈黙が流れる。胸が締め付けられて、息が苦しくなる。これなら、泣き喚いて暴れてくれた方が良かったかも知れない。

 

 俯いたまま、蘭ちゃんが小さく声を出した。

 

「一夏…さん…」

「なに?蘭ちゃん」

「お話があります…」

 

 一夏はまだ美智華で居続けようとしていた。この大馬鹿鈍感め。なんか俺も無性に腹が立ってきたな。

 それだけ言って、蘭ちゃんが立ち上がり、部屋を出た。一夏も無言でついて行った。

 

「………蘭ちゃん、言うんだろうな」

「あぁ…」

「あと任せるわ。お兄ちゃん」

「おう…任された」

 

 空気が重い。空気の重さに押し潰されたみたいに、弾と同時に溜め息を吐いた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 夜道を歩く二人の少女。住宅街らしい仄明るい街灯と月が二人を照らしていた。蘭と一夏である。

 二人は五反田食堂から徒歩数分の公園に向かっていた。もっとも、向かっているのは蘭だけであり、一夏はその後ろをついて行っているだけだ。道中、二人は一言も言葉を交わさなかった。

 

 公園に着いた。中ほどまで蘭が歩き、一夏を振り返った。ブランコかベンチに座ると思っていた一夏は、その行動に少し驚いたが、動揺を表に出すことはなかった。

 沈黙が流れる。虫の声が嫌にうるさく聞こえた。

 

「一夏さん」

「お、おう」

「一夏さん…好きです…」

「俺も蘭のこと、大好きだぜ」

「違います……私は女として、男の人としての一夏さんが好きです」

「……え?」

 

 蘭からの告白に、一夏は面食らった。今までこうやって好意を告げられたことがなかった、と本人は思っているからである。放課後などに呼び出され、付き合ってほしいと言われたことは数度ある。だが、一夏本人は買い物や遊びに付き合ってほしい、と言われたと思っている。

 

「で、でも…蘭は弾の妹で…」

「そんなの関係ないです。私は、一夏さんのことが好きなんです」

 

 きっぱりと言い切る蘭。その瞳は真っ直ぐに一夏を射抜いている。意志を込めて、恋に恋する乙女ではなく、一夏を手に入れるための、女としての意思を込めて。

 

 

 

 

「……ごめん」

「…っ」

「…ごめん。俺、今こんな体だし…アキは言ってなかったけど、男に戻るのって、すっげぇ難しいらしいんだ。だから、蘭の気持ちには応えられない。それに…蘭のことは妹にしか見れないんだ」

 

 わかっていた。『彼』が自分のことを『妹』としてしか見ていないことを。あくまで自分は『親友の妹』なんだと。わかっていたが、言わないわけにはいかなかった。そして、彼女は秋久の言葉にも、猜疑を抱いた。このまま、二度と『彼』に会えないのではないかと、目の前の少女が『彼』に戻ることはないのではないかと。

 

「……ありがとうございます、美智華さん。一夏さんの言葉で応えてくれて」

「…蘭?」

「私、もっといい女になります。美智華さんが悔しがるような、一夏さんがどうにかして戻って、付き合いたくなるような、そんな女の子になります」

 

 蘭はあえて美智華の名前を出した。そして、一夏に向けて語った。

 

「だから…覚悟してくださいね?」

 

 それだけ告げ、蘭は公園から走り去った。家までの道のりを、振り返ることなく、ただ走り抜けた。

 

 

 

 蘭は五反田食堂からやや離れた道で、弾と秋久を見つけた。二人ともポケットに手を突っ込み、ガードレールに腰掛けている。蘭に気付いた二人が立ち上がった。秋久は蘭とすれ違い、真っ直ぐ歩いて行った。秋久の気遣いに、今まで抑えていた感情が、涙が、蘭の心を埋め尽くしていく。

 弾の元まで駆け寄り、しがみ付き、泣いた。泣きじゃくる妹の背中を、兄は優しくあやした。

 

 一人の少女の初恋が、終わった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「よお、朴念仁」

「……よお」

 

 公園のベンチで、一夏が項垂れていた。肩幅に足を開いて項垂れている。仕草は完全に男だ。

 

「さっきさ…蘭に告白された」

「知ってる」

「で…断っちまった」

「それも知ってる」

 

 驚いた、と言いたげに、一夏が顔を上げた。ちなみに、お前は気付いてないかも知らんが、どんだけモテてるかも、俺は知ってるぞ。

 一夏は天を仰いで、深く息を吐いた。

 

「なぁ、アキ…今まで付き合ってっていってたのって」

「今更気づいたかド阿呆」

 

 一夏の言葉に被せて言い放ってやった。この際だ、今まで女子グループの均衡を保つために言わなかったことを全部言ってやろう。

 

「一夏、お前は今まで女の子たちの好意を、気持ちを、サラッと流して蔑にしてきた、最低最悪の男だ。この際だから言うけど、今まで刺されなかったのが奇跡みたいなもんだ」

「…そこまで言うか?」

「言うね。言っとくけどな、一夏。俺と弾のフォローがなかったら、今頃どっかの野郎にボコられまくっててもおかしくないんだぞ?」

「…わりぃ。面倒かけてた」

「おう。んで、これからは違う意味で面倒かけそうだな。お前は」

「……気ぃ付ける。頼んだ、兄弟」

「任されといてやるよ。お前も気をつけろよ?」

 

 蘭ちゃんには悪いけど、コイツも今は今で大変なことになっている。蘭ちゃんには兄貴と家族がいる。でも、コイツにはいない。ホントに申し訳ないけど、俺は蘭ちゃんの力にはなれない。

 

 来週からは学校が始まる。俺にとっても、一夏にとっても波乱の新学期になるだろう。

 




 ご愛読ありがとうございました。
 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep8.

『電子キー』
 量子暗号化された電子情報を持つ、スティックタイプの鍵。主に車や家の玄関の鍵として使われる。一本で複数の情報を持たせることも可能。


『……き、おき…』

 

 声が聞こえる。この部屋には俺しかいないはずなのに。あと、揺れてる気がする。

 

『ア……………ってば』

 

 誰だろう。聞き覚えのある声。耳元で聞こえる。一夏の声みたいだけど…そんなはずはない。アイツに鍵は渡してない。目を閉じているのに、妙に明るい。誰だ、カーテン開けたのは。

 

『……キ、起きないと、キス、するよ?」

 

 …え?キス?

 一気に目が覚める。目の前には桃色の唇。

 反射的に距離を取り、布団を抱き締め、ベッドの壁側まで逃げた。抱きしめた布団ごと胸を押さえて、吐き気に耐える。こみ上げてきた苦い液体を飲みこんだ。とにかく、身体は目覚めたみたいだけど、頭が目覚めてない感じがする。なんで?なんでいんの?どうなってんの?あと何かよくわからん声が出てた気がするけど、気のせい?

 

「…い、一夏…?」

「おう。おはよ」

 

 心臓がバクバクと音を立てる。自分の吐息がうるさい。最高に最悪の目覚めだ。何故か一夏が朝から俺の部屋にいて、ベッドの横で座ってる。しかも、コイツ、男なのにキスしようとしやがった。いや、見た目は女の子だけど。アレか、俺がパニクってるのは女の子にいきなりキスされかけたからか。男にキスされかけてもこうなるか。いや、でも渡したヘアピンつけてるし、今の見た目は女の子で…あぁ、頭がマトモに動かない。

 

「いつまで寝てんだよ。明日から学校だろ?今日ぐらいちゃんと起きないと、明日起きれねぇぞ?」

「…だからって、こんなに朝早くに起こすことねぇだろ?」

「……まだ寝てんのか?」

 

 一夏が俺の机を指差した。机にあるデジタル時計には9時48分と表示されている…うん。遅刻だな。どう頑張っても間に合わない。二限目に出れるかどうかも危うい。おかしい、まだ7時ぐらいだと思ったのに。

 

「あ…明日は目覚ましかけるから…」

「ま、いいけどな。朝飯作ってあるから、あとで食ってくれよ。あ、ちゃんと着替えるように」

 

 びしっと俺を指さし、ダイニングへ立ち去る一夏。これで二度寝したら…本気でキスされるだろうな。気持ち悪っ。

 寝巻代わりの長袖Tシャツでダイニングに行ったら、多分、怒られる。俺は諦めてTシャツを着替え、適当な服を着た。

 

 

 

 ダイニングには一夏が作ってくれた朝食があった。味噌汁と納豆とハムエッグ…一般的な朝食だと思う。和洋が混ざってるのは気にしちゃいけないと思うし、ウチには魚の切り身なんか置いていない。一夏は既に食べたのか、自分の家で食べてきたのかはわからないけど、俺の朝食が用意してある席の向かいでホットミルクを飲みながら、マンガを読んでいる。ちらっと見えた。少女マンガか。

 とりあえず、頂こう。冷めちゃ作ってくれた一夏に悪いし。いただきます。

 

 納豆をかき混ぜながら、一夏に聞きたいことを聞いてみた。

 

「で、どうやってウチに入ったんだ?」

「コレ。なんか束さんがくれた電子キー。アキんちの鍵も兼ねてるらしいから、テストして来いってさ」

「……犯罪じゃなかったっけ?ソレ…」

「まー、束さんだし、なんでもできんじゃねぇの?技術力のテストだーとかいって」

「さいですか…んじゃ、あの起こし方は?」

「マンガで読んだ。面白そうだったから、試してみただけだぜ?」

「…まさか、そのマンガって…」

「千冬姉と束さんがくれた少女マンガ。コレだよ。ああいうのって男の夢だろ?」

「少女マンガに男の夢は載ってねぇよ……」

 

 朝からSAN値がガシガシ削られる。なんだこの振り回されてる感は…これなら鈴ちゃんや弾の方が数倍マシだ。コイツ、男の時と距離感が変わってないから、余計に疲れる。

 

「俺んちじゃ男言葉も禁止されてっからさ。なんか、窮屈なんだよ。それにほら、アキも女慣れした方がいいだろ?お互いにいい訓練になると思うぜ?」

「それ、俺しか訓練になってなくね?」

 

 

 

 朝飯を食べ終わり、洗い物も終わった。春休みの課題も終わってる…ブツは弾が持ってるけど。今日はゆっくりと本でも読んで、まったりと過ごそう。一夏もマンガを読んでる間は大人しいし。

 

「なぁ、アキ。今日暇か?」

「本を読むのに忙しい。こないだ贔屓の作家の新刊買ったんだよ」

「それ、暇っていうんだぜ。今からウチの掃除、手伝ってくんね?」

 

 えー…本読みたいのに…

 露骨に嫌そうな顔をしてやる。織斑家にはお世話になってるけど、わざわざ始業式の前日に掃除をしたくない。週末の土日使ってやってもいいじゃん、別に。

 

「へー…ふーん…そーいう顔するかー…アキの弱点、全部知ってんだぜ?」

「オーケー。わかった兄弟、話し合おう。協力する。だから近づくな」

 

 席を立ち、こっち側まで来ようとする一夏を制止する。さっきのキス未遂といい、コイツは危険だ。俺の弱点を知っているからこそ、なおのこと危険だ。チクショウ、誰だコイツにこんな武器与えたヤツは。

 俺の春休み最終日、俺の優雅?な最終日の予定は、織斑邸の掃除を手伝うというイベントに上書きされた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 二人そろって織斑邸に入る。もちろん、挨拶は二人とも『ただいま』だ。どうやら、今日は千冬さんの部屋と客間という名の空き部屋を掃除するらしい。特に千冬さんの部屋は一夏もしばらく入ってないらしく、どうなってるかが怖いくらいらしい。確かに、最近はなんだかんだで千冬さんが家に帰ってきてたから、部屋もよく使ってたんだろう。あの見た目からは想像できないぐらい汚部屋らしい。らしい、が付くのは俺が見たことないからだけど。

 一夏が先に上がり、こっちを振り向いた。ここに来るまでの間、俺が無言だったことを少し気にしているらしい。まぁ、休もうと思ってた日に仕事を放りこまれりゃ、機嫌も悪くなる。

 

「まーまー、そうむくれんなって。昼飯ぐらい作ってやっからさ。オムライスでいいだろ?」

―デーデーン 『いっちゃん、アウトー』

 

 束さんの声が聞こえた。アレ?あの人今日も来てんの?

 シュッと風切音がした。と、ほぼタイムラグなしで一夏の短い悲鳴が聞こえた。いつの間にか、一夏のおでこから吸盤付の矢が生えていた。

 

「な、なんだこれ…」

―デーデーン 『いっちゃん、アウトー』

 

 またしても同じ声。そして同じ風切音に、一夏の悲鳴。今度は左の頬に矢が引っ付いている。二本の矢を一夏が外していると、一夏のケータイが鳴った。すぐには取らず、少しためらっている。覗き込むと文字化けした文字。なんだろう…凄くややこしい所から通話のような気がする。いや、こういうことをやらかしそうな人を一人だけ知ってるけども。一夏が覚悟を決めて、通話に出た。

 

『もしもしひねもすー』

「やっぱり束さんの仕業ですか…」

『そだよー。早速作動したみたいだね!束さん特製男言葉矯正装置!名付けて!「いっちゃんをもっと可愛くしちゃおうシステム」☆いっちゃんの男言葉に反応して、どこからともなく矢が飛んでくるシステムだから気を付けてね♡

 あ、ちなみにいっちゃんを傷つけるような矢は飛んでこないから安心してね!でも、お気に入りのお洋服を着てるときは要注意だよ☆じゃね~』

 

 束さんは言いたいことだけ言って、通話を切った。うん。あの人らしい配慮と、あの人らしい技術の無駄遣いだ。俺たちは無言で玄関に立ち尽くしていた。

 

 

 

 何とか再起動した一夏は、無言のまま千冬さんの部屋へ入っていった。俺はキッチンに行き、黒と透明のゴミ袋を何枚か用意した。千冬さんだって見られたくないゴミとかあるだろうし。あと、青い洗濯カゴと。それらを千冬さんの部屋の前に置き、客間へ向かった。

 

 

 

 千冬さんの肌着やらなんやらを手際よく干していく一夏。俺は客間の布団をベランダに干していく。もちろん、汚れないように下にカバーは敷いている。二人とも無言で作業をしたお蔭で、洗濯関連は昼前に終わりそうだ。

 そろそろ終わりが見えてきた。時間的にも昼飯にはちょうどいいだろう。

 

「ホント…マジで勘弁して欲しいぜ…束さん…」

―デーデーン 『いっちゃん、アウト―』

「え?ウソ?!ヤダ!どこから!?…ぴぃっ!!」

 

 ホント懲りんヤツだな。束さんなんだから、『家』っていったら全部に決まってんじゃん。ベランダだから油断したか。しかし、この技術力は凄い。流石は天才束さん。多分、カメラの三次元画像認識か何かで一夏の姿勢を判断して、的確に矢を放っている。ちなみに、今回は何か冷やっこいモノが背中に入ったらしい。

 

「ひゃんっ!やっ!冷たっ!!もう!やぁんっ!あきぃ…取ってぇ…」

「無理。触れん」

 

 くねくねと体を動かし、背中からの冷たさから逃れようとする一夏。男が悶えても可愛くないぞ。いや、見た目女の子だから可愛いけど。あとヘンな声出すな。

 

 

 

 昼飯は一夏の宣言通り、オムライスだった。半熟のとろとろオムライスではなく、薄い卵に巻かれたオムライス。俺はどちらかというとこっちの方が好きだったりする。一夏のは半熟卵のオムライスだ。

 ただ、量がかなり違う。一夏が女の子になるまでは同じぐらいか、一夏の方が多いぐらいだった。今では完全に俺の方が多い。俺が茶碗二杯分ぐらいで、一夏は一杯分もない感じだ。

 

「お待たせ。じゃ、食べよっか」

「おう、ありがとな」

 

 二人で手を合わせていただきます、と挨拶をする。それぞれケチャップを好きなだけかけるスタイルだから、オムライスにケチャップはかかっていない。一夏がケチャップを自分の分にかけ始めた…ところで、つい数日前のイベントを思い出す。アレは焼うどんにカツオ節だったけど。

 一夏が俺の視線に気付き、顔を上げた。ニッコリと微笑んだ。目が笑ってない気がするから、その笑い方やめて。怖いから。

 

「アキのもかけてあげるね。オイシクナーレオイシクナーレハイ、ドーゾ」

 

 声が固いし、抑揚がない。この前の照れてる感じじゃなくて、何かを抑え込んでるような声の固さだ。怖い。

 俺のオムライスにはケチャップで『ワスレロ』と書かれていた。うん、黒歴史だよな。ごめんな。一夏。

 

 

 

 昼飯の後、掃除を再開した。俺は客間の窓枠や桟を掃除したり、ライトの埃を落としたり、掃除機をかけたりとなかなかに働いた。気が付けば、夕日が部屋に射していた。

 

 客間を出た。ほぼ同時に、一夏も千冬さんの部屋から出てきた。一夏は普通に綺麗、ぐらいで掃除を止められる。でも、俺は、一夏曰く、病的なまでに綺麗にしたがる、らしい。そこまで病的にやってるつもりはないんだけどな。

 そろそろ晩飯の買い物にでも…と思っていると、弾から通話が入った。何とか課題を写し終ったから、返しに来たいらしい。一夏に一言断り、俺は家に戻った。

 

 

 

 部屋で弾から課題を受け取った。ヤツからの報酬は古本セットだった。弾はこの辺りの話をよくわかってるヤツだから、話が早くて助かる。前に一回だけ官能小説セット買ってきやがったこともあったけど。

 結局、晩飯の買い物も行きそびれた。米は炊いてあるから、適当に冷蔵庫の中のものを使って…うん。この材料ならカレーかな。ルゥもあるし、大丈夫だろう。学校始まったら作るの面倒になるし。

 献立をカレーに決めて、準備していると、玄関が開く音がした。

 

「うぃーっす!」

「大声出さなくてもわかるから。忘れ物か?」

「いや、晩飯作りに来てやった」

「あっそ…カレーにしようと…って何その荷物」

 

 大声を出し、勝手にダイニングに入ってくる一夏。鍵持ってるからって、許可なく入ってくるな。せめてインターフォン押せ。そして、何故か持っているトートバック。見た感じでは、結構中身が入っている。

 

「あ、コレ?着替えとか」

「はぁ?着替え?」

「おう。泊めてくれ」

「無理」

 

 即、断った。無理だ。男だった時ならまだしも、今は無理だ。だってお前見た目は女じゃん。

 

「なんでだよー。一宿一飯の恩義っていうだろー」

「使い方を間違ってることは置いといて、お前んち、すぐソコだろ。それに今日色々手伝ったの俺だろうが」

「…今日は…帰りたくないの…」

 

 小さな両手を顔の前で組んで、上目遣いで強請ってくる一夏。

 

「可愛いけど、それで堕ちるのは千冬さんと束さんだけだからな」

「…ちっ」

「可愛くねぇぞ…晩飯なら今から作るから、食ってってもいいぜ。ただ、食ったら帰れよ」

「…どうしても?」

「無理だって。俺死んじゃう…そんなに家にいたくねぇの?」

「……あの家寛げねぇし…独り言にも反応すっからさ…」

「あー…頑張って…」

「なぁ、ほら。可愛い下着も持ってきたしさ」

 

 トートバッグから下着を取り出し、見せてくる一夏。淡いピンク色のブラで、カップの上の部分に淡いブルーのリボンの装飾がある。思わず想像してしまった。違う、忘れろ、俺。顔が熱くなる。

 

「ほら、パジャマも可愛いだろ?」

 

 フードつきのふわふわしたパジャマもバッグから取り出して、見せてくる。こっちも薄いピンクと白のボーダー柄で可愛らしい。一夏の可愛らしい顔立ちによく似合いそうだ…って違う。想像するな。

 

「お?照れてる?照れてる?」

「……晩飯やらねぇぞ…てめぇ」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一悶着あったが、無事に二人でカレーを作り、夕食を済ませた。食事中、秋久が顔を真っ赤にしながら、ちらちらと一夏を見ていた。見られていた一夏も気恥ずかしくなり、二人で真っ赤になりながらカレーを食べていた事を思い出す。

 

 女の子の夜歩きは危ない、ということで、食後に秋久が一夏を送っていった。ほんの数分の距離はあるが、秋久が送ってくれた、という事実に胸が暖かくなる一夏。普段は一夏を男扱いするが、所々でこういう優しさを見せてくれる。少し戸惑いを感じることもある。一夏を男として見ているのか、女として見ているのか。

 先ほどまで二人で騒いでいたせいか、家の中がより静かに思える。いつもより寂しくなった。

 

 

 

 脱衣所に入り、ヘアピンを外した。コームで髪を解く。鏡に写っているのは、女になった自分。今までならこんなことはせず、すぐに服を脱ぎ、シャワーを浴びていた。今日はシャツだったので服を脱いでいないが、頭から脱ぐ必要のあるTシャツのような衣服の場合、下着姿で髪を解くこともある。

 鏡を見ながら、今日の、ついさっきの出来事を思い出す。顔がニヤける。真っ赤になって慌てふためく秋久のことだ。彼に対して、初々しさと可愛らしさを感じた。

 以前、弾に胸触らせて欲しいと頼まれた時は嫌悪感しかなかった。適当に言い訳をし、拒否した。だが、先程のように秋久が求めてきたら、どうだろうか?なんだかかんだと言い訳をして、拒否するだろうか。いや、拒否できるだろうか…危ない。そこを考えてはいけない。想像してはいけない。織斑一夏は男であり、同じく男である秋久の衝動を受け入れてはいけない。

 だいたい、どれだけ髪を解き続けているというのか。自らの思考の危うさを感じ、一夏は服を脱いだ。下着を脱ぎ捨て、風呂に入る。先程の思考を疲れのせいにして。

 明日から学校が始まる。説教をした側が遅刻するなどという醜態は晒したくない。手早く身体を清め、一夏はこの後、ぐっすりと眠ることを第一考えた。




 現在の一夏ちゃん…メンタルはほぼ男で、見た目は女の子(美少女)。男特有の気安さで接してくる…いいですよね?ね?

 秋久ですが、萌えることはできます。ですが、エロは無理な人です。萌え妄想は平気ですが、エロ妄想…特に行為に関わる妄想は無理です。

 ご愛読ありがとうございました。
 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep9.

『世界の言語について』
 IS登場後、篠ノ之博士が関連文章を日本語で配布したこともあり、ほとんどの場所で日本語が通じる。ただ、現地の言葉がなくなった訳ではないため、他国語を学ぶ者は非常に多い。なお、第二回モンド・グロッソがドイツで行われたこと、千冬がドイツ滞在の経験があったことにより、一夏はドイツ語をある程度は話せる。束の教育で、秋久は英語の読み書きが可能。

『黒板』
 この世界では電子化され、プロジェクター機能及び自動清掃機能付きの黒板になっている。従来のようにチョークで板書もできる。チョークで書かれた内容を自動的にスライドに落とし込むことも可能。ただし、東中学では生徒たちが自らノートを取るということを原則にしているため、欠席者以外はスライドがもらえない。


 …ピピピッ…ピピピッ…ピピピッ…

 まだ眠い。だけど、起きないと一夏が来る。アイツのことだから、昨日よりもヒドい、俺の弱点を的確についた起こし方をするだろう。新学期そうそうに精神力をガッツリ削られるのはゴメンだ。

 なんとか体を起こし、机の上で鳴ってるアラームを止める。とりあえず、顔洗おう。一夏は7時半に来るとか行ってたし。

 

 

 

「…何してんの?」

「あ、おはよ。ほら、部屋行ったら居なかったし、朝飯作ってやろうかなって」

 

 顔を洗って戻ってくると東中(ウチ)指定の白いセーラー服にエプロン姿の一夏がいた。珍しく髪を後ろで括っている。いつものヘアピンはついたままだった。

 

「それはありがたいけど、勝手に入ってんじゃねぇよ。いつ入ってきたんだ」

「アキが顔洗ってたぐらいじゃねぇかな…って、まだパジャマじゃん!さっさと着替え来いよ。もうすぐ出来っから」

 

 一夏にフライ返しでしっしっ、とやられる。さっさと着替えてこよう。なんか腹立つし。

 

 一夏が作ってくれたのはソーセージ入りのオムレツと味噌汁、納豆に米だった。まだ時間はあるし、ゆっくりいただこう。春休み中は昼前まで寝てたから、あんまり朝食べてなかったし。

 

「じゃ、俺先に行くから。洗い物、頼んだぜ」

「へいよー」

 

 転校生だから、色々やることがあるらしい。それなのに、わざわざ世話を焼きにきた。さすがおかん系男子。いや、女子か。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 下足棟に張り出されたクラス割表には、それぞれのクラス毎に名前が連なっている。俺と弾の名前は二年一組に書いてあった。一夏の名前は当然なかったし、数馬の名前は四組にあった。さすがに昨年度で騒ぎすぎたらしい。俺と一夏はともかく、弾と数馬を分けたのは妥当な策だ。ただ、一組と四組に分けるという徹底っぷりに、感心すら覚えた。これなら、体育なんかの合同授業の時も安心だ…そこまで馬鹿騒ぎしてた記憶もないけど。

 ちゃっちゃと自分のクラスを確認し、スニーカーから上履きに履き替えた。確か、二年の教室は四階のはず。ちなみに、一年が一階で、三年が二階だった…と思う。とにかく、四階に向かった。

 

 教室には、既に半分ぐらいのクラスメートが登校していた。知っている顔とあんまり知らない顔が半分ぐらい…結構シャッフルされたらしい。クラス表で確認した時も、半分ぐらいは馴染みのない名前だったけど。

 黒板には座席票が表示されていた。窓際から順番に名前順らしい。『お』である俺の名前は窓際の一番後ろにあった。でも、おかしい。黒板には五列しかないのに、実際の机は六列ある…ということは、一番後ろは一夏の席か。幸いなことに、俺の隣は弾だった。割とよくある席順ではある。

 クラスメートに適当に挨拶し、表示されている自分の席に着いた。隣の弾はまだ来てないらしく、他の生徒が座っている…女子だし、後ろ姿で誰かわからなかったから、俺から声はかけなかった。鞄から文庫本を取り出し、時間を潰すことにした。

 

 結局、弾は始業式前に来なかった。あの野郎、始業式が始まるギリギリに体育館に滑り込んで来やがった。

 

 

 

 始業式のありがたくも誰も聞いていないお話のあと、教室に戻った。俺の後ろの席以外は全部埋まっている。あちこちで転校生の噂話に花を咲かせている。そして、俺と弾までその輪の中にいた。

 

「転校生、女子らしいぜ」

「マジかー…可愛い子なら大歓迎なんだけどなー」

「石上が見たらしいんだけど、結構可愛いって」

「マジかよ!やっべ超期待すんじゃん!」

「なぁなぁ!胸デカいかな!?」

「気にすんのそこかよ!?」

「いや、大事だろ!」

「そこも聞いたけど、そこそこあったらしいぜ」

「オイオイ…俺告るかも知んない…」

「まだ会ってもないのにすげぇなお前」

 

 確かに可愛いのは可愛い。スタイルもいいと思う。中身がアレだけど、ボロさえ出さなきゃ完璧じゃないだろうか。ボロさえ出なければ。性格は…調子に乗りやすいところはあるけど、真っ直ぐで明るいし、優しい。ただ、変なところで鈍くて頑固なのが珠に瑕…ってところか。

 

 

 

 ガラッと扉が開き、担任が入ってきた。去年は2組を担任していた女教師だ。

 

「おーい。お前ら座れー」

「…よし、まずー…連絡だが、織斑が転校した」

 

 えー!と声が挙がる。主に女子の声だ。まぁ、ファンクラブもあったぐらいだしなぁ…アイツの転校を残念がる声があるのもわかる。

 

「なんでも、急に海外に行くとかなんとかと聞いてるが…斧崎、何か聞いてるか?」

「いえ、特には」

 

 クラスの視線が一気に集まった。確かに幼なじみだけど、俺が一夏の全てを知ってるわけじゃない。というか、転校自体が嘘だ。多分、本人は今頃廊下で出番を待ってると思う。

 

「そうかー…で、お前らにもう一つある。ドイツから転校生が来た」

 

 教室が一気に騒がしくなる。ドイツ、と聞いて外国人が転校してきたと勘違いしているらしい。あちこちでこれからのコミュニケーションを心配する声が聞こえる。

 

「あー…大丈夫だ。安心しろ。転校してきたのは日本人だから。入っていいぞー」

 

 再び扉が開いた。男子からおぉー、と歓声が上がる。一夏が入ってきた。今朝とほぼ同じ服装だ。違いは後ろ髪を括ってないことと、エプロンがない。左手にいつものシュシュを着けている。

 

「Guten Tag. Ich freue mich, Sie kennenzulernen. 今紹介してもらった折浦 美智華です。日本語もちゃんと話せますので、気軽にお話しして下さいね。短い間かも知れませんが、よろしくお願いします。」

 

 流暢な外国語で挨拶した一夏がペコリと頭を下げた。それに教室全体が拍手で答えた。一夏改め美智華の滑り出しはまずまずらしい。弾を見ると、安心したような顔でウンウンと頷きを繰り返している。何に感心したんだ。

 

「折浦の席は窓側の一番後ろだ。じゃあ、次はお前ら全員の自己紹介をしてもらう。知ってる顔も多いだろうが、新しいクラスで一年やってくわけだからな。浅沼からだ」

 

 出席番号順に自己紹介が始まった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「よし、今日はホームルームだけだ。明日から授業が始まる。遅刻しないように」

 

 ホームルームが終わった。みんな適当に帰るだろう…と思ってたら、一夏に集まってきた。当然のように、俺と弾も巻き込まれている。

 主に女子が一夏に質問して、男子は少し離れて一夏を囲む形になった。

 

 

 

「え?じゃあ、ちっちゃい頃こっちに住んでたの?」

「うん。アキとは…あー、秋久くんとは幼なじみって感じかな?」

「アキでいいよ。そんな呼ばれ方したら違和感しかないし」

 

 おぉー、と声が上がった。

 

「…え?何そのリアクション」

「ほら、斧崎くんが普通に話してるから」

「えぇー…お、俺普通に話せるし」

「ほら、ダメじゃん」

 

 笑いが起こった。一夏も釣られてクスクス笑っている。今のはちょっと詰まっただけじゃんか。

 

 

 

「なぁ!折浦さんの歓迎会やろうぜ!」

「いいね!行く人!」

 

 はーい!とこの場にいる全員が手を上げた。弾も上げてるし、俺も一応手を上げた。これ、20人ぐらいいるぞ。ノリで参加決めたけど、大丈夫か?

 

「え?何か悪いよ~」

「大丈夫!みんな美智華ちゃん歓迎したいっていってるし、ね?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 最終的にはファミレスでの歓迎会になった。いきなり決めたことだし、さすがにどこも20人ちょいを受け入れてくれるところはなかった。カラオケのパーティールームってのもあったけど、一夏が日本の曲はあんまりわからないって言い出したから、お流れになった。今度みんなが色々貸してやるとかって話になってたけど。

 

 

 

「そんじゃ、折浦美智華ちゃんを歓迎して…カンパーイ!」

『カンパーイ!』

 

 あちこちでいぇーいと歓声が上がる。昼過ぎなら…となんとか受け入れてもらった。もちろん、全員ドリンクバーで好きなジュースやらを入れて乾杯している。誰一人としてアルコールは飲んでいない。俺はコーラ、美智華はホワイトウォーターを飲んでいた。

 

「あれ?美智華ちゃん、炭酸じゃないんだ?」

「え?うん。炭酸飲んだことなくて」

「何か海外って炭酸ばっかのイメージなんだけどねー…あ、飲んでみる?」

 

 俺と弾は一夏と少し離れたテーブルにいる。一応、変な事を言い出さないか、万が一言い出したらフォローするためだ。一夏の周りは女子で囲まれている。性転換しても、そのあたりはあんまり変わんないのな。お前。

 

「うん。ありがとう」

 

 一夏がを受け取って口に入れた。

 

「ふぅひ!はぁひこへ!ふぅひ!ふぅわふぅわふう!」

 

 無理だったらしい。飲んだことないのに、口に入れすぎだろ。ひたひ~とかいいながら、ホワイトウォーターで舌を癒していた。

 

 

 

 一夏にとってのハプニングはあったけど、それ以外は概ね騒いで終わった。途中で裏切り者扱いされたけど…弾まで知ってて弄りにきやがった。今度、テスト勉強の差し入れに辛子とわさびのシュークリームでも持ってってやろう。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「あー…楽しかったー」

 

 ファミレスからの帰り道。空は既に紫がかっていて、西ではほぼ太陽が沈んでいる。

 半端な時間に食べたせいか、そこまで腹が減っていない。一夏も多分同じだと思う。やたらにデカいパフェ食べてたし。

 

「思ったより受け入れてもらえて、安心したよ」

「不安だったのか?」

「うん。すぐにバレたりしたらどうしようとかね…」

 

 そんなこと考えたのか…脳天気なコイツのことだから、全然そんなこと考えてなさそうなのに…

 

「あとさ…女の子は視線に敏感っていうけど、ホントだね」

「へぇー…鈍感の代名詞から、そんなセリフ聞くことになるなんてな」

「怒るよ?…その…特に男の子からの視線がね。気持ちはわかるんだけど、もうちょっと遠慮して欲しいかなぁ~って」

「そこはほら、思春期だし」

「まぁね。でも、そこ行くとアキって安心できるね。そういうとこに目ぇ行ってないし」

 

 女の子が苦手な身としては、なんとも複雑な気持ちになる。いや、可愛らしさを感じたりするから、ゲイじゃないんだけど、なんだろう。男扱いされてない気がする。元男に。

 

「まぁ…なんだ。困ったり、何か嫌なことあったら、いってくれよ。頼りないけど、多少は力になるからさ」

「うん。ありがと♪」

 

 

 

「ん~…今日は疲れたなぁ~…あ、アキんち寄っていい?」

「いいけど、晩飯カレーうどんだぞ」

「あ、甘くしてね」

 

 伸びをしながら、一夏が聞いてきた。自宅だと束さんシステムのせいでゆっくり出来ないんだろう…ひょっとしてコイツ、俺の部屋に入り浸るつもりか。あんまり帰らないと束さんからペナルティーありそうだな。

 

「ねぇ、アキ。さっき、力になってくれるって、言ってくれたよね?」

「おう。それがどした?」

「泊めて♡」

「無理」

「なんでよぉ~!力になってくれるって言ったじゃん!」

「あんまりワガママいうんじゃねぇよ。カレーうどん出さんぞ」

「ちぇー…」

 

 わざとらしく口を尖らせる一夏。コイツ…段々面倒くさいヤツになってないか?はぁ…と溜め息が漏れた。

 

「泊めるのは無理。その代わり、遅くまで居ていいからさ」

「あ、じゃあお風呂貸して」

「調子に乗るな」




 やっぱり炭酸飲めない一夏ちゃんでした。なお、『無理!なにこれ無理!シュワシュワする!』と言っています。



 やっと進級しました。いつの間にか12話も使っていました。IS学園入学まであと二年…一応30話前後で入学予定です。あくまで、『予定』です。

 クラスメートの名前が出てますが、基本モブなので…特に設定してません。

 ご愛読ありがとうございました。

 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~とあるお昼の一幕~

今回は一夏ちゃんと秋久です。
皆さんは弁当でしたか?給食でしたか?


「あれ?アキ、今日は購買?」

「あぁ、作り忘れててさ」

 

 昼休み。クラスメートたちはそれぞれに、思い思いの相手と昼食を摂り始めていた。東中(ウチ)は弁当 or 購買を選べるスタイルだ。俺は基本的に弁当だけど、今朝は作り忘れていた。材料は台所に揃えたことまでは覚えている。ただ、当番だということを思い出して…多分、片付けた…と思う。

 

「やっぱりね。食材、出しっぱだったから、片付けといたよ。はい」

「「「「へ?」」」」

 

 一夏から弁当を渡された。あれ?これ俺の弁当箱だ…

 ちなみに、さっきまでは弾と購買に弁当を買いに行こうという話していた。あと、もう一人ハモってたのは、田端さんと木嶋さん。最近よく一夏と一緒にいる子たちだ。

 

「えっ!?じゃあこれ…美智華ちゃんの手作り!?」

「うん。食材はアキのだけどね」

 

 周りがざわめき始める。弾は弾でブツブツ呟きだしてるし。しかもコイツ、今不用意な発言しなかったか?手作り弁当のインパクトがそれを超えてくれることを祈ろう。

 

「秋久…お前こんな美少女の手作り弁当とか…」

「いや、お前も鈴ちゃんの手作り弁当食べてたよな?」

「バッカ!お前アレはお裾分けだろうが!女の子が丸ごと作ってくれた弁当なんて食ったことねぇよ!あと鈴は美少女ってガラじゃねぇだろ!?」

「五反田クンひどーい」

 

 田端さんが弾にツッコミを入れた。そんなんだからモテねぇんだよ。顔は悪くないのに。

 周りから『愛妻弁当』だの『裏切り者』だの『バナナの皮で滑ってウ○コ踏め』などという不穏な言葉が聞こえてくる。怖い。明日から学校来れるよな?俺。

 

「もうお前を親友とは呼ばん。裏切り者め」

「じゃあ課題見せてやんねぇぞ」

「冗談だよ親友。HAHAHA!」

「立場弱いね」

「前からこんな感じなの?五反田くんって」

 

 見事な手の平返しを見た。教科書に載せられるレベルで。一夏と弾は初対面ってことになってるから、五反田くん呼びだ。

 

「弾、でいいぜ。い美智華ちゃん。志帆ちゃんと梓ちゃんもさ」

 

 弾がサムズアップとナイスガイスマイル(本人命名)で三人に告げた。お前一瞬一夏ちゃんって呼びそうになっただろ。頼むからお前がヘマすんなよ。それよりも、ほぼ初対面の女子相手に名前呼びとか…そのメンタルは凄いな。ある意味尊敬するわ。

 

「ありがとう。弾くん、でいい?」

「おう!んじゃ、お近付きのシルシに一緒に食おうぜ!俺、弁当買ってくるわ!」

「おい!弾!」

 

 弾は言いたいことだけ言って、さっさと弁当を買いに購買へ走って行った。残された俺と一夏と田端さんと木嶋さん。なんだろう、気まずい相手でもないのに、とっても気まずい感じがする。ああ、そうか。女子三人の前に取り残されたからか。かといって、今から離れた場所に座るのも凄い気まずい。どうしよう。

 

「…立っててもしょうがないし、アキ。座ったら?」

「あ、ありがと。いっ、いいい良いかな?」

「うん、どうぞー」

 

 女子三人に笑顔で促されて座った。ヤバい。一夏だけなら緊張しないのに、今は凄く緊張してる。なんだこのアウェー感。

 

「どっどうする?先食べる?」

「んー…弾くんは?いいの?」

「五反田クンならいいんじゃない?この時間、購買とか戦争だよ?待ってたら食べる時間なくなっちゃうって」

 

 確かに、一部男子からの視線は引き続き感じてるものの、大体のクラスメートたちは各々に昼飯を食べ始めている。田端さんたちはどうかわからないけど、一夏はかなり食べるのが遅くなった。そろそろ、食べ始めないと時間的に余裕がなくなる。先に食べてて、俺は弾を待ってるから、と言おうとしたときだった。

 

「もう食べちゃお?ほら、斧崎クンも」

「そだよね。ね?アキも食べよ?」

「アッハイ」

 

 許せ、弾。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 手を合わせ、食事の前の挨拶をする。

 

「いただきます」

「召し上がれ~」

 

 向かいの席に一夏がいたせいで、なんか一夏に挨拶するような形になった。間違ってないけどさ。

 弁当箱を開けると、ほぼ俺が作ろうと思っていた中身になっている。違いがあるとすれば、俺なら丸焼きにするウィンナーがタコの形になっていたり、プチトマトとほうれん草のお浸しが追加されてるぐらいか。あ、玉子焼きの形が俺より綺麗だ。やりおる。

 

「「おぉ…」」

 

 女子二人が感動してる。まぁ、タコウィンナーとか面倒くさいだけだから、やらないもんな。

 

「あ、そうだ。お浸しは小分けにして冷凍庫に入ってるから、また使ってね」

「「「えぇ!?」」」

 

 今度は三人でハモった。さっきの弁当の件でスルーされたと思ってた案件がほじくり返される。

 

「ま、まさか…美智華ちゃん…」

「斧崎クンと…」

「ん?アキがどうしたの?」

 

 田端さんが一夏の耳元でボソボソと話した。吐息がくすぐったかったのか、ビクリと一夏が反応した。

 

「違うよ?わたし、今は一夏の部屋に住んでるし。アキんちも近くなんだよね~」

「そうなの?」

「うん。一夏のお姉さんから『家とアキのことはよろしく』って頼まれてるの」

「じゃ、通い妻か~」

「青春ですなぁ~」

「妻ってより、お母さんって感じかなぁ…アキって寝起き悪いしね~」

「おぉっと!?」

「何その話!聞かせて?!」

 

 弾、早く帰ってきて。俺死んじゃう。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 弾が帰ってきたのは昼休みの半ば前だった。弁当はほとんど売り切れていたらしく、菓子パンを何個か買ってきたようだった。帰ってきた弾に恨み言を言われたが、大して気にはならなかった。それより、目の前で暴露され続けた、俺のプライバシーの方が痛い。明日は今日のお礼?として焼き菓子を持ってくるハメになった。作るの嫌いじゃないからいいけど。ちなみに、俺は八割方食べ終わっていた。恥ずかしかったから、なるべく食べることに集中していたからだ。女子三人は大体半分ぐらいだった。あと、弾は三人からおかずをお裾分けしてもらっていた。




 いくら幼なじみだったとしても、美少女から弁当貰ったら騒ぎになりますよね。

 


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep10.

『東中学 年中行事』
 五月に体育祭と中間テスト、七月に期末テスト。八月は夏休み。九月に学校祭、十月に中間テスト、十二月に期末テスト。二月に修学旅行。三月に学年末をテスト。なお、三年生の一月下旬からは自由登校となる。

UA10,000越え、ありがとうございます。

とても励みになります。
これからもよろしくお願い致します。


 一夏と並んで通学路を歩く。今日はスクールバッグは持たず、俺も一夏もサブリュックだけだ。しかも、中身は体操服と指定ジャージと弁当のみ。

 

「スポーツテストかぁ…」

「いい加減諦めろって」

「だってさぁ…はぁ…」

 

 昨日の夜から一夏はずっとこのテンションだ。去年までは『お前には負けん!』とお互いに張り合ってたけど、さすがに今年は張り合えないだろう。確かに、今までできていたことができなくなるショックってのは大きいだろうな。

 

「昨日も腹筋してみたんだけどね。10回ぐらいしかできなくて…しかも両手前に突き出してさ…」

「マジかー…そりゃ反動付けてやるしかないな」

 

 確か、スポーツテストの腹筋は両手を体の前でクロスさせる必要があったと思う。反動付けてやればなんとかいけるか?弾とか去年は40回ぐらいやってたしな。数馬も似た回数やってたと思う。俺だけ少なくてモヤシ扱いされたっけ。

 

「テンション上がらなくてお昼食べられる気がしないよ…」

「とかいいつつ、普通に食うだろ?」

「無理…アキのクッキーがないと無理…」

「……一人一個ずつならカップケーキあるぞ」

「ホント!?ちょっとテンションあがっちゃったよ!アキ!!」

 

 なんだコイツ。女子か。あぁ、女子だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 HRでは去年と同じく、適当に回るスタイルだということが発表された。一夏たち女子は一組で着替え、秋久たち男子は二組の教室に移動し、着替えを始める。一組の教室は廊下側、窓側共にカーテンを閉められ、中では女子たちが着替えを始めていた。多くの女子がスカーフを外し、体操服の上着を被った後にセーラー服を脱ぐのに対し、一夏は堂々とセーラー服のフロントジッパーから外していた。

 

「…み、美智華ちゃん…すごいのしてるね…」

「そう?これ、運動用だから結構いいよ。走ってもそこまで揺れないし」

「へぇー…いいなぁ…」

 

 梓が思わず声をかける。多くの女子がジュニア用やティーン用のブラジャーなのに対し、一夏は大人用の黒いスポーツブラを付けている。大きさと色が、一夏の幼げな容姿とミスマッチではある。また、一夏もスポーツブラの見た目のためか、そこまで羞恥心を感じていないらしく、今日は堂々と着替えているようだ。

 

「ナニ?揺れるモノがない運動部に対するイヤミ?」

「いや、そこまで言ってないじゃん…」

「志帆ちゃんももっと大きくなるって。ね?」

 

 志帆が一夏の発言に噛みつき、梓がフォローになっていないフォローする。平均値で見ると志帆の大きさが歳相応なのだが、友人たちの発育が些か良い分、少し惨めな気分になる。

 

「…牛乳飲んでんのになぁ」

「あ、だから背高いんだ」

「でも、私も結構飲んでるよ?」

「わたしも…なかなか背伸びないけどね」

 

 片や身長のために牛乳を飲み、片や胸のために牛乳を飲む。だが、お互いに望む場所に栄養がいってないようである。

 

「ぐっ……乳分けろ」

「「じゃ、身長ちょうだい」」

「分けれるなら、分けたいわよ…その代わり、乳半分ずつもらうからね」

 

 恨み言のように呟く志帆に、寄越せと手を差し出す一夏と梓。三人ともジャージに着替え終わり、教室を後にした。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「よぉ!弾!秋久!!」

「おぉ!親友!」

「数馬じゃん。一緒に回る?」

 

 俺たちはとりあえず、体育館で実施されてる種目から制覇することにした。グラウンドで実施されてる種目の後、風通しの悪い体育館の種目はあまりやりたくない。体育館に向かっていると、数馬が声をかけてきた。今まで一緒にいた四組のクラスメートに一言断り、数馬は俺たちと一緒に回ることにした…三馬鹿って呼ばれないよな?

 

 

 

…握力測定

 

「ぅうるああああああ!!」

「弾、ウルサイ」

「五反田君…32.1㎏」

「気合の割には普通だな」

「チックショオオオオ!!」

 

…長座体前屈

 

「よっと」

「斧崎君、53.6cm」

「おぉ。相変わらず、やらけぇな。体」

「まぁね。ストレッチしてるし」

「…っしゃあああ!」

「五反田君、反動付けちゃだめだよー」

 

…反復横跳び

 

「あ、アキと弾くんだ」

「よぉ、美智華ちゃん。そっちはほとんど回った?」

「うん。ここで最後。弾クンたちは?」

「俺らもここで最後だぜ」

「じゃ、一緒に回ろうぜ。俺、御手洗 数馬ってんだ。数馬、でいいぜ」

 

 一夏たちがいた。一夏は田端さん、木嶋さんと一緒に回っているらしい。ホントに仲良いな、この三人。昼休みも一緒にいるみたいだし。

 

「あ、じゃあアタシ男子とやりたい。男子とやった方がいい記録でるし」

「…ならば…」

「俺たちがお相手しよう!弾!てめぇにも負けねえ!」

「おう!来いや!吠え面かかしてやんよ!!」

 

 やる気十分な三人。反復横飛びは三人一組で測定するから、ちょうど良さそうだ。弾が一番前に立ち、後ろを向いて数馬と向き合う。数馬は田端さんに背を向ける形で真ん中に立っている。一番後ろが田端さんだ。

 

「よーい…スタート!」

 

 

 

「えーっと、弾が52回で、数馬が55回、田端さんが50回か…数馬の勝ちだな」

「クッソ…負けた…」

「男子にゃ勝てなかったかぁ…」

 

 ドヤ顔の数馬。ただ、肩で息してるから、あんまりサマにはなってない。あと、田端さんも女子にしては素晴らしい記録を出していた。さすがはバスケ部エース。

 

「じゃあ次はわたしたちだね!」

「うん。斧崎クンもよろしくね」

「おおお、おう…」

 

 気合いが入っているらしく、一夏が髪を纏めだした。木嶋さんはそのままだけど。俺は一夏たちに背を向けて、一番前のポジションをとった。さすがに田端さんには負けたくない。男の意地だ。

 

「よーい…スタート!」

 

 

 

「…はーい、終わりー」

「っらあぁっ!」

 

 思いっきり体育館のフロアを踏みしめる。30秒間、息を止め続けて動くのはなかなかキツい。

 

「弾!何回?!」

 

 なんとか息を整えるため、大きい呼吸を繰り返す。一夏たちも軽く息が切れていた。

 

「55!…多分」

「多分てなんだよ!多分って!!」

 

 ツッコミに呼吸を使ってしまった。また息が乱れ始める。

 

「……秋久。キミにはわからないかもしれないが、男には見逃せない瞬間というものが」

「58回だよ、バカ。そこのド変態二人、美智華とアズしか見てなかったからね」

「…お前ら…人が必死こいてやってんのに…!」

「スマン!秋久!!美智華ちゃんのふわふわ揺れるポニテにぽよぽよと!梓ちゃんのぽよんぽよんから目が離せなくて!許してくれ!!」

「すまない!秋久!!梓ちゃんの意外なぽよんぽよん具合が頭から…!この通りだ!!許してくれ!」

 

 両手を合わせて頭を下げる馬鹿二人。俺、こんなのと同類扱いされてたの…?

 一夏と木嶋さんはドン引きして、胸元を抑えながら田端さんの後ろに隠れた。田端さんは二人を守るように両手を広げている。三人の表情を一言で表すなら『うわあ…』だ。

 

「…サイッテー…」

「「がふっ…」」

 

 三人のうち、誰かがボソッと言った。その言葉が弾と数馬の心を抉った。というか、抉られていてほしい。

 

…ハンドボール投げ

 

「っらあぁ!ぅおおおおおおお!!」

「いや、ハンマー投げじゃねえんだから」

「五反田君ー39.7mー」

「「「おぉー」」」

「っしゃああああ!!」

「…負けてらんねぇな…」

「やったれ!数馬!」

「はっ!俺サマの記録が抜けるかよ!!」

 

…立ち幅跳び

 

「とおぉ!」

「折浦さん、154cm」

「あ、身長と一緒だ」

「美智華ちゃんもそれぐらい?」

「うん。アズちゃんも?」

 

「よっ」

「田端さん、211cm」

「「「「おぉー!」」」」

 

「ふぅー…よっ、っと」

「斧崎君、213cm」

「うぅ…また斧崎クンに負けた…」

「いや、俺、男だからね?帰宅部だけどさ」

 

…50m走

 

 弾と数馬がスタートラインに並んだ。お互いにいい意味でライバル視している分、記録に期待できそうだ。俺はコイツらの次に走る。ちなみに、俺の隣にいるのは四組の斉藤君で、最近数馬とよく一緒にいるらしい。

 

「位置について―」

「秋久…頼むぜ」

「ほいよ」

 

 弾がクラウチングスタートの姿勢を取る。俺は弾の蹴り足に踝を当てて固定してやった。東中(ウチ)のグラウンドは人工芝だから、ジャージが汚れることもないし、ジャージを着てるから蹴られてもそこまで痛くない。

 

「はぁ!?ずりぃぞ弾!タイムタイム!!」

「タイムとかねぇよ!賢いといえ!!」

 

 スタンディングスタートの予定だった数馬が抗議した。数馬の後ろにいた斉藤君に頼んで、同じような姿勢を取る。ならば!といい弾が前に置いてある足裏にも足を置けと言い出した。俺は仰向けで上体を起こし、片足ずつ弾の足裏を固定してやる。短距離走のスタート台だ。斉藤君も俺と同じ姿勢を取る…ここまで人にやらせて、タイムがしょぼかったら笑いものだ。

 

 二人ともそこそこのタイムをたたき出した。ちなみに、俺と斉藤君は普通にスタンディングスタートで走った。

 

 

 

「二人ともカッコよかったね!…よぉしっ。わたしも本気で行くよ!」

 

 一夏がジャージを脱いだ。周りから『おぉ』と声が上がる。主に男子の声だ。体操服だけになった一夏のボディラインに注目してるんだろう。

 

「ちょっ!美智華!ジャージ着ときなって!」

「ちょっと恥ずかしいけど、わたしは本気だからね!志帆!勝負!」

「…わかったわよ…アンタの本気、受けてあげる!」

 

 ビシッと田端さんを指差す一夏。それに応える田端さん。周りからは二人につられてたのか、さっきとは違う『おぉー』が聞こえた。志は立派だけど、それだけで体格差やらのビハインドをひっくり返せるとは思わない。

 一夏と田端さんがスタートラインに立った。

 

「アキ!わたしにもアレ!」

「お、おう」

 

 踝を一夏の引き足に当ててやった。クラウチングスタートの姿勢を後ろから見ると、なんというか、精神衛生上よろしくない。

 

「違うって!弾にもやったアレ!寝転ぶヤツ!!」

「ごめん。勘弁して」

 

 両脚当てこそSAN値がマッハで削られる。直葬モノだ。あと、興奮気味なのか、弾がいつの間にか呼び捨てになってる。

 

「うわ。ヘタレがいるぞ。ヘタレが」

「俺ならガン見するけどな。あ、こっち見てる。露骨なまでに前見ないのな」

「な。美智華ちゃんの尻見放題じゃん。あのポジション」

 

 外野がうるさい。お前らの横で木嶋さんドン引きしてんじゃん。可哀想に…あ、距離取ってる。

 

「位置についてー…よーい」

 

 ぐっ、と体重が踝にかかるのを感じる。一夏なりに本当に本気らしい。

 ピストルの音と同時に蹴り出された。前を見ると、スタートは成功したらしく、一夏の方が前にいた。だけど、コンパスの長さも、脚の回転スピードも田端さんの方が上だ。あっという間に追いつかれ、みるみる離されていっている…そして、ゴール。

 

「……フィジカルには勝てなかったよ…」

「そりゃねぇ…アタシに勝てる女子の方が少ないって」

「まぁ、タイムも秋久とトントンだもんなぁ」

「志帆ちゃんこそ秋久と走ればよかったんじゃねぇの?」

 

 突きつけられる事実に少しヘコむ。確かに俺の方が小さいし、脚も短いから…田端さんとガチでやりあったら負けるかもしれない。まぁ、それはあくまでも短距離の話だ。元々短距離は得意じゃないし。

 あと、二人が戻ってくると同時に木嶋さんが二人に近寄っていった。仲がいい…ってわけじゃなくて、馬鹿二人と一緒に居たくないんだろうな。

 

…上体起こし

 

「見よ!俺のシックスパァァぐへっ」

「服着ろ阿呆」

 

 上体起こしの場所に着いた瞬間、弾がシャツを脱ぎだした。で、その見事に割れた腹筋に数馬のミドルキックが刺さった。なかなかいい音がしたな。今の。なお、女子三人はドン引き中。

 

「じゃあ、三組ペア組んでくださーい」

 

 ここでも三組ペアを作るらしい。一夏は木嶋さんと、弾は数馬と。俺は…

 

「アタシと組む?」

 

 首を横に振ってしまう。まだ田端さんとは組めない。

 

「だよね…あの二人と組むのはイヤだし…」

 

 田端さんが二人を見る。馬鹿二人はどっちが先にやるかでジャンケンをしていた。三回勝負じゃねぇよ。後ろで待ってる人がいないからって、好き放題しやがって。一年生が困ってんじゃねえか…

 結局、俺と田端さんは後回しにしてもらった。

 

 

 

 馬鹿一号()が反動を使って凄いペースで回数を重ねる。一回毎に馬鹿二号(数馬)の体が少し浮いている。

 

「んぅ~…っぷはぁ」

 

 その横で一夏が頑張っている。顔を真っ赤にして、なんとか上体を起こそうとしている…が、そのペースは二秒に一回ぐらいだ。

 

「んぬぬぬ~……ふぅ」

 

 一夏さん。休憩してたら時間なくなりますよ?

 ちなみに、木嶋さんもあんまり一夏と大差なかった。回数勝負は馬鹿一号()が勝ったらしい。さすがはシックスパック。

 

 

 

「で、秋久は俺が押さえんの?」

「うん。よろしくな、数馬」

「じゃ、志帆ちゃんは俺が…」

「ヤメロ。来るな。触れるな」

 

 おぉ…辛辣…まぁ、一夏と木嶋さんを下心満載の目で見るヤツに触られたくはないわな。

 

「じゃ、わたしたちが」

「押さえるね。志帆ちゃん!」

 

 田端さんの脚に、一夏と木嶋さんがしがみついた。いくら田端さんとはいえ、片足で女の子は持ち上がらないらしい。二人にしがみつかれた時に、なんとも言えない表情してたけど、見なかったことにしよう。そうしよう。

 

「…俺も二人にしがみつかれてぇな…」

「黙れ馬鹿一号」

 

 

 

「ふっ…ふっ…」

「「じゅーいち、じゅーに…」」

「ふっ…ぐっ…」

「秋久!飛ばせ!!」

 

 一夏と木嶋さんが声を揃えて田端さんのカウントを取る。俺の向かいでは数馬が檄を飛ばす。弾も俺を煽ってくる。女の子には負けたくないから、俺もペースを上げていく。馬鹿二人みたいに反動を使ってない分、結構キツい。

 

「はいっ!終了です!」

「…っぷはぁ」

「…っっはぁ…腹いてぇ…」

 

 力を抜き、マットに倒れ込んだ。結果、俺が39回、田端さんが36回だった。俺は去年より回数をこなせたし、田端さんにも負けなかったから、満足している。

 

「お疲れさん。親友」

「あぁ、お疲れ」

「まーた斧崎クンに負けたわ…」

「アキも男の子だもんね。意地じゃない?」

「でも、志帆ちゃん凄いよ!男子とほとんど回数変わらないもん!」

 

 確かに、出来ない男子よりかはどの種目も成績が上だと思う。コレが運動部の実力か…一夏と木嶋さんは割と平均的だった。俺も大体は平均値かそれよりも上ぐらいだったし。

 

 

 

「しっかし、この腹で昼っつーのもキツいな」

「そだよね。わたしたちも完全に忘れてたもんね。コレ」

「来年は気を付けるってことで…」

 

 

 

 周りにはほぼ生徒がいない。午後から始まるシャトルランの準備をしている教員ぐらいだ。ほとんどの生徒はテストを終えて昼休みに入っているらしい。俺たちも昼飯を食べに、教室へ向かった。




そりゃ同級生に美少女がいたら視線が行くよね。中二だもんね。

書き始めると一話で終わりませんでした。
後編に続きます。

『人物紹介』

田端 志帆
 一夏のクラスメート。身長は弾とほぼ同じぐらいで、秋久よりも高い。ショートカットの少女。部活はバスケ部。控えめな胸部を気にしているが、今後の成長に期待している。最近よく一緒にいる友人(一夏、梓)との体型差に少し絶望気味。

木嶋 梓
 一夏のクラスメート。身長は一夏よりほんの少し低いぐらい。腰近くまであるロングヘアを下ろしていることが多い。部活は文芸部。インドア派なのでふくよか?と思っていたが、同じぐらいの胸部を持つ一夏と知り合ったため、ある程度コンプレックスではなくなった。決して太め体型なわけではない。

モブは設定なしといったな。アレは嘘だ!(書いてるうちに色々設定しだしました。ごめんなさい)



ご愛読いただき、ありがとうございます。

誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、おまちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep10.5.

 スポーツテスト編 後半です。


午後からはシャトルランだけだ。たかだか、20mの距離を往復するだけの種目。前から長距離に自信があった俺にとって、去年初めて完敗を喫した種目でもある。小学生の頃も上級生には負けなかった。けど、去年は一つ上の先輩に負けた。その先輩は今年で卒業する…リベンジの機会は今回しかない。負けたくない。

 

「…で、なんで数馬もいんの?」

 

 一組の教室で、俺と数馬は弾と一夏たちを待っていた。弾は購買へ自分の昼飯を買いに、一夏たちは汗をかいたからと、着替えに行っている。

 

「いいじゃねぇか、親友」

「いいけどさ…斉藤君とかと食わなくていいのか?」

「だいじょーぶだって」

「おーまた~…アレ?美智華ちゃんたちは?」

「おかえり。まだ戻ってきてねえよ」

 

 弾が帰ってきた。一夏たちはまだ戻ってこない。女子だから色々やることがあるんだろう。俺らみたいに、暑いって理由で頭から水被って、タオルで拭いて終わり…ってわけにいかなさそうだし。

 

「ごめーん。遅くなっちゃった」

 

 一夏たちが戻ってきた。よし、食べるか。

 

 

 

 それぞれが昼飯を広げる。一夏たち女子三人はいつもより少な目の弁当。弾はブロック栄養食。数馬は通学途中で調達してきたであろうコンビニ弁当だ。

 

「…斧崎くん、ソレ…どうしたの?お腹痛いの?」

「あ、いや、ち違くて…俺、元気…」

「卵雑炊に梅干しって…まんま病人食じゃねぇか」

「あ、シャトルランのため?消化にいい食べ物ってこと?」

 

 田端さんの言葉に頷いた。今年は本気で勝ちに行く。

 

「?何かあったの?」

「うん。斧崎くんって去年、学年でトップだったの」

「でも、男バスの樋口センパイに負けちゃってさ…めちゃくちゃ悔しがってたの、アタシ見てたよ」

「そーそー。俺らで来年はリベンジだーってやってたもんな?秋久?」

 

 あの人、樋口センパイっていうのか。覚えとこ。

 

「おぉ~…負けられない戦い、だね!アキ!」

「おう。負けたくねえな」

「で、弾クンも真似してんの?ソレ」

「…いや、もうコレしか残ってなかった…」

 

 弾の前にはニンジン味やらセロリ味のブロック栄養食。運動後にパサついたモノは食べたくないだろうし、不人気な味しか残ってなかったらしい…哀れな…

 

「な、なぁ…ホント悪いんだけど…」

「ヤダ」

「…うん…ちょっと、その…」

「午前中にあんなことしてて、許されるとでも?」

「…ですよねー…」

「自業自得ってヤツだな」

 

 ぼちぼちと会話をしながら昼飯を終えた。終わったのに、一夏がごちそうさまも言わず、俺をじっと見てくる。

 

「…なに?」

「はいっ。ちょーだい?」

「…あー。アレね。アレ嘘だぞ」

「んなっ!?………なんでぇ~…アレのために頑張ってお弁当食べたのにぃ~…」

 

 マンガなら『ガーン』とかいう擬音が付きそうな、わかりやすいショック顔をした後、机に倒れ込む一夏。今朝のカップケーキために頑張って食べたらしい。デザートのために頑張るとか、小学生か。

 

「冗談だって。ほら、二個食っていいぞ」

 

 保冷バッグからカップケーキを取り出す。一夏にとっては慣れない体で運動するわけだし、多めに作ってきた。正解だったな。

 一夏は一気に死にかけの顔から回復し、満面の笑みでカップケーキを頬張っている。

 

「よよっ良かったら、木嶋さんと田端さんも」

「いいの?!」

「ホント?!ありがとー!斧崎くんの美味しいもんね~」

 

 さすがの一夏でも六個は食えまい。これでそれぞれ二個ずつだ。最近よく話す女子はこの三人だし、ちょうど良かった。

 

「あのー…秋久クン…」

「俺らの分って…」

「え?いるの?」

 

 お前らいつも食ってなかったよな?

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 グラウンドに全校生徒が集まっている。一年から二年二組までで一列、残りでもう一列。パイロンを20mの距離で何本も置いたレーンが作られている。まずは女子からシャトルランが始まる。一夏もジャージを脱ぎ、やる気十分だ。

 

「よしっ!アキから元気もらったしね!」

「お。美智華ってば、だーいたーん」

「そう?ま、ジャージ脱いでも誰も何も言わなくなったしね」

 

 ニヤニヤしながら、田端さんが一夏に話を振る。田端さんは一夏の発言を曲解してるし、一夏は体操服姿になっていることを言われていると勘違いしている。一夏はやっぱり一夏だな。

 

 

 

 

…シャトルラン

 

 ドレミの音階が響く。今は46回目。一夏も、その近くで走っている木嶋さんも、完全に顎を上げてしまっている。バテバテだ。二人とも音階が鳴り終わってもラインまでたどり着けなかった。二回目だからアウトだ。腕でバツ印を作って、終了を一夏に知らせた。木嶋さんも限界だったらしく、ラインのこちら側で三角座りで息を荒げている。

 

「はぁ…はぁ…えふっ…はぁ…も…むりぃ…」

「私も…はぁ…はぁ…限界…」

 

 木嶋さんの頭にはタオルがかかっている。下を向いてしまっているし、こちらから見えないけど、多分顔も真っ赤なんだろう。一夏はグラウンドで大の字になり、仰向けに倒れている。顔も汗まみれで、体から噴き出た汗が体操服を体に張り付けていた。うっすらと黒い下着が透けて見える。

 

「美智華…ちゃん…ジャージ…着よ…」

「暑い…無理…」

「あぁ、無理しないほうがいいぜ。せっかくの絶景だし」

「…アキ…はぁ…はぁ…ジャージ…」

「ほら、とりあえず体にかけといてやるから」

 

 ホントに自分に正直だな。馬鹿一号()は。

 

 少し離れたところでは、田端さんがまだ走っている。女子で80回越えは凄い。

 

「志帆ちゃーん!頑張ってー!」

「志帆ー!根性見せろ―!!」

「志帆ちゃーん!!まだいけるぅー!!」

 

 みんなが応援する。回復した一夏たちも応援している。俺も心の中では応援している。声に出すと吃音るし、声が震えるから出さないだけで。こういう限界に挑戦するような種目って、応援してくれる人が多いと力になる。

 向こう側のレーンではまだ三年生が一人走っていた。田端さんと三年生の一騎討ちになった。

 

 103回目、三年生が走れなくなった。それを見届けるかのように、田端さんもゴールした。あの人、限界来てたけど気合だけで走ってたのか、あのペースを。凄いな。

 二人の健闘を讃える意味で、拍手をした。それが一夏に伝わり、周りに伝わって全校生徒での拍手になった。

 

 

 

「…次は俺らだな」

「あぁ。樋口先輩には負けたくねぇ」

 

 音階が鳴り響いた。最初はゆっくり歩く。弾は最初からジョギングペースで行くらしい。俺はゆっくり、段々ペースを上げていくつもりだ。

 

…55回…

 

 徐々に脱落者が増えていく。俺の心拍数も上がってきた。ペースはそこそこのスピードで走るレベルだ。

 

…85回…

 

 残っているのは運動部組がほとんどになった。弾も顔が上がっていて、限界が近いらしい。スタミナ維持のために走ってるけど、そろそろ息が荒くなってきた。

 

…95回…

 

 弾が脱落した。帰宅部かつ普段走り込んでない、弾がここまで来たのは純粋に凄い。根性あるわ。

 残っているのは俺を含め数名。俺もそろそろ周りを気に出来なくなってきた。

 

…110回…

 

 二組の植田が脱落した。サッカー部だったと思う。俺もかなりキツい。音階の間隔が短く、ほぼダッシュだ。

 弾達が叫んでいる。応援してくれてる。

 

…130回…

 往復が全力ダッシュになってしばらくした。既に2.5キロ以上走ってからのダッシュはキツい。息が上がる。去年の記録を超えた。

 

「…っ!」

 

 脚がもつれた。コケる!咄嗟に手を出した。なかなか勢いが付いている。その勢いを利用して、前回り受け身の要領で前転した。もう向こうのラインには間に合わない。転がりながら体を捻り、うつ伏せになった。反対のラインに向かうため、右足で踏ん張った。グキッという音と、電流を流されたような痛み。ヤバい。踏ん張り方を間違えたらしい。

 右足で着地する度に激痛が走る。息苦しさと痛みで顔が歪む。多分、捻挫したんだろう。さっきから右足首が熱痛いし、変な汗が出てきた。歯を食いしばって走る。まだ、樋口先輩は走っている。

 

…135回…

 

 もう常に右足首が熱痛い。着地の痛みも強くなっている。さっさと諦めてくれ。樋口先輩。アンタに負けたくないだけだから。

 

 なんとかラインにまで間に合い、ターンしようとした。けど、蹴ったはずの地面を蹴れてなかったらしく、バランスを崩した。右足で蹴ったのが不味かったか。上半身だけがターンしようとして、グラウンドに倒れ込んだ。もう、間に合わない。

 …くっそ。また負けた…

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 向こう側のラインでアキが倒れた。周りから『あぁー…』という落胆した声が響いた。二回目だから、アキもアウトだ。俺は頑張ったアキのために、拍手を送った。俺とほぼ同時に弾も拍手を始めた。その拍手に応えるように、アキがゆっくりと起き上がり、足を引きずりながらこっち側へやってくる。慌てて弾が走っていった。アキと何かやり取りした後、弾が肩を貸して二人でコッチに帰ってきた。まだ拍手は鳴り止まない。

 

 

 

「アキ!!大丈夫!?」

 

 俯きながら肩で息をしているアキ。下から覗き込んで、目の前で手を振ると、その手をはたかれた…コレってタッチのつもり?

 

「あー…美智華ちゃん。コイツ今ワケわかってねーから」

「…うん。アキからタッチなんて、珍しいね」

 

 何か一夏って呼ばれた気もするし。

 

 

 

「おい、秋久。座れっか?」

 

 アキがコクコクと頷いた。まだハァハァいってる。

 

「ねぇ斧崎!アンタスゴいね!根性あんじゃん…って何この足!!ヤバいよコレ!」

 

 弾と一緒にアキが座り込んだ。アキのところまでやってきた志帆が、アキの足に気付いた。足首が赤黒く腫れ上がって、違う形になっている。

 

「…ぅゎぁ…痛そ…」

「斧崎くん…大丈夫?」

「なるべく動かさないで…ねぇ、保健室!」

「おう。秋久、いけるか?」

「俺も手伝うぜ」

 

 いつの間にか来てた数馬と弾に肩を借りて、アキは保健室に向かっていった。

 

「アレ、最悪折れてんじゃない…?」

「志帆、変なこと言わないで」

 

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 日直に鍵を開けてもらって、教室に入った。今日はジャージで下校してもいい日だけど、着替えたい子もいる。俺もその一人だったりする。汗かいたし、気持ち悪い。

 

 

 

「でも、斧崎って根性あるんだね。アタシ、ビックリした」

 

 体操服の中に手を突っ込んで、志帆が話し出した。ボディペーパーで汗を拭き取っている。スレンダーな分、拭きやすそうだ。

 

「前から頑固っていうか、変なトコあったしね」

「そうなんだ~…どっちかっていうと、優しいし、何か凄く周りをフォローしてる感じだったのにね~」

 

 同じく、タオルで体を拭きながらアズちゃんが言った。俺は既に身体を拭き終わっていて、そろそろセーラー服を着ようとしていたところだった。

 

「織斑のフォローとかね。なんかさ、弾と鳳さんと、三人で一緒になって走り回ってたイメージ」

「あ、わかる~」

 

 え?何それ。こないだも言われたけど、そんなにあの二人でフォローしてくれてたの?っていうか、なんで鈴が出てくるんだ?

 

「あー…あとなんだっけ?ファンクラブの派閥」

「織斑くん派と斧崎くん派だよね?なんか内部分裂したんだっけ?」

「え?何それ?」

「あ、美智華は知らないか。アンタの親戚の織斑一夏って、超人気あったのにすっごい鈍感でさ。付き合って、って告ったのに、買い物か?とか返すヤツらしくてね」

「その話聞いたことあるよ。で、フられた子のフォローに斧崎くんと弾くん鳳さんが頑張ってた、って話。あ、鳳さんって中国から来た子で、織斑くんといつも一緒にいた子」

「んで、織斑のファンクラブが織斑派と斧崎派に分かれた…らしいよ。アタシは知らないけど」

「アイドルの織斑くんと、彼氏にしたい斧崎くんって感じだったよね。鳳さんが居たから、二人に告白する人は少なかったらしいけど…」

「あー…告った子、全滅だった話でしょ?知ってる。バスケ部の先輩もフられたって。でも、最近思うんだけど、斧崎って結構優良物件よね」

「いいよね、斧崎くん。優しいし、お菓子も美味しいし、あの話も噂だけって感じだよね」

「斧崎ホモ説?アレは信憑性ないよねー。織斑とデキてるって話でしょ?」

 

 知らない情報がドンドン出てくる。え?アキってそんなモテてたの?っていうか、ファンクラブって何?なんで鈴の名前が出てくるんだ?まぁ、実は告られてたってのは、アキに教えてもらったけど。

 

「斧崎って結構根性あったんだね~。ヤバいんじゃない?美智華もさ」

「え?わたし?」

「織斑くんも鳳さんも転校しちゃったしね。斧崎くんのファンが動くかもしんないよ?」

「でも、アキが女の子と?」

 

 無理だろ。アイツがマトモに話せる女子は俺と千冬姉と束さんだけだ。鈴相手でもたまにダメだったし。俺は男だけど。それに吃音りもあるし、会話だけで苦労する。

 

「今日のでファン増えたかもね。織斑みたいにファンクラブは出来そうにないけどさ」

「ギャップがいいよね~」

「ギャップ…?いつものアキって感じだったけど…」

「美智華ちゃんにはわかんないかもね…斧崎くんって優しい草食系って感じだったから、今日みたいな男っぽいトコ、ギャップに見えちゃって」

 

「ねー!そろそろ男子入れるよー!?」

 

 ヤバい。まだ下はハーフパンツのままだ。スカート穿かなきゃ。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「特に連絡事項はなし、だ。五反田、斧崎の荷物を保健室まで頼んだぞ」

「ウッス」

「じゃ、日直、号令」

 

 スポーツテストが終わった。みんなそれぞれに帰りだしている。弾もアキの荷物をまとめだした。

 

「弾、わたしがアキの荷物持ってくよ。わたしの方が家近いし」

「わりぃな。美智華ちゃん」

 

 弾の家からだと遠回りになるし、今日は大して荷物もない。アキの制服とバッグをまとめて受け取った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 保健室に向かう途中、足を引きずって歩くアキを見つけた。

 

「アキ!」

「お。美智華じゃん。その荷物、俺の?」

「そうだよ!アキのだよ!っていうか、何してんの?!杖も借りずに!!」

「いや、荷物取りに…」

「バカじゃない?!その足で四階まで登る気?!」

 

 無理に動こうとするアキを見て、頭に血が上った。包帯を巻かれた足で動こう、っていうのが理解できない。大人しくベッドで横になってればいいのに。

 

「そこでじっとしてて!杖借りて来るから!」

 

 アキの荷物をその場に置いて、保健室に杖を借りに行った。本当にバカだ。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 アキと二人の帰り道。アキの分の荷物もわたしが持っている。リュックぐらいは持つって言われたけど、杖を突いてる怪我人に持たせるのは気が引けた。足の怪我は絶対安静らしい。さっき千冬姉と束さんに電話して、薬と湿布の場所を聞いた。

 

「でも、明日休みでよかったね」

「そうだよな。この足で通学はちょいキツいぜ」

「ホントに安静だからね?ご飯は作ってあげるから。リクエストある?」

「結構腹減ってるからなぁ…肉食いたい」

「りょーかい♪あ、お風呂入れたげよっか?」

「遠慮しとく。今日はシャワーだけにしろって言われてるし」

 

 む。あんまり慌ててないな、コイツ。面白くないから、シャワー中に突撃してやろうか…いや、それも可哀想だな。

 

「アキんちに荷物持ってってから、薬とか取りに帰るね?アキは部屋にいてくれればいいし」

「あぁ。ありがと。マジで助かるよ」

「どーいたしまして!あ、スーパー寄ってからアキんち行くね」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 スーパーでは豚カツが安かったから、今日はカツ丼にしてやろう。付け合わせのサラダも買ったし。

 

 アキの部屋に入ると、物音がしなかった。シャワー中っていうわけでもなく、本当に静かだ…奥の部屋でアキが寝ている。着替えも終わってるし、ベッドで寝ているアキの髪が少し濡れている。シャワーは浴び終わったらしい。起こすのも可哀想だし、少し待ってやろう。




 捻挫して走るとめちゃくちゃ痛いです。

 スポーツテスト編 ようやく終わりました。
 次回更新は28日の予定です。



 ご愛読ありがとうございます。
 誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep11.

一夏ちゃんお世話をする 前編


 …意識が覚醒した。今日は本気で疲れたし、足の痛みのせいで精神的にかなり参っていた。一夏が来るまでベッドで休憩しようと思い、横になった。でも、横になったのが悪かったんだろう…いつの間にか眠っていたらしい。好きなタイミングで起きれたから、頭がスッキリしている。部屋にはもう夜が訪れていた。カーテンから、ほのかに月明かりが入ってきているだけだった。

 

「あ、起きた」

 

 声の方に視線を向ける。一夏だ。心配していたような、優しく、慈しみ深い表情をしている。月明かりに照らされたその造形を、純粋に美しいと感じた。月明かりのせいか、普段より柔らかいく、温かみのある顔だった。その顔に見惚れて、呆けてしまった。

 

「お?まだ寝惚けてんのか?ほら、飯出来たからさっさと食おうぜ」

 

 いつの間に持ってきたのか知らないけど、杖を渡された。一夏のことだし、キッチリと先の部分を拭いてあるんだろうな。家の中でも使えるように。なるべく、右足を床につけないように気を付けて立ち上がる。

 出汁醤油の香りがする。今晩は和食メインで作ってたらしい。いや、この香りは…丼ものか。牛丼とは違う。じゃあ…

 

「…カツ丼…?」

「おう。ガッツリ肉食いたいんだろ?来年こそ勝つ!って意味でさ」

 

 なんともまぁ…一夏らしいといえば一夏らしい。杖を受け取ってダイニングに向かった。転んでも大丈夫なように俺の右側にいてくれている。優しさを感じるけど、今の一夏に俺の体重を支えられるとは思わない。

 

「ありがとな…まぁ、来年は先輩いないけどさ」

「あ、そっか。じゃ、体育祭だな!」

「体育祭でも同じ種目にエントリーできるとは限らんだろ…」

「じゃあー…あー…とりあえず!お疲れってことで!!」

 

 なんだその適当っぷりは…だけど、一夏の気遣いが感じられた。性転換しても、一夏は一夏だ。妙なところで鋭くて、妙なところで鈍感で。

 ダイニングテーブルに二人で座った。半熟にされた玉子でとじられたカツ丼だ。味噌汁と漬物、サラダまで用意してある。疲れてるのに重いモノって…なんて思ったけど、昼飯が消化を第一に考えたメニューだったから、腹の虫が鳴った。口の中にはさっきからヨダレが溜まりっぱなしだ。飲み込むとゴクリと喉が鳴った。そんな俺を見て、ドヤ顔の一夏だったけど、俺の意識はテーブルの上に捕らわれていた。

 

 

 

 晩飯の後、一夏は俺がベッドに入るまで帰ろうとしなかった。もらったよくわからない薬を飲み、よく効くらしい湿布を貼る。両方とも、束さんオススメの一品らしい。歯を磨いてベッドに戻った。風呂はさっきシャワーを浴びたから、問題ない。一夏は何か言いたげにこっちを見てたけど。

 結構長めに昼寝してしまったから、寝れるかどうか少しだけ不安だった。でも、それは単なる杞憂で、ベッドに入ると俺の意識は直に落ちた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 翌日、秋久は掃除機のモーター音で目を覚ました。誰もいないはずの家で、勝手に掃除機をかける。一夏以外に考えられなかった。机の上のデジタル時計は既に昼前になっていた。昨夜は20時ごろに眠りに就いたため、都合15時間ほど眠っていた計算になる。それだけ眠ったのにもかかわらず、秋久は欠伸を噛み殺し、布団をはぎ取って自らの右足を見た。

 昨日よりもかなり腫れが治まっている。湿布を剥がすと、見た目には他の皮膚とほとんど変わりはない。昨日のグロテスクな赤黒いが治まっている。押さえてみると鈍い痛みを感じ、動かしてみると鋭い痛みが走った。治っているように見えるが、まだ完治はしていないようである。

 寝巻のままダイニングに移動した。面倒だったので、杖はついていない。

 

「お、わりぃ。起こしちまったな。もうちょいで掃除も終わっから、座っててくれよ」

 

 長袖のTシャツにスキニーデニム、黄色いマイエプロンを身にまとった一夏がいた。テキパキとダイニングに掃除機をかける。拭き掃除などは終わっているらしく、ダイニングテーブルやテレビ台も綺麗になっていた。足を引きずりながら椅子に座る秋久。完全に手持無沙汰ではあるが、動けない分、何もできないでいる。

 

「ほい、お待たせ…おい!アキ!お前杖は?!」

「もう治ってるし、いらねぇだろ」

「ウソつけ!足ひきずってたじゃねぇか!」

「でも、腫れもなくなったし…」

「あぁ~!もうお前座ってろ!」

 

 ぷりぷりと怒りながら、秋久の部屋へ引っ込む一夏。歩き方からも怒りが滲んでいた。形のいい眉を釣り上げ、秋久の部屋から杖を持ってきた。秋久が杖を受け取ると同時に電子音が鳴り響いた。洗濯の終了を知らせる音である。何も言わずに脱衣場へ向かう一夏に、秋久は何も言えなかった。

 一夏に気圧されていた秋久であったが、15時間以上も何も口にしていない。さらには顔も洗っていない。不快感を感じ、とりあえず一夏と同じ脱衣場兼洗面所に向かうのであった。

 

 洗濯機から洗濯物を取り出し、籠に放り込む一夏の横で、秋久が歯を磨いている。秋久のケータイが震えた。ディスプレイには弾が写っている。無言で一夏にディスプレイを見せると、一夏頷いた。

 

「はい」

『おーのーさーきーくーん、あーそーびーまーしょー』

「小学生か。どーぞ」

 

 玄関のドアが開く音がした。洗濯籠を持ったまま、一夏が出迎えた…が、えっ!?と驚きの声をあげる。

 

「おっじゃまー。お、美智華ちゃん、そういうのいいね~」

「お邪魔しまーす。なんだ、やっぱり美智華いるんじゃん」

「お、お邪魔します…」

「おーっす。あれ?秋久いねぇの?」

 

 級友達による突然の訪問に、呆気にとられた。呆然としている一夏を尻目に、弾がダイニングのドアを開ける。そんな一行を秋久が杖をついて追いかける。肩にタオルがかかっているところを見ると、顔は洗い終わったらしい。

 

「なんでみんな来てんの!?」

 

 

 

 ダイニング戻ると、男子二人は勝手にゲーム機を起動させようとし、女子二人は座っていいものか、どこに座ればいいのだろうか、と立っていた。

 

「えーっと…志帆、アズちゃん、いらっしゃい。わたし洗濯物干してくるから適当に座っててね。あとでお茶出すから。アキはとりあえず着替えてこよっか?」

「あ、あぁ…おいアホ二人、人んち来ていきなりゲームしてんじゃねぇよ」

 

 それだけ言い残し、二人は扉の向こうへ消えた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 しばらくして、着替え終わった秋久だけが出てきた。一夏はまだ洗濯物を干しているらしく、部屋から出てこない。正確には部屋ではなく、バルコニーであるのだが。ただ、その場に居る女子二人はそんなことを知らない。梓に至っては、甲斐甲斐しく秋久の着替えを手伝う一夏を妄想し、ダイニングテーブルの椅子に座って一人で顔を赤らめている。

 

「おかえり。まだ杖ついてんの?」

「え、あ、うん。さ、さっきおお怒られて…」

 

 志帆に話し掛けられ、吃音る秋久。救いを求めて男子二人に視線を向けるも、彼らは真剣に対戦格闘ゲームのキャラクターを選択している。無防備なその背中を蹴りつけたい願望に駆られるが、自分の身体の状態を思い出して、怒りをなんとか治めた。

 梓は先程から一言も話さず、頬を朱に染めて俯いていた。初めて男性の部屋に来たことと、一夏が秋久の洗濯をしているということや、自らが妄想した秋久の着替えを手伝っていることで頭がいっぱいになっている。洗濯物には当然下着も含まれるだろうし、着替えを手伝うということは秋久のズボンを脱がせたりするのだろう。趣味の読書によって培われた想像力が、翼を生やして飛んでいく。

 

 一夏がダイニングに戻ってきた。そのまま脱衣場に洗濯籠を置きに行き、続いてキッチンでお茶の準備を始める。その手際の良さに、志帆そんな一夏を見て、ただ感心していた。自分の母でも、ここまでのスキルはない、と。

 

 ダイニングテーブルに座る三人の前に、湯呑みが置かれた。秋久と一夏が湯呑みに口を付ける。ふぅ、と一息つくと、秋久の中で疑問と怒りが湧いてきた。一言言ってやらねば気が済まない。

 

「おい。馬鹿コンビ。何しに来たんだよ」

「あー…秋久のサプライズ見舞い」

「見舞いにサプライズはいらねぇよ!第一、昼飯どうすんだ!?いきなり来られても飯用意してねぇぞ?!」

「米ぐらいあんだろ?」

「米だけで昼飯が終わるか!」

「あ、じゃ持ってくるわ」

 

 コントローラーを床に置き、弾が玄関に向かった。放置された弾のキャラクターを一方的に袋叩きにする数馬。そのコンボの見事さに、女子三人が感嘆の声を上げた。意味を理解して声を上げる一夏と志帆。何やらよくわからないが、スゴい事をしている、と思っている梓。放置したキャラクターを問答無用で袋叩きにする、数馬のやり方に呆れる秋久であった。

 

「へいお待ちー」

 

 弾が持ってきたのは岡持である。しかも二つも。

 

「えーっと、秋久と数馬がチリ唐揚げだろ?んで、志帆ちゃんと梓ちゃんがミックスフライ。美智華ちゃんは唐揚げでよかった?」

 

 さっさと手際良く定食のメインをテーブルに並べていく。ラップを取ると、どの料理もまだ湯気が立っており、美味しそうな匂いを漂わせている。どれも五反田食堂の定食メインである。

 

「わぁ…あ、ご飯用意するね?昨日ので良かったらお味噌汁もあるけど…」

「マジか!最高じゃねぇか!」

「アキもお味噌汁いるよね?志帆とアズちゃんは?」

「アタシも欲しいー」

「じゃあ…私も」

「はーい。ちょっと待ってねー」

 

 美少女お手製の味噌汁が飲める。その事実に数馬は感動した。その期待だけで、昼食が豪華なディナーのように思えた。数馬も弾も容姿は悪くない。ただ、日頃の行いと、自分の欲求に正直過ぎるところが同世代の異性を遠ざけていた。

 一夏がテキパキと茶碗に白米をよそい、汁椀を味噌汁で満たす。

 

「コレとコレがアキので、こっちが私のね。数馬と弾のはこっちで、志帆とアズちゃんのはコレ」

 

 秋久は家主であるから、専用の食器がある。それに何ら不思議はない。一夏にも専用の食器があることに、梓は驚いた。以前、一夏の口から秋久の部屋に出入りしていることは聞いている。ただ、それは家政婦のように家事をして戻るか、最低限の掃除をするぐらいだと思っていた。

 しかし、今日、目の前で起こった事実が梓の頭の中を掻き回していた。秋久のものと思わしき洗濯をしていた。ひょっとしたら、一夏自身の洗濯も一緒にしているかもしれない。何の照れもなく、異性の洗濯物を干す。着慣れているエプロン、自然と異性の着替えを手伝い、淀みなくお茶や食器を出す動作。異性の家にある自分専用の食器…梓の疑念と妄想はどんどんと深まっていった。もはや住む家が違うだけではないか。志帆がからかっていた通い妻状態ではないか、妻ということは…

 

「アズ…アズ!ねぇ!?アズ?!」

「はいぃっ!!」

「おわっ!だ、大丈夫…?緊張してんの?」

 

 梓の意識は志帆の呼び掛けに連れ戻された。いつの間にか自分に視線が集まり、食卓の準備が完了していた。

 

「あ、あはは…あはははは…」




 書き始めると量が多くなったので前後編に変更します。
 一気に書けって?ごめんなさい、頑張ります…

 次回更新は31日を予定しています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep11.5.

一夏ちゃんお世話をする 後編です。

予定通りに投稿できず、申し訳ございませんでした。


 いただきます、と六人で声を揃え、昼食を始めた。

 

「!?美味しい!!」

「ホント…凄く美味しいね」

「でも、弾の料理じゃないもんね。五反田食堂だけど」

 

 志帆と梓にとっては初めての、他の四人にとっては馴染みの味に舌鼓を打つ。今日、弾が持ってきたミックスフライ定食は五反田食堂の女性人気No.1メニューである。ただし、そこまで女性客が多くないため、サンプル数が少ないことは否めない。

 弾と数馬は白米を餓鬼のように掻き込んでいく。秋久の茶碗より二回りは大きい、丼ものに使うための器ではあるが、それでもお代わりを要求していた。ちなみに、数馬は米を二杯、味噌汁を何故か三杯も飲んでいる。

 

「……美智華ちゃん」

 

 おもむろに箸を置き、真剣な声色で一夏を真っ直ぐ見つめ、声をかける数馬。ほとんどの食器は空になり、そろそろ御馳走様、と挨拶を始めようかという段になっていた。

 

「何?お代わり?」

「俺のために毎日味噌汁を作ってくれ!」

 

 先ほどまで和気藹々としていた食卓が一気に静まり返った。一夏を除く全員が、突然始まったプロポーズに硬直している。

 

「え?無理だよ。数馬んち遠いし」

 

 一夏の返事に、秋久、志帆と弾が噴き出した。梓は俯き、笑い出さないように耐えているようで、耳まで真っ赤にして震えている。

 

「でも、美味しいって思ってもらえるの、嬉しいな」

 

 にっこりと微笑み、数馬に告げる一夏。そのセリフが止めになったらしく、四人が一斉に笑い出した。

 

「ちょっと数馬…アンタ何十年前のセリフなのよソレ!」

「いやぁ…付き合ってもない相手にそういうこというか!?」

「ウルセェ!俺は今感動したんだよ!こ・の・あ・じ・に!!」

「そんなに?アキはどう?毎日飲んでくれてるけど」

「なにぃ!?秋久!テメェどういうことだ!マジで裏切ったのか!!」

「ちょっと待て!!美智華はもう喋んな!」

「秋久…お前まさか毎朝、美智華ちゃんに味噌汁作らせてんのか!?」

「違うって!落ち着けアホ二人!!」

「え?美智華ちゃんソレ、ホント…?」

 

 梓の問いに、人差し指で作ったバッテンを口許に乗せることで、話せないアピールをする一夏。秋久の『喋るな』を律儀に守ろうとしているらしい。見ようによっては『ノーコメント』と言っているようで、梓にはより意味深に見えた。

 

「ちょ!?ごめんなさい美智華さん!釈明を!!事実を話して!!」

「黙れ裏切り者!毎朝が朝チュンなんだろうが!!」

「なんだそれ羨ましい!!俺と代われ秋久!!」

「違う!!違うから!!」

「あーもう…ご飯中だよー。席立っちゃダメだよー」

 

 『朝チュン』の単語に、機敏に反応する梓。志帆は両手で腹を抱えて大笑いしている。渦中にいるはずの一夏は全く意味を理解しておらず、席を立ち秋久に掴みかかろうとしている二人を何とか諌めようとしていた。

 

「ほらー、ちゃんと御馳走様しないと…ね?座って?」

 

 

 

 

 ちょっとした騒動があったが、何とか落ち着いた昼下がり。毎日飲んでいるという一夏の味噌汁は作り置きの分、という事実が伝わり、一応は落ち着いた。しかし、男子二名が完全に落ち着いたわけではない。数日に一度は秋久のために料理を作りに来る美少女がいる、という事実に憤慨していた。もっとも、普段は織斑邸で二人で料理をしている。だが、朝食用の味噌汁だけは秋久の部屋には用意されている。用意がないとほとんど何も食べずに登校する秋久のためである。一夏が今の状態になる前から続いている習慣でもあった。

 

 何とか騒動が落ち着いた。あれだけ騒いでいた弾と数馬は再びゲームを始めていた。持ち込んだコーラをそれぞれの手元に置いている。

 食後のお茶、ということで、一夏は秋久にロイヤルミルクティーの作り方を習っていた。

 

「…アレで付き合ってないのよね…」

「って言ってたよね。美智華ちゃん」

 

 キッチンで並んでいる二人を眺める女子二人。流石に肩同士が触れ合うほどの距離ではないが、決して他人同士という距離ではない。キッチンに並ぶ男女、というだけでも、あの二人が特別な関係であるように見えた。

 牛乳と紅茶の香りが漂い始めた。普段から料理をしているだけであって、全く問題なく仕上がったようである。

 

「いい香りだね~」

「お?何この匂い。俺らも欲しいんだけど」

「いや、コレ、砂糖と蜂蜜入ってっからさ。コーヒーにしとけって」

「んだよ…秋久が淹れたんだろ?俺ら美智華ちゃんのがいいんだけど…」

「コーヒーも美智華が淹れたぞ」

「「いただきます!砂糖とミルクもお願いしますっ!!」」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 コーヒーを啜りながら、テレビゲームに熱中する二人を眺める秋久。同じテーブルにいる女子三人の話が尽きることはなかった。次から次へと話題が出てくる。最初は会話に参加していたが、答える度に吃音りが出てきてしまい、段々と会話に参加するのが苦痛になってきたのである。頬杖をつき、ぼーっと何をするでもなく画面を眺めていた。

 

「そういやさ、斧崎の部屋ってどこよ?」

「あ、そっちだよ」

「え?あ、み、見ても面白いの、なっないよ?」

「へぇ~…?見られたくないモノがあるってこと~?」

 

 ニヤニヤ笑いを浮かべ、秋久に絡みに行く志帆。もっとも、会話で絡んでいるだけで、物理的な距離はそこそこ離れている。躾のせいか、体の向きを戻しはしたが『見られたくないモノ』が何かを理解し、何と答えるべきかと視線を彷徨わせている。

 

「あ、そういう系の、そこのダンボールだよ」

「えっ!?ええぇっ!?」

「「あ゛っ」」

「ほっほー…どれどれ…」

 

 サラッと女子禁制のアイテムの在り処を伝える一夏。その手のものがダイニングに置いてあるということに驚く梓。不味い、と硬直したのはゲームをしているはずの二人である。その証拠に、振り返ることはないが、残時間以外の動きが画面から消えた。そして誰に断りも入れず、ダンボールに手をかける志帆。

 

「へぇー…やっぱ斧崎も男なんじゃん。割と普通だね」

「そうなの?どういうのが普通かわかんないけど」

「んー…マニアックなのがあったら笑ってやろうって思ったんだけどねー…巨乳モノが多いカンジ?」

「ふーん…そーなんだー…志帆は平気なんだ?こういうの。アズちゃんは固まってるけど」

「ウチは兄貴二人だからねー。ま、見たくなくても慣れちゃうってもんよ。美智華は?平気なの?」

「向こうだと結構オープンだからね。お堅いイメージあるかもしれないけど、そこまでじゃないよ」

「そうなんだ?で、斧崎のお気に入りは?」

「え、えええ、ええーっと…」

 

 吃音りながら二人へ視線を戻す秋久。チラチラと二人を見ているせいで、それらの本来の持ち主を白状してしまっている。梓は相変わらず視線を真下に向けている。

 

「アキはそういうの見れないからね。そこの二人のんじゃないの?」

「えっ!?いや、違いますよ!?」

「そ、そう!!それ秋久のだって!!美智華ちゃんに見つかって没収中とか!?」

「ふーん…そっか。じゃあアキ。アレ全部割って捨てちゃうね?必要ないもんね?」

「「すんませんっしたあ!全部自分らのなんで勘弁してくださいいいっ!!」

「…ツレんちに置いとくなよ。アホ」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 弾と数馬による必死の懇願により、二人のお宝は憂き目を免れた。安全地帯であったはずのこの部屋が、そうでなくなってしまった。この一件で、ほぼゼロであった二人の評価がマイナスに転落したのは言うまでもない。

 なお、お宝は二人がこっそり秋久の部屋に持ち込み、普段秋久が触れないであろう、本棚の天板の奥や私服用クローゼットの奥底に隠していたモノである。二人が秋久の部屋に隠したのも、両親や妹に見つかったからだった。秋久も実害がないが故に放置していたし、一夏も存在と本来の持ち主をなんとなくではあるが気付いており、彼らが持って帰りやすいようにダイニングに置いていたのである。

 ただ、志帆らにそういうものを秋久が持っている、と勘違いされるのも秋久が可哀想だと感じたらしく、今回のようになってしまった。

 

 

 

「うわぁ…」

「うへぇ…」

 

 秋久の部屋を初めて訪れた二人から、思わず声が漏れた。二人とも部屋の蔵書量に圧倒された。梓は感動し、志帆は嫌気がさしている。

 彼の部屋の壁にはスライド式の本棚が二本もあった。

 その本棚は様々なジャンルの本で埋まっている。背表紙を見る限り、小説が多いようだ。

 趣味が読書である梓であるが、専ら読むのは電子書籍である。街の貸出図書も電子化されて久しい。これだけの本を見ようとすると、わざわざ古本屋か都心の本屋に行かなければならない。

 本棚と部屋をしげしげと眺める梓。初めて訪れた異性の部屋でもある。もう一人の初訪問女子である志帆は、兄たちと比べると片づいているな、ぐらいしか感想がなかった。部屋のほぼ真ん中にあるローテーブルの近くにクッションを持っていき、座布団代わりにして座り始めた。

 

「あれ…?アレって、美智華ちゃんの?」

「アレ?そだよ。わたしの」

 

 味気ない部屋の一角に、毛色の異なるラックが置いてあった。そこには少女マンガとファッション誌が並んでいた。

 

「アキって本読み出すと動かなくなっちゃうんだもん。暇つぶし用にね」

「へぇ~…」

「アズちゃん、本好きなんだよね?クローゼットの中にも本あるから、見てもいいよ」

「え?でも…」

「まぁまぁ、遠慮せず…どうぞ!」

 

 本に遠慮しているのではなく、異性のクローゼットを開けることに遠慮している梓。そのクローゼットは一夏のものではなく、秋久のものである。やはり一夏は一夏だった。

 クローゼットを開けると、爽やかでフローラルな香りが漂った。梓も何度か嗅いだことのある匂い。リラックス出来る、優しい香り。

 

「…ラベンダー?」

「コレってラベンダーなんだ?知らなかったよ」

「女子力低いんだか高いんだか…」

「いい香り…でも、それより、コレ…!」

「何かレアな本らしいよ。防虫剤代わりに使ってるって、アキがいってた。普通の防虫剤はダメなんだって。」

「それより…ねぇ、斧崎くん!読んでいい!?」

「う、うん」

「ありがとう!大事に読むからね!!うわぁ…コレって初版のだ…」

 

 文豪と呼ばれる作家の初版ハードカバーを手に取った梓。このクラスの本となると、何たら記念館でお目にかかる代物である。それを手に取り、読むことが出来る。味気ない白い画面に綴られた物語でなく、少し日焼けした紙面に色が変わっていないインクで綴られた物語を。クラシカルではあるが、本からは温かさを感じた。

 

「…好きなの?」

「うん!この作家さんの作品、全部持ってて」

「そこにあるの、全部読んでいいよ。デビュー作とかもあるから」

「ホントに!?いいの!?」

 

 楽しそうに作家談義に移行していく二人の会話。おーおー、と志帆は感心して二人を眺めていた。お互いに異性が苦手な者同士である。だが、共通の趣味で盛り上がると、その苦手の壁は取り払われてしまったようである。

 秋久のベッドの上では、一夏が腰掛けてむくれていた。何故かわからないが、少し腹立たしい。秋久には異性としての好意があるわけではない。そもそも、一夏は同性であるし、同性愛者ではない。嫉妬しているわけではない。そう、これは親友が他の友達と話し込んでいて、さっきまで話していたはずの自分が放っておかれる、という状況に腹を立てているだけである。そう自分を納得させようとしたが、何故か眉間に寄った皺は消えなかった。男は理由があって腹を立てるが、女はそうではない。気に入らないから気に入らない、ということが多々ある。

 

「じゃ、俺も読んでるから、好きなの読んでて」

「うん!ありがとう!!大事に読むからね!」

 

 梓は取り出した作家のデビュー作を大事に胸に抱いている。秋久のデスクを借りて、本を読み始めた。紙に皺を作らないよう、慎重にページを捲る。

 ベッドに腰掛け、壁を背もたれにして枕元の本を取り、読み始める秋久。そこが秋久の定位置なのだろう。昨日は疲れの余り、意識を失うように眠ってしまったため、昨夜の分も含めてページを進めるつもりらしい。ファッション誌を取りにベッドから立ち上がった一夏。ついでに適当な少女マンガを志帆に渡し、秋久の隣に座った。今は拳二個半の距離が空いている。

 秋久の部屋は静かになり、ページをめくる音だけが響いていた。

 

「アキー」

「んー」

「オヤツはー?」

「冷蔵庫」

「はーい。お茶も持ってくるね」

「ん」

 

 いきなり始まったやり取りに志帆は顔を上げた。ケータイで時刻を確認すると、いつの間にか三時を回っていた。一夏の腹時計が動き始めたらしい。ついでに、一夏本人も動いていた。先ほどは拳二個半の距離が開いていたが、ほぼ秋久と引っ付いている。女性が苦手な秋久が一夏に近寄るわけがない。

 

「じゃ、アタシもちょっといい?」

「いいよ。案内するね」

 

 秋久と梓は本から顔を上げる気配がない。二人は揃って秋久の部屋を後にした。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 ダイニングに戻ると、男子二名が真っ黒なTV画面に向かって正座していた。テレビの前に置いてあるローテーブルには、開かれたディスクが入っていたであろうパッケージと飲みかけのコーラが置かれている。ダイニングに漂う妙な緊張感。だが、それよりも一夏にとってはオヤツの方が重要なようで、すぐにキッチンへ向かった。

 一方、志帆はこの状況を何度か経験していた。もちろん、男子二名が何をしていたかもすぐに理解した。弾と数馬は一夏たちの方を見ようともしない。早くどこかに行ってくれ!とだけを祈っているらしい。志帆の視線の温度がどんどんと下がっていく。

 

「シネ。サルども」

 

 不快感を露わにし、ダイニングを出ようとする志帆。一刻も早くこの空間から立ち去りたかった。

 

「志帆ー。ドア出て左ねー」

「あーい」

 

 一夏が声をかける。大体の場所の検討はついていたらしい志帆は、すんなりと目的地にたどり着いたようだった。

 昨日、秋久が作ったカップケーキを冷蔵庫から取り出した。昨日のはドライフルーツの入ったカップケーキだったが、取り出したのはチョコチップの入ったカップケーキである。生地にもチョコレートが練り込まれているらしく、やや濃い茶色をしている。先ほど教わった手順通りにロイヤルミルクティーに淹れながら、コーヒーの準備をする。ちら、と視線を向けると男子二名はまだ何も映っていないテレビの前で正座していた。

 

「ねぇ、二人とも」

 

 一夏からかかった声に、ビクッと大きなリアクションを取る二人。

 

「そういうの、どうかと思うよ?女の子もいるんだしさ」

 

 志帆に続き、一夏の声も冷たかった。普段の声が甘さのある暖かい声だけに、冷え切った声の冷たさがより強く感じられた。

 志帆がダイニングに戻ってきた。二人揃って無言で秋久の部屋へ入っていった。

 

 

 

「なぁ、弾。俺、気付いたんだけどさ」

「…おう。なんだ親友」

「……なんか…こう…いいよな…ああいうふ」

「俺、お前と友達辞めるわ。マジで」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 志帆に扉を開けてもらい、秋久の部屋へ入った。トレイには皿とカップがそれぞれ三つとマグカップが一つ。皿には二個ずつカップケーキが乗っている。秋久用のマグカップにはブラックコーヒーが並々と注がれていた。お代わり用のティーポットも乗っていた。それだけトレイに乗せているのだから、片手で持てるわけがない。

 部屋では秋久と梓が本に夢中になっている。二人とも先ほどと全く姿勢が変わっていなかった。入ってきた二人は溜め息を吐き、とりあえず梓の分はデスクに置き、一夏と志帆の分はローテーブルに置いた。

 

 小声で食前の挨拶をし、カップケーキに齧り付く。チョコの甘さがストレスと読書疲れを溶かしていく。甘いものと甘い飲み物という組み合わせだが、全く気にしていない。志帆に至っては、いつの間にかカップケーキがなくなっており、紅茶もほとんど飲みつくしている。気を利かせた一夏が紅茶を入れ直し、ティーポットをトレイではなくローテーブルに直接置いた。トレイの上は三分の一ほど残っているカップケーキと秋久用のコーヒー、そして一夏用のティーカップだけになった。

 

「アキー」

「んー」

「食べる?」

「んーん」

「食べなよー」

 

 トレイごとベッドに乗せ、秋久の隣に座る一夏。一口大にカップケーキを千切り、器用に秋久の腹側から手を差し込み、秋久の唇にちょんちょんと当てる。秋久の口が軽く開いた。そこに一夏がカップケーキを押し込んでいく。

 

「おいし?」

「ん」

 

 秋久に食べさせるのが楽しいのか、えへへ、と笑みを零す一夏。先ほど梓に取って代わられた『特別』なポジションを取り返せたことも嬉しいようだ。何度か繰り返し、全てのカップケーキを一夏が食べさせた。

 

「寝転んでいーい?」

「ん」

「ありがと」

 

 ベッドに足を伸ばして腰掛ける秋久の太ももの上に、一夏が腹這いになった。確かに、寝転んだ時、腹の下にクッションなんかがあると安定する。それに一夏の胸元には志帆にない質量がある。単純にうつ伏せになった時、体の下に何かを敷くのは道理だ。ただ、それが他人の太ももというのは如何なものか。無味無臭なはずの空気が甘く感じる。三杯目の紅茶はストレートで飲もう。そう決めた志帆であった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「ねぇ、志帆。時間大丈夫?」

「えっ?あ、ちょっとヤバいかもね」

 

 四人で読書に夢中になっていた。志帆の横には十冊ほどの少女マンガが積まれていて、一夏も雑誌が三冊とマンガが四冊。梓も読んでいた本の三分の一は読み進めている。既に夕闇も深まり深まっている。五反田食堂までは徒歩で行く予定だ。こちらに来たときは五反田食堂に自転車を停め、弾と数馬の後ろに乗ってきたが、帰りは乗りたくない。理由は言わずもがな、である。ただ、歩いても戻っても問題なく夕食に間に合うだろう。

 

「アキー。志帆とアズちゃん帰るって」

「んー…うおっ!?近っ!?」

 

 本の世界から現実に引き戻すため、本と秋久の視線の間で一夏が手を振る。一夏が肘を曲げたぐらいの距離を取ってはいるが、秋久には思いのほか近かったらしい。秋久が後ずさることも計算に入れ、コーヒーは既に一夏がローテーブルに退避させていた。つーか、あーんしたり膝の上乗ったりしてたじゃん、さっきまで…と、志帆は頭の中でツッコんだ。言うだけ野暮、というヤツである。

 

「ほら、アズも帰るよ」

「ふぇ!?え?もう時間?」

 

 同じく本の世界にのめり込んでいる梓の肩を叩き、現実に引き戻す。

 

「あ、あの、斧崎くん…よかったら今度本屋さん紹介してくれると…」

「あ、うん。いつにする?」

「お?デートの約束?アズも隅に置けないねぇ~」

「え!?あ、いや!!違くて!その!!」

「えええ!?あ!?うぇ!?いや!あああああのその」

「もー、志帆もからかわないの。アズちゃん、また連絡するから、三人で行こうね?」

 

 デート、の単語に狼狽える二人。梓は顔を赤らめているが、秋久は軽くパニックになっているため、やや顔が白くなっている。すかさず助け船を出す一夏。

 

「う、うん。そだね!さ、三人で!!」

「お、おおおう!」

「ちょっと、アタシだけハブんの?酷くない?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 秋久の部屋を後にする四人。後ろに乗ってけよ、という弾と数馬に対し、両手を広げ、梓を庇いながら拒否する志帆。ダイニングで起こっていた事件を知らない梓は不思議そうな顔をしていた。結局、全員で五反田食堂までの十分に満たない道のりを歩いた。弾と数馬は自転車を押しながら、であるが。

 

 道中、数馬と弾が何度も志帆に話しかけるが、志帆は聞こえない振りを決め込んだ。梓が男子との会話を苦手とするため、段々と口数は減り、食堂に着く頃にはお通夜状態になっていた。

 

「なあ、志帆ちゃん。夜も遅いし俺が送っ」

「寄んな。ド変態。シネ」

 

 更について来ようとする数馬を睨み付け、罵声を吐く志帆。面罵を正面から受け止め、少し恍惚とし、背中を震わせる数馬を見て、ドン引きする女子二人と真剣に付き合い方を考える弾であった。




 彼らは量子ネットワーク上にも動画を共有しています。ですが、ディスク媒体は男のロマン、だそうです。あと、大画面で観たいってのもあったんでしょうね。アホなのでやらかしましたが。

 あと何故か数馬が目覚めてしまいました。どうしてこうなった。



 ご愛読ありがとうございました。

 現在、秋久のトラウマとなった物語を書き進めております。次回更新はR18予定となりますが、内容が内容なので、別枠での更新となります。

 内容は『ショタ秋久がお姉さんに誘拐され、ボコられ逆レされかける』というものです。アレだけやられらりゃ女性恐怖症にもなるわな、な内容です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~ちっふーのお持ち帰り~

R指定を書くといったな。あれは嘘だ。




気力が回復し次第、続きを書きます…



 秋久のケータイが震えた。就寝前の読書に勤しんでいた秋久は無視しようとするが、なかなか振動音が鳴りやまない。振動のパターンからすると通話着信のようだった。文庫本から顔を上げ、ケータイのディスプレイを確認すると『千冬さん』の文字と時刻が表示されている。いつの間にか、日付が変わる間際の時間になっていたらしい。いくら明日が休日だとはいえ、こんな時間にかけてくるとは珍しい。よほどの事態でも発生したのだろうか。

 

「も、もしもし」

『私だ。すまないな、こんな時間に』

「いいいえいえ」

『すまないが、うちの鍵を開けて待っててくれないか?急だが家に戻らなくてはいけなくなってしまってな』

「え、なんでですか?」

『間の悪いことに鍵を忘れてしまったんだ……ほら、もうすぐだからしっかりしてくれ』

「だ、誰かいるんですか…?」

『大丈夫だ。悪い奴じゃない。で、秋久は大丈夫か?一夏はもう寝ている時間だろうからな』

「えあ、はい」

『悪いが頼まれてくれ。あぁ、鍵は空けておいてくれ』

「は、はぁ…」

 

 電子キーの情報を確認した。キチンと自分のアパートの情報と織斑邸の情報が入っていることを確認し、秋久は寝巻代わりのジャージにサンダルをつっかけ、自室を後にした。

 梅雨がそこまできているらしい。生温い湿った風が彼の体を撫でていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 織斑邸のリビングで読書の続きをしている秋久。織斑邸の灯りは全て落とされていたところを見ると、一夏はとっくに眠っているらしい。勝手に麦茶をコップに注ぎ、リビングのソファーで寛ぎながらページに目を落としていた。

 玄関のドアが開く音と同時に、千冬の声が響いた。もっとも、大声ではなく、周りが静かすぎるが故に響いてしまっているだけではある。

 

「ほら、着いたぞ。頼むから自分で座ってくれ」

「あ、おかえりなさ…」

 

 玄関まで出て行った秋久は千冬への挨拶を終わらせることができなかった。緑色の髪の女性が玄関のフローリングに横たわっていたからである。その女性の足元で千冬が靴を脱がせていた。顔を真っ赤に染めた幼い顔立ちに大きな丸い眼鏡、更に秋久が苦手としている豊かな女性らしい体型に、彼は完全に固まってしまっていた。

 

「ぇ、ぁ、ぅぁ…」

「ほら、真耶。靴は脱がせたから少しは立とうとしてくれ…あぁ、秋久。すまないが鞄やらを持ってきてやってくれ」

「ちふゆしゃ~ん…もってかえらっちゃいましたよぉ~」

 

 呂律が回っていない。どうやらかなり呑んでいるらしい。千冬が真耶の体を揺するたびに胸が揺れた。なるべくそちらを見ないようにし、秋久は二人分のバッグを拾い、リビングへ戻っていった。

 

 なんとか真耶を座らせた千冬。真耶はまだ呑むつもりらしく、バンバンとテーブルを叩いている。

「ほあ!呑みなおしましゅお!ちふゆしゃん!」

「わかった。わかったから静かにしてくれ。妹はもう寝ているんだ」

「はやく!おしゃけ!」

「あぁもう…悪い、秋久。焼酎の水割りでもだしてやってくれ」

「は、はぁ…いいんですか?」

「構わん。私も付き合うさ」

 

 千冬にはいつも通りの濃さの芋焼酎の水割りを、真耶にはほぼ水の水割りを出し、手早くできるツマミを二品ほど準備した。竹輪とワカメをポン酢で和えたモノと、出し巻玉子である。

 

 カンパーイと陽気に音頭を取る真耶に、苦笑いを浮かべながら合わせる千冬と秋久。もちろん、秋久はさっきまで飲んでいた麦茶である。

 水割りを一口呑むと、むっとした顔で真耶が声を上げた。

 

「こえ。うしゅいへしゅ」

「あぁ、なら私のと換えてやろう。ホラ」

「わぁ~い♪いたらきまーす…んっんっ…っはぁ…ほんっともうおろこってやちゅは」

 

 真耶は千冬から渡されたグラスの中身を三口ほど流し込んだ。そのあと、誰ことを言っているのかはわからないが、延々と男性に対する愚痴が流れてくる。胸しか見てこない、私の顔はそこにはない、視線が腹立たしい…などなどである。秋久は合間に適当に相槌を打ち、千冬は料理を摘まみつつ同じように相槌を打つ。同じ話が三週目になったころ、おもむろに真耶が椅子を蹴り立ち上がった。

 

「そのてん!ちふゆしゃんのおとーとしゃんはぜんぜ」

 

 最後まで言葉を紡がず、どさりとまた着席した。

 

「……ぎぼぢわ゛る゛い゛……」

「はぁ…ほら、ここで吐かれると困る。もう少し我慢してくれ」

 

 吐き気を催した真耶を千冬はトイレまで連れて行った。否、文字通り引き摺っていった。泥酔した上に急に立ち上がれば、大方の人間はああなるだろう。そんなこともわからないほどに酔っていたようである。千冬の渡したほぼストレートの水割りがトドメになったかもしれない。

 しばらくのちに、トイレから水を流す音が聞こえた。嘔吐する前に水を流して音を誤魔化す程度の理性はあったようである。

 

 

 

 千冬から指示を受け、秋久は客間に布団を敷いた。ゴールデンウィーク中にも掃除をしたため、十二分に綺麗になっている。布団を敷き終わり、部屋を出るといわゆる御姫様抱っこで真耶を抱えた千冬と鉢合わせた。さらに洗面台からメイク落としと化粧水や乳液、コットンを持ってくるように指示を受け、駆け足で取りに行き、客間の千冬に手渡した。

 

 

 

 真耶のメイクを落とし、寝かしつけたであろう千冬がリビングに戻ってきた。勝手に帰るのは気が引けたらしい、秋久がリビングで待っていた。

 

「ふぅ…すまなかったな、秋久」

「いえ、大丈夫です。千冬さんも大変でしたね」

「あぁ。普段はあそこまでならないんだが…色々溜まっていたんだろうな」

「……オトナって大変ですね…」

「まぁな…さて、どうだ。一杯付き合うか?」

「いえ、遠慮します。もう遅いですし…俺、未成年です」

「そうか。それもそうだな…そうだ、泊まっていくか?なんなら一緒に寝てやるぞ?」

「うえぇ!?」

「昔はたまに一緒に寝てただろ?久しぶりに」

「え!?いやほら十年以上前ですし!?」

「…残念だな」

 

 声を押し殺し、意地悪く笑う千冬。このような冗談が飛び出てくるほどには、彼女も酔っているらしい。

 入れ直した千冬のグラスが空になるまで、秋久は麦茶で付き合った。千冬がシャワーを浴びてくると告げ、リビングを後にした隙に、洗い物を済ませ、秋久は織斑邸を後にした。日付はとっくに変わっていて、土曜日の午前2時になろうとしていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 翌朝、目を覚ました真耶を襲ったのは慣れない敷布団の感触と、頭痛と倦怠感だった。完全に二日酔いである。更に身体や頭部に不快感を覚えた。おそらく、シャワーも浴びずに床に就いてしまったのだろう。

 昨夜は高校時代の友人に誘われ、千冬とともに店に向かった。是非とも千冬を連れてきてほしいと頼まれたのだった。単なる飲み会だと思っていた千冬と真耶だったが、着いた店というのが、友人がセッティングした合コン会場だった。万が一にもそういう場に行くのであれば、胸元の閉じたガードが堅そうな服を着ていくのだが、その日は完全に油断しており、いつもの職場へ来ていくような服装だった。それが仇になった。相手の男性陣は真耶と千冬の胸元ばかりを注視していた。千冬の機嫌もだんだん悪くなり、酒を呑むペースが速くなっていった。真耶もそれに釣られてかなりのペースで呑んでしまっていた。

 そこそこ酔いが回ってきたところでお開きとなり、二次会に行くかどうかの話になった。当然、二人は行くつもりがなく、帰ろうとしたところ、男が二人ついてきた。名目上は千冬と真耶を送り届ける、という話になっていた。

 

 仕方なく近くのバーに寄り、千冬と男たちの呑み比べが始まった。千冬に勝てればそちらの要求を呑む。どことなりとも付き合ってやる、と。彼らの眼が異様にギラついたことを覚えている。酒のせいもあるのかもしれないが、獣の様な視線を這わせられ、恐怖と不快感を感じたことも覚えている。

 もちろん、千冬に勝てるはずがなく、千冬と真耶は店に男たちといくらかの金を置いて帰った。そこではチビチビと呑んでいたはずなのだが、慣れない男たちとの会話で疲弊したらしく、店を出る頃には千鳥足になり、呂律も怪しくなっていた記憶がある。

 そこからはさらに曖昧で、タクシーで千冬に送ってもらった。

「ぁ」

 ここがどこか思い出した。千冬の実家である。

「ぁ、ぁ、ぁ…」

 更には昨夜の行動を思い出した。千冬の弟(?)に挨拶もせず、散々絡んだ挙句、途中で粗相をした。そこからの記憶がない。

 二日酔いの不快感だけではなく、自ら行いを思い出し、顔から血の気が引いていく。不味い。非常に不味い。

 憧れの『ブリュンヒルデ』だけでなく、その身内にまで狼藉を働いたのである。やや青白かった顔は真っ白になった。どうしよう、まずはシャワー。違う。謝らないと。床に額を擦り付けて昨夜の失態を謝罪しないと。千冬さんだけじゃない、弟さんにも謝らないと。

 真耶は衣服も正さず、慌てて部屋を出た。

 

 

 

「ちっ千冬さん!夕べは大変失礼いたしましたぁ!!」

 

 リビングで朝食を終えて寛いでいた千冬の前で、真耶は見事な土下座を決めた。千冬はタブレットでニュースを読みながらコーヒーを飲んでいたのだが、いきなり起こった現実に呆然としてしまった。

 

「いいいいくら酔っていたとはいえ弟さんにも大変失礼な狼藉を」

「千冬姉、誰?その人」

「ふぇ?」

 

 いきなり聞こえた少女の声に、思わず顔を上げ、声の方向を見た。そこには千冬とよく似た顔立ちの美少女がいた。

 

「あぁ、彼女は山田真耶くんだ。私の同僚だよ」

「へぇ、そうなんだ。でも、今弟って…」

「大方、秋久を弟と勘違いしたんだろう。真耶、彼女が私の妹の一夏だ。夕べ、君と話していたのは一夏の幼馴染の秋久だ」

「…え?弟さんじゃないんですか?」

「私には妹しかおらんさ。まぁ、あの時間に家にいたから、身内と間違えるのも無理もない話だがな」

「何?またアキになんか手伝わせたの?」

「仕方ないだろう。お前はとっくに夢の中だったんだからな。あぁ、夕べのことは気にしちゃいないぞ。それより、シャワーでも浴びてきたらどうだ?その間に一夏が朝食でも作ってくれるだろうからな」




このあと、秋久も織斑邸に入り、真耶ちゃんとお互いに謝罪合戦をしましたとさ。めでたしめでたし?


ご愛読ありがとうございました。


久々の更新でこれだよ。幕間劇だよ。
しかも、一夏ちゃんほとんど出てきてないっていうね。

誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep12.

女性特有のアレになり、一夏ちゃんがキレたりします。
苦手な方は飛ばして下さい。

いちかわいくないので…口調も男に戻ります。Ep11.の一夏ちゃんのイメージを保たれたい方は読み飛ばしを推奨します。

中盤ぐらいではあっきーに甘える一夏ちゃんになるけどね!

Ep12.5であらすじを改めて前書きに記入します。
今回はただ『男の精神と女の身体の間で揺れ動きながらも、女になりつつある不安定な一夏』を書きたいが為です。

場面が頻繁に変わります。
なお、12.5も書き上がっており、明日7日の23時50分投稿予定です。よろしくお願いいたします。


 秋久はいつもの時間に目を覚ました。毎朝一夏が秋久を起こしに来るため、生活リズムが一夏寄りになってしまったらしい。とはいっても、世間的には普通かやや早めの時間である。

 梅雨入り前の天気らしく、空は鈍色で、弱い雨が降っていた。ここ数日は全く晴れておらず、気分まで落ち込みそうである。

 

 ゆっくりと身支度を整え、朝食の卵かけご飯を食べながら一夏を待った。普段ならやってくる時間になっても、一夏は来なかった。たまには寝坊したりする日もあるのだろう。秋久は時間ギリギリまで一夏を待った。しかしながら、一夏は来なかった。本格的に危ない時間になった。いつもとは逆に、一夏を迎えに行った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一夏の目覚めは最悪であった。風邪を引いたような倦怠感と、下腹部の痛み。痛みといっても、胃腸的な、締め付けられるような痛みではなく、鈍い響くような痛み。重りを無理やり詰め込まれたような不快感であった。目を覚ましてからも起き上がる気がしない。寝起きにもかかわらず、まだ眠気が残っていた。スッキリとしない、最悪な目覚めであった。

 

 ベッドの上で眠るとも起きるともせず、惰眠を貪る。否、貪らされる。抗い難い倦怠感と一夏は戦っていた。ケータイから来客を知らせるメロディが流れた。七時にはサイレントモードが解除される設定にしている。いつもなら対応するが、今日は対応する気が起きず、画面を見ずに表示を消した。

 表示を消すと、続いて着信を知らせるメロディが流れた。『斧崎 秋久』の表示見て、無視するわけにもいなくなった。約束しているわけではないが、毎日秋久と登校している。なかなか来ない一夏を心配して、訪ねてくれたのだろう。気が進まないが、着信に出た。

 

「…あい…」

『お、おはよ…大丈夫…じゃなさそうだな』

「おう…なんかダルくて腹も気持ち悪くてさ」

 

『ででーん。いっくん、アウトー』

 能天気な束の声と同時に、一夏の掛け布団に矢が当たった。全くダメージはないが、声と攻撃されているという事実が、一夏をより苛立たせた。

 

『あー…今日は休んどくか?』

「悪ぃ。今日休むわ。先生にも行っといてくれ」

 

『ででーん。いっくん、アウトー』

 もう一本矢が飛んでくる。またもや布団に当たった。更に苛立ちが加速する。

 

『そっか…その、お大事にな。なんか欲しいもんとか』

「うっせぇな!ほっといてくれよ!」

 

 秋久に当り散らし、通話を切った。束に仕掛けられたトラップのお蔭で、一夏の怒りは頂点に達している。

 

『ででーん。いっくん、アウトー』

「あああ!もう!!」

 

 直に束の番号を呼び出し、通話ボタンをタップする。ワンコールで束が出た。

 

『ほいほーい。どうしたのかなー?いっちゃん?』

「束さん!?何か撃ってくるアレ止めてくんねぇか!?」

『ほわっ!?なんかゴキゲンナナメだねぇ~』

「朝から腹は気持ち悪ぃし、イライラするしでたまんねぇんだよ!!」

『……あー…いっちゃん、トイレ行った?』

「はぁ!?…んなの関係ねぇだろ?」

『とりあえず、トイレ行ってみて?ひょっとしたらひょっとするかも知れないし。終わったら、また電話ちょうだいね』

 

 通話中にトラップが解除されたらしく、途中から攻撃されることはなかった。なんとかベッドから這い出て、トイレを目指した。

 

 トイレに入り、ショーツを下ろす。やや貼り付いたような脱ぎ心地と、形容しがたい、錆び付いた鉄ような臭い。用を足し、ふるえる手で下腹部を清める。いつもと違う感触。臭いを感じた時にも思っていた。何とか否定したかった。だが、トイレットペーパーに付着した赤黒い液体が否定させてくれなかった。

 

 男であった織斑一夏の体は、確実に女になっていった。

 

 

 

「…もしもし…」

『ほーい。その様子だと…やっぱり?』

「うん…その……アレだった」

『あー…そっかぁ…やっぱりきちゃったかぁ』

「束さん…俺…」

『うん。泣くほど辛いんだね。食器棚に薬があるから、それ飲むと楽になるよ』

「うん…」

『水無し、空腹でも飲めるのだから…その、お大事にね?』

「うん。ありがと…俺、大丈夫かな…?」

『大丈夫!むしろ、健康な証拠だよ!私なんて、中3までこなかったからね!』

「…うん」

『まぁ、ショックなのはわかるけどね。いっちゃんも早まったことしないでね?』

「なんだよ…早まったことって」

『うん!今ので笑えるなら大丈夫っぽいね!ピンクの錠剤だから、間違えないよーに!そんじゃ、お大事に~☆』

 

 通話を終え、キッチンへ向かう。束の言うとおり、食器棚の少し奥に見慣れないステンレスの缶が置いてあり、その中にシーリングされたピンク色の錠剤が六シートほどあった。とりあえず、一錠取り出して口に含む。ほろほろと錠剤は口の中で溶けていった。よろめきながらリビングのソファーを目指す。なんとかたどり着き、腰を下ろした。そのまま倦怠感に身を任せ、横になった。

 

 気が付いたときには三時間ほど経ってしまっていた。寝起きの身体が水を求める。そういえば、目が覚めてから水を飲んでいなかった。人は眠っている間、我々が想像する以上に水分を消費するのだという。

 

 シンクで水を汲み、一気に喉に流し込んだ。水分を補給し、一息付けたからか、長めの溜め息が零れた。

 

「はぁ……なんだってんだよチクショウ…俺が何かしたか?」

 

 男口調の愚痴が零れた。普段以上に注意力が散漫になっているらしい。

 トラップからの矢を警戒し、ビクリと身体が震えたが、先程束に解除してもらったことを思い出した。いずれにせよ、自宅では気が休まりそうにない。体調も先程よりかはかなりマシになっている。近場であれば外出は出来そうだ。自室に戻り、寝間着から着替える。合間に束に電話をかけ、ナプキンの使い方と使用上の注意を確認した。

 一夏は唯一の避難場所へ向けて、足を踏み出した。

 

 

 

 わずか十数メートルの移動で、一夏の体は不調を訴えていた。動けなくなるほどではないが、家を出た時よりも体の調子が悪くなっている。玄関のドアを開けた時に目の前を通った旧式自動車の排ガスの臭いが良くなかったのか、吐き気とも何とも言えない不快感が一夏を襲っていた。

 若干ふらつきながら秋久の部屋のドアを開ける。何度も来たことのある部屋。この二ヶ月弱で、自宅よりも落ち着く、くつろげる空間になってしまった。靴を脱ぎ散らかし、ふらふらと秋久の自室へ向かう。自室への引き戸を開くと、より秋久の匂いが強くなった。ベッドから特に強く匂いを感じる。間もなく六月とはいえ、まだ冷え込む夜もある。秋久のベッドには薄手の掛け布団が敷かれたままになっていた。花の蜜に引き寄せられる蝶のように、ふらふらとベッドへ潜り込む一夏。枕を拝借し、掛け布団を頭まで被せる。全身が秋久の匂いに包まれた。鼻で大きく息を吸い、口からゆっくりと吐き出す。深呼吸を続けるうちに、段々と力が抜けていく。全身の感覚がおぼろげになる。幼いころ、雷や偶然見てしまったホラー番組に怯え、何度も秋久と一緒に寝たことがあった。この間までは一夏の方が身長が高かったが、小学五年ぐらいまでは秋久の方が5cmほど高かった。手をつないで寝たり、同じ布団で秋久にしがみ付いて寝たりしたこともある。今は女になりつつあるかもしれないが、彼はまた一緒に眠ってくれるだろうか。

 落ち着く匂いに布団の温もり。懐かしく優しい記憶の中で、一夏は意識を手放した。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 秋久が帰宅した。鍵を開けようと電子キーを近付けると、2回電子音が鳴った。これは鍵がかかったことを示す音だった。つまり、今の今まで鍵が開いていたことになる。もう一度電子キーを近付け、鍵を開けた。空き巣にでも入られたことを警戒し、ゆっくりとドアを開けた。

 玄関には見慣れたサンダルが一足脱ぎ散らかされていた。犯人はこれで判明し、肩の力が抜けた。だが、いくら体調が悪いとはいえ、鍵もかけずに居るというのは如何なものか。一夏に一言言ってやる、と心に決め、自宅へと入っていった。

 リビングには相変わらず人気がない。トイレにでも行ったのだろうか。靴があることを考えると、部屋の外には出ていないはずである。それに、帰宅したのに制服のままというもの落ち着かなかった。ひとまず自室に入り、私服に着替えることにした。

 

「おかえりー」

「うおっ!?」

 

 部屋に入った秋久を出迎えたのは、布団虫になった一夏だった。ベッドの上で全身をすっぽりと掛け布団で覆い、頭だけを出している。

 

「…何やってんだよ…」

「いやー、ウチだと落ち着かなくってさ。アキの部屋でゴロゴロしてたんだけどな。こうほら、アキの匂いってなんか落ち着くだろ?んで、ふらふら~ってベッドに入っちゃって。そのまま布団虫になってた」

「……あっそ。ったく、部屋の鍵、開いてたぞ」

「マジ?ごめんごめん」

「しっかりしてくれよ?あと、さっさとベッドから出ろ」

「ヤダ」

「は?」

「弱ってる人間追い出すとか、鬼か。鬼畜か」

「弱ってるって……元気そうなんだけどな?」

「でも、断固拒否する」

「………左様で…」

 

 溜め息を吐き、Yシャツを脱ぐ。この2ヶ月余りで秋久は一夏に完全に慣れたらしく、目の前で着替えることに抵抗はなかった。もし、秋久の目の前で一夏が着替えようとしたなら、大慌てで部屋を出るか、それが叶わなければ目を瞑って見ないようにするだろう。一夏も秋久の着替えを見るのに特に抵抗もなく、掛け布団から頭だけを出し、眺めていた。

 

「そういや、何か食えそうか?」

「んー…朝から何も食ってねぇけど、食欲ないんだよなー…腹も気持ち悪いし」

 

 秋久の匂いの影響で吐き気はかなり改善された。しかし、まだ胃腸を圧迫されているような不快感と、弱くなりながらも続く鈍い痛みは治まっていない。

 そっか、と一言呟いて、秋久は自室を出た。ホットミルクでも作るのだろうか。たまにどちらかが風邪を引いたり、体調がよくない時にお互いによく作ったものだ。体調不良にはホットミルク。彼らの間では不文律になっていた。

 

 

 

「これなら食えるか?」

 

 引き戸から秋久が入ってきた。器用に足を使い、両手でトレイを持っている。皿には、ホイップクリームとパンケーキが三枚。そして、案の定ホットミルクとハニーポット、フォークと秋久用のコーヒーがトレイに乗っていた。ほぼなくなっていた食欲に反し、一夏の口腔内で涎が染み出してくる。何もしなくても、人はカロリーを消費する。なるほど、食欲がなくなったわけではなく、食事を作ることが億劫だったらしい。

 ローテーブルをベッドサイドまで引き寄せた。テーブルにトレイを置いた。

 

「ほら、起きろよ。これぐらいなら食えるだろ?」

「あーん」

「…は?」

「ほら、病人だから。あーん」

 

 決して月経は病気ではなく、むしろ女性としては健康である、という証拠になる。ただ、本人が不調を訴えている以上、病人といえなくなはない。上体を起こし、ベッドの上であーんと口を大開ける一夏。綺麗に並んだ真っ白な歯と、瑞々しいピンク色の舌が覗く。口を開けてパンケーキを要求する様は、親鳥に餌をねだる雛鳥の様に可愛らしい。

 一方の秋久は少し悩んでいた。今朝、一夏を迎えに行ったとき体調が悪そうだった。しかし、今は元気そうだ。何より目の前の美少女にあーんと食事を与えることが気恥ずかしい。だが、本人曰く体調がよろしくなく、食欲もそこまでないらしい。

 

「なぁなぁ。早く食わせてくれって。あーーん」

 

 秋久の悩みを余所に、パンケーキを催促する一夏。

 眉間に皺を寄せながら、パンケーキを一口大に切り分け、ホイップクリームを塗った。三段重ねのまま、フォークで突き刺し、ほら、と一夏に差し出そうとした。

 

「そんなおっきいの無理だってば!せめて二枚!!」

 

 一夏の抗議を受け、二枚重ねで刺し直し、口許に差し出した。はむっとフォークを咥え、ん~と感嘆の声を上げながら咀嚼する。次は蜂蜜で、とリクエストを伝え、改めて口を開けた。

 秋久はコーヒーを啜りながら、一夏への餌付けを続けた。

 

 

 

 パンケーキ二枚を平らげたところで、一夏の胃は満たされたらしい。残った一枚は秋久が蜂蜜をかけて食べた。最初にパンケーキを切り分けたおかげで、一夏が使ったフォークを使わずに秋久はパンケーキを平らげることができた。もっとも、フォークを新しく取りに行こうとすると、洗い物が増えるからそのまま食っちゃえ、と訴えてきた一夏に制された一幕もあった。秋久は見た目が美少女との関節キスが恥ずかしかっただけである。ただ、一夏自身はそんなことを微塵も考えておらず、ほぼ同性気分であった。

 

 一夏はホットミルク入りのマグカップを両手で包み込むようにして啜り、秋久は床に胡坐をかいてコーヒーを啜る。合間で今日の学校での出来事や、体調を気遣ったやり取りもあった。

 会話が途切れ、一夏が伸びをする。ゆったりとしたスウェットのお蔭で、一夏の上半身のラインが強調されることはなかったが、それでも膨らみが目立ち、秋久は視線を逸らせた。

 

「腹膨れたらさー、眠くなるよなー」

「何時間寝てんだよ」

「いくら寝ても寝たりないっつーか…なんだろな。この感じ」

「晩飯の時間には起こしてやるから、横になっとけよ。まだ本調子じゃないんだろ?」

「悪ぃね。んじゃ、お言葉に甘えまして…」

 

 改めてベッドに横になり、掛け布団を被る。掛け布団の隙間から、一夏が手を秋久に差し出した。

 

「…なんだよ」

「ん」

「ん、じゃなくて、なんのつもりだっての」

「手、繋ごうぜ」

「無理」

「無理、じゃなくて、訓練」

「…バカか。女の身体には触れんって。最近、ようやくまともに話せるようになったのに」

「スポーツテストん時はハイタッチしたじゃんか」

「知らん。記憶にない」

「ならいいけどさ。ほら、訓練だってば」

「ったく…」

 

 差し出された一夏の右手を、秋久の右手が掴む。握手するような形で、二人は手をつないだ。

 

「いや、普通は逆の手だろうが」

「へ?」

「だからさぁ~、左手で掴むんだよ」

 

 秋久の左手と、一夏の右手がつながった。体制としては、秋久がベッドにもたれかかり、一夏が横になりながら手をつないでいる。流石に恋人同士のように指を絡ませることはないが、それでも握手の形よりかはより親密さを感じられるつなぎ方だった。

 

「あー…アキの手ぇあったけぇ……すっげー落ち着くわ―……」

 

 手をつないでから数分後、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「おい、起きろってば」

「にゃーにー…もぉー」

 

 掛け布団の上から一夏を揺すり、覚醒を促す。頭でも引っ叩いてやろうかとも思ったが、可哀そうなので流石に自重した。一夏が寝入ってから、静かに食器を下げ、読書に勤しんでいると千冬から連絡が入り、夕食は織斑邸で、ということが一夏の知らない間に決定していた。

 時刻は既に七時を回っていた。夕食には程よい時間でもある。何とか部屋から一夏を引っ張り出し、二人は織斑邸へと向かった。

 

 

 

「いっちゃん!おっめでとー!!」

「おめでとう、一夏。これで大人の仲間入りだな」

 

 織斑邸のリビングに入ると、クラッカーが二人を出迎えた。破裂音と共に紙テープを浴びせられた一夏は、何が何やら理解できていないようである。もちろん、鳴らしたのは千冬と束だ。まだまだ、誕生日には早い。いったい何がおめでとうなのか、秋久と一夏は理解できていない。

 ダイニングテーブルにはどこからか調達してきた赤飯とレバニラ炒め、そして、ほうれん草の小鉢。おそらくインスタントであろう貝の入った味噌汁。飲み物は色とメニューから察するに、プレーンのジュース。赤飯と鉄分補給を主軸に置いた食事、一夏の初潮を祝うための席のようだ。

 

「いっちゃん、安心してね?ちゃーんと美味しいケーキもちーちゃんが買ってきてくれたからね!」

「感慨深いものだな。一夏もついに」

「何コレ…」

「何って、聞いたことないか?初潮の時にはこうやって赤飯を出してだな」

 

 初潮の祝いについて解説する千冬に対し、一夏は表情を暗くし、俯いた。

 

「…一夏?どうした?まだ、体調が」

「ふざけんな!」

 

 リビングに一夏の怒声が響いた。

 

「ふざけんなよ!何が子供を産む準備だよ!!俺は男だ!まだ男に戻れる可能性が残ってるんだ!!こんなもん、祝い事でもなんでもねぇ!!」

「い、いっちゃん…」

「馬鹿にしてんのか!!なんだよ!適当にかこつけて騒ぎたいだけだろうが!!俺のことなんて何も考えねぇで!!ふざけんなぁっ!!」

 

 逆上して階段を駆けがあり、自室に飛び込む一夏。

 いきなりの出来事に、残された三人は動けないでいた。




生理中って匂いに敏感になるらしいですね。
当SS内での一夏ちゃんに下記の属性が追加されました。

・月経期間中限定のクンカー New!
・体調不良だと甘えん坊 New!
・天然
・鈍感(男→女への好意は鈍感。女→男への好意は普通)
・あっきーといるときは俺っ娘。他の人がいるときは女の子(普段から中身は乙女になりつつある)

ご愛読ありがとうございます。
誤字脱字のご報告、ご感想、クレーム、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.12.5

前回のあらすじ
・一夏ちゃん初めての乙女Days
・あまりに体調が悪くて心配したあっきーに八つ当たり。
・そんな自分に自己嫌悪。ネガティブスパイラル。
・あっきーの部屋に逃げ込んだ!あっきーの匂いに安心して寝ちゃった。起きたらあっきーがいたよ。手も繋いでくれたよ。パンケーキも作ってくれたよ。
・ちっふーと天災が初めてのお祝いしだしたよ…辛いのに…不安なのに…なんだか馬鹿にされてる気が…頭にくる…ブチッ

そんなお話でした。


 織斑邸のリビングは重い沈黙に支配されていた。

 秋久はリビングに繋がるドアの前で立ち尽くし、千冬は椅子に座ったまま腕を組んで天井を仰ぎ、束も同じく座ったまま頭を抱えて項垂れている。

 幼い頃から多少声を荒げることはあっても、先ほどのように怒りを露わにして怒鳴り声を上げるようなことは、ほとんどなかった。そんな一夏がヒステリックに大声で怒鳴り散らしたのである。リビングに残された三人は、怒らせたことよりも、ヒステリックな一夏にショックを受けていた。

 

「……からかうつもりはなかったんだ…」

 

 天井を仰いだまま、千冬がつぶやいた。

 

「私の時は、誰も祝ってくれる人が居なかった。恥じらいながらも、鬱陶しいと言いながらも嬉しそうに話す同級生たちが羨ましかったんだ……後悔、ではないがな。結局、相談した保険医ぐらいだった。おめでとう、と言ってくれたのはな」

「私も特に何もなかったよ。あんまり親と仲好し、って感じじゃなかったからね。別に気にしてないけど、ちーちゃんのお話聞いちゃうと…ね?いっちゃんに寂しい思いはさせたくなかったし…」

「寂しい思い出にしたくなかったんだが…一夏には悪いことをしてしまったな…」

「…もう男に戻れないって、言われたのに等しかったのかもね…いっちゃんにとっては…」

 

 自らの行いを鼻で嗤う千冬。もちろん、一夏が元に戻れる可能性は大いにある。

 リビングには重苦しい空気が漂い続けている。いつもなら頼りになるはずの大人コンビは溜め息を吐き続けている。

 

「…俺、一夏と話してきます」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 薄暗い部屋のベッドの上で、膝を抱えて座る一夏。初潮を迎えた女子に、赤飯などを炊いて祝うという風習は聞いたことがある。生理が始まってしまった、ということは彼の体に子を宿す能力が備わったということに他ならない。子を宿すことが出来るということは、女になった、という証明の一つでもある。

 祝おうとしてくれた姉たちに怒鳴ってしまったという自己嫌悪が五割、このまま元に戻れないのではという不安が四割、部屋に逃げ込んでしまったけどこれからどうしようという些細な悩みが一割。ポジティブな思考は一切なく、ネガティブだけが彼を支配していた。

 

 ノックの音と共に、秋久の声が響いた。

 

「あー…その……い、一夏?」

「……」

「その、千冬さんたちも…悪気があったわけじゃないっつーか……千冬さんも、初めての時に誰にも祝ってもらえなくて、すっごい寂しかったって言ってて、俺はよくわかんないんだけど…その…なぁ、一夏。なんとか仲直りしてくれないか?せっかく家族が仲良かったのに、それが壊れるってのも、見たくないんだ」

 

 返事をしない一夏を無視して、独白を続ける秋久。一夏は秋久の生い立ちを知っているだけに、彼の思いがより強く感じられた。俺たちを心配してくれている…確かに、さっきは理不尽だった、怒りすぎてしまった…より強く後悔が押し寄せてくる。

 これはチャンスだ。ここで機を逃すと、しばらく千冬と口も利けない関係になってしまう。割と俺をほったらかしてだらしない姉だけど、決して嫌いな訳じゃない……謝ろう。秋久を悲しませたくない。大切な人だから。姉とその親友とギクシャクするのも嫌だ。大切な人たちだから。

 

「い、一夏……」

 

 口を真一文字に噤んだ一夏が部屋から出てきた。泣いていたのか、少し目が充血してしまっている。

 

「アキ、ごめん…怒鳴っちまって…」

「いや、その…うん。下、行こうぜ」

 

 秋久に促され、階下のリビングへ一夏は移動した。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「一夏…」

「千冬姉、束さん…」

「いっちゃん…」

 

「ごめんなさい!」「すまなかった!」「ごめんなさい!」

 

 三人が一斉に頭を下げあった。

 

「本当にすまない。一夏を馬鹿にしているとか、ダシにして騒ぎたいだとか、そう言ったつもりは全くないんだ」

「うん。アキから聞いた。千冬姉も、俺のためを思ってやってくれてんだって…ごめんな。祝ってくれたのに、怒鳴っちまって…」

「ううん。こっちこそ、ごめんね?いっちゃんの気持ちも考えずに…」

「大丈夫。束さんの薬のお陰で俺もすっげぇ楽だし」

 

 互いに訳を話し、和解を始める。リビングを支配していた緊張感が徐々に解れていく。

 

 話が和解の方向から、生理についてのトークに脱線を始めた。今回は初潮ということと、元男にいきなり生理が来た、ということで精神的な拒否反応でここまで重い症状が発現した、という可能性を束が示した。

 

「…改めて、おめでとう。一夏。まぁ…男だからめでたくないかもしれんが、言わせてくれ」

「ありがとう、千冬姉。ひょっとしたら、年末ぐらいには男に戻れてるかもしんねーけどさ」

「そうなるように頑張るよ。おめでとう☆いっちゃん♡」

 

 

 

 秋久が料理を暖め直し、祝賀会が始まった。千冬お手製の、となれば美談の一つにでもなるのだろうが、残念ながらデパ地下の総菜である。パンケーキを作ろうとしてキッチンを破壊しかけ、フライパンを一つ使い物にならなくしてしまって以来、キッチンへの立ち入りを禁じられている。洗い物も禁止である。グラスを二つ、皿を数枚割り、シンク周りを水浸しにしたが故である。

 また、テーブルで繰り広げられる会話も秋久にとっては入りづらい話題であった。生理期間中の女子あるあるトークになってしまい、ほとんど聞き役に徹した。

 

 料理がなくなると、ケーキの出番だ。冷蔵庫から出てきたケーキは様々なフルーツが乗っており、秋久が作るケーキとはまた違う様相であった。もちろん、秋久お手製のケーキも大好物で、こういった洋菓子店のケーキも大好物な三人である。

 秋久が淹れたコーヒーとロイヤルミルクティーを飲みながら、ケーキを食べる。三者三様に幸せそうな笑みを浮かべる。秋久だけは少し難しそうな顔をしながら、ケーキの製法を暴こうとしていた。

 

 

 

「…しかし、後ろ髪を引かれる思いだな…」

「明日も仕事なんでだろ?あとは束さんがいるから大丈夫だって」

「そーそー☆あとは任せときなって♪」

「ぐっ…束ぇ……」

 

 血涙を流さんばかりに悔しがる千冬。素直に謝った一夏に対し、愛しさが限界突破したらしい。一緒に風呂に入ったり、添い寝をしながら一夏の話を聞いたり…といった妄想をしていたが、曜日と時間には勝てなかった。

 千冬と一緒に秋久も部屋に戻るつもりらしく、玄関での茶番劇を眺めていた。夕食での会話で出番なし、と判断したらしい。束が織斑邸に残ると言っている。彼の中では、この件で非常に信頼出来る人物だ。

 

「じゃ、一夏。また、明日な」

「おう。よろしくな」

「あー…良かったら、あっくんが迎えに来てくれない?大体の人は二日目がキツかったりするからね…」

「まぁ、そこまで怖がることもない。今日で大体はわかったろうしな」

「あー…そっか。今日だけじゃねえんだな…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 シャワーを浴び終え、薬も飲んだ。束の指導通りにナプキンを夜用の物に張り替えた。下腹部の不快感は消えてはいないが、薬のお陰か、痛みはほぼない。

 男であっても、女であっても受け入れてくれる人たちがいる。個人的な意見としては男に戻りたい。だが、あの人達が受け入れてくれるのならば、悪くはないかもしれない。改めて、愛されていることを実感した。

 暖かい布団に包まれる。秋久の匂いはしないが、心配し優しく受け入れてくれる人たちがいる。束も元に戻れるように頑張ってくれいている。胸に巣くっていた不安や焦燥感はもう消えている。むしろ、温もりすら感じている。

 初めてのことで慌てたり、苛ついたりとバタバタしたが、皆が居てくれれば大丈夫だと思えた。

 今日という日を思い返すうちに、瞼が重くなってきた。微睡みに任せ、一夏は眠りに就いた。




一夏ちゃん素直。
ここの一夏ちゃんは割と素直です。
ここのちっふーはシスコンを拗らせすぎてしまった、残念なお姉ちゃんです。

性転換された方や自らの性別に違和感を覚える方のの手記などを読ませていただくと『家族が受け入れてくれたことが最も安心した。気が楽になった』という記述をよく見かけました。

ご愛読ありがとうございました。
誤字脱字のご報告、クレーム、ご感想お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep13.

下記には以下の描写が含まれています。

・トラウマ発動
・呼吸困難で苦しむ

苦手な方は読み飛ばすことをお勧め致します。

内容は
・あっきー、トラウマフラッシュバックで苦しむ。
・迎えに来ないあっきーを心配して一夏ちゃんと束さんが迎えにくる。
・二人とも学校休んで三人でお買い物。
です。

あっきーが壊れかけますので、苦手な方は二個目の『◇◆◇◆◇』からお読みいただくといいかもしれません。

秋久一人称視点です。

UA20,000超え、お気に入り250超え。大変励みになります。
今後ともお楽しみいただければ幸いです。


「ただいまー…」

 

 もちろん、返事は返ってこない。むしろ返事があったら嫌だ。

 一夏の初潮祝い?の食事会が終わった。メインの一夏がオネムになって、千冬さんも明日の仕事のために戻らないといけなくなったからだ。泊まり込みで仕事をしてくれてるなんて…一夏だけじゃなくて、俺も世話になっている。本当に頭が上がらない。

 飯は食ってきたし、あとは風呂入って寝るだけ。家族同然の三人とはいえ、やっぱり女子と話をするのは疲れる。今日はちょっと涼し目だし、ゆっくり風呂に遣って疲れを取ろう…風呂掃除すんのめんどくさいけど。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 いつの間にか日付が変わっていた。寝る前の習慣でベッドに座りながら本を読んでるんだけど、大体は日付が変わったか変わってないかぐらいに気が付いて、そのまま布団に潜り込んでいる。今日もキリのいいところで切り上げよう。このまま読みこんじまったら、それこそ徹夜になっちまう。

 本に栞を挟んでボードに置いた。ケータイに充電器を挿して同じく置いた。

 

 掛け布団をめくって、布団に入るといつもと違う匂いがした。枕からはより強く感じる。濃い、女の匂い。シャンプーかコンディショナーかボディーソープか、それとも本人の匂いか…何かわからないけど、甘い匂い。多分、一夏の匂いだ。嫌でも女を思い出させる匂い。一夏は違う。アイツらとは違う。

 四年前の記憶がフラッシュバックする。服を破かれ、頬を舐められ、嬲られた記憶。勃起の意味も知らないのに、咥えられ、嬲られた記憶。

 違う。呼吸が荒くなる。匂いがたくさん入ってくる。一夏は違う。そんなことはしない。匂いの中にフェロモンでも入ってるのか、下半身に血が集まる。違う。そんなことは求めてない。俺は寝るんだ。歯を食いしばって耐える。本能は違う。無意識に血が集まってズボンが窮屈になる。押しつけられた胸の柔らかさ。甘ったるい香水の匂い。女の匂い。違う。ここは俺の部屋。ベッドの上。嫌らしくなぞってくる指。気持ち悪い舌。気持ち悪い記憶。違う。助けてくれたんだ。千冬さんも、束さんも、一夏も。アイツらとは違う。

 ヒュッヒュッヒュッ…喰いしばった歯の隙間から呼吸が漏れる。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。ヤバい。ここはヤバい。手足が痺れてきた。呼吸が落ち着かない。逃げないと。何度も同じ記憶が蘇る。殴られ、蹴られ、舐められ、舐めさせられた記憶。口の中で唾液が溢れる。やめてくれ。違う。やめろ。一夏は違う。助けてくれた。一夏も千冬さんも束さんもそんなことしない。逃げろ。この記憶から逃げろ。今は動ける。アイツらとは違う。苦しい。

 

 胸が苦しい。こんなに息をしてるのに。口を開いて呼吸を繰り返す。繰り返しても息は楽にならない。痺れて力がほとんど入らない手足を動かす。逃げなきゃ。動かなきゃ。痛い。ベッドから這い出る。転げ落ちるようになんとか脱出できた。苦しい。手をついて転げ落ちたつもりだったけど、力がほとんど入ってなかったせいで頭を打った。鈍い音がしたけど、ほとんど痛くなかった。おかげで記憶が薄くなってきた。それよりも頭痛がひどい。頭の中側から破裂しそうな、脳みその中でダイナマイトが爆発しているような痛み。視界が歪む。痛い。苦しい。

 胸も頭も苦しい。痛い。ベッドから出てこれたおかげで、匂いはなくなった。けど、体は元に戻っていない。力が入らない。短く浅い呼吸を繰り返している。動けない。苦しい。仰向けになる。痛みを叫びで誤魔化したい。苦しい。息が出来ない。歯を食いしばりたい。息をしないと死んじゃう。痛い。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「…キ!アキ!起きて!アキ!!」

「あっくん!大丈夫!?」

 

 女の声が聞こえる。定まらない視界に女の顔が写る。一夏と束さんだ。二人とも泣きそうな顔で俺を覗き込んでいる。

 

「大丈夫?痛いとことかない?」

「とりあえず、外傷はたんこぶぐらいだけど、気持ち悪かったりしない?」

「…えーっと…大丈夫っぽいです。汗で気持ち悪いぐらいです」

 

 ゆっくりと起き上がって、首を回した。吐き気も頭痛も息苦しさもない。肩を回したり手を握って開いてとしてみても、特に痛むところはない。体調的には問題なさそうだ。

 

「なかなかウチに来ないから、迎えにきたらさー…アキがぶっ倒れてんだよ?ビックリしたよ」

「ホントにね。鍵はかかってたけど、部屋でベッドから落ちてるなんて…何かあった?」

「いえ、特には…寝呆けてたっぽいです」

「声かけても揺すっても、一時間ぐらい起きてくんないし…もうちょっとで救急車呼ぶとこだったんだよ?」

「悪い…心配かけたな」

 

 両目に涙を溜めて一夏が覗き込んでくる。その表情が愛らしくて、それと俺の中に芽生えた罪悪感で目を逸らしてしまった。一夏が寝てたベッドで寝てたら、こうなりました…なんて口が裂けても言えない。むしろ、悪いのはこんな風になってしまう俺の方だ。

 

「まぁまぁまぁ。あっくんってしっかりしてそうで案外抜けてるからね。いっちゃんもそれぐらいにして…」

「…そうですね。アキ、また今度ぶっ倒れたらベッドに柵付けるからね?」

「赤ん坊じゃねぇんだからやめれ」

「束さんお手製の、とーっても立派なの付けてあげるよ☆で、このあとどーする?」

「どうするって、学校に…」

 

 机の上のデジタル時計を見る。10:47とか表示されている…うそぉん。

 

「とりあえず、シャワー浴びといでよ。着替えは持ってってあげるからさ」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 サッパリした。寝汗なのか、昨日の夜中に悶えてた時の汗なのか、二人と話してる間も全身がベタベタで気持ち悪かった。シャツも下着も身体に張り付いてたし、最悪の目覚めだった。クーラーつけて寝ればよかった。いや、それはそれで風邪を引いていたかもしれない。こっちの方がマシか。それにしても、一夏と束さんをあんなに心配させてしまった。本当に悪いことをしたな…

 ふと、二人が遭遇してしまったシチュエーションを想像する。なかなか迎えに来ない、電話にも出ない一夏を俺が迎えに行く。玄関には鍵がかかっていて、リビングには誰もいない。トイレにもいない。部屋に行くとベッドから転がり落ちて倒れている一夏。声をかけても揺すっても起きない…うん。俺なら一時間も待たずに119に電話するな。そのあとに千冬さんと束さんだ。今回は一夏が我慢強いんじゃなくて、束さんっていう冷静で優秀な人が隣に居たから耐えれたんだろう。救急車を呼ぶほどじゃない、これ以上意識が戻らなかったら呼ぼう、とか言ってくれそうだ。

 

 一夏が用意してくれたであろうシャツとデニムパンツに着替えた。20分ぐらいは経ってるだろうから、今は11時過ぎか。もはや学校に行く気分じゃない。着替えが俺の私服になってたことを考えると、一夏も一緒に休もうっていうハラなんだろう。流石に一時間以上意識を失ってた人間を学校には行かせないか。

 

 リビングに戻ると、テーブルの上にメモがあった。

 

『シャワー浴び終ったら、ウチに来てください。お昼一緒に食べようね 一夏』

 

 そういや、朝飯食ってないな。今から食ったら昼が食えなくなる。別に朝は食べなくても大丈夫な方だし…とりあえず、ケータイと財布だけ持っていくか。それだけ決めて、寝具を部屋干しする。エアコンを起動して、家を出た。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 織斑邸のリビングでは一夏と束さんがソファーでまったり寛いでいた。

 

「あ、おかえり。アキ」

「えーっと…ただいま?」

「あっくんおかえりー。で、今日はどうする?流石に今から学校行かないよね?」

「そうですね。5限目からってのもアレですし…」

「今束さんと話してんだんだけど、買い物行こっか。って話になっててね」

「買い物って…お前、体調大丈夫なのか?」

「いっちゃんはお薬飲んでるからねー。流石に期間中行動不能ってわけじゃないしさ」

「うん。わたしは一日目がキツいタイプみたいだし。今日は大丈夫!」

「そうなのか…?まぁ、一夏が大丈夫なら…」

「よし!決まりー☆じゃ、早速手配するね♪」

 

 え?手配?

 束さんはケータイ片手にさっさと客間に引っ込んでいった。何やってんだろう…一夏の方を向くと、一夏も不思議そうに俺を見ていた。あの人とはもう七、八年ぐらい付き合いがあるけど、未だに何をしているのか、何をしでかすのか全く予想がつかない。もっと付き合いが長い千冬さんからしても、同じようにわけがわからん人らしいけど…

 お互いにハテナマークを浮かべているうちに、束さんが変装して出てきた。その間わずか五分少々。前みたいに大人しい印象の三つ編みじゃなく、少し派手な印象の巻き髪に小ざっぱりしたシャツにパンツルックになっている。五分ちょいで変装できるのもすごいけど、その服ってどこにあったの?千冬さんの部屋じゃなくて、客間から出てきたよね?まさか、何パターンか織斑家に持ち込んでたりすんの?なんて疑問はもはや愚問なんだろう。束さんの行動とかその結果に疑問を持ってはいけないと思う。1+1=2みたいに、束さんだからそうなんだ、という風に思わないと、多分、この人と付き合っていけない。

 

 束さんいわく、あと五分ぐらいでタクシーが来るらしい。今回もショッピングモールへ買い物に行くのかと思いきや、百貨店系のお店に行く予定、とのことだった。公共交通機関を乗り継いで四十分ぐらいだけど、今日はタクシーを使うらしい。一応学校休んでる身だし、下手にウロついて地元でバレるのもよろしくない、という束さんの配慮とのこと。タクシー代、いくらかかるかわかんないけど。

 

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 タクシーに揺られること小一時間。目的のエリアに着いた俺たちはまず腹ごしらえからすることにした。適当なカフェに入り、三人ともランチセットを頼んだ。いつの間にか俺の分だけ大盛りにされたことと金額にビックリしたけど…まぁ、店の雰囲気込みでのお値段なんだろう。コスパとかは気にしちゃいけない空気が流れていた。

 

「で、今日は何買いに来たんですか?」

「今日はいっちゃんの夏服メインだねー。この前は春服とかしか買ってなかったからね。そろそろいっちゃんも自分の服の好みとか出てきてそうだし」

「んー…好みかー…そーいやー買ってもらった服だとそろそろ暑くなってきたしねー」

「毎月ファッション誌買って勉強してただろ。お前。こういうのがいいとか、そういうのないの?」

「好みっていうか…なんだろ。まだ、このジャンル!ってのがないんだよねー…」

「まぁ、そこはとりあえずお店に行って…って感じだね。ここならレディースもガールズも色々揃ってるから、お金のことは気にせずに、ぱーっと買っちゃおう!」

「はーい♪」

「へーい…」

 

 その一言をいうってことは、普段は気軽に買える金額じゃないってことですね。怖い。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 とりあえず、上から順番に…ということで、方々の店を覗いていく。流石に年齢層の高そうな店はパスして、ガールズファッションの店をメインに覗いて行った。どの店もバーゲン前だからか、種類も豊富にあるし、割引しなくてもいいから店員さんも積極的に絡んでくる。一夏と束さんに絡みに行くのは当然ながら、俺にも絡んできたので、途中から店の前で待機することが増えた。俺が店の中に入るときは一夏の試着タイムの時ぐらいになっていった。

 

「これ、どうかなー」

「うんうん☆いっちゃんは脚綺麗だから似合うねー♡」

「ホントお似合いですよー♪こちらはスニーカーソックスとか合わせていただいてもー…」

 

 黒いニーハイソックスにデニムショートパンツ、淡いピンクのTシャツの一夏が試着室から出てきた。確かに細すぎず、太すぎずな一夏の脚にはよく似合う。ただ…その…肌色成分が多い気がする。アンクルソックスを合わせるとか…もっと肌色増えんじゃんか。やめて。試着の終わった服を一夏から預かる。このショートパンツは買うらしい。ただ、ちらっと見えてしまった値札には、五桁の数字が並んでいた…うん。見てない。俺は何も見ていない。

 

 次の店では、白いノースリーブサマーセーターと、黒っぽいタイトスカート。次の店ではショート丈のワンピースにカーディガン、次の店ではプリーツスカートにYシャツ…と色んな店で着せ替え人形にされていく一夏。こっちは段々と買い物疲れをしてきたけど、一夏と束さんは楽しそうにショッピングしていた。次々と店で黒いカードを出していく束さん。春先に買い物に行った時と同じか、それ以上に服を買い漁っていく。女の子って怖い。改めて、一夏が女の子になった、ということを実感した。

 

 

 

 

「いやー…思わずいろいろ買っちゃったねー」

「でも、束さん。ホントにいいの?」

「いーのいーの♪いっちゃんが可愛いからついいっぱい買っちゃった☆」

「あっくんもごめんねー。いっぱい持たせちゃって」

「あぁ、大丈夫です。服ばっかりですから」

 

 昼とは違うカフェで休憩。束さん用の紙袋が三つと、一夏用の紙袋がたくさん。もう数えたくない。途中で某ファストファッションの店で十枚近くTシャツを買ってたのには驚いた。いくらその店だけがプレセールやってたからって、買いすぎなんじゃないだろうか。それとも、世の女性はこれぐらい服を持ってて当たり前なんだろうか。恐ろしい。女尊男卑の世の中になって、アパレル業界の売り上げが伸びてきている、という話はよく聞く。確かに、束さんみたいにガンガン買っていく人が増えれば、業界は潤うんだろう。

 

「一応わたしも千冬姉からカード使っていいって言われてるけど…」

「そっちはいっちゃんたちの生活費とか、消耗品用って感じだしね。お洒落ぐらいはお姉さんに甘えておきなさいな」

「いや、コレ甘えるってレベルじゃ…」

「気にしなーい☆それとも、あっくんは買ってもらえなくて拗ねてるのかな~?」

 

 わざわざ向かいのテーブルから身を乗り出して、頬を突っついてくる。

 

「やめてくださいって…俺のは適当に買うからいいんですよ」

「ホントに~?」

「もう、束さんってば…アキも本気で嫌がってますから止めてください」

 

 流石に五桁の服を強請る気にはなれない。普段着てるのが全身で一万円を切ってる分、そんなの着たら気が気じゃなくなりそうだ。ちなみに、俺の分は800円のTシャツ一枚。それで十分だ。

 仕方ないなーとか呟きながら着席する束さん。今日は見た目が大人っぽい分、そういう子供っぽい仕草に違和感を覚えた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 カフェを出て、タクシーを捕まえた。もう今日は帰るらしい。四時間ちょっと外をウロついただけだけど、すっごい疲れた気がする。これが女子のガチショッピングか。女子って怖い。タクシーの運転手さんに手伝ってもらって、トランクに紙袋を詰めていく。運転手のおっちゃんは慣れているのか、割と平気な顔だったのを覚えている。

 織斑邸の前に停めてもらい、三人で荷物を運んだ。

 リビングに荷物を運び終えると、紙袋の閲覧会…と思いきや、今日はやらないらしい。一夏も束さんもそれなりに疲れてるみたいだった。多分、今日は簡単に作れる夕食になるだろう。

 

 束さんは夕食を食べずに帰るらしい。なんでも、今日中にチェックしておきたい案件があるんだとか。どこに隠していたのか、いつもの人参型ロケットに乗って飛んでいった。やっぱりあの人に常識は通用しない。適用しちゃいけない気がする。

 

 結局、夕食は冷凍焼き鮭、味噌汁、玉子焼き、白米とシンプルな和食になった。どっかの旅館の朝食みたいなメニューだけど、気にしたら負けだ。何と勝負してるかは置いといて。俺が夕食を用意している間、一夏は買ってきた洋服を部屋に持っていき、片付けているようだった。もうすぐ米が炊ける…そろそろ、一夏を呼びに行くか。

 

 

 

「…何やってんの?」

「どう?似合う?」

「あぁ、似合うっちゃあ似合うけど…わざわざ着替えたんだな…ご苦労さん…」

 

 思わず溜め息が漏れた。

 夕食が出来たので一夏を呼びに行った。部屋をノックして飯が出来たことを伝えると、どうぞー、なんて変な返事が返ってきたからドアを開けた。そこには買ってきたもこもこ素材の七分丈パーカーと同じ素材のショートパンツを身に着けた一夏がいた。可愛いからどうしても着たかったらしい。もこもこした生地に薄いブルーと白のストライプが可愛らしい。ただ、それは今から飯食う格好なのか?という疑問が残る。それは寝巻じゃなかろうか。

 

「わかってないなー。アキは。これはルームウェア、部屋着だよ?パジャマはパジャマでちゃんと買ってもらったから。ほら」

 

 既にハンガーに掛けられ、吊るされているパジャマ?を指す一夏。どう見ても薄手のだぼっとしたワンピースにしか見えないけど、パジャマらしい。よくわからん。部屋着とはいえ肌色成分が多い気がする。見た目が可愛らしい分、そこまでセクシャルな印象を受けないけど…

 やっぱり家ではゆったりしたの着たいもんね~♪と楽しそうに洋服を片付けていく。

 

「リラックスするのはいいけど、束さんの装置の餌食になるなよ…」

「だいじょーぶ!最近はこっちで男口調ほとんど出てないからね!」

 

 …お前はそうやって調子乗ってるときが一番ヤバいんだよ。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 二人で向かい合って座り、手を合わせる。いただきます、と挨拶をして、夕食を開始した。相変わらずもこもこルームウェアを着ている一夏。ソースとかカレーとか着いたら大変そうだな。

 

「そーいえばさ…夕方、束さんに頬っぺた突かれたよね?」

「あぁ、やられてたな」

「あの時、本気で嫌がってなかった?」

「……まぁ、まだ触られるのは苦手だよ。こっちが触られる覚悟してない時に、やられるのは」

「じゃあ、覚悟があったら平気なの?」

 

 黙り込んで、そのサマを想像する。さぁ!どうぞ!と束さんの前で両手を広げる。よぉーし!なんていいながら束さんが飛び込んでくる。わしゃわしゃと犬を撫でまわすみたいに、顔やら頭やらを触りまくる束さん。こっちが嫌がっても、ほらほら~訓練訓練~♪と嬉しそうに撫でまわしてくる。うん、嫌だな。

 

「……嫌かも…」

「ふーん…わたしも?」

 

 今度は一夏で想像する。よし!こい!と両手を広げる。指先から順番に、大丈夫かどうかを確認しながら触ってくる一夏。顔を触ってくるときも突っつきから順番に接触面積を拡げてくる。こっちが嫌がればすぐに放す。うん。これならいけそうだ。それに、そもそもコイツ元男だし。今でも半分ぐらい男だし。

 

「……まぁ、一夏なら大丈夫じゃないか?」

「…そっかぁ~」

 

 にんまりと満足そうに笑う一夏。頷きながら一夏は食事を再開した。とりあえず、俺の答えは間違っていなかったらしい。あんまりやられたいとは思わないけど、と付け足したかったが、一夏の機嫌を損ねるだろうことは予想できた。余計な一言、と取られかねない。

 

 長かった一日が、もうすぐ終わる。エアコンのパワーで寝具から匂いが取れていることを祈りながら、俺も食事を再開した。




六時間以上布団に潜り込んでたら匂いが移るよね。
しかも一夏ちゃんは女の子の匂いだからね。

あっきーのトラウマフラッシュバック&お買い物回でした。

群発頭痛を発症したり、パニック系過呼吸になるとこんな感じです。思考が全くまとまらなくなります。訳わからなくなります。世の中を恨みたくなりますが、あっきーは心優しい、いい子なので、そういう描写は避けました。

女性って服買う時とかガッツリ買いますよね。見ててビビるぐらい。
女尊男卑になると、盛り上がるのはファッション・飲食・二次元・2.5次元業界かなぁーとか妄想してます。

前書きであんだけ脅しといてこの有様です。
あと十話で入学できるとは思いませんが、気長にお付き合いいただけると幸いです。
(既に下書き分で十話以上。しかもそれで夏休みも終わってない)
次回は幕間劇を投稿する予定です。ちっふーと天災さんのお話です。

ご愛読いただき、ありがとうございます。
誤字脱字のご報告、クレーム、ご感想お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~Ep.13のその後~

ギャグ回?です。
ちっふーと天災がEp.12の内容をこっそり聞いているお話です。
壊れます。お酒入ってるからね。仕方ないね。

※盗聴・盗撮行為は犯罪です。下記は犯罪行為を賛美・助長するものではありません。一方的な愛情による録音・撮影行為も犯罪です。どうしてもしたい場合はキチンと被写体の方に許可・同意を得た上で行いましょう。
※お酒は適量で。飲みすぎ注意。

幕間劇じゃない長さです。Ep以上の長さです。八千字超えちゃいました。アホです。

◇◆◇◆◇

『FPC』
 Film Print Circuit フィルムプリントサーキット。超極薄で柔軟性のある透明素材に、様々な抵抗値の成分を塗布、織り込むことで作られる回路。またはそれを利用した電子部品。フィルムケーブルよりも薄く、透明であり、かなり曲げても断線を起こさないことが特徴。もちろん、その分高額な部品。
 この世界ではディスプレイ内の回路やセキュリティ関連など、薄さや透明度を要求される製品に使われる。なお、今回は厚さ約5マイクロの物が使用されている。

『アブサン』
 実在するお酒。薬草や香草などを溶かし込んだ蒸留酒。独特の香りがするため、カクテルに使われたり、水などで割って飲むことが多い。アルコール度数は40~90%。今回は度数80%のチェコ・アブサンを飲んでいる。ちなみに、ビールが4%、ワインが10~15%(20%のもありますが)、焼酎が25%前後、ウィスキーが45%前後、一般的な手指消毒用アルコールが70~80%である。


 束は一夏たちと別れ、ラボに戻ってきた。どうしても確認したいモノがあった。買ってきた洋服を一夏に着せて撮影会を行うのもまた一興ではあるが、それよりも早く確認したかった。昨日夕方、一夏たちを迎えた時にピン!と来たのである。別々にいるであろう二人が一緒にいた。しかも、一夏は体調不良。体調不良の一夏は甘えたがりになる…コレは何かあった。ひょっとすると、ひょっとするかもしれない。

 コンソールの前に座り、コードレスヘッドフォンを装着する。ディスプレイの灯りのみが束の顔を照らす。隠そうともしない、ニマニマという悪戯好きの悪ガキの様な笑みが浮かんでいる。

 

「………」

 

 両手をヘッドフォンに当て、僅かな音も聞き漏らすまいと集中する。目を閉じてさらに集中するも、口元には笑みが残ったままである。段々と笑みが深くなっていく。やがて眼が見開かれ、口元の笑みが更に深くなる。傍目にはちょっとアブない人だ。

 

「…ち、ちぃいいいいいいちゃぁぁああああああん!!!!」

 

 絶叫と共に、束はIS学園へと飛んでいった。物理的に。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

『コンコンコン』

 

「ん?」

 

 IS学園職員寮の自室で寛いでいた千冬は、バルコニーに繋がる窓からの不審なノックに気付いた。千冬の部屋は三階に位置している。わざわざ石を投げてくる者も、バルコニーの窓をノックする者もいないはずだ。職務を終え、ビールを飲みながらリラックスしていたため、幻聴かとも思った。そこまで酔っているつもりもないが、もし酔ってしまっているのならそろそろ眠ったほうが良さそうだ。

 

『コンコンコンコンコン』

 

 五月蠅い。間違いなく、現実に聞こえている音である。カーテンを開けて確認すると、フロントジッパー付の真っ黒なキャットスーツに身を包み、メカウサ耳を頭に着けた不審者がいた。不審者はひらひらと手を振り、挨拶してくる。ソレを確認すると、何もなかったかのように千冬はカーテンを閉めた。

 

『ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン』

 

 先ほどのノックとは違い、窓を破らんばかりの勢いで叩いてくる不審者。千冬は無視した。何故なら自分には不審な知人・友人などいないからである。アレは不審者である。何ならセキュリティに突き出しても問題ないはずだ。

 ノックと呼ぶには激しい音が止むと、今度はケータイが震えた。発信元を特定できないように、かつ非通知着信拒否機能に対応できないように、文字化けした番号が表示されている。こんな面倒な技術を使って通話を寄越す人物…いるにはいるが、今回のコレとは関係がない。アレは不審者だ。数度の通話に反応しないことを理解したのか、今度はメッセージを寄越してきた。

 

『大声出すよ』

『織斑千冬にこんな格好させられて、ベランダに放置されてますって、涙ながらに訴えるからね』

『週刊誌にも情報売ってやる』

『見出しはこんな感じかな?”ブリュンヒルデの爛れた性活!?”とか面白そうだよね~』

『何せ、世界的な研究者と最強ブリュンヒルデのスキャンダルだもんね~。食いつくとこ多そうだよ~』

『そういや、昔そんな話もあったよねー。なんか私たちがデキてるとかいう話』

『ジッパー開けて、髪とかもちょっと乱れ気味にしたほうがいいかな~?そっちの方が雰囲気出そうでしょ?』

 

 もはや脅迫である。ココを開けないと恐ろしいことになるぞ、と脅しているのである。世界広しといえど、ブリュンヒルデを脅す者など、そうそういない。

 これ以上無視すると本当に面倒なことになりそうだ。千冬は諦めて窓を開けた。

 

「やっぱりちーちゃんは話が分かるね~☆」

「どのツラ下げていってんだ。この駄兎が」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「で、用件はなんだ?見ての通り、私は今寛いでるんだ」

「まぁまぁまぁ~。そう邪険に扱わず~♪コレを聞けばちーちゃんも考えが改まるよ☆」

 

 タンクトップに薄手のスウェットショートパンツ。完全にリラックスモードである。寮管理の職務を与えられていない千冬にとって、終業後は完全なオフである。もっとも、寮管理関連の職務も、完全消灯時間後はオフではある。時刻は間もなく日付が変わる時間。そんな夜中に、束は千冬を訪ねてきたのだった。厳重なはずである、IS学園のセキュリティを物ともせずに。

 束からコードレスヘッドフォンを渡された。二人の間にはケータイが置かれ、束もウサ耳を外してヘッドフォンを装着している。千冬がヘッドフォンを装着すると、束がハンドサインで『OK?』と確認した。それに頭を縦に振り、返事をする。

 

『…はぁ……なんだってんだよチクショウ…俺が何かしたか?』

 

 一夏の声だ。間違いない。ではこの音源はなんだというのか?ガタガタというノイズの後、バフッと柔らかいものに何かが落ちる音がした。続いて、またもや一夏の声が響く。

 

『あぁ~もぉ~…この家落ち着かねぇよ~…アキぃ~……』

 

 ボフボフと柔らかい物を叩く音が繰り返される。一夏がクッションか何かを叩いているらしい。千冬と束の脳裏にはソファーに寝転がり、駄々を捏ねるように暴れる一夏が鮮明に映し出されていた。しばらくして、音が止んだ。またもしばらくノイズが続く。

 

「…おい。阿呆」

「なに?ちーちゃん」

「貴様…まさか妹を盗聴しているのか…?」

「盗聴って酷いよちーちやん。これはいっちゃんを守るために必要な、待ってちーちゃん。ココ、ココから大事だから」

 

 片方のヘッドフォンを外して束に問いかけたが、再度ヘッドフォンを装着するよう要求される。大事、ということは一夏に何かあったのだろう。妹のプライベートを覗き見るようで罪悪感を感じるが、興味がないわけではない。

 

『……アキの匂い…』

 

 衣擦れ音のあと、一夏の声が聞こえた。どうやら、秋久の部屋に移動し、ベッドの中に潜り込んだらしい。

 

『すぅ……っふぅ~…すぅ……っふぅ~…すぅ……っはぁ~…いいなぁ…コレ…』

 

 秋久のベッドで深呼吸を繰り返しているようだ。大きく息を吸い込み、吐き出している。枕か布団に顔を埋めているようで、少し声が遠く聞こえる。いきなり妹の性癖を暴露され、困惑する千冬。まさか親友の部屋に入り込み、無断でベッドに潜り込むなどとは思ってもみなかった。枕に顔を埋めたり、掛け布団にくるまってゴロゴロと転がる一夏を思い浮かべる。その顔は何故か赤く、恍惚とした表情を浮かべている…そんな光景が浮かび上がった。

 

『……匂い…なくなっちゃった…』

 

 また衣擦れ音が聞こえる。そして、音が聞こえなくなった。今度は布団に完全に潜り込み、眠ってしまったらしい。束を見やると、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。千冬も気を抜くと表情が崩れそうであったが、束を見てなんとか耐えた。

 

 

 

「……さて、申し開きを聞こうか」

「もぅ…ちーちゃんノリ悪いよ?飲み足りないんじゃない?」

 

 じゃーん☆とどこからともなく取り出したのはラベルのない、エメラルド色の液体が入った瓶。飲み足りない、というからには酒が入ってると思われる。それとキンキンに冷やされたショットグラス。手早く並べて注ぎ始めた。ニコニコと笑みを浮かべる束を千冬は睨み返した。誤魔化されんぞ、と言葉には出さないが彼女の瞳は雄弁に語っている。缶ビールを千冬の手からもぎ取り、エメラルド色の液体が入ったグラスを持たせる。テキーラよりも強いアルコール臭。なかなかに度数の高い酒のようだ。

 

「さぁさぁ♪カンパーイ☆」

 

 音頭を取る束に合わせる形でグラスを掲げ、喉に流し込む。カッと喉が熱くなり、独特の香りが鼻に抜けた。

 

「なかなかキックのキツい酒だな…なんて酒だ?」

「アブサン、っていうんだって。これなら私たちでも酔えそうでしょ?」

「…確かに」

 

 飲んだことのない風味。予めアルコールを摂取していたこともあり、千冬は酒に誤魔化されてしまっていた。酒飲みという人種は未知の酒には弱い。しかも、酔えない体質の千冬を酔えそうだと感じさせる代物である。

 言葉を交わすことなく、杯を空けていく。互いに注ぎ合い、いつの間にか束が持ち込んだ瓶の半分以上がなくなっていた。

 

「でね、ちーちゃん、コレはね…いっちゃんを守るためにとっっても大切なことなんだよ?まず、こうやってモニタリングを続けることで、いっちゃんの体調を把握できるでしょ?それと、いっちゃんをあらゆる危機から守れると思うの」

「ほう…例えば?」

 

 顔を真っ赤にした千冬が聞き返す。度数80の酒を多量に飲んでいるせいである。束も飲んではいるが、千冬ほどではない。普段はキリッとしている目元も、今では柔らかく溶けてしまっている。話を切り出したのも、今ならなんとか話せそうだ、という束の打算である。

 

「そうだね…例えば、お腹抱えて苦しんでいる男が居たら、いっちゃんはどうすると思う?」

「助けに行くか、声をかけるだろうな。己のデメリットを考えずに」

「だろうね。でも、その人は苦しんでいるフリをしたレ○プ魔でした!押し倒される or 連れ去られるいっちゃん!大ピンチ!!でも安心!アイオスがあれば急な加速度、規定値以上の衝撃、ケータイが破損、特定のコマンドのいずれか一つさえ入力されれば、束さんのところにエマージェンシーと共にGPS付FPCが」

「ちょっと待て…なんだそのアイオスとやらは」

「あっくんいっちゃんお守りシステムだよ?あっくんには下着のタグに貼り付けたFPC、いっちゃんにはケータイが特定の条件になると、待って。ココから集中しよ。集中」

 

 ヘッドフォンを両耳に取り付ける束。それに倣い、千冬も音声に集中した。先ほどまで片耳で聞いていたのは、秋久が返ってきたくだりである。

 

 

 

『これなら食えるか?』

『ゎぁ~~…』

 

 秋久が何か食事を持ってきたらしい。病人食といえば粥やうどんだが、それらで一夏が嬉しそうに声を上げるとは思えない。となると、パンケーキか何かだろうか。いずれにせよ、嫁力の高い男だ。一夏もなかなかに理想的な嫁ではあるが、秋久も捨てがたい。嫁にするなら、両方を娶りたい。千冬の酔った頭が妄想する。酒は人の箍を壊す。もし、秋久が弟だったら…普段の口調は一夏に対するもののように、ややぶっきらぼう。だが、彼の優しさはそのままで、風邪を引いたりしたときには、玉子粥なんかを作ってくれたり

 

『ほら、起きろよ。これぐらいなら食えるだろ?』

『あーん』

『…は?』

『ほら、病人だから。あーん』

 

 あーんだと!?しかもこないだみたいに一夏がするのではなくて秋久からのあーんだと!?

 頬を赤らめ、春先に買った薄いピンクのパジャマを着た一夏がベッドから状態を起こし、可愛らしく小さな口を懸命に開けている。くりくりとした瞳はこちらを信頼しきっているのか、閉じられている。愛らしさが嗜虐心を刺激し、開かれた口腔に悪戯を仕掛けたくなる…一夏のあーんという言葉だけで、一瞬のうちに千冬の脳はこの映像を描いた。愛の成せる技である。もっとも、この時の一夏は風邪を引いているわけでもなく、照れているわけでもないので頬を染めたりはしていない。しかし、千冬の脳内では頬を染めている。何故ならそっちの方が可愛いからだ。

 

 う゛っ…と息が詰まったような音が聞こえた。秋久が出した音だろう。わかる、わかるぞ秋久。一夏の可愛さに脳がオーバーヒートしたんだろう。私だってそうなる。誰だってそうなる。

 

『なぁなぁ。早く食わせてくれって。あーーん』

 

 あーーん。あーん。千冬姉、早くー。ぱくぱくと口を開け閉めして、食事を要求する一夏。もちろん瞳は閉じられたままだ。一夏の可愛らしさに硬直していると、千冬姉?なんて目を開いて小首を傾げたりもする。あぁ、可愛い。可愛いは正義。素晴らしい。千冬は反射的に口元を抑えた。鼻と口から情熱が飛び出そうになったからだ。幸い、人中辺りにぬめりのある感触はない。セーフ。

 千冬は気づいていないが、束もなかなか危険な状態になっていた。一音も聞き逃すまい、と両手を使ってヘッドフォンを押さえている。双眸はここではないどこかを見つめており、口は半開きになっている。完全に逝っちゃった人だ。百年の恋も醒める表情である。

 

 カチャカチャと食器同士が当たる音が聞こえる。秋久が切り分けたり蜂蜜を塗ったりしているのだろうか。

 

『ほ、ほら…』

『そんなおっきいの無理だってば!せめて二枚!!』

『なんだよ…せっかく食わせてやるのに…ほら』

『あーむっ…ん~~♪……次ははちみつがいーなー♪はい、あーーん♪』

 

 上機嫌で少し照れながらパンケーキをねだる一夏。恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらそれに応える秋久。甘い、甘すぎる。胸の奥が甘く切なくなった。そうか、これが萌えか。酒を呷ろうグラスに手を伸ばすが、グラスは空だった。面倒になって瓶から口へ流し込む。一口、二口、三口…と飲み込み、一息ついた。なんだ。なんなんだ一夏。羨ましいぞ、一夏。私もこんな甘酸っぱい青春を送りたかった。ちょっとぶっきらぼうだけど優しくて可愛い彼に甘えたり、看病ついでにあーんとかされたかった。神様のバカヤロウ。酒瓶をテーブルに置くとゴン、と少し強めの音がした。それに束も気付き、千冬と同じようにラッパ飲みを始める。一夏の『ふぃ~…ごちそうさまでした』との言葉が聞こえるまでラッパ飲み合戦は続いた。新しい瓶の封が切られ、二本目も三分の一ほどがなくなっていた。

 

『はいよ』

『あれ?どこ行くんだよ?』

『新しいフォーク取りに行くんだよ』

『洗い物増えるじゃねえか。だいじょーぶ。風邪じゃねえから伝染りゃしねぇって』

『いや…』

『大丈夫だってば。心配性だなー』

 

 違うよいっちゃん!そうじゃなくて間接キスを気にしてるんだよ!そんなこと気にするあっくん可愛い!

 束の脳内では、先ほどで一夏が使っていたフォークを真っ赤な顔で見つめる秋久が見えていた。束が思うテンプレ的思春期男子中学生、である。このあと顔を真っ赤にしながらいっちゃんのフォークをあっくんが使って、いっちゃんが心配して、おでこっつんで熱を測っちゃったりとか

 

『あーもう…手で食うなよー…フォークあるんだからさー』

『うるせぇよ…』

 

 そうきたかー…あっくんそっち行っちゃったかー…それはダメだよあっくん。ラブコメ力が足りないよ…それだと拒否られた気分で、いっちゃん傷ついちゃうよ?

 束は少し残念だった。束が一瞬で妄想したとおりになれば、もう色々溢れそうだったが、惜しかった。千冬を盗み見ると、血走った眼でケータイを睨み付け、両手で口元を押さえている。ツンデレ(?)男子と積極的な女子。このカップルが千冬のツボだったらしい。

 

『ごちそーさんっと』

 

『ふぅー、ふぅー……っはぁ…』

『相変わらず熱いの苦手なんだな』

『そういうならもっと冷ましてくれよ』

『お前、冷たい牛乳そこまで好きじゃねえだろうが』

『そりゃそうだけどさー…あ、リビングのテーブルに薬置いてただろ?持ってきて』

『あぁ…見慣れない薬だなって思ってたけど、アレ、お前のか。何の薬だ?』

『生理痛用』

『え?』

『束さん特製の、生理痛用の薬。アレ飲んだから動けるようになったんだぜ?』

『お、おう……持ってくるわ。み、水は?』

 

「…なぁ、束」

「ちーちゃん…言いたいことはわかるよ。ワンスモア?」

「もちろんだ!」

 

 束がシークバーを操作し、冒頭からもう一度聞き直す。淑女たちが悶える。もう一度聞き直す…都合5回ほど聞き直し、落ち着いた。その間にも酒を水のように飲み、三本目の封が開いた。

 

「続き、行くよ?」

「あぁ…楽しみにしている」

 

『んー…っはぁ…』

『腹膨れたらさー、眠くなるよなー』

『何時間寝てんだよ』

『いくら寝ても寝足りないっつーか…なんなんだろな。この感じ』

『晩飯の時間には起こしてやるから、横になっとけよ。まだ本調子じゃないんだろ?』

『悪ぃね。んじゃ、お言葉に甘えまして…』

 

『…なんだよ』

『ん』

『ん、じゃなくて、なんのつもりだっての』

『手、繋ごうぜ』

 

 衣擦れ音。一夏がベッドで横になったらしい。肩まで布団を被った一夏が、小さな手を秋久に向かって差し出している。可愛い。もちろん、千冬の脳内では一夏の頬は染まったままで、秋久は耳まで真っ赤にしている。初々しい、健全なカップルである。聞こえてくる音声と自らの脳内の映像をマッチングさせ、千冬はさらに身悶えしている。

 

『無理』

『無理、じゃなくて、訓練』

 

 秋久よ。そこは無理とかじゃなくて、キチンと恥ずかしいというべきだ。恥ずかしいのはわかるが、その言い方はいかんぞ。一夏も女心がわからん奴だったが、秋久もなかなかだな。

 密かに、秋久にも女心を説いてやる、と誓う千冬。秋久がここまでハキハキと話せる同年代の女子は、一夏しかいないのだが。

 

『…バカか。女の身体には触れんって。最近、ようやくまともに話せるようになったのに』

『スポーツテストん時はハイタッチしたじゃんか』

『知らん。記憶にない』

『ならいいけどさ。ほら、訓練だってば』

『ったく…』

 

 お?繋いじゃう?ついにあっくんが一歩踏み出しちゃう?

 今まで意図的に、自らが女性に触れなかった秋久にとって、この一歩は大きいだろう。これを機に、一夏と秋久の関係が進むことを祈る束であった。

 

『いや、普通は逆の手だろうが』

『へ?』

『だからさぁ~、左手で掴むんだよ』

『こっちかよ…』

『そーそー…ふふふっ…あー…アキの手ぇあったけぇ……すっげー落ち着くわ―……』

 

 握手とか!あっくん空気読んで!でも、そうやっちゃうあっくん可愛い!あっくんとおてて繋げて満足そうに微笑むいっちゃん可愛い!!

 束も千冬も笑みが止まらない。この音声を聞くだけで勝手に脳内で各々の妄想劇場が上映され、大変なことになっている。

 

 

 

「…素晴らしいな」

「いいよねぇ…もう一回いっちゃう?」

「あぁ、次は通しで聞こう」

 

 淑女たちの夜は、まだまだ明けない。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 東の空がコバルトブルーに変わっていた。まもなく夜が明ける。昨日の分だけではなく、その前の音源にまで手を出してしまい、なかなか現実に帰ってこれなかった。そろそろお開きにしよう、と提案を始めたのは千冬だ。バルコニー側を向いていたおかげで、空の色が変わったことに気付けたらしい。結局、酒は三本とも飲み干してしまった。束が多めに持ち込んだのは正解だったようだ。あまり明るい時間だと、束の服装はよく目立つ。何せ真っ黒なキャットスーツだ。日中に見れば通報案件間違いなし、である。

 

 昨日一日を思い返すうちに、束は思い出した。秋久が朝から自室の床で眠っていた件である。

 あれは寝相が悪くて落ちた、というよりも、何かがあって移動しているうちに、意識を失ったように見えた。幸い、命に別状はなかったが、何かがあったのだ。そして、先ほどまで聞いていた音声を思い出す。

 匂い、だ。一夏からの通話を受けてからの時間を計算すると、都合九時間は秋久のベッドで一夏が寝ていたことになる。ある程度涼しいとはいえ、頭まで布団を被ったり、中に潜り込んでしまえば匂いが移る。一夏の匂いは、もうすでに女の匂いになっている。女の匂いが秋久のトラウマを呼び起こし、苦しんでいるうちにベッドから転げ落ち、意識を失った…なるほど、筋が通る。

 糞豚風情が…どれだけあっくんの幸せを奪うつもりだ。やっぱりアレだけじゃ足りなかったか。もっと、もっともっとやってやれば良かった。確か、一匹目はその場で挽肉にしてしまった。二匹目は話を聞いてやろうとしたら、壊れた。三匹目は…どうだったか。情報を聞き出したら壊れたんだっけ?まだ生きてやがったっけ?もし、まだ息してたら、止めてやんないと…あんな下等生物が同じ地球で息をしてるなんて、想像するだけで寒気がする。

 束の顔から表情が消えた。先ほどの音声を聞いていた時の至福の表情も、いつもの人好きのする柔和な表情もなくなった。柔和な形だけは変わっていない。いわゆる、冷たい笑顔、である。

 

「おい、束?」

「ん?なぁに?ちーちゃん」

「いや、なんでもない。そろそろ、その格好だと目立つ時間になるぞ」

「あ、そだね☆それじゃ、お暇しまーす♪」

 

 おもむろにバルコニーの窓を開け、三階から飛び降りた。やれやれ、騒々しい奴だ。

 軽くため息をついた千冬。その後、音声データを譲り受けることを忘れていたことに気付き、激しく後悔するのであった。




以上、拗らせちゃったお二人でした。

ご愛読いただきありがとうございます。
誤字脱字のご報告、クレーム、ご感想お待ちしております。

『アイオス』
 あっくんいっちゃんお守りシステム。
 一夏の場合はケータイが規定値以上の衝撃、加速度・急激なシャットダウン・六連続以上の一定個所をタップを感知した際、ケータイよりパルスと束宛の緊急通報が発生し、一夏のスクールバッグ・制服、下着のタグに埋め込まれたFPCのGPS機能が作動する。
 日本国内であれば三秒以内に束が駆けつける。また、常時一夏のケータイはマイク機能がオンになっており、毎日23時ちょうどに束宛に圧縮された音声データが送信されるように改造されている。バッテリーも改造済み。
 秋久の場合は下着のタグにGPS付FPCが埋め込まれており、一定以上の加速度で周辺の監視カメラがハックされ、秋久の現在位置付近の画像・映像が束に届くようになっている。
 一夏と同じく、日本国内であれば三秒以内に束が駆けつける。



※しつこいですが、盗聴・盗撮は犯罪です。
※お酒は適量で。この人たちの真似はしないでください。下手すりゃ急性アルコール中毒で死にます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep14.

6月になりました。

男子ってみんなバカです。特にこの年代の男子たちは、可能であれば、全力でバカやりたいと思っていると思います。で、バカやるからこそ楽しいのです!

お気に入り300件越え、ありがとうございます。もうすぐ350件なので正直驚いています。
ちまちま、ぷちぷちと更新を続けていきますので、お楽しみいただければ幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。


 窓を叩く雨の音。これで五日連続の雨天となった。いつも通りの時間に目を覚ました秋久は、また洗濯物が部屋干しになることに、溜め息を吐いた。彼のような一人暮らしならそこまで気にならないが、ご家族のいる方々にとってはなかなかの痛手だろう。一人暮らしでも辟易としているのに。

 秋久が朝の身支度を整えていると、今日も今日とて明るい声がリビングに響いた。

 

「おっはよー!今日も雨だよー!」

「オッス…相変わらず元気だよな」

「アキは相変わらず元気ねーな。また夜更かししたか?」

「あー…12時ぐらいじゃなかったかな、寝たの」

「もー…背、伸びねーぞ?あ、もうお味噌汁温めた?」

 

 ダイニングテーブルの足下にカバンを起き、テキパキと制服の上からエプロンを身に付け、朝食の準備を始めた一夏。衣替えをしたらしく、夏服である半袖のセーラー服に濃紺のプリーツスカート、そして一夏用の淡いオレンジ色のエプロンである。そんな一夏に習って二人分の弁当を用意し始める秋久。秋久の部屋の朝の光景が今日も始まった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「う゛あ゛あ゛~…」

「…大丈夫か…?」

 

 昼休み。中間テストの返却が全て終わった。弾は机に突っ伏して奇声を上げていた。心配して声をかけた秋久の方向に、突っ伏したまま真っ青な顔を見せた。その動きはナマコやナメクジのような軟体動物を思い出させた。

 

「うお!?」

「秋久~…やべえよ~…やべえんだよ~…」

「…そんなにか…何点だったんだよ」

「……48…」

「ま、まぁ弾は得意不得意ハッキリしてるからな。最低点がそれぐらいなら」

「最高がな…最低28…」

「え、えぇぇ…」

「そういう秋久は何点だったんだよぉ…」

「あ、あぁ。俺ははち」

「言うなぁ!どうせ今のも最低点とか言うんだろ!?クソッタレ!世の中不公平だッ!顔も頭も良くて、可愛い幼なじみと毎朝朝チュンしてる野郎がいる一方でオレには何もねぇ!!世の中不公平だああァッ!!!」

 

 椅子を蹴って立ち上がり、教室のド真ん中で叫び声を上げる。秋久は急な大声に驚いた。雨のせいかいつも以上に教室で食事を摂る生徒が多かったが、大声に驚いたものの、いつものことかと気にしていない。妙な注目を浴びないのは弾の日頃の行いのおかげである。彼の声量にやや迷惑しながらも、秋久は注目も浴びなかったことに感謝した。

 ひとしきり雄叫びを上げたことで落ち着いたのか、空気が抜けたように着席し、再度机に突っ伏した。

 

「どーせその弁当も美智華ちゃんお手製なんだろーが…チクショウ…オレなんてコンビニオニギリだぞぉ…チクショウ…チクショウ…」

 

 涙を流しながら呪詛のように呟き、呻き声を上げ続ける。弾も決して人気がないわけではない。男子からの支持は秋久よりも高く、顔が整っているおかげもあり新入生からの人気は比較的高い。また、一部の先輩や年上からは『やんちゃな所が可愛い』との評価もある。ただ、一向に恋人が出来ないのは弾自身にそういった雰囲気を出せないからである。可愛いと評価されたり、顔がいいだけでは恋人など出来ない。

 

「もー。弾ってばホントうるさいよね~。わたしのおべんと分けたげるから、静かにしなよ」

 

 弁当の包みを持ち、一夏、梓、志帆の三人が秋久と弾の机に寄ってきた。いつもの五人で食べるつもりのようだ。時折別々で食事を摂ることがあるが、基本的には一緒に食べている。一夏の言葉に弾が立ち上がり『天使!女神!』と大げさに騒ぎ立てる。梓が若干引き、志帆がうんざりした視線を向ける。これもいつもの光景である。

 

 それぞれに机を寄せ、弁当を広げる。一夏と秋久は同じ弁当だが、秋久の方が大きい。一夏と梓の弁当は可愛らしい大きさの二段弁当である。志帆の弁当は秋久より一回り小さいぐらいだった。弾はコンビニオニギリが四つ。塩昆布、辛子マヨシーチキン、ラー油明太子、ワサビネギマグロの四つ。

 

「じゃ、弾のと交換ね♪」

「え?あ?お?」

 

 いい笑顔で弾の塩昆布を奪い、二段目の白米を渡す一夏。さっさと実行されたアクションに、戸惑いを隠せない弾。

 

「…美智華ちゃんコレって…」

「お米の等価交換!…なんちゃって。ちゃんと玉子焼きあげるよー」

「で、ですよねー…良かった」

「お米も返してね?はい、玉子焼きとソーセージ」

「わ、私のもあげるね?」

「アタシのはやんないからね」

 

 

 

 和やかに昼休みは進む。弾が割り箸を取りに食堂まで全力疾走する、というアクシデント?はあったが、弾が弄られるのはいつものことだった。

 自然と会話の流れは中間テストの結果になった。この五人のなかでは、秋久が英語・理数系でトップ、梓が英語の次点・文系のトップ。一夏は全体的にそこそこの点数を取っており、志帆は理数系科目で一夏には劣り、弾が最下位。

 

「どーせまた妹と比較されんだぜ?」

「お前がもうちょい頑張りゃいいだけの話だろ?」

「弾もそこまで頭悪くないと思うんだけどなー…」

「そういえば、なんで御手洗クンと斧崎クンと弾クンで三馬鹿なの?」

「あー…アレじゃない?一年の時はそこに織斑がいてつるんでたから、ひとまとめにされてたんじゃない?斧崎も付き合う相手選んだ方がいいよ」

「いや、オレは悪くないね。秋久もなかなかのバカだぜ?」

「いや、お前に言われたかねぇわ」

「…斧崎クンってそんなエピソードあるの?」

「よくぞ聞いてくれました梓ちゃん!そう!あれは一年前の暑い夏の日だったッ!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 話は約一年前に遡る。その前に、市立東中学の立地を説明する必要があるだろう。一夏たちが通っている東中学は市内の東部に位置し、更にその東側には山があった。学校から徒歩で二十分ほどで麓にたどり着く距離であり、運動部たちのランニングコースにもなっている。整備された道や広場は近隣住民の憩いの場となっている。それ以外は基本的には私有地であり、深い森になっていた。小学生男子にとってはちょっとした冒険エリアになっており、所有者も目くじらを立てたりはしなかった。

 さて、そんな好奇心旺盛な小学生たちが中学生になった。中学生ともなれば、体力が付き、肝もある程度は座る。知識も付く。季節は夏。夏休み真っ只中である。一夏、秋久、弾、数馬の四人で遊んでいた。部活動をしていない四人には、時間が掃いて捨てるほどあった。最初は広場付近の森の中でうろうろしていただけだったが、それも飽きてきた。四人は入ったことのない森の奥まで進んで行き、あばら屋を見つけた。かろうじてトタンの屋根と柱が残っている程度、六畳に満たない小屋である。四人のうちの誰かが言い出した。

 

『ここ、俺たちの秘密基地にしようぜ』

 

 秘密基地。男子心を擽るパワーワードである。大人になるにつれ、書斎や隠れ家的自室、などと言葉は変わるが、内容は大して変わらない。数馬と弾はノリノリで、一夏と秋久はしょーがねーなーといいつつもウキウキで秘密基地を作り始めた。まずは掃除と改築である。最初は拾ってきたダンボールで壁を補修したりしていたが、数馬が別の場所で廃棄物の置き場を発見した。そこにはコンクリートブロックなどの産業廃棄物、廃車になった自動車やバイク、不法投棄された自転車などが多数転がっていた。単なるゴミの山だが、彼らには宝の山に見えたらしい。次々と秘密基地に持ち帰った。だが、四人で運搬するにも限界が来た。翌日、各々の家から工具を持ち寄り、作業が開始された。まずは運搬用のリアカー作りである。そこで秋久の凝り性が発露した。なんとかリアカーを完成させたが、次々と改良を加えてしまったのだ。結果、出来上がったのが二人漕ぎ自転車+リアカーである。しかもキチンと曲がれるよう、トレーラーのように自転車とリアカーの継ぎ目が動くようになっている。

 リアカーが完成し、一気に作業スピードが向上した。ボロボロの小屋はコンクリートブロックの壁で囲まれ、通風、採光用の窓までついた。柱も補強され、屋根も拾ってきた鉄板などで補強された。

 これだけで飽き足らず、彼らは電気を欲した。バイクのエンジンを再利用し、廃車のバッテリーを拝借し、DCACインバーターを自作して100Vの電源を手に入れた。色々と苦心したようではあるが、なんとかケータイを充電したり、モニターディスプレイを利用しケータイの動画を大きな画面で楽しんだりと、彼らなりに有意義?に過ごしていた。

 

 秘密基地は夏休みが終わっても利用され続けた。彼ら四人の結束は固く、決して秘密基地の存在を口外にしなかった。元々よく一緒にいた四人組である。稀に鈴音が混ざっていたこともあったが、彼女は基本的に秘密基地に近寄らなかった。四人が『男の約束だ!』と団結していた中に首を突っ込むとロクなことにならない、ということを感じていたからかもしれない。

 

 そのあとも秘密基地の設備は充実していった。拾ってきた家電を修理したり、機能を流用していった。冷蔵庫にモニターに扇風機…ドンドンと生活環境が充実していく。肌寒くなればヒーターを使おうとしたが、要求電流値オーバーを起こし、インバーターが吹っ飛んだこともあった。さらに技術を高め、トライアンドエラーを繰り返し、何とか使えるようになったときは全員で大喜びした。

 家に帰れば、この基地にあるものは全て揃っている。壊れないかと不安になりながら使用する必要もない。しかし、彼らにとっては基地の居心地がよかった。ほぼ全てを自分たちの手で成し遂げた。灯りですら自分たちで調達した。保護者のいない環境で夜通し騒いだり、基地に泊まり込んで遊んだ。そんな自由にバカができる環境。彼らが手放すはずがなかった。

 

 そんな秘密基地もいつかは終わりを告げる。

 

 十月の連休。いつもと同じように秘密基地に四人が集まっていた。この週末の三連休はずっと基地で過ごす約束だった。一夏と秋久は共に千冬に連絡し、心配させないようにしていた。弾は一夏と秋久にアリバイ作りを手伝ってもらい、家族に心配させないよう、向こうから連絡が来ないように注意を払っていた。

 問題は数馬だった。たまに丸一日連絡がつかないことはあった。だが、二日連続となると流石に彼の両親が心配していた。どこかで事故にあったのではないか?事件に巻き込まれたのではないか?ケータイもつながらない、心配してGPS探索システムを起動させたが、見つからない。

 三連休の最終日の昼、ついに彼の両親は司法機関に彼の捜索を依頼した。警察の進言もあり、五反田家で弾のGPS情報をチェックした。結果、中学の裏山にいることが分かった。ここで弾の両親が訝しんだ。ウチの息子は一夏と秋久の家で、勉強会をしているはずだ、と。一夏と秋久の位置情報も取得した方がいいのではないか、との意見もあったが、流石に親権者の同意を得ずに位置情報を観測することは憚られた。さらに、あの織斑千冬の身内である。だが、念のため千冬も呼び出され、大所帯で裏山へ向かった。

 

 午後四時過ぎ。千冬、弾の両親と祖父、数馬の両親、山の所有者、警官一行が裏山の秘密基地付近に辿り着いた。弾のGPS情報があるであろう場所。そこはコンクリートブロック小屋で、何故かむき出しの自動車とバイクのエンジンが稼働しているという、訪問者全員の理解の及ばない場所だった。一体ここで何が行われているのか。エンジンが二基も稼働している。思春期の男子が衝動的に自ら命を絶つ、という例がないわけでもない。同行した警官たちに緊張が走った。その緊張を読み取り、同行の保護者達に不安の色が浮かぶ。三名の警官の内、二名が拳銃を片手にドアをノックする。

 

「は~い」

 

 間延びした一夏の声が返ってきた。返事があったことで、千冬と他の警官の緊張が解けた。最悪の事態は起こっていなかったらしい。一夏もまさか小屋の外がそんな状態になっているとは夢にも思わなかった。何の警戒心もなく、ドアを開けた。ドアを開けた一夏の目に飛び込んできたのは、各家庭の保護者たちと銃を持った警官だった。とりあえず、両手を上にあげ、他の三人にも声をかけた。

 

 

 

 実行犯四人はそれぞれ千冬の拳骨を、各保護者から地面の上に正座して説教を食らった。厳密に言えば、不法占拠に不法侵入、さらには拾得物横領という違法行為ではある。だが、所有者が寛大だったこと、秘密基地を作り上げた技術と男子心に理解のある巡査部長がいたこと、各保護者の説教と拳骨で十分に反省している様子が見えたことで、厳重注意処分となった。

 

 学校へも通報され、裏山へは遊歩道と広場以外が立入禁止である旨を再度、生徒たちに徹底させるための全校集会が開かれたのだった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「つーことで、晴れて秋久も四馬鹿…ま、今は三馬鹿か。俺らの仲間入りってわけよ」

「じゃあ…あの全校集会って…」

「そ、弾と俺と数馬が犯人。まぁ、名前は出なかったから知らない人多いと思うけどさ」

「へぇー。アキも男の子っぽいとこあるんだね」

 

 いや、アナタもいましたよ?とは口が裂けてもツッコめない二人である。

 

「ふぅーん…なんか、弾と御手洗が織斑と斧崎を振り回してるイメージだったけど…なんか斧崎の見方かわっちゃうかも…」

「いい、いや、俺も男だからね?」

「ね、アキ、弾。楽しかった?」

「楽しかったなぁ…何?美智華ちゃんも興味ある?」

「まぁなぁ…あんだけ好き放題できる機会って、そうそうないしなぁ…」

「またやりたい?」

「おう!やれるならな!」

「許されるなら、またやりたいよな。次はもっとちゃんとしたいし」

 

「……千冬さんに反省してないって、伝えとくね」

 

 とってもいい笑顔で、一夏は二人に告げた。




バカやるって楽しいよね。
ということで、比較的優等生ポジだけど技術バカのあっきーでした。


ご愛読ありがとうございます。
誤字脱字のご報告、クレーム、ご感想、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep15.

一夏ちゃんが下着泥に遭うお話です。
大丈夫、ちゃんと罰が下されるからね!
ただ、一夏ちゃんがそういう目に遭うのを見たくない人は注意!

8,000字あるよ!Ep15.5とIntermedioもあるからね!長いよ!


「あっぢぃ~…」

「…言うなよ…余計暑くなる…」

 

 梅雨が明けた。陰鬱な空気は一転し、突き刺さるような日差しになった。晴れるのは良いことだが、暑すぎるのも良くない。人とは得てしてワガママな生き物である。三十度を超える真夏日が続き、今日も今日とて日差しは体育館の屋根を焼き続けた。体育館内の体感気温は三十五度をゆうに超え、少し動くだけで汗が吹き出る。そんな環境でバスケットボールの授業。流石に授業中でも適宜休憩を取るように指導されている。もちろん、サボると怒られる。

 

「…あ゛~…女子はプールかよ…」

「しゃあーねーよ。九月だったら寒い日もあるし」

 

 生徒達は体育館二階の観覧エリアで休憩していた。一階の競技エリアでは尻餅をつくことを許されず、休憩にならない。さらに砂埃の侵入を防ぐために窓もドアも締め切られており、風が全くない。しかし、二階の窓は開放されており、一階と比較すると風がある分まだ涼しい。休憩場所に二階を選ぶのは当然であった。そして、二階の窓からは隣にあるプールが見える。プールでは女子が水泳の授業を受けていた。弾だけではなく、何人か他の生徒も体育館の二階からプールを眺めていた。

 

「いーよなー…マジでいいわ。梓ちゃん…」

「……オイ」

「秋久も見とけって。現役JCのスク水姿なんてそうそう拝めねぇんだから」

「なんだよ、弾。お前木嶋さん派かよ」

「俺は折浦さん推しだね。あの顔と身体は反則だよなぁ…性格も可愛いし」

「わかるわ…マジ天使だよな…」

「いや、いいんちょのスレンダーなのもなかなか」

「スレンダーなら田端さんだろ。高身長スレンダーモデル体型!サイコーじゃねぇか」

 

 他の男子も集まり、プールで授業を受ける女子の品評会が始まった。人は人を惹きつける。品評会が進むにつれ、いつの間にか二階で休憩していた生徒のほぼ全員が弾たちの周りに集まっていた。

 ああだこうだと盛り上がる男子。年頃のオトコノコとは、得てしてこんなものなのだろう。ただ、秋久はその輪の中に入ることが出来なかった。話し合う声はより大きくなり、人も集まってくる。

 女性に興味がない、というわけではない、と思っている。女子を可愛らしいと思う気持ちはある。ただ、今周りに集っている彼らのように、積極的に胸などの性的なパーツを見たいとは思わない。かといって、男の性的なパーツに性的興奮を抱くわけでもない。ならば、ゲイセクシャルでもない。

 以前、弾と数馬が置いていったお宝を見ようとしたが、パッケージだけで気持ち悪くなって吐いてしまったことがあった。自分は異常者なんじゃないか。他の人たちとは性欲の向かう方向が違うんじゃないか。ひょっとしたら、アーサー・ショウクロスのような異常性癖を持つようになってしまうのではないか…今もそうだ。羊の群れから羊の皮を被った狼が追い出されるように、彼らの輪の中に入っていけない。猥談や下ネタが恥ずかしいわけでもないし、理解できないほど幼いわけではない。自らのキャラクター的に入っていけないわけでもない。本質的にソレを求めていないが故に、入りづらいのだ。

 すぐ近くでワイワイと楽しそうな級友たちの声が、急に遠くなる。ネガティブな妄想が深くなっていき、彼らの声が消えた。暗い思考のドツボに嵌まる。周りの声が一切聞こえなくなったことに気付き、思考を強制的に中断させ、周りを見回した。

 いつの間にか、周りにいたはずの級友たちがいなくなっていた。弾の後ろには下でバスケの試合を監督していた体育教師が立っている。ポロシャツにジャージという出で立ち。服を押し上げる筋肉。ザ・体育教師という風貌である。なお、彼らの声が遠くなっていたのではなく、物理的にいなくなっていた。

 

「オイ、弾」

「んだよ…ここはベスポジだから替わってやんねーぞ」

「ほおー…ちなみに、五反田の一押しはどの子だ?」

「やっぱ梓ちゃんッスね。あの守ってあげたくなるっつーか、庇護欲をそそられるっつーか」

「なるほどなるほど…なかなか前時代的な考え方だが、先生もいいとは思うぞ」

「やっぱ女はそうじゃないとって感じッスよね」

「で、話は変わるが五反田。先生は休憩していいとは言ったが、覗きをしていいと言ったつもりはないんだがな?」

「……ベスポジと推しの娘教えたから、見逃してくれたりとか…」

「この辺で休憩してたヤツらも元気そうじゃないか。授業が終わるまでの十分間、外でも走ってきたらどうだ?ん?」

 

 

 

「クソ…エロ熊め…」

「なんで俺まで…」

 

 秋久も含め、連帯責任を取らされてグランドを走る一組の面々。しかも、サボることを警戒されたのか、件の体育教師も見張りとして一緒にいる。なお、エロ熊とは彼に付けられているあだ名である。曰く『水泳部の指導の時に女子だけスキンシップが多く、執拗』『すれ違うと太ももを舐めるように見られる』『担当外なのによく女子の水泳の授業に顔を出して女子の水着姿を注視している』などなどの不名誉な噂が彼に付きまとっている。

 そのせいで多くの生徒からエロ熊とあだ名されているのだった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 授業が終わる五分前。水泳の授業を受けていた生徒たちが更衣室に戻ってきた。女子の着替えというものは、単なる着替えではない。意識の高い女子は化粧を直したりしているし、髪の長い女子は髪を乾かすのに時間がかかる。男子のように適当に髪を乾かして着替えて終わり、とはいかなかった。

 一夏も水泳帽を取り、丁寧に髪の水気をタオルで拭き取る。そこそこの長さがある一夏はショートヘアの志帆に比べると時間がかかってしまう。複数枚のタオルを使い、ある程度乾いたところで、巻タオルを使い、てるてる坊主になった。もちろん、水着を脱ぐためである。

 千冬たちから、同性とはいえ下着を見せびらかすのはマナー違反だ、と言われている。脱いだ制服と下着を入れたバッグを足元に置く。何故かセーラー服が袖たたみになっていたが気にせずに、手探りで下着を探した。

 

 …アレ?ない…?

 

 続いて足元からバッグを取り出して漁る。出てくるとは靴下にスカートにTシャツ。目当ての下着類が見つからない。もちろん、朝から水着を着て登校したから忘れました、というオチではない。現に着替える時にはキチンと下着を脱ぎ、千冬の指導通りにスカートの中に折り込んだ。周囲から見えないようにするためである。ひょっとしたら、誰かが躓いて中身をぶちまけてしまい、慌ててバッグに詰めたのかもしれない。丁寧にバッグの中を探すが、見つからない。

 

 まさか…盗まれた?嫌なことを想像してしまう。誰が?なんのために?一夏は男であった時にそういう趣味の男がいるということを聞いたことがあった。一夏の自意識は男である。男が男の下着を盗んだ?

 違う。今の一夏は、自意識はともかく、見た目は女だ。さらに、誰にでも分け隔てなく明るく接する美少女である。下着も女性用の下着だ。自分の下着を弄ぶ、顔の見えない男を想像してしまった。気持ち悪い。吐き気がする。

 

「美智華ー。何してんの?遅れるよ?」

 

 一向に着替える気配のない一夏を心配し、志帆が声をかける。一夏は顔を青くしながら、志帆に小声で告げた。

 

「…ブラとパンツ…ないの…」

「え?」

「ちゃんと着てたし、隠してたのに…なくなってる…」

「…マジで?でも、着替えないと時間ないし……あ!アズ!ちょっと!」

「なぁに?志帆ちゃん」

「アンタ絆創膏持ってたよね?ちょっと貸してくんない?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一夏は何とか着替えを済ませた。梓に絆創膏を借り、バストトップに張り付けた。志帆にキャミソールを借り、Tシャツの下に着たあと、セーラー服に着替えた。下は志帆から借りたハーフパンツとスカートである。ノーパンノーブラそのままでいるよりかはマシ、と判断した結果だった。それでなんとか教室まで戻った。なるべく上半身を動かさないようにしながら、小股で歩く。四ヶ月前まで着けたことのなかった下着類だが、今では着けていないと落ち着かない。すれ違う生徒たちの視線が怖い。服の中まで見透かされているような気がする。特に男子の視線が怖い、気持ち悪い。いつも前を向き胸を張って明るい表情をしている一夏だが、今は背中を丸めて俯いている。梓と志帆に付き添われながら、何とか教室までの道のりを歩いた。

 

 

 

 始業時間ギリギリに一夏たち三人が教室に入ってきた。次の授業は社会科で、担当教諭は始業五分前には必ず教室にいるような教師であった。

 

「せんせー、ちょっと折浦さんの調子良くないんで保健室行ってきます。アタシらは付き添いで。じゃ」

 

 それだけ短く言い放つと、志帆と梓は一夏の帰り支度の手伝いを始めた。確かに顔色は真っ青で、動きにも覇気がない。普段の一夏を知っている一組の生徒たちからすると、本当に体調が悪く見えた。当然、秋久も心配する。プールで身体を冷やしすぎてしまったのだろうか。

 

「大丈夫か?」

「…うん。なんとか」

 

 一夏がぎこちなく笑って答えた。確かに調子は悪そうだ。だが、いつもなら何か理由を話すはずだ。腹が痛い、熱っぽいなど。普段の一夏であれば何かしら言ってくれそうではある。だが、今回は理由がない。

 

「俺も」

「いいよ。斧崎は授業受けときな」

 

 志帆に止められてしまい、それ以上詮索できなくなった。荷物をまとめ終った三人は何も言わず教室を後にした。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一夏を保健室に送り届けたらしい二人が戻ってきた。その後、普段通りに授業を受け、昼休みとなった。

 

「なぁ、志帆ちゃん。何があったんだ?」

「言わない。アタシら、行くトコあるから。行くよ。アズ」

 

 梓と共に教室を後にする志帆。取り付く島もない。志帆も秋久と弾が一夏の心配をしていることはよくわかっている。事実を伝えても、一夏を好奇の視線で見ることはないだろう。ただ、彼らがどんな行動に出るかわからない。徒に情報を広めるのは良くないだろう。職員室へ向かい、報告をする。恐らく一夏は早退するだろう。それなら、また三人で早退すればいい。

 

「ねぇ、志帆ちゃん…斧崎クンと五反田クンには本当のこと言ってもいいんじゃ…」

「………わかった。あとでメッセ入れとくわ」

 

 

 

『アンタらにはホントのこと伝えとくね』

『美智華の下着が盗まれたんだよ。更衣室中探しても見つからなかった』

『あと、アズにも美智華にも言ってないけど、カメラっぽいのがあった。盗撮されてるわ。アタシら』

『マジかよ』

『今から先生に言って警察呼んでもらうから 誰かに話したら、明日から学校来れなくしてやるからね そのつもりで』

 

「なぁ…秋久…」

「…許せねぇな…犯人逮捕のためにも全力で協」

「いや、俺らで捕まえる」

「…はぁ?」

「極悪非道のド変態を…俺らの手でとっちめる…」

 

 弾は静かに怒っていた。女子の下着を、それもこれから着る予定の下着を盗むなど紳士、いや、男、いや、人の風上にも置けない悪辣な行為である。弾の中では一夏は女だが、男の頃と変わらない友情が続いていると考えている。

 親友が困っている。自業自得などではなく、卑劣な犯罪者のせいで困らされている。それを見過ごすほど、弾は冷たい性格ではなかった。秋久ももちろん怒っていた。ただ、珍しく静かな怒りに燃えている親友を見て、少し冷静になれた。犯人逮捕に全力で協力し、一夏の目の前で頭を下げさせ、然るべき罰を与える。それが最善だと秋久は考えた。感情的には弾のように自らの手で犯人を捕縛し、一夏の気の済むようにさせるのが一番だと感じた。だが、理性はそれは誤りであると訴えている。

 

「秋久。放課後時間あるか。あるよな」

「まぁ、あるけど…」

「よっしゃ。付き合え」

 

 志帆の予想通り、一夏の親友二人はロクでもないことをしでかそうとしているようである。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 昼休みが終わる間際に志帆と梓が教室に戻り、そのまま自分たちの鞄を持って教室を出て行った。その所作があまりに音もなく当然のように見えたため、教室にいる級友たちは誰も気にすることなく彼女らたちは教室を離れ、保健室へ向かった。

 一夏は『体調不良』のため、早退した。志帆が持ってきた学校指定のジャージに着替、こっそりと校門を出た。一夏の両脇には志帆と梓が護衛のように立ち、妙な緊張感が漂っている。

 千冬でも束でもタクシーを使用することを許可しただろうが、一夏の選択肢には入っていなかった。

 

 三人は無言で通学路を歩き、織斑邸に辿り着いた。

 

「着替えてくるね。お茶でも出すから、ちょっと待ってて…」

 

 やはり覇気のない声で自室に引っ込む一夏。普段を知っているだけに、その後ろ姿が痛々しく、どう声をかければいいのかわからない二人。幸いにして、二人とも下着の盗難に遭ったことはない。だからこそ、下着を盗まれるという一夏の不安、不快感がどれほどのものなのか、なんとなくは察することができるが、それ以上はわからない。

 志帆は男とはどういうものなのか、兄弟がいるお蔭である程度は理解している。だが、流石に下着を盗む、という心境は理解できない。トチ狂った男であれば実行してしまうのだろう。

 梓もある程度は小説やマンガのお蔭で理解しているつもりになっていた。ただ、自らの欲望のために犯罪を犯す人物の心境は全く理解できず、その被害者の心の傷も、表面的にしか理解できなかった。

 モデルルームやドラマのセットの様な、キッチリと整頓されたリビングで少女が二人、押し黙ったまま向かい合っている。重い空気が漂っていた。

 

「大丈夫か!?」

 

 リビングに繋がるドアが大きな音を立てて開いた。確かに誰かが玄関のドアを開けた音は聞こえた気がする。だが、一秒とかからずにリビングのドアが開くとは思っていなかった。そして、そのドアを豪快に明けた人物にも驚いた。『あの』織斑千冬である。世界最強、ブリュンヒルデ、最強の代名詞…色々とあだ名はついているが、国内でも屈指の有名人がそこにいた。

 

「あぁ、すまない。君たちは美智華の友人か?いつも美智華が世話になっているな」

「い、いえ…そんなことないっす」

「今日は送ってくれたのか…ありがとう。本来なら私のしご」

「なに!?何の音!?」

 

 着替え終わった一夏が慌てて自室から飛び出してきた。薄手の長袖パーカーにスキニーのデニムパンツ。この時期にはやや暑い服装に着替えていた。

 

「美智華!大丈夫か!?何もされてないか!?」

「だ、だいじょうぶ!大丈夫だから千冬さん!」

「千冬さんなんて他人行儀なことを言うな!いつもみたいに千冬お姉ちゃん♡って呼んでいいんだぞ!?」

「なんで?!そんな風に一回も呼んだことないよ!?」

 

 階段を三段飛ばしで駆け上がり、一夏を掴んで揺さぶる。突如現れて場の空気をぶち壊した千冬に、言葉が出ない志帆と梓。最強、クールビューティーのイメージを持っていた織斑千冬(ブリュンヒルデ)のイメージが徐々に崩れていく。一夏が織斑家で世話になっている、ということは聞いていた。しかし、千冬がここまで一夏のことを溺愛しているとは知らなかった。

 一夏の身に何も起こっていないことを検査し、一頻り抱き締めた後、千冬は彼女を伴ってリビングに戻ってきた。織斑家の二階は吹き抜けになっており、志帆と梓からはその様子が丸見えであった。もはやあそこにいるのはモニターを通して見知っていた織斑千冬(ブリュンヒルデ)ではなく、シスコン?のお姉さんだ。

 

「すまないな…大事な親戚が酷い目に遭ったと聞いて、取り乱してしまってな…いや、恥ずかしいところをお見せした」

 

 何がどう伝わってしまったのかは知らないが、千冬の中では一夏が暴行を受けたらしいことになっているようだ。担任にも、警察にも下着を盗まれた、ということしか言っていないはずなのに。

 

「千冬さん…大げさ過ぎ」

「あ、あははは…」

「い、いえいえ……」

「ほらー…二人とも引いちゃってるじゃん…」

「ふむ…詫びと言ってはなんだが、お茶とお茶菓子でも出そう」

「やめて。キッチン入らないで。わたしがやるから」

 

 そうか…としょげながらダイニングテーブルに着く千冬。いきなり目の前に現れて、好き放題に暴れまわった超有名人が自分たちと同じテーブルに着く。テレビ越しにしか見たことがない存在に遭遇するとは思っていなかった二人である。志帆はガチガチに緊張し、梓は苦笑いを浮かべている。リビングにコーヒーとミルクティーの香りが漂うが、それを意識できる余裕はない。

 

「まぁ…本来であれば私がお茶を淹れるべきなんだろうが…家事全般が不得手なんだ」

「いろいろやらかしてるしね。お待たせ。志帆とアズはミルクティーでよかった?」

「う、うん」

「あ、ありがと…」

「……そこまで緊張されても困るな…別に取って食うつもりはないんだが…」

 

 苦笑いを浮かべながら、ブラックコーヒーを啜る千冬。容姿の美しさもあり、ただコーヒーを飲んでいるだけなのだが、十二分に恰好がついている。このシーンだけを切り取ってコンペで発表すれば、飲料メーカーからCMの依頼が殺到しそうなほどだ。先ほどまで一夏を相手に狼狽えていた女性と同一人物だとは思えなかった。

 

「さて…君たちに聞きたいんだが…」

 

 志帆と梓の喉が鳴った。切れ長の瞳が彼女たちを捉える。千冬に視線を向けられるだけで緊張してしまう。もしも殺意をもって睨み付けられてしまったら、失禁してしまうかもしれない。

 

「美智華の普段の様子はどうだ?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 放課後、秋久と弾は盗難事件現場付近へ向かった。犯人は現場に戻る!らしい。女子更衣室には、スーツを着込んだ、警察関係者と思わしき女性が頻繁に出入りしている。このような状況で犯人が現場に戻るとは到底思えないが、弾は諦めるつもりがないようだった。

 更衣室が見える植え込みに身を隠す、秋久と弾。腰を落ち着けてから、弾がスクールバッグから荷物を取り出した。

 

「…なにそれ…」

「バッカお前、アンパンと牛乳は張り込みの基本だろうが」

 

 弾は昼休みの途中から行方をくらませていたが、アンパンと牛乳を買いに行っていたらしい。理解できない弾のこだわりに、秋久は静かに溜め息を吐いた。

 

 

 

 

『最終下校時間となりました。まだ、校内に残っている生徒の皆さんは、早く帰宅しましょう』

 

 寂しさのあるメロディーと共に放送が流れる。少し前から警察関係者は撤収しており、辺りに人気はない。この放送が流れるのは、18時30分の少し前、もう間もなく最終下校時間となる。

 さすがに一日目は収穫無しか。秋久は残念なような、安心したような複雑な気分を感じていた。その時、秋久のケータイが震えた。秋久の向かいの植え込みに身を隠している弾から、メッセージを受信したようであった。

 

『やべ』

『腹痛い』

 

 その後、大便のスタンプが送りつけられてきた。どうやら、昼休み中に購入したアンパンか牛乳が悪くなり、腹を下したらしい。植え込みから弾が飛び出し、大急ぎで校舎へ向かって走っていった。なんとも役に立たない相棒である。呆れてしまい、再度溜め息が漏れた。

 

 

 幸か不幸か、その後も秋久は誰にも見つからなかった。間もなく19時になる。そろそろ弾を回収して帰るか…と決め、腰上げかけた。が、動けなかった。エロ熊が女子更衣室へ入って行ったからである。ケータイをカメラモードにし、女子更衣室にフォーカスをあわせ、動画で撮影を始めた。二分もしないうちに、彼が更衣室から出てきた。カメラにも秋久の脳裏にも写っている。言い逃れはさせない。秋久は植え込みから姿を表し、彼を呼び止めた。

 

「先生」

「っ!!……あぁ、斧崎か。優等生のキミがこんな時間まで何をしているんだ?」

「気になることがあったんで…それより、先生は何をしてるんですか?」

「何って、忘れ物を取りに来ただけだ」

「女子更衣室に?」

「あ、あぁ…先生は水泳部の顧問だからな」

「何を忘れたんですか?」

「なんでもいいだろうが…もうとっくに」

「カメラ…」

「あん?」

「コンパクトカメラか何かですか?」

「…そんな訳ないだろう…だいたい、女子更衣室にカメラなんて」

「なら、そのカバンの中、見せて下さいよ」

「…寄るなあァァッ!!」

 

 鞄の中身を改めようと、秋久が一歩踏み出した。何かが弾けたような音と、体育教師の怒声が響いた。

 

「ち、ちち近づくんじゃねえ!ぶっ殺すぞ!」

 

 彼の右手には、白銀に輝くバタフライナイフが握られていた。




長くなったのでEp15.5に続きます。
次回更新は30分後です。

ご愛読いただき、ありがとうございました。
誤字脱字のご報告、クレーム、ご感想、お待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep.15.5

前回のあらすじ

・一夏ちゃん、プールの授業中に下着を盗まれる
・気持ち悪くなったので、一夏ちゃん早退。クラスメートといっしょ!
・ちっふーも早退してきたよ
・あっきーと弾で放課後に女子更衣室を張り込み
・体育教師が女子更衣室から出てくる。理由を問いただすとナイフを持ち出した!

 あっきーの運命やいかに!

戦闘?シーンを初めて書きました。ちゃんと書けてるだろうか…


 荒い鼻息が響く。彼は右手にナイフを持ち、刃を水平にして腰の位置で構えた。左手を開いたまま秋久に向かって突き出している。対する秋久はYシャツを脱ぎ、左手に巻きつけてグローブ代わりにした。自身のベルトを抜き取り、バックル部分を鞭の先端に見立てて右手に構える。四年前まで古武術を修めていた身ではあるが、少し鼓動が早くなっている。心音を抑える意味も込め、丹田でゆっくりと呼吸を繰り返す。

 

「ゥオラアアアッ!」

 

 気迫と共に大振りな動作で秋久に向かって踏み込み、ナイフを突き出してきた。秋久も踏み込みを予測し、ほぼ同じタイミングで後ろに下がり、ベルトを思い切り振り上げた。バックルが彼の右手に命中した。運良くバックルが小指に引っかかり、鈍い音立てた。骨にヒビが入ったか、脱臼したようだ。

 

「っつうぅ…斧崎ィ!それが教師に対してやることかァ!」

「アンタなんか教師じゃねえ!この犯罪者が!」

 

 元体育教師がナイフを左逆手に持ち替えた。先程のダメージで右手が上手く使えなくなったようだ。息が更に荒くなった。右薬指と小指が握られておらず、小刻みに震えている。

 先程よりも距離が近い。彼は左手を振り上げ、秋久にナイフを振り下ろそうとした。だが、振り上げた左手側に秋久が身体を滑り込ませ、左手首を押さえる。そのまま左肘の関節を極めた。ナイフが地面に音を立てて落ちた。

 本来ならそのまま後ろ向きに引き倒す技ではあるが、体重差のせいかそれには至らない。秋久は落とされたナイフを遠くに蹴り出した。蹴り出したと同時に、秋久の身体が背後からの衝撃に襲われた。流石は『熊』とあだ名されるだけの体躯は持っているようで、体を回転させて秋久を蹴りつけたらしい。

 二回転ほど余分に回転しながら受け身を取って振り返ると、彼が咆哮を上げながら突進してきた。またもや左拳を振り上げる。

 振り下ろされた拳を自身の左手で払い、背後に回った。その勢いを利用し、左腕を彼の首筋に巻き付ける。裸締め…チョークスリーパーの形となった。

 

 エロ熊が巻き付けられた左腕を外そうと、秋久の腕を掻き毟る。Yシャツが巻かれていない左上腕部に爪が食い込み、皮膚が引き裂かれた。血が滲む。それでもなお、彼は止まらずに腕を掻き毟る。鮮血が流れ出た。痛みに顔を歪ませるが、秋久が腕を離すことはなかった。

 数十秒後、エロ熊の力が抜けた。興奮状態の上に暴れていたせいか、秋久が想像していたよりも早く墜ちた。彼が前のめりに倒れたため、秋久も一緒に倒れ込んだ。首から腕を抜く。左肘のやや上から出血しており、Yシャツが赤く染まっていた。

 念の為、呼吸と脈を確認してから、途中で投げ捨てたベルトを使い、エロ熊の両手を後ろ手に拘束した。痛む左腕も使いながら、何とか後ろ手に拘束する事が出来た。

 

「わっりぃ~!遅くなっちまった…ってなんじゃこりゃあ!?」

「おっせぇぞ!アホ!!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 通報を受けた警官が数名、パトカーで校門の前に駆け付けた。校門が開いてないことを煩わしく思ったのか、彼らは校門をよじ登り、匿名通報のあったプール横の更衣室前まで全力で駆け寄る。そこには左上腕部から流血した少年が、倒れている体格のいい男の上に座り込み、その横には赤い長髪の少年が立っていた。男の傍らにはバタフライナイフが転がっており、少年を傷付けた凶器と判断した警官はナイフを丁寧に回収した。倒れている男は意識を失っているだけのようで、命に別状はないようであった。

 少年たちに事情を聴くと、本日、東中で発生した下着盗難事件の犯人らしい。彼らの言う通り、落ちていたバッグにはコンパクトカメラと女性用の下着が入っていた。警官らは確認していないが、女生徒たちの更衣姿が盗撮されているらしい。被疑者の意識は回復していないが、ひとまず傷害の現行犯で男を逮捕し、少年たちに事情を聴くべく最寄りの病院まで同行を依頼した。

 

 

 

 秋久は病院で手当てを受けた後、警察署まで同行した。大きな引っ掻き傷を付けられた左上腕部は防水タイプの大型絆創膏と被覆材で手当てされていた。秋久が思っていたよりも傷が深かったらしい。取調室で刑事のポケットマネーから夕食を奢ってもらい、事情を話した。その後、アパートまで覆面パトカーで送ってもらった。弾も同じように別の取調室で事情を聴かれ、夕食を御馳走になったらしい。

 

 アパートに近づく。流石にエントランスまで送ってもらうのは気恥ずかしかったので、秋久は適当な近さで車から降りた。

 

 部屋に灯りが点いている。一夏だろうか。今日、彼は友人たちと一緒に早退したはずだ。先日のように不安になって秋久に布団に潜り込んでいるのかもしれない。そうであれば悪いことをしてしまったな、と軽く反省した。

 ドアを開ける。そこには黒と白のパンプスが一足ずつとスニーカーが一足。一夏の他に二名ほど人が来ているらしい。見覚えのあるパンプス。千冬と束が来ているようだった。

 リビングに繋がるドアを開けた。テーブルには千冬と一夏が座っていた。リビングの空気が思い。二人とも目を閉じて感情を抑え込もうとしているようだった。束はテーブルから少し離れ、キッチンにつながる壁に寄りかかっていた。

 

「おかえり」

「た、ただいま…」

「さて、色々と話を聞いているが…三つお前に言いたいことがある」

「三つ?」

「あぁ。一つは、何故傷心の一夏を放っておいた?こんな時間まで、どこをほっつき歩いていた?」

「……えーっと…その…」

「まぁいい。どこで何をしていたかは知っているからな。それに、一夏も傷付いていることをそこまで外に出していないんだ。それを察しろ、というのも、お前には少し高度すぎるかもしれんな」

 

 椅子から立ち上がり、秋久を見た。その目には僅か長らく怒気が見える。リビングの入り口で立ち尽くす秋久に近寄る千冬。千冬の拳骨が秋久に落ちる。鈍い音が響いた。

 

「ッッ~!」

「二つ目…ナイフを持った相手に丸腰で立ち向かうな!この大馬鹿者が!!」

「えっ!ナイフ!?そんなの聞いてないよ!?」

「お前が弱くないことも、腕に覚えがあることも知っている!だがな、相手は刃物なんだぞ!?万が一にも目に入れば一生光を失い、頸の血管に刃先が入るだけで死に至る可能性もある!!そんなことも考えなかったのか!!大馬鹿者が!!」

「………」

 

 大声を上げる千冬。本気の怒りである。

 千冬の言葉はもっともである。今回は幸いにして軽傷で済んだ。だが、刃物を持った相手に丸腰で立ち向かうなど、正気の沙汰ではない。しかも、相手は殺意を持っていた。引っ掻き傷で済めば御の字である。

 千冬の言葉は理に適っている。しかし、人は理性だけで動いていない。理性だけで動くことができれば、殺人も盗難も起こらない。事件が起こらなければ、それを処理する手間もいらない。万々歳ではあるが、人は感情でも動く。今回の秋久は、感情の方で動いてしまった。

 

 秋久の対応は感情的に間違ってはいないが、正解ともいえない。ここでいう千冬の正解とは、証拠を掴んで然るべき機関に通報し、逃走する。それ以上は警察の仕事だ。学生の仕事ではない。もっとも、捜査も犯人逮捕も警察の仕事である。千冬に言わせれば、大前提から行動が間違っている、ということになる。

 秋久もそれを理解している。理解しているからこそ、千冬の言葉に反論しなかった。

 

 千冬の両手がゆっくりと秋久のコメカミの近くを通り過ぎ、手が後頭部と背中に当てられた。

 

「…秋久。もう二度とこんなことはしないでくれ…お前を喪うなんて、想像もしたくないんだ…」

 

 秋久の頭を抱き寄せる千冬。壊れ物を扱うような、優しさを感じる手付きに秋久は身を任せた。以前なら胸元に抱き寄せられていたが、もうそれも叶わない。この大きくなった弟分を喪いたくない、大事にしたい。そんな思いを込め、千冬は少し強めに秋久を抱きしめた。

 

「……ごめん、なさい……千冬さん、本当に…ごめんなさい」

「…アキが無事なら許す。でも、二度とやんないでね。刃物相手は逃げる一択だからね」

「ホンット…あっくんがナイフ相手に丸腰で~とか聞いたときは心臓止まったんだからね?」

「わかってくれればそれでいい…いいな?今後は絶対にやるなよ?」

 

 秋久が頷いたのを気配で感じた。愛を以て秋久を抱きしめている。彼は他人の心がわからない人間ではない。本気で反省している、と感じた千冬は抱き締めていた秋久を開放した。

 

「さて、三つ目だ。今回、体を張って一夏の仇を討ってくれたと聞いている。一夏の姉として非常に感謝している。ありがとう、秋久。まあ、欲を言えば無傷で成し遂げてもらいたいものだったんだが…無事でいるんだ。これ以上は何も言わん」

 

 秋久の頭に手を置き、慈しみを込めて撫でまわす千冬。先ほどまでの阿修羅の様な雰囲気は鳴りを潜め、菩薩のように穏やかに微笑んでいる。

 秋久もここまでダイレクトに礼を言われるのは久方ぶりだった。頭を撫でてもらったのは何時振りだろうか。束は壁際に立ったまま満足そうに頷いており、一夏は姉の説教が無事に終わったことを見届け、一息吐いている。

 

「うんうん。善き哉善き哉。で、あっくん、ご飯食べた?もう九時回ってるけど」

「はい。警察で食べて来ました。刑事さんの奢りで」

「ま、まさか…カツ丼!?」

「うん。取調室でカツ丼食べてきた。なんも悪いことしてないけど、悪いことした気分になるな。あの部屋」

「遅くまで学校に残るのは悪いことなんだがな」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「あれ?今日は束さんも帰るんですか?」

 

 秋久が自らの非を認め、リビングの空気が軽くなったあと、千冬が明日も仕事があることを理由に秋久の部屋を出ようとしていた。千冬が多忙であることは一夏も秋久も理解している。それにあわせ、束も退室しようとしていた。先日起こってしまった一夏の初潮騒動の時は最後まで束がいた。だが、今日は早々に帰宅するようだった。いつもならなんだかんだと理由をつけ、一夏の近くに最後までいる。それが束のポジションだと思ってた二人は少し面食らってしまった。

 

「うん。ちょっとオシゴトが残ってるからね。オ・シ・ゴ・ト☆」

 

 珍しいこともあるもんだ…秋久は驚いた。大体の場合は一夏の容態を心配し、仕事を後回しにしたり、こちらに駆けつける前に仕事を片付けてくる束が、仕事のために戻るというのだ。確かに、今回の案件は突発的に起きた事件である。流石の天才も対応できなかったに違いない。

 

「…一夏のこと、俺に任せてください」

「あぁ、頼んだぞ」

「さっすがあっくん☆頼りにしてるよ♡」

 

 

 

 二人に任せろ、と啖呵を切ったはいいが、秋久とて一夏に何か特別なことをするつもりはなかった。いつも通りに一夏を織斑邸に送り届け、自分は自室に戻り眠るだけだ。テーブルの上にカップ類は出ていなかった。

 

「なぁ、いち…」

 

 最後まで言葉を紡げなかった。二人が出て行ったのを見計らい、一夏が秋久のTシャツの裾を摘んで引っ張ったからである。一夏の顔を見る。不安そうに涙を溜めこんだ瞳と視線がぶつかった。身長の関係で一夏がやや見上げる形になった。

 

「アキ…お願い…今日だけ…今日だけだから…」

 

 

 

 一夏のお願いは『一緒に寝ること』だった。いくら秋久が窃盗犯を捕らえたといえど、一夏の傷が癒えた訳ではない。下着を弄ばれるという嫌悪感はなくなった。それでも、胸に巣食う不快感は消えていない。一人で眠ればこの不快感に蝕まれ、人間不信に陥りそうだった。秋久になら気兼ねなく甘えられる。千冬や束に甘えられないというわけではないが、彼女たちも忙しい身である。さらに先ほど『任せてください』と言っていたではないか。

 頼られた秋久は困惑していた。先ほど千冬たちに『任せろ』と言い、『任せた』と言われた身である。一夏のお願いを無下にするわけにはいかない。不安はただ一つ。先日のようにトラウマが甦るかも知れない。だが、不安そうにこちらを見上げる一夏を放っておくこともできない。

 

「…マジで言ってる?」

「こんな時に冗談言わねぇよ…アキがどっか行っちゃいそうだし、俺も怖いんだよ…」

「本気で?」

「しつけぇって…なぁ、頼むよ…アキしかいねぇんだ…去年だって一緒に寝たじゃん……それとも…俺がこんな姿になったからか…?」

「ぁ…ぅ……わ、わかった。わかったから、まず、手を放してくれ。それと、泣き止んでくれ」

「…え?あ、いや違う!泣いてねぇし!」

 

 いつの時代も、男は女の涙には弱いのだ。例えそれが元男であっても。見た目が女なら、その涙に強い罪悪感を持ってしまう生き物である。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 二人は一緒に一夏用の寝間着と制服を取りに織斑邸へ戻った。秋久は家の中まで入らず、玄関先で待機していた。間もなくして、衣類などが入っているらしき紙袋を持って出てきた。お待たせ、と短い会話を交わし、秋久のアパートまで戻ってきた。その間に言葉は交わさなかった。部屋に入っても、お互いに会話がない。織斑邸へ着替えなどを取りに行く前に風呂を入れ始めたおかげで、いつでも入れるようになっていた。秋久は一番風呂を一夏に譲った。

 

「…怖いから、風呂場の前に居て欲しい…」

 

 一夏のお願いもあり、秋久は一夏の入浴が終わるまで脱衣所に居なければいけなくなってしまった。擦りガラス状の扉の向こうでは一夏が入浴している。シャワーを浴びているようで、水音が響く。モザイク処理されたような肌色のラインが、薄い扉越しに見える。

 それは秋久が苦手とするセクシャルな光景のはずだった。しかし、秋久は何も感じていない。嫌悪感も、吐き気も、興奮も。級友たちであれば、何とかして扉の向こうを覗こうと目を細めたり、少しずつ扉を開けるなどして一夏の裸体を拝もうとするかもしれない。だが、彼にはそれがない。

 覗こうという気持ちがない。扉の向こうを見たいという欲が湧かない。嘔吐するのを承知で扉の向こうを妄想しようとするも、脳が拒否しているのか、真っ暗な世界しか見えない。快楽殺人鬼の手記に記されていた一文を思い出す。

 

『彼女たちは生きている間は私を脅かす存在でしかなく、物言わぬ死体となって初めて、女となったのです』

 

 そんなことはない。確かに彼女たちに劣情を抱いたことはないが、殺したいとも思わない。脳裏をよぎった暗い想像をかき消そうとする。だが、午前中から頭の片隅に残り続けている感情はなかなか晴れてくれない。

 

 

 

 

「……アキ?」

「え?」

 

 呼ばれたことに気が付き、顔を上げた。羞恥からではなく秋久の体調を慮ってか、浴室のドアを少しだけ開き、そこから顔だけを出して秋久を呼んでいた。

 

「何回も呼んだんだぜ?」

「わ、悪い……どした?」

「そろそろ出るからバスタオル取ってくれよ」

「あぁ…今取る」

 

 顔を引っ込め、手だけを差し出す一夏。突き出された手にバスタオルを渡し、秋久は脱衣所を後にした。

 

 

 

「風呂、ありがとな」

「お、おぉ…風呂洗うから、適当に寛いでてくれ」

「うん。サンキュ」

 

 22時。そろそろ一夏は眠る時間である。男であった頃を考えると、風呂掃除の時間も含めて30分かかるか、かからないかだろう。このままでは秋久の布団を占領してしまう。勝手知ったる他人の部屋、一夏はリビングから来客用の布団を秋久の自室に敷き始めた。

 

 秋久が風呂から出てきた。リビングに一夏はおらず、消していたはずの自室に灯りが点いていた。既に自室に客用の布団が敷かれており、一夏がベッドの上でタオルケットに包まって舟をこいでいた。髪がまだ生乾きだが、秋久は一夏の眠りを優先させてやることに決めた。バスタオルを洗濯機に放り込みに行き、静かにリビングの電気を消し、自室へ戻った。エアコンのタイマーを設定し、一夏に声をかけた。

 

「ふあ…?」

「かなり眠そうだな…疲れてるんだろ?さっさと寝ちまおうぜ。一夏がそっちでいいからさ」

「んぅ……」

 

 緩慢な動きで一夏が横になった。横になった後はうぞうぞと枕を探し始めた。枕を頭に宛がってやると、ぐりぐりと頭を動かし、自身の位置を決めた。

 

「あきぃ~…手ぇ~」

「はいはい…」

 

 手を繋げ、ということらしい。先日の一件から、自ら女性に触れることがある程度は平気になっていた。部屋のほぼ真ん中に敷かれていた布団をベッドに近づけ、秋久も横になり、一夏の手と自らの手を触れ合わせた。差し出された一夏の右手と、秋久の左手である。秋久の手を確かめるように一夏の手が動き、指を絡ませあう。いわゆる恋人繋ぎの形になった。満足そうに一夏の微笑む声が聞こえる。

 

「お休み」

「ん…ゃすみぃ…」

 

 本当に色々あった一日だった。あっという間に規則正しい寝息が秋久の耳に届き、彼もまた、意識を手放した。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一夏が目を覚ました。

 既に日は昇っている。一夏が時計を確認すると、6時を少し回ったところであった。繋いでいたはずの手はいつの間にか解けていた。どちらかが寝返りを打った拍子に外れてしまったらしい。

 日中はかなり暑くなるとはいえ、まだ少し肌寒さを覚える。伸びをする一夏の身体が少し震えた。すぐ側では秋久が眠りこけている。

 

 …暖かそう…

 

 そう、これは少し、ほんの少しだけ冷えた体を人肌で暖めるだけの行為だ。他意はない。誰かに言い訳するをするわけでもない。なるべく静かにベッドを抜け出し、四つん這いで秋久に近寄った。

 

「おっじゃまー…」

 

 秋久を起こさないように静かに断りを入れ、ゆっくりとタオルケットをめくり上げた。そっと横向きで寝ている秋久の腕を持ち上げる。身体を滑り込ませると、彼の香りが強くなった。秋久の匂いは一夏にとっての鎮静剤か何かになっているらしい。大きく深呼吸をした。落ち着く人肌と落ち着く香り。比較的スッキリ目覚めたはずなのだが、瞼が重くなってくる。幸せな微睡みに包まれる。二度寝も悪くないかもしれない。

 意識を手放しかけたが、慌てて覚醒しようとする。だが、人間の三大欲求に抗うことは大変困難である。

 

 一夏は三十分に及ぶ格闘の末、なんとか秋久の腕の中から脱出し、制服を持って脱衣所に消えた。




ちっふーにハグされたり、いっちゃんと接触しまくってるけど大丈夫かって?
流石にちっふーのあのハグには反応しないようです。そういうことされる空気でもなかったし。
いっちゃんとの接触は眠ってる…つまり、意識のない状態です。本人が知覚できていないのでセーフ。
いっちゃんのお風呂の後も、あっきーと同じ石鹸使ったのでセーフです。ポツンと女の子っぽい匂いが残ってたりしたらヤバかったかもね。

ご愛読いただきありがとうございます。

次回、天災のオシゴト編に続きます。

よろしくお願いいたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~天災の汚仕事(オシゴト)~※グロ表現あり

お気に入り400件超え、ありがとうございます。拙作を今後ともよろしくお願い致します。


感想欄が…
大丈夫!大丈夫だから!

いっちゃんあっくんラブ勢のこの人が何もしないわけないよね☆ということで、Ep15中の一幕となります。ヤッちゃった♪

拷問シーンなど、少々残酷な表現が入りますので、苦手な方は飛ばしてください。
拙作は『いちかわいい』を追求する、インフィニット・ストラトスの二次創作です。


 この日は偶然、本当に偶然。束が一夏の様子をリアルタイムで監視していた。やるべき仕事は全て片付き、箒の方でも特にトラブルは発生していなかった。秋久のGPSも中学の体育館内にある。あとは、最近お気に入りの一夏のリアルタイム中継である。彼女は交友が広く、聞いてるだけで楽しい気分にさせてくれる。

 束にとって、その音声は精神的清涼剤になっていた。可愛らしい女学生(一夏ちゃん)がキャッキャウフフと級友たちと会話を交わしている。楽しそうな様子が束の頬を綻ばせる。ついでに鼻の下も。

 

 ヘッドフォンから再び音声が流れ始めた。どうやら水泳の授業が終わり、更衣室まで戻ってきたらしい。先程まで一夏、秋久、千冬、束の四人で海へ遊びに行く妄想に浸っていた。

 よし、決めた。今度はいっちゃんと水着を買いに行こう。出来ればあっくんと一緒に。水着姿のいっちゃんを見てあっくんは顔を真っ赤にしたりしてそのあっくんを見ていっちゃんも顔を赤らめちゃったとか!?ナニコレ!?パラダイス!?あぁ、でも顔を赤くしたあっくんをからかういっちゃんも捨てがたい。『なぁに~?照れてんの~?』とか!?ほっぺ突っついたり!?

 

 めくるめく素敵な妄想の世界から束を現実に引き戻したのは、不安げな一夏の声だった。

 

『…アレ?ない?なんで…?』

 

 ノイズが聞こえる。合間に信じられないモノを見たような一夏の呟きも聞こえる。どうやら下着が見つからないらしい。まさか、張り切って水着を下に着てきてしまい、下着を忘れてしまったのだろうか。

 

『美智華ー。何してんの?遅れるよ?』

『…ブラとパンツ…ないの…』

 

 …なん…だと

 大急ぎでもう一つのヘッドフォンを取り出し、録音済みの音声を確認する。衣擦れ音の回数を何度も確認する。同じ箇所を執拗に再生し、束は確証を得た。

 間違いない。間違いなくいっちゃんは下着を脱いでいる…つまり、盗んだ屑がいる。

 

 数秒後に束はISを展開させ、東中へ向かっていた。天災がたどり着くまで、あと、数秒。

 

 

 

 

不可視制御(インビジブル)、オン」

 束がコードを唱えた。これで束の姿はあらゆるレーダー・光学装置・人の目に映らなくなった。最も、スモークなどを焚かれると見えてしまうが、焚かれた瞬間に離脱してしまえばどうということはない。

 姿を消したまま東中の屋上に、なるべく音も立てないよう静かに着地する。GPSで下着の位置を確認し、こっそりとコピーした学校の見取り図と照らし合わせる。どうやら、下着は体育館…それも教員準備室にあるようだ。ここの学校には体育科教諭が男女一人ずついるらしい。ならば屑の正体はほぼ掴めた。束は一夏のケータイから届く音声に注意しつつも、インターネットの中から犯人と思しき人物の情報を集めた。

 

 

 

 チャイムが鳴り響いた。集中しすぎていたらしく、いつの間にか昼休みが終わったようだ。先ほどからGPSが示す場所は全く動いていない。

 一夏は早退するらしい。彼女の級友たちの声も聞こえる。しばらくして、一夏たちが下足棟から出てきた。俯いてゆっくりと歩く一夏の姿が、束の胸を締め付ける。

 

 沸々と怒りが沸く。何故世界はこうも私たちに優しくないのか、こんなにも苦しめようとするのか。折角優しくしてやろう(・・・・・)としているのに、裏切ろうとするのか。こんなの全部キレイに………いけない。この感覚は良くない。あっくんの言葉を思い出せ。そうだ。あの時の…

 

 束の脳裏に8年前の秋久が映る。忌々しき白騎士事件と呼ばれるあの出来事が。必死になって全ての弾道ミサイルの処理を懇願する秋久と一夏が。事が終わり、理由を聞いたときの純粋で前向きな言葉が。

 事件が起こった当初、束は全弾迎撃など不可能だと判断し、静観を決めた。それに攻撃目標はここではない。多少は混乱するだろうが、束にとって関係のないことだった。ここまで余波が来るなら、来る寸前に自身を含む五人で海外にでも逃げればいい。束の技術を欲しがる国はいくらでもある。

 見たこともあったこともない人達を救って欲しい。束には信じられない言葉だった。彼らにとって二人は無敵のヒロインで救世主だった。最後まで二人を信じ、二人は期待に応えた。

 皮肉なことにそれがISを『夢のための翼』から『兵器』へと変えてしまう切っ掛けとなったのだが、それは束にとってどうでも良かった。

 ただ、秋久の言葉…だって、ぼくはみんなが大好きで、たばねえちゃんとちふゆねえちゃんが大好きだから…その言葉に救われ、変われた。

 両親から疎まれ、妹からもやや避けられ、周囲の人間からは変人扱い。そんな束に真っ直ぐな好意を叩き付けてくるのは一夏と秋久ぐらいで、特に秋久は束によく懐いていた。ラボで研究する束の後ろをついてきたり、まだ読めないはずの学術資料を読んでみたり、束の研究を手伝って?みたり。研究者に憧れていただけかもしれないし、ラボが秘密基地みたいで楽しかっただけかもしれない。

 ちょこちょこと後ろついて来て、たばねえちゃんと自身に懐き、壁にぶつかると応援してくれて、普段は邪魔にならないよう悪戯もしないお利口さんな可愛い男の子…嫌いになれるはずもなかった。

 秋久たちとの思い出を回想するうちに、束の黒い感情は霧散した。数分の回想だったが、束の束の精神をこちら側に引き戻すには十分だった。

 

 学校からも連絡が行っているだろうが、彼女にも一報入れておこう。

 

「もっしー?ちーちゃん?あ、急いでる?…ごめんごめん。いっちゃんのことなんだけど、すっごい酷い目に遭わされたみたいだよ~?なんかね~…あ、切れた」

 

 最後に妹の名を叫んでいた。まぁ、これで大丈夫だろう。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 最終下校時間間近の放送まで、束は屋上でひたすらに体育館とプール脇の女子更衣室を見つめていた。屑野郎の顔は押さえてある。出入りする人物の顔を一人ずつ確かめる。秋久と赤毛の少年の姿を認めたが、大したことはしないだろうと放置していた。

 

 赤毛の少年が走り去って行った頃、性犯罪者が女子更衣室へ入っていった。周囲を警戒しながら入っていくところを見るに、疚しいことがあるらしい。秋久が立ち上がり、ケータイを構えている。

 

 いいぞ!あっくん!出てきたとこを撮って逃げるんだ!

 

 しかし、束の想いは伝わらず、秋久は出てきた変態教師に声をかけた。二人は短い会話をしている。会話が終わったのか、教師がナイフを取り出した。反射的に束もライフルを実体化させ、照準を彼に合わせた。実弾が装填されていたので、慌てて鎮圧用改造麻酔弾に変更した。ついでに警察にも通報しておいた。状況が降着していれば、秋久は無傷で帰れる。

 しかし、状況が動いてしまった。形勢は秋久が有利であった。篠ノ之流古武術は伊達ではない。秋久の腕がヤツに絡みつく。完全に頸が極まっている。勝負が付いた。あの状況からは逃れられないだろう。もし、誤って呼吸が止まることがあれば、アレを単なる肉塊にしてしまえばいい。秋久の手が手を汚す必要などないし、汚す価値もない。

 秋久の勝ちがほぼ決まっているにもかかわらず、アレが抵抗を始めた。秋久の腕を掻き毟り始めたのである。

 

 私のあっくんになんて事を…

 

 束の怒りが溜まっていく。やがて秋久の皮膚が裂け、血が流れ始めた。紅い液体を目にした瞬間、束の頭に血が一気に上り、気が付けば引き金を引いていた。

 

「あ」

 

 放たれた麻酔針はアレの心臓に命中し、前のめりに倒れた。秋久もその上に覆い被さるように倒れた。

 

「……ヤっちゃった☆てへぺろ♡」

 

 束は千冬への報告を開始しつつ、秋久のアパートへ向かった。

 

「あ、ちーちゃん?うん。終わったよ。あっくんがね~…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 彼は最寄りの病院の個室で眠っていた。アフリカゾウをも数秒で昏倒させる麻酔弾である。その百分の一ほどしか体重のない彼が目を覚まさないのは当然である。

 彼は手錠とロープでベッドに拘束されていた。逃亡を警戒した当然の措置である。また、バイタル等を測定する機器にも繋がっていなかった。意識失っているだけ、命に別状はないと判断された結果である。

 

 そんな病室の窓から、入ってきた何かがいた。封筒が宙を舞いドアの前に落ちた。ひとりでに医療用ベッドが浮き上がり、眠っていた男を乗せたまま、窓の外へ音もなく出て行った。

 

 数分後、巡回に来た看護士と同行していた刑事が異変に気付く。発見された封筒の中には現金三十万円と『領収書 金三十万円也 ベッド代として(慰謝料含む)』と書かれた紙が入っていた。

 

 

 

 

 

「おっ。動いた」

 

 男が目を覚ました。彼は病院以上の拘束を受けており、動かせるのは眼球のみ、という状況で更に無影灯を間近で照射されていた。ちなみに、無影灯とは手術室などでベッドの上にあるアレである。彼のコメカミには電極のような物が刺さっており、それから発する電気ショックで目を覚ましたらしい。

 

「ね、下着盗んだ?」

 

 女の声がする。どこかで聞いた事のある声だが、思い出せない。

 

「誰…だ?」

「ねぇ、下着盗んだの?」

 

 それよりも明かりが強すぎる。目を開けようとしても、まともに開けられない。刑事ドラマでみたことがあるが、こんな取り調べは違法なはず。彼はこの取り調べが終わったら、この女を公安委員会に訴えることに決めた。

 

「黙秘する…」

「黙秘ぃ?」

「そうだ!俺には黙秘権がある!!こんな取り調べは違法だ!!」

「違法ぉ?」

「当たり前だ!そうだ!弁護士だ!弁護士を呼べっ!!」

「弁護士ぃ~?」

 

 女の溜め息が聞こえた。そのあと、何かを探すような物音も。

 

「じゃ~ん!これなーんだ?あ、眩しくて見えないか。ちょっと弱くしてあげるね」

 

 無影灯の光量が絞られる。女が覗き込んでいるようだが、上手く影になって顔の判別が出来ない。更に、無影灯下に突き出されたのは半田ごてである。ただし、通常の物とは異なり、先端部がやや赤くなっている。

 

「五秒あげるから、それまでに答えてね。あ、右からいくよ?…ご~」

 

 徐々に先端部が彼の目に近付く。近付くにつれて熱気が強くなる。色から判断するに六百度前後のようだ。

 

「よ~ん」

 

 彼は口を割らず、先端を睨みつけていた。本気でやるわけがない。彼はそう考えていた。発せられる熱気で眉や睫毛が焦げたのか、独特の臭いが漂い始めた。

 

「さ~…へくちっ。あ、入っちゃった」

 

 男の絶叫が響いた。高温の先端部を右の眼窩に突っ込まれたからだ。

 

「ねー。早く喋りなよー。臭いんだからさー」

 

 グリグリと突き刺した半田ごてを動かす。動かす度に肉の焼ける音が鳴る。男も叫び声を上げる。

 

「いう!いうう!やった!オレがやった!」

 

 男が叫びながら罪を認めた。眼窩から半田ごてが抜き取られる。男はひぃひぃと情けない声を上げていた。

 女が左目に半田ごてを突きつけながら問いかけた。先端には真っ黒に焼けた肉が付着している。

 

「なんで?」

「折浦が!折浦が悪いんだ!オレに惚れてるのに!他の男どもとも話しやがる!だから!だからオレのモノだってわからせ」

「五月蝿い」

 

 今度は頬に押し当てた。不快な肉の焼ける臭いが漂い、またもや咆哮が響き渡る。

 比較的男子は普通に接してくるが、全ての女生徒に避けられている彼にとって、一夏は唯一、人として接してくる女生徒だった。他の女子は彼に対する提出物があっても近寄らないし、彼の目を見て話すこともない。彼が授業後に片付けをしていても他の女子は手伝わないが、一夏は手が空いていれば手伝っていた。極稀に彼女の友人たちも一緒に手伝っていたのだが、それは体育倉庫などに備品を運搬するときぐらいだった。もっとも、それは彼と一夏が二人きりになるのを避けるためなのだが。

 一夏からすれば、大変そうだし手伝おう、ぐらいの感情であった。しかし、彼にとっては、嫌われているオレを手伝うイコール、オレに惚れている、となってしまったのであった。オレに惚れているのに、他の男子とも仲良く話している。それは彼にとって裏切りに等しい行為だった。

 

「なに?あの子の優しさを仇で返したの?お仕置きだね」

 

 ぐりぐりと頬を焼ききった女は彼に背を向け、ガスマスクを被り始めた。その手には金属製の瓶と綿棒が数本握られている。

 

「さ~て。取り出したるはフッ酸でーす。フッ酸が何かわからない?わからなかったら『フッ酸 八王子』でググると幸せなれるかもよ?って、そのカッコじゃ無理か。はい、あーん」

 

 女が彼の頭部を固定している器具を触った。顎を固定している部分が下がり、彼は強制的に口を開かされた。

 

「ちなみに、濃度はそれの五倍ぐらいかな?一本目ー」

 

 脱脂綿にフッ酸を含ませ、前歯に塗る。塗って一分も経たないうちに、激痛が走った。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

「二本目いくよー。あ、全部塗っても起きてられたら、離してあげるから、頑張ってね。気絶しちゃダメだからね」

 

 二本目、三本目と塗り続けられる。増える度に痛みが強くなる。重度の虫歯に加熱したタバスコとデスソースのブレンドを流し込まれたような激痛。六本目には痛みの許容範囲を超え、彼は意識を手放した。

 

「はい、アウトー。じゃ、もっかい起こして…」

 

 再度電気ショックで強制的に覚醒させられる。そして、痛みでまた気を失う。ショックで心臓が止まれば、強制的に心臓を動かされ、電気ショックで覚醒させられる。どうやら脳波を測定し、意識がなくなれば電気ショックを与える仕組みのようだ。

 

「よーし。全部キレイに塗れたね!じゃ、最後のチャンス!十二時間後に見にくるから、その時に起きてたら離して上げるね~。ついでにもう一周塗っといてあげる。大サービス!あと、三回連続で電気ショックしても起きなかったら、止まっちゃうから気を付けてね?」

 

 本当にもう一周塗り、女が部屋を出る。ドアの後ろでは、断続的に叫び声が続いている。ケータイを取り出し、どこかへの通話を開始した。

 

「もしもーし。ディナーの予約をお願いしたいんだけどー…うん。十二時間後に。うん。場所はいつもの場所をお願いね?」

 

 

 

 彼が事切れるまで、二時間とかからなかった。




あっくん魔性のショタだった説。

※絶対に真似しないで下さい。フッ酸は取扱いを誤ると大変なことになります。まず、一般の方は手に入らないと思いますが。

あと、ラストを元ネタがわかった方。お友達になりましょう!ぜひ!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep16.

知らない間にランキングに載ってしまったらしく、大変驚いております…
そして、投稿後約十五分でネタバレしたのも驚いております…

30,000UA、お気に入り400を突破しました。皆様のお陰です。拙い文章ですが、これからも更新していきます。よろしくお願い致します。



期末テスト前の一幕です。


 放課後、秋久は悪友に声をかけられた。これから野郎同士で親睦を深めよう、と。教室のあちらこちらで似たような声が聞こえる。来週には期末テストが始まる時期であり、放課後の部活動を禁じられているが故の状況である。

 

「俺はいいけど。弾、成績大丈夫か?」

「ふっ…一週間前にやろうが一夜漬けだろうが大して変わんねえぜ!」

 

 腕を組み、ニヒルなドヤ顔を披露する弾。一理ある。成績上位者は普段から予習復習を欠かさないため、一週間前だからと焦らない。普段からやっていない者は今更やっても意味がない、と焦らない。学校の体裁上、試験前に部活を許可することは出来ないというだけである。部活動に精を出している者たちは、帰宅後に自主練や筋力トレーニング、体力作りに励んでいる。

 

「ほら、最近い美智華ちゃんたちとほぼ毎日一緒だったろ?たまには男同士で遊ぼうぜ!」

 

 一夏たちを見やる。彼女は梓と共に志帆を取り囲んでいる。普段は部活で放課後に遊べない志帆をさそっているようだ。なるほど。確かに一夏たちとどこかに行くような空気ではない。

 

「そうだな…数馬も呼ぶか?」

「あー…アイツはいいや…志帆ちゃんいないなら多分来ねぇよ」

「そうなんだ…へぇー…田端さんか…」

「その辺は途中で話してやるよ…とりあえず行こうぜ」

 

 弾が鞄を持ち上げ、教室を出る。秋久もそれに続いた。一方、教室では志帆が折れたのか三人で遊びに行くことが決定したようだった。一夏と梓が志帆の左右の腕を抱き締め、抱き締められた志帆は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

 

 

 弾の提案により、二人はまずはカラオケに向かった。午後六時までの利用なら安くなる!と弾が主張したためである。秋久の収入源は親戚と千冬からの仕送りである。自ら稼いだ資金ではない。遊ぶにはある程度の資金が必要である。

 生活費として受け取った資金を交際費として使うことを秋久は躊躇う。故に、安い・お得といった言葉に弱い。弾はそういった秋久の懐具合まで勘案し、早めの時間からカラオケに誘ったのであった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 お互いにネタ曲を歌い、腹を抱えて笑い合う。笑いすぎて呼吸がおかしくなり、えずくこともあった。箸が転がるだけで笑える年頃の二人。二人っきりで遊んでいるため、直ぐに歌う順が回ってくる。二人は声が枯れかけるまで歌い、笑った。

 

「あー…やっべぇ…腹筋つりそう」

「…ブリーフ…」

 

 まだ笑いが治まっていない秋久に、弾が追撃で呟いた。また二人で腹を抱え、ゲラゲラと笑い始める。もはや笑いすぎてツボが壊れている。今なら本当に何があっても笑えるだろう。もはや何が笑えているのか、二人とも理解できていない。二人はひぃひぃと引きつった呼吸を繰り返していた。

 

「はぁ…はぁ……休憩…」

「お、俺も…喉…腹…無理…」

 

 ある程度笑いが治まった頃を見計らい、二人は部屋を出た。飲みきったソフトドリンクを補充するためである。

 

 

 

「ヤバかったなー。腹筋崩壊ってこういう感じなんだろうな」

「オレのシックスパックもヤバかったぜ。しっかし、秋久がデスボイスなんて…ぶふっ」

「ぐふっ…笑かすなって…」

 

 忍び笑いが響く。決して忍んでいるわけではなく、耐えているだけではあるが。何とか笑いを堪えながら、取ってきたコーラを半分ほど飲んだ。万が一にも飲んでいる途中で笑ってしまえば、二重の意味で大惨事である。

 

 

 

「…なぁ、秋久」

 

 弾が今までとは違うトーンで声をかけてきた。真剣な表情をした彼の横顔をうっすらとモニターの光が照らす。部屋の空気が変わった。

 

「オレ、アズちゃんに惚れた…かも」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「いや、マジでアタシ余裕ないんだけど…」

「大丈夫大丈夫!美智華ちゃんも私もそこまで余裕ないから!」

「そーだそーだ!だから遊ぼ?ね?」

 

 眉を顰め、何とか二人の拘束から逃れようとする志帆。アンタら二人はそこそこ余裕あるだろ!?と言いたいが、言えなかった。両腕にしがみ付かれ、外に連れ出そうとする二人。彼女たちから逃れられそうもなかった。腕力的に振り払うこともできるが、それは憚られる。とぼとぼと寂しそうに立ち去る二人の姿が目に浮かんでしまう。

 

「うぅ…わかったよ…今日だけよ?」

「やったー!志帆ちゃん話わっかる~!」

「さっすが志帆!イケメン!」

 

 嬌声を上げて志帆に飛びつく二人。豊かな胸部の質量が志帆に押し付けられる。可愛らしい顔立ちに身長、そして女性らしい体躯に悪くない点数を取れる頭脳。志帆が望んでやまないモノを彼女たちは全て持っている。それらを押し付けられ、テンションが急下降するのを感じた。そもそも、女子を褒めるのにイケメンはどうなのだ。

 

「そんかわし!明日はアタシんちでテスト対策だかんね!」

「任せて!」

「だいじょーぶ!志帆に赤点は取らせない!」

「赤点言うな!アタシはまだ大丈夫だ!」

 

 

 

 さて、彼女たちが何をして遊ぶかというと、コーヒーショップに行ってのお喋りである。学校でもよく話している間柄ではあるが、それとこれは別なのである。女性というものは本当に話が好きである。それは一夏もこの四ヶ月間で身に染みた。三人寄れば姦しいとはよくいったものである。

 最初はかなり苦労したが、彼女たちの聞き役に徹することで会話のリズムを習得し、少女マンガを読むことで女心を理解した。今では彼女たちのお喋りに合わせることなど造作もない。そして、いつの間にか一夏も彼女たちとのお喋りを楽しめるようになり、一夏もまたお喋りが好きになった。

 

 

 

「あ、そーだ!プリクラ撮ろ!」

「そーいえば撮ったことなかったね!」

「だっけ?アタシは撮ったことあったと思うけど…」

「だって、私のトコにないもん!ほら!」

 

 店に夕日が差し込んできた。ケータイで時間を確認すると、まもなく十八時になろうとしている時間だった。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。そろそろ解散するような雰囲気が出てきた。その時に一夏が提案したのだった。志帆と梓、梓と一夏で撮ったことはあったが、この三人で撮ったことはなかった。梓の手帳で確認した確実な情報である。

 

 せっかくだし…ということで三人は店を出てゲームセンターへ向かった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 自動ドアが開くと、音の洪水が彼女たちを襲った。それぞれの筐体から非常に大きな音が鳴り響く。しかし、彼女たちは気にすることなく、お目当てのプリントシール機が並んでいる一角へ向かった。そこには同年代と思しき乙女たちが集っている。

 いつの時代もこのカテゴリは女子たちに人気だ。どの機種にするか、一夏と梓が吟味を始める。そこまで詳しくない上に興味もない志帆は、少し離れたところで腕を組んで待っていた。

 

 どの機種にするかを決めたらしい二人が志帆に駆け寄り、機械の場所まで二人がかりで腕を引く。別に逃げやしないよ、と諌めるがそんなことは関係ないらしい。二人とも志帆を引っ張るのが楽しいようである。その機種はなかなかの人気機種らしく、既にいくつかのグループが順番待ちをしていた。一夏たちもその列に加わる。

 

 途中で一夏が中座を申し出た。列から外れ、ゲームセンターの一角、自販機など設置されたコーナーへと向かう。

 道すがら、どこかで見たことのある顔とすれ違った。その少年は赤毛の少年と合流し、リズムゲームコーナーへと歩いて行った。声をかけようとしたが、体が生理現象を訴える。ひとまず用を済ませ、自販機でコーラを二本買ってから、彼らを探した。

 

 

 

 いきなり秋久が振り返り、何かを探すように辺りを見回した。一夏とすれ違ったような気がしたからである。

 

「どした?」

「いや…美智華が居たような…」

「……いねぇじゃん…何?お前はそっちに惚れてんの?」

「んなわけねぇだろ。俺はソッチ系じゃねぇよ」

「いやいやいや…結構人気あんだぜ?アイツ。変わってもファンクラブ作るなんて、すっげぇヤツだよ」

「マジかー…」

 

 他愛ない話を続ける。弾がプレイしようとしているゲームの順番待ちである。ギターを模したコントローラーを使うゲーム。新型機種が出たばかりらしく、三台とも埋まってしまっていた。

 

 

 

「…ばぁ♪」

「うおっ!?」「ぬあっ!?」

 

 息を殺して二人に近付いた一夏が、掛け声と共に彼らの頬に缶コーラを押し当てる。気が抜けていた二人はいきなりの冷たさに妙な声をだしてしまった。

 

「いひひ♪ビビってやんのー」

「ビビるっつーか…」

「まぁ、普通にビックリするわな…」

「お前ら何やってんの?着替えもせずにゲーセンとかさー…不良?」

「いや、美智華も人のこと言えねぇだろ。ゲーセンが不良とか、何年前だよ」

「ジジイ的感性ならそうなんじゃね?」

「ジジイ言うな!でも、特別に許してやろう…なんせ今日はアガってっからな!ってことで、プリクラ撮ろ!」

「「ぇえぇ~…」」

「それ奢ってやっからさ!行こ!」

「いや、そもそもお前口調が…」

「だぁーいじょうぶ!五月蠅いから聞こえてねぇって!ほら!順番ヤバいんだってば!」

 

 コーラを無理矢理二人に持たせ、空いた手を引っ張る一夏。急に手を捕まれ、秋久と弾の心臓が跳ね上がり、秋久に悪寒が走った。

 一夏はその様子を気にすることもなく、引っ張ろうとしている。体重差がありすぎるため、動かすことは叶わないが、優しさで腰を浮かせてやる弾。だが、彼の視線は繋がった手から動かない。まるで縫い付けられているかのように。柔らかい…一夏と繋いだ手は男のそれではない。乙女の柔らかさである。

 一方、秋久は硬直していた。弾と同じ様に一夏と繋いだ右手を見ている。心臓が警鐘を鳴らす。悪寒は一瞬だったが、心臓は変わらずに早鐘を打つ。

 

「ね?アキ?」

 

 一夏がじっと秋久を見る。声をかけられ、視線上げると眼があった。真っ直ぐな眼。そう、こいつは敵じゃないんだ。味方なんだ。

 

「行こっ!」

 

 もう一度強く引かれる。秋久も今度は腰を浮かせた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「あ!美智華ちゃん次だ、よー…?」

「おかえり。お、ナンパしてきたん?」

「うん!なかなかのもんでしょ?誉めていいんだよ?」

 

 ほら!と志帆に頭を差し出す一夏。志帆は差し出された頭をグリグリと撫でながら、地面に向かって押し込んだ。縮むぅ~と呻く一夏に、縮めーと更に力を加える志帆。秋久たちが来たことで少し引き気味なってしまった梓。あとから合流した弾に促され、全員で機械の中へと歩みを進めた。

 

 

 

 テキパキと女子たちが設定を決定していくなか、秋久と弾は案山子になっていた。言われるがままにポーズを取る。目まぐるしく指示が変わるも、慣れている彼女たちは即応していく。

 なんとか弾と梓のツーショットを撮ろうと秋久は苦心したが、どういうわけか秋久と弾のツーショットが撮られてしまった。撮り終わると落書きコーナーに移動する。ここでも女子たちの独壇場である。出番はないと判断した二人はこっそりとカーテンの外に出た。

 機械の外も当然女子校生で溢れている。二人は居心地の悪さを感じながらも、早く一夏たちが出て来ることを祈った。

 

「もー…落書きまでがプリクラでしょ?」

「帰るまでが遠足、みたいなノリでいわれてもだな…」

「まぁまぁ。お陰でこんな事もできたしさ。美智華も怒んないの。ほら、アンタらも持っときな」

 

 二人に渡されたのは全員で撮ったものと、秋久と弾のツーショットだった。何故か肩を組んだ二人はハートマークで囲われており『親友♡』などの落書きがされている。

 

「…ぅへぇ…」

「…ないわー…ハートとかないわー…」

「志帆もアズちゃんもノリノリだったよね?」

「楽しかったわよ?アンタらホモ疑惑あるし」

「ご、ごめんねー…悪ノリしちゃって…」

「アズちゃんまで……本気にしてないよな?」

「う、うん…五反田クンがそうじゃないのは知ってるし…」

「あ、弾がアズちゃんいじめてる!」

「なに!?五反田!アンタはパッと見ヤンキーなんだから!アズをイジメたらただじゃおかないよ!?」

「ちょ!?違うって!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 その後、日が沈んだことに気付いた一夏が解散を促した。いつの間にか十九時をまわってしまっていたのだった。弾が志帆と梓を家まで送り、一夏と秋久は一緒に帰る手筈になっている。

 明日は当初志帆の自室で勉強会の予定だったが、弾が参加を申し出てしまったため、急遽織斑邸での勉強会となった。

 勉強会用のお菓子の仕込みをするため、秋久も織斑邸へ向かう。

 

 明日も明日でバタバタしそうだ。秋久は隣で楽しそうに今日の出来事を話す一夏に視線を向けた。

 

「それでねー…ん?どったの?」

「いや、なんでもない」

「…?アキは今日、どうだった?」

「んー…いい一日だったよ。楽しかった」

 

 一夏…いや、美智華に急に手を捕まれてもそこまで反応しなかった。この調子なら、いずれこの身体も普通になれるかもしれない。

 

「ありがとな」

「なんかわかんないけど、どういたしまして!」




現在、前半部分をリビルド中です。途中保存出来ないから難しい…
彼らの夏休み突入と同時にアップする予定です。

アズちゃんのテンション急落は男子が来たから。
単に男慣れしてないというか、男性恐怖症気味なだけです。

ご愛読ありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep17.

期末試験終了!学生さんが一番楽しい時期になりました!

…何年前だろうか…

1~2話、リビルド完了致しました。
全体に矛盾は生じていない…はず!


 チャイムが鳴り響く。期末試験終了を報せる音。夏休み到来の福音。生徒たちにとって、憂鬱な答案返却さえ終わらせれば、大好きな夏休みが訪れる。

 教室のあちこちで溜め息や延びをする声が聞こえる。精魂尽き果てた、といわんばかりに机に突っ伏している者もいる。全員からテストを回収した担任教師が柏手を打ち、全員の注目を集めた。

 

「はい、ちゅうもーく。死んでるヤツ、寝てるヤツいるか?いたら返事しろー……いないな。クラス委員長から話がある。よく聞くように」

「はい。皆さん、テストお疲れさまでした。早速ですが、十月に学校祭があります。まずは実行委員の選出と…」

 

 クラス委員長から学校祭実行委員が男女一名ずつ選出され、明後日までにクラスの出し物を決定してほしいとの通達があった。そして、夏休み前と夏休み中、そして九月いっぱいの準備期間の後に、本番を迎える。例年通りであれば、一年生は展示、発表系、三年生が模擬店系、二年生が舞台系となる。一年生は来年に向けて要領を掴むために展示系の出し物をする。三年生は受験前ということもあり、準備が容易な模擬店系。そして、要領を掴み時間もバイタリティも余っている二年生が大暴れする…というのが例年である。

 

「…では、よろしくお願いします」

「これでホームルームを終わる。テストは終わったが来週いっぱいまで学校あるからな。浮かれて怪我せんように。解散」

 

 担任の号令がかかった。あちこちでこれからの予定を話し合う声が上がる。市内の公立学校はどこも今日までがテスト期間である。街には解放感から遊び呆ける学生で溢れるだろう。

 

「…お疲れ。大丈夫か?」

「……へんじがない。ただのしかばねのようだ…」

 

 テスト終了後から机に倒れ込んだままの弾に秋久が声をかけた。全て一夜漬けで済ませようとしていた彼だったが、一夏・梓・志帆と共に勉強会に参加していたのである。多人数での勉強会は成果が伴わないことが多い。しかし、あの勉強会はストッパー役が秋久・梓・志帆と豊富であったこともあり、まずまずの成果となった。

 弾は普段は使わない部分の脳を酷使したためか、かなり疲労しているようだった。

 

「あとは返却だけだし、大丈夫だろ。どうだった?」

「一応全部埋めたぜ。一応な」

「大躍進じゃんか!すげえ!頑張ったな!!」

「だろ!?いよっしゃ!今日は遊ぶぜ!!!!」

 

 急に弾が立ち上がり、拳を天に向かって突き出した。イヤッッホォォォオオォオウ!という奇声付である。その奇声にまたもやクラス中の視線が集まる。

 

「弾も打ち上げ?わたしも行きたい!」

「あ…私もいいかな?美智華ちゃんとも遊びたいし…」

 

 一夏と梓も合流を表明した。テスト前に男同士でたっぷり馬鹿をやったし、今日は女子とも遊びたい気分の弾である。もっとも、彼は楽しく騒げるのであれば、そこに男女のこだわりを持っているわけではない。

 

「いいぜ!人数多い方が楽しいしな!」

「あ、じゃあオレも行きたーい!折浦さんたちとなかなか遊べねぇし」

「え?マコくんも行くの?じゃ、あーしも行くー」

「俺も」「ボクも」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「いやー…まさかこうなるとはなー」

「こうなるとはなー、じゃねえからな。見ろよ。すっげぇ店員さん大変そうだぞ」

「でも、ランチタイムってこんなんじゃないの?」

「ここまでじゃないと思うよ…?」

 

 ランチタイム明けのファーストフード店。平日のこの時間は客も疎らなのだが、今日は東中二年一組の生徒二十名が大挙して押しかけている。オーダーカウンター前に二十人が残っているわけではなく、半分以上が席を探しにその場を離れていた。流石に二十人が一度に座れる席などなく、適当に三~四人のグループに分かれていた。

 いきなりその人数で押しかけられると、クルーがタスクオーバーを起こす。その証拠にクルーたちはキッチンとカウンターを忙しそうに往復し、次々と番号を呼びオーダーを片付けて行っている。

 

「アキ、席取ってくるから、わたしたちの持ってきてね?」

「ん。了解」

「アズちゃんのも持ってくからよ」

 

 

 

「おまたー」

 

 秋久と弾が戻ってきた。彼らの手にはセットが合計四つとハンバーガーが余計に三個乗っている。

 

「これが美智華ちゃんとアズちゃんの」

「注文あってんの?足りる?」

 

 一夏と梓の分はポテトSサイズ、秋久と弾の分はLサイズと追加のハンバーガー。男子と女子の食事量の差である。

 

 さっさとハンバーガーをポテトチップのように平らげる秋久と弾。一つ目を完食し、二つ目に手を出し始めた。一方の一夏は両手でハンバーガーを持ち、子リスのように食べ始める。梓はポテトから手をつけ始めた。一夏が一つ目を食べ終えた頃、男子二人は二つ目をほとんど食べ終え、残る一つを半分に割った。彼らにとって、二個半でちょうどいいらしい。

 オレンジジュースを吸い、一夏が可愛らしくぷはっ、と一息吐いた。水分なしで一気に食べたのが堪えたらしい。ハンバーガーを食べ終えた弾が席を立つ。

 

「じゃ、次にドコ行くか話してくるわ」

「いってらっしゃーい」

「…やっぱり、男の子って食べるの早いね」

「そ、そう?ふ普通じゃない?」

「アキって弾と一緒にいると早いよね」

「あんま意識してないけどな…つられてる…かもな」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 その後、ボーリング場に行き、三ゲームほど楽しんだ。弾が18ポンドを投げようとしたり、一夏が7ポンドに疲れて両手投げになるなどのトラブルはあったが、概ねスムーズにゲームは進んだ。

 

 ゲーム終了後に全員で写真を撮る。秋久の横に一夏が寄り添い、その隣に梓、弾と並んだ。

 

 かくして、二年一組の打ち上げは無事に終わった。

 

 その思い出話を志帆が聞き、一夏と梓に逆襲したのはまた別の話である。




短いですが、これにて一学期編終了となりました。
次回更新から夏休み突入となります。

今後ともよろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep18.

一夏ちゃん、応援する@バスケの試合


 バスケットシューズが体育館のワックスを擦る。ボールがフロアを打ち、リズムを奏でる。不規則ながらも、躍動感のある楽曲を奏でる。

 

「せーのっ「ナイッシュー!」」

 

 東中バスケ部員がゴールを決めた。数秒後にブザーが鳴り、部員たちがベンチに引き上げきた。第二クオーター終了のブザー。汗だくの部員たちに甲斐甲斐しく一夏と梓がタオルやドリンクを渡す。彼女たちは制服のセーラー服を着用しており、胸には『マネージャー』と記されたリボンが付いている。

 

 もちろん、彼女たちは正規のマネージャーではない。志帆の応援に来たのだが、一夏曰く『学校は制服で登校するもの』なので、全員でわざわざ制服を着用して登校した。制服姿を男子バスケ部長に見つかって『チームの士気向上のために、今日だけでも!』と懇願されて二人が折れた結果だった。

 市代表常連の北中学相手に東中学がリードしている。美少女マネージャーコンビの成果かもしれない。可愛い娘の前ではいい格好をしたい、カッコいい所を見せたい…中学生男子の本領発揮といったところである。

 

「お疲れ!カッコよかったよ!」

「あ、あの、よかったらコレ…」

 

 二人が労いながらタッパーに入ったお手製の冷凍はちみつレモンを渡していく。昨夜に志帆用として一夏が作ったものだ。ただ、秋久も同じものを用意していたので、今回は男子用に回していた。マネージャーお手製の差し入れが入り、部員たちの士気が上がる。さらに美少女の笑顔付きである。彼らのテンションはうなぎ登りであった。

 顧問からの指示が終わり、試合に出ていたメンバーがベンチに座り始めた。彼らの前に立ち、どこがカッコよかった、凄かったと一夏が話していく。この気さくさとコミュニケーション能力の高さが一夏の人気の理由の一つでもある。一方、梓は部員たちからタオルやドリンクを回収し始め、新しいタオルを渡していく。地味な作業ではあるが、大事なマネージャーとしての作業。梓の方がマネージャーには向いているようだった。

 

 

 

「…なんだこれ」

「……知らねぇよ…」

 

 そうボヤくのは秋久と弾。彼らも制服姿で胸元に『マネージャー』と記されたリボンをつけている。この試合が終われば、今度は志帆たち東中女子バスケ部の試合が始まる。ハーフタイムを利用してのアップに付き合わされ、ランニングシュート練習のため、ゴール下のハイポストでパス出し係を務めていた。

 

「あんまテンション上がんねぇな」

「まぁ、弾からすれば辛いわな」

 

 想い人が男共に囲まれている。面白い状況ではない。さらに自分は何故かマネージャーの仕事をやらされている。余計に面白くない。

 一夏たちとの交流である程度女子慣れしたらしい秋久。淡々と飛んできたボールを返している。彼も会話や接触さえなければ、コミュニケーションが可能になったらしい。それをコミュニケーションというかは別として。

 

 短く二回ブザーが鳴った。ハーフタイムの残り時間が三分を切ったようだ。サブの部員たちがコートから引き揚げ、スタメンだけが残る。それぞれ自由な位置からシュートを始めた。外れたボールや部員たちの手元に戻らないボールを秋久と弾が回収し、彼女たちにボールを返す。

 

 今度は長めのブザーが鳴った。ハーフタイムが終了したらしい。志帆ともう一人の部員がスリーポイントラインよりも二歩ほど離れた位置からシュートを放った。志帆のシュートはリングに触れることなくゴールに吸い込まれたが、もう一つのボールはリングに当たった。そこに弾が走り込み、リングを掴んでゴールに叩き込んだ。既に弾の身長は180cmを少し超え、元々の身体能力の高さもある。アリウープを成功させた、いきなりのアクションに会場が湧いた。

 

「バスケ部入れば?」

「部活はパス…センパイとか怖えじゃん」

「…テンション上がったか?」

「まぁ…ちっとだけ」

 

 

 

 試合再開前に東中のベンチ前で円陣が組まれた。後半のスタメン五人と何故か一夏も混ざっている。

 

「絶対勝つよ!!」

『オオォォー!!』

 

 一夏、梓の順でメンバーたちとハイタッチを交わし、送り出していく。彼らは気力、スタミナ共に完全に回復したらしい。恐るべし、女子マネパワーと思春期男子である。一方の北中はやや疲れが残っていた。格下だと思っている東中に追い込まれている焦りもあるようだった。

 

 センターサークルに両チームのジャンパーが向かい合った。ジャンプボールから後半戦が始まる。

 

「頑張れー!応援してるからねー!!」

「が、頑張ってー!」

 

 両手を口元にあててメガホンのようにし、声を張り上げる一夏。少し恥ずかしいのか、遠慮がちに声援を送る梓。このままのリードを保てれば、晴れて東中男子バスケ部が市代表となる。あまりバスケのことはよくわかっていないが、同級生が頑張る姿に一夏と梓の応援も熱が入った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 リードを守り切り、東中が勝利した。北中のメンバーが焦って自滅したのか、それとも東中が本気を出したのか、それは定かではない。ひょっとすると、美少女マネに嫉妬したのかもしれないし、ゴールを決める度に飛び跳ねて喜ぶ一夏に注目し、集中力を欠いたのかもしれない。だが、勝負の世界は結果が重要である。とにかく、東中が夏大会の市代表の座に就いた。

 

 次は志帆たちの出番。彼女たちへの応援こそが、本日の目的である。試合を見届けた一夏と梓は観覧エリアのある二階へと上った。

 階下のコートではベンチを設営していく一年生を秋久と弾が眺めていた。最初は手伝おうとしたようだが、彼らはド素人。逆に邪魔になってしまい、少し離れた位置で待機していた。

 男子バスケ部に比べると女子バスケ部はいわば『ガチ』である。普段の練習も厳しければ、上下関係も厳しい。

 

 さっさと手際よくベンチセッティングが終わり、スタメンが集まった。男子と同じく試合前に円陣を組むらしい。マネージャーの二人も呼ばれるが、秋久は辞退し、弾を生贄に捧げた。

 志帆の横に弾が入り、肩を組む。さらにその外周にはサブメンバーが円陣を組んでいる。

 

「五反田、なんかないの?」

「あー…必勝祈願!」

『ハイ!』

 

 よくわからない弾の掛け声で、試合前の円陣が終わってしまった。

 

「なんだよ。アレ」

「うっせ。そんならお前が次やれよ」

「無理」

 

 

 

 試合は始終東中優勢で進んでいった。チームメートがゴールを決める度、ベンチと観覧エリアから応援歌が聞こえてくる。男子の試合では皆が口々に応援していたが、女子は統制が取れている。観覧エリアにいる一夏と梓も応援歌を教わり、周りの女子バスケ部員と声を合わせて歌っていた。

 

 

 

 第一クオーターが終了した。ベンチに志帆たちレギュラーが引き揚げていく。秋久と弾が味を調整した薄めのドリンクとタオルを渡していく。志帆がベンチに腰かけた後、秋久に話しかけている。流石に二階まで声は届かないが、二人とも比較的にこやかに話をしているようだ。弾は弾で他の女子に囲まれ、少し鼻の下を伸ばしながら話をしている。秋久も弾も、女子からの人気でいえば、校内トップ20には入る男子である。男子バスケ部ほどではないが、女子たちも些か張り切っているように見える。

 

「…美智華ちゃん?」

「え?なに?」

「すっごい難しい顔してたけど、大丈夫?」

「そんな顔してた?あ。暑いからかなぁ」

 

 胸元をパタパタと仰ぎ、大げさに眉を顰める一夏。セーラー服の通気性は悪いし、体育館は蒸し暑く、二階はさらに暑い。梓も一応は納得し、一夏に倣って胸元を仰いだ。

 

 一夏が女性化し、変わったことが一つある。とっさの嘘が上手くなったことだ。今も簡単に梓を誤魔化せた。確かに蒸し暑い。だが、先ほどまで気にしていなかったし、そこまで不快ではない。

 不快なのは、自分の胸中だった。先ほどから胸に木のトゲが刺さったような気分だった。志帆と秋久が仲良くなる…それは喜ばしいことだ。秋久の女性恐怖症が治り、彼が恋人を作る。そうすれば千冬も束も安心するだろう。志帆と秋久が仲睦まじく手を繋ぐ。そこに一夏はいない。小指に刺さった木屑のように、気にならないといえば気にならないが、気にしてしまうと痛み始める。気づかないうちに、一夏の眉間の皺が深くなった。

 

「ゴメン。ちょっとお水飲んでくるね」

「うん、いってらっしゃい。もうすぐ試合始まるからね!」

 

 梓の言葉もほとんど聞かず、一夏は二階から駆け下りていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 蛇口を全開にする。凄まじい勢いの水を掬い、何度も顔を洗う。何度顔を洗っても、一夏の気分はすっきりしなかった。顔を洗うのが煩わしくなり、ヘアピンを外し髪を解いて蛇口の下に頭を持っていく。襟が濡れるのも気にせず、奔流を頭で受け止める。

 どれほど頭に水をかけ続けても、胸の中の棘が取れない。何度も描いてしまった妄想をかき消そうとする。だが、消えない。かき消そうとすればするほど、不快感は積もっていく。

 

 不意に水が止まった。顔を上げると、タオルを持った秋久がそこにいた。

 

「何やってんだ?タオルもねえじゃねえか」

「……別に。暑いから頭冷ましてただけ。アキこそなにやってんの?試合は?」

「試合中にやることないしな…お前が走って出て行ったの見えたから、気になって追いかけただけだよ」

「ふーん…タオル、ありがと」

「おう…」

 

 ガシガシと乱暴に頭を拭き、使い終わったタオルを秋久に押し付けた。まとめられていない髪が一夏の表情を隠す。

 

「お前、大丈夫か?」

「大丈夫。ほっといてよ…じゃ、もう行くから」

「あ、おい!」

 

 秋久の呼びかけを無視して、一夏は背を向けて走り出した。髪が濡れているのも気にせず。ただ、この場に居たくなかった。あのまま秋久と話し続けていれば自分の不快感を、よくわからない心情を吐露してしまいそうだった。いつも秋久に甘えている一夏ではあるが、今は違った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 走った。走って走って走って…一夏が逃げ込んだのは、秋久の部屋だった。息を切らせ、玄関に滑り込む。滝のように汗が流れる。早くシャワーが浴びたい。風呂場に直行し、服を脱ぎ捨てた。ショーツを下ろすタイミングで彼女は違和感を感じた。少し張り付くような感覚。クロッチの部分に少し血が付いてしまっていた。

 

「あー…」

 

 最悪だ。ショーツを汚してしまった。そこまでの量は出ていないが、不快ではある。秋久の部屋に生理用品は置いていない。汗塗れの下着と制服を再び身に付け、一夏は自宅へと戻った。

 

 

 

 

 温めに調整したシャワーを頭から浴びる。最初は冷水を浴びていたが、体が冷え切ってしまい、身震いをしてしまったので切り替えた。

 梓には体調が優れないので中抜けする旨を伝えてある。試合は恐らく東中の勝利だろう。志帆以外の部員たちも秋久と弾の応援でいつも以上に力を発揮しているはずだ。

 

 志帆…仲睦まじい志帆と秋久の様子を思い出してしまう。下腹部の不快感が強くなる。先程まで胸でのむかつきを覚えていたが、今では下腹部。現金な身体をしている。

 曇ってしまった鏡をシャワーで流し、そこに映った少女を見やった。水泳の授業の影響で、腕と脚は健康的な小麦色になっているが、胴の部分は白い。指定水着型に日焼け跡が残っている。胸元には確かな質量があり、少女らしく先端部の色は薄い。ウェストは細めだが、まだ女性としては成熟していないらしく、括れはやや浅い。

 女。紛れもない女子の姿がそこにはあった。出しっぱなしのシャワーが再び鏡を曇らせていく。湯気で見辛く鏡越しにでも、そこにいるのが女子であることがわかる。男とは違うシルエット。肩幅も狭く、なだらか。

 

 …怖い…

 

 水音の中で一夏が呟く。声に出したつもりだったが、喉が掠れてしまったためか、シャワーの音が大きかったのか、声が溶けていく。一夏の中で男だった頃の自分があやふやになっていく。

 男子バスケット部の部員たちと肩を組んだ時にも感じた、自分の身体との明確な差。ハイタッチしたときの掌の感触。思い出してしまうと、急に感覚が曖昧になる。

 脚に力が入らなくなり、ペタリとアヒル座りになった。頭からシャワーを浴びる。一夏は自分の掌をじっと見つめた。小さく、柔らかそうな掌を。

 

 男…そう、俺は男なんだ。でも、これは?




ご愛読ありがとうございました。

申し訳ありませんが、後編に続きます。

投稿は30分後です。
よろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep18.5

前回のあらすじ

・夏休みになったし、学校で志帆が試合するんだって。応援に行こう!
・何故か一夏ちゃんは男バスのマネージャーに…アッキーは女バスのマネージャーに…
・応援してたら男バスは勝ったよ!応援って楽しいね!次は女バスだよ!
・休憩中にアッキーと志帆が楽しそうにお話ししてるよ…ムカムカしてきた…
・頭冷やそう…ばしゃー…アッキーがあらわれた!
・顔を見たくなくて走って逃げちゃった…とりあえず、アッキーのお部屋でシャワー浴びよう…
・なんかムカムカすると思ったらアレが始まってたよ…ないわー…テンション下がるわー…サゲサゲー…

というお話の続きです。


 シャワーを浴び終えた一夏は、今回も秋久のベッドに潜り込んでいた。そして、先日のように掛け布団に籠もっている。今日はそこまで匂いを感じなかった。秋久が掛け布団からタオルケットに変更していたためだ。まだ出したてのタオルケットからは薄い匂いしか感じなかった。

 タオルケットに見切りをつけ、今度は枕に顔を埋めて深呼吸を繰り返す。秋久の、一夏を落ち着かせる香りが鼻腔を抜ける。少しだけクセのある優しい香り。肺まで優しい気持ちで満たされ、シャワー前に飲んだ薬の効果もあり、徐々にムカつきが治まる。

 

「一夏っ!!」

「きゃっ!」

 

 音を立てて引き戸が開いた。

 

「んだよ…ビビらせんなよー…」

「悪い…」

「ったく…ただいま、は?」

「あ、あぁ。ただいま」

「おかえり。やけに早ぇな…試合は?」

「いても意味ないし、抜けてきた。後半にベンチと一年生出してたし、楽勝じゃないか?」

「ふーん…」

「それに…お前のことも心配だったし…」

「ふーん…」

 

 一夏が寝返りをうち、秋久に背を向けた。秋久に心配され、頬が弛みそうになったのを隠すためである。

 

「……先にシャワー浴びてこいよ。着替え持ってってやるからさ」

「悪い、助かる」

 

 

 

 一夏はベッドから起き上がり、秋久の着替え一式を持って風呂場に向かった。脱衣場のドアを開けると、汗と秋久の香りを強く感じた。それもそのはず、秋久は汗だくになったシャツもインナーも、全て洗濯籠に入れてあるだけだった。一夏が呆れながら、シャツを拾い上げた。今日はとても暑かったし、汗だくになる。恐らく、秋久も全力で走ってきたのだろう。拾い上げたシャツは汗をたっぷりと吸い、少し重かった。

 

 洗濯機に入れるため、更に持ち上げる。縦型洗濯機で1メートル程の高さがある。シャツが顔に近づいた。

 

「…ぁ」

 

 ふわり、と汗の香りがする。ここよりも濃い秋久の匂いも。

 シャツが顔に近づく。否、顔がシャツに近づく。より強く香りを感じる。先ほどのタオルケットとは比べ物にならない匂い。強い男の匂い。鼻からだけでなく、口から吸う呼気にも香りを感じているような心地。

 いつの間にか鼻先がYシャツの襟にめり込んでいた。息を強く吸う。香りが鼻腔を抜け、脳髄を痺れさせる。まるで感電してしまったかのような衝撃。一夏の目は驚きで見開かれているのにもかかわらず、視界が一瞬だけ白くなった。

 

 ―ヤバい。コレはヤバい。

 

 常習性のある麻薬的な感覚。男臭い、汗臭いはずなのにクセになる。戻れなくなる。今のはたまたま(・・・・)鼻の近くにシャツがあり、偶然(・・)匂いを感じてしまっただけだ。それなのに、この衝撃。雷撃と共に肌が粟立ち、産毛が逆立った。

 

 『匂い』とは何か。一説には空気中に漂う化学物質を鼻孔の細胞が感知し、ソレを脳へ伝える刺激が『匂い』として感覚しているといわれている。

 『匂い』には個人差がある。ある人が心地良いと感じる匂いが、ある人には不快だと感じることがある。それはその人が持つ遺伝子情報に左右されるといわれている。

 つまり、その人が『良い匂い』と感じるモノは本人に取って有益な物質であり、『嫌な臭い』と感じるモノは不利益な物質である場合がある。

 有性生物の多くはフェロモンを発生させている。これは異性を惹きつけるためだ。また、子孫を残す適齢期であることをアピールする目的もある。より多く、より強い子孫を残すための仕組み。両性にとって有益な子孫を残すためのシステム。

 フェロモンは化学物質であり、人のフェロモンは空気中に散布される。それを、そのフェロモンを心地良いと感じる相手こそ、遺伝子的に、本能的に『合う』相手だともいえる。

 さて、一夏は秋久の匂いを良い匂いと感じた。しかも、濃い男の匂いを良いと感じた。小難しい理屈は抜きにしても、秋久の匂いを良いと感じてしまった。

 もっというと、秋久の匂いに脳を痺れさせ、下肢から力が抜けそうになるほど反応させてしまっている。

 

 理性の一夏が声をかける。『コレはおかしい。ここで踏みとどまるべきだ。男が男の臭いを良いと思うわけがないだろう』と。

 もう一人の一夏が声をかける。『いいじゃないか。痺れたんだろう?この匂いをもう一度味わいたいんだろう?誰も見ちゃいないさ』と。

 

 先ほどのは偶然(・・)嗅いでしまった。コレを意識的に嗅いでしまえばどうなるか。あともう一歩踏み出してしまえばどうなるか。踏み出すのま、踏みとどまるのも怖い。ただ、身体が、意識がもう一度ソレを求める。胸と下腹部の奥が切なくなる。鼻先からシャツが離せない。あと一回。もう一回だけ―

 

 その時、音を立て風呂場のドアが開いた。

 

「ふー…うわっ!?」

「ひゃぁ!?」

「なっ!?な、ななななんでいんの!?なにしてんのぉおお!?」

「い、いや、着替え持ってきたついでに洗濯してやろっかなって」

「ううううん!ありありがとな!?でも俺出るから!風呂上がるから!!」

 

 慌てふためき、呂律の回らない秋久。せっかく開けた扉を大急ぎで閉めてしまった。近くでパニックになっている人がいると、存外冷静になれるものだ。

 

「なんだよー…男同士だし、平気だろ?」

「いいいいいやいやいやいや…今は違うっつーか…その…」

「どうでもいいからさっさとタオル使えよ。洗濯機回せねぇだろ?」

「だから……そこ出てくれないと出れないっつーか」

 

「さっさと…出ろ!!」

 

 扉に手をかけ、一夏が勢いよくドアを開けた。洗い場には、なんとか両手で前を隠している秋久がいる。なんとも情けない姿である。

 

「いっ、いきなり開けんなよ…」

「…男同士で前隠そうとすんなよ」

「っ…わ、わかった…手ぇどけるからな」

「おう。俺にも付いてたし、今更ビビんねぇよ」

 

 ゆっくりと手を避け、バスタオルを取った。がしがしと乱暴に頭を拭き始める。一夏とは異なる広い肩幅に薄くはない胸板。うっすらと線の見える腹筋に、だらしなく垂れ下がる男のシンボル。今の一夏とは異なる身体。

 

「なあ」

「な、なに?」

(ハラ)、力入れて」

 

 言われるがままに秋久が腹筋に力を込めた。腹筋の線が深くなる。そこに一夏が拳を当てた。そこそこの勢いで殴ったつもりだったが、大したダメージは与えられず、ぺちんと可愛らしい音が鳴っただけだった。

 数度秋久の腹筋を殴る。ぺちぺちと音が鳴る。堅い。そこには筋肉の堅さがあった。一夏の滑らかな腹部とは違う。

 

「アキ…」

「ん?もういい?」

「触っていい?」

「触ってっつーか、叩いて…うおっ!?」

 

 今度は腹部をなぞる。腹筋の凹凸をなぞり、窪みに指先を這わせる。

 

「ちょっ…くすぐったっ」

「…もうちょっとだけ…」

 

 違う。今の俺と全然違う。

 

 秋久が趣味として走り込んだり、腹筋をしているせいもあるのだろう。年齢の割には鍛えられた腹部だった。

 

「まじで…くすぐったいっ」

 

 指を動かす度に腹筋が震える。いちいち反応してくれる秋久が可愛らしい。また、この指先で彼をコントロールしているというサディスティックな悦びも覚える。

 

 

 

「だああ!やめろ!」

「きゃ!?」

 

 一夏の手を秋久が払った。

 

「ご、ごめん」

「あ、いや、俺も調子乗りすぎた…悪ぃ」

 

 空気が変わった。一夏の頭も切り替わる。

 

「あー…とりあえず、洗濯機回すから…」

「あ、あぁ…ありがと」

「そういや、飯は?」

「まだ、だけど…なんか適当に作るわ」

「俺のはいいや。あんま食欲ねぇし」

「じゃ、なんか甘いもん作っといてやるよ…すぐには食えないけど…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 ビスケットを細かく砕き、溶かしたバターと混ぜる。それを型に入れ、形を整える。余熱したオーブンに入れ、焼いていく。その間にチョコを湯煎しつつ、温めたクリームに流し込み、泡立てずに溶いた卵を流す。均一になるように混ぜ合わせ、焼きあがったタルトモドキに流し込み、冷蔵庫で冷やす。

 冷えるのを待っている間に、秋久は自分の昼食を作り始めた。一夏は要らないといっている。ならぱ、彼の昼食は非常にシンプルかつ手抜きになる。今日の昼食は白米とカップ麺カレー味にするらしい。湯煎用に用意したお湯を沸騰させ、カップ麺に注いだ。三分待てば出来上がり、である。

 

「…なんかさ」

「ん?」

 

 チョコとカレーの匂いが漂うリビングで、一夏が呟く。洗濯機のセットが終わり、リビングに戻ってきた。ついでに一夏の下着も一緒に洗っている。

 

「俺用のスイーツ作ってもらってるのに、作った本人がソレって…」

「でも、美味いしなぁ…カップ麺カレー味…」

「わかるんだけどさー…」

「あ、一夏も食うか?」

「一個は無理だな。そんなに食えねえよ」

「そっか…」

 

 秋久が席を立ち、器を二つ持って戻ってきた。ついでに一夏用の箸も持ってきている。

 三分経ったらしく、蓋を開けた。カレー臭が強くなる。よく混ぜ合わせたあと、一夏用の器に取り分けた。もう一つの器には少ないが白米が入っている。

 

「「いただきます」」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 食後は二人で洗濯物を干し、その後はだらだらと過ごした。チョコタルトが固まるまでは特にやることがない。

 途中で梓からメッセージが届いた。一夏の体調を気にかけていること、今夏のバスケットボール市代表は男女共に東中になったことと男子バスケット部部長からお礼を預かったという内容だった。また、志帆からも応援ありがとう、お大事に、というメッセージが届いた。

 

 

 

「アキー。三時ー」

 

 本を読んでいた秋久を一夏が揺すった。二時間ほど冷蔵庫でタルトを冷やしている。そろそろ固まった頃だろう。

 一夏用のアイスカフェオレを用意し、冷蔵庫から出したチョコタルトの固まり具合をチェックする。これなら切り分けても大丈夫そうだ。

 いや、昼ほとんど食べていない一夏ならばそのままでも良さそうだ。秋久は一夏が『ケーキをワンホール全部食べてみたい』と話していたことを思い出した。どうせならこのまま持って行くとしよう。

 

「ほい…お待たせ」

「わぁー…ってあれ?フォーク一本だけ?アキのは?」

「全部食っていいぜ」

「マジで!?」

 

 椅子から勢い良く立ち上がり、身を乗り出す一夏。直径十二センチのチョコタルトをワンホールである。秋久なら無理だと断るが、彼女は食べきるつもりらしい。

 

「いいのか!?ホントに!?」

「お、おう……残してもいいぞ?」

 

 残してもいい、の部分は耳に入らなかったらしい。先程までの『食欲がない』はなかったことになっているようで、目を輝かせながらタルトを見つめている。

 

「いただきますっ!」

 

 タルトの壁から一夏が侵攻を開始する。ザクザクと音を立て、壁を破壊する。口に運ぶと有塩バターの塩気とチョコの甘さが口に広がる。甘塩っぱい。相反するこの味覚が、一夏のフォークを更に進める。

 

「ん~…」

 

 満面の笑みで頬に手を当てて喜ぶ一夏。完全にスイーツを堪能する女子である。

 気付けばタルトはワンカット以上攻略されていた。秋久ならワンカットで十分なのだが、一夏のフォークは止まらない。次々とタルトを減らしていく。

 合間に甘めのカフェオレを飲み、口をリセットする。そして再びタルトを口に運んでは満足そうに微笑む。

 

「んふぅ~…ごちそうさま!」

「お粗末様…食欲ないんじゃなかったっけ…?」

「ほら、別腹ってヤツだよ。別腹!」

 

 

 

 蛇足ではあるが、この日、一夏はあまり夕食を食べず、一夏の分も半分ほど秋久が食べた。




あらすじにすると文字数が二十分の一になりました。びっくり。

そして、終了予定の三十話となりましたが…彼らはようやく夏休みになったばかりです。一年の四分の一です。もうちっとペースを上げねば…

ここまで続けられたのもお読みいただき、感想・お気に入り・評価をいただいている皆様のおかげです。

これからもお付き合いのほど、よろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep19.

お気に入り500件、UA35,000越え…ありがとうございます!ありがとうございます!
また、いつもご感想、誤字脱字のご報告を頂き、誠にありがとうございます!やる気が漲ります!

この場をお借りし、御礼申し上げます。
これからも、よろしくお願い致します。


「珍しいな。アキがタブ弄ってるなんて」

「んー…まぁ、ちょっと」

 

 忙しそうにキーボードを叩き、たまに画面を操作する。

 

「なにやってんの?」

「まぁ、いろいろ」

 

 秋久は小遣い稼ぎのため、束に頼んでちょっとしたソフトウェアの改良を行っていた。画面ではソフトウェア開発支援ツールが開かれ、英数字が入力されている。彼の手許には参考資料とアイスコーヒーが置かれていた。

 束からの依頼は『なんかもっさりしてるからいい感じに作り直しといて』である。現役SEが聞けば発狂モノの依頼だった。

 

 夏休みに入り、時間はある。課題は全て終わらせた。全体を見たが、二週間あればやりきれそうだ。

 秋久が夏休み前に遊んでいて、心苦しく感じたことがある。それは千冬から渡されている生活費を使ってしまったことだ。自分で稼いでもいない金を遊びに使う。親代わりではあるが、厳密には親ではない千冬が稼いだ金である。あまり気持ちよく遊べなかった。資金を欲するにはまだ理由があった。来月には出費を控えている。

 千冬からは『遊びも学びの内だ。気にするな』と言われているが、そこは男のプライドか、芽生えた自立心か、甘え続けるつもりはないようだった。

 

 一般のアルバイトは中学生だと断られてしまうし、親友の実家である五反田食堂は十分に人手が足りている。多くの友人たちは家事の手伝いで小遣いを稼いでいるかもしれないが、残念ながら秋久は自身で家事を行っている。では、どうするか?千冬の仕事は手伝えそうにないし、そもそも何の仕事をしているか教えてもらえない。残った頼みの綱は束だけ。藁にも縋る思いで頼んでみたところ、快く引き受けてもらえた。

 

「ふーん…」

 

 一方の一夏は放置されている。画面を見ても何をしているかわからないし、ちょっと齧ってみようと参考資料を借り受けてみたが、全く分からない。英語がわからないのではなく、どれが何を意味してどういう働きがあるかが全く分からない。足し引き算を理解していないのに、方程式を解けといわれているようなものである。ちんぷんかんぷんだった。

 

 

 

 一夏も最初は秋久の邪魔にならないように雑誌やマンガを読んでいた。だが、秋久も朝からずっとタブレットを操作し、昼食の素麺を食べた後もずっとキーボードと格闘している。ケータイのゲームにもテレビゲームにも飽きてきた。この部屋で手を付けていないのは秋久の蔵書ぐらいだが、アレは読み始めると眠ってしまう。いよいよ暇になってきた。

 

「なぁ、アキ」

「ん?」

「暇なんだけど」

「宿題は?」

「一緒にやったじゃん」

「…大人しくしてて。三時になったらオヤツ出すから」

 

 こうして会話している最中も、秋久の視線はタブレットに注がれたままだ。彼が本に夢中になって放置されることはままある。本を読んでいる間は特に気にならないし、慣れたものだ。だが、タブレットに夢中になられると少し感覚が異なる。まるで親友をタブレットに取られてしまったかのようだ。

 ちなみに、本日のオヤツはプリン。昼食中に蒸してあり、今は冷蔵庫で冷え固まるのを待っている。小分けにしたものを六個作っていた。一夏は放置した罰として四つは食べてやる、と心に決めた。

 真剣な顔つきでタブレットを操作し、時折資料をめくって内容を確認する。なかなかにサマになっているが、一夏は面白くない。段々と一夏の頬が膨れてきた。

 

 

「なぁ」

「ん?」

「遊ぼうぜ」

「これ終わったらな」

「いつ?」

「まだ無理」

「いーつー?」

 

 徐々に一夏が近付く。足音と気配を殺して。

 

「今週中」

 

 秋久は一夏に気付かない。こっそりと一夏がダイニングテーブルの下に潜り込んだ。

 

「待てるかー!」

「のわっ!?」

 

 一夏がテーブルの下から秋久に飛びついた。飛びつくというよりも、タックルである。一夏が椅子に座る秋久の膝にのしかかる形になった。たまらずに秋久が一夏の方を見た。

 

「ねぇ?アキ…あそぼ?」

「ぐぅっ…」

 

 先日の一件以降、一夏からのボディタッチが増えてきた。今では一夏を腕を組んでも取り乱さない程度には慣れてきている。ただ、抱きつかれたのは初めてだった。膝の上が暖かく柔らかい。

 秋久の顔が赤くなる。青くならない所を見ると、ある程度平気なようだ。いろいろ当たってしまい、否が応でも一夏を意識させられる。

 さらに一夏の、美少女の上目遣いである。甘えておねだりする様がなんとも愛らしい。秋久の決意が揺らぐ。

 

「…た、頼む…これだけはやらせてくれ…」

「なんで?」

「かか金要るから…」

「千冬姉に言えばいいじゃん」

 

 おねだりを拒否され、またもや頬を膨らませる一夏。秋久の眉間に皺が寄り、表情が険しくなってくる。何かを言おうとしているが、言葉を何度も飲み込んでいるようだった。視線が泳ぎ回り、挙動不審になっている。一夏も少しやり過ぎたか…?と危惧をし始めた頃だった。

 

「そっその…お前の誕プレぐらい…自分で稼いだ金で買いたい…」

 

 少し拗ねた様子で秋久が呟いた。不意打ちだった。お前のために金を稼いでいる、と秋久は言っている。

 一夏はある少女マンガのシーンを思い出した。恋人が誕生日にペアリングを買うため、慣れない肉体労働する話。マメだらけの手でリングを渡すシーン。

 それともう一つ。違うマンガだが恋人にサプライズプレゼントを渡すため、アルバイトに精を出す。だが、それがすれ違いを生んでしまい、彼らの関係に亀裂が入る。結局、彼が理由を話して誤解を解き、彼らは更に絆を深める。

 両方とも読んだときは大して感動しなかった。しかし、現実に起こるとそれは違う。秋久と恋人関係という訳ではないが、コレは結構クる。胸が少し切なくなった。

 顔が緩みそうになり、一夏は慌てて下を向いた。何故か耳まで熱くなる。チラリと上目で秋久を盗み見ると、彼は『お前のために頑張ってる』と言ったことが恥ずかしかったのか、唇を尖らせて余所を向いていた。その様子がまた一夏の心を擽った。

 

「ふ、ふーん…」

 

 ゆっくりと、テーブルに頭をぶつけないように一夏が秋久の膝から降りる。そのまま彼に背を向けて、テーブルから出てきた。緩みっぱなしの表情を見られるのが恥ずかしいらしい。

 

「わかった。大人しく待っててやるよ…そん代わり、三日だからな」

「ぜ、善処します…」

 

 ―そっかぁ…俺のために頑張ってくれてんだ…

 

 先程までの不機嫌さはどこへやら。既に一夏の胸に吹き荒れていた嵐は止み、今では暖かい日差しが射していた。

 

 

 

 秋久は後悔していた。まず、一夏の為に頑張ると伝えるのが恥ずかしかったのだ。お互いに遠慮の無い関係だと思っている。別に伝えても構わないかもしれないが、サプライズにして喜ばせてやりたかった。昔からサプライズで何かをしてやると大喜びしていた一夏。普段から何かと世話になっている彼女を喜ばせたかった。

 物理的に一夏をどかせることはできた。だが、それだと一夏は膨れっ面のままだし、長引かせると面倒くさいことになりそうだった。それに、一夏の誕生日までまだ一ヶ月以上ある。その間ずっと不機嫌というのは、秋久の精神健康上よろしくないし、彼女の保護者たちにも何か言われるだろう。

 それはともかく、期限が縮まってしまった。束からは一ヶ月以内と言われているが、先程、一夏に三日と約束してしまった。理由を明かした以上、大人しくはしてくれるだろうが、それでも時間が足りない。今まで以上に頑張らなければいけない。

 

 

 

 それから三日間、秋久の予想通り一夏は秋久の妨害を止めた。それどころか、身の回りの世話を全て負担した。一夏は早く秋久と遊びたかったし、自分のために頑張ってくれている人間を邪魔するほど意地悪ではなかった。

 

 秋久自身の頑張りもあり、何とか三日後の26時、無事に完成させて束にソフトを提出する事ができた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「お。あっくんからだ」

 

 秋久が束にソフトを送った翌朝、束がソフトを受領した。元々束が自身でやろうとしていたタスクである。彼女なら一日あれば余裕で終わらせるような仕事。そこに秋久か仕事がないか聞いてきたのだった。

 

「ふむふむ……へぇー…ほぉー!」

 

 元々は数々の人間が継ぎ接ぎで作ったソフトなのだろう。ソースはめちゃくちゃ、機能も無駄があった。それを秋久が手直しし、スッキリとした形に整えた。

 

「…なるほどなるほど…やるじゃん。あっくん……これなら花丸だね!」

 

 束はソフトの出来映えによっていくつかランク分けをしていた。努力賞・佳作・入賞・大賞。これは大賞の出来映えだった。束が手を加える所はほとんどなく、このままクライアントに提出しても問題なさそうだった。

 

「コレは…ボーナス付けてあーげよっと」

 

 いっくらにしよっかなぁ~♪などと鼻歌を歌いながらコンソールを操り、現在の私有資産を確認し始めた。ちなみに、束は結構な金持ちである。今まで取得してきた特許に研究、IS関連技術等々。企業クラスの資産を持っている。なお、その資産は千冬から紹介された会社に運用を任せている。

 秋久に渡す金額が決まった。束の身内贔屓が発揮される。

 

「あ、束さんだよー。あのさー、今からお金出したいんだけど…そうそう。うん。あ、金額はねー」

 

 

 

 後日、秋久の口座に束からの報酬が振り込まれた。金額は貧乏性の秋久が目を剥くほどだった、とだけお伝えする。




あっきーが目を剥く金額を出しても、束さんの懐は痛まない。そりゃ、一夏ちゃんの洋服やらポンポン買うわな。

普通に個人でISなんていうトンデモスーツを造ったら超大金持ちですよね。開発費いくらか想像も出来ないけど、余裕でペイできそう。そんな技術ならいくらでも金払うとこ多そうですし。
ということで、この世界線の束さんは超大金持ち。本人は興味ないから放置してましたが、見かねたちっふーに言われて一応運用中。

ご愛読いただき、ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep20.

きもだめし in あっきーの部屋


 唸るような汽笛が低い音を響かせる。夕陽が全てを赤く染める。血脈のようなパイプラインを、大地に突き立てられ排煙を撒き散らす煙突を、真っ赤に色づかせる。時間が経つにつれ、東から宵闇が浮かび上がる。赤かった景色が紫、黒へと塗り替えられていく。黄昏時から夜に変わる。

 とあるマンションの一室。女性が眠っている。年齢は二十台半ばといったところか。やがて彼女は何かに気付き、目を覚ました。寝室に何かの気配を感じたようだった。きょろきょろと辺りを見回すが、自室にはもちろん誰もおらず、いつも通りの真っ暗な部屋があるだけだった。

 目を覚ましたついでに手洗いに向かうらしく、ベッドから出た。真っ暗な廊下を歩き、トイレに入った。用を足した彼女が向かったのは洗面台。手を洗い、ドレッサーに映る自分を見る。寝癖で髪はぼさぼさである。手櫛で髪を整えていると、ドレッサーの明かりが落ちた。停電だろうか。再び明かりが点く。鏡に映っているのは彼女だけではなかった。

 

 真っ黒な眼球を持つ少女が、真っ黒な口を開けて彼女の前に立っていた。

 

 

 

「ぴゃああああ!!!」

「きゃああああ!!!」

「ぎょわああああ!!」

「おわっ!?」

「冷た!?」

「ちょっ!五反田!一回止めて!斧崎は電気点けて!!」

「やだやだやだぁ!弾!消して!!」

 

 モニターが真っ暗になり、部屋が明るくなった。今日は秋久の部屋でホラー映画鑑賞会を行っている。最初からホラー映画鑑賞会を行う予定ではなく、夏休みの課題を教え合う勉強会の予定だった。

 参加メンバーはいつもの五人ともう一人。先ほどの叫び声などの順に一夏、梓、数馬、秋久、弾、志帆。彼らは昼過ぎから集まり、秋久が作ったレアチーズタルトなどを食べながら、勉強会を続けていた。夕食をどうするかという話になり、このまま食べて帰る流れになった。ちなみに献立はカレーだった。

 女子三人と秋久が買い出しと調理を行い、男子二人がそのあとに何か観ようということで、映画を借りに行ったのだった。先ほどまで上映されていたのは、数馬が借りてきたホラー映画。雰囲気作りのために部屋のカーテンを閉め、わざわざ電気まで消していた。

 

 序盤の幽霊が出てくるところで、一夏と梓が叫び声を上げ、飛び上がって志帆と秋久にしがみ付いたのだった。そして、数馬がテーブルを蹴り、コップを倒してしまった。弾と絨毯にジュースが零れた。

 

「あーあー…取れるかなぁ…」

「あ、ありがと。田端さん…ほら、美智華も離れろって。俺も手伝ってくるから」

「むぅりぃ…腰抜けたぁ…」

 

 瞳に涙を浮かべながら、一夏が秋久の腕にしがみ付いている。梓はフル回転で鼓動を続ける心臓を抑えるため、胸に手を当てて何度も深呼吸を繰り返していた。

 弾は志帆から雑巾を受け取り、ズボンにかかってしまったジュースを拭き取っている。オレンジジュースだっただけ、まだマシかもしれない。

 

「…最悪だぜ…」

「……悪かった。ホントごめん」

「っていうか、苦手ならホラーなんか借りんなよ…」

「いや、ほら…怖いシーンで梓ちゃんとか美智華ちゃんが俺に抱きついてくれたりとかさ…期待しちゃうじゃん…?」

 

 場の空気が一気に白けた。数馬に冷たい視線が刺さる。女子たちの視線はもちろんのこと、弾と秋久までもが白い目で数馬を見ていた。

 

「……誠にすいませんでした…」

 

 

 

「さてと…他の観ようぜ?何にする?」

「……あと残ってるのって、シリーズもんじゃん…」

 

 変形するロボットアクション大作が何故か三本入っていた。現時刻は19時を回ったところ。映画の上映時間は一本当たり二時間。ここから見始めてしまうと、確実に日付が変わってしまう。

 

「…なに考えてんの?」

「……バカだ…いや、アホだろお前ら…」

「…どうしよっか…もう解散する?」

「「えぇー…」」

 

 不満の声を上げる二名。解散の雰囲気を作ってしまったのは彼らが原因なのだが、そこには言及していない。これらなら本当に勉強会をしただけになってしまう、というのが残念でならないようだ。だが、彼らの気持ちもわからなくはない。美少女三人と同じ空間にいて、色気のない勉強会をして、何もイベントが発生しないまま解散。しかも、梓は志帆と一緒に帰るだろうから、男二人で帰らなければいけなくなってしまう。思春期の男子としては大変辛いところである。

 

「あ、あー…そういえば…こんな話聞いたことあるんだけどさー…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 五反田食堂(ウチ)の常連さんが教えてくれたんだけどさ。あ、ちなみに常連さんって趣味で釣りやってる人で、よくウチにも釣ってきた魚捌いてくれ!とか言って持ってくんのよ。まぁ、俺らもゴチソウになったりするんだけどさ。

 

 で、その常連さんがこないだすっげぇ体験した!って教えてくれたんだよ。

 常連さんが船で夜釣りに行ったんだって。でも、全然釣れなくて、夜中まで頑張ったんだけど、一匹も釣れなかった。いつもだったら二、三匹は釣れるんだけど、その日は全然だったんだって。

 おかしいなー、って思ってたけど、たまにはそんな日もあるか。って納得して、帰ろうとしたんだ。港の方にナビをセットして、自動運転にしたんだって。でも、常連さんが知ってる方じゃなくて、なんか全然違う方向に向かっていったんだって。

 

 勘違いしてたのかな?なんて思ってたらしいんだけど、色々確認すると、やっぱり違う方向に船が走って行ったらしい。で、しばらくすると、海になんか浮かんでるのを見つけたから、手動操舵にして近寄ったんだ。そしたらさ…そこに…『真っ白な人』が浮いてたんだって…

 

「ぴぃ!!」

「やぁぁ!」

「お、おい…怪談は…」

 

 続けるぜ?で、近づくとまぁ…そのご遺体が見えてさ。118番で通報したんだよ。海保の船が来るまでその現場に居ようとしたらさ、なんかその『白い人』が動いて見えたんだって。波でぷかぷかしてるから、動いてみたいに見えるだけかなーって思ってたらさ、そいつが頭こっちに向けて近づいてくるんだよ。生きて泳いでるみたいに。で、聞こえたんだって。ざぶざぶいう波の音の間に…

 

『一緒に来て』 って…

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「いやああああ!!」

「きゃああああ!!」

「うわっ!」

「きゃっ!」

 

 先ほどと同じく、一夏と梓がそれぞれの相方にしがみ付いた。半分泣きながら相方にしがみ付き、震えてしまっている。秋久は一夏を落ち着かせるために頭を撫で、志帆は梓の背中を優しく叩いてやっていた。

 

「まぁ、聞いただけの話だし、ウソかもしんねーけどさ」

「ウソでも怖いよ!アホ弾!」

「そ、そうだよ!五反田クンのせいで寝れなくなったらどうしてくれるの!?」

「でも、創作だったとしても、なかなか面白かったわよ?」

「そこまで怖くはないけど…まぁ、アリっちゃアリだな」

「やっべぇ…オレ、トイレ行けねぇかも…」

 

 三者三様のリアクション。ここまで怖がってもらえれば、話した弾としても満足なようだ。恐怖耐性ほぼゼロな一夏と梓はともかく、数馬まで怖がっているのは想定外だったようだ。

 

「うっし。じゃあ、次はオレな」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 コレ、オレが体験した話なんだけどさ。オレの親父って登山が趣味なんだよ。で、そん時はオレも一緒についてったんだ。確か、飯盛山って山だったと思う。初心者向けの凄い登りやすい山でさ、俺の登山デビューってこともあって、そういう山にしてくれたんだと思う。

 山ってすっげぇ天気変わりやすいんだよ。さっきまで晴れてた、って思ったら、急に雨が降り出してきてさ。もうゲリラ豪雨並みの雨だったね。親父曰く近くに小屋があるから雨宿りしようってことになって、そこまで走って行ったんだ。

 五分ぐらい雨の中走って、山小屋まで行ったんだけど、そこはなんか山小屋ってよりも、ちょっとしたコテージって感じのトコだった。親父も何回かその山には登ってたんだけど、見たことない小屋だっていってた。

 で、その小屋の軒先で雨宿りしてたら、中からお婆さんが出てきてさ。

 

「あ。アタシこの話知ってる」

「俺も。オチが見えたな」

「いやいや、お二人さん。数馬ならこっから面白くしてくるって。オリジナリティとクオリティ溢れるお話に!」

 

 外野、うるせぇ。

 そんで、お婆さんに言われて、中に入れてもらったんだよ。雨ん中、山走てったから、体も冷えちまってたし。囲炉裏もあって、中は暖かかったしさ。温かい茶も出してもらって、俺も親父も眠っちまったんだよ。まぁ、今思えば薬かなんか盛られてたんかも知れねぇな。

 いつの間にか寝ちまっててさ、変な音が聞こえて目が覚めたんだよ。そしてら、横で婆さんが包丁研いでやがんの。で、俺に気づいてさ。

 

「えぇえぇ…随分お疲れのご様子…今日は泊まって行きなされ…いいお肉が手に入りましたからねぇ…」

「何の肉かって?それはねぇ…」

 

『イベリコ豚だあ!』

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「…なーんつって…」

 

 空気が冷たい。皆の視線も冷たい。数馬の話が終わった後、たっぷり三分は誰も話さなかった。空気が重い。

 

「な、なんか言ってくれよ…」

「…ないなー」

「うん。薄々感じてたけど、つまんないね。御手洗って」

「マジでねーわ。コレは」

「あ。でも、ほら。わたしたちのために怖くない話してくれたんだよ!きっと!」

「そ、そうよね!おかげでちょっと涼しくなったし!」

「ア、アキ!アキはなんかないの!?」

「俺?あんまり怖い話のネタはないけど…」

「お、斧崎クン!怖くなくていいからね!?」

「そ、そう!怖くなくて面白いヤツ!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 まぁ、俺の話っていってもなぁ…怖いってより、不思議な話だな。

 コレ、俺がちっこい頃…確か、小学二、三年ぐらいだったかな?多分それぐらい。その頃はよく一夏の家に泊まっててさ。まぁ、もう一人の幼なじみの親御さんに面倒見てもらってたこともあって、兄弟みたいに一緒にいたんだ、一夏とは。

 それで、多分今ぐらいの時期だったかな?もうちょい秋よりになってたか、今ぐらいだったか。スッゴい雷が鳴ってた日だったよ。夜までずっと鳴ってた。

 で、その頃の一夏って超ビビりでさ。一緒に寝ようってなったんだよ。いつもは別の部屋で寝たり、布団は違ってたりしてたんだけど、その日は同じベッドで寝たんだ。

 

「え?お前らそういう関係だったの?」

「マジかー…秋久ソッチだったかぁ」

 

 …続けるぞ?

 で、ベッドでうとうとしてても、雷が光ったり鳴ったりするタイミングで、一夏がビクッてなるんだよ。なかなか寝れなくて殺意覚えた記憶があるわ。

 

「………」

「で、斧崎?こっからどう持ってくの?」

 

 んー…まぁ、うとうとしてたし、見間違いかもしれないけど…部屋にもう一人誰かいたんだよな。雷が光るタイミングで黒い誰かが見えてたからさ。

 ああ、千冬さんって可能性はないぜ?あの人、その日は確か

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「待って!アキ!!それ以上話さないで!わたし今からその部屋で寝るんだよ!?その部屋で寝てるんだよ!?」

「……そ、そうなの?」

「無理!寝れない!!ぜえぇったい無理!!」

「怖くないだろ?不思議な話じゃんか」

「…え?美智華ちゃんってアイツの布団で」

「よぉし!バカが変な話する前に、アタシがとっておきの」

「もういい!もういいよ!!これ以上わたしの恐怖スポット増やさないで!あーあーあー!きーこーえーなーいー!!」

 

 

 

 この日はこれでお開きとなった。時間は二十一時を回っている。彼らは泊まる用意を持たずに来ている。一度家に着替えを取りに戻るという選択肢が無いわけではないが、それなら皆家に帰るだろう。

 

 志帆と梓。弾と数馬という組合せで、彼女ら彼らは秋久の部屋を後にした。彼の部屋には秋久と一夏だけが残る。これもいつものことだった。

 

「…なぁ」

「ん?なに?」

 

 二人で後片付けをする。片付けといっても、皆が使っていたコップを洗う程度。二人で始めてしまえばすぐだった。

 

「今日も泊まる」

「いや、帰れよ…」

 

 泊まっていい?ではなく、泊まる、である。

 

「帰れるか!お化けがいるかも知んねえんだぞ!?」

「今までその部屋で寝てて、何もなかったんだろ?大丈夫だって」

「馬鹿か!怖いんだよ!っつーかあの家で風呂とか入りたくない!頭洗ってて鏡見たときに黒いの見えたらどうすんだよ!死ぬわ!」

「死ぬわけねぇだろ…」

「とにかく無理!風呂も寝るのもこっちでするからな!」

 

 

 

「なぁ。ホントにやんなきゃダメ?」

「責任とれよ」

 

 洗い物のあと、一夏が風呂に入りたいと言った。当然、秋久はいってらっしゃい、というのだが、なかなか一夏は動かなかった。一人で風呂に入れない、と主張する一夏。それだけは勘弁して…と逃げようとする秋久。しばらく押し問答が続いた結果、秋久がとりあえず見える範囲、若しくは声が聞こえる範囲にいる、ということが決まった。

 

 脱衣所では一夏が服を脱ぎ、秋久が目を閉じて背中を向けている。紳士的配慮でもあるが、一夏の裸身を目にしたときに、どうなるのかわからないというのが正直な所であった。

 今のところ、スキンシップぐらいは問題ない。セクシャルでないハグも平気になった。だが、視覚情報だけは試していない。桃色メディアを見てしまった時のように、吐瀉物を撒き散らしてしまうとそれこそ大惨事である。

 

「いいぜー」

 

 開けっ放しのドアから一夏の声が聞こえた。素早く浴室に入る。秋久が一夏を見てしまうのを防ぐための配慮だ。

 

「もう入った?」

「おう。大丈夫だぜ」




怖がりな娘って可愛いよね。

後半に続きます。
次回は11月12日23時ごろの予定です。


お読み頂きありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep20.5

前回のあらすじ

・あっきーのお部屋で勉強会!
・でも何故か肝試しな空気に…一夏ちゃん怖いの苦手なんだけど…
・あっきーが一夏ちゃんの部屋でお化けを見たとか言い出した!帰れるかボケェ!

というお話の続きです。


「なぁ!居る!?」

「いるぞー」

 

 浴室のドアを半開きにし、一夏がシャワーを浴びながら叫ぶ。バスマットが濡れてしまうが、それは仕方がない。ちなみに、秋久は浴室に背を向け、ケータイを弄っている。

 

「聞こえねえよ!」

「頑張れー」

「お前も入れよお!!」

「むーりー」

「…なぁ、マジで一緒に入ろうぜ。怖いんだってば」

 

 シャワーの音が消え、浴室のドアが開く音がした。予想外の音に、秋久の背中が大きく震える。それでも、彼は頑なに背を向けたままだった。

 

「だから、無理だって。風呂場で吐くぞ?いいんだな?」

「………」

 

 一夏が無言でシャワーヘッドを秋久に向け、数瞬だけ放水した。秋久の頭と背中がずぶ濡れになる。もちろん、ワザとであり、お湯ではなく冷水をぶっかけたのだ。

 

「冷たっ!?何しやがんだよ!?」

「あ。ごめーん。かかっちゃったー…濡れてると風邪引くし、さっさと風呂入ろうぜー。エアコン点いてるし」

「てんめぇ…!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 一夏の悪戯?により、秋久も入浴することになった。服を脱ぎ、目を閉じながら浴室に入った。手探りで探し当てたバスタブの縁に一夏に背を向けて座っている。

 一夏は頭を洗っている間中ずっと話していた。秋久の相槌がなかったりすると、大声を上げるので秋久もシャワーの音に負けないように声を張り上げている。なんとも賑やかなバスタイムになった。

 

「頭洗ってやろうか?」

 

 全身を洗い終えた一夏が声をかけた。

 あとは湯船に浸かり、身体を温めるだけなのだが、浴槽は秋久が足湯にしてしまっている。

 

「いらねえよ。さっさと出てくれ…」

「まぁまぁ。遠慮すんなって」

「うぉわっ!?」

 

 またもや一夏がシャワーを秋久の頭にぶっかけた。今度はちゃんと温かいシャワーだが、目を閉じている秋久は再び叫び声をあげた。

 

「ちょ!?やめろ!お湯が中に入る!」

「無駄な抵抗はやめて、大人しく指示に従いなさーい」

「わかった!わかったからとめろ!」

 

 

 

「痒いところはありませんかー」

「………」

「胸押しつけんぞ。背中に」

「やめろ。多分吐くから……特にないよ」

「なんか犬洗ってるみたいで楽しいな」

「犬扱いすんな」

 

 一夏に手を引いてもらい、大人しく椅子に座って秋久は頭を洗われていた。彼は浴室に入ってからずっと目を閉じている。犬扱いは些か不満を感じているが、下手に抵抗するとどんな扱いを受けるのか…秋久の大体の弱みは一夏に握られていた。

 

 秋久の頭を洗いながら、鼻歌を歌う一夏。それなりにご機嫌は良いようだった。シャンプーを流すことを告げ、流し終わったあとにコンディショナーまでつける。

 

「背中も流してやろうか?」

「いらねえ。マジでいらねえから。頼むから出て」

「美少女のごほーしだぜ?滅多にねえぞ?」

「いいから。っつうかシャワー貸して」

 

 シャワーヘッドを要求し、秋久が左手を背中に回した。左肘のすぐ上の部分に三条の傷痕が一夏の目に入った。以前、体育教師に付けられた痕だ。もうすでに瘡蓋もなくなっており、他の皮膚よりもやや薄いだけになっている。

 

「おい。なんだよ…早くんひいっ!?」

「あ、悪ぃ…」

 

 無意識に一夏はその傷痕をなぞっていた。本来なら付かなくてもいい痕。一夏のために、彼女のために付いてしまった痕。そういえば、ここのところ秋久が半袖を着ていないことを思い出した。暑くても長袖の袖を捲ったり、五分袖を着ていることが多い。

 

「いや…なんか…その…」

「……別にソイツは気にしてねえよ。あんま見せびらかすモンでもないしな。それより、シャワー、早く貸してくれ」

「お、おう…先に出てるわ」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「……っぴぃ!」

 

 ガタリ、と窓が鳴った。どうやら近くをトラックのような大型車が通り過ぎたようだ。常夜灯の点いた部屋では、秋久の規則正しい寝息以外の音がしない。時刻は二十三時を回っており、いつもなら一夏はとっくに夢の中である。しかし、今日は勝手が違った。

 

「ア、アキー?」

 

 声を掛けるも、一夏の眠れぬ夜の元凶が起きる気配がない。眠るように暗示をかけても、羊を数えてみても、なかなか眠気はやってこなかった。目を閉じた瞬間に黒い影が一夏を覗き込んでいる…そんな妄想に取り付かれてしまっていた。

 

「…気持ちよさそうに寝やがって…」

 

 完全な八つ当たりだが、一夏には関係ない。夜に怪談を聞かせた秋久が悪いのだ。

 

「ひっ」

 

 今度はエアコンの風量が強くなった。神経が過敏になり、少しの音にでも反応してしまう。

 

「……こりゃ、責任とってもらわねえとな…」

 

 なんとも便利な言葉。先程の混浴?で取り終わったはずの責任を、もう一度取れという、高利貸しも驚きの理論を展開しだした。

 

「っつーことで…」

 

 秋久が起きないように、タオルケットを捲って彼の寝床に潜入する。彼は右側を下にし、腕を投げ出して眠る癖がある。彼の左腕をゆっくりと持ち上げ、右腕を枕にした。そのまま彼の胸元に顔を近付ける。汗の匂いは薄く、いつもの石鹸の匂いがする。一夏は大きく鼻で息を吸った。

 

「あー…やっぱ落ち着く…」

 

 落ち着く香りと人肌の温もり。先程までの不安が、息をする度に薄れていく。以前なら彼とこうして身体を近づけ合うことを拒んでいただろう。だが、今の一夏に嫌悪感はない。むしろ彼から離れている方が不快だった。

 男同士の同衾…言葉の上ではあまり好ましいものには見えない。しかし、秋久は一夏のことを身体上では女だと認識しているようだし、一夏も同様の認識を持っている。ならば今だけ。今だけならこうして温もりを貪ったとしても、許されることのように思える。なにせ見た目の上では男女の同衾。良し悪しはともかく、男同士よりかは自然に思えた。

 

「男に戻ったら、こういうのも気持ち悪くなっちまうのかな…」

 

 自らの言葉に、少し寂しさを覚える。恐らく以前と変わらず彼は接してくれるだろう。だが、一夏からこうして接していくことは減るだろう。秋久の顔を見上げる。一夏の苦悩など知らず、穏やかに寝息を立てている。

 

「…暢気だよな…お前」

 

 少しかさついた彼の唇をなぞった。くすぐったかったのか、少し顔を動かす。そのあどけない動きに、一夏の顔が綻び、更なる嗜虐心が首を擡げてくる。

 

「…コレ、楽し…いや、起こしたらマズいな…」

 

 万が一にも彼を起こすと、追い出されるだろう。一夏はこの場所を譲りたくなかった。だが、彼の顔を見ていると悪戯を続けたくなってしまう。名残惜しいが、一夏は秋久に背を向けた。

 

「…ぁ…ジャストじゃん…」

 

 今まで秋久に胸が当たってしまうのを警戒し、身体をそこまで近付けなかった。しかし、秋久の胸に後頭部を預けると、より密着感が強くなった。そのまま身体の位置を動かして、秋久に後背部を密着させた。近付くことのメリットはもう一つ生まれた。距離が近くなることで、秋久の肘が曲がる。まるで後ろから抱き締められている気分になる。

 

「……ぁー…コレは…」

 

 温かく、落ち着く。抱き締められ、守られているような安心感。一夏はだらしなく垂れ下がる秋久の左手に、自身の両手を重ねた。少しだけ顔を上に向け、耳を胸板に密着させると、秋久の心音が聞こえる。リラックスしている、とてもゆっくりとした鼓動。彼の音に釣られ、一夏の心音もゆっくりになっていく。

 

 …俺、これから一人で寝れるかな?

 

 ほんの一瞬だけ不安がよぎるが、彼の温もりには勝てず、一夏は意識を失った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 翌朝、いつもの時間に目を覚まし、秋久の温もりと微睡みを貪ってから、一夏は秋久の布団から抜け出した。

 パジャマを着替え、顔を洗い髪を整える。エプロンを身に付けてから朝食を準備する。一夏が和食派なので、献立も和食中心となる。秋久の部屋の冷蔵庫の中身は把握している一夏は、手早く味噌汁を作り、ウインナーエッグ、納豆と白米、作り置きのほうれん草のお浸しを用意した。朝から動ける上にご機嫌な彼女は、鼻歌を歌いながら朝食の準備を終わらせた。

 

 

 

 ーカーンカーンカーン!

 

「おーきーろー!あーさー!」

「ぬぇわっ!?」

 

 突如として鳴り響いた大音量に、文字通り秋久は飛び起きた。何のことはない、一夏が未使用のフライパンの底を洗った後のお玉で叩いたのである。これをやると調理器具が傷むが毎日やらなければ大した問題にはならない。

 

「結構デカい音すんだな。コレ」

「マンガみたいなことすんなよ…一気に目覚めたわ」

「一回やってみたかったんだ、コレ。朝飯出来てっから、顔洗って来いよ」

「あぁ、ありがと」

 

 一夏に促され、寝間着のまま秋久は顔を洗いに行った。その間に、一夏は布団を片付け、彼の着替えを用意する。タオルケットを洗濯機に詰め込み、洗面所で寝癖を取っている彼の足下に着替えを置いた。

 

 

 

 

 朝食を済ませ、どちらかが洗い物をするかの譲り合いの後、二人はテーブルに着いてお茶を啜っていた。基本的にやることがない二人。普段なら、このまま昼食までゆっくりとするか、掃除を済ませるか。時折、弾から誘いが来るか、梓から一夏に誘いが来るかのいずれかであった。

 ぼちぼち掃除でも…と秋久が腰を上げようとしたときだった。

 

「あ。アキ」

「ん?何?」

「俺、しばらく泊まるから」

「あっそ…ってマジ!?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 結局、千冬が夏期休暇を利用して帰ってくるまでの約一週間、一夏は秋久の部屋に泊まり続けた。




怖がり一夏ちゃんとあっきーでした。
あっきーはちょっとズレてる説。

お読み頂きありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep21.

真耶ちゃん再来する。



いつもご感想を頂き、ありがとうございます。皆様のお陰で頑張れます。これからもよろしくお願い致します。


 八月半ば、千冬の勤務先であるIS学園内は閑散としていた。

 全寮制学園であり、世界各地から生徒を受け入れているため、夏期休暇の時期は帰国・帰省する生徒たちが多い。一流を目指す彼女たちだが、所謂ハイティーンの少女である。各々、事情が異なるとはいえ、基本的には故郷に戻っていた。

 閑散としてはいるが、無人というわけではない。数名の学生が寮にはいる。故郷から戻ってきたものや、戻り辛くて寮に残っているものである。

 

 教員たちは全員登校していた。生徒たちが休みだからといっても、教員は休みにならない。来期のカリキュラムや各生徒の指導要綱の再作成、研修会の参加や残っていたり戻ってきた生徒たちの管理等々。思ったよりやることは山積みである。

 だが、休みがない訳ではない。寮を持っている以上、全教員が同時に休みを取れないが、各々に時期をずらして五日間の休みが与えられる。

 千冬と真耶は明後日から五日間の休みだった。本来であれば土日も利用して、最大九日間の休みを取得できるが、教員二年目の千冬が取得するのは憚られるし、同じく三年目の真耶も少し取り辛い。よって、少しだけ遠慮がちに水曜からの連休となった。

 

「どうですか?山田先生」

「えぇ。これなら問題なく終わりそうです」

 

 千冬からの問い掛けに、にこやかに真耶が応えた。それは重畳と頷く千冬。

 

「よろしければ…明日、暑気払いといきませんか?いい場所を知っているんです」

 

 千冬がくいっとグラス呷る仕草を見せる。非常に魅力的な誘いだった。何よりも、先日の失態を挽回するチャンス。コレを逃がす手は鳴い。

 

「いいんですか?是非ともお願いします」

「えぇ。歓迎します。では、予約があるので…失礼」

 

 席を立ち、廊下でケータイを操作する。耳に当てて、相手が出るのを待った。

 

「もしもし。私だ。どうだ?元気にしているか?……それは大変だな。それはそうと、明日の夜を頼みたいんだが……そうか。良かった。時間は…七時でどうだ?あぁ、助かる。そうだな…ワイン、うん。ワインの気分だな。……あぁ、任せる。では、頼んだぞ」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 翌日、業務を終えた二人は駅ではなく駐車場へ向かった。酒豪の千冬が呑まないとは思えず、真耶は内心首を傾げる。ひょっとして遠出して一泊、というつもりなのだろうか。一応最低限の着替えは持ち歩いているが、それが必要になるとは思えなかった。

 疑問符を浮かべながら、千冬の後に続く。千冬のマイカーである赤い高級セダンの前に着いた。一応千冬のマイカーなのだが、たまに千冬が仕事でも乗り回しており、一部の教諭は千冬用の公用車だと勘違いしている者もいた。

 千冬に促され、真耶は助手席に座り、シートベルトを締めた。お互いに胸部が大変なことになっているが、それを目敏く見つける者はこの空間にいない。

 

 静かに車が動き出した。午後五時を少し過ぎた辺り。まだまだ暑く、日は高かった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 車が織斑邸に着いた。手慣れた様子で車庫を開け、入庫させる。

 

「あ、あの…千冬さん…ここって…」

「えぇ、私の家です」

 

 千冬が玄関の鍵を開け、ドアを開いた。

 そこにはクラッシックな半袖のエプロンドレスとヘッドドレスを身に付けた可愛らしいメイド、もとい一夏がいた。

 

「おかえりなさい!千冬姉!それと、真耶さんもいらっしゃいませ!」

「ただいま、一夏。今日も可愛いな」

「えーっと…お邪魔します…?」

 

 千冬が器用にヘッドドレスを避けて一夏の頭を撫でる。頭を撫でられて満足そうに微笑んだ彼女は手際良くスリッパを出し、千冬と真耶の荷物を預かり、リビングへ引っ込んだ。

 

「な?いい場所だろう?」

 

 

 

 リビングには先に千冬が入り、真耶が後に続いた。テーブルの上にはランチョンマット、フォークにスプーン、箸。それらと複数のグラスが準備されていた。ただし、ランチョンマットとカトラリーと箸は四組準備されている。

 

「さ、真耶さん!こちらにどうぞ!」

 

 上座に設えられた椅子を一夏が手で示す。真耶が椅子に近付くと、一夏が椅子を引いた。服装と相まって本物のメイドのようであった。真耶へのサーヴが終わると、今度は千冬の下へと一夏が向かう。千冬へも同様に椅子を引き、着席させる。

 

「いらっしゃいませ。千冬さん、真耶さん」

 

 キッチンから秋久が料理とボトルを持ってやってくる。長袖のカッターシャツを捲り上げ、何故かボルドーのラバルドベストを身に付け、下は黒のエプロンとベストと同色のスラックス。どこぞの洒落たトラットリアの店員風の青年になっていた。手には白い小鉢が二つと、ピンク色封をされた可愛らしいデザインのワインボトルを持っている。

 

「お待たせしました!あぺりてぃーぼ、は、もえ、え、しゃんどん、ロゼ、アンペリアル。す、すとぅっじきーの、はパプリカのマリネ、エビとブロッコリーのガーリックソテーです」

 

 カンペを見ながら一夏の説明が終わり、秋久が封を切る。景気のいい音を立て、瓶の口から白い煙が上がる。真耶のシャンパングラスに薄い薔薇色の液体が注がれ、泡の弾ける音が鳴り、野苺のような爽やかな甘さのある香りが漂う。

 真耶がシャンパングラスに魅惚れていると、一夏が小鉢を並べた。赤と黄色のパプリカが入った小鉢と、エビとブロッコリーの小鉢。鮮やかな色とガーリックの香りが食欲を刺激する。

 

「真耶、お疲れ様」

「あ!お、お疲れ様です!」

 

 テーブルの向かいで千冬がグラスを掲げた。慌ててグラスを掲げ、食前酒(アペリーティヴォ)に口を付ける。やや酸味があるが、フルーティーさが勝っていてそこまでは気にならない。また、お通し(ストゥッヅィキーノ)の味がやや濃いめにされており、素晴らしいマリアージュを奏でている。お通しと食前酒だが、これを何度も出されてしまえば、それだけで満足してしまいそうなほどだった。

 

 グラスの残りが少なくなると、一夏が空かさずに注ぐ。先程の秋久のように片手ではなく、両手で注いでいるところがまた微笑ましい。愛らしく千冬と真耶へ奉仕を続ける一夏に、ついペースが早くなってしまう。ガーリックソテーがシャンパンを求めさせ、シャンパンの酸味がパプリカの甘味を恋しくさせる。気付けばお通しも食前酒もなくなりそうになっていた。

 

「お、お待たせしました。前菜(アンティパスト)はカンパチのカルパッチョ、カプレーゼ、ライスコロッケ(アランチーニ)、です…あー…ウィリアム・フェーブル・シャブリでお楽しみ下さい」

 

 少量のメニューが一皿ずつ配膳される。あっさりした冷製、やや味の濃いの冷製、暖かく濃い味の料理。いずれもバランスの取れた、ワインに合う前菜である。

 フォークでライスコロッケを割ると、中からモッツァレラチーズがとろけてくる。そのまま口に運ぼうとすると、秋久が待ったをかけた。

 

「千冬さん。そのままよりも、こっちのソース付けて下さい。イケますよ」

「…とりあえず、そのまま頂いてみるさ。ありがとう」

 

 真耶は先にカプレーゼから手を出していた。やや苦労しながらフォークに乗せて、口に運ぶ。フレッシュトマトの酸味とモッツァレラチーズ、オリーブオイルのまろやかさ、クレイジーソルトの甘味のある塩気が口の中で混ざり合う。口の中でカルテットを楽しみ、嚥下する。余韻が残る内に、白ワインを口に含む。ミネラリーな渋味とフルーティーな味わい、先程のロゼシャンパンにはなかった重さ。お通しとは異なり、料理も重くなっている。少し値の張るイタリアンレストラン並みの満足感。

 この辺りの料理のチョイスは千冬の教育である。

 

 

 

「続いて、第一の皿(プリモ・ピアット)です!あさりとトマトの冷たいパスタです!ワインは…Freude Zeller Schwarze Katz?です」

「ドイツの白ワインか…甘めだった記憶があるな」

「「へぇー…」」

「それにしても、面白い組み合わせだ」

「その辺はわかんないけど、美味しいよ!多分!」

 

 今度はパスタが四つ配膳された。ライスコロッケもパスタの横に置かれている。秋久も席に着き、一夏と共に合掌して食前の挨拶を交わす。彼女たちのワイングラスには、白ワインに見立てたマスカットジュースが入っていた。

 

「あー…えっと、千冬さん、山田さん…その…どうですか?」

「そうだな…危険な食卓、だな」

「えぇ…そうですね…確かに危険です」

 

 今までもそうだったし、この皿も危険だ。トマトの酸味とレモンの爽やかな香りが夏らしく、やや甘めの白ワインによく合う。少量の鷹の爪とガーリックの香りが移ったオリーブオイルが全体に絡みつつも、よく乳化されている。また、あさりの旨味も絡み合い、食欲をそそる。一口食べれば、次の一口とワインのお代わりを要求させる。口にしてしまえば止まらない、非常に危険な皿だった。なお、一夏のパスタには鷹の爪が入っていない。

 

「本当に止まらないです。こんなに美味しくて楽しい席は久し振りです」

「あぁ…これならいつでも嫁に出せる。安心しろ、一夏、秋久」

「…俺、男です」

「残念だな。どうだ?一夏、嫁に来るか?」

「千冬姉、あたしたち家族だからね」

「そういえば、入籍済みだったな。よし。秋久、私の嫁に来い」

「だから……もう酔ったんですか?」

 

 掛け合いにくすくすと笑う真耶。今回は良い酒の席だ。いつの間にか、皿が空き、ワインもなくなる。食前酒のシャンパンも含め、合計で三本が空になった。

 

 団欒とした食事だったが、一番最初に食べ終わった秋久が席を立った。キッチンに向かい、カウンターに肉料理を並べ始める。それを一夏が受け取り、それぞれの場所にサーヴする。

 

「これは…ミートボール?」

 

 トマトソースの中にゴルフボールほどの大きさの肉団子が並んでいる。それが各々二~三個ずつ。小柄な煮込みハンバーグといえばそれに近いが、香りが違う。

 

「セコンド・ピアット、ポルペッテ。コントルノはズッキーニとバゲットです。ベニ・ディ・バタシオーロ・バローロと一緒にどうぞ」

 

 皿と共に出てきたのは赤ワイン。確かに、肉料理には赤ワインといわれる。しかし、ミートボールのイメージではなく、ステーキなどのイメージ。初めての組み合わせに、真耶は少し警戒心を抱いた。

 

「ん~…!アキ、これバゲットでもいいけど、パスタでもいけるよ!」

「あー…じゃ、余ってるの入れるか?」

「いや、コレは赤ワインだな。パスタも悪くないが、赤ワインだ」

「…確かに、赤ワインですね…千冬さん、未成年に飲ませちゃだめですよ?」

「家庭内では私がルールだ。それに、あっちじゃ十六から呑むんだぞ?」

「それでも無理ですからね。俺らまだ十四です」

「さっさと二年…いや、六年歳を取れ」

「無茶言わないで下さい…」

 

 再び食卓が笑顔で溢れる。なるほど、先日騙されて?合コンに出席させられた時、ずっと千冬が顰めっ面をしていた事に合点が行った。この間の席とは雲泥の差、食事とはこういうものだ、と言わんばかりの食卓。

 

 楽しさにつられ、ワインボトルが空いた。同じものをリクエストし、一夏が持ってくる。美味い料理に美味い酒、楽しい会話。確かに暑さのストレスが消え、元気になってくる。真耶は千冬の体力の源を見た気分になった。

 

 

 

 一夏と秋久の皿が空になる。しばらくはジュースを片手に会話に参加していた一夏だったが、真耶に対して目配せをするようになった。真耶も何度となく視線がぶつかるが、疑問符を浮かべるのみ。彼女の意図を掴みかねていた。

 

「…おい、一夏」

「いや、構わんよ、秋久。そろそろ真耶も良い頃合いだろう?」

「頃合い…?えぇ、確かにお腹はかなり膨れてきましたけど…」

 

 今までかなりの量を食べてしまっている。一皿の量が約半人前だとは言え、合計で八種の料理を食べているし、ワインも四本。一リットル近く呑んでいる計算になる。

 

「じゃ、持ってきますね」

 




ディナー編終了です。後編へ続きます。
飯・酒テロになってたら嬉しいです。時間的に無理かな…

ちなみに、ご予算ですがちっふーとやままゆせんせーが呑んだ分で一万円は軽く超えます。家飲みなのにね。おかしいね。

ご愛読ありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep21.5.

前回のあらすじ

・ちっふーとやままゆせんせーがお家にご飯食べに来たよ!一夏ちゃんとあっきーがイタリアンでおもてなししたよ!

以上!

本来は一話で終わる予定でした…長くなったので、分けました。

誤字ご報告、ご感想、お気に入り登録、ご評価、誠にありがとうございます。
大変励みになります。

※R-15注意。入浴シーンがあります。


「「わぁー…」」

 

 一夏と真耶が歓喜の声を上げる。十五センチ四方の硝子容器を二つテーブルに置き、そのあと、白い小鉢と硝子の小鉢を四つずつ並べた。片方の容器はやや黄色がかった白い何かが入っており、もう片方はココアパウダーが振りかけられていた。

「ドルチェ…ティラミスとレモンピールのジェラートです。お好きなだけどうぞ。山田さんはカプチーノですか?エスプレッソ?」

「あ、カプチーノでお願いします」

「わたしも!」

「いや、コーヒーだから…まぁ、砂糖は好きなだけ入れてくれ…」

 

 適量に取り分け、彼女たちの前に並べる。スプーンも二本ずつ渡した。

 

「私の分はないのか?」

「とりあえず、分けときますよ…お酒飲みながら食べるんですか?」

「全て食われては敵わんからなぁ」

 

 苦笑いを浮かべながら、千冬が彼女たちに視線を向ける。二人とも目を輝かせながら、ティラミスとジェラートをつついている。これだけ喜んで貰えれば、作った甲斐があるというものだ。

 

「…カプチーノ、淹れてきます」

「ついでに、私のウイスキーも頼む」

 

 

 

 真耶がティラミスを口に運ぶ。濃厚なマスカルポーネチーズと生クリームの甘さ、ラム酒とブランデーの香りにカカオパウダーとエスプレッソの苦味をメレンゲが優しく包み込み、口の中で蕩けていく。官能的なまでの大人の甘さ。

 

「「…はぁ…♡」」

 

 一夏の口からも溜め息が漏れた。二人揃ってティラミスを堪能している。もう一本のスプーンを取り出し、ジェラートを食べる。スッキリと爽やかな風味にレモンピールの苦味と冷たい甘さ。まさに口直しのためのドルチェ。だが、女性の舌を満足させる甘酸っぱさ。一口食べればティラミスの濃厚さが懐かしくなり、ティラミスを食べればジェラートの爽やかな甘酸っぱさが恋しくなる。

 

 ―さっきのパスタといい、このスウィーツといい…彼は危険人物ですね…

 

 もはやカロリーのことなど気に出来るレベルではない。計算するのも恐ろしい。だが、彼女の身体は、脳は、心は、目の前のドルチェを要求し続けている。

 

「お、お待たせしました、山田さん。カプチーノですけど…砂糖は、お一つですか?」

 

 目の前に音もなくカプチーノがサーヴされた。持ってきたのは好青年ウエイター(カメリエーレ)。真耶は言葉を失い、ただただ頷いた。面と向かってサーヴされる。初めて間近で見る秋久の顔、表情。年相応のあどけなさが残る整った顔立ち。

 豊かな泡にブラウンシュガーが落とされる。台風の目のように、そこの部分だけがカプチーノの液面を覗かせていた。どうぞ、と差し出される。あえて混ぜず、泡立てられた生クリームの風味と甘さのグラデーションを楽しむスタイルらしい。

 

「アキ!わたしは三つね!」

「はいはい…って三つかよ!?砂糖水じゃねえか!」

 

 難色を示しながらも、一夏の言うとおりにブラウンシュガーを三つ放り込む秋久。

 

ウエイター(ケルナー)。私には何もないのか?」

「え?俺のことですか?」

「そうだ。で、私のウイスキーは?」

 

 空になったワインボトルとグラスを横に避け、指先でテーブルをノックする千冬。秋久が琥珀色の液体が入ったロックグラスとチーズ、チョコレートの入った皿を置いた。満足そうに頷き、千冬がグラスを傾けた。

 一夏や千冬と彼の微笑ましいやりとりを見届ける。カプチーノに口を付ける。絶妙な泡立て具合の優しいクリームにエスプレッソの香りと苦味。

 

「やや山田さん…どうでしょう?あんまりカプチーノって作ったことなくて…」

「…真耶です。真耶って呼んで下さい」

「あ、はい…」

「とっても美味しいです。お店でもなかなか飲めないですよ、こんなに美味しいの」

 

 良かった、と秋久が胸を撫で下ろす。彼は彼なりに不安だったらしい。

 真耶から見ると、彼は料理やサーヴを完璧にこなしていたように感じた。だが、あの可愛らしい反応である。なるほど。知人が執事喫茶なるものや、世の女性がホストクラブに熱を上げるのが理解できた。

 

「さすがだね…わたしはこういうの苦手だし…うん。おいしっ」

「ありがと…ただ、言わせてもらえば、お前が飲んでるのはクリーム入りの砂糖水だと思うぞ」

「本場のカプチーノはもっと入れるって聞いたよ?」

「…マジか。イタリア人舐めてたわ」

 

 

 

 和やかな空気の中が流れる。美味しい物を食べながら、美味しい物を飲む。会話と笑顔が弾まない道理はない。まさに本来の団欒。テーブルの上にはグラス類と千冬用のおつまみだけが残っていた。

 

「一夏。そろそろ風呂の時間じゃないのか?大丈夫か?」

「んー…その…」

 

 恥ずかしそうに指先を胸の前で突き合わせる。

 

「千冬姉ぇ……一緒に入らない?」

「どうした?別に構わんが…」

「…その、最近アキと一緒に入ってて…」

「えぇ!?」「ッ!?」

「ちょ!?一夏!?」

「何?どしたの?」

 

 グラスに口を付けていた千冬が咽せ、真耶が声を上げて顔を赤らめる。年頃の男女が混浴しているというのだ。驚きもするだろう。混浴となれば、互いに裸である。そこから色々想像出来てしまう。最近の若い人たちは進んでいると聞く。まだ経験のない彼女だが、知識としては知っている。お互いに洗い合ったりしているのだろうか。

 顔を赤らめる真耶を見て、秋久が大慌てで話し始めた。

 

「違います!違うんです!!その…とにかく違うんです!!顔赤くするようなことはしてません!」

「違う?何が違うんだ?」

 

 ん?と千冬が聞き出そうとする。その表情は柔らかく、微笑ましいものを眺めているように見える。たが、秋久からすれば威圧感を感じてしまう。妹が恋人でもない男と混浴しているとなると、心中穏やかではいられないだろう、と秋久は考えてしまう。

 

「え?違わなくないよ?頭洗ったりしてあげてるでしょ?」

「あああ洗いっこ!?」

「誤解です!頭だけです!!」

「一緒に入ってるんだろう?その…一緒に温まってるんじゃないか?」

「してません!そもそも無理です!」

「なんだ…そうなのか…」

 

 残念そうに溜め息を千冬が吐いた。

 

「孫の顔が見れるのはまだ先か」

「孫じゃないですよね!?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 最後に一夏が爆弾を落とした以外は穏やかな食卓だった。良い時間になり、真耶はタクシーを呼んだ。千冬は泊まっていくように勧めたが、辞退した。

 真耶を見送り、一夏と秋久が後片付けを終える。秋久はそのまま部屋に戻り、先程の話通りに一夏と千冬で入浴を始めた。

 

 

 

「懐かしいな…こうやって頭を洗ってやるのも」

「だね。その頃とは長さも違うけど」

「そうだな…やはり長いと大変だろう?」

「ううん。もう慣れたし」

「そうか。流すぞ」

 

 シャワーで一夏のシャンプーを洗い流す。滑らかな指通りの髪。コンディショナーなしでも問題がなさそうだが、この髪を維持するためにコンディショナーを揉み込む。

 

「じゃ、次は千冬姉、洗ったげるね」

「そうか?では頼む」

 

 風呂椅子に千冬が腰掛ける。シャワーを受け取り、声をかけてから頭にかけた。頭皮を揉むように水気を含ませ、手の平でシャンプーをよく泡立て、髪や頭皮に揉み込んでいく。

 

「…上手いじゃないか」

「アキにやったげてるからね」

「本当に一緒に入ってるのか?」

「うん。わたしが洗ってる間はバスタブに座って目閉じてるけどね」

「…なるほどな。まだまだ、ということか」

「…うん。吐いちゃうかも知れないから、怖いんだって」

 

 また声をかけ、千冬のシャンプーを流した。コンディショナーを揉み込む。

 

「このまま背中流してあげるね」

「ああ、助かる」

 

 コンディショナーのついた髪を前に回し、一夏がボディスポンジを泡立てる。泡立てたスポンジで優しく背中を撫でた。やや細い綺麗な背中。ほっそりとした括れに、豊かな臀部。まだ成長途中の一夏とは違い、成熟した大人の女性らしい美しい後ろ姿。秋久とも前の一夏とも異なる。艶やかで『女』を感じてしまう。ただ、この背中に一夏と秋久の生活がのしかかっていると思うと、逞しさも感じる。

 

「ん?どうした?まだ終わっていないだろう?」

「え?ううん…綺麗な背中だなって」

「ふふっ…ありがとう。前は自分で洗おう」

 

 手早く他を洗い、シャワーで流した。泡が消え、白い肌が露わになった。続いてコンディショナーを流し、身体に付いてしまった分も改めて流した。

 

「次は私が洗ってやろう」

「うん。ありがと」

 

 入れ替わり、一夏が椅子に座る。千冬と同じように後ろ髪を前に回した。

 愛らしい、細く小さな背中。千冬と比べると括れは浅いが、そこがより可愛らしい。千冬は同性愛者ではないし、年下趣味ではないが、そんな者でも目覚めさせてしまいそうなほど。それと同時に、少し寂しくなった。

 

「千冬姉?」

 

 なかなか洗い始めない千冬を不審に思い、一夏が振り返る。

 

「あ、ああ。すまない。すぐに始めよう」

 

 ボディスポンジから泡を絞り出し、素手で背中を撫でる。

 

「ひあ!?ちょっと!千冬姉!?」

「なんだ?」

「くっ…くすぐったいっ…んだけど!?」

「我慢しろ」

 

 ゆっくりと千冬の手が背中を這い回る。一夏をくすぐろうという意図はなく、珠のような肌を傷つけたくないという、千冬の気遣い故。ただ、敏感な一夏は背中をくねらせて悶えていた。

 

 

 

 湯船に浸かり、まだ身体を洗っている一夏を見やった。千冬の指導通り、素手に泡を付けていた身体を撫で回している。腕の動きにあわせ、ふるふると小刻みに動く。

 

「大きくなったな」

「そう?そんなに身長変わってないよ?」

「そっちじゃない、胸だ。ブラのサイズ、ちゃんと合っているか?」

「あー…最近ちょっとキツい…かも」

「あとで見てやる」

 

 

 

 改めてお互いに湯船に浸かる。少し膝を曲げ、向かい合っている。

 

「…どうだ?最近は」

「何が?」

「例えばそうだな…体調は?」

「元気だよ。アレ以外はね」

「まぁ…一年ほどの付き合いになるだろうしな。そのうち慣れるさ。秋久とはどうだ?」

「アキと?仲良いけど、それが?」

「そ、そうか…」

「あ。でも、結構女慣れはしてきたよ。この間抱きついても大丈夫だったし」

「ほう…!」

「うん。アキの部屋で勉強会やってさ。その後に映画見たりしてたんだけど…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 浴室で先日の経緯を一夏が報告した。その時以来、秋久と混浴?し、同衾しているという話をした。その流れで、今日は千冬と共に眠るという話になった。

 

 秋久が幽霊を見たかもしれないという部屋で眠るのには抵抗があったが、千冬の部屋という名の魔窟で眠るよりマシだった。何より、千冬という世界最強の保護者が隣にいる。彼女なら幽霊だろうが妖怪だろうが倒してしまいそうな頼もしさがある。

 

「これも久し振りだな」

「そだね。何か懐かしいね」

 

 ベッドの上で抱き合う姉妹。身長差から千冬の胸元に一夏が顔を埋める形になっている。

 胸元から甘く優しい千冬の香りが漂ってくる。暖かく、柔らかい。寝る前にコーヒーを飲んでしまったにもかかわらず、眠気が押し寄せてくる。恐ろしい筈の部屋だが、安心できる。

 

「これで眠れれば、もう大丈夫だろう?」

「……うん」

「あいつも慣れてきたとは言っても、まだまだなんだ。ゆっくり慣らしてやれ」

「うん…おやすみ」

「あぁ、おやすみ」

 

 しばらくして、規則正しい寝息が響き始めた。




あとがきになってしまいましたが、UA45,000超え、お気に入り登録750件超え、誠にありがとうございます。
これからも細々と更新して行きますので、よろしくお願い致します。
年内に終われればいいなぁ…



お読み頂きありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep22.

UA45,000超え、お気に入り800超え、ありがとうございます。
また、いつもご感想をいただき、誠にありがとうございます。目標はご感想全返信です。よろしくお願いします。

あっきーのハーレム?デート回です。


 日差しが肌を焼く。暦の上では残暑となったが、まだまだ猛暑日が続いている。時刻は十三時四十分。これから最も暑い時刻に向け、太陽が一所懸命に地面を照らしていた。

 待ち合わせ場所の花時計前には屋根がなかった。そこで人待ちをしている秋久に容赦なく日差しが照りつける。日除けにキャップを被っているが、大した効果はなさそうだ。地面からの照り返しが強過ぎる。

 

「お待たせ~…うわ、汗だくじゃん」

「おう…場所間違えたわ…」

 

 鍔の広い帽子にノースリーブの白いショートワンピース。ワンピースの裾からチラリとデニムパンツの裾が見える。下にショートパンツを穿いており、真っ白なミュールも履いている。夏らしい涼しげな格好の一夏が到着した。

 

「どっか入る?熱中症になっちゃうよ?」

「あー…ま、言ってるうちに来るだろ」

「ホントに大丈夫?何か買ってこようか?」

「大丈夫、死にはしねえって」

 

 大丈夫かなー?と秋久の額に一夏が手を当てた。暑さで反応が鈍くなった秋久は微動だにせず、されるがままになってしまっている。ついでにお伝えすると、額を触って熱く感じるレベルなら即座に救急車を呼ぶ必要がある。

 

「結構亡くなってるみたいだし、油断しちゃダメだよ?」

「ありがと。気ぃ付ける」

 

「あっちゃぁ…アタシら最後かー…アンタら来んの早いわね」

「ごめんね~…遅くなっちゃった」

「ううん。今来たとこだし」

「あ、ああ…今着いたばっかだ」

「美智華はともかく、斧崎のはウソでしょ」

「う、うん…ちょっと説得力無い…かな?」

 

 予定時間より早く集合した彼女たちは目的地へと歩み始めた。本日の目的地は秋久行きつけの本屋である。以前から梓が行きたいと言い、一夏が二人の仲立ちになり、仲間外れを嫌がった志帆がついてきた、という一行だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 最初は秋久の右に一夏が立ち、その後ろを梓と志帆がついて来る、という並びで歩いていた。しかし、いつの間にか並びが変わり、秋久が先頭を歩き、その後ろを彼女たちがついて来る、という形になってしまった。

 秋久の歩幅が大きいということや、歩くのが早いというわけではない。むしろ、彼女たちの体力を慮ってゆっくりと歩いていた。では何故この形になってしまったのか。単純に後ろ二人の会話に一夏が絡みに行っただけである。

 

 

 

「えーっと…」

「斧崎、アンタこんな店に入ってんの…?」

「な、なんだか趣があるっていうか…」

 

 目的の書店に着いた。梓の言うとおり、趣があるといえば聞こえがいい。しかし、ここはどうも書店には思えない。

 

「なんか…お化け屋敷みたい…じゃない?」

「美智華、ソレ思ってても言っちゃダメ」

「なんか散々な言われようだけど、数少ない紙本がある貴重な店なんだからな?」

 

 お化け屋敷とは言い得て妙だ。今時珍しい木造剥き出しの佇まい。日光を防ぐため、入口のガラス戸には遮光フィルムが貼られており、真っ黒で中の様子を伺えない。屋号を示すテントもなく、表には広告の一つもない。気のせいか、その周囲だけ気温が低くなっているように感じる。

 

「ま、まぁ。中入ろうぜ。涼しいし」

「わたしパス」

「アタシも。本に興味ないし」

「こ、こ怖いけど、大丈夫だよね?何も出ないよね?」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「こんにちはー」

「ご、ごめんくださーい」

 

 入口を開けると、ひやりとした空気が二人の足下を撫でた。ミュールを履いていた梓はそれに驚き、肩を大きく震わせた。店内は予想通り薄暗く、妙な雰囲気が漂っている。

 

「ぅゎぁ~…」

 

 梓が小さな声を上げた。本の虫、秋久が通うのも納得出来る。店内にはいくつもの本棚が並んでおり、蔵書数も数え切れない。ただ、それらは著者別に整頓されており、目的の本は簡単に探し出せそうだった。

 

「いらっしゃい…」

「お邪魔します。謙崇(けんすう)さん」

「お、お邪魔します…」

「よく来たネ、秋坊。キミが女子(おなご)を連れてくるなんて、明日は雪でも降るカナ?」

「秋坊はやめて下さい…あ、きき木嶋さん。こっこちら、店主の謙崇さん」

 

 秋久に紹介され、謙崇と呼ばれた着流しを着た丸眼鏡の青年が頭を下げた。

 

「大人からすれば子供はいくつになっても子供サ。秋坊」

「わかりました…もういいです。謙崇さん、こちらが前にお伝えしてたクラスメートの木嶋さん」

「は、はじめまして」

「いらっしゃい…今後ともご贔屓…ネ」

 

 青年が無垢な笑顔で梓に笑いかける。ただ、肌の青白さと口調のせいでどこか胡散臭さを感じてしまう。

 

「で、謙崇さん。いくつか本が欲しいんですけど…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 秋久たちと店の前で別れた一夏と志帆はコーヒーショップで寛いでいた。空調の利いた店内でやたらと長ったらしい名前の甘い飲み物を飲む一夏と、アイスティーを飲む志帆。本屋での買い物にどれほど時間がかかるのかわからないが、済めば梓が連絡してくるだろう。

 

「生き返るねー」

「このクソ暑い日に、そんな甘ったるいの飲むアンタがわかんないわ」

「そう?美味しいよ?」

 

 ほら、と一夏がストローを差し出した。志帆が軽く吸うが、なかなか中身が上がってこない。少し力を入れて吸うと、口の中でホワイトチョコと生クリームにキャラメルの甘さが広がる。いや、広がるというよりも蹂躙される。口の中に入った量は僅かな筈なのだが、なかなかに破壊力のある味だった。

 

「あー…ありがと。ごちそーさま」

「もう?飲んでないでしょ」

「一口で十分よ…」

 

 眉を顰め、舌を出してもういらないと志帆が主張する。ストレートのアイスティーを口に含み、未だに続く甘い暴力を洗い流そうと努めた。

 

 

 

「そういえばさー…」

「んー?」

 

 だらだらと一夏はシナモンロールを、志帆はマカダミアンクッキーを突っつく。

 

「美智華って斧崎のこと、どう思ってんの?」

「どうって…何が?どゆこと?」

「んじゃ、聞き方変えるわね。好きか嫌いかでいうと?」

「好きだよ」

「…嫌いなヤツとあんなに一緒にいないわよね…ねぇ、その『好き』ってどっち?」

「どっちって…?」

「ラブ?それとも、ライク?」

 

 今度は先程のように気安く返答できなかった。そもそもこの好意がライクなのかラブなのか。それを一夏は考えたことがなかった。

 

「…わかった。そっかぁ…」

「わかったって…わかったの?」

「え?何?ラブの方じゃないの?」

「…わかんない」

「はぁ?アンタ、本気で言ってんの?」

 

 志帆は呆れかえった。目の前の美少女はこの歳になっても親愛と恋愛の区別がつかない、と言っているのである。

 

「アンタなら何回か告られたことあるでしょ?」

「あるけど…」

 

 確かに、今まで数度交際を申し込んできた男子はいた。クラス、いや、校内…下手をすると県下でもトップクラスの容姿に男好きのする体躯、さらに朗らかで人当たりのいい性格。モテない方がおかしい。

 

「全部断ってるよ?」

「なんで?お試しで付き合ったりしないの?」

 

 男子からの人気があまり無い志帆には理解が出来ない。

 女尊男卑の風潮からか、背の高い志帆は敬遠される傾向にある。また、兄が二人いる志帆からすると、同い年の男子連中は幼すぎた。あの兄二人でも『ガキだなぁ』と感じてしまう志帆だった。女子からの人気は高いが、男子からウケない。そんな女の子、それが志帆。

 

「そーいうのってすっごい失礼だと思うの」

「…マジメちゃんね」

「じゃ、志帆は好きでもない男の子と付き合える?」

「無理…でもないかな。変なのじゃない限り」

「なにそれ」

 

 一夏が驚きの声を上げた。生理的に受け付けない男子以外はチャンスがあれば付き合いたい、と志帆が発言したと捉えたのだ。だが、ここは少し違う。志帆のいう『変な男子』とは志帆が好意的に思う男子、ということである。比較的周りにいる男子であれば、数馬はアウトで、秋久はセーフ。弾が状況と今後の成長によってはセーフ、となる。ただし、志帆から彼らに声をかけることはない。

 

「ま、もうちょっと軽く考えなって。次告ってきたヤツと付き合ってみるとかさ」

「うーん……でも、胸見ながら告白してくる男の子とは付き合いたくないなぁ…」

「うん。ソイツはやめときな。ロクでもない目に遭うよ」

 

「で、斧崎のことは?どうなの?」

「アキかぁ…」

 

 一夏にとっての秋久。それは兄弟であり幼なじみである。

 今では色々と頼りになるし、なんだかんだで彼の存在に救われているところは大きい。また、一夏からすれば彼は放っておけない弟分である。外では少し醒めたところのあるストッパーとして扱われることが多いかもしれないが、本来の彼は好奇心旺盛な少年であり、興味のままに行動してしまう所も多々ある。また、最近では一夏の『特訓』の成果が出てきているようで、一夏からのボディタッチも徐々に受け入れられている。

 

「……わかんないよ」

「まぁ、久し振りに会った幼なじみだもんね。こっちじゃアイツしか頼れる人がいないんでしょ?」

「うん…千冬さんも忙しいし」

「それなら…まぁ、仕方ないか。アンタらほぼ同棲してるもんね」

「うん…ってなんで知ってんの?」

「結構噂になってるよ。七月の頭ぐらいから」

「えぇー…あ、でもそれで変に告ってくる子が減ったら嬉しいかな?」

「なにそのモテ自慢。イヤミ?」

「違うよぉ…結構ツラいんだよ?告白断るのって」

「うわあ…アタシも言ってみたい。そのセリフ」

 

「じゃあさ、もし…もしだよ?アズと斧崎が付き合ったら?」

「…え?アズちゃん…と?」

 

 ズキリと胸が痛む。ただ、一夏は梓が秋久に好意を持っていると思えなかった。どちらかといえば、趣味の合う友人と表現した方がしっくりくる。男女の恋愛的な好意を向けているとは考えていなかった。

 

「うん。あの子があんだけ男子に懐くって、今までなかったからさ」

「そうなんだ…」

 

「アタシとアズも幼なじみなの。あの子、小三ぐらいから胸おっきくて、よく男子にからかわれてさ…なんかその頃、クラスの女王様の片思い相手がアズのこと好きだったこともあって、男子からも女子からもいじめみたいになってて…ちょっと人間不信気味だったのよ」

「い、いいの?わたしがこんな話聞いて」

「いいわよ。アタシら親友でしょ?それとも、アズのこと受け入れられない?」

「そうじゃないけど…」

「なら、大丈夫。で、今じゃあんなに明るいけど、中学入るまでは結構暗い娘だったの。ずっとアタシの後ろにくっついてる様な娘。まぁ、エロ猿共から胸眺め続けられたり、ヘンタイに悪戯された、って噂流されたら」

「そうなっても仕方ないよね…あ、でも志帆なら大丈夫だよ!」

「……一応聞いたげる。なんで?」

「ほら、イケメンだし!」

「ケンカ売ってんのね。いいわよ、買ってあげる。おいくら?」

「褒めてるんだよ?」

「褒め言葉になってないわよ。せめて美少女って言いなさいよ」

「美少女ってキャラだっけ?」

「うっさいわね…」

 

 志帆を弄って話の筋を変える。だが、一夏の中には先ほどの言葉がずっと残っていた。梓が秋久のことを好いているかもしれない。その二人は今別行動を取っている。一夏の中に不安が積もる。透明な水の中に墨汁を一滴ずつ垂らすように、黒い不快さがじわじわと拡がっていく。

 

「にしても、あの二人遅いわね」

「だね、もう一時間以上経ってるもんね」

「…案外、どっかでデートしてんじゃない?」

「それはないよ」

 

 即座に一夏がキッパリと否定した。まさしく即断。ただ、男女二人で本屋に行くことをデートと言われれば、デートにはなる。

 

「え…?」

「それはないって。アキがそういうことできると思わないもん」

「…あ、そなんだ…そーいえば斧崎のことってあんまり知らないんだよね。アタシ」

「そうなの?結構わかりやすい性格してると思うよ」

「どーしても先入観っていうかさ…あの織斑と一緒にいたじゃん?」

「みたいだね。わたしもあんまりその辺は知らないけど」

「なんかこう…アイツも変わったヤツなのかな、とかさ」

「変わってる…ことはないこともないと思うけど…」

 

 

 

 

 一夏による『秋久についてのQ&A』が続く中、梓から志帆宛に買い物が終わった、との連絡が入った。書店から徒歩五分ほどのコーヒーショップにいることを伝え、合流を待つ。

 質疑応答のメインは秋久の嗜好についてが殆どだった。あの事件については特に語らず『前に女性から嫌なことをされて以来苦手』と語るに留める。流石の一夏も本人の同意なしに、あの話をするのは憚られる。

 

 ややあって、秋久と梓が合流した。

 梓は殆ど手ぶらでニコニコ顔、秋久がビニールに包まれた紙袋を左右に二つずつ持っている。

 

「おつ…かれ。どしたの?斧崎。雨降ってないわよ?」

「あ、あー…湿気防止のビニールだよ。あそこのこだわり」

「おかえりー。アズちゃん、いいの買えた?」

「うん!もうほんっと色んな本があってね!」

 

 興奮覚めやらぬ様子で語り始める梓。紙媒体での本は雑誌がほとんどの昨今、ハードカバーを多数扱っているあの店は希少価値が高い。予算オーバーであったが、梓は七冊の本を買い込んだ。しかし、七冊もの本を持ち帰るのは物理的に難しく、この日は全員で一つずつ紙袋を持ち、梓の家に寄った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「お疲れさまー」

「あーい、お疲れー」

 

 梓の家を離れ、志帆とも別れた。

 家がほぼ隣同士の一夏と秋久だけが最後まで同じ道だった。

 

 梓が客人を放置し、オススメの本を秋久に渡し始めたので、慌てて家を出てきた。あのまま放っておくと日が沈むまで一夏と志帆を置いて読書を始めてしまいそうな空気になった。

 

 

 

 時刻は十八時を回っているにも関わらず、まだまだ明るい。ようやく夕方らしい空の色になってきた。夕陽と呼ぶにはまだ太陽は白いが、少しずつ影法師が伸びてきている。

 

「今日、どうだった?」

「どうって…どうもねえだろ。木嶋さんに本屋紹介しただけだし」

「…ふーん?」

 

 横から秋久の顔を一夏が覗き込む。

 

「…なんだよ」

「べっつにー?なんかなかったのかなって」

「何かって…なんだよ」

「例えば…アキが吃音らずに話せたとか?」

「あー…ちょっとだけ…できたかも?」

「なんだよー。自信ないの?」

「何かグダグダになったような記憶が…」

「もう。訓練の成果見せてよねー」

 

 やがてアパートに到着し、玄関の前に立つ。手慣れた様子で、一夏が鍵開けて家主よりも先に入った。

 

「今日から再特訓だね!」




ということで、あっきーの特訓はあんまり成果がありませんでした。残念!一夏ちゃん!
先程確認すると、お気に入り登録数が801でした。

お読みいただき、ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~覚醒~

呼び出しといえば体育館裏。若しくは屋上か校舎裏。

しつこいですが、前話投稿時にお気に入り登録数が『801』でした。
まさかこの話の投稿と被るとは…


 東中には夏休みに三日間の登校日がある。その内二日間は自由登校日であり、一日は必須登校日。全校生徒が登校する。登校日といっても、少し担任から話があるぐらいであとは学校祭の準備に使っている。

 その全校登校日の朝、梓の下駄箱に一枚の手紙が入っていた。ピンク色の可愛らしい封筒にこれまた可愛らしい水色のメモが入っていた。

 

『2時に体育館裏に一人で来て下さい』

 

 差出人の名前はない。だが、そこに記された文字と、便箋から差出人は女子である可能性が非常に高い。梓には心当たりがなかった。だが、思い当たる節はある。

 元々引っ込み思案な梓はいつも志帆と一緒にいた。一時は『志帆の腰巾着』などと陰口を叩かれたこともあったが、今ではほとんどない。何故なら、女子カーストのトップクラス、一夏と志帆の二人といることが多いからだ。

 多くの女子は彼女たちを敵に回したくない。となると、必然的に梓も敵に回したくない人間の一人である。

 

 今回は一人でくるように指定されている。少し嫌な予感がするが、そろそろ梓も『志帆立ち』をする必要があるかもしれない。

 

「あ!アズちゃん!おっはよ!」

「おはよ。木嶋さん」

「!!お、おはよー」

 

 一夏たちに声をかけられ、反射的に手紙をスカートのポケットに隠した。見られて困る物ではないが、一人で来るように書かれている以上、あまり見られることを好ましいとは思えなかった。

 

「?どうしたの?」

「う、ううん。なんでもないよ?それより、今日衣装合わせだよね?」

「あ、あぁ。昨日豊村さんが張り切ってたな…」

 

 話を変えて、手紙からの意識を逸らそうとする。秋久は何かを感じたのか、梓の話に乗った。一夏は何か不審に思いつつも、同じく梓の話乗る。

 他愛ない会話をしながら、彼女たちは校舎の四階へと向かっていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 午後二時。指定された時間に梓は体育館裏に着いた。

辺りに人気はなく、死角の多い場所。二昔ほど前であれば、不良の溜まり場になっていそうな場所だが、比較的落ち着いている東中ではそうなっていない。どちらかと言えば、告白の場所となっていた。

 ケータイを取り出し、時間を確認する。まだ十四時を少し回ったばかりだった。

 

「木嶋、梓さん?」

 

 不意に背後から声を掛けられ、ゆっくりと振り返った。そこには手紙の差出人と思しき女子生徒が二人。セーラー襟に付いている組章からは二年三組と三年四組だとわかる。二年生の方は眼鏡をかけており、少し釣り目の女生徒。三年生は背が低く、眼鏡はかけていないが糸目の女生徒。

 

「は、はい…」

「はじめまして。私、藤井加奈子。よろしくね」

「うち、寺内(さち)。よろしく」

「よ、よろしく…」

 

 大して親しくもない同級生と先輩に呼び出され、梓の顔が強張った。小学時代の嫌な記憶が蘇る。知らずの内に、梓は我が身を守るように豊かな胸元の前で両腕を揃え、縮こまっている。

 

「早速だけど、コレ。見てくれる?」

 

 二人がとある画像を表示させたまま、梓に差し出した。警戒しながら覗き込む。

 

「ッッ!!」

 

 藤井と名乗った少女のケータイには、スーパーの袋を持っている秋久とその横に並んでいる梓の画像。寺内と名乗った少女のケータイには、先日の書店から出てくる秋久と梓が映っている。画像確認した梓は反射的に彼女たちから距離を取った。

 

 ―やっぱり、一人で来るんじゃなかった…

 

「うちら、AMKの会員なんよ」

「まぁ、前身はOFCなんだけどね」

 

 AMKが何かはわからないが、OFCは聞いたことがあった。織斑ファンクラブの略称である。ということは、AMKとやらは秋久の非公認関連集団である可能性が高い。そして、それを堂々と名乗る二人。

 噂ではあるが、一夏のファンクラブはかなりの過激派だったと聞く。彼のあの鈍感っぷりがウケていたため、彼に近付く女子は上級生下級生関係なく制裁を加えていたらしい。

 

「そんなに警戒せんといてや」

「別にとって食おうとか、木嶋さんに何かしようって訳じゃないから、安心して?」

 

 梓には何もしない…梓には。それであれば、もう一人いる。

 

「みっ!美智華ちゃんは関係ない!何もしないで!!」

 

 声を張り上げ、二人を威嚇する梓。縮こまった姿勢のまま。だが、先ほどまでの怯えた目付きではなく、その瞳には力が籠って見える。

 

「美智華ちゃん?ああ、折浦さん?」

「あの、彼にくっついとる子?ええ子やん」

 

 笑みを浮かべる二人。ただ、にこやかな笑みではない。口角が吊り上り、邪な目付きで笑う。

 

「いいわよねぇ…折浦さん…」

「それな…一夏くんにも似てるし…捗るわぁ…」

 

 梓が疑問符を浮かべる。彼女が警戒していたせいもあり、彼女たちは敵対者だと思い込んでいた。しかし、何か違う。何かとんでもない勘違いをしているような気がしてならない。

 

「あの…捗るって…?」

「そら、妄想に決まってるやん」

「もう、そう…?」

「あ、木嶋さんにも聞いておきたかったんだけど、どっちが左?」

「ひ、ひだり…?」

「またまたー。隠さんでもええねんで?同志やろ?」

「ごめんなさい…本当にわからなくて…」

「え?だって、文芸部でしょ?」

「文芸部…ですけど…あんまり部室に行ってなくて…」

 

 段々と彼女たちの表情が暗くなる。示し合わせたように梓に背を向けて、二人でこそこそと相談を始めた。

 

「改めて聞きます。木嶋さん、右と左、どっちが上?」

「え……み、右?」

 

 右肩上がりという言葉はよく聞くが、左肩上がりとはあまり言わない。グラフなどで左側が上の場合は右肩下がり、という表現になる。ならば、右と左に上下があるとすれば、右側が上になる。梓はそう考えた。

 

「『ウケ』の反対語は?」

「す、『滑る』?」

 

 これは質問者が悪かった。先ほどから関西イントネーションで話しをしている寺内が質問してしまった。彼女が言う『ウケ』は笑いの『ウケ』という風に梓は解釈してしまった。『ウケ』の反対であれば『滑る』となってしまった。

 再び彼女たちが相談を始めた。完全に置いてけぼりを梓は食らってしまった。

 

「あの、木嶋さん…コレ見てほしいんだけど…」

「う、うん…」

 

 差し出されたケータイを素直に見る梓。ディスプレイには少女漫画の男性役と思しき人物が二人、シャツを肌蹴て背中合わせに座っている。ちらりと上目で藤井を見ると、彼女は頷いた。読め、ということらしい。画面をフリックして、ページを送っていく。どうやら漫画のようだ。

 読み進めていくにつれ、雲行きが怪しくなってくる。登場人物が『アキ』『一夏』と呼び合っているところを察するに、秋久と一夏のようだった。

 

「ひ…ぁ…」

 

 梓の喉から引き攣った音が漏れた。秋久をモデルとした人物が、一夏をモデルとした人物のシャツを脱がせ、首筋に唇を這わせ始めた。少女漫画でもよくある構図ではあるが、登場人物のモデルを知っているだけに、妙な生々しさを感じる。そして、彼らは男同士である。巷にそういう趣味の人がいるということは知っているが、まさか目の前にいるとは思わなかった。

 

「か、返します!」

「え?キツかった?結構ソフトなのを選んだつもりなんだけど…」

 

 アレでソフトなの?!と心の内でツッコミを入れる。少女漫画でもそういったシーンを読んだことはあるが、目の前に他人がいる状況で読んだことはない。梓の顔が赤く染まっていく。

 

「いやいや…秋一派は結構ハードなん多いからなぁ…こっちはどう?」

 

 今度は寺内がケータイを梓に渡した。一通りページをフリックし、セクシャルなシーンがないことを確認してから読み始める。先ほどのモノとは違い、絵柄も内容もソフトだった。『アキ』に構ってもらいたい『一夏』は色々と彼を振り回す。振り回される内に彼の心は氷解していき…という内容だった。クール系の男性と元気系の少女が引っ付く場合の王道。恋愛物少女漫画を読んだあとの様な読後感だった。登場人物がアレではあるが。

 

「な?一秋モノはええやろ?」

「そ、そう…ですか…?」

「ちょっと待ってよ!秋一こそ至高でしょ!?普段は抑え役・フォロー役に回ってる彼が…」

「いやいや!一秋やろ!振り回し系の彼とクール系の彼が…」

 

 喧々囂々と言い合う二人。またもや梓は置いておかれてしまった。

 

「あ…あのー…」

「木嶋さん!」「自分!」

「は、はい!!」

「「どっち」や!?」

「どっちって言われても…その…よくわからないっていうか…」

 

 苦笑いを浮かべ、この場から逃げようとする梓。当然の反応だった。だが、彼女たちがそれを逃がすわけがない。本当にこの手の作品が苦手な者は、即座に拒否する。だが、彼女はある程度受け入れた。そして、彼女たちは同好の士やその素質を持ったものを発掘するスキルに長けている。

 

「そしたら、この薄い本を…」

「いや、寺ちゃんに染められたらダメだからね!次はコッチ!」

 

 

 

 こうして、ここに新たな同好の士が誕生した。なお、文芸部は既に汚染されており、特定の界隈では『漫芸部』と呼ばれていたりする。ただ単に本好きなだけで入部し、普段から部室に顔を出さず図書室ばかりに通っていた梓はそのことを知らなかった。




やっぱりこうなった…是非もないよね!ホモが嫌いな女子はいないからね!
いわゆる『ナマモノ』です。彼女たちの中で一夏と秋久は2.5次元化されてるんでしょう。



お読み頂きありがとうございました。
もし、注意書きが必要な場合はご連絡ください。そこまでダイレクトに描写していないので、大丈夫だと思っていますが…タグも付いてるし…


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

extra Ep.~特訓~

一夏ちゃんとあっきーの特訓です。
見た目ではいちゃいちゃします。見た目では。

UA50,000 突破しました。ありがとうございます。これからもご愛読よろしくお願い致します。


「さて、秋久くん」

「なんでしょう。一夏君」

「特訓します」

「唐突だな、オイ」

 

 夏休みも残すところあと四日。

 朝から一夏が荷物を抱えて訪ねてきた。秋久の課題は弾に奪われており、一夏も既に完了している。彼らは夏休みも普段通りに生活していたため、無理にリズムを戻す必要がない。ある意味で模範的中学生の生活を送っていた。

 

「ってことで、準備があるからちょい外出てて」

「ヤだよ。暑いし」

「じゃ、俺んち行ってて。好きにしてていいから」

「なんでさ…いきなり特訓なんてどうしたんだよ」

「こないだ、アズちゃんと本屋行ってたろ?」

「おう。それが?」

「んで、吃音り癖がまだ治ってなかった、と」

「まぁな…なかなか治んねえって…でも、成果は出てるだろ?二人で歩けたんだし」

「いや!ダメだね!ダメダメだね!っつーことで、本日より特別特訓を開始します!ゴー!俺んち!」

 

 朝食を二人で食べ終わり、今日も今日とてだらだらと過ごそうとした矢先に一夏が言い出した。となると、先程抱えて来た荷物は、特訓とやらに関わる荷物のようである。

 前から宣言していたが、何もないので忘れていると勝手に思っていた。秋久は一夏に背中を押され、部屋から閉め出されてしまった。着の身着のまま、ケータイも財布も鍵も持たずに、である。

 秋久を部屋から追い出した一夏は玄関の鍵をかけた。

 

「……カギもケータイも全部家ん中なんですが…」

 

 炎天下の中、秋久は十五分ほど待ち惚けを食らった。

 

 

 

 

 

「…いる?」

 

 音を立てて玄関が少しだけ開き、一夏が顔だけを出した。顔半分しか見えないが、申し訳なさそうに眉が垂れ下がっていた。

 

「おう…あっちぃけどな…」

「アキのケータイ鳴らしたら、机の上で鳴っててさ…」

「ああ。何も持ってねえよ」

「…ごめんなさい…」

 

 しゅんとなる一夏。この猛暑の中に放り出したことを悔いている。

 

「あー…まぁ…俺のためにって思ってくれてるだろうし、気にしてねえから」

「…ありがと…じゃ、入ってきてくれ」

 

 といいつつ、玄関を閉めた。入室を促しながら、玄関を閉めるとは矛盾している。

 

 秋久は首を傾げながら玄関を開けた。

 

 

 

「んな゛っ!?」

「おかえりなさーい♡ご飯にする?それともお」

「なななななんつーカッコしてんだ!アアアアアホアホか!!」

「ハイ、吃音ったー。やり直しー」

「やややややり直しじゃねえから!」

「ハイハイ、ほら、出てった出てった」

 

「テイク2行くよー」

 

 再びドアから顔を出す一夏。秋久を追い出し、ドアから顔だけを出す。その格好で外に出るのは恥ずかしいらしい。

 それもそのはずである。一夏はいつもの黄色いエプロンしか身に付けていない。水着の跡が少し残る肩も、エプロンの裾から見える小麦粉色に焼けた健康的な太股も。さらにいうとエプロンからは丸みを帯びた胸元がチラリと見える。

 

「……何考えてんだ?あのアホ」

 

 

「おかえりー♡ご飯にする?お風呂にする?それと」

「ご、ご飯で…っていうか、昼飯にも早いだろ」

「まぁな」

「あと、そのカッコ。まさか一日中ソレのつもりか?」

 

 いわゆる裸エプロンである。万が一にも一夏の背面など見えてしまったら…秋久は不安に駆られた。

 

「あ、やっぱ気になる?」

「気になるっていうか、怖いっていうか…」

「ならタネ明かしだな。じゃーん」

 

 くるりとと一夏が背中を見せようとその場で回った。一夏が回転する気配を感じ、反射的に目を瞑り、顔を背ける。

 

「…アキ?おーい?」

 

 反応のない秋久を心配して声をかける。ちょうど見返り美人の画のような構図で一夏が止まった。目をキツく閉じ、顔を大きく背けた秋久が見えた。

 

「なんだよ。大丈夫だって」

「いや……こ、怖いんだって…玄関ゲロまみれにすんのも嫌だし」

「大丈夫だからさ。ちゃんと服着てるから」

 

 秋久がうっすらと目を開ける。一夏の背中が少し白くなっている気がするし、臀部はどういうわけか青みを帯びている。肌色でないことに安心し、キチンと一夏の装いを見た。

 なるほど、白のチューブトップとデニム生地のホットパンツを穿いている。ちょうどエプロンで隠れる着丈だったようだ。ただし、白く美しい背筋も肩甲骨も見えてしまっている。女性の背中に対するフェチズムを秋久は持ち合わせていないが、それでも美しいと感じてしまった。全裸、もとい裸エプロンでないことに安堵し、秋久は溜め息を吐いた。

 

「な?大丈夫だったろ?」

「…ま、まぁ…」

「ちょいちょい気になるけど、まぁ及第点ってヤツだな。ほら、入れよ」

 

 

 

 

「で、こっからどうしよっか?」 

「ノープランかよ!」

「いやあ…予想外に受け入れてくれたからね。視覚、バツって感じじゃなかったし」

「…確かに…っていうか口調…」

 

 以前なら過呼吸を起こすか嘔吐していたかもしれない。受け入れているかはさておき、秋久は一応ながら動くことが出来た。

 

「今日は美智華ちゃんモードでいくからね!あ。でも、出来てるってよりも、目逸らして見てないカンジ?」

 

 先程から一夏と秋久は目を合わせていない。一夏からなるべく視線を逸らしつつ、秋久は会話を続けていた。

 

「こっち見てくれないの、寂しいなー?」

 

 視線の先に移動し、秋久の視界に入ろうとする一夏。一夏をなるべく視界に入れずにいようと、視線を逸らし続ける秋久。たっぷり二十分は鬼ごっこを繰り返していた。

 

 

 

「では!第二弾!」

「あ、まだやるんですね」

「とーぜんじゃん!夏休み終わるまで毎日だからね!」

「やめてください。死んでしまいます」

「大丈夫!救急車呼んだげるから!」

 

 呼ぶギリギリまでやると宣言されているに等しい。一夏からの死刑宣告に、げんなりした表情の秋久。

 昼食を食べ終え、二人で麦茶を飲んでいた時に一夏が第二弾の宣言を始めたのだった。

 

「五感を以てアキには女の子に慣れてもらいます!次は触覚!」

 

 一息に麦茶を飲み干し、ソファーまで一夏が移動した。秋久を呼びつけ、座るように指示する。いつものようにソファーに座った。ちなみに、まだ一夏は着替えておらず、先程の格好のまま。一夏の服装に慣れてきたのか、なんとかお互いに顔を見ながら会話ができるようになっていた。

 

「ほら、座って?ああ、違うよ。そーじゃなくて、もうちょっと足開いて…そうそう。ソファーにもっと凭れて?で、私が…よっと」

 

 少し広めに開いた秋久の足の間に一夏が座る。そのまま秋久に体重を預ける。背中が秋久に密着し、頭頂部が彼の口元に近づくが、彼は顔を背けた。秋久は両腕を背もたれに投げ出している。

 

「えへへ…ほら、わたしの前に手ぇ回して?」

「いや……それはハードルが高いっていうか…」

「じゃ、慣れたらお願いね?」

 

 チューブトップ越しの背中に秋久の体温と鼓動が伝わる。一夏の服装のために空調は少し高めに設定されていた。しかし、肌に直接冷房の風が当たってしまっていたため、肌寒く感じることもあった。今では彼の温もりのおかげでそういったことは感じない。

 

 

 

 

「ん…」

 

 一夏の背後で秋久がのそりと動いた。一夏に負荷がかからないよう、両腕を一夏の前に回し、手を腹部に置いた。後ろから一夏を抱き締める形になった。いわゆる『あすなろ抱き』である。秋久自身の腹とは違う、柔らかい腹部。さらに背中が密着し、より強く鼓動を感じる。

 

「暖かい…」

「さ、寒いか?」

「ううん。なんか気持ちいい…あ。汗かいちゃってるかも。臭い?」

「ぜ全然…大丈夫…」

 

 鼻腔を擽る一夏の香り。甘さを感じるも、それだけではない。以前はトラウマを掘り返した香りだったが、そのような兆候は見られない。むしろ少し安らぎすら感じる。秋久の中で『女』に対する認識が変わっていっている。

 

 

 

「…アキ、ドキドキしてる?すっごい早いよ?」

「………緊張してる…かも」

「そっか…わたしもちょっと早いかも」

 

 不快感はお互いにない。一夏は甘えるように抱き締める秋久を可愛らしく感じ、秋久は一夏から伝わる温もりと香りに満たされていた。

 

「ね…触ってみる?」

「…い、いいのか?」

「うん……アキならいいよ」

 

 また秋久の鼓動が早く強くなる。彼が一歩踏みだそうとしているのを感じる。覚悟を決めた両手が一夏の腹部を離れ、ゆっくりと持ち上がった。

 

「ぁ…」

 

 緊張しているらしく、微かに彼の手が震えている。その手が一夏の胸元に迫る。性が変わってしまって間もない頃、弾に胸を触らせて欲しいと頼まれた。その時は悍ましさと不快感で断ったが、今は受け入れる覚悟が出来ている。

 

 だが、彼の手は一夏の胸元を通り過ぎ、彼女の首筋に添えられた。少しだけ彼女の肌を撫で、目的地が定まったらしく、その場所で動かなくなった。

 

「ホントだな…なんだか早い気がする」

「でしょ…それより、そっちなんだ」

「?脈なら首だろ?手首よりわかりやすいし」

「そこは普通胸じゃないの?」

「…ハードル上げ過ぎ」

「アキらしいね…弾とかなら絶対胸触ってたよ」

 

 一夏が振り向いて笑いかける。人懐っこい、男だった頃と変わらない、秋久や千冬に束のような親しい人にしか見せない笑い方。

 

「触覚はもう大丈夫?」

「あぁ…多分」

「んっ…ちょっと首くすぐったいかも」

「わ、悪い…」

 

 添えられた手が動いた。肌を撫でる指先の感触に一夏が首を竦める。

 

「いいよ。なんか嫌いじゃないし…じゃ、次は嗅覚ね?」

 

 手を外し、一夏が立ち上がった。今度は身体を秋久に向ける。

 

「動かないでね?」

 

 秋久の肩に手を置き、ソファーに乗った。

 

「もうちょっと浅く座って…そうそう。今度は足閉じててね?」

 

「っっ」

 

 秋久と向かい合って一夏が腰掛ける。肩に手が置かれているため、密着度は低い。

 

「ゆっくりするから、ダメならすぐ言ってね」

 

 真っ直ぐに秋久の瞳を一夏が見据える。互いの瞳に自分の顔が見える距離。肩に置いた手をゆっくりと後頭部と首根っこに回した。

 

「いくよ?」

 

 秋久が頷く。緊張と不安のせいか、少し目が泳いでいる。しかし、彼はなんとか一夏から視線を外さないように努めていた。

 一夏が腰を浮かし、ゆっくりと彼の頭を胸元へ抱き締めるように近付ける。秋久の視界が肌色に染められる。

 

「う゛っ」

 

 一夏の匂いが濃くなっていく。目を瞑り、意識を嗅覚に集中させた。慣れたのか、改善されたのか。嫌な過去は脳裏になく、先ほどの一夏の笑顔が浮かぶ。

 鼻先が温かな柔らかさに触れた。反射的に離れようとするも、一夏の手が後頭部に回っているため、秋久の頭は動かなかった。

 

「大丈夫…」

 

 秋久の耳の近くで囁き声が聞こえる。

 

「怖くない、誰も、アキを傷付けない」

 

 優しい声が響く。秋久の脊柱に回された左手が一定のリズムで彼の背中を叩く。濃く女を意識させていた匂い。だが、それが優しく、安らかに感じる。

 

「怖く、ないよ。安心して…」

 

 とん…とん…とん。

 幼子をあやすようなリズム。彼の記憶には残っていないが、懐かしさを覚える。

 

「大丈夫…大丈夫だから…」

 

 一夏の声に反応し、垂れ下がっていた両腕がゆっくりと上がっていく。彼女に甘えるように、彼女を求めるように抱き締めた。

 

「うん…そう、怖くない。大丈夫だよ…」

 

 

 

 

 

 

「……寝ちゃった…」

 

 抱き締められていた腕が離れたのを感じ、一夏も少し体を離した。一夏という支えを失った秋久はそのまま背もたれに体を預け、静かに寝息を立てている。

 

「ふふっ…なんか可愛いね」

 

 まるでおっきな赤ちゃんだ…と思うと同時に、慌ててその思いをかき消した。

 子供が嫌いだというわけではない。以前から小さな子供たちと遊ぶのは好きだったし、それは今でも変わっていない。

 ただ、同い年の、自分より背が高い同性にそれを抱くとなると、話が変わってくる。一夏自身は同性愛者ではない。異性を意識しているかと問われれば、まだそこはしっかりと答えられないが、弾や秋久相手に恋心を抱いた覚えはない。しかしながら、秋久の毒気のない寝顔を見ていると一夏まで穏やかな気分になった。

 先程のスキンシップで笑顔が漏れたのも、久し振りに堂々と秋久に甘えられたからだ。彼の体調を慮って甘えていなかった分、より懐かしく嬉しくかった。

 

 

 

「っとぉ…」

 

 エアコンの寒さを感じ、身震いしてしまう。秋久に引っ付いていた分、より寒さをはっきりと感じた。彼を起こさないようにゆっくりと離れる。

 

「あー…なんか変に緊張したなぁ…着替えて俺も寝かせてもらいますか」

 

 ショートパンツをスキニーデニムに、チューブトップの上から五分袖のシャツを着て、一夏は秋久の隣に腰を下ろす。ついでに秋久の部屋からタオルケットを持ってきた。

 

「ぁふぅ…肩借りるぜ」

 

 秋久の肩に身体を預ける。彼の重心が一夏に傾き、頭を付け合わせる形になった。

 

「ふふふっ…おやすみ」

 

 引き続き彼が甘えてきているようで、可愛らしく感じた。聞こえてくる寝息が眠気を誘う。一夏は秋久にもタオルケットをかけてやり、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 部屋には二人分の寝息とエアコンの風だけが響いていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「んあ…?」

 

 秋久が目を覚ました。どういうわけか左側に重みを感じる。まだハッキリとしない頭で重みのする方に目をやると、左腕に一夏がしがみついて眠っていた。薄暗い中で、月明かりが一夏の顔を柔らかく照らしていた。今は眠りが浅いらしく、長く豊かな睫毛が少し震えている。

 

 ―あー…寝てたのか…

 

 天井を仰ぎ、一度全身を脱力させた。段々と眠る前の記憶が鮮明になり、彼の顔を赤く染める。鼻先…というより顔全体で感じていた柔らかさに似た感触が、左腕を包んでいた。以前なら振り解こうと暴れたかもしれないが、今は平常心を保っている。壁に掛けた時計を見ると、既に二十時に近くなっていた。

 

「…おい…」

 

 夕食を食べる時間は既に回っている。一夏を起こすため、秋久は左上半身を揺すり動かした。

 

「んんっ…」

「一夏…起きろって」

「もう…ちょっと…」

「珍しく寝起き悪いな…ほら、もう八時だぞ」

「んもぅ…なんだよ…」

「お。目ぇ覚ました。ほら、もう八時だし、さっさと飯食って寝ようぜ。ソファーでガチ寝したくねぇよ」

「あー…アキ?」

「おう。寝惚けてんの?」

「いや、多分大丈夫…おはよ。アキ…って暗っ!?」

 

 一夏が驚きの声をあげた。夕方ぐらいだと思っていたようだ。だから言ったろ?と秋久が視線で一夏に伝える。一夏が延びをしてから立ち上がり、ソファーに掛けていたエプロンを身に付ける。

 

「…晩御飯、適当でいい?」

「ああ、俺も手伝うよ」




これで少しマシになった……らいいなぁ。あっきーのトラウマが。
蛇足ですが、学校が始まるまでの四日間、彼らはこんなことを繰り返していました。

次回投稿まで少しお時間を頂きます。もうすぐ繁忙期なので。

お読みいただき、ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep23-1.

学校祭…開始!


し、仕事はちゃんとしてるから…(震え声)


 夏休みが明けた。

 一年生たちは長かった夏休みを惜しみつつも、再開する学校生活に向けてリズムを戻そうと苦戦している。初めて中学生としての夏休み。外してしまったハメを戻そうと苦労している者が多い。三年生は受験に向け勉学に励む者と、残るわずかな中学生活を謳歌しようとしている者に分かれている。ほとんどは受験に向けて頑張っている者ではある。

 一夏たち二年生はそのどちらでもない。去年の夏休み明けを経験しており、リズムを戻す要領は掴んでいる。受験は来年の話なので、そこまで勉学に励むつもりもない。では、彼らの有り余っているエネルギーはどこに向かうのか?部活動、そして、学校祭である。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 迎えた学校祭当日。東中は金・土曜と二日間に渡り、学校祭を実施する。金曜日は言わば『内輪』の学校祭である。プログラムのほとんどが有志によるバンド演奏、コントなど。少し保護者にお見せするには憚れる演目だった。

 そして、その憚られる内容の最たる物が『ミスコン』である。

 通常のミスコンと呼ばれるものは、有志によって選抜された女子がその美しさ、可愛らしさを競うものである。しかし、東中のミスコンはそうではない。

 

「みっなさーん!お待たせしました!東中ミスコン!開催しまーす!!」

 

 体育館の舞台の上で、生徒会長が高らかに宣言する。

 集まっている生徒たちは拍手で応え、歓声を上げた。中には指笛を鳴らす者もいる。

 

「エントリーナンバー…え?そういうのいいの?じゃ、一年生!カモン!」

 

 舞台袖から一年生達がぞろぞろと壇上に上がる。会長にマイクを向けられ、クラスと名前を伝える。皆、学校指定のセーラー服を身に付けている。ただし、身に付けているのは男子生徒たちだった。

 一応は『ミスコン』である。一年生の顔が整った男子生徒やクラスの人気者が女装させられて出てくる。もちろんメイクもされているが、唇を強調したネタに走ったメイク。お調子者の彼などは唇お化けにされており、舞台に上がった瞬間に笑いを取っていた。いわゆる出オチである。

 一頻り一年生の紹介が終わると、彼らは舞台の奥に整列させられた。

 

「うんうん。一年生も頑張ってんね!じゃ、二年生…え?いきなり?…なんと、二年一組は四人エントリーです!どうぞ!!」

 

 舞台の左右から学生服の生徒が現れる。

 向かって右側の男子生徒は二年生にしては背が低く、長ランと呼ばれる学生服を着ていた。前ボタンを全て開けており、長ランが翻る度にサラシが見える。珍走団スタイルだが上着が長過ぎるため、裾を引き摺って歩き、袖もかなり余ってしまっている。長い黒髪をつむじの辺りで纏めた、丁髷風の女生徒…一夏が現れた。

 向かって左側からは短ランにボンタン、短い髪をオールバック風に纏めた女生徒…志帆が現れる。ボタンは全開で下はサラシだ。

 

「おぉ…!女子の男装ですね!しかも、片方は『お胸のないイケメン』、田端さんです!女バスキャプテン就任、おめでとーございまーす!」

 

 全校生徒から拍手で祝われる志帆。少し聞き捨てならない呼称があったが、場の空気を読んで流して手を振る。会長が一夏にマイクを向け、自己紹介を促した。

 

「折浦美智華です!二年一組に投票お願いしまーす!」

 

 舞台から大きく手を振ってアピールする。ヤンキースタイルでこの様に振る舞うのは些かアンバランスであるが、クラスメートからは『可愛いー!』と歓声が上がる。

 

「わたしたちは前座です!本命さん!どうぞ!!」

 

 生徒会長から仕事を奪い、一夏が本命の登壇を促す。舞台袖からは黒に金色の刺繍の入った着物を着崩し、帯を前で留めた赤毛の女性が登壇した。しゃなりしゃなりと中央へ向かって歩みを進める。お引きずりと呼ばれ、本来では裾を引き摺って歩く着物だが、あまりに背が高いため、裾が地面に着くかどうかの着丈になってしまっている。

 続いて現れたのは桜色の振袖を着た女性。全体に細かく桜の花弁が染め抜かれ、なんとも鮮やかな出で立ち。日本髪の鬘を被っており、女性にしてはやや背が高い。

 二人とも眉は細く整えられて墨が引かれ、整った顔立ちに似合う様に薄く化粧を施されている。目許と唇には赤い紅が引かれ、なんとも女性らしい面立ちをしている。二人が中央に並び立ち、同時に頭を垂れた。

 

「ク、クラスとお名前を…」

 

 生徒たちが呆気に取られる中、生徒会長が一番に復活し、マイクを向けた。静まり返っていた体育館にどよめきが響き始める。

 

「……一組、五反田弾」

「お、同じ一組、斧崎…です」

 

 どよめきがかき消され、驚きの声が上がった。

 

「え、えーっと…以上!二年一組でしたー!拍手ー!」

 

 拍手を促すも、反応は疎らだった。元々ネタとして笑いのためにやっていたイベントである。彼女は三回目の学校祭だが、ここまでガチンコで出てくるクラスはなかった。

 

「気を取り直して、二組の代表者さん!おいでー!!」

 

 

 

 

「いやー!盛り上がったね!」

「どこがだよ!やり過ぎで全員ドン引きだったじゃねえか!!」

 

 あのあと、二年四組の代表者、数馬がすね毛丸出しのミニスカートスタイルで登場し、なんとか二年一組が登場する前の空気に戻った。数馬はブーイングと悲鳴に包まれていたが、彼は恐らく気にしていない。

 

「なんか予定がだいぶ狂った気がするわ。アタシ」

「どーでもいいけどさ、俺早く脱ぎてぇんだけど…」

 

 本来は唇お化けか海苔のような眉毛にしてネタに走る予定だった。しかし、衣装提供元の成宮教諭とメイク担当の豊村女史が暴走したのだろう。完全な女形になってしまっていた。

 普段から締め付けられる衣装を着慣れていない弾が文句を垂れる。女性でも着慣れていないと苦しいと感じてしまう着物。彼が着るとより窮屈に感じているらしい。同じく秋久も窮屈さを感じているだろう。

 

「あ、脱ぐ前に写真撮ろうよ!」

「「えぇー…」」

「…アタシも?」

「もちろん!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 授業を終えて職員室へ戻る途中、千冬のケータイがメッセージの着信を知らせた。ちょうどサイレントモードからマナーモードに切り替えるため、ケータイを取り出したところであった。

 

『どう?』

 

 一夏からのメッセージ。続けざまに画像が送られてくる。

 

「ッッ!」

 

 長ランを着た一夏の画像。右手でピースサインを作っているが、左手はそのまま下に垂れ下がっている。袖が余り、なんとか左中指と薬指が辛うじて見えている、所謂『萌え袖』になってしまっていた。長ランの下はサラシのみという刺激的な装いで、収まりきらなかった胸がサラシの上からややはみ出してしまっていた。

 続けて、可愛らしい桜色の振袖を着た日本髪の女性が写った画像が送られてきた。いや、女性ではない。骨格からして男性のようである。だが、着こなしといい、立ち姿といい、美しいと言って差し支えない。このまま大衆演劇の女形として売り出しても問題はなさそうだ。そして、千冬はこの顔立ちに見覚えがある。

 

「秋久か?」

『さすがは千冬姉!大正解!』

 

 また違う画像。先程と同じ服装の一夏が秋久と腕を組んでいる画像である。一夏は嬉しそうに笑い、秋久は澄ました顔で写っている。

 

 ―クッ…休みを取って行けば良かった…!

 

 休みを取ったところで、今日は父兄・一般お断りの日である。千冬が見に行ける道理はない。

 

「あの…織斑先生?」

 

 いきなり廊下のど真ん中で立ち止まり、フリーズしてしまった千冬に真耶が声をかけた。

 

「山田先生…こちらを…」

「あら、可愛らしいですね。一夏ちゃんですか?それと、こちらの女性は?」

「秋久です」

「え」

「秋久が女形になっているんです…!一夏も可愛いし!何故私は休みを取らなかったのか…!!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 日は変わり、招待者参加日。土曜日ということもあり、多数の父兄や校区の関係で離れてしまった友人、卒業生で溢れている。

 一夏たちはいつもの面々で模擬店や展示を回っていく。ただし、梓は『部活の展示』のために彼らとは同行していない。

 どこの模擬店でも一夏一行は色々と声をかけられた。先日のミスコンでやらかした四人組、一日にして有名人になってしまった。元々女子バスケ部新キャプテンとして著名な志帆、先日のミスコンで『ガチミス東中』として有名になってしまった一夏。赤髪の妖艶な女形姿と今の姿が一致しない弾、日本髪の振袖姿と今の制服姿が一致しない秋久。

 

「あ、千冬姉だ!」

「お疲れ様です。来てくれたんですね」

「あぁ、昨日あんなものを見せられてはな。似合っていたぞ。一夏、秋久」

 

 手に模擬店のたこ焼きを持った一夏が駆け寄ってくる。それに倣い、秋久や彼の友人たちも集まってきた。

 

「おお疲れッス!千冬さん!」

「こないだありがとうございました!」

「あぁ、お疲れ様」

 

 夏休み前のことをいっているのだろう。千冬としては取り乱した姿を見られたと思っているため、あまり蒸し返したくない話題ではある。

 

「君たちで廻っているところを邪魔してしまったな。私は適当に廻ってくるから、楽しんでくれ」

 

 顔を見せに来ただけだ、とでもいうように、片手を上げて千冬は立ち去った。

 

「千冬姉ー!わたしたちトリだからねー!」

「あぁ!楽しみしている!」

 

 

「っつーかさ、あの大荷物何だったんだ?」

「さあ?」

 

 

 

 

 

 

「続きまして、二年一組による、劇『シンデレラ』です」

 

 体育館にアナウンスが響き、深紅色の緞帳が上がった。舞台の上は真っ暗で、微かに背景と思しき大きな絵が見える。どうやら、木造の二階建て屋敷をイメージしているようだ。

 

『むかしむかし、あるところに、シンデレラという貧しい少女がいました』

 

 舞台をスポットライトが照らす。照らした先には白い三角巾を被り、薄汚れた丈の短いエプロンを着た赤毛の少女…もとい少年が懸命に床を雑巾掛けしている。

 

「ああ!忙しい忙しい!」

 

 床を拭くのではなく、雑巾掛けだ。小学校の掃除の時間によくやっているアレである。ドタドタと足音を鳴らし、弾が舞台の上を左右に走り回る。

 

「ちょっと!シンデレラ!」

「私たち、明日の舞踏会にこれを着ていくのよ!」

「今日中に洗濯をしておきなさい!」

 

 意地悪な姉として男子が三人、舞台袖から現れた。それぞれ鬘を被り、簡素なドレスを着ている。

 彼らがそれぞれのドレスを弾に投げつけ、高笑いをしながら舞台から捌けていった。

 

 




『人物紹介』
成宮 優
二年一組担任女性教諭。担当教科は地学。「優ちゃん先生」の愛称で親しまれる、生徒の自主性を重んじる先生…といえば聞こえが良いが、悪く言えば適当な先生。
イベント事は全力で楽しむタイプ。

担任の設定付けたけど、要らない設定ですね。

お読み頂きありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep23-2.

前回のあらすじ
・学校祭が始まりました。二年一組がやらかす。
・二日目は一般参加日。梓ちゃんは『部活』。一夏ちゃんたちは四人で学校祭を回ったよ!



今回は終了編です。




 体育館に時計の鐘の音が鳴り響く。十二時を報せる鐘の音。魔法が解けてしまう、夢のような時間が終わりを告げる音。

 

「大変!もう帰らなくっちゃ!」

 

 赤毛に青を基調としたドレスを身にまとったシンデレラの叫び声と共に、スポットライトが点いた。先ほどの暗転の間に設置された階段の一番上に立ち、後ろを振り返った。階段は全部で十五段ほど。

 

「待ってくれ!美しい人!!」

 

 志帆の声が響く。その声を合図に、シンデレラが階段を駆け下りようとして、転んだ。二段ほど駆け下り、そこから弾が大きな音を立てて階段を転げ落ちる。最後まで転がり、上手く受け身を取って立ち上がった。そのままドレスの裾を持ち上げ、全力で走り、舞台から捌けていった。

 

「はっ!これはガラスの靴!あの人の物に違いない!」

 

 階段の半ばに置かれた、ガラスの靴らしき物を志帆が扮する王子様が拾い上げ、わざとらしく掲げた。そこでライトが全て落とされ、暗転した。

 

『王子様はシンデレラを見つけるために、国中を駆け回りました』

 

 スポットライトに照らされ、出てきたのは背の低い王子様。次の王子様役は一夏である。暗闇の中を歩き、そこで出会う町人役のクラスメートにガラスの靴を渡す度にスポットライトが点く。リハーサルで何度も練習した動き。

 

「あーあ。ついにシンデレラは見つからなかったなぁ。あとはこの家だけだ!」

 

 最後に王子様が訪れる家、つまりはシンデレラが住む家である。物語通りに話は進み、意地悪な継母や姉の妨害にめげず、シンデレラは一夏王子とお目通りが叶った。あとはガラスの靴を履いてハッピーエンドである。

 

 

 

「王子様!おーうーじーさーまー!」

「え?あ、ど、どうした大臣!」

 

 シンデレラがガラスの靴を履こうとした瞬間、梓大臣が舞台袖から走って出てきた。台本にない動きだが、なんとかアドリブで一夏が返す。

 

「大変です!もう一つガラスの靴が見つかりました!」

「え?」「はぁ?」

「お願いしまぁーす!!」

 

 大臣が舞台袖に声をかける。そこから現れたのは幅が約二メートル、高さ約一.五メートルの巨大な透明アクリル製のヒール靴…もといガラスの靴である。流石に手で運ぶのが難しいらしく、木製パレットの上に乗せられている。パレットごと黒子が操るハンドリフトで運ばれてきた。

 

「保管、搬入はミグラントロジスティクス様にご協力いただきました!ありがとうございました!」

『ありがとうございました!』

 

 梓のセリフに続き、黒子たちが客席に向かって唱和し、頭を下げる。客席からは拍手が返ってくるが、舞台上の面々はポカンと口を開けたままであった。

 

「さぁ!シンデレラ!どうぞ!」

「いや…どうぞって…」

「どうぞ!」

 

 梓の二度目のどうぞに黒子たちが反応する。弾の両腕と両足を抱え、ガラスの靴の近くまで運んでしまった。

 

「ほら、弾。肩持って」

「五反田、足貸して」

 

 黒子たちが弾に声をかけ、それぞれが弾の片足を持ち、何とかガラスの靴の上に弾を立たせる。弾が乗ったことを確認し、今度は二人がかりで弾の片足を支えた。少しふらつきながら、何とかシンデレラがガラスの靴の上に立った。弾自身の身長を合わせると三.五メートルほどになる。もう少しで舞台の天井に手が届きそうなほどの高さである。

 立ち上がり、安定したところで観客から拍手が起こった。まだポカンと口を開けたままの一夏を梓の肘が突っつく。

 

「美智華ちゃん、セリフ!」

「え、あ、うん…そのままでいいの?」

「いいよ!」

 

 舞台前に設置されているマイクに拾われないように小声で話す。梓の動きには合わせられたが、予想外過ぎたようだった。

 

「お、おお!あなたがシンデレラだったか!どうか私と城へ来てほしい!!」

「え、あ…え、ええ!喜んで!!」

 

『こうして、シンデレラは末永く、幸せに暮らしました。めでたしめでたし』

 

「いくぞー」

「せぇーのっ!」

 

 黒子たちが声を掛け合い、シンデレラの乗ったガラスの靴を移動させる。爪先が舞台中央に向いているため、捌ける時は後退する形になった。

 

「のわっ!?ちょっ!!ゆっくり!もうちょいゆっくり!!」

 

 あくまでガラスの靴には乗っているだけである。バランスを崩して腰を落とした弾が、蹲踞の姿勢で運ばれていく。転落しなかったのは流石というべきか。

 弾が慌てふためく様子も演出だと思われているのか、会場からは笑いが起きた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「乾杯!」

『カンパーイ!』

 

 無事に学校祭も閉幕式も終わり、片付けも一段落した。間もなく午後五時になろうという時間である。用事のある者や既に片づけを終えた者は解散しているが、一部の生徒は教室に残って学校祭の余韻に浸っていた。行事好きが多い二年一組は比較的多人数が残っており、担任の成宮教諭が買ってきたジュースやお菓子を片手に、ささやかな打ち上げを行っていた。

 

「でも、惜しかったねー。ミスコン」

「惜しかったか?ま、数馬が大賞取ったのにはビビったけど」

 

 弾の言葉通り数馬が今年の『ミス?東中』に輝いた。やはり笑いを取りに行った方が良かったようだ。

 

「俺は体育館賞取れたから、それで満足だよ」

「他のクラスに『あの大道具は卑怯』って言われてたもんね」

 

 体育館賞とは、学校祭期間中に体育館で行われる出し物の大賞である。動員数、盛り上がりなど様々な条件の元に大賞が決定される。今年の受賞は二年一組だった。

 

「アタシは千冬さんにビックリしたけどね…」

 

 席を同じとしている三人が頷いた。また、三人だけでなく近くに居るクラスメートたちも頷いた。客席の最前列に座り、三脚付きのビデオカメラ二台に大きな一眼レフカメラを持ち、客席に座りながらもバシバシと舞台を撮影していた姿。良くも悪くも目立っていた。

 

「あ、あははは…」

 

 一夏が苦笑いを浮かべる。親戚ということになっているが、身内は身内。何事にも一生懸命ということは悪いことではないが、少しばかり恥ずかしい。もはや二年一組の中にカッコいいブリュンヒルデのイメージはなく、どこぞの親バカイメージしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 あちらこちらで思い出話に華が咲く。アレは大変だった。衣装のここが難しかった。あのアドリブがウケた…彼ら彼女らの話は尽きることがない。約二ヶ月の準備期間だった。クラスが一丸となり、一つの目標に向かう楽しさは語り尽くせるものではない。

 

 

 

 弾が梓を眺める。彼女は一夏と志帆、他のクラスメートたちと談笑している。トークのメインは一夏とクラスメートで、梓は少し離れて聞き役にまわっているらしい。

 

「…行かねぇんだ」

 

 いきなり秋久に話かけられ、弾の肩がびくりと震えた。どうやら梓に集中し過ぎ、周りがあまり見えていなかったらしい。辺りを見回すも、弾を気にかけているのは秋久ぐらいであった。

 

「う゛っ…い、今覚悟決めてんだよ」

「頑張って来いよ。親友」

 

「…ふぅ……うっしっ。キメてくる」

 

 強く目を閉じ、見開いた。覚悟を決めた漢の目である。何時もの軽い雰囲気はそこにはない。

 

「骨は拾ってやる」

「いってろバーカ」

 

 

 

「あ、あ梓ちゃん…ちょっ…ちょっといい?」

「?どうした…の?」

 

 弾の視線が真っ直ぐに梓を射抜く。妙に緊張した空気を漂わせたまま話かけられ、梓は少したじろいた。他の女子はお喋りに夢中で、弾と梓を気にかける者はいない。

 

「つ、ついてきて…くれ」

 

 小声で梓に伝え、弾が教室を出た。やや遅れて梓が後に続く。頻繁に人が出入りしており、騒がしい教室。彼らが出て行ったことを気にしている生徒は秋久のみ。いや、梓が席を外した頃、ちらりと志帆が横目で見たが、何も言わずに彼女を見送った。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 騒がしい教室棟を歩く。三分の一ほどの生徒は帰宅しているが、まだまだ人は多い。特に残っているのは学校祭の興奮醒めやらぬ者共。騒がしいのは道理であった。

 喧噪の中、強張った表情の男が歩く。彼は赤毛と高い上背でよく目立つ。その後ろを小柄な女生徒がついて歩く。彼の緊張感が彼女にも伝染したのか、些か表情が強張っていた。

 

 

 

 梓を意識し始めたのは、何時からだったろうか。自問するも、明確な答えは出てこない。

 

 最初は彼女の年齢不相応な体躯に目を惹かれた。スポーツテストの時、弾む部位ばかり見ていた。下世話な表現だが、彼女のお世話になったことは両手では足りない。

 そこばかりに気を取られてしまっていたが、彼女の魅力はそれだけではなかった。次に気になったのは彼女の性根の部分。一夏や志帆に話すときは楽しそうに笑いかけるが、弾や数馬が話しかけると二、三歩引いた笑い方をする。スポーツテストの時にやり過ぎたかもしれないが、そんな態度がしばらく続いた。

 やがて、彼女たちに笑いかけるような笑顔が欲しくなった。比較的秋久相手なら平気なようだが、それでも弾は自分に笑いかけて欲しかった。

 

 あの事件の時、弾が珍しく静かな怒りを燃やした。彼がそうなったのは、一夏だけでなく、梓にあんな表情をさせた犯人が憎くて堪らなかったのもある。

 そこで彼は少しだけ自分の気持ちに気付いた。一夏や志帆らと彼女への扱いが異なることに。違う視線で彼女を見つめていることに気付いた。一夏のことも気にかけてはいるが、ベクトルが異なる。想いは日を重ねる毎に積み重なり、いつの間にか、一日中彼女のことを考えている日もあった。

 

 夏休みに入り、より彼女が愛おしくなった。甲斐甲斐しく男子バスケ部員の世話を焼く彼女を可愛らしく思うと同時に、世話を焼かれている部員たちに嫉妬した。会えない日に面白さは感じず、連絡先を交換しなかった自分に絶望した。久々に会えた勉強会の日は浮かれてしまい、危うく彼女を泣かせてしまう所だった。

 

「ご、五反田クン…?」

 

 梓に声をかけられ、自身が思考の奥深くまで沈んでいることに気付いた。いつの間にか特別教室棟まで歩いてしまっている。辺りに人気はなく、長い廊下には夕陽が差し込んでいるだけ。

 先程の喧騒が幻であったかのように静まり返っている。世界には自身と梓しかいない。そんな錯覚に捕らわれた。

 弾が振り返り、梓を見据える。彼の顔は紅潮し、強く握り締められた拳が小刻みに震えている。だが、彼の瞳は強い意志を持ち、じっと梓を見つめていた。

 

 梓と弾の距離は約三歩。互いの表情がよく見える。梓の視線は忙しなく動き、落ち着きがない。不安そうに弾を見上げる姿は抱き締めたくなる可愛らしさがあるが、そういう空気ではない。

 早く伝えたいが、緊張し過ぎて生唾が湧き上がる。飲み下す度に言葉が出なくなる。話そうと口を開いても、キチンとした声は出ず、小さな呻き声が鳴るだけだった。

 

「あ、あず「あのッッ!」」

 

 ―サイアクだ。カブった…

 

「ご、ごめんね?どうしても今聞きたくて…」

「お、おう…ぜぜぜ全然大丈夫だぜ!」

 

 口が上手く回らない。

 

 ―秋久じゃねぇんだよ。

 

 弾は一つ息を吐き、自らを落ち着かせようと努める。どう見ても告白シーンであるこの空気。そこに梓が割り込むという事実に、弾はほんの少しだけ妄想していた事を思い出す。

 梓も緊張しているらしく、胸元に両手を当てて深呼吸を繰り返す。弾の妄想が現実味を帯びてきたような気がする。

 

「おっ…!おお斧崎クンのこと好きだよねっ!?!?」

「へっ…?」

 

 どこにそのパワーがあったのか、大きな声で梓が叫んだ。完全なる告白ムード。ゲームの世界ならこんなシナリオはクソゲー確定である。しかし、人生はクソゲーだった。

 

「えっ…好きじゃない…の?」

「いや、好きか嫌いかでいうと…好きだけど…」

 

 なんで今?と弾が呆気に取られる。先程までの緊張感も空気も吹き飛んだ。弾の秋久のことを好いているという言葉に、梓の表情が変わった。

 

「あっありがとう!用事思い出したから帰るね!」

 

 そのまま背を向けて梓は走り出した。いきなり話題を変えられ、一方的に話を打ち切られた。走り去っていく彼女の後ろ姿を弾は茫然と見送る。先程とは違う意味で言葉が出てこない。

 

 

 

「なっ……なんじゃそりゃあああああ!!!」

 

 人気のない特別教室棟に、彼の絶叫が虚しく響いた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 何か得体の知れないモノから逃げるかのように、梓が教室に滑り込んできた。その慌てように一同が注目する。彼女はそんなことを気にかける素振りも見せず、カバンを持って外に出ようしている。

 

「あ、アズ?」

「ごめんね志帆ちゃん!用事あるから帰るね!」

 

 じゃ!と片手で挨拶し、勢いそのままに教室飛び出していった。

 

 

 

 

 

 

 梓のドタバタ退室劇があってしばらく。幽鬼のような動きで弾が教室へ戻ってきた。頭を垂らし、長い赤髪が彼の表情を隠す。秋久が彼の姿を認め、声をかけようとしたが、悲痛なその立ち振る舞いに何も言えない。

 

「秋…久…」

「あ、あー…その…」

 

 勢い良く肩を組む。しっかりとした力強さ。その表情とは裏腹に、告白が成功したのだろうか。秋久は少しだけ期待した。

 

「テンメエエエエエ!!」

 

 弾が大声を上げた。秋久の足の間に腕を通し、彼の背中に肩を当てて担ぎ上げる。アルゼンチンバックブリーカーの形になった。

 

「うお!?」

「ッシャラアアアアア!」

 

 クラスメートの眼前で、突如としてプロレスが始まった。状況を理解していない男子たちが囃し立て、女子たちが帰りを促す。既に時計は直線でなくなり、間もなく日が落ちようとしていた。

 

「ちょ!?怖えし痛え!?降ろせええ!」

「ッシャ!ッシャ!ウオラアアアア!!」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 秋久と弾は一夏を家まで送り届け、二人で秋久の部屋に入る。道中は明るい一夏のおかげでお通夜ムードにならず済んだが、二人きりになるとそうはいかない。

 部屋に入った弾はカバンをソファーに放り投げ、許可もなく冷蔵庫を漁る。自室で着替えを終えた秋久が缶ビールを両手に持った弾を見咎める。

 

「おい!お前それ…」

「うるせえ!」

 

 プルタブを勢い良く開けた。音を立てて口が開き、一気に中身を胃に流し込む。

 

「プッハァ!」

「い、一気て…大丈夫か?っていうか、それ千冬さんの…」

「知るか!」

 

 空になった缶をシンクに投げ込み、二本目を開ける。同じように勢い良く一気に飲もうとするが、胃に押し込んだ炭酸が口に上がり、盛大に噴き出した。秋久が溜め息混じりに雑巾を取り出して床を拭く。噴き出したにもかかわらず、弾は自棄酒を続ける。

 

「お前…振られたからって」

「振られてねぇよ!告らせても貰えなかった!!」

 

 空になった二本目も流しに放り投げた。キッチンを漁り、千冬のウイスキーを取り出そうとする。

 

「ちょ!?バカ!それは止めろ!!」

「飲ませろ!飲ませろおお!!」

 

 今の彼ならウイスキーでラッパ飲みをしかねない。度数五十のウイスキーである。そんなものを慣れない身体に流し込んでしまえば、急性アルコール中毒で救急車のお世話になりかねない。普段であれば弾の方が力が強い。だが、既にアルコールが回り始めてしまっているのか、なんとか秋久が押さえ込んだ。

 

 

 

 弾には水割りを自分には麦茶を用意し、夕食を作り始めた。一夏にはとりあえず連絡し、一人で食事を摂ってもらうように伝えた。鶏肉を適当な野菜と粉末ダシで味付けたパスタ。さっさと作るには最適なメニュー。

 弾に水割りを出すのはどうかと思ったが、飲まさねば暴れかねない彼のため。溜め息混じりに秋久は出来上がった皿を並べた。

 

「…空きっ腹で飲んだらぶっ倒れるぞ」

「悪ぃ…」

「とりあえず食えよ。話は聞いてやるから」

 

 瞬く間にパスタが消えていく。流し込むようにパスタを消費し、弾は再びグラスの中身を流し込んだ。

 

「っく……これ、キツいな…」

「まぁ、ビールよっかキツいんじゃねぇの?で、どうだったんだ?」

 

 涙を流しながら、弾が事の顛末を話す。いい雰囲気だったのに、あれは告らせて貰える空気だったのに、と愚痴を零す。

 

「っつーかさ!なんで俺がお前に好きとか言わなきゃなんねーわけ!?」

「知らねえよ…」

「お前のこと嫌いじゃねえけどさ!梓ちゃんへの好きとお前に対する好きがおんなじなわけねえよ!!」

「いや、そりゃ木嶋さんもわかってるって…」

「だよな!?なんで言わせて貰えねえの!?」

「知らねえってば…まぁ、脈はないわけじゃ…」

「マジか!!好きって言われたくないから話変えたわけじゃねえのか!!」

 

 もう一杯水割りを飲み、弾は完全に出来上がった。流石にこのまま家に帰すわけにもいかず、秋久から蘭へ今日は泊める旨を伝えた。

 

「じゃあさじゃあさ!俺!まだイケるよな!?」

「好きにしろ。ってか、納得出来ないだろ?振られてないんだし。あと声デカい」

「っっしゃあああ!!俺はやる!やってやるぜええええ!!」

 

 雄叫びをあげ、勢い良く椅子から立ち上がる。だが、出来上がった状態でそんなことをしてはいけない。アルコールが頭に回り、ふらふらと力無く座り込んでしまった。

 

「あー…なんか…眠ぃ…おやすみ…」

 

 暴れるだけ暴れた弾は床に倒れ込み、そのまま寝息を立てる。

 

「どんだけ自由人なんだ…お前は」

  




お酒は二十歳になってから。未成年者の飲酒は法律で禁じられています。
気持ちはわからなくもないけどね。

お読み頂きありがとうございます。
次のお話は明日の7時ごろ投稿予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~脱兎~

二回連続で…というより、しばらく梓編。


 辺りが宵闇に染まる。

 用事があるといい、何かから逃げるように特別教室棟を駆け抜けた。スクールバッグを掴み、教室からも飛び出した。転げ落ちるように階段を駆け下り、ローファー

に脚を押し込めて走った。まだ通学路の三分の一も進んでいないが、全力で走ってきたせいか、息が切れてしまっている。

 

「はっ…はっ…はっ…んくっ…はっ…はっ…はっ…」

 

 両膝に手を突き、荒い呼吸を繰り返す。唾液が分泌され、口から垂れてしまいそうになり、慌てて飲み込む。まだ、呼吸は落ち着かない。

 

 

 

 

 

 

 梓の半生はまさに『山あり谷あり』であった。

 山の後に谷が必ず来ていた。その谷の深さは山の高さには比例しない上に、谷がしばらく続くこともあった。

 彼女は読書家の両親下で生まれ育った。小さな頃から様々な絵本を読み聞かせてもらい、子守歌よりも絵本の読み聞かせの方が好きな少女だった。両親の愛を受けて育ち、三歳頃には平仮名を読み、五歳で簡単な漢字を読み書きできるようになった。漢字が読めれば、読める本の幅が広がる。家にある本を次々と読み漁り、彼女は本の世界にのめり込んだ。

 

 小学校でも彼女は変わらずに本を読み続けた。少ないながらも友人はいたが、教室で本を読む方が好きな子供だった。もちろん、友人たちと校庭や公園で遊ぶこともあった。

 

 彼女が記憶している大きな谷は小学五年生頃だった。周りの子供たちと比較し、少し早めに二次性徴が始まってしまった。今まで目立たなかった女子の胸が膨らみ始める。しかも、周りの女子はまだ平たい胸だというのに。それと同時に少しずつだが、彼女はからかいの対象になった。少し早く大人になっていくクラスメートへのやっかみであっただろう。

 四年生になる頃には、梓の胸は乳房と呼べる大きさに成長した。周囲はようやく胸が膨らみ始めたかどうか、という頃である。本人の意志とは関係なく、身体は育った。

 最初は大人に近付く自らの身体を少し誇らしげに感じていた。しかし、四年生、五年生と年齢を重ねるにつれ、からかいが性的になってくる。大人しく可愛らしい少女である。男子からのスカートめくりには何度か遭ったが、その都度しゃがみ込んで泣きそうに顔を赤らめてしまうような子供だった。スカートめくりから対象が徐々に胸に移動していく。

 

 教師の見えない所でセクハラ紛いのからかいを受ける日々。味方だった筈の友人たちも離れていく。段々と自分の体が嫌いになっていく。こんな身体に生まれたくなかったという思いが強くなる。

 男子たちのセクハラが本格的になり、胸を触ろうとする者が増えてきたある日のこと。女にヒーロー…いや、ヒロインが現れた。志帆である。彼女は兄二人に鍛えられ、強い女になっていた。梓に近付く男子たちを口撃し、追い払った。元々幼稚園から続く縁だった。お互いに知人レベルだったのが、この件を切欠に仲を深め合っていった。

 

 中学入学当初、多少男子からのアプローチはあったが、一様に梓の身体目当てだった。普段ちらちらと胸に目をやるならともかく、告白する時にまで眺められては堪らない。また、セーラー服を押し上げる胸元を、すれ違う男性がジロジロと見てくる。元々男性に対して苦手意識の強い梓は、ますます男が苦手になっていった。

 

 そして今日、五反田 弾に想いを告げられた。いや、想いを告げられる前に、梓が断ち切った。彼は今までの男子とは違った。あの時、一度も梓の瞳から視線を外さなかった。

 

 梓の弾に対する印象は悪い。もとい、悪かった。初めて話し始めた間柄にもかかわらず、セクハラめいた発言が多く、胸元によく視線を感じていた。秋久の友人だから、ということで期待していたが、彼の友人だからといって彼のように女性への興味が薄いというわけではないらしい。

 クラスメートである彼を目で追ったり、話をすることが徐々に増えた。少し軽い雰囲気は苦手だが、それなりに場の空気を呼んだり作ったりする、周囲へ気を回すタイプということもわかった。ただ、大きな上背と赤い髪色が苦手だった。

 

「…やっちゃったなぁ…」

 

 母への挨拶もそこそこに、自室に入ると同時に呟いた。繰り返すが、アレはどう見ても、どこをどう切り取っても、告白前の空気だった。それをぶち壊したのである。もし、自分がやられていたら?しばらくは立ち直れなかっただろう。

 

 では何故やってしまったのか。自問自答する。あの場から逃げ出したかった。だから、あんなわけのわからないことを言って、誤魔化した。弾のことは嫌いではない。かといって、好きでもない。告白を受けてしまえば、二択のうちどちらかを選ばなくてはならなくなってしまう。「これからもお友達で」などという常套句は使い古され、今では告白を断るためのセリフになってしまっている。

 

「…どうしよう…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 上の空で家族と食卓を共にし、風呂に浸かる。これからどうすべきか、どうすれば弾に許してもらえるのか、見当もつかない。まずは弾に謝らなければいけない。それは確実だ。だが、謝った後にどうするのか。そこが見えない。謝ったところで、もう一度告白してください、なんて言えない。では、無視するのか。それもできない。弾は美智華たちとよく一緒にいるし、自分自身も美智華と仲良くしたい。弾との仲が拗れることで秋久や美智華が離れていってしまうかもしれない。それは嫌だ。

 

「…なんであんなことしたんだろう…」

 

 梓の言葉は湯気と共に消えていく。いくら考えても答えは出ない。告白を最後まで聞けばよかったのだろうか。そして、それを断ればよかったのだろうか。そうしてしまうと、今度は梓があのコミュニティに居れなくなってしまう。文芸部改め漫芸部というコミュニティに所属したが、まだ日は浅い。それに、アレはコミュニティというよりも、スタジオだ。絵や文を描くスキルを持った同好の士が集まる場である。美智華たちとのような仲良しの場、という雰囲気はない。

 

 弾のことを考えていると、何故だか断る方向にばかり考えてしまう。彼のことは嫌いではない。というよりも、彼のことはよく知らない。よくよく思い出してみる。そういえば、最近は彼とよく目が合う。ほとんどの男子は梓の目よりもその四十センチほど下を見て話す。だが、秋久と弾はキチンと顔や目を見て話す。以前は胸ばかり見ていたような彼だったが、目を見て会話するようになったのだ。

 

「……悪い人じゃない…のかな…」

 

 そう思うと、罪悪感が甦る。本当に、純粋に、自分自身を好いて告白しようとしていたのなら、極悪非道の行いをしたことになる。そんな自分が嫌になる。弾に好いてもらう資格がない。

 

 母親に声をかけられ、かなり長い時間湯船に浸かっていたことを思い出した。指先は皺くちゃにふやけ、真っ白になっていた。家族が温めの湯を好んでいることもあり、のぼせることはない。だが、母も父もまだ風呂に入っていない。そろそろ上がった方が良さそうだった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 自室に戻ると、ケータイに志帆からメッセージが届いていた。通知にはメッセージの一部が表示されている。どうやら、明日カラオケで再び打ち上げをやるらしい。クラスメートたちが一堂に会する。おそらく、弾も来るだろう。さすがに昨日の今日では気まず過ぎる。

 

 ―明日でいいや…

 

 今日はいろいろあって疲れた。本当に疲れた。精神も肉体も追い込まれてしまっている。志帆からのメッセージは眠っていて気付かなかったことにして、また明日返そう。

 

 部屋の明かりを常夜灯に切り替え、梓はベッドの中に潜った。

 暖かい布団に包まれ、一瞬で梓は意識を手放した。




青春だなぁ…(

お読み頂きありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ep23-3.

前回のあらすじ
・学校祭が終わりました。
・教室でお疲れ様ってやってました。
・弾が梓ちゃんを連れ出しました。告白しようとしました。
・失意の弾があっきーのお部屋で自棄酒しました。

で、その後です。

いつも評価をいただきまして、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。



 学校祭が終わり、その片付けもほぼ終わった。あとは関連備品を教諭陣や実行委員会が学校の倉庫などに片せば通常通りの授業が再開できる。

 金、土曜と学校祭があった。月曜日は振替休日となる。そして、今日は日曜日。不思議な団結力を持つ二年一組一同は、街のとあるカラオケボックスで本打ち上げを実施していた。

 

「おーっす」

「……お疲れー…」

 

 いつもと変わらない秋久と、来る前からかなり疲れている弾。フローリングの上で寝てしまったことと、自棄酒が響いているらしい。

 

「あ、おはよー。寝坊しなかったね。エラいエラい」

 

 秋久に気付いた一夏が駆け寄り、彼の肩をパシパシと叩く。彼女の隣にいた志帆が不機嫌そうな顔を見せる。眉間に皺が寄り、弾を睨みつけた。

 

「…おい…」

「あんだよ…マジで気持ち悪いんだって…」

 

 睨まれている弾は志帆のことを気に留めていない。辛そうに秋久に肩を組み、寄りかかっていた。この歳で二日酔いを経験してしまっている。弾に寄りかかられている秋久は、自身が睨まれているようでいい気分ではない。彼の場合、不快というよりも恐怖である。

 秋久が志帆に愛想笑いを浮かべていると、彼女は苛立たしげに鼻を鳴らし、他の女子たちと店内に向かって歩いて行った。蛇に睨まれている蛙の気分を味わったが、蛇が立ち去ったことで安堵の息を吐いた。

 

「ほら、行くぞ」

 

 弾のベルトを掴んで引き摺る。苦しげに弾が静止を求めるが、秋久は無視して店内に入っていった。

 

 

 

 偶然だが、二年一組、二年三組、軽音楽部が同じカラオケボックスで打ち上げをしていた。同じフロアに押し込められた結果、東中がそのフロアを占拠してしまっていた。開始時間もほぼ同じであったようで、あちこちから歓声が上がる。一番人数の多い二年一組一同は二部屋に分けられてしまった。そのせいで人の出入りが激しい。

 

 最初は同じ部屋同士で楽しんでいたが、二時間もしないうちに両方の部屋から人が入り乱れ、いつの間にか三組や軽音楽部の面々も混じり、もはやどこが打ち上げなのか、ただ単に中学生が大所帯で騒いでいるだけになってしまった。

 最初は調子の悪かった弾も徐々に元気を取り戻し、一時間もしないうちに他のクラスメートと騒ぎ出した。一夏や秋久も調子が上がり、一緒になって騒いでいる。もはや歌声を誰も聞かず、知っている曲が流れれば合唱する。何ともカオスな空間だった。

 

 そんな折に、弾のケータイが振動した。メッセージの着信を知らせる通知が上がり、差出人は志帆のようだ。

 

『307号室集合』

 

 短くそれだけ記されている。隣にいる秋久の肩を叩き、ケータイの文面を見せる。弾には心当たりはある。梓のことだ。

 梓は今日の打ち上げには参加していない。店の前に集合していた時も、部屋に入った時も、他の部屋に遊びに行った時も。

 そして、志帆からの呼び出しである。十中八九、梓に纏わるアレコレだろう。スタンプも絵文字も何も付いていない文面が恐ろしい。普段から志帆のメッセージはシンプルだが、今日は内容から凄みを感じる。

 秋久と弾は顔を見合わせ、席を立った。幸いなことに、一夏は普段あまりない接点のない男女に囲まれ、部屋を出る彼らに気付くことはなかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 指定された307号室の前に立つ二人。部屋を覗くと明かりがが点いていない。モニターの灯りだけが室内を照らしており、中の様子が窺えない。志帆から呼び出されたこともあり、既に中に志帆がいるであろうことは予想できる。ただそれだけである。

 

 弾を先頭に部屋の中に入った。薄暗い部屋は少人数用の部屋らしく狭い。何故か中央に置かれているはずのテーブルが脇に避けられており、部屋に入ると、まず項垂れている志帆が目に入った。

 燃え尽きたボクサーの如くソファーに腰掛け、両膝に両肘を置き下を向いている。入室した弾に志帆が鋭い視線を向ける。弾の後に秋久続き、部屋のドアが閉まった。

 その音を合図に志帆が立ち上がり、弾の水月に彼女の右足裏をめり込ませる。鳩尾にヤクザキックを食らわせた形になる。

 

「げふぅっ!!」

 

 急襲され、えづきながら膝をつく弾。いくら彼が誇るシックスパックといえど、鍛えられない急所への攻撃に対する耐性はない。

 

「五反田!アンタ、アズに何をした!!」

「ちょっ!?田端さんなにやってんの!?」

 

 秋久の位置からは詳しく見えなかったが、弾がいきなり潰れた蛙の様な声を出し、床に蹲ったのである。何か攻撃を受けたと推測し、秋久は弾の前に回った。

 弾を庇うように、志帆の前に立ちはだかる秋久。それは志帆の怒気に曝されることになる。弾を親の仇でもあるかのように睨み付ける視線。先日の一件で女性に対する恐怖が薄れたと思っている秋久だったが、息が上がり、膝が笑い始める。

 

「どきな、斧崎。アンタに用はないよ」

 

 秋久越しに弾を睨み付ける志帆。まさに蛇に睨まれた蛙。ライオンに睨まれたハムスターである。

 

「どっどどっ…どどどかなっ」

「どけ」

 

 大声ではない、完全に冷え切った声。モニターの明かりだけに照らされているためか、志帆に凄みを感じる。ただでさえ女性が苦手な秋久はより萎縮する。膝だけでなく、歯の根まで合わなくなって、かちかちと音を立て始める。体全体を震わせながら、頭を左右に振り拒否を示した。

 

「なら…アンタごと」

「ど、どいとけ…秋久…」

 

 なんとか吐き気から回復した弾が秋久の肩に手を置く。そのまま力を込めて、震え続ける秋久を横へ動かした。

 

「志帆ちゃん、俺は何もしてねぇ」

「ウソつくな!何もしてないならアズがあんなになるわけないでしょ!?」

 

 一足に間合いを詰め、弾の胸倉を掴みあげた。

 

「マジだって…告ろうとしただけだ」

「あ?」

「ちゃんと話す。だから、手ぇ放してくれ」

 

 何もしない、と言いたげに弾が両手を上げた。そのリアクションに、志帆が苛立たしげに舌を打ちながら掴んだ手を放し、どかりと再びソファーに腰を降ろした。一つ目の修羅場が終わったことで、男二人が安堵の息を漏らした。

 

 

 

「待って…アタシよくわかんないんだけど…」

 

 弾から事のあらましを聞いた志帆が、先ほどと違う意味で項垂れる。

 

「ホントに?ホントそれだけ?」

「あぁ。ウソはついてねえ。っつーか俺にもわかんねえ」

「み、右に同じく…」

 

 弾の話はこうだった。

 夏休み前ぐらいから梓に惚れていた。想いを抑えられなくなって、学校祭の日に告白しようとした。梓を無事に教室から連れ出し、人気のないところでいざ…となった時に、梓から秋久のことをどう思うか聞かれた。好きか嫌いかを聞かれたので、嫌いではないから好きだと答えた。その瞬間、梓が顔を輝かせ、走り去っていった、ということだった。

 

 ワケが分からない。

 志帆はその時の梓がわからなくなった。普段一緒にいるメンバーの中で、梓と一番付き合いが長いのが志帆である。その志帆を以てしても梓の奇行を理解できなかった。普段の様子だと、梓はかなり空気を読み、その空気に従って行動するような娘。一夏のような空気ブレイカーではないし、志帆のように読みつつもコントロールするタイプではない。よく言えば気が回る、悪く言えば流されてしまうタイプだ。

 

 もう一つ気にかかることがある。この連絡の断絶っぷりだ。

 既読スルーはたまにある。比較的夜更かしに強い志帆と梓だが、限界が来て画面を表示したまま眠ってしまうことはままあった。その場合は翌朝に寝落ちした方から謝罪のメッセージが飛んでくる。しかし、今回は違う。既読すらつかない。完全なる無視の状態である。SNSネイティブである彼女たちにとって、メッセージアプリは生命線と言っても過言ではない。彼女たちにとって、基本的に朝起きたらチェックするものだ。

 

 普段からお互いにそういう生活をしていると理解しあっている。ならば、何かあったと推測してしまう。弾が梓を連れ出してから様子がずっとおかしい。おっとりしている梓が大慌てで鞄を抱えて走り去るなど、滅多に見れるものではなかった。しかも、苦手な筈の男に関わる何かである。

 梓を呼び出したのは弾。普段の言動のせいもあり、志帆は弾を警戒している。悪いヤツではないと思っているが、セクハラ染みた言動のため、梓には近寄らせないように警戒していた。だが、学校祭が無事に成功して気が抜けていたのか、今回のようになってしまった。

 志帆は自分を責めると同時に、梓がおかしくなった元凶であろう弾を締め上げようと呼び出したのである。

 

 

 

 三人して頭を抱えていると、志帆のケータイにメッセージが届いた。通知を確認すると、差出人は梓だった。

 

『ごめんね志帆ちゃん(>人<;)』

『昨日はメッセくれたのに反応できなくて…疲れて寝ちゃってたの。今日は文芸部の方の打ち上げに行っちゃった(´・ω・`)』

『時間あったらそっちに行くから、またあとで連絡するね!』

 

 梓からのメッセージを確認した志帆が硬直する。ケータイのバックライトに照らされた志帆が驚愕の表情を浮かべる。

 メッセージを読むにつれ、志帆が表情を変えていく。その様子を二人が訝しむ。ちらりと上目で二人を見た志帆が、バツの悪そうな表情を浮かべた。

 

「……アズ…普通かも…」

「普通…?」

「な、なに?なんて言ってんの?」

「今、文芸部で打ち上げやってるって…」

 

 志帆は梓に何かがあり、気落ちしていると思っていた。必死になって弾から逃げていると思っていた。今日の打ち上げも、弾と顔を合わせるのが嫌で参加していないと思っていた。しかし、文面を見る限りそんなことはなさそうだ。

 

「ご、ごめん…なさい…アタシの早とちり…」

「お、おう…気にしてないから…なあ?」

「お、俺は大丈夫だから…」

 

 鳩尾を攻撃し、嘔吐の一歩手前まで弾を追い込んだ志帆である。気まずい空気が三人の中に漂う。

 

「ホントごめんなさい。なんならアタシのこと蹴っていいから」

「いや、それはマズいっていうか…俺も気にしてないって。志帆ちゃんだって梓ちゃんのためを思ってたんだろ?」

「そうなんだけど…」

「だったらしょーがねえよ。ちょい当たり所悪かっただけで、俺は大丈夫だからさ。な?」

 

 な?と弾が秋久に話を振る。それにぎこちなく秋久が賛同する。その反応で更に志帆の気分が沈む。いつの間にか志帆を励ます流れになっていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 無断で借りていた部屋を片付け、三人は二年一組の部屋に戻った。相も変わらず騒がしい部屋に気まずい表情の三人が入る。その三人に最初に気付いたのは一夏だった。

 

「あ、戻ってきた!」

 

 続いて一夏の周りにいたクラスメートたちが声をかける。口々に色んな事を話しかけてくる皆に曖昧な笑顔を浮かべる三人だった。




志帆ちゃんがDQNっぽい?
男嫌いの大親友が、男と出て行った後に様子がおかしくなって心配しているだけなんです。根はいい子なんです。多分。

お読み頂きありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Intermedio~悩める乙女~

行事が終わった後のダルさは異常。
まだまだ梓ちゃんのターンです。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂ですが…

腐女子の方々を貶すような表現があります。ご注意下さい。



UA60,000超え、お気に入り登場950超え、誠にありがとうございます。
皆様のお陰でここまで続けてこれました。
年内完結を目指しておりましたが、非常に難しくなってきております…
今しばらくお付き合い頂ければと思います。今後ともよろしくお願いいたします。


 日直の号令で今日のホームルームが終わった。足早に部活へ向かう者、級友と帰宅するために声をかける者、放課後の予定を話し合う者と様々な声が教室中に響き渡る。

 

「美智華ー。一緒に帰ろー」

「いいよー」

 

 帰り支度をしている一夏を志帆が誘う。だが、一夏とよく一緒に帰っていた梓の姿は見えない。

 

「アレ?アズは?」

「部活だって。最近一緒に帰ってないもん」

 

 ここ数日は専ら秋久たちと帰宅している一夏が答えた。放課後になると、どういうわけか梓は一目散に部活へ向かってしまう。文芸部員だということは知っていたが、今まで殆ど部活に顔を出していなかった梓が、である。

 少し寂しさを感じる反面、梓が夢中になれる何かを見つけられて、嬉しくも感じる一夏であった。

 

「でも、珍しいね。志帆が一緒に帰ろって誘うなんて」

「あー…なんか大会で男バスが結果出しちゃってさ。顧問が変に燃えてんのよ」

「へぇー…」

 

 夏の大会で男子バスケットボール部は大躍進を遂げた。いつもは良くて市代表、普通で一回戦負けなのだが、今年は違った。どういう巡り会わせか、県予選のベストエイトまで駒を進めてしまったのだ。

 

「んで、男バスにもフルコート使わせてやれって言われてさ…アタシらは水曜休みになったってわけ」

 

 その分、日曜にもやるんだけどね。と付け足す志帆。今まで日曜は半日ほどの練習だったのが、全日を使っての練習となってしまった。辛いという訳ではなく、休みが減るのはあまり歓迎できないようだ。

 

「大変そうだねー…」

「美智華は?部活やんないの?」

「わたしはいいかなぁ…家のことやんなきゃいけないし……あ。アキ!一緒に帰ろ!」

 

 教室を出ようとする秋久と弾に声をかける。二人とも部活はしていないため、帰宅組である。一夏と秋久は同じ理由で部活に支障が出そうであり、弾は家業の手伝いがある。

 

 この日はいつもと少しだけ違うメンバーで帰路に就いた。いつも通りに一夏と秋久がスーパーに寄るといい別れる。連れ添って歩く後ろ姿を初めて見た志帆はぽつりと呟いた。

 

「……アレで付き合ってないんだよねぇ…」

「俺なんか見慣れすぎて何も思わなくなっちまったよ…」

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 また別の日。その日は女子バスケ部の練習が遅くまで行われていた。紅白戦で盛り上がりすぎてしまい、顧問に止められるまで何度もメンバーを替えて練習していた。

 時計を見ると、既に午後六時を回っている。九月も半ばを過ぎた今日、太陽が沈むのが早くなったことを実感する。

 

 主将として体育館と準備室に施錠する。鍵を返却しようと校舎に爪先を向けると、職員室以外にまだ明かりの点いている部屋があった。

 

「…あれ?まだ残ってるヤツいんの?」

「キャプテン、知らないんですか?文芸部ですよ」

 

 文芸部。梓が所属している部活である。彼女たちが何を遅くまでしているのかは知らないが、熱心なのはいいことだと感じた。

 

「何か最近はホモマンガ描いてるらしいですよ。」

 

 うへぇ、と舌を出して嫌そうな顔をする一年生。

 

「…それ、ホント?」

「さぁ…?あーしも詳しくないんですけどね。なんかそーゆー噂、期末前からずっと流れてますし」

「っていうか、マンガなら漫研じゃないの?」

 

 文化系の部活動に明るいわけではないが、確か入学当初は漫画研究同好会なるものがあった気がする。あくまで気がするだけなのだが。

 

「なんか漫研は吸収されたらしいですよ。同好会だから予算ないって」

 

 現実には漫研が文芸部を吸収した形になったのだが、所属している部員以外は実情を知らない。

 

「へぇー…」

 

 あの可愛らしく気の弱い梓が日没後に出歩くのは歓迎できないが、引っ込み思案な彼女が時間を忘れるほど夢中になれる物を見いだせたなら、それは歓迎できる。

 些か不穏な噂もあるようだが、それは梓に問い質せばいい。志帆は特に気にせず、鍵を返すために校舎へと入っていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 梓はスランプに陥っていた。弾のあの漢らしい眼に射抜かれてから五日が経過した。最初の三日間ほどは湧き上がるようにアイデアが浮かび、筆が走った。自らが打ち上げの際に提唱した『アキダン』というジャンルであったからかもしれないが、兎に角、筆が面白いほどに進んだ。情熱のままに書き上げ、それを次の同士に渡す。書き上げた作品を同士に認められ、更に創作意欲が湧いた。

 しかし、それも一昨日までだった。昨日から全く筆が進まない。真っ白なままのタブレットの画面を見つめ、柔らかな桜色の唇から零れるのは溜め息ばかり。このペースだと、次のイベントまでに間に合いそうにない。

 

「………はぁ…」

 

 手の平でタブレットペンを転がしながら、もう一度溜め息を吐く。画面をフリックして自分で書いたものを読み直すも、そこから先へ進めない。前のページはダンが想いをアキに告げている。情熱的で漢らしさの溢れる眼。その眼にアキが射抜かれ…というシーンなのだが、射抜かれた筈であるアキのリアクションが書けない。

 このシーンに至るまでは、二人とも生き生きと動いてくれた。今まで観察してきた秋久と弾、そこに自分たちが好むスパイスをちょっとだけ足す。それだけで十二分に動いてくれた。

 なのに、今は全く動いてくれない。コマの割り方が悪いのだろうか。無理矢理動かしてみるも、全く楽しくない。自分が楽しめないのに、読んでくれる人たちが楽しめるわけがない。苦しんで作った作品には、その苦しみがダイレクトに反映されてしまうだろう。プロでもそうなのに、素人である自分たちがそれを隠せるわけがない。

 

 ―書かなきゃ…でも…

 

 負の連鎖が襲ってくる。螺旋を描き、梓の中に入り込んでくる。ネタ切れ寸前の小説家の気分を、締切というプレッシャーに潰されそうな漫画家の気分を味わっている。

 

 

 

 

 

 

 不意にノックが響いた。音は梓が背を向けている扉からではなく、真横から聞こえた。

 

「ぼちぼち閉めるで」

「あ…部長…」

「エラい根詰めてるけど…って真っ白やなー…そらそないな顔にもなるか」

 

 梓のタブレットを覗き込んだ。片手で顔を押さえ、あちゃーと声を上げる寺内。

 

「まー気持ちはわからんでもないけど、やり過ぎも毒やで。ウチも閉めなアカンし、切り上げてや」

 

 彼女はキーリングに指を通し、くるくると鍵を回しながら帰宅を促した。

 

 

 

 

 

 

 

 既に文芸部顧問の姿は職員室にはなく、女子バスケ部顧問立会いの下、彼女たちは部室の鍵を返却した。

 

「原稿以外にも悩みがありそうやなー」

「…わかります?」

「アズちゃんはわっかりやすいからなー?」

 

 ローファーに履き替え、寺内と共に彼女の自転車を取りに行く。彼女は自転車にまたがらず、ハンドルを押しながら梓の横を歩いた。どうやら、梓の悩みを聞いてくれるらしい。

 

「…私、生まれて初めて告白されそうになったんです」

 

 しばらく互いに無言で通学路を歩いた後、ぽつりと梓が口を開いた。

 

「ほぉー…って生まれて初めて?」

「はい…」

「そんなえぇ乳とえぇ顔やのに?」

「そんな…こんなの、要りません…」

 

 寺内の指摘に梓が胸を庇うように抑える。悲しいほどに平坦な彼女からすると、羨ましく贅沢な悩みだと感じる。しかし、そこを指摘して茶化すような空気ではない。

 

「……最初は、その人も私の…その、胸ばっかり見てきたんです」

「まぁ、男はそういうもんやろな」

「でも、最近はそんなことなくて…今までの人たちは私の胸に告白してきたんですけど、その人は違って」

「乳て…ってそれは初めてってゆわんやろ!」

 

 ビシリ、と寺内がツッコむ。

 

「で、でも…私の眼を見て言ってくれた…ごめんなさい。言われてないんですけど、言おうとしてくれたのはその人が初めてで…」

「ん?どういうことなん?」

「…その人、大切な友達なんです」

 

 自分で言って、自分で気付いた。弾は大切な友人なのだと。

 

「告白されちゃったら、返事しないといけないと思って…誤魔化しました…私、最低です…」

 

「でも、友達でって、答え、たら、断っちゃった、感じになると思って…断ったら…また仲良くでき…ない…って」

 

 涙が零れる。純粋に流れるだけの涙。昂っているわけではない。ただ彼女の頬を伝い続ける。

 

「……うちの胸でよかったら、貸したんで…」

 

 スタンドを立て、両手を広げて梓を迎える。

 

「ってそこは胸ちゃうわ!肩や!」

「ごめん…なさい…」

 

 彼女の胸がないことが原因ではない。梓と彼女の身長差故である。ただ、梓は誰かの甘えたかった。小柄な寺内の肩口に顔を埋め、抱き締めた。背中に寺内の手が回り、慰めるように優しく背中を叩く。

 改めて梓は気付く。弾は既に彼女のピースの一つなのだと。欠かしたくない、大切な日常の一部になっているのだと。

 

 

 

「…すいません。部長…泣いちゃって…」

「かまへんよ。そんかわり、今度ウチが泣くときはアズちゃんのおっぱい借りるで」

 

 ぽんと軽く梓の胸を叩く。突然の胸タッチ。短い悲鳴を上げ、慌てて梓は彼女から距離を取った。

 

「フフフ…ウチから逃げられると思いなや!?」

「えぇ!?自転車はズルいですよ!!」

 

 わずか数十メートルだが、彼女たちの追い駆けっこが始まった。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 なんとか梓から事の真相を聞き出そうとタイミングを伺うも、なかなか実現できなかった。『アンタ、ホモマンガ描いてんの?』などとクラスメートの前で聞くわけにもいかないし、一夏の前で話すことも難しい。梓は基本的に一夏と一緒にいる。放課後になれば、一目散に部活へ向かってしまうし、志帆も部活に顔を出さなければいけない。週末は週末で練習がある。

 志帆が得たチャンスは水曜だけだった。

 

 水曜日。学校祭明けから志帆の部活が休みになった日。熱心な部員は走り込みをしたり、基礎練習に励んだりしている。あくまで自主練であり、強要はされていない。だが、主将が参加してしまうと強制参加のような空気になってしまう。故に志帆は参加を自粛していた。

 それが功を奏した。今では自由な時間が増え、こうして文芸部の部室の前に立つことが出来る。

 

 文芸部の噂はどれも凄惨たるものだった。曰わく『ネクラなオタクの巣窟』『フジョシなるホモマンガを好き好んでいる女子がたくさんいる』『部員たちがひたすらに独り言を呟き続けている魔窟』などなど。そんな集団に親友の梓が属しているとは思えず、今日は本拠地に乗り込む覚悟をしてきたのだった。

 

 切れ長の眼を閉じ、長く息を吐く。何のことはない、噂が本当なのか、梓が変わってしまったのかを確かめるだけ。目の前の扉をノックして、梓がどんなものを創っているのか見るだけ。それだけなのだが、目の前の扉が重厚な審判の扉のように聳える。どこか禍々しささえ感じる。

 三度扉をノックする。返事を待たず、声をかけて扉を開いた。

 

「失礼しまーす」

 

 まず、目に付いたのは部室の雰囲気だ。全員が一心不乱に机に向かっている。キーボードを叩く者、タブレットに絵を描いている者、作業内容は様々だが、全員が真剣に作業している。

 志帆は運動部の空気しか知らない。しかし、張り詰めたこの空気は真面目に部活をやっている運動部と大差ない。その真剣さ故か、誰も入室した志帆を気に留めていない。

 一番扉の近くにいる梓も同様に何か作業をしている。反応がなかったため、勝手に背後に回り込み、どんな作業をしているのか、彼女の手元を覗き込んだ。

 

「なっ?!」

 

 驚きのあまり、大きな声が出てしまった。彼女のタブレットには、ワイシャツの前を大きく開けた男と、素肌に学生服だけを着込んだ男が指を絡ませ合い、鼻先をくっつけている画像が表示されている。

 志帆の声に反応し、梓が振り返った。居るはずのない親友の登場に、彼女の目が見開かれる。

 

「ちょっ!?アズ!?アンタなんてモ」

「ごっごめんね!志帆ちゃん!いっ一緒に帰る約束してたね!?じゅじゅ準備するからちょっと外で待ってて!」

 

 大慌てで志帆を教室の外へ追い出す。急いでタブレットを片付け、部員たちへの挨拶もそこそこに部室を後にした。腐女子が集うあの空間でBL自体を否定してしまうことは、彼女たち全てを敵に回す。別に嫌がらせなどをするような彼女たちではないが、今後あの空間に梓が居辛くなるのも困る。

 

「志帆ちゃんお待たせっ」

「う、ううん」

「行こっか!」

 

 志帆の返事も待たず、梓は彼女の手を引いて早足で部室の前を離れた。途中で離脱するのは気が引けるが、部室前で騒いで彼女たちの集中力を削ぐのはもっと気が引けた。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 並んで通学路を歩く。昨日の一夏たちのように連れ添って歩くわけではなく、半人分の間が開いている。なんと切り出せばいいのか、俯く梓に視線を向けるも、口だけが開き声が出ない。上を見ても色は鈍く、より志帆の心沈ませる。

 

 一言も話さないまま、いつもの丁字路に着いてしまった。ここを逃してしまえば、決めた覚悟が水泡に帰す。志帆の覚悟を汲み取ったのか、梓もその場から動かなかった。

 

「…ねぇ、志帆ちゃん」

 

 痺れを切らしたのか、梓が先手を打った。泳いでいたフォーカスが彼女に合わせられる。

 

「なにしにきたの?」

「あ、あー…部活頑張ってるんだねーって…」

「ウソつかないで」

 

 何時になく強い梓の口調。誤魔化しは要らないという意思が伝わってくる。

 

「…文芸部の噂、アタシも色々聞いたよ」

「………」

「その…今日、アズが描いているの見て、思った。あんなの普通じゃない」

 

 俯いたまま、志帆の言葉を黙って聞く。

 

「ねぇ、アズ」

「そんなの!」

 

 急に大声を張り上げ、志帆の言葉を遮った。鉛色よりも黒い天から雫が垂れる。

 

「そんなの!志帆ちゃんだって普通じゃない!走り回って!ボール追っかけて!わざわざ辛い思いするなんて普通じゃない!」

「なっ!?」

 

 やがて雫は大きくなり、強く(くだ)る。それらは服を湿らせ、髪と顔を濡らしていく。

 

「アタシたちのは」

「普通じゃないもん!わかんないもん!」

「ちょっとアズ」

「今日だってバカにしにきたんでしょ!?」

「ちょっと聞いて」

「聞きたくない!これ以上私の居場所盗らないで!!」

 

 悲痛な叫びを上げる。居場所を奪っていると言われ、志帆は何も言い返せなかった。梓のために、彼女を護るためにしてきたのに。親友だと思っていたのに。

 

「…志帆ちゃんのバカ!」

 

 降りしきる雨の中、踵を返して走り去る彼女に志帆は手を伸ばす事さえ出来なかった。




お読み頂きありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。