東方ヤンデレ短編集 (触手の朔良)
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按摩屋

 突然だが、俺は按摩屋を営んでいる。本意不本意に関わらずだ。

 つまりは――そういう事である。察して欲しい。

 幻想郷とかいう訳の分からん世界に飛ばされた時はどうなるかと思ったが……。まぁ、俺のような障碍者が手に職を持っていられるだけ幸せなのだと思っておこう。

 勿論、外の世界では按摩以外の仕事をしていた。俄仕込みの素人芸に客なぞ着くのか、と当初は不安を抱いていたものだが、幸いにして客は多かった。常連になぞなってくれる輩まで出る始末だ。繁盛大いに結構。

 何? その割には随分と不満げじゃないか、だって?

 いやいやいや! これでも感謝してるんだ。最初に言ったろう? 手に職を持ち糊口を凌げるだけでも幸運だって。

 そりゃぁ不満が無いと言ったら嘘になる。

 ……金を貰ってる立場でこういうのも何だが、俺の持つ不満ってのは客に由来するんだよ。

 別に口うるさい爺様だとか、お喋りな婆さんだとかじゃぁない。皆若い女性さ。……見た目だけはな。

 そう。俺の客の大半は、人外の化物なんだよ。

 

 チリンチリン――。

 来客の有無が解るよう取り付けた、扉の鈴が軽やかな音を鳴らした。

「いらっしゃい」

 俺は愛想の良い笑みを浮かべ先んじて声を掛ける。会話を交える事によって、相手が何者か判断する為だ。

 しかし今回の来客は、声を聞かずとも誰だかの判断はついた。

 咽る程に濃い花の薫りを纏った――風見幽香だ。

「こんにちは。今日もよろしくね」

 今の幽香を、彼女を知る者が見たら「あの幽香が!」と驚く事だろう。

 人妖問わずに畏れられている彼女が、裏表の全く無い、花綻ぶ笑みを浮かべているのだから。

 満面の笑みというヤツだろう。まぁ普段からして風見幽香は笑顔な事が多いが。それはもっぱら威嚇だったら威圧だったりする訳で、決して今のように好意を表すものではなかった。

 そんな笑顔であっても彼にとってはさしたる意味は持たない。何せ盲人であるからして。

 兎にも角にも。風見幽香は常連の一人であった。

 彼女は男の指示も待たず、手慣れた様子で靴を脱ぎ、部屋の中央の敷き布団に俯せる。

 彼もそれが分かっているので咎める様な野暮はせず、幽香の横に膝立ちとなった。

「今日も腰の方か?」

「えぇ。土いじりをしているとどうしてもね、中腰の姿勢が多くなっちゃって」

 念のための短い会話を交わし、早速○○は幽香の腰に手を添える。

「ん、あっ……」

 柔肌に男の指がめり込む。まずは腰全体を優しく揉み解し、その際に見つけた、肉の凝り固まった箇所へぐいと力を入れる。

「痛いか?」

「はぁ~……。んん、もっと強くてもいいぐらいだわ……」

 幽香の要望に答え、更に力を込める。女の、折れそうな程に細い腰に深く指がめり込んでゆく。

 ……聞くところによると、風見幽香とは大変凶暴な妖怪だという。そして、大層な美女でもあると。

 尤も、そのどちらも○○の興味を惹く事象では無かった。彼女が客として来ている限り己は客として接するだけだし、如何なる美醜も自分にとっては、関係ないのだから。その凶刃が自分へと向いた時はその限りではないが。

 そんな無関心さが幽香にとって――いんや彼女に限った事ではないが――心地良かった。

 言い換えれば、○○は幻想郷の少女らが持つ背景では決して差別をしない。畏れるでも媚びるでもなくただ淡々と接するのだった。それも突き放す様にではなく、優しく。

 ――それが顧客と主人という関係であっても、少女らにとって此れほど嬉しい事は無かった。

「んんんっ……! あっあっ、そう、そこよ……! もっと、もっと揉んで頂戴っ……!」

「……分かった」

 ――参った。

 ○○は額に汗を浮かべながらそんな事を思った。

 按摩とは意外と体力仕事である。その疲労が面に現れたのだろうか? 確かに、それもあるだろうが。彼の顔面を這う、脂汗はそれだけでは無かった。

 ○○にとって美醜は物事の物差し足り得ない。ならば彼は、常人に比べ人一倍に臭気というものに敏感であった。

 花妖たる幽香の体臭は、按摩を続ける毎に益々強くなる一方であった。

 幽香もまた、ふぅふぅと息を荒げ汗を発していたのだ。好いた男の指が己の身体を這う、興奮に依ってである。

 目眩を起こしそうな程に濃い臭気に当てられ、○○は己の思考が霞がかってゆくのを感じた。

 これではいかんとばかりに頭を振るも、追い打ちを掛けるかの様に、コレだ。

「あっあっ! いいわっ! ○○、気持ちイイっ!」

 最早嬌声と呼んでも差し支えない、幽香の喘ぎ声。

 嗅覚と聴覚。○○が頼りにしている五感の内二つの、その大部分が風見幽香という女で占められてゆく。

(……そろそろかしら?)

 ○○の頭が振り子を描き始めたのを見計らい幽香はのそりと、気怠げに身体を起こす。

「ねぇ、○○?」

 幽香は鼻先ばぶつかりそうな程に顔を近付け、男の名を愛おしげに呼ぶ。

 そんな状態であるにも関わらず、聞こえているのかいないのか、男はただ虚ろな瞳を返すだけだった。

 それを確認して幽香は、凶暴と称される笑みを浮かべた。

「あぁっ、○○! だらしのない人! ダメじゃないの○○! こんな簡単に隙をみせちゃあっ。相手が私じゃなきゃ大変な事になってたわよ!」

 そう、声高に叫び女は男の唇へ貪りつく。

 譫言の様に男の名前を繰り返し、互いの舌を絡ませ粘液を交換する様は男女の情事に他ならなかった。

 そうして一頻り男の味を堪能した女は身体を離す。

 満足したのだろうか? いや、満足どころか幽香の胸に灯った情欲は益々盛んに燃え上がっていた。

 幽香はぬらぬらとナニかに煌めく下着を脱ぎ捨て、己の女を○○の前に曝け出す。

「来て、○○……っ!」

 そして男は妖花に誘われ、パクリと食われるのであった。

 

「――っ。○○っ!」

 己が名前を呼ばれ男は覚醒した。

「もうっ。ぼーっとしてないでちゃんと揉んで頂戴な。ちゃんと支払った分はきちんと揉んで貰いますからねっ」

「あ、あぁ。すまない」

 幽香の指摘に応えるものの、その返事は何処か上の空である事は否めない。

 ○○は今一度頭を振り、頭の靄を飛ばす。

 不思議な事に幽香の臭気――正しく色香とも呼ぶべきもの――は、すっかりと鳴りを潜めていた。

 男は按摩を再開する。

「ふぁ~……。気持ちいいわぁ……」

 男の指の動きに合わせ、ゴロゴロと喉を鳴らす幽香。

 ……何もおかしいところは無い。何も。

 そうしてちゃっかり、男が呆けていた分は上乗せされた時間を按摩させられた。

「今日も良かったわ。ありがとう」

 帰り際、幽香が労をねぎらってきた。

 他人への関心が薄い○○でも、悪い気はしない。

 そうして幽香は帰路へつき、その背中に常套句を投げかける。「またのお越しをお待ちしております」と。

 それで今日の仕事は終わる筈だった。

「そうそう。アナタ目が見えないから仕方ないのかもしれないけど、部屋に飾り気が無さ過ぎよ」

 しかし幽香は珍しくもそんな事を口にしてきた。

 予想外の話しに○○が答えあぐねていると、幽香は気にせず続ける。

「だから――ほら。こんなものを持ってきたのだけど」

 その言葉と共にふわりと、○○の鼻腔を微かに甘い薫りがくすぐった。

 幽香は男の返事も聞かず、取り出したる一輪の花を玄関に飾った。

「これで少しは見れるようになったわね」

 ○○には一体何の花なのか皆目検討も付かないが、飾られたる花の名はイカリソウ。

「その花、私だと思って大事に育てなさいよ」

 口を挟む間もなく、次々と勝手を云う幽香に対し文句の一つでも言ってやろうとするも、それよりも早く幽香が口を開く。

「それじゃぁね○○。また来るわ」

 云うやいなや、彼女はさっさと踵を返してしまった。

 ○○の不満は吐き所が失われてしまい、結局腑に落とし込む他無かった。

 部屋へ戻った○○の、鼻先をくすぐる薫りにふと、気づいた事があった。

 この薫りは、幽香から漂っていた香りと同じものだと。




イカリソウの花言葉は『独占欲』。
また精力増強の漢方として使われ、その時は『淫羊藿(いんようかく)』と呼ばれる事が多い。


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警備員

 明かりの点いていない、夜の大学病院を歩く。

 フローリングの床を蹴る度に、無人の廊下を硬質の音が響いた。

 予め断っておくが、自分は不審者ではない。大学に雇われた、しがない夜間警備員だ。

 手元の懐中電灯だけを頼りに、こうして半刻に一度の巡回に駆り出されてる只中なのだが――。

「さて。今日はどうだかねぇ……」

 独りごちるも、当然ながら応える相手はいない。いたらいたで大問題なのだが。

 一つ、二つと講義室を通り過ぎ、丁字になった部分へと差し掛かる。最終的にはそのどちらも見て回る羽目になるのだが、ある気掛かりがあった俺は一先ず横へと曲がることにした。

 そうしてビーム状に伸びる光を床に壁、天井とくまなく――という程隅々まで観察している訳ではないが――見ていると。

「あぁ……。今日もありやがりましたか……」

 光線が一点を照らし、止まる。

 懐中電灯と視線の先には、一本のペットボトルがあった。

 男が持ち上げると、タプンと、中の液体が合わせて動くのが解った。

 男は嘆息し、ボトルを持ちながらも残りの見回りを終え宿直室へと戻る。

「おう、おかえり。今日もあったのか?」

「えぇ。ありましたよ」

 宿直室の中は廊下とは対象的に明るく、○○が入ると同時にもう一人の夜間警備員が早速声を掛けてきた。

 熊の様にガタイの良い、無精髭の彼を――『先輩』と呼ぶ事にしよう。

 監視カメラの映像が映された、沢山のモニターの前。そこが先輩の定位置だった。

「それにしてもおかしな話だよなぁ。お前さんが勤務の時に限って、いつも置いてあるんだもんなぁ」

 先輩はオフィス用の簡素なイスの背もたれに寄り掛かりながら、ぐるりとこちらへ向き直る。

 彼の視線は、○○の持つペットボトルに注がれていた。

 そして彼の言い分から、今日が初めての事ではないのだと伺える。……そういえば、○○自身も巡回の際にそんな内容を呟いていたような。

「迷惑な話ですよ全く。どうして俺の時ばかり」

 当然、○○も知っていたのだ。

 そして今日ばかりは「あるんじゃないぞ」という願いも虚しく、問題のペットボトルを発見してしまった訳だが。

 明るい下に来て解る。ペットボトルの外装は、どこにでもあるお茶の容器だ。波々入った液体の色も、透明な緑色をしている。一見して何も問題は無さそうだが、よく見ればキャップに開けた形跡がある。無論、未開封だからと言って出処が定かで無いものに口を付ける気はないが。

 或いは、医学部にでも液体の調査を頼もうと考えた事もあったが、「夜毎戸締まりした筈の大学構内で不審なペットボトルが見つかるんです~」とでも報告してみろ。給料を差っ引かれる事間違いない。

 そんなこんなで、この件は警備員たちだけの内密となっていた。

 職務に対してそれはどうなのだろうか、と思わないでもないが、査定に響く様な真似は避けたいというのが本音であり、「たかがペットボトル」という思考も無きにしも非ずであった。

 きゅるっきゅるっ。

 キャップを開け、内容物をシンクへとぶち撒ける。緑茶と思しき液体が排水口へと飲み込まれ切るのを見届け、改めて先輩に話し掛ける。

「カメラに異常は無かったんですか?」

「あぁ。ずっと見ていたがどこもおかしな点は無かったな。まぁ俺がカメラを見ていた時に、別のカメラに映っていた可能性もあるが……。見るか?」

「はい」

 先輩と場所を入れ替わり、○○は映像を巻き戻した。と言っても、設置されたカメラの台数は三十近い。更に置かれた時間もが解らないので、学生が下校した時刻から順繰り見るという力業を行う羽目になるのだが。倍速で見るにしても、その作業量が多い事は変わりなかった。

 先輩はというと、いつの間にか隣でカップラーメンを啜っていた。彼は彼で、別の箇所のカメラを再生してくれていた。

 結局、終業時間までチェックをしてみたものの、妖しい点は見つからなかった。

 

「またか?」

「……はい」

 また別の日。二日の連休を挟み、再度警備をする日となった。

 今日の相方も、代わらず先輩だ。というか、他の警備員は気味悪がって自分と組みたがらないのだ。

 今晩は先に先輩に巡回に行って貰い、何事も無かったのを確かめてからの巡回であった。にも関わらず、矢張り○○が見回るとペットボトルが置いてあったのだ。

「そいつぁどこにあったんだ?」

「第二講義室の、丁度扉の前ですね」

「解った」

 ○○の言葉を聞いて先輩は素早く、第二講義室が映る廊下の監視カメラに切り替える。

「どの辺りだ?」

「ええと――見えませんね……。手前の扉の前だったんですが」

 ○○がペットボトルを拾ったのは、丁度画面から途切れた箇所であった。

「ちょっと待ってろ」

 先輩はそう云うと、また別の角度から映っているカメラが無いか探し始めた。

 そうして見つけたのは辛うじて、先程のカメラとは対極に位置する、第一講義室を映すカメラだった。

「……見えませんね」

「あぁ。遠すぎるな」

 映像は暗視用の、モノクロであり鮮明にモノを捉えてはいたが、如何せん物理的な距離まではどうにもならなかった。

「失礼ですが、見落とした可能性は?」

「ん~、絶対に無いとは言い切れねぇけど。お前さんが見落とさんぐらいに目立つ位置にあったんだろう? そいつを見落とすとは考えにくいよなぁ」

「そう、ですよね」

 先輩は気を悪くした素振りも見せずに、ジョリと無精髭を撫でていた。

「……おっと。時間だな」

 そう言って先輩は立ち上がった。釣られて○○も時間を確認すると、成る程、自分が巡回してから既に半刻が経とうとしていた。

「ま、変なところが無いか重点的に見てみるからよ」

「……お願いします」

 重苦しい空気を吹き飛ばすよう、先輩は事も無げに言い放ち扉の向こうへと姿を消した。

 それを見届けてから○○は今一度モニターに向き合う。カメラの映像はそのまま、別のモニターを用い先程の二つを過去から再生し直す。

 無人の廊下を、暫くすると先輩が現れ何事も無かったように通り過ぎていった。また暫くして、自分の姿が映った。監視カメラの手前の丁度手前で屈み、一瞬その姿を消し、再度映ったその手には既にボトルがあった。

(なんなんだ、一体……?)

 まるで自分を狙っているかの様にあるボトル。そして映らぬ正体不明。

 漠然とした不安が、○○の心を徐々に蝕んでいった。

「おっ?」

 現在を映している方のカメラに、先輩が現れた。彼は宣言通り、第二講義室の前をくまなく見回っている。しかし――。

「悪ぃ。何も見つけられんかったわ」

「いえ、先輩が悪い訳ではありませんから」

 結局、何の収穫も無かった。

「はぁ~。参っちゃうね全く」

 彼は苛立ちを紛らわせるかの様に乱暴に頭を掻きつつ、乱雑にイスへ腰掛けた。ギィと、イスが情けない悲鳴を上げる。

 ○○も、その気持ちはよく理解出来た。というか、自身が一番の被害者なのだから――実害はまだ無いが――、その気持も一入(ひとしお)であった。

 後手に回る以外の手は浮かばず、光明の見えぬまま苛立ちばかりが募る。

 ……仕様がないので、再び職務に忠実たらんとモニターへ目を向ける。

「……あれ、先輩? ここのカメラ、録画が切れてません?」

「あー、本当だな。ハードディスクが一杯になっちまったんだな」

 ○○が指差したカメラには、他の映像にある筈の赤丸にRECの文字が表示されてなかった。

「やっべえな。犯人探しに夢中になってて気付かなかったわ」

「それは、俺もです」

「ま、バレんだろうよ」

 そう言って先輩は予備のハードディスクへと繋ぎ直す。映像に再びRECの文字が浮かび上がった。

 念の為、交換したハードディスクの中身を確認して見ると、映像は一時間ほど前を最後に黒い画面へ切り替わった。

「ま、この程度は誤差だよ誤差」

 この程度のミスと快活に笑う先輩は、最早ボトルの件などすっかり忘れているようだった。

 気楽なものだ――と思う反面、自分もそうありたいと願った。

 そんな事が、半年程度続いた。

 

 

「おう、おかえり。今日の差し入れは何だったい?」

「今日は子供に大人気のカル○スですね」

「かぁ~、なんだよ! 前回前々回とカル○スが続いてたから今日は違うと思ったんだけどなぁ」

「ま、今日の所は分けですかね」

 最早お互い慣れた物。

 ○○が巡回から戻ると先輩は開口一番にボトルが何かと聞いてくる。

 それを流しつつ、○○もこれまた手慣れた様子で中身を捨てていた。

 当初は心霊現象かと恐れていた出来事も、慣れとは怖いもので、今や賭けの対象にまでなっていた。

 ――今日のボトルは何か、という賭けである。

 当てた方は次回の相手方の夜食を用意する羽目になり、二人共外した場合は賭け自体が無しという扱いであった。

 これは一体何なのだろうか、という気持ちは既に両名ともさっぱりと失せていた。

 得てして物語とは、意識の死角とも云うべき、油断した状況に起こりやすい。

「お、そろそろ時間だな」

 カメラの映像もそこそこに、下らないお喋りに興じていると三十分などあっという間だ。

 先輩は巡回に出掛け、宿直室には自分一人だけという形になった。

 まぁ念のため、というか惰性の習慣と云うべきか。○○は呆と映像に目に向ける。

 視線とは常々動くものを追いがちである。つまりは○○は先輩が映るカメラを眺めていた。映像から姿が消えれば、また別の映像、別の角度から現れる男の姿を呆然と追っていた。

 さしたる異変も無く、先輩は宿直室へと戻ってきた。

 そうして半刻後、入れ替わる様に○○が部屋を後にする。

「さてと――」

 ――何も起こらないだろうけど。

 廊下に出、気分を切り替える為に喉を震わす。大して意味のある行為とも思えないが、一応である。

 カツーン、カツーン。

 フローリングの床を蹴る、硬質の音が響く。

 面白みの無い掲示板を横目に、○○は無人の廊下を進む。

 そうして問題の、第二講義室の前へ差し掛かった。

「今日はもう無いよなぁ」

 ボトルは先の巡回で見つけてしまったのだ。日に二度、というのはこの半年でも一度もない。

 苦笑しつつ扉の前へ懐中電灯を向ける。

「……ま、そりゃそうか」

 案の定、ライトの向こうには変哲のない扉があるだけだった。

 特に気にする事もなく見回りを終える。

「戻りましたよ先輩――。 先輩?」

「あ、あぁ……」

 宿直室に入りいつものように声を掛けるも、返事はない。再度相方の名を呼ぶと、返事はあったものの、どこかおかしい。

 蛍光灯の下に浮かび上がる彼の顔は青褪めており、挙動不審でこちらと視線を合わせようとしない。

 ――只事ではない。

「何かあったんですか……?」

「ん、いや、あぁ……。そうっ、その、急に腹が痛くなってな! ちょっとトイレに行ってくるわ!」

「あ、待って下さいよ!」

 引き止める間もなく、先輩は部屋を出ていってしまった。

 ……確かに、青白い顔。僅かに震える身体。

 突然の腹痛だというのであれば辻褄は合う。だが――この部屋にもトイレは備え付けられているのだ。用務員用の、和式のトイレだが用を足すのであれば過不足ない筈だ。

 洋式が良かったと言われてしまえばそれまでだが、明らかにおかしい。

 麻痺していた恐怖心が、再び鎌首をもたげるのを○○は感じた。

 そうして先輩が戻ってきたのは三十分以上経ってからだった。

 何があったのか? 聞き出そうとすると彼はそそくさと巡回だと言って姿を消し、幾ら問い詰めても言葉を濁すばかりで一向に答えようとしなかった。

 結局、何があったのか聞き出す事は出来ず、その日を最後に先輩は仕事を辞めてしまった。

 

 

「――という出来事があったんだよ」

「はー、マジっすかー」

 コイツは『後輩』。先輩の後釜に入ってきた、頭に脳の代わりにスポンジが入っている様なヤツだ。

 警備もダレて来た時分に後輩が、「怖い話をしましょう!」などと云うから、自分が過去に遭遇した一番怖い話をしてやったのだが。

「あんまり怖がってないんだな」

「そりゃぁ、オチが弱いですからねぇ。先輩さんが辞めただけなんでしょ?」

 後輩は気もそぞろに言葉を返す。

「実話だぞ? 現に今日だってボトルがあったんだぞ?」

「はー、そうっすねー。こう、毎回立ち会ってるからインパクトに欠けたのかもしれないっすねー」

 成る程、そういう考えもあるのか。

 自分の中ではとびっきりの話が肩透かしに終わり、○○は内心がっくりとした。

「って――おい、何してるんだよ」

「何って、そん時の映像を探してるんすけど?」

 気が散漫だった後輩は、当時の監視カメラの映像を見たいようだった。

 山の様に保管されたハードディスクの中から、当時の日付のラベルが貼られたものを掘り出す後輩。

「だって気になるじゃないすか。先輩の先輩さんが何を見たか。先輩だって気になるでしょ?」

「そりゃぁ。俺だって確認したさ。だけど何も映って無かったぞ?」

「まーまー。会話のタネにですよ」

 喋りながら後輩は当時のハードデイスクを繋げ、さっさと映像を再生してしまう。そこには自分と、もういなくなってしまった先輩の姿が時折構内を練り歩く姿があった。

 ○○が奇妙な懐かしさを覚えている一方で、次々とハードディスクを繋ぎ変え映像を早回してゆく後輩。

「――ん? ここ、ちょっと変じゃないすか?」

 そしてコイツは、そんな声を上げるのだった。

「……待て。何がおかしいんだ?」

「いや、この日付。見て下さいよ」

 彼が指差した日付は、当時の年月と、秒単位までの時刻が表示されているだけで、別段おかしな部分は見当たらない。

「……どこもおかしくないぞ?」

「まーまー。見てて下さいって」

 言って後輩はディスクを繋ぎ直す。

「コレが前のディスクの最後の映像で――ほんでもってコレが次のディスクの最初の映像です。ね、おかしいでしょ?」

「……」

 後輩は二つのハードディスクを交互に繋げ、その日付が変だというのだ。

 ――確かに。

 前のディスクが2014/5/6/**:**:**で切れているのに対し、次のディスクは2014/5/8/**:**:**から始まっている。

 丸一日分のデータが、すっぽりと抜け落ちているのだ。

「……ハードディスクが一杯だったのに気付かなかったんだろ」

「いやー、そうかもしれないんすけど。一日ですよ、丸一日!? 二人もいるのに、そこまで気付かないもんですかねー」

 そうだ。今までだって、ハードディスクが満杯なのに気付かなかった事はある。取り立てて珍しい事ではない。

 だが――。

「なーんか気になるんすよねー」

 後輩は納得していないようだった。憮然と腕を組み、モニターへ顔を近付け画面とにらめっこをしているようだった。

 だが何か――。

「五月の七日ねー。この日何があったか覚えてます先輩――先輩?」

 ニ〇一四年五月七日。この日何があった? いいや翌日に、『先輩』が退社した日じゃぁないか。

「うわっ! どうしたんすか先輩! 真っ青っすよ!?」

 何故、何故――こんな簡単な事にも気が付かなかったんだ。

 或いは恐怖から目を背けようと、わざと気付かないようにしていたのか……?

 その答えは解らない。解らないが、この日に何かあったのは間違い無いのだ。

 ……○○は急に、言い様のない恐怖に駆られた。

 誰もいなくなった大学に、自分の勤務の時だけ置いてあるペットボトル。

 ただそれだけの事に、それ程までの事に。むしろどうして、今まで平然といられたのか疑問に思うほどに。

 ……それからの事はよく覚えていない。

 気付けば終業時間になっており、別れ際に後輩が「大丈夫すか?」と声を掛けてきた事は覚えている。

 大分後輩に迷惑を掛けてしまったようだ。

 今度会った時には何と詫びよう。そんな事ばかり考えていると、あっという間に自宅へと辿り着いた。

 ガサ――。

「……何だ?」

 扉を開けようとすると、郵便受けに入った何かが音を立てた。

 取り出すと何の記載もされていない紙袋が入っていた。

 悪戯だろうか? そんな思いを抱きながら自宅に入り、紙袋をじぃっと見詰める。

 耳元で振ってみるも、特に怪しい音もしない。慎重に紙袋を破り開けると一枚の手紙とUSBメモリが出てきた。

 その手紙の差出人を見て、息が止まる程に驚いた。

「先輩……!」

 それはは訳も話さずに蒸発してしまった先輩からの手紙だった。

『急にこんな手紙を出されて驚いてることだろう? 俺もな、この事を伝えるかどうか、この手紙を書いている今でも悩んでいるんだ。本当は墓の中にまで持ってくつもりだったんだが、日に日に大きくなっていくんだよ。本当にこれで良かったのか、ってな。それで今更になって手紙なんて形で真実を伝える事にしたんだ。情けないがな、自分一人で抱え込むのが限界になっちまったんだよ。なぁ、あの現象は、今もお前の回りで起こっているのか? もしもう大丈夫だっていうなら、もしくは怖いと思ってんなら、こんな手紙は破って、このUSBメモリも捨てちまって全部忘れて欲しい。それがお前のタメでもあるからだ。だがもし、お前が、俺がどうして逃げるように消えたのか、あの日に何が起こったのかを知りたければ、この中の記録を見てくれ。……本当にすまなかった。何も言わずに消えちまって。そして最後に、これからのお前さんに何も起こらず、幸福な人生が訪れる事を願うよ』

「先輩……」

 その手紙には書き殴られたような文字が一杯に書かれていた。……まるで何かに追われる様に急いで書かれたソレは○○に恐怖と、それと同じくらいに回顧の念を抱かせた。

 だからだろうか。「怖いと思ったのなら、手紙もメモリも捨てろ」という忠告も忘れて、○○はメモリをパソコンに接続した。

 メモリの中身はただ一つだけ。『a.avi』という動画ファイルがあるだけだ。

 まるでウィルスか何かの様なタイトルの付け方に、苦笑しながらファイルを再生する。

 そうして少しの間真っ暗な画面が映し出され、前触れもなく映像が切り替わる。映し出されたる場所は勿論――第二講義室の前だった。

 廊下の窓から見える窓はまだ日も高く、廊下を闊歩する学生達の姿も見える。

 ――ここは問題無いだろう。

 シークバーを、飛ばしすぎない様に小刻みに動かす。

 映像は映写機じみてコマ送りとなり、日は傾き、遂に夜を迎えた。

 そこからは手を止め、じっと映像を見詰めた。暫くすると巡回する先輩の姿が映る。

 ――問題の箇所は自分が巡回している時の筈だ。

 ここは飛ばしても大丈夫だろう。そう思いつつも、何だか飛ばす事を躊躇われ、○○は再生されるがままに映像を見詰める。

 そうして実時間で三十分後、今度は自分が現れた。屈み込んで画面から消えたかと思えば、矢張り、次の場面では手に一つのペットボトルが握られていた。

 あの日は――そうそう、三回続けてだからやけに印象に残っている。確か、カル○スだったか。

 そんな事を考えると、自分が酷く乾いている事に気付いた。

 何か飲み物でも、と思い一時停止をして――。

 ゴトン。

 ……部屋の中で物音がした。

 それも、どこから、なんてのは愚問なほどに直ぐ近くでだ。

 恐る恐る、○○は物音のした方向へ振り向く。――ボトルだ。机の上から、ペットボトルが落ちた音だ。

 なぁんだと、その正体に安堵するのも束の間、一体何時、誰がコレを準備したというのだ?

「うわああああああぁぁぁぁっ!!?」

 その事実に気付き○○は戦慄する。ぶわと全身から冷や汗が吹き出す。

 そうして意思でも持っているかのようにコロリコロリと、足元に近づいてくるボトルから距離を取る。

「はぁっ、はぁっ! なんだよ!! クソっ!」

 不条理に対し罵声を浴びせる○○。近所迷惑など顧みず声を張り上げたおかげもあり、ほんの少しの余裕を取り戻す。

 身体の震えは、まだ止まらない。

「あぁ……、クソっ……」

 相変わらず喉は乾いているが、そんな気分ではなくなった。

 ――こんな心霊現象とはさっさとオサラバしてやる。

 一刻も早く原因を突き止めんと、○○はぐいと額の汗を拭い、再び映像を再生しようとして、固まった。

 ……いやいやいや。きっとさっきの騒ぎで、偶然再生ボタンを押したに違いない。

 己に言い聞かせる。

 そう、映像は知らぬまに再生されていたのだ。

 それだけなら良かった。それだけならまだ良かった。

「は――?」

 ○○はソレに気付いた時、正しく息も止まる思いであった。

 映像の中の自分。廊下を懐中電灯で照らしながら進む自分。それだけ。懐中電灯しか、持っていない自分。

 コロリ。足の指に何かが触れた。

 呆然と足元を見下ろすとペットボトルが転がり、触れたに過ぎない。真白の液体の入った、ペットボトル。

「――ッ!!」

 ○○はボトルを思い切り蹴飛ばした。当然の様にボトルは跳ね跳び、壁に若干の凹みを付けて止まった。

 そして映像は未だに再生を続けている。この先に、全ての元凶が映っているのだろう。

 だがそんな事お構いなしに、○○は手元にあったリモコンをありったけの力を込めて画面へ投げた。リモコンは狙い通り、激しい破壊音を響かせ画面を貫通した。 

 液晶からリモコンが突き出ているという光景は、中々にシュールである。

「なんなんだよ! なんなんだよ畜生っ!」

 最早彼に、正常な思考を行う程の余裕は一片足りとも残っていない。

 ――これで終わりか。

 問題の根本的解決はなされてはいないが、ひとまず、この怪現象からは逃れられただろう。

 ……そう思った矢先の出来事。

 肌が粟立った。恐怖に、ではない。皆も覚えがあるだろう? 暗い部屋の中、真っ暗な画面を映すテレビが付いているのかいないのか、解るあの感覚だ。

 ――嘘だろう?

 人間、本当に信じられぬ場面に遭遇すると、声も出ないらしい。

 彼の視線は独りでに立ち上がったテレビに吸い寄せられ、離れなくなっていた。その画面に映るのは、第二講義室の前、丁度さっきの続きからであった。

 そうして映像は、まるで彼が見ているのを解っているかの様に早回しをされてゆく。

 映像の中の自分が、あっという間にカメラの奥へと消えたかと思えば、しばし無人の廊下が映し出され、次に先輩が現れ、これまたあっという間に姿を消してしまった。

 ようやく○○は正気を取り戻す。

 短い距離ながら全力を出してテレビに近づき電源ボタンを押す。押す。押す押す押す押す押す――。

 カチカチとクリック音だけが虚しく響く。

 こうしている間も映像は進んでゆく。

 本能が、危険信号を発する。

 これ以上見たら、取り返しがつかなくなる、と。

 ○○は急いでコンセントを抜くも――。

「っ! 消えろっ! 消えろよこのっ!!」

 矢張りというべきか。映像は途切れる事なく映っていた。

 ○○は涙目になりながらテレビを叩くも、己の拳が痛むばかりで壊す事は叶わなかった。

 ――そうして遂に、その時が訪れる。

 ○○は無意識の内、映像がよく見えるようほんの少しテレビから身体を離した。

 ぬぅっと、画面の下から人影が現れて反射的に身体を硬直させてしまう。

 ソレがキョロキョロと、辺りを見回す仕草をする自分だと解った瞬間、どっと疲労感が押し寄せてきた。

(……先輩は何を見たんだ?)

 ○○は再び、原因を探る程度の冷静さは取り戻したようだった。

 今のところはそれらしいものは見当たらない。ならば何が――。

 ○○が思索に耽る一方、画面の中の自分は何も見つからなかったのだろう。廊下の奥へと歩を進めてゆく。

 一歩。二歩。三歩。

 ……画面の下にぬらりと白い物体が現れた。

 ――何だ!?

 モノクロの画面半分を覆う白。距離が離れるにつれ全容が見えてきた。

 ――傘だ。傘を差しているんだ。

 こんな夜中に? 屋内で? ツッコミどころは多々あろう。だがそんなもの、目の前の現象に比べれば些事に過ぎない。

 自分の後を追う人物の存在に比べれば――。

 こんな、こんなものが俺の後ろにいたのか? いいや! あの時は確かに、俺一人だった! あんな隠れるような物の無い、音の響く場所を無防備に連いてこられたら、すぐに気付く筈だ!!

 ではこの傘の人物は、映像にだけ映っているというのだろうか!?

「あぁクソっ! よく見えない!!」

 キノコ状の傘は大きく、人物をすっぽり覆ってしまっていた。唯一見えるのはキノコ傘から伸びる足ぐらいか。

 映像を巻き戻そうとして、リモコンは先程投げ捨ててしまった事に気付く。そもテレビで動いているコイツに意味があるか、という問題があるが、気が動転している○○はそこまで気付かないようだ。

 廊下の奥に二人の姿が呑まれてしまった後、「もう一度見たい!」と念じると、偶然だろうか? ○○が念じた通り、映像が巻き戻っていくではないか。

 そうしてもう一度、自分が現れ、少しの間を置き傘の人物が現れた。そうして二人が大体中央に来た時に止まれと念じると、その通りに、映像は停止した。

 じっくりと観察する。

 傘の人物は、どうやらニ、三歩、己の後ろにいたようだ。そうして足元を見ると、スカート? ドレス? を纏っているように見える。

「女か、コイツ……?」

 如何なるトリックか解らないが、ペットボトルの犯人も、十中八九コイツだろう。

「……何の為に?」

 ○○も知らぬ内、疑問が己の口を吐いて出ていた。

「見――つ――け――た――」

 どこからともなく聞こえた返事に、○○はぎょっと目を見開いた。そうして右に左に、部屋の中を確認する様は一種の狂人であった。

「何の為に、と仰いましたわね? 簡単な事です。(わたくし)がアナタを見初めてしまったからですわ」

 ○○は声の主の正体に気付く。

 女だ――。映像の中の女が答えているのだ。

「ごめんなさい。(わたくし)このような事初めてで。殿方に惚れるなんて、どうしたらいいか分からなかったの」

 馬鹿げた思考であるが、○○はそれが間違いない事だとハッキリ理解していた。

 そんな超常続きに慣れてきた彼でも、次の瞬間は腰を抜かす羽目になった。

「最初はほんの、軽い気持ちだったの。差し入れになればいいなって、労いの気持ちだったのよ」

 停止した映像の中、傘の女がこちらを振り向いた。その視線は、間違いなく○○を射抜いている。

 ――ハッキリと言えば、その女は美女だった。目鼻立ちがクッキリとした顔。男好きのしそうな肉付きのよい身体つき。

 だがそんなものは全て恐怖によって塗り潰されていた。

「段々と欲が増えてきましたの。アナタの好みが知りたい。アナタの側へ参りたいって」

 コツンコツンと。女が靴音を響かせて画面へ近づいてくる。廊下は画面の下方へ伸びているというのに、女はそれすら無視して画面へと、こちらへと近づいているのだと解った。

「はしたない女だと思わないで? これでも我慢したのだから」

 そう言って女が腕を伸ばしてくる。一瞬、画面が波打ったかと思えば次の瞬間、テレビの画面から白い、女の手がぬぅっと伸びて出た。

「ひぃああぁっ!」

 情けない声を上げ○○は後ずさる。

 女の指先が何かを求めるように蠢くも、その動きは空を切るばかり。

 ――今の内に!

 ○○が逃げようと立ち上がろうとして――腕を掴まれた。

「逃げないで頂戴」

 耳元に、艶やかな女の声。

 振り返らなければいいものを、嗚呼、彼は振り返ってしまう。

 すぐ目と鼻の先、先程の女の顔があった。女の下半身は、何だか分からない空間の裂け目に呑まれており、その腕もまた裂け目に呑まれていた。その腕はどこにいったかと思えば、あらぬ方向の空間から生えて、自分の腕をがっしりと掴んで離そうとしなかった。

 ――逃ガサナイ。そう、言わんばかりに。

「た、助けてくれ……!」

 かろうじて振り絞った声は情けない命乞い。

 それを聞いて女は哀しそうに顔を歪めた。

(わたくし)、アナタを怖がらせてるのね。悪い女だわ」

 そう、眉を八の字にする姿は人間の女と何ら変わらない。

 ――もしかしたら助かるのか? そんな淡い期待は瞬時に打ち砕かれる。

「――でもごめんなさい。もうね、我慢が出来ないのよ」

 女の腕に力が込められる。次の瞬間、女の身体がゆっくりと裂け目に呑まれていくではないか。

「ひっ! いや、嫌だぁっ! 誰か、たすけ、助けてくれぇぇぇ!!」

「えぇ助けますわ。何人であろうとアナタに危害を加えさせるような真似はさせません。約束しますわ」

 言って女は満面の笑みを浮かべる。まるで顔面に三日月が割れた様な、これ以上無いほどの笑顔で。

 そうして○○は見てしまう。裂け目の向こう。ギョロリと無数の瞳が、己を見つめている光景を。

 それを最後に○○は意識を手放した。

「あらあら。眠ってしまったのかしら? 仕様のない人ね」

 ぎゅぅっと男を胸に掻き抱く姿は慈母のようで。

「永遠に愛し続けましょう○○。きっと楽しいわよ? 悲しい思いなんかさせないわ。それはそれは、素敵な日々だと思わない○○?」

 女の身体が、男の身体がすっぽりと裂け目に飲み込まれてしまうと、裂け目は何事も無かったかの様に閉じ、ただ散乱した部屋と静寂だけが残った。




実は漫画のネタとして考えていたのですが、表現出来る程の画力が無かったので小説にしました。
悪しからず。


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按摩屋2

 俺は按摩屋を営んでいる。

 素人芸に毛が生えた程度の腕前だが、予約は三ヶ月先まで一杯だ。お客様々である。

 そんなに繁盛しているのか、と聞かれれば、いまいち素直に首を縦には触れない。

 それもこれも、実は客を一日一人しか取っていないからだ。

 何故そんな事を? と思われるだろう。これには深い訳があるのだ。

 以前、そう――あれはまだ店を始めたばかりの頃だったか。

 客入りはぽつりぽつりと寂しいもので、常に閑古鳥が鳴いている有様だった。

 それでも食ってこれたのは、外の世界と比べ圧倒的に出費が少ないおかげであった。家賃は掛かるが光熱費は掛からないし、趣味に金を掛けなければ入用になるのは精々食費ぐらいだ。そしてお生憎様、盲人たる自分が楽しめるようなものは幻想郷には無かった。

 あぁ、せめてカラオケでもあれば大分違うのだろうが。勿論、そんな施設は勿論ありはしなかった。

 兎角もまぁそんな訳で。このように道楽スレスレの商売でも、どうにか食うに困らずに住んでいるのだが。

 そして今日もまた、勤勉な俺は客の為にシーツを整えているのだが。

 ガラガラコロン。

 玄関の引き戸が開き、鈴の音が鳴った。

「ごめんください」

 透き通る様な、耳に心地よい声が響く。

「あぁ、聖さんか。待ってたよ」

 人の顔を見て話さぬのは失礼にあたるらしい。盲人たる己にとっては耳さえ向いていればさして困らないのだが、それが常識だというならばソレに倣うまでだ。

 ○○は白蓮へと向き直る。さりとて彼女の様子――上気した頬、潤んだ瞳は正に恋する乙女といった様相である――は感じ取る事は出来ない。

 だが、○○は白蓮は好意的に受け止めていた。

 何故なら、彼女はこの按摩屋の上客の一人だからだ。

 そうそう。何故俺が、日に一人しか客を取らなかいのか。理由がまだ途中だったな。

 開店してまだ間もない頃、客は片手で数えられる程だが、彼女らの熱心なリピートで俺は食い扶持には困らなかった。

 幻想郷での生活、その先行きに希望を抱いた矢先の出来事だった。

 出入り時に鉢合わせした客同士が揉めってしまったのだ。いや、あれは揉めるなんて生易しい表現では到底足りない。

 響く爆音。引き裂かれた空気の悲鳴。光を失ったこの瞳で尚解る程の光量が目蓋を焼いたほどだ。

 全く、戦争でも起こったのかと思ったが、落ち着いた時分当事者に聞くと「ほんの挨拶代わりだ」と抜かしやがる。

 そんな幻想郷の洗礼を受けたあの日から、二度とこのような事態を引き起こすまいと日に一人という措置を取る事にしたのだった。

「あの、上がってもよろしいでしょうか?」

 いつの間にやら物思いに耽っていたようで、つい呆けていた様だ。

 客を意味なく待たせるなど、商売人失格である。それほど商いに精を出している訳でもない俺にだって、それくらいの心構えはある。

「あぁ、すまんね。どうぞ上がってくれよ」

 昨日の幽香とは大違い。律儀に土間で立ち尽くす白蓮に上がるよう勧める。

 彼女は嬉しそうに、いそいそと雪駄を脱ぎ、きちんと揃え直してから部屋に上がる。

 白蓮が動く度、ふわりと薫りが撒き散らされる。白檀の、香の匂いだった。

 ○○はこの何とも素朴な匂いが好きで、白蓮を上客と呼ぶ理由の一つでもあった。

「それで、今日も脚のほうかい?」

「はい……。どうもむくみが気になって。あぁ、己の未熟が嘆かわしいです……」

 白蓮は仕事柄、どうしても長時間正座をする必要が出て来るのだ。そこに彼女の非は一片も無いのに、彼女は本当に己を恥じている様子だった。○○の視線から逃れる様に身体を丸め、声も散り散りに自らの罪を吐き出すかの様に言葉を口にしていた。

 真面目なんだなぁ。そんな感想を抱きつつ、○○は施術を施すべく話を進めた。

「それじゃぁ、いつものようにこちらへ脚を投げ出してくれないか?」

「はい……」

 いそいそ。

 白蓮は指示通り、シーツの上に身を横たえ、○○が揉み易いように彼へと足を向ける。

「失礼するよ」

「あっ――」

 そう一声掛け、白蓮の返答も待たず○○は女の裾をたくし上げた。

 艶めかしい、程よく脂の乗った脚が顕になった。

「恥ずかしぃ……」

 白蓮は顔を多い呟く。

 そんな事を言われても。こっちも仕事だし、何より目が見えない俺相手に一体何を恥ずかしがる必要があるのだ?

「やめるかい?」

「いえ! ……いえ、続けて下さい」

 この遣り取りも、何度目だろう。

 彼女は来る度に肌を見せることを躊躇うので、その都度○○は確認を取るのだ。

 後になってセクハラだ何だと騒がれたくないからだ。外の世界じゃまぁ、そういう事が多い故に。

 白蓮の了承を得て、○○はオイルを手に取った。発汗作用を促すものだ。

 そいつをよぅく自分の掌に馴染ませてから白蓮の脚に触れる。

「あっ――」

 ……この瞬間は、いつになっても慣れない。

 一番最初に触れるという瞬間、どうしてか女たちは小さく声を上げるのだ。しかもその声の色っぽいこと。

 そう。己がが今触れているのは紛れもなく、幻想郷の男どもが羨むような女の肉体に他ならぬのだ。

 盲目故に、彼女らの美貌には微塵も靡かぬ○○だが、盲目故にこそ、彼女らの肉感的な質感は男の情欲を掻き立てた。

 だからこそだ。彼は自らの欲望を抑えるのに、彼女らの声をスイッチにしていた。

 ――無心だ。無心になれ。

 ○○は自分に言い聞かせ、白蓮の肉を揉んだ。一体何処が凝っているのだと疑いたくなる様な、柔い肉を丹念に丁寧に、然れども無心に揉み続けた。

「はぁ……ふぅ……。あの、よろしいですか?」

「ん?」

 女の唇から艶やかな声が漏れる。

 それを背景音に○○が按摩を続けていると、珍しく白蓮が声を掛けてきた。

 彼女は、面倒な要求をしないからこそ○○にとって上客なのだから、本当に珍しいことだ。

 ――何か失敗しただろうか?

 ○○がそんな事を考えていると、白蓮は遠慮がちに告げてきた。

「こちらの布団は、○○様が普段使っているものなのでしょうか?」

「は――?」

「あ、いえ! 答えにくいことでしたら答えなくて構いませんので! あの、その、……気になったものですから」

 あんまりにも予想外な質問に、ついつい手の動きが止まってしまう。

 何故そのような事を? 思わないでもないが、特別に隠す様なことでもないので正直に打ち明ける。

「いや。客に使ってもらうのと自分で使うのは流石に分けてるさ」

「……そうですか」

 自分の体質上、声調の変化の機微には常人以上に敏いと思っている。

 白蓮の口調はさして変化は見られなかった。だが、それも表面上のこと。僅かに滲み出ていた落胆の色は、俺に隠すには余りに大きかった。

(なんだ? ……同じ布団の方が都合が良かったのか?)

 降って湧いた疑問は奇しくも○○の意識を逸らし、男性的欲求を抑えるのに一役買っていた。

 暫し無言の――時折白蓮の短い嬌声が響くものの――時間が流れる。

 これならば、何事も無く終わりそうだな。○○が内心安堵の息を吐いた直後であった。

「あの、もう少し上を揉んで頂けないでしょうか……?」

 ○○は白蓮の求めに返事はせず、ただ行動を以て答えとした。

 太腿の内を揉んでいる時の事であった。

「……すいません。もう少し上を」

 ……少し、神経質になり過ぎたろうか?

 ○○が腿を揉む手を心なしか上に移すも、彼女はもっと、もっと上と要求してくるのだ。

 その先に何があるなんて、言わずもがな。故に○○は慎重に、遅々とした動きで手の位置を変えていたのだが。

「――もう少しだけ、上をお願いします」

 頭上から来る彼女の要求に、○○は腕を止めた。

 既に指先は股関節の付け根にまで達している。それよりも『上』というのは――。

 その意味を察せられぬ○○では無かった。

「これ以上は――んぶぅ!?」

 些か躊躇してから、「無理だ」と形にしようとした瞬間に、○○の口は塞がれた。

 いいや、口ばかりではない。顔面全体がナニかに押し付けられているのだ。

 突然の出来事に混乱する○○。辛うじて、頭を抱えられている事を理解した。

 と云う事はだ、今自分の顔が押し付けられているものの正体は――。

 理解した瞬間、むわっと、○○の鼻を腐った蜜の様な甘い薫りが満たした。あまりの息苦しさに空気を求めて息を吸っても、ただ女の性臭が口内を満たすばかりで僅かな効果しか得られない。故に○○は浅く、何度も呼吸をする羽目になった。

「嗚呼、○○さんっ! そんなに暴れないで下さいっ!」

 興奮に塗れた白蓮のが耳に届いた。

(何を言ってるんだこの女は!?)

 アンタが拘束しているからだろ! と文句を叫ぶも、ふごふごと意味のないくぐもった音が響くのみ。

 その都度白蓮は歓喜に身を震わせ、一層強く男の顔を己に押し付けた。

 勿論○○は逃れようと暴れるも、白蓮の腕はその細さからは想像の付かぬ怪力を発しビクともしないのだ。

「○○さん! ○○さん!」

 男の名を呼ぶ女の声が一面に大きく響き渡る。

 情愛をたっぷりと含んだソレは、されど片一方の善がりに過ぎず、決して○○の心に響く事はなかった。

 思慮深い白蓮が、如何にして浅薄とも呼べる行為に出たのか。

 言うに及ばずだが、白蓮は○○に懸想していた。

 当初はただの「良い人だな」ぐらいの軽い気持ちであったが、人妖を差別しない彼の姿勢に、少しずつ然れども強烈に白蓮は惹かれていった。

 この様にして彼女もまた、○○の按摩屋の常連になったのだが。

 彼への恋情は萎える様子を見せず日々募る一方で。己が立場を鑑みれば、ふしだらであると思うも彼への想いは、捨てるにはあまりにも大きかった。

 白蓮の戒律を守らんとする理性は、決して弱い訳ではない。だがそれを以てしても想いを抑えきれず、夜毎自らを慰める日々が続いた。

 今日という日が、何も特別だった訳じゃぁない。ただ、いつ決壊を起こしてもおかしくないダムだったのだ。いずれは弾の出るロシアンルーレットだったのだ。

 偶々、今日、彼女の理性を欲望が振り切ってしまっただけだ。仮に今日という日を何事も無く過ごせていたとしても、そう遠くない日に同様の事が起こったろう。

(あぁ、何ということでしょう……!)

 白蓮は幸福の絶頂にいた。

 今、己が胸の中には愛しの男がいる。それだけの事であったが、白蓮は幸福に満たされていた。

 そうして一際大きく女の身体が跳ねる。

「っ~~!!」

 一拍置いて、女の全身が弛緩した。

(なんだ? ……まさか!?)

 男は抵抗を弱め、自らの内側に集中する。鼻腔をくすぐるのは女の蒸れた汗と、少し混じって女そのものの臭い。それが、先の痙攣を通してから一層濃くなっていた。

「はぁ……! ○○、さん……」

 頭上から振る女の声に、○○ははたと正気を取り戻す。

 脱力しきった白蓮の身体から抜けるのは容易く、○○はするりとその腕から逃れた。

 そして彼もまた、急変する状況に追いつけず呆然と佇むしか無かった。

 しかし何時までもこのままでいる訳にもいくまい。意を決し○○は声を掛ける。

「……大丈夫、か?」

 とても気の利いた言葉とはいえない。ならば何と言えばいいと言うのだ?

 ○○の行動は評価されこそ、批難される謂われはない……筈だ。

「あ……。えぇ、申し訳ありません……。少し、その……、興奮してしまいまして」

 お前さんは興奮したら男を抱くのか、というツッコミが喉元まで迫り上がっていたが、寸での所で堪える○○。

「……続きはどうするよ」

 白蓮のちぐはぐな返答を受け流し、○○は仕事人に徹する。

 本心で言えば、続きをする気は、無いのだが。

 彼の願いが通じた訳ではないだろう。白蓮は乱れた服装を整え、すくと立ち上がる。

「いいえ、今日の所は、お暇させて頂きますね」

 先程乱れていたのが、夢幻であったのではないかと思うぐらいに、白蓮は毅然と告げる。

 そうして遠ざかる足音に、○○が胸を撫で下ろしていると、鈴の音と同時、その足音が止まった。

「また、来ますね」

 そうとだけ残し、白蓮は今度こそ去っていった。

 自宅兼仕事場に、静寂が戻る。○○は少しの間扉を――視えはしないのに――見て、ぽつりと呟いた。

「……片付けるか」

 部屋にはまだ、彼女の甘い残り香が漂っている。ともすれば先の光景を思い出しそうになってしまうので、○○は部屋を開け放つ。そして未だ女の匂いが色濃く残るシーツを手に取り、大きく溜め息を吐くのだった。

 白蓮の奇行――と○○は思っている――は何だったのだろうか。それを考える事は、今の生活の終わりを意味しそうで彼は努めて意識から振り放った。

 とりあえず、○○が解るのは今日一人の上客を失い、厄介な客を得てしまったという事だ。



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人魚の恋

挿絵を描いてみました。


 朝靄(あさもや)が色濃く立ち込める霧の湖。一艘(いっそう)の小舟が浮かんでいた。

 何の為に? この様な刻限に里を出るなど、危険を犯すのだろうか。

 小舟には二人の男児が乗っていた。そして小舟の多くを占有しているのは大きな手網だった。

 聡明なる読者諸兄は理解された事だろう。

 漁だ。彼らは魚を獲る為に陽も昇る前から舟を出したのだ。

 何もこんな時間に、と思うなかれ。魚も多くは昼行性である。日没から朝に掛けては彼らも眠って――というと語弊があるが、そう考えて貰って構わない――いるのだ。その活動は緩慢であり、手網漁と相性が良かった。

 二人の男は手網を持ち、タイミングを合わせて湖に放り投げた。

 流石に手慣れたもので、手網の先々に着いた重しはキレイな放物線を描き、ポチャンと一滴をあげてからその身を水中に沈めていった。

 

 

 先にも述べたように、魚の多くは昼行性であると。つまりは夜行性の類もいるという事だ。

 では人魚は? 人魚はどうなのだろうか?

 魚人であれば解らないが、上半身が人間と、さして変わりのない人魚ならば、人間と同じく夜は眠ると考えるのは自然な事だろう。

 わかさぎ姫は霧の湖を寝床にしている人魚である。

 勿論、釣り人の仕掛ける餌になぞ引っかかる様な阿呆ではない。平素であれば、人の投げる手網にもだ。

 詰まる所、深い眠りに就いていた人魚姫は、哀れ人の手に落ちてしまった。

 

 

「おぉっ!? こいつは大漁だぞっ!」

 引き揚げる網の手応えに、漁師の一人が色めき立つ。

 片や○○も、言葉にする事は無かったが同様の思いだった。

 えんやこらと。二人は今迄に無いほどの重い網を意気揚々と引き揚げる。

 段々とその全容を露わにしていく手網。掛かった魚が網ごと舟に載せられるも、重さに反して数は大した事が無い。

 ならばまだ見えぬ網の底に、大物が掛かっているに違いない。

 二人は力を振り絞り手網を引いた。

「きゃぁっ!?」

 ――きゃぁ?

 場にそぐわぬ、黄色い悲鳴が響く。

 男二人は互いに見合った。

 お前が叫んだのか? いやいや、そんな馬鹿なことがあるかい。

 彼らは恐る恐る、引き上げた手網へと視線を落とした。

「うわぁ!?  に、にに人魚だぁ――!?」

 漁師が腰を抜かした拍子に、小舟が大波を立てる。

 ○○もまた、人魚を前に固まってしまっていた。

 恐ろしさ故にではない。彼女の美しさにだ。

 艶やかな青髪。潤いをたっぷりと保った肌。東洋人離れした目鼻立ちのくっきりとした顔立ちは、正しく魔性と呼ぶに相応しい。

「あの――」

 停滞した場の中、遠慮がちに人魚が口を開いた。

 その声もまた、何と可憐なのだろうと○○は思った。

 耳朶を震わせるのは、軽やかな鈴の音を想わせる美声。いや、彼女の場合、清らかな沢の音とでも言おうか。

「すいませんけど、解放して、くれませんか……?」

 人魚は眉を八の字にし、極力こちらを怖がらせぬよう、優しく語りかけてきた。○○はそう感じた。

 だが、相方の目にはそうは映らなかったようで。いっそ弱々しいとも取れる人魚の態度に、相方は余裕を取り戻すと口元にいやらしい笑みを浮かべる。

「こりゃぁ大漁だ! 人魚といやぁ、その肉を食えば不老不死になれるっていうじゃねぇか!」

 その言葉を聞き人魚は肩を震わせる。その顔には恐怖が浮かんでいた。

「待って下さい! 人魚を食べれば不老不死になれるなんて、根も葉もない迷信です!」

 人魚は必死な訴えは却って逆効果で、漁師の男は増々笑みを深めた。

「ははっ! そんな事ぁどっちだっていいのさ! 物珍しい人魚の肉ってだけで高く売れるだろうよ!」

 いよいよ以って人魚の顔が絶望に染まった。

 陸に上げられた人魚の、何と無力なものよ。

 今や彼女は俎上の鯉ならぬ船上の人魚であった。

 力なく項垂れる人魚の髪から、水滴が悲しげに滴り落ちていた。

「いや待てよ? バラして売っちまったら詐欺だと疑われちまうか? いっそこのまま、どっかの好事家にでも売っちまう方が――」

 相方の漁師はバラ色の未来を夢想していた。そんな彼の耳に不穏な音が届く。

 ボチャン――と。

 ……嫌な予感がする。彼は不安にざわめく胸を抑えながら、ゆっくりと振り返る。

 空っぽの手網。大きな波紋を残した湖面。

 それを理解した時、男はぎゃぁとそれはそれは大きな――紅の館に住まう吸血鬼すら起こしてしまう程の――声を上げた。

 

 

 辛くも水中に逃れた人魚、わかさぎ姫が思うのは先の事、先の人。

 ――何故だろう?

 考えても考えても一向に答えが出ず、疑問は膨らむばかり。

 いや、膨らんでいるのは疑問だけではない。

 その正体を確かめるべく、わかさぎ姫は湖底に潜っていく我が身を翻し、再び水面を目指す。

 ――何故、彼は私を助けてくれたのだろう?

 思い返すは先ほどの光景。

 囚われた私を救うべく、そっと網に切れ目を入れてくれた男性の姿。

 もう一人の人間のように欲に溺れるでもなく、助けてくれた彼の姿。

 暗い暗い湖底から、わかさぎ姫の体が徐々に浮かんでゆく。

 陽も差して来たのだろう。水中から見上げる湖面は眩いばかりの光を乱反射させ、わかさぎ姫は目を細めた。

 そしてそっと、小舟から少し離れた位置で水面から頭を出す。

 舟の上は未だぎゃぁぎゃぁと喚き立てている男。

 そんな相方を諌めんとする○○の姿――。

 そう認識した瞬間、彼女は沸騰しそうな熱を感じて、慌てて水中に潜った。

 今迄生きてきた中で、感じたことのない感覚に彼女は戸惑いを隠せない。

 何かの攻撃を受けた? 混乱の只中で、彼女はまずそのように判断した。

 じっと身を潜め周囲の様子を伺う。追撃してくる気配は見られない。

 水中は平穏そのものであり、依然としてわかさぎ姫の胸中だけが嵐の如く乱れていた。

 己の中で暴れる感情の正体が(よう)として掴めず、わかさぎ姫は再度浮上した。

 先程よりも慎重を期して、目より上だけを水面から出す。

 不自然に切られた網でも見つけたのだろうか。船上では二人が、激しく言い争っている。

 わかさぎ姫の心は、申し訳ないという感情の他に、別の感情が芽生えていた。

 ○○を見詰めていると切ない様な、苦しい様な。だけど決して不快ではない。ずっと浸かっていたくなる様な甘く、気怠げな感情に支配された。

 ぽぅっと呆けるわかさぎ姫。

 しばし見惚れていると、危うく○○と視線がぶつかりそうになる。彼女は慌てて水中に身を隠した。

 ――見られた!? 見つかってしまっただろうか!?

 斯様な危機感を覚える反面、彼女は全く相反する気持ちがあった。

 見られたい、気付いて欲しい、という気持ちだ。

 それに気付いた時、わかさぎ姫は自覚した。

 あゝ――私は、恋に落ちたのだ。

 

 

 人魚を救けてからというもの、○○の周りでは不思議な事が起こった。

 漁に出るとよく魚が穫れるのだ。今迄に無いほどに。

 それも決まって、自分一人で漁に出た時にだ。

 ○○の運気にあやかろうと別の漁師が一緒に来るとさっぱりであった。舟を別けても、同様である。

 これには皆も首を傾げるしか無かった。

 故に○○は自然と、一人で漁に出る事が多くなった。

 今日もまた、○○は一人せっせと手網を引き上げている。大漁の余り網は重く、男手一つで引き揚げるのは非常に体力を用いた。

 そんな彼を、少し離れた場から見詰める瞳がある。

 勿論、わかさぎ姫だ。

 ○○の大漁の正体は、何てことはない。○○の網に彼女が魚を追い立ててやっただけだ。○○の隣に別の人間の姿を確認すると、控えただけだ。

 結果彼は、わかさぎ姫の目論見通り一人で来る事が多くなった。

(そろそろいいかしら……?)

 わかさぎ姫は湖面を波立てぬ様静かに移動し○○の舟に近寄った。

 ○○は知らない。自分の手柄が、誰かの手助けによるものだと。

 彼の助力になる事。それ自体はわかさぎ姫にとって無常の喜びであったが、彼女は黒子のままで終わるつもりは無かった。

 要はそれをネタに、距離を縮めようという心積りだったのだ。

 だからこそ、彼女は種を明かす必要があった。私のおかげなんですよ、と。

 それは十分な成果を得られただろうと、わかさぎ姫は判断したのだ。

 もうすぐ○○とお話が出来る。

 夢にまで見た願いが現実となろうとすると、彼女の心に余裕が生まれた。

 つまりは悪戯心である。

 わかさぎ姫は今一度その身を沈め、○○の視界から大きく外れる。そして気付かれぬよう背後から近付くと、必死に手網を手繰る○○に声を掛けた。

「あの、もし――?」

 ○○は心臓が喉から飛び出る程に驚いた。

 何せ湖上のど真ん中である。周囲に自分以外の人影は無く、話し掛けるなんて思いもしなかったからだ。

 ○○はひどくバランスを崩し、不安定な足場では立ち直す事も出来ず、抵抗虚しく湖に吸い込まれていった。

 これにはわかさぎ姫も驚いた。驚かしてやろう、というちょっとの下心があったとはいえ、まさかそこまでとは思ってもみなかったからだ。

 素早く身を翻したわかさぎ姫は、水中で暴れる彼を抱えると舟上に放り投げた。

 色気もへったくれもない再会となってしまった。冷静さを取り戻したわかさぎ姫が真っ先に思った事がソレだった。

 その事を残念がると同時に、彼が無事な事にほっと胸を撫で下ろす。

 さて。その○○だが、呆然とした様子でこちらを見詰めていた。

(どうしようどうしよう!? なんて声を掛けたらいいのかしら!?)

 会ったら話したい事がいっぱいあった筈なのに。何と話そうか考えて来た筈なのに。

 先の騒動でさっぱりと頭から抜け落ちてしまった。

 百面相する人魚を前にしたら、○○の方が却って落ち着いてしまう。

「君が、助けてくれたのかい……?」

 助けたのは、確かに自分だが、その原因もまた自分なのだ。

 ○○の声音は決して責める様な色合いは帯びておらず優しげであったが、恥ずかしさにわかさぎ姫は小さく頷く事しか出来なかった。

「そうか……。ありがとう」

 ずぶ濡れになりながら微笑んだ彼の笑顔は、強くわかさぎ姫の胸を打ち、この人を好いた事は間違いで無いのだと強く思った。

「あの、……ごめんなさい。私のせいで」

 意を決して、わかさぎ姫は頭を下げた。

 ちょっとした悪戯のつもりだった。だけどここまでするつもりは無かった。

 己が主張の、何と浅ましい事よ。今更ここまでするつもりは、なんて言われてみろ。只の言い訳にしか聞こえないではないか。

 素知らぬ顔して恩人の地位に納まる事も出来たろうが、彼女はそうしなかった。彼女はそこまで面の皮が厚くはないし、何より○○に嘘を吐いたままというのはどうにも我慢ならなかった。

 馬鹿正直に己が罪を自白し終え、わかさぎ姫はとてつもない羞恥に襲われた。

 今すぐにでも泡となって消えたい。そう、強く願った。

 ○○はしばし無言で、人魚を見詰めている。突き刺さる彼の視線が一層自分を責めている気がしてならない。

 勿論それはわかさぎ姫の肥大化した被害妄想に過ぎぬのだが、覚妖怪でも無ければ相手の胸中など(おもんばか)る事なぞ出来やしない。

 ややあってから、○○は口を開いた。

「もしかして、俺の漁を手伝ってくれていたのは君かい?」

 彼の口からわかさぎ姫が思ってもみなかった言葉が飛び出す。同時に彼女が伝えたかった話題だ。

 それ故に彼女は鯛よりも顔を赤くし、金魚の様に口をパクパクとする他なかった。

 表情は時に言葉よりも雄弁に物を語る。

 人魚の反応を見て得心のいった○○は相好を崩した。

「あぁ。やっぱりな」

 眩いばかりの彼の笑顔を前に、わかさぎ姫は自らの熱を冷ますべく頭の天辺まで水に浸かった。

 じゅぅじゅぅと、周囲の水が湯気だってしまわないか。そんな馬鹿な心配をするぐらいに彼女の脳は茹だっていた。

 しかし何時迄もこうしている訳にはいかない。

 何の為にこの身を晒したのだと自らを叱咤し奮い立たせる。

 だが彼を前にするとわかさぎ姫の頭は真っ白になり、碌に言葉も話せないのだ。

 そんな人魚を前に○○はクスリと笑う。

「俺は○○。君は?」

 ○○は膝を折り人魚へ手を差し伸べた。ともすれば彼女は、再び潜って逃げてしまいそうだったからだ。

 差し伸ばされた手と○○の顔を交互に見、わかさぎ姫もおずおずと手を出した。

「私の名前は――」

 わかさぎ姫が考えていたロマンチックな再会とは程遠い再会となったが、こうして二人の交流が始まったのだった。

 

 

「最近機嫌がいいよね。何かいい事でもあったの?」

「えへへ……。そう? 分かる? 分かっちゃうかしら?」

「うわ、露骨過ぎてムカつくわね……」

 仲の良い妖怪とのガールズトーク。

 今泉影狼が普段の様子と異なるわかさぎ姫に声を掛けた。

 その全身からは見るからに幸せオーラが発せられており、赤蛮奇はウンザリと息を吐いた。

 三本の矢と言うか文殊の知恵と言うか。弱小妖怪とて集まれば結構な脅威になるのではないか?

 通称草の根ネットワーク。

 時折こうして集い、日夜弱小妖怪の地位向上を考えているのだ。

 まぁ大抵が、女三人寄ればというヤツで、禄な意見など交わされないのが常である。

 興味無いと言わんばかりにそっぽを向いた蛮鬼に影狼は苦笑を零し、改めてわかさぎ姫に向かい直る。

 そこにはえへえへと、幸せそうな笑顔の人魚がいた。

「えへへ。実はねぇ――」

 わかさぎ姫は事の経緯を話した。

 時に自慢げに。時に切なげに。

 馴れ初めから今に至るまで何をした何を話しただとか、○○の優しさを延々と話した。

 最初は羨ましげに聞いていた影狼も、余りの長話に次第表情を曇らせてゆく。

 このままでは、日が暮れても話し続けるかもしれない。

 そんな馬鹿みたいな危惧も、熱に浮かされているわかさぎ姫を見れば現実のものになるのもそう遠くない。

 影狼はもう一人、うんざりしているだろう蛮奇に視線を向けると、驚きに目を丸くした。

「……ちょっとどうしたのよ蛮奇?」

 どうしたのだろう?

 影狼の戸惑った声に、わかさぎ姫も一旦話を止め蛮奇を見る。

 他人の惚気を聞いて、楽しいと思うかつまらないと思うかは人それぞれだろう。

 蛮奇の顔は、そのどちらでもない、苦虫を噛み潰した様な表情だったのだから二人が不思議に思うのも無理はない。

「ねぇ、お姫。アンタの良い人、○○って言ったわよね」

「う、うん……」

 良い人、と。まだそこまでの仲ではないのだが、蛮奇の纏う雰囲気に気圧されわかさぎ姫は頷いた。

 蛮奇は益々表情をキツくし、ふっと諦めたように息を吐いた。

「ちょ、ちょっと。蛮奇……?」

 流石に只事では無い事を察した影狼が、わかさぎ姫に気を遣って尋ね役を買って出た。

 蛮奇も蛮奇であーとかうーとか唸り、気まずげに頭を掻き毟っていた。

「お姫。驚かないで聞いてね」

 そう前置きし、蛮奇は口を開く。

「その、○○ってヤツ。今度結婚するのよ」

「え――?」

 曰く、○○には婚約者がいたのだと言う。

 曰く、近頃漁の調子が良く、ようやく結婚資金が溜まったのだと言う。

 曰く、近日にでも式を挙げるのだと言う。

 固まったまま動かない、わかさぎ姫の耳に入ったか解らぬが、蛮奇の話を要約するとそういう事だった。

 全てを話終え、気まずげに顔を伏せる蛮鬼。

 影狼もまた、何と声を掛けたら良いか考えあぐねている様子。

「嘘……。嘘よ嘘よ嘘よ!!」

 凍っていた時が動き出したか、わかさぎ姫はヒステリックに叫んだ。

「うそうそうそうそ嘘吐き! 蛮奇ちゃんは嘘吐きだわ!」

「姫っ!」

 信じたくない――。

 その気持ちは同じ女として分からないでも無いが、友人を嘘吐き呼ばわりするのは看過出来ない。

 影狼はわかさぎ姫を諌めるべく声を荒げるも、それを制したのは誰あろう赤蛮奇だった。

「うそ……、うそよ。だって……」

 わかさぎ姫は心ここにあらずといった様子で呆然と、何も無い空間を見詰めひたすら譫言(うわごと)をつぶやき続けていた。

 

 

 蛮奇から衝撃の告白を受けて幾日か。

 偶然かどうか、湖に○○が姿を見せる事は無かった。

 事の真相が解らず、わかさぎ姫は憂鬱な日々を過ごした。

(○○とお話したいな……)

 光の届かぬ湖底は真っ暗で、彼女の寂しさを一層掻き立てる。

 ○○が来ていないか。それを確認する以外何もする気が起きず、暗い湖底でわかさぎ姫は一人眠りに就いた。

 さて。夜を経て朝を迎え、わかさぎ姫は今日も湖面から周囲を見回す。

 ここ連日めっきり彼を見ていなかったからか、彼女の心は後ろめたさに覆われていた。

 期待はしていなかった。それ故に○○の舟を見つけた、彼女の嬉しさは一入(ひとしお)であった。

 急ぎ舟に近寄り○○の姿を確認する。

 ○○もまた、珍しく激しい音を立てて接近するわかさぎ姫に気付く。

「やぁ、わかさぎ姫。久しぶり」

 湖の精もかくや、○○の笑顔は実に爽やかなものだった。

 それだけでわかさぎ姫は、心を覆っていた曇天が晴れてゆくのを感じた。

 だが――。

「ん、どうしたんだい?」

 蛮奇の言葉を思い出し、彼女の心は直ぐに曇り空に覆われてしまう。

 ――○○が結婚する。

 その言葉が頭にこびりつき、久しぶりの再会も素直に喜ぶ事が出来なかった。

(ううん。そんな筈ないわ)

 わかさぎ姫は頭を振り、噂の真贋を確かめるべく○○に尋ねようとして、遮られた。

「あの、さ。わかさぎ姫に聞いて欲しい事があるんだ」

 何だろう、と。呑気な感想は抱けなかった。

 そう語り始めた○○の顔が、照れた様な恥ずかしそうな――嬉しそうな顔をしていたからだ。

「君には色々とお世話になったからさ。きちんと話しておかないと、と思って」

 ――嫌。

「実は今度、里の娘さんと結婚する事になってさ」

 ――嫌、イヤ嫌!

「これが結構いいとこの娘さんでさ。器量もいいし、俺には勿体無い人なんだけど」

 ――イヤイヤいやいやいやいや嫌嫌嫌嫌いヤいや嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ッ!!

 そんな笑顔で話さないで!

 私の、見たことのない笑顔で話さないで!!

 今にも耳を塞ぎたいのに。逃げ出したいのに。わかさぎ姫の身体は金縛りにあった様に動かなかった。

「これも全部、君のおかげだよ。君が漁を手助けしてくれたおかげで、彼女の心を射止められたんだ」

「私の、おかげ……?」

「そうだよ。君の――わかさぎ姫?」

 その言葉を皮切りにして、わかさぎ姫の身体は自由を取り戻した。

 そうして彼の言動が頭の中で木霊し、笑いを抑える事が出来なかった。

 火がついた様に笑い始めたわかさぎ姫に、驚き、心配そうな表情を浮かべる○○。

 そんな想い人を前にしても彼女は笑いが止まらなかった。

 だって、考えても見て欲しい。彼の為、彼の為と思ってしていた行為が、真逆敵に塩を送る真似になっていたなんて。

 知らず私は真綿で首を絞めていたという訳だ。これが笑わずにいられようか。

 ケタケタと笑うわかさぎ姫。その姿に次第、○○は恐怖を覚え始めた。

「ねぇ○○――?」

 その火がふっと、突如として消える。

 無意識の内、○○はわかさぎ姫と距離を取っていた。といっても狭い舟上である。その距離もたかが知れている。

「私もお祝いをしたいのだけど、いいかしら?」

 その内容とは裏腹に、その口調はのっぺりと抑揚が無く、○○の恐怖を助長した。

「ねぇ、どうしたの○○? どうして避けるの?」

 その指摘と同時、○○の踵が舟の縁にぶつかった。

 ○○が己が背後を見たその瞬間――!

 わかさぎ姫の身体が湖上に躍り出た。

 水の爆ぜる音に振り向いた○○の視界いっぱいに人魚の身体が迫る。

 抵抗する間も無く、彼は水中へ引きずり込まれてしまう。

 ごぼっ――!

 ○○の口から空気が漏れる。貴重な空気が。

「私の家に招待してあげるわ。(おか)では見れない、素敵な景色が見えるわよ?」

 水中にあっても不思議とわかさぎ姫の声は響いた。美しい、聞く者を虜とする声が。

 冗談じゃないと、当然○○は抵抗する。重くなった手足が水を叩く。

 

【挿絵表示】

 

 陸に上がった人魚の、何と無力な事か。水を得た人魚の、何と力強い事か。

 ○○の腕を握るわかさぎ姫の力は、その細腕からは想像も出来ないほどに強い。

 その上に彼は呼吸が出来ないのだ。激しかった抵抗も次第に影を潜めてゆく。

「暴れないで○○。そう、暴れないで。……うん、いい子ね」

 最早藻掻く力すら失った彼の瞳には、今迄で見た中で一番美しいわかさぎ姫の笑顔が映った。

 それすらも段々と、ぼんやりと像を失い、遂には彼の命は暗い湖底に呑まれてしまった。

「○○……」

 ぴくりとも動かなくなった愛し子を、陶然とした表情で見詰めるわかさぎ姫。

 彼の身体は未だに暖かく、彼女はぎゅっと、大切に大切に亡骸を抱きしめた。

「愛してるわ○○。あなたが亡くなっても愛し続けるわ。その肉が腐り爛れようとも、骨だけになろうとも、愛し続けるわ」

 そうしてわかさぎ姫は、苦悶の表情のまま固まった彼へ口を付ける。

 その唇は矢張り暖かく、少し固く。

 されど彼女の心に温もりの火を灯した。



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蓬莱の呆

若干ホラー風味で微グロ成分もあったりなかったり。
タグを追加した方がよいのでしょうか……?


 歳を取ると、月日の流れが早く感じると良く云うではないか。

 私が思うにその理由は、分母が大きくなるからなのだと思う。

 分母――つまり、今まで生きてきた人生、経験だ。

 ならば不老不死たる私の分母は無限大であり、無限大を分母とした私の時間は正しく須臾といったところか。

 勿論、事実はそのような事はない。

 こんな下らない、非生産的な思考に割く時間があるのだから、相対的な価値は別として時間は遍く絶対的に等しく与えられているのだ。

 さて長々と前置きしたが私が何を主張したいのかというとだ。

 どうやら最近の私は、呆けている事が多いらしいのだ。

 何と腹立たしい事だ。そんなものは事実無根であると切って捨てたいところだが、複数の人物に何度も指摘されてしまっては、流石に認める他あるまい。

 問題の解決には時に苦痛を伴う。全くもって認め難い事だが、仮に私が呆けているとしよう。

 そこで前述の理由に至るのだ。

 不老不死たる私が、物思いに耽るほんの一瞬だと思っている時間は、定命の彼女らには実に長い時間にあたるのではないか?

 価値、というものは個々人によって異なる。

 私が短いと思う時間も、別の者には長く感じる事があってもおかしくはない。

 さて。ここまでの推論は、仮定と妄想を含むにしてもさしたる矛盾は生じていない。かといって全てが明るみに出た訳ではない。

 つまり、私は一体、何を思索しているのかという事である。

 何馬鹿な事を言っているんだと思われるかもしれない。自分自身の事も解らないのか、と。

 そう。解らないのだ。私は、長い――自分にとっては短くとも――時間を掛けて何に耽っているのか、まるで心当たりが無いのだ。

 そも指摘されなければ気付かない事なのだから、特筆すべきことでもないのかもしれない。

 或いは思い出せない、忘れているというのならばそも大した内容でも無いのかもしれない。

 忘れる、という行為は特に、生きていく上で重要な行為だ。

 人間の脳の記憶容量は、物理的にも限界がある。その器が実際は、自分で考えているよりも余程大きいとしても、矢張り限界はあるのだ。

 故に忘れる。容量を確保するべく。又はストレスから解放されるべく。

 それは天才たる私も例外ではない。

 しかし――しかし妙に引っ掛かるのだ。

 彼女らが呆けていると指摘する間、私は何を考えているのだろう?

 やれやれ。考えたくないものだが、これでは本当に痴呆と変わらないではないか。

 

 

「師匠……? 師匠ってば!」

「あ――えぇ、何かしらウドンゲ?」

「何かしらじゃないですよ、もー。何度も呼んでるのに!」

 最近師匠は、このようにぼーっとする事が多くなった。

 それを指摘すると決まって我が師は「覚えてないわ」と言うのだ。

 とぼけているのでも誤魔化しているのでも無いのは、師の様子を見れば分かる。

 ……私にはその原因が思い当たった。

 師への用事を済ませ、私の足は真っ直ぐにある場所を目指していた。

「姫様? 少しいいですか?」

 襖越しに声を掛ける。何かが動く気配がした。

「鈴仙? いいわよ」

「失礼します――」

 許可を頂戴してから襖を開ける。

 僅かばかし開いたそこに身体を滑らせ、後ろ手に襖を閉めた。

 その動きを見た輝夜は、口元を隠し上品に笑った。

「どうしたのよ。泥棒みたいだだわ」

 クスクスと笑う姿は、正に姫を冠するに相応しい。

 その優美さに普段の鈴仙であれば釣られて笑みを浮かべたろう。

 故に輝夜が気付かない筈が無かった。鈴仙の纏う逼迫した空気に。

「永琳のことね?」

 輝夜の笑みは絶えない。口調にも微塵の変化も見られない。

 しかし鈴仙は輝夜の波長を覗き見し、主人もまた、真剣に相対する気なのだと理解していた。

「まぁ。まずは座りなさいな」

 鈴仙が口を開こうという瞬間に、出鼻を挫くよう輝夜がそっと座布団を指した。

 まるで勇み足を咎められた様な、そんな気がして鈴仙は顔も赤く、身を縮こまらせながら腰を降ろした。

 恥ずかしさが、鈴仙に俯瞰するまでの冷静さを取り戻させた。おそらく、輝夜の狙い通りなのだろう。

 姫様は私の言いたいことを既に察している。なら慌てて口を開くような真似をせずともいいだろう。

 そう判断した鈴仙は、先ほどとは打って変わって貝の如く口を噤んだ。

 そんな従者を見、輝夜はクスリと笑うと呑気にも茶を点て始めた。

 カシャカシャと茶筅が擦れる音だけが響く。

 輝夜の指先に合わせて茶筅が踊り、どんどんと泡がきめ細かく立ってゆく。

 その動きを見ていると、鈴仙は心が凪いでゆくのを感じた。そして未だ平静さを取り戻せていなかった事を自覚した。

「ねぇ鈴仙?」

「はい」

 輝夜の視線は未だ己が指先に注がれている。

 しばしの無言の間。その沈黙が鈴仙には、輝夜が躊躇している様にも思えた。

「私はね、時間が解決してくれると思うの」

 何が――とは言わない。二人の中では既に話題は固まっているのだから。

 それでも、理解していても尚、鈴仙は反応が遅れた。

 ――それは余りに無責任ではありませんか!?

 それは嘘でも思ってはいけない言葉だった。主人を糾する言葉が、今にも喉を突いて出そうになった、その時である。

 目の前に、輝夜の点てた茶が置かれた。

 またしても鈴仙の腰を折る見事な手管である。

 鈴仙は半端に浮き上がった腰を降ろし、小さく「……いただきます」と呟き茶碗を傾けた。

 抹茶の香りが鼻先をくすぐり、口いっぱいに甘く、されど僅かな苦味が広がった。

「美味、しいです……」

「はい。お粗末さま」

 輝夜はニコニコと、満面の笑みを浮かべている。鈴仙の表情は対照的で、終始ペースを握られているのが悔しいのだろう。何とも言い難い、苦々しい表情であった。

 別に輝夜は意地悪で鈴仙を制している訳ではない。

 むしろその逆。鈴仙を想ってしてくれているのだ。先の事が良い例であろう。

 ……そんな事は鈴仙にだって解っている。解っているのだ。

「だけど――」

 それでも、感情は抑えきれず瞳の端々から溢れ零れた。

「だけど、私は悔しいです……!」

 ほろりほろりと、涙と共に心情を吐露する鈴仙。

 あの強くて格好良くて!厳しいけど優しかった師匠が、……段々と壊れていくのをただ見ているだけなんて!

 悔しさに歯噛みする鈴仙。唇から一条の血が流れた。

「……そもそも、あの人が師匠を置いていったからこんな事になったんじゃないですか! ○○が――」

「鈴仙!」

 ぴしゃりと、輝夜は叫び鈴仙の言葉を切った。

 温厚な姫様が叫んだという事実は、鈴仙の動きを止めるに十分であったようだ。

「鈴仙、駄目よ鈴仙。貴女がどう感じるかは自由だけど、口にしては駄目よ。口にしたら、形にしたら、それは確固としたものになってずっと残ってしまうから」

 輝夜の口調は、穏やかさを取り戻していた。だがその瞳は真っ直ぐに鈴仙を見詰め、いつになく真剣なものだった。

「色恋沙汰なんて、結局最後は本人達のものよ。その二人が選んだ結末に口を挟むのは野暮よ?」

 正論という理論武装は時に暴力的でさえある。

 輝夜の言う事は理解出来るし、正しいのだろうと鈴仙は思う。

 悔しげに下唇を噛んだ鈴仙の口から血が滴れた。

 思い返すのは最期の風景。

 人として老衰した○○と、それを静かに見送る永琳。

 確かに――確かに! 二人の顔は穏やかであった。

 それでも、それでも鈴仙は納得出来なかった。

 事態が好転する事を祈り、静観に身を委ねるには彼女はまだ若過ぎる。

「っ! ……失礼します!」

 輝夜の丁寧介抱の甲斐もあって、鈴仙は輝夜の前で無様を晒す様な恥は掻かずに済んだ。

 乱雑に襖を開閉し部屋を退出すると、騒ぎを聞きつけたのだろう、目の前にはてゐがいた。

「……何よ」

「いんや、別に?」

 不機嫌さをぶつける様に鈴仙はてゐを睨みつける。

 幼い見た目に反して肝っ玉の大きいてゐにはさしたる効果も無かったが。

 とてもじゃないが相手をする気にはなれず、鈴仙は足を踏み鳴らしながら彼女の横をすり抜けていった。

「あ~、鈴仙?」

 去り際、背中に声を掛けられた。

 喉を震わせるのも億劫で、首だけをてゐに向ける。しかし肝心のてゐは、引き止めた癖に何だか答えあぐねているようであった。

「……何よ。早く言いなさいよ」

「ん~、あ~」

 そう、先を促すと彼女は観念した様に口を開いた。

「触らぬ神に祟り無しって言うでしょ? まぁ、それよ。そんだけ。うん」

「何を――?」

 鈴仙が聞き返すより早く、てゐはその小さな姿を消してしまった。

「……何なのよ、もう」

 一人廊下に取り残された鈴仙が呟くも、答える者は誰もいなかった。

 

 

「ん――何だろ?」

 永琳から薬の整理を頼まれていた鈴仙は、ふと違和感を覚えた。

 自分以外に誰もいない部屋、周囲を見回し変わった所が見えず再び作業に戻る。

 瓶のラベルを一つ一つ眺め、順に棚へと戻していると――まただ。

 ふわりと、肌を撫ぜる微かな風を感じる。

 この閉め切った部屋で、何故?

 鈴仙は作業の手を止め、まずその正体を探る事にした。

「これ……?」

 さして時間も掛からずに、違和の正体は発見出来た。

 フローリングの床、その隙間から微風が漏れ出しているのだ。

 床に手を這わせながら目を凝らすと、丁度四角の切れ目を見つける。

「何、これ……? 隠し扉?」

 ご丁寧にも、手を掛け易いように一部分が欠けた床は簡単に外すことが出来た。

 ――地下へと続く階段が広がっていた。

 何処へ繋がっているのだろうか? その先は暗闇がぽっかりと待ち構えており果てが見えない。

 しかし――鈴仙の瞳は特別性だ。僅かな光でも波長を増幅させ暗闇を見通す事が可能である。

 にも関わらず階段の先は変わらずに闇が見えた。それはつまり、光が全く届かない程に深いという事だ。

 ゴクリ。飲み込んだ生唾の音がやけに大きく聞こえた。

 未知なるものへの恐怖は、あるにはある。

 だが、この先に八意永琳が変質した原因がある。そんな確信めいた予感があり、鈴仙は指先に光を灯し地下へと足を踏み入れた。

 一歩、また一歩。どれくらい階段を下ってきたろう?

 一向に風景は変わらず、鈴仙の中にあった恐怖が鈍ってしまう程である。

 そしてようやく足裏は平坦な地面を捉えた。

 しかし在るのは変わらずの闇。

 今度は横へと、道が伸びている様だった。

 ――まだ続くのか……。

 鈴仙はげんなりとした気分になったが、戻るにしても来た道を考えると、矢張り気が滅入るのであった。

 となれば、進むのが上策であろう。

 壁に手を付きつつ、鈴仙は慎重に歩を進める。

 暫くすると変化が現れた。

「何、この臭い……」

 洞穴の景色は相も変わらずだが、鈴仙の鼻にべとり悪臭が纏わり付いた。

 思わず鼻を押さえ、顔を顰めてしまう。

 嗅いだことのあるようなこの臭いに、鈴仙は首を傾げる。この、花の腐った様な、甘い臭いは。

 何か、記憶に引っ掛かるものの、あと一歩という所で答えが出てこない。

 ――進めば分かる。

 歩を進める毎に臭気は一層濃くなり、鈴仙は気分が悪くなってきた。

 そして程なくして道が開け、そこにあったもの目にして、鈴仙は阿呆みたいに口を開けたまま固まってしまう。

「え――?」

 狭い洞穴を進んだ先にあった開けた空間。その中央には一つの機械が鎮座していた。

 ――機械、である。

 この場どころか幻想郷にすら似つかわしくない無機質なフォルムの、機械である。しかし鈴仙は――彼女だけはよく見知っているものだった。

「あれは――」

 その機械を構成する部品は大きく三つ。大きな台座と、その上にビーカーじみた円筒のガラス管。傍らにはそれらを制御する機械が、幾本ものコードで繋がれていた。

 月の科学の、機械だった。

 八意永琳は月の民である。月の技術を知っているのは不思議ではないが――いや、問題はそこではない。

 どうしてこんなものがここにあるか、という事だ。

 鈴仙はガラス面に触れた。滑らかな曲面から、ひたすらに冷たい感触が返ってくる。

「なんだろう……」

 彼女の瞳は、この空間に入ってからただ一つのものに吸い寄せられていた。

 ガラス管の内部は緑色の液体で満たされていた。

 その中心で何か、何だか、よく、知っている、解らない、見慣れた物体が浮かんでいた。

 なんだろう?

 ソレを見た瞬間脂汗は止まらないし歯の根は煩い程に鳴っている。

 だが、こんな、知ってい、無いものの正体を確かめる為、鈴仙はガラス面へと顔を近付けた。

 

 

 

 

 

 ギョロリと――ソイツと、目があった。

 

 

 

 

 

「ひいっ!」

 ソレには手があった。足があった。目も口も耳も、髪もあった。

 だがソレは人の形を為していなかった。

 よく解、る、ないモノ――肉塊は、顔と思しき位置からデタラメな方向に不揃いの手足が生えていてた。

 鈴仙がよく知る人物の――○○の手が。○○の足が。○○の、顔をしたソイツは奇妙な動きで液体の中を泳ぐように、鈴仙に近づいてきた。

「ひぃあぁぁぁぁ――!!」

 瞬間、鈴仙は情けない悲鳴を上げ堪らず仰け反った。

 その不用意な行為から彼女は躓いてしまう。

 身体が大きく傾く。転倒は免れぬと、誰もが思うことだろう。

 覚悟を決めて鈴仙は目を瞑った。

 ……しかし、いつまで経っても衝撃は襲ってこない。

 

 

 

 

 

「もう、危ないじゃないの。しゃんとしなさいな」

 

 

 

 

 

 ――今度こそ、鈴仙は心臓が止まるかと思った。

 鈴仙は転ばずに済んだ。何故なら、永琳が倒れかけの彼女を支えたからだ。

「し、しし師匠……!?」

「何? 幽霊でも見た顔して」

 永琳の口調は普段と何も変わらない。――変わらないのだ。

 その事実が一層鈴仙の恐怖を助長した。

「怪我はない? 立てる?」

 永琳は素早く鈴仙の具合を見ると、問題なしと見たか手を離した。

 しかし支えを失った鈴仙は、その場にへたり込んでしまった。

「ちょっと、汚れるわよ?」

 掛けられる言葉も、まるで日常の会話である。

 それが鈴仙の混乱に拍車を掛けるのだ。

 一体何時から彼女はいたのだ――!?

 混乱する頭で鈴仙は考える。意識が散漫になっていたにせよ、洞穴の中で全く足音を立てないというのは不可能だろう。

 それが意味する事は――。

(最初からここにいたの!?)

 慌てて鈴仙は部屋――と呼んでいいのかは微妙だが――を見回した。

 見れば入り口のすぐ隣、簡素な椅子と机が備え付けられていた。

 その事実を前に鈴仙は背筋が冷たくなった。

 何も知らずに入ってきた私を、師匠は見ていたのだ! そうして今の今までじぃっと、黙って見ていたのだ!

 鈴仙は師の波長を盗み見た。いつもと変わらず、穏やかな波を描いている。

 この異常にあって平常を保っている事こそが異常ではないのだろうか?

 ただ永琳が怒っている訳ではないのが解り、鈴仙は少しだけ冷静さを取り戻せた。

「あ、あの! あの、師匠!? こ、これ! これは――!?」

「ううん? 見て解らないかしら?」

 へたり込む鈴仙を余所に、今度は永琳が機械へと近づいてゆく。

 そうして制御盤に何らかの入力を行うと、液体が排出されてたちまちその(かさ)を減らしていった。

 それに合わせて中の生物(?)が苦しめに蠢き暴れる。

 その光景を目にした鈴仙は、()えたものが込み上がってくるのを感じた。

 そうして内部が完全に空になると、ガラス管は自動的に台座へ収納された。

 鈴仙は見た。外気に晒された肉塊が、ヨロヨロと這う姿を。

 それがまた気持ち悪く――まるで逃げるような動きをしていて――、鈴仙は口元を押さえた。

「はぁ、今回のも失敗ね……」

 永琳は落胆が色濃く滲んだ呟きを吐くと、躊躇なく乱暴にソレを掴む。

 短い手足を動かし、弱々しい抵抗のような動きを見せる肉塊。

 そうして永琳は鈴仙の前を横切り、机の上に乱暴に叩き付けた。

 ――嫌な、予感がした。

「師匠……? な、にをするんです……?」

「え、……あぁ。いやぁねウドンゲ。処分するに決まっているじゃない」

 鈴仙はその言葉の意味を直ぐには理解出来なかった。

「こんな、失敗したものを放置しておく訳にもいかないでしょ?」

 そう言って永琳は、机の上に刺さっていた包丁を手にし振り被る。

 あ――!? っと思う間もなく、肉塊目掛けて振り下ろされる包丁。

 ピィと、肉塊が鳴いた。

 さて。手入れの成されていない包丁は、錆だらけだ。その切れ味も推して知るべしといった所か。刃物というよりも最早鈍器となったソレは、一撃で肉塊を絶命足らしめる威力を持っていなかった。

 ○○になりそこねた肉塊を絶命させるべく包丁が振るわれる。都度、血と肉と、よく解らない液体が満遍なく飛び散った。

 不潔だと、鈴仙は思った。しかし永琳は一切気にする素振りもなく、淡々と処理をしてゆく。

 文字通りの『処理』であった。

 何度も何度も。執拗に必要以上に。包丁を振り下ろす永琳の顔には何の感情も見えない。狂喜も無ければ憎悪も悲嘆もない。

 無表情かと言えばそうでもない。例えばアナタは、常日頃に自分がどんな表情をしているのか考えるだろうか? その表情を何というのだろうか?

 強いていうなら、無関心というのかもしれない。

 口元は自然に結び、目蓋にも不自然な力も掛からない。眉は何らを形作る事もせず、表情筋はされるがままの、そんな表情であった。

 そして鈴仙は見た。見てしまった。……見なければいいものを、視線が外せないのだ。

 振り下ろされされる包丁を、じっと見詰める○○のなり損ないの瞳。――それがまるで、恐怖に歪んでいる様に見えて。

 手足としての機能を、持っていなさそうな蠢く四肢。――まるで何かを求める様に掲げられたそれが、少し、少しでも迫る凶刃から身を守るように見えて。

 そして鈴仙は聞いてしまう。これからの一生を苛む様な、悪夢の一声を。

「――え、……り…………」

 肉の潰れる音、重なる様に呻き声。

 それはきっと聞き間違いに違いない。ストレスが生んだ幻聴に違いない。

 もしくは、たまたま、偶然、奇跡的にもその様に聞こえる音が奏でられたのだろう。そうに決まっている!

 恐ろしい妄想が鈴仙の脳裏を埋め尽くす。それを否定するのは理性か、はたまた本能か。

 ――そうですよね師匠?

 そう乞い願い師の顔を見た鈴仙の淡い期待は無残にも打ち砕かれるのだった。

 師の、八意永琳という才女の、能面の様な無表情を。

 永琳が止まったのは一瞬だ。次の瞬間には、何事も無かった様に処理を再開している。

 振るわれる包丁が、先程よりも乱雑なのは気の所為だろうか……?

「っ! やめて! やめてください師匠! お願いやめて!! やめてよぉ……!!」

 刹那鈴仙は弾かれたように声を張り上げた。

 彼女の必死な訴えも永琳には届く事はない。淡々と、タンタンと、包丁はリズムを刻んでゆく。

 ……気付けば耳障りな音は消えていた。代わりに兎の泣き声が、ワンワンと部屋中に響き渡った。

「もう、ウドンゲったら。何がそんなに悲しいの?」

 掛けられた声の余りの近さに、鈴仙の肩が大きく跳ねる。

 見れば血に染まった師の顔があり、忘れかけていた恐怖心が再びざわつくのを感じた。

 ガタガタと震える弟子を、見詰める永琳の顔は優しい。その瞳に宿る理知的な光は、鈴仙の知る敬愛する師のものと代わりなく、恐怖を感じる一方で安らぎも感じていた。

「ねぇ? そんな事よりも見てよコレ。こうして見ると○○さんにそっくりじゃない?」

 そう言って永琳が何かを差し出してきた。自然と鈴仙の視線は掌へと吸い寄せられる。

 ……耳だ。耳があった。それ以外のものは何もない、ただの耳があった。

 鈴仙は声をあげなかった。現実離れした現況に、最早感情がついていかなかったのだろう。

 呆然とする鈴仙を、永琳は満足気に見下ろしている。

「ね? 知ってたかしら? ○○さんの耳たぶにはね、ホクロがあるのよ。ほら、ここ」

 知らない。知るもんか。そんな事を、私がしっているはず無いじゃないか。

 耳を指差し、永琳は嬉々として説明している。半ば自棄となった鈴仙は矢張り呆然として、「早く終わらないかな……」と、そんな事を思っていた。

 あまり反応の芳しくない鈴仙に、永琳はふむと、今度は自分の顔の前に耳を近付けた。

「本当、そっくり……。あぁ、○○さん……!」

 何するんだろ……。

 鈴仙が感情を失った瞳をぼんやりと向けていると、あろうことか永琳はその耳を口に含んだ。

 既に感情が振り切れていたと思っていた鈴仙だが、これには驚きを隠せなかった。

 そうしてもごもごと、まるで口内で愛撫するかの様に耳を嬲る永琳の表情は、正しく恍惚としていた。

「ん~? 何がいけないのかしらねぇ。何回やってもうまくいかないのよ? ヤになっちゃうわ。でも安心してね○○さん。私が、私が絶対に産み治してあげるからね! あ……、はぁ……。ねぇウドンゲ? 何かいい案はないかしらウドンゲ? ……ちょっとウドンゲ?」

 

 

 気付けば、私は自室の布団で寝かされていた。

 目に入ったよく見慣れた木目の天板は、私に大層な安堵をもたらした。

 あぁ、夢だったのね。そりゃそうよね。

 それにしても、酷い悪夢だったわ――。そんな事を考えつつ上体を起こす。

「おっ? ようやく目が覚めたんだね?」

 そうしててゐの姿が目に入った。

 彼女は丁度濡れたタオルを絞っているようで、上体を起こした私の視界を一瞬タオルが過ぎった。

 そうして私は、悟ってしまった。

「……夢じゃなかったんだ」

「あ~。ん、まぁ、そうだね」

 絶望に塗れた私の呟きを、てゐは曖昧ながら肯定した。

 そうして不明瞭だった記憶がどんどんと思い出される。その度に私の気は重くなるのだった。

「ま、元気そうで良かったよ」

 ……今の私を見てその言葉が出て来るのか。

 睨みを効かせてやるも、早々に退出しようとするてゐは既にこちらを見ていなかった。

 その小さな背中を見て、私は、或る一つの答えが閃いた。

「あんた、知ってたのね」

「……まぁね」

「なんで――!」

 教えてくれなかったの!?

 そう、叫ぼうとして愕然とする。

 嗚呼、きっと、てゐだけではないのだ。姫様も、当然知っていたのだろう。師匠の凶行を。

 私が、私だけが知らなかった。……知らされてなかったのだ。

 理解した瞬間、怒りよりもどうしようもない悲しみが私を襲い、ポロポロと涙が零れてきた。

「あ、そうそう。アンタを運んできたの、師匠だから。あとでちゃんとお礼言っときなよ」

 そりゃぁそうだろうよ。あの状況で、他の誰が私を運んだというのだ。

 ぐしぐしと目元を拭き、私が小さく頷いたのを確認するとてゐはすたこらと去っていった。

「はぁ……」

 気怠い身体を鞭打ち、汗に塗れた寝間着から何時ものブレザーに着替える。

 廊下を往く、私の足取りは顕著に私の心境を現している。そして目一杯時間を掛けて師匠の部屋の前にやってきた。

 一つ二つ、大きく深呼吸をし「いざ」と扉に出を掛けようとすると、手が触れるより一寸早く扉が開いた。

「あら、ウドンゲ?」

 丁度師匠が退出するのと重なってしまったようで。

 虚を衝かれた私は咄嗟に言葉が出なかった。

 私は必死に頭を回転させ、言葉を紡いだ。

「あ、あの! 師匠! 先日は随分とご迷惑をお掛けしまして、あの、えぇと……!」

 (しゃちほこ)張った私を見、師匠はクスリと吹き出した。

「身体はどう? 大丈夫? 急に倒れるからびっくりしちゃったわ、もう」

 心配気な師の言葉に、私は雷に打たれた様な間隔を覚える。

 まさか――。

「……師匠? あの地下で何を――」

「地下?」

 恐る恐ると尋ねると、師はたっぷり十秒程考え込んで不思議そうに答えた。

「ウドンゲったら、何言ってるのよ。地下なんて、あるはずないじゃない」

 何がツボに入ったのだろうか。師はおかしそうに笑っている。その姿に演技の色は一切見られない。

 私は愕然とする事実を前に、更に勇気を振り絞って踏み込む。

「で、でも○○を――」

「ウドンゲ」

 鈴仙は肩を竦めた。

 師の真剣な様子に、恐怖が徐々に彼女の心を蝕んでいった。

 そんな彼女の頭にポンと、優しく手が添えられる。

「○○はもういない、いないのよ……?」

 敬愛する師の手に髪を梳かれながら、鈴仙は全てを悟った。

 この人は――壊れていっているんじゃない。もう、壊れてしまったんだ、と。

「あぁ。それで、何の用だったのかしら?」

 掛けられる声は優しく、記憶の中のものと代わりない。

 その事実が重く、鈴仙に伸し掛かり、彼女はバレないように一滴の涙を零した。

 せめて、時間が。残酷なまでの時間が師を救ってくれる事を祈った。祈るしかなかった。



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ヤンデレ講座 基礎編

 幻想郷で宴が開かれる事はさして珍しくもない。

 しかし、今晩博麗神社で開かれている宴会の、その中央を陣取るのは珍しい人物であった。

「いいぞ~○○~!」

 赤ら顔した少女が徳利(とっくり)片手に囃し立てている。

 ○○と呼ばれた男は腹を出し、クネクネとタコの様に奇妙な動きをしている。腹に描かれた墨の顔が、○○の動きに合わせて面妖に表情を変えていた。

「うわはははは!」

 ある者は大口を開けて笑い、ある者は呆れていた。またある者は恥ずかしげに顔を逸らしつつも、ちらりと横目で伺っているようだった。

 兎も角、宴会で今尤も注目を浴びているのは○○で間違いないだろう。

 さて、そんなお調子者の○○だが、ある性癖の持ち主であった。

 それは最早皆が知る所であり、酒の進んだ○○は気持ちよさげに朗々語り始めた。

「ヤンデレはいいぞぉ~? ひっく」

 ――また始まった。

 誰もがそう思ったものの、止めてやるのも野暮かと語るがままにさせてやる事にした。

 

 

 

 

 いいかぁ? ヤンデレってのはなぁ、純愛、純愛なんだよぉ?

 そこんとこちゃんと分かってる~?

 ぬな? ヤンデレのどこがいいんだって? 暴力的なだけだって???

 はぁ~~~。分かってない、分かってないねチミは!

 そうだなぁ。ヤンデレの良さってのは――。

 

「おかえりなさい○○。……今日は随分と遅かったのね。どこへ行ってたの……?」

「……ふぅん、そう。予想外に仕事が大変だったのね」

「――嘘。嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘よッ!!」

「だって――ほら! ○○から女の匂いがするもの!」

「ねぇ、○○……。どうして嘘つくの? 嘘を、つかなきゃいけない理由でもあるの?」

「魔理沙のとこ? それとも咲夜!? 妖夢!? 早苗!? ねぇ!? どのオンナのとこへ行ってたのよ!?」

「へぇ、そう……! ソイツのこと、庇うんだ……」

「これはちょっと、お仕置きが必要よね、えぇ。悪いことをしたら叱ってあげないと、また同じ過ちを犯しちゃうもんね」

「安心してね○○。ちゃぁんと、私だけしか見られないようにしてア ゲ ル カ ラ」

 

 

 

 

 ――という風にだね? 彼氏に辛くアタるのも、彼を想う故の、嫉妬心が暴走しちゃう結果なのよ。

 え? まだ良さが分からないって?

 んじゃぁさ――。

 

「うぅ……。どこへ行ってたんだよぉ○○……」

「心配したんだからな? すっごく、すっごく心配したんだからな!?」

「お願いだからどこへも行かないでくれよぉ。私を、一人にしないでくれよぉ……!」

「う、○○はモテモテだから……。私を捨ててもっと魅力的な娘のとこへ行っちゃうんじゃないかって……」

「ヤダ……。ヤダよぅ……! ○○が他のオンナのところへ行っちゃうなんて!」

「なぁ!? 私頑張るから! もっと、○○好みの女になるから!」

「お願い……、お願いだから、私を捨てないでくれ……」

 

 

 ――と自分に依存してくる姿なんて、もうたまらんなくたまんないのですよ!?

 ……ハ? メンヘラ?

 はぁ~~~。これだから素人は。

 いいか? メンヘラってのは、自分を第一に考えてるようなヤツの事なの! 相手が自分を大事にしてくれるから、生まれる依存なの!

 ヤンデレは逆! 相手への想いから生まれる依存心! これ重要よテストに出るよ~。

 ……んまぁ、ヤンデレにメンヘラ要素がゼロとは言わないけどさ。

 これの何が良いのかって?

 かぁ~~~。まだ分からんのかい。

 それじゃぁ――。

 

「あら○○。こんなところで、奇遇ね」

「私? 私は食料の買い出しよ。今日はハンバーグがいいなんて、お嬢様のワガママも困ったものね」

「あ、今のは館の皆には内緒にしてね。……もうっ。そんなに笑わなくていいじゃないの」

「そうそう。○○はちゃんと食事を摂ってるかしら? 面倒だからって外食とかありあわせで済ませてないでしょうね?」

「……はぁ。やっぱりね。そうだと思ったわ。まぁ男の人の独り暮らしなんて、そんなものなのかもしれないけど

「――そうだわ! ねぇ○○? 良かったら私がご飯を作ってあげるわ。定期的に」

「何遠慮してるのよ。知ってるでしょ? 私には、時間なんてあってないようなものだって」

「もう、最初から素直に言えばいいのに。……そうね。折角ですし、今日はアナタの好きなものを作ってあげるわ」

「何がいいのかしら? 肉じゃが? オムレツ? それとも、アナタもハンバーグかしら?」

「えぇ、大丈夫よ。ちゃんと、アナタの好みは把握しておくから、ね?」

 

 

 

 

 ――と、ジワジワと日常を侵食していくような恐怖心!

 くぅ~~~! これもたまらんね!

 え? 何? 怖いのがいいとかマゾなのかって?

 いやいやいや! マゾじゃないよ!? マゾ違うよ!?

 だけど、ん~、なんっつーのかなー。これも結局は好意からの行動でしょ?

 それがね、こう、たまらんのですよハイ。

 ……ハイそこ! うわ気持ち悪い引くわ~って顔しないの!

 くっそ~。こうなったら嫌でもヤンデレの良さを叩き込んでやる!

 

「あ、○○さん。こんにちは」

「今日はどうしたんです? お買い物ですか? ……へぇ、あそこの団子屋さんが、ですか」

「そうなんですね。団子は美味しいし、……売り子さんも可愛い、と。へぇ」

「……あぁ、すいません。ボーっとしてしまいまして。えぇ、大丈夫ですよ」

「お団子、幽々子様が喜びそうですね。それじゃぁ○○さん、失礼します」

「……御免下さい。こちらに■■という方が――あぁ、貴女でしたか」

「えぇ、突然の事ですいませんが、○○さんへ色目を使うのはよしてくれませんか?」

「貴女の如きオンナの視線で○○さんが穢されるかと思うと、その、……正直不快ですので」

「ハ――? そんなことはしていない? 言い掛かりはよせ?」

「成る程……。それはつまり、貴女は○○さんが嘘を仰っていると」

「はぁ……。穏便に済ませたかったんだけどなぁ」

「――身の程を分かりましたか? えぇ、これに懲りたら、金輪際○○さんへは近づかないで下さいね。今度は、髪だけではすみませんよ?」

 

 

 

 

 ――と! 独占欲がいくとこいっちゃって! 一線も超えちゃったり超えなかったり?

 いいよね……。

 はい。そんな残念そうなモノを見る目を向けるんじゃありません!

 これでも駄目かー。

 んー、それじゃぁ――。

 

「こんにちは○○さんっ。今日は団子屋へ行かないんですか?」

「へ? 何で知ってるかって? あはは、嫌ですねぇ。以前○○さんが、美味しいって言ってたからじゃないですか」

「そうだっけ、って……。そうですよ、そう! も~、○○さんったら、忘れっぽいですから」

「そんなことより、○○さんっ。あそこの洋食屋でカレーを始めたんですって。行ってみませんかっ」

「え、だって○○さん、カレーが大好きじゃないですか」

「肉じゃがよりオムレツよりハンバーグより、好きですよね。カレー」

「あっ! それともアレですか! 遠回しに私に作って欲しいって事ですね! いやん、もう! ○○さんったら」

「えぇ! 大丈夫です! 任せて下さい、私も元は外の人間ですからね! カレーなんてお茶の子さいさいですよ!」

「うふ。楽しみにしてて下さいね。ちゃぁんと○○さんが大好きな、甘口の、肉の大きなポークカレーを作りますから」

「うふふ……! 安心して下さい。○○さんのことなら全部、ぜぇんぶ知ってますから、……ね」

 

 

 

 

 ――と! 本人の知らぬ所のストーカーも! 好意からだと思えば愛おしさも生まれるやん!?

 で、だ。

 どうよ。ヤンデレの良さが分かっただろ!?

 え? やけに具体的な話だったって?

 アハハー、やだなー。そんなわけないじゃん?

 あーあ。俺もこんくらい激しく愛されてみたいねぇ。

 ……あれ? 黙りこくっちゃってどうしたの?

 何か、目ぇ怖いよ? ねぇ?



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路傍の意思

 誰に見咎められる事なく、今日もまた、古明地こいしは地霊殿を抜け出した。

 薄暗い地底を進み、気味悪い森を抜け、活気溢れる天下の往来を我が物顔で歩く。

「あら――?」

 そして気付けば、見知らぬ小屋の中にいた。

 どこかしら、と呟こうとして思い出す。そうだ、ここは○○の家だ。

 こいしは意識を取り戻すとキョロキョロと部屋の中を見回った。大して広くもない部屋である。彼女の目当てはすぐに見つかった。

 瞬間、いつもフワフワと、何を考えているか良く解らない笑顔を浮かべているこいしの頬に紅が差した。

「こんにちは○○。今日も元気そうね~」

 近寄り挨拶を交わそうとするも○○からの返事は無い。

 彼は無視をする様な底意地の悪い人間なのだろうか? いいや、まさか! とこいしは否定するだろう。

 人間から忌み嫌われている妖怪が、怪我をしているのを見てみぬ振りを出来ぬ程度にはお人好しであった。

「えへへ」

 ○○との出会いを思い出し、こいしの頬がだらしなく緩んだ。

 こいしの漏らした呟きにも、矢張り反応を見せない○○。彼の視線はひたすらに手元の本へ向けられていた。

 そんな現状にちょっと不満を覚えるものの、こいしは大人しく彼の隣に腰を降ろした。

 ○○の事なら何でも知りたいと思うこいしは、横から覗き見てるものの、彼女の視線は紙面を滑るばかりで、内容が頭に入ってくる事はなかった。

 無意識に依って生きる彼女である。その集中力は散漫で、元来興味の無いものを覚えようとするのには向いていなかった。

「む~。むつかしい本を読んでるんだねぇ○○は」

 本の内容など全然理解していない癖に、それっぽい事を口にするこいし。

 そして視線は自然と、○○の横顔に吸い込まれていった。

 常のこいしであれば「飽きた」と言って、一処(ひとところ)に留まりはしないだろう。

 だが彼女自身不思議なことに、飽くどころかずっと見ていたい気持ちに駆られるのだ。

 二人を静寂が包み、時折○○が捲る本の擦れる音が心地よくこいしの耳朶を震わせた。

(ずっとこうしてられたらいいのにな~)

 しかしその願いは叶わなかった。

 夜には家に帰らねば、姉を心配させてしまうから。

 確かに、○○を眺めているのは好きだが、それと同じくらいに姉も大事だった。

「あら、お出掛けかしら? 私も行く~」

 (おもむ)ろに○○は本を閉じて立ち上がった。

 そうして土間で草履に履き替え外へ出てしまった。

 空はすっかり茜色に染まっており、もう幾許か過ぎれば妖怪の時間が訪れることだろう。

 こんな時間に外出するなんて、一体何の用なのだろう?

 興味と好奇心と、心配に駆られこいしは○○の後を()いていく。

 勿論、無意識の行動であり、ピタリと背中に()こうが○○が気付く事はない。

「どこへ行くの~? そっちは危ないよ~?」

 てっきり街中へ向かうのかと思っていたのだが、○○はどんどんと人気のない場所へと進んでゆく。

 その足取りには一切の迷いがなく、何故だろうか? こいしは妙に胸騒ぎを覚えた。

 遂には里を出てしまった。見咎められる、事はない。

 何故なら彼は、注意深く辺りを見、人目を避ける様に柵を乗り越えていったのだから。

 最早空は、色濃く群青色に染まっている。

 されども雲一つない夜空、まんまるなお月さま。明かりに困る事はなかった。

 彼の足は魔法の森と人里の丁度半ばほどにある、大きな一本杉の元で止まった。

 何故、とのこいしの疑問はすぐに氷解する。

「○○!」

 ○○が足を止めてから瞬きの事。杉の影から一人の女性が姿を見せた。

 その顔は喜色に満ちており、こいしの胸をざらりとした感情が抜けた。

「あぁ、__! 誰にも見つからなかったかい!?」

 ○○は物静かな男だと、こいしは思っていた。だから、そんな大声を聞いたのは初めてであった。

 ――満面の笑みもまた、初めて見た。

「えぇ、大丈夫よ。お父様もお母様にも見つかっていないわ」

 その丁寧な言葉遣い。綺羅びやかな着物。気品を感ぜさせる所作。

 女はきっと、それなりの地位の娘なのだろう。

 という事は○○と、この__とかいう女は――。

 こいしはそこまで考えて思考を打ち切った。

 ううん。そんな事ないわ。だって○○は私の、私の――あれ? あれれ? ○○は私の、何? 私は○○のなんだろう?

 改めて意識する。自分と○○の関係を。

 意識して始めて理解する。○○と自分の関係を。

 思考の迷路に囚われたこいしを余所に○○と__はとんとんと盛り上がってゆく。

 家柄や身分は二人にとって障害でしかなかった。そして乗り越えた今ソレは二人を燃え上がらせる薪でしかなかった。

(あ。なんかヤだな)

 一月ぶりの逢瀬。二人の高揚は頂点へと達し、その距離がゼロへと近づいてゆく。

 ――唇が触れようという瞬間、鮮血が舞った。

 びちゃりと、○○は顔に生暖かな感触を感じたが、その正体が何なのかは分からなかった。

 ただ愛しい女性の頭があるべき場所から、満点の夜空と満月が見えた。

「んん~? なんだろ? ねぇ○○。○○ならこの気持ちの正体は分かるのかな?

 女の首から赤い噴水がぴゅうと、間の抜けた音と共に吹き出した瞬間、○○は吠えた。獣の如く、女の亡骸を掻き抱いて慟哭した。

 何故だとかどうしてだとかは二の次である。

 目の前で愛する女が死んだ。その事実を認識して、血に塗れる事も厭わずに○○は意味不明な羅列を口にしている。

「むぅ。ねぇ○○。無視しないでよ教えてよ。知ってるんでしょこのキモチ。ねぇ、ねぇってば!」

 既に無意識の能力は解除してある。○○の視界にはこいしが認識されている筈だった。

 だのに○○の意識は、突然現れた少女に気にする素振りすら見せず、もう動くことのない遺体に一心に向けられていた。

 それがまた気に入らない。

 どうにか離そうとこいしは○○の身体を揺すぶった。「ねぇ、ねぇ」と。稚児(ややこ)の様に。

 

 

 ――うるさい! と初めて言葉を交わした。最期の言葉を交わした。

 

 

 

 

「ア――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あれ? お姉ちゃん?」

「もう……。心配したのよ、こいし?」

 気付けば目の前に姉がいた。

 どうやら私は地霊殿に帰ってきたようだ――帰ってきた? あれ? どこか出掛けてたんだっけ?

「……お風呂に入ったらどうかしら? そんなんじゃ、気持ち悪いでしょう?」

 指摘されて気付く。自分の状態に。

 全身血塗れであった。濡れていないところを探す方が難しかろう。

 血をたっぷり吸い込んだ衣服は重く、肌にペタリと張り付いている。だけど――。

「ううん~、あんまり不快じゃないかも? でもお姉ちゃんがそう言うならそうするねっ」

 そう言ってぴょこぴょこと浴室に向かう妹の姿に、人知れずさとりは息を吐いた。

 ほぅと、安堵の息だった。

「ねぇお姉ちゃん?」

「な、何かしら」

 僅かに声が裏返る。真逆話返されるとは思ってもみなくて、さとりは瞬時に己が心を取り繕った。

 非常に不自然な態度であったが、こいしにとっては、彼女にとっては気に掛ける事ではなかった。

「私、何してたか分かる?」

「――いいえ、貴女のしていた事は知らないわ。だから心配なのよ」

 そっかー、とこいしは納得した。

 さとりがほっと胸を撫で下ろすと、まるで狙ったかのタイミングで再びこいしが声を上げた。

「でもね、何だろ? ここ、この辺りがね、痛いの。ぽっかりと穴が空いちゃったみたいにスースーするの」

 そう言ってこいしは己が胸を指した。

 可愛らしく小首を傾げる仕草は、見た目相応の少女にしか見えない。

「そう、それは大変ね。きっと病気だわ。今度お医者様に見てもらいましょう」

「うん! 治るといいな~」

 その言葉を最後に、こいしは無邪気に浴室へ向かっていった。

 独り残されたさとりは顔を覆っていた。

 そんなさとりを気遣うように、一匹の黒猫がにゃぁんと近寄ってきた。

 まるで気遣うようなそれの真意を、さとりだけは理解した。

(――いつまでこんな事続けるつもりですか、さとり様)

 さとりの第三の目(サードアイ)がギョロリと黒猫を映す。

 黒猫の思考がさとりの脳に流れ込む。気遣うとは真逆の、責めるような口調であった。

「……どうしろって言うの? 半狂乱になった妹を、そのまま放置しておけというのかしら?」

 そう、さとりは顔を覆ったまま零した。悲壮に塗れた声音に黒猫の、二股の尾がシュンと下がる。

(だからって、こんな事繰り返してちゃぁこいし様のためにならないですよ。また今日みたいな日が来るだけですよ)

「そんなの……、分かってるわよっ……!」

 ペットの言う事は一々尤もであった。だが、妙案を出すではなく正論を吐くだけのペットを、さとりは恨めしげに睨んだ。

 黒猫はみゃぁんと申し訳無さそうに一鳴きして身を翻した。

「分かってる……、分かってるのよ! こんなの、何の解決にもならないって、分かってるのよ! だからっ、……分からないんじゃない」

 独り、さとりは嗚咽を漏らした。彼女の恨み節に応える者はおらず、少女のすすり泣く声が地霊殿に響いた。

 こいしはと言えば、その身に塗れた血を洗い流している。

 綺麗にキレイに。現れたる白い肌には、最早一滴の痕も残っていなかった。



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サボテン

たまにはまったり


 友人なんていらない。

 恋人なんていらない。

 私は一人でいい。一人がいい。

 ――なんていうのは、酸っぱい葡萄。ただの強がりだなんて、自分自身気付いていた。

 だからこそ一層認めることが出来ず、より強く他者を遠ざけ、拒絶し、それで得たのは平穏な孤独。

 虚飾と虚勢で象られた鎧は一層堅牢さになり、その内側の渇きを誤魔化す為、更に強固さを増す。

 吐き続けた嘘は何時しか自分すら本物と思い込む様になった。

 だが虚飾の鎧の内側は、既に限界に達していた。

 ああ――楽しみを語らう友だちが欲しい! 同じ時を過ごす恋人が欲しい!

 誰でもいい! ぬくもりを頂戴! 優しさを頂戴!

 誰か、誰か! 私の嘆きに気付いて――!

 声ならぬ悲鳴は鎧の中で木霊し、私の飢えは日に日に膨れ上がる。

 しかし声ならぬ声に、一体誰が気付くというのか?

 何時しか、私の周囲に残されたのは物言わぬ無数の太陽だけだった。

 その眩いばかりの黄色は、今の私には色褪せた砂漠と何ら変わらないのだった。

 

 

 それは一つの奇跡に違いない。

 空から男の人が降ってくるなんて出来事は――。

 

 

 どこの御伽噺だと、私はまず自分の脳を疑った。

 何度も目を擦り、やがて現実だと気付いた瞬間には日傘を放り投げ、一目散に彼の落下場所へと向かった。

 彼の身体は、未だ宙に放り投げられている。頭からひゅるりと落ち、ぴくりとも動かない様子からおそらく意識を失っているのだろうと判断した。

 私は翔んだ。魔力を全開に(ふか)し、限界の速度で翔んだ。

 しかし――彼の姿は遠く私の全速を以てしても間に合いそうには無い。。

 そも見つけた事が奇跡なのだ。

 ふと何気なく見上げた空、その方向に、豆粒程の人影を発見した事自体が奇跡なのだ。

 私が気付かなければ、彼は呆気なく地上に落ち真っ赤な大輪の花を咲かせた事だろう。

 これ以上の奇跡を望むなら、神にでも祈らなければならぬのだろうか……?

 ――否。否、否! 断じて否である!

 私が神に膝折ることなどないし、私の誇りも、折らせやしない!

 突然だが、風見幽香という妖怪は、如何なる要素でこれ程までに恐れられているのだろうか。

 奇っ怪な術を使うでもない、醜悪な姿形をしている訳ではない。

 では彼女は、単純な暴力を以って恐れられているのだ。

 つまり、見目麗しい見た目に反して風見幽香という女は、脳筋の権化にも等しい存在であったのだ。

「こンのぉ――!!」

 重力加速度に引かれ徐々に速度を増す男に対し、幽香の速度は早くも頭打ちを迎えた。

 しかし、気合一閃。幽香がらしからぬ様子で吠えた瞬間、彼女は限界をも容易く超えた。

 その代償は、目に見えて現れた。白磁の如き肌には幾つもの裂傷が奔り、体の内側からは骨の軋む音と肉の断裂する音が絶え間なく響く。それでも、幽香は速度を緩めたりはしない。どころかもっと早くと更に魔力を練るのだった。

 今の幽香は正に弾丸そのものであった。

 その甲斐もあってか、彼女は間に合った。

 男の頭が地面に触れるか否かという刹那、幽香は男を浚う事に成功した。

 そして、幽香はすっかり失念していた。

 人間の身体というものは、言わずもがな妖怪ほどの膂力もなければ、……頑強さもない。

 彼を救うべく上げた速度は、同時に彼にとっては凶器に他ならない。

 

 

 

 ぐしゃり。

 

 

 

 

 

「はぁ~? 彼氏が出来たぁ~???」

「ちょっと。そこまで驚くような――ことよね、ハァ……」

 八雲紫(わたし)は突如幽香に呼び出された。

 場所は風見邸のテラス。肌を焼く程の日差しが照っているものの、よく風が通るおかげでほんのりと、肌に汗が浮かぶ程度で済んでいた。

 呼び出した側の幽香は中々口を開こうとせず、一体何事かと身構えていたのだが非常に、……非常に肩透かしを食らった気分だ。

「ふ、ふぅん? そ、それでどうしたって私を呼んだのよ」

 落ち着きを取り戻そうと、彼女の淹れたハーブティーに口を付ける。

 ……カップとソーサーがカチカチとぶつかって、むしろ動揺が悟られて逆効果だったかもしれない。

 対して幽香はというと、私の反応に一瞬激したかに見えたのだが、己の行いを思い出したか、腰を下ろし直した。

 ……意外だ。

 風見幽香という女は、口と手が同時に出る、いやさ口で語らう前にまず手を出すような女だった筈だ。

 その性分が随分と薄まっているという事は、やれ彼女の言う事は事実なのだろう。

「それで、何? 自慢? 自慢かしら?」

「ち、違うわよ! ちょっとアンタに聞きたいことがあったのよ……!」

 悔しさから、つい喧嘩腰になってしまう。

 私の知ってる幽香であれば喜んで買っていたろうに。本当に、彼女は変わってしまったらしい。愛って凄い。

 にしても。

「聞きたいこと? ……何かしら?」

 冷静さを取り戻した八雲紫(わたし)は、威厳たっぷりに問う。

 ちょっとばかし演技染みているのは、内心に未だ動揺が燻っているからだろう。

 何を、と聞いたが紫は全く察しがついていない訳ではない。

 幽香はまず、彼氏の話を切り出してきた。それが自慢でないというなら、カレシとやらに関係しているのだろう。

 しかし生憎幽香の彼氏なんて面識どころか寝耳に水である。いや、それこそが勘違いであり、私の知っている人物なのかもしれない……?

 そんな事を考えていると、幽香も真剣な顔つきで向き合ってきた。そこに、先程の幸福を滲ませた様子は見えない。

「彼、ね。あ、勿論私の恋人の事なんだけどね」

 イラッ。そんな事一々補足せんでも分かってるわい!

 矢張り自慢なのではないか? 紫は叫びたい気持ちをぐっと堪え、続きを待った。

「彼、ね。――空から振ってきたのよ」

 一拍置いて幽香は、そんな事をのたまってきた。

 全く、説明にしては言葉足らずも良い所だろう。だが、紫はそれだけで呼ばれた理由を察した。

 紫は短く呟いた。「成る程ね」と。

 暫し、重苦しい沈黙が場を支配した。

 そうして紫はゆるりと、極めて軽く口を開いた。

「……私は知らないわね。おそらく、結界が緩んでいたんでしょう。だから――」

 紫は呼ばれた理由。そして求められている答えを口にする。

「だから――その殺気を引っ込めて頂戴」

 との言葉で解答を閉めた。

 幽香の纏った殺気。魔力を伴ったソレは大気を歪める程に濃く、彼女の背後の景色が僅かながら(たわ)んでいる程だ。

 そのせいで、いやおかげと呼ぶべきか。真夏真っ盛りであるにも関わらず、不快な虫の姿を一匹も見ないのは。

「嘘、吐いてないでしょうね」

 尚も彼女は殺気を載せて鋭い視線を飛ばしてきた。

 並の妖怪であれば、自ら生命活動を停止する事だろう。

「考えてもみて頂戴な。嘘を吐いたところで、一体何の得があるのかしら」

 しかし、私には脅しにもなりはしない。悠然とハーブティーを傾けながら、興奮した闘牛をあやす様に、優しさすら感じる口調で返す。

「……自分の怠慢を隠したいとか」

「ちょっとぉ!?」

 そう、応えた幽香から殺気は霧散していた。

 というか、あんまりな答えではないか。そんなに私は、式に任せっぱなしに見られているのだろうか。

 私は妖怪の賢者としての尊厳を取り戻すべく幽香に言い放った。

「私は関与していませんっ。えぇ、妖怪の賢者の名にかけて誓いますわ!」

「ふぅん……」

 しかし幽香の反応はイマイチであった。

 それがまるで自分の浅慮さを責めているようで、紫は顔も真っ赤に恥じ入った。

「ま、いいわ。信じてあげる。聞きたかったのはそれだけよ。じゃぁね」

 お茶を飲んだら帰って頂戴。

 そう言い残し、幽香は自宅に入ろうとしてしまう。

 その背に、紫は聞いた。聞いてしまった。

「ねぇ? その彼って、今中にいるの?」

 それは特に意味を持った言葉では無かった。強いて言えば、好奇心からだろう。

 幽香はゆっくりと、ゆっくりと。ゆぅっくりと振り向いた。

 

 

 

 

「そんな事聞いて――どうするの?」

 

 

 

 

 紫は地雷を踏んだのだと悟った。いや、万人が万人、踏んだのだと解るだろう。

 あぁしかし――と紫はホッと息を吐いた。いや、実際にした訳ではないが、内心はという意味である。

 地雷を踏んで何を安堵しているのかと言うと、これが踏んで即ボカンのタイプではなく、足を離したら爆発するタイプの地雷だからだ。

 これが虎の尾であればまだしも、紫はまだ爆破を逃れる道が残されているかもしれないのだ。

 どうするべきか考える一方で、この様に下らない思考に割く余裕があるぐらいには彼女の頭脳は優秀なのだ。

 答えを導き出すまでには逡巡も掛からなかった。

「いやね? 私の親友に相応しい男かチェックしようと思ってね?」

 シュッシュッと、空中に向かって拳を放つ紫。

 幽香は苛立ちをそのまま紫にぶつけた。

「余計なお世話よ……! だいたい、私とアンタは親友って仲でもないでしょ……!」

「やーん。ゆかりんショック~」

 紫の言葉も途中に、幽香は扉を荒々しく閉め邸宅の中へと消えてしまった。

 その姿を最後まで確認し、紫は大きく息を吐いた。

 結局、彼女を怒らせてしまったではないか。彼女の頭脳もその程度だったのか?

 いいや、これで良いのだ。万一「彼氏が見たい」などと興味のある素振りを見せたら私の首は胴体とサヨナラしていた事だろう。逆に事なきを得ようと「何でも無い」など話を切り替えたら、疑念から殺されていたろう。

 故に、不興を買ってでも、これで良かったのだ。これで済ませたと言う方が正確か。

 気付けば額に汗が浮かんでいる。掌も同様だ。勿論、暑さ故ではない。

「……早く帰ってお風呂にでも入りましょ」

 そう言って紫はスキマを開いた。

「……幽香。末永くお幸せにね。これは嘘偽りのない、本心ですわ」

 きっと、意味のない祝辞だろう。幽香の耳には届かないのだから。

 その言葉だけを残し、テラスは無人の静けさを取り戻した。

 

 

「○○っ!」

 部屋に入るなり、幽香は叫んだ。

 熱に浮かされた様なその言葉その姿。彼女を知る者が見たら大いに驚く事だろう。

「寂しく無かった? お腹は空いてない?」

「あぁ、幽香……」

 少女の呼び声に応え、男がのそりとベットから上体を起こした。

 その動きは緩慢で、さながら病人のようであった。

 しかし○○の肌ツヤは良く、病人のソレとは明らかに異なる。

「ねぇ? 何かして欲しいことはないかしら?」

 幽香は○○の元へ駆け寄り、何が楽しいのか、ニコニコと男の顔を見詰めていた。

「そう、だな。少し日が浴びたいかな」

「わかったわっ。――これでどうかしら?」

 幽香がレースのカーテンを開けると、部屋を照らす光が淡いものから白色が強いものとなる。

 ありがとう――そう○○が言うと、幽香は照れた様にはにかむのだった。

「幽香」

「何かしら?」

 再び幽香は男の傍らに戻る。ベッドの縁に肘を付き、ニコニコと男の顔を眺めていた。

「布団を、避けてくれないか?」

「任せてちょうだい!」

 幽香は嫌な顔一つせず、○○の頼みを聞いた。

 はて? 布団を退けるなど、そのような簡単な事を他人に頼るというのは、矢張り○○は見た目では分からぬ重病人なのであろうか?

 その疑念はすぐに氷解する。

 幽香がシーツを退けると、当然○○の下半身が露わになる。

 しかし、シーツの下から現れたのは樹木であった。ベッドを幾つもの根が突き破った、巨大な樹木だ。

 しかもその伸びた先には、○○が生えているではないか。

 ――いや、逆なのだ。○○の下腹部から、巨大な樹木が、根が生えているのだ。

「あぁ……。温かいな……」

 日差しを全身に――下半身の樹木に――浴びて心地よさ気に微睡む姿はまるで植物だ。

 何故○○がこの様な姿に至ったのか。

 幽香は空から落ちてくる男、○○を救った。

 彼女は目標を達したのだ。男が地面で、潰れたトマトになる前に到達するというミッションを達成したのだ。

 しかし、皮肉なことに彼を救うべく速度を上げた幽香自身が彼に牙を剥く凶刃となって、○○の肉体を散り散りの粉々にしてしまったのだった。

 これには幽香も慌てた。何せ彼女は、一切の邪気を持たずに男を救おうとしたのだから。その自分が彼を殺してしまっては、笑い話にもなるまい。

 だが、悲しい哉、幽香は医者ではない。いや、医者であっても四分五裂となった○○を救う事は出来ないだろう。

 それでも、幽香は○○を救った。救うことが出来た。

 幸いにも、彼女は男の命を救う手段を持っていた。

 花を操る程度の能力。四季のフラワーマスター。

 彼女の手には、人間を宿主とする寄生植物の種があった。

 宿主の意思を奪い生命を糧にし、延々と花を咲かせる植物だ。

 そんなものが一体何の役に立つ?

 幽香はソレを○○の身体へと植めた。

 この植物にはある特徴がある。長い栄華を誇る為、宿主の命を奪い尽くす様な真似はしない点だ。

 生かさず殺さずの悪辣な(たち)の悪い植物だ。

 言い換えれば、宿主が生命の危機に陥ることを良しとしない植物でもあった。

 ○○に植め込まれた種は、幽香の目論見通り直ぐ様に芽吹いた。

 まるで早送りしているかの勢いで幹を伸ばし根を張り、その身体を安定させた。

 根から吸い上げられた養分が○○へと送られ、血の気の失せた男の顔がみるみる血色を取り戻してゆく。

 そうして宿主の生命が安定したのを察したか、一本の幹が、ズルリと男の身体を這い上がっていった。まるで意思を持ったその動きは、さながら触手の様であった。

 事実としてその触手は、男の胸を、首を這い擦り上がり、その先端を耳穴へと狙いを定め侵入を試みようとする。

 意思を奪い、生かさず殺さずの寄生植物。

「――ダメよ」

 その先端が男の耳に届くことはなかった。

 幽香の腕ががしりと触腕を掴んでいた。

 彼の意思を奪う? そんなことを許す風見幽香では無かった。

「ゴメンナサイね。アナタがそういう子だって知ってるのに。でもダメなの。この人の心を奪おうとするのは許さないわ」

 ざわりと、幽香の全身が総毛立つ。己の発する殺気で。

 寄生植物は察する。自分と、目の前にいる個体との生物としての圧倒的な格の違いを。

「……そう。いい子ね。アナタのお仕事はこの人を助けること。殺さないこと。そして――」

 故に寄生植物は理解する。己の果たすべき役割を。

「――決して逃がさないよ。わかった?」

 触手の先端部がだらりと力なく垂れ下がった。

 まるで首肯するかの様なその動きに、幽香は満足げな笑みを浮かべた。

 こうして○○は風見幽香に救われた。風見幽香に囚われた。

 ……目を覚ました○○は半狂乱に陥った。

 当然だろう。自分の足が、下半身が植物になっているなんて、到底受け入れられる事実ではない。

 ○○は幽香に当たった。自分を助ける為にはこうするしかなかった、という美女に素気無く対応した。

 けれども女はめげず、ひたすら○○を介抱した。その献身的な姿は、徐々に頑なだった男の心を氷解させたのだ。

 話し相手も彼女一人という状況が続けば、それも已む無しかもしれない。例え、彼女が原因の一旦を担っていたとしても。

「ふぁ……。なんだか眠くなってきちゃったよ」

 話は現在に戻り、○○は大きな欠伸をした。

「ふふっ、○○ったら。いいのよ、寝ても」

 そんな子供っぽい彼の反応を見れて、幽香は嬉しくてニコニコと笑うのだ。

「それじゃ、お言葉に甘えようかな」

「……えぇ、おやすみなさい」

 ゆっくりと○○の目蓋が落ちる。

 しばらくして胸が浅く上下し始めたのを確認してから、幽香はそっと○○に口を付けた。

 昼寝をするには、少し日差しが強いか。

 幽香は再びカーテンを閉め、そっと○○へシーツを掛けた。

「んん……、幽香……?」

「あ、ごめんなさい。起こしちゃったかしら」

 まだ眠りが浅かったのだろう。静かに動いていたつもりだったが、自らの失態に幽香は己自身へと罵声を浴びせたかった。無論、○○の気分を害する、そのような真似はしない。

「まだ寝てていいのよ?」

 愛しい人を再び夢の中へ誘おうと、幽香は優しく声を掛ける。

 すると○○は寝ぼけ眼ながら口を開いた。

「幽香、どこへも行かないでくれよ……?」

 そう、幽香は己の驚愕を悟られ無いよう、深呼吸をした。

 そうして努めて平静さを装い、幽香は笑う。

「バカね。どこかへ行く訳ないじゃない。……私はずっと、ずぅっと、アナタの側にいるわ」

 幽香は笑う。風見幽香は笑う。

 罅割れた三日月を顔面に貼り付けて。

 



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按摩屋3

ちょっと濁してあるけど、性的な描写があるので良い子は見ちゃダメよ!


 どうも。按摩屋だ。

 早速だが今日は朝から胃が重い。

 昨晩呑み過ぎただとか、体調不良だとかではない。そもそも自分は下戸だ。

 理由は明白。今日来る予定な客が、苦手な相手だからだ。

 勿論、曲りなりにも金を頂戴しているのだから提供するサービスに差をつけたりはしない。しかし人間、苦手なものは苦手なのだ。

 ややもすると気が重くなり、溜息を吐いてしまう。

 動きもどこか精細を欠き、緩慢な動作でシーツを取り替える。

「つれないなぁ。私はこんなにも心待ちにしていたというのに」

 全く予想外に声を掛けられ、○○は全力で声のした方を向いた。

「少し早かったかな?」

 その声の主は誰あろうか、今日の予約客である豊聡耳神子その人だった。

「……いつの間に入ってきたんだ? 全く気づかなかったぞ」

「あぁ。私の知人にね、そういうのが得意な人物がいてね」

 彼女の声音は常に余裕があり、ともすればこちらを見下している様にも聞こえる。

 無論神子にその様な気は一切無い。が、生来の気質故か、無自覚の傲慢が含まれていた。

 多分に非難を交えた皮肉も神子は気にした風もなく、全く悪びれる様子も見せずにあっさりと答えをバラすのだった。

 この短い遣り取りで、俺が彼女を苦手にしているのが分かっただろう?

 いや、決して嫌いではないのだ。神子の、凛と透き通った声はむしろ心地よいし、常々堂々たる態度は尊敬すら覚える。

「それにしても、待ち侘びたよ。愛しい人との逢瀬は、矢張り楽しみで仕方ないな」

 神子は朗々と、舞台女優の様に大仰に心情を語りながらその距離を詰めてきた。

 こういう時、目が見えないとは困る。音の反響から大まかな配置は分かるとはいえ、咄嗟の反応に遅れるのだ。

 神子は距離を詰め、詰め――互いの吐息が掛かる程に顔を近づけてきた。

 彼女の吐く息は俺の唇を濡らし、肌には微かながら暖かさを覚える程に、距離を詰めてきた。

 俺はというと下手に動くことも出来ず、その吐息を感じてやっと背を逸らしたくらいだった。

「――あの話は考えてくれたかな」

 神子が甘く、囁きかける。

 彼女のいう指示語が何を指しているのか、○○は直ぐに察しがついた。

「……毎度毎度、からかうのはよしてくれよ」

「うぅん。決して冗談なんかじゃないんだけどなぁ」

 あの話、というのは自分の専属にならないかという話だ。

 もし自分のものになってくれたら、と彼女はとんでもない金額を掲示してきた。それこそ、一生涯を豪遊して過ごせる額である。その為に○○が本気と取らぬのも無理からぬ事だろう。

「ふむ。嫌がる相手を力づく、とは私の性分ではないからな。仕方ない。今日はマッサージだけでも良しとしよう」

 というか、それこそがこの店本来の目的だろう。

 ○○は呆れつつ、シーツを取り替えたばかりの布団へ神子を誘導しようとする。

 しかし彼が声を発するよりも早く神子は椅子へと座ってしまった。

「おい――」

「いや、何。今日は肩を揉んで貰おうと思ってね。立場上、人前では肩肘張った態度を取らなければいけないからね」

「そういう事なら……」

 神子の行動におかしい所はない。

 しかし主導権を握っているのが店の主人たる自分ではなく彼女であること。それにちょっとした忌避感を覚えながら、俺は神子の言う通りにした。

「んっ……!」

「確かに、凝ってるな」

 肩に這わせた指先が、凝り固まった肉の感触を捉える。

 それを揉み解す様に動かすと、気持ちが良いのだろう、神子が合わせて声を上げた。

 豊聡耳神子は楽器となった。俺の指先に合わせ声を奏でる楽器へと。

 ……その声が妙に甘ったるくて男の情欲を擽るので、気を紛らわす様に声を掛けた。

「それにしても、意外だな。お前さんでも人前では取り繕ってるんだな」

「んうっ……! ふふっ、珍しいじゃないか。君から話し掛けてくるなんて」

 ほっとけ。

「意外でもないだろう? 私だって普通の女だよ。そりゃぁ能力としては優れているかもしれないが、緊張だってするさ」

「普通ねぇ……」

 彼女の言葉に耳を傾けつつも、指先は緩めない。

「お前さんはいつも自然体だと思ってたよ」

「……心外だね。しかし、君がそう思うという事は、私は君の前だけではそういられるという訳さ。――あっ……! そこ、そこをもっと強くっ……!」

 会話を交えながらも、結局は神子のペースだと。○○は思った。

 彼女の要望に応えるべく「あいよ」と短く答え、手の力を強めた。

「あっ……、あぁっ! 気持ちいぃ……」

 強く揉む度、神子は声を上げる。艷やかで甘い、脳を痺れさせる様な。

 ――もっと聞きたい。

 いつしか○○はそんな考えに囚われ、一心不乱に彼女の肩を揉んだ。

 ○○には見えぬ。神子の口角が釣り上がり、弧を描いた事を、○○は知らぬ。

「ん、くぅ……。もっと、もっと前の方を揉んでもらえないかい?」

 さしたる疑念も持たず、言われた通りにする。

 神子の甘い声が響いた。甘い、甘い声が響いた。

「もう……、もう少し、もう少し前の方もいいかな」

 言われた通りに指を滑らせる。つるりとした鎖骨の窪みに、指の腹が掛かった。

 神子の吐息は、荒い。ハァハァと、何かを期待しているかの様に熱を帯びている。

 指先に力を込めようとしたっ瞬間だった。

「もう少し前だ……」

 神子はそんな事を口走った。

「いや、これ以上は――」

「前だ」

 拒絶の意を示すと、彼女は有無を言わさず強い口調で言葉を遮った。

 そして俺の手を取り、するりと襟口から服の中へ導いた。

 おかしい。何がおかしいのだろう? 何もかもがおかしい。

 いつもの俺であれば強く振りほどく筈なのに、何故かそんな気が起こらなかった。それが、おかしい。

「ん、どうしたんだ……?」

 神子が甘く囁く。そう、この声だ。彼女の声を聞くと、脳が痺れ思考に靄が掛かるのだ。

 甘い声。甘い、甘い声。甘い匂い――匂い?

 ○○は、最早言わずもがな、盲人である。彼が尤も頼りにしているのは聴覚であるが、嗅覚と触覚もまた、周囲を把握する為の重要なファクターであった。

 故に○○は基本、無臭を保とうと努めている。今も小屋の中には、脱臭用の竹炭を置いてあるぐらいだ。

 こんな甘い、甘ったるい、理性を蕩けさせる様な匂いなぞする筈が無かった。

(どこからだ……!?)

 男の目に僅かに理性の光が灯る。

 この場には○○と神子しかいない。その神子も、ずっとマッサージを受けていたではないか。

 鈴は鳴っていない。他の誰かが入ってきた気配もないが――待てよ?

 そう言えば神子も、そんな風に侵入して来たではないか。

 急速に思考が晴れ、○○は己が現況を正しく理解した。そうして直ぐ様腕を戻そうとするも、がしりと、神子の手がそれを許さなかった。

「ぐっ!」

「女に恥を掛かせるものではないよ?」

 そう、神子が声を発すると匂いが一際濃くなった気がした。

 ○○が抵抗の意思を見せる間もなく、彼の意識は再び混濁に呑まれる。

 そうして神子の願い通り、男の腕は再び服の中へと侵入していった。

 一見して男子と見間違えてしまう慎ましやかな胸であったが、その感触は柔らかく、男のそれとは明らかに異なる。

 そしてその緩やかな頭頂部には、既に固くなったオンナがその存在を強く主張していた。

「あぁっ! そう、そうだ……! もっと君を感じさせてくれ! 私を感じてくれ!」

 らしくもなく声を張り上げる神子。

 普段の冷静さなどかなぐり捨てて、ただ愛しい男がもたらしてくれる快楽を心待ちにした一匹の女がいた。

 肌の上を男の指が撫でるだけで、神子の女ははしたなくも敏感に反応してしまうのだ。

 焦れに焦らされ、男が神子を摘むと彼女は一際甲高い声を上げた。

「あぁ……ッ!!」

 背を反らし全身を痙攣させるその様は、説明せずとも解るだろう。

 次の瞬間には、神子の四肢はだらりと垂れ下がった。

 一頻り心地よい倦怠感に身を委ね、満足したのか神子はすくりと立ち上がった。

「ふ、ふふ……。○○……」

 満足した? 冗談ではない。

「○○。これでは足りない、足りないんだ。――やはり攫ってしまうのが一番だな」

 神子は蕩けた表情のまま男へ身を預ける。見上げれば、視界一杯に愛しい人の顔が映った。

 そうして爪先を伸ばしゆっくりと唇を近づけようとする――。

 

 

 

 

「お待ちなさいっ!!」

 ドカンと、破裂音が響いた。

 

 

 

 

「な、なんだ!?」

 ○○が正気を取り戻した刹那、直ぐ真横を物凄い勢いで何かが通り抜けた。

 そして間を置かずに背後でガシャンと、嫌な音が響いた。

「やれやれ。無粋だね。コソコソと嗅ぎ回る、まるで鼠だ。」

 その神子の声がやけに近く、○○はギョッとする。

 慌てて距離を取ろうとするも、がっちりと腰に回された腕がそれを許してはくれなかった。

「お、おいっ!?」

 当然、○○は抗議の声を上げるも、神子は答えなかった。

 聞こえていない訳ではないのだろう。何故なら、腕の力が更に増したからだ。

「……何のつもりだ? 今日は私が、○○のマッサージを受ける日だと決まっていた筈だが」

「それのどこがマッサージよ!」

 この声は、幽香か? 何故彼女がここに?

 一向に状況の飲み込めぬ○○。

 盲目というのは、こういう時に不便だ。得られる情報が主に聴覚に限られているせいで、状況の把握がどうしても受け身になってしまう。

 ○○は身を安全に第一に考え、神子の腕から逃れようと試みるも、一体彼女の細腕のどこにこの様な力があるのだろうか? ○○は身を捩る事しか出来ず、脱出は叶わなかった。

 どころか増々腕の力が強くなる。下手な抵抗は逆効果のようだ。

 そして○○の意思を一切合切無視して、話は進んでゆく。

「マッサージだろう? まさか違うとは言うまい? 同じ穴の狢じゃないか」

 ギリと、大きな歯ぎしりが聞こえた。

 不穏な――不穏な空気が辺りを包む。そりゃぁそうだ。相手が幽香なら、神子の挑発を快く思う筈がないからな。

 しかし、同じ穴の狢とは。神子と幽香が? どういう意味だ?

「だとしても、貴女の行為は度が過ぎています」

 む。白蓮もいるのか。

 だとすると神子の言葉の意味が、増々分からなくなる。

「えぇ。○○を連れ去ろうとするのは、ご法度よね。あくまでそれは、彼の意思に任せると。ルールがあるじゃない」

 ルールだって?

 狢の意味を考えていた○○の耳に、更に不明な単語が追加された。

 どちらの意味もまるで分からない、分からないが、彼女らは意味が通じているらしい。

 それはつまり、俺が知らぬ水面下では何らかの遣り取りが行われている事を意味する。

 幽香の言葉を聞いて、神子は鼻で笑った。

「――ルール。ルールと来たか。誰が言い始めたか知らぬ暗黙のルールなぞ、一体何の効力がある。馬鹿馬鹿しい」

 彼女が一笑に付すと、更に空気が重くなった。あぁ、胃が痛い。

「貴女の言い分は置いておいて、一先ず○○さんを離しなさい」

「嫌だと言ったら?」

 神子が言い終わるか否かという瞬間、びゅぅんと、直ぐ横を空気が切り裂かれ悲鳴を上げた。

「……力ずくでも」

 答えたのは幽香だったろうか、それとも白蓮だったか。

「ハハッ! 実にシンプルだね!」

 何がおかしいのか。神子は笑った。

 癪に障ったのだろう。幽香の怒声が響く。

「いいからッ! ○○を離しなさいよ……っ!」

「そうだ! どうでもいいが俺を離せ!!」

 便乗し声を上げるも、ただ虚しく響き渡るだけだった。くそが!

 よく、分からないが、神子は幽香と白蓮と対峙しているらしい。そして幽香と白蓮は、何故か協力体制にある。唯我独尊の幽香と、人妖の融和を唱える白蓮じゃ絶対に反りが合わないだろうに、どうなっているんだ?

 分かる事と言えば緊張がどんどんと張り詰めていっている事か。このままではどうなるか分からない。

 やはり力ずくでも脱出せねば! そう、全力を込めるものの仙人とやらの力には叶わなかった。

「おい、豊聡耳! いい加減にしろよ!」

 状況を鑑みずに声を張り上げるも、神子ばかりか答えてくれる者は一人もいなかった。悲しい。

 空気は張り詰め、緊張は際限なく張り詰め続けてゆく。

 戦力比で言えば幽香と白蓮に軍配があがろうが、俺が捕らえられている――敢えてその表現を使おう――神子に利があった。

 故の拮抗である。危ういバランスに成り立ったソレは、切欠一つで雪崩を打って崩れるだろう。

 そしてその時は訪れた。

「太子様~? そろそろお時間ですわよ~――って、……あらぁ?」

 また新たな人物の声が聞こえた。

 場にそぐわぬ間延びした、呑気なソレは聞き覚えがなく誰かは分からなかった。

 しかし、「太子様」と口にしていた事から、神子の関係者である事は察しがついた。

 しかも声は不思議な事に、俺の直ぐ足元から聞こえたのだ。

「布都! 屠自古!」

「――うおぉっ!?」

 俺が疑念を抱く間も無く、強い横向きのGが襲った。

「っ! 待ちなさい!」

 背後からは焦りの声。

 そうして間を置かず、今度は落下する感覚が○○を襲った。

「うおおぉぉぉぉいいぃぃぃ――――っ!!??」

 矢鱈と響く己の声。遠ざかる戦闘音。

 神子の高笑いを聞いて、俺の意識は途切れた。

 



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失言

 失言てあるだろ?

 ほら。こう、ついポロッとさ?

 これがさ、振り返ってヤバイと思っちゃうような言葉だったらいいよ?

 例えば、「お若く見えますね」とかさ。ほら、一見褒めてるように見えるけど、裏を返せば実年齢は……。って暗に言ってるとも取れるし。

 まぁこういうのはいいんだよ。しゃーない。言った自分が迂闊だったと思えるさ。

 でもさ? これってどうなのよ。こんなの失言だと思わないじゃん?

 皆にもさ、判断して欲しいのよ。

 

「俺ってさ、猫より犬派なんだよね」

 

 この一言で宴の空気が凍ったよ。パリッと、音が聞こえるほどに凍ったね。

 男の言葉を聞きある者は項垂れ、またある者は黄色い声を上げた。

 

「犬、ですか……。それはもう、私のことでしょうね。えぇ」

「普段、狼だと憚っている姿は何処へ行ったのですか。それよりも、天狗という文字には狗と入っていますね。これはもう、私も犬だと名乗りあげても過言ではないのでは?」

「……狗は狗でも、鬼の走狗(パシリ)でしょ」

「おーし、犬コロ。表に出なさい。どちらが上か思い出させてあげましょう!」

「犬じゃないし! 狼だし!」

 

「わ、私も犬といっちゃ犬よね(ソワソワ)」

「影狼ちゃん。抜け駆けはナシだよ?」

「え、でも……」

「ナシだよ?」

「は、はい……(姫が怖い……)」

 

「忠義、従順さ。そして悪魔の犬と呼ばれる私こそ真の犬と言っても過言ではないのでは?」

「……バター犬(ボソッ)」

「ちょっと誰よ今バター犬とかほざいたのは!? 明日の献立にしてあげるから出てきなさい!」

 

「ほほーう。まさかの。彼奴が犬好きだったとはの。どれ、ここは一つ儂が一肌脱いでやるとするかの」

「全く。随分と遠回しな告白をするヤツだ。……あぁ、橙! そんな絶望顔をするな。ちゃんとアイツは連れて帰るし、少しぐらいなら貸してやるから、な?」

「なんじゃ。勘違いキツネが出しゃばって。恥をかく前にすっこんどれ」

「ハ! 私ほどの男心の機微に敏い女を前に、中身まで古ぼけたかタヌキ風情が」

「……尻軽!」

「行き遅れ!」

 

「おねーちゃん。私犬欲しいー」

「こいしったら。もうお屋敷には新しいペットを買う余裕なんて……(チラッ)」

「フニャッ!? どうしてそこでアタイを見るんですか!? 止めてください! 更に傷を抉るような真似は止めて下さい!」

「大丈夫だよお燐。アナタのことは忘れないからー」

「説得力が皆無なんですけど!?」

 

 ワーワー! ギャーギャー!

 折角の宴会が、俺の一言で阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 俺か? 俺が悪いのか?

 頭を抱える俺の前にふと、人の気配がして顔を上げる。

 返り血を浴び傷だらけで、それでいてギラギラと瞳を輝かせる少女達がいた。

 

「「「「「責任を取ってよね○○!?」」」」」

 

 



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