恋姫†無双——陽鏡の姫秀—— (火消の砂)
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陽の目覚め

塚原なんていないよ。




 後漢末期、姫秀という男の元を去る少女が居た。仲違いではない、彼女は赤く大きい馬に乗り常人では扱えない程の戟を持って姫秀に見送られていた。朝焼けではなく朝靄、相当早い時間に彼女は出立した。

 姫秀の館から続く道は二つある。右の道を行けば司隷、左に進んで行けば幽州と冀州がある。少女は右の道を進んで行った。

 姫秀は彼女が寝ている間に旅の準備を済ませ、朝ご飯を用意していた為か睡魔に襲われて仕方がない。大きく欠伸をしたところで視線の先では少女がこちらを向いていた。仕方がない――肩を窄めた姫秀は大きく手を振る、そうすると向こうも小さく手を振ってその後少女は振り返らなかった。今生の別れではない、だが一年程いた十も歳の離れた少女との別れは歳をとったと思うだけの衝撃はあった。

 そう思って姫秀は身を震わせながら眠りにつく準備を始めた。

 

 時は後漢末期、漢は衰退の道を隔たりなく進んでいた。今も何家が中心となって騒動が起きていると聞く。後一手あれば漢王朝の崩壊がそこまで来るだろう。

 各地域にて土地を納める勇士達の噂も并州でひっそりと暮らす姫秀の元にもチラホラと聞こえてくる。異民族と暮らす彼にとって刺史の丁原、并州で力を増す張楊は関係が無いとも言えないが、寝床から今日も一度とも動こうとしない彼にとって関係は全くない。三十三になる彼は未だどこに仕官することもなく、ただ名声だけが風に乗っていく様に耳を傾け、そして来るものを阻み、いつか来る時を待っていた。

 彼の名が風に乗ったのは一度きり、大陸の北から南へ西から東へ台風のように名が馳せた。彼の友である司馬徽、またの名を水鏡という女性が彼を働かせるように仕向けたことだった。

 結局、水鏡が認めた逸材として名は通ったが彼が仕官を頑なに拒否した為それは不発ということになった。噂によればその一件が原因で二人の間には亀裂が入ったというが、それは噂を信じ込む者のみが思うことだ。

 そんな彼、来るものを阻むと言ったがもちろん例外もある。

 先程の少女、呂布もここへ迷い込みそして一年も住んでいた。それ以外の友、水鏡や司馬家の長女である司馬朗にその次女の司馬懿、名門荀家の何人かもここへ立ち入ることもある。ようは彼が帰れと言わない限り何にも問題はないのだ。

 

「先生」

 

 姫秀は自分を先生と呼ぶ少数の一人、か細く弱い声の持ち主は司馬懿しかおらぬと考え目を開いた。

 するとすぐそこに彼女の瞳がある。急に開いた姫秀の目に驚いた司馬懿は急いで身を引く。

「俺の顔を覗き込んでなんだ、夜這いか」

 

「ち、違います。それに朝です!」

 

「なんだ、桜那ならば歓迎だぞ」

 

「お、お止め下さい……」

 

 何層にもなっている布団の中でガサゴソと動き、起き上るかと思えばそのまま姫秀は司馬懿に問うた。

 

「なんだ」

 

「恋が私の屋敷へ別れの挨拶に来ました、それで何も言わない先生へ抗議に」

 

 なんだ――と姫秀は朝の寒さと特有の鋭い太陽から逃げるように布団の中へ入っていった。

 

「先生、恋は大丈夫でしょうか、畜生の官臣共に意地悪をされないでしょうか」

 

「あそこには張遼という知り合いがいる。剛は剛でも豪傑の豪が似合う女だ、それの下にいれば大丈夫であろう。俺は恋の準備を徹夜でしていた為、眠いのだ書庫で本を読むか布団に入って寝るかしておいてくれ、夕方には起きる」

 

「あ、先生……」

 

 モゾモゾと奥深くへ入っていく姫秀、五分もしない内に規則正しく布団が揺れ出した。

 残された司馬懿は言われた通りの選択肢である読書に勤しもうと辺りを見渡した、乱雑に積まれている書や棚に押し込まれている書、どれも見識を高めるにはもってこいの代物であるが、まだまだ朝が抜け切れていない風が司馬懿の首筋を撫でて行く。

 司馬懿は「先生?」ともう一度声を掛け、返事がないことを確認すると姫秀から与えられたもう一つの選択肢である惰眠を選び「先生失礼しますよ」と司馬懿はのそのそ彼の居る布団へ入っていった。

 

「暖かい……」

 

 

 

 

 

 

 姫秀という男が表舞台に出てきたのは十年程前の事だが彼が舞台に上がりだしたのは二十三年前の事、十歳の話だ。

 水鏡の下へ送った手紙がその場にいた者を驚かせたのだ。

 

「知識はもう要らぬ、炒たところで何にもならぬので知恵を知りたい」

 

 その場に居たのは若き日の曹崇と袁逢、十つの者が書いたにしては些か大層な物言いであると愚考した。二人は信じなかったのだ。

 水鏡はこれが歳場のいかぬ者が書いたと分かっていたが、二人を納得させる為、会ってみたいという好奇心から彼の住む并州へ向かったのだ。

 荊州から急いで向かうと数日でそこに着いた。山奥、奇襲はかけられない、只の民が持つには些か軍事的要素を持ち過ぎていると水鏡は感じた。

 館の前で三人は考えていると自分たちが来た道とは反対側の方から蹄鉄の甲高い音が聞こえてきた。

 それが姫秀と水鏡の初対面である。

 

「水鏡先生ですか」

 

「いかにも、貴方が姫秀ですか?」

 

「姓は姫、名は秀。字は伯道と申します。まさかお越しいただけるとは……そちらは袁周陽様と曹巨高様ですね」

 

 姫秀は馬から降りると三人に深くお辞儀をした。

 

「歓迎できるものはございませんが、よろしければ昼食でも」

 

 姫秀と三人、その内の二人は彼に対する評価を一新させ、一人はそれを改めた。一方姫秀は二人について評価を改めることは無かったが、水鏡に関しては違う、自分が見定められていると良く感じられている。

 袁逢と曹嵩はすぐに彼の名を広めようとしたが、水鏡はそれを良しはせず、姫秀の望みを叶えてやることに決めた。知恵を高める、彼を連れて様々な所へ旅をしたのだ。

 曹嵩と袁逢の赤子に会わせたり、涼州の馬騰や荊州の劉家、名家の数々。初めて会った時に分かったことだが、姫秀の親は彼が五歳の時に死去している。親の代わりに本と生きてきた訳だが、この旅によって水鏡は彼の親代わりともなっていた。

 

「邑文、曹嵩と袁逢について貴方はどう思いますか」

 

「まずの寸評としてはとても優秀だと思います。それは官臣として、でございますが」

 

「続けなさい」

 

「当たり前のことです。今は戦が世の理ではありません、今は国が――いえ、今は乱が世の理でしょうか。少なくとも二人は乱に属する人ではありませんがね、二人は愚か者ではございませんので」

 

「なるほど……乱の理とはどういうことでしょうか」

 

「今は国と乱の理が重なっていますが、これからは乱の理、つまりは国が乱れます。そして国は――終わります」

 

「なるほど……邑文、何故そう思いますか」

 

「……腐り、乱れる、これは今までもあったことでございますが今は全てが重なり過ぎていると感じています。乱への移り変わり、長くあり過ぎた国、民の不信感、世代の交代、そして――英雄の不在」

 

 水鏡はその言葉ではなくその眼光に漸く彼の評価を形成した。二年旅して結論付けた姫秀という人物、この男は間違いなく千年後の歴史に残される傑物。

 自分の全てを超えていく人物であると。

 

「邑文、これからは好きにしなさい。好きに生きなさい、好きに考えなさい。宿命や使命などに囚われることなく、人の為、国の為ではなく自分の為に全てを行いなさい。もし、人の為、国の為に行うことが自分の為となるならば、恐れることなく進みなさい」

 

 姫秀の固く閉じていた口が少し開いた、言葉を発したいわけではなく水鏡の言葉に驚いたのだ。

 

「名を与えます」

 

「名ですか」

 

「はい、その人物に見合った二つ名、名士を冠る私が認めた者に付けます」

 

 姫秀は初めての感覚に包まれた。

 こちらを試す水鏡ではない、間違いなく姫秀を姫秀として対峙している。

 

「陽鏡――私の名を分け与えます」

 

 姫秀が初めて現在する人物を尊敬したときであった。ここまで人を対等に見据えることが出来るのか、今後姫秀が水鏡と並び人物鑑定家として名を馳せることが出来たのはこの対等な姿勢が要因でもあった。

 

「陽鏡」

 

「はい」

 

「これから私たちは友です、そして私は貴方の母でもありたいと思っています」

 

 水鏡が姫秀に見せた笑み。

 姫秀の初恋であった。

 

 

 

 

 

 

♦  ♦  ♦

 

 

 

 軽い金縛りから覚めた少女、司馬懿は隣に自分が先生と呼ぶ姫秀なる人物が居ないことに気が付いた。昼を過ぎた夕、ここが姫秀の館なので起きてどこかへ行ったのだろうとただ彼女は思った。

 外に出てみると案の定姫秀は風に当たっていた。

 

「先生」

 

「おはよう桜那。来てごらん、寝起きの夕焼けは普段とは違って感じ取れる、風も良い」

 

 司馬懿はそんな彼を見てすぐに異変を察知した。姫秀も察知されたことを感じとる。

 

「水鏡から書簡がね。どうやら私はあと三年で動かなくていけないらしい」

 

 司馬懿はその一言で悟った。ああ乱れるのか――姫秀の背中は表情が見えない故に寂れて見える。

 姉の紹介で司馬懿は姫秀の下へ学びに来た、もうかれこれ三年。十五になる彼女は世界で三番目に彼の事を理解していた。一番は水鏡で二番は姉の司馬朗、一番弟子を自負する身として三番目というのは些かいただけないが、姫秀の悲しみについては一番理解できていると彼女は思っている。

 司馬懿は言う、姫秀という男は人が死ぬことを嫌う。だからこそ彼は乱を望んだ――

 死を嫌う者が何故乱を好むのか。

 乱が起こり、人が死ぬ、そしてそこに生まれるのは英雄である。乱を終わらせ最も早く天下を統一できる人物、彼はその者を待っているのだ。

 いくら自分が天を統べる器を持つと言われようとも、姫秀は自分が統べる方ではなく役に立つ方が向いていると考えたのだ。自分が国を変え統一したとしてもそれが長続きするとは思わない、恐らくこれから起こる乱よりも死というものがこの国に蔓延する。

 司馬懿は言う、姫秀という男は愛馬が老衰死した時、付きっきりで一晩泣き続けるような男であると。

 

「君はどうする?」

 

「私は先生に付いていきます」

 

 司馬懿は即答した。それ以外いう言葉を持ち合わせていない。

 

「そうか。では一度家に帰りなさい、一ヶ月後に私はやるべきことの為にこの地を去る、準備をしてきなさい」

 

「はい」

 

 司馬懿はすぐに立ち去ろうとした。今すぐにでも家に戻って書物を纏めたい、そんな衝動に駆られながらも彼女は一つだけ聞かずにはいられなかった。

 

「先生」

 

「ん?」

 

「誰の所へ?」

 

 振り向き司馬懿の隣を過ぎる姫秀は彼女の頭に掌を乗せポンポンと叩いた。司馬懿もまた歩く姫秀を視線で追従した。

 

「それを探しに、定めに行くのだよ」

 

 姫秀の表情は好奇に満ちていたという。

 

 

 

 

 

♦  ♦  ♦

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月後と言われたが司馬懿は馬を飛ばし、屋敷に着くとすぐに支度を始めた。持っていく服の選定、旅用の道具、買い出しに行く物の一覧を作った。

 しかし、ある段階から司馬懿は作業を止めていた。重大な難題に直面していた。

 

「姉上、どうされました?」

 

 棚の前で唸る自分の姉を司馬家長男で司馬懿の一つ下である弟は訝し気に見ていた。

 

「……」

 

「……書物がどうかしましたか?」

 

 司馬懿は自身が持つ書斎兼自室にあるまるで書庫のような棚の前で唸っていたのだ。旅に嵩む書物の厳選をしていたのだが、全く決まらず彼是三時間は経過している。姫秀の所から戻りずっと作業をしていたので既に朝を迎えている。

 

「姉上、もう朝ですよ。朝ご飯の用意が出来てますよ」

 

「え、朝ですか。これは驚いた、そんな時間が……」

 

 漸く司馬懿は弟の存在に気が付いた。言われて気が付くが唐突に空腹感が襲ってきた、すぐに立ち上がり恐らくもう集まっているだろう姉と妹弟達が居る食堂へ向かう。

 そこには母である司馬防、長女の司馬朗、弟の司馬孚、妹の司馬旭、司馬恂 司馬進、司馬通、末の弟である司馬敏が集まっていた。父は司馬防の副官であったが匈奴との戦で彼女の代わりとなって命を落とした。司馬敏が生まれてすぐの事であったらしい。

 その後の司馬防は心労と無理が祟り体をすっかり壊している、今は司馬防の代わりに司馬懿の姉である司馬朗が代わりとして朝廷に仕えている。

 

「桜那、遅かったな」

 

「すいません母上、本の選別に少々時間がかかっておりました」

 

「本?」

 

 そこで疑問を呈したのは姉の司馬朗であった。

 司馬懿と瓜二つ、艶やかな黒髪が長く胸まで垂れ、少しきつめな目が司馬家の品格を表していた。違いは背の高さと胸である。勿論、司馬朗が上であるが。

 

「ええ姉上、実は一か月後に先生が旅に出ると、その準備の為に本を選別していました」

 

 食にありつくと作法はしっかりしているがそのペースは戦後の将のようである。姫秀との旅の話をする彼女の誇らしげな感情がそれを押している。

 だが、相対的に司馬朗は溜息をついて箸を置いた。司馬防もまた箸を置かずとも落胆している様子だ。

 

「桜那、伯道の所からはいつ帰った」

 

「昨日の昼頃ですが?」

 

「伯道の所はいつ出た」

 

「……一昨日の朝方です。それがどうかいたしましたか?」

 

 司馬朗はもう一度大きく息を吸って、隣にいた司馬防と共に息を吐いた。

 

「三十分後にこの家を出て姫秀の所へ行きなさい」

 

「……母上?」

 

 司馬防は侍女を呼び、必要な路銀と司馬懿の部屋にある荷物を取りに行かせ、自分は食事に戻った。

 種明かし――と言わんばかりに司馬朗が司馬防の言葉を続けた。それは司馬懿にとって生涯忘れることも出来ない言葉となる。この先どんなに戦に負けようとも、謀略に屈しようともこの時の出来事を忘れない限り司馬懿は憤慨することは無かった。

 

「伯道が一か月後まで待つわけがないでしょう、今頃彼の屋敷は炭になっていると思いますよ」

 

 はっ!と司馬懿は電光石火の如く準備をして疾風迅雷の如き足で并州へ向かった。

 

 そこには焼かれた後の姫秀邸があったされる。

 

 

 陽鏡曰く「私を見つけろ」司馬懿は屋敷に帰ると司馬朗から延々と姫伯道という男の考察を聞かされ、彼を探すたびに出るのは一か月後の事となった。

 

 

 




真剣で一振りに恋しなさい!の方を楽しみにしていただいている方には申し訳ないですが、違うのを投稿してみました。

反応が良くなかったらそっちに戻ります。


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三色一白

 才覚を現してきた曹孟徳も名家の袁本初も、司馬家の次女である司馬仲達も江東猛虎の次女である孫仲謀も齢十五である。曹操や袁紹は既に家督を継いでいることを考えればこの世が低年齢化していることも分かる。

 勿論、朝廷や各諸侯には老兵や古くからの忠臣がいるであろうが、その中に国を治める英雄はいない。

 

 姫秀は齢三十三。異質である。後世に伝わる黄巾の乱、それを諸侯が鎮圧するという動きがあるのは更に三年後である。その時姫秀は三十六、天下に名が轟いているとはいえ未だ出仕もしておらず戦でその実力を発揮したこともない。一部の人間からは大したことの無い法螺吹き歳重ねと罵倒されている。当たり前といえば当たり前だ、全く働いていない男が自分達より名を轟かせているなんて許しがたい行為である。

 だが、姫秀にとってもそれは迷惑千万である。自分は関係ない、水鏡が勝手に自分の名を轟かせたのだ。どこからか暗殺者を送られる程緊迫した時期もあったくらいだ。ある程度時が経つそういうこともなくなったが、未だに舐めてかかる名士風情が家に尋ねてくることがあった。尤も、先日まで住んでいた家は豪快に全焼したので誰か来たところで面倒な思いをすることもない。

 因みに今まで姫秀の名が轟き続けているのは他でもない司馬家と司隷の名士達が姫秀派の人間である為で、当の本人はそれを知らない。

 

 さて、姫秀が司馬懿を騙して并州から旅立ってから二ヵ月が経とうとしていた。司馬懿が自分を探し出したら一人前として認めるというのは本当であるが、姫秀はいじらしい人間である。自分が失踪してから一か月後に司馬懿が家を出たというのを耳にして、彼はあろうことか司馬邸へ足を運んでいたのだ

 だが別にお茶をしに来たわけではない。旧友に会いに来たのだ。

 

「あら、邑文じゃない」

 

「やあ。久しぶりだね、火奈」

 

 火奈。聞けば分かるが真名である。その持ち主は司馬防であった。

 彼の親友と言えば水鏡、司馬朗であるが司馬防ともまた旧友である。そもそも二十歳の彼女より四十近い司馬防の方が付き合いが長い。才能のあった司馬朗と自分を引き合わせたのは司馬防であるし、司馬懿を自分の下に預けたのも司馬防である。精神的な繋がり深い水鏡と違って実質の繋がり深い。

 そんな彼女は今病に伏しているわけだ。長い無理が祟り、家督を司馬朗に渡してからどんどん体調を崩している。自分がようやく重い腰を上げるというのに今まで自分を認め続け待ち続けた人間に挨拶するのは普通である。

 

「加減はどうか?」

 

「良くないわ。偽りや誇張なしに長くはない、貴方の勇姿は見られそうにないわ」

 

「そうか」

 

 司馬防は武勇に優れた人間というわけではなかった。だが異民族との戦いで戦場へ赴くこともあった、政略に巻き込まれることもあった。その時は智勇によって修羅場を潜り抜けてきた。その修羅場で旦那を亡くしたわけであるが、少なくとも弱気を畳みかけるように吐く人間ではなかった。長い付き合いで酒を多く交わした、体が交わることはなかったが、司馬防の脆弱な所も強大な所も乙女な所も見てきた。彼女の夫とも深い交流はあったし明誠な男と言うのも珍しかったので語ると楽であった。見事姫秀の魅力以上を司馬防に見せて彼女を射た男だが、やはり二人の仲が深いということを理解していた。自分が死んだ時、姫秀に司馬防と家族を任せるということも言っていたし、実際死んでしまった。

 司馬防を貰うことは男に対して不義であるとして姫秀と男の秘密となったが、家族を支援することを彼なりにやっていた。

 

 そんな緻密な関係だからこそ、司馬防の姿を見て姫秀は涙を流してしまったのだ。

 

「ふふ、泣いているのかしら?あの人が驚くでしょうね」

 

「うるさい。君とは深くかかわり過ぎたのだ」

 

「ふふふ」

 

 病人らしくか細い上品な笑みがこぼれていた。

 

「そういえば桜那が憤慨していましたよ」

 

「機は見て敏である」

 

 今度は二人で笑みを溢した。

 目尻に溜まった水滴を袖で拭うと、姫秀は椅子に着く前に茶器を取り出した。一人で住んでいると誰も注ぐ人がいないので自然と身に付いた動作。一通り彼に茶を教えたのは他でもない司馬防であるのだが。

 しかし早い動きで茶を淹れると司馬防の目つきが細くなる。淑女が落ち着いた動作で繊細に淹れる茶と一線を画した独創的かつ、男らしい手付き。急須に茶葉を入れてお湯を注ぐだけである。

 

「それで?一体どこに行くのかしら、それとも独立?」

 

「決めてない――が」

 

 ふと、姫秀はそこにあった青と赤と緑の珠を三角状に並べた。

 

「青――晴天の霹靂に見出された傑物、袁本初とは違う格を持ち、その評からは名君として、その評からは奸雄として、我が評からは英雄として曹孟徳。

 赤――虎を名乗り、老を従え、家を省みる。地盤に優れて祖に優れ、しかし苦境にその姿を置く孫伯符。

 緑――は未だ現れずもどこか予感を覚えなくもない」

 

「曹孟徳に孫伯符……前者はともかく後者は意外ね。緑は探すつもりかしら?」

 

「ああ、水鏡の見立てでは近々大きい戦が起こる。そこで見つけるつもりだ」

 

「そう……孫家を上げたのは何故?まさか呉の末裔だからかしら?」

 

「違う。江東の猛虎に前に会ってな、その時に見た。次女の孫仲謀も聡明だ」

 

「なるほどね。孫伯符もかなりの聡明ということかしら」

 

「いや」

 

 知者の会話、司馬防は目を細めて姫秀に疑問を投げかけた。それを一度否定した姫秀は湯呑みを傾けた。

 

「彼女は器で言えば覇王。だが曹孟徳とは逆、虎を受け継いでいる」

 

「炎蓮の子がねえ……嬉しい事ね」

 

「ん?知り合いか?」

 

「一緒に朝廷でね。炎蓮も一時期危ない時期があったけれども、引退という形でどうにか命を繋いでいる様ね」

 

「……ああ。それはよかったな」

 

 一瞬の口籠りがあったが、司馬防は特に突っ込むこともなく茶を優雅に啜っている――が。

 

「ごほっ……ごほっ」

 

「大丈夫か?」

 

 制止するように右手を出し、左手は口元を隠している。赤い物は見えないが、少しの水分で咽てしまうのは食道が狭くなり、気道に入りやすくなっている証拠だろう。姫秀はそんなかつての皮肉屋からは想像もできない弱弱しい姿を見て息を吐いてしまう。全盛期を知る者からすれば当たり前の反応なのだろうか、知らぬ人間が溜息などをつけば司馬防もいい気はしないだろう。

 

「ねえ、あの人がいなければ私と貴方は夫婦になっていたかしら?」

 

「……」

 

 突然の弱音に姫秀は言葉を出せなかった。自らの病状を話しながらも今まで弱みは見せなかった。そんな彼女の過去を投影する言葉、そして青天の霹靂を見せる空に視線を移す死線を感じさせる表情。

 水鏡、司馬防、姫秀、未来を語りあった妙才の一人がこの世を去ることを感じさせた。

 

「ねえ」

 

「なんだ?」

 

「抱いて」

 

 姫秀は一言も呟くこと無く、ただ司馬防の下へ寄り添うのだった。

 

 

 

 

 

 

♦  ♦  ♦

 

 あの密談が昨日の様にも思える。姫秀は恐らくもう会えないのではないかと考えながら豫洲の潁川へ足を運んでいた。道中の街や村にも長く滞在し各々の治安状況や暮らしの変容を確かめるので、司隷を出てから既に二週間が経過していた。訪問の目的は他でもない、河内の司馬家に次ぐ学問の名家「荀家」への訪問だ。ここに学問塾は水鏡とも関わりが深く、素晴らしい人材が溢れていると聞く。

 その中でも荀家、長女と次女、そして親類の一人がそれぞれ才を持つとされ、姫秀は長女と次女と既に面識がある。

 長女の荀諶は寡黙で姫秀の講義を受けていた時も発言を一切せず、筆を持つこともせずただ己の知識に取り込むような人間。一定の敬意はあったようで、姫秀の下へ来るときは必ず菓子折りを持ってきていた。そんな彼女は家を離れ袁紹の下に仕官したと聞く。姫秀は袁紹をただの豪族上りとは考えてないのでなんら心配はしていない、荀諶であれば忠義を尽くし主君の良き右腕になることを確信していた。

 親類の一人である荀攸という人間も風の噂では傑物と聞いているので特に触れることもないが、その次女である荀彧については姫秀もただ挨拶で済ませるわけがなかった。

 他でもない荀彧は姫秀の弟子である。

 

「やあ、桂花はいるかね」

 

「こ、これは陽鏡様!荀彧様でございますか……申し訳ございません、今荀彧様は出ておりまして……」

 

「そうか、突然押し掛けたのはこちらだ、畏まる必要はない。まあ茶でも貰おうか、帰ってくるまで、待つ」

 

「しかし荀彧様は何時お戻りになられるか――」

 

「構わんよ、愛しい弟子に会いに来たのだ、いつまでも待ってやろう」

 

 

「そ、そうでございますか」

 

 と、姫秀が笑い飛ばした部屋の隣には聞き耳を立てている猫耳の少女がいた。

 

 遡ること一時間前。

 

「はああああ?!陽鏡が来てる!?なんで!?」

 

「分かりませぬが街の近くまでもう来ているそうです」

 

「……最悪」

 

 机に積んであった書物をぶちまける程の衝撃を受けた荀彧、彼女は弟子であると同時に姫秀に心を折られた人間の一人。彼の凄まじさを知るが故に出来るだけ会いたくないのだ。そんな事情も全て理解している姫秀は彼女の性根を直すために拷問に近い学問を学ばせたわけで、そこにあるのは劣等感ではなくほとんどが恐怖心でしかなかった。それに姫秀は気が付いていない。

 

「私出かけることにしておいて」

 

「しかし荀彧様」

 

「この家からは一歩もでないから安心して、どこかに出かければ絶対にあいつと会うことになるから。任せたわよ!」

 

 小さな体をドシンドシンと揺らしながら荀彧は急いで仮の拠点を応接間の隣に作ることにした。

 

 

(なんであいつ帰らないのよ!絶対会いたくない!)

 

(おおよそ俺に会いたくないのだろう。それで居留守など使っているわけだ――残念だが一度屋敷に忍び込んで在宅を確認しているから意味はない)

 

 ふう、と一度溜息をついて姫秀は考えを改めて席をたった。

 

「やはり帰る。桂花に伝えておいてくれ――偽愚者か青勾玉か、将又始まりか――さて卒業おめでとう、とね。では桂花、頬に壁の跡が付かないよう、可愛いお顔が台無しになるよ」

 

 ガタガタン――その音が数刹那の沈黙と使用人の苦笑いを産み、姫秀は屋敷を後にした。

 

 街の万事屋で旅の買い足しをして宿屋に戻ろうとする時、姫秀は気が付かなかったがあちらの二人は白基調の美形に気が付いた。

 

「おや、先生」

 

「先生、桂花の所にですか?」

 

「おや、おやおや、風と稟じゃないか。君たちこそ桂花の所か?俺は居留守を使われて傷心している所だよ」

 

「桂花ちゃんは恥ずかしがり屋ですからねー、先生に会うと赤くなってしまうのですよ

 

「け、桂花は――」

 

「服が赤くなる、鼻血を止めろ」

 

 凛という真名を持つ者は他でもない郭嘉。興奮すると鼻血を出す性癖がある彼女であるが、隣にいる幼い少女の風と呼ばれる程立と同様、姫秀に認められた才人の一人である。だが荀彧とは違い二人は姫秀が認めた弟子ではない。彼が認めた弟子は世に数人、司馬懿と荀彧、司馬朗、呂布、そして向こうは姫秀に気が付いてはいないが彼名高い美周郎こと周公瑾、現白地将軍と呼ばれる夏侯妙才、二千年後に語られるこの時代を作る者達の支えとなった策士、その師である彼はそうやって名を広めていくのであった。

 

「そうだ、二人にも一つ至言を献上しよう」

 

「至言……ですか?」

 

「ああ――これ、寝るな風」

 

「……おおっ!申し訳ありません」

 

「はあ……それが君の良いところだな」

 

 パンっと一度掌を叩き姫秀は襟を直し、一つ袖から勾玉を三つ出して見せた。二人はそれを見て懐疑を覚えた。

 

「勾玉でしょうか?」

 

「青と緑と赤と……おや、もう一つありますか――白と」

 

「崇高なる格好の良い青の愚者か、緑園に桃を咲かせる緑の愚者か、虎を喰らう兎を喰らう赤の愚者――そして愚者を愚者とし愚者になる白の愚者。さて、また何れ会おう。近いうちに会うだろう」

 

「あ、先生」

 

 久しぶりに会ったのだからお茶でも、と言いかけた稟を置き去るように姫秀は意外にも多い人ごみの中へ、まるで森に木を隠すように消えて行った。

 

「……四つの勾玉。間違いなく仕えるべき主君の勧めでしょう」

 

「うーん。愚者という選択肢が如何にも先生らしい、どの愚者を選べばよいか――頭が下がりませんねえ」

 

「それをいうなら上がりませんでしょう」

 

「おおう!そうでした……青は恐らく曹孟徳の事でしょうけれど後の緑と赤は誰でしょうか」

 

「……緑は見当もつかないけれど赤は孫家の旗に使われているわ。それよりも白の方が分からない」

 

「多分先生しかわからないのでしょう」

 

 二人の視線の先には人々の笑顔だけ。

 

 

 

 

♦  ♦  ♦

 

 

 

 

 

「思わぬ人物に言葉をやってしまったな」

 

 姫秀は宿屋で地図に何かを書き込みながら独り言を呟いていた。隣には既に冷えた茶と窓からは月明かりが差し込む、既に荷物は纏めてあり明朝にこの町を去るつもりだ。

 

「まあ、あの二人は孟徳の所へ行くだろう、それが合っている」

 

 皮肉か、それともただ評価を下しているだけなのか。姫秀の興味は目の前にある地図にのみ向けられていた。

 元々は白紙に書き込まれた詳細が載った謀略家が持つ地図。だがそこには更なる膨大な情報量が書きこまれていた。

 人物の所在地から各地の名産品や軍事開発、道に至っては宿屋と所要時間の計算、親しい人物であるならばその者が良く使う道など、恐らく姫秀専用の地図。そしてその地図のある箇所に姫秀は筆を入れ――黒く塗りつぶした――それは他でもないこの場所、河内である。

 

「そろそろ南下するか。上にも飽きたし、都を掠めて蜀に降りてみよう――ああ、そうだそうしよう、名案だ。そして「集めたら」荊州に入って桜那と合流して……いや、荊州は駄目だ。水鏡の息がかかり過ぎている、仮に臥龍や鳳雛に会ったら感情を抑えられない……ああ、駄目だ!徐福が居る!彼奴は他と違って優秀だからな、あちらから来てくれるに違いない!

 ならば仕方ないが更に右へ向かおう。張勲が面倒だが孫にも会って――いや、やはり荊州にしよう。臥龍と鳳雛には合わないように―――私の部隊を作らねば」

 

 極めて純粋な心で「そこ」に丸を付けた。

 

 

 

 




評価つけてくれるとうれしい

そういえば姫秀と邑文という名で主人公がどういう人物か見当つく人もいるかもですね。


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賊登用

 河内を出て姫秀は洛陽、許昌、襄陽、そして漢中へ向かう途中の上庸で疲れを癒していた。彼が蜀の地を訪れようとしているのは他でもない目的があるからで、洛陽から一度南下しわざわざ長安を避けて遠回りしたことにも理由があった。それは他でもない司馬懿を避けるためである。自らが見つけられるようにするまで見つからない自負はもちろんあるのだが、弟子を信じてやまない彼は他でもなく司馬懿が自分を見つけてしまう可能性を消すためにわざわざ遠回りをして漢中に、そして用事が済み次第荊州を目指すことに決めていた。

 荊州といえば老臣劉表がそこを長年治めている平和の土地。川が多く穀物の豊作が多い。また北上すればそこは帝の住む朝廷があり、南方を守る役目としても機能している。流石に歳を重ねすぎたようであるが、一見そこには野心の見え隠れはない。

 そして荊州といえばもう一人。姫秀にとってはこれ以上に他でもない水鏡がいる土地、そして水鏡学院のある場所でもある。魑魅魍魎であり、可憐である水鏡が開いた最も高名な塾の一つ、本物の才神か名家しか入ることはできない。一見腐敗してそうであるが殆どが才神で構成されている。その水鏡学院の中でも現在群を抜いている生徒が二人、それが臥龍こと諸葛亮と鳳雛こと龐統である。この二人は幼いながらも天才、奇才を纏う才女であるが、姫秀は彼女たちに目もくれず一人の少女を一人の天才として評価していた。それこそ彼が徐福と呼ぶ二人の間に隠れたが、彼がしっかりと拾い出した徐庶である。

 そんな徐庶を諸葛亮と龐統のせいで陰に追いやった世間を非常に非難し、また諸葛亮と龐統にも多少の怨念じみた感情を持っている。彼自身諸葛亮と龐統が素晴らしい才を持っていることは認めているが、徐庶には勝てぬと考えているのであった。

 もちろん彼もこの三人が全てとは考えていない。水鏡の下には他の才神がいるはずだ。だが如何せん彼は引きこもりであり、見に行ったり聞いたりしなければその者の才覚、というか実際に見なければ彼は判断しないので殆どの才神を司隷辺りでしか知らない。少し遠出をすれば長安や冀州の辺りまで行くが、あとは同世代からの手紙である。彼に才神を紹介するのは司馬防、水鏡、涼州の韓遂、そして幽州の盧植である。

 

「風鈴か?良くここが分かったな」

 

「邑文……もう、めちゃくちゃな動きして。桜那ちゃんが凄く憔悴していたわよ」

 

 風鈴、眼鏡をかけたお淑やかで聡明そうな女性。風鈴というのは真名で本名は姓を盧、名を植、字を子幹という漢に仕えていた役人。現在は幽州で塾を開き、水鏡とは違う形で才神の育成に励んでいる。

 塾が幽州にあるということは彼女もまた幽州に居るはずであるが、その彼女が上庸の宿にいる姫秀を訪ねてきている。訪ねられて困ることもないがなぜ急に彼女が自分を訪ねたのか、姫秀はそれが気になった。

 

「幽州で隠居するのではないのか?それとも漢中の宗教に嵌ったか?」

 

「違います、邑文ちゃんが旅をしているらしいと聞いて飛んできました」

 

「なんと、馬鹿かお前は」

 

「せっかく来たのにその言いようはないでしょう!」

 

「冗談だ。それより俺の居場所を特定するとは流石と言いたい。桜那にも見習わせたい」

 

「自分を必ず見つけると信じているくせにね」

 

「うむ、当たり前だ」

 

 風鈴は息を呆れ混じりに吐いた。そして寝床の上で横になり、一息をついたところで真剣な眼差しを再び姫秀に向けた。

 

「朝廷から仕官の誘いが来たわ」

 

「やめておけ、それならば俺と来い。人を集めている」

 

「……そう言おうと思ったんだけど、なんだか嬉しい」

 

「今のところ確定は俺と桜那、徐福だけだ。これからざっと五百人を集める予定だが————」

 

「五百!?」

 

「将ではないぞ、兵だ」

 

 驚いた後、風鈴は顎に手を当てて頷いた。

 

「漢中近くの賊————かしら?」

 

「ご名答だ。その後南下して荊州に入り、また并州に戻る」

 

「水鏡は?」

 

「あいつとは手を組まん。傍観を気取っておけばよい」

 

「そう……やはり乱を予感して行動を始めたのね。僭越ながら私も協力させてもらいます」

 

「ああ、頼もしい。風鈴がいれば指揮は任せられる」

 

「……もう」

 

 顔を少し赤らめる、その先には苦しいくらいあどけない微笑みの姫秀が足を組んで座っていた。

 

「それでなんだけど」

 

「なんだ?」

 

「私のところに劉玄徳って娘がいるんだけど、彼女はどうかしら?彼女といつもいる二人も戦力になるわよ」

 

「……劉なのか?」

 

「一応証拠はあるけれども、本当かどうかは分からないわ」

 

「……会わねばわからん。その話はまた今度だ」

 

「そう」

 

 顰めたというわけでもないが姫秀の顔は険しくなった。

 劉という姓にどれぐらいの意味があるのかは彼も重々承知している。だが分家の分家の分家という線もあり、必ずしも選民であるわけではない。実際劉備は貧しい家系であり、だからこそ盧植の塾にいたと考えられる。

 だがそれ以上に姫秀はその「劉」を「備える」そして「奥深い徳」を意味する名前に直感を鋭くさせていた。

 

————奥深い徳を備える劉—————

 

 その言葉を思考の片隅に置き、姫秀は立ち上がった。

 

「よし、再開を祝して飲みに行こう」

 

「ええ!?今から!?」

 

「ああ、しこたま飲むぞ」

 

「あ、待って」

 

 昼から朝方まで飲んだ二人、次の日の夕方に起きると姫秀の横には裸の盧植が寝息を立てていた。

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 漢中を南下してすぐのことであった。

 

「よう、兄ちゃん。身包みとその女を置いていきな」

 

 天下の漢中を目下に置くこの街道、姫秀と盧植は所謂賊と呼ばれる者達、十人ほどの賊に囲まれていた。姫秀はもちろん平然としているが、盧植の肝も中々に据わっていた。彼女も戦場に立ち指揮を執ることもできるが、彼女自身に武力はない。肝が据わっているだけで姫秀の後ろに隠れて精神を保っているに過ぎない。

 

「やれやれ、どうしてこうも君たちは愚鈍の真似事をするのか」

 

「……あ?」

 

「いや、馬鹿にしているわけではないよ。ただ相手の実力も見極められないという勘違いを自らに課して生きる、これは単衣に国が悪いのだろう———君たちがそのように愚かな行いをするのは」

 

「俺たちを馬鹿にしているのか?」

 

 その十人の中の一人、赤い隈取をしている者、恐らく主格と思われる者が姫秀の前に現れた。

 

「そんなことはない」

 

「お前、名前はなんだ?」

 

「姫秀、名士だ」

 

 すると薄ら笑いが広がった。これだけ啖呵を切ったのがたかが名士であったと罵っているのであろう。南蛮刀を持った十人と腰に刀を一つ持った名士、そして文官の女。賊からすれば至極全うな思考である。

 

「名士風情が調子にのるなよおおおお!!」

 

 姫秀の横、そこにいた男は感情を昂らして真上から姫秀に刀を振り下ろした。完全に舐めた行動で姫秀がただの文官だと思い大振りで振りかかっているのであろう。だが間違えてはならない、姫秀は文官ではなくあくまでも名士だ。

 襲い掛かった賊は宙に舞って地面に打ち付けられて意識を失う前に姫秀がほほ笑んでいたのを見た。

 

「俺は姫秀、お前たちと話をしに来た」

 

「……できると思ってんのか」

 

「安心しろ、会話するのはお前らの親玉とだ。今は言語は言語でも肉体言語で話すからよ」

 

「——っは、やってみろ」

 

 砂利が擦れる音が一斉に鳴る、点々とした音は間隔狭めていく。それは姫秀の下に近づいているに他ならず、姫秀も遅めの抜刀を始めた。

 

「離れるなよ、盧植」

 

 はい——という間もなく姫秀は盧植を強引に抱きしめた。これにより片腕が塞がる。だが正々堂々でも真剣勝負でもないこの喧騒はそんなことを考慮することもなく進んでいく。

——姫秀の圧倒によって。

 族の頭である男。百舌と呼ばれる男はここら一帯の賊の一つを纏める若頭で、五百を纏める棟梁の側近であった。従軍経験はないが、虐げられそして危険の中に生きてきたため腕はそこらの人間よりもたつ。姫秀を目の前にしても、それが良い所の人間だとしても関係はない、身包み剥いで殺し、胸も大きく顔も美しいか弱い女は自分の物にしてしまおうと考えていた。

 だが、その男は片腕を塞ぎ、女を守りながら八人の攻撃を大して大きくもない刀で弾き、時には足を使って転ばし、そして一人も殺さずに掠り傷を負うこともなく、何事もなかったように男たちを平伏してそこに立っていた。

 

「盧植、怪我はないか?」

 

「……うん」

 

「——何者だ、お前」

 

 盧植は頬を赤くし、姫秀は微笑みを絶やさない。

 だが百舌は信じられないとも何とも言えない驚愕の無表情で彼を睨んでいた。

 

「只者じゃねえようだが、姫秀——陽鏡って奴か。なんでそんな奴がこんなに強え?」

 

「勘違いしているようだが俺は文官じゃない。武官でもないがそこらの有象無象に負けるような鍛え方をしてもいない」

 

「ふざけんな、将軍並の強さだぞ」

 

「ふふ、生憎朝廷に仕えたことはないよ」

 

 余裕綽々の姫秀と警戒心を多量に含んだ睨み浴びせる百舌。

 百舌は明らかに一人だけ南蛮刀とは違う直刀を抜いた。細くなく、南蛮刀にも劣らない大きさ、姫秀よりも頭一つ大きい彼と相まって威圧感が増していく。倒れながらも意識のある下っ端共は額に脂汗を掻いている、恐らく恐ろしいのであろう。彼が恐ろしいとは姫秀も感じていることなので間違いはない。

 だが、姫秀は全くそれを顔には出さないし、一番か弱い盧植ですら姫秀の後ろながら表情筋一つとして動かしてなどいない。

 それはまさしく胆力の証。ただの根性ではなく戦や死を、そして危険を巡ってきた将の証。故に恐ろしくとも恐ろしいとは感じない、考えない。

 そしてそれは百舌も同じであった。

 ——棟梁に比べりゃあ——

 

「俺に勝てば棟梁の所に連れて行ってやる」

 

「了解した。俺が負ければ身包みを剥いで名乗れ「我は名将姫秀を打ち取った義賊である」と」

 

「私のことも好きにしなさい。貴方の女にするのもいい、そこの男共で凌辱するのもいい、娼婦にして稼ぐのもいいでしょう。もとよりその覚悟はあります」

 

「……いい覚悟だな」

 

「君こそ。やはり賊には惜しい」

 

 百舌の直刀が姫秀に向き、姫秀は盧植を離して自身の柳葉刀を百舌に向けた。

 

 風切り音がブンっと鳴るころには百舌は右手で直刀を振り下ろしていた。無論姫秀もその頃には既に一歩下がり右足で百舌の顎を蹴り飛ばした。

 

「舐めやがる」

 

「俺なりの礼儀だ」

 

 スン——スン——という音が鳴るたびに姫秀は体を大きく動かした。百舌の猛攻はまさしくそこらの有象無象では太刀打ちのできない見事なものであった。乱雑に見えて太刀筋にはブレがない。それどころか大きな直刀を寸分違わず片手で振り回せているのは間違いなく彼の技量によるところであろう。

 

(すさまじい連撃だな、息をつく暇がない)

 

 と思いながらもそう全く顔に見せないのが彼の最悪足る所以である。

 文武において彼は間違いなく天才。

 

(決める)

 

 突然、姫秀は足元を取られた。中石が転がっていたのだ。おっと——そんな声を出して姫秀は思った、これは嵌められたのだと。初めに対峙した時よりも大きく場所が変わっている。彼の連撃と見せかけた誘導によって必然的に中石が姫秀の足元をすくったのだ。

 そして突然の振り下ろし。大振りではなく両手による渾身の一撃、確実に避けることは出来ない。

 

「すばらしい」

 

 不安定ながら足場を作った姫秀は百舌の振り下ろしに振り上げを合わせた。それはまごうことなき自暴自棄ではなく、姫秀がただ一つ狙っていた、そして初めて姫秀と百舌の刀が触れ合った瞬間であった。

 

「……」

 

「俺の、刀が」

 

 鍔の少し上、百舌の刀はきれいに真っ二つになっていた。

 

「太刀筋が奇麗故、斬らせてもらえた。俺の勝ちだ」

 

 すると金属音があちらこちらから聞こえ出した。倒れていた賊たちが再び刀を持ち始めたのだ。「ふざけんな!」「ぶっ殺してやる!」という怒声が飛び回る。姫秀はもう一度盧植を引き寄せて目を細くした。

 

「黙れお前ら!」

 

 そしてそれを掻き消したのは百舌であった。折れた直刀を拾い上げ、鞘に納めるとただ静かに顎で「付いてこい」と姫秀に向けた。

 

「頭!」

 

「うるせえ!俺は負けた、こいつらも危険性は背負っていた、なりゃ約束は守る。俺たちはクソみたいな賊とは違え!」

 

 一喝。

 その言葉で賊たちは一切の文句を言わなくなった。

 

 姫秀は思った。

 戦場で良く通りそうな威のある声であると。

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

「守るに安く、攻めるに難い。素晴らしい森だな」

 

「攫うに適してもいる、が?」

 

 はっはっは——と姫秀は百舌の言葉を流した。

 漢中から成都へ少し向かう途中の逸れ道、そこの獣道から歩くと道を知らねば迷い、息絶えることは間違いのない樹海。姫秀と盧植は隠れ家へ案内されていた。

 

「盧植平気か?」

 

「ええ、大丈夫よ」

 

「そうか」

 

 姫秀は盧植の肌が傷つかないように自身の羽織っていた物を盧植に着せた。彼は全く気にもしていないが盧植の頬は一瞬赤みを帯びた。

 

「……お二人は夫婦か?」

 

「違う、爛れた関係だ」

 

「な!?」

 

「ひゅー、羨ましいね。そんな美しい女性は中々居ないぞ」

 

「婚期を逃しただけであろう」

 

「なな!?」

 

 百舌と姫秀はクククと笑みを隠し切れず、口の端から溢れるように腹を抱えた。一方盧植は羞恥心で顔を真っ赤に染め上げ、近くにいた賊の下っ端が「き、気にしなくてええと思うぞ」と気遣われ、八つ当たり同然でそいつの背中に真っ赤な手形を刻んだ。

 

 と、姫秀と百舌にも手形は付けられた——頬にである——がそうこうしている間に百舌の足、姫秀の足が止まった。

 

「ここだ」

 

「——ほう。立派だな」

 

 恐らく木が大量にあったであろう場所、そこは一切を切り開かれ、代わりに吹き抜けから照らされる木造の隠れ家が構えていた。下手をすれば都の豪邸と同じほどの大きさ、薄暗いが陽の明かりで昼間は過ごせるだろう。外観に灯台があるので夜には光がつくと考えても違いはない。一介の賊には到底あり得ない隠れ家である。

 

「随分羽振りが良いようだな」

 

「家は俺らで作った。仲間には大工もいる、あとは振りまいた残りで賄っている」

 

「名前だけの義賊ではないわけだな。さすが廃れたとは言え都で狼藉を働く者達だ」

 

「……随分俺たちをかっているようだな」

 

「私は有能に目がなくてな」

 

「——ついてこい」

 

 百舌は一瞬言葉を失い。そして隠れ家の奥に入っていく。何人かの賊が百舌に頭を下げると同時に姫秀を見て睨みつけた。

 姫秀はそんな視線に気を取られることもなくただ、賊の人数を数えていた。

 

(少ないな……ここは本拠地というだけでいくつかの集団で分かれているのか)

 

「着いたぞ——棟梁」

 

「どうした」

 

「棟梁に会いたいという者を連れてまいりました」

 

「……通せ」

 

 一つだけ大きな引き違い戸。百舌が片膝をついて声をかけるとゴツゴツとした声ではなく渋く低い声が短く聞こえた。

 

「入ります」

 

 百舌が扉を開くとそこにはいい着物を着た額に一本線の傷がある、姫秀よりも若い人物が胡座をかいて座っていた。一見して賊の大将である。

 だが、姫秀は第一声、百舌の度肝を抜く言葉を笑顔で発したのだ。

 

「やあ、大きくなったなあ——姫望!」

 

「——邑秀……様」

 

 

 




賊はオリジナルです。次でどんな者なのか明かします。


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聖人前夜、乱世挽歌

高評価ありがとうございます。


 姫秀という男はどういう男であるか。

 そう聞かれたとき、彼の名前を知るものは口を籠らせる。それは曹操や袁紹や公孫瓚も一度詰まってから「不世出の傑物」と声を揃えるだろう。

 逆に彼を知るもの。水鏡や司馬家、荀彧などは声を揃えて「俗物で傑物」と言う。決して真面目ではなく、迷いもなく娼館に入る。書物を一晩で読み、片付けずに帰る。夜寝る時もあれば朝寝る時もあり、朝起きる時もあれば夜起きる時ある。

 まず彼と会い、多くの者は幻滅して本質を確かめずに帰っていく。

 

 彼。姫秀でなく、邑秀と呼ばれる時の彼がどういう者であるか。

 そう聞かれたとき、殆どの者が「誰であるか」聞き返してくる。だが、邑秀を知るものにその問いを聞いたとき全員が揃ってこう答えるであろう。

 

「聖人」である——と。

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

「——しら、——かしら!」

 

 姫望と呼ばれた男は百舌の声で意識を元に戻した。

 そしてその目先には紛うことなき彼の人物、名士姫秀がそこにいた。

 

「頭、知り合いですか?」

 

「……ああ、俺の名付けだ」

 

 盧植以下、姫秀以外が声に出さず、息を呑んだ。横目で見ている盧植はそのまま百舌と目を合わせると二人とも首を振った。

 

「都の吹き溜まりに居た時に世話してもらった、十年振りか……?」

 

「うむ、大きくなったな望。お前が盗賊を始めたと聞いて会いに来たぞ」

 

「な!?お前初めから知ってたのか!」

 

 ニッコリと姫秀は全て計算ずくであったという笑顔を百舌にイヤらしく見せつけている。

 だが、姫秀とは裏腹に望は警戒心丸出しでただ彼を睨んでいた。

 かつて助けてもらった深い恩、それが彼の中にはあるかもしれないが、今は一介の賊であり、大きな場所で悪行を働いている悪党。その自分の所に彼が、かつて自分たちの中では聖人と呼ばれた男が来ているということを客観的に見れば、それは最も賊としては避けたい重要な出来事に他ならない。

 

「邑秀様、何用ですか」

 

 できるだけ低く、望は姫秀に分かるように警戒心を向けた。それを受けた姫秀はその刹那の内に表情を一新させた。

 

「中々様になっているな望よ。ここで間抜けな面を見せれば帰るところであったぞ」

 

 その刹那に望は呆気を取られた。

 見通し済み。そして聖人であり、恐ろしいと畏怖された彼らの知る邑秀という男が望の記憶と完全に一致したのである。

 

「何用でございますか、邑秀様」

 

「いや、頼みがあってな。戦が起きるから私兵を持ちたい、延いては俺の下に付かないか」

 

「——え、は?我々が?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 遡ること十年前。

 ——なる前に姫秀と望の会合から半年後。姫秀は荊州に足を踏み入れていた。

 

 そこは誰かの屋敷であり、姫秀の隣には盧植だけがいる。

 当の姫秀は半年前に望と会った時とは違い、机に頬杖をついて限りなくだらしのない恰好をしている。仮にこれがどこかの太守であればすぐに追い出されるか打ち首にされてもおかしくはない。

 つまりこのような恰好でも打ち首にしない人物、彼はその屋敷にいるということである。

 

「遅い」

 

「しょうがないよ、貴方と違って忙しいのだから」

 

「煩い」

 

 盧植は姫秀に配慮することもなく深いため息をついた。半年前に彼について来てから一体何度目の溜息であろうか、それを考えるだけでも盧植は頭に痛みを覚えだす。彼についてきて全く不安はないが、余りに子供の様であり苦労が絶えない。悪い意味での子供でなく、至って全てにおいて彼なりの真剣であることもわかる、だからこそ彼女は苦言を呈すこともできないのである。

 

「お待たせいたしました」

 

 扉が開く。

 

「待ったぞ!」

 

「煩いわね、犬かしら?人語を覚えた犬がいるならばそれは素晴らしいことだけれども」

 

「人語を失ったとしても俺は犬と同列にはならん、まあ最低でも韓信だな」

 

「ふふふ、であるならまさしく邑文かしら?」

 

「遅いぞ水鏡」

 

 慈愛とは程遠いそして敬意や遠慮なども見え隠れしない籠る笑いが水鏡から零れた。

 姫秀と盧植の目の前に座る女。彼女こそ姫秀の師であり母であり友である水鏡こと司馬徽である。荊州に長年居座る名士、天下統一を成すことだけが必ずしも覇道ではないと説く、姫秀と同じように底が全く知れぬ人物。陽鏡という名前を姫秀に付けたのは彼女であるが、彼女に名を付けたのは龐徳公という人物で字を子魚、すでに他界しているが諸葛亮と龐統に名を与えたのも他ならぬ龐徳公である。

 

「お久しぶりです水鏡様」

 

「久しぶりね風鈴、子魚様のお葬式以来かしら?またお胸が豊かになって……邑文、いい加減彼女を貰ってあげなさい、初めては貴方なのだから」

 

「別に貰ってもいいが、俺は一人では済まさんぞ、いいのか?」

 

「私は何も言っていません!」

 

 水鏡は大笑いをしているが姫秀は風鈴ほど険しくないものの大して笑みが零れなかった。水鏡はわざと彼を笑わすために——盧植はたまったものではないが、わざとこの話題を持ち出した。だがそれは不発。

 それもそうである、姫秀は水鏡の前では笑わない、警戒心を解かない。それはまさしく彼が唯一油断できないと認めている証拠であった。

 

「それはそうと、かなり派手にやっているそうね。話を聞くたびに息が詰まるわ」

 

「風に乗らぬようにはしているんだがな、俺専用で間者でもつけてるのか」

 

「ええ、もちろんよ——あ、安心して二人の閨には入れないようにしてるわ」

 

「先生?喧嘩をお売りになっていますか?」

 

「よせ、こいつは俺を動揺させたいんだ」

 

 ほほほほほ、とわざと袖で口元を隠す水鏡。

 

「そんなことより、徐福を貰いに来た。寄越せ」

 

「あらあら、そんな態度じゃあげなーい。朝廷に差し上げるわ」

 

 ピキっ——と鳴ったように姫秀の額に血管がはしった。

 対して水鏡は意地悪い笑みを浮かべているままである。

 

 そして盧植はそんな二人から逃げるようにまるで二千年後くらいにHawaiiという島が大陸に近づいていく程の速度で立ち上がり、まるで二千年後くらいに鉄の磁石が高速で動く速さと同じくらいで部屋を出て行った。

 

 弟子の司馬懿曰く「子は怒ると数時間論述戦争を起こす」

 弟子の徐福曰く「子は最悪の笑みを浮かべて陽鏡様と対峙すると論述戦争を起こす」

 

「凡龍と凡雛を育て、麒麟こと徐福を蔑ろにした凡婆は言うことが違いますな。孔子と違い門を開くのは良いが、些か愚に堕ち過ぎだな。顔回は志半ば死に絶えたが優秀故に孔子も悲しんだそうだが、貴様はどうか?いたずらに才を遊び、朝廷とな?貴様の脳の門は留め具も壊れて風化しているようだな」

 

「あらあら。貴方だって彼女ばかり贔屓して、臥龍と鳳雛が凡人であるなんて極論にも程がありますね。少なくとも彼女たちは並ぶ才を持っている、だけれども徐福はこれからの伸びしろがあるの、世に出て使われ伸びる才、逆に臥龍と鳳雛はここで伸ばし、そして世に出て様々なことを吸収する。知恵と知識を混ぜて考えているのかしら?些か愚の骨頂だわ」

 

 盧植は少しばかりそこに居て大きく大きく溜息をついた後、笑みなどではない笑い声を出した爆笑を静かに行った。

 だが、それもそうは続かなかった。次に彼女を襲ったのは嫉妬心である。

 色恋の嫉妬ではない、文官としての嫉妬。彼と真っ向から数時間も対峙できる水鏡が羨ましい。的外れと分かりながらも彼の思考に完全についていけない自分が悔しかった。

 

 それは姫秀と関わる全ての才神が懐く心であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 数時間は帰れなくなった盧植は屋敷の者に許可を取り、広大な敷地を散策し始めた。水鏡学院と併設されている水鏡の屋敷、学院が圧倒的に大きいがそれでも全体の三割、そこらの城下町よりも大きい土地の三割が彼女の家。これはここに来ている貴族からの出資金に他ならないが、果たしてこれが汚い金かと言われれば安易に肯定はできない。

 貴族のみを学院に入学させているならばいざ知らず、ある程度の才覚者ならば平民であっても水鏡の許可さえ取れば同じ教育を学べる。汚い金が綺麗な物を作っていき、そしてその物や者がまた綺麗な何かを生み出していく。

 美しい河川を見て盧植は無意識に溜息をついた。

 

「あれ、盧植様」

 

 声を掛けられ気が抜けていたことに気が付いた盧植は急いで振り返る。するとそこには二つ結いの髪をした黒髪の少女、垂れ目というか今にでも落ちそうな眼尻で書物を前に抱えている。

 

「徐福?久しぶりね!」

 

「なんで盧植様が?……もしかして陽鏡様もいますか?」

 

「……なんで邑文がいることを知っているの?」

 

「だって雛里ちゃんも朱里ちゃんも出て行ったし、水鏡先生も黄昏れることが多くなりました。荀家も最近は荀彧様が仕官したと聞きます。

 ——戦が始まるのであれば陽鏡様が動くと思いまして、違いましたか?……また福は目測を誤ったのでしょうか」

 

 鍾乳洞の水滴が胸元に落ちてきたかのように体が震えあがった。

 水鏡はこのような者を二の次にしていたのか、と。だが確かに外に出て伸びるというのもわからなくはない。元々平民、平民でも最悪の平民の出である。ともなればこれほどのコンプレックスになってもおかしくはない、これならば外に出て自信を付けそして大となる。間違ってはいなかった。だが——

 

「いえ、全部正解よ。流石は徐福、邑文は今水鏡様の所よ」

 

「ほ、本当に陽鏡様が居るんですか!——ああ!どうしよう!まだ読んでない本が沢山あるのに!まだ書ききれてない論文があるのに!陽鏡様来るまでにって考えていた道具が完成してないのに!」

 

 持っていた書物を足元に落とすと、長い袖を振りあたふた。高揚して髪の毛を乱雑に掻き始めた。

 間違いがなく、彼女は姫秀への依存性を高めていた。水鏡の誤算はそこにある。

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

 

「邑秀?……邑秀ねぇ」

 

 疲労感を隠せないくらい論争を繰り広げた水鏡は立つのも座るのも怠く、ひかれた布団の中で盧植の問いに答えていた。

 ちなみに先程の論争は途中で徐庶が大量の書簡を持って姫秀を連れ去ったため勝敗付かずとなった。姫秀と盧植がいる部屋を覗いてみると恐る恐る、だが嬉しそうに表情を一転二転させる徐庶と頭を撫でて褒め称える姫秀の笑顔がそこにあったという。

 

「知っていますか?」

 

「ええ、十年前に都で有名になった聖人——若き日の邑文よ」

 

「十年前……」

 

「その望って者、恐らく邑文が助けた若者でしょうね」

 

「……邑文は何をしたんですか?——賊が五百人も言うことを聞くなんて——」

 

「……そうね、軽く昔話をしましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 都は今よりは平穏を保っていた。だが完全に崩れ始めたのはこの頃だったかもしれない。汚職の影響が直に民に与えだしたのはこの頃であった。

 

 姫秀は旅を終えて并州の屋敷で引きこもる生活をしていた。弟子を何人か抱え、儒学とは別の思想を思い懐いていたのだ。怠けていたわけではない、だが一人で青空の下思考に耽っていた。

 そんなある日彼を一人の若者が訪ねた。名もない平民、後に大成することもなく子を残し死んでいく只の民。姫秀は風呂に入らせて食事を与え、そして話を聞いた。

 それは都にできた悪い吹き溜まりのことであった。今でこそそれは変哲のない事柄としてそこにあるが、当時の都では考えられないことであった。だがそれが混沌を表している。朝廷はそれについて何の対策もしなかった、そこに回す金はない——と民の声を聴くこともなかった。そしてこの若者は噂に聞く陽鏡こと姫秀を訪ねてきたのだ。

 

 姫秀はいい機会だ、と思い荷物を纏めて都に向かった。

 そこで彼が見たのは地獄であった。

 

「これが……洛陽——か?」

 

「はい……これが惨状です」

 

「——そこらの村よりも最悪ではないか!朝廷はこれを放っているのか!?」

 

「はい、ですから姫秀様から朝廷の方へ——」

 

「そんなことに意味はない!」

 

 姫秀はその吹き溜まり。死体、汚物、残飯、みすぼらしい者、雑多な娼館、病気の者、それら全てが居る区画に足を踏み入れた。その一歩目は汚物を踏むことになったが彼はそれに気を取られることもなく、駆け出した。

 

 何時間か歩いているとそこは病気の温床になりつつあることに気が付く。だが姫秀は一旦帰ることを一瞬たりとも思いはしなかった。

 そして横たわるまだ息の少年がそこに居た。

 

「おい、おい!生きてるか!」

 

「……だ、れ?」

 

「私は、私は——邑秀という。君たちを助ける!」

 

「……無理……父も母も死んだ、誰も助からない」

 

「生きろ!」

 

「……」

 

 この子供が望に他ならないのである。

 姫秀は自分の羽織に望を寝かせ、腰巻で泥を拭った。

 

「なんで……こんなことを?」

 

「——俺が愚か者であるからだ、青空を眺め考えるのでなく、何かをしながら考えればよかったのだ!だから必ず助ける!他の者も全て!」

 

 姫秀は一度入り口に戻り、国を憂う者を集めだした。水鏡を頼り、曹家を頼り、都や周辺の村を頼った。彼は疫病の危険性を顧みず、殆ど単身にてこの吹き溜まりを浄化しようとした。

 だが都も勝手なことをすれば黙ってはいない。

 

「貴様、誰の許しを得た!」

 

「天の許しだ」

 

「な!?帝を侮辱するか!」

 

「これは天命である。尭帝に然り舜帝に然り——武王に然り。我はこの溜まり場「偽悪都」にこそ義と命と徳有り、そう天命を受けた。これを認めない者が入れば瞬く間に皮膚は爛れ落ち、やがて毒が心の臓にまで達する。だが数年は生き、苦しみのまま余生を過ごすことになるだろう」

 

 民衆はそれを恐れ、人はそれを恐れ、朝廷は扇動者として姫秀を殺そうとした。

 だが、幸か不幸か。民衆の一人が天然痘に罹ったのだ。それを聞いた朝廷は偽悪都を恐れ、関わりを絶った。

 これは姫秀が仕組んだ演技であり、こうして姫秀は偽悪都の浄化を進め、最終的には建物も立て直し、最小限の死人で事を収めた。

 

 天命を受けた聖人として、邑秀という人物は十年前洛陽に存在した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、これがあらましよ。彼唯一の美談だけれども、邑秀は彼でないものね、だから皆知らないのよ」

 

 水鏡は仰向けから横向きに寝返る。まるで盧植に顔を見られたくないように。

 

「邑文はだから本物なのよ」

 

「本物?」

 

「……ええ、私が様々な人間に手伝うように言っている間、彼は現場で泥まみれになり、私は浄化後に邑秀を崇める、死にかけていたはずの民の笑顔を見る。一体何なのでしょうね」

 

 盧植は誰もが到達していない哲学的真理の問いに答えることは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

「で、どこへ?」

 

「并州に戻る、兵には并州の屋敷で集めるように言ってあるから」

 

「そうじゃないわ、どこに仕官するの?」

 

「……決めてない。決めかねている」

 

「そう。貴方らしいわ。久しぶりに楽しかったわ、一ヶ月も貴方と居たのは十年振りだったわ」

 

「ああ、俺も楽しかった」

 

「……ふふ。貴方が遂に動くとなれば本当に時代の変わり目ね。火奈も長くはないし、縁も体調が良くないそうよ。

 ——誇りに思うわよ、邑文」

 

「——ああ、莱。俺も大好きだぜ」

 

 

 水鏡と陽鏡、司馬徽と姫秀、徳操と伯道、莱と邑文、生涯の別れではないがこの日を境に二人は乱世というものに混ざっていくのであった。

 




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酔いつぶれと管輅

 

 

 

「棟梁、本当に信用できるんですか」

「またか、何度目だ」

 望と百舌、その後ろには百を超える屈強な戦士達が続いている。森の中を歩く賊共、だがその表情には不満や不安が見え隠れしていた。

 それは他でもなく姫秀の所へ行くことを望が決めたからである。

 無論反対する者は多い、だが望の決めたことに付き従う。絶対とは言わないが殆どのことならば不満があっても従う。いつか限界を超え散り散りになる可能性もあるが望はその危険性を犯しても并州へ道を進んでいた。

「まだ完全に受けたわけじゃねえよ、とりあえずあいつの所に行くだけだ」

 無理やり「あいつ」と言ってみたが望には「邑秀」という聖人像がどうしても崩れなかった。

「それにあの人はこんな単純な人じゃねえ」

「っていうと?」

「あの人はもっと複雑な言葉で人を引き付けるのさ」

 并州まではあと少し。

 姫秀達が荊州を出る少し後の小話であった。

♢  ♢  ♢

 今現在姫秀の下には盧植、徐庶の二人が付き従っている。望に来いと言うだけで賊が御せるとは勿論思ってはいない。仮に従わせることは出来てもそれは兵ではなく傭兵に過ぎないであろう。

 そんな思考に耽っていると姫秀は徐庶から息抜きに予言の話を聞いた。

「管輅が?」

「はい、なんでも「白き天の御使いが流れ星と共に現れる」と、正確な文言ではありませんが……」

「……管輅ちゃんねえ」

「評判は良くないのですか?」

 盧植が首を傾げると徐庶はすかさずそれについて言及した。預言者管輅——とは名ばかり、実際は当てたことは一度もない。徐庶はすぐに「すみません」と卑屈になるが、二人は姫秀の顔を見て驚きを隠せなかった。

「まさか信じてるの?」

「……管輅は本物だよ。寧ろ偽物と言っていいほどに——くそ、水鏡の奴はこの情報掴んでいたはずだ、俺に教えないとは!」

「陽鏡様は管輅殿とお会いになったことが?」

「……ああ、預言じゃないが色々当ててきた」

 グッと姫秀の握りこぶしが収縮した。夜空の下篝火の前で照らされる彼の顔はこの旅が始まって以来の険しい顔である。

「どう動くか……水鏡は何故俺に教えない……なんだ……」

「——それは陽鏡様とは関係がないのではないでしょうか?」

 ポツリと口にしたのは徐庶。すぐに口を塞いだが、姫秀の表情はまるで豆鉄砲を食らっていた。

「どういうこと?」

「ですから、先生は陽鏡様に関係のないことだから言わなくていいと思ったんじゃないですか?会う必要がない、気にする必要がない……から——あう、ごめんなさい陽鏡様、頓珍漢な事を言いました」

 抱えていた本で顔を隠し俯いた徐庶の肩を叩くと姫秀は徐庶を抱きしめた。

「いや、その通りだ。何を不安になっていたのだろうか。ありがとう幸普、流石俺が認めた才神だ!」

 目をばっちり開いた徐庶はそのまま頬を、そして全身を赤くしてそのままで寝た。

 

 徐庶を盧植がゆっくり寝かすと土を払って盧植は篝火の前に再び座った。

「じゃあ天の御使いは無視して并州で良いのね?」

「いや、俺は寿春に向かう。風鈴は先に并州へ向かってくれ」

「……虎かしら?」

「そうだ」

 盧植は小さく頷いて立ち上がると徐庶の隣に横たわり、程なく眠りについた。

 一方姫秀と言えば、顔の前で手を組んで思考に耽っていた。

 主な思考は三つ。

一つは天の御使い。流れ星と共に来る御使い、この予言の正確な文言を知りたいと考え、更にはどこまでが比喩なのか、どこからがそうでないのか。仮に比喩であれば山から下りてくる、突然現れるなどの意味を持つが、文言のままを取れば「空から降って地上に下りる」ということになる。仮のそうであれば間違いのない天の御使い。だが、この国には皇帝という「天子」つまり天帝が遣わした天の使いが既に存在している、これを朝廷がどう考えるのか、天の御使いに関する当面の問題。

 二つ目は水鏡の立場。傍観を気取る人間が少しばかり表に出てくるしかなくなった、姫秀もその一人であるが水鏡も門外ではない。滅びゆく朝廷に何かを成せるというのは引導しかないと意見の一致した二人はそれまでに色々な物を蓄えてきたわけであるが、水鏡は姫秀に全てを任せたと言ってもよい。

だからこそ旅に付いてこないわけであるが、だからこそ何故情報を与えなかったのかが不思議なのである。勿論徐庶の言うことは九割九分九里合っている、だがあと一里の誤差を見極めることこそ思想、哲学の原理である。

 三つ目は他ならぬ管輅についてだ。

 決して語られない姫秀と管輅の間にあった会話に彼の疑問、そして恐怖がある。

 

「ねえ、この世界がこの世界で無かったらどうする」

 

 管路は姫秀の問にこう答えたのだ。

 一方姫秀の質問は。

 

「誰が国を建てるだろうか」

 

 この一見頓珍漢な返答を姫秀は最大限の恐怖をもっては質問を返す。

 

「貴女は

 

「貴女はどこを見ていらっしゃる?天か、道か?」

 

「貴方が見ていないところを見ています」

 

 姫秀はそれが全を表していることに気が付いた。

 一見占い師の戯言にも聞こえるが、姫秀は管輅を認めている。そんな管輅が妖術師紛いのこと言うということはまさしく真実味を帯びているのであろう。姫秀は冷や汗と共に苦い表情で管輅を凝視した。

 

「では貴女は何故表舞台に出てこない」

 

「私の天命ではありませんので」

 

 絞り出した問いもすぐに返されてしまう。まるで――いやまさに全てを見透かしていると言わんばかり。姫秀は観念の内に認めざるを得なかった。

 

「ですが」

 

 と、管輅は苦渋を噛みしめている姫秀に最後の言葉をかけた。

 

「私が分かるのは流星までです」

 

 

 姫秀の思考は今完成を迎えた。

 あの時に管輅の言っていた言葉「流星」それが白き天の御使いを指した言葉なのであれば姫秀は漸く分からないことに関する思考を一つ取り除くことが出来る。

 後は姫秀の独壇場、問いの答を求め続け、そしてそこにたどり着くことを可能にする能力、自ら全てを行っていく正に「陽」に相応しい思考、思想。彼の陽鏡足る所以は自ら照らしていくだけではない。

 

「……朝か」

 

 朝日昇る暁の空。篝火は消え、風で飛んでゆく炭だけが姫秀の頬を掠めていく。

 

 朝、陽が登るまで考え続ける男、それが姫伯道、陽鏡である。

 

 

 

 

 

♦  ♦  ♦

 

 

 

 

 

 

 姫秀は黄巾の乱から逆算して一年前、寿春の酒場でこの店の酒を約三日間で半分ほど飲み干していた。あれ以来全く皆と合流していない彼、何故ここで酔いつぶれているのかと言えば他ならぬ虎、孫堅を待ち続けている。

 なるべく内密に、かつ自分が姫秀と気付かれないように酒場でただ酔いつぶれていた。酒豪と呼ばれる人間が孫家には沢山いるが、長女や老兵は袁術に仕えているためこの寿春の外れには誰もいない。孫堅すらいないが、酒豪が居ると分かれば身の軽い彼女は確実に来る。

 と、考えはしたものの彼女は中々姫秀の前には現れなかった。

 すでに盧植と別れてから半年が経過している。彼は彼女たちと合流し、望たちを説得して黄巾に備えなければならない役目があるが、頑なに孫堅を待ち続けていた。

 

 流石に半年も待てば誰かの耳に入る。

 

 

「全く、誰かと思えばお前か」

 

「俺だぁ、遅いぃ」

 

「大丈夫か、私が誰だかわかるか?」

 

「んー、呂望!」

 

「……」

 

 客が居なくなるほどに酔いつぶれた姫秀、机や椅子は壊れて食器類も割れている。

 

「そ、孫堅様……」

 

「あーよい、私が連れていく、修理代は後日な」

 

 孫堅は片手で軽々と姫秀の肩を持ちあげ、背負った。体格差はそこまでないのにも関わらず姫秀を持ち上げた筋力はその細腕からは考えられなかった。

 

「全く、何故こんな回りくどい誘い方をするものか」

 

 深夜、酒場はまだ賑やかであるが、そこから少し離れれば昼間は喧騒に塗れている街も月夜に照らされて静かである。

 孫堅の耳に入るのは自分の足音、虫の声、そして姫秀の寝息である。

 

「数年ぶりにあった男を何故背負って家に連れて帰らねばならぬ」

 

 それほど豪勢でもない屋敷に戻り、自分の寝床に彼を寝かせると孫堅は一息をついた。

 実は急いで自分の街へ戻ってきたのだ。

 娘に家督を譲ってから迷惑をかけないように隠居していた身であるため、偶々荊州の近くにまで足を延ばしていた。そこで自分を探している者の話を聞きつけ、酒場に来てみると数年前ふらりと酒盛りをして孫家の行末を語り合った友が酔いつぶれていた。

 

「三日三晩呑んで酔わなかったお前が酔うとは。一体如何ほどの酒を平らげたのだ?」

 

「桃水じゃあああ~」

 

「阿呆めが。馬鹿らしい」

 

 孫堅は布を無理やり被せると数秒の内に姫秀もおとなしく規則の正しい寝息を立てた。

 

「あれだけの酒を飲んで鼾もかかないのか、なんという男だ……しかし」

 

 その先を孫堅は飲んだ。

 この男が自分に会いに来た理由を考えたためである。

 

「近頃は大した情勢もわからんし……孫家の助太刀にでも来たか?」

 

 孫堅は姫秀の寝顔を見て回顧した。

 数年前に酒場で喧嘩を売ってきた彼と酒盛り勝負をして引き分けた。それからというもの事あるごとに勝負をして、そして何時しか彼と孫家の行末を論じていた。今思えば相手が姫秀と知らなかったころに孫家の行末を話すのは相当良くないことだ、ただの民に言っていい愚痴ではない。別れ際に彼の正体を知ったのであるが、それから孫家の在り方が変わっていったともいえる。

 孫堅が隠居を始めたのは他でもない命の為、誰でもない自分の命を守る為。影響力の強い孫堅は暗殺の危険性があった、それを指摘され彼女は娘に家督を譲ったのだ。

 その指摘を一度は払った。だが、姫秀は「外界に対する影響力はなくなってもいい。しかし君の言う孫家には君という人物が不可欠だろう」と。死を賭すのではなく、生を求めろと姫秀は武人である彼女に説いた。

 

「今ではその通りでしかないな」

 

「炎蓮……か?」

 

 視線を落としてみる、するとどうやら意識を取り戻した姫秀が目を瞑っていた。

 

「おはよう」

 

「頭痛え」

 

「飲みすぎだ——というより、弱くなったか?」

 

「かもしれん」

 

 ゆっくりと体を起こす姫秀の顔色は最悪だ。吐き気を催すようには見えないが眉間に皺が寄り合っている。頭痛の証拠だ。

 すかさず置いてあった水を孫堅が渡した。

 

「すまん」

 

「ふん……で、何の用だ」

 

「……」

 

 水を胃に流し込み、一息ついてゆっくりと目を開いた。

 

「頼みがある」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 時は進み、そこは中原の陳留。その城に座しているのは他ならぬ姫秀が勝手に認めた奸雄こと曹孟徳である。

 報告会を兼ねた軍議、半年前とは比べ物にならない程人材も増え、有能武将、文官のみならず、下っ端に至るまで数はおろか質までも向上していた。それと同時に経済も停滞することなく確実に拡大、陳珪、陳登親子、そして内政面では姫秀の弟子である荀彧、荀攸が腕を振るっていた。

 それだけではない。玉座の間に並ぶは夏侯惇、夏侯淵姉妹に曹一族の曹仁、曹純、曹洪。許緒、典韋、徐晃、楽進、李典、于禁など。層々たる武将が戦に備えている。

 

「桂花、物資はどうなっているの」

 

「はっ、華琳様。兵糧の準備、武具の配備など一切の抜け目はありません」

 

「そう。秋蘭、編成はどうなっているのかしら?」

 

「はっ。問題は一つとしてなく、万全の状態であります」

 

「そう」

 

 ただそこに座るだけ。それだけで大きくも朝廷に比べれば小さい玉座がまるで覇王の座る王座に見える。しばしの静粛に息を呑む音が連鎖を起こす。

 曹操が見ているのはどこでもない先、この黄巾の乱ではなく、更に先。いつか——いや、今も見ている平和という夢——いや、これは夢などではない。自らの力で作る現実。

 阻むものは踏みつぶす——奸雄は奸計を施すことなく、ただ真っ直ぐ覇道を歩く。

 

「華琳様……」

 

「どうしたの桂花?なにか言いたいことがあるならはっきりと言いなさい」

 

「いえ……」

 

「なんだ桂花、華琳様に隠し事でもあるのか?」

 

その夏侯惇の言葉に荀彧は鋭くきつい視線を送った。案の定曹操から「隠し事があるの?」

と意地悪な言葉を貰う羽目になる。すぐさま否定はするが、彼女は言いたいことが胸にあることを見透かされてしまった。

 

「け、懸念なのですが」

 

「あら、先ほどは一切の抜け目がないと言われたけど?」

 

「い、いえ!物資の問題ではなく……」

 

「いい加減にしなさい。怒らないからはっきりと言いなさい」

 

「は、はい。その——」

 

 荀彧は一度大きく息を吸い、そして大きく息を吐いた。

 そして意を決した。

 

「陽鏡の姫秀についてです」

 

 曹操の眉毛が痙攣したように家臣一同は見えた。

 そして次の瞬間、曹操は笑みを浮かべて言う。

 

「引き籠りの双鏡、その片割れである天才姫秀。または名士の筆頭、聖人——その陽鏡がどうしたのかしら?」

 

 まるで獲物を狙う猛獣の眼光、姫秀の名前を出す彼女はそう見えた。

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

 

森、その森に犇めくのは雑踏である。似つかわしくない光景、そこに一人の傾奇者が現れた。すると元の姿を取り戻したかのように森は枝擦れの音を奏でた。

 

「よう、待たせたな」

 

 一人として返事はない。

 だが姫秀は、笑って言葉をつづけた。

 

「お前ら——覚悟くらいは持ってきたよな?」

 

 一人として返事はない。

 

「上等。仕上がったお前らの怒り、俺が説き伏せてやる」

 

 

 




サボっていたとは言わないでもらおう。


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姫を持つ者、その旗の一族

「遅れてきて随分な言いようだな?」

 

「やあ、望」

 

 そこには大きな岩にふんぞりかえっている棟梁こと望、百舌と手下数百人。一同の視点は同じところを指している。そして表情は険しく。割と開けているとはいえ森林の中である為木々の間に敷き詰まるように彼らはそこにいた。

 

「聞いていた時間よりも大分遅いじゃねえか。流石に許容できないぜ」

 

「棟梁が信頼できるって言うから俺らは来たんだ、その棟梁がこれなら俺たちも同じ考えだぜ」

 

「邑文」

 

 大きな胸をぶら下げた女性盧植、その後ろには徐庶が控えている。

 

「流石にこれはないわ。私はともかく、彼らを蔑ろにしたこの状況は擁護できない」

 

「……まあ一理あるな」

 

「一理——」

 

 盧植。いや、それ以外の不平不満を遮るように姫秀は右手を只振るった。彼らを包み込むのはもっぱら葉擦れの音と鳥だけである。

 姫秀は言い訳というものを道中考えて馬上で揺られていた。

 言い訳は至極簡単、そして簡潔であるが。それを提示したところで心中というものは御せはしない。理解することと納得することは別であり、二つが共存することは出来ない。あくまでも理解から過程を経て納得という結論に至る。

 納得させるのは簡単ではない。だがそれは理論によって納得させる場合だ。

 感情を以て納得させることは裕に難しいことではないのだ。「謝罪」と「内心の開放」をすれば情を抑えられる。そして姫秀にも勿論大きく遅れてしまったことに対する謝罪の心というものはある、決して偽りの謝罪なのではない。

 

 だが——だが、というものである。姫秀は今まさに、憤りを隠せなかった。

 

「はて——盧植——?」

 

 胸を突き抜ける冷気、盧植は他ならぬ見透かされた何か、恐怖を感じていた。これは知者特有の物。所謂「完全なる説教」というものを盧植は雰囲気で感じ取った。

 そしてそれは目の前の男姫秀から。一度たりともそういうことをしてこない男が、今自分に怒りを向けている。

 

「はて盧植。今君は「私はともかく」と言ったか?それは一体どういう意味だろうか?私としては「彼らはともかく」「君は」と言いたいところなのだが?」

 

「……どういう意味よ」

 

「彼らはともかく。君は何故「何もせず、この空白の時間を、只私を待つだけの時間に費やした」のだろうか?それは無能のやることだ。君は塾で先生が来ないから勉強をしないのか?」

 

 盧植は汗を掻いた。その理論はいくらでも突くところはある。

 そもそも何も方針がなく、大将が姫秀である、その大将が来ない、これから戦争をするのか、仕官するのか、いったい誰がこの賊を御すのか、それは所縁のある彼にしかできない、調練をするにも物がない。

 その他、盧植は思いつくものを思った。だが口には出さなかった。

 ——それはただの口上で、真に責められているのは。「使える時間」を全く有効に使わなかった点であり、後ろに隠れている徐庶を使わなかった点である——

 

「賢い君ならわかるだろう、私の言いたいことが。待たせた件について全く私には弁解の余地がない。謝罪しよう、その件もしっかりと話し合う。

 だが、君は何故——彼らと同じ側に立っているのだ?後ろの徐庶を何に使った、君の頭を何に使った?できないことをやれとは言わない。だができることはやれ、怠けて腐ったなら帰りたまえ、朝廷と同じならば必要ない」

 

 毅然として対峙している盧植の心はズタズタであった。すでにその毅然も張りぼての板でしかない。後ろに隠れている徐庶の方がよっぽど強い。

 さらに何か言われれば盧植は泣き出してしまいそうであった。

 

 姫秀は聖人であり、才ある者が最も尊敬する賢者でもある。その姫秀に真っ向から否定されるの、謂わば神なる者から「お前は必要ない」と言われるようなものだ。

 これは姫秀が人に説教をするなどといったことを聞いたことがないせいでもあり、姫秀が説教をしない原因の一つが関係する。

 姫秀は知者の愚かしい部分を否定しない、その代わり訂正をする。限りなく穏やかに。また知恵や知識を持たない人間を馬鹿にすることもない、むしろ教えを施す。

 

 だが、例外として知者であり、知恵と知識を持ちながら義務を果たさない愚者とは会話をしない。

 陽鏡曰く「論ずるという概念を持たぬものと論じても、包めることも包められることもなく、破することも破させることもない。そこに必要なのは言葉ではなく、沈黙である。

 しかし、知を得ようとするならばそこに必要なのは沈黙ではなく、言葉である」と。

 

 他でもない、盧植が姫秀と知り合う時に聞かされた言葉である。

 

 人々は、盧植は姫秀に承認欲求を求める。否定されれば論の余地もなく、心が荒む。

 だが——

 

「陽鏡様、それは詭弁です」

 

 徐庶は違った。

 

「私たちはこの方達をここに「留まらせる」という役目に力を注いでいたのです。もちろん他にもできることはあったかもしれません——いえ、ありました。ですが、明日には陽鏡様が来る。そういう確率的な考え方を広め、共有する以外に彼らをここに置いておく手段はありませんでした。それ故私たちはここで姫秀様を待っていたのです、胡座をかきながら」

 

 徐庶の論には一理があり、そして綻びがある。姫秀の論を突破することもできるが、盧植が責められていることには言及できていない。

 だが、本をただせば姫秀も同じである。

 盧植は否定されたくない故に反論ができないだけで、反論の余地などはいくらでもあった。そして徐庶にはそれを指摘することができた。

 

「すべてに置いて陽鏡様は弁解しないで下さい。我々の努力が報われません、どうか彼らに謝罪してください」

 

 「必要なのは論ではなく、この場合は言葉と沈黙です」と付け加えた。

 言葉は謝罪を意味し、沈黙は全てにおいて目を瞑れ。という意味であろう。その言葉を付け加えた後徐庶は数拍置いて「あ……も、申し訳ありません。多分頓珍漢です……」といつものように俯いて顔を隠した。

 

「……」

 

 しかしながらそんな徐庶の発言に姫秀は「沈黙」した。この場合の沈黙はそのままの通り返す言葉がない。ということであろう。息を吐いて大げさに頭を掻きむしった。

 

「……まず雰囲気を悪くして済まない。そして大幅に予定を遅らせた、遅刻して申し訳なかった。この通りだ」

 

 深々——それ以上、頭を床ならぬ土に付けた。

 

「そこでだ、とりあえず謝罪の気持ちとして——」

 

 立ち上がり、荷台の布を取る、すると感嘆の声が上がった。

 

「酒、食料、娯楽品。そして」

 

 姫秀は黙って望を手招きした。怪訝な表情で荷を見た彼は額に脂汗を掻いた。後ろに居た百舌が「何なんすか?」と覗いてくるとすぐさま腰を抜かし、声を漏らしたのだ。

 

「——金だ」

 

 「かね」ではなく「きん」と彼は呟いた。

 山賊たちは問答無用で駆け寄る。

 

「やめろ!」

 

 望の一声で沈黙が走る。

 

「あんた、何するつもりだ」

 

 姫秀は口角を上げた。

 

「まだなんも決めてない」

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 流石山賊というべきか、金を見せればすぐさま謝罪を受け入れた。

 早速仕事として武具の調達と伐採、拠点作り、今後の方針は置いておいてまずは家を作ることにした。

 姫秀としてはまずやっておくことがあったのだ。

 

「風鈴」

 

「……邑文」

 

「抱きしめてやるから泣け」

 

「やめ——」

 

 誑し。天才誑しの姫秀。

 言うべきことの前に行動にて示す。理論的であり、彼としては本能的に行っている。誑しではあるが人でなしではない。少なくとも誰にでもやっているわけではない。

 

「いいか、これから俺は海原に出るんだ、生半可なことではやっていけない。世間は俺を天才や英雄と言うがそんな奴はいくらでもいる。驕ればそいつ等以下だ。

 風鈴。お前にはやってもらうこといくらでもある。それは福もそうであるし、桜那もそうだ。俺に失望されたくないのであれば全力を尽くせ。

 だけど——俺に失望されたくないというのであれば、それは俺にとって必要ではない」

 

 

 ゆっくり、ゆっくりと姫秀は盧植を体から離した。

 

「理解したか?」

 

「——うん、理解した」

 

 遠くで宴会の声が聞こえる。徐庶と賊たちが顔を真っ赤にし、そして腕を組んで歌っている。どうやら同郷の者同士であったらしい。まだ幼い徐庶、籠の中に居たせいではしゃぎ方を知らないのであろう。赤い顔は同時に輝いている。

 ふとした時、盧植が姫秀から離れた。赤い頬は徐庶とはまた違う赤みなのだろう。

 

「私も混ぜろー!」

 

 一瞬笑顔を姫秀に向け、そして叫んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 青い旗。それを背にした金髪の奸雄は万全な体制のままある懸念を抱えていた。

 

「姫伯道……」

 

 少し前に家臣である荀彧から姫秀のことを聞き、それ以来彼のことが片時とも頭の隅に置かれている。

 男嫌いの荀彧が唯一認める天才。聞き及んでいる通りの才であるが、噂に聞く人柄ではない。

 曹操は父から幼き頃にあったことがあると聞いたことがあるが、もちろんその記憶も無く。彼女の持つ印象は「才はあるが怠け者であり、面倒くさいことはやらない者」であった。

 だが、荀彧は「勉強熱心且つ、国の行末を常に考え続ける天才」と評した。

 その不可解な評に曹操は興味をまず懐き、そして——姫秀が欲しいと考えた。

 

 しかしながらそんなことを些細な状況にする懸念がそこにあった。

 

「陽鏡の動向が掴めない……問題ね」

 

 荀彧の一言「アイツが動いたらしい」——この言葉には彼の名を知る者を黙らせるには十分すぎるほどの効果を発した。

 特に文官系の人間が動揺していたのが玉座から見て良く分かる。状況が分かっていないのは脳筋筆頭の夏侯惇と許緒ぐらいだろう。同じ武官である夏侯淵は何か神妙な表情で顎に手を当てている。

 曹操自身も心の内がざわつく、今でこそ頭を悩ませているが聞いたときは心が躍っていた。

 

「華琳様」

 

 寝室の外から聞こえてきた高いとも低いとも言えない甘い声。夏侯淵の声であると彼女はすぐに分かった。要件まで見当をつけることは出来ないが、夜の時間に寝室へ来るのであれば秘め事しかないであろう。

 

「入りなさい」

 

「はっ」

 

 蒼色の短い髪、姉の夏侯惇とは性格も風体違う。顔は似ているがまるで違いを付けているように容姿に差があった。曹操としてはそれはそれで変化を楽しめているので良しとしている。

 

「どうしたのかしら?」

 

「……実は陽鏡の事で」

 

「陽鏡?貴女も何かあるのかしら?」

 

「はい……実は私が数年前に師事したことのある旅人がおりまして。桂花の話を聞くとその人物と瓜二つ、考え方も聞いた容姿も同じようです」

 

「……それは前に話した「志の師」という者の事ね?」

 

「はい」

 

 夏侯淵が十の頃に出会った旅の者。雑多な感じを醸し出しながら身なりは良く、町の外れで手芸品を売りながら路銀を稼いでいた。初めて見た時から何かの魅力に憑りつかれたように夏侯淵は彼を見ていた。

 

「どうしたのかなお嬢ちゃん」

 

「ふむ、何故貴方はそんなものを売っている?」

 

 旅人は何を言うこともなく瓶の中にある菓子を取り出した。

 

「あげる」

 

「……施しは受けない」

 

「おや、僕は下賤な者扱いか」

 

「……もう一度聞くが貴方はここで何をしている。身分の低いものではないだろう?」

 

「……深い洞穴があったとしよう」

 

「は?」

 

 旅人——姫秀は瓶の中身を全て出すとそれを横向きにして洞窟に見立てた。

 

「この洞窟に皆住んでいるとしよう。この穴の中には何もなく、蝋の火が我々の影を作り、壁を照らしていた。表情だって良く見えない。

 君はそんな生活どう思うかな?」

 突然投げかけられた問い。若い夏侯淵はこの者が知識人であることを既に見抜いた。そうでなければこのような問いは思いもつかない。

 

「これは今の朝廷を表しているのか?暗く、光もない、だがそこで平然と暮らしている。だが穏やかではない、まるで蠱毒だ」

 

「はは、すごいね。じゃあどうすればいいのかな?」

 

「瓶の外に出ればいい。全員出れば解決する」

 

「どうやって全員を此処から出すんだ?」

 

「一人が出て戻り——戻り……」

 

 彼女は拳に力を入れて歯ぎしりをした。

 

「一人が洞窟から出て、二人が洞窟から出て外の景色を見て言う「外は凄い、海もあれば山もあり、人の顔も分かる」だが洞窟に居る人間にとってはそこが安住「お前は頭がおかしい」と言われる。勿論半分の人間が外に出れば革命が起きるだろう、戦争も始まるがね」

 

「ではどうする、どうやって朝廷を正す!」

 

 張り上げた声に呼応するように甲高い音が辺りに響いた。瓶が割れた——いや、瓶を割ったのだ。姫秀がである。

 

「こうすればいい。分からない奴というものは必ずいる、全ての人間に意思と言葉があると思うな、志があると思うな。理解できると思うな——その代わり、夏侯妙才、君は意思と言葉と志を以て理解したまえ。それが主君への忠義に成る」

 

 

 夏侯淵と姫秀の出会い、一ヶ月間夏侯淵と姫秀の師弟関係が結ばれた時であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 物資と拠点、準備の準備がすべて整った。

 姫秀は一際大きい岩の上に座っている。

 

 あれから二か月。黄巾の乱から遡ってもう一年もない。具体例もないまま過ごしていたため焦燥感は全く感じられない一同の集会であった。

 

「よーう。お前ら、遂に姫秀軍の発足式だ」

 

「発足式っていうが、俺たちはまだ詳細も何も聞いてないぞ」

 

 望と望の後ろに居る者たちに猜疑心はもう存在していない。

 二か月間互いに互いの事を親睦によって深めた。それは酒であり、賭場であり、女であり。いけ好かない野郎と思っていた賊たちも今では姫秀を「邑さん」と親しみを込めて呼んでいた。それは自由主義の彼であり、賊のような人間である彼でこそ出来た行いだろう。

 そう、今賊たちが懐いているのは「不安」であった。

 彼らは戦闘狂ではない。略奪は生活の為にやっているに過ぎない。そんな彼らは「戦争」という文字に怯える異質な民でしかない。

 

「そうだな……よく聞け」

 

 姫秀は見下ろすようにそこに立った。

 

「これから戦争が起きる。そして朝廷は潰れる」

 

 誰かの唾を飲む音がした。

 

「それは連鎖的に戦争が起きていくということだ。所謂「群雄割拠」かつての劉邦のように、民が選び、そして英雄が王、帝になる。

 それは俺かも知れない、違う人間かもしれない。

 それを見極めるために俺は俺の軍を作ろうと思う。最大で千人、それ以上は増えることのない精鋭、そして必ず俺についてくる軍だ」

 

 反応は無かった。

 姫秀にとってそれは予想の範囲であろう。

 

「軍足りうるには調練が必要だ。これからは槍や剣、弓、馬。これの訓練をしてもらい、我が姫秀軍としてお前たちには働いてもらう」

 

「……アンタに命を懸ける利点は」

 

 どこかの誰かがそう言った。

 金ではない、命を懸ける。傭兵であれば金で動くだろう。だが、姫秀は「命」を懸けろと言っている。そして彼らは傭兵ではない。手練れではあっても賊でしかない。彼らは望が頭であるから、姫秀が邑さんであるから今ここに居るのだ。

 彼らは金に命を懸けているのではない。命を懸けられる人の命に自らの命を懸けているのだ。

 

 そんな彼らの声に姫秀は自身の心を以て答える他ない。

 

 ある旗を掲げた。そこには「姫」の文字が刻まれていた。これが曹操軍であればこの旗に命を懸けるものもいるだろう。まだこの旗にはその効果はない。

 

「邑文?」

 

 その光景に盧植は疑問を抱いた。

 姫秀は自らの旗に筆を入れたのだ。

 

「俺は———————だ」

 

 後ろに靡く旗、後光が彼と旗を、風が彼と旗を。

 

「————を受け継ぐ者だ」

 

盧植と徐庶、知識のある者は顔色を変えていった。

 

「この血と旗、そしてこの土と我が」

 

 天がまるで祝福しているかのような光景、神々しいとはこういうことか。宗教的神々しさを姫秀に見出す、それは姿と言葉、彼の名に。

 

「——我が名、この姫の文字と周の文字をお前らに捧げる!文王から続き武王と始まり我に続くこの名!

聞け者共!お前たちはそこに居る雑多な天子ではなく、かつて天から地上を収めるように言われた一族を前にしているのだ!

聞け者共!私は全てを捧げる、私は空っぽだ!哀れだ!天からもらった徳など一つもない!

聞け者共!————哀れな俺に命をくれないか?」

 

 姫秀初めての号令である、その正失は表情を見れば明らかであった。

 

「さーて、とりあえず飲むぞ」

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

「全く、欲しくて仕方ないわ。どうすれば手に入ると思う?——一刀?」

 

「俺に聞かれてもなあ……」

 

 白き天の御使いは青と混ざる——

 




更新していきたい。

誤字があれば修正の報告をよければ・・・・・


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邂逅

 曹操は聡明なる臣下を連れ潁川にいる黄巾を蹴散らし、豫洲もあらかたの黄巾を排除していた。といっても全国に散らばり、そして多くの兵を持つ黄巾族はそう簡単にはつぶれはしない。

 連合軍は冀州にいる張角を叩くべく、一同そこへ集まっていた。

 曹操はもちろん、冀州の袁紹、豫洲袁術、官軍。そして義勇軍である劉備。兵力では黄巾の勢が三十万、連合軍が十五万と差が開いているが、その練度は桁違いだろう。特に現在筆頭で戦果を挙げている曹操軍の一糸崩れない兵の規律性は見事なものだ。

 そんな中、曹操は一つの憂いを抱いていた。

 因縁のある袁紹でも、これから会う劉備でもない。

 未だ行方の分からぬ賢人姫秀である。おそらく彼はこの黄巾の乱に介入してくるだろうというのが曹操、もしくは荀彧の考えであったが、いまだ姿を見せることはなく。情報も途絶えたままであった。

 彼に見えている情勢、それがこの黄巾の乱を意味していないのか、それともこの後に起きるもっと大きなことに対する静観なのか。未知であり、そして大きすぎる名前に対して曹操は明確な自信をもって評すること躊躇っていた。

 

(彼について疑心暗鬼になってはいけないわね。今はとにかく忘れましょう)

 

 曹操は待ち焦がれる男よりも、将来自分の好敵手に成り得る原石の原石である劉備との会合を楽しみにするようにした。

 彼女には一度無償で武具や兵糧を渡した。自身の責任からそれを渡したが、自分の領地にいる農民が汗水垂らして育てたものを持って行った劉備に対して、臣下同様何も思っていないということはない。だがそこで憤慨していられるほど自分の道は甘くも優しくもない。ならばくれてやろう、その代わり自分の前に立ちはだかるような者に成れ。曹操は心の内にその言葉をしまった。

 

「華琳様、劉玄徳がこちらに」

 

「……今行くわ。待たせておきなさい秋蘭」

 

「はっ」

 

 そこにある未完成の大器。それほどの大物を目の前にしてもなお、自分の目で確かめてもいない男の幻影が脳裏から離れることはなかった。

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございました、曹操さん!」

 

「いいわよ、どうせ貴女が大成した時返してもらうのだから」

 

「はい!もちろんです!」

 

 劉備の甘さというものはこの戦乱の世にとって致命的なものになるだろう。それは相手に対してだけではない、味方に対してでもある。劉備の理想についてくるからといって彼女の理想と必ずしも合うかといえばそれは間違いだろう。必ず齟齬が生まれ、そして綻んでいく。今でこそ関羽、張飛という彼女を無条件で慕う二人、そして彼女に可能性を見出している諸葛亮、龐統。公孫瓚からの客将である趙雲という人材がいる。だがこの先、勢力が大きくなればなるほど異物は混ざっていく。その時こそ、劉備という人物がどこまで成長できるかという事に深く関係してくるだろう。

 

「精々私を失望させないで頂戴」

 

「分かっています。必ずこの恩は返します!」

 

 曹操の言葉に関羽は顔を顰めるが当の本人は平和な笑顔を向けていた。曹操はどうせ諸葛亮の献策で新たな物資の補完を要求するだろう、そう考えていた彼女は先に物資を運び込んでいた。いや、むしろこれこそ諸葛亮の企みだったのだろうか。それでもそんなことは彼女に関係はない、心に秘めた思いは未来への投資に消えた。

 

「華琳様……!」

 

 天の御使いである北郷一刀の部下である楽進が天幕の中に驚きの表情と共にやってきた、おそらく伝令だろうが、曹操はその慌てように少しばかり心を動かしていた。

 

「どうしたのかしら、何かあったの?」

 

 この状況で不吉なことがあるとすればそれは予想外。一刻も早く部隊を動かす必要があるだろう。そして黄巾の中にこの状況で行動を起こせるような人間がいるという事だ。

 

「い、いえ。この天幕に面会を求める者がいまして」

 

「この“天幕”に面会を?いったいどこの誰?」

 

 楽進が息を飲んだ。楽進でも知っている、そしてそれほどの人物。

 心当たりは、胸を躍らせた。

 

「――陽鏡ね?」

 

「――はい」

 

「通しなさい」

 

 曹操の一言でその場にいる全員が楽進と同じく息を飲んだ。いや――ただ一人息を止め、その姿を明確に捉えようと全身の意識を天幕の入り口に注いだものがいた。

他でもない、曹操である。

 

 彼と自身は親交があった。だがその記憶はない、余りにも自分が幼すぎたからだ。だが母と姫秀が袁紹の母と同じくかなり親密だったことは聞いている。それこそ姫秀を見初めたのは水鏡と曹嵩、そして袁紹の母袁逢であったという。

 故に姫秀と曹操は縁があるといえよう。

 故に彼に対する評価は自分ではし辛かった。近すぎる、そして自身で見てもいないというのに他人から彼に対する評価を押し付けられてきた。

 だが、その自分を潜在的に精神的に追い詰めてきた男を今見極めることができる。この眼で。

 

「……さあ、私に貴方をみせなさい」

 

 この女尊男卑の世で生きている男、姫秀と曹操の対面。後に言う「曹操心の命」と呼ばれる彼女の転機である。

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 歩兵七百、弓兵三百。合わせて千に上る軍勢を引き連れた男は他でもない名士姫秀、またの名を陽鏡。従える臣下は盧植、徐庶、望と呼ばれる元賊の長。

 先日まで調練に明け暮れていた姫秀軍は今冀州――ある天幕の前にいた。

 いくつかの軍勢がいるここで他に所属しているものが来てもおかしくはない、今劉備がいるという事実がその通りである。

 しかしながら千の軍勢を引き連れ、近くに陣を作り。その天幕にお邪魔しようとしている姫秀は警備をしていた楽進からすれば異質どころか警戒に値する行為であっただろう。

 

「貴様何者だ」

 

 これを曹操が言われたならば憤慨する家臣も居ただろう。だが生憎、盧植も徐庶も望も楽進の言う事は全くもって正しく、非常識なのは姫秀であることをしっかりと理解していた。

 

「やあどうも、姫秀です」

 

 彼の後ろからは大きなため息がいくつも上がった。それは兵にまで伝わっている。

 見かねた盧植は唖然としている楽進に告げた。

 

「私は盧子幹と申します。先ほど礼を欠いていました。謝罪します。こちらの方は姫伯道という者どうか曹孟徳様にお目通り願いたい」

 

 姫伯道――と聞けば楽進も黙ってみてはいられない。すぐに天幕の奥へ向かっていく。

 

「陽鏡様、いけませんよ」

 

「わーってるよ。わざとだって」

 

「わざとじゃなきゃ今からでも付いていくのを辞めようと思ってました」

 

「冗談きついぜ望」

 

「それはこっちの台詞ですけど邑文」

 

 総すかんを食らった姫秀であったが、すぐに曹操への取次が叶う。

 これは姫秀の予想――というか曹操がこちらを探っていたことは把握済みであるため、面会が通ることは予想済みである。

 さて――と呟いた姫秀は十数年ぶりに再会する傑物に出会うことを心待ちにしていた。

 

「こちらです」

 

「……さあ、私に貴方をみせなさい」

 

 その呟きを聞いたのは姫秀だけだっただろうか。一瞬だけ歩みを止め、いつもの様に演技を始めた。

 

「初めまして曹孟徳様、私は姫伯道という者です。この度はお目通り叶うことを至高の喜びと存じます」

 

 先程とは打って変る姿に盧植はギョッとしたし、楽進は睨みを強めた。

 そして曹操は――値踏み、そして少しばかりの怒りを込めた視線を姫秀へ送る。自分が試されていることを感じ取ったのだろう。

 

(聡明だな)

 

「初めまして姫伯道。畏まることはないわ、貴方の賢明さはこの曹孟徳の耳にまで届いているもの」

 

「おやおや、左様ですか。これはお恥ずかしい、一体どの様な話が届いているのやら。巷では陽鏡と呼ばれていますが、私など并州の引きこもりでございますよ」

 

 下手にでる姫秀。彼の悪癖――彼にしかわからない選眼ともいえるそれは曹操の琴線に触れるか触れないかの所でうろうろしていた。

 

「この曹孟徳を試すとはいい度胸ね。でも好きじゃないの、値踏みなら真っ向からしてもらえるかしら“陽鏡”」

 

「曹嵩の娘にしては良く育った。流石曹嵩だ」

 

 待っていたかのように姫秀は口調を変えた。曹嵩、曹操の母親の名前であるが、それを呼び捨てにすることは普通適わない。それを知っている夏侯惇と夏侯淵は憤慨一歩寸前で曹操に右手一本で制止された。

 

「母が世話になったようね。それに初めましてではないようね、流石にあの頃のことは記憶にないけれど」

 

「それもそうさ、二つの時の事など覚えてもいまい。君のおしめを替えたこともあるのだぞ?」

 

「なっ――」

 

 その単語は流石の曹操も地雷だったのだろう。真っ赤になった彼女はいつの間にか自分の愛鎌である絶影に手をかけていた。

 

「まて、収めてくれ。悪かった、失言だった」

 

「……いいでしょう」

 

 理性を保った彼女を見てほっとしたのは劉備も含めてここにいる全員であっただろう。

 

「とにかく会えて嬉しいわ。そして私の部下になる気はない?」

 

 当初の目的通り曹操は姫秀を勧誘する。いまだ交わした言葉こそ少ない、けれどもそれに価値を求めないほど曹操は姫秀という男の風格を肌で感じ取っていた。間違いなく自分の手足となればこの戦乱を治めることができる。確信に近い何かを彼女は言葉以上のもので感じ取った。

 

「俺が君の部下になる理由は?」

 

「華琳様の部下になる栄光以外なにもないだろう!」

 

 夏侯惇の横槍を気にも留めることなく薄く口角の上がった姫秀の視線は彼女の全身、そして風格、威厳、まるで脳までを透視していた。

 人物眼――その視線に気が付く曹操は自分が品定めをしているように見えて、更に高いところから見下ろされている人形が自分であると錯覚する。ながらく感じなかった真っ当である他人からの自分に対する評価は彼女の興味を誘う。

 

「俺は俺で自分の道を選ぶ。だが選択肢を提示されればそれを選ぶこともあるだろう、曹孟徳、天下の奸雄よ、俺に君と君の聡明なる部下の気概というものを提示してくれ」

 

 では――と姫秀はその場を去った。

 屈辱かそれとも高揚か、この胸の高鳴りと体の火照り。まるで恋かと錯覚した心には「あの男をモノにする」という狂信であり盲目的である危険な感情が芽生えていた。

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

「どうするのですか?」

 

 徐庶は天幕を出ると真っ先にそう聞いた。先程まで全員が黙っていたのは口を挟むこともなかったからだが、今後の方針に影響があるならばそれを聞くほかない。

 

「まあ現状ならば曹操軍に入るのが一番かもしれんが。正直ないな、あれは」

 

「意外ね、どうしてかしら?」

 

「家臣が彼女に盲目なのもそうだが、彼女自身も未来に対して盲目だ」

 

 吐き捨てるように、少し落ち込んだような姫秀は曹操をそう評した。及第点――それが彼の評価、それでも現状では一番という結果、期待値の大きかったせいか失望を隠せていない。

 

「所詮皆、漢という一文字から抜け出せないのさ。私を含めてな」

 

 少し早い速度で自分たちの軍が設営した天幕へ向かっていく。

 するとそれよりも早い足音が一行に近づいてくる。

 

「先生!」

 

 桃色の髪をした体つきのいい女性。その後ろには小さい女の子と長髪の女性、劉備に関羽、張飛、その後ろには諸葛亮、龐統、趙雲などもいる。

 その劉備が先生と呼んだのは盧植であった。

 

「あら、久しぶりね桃香ちゃん。またきれいになったわね」

 

「はい!先生もお変わりなく!」

 

 これが普段の盧植とばかりに屈託のない笑顔で劉備を迎える彼女。今のところこの中で劉備を知るのは彼女だけ。流石の姫秀も目の前にいる人物が例の劉を受け継ぐものだとは関連付けられなかった。

 

「失礼、そちらは?」

 

「あ、はい、申し遅れました。姓は劉、名は備、字は玄徳です!先生には塾でお世話になっていて」

 

「“劉”?」

 

 先程からいつまでも余裕綽々を気取っていた姫秀の繕いが漸くここで崩れた。劉備の言葉を遮ってまで疑問を呈したその姓に大きく不信感表したのは火を見るよりも明らか、彼の雰囲気に呑まれそうになった劉備は一歩下がり、関羽や張飛は思わず得物に手をかけていた。

 ただ一人、彼女を除いて。

 

「おや、初めて表情が崩れましたな。殿方の四面を一日で見れるとは、やはり生きておくべきものですな」

 

  蝶の刺繍をあしらった着物に、赤い槍を持つ女。道化のような言い回しで姫秀と劉備の間に入った彼女はこの場で最も余裕に“見えた”

 

「常山の昇り龍……趙子龍か。すまんな悪気はない、許してくれ」

 

 殺気を向けてしまった劉備とそれを止めた趙雲に姫秀は頭を下げた。

 

「あ、いえいえ!全然気にしてないです!」

 

「私もどれお顔を拝見しに来ただけでございますよ」

 

 劉備がお人好しなのはすぐに分かる。だが趙雲が皮肉屋であることも容易に理解できるだろう。

 

「君が風鈴の言っていた劉を名乗るもの……か。初めまして、姫伯道だ。姫秀でも陽鏡でも好きに呼んでくれ」

 

「はい!じゃあ姫秀さんで!」

 

 迂闊であったか。と姫秀が考えているのは今現在劉備軍と会話している最中の事だ。

 先程は曹操とその部下に気を取られていたが、その向こうにいる劉備の事にも気が付いてはいた。しかし気に留めることはなかった。

 だが実態はどうだろうか。恐らくこの軍の双頭である関羽と張飛、見るからにかなりの達人で一騎討ちでもした暁には唐竹割りにされるだろう。その後ろに控える軍師二人、諸葛亮と龐統は意図的に無視していたが、贔屓目を抜いても徐庶と同等もしくはそれ以上といえる二人。しかもお互いにお互いを知り尽くしているため欠点を補える。徐庶よりもその点一歩進んでいるともいえる。そして趙雲。足運びからみてその武勇は確かなものだろう、そしてその余裕の態度は指揮官としての適性も伺える。何より機をよく見れるのは最も姫秀の好むところにある。姫秀軍に足りないものを一人で補えるだろう。

 だが。それを単純な評価として考えるならば、それを付き従えさせている――いや、彼女にそんな計算高い偶像性はない。あるとすれば――大器。

 

「成程、我々も数は大きくない。戦場で連携が取れれば一緒に戦いましょう。そちらには臥龍も鳳雛もいますからね」

 

「あれ?二人とは知り合いですか?」

 

「僕の生徒です」

 

「えええ!?ホントですか、驚いたあ……」

 

 天然の大器。故に未熟。この大器と曹操にある偏りのない聡明さが合わされば。姫秀はそこで思考を切り上げた。

 

「ではこれで。朱里、雛里、精進しなさい」

 

「は、はいでしゅ!」

 

「わ、わかりましゅた!」

 

「またお会いできれば!」

 

 姫秀は諸葛亮と龐統に微笑み、劉備に背を向けた。

 その際、目があった彼女と姫秀の表情は同じように飄々とした笑顔であった。

 

 

 

 

「あれが陽鏡か……風と稟の言っていた通りの人物であったな」

 

 趙雲は一人寝室で今日出会った男の事を思い出していた。

 表情と態度を何度も変え、時には感情さえも惜しげなく表す男。天然と計算を両方兼ね備えている油断のならない男。それと同時に魅力を感じてしまう。仮の主君である劉備でもなく、自分の主君でもある公孫瓚でもなく、姫秀という男に。

 どこか親近感を覚えていた。

 

 

 

 

 

 一方誰も入れないように言った姫秀は自室で椅子に座り、一定の拍子で机を筆で叩いている。考えていることは今日出会った三人だ。曹操はもちろん思わぬ出会いであった劉備そして――趙雲である。

 曹操と劉備という天下の器の条件を満たしている二人はこの際彼の頭の中では凡そ考えが纏まっている。

 だが、あの飄々としたまるで自分を投影しているような女について未だ考えは纏まっていない。といっても難しいことではない。ただ簡単なことである。

 

「他人の下に置いておくのは勿体ない」

 

 徐庶、司馬懿と並んで手元に置いておきたいと願う三人目の人物を彼は見つけた。

 



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姫秀啖呵

ぱぱーっと書いたので誤字があったら是非訂正願います


 戦場に陣を構える姫秀は一人高い所に椅子を置いて己の立ち回りを模索していた。初手に取る行為を考えている。問題は近くの軍とどうやって足並みを揃える――揃わせてやるか、が問題だ、

 近場で言えば曹操軍、そして少数である劉備軍。一番遠いのは官軍で二番目が袁紹軍。官軍が一番遠いのはこの上なく彼にとって有難いことであった。しかし、劉備軍と同じくらい近い袁術軍に彼は少し悩まされている。

 

「さて、どうしたものか」

 

 袁術とは殆ど顔を合わせたことはない。だが一度だけあった時に見せた手品で姫秀は彼女に懐かれてしまった。最悪それは置いといてもいいが、問題はその側近である張勲である。袁術を溺愛している女だが、袁術の為にはどんなこともする悪女である。故に姫秀と袁術の仲が良いことを利用して、戦の為ではなく袁術の為になるようなことをしてくる可能性がある。それは戦という理を乱す例外だ。その不確定要素に姫秀は心底頭を悩ませていた。

 

「七乃め……」

 

 それは他でもない張勲の真名。なぜ彼がそれを知っているか、それは疑問ではあるが、彼の興味はすでに張勲から他の対象へと移っていた。

 

「出てきたらどうかな?虎ちゃん」

 

「あら、驚かし甲斐のない人ね」

 

 赤の衣装。そして少し褐色かかった肌。鋭い獣のような釣り目、凹凸の激しい体。そしてうり二つのその顔。見なくとも雰囲気でわかる。

 

「炎蓮の娘、孫伯符か」

 

「ご名答。あなたが姫秀ね?」

 

「如何にも」

 

 姫秀は右手をあらかじめ用意してあったもう一つの方へ向けた。すとん、と何の遠慮もなくそこに孫策は座ると、笑みを浮かべて彼の方を見続けていた。

 

「そんなに見つめてどうした」

 

「結構好みの顔」

 

「……ふふふふ、ふははははは」

 

 戦場であるこの場で姫秀は高らかに笑い声をあげた。不快よりも驚きが勝った孫策は彼女らしくもなく見開いた眼をそのまま、姫秀が笑い終わるまでそのままだった。

 

「いやあ、すまぬな。気を悪くしたか」

 

「いや別に、ただ驚いたわ。そんなに私の言葉が面白かった?」

 

「そうといえばそうであるな」

 

 もう一度姫秀は「ふふ」と笑ってその場に置いてあった冷めた二つの茶のうち一つを啜った。

 

「ところで聞くが君の主人を君は制御できないものかね」

 

「無理ね」

 

「だと思った」

 

「聞いていた通りに掴みどころのない男ね、ますます好きになっちゃうわ」

 

「言っておくがさっきの言葉も今の言葉も自分の母親と同じことを言ってるぞ」

 

「げえ」

 

 凄く苦みのあるその表情はまたもや姫秀の口元が綻ぶのを誘った。流石に大笑いはもうしないが、彼の心が少しずつ豊かになっていくのは彼自身感じていることであった。

 

「ひとつ突破口を作る。そこだけでいい、足並みをそろえたい」

 

 少し真面目な声で話す姫秀の落差に孫策はまたも少し頬を紅潮させたが、彼女も長の一人、そこはわきまえている。

 

「そこだけでいいのね?」

 

「構わない。後は好き勝手にやっても問題はないだろう」

 

「ちなみにどんな作戦なの?」

 

「君の所の軍師に聞けばいい。周公瑾、元気か?」

 

「はい、元気にやっております」

 

 姫秀の後ろの茂みから出てきた少し露出の多い恰好をしたメガネの美女。彼女こそが周瑜である。姫秀にとっては流浪時代にとった弟子のひとり、夏侯淵と並んで彼が認めた才人の一人だ。

 

「そうか、それは何よりだが。二人とも露出が激しいな」

 

「動きやすいからね」

 

「同上です」

 

 「そうか」と呟いて姫秀は再び茶を啜る。だが二人はその場から去ることなく姫秀の言葉を待っていた。

 二人とも孫堅から彼についてよく言われているのだろう二人は他でもない自分の故郷のために今ここにいるのだ。

 

「二人は……孫家は家族のために戦うのかい?」

 

「もちろん」

 

「はい」

 

 青と緑、その両者は他でもないこの天下という世界に平和をもたらすために戦に身を投じている。始まりと進む道が大きく違えど、望む理想は同じだ。現段階で曹操はそれを現実として捉え行動し、劉備は理想を追い求めている状況だろう。

 しかし、この目の前にいる赤き意思を継ぐ者達はどうだろうか。家のため家族のため、故郷のため。果たしてそれは大義があるか。

 簡単な事だ、視点を変えればいい。

 

「またそれも真理だな」

 

 この国全土を治めた時、孫家にとってこの国と民が故郷であり家族となるだろう。それは曹操や劉備の言う平和と変わりはない。

 

「一つ忠告をしておこう。袁術は蔑ろにするな、七乃――張勲を活用すれば自ずと道はひらけるはずだ」

 

 すでに姫秀は二人の姿を視界には入れていない。しばらくして足音が聞こえ、そして遠くなっていく。

 

「孫文台の娘、美周郎、そして孫武の末裔か……」

 

 思いを馳せるのは、遠き遠き己の血、その始まり。

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

三十万と十五万。数だけ聞けば確かに相当なものだろう。だが中には後方部隊もいれば、諜報部隊もいる。必ずしも全員が戦闘行為に直結するわけではない。それにだだっ広い草原でドンとぶつかるわけでもなく、決戦といえども部隊分けは必要である。特に劉備軍は数が少ない、曹操や袁紹からすれば一部隊程度ともいえる。

だがそれを下回る姫秀軍千という数は些か少ないだろう。銅鑼と夏侯惇の突撃により始まった大戦、その姫秀の動向に曹操は不安と期待を織り交ぜて部隊を動かした。

 

「始まったか」

 

姫秀は久方振りの戦を思い出して閉じていた瞼をゆっくりと開いた。寝ていたわけではない。しっかり陣の中で部隊をまとめ上げている。

 だが他と違いまだ姫秀軍は一歩たりとも動いていなかった。それは己達が小兵であると共にまだ機でない事を重々承知しているからだ。それに荒事に巻き込まれてきた者たちとは言え賊上がり、ここまで大きな戦は体験したことがない。誰もが得体の知れない恐怖と不安を抱いているだろう。それでもそれを一切外に出さない彼らは戦場に立つ資格を持ち合わせている。

 

「福、緊張しているのか」

 

 優しく撫でる姫秀の手にだけ徐庶の震えが伝わる。

 

「不安がないといえば嘘になります。ですが己の死に対する恐怖ではなく、己の手によって死にゆく者に対する恐怖です」

 

「それが理解できているならこの場にいる資格がある。誇れ、鏡里」

 

「!……はい、邑文様」

 

「福さん、俺たち福さんの為にも死にませんよ!」

 

「俺たちの命預けます!」

 

 徐庶の姿にすでに家族のように過ごしてきた姫秀軍は更に士気を高めていく。だが盧植と望は徐庶ではなく、姫秀自身を最も心配していた。彼らだけが感じ取れる彼の違和感、彼の隠しきれていない恐怖がその違和感の正体である。

 

「みんな聞いてくれ」

 

 姫秀の声に姫秀軍千人が一斉に反応する。

 誰も彼もが覚悟を決めていた。

 

「戦というものは死が纏わりつく。それは何かを犠牲にしなければ我々が何かを手に入れられないからだ。それが小さいものならば犠牲も死という大きなものを払うことはない。だが、我々の望むものはこの国の安寧。それはどのような形であっても、構わない。漢が無くなろうとも、私が王にならなくても。故に、我々は生を賭して平和を手に入れなければならない。

 だが、忘れるな。死に飛び込んではならない、死に飛び込む前に考えろ、我々が賭したのは生でありその見返りは平和であることを。決して死を軽はずみに選ぶな」

 

 姫秀のこれまでにない低く、そして現実と真剣実を帯びた演説はあの日以来ない。故に姫秀軍は彼の言葉に沈黙をもって頷いた。頭ではなく、心にその言葉を刻み込むために。

 

「それでは作戦を伝える」

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

兵力差で言えば負け、だが練度で言えば圧倒的な勝ち。優勢であった連合軍であるが、ここにきて兵力差、そして連携の悪さが少しずつ黄巾党の兵に流れを作らせていった。

 唇噛むのは頭の良い人間で志を持つものならば誰でも当たり前。その中でも曹操は唇から血を垂らしてこの現状を嘆き、そして悔やんでいた。

 

「華琳様、血が……」

 

「黙りなさい」

 

 荀彧は何も言わずそこで首を垂れた。

 部下の言葉に下らない怒りを覚える自分に憤りを感じる。それが許せない。勢いが流れつつあるだけで決して負けていない今、だがそれを短時間で一から治せるほど袁紹を使い切れていない。せめて足並みを揃えられるのは劉備くらいか、と曹操は考えてある男の事を考える。戦場で彼を見ていない、何故か。

 

「失望させるつもりかしら」

 

 ドっと黒い何かが自分の心を覆う気がした。姫秀、あの男が期待外れであった場合、曹操の心の中にあった一つの留め具が壊れるだろう。

 男は駄目だという根付く偏見が彼女のすべてを満たすだろう。

 

「桂花!」

 

「は、はい華琳様!」

 

「立て直すわ、一度引いて劉備と帳尻を合わせる。麗羽を囮にするわ、それくらいでくたばりもしないでしょう!」

 

 曹操は一度思考を止め、そして自らの道から彼という幻影を捨て去ろうとした。

 すると「止まれ!」という怒声と共に一頭の馬が本陣へ突入してきた。

 

「ご無礼申し上げる!こちらは曹孟徳殿の本陣か!」

 

「貴様何者だ!」

 

 楽進は曹操の盾となる様に前に出てその騎馬の上に乗っている女に対し、拳を向けた。

 

「控えなさい――如何にも私が曹孟徳。悪いけど時間がないの、伝令ならば手短に」

 

「引いてはなりませぬ!好機はそこに在ります。このまま推し進め、そして陽鏡様に合わせていただきたい。それでは!」

 

 見事な馬さばきで少女は戦場にかけていく。一瞬の出来事に唖然とするものも多かったが曹操は右手を戦場へ向けると一声「引くな!進め!」と声を張り上げた。迷いのないその声は必然的に曹操軍の士気を高め、前方にいる夏侯惇や夏侯淵にまで伝染していく。

 曹操はあの少女に見覚えがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「陽鏡様!流れが変わりつつあります!」

 

 いくつかの小競り合いを経た姫秀軍、徐庶も顔や服が砂だらけになっていた。恐らく転んだのだろう。数名怪我を負っている者もいるが、いまだ死者は出ていない。

 

「機はそこに在るか」

 

「後は帳尻を合わせられるかどうかね……」

 

 盧植と徐庶、二人は顔を合わせた。二人とも同じことを思っているのだろう。

 しかし姫秀はそこに触れることなく二人に移動を命じた。

 

「邑秀様、いけますか」

 

「……これは賭けさ、天が私を試し、そして私が天を試している。お前は本当にやれるのか、と」

 

 姫秀は笑った。

 

「ならば言わせてもらおう。高いところから見ているがいい、見せてやろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 劉備軍、もとい趙雲は「やれやれ」と前線で多忙を極めていた。もちろん関羽も張飛もいるが小難しい戦になることを予測した軍師二人が指揮官の適性を持つ彼女を指名した。その判断は全く間違っていない。将冥利にも尽きる。

 

「しかしまあ、これは些か私の冗談も通用しなくなりますぞ」

 

 槍を振るう、槍を振るう。敵は死ぬが、減りはしない。

 一度引いて立て直す、間違っていない戦法、袁紹を盾にして曹操軍と足並みを揃えて再攻撃すれば打ち崩せる。だが曹操は引かないし、諸葛亮も撤退を指示してはこない。その理由を趙雲は薄々勘付いていた。

 

「少々遅い登場では?」

 

 趙雲の前方に千の軍勢、そしてその先頭にかの二鏡、筆頭名士、聖人、并州の引きこもり。

 

 この世界において姫秀が表舞台に立ち始めた最初の戦、そして後に語られる「姫秀啖呵」である。

 

 

 

 

 

「聞けええええええええい!」

 

 あの男が出したのか、と黄巾も連合軍もその手が止まる。そしてそれが伝染していく。

 

「この混沌極めし乱世。その始まりともいえるこの戦、後世の歴史において後漢の末期を表すのにふさわしいだろう!」

 

 姫秀ははち切れんばかりの声量で兵を圧倒していく。

 

「我が名は姫秀!この天下に轟く大名士陽鏡である!」

 

 陽鏡の名はこの国全土に渡り知られている名士の名。特に民衆にとっては皇帝と同じように聞く天上人の名である。

 

「この戦、この乱世を断ち切るため我は立ち上がった!」

 

黄巾の者は多くが農民である。

 故に識が低く、そして踊らされやすい。それがこの黄巾の乱の結果だろう。だからこそ、姫秀という名前が黄巾軍に伝染していくとそれが影響もされやすい。

 張角などという者よりもよっぽど彼のほうが扇動家に向いているだろう。

 

「だが!貴様らは私一人で何ができると考えているだろう――笑止千万!抱腹絶倒とはこのことか!

 貴様らは勘違いをしている、私は大名士、聖人などという小さい器に入る様な男ではない!全軍旗を掲げろ!」

 

 たった千の軍勢。たった千の軍勢が旗を掲げたところでどうということはない。相手は三十万から数を減らした大軍。一万の兵で囲めば容易くつぶされる。だが、姫秀軍のいるところは劉備軍の前方、そして軍勢六万を従える袁紹軍の前方に位置していた。

 金色で統一された袁紹軍そして官軍は当たり前のように自軍の旗を大量に掲げていた。袁と漢の文字である。

 日が落ちかけつつある西日、それに照らされた袁紹軍とその大軍は一瞬にして姫秀軍として神々しくも黄巾軍の目には大軍として映る。

 そして連合軍も絶句する旗を姫秀は掲げていた。

 

「――周――ですって?」

 

 呟いたのは曹操だが、一体何人がそれを呟いたかはわからない。

 だがその場で唯一微動だにしなかったのは姫秀軍だけだった。

 

「我の姓は姫、名は秀、字は伯道。その血筋は堯舜三代である武王の血を引く周の末裔!殷を滅ぼし、国を築いた我が先祖が我を三十万からの攻撃を防ぐ!

 見よ!我を後押しする太陽の光!堯舜三代だけではなく、天とこの地を今支配する霊帝のご加護、そしてこの百万の軍勢!

 我に敵なし、我が軍に敵なし、我の行く手を遮るものなし――!」

 

 全身全霊をかけた演説を終えると姫秀は愛馬である嵐兎を蹴った。向かう先は敵本陣、そして行く手を阻むは十万を超える大軍。

 無謀、蛮勇、無知、無能。時が時ならばそれがもっとも似合うだろう。

 だが、目の前にいる男はあの姫秀であり、そして伝説ともいえる堯舜三代の末裔でありその加護を受けている、そしてその男の後ろに控えるは百万の軍勢と天。

 黄巾党という農民集団の士気を零まで下げ、そしてたった一騎でこちらへ向かう男に対して最大限の恐怖を思い浮かべるのは容易だ。

 仮に嘘だと信じ込む者も、仲間が姫秀に斬り殺されていく様を見て誰もが思う。

 

「逃げろ、駄目だ」

 

 と――

 

「どけえい!我の行く手を阻むものは我の加護によって灰と化すだろう!」

 

 一際図体のでかい馬で兵を踏みつぶし、その剣で兵を斬り殺す数はたかが知れている。

だが、姫秀の行く手を遮ることができる者は一人もいなかった。

 

「ええい、何をしている男一人ではないか!」

 

 軍を指揮している男は途轍もない焦りを覚え、言動とは裏腹に姫秀に怯えながら叫んだ。ここまで来るはずがない、来れるわけがない。堯舜三代などありえない。

 だがどこか信じてしまったのだろう。彼はそこから動くことなく、いつの間にか自分の目の前にいたその男の顔を見てしまった。

 

 姫秀、その男の名であった。

 

 

 

「敵将、この堯舜三代の末裔である姫秀がとったぞおおおお!」

 

 その姫秀の轟声と共に一つの号令が響き渡る。

 

「全軍突撃」

 

 見たこともない後姿、黒鎧を纏い、黒い馬を操る少女。背中にある旗にはただ二文字「司馬」の文字があった。

 

「全軍蹴散らしなさい」

 

「突撃ですな」

 

「突撃ですわ!」

 

「総員突撃!」

 

 後世にてその啖呵以外は誇張であると断言された「姫秀啖呵」どのようであろうとも、この戦の決め手であり、そして彼がこの乱世に明確に初登場した記述であった。

 



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八達が一人

日刊ランクに乗ってからお気に入りの勢いがえぐい、初投稿を思い出した。

皆さんありがとうございます、エネルギーになります。


 見事であった。

 それ以上の感想を思うことができなかった曹操は自分があの男の手腕に惚れ惚れして盲目であったことを痛感した。

 全てが劣っているというわけではない。勝てる部分もあり、いざ軍勢同士の戦となった時に理由もなく大敗するとも思えない。無敗の常勝者などはありえない。それ出来るのは正しく天の神、もしくは完全に未来を読める者、そして未来を見据えることのできる本物だけ。もしそのような者がいれば彼女は今すぐ玉座を降りてその者の所へ行くだろう。

 だが少なくとも姫秀はこの戦において見切っていたと考えるほかない。連合軍が一度引くことを計算していたのだろう。もう少し遡れば姫秀が動いたのはこれの為、天が荒れる最初の出来事としてこの戦を選び、そしてあの立ち回りを見せ、姫秀という男の神髄を見せたのだろう。

 見事であった。

 何度目か、そう思った曹操は悔しくてその握りしめた拳からは血が滲んでいた。

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

黄巾党対連合軍の戦は連合軍の勝利でそれを終えた。

 蓋を開けてみると壊滅した黄巾の被害は正確に測ることは難しく、連合軍の被害は死傷者数五万、死者で言えば三万。いずれも最多の被害を被ったのは袁紹であった。

 だが一時引いていれば被害も増え、長期になればそれは必然的に増えていく。それがなかったのは偏に彼のおかげだろう。元々轟いていた彼の名はさらなる逸話を追加して更に広まっていく。

 

「陽鏡の姫周」

 

 その「周」という文字は波紋を広げ、そしてそれはいずれ朝廷にまで届くだろう。だがそれが朝廷まで届いたところですでに彼をどうにかできるような権威は朝廷に存在しない。ゆえに彼はあれ程まで大見栄をきったのだ。

 たった千の軍勢と一人の将によって戦の方向性が決められた。だが、彼曰くこれ程まで杜撰な戦い方はないだろうと。半分は策であっても半分は運である。名のある者ならそれを当たり前の様に理解し、そして姫秀らしからぬ、非論理的な行動であると。

 だが、彼自身は5割運で4割他人任せ、そして1割が策である。

 

「私からすればこんなにも自分自身以外の要素を含んだものを策とは呼べないな」

 

 彼はとある城下の酒屋で盧植、徐庶、望を交えて少しばかり先の戦について論を交わしていた。こぞってもうあんな事はしたくないと口を揃えた。しかし三人は姫秀の手腕を認めていた、だが彼はそれを否定した。

 彼は知っているのだ、自分を勝利に導いた核心たるその因というものを。

 待ち望んでいた彼女、未だ自分の前に顔を出さない。それは咎められることではない、むしろ彼は信頼しているからこそ、彼女がまだ出てこない理由をあえて詮索することも無く、ただそれが意味のあることと認識して待ち続けていた。

 

「じゃあまだ桜那ちゃんとはあってないの?」

 

「後ろ姿だけはな、だが向こうがまだ私の所に来ないならばそれに何かを言うつもりもない。俺の弟子だ、信頼している」

 

 三人の表情に少しばかりの驚きが見えた。

 姫秀がそこまで信頼する人材――いや、それならわかる。司馬懿といえば司馬家の次女で長女と並ぶ才女として有名であり、曹操も一度勧誘したことがあるといわれている。問題はそこではなく、あれ程才能に厳しい姫秀が「何も言うつもりはない」と断言していることが驚きなのである。仮に彼女が何もなしていなかった場合というものがあるはずだ、だがそれを通り越して彼は司馬懿に対する信頼を置いている。

 それは己の右腕であり、自分からの独立を認めているというのと同義である。

 そのような人物が一体どれだけこの世にいるか。徐庶は少しその司馬懿という女に嫉妬心を覚えていた。

 

「とにかく、桜那が戦場を駆けずり回って俺に帳尻を合わせた。それが今回の勝因だろう。あいつなりに俺の意図をくみ取り、そして欠点を見つけて補おうとしたんだ。見事だ」

 

 茶を啜る彼の称賛はまさしく手放しだった。

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

 

 この国で最も異端なのは誰か。

 そのような問いがあれば真っ先に上がるのは姫秀かもしれないが、彼を知るものがいたならば間違いなくその名前が挙がる。

 天の御使い、北郷一刀である。

 

 武を持たず知を持たず。それでいてあの曹操軍の中でもかなり高い位置に存在している男――そう、男だ。

 姫秀が異端なのは彼が男であることも関係している。

 この女尊男卑の世界で男が認められる為には尋常ならざる、それこそ最高の武もしくは最高の知を持っていなければならないだろう。その中で彼はその両方を持たず、渦中の曹操軍の中でもその存在を確かにしている。

 それに興味を持つ人間は多い、姫秀もその一人であった。

 

「姫秀が来ている?」

 

 曹操に疑問を抱かせているのはその人物、北郷の他にならない。

 

「ああ、さっき町で警邏していたら突然声をかけられてな。華琳に会いたいっていうから其処まで連れてきた。だめなら追い返すけど?」

 

 曹操に対してきく口とは思えないが、それでも何もおかしくないという顔で北郷は曹操の真名を口にしていた。

 そんな曹操、少しばかり思考に耽った後、その言葉を口にした。

 

「臣下たちを全員玉座に集めなさい、そこに陽鏡も呼んで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから少したってから。別室で待機していた姫秀はようやく呼ばれ、曹操へお目通りが叶う。

 天幕の時とは違いそう簡単には会えない、いくら姫秀と言えどだ。それに彼も今回は戦用の恰好ではなく、昔洛陽に居たときのように上質な着物で門をくぐった。

 

「お久しぶりでございます」

 

「堅いのはいいわ。要件はなにかしら」

 

 曹操はあなたの口車には乗らない、と言わんばかりに姫秀の言葉を制限した。姫秀はそれ笑うこともなく、ただ頷いた。

 

「客将として雇ってくれないか?」

 

「臣下ではなく?」

 

「ああ、君も私に認められることもなく臣下になられるものも嫌だろう」

 

「あ、あんたねえ!華琳様に対して――」

 

「黙れ桂花、恥を知れ」

 

 笑みを浮かべたまま姫秀に叱られた桂花は同僚から見てもあり得ないと思えるほど、縮こまってその場で竦んでいた。一目で彼女の弱点が姫秀であることに気が付くだろう。

 だがそれも束の間、自分の主を下に見られた臣下たちが黙っているわけもなく、殺気駄々洩れで殆ど全員が姫秀を睨みつけていた。

 

「客将といってもちゃんと働くよ、我々千の軍勢も曹操軍に預ける。盧植と徐庶ももちろん曹操軍に加わる。ただし、指揮は盧植に任せてほしい」

 

「……条件はそれだけ?」

 

「急にいなくなるとは言わないさ、どうかね?」

 

 名だたる猛将からの殺気も全く気にしない彼の胆力、己を超えた眼力、曹操はこの上なく彼が欲しい。自分の下につくならば断わる理由はない。

 

「一刀」

 

「え、は、はい!」

 

 一斉に彼に視線が向けられた。姫秀も予想外だったのか思わず彼と目を合わせる。

 

(あれが御使いか)

 

 姫秀の眼力は自然と強くなっていった。

 

「一刀、目の前にいる陽鏡についてはあなたが決めなさい」

 

「は?俺が!?」

 

 あの曹操にその言葉遣い――姫秀は相当な異端に出会ったと身を震わせた。大きく外れた自分の常識――はずした常識を超えて外れていく北郷一刀。彼の好奇心はうなぎ上りだった。

 

「えーと、陽鏡……さん?」

 

「姫秀でもいいよ、御使いさん」

 

「なら姫秀さんで、俺は北郷一刀、一刀でいいです。……それで貴方はなんでうちに来ようと?」

 

「あの中では火を見るよりも明らか、それにとてもじゃないがたった千で天下を取ることなど不可能、国を興すつもりなど今のところないし、ならば彼女の所かなと思ったわけだが」

 

「な、なるほど」

 

 一刀は自分の決断に迷いを持っていた。

 急すぎるのもそうであるが、彼の天の知識は未来を知っている。故にこの決定がどのような結末を生むかわからない。それは姫秀が曹操軍に入るかわからないということではなく。本当の意味で彼は知らないのだ。

 

 彼の知識には「姫秀」なる者はいない。

 

 彼が聞いた周の末裔という話も彼は聞いたことがない。もし姫秀ほどの才能を持つものがいたならば一刀は間違いなく知っているだろう。智の諸葛亮、武の呂布と並んで語られてもおかしくはない。

 だが知らない。

 たくさん経験してきたイレギュラーの中でも、一刀にとっては最も大きなイレギュラーがこの姫秀なのだ。

 だがそれを曹操は知らない。天の知識の核心たる部分は全て秘匿を義務付けられている。

 

「貴方は何故立ち上がったのでしょうか?」

 

 北郷の放った何気ない一言は姫秀の口を少しばかり閉ざさせるには申し分のない一言であった。なんの変哲もなく、及第点にも達していないその質問は姫秀を知らないからこそ言える言葉であり「本質」としてその理由を持たない姫秀にとっては避け続けてきた盲点でもあった。

 水鏡に言われたから、己の出番はこの戦乱だから、平和を求めるため、先祖をないがしろにする朝廷を潰すため。挙げられる事柄は全て要素でしかなく、彼には衝動的な熱意とその場凌ぎの理由はあっても、それらを認めて理性的に「そう」であると判断できるような核心は存在しなかった。

 

「……一刀殿、貴殿は無知なのかそれとも……いやなんでもない。そうだな、平和の為に私は立ち上がった。十年後の話でも百年後の話でもなく、どんな形であれ平和といえる千年後を目指した土台を私は作るため重い腰を上げたのさ」

 

「そう、ですか」

 

 姫秀が口を閉ざしたのはホンのわずかな時間でしかない。それに北郷も気が付く余地もなく、その刹那を彼の志の低さと関連付けられたものは一人もいなかった。

 

「華琳、俺は受け入れてもいいと思う。少なくとも客将のうちは俺たちの仲間なんだろ?」

 

「……ああ、もちろんだ」

 

「そう……できればずっと私の臣下でいてほしいものだけれども。いいわ、受け入れましょう……秋蘭!」

 

「はっ」

 

「貴方に預けるわ、色々教えてあげなさい。他の者もいいわね?」

 

 否定の声はなく、ただ彼女に心酔する者たちの肯定がそこに響き渡った。

 

「そうだ、孟徳殿」

 

「何かしら?」

 

「恐らくですが……」

 

 姫秀は振り向き、何かを感じ取ったその門の遠くの時を投影して口を開く。

 

「八達が一人、最も優秀な者が近いうちに訪ねてくるでしょう。是非迎え入れてやって下さい」

 

 姫秀が曹操の表情を見た時、彼は己が彼女と出会った時の顔がどのような顔であったのか、それを他人の顔で見ることになった。

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

 姫秀軍全員が曹操軍に組み込まれることととなり、その引き継ぎもすんなりと終え。盧植は文官寄りの武官として、徐庶は内政を荀彧とすることになり、望は夏侯惇や許褚と共に武官として組み込まれた。大軍慣れしている盧植と違い徐庶と望は慣れないこともあり、苦悩の連続、幸い荀彧は徐庶の可愛さに少しばかり惚気、望は夏侯惇に認められる位の根性で噛り付いているという。

 そんな姫秀軍の奮闘が続く中、夏侯淵は中庭の木の下に来ていた。

 

「またか」

 

「おや、淵。ふけりか?」

 

「ぬかせ、ふけりは貴方だろう。秀殿」

 

 真名は交換していない。けれども名で呼ぶほどには近しくなった二人。元々面識があり、夏侯淵にとって姫秀とは特別な人物でもある。けれど立場もあり、その頃とは歳も変わった。今更畏まることもないと考えた彼女は礼をしてから「伯道」と呼んだという。だが姫秀は「おや、余所余所しいなじゃないか淵」と返答したという。それからというものこうして呼び合っているわけだ。

 

「ふけているわけではない」

 

「ではなんだ」

 

「疲れたから寝ていただけだ」

 

「それはふけているのだろう」

 

「全く、どこに行っても仕事は詰めてやれば良いと思っている輩が多いのう。何事も滅張だ、根詰めて何かあったでは済まないのだぞ」

 

 寝っ転がりながら自分を見下している夏侯淵の姿を見れば面倒くさそうな表情で首を振っている。彼女の姉と違いそう簡単に口で勝てる相手出ないことが彼女の負担を増やしているのだ。仮にここで言い返しても恐らく言い返されることを理解しているのだろう。

 

「今日中の仕事は終わらせてくれよ」

 

「それはもちろんだ、今日はどうせ用事もあるからな」

 

「用事……?」

 

 夏侯淵は首をかしげる。

 すると典韋が駆け寄って告げた。

 

「華琳様がお呼びです」

 

 曹操に呼ばれ三人は玉座に呼ばれた、そこには主要の臣下が集まり、姫秀軍の面々も勿論いた。

 

「陽鏡様、何か知っていますか?」

 

 小さな声で姫秀の隣にいる徐庶は耳元で囁く。姫秀は「さてな」とニッコリと笑顔ではぐらかした。そんな顔で否定され徐庶の頭には疑問符が沢山並んでいただろう。

 

 曹操が間に入ると臣下たちは規律を正す、だが彼女はすぐに腰を下ろし「入れなさい」と門番に告げた。

 誰かが入ってくる。その時徐庶は姫秀の笑顔とその裏付けされた人物に目星をつけた。自分の恐らく好敵手となる存在。そして同じ敬愛する師を持つ自身以上の才女。

 

「お初にお目に掛かります曹孟徳様。司馬家が次女、司馬仲達と申します」

 

「歓迎するわ。八達が一人を迎えることが出来ることをうれしく思うわ」

 

 姫秀の時は打って変り、その表情は著しく豊かであった。恐らく臣下として、そして女性としても狙っているのだろう。彼女の寵愛を受けているもの、差異はあれど全員が彼女に嫉妬しているだろう。だが彼は少しばかり彼女らとは違う感情を抱いていた。

 

「華琳、その視線を我が愛弟子に向けるのは控えてもらおうか」

 

 以外にも姫秀は明らかに不機嫌な態度でそれを咎めた。嫉妬や独占欲ではない、単純なる嫌悪。曹操にはそれを正確に理解できてはいなかった。

 

「あら、貴方にとやかく言われる筋合いがあるかしら?閨の問題は当人同士の話よ」

 

 余裕の表情は姫秀への対抗心だったのだろう、姫秀の機嫌は悪化する一方だった。

 だが、それを宥めたのは他でもない司馬懿自身だった。

 膝をつき、首を垂れ、拳を胸の前で組んだ。曹操に対してではない、彼女の敬愛する姫秀の前である。

 

「ご挨拶と参上遅れたことお詫びいたします。一番弟子を名乗る傍ら、最も早く参上するよりは最も遅く、そして最も事をなしてから参上することが一番弟子を名乗るにふさわしい。そう考えた所存でございました。どうかもう一度陽鏡様の弟子を名乗る許可を頂きたい」

 

 この、この間において最も上位である曹操という者を差し置き、姫秀に首を垂れた彼女の行為は姫秀が先に行った行為よりも数段不敬であった。だが、それを曹操が最も大義であると考えたのは二年間奔走し、ようやく追いついた主の名誉のために己の不義を貫いた行為に対してだ。

 

「……仲達、よく戻ってきた。そしてお前が我が弟子でなかったことは一度もない。それはこれからもだ」

 

「今生の喜びであります!……曹孟徳様、ご無礼申し訳ございません。この首今すぐにでも差し上げたいところでございますが、私の首はこの中でも最高級の首でございます。この乱世、ここで私の胴体と切り離された暁には晩年最も後悔するのは孟徳様であり、そして最も歓喜に包まれるのは孟徳様の道を阻む者全てでございます。生憎首だけではなく、この体も差し上げられません。手一つ付いていない体でありますが、我が敬愛する師以外に差し上げる予定はこれからもありませぬ!」

 

 長い口上、仕込まれたような文句。

 

 曹操は大いに笑い、そして涙を浮かべながら天下に名高い八達あるうち一つの達人を手に入れた。

 



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陽鏡様の御講義

最後の方とか意味が分からなければ「ふーん」とでも思いながら読んどいてください


 司馬懿が来てからというものの、姫秀は少し前とは比べ物にならない位仕事をこなす様になった。それというのも夏侯淵や曹操が三日掛ける軍備についての書簡や、その片手間で農業問題と灌漑工事に関する本稿を草案抜きで献上し、誰もそれに文句が言えない始末である。司馬懿も司馬懿で桂花が内政と兼任していた金関係や物資関係の仕事を丸々引き受けて淡々と二倍の速度でこなし、曹操軍の慢性的な文官不足は解消されだして来た。

 恐るべし姫秀と司馬懿。

 不安要素の強い二人を抱えたと考えていた曹操は一先ず肩の力を抜くことが出来ていた。

 

 そんな姫秀も久しぶりの非番、司馬懿と共に中庭で茶を飲みながら将棋や読書に勤しんでいた。

 

「陽鏡兄ちゃん、何読んでるの?」

 

「うん?これは論語だよ」

 

「論語ですか、流石陽鏡様ですね」

 

 寛いでいた姫秀に話しかけてきたのは曹操軍の中でもかなり幼い部類に入る許褚、そしてもう一人はその友人でもある典韋。二人とも武勇に長けているが、学の方は少しだけ悪い。それでも典韋は夏侯淵の補佐をすることもあり、指揮官としての才能もある。

 

「季衣ちゃんも読めるさ、少しずつ理解していけばね。琉琉ちゃんも秋蘭の補佐なんだすぐに読めることになるよ」

 

「うーんそうかなあ。兄ちゃんほどボクは頭良くないからなあ」

 

「別に俺だって頭良くないさ」

 

「陽鏡様……御冗談を」

 

 はっはっは、と姫秀は笑って見せた。隣でそれを見ていた司馬懿も何処か微笑ましげである。

 するとそこに楽しそうな雰囲気を見つけてきた北郷が現れた。

 

「邑文さん。今日はお休みですか?」

 

「ああ、些か疲れた。桜那も疲労が溜まっていたようだから二人で逢引きさ」

 

「し、師匠……一刀さん警邏お疲れ様です。お茶飲みますか?」

 

「じゃあお言葉に甘えて」

 

 中庭にある東屋のような所で細やかなお茶会。少しずつ賑やかになるのも姫秀にとっては癒しになっていく。元々一人か少人数が多かったため、これほど自分に好意的な人間が周りにいるのも初めての事だろう。

 司馬懿一族が自分の屋敷に訪ねてきたのが最多の人数であった。

 しかしながら楽しい穏やかな一時も束の間、姫秀がいるのだから少しだけ難しい話も起き上がる。許褚と典韋が居なくなった時点で東屋にいたのは姫秀、司馬懿、北郷、そして徐庶と夏侯淵、荀彧という六人だった。

 

「アンタが阿呆で馬鹿だっていうなら、私は全く笑えないんだけど」

 

「全く同意だ」

 

「桂花、師匠に対しての口が悪いです」

 

「……一刀君、君は僕が馬鹿だと思うかね?」

 

「え、僕ですか」

 

 突然振られた彼は周りにいる才人に目を配り、適当なことは言えないと思いながら必死に言葉を絞り出した。

 

「馬鹿じゃないと思います」

 

「ほう、それは何故かね」

 

「……考えを持ってるから、です」

 

 自信なさげに言う北郷に姫秀は満足げだった。

 

「じゃあ福、君はどう思う?」

 

「師匠は阿呆です」

 

「フっ、それは何故かね」

 

 面と向かい即答された彼は思わず吹いてしまった。表情から察するに悪い気をしているわけではない。徐庶の回答に全員の視線が集まる。

 

「師匠は頭の悪い振りをしすぎます。だからいろんな人から馬鹿扱いされるのです」

 

 姫秀を真の意味で知らない者が姫秀を馬鹿にする。その言葉から生まれたこの議題である。

 徐庶の回答に頷いていたのは桂花と司馬懿だった。

 

「ふむ、邑文は何故人を試す様に馬鹿の真似をするのだ?」

 

「そんなの決まっているだろう、馬鹿には馬鹿の真似が一番楽だ」

 

 夏侯淵の問いに姫秀はようやく質問ではなく回答をした。

 

「この際馬鹿と天才の定義は語らぬが、いかにして馬鹿とそうでないものを分けるのか。それが問題なわけだ諸君」

 

 北郷は些か首をかしげていたが、ほかの全員は姫秀の講義を聴くため一度頷いた。

 

「まず第一に馬鹿と馬鹿でないものを見分けるのは簡単、勝てるどうか。それだけだ。

 はじめてに言っておくが馬鹿には勝てない、そして馬鹿でない者には勝つ見込みがある。例えば私が桂花と論争して桂花の論に私が納得して非を認めたとしよう。それは誰が見ても桂花の勝ちだろう。

 だが馬鹿というものは自分の非を認めることも出来なければ認めることもしない。彼らは自分の言っていることが正しい前提で話、そうでないものは自分の言っていることが正しくないかもしれない前提で話す。

 当然相手が非を認めなければ勝てないのだから、理論上は馬鹿に勝てない」

 

 そこで姫秀は一度話を区切った。

 次に口を開いたのは桂花だ。

 

「私なら馬鹿も説き伏せられるわ」

 

「相手は認めないのだぞ?」

 

「どうかしら、参ったと言わなくても言葉に詰まればそれは負けじゃないかしら?」

 

「相手に何か説明をして、相手がそれをうまく理解できなかった。それに対して君は「なぜ理解できないのか」というとして、相手が「君がうまく説明できていないのだ」と反論してきたら君はどうする?」

 

「相手が反論できなくなるまで全てをもって相手の理解度が低いことを証明して見せるわ。反論できなくなればそれで勝ちにならない?」

 

「桂花何度も言っているだろう。相手は負けを認めない。君がどんなに懇切丁寧に説明しようが返ってくる言葉はただ一つ「何を言っているか分からない、君の言っている事は正しくない」だ」

 

 何かを言いかけた桂花は口を閉じた。自らの言っていることの欠点を感じ取ったのだろう。代わりに口を開いたのは夏侯淵だった。

 

「説明しても分からなかった相手に説明するという行為は行為自体に矛盾があるな。

 ではどうだろうか、ある一方とある一方が居てどちらが馬鹿で、どちらが馬鹿でないかを誰かに判断してもらうのは」

 

 自信ありげに夏侯淵は姫秀の言う、すると彼も深くうなずいた。

 

「その通りだ。これは武芸にも言えることで、他人に判定を任せるというのは最も良いことだろう」

 

 「なるほど」と北郷もそこでようやく話についてこられた。荀彧もそこで頷いている。一方司馬懿と徐庶は頷かず、ただ姫秀の続く言葉を待っていた。

 

「だが、ここには更なる問題点が存在する。その両者の話を正確に理解できる能力が仲裁人には求められるということだ」

 

 ここで司馬懿、徐庶の両名は初めて頷いた。ここまでが同じ意見だったのだろう。夏侯淵は目を細めてそこで問題点を認めた。

 

「つまり、だ。仲裁人が馬鹿だった場合、馬鹿でないものは馬鹿に勝てない、何故なら先ほどと同じくきっと馬鹿でないものの言っていることを理解できないからだろう」

 

 姫秀は続きを語ることもなく、そこで茶を啜った。他の者もそれ以降何か発言することもなかった。未完成な姫秀の講義、その先にある答えに彼女らは自力でたどり着くのだ。

 故に、ここでもっとも凡人である彼は口を開く権利がある。

 

「でもそれじゃ、馬鹿でない者の証明もできないんじゃないのか?」

 

「その通りさ一刀君。これはイタチごっこなのさ。どちらが正しくてどちらが正しいか、それを証明して定義することは難しい。

 だからこそ私は馬鹿になる。自分の話を理解できない人と態々話す必要もない。君は私の話を理解できたのだろう?それは素晴らしいことだ」

 

「まあ……そうですけど……」

 

「それにな、一刀君。少なくとも馬鹿でない者というのは相手の話をしっかりと理解できるし、仮に相手がおかしいと思ったのならば「君の言っていることはおかしい」「彼は馬鹿だ」というのではなく「君の言っていることの「ここ」や「そこ」がおかしい」と指摘できるし、「彼の「どこ」が馬鹿で彼の「そこ」が馬鹿だ」としっかり指摘できる。

 指摘や明確性がないのに相手を貶すのは少なくとも愚かしい行為でとても頭の悪い人間にはできない、それは自分の見栄が生んだ恥ずかしい行為さ」

 

 「ま、私が思うに、だがね」と姫秀は付け加えた。

 あくまでも自分の意見、人にはそれぞれの意見があるだろう。姫秀はそれを否定しないし、肯定もしない。

 北郷は姫秀が一体どれだけの知識を持ち、どれだけ相手を俯瞰して、どれだけ常に考え続け、そしてどれだけ相手に失望してきたのか。

 興味と共に、悲しみを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

 

 姫秀は曹操から呼び出された。

 向かった先は曹操の寝室であった為か姫秀も「まさか」と一度は疑いもしたが、それはすぐに思考の片隅に。仮にあったとしても無いだろうと勝手に結論付けた。

 彼女の部屋に近づくにつれ警備も厳しくなる。もちろん彼を阻む者はいないが、曹操が男を部屋に招くのは珍しいのだろう。恐らく北郷に続いて二人目ではないだろうか。北郷の場合は完全に閨招かれているわけであるが、秘密にしなければならないことを話すうえでは閨も密室も同じではあった。

 

「おや、一刀も呼ばれていたか」

 

「どうも邑文さん」

 

「急に呼んで悪いわね」

 

 この場で何用であるか知らないのは姫秀だけだろう。一刀には困惑の意図がない。聞かれたくないことで曹操と一刀がいるということは、一切口外されてはいけない彼の秘密について。説明するのは曹操、一刀は自分からの質問に対して答える為にいる。

 

「なるほど、ようやく天について聞けるわけだ。管輅に聞いた時から随分待たされたものだな」

 

「……管輅?」

 

「すまない、それはあとで話す。まず聞かせてくれ」

 

 まっていたと言う姫秀は椅子に座ると顔の前で手を合わせ、目を閉じ、曹操が始めた話に耳を傾けた。

 一刀のいた世界、三国志、反転した性別、変革された歴史。姫秀は管輅以上の衝撃を受けつつ、そして考えをまとめていた。

 

「どうかしら、信じられる?」

 

「信じる要素はないが、信じない理由もないな。そもそも、もし一刀が嘘を吐いているならば私でも到底たどり着けない詐欺師だ。疑う意味もない」

 

「じゃあ信じてくれるのか」

 

「まあな」

 

 荒唐無稽ではある。全てが一刀の中で完結している事実ならば曹操も姫秀も認めはしない。だが、彼はその一部を示していると同時にこの世界では誰も考え付かなかったことを平然とやる。この不自然さは正しく、ここの常識と照らし合わせて考えること自体が間違っていると彼は決定づけた。

 

「成程、それで天の御使いとは、確かにその通りだな」

 

「そういえば管輅と言っていたわね」

 

「ああ、管輅から天の御使いが流星に乗ってくることは聞いていた。ずっと前にな。それでいくつか流星について考えていたんだが、本当に空から降ってくるとはな」

 

 「まったく」と付け加えて彼は笑った。

 事実は理解した。ともすれば姫秀は今彼がおかれている現状について考える以外の選択肢はない。

 

「未来というのはどれくらい先の話か?性別が変わっているというがそれ以外の変化は?姫秀と者は今男だが、天では女なのか?順に答えてくれ」

 

「えーと――大体今から1800年くらい後の未来からきた。性別以外はあんまり変わらないけど全員が全員女になってるわけじゃないかな。こう言っちゃあれだけどあんまり有名じゃない人は男のまま、後は多少の文化だけかな」

 

 一刀はそう区切る。

 しかしそのあとの問いを答えようとはしなかった。

 それを不自然に思ったのは姫秀だけでもなく曹操も、後世に伝わるこの世界に姫秀なる者はいない、そのことを一刀は曹操にも伝えてはいない。

 

「どうしたかね、一刀君」

 

「……一刀、いいなさい」

 

 一刀が口籠っている理由を察した曹操。歴史にかかわる事について口を閉ざさした曹操は姫秀という人物が後世において重要な人物であることをその時理解した。実際は全くそのようなことはない。だがはっきり言ってこの現在において姫秀は曹操の言う重大な出来事だろう。

 

「邑文さん――いや、陽鏡の姫秀なんて人は未来に伝わってはいません」

 

「――な!」

 

 曹操は思わず立ち上がってしまった。理由は二つ、姫秀程の人物が後世に伝わらないはずがない事、そしてそれを踏まえて彼程の人物が後世に伝わっていない理由を考え、そしてその結論にたどり着いた答え。

 前者を考慮しなかった姫秀はいたって普通に腰を下ろしていた。ただ彼の右手は自らの唇をなぞっていた。

 

「多分これは華琳のいう言わないほうがいい事だったのかもしれない」

 

「……そうね、でも許可したのは私、咎めることはないわ」

 

 思いのほか大きなことであった事に曹操は唇を噛んだ。

 ――いなかった――という事実はただ一つの効果を生む。一刀の知っている歴史とは大きく異なる可能性があるということだ。

 

「最後に一つだけ――私を中心に、歴史はすでに変わっているか?何が変わってるかを言う必要はない」

 

「……変わっている」

 

「そうか……私が特異点か」

 

 姫秀はそれから暫し沈黙を貫いた。曹操も北郷もそれを破るつもりはない。どれだけ自分たちが思考するよりも、恐らくここに来るまでに考え付いていた仮説の方が彼にとって本質へ導きやすいのだろう。

 

「なるほど、管輅か」

 

 一つ呟いて姫秀は立ち上がり、そして急ぐように早歩きで曹操の寝室を出て行った。

 いつの間にか振り出した雨、それに気を取られることなく、姫秀は道を行かずただ中庭を目指した。

 雨の勢いは増していく。だが雨の下でただ立ち、そしてこめかみを人差し指で何度も突く彼は自然など無視して思考に耽っていた。

 

「陽鏡様……!」

 

「師匠……」

 

 北郷と曹操が彼を追って中庭に行くと姫秀の他に二人、司馬懿と徐庶が膝を突いていた。

 

「どういうこと?」

 

 曹操は素朴な疑問も彼女らに投げかけた。

 

「陽が落ち、昇るまでまるで考え続ける者。それを見た水鏡様が陽鏡様にご自身の鏡を与えたのです。あの姿は一切の外界を閉ざし、己以外の戯言を閉ざし捨てているのです。華琳様であろうとも、天子様であろうとも、自然であろうとも神であろうとも」

 

「……あれが邑文さんの本当の姿ってことか」

 

 ――だからこそ私は馬鹿になる。

――自分の話を理解できない人と態々話す必要もない。

 

「本当の意味で彼と話ができる者などいるのでしょうかね。もしできたとしても、それは恐らく一方的な会話ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

♢  ♢  ♢

 

 

 

 

 

 

 

 

1800年後の未来、そこが仮に天の世界だとしよう。今私が立っているこの世界は天の世界の過去であるともいえる。

だがそれは否定。

もし過去ならばこの世界は男尊女卑でなければならない、解は正確には1800年後の未来ではない。

 仮定。ここが男尊女卑の本当の歴史だとして、その1800年後が天の世界だとする。ではこの世界は何の世界か。

謎、存在の証明。不可、問いにならない。

ではその天とこの世界の因果関係は。解、天の御使いの意義。ではそれは何か、不可解。

 天の世界とこの世界の関係性。不可解。

 管輅という者について。不可解

 北郷一刀について。天の国の者、天の御使い。鍵。

 姫秀について。特異点

 姫秀と天の世界について。不可解

 この世界と姫秀の因果関係――解、無し。

 

 仮説。この世界の未来は天の世界ではなく、天の世界で伝わる世界の未来が天の世界。天の世界から北郷一刀はこの世界に来た。つまり天の世界とこの世界は別物。不可解

 仮説。前述が基準に、管輅は二つの世界について知っている。解、肯定。

 仮説。前述が基準に姫秀は天の世界の者か。否定。

 では何故姫秀は天の歴史に存在しないか。

 仮説。二つの世界は別の世界。肯定

 管輅が接触してきた関係性。肯定

 姫秀が特異点である可能性。肯定。

 

 

 

 

「正しい歴史が天だとして正史、我々がいる世界を偽の――訂正。外の歴史外史。私が特異点でこの世界が変遷していくとするならば、私が存在させた特異点が存在する。外ならぬ周という国。

 ならば……重大な事に気が付いた。ではこの世界の未来はどうなる。天が正しく、我々が正しくない未来だとするならばその存在は誰が操る――管輅か。時と空間を超えられ事ができるならば何故私のいる世界に入れた」

 

 

 

 

「この世界が正しくない理由が存在しない、ここが正史……」

 

 

「ここが終わり――――――俺が特異点。俺が終わりの存在か……!」

 

 

 

 

 

 

 呟かれた言葉は途切れ途切れ、彼の真の思考、この時に結論付けてしまった解を共有する者は今後一人として現れることはなかった。

 きっと彼は知ってしまったのだ、この答えを共有できるものはただ一つの存在。その答えを最初から知っている管理者だけだと

 



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