修羅の刻-不破圓明流外伝- (越路遼介)
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不破大斗
時は幕末、浦賀にペリー提督が来航してより時代は変わった。長州、薩摩、土佐の雄藩を中心に世は倒幕へと走り出した。しかしそんな時代の流れが全国通津浦々で行われていたわけではない。ここは上州、今の群馬県に一人の若者が流れて来た。
だが路銀もなく、空腹で倒れてしまった。若者は運が良かったかもしれない。この地は幕末動乱のことなど別世界のように平和であった。
◆ ◆ ◆
「おお、かわいそうに、こげな若者が」
「村で丁重に弔ってやるべ」
と若者の周りに人が集まっていた。そこへ釣竿と魚籠を持った男が通りかかった。
「どうしたのだ?」
「ご領主様、若いモンの行き倒れですだ」
「なんと、かような若者が」
「…てに…こ…すな…」
領主と村人は顔を見合った。何か聞こえた。領主は村人に
「何か言ったか?」
「いえ、あっしは…」
「勝手に殺すな…。生きている」
若者は小さい声で言った。
「何だ生きているでねえか」
「当たり前だ…。腹が減って動けないだけだ…」
ドッ笑う村人たち。
「ははは、ならば来い、私の釣った魚で良ければ馳走してやる」
「…」
「立つこともできんのか、世話の焼けるヤツだ」
領主は若者を背負い、さっきまで自分が釣りをしていた河原へと戻った。焼き魚の匂いが若者の鼻をつく。ガバと起き上がり、焼き魚を見る。
「ホレ、焼けたぞ、食え」
「あ、ありがとう!」
若者は焼き魚を夢中で食べた。一匹食べ終わると男は次の、そしてまた次と魚を渡してくれた。やっと生きた心地がした。
「美味かったぁ」
「ははは、骨や頭まで残らず平らげるとは食いっぷりがいいな」
「生きものを食べると云うことはそういうことだと母から教わった」
「そうか、よい母だな、えーと」
「俺、大斗って云うんだ」
「ほう、よい名前だな」
上着は白い着物、下は黒い袴、少し汚れている。近隣の農民の子と思ったか男は少年に姓は訊ねなかった。
「私は小栗又一と云う」
「小栗さん、ありがとう。貴方は命の恩人です」
「ははは、大げさなヤツだ。近隣の百姓の子か?」
「そんなところ。この村から離れた山里から出てきたんだ」
「それで路銀を使い果たして空腹で倒れたと」
「そう」
照れくさそうに大斗は答えた。そして姿勢を正して小栗に言った。
「ところで一飯の義理、俺あんたの家で雑用でも何でもするよ」
「え?」
「心配しなくても居候しようって言うんじゃないんだ。力仕事なら自信ある。巻き割りでも水汲みでも何でもやるよ!」
「そうか、そりゃ助かる。人助けはしてみるものだ」
小栗は大斗を家に連れ帰った。妻の道子が出迎えた。
「お帰りなさいませ、あなた。あら?」
「ちょっと外で拾ってきた。雑用で今日一日使ってやれ」
「はあ…」
「奥方にございますか、俺大斗と言います!ご亭主に命を助けていただきました」
「本当におおげさなヤツだな、あっははは」
小栗又一、幕臣の小栗上野介忠順その人である。アメリカへの使節団への一人として渡米するが、現地では小栗が代表者と勘違いされたと云う。その理由は、他の使節団員は外国人と接したことがなく困惑していたが、ペリー艦隊と交渉経験がある小栗は落ち着いていたため、現地人は彼が代表に見えたと言われている。
また小判と金貨の交換比率の見直し交渉に挑み、見事に成功。アメリカに対して『No!』と言った彼を、アメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。
そして彼がアメリカの造船所を見学した時、『西洋文化のすごさは出来上がったビルでも蒸気船でもなく、それを作る根本たる工場だ』と痛感。そして記念にネジを持ち帰った。帰国後に外国奉行に任命されるが自分の国を自分たちで守ろうとしない幕府に失望し辞任、だがその八ヶ月後に勘定奉行を任命され、そして『上野介』の官名を与えられた。その際、多くの同僚が『上野介は赤穂浪士に斬殺された吉良上野介と同じ官名、辞退しては?』と勧めたが、小栗は『たとえ斬殺されようと国のために命を失うは男子の本懐』と官名を受けた。そして幕府の財政を見事に立て直し、軍艦奉行に任命される。
そこで彼は造船所の建築を強く訴えた。多くの反対意見が出たが『軍艦は外国から買うことが出来る。しかし破損した時に修理できない場所がなければ何とする』とはねつけ、ついに幕府は小栗忠順の進言を入れて造船所の建築を許可した。
しかし軌道に乗ると小栗は軍艦奉行を辞任した。小栗が私利私欲のための造船所を作ろうとしていると噂が立ったからである。しかし長州藩を中心とした討幕軍が決起すると戦費の捻出のため小栗は再び勘定奉行に任命された。だがもう戦費を捻出しようがない。鳥羽伏見の戦いにも敗れ、将軍徳川慶喜は江戸城に敗走。もはや幕府の命運これまでと思う小栗だが、彼は最後まであきらめず慶喜に徹底抗戦を主張した。
そして慶喜に作戦を進言した。それは敵軍に小田原を通過させ、箱根の山を越えさせたところを前方と後方の軍により挟撃。そして当時最強といわれた榎本武揚率いる海軍に艦砲射撃させると云うものだった。
しかし慶喜は、これ以上の戦の拡大を止めるために中止させたうえ、小栗の勘定奉行の任を解いたのだ。この策を聞いた討幕軍の参謀である大村益次郎が『その策が実行されていたら今ごろ我々の首はなかったであろう』と畏怖したと云う。
徳川は新政府に恭順となった。小栗忠順は自分の領地である上州の権田村(群馬県高崎市)に家族揃って移り住んだ。それが一ヶ月前の話である。
「まあ、本当に力持ちなのねえ」
アッと云う間に小栗家の雑事を済ませた大斗。
「えへへ」
「お腹空いたでしょう、ほらどうぞ」
それは握り飯だった。
「い、いいんですか?」
「ええ、大助かりでしたもの。遠慮せずに」
「ご馳走になります!」
縁側に座り、大斗は握り飯を食べた。
「んまいなぁ」
「孔子いわく」
「「孔子いわく」」
「ん?」
奥の部屋から小栗の声が聞こえてきた。覗いてみると数人の少年に学問を教えていたのだ。お茶を持ってきた道子、小栗の講義を覗き見ている大斗に言った。
「ああ、あれ、夫が近隣の子を集めて学問を教えているのよ」
「みんな農民の子ですね」
「ええ、いつかこの村から良き指導者を出して見せると口癖のように」
うらやましそうに講義を受ける少年たちを見る大斗。
「あなたも習えば? ああ見えて夫は博識なのよ」
「い、いや、俺なんて流れ者だし」
「馬鹿ねえ、学問をしたい者にそんなことが関係あるものですか」
「…」
「でも私から頼むのは駄目ね。自分から夫に頼んでみなさい」
「は、はい!」
講義が一段落すると、大斗は小栗のところに行き、平伏して頼んだ。
「先生!」
「せ、先生?」
「俺に学問を教えて下さい!」
「学問を?」
「はい!」
真剣な眼差しの大斗、小栗はしばらく大斗を見つめニコリと笑い、言った。
「いいだろう、だが私の教えは厳しいぞ」
「はい! やったあ!」
小栗の住み込みの弟子となった大斗だが小栗は驚いた。大斗は字も書けなかった。しかしそれが逆に小栗に師として感奮させた。真っ直ぐな性根の若者大斗、自分の夢である弟子から良き指導者を出すと云うのが彼によって成就されるのではないかと感じた。
朝昼は小栗家の雑事をキチンとこなし、夕方から寝るまで徹底して小栗から指導を受ける大斗、大斗は小栗を人生の師と心より尊敬した。ある日、小栗は大斗を連れて村を出歩いた。
「大斗よ」
「はい、お師匠様」
「この村は水不足でな、領主として何とかしたいのだ」
「はい」
「しかし政治でもそうだが、物事には一発逆転はない。地道に活動していくことが大事だ。ここいらで良いか」
小栗は野原に棒を立てた。
「お師匠様、何をなさるのですか」
「測量だ」
「測量?」
「そうだ、測量器で実測し、川より水を引く。用水路を作るのだ」
「す、すごいやお師匠様」
「すごくはない、人間の技だ。さて測量のやり方を教えてやろう。まず時刻を確認して、そしてこの測量器を覗いて測るのだ。手本を示すぞ」
「はい!」
目を輝かせて小栗の測量を見る大斗、そしてその小栗の姿を頼もしそうに見るのは自分だけではない。権田村の領民たちも『ありがたいことじゃ』と手を合わせて領主を見ていた。小栗は自分の知識や経験に基づく知恵を惜しみなく大斗に与えた。どんどん知識を吸収していく大斗。
だがその幸せな日々は長くは続かなかった。
◆ ◆ ◆
江戸城を無血開城で入城した討幕軍、金蔵を見たらカラだった。誰からか勘定奉行が徳川の御用金を持ち逃げしたのではと噂した。その勘定奉行とは小栗上野介である。討幕軍参謀の薩摩藩士の西郷隆盛は上州へ兵を向けた。
西郷は『小栗は幕府の御用金を軍資金として戦争を企てている!』と公言し、小栗処刑を厳命した。新政府軍をあわや殲滅させる策を練りだしていた彼を危険人物と考えていたのかもしれない。
ちなみに言うと、江戸城の金蔵をカラにしたのは榎本武揚と幕府家臣の松平太郎である。城を渡しても、お宝までくれてやることはないと榎本が艦長を務める開陽丸に運び出してしまった。これが真相である。
小栗には何の関与も無いのだ。
「そんな馬鹿な!」
驚く大斗。
「お師匠様が幕府のお金を持ち逃げし、戦争を企てているなんて!」
「…」
小栗は無言だった。そしてこの時、会津藩で動いている者がいた。藩主松平容保の側近で家老の梶原平馬である。梶原は藩主容保を説得して藩兵三百を動員、『会津の面目にかけて小栗殿を救出せよ』と厳命した。
徳川家は新政府軍に恭順した。しかし新政府軍は合戦をやめるわけにはいかなかったのだ。平和な統一では、またぞろ諸大名が復活し、徳川もいずれ回復する。西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允が画策した『王政復古』は潰え、元の木阿弥となってしまう。それでは今までの戦いや苦労も水泡、幕府を完全に葬り去り、新政権を世に知らしめるには劇的な幕切れが必要なのである。木戸孝允は
『断固たる基礎を据える事は戦争より良法はない』(木戸孝允文書)
『関東の戦争は実に大政一新の最良法なり』(木戸孝允文書)
『天皇の力を見せ付けるために、相手に絶望感を抱かせるほど徹底的に残虐非道な戦争の遂行』(木戸孝允文書)
その生贄に選ばれたのが会津だった。徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いから敗走し、松平容保と共に江戸に戻った時点で小栗はそれを悟った。徳川将軍が恭順すれば新政府は慶喜が討てない。
しかし薩長がこれで戦争を終わらせるわけにはいかないことは分かっていた。新たな生贄が必要なのだ。それが会津と小栗は読んだ。禁門の変で会津に煮え湯を飲まされ、池田屋で会津藩お抱えの新撰組に多くの同志を殺された長州は会津を許さない。しかしそれとて幕府のために泥をかぶった会津藩なのだ。小栗はまだ自分が幕府内に権限があるうちに会津へ多量の武器と豊富な軍資金を渡したのである。会津藩家老の梶原平馬は驚き、こんなことをすれば御身が、と喉から手が出るほどに欲しい武器と金だが断った。しかし小栗は
『これに伴う裏帳簿は墓まで私が持っていく。京都守護職を引き受け、今まで幕府の泥をかぶってくれた、せめてもの礼である』
と梶原に渡したのだ。会津の人々は小栗の男気に感激した。その小栗が新政府軍に理不尽な難癖をつけて殺されようとしている。会津武士たちは黙っているわけにはいかなかった。家老の梶原平馬は城下に小栗家の住居も建てて、小栗が無事に到着してくれることを願った。小栗が権田村から会津に向かうには草津海道から断崖絶壁、深山幽谷の信越国境を越えて越後に抜けて、信濃川を下って新潟から会津に向かうのが警備上における望ましい道のりだった。しかし、この小栗の会津入りは実現しなかった。
以前、間の悪いことがあった。新政府軍を自称する多数の暴徒が権田村に略奪目的でやってきた。小栗は村人を率いて、圧倒的に兵数が少ないながらも見事に撃退している。この話に尾ひれがついて権田村が小栗率いる要塞ではないのか。あれだけの暴徒をわずかな農民で蹴散らすとは大砲なども持っているのではないか。
小栗の存在を恐れた新政府軍は権田村の名主である佐藤藤七と云う男に目を付けた。小栗が目をかけていてアメリカに行く時も従者として連れて行っている。小栗の信頼を得ている。そして金に困って小栗に二百両もの大金を借りている。その情報を得た新政府軍はニヤと笑ったことだろう。軍が寄せれば、小栗も権田村から逃げ出す恐れがある。取り逃がしては手柄にならない。新政府軍は先の佐藤を召して些少の金を与えたうえ
「もし小栗が逃げだしたら『ご領主様がいなければ村民が官軍に罰せられます』と泣きつけ」
藤七は二百の借金が帳消しになり、これ幸いと喜々として引き受けた。千里眼の小栗が、この佐藤藤七の卑しき地金を看破出来なかったのは痛恨と云える。
◆ ◆ ◆
小栗家が屋敷としている東善寺が新政府軍の先鋒部隊に攻められた。迎え撃つと云っても小栗はここで静かに晴耕雨読の日々を送っていたゆえ、番人くらいは置くが兵などいない。しかも、この時に小栗は留守だった。妻の道子が留守番をしていたが、屋敷内に侵入してきた薩長兵に組み敷かれた。
「なにを!」
「小栗の妻は美貌と聞いていたが噂以上の上玉だぜ!おい昨日のチンチロリンで一番は俺と決まったんだ。文句はねえだろ!」
薩長兵、いやもはや暴徒と化していた兵は仲間の兵に恥知らずにも言う。
「ああ、早くしろよ」
「おい、舌を噛まないように猿ぐつわを!」
「離して!離し…!」
道子は平手を喰らった。
「黙っていろ!ふへへ、幕臣の奥方をいただけるとはな、いい世の中になったモンだ!」
その時、一陣の風が吹いた。
「クズどもが…!」
「大斗…!?」
「奥方様、お怪我は?」
「え、ええ、大丈夫だけれど…」
「薪を拾いに出ていてお救いするのが遅れました。ですがもう大丈夫です」
衣服を整える道子。大斗の周りには暴徒たちが倒れていた。すでに息絶えている。続けてやってくる暴徒たち。だが次々と大斗の拳と蹴りに倒れた。
「このガキァ!」
鉄砲で狙い撃ちにされた大斗、だが彼はその弾丸を簡単に避けた。
「う、嘘だろ…グァ!」
大斗は肘撃ちの構えで兵に突進し肘撃をみぞおちにあて、そのまま腕を極めて投げ倒し、同時に肘を兵の顔面に落す。即死だった。小栗処刑の指揮を担当していた彦根郷士の大音龍次郎のもとに兵が駆けた。
「バ、バ、バケモンがいるぞーッ!」
「だ、大斗…」
大斗は鬼神のような強さで屋敷に侵入してきた新政府軍をたった一人で蹴散らした。驚いたのは敵兵もだが道子も驚いた。
「あ、あなた…。こんなに強かったの…」
「…生まれたときから、この人殺しの技を学んできました」
「大斗…」
鉄砲隊を組んで東善寺を囲み始めた新政府軍。しかし兵の眉間に鈍い音が発し、そのまま倒れた。即死だった。銃声は一切聞こえなかった。大斗は倒した兵士が持っていた弾丸を拾い、それを投げたのである。
「弾丸は破裂して発射していない…!投げただけだと!?」
「雹…」
すさまじい威力で飛んでくる弾丸は新政府軍の射手次々と討ちはらう。どんな敵がいるか分からない。たまらず退却した。
騒ぎを聞いて小栗が急ぎ帰宅、敵兵の死体を見るが斬られたり撃たれて死んだ者はいない。拳や蹴りで殺されたのだ。
「大斗」
「はい」
「お前がやったのだな…」
「…はい」
「…」
「あなた! 大斗は私を陵辱しようとした新政府軍から助けようと!」
「お前は黙っていよ!」
「は、はい」
「大斗…。お前はもしや陸奥か…?」
「いえ…」
「隠すな、あの寛永御前試合で家光公暗殺を企てた真田が娘、その加勢をした男は無手で修羅さながらの強さであったと聞く。それが陸奥…。お前はその男の末裔なのか?」
小栗は消された歴史ではなく、真実の歴史を知っていた。小栗家は神君家康の譜代家臣の家柄である。彼の家には寛永御前試合の真実が伝わっていた。
「無手で不敗の陸奥、お前がこの時代の陸奥なのか?」
「違います。その寛永御前試合にて真田の娘に加勢した陸奥より二代前、陸奥と袂を分けた者がいます」
「何?」
「それが不破、俺はその不破圓明流の継承者です」
「そうか…」
「お師匠様、俺…許せなくて」
「出て行け」
「え?」
「出て行けと言っている、人殺しを弟子にした覚えはないわ!」
「あなた!」
「お、お師匠様」
「破門だ、二度と帰ってくるでないぞ」
「は、破門だけは許して下さい、お師匠様!」
敬愛する師に破門だけはされたくない。大斗は平伏して小栗に願う。後に生まれる自分の子を不破圓明流の継承者に育てるつもりではあるが、今は学問がしたい。もっと教えてもらいたい。いかに無双の強さを誇る彼でもまだ少年なのだ。
「くどい! 出て行け!」
小栗は奥へと歩いていった。
「お師匠様…」
「大斗、私が何とかするから。出て行かなくて良いのよ…」
大斗は静かに首を振った。
「…いいえ、俺、出て行きます」
「大斗…」
「今までありがとうございました」
小栗の屋敷前で頭を垂れて大斗は小栗家を後にした。肩を落として立ち去る弟子の後ろ姿を見る小栗。
「…許せ大斗」
「どうして大斗を、大斗は私を助けてくれたのですよ」
「分かっている。だがな道子、ここにいれば大斗は薩長に捕まり殺されるではないか」
「あ…」
「いくら鬼神の強さを持っているとしても、鉄砲や大砲を持つ軍隊に勝てるわけがない」
「あなた…」
「道子」
「逃げるぞ、もはや薩長に道理は通じぬ。ただ私を殺したいだけなのだ」
「どうして…あなたが何をしたと…」
「私自身わからん。ともかく身に覚えのないことで斬首されるわけにはいかん。会津から私たちを迎えるため一隊が権田村に向かっているらしい。もはや上州に入ったと聞くので、彼らと合流しよう。急げ」
「はい」
小栗は家族を連れて権田村を脱出、亀沢の豪農、大井家に宿を取った。しかし名主の佐藤藤七が追いかけて、そして泣きついて言った。
「ご領主様がいなければ村民が官軍に罰せられます」
やはり小栗がこの男の卑しき地金を見抜けなかったとは思えない。しかし、だからこそ小栗はこの時に命運を悟ったのかもしれない。目をかけた者がたかだか二百両のために主君を売る。すべてをあきらめたように小栗は大きな息を吐き、妻に
「私は新政府軍の陣に出頭する」
「え…!」
「御用金の着服など身に覚えはない…。と言ったものの…まぁ半分は本当か。会津に徳川の御用金を渡したのだから」
「あなた…!」
「お前は逃げよ、そして新しい時代でお腹の子を育てるのだ」
小栗の家族の同行まで求めなかった藤七、小悪党らしく、そこまで非道にはなれないか。
◆ ◆ ◆
数日後、小栗は新政府軍の陣に自ら出頭した。我が軍の兵士を殺した者は、と詰問されたが小栗は一切話さなかった。権田村の村民たちは小栗の身柄を返せと新政府軍に怒鳴り込んだ。村民と新政府軍が激しく言い争いをしていると小栗は
「お静かに!」
と一喝。村民と新政府軍、いずれも黙った。そして小栗は御用金については一言の抗弁も許されず処刑される。その斬首のとき、木陰から自分を見る視線に気付く小栗。
(大斗…)
大斗は小栗の身柄を奪回するため新政府軍に単身殴りこむつもりであった。しかしそれを止めたのは権田村の村民たちであった。道子をかくまっている大井家の者もいる。道子から『夫を救おうとする若者が必ずいる。しかしそれを止めてほしい。小栗の願いに反すること』と頼み、村民たちは潜む大斗を見つけて説得した。
『ご領主様がお前を破門にしたのは新政府の馬鹿どもに殺させないため。それなのにお前が殴りこんで殺されたらご領主様はどんなに悲しむか』
大斗は師の思いやりに涙し、そして師の最期を見届けようとした。
(お師匠様…)
(大斗よ…。私の死そのものが最後の教えだ)
軍監を務めているらしい原とか云う若僧が偉そうに小栗に言った。
「言い残すことはないか?」
小栗は哀れみを込めて笑い
「新政府軍も人がおらんと見える」
そして首が切り落とされた。大斗は木陰で平伏し大粒の涙を落とし続けた。
(お教え、ありがとうございました…!)
◆ ◆ ◆
小栗の死を知った会津隊は激しく落胆した。しかし小栗の妻がかくまわれていると知り、隊長を務めていた山本覚馬は、せめて会津で夫人に安心して子を生んでほしいと思い大井家に向かった。
小栗家の者はもう夫人しかいなかったが、道子は大斗が父祖代々に渡り小栗家に忠義厚き家の者と迎えに来た会津藩士に紹介した。小栗家の忠臣ならば文句ないと会津藩士は大斗の同行を認めた。身重の道子を背負子で背負い、峻険な道も大斗は歩いた。
「ありがとう大斗」
「なんの、疲れたら言ってください」
一緒に会津までの旅をしていた会津藩士たちは大斗を見て、少年ながら見上げた忠誠心と感心していた。会津藩士の間瀬岩五郎は
「我が弟の源七郎と同じ歳くらいのようだが、会津武士も見習うに値する忠義者よ」
そう称賛した。彼の弟の間瀬源七郎は後に飯盛山で自決する白虎隊士の一人である。
大斗は道子に献身的だった。師に代わり道子を守るのが自分の務めと思っていた。越後に入り、小康を得た。その宿で道子は献身的に尽くしてくれる大斗に訊ねた。どうしてここまでしてくれるのか、と。大斗はこう答えた。
「家訓です。『富んでいるものから恵んでもらったら感謝するだけでいい。そうでないものから恵んでもらったときは恩を忘れるな』生まれたときから、そう育てられてきました」
「それが不破圓明流の家の教えなのね」
「はい、家と言っても師である父と俺だけでしたが」
「お母さんは?」
「俺が小さいころに」
「そう…」
「今まで照れくさくて黙っていましたが、奥方様は亡き母と何か似ています」
「まあ、ありがとう。でも、ふふ…」
「何か?」
「そうでないもの、か。確かに我が家は領主と言っても…」
「はい、お世辞にも裕福とは…」
道子と大斗は楽しそうに笑った。小栗は村人に尽くすため私財を使い、大斗が弟子入りしたころには貧しかった。でも誇れる貧しさだった。
「それに、お師匠様は食べ物だけではなく、知識も、そして人として大切なものも教えてくれました。終生の師として、ご恩は絶対に忘れません」
「ありがとう大斗。小栗の自慢の弟子ね」
「はい!」
そして旅をすること数日、やっと会津に到着した。
「奥方様、着きましたよ!」
「ええ、あれが磐梯山、絶景だわ」
城下に到着すると梶原平馬と若年寄の横山主税が出迎えた。
「これは奥方、会津藩家老の梶原平馬にございます」
「小栗の室、道子です」
「亡き上野介殿に我が会津は厚恩を受けました。お助けできなかったのは無念」
「いえ…」
「せめて奥方には安心してお子をお育ていただきたく、僭越ながら当藩にてお屋敷を用意させていただきました。日々のお暮らしや安全は我が主君容保が保証いたします」
「ありがたきお言葉、藩公によろしくお伝え下さい」
「良かった…」
道子の後ろに控えていた大斗は、信頼置ける場所に師の妻を預けることが出来たことに安心した。そして
「大斗、ほらご挨拶なさ…」
大斗は道子の後ろから忽然と姿を消していた。その場にいた間瀬岩五郎も
「あれ、おかしいですな、ついさっきまでここにいたのに…」
「……」
さっきまで大斗がいたであろう場所を見つめる道子、何となくだが、この場から去って向かった場所は分かった。そして何をするつもりなのかも。
「大斗…」
そう、大斗は来た道を引き返していた。権田村に戻ったのだ。そして数日後の朝、佐藤藤七が巨大な獣に襲われたような死体で見つかった。これ以降からだった。権田村に寄せていた新政府軍の関係者が不可解な惨殺死体で見つかるようになったのは。数名が暗殺者を見たことがあったが『あれは鬼』『あれは修羅』と恐れたのであった。
◆ ◆ ◆
世は明治と改まり、しばらくの月日が流れた。そして日本最後の内戦、西南戦争。薩摩軍最後の砦の城山にて、巨星が落ちようとしていた。維新三傑の一人、西郷隆盛の最期の時…。
「晋どん、もうここらで良か…」
弟子の別府晋介に首を刎ねよ、そう伝えた。
「「先生!」」
「「西郷先生!!」」
号泣する西郷の弟子たち。西郷は東に合掌した。明治天皇のいる東へ。
「陛下…おさらばに…」
「茶番はよせ…」
城山に潜んでいた一人の男が東に頭を垂れる西郷に言った。西郷の周りにいた者すべてがその声に振り向いた。
「戦に敗れて部下に首を討たせるか…。お前にそんな上等な死に方をする資格はない…」
「誰だ!」
西郷の直弟子、桐野利秋が刀を握った。
「我が師、小栗上野介が無念、そして会津藩の怨みを晴らしに来た」
その者が姿を現した。西郷の弟子である桐野利秋はその男の持つ雰囲気を見て口走った。かつて京都で戦ったあの男の持つ闘志。
「陸奥…!?」
「人違いだ」
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