サーティ・プラスワン・アイスクリーム (ルシエド)
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姫様は美しかった。彼は汚かった

 ソーシャルゲーム一年くらいの間でいいから滅びてくれないかな、と少年は思った。

 少年の名は佐藤朔陽(さとう さくひ)。高校三年生。

 彼の幼馴染、若鷺和子(わかさぎ わこ)は引きこもりであった。

 

 彼は幼馴染をまっとうに社会復帰させたいと考えている。

 そのためにユーザーの時間をお手軽にゴリゴリ削るソーシャルゲームに滅びて欲しかった。

 隙あらばスマホを弄る幼馴染を見るたびに、「バイト中でもスマホいじっちゃいそうだ……」と朔陽は頭を抱えてしまう。

 せめて一年。

 幼馴染を社会復帰させるために、ソシャゲに止まっていてほしいのだ、彼は。

 彼の中におけるソシャゲは、ゴキブリや蚊と同じくらい滅びて欲しいものであった。

 ソシャゲに対して彼自身は恨みも憎しみも無いというのが悩ましい。

 

「和子ちゃん、準備できた?」

 

「ま、まだ」

 

 そんな彼の努力の甲斐あって、なんと和子は今部屋を出て学校へ向かおうとしている。

 本日彼らは春の修学旅行。

 彼の根気強い説得が形を結び、若鷺和子は今日、学校に復帰する勇気を出したのだ。

 

 彼と彼女は、同じ高校・同じクラスに通う三年生。

 彼らの学校は少し特殊で、一年生の時のクラス分けが三年生になっても継続される、三年間ずっと同じクラスメイトと過ごす高校なのだ。

 少々特殊な所もあるが、それなりに普通な高校であると言える。

 彼女は今日の修学旅行で、学校復帰の再スタートを切ろうとしているらしい。

 

「君は特例で引きこもりなのに出席日数補填されてるんだから、遅刻はしちゃ駄目だよ」

 

「うぅ」

 

「でも大丈夫。遅刻さえしなければ、後はどうやって皆に馴染んでいくかだけだから」

 

 引きこもりの和子は、旅行の準備ももたもたしていて、話し方もどこか拙い。

 遅刻はしないようにと釘を刺しつつ、それでも急かさず、朔陽は彼女の呼吸に合わせた会話のペースを維持する。

 やがて、準備万端になった和子が部屋から飛び出して来た。

 

「じゅ、じゅ準備、出来た」

 

「それじゃあ行こうか」

 

 若鷺和子の容姿は、人並み以上に優れている部類に入る。

 引きこもっていた内に伸びに伸びていた彼女の髪は、朔陽が無理矢理連れて行った美容院の人がビューティフルに整えてくれたお陰で、綺麗な黒の長髪に生まれ変わっていた。

 身長は150cm前後で、引きこもっていたせいか日に焼けていない白い肌が美しい。

 誰がどう見ようと美人な容姿だ。

 だが朔陽からすれば見慣れた幼馴染の姿でしかなく、彼に言わせればベロリンガの方が性的興奮に値する存在だと言えるだろう。

 

 対し佐藤朔陽の容姿は平凡だ。

 駅前の二千円で髪を切ってくれるところで「短めにすいてください」と毎回適当な注文してるんだなこいつ、とよく分かる普通の短髪。

 アイドルをやっていたらブサイクだと言われるような、けれど校内であれば上から数えた方が早い程度にはいい顔つき。だが決してイケメンではない顔。

 和子の顔面偏差値が75なら、彼は55といったところか。

 だが"この人にくっついてれば大丈夫"という寄生根性丸出しの和子は、学校でも彼が自分を守ってくれる、友達を紹介してくれる、と信じて疑っていなかった。情けない。

 その信頼の大きさがほぼイコールで、彼に向けられる異性的好意となっていた。

 

 彼の後ろに付いて行くのが楽なので、彼のバックを取ろうとする和子。

 いや横に並んで話しながら行こうよ、という思考からバックを取らせない朔陽。

 二人は巧みな駆け引きでちょろちょろ動き回りながら、やがて学校に辿り着く。

 

「はい、到着」

 

「も、もう? こ、心の準備が……」

 

「心の準備以外の準備は全部してきたでしょ?

 挨拶の練習、荷物の用意、イメージトレーニング。多分、大丈夫だよ」

 

 ごく普通の世界。

 ごく普通の日本。

 ごく普通の日常。

 朔陽は、そんな『普通』が変わりそうな気がしていた。

 それは幼馴染が社会復帰の一歩を踏み出したから、今日が修学旅行だから、という理由だけでは説明がつかないほどに、明確に胸に浮かぶ違和感だった。

 

「オッス委員長」

「委員長くんおっはよー! ビバ修学旅行!」

「朔陽、今日はいい天気だな。晴れて良かった」

 

「皆おはよう。あ、知ってる人も居るだろうけど改めて紹介するね。

 この子がうちのクラスに在籍してたけど登校して来なかった僕の幼馴染、若鷺和子だよ」

 

 朔陽は学級委員長だ。

 少々問題児も居るこのクラスのまとめ役。

 一年生から三年生までクラスメイトが変わっていないのもあって、朔陽に向けられる周囲の信頼は確かなものであるように見えた。

 委員長の誘導でクラスの皆が和子に群がる。

 和子はソシャゲをするふりをして話しかけて来るクラスメイト達から逃げようとしたが、朔陽にスマホをあっさり取り上げられてしまった。

 

「ああっ、サクヒ、返して……」

 

「ちょっとでいいから頑張ろう、ね?」

 

 そして副委員長の大沢桜花(おおさわ おうか)の下へ行く。

 和子にも負けない和服美人。

 黒のポニーテールに桜色の和服という出で立ちの桜花は、クラスメイト達の中でも特によく目立っていた。

 彼女はいつでも和服だ。

 プールの日、プールサイドでも和服。

 体育の授業でも、冬のマラソンでも和服。

 入学式でも始業式でも和服。

 土日に遊びに誘っても和服。

 和服・オブ・和服。

 

 このクラスの女子は密かに、彼女の和服に麻薬効果でもあるんじゃないかと疑っている。

 

「おはよう、桜花さん」

 

「おはようございます。佐藤さん、火神楽さん欠席の連絡は聞いていますか?」

 

「え? あの人また? 今度はどうしたの?」

 

「今デトロイトだそうで」

 

「ええ、あの人またなんだ……」

 

「点呼は副委員長の私がやっておきます。幼馴染の子に気を遣ってあげてください」

 

「ありがとう、大沢さん」

 

 桜花の気遣いに、朔陽は深く頭を下げて踵を返す。

 彼女は優秀だ。何か問題があれば委員長である彼にすぐ伝えてくれる。

 よって現在は、一人欠席していること以上の問題はないということなのだろう。

 この学園の理事長の孫である彼女は、学校が把握していることは大体把握している。

 

「その……佐藤さん。

 若鷺和子さんが貴方の幼馴染であることは把握しております。

 邪推ならそれでいいのですが、もしや恋人というやつなのですか?

 幼馴染から自然と恋人に、というのは王道。

 夜毎愛し合う男と女は絡み合い、ポッキーをチョコワに入れるように……きゃー!」

 

「桜花さん、今度はどんな少女漫画読んだの?」

 

 箱入りのお嬢様なので、最近読んだ漫画にすぐ影響される。

 すぐむっつりな妄想をする。

 指定の制服がある学校に和服で通うお嬢様主人公の漫画を読んで、影響され、理事長の力も使わず速攻で校内政治活動を開始して校則を変え、和服登校を許されたバカ。

 自身を拘束する校則を高速でぶっ殺した女。

 副委員長・大沢桜花は公然とそう呼ばれる女であった。

 

「皆ー、バス乗ってー! 話は後にしよ後に!」

 

 朔陽が皆に呼びかけ、皆がバスに乗っていく。

 後に残されたのは、進行に詰まったプレイヤーが操作するRPG主人公の如く、右に左にうろうろしている和子だけであった。

 

「友達出来た? 和子ちゃん」

 

「出来なかった……」

 

「皆とお話できた?」

 

「サクヒのこといっぱい聞かれた……」

 

「楽しかった?」

 

「……ちょっとだけ」

 

「うん、それならいいかな」

 

 はにかむ和子を見て、朔陽は少し満足そうな表情を見せる。

 そして二人でバスに乗り込み、隣同士の席に座った。

 

「佐藤さんの代わりに皆さんの点呼をします、大沢桜花です。

 皆さんバスに乗りましたね? では再度点呼をします。

 私が出席番号順に皆さんの名前を呼びますので、返事か挙手をお願いします!」

 

「あ……副委員長さんが、サクヒの代わりに点呼取ってる……」

 

「桜花さんはあれで気遣いの鬼だからね」

 

「藍上亜神! 井之頭一球! 宇喜多うらら! 江ノ島天使(エンジェル)! 大さ……あ、これは私だった」

 

 バスが走り始める。

 道に飛び出してきたイノシシを強化装甲バスの前面が平然と跳ね殺した。

 側面の窓から景色を眺める朔陽と和子。二人の目に映る世界はとても美しい。

 

「唐谷翔! 木之森切子! 九条倶利伽羅! 剣崎敬刀! 恋川このみ!」

 

「どう? 和子ちゃんはこのクラスでやっていけそう?」

 

「ん……優しそうな人、多かった」

 

「いい人達だよ。それは僕が断言できる」

 

「でもサクヒには近くに居て欲しい……会話が続かないから……

 サクヒが居ればきっと、サクヒの友達も私の友達になってくれる……

 ……それに、サクヒが近くに居てくれると心強い。

 できれば、ご飯とかお洗濯とかお掃除とかも、サクヒにずっとやって欲しい……」

 

「和子ちゃん、その方が楽だからって寄生思考はやめようねー」

 

「佐藤さんは飛ばして島崎詩織! 須藤慧夢! セリス・セーヴィング!」

 

 幼馴染に頼り切りの和子の情けない願いを、朔陽はバッサリ切り捨てた。

 イヤホン装備のスマホでゲームをしながら自転車片手運転、という自殺運転でフラフラ車道に出て来た自転車がバスに跳ね飛ばされ、乗っていた人間は華麗に歩道に着地する。

 朔陽と和子が窓から見る景色は青く、空も海も美しかったが、これから先修学旅行で見る景色はもっと美しいかもしれない……という期待が、二人の胸の内に満ちていた。

 

「セレジア・セーヴィング! 田村たつき! 千ヶ崎張飛! 津軽辻! 手嶋天使! 董仲穎!」

 

「あれ、和子ちゃんお菓子持って来たんだ」

 

「うん。

 お菓子があれば話が弾む。

 だからいっぱい持ってきた。

 きのこたけのこ、アルフォート、ハイチュウ、小枝、コアラのマーチ。

 スニッカーズ、アポロチョコ、ポッキー、じゃがりこ、チロルチョコ。

 ひもQ、麦チョコ、メントス、ポテチうすしお、エンゼルパイ。

 カラムーチョ、ぷっちょ、チョコボール、肝油ドロップ。

 ビックリマンチョコ、麩菓子、三個の中の一個だけ凄くすっぱいガム……」

 

「おやつは300円までという概念に対する冒涜っ! 限度知ろう和子ちゃん!」

 

「多くて困ることはない」

 

「持ち運びに困るでしょうが。どうやって持って来たのさそれ……」

 

 点呼を続ける副委員長の声を聞きながら、朔陽は和子が突如取り出した信じられない数のお菓子に戦慄する。明らかに修学旅行中に食い切れる量では無かった。

 

「成瀬なごみ! 二之宮新稲! 縫川鵺! 子々津音々寧々! 野口希望!」

 

「サクヒは、わ、私のために真剣に本気で動いてくれてる。

 だったら私も、サクヒの真剣に応えるために、私なりに本気を出さないと……」

 

「そういう思考なの? ……うーん、でも和子ちゃんが前向きなのはいいことか」

 

「私も友達欲しい」

 

「出来るよ、絶対。僕は和子ちゃんがいい子だってこと、ちゃんと分かってるから」

 

「浜崎嵌造! 火神楽さんが居なくて藤浪不動! 辺見ヘリオガバルス! で、若鷺さんと」

 

 バスが道中半ばで小石を跳ねた頃、副委員長の点呼もまた終了した。

 

「あ、でもこれから僕らが行く先には、曽川先生が居るんだ。

 先生達は先に行って現地で待ってくれてるからね。

 お菓子見つかったら取り上げられちゃうよ? わかってる? 大丈夫?」

 

「えっ」

 

「同室の人と友達になって上手く協調して、見つからないように隠すんだよ?」

 

「ん、頑張る」

 

 バスは進む。

 

 そして、突如異世界から飛び出して来た異世界の魔術師を跳ねた。

 

「ひげぶっ」

 

 異世界から勇者を探しに来た魔術師は、跳ねられたショックでうっかり召喚魔術を発動。

 ついつい運転手を除いたバスの中身全員を召喚対象に指定。

 勢い余って全員を異世界に召喚してしまった。

 

「あっ、やべっ」

 

 彼らを事故で勇者に選んでしまった異世界の魔術師は、後に語る。

 

 俺がこの件で業務上過失の罰則食らうの納得いかねえよ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腹痛で駆け込んだトイレの紙が無かった時の衝撃に近い、『完全なる予想外の一撃』。

 修学旅行に向かうバスの中で異世界に吹っ飛ばされるなど、誰が予想できようか。

 かくして彼らは、ごく普通の世界から、異世界へと飛ばされた。

 別の世界から誰かを召喚しなければ、どうにもならない、そんな世界に。

 

「……ここ、どこ?」

 

 空には太陽と、自発的に輝く二つの月。

 絵の具をぶちまけたような多種多様な色合いの森。

 その辺を歩いていたゴリラが大きな犬に丸呑みされ、犬が大きなヘビに丸呑みされ、ヘビが大きなカエルに丸呑みされ、カエルが大きなナメクジに丸呑みされた。

 各々がスマホを見れば電波も圏外。

 木にくっついたセミがニャーと鳴いている。

 どこを見てもおかしい、地球ではないと確信できる、そんな世界であった。

 

 クラスの変わり者、野口希望(のぐち のぞむ)が歓喜に叫ぶ。

 

「こいつは……間違いねえ! 異世界転移だヒャッハー! やったぜサトー!」

 

「異世界転移って何?」

 

「聞いたなサトー。異世界転移ってのはなあ……」

 

 ある種の娯楽小説が大雑把にジュブナイルと呼ばれていた時代から、ライトノベルと大雑把にまとめて呼ばれて居た時代まで、熱くネット小説について語る希望。

 彼は語った。

 そりゃもう熱く語った。

 普通の人が引くくらい語った。

 周りの反応も見ずに、である。

 周囲からの"やっぱコイツ変な人だ"という致命的な低評価と引き換えに、希望はクラスメイト達に異世界転移のなんたるかをみっちり教えていく。

 恐れを知らず行動し、他人を救うのが勇者であるのなら、野口希望は間違いなく勇者であった。

 SNSにチ○コの自撮り写真をアップロードするタイプの勇者である。

 

「なんとなく分かった。RPGとかで使われてる世界観っぽい世界ってことだね」

 

「よく分かってんじゃんサトー」

 

「ありがとう希望くん。君のおかげだよ」

 

「俺ほど異世界転移に詳しい奴も居ないからな?

 困ったら俺に聞けよ。テレビでよくやってる

 『専門家に聞いてみました』

 のノリで聞いてくれ、統計学的にも応えてやるぜい」

 

 異世界転移小説の統計学ってなんだよ、と思えるほどに、異世界転移小説に馴染み深いクラスメイトは存在しなかった。

 異世界に来たと聞き、クラスメイトの反応は十人十色。

 

「ファンタジーの異世界だなんて……そんな」

 

「怖い……」

 

「ファンタジーなんて現実にあったのか……」

 

 この現実が受け入れられない者。

 ただ単純に怯えている者。

 ファンタジー世界がある、ということ自体が信じられない者。

 

「すげー、月が二つあるぞ」

 

「マジだー」

 

「どうするアル、イインチョ? いいんちょに従うヨ?」

 

 単純にワクワクしている者。

 ただのアホ。

 特に脅威も危機感も感じていないが、具体的に何か考えているわけでもない者。

 ただ、皆の思考で共通している部分もある。

 このクラスのリーダーであり、学級委員長である朔陽の指示を待とう、と考えている部分だ。

 

「話し合いしよっか。僕に呼ばれた人は集まって! これからのことちょっと話そう」

 

 朔陽は落ち着いて、考えるのに長けたクラスメイトを集めようとする。

 近くに居た副委員長大沢桜花、異世界転移厨の野口希望、オドオドと挙動不審になっていた幼馴染の若鷺和子と声をかけていき、クラスの頭脳を構築していく朔陽。

 一方、その頃。

 自分が役に立つと思っていない脳筋野球部・井之頭一球(いのがしら いっきゅう)は、考えることをクラスメイト達に丸投げし、立ちションのために移動していた。

 

(ふぃー小便小便。パーキングエリアで出しときゃよかったな)

 

 彼のテストの成績はかなり高い方だ。

 が、こういう時に物事を考えるのに必要なのは学校のテストで測れるものではなく、もっと本質的な思考力であることを、野球部井之頭は理解している。

 彼は「貧乳を断崖絶壁と表現する奴が存在する。だがそれなら火曜サスペンスのラストは、毎回貧乳を見せに来てる児童ポルノみたいなもんじゃねえか?」とか朔陽に言ったりする程度には頭が悪い。学力が高いだけなのである。

 

 こっそり木の陰でお花摘み(比喩表現)をする。

 だが彼の花に水をやる行為(比喩表現)は予想外の結果を生んだ。

 適当に何も考えず放出系念能力(比喩表現)を放った一球は、ふと上を見上げ、自分が小便をひっかけていた岩のようなものが、なんであるかに気付いた。

 

 

 

「……ドラゴンだァッー!」

 

 

 

 全長20メートルはあるドラゴン。

 彼が叫んだのは、クラスメイトに伝えるため。

 ドラゴンに見つかり襲われることも覚悟の上で彼は叫んだ。

 それは、仲間と協調して戦う野球部の誇りである。

 されど状況は悪化する。

 叫んだことでドラゴンは一球を睨み、一球のレモンウォーター(比喩表現)は現在進行形でかけ続けられている。出し切られていないのだ。これでは身動きができない。

 野球部部長井之頭一球、生涯指折りの危機であった。

 

「貫けェッ!!」

 

 だがそこで彼は発想を逆転させる。

 股間のレモンウォーターの放出力を一気に引き上げたのだ。

 機械のウォーターカッターが鋼鉄を容易に切断するというのに、男のウォーターカッターがドラゴンの尻尾を切れないものだろうか? いや、ない。

 アンモニアブレードは容易にドラゴンの尻尾の先端部分を切り落とした。

 小便という屈辱と切断という激痛に、ドラゴンが派手に咆哮する。

 

 アンモニアホームランを決めた一球はその隙に、クラスメイト達が待つベンチへと帰還した。

 

「グルルルル」

 

 ドラゴンは普通の子供達が森の中に三十人も居るのを見て、その中から一番食べやすそうな人間を選ぶ。

 そうして、朔陽がターゲッティングされた。

 焼き加減はレアが大好きなドラゴンは、朔陽をステーキにするべく火球を吹き出す。

 

「―――!」

 

 瞬間、クラスメイトの一部が警戒し。一部が脅威の低さに動くのを辞め。一部が動いた。

 

 誰よりも速く動いたのは本日社会復帰の引きこもり、和子であった。

 走り、跳び、朔陽を抱えて吐かれた火球を回避する。

 その速度、まさに稲妻の如し。

 朔陽を抱えたまま和子は縦横無尽に跳び回り、残像は分身と化す。

 その分身がドラゴンの目を惑わせた。

 

「さ、サクヒ、大丈夫?」

 

「ありがと和子ちゃん」

 

 地球世界の薩摩示現流には、『雲耀』という概念がある。

 『示現流聞書喫緊録』によれば「時刻分秒絲忽毫釐」と謳われる。

 一日を十二時、一時を八刻二十八分、一刻を百三十五息、一息を一呼吸とする。

 それを更に短く切り分け、一呼吸八秒、一秒十絲、一絲十忽、一忽十毫、一毫十釐とする。

 その釐の十倍の速さが『雲耀』。

 秒数にして0.0001秒単位の世界。これを、薩摩の剣士は稲妻に例えた。

 この雲耀の間に動くことが奥義である、と薩摩示現流では伝えられている。

 

 和子の一歩はその域にあった。

 

「ドラゴンなんてファンタジー存在、見ることになるなんてなっ!」

 

 一瞬遅れ、続々と子供達がファンタジーへと挑み始めた。

 空手部が飛びかかり、ドラゴンの喉の鱗を指で掴み引きちぎった。

 鱗を引きちぎられたドラゴンがまた火球を吹くが、野球部が手にしたバットで打ち返す。

 顔面に火球を打ち返され、悶えたドラゴンの顔面にクラスの不良が拳の連打を叩き込んだ。

 

 空手の達人・大山倍達は十円玉を指の力だけで折り潰したという。

 ならば空手部の部長ともあろうものが、ドラゴンの鱗を指の力で引き千切れないものだろうか?

 いや、ない。

 

 合気道創始者・植芝盛平は銃弾を回避したという。

 ならば野球部の部長であるほどの男が飛んで来るドラゴンの炎を見切れないものだろうか?

 いや、ない。

 

 プロボクサー長谷川穂積は、1秒間に10発パンチが打てるという。カイリキーは2秒で1000発のパンチを打てるという。

 ならば日々喧嘩をしている不良がそれに比肩する速度で拳を打てないものだろうか?

 いや、ない。

 

「剣崎くん!」

 

「応ッ!」

 

 朔陽に呼びかけられた剣道部が跳び、不良に殴られふらついていたドラゴンの首が、剣道部の竹刀に切り落とされた。

 首がごろりと地面に落ちて、首の断面から血が噴き出す。

 

 古武術流派の剣術家・黒田泰治は刃の無い刀で刃の付いた刀以上の斬撃を放ち、真剣でも切れないものを両断して見せたという。

 ならば剣道部が竹刀でドラゴンの首を切り落とせるのは何もおかしなことではない。

 これは精神論ではなく、物理論の話だ。

 

「ドラゴンが小学生に頭部を玩具にされたトンボみたいになってるぅ……」

 

 これこそが、日本の義務教育が子供達に求めたもの。

 かつてゆとり教育に求められたもの。

 日本の教育者達が導こうとした未来。

 

 努力の仕方を知り、運動も出来て、仲間と協調もできる、そんな子供達だ。

 

「流石うちのクラスは頼りになるなぁ。あ、和子ちゃん、もう降ろしてもいいよ」

 

「……そう」

 

「うん、ありがとう。助かったよ」

 

 和子に抱えられていた朔陽が地に足付け、その辺に落ちていた小石を竜の首の断面に投げつける。

 動かない。

 ドラゴンは殺せたと見て間違いないだろう。

 

 彼らは『義務教育』という名の九年間の修行を越えてきた子供達なのだ。

 異世界が最初に浴びせてきた洗礼を軽々と越えて、何の不思議があるだろうか?

 義務教育とは、"学校を出てもその後の人生を問題なく生きていけるように"と願いを込めて、大人達が子供を鍛えるもの。

 義務となる教育が、異世界で生きていけないような弱い子供を生み出すはずがない。

 

「どうするのさ、さっさん。ドラゴンとかこえーよ」

 

「こんなファンタジーな存在が居るなんて今見ても信じられないな……」

 

「んー……とりあえず、ご飯にしよっか。早いけどお昼ご飯に食べちゃおう」

 

 そこからの朔陽の動きは的確だった。

 怯えている女の子は励ます。

 興奮してる男の子はなだめる。

 野生生物解体部の女の子にドラゴンの解体を頼み、木こり遺伝子を持つ女の子にその辺の木を伐採して座れる場所と料理を乗せられる場所の作成を頼み、料理部部長に調理を頼む。

 休憩する時間、休憩する場所が必要だと朔陽は考えた。

 ひとまず皆のお腹を満たして、落ち着いて考える余裕を与えようと考えたのだ。

 彼は周囲の皆の心の状態を、よく理解している。

 

 多くの者が、大なり小なり心に不安を持っていた。

 だが自分の隣に居るクラスメイト達と、揺らがず自分達を引っ張ってくれている委員長の姿に、その心を落ち着かせていたのである。

 

 彼らは普通の高校生だ。

 ファンタジー異世界に放り出されて一人で生きていくのは難しい。

 だが朔陽委員長の指示を聞き、皆で力を合わせれば、どんな厳しい世界でも生きていける。それがチームワークというものだ。

 

「おっ、ドラゴンの肉うっめ」

 

 葉っぱの皿に、荒っぽく焼いた肉。

 味付けも野生生物解体部が持っていた塩のみ。

 にもかかわらず、ドラゴンの肉は美味かった。

 ガストの肉より美味いと全体的に好評である。

 朔陽はドラゴン解体で血まみれになった野生生物解体部の女の子の体をタオルで拭いてあげていたが、なぜか突然クラスメイト達の中から「わっ」と声が上がった。

 

 朔陽がそちらに目を向ければ、クラスの皆に囲まれる和子の姿があった。

 

「あ、あの……お菓子いっぱい、持って来てあります」

 

「マジかよ若鷺さんやるぅ! ってか量が半端ねえ!」

「ありがとね和子ちゃん! でもちょっと持って来すぎだと思うな!」

「うわすっげ……29人で食っても余裕あんなこれ」

 

 自然と、朔陽の口元に笑みが浮かぶ。

 引きこもりの幼馴染を家から連れ出し、外で友達を作らせてやりたいという彼の願いは、ひとまずちょっとばかり叶ったようだ。

 笑みは口元に少しだけ、けれど顔を見れば嬉しそうだとひと目で分かる。

 彼の視線は、娘を見る父親のそれであった。

 

 暖かい目で幼馴染を見守る朔陽であったが、その服の裾を金髪の無感情そうな少女が引っ張る。

 親が適当に名前付けただろランキングNo.1と名高い、辺見ヘリオガバルスだ。

 少女は朔陽の服の裾を引いて、北西を指差す。

 

「朔陽リーダー」

 

「どうしたの?」

 

「北西2kmの距離からこちらへまっすぐに向かって来る人間が居ます」

 

「北西? ここまでまっすぐに?」

 

「はい」

 

「ありがと、へーちゃん」

 

 ヘリオガバルスでへーちゃん。そんな少女に感謝して、朔陽は来る人を待ち受ける。

 やがてやって来た女性は、高三の彼らと同年代ながら、彼らよりもずっと立派で独り立ちした雰囲気を感じさせる少女であった。

 

 ただ流すに任せながらも、美しい銀の長い髪。

 深い色合いの蒼の瞳。

 蠱惑と清楚のどちらとも言える均整の取れたスタイルを、白い布に金の刺繍のドレスが覆い隠している。

 少女は馬に乗っていたが、ドレスの縫い上げ方に工夫があるのか、馬体が舞踏会で着るようなドレスを押し上げて不格好になっているということもなかった。

 

「あなた達が、別の世界からやって来たお方ですね」

 

「いつの間にか僕らが居た世界とは別の世界に居て、僕らも困惑しているんです。あなたは?」

 

 馬からひらりと舞い降りて、少女は恭しく頭を下げる。

 ただの何気ない一動作、馬から降りる所作でさえ美しい。

 馬から降りる彼女の姿を見た誰もが、ひらりひらりと落ちる美しい花びらを幻視した。

 

「私はヴァニラ・フレーバー。フレーバー王家の王女です。どうぞ、お見知りおきを」

 

 王女様! と、朔陽はびっくりしてぎょっとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王女様は王族らしからぬ丁寧な応対を、ただの一般人でしかない子供達に対して行った。

 だが、そこに媚びるような印象や卑屈な印象は全く受けない。

 むしろその礼儀正しさに、子供達の方が居住まいを正させられてしまうほどであった。

 

 ヴァニラ・フレーバー王女曰く。

 この世界は魔王のせいで滅亡の危機に瀕しているらしい。

 完全なる不老不死を備えた者。

 生殖欲求を持つ生物に対する天敵となる者。

 あらゆる物理攻撃を無効化する者。

 常識外の侵略者達が、人類の生存権を脅かしているというのだ。

 

 そこでヴァニラ姫は考えた。

 この世界に魔王軍を打倒できる勇者が居ないのなら、別の世界から呼べばいいのでは? と。

 彼女は有能な部下や高名な学者の力を躊躇いなく借り、人海戦術にて研究。

 そしてその果てに、異世界からの助けを呼び出す超古代の術式を発見したのだというのだ。

 

 その術式とは、異世界に人間を送り込み、その人間が異世界の勇者と交渉し、同意を得た上でこの世界に来てもらうというもの。

 召喚対象の勇者の善意頼りではなく、契約履行という形でこの世界を救うというものだった。

 ヴァニラ姫は契約の対価として支払うため、大量の金品や自国内の領地の一部の領有権などを用意し、配下のセバスチャンを異世界へと送り出した。

 その送り出した先が地球だった、というわけだ。

 

 が、やバスぎるバスの跳ね飛ばしによりセバスチャンは重傷。

 バスケットボールのように吹っ飛ばされたセバスチャンが術式を暴走させてしまう。

 術式はオムニバス作品の如く運転手を除いたバスの乗員を個別に、かつ一人残らず対象に選び異世界召喚を行ってしまう。

 結果、多くて数人を召喚する想定が、三十人も呼び出してしまったわけだ。

 バカス極まりない。

 セバスチャンの行動が悪くなかったとはいえ、タバスコ一気飲みでも許されない失態である。

 未知の世界に飛び出し一発で成果を出したバスコ・ダ・ガマを見習っていただきたい。

 

 飛び出すな、車は急に止まれない。バスは特に止まれない。

 義務教育レベルで教えていることだ。

 図らずしてここでも、義務教育の正しさが証明されたと言えよう。

 

 しかもこの召喚術式の暴走のせいで、召喚された彼らが日本に戻れる方法があるかどうかさえ分からないのだという話だ。

 ヴァニラ姫が一般人である彼らに丁寧な物腰で謝意を示しているのは、事故で彼ら全員を連れて来てしまったことを申し訳なく思い、責任を感じているからなのだろう。

 

「本当にごめんなさい。ただの一般人の方を、巻き込むつもりはなかったのです」

 

「いえ、事故なら仕方ないですよ」

 

 クラスを代表して朔陽が対応しているが、お姫様に対するクラスメイト達の反応は、『寛容』と『不信』がそれぞれまばらに見えた。

 姫様に敵意を持っている者も、好意的な者も居る。

 

「これ、勇者様が来たら一緒に食べようと思っていた王都名産品の果物です。

 幸い数だけはたっくさん用意していたので、皆さんで食べてみてください」

 

「これはご丁寧に……桜花さん、これ皆に配ってくれる?」

 

「いいですけど、気分的にはこれお中元ですね」

 

 桜花の中でヴァニラ・フレーバーに対し、『お中元姫』という心中呼称が定着した。

 女子は「美味しい」と思った。

 男子は「この果実より姫様の胸の果実の方が大きいな」と思った。

 

「おっぱいでけーなあの人」

「ああ、でけえ」

「銀髪美人だけどエロ可愛い」

 

「男子サイテー」

「初対面の女性をなんて目で見てんのよ」

「後で男子達の皮剥いでやりましょうか。股間の皮含めて」

 

 全体的な傾向としては、男子の方がお姫様に好意的な様子。

 

「本当に、なんとお詫びすればよいか……この国を預かる一人として、情けないばかりです」

 

「いえいえ、事故ですから。お気になさらず。僕は佐藤朔陽と申します」

 

「サクヒ様、でしたよね? そう言っていただけると嬉しいです」

 

 日本人のどちらが家名でどちらが名前かも間違えていない。

 どうやら勇者探しの過程で日本の情報を少しは得ているらしい。

 日本のことを知っている権力者が居る、というだけで、見知らぬ世界に一般人の子供が放り出されたというこの現状が、ぐっと改善された。

 朔陽からすれば、望外の幸運と言えるだろう。

 

「わたくしが王家の名にかけて約束いたします。

 貴方達が元の世界に帰る手段は、我々が責任持って捜索致します。

 生活においても不自由はさせません。不快なことがあれば、その解決に尽力致します」

 

「いいんですか?

 29人分も、僕らにそこまでしていただいて……

 ヴァニラ姫にもこの国にも、一般人の僕らは専門家並の利益はもたらせませんよ?」

 

「これは損得の問題ではありません。責任の問題です」

 

 朔陽は"得も無いのにそんなことをするのか? 裏があるんじゃないか?"と探る意図でその発言をした。

 が、ヴァニラ姫はそんな言葉の裏に気付かず、素直に"自分の王族としての覚悟が問われている"と判断したようだ。

 

「王族は自分の行動の結果の責任を取らねばなりません。

 勿論、国のためあえて責任を放棄しなければならない時もあります。

 ですが、責任を取らない行動は、好き勝手で横暴な行動となります。

 自分がしたことの責任を取らない王族は、必ず暴君となるのです。

 王族が短期的な損得にこだわって、どうして民からの長期的な信頼を得られましょうか」

 

 朔陽の姫様を見る目が変わる。

 同時に、クラスの中でも頭の良い部類の人間が、姫様に対する認識を改める。

 姫様視点、彼らは一般人の子供達だ。

 極論を言えば、ここで野垂れ死んでも姫様には何の損も無い。

 助けても何の得も無い。

 警戒する必要性も、尊重する必要性も無い。

 性格の悪い人間なら、この子供達を適当に口で丸め込もうと考えるのが普通だろう。

 そんな彼らにこういったことを言い、こういった対応をしているという時点で、このお姫様の人格がどことなく透けて見えるのだ。

 

「ありがとうございます。僕らは右も左も分かっていなかったので、本当に嬉しいです」

 

「そうではないのです。

 わたくしは貴方に感謝されるためでなく、貴方達に謝るためにこうしているのですよ」

 

 この人はいい人なのだろうと、人を見る目のある朔陽が察する。

 

「この身は好意ではなく、責任で動いています。だから、ありがとうなんて言わないでください」

 

 ただ、いい人であると同時に、少し不器用な生き方をしていそうだな、とも思った。

 

「まずは休める場所に移動しましょう。この近くに、少し大きな村があります」

 

 ヴァニラ姫は馬に乗って、皆を先導する。

 警戒する者も居たが、皆彼女の後について行くことに異論はないようだ。

 その時、朔陽の影の中から和子がぬっと現れる。

 

「和子ちゃん?」

 

「周りを探ってきた。この人、護衛も付けずにここに来てる」

 

「お姫様が一人、か……おてんば姫とかそういうのなのかな。ありがとう、引き続き調べてみて」

 

「ニンニン」

 

「返事は一回」

 

「ニン」

 

 それだけ伝えて、和子はまた朔陽の影の中に消えた。

 ごく一般的な忍者である幼馴染がもたらしてくれた情報が、彼の中の姫様を疑う気持ちをまた一つ消し去ってくれたようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 道中、朔陽はクラスを代表して姫と様々な話をした。

 日本のこと。

 仲間のこと。

 最近日本であったことに、この世界に来てから起きたこと。

 ヴァニラ姫はこの世界について手短に、かつ分かりやすい解説を入れながら、朔陽が語る日本の話に目を輝かせる。

 

 姫の語る異世界の話は朔陽にとって貴重な情報であり、朔陽が語る日本の話は姫にとって心踊らされる未知の異世界文化の話であった。

 

「なんだか、僕が思ってたよりも日本のことを知らなかったみたいですね」

 

「お恥ずかしながら……セバスチャンを日本の国に送るのも、これでまだ二回目でしたので」

 

 互いのことをほとんど知らないからこそ、話し合う。

 言葉を尽くして相互理解を行う。

 それは、とても大切なことだ。

 会話は弾み、互いへの理解が進む。

 

「そのマクドナルドとやらの月見バーガーは、昔は190円で今は340円なんですね……」

 

「美味しいんですけど500円でお腹いっぱいにしたいんですよ、僕らとしては」

 

「500円、なるほど」

 

「僕らのような平均的な学生としてはお昼ご飯はやっぱり500円が一つのラインなんです」

 

 有用な相互理解が深まったり。

 

「わたくし、そのウォンバットという動物が気になります」

 

「ウォンバットはケツが硬い動物です。

 丸い肛門から四角いフンを出します。

 そのケツはあまりにも硬く、大抵の動物の牙が刺さらない無敵の盾です。

 ケツを敵に叩きつけ、最終的に頭蓋骨を粉砕してぶっ殺すこともありますね」

 

「そんな生物が居るなんて、地球は不思議な世界なのですね……」

 

「僕も異世界ファンタジーっぽい世界の人にそんなことを言われるとは思いませんでした」

 

 会話の流れで、無駄な他世界理解が深まったこともあった。

 

 気が合う朔陽と姫様の楽しげな会話に何を思ったのか、戻って来るやいなや和子が唸る。

 

「うー」

 

 まるで子犬が飼い主を奪われたかのような表情であった。

 朔陽は慣れた様子で、和子の方に手を差し出した。

 

「おいで。手を繋ごう」

 

「! うん……」

 

 とてとて歩いて、ウキウキした様子で手を繋ぎ、ニコニコする和子。

 そんな彼女を見て、ヴァニラ姫も柔らかく微笑んだ。

 

「妹君ですか?」

 

「そんな感じですね。この子の名前は若鷺和子です」

 

「……」

 

 否定しようと思った和子であったが、異世界の見目麗しいお姫様という存在は、元引きこもりが話しかけるには厳しい相手であった。

 反抗するにはコミュ力が足りない。

 私の幼馴染と仲良くしないで、と和子は心の中で言った。

 サクヒが私を助けてくれなくなったらどうするの、と心の中で言った。

 私の幼馴染は渡さない、と心の中で言った。

 口は全く動いていなかった。

 

「ワコ様、仲良くしてくださいね?」

 

「……は、はい。よろしくです……」

 

 それどころかヴァニラ姫に歩み寄られた途端、敵愾心は萎え口が勝手に喋ってしまう。

 意志薄弱ここに極まれり。

 心の口は生意気だが上の口は正直なようだ。

 

「ここが、ガリガリの村です」

 

 やがて、姫の案内で彼らは最初の村に辿り着く。

 剣と魔法のRPG世界でよく見る村を、多少発展させたような村だった。

 村に定住している村人らしく人間も多いが、旅人らしい服装の人間も多い。

 旅の人間がここに来る理由でもあるのだろうか?

 興味を持って色々なものに視線を走らせる朔陽に、ヴァニラ姫は村の解説を初めた。

 

「ここには昔、昔、気の遠くなるくらいの大昔……

 伝説の賢者ロッキーが勇者ロードから返還された聖剣を突き刺した台座があるんですよ」

 

「聖剣、それは凄いですね」

 

「名も忘れられた聖剣。万物を切り裂くと謳われた聖剣。

 使い手を選ぶその剣は、無数の者が手をかけましたが、誰も台座から引き抜けませんでした。

 以来数千年もの間、この村には聖剣とその台座が保管され飾られているのです」

 

 村人や旅人がヴァニラ姫を見て反応しているが、姫はどこ吹く風で歩いて行く。

 なのだが、そんな姫の足を止めるものがあった。

 どこからか飛んで来た、青く輝く空飛ぶ鳥である。

 朔陽はそれが鳩であるかどうかさえ、一瞬疑ってしまった。

 

「それはなんですか?」

 

「魔力鳩です。王都からの連絡を持って来てくれたんですよ。内容は……」

 

 魔力で編まれた鳩はフッと消え、姫の手の中に手紙だけが残る。

 手紙を見た姫はすぐに驚いた顔になり、やがて目を細め、最終的に考え込んでしまう。

 少しそうやって考え込んだ後に、姫は意を決した様子で朔陽に向けて口を開いた。

 

「魔王軍の幹部、十六魔将の内一体が、この村に向かって来ているそうです」

 

「!」

 

 魔王軍。

 幹部。

 十六魔将。

 やたら強そうなワードのラインナップに加え、こちらに向かって来ているという発言がやたらと危機感を煽る。

 

「十六魔将は、私達を長年苦しめてきた、魔王の次に強い魔王軍の幹部です」

 

「なら、僕らもここを早く発った方が良さそうですね。その旨伝えてきます」

 

「大丈夫ですか? 私のせいで無理矢理に召喚してしまって、貴方達の疲れなどは……」

 

「大丈夫です。直前までバスで座ってましたし、まだ多分大丈夫だと思います」

 

 朔陽は少しだけ嘘をつく。

 彼らが最初に送られた転移地点とこの村の間には地味な距離があり、クラスメイトの中でも特に体力がない面子には多少の疲れが見えた。

 長い付き合いのある朔陽にしか分からない程度の疲れだ。

 だが、それを口に出すことはしない。

 それを口に出して移動を止めてしまえば最悪に繋がりかねないということを、彼もまた理解していたからだ。

 

 さて、魔王軍は何故こちらに向かっているのか。

 目標は姫か?

 あるいは召喚された彼らか?

 どちらにせよ、朔陽にクラスメイトを危険に晒す気はなく、お姫様にも巻き込まれただけの一般人を危険な目に合わせる気はない。

 要するに、逃げの一手である。

 

「贅沢を言えば、僕らに30分ほど休憩する時間をくださると嬉しいです」

 

「分かりました。ではその30分で私は食料と水の手配をしますね。

 ここから王都までは一本道ですから、それだけ準備できれば問題無いはずです」

 

 ヴァニラ姫は村の人達に魔王軍の接近を知らせ、強行軍の準備をする。

 朔陽はクラスメイト達に危険を知らせ、休憩を取らせる。

 二人は今日が初対面だが、そこそこ息を合わせてするべきことをやっていた。

 

「ヴァニラ姫、その十六魔将はどういうやつなんですか? 僕らは全然知らないんです」

 

「十六魔将の一。

 その名も、アインス・ディザスター。私達は『不死身のアインス』と呼んでいます」

 

「不死身のアインス……」

 

「その名の通り、魔王の力で世界と契約し、世界に不老不死を約束された怪物です」

 

 不死身。不老不死。

 地球には存在しない、ファンタジーそのものであると言えるもの。

 幾多の地球人が探し求め、結局見つけられなかった憧憬の幻想。

 それがここにはあるという。

 しかも、敵がそれを持っているというのだから最悪だ。

 

「千の刃をぶつけました。

 奴は細切れになった肉片から復活しました。

 火で焼きました。

 灰から復活し無傷で再び暴れ始めました。

 大きな岩で押し潰しました。

 潰れた肉と血液が集まり、無傷な姿にまで再生しました」

 

「なんて恐ろしい……僕らが元の世界に帰るまでは、絶対に会っちゃいけないってことですね」

 

「はい、その通りです」

 

 人間達もあらゆる手段を試したのだろう。

 その全てで殺せなかったからこその、不死身の称号。

 オンラインゲームにおけるマナーの悪いプレイヤー以上に出会いたくない存在であることは、まず間違いない。

 何せ不死身のアインスは、決してBANされない悪質プレイヤーのようなものなのだから。

 

 色々と考え込む朔陽。

 先の先まで考えクラスメイトを導き、いかなる戦場や災厄をも越えていくのが平均的なクラス委員長に求められる職務である。

 なのだが。

 その最中に、泣きそうになっている子供を見つけてしまう。

 放っておけない、と朔陽は思ってしまう。

 仲間達の休憩時間がまだ15分は残っていることを確認し、彼は子供に駆け寄った。

 

 そんな人の良い彼を見て、ヴァニラ姫様は思わずクスリと笑ってしまう。

 

「トイレ……」

 

「どうしたんだい? お兄ちゃんに話してみな」

 

「もう、漏れちゃいそうなのに、近くのトイレ詰まっちゃったの……」

 

 じゃあ別のトイレに行けばいいんじゃないか、と思う朔陽であったが、ここが異世界であることを思い出す。

 トイレが少ない異世界もある。トイレが少ない村もある。

 そう考えれば何ら不思議なことではない。

 「ドラゴンクエストイレブンが店に少ない」も略せば「トイレが少ない」となる。

 トイレが少ないということは、どんな世界でも起こりうる事象なのだ。

 

 詰まったトイレの方を見れば、トイレを詰まらせたと思しき男が二人話している。

 

「やべえ、俺が出したウンコがトイレに詰まっちまった……」

 

「どんだけ硬くてデケえウンコしたんだよ」

 

「快便だし気持ちよかったんだが、今見ると生み出してはならなかった忌み子だな。

 この世に産み落とされた後で『生まれてはならなかった』とか言われるとかかわいそう。

 このウンコも母親にして父親である俺に生まれてきてごめんなさいとか言ってそうだ」

 

「生まれて来てごめんなさいと親に言うべきなのはお前だ」

 

 とんだクソ野郎も居たものだ。

 大人の考えなしの行動が子供を泣かせている。

 ならば佐藤朔陽ともあろう者が子供を見捨てるわけがない。

 彼は、クラス委員長なのだから。

 

「ちょっと待ってて。すぐどうにかしてくるから」

 

 トイレの詰まりなら流せばいい。

 そう考えて動き出した朔陽を助けるべく、彼の親友が姿を現した。

 

「俺の出番のようだな」

 

「一球くん?」

 

 現れたのは、野球部の井之頭一球。

 本日ドラゴンに聖水をかけ、水の刃でドラゴンの尻尾を切り落とし、火球をバットで打ち返した四番ピッチャーの野球部キャプテンだ。

 彼は朔陽の幼馴染である。

 今日やらかした人間として、そして幼馴染として、朔陽を助けに来てくれたのだ。

 

「さっきは俺の小便のせいでお前にも迷惑かけちまったからな」

 

「かけたのは迷惑じゃなくて小便で、かけられたのは僕じゃなくてドラゴンだったよね」

 

「はっはっは」

 

「そんなこと気にしなくてもいいのに。結果論だけどお昼ご飯の調達にもなったじゃない」

 

「いいんだ、コイツは俺のけじめだ。

 小便でやらかした俺が、お前の代わりに子供のソレを解決してやろうって話さ」

 

「嫌な責任の取り方するね……」

 

 小便を基点としたトイレット責任論。

 自分のケツは自分で拭くのが男だ! と言い切るような責任感。

 野球部部長に相応しい責任感であった。

 だが思い通りに進まないのが現実というもの。

 彼らが詰まったトイレをどうにかしようとした瞬間、村の各所から大きな声が上がる。

 

「敵襲だー!」

「魔王軍だー! 村の入口にいる!」

「不死身のアインスだッー!」

 

 このタイミングで訪れた、魔王軍急襲の報。

 完璧に予想外。

 完全に不意打ち。

 ヴァニラ姫はその表情を一瞬で王族のものへと変え、緊迫した雰囲気を醸し出す。

 

「なんてこと……!」

 

 地球の学生達を逃し、村の全員を逃し、王都に連絡を飛ばして、自分が一人で戦って魔将を足止めする。姫は瞬時に自らの行動を選択した。

 

 全部守る、という大前提だけは全く揺らいでいない。

 誰かを犠牲にする、という思考は頭に浮かんですらいない。

 不死身の魔将に勝てるはずもなく、叩けば順当に自分は戦死する。

 王族の死は国を震撼させるだろう。王族である彼女の死は、村一つが全滅するよりも遥かに大きな爪痕をこの国に残す。

 

 それでも彼女は自国の民と異世界の者達を見捨てはしない。

 他人を囮にするくらいなら自分が囮になることを選ぶ。

 それは若さであり、愚かさであり、優しさであり、慈愛であり、王族としての誇りであり、彼女が生来持つ責任感でもあった。

 

「サクヒ様! そこの貴方も! 逃げてください!」

 

「いや待てって、そんなことはどうでもいいんだ。

 俺はこの子供を助けるって朔陽に約束したんだ。

 約束を投げるなんて男じゃねえ。まずこのウンコをどうにかして約束を果たしてからだろ」

 

「そんなことにこだわらなくていいんです! 逃げましょう、さあ!」

 

 逃がそうとする姫をよそに、一球は手の中で硬球を回しながらきょろきょろ見回す。

 目に止まったのは伝説の聖剣、そしてそれが刺さった伝説の台座。

 マメだらけな野球部の手で、そこに無造作に手をかける。

 

 そして数千年前に台座に刺され以後誰も抜けなかった、伝説の聖剣を引き抜いた。

 

「よいしょ」

 

「!?!?!?」

 

「誰のか知らんが後で洗って返すから許してくれよな」

 

 そして便器の中に突っ込み、トイレの詰まりに風穴を空ける。

 万物を切り裂くと謳われた聖剣は、見事トイレの頑固な詰まりも切り裂いてくれた。

 子供の心か、剣の清潔さか。

 どちらを守るかと聞かれれば、この野球部キャプテンは前者を守る。

 

「ほら、使っていいぞ」

 

「ありがとうお兄ちゃん!」

 

 子供がトイレに駆け込んでいく。

 一球は満足げに頷いて、カレーをかけたような(比喩表現)状態の聖剣を持って、戦慄する朔陽とヴァニラ姫の下へと戻って来た。

 

「聖剣がく聖剣になっちまったな。で、このくせえ剣要る?」

 

「……わ、私が後で洗っておきますので、返してください……」

 

「お姫様にそんなことさせられませんよ! 洗うのは僕がやるんで離れててください!」

 

「離れてて臭い?」

 

「早口だった僕が悪いけどその聞き間違いはホントどうかと思うよ一球くん!」

 

 クソまみれの聖剣が「とりあえず置いとこう」のノリで伝説の台座に戻される。

 

 伝説の台座が伝説の便座と呼ばれるようになった歴史的瞬間であった。

 

「台座までもが……」

 

「伝説を塗り替えてしまったか、俺」

 

「一球くんはもう少し反省しようね? 後で皆に謝ろうね? 僕も一緒に謝るから」

 

「あっはっは、やっちまった? 俺」

 

「……って、そうじゃありません! 魔将が来ているんです! 皆さんは逃げないと!」

 

 そんなことを言っていたら。

 

「魔将が倒されたぞー!」

「アインス・ディザスターが倒されたぞー!」

「旅人さんのおかげだー!」

 

「!?」

 

 いつの間にか倒されていた、不死身のアインス。

 ぎょっとする姫、目をパチクリさせる委員長、事態が読めない野球部。

 走り出したヴァニラ姫に、その後を追う朔陽。

 やがて彼らは、クラスメイト達が集まっていた村の入口に辿り着いた。

 朔陽はとりあえず、上の方を見上げていた津軽辻(つがる つじ)というクラスメイトに話しかけた。

 

「あ、辻さん」

 

「良かった、無事だったのねいいんちょ」

 

「今ここに危ない人……魔王軍の人が来なかった?」

 

「来たわよ。桜花に襲いかかろうとしてたから私が太陽に投げ込んだけど」

 

「太陽」

 

 太陽。

 

「はぁ、隠しておいたとっておきの、合気道を型に取り込んだ決め技だったのに……」

 

「し、新技……あ、もしかして夏のインターハイ用に練習してた技ってこれ?」

 

「そうよ! 前にいいんちょに言ってたあれよ! 大会で見せようと思ってたのに!」

 

「辻さんは相変わらずドッキリが好きな頑張り屋だねぇ」

 

 柔道部女子・辻が柔道に取り込んだ合気道の技、名を天地投げと言う。

 地より天に至る投げ。

 多少なりと改造を加えられたそれは、柔道と合気道の強さを見せつける。

 現代日本において合気道が最強の武術の一つに数えられる理由は、まさにここにあった。

 

「柔道こそ現代最強の格闘技。

 地球ならばどこにでもあるアスファルトに叩きつけるが故に最強。

 アスファルトの路面が無いと見て甘くみたのかもしれないけど、傲慢ね。

 地球にも異世界にも太陽はあった。

 いつも使っている武器が無いなら、その場にあるものでどうにかする知恵こそが人間の強さ」

 

 工夫こそが人間を強くする。

 彼女は柔道を"人を何かに投げつけることが肝"であると考えているがゆえに、硬い路面に叩きつける、あるいは太陽に投げつけることを技の骨格としていた。

 津軽辻は去年はこのスタイルを貫き、県大会決勝にまで残ったほどの猛者なのである。

 

「ヴァニラ姫、危機は去ったみたいですし、もうちょっと休憩していってもいいですか?」

 

「あ、はい」

 

「うちのクラスの女子は、運動が苦手な子が他のクラスより多いんです」

 

 今魔将を太陽に投げ込んだのも女子じゃないですか、と姫は思ったが、言わなかった。

 

「もしかして……これが、運命や奇跡と呼ばれるものなのでしょうか」

 

「ヴァニラ姫?」

 

「いえ、なんでもありません。ただなんとなく、希望が見えたような気がして」

 

 魔法がある世界は、魔法が使えるのが普通だ。

 科学が発展した世界は、科学が基本であるのが普通だ。

 カードゲームが基本の世界は、カードゲームで全てを解決するのが普通だ。

 彼らに、どんな世界から来たの? と問うてみればいい。

 彼らはきっと、ごく普通の世界から来たとしか答えないだろうから。

 

 これは、30人の主役と1人の主人公の物語。

 

 

 




 エタったら? 笑って誤魔化すさ(コブラ)


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出席番号2番、野球部キャプテン・井之頭一球の場合

雪見大福


 ここはダッツハーゲン王国。

 フレーバー王家によって治められている、正しい意味での人類勢力圏最北端の国にして、魔族の勢力圏最南端に隣接する最前線の国だ。

 雪国の多い北方の土地に住まう魔族は、豊かな土地の豊かな実りを奪うため、南に住まう人類の土地を奪うべく日々攻め込んでいる。

 その先駆けこそが、魔王率いる魔王軍であった。

 

 人類と魔族が対立しているこの大陸はユキミ大陸と呼ばれ、空から俯瞰して見ると円形の大陸が二つ縦にくっついたような形をしている。

 北の円が魔族領、南の円が人類領だ。

 かといって、人類魔族共に一枚岩というわけでもない。

 

 人類圏の中にはエルフやオークの国もあり、中立の魔族の国もある。

 南方の人類国家に戦争で負け滅ぼされた国家の末裔が、魔族と手を組み北側で独立国家を立ち上げ、現在の魔族と協力関係になっているというものもある。

 魔族にも複数の国家があり、それを魔王がまとめているワントップ体制であったり。

 人類側は全部の国が絶妙に足を引っ張りあった結果、全部の国の代表による合議制であったり。

 魔族の国と勝手に不可侵条約を結んだ人類の国があったり。

 

 ともかく、全体的にごちゃごちゃとした、どこにでもありそうな普通の国家間関係があった。

 そして全体で見れば、人類圏は崩壊寸前であると言える。

 魔王軍が優勢過ぎるのだ。

 戦争が終わればどんな形であれ、『人の世界』は消えてなくなるだろう。

 人類という種が残るかどうかさえも怪しい。

 現魔王が、そもそも人類種を残す意義を感じていないからだ。

 

 さて、そんなユキミ大陸のダッツハーゲン王国に飛ばされた佐藤朔陽(さとう さくひ)達だが。

 

「ふぅ……とりあえず、僕らのクラスの生活基盤は確立出来たと見ていいかな」

 

 異世界転移から一ヶ月。

 彼らはこの世界にすっかり適応し、日々をエンジョイしていた。

 

「サクヒ、サクヒ、ソシャゲができない……イベントの日なのに……」

 

「諦めようよ和子ちゃん」

 

 ここは、王城近くに用意された地球人用の邸宅、その一室。

 より正確に言うのであれば、朔陽専用の事務室であった。

 

 ソシャゲができず、行動力も消費できない現状に、若鷺和子(わかさぎ わこ)が死に体を晒す。

 朔陽が各種書類を処理している最中の机に乗っかって来る彼女の表情は死に、体は脱力、和子のそこそこ大きな胸は机でむにゅりと潰れている。

 だが朔陽は机の上のゴミをどけるように、彼女の体を押しのけた。

 

「帰るまでソシャゲは無理だってば。これを機に卒業しなよ」

 

「うぅ、やっぱそうするしかないのかな……」

 

 押しのけられた和子は、体をふらつかせもせず、綺麗な倒れ方で近場のソファーに倒れ込む。

 なんだかんだ、彼女のバランス感覚は凄まじい。

 朔陽は昔、公園で二人で遊んでいた時、平均台から足を滑らせて落ちた時のことを思い出した。

 

 平均台で股間を打った朔陽は、一瞬神の声を聞いた。

 「お主の股間のマリー・チンポワネットは、フランス革命によりギロチンポされてしまったのじゃ。ギロチン対象は人の頭でなく亀の頭じゃが」というシモネタに走った品の無い声。

 おそらく幻聴である。

 こんなことを言う神はそう居ない。

 つまり、幻聴を聞いてしまうほどの痛みだったのだ。

 痛みに転げ回った想い出が、彼の記憶の中にはある、

 鉄棒の上に片足で立ってそれを見下ろしていた和子の不思議そうな顔も忘れない。

 「股間にいらないものが付いてたから痛いんだね」という和子のコメントも忘れない。

 

 そんな二人だが、朔陽が和子に悪感情を抱いたことは一度もない。

 むしろずっと好意しか抱いていなかった。

 そんな朔陽であるので、今回の異世界転移が内向的な和子がソシャゲに逃げる癖を直すいい機会になったと、内心少しだけ喜んでいた。

 

 と、同時に、どんな形であれ和子の不幸を喜んでしまっている自分に、少しの罪悪感と自己嫌悪を感じてしまっていた。

 相手の気持ちが分かる人間であるということは、ソシャゲが出来ない苦しみにも共感できてしまうということでもある。

 更にクラスの皆の望郷の気持ちを想い、少しでも喜んでしまった自分を恥じる朔陽。

 そんな彼の心中を知ってか知らずか、和子はクラスメイト達の近況を聞く。

 

「皆、元気?」

 

「元気だよ。一部は連絡取れないけど、多分大丈夫」

 

 彼らはこの世界に独自の生活基盤を獲得していた。

 『教科書』という名の、人間が何千年も蓄積してきた知識と技術の要約。教育がその肉体に刻んでくれた物理的財産。クラスメイトそれぞれが持つ個別の知と能。

 朔陽がまとめている彼らは、この世界にとっても有益な個性溢れる三十人なのだ。

 

 江ノ島や子々津音々の心理学。

 九条の数学。

 セリスの核爆弾作成理論。

 二之宮の金融戦術。

 この国を治めるフレーバー王家との取り引き材料に出来るものは、彼らがパッと出せるものの中にもいくつかあった。

 そこにヴァニラ・フレーバー王女が間に入ってくれたおかげで、交渉は実に上手く行ったというわけである。

 衣食住の確保までは容易だった。

 

 が。

 彼のクラスには問題児が多かった。

 ある者は王都の宿に勝手に部屋を借り、ある者はこの世界を見て回る旅に出て、ある者は山へ芝刈りに、ある者は川へ洗濯に。山に修行に行った者も、嘘つきで行き先を言わなかった者も居る。

 皆好き勝手やってるのだ。

 佐藤朔陽がトップであるがためにギリギリ集団として機能している状態である。

 

 例えば「私より強い奴に会いに行く」と言って王都を出て行った女子柔道の津軽辻などは、朔陽の経験上一ヶ月は帰って来ないと確信されていた。

 

「皆凄いね。初めて来た場所なのに。私にはとても真似出来ない」

 

「和子ちゃんには絶対に真似して欲しくないよ」

 

 皆があまりにも好き勝手している上、自制心がある人間は王城の学者や軍人などと一緒に働いていたりもするため、朔陽が適当に呼びかけても数人くらいしか集められないだろう。

 朔陽の大大大ピンチには全員駆けつけるかもしれない。

 けれどおそらく大ピンチ程度では数人くらいしか駆け付けないに違いない。

 "いやあ、佐藤朔陽は多分誰かに助けられて生き残るよ"という慣れに近い信頼が、クラスメイト達から朔陽へと向けられていた。

 

「私は……その図太さとたくましさ、ちょっとうらやましい」

 

 とはいえ、そんなクラスメイトの駄目な大雑把さが見えているのは朔陽だけだ。

 和子からすればかのクラスメイト達は、異世界に放り出されても好き勝手生きているタフな人間であり、憧れる人物なのだろう。

 

「和子ちゃん、怖い?」

 

「うん、怖い」

 

「怖いのはドラゴン? 魔王? 魔王軍? 魔法?」

 

「……現実感が無いものが目の前に現実としてあるっていうのは、それだけで怖い」

 

 魔法や魔物がある世界のファンタジー感、非現実感。彼女はそれ自体が怖いのだ。

 よく分からないものがそこにあるだけで怖い、というのは、彼女がごく一般的な少女らしい感性を持っていることを証明している。

 和子は自分の中の不安をかき消そうとするかのように、机の上にあった書き損じの書類という名のゴミを、火遁術で灰にした。

 

「でも和子ちゃん、ここも現実だよ。少しファンタジーなだけで」

 

「それは……そうだけど」

 

「なら僕達はこの世界のことを知って、この世界で生きていかないといけない。

 僕らがこの世界で今日を必死に生きるのは、いつかの明日に元の世界に帰るためなんだから」

 

「……」

 

「適当に生きてどこかで死んじゃったら、それこそ元の世界には帰れないよ。

 元の世界に帰ることを諦めないのなら、僕らはこの世界で懸命に生きていかないとね」

 

 元居た世界に帰る未来は、頑張った現在の先にしか繋がっていないのだ。

 

「……私、がんばる」

 

「うん、その意気だ。僕は君を応援するのは勿論、僕自身も頑張らないとね」

 

 朔陽がペンを走らせる。

 ヴァニラ・フレーバー姫だけでなく、その父であるモナ・フレーバー王にも手紙を通じて好感を持ってもらおうという、凡人なりの涙ぐましいロビー活動であった。

 和子はソファーの上で体育座りして動かない。

 学生服ゆえスカートだが、彼女自身は気にしない。

 じっと動かず、何も喋らず。

 邪魔をしないように石になる。

 

 ……静かになった事務室に、彼のペンが走る音だけが響く。

 ボールペンも無い世界で作られた、魔法で加工された大量生産品のペンが動く。

 じっとしていた和子の視線が泳ぎ始める。

 少女の体がそわそわしだした。

 邪魔しないようにじっとしていようという気持ちと、じっとして居られない衝動。

 構って欲しい、でも我慢しないと、という二つの気持ちの矛盾。

 スマホ中毒特有の『何もしていない時間が苦手』『何か読んだり何か見ていたりしたい』という情動も相まって、和子は結局じっとしていることができなかった。

 

 ついつい彼に話しかけてしまう。そして同時にじっとしていられなかったことを後悔した。

 

「それ、大変なの?」

 

「大変……でもないかな。皆のまとめ役をしてるだけだし。

 副委員長の桜花さんと頭脳担当の倶利伽羅くんが助けてくれてるのは大きいね。

 あ、セレジアさんの補助も大きいかな?

 どうしようもなくなったら山に修行に行った亜神くんも戻って来るだろうしさ」

 

「……誰?」

 

「……あー、和子ちゃんは名前知らないか。

 覚えてなくても恥ずかしいことじゃないよ、それは。

 30人近く居る人間の名前羅列されても、普通はすぐ覚えられないからね。

 時間をかけて、何か出来事があったらそれに関連付けて、一人ずつ覚えていくといいよ」

 

「一人ずつ、一人ずつ……」

 

「どうでもいい人を部活名や顔や髪型で覚えるのは苦痛だからね。

 覚えるのはその人のことをちょっとでも好きだな、面白いな、って思ってからでいいんだ」

 

 クラスの全員を熟知している朔陽。

 クラスのほぼ全員のことを全く知らない和子。

 二人のクラスメイトに対する最も大きなスタンスの差異は、そこから生まれていた。

 

「でも、想い出は忘れないように。

 皆の名前を覚えてから想い出を辿れば、それはまた楽しめるものになっているから」

 

「うん」

 

「後は、和子ちゃん無口だから、もうちょっと口数増えたらいいかなって思うくらいかな」

 

 朔陽はよく知っている仲間達を助けていかねばならない。

 和子は何も知らない仲間達のことを知っていかねばならない。

 内容は違えど、二人共頑張らないといけないのだ。

 若鷺和子は奮起した。

 頑張ろうと決意した。

 そのためにとりあえずはまず、彼の言う通りに口数を増やそう、と考えた。

 

 そして事務室の中にて、分身の術で五人に増える。

 

「……何やってるの?」

 

「分身した。口が増えた。口の数が多くなった」

 

「そういうこと言ったんじゃないからね!」

 

 このクラスは、トップの朔陽が居ないと基本ダメなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 和子が姿を消し、やるべきことをひとまず終えた朔陽が事務室でぐっと背伸びをする。

 

「んっ……」

 

 彼らはこの世界では異邦人だ。

 正確に言ってしまえば、このダッツハーゲン王国の行政が持つ『自国の民を守る義務』の対象には、異世界人である彼らは含まれない。

 魔王軍から守って貰えない可能性がある。

 土地に住むことを許されない可能性がある。

 国のシステムの恩恵が受けられない可能性がある。

 『異世界人』という名の少数派の被差別民族になってしまう可能性もある。

 まともに買い物もできなくなれば、もう終わりだ。

 

 ひもじい、寒い、もう死にたい。

 不幸はこの順番でやって来るという。

 朔陽はこの世界に自分達の当座の居場所を作るべく必死だった。

 この国の人間に自分達を仲間だと認めさせるのに必死だった。

 自分達の存在価値と利用価値を認識させるのに必死だった。

 全てはクラスメイトのため、28人の友達のためである。

 

 そんな彼の頑張りを、察しているクラスメイトも居る。

 

「中国三千年の歴史を異物混入したお茶入ったアルよー」

 

 クラスメイトの一人、中国からの留学生董仲穎(とうちゅうえい)が部屋にやって来た。

 男ではあるが伸ばした髪は一本に編まれ、胡散臭い糸目が特徴的な朔陽の友人である。

 編まれた髪の先には鉄球がくくりつけられており、有事にはこれを敵の顔面に叩きつけることでその顔面を粉砕するのだ。

 彼は糸目で胡散臭く笑い、彼に茶を差し出した。

 

「ありがとう。……ああ、あったかい烏龍茶が美味しい……」

 

「そりゃよかったアル」

 

 そして董仲穎自身も茶を飲み始める。

 朔陽はもう一度茶に口をつけ、そこでようやく、この世界に無い烏龍茶を自分が飲んでいるということに気が付いた。

 

「待って、これ烏龍茶だけど、どこで手に入れて来たの」

 

「こっちの世界の植生調べてる途中で茶葉と味が似た草を見つけたアル」

 

「あ、一段落ついたんだ、植生調査と地球との植生比較」

 

「まあ探してたけど似たのも見つからなかったのはパクチーくらいアルよ」

 

「パクチー……は好きな人と嫌いな人きっちり別れるからいいかなぁ」

 

「ちなワタシは好きアル。ワタシは食べ物だと嫌いなものが無いアルし」

 

「無いのかあるのかどっちなの」

 

 地球の飯と同じ味のものが食べたい、という食いしん坊クラスメイトの要望。

 同じ味のものを作りたい、という手料理部の要望。

 消毒に使える草が欲しい、という保健委員の要望。

 金になる草売って稼ごうぜ、という提案。

 それらを叶えるため、西に東に駆け回る。それが彼のお仕事だった。

 

「まあワタシはシューマイの上に乗せるグリーンピースをはよ見つけんといかんアル」

 

「それそんなに重要なものかな……」

 

「ついでにいいんちょに頼まれた薬用草も探しとくアル」

 

「それそんなに扱い軽くていいものかな……」

 

 シューマイの上のグリーンピースの存在価値とは何か?

 これは重要な命題だ。

 

「董くん、修学旅行の後里帰りの予定じゃなかったっけ? その辺大丈夫なの?」

 

「まあゾンビだらけのあっちに里帰りしても楽しいことあんま無いアルし」

 

「ああ……うん」

 

「それならいいんちょの家にお泊りした方がまだ楽しそうアル」

 

「うち何も無いよ。ニンテンドースイッチはあるけど」

 

「スイッチあるアル!?」

 

「あるある」

 

「じゃーやっぱいつかお邪魔するアルヨー」

 

 ゲームに食いつく友情関係が、なんとも普通の学生らしい。

 

「ところで、なんでお茶を三人分用意したの?」

 

「すぐ来るやつがいるからアル」

 

 董仲穎が部屋を出て行くと、入れ替わりに別の少年が部屋へと入って来る。

 

「朔陽ー、キャッチボールやろうぜ」

 

「一球くん」

 

 先日聖剣をく聖剣に変えた野球部部長、井之頭一球(いのがしら いっきゅう)が気さくな様子で部屋に入って来て、朔陽は董が置いていったお茶の意味を理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茶を飲んで、外に出て、キャッチボール開始。

 やることが一通り終わった朔陽にとっても、いい息抜きになることだろう。

 互いにグローブを付け、野球ボールを投げ合い受け合う。

 

「お前地味に肩強くなってきたな、朔陽」

 

「甲子園に行ったことがある高校球児と、結構キャッチボールしてるからね」

 

 球を投げて、言葉を投げる。

 

「そういや俺よ、気になったんだが。

 あの若鷺和子っての、小学校の時に何度かお前の影に隠れてるの見た覚えがあるぞ」

 

「あ、覚えてたんだ」

 

「あいつなんで引きこもってたんだよ。その辺の事情俺全然知らねえぞ」

 

「……それは」

 

「あー待て待て、言いにくいなら言わんでいい。

 女の子のプライベートな事情だしな。

 ただほらよ、俺も一応クラスメイトじゃん?

 詳しい事情知ってりゃ俺もあの子のことフォローできるかと思ってさ。

 お前も四六時中あの子に張り付いてフォローできるわけじゃねえんだろ?

 頑張ってるお前が背負い込んでる負担、少しは俺にも分けてくれ。迷惑じゃないんなら」

 

 球を受けて、言葉を受ける。

 

「……迷惑なんかじゃないよ。いつも、頼りにしてる」

 

 これは、言葉とボールのキャッチボールだ。

 

「普通、日本には忍者が居るものじゃない?

 忍者が居ない日本なんていう珍しそうな異世界も、きっとどこかにはあるんだろうけど」

 

「まあ……日本以外のどこで忍者見るんだよって話だしな」

 

「普通就職に使える等級の忍者資格が欲しいなら、忍者専門学校に行くべきなんだよ」

 

「だけど若鷺はお前や俺と同じ、ちょっと偏差値が高いくらいの普通の高校に来たわけだ」

 

「そ、ちょっと見えてきたでしょ?」

 

 若鷺和子は忍者である。

 それは、ある程度常識のある者なら、彼女を見ているだけで察することができるものだ。

 

「和子ちゃんのお父さんとお母さんって、どっちもI種試験突破したエリート忍者なんだ。

 お父さんとかは今は内閣調査室忍者部の部長さんやってるって聞いた覚えがあるよ」

 

「へえ、マジでエリートなんだな」

 

「ただ、そんな両親だったから、和子ちゃんは過剰にプレッシャーを感じちゃったんだ」

 

 両親が立派だということは、子の誇りになる。

 両親が立派だということは、周囲から子への期待になる。

 両親が立派だということは、子が背負う重荷になる。

 

「筑波あるじゃん、筑波。僕が前に一球くんにパンフ見せたやつ」

 

「あー、忍術学園都市の」

 

 茨城県南部、筑波山南麓の筑波台地に座す、『筑波忍術学園都市』。

 次代を担う忍者の育成と、忍術の研究開発を主目的とする学園都市だ。

 

 面積は東京の半分、28.400haという広大さ。

 22万7千人が住み、その内資格持ちの忍者がプロアマ合わせて7.2万人、残りの15.5万人が非忍者であると言われている。

 国際的に門戸を開いており、ドイツ忍者などの外国人研究者も広く誘致しているとのことだ。

 

 近年は兼業忍者も多く、専業忍者で食っていける者はそこまで多くない。

 だがこの学園都市で忍術を修めた者は、例外なくその後の成功が約束される。

 ただし世界中から有能な人間が集まっている分、学生として受験してここに入るには、途方もなく高い忍術の腕と知識が必要とされた。

 

「志望校あそこって、あそこ忍術模試で忍術偏差値70無いと入るの厳しいんじゃなかったか?」

 

「だから和子ちゃん落ちちゃって、今はこの学校に居るってわけ」

 

 よくある話だ。

 どこででも聞く話だ。

 絶対に受かりたい学校の受験に落ちて、別の学校を受けて受かって、でも合格後に自己嫌悪でずぶずぶと落ち込んでいって、学校に行けなくなってしまう。

 そんな、ドロップアウト学生の話。

 二人の間をボールが行き交う。

 

「忍術に関しては才能もあったし、努力もしてたし、予備校にも行ってた。

 ……でもやっぱり、和子ちゃんは心の問題で、実力を出しきれなかったんだ」

 

「で、俺らと同じ学校受けるだけ受けて、合格したのはいいが引きこもりになったと」

 

「理事長が寛容な人で本当に良かったよ。

 和子ちゃん二年間丸々学校行けてなかったけど、学力証明だけで進級させてくれたんだから」

 

「頭下げて理事長に頼んだのはお前だろ、朔陽。何他人事みたいに言ってんだ」

 

「……あれ? その辺りのこと僕話したことあったっけ?」

 

「わからいでか」

 

 佐藤朔陽が、若鷺和子のために大人に頭を下げて回ったことなど、井之頭一球からすれば聞かなくても分かることだ。

 週刊少年ジャンプに時々極度に質の低い連載が載ることくらいに分かりきったことだ。

 

「俺とお前が何年の付き合いだと思ってんだ。人生の半分以上一緒に居るんだぞ」

 

「あはは、そういえばそうだった」

 

 二人は幼馴染だ。

 友人を大切にする朔陽には、幼馴染が何人も居る。

 幼い頃に誰かと出会ったから幼馴染が出来るのではない。

 幼い頃に出会った誰かと年単位で親しい関係を続けた結果、幼馴染は出来るのだ。

 幼馴染の親友とは、適当な人間や薄情な人間にはあまり出来ないものである。

 二人の間をボールが行き交う。

 

「で、本題は?」

 

「!」

 

「一球くんとも、もう十年くらいの付き合いだからさ。

 話題を切り出しにくいから、適当な話題から話始めたことくらいは分かるよ」

 

 片方が片方のことをよく理解しているのなら、その逆向きの理解もある。

 それが相互理解というものだ。

 二人の間を気持ちが行き交う。

 

「……敵わねえなあ」

 

 一球はこの世界に来る前から抱えていた悩みを、この修学旅行で相談しようと思っていた悩みを朔陽に打ち明け始めた。

 事実(なやみ)を一つ語るたび、そこに一つ気持ちを語って横に添える。

 朔陽は優しく応対し、彼の悩みと気持ちを全て受け止めた。

 二人の間を言葉が行き交う。

 

「俺よ、ピッチャーやめて外野回ろうかと思ってんだ。今すぐにってわけじゃないが」

 

「どうして? せっかく今四番ピッチャーでキャプテンまでやってるのに……」

 

「俺が持ってる変化球なんてカーブと消える魔球くらいだ。

 しかもどっちも甲子園レベルにまで鍛えられてるわけでもねえ」

 

「ふむふむ」

 

「プロのピッチャーには実戦レベルの変化球が三種以上必要だってのが定説だ。

 デッドボールとストライクを同時に取るような……

 球投げてカウントを稼ぎつつ相手の(タマ)も削れるような変化球がねえと駄目なんだ」

 

「ああ、最近のプロはそういう人も居るね」

 

「野球は紳士のスポーツだ。

 ピッチャーが相手を削るにしても、殺さず削る技術が要る」

 

 地球世界においては、九つに分裂させた硬球で打者を峰打ちする魔球・九頭球閃を使う元捕手の緋村克也投手などが、特に有名だろう。

 三つのストライクを取りつつ、バッターの六ヶ所を強打する王道のストレート。

 仏教における六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を概念的に強打し、六境(色、声、香、味、触、法)を識る力を奪い、怪我一つ負わせないままにバッターアウトに持っていく、合法デッドボールと呼ばれる魔球の一種だ。

 

 これを投げ、ヒムさんの愛称で愛される緋村克也投手は、球界を背負うエースの一人である。

 そして、エースを見てそれに憧れる野球少年も居れば、エースを見てそれになれないと気付く野球少年も居る。

 

「俺はピッチャーになれるだけの才能がねえ。

 だけどな、後輩に見どころがあるやつがいるんだ。

 俺は外野に回って、いざという時の補欠ピッチャーとして控えておくさ」

 

「……」

 

「俺はプロの世界にも、このスタンスで入ろうと思ってる」

 

 複雑そうな顔で一球が投げたボールと気持ちを、朔陽は受け止める。

 

「俺のこの選択は正しいと思うか? お前は俺がどっちを選ぶべきだと思った?」

 

「僕には分からないなぁ」

 

「……まあそりゃそうか。お前野球部でもねえしな」

 

「違う、そうじゃない。

 僕にも君にも、いや他の誰にも、それの正解なんて分からないって言ってるんだ」

 

「―――」

 

「ストレートに言うよ。

 それはいくら考えても、正解の選択肢なんて見つからない。

 そして最後に何を選ぶか決められるのは君だけだ。

 選択が決める未来は君のものだけで、選択の責任を取らないといけないのも君だけだ」

 

 朔陽が投げたボールと気持ちを、一球が受け止める。

 

「皆同じだよ。

 いつかどこかで、何が正解か分からない中で何かを選択している。

 その選択の結果どうなるか分からないという点で、僕らは誰もが同じなんだ」

 

「お前にも、そういう選択があったのか?」

 

「したよ。例えば、二年前に和子ちゃんを部屋から出すと決めた時とか。

 和子ちゃんに嫌われるかもって思ったし、実際一時期嫌われてたしね」

 

「……」

 

「人生なんて迷ったり悩んだりすることの連続でしょ。きっと死ぬまでずっとそうだよ」

 

 一球が朔陽に悩みを相談した理由。

 それは二人の性格や言葉を見比べ、その関係性を見ればおのずと理解できる。

 

「でも、さ。

 僕らの選択が間違っても正しくても……

 その先に支えてくれる人が居たら、何か違うと思わない?」

 

 どんな選択の先の未来でも、隣に友達か仲間が居れば。

 

「だから僕が言えることは一つだ」

 

 後悔はきっと少なくできる。

 

「君は何を選んでもいいと思う。君が何を選んでも、僕らはずっと友達だよ」

 

「……朔陽」

 

「ピッチャーでも外野でもいい。君は君が好きになった野球を懸命にすればいいんだ」

 

 朔陽には、自分が何も道を示せていない自覚がある。

 どちらが正解だろうか、という悩みの相談に、どちらが正しいとも言わなかったのだから。

 朔陽は『自分で選べ』『その責任は自分で取れ』『頼りたい時はいつでも頼れ』と言っただけ。

 だが、だからこそ、悩み揺らいでいた一球の心に喝を入れることができていた。

 

「あ、そうだ。何が正しいのか分かんなくて迷ったと言えば、一球くんに話しかけた時もだよ」

 

「俺にか?」

 

「ほら、初めて会った時……」

 

「あのエロ本がよく落ちてた河原だな。

 俺が一人で壁当てやってるとこにお前が話しかけてきて、俺達は出会った」

 

「そう、その河原。あそこで話しかけた時も僕はなけなしの勇気を振り絞ってたんだ」

 

 一球が投げたボールを朔陽がキャッチする。

 朔陽は思いっきり力と気持ちを込めて、言葉とボールを投げつけた。

 

「話しかけた方がいいのかな。

 話しかけない方がいいのかな。

 他に誰か子供探した方がいいのかな。

 そんな風に悩んで、迷って、結局話しかけたんだ。一緒に遊ぼうって言うために」

 

「なんで俺に話しかけてきたんだ?」

 

「友達がもっといっぱい欲しかったから」

 

 ボールと言葉を、一球が受け止める。

 

「あの頃の話は懐かしいな。で、俺はそれに『いいぞ』って言って」

 

「僕が『何をして遊ぶ?』って聞いて」

 

「『じゃあキャッチボールしようぜ』と俺は言った」

 

 相手が投げたボールを受けると、グローブ越しでもぴしりと痛い。

 軽い痛みだが、それが逆に心地良かった。

 

「あの返事がさ、僕はとても嬉しかったんだ」

 

「お前は単純、ってか安い男だな」

 

「うるせいやい。

 悪かったね、そんな単純なことで喜ぶ安い男で。

 でもさ、あれが僕の友達作りの始まりだったと思うんだよ。

 ああ、僕はこうやって友達を作っていっていいんだな、ってあの時思えたんだ」

 

 幼い頃に友達作りで手酷い失敗をしてしまうと、友達作りを恐れるようになってしまうという。

 が、逆にそこで成功体験を積んだ場合、その後の友達作りで何か失敗しても、成功体験が根底にあるために失敗を恐れにくくなるという。

 朔陽が今クラス委員長をやっている遠因は、どうやらこの野球少年にあったようだ。

 

「俺もな、あの頃特に野球好きだったわけじゃねえんだよ」

 

「え?」

 

「あれからお前と毎日のようにキャッチボールしてたろ?

 あっれが楽しくてさー、気付けば草野球チームに入ってたんだよな」

 

 だが、同時に。

 一球が今野球をやっている遠因もまた、友人との関係の中にある。

 

「本気で熱中したら野球って楽しくてよ。

 小学校の時の草野球大会の時は、親が応援に来てて"絶対勝つ"って思った。

 中学の時もお前が応援に来てて、"必ず勝つ"って気合い入れてた。

 お前は高校でも俺の試合に応援に来てたよな。おかげで気を抜いて試合に挑む暇がねえ」

 

「一球くんが気付いてないだけで小学校の時も応援は行ってたんだけど」

 

「え、マジ?」

 

「マジマジ」

 

 井之頭一球は友情、信頼、想い出、その他諸々の熱い気持ちをボールに込めて投げつける。

 

「腐れ縁のお前に応援されて、好きなことだけやって……野球だけやってる内にさ」

 

 グローブで球を受けた朔陽の手が、痛くて、痺れて、そして何より熱かった。

 

「俺は、プロになりてえ、ってごく自然に思うようになってたんだ」

 

 彼らは高校三年生だ。

 この異世界から帰ればその後に、各々の夢に向かって進んでいく未来が待っている。

 だからこそ、必ず帰るのだ。

 彼らが描いた未来予想図は、この異世界の中には無い。

 

「なるよ。

 一球くんは必ずプロになる。

 だから僕は、君を必ず元の世界に帰してみせる」

 

「はっ。帰してみせる、じゃねえだろ? 一緒に帰る、だろ!」

 

 一球の脳裏に未来予想図が浮かぶ。

 バッターボックスには、プロになった自分。

 観客席には親友と親。

 そんなシチュエーションで、ホームランを打つ。そんな未来の夢だ。

 彼がその夢を叶えたいのなら、元の世界に帰らなければならない。

 

 この世界で死なずに、生きて帰らなければならない。

 

「―――」

 

「? どしたのさ、一球くん」

 

「この……プレッシャーは……まさか……」

 

 この世界で彼らが抗うべき脅威は、魔王軍だけなのだろうか?

 いや、違う。

 彼らが彼らで在る限り、戦わねばならない敵が居る。

 

「『黄泉瓜巨人軍』だ……!」

 

 彼らが居た世界から、この世界へと進軍を始めた侵略者。

 

 黄泉瓜巨人軍が、突如空より現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一つ、日本の歴史の話をしよう。

 かつて日本には『黄泉瓜巨人軍』なる軍団が居た。

 彼らが掲げた諸目標は日本の征服。

 そしてそれを足がかりにした世界征服と、野球の更なるメジャースポーツ化であった。

 

 黄泉瓜巨人軍は神話に語られる巨人の遺伝子を極秘に入手。

 それを野球選手特有の肉体改造にて、人体に組み込んだ。

 結果、巨人の遺伝子を組み込まれた人間の意識は死滅し、黄泉瓜巨人軍に操られる巨人型の尖兵と化した。

 巨人は圧倒的な力で日本を制圧し、リーグ戦を勝ち抜き、もはや日本の正規軍と自衛隊とセリーグの中に巨人に打ち勝てるものは居ない、と囁かれたほどの絶望であった。

 

 黄泉瓜巨人軍は神を名乗り、巨人は巨人神装兵と改名される。

 日本は黄泉瓜巨人軍に制圧されてしまうのか、と誰もが思ったその時に。

 立ち上がった英雄が居た。

 それが神に逆らう者達―――『反神タイガース』である。

 

 反神勢力は仲間を集め、他の球団の力も借り、神へと反抗する。

 やがて黄泉瓜巨人軍内部からも『真・巨人軍』なる独立勢力が現われ、若手を中心とした真・巨人軍が内側から黄泉瓜巨人軍を崩壊させ、戦局は一気に傾いた。

 かくして、黄泉瓜巨人軍はその戦力のほぼ全てを殲滅された、と伝えられている。

 佐藤朔陽のクラスにも、当時この戦いにボランティアで参加し、学校に内申点を上げてもらった学生は何人か居た。それほどの規模の戦いだったのだ。

 

 かつての戦力を失った黄泉瓜巨人軍は、日本のどこかに逃げ、今でも執念深く地球を征服するべく再起のチャンスを待っている……というのが、一般的な日本人の認識だろう。

 だが、違う。

 彼らは待っていたのだ。

 異世界とこの地球が繋がる、その瞬間を。

 

 巨人神装兵を使う彼らはずっと考えていたのだ。

 巨人が野球をやるには地球は狭すぎるな、と。

 だからこそもっと広いグラウンドを、別の世界に求めたのだ。

 ヴァニラ姫が地球に助けを求めて発動した術式は、黄泉瓜巨人軍に察知されてしまい、逆に地球からこの世界へと侵略するための『道』を作る参考にされてしまったのである。

 

 黄泉瓜巨人軍の今の目的は、異世界の制圧。

 そしてこの世界を巨人練習用のグラウンドと化し、今度こそ地球の全てを征服するために、この世界を新人育成用の二軍ファームとして活用することだった。

 一軍を地球に放り込み、この異世界で二軍を育て、順次一軍と二軍を入れ替えていけば、いつかは地球を制圧できる。

 そんな、悪夢のような作戦がここにはあった。

 

 黄泉とは、日本神話における死者の国。地の下に在り根に例えられる国である。

 つまり、地を表すものだ。

 瓜とは、『御伽草子』に収録された『天稚彦草子』において天の川を生み出した瓜のことを指している。

 つまり、天を表すものだ。

 そして人は、古来より天と地の境に生きる天とも地とも非なるものとされる。

 巨人とは、人を表すものだ。

 

 天・地・人は古来の中国思想において『三才』と呼ばれ、この三つで宇宙の万物を表すことができると語られていた。

 つまりヨミウリ=キョジンという名そのものが、宇宙の根幹原理を表しているのである。

 ヨミウリ=キョジン軍という名には、宇宙の全てを支配するという野望が込められているのだ。

 

 かくして、お姫様の勇者召喚を悪意をもって利用した、悪の侵略が開始される。

 

 

 

 

 

 空が割れ、そこから落ちて来た巨人が咆哮する。

 世界が揺れるような咆哮だった。

 瞬間、世界の全てが黄泉瓜巨人軍の存在に気付く。

 

「……っ!」

 

 朔陽は冷静に黄泉瓜巨人軍に関する裏社会由来の情報を思い出す。

 確か黄泉瓜巨人軍は、巨人軍を勝手に捕縛し私刑にする市民の勝手な活動で――野球捕縛問題――、巨人を残り二体にまで減らされていたはず。

 そう彼が考えていると、空から二体の巨人とそれを操る人間達が落ちて来た。

 巨人の一体は人間達と一緒に姿を消したが、巨人の一体は王都に向けて進軍を始める。

 

 間違いない。

 この王都を落とし、ダッツハーゲン王国を乗っ取るつもりだ。

 このままではダッツハーゲン王国はヨミウリ王国に、王国軍は巨人軍になってしまう。

 

 巨人は腰に吊っていた無数の鉄球の内一つを手に取り、トルネード投法特有の構えにて体をねじり、鉄球を投げる姿勢に入った。

 

死を招く球(デッドボール)……! 黄泉瓜巨人軍の得意技ッ!」

 

 巨人が持つ巨大な膂力で、放たれる鉄球。

 日本ではこれを死を招く球(デッドボール)と皆呼んでいた。

 その破壊力は絶大。

 鉄の要塞を貫通し、命中した地点の周囲は衝撃にて粉々になる。

 要するに、巨人の筋肉を用いた最強クラスの運動エネルギー兵器であった。

 

 この攻撃に対抗する手段は、たったひとつ。

 完璧な打法、完成されたインパクト、完全なる打撃にて、投げられた鉄球をピッチャー返しするしかない。

 ゆえにこそ、野球を極めた者にのみ対抗可能な魔球であった。

 

 井之頭一球はバットを構える。

 

「何やってんの、一球くん!」

 

「うるせえ! お前は知ってんだろ、朔陽!」

 

 朔陽は一球が激昂している理由も知っている。

 激昂した状態ではかの魔球は打ち返せないことも知っている。

 死を招く球(デッドボール)は、心を明鏡止水に至らせ初めて打てるもの。

 

「あいつらは……あのデッドボールを故意に俺の親父の頭に当てて、殺したんだ!」

 

「知ってる! だけど、冷静じゃない今の君にあいつの球は打ち返せない!」

 

 自己管理ができない野球選手など未熟者にも程がある。

 自分の心さえ管理できないのであればなおさらだ。

 一球は、始まる前から既に負けているも同然だった。

 

「今のままじゃ、君まで死んでしまう!」

 

「離れてろ! 俺は、あいつにだけは背を向けられねえんだ!

 バッターもピッチャーも、互いに相手に背を向けるくらいなら死を選ぶ!」

 

 ゆえに。

 巨人が鉄球を投げ、一球が金属バットを構えても、トルネード投法から放たれた巨人のストレートに、一球はまともに反応することさえできなかった。

 

(―――速っ―――)

 

 黄泉瓜巨人軍との戦いにおいて、直球の見送りは三振ではなく死を意味する。

 バッターである一球は死に直面し、激昂した心が冷えるのを感じていた。

 死の冷たさが、冷静さを取り戻させる。

 そこで一球はようやく、先程まで自分の身を包んでいた怒りが、自分の中にある"巨人軍の強さに対する恐怖"を誤魔化していたことに気が付いた。

 眼前に迫る死が、バッターたる彼の意識だけを加速させる。

 

 その目が、迫り来る鉄球と、自分と鉄球の間に飛び込んで来た親友の背中を捉えた。

 

 勇気ある者は、友を庇う。

 心弱き者は、すぐに復讐心や恐怖に負ける。

 それは当然のこと。

 銃弾の前に紙の壁を立てるに等しい行為と知りながらも、朔陽は体を張って友を庇う。

 

 そして、二人まとめて鉄球の直撃を受け押し潰された。

 

 

 



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その2

 鉄球が潰した二人の体が、煙となって霧散する。

 煙の中には緑の葉っぱが一枚、ひらりひらりと待っていた。

 最新鋭の物理学を内包するニンジャ・テクノロジーを導入した、若鷺和子の『変わり身の術』の効果であった。

 

「間一髪」

 

「和子ちゃん!」

 

 朔陽と一球の二人を抱え、小柄な和子が王都を駆ける。

 変わり身に直撃した鉄球は王都に巨大な破壊の爪痕を残していた。

 

(大きく避けるしかない)

 

 地面に当たっても、建物に当たっても、鉄球は全てを粉砕し、人間を殺せる瓦礫を広範囲に撒き散らすことが目に見えていた。

 和子は攻撃範囲を膨大と推定。

 そして、全力で走る。

 出来る限り人が少ない方向へ。

 巨人神装兵は変わらず和子達を――正確には和子が抱えた一球を――見ている。

 睨みつけたまま視線を外さない。

 和子がどんなに速く動こうとも、巨人は常に対象の人間の姿を捉えたままだ。

 

 神に逆らう反神タイガースはこの世界には存在しない。

 プロ野球選手も然りだ。

 投技を極めたピッチャーを正当な手段で打倒できるのは、打技を極めたバッターのみ。

 野球部員がクラスに一人しか居ない以上、野球でかの巨人を倒すことができるのは、この異世界に井之頭一球ただ一人なのである。

 巨人が警戒するのも、当然であった。

 

(朔陽だけ助けるなら、井之頭君を囮に置いてって私と朔陽だけで逃げるのが一番……

 でも、そうしたら朔陽はきっと怒る。

 それに何より、私自身が、クラスメイトを見捨てて逃げたくないと思ってる)

 

 巨人神装兵は腰に吊った鋼鉄の野球ボールに手をかけるが、鉄球は握らず、その辺りの地面に手を突っ込んで1mほどの直径の小石(巨大)を指でつまみ取った。

 どうやら鉄球を温存し、石投げをしようとしているようだ。

 一試合ごとの球数を抑えるのはピッチャーの基本。

 でなければピッチャーの肩は簡単に壊れてしまうからだ。

 異世界で鉄球が補給できない以上、鉄球を温存するのは当然の思考と言えよう。

 

 かくして巨人の手より幾度となく投石が放たれる。

 スライダー、シュート、カーブ、シンカー、フォーク、ジャイロと各種変化球系の回転をかけられた無数の石が、朔陽と一球を抱えた和子に向かって飛翔した。

 

 軽やかに、華やかに、艶やかに。

 美しい蝶が空を舞うように和子は飛礫(つぶて)を避けていく。

 王都の遥か彼方から投石する巨人と、人気のない区画でそれを回避するクノイチの攻防は王都の皆が目にする事態となり、騒ぎは徐々に大きくなっていく。

 異世界の一般市民は逃げ惑い、地球の一般学生達は仲間を助けるべく走った。

 

「このまま……」

 

 巨人は神のごとく振る舞い、石を投げる。

 ただそれだけで、王都が目に見えて削れていく。

 和子が人の居ない方に移動していなければ、とっくのとうに死人が出ていただろう。

 だがこの攻撃ペースなら、自分程度でも余裕でかわせるだろうと、和子はたかをくくっていた。悪い言い方をするのであれば、油断していた。

 朔陽が叫ぶ。

 

「和子ちゃん! 遠くで何か光った!」

 

「―――!」

 

 和子が二人を抱えて飛び上がったその瞬間、地平線からビームが飛んで来た。

 いや、ビームと言っていいものなのかも分からない。

 光線なのか?

 熱戦なのか?

 レーザーなのか?

 はてさてどれなのか。

 面倒臭いのでビームということにしておこう。

 物質を冷凍するという不可思議技れいとうビームも存在を許されるこの時代だ、分類が怪しいものは片っ端からビームに突っ込んで問題ない。

 

 それが、巨人神装兵を飲み込み、朔陽達に迫り来る。

 ビームは巨人と朔陽達を一直線の射線に捉えた瞬間を狙って放たれたようだ。

 巨人の上半身を消滅させたビームが、空中で動けないクノイチとその仲間に迫る。

 

「―――」

 

 瞬間。

 ビーム発射前に跳び上がっていたヴァニラ・フレーバー姫が、彼らの近くにまで至り、彼らに向かって手を伸ばしていた。

 必死にビームを見て回避手段を探していた和子は姫を見ていない。

 ビームで蒸発する痛みを思い、思わず目を閉じてしまった一球も姫を見ていない。

 諦めず周囲全てに視線を走らせ、起死回生の何かを探していた朔陽だけが、飛び上がった姫の存在を認識していた。

 

「この手を掴んでください!」

 

「ヴァニラ姫!」

 

 左手で和子と一球を掴んだ朔陽が、右手を伸ばす。

 彼が伸ばした右手を、姫の右手がしかと掴む。

 次の瞬間、四人は一瞬にして王都の端っこにまで移動していた。

 

「間一髪でしたね、サクヒ様。イッキュウ様もワコ様もご無事で何よりです」

 

「これは……!?」

 

「転移魔法です。発動条件が厳しく多用できないのですが、なんとか使えました」

 

 姫の転移魔法が彼らを救ってくれたようだ。

 ビームの追撃もない。

 王都からは、謎のビームで上半身が吹っ飛んだ巨人の姿がよく見える。

 

「ありがと、和子ちゃん。降ろして」

 

「ん」

 

「助けてくれてありがとうございます、ヴァニラ姫。あのビームが何か知ってますか?」

 

「あの光の柱を放つ魔法は……十六魔将『消葬の双子』の消葬魔法です」

 

「!」

 

「魔王軍がとりあえずであの巨人を消したのではないか、と私は推察しています」

 

 朔陽が問い、姫が答える。

 あのビームは魔王軍幹部の放ったビームのようだ。

 女子柔道部に太陽に投げ込まれたアインスと同じ幹部のようだ。

 ならまた太陽に投げ込めばおそらくは倒せるのだろうが、遠くからビームを撃ってきたせいで姿の視認さえできていない。厄介なことだ。

 姿さえ見えていればまた太陽に不法投棄、否、合法投棄もできるというのに。

 

 巨人は異世界からの侵略者だ。

 よって魔王軍にとっても敵である。

 つまり魔王軍が黄泉瓜巨人軍の侵略の意図を察し、『なんだあの怪しいの。味方にはならなそうだし消しとくか』でビームをぶっ放してきたというわけだ。

 巨人も人の一種だし殺しても問題にはならんだろ、くらいのノリが垣間見える。

 人の命が消しゴムのカスより軽そうな扱いでとても恐ろしい。

 

 朔陽は次の一発がいつ来るか戦々恐々としていたが、二発目のビームは中々来なかった。

 

「彼らがあのビームを撃てるのは一日一回。何故かは分かりませんがそうなのです」

 

「それなら、今日のところは僕らがあれの危険に晒される可能性はなさそうですね」

 

 ほっとする朔陽。

 魔王軍の魔将のビームは、巨人の上半身を一瞬で蒸発させるほどのものだった。

 王都のど真ん中を攻撃範囲に捉えれば、何人死ぬかイメージすることすら難しい。

 二発目が来ないというのならひとまず安心だ。

 ……と、そこまで考えたところで、朔陽は気付いた。気付いてしまった。

 アホのクノイチと高校球児は気付かない。

 

 ならあのビームを撃った魔将は何故王都の近くに居たのか?

 巨人というイレギュラーが現われたために、魔将は巨人を撃った。

 なら本来何を撃つつもりだったのか?

 

「……あれ、じゃあもしかして、巨人が来なければ僕ら王都と一緒に蒸発してたのでは」

 

「……だ、大丈夫です。順当にいけば、狙われるのは王都よりも王都中心の王城ですし」

 

「蒸発するのが僕らじゃなくて王族になっただけじゃないですか!」

 

 今日、黄泉瓜巨人軍が侵攻して来なかったら、この国は滅んでいたかもしれなかったわけだ。

 人命も軽いが国の存亡まで軽い。

 

「どうなってるんですか王都周辺の警備……」

 

「『消葬の双子』は前線に居ると情報が来ていたのですが……偽装情報だったようです。

 前線の兵士が損耗した分、王都周辺の警戒網の人数を減らして前線に回していたのです。

 お兄様……んんっ、いえ、それは置いておいて。

 本当に申し訳ありません、これは我々の判断ミスでしょう。

 今日中に王都周辺の警戒網の人数を元の人数、いえそれ以上の数に戻すよう手配しておきます」

 

 朔陽はこの姫が国防にどれだけ関わっているかを知らない。

 だが、この姫がなんでもかんでも責任を背負いこもうとするタイプだということは知っている。

 ゆえに、この姫のせいでこうなったなどとは思っていなかった。

 

「ヴァニラ姫、巨人はもう一体居ます。空から落ちて来たのを、僕らは見ました」

 

「! 本当ですか?」

 

「はい。今回倒された巨人は40mほどでしたが、姿を消した方はおおよそ60m。

 しかも巨人に指示を出していた僕の世界の人間達も一緒でした」

 

「サクヒ様達の世界の、人間達……?」

 

「奴らは黄泉瓜巨人軍。

 球界の魔王にして、セ・リーグの次に日本を支配しようとした奴らです」

 

 説明開始。

 説明終了。

 朔陽は熱中症量産工場である夏の高校野球大会のことなども交えて、分かりやすく日本の野球、及び黄泉瓜巨人軍の過去について姫への説明を終えた。

 

「なるほど、なるほど。

 私にも分かりやすい説明をありがとうございます。

 競技としての剣術を戦争に使うようになってしまった、白くま騎士団のようなものなのですね」

 

「真・巨人軍か反神タイガースが居れば容易に蹴散らしてくれる相手なのですが……」

 

 不安がる朔陽。

 ヴァニラ姫は自分の中に湧いていた"少女らしい不安"をぐっと押し込んで隠し、朔陽の前では揺らがない自分を見せようとする。

 不安なんて欠片もない、王族としての自分を見せる。

 和子や一球にも、意識してそういう姿を見せていた。

 

 本当は、異世界からの侵略者が恐ろしくてたまらなかったが、ヴァニラがそれを表に出すことはなかった。

 

「大丈夫です。きっと大丈夫ですよ。私達もここに居ます」

 

 姫はドレスを押し上げる胸の上に手を置き、朔陽達を安心させる声色で、力強く言い切る。

 

「私達の世界は、私達の手で守りたい。そう思っているのは、きっと私だけではないはずです」

 

 姫が王城を仰ぎ見れば、そこには騒動を認識した貴族や騎士達が集まり、慌ただしく駆け回る姿が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姫が彼らに黄泉瓜巨人軍の説明を求めたのは、当然の流れであった。

 和子が「どうしよう」と言った。

 朔陽は「いや行くよ」と彼女の手を引いた。

 一球は思い詰めていた。

 朔陽は「行こう」と彼も引き連れ、姫と王城に向かった。

 和子には巨人軍に思い入れがなく、一球には逆に親を殺されたという強烈な因縁があり、朔陽には客観的に巨人軍のことを説明できる程度の知識がある。

 ヴァニラ姫からすれば、彼らが同行してくれることは喜ばしいことだった。

 

 彼らは王城の会議室へと向かう。

 会議室には既に何人かの貴族と、数人の騎士が集められていた。

 この国の貴族と騎士の一部、それもすぐに王城に集まれる人間が集められているのだろう。

 王族はヴァニラ・フレーバー一人だけで、他に王族の姿は見られない。

 

 デブ貴族が居た。

 明らかに出無精(でぶしょう)なせいで運動不足のデブ症になっている男であった。

 女騎士が居た。

 尻への性的快楽に弱そうな顔をしている。

 男の騎士が居た。

 目立つ金色の首飾りをしているが、退屈そうな様子であくびをしている。

 会議の参加者は合計で十数人。騎士と貴族どいつもこいつも一癖二癖ありそうだ。

 

 姫に頼まれ、彼らの前で、朔陽は黄泉瓜巨人軍の概要と情報を語る。

 値踏みをするような視線。

 正しく朔陽を評価しようとする視線。

 朔陽の内心と目的を見抜こうとする視線。

 そのどれもが朔陽を奥深くまで探ろうとする視線であり、朔陽に不快感を覚えさせる、嫌な感覚の視線であった。

 特にデブ貴族は熱烈で性的な視線を送っている。

 まごうことなきホモであった。

 

 義務的に子を作ったホモ貴族を父に持った貴族の子はホモになりやすい。

 ホモから生まれたホモ太郎だ。

 ホモ貴族特有の熱烈視線はまさしく心にホモいろクローバーが生えていると表現すべきそれ。

 "ホンモノの貴族"だって略せばホモ貴族なのだから、立派な貴族=ホモという風に考えても別にいいではないだろうか? 専門家の見解の提示が待たれるところだ。

 

 和子は"あの貴族去勢しちゃおうかな"と考え始めていた。

 懐のクナイに手をかける和子を、一球が必死に止めていた。

 ホモと忍者と高校球児のトライアングルは拮抗し、一滴の血も流さぬまま朔陽の貞操を守る。

 朔陽による説明中、会議室の空間内に、不可視のホモ三国志が成立していた。

 

「―――以上で、黄泉瓜巨人軍の説明を終わります」

 

 朔陽の分かりやすい説明が終了する。

 ある騎士は現状の危険性を正しく認識した。

 ある貴族はどうすれば正しい対応になるかを思案していた。

 デブホモ貴族は朔陽の尻に夢中だった。

 

 十人十色の反応を見せる騎士と貴族に、ヴァニラ姫が呼びかける。

 

「では、何か意見のある方はいらっしゃいますか?」

 

 巨人はこの世界に二体来ていて、残り一体がまた攻めて来るのも時間の問題だ。

 魔王軍がまた結果的に助けてくれる、だなんて期待するわけにもいかない。

 誰かが撃退しなくてはならないのだ。

 

 すると、貴族の一人がいきなり突っ込んだ意見を言ってくる。

 

「チーキュ? とかいう同じ異世界から来たんでしょう。

 同じ異世界から来たというのなら、同郷の彼らにどうにかしてもらってもいいのでは?」

 

 貴族から朔陽達への無茶振りであった。

 発言者の貴族からすれば反応を見るジャブのようなものであったのだろうが、話の流れは予想外の方向に飛んで行く。

 

「……それに関しては、彼らも同意見であるようです」

 

「え」

 

 姫が「彼らも同意見」だと言えば、発言者の貴族の方が「え」と驚かされてしまう。

 発言者の貴族は「君達の世界の責任じゃないんですかー?」「僕達だけじゃ対応は無理ですこの浅ましい地球の豚に力を貸してください貴族様と言えよ!」といった展開を期待していた様子。

 だがそうはならなかった。

 そうはならなかったのだ。

 

 ソーラーパネルによる太陽の効率的利用を実用化した地球文明は、柔道業界において既にソーラー投げるによる太陽の効率的利用も実用化していた様子。

 ゴミ箱にゴミを投げ入れるのは失敗するが、魔王軍を太陽に放り込むのであれば確実に成功する柔道部は実在する。

 「だってゴミ箱より太陽の方が大きいんだから投げ入れるのはそっちの方が簡単じゃない」という柔道部の主張には、一理あると言っていいだろう。

 彼らには力がある。

 地球の高校生相応の力を持っている。

 決して、完全に無力な存在ではない。

 

「お願いします。

 王都の皆さんの命がかかっている状況だということは重々承知しています。

 それでも……一度でいい! 僕達に、奴らを撃退し決着をつけるチャンスをください!」

 

 佐藤朔陽は頭を下げる。

 深々と下げる。

 力を貸してもらうためではない。

 あの巨人をぶっ殺すチャンスを貰うためだ。

 

「何故、そこまで」

 

「僕らの中に、奴らと因縁のある男が居ます。

 そいつに決着をつけさせてやりたいんです! そいつに過去を振り切らせるために!」

 

 一球がハッとして、目を見開く。

 かのクラスで巨人軍と因縁がある男と言えば、まず確実に一球のことだろう。

 朔陽は一球に決着の一瞬をあげようとしているのだ。

 決着の瞬間を用意しようとしているのだ。

 九回裏同点ツーアウト満塁の如き状況で、彼をバッターボックスに立たせるかのように。

 

「それに、です。

 自分の世界は自分の手で守る。

 ヴァニラ姫がその決意を見せてくださったおかげで、僕らも気付いたんです。

 僕らの世界の負債を、この世界の人達に背負わせてはいけないのだと」

 

 それは善意であり、誇りであり、責任感であり、倫理であるもの。

 "僕達はそうしなければならないと思うからそうするのだ"という心の叫び。

 理由は違えど、この世界を守ろうとする覚悟を生むものだった。

 この世界の住人と異世界の子供達は同様に、この王都を守ろうとしていた。

 

 因縁に決着をつけ、人を守る。

 その両方を果たしてこそ、朔陽達は悔いなくこの事件を終わらせることができるのだ。

 

(本当は、私達の世界が侵略されているのに、学生の方に丸投げなどしたくないのですが)

 

 姫は良識的で優しい人間だ。責任感もある。

 まだ20にも満たない、自分と同い年くらいの子供達に、世界間戦争やら国家の存亡やらといった重い問題を背負わせたくはないと思っている。

 そんな彼女がちょっとだけ"任せてもいいのでは?"と思ってしまっているのは、ひとえに彼らが太陽に魔将を投げ込むような地球人だったからだ。

 

(なんとかしてしまいそう……サクヒ様、私正直な話非常に判断に困っています……)

 

 朔陽が「できない」と言ったなら、彼らに巨人の対応をさせようとする貴族が何人居ようが、姫は彼らに責任が及ばないようにするだろう。

 だが朔陽が自分から進んで「自分達にやらせてくれ」と言っているものだから、ヴァニラ姫は「できる自信があるのかも」と思ってしまう。

 そして毅然とした態度で振る舞い、深く頭を下げる朔陽の姿は、騎士貴族合計十数人の彼らの間に、囁くような音量の物議を醸していた。

 

「我が国の騎士団があたるべきでは」

「ですな。我輩は我が国の騎士団を何よりも信頼しておりますゆえ」

「国威を示すにもうちの騎士団だけで処理してしまうのが一番かもしれませんね」

 

「同郷の人間として彼らが一番に上手く対応できるのでは?」

「逆に同郷の者に手加減してしまう可能性もあるのでは」

「姫は彼らの戦闘能力を評価しているそうですが」

「それなら実力という点ではそこまで問題無いのかもしれませんよ」

 

「この国の……いや、この世界の人間ですらない者を信頼するというのは」

「ですがこれは事実上姫の推薦ですぞ」

「姫が彼らの意志を尊重している以上……」

「それで異世界人達が失敗すれば、最悪姫の責任になります。それは不味い」

 

「彼は今週30人分の租税を一年分納めてるんですよ。私はそこをとても評価しています」

「なんじゃそりゃ……真っ先に金で礼儀と仁義を通して来たのか」

「この歳のガキでそれとかヤベーな地球……能力と責任感は保証付きか」

 

「彼らに巨人を任せ我々は魔王軍の警戒に全力を注いだほうがよいと思います」

「確かに『消葬の双子』が放つ光の柱は危険すぎますからな」

「彼らの技は一撃で王都の中心を消滅させてしまいます」

「ですが消葬の双子を警戒するあまり巨人に王都を潰される可能性も……」

 

「異世界人はデカいのだな」

「いやあの巨人は流石に例外でしょうが」

「聞きましたか、彼らの中で一番の巨乳はこんなにデカいそうですが」

「チーキュやべえ」

「拝みたい……」

 

「次回は巨人もある程度こちらのことを知ってからの襲撃になるかもな」

「敵の狙いが変わるかもしれません」

「奴らの狙いがこの世界の侵略と推測されるなら、狙いは王族か王都かのどちらか」

「いい機会です。以前話されていた遷都と首都機能分割の件を進めてみては?」

 

「姫を中心として彼らを元の世界に帰すため研究しているチームがあると聞きましたが」

「遅々として進んでいないようですよ」

「ううむ、この国と彼らとの間の付き合いはまだ続きそうですな」

「だが極力いい関係を続けたいものだろう?」

「元の世界に帰ることを前提としている者達に恩を着せてもしょうがないでしょうに」

「後腐れのない関係と割り切るべきだと思うぞ」

 

 ひそひそと、貴族や騎士が周囲に聞かれないよう囁くように話している。

 

 要するにこれは、リスクと確実性の話だ。

 戦いにおいて前面に出される者達は戦いで損耗、あるいは死亡するリスクを背負う。なので異世界人のような後腐れのない勢力だけを使い潰すなら、それが喜ばしい。

 だが現状は王都が危険に晒されている。

 できれば確実性の高い方法でこの一件を解決に持って行きたいところだ。

 となると、よく分からない異世界人達に王都の命運を任せたくはないわけで。

 

 出来る限り損失は生まず、安全に確実に勝ちたい。

 人が戦いに望むものなど、大体そういうものである。

 

「やらせてあげたらどうだい? 私は彼らの意志を汲んであげたいと思うよ」

 

「パンプキン卿」

 

 そこで声を上げる男が居た。

 朔陽がパンプキン卿と呼ばれた男の方を見れば、まず真っ先に金の髪が目に入る。

 ヴァニラ姫の銀の長髪と対になるかのような、美しい金の短髪。

 次に目に入ったのは、腰に吊り下げられた長剣とそれを包む絢爛な鞘であった。

 服装から見ても、騎士であることはまず間違いない。

 

 身長は190cm前後、といったところか。

 身体的特徴としては長身の方が目立つが、服越しにも分かる分厚い筋肉も相当なものだ。

 それだけなら無骨な戦士の典型的特徴と言えるだろうが、この男はヴァニラ姫の男性バージョンとも言えるほどの美形であり、立ち振舞いも理想的な騎士のそれ。

 とにかく洗練された印象を受ける。

 首にはやや古そうな、目立つ金色の首飾りがかけられていた。

 

(この人は……さっきあくびしてた人か)

 

 朔陽は少し記憶を整理する。このイケメン金髪騎士は、先程デブホモ貴族の横に居た男だ。

 

「あなたは……」

 

「私はスプーキー・パンプキン。この国で一番強い騎士だ」

 

「はじめまして、僕は……」

 

「ああ、自己紹介は必要ないよサクヒ君。

 君達29人の名前と顔は全部頭に叩き込んでいるからね」

 

 名乗ろうとして、遮られて、朔陽は主導権を奪い取られたことを認識した。

 

 そもそも、朔陽は『29人全員が公的な場所で名乗っていないこと』を知っている。

 魔法か、地道な諜報か。

 いずれにせよ、よほど興味を持って調べなければ判明しない事柄だ。

 全員の名前と顔を知っているというパンプキン卿の発言は、真実にしろハッタリにしろ、不穏な響きを内包している。

 これは釘刺しだ。

 あまり余計なことを喋らないように、という意図を含んだ釘刺しである。

 

「私は彼らが自分から志願してくれるのであれば、一度はチャンスをあげてもいいと思う」

 

 既にこの場の主導権はスプーキー・パンプキンにあった。

 誰もが彼の言葉に耳を傾けている。

 そこに朔陽は違和感を覚えた。

 どんな大貴族が発言した時よりも、姫が発言した時よりも、会議室の中の皆の注目がスプーキーへと集まっている。

 

(……姫様以上に、周りがこの騎士の男を重んじている?)

 

 つまりこの男は、貴族の界隈、騎士の界隈において、王女よりも大きな影響力と発言力を持っているのかもしれない、ということになる。

 

「それにいい機会じゃないか。

 君達も異世界からのお客人の評価を決めあぐねていただろう?

 これを機に彼らが信頼に足る隣人かどうか、見極めてみればいいじゃないか」

 

(うわがっつり切り込んできた)

 

 スプーキーは発言力があるくせに、重要な事柄に踏み込むことに躊躇いがなかった。

 彼の発言に、貴族や騎士が揃ってざわめく。

 

「私は彼らのやりたいようにさせてやれば、これで彼らの真価が測れると思う。

 なら、それでいいじゃないか。

 異世界人を仲間と認め懐に招き入れるか? 招き入れないのか?

 余計な腹の探り合いなど、長引かせるものでもあるまい。信頼の可否はこれで決しよう」

 

 スプーキーが発言するたびに、問題がどんどんとシンプルになっていく。

 巨人を撃退できれば、朔陽達が抱えている問題の大部分が片付く。

 できなければ、どう転んでも一気に立場が悪くなる。

 一か百かの大勝負。

 朔陽からすればギャンブルの掛け金を勝手に引き上げられていく気分であった。

 

「ですが、余所者の彼らに」

 

「ならないさ。あそこまで大きいものだと斬れるかどうかも分からないが……」

 

 朔陽の目に、スプーキー・パンプキンが手をかけた腰の剣が、キラリと光ったのが見えた。

 

「この国に税金を納めた人間は、国が守る義務がある。

 私に守られる権利がある。

 何があろうと、民には絶対に傷一つ付けさせないと私が誓おう。

 勇者ロードが残した聖剣と魔剣の兄弟剣、その片割れを担う私が、必ずやその誓いを果たす」

 

 朔陽は"ああ、あのクソまみれの聖剣の兄弟剣なんだその剣"と思ったところで、カッコイイ騎士様の愛剣の兄弟剣をクソまみれにしてしまったことに、激しい罪悪感を覚えた。

 幼馴染が聖剣を便器のクソに突っ込んだ光景が脳裏に蘇る。

 死にたいと思えるほどの罪悪感だった。

 

「私はこの魔剣に誓おう。彼らに与えた一度のチャンスの間は、彼らを全力で信じると」

 

「むぅ……」

 

「余所者には任せられないと考えるのもいい。

 だが全てが終わった時に、考えを改める準備はしておきたまえ。

 少なくとも私は戦友を差別しようとは思わない。

 我が愛するこの王都を守るために頑張ってくれるのであれば、その時点で私の仲間だ」

 

 スプーキー・パンプキンがいい人であればあるほど、その魔剣が美しければ美しいほど、朔陽の中の罪悪感は膨らんでいく。

 一方その頃、井之頭一球は自分が便器に突っ込んだ聖剣の存在を完全に忘れていた。

 会議室内の空気は既に"地球からの来訪者に任せよう"という空気に染め上げられている。

 

「さて、もう結論は出た……と、言いたいところだが。

 私としては地球からのお客人のやる気を、その決意を見せてもらいたいところだね」

 

「パンプキン卿、僕達は……」

 

「ああ、君はいいんだサクヒ君。

 君は多分聞いていて心地の良い理屈を並べるんだろう。

 だけどね、私が決意を聞かせて欲しいのは君じゃないんだ。

 実際に巨人と相対するであろう、会議室の隅に居る君の方だよ、イッキュウ君」

 

 パンプキン卿の視線と、睨み返した一球の視線がぶつかる。

 

「俺は親父が大好きなガキだった。

 あの巨人とその仲間は俺の親父を殺した。

 俺は一生許さねえ。俺の動機を説明すんのに、これ以上の理屈が要るか?」

 

「いや、結構。好きにするといい」

 

 半端な動機より、復讐だとしっかり言ってくれる方が、スプーキー的には高評価であった様子。

 

「頑張りたまえ」

 

 スプーキーは一球の肩をぽんと叩いて、手を振って、会議室を出て行った。

 一球は肩に触れたイケメン騎士の手の感触と、去り際に振られた彼の手の平を見たことから、信じられないものを見たかのような顔をする。

 

「朔陽、あの騎士」

 

「どうかした? 一球くん」

 

「俺みたいな手の平だった。

 剣とかバットを死ぬほど振り込んだ手だ。

 時間があれば得物を握り込んできた手だ。

 あの手が、この国の人達を守るために鍛えてきた男の手だっていうなら……」

 

 一球が任せられたのは、人が巨人からこの王都を守る数少ない機会。

 すなわち、あの騎士が愛するこの王都そのものだ。

 

「……俺が今、あの騎士さんに一時だけでも任せられたものは……」

 

 王都というものの重みが、復讐心以上のものを一球の内側から引き出していく。

 それを感じ取った朔陽が、一球の胸を拳にて軽く叩いた。

 

「練習しよう、一球くん」

 

「朔陽」

 

「君がこれまで過ごしてきた日々と同じだよ。

 本番がある。なら本番まで練習する。

 そして練習の成果を見せる。いつだって君は、球児としてそうやって来たじゃないか」

 

 仮にも、信じて託されたのだ。

 ならば半端なものは見せられない。

 地球の高校球児が、異世界の魔剣騎士に情けないところを見せていいのか?

 否。

 否である。

 

「サンキュ」

 

 一球の心身に気合いが入った。友に気合いを入れられたのだ。

 

「……しゃああああああああっ! 練習だあああああああああああっ!!」

 

 叫びながら窓から飛び出す高校球児。

 なお、ここは四階に相当する高さである。

 唖然とする会議室の中の皆。

 

「信じて待っていてください。僕らは必ず応えます!」

 

 朔陽は皆に信じて待つことを頼み、一球の後を追い――こっちは普通に扉から出た――、和子も密かに朔陽の後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 朔陽は自分にできる全力を尽くし、井之頭一球修行のための場を作り上げていた。

 全ての成功は努力より始まる。

 勝ちたいのなら練習あるのみ。

 修行、そう修行だ。

 鍛錬こそが栄光を生む。

 

「サクヒ」

 

「なに、和子ちゃん?」

 

「サクヒが会議室で話してなかった、私達のメリットってあるの?」

 

「そりゃあるよ」

 

 和子は考えた。

 あの会議室の人達は全員が味方、というわけではない。

 ならあそこでは秘密にしていた、自分達のメリットがあったのでは、と。

 サクヒはそれを隠していたのでは、と。

 でも仮にそういうのがあったとしても自分には分からないな、と。

 若鷺和子は佐藤朔陽のことを分かっているが、分かっているだけで彼女は頭が良いわけでもないので、朔陽と同じことを考えられているわけではないのだ。

 

「考えてもみてよ、黄泉瓜巨人軍は地球からこっちに来たわけでしょ」

 

「うん」

 

「つまりそれは、ヴァニラ姫の術式を参考にしたものだとしても、世界を渡る独自技術だ」

 

「あ……元の世界に帰る手がかりに、なるかもしれない?」

 

「そういうこと」

 

 これは地球に帰る手段を、自分達が最初に確保するチャンスでもあるのだ。

 貴族か何かにそれを確保されて「これが欲しければ俺達の言うことを聞けよぐっへっへ」とされてしまう前に、自分達で確保できればそれが一番理想的。

 黄泉瓜巨人軍の独自技術を確保して、後に姫にその技術を開示、元の世界に帰る方法を一緒に考えるという方法だって取ることができる。

 

「分かった。私も頑張る」

 

「うん、よろしく和子ちゃん」

 

「私は近くに居るから、用があったら呼んでね……」

 

 和子がドロン、と撒き散らした煙に紛れて姿を消す。

 彼女と入れ替わりに、ユニフォームを着て準備万端な一球がやって来た。

 修学旅行に高校球児が野球用具一式を持参するのは常識。

 彼はただ着替えてきただけだが、明らかに気迫の質が違っていた。

 

「朔陽、俺の修行の準備をするっつってたが何したんだ?」

 

「今呼べる人の中から、助けになってくれそうな三銃士を呼んできたよ」

 

「おお……」

 

「野生生物解体部、島崎詩織さん。

 手料理部、恋川このみさん。

 万能中国人、董仲穎くん。

 食材調達担当二人に調理担当一人と隙の無い布陣だよ」

 

「メシ作るメンバーしか居ねえ!」

 

 やりたいことをやっているクラスメイトと、やらなければならないことをやっているクラスメイトが多すぎた。

 この三人を呼んだというより、この三人しか呼べなかったというのが正しい。

 

「とりあえず食事管理と体調管理しつつ、最高効率で修行していこうと思うんだ」

 

「なるほど、プロ野球選手方式で行くわけか」

 

 プロは体調管理も仕事の内である、と言われる。

 学生の内はおろそかになりがちなそれをパーフェクトにこなし、同時に厳しい修行も行うというのが朔陽のプランであった。

 これは夏の甲子園を見据えた事前訓練でもある。

 毎年500人が熱中症で死ぬと言われる日本の夏は、高校球児達にとっても体調管理で乗り切らねばならない正念場なのだ。

 それも見据えて、一球に体調管理概念を叩き込み、頑丈に鍛えねばならない。

 

「皆! 一球くんの最高の状態で打席に送り出すよ!」

 

「おー」

「おー」

「アルー」

 

「き、気迫が足りてねえ……」

 

 詩織、このみ、董仲穎が気負いなく動き始める。

 気合が入ってるのは朔陽くらいのものであった。

 だが、そこから始まった練習と修行の時間は、彼らのやる気の無さとは裏腹に熾烈を極めるものとなった。

 

 崖の下に一球を待機させ、一つのボールを混ぜた大岩なだれを起こし、大岩をかわしながら一つだけのボールだけを打ち返す特訓。

 1tの鉄塊を山の上まで走って運ばせ、その後山の下まで運ばせるタイムトライアル。

 スイングの切れ味を増すため、岩をバットで砕くのではなく斬る修練。

 その全てが、井之頭一球が今日まで積み重ねてきた努力の数々を、野球技能という一つの形で昇華するためのものであった。

 

「疲労回復に効く薬草と、代謝が良くなる薬草アル。

 調理して適当なタイミングで飲ませるよろし」

 

「どっから見つけてきたのこれ」

 

「中国四千年の歴史が生んだ植物知識の賜物アル」

 

 サポーターも実によく動いてくれていた。

 ドラゴンの卵が確保され、卵焼きになって朝飯に出て来る。

 人間の死体にのみ生える栄養満点キノコが昼にソテーとして出て来る。

 晩飯にはティラノサウルスが出て来た。

 食材の栄養がどうなっているかも分からない異世界で、完璧に食事の栄養バランスを計算し尽くすという凄まじい偉業をやらかす、食材担当島崎詩織&調理担当恋川このみコンビ。

 朔陽の人選は実に的確だった。

 一球は後顧の憂い無く修行と食事を繰り返していく。

 

「おっと、その食事はこの食器に乗せて食わせてやるといいアル」

 

「これは……見慣れた日本の食器! 食べる人の精神を安定させる代物! どう作ったのこれ」

 

「中国五千年の歴史が生んだ陶磁器技術の賜物アル」

 

 厳しい修行は一球の基礎身体能力と基礎技術を向上させる。

 あの巨人を倒すためには、力の土台から鍛え直さねばならない。

 食事で取り込んだ栄養は、一球の中で確実に確かな血肉と技術へと変わっていった。

 

「魔物の革で鉄球を包んだ特性野球ボールアル。

 これで練習することで筋力の底上げができるアルよ」

 

「どこで作ってきたのこれ」

 

「中国六千年の歴史が生んだ動物の革の加工技術の賜物アル」

 

 一週間。

 まずは一週間、そうして技と力を磨いた。

 バットの鋭いスイングで魚を三枚におろせる領域に到達した一球は、朔陽に合格点を貰い、次のステージの修行を始める。

 

「準備できたよ」

 

 簡易グラウンドにて、一球と対峙するは和子。

 彼女が次の修行の相手であった。

 

「影分身の術」

 

 和子は一瞬にして九人に分身し、グラウンドに散らばる。

 忍者であれば一人で野球チームを構築することも可能だ。

 で、あるがゆえに。

 彼女はバッターボックスに立つ一球を打者として鍛えるワンマンチーム(事実)として、一球の修行を完成させるべくここに立っている。

 

「私でも実体のある影分身を九分身で維持するのは辛い……でも、頑張る」

 

 野球なんてやったことのない和子が、へんてこで情けないフォームから165km/hの味気ないストレートを投げるが、一球はさらりと打ち返す。

 しかしピッチャーの頭上を抜けるかと思われたその打球を、キャッチャーをやっていた分身和子が跳んでキャッチした。

 

「そんな半端な打球では、私の守備は突破できない」

 

「言うじゃねえか……!」

 

「サクヒ、サクヒ、私の今の守備見た? すごい?」

「うん、凄いよ和子ちゃん」

「えへへ」

 

「バッターボックスの俺に集中しろや!」

 

 朔陽がちょっと褒めるだけで、和子はふにゃっと笑顔で嬉しそうだ。

 一球は和子のフラフラした性格に思わず怒鳴るが、同時に最高の練習相手であることも察する。

 忍者の高速守備、火遁風遁土遁を織り交ぜる投球、それらに翻弄されながらも、一球はバット一本でそれに立ち向かい続ける。

 ようやく一度忍者守備を打球が抜けた頃には、また数日の時間が経ってしまっていた。

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 疲れ果てた一球が、バタンと倒れる。

 そして同時に、守備をしていた八人の和子も消え、和子本体もこてっと倒れた。

 

「きゅぅ……」

 

「和子ちゃーん!」

 

 分身を維持しながら彼の特訓に数日も付き合ってしまったことで、引きこもり生活の影響で目減りしていた和子の体力が、とうとう尽きてしまったのだ。

 一球のスペックは格段に上昇したが、この分では和子もすぐには復帰できまい。

 なんやかんや言って、和子も根が頑張り屋なのだ。

 ここまで頑張ってくれた幼馴染を慈しむ気持ちを込めて、朔陽は彼女の頭を撫でる。

 そして女の子である和子の汗などを拭いてあげるよう、狩猟&料理コンビの女子達に任せて、自分は倒れたままの一球に駆け寄った。

 

「一球くん、何か掴めた?」

 

「ああ」

 

 一つの壁を越えた、と言わんばかりの顔だ。

 彼は高校球児として新しいステージに到達した様子。

 今の彼のレベルであれば、トイレでケツをハンカチで拭く新ハンカチ王子と呼ばれることも容易だろう。

 少なくとも、ドラフト指名クラスの実力はある。

 

 朔陽は彼に問いを投げかけようとして、一瞬迷って、躊躇いつつもその問いを投げかけた。

 

「……お父さんの仇は取れそう?」

 

 それは重大な確認作業だった。

 巨人との再戦において、一球が冷静さを保てるか、保てないかの確認だった。

 一球に嫌なことを思い出させると理解しつつも、朔陽はクラスメイトの失敗の責任を全て取る責任者として、問わねばならなかった。

 彼は委員長なのだから。

 

「目についた奴に無差別に魔球を投げてくる『通り魔球』……

 親父はあれで死んだ。何も悪いことなんてしてなかったってのによ……」

 

「……あの時期は、あれで殺された人、本当に多かったからね」

 

「許せねえよな。野球で許されてんのは捕殺、刺殺、併殺くらいのもんだ。

 殴殺、撲殺、それも無差別殺人でやるあいつらは、今や巨人軍の面汚しだ」

 

 一球は仰向けに倒れたまま目を瞑り、目の前で父が巨人軍に抹殺された時のことを思い出す。

 無差別な殺人だった。

 何の意味もない殺害だった。

 犯人である巨人が反神タイガースと真・巨人軍に打ち倒されてもなお、一球の心の中には拭い去れない苦しみが残り続けている。

 

「今でも時々、脳漿ぶちまけた親父の姿を思い出す。

 人間の頭蓋骨の中に何が詰まってんのか、俺はあれで知ったんだ。

 後、ぶっ壊れた人間はいくら泣いて呼びかけても応えてくれないってこともな」

 

 飛び散る脳の中身。

 砕けて落ちる頭蓋骨の欠片。

 それらが、べちゃり、かたり、と路面や壁に当たる音が耳に入らないくらいに大きな、巨人が投げた鉄球が物体を破壊する破壊音。

 五感で感じたそれら全てが、一球の中に憎悪と憤怒・恐怖と焦燥を呼び起こしてしまう。

 

「自分もああなるのが怖えんだ。

 怒りがあって、恐怖がある。

 情けねえ話だが、前回はそのせいで俺のスイングができなかった」

 

「一球くん……」

 

「お前は体張って俺を庇うくらい、ビビリもせずにいつも通りだったってのにな」

 

 怒り憎むがゆえに巨人から逃げられず、焦り恐れるがために巨人の鉄球を打ち返せない。

 そんなジレンマに陥った一球を、朔陽はあの時、体を張ってでも守ろうとした。

 自分らしく在ること。

 それをいつでも貫くということは、とても難しい。

 

「いや、何腑抜けたこと言ってんのさ。君らしくもない」

 

「うおっ、ド直球で来たな!」

 

 が、朔陽は甘やかさない。

 彼は甘やかすべき時に甘やかすだけで、厳しい時には厳しいのだ。

 

「あの黄泉瓜巨人軍が全盛期だった頃にそれをほぼ全滅させたのは誰?

 今の球界でプロ野球選手として活躍してる、ベースボーラー達でしょうが」

 

「……そういやそうだな」

 

「今の高三にも当時巨人軍と戦った球児は大勢居る。大阪桐蔭狂(トゥインクル)高校とかね」

 

 巨人軍は井之頭一球の人生のラスボスなのだろうか。

 いや、違う。

 巨人軍は彼にとって倒すべき因縁の相手であっても、それ以上の存在ではない。

 

「つまり、甲子園には、プロの世界には、あの巨人より凄いピッチャーが待ってるんだよ?」

 

「―――!」

 

「一球くん、ここは君のゴールじゃない。

 ここは最後の場所でもない。

 ここはただの通過地点なんだ。

 君はあのピッチャーを越えて、その先にあるもっと凄い世界に行くつもりなんだろう?」

 

 60mの巨人程度を倒せずして、1万3千平方mの面積があると言われる甲子園が制覇できるのか?

 否。

 否である。

 その程度の壁を越えられない者に、甲子園の土は微笑まない。

 

「あんな奴も倒せないなら、きっと甲子園にも行けやしないさ」

 

「おう、言うじゃねえか」

 

 一球は立ち上がり、ヘトヘトなはずの体でまた素振りを始める。

 

「じゃあ俺が甲子園行ったら、ちゃんと応援にも来いよな、朔陽!」

 

 彼が巨人の殺人球を打つことを、幼馴染の朔陽は、欠片も疑ってはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、巨人の再襲来が始まる。

 先日の巨人よりも更に大きく、巨人軍の人間の指示を受けて動く、肉で出来た巨大無人ロボとでも言うべきその巨躯。殺人を忌避せぬその姿が、何よりも恐ろしい。

 王都で人が逃げ惑う。

 アリに群がられて地面を転がるセミがニャーと鳴く。

 おのれと叫ぶ貴族が走る。

 王都に満ちる空気は、まさしく静寂の対極であった。

 

 やがて、巨人は王都と自分の間に立つ、一人の球児の存在を認識する。

 ゆえに足を止め、腰に吊った鉄球の内の一つを手に取った。

 ここからバッターの妨害を投球にて突破し、この国の急所たる王城と王族を、まとめて鉄球投擲にて潰すつもりなのだ。

 巨人のデッドボールは、最高に上手く行けば国さえ崩壊させるだろう。

 

 北欧神話において、巨人は神と格で並ぶ凄まじき存在である。

 その中でも、終末(ラグナロク)において神と巨人を世界観ごと焼き尽くした炎の巨人スルトと、炎の剣にして杖たるレヴァンテインは多くの者が知っていることだろう。

 炎上を呼ぶレヴァンテイン。ならば、現代の野球界における『全てを終わらせる一振りの剣にして杖』とはバットに他ならない。

 情けないピッチャーをバッターがめった打ちにし、炎上させ、試合を終わらせるための武器。それが野球におけるバットという剣なのだから。

 

 バットを手にして巨人へと立ち向かう一球の姿は、まさしく神話の再現であった。

 

「俺、日本に帰ったらエースピッチャー辞めるわ。

 外野に回って、補欠投手に控えて、バッティング一本に全力懸けることに決めた」

 

「そっか」

 

 一球が決意を口にして、朔陽がその決意をちゃんと聞いてあげている。

 

「大切なのは選択もそうだが、選択した後何をしていくか、もだよな。

 俺は選択して終わりじゃねえ。

 励まされて、助けられて……選択した後も、努力を続けていかなくちゃなんねえんだ」

 

「うん、それでいい。

 いや、それがいいんだと思うよ。

 少なくとも僕は、そういう君がかっこいいと思ってる」

 

 自分にピッチャーとしての才能が無いと判断した一球は、自分がこれから先練習に使える時間を全て、他の野球技能のために使うことを決めた。

 それが正解かどうかは分からない。

 未来にならなければ分からない。

 だがそれでいい。

 それでいいのだ。

 何が正解かも分からないことなど、人生には無数にある。

 大切なのは、ちゃんと何かを選び、選んだ道を全力で駆け抜けることなのだから。

 

「お前さ、昔からすげーすげー言い過ぎなんだよ。

 俺が速い球投げたらすげー。

 カーブ投げたらすげー。

 野球部でエースになったらすげー。

 ホームラン打ったらすげー。

 キャプテンになったらすげー。

 俺が覚えてる限り、この十年くらいずっとそうだったじゃねえか」

 

「そうだっけ?」

 

 想い出を思い返しながら語る一球は、どこか上機嫌で、嬉しそうで、誇らしそうで。

 過去が心身に力をくれる。

 思い出すだけで力を湧かせてくれる。

 親友にして幼馴染である男が今も見守ってくれているだけで、一球は『負けられねえな』という気分になるのだ。

 

「俺が巨人神装兵ぶっ倒した時くらいは、多少芸のある褒め言葉を言えよな」

 

「分かった、考えとく。でもしょせん僕なんだから期待しないでよ」

 

 一球がバットを構え、朔陽が一球から離れる。

 そして朔陽が王都の敷地内に入った瞬間、彼の隣でヴァニラ姫が結界を張った。

 近くに居るだけで肌がピリッとする姫の膨大な魔力が、王都を丸ごと包み込む巨大な結界を作り上げる。

 

「ヴァニラ姫、準備できましたか?」

 

「今、私の魔力で王都に結界を張りました。

 巨人が鉄球を投げようとした瞬間、強度を高めてそれを防ぎます。

 先日来た巨人を基準に考えれば、結界強度はそれで十分……だと思います。

 ただ、瞬間的に強度を高めるのは三回もしてしまえば、私の魔力が尽きてしまうので……」

 

「球を三回そのまま後ろに通してしまえばアウト、ってことですね」

 

「その時点でパンプキン卿が動きます。その後はどうなるか、私にも分かりません」

 

 あの最強の騎士を名乗った男は、後詰めに入ってくれているらしい。

 姫も全力を尽くしてくれている。

 ますます負けられない空気になってきた。

 

「……」

 

 だが姫は、少し気負い過ぎているようだ。

 王都と民を大切に思い過ぎているためか、握った拳の色が変わってしまっているくらいに、強く拳を握り締めている。

 張り詰めた糸は切れやすい。

 今のヴァニラ姫は、まさしく張り詰めた糸を思わせる。

 

 彼女を安心させようとして、彼女の手に自分の手を重ねようとした朔陽だが、まだ彼女とは友人にもなっていないことを思い出し、手控え、ひとまず心の距離を測る。

 そして、自分の拳の背を彼女の拳の背に当てた。

 姫が顔を上げる。

 彼の顔を見る。

 朔陽はヴァニラに、優しく微笑んでいた。

 ヴァニラ姫に少しだけ周りを見る余裕が生まれ、拳を握る力が少しだけ緩まった。

 

「大丈夫」

 

 姫は一球を信じていなくて、朔陽は一球を信じている。

 二人の気の持ちようの違いの原因など、それだけだ。

 ただ、一片の疑いもなく友を信じている朔陽の姿が、姫を少しばかり安心させる。

 

「来る」

 

 巨人が、手に持った鉄球を振りかぶった。

 

「プレイボール」

 

 一球が呟いたその一言が、一打席勝負開始の合図。

 

 瞬間、巨人が振りかぶった鉄球を投げ込んだ。

 構えの静、投げの動への移行に淀みはなく、投擲完了までにかかった時間は一瞬。

 常人であれば構えていた巨人が動いたと思ったら投げていた、としか見えないほどの速度。

 瞬投のデッドボール。

 投げられた巨大鉄球は、一直線に一球の頭部に向かう。

 

 それだけではない。

 投げられた球は"途中で消える"。

 野球の王道変化球の一つ、『消える魔球』であった。

 

 その速度と魔球変化に、一球は的確に反応してみせる。

 和子を真似した縮地法にて最適な位置取りを行い、消えたはずの魔球に迷いなくフルスイングを実行する。

 芯は外れたものの強打された透明な打球が、バットにカットされファウルチップと化し、姫が瞬間的に強度を上げた王都結界の端をかすめて行った。

 結界瞬間強化可能回数、残り二回。

 

「球が消えた……なのに、イッキュウ様が打って弾いた!?」

 

「ただの消える魔球とは前時代的ですね……

 速度も変わらない、曲がりもしないただ消えるだけの魔球。

 それなら目に見えなくなったところで、ボールがどこにあるかなんて分かりきってます」

 

「な、なるほど」

 

「今年はロッテが

 『打った感触まで消える、打つ前も打った後も消えたままの魔球』

 でフライや内野ゴロを打ったことも気付かせないシフトを使っていたというのに……」

 

「よく分かりませんが、巨人のスタイルは古いということなのでしょうか?」

 

「はい。ヴァニラ姫には実感しにくいと思いますが、これはアドバンテージですよ」

 

 合気道の開祖・植芝盛平は、数十mの距離を一瞬にして移動したほどの縮地法の使い手だったと言われている。

 その領域に達しているのはこのクラスでも若鷺和子くらいのものだろうが、それを真似た一球でもこの勝負に使うには十分なレベルの縮地が身に付いていた。

 もはやデッドボールで井之頭一球が潰されることはない。

 後は王都が投球で潰されるか、潰されないかの話。

 その投球を一球が打ち返せるか、打ち返せないかの話となった。

 

「オラ来いよ、第二球だ」

 

 巨人神装兵は初球をカットされた後の第二球を振りかぶる。

 そして、投げた。

 周囲の大気を巻き込むうねり。

 空気を引き裂き迫る爆音。

 接近に伴い視界の中で大きくなっていく鉄球。

 それら全てが、一球に恐怖を呼び起こすにはあまりにも足りていなさすぎる。

 

 ―――投げられた鉄球が、途中で変化しなければ、の話だが。

 

「!」

 

 巨人が投げた第二球は、無数に分裂。

 その時点で一球は球筋を見つつ、この変化球を見送ることを決定した。

 一球の横を素通りした無数の鉄球が、王都に降り注ぐ。

 王都の結界にガンガンガンと衝突する。

 王都周辺の大地にも降り注ぎ、地面を衝撃でひっくり返していく。

 直径50kmの範囲が、巨人の切り札とも言える渾身の変化球に蹂躙されていく。

 

 山を一撃で平地にするような戦略級変化球を、姫が瞬間的に強化した結界は見事受け止めるが、僅かな振動が結界の内部に伝わってしまう。

 民が動揺し、完璧に防ぎ切るつもりだった姫が焦る。

 

「た、球が増えました! どうしましょうサクヒ様!」

 

「落ち着いてくださいヴァニラ姫!

 質量を伴う分裂魔球、ただの手の込んだナックルボールです!

 一球くんは迂闊に手を出さずに一球分様子を見ただけです!

 ですが今魔球の球筋をしっかりと見たので、二回ストライクを取られることはありません!」

 

「な、なるほど」

 

「結界の強度強化ができるのはあと一回です! 集中して行きましょう!」

 

 結界の瞬間強化ができるのはあと一回。残り一回だけだ。

 自然と、姫と朔陽の間に緊張が走る。

 ならば次で決めるのだろうか、と姫が思っていると、バッターボックスの一球が朔陽にハンドサインを送ってくる。

 野球の王道、サインによる意思疎通だ。

 朔陽はハッとして、三度目の――最後の――結界強化をしようとした姫を止めた。

 

「ヴァニラ姫、次の一球は結界の強度を強化しなくてもいいです」

 

「え? でも……」

 

「大丈夫です、あいつを信じてください」

 

 一球は構えて打ち気を見せるだけで内心動く気は全く無く、姫も結界は強化せず、朔陽はひたすらに友を信じ―――三投目の鉄球は、王都結界の頭上をかすめるギリギリのラインを、飛び抜けて行った。

 

「何故、あんな見当違いの方向に……?」

 

「奴は既に最初のファウルと二球目の分身魔球で2ストライク取ってます。

 ならここは一球外してくる、と踏んだんだと思います。

 一球外せば姫が無駄に消耗してくれます。

 逆にピッチャーである巨人の側からすればツーナッシングで一球外しても損は無いですし」

 

 これでツーストライクワンボール。

 勝負を仕掛けるか、もう一球外すか、判断が分かれるところだ。

 

「野球は地球を語源とする、星に最も近い球技。

 アッラーを語源とするサッカーと対になるメジャースポーツです。

 だからこそ、野球はサッカーにも並ぶ二大人気スポーツであるのです」

 

「二大人気スポーツ……」

 

「奴らが神を名乗るのは、星と神のどちらも自らの内へと内包せんとしているため。

 ですが同時に、巨人の力で神にも等しい組織となったという、傲慢でもあるのです」

 

 人は神を討てるのか。

 小人は巨人を討てるのか。

 信じただけで成せることではない。

 だが、信じなければ絶対に成すことはできないだろう。

 

「一球くんなら必ず、その傲慢を、人として砕いてくれるはず……!」

 

 信頼が、友の力となる。

 

(次は、どう来る? ここまでに使ってきた変化球か、それともシンプルに直球か)

 

 友の信頼を背中に受け、一球は次の投球を読む。

 直球か、変化球か、それとももう一回外してくるか。

 朔陽に結界を強化するかどうかの指示でまず二者択一、その後打とうとする場合は更に敵の球質を読み切る必要がある。

 どんな球が来るかさえ分かれば、打ち返せるというのに。

 

(思い出せ。巨人軍が好む配球の組み立てはどんな感じだった……?)

 

 一球は記憶を探る。

 記憶の海に、この敵の手がかりがあると信じて。

 想起が記憶の海より次々と情報を引き出し始めた。

 朔陽とキャッチボールした記憶、朔陽と喧嘩して川に蹴り落とした記憶、父が死んで朔陽に慰められた記憶、親に朔陽と学力で比べられて家出した記憶、朔陽の家に泊めて貰った記憶、朔陽に金を借りて夏にアイスを買った記憶。

 

(あ、あの時借りてた60円まだ返してねーや)

 

 そうして彼は、巨人軍の配球組み立てのデータを、記憶の海より引っ張り出した。

 

(そうだ。速球と変化球を織り交ぜ……

 『速球で外して』、速球のボール球に目を慣れさせ、変化球で決める。それが奴らのやり方)

 

 先程巨人は速球の直球で一回外した。

 ならば次にもう一度変化球を投げ、最後のストライクを取りに来る。

 そう読んだ。その読みに賭けた。バットを握る手に、力が入る。

 

 ―――そして、読み通りの一球が、分身魔球なる変化球がやって来る。

 

 "進歩がない過去の遺物の投球"に、思わず一球の肩の力が抜ける。

 何年経っても変わらない敵の野球スタイルが、何年も過去に引きずられている自分と重なってしまい、一球は自分のあれこれを顧みてしまったのだ。

 過去の自分のままでいることが、少し恥ずかしく感じられてしまう。

 そして、過去を振り切り前に進む覚悟を決めた。

 

「他の誰のためでもねえ、俺のためだ」

 

 その一振りは、劣勢の試合を覆す奇跡の四番に相応しき一撃。

 

「親父に胸を張れる俺でいるために。

 親友に誇ってもらえる俺であるために。

 もうこれ以上、誰にも、巨人軍の犠牲になって欲しくない、俺のこの願いのために」

 

 今は亡き父を想う。

 自分の後ろに居る朔陽という友を想う。

 眼前の敵を見据える。

 

「甲子園で、プロで、親友に最高にかっこいい俺の姿を見せるっていう、俺のこの夢のために」

 

 分裂した鉄球が迫り来る前に、一球はバットを振るった。

 空振り? いや、違う。

 これは、打つための布石の一つだ。

 スイングを一度行い、その衝撃で球を捉え、二度目のスイングで球を打つという、クノイチとの修業によって一球が編み出した新打法である。

 

 物理を超越したスイング衝撃が擬似的に通常物質をボース粒子へと変化させ、全ての鉄球をボース=アインシュタイン凝縮によって一つの鉄球へと凝縮させ、一塊にする。

 球を分裂させる魔球も、球を一纏めにする魔技の前では児戯同然。

 井之頭の打撃術は、隙を生じぬ二段構え。

 ゆえに無敵。

 ゆえに球児。

 ゆえにその一打は鉄球を捉え、打ち返し、巨人の心臓を撃ち抜いた。

 

「―――過去にサヨナラホームランだぜ」

 

 クソダサダジャレお兄さんと化した井之頭一球。

 

 人体実験により生まれし巨人なる悲しき命の最後の一つ、それが今ここについえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世界にやって来た黄泉瓜巨人軍の侵略者は、二種に分けられる。

 人間を素体にして作られた自由意志の無い兵器、巨人神装兵。

 そしてそれを操っていた人間達だ。

 二体の巨人は倒されたが、巨人に指示を出していた人間達は姿を消していた。

 

 そして今、手駒の巨人を失った彼らは、魔王軍を率いる魔将の二人に蹂躙されていた。

 

「な、何故……お前達は、一体、何者……」

 

 踏み潰されるトマトのように、最後の一人の頭が踏み潰される。

 地面にずらりと並べられた巨人軍の者達の懐を、殺害者である二人が探る。

 そして殺害者の二人は、彼らの懐からケースに入った書類の束を発見した。

 二人が、にまりと笑う。

 多くの人間を殺してなお平然と笑うその二人は、同じ顔をしていた。

 『双子』であった。

 

「「 ゲット、ゲット、異世界渡航技術ゲット。これで異世界行けるかな? 」」

 

 同じ顔が、同じ表情の動きをして、同じ感情を顔に浮かべ、同じ言葉を紡ぎ出す。

 

「「 異世界、異世界。異世界の兵器や技術も持てるかな? 」」

 

 双子は踊る。

 

「「 国くらい一つで消せる爆弾、そういう素敵で素敵なの、どこかにあるかな? 」」

 

 敵の手に渡ってはいけないものが、敵の手に渡ってしまっていた。

 

 

 




この作品はフィクションです。実在の人物や高校や団体には関係ありません(戒め)


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出席番号24番、狼少女・子々津音々寧々の場合

 王都の命運を懸けた一打席勝負の後、ダッツハーゲン王国では空前絶後の野球ブームが始まっていた。

 「やっぱ今の時代は野球やな!」を合言葉に草野球が大流行。

 ボールが飛んで、バットが振られ、地は裂け、空は混ざる。

 自分の練習も兼ねて野球教室を始めた一球だが、おかげでこれもブームに乗った大当たりとなっていた。

 

 大人の騎士や騎士志望の子供達、ある程度生活に余裕のある農家の次男坊以下など、男性を中心に広まる野球ブームは留まることを知らなかった。

 一球が基本を仕込んだ者達をいくつかのチームに分け、聖騎士リーグのセ・リーグとパラディンリーグのパ・リーグの二つのトーナメントを開催しても、まだ人に余裕があるほどだ。

 おかげで侵略者のせいで低下した地球のイメージの回復、資金リソースの確保、コネの獲得などの様々なプラスを生むことに成功していたのである。

 

 それはそれとして。

 朔陽はこの国最強の騎士と言われる男、スプーキー・パンプキン卿に呼び出されていた。

 

「急に呼び出してすまないね」

 

「いえ、大丈夫です。

 この前の巨人の件で助けていただいたことのお礼もしたかったので、ちょうど良かったです。

 では改めて。この前の会議で僕らの意を通していただいて、ありがとうございました。

 これはこちらの世界で再現した引越しそばです。お礼も兼ねて、お収めください」

 

「ヒッコシ=ソバ……興味深い。今ここで食べても?」

 

「え? ど、どうぞ」

 

 引越しそばをもらったそばから食べる(激ウマギャグ)騎士の姿に、朔陽は思わず呆気に取られるが、うめえうめえと食っていくパンプキン卿は気にもしない。

 そばは初めて食べるはずなのに、食べる姿が妙にサマになっているのは、この騎士の育ちがいいからなのだろうか。

 言葉の発音も、一回か二回聴けばきっちり寄せて来る。

 

「この醤油とやらも引越しそばとセットで貰っていいのかい?」

 

「はい、どうぞ。

 厳密には地球の醤油やそばとは違うんですけどね。

 うちのクラスの料理が得意な子が、この世界の食材で再現したものなので」

 

「異世界を行き来する技術が確立されれば、日本とこの国で国交もするだろう。

 そうなった時、君達の世界からどんなものを得られるのか、とても楽しみだ」

 

「もうそこまで見据えているんですか?」

 

「そう考えてるのは私だけじゃないだろう。

 この国だけで地球との国交を独占しようと考えている貴族も居るんじゃないか?

 地球産の物品や技術をこの国が得た後、他の国に売れば凄まじい高値で売れるはずだ」

 

「うわぁ」

 

「勿論、この国だけでずっと独占するのも手ではあるがね。

 スパイや地球と他国との直接交渉で諸々流出するのは時間の問題だろう。

 ならこの国の貴族の基本方針は、そうだな……

 手早く大きな利益を得てから、地球への窓口としての立ち位置を確立することか」

 

 この騎士は何故か、朔陽達の味方になってくれている。

 その思考は単純な兵士としての騎士というより、貴族が義務を果たすためにノブレス・オブリージュを志すタイプの人間のそれに近い。

 確かな教養と、未来を見据える知性が見て取れる。

 

「私は未知との遭遇がいいことだけを引き起こさないと思っている。

 そしてそれをよりよきものにするために、君と話してみたいと思っていたんだ」

 

「恐縮です」

 

「また時間を見つけて君と話したいと思っているが、その時は君も時間を作って欲しい」

 

 朔陽が目的としているのはシンプルで、仲間達の地球への帰還だけだ。

 が、帰還の後にも問題はある。

 二つの世界の相互認識と交流は、二つの世界に莫大な利益をもたらすだろう。

 だが世界間で貿易摩擦が起きれば?

 この異世界の国家間にあったバランスがその貿易で崩れてしまえば?

 そうなればどうなる?

 

 この異世界の人類圏が地球のせいで戦乱に巻き込まれるだけならまだマシだ。

 最悪、地球とこの世界の世界間戦争に発展しかねない。

 魔王という脅威が目の前に居るのに人間は勝手に自滅していきました、が普通にありえるのである。

 逆に地球からの援軍で魔王も倒せました、もありえる。

 今のところ、これはどう転がるか分からない案件であると言えるだろう。

 

 朔陽からすれば、こっちの世界側で問題を防ごうとしてくれる人が居るならば、その人に協力するのはやぶさかではないのだ。

 

「君からすれば、利権を見て動いている貴族達は不快きわまりないだろう。

 ただ、ヴァニラ姫様だけは純粋な善意で動いている。

 そこだけは誤解しないで欲しい。

 君達を無事に帰してあげたいというあの人の気持ちだけは、疑わないでくれ」

 

「疑うわけがありませんよ。あの人のあの善意は、少し危なっかしいですし」

 

「危なっかしい、と来たか。

 いや結構。その感想が出てくるようなら、私も君を信じられる」

 

「え?」

 

「君の他にも地球の子達に少し話を聞いてみたのだが……

 頭の良さそうな子は手堅く、姫様のことを褒めていたよ。

 そうした方が騎士(わたし)の好感を手堅く得られる。実に賢明だ。

 姫様を褒めるより先に心底心配している言葉を口にしたのは、君だけだね」

 

「……不快にさせてしまったでしょうか」

 

「いや、ゆえにこそ私は君を信じよう。

 姫様と話していれば、いずれその理由も分かる」

 

「?」

 

 どうにもこの騎士の本音が見えてこない。

 朔陽からすれば利権で動く人間の方が分かりやすくて扱いが楽だ、とさえ感じる。

 だが、そこは今踏み込むべき内容でもない。

 

「さて、今日は実は君に頼みたいことがあったのだが……

 この世界に来た君達の人数は、合計29人でよかっただろうか?」

 

「はい。本来は30人と担任1人で構成されるクラスです。

 曽山先生と火神楽火切(ひかぐら ひきり)という子がこちらに来ていないので、29人です」

 

「何人引き連れてもいい。ある村を調査して欲しいのさ」

 

「調査?」

 

 パンプキン卿曰く。

 一週間前から、ある川沿いの村で異変が起きているらしい。

 

 村の名はクーリッシュ村。

 人は多くないが、川魚と野菜が美味しいことで有名なのだとか。

 クーリッシュ産の川魚です、と一言付け足してから料理を出すことで、貴族も納得するような中堅上位のブランド感が出せるらしい。

 

 ここに一週間前に送られた徴税人が、そのまま行方不明になった。

 その徴税人を探しに騎士が一人この村に送られたが、その騎士も行方不明に。

 村からは一切の異変が伝わって来ておらず、この二名の行方不明者の存在さえなければ、パンプキン卿も怪しむことすらなかっただろう。

 彼の依頼は、この事件の調査。

 事件の解決ではなく、調査であった。

 

「……それは、僕らも危険なのでは?」

 

「勿論危険だ。

 だが、だからこそ意味があるのさ。

 私が出した危険な任務を君達が達成する。

 私は『とても危険な任務を彼らが達成してくれた』と誇張して吹聴する。

 前回の巨人騒ぎと合わせ、これで貴族の大半を一気に味方に付ける……というわけだ」

 

「あ、なるほど」

 

「勿論依頼達成の報酬は期待してもらっていい。

 君達の中にはとても強い者が居るのだろう?

 先日の野球勝負は胸が踊ったよ。君達であれば、魔将級の敵であっても問題は無いはずだ」

 

「……」

 

「どうかしたのかい? あまり気乗りしていないようだね」

 

「いえ、その……」

 

 危険が0の依頼を振るのではなく、危険が1の依頼を振って、成功後にそれを最大限に誇張して吹聴するという策。

 悪くない案だ。

 朔陽達は周囲からの評価を得て、パンプキン卿はこれを機に彼らと依頼を通した上下関係――信頼関係と同義の関係――を構築しようとしている。

 現状、双方に損は無い。

 だが、朔陽は乗り気ではなかった。

 この話に危険性が見えるからではない。

 

「……今すぐに動ける僕のクラスメイトに、戦闘力を持っている人がほぼ居ないんです」

 

「……」

 

 どこかに行ってる奴と仕事をしている奴を除くと、戦える人間が居なかったのだ。

 無理すれば都合をつけられる面子の中から探しても、呼べそうなのが高校生現役アイドルの子や、ただの保健委員の女の子くらいしか居ない。

 皆が戦えるわけではないのだ。

 クラスの喧嘩の強い不良をライオンとすれば、朔陽達のようなクラスの弱い者達はダンゴムシ程度がせいぜいである。

 

 ダンゴムシしか仲間に連れていけないとなれば、スプーキーの方が逆に困ってしまう。

 苦肉の策で、スプーキーは一名、戦闘力の高い者を彼に付けることを決めた。

 

「……私の配下の中で最も強い者を一人、手配しておく」

 

「すみません、一から十まで世話になってしまって本当すみません……」

 

「まあ肝心なのは危険な任務を達成したという事実だけだ。

 細かいところの情報は私が誤魔化しておけばいいか……」

 

 朔陽と、朔陽が連れて行く誰かと、スプーキーが手配した部下。

 今回はこのチームで、スプーキーの依頼に挑むことになりそうだ。

 

「いいかい?

 戦う必要はない。私の依頼は解決ではなく調査だ。

 解決が最上の結果ではあるが、この際手堅く行こう。

 村で騎士達が行方不明になった原因を特定できたら、すぐに戻ってきなさい」

 

「はい!」

 

 スプーキー・パンプキンが去っていく。

 朔陽は魔法の手帳をペラペラとめくって皆の予定と現在位置を再確認するが、やはり今現在連れて行けそうな戦闘力持ちは居ない。

 皆死ぬほど忙しそうだったり、死ぬほど忙しい仕事の合間の休みの日だったり、魔王軍の領地に一人で殴り込みに行ったりしていた。

 全員の現状を理解しているのは流石の委員長といったところか。

 もっとも、現状あまり喜ばしいことではないが。

 

 眉間を揉む朔陽が足音を聞いて振り返ると、そこには息を切らせたヴァニラ姫が居た。

 

「あれ、ヴァニラ姫? おはようございます」

 

「おはようございます。その……ここに、パンプキン卿がいらっしゃいませんでしたか?」

 

「今さっきまでいらっしゃいましたよ。何か御用ですか?」

 

「用と言うほどのことではないのですが、少し話をしたいと思っていました」

 

 息を切らせた姫の頬は上気していて、滲んだ汗が美しい銀の髪を頬に張り付かせている。

 彼女が身に着けている薄青のドレスも体に張り付き、体のラインが出てしまっている。

 男であれば誰もがスマホで撮影しエロ画像フォルダに入れようと思うであろう、自然で過剰な色気であった。

 これを"女性をそういう目で見るのは失礼だから……"という思考だけで平然とやり過ごしている朔陽は、傍目にはホモにしか見えない。

 彼の理性の強さも相当なものだ。

 

「その……変な勘繰りをしているわけではないのですが、彼とはどういうご関係なのですか?」

 

 ヴァニラ・フレーバーは落ち着いた雰囲気の少女である。

 以前雑談した時、朔陽は彼女が自分と同い年であることを確認しているが、それでも時々自分より年上に見えてしまうのが彼女だ。

 そんな彼女が、"少し話をしたい"程度のことでこんな必死に走ってくるものなのだろうか?

 朔陽はそこに疑問を持った。

 

 話の内容が重要だったのか、それとも……ヴァニラ姫にとって、スプーキーが重要だったのか。

 その辺が少し気になって、朔陽は探りを入れている。

 

 半分はこの先の方針を決める判断材料にしたい、という気持ち。

 半分は週刊少年ジャンプのラブコメも読んでいる朔陽が、"ちょっと恋バナ聞きたい"と思ってしまったがゆえの、ちょっとよこしまな気持ち。

 二つ合わせて、佐藤朔陽少年の本音である。

 

「関係……ええと、私は、その……」

 

「……」

 

 言い淀む姫。

 朔陽は顔に出さないだけで、ちょっとばかり興味津々だ。

 中世っぽい異世界ファンタジーの世界。

 そこで繰り広げられる姫と騎士の間の秘め事。

 そんなもの、日本じゃ絵物語の中でしか見られない。

 許嫁?

 恋人?

 騎士の誓い?

 淡い想い?

 朔陽が小学生の頃、図書室で読んだ様々な本の『姫と騎士の関係』が彼の脳裏を駆け巡る。

 

「スプーキー・パンプキンは……その、私の兄です」

 

「ぶっ」

 

 そして、予想は全部ひっくり返された。

 

「兄……お、王子様ってことですか!?」

 

「いえ、王子ではありません。兄はさっさと王位継承権を放棄してしまったので……」

 

「元王子様で最強の騎士……」

 

 その上イケメンで、聖剣と対になる魔剣持ち。属性を盛りすぎだ。

 朔陽はようやく理解した。

 スプーキー・パンプキンは朔陽達に好意的なのではない。

 朔陽達の味方をしているヴァニラ姫を、兄として援護しているだけなのだと。

 

「『私は歴史に残る賢王ではなく、伝説を残す騎士になりたいんだ』と兄は言っていました」

 

「王族が言っていい台詞じゃなさすぎる……」

 

「『最強の騎士に俺はなる!』と叫び、その後騎士団に身一つで飛び込みまして」

 

「王族がやっていいことじゃなさすぎる……」

 

「お兄様は騎士団でとても強くなりました。

 国で最も強い戦士の一人に数えられるほどに。

 その後宝物庫に忍び込み、主を選ぶ呪われた魔剣を強奪して装備。

 騎士団長と魔王の弟の一騎打ちに乱入して二人まとめて打倒。

 魔王の弟の首を刎ね、"私が最強"だと名乗りを上げてから、騎士団長を連れて帰ったそうです」

 

「王族がやらかしていいことじゃなさすぎる!」

 

 国の中での最強を証明するにしても、もうちょっとやり方はどうにかならなかったのだろうか。

 

「そんなお兄様だからこそ、戦いの中でお兄様だけが生き残ってしまったのです。

 騎士団長は不死身の魔将と三日三晩戦い、討ち取られてしまいました。

 至高の魔法使いは、人を見ただけで殺す魔将に殺されてしまいました。

 お兄様が背中を預けた弓の達人は、パルム王国と一緒に蒸発させられてしまいました」

 

「……」

 

「お兄様は仲間を求めています。

 たとえ一時でも、信じて背中を預けられる、戦死しそうにない仲間を」

 

「僕らはそういうものを求められてる、ということでいいんでしょうか?」

 

 ヴァニラ・フレーバーは、真剣な面持ちで頷いた。

 

「あの癖の強い集団をまとめておられるのは、サクヒ様でしょう?

 お兄様はそこを評価すると同時に、危惧しています。

 29人を『集団』として機能させているサクヒ様が、一番の弱点なのですから」

 

「まあ、確かに……僕を殺すのは手軽に大きな効果を得られるでしょうね」

 

「ゆえに、サクヒ様の自衛は急務です。

 サクヒ様の身を守る手を、私もお兄様もいくつか考えています。近日中には答えが出るかと」

 

 朔陽のクラスは我の強い者や自分のルールに従って生きている者が多い。

 誰かに指示を出されないとしっかりやっていけない、和子のような弱い子も多い。

 朔陽がまとめているからこそ集団として機能しているのであって、朔陽が死ねばさっさと分解する集団だ。ならば、敵が朔陽を狙わない理由がない。

 クラスを一つの人体に例えるならば、朔陽は脳にあたるわけだ。

 

 いや、軽く叩くだけで潰せて全体を機能不全に陥らせるということができるという意味では、股間のアレにあたると言えるかもしれない。

 朔陽は魔王軍から見れば頭蓋骨ほど硬いものではなく、むしろ股間のアレに例えるべき弱さと脆さを備えた、打たれ弱いパンピー少年なのだから。

 

 サクヒに求められているのは、強い力で大活躍することではない。

 殺されないことで、死による余計なマイナスを発生させないこと。

 つまり走り回って逃げ回って物陰に隠れて、ゴキブリのようにしぶとく生き残り続けることだった。

 姫の話はもっともで、朔陽の自衛手段の模索は朔陽にとってもありがたい話であったが、朔陽としてはそれより注力して欲しい事柄がある。

 

「いや、僕の身を守る手段より元の世界に帰る手段を探して欲しいのですが」

 

「ごめんなさい……

 本当にごめんなさい……

 一向に地球への帰還方法の研究が進展してなくてごめんなさい……

 それを誤魔化すためにサクヒ様達のご機嫌取りするみたいなことしてごめんなさい……」

 

「そ、そんなに気にしなくても!

 姫様達事実上無償で僕らのために研究してくれてるじゃないですか!」

 

「地球の悪の組織はもう侵略に使えるレベルで技術を確立していて、もう本当に……」

 

「どこ行ったんでしょうね、黄泉瓜巨人軍の残党……」

 

 可愛い顔でしょんぼりする姫と、慌てて励ます朔陽。

 

 彼らは巨人軍の末路を知らない。

 世界を渡る技術が魔王軍に渡ったことを知らない。

 ゆえに、その点においては不思議がることしかできない。

 人類圏での出来事でありながら、魔王軍の方がフットワークが軽いというのは、将来的な不安を内包する問題だった。

 

「と、そういえば」

 

 朔陽はそこで、スプーキーから受けた依頼の話をした。

 

「お兄様の任務、ですか」

 

 別の話題を振って気分を変えさせようとした朔陽の気遣いに心中感謝しつつも、姫は兄の性格を鑑みて複雑そうな顔をする。

 

「お兄様の目は節穴ではないのですが、その、期待が大きいと言いますか……」

 

「それは、なんとなく分かります」

 

「懸命が悪辣を両断する。

 偶然が必然を突破する。

 奇跡が妥当を凌駕する。

 意志が摂理を破壊する。

 それこそが、お兄様が戦友として信頼する者に求めるものです」

 

「僕に無いものですね」

 

「戦う力が人の価値の全てではないと、私は思いますよ」

 

 本当に危険性が大きいなら、姫はここで止めていたはずだ。

 逆に朔陽の想定以上にこの一件が安全なら、姫はこういう顔をしていないはず。

 パンプキン卿の依頼は、やはり危険とも安全とも言い切れないラインの上にある様子。

 

「ともかく、気を付けてください。

 お兄様が最強の騎士と呼ばれているのは、彼が一番強かったからではありません。

 ……お兄様と競えるほどに強かった方達が全員、殺されてしまったからなのですから」

 

 消去法の最強ってなんか嫌だな、と、朔陽は思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スプーキーは特に期限は区切らなかった。

 だがだらだらと先延ばしにしていいことでもないだろう。

 朔陽は明日朝に出立することを決め、とりあえず今日のところは姫と親睦を深めることにする。

 現状、見返りを求めず自分達に好意的な権力者など彼女しか居ないので、彼女と仲良くしておかなければ、と考えたのが理由一つ。

 そしてもう一つの理由が、彼女がただ話しているだけで楽しい気持ちになれる、そういうタイプの人間であったからだ。

 

 食べ物の話をして、交通機関の話をして、学校の話をして、家族の話をして、漫画の話をして、スポーツの話をして、二人は盛り上がる。

 

「日本のマンガというものは凄いのですね。

 その高橋留美子さんという方のマンガの主人公は、水を被ると性別が変わるのですか」

 

「その女性になった男主人公が一番人気だったこともあったと聞きますね」

 

「ええぇ……地球には変態さんしか居ないのですか?

 普通、元男性という要素があれば不人気になりそうなものなのですが……

 最初から女性で今も女性のヒロインが不動の人気を築くものではないのですか?」

 

「僕にも詳しくは分かりませんが、その辺りはなんというか……水掛け論なのでは」

 

 ヴァニラ姫は聞き上手で、地球や日本のことに興味津々な少女だった。

 朔陽がそれなりに会話に長け、相手の反応を見て相手が喜びそうな話題を察することを特異としていることも相まって、楽しく会話に花が咲く。

 

「そ……それで!? その女の子の告白はどうなったのですか、サクヒ様!」

 

「主人公はボーッとしてて聞こえてなかったんですよ、ヴァニラ姫」

 

「また難聴落ちですか、日本人の方はそういうのがお好きなのですか?」

 

「好きなんじゃないでしょうか。僕は特に好きってわけでもないですけど」

 

 特に【未亡人ヒアリ「主人がオオアリクイに殺されて1年が過ぎました」】というヒアリの女性を主人公にした小説の話は概要だけでも大受けで、朔陽は姫の性格への理解を深めていった。

 普通だ。

 王族らしい責任感や、知識の深さ、年齢不相応に大人びた部分もある。

 だが面白い創作の話――特に恋愛系――に興味を示し、一喜一憂する表情を見ていると、朔陽の持っていた認識以上に、この少女にも『普通の少女らしい』ところがあるのが分かる。

 

 普段王城などで会う時は、人当たりいい社交的で綺麗な笑顔を浮かべている姫が、今は自然で可愛らしい笑顔を浮かべていて、朔陽はなんだか楽しい気持ちになっていた。

 

(この人、こんなに可愛いところもあるんだな)

 

 予定の詰まっている姫が帰り、朔陽一人だけがそこに残されても、彼の思考は止まることなく続いていた。

 

(お姫様とは、それなりに仲良くなれたかな……

 善意で協力してくれているし、いい人だし、この仲を継続したいところだけど……)

 

 可愛くて美人でおっぱいが大きい姫と、素直に個人的感情だけで接することができないのが、今の朔陽の辛いところである。

 

(今のところ、素の自分を出せるくらい仲良く出来てる偉い人はヴァニラ姫だけ。

 他の偉い人ともこのくらい仲良くするべきなんだろうか?

 でもなあ、それで僕が情や色恋に流されて判断を誤ったら?

 ハニトラとか怖い。過剰に恩を着せられるのも怖い。

 僕がリーダー役をやってる以上、僕の判断ミスはそのままクラスの危機に直結だ)

 

 古来より、人間関係は武器に使うことができ、情は交渉材料とすることができる。

 なので朔陽はちょくちょく考えながら動かなければならない。

 普段上手くやってなければ、この前の一球の一件のように仲間に無茶をさせたくても、朔陽の嘆願を誰も聞いてはくれないだろう。

 クラス委員長は大変なのだ。

 

(例えば貴族の人と仲良くするとする。

 その人の利益や損害が見えてくる。

 でもその人に損害が生まれるから、とクラスメイトを蔑ろにした選択をしちゃいけないし……

 クラスメイトより貴族の方を優先したら、クラスの絆に亀裂が入る。

 かといってその貴族の人を露骨に蔑ろにしたら、今度はそこの交友が上手く行かない。

 クラスの利益を優先しつつ、問題を起こさない程度に外側との交友も上手くやって……)

 

 この国の人と仲良くなれなければ話が始まらない。

 仲良くなりすぎれば問題が発生する。

 クラスの手綱を握りつつ、自分は死なないようにして、時にちょっと危険でも最強の騎士様の任務を達成して……面倒臭さが倍々で増えていく。

 まことクラス委員長とは死狂いなり。

 

(姫様と最強の騎士さんは僕らの味方、と今は見ていい。

 貴族の人達が"損得で見て現状維持が最善"と見てくれている現状を維持しないと。

 できれば損得勘定だけでなく、感情的にも僕らを排除しにくい状況に……

 この国にちゃんと僕らが受け入れられて、国の一員として認められる状況にしたい)

 

 そんな風に考え込んでいる朔陽の背後から、忍び寄る人影一つ。

 

「いやー美人だねー、あの人。

 あんだけ魅力的な容姿があればいい結婚詐欺師になれそうだにゃあ」

 

「うわっ!?」

 

 いきなり耳元で喋られて、びっくり仰天の朔陽は跳び上がる。

 振り向けば、ニカっと笑う小柄な少女。

 見覚えのあるその顔に、肩口辺りまで伸びるポニーテールと、ポニーテールをまとめる鈴付きのヘアゴムが視界に入ってきた。

 

「寧々さん、いつからこっちに?」

 

「んー、今さっきね」

 

 子々津音々寧々(ねねつねね ねね)

 クラスで一番名前が呼びづらく、クラスで一番会話したくないと評判の少女である。

 

「……戻って来る日時でまた嘘ついたんだね」

 

「にゃっははー。驚いた?」

 

「そりゃもう」

 

「うん、その顔が見たかった」

 

 愉快そうに笑う寧々。

 そう、この少女は嘘つきなのだ。

 好きなこと、嘘。趣味、嘘、ライフワーク、嘘。

 主に被害者は朔陽である。

 

 彼女は息をするように嘘をつき、嘘をつくたび彼女の周りから人は離れ、今や何度騙されても彼女に親身になってやっているのは、クラスに朔陽ただ一人だけだった。

 今や彼女の同年代の友人は片手で数えられるほどしかおらず、その友人達も寧々の言うことは適当に聞き流しているので、騙され役は朔陽しか居ない。

 よって被害が集中する。

 朔陽は昔校外学習の時、8時集合だったのに7時集合と彼女に騙され、同じく7時に来ていた寧々に散々プギャーされた挙句、一時間も彼女のおしゃべりに付き合わされたことがあった。

 

「実は今日佐藤くんがしてた話は最初から聞いてたのよ。佐藤くん、苦労してるんだね」

 

「……ん、クラスの皆のためだからね」

 

「まあ嘘なんだけど。話なんて全然聞いてなかったし。だから教えて?」

 

「素直に何話してたのかを聞けばいいんじゃないのそれ!? 嘘つく理由は!?」

 

 バカやアホのクラスメイトも中々困りものだが、こういうタイプも中々に苦労させられる難物である。

 なんでこんな好き勝手に生きてる奴らのために僕はこんな苦労してるんだろう、と、朔陽は一瞬心底疑問に思ってしまった。

 

「へー、危険かもしれない任務ね……」

 

 子々津音々寧々が嘘つきなのは、彼女が基本的に鬱陶しいくらいの構ってちゃんだからだと知っているのに、朔陽は彼女の嘘をまともに受け取ってしまう。

 それは、朔陽の根が善良であるからなのだろう。

 

「じゃあウチもついて行くよ」

 

「え? でも寧々さんか弱いタイプのような……」

 

「嫌って言われてもついて行くってば、佐藤くんが心配だもの」

 

「寧々さん……」

 

「心配っていうのは嘘だけどね。ただ、面白そうだったから」

 

「僕の感動を返して!」

 

 二人は街に歩き出す。

 朔陽は夕飯のための買い出しをするため、寧々は朔陽について行って食事をたかるため。

 深夜を除けばいつも人が絶えない王都の中を、二人で任務の相談をしながら、ゆったりと歩いて行く。

 

「戦闘面では心配ご無用。

 ウチ、この世界に来てから頑張ってこの世界の魔法覚えたからね!」

 

「おお!」

 

「まあ嘘なんだけど」

 

「ええ……」

 

「冗談よ冗談。

 私みたいな普通の女の子が即戦力になるにはどうするのが一番だと思う?

 武器よ、武器を持つのよ。だから持つだけで強くなれるような魔法の武器買ってきたの!」

 

「おお!」

 

「まあ嘘なんだけど」

 

「ええ……」

 

「そういえばさっき遠出してたはずの和子ちゃん見かけたよ」

 

「……」

 

「これは嘘じゃないよ?」

 

「!?」

 

 と、その瞬間、人混みの中からぬっと和子が現れた。

 

「あ、サクヒー」

 

「え、あれ!? いつ戻って来てたの!?」

 

「サクヒのピンチを感じたから……と、言いたかったけど、違う。

 なんだか面倒臭くなっちゃって予定伝えるのサボってて、ごめんね」

 

「……スケジュールはちゃんと伝えようね。

 僕らは誰か一人この世界で行方不明になったら、最悪そのままなんだから」

 

「ん」

 

 "気付いたらクラスの仲間が何人か減っていた、どこで消えたかも分からない"という状況が発生してしまうことを、朔陽は最大限に警戒している。

 皆の所在と現状を常に把握しようとしているのはそのためだ。

 心配性、と評価されても仕方ないだろう。

 子供の頃からしょっちゅう迷子になっていたこのポンコツ忍者が幼馴染なら、このくらい心配性になるのは自然なことなのかもしれないが。

 

「和子ちゃんさ、報告、連絡、相談。ほうれんそうを大事に、ね?」

 

「私、ほうれん草嫌い」

 

「好き嫌いも直そうね」

 

「んー」

 

 好き嫌いの件を話題にしたくないのか、この件でお説教されたくないのか、和子は話題逸らしに朔陽に抱きつき、頭をぐりぐりと押し付ける。

 中学生レベルの話してるにゃあ、と寧々が人知れず呟いた。

 

「直そうね、好き嫌い」

 

「サクヒが私の代わりに食べればいい」

 

「僕が食っても栄養は和子ちゃんの方に行かないよね?

 和子ちゃんの代わりに食べて栄養渡せてたのって、妊娠期のお母さんだけじゃないかな」

 

「サクヒはもう私のお母さんみたいなもんだよ」

 

「ああ言えばこう言う……」

 

 和子ちゃんうちのクラスに相応しい逸材だなあ、と寧々は思った。

 呆れる朔陽だが、これ以上ここで何か言っても無駄だと判断し、スプーキーからの依頼の件を打ち明ける。

 

「分かった、私も同行する」

 

「ありがとう、助かるよ」

 

「そこは『頼りになる』とか嬉しい一言を付け加えてくれると私嬉しいな」

 

「ほうれん草も嫌わず食べられる人なら頼りにできるのになあ」

 

「む」

 

 これでとりあえず今日の夕飯ではほうれん草食べてくれるだろうな、と朔陽は幼馴染の思考を読みきった予測をする。

 

「それで、パンプキンさんが送ってくれた援軍ってどういう人なの?」

 

「僕も詳しくは知らない。でも、夕方までには顔見せてくれるって言ってたよ」

 

 出立は明日の朝。

 なら今日中に顔見せに来るのは間違いないはず、と朔陽は読んでいた。

 パンプキン卿が信頼して送り出すほどの部下。

 果たして、どれほどの強さを持っているのだろうか?

 

「あ、ウチ先にその人見たよ。

 スプーキー・パンプキンの横に居た人だよね、多分。強そうな騎士だったね」

 

「強そうな人……それなら僕も安心かな」

 

「まあ、嘘なんだけど」

 

「会話が先に進まない!」

 

 この嘘つき、どうしてくれようか。

 

「……とにかく、帰ろう。もしかしたら他の人も帰って来てるかもしれないし」

 

 帰宅。

 食事。

 そのまま就寝……と行ければよかったが、和子の入浴中に寧々が「風呂空いたよ」と朔陽に嘘をついたせいで風呂場にて裸の和子と朔陽がばったりエンカウントしてしまう。

 「女性らしい体になったなあ」と現実逃避しする朔陽に「イヤーッ!」と女性らし悲鳴を上げる和子。投げられた桶を顔面に食らい「グワーッ!」と倒れる朔陽。

 寧々はその後、簀巻にされ一晩中床に転がされたという。

 とにかく騒がしい夜であった。

 そして、月が煌めくその夜に。

 

「約束の刻限より、大幅に遅れて申し訳無い。これも拙者の不徳の致す所で御座(ござ)る」

 

 パンプキン卿が手配した戦士が、彼らの邸宅にやって来た。

 

「拙者はブリュレと申す者。パンプキン卿の命により、其方(そなた)らを守りに来た」

 

 それは、月の光を受けて白銀に輝いているようにも見える、純白の体毛を身に纏った―――人の言葉を話す、白狼だった。

 

「……わんちゃん?」

 

「わぁ……人の言葉、喋ってる!」

 

「僕もこれは流石に、予想してなかったな……」

 

 最強の騎士が最大の信頼をもって送って来たのは、犬の騎士だった。

 

其方(そなた)らが知らぬのも無理はない。

 ここダッツハーゲン王国東部には、人と同等の知性を持つ狗が生息している。

 我らは遥けき大昔の盟約に基づき、人の最も親しき隣人として、手を貸しているのだ」

 

「それはまた……凄い話ですね。よろしくお願いします、ブリュレさん」

 

「ああ、拙者は其方(そなた)を守ると誓おう、サクヒ殿」

 

「……少し、不思議な気分です」

 

「慣れるといい。我らは祖より人と共に歩んできた一族の裔。

 其方(そなた)を裏切ることは決して無く、其方(そなた)より後には死なぬと誓う」

 

 しかもやたらと話し方に風格がある。

 相手は犬だというのに、話している内に朔陽は思わず背筋を伸ばしてしまっていた。

 この風格は、どこかヴァニラ姫のような王族が持つ『ひとかどの人物が持つ雰囲気』に近しい、カリスマのようなものを感じさせる。

 が、そういう反応をしているのは朔陽だけで。

 簀巻にされたままの寧々は目を輝かせ、和子はキラキラした目でワンちゃんの頭を撫でに行こうとしていた。

 

「ね、ね、ワンちゃんは犬なの? 狼なの?」

 

「犬でも、狗でも、狼でも、好きに呼べば宜しい。

 其方(そなた)らの世界ではともかく、この世界では同一種の別名称でしかないものだ」

 

 和子が恐る恐る手を伸ばし、ブリュレはその撫でる手を受け入れる。

 簀巻にされた寧々も撫でようとするが、床を転がることしかできない。

 朔陽には白狼にしか見えなかったが、人によっては狛犬にも見えるだろう。

 いずれにせよ、2mを超える巨大な犬種だ。

 地球の常識でカテゴライズすること自体が間違いなのかもしれない。

 

「では、僕らで部屋を用意しますので、ブリュレさんもどうぞ」

 

「結構。拙者はこの屋敷の門前で、万が一に備え警備の任に就かせていただこう」

 

「ですが……」

 

「拙者の喜びは暖かな部屋で眠ることではない。

 其方(そなた)らが無事であることなのだ。分かって欲しい、サクヒ殿」

 

 昔々。

 数百年ほど前のフランスには、『犬と狼の間(entre chien et loup)』の時間という表現があった。

 昼と夜の間、黄昏時のことである。

 慣れ親しんだ(いぬ)の時間から、少し危険な(おおかみ)の時間に変わる時。

 犬と狼の見分けがつかなくなる、街が薄暗い時間帯。

 昔は使われていた言葉。

 今は使われていない言葉。

 『電灯』が夜の闇を払うようになって、地球では使われなくなってしまった言葉だ。

 

 この言葉も、地球のような電灯が普及した世界とは違う"この異世界"では、きっとまだ使うことができる言葉だろう。

 パンプキン卿が約束した夕方の時間を過ぎ、犬と狼の間の時間の終わり際にやって来た、犬なのか狼なのかよく分からない、武士口調の白狼の騎士。

 

 なんか凄い頼りになるワンちゃんが来たなあ、と朔陽は心中にて頼りがいを感じていた。

 

 

 



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その2

 召喚にて勇者を呼ぶには、魔力と運と根気が要る。

 ソシャゲで狙ったキャラを呼ぶには、金と運と根気が要る。

 デリヘルを呼ぶには金があればいい。

 そういう点で見れば、勇者やソシャゲよりデリヘルの方が優れていると言えるだろう。

 ただし、もっとコスパがよくて確実性の高いものもある。

 信頼する部下を呼ぶことだ。

 ブリュレはスプーキー・パンプキンに部下として呼ばれ派遣され、今は朔陽の一時的な部下として従うよう言い含められている、頼りになる援軍である。

 

 白狼の騎士・ブリュレ。

 彼らはダッツハーゲン王国建国前より、人と共に歩んできた一族の者だ。

 初代王の隣にも、彼の祖先である犬の騎士が一匹、王と共に歩んでいたという。

 

 犬であり狼でもある彼らは、ダッツハーゲン初代王と契約を交わした。

 『獣は人の守護者となること』。

 『人は獣の庇護者となること』。

 この誓いが破られぬ限り、ブリュレの一族は人を守り続けるのだという。

 

 王国における教育と歴史の積み重ねが功を奏したのか、人と同等の知性と言葉を持つこの一族に対して、国民のほぼ全員が人間と同じような扱いをしている。

 迷子の子犬には人間の大人が手を差し伸べる。

 人間が犬の忠告を聞く。

 騎士見習いが犬の騎士に武術を指導される。

 異世界人である朔陽達と彼らの一族、どちらか片方しか命を助けられないとしたら、この国の人間は犬の命を選ぶだろう。

 

 義理堅い彼らの一族は、異世界から来て今この国に住んでいるだけの朔陽達も、命をかけて守るに値する者達であると認定してくれていた。

 

「よって敬語も必要ない。

 我らが求めるのは友誼と敬意。

 よき隣人であること。よき友であること。

 その誓いを守り続けるのであれば、其方(そなた)らは拙者が守るべきもので御座る」

 

「分かったよ、ブリュレさん」

 

 出立の朝から、朔陽とブリュレの間でそんな会話が交わされている。

 

「道順の再確認だけど、これで大丈夫かな?」

 

「肯定する。

 其方(そなた)は少し慎重が過ぎるで御座るな。

 この世界のことを知らぬがゆえに慎重になるのは分かるが……

 明確な理と計算に基づき経路を一度決めたなら、後に迷う必要はない」

 

「そう言ってもらえるとありがたいよ」

 

 言うべきことをきっちり言ってくれるこの狼は、犬畜生とバカにできない高い知性と、一歩引いた視点から冷静に忠告してくれる頼りがいを、確と感じさせる。

 朔陽と、和子と、寧々と、この犬で、いざや向かわんクーリッシュ村へ。

 

「おっはー、佐藤くん」

 

「おはよう寧々さん……懐かしいねおっはー。おはスタまだやってんのかなあ」

 

「あ、さっき和子ちゃんと会ったよ。ウチ伝言頼まれた。

 体調悪いから悪いけどついて行けない、だってさ。

 ちょっと生理がキツくなってきたみたいだねえ、なんか」

 

「え、本当に? 女の子は大変だなぁ……

 顔合わせるの恥ずかしいだろうし、さらっと行って何気なく帰って来るのが一番かな?」

 

 開く玄関扉。

 

「ふわぁ、寝坊した……サクヒ、おはよう。ニンニン」

 

「まあ、嘘なんだけど」

 

「なんで数秒で嘘だと判明するような嘘をついた! 言え!」

 

 男が踏み込みにくい生理関連の話題を混ぜて嘘とバレないようにするテクニックが、本当に小賢しい。

 数秒でバレる前提で完全に騙しに来ているのもまた憎らしい。

 総合的に言えば面倒臭い。

 これで子々津音々寧々(ねねつねね ねね)が朔陽を心配し、彼を心配してついて来ようとしていることも事実だというのだから、なおさらに処置に困るのである。

 

「まあいいか、出発しよう」

 

 とりあえずで彼らは旅立った。

 絵の具をぶちまけたような色合いの森の側を通り過ぎたかと思えば、無色透明な木々の森が目に入り、やがて地球でも見慣れた緑の木々も視界に入る。

 すれ違う商人は、馬車の上から人の良い笑顔で会釈してくる。

 野生のティラノサウルスが木陰で眠りについている。

 

(ここは異世界なんだって、外に出るたびに実感する)

 

 日本で見慣れた木々とは明らかに違う木々。

 車ではなく馬車が通る道。

 木陰では犬ではなくティラノサウルスが眠っている。

 どこを見ても、常識と不協和音を起こす光景だらけだ。

 見慣れない景色が並ぶ異常な世界は、新鮮さと不安感を朔陽の胸に呼び起こすのだ。

 

「佐藤くーん、あっちに魔物が居たけど、これ敵ってやつじゃない?」

 

「え!? どこから! 寧々さんは下がって―――」

 

「まあ、嘘なんだけど」

 

「外でそういうのやめようね?」

 

 困り顔の朔陽を見て、寧々は心底楽しそうに笑う。

 彼女の喜びの源は、彼の困り顔が好きだからか、自分の嘘が誰かを騙せたという達成感か、あるいは嘘をついているときだけは彼が寧々だけを見ているからか。

 ちなみに和子は「この人嘘つきだから」という理由で最初から信じておらず、ブリュレは自分の感覚で周囲に敵が居ないことを知覚していたため、無反応であった。

 この嘘に釣られたのは朔陽だけである。

 

「心中お察しする。サクヒ殿は苦労が多そうだ」

 

「ブリュレさんのその気遣いだけで救われてるよ……」

 

 忠犬という言葉がよく似合う生真面目さだ。

 発言のほぼ全てが嘘である寧々とは真逆で、ブリュレには他者に嘘をつきそうな気配が微塵もない。嘘は自分の生涯に必要ない、と言わんばかりである。

 朔陽は生まれて初めて、友人に対し"この犬を見習って欲しい"と思った。

 口には出さなかったが。

 そして口には出さなかったせいで、寧々はまた何かを言い出し始める。

 

「ねえあそこで何か動かなかった? 佐藤くん、見て来てよ」

 

「まーた真偽定からぬ発言を……」

 

 嘘かもしれない、と思いつつ確かめに行こうとする朔陽の服の裾を、和子が掴んで止めた。

 

「サクヒも毎回信じなくていいのに」

 

「んー、まあ、とりあえずは信じるよ」

 

 朔陽を渋々離す和子。

 一球の時と同じだ。

 和子は寧々のことを知らない。朔陽と寧々の間にある心の関係が分からない。

 だから彼が、何故彼女のことを信じているのか分からない。知らないから理解できない。

 寧々が指差した茂みの中に足を踏み入れていく朔陽の背中を、和子は不安そうに見送った。

 

「気をつけろ」

 

 茂みを覗く朔陽に、ブリュレが声をかける。

 気のせいで終わるか、それとも本当に何かが居るのか。

 警戒心を少し強めて茂みを見るも、特に怪しいものは見えない。

 

(やっぱり嘘なのかな……?)

 

 そうして、少年が息を吐いたその瞬間。

 

 茂みの向こうから、四体の『動く死体のように見える何か』が、朔陽に飛び掛かって来た。

 

「ゾンビ―――!?」

 

 驚いた朔陽が息を飲んだその一瞬に、四体の怪物の首が飛ぶ。

 二体はクナイに。

 二体はキバに。

 それぞれ首を刎ねられていた。

 

「ワンちゃん、すごい」

 

「そちらもな」

 

 ブリュレが咆哮し、咆哮を魔術が衝撃波へと変えた。

 衝撃は朔陽だけを避けて茂みを吹き飛ばし、その向こうに隠れていた怪物達の姿を露わにした。

 そう、怪物だ。

 それも魔物と呼ばれるであろう生物群。

 

 遠目には人間にも見えるが、ブクブクと膨らんだ腐敗肉、その体から漂う腐敗臭、腐ってべろりと剥がれた表皮と『異常に』新鮮に見えるその下の肉が、非人間であることを知らしめている。

 これは魔物だ。

 人間に似せた、あるいは人間を素体に作られた、醜悪な魔物。

 地球出身の者にすら、それがひと目で理解できるほどのものだった。

 

「中国のゾンビ……とかじゃないか。なんだろうこのデブっぽい怪物」

 

「サクヒ、下がって。このデブは暴れる気がする。やせ我慢の反対、デブ大暴れの予感」

 

 ブリュレと和子が首を切り飛ばした四体を差し引いて、残りは十二体。

 

「和子ちゃん気をつけて!」

 

「サクヒは心配症」

 

 とん、と和子が踏み込んだ。

 独特の歩法は目で捉えること叶わず、十二体の敵の間をくノ一の細身がすり抜ける。

 彼女が縫うようにして敵の合間を抜けた頃には、十二体全ての喉笛に鋼鉄のクナイが突き刺さっていた。

 だが、しかし。

 

 ぶくぶくと肥え腐った怪物達は、動きを止めない。

 

「!」

 

 隙を見せたくノ一の背中に襲いかかろうとする怪物達。

 されどその背中を、白狼の騎士が守りに動く。

 

「『ウィズマ』」

 

 ブリュレが詠唱を行い、風の中級攻撃魔法を解き放った。

 それが怪物の一体を粉微塵に切り刻み、風圧で他の怪物の動きを止める。

 狼は和子を守り、その横に駆け寄り、彼女と共に怪物に相対する。

 

「『これ』は我らの牙でも殺すには手がかかる。

 首か、脳か、心臓を潰せ。出来ねば胴の芯となる骨を折るで御座る」

 

「分かった」

 

 狼は跳び、"空中に着地"し、"空中を走り"ながら、爪と牙を振るう。

 怪物の首が三つ、宙に舞う。

 和子が懐から取り出した忍ワイヤーを振るう。

 怪物の首が三つ、宙に舞う。

 

(!? 今、空中を走った!?)

 

 朔陽はその光景にたいそう驚いた。

 忍者がワイヤーで首を飛ばす光景程度なら、現代日本でも時たま見られる光景だ。

 だが空中を魔法で走る犬など、日本ではまるで見られない。

 この世界独特のものに、彼は目を丸くする。

 

 逆にブリュレは、ワイヤーで怪物の首を刎ねるくノ一に新鮮味を感じたようだ。

 

「悪くない、ワコ殿」

 

「ありがとう、ワンちゃん」

 

 幼馴染が忍者だった朔陽とは違い、寧々にとっては和子の戦いもブリュレの戦いも等しく新鮮で見慣れぬもの。

 寧々の口から、感嘆の声が漏れる。

 

「すっげ……」

 

 特にブリュレの戦いぶりは、朔陽達から見たブリュレの評価を一変させるものだった。

 100kgはありそうな怪物の足首を噛み掴み、首の力でぶん回して大木にぶち当て、怪物をミンチにしながら大木をへし折る。

 空中を走りジグザグに跳ぶ。

 怪物が手に持っていた鉄の盾を噛みちぎる。

 そして、魔法を巧みに使う。

 

 ブリュレは白狼の騎士であると同時に、魔法騎士でもあるようであった。

 

(……こりゃ本物だ。パンプキン卿、これは本気の護衛だな……)

 

 そうして、事ここに至って朔陽はようやく、スプーキー・パンプキンが『どのくらいの強さの騎士を護衛に付けてくれたか』を、理解したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔物を全て地に転がし、安全が確保される。

 トラックに轢かれた猫のようになった魔物達を見下ろして、朔陽は少し気分が悪くなる。

 だが構わず、和子とブリュレに助けてもらった礼を言った。

 

「ありがとう、和子ちゃん、ブリュレさん。お疲れ様」

 

 和子は照れくさそうな様子で、ブリュレは毅然とした態度でその感謝を受け取る。

 続いて、真っ先にあの魔物の存在に気付いた寧々も褒めようとするが……

 

「寧々さん、珍しく本当のこと言ったね」

 

「ごめん、ウチ何か気付いてたわけじゃなくて適当ぶっこいてた。怪物いたのは偶然」

 

「なんだかなあ君は!」

 

 彼女はいつもの彼女であった。

 どうやら適当に嘘ぶっこいて朔陽を茂みに突っ込ませようとしたら、偶然そこに敵が居て、朔陽を守ろうとしていた和子とブリュレが倒したというのが事の真相の様子。

 魔物よりこっちの少女の方が厄介そうだ。

 

「僕だけじゃなく寧々さんまで危なくなりかねないんだから、嘘控えようよ」

 

「ウチに死ねと申すか」

 

「そのレベル? 君は泳いでないと死ぬマグロレベルの存在なの?」

 

「佐藤くんが困ってる顔が、なんだか嗜虐心を煽るから……」

 

「元の世界に帰ったら寧々さんのご両親に報告するからね」

 

「!?」

 

 寧々へのお仕置きが決定した。

 うなだれる寧々。

 朔陽の性格を考えれば、何を言おうと両親への報告は決定事項だろう。

 

 ちょっと落ち込んでいた寧々がふと顔を上げると、何故かそこには、敵意が垣間見える目で寧々を睨む和子が居た。

 口を開かせるまでもない。

 和子の実直すぎる目が、"よくも嘘で朔陽を危ない目に合わせたな"と語っている。

 目が口ほどにものを語っていた。

 

「サクヒに謝った方がいいよ、子々津音々さん」

 

「なんで?」

 

「……サクヒが許してくれるからって、そういうのはよくないと思う」

 

 笑えるくらいにまっすぐだ。

 朔陽を傷付ける人は嫌い、朔陽に嘘をつく人は嫌い、朔陽に迷惑をかける人は嫌い、でも朔陽が仲良くしようとしているから、できれば嘘だけでもやめて欲しい。

 そんな和子の本音が透けて見える。

 

 "そういうのはよくない"、なんてよく言ったものだ。

 "私がそれを嫌だと思ったからやめて"、というのが本音だろうに。

 本音の隠し方があまりにも下手すぎる。

 これがひきこもりの弊害と言うなら、きっとそうなのだろう。

 

「ウチみたいな嘘つきは素直に謝らないんだにゃあ、これが」

 

「……」

 

「怖い目するねえ、和子ちゃん」

 

「嘘をついて他人に迷惑をかけたら、まずはごめんなさいじゃないの?」

 

「子供の理屈だぁ」

 

 寧々は煽る。

 怒りを煽る。

 寧々が煽るたび、不器用な和子の目には敵意が宿っていく。

 自分に敵意が向くという現実が、寧々を上機嫌にさせていく。

 

 善意でも、好意でも、怒りでも、憎しみでも、嫌悪でもいい。

 彼女は他人が自分を見てくれているということに喜びを覚えている。

 和子の敵意すらも喜んでいる。

 とても幼稚で純粋で、傍迷惑な精神構造だ。

 そのくせ"悪意を向けられるより好意を向けられる方が嬉しい"という人としての当たり前を持ち合わせているというのだから、この嘘つき少女はややこしい。

 

 彼らのことをロクに知らないブリュレであったが、嘘をつかれても寧々に一切の敵意を向けず好意だけを向ける朔陽が、寧々になつかれている理由を、なんとなくに察していた。

 和子と寧々がやんややんやと言い争っている内に、朔陽はブリュレに問いかける。

 

「ブリュレさん、さっきの魔物は……」

 

「あれはヴルコラク。吸血鬼の一種で御座るな」

 

「ヴルコラク……?」

 

「吸血鬼の成体がストリゴイ。

 人体端末がヴルコラクだ。

 此奴らはヴルコラク。人間より高い身体能力を得ただけの血袋に過ぎん」

 

「得ただけ、って……」

 

 ヴルコラク、と呼ばれた先の怪物は、和子とブリュレにとっては二人の非戦闘員を守りながらでも容易に殲滅できる相手であった。

 ならば朔陽でも勝てる雑魚だったか、と言えばそうではない。

 戦いの中でヴルコラクが人間離れした挙動を見せたのを、朔陽は何度も見ていたからだ。

 

 片足だけで踏み切っての、10m以上の跳躍。

 喉にクナイを突き刺されても死なない生命力。

 目で追うのがやっとな速度で腕を振るう、薙ぎ払いの攻撃。

 手足をもぎ取られた程度では死ぬ気配さえ見せない、文字通りに人間離れした頑丈さ。

 

 朔陽であれば、アサルトライフルを持っても勝てるかどうか怪しいものだ。

 この世界の一般的な兵士が戦えば、かなり危険な相手であったことはまず間違いない。

 先の魔物……ヴルコラクを、朔陽は過小評価していなかった。

 

「ヴルコラクは人間の死体を素材に、ストリゴイが作成する吸血鬼で御座る」

 

「死体を素材に……」

 

「ヴルコラクになった死体はまず内蔵を全て吐き出す。

 そして人間を自動で襲い、その血を吸い、内蔵が抜けた空白に流し込むのだ。

 ゆえに大抵のヴルコラクは腹がでっぷりと膨らんでいる。

 そこに襲った人間の血を溜め込んでいるからだ。

 ストリゴイの下に帰ったヴルコラクは血を吐き出し、主に血を奉納するので御座る」

 

「それはまた、怖い」

 

「生体血液タンクに改造された人間の死体、とも表現できよう。

 奴らは体内に溜め込んだ血液の1%までならばエネルギーに転換できる。

 そうして人間の死体を素体としながらも、僅かながら人体を超越した身体能力を持つ」

 

 なるほど、そういう怪物なのか、と納得する朔陽の首筋辺りに蚊が近寄る。

 ぶぅん、という蚊特有の不快な羽音が朔陽の耳元にも届いた。

 瞬間。

 朔陽の視界からブリュレが消え、目にも留まらぬ速度で跳んだ白狼が、朔陽の首筋に近付いた蚊を爪で切り潰した。

 

「これもまた吸血鬼だ。モスキートという」

 

「え゛」

 

「人肉を素体に作られる、飛虫型のゴーレムのようなもので御座る。

 僅かな血を吸い、主であるストリゴイの下に持ち帰る。

 一体の吸血量で言えば、2mgほどだろう。

 だが千体居れば1gだ。吸血鬼の王であれば常時一億弱を稼動状態に置いているとも聞く」

 

「うわぁ」

 

「モスキートの体重は吸血量と同じ2mg。

 60kgの体重の人間の死体が一体あれば、大雑把に三千万体作成できる計算になろう」

 

 日本の人口一億二千万人という『餌』に対し、その餌に群がる日本の蚊は総数三億匹である……なんて、言われることもある。

 この世界における(モスキート)は何匹居るのか?

 吸血鬼の手駒はどれほどの数に及ぶのか?

 朔陽には想像も及ばない領域の存在であった。

 

 吸血鬼を増産するストリゴイ。

 人間型の吸血タンクシステムであるヴルコラク。

 虫型の吸血タンクシステムであるモスキート。

 その内二つが、こんなこところに居るということはどういうことなのか?

 

「そういうものが、ここに居るってことは、僕らが向かう先に……」

 

「肯定しよう。この先の村に、ストリゴイの吸血鬼が居る可能性が高い」

 

 きな臭くなってきた。

 

「僕らは吸血鬼に詳しくない。ブリュレさん、ここは引き返すべきかな?」

 

「……ストリゴイの強さの格にも依るで御座ろう。

 個人的な意見を言わせてもらうなら、せめて村の様子だけでも探りたい。

 だが拙者の任務は其方(そなた)らの護衛だ。危険は避け、引き返すべきだとも思う」

 

「……いや、行こう。もう少し何か探った方がいいっていうのは、僕も同意見だ」

 

 スタンスの違いが、ブリュレと朔陽の判断を違える。

 そして白狼の騎士は無言で頷き、人の意志を優先させた。

 寧々が余計なことを言おうとして、和子が喋らせまいと妨害している。

 女子二人がわちゃわちゃしているのを横目に、ブリュレはふと何かに気付いた。くんくんと、周辺の地面を嗅ぎ始める。

 

「どうしたの? ブリュレさん」

 

「人の匂いがする」

 

「え?」

 

「ここか。……表のヴルコラクは倒した。五秒数える内に出て来い」

 

 そしてある場所で止まり、地面に呼びかける。

 すると突如地面が盛り上がり、地面の下から泥まみれの少女が飛び出して来た。

 

「お、あいつら居なくなった? ラッキーラッキー」

 

「!?」

 

 朔陽はぎょっとする。その少女に、見覚えがあったからである。

 

「このみさん!?」

 

「はいはいこのみさんですよ、わっはっは。いいんちょさんは今日も元気みたいね」

 

 出席番号10番。手料理部の部長、恋川(こいかわ)このみその人であった。

 泥だらけの服と砂だらけの髪を、少女の小さな手がパンパンと払う。

 きらきら光るこがね色のヘアピンが、土砂に汚れた彼女の風体の中で一際目立っている。

 だが、小柄で短髪の黒髪という身体的特徴も、髪で輝くヘアピンも、朗らかで愛嬌のある笑顔という一番に目立つ特徴ほどには目立たない。

 

「なんでここに……手料理部のあなたが一人で危険な場所に居るというだけでも問題なのに」

 

「いつの間にか危険な場所になってたのね、ここ。

 十日前に日本式の干し魚の試作を村に依頼しに行った時はこんなんじゃなかったんだけど」

 

「……あ」

 

「わっはっは、今日来るんじゃなかったかなー」

 

 このみの発言から、朔陽はスプーキー・パンプキンが言っていたことを思い出す。

 村の名はクーリッシュ村。人は多くないが、川魚と野菜が美味しいことで有名な村。

 ならばこれも当然か。

 料理人でもあるこの少女は、自然の成り行きで食材が上手い村を見つけていたというわけだ。

 

 村に送られた騎士達が行方不明になったのは一週間前、と言われていた。

 十日前に村を訪れていたならば、その時に村が無事だったとしてもなんらおかしくはない。

 恋川このみも、運が良いのか、悪いのか。

 

「でもなんでわざわざ地面の下に?」

 

「汗の匂いとか体温とかを基準にあたし探してるんだと思ったからさー。

 だから鍋で穴掘って埋まってれば見つかんないかなって。実際見つかんなかった」

 

「やっぱうちのクラスの女の子は女子力(隠喩)高いね……」

 

 十日前にクーリッシュ村に依頼した試作干し魚を今日取りに行こうとして、吸血鬼(ヴルコラク)に見つかり、咄嗟に地面を掘って潜ってそこに隠れていたようだ。

 十代の女の子の発想ではない。

 勿論彼女に戦闘力はなく、普段は土に汚れるのも嫌がる普通の女の子だ。

 彼女は咄嗟に思いついて、すぐさま実行しただけ。

 地面を掘り返されて殺される可能性もあっただろうに。

 

 この決断力こそが、義務教育に求められたもの。

 『NOと言える日本人』の育成ということなのかもしれない。

 ……いや、それはないか。

 

「よかった、干し魚につけようと思ってたタレの瓶も無事ね」

 

「このみさん、その小脇に抱えた瓶は……というか、タレ?」

 

「うな重とかにかかってるあのタレよ。こっちの食材で再現したやつ」

 

「!?」

 

 クラスの皆は自分の得意分野で好き勝手に動いている。

 それは、彼女も例外ではなく。

 

「ウナギも見つかってないのに……

 うん、でも分かる。あのタレ美味しいよね」

 

「あれはウナギの油が溶けてるのもあるんだけどね。

 ただ、あのタレが美味しいというのも事実。だから作ったの。

 このタレは干し魚用に調整した物だからご飯とはちょっと合わないけどね」

 

「なるほど」

 

「ずっと前から思ってたのよ。

 ウナギの絶滅が恐れられてるのは、このタレの存在があるからなんじゃないかって。

 ウナギの絶滅より、このタレの絶滅の方が悲しまれるんじゃないかって。

 あたしは手料理部として、ウナギよりこのタレの方を評価すべきなんじゃないかって……」

 

「ウナギ単品が好きで絶滅回避しようと頑張ってる人に謝ろう、このみさん!」

 

 同行者が一人増えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白狼の騎士ブリュレ。

 嘘つき寧々。

 くノ一和子。

 料理人このみ。

 リーダー朔陽。

 メンツだけを見れば『愉快な仲間達』と言って差し支えない者達の行軍は続いていく。

 

 ところが道中、彼らは何度もヴルコラクと邂逅してしまう。

 その度に戦闘になり、時間は削られ、彼らは結局道中で野宿することになってしまった。

 夜は吸血鬼の時間であり危険だと、ブリュレは語る。

 と、同時に、「夜道を無理に進んで吸血鬼に奇襲されるのは一番怖い」とも語る。

 周囲を警戒しながらの野宿の開始、というわけだ。

 

(道中のご飯が美味しくなったのは良い誤算。

 戦えない同行者が増えたのは悪い誤算かな……)

 

「はいはいどんどん食べてねー。大丈夫、おかわり欲しければまた作るから!」

 

 朔陽はこのみ特製の夕飯を口に運びながら、現状の良い部分と悪い部分を思案する。

 

(夜が、本当に不気味だ)

 

 この世界の月は二つ。

 太陽の光を反射するのではなく、衛星魔力で自ら輝く衛星だ。

 だがその光は昼間の空にはっきりと見えるものでありながら、夜の世界を明るく照らしてくれることはない。

 人工の光もほとんど見えないこの世界。

 作られた光が街に輝く日本の夜と、この世界の夜はあまりにも違う。

 

 その不気味さが、朔陽の心中に不安をよぎらせる。

 

 少年の頭の中を、嫌な思考がぐるぐる回る。

 このみさんは返したほうがよかったんじゃ?

 ―――いや、吸血鬼がうろついている地域を一人で帰らせる方が危険だ。

 危険を承知でスプーキーさんの頼みを聞くべきじゃなかったか?

 ―――あの時断らなかった時点で、今更だ。

 僕は危険な目にあってもいい。僕の選択の自己責任だ。

 ―――じゃあ、彼女らが危険な目にあうのは?

 頭の中をぐるぐる回る嫌な思考を、朔陽は首を振って断ち切った。

 

(……今更うだうだ悩んでも、仕方ないか)

 

 朔陽は一緒に晩御飯を食べている、三人のクラスメイトの顔を見る。

 明るい笑顔で料理を配っているこのみ。

 周囲への警戒を疎かにして、はぐはぐと目の前のご飯だけを見ている和子。

 "どんな嘘で騙してやろうか"と言わんばかりの顔で不敵に笑う寧々。

 顔を見ているだけだと全員が何も考えていないアホ面に見えて来るから困る。付き合いの浅いブリュレにもそう見えていることだろう。

 

 僕がしっかりしないと、と、朔陽は心から不安を追い出した。

 

「食べ終わったなら、交代で見張りをしつつ睡眠を取るのが良いで御座ろう」

 

 ブリュレに促され、交代交代で見張りながら皆で睡眠を取ることに。

 

「拙者は小さな物音でも起きる。

 人間種ほどに多くの睡眠時間も必要無い。

 一人あたり見張りは二時間、睡眠は六時間というところで如何(いかが)か」

 

「うん、それで行こう。みんな、僕らはそれでいいよね?」

 

 女子達を寝かし、朔陽は手慣れた様子で小枝を組み上げる。

 そして恋川このみが料理に使っていた火から種火を回収して放る。

 慣れた手つきで、あっという間に焚き火を完成させる朔陽。

 小さな火を眺めながら、遠くも見渡せない夜の闇の中、枝を薪として放っていく。

 

「……」

 

 彼が火を見つめ始めてから、どのくらいの時間が経っただろうか?

 静かに、闇の中からブリュレが姿を現した。

 焚き火に白毛を照らされた狼が、朔陽の横にゆったりと腰を下ろす。

 

女子(おなご)は皆寝たで御座る」

 

「ブリュレさん」

 

「手持ち無沙汰であるなら、少々この若輩との談笑に付き合ってくれると嬉しい」

 

「喜んで」

 

 どうやら、朔陽の話し相手になりに来てくれたようだ。

 

「一つ、これだけは言わねばならぬと思っていたことがある。

 其方(そなた)はあの娘子の虚言癖を何故放置しているのだ?

 あまり宜しいことではないように思える。拙者とて、人の機微は分かるでな」

 

 だが、ブリュレは予想以上に真っ当な性格をしていたらしい。

 談笑の前に、朔陽にストレートに忠告を叩きつけて来た。

 

「人が成長に伴い嘘をつかなくなるのは、嘘のデメリットを理解するからで御座ろう?」

 

「まあ、ね」

 

「ゆえに子供は気楽に嘘をつく。

 大人は嘘をつかなければならない時も、そのメリットとデメリットを考える。

 デメリットがなければ、人は嘘をやめはしない。嘘をついても損が無いからだ」

 

 嘘をついて怒られた。

 嘘をついて信用を失った。

 嘘をついて嫌われた人を見た。

 そういった"嫌な記憶"が、子供を『何の意味もない嘘をつかない大人』に仕上げる。

 それが人間というものだ。

 意味もなく嘘をつく少女の性格を、ブリュレはそのままでいいとは思わない。

 その嘘のせいで朔陽が苦労しているのなら、なおさらに。

 

其方(そなた)のその苦労は、其方(そなた)自身の行動にも原因がある。

 他人の在り方を否定することは悪ではなく、寛容であることが善であるわけでもない」

 

「うん」

 

「間違いは否定し、矯正するべきだ。

 間違いを指摘することは悪ではない。

 自分の間違いを指摘されてもなお、改善しないのであれば、それこそが……」

 

「ブリュレさん。僕の友達を、あんまり悪く言わないで欲しいな」

 

 朔陽とて分かっている。

 ブリュレが自分のことを思って言ってくれていることも。

 寧々のためを思って言ってくれていることも。

 分かってはいるが、それでも友達を悪く言う言葉は、あまり好きにはなれなかった。

 

「分かってるよ。

 彼女の嘘に大した意味は無い。

 寧々さんは息をするように嘘をつく。

 嘘をついて周りの気を引こうとする困ったちゃんだ」

 

「……」

 

「『佐藤朔陽ならどうせ許してくれる』って思ってるフシもあるよね」

 

 焚き火を見つめながら、朔陽は困ったように苦笑する。

 

「僕の役目は、誰も見捨てないことさ。

 皆が笑って卒業できるように。皆がクラスに居場所を見つけられるように……

 それが、クラス委員長であるということなんだと、僕は思う」

 

 枝を拾って、パキリと折って、火の中へ投げ込む。

 

「変わりたい人、変わりたくない人。

 変わるべき人、変わるべきでない人。

 人には色々居るけれど、僕が何か言って変えられるのは、"変わりたい人"だけだ」

 

 朔陽の言葉にブリュレは目を細める。

 

「拙者は彼女を変わるべき者である、と思ったが……

 ネネ殿は変わりたくない者であるがために、変えられんということか」

 

「こればっかりはね、時間かきっかけが要ると思ってる。

 人が人を自由に変えられるなんてこと、あるわけがないし」

 

 それに僕は嘘が全否定されるべき物だとは思ってないよ、と朔陽は言う。

 

「嘘が悪いんじゃない。

 嘘で他人を陥れようとするのが悪いんだ。

 世の中には優しい嘘だってあるんだから、嘘が全部嫌いとまでは言えない」

 

「……」

 

「彼女は良くも悪くも、善悪どっちにも寄ってない嘘つきだしね」

 

 善意で嘘を言うわけでもなく、悪意で嘘を言うわけでもなく。

 ただ息をするように嘘をつく。

 そんな少女をどう扱うか? 朔陽は付き合いが長い分、ブリュレより色々と考えているらしい。ブリュレはそれを察したようだ。

 

「結構。拙者の問は不躾以上に無粋であったな」

 

「嘘が嫌いなのは、あなたの気質が真面目なんだからだと思う。それはいいことだよ」

 

「気遣い感謝する」

 

 この二人の間には……否、この一人と一匹の間には、確かな敬意があった。

 

 ブリュレの四足は土にまみれている。

 朔陽の横に腰を降ろす直前まで、この周辺を歩き回って安全確認をしてくれていたのだろう。

 その気遣いと警戒心が、朔陽の心中に敬意と感謝の感情を生む。

 

脚が狼を養う(Волка ноги кормят)って言葉を体現してるね、ブリュレさんは」

 

「それは……其方(そなた)の世界の格言か何かで御座ろうか」

 

「うん。ロシアって国のことわざさ。

 狼は自分の脚で歩いて餌を探すものだ。

 良い物を得たいなら、まずは自分から動くべし……っていう教えだね」

 

 まずは自分で動くこと。自分にできることをすること。

 大事なのはそこだ。朔陽もブリュレも、そこは意見が一致するところだろう。

 朔陽の言葉に、ブリュレはうんうんと頷いている。

 

「興味深い。差し支えなければ、其方(そなた)のする話をもっと聞かせ願いたい」

 

「え? 僕の話なんて大抵つまんないよ?」

 

「否」

 

 ブリュレが足元の小枝を咥え、首を振って焚き火の中に放り込む。

 

「信とは互いを知る事から生まれるもの。

 恋には一目惚れもあろう。

 だが信頼に一目惚れは無いと、拙者は考えているで御座る」

 

「……うん、そうだね。その通りだ」

 

 "人の言うこと"と書いて『信』。

 信頼とは通常、人と人が言葉を交わすことで生まれるもの。

 誰かに信じて欲しいなら、そのために最も相応しい選択は、ひたすら会話を積み重ねることだ。

 

「ブリュレさんは、僕に何か聞きたい話はある?」

 

「そうで御座るな……なら、小話でも」

 

「小話かー。じゃあ、狼少年の話でもしようか」

 

 朔陽は日本では多くの者が知る、狼少年の短い物語を語る。

 その語り口は柔らかく、暖かで、細かな部分から彼の性情が透けて見えるような語りであった。

 

 狼少年。

 嘘つき子供、等の呼称も持つイソップ童話の一つだ。

 物語として語られるものであると同時に、『嘘はいけない』という教訓を子供に教え込むための童話でもある。

 

 羊飼いの少年が、「狼が来た」と嘘をつき、大人達を大慌てさせる。

 大人達は最初の頃は騙されていたが、次第に少年の言葉を信用しなくなる。

 だが本当に狼が来てしまい、少年は大慌てで「狼が来た」と大人達に触れ回るが、既に少年を信じる者はなく……という物語だ。

 

 嘘をつけば、他人に信じてもらえなくなる。

 嘘つきは周りから信じてもらえない。

 信じてもらいたければ、正直で居るのが一番だ。

 この物語はシンプルであるがゆえに、とても分かりやすく子供に教訓を浸透させる。

 

「ただ、僕が知る限り、この物語には大雑把に分けて二つの結末が存在するんだ」

 

「ほう、二つ」

 

 一つは、発祥の地にて原典から生まれた、『狼が村の羊を全て食べてしまった』という結末。

 狼少年の嘘は、周囲にまで大きな被害をもたらしてしまった。

 少年の嘘は周囲にまで大迷惑をかけてしまったが、少年は生き残るという結末。

 

 そしてもう一つが、何故か日本で流行した『狼少年が食べられてしまった』という結末。

 嘘をつけば自分に最悪の形で返って来る、という結末。

 要するに嘘をついて一番損をするのは嘘をついた本人である、という結末だ。

 

「その二つだと最後に得られる教訓が全く違うと思うんだ。

 前者だと最終的に『他人に大迷惑がかかるから嘘はつくな』になる。

 後者だと最終的に『自分が一番損するんだから嘘はつくな』になる。

 どっちにしても、嘘をついちゃいけないっていう教訓にはなると思うけどね」

 

「成程な」

 

 ブリュレは興味深そうに地球の童話を聞いて、聞き終わるなりふっと笑った。

 

「ふっ、狼少年か。この状況で話す小話としては、なんとも相応しい」

 

 嘘つきと狼を一行に加えているこの状況で、狼少年の話をするのは、ちょっとばかり小洒落た悪戯心が感じられた。

 

「狼の騎士に狼少年……いや、この場合は狼少女で御座ろうか。

 奇妙な縁と巡り合わせもあったものだ。これもまた運命やもしれぬ」

 

「偶然だからそんなに深く考えなくてもいいと思うよ、うん」

 

 子々津音々寧々(ねねつねね ねね)は嘘つきで、ブリュレは狼の騎士。

 狼少女に対し「嘘はつかない方がいい」と思う狼……というこの構図。

 "奇妙な巡り合わせ"とブリュレが言うのも頷ける。

 

「拙者ばかりが話を聞かせて貰うというのも寝覚めが悪い。

 何か聞きたいことはあるか? この世界のことでも、何でも良いぞ」

 

「それなら……そうだ、吸血鬼について教えてくれないかな」

 

「吸血鬼、か」

 

 妥当な要望だ。

 何せ現在、彼らが戦うであろう想定敵は、吸血鬼なのだから。

 

「ヴルコラク、モスキートの話はしたか。

 これらを生み出す知性の高い吸血鬼がストリゴイ。

 そしてストリゴイを従える、『吸血鬼の王』と呼ばれる最上位のストリゴイが在る」

 

「王?」

 

「吸血鬼の王は二人居る。

 一人は人類圏である南の大陸に国を持つ君臨者。

 こちらは一つの国を統べ、人間の国とも国交を持っている中立国の王だ。

 だが、もう一人は明確に人類に敵対しているで御座る。

 魔王に心酔し、魔王に付き従う魔将の一人ツヴァイ・ディザスターがそれだ」

 

「ツヴァイ……」

 

 魔王に付き従う最高幹部十六魔将。

 その力は凄まじく、それぞれが別分野に秀でた力を持つという。

 朔陽が関わりを持ったのは打倒済みの『不死身』、巨人を消した『消葬の双子』。『吸血鬼の王』も魔将の中の一人であるわけだ。

 

「魔将は魔将と成った時より、自分を捨てる。名を捨てる。

 魔王より授かった名を名乗り、魔王と同じ家名を名乗る。

 (アインス)が最も下位であり、十六(ゼヒツェン)が最も魔王に近い」

 

「ああ、名前はそういう?」

 

 ディザスターは魔王の家名。

 序列の基準は不明だが、幹部は序列順に名を名乗っているようだ。

 それが、十六魔将の命名法則。

 

「話を戻そう。吸血鬼は人の血を食料とする。

 そして吸った血を消費することで、凄まじいエネルギーを得ているので御座る」

 

「そこは僕の中のイメージと変わらないね」

 

「目立った弱点もない。

 身体能力や魔法能力、知性も優秀。

 強いて言うなら、人間種に依存するその生態が弱点で御座ろうな」

 

 人の血を吸い、人より強い力を発揮する生命体。

 総じて吸血鬼とは、どんな生物でも持っている『捕食した生物の肉体をエネルギーに変える』能力が飛び抜けて高い生物である、と言える。

 かつ、捕食対象は人間。

 単純に食物連鎖の観点から見れば、吸血鬼は人間の上位の生命体であるというわけだ。

 

「勝てる?」

 

「並のストリゴイならば、何体来ようと駆逐してみせよう。それはワコ殿にも可能だ」

 

「そっか、じゃあ……

 このみさんと寧々さんをお願い。できれば極力あの二人の傍に居て欲しい」

 

其方(そなた)は……いや、これも無粋か」

 

 朔陽にも護衛は必要だ。

 が、朔陽の中には『優先順位』がある。

 自分よりも優先するものがある。

 そしてブリュレには、その意を"ある程度であれば"汲む気概があった。

 

「承知した、これを誓約としよう。

 コノミ殿とネネ殿は何があろうと傷一つ付けさせぬ。

 この誓約が破られし時、拙者はこの首を刎ねて其方(そなた)に捧げると誓う」

 

「そこまでしなくても!」

 

「破られし時に重い罰があってこそ、約束事はその重みを増すので御座る」

 

「お、重い……!」

 

 大昔の盟約に基づき、人の最も親しき隣人として在る隣人。

 『獣は人の守護者となること』。

 『人は獣の庇護者となること』。

 この誓約こそが、ブリュレの一族の誇りであり在り方だ。

 

「やだやだ、真面目な人はこれだから。

 重たい約束事は相手の重荷になるってことをまるで分かっちゃいないわ」

 

「あ、寧々さん。起きたんだ」

 

「そろそろ見張り交代の時間でしょ。うとうとしてたら二時間なんてすぐだもの」

 

 起き抜けにすぐこれだ。寧々はブリュレの真面目なところを馬鹿にして、ブリュレは寧々の虚言癖を馬鹿にしている。

 そういう関係であるらしい。

 にゃあー、と意味もなくブリュレを煽りに行く寧々。

 無視しているがムッとした様子のブリュレ。

 どうにもこの狼少女とこの狼は相性がよろしくない様子だ。

 

 寧々は人二人分の距離を空けて、朔陽の隣に座る寧々。

 これが和子だったなら、僅かな隙間も空けずピッタリくっついて彼の隣に座っただろう。

 恋川このみであれば、人一人の半分くらいの距離を空けて彼の隣に座っていただろう。

 この距離感がそのまま、彼らの関係性である。

 

 人二人分の距離ゆえに、手を伸ばしても触れることはない。

 

「寧々さん、僕らはブリュレさんに守ってもらってるんだから敬意を払わないと」

 

「だってウチ犬派じゃなくて猫派だし」

 

「そうなの!? あ、そうかあのにゃあって口癖……いやその理由はちょっと」

 

「まあ、嘘だけど」

 

「このやろう」

 

 基本的に信じる朔陽に、騙すたびに嬉しそうに微笑む寧々。

 

「そういえば、寧々さん将来は詐欺師になるの?」

 

「そんな『将来の夢は犯罪者ですか?』みたいなこと聞かれてもウチ困る」

 

「それもそっか」

 

「ってか、ずけずけ言うよね佐藤くんは。

 そういうのさらっと言うし、普段から優しくもあるし、気安く接してくれるよねえ」

 

「友達ってそういうもんじゃないかな」

 

「……んにゃあ」

 

 普段は煽り・誤魔化し・小馬鹿にし・煙に巻く意図で使われている寧々の『にゃあ』の声色が、一瞬だけ上ずった。

 

「こう見えてもウチの小学校の時の夢はお嫁さんだったんだにゃあ」

 

「え゛」

 

「おいその『え゛』はどういう意味なのかウチの目を見て言ってみろ」

 

 この嘘つきが抱える夢にしては純朴すぎる。

 が、虚言癖を除けば子供のような性格をしているのがこの少女だ。

 ある意味妥当な夢なのかもしれない。

 

「なんで諦めたのさ。僕から見れば、諦める必要なんて無いと思うけど」

 

「諦めた……というか、自覚しちゃったんだよね」

 

「何を?」

 

「ウチは結局、気に入った人を自分の思い通りにするのが好きなんだってこと。

 赤の他人を思い通りに動かすのも好きだけど……

 やっぱり好ましく思う人が自分の思い通りに動いてくれるのが、嬉しくて楽しいんだ」

 

「それは……それなりに普通の感性だと思うよ」

 

 彼女の夢見たお嫁さんは、『旦那様のための存在』で。

 彼女が望む未来の自分は、『他人を自分のために騙す存在』で。

 その二つは、あまりにも違いすぎた。

 嘘つきという変えられない気質が、お嫁さんという綺麗な夢を汚している。

 

「普通じゃないよん。ウチは悪い子で、君は良い子だからね」

 

「普通だよ。君は嘘が好きなだけで、嘘つきって欠点があるだけの、普通な女の子だ」

 

 自嘲気味に笑う寧々が朔陽に向ける感情は、きっと一言で言い切れない。

 

「他人に自分の思い通り動いて欲しいって気持ちは、僕の中にもある。誰にだってあるよ」

 

「よく言うよ、良心の塊みたいな佐藤くん」

 

 朔陽が寧々を信じ、寧々は嘘をついて騙す。

 朔陽は呆れた風な顔をして、寧々は恋する少女のような微笑みを浮かべる。

 朔陽の善意に、寧々は歪んだ好意を返す。

 

 騙されている間だけ、佐藤朔陽は寧々の思い通りに動かされている。

 彼女はそこに嬉しさを感じる。

 彼がかまってくれる。

 彼が自分を見てくれる。

 彼が自分の思い通りになっている。

 そう思えば、心が満たされる。

 

 薄目を開けて横目に二人を見るブリュレは、この二人の関係性をようやく把握した。

 

 善意と信頼と良心が、嘘を成立させる。

 何も信じない人間と嘘つきの間に、嘘は成立しない。

 その嘘が信じられないからだ。

 周囲がそれを信じなかったがゆえに狼少年は、最後に嘘を語ろうと真実を語ろうと同じだった。それが、嘘の成立しない環境というものだ。

 ゆえに寧々と朔陽のこの関係は、朔陽の善意によってのみ成立している。

 

 嘘という悪の多くは、信頼という善に寄生してこそ生きられる。

 

 『誠意』と『正直』という概念において、この少年と少女は正反対であることを、それが共存していることが既に奇跡であることを、ブリュレは実感していた。

 

 

 



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その3

 翌日。

 野営を終えた朔陽達は、朝の内に目的の村へと辿り着いていた。

 朔陽達は行方不明になった人達を見つけるために、このみは干し魚を回収するために。

 村に辿り着いた彼らを、和やかな笑みを浮かべた村人が迎えてくれていた。

 

「ようこそ、クーリッシュの村へ。歓迎します」

 

 村にも、その村人にも、不穏な様子は見られない。

 何もおかしいところはない。

 村は平穏そのもので、のどかでのんびりとした雰囲気が広がっていた。

 ゆえに、朔陽は問う。

 

「この村には九日前に徴税人が、七日前に騎士様がいらっしゃったと思うのですが」

 

「いえ、いらっしゃってはおりませんが……

 何かの間違いではないですか?

 それか、この村に来る途中で不測の事態に見舞われた、とか」

 

 首をかしげる村人は、朔陽視点では嘘をついている風には見えなかった。

 

「最近、何か変わったことはありましたか?」

 

「最近……うちの村の食材の評価が、今年は特に伸びましたね。

 コノミさんが干し魚とやらを依頼して来た時にもそれを実感しました。

 いやはや嬉しいばかりですよ。あとは……ううん、思いつかないですね」

 

 "様子のおかしさ"は、普段の様子を見ていて初めて気付くもの。

 初対面の人の細かな違和感など、普通は感じられるものではない。

 ゆえに朔陽は何も気付かず、嘘つきの寧々だけがその違和感を察知していた。

 寧々はこのみの脇を肘で小突き、こっそり耳打ちする。

 

「話合わせて、恋川さん」

 

「……ん、悪巧みしてる感じの顔してるねぇ。いいともよ」

 

 このみは快く承諾し、寧々は朔陽と村人の間に割って入る。

 

「すみません、村人さん。ちょっといいですか?」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「恋川さんが前にこの村に来た時、村の近くで変なものを見たって言うんですよぉ」

 

 寧々はさらりと嘘をつく。

 顔を見ても声を聞いても、とても嘘だとは思えない自然な嘘だった。

 そこでこのみが頷くものだから、村人は一瞬だけ表情をこわばらせる。

 

 このみがこの村に来たのは徴税人が消える数日前。

 ならば村の周辺で『何か』を見ていたとしてもおかしくはない。

 村人の心中はいかばかりか。

 このハッタリは、村人のメンタルに大きな揺さぶりをかけていた。

 

「変なもの、とは? 詳細を話して頂けなければ、村の一員としては何も言えませんね」

 

「ああ、それはどうでもいいの。脇に置いておきましょうねー」

 

 寧々は村人の虚をつく形で、小気味よく話題を変えていく。

 

「ねえワンちゃん、私達国一番の騎士様の依頼で調べに来たんだよね」

 

「いかにも。拙者らがここに来たのは、パンプキン卿の指示ではあるが……」

 

「つまりねえ、もう王都の方でも送った人が戻って来ないってのは話題になってるわけよ」

 

「……何をおっしゃりたいので?」

 

「んー、別に」

 

 とことん話の核心にだけ触れない。

 寧々の方から話を振るのに、寧々の方からはぐらかし、そのくせ村人の様子を見て村人が嫌がりそうな話題だけを狙って振っていく。

 話を振るのも、話を打ち切るのも、話を盛り上げるのも寧々。

 くるくるくるくる、話題が変わる。

 

 一つ話すたびに話の主導権は寧々の方に移っていく。

 一つ話すたびに村人の声が感情的になっていく。

 一つ話すたびに、寧々に『嘘をつく権利』が奪われていく。

 

「ねえ、私達に話すことない? 取引したいこととかない?」

 

「ありませんね。何をおっしゃっているのか、私には分かりません」

 

 村人は迷わなかった。

 "保身のために真実を話そう"という迷いもなく、すぐさま返答を返した。

 寧々はこの挙動から一つの解答を得る。

 

 この村人がついている嘘が自分の損得のための嘘なら、寧々の甘い誘いを聞けば、村人の思考は損得を計算し始めるはずだ。

 脳は打算で動き、体は脳の動きに即した反応を見せていただろう。

 まず確実に、保身のための最適解を探すため、答えを返す前に一瞬思考したはず。

 だが、そうはしなかった。

 

 この村人がなんのために嘘をついて誤魔化しているのか?

 寧々にもそれは正確には分かっていない。

 だが、一つだけ理解できたことがある。

 

 この村人が今ここで嘘を全て捨て、全ての真実を話すことは、絶対にない。

 それは何か決定的な終わりに直結する。

 この村人自身が終わるのか、この村人の大切な何かが終わるのか、それも分からない。

 だが少なくともこの村人は、王都の騎士(ブリュレ)に対し虚飾を捨て真実を打ち明けても、絶対に助からないと確信している。だから嘘を継続しているのだ。

 

「スパイってね、嘘を隠すために訓練するものなの。

 逆に言えば、訓練してなきゃ嘘ってのは隠せないものなわけ。

 嘘は顔に出る、声に出る……普通の人は大抵そう思ってるのよね。

 だから逆に嘘をついている時は、顔と声に『嘘を隠そう』とする不自然さが生まれる」

 

「……お嬢さんは、嘘を見抜く技術に長けているのですね」

 

「素人の嘘はね。

 嘘をついたからバレるんじゃないの。

 嘘を隠そうとするからバレちゃうんだにゃあ」

 

 寧々は追い詰めにかかる。

 

「人間の脳の動きは、体の細かい動きと連動してるの。

 『何かを思い出す時』と『嘘を頭の中で作っている時』……

 この二つで脳の動きは全然違う。

 目の動き、手の動き、会話中に相手のどこを見るか、このあたりがまるで違うんだにゃあ」

 

「……それはまた、興味深い」

 

「最初に佐藤くんと話してた時の会話のテンポ。

 あれがあなたの"いつもの会話のテンポ"なんでしょ?

 気付いてる? 私の発言からあなたの返答までのテンポ、ちょっとずつ早くなってる」

 

「偶然でしょう」

 

 追い詰めて、感情を煽る。

 もはや村人は、朔陽達の目にも明らかなほどに狼狽していた。

 

「人間ってね、緊張してる時とリラックスしてる時で働く神経が違うわけ。

 感情で表情が変わったり、お腹が痛くなったり、心臓が変になったり……

 これは訓練しないと意志で制御できない、意識に動かされてしまうもの。

 嘘をつき、嘘を隠そうとし、嘘を指摘されることで、人は平常心を失っていく」

 

 寧々は唇に人差し指を当て、楽しそうに無邪気に微笑む。

 子供のような、悪魔のような笑みだった。

 悪意は無いのに、悪人に見える笑顔だった。

 

「ここに鏡は無いけれど、今あなたはどういう顔してるか、自分で見えてる?」

 

「……おっしゃられていることがよく分かりません。では、失礼します」

 

 村人は逃げるようにその場を立ち去っていく。

 

「ワンちゃん追っかけてみて。

 あの人今めっちゃ動揺してるから。

 黒幕か仲間かは分かんないけど、今の会話のこと報告しに行くんだと思う」

 

「……全く。嘘つきの化かし合いか、見事な物だ。

 嘘と嘘で騙し合えば、より性根が悪い方が勝つというわけか」

 

 寧々に促され、ブリュレがその村人の後を追う。

 嘘も併用して煽って、焦らせて、報告に走らせ、その後をつけさせる。ここまでの流れが寧々の想定通りなら、空恐ろしい。

 

「ま、心理の推測に絶対なんてないからねえ。

 相手の心を目や手の動きだけで読めたら苦労しない。

 適当にカマかけつつ、情報の数増やしてけば確実だにゃー」

 

「……怖いこと言ってる」

「和子ちゃんも寧々ちゃんのこと分かってきたねえ、わっはっは」

「僕はこういうとこ本当に頼りになると思ってるよ」

 

 和子はその悪辣さにおののき、このみは慣れた様子で笑い、朔陽は素人を騙すことにかけては百戦錬磨の寧々に信頼の視線を向ける。

 

「あと2、3人に話を聞けば確度の高い推測が作れそうかな」

 

 寧々に引き連れられ、彼らは村の中をうろつき始める。

 そこからはもう、一見して分からない酷さの連続だった。

 

 騙されやすい人、詐欺にあいやすい人を的確に見抜く寧々の目は、その辺を歩いている村人の中から情報を引き出しやすそうな人間を的確に選択する。

 そこからは虚実入り混じった寧々のワンマン試合だ。

 寧々は他人の嘘を見抜けて、他人は寧々の嘘を見抜けない。ゆえに一方的だった。

 

 時に一つの話題をつらつらと続け、時に話題をくるくると変え、時にうろたえさせ、時に安心させ、巧みに情報を引き出していく。

 誰一人として口を割ることはなかったが、それでさえ寧々の前では抵抗にならない。

 特に朔陽に嘘をつこうとした人間への扱いは酷かった。

 寧々に必要以上に追い詰められ、話し終わった頃には顔が真っ青になっていたほどだ。

 

「ウチの前で嘘ついて佐藤くん騙そうとした奴は、必ず後悔させるからねー」

 

「やっぱ寧々さんは敵に回したくないね」

 

「それは褒め言葉? 悪口?」

 

「どっちも」

 

「どっちもかー」

 

 寧々は、極端なほどに嘘をつくことと嘘を見抜くことに特化している。

 

「ま、ウチが居る限り佐藤くんに嘘はつかせない。

 絶対にね。佐藤くんを騙していいのはウチだけだから」

 

「そんなベジータみたいな……いやこれよく考えたらめっちゃ嫌なベジータだ」

 

「とりま、ウチを会話に入れておいた方がいいよ」

 

 推測混じりだが、引き出した情報は以下の通り。

 徴税人が村に来る前日に『何か』が村に来た。

 『何か』は村人を脅して自分の存在を隠している。

 村人がバラせば罰として皆殺しにされる。

 村人はそれを王都の騎士以上に恐れている。

 徴税人はそれに殺され、徴税人を探しに来た騎士もそれに殺された。

 その『何か』は、なんらかの調査のために来ている。

 

「どうする佐藤くん? 一旦王都に帰る?」

 

「うーん……寧々さんはどう思う?」

 

「もうちょっと探り入れていいんじゃないかなーと思う」

 

「和子ちゃんは?」

 

「よく分からない状況なら撤退が鉄板」

 

「このみさんは?」

 

「試作品の干し魚は回収したし、あたしはいいんちょさんの判断に任せる」

 

 割と意見が分かれてしまった。

 朔陽が顎に手を当て思案していると、空中を駆けてブリュレが帰還する。

 

「ブリュレさん、おかえりなさい。どうだった?」

 

「申し訳無い、見失わされてしまった」

 

「……見失わされた?」

 

「魔法だ。

 魔術は術式を組んで奇跡を起こす魔の術。

 魔法は魔の術をもってして法則を書き換える魔の法。

 拙者の尾行からあの村人を見失わさせたのは……姿を隠す隠蔽の魔法で御座る」

 

「!」

 

「それも、魔族に類する存在の魔力による、な」

 

 ブリュレは言い切る。確信に満ちた断言だった。

 

「……吸血鬼?」

 

「その可能性は高い」

 

 状況証拠しかないが、そこから推測することはできる。

 嫌な予測と予想が積み重なってきた。

 

「とりあえず宿を取って一回休もう。

 腰を落ち着けて話す時間が欲しい。

 和子ちゃんとブリュレさんはともかく、寧々さんとこのみさんは休ませないと」

 

 旅人用の宿を取って、その一室に彼らは移動する。

 敵が襲撃して来ても対応しやすい位置の宿、対応しやすい位置の部屋を取った。

 取った部屋の壁には胸の大きな女性の水着ポスターが張ってあったが、顔が絶妙にブサイクだったので安物ポスターだろうと朔陽は推測する。ドンピシャな名推理であった。

 

 この宿は旅人御用達の宿で、宿泊料がすこぶる安い。

 朔陽の手持ちの金だけで人数分の宿泊料も十分支払えた。

 が、安い代わりに飯がない。

 飯は外で食ってください、ということだろう。

 クーリッシュ村は観光地であるがために、宿泊料で稼ぐ者と飲食代で稼ぐ者がお互いの利益を食い合わないよう、色々考えているのかもしれない。

 

「じゃ、あたしご飯のメニュー考えてくるから。何かあったら呼んでね」

 

 このみが階段を降りていく。

 この宿の仕様上、飯を作ってくれる誰かが居れば心強い。

 

「じゃ、ウチ遊んでくるから。何かあっても呼ばなくていいよ」

 

 寧々が階段を降りていく。

 いや、調理はともかくそっちはおかしい。

 

「拙者は朔陽殿の指示に従おう。ここから、どう行動したものか」

 

 サラリと流して、和子と朔陽との作戦会議に移行するブリュレ。

 寧々への最善の対応が"相手にしない"ことだと学習してきたようだ。

 犬に意見を求められ、和子がおずおずと手を挙げる。

 

「私を隠密調査に出してくれれば、サクヒのところにいくらか情報を持って帰れるかも」

 

「和子ちゃん忍者だもんね」

 

「隠密行動の方が本分」

 

 忍者とは本来忍ぶ者。

 戦いは本業ではなく、隠密行動による情報戦こそが本業だ。

 例えば、忍者が定期的に特定の地域を全裸で走り回ってみるとしよう。

 

 「最近この近所に突然現われ恥部を露出してくる忍者が出るらしいわよ」という噂が流れる。

 「やだー怖いわねー、外出控えようかしら」となり、大人の行動が制限される。

 小学校などでも集団登校・集団下校が始まり、子供の行動も制限される。

 ただ全裸で街を走り回るだけで、特定の地域社会の者達の行動を制御できるのだ。

 これこそが忍者の御業。

 

 こういった情報への干渉こそが、現代における忍者の強み。

 情報を操り、情報を集める。

 社会の闇に潜む忍者の強さは未だに健在なのだ。

 和子を村で暗躍させれば、必ずや役に立つ情報を持って帰って来てくれることだろう。

 

「分かった。じゃあお願い、和子ちゃん」

 

「私が居ない間、サクヒは気を付けて」

 

「和子ちゃんもね。和子ちゃん時々おっちょこちょいなんだから」

 

「……その評価、いずれ覆すから」

 

 ひゅっ、と和子が姿を消す。

 とりあえず、和子が戻って来るまでは彼らも宿で待機していることに決めたようだ。

 

「ブリュレさん、吸血鬼が村の影に居るとして、見つけられますか」

 

「申し訳無い。それは難しいだろう」

 

「いえ、無茶を言ってすみません。どうかお気になさらず」

 

「誰にも得意分野と苦手分野はあろう。

 この身は戦闘にのみ特化した無能に御座る。

 ヴァニラ姫のようなあらゆる分野に特化した万能型には成れなんだ」

 

 各々がそれぞれ違う長所と短所を持ち、それを補い合ってこその仲間というもの。

 

「拙者の魔術・魔法を用いた探知能力は高くはない。

 無論、五感であれば人間よりは優れているで御座ろう。

 されども、吸血鬼相手……それもストリゴイが相手ならば、感知網は無いに等しい」

 

「……なるほど」

 

 和子は調査などに向いているが、魔力などの感知には疎い。

 ブリュレは五感に優れ魔力にも馴染みがあるが、戦闘一辺倒のタイプ。

 魔法で存在を隠している吸血鬼を見つけるには、どうにも適任者が居ない。

 この辺りは対策考えておかないとなあ、と朔陽はまた考えておくべきことを一つ増やした。

 

 朔陽とブリュレで少し話してはみるものの、そこまで生産的な話は出来ない。

 最終的には和子待ちということで結論付けられてしまった。

 朔陽は廊下を歩きながら、「吸血鬼その辺ひょっこり歩いてないかな」なんて考えつつ、廊下の窓から外を見る。

 

「んー……」

 

 いい風景の村だった。

 吸血鬼が居るなんて想像もできないくらいに。

 日差しが差し込む暖かで明るい風景に、清らかな小川、深緑の森、素朴ながらも歴史を感じさせる家屋が立ち並んでいる。

 

「あ、佐藤くん!」

 

「寧々さん? どうし……」

 

「大変! ウチの爺ちゃんの形見のお守りなくしちゃってて!」

 

「そりゃ大変だ。どこでなくしたの?」

 

「多分この宿の周りだと思うんだけど……」

 

「はいはい、宿の周りね」

 

「ウチちょっと今厄介事に手がかかってるけど、終わったらすぐ行くから先探してて!」

 

 ああ、あのカバンに付けてたやつかな? と朔陽は思い、宿の外に探しに行く。

 宿の扉がバタンと閉まったのを確認してから、寧々は上機嫌ににゃあと呟いた。

 

「まあ、嘘なんだけど」

 

 もう一回、朔陽が宿の中に居ないことを念入りに確認。

 エプロン付けて、寧々は包丁片手にふんすと息巻き、恋川このみに呼びかける。

 

「さあ恋川師匠! ウチに上手いメシを作れる魔法をかけてください!」

 

「時々純情少女みたいな言い回しになる寧々ちゃんのノリ、あたしは好きだよ」

 

「よっ、クラス一の超美人!」

 

「そういう嘘だとすぐ分かる上に、嘘だと分かると超イラッとする嘘つくところは嫌い」

 

 朔陽ほど寛容ではなく、朔陽ほど寧々に好意を持っているわけでもなく、朔陽のように寧々の嘘に付き合う気もなく、けれどもクラスメイトであるがためにある程度優しくはする。

 寧々を嫌っていない、という時点でこのみの心の広さが相当なことは伺えた。

 

「伏線は張っておいたわけよ。

 わざとらしくカバンに安物のお守りを付けて約一年。

 料理ができないと嘘をつき続けて二年。

 お守りを無くしたと嘘をつき、それを囮に料理の奇襲。

 ここに来て、年単位でついてきた嘘が生きる……伏線回収型の嘘が完成する!」

 

「伏線回収型の嘘って何?」

 

 さーてこの嘘でどんな顔してくれるかな、なんて台詞をウキウキした顔で呟いて、寧々は料理に手をつけ始める。

 祖父の形見のお守りをなくしちゃったという嘘を使って気を逸らし、料理ができないという嘘から料理ができるという真実を叩きつけ、朔陽を仰天させる。

 そういう作戦である。

 バカじゃねえの? と言われて当然の嘘プランであった。

 お前もっと労力かけること他にないの? と言ってはいけない。

 彼女にとっては、嘘こそが人生の肝なのだから。

 こういうのが楽しくて、彼女は今日も生きているのだ。

 

「わっはっは、ま、そういうのはあたしも嫌いじゃないよ」

 

 いい意味でのサプライズを行うための嘘ならば、このみも手伝うことに異論は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宿周りの草むらの中を、草をかき分けるように朔陽は探す。

 昔から幼馴染達のせいで、よく草むらに突っ込んだ野球ボール・サッカーボール・クナイ・うまい棒などを探していた朔陽は、この手の物探しも慣れたものだ。

 

(……嘘っぽいなあ、とは思うけど。というか寧々さんもその辺承知で言ってた気はするけど)

 

 寧々が本当のことを言っていない可能性に、朔陽は当然思い至っている。

 それでも捜索の手は止めない。

 

「本当になくしてたとしたら、寧々さんは本当に困るだろうしなあ」

 

 彼女の言を信じて探すのは、彼女の言葉が本当である可能性を信じてもいるから。

 彼女の言葉が本当だったら? それを嘘だと思ってしまったら? それで彼女が泣いてしまったら? そう思うだけで、朔陽はお守り探しを適当にやることさえできなくなってしまう。

 どうせ他にやることもないんだから、と真面目に探す。

 宿の前で何か起こるわけもないだろう、と真面目に探す。

 どうせ嘘でも「うっわまた騙された」で終わるだけの話だ、と真面目に探す。

 

 その時。ブゥン、と何かの羽音が彼の耳元を通り過ぎて行った。

 

「……?」

 

 羽音が、朔陽の中の『警戒心』と『判断力』をごっそりと削り取る。

 朔陽自身にも、気付かせないままに。

 

(なんだ)

 

 蚊が一匹、朔陽の首筋に止まり、その首筋を刺す。

 蚊は血を吸わない。

 逆に蚊が体内に蓄積していた『吸血鬼の血』が朔陽の中に流し込まれてしまう。

 それ自体は特別な作用をもたらさない。

 が、その血が精神に作用する魔術の媒体として機能し、朔陽の精神を傀儡と化した。

 

 この世界の人間であれば、一般人であってもその魔術に抵抗することはできただろう。

 だが、朔陽は地球人。

 魔力に馴染みが薄く、魔力への抵抗も知らない一般人だ。

 ゆえに、抵抗もままならない。

 

(なんか変……変なのか?)

 

 朔陽が宿の前で襲われれば、流石にブリュレが気付いただろう。

 だが、宿の前でなければ?

 操られた朔陽が宿の前を離れ、村周りの森の中に移動した後ならどうなる?

 人間が誰も居ない森の中なら、朔陽を誰かが襲っても、誰も気付けないのではないだろうか?

 朔陽は違和感を覚えながらも、違和感を自覚できないまま、夢遊病者のような足取りで村の外へと歩いていく。

 

 かくして、操られた朔陽は森の中にまで連れて来られてしまう。

 

(いや……そうじゃなくて……これは……なんだろう)

 

 自分の心も体も他人に操られたままの朔陽は、そこで六体の吸血鬼(ストリゴイ)と、空中を舞う無数の蚊(きゅうけつき)と、それを従える吸血鬼の王様を見た。

 

「驚いたな。ここまで他者の魔力に無防備だとは思っていなかった」

 

 病的に白い肌。

 貴族のような服。

 アルビノを思わせる色合いの目と髪。

 吸血鬼の王は、典型的な吸血鬼そのものといった姿をしていて、家畜を見るような冷たく静かな目で朔陽を見ていた。

 

「異世界人というのはここまで魔術に無防備なものであったか。何事も試してみるものだ」

 

 地球人には、地球人の規格外さがあり。

 地球人には、地球人だけの弱点があり。

 この世界における蚊は、地球とは違い恐るべき吸血鬼の一種であった。

 

「名乗っておこう。我が名はツヴァイ・ディザスター」

 

(! 十六魔将……)

 

 吸血鬼の王にして、魔王軍の将。

 それが、このアルビノの吸血鬼の正体。

 

「貴様が地球人、とかいう異世界人か。

 魔王様は不確定要素であるお前達をいたく気にしておられる。

 何、我らの目的はただの調査だ。

 お前達を知り、それを魔王様に伝えられればそれでよい。

 貴様が素直に情報を全て吐き出せば、拷問は短く済むと約束しよう」

 

「……!」

 

 寧々が嘘を操り村人から集めた情報の通りだ。

 この吸血鬼は調査のためこの村にやって来ていた。

 されど、それはこの村に調査対象が居たからではない。

 このみが訪れたことがあったからだ。

 "戦闘力のない地球人が来ると約束された田舎村"だったからだ。

 

 地球人のことを知りたければ、非戦闘員を捕まえて拷問でもすればいい。

 そしてそれはこのみである必要もない。

 朔陽であってもいいのだ。同じ非戦闘員であるのだから。

 ツヴァイは朔陽が野外で一人になったから、それを狙っただけに過ぎない。

 運悪く――運良く――朔陽はこのみの身代わりになる形となってしまった。

 

 ツヴァイの手が朔陽の首を掴み、その体を持ち上げた。

 

「! か……ふっ……!」

 

 瞬間、致死量ギリギリまで朔陽の体内から血が吸われてしまう。

 朔陽の体には何も刺さっていない。

 朔陽の肌には傷一つない。

 にもかかわらず、吸血鬼の王は朔陽の首に触れた手から、朔陽の体内の血を吸い取ってみせたのだ。

 

(針なし注射器みたいなことするなこいつ……!)

 

 失血の症状が朔陽の体に表れ始めた。

 体温は下がり、気持ちの悪い寒気がする。

 拭いきれない吐き気が不快で、死にたくなるくらいに苦しい。

 手足の先はしびれ、目がチカチカして、心臓の動悸が不安定な気までしてきて、何やら胸の奥にまで苦痛がやってくる。

 貧血で意識は今にも飛びそうだ。

 が、朔陽は歯を食いしばって飛びそうになる意識を繋ぎ止める。

 

(諦めるな、諦めるんじゃない、僕が今すべきことはなんだ……!?

 こいつらに抵抗……仲間にメッセージを残す……他には、何か……!)

 

 気絶してしまえば、この状況でできることが本当になくなってしまうから。

 

「このくらいか? 死なれても面倒だ。さあ、帰還するぞ」

 

 王は朔陽を抱え、配下の吸血鬼達を従え帰還しようとする。

 目的を達成したならさっさと帰還する。賢明だ。

 ……だが、強いて言うならば。

 佐藤朔陽を目標に選んだことだけは、失策だった。

 

 瞼が瞳を覆うに等しい刹那の一瞬。

 その一瞬で、吸血鬼達を囲むように火遁の火球が現われていた。

 火球は彼らに同様と驚愕をもたらし、モスキートを燃やしながら彼らに迫る。

 

「これは!?」

「ツヴァイ様!」

「お気を付けください!」

 

 六体のストリゴイ達も飾りではない。

 火遁の火球を魔術や体術にて迎撃し、粉砕した。

 されどこの火球は囮である。

 

 火球の光で光陰を操り、視線を誘導。

 火球に注意を集め、視界の死角を作成。

 かくしてくノ一は、六体のストリゴイに見咎められることもなく、朔陽を持った吸血鬼の王の至近距離にまで接近する。

 忍者がクナイを振るう。

 王が腕を振るう。

 凡百の吸血鬼の目にも留まらぬ……否、目にも映らぬ高速かつ瞬間の攻防。

 

「―――!」

 

 結果、和子は王に蹴り飛ばされ、行き掛けの駄賃とばかりに全体重をかけた体当たりと関節技の複合技にて、六体のストリゴイの内一体の首を引っこ抜いていく。

 ぶちっ、と首を引きちぎられた吸血鬼の首断面から、血の噴水が吹き出していた。

 

「ふむ」

 

 王はぐったりとした朔陽を抱え直し、森の木々の影に溶け込んだ和子に語りかけた。

 

「どうしてこの場所が分かったのだ?」

 

「得物を仕留めるため息を潜めて待ち構える強者。

 自分の命を守るため極限まで身を隠そうとする弱者。

 身を隠すには二種類あって、あなたは前者。

 『見つかったら全て終わる』という覚悟があって初めて、隠形は完成する」

 

「理解した。一人捕まえた時に僅かに油断した気の緩みを、貴様に察知されたということか」

 

 王は部下達を下がらせながら、自分の失敗を理解する。

 それは、サバンナで茂みに身を隠す肉食動物の隠れ方と、鳥に食べられないよう木の枝に完全に擬態する虫の隠れ方の違いだろうか。

 いずれにせよ、朔陽に手を出した時点で彼らが和子に見つかるのは必然だったというわけだ。

 ぐったりした朔陽の口から、小さな声が漏れる。

 

「わ……こちゃ……」

 

 その声が、和子の長く綺麗な黒髪を、一瞬猛獣のように逆立てた。

 

「返せ」

 

 正面から飛びかかってくる和子を嗤い、王は片手で朔陽を抱えたまま迎え撃つ。

 

「取り戻してみるがいい」

 

 その刹那、奇襲のタイミングを伺っていたブリュレが物陰から飛び出し、ツヴァイの背後から急襲した。

 

「語るに及ばず!」

 

 前から和子、背後からブリュレ。

 完全に成功した挟み撃ち。

 されど対応する吸血鬼の行動速度は、空翔ける白狼と、滑るように地を走る忍者の速度を、ほんの僅かに上回っていた。

 

「『血漿斬』」

 

 すっ、と吸血鬼の王が指を振る。

 オーケストラの指揮にも似た優雅な所作。

 その所作に絶対的な命の危機を感じ取り、和子と朔陽は回避行動を取る。

 瞬きの間に指先より赤い何かが放たれて、細くどこまでも伸びるそれが、和子達には当たらず村の風景の山々をなぞる。

 

 一秒遅れて、背景が、切断された。

 

「!?」

 

 豆腐をナイフで斜めにスパッと切るかのように、山が綺麗に切断されていた。

 斜めに切られた山の上部が、地すべりを起こし滑り落ちていく。

 大質量が滑り落ちていく轟音は、否応なしに今の一撃の威力を物語っていた。

 

「山が、切れた……!?」

 

「我が血液は至上の命を液体とし身の内に巡らせているもの。

 これを圧縮し、魔術によって発射した時、我が血は山をも切り裂く刃となる」

 

 血液を魔術で圧縮して打ち出し、風景を両断するレベルの斬撃として昇華した魔術、血漿斬。

 極めてシンプルであるがために、溜めも事前動作も必要ない。

 二発目を撃たせれば、誰かが殺られる。ほぼ確実に。

 

「『ウィズマ』!」

 

 ブリュレはその一動作さえも許さないとばかりに、風の中級魔法を放った。

 

「結構」

 

 ツヴァイは近場にあった岩を蹴り飛ばして対応する。

 蹴り飛ばされた岩が消滅した。

 否、粉々になって飛翔したのだ。

 粉砕された岩が蹴り飛ばされた衝撃を纏い、中級魔法を飲み込み消し飛ばす。

 

「!」

 

 それだけに留まらず、ツヴァイが蹴り飛ばしたそれは、横に跳んだブリュレが一瞬前まで居た場所を完膚なきまでに破壊して行った。

 地面は抉れ、大木は粉砕されている。

 蹴りの衝撃波で大木が粉砕されているのか、蹴り飛ばされた岩の破片が当たり大木を粉砕しているのか、どちらなのかさえも分からない。

 ブリュレが回避していなければ、彼も犬肉のミンチと化していただろう。

 

 王の背後から攻めかかる和子には、透明な魔力の吸血管を発射する。

 現代の吸血鬼は吸血に牙を立てる必要すらない。

 殺して血を吸うだけならば、魔力の管で事足りる。

 数は十二。

 魔力製、ゆえに和子には見えない。

 地球人の特性をよく理解したその攻撃は、和子にひらりと避けられた。

 

「たかだか目には見えないだけ」

 

「大気の揺らぎを感知し回避したか。まるで獣だな?

 魔力の感知も出来ない原始民族かと思えば……存外やるものだ」

 

 空気の揺らぎが見えない忍者が居るだろうか? いや、いない。

 その程度もできない忍者が夜に任務を果たせるはずがないだろう。

 夜は光に頼っていては何も見えないのだから

 とはいえ攻めあぐねていることも事実。

 この吸血鬼、隙が無い。

 

「影分身」

 

 和子は影分身を六体生成し、ブリュレと自分自身を合わせた八方向からの攻撃を開始した。

 これでもまだ、朔陽を取り戻すには手が足りない。

 朔陽を片腕に抱えているツヴァイ相手に攻めきれない。

 

(これは、私とワンちゃんだけじゃ足りない。せめて運動部がもう一人居れば……!)

 

 和子が表情を歪める。

 剣道部の剣崎辺りが居れば、先の血漿斬という山を切る斬撃に山を切る斬撃を合わせて、相殺して隙を作ることもできただろう。

 が、居ないものはしょうがない。

 面倒臭い現実は、その場に居る者達の手で打開していかなければならないものだ。

 

「なんで……部下を……戦わせない?」

 

 朔陽が声を絞り出す。

 何故部下を参戦させないのか?

 朔陽視点、この戦いの中で、その一点だけがどうにも不気味だった。

 

「貴様らは雑魚だ。

 だが、我の部下はそれに輪をかけて弱い。

 まだまだ年若いストリゴイなど未熟そのものだ。

 この年頃から貴様らのような者達と戦わせてしまえば、死んでしまうではないか」

 

「……っ!」

 

「弱いとはいえ、同族だ。同族が育つまで守るのは吸血鬼の王たる義務であろう」

 

 まあ死んでも我は気にせんがな、と王は鼻を鳴らす。

 この男に優しさは無い。

 慈悲もない。

 だが義務感はある。

 弱い同族に価値を全く見ていないのに、弱い同族が死んでもなんとも思わないのに、義務感だけで同族を危険な戦いから遠ざけていた。

 

「我は一人で完結している。完成している。

 弱いがゆえに群れなければならないお前達のような弱小種族とは違うのだ」

 

 ツヴァイは朔陽を掴み上げつつ、弱い人間を、弱い狼を、弱小種族と嗤う。

 その嘲笑が、朔陽の目の色を変えた。

 

「う、ら、あっ!」

 

 動かない体に喝を入れ、全身の力を集中してなんとか首だけ動かして、ツヴァイの手に思いっきり噛み付く。

 文字通りに歯が立たない。

 吸血鬼の肌には傷一つ付かない。

 生物として根本的に強さの差がありすぎる。

 それでも、全力で噛み付いた。それは弱い人間の意地だった。

 

 驚いたのはツヴァイだろう。

 朔陽が今指一本動かせない状態だということは、血を抜いたツヴァイ自身が一番良く分かっている。

 なのに動いた。噛み付いてきた。

 そのささやかな抵抗と、それを成立させた精神力に、ツヴァイは今日一番に驚かされたのだ。

 

「僕らは……弱いから群れてるんじゃない……

 一緒に居るから、寄り添って支え合うから、強いんだ!」

 

「―――」

 

 その言葉が、ツヴァイの、ブリュレの、和子の目の色を変えた。

 

「くははははは……ならば、何度でも突きつけてやろう! 貴様らは、弱い!」

 

 ツヴァイが再度血漿斬を撃たんとする。

 今一度放たれれば、死傷は必至。

 されど既に準備は終えられた。

 朔陽がツヴァイに噛みつき、ツヴァイの注意を引きつけたほんの僅かな時間に、和子は影分身の内一体を地面の下に潜行させ、接近。

 地面の下から飛び出すと同時に、朔陽をツヴァイから取り戻すことに成功していた。

 

「何!?」

 

 "こいつ月を見上げてしょっちゅう高笑いしてそうな顔してるし、足元がお留守かも"という和子のアホ思考からくる下方からの奇襲は、どうやら大正解だったらしい。

 

「地を走るに等しき速度で地の中を走る。(これ)土遁の極意(なり)

 

 地中と地上を同じ速度で走れるからこその忍者。

 

「私の一番大切なもの、確かに返して貰った」

 

 和子本体は分身からぐったりした朔陽を受け取り、愛おしげにぎゅっと抱きしめる。

 ツヴァイは手を伸ばしてまたしても魔術を放とうとするが、風のように跳んできた無言のブリュレに爪で手を引き裂かれ、魔術を妨害されてしまう。

 

「む」

 

 ツヴァイは痛がる様子さえ見えなかったが、眉を顰める。

 和子とブリュレの気迫が、先程までとはまるで違っていた。

 覚悟が違う。

 戦意が違う。

 熱量が違う。

 強い決意は強い力となって、心から心へと伝搬する。

 弱者が見せた戦う意志は、強者の心を震わせていた。

 

「次はどんな手を打つ? 何を見せて我を楽しませてくれるのだ?」

 

 口元を醜悪な形に歪め、ツヴァイは嗤う。

 和子は目を細め、手元で次々と印を組み、とっておきの忍術を発動させた。

 

「口寄せの術……ビッグ・カープ!」

 

 かくして森に召喚されるは、50mはあろうかという巨大な(コイ)

 

「ぬおっ、巨大鯉!?」

「飛び跳ね……うおおっ!」

「距離取れ距離! あいつらを見失うな!」

 

 地上に打ち上げられた鯉はピチピチと飛び跳ね、森の木々を薙ぎ倒しながら暴れ回る。

 当然ながら巻き込まれれば潰れて死ぬ。

 ツヴァイ以外の吸血鬼は大慌てで距離を取り、ツヴァイは周囲を油断なく見回すも、鯉を囮にした和子達は既に逃げ切ったということを知る。

 ツヴァイは思わず舌打ちしてしまった。

 

 一方和子達は、ぐったりした朔陽を抱え、別方向の山の中へと逃走していた。

 このままこの場所に居続けるわけにはいかない。

 かといって村にも戻れない。

 必然的に、村の周囲のどこかに逃げる必要があった。

 

(カープ)は広島の希望。

 かつて日本では巨人の圧政に反逆する者の象徴の一つだった。

 この世界で見つけたから、とりあえずで口寄せ契約をしておいてよかった」

 

「結果論ではあるが、英断であったな。その英断に感謝する」

 

 カープの力で逃げられたものの、今頃カープも血漿斬で刺し身にされていることだろう。

 戦いは無情である。

 

「手早くネネ殿とコノミ殿も回収しよう。まず拙者が……」

 

「あ、それは大丈夫。私の分身二体を迎えに送っておいたから。ほら、あそこに見える」

 

「……ニホンジンというのは多芸なのだな」

 

 魔法が使えず忍術しか使えない和子は、ブリュレの発言の意味をイマイチ理解できずに首をかしげた。

 到着するやいなや、このみと寧々が驚いた顔で駆け寄ってくる。

 特に嘘をついて彼を宿の外に出してしまった寧々の動揺は、このみと比べて数倍大きかった。

 

「佐藤くん!?」

 

 寧々の動揺を見て、クラスメイトとの付き合いが浅い和子は心底驚く。

 

「う……ウチのせい? ウチが嘘ついて、宿の外に出したから……」

 

「……どういうこと?」

 

 そして続く言葉を聞き、敵意を込めて寧々を睨んだ。

 詳しい経緯を聞き、和子は更に敵意を高める。

 寧々への敵意と、朔陽が襲われた時に傍に居られなかった罪悪感が、両方一緒に和子の中で膨らんでいく。

 

 寧々は悪意をもって嘘をつき、彼を外に出したわけではない。

 朔陽が寧々の言葉を真に受けてしまったからこうなった、というのも原因ではある。

 だが、寧々が嘘をつかなければこうはならなかったというのも本当だ。

 "宿の周囲なら大丈夫だろう"という軽率な思考が寧々にあったこともまた事実。

 この状況は、寧々の虚言癖が招いた状況であるとも言える。

 

「……うっ」

 

「サクヒ!」

「佐藤くっ……」

「いいんちょさん大丈夫? 意識ハッキリしてる?」

 

「走馬灯の中で……ふと、思いついた。

 照れ隠し。ヒロインの人気要素の一つ、照れ隠しっていうのがある。

 テレを隠せばいいんだ。

 ゴールデンタイムのテレビ少女がテレ隠しすれば、ゴールデンタイムのビ少女……

 あら不思議、照れ隠ししただけで美少女に……

 多分このネタで何か笑える小話作れそうな気がするんだ、頭回らないけど……」

 

「割と余裕あるねサクヒ」

 

 ふざけたことを言う朔陽の言動が、皆の肩の力を抜く。

 されども彼の声に力はなく、表情こそ笑顔だが顔色は真っ青。

 無理をして元気な様子を見せているだけなようだ。

 全ては、仲間を安心させるために。

 

「サクヒ、今は無理しないで。やせ我慢されても、私達は嬉しくない」

 

「……ん」

 

 朔陽は目を閉じ、体を地面に横たえる。

 このみは看病を開始し、ブリュレがその手伝いを始める。

 朔陽を見下ろしゾッとする無表情を顔に貼り付けた和子に、寧々は恐る恐る話しかけ、手を伸ばした。

 

「あ、あの……和子ちゃ……」

 

 伸ばされたその手を、和子は叩いて弾く。

 "その手は取らない"という強烈な意志表示。

 

「私は……臆病で、優しくもなくて、ダメな奴で、引きこもりだから。サクヒにはなれない」

 

 強烈な拒絶。

 

「サクヒと違って、嘘つきの人は信じられない」

 

 このクラスの最大の弱点は、佐藤朔陽が一番上で手綱を握っていなければ、ほんの少し突いただけでこうなりかねないという点にあった。

 

「……」

 

 口の上手い寧々が、とっさの返答を思いつけていない。

 何故嘘をついたのか? 嘘をついて朔陽がこうなる状況を招いてしまったのか?

 嘘をつかれた時の朔陽の顔が見たかっただけだから、だ。

 そんな理由でついた嘘を、上手く言い繕うことなどできない。

 

 朔陽の大怪我に動揺していた寧々は思わず、論理的にではなく、感情的に反論してしまう。

 

「良い人が損をするのは!

 優しい人が貧乏くじを引くのは!

 そういう人が騙されるのは!

 その人が良い人で優しい人なのが悪いんだ! ウチは悪くない!」

 

「サクヒは悪くない! 優しいこと、信じることが悪いなんてことあるはずがない!」

 

 和子が寧々の両肩を掴み、至近距離から痛烈な言葉を叩きつける。

 

「なんで『ごめんなさい』が言えないの!?

 本当に本気で謝れば、あなたが嘘をついたって、周りの人は許してくれるのに!」

 

「―――っ」

 

「私はサクヒみたいにはなれない!

 謝ってもいない人を許すことなんて、できない!

 ……私の一番大事な幼馴染を傷付けた人を、許すことなんて……!」

 

 和子は寧々を責めている方なのに。

 寧々は嘘のことで責められることなど、慣れっこなはずなのに。

 二人共、泣きそうな顔をしていた。

 

 寧々は思わず、自分のポニーテールを留めている鈴付きのヘアゴムに触れる。

 昔朔陽と一緒にゲームセンターに行った時、彼に貰った物だ。

 "机の端っこにでも置いておいて、想い出を懐かしむのにでも使えばいいよ"と言われて貰った、100円ゲームで取った安物。

 安物の、友情の証。

 今は倒れた友との想い出。

 そのヘアゴムが、寧々の内側に心を押し潰しそうなほど大きな罪悪感を生み出していく。

 

 寧々は和子を振りほどき、落日と共に森の中へと現れた夕闇へ向かって逃げ出した。

 

「私は悪くない! 悪いのは、簡単に騙される佐藤くんの方でしょ!」

 

 和子は後を追わない。

 寧々はすぐに夕闇の中へと姿を消してしまう。

 そんな寧々を見て、恋川このみは心底呆れた様子で溜め息を吐く。

 

「ったく、いいんちょさんが居ないとすぐこれなんだから」

 

 自分は悪くない? 悪いのは朔陽? 寧々の台詞の、なんと分かりやすいことか。

 

「『誰を悪いと思ってるか』ってところまで、嘘つかなくていいでしょうに」

 

 寧々は和子に敵意を向けられても喜んでいたはずなのに、和子に朔陽の件で責められただけで、こんなにも傷付いている。

 嘘をつく罪悪感は楽しめても、自分のせいで友達が取り返しのつかないことになることは耐えられない。

 

 子々津音々寧々は嘘つきにはなれても、悪党にはなれない少女であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 弱りきった朔陽の頬を、ブリュレが舐める。

 朔陽は真っ青な顔で強がり微笑む。

 ブリュレは慈しみを示し、朔陽は心の強さを示した。

 

「……すみません、弱くて。ご迷惑……おかけします。皆を、お願い、します」

 

「気にすることはない。

 これから成長していけばいいのだ。

 其方らは我らから見れば、永遠を生きるに等しい者達なのだから」

 

 朔陽は焦点が安定しない目を、ブリュレに向ける。

 

「我らの寿命は平均で十年。

 其方らの十分の一も生きられぬことも多い。

 生後一年で成人となり、そこですぐに家庭を持つ者も少なくないので御座る」

 

「それは……早いね」

 

「パンプキン卿には祖父の祖父の代から代々仕えている。

 パンプキン卿のお父上……モナ・フレーバー王には、三十代前からで御座るな」

 

「そんなに」

 

 寿命十年、成人一年。

 その辺りは地球の犬とそう変わらないらしい。

 ブリュレの一族から見れば、人間は途方もなく長い年月を生きる長命種。

 祖父の祖父が赤ん坊の時に可愛がってもらったという言い伝えが残るような、そんな命だ。

 なればこそ、彼らの一族と人間の間に積み重ねられた恩義と絆は、個人の繋がりを超え、種族と種族の盟約を結ぶほどのものとなった。

 

 『獣は人の守護者となること』。

 『人は獣の庇護者となること』。

 その誓約は、いまだ破られてはいない。

 

「拙者もあと五年は生きられないで御座ろう。

 其方の人生の終わりまで、拙者は付き合えない。

 其方を最後まで守り続けることは、望んでも叶わない。

 其方の残された未来の時間は、拙者にとって永劫に等しいが故に」

 

 ブリュレはいつかどこかで死ぬ。

 朔陽より先に死ぬ。

 それは、避け得ぬ運命だ。

 

「されど、長ければあと五年。

 其方が元の世界に帰るか、其方が大人になるまでの時間は……

 拙者の目の届く範囲に居る其方を、拙者の牙と爪は守ることが出来るで御座る」

 

「―――」

 

 朔陽が子供で居る内は。朔陽がこの世界に居る内は。必ず守ると、彼は言う。

 

「成長していけばよい。それでよいのだ。

 我らの種族は生後一年で成人、一人前とみなされる。

 ……いや、正確には、『生まれて一年も経ったのなら一人前になれ』と周囲から見られる」

 

「……」

 

「其方も変われる。

 誰にも胸を張れるような大きな男に、其方は成れる。

 其方には、拙者から見れば永遠にも等しい『成長していける時間』が残されているのだから」

 

 ブリュレは朔陽に背を向け、山々を見る。

 吸血鬼達が朔陽達を探している。

 見つかるのは時間の問題だ。

 ゆえに、誰かが戦わねばならない。ここで戦わねばならない。

 

 人の命を、守るために。

 

「ワコ殿。ここでサクヒ殿の守りを頼みたい。モスキートは必ず潰すように」

 

「……分かった」

 

 人間を置き去りにし、闇の中を駆け、一番近くに居たストリゴイに急接近。

 そのままの勢いで飛びかかった。

 

「!?」

 

 吸血鬼の驚く顔を無視して噛みつき、ブリュレはストリゴイの首を噛みちぎった。

 首の肉と骨を不味そうに吐き出し、残り四体となったストリゴイと、それを従えるツヴァイ・ディザスターに相対する。

 

「一人で……いや、一匹で来たか。

 我らには勝てぬと察し諦めたか? その潔さは良しとしよう。

 ぞろぞろと弱者の群れに群がられても、億劫だ。弱者の群れは実に醜い」

 

「諦める? 笑わせるな。人と我らの絆を、あまり舐めないで頂きたい」

 

「……何?」

 

 一匹で来たブリュレを嘲笑っていたツヴァイが、怪訝な顔をする。

 

「我らは弱いから群れているのではない。

 共に在るからこそ、寄り添って支え合うからこそ、強いのだ」

 

 その言葉を聞き、ツヴァイはこの狼が何も諦めていないことを察する。

 

「今宵の拙者を一匹狼だと侮るのであれば、貴様の死は決まった」

 

 彼の種族は多くの呼び方をされている。

 犬とも、狼とも呼ばれる。

 それは日本人、ジャパニーズ、大和の民、倭の民といった呼称が日本人にも存在するのと同じことで、呼び方は違えど実体は一つ。

 

「我らは犬。我らは狗。我らは戌。我らは狼。

 遠き時の果てより、幾百代の世代を重ねた人の良き隣人」

 

 人間種にとって最も近しく、最も親しい、良き隣人である。

 

「人によってはその勇気を、つまらぬ勇気と笑うだろう。

 愚かさであると笑うだろう。

 騙されるという恐怖を踏み潰すそれを、勇気とは呼ばぬと言うだろう。

 だが拙者は、騙されようとも他者を信じ続けるその勇気を、彼の勇気を好ましく思う」

 

 ブリュレは吠える。

 

 子供の朔陽達より長く生きてもいないけれど、それでもブリュレは彼らと違い、大人だから。

 

「貴様らは罪なき少年を傷付けた。

 少年が守ろうとした少女を泣かせた。

 その罪、万死に値する。素っ首置いて地獄に参れッ!」

 

 勇気を以て只一匹、吸血鬼の王に立ち向かって行った。

 

 

 



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その4

 黒い泥、草木の断片、敵と自分の血にまみれながらも、ブリュレは駆ける。

 戦闘中に死ぬ気で捻出した時間に、風の上級攻撃魔術の詠唱を終えた。

 詠唱終了と同時に、眼前のストリゴイに叩き込む。

 

「『ウィズレイド』ッ!」

 

「グギャアッ!」

 

 鋭い風の刃だけで構成される乱気流の魔術。

 ミキサーの中に入れられたクッキーのようにストリゴイの肉体が切り刻まれ、ブリュレ最強の風魔法はそのまま一直線にツヴァイに向かう。

 敵を一体仕留めつつ、敵の体を使って魔法の初動を隠そうという小細工か。

 されどもツヴァイは、余裕をもって火の中級魔術を発動する。

 

「『フレルマ』」

 

 火が風を焼き尽くし、風の刃が一つだけそり立つ火の壁を突破する。

 風の刃は吸血鬼の頬を切り裂くが、吸血鬼はニタリと笑って頬の傷を指でなぞった。

 人がまばたきを一度する程度の時間で、頬の傷は完治する。

 ストリゴイと比べても非常に高い再生能力は、小さな傷の積み重ねすら許さない。

 

 結果だけ見れば、風の上級魔術を火の中級魔術でほぼ相殺された形だ。

 それがそっくりそのまま、この二人の魔術技量と魔力量の差を表している。

 

「いい眼だ。死を覚悟している。犬畜生にしては悪くない」

 

 ツヴァイが見下しながらもその健闘を称えれば。

 

「十年で尽きる命が、百年を生きる命を守る。

 それだけで価値があろう。

 それだけで意味があろう。

 それだけで未来があろう。

 彼らの明日を守れるのなら、この命を賭けるに値するで御座ろうよ!」

 

 ブリュレは喜ぶこともなく、ツヴァイに猛然と飛びかかる。

 急所を堅固に守るツヴァイの手足をすれ違いざまに爪で抉るが、その傷も一秒後には全快してしまっていた。

 

「悪くはない、が」

 

 カウンターとばかりに、ツヴァイのゆったりとした予備動作から神速の腕振りが放たれる。

 直接命中はしなかったが、腕振りだけで発せられた衝撃波が、ブリュレの体を強烈に打ち据えていた。

 高層ビルの上から飛び降りて水面に叩きつけられるような、体の一面を叩きつつも全身に響く衝撃ダメージ。ブリュレは吹き飛ばされ、転がされてしまう。

 

「ぐっ……!」

 

「貴様の種族で最強を名乗れるほどではないな。

 この程度であれば、百年前に戦った銀狼の方がまだ強かった」

 

 しまいには長命種特有の思い出話で、同族と比較され罵倒されるという始末。

 白狼の爪も、牙も、吸血鬼の王には届いてはいる。

 だが肉を敵に切らせることを躊躇わず、重傷以外の傷はすぐ治ってしまうツヴァイが相手では、決定打が足りない。

 せめて、首を食い千切るくらいの決定打が欲しい。

 

 一瞬飛びかけたブリュレの意識に、朔陽の言葉が蘇る。

 

―――このみさんと寧々さんをお願い。できれば極力あの二人の傍に居て欲しい

―――……すみません、弱くて。ご迷惑……おかけします。皆を、お願い、します

 

 彼の願いは、一貫していた。

 戦えない仲間を守って欲しいと、一貫して言っていた。

 守って欲しい『誰か』の中に、朔陽は自分を入れていなかった。

 そんな彼に、ブリュレは誓いを捧げたのだ。

 

■■■■■■■■

 

「承知した、これを誓約としよう。

 コノミ殿とネネ殿は何があろうと傷一つ付けさせぬ。

 この誓約が破られし時、拙者はこの首を刎ねて其方に捧げると誓う」

 

■■■■■■■■

 

 ゆえに和子を最後の守りとし彼女らの下に置いて、ブリュレは一人ここに来たのだ。

 朔陽が守ろうとしたものを戦場から遠ざけた。

 朔陽が守ろうとしたものを傷付けるものを倒しに来た。

 全ては誓約を果たすため。

 血を踏み締める犬の足に、力が入る。

 

「……白狼を舐めるな。我らが、人と交わした誓約を破ることはない!」

 

 ブリュレは跳び上がり、頭上よりツヴァイとの距離を詰める。

 吸血鬼の王は腰だめに引いた手に魔力を込め、空のブリュレに向かって振るった。

 

「『血漿斬』」

 

 魔術が飛ぶ。

 白狼が跳ぶ。

 空中で回避行動を取ったブリュレに当たらなかった血漿斬は、空まで届き空の雲を両断した。

 両断された雲の細い切れ目から、小さな星が顔を覗かせている。

 

 血漿残を回避したブリュレはそのままの勢いで、ストリゴイの一体に突撃。

 ストリゴイが放った火の魔法に真正面から突っ込み、突き抜けた。

 全身を焼かれながらも全体重をかけた頭突きにて、ストリゴイの胸部肋骨を粉砕する。

 

「ぐっ!?」

 

 更にはストリゴイを組み伏せ、ひと噛みで胸の肉と骨を噛み抉り、二度目の噛みつきで吸血鬼の頑丈な心臓を念入りに噛み砕く。

 こうでもしなければ吸血鬼は死なない。

 極めて鮮やかな手並みで、一瞬にて致命の傷を叩き込む。

 

「ぐあああああっ!」

「クソ、こ、こいつ! 往生際が悪い!」

「固まれ! ツヴァイ様の足手まといにはなるな!」

 

 ストリゴイは残り二体。

 だがその後ろに控えるツヴァイを倒さなければ、状況は好転しないだろう。

 ブリュレは今一度奮い立つ。

 

「地に還りたい者からかかって来るが良い!」

 

 人との約束を忘れぬブリュレは、忠犬を形にしたような男であった。

 

 死闘は続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森の中で一人、寧々はうずくまる。

 

「……っ!」

 

 胸をかきむしるような後悔があった。

 

「こんな風になって欲しかったわけじゃ、なかったのに……!」

 

 嘘で騙すことで他人が傷付く可能性を、彼女が知らなかったわけではない。

 ただ、こういう結末にはならないよう、寧々は気を付けられる範囲ではいつも気を付けてきた。

 村に来るまでの道中といい、この一件といい、寧々のそういった警戒はことごとく的を外してしまっている。

 

 それも当然だろう。

 真実を語ろうが、嘘を語ろうが、結果として最悪の現実がやって来ることはままあるものだ。

 嘘を語ったがために、彼女は大きな罪悪感に潰されそうになっている。

 倒れた友がその罪悪感を倍増させる。

 自業自得だ。

 狼少女の嘘のツケは、周囲の誰かが支払った。

 罪は消えず、罪悪感は消えず、時計の針は戻らない。

 

「ウチは……ウチはっ……!」

 

 寧々は嘘をつき、朔陽を騙し、それでも朔陽に許容されていた。

 言い換えれば、寧々は嘘をついたという罪を朔陽に許し続けられていたからこそ、朔陽に善意を向けられていたと言える。

 

 好きだから許せる、好きじゃないから許せない、というパターン分けは人間にも多い。

 寧々は許されることで、彼にとって特別に大事な人間になった気分を得ていたのだ。

 たとえ、それが幻想でも。

 朔陽にとって一番に大切な人ではない、と理解しつつも。

 彼に許されることで、彼からの親しみ・友情・好意を確認していたのだ。

 それがこの現状を招いたとするのなら、寧々は自分を許せない。

 

「和子ちゃんが許さないのなら……ウチだって、もうウチのこと、許しちゃダメだよね」

 

 一生自分を許さない気持ちが、彼女の中で固まりそうになったその瞬間、背後から彼女に声をかける者が居た。

 

「いいよ、許してあげなよ。自分のこと」

 

「!」

 

 立ち上がり、振り返り、寧々は薄い月明かりの下、青い顔をして立つ朔陽の顔を見た。

 

「佐藤くん!? もう動けるようになったの?!」

 

「いや、体は自分の意思じゃ全然動かせないまんまだね」

 

 よく見れば、朔陽の全身に夜だと見えないほどに細く透明な糸が見える。

 その糸の先は、少し離れた場所に立つ和子の指先と繋がっていた。

 

「懸糸傀儡……朔陽の体は今、私が操作してる」

 

「! 和子ちゃん……」

 

 和子はジト目で寧々を見るが、寧々は目を合わせず、逃げるように目を逸らした。

 そんな寧々に、朔陽は穏やかに語りかける。

 

「あのさ寧々さん、一つだけ確認しておきたいんだけど。

 お爺ちゃんの形見のお守りなくしたっていうの、あれは嘘?」

 

「え? うん、嘘だけど……」

 

「あーよかった。結局見つからなかったんだよお守り。

 寧々さんが本当になくしてたってわけじゃなくて、本当によかった」

 

「―――っ」

 

 朔陽の善意の言葉が、心底ほっとした顔が、寧々の良心を深く抉る。

 心を乱す。

 平常心を砕く。

 胸を痛ませる。

 泣きそうになった目をしばたかせて、寧々は癇癪を起こしたかのように、心にもないことを叫び始めた。

 

「そんな風に振る舞わないでよ! こっちが申し訳なるような、いい人な振る舞いで!」

 

 怒りの声が、謝るような声色の涙声に変わっていく。

 

「大嫌い! 佐藤くんなんて大嫌い!」

 

 朔陽を睨みつけていた寧々の視線は下を向き、やがて俯き、寧々の顔は見えなくなる。

 

「お節介で鬱陶しくて! 頼んでもないのに手助けとか言って干渉しようとしてきて嫌い!」

 

 声が震えて、肩が震えて、握った拳も震えていて。

 

「嫌い! 嫌い! 大嫌い!」

 

 俯いた顔から、地面に透明な雫が落ちた。

 それを見て、朔陽は呟く。

 

「そっか。それが本当なら、僕は悲しいな」

 

 朔陽には寧々の顔が見えず、寧々にも朔陽の顔は見えない。

 お互いが目の前に居るのに、心は繋がっておらず、言葉だけが相手の気持ちを察するツールとなっている。

 ゆえに、朔陽の言葉を真に受けた寧々は、心を強打されたかのような衝撃を受けた。

 

「……嘘」

 

 俯いたまま、前言を上から塗り潰すかのように、強い言葉を発する。

 

「嘘だよ。今の、言ったこと全部、ウチの嘘……」

 

 朔陽が嫌い? バカな嘘をついたものだ。

 そんな嘘で、誰が騙せるというのだろうか。

 

「嫌いなわけない……大嫌いなんて嘘……いつだって優しくしてくれて、ウチは……!」

 

 嘘を重ねた狼少年の最後の嘘は、誰も信じない。

 バレバレな嘘など、誰も信じない。

 こんな嘘で傷付く誰かなどいない。

 

「ごめんなさい……ごめんなさいっ……嘘ついて、傷付けて、ごめんなさいっ……!」

 

 朔陽は寧々を信じているから騙されてきた。

 嘘を信じるから痛い目にもあってきた。

 朔陽は寧々を信じている。

 いつだって信じている。

 寧々の根底が善良であるということを、信じている。

 

「知ってるよ。

 寧々さんが嘘つきなだけで悪い人じゃないってことは、よく知ってる。

 だって僕らはクラスメイトで、二年一緒にやって来た仲間で、友達じゃないか」

 

 寧々の俯いたままの顔から、ぽとりぽとりと雫が落ちる。

 心からあふれた気持ちが、目からあふれて涙となる。

 あふれた気持ちが流れ落ち、地面に染み渡っていく。

 少女の胸の想いが膨れてあふれて止まらない。

 

「なんで、そんな、ウチのこと……信じるって……」

 

「僕は、好きになってもらいたい人のことは、自分から好きになるようにしてる。

 そうするとさ、なんでか微妙に気が合わない人でも、僕に歩み寄ってくれるんだ」

 

 朔陽が語るのは、彼の基本的な生き方であり、彼が今までどうやって友を作ってきたのかというネタばらし。フタを開けてみれば、それはきっと単純で。

 

「僕は、信じてもらいたい人のことは、自分から信じて行こうと思ってる。

 だって、自分がその人を信じてないのに、その人に信じてもらいたいなんて虫が良すぎるから」

 

「だから、ウチのことも、信じるってこと?」

 

「別にそれだけってわけじゃないよ。

 信じる理由なんていくらでもある。だって僕ら、友達じゃないか」

 

「……ぅ」

 

 人が他人の嘘を嫌がるのは、大雑把にまとめてしまえば"損が発生するから"という一言でまとめられる。

 なら「その人の言葉を信じることで騙されてもいい」「その人を信じることで損をしてもいい」という気持ちの究極は、こういう形になるのだろう。

 友達になら騙されてもいい、と思えるのなら。

 友の嘘を恐れる理由はどこにもない。

 

「それにさ、ほら。

 嘘つきか正直者かで信じるかどうかを決めるより……

 友達かそうじゃないかで、信じるかを決める方が楽しいと思うんだ」

 

「……にゃー。本当にもう、佐藤くんはもー……」

 

 この人はこういう性格だから信じよう、ではなく。

 この人は利害関係を考えれば裏切らないから信じられる、でもなく。

 友達だから信頼する。

 ただ、それだけでいい。

 

「僕は友達じゃない人を信じることも、信じないこともある。

 でも、友達は皆信じたい。

 君は嘘つきだから、僕も時々疑ってしまうこともある。

 それは僕の心の弱さのせいだけど……それでも僕は、揺らがず信じたいんだ」

 

「よく言うよ、もう、ホントに」

 

 今まで一度も寧々の嘘に騙されなかったことなどないくせに、そんな彼がそんなことを言うものだから、寧々は思わず顔を上げてしまう。

 泣き笑いして、泣いているのか嬉しいのかもよく分からない、そんな顔だった。

 

「サクヒ、いいの?」

 

 和子がサクヒの脇を肘で突けば、朔陽は苦笑して答える。

 

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

 ……山本五十六はそう言ったそうだけど、まあ往々にしてそういうものだよね」

 

 和子のふんわりとした問いに、朔陽が返した抽象的な返答は、渋々ながらも和子を納得させるには十分な威力があったようだ。

 和子はもごもごと口を動かして、うーんと悩んで言葉を選び、ゆっくりとした足取りで寧々の前に立ち……深々と、頭を下げた。

 

「……ごめんなさい。私も言い過ぎた」

 

「!」

 

「辛いのは同じだったのに。守れなかったのは同じだったのに。一方的に罵ったのはワル」

 

「あっ…う、ウチも、酷いこと言ってごめんなさい」

 

 和子は頭を挙げ、右手を差し出す。

 仲直りの握手を求められたことに、寧々は驚く。

 

「僕はまた、君を信じたい。

 君に迷惑かけられても、それを許していきたい。

 君に信じて欲しいし、僕のいい友達で居て欲しいんだ」

 

 朔陽も左手を差し出す。

 友情の握手を求められたことに、寧々は驚く。

 一瞬、一瞬だけ迷う。

 

「……うんっ」

 

 けれども、その迷いを振り切って。

 

 二人の差し出した手を、寧々は両の手でギュッと握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森の中を歩くストリゴイ。

 先程ブリュレに胸部分をグロいミートソースにされていた吸血鬼が、胸を手でさすりながら人間を探し歩き回っていた。

 

「いつつ……流石ツヴァイ様だ。

 俺が吸血鬼とはいえ、心臓が潰された状態から魔術で回復させてみせるとはな……」

 

 どうやら心臓を噛み砕かれた部下を、ツヴァイが回復魔術で蘇生させたらしい。

 厄介なことだ。

 これで残りのストリゴイも三体に戻ってしまった。

 吸血鬼を殺すなら首か心臓を狙うのが理想的だが、こうなると心臓を狙うのもあまり好ましくはなさそうだ。

 

 手分けして探す内に、吸血鬼の鋭敏な感覚が足音を捉える。

 反射的に足音の主を追おうとするストリゴイだが、足音が近付いてくることに首を傾げ、少し離れた位置で止まった寧々が会うや否や土下座してきたことにビックリした。

 

「お前、さっきのやつの仲間の人間……」

 

「助けてください! どうかウチの命だけは助けてください!」

 

「は?」

 

「仲間の情報も話します!

 ウチが知ってることも全部話します!

 こんなにも恐ろしい吸血鬼様には逆らいません!

 ですから、ウチの命だけは助けてください! お願いします!」

 

 すっ、とストリゴイの目の色が変わる。

 今まで何度も見てきた光景だ。追い詰めた人間が死の恐怖に震え、自分の命惜しさに仲間を売って、何が何でも生きようとする姿。

 人間を捕食する吸血鬼の目に、幾度となく映ってきた光景。

 

 寧々は青ざめた顔で、涙を浮かべ懇願する。

 目の前の吸血鬼への恐怖から逃げようとする体の動きと、死の恐怖から吸血鬼に近付いて命乞いをしようとする動きが矛盾し、体が震えたまま一向にどこへも動けていない。

 靴を舐めろと言えばすぐにでも従うであろう、恐怖に満ちた瞳。

 恐怖で支配された人間は、こういった極めて情けない姿を晒すものだ。

 

 この話は、ストリゴイからすれば渡りに船でもある。

 彼らが今村の周辺で朔陽達を探しているのは、魔王に地球人のことを報告するため、情報を吐かせることが可能な地球人を捕らえるためだ。

 それはこのみでもいいし、朔陽でもいいし、寧々でもいい。

 寧々の方から来てくれるなら、これ以上楽なこともない。

 この少女を連れていけば万事解決だ。

 にも、かかわらず。

 

 ストリゴイは唾を吐いた。

 

「そうか」

 

 ストリゴイが拳を振るい、振るわれた拳が石に深くめり込む。

 

「ひっ」

 

 寧々は小さく悲鳴を上げ、目の端から涙をこぼし、青い顔でヘナヘナと座り込んでしまった。

 

「仲間を売るのが気に入らん。

 最後まで仲間を守ろうとせず、自分のために仲間を売ろうとする者は、クズだ!」

 

 仲間を売るクズには痛い目を見せる。

 そういう意志をもって、ストリゴイは十メートルほどの距離を詰めて彼女を殴ろうとし――

 

「だね。ウチもそう思う」

 

 ――嘘泣きを止めた彼女の前で、落とし穴に落ちた。

 

 "罠があるかも"とは絶対に思わせない話運び。

 吸血鬼を絶対的な上位者、人間の方を絶対的な下位者に置く演出。

 油断と自覚できない油断を心に埋め込まれた吸血鬼は、必然の落下と串刺しを受けた。

 落とし穴の中を見下ろす寧々は、魔法で作られた落とし穴の底で、魔法で作られた鉄杭に串刺しにされているストリゴイを見下ろす。

 

「シーナ・アイエンガー曰く。

 人間は、自分以外の人間の大部分は流されて生きていると思っている。

 自分自身は常に考え、選択して生きていると思っている。

 ここにウォルター・ミシェルの実験結果を加えると更に分かりやすい。

 そうだからこそ、人間は流されている時、自分が流されていることを自覚できないのだと」

 

 寧々の横にブリュレが歩み寄り、風の魔法を放つ。風の魔法が吸血鬼の首を刎ねる。

 これでストリゴイは残り二体。

 よくやった、と言わんばかりに、寧々はブリュレの毛並みを撫でた。

 

「お疲れ様。こんなに多様な魔法使えるもんなんだにゃあ」

 

「風以外の属性は初歩レベルでしか使えないで御座るが」

 

「じゅーぶんじゅーぶん」

 

 どうやらこの杭有り落とし穴、短時間でブリュレが作ったものであるらしい。

 そこに吸血鬼が落ちるよう、寧々が嘘を罠の周囲に飾り付けたというわけだ。

 この連携は悪くない。

 

「どう? これでウチと協力して、佐藤くんにヤンチャした奴らぶっ倒す気になった?」

 

「いや、しかしだな……拙者は其方を守るとサクヒ殿に誓ったのだ。

 万が一にでも嫁入り前の其方に傷が付く事態になれば、悔やんでも悔やみきれん」

 

「あったま固いなあもう。

 佐藤くんがウチを守ろうとしたのはまあ分かる。

 じゃあウチにも似たような気持ちがあるって分からない? 分かるでしょ? 分かれ」

 

「む」

 

 寧々はブリュレと組んで吸血鬼を倒そうとしているようだが、ブリュレからすればイエスともノーとも言い難い。

 小細工を打てる人間の助力は正直助かる。

 だが寧々には傷一つ付けないと、朔陽と約束した。

 かといってここで寧々を突き放しても寧々は一人で突撃して行ってしまいそうだ。

 それならブリュレが隣で寧々に首輪を付け、飼い犬のように制御するのが一番なのだろうが……と、判断に困っている。

 

 そうこうしていると、別のストリゴイがやって来てしまう。

 

「騙されたと思って、またウチの指示に従ってみない?」

 

 ストリゴイが探す。

 見つからなくて別の場所を探す。

 このあたりには居ないのだろうか、と判断し、別のどこかへと去っていく。

 そうして、ストリゴイがこの場所で最初に調べた場所から寧々達が出て来る。

 なんてことはない。

 広範囲の森を調べ続けているせいで、微妙に注意力が散漫であるがために、ストリゴイの背後で隠れる場所を変えていた寧々達に気付けなかったのだ。

 

「一回調べた場所を軽い再確認さえしないとか、あいつウチも呆れるアホだにゃ」

 

「驚いた。拙者も其方も、まるで見つかる気配がなかったで御座る。

 奴はこちらに注意を向けることもなかったが、これは一体……」

 

「復帰抑制って知ってる? マジシャンが客によく使ってるものなんだけど」

 

魔法使い(マジシャン)? いや、わからぬ」

 

「人間の脳は一定の法則性で『注意』と『空間認識』という処理を行うの。

 消えたコインはどこにあるでしょうか? と奇術師が客に言う。

 両手を開いて何も無いと客に見せる。

 客が目立つ帽子・テーブル・胸ポケットの方を見るよう仕向ける。

 そして手を開くと、なんとそこにはコインがあって、客は驚く。

 人間の脳っていうのはね……

 一度確認した場所への警戒心や注意が薄れるように出来てるってわけ」

 

 語りながら、寧々は小さな違和感を覚えた。自分の言葉に対する違和感だ。

 

「これは心理学じゃない脳の構造から発生するもの……ん?」

 

 すぐに違和感の正体に気付く。

 寧々は"人間の脳を騙す手法"を使ったが、今彼女がその手法を使って騙したのは、人間ではなく吸血鬼であった。

 

「ウチは……というかウチら地球組は、変な勘違いをしてたのかも?」

 

「何をだ?」

 

「この世界には人間と同じ言葉と思考が使える人間以外が居る。

 で、なんか自然と心も同じ構造だと思ってたんだよね。

 でも身体構造は人間とはまるで違うって、当然のように思ってた」

 

「それは自然なことではないのか?

 ……いや、そうではないか。

 冷静に考えてみれば、それはおかしい。

 脳構造と心の構造は、両方似ているか両方似ていないかのどちらかが普通なのか」

 

「人間の脳の構造と違う脳構造だにゃあ?

 なら、普通は人間と違う心を持ってないとおかしい。

 実際話してて思うけど、ワンちゃんとかウチらより生き方が刹那的な傾向あるしね」

 

「だが、それがどうかしたのか?」

 

「吸血鬼って人間とほとんど同じ姿だけど、もしかして脳構造も近いのかなって」

 

 寧々はおそらくこの世界で初めて、人間並みの心を持つ各生物の脳構造及び精神構造の類似と差異という、異世界(ちきゅうの)常識を元にした学術に辿り着いていた。

 

「これ、遊べそうだにゃあ」

 

「……拙者も其方のことが分かってきた。

 犬の拙者が言うのも何だが、其方が猫のように振る舞う時の顔は、邪悪だ」

 

 それは、彼女の手に渡ることで非常に厄介なものになる発想であり、思考体系であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ストリゴイの一人が、森を眺めて目を見開いた。

 

「!? あいつら森に火を放ったのか」

 

 そう、森が燃えていたのだ。

 朔陽なら、村の人達の生活のことを考えて決して森は燃やさないだろう。

 だが寧々は違う。吸血鬼から命助けてやるんだから村も全員このくらい我慢しなさい、くらいの気分で火を放つ。

 更に言えば、この森は非常に稀有な特性を持っていた。

 

「うわっ、うるせっ!」

 

 油を多量に、それも気化と引火によって爆発する油を大量に含有する木々の森なのだ。

 生育の過程で多くの油を分泌し、木の成分は川に溶け込み、旨味のある魚を育てる。

 川の水をまいた畑はヌルヌルして気持ち悪いが、野菜は美味くなる。

 材木はよく燃える燃料として出荷される。

 ここはそういう村なのだ。

 恋川このみがここに干し魚の作成を依頼したのも、川魚が美味いというのもあったが、その先の燻製作成を見据えていたというのもあったからだ。

 

 ともかく、この森の木々はよく燃える。

 火をつければバチバチと音を立てながら派手に燃える。

 そのうるささと不快感は、耳元で百匹のセミが全力で鳴き、去り際に耳に小便をぶっかけていくという事象さえも凌駕する。

 

「くっ、何も聞こえやしねえ」

 

 その時、風の初級魔術が飛来した。

 ストリゴイは超反応で対応し、風の刃をビンタで弾く。

 後ろに飛んで行った風の魔法が、燃える木の枝をスパッと切り飛ばして行った。

 

「うおっ!? 奴ら、そこに居るな!」

 

 炎の熱で空気が揺れていて見にくい。

 今が夜ということもあって、風の刃は更に見にくい。

 炎の発光のせいで光の向きも安定していない。

 ゆえに未熟なストリゴイが風の刃を視認できるのは、自分に当たる少し前のタイミングのみ。必死に回避する吸血鬼の姿は、少し滑稽ですらあった。

 

「どうだ?」

 

「ん。アイツ今魔術を右手で使おうとした、右利きだわ。

 加藤孝義の実験によれば、人間は左右の選択に偏りがある。

 T字路で左右を無作為に選べば、七割の人間が左を選ぶ。

 階段の突き当りが分かれ道なら、66%が左の道を選ぶ。

 突然攻撃された時には、75%の人が左に避けたという実験結果が出た。

 そうなった理由の推測の一つに、右利きが多いことが理由に挙げられてる。

 右利きは右か左かなら左を選ぶことが多い……そういう風に、体と脳が出来ている」

 

 考える時間が少なければ少ないほどに、肉体の素の反応は出て来るものだ。

 吸血鬼を観察する寧々に情報が蓄積される。

 

「風の魔術を左に避ける確率が高い。やっぱり構造は人間寄りかな」

 

「吸血鬼をこういう形で検証する者を、拙者は初めて見たで御座る」

 

 一つ。

 また一つ。

 寧々は吸血鬼にも使える心理学か脳科学を検証していく。

 吸血鬼に適用できるものを選り分けていく。

 

「拙者の背に乗れ」

 

 やがて風の刃が飛んで来た方向から寧々達の位置を特定したストリゴイが突っ込んで来たが、寧々を背に乗せたツヴァイが跳べば、すぐに移動は完了する。

 風を刃にすることも、騒音を防ぐ膜にすることも、軽やかに跳ぶことも出来るのが風の魔術だ。

 ストリゴイが目標地点に辿り着いたその頃には、寧々達はそこに居ない。

 

 寧々はブリュレの背の上で、空中を舞う"赤い粒"を握り潰し、微笑む。

 その赤い粒は、蚊だ。

 火で燃やされているモスキートだ。

 森に放火したのは、魔力に対し無防備な寧々をモスキートから守るためでもあった。

 火事の熱気流の中では蚊は飛べず、火に触れれば燃え尽きる。

 ゆえに、全て死ぬ。

 寧々は朔陽への加害に加担した吸血鬼の生存を、蚊の一匹でさえも許さない。

 ゆえに、全て殺すつもりでいる。

 

「いいね、よく燃えてる」

 

 燃えるモスキートの赤い粒を、寧々は笑って無造作に払い除けた。

 

「吸血鬼にも効果あるもんなんだにゃあ、心理学」

 

 "さて次はどうするか"と考えながら、寧々はその辺りの木々の枝を見る。

 

「ね、ね、吸血鬼って人の血の匂いに敏感?」

 

「? 拙者が知る限りではそうだな。

 他の生物の血はともかく、人の血の香りに対しては特に敏感であると……」

 

「えいっ」

 

「!?」

 

 そして、ポケットから取り出したナイフで手を切り裂き、切り裂いた手を振って木の枝にべっとり血を付着させた。

 一瞬思考が停止したブリュレだが、最下級の回復魔術を咄嗟に発動し、寧々の手の傷をとりあえず表面だけ塞ぐ。

 

■■■■■■■■

 

「承知した、これを誓約としよう。

 コノミ殿とネネ殿は何があろうと傷一つ付けさせぬ。

 この誓約が破られし時、拙者はこの首を刎ねて其方に捧げると誓う」

 

■■■■■■■■

 

 かっこよく朔陽に言い切った誓いが、頭の中で延々とリピートしていた。

 寧々の自傷はセーフなのか、アウトなのか。

 朔陽判定ならセーフだろうが、ブリュレ判定では余裕のアウトだった。

 

「お、治った。マジカルすんごい……ウチ信じられない光景を見てしまった」

 

「それは拙者の台詞だ!

 信じられない光景を見たと言いたいのは拙者だ!

 傷一つ付けぬと誓ったというのに……サクヒ殿に何とお詫びすれば良いのか……」

 

「治ったから怪我しなかったのと同じでしょーに。

 いーのいーの気にしなくて。

 『無傷なまま終わりました』って嘘つけばいいのよ、嘘つけば!」

 

 寧々はまたブリュレの背に乗り、移動。

 一分か二分遅れて、人の血を嗅ぎつけたストリゴイがやって来る。

 

「この辺りから血の匂いが……血痕?」

 

 血の匂いで誘き寄せたこの場所は、既に寧々が作り上げた"労せず倒す"という目的のために仕込みが行われた処刑場だ。

 

 木には血。

 手がかりがないかと、燃える森の中、吸血鬼は注意深く観察する。

 森が燃える音の合間に、それとは違う小さな物音が鳴った。

 吸血鬼は振り向くが、何も見えない。

 空を何かが通り過ぎた。

 吸血鬼はブリュレが空を跳んでいたことを思い出し見上げるも、何も見えない。

 魔力を含んだ風が吹く。

 どこからだ、と周りを見ても、感知できるのは燃える森のみ。

 不意に柔らかい地面を踏んでしまう吸血鬼。

 和子が地面の下を動いていたことを思い出し、飛び退くも何も起きない。

 葉が動いたような気がして、夜の闇を見通そうと目を凝らす。

 なのに、見えない。吸血鬼の胸中に警戒心と恐怖が芽生え始める。

 

「な、なんだ? なんだっていうんだ?」

 

 今怪しいと思った全てのものを、吸血鬼は警戒する。

 否、警戒させられていた。

 

 マジカルナンバー、という概念がある。

 人間が短期記憶で保持できる情報の最大数はいくつなのか? というものだ。

 ジョージ・ミラーは同一のものに対し保持できる短期記憶は5から9であると実験から導き出し、マジカルナンバー7±2という数字を提唱した。

 これに対しネルソン・コーワンはマジカルナンバー4±1を提唱し、3から5であると結論付けた。

 寧々はこれを参考に、今この状況を作り上げている。

 

 まあ、難しく考える必要はない。

 "一度にたくさんのことを一気に考えようとするとパンクする"くらいの認識でいいだろう。

 

 優れたホラー映画などもその例に挙げていいはずだ。

 コップが動いた、テーブルが震えた、主人公の背後が怪しい、少しだけ開いている襖が怪しい、画面の奥で影が動いた、主人公の懐中電灯はあっちを向いている、などと観客の注意を散らしてから天井よりお化けを出す。

 すると、予想外の場所からの出現を非常に驚かれる。

 注意の先を誘導しつつ、注意力を散漫にさせるからだ。

 

「くっ、どこだ……?」

 

 吸血鬼は少しずつ、少しずつ、考えることを増やされている。

 注意を向けるべき対象を増やされている。

 注意力を削られている。

 明確な理論と嘘で作られた余計な情報が、想定通りの効果を発揮していた。

 

 吸血鬼が警戒させられているものは、風で動かされた葉・投げられた小石・掘り返された地面でしかないというのに。

 "そこに敵が居るかもしれない、居たかもしれない"と無駄に気を張らせられている。

 今の吸血鬼の周りには、作られた『嘘』ばかりがあった。

 

「ウチが思うに、音も効果出てそうな感じ」

 

「どういうことだ? 拙者にも理解できることで御座ろうか?」

 

「網様体賦活系って分かる?」

 

「さっぱりわからぬ」

 

「RAS、つまり人間の脳は必要な情報と無駄な情報を勝手に取捨選択してるって話だにゃ」

 

 この分野に関しては、クリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズの研究と実験が特に有名だろう。

 人間の脳は負荷を減らすため、無駄な五感情報を片っ端から切り捨てている。

 

 興味を持てない会話が目の前で繰り広げられていても、不思議と頭に入らないことがある。

 これを不思議に思う人は少なくない。

 同じく人の声が耳に入っているのに、聞き手の気の持ちよう次第で脳に入ってくる情報量が天と地ほどに違うのだ。よく考えてみれば、とても奇妙な話である。

 なくした眼鏡が目の前にあるのに気付かない。

 風景の中の探していた看板に気付かない。

 目の前を通り過ぎたゴリラに気付かない。

 誰にもこういった、脳が勝手に情報を切り捨ててしまったがための弊害を受けた覚えはあるだろう。

 

 興味を持てない事柄、気付いてもいない情報、別の何かに注意を向けていてそっちを見ていない時、人は特定の範囲に対し"見ているのに見ていない"状態になる。

 これは脳の問題である。

 その人がうっかりさんだとか、そういうことではないのだ。

 

「地球の方じゃ、脳のここに負荷をかけると無自覚の負担になると言われててね」

 

 だがこの情報の取捨選択、脳の処理能力を一部食っている。

 無駄な情報が増えれば増えるほど、それを処理しようと脳を過剰に動かしてしまう。

 『今日やらなくちゃいけないこと』の数が膨大になると、あれもやらなきゃこれもやらなきゃと考える頭が異常に疲弊し、過剰な疲労を感じるのはここにも原因がある。

 脳が勝手に情報の仕分けをしようとしてしまうのだ。

 

 研究者によっては、パチンコ等がこれを利用していると推測している者もいる。

 脳のこの部分に負荷をかけると、人間の判断力が落ちるという研究結果を見ているからだ。

 耳から無駄な音が入り、脳がそれを無駄な情報として処理する、という過程が脳のリソースの使用率をぐんぐん引き上げてしまう。

 騒音を長時間聞いて「うるさいなあ」とは思っても、「十秒前の騒音はこういうリズムだったな」とはならない。それが脳の正常な稼働の証。

 

 動く影や小さな物音などの過大な情報。

 燃えながら騒音を撒き散らす森。

 騒音の中で耳を澄まして寧々達の足音を聞き分けようとしたりもしている吸血鬼には、風の魔術で音をカットしている寧々達とは比較にならないほど、膨大なストレスがかかっている。

 吸血鬼が一つの場所を調べる時間は短くなっていく。

 調べ方は乱雑になっていく。

 調べる場所が捜索のセオリーを外していく。

 

 寧々は虚構の情報を吸血鬼の周囲に積み上げ、脳科学に基づいた小さな積み重ねを繰り返し、徐々に吸血鬼の脳にストレスを重ねていった。

 

(うん、あの吸血鬼の判断に変化が生じてる。判断力に影響は出てる)

 

 人間の脳と吸血鬼の類似性を検証し。

 自分が知る心理学と脳科学が通じるかを一つずつ検証し。

 反応を見て、どれが有効かを検証する。

 

 その過程はまるで、触れずして吸血鬼の頭蓋の中を解剖しているかのようだった。

 

(人間の血を吸って生きてるだけで、ほぼ不死身なだけで……

 脳構造は人間とそこまで変わらなさそう。

 佐藤くんに教えてあげたら、佐藤くんは私より上手くこの情報を使ってくれるかも)

 

 木に新しい血痕が増えているのを見て、森の奥の炎の合間に狼の姿が見えたような気がして、また新しく柔らかい地面を踏んで、空に何かが見えた気がして、吸血鬼は混乱する。

 考えて、考えて、考えて。

 ああ、もう、考えるのはやめだっ! と、吸血鬼が叫んだ。

 

「そう、そうやって。

 人間の脳は考えることが多くなりすぎると、そうやって割り切る。

 脳を守るため、脳の負担を消そうとする。

 『うだうだ考えててもしょうがねえ』と考えるのを止めて、思考を停止する」

 

 情報が多くなりすぎた人間の脳は、下手な考え休むに似たりで動かなくなるか、思考停止してとりあえずで動き出すかすることが多い。

 そして、思考停止状態で動き回る敵を仕留めることなど、極めて容易い。

 待ち伏せしていたブリュレが飛び出し、首をひと噛みで噛みちぎる。

 思考停止した者が、待ち伏せを先読みできようはずもない。

 

「このストリゴイは吸血鬼の王の次に強かった男に御座る。

 まさか、この者にこんなにも簡単に奇襲が成功するとは……」

 

「うんうん、人間と脳構造が同じだと楽なもんね」

 

 残りはストリゴイ一体と、吸血鬼の王のみ。

 

「もうちょっと調べたいんだけどなー。

 吸血鬼を騙すなら、吸血鬼の脳のことを知らないと」

 

「それだけ知識があるのなら、対象のことを調べなくてもよさそうなもので御座るが」

 

「嘘のコツは上手い嘘をつくことじゃなくて、相手に合った嘘をつくことよ。

 アホにはアホの、小学生には小学生の、知識人には知識人の、弱点になる嘘がある」

 

「……」

 

 万能の嘘もなければ万能の詐欺もない。

 個性を見て、反応を見て、的確に騙すことが寛容だ。

 ブリュレは彼女の虚構術を、地球人が魔法を見る時のような目で見ている。

 

「生ける者の心は、魔術ならともかく、学術で測れるものではないと思っていたが」

 

「それなら人間は、他の人間や動物を罠にかけることは出来ないにゃ」

 

「ぬ」

 

「そでしょ? 相手の動きが読めないと、罠にかけるって行為は成立しないもの。

 相手を理解し、予測し、既存の研究を参考にして、考えを煮詰めて罠にはめる。

 詐欺師も手品師も、相手の心を読めてるわけじゃないけど、人を騙してるでしょ?」

 

 人を騙すのに、人の心を完全に読む必要はない。

 人を騙す話術と、傾向を知る知識と、相手の心境を推察する能力があればいい。

 

「ほら、死体濡らして」

 

 寧々の言う通りに死体に水をぶっかけて、ブリュレはまた彼女を乗せて離脱する。

 少し遅れて、仲間を探しに来たストリゴイとツヴァイがその死体を発見した。

 死体は水に濡れている。

 何故濡れていたかを二人は考え、話し合い始める。

 いくつか推測が立てられ、二人はなんとなく寧々とブリュレの秘密に手をかけた気になる。

 

 気のせいだ。

 死体が濡れていたことには何の意味も無い。

 吸血鬼達が手がかりだと思うそれは、寧々の嘘。意味の無い惑わすだけの虚構。

 嘘の水に騙される吸血鬼達を見て、寧々は遠方で目を細める。

 

「何か意味があるんじゃないか?

 何か手がかりになるんじゃないか?

 何かの情報が得られるんじゃないか?

 そう思っちゃったらおしまいなわけね。

 人間の脳は普段無駄な情報をカットしてるけど、人間の意識は無駄な情報を拾うもの」

 

 意識に無駄な情報を拾わせていく。

 やがて吸血鬼達は燃える騒音の森の中で、点々と続く血痕を二種類見つけた。

 一つは北に、一つは東に向かっている。

 

 どちらに向かったんでしょうか、とストリゴイは言った。

 二手に別れて両方追えばいい、とツヴァイは言った。

 ですがこれ以上各個撃破されても、とストリゴイは焦る。

 貴様は我が駆けつける間もなく自分がやられてしまう、とでも言う気か? とツヴァイが凄む。

 ストリゴイは焦り、誤魔化す。

 貴様はそんなにも弱いのか、とツヴァイが威圧する。

 いいえ、そんなわけでは! と言うストリゴイに、もはや拒むすべはなく。

 相手は下等種族、我が行くまで持ち堪えて見せろ、とツヴァイは言い捨てて言った。

 

 配下の吸血鬼が種族の面汚しとばかりに情けない姿を見せたなら、吸血鬼の王がそう言うのは当然だろう。

 『寧々が予想した通りに』、ストリゴイは弱気な言動で王を苛立たせ、ツヴァイは二手に分かれての捜索を実行してくれた。

 

 吸血鬼は知らず知らずの内に寧々に判断力を削られている。

 落ちた判断力は、自分を人間や犬の上を行く上位種であるという吸血鬼の傲慢と合わさって、吸血鬼を単独行動という愚行に走らせる。

 寧々の目は吸血鬼達の様子のみならず、その頭蓋骨の内側までもを覗いていた。

 

「うああああああっ!?」

 

 吸血鬼二人が別れてから数分後、悲鳴が上がった。

 悲鳴を聞きつけたツヴァイが走る。

 

「―――ッ!」

 

 駆けつけたツヴァイが見たのは、首を刎ねられた最後のストリゴイと、それにトドメを刺すブリュレと寧々の姿だった。

 ヴルコラクの残りはない。

 モスキートは全て燃えた。

 ストリゴイももう居ない。

 ツヴァイ以外の吸血鬼は、寧々とブリュレにその全てを潰されていた。

 

 人間と吸血鬼はほぼ同じ構造の脳を持っている、と推測される。

 違いは、再生能力などの有無くらいのもの。

 人と同じ方法で騙せる。

 種族として人間よりも優れている分、人間より楽に騙せる。

 力が弱くて狡猾な人間よりも、力が強くて調子に乗ってる吸血鬼の方がよっぽど騙しやすいにゃあ、と寧々は評するかもしれない。

 

 寧々がするその見下しの目が、プライドの高いツヴァイを更に苛立たせた。

 

 『認知的不協和』である。

 人間は自らの認知の中で矛盾が発生すると、それを解決しようとする。

 解決できず矛盾がそのままそこにあると、過剰なストレスを感じてしまう。

 人間も犬も吸血鬼より下等であるという認識と、それに部下を皆殺しにされ、いいように誘導されているという現実が矛盾して、王の苛立ちを倍加させる。

 認知的不協和は自分の中の信念や常識と何かが矛盾を起こした場合、かつ常識や信念を変えようとしなかった場合、普段自分が取らないような行動を取らせてでも矛盾を消そうとする。

 

 ツヴァイの場合、"自分を苛立たせる下等種族を軽々と瞬殺する"ことでその苛立ちと矛盾を解消するという心の動きを、この反応が後押ししていた。

 

「あぐっ!」

 

「ネネ殿!」

 

「動くな、下等種族」

 

 寧々の首を掴んで吊り上げて、ブリュレを脅して動きを止める。

 吸血鬼の腕力であれば首を瞬時に握り潰すこともできただろうに、あえて最大級の苦痛を与えるような首の締め方をした。

 寧々の顔が真っ青になる。

 目に死の恐怖が浮かぶ。

 声には苦悶、震える手には苦痛が見て取れた。

 少女は涙を浮かべ、震える唇の向こうで悔しそうに歯噛みする。

 

 どれもこれもが、ツヴァイが数百年間もの間ずっと見てきた、『万策尽きて死の恐怖に怯える人間の動き』だった。

 

「あと一時間、あと一時間だったのにっ……!」

 

 時間稼ぎか、とブリュレは察した。

 人質でブリュレの動きを制限しつつ速攻で寧々を殺すことを決め、人を見下しながらも慢心はせず時間的余裕は一切与えない。

 

「そんな時間の余裕など与えるものか、死ねぃッ!」

 

 どうでもいい"時間"に言及し、寧々は『本命』から目を逸らさせた。

 

 瞬間、寧々の背中側にあった土が崩壊。

 魔法の痕跡もなく、魔術の前兆もなく、魔力の反応もなく、魔法に等しい自然現象が発動し、凄まじい規模の『水』が吹き出してきた。

 

「!?」

 

 吹き出した水に飲み込まれ、ツヴァイの足が浮き、流される。

 寧々は空翔けるブリュレに回収され、物陰に放り込まれた。

 

「ここは大きな川があって、川魚で有名な村で。

 あんたはウチらをビビらせる大技で山を切って山を崩して、川を堰き止めた」

 

 『鉄砲水』である。

 

「ぐっ……!」

 

「途中過程はどうでも良くて、後はあんたがこの位置にさえ来てくれれば良かった」

 

 魔法攻撃のせいで出来た異常な地形は、土壌の粘性も相まって異常な圧力をもって水を噴出させる。

 ツヴァイが最初に放った血漿斬の結果は、今ここに収束した。

 鉄砲水は大量の大小様々な岩石をも含んでおり、通常の人間が巻き込まれればミンチ、家屋が巻き込まれてもバラバラになるほどの破壊力を持っていた。

 それに耐えるが吸血鬼。

 されど、寧々の狙いはこれで吸血鬼を殺すことではない。

 

「行け、ワンちゃん!」

 

「!」

 

 鉄砲水の凄まじい水流の中を、ブリュレが泳ぎ近付いてくる。

 魔術で迎撃しようとして、ツヴァイは敵の真意に気付いた。

 

(詠唱が、できない……!)

 

 水中で魔法の詠唱ができようはずもない。

 そして水中での動きで見れば、ツヴァイはブリュレの動きの足元にも及んでいなかった。

 それも当然。

 この吸血鬼は数百年の生涯の中で、一度も水泳の鍛錬をしたことはなく。

 ブリュレは"もしもの時に溺れる人間を助けられるように"という理由だけで、五年の短い生涯の中、本気の鍛錬を重ねてきたのだから。

 

 ツヴァイの喉に、ブリュレの牙が深く突き刺さる。

 

「ぐ、あああああっ!」

 

 水流から飛び出しても、ブリュレはツヴァイの喉を離さない。

 ブリュレの牙はツヴァイの喉に刺さるが、噛み千切れない。

 ツヴァイはブリュレを引き剥がそうとし、そのたびに牙が突き刺さった喉から血が吹き出していく。

 

「あ、があああああっ!!」

 

 知性よりも先にあったもの。

 古代の野獣が牙と共に手に入れた武器。

 急所への噛みつきは、生物が手にする原始の殺意だ。

 

 魔術も魔法も、ツヴァイが得意とする血漿斬も、詠唱か発音のどちらかを必要としていた。

 喉を何度も何度も継続して噛み潰されれば、詠唱は出来ない。

 喉を噛み潰す、喉を再生する。噛み潰す、再生する。

 喉を幾度となく砕いても、吸血鬼が死ぬことはない。

 首を噛み千切り胴体から離さなければ殺せない。

 

「ぐ、が、あっ! がッ!」

 

 ブリュレはひたすらに噛み付く。

 首の肉は何度も何度もミンチになり、吹き出す血は噴水のよう。

 

 ツヴァイはひたすらに殴り、ひたすらに爪を刺す。

 殴られるたびにブリュレの骨にヒビが入り、爪が刺されれば肉に穴が空き、血が吹き出して肉がこぼれる。

 

 白狼の美しい白い毛並みが血に染まり、赤一色に変わっていく。

 吸血鬼のアルビノな白い肌と白い髪が、赤一色に変わっていく。

 森を燃やす赤い炎が、血に染まる両者を赤く照らしていく。

 どこまでも泥臭く、血みどろに、二人は殺し合う。

 殺さなければ生きられない。

 いや、もはや両者共に"生きよう"という意識すら無い。

 『殺す』という決意だけで戦っている。

 

(ここで、この狼を倒し、我は死ぬ)

(ここで、この吸血鬼を倒し、拙者は死ぬ)

 

(だが、それでもいい)

(だが、それでもいい)

 

(我のプライドを傷付けた者を、殺せるのなら、死んでもいい―――!)

(我らのよき隣人、人を守るためならば、死んでもいい―――!)

 

 ブリュレの牙が首に食い込み、牙を立てたまま幾度となく噛み直され、そのたびに肉をかき分ける牙が深くまで食い込んでいく。

 ツヴァイの手刀の先端の爪が、ブリュレの胸に深々と刺さり、徐々に、徐々にと心臓に向かって深く突き刺さっていく。

 牙が首を落とすか?

 爪が心臓を貫くか?

 どちらが先か、どちらが殺すか?

 

(必ず、殺すッ!)

(必ず、守るッ!)

 

 殺意の純度が上がっていく。

 殺すために全身全霊をかけていく。

 やがて、互いが互いの命に牙と爪を届かせようとした、その時――

 

 

 

「あ、佐藤くん!」

 

 

 

 ――物陰に隠れていた寧々の声が、二人の動きを止めた。

 ツヴァイはブリュレの反応を見逃さない。

 朔陽を探して動き出したツヴァイに対し、ブリュレは殺害より守護を優先し、ツヴァイを離して――寧々の位置を確認しつつ――朔陽を守りに動く。

 だが数秒後、両者の動きはピタリと止まる。

 朔陽の姿がどこにも見当たらなかったからだ。

 

「まあ、嘘なんだけど」

 

 ぶっ殺すぞ、と一瞬ツヴァイとブリュレの思考がシンクロした。

 二人分の殺意を受け流し、寧々は初歩的な回復魔法で傷を塞いでいくブリュレに歩み寄り、その頭を撫でる。

 

「佐藤くんはワンちゃんが死ぬことは望んでない。

 生きて帰ることを望んでる。これは嘘じゃないよ、分かるでしょ?」

 

「……!」

 

「ウチ的には相打ちはちょっとね」

 

 寧々はここから戦いを続けてもいいと思っている。

 ツヴァイが首の傷を回復するまでの間に森の中に隠れ、再度先程までのような戦いをやり直しても、またツヴァイを追い詰める自信がある。

 ツヴァイもまた、それを察していた。

 戦いの流れが悪い。

 戦場が悪い。

 状況が悪い。

 ツヴァイはぐちゃぐちゃになった首の肉をさすり、鋭い歯を噛み締めた。

 

「認めよう」

 

 プライドの高い吸血鬼の心の中で、『自分の誇り』と、『この敵の情報を魔王様にお伝えしなければ』という想いが天秤にかけられ、後者が勝利する。

 

「我の負けだ。完膚なきまでに、我の負けだ」

 

「!」

 

 ツヴァイは寧々を見る。

 吸血鬼の王の敗因がこの少女であることを、彼はしっかりと理解していた。

 百の状況で百の詐欺を成立させる。

 千の戦場で千の有効な策を仕込める。

 万の相手に合わせた万の嘘を思いつける。

 ゆえにこそ、戦える者と組ませてはならない詐欺師だ。

 相手の頭の中を読む能力と、その下地になる心理学と脳科学の知識が面倒に過ぎる。

 

 これが朔陽が信じた者。

 彼が信じ、彼の信に応えようとした少女の本質。

 『嘘をつくためにあらゆる努力と研究を怠らない人間』である。

 

 彼女は嘘が大好きで、だからこそこの十数年、他人を騙すためにあらゆる論文や書籍で勉強した過去がある。その過去が培った能力がある。

 

「次に会う時はかつての敗者として、挑戦者として、貴様らを殺す。覚えておけ」

 

 ツヴァイは再戦を誓いつつも、その情報を仲間へと持ち帰るため、魔法を使って夜の闇へと消えていった。

 

「……あー、疲れた。体育祭くらい疲れた」

 

 寧々がその場に座り込む。

 ブリュレは自分の傷を塞ぎつつ、苦笑してその横に寄り添った。

 

「其方に分からぬ人の心など無いので御座ろうな」

 

「やー、そんなことないよ。

 心理学と脳科学ってそんな万能じゃないって。

 そんな簡単に人の心読めたら、普通は皆それ勉強してると思わない?」

 

「……そ、其方……」

 

 今更にそこの認識をひっくり返すのか?

 本当は人の心をバッチリ読めるという事実を隠そうとしているのか?

 それとも本当に心理学と脳科学は絶対ではなく、今回の戦いはたまたま上手く行っただけなのか?

 ブリュレにはそれすら分からないのだ。

 この少女の虚実入り混ぜペラペラ喋って煙に巻く癖は、一生治りそうにもない。

 

「つか人の心なんて分からないことだらけじゃない?

 ウチ今日まで、佐藤くんが何考えて私に優しくしてくれてたのか知らなかったし」

 

「……くははっ」

 

「というかまあ、よく考えれば分かることだけど……

 うちのクラスで一番人心掌握してるのって、佐藤くんだからね」

 

「ああ、そうであろうな。

 人の心を見て巧みに操るは詐欺師に非ず、慕われる頭目である、ということか。はははっ」

 

 続く言葉に、ブリュレは思わず笑ってしまう。

 

「其方は悪意のことはよく知っていても、善意や友情には少しだけ疎いのだな」

 

「なーによその顔」

 

「悪人に対して特に強い嘘つき、か。

 ならば天敵のサクヒ殿がそばにいる内は、其方の未来も安泰で御座ろう。

 善人が嘘つきの天敵となっているとは……まこと、人間というものは面白い」

 

 ブリュレの笑いと、寧々のぶーたれた顔は、朔陽達を拾って村に戻るまで、終わることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朔陽は多少回復したとはいえ、まだまともに動かない体で、傷を全て塞いだ血まみれのブリュレをぎゅっと抱きしめる。

 ブリュレは狼の血と吸血鬼の血にまみれていた。

 抱きしめるだけで朔陽の服も赤く染まる。

 だから、ブリュレも戸惑ってしまう。

 

「汚れるで御座る。離れた方が良い」

 

「汚くなんてないよ。ありがとう、ブリュレさん」

 

 朔陽はブリュレを抱きしめ、優しく撫でる。

 暖かな体温と感謝の気持ちが伝わり、ブリュレは心地良い暖かさに包まれていた。

 

「……悪くない気持ちで御座るな」

 

 朔陽はブリュレから離れ、寧々に手を差し伸べる。

 

「さ、行こう」

 

「ん」

 

 寧々がその手を取り、皆で一緒に村へと帰る。

 村に帰った彼らは、村の全員から頭を下げられた。

 賢明に謝っている者も居た。

 土下座している者も居た。

 他の者を許して欲しい、自分ならなんでもするから、と言い出す者も居た。

 謝るよりも感謝してくる者も居た。

 村の者達の反応は実に十人十色。

 朔陽はその一人一人に言葉をかけて、「大丈夫」「気にしていない」「あなた達は被害者だ」と言葉を重ねていく。

 

 村人は感謝し、この恩義は忘れないと口々に言っていく。

 ブリュレは種族単位で受けた恩を忘れず恩を返そうとする者だったが、この村の人間は、個人個人が受けた恩を忘れず、個人として恩を返そうとする想いが見て取れた。

 

「このご恩は一生忘れません。今日はどうか、この村で一日ゆっくりとお休みください」

 

 そこで気合を入れたのがこのみである。

 彼女は村の食料で美味そうなものを片っ端から分けて貰い、あっという間に食事を作る。

 それもなんと、朔陽達の分だけでなく、村の全員の分までもをだ。

 

「皆おつかれさん、今日はたっぷり食って寝な!

 食事は壁を乗り越える前と乗り越えた後に、美味しいもんたらふく食うのがいいんだよ!」

 

 美味い飯が並べられた祝勝会、否、ありがとう祭りが始まる。

 皆が騒ぐ中、朔陽はブリュレと水を飲みつつ、ゆったり休んでいる。

 

「また何かあれば、パンプキン卿の指示で拙者も駆けつけよう」

 

「助かるよ」

 

 その横では、相変わらず嘘をほざいている寧々と、淡々とした反応を返す和子が、無闇矢鱈に手当たり次第に食いまくっていた。

 

「ウチ佐藤くんのこと大っ嫌いだわー!」

 

「嘘つき」

 

 やんややんやと騒ぐ人間達を見て、ブリュレは「これも悪くない」と思い目を閉じる。

 

 彼のその美しい白い毛並みを、朔陽が優しく撫でていた。

 

 

 



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出席番号10番、料理の鉄人・恋川このみの場合

 クーリッシュ村はお礼にと、いくつかの食材を持たせて朔陽達を帰してくれた。

 後日また食材を持って来てくれるとも言っていたが、友人が森を全焼させた負い目のある朔陽からすれば申し訳無い気持ちが膨らむばかりである。

 王都に帰還してすぐに、朔陽はパンプキン卿への報告に向かう。

 

「報告ご苦労。それと、お疲れ様だ。君達は私の期待以上の報告を持って帰って来てくれた」

 

 最強の騎士様はにこやかな顔で微笑んでいて、それが逆に不安を煽っていた。

 渡された依頼達成報酬の桁が、朔陽の予想より桁二つは多かったことも不安を煽る。

 これからどんな無茶振りされるんだ、と朔陽の背筋に悪寒が走った。

 まあ、それは置いておいて。

 帰りにヴルコラクに襲われなかったとはいえ、そこそこに時間のかかる帰り道を越えて、今はこのみ特製の晩飯タイムであった。

 

「はい晩飯お待ちっ!」

 

 焼いた干し魚に、味噌汁に、小松菜っぽいお惣菜に、茶碗の白米。

 一見して日本人の口に馴染みのある和食に見えるが、その実全くの別物だ。

 醤油はこのみが発酵させ作った、この世界の魚を使った魚醤。

 味噌は似ても似つかない調合調味料、味噌汁のワカメは海草ですらない路地野菜。

 干し魚に至っては、裏返して見てみると、川魚のくせに目が十六個くらいある。

 白米は日本とほぼ同じものであるせいで、逆に白米の方が浮いていた。

 

 唯一の救いは、恋川このみの抜群の料理技術のおかげで、『ちょっと味の違う和食』程度の感覚で食べられるものになっているということか。

 

「うーん不思議なんだけど美味しい味」

 

 和子は目の前の変形型和食を幸せそうな顔でパクついていく。

 

「ちょっとー寧々さんが食べるにゃあ塩味濃いよー」

 

「あらそう? じゃあ口開けて、醤油直接喉にぶち込んであげる」

 

「嘘です嘘嘘! ウチ嘘つきですんません!」

 

 寧々はいつものノリでこのみにしばかれかけている。

 

「実際本物の材料使えない時点でがんもどきみたいなものなのよ。

 何せ味とか食感とか近付けてるだけだからね、わっはっはっはっは」

 

「またまたご謙遜を。とても美味しいよ、このみさん」

 

 朔陽はシンプルに感想を言って、このみの表情をほころばせていた。

 このみが髪に付けているこがね色のヘアピンも、彼女の明るい笑顔の前では輝きも霞んで見えるというもの。

 平凡な男子の平凡な恋心は、こういうとびっきりに明るい笑顔に呼び覚まされることが多いのが困りものだ。

 

「はぁー」

 

「? 寧々さんどうかした? 僕が何かした?」

 

「いやそういうのじゃなくてさー。

 地球に帰ったら受験もあるんだよなー、やんなっちゃうなー、って思って」

 

「……ああ、そういう?」

 

 この世界で魔王を倒して終わりではなく、この世界から元の世界に帰って終わりでもなく。

 彼らにはその後受験勉強や就職活動が待っている。

 何せ彼らは高三だ。

 遊ぶことや色恋のことばかり考えてもいられない。

 しかも受験や就職がゴールですらなく、むしろ人生は定職に就いてからの方が長い。

 

 彼らのゴールは、ずっとずっと先にあるのだ。

 

「そういえば寧々さん、君この前の模試で第一志望D判定だったよね」

 

「ギクゥ」

 

「どうする? 深淵ゼミ続ける? それとも塾行く?」

 

「……ぜ、前回のテストは諸事情あって手を抜いてただけだしウチ」

 

「そうなの? それならまあいいけど。

 困ってるなら僕とかクラスの何人かが行ってる塾とか紹介しようと思ったのに」

 

「その塾について詳しく」

 

 テストの点数は嘘で騙されてはくれません、という悲しい現実。

 強がりの嘘も既に悲しい響きしかない。

 寧々を戦闘で助けてくれたブリュレはもう居ない。元の職場に帰ってしまった。元の世界に帰った後の寧々には、学力で助けてくれる友人も必要そうだ。

 

 「俺フランス語必死に勉強するわ。駅前で迷子になってるフランス美少女とフラグ立てる可能性あるかもしれないし」とバカ丸出しでフランス語を習得したクラスメイトも居る。

 「教科書流し読みすれば満点取れる」と言っている天才も居る。

 「興味あることしか勉強したくない」という者も居る。

 「ヤンマガにスモーキングって漫画あったんだけどさ。相撲キングだから稀勢の里の話かと思ったら違った。やっぱ日本教育の英語とか役に立たねーわ、学ぶ意味ねーわ」と言う者も居る。

 十人十色のクラスメイトだが、できれば全員受験と就職に成功して欲しいと、朔陽は内心で願っていた。

 

「そういえば佐藤君さ、この期間に手空いてる?」

 

 和子におかわりのご飯を渡しているこのみが、カレンダー(異世界生まれ)の一部の期間を指差して問いかける。

 

「この時期に全一(ユキミ大陸全料理人一位決定戦)があるわけでさ。

 参加者は一人助手を登録して置けるんだけど、名前貸してくれないかな?」

 

 ユキミ大陸全料理人一位決定戦。

 大陸全土から最高の料理人が集まり、最も優れた料理人を決めるというダッツハーゲン王国主催の大イベントだ。

 地球における料理大会とは違い、国のバックアップを受けた各国最高の料理人が争う、平和な国家間代理戦争の意味合いも強い。

 そのため毎年のようにどこかの王家お抱えの料理人が優勝していた。

 

 だが栄光を夢見て市井から参加する者も多く、極めた格闘技で肉を殴り柔らかくする男や、究極の料理魔法を探求する女魔法使いが参加したこともある。

 それに、魔王軍の影響もある。

 魔王軍が国を滅ぼしてくれたり料理人を殺してくれたりすることが多いので、去年の優勝者が今年は死んでましたということが度々起こるのである。

 それなら優勝の座を一部の人間が独占することもない。

 世紀末感が凄まじいが、それでも優勝を貪欲に狙う料理人達のバイタリティは、尋常でないくらいに高かった。

 

 そしてそこに参加し優勝を狙おうとするほどに、料理部のこのみのバイタリティも高かった。

 

「あ、もちろんあたしは基本一人でやるよ。応援だけしてくれればいいから!」

 

「それ僕いる? そりゃ、名前貸しにしても料理できない人よりはマシかもしれないけど」

 

 朔陽は観客席で応援しているだけでいいという。

 このみが欲しがっているのはいざという時に助けてくれる助手なのか、それとも観客席から応援してくれる友人なのか。

 あるいは両方かもしれない。

 

「いざという時のため、いざという時のためだから」

 

「ま、いいよ。特に緊急の用事があるわけでもないしね」

 

「やたっ」

 

 ガッツポーズで喜ぶこのみ。

 それを無言で眺めていた和子だが、やがて何かを思いついた様子で、このみが先程まで料理をしていた台所に移動する。

 そして鍋を覗いたり、おたまを振り回したり、何やら不思議なことをしていた。

 和子が首を傾げる。

 そんな彼女を見ていた朔陽・このみ・寧々も首をかしげる。

 

「何やってんの?」

 

「私も恋川さんみたいな料理覚えたいなって思って」

 

「うん、いいことだ」

「勉強熱心だねー、わっはっは」

 

 和子はこのみのレシピを発見。その通りにまずはスープを作ろうと試みる。

 

「まずはお湯を沸騰させて、ダシになる虹色の海草をくわえる……ふむふむ」

 

 そして沸騰したお湯を見つめながら、和子は海草を口にくわえた。

 五分経過。

 あれ、何も起こらない、と疑問に思った和子が首を傾げる。

 

 このみのツッコミ平手が和子の後頭部を、派手にぶっ叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大会までの期間を全て、朔陽達は事前準備に費やした。

 斬新なレシピの新規開発よりも、この世界の食材や調理器具をより広く深く理解し、地球の料理及び調理技術をどこまで再現できるか調べることを優先する。

 この大会で勝つためには、いくつか肝となるルールがあった。

 

 その一つが、食材と調理器具はいくらでも持ち込んでいいというルール。

 金持ちは高級食材を持ち込み勝とうとするだろう。

 慣れた料理人は自分の使い慣れた道具を持ち込むことだろう。

 まず朔陽は、董仲穎の助力を得てこのみのため、このみが地球で使っていた調理器具に似た物を揃えられるだけ揃えてみた。

 

「こんなにも多様な調理器具をよくもまあ……ありがとう、董くん」

 

「中国七千年の調理道具調達技術を舐めてもらったら困るアル」

 

 このみの親友である島崎詩織は食材調達に動いてくれた。

 使いやすいスパイスや香草から、鶏肉のような肉といった有望な物、果ては食べられる宝石に食べられる雲に飲料用マグマとやりたい放題。

 使えるか使えないかより、このみが好きなように自由に料理を作れるようにする、そういう状況作りに全力を注いだようであった。

 

「頑張って」

 

「そりゃもう頑張るよっー!」

 

 このみが詩織に抱きついて、感謝の言葉を述べていく。

 野球部の一球やら剣道部の剣崎やら、このタイミングで王都に居た者達も重い物を運ぶなどしてこのみに助力してくれていた。応援してくれていた。

 そして、大会日程初日。

 大会予選一日目が開始される。

 

「お、始まったな」

 

 朔陽は一人、誰も連れずに観客席から大会を眺めていた。

 早い者から次々と、審査員の前へと運ばれていく料理達。

 この大会は数百人規模での参加者が存在しているため、第1ブロックから第16ブロックまでに参加者を仕分け、予選で16人まで参加者を絞るシステムになっている。

 審査員は10人。

 大会運営が用意した5人と、直前に観客からランダムで選んだ5人による採点形式だ。

 第1ブロックは既に審査が始まっているが、朔陽が見る限り、このみが参加している第12ブロックの審査はまだ始まっていないようだ。

 

「まろやかなエグみがありながら、それでいてくどくない苦味……!

 舌の上でシャッキリポンと、斬撃にも似た強烈な苦痛の刺激が踊る!

 軽く鼻で息をするだけで、明瞭な生臭さがすーっと鼻に入って来る!」

 

「美味しい、ということでしょうか? 審査員さん」

 

「不味いっつってんだよ馬鹿野郎」

 

 ……予選はこうして、審査員がダメな料理人をふるい落とす場でもある。

 

 ダメな料理人の敗退を見ながら、朔陽は観客席の合間の道をゆったり歩き、第12ブロックの審査が見えるところまで移動しようとする朔陽。

 その肩をちょんちょん、と指先でつつく者が居た。

 朔陽は知り合いだろうかと振り返る。

 そして知らない顔を見る。

 誰だ? と思っていられたのも一瞬で、一瞬後には顔にかけられた魔法が解け、知らない顔が知っている顔……ヴァニラ・フレーバーの顔へと戻っていた。

 

「ひめさ」

 

「しーっ! お静かに! お忍びです!」

 

「……あ、ああ、そうなんですか」

 

「この魔法発動条件がややこしい上にバレやすいんです、どうかお静かにお願いします」

 

 しーっ、と唇に指を当てるヴァニラの服装は、普段とはまるで違っていた。

 編み上げまとめた銀の髪は、大きな帽子の中に隠している。

 薄手のネックウォーマーのようなものにグラサンと、とことん体の特徴を隠す形だ。

 いつもの姫と美しさを引き立て合うドレスもなく、"オシャレに気を使う年頃の子"といった印象を受ける普通の服を身に着けていた。

 とはいえ、顔の造りなどが根本的に美人なのだ。

 魔法で顔の形を変えなければ、ほどなくバレていたことは間違いない。

 

 朔陽はそっと視線を周囲に走らせた。

 姫に害を成しそうな者は見当たらない。

 その代わりに、朔陽にだけ分かるように小さく手を振るなどの動作を見せた者が数人。

 どうやら姫の護衛のようだ。

 朔陽に位置を知らせたのは、朔陽の能力をある程度は評価し、有事には護衛の位置を考慮した上で動いて貰おうという腹か。

 

「ヴァニラ姫も今日は普通の一般人のような私服なんですね。お似合いですよ」

 

 朔陽は自分の中に生まれた感想から、一番当たり障りのない感想を口に出した。

 姫は嬉しそうにして、一瞬止まって、顎に手を当てて考え込んで、ちょっと悪い顔で何かを思いついた様子を見せて、微笑んで彼に問い直す。

 

「もっとこう……何か感想はありませんか?」

 

「もっと、と言われましても僕困るんですが」

 

「もっとこう、心を剥き出しにした感じの感想はありませんか?」

 

 からかわれている。

 そう分かっていても、朔陽につっぱねるという選択肢はない。

 先程の心に浮かんだ感想の中から、口に出しにくいと思った感想の一つを口にした。

 

「とても可愛いと思いました。僕が人生で出会った中で一番美少女だと思います」

 

 姫が、先程の嬉しそうな顔よりもっと嬉しそうな顔をする。

 朔陽の表情を見る彼女は実に楽しそうだ。

 姫は友人とじゃれている感覚なのか、照れと困り顔を必死に隠して人当たりのいい表情を作っている朔陽の様子が、見ているだけでも楽しいらしい。

 

「うふふ、ありがとうございます」

 

 姫への気遣いと、無理やりひねり出した本音のせいで、朔陽の内に微妙な疲労感が残った。

 

 そんな風に姫と友人の距離感でじゃれていると、いつの間にかこのみが参加している第12ブロックの料理審査が始まってしまっていた。

 審査員の前に料理を運んでいるのは三人。

 内二人には朔陽も見覚えがなかったが、内一人はこのみであった。

 どうやら三人同時に料理が完成したらしいが、話し合いの結果このみが三番目(さいご)に料理を運ぶ順番になってしまった様子。

 

「一番目のあの方は……ステーキのようですね、サクヒ様」

 

 一番目の料理人が、十人の審査員の前にステーキを並べていく。

 

「異世界版のシャリアピンステーキ……」

 

「サクヒ様、シャリアピンステーキとは?」

 

「オシャレな名前をしておきながら、日本生まれで日本特有のステーキである料理です。

 純日本人のくせにセレスティア・ルーデンベルクと名乗ってるような料理ですね。

 その強みはタマネギの分解酵素で柔らかくなった肉。

 そして、肉とよく合うタマネギの風味、専用のソース、柔らかい肉の相乗効果です」

 

 ステーキは熱された鉄板食器の上でジューと音を立てていて、ニンニクを中心としたソースの香りが食欲を誘い、ナイフでつつけば簡単に切れそうな感触が手に残る。

 

「あの料理人はこの世界のタマネギを使っています。

 元より、タマネギにはイチゴとほぼ同量の甘み成分があるんです。

 加熱することで、辛さと甘みのバランスは変化します。

 あの料理人は肉を漬け込むタマネギ、炒めてソースに使うタマネギ……

 そして、生で刻んで肉に添えるタマネギの三種を併用しているのです」

 

「凄腕ということなのでしょうか?」

 

「この世界基準だとぶっちぎりですね。

 タマネギ、ニンニク、肉の香りを最大限に調和させた仕上げも見事です」

 

「そんな……コノミ様は、大丈夫なのでしょうか」

 

 朔陽の予想通り、審査員は皆美味い美味いとパクついている。

 食べ終わってからの採点タイムでの獲得点数は92点。

 審査員は十点持ちが十人、合計百点だ。

 まさかの90点超えに、観客がざわめく。

 

 二人目の料理人の料理を見て、朔陽は「ふむ」と呟いた。

 

「あっちは烤乳猪(カオルゥジュウ)の類でしょうか。

 丸焼きにしているのは豚ではない異世界生物なので、正確には違うでしょうが」

 

「カオルゥ……?」

 

「こっちの世界の香港料理、子豚の丸焼きのことです。

 毛を取り除くなどして皮を処理し、内臓を綺麗に取り除き、香辛料等を塗って丸焼きにする。

 肉も美味しいのですが、糖水をかけてから焼いた皮が絶品であると言われています」

 

「そうなのですか……あ、本当に丸焼きみたいですね、あの料理」

 

 先のステーキがこの世界における牛のステーキなら、こちらは豚の丸焼きにあたる。

 

「丸焼き、と言うと手抜きに感じてしまいますが……」

 

「あの料理人さんは、子豚を串に刺して串を回し、全体を焼いていました。

 それも、途中で味付けと香り付けの油を適宜使い分けて塗りながらです。

 それで焼きムラなく焼くのはとても難しいんですよ、ヴァニラ姫。

 僕らの世界でもこちらの世界でも、そこの難しさは変わらないと思います」

 

「では、こちらも凄腕であると言うのですか?」

 

「はい」

 

「ああ、コノミ様、どうか頑張ってください……!」

 

 朔陽の予想通り、二人目の料理も高評価であった。

 だが、得点は91点。僅差での敗北が確定していた。

 ここまでの接戦となれば料理の出来に上下があったというより、個々人の舌に合うか合わないかの話だろう。

 実際、子豚の丸焼きに似た二人目の料理は、とても美味しそうではあった。

 

「今の料理は、先のステーキより作るのが難しいのですよね?

 なのに、作るのが難しい料理の方が負けてしまうとは……私もびっくりです」

 

「作るのが難しかったら点数が高くなる……ってわけでもないということですよ」

 

「なるほど、ためになります。あ、サクヒ様、コノミ様の番が来ましたよ!」

 

 この世界の料理を知らないサクヒにこの世界の料理人の料理を解説させるのはいかがなものか。

 それは日本の文化を外国在住の外国人に語らせるようなものではないだろうか。

 あながち間違ってもいないし、日本人の料理知識から見たこの世界の料理の感想が聞けるならそれはそれで楽しい、ということなのだろうか。

 姫は楽しそうなので、まあこれはこれでいいのかもしれない。

 

 だが、ここからは違う。

 ここからは未知の領域だ。

 この世界にない技術で料理を作る恋川このみと、その料理をこの会場で唯一理解できる朔陽のみが理解できる、地球料理の世界。

 それを知る者もこの会場には少なくないらしい。

 このみが自分の料理を審査員の前においた瞬間、ゴクリと唾を飲み込む音が、この会場のいたる所から幾重にも重なって響いてきた。

 

「これは……スープか?」

 

 審査員がスプーンでスープの中に探りを入れる。

 やや赤みがかったクリーム色のスープの中には、剥き身のエビがいくつも沈んでいた。

 

「この香りは、川に生息するアメザリロブスターのものですね」

「今が旬だ。食材のチョイスは悪くない」

「クーリッシュ村が名産地の一つでしたな」

「そういえばクーリッシュ村は最近アメザリロブスターをどこかへ大量に贈ったと聞きますね」

 

 皆が揃って、スプーンでスープとエビの身を掬い、口に入れる。

 その瞬間。

 口の中で、スープと身の中に凝縮されたエビの旨味が、爆発した。

 

「―――美味い。信じられんほど美味いッ!」

 

 まず感想を言おう、と思っていたはずの審査員達が、続けて二口目を食べる。

 感想を言う前に三口目、四口目、五口目。

 止まらない。

 彼らの食事の手が止まらない。

 審査員達の異様な動きに観客は驚き、「そんなにも美味いのか」とこのみのスープを見て思わず唾を飲み込んだ。

 

「サクヒ様、あのスープは何ですか?」

 

「ペースト状にしたエビの殻を使ったスープですよ、ヴァニラ姫」

 

「……え?」

 

「何度も加熱過程を経て、ミキシングして、丁寧にすり潰して、濾して……

 エビの甲殻を使って作る、エビの旨味がたっぷりと溶けたクリームスープ。

 味の補助に、魚のだし汁や野菜のソースなんかも使ってるとは思います。ただ、やはり本質は」

 

 友達に用意してもらった調理器具と、ゴリゴリと殻をすり潰す調理技術で、恋川このみが作り上げたエビの旨味を全て使い切るスープ。

 

「エビの殻を飲むスープです」

 

 クーリッシュ村の皆に『お礼』として貰ったエビを、肉も殻も捨てず余すことなく使い切った、食材と生産地への感謝に溢れた一品だった。

 

「何だこのスープは! 濃厚で滑らかで、とにかく美味いぞ!」

「スープが丸ごとエビであるかのようだ……!」

「くっ、身を全部食べてしまった!

 この身はただこのスープで煮ただけではない!

 完成直前にスープに入れただけで、入れる直前まで味と香りを付けた油で炒めていたな!」

 

 審査員達は止まらない。

 おかわりを申し出る。

 このみも快くおかわりをよそってやった。

 

「エビスープの染みた野菜が実に美味い!」

「香味野菜の欠片まで美味いぞ! いいアクセントだ!」

「それだけじゃない、エビスープに剥き身のエビとエビ尽くしのこの料理。

 エビだらけの単調な味にならないよう、野菜はエビの味を引き立てるために入ってるんだ」

 

 もはや点数発表を待つまでもなく、審査終了を待つまでもなく、会場の誰もが彼女の勝利を確信している。

 審査員の反応が明らかに違えば、分からない方がおかしいというものだ。

 

「地球のエビの殻じゃあそこまでの旨味は出ません。この世界の食材に感謝ですね」

 

「甲殻類の殻をそんな風に食べるなんて……」

 

「前にヴァニラ姫が食べた豚骨ラーメンと同じですよ。

 単純にこの世界にはまだ無かった発想である、というだけなんです。

 骨や甲殻を砕いて、そこから最大限に旨味を抽出するという技法はね」

 

 このみの料理は百点満点。

 残る料理人達も懇親の一作を並べていくが、それでも満点には届かない。

 

「この世界に無い料理。

 ここの文化に無い味。

 初めての美味しさに初めての体験。

 ……『斬新さ』ってのはいつの時代も、食において過剰に評価される項目です」

 

 最高に美味いが、どこかで食べたことのある料理。

 最高に美味くて、人生初体験の斬新で鮮烈な料理。

 人は味の評価が同じなら、後者を選ぶ。

 それは自然な反応だ。

 

『第12ブロック勝者! コノミ・コイカワ!』

 

「このみさんが負けるわけないじゃないですか」

 

 このみは難なく、本戦出場を果たしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イェーイ、とハイタッチしようとする朔陽。

 反応できない姫。

 ハイタッチを教える朔陽。

 い、いぇーい、と即やってみる姫。

 パチン、と二人のハイタッチは成功した。

 

 そんなことをしていたら、突然朔陽とヴァニラの脳裏に声が届く。

 

『聞こえますか? 聞こえたならば、こちらを見なさい』

 

 二人が驚き、声の方を見た。

 脳に直接届けられる声は第16ブロックに居る女料理人の一人から発せられていた。

 

『あなたが地球人のリーダーで、そちらがヴァニラ姫ね。会えて光栄だわ』

 

「あなたは一体……?」

 

 離れた大会会場から観客席までテレパシーを送りつつ、その女性は邪悪に笑った。

 

『私は魔王様に仕える十六魔将が一人、ドライ・ディザスターと申しますわ』

 

「何やってんだ魔将ッ!!」

 

 朔陽が叫ぶ。

 周囲の者達が突然遠くを見て叫んだ朔陽にびっくりし、朔陽とヴァニラに注目するが、もはや注目を集めたくないとかそういう話をしていられる事態ではない。

 なんだこれは。

 どういう状況だ。

 ドライは邪悪に笑って、自分の自慢の料理を審査員の前に並べた。

 

「サクヒ様、あれをご覧になってください。あれは……?」

 

「あれは……僕も知ってます。フォアドラですね。

 捕まえたドラゴンの動きを封じ、口から無理やり食べ物を押し込む。

 その後食べさせ続けたドラゴンの腹を開き、そこから取り出した脂肪肝……」

 

 フォアドラは世界三大珍味にも数えられる高級食材だ。

 だが、あくまで珍味。

 美味ではない。

 使い方を間違えれば、ただの脂っこい竜の肝でしかないのである。

 それを巧みに調理し使いこなすドライは、単純に料理人として見ても一流だった。

 

 当然のように百点満点。

 第16ブロックの勝者はドライに確定し、ドライはそのタイミングで右手を掲げる。

 そして、指を鳴らした。

 

「『敗者には死を』」

 

 何かが切れた、音がした。

 ドサリ、ドサリと、第16ブロックの試合に参加していた料理人が倒れていく。

 警備員が慌てて駆け寄るも、既に全てが絶命していた。

 

「な、なっ……!?」

 

「はい、注目。私は十六魔将の一人、ドライ・ディザスターと申します」

 

 彼女の名乗りが、会場にざわめきを呼ぶ。

 朔陽とヴァニラの通報で魔将突入をいち早く知った警備兵が駆けつけ、一斉にドライに矢を射掛けるが、矢は全て彼女に当たらず『何か』に弾かれてしまう。

 

「ご存知の方も多いと思われますが、私の能力は『生死をかけた料理勝負の強制』。

 私との料理勝負に負けた者は即その場で死にます。

 かつ、料理勝負の間に私はいかなる手段によっても害されません。

 私が料理勝負の場に移動を始めてから、勝負が終わり死ぬまでか、帰宅するまで」

 

 それが『料理勝負の間』の期間定義です、と言って、ドライはまた邪悪に笑う。

 会場のざわめきが大きくなる。

 警備兵達はドライに剣で斬りかかったが、傷付けるどころか全ての剣が弾かれ、折れた。

 ドライが料理勝負で負けるか、勝って帰って魔王の城に到着するまで、いかなる者も彼女を傷付けることはできない。

 

「どんな方法を使っても、料理勝負で負けた者は死を回避できません。

 また、料理勝負の参加者は逃げることもできません。

 この場合に定義される参加者は、大会参加者の全てです。

 そして私が大会優勝者となった瞬間、大会の参加者は全員が敗者扱いとなり死亡します」

 

 もはや会場のざわめきは、パニックと言っていいレベルのものへと変貌していた。

 

「この能力が発動している時の私は、料理勝負で負ければ死にます。それ以外では死にません」

 

 料理勝負で誰でも殺せる。

 料理勝負でなければ殺されない。

 理外のルールを押し付けてくる魔将。

 『必殺料理人』の二つ名で知られるその女の名は、ドライ・ディザスター。

 

「この大会の間、よろしくね。私を楽しませてちょうだいな」

 

 会場の空気が、爆発した。

 パニックが広がる。

 騒ぎが人を飲み込んでいく。

 朔陽はパニックの中、会場のドライに向けて叫んだ。

 

「お前、なんでこんな大会に参加してる? 目的はなんだ!」

 

『目的? 私を殺せる料理人を奇襲で殺して、なし崩しに全滅させることに決まってるじゃない』

 

「―――!」

 

『この力は制約があまりにも多い代わりに、能力の強制力と絶対性だけは抜群よ』

 

 最悪の能力だ。

 この能力の本質は『料理ができない人間は問答無用で強制的に殺せる』という部分にある。

 メシマズは確殺。

 戦いのために生涯を使ってきた者にも必勝。

 いや、今日の料理大会を見る限り、人生のほとんどを料理に費やしてきたものでさえ、勝てるかどうかは怪しいレベルだろう。

 

『大会が終わったら王様と最強の騎士様に料理勝負を挑みに行きましょう。

 あの二人はヴァニラ姫と違ってそんなに多芸じゃないんでしょう?

 戦いや国政に生涯を懸けた男が、本職の料理人である私に勝てるわけありませんものね!』

 

「こ、こいつっ……!?」

 

『腕っ節が強いだけの最強キャラなんてサクッと殺せるってわけよ!』

 

 これはちょっと不味い。

 

「『フレアレイド』!」

 

 朔陽の横でヴァニラ姫が火の上級魔術を熱線として放つも、直撃したはずのドライは眉一つ動かさない。

 ドライの周辺の金属製の床はドロドロに解けて蒸発しているというのに、傷一つ無い。

 まさに無敵。

 料理勝負期間中のドライを、料理勝負以外で殺せないというのは真実であるようだ。

 

「跳びます、体の力を抜いてください!」

 

「え」

 

 ヴァニラは朔陽の服を引っ掴み、服の内から魔道具を取り出し瞬時に転移魔法を発動。

 王城内部の一室へと、あっという間に転移した。

 

「付いて来てください!」

 

 ヴァニラが走り、朔陽がその後を追う。

 やがてヴァニラは厳重に魔法で封印された一室へと辿り着き、魔法で解錠を始める。

 片手で知恵の輪を十数個同時に解くような解錠ペースだ。

 あっという間に解錠は終わり、棚にヤバそうなものが所狭しと並べられているその部屋で、朔陽は中央に置かれた剣をヴァニラに手渡される。

 

「ここは……」

 

「本来なら明日にお渡しする予定であったのですが、緊急事態です。前倒ししましょう」

 

 それは、かつて見た聖剣。

 

「我々の話し合いの結果、あなたの身を守るために用意した対抗策が、これです」

 

 一球が初日にウンコまみれにした、く聖剣だった。

 

「これは、アレでしょうか」

 

「あの聖剣で間違いありませんよ、サクヒ様」

 

「でもあれって、一球くんが抜いたんじゃ」

 

「……この聖剣には、固有の意志がありまして。

 イッキュウ様は、ええと、あれ以後聖剣に主と認められていないのが、その……」

 

「……あー」

 

 仕方ない。聖剣の方から拒絶するのも仕方ない。

 

「お兄様が調整したので、地球人の方なら誰でも一応は扱えると思います」

 

「そうなんですか? よい、しょ」

 

 朔陽は名も無き聖剣を右手で持ち上げ、握ってみる。

 なんとなく、なんとなくだが。

 聖剣が"今はお前で妥協しよう"と、妥協する感じで自分を主と認めてくれた、そんな気がした。

 

「お兄様は、『地球人』が聖剣に選ばれたことに意味を感じているようです。

 聖剣を調整できるのは、今のところ魔剣に選ばれたお兄様のみ。

 お兄様もこの聖剣の持ち主として、以前からサクヒ様を推薦してらっしゃったんですよ」

 

「え、僕を? あの、素人の僕に渡していいほど、この聖剣って軽いものなんですか?」

 

「いえ、軽いものではありません。

 世界創生の始まりから存在する二振りの剣の片割れ。

 世界法則に先んじて生まれたがために、世界法則に縛られぬ超越存在。

 お兄様の魔剣と対になる、この世で最も尊い存在とも称される聖剣ですから」

 

「そ、そんなに」

 

「とはいえ、護身のために渡すのです。

 あまり大事にもしないでくださいませ。

 それはあくまで道具。貴方の命を守るために渡すのですから」

 

 予想以上にとんでもない剣だったようだ。

 それを身を守る道具、とすっぱり割り切るのは逆に凄い。

 

(本当にひっどいことしたんだなぁ僕ら……)

 

 朔陽はまたしても後悔の念を覚える。

 この美しい聖剣をウンコまみれにした奴が居るらしい。

 とんだクソ野郎である。

 

「世界創生よりも前から存在するため、世界が壊れてもこの聖剣は壊れません。

 聖剣自体に意志があるため、ある程度であれば自動でサクヒ様を守ってくれます。

 身に付けているだけで、特殊なものを除いた毒くらいならば無効化してくれるでしょう」

 

「おぉ……」

 

 無力な朔陽が自衛するには、過剰なくらいに最強な剣の方がいいのかもしれない。

 現状、使いこなせる気配は全く無いが。

 

「どうかお気をつけて! 立ち回りに気を付けてください!

 サクヒ様も名前だけとはいえ参加している以上、負ければ死ぬのですから!」

 

「……あっ」

 

 ヴァニラはそう言って、部屋を飛び出していった。

 王であるモナ・フレーバーに報告に行き、迅速に対応しようとしているのだろう。

 彼女が最後に残した言葉は、朔陽が気付いていなかった事実を気付かせていた。

 今このタイミングで護身の聖剣を前倒しに渡すという行動の理由を、簡潔に説明していた。

 

「ああそっか、あいつが優勝すると僕も死ぬのか……ヤバいな。会場に戻ろう」

 

 朔陽もこのみの助手として登録しているために、ドライが優勝した場合、おそらくオートで死ぬのである。

 最悪だ。

 朔陽は聖剣を新造の鞘に納め、会場に向かって走る。

 

(とりあえずこのみさんと話し合おう)

 

 その途中、ふと思う。ふと気になる。

 そして足を止め、聖剣を鞘から抜き、くんくんと嗅ぎだした。

 

「……大丈夫だよね? 臭くないよね?」

 

 なんとなく、"臭かったらどうしよう"と思ってしまったのだ。

 本気で臭いと思って嗅いだわけではない。

 ついつい嗅いでしまった、それだけ。

 なのに。

 

「くせっ」

 

 何故か、臭かった。

 

「これは……いったい……?」

 

 だが、綺麗に魔法で水洗いされた聖剣が悪臭を放つというのは実は考え難い。

 むしろいい匂いがしてもおかしくはない、それが今の聖剣の状態であるはずだった。

 "ウンコはいい匂いの元になる"という考え方は暴論にも見えるが、そこには明確な理屈が存在する。

 

 いくつか例を挙げてみよう。

 香水は多量に付け過ぎると、不快感を催す悪臭となってしまう。

 なら、こう考えたことはないだろうか?

 "悪臭を薄めればいい匂いになるんじゃないか"、と。

 一般にはあまり知られていないが、身近にその一例がある。

 ウンコだ。

 ウンコに含まれるウンコ臭の元のインドール・スカトールは、薄めることで芳しい花の香りに変化するのである。

 

 ちなみに天然ジャスミン油は2.5%ほどのインドールを含むと言われている。

 更に言えばこのジャスミン油は、ジャスミンティーにも使用されている。

 相手がジャスミンティーを飲んでいる時に「うっわこいつウンコ飲んでやがる!」と言っても事実なので失礼にはならない……かもしれない。

 いや失礼だ。

 無根拠な罵倒になるのでしないようにしよう。

 

 トロピカルフルーツとも香気成分が同じであるため、フルーツをいい香りだと褒めている人に、「俺のケツの香りをそんなに褒めんなよ、照れる」と言っても失礼にはならないかもしれない。

 いや、問答無用で失礼だ。

 射殺されても文句は言えない。

 

 便所の消臭に使われるジャスミンの芳香剤は、同タイプの香りをぶつけることで匂いの方向性を制御しようという狙いがある、というわけだ。

 ウンコの臭いにウンコの香りをぶつけて、トイレの匂いを制御する。

 字面だけ見れば魔法のような不可思議対処。

 なのに成立するという奇跡。

 例えるならばウンコの魔法だ。

 そういう意味では、地球にもウンコの魔法があったと言うことはできるのかもしれない。

 

 話を戻そう。

 この聖剣は丁寧に魔法で洗われ、魔法で消臭された。臭うわけがないのだ。

 なのに匂う。何故だろう?

 そうして朔陽は、自分の足の下に踏み潰されたウンコがあるのを発見した。

 

「……僕も立派なウンコ野郎だな。一球くんを笑えないや」

 

 朔陽はまた走り出す。

 走っている内に靴底のウンコが自然に落ちてくれると、そう信じて。

 走って、走って、その果てに彼は大会会場へと舞い戻った。

 朔陽はまだパニック状態の会場を、人の波をかき分けるように進み、このみを探す。

 

(このみさんはどこだろう)

 

 ウンコの匂い成分は薄めることで香水となる。

 ならウンコを踏んだ者が街をさっそうと歩いていて、希薄化したインドールが周りの人に届き、「あの人、いい匂い。ウンコ踏んだのね」とうっとりするものだろうか?

 いや、しない。

 現実には嫌になるほど臭いままだ。

 ウンコを踏んだ奴は単純に臭い。

 何故そうなるかと言えば、ウンコにはいい匂いの元以外にも、悪臭の元になる化合物や脂肪酸が含まれているからだ。

 ウンコを単純に希釈しても、いい匂いになることはない。

 

 もしかしたら、人間のウンコが全て香水と同じ香りをしているような、そんなファンタジーな世界もあるかもしれないというのに。

 ウンコに混ざったどうしようもない悪臭の元が、その可能性を台無しにしてしまっている。

 今、この大会も同じだ。

 素晴らしいものの中にたった一つだけ混ざる、大会を台無しにしている、悪なるものがある。

 

 人の波をかき分ける過程で、朔陽はそのウンコの悪臭成分に等しい存在と、目が合った。

 

「ドライ・ディザスター……」

 

 刃を握りつつも兵士とは違い、人には刃を振るわない職業、料理人。

 この大会は誰もが切磋琢磨し高め合いながら、たった一つしかない頂点を目指し自分を磨く、誰も死なない優しい戦場。

 料理人は最高の料理を作るため、それを他人に食べさせるため、全力を尽くす。

 汗は流れても血は流れないこの場所は、『殺し』で汚していい場所ではない。

 

 そこに混ざる、唯一の汚点たる魔将。

 殺人で聖域を汚す悪。

 その名はドライ・ディザスター。

 彼女はまさしく、ウンコに混ざる改善のしようもない悪臭成分と、同類のものだった。

 

 

 



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その2

 料理とは本来勝負するものではない。

 ならば、勝敗は何が決めるのか?

 得点でもいい。工夫の量でもいい。使われた技術の格差もでもいい。

 勝者には、勝者となったという結果に相応しい理屈の証明が必要となる。

 

 

 

 

 

 夢を見た。

 椅子に腰掛け、微睡みながら見る、うたた寝のような夢。

 朔陽は夢を見ていた。

 修学旅行の少し前に、このみと朔陽で話した時の夢を。

 

「よーっす」

 

「よーっす」

 

 朝練が始まる時間帯と、朝のHRが始まる時間帯の狭間。大体朝の六時半頃。

 学生達が昼間よりも少なく、学生達が昼間よりも活発なその時間帯に、朔陽とこのみは家庭科室で駄弁っていた。

 朔陽は椅子の背もたれに腹を預け、前後逆に座っている。

 このみは山積みになった本を片っ端から読んで参考にしながら、まな板の上の鳥に包丁を入れている。

 

「さっき井之頭といいんちょさん話してたけど、何話してたの?」

 

(じょ)と読めば所ジョージも次代のジョジョに成れるな、みたいな話してたね」

 

「男子はそういう話好きだねー」

 

 料理人にはいくつかのタイプが有る。

 このみはカリフォルニアロールや焼肉寿司といった斬新なものとは縁遠く、様々な調理法を学びつつ、それらを取捨選択して整合性のある形に纏めるタイプ。

 過去へのリスペクトを忘れない若人。

 洗練された調理技術を継承する料理人。

 彼女の実家がレストランであることも相まって、彼女は十数年に渡って知識と経験を積み上げ、この歳でプロとして料理を振る舞うに相応しい実力を備えた、勉強家な調理者であった。

 

 朔陽は積み上げられた本を見て、人知れず感嘆の息を吐く。

 

「ミネルヴァの(ふくろう)は迫り来る黄昏に飛び立つ、か」

 

「日本語喋りなよいいんちょさん」

 

「日本語喋ってるんだけど……」

 

「日本人に分からないなら日本語じゃないから」

 

 哲学者は予言者ではないため未来は見えない。

 だから哲学者が語ることはいつだって、物事の終わり際における、過去の総まとめである。

 『ミネルヴァの(ふくろう)は迫り来る黄昏に飛び立つ』とはそういう意味の言葉だ。

 実に分かりにくい。

 これは分かり辛い話をした朔陽が悪い。

 

「っていう意味」

 

「へー」

 

「過去の料理の歴史を吸収して纏めるこのみさんが、なんだかそんな風に見えたんだ。あと」

 

 朔陽は蛇口の下に転がっている、斬首された(ふくろう)の頭を見る。

 

「……フクロウも、今ここで捌かれてるし」

 

「許可貰ってここで調理してるけど、あんま食材には向かないねこれ」

 

「ひどい」

 

 食肉としてメジャーなものにはそれなりに理由があって、食肉としてメジャーになれないものにはそれなりに理由がある。

 フクロウがメジャーでないのは、まあそういうことだ。

 が、朔陽はこのみが差し出した"とりあえずの一品"を口に入れ、その旨さを堪能する。

 

「なのに普通に美味いんだ……」

 

「あたしが不味いもん食わせるわけないでしょうが」

 

 不味い食材、使い難い食材、一般に扱われていない食材。

 そういったものを巧みに調理して美味しくする時こそ、料理人の真価の一つが問われるものだ。

 

「このみさんを見てると、現代の料理は過去の集積なんだと実感するよ。

 過去の人の積み重ねの凝縮がこの人の中にあるんだな、凄いな、って思えるというか」

 

「なるほどなるほど。つまりあたし、褒められてる?」

 

「ん、そうだね」

 

「そうならそうと分かりやすく言えばいいのに」

 

 料理を褒められ、努力を認められ、このみはこの上ないほどに明るい笑顔を見せる。

 

「ま、褒められて悪い気はしないかな」

 

 二人の間には、不思議な距離感があった。

 友情と仲間意識が並立しているのではなく、溶け合っているような不思議な関係。

 このみは自分の料理の試食に親友の詩織ではなく、朔陽を呼んだ。

 一番の親友より朔陽を選んだ。

 この二人の間には、関係性の強さを超えた何かがあって。

 

「修学旅行の飯が不味かったら、まあ期待しておきなさいな。わっはっはっは!」

 

 呵々大笑するこのみはこの時、修学旅行に行く途中で異世界に吹っ飛ばされることなど、夢にも思っていなかったことだろう。

 

 夢が終わる。

 目が覚める。

 意識が現実に戻る。

 

 

 

 

 

 目を覚ました朔陽は、自分に向かって手を伸ばす魔将ドライの姿と、その手を阻む和子の姿を目にした。

 

「―――!」

 

 状況確認に目を走らせながら、椅子から転げ落ちるようにして逃げる。

 

「っ、な、くっ!」

 

 ここは選手控室。

 朔陽は昨晩ドライについて仲間と話し合っていたせいでつい居眠りしてしまったようだ。

 和子が居るからと安心して眠ってしまった彼の失敗、と見るか。

 朔陽が眠ってしまっても和子が守ってくれたから良し、と見るか。

 いずれにせよ和子のファインプレーだ。

 

「しっ」

 

 和子は袖口からクナイを滑り落とし、クナイの先がドライの首の方を向いた瞬間、足裏でクナイを全力で蹴り込む。

 鋭いクナイであるはずなのに、体重を乗せた強烈な蹴りで押し込んでいるはずなのに、クナイはドライの首に1mmも刺さってはいなかった。

 

 

「……」

 

「あらあら、怖いですわね」

 

 和子は朔陽を庇ってジリっと下がる。

 

「何もする気はありませんとも。ええ、無いわ。

 たまには食材だけじゃなく、人間の体温にも触れたいと思っただけなの」

 

「……私には、信じられない」

 

「和子ちゃん、警戒したままでいいから、少し下がって」

 

「……」

 

 和子は逡巡してから少しだけ下がり、朔陽とドライが向き合う形となった。

 

「それで、魔将さんは何用で?」

 

「少しお話しましょう?

 予定より暇になってしまいましたの。

 お城に無敵なまま忍び込もうとしたら、門から道までぎっちり封鎖されてしまっていてね」

 

「!」

 

 この女。

 料理勝負の無敵時間を利用して、堂々と王都の中で工作員まがいのことをしていたようだ。

 だがそこはヴァニラ姫達の先読みが上を行ったようだ。

 無敵だろうと埋まった道は通れない。

 だがその程度で断念してしまうのであれば、ドライは料理による無敵&殺害能力こそ凶悪だが、それ以外はさして大したものではないのかもしれない。

 道が埋まっていたとしても、飛び越えるか壊せばいいのだから。

 

 自分に話しかけてきたのは探りを入れに来たのだろうか、と朔陽は推察する。

 このみの料理か。

 地球という世界の事柄か。

 その辺りは想像するしかないが、適当に探りを入れてきたのだろうということだけは、なんとなく状況から読める。

 

「お話に付き合ってくれたら、その分あなたに得をあげる。どうかしら」

 

「……分かった。ただし、僕らが付き合うのは五分だけだ」

 

「感謝しますわ」

 

 ドライと話していると、妙にムズムズする。

 言葉の節々、発音、ニュアンス、果ては単語の選択まで一貫性があるようでない。

 精神異常者ほどにイカれているわけでもなく、かといって常人レベルに話の癖が一定で安定しているわけでもなく。

 ぼんやりなんとなく、会話をしている内に"こいつはなんかおかしいな"とドライの精神の一片を窺い知れるような、そんな話し方だった。

 

「私の能力については、説明しましたわね」

 

「そりゃもう、僕らが困るくらいにね」

 

「私の能力の本質は『強制』と『安全保障』。

 他人には強制し、自分の安全は保証する。

 その根底は"勝負を公正に成立させる"という妄執。

 私の能力下では、八百長試合さえも許されないのです」

 

 こうして話していると、ドライは普通の料理人に見える。

 

「逃げるな。

 ズルはするな。

 不正はするな。

 料理の出来以外の要因で勝とうとするな。

 本気でやれ。

 本気でやらせるために、敗者に死を用意した。

 料理の場に嘘も手抜きも許されない。

 ……これが私の能力の発展過程で、おかしいことは何も言っていないと思いますわ」

 

 普通の料理人の延長で、イカれているのだということが分かる。

 

「先の話の続きをしましょう。

 あなたに得をあげる。

 私はこの先の料理勝負で……『地球の料理しか作らない』」

 

「―――!?」

 

「おわかり? 私に手を抜く気は無いけれども、勝機をあげると言ってますのよ」

 

「……そんなことをして、何の得が? 僕らにしか得がないじゃないか」

 

「今のままで、私に勝てるものはいない。

 ええ、そうですとも。

 私の料理歴も今年で百年となります。

 しからば単純計算で百年の研鑽を積んだ料理人しか私が勝てぬが道理。

 されど常人が人の身で百年を生きるも、百年の研鑽を重ねるも、到底不可能なこと」

 

「……!」

 

「可能性があるとすれば、私の技術とは根本的に違う者。

 私の住まう世界とは違う世界から来た者のみ。

 それ以外の有象無象では、私に料理の縛りがあっても僅かな勝機しかない」

 

 この縛りがあっても、この世界の料理人が彼女に勝つ可能性が、0から1になるだけ。

 

「それでも、勝機は0ではなくなる」

 

 が、人間ならば、小さな可能性を掴み取る可能性はある。

 

「私の能力は『無敵で相手を蹂躙したい』という想いから生まれた力ではないわ。

 『料理勝負をしたい』という想いから生まれたものが、結果的に無敵性を備えただけ。

 勝負とは何か? それは、勝ちもするし負けもするものでありましょう?」

 

 この魔将の行動原理を、まっとうな人間の常識で理解しようとしてはいけない。

 

「私は私が最も愛するもので……料理で殺したいし、料理で殺されたいのです」

 

 目的のためなら手段を選ばない人間がいる。

 勝つためには何でもする人間がそうだ。

 手段のためなら目的を選ばない人間がいる。

 本気の戦いが好きで、あらゆるイデオロギーに同調して戦う者がそうだ。

 この女は、本質的にどちらでもない。

 

 魔王と魔王軍のために人間の国を滅ぼすという目的があり、そのために料理で対象を殺すという手段を用いるくせに、目的にも手段にも頓着が無くて。

 "手段を用いて目的を達成する過程のジャンル"にしか興味がない。

 本質的に料理勝負というジャンルにしか固執していない。

 料理勝負の中で生き、料理勝負の中で死のうとしていることさえ目的ではなく、基本的な生き方(スタンス)でしかなかった。

 

 この女は心の位相がズレていた。

 普通は誰もが心に持っているはずの合理性と、あまりに離れた心を持っている。

 

「この後は私の試合ですわ。どうかご覧になっていってくださいな」

 

 女は、邪悪に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大会参加者に、ドライとの料理対決を恐れ逃げようとする者はいなかった。

 彼らが見せたのは、自分達が誇りとする料理を殺害に使う冒涜者への怒り。

 死への恐れを凌駕する怒りであった。

 自分の料理で倒してやる、という決意。

 全力でぶつかり合い勝ち抜いた強者がドライを倒せばいい、という計算。

 彼らはその両方を抱えて大会本戦へと挑む。

 

 本戦はAブロックとBブロックに別れていて、Aブロックには魔将ドライが、Bブロックには地球人このみが居る。

 その二人以外にも、各国から選りすぐりの優れた料理人達が集められていた。

 

 料理人達は怒れる獅子のような気迫を漲らせている。

 その気迫は、魔将を倒す決意の証。

 魔将はのんびりとしている。

 それは、料理勝負で殺すことも死ぬことも恐れていないという事実の証左。

 審査員達は怯え、祈っている。

 それは「料理人という人類の至宝を失わせてくれるな」という祈りであり、ドライの能力によって審査で嘘をつけないために、自分達の審査で料理人が死んでしまうという悲嘆でもある。

 

 このみは負ければ死という状況に緊張している。

 朔陽は和やかに話しかけ、その緊張を和らげている。

 和子は念のためと朔陽の影の中に入っていた。

 選手用の席からも調理場は見える。

 ゆえにか、ドライだけを警戒してじっと見ていた和子は、影の中からドライの料理手順を見て怪訝な顔をしていた。

 

「サクヒ、あれ何?」

 

「パニールだね。……ん?

 いや、似てるなんてもんじゃない。

 日本のパニールの作り方そのまんまだ。どうしてだろう?」

 

 日本でチーズと言えば、酵素などの力を借りるものが一般的だ。

 ただし、インドなどでは違う。

 ドライが今ミルクを暖め、そこにレモン・ライムに類する果汁を加えて作っているチーズがまさにそれ。これは酵素の力を借りない、パニールと呼ばれるチーズなのだ。

 

 通常のチーズは標準レンネットという酵素を使う。

 これは赤ん坊の牛を殺してその胃から取り出す酵素であるため、これで作ったチーズはイスラム教の教えに引っかかってしまうことがあるのである。

 ゆえに、チーズと言えばパニールだ、という地域も多い。

 パニールはその歴史に宗教の影響が濃く見られる、そういうチーズなのだ。

 

「パニール……私が露店で、この街の人達に売ってたものだわ、うん」

 

「えっ」

 

「そういやお客さんの前で作ってたっけなー」

 

 このみには、ドライにそれを教えた覚えはない。

 だが揚げてお客さんに売った覚えはある。

 おそらくはそこから、ドライが技術を盗んだのだ。

 

(地球の技法……このみさんの技術を見ただけで習得したのか……)

 

 朔陽はドライが地球料理なんて知ってるのか、と疑問に思っていたが、これで納得がいった。

 このみはこの世界に来てから幾多の料理を作っている。

 それも月単位でだ。

 しからばレパートリーは十分だろう。

 このみがこっちで作った地球料理のアレンジだけで、この大会を勝ち抜く自信があるというのも頷ける。

 

 ドライが審査員の前に料理を並べた時点で、既に勝敗は決したようなものだった。

 

「うわ、ピザだ」

 

 並べられた料理はピザ。

 日本人などに人気が出たインド風ピザ・チーズクルチャ(チーズ入りのもちもちとろとろナン)とは違う、オーソドックスな形のピザを、インドの素材で仕上げたインド風ピザである。

 とろとろのチーズの旨味と風味を引き立てるスパイスの辛味は、この世界に無い新鮮さをもってして、審査員達の百点満点を引き出していた。

 

「ピザは美味しい」

 

「うん、和子ちゃん。元引きこもりなだけに言葉に実感がこもってるね」

 

 高い料理が上等なのか?

 否、否である。

 人気のある料理が上等なのだ。

 安い料理は普及しやすいから人気を獲得しやすいだけだ、安い料理が高い料理より価値が無いのは当たり前、と言う人も居る。

 だが、それがどうしたというのか。

 ピザは美味い。ゆえに大人気だ。その現実は覆せない。

 

 ピザは地球料理界における『最強』の一角なのである。

 

「つか、あたしはパニールは揚げ物のおやつにしか使ってないんだけど。

 ピザは作った覚えはあるけど日本でメジャーなタイプだけだし。

 パニールを使ったピザなんて、こっちの世界で作った覚えがない……」

 

「それ本当?」

 

「嘘言ってもしょうがないでしょ。意味のない嘘をつくあの子ならともかく」

 

 このみが普通のピザを作った日があった。

 このみがパニールを作った日があった。

 他の料理を作った日もあっただろう。

 

 それらの日々に個別に得た技術を総合して、インドのピザを再現したというのなら、ドライ・ディザスターは朔陽の予想を遥かに超えた化物ということになる。

 

 料理の本質は、天才による一からの発明でもなく、偉人一人による革命でもない。

 継承だ。

 過去の誰かが作った技術を継承し、そこに発展と発明を上乗せすること。

 それこそが、美味いものを作る料理という技術の本質である。

 簡単に他人の技術を模倣し、そこから新しいものを生み出すドライは……最悪なことに、この会場で最も料理の本質に近い者だった。

 ドライが邪悪に笑う。

 

「ふふふふふふふふふふ」

 

 地球における最古の料理継承の痕跡は、紀元前1750年頃の、古代メソポタミアにおける粘土板に書かれたシチューのレシピだと言われている。

 その頃から現代まで技術を継承し、時には失伝し、何千年もの発展の果てに現在食べられているものが、21世紀の料理なのだ。

 ドライは、このみからそれを吸収している。

 地球の数千年を吸収している。

 

 この大会が終わる頃には、ドライを料理で倒せる者は、この世界に存在しなくなるだろう。

 人類にとっては、この大会が彼女を倒すラストチャンスなのだ。

 既にこの料理大会は、人類の存亡を懸けた一戦と化している。

 

(ドライは料理技術のコピー能力が高いけど、それだけじゃない。

 地球の料理技術を差し引いても、地の料理技術と料理知識が頭一つ抜けてる……)

 

 ドライは"この世界の料理人"という枠の中でなら、ぶっちぎりに高い料理技術を持っていた。

 それは、この世界の現在の料理文化に原因がある。

 

 この世界の大衆料理と宮廷料理は、まだ融合を始めていない。

 地球とは違い国家がほぼ全て封建社会な中世風ファンタジーのこの世界は、未だ『王や貴族の世界』と『一般人の世界』を区分している。

 かつてフランスの王族が食べていた高級料理を日本人が財布の金で気楽に食べる、ということが珍しくない地球とは違うのだ。

 

 王様の料理人と、大衆食堂の料理人の間に、壁がある。

 いや、混じり合っていないのはそれだけではない。

 貴賎だけではなく、国家間でもあまり料理技術が混じっていないのだ。

 地球で言うところの、フランス料理がイタリア料理の影響を受けて劇的に進化した過程に似たものも、この世界にはまだ無かったのである。

 

 国と国にも仲が良い悪いがある。

 魔物が支配する北の大陸に接していない人間の国には、「危ないから」と魔王軍を恐れ、ダッツハーゲン王国に来たがらない者も居るだろう。

 そんな国を嫌って訪れようともしない者も居るだろう。

 単純に貿易での搾取関係などで関係が悪い国もあるはずだ。

 "仲の悪い国同士だけど料理人の気楽な行き来くらいはあってもいい"という認識が人々の間にあれば、何か違ったかもしれないが、それもない。

 

 だが、ドライは違った。

 彼女は人類の敵である。

 

 思うがままに各国に攻め込み、思うがままに技術を盗み、料理人を殺していける。

 全ての国から料理を学べる。

 無敵の時間を使って、全ての国の全ての料理書籍を買い漁れる。

 彼女の学習に、身分の差や人間同士の確執など、障害にさえならないだろう。

 

 敵だからこそ、人間の料理文化を全て吸収しているという皮肉。

 魔王軍だからこそ、どんな人間からも料理を学べるという矛盾。

 人間の常識や確執を持たないがために、彼女は人間の料理技術を最高の形で完成させている。

 だからこそ、この世界の人間がまともに戦えば、勝ち目などあるわけもなく。

 

 また一人、料理に生涯をかけた料理人が、ドライとの直接対決に敗北し、死亡した。

 

「……っ!」

 

 朔陽達は決勝まで何もできないことに歯噛みする。

 自分の前で誰が倒れようとも、この世界の料理人達は臆さず立ち向かっていく。

 誰もが言った。

 誰かを殺すために料理勝負をする者など許さぬ、と。

 殺すために料理を使う者など許さぬ、と。

 このみが勝ち残り、ドライが勝ち残り、そのたびに料理に生涯をかけたものが死んでいく。

 

 Aブロックの勝者がこのみ、Bブロックの勝者はドライ。

 決勝戦のカードが決まる過程で、三つの命が失われてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 決勝戦が明日に迫った、そんな夜。

 朔陽が管理しているかの屋敷で、井之頭一球がゴハンマダーをやっていた。

 

「野球の練習で腹減った。肉とか美味いものがたらふく食いたい、肉とかな」

 

「はいはい、座って待っててね」

 

 その姿はまさしく、美味い飯を与えている内はガツガツと食い続けるが、不味い飯が出て来ると母親に文句を言う息子が如く。

 朔陽が配膳しつつ、一球をなだめる。

 その頃和子は、台所でカレーを作っているこのみに、明日に向けたエールを送っていた。

 

「頑張って。恋川さんの料理愛が必ず勝つって、その、えと、信じてる」

 

 このみがきょとんとする。

 少し考えて、ああ、と納得した様子で手を打つ。

 そして、笑った。

 

「あたし、別に料理なんて好きじゃないわよ?」

 

「え」

 

 予想外の答えに、和子の思考が停止する。

 

「あたしさ、笑顔が見たかったんだよね」

 

「笑顔?」

 

「そ、笑顔。

 あたしの行動の結果、生まれた笑顔。

 頑張って、その果てに笑顔が見れるってのが、なんか無性に好きでたまらなくってさ」

 

 いい目標だ。

 根底からいい人でなければ、こういう願いは持たないだろう。

 事実、彼女の料理を食べた審査員は、誰もが最高の笑顔を浮かべていた。

 

「単に他人の笑顔見たいだけなら別の職業でいいでしょ?

 別に料理じゃなくてもいいのよ、あたしは。

 ただいいんちょさんと色々話してたら、あたしの一番の才能は料理だって分かったから」

 

「ふむふむ」

 

「あたしの能力で一番多くの笑顔を生み出せるのはこれだ、って確信できたってわけ」

 

 金が目的で料理やっているわけでもなく、勝利が目的で料理やっているわけでもなく、成功も目的ではなく、料理が好きというわけでもなく。

 

「あたしが好きなのは料理じゃなくて、笑顔を見るって最終目的だけよ」

 

「うーん……?」

 

「剣の才能あったら剣持って紛争地帯に行ってたんじゃないかなあ、あたし」

 

「……わあ」

 

 目的のために料理の才能を使っている。

 それ以上でも、以下でもなく。

 

「ま、だからいいんちょさんには料理に敬意持てって言われてるんだけどね。

 あたしが料理好きだったら料理ってものに敬意払ってたか、ちょっと分かんないし」

 

「サクヒとは、どこで会ったの?」

 

「うちの店だったかな。……4歳の時? 5歳の時? ううん、覚えてないや」

 

 幼少期、朔陽の親がこのみの親がやっていた飯処を訪れた。

 注文を待っている間、このみと朔陽は親の手を離れて遊んでいたのだが、親の注文した料理が来る前に、このみが一品(チャーハン)作って朔陽に食べさせてしまったらしい。

 当時から才気溢れていた彼女の料理は神速。

 このみの両親が謝って、朔陽の両親が許容して、朔陽達が帰って、以後年単位で会うことはなかったらしい。朔陽とこのみは、一日だけの友人だった。

 

「あの頃は若かったわ……」

 

「4歳5歳の頃の話ならそりゃそうだよ」

 

「当時は世界征服してやるとか言ってたから、いいんちょさんにもそんなこと言っててね。

 第一の部下にしてやるぞー、とか。あたしの手先になって頑張りなさいー、とかそういうの」

 

「せ、世界征服……?」

 

「しばらく会ってなかったんだけど……

 ……進学した先の学校で、第一の部下くんが委員長やってたのよ」

 

「うわっ」

 

「そして入学式の翌日に『世界征服する?』とか言ってきたの」

 

「うわぁ……」

 

 朔陽は友人との約束は忘れない。友人との会話も中々忘れない。そういう男だ。

 

「世界征服とか小学生の頃に卒業したのに……恥ずかしい……」

 

「あー……」

 

 顔を赤くするこのみを見る限り、最適解は知らんぷりだった可能性も、なきにしもあらず。

 

「それからどうなったんだっけ……

 また友達になって、たまーにあたしが飯作って食わせたりして……

 ああ、そうだ。

 『あのお店のよりこのみさんの料理の方が美味かった』って言われたんだっけ」

 

 ある日のこと。

 よくある日常、よくある風景、よくある言葉。

 なんでもない日常の中で、テレビで大人気と紹介されていた店とこのみの料理を比べて、つまらないありきたりな言葉を、朔陽は言った。

 他人が自分に言った言葉を覚えている朔陽でも、自分が言った、そんなつまらない言葉を覚えているということはないだろう。

 

「あたしはあれで、何か気合いが入ったんだ」

 

 そのつまらない言葉が、人生の基点となった者も居た。

 

「……」

 

「わっはっは! ま、安心して見てなさい。あたしとあいつで、ちゃんと勝ってくるから」

 

 笑顔が目的、料理が手段。

 恋川このみはそのためだけに、料理人になった。手料理部の部長となった。

 

「あたしは、あたしの料理で地球の料理文化を塗り潰す。

 料理の笑顔を独占する!

 あたしはいずれ、世界で初めての地球料理というジャンルを作る女だからね」

 

「おお!」

 

「いいんちょさんも援護してくれるって(強引に)約束させたし!」

 

「おお……?」

 

「地球の料理文化を完全征服するまでは、こんなところで負けてなんていられないっての!」

 

 世界征服卒業してないじゃん、と和子は思ったが、コミュ障ゆえ嫌われるのを恐れ口には出さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、決勝戦。

 観客が観客席に並んで、彼らを見ている。

 選手が選手席に並んで、彼らを見ている。

 審査員が座席に並んで、彼らを見ている。

 

 相対するドライと、朔陽&このみペアを。

 

「今まで一人だったのに、登録していた助っ人を呼んだの?

 嘆かわしい。私はあなたのことを評価していたのに……

 所詮は無力で一人では何もできない人間だったということですわね」

 

 二人を見て、ドライはくすくすと嘲笑する。

 対し二人は挑発にも乗らず、料理を始めた。

 

「あたし達の料理を見ればすぐに分かるわ。料理でも作って待ってなさい」

 

 息の合った二人の動きを見て、ドライは二人で来たということを再評価するも、嘲笑を引っ込めることまではしない。

 嘲笑を引っ込められるだけの評価は、まだ貰えていないようだ。

 和子は朔陽の影の中から、両者の料理を見る。

 

(これは……ドライの料理は、ラーメン!

 朔陽と恋川さんの料理は、カレー! ……頂上対決!)

 

 魔将製のラーメン。

 カレーの本場インド風のカレーならぬ、カレーの本場地球風のカレー。

 語るまでもなく、ラーメンとカレーは地球における食事の『最強』の一つだ。

 なればこそ、彼らがここでこれをチョイスするのは自然なことだった。

 

(異世界での料理勝負でピザ、ラーメン、カレーが出て来るのは正直どうなんだろう)

 

 和子は疑問に思う。

 

(でも、美味しそうだからいっか)

 

 そしてその疑問を、即座に投げ捨てた。

 

 少しばかりの時が過ぎ、やがて二人の料理が完成する。

 先に審査員の前に料理を出したのは、ドライの方だった。

 

「お先に」

 

 料理漫画なら、先に料理を出した方が、後から料理を出した方の"あっと驚く展開"に飲まれ、負けてしまうことが多い。

 だがこれは現実の勝負だ。

 人間の味覚が空腹度合いに左右され、空腹度合いが血糖値に左右され、血糖値が食後上がることを考えれば、料理勝負は先行有利。

 ドライは容赦なく、審査員の前にラーメンを並べていった。

 

「ほう……これは……」

「コノミ殿が露店で出していたと聞きます。確か、ラーメンとか」

「白濁したスープが美しいですね」

「ははは、地球料理は食べてもいないものの単語や用語ばかり覚えてしまいますな」

 

「その料理は、豚骨ラーメンという名前であるそうですわ」

 

 豚骨ラーメン。

 日本におけるラーメンブームの牽引役の一つであり、日本の食文化における最強の一角。

 当然ながら、その味は――

 

「う……美味いッ!」

 

 ――異世界でも、通用する。

 

「濃厚な旨味……これは、いくつもの出汁を濃厚に取ってブレンドしてある!」

「最高級食材をふんだんに使った最高級スープですよ、これ」

「上に乗っている肉も薄切りで食べやすく、美味しいですね」

「この麺に絡むスープが最高だ! スープと麺だけでも十分美味いぞ!」

「成程、これはスープを飲むのではなく、スープを食べる料理なのか……」

 

「さ、ここで私のラーメンは折り返しですわ。そこにあるタレをかけてみな」

 

 ドライの生み出す美味は、食べたものをあたかも奴隷にしたかのように操る。

 ドライの望む反応を返し、ドライの望むまま料理を貪る彼らは、ドライの指示に反射的に従ってしまう。

 タレをかけた豚骨ラーメンは、更に美味くなっていた。

 

「!? 更に、美味く……!」

 

「豚骨醤油ラーメン、とでも呼びましょうか」

 

 豚骨スープに塩ダレの組み合わせの食べやすいスープが、醤油ダレを加えられたことでガツンとした旨味を備える。

 そのままでも美味く、タレを加えれば二度楽しめるという二段構え。

 これが、彼女が"一から自分で考えた"もの・豚骨醤油ラーメン。

 最強を超えた、究極である。

 日本でも人気になって久しい、豚骨ラーメンの先にあるものだ。

 

「このみさん、豚骨醤油ラーメンって……」

 

「醤油はあたしも再現した覚えあるよ、うん。でも……これは流石に、驚いた……」

 

 このみは、豚骨ラーメンを作った覚えはある。醤油を作った覚えはある。

 だが豚骨醤油ラーメンを作った覚えはない。

 その二つから、ドライは完璧な完成品を作ってみせたのだ。

 この魔将は恐るべきことに、人間の料理文化が数年をかけて至る進化を、おそらく数日で駆け抜けることができるのだろう。

 

「しかしながらこのスープは興味深い。

 どんな手法を使えば、こんな味わいが作れるのか……」

 

「手法以前の問題よ。これはオークの骨を使った豚骨ラーメンだもの」

 

「―――!?」

 

「私は豚骨ラーメンの存在を知り、あらゆる食材を検証し、この正解に至った」

 

 更には、その発想も飛び抜けていた。

 

 この世界におけるオークは亜人である。

 人間の敵のオークも居て、人間とは中立関係のオークも居る。

 様々な理由からオークを強烈に嫌っている人間も居て、そうやってオークを嫌っている人間からオークを守ろうとする、オークに友好的な人間も居る。

 総じて、魔物と人間の中間に近い立ち位置であると言える。

 

 そのオークを捕らえ、殺し、骨を引きずり出し、骨を叩き砕いて、スープの出汁にする。

 スープを取るには、その過程を行ったということになる。

 審査員の内の何人かの顔色が、さあっと変わった。

 

「お、オークの骨だなんて、そんな!」

 

「でも、美味しかったでしょう?」

 

「! それは……」

 

「ならば問題は無い。

 このドライは、不味いものなど作らない!

 精神的な抵抗感など、心赴くままに貪る美味に比べれば毛ほどの価値も無い!」

 

 そう、美味かったのだ。

 何らかの理由でオークスープに抵抗感を持っていたとしても、それを理由にこのラーメンを食べないという選択が選べないくらいには、このラーメンは美味かった。

 

 この魔将は、『革新的な料理』の弱点と長所をきっちり理解している。

 革新的な料理は歴史の中でも、度々受け入れられないことがあった。

 日本の納豆やイナゴの佃煮を外国人に出して、ドン引かれるのと同じことだ。

 だが、革新的な料理の前に度々立ち塞がるその壁は。

 度々、『美味いから』というだけの理由で、突破されてきた。

 

 この豚骨ラーメンは、ただ普通に豚骨を使ってこのみが豚骨ラーメンを作って勝負したなら、確実に負けてしまうくらいには美味い。

 忌避感を殴り壊してしまうくらいには美味い。

 オークを嫌う人間が、また一口、豚骨醤油ラーメンを口にした。

 

「余分な情報まで食べる必要はありません。ただ、その舌に従いなさい」

 

 皆がまた、ラーメンを口にしていく。

 美味かった。

 ただひたすらに美味かった。

 今まで食べたこともない味が、審査員達の口の中に広がっていく。

 

 「今まで食べたことのない味を食べさせる」という『斬新さ』。

 このみがここまで勝ち上がるために使ってきた地球料理の武器を、ドライは驚くべき発想力とそれを形にする技術力で、最高の形に仕上げてきたのである。

 朔陽視点、友達のお株を奪われた形で物凄く悔しい。思わず歯噛みしてしまう。

 

「……あら、99点。残念」

 

 十人の審査員による採点は、惜しくも満点には届かない99点。

 決勝で用意された五人は特に厳しい審査員だった。

 観客席からランダムに選ばれた五人も、偶然だが相当厳しい者達だった。

 相対的に見るに、この99点は本戦緒戦の150点に相当する高得点だったと言ってもいいだろう。

 

 10点中9点だった審査員も、オークに拭いきれない嫌悪感を見せていたことから考えるに、『虫が嫌いな人間に虫料理を食わせて9点を出させた』と考えれば、凄まじい。

 

(ふぅ。まあ、勝ったかしらね)

 

 予選でこのみが出したエビスープなら、この審査員達は80点と少し出して終わりだろう。

 ドライは勝利を確信し、あてがわれた椅子に座った。

 そしてこのみ達が敗北する未来を想い、ぼうっとし……少し先の展開に思いを馳せている内に、審査員達の席から上がる歓声を聞く。

 美味い、美味いと叫ばれるその歓声は、一瞬でドライを現実に引き戻した。

 

「?」

 

 審査員達が食べているのは、このみと朔陽がテーブルに並べた料理。

 

 ライスに茶色い何かをかけた何かであった。

 

 ドライは立ち上がり、このみの目の前でそれを穴が空くほど見つめ、目を見開く。

 

「これは地球の、いやインドの魂の料理……カレーよ」

 

「ウンコじゃない!」

 

「カレーよ」

 

「地球人はウンコ食べるの!?」

 

「カレーだっつってんだろ」

 

 その名はカレー。

 日本における最強の一つ。

 

「この香り……これは……まさか!」

 

「あたしも補給が見込めないから、あんまり使いたくはなかったんだけどね」

 

「日本の香辛料! この世界には無い、風味の暴力!」

 

 そう、恋川このみは、修学旅行にスパイスや調味料の一式を持ってきていたのだ。

 それでも普段は使わずに取っておいたのは、地球に帰る目処が立っていないため、このスパイスを使った分補充できる見込みがなかったためだ。

 スパイスの保存可能限界も迫っていたこと、そしてドライが強敵であったことが、このみにこの強カードの使用を決意させたのである。

 

 ガラムマサラ、クミン、ターメリックetc……数々のスパイスは、審査員に与えるインパクトとその風味において、一定の保証をされているも同義。

 このみはここにこの世界のスパイスや食材を足し、最高のチキンカレーを作り上げた。

 

 鶏肉の旨味を最大限に抽出したスープは、このみのヘアピンを思わせる黄金色に輝いていた。

 そこから作られたカレーは、地球のスパイスと異世界のスパイスの香りを調和・融合させ、鶏肉の旨味を最高に引き立てるものと化す。

 鶏肉は柔らかく、かつ旨い。

 地球とは違う種類の米がいくつもあるこの世界。

 この世界の特定種の米と地球のカレーを合わせるためか、米は香り高い油で一度炒められているなど、細かい工夫がいくつもあった。

 

 米と、カレーと、鶏肉を一度に口に入れれば。

 鶏肉がじゅわっと肉汁を吐き出し、カレーと米の香りが口の中から鼻へと広がり、三位一体の旨味がおかわりを要求させる。

 米とカレー、カレーと鶏肉、鶏肉と米、二つ選んで組み合わせるだけでも美味い。

 そこにカレーの染みた野菜も加わると、言いようのない美味さが展開されていく。

 

「だがこれは、この野菜と鶏肉に、味の差異があるのは何故だ……?」

 

「ああ、そのカレー、今作ったカレーの中に昨日のカレーも混ぜてあるんです」

 

「!?」

 

 作ってから、一晩経ったカレー。

 これは日本の各家庭においては母の味であり、王者の味である。

 このみは昨晩、和子の前でカレーを作っていた。

 それの一部を一晩置いておき、今作った同じカレーに適量混ぜたのだ。

 カレーのよく染みた肉と、カレーのよく染みた野菜と、具材の旨味が溶け出したカレーが混ざれば、味は当然深みを増す。

 

 このみは一晩おいたカレーと作ったばかりのカレーを混ぜて初めて完成するように、このカレーのレシピを設計していた。

 

「このカレーは、あたしらの世界じゃ家庭料理です。

 地球とこの世界に交流ができれば、きっと誰でも作れます。

 今はまだ無理でも、このスパイスが流れて来れば、きっと」

 

「こんなに美味いものが、誰でも? 信じられん」

 

「はい。作ったばかりのカレーも、一晩置いたカレーも、どっちも美味しいですよ?」

 

 彼女が、審査員達に示したものは。

 

「これは、今は食べられないけれど、未来に誰もが食べられる、そんな可能性の料理です」

 

「未来のカレーか」

 

 この世界の未来。そして、地球とこの世界の友好の可能性である。

 

「美味いな。これが……未来の味か」

 

 審査員の誰もが、カレーを堪能している。

 目を閉じている。

 その閉じられた瞼の裏には、各々が描く遠い未来の姿があるのだろう。

 

 ドライはゴクリと唾を飲み込み、残っていたカレーを奪うように口にする。

 そして、笑った。

 

「……残念だったわねえ!

 主張はいいけど、これは少し辛すぎよ!

 この味のバランスでは90点も行かないと思いますわ!」

 

 このカレーは、この世界の人間には少しだけ辛かった。

 勿論本場のカレーに比べれば辛さは抑え気味であり、本場カレーの辛さの中から旨さを見つけるような尖った特性はない。十分この世界に合わせている。

 それでも、最高得点が狙えない程度には辛かった。

 勝ち誇るドライを見下した審査員が、鼻で笑う。

 

「何も分かっていないようだな。魔王軍などそんなものか」

 

「なんですって?」

 

「我々はこれを飲んでいた」

 

 審査員が指差す先を見れば、そこにはコップがあった。

 横からでは中身が見えない形状のコップだ。

 よく見れば、審査員全員の前に置いてある。

 ただの水じゃないのか、と怪訝な顔をしたドライに、横合いから朔陽が同じものを差し出した。

 

「あ、これはご丁寧に。ありがとう」

 

「いえ」

 

 ドライは丁寧に頭を下げ、朔陽から受け取った飲み物を口に運ぶ。

 "飲んだことのない"飲み物の甘みと苦味が、口いっぱいに広がった。

 

「これは……!?」

 

「抹茶ミルクだ。僕がこのみさんの横で作っていたの、見ていなかったのか?」

 

「まっちゃみるく……?」

 

「僕らが持ち込んだ抹茶と、この世界のミルクで作ったものだよ」

 

 この世界のものと、地球のものを合わせた味。

 不思議と、口にするだけでカレーの辛味が引いていく。

 スパイスの尖った辛味が甘みと苦味で滑らかになっていき、それが先程の辛味の刺激を求めさせるという、最良のバランス。

 

(カレーの辛さを考慮した甘みと苦味のバランス……これが、皿の横にあったなら)

 

 カレーを食べて、カレーのために最適化された抹茶ミルクを飲んで、カレーを食べて、飲んで……そのループが、互いの味を最高に引き立て合う形。

 このみが朔陽の飲み物を引き立てる。

 朔陽がこのみの食べ物を引き立てる。

 これは、『そういうもの』だった。

 

「あんたさ、あたしばっか警戒してたから知らないでしょ。

 優しい味を作るって一分野だけなら、いいんちょさんはあたしの次くらいに上手いんだって」

 

 朔陽の料理は人並みだ。

 このみほど美味い料理は作れない。

 が、作るのが簡単なものを、優しい味に作り上げることだけは上手かった。

 それは、病気の人間に粥を作る腕前のような、料理人としては評価されない能力である。

 

 ある審査員は、こう言った。

 

「サクヒ・サトウが作った抹茶ミルク。

 コノミ・コイカワが作ったチキンカレー。

 この料理は二人が作った二つを合わせて完成する。二人で一人の料理だったのだ」

 

 ある審査員は、こう言った。

 

「こうなると、食材の差も気になってくるな。

 ラーメンの出汁には最高級食材がいくつも使われていた。

 対し、カレーは異世界のスパイスがあるとはいえ、平凡な食材のみ。

 勝つために全力を尽くしたラーメン。

 どこでも手に入る食材を、誰でも真似できる技術で仕上げたカレー。

 二人の料理人はどちらも見たことのない技術を披露してくれた。

 だが私は審査員として、上辺ではなく本心から、後者が優れていると感じた」

 

 ある審査員は、こう言った。

 

「カレー単体では未来を見せる。

 抹茶ミルクと組み合わせて絆を見せる。

 これは……未来と絆のカレーなのだよ!」

 

 誰かに言われるまでもない。

 カレーを食べ、抹茶ミルクを飲んだ時点で、ドライは敗北を確信していた。

 料理で負けた悔しさよりも、素晴らしい料理に負けたという誇らしさと、彼らの料理を賞賛したいという気持ちでいっぱいだった。

 ドライの脳裏に、戦いの前に彼女がこのみにぶつけた言葉が蘇る。

 

―――所詮は無力で一人では何もできない人間だったということですわね

 

 あれは、間違いだった。

 

「あたし達は群れなきゃ美味い料理が作れないんじゃない。

 二人揃ってるからこそ、一人より美味い料理が作れるのよ」

 

 彼らは料理の場において、二人揃っている限り、完全無敵なのである。

 

 ハイタッチが何か、教える必要もない。

 声で合図する必要もない。

 目配せする必要もない。

 ただ"やろう"と心の中で思えば、隣に居る佐藤朔陽は、隣に居る恋川このみは、分かってくれる。合わせてくれる。そういう確信がある。

 ゆえに、合図もなく目配せもなく、ただ心の中の呟きだけを号令として。

 朔陽とこのみは、ハイタッチして、小気味いい音を会場に響かせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 敗北が確定した時点で、ドライ・ディザスターの死は確定した。

 あとは、勝者の名が告げられるだけで、ドライは死ぬだろう。

 ドライはその死を受け入れている。

 だからこそ、この瞬間に、自分の人生を通して貫いてきた信念のことごとくを捨てた。

 

「私の信念を通すのは、ここまで」

 

 ドライは自分の右目に指を突っ込み、眼球の一つを引き抜いた。

 その行動に周囲が驚くも、ドライは構わず眼球を握り潰す。

 "奉納"に似たその行為が、彼女の最後の能力を発動させた。

 

「後は、魔王様への恩義と、魔王軍としての意地を通させて貰いましょう」

 

 眼球を握り潰した右手を朔陽に向け、ドライはそこから光線を発射した。

 

「サクヒ!」

 

 影から飛び出した和子が朔陽を抱きしめるようにして庇い、同時に土遁を発動した。

 だが土遁が生み出した土の壁も、和子の体も突き抜けて、光は朔陽に命中する。

 

「サクヒ! 大丈夫!?」

 

「……っ! 何をした?」

 

「私の能力って、魔将なんですけど大体食事由来でしてー。

 今まで使ってたのが、料理勝負を成立させる能力。

 逃げるカスとかを追い詰めるための能力でしてー。

 んでこれは、私の作ったものを食わずに捨てたカスを追い詰めるための能力でして」

 

 ドライはこのみの作ったカレーをよそって、そこに懐から取り出した小瓶の中身をぶっかける。

 小瓶には『猛毒娘。略してモー娘。』とこの世界の言葉で書かれたラベルが貼ってあった。

 取り繕いようもなく、猛毒である。

 

「私の指定したものを、強制的に食べさせる能力なのですわ」

 

 ドライ第二の能力は、強制的に、真正面から堂々と、毒殺を行う能力だった。

 

「食べられなければその時点で能力契約不履行で死にます。

 あ、これ魔王様でも腹を壊す毒なので、人間なら解毒も間に合わず死にますわ。

 料理勝負中は使えない能力だからやっと使えたなーってカンジ?

 ほれ死ね、そら死ね、一緒に死のう、な? 私ホントカス行為してんな」

 

「分かってるならやめなさい!」

 

「あはは、でもあんたら、少しでも人数削っておかないと、私の仲間殺しそうじゃん?」

 

 食べられないと死ぬ。食べても死ぬ。

 周囲が余計なことをしても死に、朔陽が余計なことをしても死ぬ。

 八方塞がりな状況で、能力の強制力が朔陽の体を勝手に操作し、動かし始めた。

 

「だから死ね。

 私の道連れに死ね。

 同行した私が地獄でずっと美味い飯作ってあげるから、それで勘弁して頂戴」

 

「嫌に決まってるだろ! それなら僕は生きて、このみさんにご飯作って貰う方がいい!」

 

 ドライが邪悪に笑う。

 

「じゃーそのこのみさんとやらのカレー食って死んでくださいませ」

 

 朔陽は能力に抵抗しているのに、カレーに向けて伸ばされる己の手を見て、顔をしかめる。

 

(こういう経験は、初めてじゃない……

 この手の力は薬品も能力も同じだ、と思う。

 これは何かを他人に強制する能力だ。

 支配する能力じゃない。

 なら、強制された内容を自分なりに何か合理的解釈すれば、何か……!)

 

 どうすればいい。

 どうすればどうにかなるのか。

 どういうものが正解になるのか。

 頭を必死に回し、回し、回し――

 

「そうだ」

 

 ――朔陽は、希望を見つけた。

 

「頼む!」

 

 そして、聖剣をカレーライスの中に突っ込んだ。

 

「なんですって!?」

 

 どうやらドライは、今鞘と袋に突っ込まれていた聖剣の存在に気が付いた様子。

 

「このカレーを食べろと命令されたが、何で食べるかは指定されてない!

 この聖剣をスプーン代わりにする!

 聖剣で直接触れれば、魔王軍謹製の即死級猛毒だって、無効化できるはずだ!」

 

「正気!? だってあなたそれ、その聖剣は……!」

 

 朔陽は聖剣でカレーを食う。

 聖剣の光は絶え間なく発せられ、カレー内部の毒に注ぎ込まれ、毒を無力化していく。

 それが毒の恐るべき毒性と、聖剣の力によって朔陽が生かされているという事実の証明になる。

 カレーを食べても死なない朔陽を見て、関係者達は皆ほっと息を吐いたが、観客の一人がぽつりと何かを呟いた。

 

「おいアレ、ウンコまみれになったって噂のあの聖剣じゃね?」

 

 観客の中に、ざわめきが生まれる。

 

―――身に付けているだけで、特殊なものを除いた毒くらいならば無効化してくれるでしょう

 

 ヴァニラ姫は、そう言った。

 この剣には浄化作用がある。

 今のこの剣の表面は、トイレに行った後洗剤で洗った手よりも清浄だ。

 だが、考えてみて欲しい。

 ウンコまみれになった手を、"綺麗に洗ったから"と言われて差し出されても、その手を迷いなく掴めるものだろうか?

 

「マジだ、ウンコのあれだ」

「あれでカレーとかいうの食うのかよ……」

「いや、カレーはもうこの香りとかでウンコに見えねえけど……あれは……うわぁ」

 

 この聖剣でカレーを食うのは、気が引ける。

 それが人間として当たり前の感情だ。

 だが、朔陽は食べた。

 人間としての尊厳を投げ捨てでも生きようとする覚悟が、彼の中にはあった。

 覚悟がカレーを食べさせる。

 覚悟が聖剣の力を引き出す。

 

 意志を持つ名も無き聖剣は、ウンコまみれだったこともある聖剣でカレーを食べる朔陽の覚悟に応えるため、今引き出せる最大限の力を発していた。

 

「マジかよ、もう全部食い終わるぞ」

「魔将の奴の顔見ろよ。信じられねえって顔してるぜ」

「ざまあみやがれ、いい気味だ」

「奴のおかげだな」

「あいつ名前なんだっけ?」

「サクヒ・サトウだろ」

「サクヒ・サトウ……俺は今日見たこの光景と感動を、一生忘れないと誓うぜ」

 

 朔陽はこの日初めて、この世界において、記録よりも記憶に残る男となった。

 

「俺達は……地球人を舐めていたのかもしれないな」

「ああ」

「凄えよ、地球人。尊敬する」

「すげえウンコ野郎だ」

「生半可なクソ野郎に、あんな覚悟はねえ」

 

 かくして朔陽は、聖剣に当座の主として認められ、猛毒のカレーを食べきった。

 

「あの、この大会の優勝者の発表をお願いします。僕も食べ終わったので」

 

「あ、はい」

 

 そして、大会の終幕を促す。

 

「―――勝者! コノミ・コイカワ!」

 

 このみの優勝決定と共に、ドライは自身の能力で絶命する。

 

「……無念」

 

 死の間際にドライが見た最後の光景は、空を見上げる朔陽の悲しげな背中と、彼を賢明に励ます彼の知り合いの姿であった。

 

 

 



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出席番号9番、斬撃エレクトリカルパレード・剣崎敬刀の場合

 ヴァニラ・フレーバーは人が良い。

 が、人が良いだけでなく、策謀も出来る少女だ。

 善意と打算の合間で折り合いを付けられるのが彼女の強みであり、損得勘定で善性を捨てきれないのが彼女の弱さ。

 彼女は地球人のお披露目や、地球人との友好アピールも兼ねて、和子を護衛の一人として連れて国外の会議に出席していた。

 

 それが、自国に利益をもたらし、朔陽達にも利益をもたらすと信じて。

 

「ワコ様、今日はありがとうございます」

 

「構わない」

 

「悲しい犠牲が生まれてしまいました。でも、結果的に良い方向に向き始めたようです」

 

 ヴァニラ姫が訪れた会議は、そんなに肩肘張ったものではない。

 要は、"料理の技術交流をしよう"という提案を煮詰めるためのものだった。

 

 ドライの襲来と大暴れが各国に与えた衝撃、及び影響は予想以上に大きかったようだ。

 ある宮廷料理人が言った。

 今度同じようなことがあれば俺達が自分の手で魔将を撃退できるようにしよう、と。

 ある大衆食堂の男が言った。

 地球の料理にこの世界の料理が負けてると思われちゃ業腹だぜ、と。

 ある閑村の料亭の女が言った。

 できればいつかあの地球の料理人と料理の話がしたいわね、と。

 

 この会議はヴァニラが見届人となり、魔将に対抗する技術レベルを確保する目的で行われた、料理人主導の会議だ。

 将来的に世界規模の技術交流会になる、正式な技術交流会の雛形と見ても良い。

 ゆえに、本来ならば厳格で真面目な雰囲気があるべきなのだが、何故か途中から暖かで楽しげな空気が広がっていた。

 それは、平民の料理人が会議に混ざっているから、ということだけが理由ではない。

 

 ある者は、地球の技術を盗もうと目をギラつかせていた。

 ある者は、地球の美味い飯をもっと食べたいと思っていた。

 ある者は、地球の料理を自分の手で作ってみたいと思っていた。

 このみが最後にカレーで見せた『未来』の姿は、彼らの中に地球への興味と、未来へのワクワクした気持ちを呼び覚ましていた様子。

 

 更には、素晴らしい料理を作ったこのみと、戦慄されるほどの覚悟を見せた朔陽が、彼らの中に『地球人への確かな敬意』を根付かせていた。

 

「帰りましょう、ワコ様」

 

 会議が終わり、ヴァニラは和子と伴の者を連れて帰国する。

 

「あの会議の結果はいい感じ? 姫様」

 

「ええ、いい感じです」

 

「お疲れ様。姫様はいつも頑張ってて、すごいと思う」

 

「……ありがとうございます。その言葉だけで、また明日からも頑張っていけます」

 

 普段淡々と話し、あまり表情を見せない和子からそんな気遣いを貰えるなんて、ヴァニラは想像もしていなかった。

 普段から和子は朔陽にベッタリで、朔陽ばかりを気にかけているから、なおさらに。

 ちょっと嬉しい気持ちになって、また頑張ろうという気持ちになってしまう。

 こういう情に深いところがあるがために、ヴァニラは人を切り捨てる決断をしないといけない役職に向いていないのだ。長所と短所は表裏一体。

 

 嬉しそうに王都を歩くヴァニラの手を、和子が掴んで止めた。

 

「あ、ちょっと待って」

 

 ガキン、とクナイが石に浅く刺さる音がする。

 ヴァニラが和子の手元を見れば、そこにはクリーム色のウジ虫に似た10cmほど虫が、クナイに突き刺されてビクンビクン動いていた。

 やがて虫は動きを止め、その体をドロドロに溶かし、霧散する。

 

「これは……虫でしょうか」

 

「私の父が、洗脳蟲を使うタイプの忍だったから。似た気配は感じられる」

 

「こ、個性的なお父様だったのですね……洗脳蟲?」

 

「王都に居たのはこれが最後の一匹」

 

 和子曰く。

 あの料理大会の日から、時々この虫を見るようになったらしい。

 

「蚊とかハエとかみたいに、害虫っぽいのは潰しておかないと」

 

「分かります。わたくしも虫はどうにも苦手で……」

 

 消えた虫の形が、姫の頭の中で何かの記憶に引っかかる。

 姫はその違和感がどうにも気になって、今消えた虫の形をより鮮明に思い出しながら、頭の中で引っかかっている記憶を思い出す。

 あ、と綺麗な姫の唇の合間から、声が漏れた。

 

「まさか」

 

 まだ霧散しきっていない、僅かに残った虫の体液に魔法をかける。

 解析の魔法だ。

 姫は溶けた虫の残滓を調べ、理解し、表情を深刻なものへと変える。

 

「これ、魔将です」

 

「え」

 

 どうやらあの大会の期間、ドライが王都に残したものは、意外と多かったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 剣崎敬刀(けんざき けいと)は、剣道部の頂点に立つ男だ。

 中学三年時に剣道を習い始め、そこに通信教育の古流剣術をミックスし、高校一年生時には剣道で全国大会に出場。全国ベスト8という好成績を残したほどの男である。

 その剣は正確無比にして無二の剛剣。

 県内でも間違いなく指折りであると言える剣士だ。

 顔面に斜めに入った切り傷と、本気になった時に巻くハチマキは、県外の剣道部にも知られている彼のトレードマークである。

 

 朔陽が聖剣を継承してから既に数日。

 朔陽は剣の扱いを覚えるべく、敬刀に剣を習っていた。

 屋敷に備わった中庭で、聖剣を構えた朔陽が、竹刀を構えた敬刀に斬りかかる。

 

「せいっ!」

 

 敬刀はひらり、ひらりと聖剣の斬撃をかわしていく。

 額に米粒を付けて敵に米粒だけを切らせることができたという、宮本武蔵を思わせる回避だ。

 聖剣の切れ味がどんなに優れていようと、当たらなければ危険はない。

 敬刀は軽やかに斬撃をかわし、わざと分かりやすくゆっくりとした攻撃の予備動作で聖剣を防御に構えさせ、聖剣の腹に突きを叩き込んだ。

 

 朔陽の足が浮く。

 朔陽が吹っ飛ばされる。

 だが吹っ飛ばされた朔陽が聖剣を離しそうになった時、『聖剣の柄が朔陽の手を掴み』、朔陽は聖剣を手放すという最悪の事態を回避していた。

 

「いい剣だな、朔陽。主のために自分の意志で動いてくれる剣なんてそうないぞ」

 

「そ、そりゃどうも……」

 

 今、朔陽は30mほど吹っ飛んでいた。

 普通なら聖剣を吹っ飛ばされ、聖剣の加護が消えた状態で転がされ、傷だらけになっていたことだろう。聖剣のカバーが冴え渡っていた。

 

 宇宙の真理にも通ずるという肥田式強健術の創始者・肥田春充は、剣道にて75kgの肉体を持つ男を突きで10m近く吹っ飛ばしたという逸話を持つ。

 肥田春充は、幼少期に病弱に痩せ細っていたことで有名だった。

 虚弱な子供でも、鍛えればそこまでいけるのだ。

 朔陽も、もしかしたらそこまでは行けるかもしない。

 竹刀で突いて人を吹っ飛ばせる剣士になれるかもしれない。

 この際、この逸話が創作であるという可能性は考慮しないこととする。

 

「最初から力が入りすぎだ、朔陽。

 最初は柔らかく、最後に鋭く振れるよう、力は徐々に入れろ」

 

「わかった」

 

 弱く振り始めて強く叩き込むのは、長物の基本技術である。

 敬刀は一つ一つしっかりと、基礎技術を叩き込み、それを実戦形式で朔陽の体に染み込ませていく。基本は鍛錬、鍛錬だ。必要なのは鍛錬である。

 朔陽は超人にはなれないが、小さな積み重ねは決して無駄にはならない。

 

「そい!」

 

 朔陽の握力がなくなって、聖剣の補正だけでは剣が握れなくなるくらいにへとへとになって、それでようやく鍛錬は終わった。

 朔陽は座り込むも、敬刀は汗一つかかないままに佇んでいる。

 

「はー、やっぱり敬刀くんは強いね」

 

「素人には負けられんさ。俺にも意地がある」

 

 休憩にしよう、と言い、敬刀は朔陽に水筒を差し出した。

 

「だが、低いのは技術だけさ。

 やる気と志はとても高い。

 なんだかんだ言って、人が強くなるのにはやる気が一番大きな要素だ」

 

「何かに備えて自分を磨いておくのは普通だよ、普通。

 賢明に努力した一時間は、きっと自分を裏切らないって、信じたいじゃない?」

 

「良い考え方だ。俺もそう信じたいな」

 

 朔陽のポジティブな方のスタンスに、敬刀はうんうんと頷く。

 

「それにほら、努力は一瞬の苦しみだけど、能力不足は一生の苦しみだし。

 努力が結果に繋がることは確定じゃないけど、怠惰はほぼ確実に結果に繋がるからね」

 

「……良い考え方だ。俺は見習わんがな」

 

 朔陽のネガティブな方のスタンスに、敬刀はうーんと悩む。

 明るいやる気は大歓迎だが、暗めなやる気は歓迎しない、そういうタイプの性格であるようだ。

 敬刀はポケットから黒いハチマキを取り出し、頭に巻き付ける。

 彼が本気を出す時の証だ。

 ハチマキを巻いた敬刀は竹刀を構え、ぐっと力を込め、横薙ぎに振るう。

 

 すると、竹刀から飛んだ斬撃が、遠方の大岩を真っ二つに両断していった。

 

「とりあえず、朔陽の当座の目標はここだな」

 

「いや、斬撃は飛ばないから」

 

「今は飛ばせないだけだ」

 

「今も未来も飛ばせないよ、僕は」

 

「俺にできることがお前にできないわけないさ」

 

「うーん無理だと思うな! 絶対!」

 

 剣崎敬刀(けんざき けいと)は朔陽と幼い頃に面識があったが、一時期いじめにあってしまい、それがきっかけで剣道を学び始めた少年だ。

 中三から剣を始めて、高一で全国ベスト8に入っただけでも凄まじい。

 ……だが、彼の快進撃もそこまでだった。

 

 公式大会のルール改定である。

 全日本剣道連盟の理事・評議員の過半数が結託し、年々問題とされていた「飛ぶ斬撃は剣道の試合でありなのか?」という問題にメスが入れられてしまったのだ。

 近年の剣道の試合は、全国大会でも距離を取って互いに飛ぶ斬撃で遠距離戦、という光景が珍しくなってきた。

 それを封じ、近接戦を行う古き良き剣道を取り戻そうという運動があったのである。

 飛ぶ斬撃で試合を作る敬刀の試合スタイルは、この改訂で完全に殺された。

 

 敬刀は竹刀で鉄も切れるが、それだけだ。

 カーブだけで勝ち抜ける高校野球があるだろうか?

 リフティングができるだけで優勝できるサッカーの大会があるだろうか?

 これはそういうことだ。

 一芸だけできたところで、勝ちに直結するわけがない。

 

 かつては飛ぶ斬撃が主流だった剣道界も、今は昔。

 高二の夏では、去年は全国ベスト8だった敬刀も県内ベスト4止まり。

 高三の今年が最後のチャンスで、今年こそ勝ち抜いていけなければ、"高一の時が全盛期だった"という最悪のレッテルを貼られることだろう。

 毎日毎日剣を振り、毎日剣士として成長している敬刀に対して、その言葉は最大限の侮辱と中傷として機能する。

 

 敬刀は毎朝、どの部員よりも早く部室に来て剣を振り、皆が帰った後も素振りをしてから帰るような男だった。

 朔陽は毎朝毎夕、頑張る彼を見守ってきた友人だった。

 二人は同様に、剣崎敬刀の勝利と、努力の結実を願っている。

 

「休憩終わったら朔陽には特別に俺の飛ぶ斬撃のコツ教えてやるからさ、な?」

 

「やってもできないと思うけど……はぁ、分かったよ、付き合うよ」

 

 飛ぶ斬撃は、敬刀の誇りだ。

 親しい友人である朔陽に剣を教える以上、このくらいは習得して貰いたいのかもしれない。

 飛ぶ斬撃を教えようとする敬刀だが、その視界にヴァニラと和子を乗せた馬車が屋敷に突っ込んでくるのが見えた。

 

「サクヒ様!」

 

「え、ヴァニラ姫? ええと、んん、今日の服も可愛いですね」

 

「ありがとうございます。サクヒ様にそう言って貰えると嬉し……っと、そうじゃなくて」

 

 こほん、とヴァニラは咳払いした。

 前の大会の時の心を剥き出しにした褒め言葉が欲しい、という言葉を覚えていてもらったことが意外に嬉しかったらしい。

 だが、今はそんなことをしている場合ではないのだ。

 

「サクヒ様、王城で見てもらいたいものが二つあります。馬車に乗っていただけますか?」

 

 朔陽の目がチラッと敬刀の方を見る。

 今日は一日剣の修業を付けて貰う予定だったのだ。

 敬刀は首を振り、にこやかに笑い、約束を守ろうとする朔陽の背を姫の方に押す。

 

「俺はここで剣振ってるから、帰ってきたらまた練習しよう。それがいいさ」

 

「ごめんね。できるだけ早く帰って来るから」

 

 朔陽を乗せるやいなや、馬車は王城にむかって発車した。

 

「申し訳ありません、お忙しいところにお呼び立てしてしまって……

 ケイト様にも、ひょっとしたら嫌な思いをさせてしまったのかもしれません」

 

「敬刀くんは滅多に怒りませんから、大丈夫ですよ。

 彼は人間の良い人悪い人基準が極端に低いので、滅多に人も嫌いませんし」

 

「あの方には、後日改めてお詫びさせていただきます。

 ですが、今はそれよりも、すぐにサクヒ様の頭の中に入れるべき知識があるのです」

 

 ヴァニラ姫は朔陽の前で紙にペンを走らせ、ほんの数秒で先程和子と一緒に見た虫の姿を、寸分違わぬ形で書き上げ、朔陽に渡す。

 

「これは、フィーア・ディザスター。

 『文明寄生蟲』の二つ名で知られる魔将の一人です」

 

「!」

 

 『不死身』『消葬の双子』『吸血鬼の王』『必殺料理人』に続く、新たなる魔将。

 その名も、『文明寄生蟲』。

 

「これが王都で見つかりました。

 サクヒ様には、仲間の方々と共にこの存在の詳細な知識を頭に入れておいて欲しいのです」

 

「あの、この魔将にはどんな力が……?」

 

「分裂と寄生、その二つです。

 この魔将は無数の寄生虫が一つの意志の下に動く群体の魔将。

 生物の中に侵入し、脳の中に入り、その生物を操る能力を持っていました」

 

「うげっ」

 

 最近寧々と脳についての話をした覚えがあったせいか、朔陽は心底嫌な声を出してしまった。

 

「この魔将は、ともかく数が問題でした。

 分裂するせいで、最終的にどのくらいの数になるのかも分からなかったのです。

 軍部の推測には、現在の文明の人類全てに寄生も可能なのではとさえ言われていました」

 

「文明規模……」

 

「文明規模で寄生し、寄生先を死なせることもある、極大規模の寄生蟲。ゆえに文明寄生蟲」

 

 実際に文明を丸ごと乗っ取れるかどうかは分からない。

 だがダッツハーゲンの軍人は、それも可能かもしれないと推測していた。

 人間の文明という体に寄生し、繁殖する寄生虫。

 

「全ての個体が、少し短絡的な人間程度の知能を持っていると推測されています。

 タイプとしては魔法使い型の魔物なので、魔法を使える個体も多いようですね」

 

 朔陽は少し、首を傾げた。

 

「そんな恐ろしい生物が居て、王都にも居て、皆さん日常を過ごせるものなんですか?」

 

「以前、プリンヤキ公国の国民全員が寄生されてしまったことがありました。

 ですが国民・兵士・臣下の全員がその身を賭して、公を守りました。

 公は国に千年かけて仕込まれた自爆装置を作動。

 『貴様らが我らを地獄に落とすというのなら、我らも貴様らを地獄に落とそう!』

 と隣の国にも聞こえるほどの叫びと共に、フィーアの全個体を吹き飛ばしたのです」

 

「国家自爆とかロックですね……」

 

「なので、わたくしも今日までこの魔将が生き残っていた可能性を考慮していませんでした。

 自身の未熟を恥じるばかりです。かの国の自爆以来、フィーアの目撃は初となります」

 

 国民全員を寄生操作すればいくらでも他の国を崩せそうなものだが、それを実行に移せるとは恐ろしい。それを自爆でどうにかする国とそのトップも凄まじいが。

 

「中核個体は存在するはずなので、それを潰さなければなりません」

 

「僕らのフィーアへの攻撃姿勢はそれでいいとして、防御面はどうするんですか?

 確か、王都にはいくつもの魔術による対魔王軍用の警戒システムがありましたよね?

 それをどうくぐり抜けて来たか、そのあたりが分からないと危険が……」

 

「ワコ様と少し話したのですが、ドライの体内に居たのではないかと」

 

「……ああ!」

 

 ドライの能力は、料理勝負が成立している間外部からの干渉をカットすること。

 ドライの体内に居たならば、ドライと共に王都の警戒システムの干渉を受けることはなく、王都の中でドライ体内から出て動き出せば、警戒網をくぐり抜けることは可能なはずだ。

 

「分かりました。僕の方から皆にも連絡を回しておきます」

 

「ありがとうございます、サクヒ様。それと、もう一つ」

 

「もう一つ?」

 

「世界間の転移・召喚・送還技術のための実験を、近日行いたいと思います」

 

「……こんな状況じゃなければ、嬉しかったんですけどね」

 

 姫は少しづつ、彼らを元の世界に帰すため、積み上げている。

 目標地点が遠いとはいえ、一歩ずつでも『勇者として召喚した者達を元の世界に返す』という目標に近付いている姫は、朔陽視点好感の持てる誠実な少女だ。

 こんな時でなければ、もっと喜んでいたことだろう。

 

 姫が前に朔陽に説明した通り、姫が最初に使っていた勇者の召喚術式では、暴走により変な形で召喚された彼らを元の世界には返せない。

 ならば、一から技術蓄積を始めるしかない。

 今話している実験は、その積み上げの一環だ。

 

「今回の実験では雛形の術式を試そうと考えています。

 召喚できるものは物質のみ。

 生命体は召喚不可能。

 召喚対象は現段階における地球に存在する何か。

 召喚に時間設定があるため、召喚したものは五分で元の世界に戻るでしょう」

 

「それだと、あんまり面白いことには使えなさそうですね」

 

 五分限定の召喚術式。

 確かに、あまり汎用性はなさそうだ。

 例えば人は括約筋を見た時、「尻の穴に頭を突っ込んで括約筋で首が締まったら死にそう」といった風に、その活用法を考える。

 そういった応用があまり思いつかないということは、最初から限定的な、特定のデータを集めるための術式として開発されたのだろう。

 

「『術式を確実に成功させること』。

 『できれば転移事故が起こった修学旅行当日の時間に送ること』。

 『物質の転移に成功したら、次は生命の転移を成功させること』。

 『転移後の揺り戻しでこちらの世界に戻ってこないようにすること』。

 『検証不足と実験不足によるデータ不足を解消すること』

 ……他にも問題は山積みです。ですが、必ず実現してみせます!」

 

 ぐっと拳を握る姫を見ていると、朔陽の心の奥底にあった"もしかしたら帰れないんじゃないか"という不安が消えていく。

 

 正しい計算の仕方と根気さえあれば、いつかは正解に辿り着く。

 かつて地球で恐竜が滅びた頃、生きていた人間が居なくて口伝が残っていなくても、現代の研究で痴球に淫石が落ちたことが原因であったと突き止められたのと同じことだ。

 淫石攻めの痴球受けのカップリングこそが恐竜滅亡の真実。

 研究や実験は、一つの正解を見つけるためにやるものだ。

 

「そのためにも、召喚実験は先送りにしたくないのです。

 フィーアは単体だと極めて見つけにくく、この国は警戒態勢に入るでしょう。

 兵士の移動などで数日後には警戒態勢に入ると思いますので、その前に……」

 

「先にやっちゃうってことですね」

 

 ヴァニラ姫曰く、和子は「王都に居たのはこれが最後の一匹」と言っていたという。

 フィーア・ディザスターも王都内の個体を全部潰された以上、次の動きを始めるだろう。

 逆に言えば、それまでは余裕があるということ。

 姫は明日明後日なら、まだこの実験をやれるだろうと考えている。

 逆に言えば、数日後以降はそんな実験をしている余裕もなくなるかもしれないということだ。

 

「大体分かりました。

 僕はフィーアとその実験に関する書類か何かに目を通せばいいんですね?」

 

「はい、その通りです。どちらもサクヒ様達と無関係ではありませんから」

 

 朔陽と姫を乗せた馬車が、王城に到着した頃。

 屋敷の中庭で、敬刀は和子と顔を合わせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 和子は朔陽からクラスメイト一人一人の人柄を聞いていた。

 聞けたのは"優しいけどエッチぃことに興味津々"といった人柄の評価だけであったが、和子はそこから友達になってくれそうなメンツをリストアップしていたのである。

 そうして友達候補の一人に挙げられていたのが、敬刀だった。

 

 男子の中では指折りに真面目で、クラスでも指折りに優しい。

 滅多に怒ることはなく、他人には比較的寛容で、悪いことをしてしまった人間にも比較的優しいのだとか。

 怒られるか怒られないかを友人の選択基準に選んでいるあたり、和子の元ひきこもりのチキンハートな部分が伺える。

 

「あ、あの」

 

「そんな緊張することはないさ。

 俺は朔陽の友達。君も朔陽の友達。

 それなら俺と君も友達みたいなものだろう?」

 

「! ……は、はいっ」

 

「あはは、まあこの友達の友達理論、現実で成立してるの見たことないけどな」

 

 にこやかに笑う敬刀。

 友達と言われて、和子の中にあった大きな恐れが少し和らいだ。

 

「というか俺、君見たような覚えがあるな。

 中三の時に朔陽の中学に転校して来たんだが、覚えはないか?」

 

「え……覚え、ないです。私と朔陽はずっと学校同じですけど」

 

「そうか。俺が見覚えあっただけか」

 

 和子は敬刀に見覚えがなかったが、敬刀は和子に見覚えがあるという。

 どうやら同じ学校でもあったらしい。

 そう言われると、和子もなんだか敬刀に見覚えがあるような気がしてきた。

 

「あれだ、そうじゃないと思って聞くけど、朔陽とは付き合ってるのか?」

 

「! ……っ! つ、付き合ってないです。です。

 剣崎さんがたぶん予想してる通りに、朔陽の方が、そういう気持ちじゃなくて……」

 

「分かるよ、俺もあいつが恋人作った姿とか想像すらできないからさ」

 

「うぅ」

 

「恥ずかしがる必要なんてないって。頑張りなよ、恋する女の子。俺は応援してるぜ」

 

 かあっ、と和子の顔が赤くなる。

 通常の高校生のクラスともなれば、人並みの恋愛力と人並み以下の顔面力を持ち合わせた高校生女子の集団が、こういう純情な恋心をひっかき回して台無しにしてしまうことも珍しくない。

 足が速ければそれだけで小学生男子を好きになる、チーターみたいな小学生女子の恋愛感情よりかはマシかもしれない。だがマシなだけだ。

 

 和子にとっての幸運は、そういうチーターが少し進化した程度の恋愛観しか持たない女子高生生物が、クラスには一人も居なかったことだ。

 そして、からかわずに応援してくれる敬刀のような男子も、クラスには何人か居てくれていたということだ。

 このクラスは、単純に人柄だけを見れば、和子にとってそれなりに恵まれた環境にある。

 

(うん、サクヒの言う通り、いい人そう)

 

 和子は"自分から話しかける"という超困難ミッションの相手に、敬刀を選んだ自分の判断力と洞察力を自画自賛する。

 私凄い。

 私やるぅ。

 私サクヒに褒められてもいいんじゃない?

 とウキウキしている内に、ふと、ある記憶を思い出した。

 

「……あ」

 

 "剣崎敬刀に会ったことはあるか?"という形で記憶を探っても、何も無かった。

 だが"剣崎敬刀に見覚えがあるんじゃないか?"という思考で記憶を探れば、和子の中の薄れた記憶の中に、それはあった。

 学校で見た記憶ではない。

 ニュースサイトの中で、ほんの一瞬だけ見た記憶だ。

 

「雪印中学校の、いじめられてた人?」

 

「―――」

 

 思い出せなかったことを思い出せた瞬間に感じる、人の脳が発する快感。

 "思い出せた!"という喜びが、和子の注意力を一瞬だけ引き下げてしまい、その一瞬に敬刀の雰囲気が変わったことを、気付かせなかった。

 

「そうだ、ニュースにもなってた、ひどいいじめの被害者だった人」

 

 和子の脳裏に次々と記憶が蘇る。

 見るだけで嫌悪感をかき立てる、いじめっ子の所業の数々。

 いじめを辟易する文章。

 そして、いじめっ子にいじめられっ子が攻撃されている動画。

 四年ほど前に一度だけ見た数秒の動画の中で、いじめっ子に攻撃されていた子供の顔が敬刀のそれであったことを、敬刀は思い出したのだ。

 

「私も、あれは酷いと思った」

 

「……」

 

「だから、お気に入りの携帯電話で、ニュースの記事とかに全部コメント残してた」

 

「……」

 

「いじめは悪いこと。

 あれは悪者だった。

 皆で一致団結して、それは悪いことなんだって言ってた。私もそうだった」

 

「……ああ、そう」

 

「あなたは私のこと知らなかったけど、私はあなたの味方だった。うん、そうだった」

 

「……」

 

「信じられない縁。私達、きっと友達に……」

 

 和子は一歩踏み込む。一歩分距離を縮める。一歩だけ歩み寄る。

 

 そんな和子の首に、怒れる敬刀は、殺意を込めた竹刀の先を突きつけた。

 

「……え」

 

「触るな。近寄るな。俺の手が滑って、君を斬り倒す前にな」

 

 本気だ。

 今の敬刀の周りの空気には、斬りたくないという理性の発露と、それ以上近付けば斬るという感情の爆発がせめぎ合っている。

 これ以上近付けば、確実に斬撃が飛んで来るだろう。

 否応なく、容赦なく。

 

「なんで……? 私、何か悪いことした……?」

 

「……さあ、悪行か善行か、俺にも正直分からないさ。でも、俺は、『それ』が嫌いだった」

 

 目の色が違う。

 声色が違う。

 態度が違う。

 雰囲気が違う。

 和気は殺気に変わり果て、善意は殺意に変貌し、友愛は憎悪に転化している。

 朔陽が言った"滅多に怒らない"という人物評が、根本から引っくり返ってしまいそうな、あまりにも攻撃的な剣気が迸る。

 

「正しいことしてる気分だったんだよな?

 いじめられてる弱くて哀れな俺の味方をするのは、いい気持ちだったんだよな?

 正しい人とか優しい人になってる気分に浸るのは、気持ちよかったんだよな?

 だから皆大好きだもんな、かわいそうないじめれられっ子の味方しようとするのはさ」

 

「それは、どういう……」

 

「でもさ、何か顧みなかったのかい?

 ニュースで知って、ネットとかでいじめっ子を叩きのめしてた君らは……

 いじめっ子をいじめてるだけの、ただのいじめっ子にしか見えなかったよ」

 

「―――!」

 

「俺は、当時いじめっ子が大嫌いで……

 いじめっ子をいじめてる君達のようないじめっ子も、大嫌いだった」

 

 敬刀は過去の想い出から湧いてくる憎悪に突き動かされ、竹刀を強く握る。

 

「ネットなんて知らなきゃよかった。

 あんなもの見なきゃよかったと今でも思うさ。

 けど、けどな……

 そうやって知った君らみたいな奴らを、俺が好きになると思うか?

 俺をいじめてた奴らを攻撃してくれたから敵の敵は味方、ってなると思うか?」

 

「そ、それは」

 

「嫌いに決まってるだろ!

 憎いに決まってるだろ!

 俺をいじめてた奴らの一人は、お前らに追い込まれて自殺したんだぞ!」

 

「―――え」

 

「『いじめっ子は何をしてもいい悪者だ』。

 そういうレッテル貼られて、住所とかネットで拡散された奴がどうなったか知ってるか?

 悪者を攻撃する正義気取りの奴らが、いじめっ子の家に何したか知ってるか?」

 

 敬刀の声には、激しい怒りが込められている。

 

「いじめっ子の家は石投げられて割れてて。

 塀はスプレーで落書きされまくってて。

 庭は変なものが撒かれて、もうどうしようもなくなってて。

 不審者がうろついて、写真撮ってネットに上げてて。

 まだ子供だったいじめっ子は、登校するだけでも身の危険があるくらいだった」

 

「わ、私は……」

 

「俺は知ってる。

 お前らはいじめられっ子の味方じゃなかった。

 いじめっ子の敵だっただけだ!

 ただ傍観して、楽しく気楽に罵倒して、そのくせ俺を助けようとはしてなくて……!」

 

「そんな、そんなつもりで、いじめが悪いって言ってたわけじゃ……」

 

 敬刀の声には、深い悲しみが滲んでいる。

 

「外野が吠えるな!

 語るな!

 俺の味方面をするな!

 首を突っ込んでくるな!

 悪者を攻撃すれば無条件で善行だなんて、んなわけあるか!

 ……警察とかでもない外野(おまえら)が関わって、悪化した事はあっても、改善なんてしなかった」

 

「あ、うっ……」

 

「……いじめっ子は、一人死んだ。

 残りも全員引っ越して、転校した。

 俺は……連中に仕返しすることも、見返すことも、許すこともできなかった……」

 

 いじめをやって自殺に追い込まれた子と、敬刀と、和子。

 敬刀が和子を猛烈に口撃している今、その全員を加害者で被害者であると見ることができる。

 そして、いじめっ子といじめられっ子(敬刀)の両方に消えないトラウマを刻みつけた、ネットと現実でいじめっ子を責めた攻撃者達も、明確には加害者であると断言し辛い。

 一人一人の攻撃は小さなものだった。

 だがそれが日本中から集まり、積み重なったことで、見るに耐えない醜悪と化した。

 

 人は小さな石を投げる。責め苦と共に人に投げる。

 "このくらいでは人は死なない"と思って投げる。

 そう思って、千人が、万人が、同時に投げる。

 投げられた人間は壊れるか、あるいは死ぬ。

 人の世界は、時々そうなる。

 悪だと思った相手なら、人は石を投げることを躊躇わない。

 

「俺からすれば……

 俺のこといじめてたことを後悔して、謝ってきたあいつらより……

 ……人一人殺しておいて、罪悪感も後悔も何も無いお前らの方が、醜く見える」

 

「……う」

 

「いじめの報道は長かった。何度も報道されてた。

 いじめっ子の自殺はそんなに報道されなかった。

 ……いじめは、死んで償わないと償えない罪だって、皆、そう思ってるのか……?」

 

 敬刀は『いじめっ子』の全てが嫌いだった。

 自分をいじめた同級生達も。

 薄々気付き始めていたが本腰入れて調査はしなかった教師も。

 自分の周囲を片っ端から責めていた自分の親も。

 "いじめが起きた"ことを飯の種にするために大げさに報道したマスコミも。

 通学路でのいじめは常に無視して、いじめ報道が始まったら味方面してきた近所の大人も。

 いじめっ子をいじめているだけの、正義気取りのネットの皆も。

 いじめられっ子に可哀想と言って優越感を得て、楽しそうにいじめっ子を攻撃している赤の他人の皆も、全て、全て。

 それら全てが、敬刀の目に映るいじめっ子だった。

 

 全てが、嫌いだった。

 

 敬刀には、極限に嫌っている人間達が居る。

 敬刀は人間の低値を知っている。

 最大級の怒りを、憎しみを、軽蔑を、体験として知っている。

 

 この程度じゃ嫌いにならないさ、もっと最低な人間を知っているから、と言える。

 このくらいじゃ怒らないさ、もっと酷いのを見たことがあるから、と言える。

 弱い人の味方をしないと、俺にはその痛みが分かるからさ、と言える。

 

 だからこそ、敬刀の人格に対する周囲の評価は高く。

 敬刀の寛容さや優しさは、極めて限定的な例外である和子に対して働かない。

 彼は痛みを忘れない。

 彼が他人に優しくあれるのは痛みを忘れていないからで、その痛みを刻んできた者への憎悪を忘れることも、またないのだ。

 

「お前達みたいないじめっ子になりたくなかった。

 お前達みたいないじめっ子が関わってくる隙を作りたくなかった。

 強くなりたかった。

 何もできない、同情だけされる存在のままで居たくなかった。

 俺の学校のいじめっ子も、ネットを通して現れるいじめっ子も……

 全部『ふざけんな』って吹き飛ばす力が欲しくて、俺は、剣を習い始めた!」

 

 彼の剣をこの域にまで押し上げたのは才能ではない。

 良い師匠ではない。

 練習の効率を上げる環境やライバルでもない。

 

 強迫観念だ。

 『強くならければいじめられる』という思考が常に頭に浮かぶ。

 『弱いままではまた同じことになる』という思考に背中を押され、走り続ける。

 『悪いことをした自覚が無いやつが憎い』という気持ちが、彼の中でいじめっ子に定義される非常に広範囲の者達への憎悪に変わり、彼を強くした。

 

「消えろ」

 

 和子からすれば、過去に味方をしていたつもりの少年から、抜き身の憎悪を向けられた形。

 友達になりたい、そう思って歩み寄って、勇気を振り絞った一歩で恐怖を越えたその先で、最悪の拒絶を叩きつけられた形だ。

 少女の目元に涙が浮かぶ。

 何も言えない。

 何も謝れない。

 言い訳することも、激怒して反抗することも、涙ながらに許しを請うこともできなくて。

 

「俺の前から、消えろッ!」

 

 和子は、目元に溜めた涙をこぼしながら、敬刀に背を向け逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しばかり、時間が流れる。

 敬刀は中庭の木に背中を預け、竹刀を抱くようにして目を閉じていた。

 罪悪感か、後悔か、自己嫌悪か。

 何にせよ、先程和子を責めたことを気にしているのは間違いない、そういう雰囲気だ。

 

 馬車で屋敷に急いで戻って来た朔陽は、雰囲気から敬刀の精神状態を読み取っていた。

 

「やあ」

 

「……」

 

「和子ちゃんから大体事情は聞いたよ。

 もー急いで戻ってきた。本当に急いで帰ってきちゃったよ。

 和子ちゃんが僕に抱きついてわんわん泣いて、振り解くのに少し時間かかっちゃってさ」

 

「……」

 

「どうにも離れられなかったから、通りすがりの寧々さんの力借りたんだ。

 巧みに騙してもらって、寧々さんに和子ちゃん預けてきちゃった。

 寧々さんは入れ替わりにも違和感持たせないから凄いよね。

 和子ちゃん多分、まだ僕に抱きついて泣いてると思ってるよ」

 

「……」

 

「でもさ、今は言葉にならない泣き方してるけど……

 多分ほどなく、また僕に何か言おうとすると思う。

 泣きながら僕に語り続けると思う。

 その前に戻らなくちゃいけないんだ、僕は。あの子の話、ちゃんと受け止めてあげないと」

 

「……俺のことはほっといて、さっさと戻って、慰めてやれ」

 

「できるかぎり早く戻って慰めるってのは、そうだね。そうすることにする」

 

 だんまりだった敬刀が、ようやく口を開く。

 

「敬刀くん、和子ちゃんは君を傷付けたかったわけじゃない。

 ましてや悪意があったわけでもない。

 数年前の和子ちゃんも、今の和子ちゃんも変わらないよ。

 彼女はただ、いじめられている誰かの味方になってあげたかっただけなんだ」

 

「分かってる」

 

「考えが足りなかっただけで。想像力が足りなかっただけで。

 優しいだけの女の子を泣かせるのは、よくないことだと思わない?」

 

 朔陽の言葉が、敬刀の心に染みる。

 敬刀の頬の内側が、感情の爆発によって噛み締められた歯に噛みちぎられ、血が染み出す。

 

「放っておいてくれ」

 

 敬刀は朔陽に背を向け、走り出す。

 後を追う朔陽だが、剣道部の脚力に敵うはずもない。

 逃げるように走り出した敬刀は、朔陽が10m進んだ頃には、もう目で追えないほどの遠くにまで逃げ切っていた。

 

「俺はお前が思ってるほど良い奴じゃない。

 若鷺さんは、俺が罵った内容ほど、悪い人じゃない。

 だけど俺は、お前みたいに寛容にはなれない。嫌いなものは嫌いなんだ。

 一度でも加害者になった奴相手ならいくら攻撃してもいい、なんて奴らには、絶対……!」

 

 悲しそうに、悔しそうに、無力感を噛み締めながら、朔陽はその背中を見送る。

 追いつけなかったがために、見送るしかなかった。

 

「敬刀くん……」

 

 髪をくしゃくしゃにするように頭を掻いて、後悔しながら朔陽は空を見上げる。

 

 すると、落ち込む朔陽の耳に、いつの間に屋敷に帰って来ていたのか、どこぞの部屋からクラスメイト達の声が届いていた。

 

「至高は貧乳だろ!」

 

「巨乳こそ究極だ!」

 

 野球少年・井之頭一球。

 異世界転移小説大好き、異世界のプロ・野口希望。

 巨乳派の一球と、貧乳派の希望による、仁義なき一騎打ちがそこで繰り広げられていた。

 

「デカい乳とか垂れるだろ。

 それのどこがいいんだ?

 貧乳は変わらない。それは永遠の美しさだ。貧乳は永遠なんだよ」

 

「花は散る。雪は溶ける。命は終わる。

 だが、いつか終わるからこそ美しい。

 造花にも、雪の絵にも、永遠の命にも美しさはない。

 俺達は儚さに美しさを見る『人間』だからこそ、理解できる。

 巨乳はいつの日か垂れる儚きもの、だからこそ美しいんじゃないか」

 

 うっ、と希望が押し込まれる。

 

「貧乳とか死にサイズじゃないか。デスサイズだよデスサイズ。

 思い出せよ、柔道部の津軽の平たい胸を。男の希望を刈り取る形をしてるだろ?」

 

「馬鹿野郎! 何も無くたっていいだろ!

 いつだって無限の可能性は、何もない場所から生まれてくるんだよ!」

 

「無いだろ可能性。小さい子ならともかく……

 第一運動してるから脂肪と一緒に可能性燃焼してる可能性もあるのでは?

 デスサイズから更に減る。デスサイズヘルだよデスサイズヘル。

 大きくなる可能性を喪失してしまった右乳と左乳が奏でる悲しいデュオだよ」

 

 一球は学年九位の学力を駆使し、普段野球にだけ使っている頭脳を、巨乳の論理的擁護のために使っていた。

 

「貧乳は感度が良いからいいんですー」

 

「貧乳が巨乳より感度が良いという科学的根拠は? 証明は?」

 

「……ッ!」

 

「根拠の無い妄言で好きなものを飾るな。後で後悔するのは自分だぜ」

 

 ソースがない、論理的根拠がない話を主張の論拠に使ってしまった時点で、野口希望の敗北は確定的だった。

 

「おっぱいなんて飾りだ、偉い人にはそれが分からないんだ……

 なんて、言う奴も居るがな。着飾るからこそ、女の子は美しいんじゃないのか」

 

「―――」

 

「おっぱいは艶やかな服と同じで、あればあるだけプラスな飾りさ」

 

 希望は敗北しかけていた。……だが。

 

「……それでも俺は、貧乳は感度がいいと信じる」

 

「お前、まだそんなことを」

 

「女騎士のアナルが弱いと、誰が証明した?

 若くて美人な女教師の実在を、誰が証明した?

 違うだろ! 証明してないことが真実でないなんて、そんなことあるわけがない!

 それは『ロマン』なんだよ! そこにあるのは『そうであって欲しい』という祈りだ!」

 

「―――!」

 

 諦めない心は、奇跡の論理を産む。

 

「乳の大小なんて所詮ロマンだ! ロマンに小難しい理屈を持ってくるんじゃあないッ!」

 

 小難しい論理を乳のロマンに持ってきた時点で敗北だと、そう証明する。

 その論理をぶつけられた時点で、一球は己の敗北を確信してしまっていた。

 

「負けたな。今日は俺の負けみてえだ」

 

「いや、俺の勝ちでもない」

 

「?」

 

「乳に好き嫌いはある。だが勝ち負けはない……そうだろ?」

 

「……ああ!」

 

 ガシッ、と二人は握手する。

 一球と希望の友情が、より強固なものになった音がした。

 朔陽はそれを呆れた目で見ている。

 朔陽の肩の力がガクッと抜けて、その全身にドッと疲れが湧いてきた。

 

「……みんな、君達みたいに肩の力抜いて生きられたらいいのにね」

 

「は?」

「は?」

 

「「俺達がお気楽組みたいな言い草やめろ!」」

 

 深刻な雰囲気で鬱々しい話をやられるより、こういうバカっぽい雰囲気で楽しく生きていてもらうほうが、朔陽としては気楽である。

 だが、そう簡単にそうもなってくれないわけで。

 人間というのは難しい。

 

「何も考えず楽しく生きていられるなら、それ以上の幸せってそうそう無いと思うよ」

 

 朔陽のその言葉は、一球と希望に対する掛け値なしの賞賛だった。

 

「おいおい、どうした? お疲れか? 肩でも揉もうか?」

「ところでサトーって貧乳と巨乳のどっちが好きだ?

 いい子ちゃんぶって『女の人の魅力はそこじゃない』とか言うなよ?」

 

「僕は貧乳でも巨乳でも勃起します。はい、これでいい?」

 

「「おおぅ……」」

 

 疲れてんなこいつ、と、一球と希望の内心の声がハモりにハモる。

 

 クラスメイトが深刻な問題を抱えていても、おバカ組は今日も平常運転だった。

 

 

 



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その2

 人には個性があるものだ。

 好みのエロ本を見つけた時、野口希望なら"Aもん見れたなAカップ"と思うだろう。

 井之頭一球なら"Eもん見れたなEカップ"と思うだろう。

 戦う者には戦い方の個性があり、嘘つきには虚言の傾向があり、リーダーにはリーダーシップのタイプというものがある。

 

 佐藤朔陽は、周りより少しだけ優しく、少しだけ我慢強く、少しだけ誠実で、少しだけ頑張り屋な身で頑張って、周りを引っ張っていくタイプ。

 

(あー、しまった。

 一球くんと希望くんに疲れてるとこ見せちゃった……

 少し休んだしもう大丈夫だと思うけど、今後は気を付けておかないと)

 

 疲れていても、疲れた顔は見せない。

 それが上手くリーダーをやるコツの一つだ。

 疲れた顔を絶対に出さないともなると悪手だが、疲れた顔を見せる相手と場面くらいは選んだ方がいい。

 痩せ我慢がリーダーの資格になる、そんな者も居る。

 

「ほらよしよし、元気出して和子ちゃん」

 

「うえっ、えぐっ、ざぐびぃぃぃぃぃぃ」

 

 強い自分を演じなければ、クラスメイトが自分にすがれない。

 気丈な自分でなければ、クラスメイトが寄りかかれない。

 頼りがいのある自分でなければ、泣き叫ぶ和子が安心して泣きつけない。

 号泣する和子の小さな体を抱きしめて、彼女の髪を撫でてやっている朔陽に、少し前まで僅かに見せていた疲れは見て取れなかった。

 

「よしよし」

 

 小柄でも女性らしい体つきに、黒髪長髪で色白な美人とくれば、その泣き顔だけで興奮する男性は少なくないだろう。

 赤くなった泣き顔も、頬を伝う涙も、可愛らしい女性が見せる心の弱さも、男性の庇護欲と恋愛感情を誘うものだ。

 ただ、慈しみの心をもって和子に接する朔陽に対しては、それはメスゴジラのフルヌード程度にしか性的感情をかき立てない。

 

「和子ちゃんは悪くないよ。

 だから、誰かの味方をしようとした過去の君まで、否定しないで」

 

「サクヒ、サクヒ、私っ……!」

 

「和子ちゃんは悪くない。

 敬刀くんも間違ってるわけじゃない。

 だから泣かないで。今は辛くても、きっと辛いまま終わることはないから」

 

「ぐすっ、えうっ……ほんと……?」

 

「大丈夫、和子ちゃんも敬刀くんもすれ違ってるだけだから。

 不安になったら、僕が今言った言葉を信じて欲しい。

 でもそのためには、和子ちゃん自身が頑張らないといけない。分かるよね?」

 

「……うん」

 

「よしよし、いい子いい子。

 僕も手伝うから、頑張ってハッピーエンドで終わらせよう」

 

「ん……頑張る」

 

 あれだけ手酷く拒絶されてなお、和子はまだ敬刀と向き合おうとしていた。

 精神的に弱くても、ハートの芯の部分が強いのか?

 朔陽に励まされたら即立ち上がるくらいに単純な性格で、かつ朔陽に依存しているのか?

 どちらなのだろうか。

 いや、両方だろう。

 彼女はしょっちゅう腰が引けている臆病者ではあるが、踏み出すべき時に踏み出さない卑怯者ではない。

 

 そんな彼女が、朔陽は嫌いではなかった。むしろ好きだった。

 

「あ……サクヒ、伝書鳩が来たよ」

 

「正式名称は魔力鳩だよ、和子ちゃん」

 

 魔力鳩は朔陽の手の上で消滅し、手の上に手紙だけが残る。

 手紙の送り主はヴァニラ・フレーバー。

 内容は、朔陽とその友人に対する呼び出しと、依頼であった。

 

「……魔力鳩、恋川さんが料理したら美味しく食べられるかな」

 

「このみさんに無茶振りするのはやめようね」

 

 朔陽は涙で酷いことになった和子の顔を拭くべく、タオルを取って水で濡らした。

 

 

 

 

 

 体は疲れていないのに、敬刀は多大な疲労感を感じて起きた。

 疲労感で眠ってしまうことは珍しくないが、疲労感で起きるとは珍しい。

 それは体が疲れているからではない。

 心が疲れているからだ。

 心の疲労は、心の苦痛とも言い換えられる。

 彼は疲労感で起きたと感じているが、その実心の痛みで起きたも同然だった。

 

 敬刀に割り当てられた部屋の中に、小さくくぐもった苦悶の声が広がり消える。

 

「……ぅ」

 

 体を起こしたくない。

 想いが体を縛る。

 起きて他の人と顔を合わせたくない。

 想いが体を縛る。

 朔陽に会って、若鷺さんを傷付けたことを責められたくない。

 想いが体を縛る。

 泣かせてしまった若鷺さんを、これ以上傷付けたくない。

 想いが体を縛る。

 憎い気持ちが、胸の奥で渦巻いて、渦巻いて、渦巻いて。

 

 敬刀はそれら全てを振り切って、半ば眠っていた体を起こした。

 

「……」

 

 ベッドの上で膝を抱えて、竹刀を握る。

 竹刀を握っていないと、そのまま倒れて起き上がれなくなりそうな気がしたから。

 ギュッと握って、竹刀の感触を確かめる敬刀。

 せめて戦う力を握り締めていなければ、心が壊れてしまいそうだった。

 

「……」

 

 敬刀は変えたかった。

 いじめられていた頃の自分を苦しめていた『何か』を変えたかった。

 その『何か』を倒したかった。

 『何か』が何か分からないまま、ただただ『何か』が憎かった。

 その『何か』がなければ、全て上手く行くと思っていた。

 教科書をゴミ箱に捨てられるたび、いじめっ子に服で見えない部分を殴られるたび、親を侮辱されるたび、机と椅子を隠されるたび、『何か』を憎まずにはいられなかった。

 

 加害者に対する加害者が居ると知り、『何か』が何なのか分からなくなっていった。

 インターネットの中に『何か』は居るようで、居なかった。

 敬刀を苦しめた『何か』は倒せない。

 それが分かってくると、その現実を振り払うように、力が欲しくなった。

 

 いじめをするような人間になりたくないと思って剣を振り、いじめを止められない無力な自分が嫌で剣を振り、その結果として強くなっていった。

 

「……うぁ」

 

 そうやって、強くなって、強くなって……その果てに、敬刀は和子を泣かせた。

 後悔しかない。

 悔恨しかない。

 自己嫌悪が溢れ出て、今までいじめっ子に向けていた憎悪が自分に向かう。

 敬刀にとって、歩み寄って来た和子を理不尽に罵倒した自分は、死んで欲しいほどに大嫌いないじめっ子そのものだった。

 

 敬刀に泣かされていた和子の姿が、敬刀の記憶の中の、いじめっ子に泣かされていた敬刀の姿とダブる。

 和子を泣かせた敬刀の姿が、いじめっ子とダブる。

 

「……! うっ、おえっ……!」

 

 自己嫌悪で、急激に発生する吐き気。

 桶に吐き出すのが間に合ったのが、既に奇跡のようなものだった。

 敬刀は竹刀を手首に当てる。

 竹刀に刃など付いていないし、それで普通リストカットなどできないが、敬刀であれば腕の骨ごと両断できる。

 確実に死ねるリストカットを実行できる。

 それでも、この自己嫌悪だけでは、彼は自殺なんてことまで実行できない。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 人は簡単には死ねないし、簡単には生きられないのだ。

 何も考えずに生きていけたら、何も考えずに死ねたらどんなに楽か。

 大半の人間が流されて生きたり、流されて死んだりしてしまうのは、楽な生き方を選ぶ人間の本能であるのかもしれない。

 バカみたいに巨乳貧乳の話だけ考えて生きているような者達は、きっとそれだけである程度は幸せなのだ。

 敬刀のように生きることが怖くて、死ぬことも怖い者は、どこへ行けばいいのか。

 

 敬刀はいじめられっ子だった頃、自分に力が無いことを嘆いていた。

 だから強くなった。

 今の彼には力がある。

 なのに、いじめられっ子だった頃と同じ苦しみが、彼を変わらず蝕んでいる。

 

 『自分に力がないから、自分の人生はこんなにも辛いんだ』という言い訳があった。

 敬刀が自分を騙すための言い訳だった。

 もうその言い訳は通じない。

 敬刀が自分を騙すために使ったその言い訳は、もう二度と使えないのだ。

 彼は戦う力を手に入れ、強くなってしまったのだから。

 

「……う、っ、ッ……!」

 

 敬刀はかつて弱者だった。今は強者だった。

 かつていじめられていた。今は女の子をいじめてしまっていた。

 かつて攻撃され泣かされる者だった。今は攻撃し泣かせるものだった。

 かつての敬刀は、クラスメイトと仲良くしようとして、それを拒絶されていじめられ。

 今の敬刀は、クラスメイトと仲良くしようとしてきた和子を拒絶し、泣かせたのだ。

 

 今この世界で、敬刀を誰よりも責めているのは、敬刀自身である。

 

「敬刀くん」

 

「……」

 

「敬刀くん、部屋に入っていい?」

 

 トントン、と部屋のドアを叩く音がする。

 朔陽の声がする。

 敬刀は応えない。

 だが朔陽は、沈黙の拒絶を無視して部屋に入って来た。

 

「敬刀くん」

 

「……放っておいてくれ」

 

 何が正解か、朔陽は考える。言葉を選び対応を選ぶ。

 慰めか? いや、慰めは拒絶されてしまうだろう。

 放置か? いや、今この状態で放置するとまず間違いなく悪化する。

 ここで敬刀の味方をして敬刀の肯定をすれば、心情的に和子の味方をしたがっている敬刀は心が壊れるくらいに怒るだろう。

 ここで和子の味方をして和子の肯定をすれば、自分を責めている敬刀を更に追い込むことになりかねない。

 

 どうするべきか。

 朔陽は敬刀の内心を推測しつつ、慮りつつ、気遣いつつ、考える。

 そして最適解を見つける。

 朔陽は敬刀と目を合わせ、拝むようにして彼に頼み込んだ。

 

「君の力が必要なんだ。僕に力を貸して欲しい」

 

 追い込まれた敬刀に、朔陽は助けを求めた。

 それはこの状況における最適解。

 敬刀は青い顔で、辛そうな心に鞭打ち、苦しそうに立ち上がって、胸の痛みに耐えるようにして竹刀を握った。

 

「……今回だけだ」

 

 どんなに辛くても。

 どんなに苦しくても。

 どんなに逃げたくても。

 友達が困っているのなら、歯を食いしばって助けるために動いていける。

 剣崎敬刀は、根っから友達想いな男であった。

 逃げたいという気持ちに、助けたいという気持ちが打ち勝ってしまうくらいには。

 

「……あ」

 

「……」

 

 朔陽の要望に応え、部屋の外に出て、そこで敬刀と和子の目が合った。

 反射的に顔ごと目を逸らす敬刀。

 和子はそれを"顔も合わせたくない"という意志表示として受け取ったが、その実"顔を合わせられない"というのが正しかった。

 罪悪感が邪魔で、罵れない。

 嫌悪感が邪魔で、謝れない。

 申し訳なくて、顔を合わせられない。

 顔を見たらそれだけでつい罵倒してしまいそうで、顔を合わせられない。

 

 屋敷を出ても、朔陽と和子と共に出発しても、目的地に到着しても、敬刀は和子の方を向くことはなく、一度も口を開くことはなかった。

 

 

 

 

 

 姫が彼らを呼び出した地は、和子が「わぁ」と思わず声を漏らしてしまうほどに美麗な土地だった。

 

 緑っぽい青と、青っぽい緑の二種類の木々がCの字の形に立ち並ぶ林。

 林に囲まれた美しい湖。

 湖の水は水晶のように澄んでいて、それでいて汚れを吐き出すはずの生命の営みで溢れていた。

 魔力か何かが作用して、食物連鎖と生命活動の過程で吐き出される不可避の汚れを、浄化か沈殿させているのだろう。

 林の合間から湖に流れ込む水。

 大きな湖の真ん中に浮かぶ小島。

 湖の表面を照らす太陽、そして二つの月。

 透き通る水の表面がキラキラと輝いているそれは、この世のものとは思えないほどに幻想的で美しく、透明感と輝きを両立する宝石を思わせた。

 

 和子は朔陽の後をとことこと付いて行きながら、ヴァニラ姫を見て手を振ろうとして、その横でなごやかに手を振っているスプーキー・パンプキンを見てぎょっとした。

 

「やあ」

 

 なんか居た。

 この湖は巨大だが、王都からここまで来るのに時間がかかる観光名所の類ではなく、王都からもさほど離れていない場所にある。

 最強の騎士と現王の長女である姫が二人だけで外出するには遠出すぎて、魔術込みで走って王都に戻るには遠すぎて、魔法で王都に戻るのであれば極めて近い、そういう距離。

 スプーキーが居てもおかしくはない。

 だが、彼がここに居るのがおかしくなくても、彼がここに居る理由くらいは知りたいのが人情というものだ。

 

「詳しいところはこちらで説明する、と手紙に書いてあったのですが」

 

「進みながら話そう。さ、そこの船に乗るといい」

 

 スプーキーは姫を小舟に乗せ、朔陽・和子・敬刀も乗せ、大きな湖に浮かぶ島に向かう。

 湖がとても大きいためか、湖に浮かぶ小島も大きく、村の一つくらいならすっぽり収まりそうなくらいのサイズであった。

 大きいが、どことなく奇妙な印象も受ける。

 超常的な存在が、神話の一説のように超常的な力を使い、自然の島と変わりないものを人工的に作ろうとしたらこうなるのだろうか、という印象を受ける島だった。

 騎士は船を漕ぎながら、朔陽の疑問に答え始めた。

 

「実は私と姫は面白い案を受諾していてね」

 

「面白い案、ですか?」

 

「王都を攻撃可能な広範囲を(ひそ)かに、(みつ)に監視。

 それに合わせてすぐに戻れる状態で私を王都から離す。

 最強の騎士は王都を離れて任務中だ、とわざと情報を僅かに漏らす。

 そして『チャンスだ』と思わせ、現在準備中と思われるフィーアの襲撃を誘うというものさ」

 

「そんなの、上手く行くんでしょうか」

 

「フィーアの知能なら引っかかる、と私は読んでいる。

 引っかからなければ、フィーアの補佐に誰かが付いているということさ。

 襲撃時期の誘導か、敵側の陣容の推測か、どちらに転んでも損はない」

 

「……餌が偽物であっても、釣れればいいというわけですか。ルアー釣りのような」

 

 わざと隙を見せて敵の動きを誘う作戦らしい。

 スプーキー・パンプキンが一時とはいえ王都を離れるというリスクは有るが、探りの一手としては悪くないのかもしれない。

 

「自慢ではないが、私は魔王軍の方に警戒されていてね。

 王都に居る時は、王都の護りとしての役割も果たしている。

 私が王都から離れたという情報は、餌としてはそれなりのものだと自負しているよ」

 

「なるほど」

 

「ちなみに、今日私がここに居る理由だが。

 君達に剣術指導をするため、と書類の上で処理されている。

 だからできれば剣を使える者を連れて来て欲しかったわけさ」

 

 朔陽達は、この元王子な最強の騎士が自然に王都を離れるための偽装目的として、ここに呼ばれたようだ。

 ……書類上は、だが。

 書類上は、朔陽達が偽装目的のために呼ばれたことは間違いないのだが、スプーキーはいざとなれば朔陽達の力を頼りにする気満々の様子だ。

 先日の吸血鬼の一件が、たいそうお気に召したらしい。

 

「僕らに話を振ったのは、王都を離れる名目があればなんでもよかったんですか?

 地球の剣士に興味があったからですか?

 地球人との友好を変わらずアピールするためですか?

 それとも……妹であるヴァニラ姫に色々と聞いて、僕らに気を遣ってくれたんですか?」

 

「全部正解、と言っておこう、サクヒ君。ただ……」

 

「なんでしょうか?」

 

「君が思ってるほど、私は陰謀家ではないよ。実は何も考えていないことも結構多い」

 

「えっ」

 

 色々と気を遣っているように見える。

 色々と策を巡らしているようにも見える。

 陰謀家のようにさえ見える。

 ただ、スプーキーがいつも色々と考えた上でその中の最善を計算で選んでいるかというと、実はそうでもない。

 

「ただ、地球の剣士を知りたい。

 地球の剣術を知りたい。

 それだけの気持ちで動いている自分も、私の中には居るんだ」

 

「……趣味のいいことで」

 

 スプーキーが腰の剣に手をかける。

 チャキッ、と鍔鳴り特有の金属音が鳴り、竹刀を抜いた敬刀が前に出た。

 敬刀はとても分かりやすく、感情を吐き出す場所を探していたようだ。

 スプーキーの剣の指導にかこつけて、剣で感情を吐き出すつもりなのかもしれない。

 だが、それは。

 ……とても醜い、ただの八つ当たりでしかない。

 

「ヴァニラ姫、こちらに。僕らは一箇所に固まっておいた方が死ににくいと思います」

 

「分かりました、サクヒ様。……死ににくい?」

 

 なんとなく、朔陽は不穏な空気を感じる。

 ぼけーっとしていたら次の瞬間には首が飛んでいるような、そんな危うさを内包する、不穏な空気を。

 

「今日の俺はあんまり機嫌が良くない。

 上手く加減はできないが、気を付けろよ」

 

 

 

 指導という名の戦いの、幕が切って落とされた。

 開幕と同時に斬撃が大気までもを切って落とす。

 敬刀の竹刀が飛ぶ斬撃を放ったのだ。

 スプーキーは余裕でそれをかわそうとするが、運悪くそこでむせこんだ。

 

「ごほっ」

 

 重病人の咳を思わせる、気管支や肺まで痛めていそうなむせこみ方だった。

 回避の直前でむせこんだスプーキーは、高速で飛ぶ斬撃をかわせない……なんて、ことはなかった。むせこんで、落ち着いて、それからギリギリの位置で避けたのだ。

 "そこから回避が間に合うの"と、和子が驚くほどのスピードで。

 

「悪くない。心に迷いさえなければ、私に届く可能性もあった空の刃だ」

 

「ちっ」

 

 現代剣道の祖の一つ、北辰一刀流の開祖・千葉周作は厚み六寸(18cm)の碁盤を片手で軽々とぶん回し、発生させた風で蝋燭(ろうそく)の火をかき消したという。

 これが、飛ぶ斬撃の源流の一つ。

 剣道はそもそも、その源流に『斬撃を飛ばす技術』の雛形が仕込まれているのだ。

 飛ぶ斬撃が使える剣道家というのは、そう珍しいものでもないのである。

 

 敬刀が斬撃を飛ばす。

 目を凝らせば、一般人にも飛ぶ斬撃が見える。

 それは水槽の水の中を落ちてゆくコップのように、空気の中を進む透明な何かとしてサクヒの目に映っていた。

 

「っ!」

 

 敬刀の斬撃飛ばしは連続して放たれている。

 その目的は大きく分けて三種類。

 スプーキー・パンプキンにダメージを与えるか、防御させて動きを止めるか、回避させて動きを誘導するかの三種類だ。

 彼はこの三種を織り交ぜた斬撃を連続で飛ばし、出来た隙に切り込んで、近接攻撃で一気に決めようと考えていた。

 

 だが、スプーキーは攻撃を一発も貰わない。

 剣を抜くことすらせず、ひらひらとかわして防御もしない。

 そのくせ、敬刀の想定した方向に回避することさえしてくれなかった。

 

「心を静にしたまえ。それでは君の斬撃は飛びはすれど当たらない。

 君は本来、今の私程度であれば堅実に倒せるだけの強さを持っている。

 私に当てたいのであれば、攻撃前の感情の揺れ動きをもっと抑えなければね」

 

「うるさい!」

 

「……これは少し、根が深いか」

 

 スプーキーは敬刀の精神に何か問題があることをその目で確認し、それを解決する助力をすべきかすべきでないか、少し迷っている風だった。

 少し迷って、決断して、鞘に入れたままの魔剣を振るって斬撃を弾くスプーキー。

 

「!」

 

 飛ぶ斬撃は、岩を投げつける程度の重さは内包している。

 弾くにも一苦労するはずのものだ。

 にもかかわらず、スプーキーは鞘に入れたままの魔剣を振るい、無数の飛ぶ斬撃を紙飛行機か何かのように軽々と叩き落としていく。

 次いで、一歩で十数メートルの距離を移動し、鞘に入れたままの剣を敬刀の喉元に突きつけた。

 

「―――!?」

 

 敬刀は驚き、寸止めされたという屈辱に表情を歪め、後ろに跳んで距離を取る。

 そこからはまた繰り返しだ。

 敬刀は隙を伺いながら、隙を作るために斬撃を飛ばす。

 スプーキーは軽々と斬撃を処理し、距離を詰め、喉元に鞘の先を突きつける。

 その繰り返し。

 

 繰り返すたびに、敬刀の心の中で何かが削れる。

 "近付かせなければいい"と思考した瞬間、突きつけられる剣にその思考を両断される。

 後に残るのは"近付かれたら終わり"という思考のみ。

 こうすれば勝てる、という思考が、こうなったら負ける、という思考に変えられていく。

 剣の入った鞘を喉に向けられただけなのに、心も体も両断された気持ちになっていく。

 

「こほっ」

 

 時々スプーキーは、むせこんで動きを止める。

 スプーキーに追い詰められていた時は、「助かった」と敬刀はホッとする。

 敬刀が攻めている時は、「チャンスなのに追い込めない」と歯噛みさせられる。

 露骨なチャンスなはずなのに、勝利に繋がるチャンスにもならない。

 重病人に等しいこの男に追い込まれているという事実が、尚更に焦燥感と劣等感を湧き立たせていた。

 

「何を苛立っているんだい?

 剣に気持ちを込めても、それは剣士にしか伝わらない。

 私は君の心の闇を、言葉を通じてしか理解できないぞ」

 

「理解されたいだなんて、思っていない!」

 

「私は理解したいと思っている。

 理解した上で助けてやりたいと思っている。

 今の君は実に苦しそうだ。雑に振るわれ、剣が泣いているぞ」

 

 異世界剣・竹刀は、スプーキーにとって見たことも聞いたこともない異世界の剣。

 それが雑に使われているとなれば、剣の気持ちを代弁してやりたくもなろう。

 

「お節介な……!」

 

「尊敬されたいだけさ。

 まだ私も二十代半ばの若輩だ。

 十代の若者を導いて、尊敬されたいだけなのだよ。ふふっ」

 

 スプーキーは微笑む。

 掴みどころのない振る舞いと、内心が読み取れない表情と、器の底が見えない雰囲気が、敬刀の目に実像以上の『強敵』を映す。

 最強と呼ばれるだけのことはある。

 実力も高いがそれ以上に、戦いの中の駆け引きが巧みであった。

 敬刀はすっかり、戦いの主導権を握られている。

 

 そうなれば、後は一方的だ。

 敬刀はスプーキーを倒せない。

 スプーキーは敬刀に戦いのアドバイスをしつつ、剣士の実戦技術を教え、本気で切りかかって来る敬刀で遊ぶ。ひらひらと跳び回って遊ぶ。

 敬刀にも遊ばれている自覚はあったが、精神的に崖っぷちな状態の今の敬刀では、スプーキーのその余裕を刈り取れない。

 

 今の敬刀の頭の中には、朔陽や和子や自分の過去が絡む思考が渦巻いていて、それが脳のリソースを余計に使ってしまっているようだ。

 

「はぁっ、はぁっ、ハァッ……!」

 

「この魔剣とサクヒ君の聖剣に意志がある、という話は聞いたことがあるかな?」

 

「……少しなら」

 

「私の魔剣は聖剣の数倍自我が強くてね。

 人間で言うところの、愛が重くて気が触れた女性のような性情をしている。

 嫉妬深い魔剣が私に、この魔剣以外の武器を振るうことを禁止しているほどだ」

 

 疲労し判断力が落ちた敬刀の頭の中に、するするとスプーキーの言葉が入っていく。

 この会話はスプーキーによる、分かり辛い手加減の形であった。

 敬刀に気付かれないよう、会話という名の無駄な時間の経過で敬刀の息を整えさせている。

 会話が数分続けば、数分は呼吸を整えられるはず。

 

「この魔剣は私の命を吸う。

 鞘から抜けば二分か三分で私の命は尽きるだろう。

 全力で振るえばしばらくは青息吐息さ。

 そうでなくとも、常に命を吸われているせいで、私は常に重病人のそれに近い」

 

「……そんなもの、手放すべきじゃないのか」

 

「ははは、私がこれを手放す時は、私が戦いの中で死ぬ時だろうね」

 

 スプーキーは長生きできない。

 スプーキーはもうこの魔剣以外を振るえない。

 魔剣を抜けば数分で命尽きるだろう。

 それでも彼に、この剣を捨てる気は無かった。

 

「君も私も、知っているはずさ。

 渇望の果てに掴んだ戦う刃は、生半可な苦痛と絶望で手放すようなものではないと」

 

「……」

 

「私も君も剣くらいしか取り柄がない。

 だからこの道を進んだのだろう?

 自分にとっての大切な人を助けるには、これが一番だと考えて」

 

「……それは」

 

 図星だった。

 スプーキーは敬刀の内面を的確に言い当てている。

 それはこの二人が、どこか似ているからなのかもしれない。

 

 スプーキーが朔陽を気に入ったのは偶然だったのか?

 彼が当座とはいえ朔陽を聖剣の担い手に選んだのは、偶然だったのか?

 朔陽の親友の一人である敬刀とスプーキーに類似の部分があるとすれば、そこが少し怪しく見えてくるというものだ。

 

「ケンザキのケイト君。

 君には私と同じく、この魔剣に選ばれる資格がある気がする。

 だから私は君のことをほとんど知らないが、その原初の衝動だけは理解できるのだ」

 

 スプーキーの声には、共感と、同情と、理解と、憐憫が滲んでいた。

 腰だめに魔剣が構えられる。

 魔剣がドクンと鼓動して、鞘越しに昏い光が漏れる。

 

「負の感情から生まれ、憎悪の闇を振り切れず、悪を斬らんとする激情を持っている。

 世の中にある『何か』を心底憎んだ記憶を持っている。

 そして、この世界に唯生きているだけで、君は向かい風を感じているだろう?」

 

 スプーキーは鞘の先端に、ほんの少しの光を集め、敬刀の額をぶっ叩く。

 

「先人として君を導こう。その先に、辿り着いてみせろ」

 

 渾身の一撃が、その衝撃が、敬刀の意識を――その中身の暗い気持ちごと――吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――この世界に唯生きているだけで、君は向かい風を感じているだろう?

 

 スプーキーの声が、意識を刈り取られ気絶した敬刀の脳内に木霊する。

 殴って壊せない向かい風。

 抵抗しても消えてくれない向かい風。

 前に進めなくなる向かい風。

 ああ、そうだ。いつだって向かい風は感じていた。

 敬刀にとって、世界から消えることのないいじめは全て、向かい風だった。

 いじめにもいじめっ子にも消えて欲しいと思っている敬刀にとって、世界の全てが向かい風だった。

 

 いじめられていた学校から転校しても、転校した先で朔陽と再開しても、敬刀にとって世界の全てが向かい風に感じられることに変わりはなく。

 

「俺は情けないな」

 

 中三の時、夕焼けに染まる教室の隅で、敬刀はそう自嘲した。

 

「ありがとう、朔陽。

 お前が居なかったら俺、この学校でも駄目だったかもしれない。

 なんていうか、お前が救ってくれたんだ。

 いじめから逃れようとしても、自分を鍛えようとしても、中々上手くいかないもんだな」

 

 もう、二年半前のことになる。既に記憶の中にしかない、二年半前の教室の想い出。

 

「僕が救った? ……ああ、そっか。

 僕もしかして、明確にお礼言ってなかったのかな。

 それとも、敬刀くんの記憶に残る形で言えなかったんだろうか」

 

「は? 何言ってるんだ?」

 

 いじめの後に転校して来た敬刀を、一人の友人として全力で支え、敬刀の心を救った朔陽は口を開く。

 

「僕を先に救ったのは君じゃないか。

 幼稚園でいじめられていた僕を救ってくれたのは、敬刀くんじゃないか」

 

「―――え?」

 

 朔陽にそう言われても、敬刀は全く身に覚えがなかった。

 驚愕やら、動揺やら、困惑やらで硬直する敬刀。

 

「抹茶幼稚園。

 ももぐみ。

 子供達に大人気の、遊具と遊具の間にある大樹の下。

 いつでも子供達が集まってるあの場所で、僕は助けられた」

 

 朔陽にそう言われ、うんうんと記憶の海を探ると、やがて中三の敬刀の頭に五歳の頃の記憶がおぼろげに蘇ってくる。

 

「……あ」

 

 そういえば。幼稚園の頃、誰かを誰かから守ったような気がする。そんな記憶がある気がする。といった風に、何もかもがあやふな感じで、敬刀の脳裏に記憶が蘇った。

 

「な、なんか思い出した!」

 

「そう? そりゃよかった」

 

「お前よく覚えてたな、五歳の時だから何年前だ……?」

 

「まあそりゃそうかもね。

 いじめっ子はいじめた相手のことを忘れたりする。

 いじめられっ子はいじめのことを忘れない。

 ヒーローは助けた人のことを覚えてないこともある。

 助けられた人はヒーローに助けてもらったことを忘れない。

 記憶に残るかどうかって意味では、似たようなもんなのかもしれない」

 

「……」

 

 朔陽の変な着眼点に、敬刀は複雑な想いを抱く。

 ただ、なんとなくではあるが。

 朔陽に助けてもらってばかりだと思っていた敬刀は、先程持っていたその感情とは違う、なんだかよく分からない気持ちを持っていた。

 既知の感情の中では、"嬉しい"が一番近い、未知の気持ち。

 

「覚えてないなら、改めて言うよ。

 敬刀くん、僕をいじめから助けてくれてありがとう」

 

「―――」

 

 それは、敬刀の心を魂ごと揺らすほどに、敬刀の胸に響く言葉だった。

 

「君は僕のヒーローだ」

 

 言葉が心を揺らし、揺れた心に染み込んでいく。

 

「……俺はまだ、ヒーローなんかじゃない。

 俺を変えてくれたのはお前だ。

 お前がここで、転校して来た俺に剣道を勧めてくれて、俺は、それで……」

 

「それなら、小さい頃に僕を助けて変えてくれたのも君だよ。

 君は昔から僕のヒーローだ。

 君は腕っ節が強くなる前に、僕をいじめから助けてくれたんだから」

 

 剣に強さを求めた敬刀は、その日朔陽の中に、自分の中に無い強さを見た。剣を振っていても得られない強さを見た。朔陽の強さに憧れもした。

 

 それは何かを壊す強さではなく。

 何かを倒す強さでなく。

 何かをいじめる強さではない。

 誰かの心を救うためにある、そんな強さ。

 優しい心の中にのみ生まれる、そんな強さだった。

 

「敬刀くんは知ってる?

 いじめられっ子がいじめっ子に復讐するのは、快楽原則に沿ってるんだって」

 

「……いや、知らないな」

 

「最近読んだ本にそうあったんだよ。

 漫画とかRPGとかはそういうのに沿ってるんじゃないか、っていう学者さんの本」

 

 昔から変わらないことが二つある。

 本当に頭の良い人と、ちょっと知識を付けただけで頭が良いわけでもない人は、関係の無さそうな二つのものを関連付け、その二つの相関関係や類似性を語った本を出す。

 はてさて、朔陽が読んだ本とやらは、どちらの人種が書いたものなのやら。

 

「RPGは強い敵が居る。

 主人公は強い敵に攻撃され、いじめられる。

 シナリオで負ける時は、どんなに悔しくても勝てないからね。

 主人公は強くなって、以前勝てなかった敵に勝ち、プレイヤーは大喜びする」

 

「ふむふむ」

 

「ジャンプにも強い敵がいる。

 主人公は強い敵に攻撃され、いじめられる。

 敵は主人公を踏み躙り、バカにして笑う。

 主人公は修行して、以前勝てなかった敵に勝ち、読者は大喜びする」

 

「……ああ、確かにそうだな。

 分かる、分かるさ。

 偉そうなボスはぶっ飛ばしたい。

 自分のことを好き放題攻撃してくれた奴は殴り飛ばしたい。

 で、どんないじめっ子のボスキャラだろうと、主人公はいつか復讐してやれるってことか」

 

 ボスに倒されて教会に戻ったRPG主人公も。

 強大な敵に惨めに負けて敗者となった漫画主人公も。

 いじめられっ子に殴られ、うずくまっていた敬刀も。

 心は同じだ。

 想いは同じだ。

 『こいつを倒すために、強くなりたい』。

 『強くなってこいつを倒したい』。

 その部分の気持ちは、シンクロする。

 自分をいじめ、圧倒し、上から見下ろしている強者を"弱者だった自分"が倒してこそ、生まれるカタルシスというものはある。

 

「敬刀くんは敬刀くんの人生の主人公なんだねぇ」

 

 いじめという負の坩堝から生まれた、負の感情そのものだった敬刀の気持ちを、朔陽は無理なく正の方向へと導いていく。

 

「これからどんなにワルないじめっ子が現われても、君は立ち向かって、それで勝つわけだ」

 

「……ははっ。いいな、それ。俺は諦めない勇者様か」

 

「だね、RPGとかの主人公、勇者様だ」

 

 いじめられっ子であった彼が、他人に人生を振り回され自由にできなかった彼が、自分の人生の主人公は自分であると信じられるようになったのは、きっとこの時。

 

「辛いこと、悲しいこと、痛いこと。

 全部知ってるから、その分誰かに優しくできる勇者様だよ」

 

「……ああ」

 

 いじめの直後、敬刀の周りには色んな人間が居て、色んなことを言っていた。

 誰かは、「君は悪くない」と敬刀に言った。

 敬刀は今のままでいいのだと、集団で言っていた。

 誰かは、「かわいそうに」と敬刀に言った。

 敬刀をどうこうする気はなく、行動はせずに同情だけしていた。

 誰かは、「後は任せろ」と敬刀に言った。

 警察も教育委員会も、敬刀が余計なことをしないことだけを望んでいた。

 変わりたいという気持ちは敬刀の中にあったのに、敬刀の周りに彼のその気持ちを後押ししてくれる言葉は、ずっとずっと存在しなくて。

 

「なれるかな、俺はそういうのに」

 

「なれるはずだよ。だって敬刀くんは、そういう人になりたいんでしょ?」

 

 ―――弱い自分が嫌いで、変わりたくて仕方がなかった彼の想いを、朔陽が見つけてくれた。

 

 

 

 

 

 ネットの向こう側にいたいじめっ子の一人である和子を見て、敬刀は我を忘れてしまった。

 忘れたなら、思い出せばいい。

 『我』を、『自分自身』を、『自分自身の始まり』を、思い出せばいい。

 想い出が『自分』を取り戻させる。

 

 敬刀が強くなる理由は、負の感情に類するものだけではなかった。

 強迫観念だけではなかった。

 憎しみだけではなかった。

 強くなる理由は、悲しい過去だけではなかった。

 

 誇れる友との過去があり。

 過去の痛みを強さに変えた想い出があり。

 自分を正しく再出発させてくれた、友との絆があった。

 輝けるものが、想い出の中にはあった。

 

 朔陽は敬刀の人を守れる強さに敬意を払い。

 敬刀は朔陽の人を幸せにできる強さに敬意を払った。

 それが彼らの友情であり、絆であったのだ。

 

 変わりたいという気持ちは、いつだって、他人から貰うものではない。

 変わるための心の力は、他人から貰うことができる。

 人は自分を変えることで、他人に何かを与えられる人間になれる。

 敬刀が朔陽を変え、朔陽が敬刀を変え、二人が互いに与え会う関係になれたのは、そういうことだった。

 

 世界の全てが向かい風に感じる人生など、もう終わっている。

 友とは追い風。

 敬刀にとっての朔陽は、自分の背中を押してくれる追い風だった。

 人間、生きていれば向かい風を感じることもあるが、いつかは必ず追い風も感じるもの。

 

 憎しみに問われた心の中で、敬刀は初心を思い返していた。

 

 

 

 

 

 気絶より目覚める。

 倒れた体を起こせば、気絶したにもかかわらず、竹刀を強く握ったままの右手があった。

 立ち上がり地を踏み締めれば、鞘に入ったままの魔剣を握るスプーキーが居た。

 敬刀はポケットから本気のハチマキを取り出し、頭にギュッと巻く。

 

「いい夢は見れたかな」

 

「……思い出したんだ」

 

「ほう、何を?」

 

「俺が情けないことを。俺が弱かったことを。俺が剣を握る理由の一つを」

 

 右を見る。

 ヴァニラが居た。和子が居た。朔陽が居た。

 ありがとうと言いたい友が居た。

 ごめんなさいと言いたい友の友が居た。

 けれど、その言葉と気持ちをぐっと飲み込んで、目の前の敵に竹刀を向ける。

 

 ……善意で自分を導いてくれた、そのためにボッコボコにしてくれた、スプーキー・パンプキンという善なるいじめっ子に、まずは一発お返ししてやろうと思ったのだ。

 友達の前でカッコつけたいと、そう思ったのだ。

 もう自分は大丈夫だと、友に剣で語りたかったのだ。

 

「言い忘れたが、俺は剣の道を進む者であって、剣の術理だけで戦う者じゃないッ!」

 

 敬刀が島を、全力で踏んだ。

 剣道において重要視されるのは、一眼二足三胆四力。

 眼力の次に求められるは、強靭な脚力である。

 彼が全力で島を踏んだその瞬間、大きく固い何かがどこかで、ボキッと折れる音がした。

 

「! 和子ちゃん! 僕とヴァニラ姫を抱えて島の外に!」

 

「ほえ? あ、うん。分かった」

 

 真っ先に気付いたのは朔陽。

 朔陽の命を受け、和子は二人を抱え跳ぶ。

 ヴァニラ姫に一言語らせる間もなく消えた高速移動は、間違いなく正解だった。

 

 敬刀がもう一度島を踏む。

 そして、最初の一回で"地盤と繋がっている部分"をポッキリ折られた島は、その蹴撃でメンコのようにひっくり返された。

 

「なんとぉ!?」

 

 当然、スプーキーを含めた、島の上の全てのものが島から落ちる。

 スプーキーは白狼の騎士ブリュレが使っていたものと同じ魔術で空を駆け、そしてとんでもないものを見た。

 空を走っているスプーキーに向けて、『竹刀の代わりに島を持った』敬刀が、『竹刀の代わりに島で』斬撃を放ってきていた。

 

 島という名の剣を使う、暴力的振り下ろし。

 

「いっぺんくらいは……その偉そうな余裕ヅラ、ビビらせてやるさぁッ!」

 

「とんでもないなぁ、地球人ッ!」

 

 湖の水を姫が凍らせ、その上に立って戦いの行方を見ていた朔陽達の遙か上空で、最強の騎士と剣道部長が激突する。

 轟音。

 爆発。

 そして、決着。

 

 右手に鞘入りの魔剣を握ったスプーキーと、右手に島・左手に竹刀を持った敬刀が、湖の両端に降りて来る。

 二人は共に、左頬に切り傷を付けられていた。

 つまり今この戦いで、先の交錯の最後の一瞬のみ、敬刀とスプーキーは完全に互角だったということだ。

 

「島をぶん回しての斬撃は囮か。

 いやはや、私としたことが、完全に一本取られてしまったよ」

 

「……日本の武士は明治維新の後、刀を持ち歩けなくなりました。

 なので金属製のキセルや鉄扇を持ち歩いていたんです。

 日本ではその頃から、刀でないものを、刀のように振る技術が発達したんですよ」

 

 どうやら島を使っての斬撃をスプーキーが弾いたその一瞬の隙を、敬刀が竹刀で突いた様子。

 

「引き分けでいいかな? 私も流石に、ここから魔剣を抜くのはしんどいからね」

 

「実質俺の負けです。最強の騎士の胸を借りることができ、至極光栄でした」

 

 ありがとうございます、と敬刀は頭を下げる。

 始まる前は無かったはずの、敬刀からスプーキーに向けられた敬意が、今は誰の目にも明らかなほどに目に見えている。

 スプーキーは疲れた様子で、顔色を悪くしてその辺りの石の上に腰掛ける。

 敬刀は竹刀をその辺の木に立てかけた。

 続いて島もその辺の木に立てかける。

 林が一つ押し潰された。

 

「お姫様。お姫様が俺に回復魔法をかけた場合、どのくらいの傷を治せますか?」

 

「ケイト様のその頬の傷ならば、すぐにでも治せますよ。

 魔法と魔術の補助具も持ち歩いています。

 これなら致命傷の一つや二つくらいなら問題なく治せますね」

 

「そうですか」

 

 敬刀はそれを聞き、木に立てかけた島の方を蹴飛ばして、竹刀の方を手に取る。

 竹刀を持って和子の前で正座する。

 

「若鷺さん」

 

「は、はい。なんでしょう、剣崎さん」

 

「すまなかった」

 

「え?」

 

 そして、竹刀で切腹した。

 

「ええええええええええええええええっ!?」

 

 異世界には無い地球の文化。

 謝意を表す最善の方法。

 そう、切腹である。

 異世界から地球への誤解が、また一つ増加した。

 

「ゆ、『ユリムレイド』ッ!」

 

 最上級の回復魔法と回復魔術の併用技が、姫から敬刀へと放たれる。

 人間の体の傷が自然に治る極小の世界形成と、人間の傷を癒やす直接的作用が、同時に切腹した腹を治していく。

 姫が居なければ、間違いなく治しようもなく死んでいた。

 敬刀以外の全員が心底驚愕しているのを見るだけでも、傷の深さは伺える。

 

「朔陽に、聞いたことがある。

 若鷺さんはゲームで運営に詫び石というものを貰うと、特に喜ぶと。

 あいにく俺には詫び石というものが分からない。どうか、この詫び切腹で……」

 

「詫び切腹!?」

 

「悪行への償いは、正しい応報でなければならない。

 心の痛みを体の痛みで償おうとしている時点で醜悪だ。

 だが、俺にはこのくらいしか、若鷺さんに償う方法が思いつかんのだ」

 

「許してる! もう許してるから!」

 

「そうか。若鷺さんは心が大きいな……」

 

「あなたの腹の傷も大きいけど!?」

 

 姫の魔法効果は凄まじく、信じられないスピードで彼の腹の傷は完治する。

 

「よし、治った」

 

「よし治った、じゃないよ。このおバカ」

 

 朔陽が敬刀の頭をひっぱたいた。

 もうしないもうしない、と敬刀は苦笑いして平謝りする。

 そして、敬刀は和子に向き合った。

 

「すまない。俺は不器用だ。

 口が上手くもなければ、気持ちを全て言葉にもできない。

 だから行動で示させてくれ。

 俺は朔陽と同じように、若鷺さんのことも友だと思いたい」

 

「―――!」

 

「朔陽と若鷺さんの敵は、俺の敵だ。

 二人が本当の困難に立ち向かう時、俺も共に立ち向かおう。

 悲しみが二人を覆う時、その悲しみを断ち切りに行くと約束しよう」

 

 敬刀と友達になりたくて、彼に歩み寄った和子からすれば、それはこれ以上なく嬉しい言葉だった。

 敬刀の中にはまだ、あのいじめに関わった全てのいじめっ子を憎む気持ちがある。

 根底は変わらない。

 憎悪の想い出は消えてはくれない。

 

 それでも、自分のことを優しい勇者であると、ヒーローであると信じてくれる、友がいるから。

 

「朔陽の窮地は俺の窮地で、君の敵は俺の敵だ。

 朔陽と君の力だけでどうにもならなくなった時は、俺の剣を呼んでくれ」

 

「……ん。分かった」

 

 敬刀は朔陽だけでなく、和子をも守る誓いを立てる。

 和子は友達が出来たことが嬉しいのか、にやにやしながら頷いていた。

 

「それでいい。前を向き続けながら走り続けるといい、若者よ」

 

「!」

 

 スプーキーがいつの間にか、気配を消して敬刀の背後に立っていて、敬刀の髪の毛をくしゃくしゃっとかき回すようにして撫でる。

 

「前を向いて速く走る者が向かい風を感じるのは道理だ。

 風無くとも、走れば人は向かい風を感じるもの。

 けれど挫けるな。辛くとも、その向かい風は前に進んでいる証拠なのだから」

 

 人生における向かい風など、前に進んでいる証でしかないと、彼は言う。

 

「さあ、戦おう。悪が近くまで来ているようだ」

 

 え? と周囲の皆がスプーキーを見る。

 

 すると突然、王都の近くに巨人が現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出現した巨人を、巨人に親を殺された巨乳派の一球と、特に親は殺されていない貧乳派の希望が屋敷から視認した。

 

「ほら見ろ、お前が大好きなデカいおっぱいだぞ」

 

「あーはいはい巨人のおっぱいだから大きいなー……ってアホか!」

 

 反射的に巨人の迎撃に移れるのは、この二人だけのようだ。

 

「うっえ気持ち悪、巨人の全身から寄生虫がうねうね生えてやがる……」

 

 一球は巨人に見覚えがあった。

 自分がぶっ殺した、60mの方の巨人だ。

 あの戦いの後、死体がどこかに行って確認できなかった巨人の死体が今、全身に寄生虫を巣食わせながら王都に進軍して来ている。

 

 間違いない、魔将フィーアだ。

 黄泉瓜巨人軍の死体に、国一つ丸ごと制圧できる数の寄生虫を全て寄生させ、巨人の体を盾として王都に突っ込んで来るつもりなのだろう。

 全身から寄生虫が生えている。

 全身の肉の下で、寄生虫が蠢いている。

 今の巨人の外見は、怖気がするほど気持ち悪かった。

 

 巨人軍に対し憎しみを持っている一球ですら、思わず巨人に同情してしまいそうになったくらいに、その姿は醜悪で悪辣だった。

 

「サトーが言ってたろ。

 あのいっぱいいる寄生虫のどれかが、コアにあたる寄生虫だって。

 そいつを潰せればあの文字通り腐るほどいる死体寄生虫、全部死んじまうはずだぜ」

 

「あの巨人の寄生虫群の中に居るのか?

 いやそれはどうなんだ? 俺なら、そうだな……

 ベンチから指示出す監督みたいに、指示出す本体だけは安全な場所に隠しておくが」

 

「どうだろうな、それ。

 若鷺が一匹一匹探知して殺したんだろ?

 俺だったら、一匹だけ安全な場所に隠すとかしたくないな。

 木を隠すなら森の中で、あの大量の寄生虫群の中に隠れると思う」

 

「あー……確かに。若鷺さん居るからそっちの方が安牌なのか」

 

 若鷺和子が、フィーア・ディザスター視点の選択肢を狭めている。

 中核個体の単独行動に制限をかけている。

 なまじ知性があるために、フィーアの短絡的な思考が選ぶ選択肢は、極めて少なくなっていると言わざるを得ない。

 

「っしゃあ! ノックだ!」

 

「ヘイヘイヘーイ! ピッチャービビってるー!」

 

 一球と希望は巧みな連携を開始。

 希望がその辺の石をトスして、一球がバットで打つ。

 つまり、ノックだ。

 打たれた石は流星となり、巨人を寄生虫ごと潰さんと飛翔する。

 流星のノックマン作戦は十数の流星をマシンガンのごとく連射し、巨人の全身に着弾した。

 

「何!?」

 

 だが、無傷。

 流星と化した石は巨人どころか、柔らかそうな寄生虫に当たっても駄目だった。

 王都の守備を担当する兵士達が魔術を散発的に撃ってもいるのだが、その魔術が当たっても傷は全くない。

 

 巨人に救う無数の寄生虫が防御の魔術を発動し、それを複合的に組み合わせ、尋常な威力では突破できないバリアーを体表に展開しているのだ。

 

「なんてやつだ。マジカルだな……」

 

 おそらくフィーア・ディザスターの目的は、頑丈な巨人を魔術で守り、巨人の体ごと王都に突っ込むことだろう。

 巨人の力を魔術で底上げすれば、大体の守りは突破できる。

 そして王都に突入し、巨人の体から出て蜘蛛の子を散らすように拡散し、王都の主要人物達を一気に洗脳するつもりなのだ。

 

 いささか大味だが、巨人の体を寄生虫運搬体(キャリア)として使う発想は、この世界の市街防衛概念には想定されていない。成功する確率は高かった。

 

 巨人はズシン、ズシン、と進んでいく。

 王都への距離をある程度詰めた後、巨人の胸が膨らんだ。

 

「巨乳だ」

 

 一球が反射的に反応する。

 そして、次の瞬間胸が破裂する。

 

「きょ、巨乳が爆発した!」

 

 破裂した胸の中から、大量の寄生虫がボトボト落ちた。

 とてつもなく生理的嫌悪感を引き起こされる光景である。

 分裂生成された寄生虫の分体達は、巨人の巨乳から吐き出されるやいなや、囮役兼攻撃隊として王都への突撃を開始した。

 

「やべえ!」

 

 希望のサポートを受けた一球のそれは、まさしく千本ノック。

 だが足りない。

 千本ノックで雑に寄生虫達を潰していっても、手数が足りない。

 もう駄目か……と野口希望が諦めかけた、その瞬間。

 

「『クレスレイド』ッ!」

 

 ヴァニラ・フレーバーの土上級魔法が、巨大で頑強な土の壁を作り、巨乳から出産された寄生虫達を特定エリアに隔離した。

 

「虫、嫌いなんだけど、私」

 

 飛び込んだ和子が指と指の間にクナイを二本ずつ挟んで、合計十六本のクナイを握る。

 そして八人に影分身し、投げた。

 その数実に合計128。

 128の虫を潰し、次の瞬間には256の虫を潰し、一呼吸後には512の虫をクナイで潰した。

 

「はいさっさ……おぼろろろ」

 

 スプーキーは雑に虫を踏み潰し、体調が悪くなってきたせいか、最高クラスにかっこいいイケメンの口からゲロをぶちかます。敵に。

 ゲロまみれになった寄生虫の死体は、結構グロかった。

 

「持ってきてよかったな、島!」

 

 そして敬刀がちょっと借りてきた島を振るう。

 島を振る斬撃は剣道の基礎動作に忠実で、ただ一度振るうだけで寄生虫が全滅していく。

 地面もついでにぶっ壊れる。

 もののついでとばかりに巨人にも叩き込んでみるが、寄生虫達が共同で張る魔術バリアーは極めて強力で、島を振るっても鍔迫り合いにしかならない。

 

 魔将の名は伊達ではなかった。

 島程度の質量武器では、このバリアを突破するには、攻撃力が足りなすぎるのだ。

 

「……マジか」

 

 どうすればいい。

 どうすればこのバリアを突破できるのか。

 朔陽の頭に真っ先に浮かんだのは、スプーキーが温存している伝説の魔剣の開帳。

 だがそれも、敬刀の特訓のせいで青い顔をしているスプーキーに頼むには気が引ける。

 ならば、と。

 朔陽は一つ、至極堅実で妥当な攻撃作戦を思いついた。

 

「ヴァニラ姫、力を貸してください!」

 

「何か手があるのですか!?」

 

「問題ここで全部片付けちゃいましょう。

 転移魔法の実験と魔将討伐、一緒にやっちゃうんですよ!」

 

 姫は頷き、無言で魔法陣を展開する。

 何をして欲しい、と朔陽は言っていないのに。

 何をすれば勝てる、と勝算の証明さえ語っていないのに。

 姫は朔陽の心を理解しているかのように、朔陽の望んだ行動を取ってくれていた。

 

「こういうこと、ですよね?

 最近はサクヒ様の考えてること、時々分かるようになってきました」

 

「はい、そういうことです。召喚対象は―――」

 

 かくして。

 

 朔陽の思いつきは、姫の力で形になった。

 

「―――日本国・本土決戦用兵器! 自衛隊仕様! 『東京タワーブレード』ッ!」

 

 それは、五分だけの召喚術式。

 それは、金のない自衛隊が、今あるものを改造して作り上げた国防兵器。

 日本人ならば誰でも知っている、333mの電波塔型巨大剣。

 

「敬刀くんッ!」

 

「応ッ!」

 

 召喚されたそれを敬刀が手にした瞬間、タワーは剣へと変形を始めた。

 ガッションガッションと音が鳴るのも数秒のこと、数秒の後には333mの見事な剣が敬刀の片手に握られていた。

 

 これは自衛隊の剣。

 ゆえに殺人は許されていない。

 だからこそ、これは333mの逆刃刀である。

 これはあくまで自衛のための剣であり、殺さずの剣として此処に在る。

 

 日本人であれば、誰でもいつでも使っていい、フリーライセンス化がされた国防剣。

 国家に危機が訪れた時には誰がこの剣を手に取って、使い手が死すれば次の者がこの剣を握るという、継承の剣。

 人から人へ、この剣はいつの時代も手渡されてきた。

 異世界でも、この剣は人を守ってくれる。

 

 東京タワーは戦車の鉄が使われている。

 常識的に考えよう。

 兵器の鉄を溶かして新しく作るのは、普通は兵器ではないだろうか?

 東京タワーはその誕生経緯からして、兵器の申し子なのだ。

 自衛隊に鍛えられ、東京タワーは真の姿たる剣の姿を取り戻した。

 

 最大の有事には総理大臣が右手に剣たる東京タワーブレード、左手に槍たる東京スカイヤリーを持ち戦うことが、憲法にも定められている。

 

「うおおおおおおおおおおッ!!」

 

 敬刀が、東京タワーブレードを叩きつける。

 これは殺さずの剣。

 刃を持たぬ剣。

 全力で叩きつけたところで、人が死ぬことはない。

 されどこの剣は、刃が付いていないという意味において、竹刀に等しい。

 ゆえにか敬刀の手に馴染む。

 

 剣と使い手の相性の良さが、奇跡を呼んだ。

 

「見ろ!」

「巨人の体から!」

「フィーアの寄生蟲が全部叩き出された!」

 

 ポテチの袋を傾け、袋の底をポンポンと叩き、ポテチのカスを出すのと同じ原理だ。

 叩いたことで、飛び出して来た。

 叩き出せたなら、もう面倒なことは何もない。

 数百万か数千万かも判別のつかない寄生虫の山を見て、スプーキーが青い顔で鞘に入った魔剣を掲げる。

 

 魔剣の先が、朔陽の足元の虫を指した。

 

「サクヒ君、それが本体だ。潰したまえ」

 

「え? あ、はい!」

 

 そして踏み潰す。

 サクヒの足がぷちゅっと虫を潰したその直後、全ての寄生虫がビクンビクンとのたうち回り、やがて死んでいった。

 どうやら本当に、今潰した虫が本体だったらしい。

 全ての寄生虫が巨人体外に出るまでは、本体がどこに居るのかバレていなかったあたり、フィーアの作戦は間違っては居なかったのだろう。

 

 だが、ただひとつ。

 東京タワーブレードの存在を予想していなかったことが、最大にして唯一の敗因となった。

 

「朔陽」

 

「おつかれ、敬刀くん」

 

 見方によっては、敬刀が虫を叩き出し、朔陽がそれを潰すという連携によって勝ったようにも見える形。

 敬刀は、それがなんだか嬉しかった。

 

 敬刀が東京タワーブレードを掲げる。

 朔陽が聖剣を掲げる。

 二つの剣の腹が、軽くぶつかり合う。

 お遊びのような友情の確認。

 幼稚な互いの気持ちの確認。

 それでも、なんか嬉しくて。

 

 朔陽と敬刀は、顔を見合わせ思わず吹き出し、それからずっと笑っていた。

 何が楽しいのかも分からないのに、ずっと、ずっと。

 友達の顔を見て、笑っていた。

 

 

 



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出席番号5番、月下美人・大沢桜花の場合

 魔将は、基本的に人間に恐れられている。

 不死身の魔将は、即死級の罠を平然と踏み越え、血まみれで人間の攻撃の中を再生しながら突っ切っていき、その豪腕で軍を薙ぎ倒す。

 寄生蟲の群れは人間を操作し、心強い味方だった人間の将軍や英雄を簡単に人間の敵にしてしまい、忠誠心厚い大臣を人知れず裏切り者へと変えてしまう。

 吸血鬼の王は真っ昼間に緑の草原を人の血を真っ赤に染めるという正統派な強さも、夜中に億単位の蚊を敵陣に送り込んで眠れなくするという搦め手も、どちらも使う。

 それぞれに個性がある。

 それぞれに恐ろしさがある。

 フュンフ・ディザスターも、彼だけに固有の理由で、人に恐れられる怪物だった。

 

 フュンフはよく人をさらう。

 街からこっそりとさらい、戦場で人知れず兵士をさらい、山奥の孤立した村を村ごとさらう。

 そして、さらった人間を使って、実験を行っていた。

 

「実験一。他者生存・自己生存、優先度実験」

 

 20人の人間を実験室に入れる。10人だけが生き残り出られるのだ、と告げる。

 そしてあの手この手で戦いを煽り、10人を殺害か自殺に追い込む。

 残った10人を別室で生き残った10人と合わせて、また同じことを繰り返す。

 

 初めは誰もが抵抗し、反発し、殺し合いを拒絶した。

 泣いて、嘆いて、跪いて、現実から目を逸らして床を濡らし続ける者も少なくなかった。

 だが、それも最初だけのこと。

 食料を与えなかったり、見せしめに一人殺したり、実験室から出さないまま何ヶ月と経過させたりと、様々な煽りを行うことで、人間達は容易に殺し合いを開始した。

 

 何度か殺し合いをさせてみれば、生き残った者はどんどん殺し合いに慣れていく。

 殺しのハードルが低くなっていく。

 殺人の忌避感が消えていく。

 

 少女が涙を流すのが、騙し討ちのための演技になった。

 仲間を集めて絆の力で生き残っていた青年は、最初は10人で勝ち抜いていたのに、いつの間にか仲間を集めて仲間を皆殺しにするスタイルを確立していた。

 老婆は、自分の弱々しい姿が殺しのための武器になることに気付いた。

 兵士だった中年は、守るべきものだと思っていた一般人を見て、「この実験に連れて来られるのは一般人が多く俺より弱い」「殺しやすいのは幸運だった」と思うようになっていた、変わり果てた自分の心を自覚した。

 

 殺し合いという過程を経て、人間の醜さが抽出されていく。

 

 薬品を蒸留・撹拌・調合する感覚で、フュンフはそれらを研究した。

 無論、主観的な観測だけでは終わらせない。

 部下に人間の細かい挙動や言動、推測レベルではあるが感情の動きもメモさせ、それらを総合的に分析して研究を行う。

 人間に同情して心を病む部下も居たが、フュンフはそういう部下には金を握らせて後方勤務に回し、その部下が復調するまでは代理要員の手配を要請。

 人間の醜い殺し合いを、できる限り客観的に観測できる人員を揃えることにこだわった。

 

「実験二。特定状況下実験」

 

 親子・親友・恋人・戦友など、特殊な関係にある人間を一対一で殺し合わせてみる。

 すると、見知らぬ人間よりも強烈な抵抗があり、殺し合わないまま餓死したり、逆に二人で一緒に自殺するパターン等の割合が増えた。

 しからば、人間は何の関係も無い者の命を軽いものに定義するのか、それとも人間は自分が負わされる罪悪感の量で人殺しのボーダーを決めているのか、ここを判断する実験も必要だ、とフュンフは思うようになる。

 

 逆に実験一を生き残った者同士でマッチングすると、関係が近い人間同士でも容赦なく、躊躇いなく殺し合うことが分かった。

 殺し合いを生き残った人間は、ある程度の精神異常が見られる。

 フュンフの部下には、その精神異常を『倫理観の損傷』『殺人行為への慣れ』『殺人という禁忌を認識する部分の鈍化』と表現する者も居た。

 総じて、人間は関係性の強さで殺せる殺せないを決めるのではなく、関係性の強さとまともな倫理があって初めて親しい人間を殺せないのだ、という結論に達した。

 

 知性の低い魔物を人間にけしかけ、強引に性交を行わせてみたこともあった。

 知性の高い魔物を人間なんてものと性交させるのは、流石に性的暴行の一種だろう、とフュンフが部下のメンタルを気遣った結果、この実験はこうなった。

 全体的に男性より女性の方が拒絶が強い傾向がある、という実験結果が真っ先に出る。

 殺しに慣れた者でも強烈な反発が見られることがあった。

 殺人も、性交も、異種との交配も、倫理観や常識の中で、人間に禁忌とされるものである。

 ならば何故その一つに慣れたものでも反発が見られるのか?

 

 フュンフは魔犬に蹂躙されている女性を見ながら、人間は無自覚の内に、自分の中にあるいくつもの禁忌をカテゴライズしているのではないか、という結論を出した。

 

「実験三、人体耐久度研究」

 

 ついでとばかりに、人間の耐久度も測ってみる。

 

 魔法をどのくらい撃ち込めば人は死ぬのか。

 精神的にどのくらいの負荷をかければ心は壊れるのか。

 どの部分をどのくらい剣で切れば人は死ぬのか。

 水に沈めてどのくらいで死ぬのか、首を絞めてどのくらいで死ぬのか、風魔法で作った真空状態ではどのくらいで死ぬのか、正確に時間を測って比較検証したりもした。

 

 特にフュンフが個人的な趣味で検証したのが、毒である。

 人体と魔物の身体構造や構成物質はあまりにも違う。

 だからこそ、人に効く毒は何か、どの毒がどういう効果をもたらすのかという研究を、フュンフ・ディザスターは重視していた。

 

 地球世界でも『この毒の成分は人体のどこにどういう影響を出して、どのくらいの量で死ぬ』という研究は、遠い昔から現在に至るまで絶え間なく行われている。

 「よく分からんがこの毒よりこの毒の方が強力っぽいな」程度の研究であれば、地球人類は原始人だった頃から数多く行っていたとされる。

 紀元前150年になると、早くも死刑囚を使った人体実験・毒効果の確認・解毒剤の作製を始めているというのだから、地球人類は恐ろしい。

 

 毒殺をしようとする者。

 毒殺に対抗しようとする者。

 毒を薬にしようとする者。

 地球の長い歴史の中で、様々な者が毒に関する研究を行ってきた。

 この分野においては、やはりこの世界よりも地球の方が進んでいると言わざるを得ない。

 

 だがフュンフは、閉鎖空間での殺し合いを誘導した後、そこにそっと研究中の毒薬を置くなどして、効率的に『毒に関する技術』を成長させていった。

 彼の目的は一つ。

 自分の発展させた技術が、魔王軍を勝利に導くことである。

 

「ようこそ、ツヴァイ・ディザスター様。フュンフ様はこの先にいらっしゃいます」

 

 その研究所を、吸血鬼の王・ツヴァイは訪れていた。

 フュンフの部下に連れられて、ツヴァイは道中多くの醜悪を見ながら、フュンフの下へと向かって行く。

 透明なケースに入れられた内蔵。

 毒に苦しむ被験者。

 魔物の血を輸血された半死人。

 そして、殺し合わされる人間達。

 

 殺さなければ殺されるという極限状態に置かれている人間達を、フュンフは高所の椅子から見下ろして、極限状況下での人間の行動パターンをメモしていた。

 

「こんにちわ、ツヴァイさん」

 

「相変わらず悪趣味だな、フュンフ」

 

「どこが悪趣味だというのですか?」

 

 命が絶える断末魔を、悲しみの悲鳴がかき消して、叫ばれた呪いの言葉がそれを塗り潰す。

 ここは研究所だ。

 ここは牧場だ。

 ここは墓場だ。

 ここは地獄だ。

 ただひたすらに、技術を発展させるための研究資料と、そのためにすり潰される人間の呪いだけが積み上げられている。

 

 フュンフはここを、人類研究所と呼んでいる。

 だがフュンフ以外の魔将は、侮蔑の意を込めてここを人間牧場と呼んでいた。

 

「全てだな。

 貴様の品性が関わった全てが醜悪に見える。もっとも……

 それが貴様にとっての"仲間を助ける結果に繋がるもの"だというのだから何も言えん」

 

 鼻を鳴らすツヴァイは特に、格別フュンフを嫌っていた。

 フュンフは吸血鬼に種族として近い夜魔の一種であるのだが、ツヴァイが同族に近いフュンフに露骨な嫌悪と侮蔑を向けていることからも、フュンフの仲間評価は見て取れた。

 

「貴様の仲間想いな気持ちは疑うべくもないが、友人にはなれそうもない」

 

「はて、そんな嫌われるようなことをした覚えはないのですが……」

 

 ツヴァイは、殺し合わされている人間達を指差す。

 自分が生きるためなら家族でも殺せる、平気で信頼を裏切れる、騙して殺すために笑顔で守ると約束する、そんな人間達はとても醜悪で。

 

「『これ』で人間を知った気になっていることなど、最たるものだな」

 

 ツヴァイには、そんな醜悪な人間達より、眼前のフュンフの方が遥かに醜悪に見えた。

 

「何を言うかと思えば……

 これが人間の本質です。

 僕が剥き出しにした人間の本性ですよ。

 この醜さこそが人間の全てであり、他は全て偽りに過ぎないのです」

 

「本質? 本質とは何だ?

 人が本能の上に被せる理性という名の服は、人間の本質でないとでも言う気か?」

 

 仲間のためにやっていると分かっているから、ツヴァイはフュンフに敵意を持たない。敬意を向けている。だが仲良くなろうとも思わない。

 ツヴァイは、フュンフを見下すように睨んだ。

 

「貴様は人間の本質を剥き出しにしているのではない。

 自分の望む答えを出させるため、"人間の頭を悪くしている"のだ」

 

「……へぇ」

 

 理性を剥ぎ取ったこれが人間の本質だ、と言う魔将も居れば。

 何かを剥ぎ取った時点で既に本質は失われている、と見る魔将も居る。

 

「まるで人間の味方のようなことを言うんですね、ツヴァイさん」

 

 フン、とツヴァイは鼻を鳴らす。

 

「貴様はとことん愚かだな。

 味方の賢愚を見て見ぬふりをすることは、慈悲であろう。

 だが敵の賢愚を正しく見定めぬことは、ただ愚昧なだけだ。

 下等種族であれど敵であるのなら、その全てを正しく見定めねばならない」

 

 それは、優れた狩人が、野獣の知性が人間に及ばないことを知りつつも、野獣を決して侮らないことと似ている。

 ツヴァイは人間を下等種として見ている。

 油断することも、慢心することも、思い上がることもあるだろう。

 野良犬を甘く見て噛まれる狩人のようなことにも、なるかもしれない。

 

 だが、自分が人間や犬を甘く見ていたことを自覚すれば、適正なものの見方ができるよう時間をかけ己が認識を変えていける程度の柔軟さはあった。

 

「この人間牧場では、貴様の望まぬ答えを出す種類の人間から死んでいく。

 ゆえに最後には貴様の好む答えを出す人間しか残らない。それのどこに真実がある」

 

 フュンフのやり方は、自分の認識の方に現実を寄せる。

 だからフュンフの人間牧場では、人間は醜い面を見せていく。

 ツヴァイのやり方は、現実に見たものに自分の認識を合わせる。

 だから彼は調子に乗っている時が一番弱く、負けるたびに強くなる。

 

 将来的な安定性で考えれば、ツヴァイの考え方の方が正解に近い。

 けれども、同格の仲間の考え方を自分の思い通りにしよう、なんて気はツヴァイにはなく。

 フュンフにも、他人に何か言われて変えるような信念など持ち合わせていない。

 この問答は、誰かの中の何かを変えることはなかった。

 

「それで、ツヴァイさんの本日のご用はなんでしょうか」

 

「人間の行動原理が知りたい。

 そのための資料が最も充実しているのは、この人間牧場だ」

 

「勉強熱心ですねぇ」

 

 この二人には対称になる部分がある。

 ツヴァイは自分を高めるために他人の知識を食らっていく者であり、フュンフは全体の技術を高める過程で、他人が利用できる知識の水準を高める者だった。

 

「それと、魔法と魔術を少し補強しておきたい」

 

「……本当に勉強熱心ですね」

 

 フュンフは人間の研究だけをしているのか?

 いや、そうでもない。

 魔法と魔術に関しては、彼も相当な貢献度を誇っている。

 彼は魔法研究者でもあるのだ。

 先日自分を倒した地球人達と白狼にリベンジするべく、自分を高め続けているツヴァイは、資料室からどっさりと本を持って来た。

 全く遠慮がない。

 ツヴァイは異世界模様の大きな風呂敷に本を詰め込み、どっせいと背中に背負っている。

 

「では、借りていく」

 

「どうぞどうぞ。あ、その代金と言ってはなんですが、ご足労願えますか?」

 

「む?」

 

 フュンフに頼まれ、ツヴァイは彼の後に続いて地下に向かった。

 地下に向かうにつれ、薬品のキツい香りが強くなっていく。

 最も香りが強い最深部では、香りの強い薬品が魔力溶媒となり、地下室の床の溝に鮮やかな魔法陣を刻み込んでいた。

 薬品に魔力を溶かしているのは、魔力のロスを減らしつつ、薬品を魔法陣内で循環させることで魔力の流れを作っているからだろうか。

 

「実はこれから、召喚術式の実験を行うところでして」

 

「召喚術式……消葬の双子が魔王様に献上したものか」

 

「ですね。これ、どう有効利用するかってのが僕の宿題なんですよ。

 なんというかそのまま使うには問題が多くて、まあとりあえず召喚ということで。

 危ないものが出て来たらツヴァイさんに対処してもらおうかな、と」

 

「分かった。貴様は開発研究は秀でているが、戦闘力は極めて低いのであったな」

 

 黄泉瓜巨人軍から、消葬の双子が奪った世界渡航技術。

 魔将の研究者として、フュンフに白羽の矢が立ったようだ。

 

「召喚対象は?」

 

「とりあえずかなり緩くしてます。

 まあ、発動対象狭くしすぎて発動失敗してもあれですし?

 人間サイドから何か奪えるならなんでもいいかな、くらいの気持ちで」

 

 魔法陣の溝を循環する薬液の中で、魔力の光が点滅する。

 光が魔法陣から漏れ、やがて立体的な魔法陣を構築する。

 ツヴァイの目には、光の壁が魔法陣の上の空間を隔離し、何かを召喚するための状況を作り上げているように見えた。

 

「……!」

 

 光は収縮し、やがて赤子を産み落とすように、召喚した何かを出現させた。

 

「……肉塊?」

 

 フュンフは反応もできない。

 ツヴァイは光の合間から、それが肉塊であることを理解した。

 肉塊が触手を伸ばす。

 フュンフの反応は三手分は遅い。

 ツヴァイがフュンフを庇う。

 だが肉塊の動きは速い。ツヴァイはフュンフに先んじて動いている。三手は打てるほどに先んじて反応できている。

 なのに、ツヴァイの対応より、肉塊がフュンフを捕縛する方が早い。

 肉塊の動きは速いがゆえに、行動完了が早いのだ。

 

「うわっ!?」

 

「フュンフ!」

 

 魔将を触手で掴んだ肉塊は、そのまま魔将を内に取り込む。

 そして、叫ぶ。

 まるで……"声帯を一つ取り込んだから喋れるようになった"とでも言わんばかりに。

 

『我は人間、人に非ぬ人間―――第六天魔王、織田信長也ッ!』

 

 それは、魔将をも食らう魔として、この世界に再臨した。

 

 フュンフによる世界移動系術式実験。

 余談だが……この実験は余分なことではなかったが、間違いなく余計なことであり、ツヴァイは決死の戦闘を余儀なくされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間で遊んでいる(研究している)魔将も居る。

 遊んでいる(戦っている)地球人も居る。

 今、世界は割と混沌だ。

 地球人の子供達には、面倒臭いことはだいたい朔陽が処理してくれていることもあって、好き勝手に前線に出て人類の危機を蹴散らしている者も居た。

 

 この人類圏北端の戦場で、人類の要塞と魔王軍の城の合間で、戦っている地球人の子供達がまさにそれであった。

 

「フレーバー王家、承認ッ! 許可が来たぞ! やれ、地球人ッ!」

 

 将軍の一人が叫ぶ。

 

「せやああああああああああっ!!」

「うおおおおおおおおおおおっ!!」

 

 剣崎敬刀(けんざき けいと)津軽辻(つがる つじ)の二人が息を合わせて飛び出した。

 

人間(おれたち)の小要塞の土台を切断して……」

「ジュードーで投げ上げる!」

「空中でケイト様がキャッチ! 振る!」

「魔王軍の城を……斬ったあああああああ!」

「っしゃあ! 小さい要塞一つ使ってデカい城一つ切り分けたぞ!」

「プラスマイナスで言えば余裕でプラスだッ!」

 

 要塞剣術による抜刀術。

 土台を鞘、要塞を剣に見立て、鞘走りで威力を上げた事前動作のない神速抜刀を叩き込み、魔王軍が作った前線用の急造の城を真っ二つに両断する。

 敬刀は要塞を納刀する。

 そう誰もが思っていた。

 だがそうはしなかった。

 

 なんと、敬刀は魔王軍の先陣に向けて要塞を投げつけたのだ。

 剣士にとって剣は命。

 抜刀した以上、今はその要塞こそが敬刀の剣だ。

 "剣士が剣を投げるとは"と困惑に似た驚愕が人々の間に広がっていく。

 だがなんと、辻が投げつけた要塞をまた持ち上げ、また魔王軍に投げつけていくではないか。

 

「! 要塞を何度も投げて進んで、前に進む気かっ!」

「これが創作小説とかで見る、移動要塞ってやつか!?」

「移動要塞……!」

 

 何度も投げつけられる要塞により、戦線がじわじわと押し返されていく。

 あの要塞に続けばいいのか、と一般兵達は思った。

 だが将軍は違う。

 将軍は、この戦術の本質を見抜いていた。

 

「いや……皆、要塞に乗り込め!

 俺達が乗り込めばジュードーのツジ様が投げてくれる!

 あれは移動要塞じゃない! 空を飛ぶ要塞、空中要塞だ!」

 

「乗り込め!」

「のりこめ!」

「のめりこめ!」

 

 要塞に乗り込んだ人間の兵士達が弓矢を連射し、魔法を連射し、要塞を柔道部が投げ続けることで、要塞は擬似的な空中要塞として機能する。

 それは空からの脅威。

 突発的に発生した、空からの一方的な猛攻だった。

 

 2015年10月、イギリスでは飛行機がウンコをおもらししてしまい、空からウンコが落ちて来るという事件があったという。

 空の低音で凍ったウンコは一定の強度を保持し、民家の屋根に落ち、レンガを粉砕した。

 人を殺せる威力のウンコだったのだ。

 殺人おもらし。

 今の人類の空よりの猛攻は、その空よりのウンコウを遥かに凌駕する脅威であった。

 

 空中要塞による猛攻を、遠方のダッツハーゲン国軍本陣より、大沢桜花(おおさわ おうか)が真面目に眺める。

 

「オウカ様、何か指示を出しますか?」

 

「もう少し様子を見ましょう」

 

 桜花は今日も日本の浪漫・和服に身を包んでいる。

 鮮やかな着物の色合いは、異世界人達の興味と尊敬を一身に集めるものだった。

 現代日本の街中でも着物を来て歩いていた彼女は日本でも目立っていたが、まあそれは置いておいて。

 副委員長のくせに学生服を着る気がまるで無いが、まあそれも置いておいて。

 肩口まで流した黒髪を、桜の飾りをあしらえた(かんざし)で留め直し、手慣れた作業と共に思考を終わらせる。今日は髪型をあまり弄る気がない様子。

 

「……ううん、また繰り返しになってしまいそうですわね……」

 

 現状は人間の方が押していたが、押し切るのは無理だろうと、桜花は当たりをつけていた。

 

 個人の戦闘が短距離走なら、戦争は長距離走だ。

 魔王軍は強い人類とは適当に遊んで振り回し、弱い部分を殴っていけばいい。

 昼間に人に10の陣地を取られても、夜に強者が寝てから攻めて15の陣地を取り返せばいい。

 練度・連携・戦略の差が、地球人の援軍というプラスを完全に相殺してしまっている。

 魔王軍は、全体的に搦め手が上手かった。

 

(井戸に猛毒を流されたせいで、全体で見ると私達の方が不利なのですよね)

 

 桜花が背後に振り返れば、そこには毒の苦しみに呻く無数の兵士達が居た。

 昨晩、魔王軍に井戸へ毒を投げ込まれた結果だ。

 水を飲んだ兵士の2/3が死んだ。

 残った1/3は保健委員の縫川鵺(ぬいかわ ぬえ)が治療中だが、戦線復帰どころか生きて帰れるかも正直怪しい。

 微量でも致死量となる、恐るべき猛毒だ。

 相当に人体実験を重ね、効果の高い毒草を選んだことが伺える。

 

 桜花が飲んでいればおそらく即死していたであろう猛毒は、地球人の一人を下痢気味にして戦闘力を奪うという決定的な戦果を上げていた。

 

(……ああ、こんな時に委員長を無意識に頼ってしまう自分が憎い。

 副委員長となれば佐藤朔陽の右腕も同然。

 むしろ委員長が困っていた時に、何か知恵を出すのが私の役目でしょうに)

 

 はぁ、と無自覚に色っぽい溜め息を吐く桜花。

 

 彼女の視線の先では、敬刀がぶん回した要塞斬撃にぺしゃんこに潰された魔王軍達の――ミートソースのような――血みどろの体が転がっていた。

 だが、頭と心臓が潰れていない。

 潰された魔王軍の内九割ほどは死んでおらず、自分で自分に回復魔術を発動し、足から再生してすたこらさっさと後方に逃げていく。

 そして後方の部隊と交代し、後方の回復部隊に全ての怪我を癒やして貰って、潰されてから十分と経たずに再出撃の準備をしていた。

 実にタフだ。

 これで後方に下がった魔王軍兵士は、また戦えるようになるだろう。

 

「オウカ殿、他の戦線から救援要請が……」

 

「分かりま……ん? お待ち下さい、伝令の方。

 何故将軍より先に私に報告なさっているのですか?」

 

「ははは、何をおっしゃっているんですか。

 あのすんごく強い地球人を派遣してくださいってことですよ言わせんな恥ずかしい」

 

「率直!」

 

「さあ、西の魔王軍の出城を攻略しちゃってください!

 あの堅牢な城の門を地球のスーパーパワーでガバガバにしちゃってください!」

 

「今手が空いてるのは毒のせいで肛門がガバガバになってる人しか居ませんよ……」

 

 しかも魔王軍には数でも負けているため、どうしてもどこかで人類が押される部分ができてしまうという悲しいジレンマ。

 戦争における長期的ビジョン&短期的ビジョンの明確さとその実現法において、魔王軍は人類サイドの遥か上を行っている。

 局地的な戦闘勝利などという刹那的な優位で、押し返せるものでもなかった。

 

「はぁ」

 

 大沢桜花の役職名は?

 副委員長である。

 その役目は?

 佐藤朔陽の代理人である。

 

 彼女は朔陽の代わりのまとめ役だ。

 朔陽が居ない場所で、あるいは朔陽が行きにくい戦場で、朔陽の代わりに問題児達をある程度抑えるまとめ役として機能する。

 朔陽ほどの人望はない。

 武闘派クラスメイトほどの戦闘力もない。

 胸もない。

 良くも悪くも、まとめ役だった。

 

「もっと役に立てる私に、なりたいのですけどね」

 

 副委員長として委員長の役に立ちたいと考えるが、未だ満足できる結果は出せていない。

 遠き地の友を想い、毒に倒れた人間達はどうしているかと振り返ってみれば、そこには毒で倒れた人間に片っ端から謎の液体を飲ませている董仲穎(とうちゅうえい)が居た。

 

「中国八千年の歴史が熟成させた八千年物の解毒剤ネ」

 

「腐り果てて逆にお腹壊しそうなんですが……」

 

「信じなサイ、信じなサイ。チャイニーズうそつかない」

 

 こんにゃろう。

 だがしかし、確かに桜花は――糸目なのもあって恐ろしく胡散臭いが――この中国人留学生が嘘をついたのを、見たことがなかった。

 

「桜花サン余裕無さそうアルなー」

 

「? そうでしょうか?」

 

「何というか、辛そうネ。欲求不満カ?」

 

「違います」

 

「睡眠欲カ、食欲カ……性欲カ?」

 

「違います」

 

「定期的に美少女嫁キャラを変えてエロ画像を量産する日本人は逆に尊敬するアル」

 

「それに至っては男の人の話じゃないですか!?」

 

「世界で一番エロの密度が高い国だと思ってるヨ」

 

 たとえ、どんな世界だったとしても。

 どんな窮状だったとしても。

 どんな戦乱が溢れていても。

 ―――日本はいつだって、世界のエロの最先端を走る、トップランナーだ。

 

 赤いきつねと緑のたぬきが、エロい狐と淫らな狸に聞こえる。

 主食がオカズ(意味深)に思える。

 性欲にまみれた一部の日本人はいつだって、妄想豊かに生きてきたのだ。

 

「……辛い、というのは合っています」

 

「ほらネ」

 

「もう最近、全然委員長に会っていないんです。

 ほら、頼られたいじゃないですか。委員長に。

 でも委員長に頼られるということは、委員長から離れるということなんです!

 私が一番委員長に役に立てるのは、委員長が居ない場所で彼の代理人になることですから!」

 

「……あー」

 

「辛い、というより、寂しいんです……」

 

「……あっ、フーン」

 

「若鷺さんが羨ましいです。

 何せ忍者ですよ、忍者!

 忍者の護衛だから傍に居られるんです!

 傍に居られるからきっと、委員長と色々……

 きっとぬちょぬちょしたことをしてるんです。ぬちょぬちょでぐちょぐちょを」

 

「ぬちょぬちょ」

 

「『サクヒに私しか見えないようにしてあげる』

 『あふぅん』

 『ふふ、ここがいいの?』

 『ああ、もう和子ちゃんしか見えない。明日も見えない』みたいな! みたいな!」

 

「ん、ンンッ」

 

「『和子ちゃんの瞳はまるでダイヤモンドさ』

 『ふふ、褒めても何も出ないよ?』

 『出るだろ……愛液がさ』

 『私の股間に水遁の術……』

 みたいな! そんな風に、あれこれしてるんですよ!」

 

「アルぅ」

 

 人一倍恋愛に興味がある癖に、まともな恋愛経験が一つもないくせに、変な少女漫画とエロ本で蓄えた知識だけが多くなったお嬢様は、こうなる。

 

「……こほん。

 失礼、冷静さを失ってしまいました。私としたことが。

 ああ、でもやっぱりこの辛さは、委員長に会えていないからなのでしょうか……」

 

「フクイインチョはすぐもーそうやって上に依存するー。

 先輩やら教師やら部長やら、自分より上の相手にはすぐそうなるアルな。

 そうやって上に依存しつつ上に高望みすんの正直どうかと思うアル。

 今フクイインチョの上にはイインチョしか居ないから尚更にーアルアルアル」

 

「……い、委員長は、特別ですし」

 

「まあ、それはワタシが関わるべきことじゃないのかもしれないアルが」

 

 一瞬、董の声色が真面目なものになって。

 

「従属気質なクラスメイトを見てると、少し心配になるワタシの気持ちも分かって欲しい」

 

「……」

 

 偽りようもなく、『心配』のこもった声が届いて。

 

「寂しいなら、ちょっとくらい顔見に行けばいいアル。難しい問題でもなシ」

 

 董はどこかへと去っていった。

 彼の医療行為により、もう毒で苦しんでいる者は居ない。

 桜花は憂いを顔に浮かべて、綺麗な黒髪を撫でつける。

 

「……いい人が本当に多いんですよね、うちのクラス。

 あの時代のあの人達に、ほんのちょっとばかり見習って欲しいくらいです」

 

 桜花と董は親しいわけではない。

 クラスメイトにあって当然の友好は有るが、それだけだ。

 だが、その程度の間柄でも、皆が互いを気遣える……そういう空気があるこのクラスが、桜花は好きだった。このクラスを作った朔陽が好きだった。

 このクラスの副委員長であることに誇りを持っていた。

 クラスの誰の顔を頭に思い浮かべても、暖かい気持ちになれた。

 

 ……が、途中であまり好きじゃないクラスメイトが居たことも思い出してしまった。

 嘘つきの子々津音々寧々だ。

 「掴みどころがない方ですね、貴女」と桜花は言った。

 「あんたよりは有るよまな板」と寧々は返した。

 許せぬ。

 許せるはずがない。

 好きでまな板やってるわけじゃないのだ。

 掴めるほど胸が無くて何が悪いのか。

 

 着物が似合う貧乳でいいじゃん、などと言われるのも腹が立つ。

 貧乳だから着物着てるってわけじゃないから! と叫びたくなるのだ。

 桜花はただ服として着物が好きなだけなのである。

 そんなこんなで、桜花は寧々があまり好きではない。

 女性らしくない部分を指摘されると、桜花はそこを過剰に気にしてしまう"事情"がある。

 

 とはいえ、こうしてクラスに苦手な人間が居るのを見ると、桜花は朔陽に委員長適性では劣っているのだということがよく分かる。

 個人レベルで見れば、間違いなく朔陽より優秀であるのだが。

 

「……一旦、王都に帰ってみましょうか」

 

 董のアドバイスを受けて、桜花は一度帰ってみることにした。

 仕切り直し、立て直し、再編成、頭を冷やす、仲間との話し合い……様々な言い訳が頭の中に浮かんだが、最たる理由は『朔陽の顔が見たくなったから』に尽きる。

 ブレーキ役が居なくなった前線組のクラスメイトが何をするか不安ではあったが、桜花はあえて考えないことにした。

 考えたくなかった、とも言う。

 

 何も考えず魔王軍相手に大暴れするだけで成果を出せる者達は、楽でいい。

 『ウルトラマンって乳首見当たらないけど、カラータイマーが乳首なのかな?』なんてことを意味もなく考えながら、心に任せて動くだけでいい。

 が、真面目なメンツは大変だ。

 桜花はむっつりすけべだがその性質は生真面目極まりない。

 友人に対し"会いたい"と思い、その心に従って行動してもしなくても、大なり小なり心に何か引きずってしまうのだから、もう筋金入りである。

 

「あ」

「あ」

 

 王都に朔陽に会いに来たのに。

 王都に足を踏み入れたその瞬間、桜花と朔陽は顔を合わせていた。

 

「委員長!」

 

「ちょうどよかった、今帰って来たんだね桜花さん。

 お疲れのところ悪いんだけど、桜花さんの視点からの見解も欲しいんだ。だから」

 

「その先はおっしゃられなくても大丈夫です。私は、言われなくても付いて行きますよ」

 

「ありがとう、桜花さん」

 

 同行に同意してから、桜花は朔陽の同行者に気が付く。

 犬と忍者。

 ブリュレと和子だ。

 ここに桜花が加わるのなら、朔陽以外はそれなりに強力な戦闘要員が揃うことになる。

 

 朔陽は、謎掛けのようなことを言い始めた。

 

「何かがあったのに、何があったのかも分かってないらしいんだ」

 

 それはまたしても、スプーキーから朔陽に届けられた調査依頼であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、フュンフの人間牧場だが。

 これが実は意外と国境の近くにある。

 人類領の北端と、魔族領の南端に引かれた国境線の北側……要するに、人類圏のすぐ外側の魔族領にあるというわけだ。

 本日、ここが爆発した。

 

 以前から、「ここを襲撃してさらわれた人達を助けよう!」という意見は多かった。

 そこでこの爆発である。

 人類国家はフットワークが重く、二の足を踏む国や牽制してくる国も居た。

 そこで「とりあえず見てきてくれないかな?」とスプーキーが朔陽に依頼したというわけだ。

 

 曲がりなりにも魔族領。

 しかも爆発したと来た。

 危険が無いわけがないが、多くの人が人間牧場に囚われていたのなら、その人達は魔族領に身一つで放り出されているということになる。

 一刻も早く状況確認が必要だ。

 一秒でも早く救助に行くことが必要だ。

 とにもかくにも、確認と調査が必要である。

 

「拙者はブリュレと申す者。以後、お見知り置きを」

 

「よろしくお願いします、ブリュレさん。私は大沢桜花と申します」

 

「……我らが姫と似たものを感じる。其方は特に良い教育を受けたので御座ろうな」

 

「実家が厳しいだけです。お姫様と比べないでくださいな」

 

 自己紹介もそこそこに、彼らは出発した。

 歩いて、馬車を乗り継いで、人知れず魔族領に繋がる道を進む。

 気付かれないよう潜入し、気付かれないよう脱出することが、今回の作戦の肝だった。

 

「……委員長、前ほど背筋が伸びてませんね」

 

「え、そうかな」

 

「しゃんとしてください。

 背筋が伸びれば、胸を張れます。

 背が真っ直ぐなら、重い想いでも背負っていけます。

 男の人なら、誰に見せても恥ずかしくない立ち姿で居てください」

 

 道中、彼らの間には会話が絶えなかった。

 その中でもブリュレが特に気になったのが、彼が初めて会う桜花という少女と朔陽の関係の深さ……いや、関係の奇妙さだった。

 会話の中で時々、桜花は朔陽に注意をしている。

 言葉だけ見ればただの神経質な注意なのだが、総合的に見てみると、それは朔陽を『よりよい男』に導く言動であることが見て取れた。

 

「……よく見ると、身だしなみもちょっとだけだらしなくなってますね」

 

「こんな微妙な差よく気付くね桜花さん、感心するよ」

 

「ほら、しゃんとしてください。

 貴方は笑顔も態度も柔らかい人です。

 だから舐められやすく、甘く見られやすいんです。

 せめて、服装だけはピシッとしましょう。

 貴方の柔らかい雰囲気は、ピシッとした服装の上でも損なわれないはずですから」

 

 直したいのは、朔陽の振る舞い? 朔陽の服装?

 いや、違う。

 姿勢というか、在り方というか、干渉されているのはそういう部分だ。

 桜花は朔陽の根本的な部分を変えないままに、漠然と彼を『強く』導いている。

 ほんの僅かな影響だが、小さくとも積み上げられる良い影響は、朔陽と桜花を眺めていたブリュレの目にも見えるものだった。

 

「まるで姉と弟……いや、師と弟か」

 

「そこまで明確な上下関係じゃないけどね、僕らの関係は。

 ただ、僕が辛い時には、桜花さんに教わった教えが頭に浮かぶことは多いよ」

 

「ふむ、辛い時か」

 

「本当の本当の窮地に、誰かを信じて賭ける。

 それはただの賭けだ。でも、友を信じて賭けたなら……

 その瞬間から、それはギャンブルじゃなくて、ロマンになるんだってさ」

 

 朔陽が、好きな言葉を語る。

 かつて朔陽にその言葉を教えた桜花が恥ずかしがる。

 和子は蝶を追いかけていた。

 

「ああ、そうで御座るな。それは、浪漫と呼ぶに足る物だ。くくくっ」

 

 ブリュレはまた少し、この異世界の人間達を好きになっていた。

 

「いや、すまない、思わず笑ってしまったで御座る。

 人はその永遠のような長い生涯で、互いに影響し合い、高め合うと聞いていたが……」

 

 短命の犬が、長命の人間達を見る。

 

「その話は、正しかったようだ」

 

 この友情は拙者の孫の孫の代まで続くだろう、とブリュレは思った。

 

「サクヒ、ワンちゃん、大沢さん、これ見て」

 

 魔族領に突入してから、目ざとい和子が奇妙なものを見つけ始めた。

 それは自身の無い和子には確信を持てないもの。

 だが、朔陽とブリュレが同じ見解を出したなら、和子はそれに確信を持てる。

 

「……血漿斬だ」

 

「え? けっしょーせん? 委員長、それは何ですか?」

 

「サクヒ殿の見立ては正しい。これは間違いなく、吸血鬼ツヴァイの血漿斬の跡だ」

 

「やっぱり」

 

 それは風景を切り裂く魔の技、血漿斬。

 ツヴァイが得意とした技だ。

 今このメンバーで勝てない相手とまでは言わないが、勝てると断言できる相手ではない。できれば会いたくない敵だ。

 血漿斬の跡は、目的地に近付けば近づくほどに増えていく。

 

「血漿斬は直線の技だ。

 この技を四方八方に連射した場所の周りは、さぞかし跡が多いだろう。

 でもその場所から離れていれば、きっと跡は少なくなっている……」

 

 目的地に近づくにつれ斬撃痕が増えているということは、今居るかは分からないが、目的地にツヴァイが居たということだ。

 一定の緊張感を保ちつつ、彼らは進む。

 

「……何か、おかしい」

 

 まず真っ先に違和感を口にしたのは、忍者特有の感覚を持つ和子だった。

 彼女は森に違和感を持つ。

 

「肯定する。何かがおかしいで御座る」

 

 ブリュレの五感も不可解さを理解させる。

 地面の下で、大気の中で、森の合間で息づく命が、何故かことごとく『おかしなもの』に感じてしまうという異常事態。

 

「委員長、私の後ろに隠れてください。私が貴方を守ります」

 

「じゃあ僕は、桜花さんの後ろで桜花さんの背中を守ろうかな」

 

 桜花は着物を翻し、その辺の尖った木を右手に握り敵の目に刺す構え。

 左手にその辺の痛そうな石を握り、敵の鼻か股間にぶつける構え。

 万全の構えで、朔陽を守れるポジショニングをしていた。

 

「……?」

 

 耳を澄ませば、聞こえる水音。

 

「あれは……」

 

「魚?」

 

 近くに見える小さな池。

 大きめの生け簀程度のサイズしかなさそうなそこを、何匹かの魚が泳いでいる。

 普通の魚か?

 違う。

 ならば魔物か?

 違う。

 魚に見えるだけの玩具か?

 違う。

 

 それは、池から飛び出し、空を飛んで朔陽達に飛びかかり……

 

「!? い、いや―――」

 

 

 

 魚の体に『織田信長の顔』が付いたその姿を、彼らに見せつけた。

 

 

 

「―――織田信長!?」

 

 驚愕する朔陽と桜花の横で、ぼけぼけと和子が飛んで来る魚を指差している。

 

「見て朔陽。飛んで来てる魚、全部顔だけ織田信長。凄いよ、教科書で見たあの顔だ」

 

「凄くないよキモいよキモいよ何コレ!?」

 

 魚の飛行速度はゆっくりだったため、魚の噛みつき攻撃を避けることは容易だった。

 朔陽でも見切れる速度だ。

 だが、この異常事態は、これだけに終わらない。

 朔陽達の周囲に、ブーンと虫が何匹か飛んで来る。

 

「ハエ……いや、顔が全部織田信長!?」

 

 それが織田信長の顔をした蝿だと気付いた瞬間、朔陽の表情は驚愕と困惑と恐怖に染まる。

 何がなんだか分からなすぎて、怖い。

 ミミズが地の下から這い出る。

 信長の顔だった。

 ホーホケキョ、と鳥が鳴いた。

 信長の顔で。

 蝶が飛んでいる。

 羽の模様が信長の顔だった。

 四方八方織田信長。まさに信長パラダイス。

 

 セイバー顔の量産など比較にもならない信長顔の大量配備。

 全ての信長が敵意を示し、朔陽達に襲いかからんとしている。

 虫も、魚も、鳥も、全てが信長で構成される生態系。

 信長だけの食物連鎖。

 今、朔陽達はその食物連鎖に、食べられるための獲物として取り込まれようとしていた。

 

「走れッ! 『ウィス』!」

 

 ブリュレが風の初級魔術を、抜き打ち気味に広範囲に放つ。

 初級魔術を拡散すれば、大抵の魔王軍は仕留められまい。

 だが蝿型織田信長なら切り裂ける。小動物の織田信長なら、吹き飛ばせる。

 ブリュレが開いた突破口に突っ込むようにして、彼らは信長包囲網(真)を突破した。

 

 走る。

 彼らはひた走る。

 そして、フュンフの研究所跡を見つけた。

 発見を喜びたいところだが、今はそれどころではない。

 破壊された研究所跡を使い、信長化生物のみで構成された信長軍の進軍を、彼らは隘路で迎え撃った。

 

「ごめんなさい。私、忍者だから。コラ画像みたいな生き物は燃やさないと」

 

 狭い道を通ろうとし、密集した信長達を、和子が火遁で灰と化す。

 信長だけで構成された虫柱も念入りに燃やす。

 信長の焼き魚は食欲を誘ういい香りを発していたが、流石に誰も食べる気にはならなかった。

 

「これは、いったい、なんなんだ……?」

 

「拙者には全く分からぬ。だが、其方らはこれの顔に心当たりが有る様で御座るが」

 

「あ、うん。僕らの世界の、歴史上の人物なんだけど……」

 

 朔陽は困惑している。

 和子もぼうっとした顔をしているが、少なくない動揺が見られた。

 ブリュレに至っては信長の顔を教科書で見たことさえないために、根本的に何がどうなっているのか分からないという顔をしている。

 だが、桜花は違った。

 桜花は"これは何"といった顔をしていない。

 "何故これがここに"といった顔をしていた。

 

「信長、細胞……」

 

「……? 桜花さんは、アレが何か知ってるの?」

 

「オリジナルの織田信長の体細胞です。

 他の生命に付着することで、その命を乗っ取る。

 乗っ取った命を凶悪に変化させていく。

 信長化の進行が進んだ命は、信長本体の体に還り、信長の命に還元される……」

 

「信長細胞……そういえば、聞いたことが有る。確か、IPS細胞の別名だっけ……」

 

 この一帯には、信長細胞がばら撒かれた形跡があるようだ。

 それが他生物に寄生して、信長化させている。

 この研究所跡の周辺に存在している生物は、全て織田信長であると見るべきだろう。

 

「これを止めるには、本体の織田信長を封印しなければなりません」

 

「ええと、桜花さんの言ってることよく分からないけど……

 今はここに戦闘できる人も何人か居るし、なんとかなるんじゃない?」

 

「織田信長を舐めないでください。

 織田信長細胞を一つ植え付けただけで、ただの虫や魚がああなったのですよ?

 『全身が織田信長細胞で出来た人間』が、どれだけのバケモノか想像できますか?」

 

「ごめん、できない」

 

 彼らはまず、研究所跡の探索を始めた。

 何故こんなことになっているのか。

 何故こんな環境が出来たのか。

 この研究所を使っていた魔将は、魔王軍は、そしてさらわれた人間達がどこに行ったのか。

 資料を漁らねば、まるで理解できそうになかったのだ。

 

「というか桜花さん、なんでそんなに織田信長について詳しいの? 信長のプロ?」

 

「……」

 

「話したくないなら、話さないでいいよ。

 話したくなったら話して欲しい。

 僕は君が話したくなるまで、待ってるから」

 

「……ごめんなさい」

 

 申し訳なさそうにする桜花をよそに、まず最初に何かを見つけたのは、和子だった。

 

「捕まっていた人間達が混乱に乗じて脱出した痕跡を見つけた。

 後は、毒の研究。毒についての研究書類がいっぱい見つかった」

 

「毒?」

 

「ん。ここは、人を殺すための毒をたくさん研究していたみたい」

 

 研究資料もその多くが失われてしまったようだ。

 醜悪な研究が積み上げたそれらは、今やそのほとんどが現存していない。

 せいぜい、ここで何を研究していたかを知ることくらいしかできない有様であった。

 

「拙者は核心に近いものを見付けたで御座る」

 

「ブリュレさん」

 

「どうやら奴ら、召喚術式の実験を予定していた様だ」

 

「!」

 

「姫は『誤召喚』を恐れていた。

 勇者召喚の失敗から、予想だにしなかったものの召喚を恐れていた。

 それが功を奏したので御座ろう。

 姫はここの魔将がしてしまったような失敗を、一度もせずに済んだのだ」

 

「誤召喚……」

 

「召喚は時の矛盾を時に超越する、と現在は仮定されている。

 拙者は信長という人物を其方らに聞いた範囲でしか知らぬ。

 信長が歴史の中で死んだということくらいしか知らぬ。

 だが、召喚によって死の直前の信長が召喚された可能性はあるのではなかろうか?」

 

「あ、なるほど」

 

 ブリュレの合理的な推測に、朔陽が納得しかけるが、桜花は首を横に振る。

 

「いえ、それはありえません。

 信長様は本能寺の渦中にして火中であるあの場で、封印を施されました。

 召喚はおそらく、封印中の信長様を召喚してしまったのではないでしょうか」

 

「封印? 本能寺で?」

 

「委員長。本能寺に行ったことはありますか?」

 

「え? ないけど……」

 

「本能寺の『能』、旧字の一つを使ってるんですよ。

 『ヒ』を一つも使わない能の字を。

 火で燃やされてしまったので、火(ヒ)を避けたのだと言われています」

 

「へぇー」

 

「死という漢字のヒの部分は、跪く人を表しています。

 本能寺は死の中の人(ヒ)も避けているんです。

 人と火を遠ざけることで、信長という魔をあそこの地下に封じていたのです」

 

 成程、道理が通らなくもない。

 

「本能寺の地下に封印された信長様は、それでも地上世界に干渉します。

 信長様の瘴気は人の正気を削り、人の心を悪化に導く……

 現在はTwitterやまとめサイトコメント欄等の民度を悪化させるなどの影響が増えています」

 

「酷い!」

 

 和子が突然叫んだ。

 ここに食いつくのが和子だけというのがまた悲しい。

 

「桜花さん……そこまで話すってことは、そこまで詳しい理由、教えてくれるってこと?」

 

「はい」

 

 桜花は髪の(かんざし)に触れる。

 触り慣れない質の黒髪を撫でつける。

 なけなしの勇気を振り絞る。

 そして、決して明かすまいと誓っていた己の秘密を、打ち明けた。

 

「私は元の名を森成利。世に知れた方の名を、森蘭丸と申します」

 

「―――!?」

 

 大沢桜花は、歴史を語る口を持つ。

 

「少し、時間をください。

 これより、歴史の闇に葬られた全ての真実をお話します」

 

 桜花は和子が見つけてきた資料の一部を握り潰し、口を開いた。

 

 その資料に書かれていたのは、毒を研究していたフュンフが見つけた、ウンコがもたらす人体への毒性効果の実験結果であった。

 

「三方ヶ原の戦いで家康が糞を漏らしたと捏造された理由も。

 当時糞が戦場の毒として普及していたことも。

 当時の同人誌で擬人化された名刀・明智光秀のことも。

 歴史の真実では、家康が糞を光秀に塗って信長様を斬り倒したことも。

 糞まみれになって汚くなった本能寺が炎で消毒されたことも……全て、話します」

 

 もうお腹いっぱいなんだけど、と朔陽は思った。

 

 

 



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その2

 織田信長という存在を語る話は、諸説ある。

 美少女だと言う者も居れば、怪物だったと言う者も居る。

 誰よりも神を嫌い、誰よりも神に愛されただけの、ただの人間だったと言う者も居る。

 ホモだったと言う者も居れば、レズだったと言う者も居る。

 だが、日本史の一部は作られた歴史だ。

 後世に悪い影響を与えないために、捏造されたものに過ぎない。

 それを参考にしてしまっては、正しい信長像など見えてくるはずがないのだ。

 

 宣教師ルイス・フロイスは、自身の著書にて「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」と信長を評している。

 だが、よく考えてみるとこれはおかしい。

 信長より背が高い人間などいくらでも居たはずだ。

 なのにその全員の肩の上から話ができるものなのだろうか?

 答えは否。

 ならば、そこにはそれ相応の理由がある。

 

 ―――信長は、造られた巨人の類だったのだ。

 

 織田の名字は、そのまま製作注文(オーダー)を示している。

 織田信長とは、神造形師・織田信秀によって作られた、人造の巨人だったのだ。

 それならば様々なことにも説明がつく。

 伝承では、信長は身内に優しいのに、人とは思えぬほど残酷な処断をしてきたとされる。

 人造生命であれば機械的に敵を処理することは当たり前であるし、味方に慈悲深いのはそういう風に作られたからだと考えることができる。

 機械兵士は敵に無情で、味方に甘い。それと同じことだ。

 

 『大うつけ』という言葉の意味も、世間一般で語られている意味は間違っている。

 青年期までの信長に対する評価、大うつけ。

 世間ではこれをうつけ(バカ)以上のうつけ(バカ)という意味で受け取っている。

 だが、本当にそうだろうか?

 「チョベリバなうつけ」「ヤベえうつけ」「名状しがたきうつけ」「えげつないほどうつけ」といった風に、別の表現があったのではないだろうか?

 

 つまり、だ。

 『大うつけ』とは、『体の大きなうつけ』という意味だったのだ。

 これならばわざわざ大うつけと呼ばれていたということにも、説明がつく。

 

 長篠の戦いでは、全身に生やした火縄銃三千丁による信長の一人三段撃ちが披露された。

 桶狭間の戦いでは、油断していた今川軍が密集していた所に、信長が単騎で突っ込み今川義元を踏み潰した。

 比叡山は信長が口から火を吐いて焼いた。

 史実の妖術師・果心居士は、腹が減った信長がおやつに食べたという真実を隠そうとしたら、何かあれもこれも滅茶苦茶になり、結果妖術師っぽくなってしまった。

 捻じ曲げられた歴史も、そういう風に解釈すれば、無理なく理解できるのではないだろうか?

 

 これならば、黄泉瓜巨人軍が巨人の遺伝子を見つけ、死体を巨人兵器に変えるという戦術を確立したことにも納得がいく。

 日本史に前例があった、というわけだ。

 焚書された戦国時代の書物か何かを見つけたのだと考えれば、筋も通る。

 野球界の信長好きはそれなりに多い。

 おそらく信長リスペクトが高じて、信長のルーツを探っていく内に葬られた真の歴史に気付き、巨人を作ってしまった者が居たのだろう。

 

 以上が、歴史に隠された真実。

 

 織田信長は黄泉瓜巨人軍の祖たる、人造巨人兵器であった。

 

 それが今や巨人ですらない肉塊となっているのだから、運命とは奇妙なものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森成利……森蘭丸は、幼少期からそんな信長を見守ってきた。

 信長にも厚く信頼された父・森可成という人格者と、イラッとしただけで奉公人をサクッと突き殺す兄・森長可などを知り育った彼は、人間には親子ですらも遠いものになってしまうことがあるほどの多様性があることを知った。

 何を見習うべきか、何を反面教師とすべきか、環境が教えてくれていた。

 

 環境が彼に基本的な生き方を、善良で真面目な生き方を教えてくれた。

 それはいいことだ。

 それを知らない者も多い。

 だが、『大事な生き方』だけは、環境ではなく信長が教えてくれていた。

 

 宣教師ルイス・フロイスが自著の中で信長を「中くらいの背丈で、華奢な体躯」と評したことからも読み取れるように、普段の信長は普通の人間サイズであった。

 それは力を溜めておくためか。

 巨人として造られた自分の耐用年数を長持ちさせるためか。

 自分は人間である、と主張するためか。

 いずれにせよ、信長が巨人になる時間はほんの僅かで、それ以外の時間帯はずっと通常の人間として生きていた。

 

 最初は小姓として、次第に側近として、蘭丸は人生の1/3近くを信長の傍で過ごした。

 

「貴様には、友が必要であるのかもしれんな」

 

 遠い昔。信長はある日、蘭丸に突然そう言った。

 蘭丸は困惑する。

 織田信長の思考回路は良くも悪くも普通の人間の範疇を外れており、こういった突拍子もないことを言うのも珍しくはなかったが、蘭丸は自分を対象にされると困惑してしまう。

 大沢桜花としての人生経験値がないため、なおさらに。

 

「たったひとりで構わん、友を作るがよい。

 貴様が敬意を払える友だ。

 貴様を肯定してくれる友だ。

 貴様のよい部分を見て、それを口にしてくれる友だ。

 春に桜を、夏に海を、秋に月を、冬に雪を楽しめる者であればなおよい」

 

 何故そんな友が必要となるのでしょうか、と蘭丸は問い返した。

 

「その友が儂よりも大切な者となった時。

 貴様は、成りたいと願う自分に成れるであろう」

 

 あまりにもよく分からなくて、蘭丸は無礼を承知でまた聞き返してしまう。

 

「人は、それで初めて『人と成る』ものであるからだ。

 一定の年齢に至れば成人だなどと、それでは本質に余りに遠い。

 人は生きていれば誰かを好む。

 一番に好ましい人間を作る。

 だが、母親を一番に愛し、そのまま変わらぬのであれば、幼子も同じよ」

 

 信長は、人間は一番に大切な者を作り、それ以上に大切なものが出来て初めて『成人』の名に相応しいのだと言った。

 人間は、コミュニティを広げて行く生き物だ。

 自分の世界を広げ、交友関係を広げていく生き物だ。

 同時に、人間は自分が日常を過ごす範囲の中、コミュニティの中が世界の全てであるという生き物でもある。

 

 幼子にとって、最初は親と家の中だけが世界の全てだ。

 やがて家の外に世界が広がり、学び舎や友人が世界に加わる。

 少し経てば、街が子供にとっての世界の全てとなり。

 大人になれば、大人の力で行ける範囲が、その大人の世界の全てとなる。

 その過程、その全てが……どこかの誰かとの、出会いで構成されている。

 そうやって成長と出会いを重ねていく内に、人間の中には『一番大切な友人』『一番愛している妻』『一番頼れる仕事仲間』といったものが逐次出来ていく。

 

 『コミュニティ』という言葉すら無いこの時代に、信長はおそらくそれを、直感的に理解していたのだろう。

 

「儂は身内も好ましく思っていたが、それ以上に儂の作る未来を愛した」

 

 信長の中には、一番に愛している者もいるだろう。

 だが、一番に重んじているのは"自分が一番に望んだ形の未来"であり、愛した者はその次点に置かれている。

 恋人を親友より優先する者がいる。

 妻を母より優先する者がいる。

 夢より仲間を優先する者がいる。

 尊厳より金を優先する者がいる。

 信長は、"織田信長を一番に敬愛する森蘭丸"にそういった、時に葛藤を経る矛盾にも似た感情を体験させるべきだと考えていた。

 

「蘭丸。貴様は未来や世界よりも人を愛するに向く人間であろう。

 であれば、必要なものは人間だ。

 忠誠心厚いのは分かるが、貴様はあまりにも儂を高みに置きすぎている」

 

 説明されても、蘭丸にはよく分からない。

 何故、自分がそんな人間を作らなければならないのか?

 信長の思惑が理解できない。

 

「友情を持ち。

 愛情を持ち。

 執着を持ち。

 拘りを持ち。

 ……それら全てに合理的な優先順位を付けられる人間の方が、儂は好ましく思う」

 

 だが、その一言で理解できた。

 信長は、酸いも甘いも知り、清濁混ざり合った上で自分に忠義を尽くす人間が欲しいのだ。

 信長を一番に敬愛する蘭丸が、一番に大切な友人を作った上で、その友人よりも信長の方を優先する姿が見たいのだ。

 人であって人でない信長は、部下に人間らしさを求めている。

 自分に欠けているものを備えた部下であることを、望んでいる。

 

「友を作れ。貴様にとって最も親しいと言える友をな」

 

 ……だが結局、この『友』は、蘭丸の人生一回分の時間では見つけられなかった。

 

 上様を超える一番など見つけられる気がしません、と蘭丸は信長に返した。

 いかな奇跡が起ころうとも、上様と並ぶ者を見つけることすら困難でしょう、と言った。

 そして、見つけられなかったらどうなされるのですか、と質問を返した。

 

「その時は……是非もなし」

 

 感情の無い信長の顔と返答が、信長を敬愛する蘭丸の胸の内に、ひっそりと冷たい恐怖を流し込んでいた。

 

 

 

 

 

 友は見つけられず、時は流れる。

 蘭丸は信長に言われたことを実践しようと悪戦苦闘している内に、他人を眺めてその魅力を探す癖がついた。

 正確に言えば、自分の中で『他人の尊敬できる部分』『他人の好ましく思う部分』の基準がはっきりとしてきて、他人の良さを自分基準で見極めるのが上手くなってきた。

 

「ふーむ……」

 

 『人の本質は困難、窮地、絶体絶命という光に当てられ浮かび上がる』。

 蘭丸の中で出た結論の一つが、それだった。

 

「やっぱり上様ほどピンチに強いお方はいない、か」

 

 困難を前にして折れず、頭を使って手を尽くして挑み続ける者の強さ。

 窮地で背中を預けられる、信頼できる者の素晴らしさ。

 絶体絶命の危機の中でも、自分より仲間を守ろうとする心の根の美しさ。

 死の危機を前にすると人間はその本性を現す、というのはよく聞く話だが、蘭丸はそこにこそ『人間の本質』が出るという考えに至っていた。

 

 フュンフのような「人間は醜い」という解答に至るための実験とは少し違う。

 蘭丸は「凄い、この困難を前にして男を見せたな」と思えるような男を探していた。

 男として尊敬できる友人を探していたのだ。

 残念ながら、友人になれそうな者は見つからなかったが。

 

「上様が尊敬を集めているのも、このあたりに理由がありそう」

 

 困難、窮地、絶体絶命の場で見せる男の本性。

 そういう意味では、織田信長はぶっちぎりで優れていた。

 

 何度も何度も訪れる窮地。

 周囲全てが敵というのも珍しくない絶体絶命。

 なのに、織田信長はその困難の全てを跳ね返してきた。

 まるで、追い詰められてからが本番だと言わんばかりに。

 

 織田信長が最初から圧倒的強者で、全ての敵を妥当にすり潰していったなら、これだけの人気を得られただろうかと蘭丸は思案する。

 いや、それはない、と結論付ける。

 信長は困難の前でこそ最も輝き、窮地にて最も強く、絶体絶命の中で無敵となる者だった。

 蘭丸の中の信長評価は爆上がりである。

 

 上様が本当の意味で負けて死ぬことなどないのだろうな、と、蘭丸は楽観的に考えていた。

 

 永遠を保証されたものなど、終わらないものなど、ないというのに。

 

 

 

 

 

 予兆はあった。

 

 信長が正気でなくなる時間が増えた。

 自称妖術師の果心居士がおやつにされた。

 信長の巨人化能力・小人化能力が不安定になり始めていた。

 細胞の一つ一つが巨大化と縮小化を繰り返す内に、織田信長の細胞はその一つ一つが信長細胞という脅威に突然変異し始めていた。

 それでも、蘭丸は変わり果ててゆく信長に付き従い、最後までその傍に居た。

 

 そして、本能寺で運命の夜が来る。

 

「織田信長の心身は暴走を始めている。造られた巨人の宿命よ」

 

 剣豪徳川家康とその配下が、本能寺で巨人化した信長を取り囲んでいた。

 手には一刀、名は明智。

 名刀・明智光秀は家康の糞にまみれ、その刀身に月の光を美しく反射していた。

 

 信長が正気を失いつつある今、細胞の一つ一つですら脅威となる程の偉人・織田信長は世の平和のため殺さねばならない。

 それが、信長の配下や同盟者達の総意であった。

 

「歴史の闇に葬らねば……信長細胞は危険すぎる」

 

 名刀・明智光秀は端から端までクソまみれであった。

 糞尿は、戦国時代に最も使われた毒だ。

 槍や矢の先に付けることで、傷口を汚染し破傷風を引き起こす。

 ウンコとは、当時トレンド最先端の毒だったというわけである。

 

 そして、戦国時代には既に偉い人のウンコが農民等のウンコよりも栄養豊富であったことは認識されており、江戸時代には富裕層のウンコは肥料として高値で取引されていた。

 時代が進むにつれ人々のウンコの栄養価は高くなっていき、ウンコの畑への直播き文化は消え、やがてウンコの肥料活用そのものが消えていった。

 栄養が多すぎるものも少なすぎるものも、肥料に使えないのは当然のこと。

 ウンコは、強くなりすぎたのだ。

 農業という世界に居られなくなるほどに。

 

 偉い人のウンコは、そうでない者のウンコより強い。

 ならば、徳川家康のウンコは?

 後に天下人となるほどの者のウンコなら、戦国時代の兵士達が使っていたウンコよりも、遥かに高い威力を持っているのではないか?

 その思考は極めて正しい。

 家康のウンコの破壊力は、常人のウンコのATKと比較すれば80%ほど高かった。

 それを塗りたくった光秀の威力たるや、神話に語られる神殺しのそれに比肩する。

 

 この"クソまみれの明智光秀が信長を斬り殺した"という噂が、歴史の隠蔽の影で形を変え語り継がれて、後の歪められた歴史の中で『本能寺の変』として語られることとなる。

 

「彼は長生きするべきではなかった。ここで、終わらせてやらねばならない」

 

 家康も、信長のかつての仲間達も、信長が憎いからここに居るわけではない。

 巨人信長が立つ本能寺を、自分の利益のために包囲しているのではない。

 信長に対し怒っているから、武器を握っているのではない。

 全ては、信長が魔に落ち切る前に殺すため。

 彼を英傑のまま死なせるためだ。

 

「本物の……魔王となる前に!」

 

 悪夢が広がる惰性より、信長が偉人のまま終わる、そんな綺麗な終わりこそを、彼らは望んだ。

 

 信長細胞を撒き散らし、『第六天魔王』と呼ばれる所以となった猛威を振るって、織田信長は暴れ始める。

 巨人信長に立ち向かう家康達は、その体から漂う汚い異臭とは裏腹に、清廉潔白な勇気を持って立ち向かった。

 

「ガアアアアアアアアッ!」

 

 信長という強者と、群れる人間という弱者。

 織田信長はこういった戦いで容赦したことなど一度もなく、加えて負けたことも一度もなく、ゆえに『魔王』と呼ばれていた。

 だが、今日は違う。

 信長は勝てない。

 信長は負ける。

 それはまるで、信長自身がその敗北を望んでいたかのように。

 

 本能寺を囲む人々の猛攻が二分弱は続いた、その時。

 

「上様!」

 

 戦いの開始から二分。

 

 信長の胸の敦盛タイマーが、点滅を始めてしまった。

 

「上様、お逃げください!」

 

 巨人化した信長の胸には、青く光る敦盛タイマーが存在する。

 地球であらゆる創作から類似するものを探しても、似たものが何一つとして見つからないという独自性溢れるタイマーだ。

 このタイマーは、信長の巨人化から二分が経つと赤く点滅を始める。

 

 そして、敦盛を流すのだ。

 

「信長様っ!」

 

 タイマーは一分間大音量で敦盛を流し、それが終われば、信長は小サイズに戻ってしまう。

 それはイコールで死を意味していた。

 本能寺に流れるこの敦盛こそが、信長が今ここに生きているという確かな証。

 

「敦盛が、終わってしまう……!」

 

 敦盛が流れる。

 敦盛タイマーが点滅する。

 タイマーの点滅が速くなり……やがて、敦盛は終わりを告げた。

 

「あ、ああっ……!」

 

 信長が人間サイズに戻り、刺し殺される。

 ……頭を刺して殺されてもなお動く信長の体に、皆は恐怖を抱き、本能寺に飛び散ったクソと信長細胞の全てを闇に葬るべく、火を放った。

 これで全ては燃えるだろう。

 燃え残った信長の残骸も、本能寺の地の下に封印されることだろう。

 そして、万が一にも信長細胞の悪用という可能性を残さないために、歴史は捻じ曲げられるだろう。

 

 織田信長は、戦乱の世を力で真っ平らにして、平和への布石を打った偉人。

 その存在を全て歴史から消すことなどできはしない。

 けれども、できる限りは歴史を捻じ曲げるだろう。

 信長細胞を医療分野に使う程度ならばいい。

 だが、もしも兵器利用して使い方を謝れば……地球人は、その全てが信長になるだろう。

 

 その日から、地球の全てのAVのAV女優の顔が、織田信長になることになる。

 

「恨んでくれて構わん。この徳川家康、全ての呪いを甘んじて受けよう」

 

 信長が戦い始める前から、信長を守るために戦い致命傷を負っていた蘭丸は、そのまま燃える本能寺と共に運命を共にした。

 

 悲しかった。

 悔しかった。

 情けなかった。

 何もできなかった自分が、嫌いで仕方なかった。

 蘭丸は信長を守りたかったのに、こんな終わりは避けたかったのに、願いは何も届かぬまま。

 信長の肉塊が燃え、蘭丸の肉体が焼けていく。

 

 消え行く意識の中で、蘭丸は思った。

 次は、次こそは。もしも次があるならば。こんな弱い自分ではなく、もっと強い自分が、主君と認めた者を守れますように。

 自分が、もっと強い男になっていますように。

 強い男になった自分が、守りたいものを守れますように。

 ……そう、願った。

 

 なんと哀れな願いだろうか。

 焼死しながら、自分の救いを願うでもなく、誰かの破滅を願うでもなく。

 夢の終わりに"次はもっといい夢を見られますように"と願うような儚い願い。

 "今の自分"というものを心底否定する色合いすらある。

 自分に『次』がないことを知りつつも、『次』に何かを願う姿は、いっそ滑稽ですらあった。

 

 人生に本来次は無い。

 なのに。

 蘭丸は、生と死の境界線を越えたその先で。

 織田信長が終生嫌った、人を導く神とやらの御手を、見た気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本史を見て、多くの者が思ったことだろう。

 本能寺の変で火を放ったバカは誰だ、と。

 信長の死体を確認できない状態にしてどうするんだ、と。

 信長の首を切り落として確保していれば、打てる手が無数に増えてただろ、と。

 生死すら確認できない本能寺への焼き討ちは、歴史の謎をたいそう増やしたと言われる。

 

 その歴史の真実を知っていて、捻じ曲げられた歴史に不快感を抱きながら生きる者が居た。

 

 旧華族の末裔・大沢家の桜花として生まれた少女……蘭丸の、転生体だ。

 

「……」

 

 以前は男だったのに、今は女。

 見せつけられるのは、信長が居なくなった後も続いていた歴史。

 信長が志半ばで死んでも、日本は平然と発展し、戦国の時代を終わらせていた。

 そこに、蘭丸は言葉にし難い不快感を覚えている。

 

「……はぁ」

 

 前世の最後に強い男になりたいと願ったのに、何故か弱い女になってしまった。

 女になった分、前世より弱くなったまであるだろう。

 それなりに金はある実家のおかげで護身術の練度はかなり高かったが、彼/彼女が望んだ強さには到底及んでいなかった。

 男になれなかった。強くなれなかった。望んだ未来に辿り着けなかった。

 

(信長様なら……きっと、自分の望んだ未来を強引に掴み取っていたはずなのに)

 

 願った未来を掴む力。

 望んだ形に世界を変えていく力。

 祈った方へ運命を寄せていく力。

 信長にはそういう力があって、蘭丸/桜花にはそれがない。

 それを、改めて自覚させられた。

 

 桜花は今の女の体に肉体の実感としての違和感はあるが、精神的な嫌悪感はない。

 まあ、前世も今生も男が好きなのだ。

 細かい問題は桜花自身が気合で乗り越えていくことだろう。

 桜花からすれば性別ギャップ、環境ギャップ、時代ギャップに常識ギャップと根本的に認識を改めないといけないものが多すぎる。

 性別変化ですら埋没するほどに、あらゆることが大変だったのだ。

 

「あー……どうしたものでしょうか。

 こういう精神的な些事の解決にいつまでもかかってしまうから、私は凡人なのでしょうね」

 

 生まれ変わったから特別?

 転生したから特別?

 下駄を履いて人生やり直し?

 桜花は、そんな風には思えなかった。

 

 生まれ変わったことが特別なのではなく、織田信長から生き方を学べたからこそ自分は特別なのだと、そう思えた。

 同時に、それ以外に自分に特別な部分などないのだと、自分を戒めることができた。

 思い上がらず、慎み深く、その生涯は堅実に。

 桜花は彼女なりに努力して、自分の中にあった性別変化などの問題を一つ一つ噛み砕いて、消化していった。

 

「桜花お嬢様! またご主人様に黙ってこっそりといやらしい本をお買いになったのですね!」

 

「メイドッ! 私が部屋に入るなと言った時間は部屋に入るなと言ったでしょうッ!」

 

 しかしながら、エロ方面ではそんな彼女の性質が変にハマってしまった。

 

 彼女は頑張った。

 その結果、性別変化による葛藤に折り合いを付けられるようになった。

 彼女は頑張った。

 親が課した礼儀作法や淑女の振る舞いを、全て完璧に身に着けていた。

 彼女は頑張った。

 家庭教師なども付けられ、精神的にも完璧なお嬢様となるよう育てられてきた。

 

 が、完璧だったはずの教育は、"このお嬢様に男の前世があった"という不可視の一要素により、完璧に破綻してしまったのである。

 

「え、えっちぃ……また見られたらあれですし、掛け布団を被りましょう……」

 

 教育の成果か、現実では純愛の恋愛を好む桜花。

 だが教育の反動で、エロ本に関してはTS物やNTR物のようなアブノーマルタイプ、浮気物のようなインモラルタイプのものを好むようになってしまった。

 少女漫画も、ちょっと危うい男女の関係や、『全年齢作品のちょっとしたエロがエロ本の露骨なエロよりエロい現象』を起こしているものを読み漁ったりもした。

 エロ漫画が無い時代に生まれた子に、現代のエロ漫画はあまりにも強烈過ぎたのだ。

 

「ふわぁ……こ、これはいけない……いけませんよ……!」

 

 ちょっと男性にこういう風に強引に迫られたい、と彼女は思った。

 ふと思った。

 思ってしまった。

 

「……いやいやいやいや!」

 

 立派な男になりたい、という前世の気持ちをほぼ全て捨てられそうになっていたタイミングでこんなことをふと思ってしまったものだから、その気持ちを否定しようとして躍起になる。

 躍起になるから捻じ曲がる。

 人間なんて、一時の気の迷いをいくらでも生み出す生き物だ。

 ふと思ったことが本音である確証などない。

 それでも、桜花は男性に強引に押し倒されたいと考えたその思考が、自分の本音なのか、一時の気の迷いなのか、どちらかなのか判別がつかなくて。

 

 そして、気付く。

 男だった前世の頃は、男に抱かれるのに忌避感は無かった。

 戦極の時代には普通のことだったからだ。

 女だった今になって、男に抱かれることに少しの恐怖を感じている。

 今の桜花は、恋に夢見る少女でもあるがゆえに。

 『魅力的な男に強引に迫られてものにされたい』と思ったのは男の部分で、貞操観念からそこに反発したのが女の部分だったのだ。

 

 凄まじく、捻じ曲がっている。

 

「……私、もしかして変態さんになってしまったのでしょうか」

 

 桜花の男女関係に関するアレ気味な部分は、こういうプロセスを経て、年単位の時間をかけて育まれていったのだった。

 

 

 

 

 

 凄まじく捻じ曲がった桜花だが、学校ではこういった性的な捻れ具合を表に出すことは決して無かった。

 そのため、通った学校での彼女の評価はいつでも真っ二つ。

 『思わず恋をしてしまう才色兼備なお嬢様』か、『厳格で口うるさい委員長気質の女』の二つしか目につかないほどに、真っ二つであった。

 

「ほら、服装はしっかりしてください! それでも男ですか!」

 

 "男ならばこうあるべし"という考えが、彼女の中にはある。

 それはかつて立派な男を目指したからであり、家庭教師の教育が――駄目な男に引っかからないように――男を見極める基準を教えたからでもある。

 男は格好良くあって欲しかった。

 男は立派であって欲しかった。

 男は……自分が惚れるような、素敵なものであって欲しかった。

 ゆえにか、桜花の男性に対する指摘はやや口うるさいものになってしまう。

 

 桜花は自分の内心を自覚していない。

 その口うるささは『私は望んでも男に生まれることができなかったのに……』という想いの混ざった、至極面倒臭いものであった。

 

「うっせーな」

「何様だよ」

「別に校則違反じゃないんだし」

 

 当然のように、男子には反発される。

 和服美人を絵に描いたような彼女に好意を持っていた男子でさえ、好きな子をいじめたくなる気持ちから周囲に賛同してしまう。

 男子が桜花の前から去っていく。

 

「……」

 

 胸が痛んだ、ような気がした。

 何故胸が痛んだのかさえハッキリと自覚できない桜花が、首を横に動かせば、そこには桜花の言う通りに身だしなみを整えている者が居た。

 

「……あ」

 

 胸が暖かくなった、ような気がした。

 何故胸が暖かくなったのかさえハッキリと自覚できない桜花が、うんうんと頷く。

 彼の名前は佐藤朔陽。

 桜花のクラスメイトで、今日まで話したこともない。

 だがしかし、桜花の好感度は意味もなく価値もなく急激に上昇していた。

 こんな好感度に価値はない。

 ちょろい好感はちょろく消え行くもの。

 

「よき心構えです。私の忠告を確かに受け止めるその姿勢、感服しました」

 

「大沢さんが言ってること、そんなに間違いじゃないと思ったから」

 

「ええ、そうでしょう、そうですとも。

 他の皆さんは何故分かってくれないのでしょうか……」

 

「んー……まあ、桜花さん、結構イタかったしね」

 

「!?」

 

 どストレートに、朔陽は言った。

 彼は桜花が嫌いだから言っているのではなく、桜花のために言っている。

 それが察せる、優しい声色だった。

 

「え? え? 私が……イタい?」

 

「桜花さん美人だから許されてるところあるよ、本当に。

 というかそういう部分で許されてるから、女子受けちょっと悪いよね」

 

「ま、待ってください! 私の言いたいこと、伝わってましたよね!?」

 

「さっきの『男はもっと立派になれるはず』みたいな話だよね?

 いや、多分伝わってないんじゃないかな……確認したわけじゃないけど」

 

 さあっ、と桜花の顔が青くなる。

 いや、まさか、と思い振り返る。

 冷静になって振り返ってみると、桜花は先程の自分が、特にそんな権限も無いのにピシッとした振る舞いを周囲の男子に求めるイタい奴だったことを理解した。

 

 古今東西に、共通する真理がある。

 それは、説教はしてる奴は気持ちいいしちゃんと聞いて貰っていると思っているが、されている方は割と適当に聞き流しているということだ。

 

「……佐藤さんは、何故そんな私の話を聞いてくださったのですか?」

 

「昔、聖書を読んだんだ。そこにこういう言葉が書かれてた」

 

 桜花の疑問に、朔陽は最近読んだものを引用して答える。

 

「いい言葉を語っても、愛がなければ騒がしいドラ、やかましいシンバルと変わらないって」

 

「……コリントの、信徒への手紙ですね」

 

「いい言葉だよね。

 やっぱりたくさんの人が好きになるものってのは、いいものが詰まってる。

 桜花さんの指摘にもさ、愛があるように感じたんだ。

 自分のことしか考えてない人のガミガミ注意とは、全然違うなって思ったんだよ」

 

「―――!」

 

 彼は色んなものを見て、色んなものを好きになっている、そんな普通の少年だった。

 けれども、ただ一つ。

 人を見る目だけは、誰よりもある少年だった。

 

「桜花さんは結構いい人なんじゃないかなって、僕は思ってる」

 

 彼がいい、と直感的に、桜花は思った。

 

「決めました」

 

「え? 何を?」

 

「ええ、決めましたとも。貴方で、いや貴方と、上様との約束を果たします」

 

「……上様って誰?」

 

―――友を作れ。貴様にとって最も親しいと言える友をな

 

 桜花は決めた。

 彼を好きになろう、と。

 自分も彼に好きになってもらおう、と

 彼をもっと強い人にしよう、と。

 自分もここから変わっていこう、と。

 彼をもっと素敵にしよう、と。

 彼が望む"未来の自分"になれるように手伝おう、と。

 そうして、果たせなかった信長様との最後の約束を果たそう、と決めていた。

 

 信長様に匹敵する最高の親友が二度の人生でも見つからないならば、最強の友情を持つ親友関係を、時間をかけてでも自作する。彼女はそう考えた。

 

 桜花はとんでもないことに、朔陽を成長させ、自分も成長させ、最終的に信長と同じくらい好きになれる親友関係を自作しようと考えたのだった。

 

 そして、案の定、微妙に失敗した。

 

 

 

 

 

 始まりは、代償行為だった。

 朔陽を立派な男に鍛えようと思ったのは、桜花が立派な男になれなかったから。

 男だった頃の自分がなりたかった男に、女になった自分が思わず惚れてしまうくらいの男に、森蘭丸が『納得』できる男に、大沢桜花が『尊敬』できる男に、なって欲しいと願ったわけだ。

 

 だが、途中からはそうでもなくなった。

 自分の言葉が朔陽にいい影響を与えると、それだけで嬉しかった。

 朔陽が別の友達と関わり成長すると、その成長が嬉しく感じるのに、何故か寂しかった。

 桜花にとって朔陽の成長は、ただそれだけで嬉しいことで。

 自分の中の男の理想像からかけ離れた成長を朔陽がしても、いつからかそれを素直に喜んでいる自分に気付く。

 

 二人は、年単位の時間を共に過ごしていく。

 

「窮地に強い男は、素敵な人です。

 窮地じゃない時にも強い男なら、もっと素敵な人だと思います。

 何かあって後悔する前に、貴方は誰よりも素敵な人になっておくべきだと思いますよ」

 

「ん、そうだね。じゃあとりあえず明日のテストに備えて、勉強しよっか」

 

「お供します、委員長。なんなりとお申し付けください」

 

 桜花は朔陽を委員長と呼ぶ。

 朔陽は桜花を桜花さんと呼ぶ。

 それは自然とそうなった距離感ではなく、桜花がそう望んでそうなった距離感だった。

 

「来月は一球くん試合かあ」

 

「クラスの皆に連絡網を回しておきましょう。

 手の空いている人は、案外応援に来るかもしれませんよ?」

 

「あはは、クラスの皆で応援に行ったら楽しいかもね」

 

「ええ、それはきっと……楽しいはずです」

 

 クラスの皆のためにいつも走り回っている彼を、副委員長として補佐して駆け回る日々が、言葉にならないくらい楽しかった。

 時にポニーテールにしたり、ツインテールにしたり、ただ流すに任せたり、彼と一緒に選んだ(かんざし)を気ままに付けて、彼の反応を見るのが楽しかった。

 戦国時代のことを忘れ、思い出さない時間が増えた。

 信長のことを考える時間が減った。

 過去に思いを馳せなくなった。

 楽しかった今日を思い返すことと、楽しみな明日に思いを馳せることが多くなった。

 

「委員長は、友人が困っていると必ず助けに行くのですね」

 

「そりゃ、皆困ってるしね」

 

「……一つ、私が貴方から学んだことがあります」

 

「?」

 

「本当に困っている時、手を差し伸べてくれるのが真の友人です。

 貴方は寝ていても駆けつける。風邪の時でも駆けつける。

 自分がどんなに苦しくても、貴方は友人を優先する。

 いつでも、貴方は必ず駆けつけ、手を差し伸べる。

 ただそれだけです。

 ……だから貴方が本当に困った時、貴方には貴方を助けてくれる友人が居る」

 

「いや、それは……本当は、それが普通の友人ってものなんだと思うよ、僕は」

 

 彼を成長させているつもりが、成長させられている自分に気付いた。

 彼が自分を好きになるよう仕向けているつもりが、彼への好感が増す自分に気付いた。

 それは、甘酸っぱい恋心とか、胸が苦しい恋愛感情ともまた違う。

 強いて言うならば『誇らしさ』に似た、彼との繋がりを嬉しく思う気持ちだった。

 

 以前は、桜花を全力で助けてくれる友なんていなかったはずなのに、今は居る。

 朔陽の影響を受けて成長した桜花には、助けてくれる友人が居る。

 アインス・ディザスターの襲撃の時を振り返れば分かるだろう。

 不死身のアインスは桜花に襲いかかろうとした。

 その結果、柔道部に太陽まで投げ込まれてしまったのだ。

 

 彼が彼女を変えたのか、彼女が彼を変えたのか。

 想い出の想起は続く。

 

(私……私は昔、こんな人間でしたっけ?)

 

 彼女にとって、彼が与えてくれる変化は心地よいもので。

 彼にとっても、彼女が与えてくれる変化は望ましいものだった。

 

「桜花さんも僕から見れば凄い人だよ?

 自然な気持ちで困ってる人を助けてるしね」

 

「……自然な気持ち? そんな、まさか、私なんかが」

 

「それは、武術の先生が教えてくれた護身術から生まれるものじゃない。

 君に家庭教師の人が教えた知識から生まれるものでもない。

 人を助けようって気持ちは、人の心からしか生まれないものだよ。

 君が人を助けるのは、強いからでもなく、賢いからでもなく、優しいからだ」

 

「……う」

 

「それにさ、僕らが初めて話した時のこと覚えてる?」

 

 桜花が忘れているわけがない。

 

―――桜花さんは結構いい人なんじゃないかなって、僕は思ってる

 

 二人共、それを覚えている。

 

「桜花さんは結構いい人なんじゃないかなって、今でも思ってる。

 あ、いや、違うな。今は桜花さんがいい人だって、確信してるんだ」

 

「……武士冥利に尽きますね。とても嬉しいです」

 

「え、待って。何突然武士化してるの桜花さん」

 

「お気になさらず。私は、私らしく忠義に沿って生きようと思っているだけですから」

 

 史実に語られる森蘭丸同様、桜花は事務役や交渉役として水準以上の能力を備えている。

 腕力はそこまで極端に強くないが、護身術もかなりのものだ。

 タイプで言えば、こなせないことの方が少ない万能型であると言える。

 何より、思い上がらず、自己を過剰評価せず、誰かを影から支えることに喜びを覚える性質は、補佐役としてはこの上ない才能である。

 トップの成功は自分の成功、と考えるその性情も非の打ち所が無い。

 桜花はどこの補佐にも入れるし、どこの指揮も行える。

 

 能力と性格、その両面がここまで『No.2』になるため特化した人間はそう居ない。

 トップの人間に従いつつも、トップの人間の駄目なところは指摘して、要所要所で成長を促すことができる、忠義心厚いNo.2だ。

 

 彼女が補佐すれば、トップが全体に及ぼす良い影響は倍加する。

 人が良いくらいしか取り柄がない朔陽を委員長に据えているこのクラスにとって、大沢桜花という副委員長は、なくてはならない存在だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だからこそ。彼女はそういう人間だからこそ、朔陽を巻き込めないと思っていた。

 巻き込めない。

 巻き込みたくない。

 これは、遠き昔の人間が残した負の遺産。

 遥けき過去からの旅人である桜花が、あの時代の当事者として責任をもって打ち倒さなければならないものだった。

 

「聖剣を私に預けてくださいませんか、委員長」

 

 桜花が、朔陽に手を伸ばす。

 桜花が信長と自分にまつわる話を全て語り終えた頃には、飛散した信長細胞の活性化は終了しており、研究所周辺の信長細胞全てが次の活動段階へと足を踏み入れていた。

 

「魔を討つ聖剣。

 それも信長様の死因と同じ、クソにまみれた剣。

 かつての死を繰り返せば、細胞だけで暴走する信長様も倒せるはずです」

 

 聖魔の一体化でもなく、清汚の一体化でもない、聖汚の一体化により放つ聖剣の一撃ならば、今の細胞単位で暴走する信長も、打ち倒すことはできるかもしれない。

 聖剣の担い手が一人で突っ込んで行かないといけない、という点に目を瞑ればだが。

 

「桜花さん、相打ち覚悟で一人で行く気?」

 

「責任を持つ。それは良いことです。

 責任を背負う。それも大切なことです。

 ですが時には、責任を取らなければならない。今がその時なのです」

 

 聖剣に多少は認められている朔陽とは違う。

 聖剣に全く認められていない桜花が一人で突っ込めば、それは死を意味する。

 最善の結果で相打ちだろう。

 最善以外の結果になれば、まず相打ちですら追われない。

 飛散した信長細胞は、既に多くの生命体を取り込み信長化を完了させている。

 ……しかも、人類圏に向かって進み始めていた。

 

 朔陽達は知る由もないが、これはツヴァイのせいである。

 ツヴァイは信長細胞、及び信長細胞を飛散させた『肉塊』との戦闘を程々に切り上げ、大規模魔法を用いて信長細胞が動いていくための"レールのようなもの"を作った。

 そして、帰った。

 信長細胞群との戦いに特に気乗りせず帰ったツヴァイのせいで、もう人類サイドにあまり時間は残されていない。

 

「私はあの時、何かを間違えました。

 世界のため信長様の敵になり、信長様を根絶するか。

 信長様の変わらぬ味方のまま、信長様を守りきるか。

 どちらかを選ぶのではなく、どちらかを果たさねばならなかったのです。

 信長様を守ろうとし、守りきれなかったあの日の私は、『無力』という間違いを犯しました」

 

 桜花は朔陽に頭を下げる。

 聖剣を借り受けるために。

 ここで終わらせるために。

 ここせ死ぬために。

 

「どうか、今度は間違えさせないでください。

 守ると決めて守りきれないなどという過ちを、繰り返させないでください。

 今の私は、この命を使い切ってでも信長様を倒し救い、貴方達を守りたいのです」

 

 その願いを―――朔陽は、受け入れなかった。

 

「和子ちゃん、ブリュレさん。僕に足りない分、力貸してくれる?」

 

「ん」

「御意に」

 

 忍者と犬が、朔陽に従う。

 桜花の願いを受け入れていたなら、彼らは従わなかった。

 受け入れなかったから、彼らは従っている。

 自分の力に見合わない綺麗な高望みをする人間に力を貸すことを、彼らが躊躇うはずもなく。

 

「何故……」

 

 顔を上げた桜花の手を、朔陽が取る。

 手を引いて、肩を並べて、信長細胞に汚染された怪物の群れに向き合った。

 肩と肩が触れる距離で肩を並べた二人には、互いの匂いと香りが感じ取れている。

 

 肩を並べた朔陽からは、太陽の匂いがした。

 肩を並べた桜花からは、生花の香りがした。

 

「友情ってのは、木みたいなものだよ」

 

 彼の強い武器なんて、友情くらいしかない。

 

「友情っていう種を、信頼っていう土に撒く。

 一緒に過ごした時間は水だ。

 助け合った想い出は肥料だね。

 土がなくても、水がなくても、肥料がなくても、この木は育たなかった」

 

 だから、友情のことはよく知っている。

 

「種が木になるまでには、何年もかかる。

 そしてこの木は、これからもっともっと大きくなる。何十年もかけて」

 

 それが何にも負けないと、信じている。

 

「僕はこの木を、まだ君と一緒に育てていきたい。駄目かな?」

 

「……っ!」

 

 朔陽が聖剣を抜く。

 剣術は雑魚の中の雑魚。

 魔力は0。

 戦闘技能無し。

 聖剣正当適性無し。

 彼に担い手としての能力は無く、聖剣が認めるは彼の中の心意気のみ。

 

 それでも、聖剣は全力で光を放つ。

 陽光の純度を高めたかのような、透明感のある黄金の輝きであった。

 

「君の苦しみ、ちょっとくらいは背負わせてよ」

 

 桜花は涙を流し、頷いて、朔陽の手を強く握る。

 

「行こう。君がピシッと伸ばしてくれた僕の背は、まだまだ沢山背負えると思うんだ」

 

 構える。

 体を構えて、心で構える。

 虫を、鳥を、犬を、猫を、鹿を、熊を、竜を、火蜥蜴を、蟹を、猿を、鵺を、細胞侵食で飲み込んだ『信長』の津波が、彼らの視界を覆い尽くした。

 

 

 



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その3

 光り輝く聖剣を、朔陽が渾身の力で振り下ろす。

 

「せいっ!」

 

 聖剣の切れ味は遺憾なく発揮され、切っ先は信長顔のカエルを両断してみせた。

 

 空中に残る残光。

 地面に僅かにめり込む切っ先。

 切り裂かれたカエルは少しの間ビクンビクンと動いていたが、やがて煙のように霧散した。

 

「よし、もう一回!」

 

 もう一度振る。

 猫型信長に、紙一重で回避された。

 再度振る。

 空飛ぶ鳥型信長に、ひらりと回避された。

 又候(またぞろ)剣を振り上げる。

 小さな虫型信長を狙ったのに潰せなかったのは、虫の方が的確にかわしたからではなく、単純に精神的な動揺から剣筋が乱れたからであった。

 

「……あれ?」

 

 聖剣は確かに抜群の切れ味を誇っているのだが、剣を振る速度が遅く、振り方にキレがなく、当てる技術がまるで見られない。

 足捌きも体捌きもなっていない。

 一つ目の動きが二つ目の動き、三つ目の動きと繋がっていく、動きの連続性すらまっとうには見られない。

 

 振るわれている剣は至高だ。

 そこに異論を挟む余地はない。

 問題なのは、剣を扱う朔陽の技術が極めてウンコであるという点にあった。

 

「わっ」

 

 九体の犬型信長が、朔陽に襲いかかる。

 聖剣が無能な主をカバーすべく、主の体を勝手に動かしてでも主を守ろうとするが、主の無能さのせいで上手くいかない。

 瞬間、和子と桜花の視線が交差する。

 思考が伝わる。

 

「……」

「――」

 

 二人は頷き、同時に飛び出した。

 それは、二人の息を吸って吐くタイミングにコンマ一秒のズレさえ存在しないほどの連携。

 一弾指(いちだんし)の間に桜花が朔陽をカバーし、和子が朔陽の頭上に飛び上がる。

 そこからは須臾(しゅゆ)の反撃だ。

 

 朔陽の周囲1m圏内に入った敵を、桜花は瞬く間に掌底で打ち返す。

 和子は朔陽の頭上に滞空した一秒で、四方八方に忍術とクナイをばら撒き、朔陽に攻撃する可能性のある信長を全て潰す。

 一瞬、潰れていく信長に桜花が泣きそうな顔をする。

 その顔を誰にも見せぬまま、一瞬で表情を元に戻した。

 

「いい腕」

 

「ありがとうございます、若鷺さん。

 今日は沢山、私のいいところも悪いところも知られてしまったようですね」

 

「……? 悪いところなんて、どこかあった?

 あ、大沢さんの身の上話とか、聞き流してたっていうわけじゃないよ、ホントだよ」

 

「……ふふっ。貴女はいい人ですね」

 

 桜花は自分の生涯を語り、自分の汚点と負け犬の過去を語り終えた気になっていたに違いない。

 だが、彼女を悪いと思った者は誰も居なかった。

 彼女の話を聞いた皆の心には、"友に弱みを打ち明けられた"という想いが宿っている。

 その想いは、彼らの心の中に新たな想いを呼び覚ましていた。

 

 大切な誰かに弱みを打ち明けられた時、大なり小なり違いはあれど、心に浮かぶものがある。

 それは誰かの弱さを見た時、心に浮かぶもの。

 弱き誰かの声を聞いた時、心に浮かぶもの。

 弱りきった誰かの頬に触れた時、心に浮かぶもの。

 

 『その弱さを守らなければ』という、正義にも似た衝動である。

 その衝動はいついかなる時代にも、優しさという母から生まれ来るものである。

 

「拙者は犬なれど、其方の左は任せるが良い」

 

 ブリュレが桜花の左をカバーする。

 

「右は……というか、隣は私がこうして守ればいいかな」

 

 和子が桜花の右をカバーする。

 

「僕だって、この中じゃザコもザコだけど、桜花さんの背中くらいは守ってみせる」

 

 そして背中の側は、聖剣を携えた朔陽が守った。

 

 四方八方から一斉に襲いかかる信長軍団。

 各種生物の顔だけを信長にすげ替えたようなその生物達は、クソコラ軍団と言ってなんら差し支えないレベルの存在だ。

 中途半端なリアルさと創作物臭が混じり合って、長時間見ているとそれだけで夢に見てしまいそうな、そんな不気味さを備えている。

 人が本能的に人面犬におぞましさを感じるのと同じだ。

 斬り殺しても噛み殺しても、そのグロさは倍加する。

 

「桜花さんはさ、自分の名前の由来、知ってる?」

 

「? いえ……両親が桜の花が好きなので、それが理由だと推測してはいるのですが」

 

「僕は知ってるよ。

 前に三者面談があった日に、桜花さんの両親と学校で少し話したことがあったから」

 

 三人と一匹で固まって、互いの死角をカバーしながら、朔陽は桜花に語りかける。

 

「桜の花は、日本人なら皆好きだ。

 でも普通の花と違って、桜の花は花を一つだけ見るってことはしない。

 花が数え切れないくらいあって、その合間を花びらが舞って……それを、眺める」

 

 桜花の背中を襲おうとした犬の噛みつきを、朔陽が聖剣で受け止めた。

 

「桜花さんのお父さんとお母さんは言ってたよ。

 桜の花は、『多くのものが寄り添うから美しいんだ』って。

 『花の一つ一つが互いの美しさを支えるから、美しいんだ』って。

 桜の花を好む人は、寄り添い支え合う美しさを知っているから、桜を好きになるんだって」

 

「―――!」

 

「だから君の名前は、『桜花』なんだ」

 

 犬に聖剣ごと押し込まれ、押し込まれ、押し込まれ。

 大して鍛えていない朔陽のこめかみに、汗が一筋流れる。

 

「君が敬愛した信長に見せてやろう……君の、『桜花』を!」

 

 根性を見せ、朔陽は蹴り上げ乾坤一擲。

 運良く犬型信長の腹に刺さってくれた蹴りが、犬を空中にふわっと浮かせる。

 そして聖剣が腕を引っ張るかのように、聖剣が導いた一閃が、犬を切り裂いた。

 

「……ああ、本当に、委員長は……もう。私、それにどんな反応を返せばいいんですか」

 

 親の想いが伝わる。

 朔陽の想いが伝わる。

 伝わった想いが、桜花の心を震わせる。

 桜花は跳び上がり、竜型信長の首に組み付く。

 心身の力が奮い、心は震え、両腕が振るわれる。

 ゴキン、と竜の首が折れた。

 力が高くなくとも、相手の命を断つに足る技。関節技である。

 

 次いで襲い掛かってきたのは、信長細胞の侵食により5~6mほどにも巨大化したカニ。

 桜花は腕のハサミを横薙ぎに叩きつけて来たカニの動きを見切り、ハサミを木に叩きつけさせ、同時に体当たりを実行。テコの原理で、関節を一つ駄目にした。

 桜花の力でハサミはもぎ取れない。

 折ることもできない。

 だが、駄目にすることはできる。

 もう片方のハサミも、相手の前面から接近し、跳び上がり相手のハサミを掴み、掴んだまま『全体重をかけて』背中側に落ちるなどして、こちらも駄目にすることに成功した。

 

 熊型の信長と相対し、その爪の攻撃をかわしながら石を拾うのに一手。

 噛みつきも仕掛けてくる熊に接近するのに二手。

 そして、その口の中に――その奥の気管に――石をねじ込むのに三手。

 熊の気管支を石で強引に塞ぎ窒息死させるという攻撃で、三手にてその命を断つ。

 

 そうして桜花が大暴れしていると、桜花は信長に囲まれてしまう。

 

「桜花さん!」

 

 朔陽が聖剣を掲げて助けに行こうとすると、聖剣が発光。

 聖剣が放つ光が信長達の目をくらまし、桜花が仲間と合流する数秒の時間を稼いでくれた。

 朔陽のせいでもあるが、この聖剣、ピカーッと光ることでしか活躍できていない。

 強引に売り文句を付けるなら、"光る! 鳴る! デラックスうんちゃらなこれを買って君もライバルに差をつけろ!"あたりだろうか。

 

「……小学校の時に買ってもらった日曜朝ヒーローの剣思い出すなぁ」

 

「サクヒが振ってたやつね」

 

「あれもただ光るだけの剣だったな、って」

 

「サクヒはビーム出るって信じてたよね」

 

「うっさい」

 

「うわっ、嫌なこと思い出した時のサクヒの声だ」

 

 幼少期の恥を知るのが幼馴染というものだ。

 和子に対する朔陽も、朔陽に対する和子も言わずもがな。

 その光を見て、桜花はふと気付く。

 何故、信長細胞は、野良の生物は侵食していても、今の自分達を侵食していないのか。

 

「? ……これは……」

 

 信長細胞はその名の通り信長の細胞、平均存在数37兆個という細胞の群体である。

 全身を焼かれ、肉塊として封印された後は平均存在数10億程度まで減少したが、それでも十分に多い。

 侵食・拡散の過程で多くの細胞が廃棄され、結果総数10億前後という数を維持しているものの、他の細胞を侵食して信長に変える能力は圧倒的だ。

 この細胞に触れれば、信長になる。

 全ての細胞が信長に変えさせられる。

 

 それは、桜花が身の上を語った時に皆に語ったことだが……敵に直接接触しても、返り血を多少浴びても、信長細胞による身体への侵食が始まっていない。

 

「浅井長政を狂化させたほどの細胞侵食が、行われていない……?」

 

 何故。

 そう思い、桜花は不審がって自分の体や敵の体を凝視する。

 朔陽もそれに倣い自分の体を凝視してみたところ、体の表面にうっすらと纏わりつく、薄っすらとした光の膜が目に見えた。

 

「え? なんだこれ?」

 

 おそらくは、昼間だと凝視しなければ見えない光。

 夜ならば薄くは見える程度の光量の光だ。

 その光が、信長細胞の侵食から生者を守っている。

 

■■■■

 

「いえ、軽いものではありません。

 世界創生の始まりから存在する二振りの剣の片割れ。

 世界法則に先んじて生まれたがために、世界法則に縛られぬ超越存在。

 お兄様の魔剣と対になる、この世で最も尊い存在とも称される聖剣ですから」

 

「世界創生よりも前から存在するため、世界が壊れてもこの聖剣は壊れません。

 聖剣自体に意志があるため、ある程度であれば自動でサクヒ様を守ってくれます。

 身に付けているだけで、特殊なものを除いた毒くらいならば無効化してくれるでしょう」

 

■■■■

 

 ヴァニラ姫の言葉が朔陽の頭の中で思い返される。

 なるほど、この力は聖剣の名に恥じないものだ。

 明日もう一度使ってくれと言われても使えなさそうな、再現性のない力。朔陽の精神の方向性が自動で生み出した、この一戦だけでしか使えないかもしれない力だ。

 

「私とワンちゃんで」

 

「数を減らす。起死回生の手を頼んだ」

 

 聖剣の光が満ちるこの空間内で、細胞の侵食などという小規模干渉は全て無力化される。

 ならば残る問題は、この空間内でも人を殺せる爪と牙持つ怪物のみだろう。

 もはや信長軍団は人類圏など目指してはいない。

 自分達の脅威となる朔陽達の抹殺のみを目指している。

 ゆえに、和子とブリュレは敵の密度が特に濃い部分を抑えるべく飛び出した。

 

「ふふっ」

 

「何がおかしいのさ、桜花さん」

 

「いえ、なんでも……」

 

 朔陽が聖剣を振るう。

 猿型信長に軽々かわされ、風を起こすくらいしかできないそれは、まるで扇風機だ。

 桜花が跳び上がり、猿の首を蹴り折る。

 動きづらい和服で軽快に動き、足先が見えない程の蹴りを出すそれは、まるで疾風だ。

 

「……ありませんよ!」

 

 けれど、そんなちょっと情けない共闘が、桜花は何故か楽しくて仕方なかった。

 

「昔、私が聞いた話が一つ有りました。

 だから、考えていたことが一つありました」

 

 想起されるのは、戦国の記憶。

 

「歴史に名を残した人と。

 歴史に名を残せなかった人が。

 信長様の配下であった私と、当時した話です。

 ちょうど、天下の全てが信長様のものとなるまで秒読みという時のことでした。

 彼らは私に言ったんです。

 『もしかしたら、俺達は、戦国の最後で楽土の直前、そんな時代に居るんじゃないか』って」

 

 それは間違っていない。

 信長、秀吉、家康。同じ時代を生きた三人の繋いだバトンが、戦国を終わらせたのだから。

 

「私が死んだ後、あの人達が、きっと戦乱の時代の幕を引いたのです」

 

 ならば、それは。

 信長や蘭丸が死んだ後、生き残った者達が新たな時代を作ったということになる。

 桜花には、旧い時代を壊す信長を支えたという自覚があり、新しい時代を作ることに協力できなかったという負い目があった。

 

「私は最後に……徳川の世が平和を広げるその前に、勝手に脱落してしまったから」

 

 戦国とは、戦乱が国々の合間に絶え間なく続く時代。

 

 ならば、ある意味で―――この世界のこの時代も、『戦国の時代』と言って間違いはない。

 

「その分、この世界の『戦国』を終わらせるのに助力したいのです」

 

 今ここに居る中で、唯一この世界の住人であるブリュレの耳が、ピクリと動いた。

 

「代償行為かも、しれませんけど!」

 

 地球の戦乱を終わらせ、平和を作るのに助力できなかった負い目を、この世界の戦乱を終わらせることで消そうとするのは、確かに代償行為だろう。

 だが、朔陽は知っている。

 

「桜花さんは、自覚してないけど!

 桜花さんの代償行為って、大体誰かのための行動でもあるんだよっ!」

 

 その代償行為には、いつだって優しさが混じっていることを。

 優しさが混じっているから、桜花はいつも代償行為の完遂だけを考えられない。

 自分が立派な男になれなかったという想いから、朔陽を立派な男にするという代償行為を始めながらも、そこから変に色んな感情を混ぜ込んでしまったのと同じように。

 

 桜花のその言葉に感じ入り、白狼は瞳を閉じる。

 

「『ウィズレイド』!」

 

 そして、瞳を閉じて高速で終わらせた詠唱から、風の上級魔術を放った。

 桜花が手こずっていた鵺の魔獣が、風によりズタズタに切り裂かれて塵と化す。

 

「其方の身上を拙者が完全に理解しているとは言い難い。

 だが、その心意気。その心根。その開心見誠。命を懸けて守るに値する」

 

 それは、桜花の言葉に対する、この世界の住人全てを代表した言葉だった。

 桜花の口元に笑みが浮かぶ。

 有能な猿は信長の絶対的な味方だが、有能な犬は桜花の絶対的な味方らしい。

 

「……ありがとうございます!」

 

 桜花の美しい着物も。

 朔陽の黒い制服も。

 和子の長い黒髪も。

 ブリュレの白毛も。

 全てが返り血に汚れているが、誰も彼もが悪くない表情をしている。

 その表情は、汚れるどころか輝いている。

 汚れなんて後で魔法で消せばいい、と言わんばかりに、皆が全力を尽くし戦っていく。

 全ての信長群体がそこへ群がっていく。

 

「さて、このいくら倒してもキリがない信長軍団、どうやって止めるかな!」

 

 その時、聖剣の光がまた輝きを増した。

 光に照らされた群体の内から、黒い靄のようなものが漏れる。

 それに意図せず触れてしまった朔陽達は、"それ"の本質を理解する。

 

「……!」

 

 見える。

 本能寺で死した信長の死体だった『肉塊』の奥に、何かが見える。

 肉塊に捕食された残骸の中に、何かが見える。

 

―――『魔王軍に勝利を』

 

 群体と化した信長を突き動かすものは、間違いなく、フュンフ・ディザスターの遺志だった。

 

「そうか、そうだったんだ」

 

「おそらく、この細胞群にとって魔将の思念は異物。

 聖剣の退魔の光がそれを再認識させた。

 だから細胞群を突き動かす意志であると同時に、排出される排泄物でもある」

 

「魔将を信長が食べたら、消化しきれずに中途半端にウンコになったってことか。

 なんてことだ、この現状が全て信長が魔将を食べたことが原因にあったなんて……!」

 

 信長に捕食された魔将フュンフの残骸が、肉塊という信長の残骸を『人を滅ぼすもの』として概念付け、信長細胞全てに人を滅ぼす指向性を与えているのだ。

 さしずめ、信長が胃腸、フュンフがウンコになりかけの腐った食べ物、聖剣の光がキャベジン等の胃腸薬と言ったところか。

 

 ならばこれを終わらせるには、信長の腹を裂き、その中で未消化ウンコとして悪影響を及ぼしている魔将を引きずり出し、聖剣でトドメを刺さねばならない。

 でなければ、信長細胞は止まらないだろう。

 ただの肉塊と化して久しい信長に、自らの意志でフュンフというウンコを排出する力はない。

 並み居る敵を打ち倒し、どこかに居る信長本体である肉塊を裂き、その奥のフュンフを聖剣で穿つ必要があるのだ。

 

「サクヒと大沢さんの仲が深まったら、聖剣の光は強くなった。

 大沢さんとワンちゃんの仲が良くなったら、光が強くなった。これは……」

 

 和子が何かに気付きそうで気付かない。

 "まあ今考えても仕方ないか"と思考を投げる。

 そうやって難しいことを考えるとすぐ投げるのから和子は駄目なのだ。

 

「本体……肉塊は、どこだ!?」

 

 あまりよろしくない展開になってきた。

 肉塊はまだ見当たらず、フュンフの邪悪な遺志を切り裂くにはこの聖剣で切るしかない。

 となると、朔陽がアタッカーとして最前面に出る必要がある。

 一番のザコが一番前に出る必要がある。

 誇張無く、死のリスクが跳ね上がるのだ。

 

 朔陽は聖剣を振り下ろすが、鹿型の信長に弾かれ、たたらを踏んでしまう。

 

「……っ」

 

 これではダメだ、と思う朔陽を、桜花が背後から抱きしめるように受け止めた。

 

「力を抜いて動きを合わせて、体を預けてください。私は心を預けます」

 

「桜花さん」

 

 聖剣の柄を握る朔陽の手に添うように、桜花も聖剣に手を添える。

 信じるか、信じないか。

 選択の基準は、ただそれだけで。

 

「わかった」

 

 朔陽は信じ、彼女の言う通りに力を抜いた。

 先程攻撃を仕掛けて来た鹿が突撃してくる。

 朔陽は桜花に導かれるままに、流れるように横に避ける。

 

「振って!」

 

「……!」

 

 そして、自然な流れで、すれ違いざまに鹿を切った。

 おそらく今日一番に綺麗な剣筋が、鹿を真っ二つに切り分ける。

 

「次です! 歩幅は短めに!」

 

 桜花は自分の中の剣技に沿って、彼の剣技を導く。

 朔陽は敬刀に習った剣を下地に、彼女の導きに沿って振る。

 結果、朔陽に不相応なくらいに綺麗な剣技が出来上がる。

 

 二人で一つの体を使うかのように、二人は戦う。

 敵の攻撃を回避し、距離を詰め、敵に囲まれても上手く立ち回る。

 敵の攻撃を一本の剣で受け、四つの足で踏ん張り受ける。

 四つの足で跳び上がり、四つの手で剣を振り、硬いカニの甲殻すらも切り伏せる。

 二つで一つの体を使っているかのように戦う。

 息を合わせて戦う。

 舞うように戦う。

 

「ね、ワンちゃん」

 

「ワコ殿! 喋っている余裕はない、敵の多数を拙者達が引き受けねば、彼らは」

 

「あの二人……まるで、楽しくダンスを踊ってるみたい」

 

 和子がそう評するに値する美しさが、そこにはあった。

 それは完璧で完全無欠の『一つ』が魅せる美しさではない。

 完璧でない『二つ』が組み合わさるがゆえの美しさ。

 桜花が導き、朔陽が応える。

 そんな共鳴と成長過程の美しさだった。

 敬刀に教えて貰った剣の基礎が、桜花の導きで実戦的に組み上げられていく。

 

 桜花は思わず微笑んでしまう。

 彼女ですら、朔陽の全てを明確に正確に語れる気はしない。

 だが、彼が間に入ればどんな人達も繋がれる、ような気がした。

 誰かと繋がるたびに彼は強くなる、ような気がした。

 彼の強さは戦う力とは根本的に違う部分にあるがために、こうして自分が与えている戦いの力なんて、きっと何の価値も無い……なんていう風に、桜花は思って、微笑む。

 

 けれども今は、価値はなくても意味はあると、そう信じているようだ。

 

「貴方を通せば、どんな人とも繋がれる気がします。どんな人とも仲良くなれる気がします」

 

「僕には無理だよ、誰とでも仲良くなんて」

 

「さあ……やってみないと、分かりませんよ!」

 

 どんどん速くなっている。

 どんどん強くなっている。

 二人の動きは加速度的にキレを増し、"どんどん息が合うようになっている"のではなく、"完全に息が合うようになってからも強くなっている"という異常事態が終わらない。

 それに応じて、聖剣の輝きは更に純度を増していた。

 

 何故、こうなっているのだろうか。

 普通に考えればありえない。

 朔陽は桜花の口と体の動きに合わせているだけで、桜花は朔陽を後ろから抱きしめるようにして動きの先導をしているだけだ。

 二人は互いの体が邪魔になって、いつも通りに動けていない。

 動けていないはずなのだ。

 なのに、何故。

 ……一人一人で戦っている時より遥かに速く、巧く、強いのだろうか?

 

 弱くなっているはずだ。

 互いの体が邪魔で動きにくくなっているはずだ。

 互いが互いの強さを低くしているはずだ。

 なのに。

 

 互いの力は相乗効果を生み出し、彼らは弱くなっているはずなのに、強くなっている。

 

「はぁっ!」

 

 また聖剣の輝きが増した。

 聖剣が放つ純度の高い透明な光は、もはや二人の全身を覆うほどに膨らんでいる。

 その光の中では、どんな無茶苦茶な奇跡でも起きそうだと思えるほどの輝きだった。

 

「本体は……!」

 

 敵をいくら切り倒しても、召喚された肉塊……信長本体は見つからない。

 どうすればいい、何かきっかけがあれば、そう思っていると、謎の音が耳へと届く。

 それは遠くからではかすかに聞こえるだけの雑音だったが、朔陽達が近付くにつれ、時間が経過するにつれ、その曲調がハッキリと耳に届くようになってくる。

 

「これは……敦盛!」

 

「本体はそこか!」

 

 それは、敦盛タイマーの音。

 三分しか巨人でいられない信長が、活動時間残り一分を知らせる胸のタイマーとして設定したもの。信長の代名詞だ。

 これを鳴らせる者はこの世に二つ。

 時と、信長だけだ。

 神ですらこの敦盛を流すことは叶わない。

 ならば、このタイマーを鳴らしているのは、「ここに本体が居る」ということを知らせようとする信長以外にはありえまい。

 

「信長様っ……!」

 

「桜花さん!」

 

「……分かって、います。これは、信長様なりの、けじめです……!」

 

 自分の細胞をいいように使っている魔将への抵抗か、織田信長としての意地か。

 信長は自分の本体の居場所を、自ら進んで朔陽達に教えてきた。

 その甲斐あって朔陽達は本体である肉塊を見つけるが、戦いは発見だけで終わらない。

 肉塊の中で信長にできることは"敦盛を流す"ことくらいしかなく、肉体の操作権は既に魔将の遺志が掌握している。

 

 これが、この戦いの最後の一幕。

 

 朔陽と桜花は踏み出した。

 

「……これは、舞踏か」

 

 肉塊から伸びる触手を切り払う二人の舞踏を眺めるブリュレの呟きに、熱が漏れる。

 肉塊は己の終わりを望む信長と、人の終わりを望むフュンフで構成される。

 それに対する朔陽と桜花は、もっと美しいもので構成されていた。

 

 舞うように、聖剣が肉塊を切り刻んでいく。

 

 殺される者が音を奏で、殺す者が舞を見せる、殺害関係のみが完成させる舞踏。

 殺される者が成長を見る、殺す者が成長を見せる、過去の関係が完成に導く舞踏。

 被殺害者が終焉を望み、殺害者が救済を望む舞踏。

 被殺害者が魔で、殺害者が聖。

 何かを終わらせ、何かを始める儀式。

 それは―――儀式に捧げられる舞踏であった。

 

 聖剣が、因縁へと突き刺さる。

 

 魔将の遺志が消えていく。

 信長の本体が溶けていく。

 魔を払う聖剣に、討てぬ魔は無し。

 先程まで過剰なほどに光を発していた聖剣は、未熟な主に「これが最後だ」とでも言いたげに、乱雑に光の放出を打ち切る。

 

「……」

 

 静かな時が流れる。

 大切な人にトドメを刺した桜花の心中はいかばかりか。

 が、忘れてはならない。

 信長は生粋の主人公気質。

 不可能を可能にし、非常識を常識にし、旧きものを新しいものに入れ替えた男。

 彼ならば、ほんの僅かな時間、意志の奇跡を起こすことくらいはできる。

 

 例えば、この状況から聖剣のパワーを魂だけの状態で吸い上げ、一分足らずではあるが『幽霊』として顕現して喋り出す、とかである。

 

『ふむ、佐藤朔陽か。よい頭を選んだではないか、あの鼻垂れ小僧だった貴様がのう』

 

「……!?」

 

『最後によきものを見れた。

 戦争とはつまるところ、準備を長く多くした者が勝つものよ。

 事前に積み上げれば積み上げるだけ勝ちやすくなる。

 戦いの開始より数年も前に人の関係性を積み上げ、それを戦いに用いて勝つとはな』

 

「の、信長様……? あの」

 

『儂は一言二言語れば消える。無駄口を叩くな、儂が語る時間がなくなるであろうが』

 

「で、ですが、信長様」

 

『くだらん。

 今儂がここで口を開いている、という事が既に蛇足だ。

 何であれ、終わったことを無様に引きずり続けるなど愚の骨頂。

 儂の人生は終わった。それだけだ。終わった者に語りかけるでない』

 

 四の五の言わせない、いや返答すら許さない怒涛の信長語り。

 かの時代に己の信念とやり方を貫き、その過程で多くの者の意志を踏み潰していった信長らしい語り口だ。

 そんな信長の目が、口先が、桜花ではなく朔陽へと向かう。

 

『貴様も聞いておけ。

 よいか、儂が正気を加速度的に失っていったのは、偶然でも経年劣化でもない。

 儂が加速度的にああなったのは、寺社を焔で焼いて灰にした頃からだ』

 

「え?」

 

『転生、蘇生どちらでも構わん。

 死んだ者は生き返らない。

 それが世界の基本であり、基盤である。

 旧きものを探し、生き返った者を探せ。そこに、真実がある』

 

 信長は聖剣の力を吸って幽霊として無茶に顕現した。残り時間はあと数秒。

 

『貴様のクラスメイトとやらの中には、神の―――』

 

 信長の思考が信じられない速度で回転する。残り時間はあと僅か。ここで朔陽に核心的なことを語り切る時間はある。だが語り切ったところで時間は尽きるだろう。

 桜花に何かを言う時間は、まず残らない。

 朔陽に確信を話すか、桜花に何かを言うかの二択。

 千分の一秒にも満たない時間、信長は悩み……人造兵器らしく、『今まで仕えてくれた蘭丸に正しく報酬を支払うべきだ』という合理的思考から、迷いなくその選択を選んだ。

 

 

 

『息災でな、蘭丸』

 

「―――!」

 

 

 

 戦国の亡霊が霧散する。

 "思わせぶりなことだけ言って核心言わず消えていった……"と和子は思ったが、最後に身内への言葉を選んだ信長と、その言葉を受けた桜花の気持ちを思うと、何も言えなかった。

 桜花は何かを噛み締めるように、噛み殺すように、歯を食いしばって空を見上げる。

 

「……さようなら」

 

 ありがとうと言いたかった。けど、言わなかった。

 すみませんと言いたかった。けど、言わなかった。

 語りたかった、昨日までの過去の想い出があった。

 信長にとっての未来である過去の想い出があった。

 感謝、後悔、懺悔、決意……語ることは山ほどあって、けれどそれを信長が消えた後に、何も無い虚空に語るのは、何かが違うと思ったから。

 

 だから、桜花は何も語らない。

 口にするのは"さようなら"の一言だけで十分だ。

 

「さ、帰ろう」

 

 朔陽が皆に帰参の号令を上げる。

 そう、終わったのだ。

 これで終わった。

 桜花の中の心残りも、大切なものを守れなかったという後悔も、戦国の時代から続く因縁も、全てが終わった。

 妙にスッキリとした気分の桜花の心と、澄み切った青空に、風が吹く。

 

「今は珍しくこのみさんが王都に居るから、きっと美味しいご飯が食べられるよ?」

 

 このみの名前を出すだけで、彼らの帰る足取りは随分軽いものになる。

 

 王都に帰ったお疲れの彼らを、特製のハンバーグステーキが迎えてくれた、そうな。

 

 それを食べる朔陽や桜花やその友達は、皆満面の笑みを浮かべていたという。

 

 

 



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出席番号7番、恋の終わり・木之森切子

 吊り橋効果というものをご存知だろうか。

 不安や恐怖、興奮や緊張が高まっている時、他人に恋愛感情を抱きやすくなるというものだ。

 なら、元から恋愛感情を持っているものにそれが起きたなら?

 元から好きだった人に、この異世界で優しくされて、感情が爆発してしまったなら?

 そうなった高校生が、思い切った行動に出ても、何もおかしくはない。

 

「好きです! 付き合ってください!」

 

 出席番号7番、木之森切子(きのもり きりこ)

 彼女の告白に朔陽は戸惑うも、冷静に思考を回す。

 冷静に回してしまう。

 その時点で『何か』が失格だったことに気付きつつも、もうどうしようもなくなってしまう。

 

 木之森切子。

 身長197cm、体重238kg。

 同年齢の平均骨密度との比較、250%。

 パンチ力8t、キック力12t、ジャンプひと跳び30m、100m走5.8秒。

 全身を覆う分厚い筋肉は、格闘家として適切な体脂肪率を維持していた。

 体格こそ大きいものの、運動部の男子ほどには身体能力も高くなく、性格も温厚で物静かな女子であると朔陽は認識している。

 必殺技の殺傷力もそう高くはなかったはずだ。

 

 告白の後の沈黙が、四秒か五秒ほどあっただろうか。

 その僅かな沈黙にすら耐えきれず、切子は逃げ出した。

 

「……へ、返事は、あとでいいですっ!」

 

「あ、切子さん!?」

 

 情けない、と切子は自分を恥じる。

 勇気を出して告白した女子を朔陽が"情けない"だなんて思うはずがないと分かっているのに。

 恥ずかしい、と切子は逃げながら顔を覆う。

 まだ恥になることなど起きていないはずなのに。

 変な奴だと思われてないかな、嫌われてないかな、と思えば、切子の顔は赤くなる。

 そんな風に思うような男なら、初めから好きになっていないと分かっているはずなのに。

 

 冷静に考える思考と、感情的にありえないことを考える思考がごちゃまぜになり、切子は全力で逃げ出してしまう。

 ウォォォンと鳴く蝶々が、切子の疾走による旋風で吹き飛ばされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切子の想いは、幼馴染の恋心ほど長くもなければ、異世界に来てから芽生えたインスタントラブでもない。

 意識しだしたのは一年ほど前。

 友人に相談するくらいに明確な恋心となると、二学年時の冬頃になる。

 切子は二学年三学期のある日に、陽光の差す教室で、友人に恋の相談をした。

 メンバーは恋川このみ、セレジア・セーヴィング、島崎詩織の三人のみ。

 

 呼ばれてもいないのに勝手に混ざろうとした嘘つき寧々は教室から蹴り出された。

 

「はー、いいんちょさんを、ねえ。

 いや悪くはないんじゃない?

 あたし個人としてはまあ……うーん、まあいいか」

 

 女子会ということで、お菓子を作って持って来てくれた恋川このみがそう言う。

 

「ひゃー、日本人は慎み深いと聞いてたんデスが高校生ただれてマースねー……」

 

 双子アメリカ人留学生の片割れ、セレジア・セーヴィングは紅茶を淹れつつ、何か過剰な方向に想像力を働かせている。

 

「自分は、恋愛経験皆無の処女ばかりを集めたこの集まりで、生産的な意見は出ないと考える」

 

 女子会ということで、このみの真似をして血抜きをしたばかりの熊の死体を持って来て、寧々と一緒に一度は蹴り出された詩織が淡々と言う。

 

「言うてはならんことを……わっはっは、詩織は何かもう、身もふたもないねー」

 

「少女マンガで日々勉強してマース。大船に乗った気で居てくださいデス」

 

「泥舟だよ」

 

 恋愛経験も無い、恋人も居ない、そんなクラスメイト女子の友人三人を集めてどうするのか。

 そう言われても、頬を掻き照れ臭そうに笑う切子は心変わりしない。

 可愛らしい表情の動きと、毛の無いメスゴリラと言うべき肉体の威圧感が、恐るべきミスマッチを奏でていた。

 

「うん、分かってる。

 でもあてはさ、友達に相談したくて皆を頼ったの。

 有能な人より、信じられる人に助けて欲しかった。

 恋愛を分かってる人じゃなく、あてのことを分かってる人の助言が欲しかったんだ」

 

 えへへ、と照れる切子を見れば、女子達も皆腹が決まる。

 

「しゃーない、料理しか知らないあたしだけど、頑張りますか!」

 

「バスケしか知らないけど尽力はしマス」

 

「男を狩るにはもしや自分の狩猟技術が一番役に立つのでは?」

 

 何言ってんだコイツ、という目線が詩織に向けられる。

 

「……ありがとう」

 

 切子はとても小さな声で、蚊の鳴くような声で感謝の言葉を口にした。

 それが三人の友人の耳に届いたのは、小さな声でも大きな気持がこもっていたから……かもしれない。

 

「で、いいんちょさんのどこを好きになったの?」

 

 このみがちょっとワクワクした顔で問いかける。

 

「顔デース? それとも何か決定的なイベントとかあったデスか?」

 

 セレジアはこう言っているが、"いや顔だけで惚させるほど超イケメンってわけでもないな"と心中でとんでもなく酷いことを思っていた。

 

「……」

 

 詩織は静かに返答を待つ。

 

 

 

「優しい……というだけで、好きになっちゃいけないのかな?」

 

 

 

 切子の純粋で甘酸っぱい返答は、少女達の胸を打った。

 このみとセレジアは、倒れるように教室の机に突っ伏してしまう。

 

「少女漫画の主人公かあんたは」

「……少女漫画の主人公デース」

 

「べ、別にいいんでしょ、優しくされたから好きになったくらい」

 

「んーいや別にいいんですけどー」

 

 人間とは、優しくされるだけで恋愛感情を抱くこともある生き物である。

 優しい人というだけで好きになってしまうことがある生き物である。

 このみがあたしはーと反応し、セレジアがミーはーと反応し、詩織が自分はーと反応する。反応は軒並み生暖かい。

 

「う、そういう反応されるのは予想してたけども。

 そりゃ、今時優しいから好きになったってのはどうかとも思うけど……

 そりゃ、優しいやつなら誰でも良いのかよビッチ! とか言われても仕方ないけど……

 だって、好きになったんだから仕方ないし……

 それが、偽りのないあての気持ちだし……

 まして、こんな図体でかいあてに優しい男子は少ないし……

 だから、優しいってだけであての気持ちはがっちり固まってるし……」

 

「うっはぁ面倒臭い感じにどツボにハマっちゃってるデース」

 

 切子は心が少女で、肉体は筋肉ムキムキの男達が多いことで有名な北東(ほくと)(けん)の男達にも匹敵する筋肉の塊である。

 大抵の男子は彼女を女性扱いしない。

 切子をちゃんと女性扱いする朔陽が希少なのであり、ゆえに朔陽は当たり前に優しくしていただけでも、好かれてしまったらしい。

 

 切子が人並みに以下に優しくしてもらえない子であったことと、朔陽が人並み以上に優しくする子であったことが、綺麗に噛み合ってしまったようだ。

 

「優しい人が他人に優しくするのは呼吸デース。

 優しくない人が優しくするのは希少価値デース。

 だから日本じゃツンデレ大好きな人多いんじゃないデスか?」

 

「アメリカ人が日本人のその辺の文化を語るか……料理も年々グローバルになるわけだ」

 

「まーマイフレンズサクヒは度が過ぎてるとして。

 あれは無報酬の努力を望んでやれる人デス。

 あれはガチ惚れした恋人と同じくらいの特別扱いを友人に行えるやつデース」

 

「自分も肯定する。あれは、女を勘違いさせる無自覚のワル」

 

「デースデスデス。

 今、切子サンは友人だからマイフレンズに特別扱いされてるデス。

 でも、『友人以上の特別扱い』になるのはきっと難しいデス。

 それでも、あの難攻不落の巨城に挑みマスか?」

 

 一も二もなく、切子は頷く。

 

「はい」

 

 迷い無く、力強く、切子は頷いた。

 彼女が全力で頷いた結果、その筋力が床を揺らし、机や床をふわっと浮かせる。

 その筋力は、友人の少女達に謎の可能性を感じさせた。

 

「あては木こりの生まれの田舎者だし、一歩引いて佐藤さんを支えて……」

 

「ええ? 切子ちゃんの性格で意識して一歩引いたら、ちょっと過剰じゃない?」

 

「構いませんとも。

 あては相手のことを考えられる女になる。

 他の女と彼が親しくしてても笑って許せる女になる。

 自分の意見と佐藤さんの意見がぶつかるようなら、必ず自分の意見を引くようにして……」

 

「ストーップストーップ。

 ねえ切子ちゃんさ、変な方向に勉強してない?

 嫉妬しちゃうような女は駄目とか思ってない?

 男と喧嘩しちゃうような女は駄目とか思ってない?」

 

「え? お、男の人はそういうものが好きだと聞いて……」

 

 このみは難しい顔をした。

 切子が間違っているのは分かっていて、その間違いをどう指摘して正せばいいのかも分かってはいるが、自分がそれを偉そうに語っていいのか悩んでいる顔だ。

 やがて自分の中で折り合いを付けたのか、このみは口を開く。

 

「いや、さあ。恋愛って相手の都合のいい人間になることなのかね?」

 

「……あ」

 

 このみの指摘は、鋭い刃のように刺さる。

 

「恋愛にそれぞれの形があるってのも分かる。

 相手にとって都合がいい人間になった方が恋愛が成立しやすいってのも、まあ分かる。

 人間は基本的に自分に都合がいい関係は切らないしね。

 でもさー、それって何か違わない?

 切子ちゃんは自分が全く幸せにならないで、相手だけが幸せになる恋愛でいいの?」

 

「う」

 

「女が奴隷、男が主人でも恋愛は成立するけど……

 切子ちゃんが望んでる恋愛って、そういうのじゃなくない?」

 

 好意とは一定の対価を支払って獲得するものでもある。

 特定の誰かと一緒に居るために時間と労力を使う。

 誕生日にはプレゼントを買い、皆と喋りながら外食を食うのに金を使う。

 学生時は友と共に勉強や部活で努力の記憶を積み上げて、好感を得る。

 大人になれば辛い仕事の中でも同僚や上司の仕事を一部請け負って、信頼を得る。

 親になれば疲れ果てた休日に家族を遊園地や水族館に連れて行き、愛情を得る。

 

 『他人のために時間を使いたくない』という人は、大抵の場合人並みの好意も得られない。

 だからこそ、古今東西の創作や伝説の中には、"男がほとんど労力を払わずに美女に好かれる"というものが多々見られる。

 人間の本質の一つなのだ。

 『他人のために何もしなくても他人に好かれたい』という欲求は。

 

 切子は危うく、"そういうもの"になりかけていた。

 佐藤朔陽にとっての都合のいい女、というよろしくないものにだ。

 

「愛は、受け入れて一緒に居るものじゃない?

 家族の横暴をさらっと流す家族愛。

 友達の気に入らない所をまあいいやと受け止める友愛。

 仲間の失敗を笑って許す信愛。

 愛は、相手に嫌われることを恐れることじゃない。

 相手の都合のいい人間になることでもない。

 男の近くで、男を飾る綺麗なアクセサリーになることでもないのよ」

 

 このみは少しだけ、怖かったのだ。

 都合のいい女になった切子が、女を沢山侍らすような悪い男の傍で、男を飾る都合のいいアクセサリーの一つになってしまいそうな気がして、怖くなってしまったのだ。

 そういう意味では、そういうことを絶対にしない朔陽に切子が惚れたことは、彼女にとってちょっとした幸運でもあった。

 

「ごめんなさい……あてが間違ってました……」

 

「え!? ちょ、ちょっとタンマ!

 別に論破とかしてたわけじゃ……!

 待って待って、あたしの主張が正しいなんてことでもないからね!? 分かってる!?」

 

 あたふたと慌てるこのみが、自分の言い分をそのまま鵜呑みにするなと言い始める。

 ただ、今の会話で、この四人の中で恋や愛におけるバランス感覚が一番まともなのがこのみであるということは、このみ以外の三人の中で共通認識となっていた。

 

「うんうん、青春デス。

 恋に近道なしとはよく言ったもの。

 ゴールは遠くとも、頑張りマショー!

 恋でゴールが遠く見えるのは、ゴールにあるものが高望みだからとも言いマスね!」

 

「うぐっ」

 

「バカッ、セレジア! また変にプレッシャーかけて!」

 

 ここまでロクにアドバイスもしてこなかった詩織が、ここでボソッと一言。

 

「……恋とか愛とか真顔で語って恥ずかしくないのかな、と自分は思った」

 

「詩織、また蹴り出すよ」

 

 島崎詩織は極めてクールだ。

 愛を語り道を正すこのみや、恋を語り厳しさを忠告するセレジアと違い、そこまで熱意をもって色恋話に参加しているようには見えない。

 だがそれは、詩織と切子の間に友情がないということを意味しない。

 

「でも、このみとセレジアの忠告は有用だとも、自分は思う」

 

「……そうかな」

 

「狩猟とは全て、緻密な思考と入念な仕込みにより狙ったものを我がものとすること」

 

「……ん?」

 

「告白というのは、告白時点で気持ちが通じ合っていればただの確認作業と聞く。

 事前に好意を稼ぐべし。告白しても断られないほどに好かれるべし。

 デートやプレゼント、会話頻度の引き上げなどで、地道に準備すべきと自分は考える」

 

「ほ、本当に狩猟知識でまともなアドバイスをしてる……!?」

 

 友人達のアドバイスを受け、木之森切子は奮起する。

 そうやって、地道に色々と頑張って、積み上げて。

 朔陽との仲は進展せずに時は過ぎ。

 切子は異世界に来て、異世界でも毅然として仲間達の居場所を守る朔陽を頼り、彼に手を引かれるようにして、この世界でも生きるすべを得た。

 それが、吊り橋効果と同じ好感度ブーストをもたらしてしまった。

 衝動的に、先のことを何も考えず、切子を告白させてしまっていた。

 

(好きだから、好き、だから、好き故にッ―――!!)

 

 "せめて告白は元の世界に帰ってから"と考える理性は、既にハジけ飛んでいる。

 

 それは、『若さ』の一言で流してあげるべき愚行であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朔陽は、友人に対する理解度では群を抜いている。

 会話を通して友の考えていることを察しようと努力し、その心の動きにできる限り敏感でいようとしているためか、彼はいつだって友に必要な言葉を、必要な時に口にすることができた。

 ……つまり、だ。

 切子の恋心も、告白される前から察してはいたのだ。

 

 知った上で、朔陽は彼女を相応に扱った。

 恋心を持った友人は繊細である。

 友人同士の気安い交流でも傷付けてしまうことがあるからだ。

 例えば、「僕達一生友達だよね」みたいな台詞を、朔陽が切子に対して言うことは絶対になかった。

 優しくして、距離感を測って、言葉を選び、傷付けないよう気を使う。

 毎日毎日学校に行くたびに朔陽はこの作業を行っていたわけだが、この神経をすり減らす作業ですら、「友達のためだ」と思えば苦にならないのがこの少年である。

 

 彼は告白を待った。

 切子の性格上、告白前に「僕の事好きだよね?」と突きつけ、告白前にフってしまえば最悪の心の傷になると推察できたからだ。

 理想は、切子の恋愛感情の自然消滅。

 次点で、告白を受けた上で極力傷付けないようにフること。

 『告白をOKする』のは最悪である。

 様々な理由があったが、その中で最たるものは――

 

(僕はきっと、切子さんがくれる気持ちと同じものを、切子さんに返せない)

 

 ――悲しいほどに的確な、自己分析の結果であった。

 それは最たる理由であると同時に、最低の理由でもあった。少なくとも、朔陽にとってはそうだった。

 「あなたが好きです」という本気の告白に、「僕はあなたを異性として好きにはなれません」という返答を返せるか?

 そう返したなら、その人間は罵倒されても文句は言えない。

 

 けれども、計算外もいくつかあって。

 まさかこのタイミングで――異世界で――告白されるだなんて思っていなかったから、朔陽は切子に告白された夜に、屋敷で一人悩むしかなかった。

 

「はぁ……」

 

 恋愛とはあまり打算や計算をするべきではない、と朔陽は考える。

 純粋な気持ちで告白して来てくれた子に計算で言葉を返すのは、感情の言葉に理性の言葉を返しているようで、ちぐはぐで、朔陽は罪悪感すら感じてしまう。

 ……けれども、『何も考えず口にした返答で彼女を傷付けてしまったら』と思うと、考えに考え抜いた言葉を返す以外の選択肢など、無いに等しかった。

 

「……はぁ……」

 

 『かもしれない』で言えば、いくらでも可能性が考えられる。

 この状況が続けばクラスによくない影響が出る、かもしれない。

 リーダーの朔陽が一人を格別に特別扱いするかもしれないと思われる、かもしれない。

 こっちの世界の貴族等に変な隙を見せて変な野心を抱かせてしまう、かもしれない。

 魔王軍に居るという心の状態を操れる敵に付け込まれてしまう、かもしれない。

 いくらでも考えられるのだ。

 朔陽は全部の可能性を考えて、ありえない『かもしれない』を頭の中から切り捨て、残りは頭の片隅に置いておかないといけない。

 

「……はぁ」

 

「お疲れな感じだな」

 

「一球くん」

 

 へとへとになった朔陽の頬に、井之頭一球が冷たい水の入ったコップを当てた。

 彼は右手にコップを、左手には野球のバットを持っている。

 ありがとう、と言って朔陽はコップを受け取り、口に運んだ。

 

「あ、美味しい」

 

「だろ? この国じゃ有名な雪解け水なんだってよ。

 山登って、雪をコップに詰めて、雪が溶け切る前に走って帰って来たんだぜ」

 

「なんで君は普通に井戸の水を汲むとかしないの?」

 

 へへっ、と照れ臭そうに鼻の下を拭う一球。

 トレーニングの一環なのだろうが、それにしたって友人にやる水の一杯にかける労力ではない。

 いや、水が美味しいことに間違いはないのだが。

 

「聞いたぞ、木之森に告白されたんだって?」

 

「耳が早いね。誤魔化す意味も無さそうだ」

 

「若鷺から聞いたって言ったら驚くか?」

 

「……あー。告白の時に、盗み聞きされてたのか」

 

 和子が告白を盗み聞きしていて、和子から一球へ、ひょっとしたらもっと広範囲に広がっているかもしれないという事実。

 和子は他人の秘密をペラペラ喋って悦に浸るタイプではない。

 しからば何故ペラペラ喋っているのか、想像に難くない。

 要するに動揺しているのだ、和子は。

 

 朔陽が告白されたどうしよう、となり、顔見知りの人を探してああいうことがあってこういうことがあってどうしよう、と無自覚に言い触らしているわけだ。

 おそらく本人に言い触らしている自覚は無い。

 彼女が言いたいのは「私どうしよう」であって、その過程で告白の事実を語っているに過ぎないからだ。

 ……和子がとんでもなく動揺している姿が、朔陽の脳裏にありありと浮かんできて、朔陽は頭が痛くなってきた。

 

「で、どうすんだ? 断るのか?」

 

「なんで僕が断ること前提なのさ。その意図は何?」

 

(あやべっ、ちょっと朔陽を怒らせたか?)

 

 一球が内心"木之森は悪いやつじゃないがアレだとちょっとな"と、外見を理由に思考していたことを見抜き、朔陽はむっとした。

 

「切子さんは素敵な女性だよ。

 頭も良い、運動もできる。

 気遣いもできるから男女問わず友人も多い。

 木こりの家系で、未開地域や荒廃地域の開拓にはトップクラスの能力がある。

 ちょっと体を鍛えてるのは人を選ぶかもしれないけどさ、それでも……」

 

「俺は胸に胸筋がある子より胸に脂肪がある子がいいんで」

 

「……あー、もー」

 

 一球は巨乳派だ。

 それなりに可愛いor美人の女性で、胸が大きくて、性格が悪くなければほぼ全ての女性がストライクゾーンに入る。

 割りかし適当で、標準的な高校生の恋愛基準であると言えよう。

 けれど、けれども、朔陽は。

 ボディビルの擬人化とさえ言われる木之森切子を思うと、"外見が恋愛で大きな割合を占める"という現実を、安易に受け入れられない。

 

「一球くんはいいやつだってわかってるけど……

 切子ちゃんが一球くんを好きになってたら、切子さんに忠告してたかもしれない」

 

「うおっ、朔陽目怖っ」

 

 一球は人並み程度には、他人への評価に『外見』への評価を加える少年だったから。

 朔陽は今、とても怖い目で親友を見ている。

 

「遊びの恋愛なら体と体だけで繋がろうが知ったこっちゃないけどね。

 恋愛っていうのは、突き詰めれば心と心で繋がるものだよ。

 外見だけで彼女のことを判断するのは、そこから最も遠い行為だ。

 彼女の良さを分かる人は、そう少なくないはずだ。

 でなきゃ、今生きてる人類の多くは相手の心の良さを分からないってことになる」

 

「ぬ、そういう考え方もできるか」

 

「あとは、その心を友として愛するか、女性として愛するかってだけの話だと僕は思う」

 

 恋愛は心と心で繋がるものだから、極論を言えば最終的に『外見』は恋愛に一切関係なくなるはずだろう、というのが朔陽の持論だ。

 美人もいつか老婆になる。

 美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れるとも言う。

 そういう意味では、朔陽の持論は至極正しい。

 正しいのだが、それは、一球の方が間違っているということを意味しない。

 

「木之森がダチにするなら最高の一人ってことは間違いねえ。

 でもなあ、異性関係はちと勘弁だ。

 おっと、一応言っておくと悪口じゃねえぞ?

 俺はあいつをかなり高く評価できる。心底信頼できるクラスメイトだと断言できる」

 

「……」

 

「第一な、朔陽。

 告白にOK出す気無いんだろ? お前。

 そんなお前が木之森が素敵だの、女性として魅力あるだの語っても、説得力ねえよ」

 

「……返す言葉もない。君が、正しいよ」

 

 第三者なら、木之森切子の魅力をいくら語ってもいいだろう。

 切子に惚れた男性であれば、どんなに偏った語り方をしてもいいだろう。

 だが、朔陽はダメだ。

 切子の告白を断る気でいる朔陽に、その権利はない。

 彼女の女性としての美点を語る権利を、朔陽は既に失ってしまっている。

 

「お前が間違ってるわけでもないだろ。お前も正しい。

 木之森を素敵な女性だって言ってるお前の気持ちは本物だしな。

 ……あ、いや、そこんとこどうなんだろうな?

 恋愛なんて皆間違ってて皆正しいようなもんか? 全員本気の気持ちとか普通にあるしよ」

 

 一球はうんうんと悩む。

 朔陽が語っている内容は、正しく木之森切子の女性的魅力を語っているはずなのに、語っているのが朔陽であるせいでその価値を失ってしまっている。

 それは本来おかしなことだ。

 人物評は一つの事実であるはずなのに、それが語るのが誰かによって、その価値が大きく変動する? 何故、そんなことが起きるのか?

 

 『恋愛』は主観の集合体であるために、時にこういった合理に反した事が起きる。

 

「……告白を断る方の人間って、さ。

 罪悪感だらけで、自分が正しいとか、全く思えないんだよね。困った話だ」

 

 はぁ、と朔陽は溜め息一つ。

 完璧な正しさなど滅多に見つからず、他人に"君は正しい"と言われても自分が正しい気がしないのもまた、恋愛というものだ。

 

 朔陽が望めば、なあなあの結末には持っていけるかもしれない。

 適当に誤魔化して、あやふやにして、保留のような現状維持を続けて。

 "異性からの好意が自分に向けられている"という心地の良い環境を、切子の恋心が失われるまでの間、続けることだってできる。

 女の子を、自分を飾るアクセサリーにするように、自分の近くに置き続けることができる。

 切子を都合のいい女として扱うことだって、きっとできた。

 

「切子さんに告白されてドキリともしなかった時点でさ。

 切子さんに好かれてると気付いても、ドキドキしなかった時点でさ。

 ……僕には、切子さんを好きになる資格は無いと思うんだ。絶対に」

 

「朔陽……」

 

 朔陽はそれをよしとしなかった。

 叶わぬ恋を、自分のせいで続けていて欲しくなかった。

 叶うなら、傷付いて欲しくなかった。

 できれば、彼女に少しでも早く『次の恋』に行って欲しかった。

 "男女のまっとうな恋愛関係だけが生む幸せ"は、佐藤朔陽と木之森切子の間には、絶対に生まれないと知っていたから。

 他の男性との間に、その幸せを見つけて欲しかったのだ。

 

 自分のような人間でなく、切子さんに恋をして、ちゃんと愛してくれる男性が、切子さんの恋人になってくれますように……そう、願う。

 心底願う。

 そんな人がいるかどうかも分からないけれど、それでもいつかの未来に、そんな人が切子と出会ってくれたらなと、彼は祈らずにはいられない。

 

 切子が告白という"一区切り"をもたらす『勇気』を出してくれたのだ。

 だからここからは、朔陽が頑張らねばならない。

 切子をできる限り傷付けないように終わらせて、彼女が次の恋に向かうための道標となること―――それが、クラス委員長として、一人の男として、果たさねばならない彼の義務なのだ。

 

「人生ってのは一生難問だらけで、ずっと難問に悩んでいないといけないものなのかも」

 

 誰かに言われからではない。

 何かに背負わされたからではない。

 その義務は、彼が『友達が好きだから』という理由で好きで背負ったものである。

 

「だから、僕にできるのは、もう……

 どれだけ彼女を傷付けずに、彼女の後に繋がる形で、収拾をつけるかってことなんだ」

 

「いいんじゃね? 俺は応援してるぜ、朔陽」

 

「ありがと、一球くん」

 

 好きでやってる苦労なのだ。

 逃げようなんて思わない。投げ出そうなんて思わない。手を抜こうだなんて思わない。

 

「僕も恋したことがないわけじゃないけど……ただ、やっぱり恋は難しいね」

 

「難しいか」

 

「まるで、答え合わせのない難問の問題集だよ」

 

「そうけ」

 

 されど、常に張り詰めている糸は切れるもの。

 その糸が凡庸な素材で出来ているなら、なおのこと切れやすい。

 時々糸を緩めてくれる友人が居なければ、頑張っているだけの凡人が、長持ちするはずもない。

 

「恋愛なんてよ、お見合いで運命の相手探して

 『ご趣味は?』

 『股間を指でスワイプすること、ですね……』

 『奇遇ですね、私もです。私達気が合いそうですね』

 『こんなところで卑猥なスワイプ仲間に出会えるなんて思いませんでした』

 『私もです。ヒワイプ趣味は公言するのも恥ずかしいですからね』

 『あはは』

 『うふふ』

 って感じに、運命の相手見つけて結婚まで行けば良いんじゃね? なんて思うんだが」

 

「それで結婚まで行ったら逆に褒めたいよ」

 

 友人は朔陽という糸を、時々緩めて。

 朔陽は友人が自分の心を救ってくれていることを、ちゃんと分かっていて。

 彼らは一晩中、恋愛という世界で一番面倒臭いものについて、語り合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、一球に他人の告白のことを暴露するということをやらかしていた和子だが、実は朔陽が心配していたほどには拡散されていなかった。

 何故か?

 和子が一球の後に、ヴァニラ姫と会っていたからである。

 

 ヴァニラ姫は和子の支離滅裂でまとまりのない話をちょっと聞き、事情を把握。

 朔陽の今後を鑑みて、告白の事実が拡散しないよう、和子を捕まえてくれていたのだ。

 朔陽がヴァニラの察しの良さに助けられたのも、これで何度目だろうか。

 

「わ、わわ、私どうすれば」

 

「落ち着きなさいませ、ワコ様。

 貴女がすべきことは何もありません。

 告白はキリコ様の権利で、そこから何かをするのはサクヒ様の権利であり義務です」

 

「で、でも」

 

「では、妨害でもなさいますか?

 それとも応援をなさいますか?

 貴女がここから何かするというのは、そういうことです。

 キリコ様の味方をする覚悟か、キリコ様の敵になる覚悟はおありですか?」

 

「……ぅ」

 

「いじわるな言い方をしてごめんなさい。

 でも、色恋沙汰における外野のできることなんて、そんなものなのですよ」

 

 和子は朔陽が告白されて、なんとかしないとと思っている。

 朔陽が取られるんじゃないかと怯えている。

 けれど、他人と朔陽の恋を応援する勇気もなくて、他人と敵対してでも恋路を邪魔しようという勇気もないから、何も行動を起こせずにいる。

 何かをしないと、じゃないと朔陽が取られちゃう、と思いながらも動けない。

 何をすればいいのか分からないから動けないのではない。

 何をする勇気も絞り出せていないから、動けないのだ。

 

「うーん……」

 

「落ち着くまでは、わたくしの部屋に居て構いませんよ」

 

「ありがと」

 

 和子はヴァニラの部屋に招かれ、ゴロゴロする。

 ベッドの上でこれでもかというほどゴロゴロする。

 考えをまとめているのは分かる。

 じっとしていられないのも分かる。

 なのだが、それを見守るヴァニラ姫は、なんだか微笑ましい気持ちになってきた。

 しまいには「あらかわいい」とこっそり呟く始末。

 

「ヴァニラ姫。相手の気持ちを考える、ってどういうことだと思う?」

 

「相手の気持ちを考える……ですか」

 

 ヴァニラ姫は和子の発言の意図を考え、どういった返答を返すべきか考える。すると、和子も姫を真似するように何か考え始めた。

 姫が悩む。和子も悩む。

 曖昧な命題は、明確な問いを出すことを困難にさせてしまうもの。

 

「サクヒはなんだか、それで苦しんでるけど、それをやめることはない気がする……」

 

「恋愛に関することで、ということでしょうか?」

 

「うん」

 

 ああ、なるほど、と姫は手を打った。

 

「この王都にはいくつか学び舎が有ります。

 それぞれの特色は置いておいて、そこにはワコ様達と同じ学生もいらっしゃいますね」

 

「? うん、それがどうかした?」

 

「その学校の一つを使って、一つ例え話をしましょうか」

 

 姫は身振り手振りを混じえて、和子の気を引く話をする。

 

「たとえば……

 顔のいい少年が居ます。

 告白したい少女が居ます。

 二人にはあまり付き合いがありません。

 学校の屋上で少女が少年に告白しました。

 少年は『面倒臭いから付き合うのは嫌』とつっぱねました。

 さてワコ様、貴女はこの状況を見て、何を思いますか」

 

「少年の方死なないかな、って思う」

 

「ええ、ワコ様ならそうでしょうね」

 

「違った。私がこの手でぶっ飛ばしてやる、って思う」

 

「ええ、ワコ様ならそこからそう思うでしょうね」

 

 姫は微笑みを崩さない。

 和子の思考にツッコミを入れないあたり、もしかしたら姫もこの状況なら似たようなことを考えるタイプなのだろうか。

 

「ですがワコ様、少し考えてみてください」

 

「何を? この断り文句は、いくらなんでも酷すぎる」

 

「この少年は、少女のことを好きでもなんでもないんです。

 これから好きでもない人のために、放課後や休日の時間を使わないといけません。

 一人で好きに遊べる時間も、男友達と遊べる時間も減るでしょう。

 恋人を放置するのはただの不義理になってしまいますからね。

 その義務は"告白を受けてしまったら"自動的に発生してしまう責任のようなものなんです」

 

「……あ」

 

「この少年は女性慣れしている、という設定です。

 でないと告白された時に『面倒だから』という言葉は出てきませんから」

 

 和子は、自分がごく自然に少女の味方をしていて、少女の視点で物事を見ていたということに気がついた。

 

「この一件の目には見えない問題は一つ。この女の子が……

 面倒臭い、という気持ちに勝てない程度には、この少年に好かれていなかったということです。

 好感が持てる人物との恋愛関係は、面倒というデメリットを受け入れる価値がありますから」

 

「確かに……少女が好かれていたなら、そんなことは言われないはず」

 

「好きという気持ちは、あらゆるデメリットを無視させます。

 それは告白した方も、告白を受ける方もそうなのです」

 

 告白を受けようとする気持ちと、告白を断ろうとする気持ちの衝突が、告白の時に発生する可能性があるとヴァニラは語る。

 

 つまり姫様は、こう言いたいわけだ。

 切子は、"佐藤朔陽が何もかも投げ出したくなるくらいに彼を心底惚れさせたのか"、と。

 そうであれば、告白にOKは出る。

 そうでなければ、告白にOKは出ないと。

 姫は姫なりに朔陽を理解していて、その上でそう推測していた。

 

 少女の顔が良ければ、スタイルが良ければ、ファッションや化粧が良ければ、少年に対する告白は成功していたかもしれない。

 外見的に好かれる可能性があるからだ。

 少女が普段から少年ともっと話していて、会話の中で少年に好かれていて、少年の好む話をたくさんできていれば、告白は成功していたかもしれない。

 精神的に好かれる可能性があるからだ。

 

 詩織が切子に勧めていた事前に好感を稼ぐ仕込みがどうのという話も、これと同様である。

 告白は、告白前の行動で、その成功率を引き上げることが可能なのだ。

 失敗する告白は、失敗するべくして失敗することが多い。

 

「もちろん、少年の方にも問題はあります」

 

「うん、そりゃね」

 

「女の子の気持ちを考えられるなら、『面倒臭い』なんて普通言えませんから」

 

「女の子の気持ち……あ」

 

「はい、そうです。

 これが相手の気持ちを考える、ということ。

 サクヒ様が四六時中苦労していらっしゃることですね」

 

 ヴァニラ姫は遠くを見るような目をして、困った人を見るような顔をしていた。

 和子は姫の視線の先に、朔陽が居る気がした。なんとなく。

 

「今の例をそのまま使いましょう。

 少女は、少年の気持ちを考えなければならなかったのです。

 そうすれば、告白の成功率は少しでも上昇していたはずですから。

 少年は、少女の気持ちを考えなければならなかったのです。

 でなければ、少女の本気の気持ちを踏み躙ることなどしなくて済んだのに」

 

「だね」

 

「相手の気持ちを考えることは大切です。ところが」

 

「?」

 

「これは突き詰めると、恋愛の問題を解決できなくなる可能性があります」

 

「え」

 

 和子が、ちょっと抜けた感じの声を漏らした。

 

「ちょっと困った話なのですが……

 相手の気持ちを考えた言葉は、自分の本音から離れてしまうんです。

 当然ですよね。相手の気持ちを考えた分、取り繕っているのですから。

 でもそうやって自分の本音を語れなくなると、本音でぶつかれなくなってしまいます」

 

「あー……」

 

「そして、本音でぶつかることでしか解決できない恋愛もあります」

 

「面倒臭っ」

 

「はい、そうです。万能の正解が無いのが恋愛というものなのです」

 

 和子は思った。頭の良い人、周りに気を使う人は普段から大変そうだな、と。

 私はそうならないようにしよう、と和子は強く決意した。

 それは心中の言葉なれど、永遠のバカ宣言に等しかった。

 

「サクヒ様はわたくしほど割り切れていないのかもしれない、と思っています」

 

「むぅ」

 

「サクヒ様は相手の気持ちを考えすぎているのではないでしょうか。

 それは普段は長所です。

 けれど、こういった恋愛が絡む話になると、彼は少し考えすぎてしまう気がします」

 

 胸に苦しみを、和子は感じた。

 

 和子は朔陽の幼馴染。

 幼かった頃は、和子も朔陽の一番二番を争えるくらいに仲が良かった。

 ……けれども、今もそうであるだなんて、和子が言えるはずもなく。

 彼女が引きこもっていた間に、外の世界で時計の針は進んでいた。

 

「……っ」

 

 和子が知らないところで、朔陽は友を作っていた。絆を育んでいた。

 知らないところで女子に好かれ、告白されるような関係を作っていた。

 それを思うと、胸が苦しい。和子は息をするのも辛くなってしまう。

 和子の見ている範囲の中だけでも、朔陽とヴァニラが仲良くなっていく過程を、二人が互いを理解していく過程を見ると、「ああ、こうやって皆と仲良くなったんだ」と思えてしまって、胸の苦しさが増していく。

 昔は私が一番朔陽と仲が良かったのに、と思えば思うほど、胸がきゅうっと締め付けられて。

 

 胸の苦しみが胸の痛みに変わるのを、和子は感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その翌日のこと。

 

「『自然解凍中の肉』を『自然界と宇宙の肉』って言い換えると美味くなってる気がしね?

 あ、しない? そっすか。残念。じゃ、この肉俺が一人で食っとくから」

 

 バカなことを言ってる一球を屋敷に置いていき、朔陽は和子と出立した。

 途中でヴァニラ姫と合流し、王都周辺に存在する森の一つへと向かう。

 今朝、森を切り倒して開拓していた切子から連絡が飛んで来たからだ。

 「大至急来て欲しい」と使いを飛ばすほどに、彼女は切羽詰まっていた。

 

 朔陽、和子、ヴァニラに森で待っていた切子が加わると、空気が変わる。

 息苦しく重苦しい、ちょっと息がしにくい気すらする空気に。

 

(……きまずい)

 

 和子は自分も気不味さの原因となっていることを自覚しつつも、何もできない。

 切子は告白済みで返事待ちだ。

 だから空気を変な風にしてしまうのは仕方がない。

 切子は朔陽を気にしつつも、ここで告白の返事は聞きたくないというオーラを出していた。

 後日場を改めて、ムードのある場所で返事をするのが最適解になるのだろうか?

 ただ、時々顔を赤くして朔陽の方をチラチラと見ているあたり、期待はしている様子。

 

 和子も昨日余計なことを考えたせいか、妙に空気を悪くしている。

 色々と考えていたくせに、切子の恋路を応援することも、切子の恋路を邪魔することもできないまま、朔陽を見る切子を見てオロオロしている。

 本当にオロオロしているだけだった。

 

 朔陽とヴァニラが明るく話題を振っていく内に、空気は徐々に軽くなっていく。

 

「それで、切子さんは何を見つけたの?」

 

「これを」

 

 切子が指差したのは、地下の施設への入口。

 いや、入り口に見えるだけの『地面より低い位置にある二階の窓』だった。

 おそらくは、ここには以前普通に建物があったものの、気が遠くなるほどの長い年月の経過を経て地形が変化し、建物を飲み込んでしまったのだ。

 千年か、二千年か、あるいはもっと長い時間が、この施設を埋もれさせた。

 

 施設を埋もれさせた土の上には木々が生え、やがて森となって施設を覆う土を覆った。

 森の木々を伐採し、切り株を抜く過程で地面を深く掘り下げなければ、この施設は絶対に見つからないようになっていたというわけだ。

 朔陽達は施設に入り込む。

 命の気配も罠の施設もなく、和子がいくら調べても直接的な危険は見当たらない。

 奥の部屋に進んでみれば、そこには天井・壁・床にびっしりと書き込まれた魔法陣があった。

 

 ヴァニラ姫が、思わず息を呑む。

 

「これは……?」

 

「転移の術式です! 世界そのものを歪め、離れた二箇所を癒着させる転移の魔法……!」

 

「と、いうことは、これはどこかに繋がって――」

 

 瞬間。

 

「――るんですか?」

 

 言葉を止める間もないほどの一瞬で、彼らの周囲の景色が変わった。

 魔法陣を警戒して、部屋には入らなかった。

 部屋の外から刺激しないよう魔法陣を眺めていただけだった。

 なのに魔法陣が"いいから来いや"と言わんばかりに発動し、抵抗すら許さないほどに短い刹那の一瞬で、彼らを遠く離れた地にまで転送してしまっていた。

 

「……繋がってたみたいですね」

 

「え……え!?」

 

「な、なんですとっ!?」

 

 朔陽は目を細める。

 和子は状況を理解できていない。

 切子は戸惑い、ヴァニラは国に帰還するための転移魔法の発動準備をすぐさま終えていた。

 姫の手の中で、術式補助の魔道具がカチャリと音を立てる。

 

 その音に気付きもしないほどに、朔陽は周囲の景色に心奪われていた。

 

「凄い……なんだここ……周りが全部、海?」

 

 それは、言うなれば海の底のドーム。

 海の底を半球形にくり抜いたかのような、そんな空間だった。

 ドームの周りを魚が泳ぎ、海の中を陽光がキラキラと照らしている。

 陽光は海水の中で乱反射し、とても美しい景色を作り上げていたが、自ら光る二つの月が放つ光は、乱反射することなくまっすぐに海底まで届いていた。

 太陽と月が並ぶ空は見えることなく、陽光と月光がぶつかる海面だけが見える。

 ここでは海面が空の役割を果たしているんだな、と朔陽は思った。

 

 海面が空なら、海底が地面だ。

 地面の役割を果たす海底はぬかるんでいて、少し気を抜くとスニーカーの朔陽ではすっ転んでしまいそうになる。

 雑草の代わりにサンゴが生えている。

 地上の野生生物の代わりに、両生類がその辺りを歩いている。

 鳥も虫もいない世界を見ていると、妙な非現実感がかき立てられてしまう。

 

 そして、海底に広がる半球のドームの真ん中には、小さな城が鎮座していた。

 

『そこなお客人、いつまでそこに居る気だ?』

 

「!」

 

『せっかく地上と地球のお客人が同時に来たのだ。余の城でゆっくりしていくがいい』

 

 頭の中に直接声が響く。

 直接頭の中に響いたのだから、声が聞こえた方向なんて分かるわけがないのに、何故か四人揃って"城の方から聞こえてきた"と意見が一致する。

 

「サクヒ、どうする?」

 

「……行ってみようか。何か怪しかったら即姫様の転移で逃げよう」

 

「おまかせください、サクヒ様」

 

 ここからダッツハーゲン王国まで一発で転移成功できる自信は姫にも無かったが、城外に逃げる程度なら百発百中で成功させる自信があった。

 四人は、油断なく城に入る。

 半魚人の姿をした使用人が頭を下げて迎えるが、何も喋らない。何も言わない。

 それがかえって不気味だった。

 

「佐藤さん……」

 

「切子さん、大丈夫だから。僕らから離れないようにね」

 

 朔陽に頼りがいと好意を感じている切子をよそに、ヴァニラ姫は城の内部の壁に触れ、細く白い指先で壁をなぞり怪訝そうな顔をしている。

 

「? ヴァニラ姫? どうしました?」

 

「……いえ」

 

 姫の指先に魔術の光が灯る。

 魔術が城の構造材質を調べ上げる。

 姫は"この城がどのくらい昔に作られたのか"を魔術で調べ、息を飲んだ。

 

「この建物、とても古いです。

 極限まで少なく見積もって二万年……最低でも五万年は歴史のある建物です」

 

「ごまっ……!?」

 

「ごめんなさい、正直に言えばわたくしでは正確には分かりません。

 これだけ古いものとなると、一万年単位の測定誤差は当たり前に出てしまいそうで……」

 

 十万年前からあるかもしれない。百万年前からあるかもしれない。

 最低でも、ダッツハーゲン王国建国より前からあることは間違いない。

 それどころか、現生人類の有史以前からある可能性すらある。

 朔陽やヴァニラ程度の者では、この城がいつから存在するのかさえも推し量れないのだ。

 

―――旧きものを探し、生き返った者を探せ。そこに、真実がある

 

 朔陽は信長の言葉を想起する。

 

(……旧きものって……)

 

 もしやという気持ちと、まさかという気持ちが重なる。

 そもそも信長がふわっとしたことしか言ってくれなかったので、朔陽も正直よく分かっていないままぼんやり警戒するしかないのだが。

 突然その辺に事情通の人とか生えてこないかな、と朔陽は期待した。

 生えてこなかった。

 残念。

 

 やがて、彼らは絢爛な扉の前に立つ。

 誰がどう見ても一目瞭然な、この城の主が座す場所へと続く扉だった。

 扉を開き、先に進んだ朔陽達が見たものは。

 

「余は久しぶりと言うべきか?

 それとも初めましてと言うべきか。

 お前達の先祖とはよく知った顔見知りだ、久しぶりと挨拶しておこう」

 

 宝石にしか見えない鱗。

 黄金にしか見えない角。

 神様にしか見えない(たたずまい)

 気軽な口調と裏腹に、神聖さと荘厳さに満ちた雰囲気が、自然と凡人でしかない朔陽の膝を折らせて、(こうべ)を垂れさせる。

 

 それは、人型の竜だった。

 竜が人の姿を真似ている、だなどという失礼な印象は一切持てやしない。

 人より遥かに高貴な存在が、人と話すためにわざわざ人の姿をしてくれているのだ、という感想しか抱けなかった。

 

「余の名は竜王。お前が額を床に擦り付けたいというのなら、余は別に止めんが」

 

「……いえっ、大丈夫、ですっ……!」

 

 朔陽は根性で顔を上げる。

 気合で体を起こす。

 活を入れて膝を伸ばす。

 なんとか精神力のみで、竜王と名乗った男と相対してみせた。

 

「それでよい。不当な圧力には心の力で抗うのが人間よ」

 

 まあ余のこの威圧感は抑えきれず自然と漏れてしまうものなのですまんな、と竜王は笑って謝りくははと笑う。

 

「ここは余の居城、竜goo城」

 

「……竜宮城?」

 

「竜goo城じゃ竜goo城」

 

 竜宮城という名前なら、日本人なら誰もが聞いたことがあるはずだ。だが……

 

「お前達の世界にGoogleサービスを提供しているのは余だぞ。だから竜goo城なのだ」

 

「……嘘ぉ!?」

 

「はっはっは、世界を越えた検索サービス。

 地球にもパシリの会社を置いてあるが問題あるまい。

 それとも何か? 一度も疑問に思ったことはなかったのか?

 昔話の竜宮城とGoogleって一部名前の響きが似てるな、くらいは思ったことがあろう」

 

「ないです」

 

「ちなみにGoogleと無関係のgooとかいうサービスのことは知らん」

 

「え、そっちは関係ないんですか?」

 

 関係ないらしい。

 

「余のライバルが余のGoogleを利用してYahooなるものも広げていたはずだが」

 

「え、あ、はい」

 

「余が竜王ならば奴は覇王。

 世界の壁を越えて色々と張り合っておってな?

 Yahooは『覇王よ(HAOYO)』というあやつの自己紹介をもじったものである」

 

「マジですか」

 

 知りたくなかった事実。

 

「余は多くの平行世界に検索サービスを提供しておる。

 ゆえに、多くの世界の情報を見ることもできてな。

 ハンターハンターやベルセルクが完結した世界線も見定めておるわけだ」

 

「なっ……!」

 

「気に入った作品の作者が死ねば、その作者が生きた別世界を探せばいいだけのことよ」

 

 なんというスケールの大きさか。

 流石は竜王。

 人間の多くが抱える悩み、けれども解決などできるはずもない悩みを、圧倒的スケールの生き方で完全に踏破してしまっている。

 朔陽はそこに、一縷の希望を見た。

 

「あ、あの! そうやって世界を越えることができるなら!

 僕らが元の世界に帰る方法を……世界を渡る方法を、ご存知ないですか!?」

 

「無論、知っている。

 余は全知の竜王。余が知らんことはあんまりない。当然だろう?

 Googleの元締めが全知でないなどありえんわ。最大手の検索サイトだぞ?」

 

「すみません、僕はその理屈に微妙に納得できないです」

 

「ふむ、分かりにくかったか。

 ならばこう答えよう。

 Googleを生み出した者が、Googleに知識量で負けるとでも思ったのか?」

 

「余計納得できなくなりました」

 

「余に説明を苦心させるとは、貴様も困ったちゃんよのう」

 

 Googleとは、全知の竜が配信する万知の検索エンジンである。

 普段から竜王に感謝して使うべきものなのだ、本来は。

 

「余はなんでも知っておる。頭に抱えた秘密も、胸に秘めた想いも、心に隠した苦悩も」

 

 竜王は切子を指差した。

 

「惚れた男をどう振り向かせればいいのかの正解も」

 

 次に、和子を指差した。

 

「どうすれば臆病な心に勇気が宿るのかも」

 

 そして、ヴァニラ姫を指差し。

 

「数十人を一度に元の世界に返す方法も」

 

 最後に、朔陽を指差した。

 

「仲間を誰も失うこと無く、全てを円満に終わらせる手段もだ」

 

 息を飲む四人の前で、竜王は神々しく笑う。

 

「余の試練を超えたなら、一つは話を聞いてやろう。余に願うも問うも、好きにするがいい」

 

 神か、悪魔か。

 彼は竜の王と名乗ったはずなのに、朔陽の目には彼が神か悪魔にしか見えない。

 

「ここは竜goo城。

 多くの世界に繋がる、複数の世界に接点を持つ世界。

 お前達の先祖は、かつて無償の愛で何かを助け、余に資格を与えられた。

 余の試練を越えることで、余の助力を得るという資格である」

 

 そのくせ、竜王の笑みはとても優しげで。

 

「お前達は、余がかつて愛した者達の子孫だ。

 凡庸でもいい、素晴らしいものを見せてくれ。

 まだ人間は滅びるべきものではないと、また余に教えて欲しいのだ」

 

 昔の友人達の孫を見るお爺ちゃんのような、そんな目をしていた、

 

 

 



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その2

 昔はちょくちょくお気に入りや評価などにお礼を言っていたのに、最近はほとんど言っていないクソ野郎になっていることに気が付きました。
 お気に入り、感想、評価、推薦など色々とありがとうございます。
 ひとつひとつが励みになっていて嬉ピーです。


 竜王の試練とは何か?

 朔陽は血を血で洗うような凄惨なものを想像していた。

 危ないものであれば、皆の参加を止めるのは自分の役目であるとも思っていた。

 ……思っていた、のだが。

 

「余に恋とか愛を語るがよい」

 

「は?」

 

「分かり辛かったか? つまり、愛議論や砂糖菓子のような恋への想いを語れということだ」

 

「あ、はい、そうですか」

 

 竜王の試練は、大山を殴り壊すことよりも難易度が高く、小さな砂糖菓子をつまみ潰すことよりも難しいものだった。

 できない人はできない。

 得意な人は息をするようにできる。

 そういうものだ。

 

「余が満足するか納得すれば、合格点をやろう。その時は余の助力を一つ受けるがいい」

 

 愛を語るか、恋を語るか。

 

 朔陽達の前に提示された選択肢は、淡く儚いようで、深く混沌としたものだった。

 

 

 

 

 

 竜王は彼らに考える時間と、複数の部屋を与えた。

 各部屋に飲み物と駄菓子も完備されていて、竜王の細やかな気遣いが窺える。

 

「このベッド……柔軟剤を使ってありますわ、サクヒ様」

 

「どうでもいい情報をありがとうございます、ヴァニラ姫」

 

 本当に気遣いが細やかだ。

 部屋の隅には(コロ)(コロ)コミックなる謎の雑誌も置かれている。

 暇潰しのために置かれているのだろうか?

 

 切子は別の部屋に行った。

 告白の返事が怖くなったのか……あるいは、竜王に"朔陽に好かれる方法"を聞いてそれを実行するまで、告白の返事を聞くのを先送りにしようとしたのか。

 和子も居ない。

 切子とも朔陽とも、今は顔を合わせたくないのかもしれない。

 なので朔陽とヴァニラ姫は、二人で部屋の中のものを物色しながら話し合っていた。

 

「サクヒ様。わたくしは、あの竜王という存在を人の口から聞いたことがありません」

 

「やはり、そうですか」

 

「けれども、伝承に似た存在が語られているのを文献に見た覚えがあります」

 

「文献に?」

 

 遠い、遠い昔。

 竜は世界の支配者であったという。

 竜は何かと戦い、勝利し、逃げるようにしてどこかへと去っていった。

 ある竜は世界の裏側へ、ある竜は世界の片隅へ、ある竜は世界の狭間へと。

 竜はかつて竜の王国に住まい、竜の王を戴いていたという。

 

「この文献は辺境の部落の言い伝えを文章化したものだと言われています。

 一部の学者はこの言い伝えにとても興味を持っているそうですよ?

 ドラゴンがこの世界で最も優れた生命体というのは、周知されて久しいですから」

 

「え」

 

「? どうかしましたか?」

 

「あ、いえ、少し新鮮な感じがしまして。

 地球だと人間は、人間こそが万物の霊長(最も優れたもの)だと言ったりもするので」

 

「地球は面白い世界なのですね」

 

 人間が生態系の頂点であると自然に考える者が多い地球が変、と一概には言えない。

 そも朔陽は、この世界で竜がぞんざいに扱われているのを何度も見ているのだ。

 ドラゴンを縛り上げて無理矢理口から食事を押し込み、脂肪肝にして作る高級食材フォアドラの作成を見た。

 「黒い袋に生ゴミ入れておくとドラゴンに見つからないらしいわよ」「あらやだまたゴミ袋が破られて荒らされてる」「生ゴミがドラゴンに食べられてるわ」「駆除依頼しないと」のノリで害獣駆除されるドラゴンも見た。

 この世界に来た初日に、朔陽達も一匹仕留めている。

 

 この世界の人間に、竜がそこまで評価されているのが、朔陽には意外だったのだ。

 

「この世界で一番優れた生命体は、ドラゴンです。

 人間より遥かに優れた脳を持ち、人間より遥かに長生きで、人間よりも賢明です。

 身体能力的にもドラゴン以上の存在はそう居ないのではないのでしょうか?

 魔力量もとても高いですし……生命単体で見れば一番優れていますね」

 

「なるほど」

 

 人間にも多くの特徴があり、ゆえに地球は人間の楽園と化した。

 姫の説明は、人間の優れた部分を上げる過程に似ている。

 

 人間は二足歩行で指先が器用だから、道具を使う・開発するというオンリーワンの個性を得たのだ、とか。

 人間は高性能な脳を使うための身体構造ゆえに強いのだ、とか。

 他の生物は環境に適応するが、人間は自分に適応するよう環境を変えるという点で強いのだ、とか。

 優れた点を挙げていけば、誰もが"人間が地球の頂点に立った理由"を理解できる。

 

「ヴァニラ姫の説明で竜の強みは分かりました。

 でも今の地上の生態系のトップは、人類と魔族の二種ですよね?」

 

 逆説的に、ドラゴンの優れた点を挙げれば上げるほど、ドラゴンが地上の支配者でない理由が分からなくなってくる。

 

「人間と魔族はよく増えるから、と言われますね。

 よく増えて、他の生物の生息圏を押し潰すため、竜が文明を作る土地を確保できないのでしょう」

 

「文明……ああ、なるほど。

 竜の身体の大きさなら、街一つでも相応の面積が必要そうですね」

 

 今の竜は、地上で展開される文明を持たない。

 獣と変わらぬ生態で、自然の中を思うままに生き、時たま異性を見つけては本能のまま子供を作り、ふらりふらりと散っていく。

 竜の知能は高いのだろう。

 だが知識がない。

 竜から竜への知識の継承が行われていないため、竜の多くは獣の域を出ることなく、頭の良い野生動物の範疇を抜け出せていないというわけだ。

 

 人間が人間らしさを保てているのは、書物などを通して"体外に知識を残す"という文明の長所を利用できているからだ。

 "人間らしさ"というフォーマットを、『教育』に与えられているからだ。

 平均では百年も生きられない生物のくせに、数千年前の人間が残した知識と経験を継承することが可能であるということが、人の強みであるからだ。

 

 もしも、言い伝えが真実であるのなら。

 かつてこの世界の地上には、竜の文明があり、竜の国があり、竜の王が居た。

 それが何らかの理由で滅び、時が流れて今に至る……ということになる。

 であれば、地上に今生きている竜の子孫が、かつて自分達が文明を持っていたことすら忘れ、ただの獣として生きるようになってしまうほどに、長い時が流れてしまったのかもしれない。

 

「竜の国に、竜の王、その滅亡……か」

 

「気になりますね。わたくし達が聞いても答えてくださるでしょうか?」

 

「僕はちょっと気が引けますね。

 王が地上の竜の現状を知らなかったら、と思うと、あまり知られたくないというか」

 

「ですが仮にも全知を名乗っていた方です。

 地上の竜のことくらいご存知なのではないでしょうか」

 

「うーん……」

 

「相対したわたくしには分かります。

 竜王と名乗ったあの方は王の器です。

 仮に知らなかったとしても、地上の竜の現状を飲み込める方ではあるはずです」

 

 竜王という王に対する人物評価は、朔陽のそれよりも、ヴァニラのそれの方が正しかった。

 

 

 

 

 

 朔陽と姫が話していると、竜王からの呼び出しがあり、朔陽は一人でそこへ向かった。

 

「余は暇だ余。何か面白い話してくれ余」

 

「そんなラッパーのYOみたいなノリで一人称使われても」

 

 常に纏われている神聖な雰囲気を台無しにしている竜王に、朔陽はそれとなく探りを入れつつ、過去の竜と今の竜について訊いたり話したりしてもいいものか考える。

 だが、竜王からすれば小賢しい気遣いでしかなかったようだ。

 朔陽の意図をすぐさま見抜き、くくくと笑う。

 

「ああ、それは知っている。

 なんだ、余に気を使ったのか? 愛い奴め。

 だが余を気遣うなど一万年早いわ、出直してこい若造」

 

 朔陽は急に恥ずかしい気持ちになった。

 器の大きな王様に、身の程知らずに的外れに気を遣って、全て王様に見抜かれた上でからかわれたことが、無性に恥ずかしかったのだ。

 

「余は全知である。

 間違いなく全知ではあるが、この竜goo城は一つの完結した世界でな。

 余の全知はこの中では十全に働かん上、余はこの海底世界から出られんのだ」

 

「え……ここから出られないんですか?」

 

「うむ。できることと言えばここと別世界を繋ぐ穴を空けるが関の山よ。

 穴からここに落ちてくる者も居る。

 その穴は損得勘定抜きで何かを助けた者か、その子孫だけがくぐれる穴でな……」

 

「浦島太郎さんも亀を助けて異世界に行くとか想像もしてなかったでしょうね……」

 

 要するに竜王基準での"いい人"か、その認定を受けた者の子孫だけが、別世界からこの海底世界に来ることができるようだ。

 穴の一つは地球にも繋がっていて、過去にここに来た者も居る様子。

 この言い分だと、竜王が直接地球に行ったことも無いのかもしれない。

 

「その穴を通って僕ら地球に帰れたりしませんか?」

 

「無理だな。穴というのは、通れるものと通れないものがある。

 鍵穴は鍵が通るもの。

 法律の穴となれば通れるものは更に限られる。

 貴様が今言ったことは、他人の尻の穴に頭から入ろうとするようなものだ」

 

「何故わざわざ尻の穴で例えたんですか?」

 

 そうそう上手くはいかないらしい。

 朔陽としては、この気安いように見えて手強い竜王から、何かしら後に繋がる情報を聞き出したいところだ。

 

「余は全知なれど、今はその全知も完全ではない。

 更にはお前達に全てを語る義務もない。

 余は語りたいように語る。

 貴様が余に望むことを語らせたいなら、余の試練を越えることだな」

 

「……つまり」

 

「赤裸々な恋バナを聞かせるが良い、と言っているのだ。

 言わせるな恥ずかしい。自重せよ下郎め、ふはははははは」

 

 いい空気吸ってるなこの人、と朔陽は思い、やるせない気持ちになった。

 

「だが、この欠損した全知も、未確定の未来をおぼろげに見るくらいはできる」

 

「!」

 

「貴様にとっては未知の未来。

 余にとっては既知の未来だ。

 貴様が明日に見るものは、余が昨日に見たものでもある」

 

 頬杖をつき、竜王は語る。

 

「過去は忘れることもできよう。消すこともできよう。

 だが未来は必ずやって来る。

 過去からは逃げられても、未来からは逃げられん。

 お前達の未来には、お前達の未来を奪わんとする恐ろしいものが立ちはだかるだろう」

 

 その目は、朔陽達が近い内に戦うであろうもの、その内戦うであろうもの、そして最後に戦うであろうものまで見通していた。

 

「その時、その聖剣が役に立つ」

 

「……この聖剣が?」

 

「遠い遠い昔。

 全ての父たる創造神は、世界の卵を創りたもうた。

 卵は孵り、世界の雛はやがてこの世界へと成長した。

 世界の雛を包んでいた卵の殻は二つに割れ、殻は端から千々に砕けていく」

 

 朔陽が聖剣を手に取ると、その柄がじんわりと熱を発しているような気がした。

 

「砕け落ちた殻は創造神の嫡子に導かれ、各々別種の命へと分化していった。

 新たな命が生まれるということは、殻の端が砕け、世界に落ちるということ。

 左右に割れた二つの殻は、命を世界に産み落とすたび、小さなものになってゆく」

 

 大きな殻があった。

 その殻の端が砕け、世界に満ちる命になった。

 殻の欠片を世界に落とした、大きな二つの殻は今。

 

「殻の端が砕け、砕け、砕け……二つの殻は最後に、聖剣と魔剣になった」

 

「え……この剣が?」

 

「そう、その剣だ」

 

 形を変えて、朔陽とスプーキーの手の中にある。

 

「ぞんざいに扱っても壊れはしないが、大切にするがいい。

 その聖剣がそこに在るだけで、未来は不確定になるからな」

 

 竜王の知識量に、朔陽は心中舌をまく。

 同時に、竜王への敬意もむくむくと膨らんできた。

 

「ありがとうございます。

 試練を越える前から忠告してもらって、ありがたいやら申し訳ないやら……

 今なら疑問に思うこともありません。この試練にも、大事な意味があるんですよね」

 

「いや、試練は恋バナじゃなくとも別によかったのだが。恋バナにしたのはなんとなくだ」

 

「え」

 

「だって余、色恋沙汰とか大好きだし……」

 

「そんな理由!?」

 

「生涯など楽しむことが第一で、それ以外のものは些事よ。

 人生を楽しんだ者が勝ち組で、それ以外は全て負け組だ」

 

「極論っ……!」

 

 くくく、と竜王がまた笑う。

 

「恋愛というのはいいものだ。

 綺麗な恋愛も愛されている。

 醜い恋愛も愛されている。

 一夫多妻も、一対一の純愛も、くっついたり別れたりの恋模様も愛されている。

 人間には、その恋愛を好む権利も嫌う権利も許されているのだ。

 それは"あいのかたち"の多様さを認めようとする、人間の美徳の具現であろうな」

 

 それは、竜王の持論。

 

「お前だけには種明かしをしてやろう。

 他の者にはバラすでないぞ?

 余が欲しいのは、貴様らがこの先ちゃんと幸せになれるという確信なのだ」

 

 "誰も愛さない者よりも、惚れた一人の女のために戦う男の方が、恋した少年の為に戦う少女の方が、ハッピーエンドに辿り着く確率が高い"。

 竜王はこの馬鹿げた仮設を信じている。

 それは、経験則から来る確信だった。

 

「他人も自分も幸せにできる者は強い。

 貴様らが未来の困難を越えていく強さを備えているか、余に見せてくれ」

 

(……すんごい行動原理で動いてるなあ、この王様は)

 

 問題なのは、朔陽が恋バナや愛の話を不得手とするため、このジャンルでは竜王の試練を越えられそうにないということだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の中で城の構造材を姫が調べていると、音もなく和子が戻って来た。

 

「おかえりなさい。サクヒ様は竜王様のお部屋の方にいらっしゃいますよ」

 

 和子はきょろきょろと部屋の中を見回して、朔陽がどこかに隠れていないか緻密に調べ上げ、本当に朔陽が居ないのだと確認すると、ほっと息を吐く。

 そして、ベッドに倒れるように突っ伏した。

 朔陽か切子が居たらまた部屋を出て行く気だったのだろうか?

 ヴァニラ姫だけが佇む部屋で、和子はふかふかのベッドに横たわり、んーと背筋を伸ばす。

 

「大丈夫ですか?」

 

「……ん」

 

 ふかふかのベッドに、小柄な和子の身体が沈み込む。

 黒い長髪が白いシーツの上にばらっと広がり、和子は何かを考えながらぼーっとする。

 その内じーっとヴァニラ姫を見るようになった。

 和子の視線は、和子の髪とは対照的な色合いの、姫の銀髪を見つめている。

 やがて、姫と和子の視線がぶつかった。

 

「試練、越えられそう?」

 

 和子が姫に向けた問いかけは、嫌味や含みがあるわけでもない、純粋な疑問であった。

 和子が姫に向ける敬意と好意の混ざったような気持ち――ヴァニラ姫なら何でも解決できるだろうという人物評価――が、垣間見える問いかけだ。

 

「わたくしは……月並みなことしか、言えそうにありません。ワコ様はどうですか?」

 

 姫はその期待に苦笑する。

 そして、自分にあまり期待しない方がいいと暗に言う。

 お姫様である彼女に自由恋愛の経験などあるはずもなく、彼女は知識としての恋愛を教え込まれてはいるものの、彼女も役に立つか微妙なことに変わりはなかった。

 姫が和子へと問いを返したのは、ヴァニラ姫にも実感として恋愛が理解できていないからなのかもしれない。

 

「サクヒは変わったな、って思う」

 

 和子はベッドの上で仰向けに、天井の向こうを見つめるように、天井を見上げる。

 

「……私が知ってた昔のサクヒはもう死んでて、今のサクヒは何度も生まれ直したんだと思う」

 

「死んだなどと大げさな。人は誰しも時の流れと共に変わるものでしょう?」

 

「そうかもしれない。でも、そうじゃないのかもしれない」

 

 人は変わる。

 変わらずにはいられない。

 若い内は尚更にそうだ。

 人が変わるということは、違う言い方をするならば、今の自分を殺して新しい自分を生み出すという行為である。

 

 だからこそ、人は時に思うのだ。

 変わるのが怖いと。

 未来の自分がどうなっているかが怖いと。

 今の自分が別の自分になるのが怖いと。

 それを怖がる者も居れば、怖がらない者も居る。

 

「この人の影響で変わりたくないな、って思うことがある。

 この人の影響なら変わってもいいな、って思えることがある。

 自分を変えたいという気持ちは、今の自分がそこに在ることを許せない自殺。

 他人を変えたいという気持ちは、その人がそこにいることを許せない他殺のようなもの」

 

 和子は見てきた。

 過去の自分を、過去の朔陽を。

 今の自分を、今の朔陽を。

 変わっていく朔陽を、何年も変わらなかった自分を。

 引きこもりだった彼女には、変わることと変わらないことの差異がよく見える。

 

「恋をしたら……その人のために、その人に好かれる自分に変わりたいと、自然と思う」

 

 本気で変わろうとする決意と、死を覚悟する決意が等しく、恋をするということが、誰かに好かれる自分になろうとすることならば。

 

「だから、『この人になら殺されてもいい』っていうのが……恋で、愛なんじゃないかな」

 

 若鷺和子にとっての恋とは、その人のために死ねるということと同義である。

 

「……」

 

「うん」

 

「……ワコ様」

 

「サクヒになら、殺されてもいいかな」

 

 その人に殺されても、何も恨みはしないということと同義である。

 

「愛とは、その人に殺されてもいいと思えることだと、ワコ様はおっしゃられるのですか?」

 

「何か事情があって……

 その人に私が殺されないといけない、ってなった時……

 私がその人を許せるなら、愛してるってことなんじゃないかな」

 

 親子の愛でもいい。

 親友同士の友愛でもいい。

 恋人の間にのみ生まれる愛でもいい。

 その人のためならば死ねる。その人のためなら殺されてもいいと思える。

 それが愛であり、恋であると……和子は語った。

 

 

 

 

 

 木之森切子は、精神面だけを見ればごく普通の少女であると言える。

 個性があるのは、大木のように太いガタイに、大木を切り倒して生計を立てる木こりの家系の人間であるという点くらいか。

 こと開拓力において彼女の右に出る者はいまい。

 ただし、朔陽も認める彼女の長所の数々は、何一つとして彼女の恋路に役立たない。

 

「……」

 

 ある部屋で一人、切子は膝を抱えてうずくまる。

 

(誰にでも優しい人を、優しいから好きになる、か……)

 

 2m近い筋肉の巨体は威圧感を発し、しょぼくれた心は落ち込んだ小動物のような雰囲気をまとい、その二つが矛盾せず並立していた。

 

(それは、顔がいい人をそれだけで好きになるのと、どう違うのだろう)

 

 恋は悩むもの。

 つまらないことで悩むことだ。

 それはいつの時代も、当人にとっては大事なことで、外野から見ればくだらないこと。

 

(佐藤さんの優しさは、誰に対しても見せる顔みたいなものなのに……)

 

 恋は、トントン拍子に上手く行っていれば悩むこともなく有頂天になれるが、少しでも悩む要因が生まれてしまえば、ドンドン不安になってしまう。

 

(せめて、あてが佐藤さんの特別な顔を見れる人間だったなら……

 佐藤さんに、あてにしか見せない顔があったなら……

 その顔を、その一面を、好きになれていたなら……

 もしかしたら……こんな風には思わなかったのかも、なんて……今更……)

 

 頭の中に余計な思考が発生する。

 それを振り払う。

 けれども一つ思考を振り払うたび、余計な思考が一つ生まれてしまって。

 堂々巡りの思考の中、切子は現実逃避のように、竜王の言葉を思い出していた。

 

(佐藤さんに好かれる方法。知りたい。それがあれば、あれでも、もしかしたら……)

 

 告白に成功したら嬉しいという気持ち。

 告白に失敗したら嫌だという気持ち。

 自分を好きになって欲しいという気持ち。

 自分を好きにさせたいという気持ち。

 全てが、試練に挑もうとする切子の背中を押している。

 

(ああ、辛い、友達に相談したい……でも、あてのことだから、あてが決めないといけない)

 

 切子は漠然とした"彼の役に立つ何か"になりたいわけではない。

 彼にとって都合のいい女になりたいのではない。

 彼と関係を持つ女になりたいのではない。

 彼が一番頼りにする者になりたいわけでもない。

 

 ただ、彼に好かれたいのだ。

 彼に好かれる者になりたいのだ。

 それを恋人関係という分かりやすい形に、実体を伴った形にしようとしている。

 

(嫌われたくない、好かれたい、彼の特別な人になりたい、特別に扱われたい……)

 

 竜王の試練さえ越えられれば……都合のいい女にならなくても、都合のいい女になる以上に容易に、彼と関係を持てるかもしれない。

 

 好きな人に、自分と同じ気持ちを感じて欲しい。

 好きな人と同じ気持ちを共有したい。

 好きな人と同じ景色を見ていたい。

 朔陽が切子を好きになれば、切子のそれらの願いは叶う。

 切子が朔陽に抱く気持ちを、朔陽も切子に対し抱くようになるからだ。

 

(……佐藤さん)

 

 恋の形は人それぞれ。

 切子が抱く恋の形は、強いて例えるのであれば、幸せという宝の場所を記した宝の地図だった。

 

 それは幸せに至る地図。

 見ているだけで嬉しい気持ちになってくる、宝の地図だ。

 幸せというキラキラした宝物が、いっぱい詰まった宝箱が、その地図の示す道の先にある。

 目的地まで歩く途中、幸せじゃなくたっていい。

 その地図に導かれるまま行けば、導かれるまま生けば、いつかは目的地(しあわせ)に辿り着けると地図が教えてくれているからだ。

 

 切子は、その地図が大好きだった。

 幸せに導いてくれる地図が好きだった。

 その地図にありがとうと言えば、「僕は導いてるだけだから」と言うだろう。

 「君に必要なものは、君が頑張って見つけた宝箱の中にある」と言うだろう。

 けれども切子は、その地図の方に恋をした。

 その地図と一緒に、宝物(しあわせ)を見つけたいと、そう思ったのだ。

 

「……佐藤さん」

 

 そのつぶやきは、部屋の中の虚空に溶けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな切子の想いを、苦悩を、朔陽は完全でないにしろ理解している。

 彼は城のテラスにて、一人溜め息を吐いていた。

 彼女の気持ちを理解して、切子を今も苦しませてしまっていることに苦悩している。

 一球がここに居たなら、また何か言っていただろう。

 告白を受ければ彼女が喜ぶと知った上で、その告白を断ると決めておいて、彼女が恋に苦しむことに胸を痛めるなんて、いくつ矛盾しているか分からないくらいだぞ、と。

 

「……はぁ」

 

 それでも、朔陽は切子の前では溜め息をつかない。

 暗い顔も悩んだ顔も、彼女だけには絶対に見せようとしない。

 

(頑張らないと。

 彼女に、"告白は迷惑だったんじゃ"なんて思わせちゃいけない。

 彼女に、"自分のせいで悩ませてるんじゃ"なんて思わせちゃいけない。

 喜ぶんだ。喜んだ顔を見せないと。

 告白したことを、後悔させたくない。

 彼女の恋を後悔で終わらせたくない。

 彼女に異性として好かれたことを、嬉しく思った僕の気持ちは、本物なんだ)

 

 相手の気持ちが分かることと、相手を傷付けないことはイコールではない。

 相手の想いが分かることと、相手の想いに応えられることはイコールではない。

 朔陽は切子の想いを知っても、心揺らがず冷静に対処しようとしている。

 だが、少女の告白を心揺らがず冷静に対処しようとしている時点で、自分はその告白に応える資格は無いと、そう理解してしまっていて。

 

「上手い断り文句、上手い断り文句……ダメだ、思いつかない」

 

 女の子の気持ちが分かるか、と言われれば微妙で。

 友達の気持ちが分かるか、と言われれば間違いなく秀逸で。

 気持ちが分かれば傷付けずに済むのか、と言われればきっとそうでもなく。

 誠実に、真摯に、頑張って考えて応えるしかない。

 

「お、浦島じゃーん。お前また来たの?」

 

「え?」

 

 テラスで黄昏れる朔陽に、亀が話しかけてきた。

 亀。

 そう、亀である。

 

「あり? お前、浦島じゃないな。

 浦島はもっとブサイクだったよなァ」

 

「あの、あなたは……?」

 

「あー気にすんな気にすんな。

 鶴は千年亀は万年。もしかしたらお前の先祖に会ってたかも? 的な? 亀だと思え」

 

「はぁ」

 

「いやよく見ると全然似てねえな……

 子孫ですらないかも……

 ただ襟足だけは双子かってレベルで似てるな……」

 

 二足歩行の亀。

 日本語を喋る亀。

 タバコまで吸っている。

 ちょっと考えればその亀の正体は分かりそうなものなのだが、朔陽は考えないようにした。

 

「ううん? 違うな。似てるのは襟足以上に雰囲気か」

 

「ええと、僕が何かしましたか?」

 

「何かしたんじゃない、してるんだろう、普段から。

 だからオレも見間違えたんだ。

 お前らは人助けを苦にしないっつーか、なんとなくで手を差し伸べる人種だからな」

 

 亀がまだ残りが多そうだったタバコの火を揉み消す。

 ……朔陽はそこに、"子供の前だからタバコを吸うのはやめよう"という亀の気遣いを感じ取る。

 

「特に強くもなく、さして賢くもなく、優しいくらいしか取り柄がなかった。

 世界を救うなんて到底無理そうで、人を救うのは得意そうな雰囲気があった。

 お前と浦島は、まあ、なんというか……そういう感じの雰囲気が、そっくりだな」

 

「その……浦島というのは」

 

「お前の先祖かもしれんし、お前の先祖じゃないかもしれん。

 人助けしか能が無い奴だった。

 人以外も助ける奴だった。

 もうとっくにくたばっちまった、オレの唯一の人間のダチ……つまんねえ男の話だ」

 

 亀は、万年の人生経験から、朔陽を導く言葉を紡ぐべく、口を開く。

 

「よう坊主。いいか、男ってのはな―――」

 

 

 

 そして、空から降って来たサメに食われた。

 

 

 

「―――ぬあああああああああああっ!?」

 

「か、亀さーんっ!?」

 

 巨大なサメであった。

 4~5mはありそうに見える。

 その歯は鋭く、強固に見えた亀の甲羅にガッツリ食い込み、今もバリボリと噛み砕こうとしている。

 空から落ちて来たように見えるが、ここは海底なので普通に海から落ちて来ただけである。

 

「うおおおおおおおおおっ!? た、助けてくれッ!!」

 

「い、今すぐに! ちょっと待っててください!」

 

 朔陽は聖剣を抜いて斬りかかろうとする。

 なのだが、サメが尾を軽く振っただけで、べチーンと叩きのめされてしまった。

 

「あだっ」

 

 ぐわん、と脳が揺れ、当たりどころが悪ければ首が折れていたであろうダメージが通る。

 されど朔陽は諦めず、再度聖剣で切りかかった。

 

「うわっ!」

 

 だがその瞬間、サメが亀を咥えたまま瞬間移動したではないか。

 振り下ろされた聖剣は空振ってしまう。

 

(まるでハワイの神話のサメだ……)

 

 ハワイの伝説には多くのサメ、サメの神、サメと人間のハーフが登場する。

 彼らは伝承の中で度々島から島へとワープするのだが、朔陽が今相手取っているサメはそれと同じく、一定の距離ならばワープできるようであった。

 

「坊主! こいつは現魔王のペットのサメだ!

 とうとうここを見つけ……あ、ああだだだっ! 助けてくれぇ!」

 

「さっきまでかっこよかったのに急に情けない声出して来ましたね!?」

 

「今、魔術でコイツの動きを止める! 『アリルマ』!」

 

 亀が中級の水魔術を使い、精製された氷の柱がサメの体の一部を床に固定する。

 これで瞬間移動を使われる心配もなく、へなちょこ剣士の朔陽でも斬り殺すことができる。

 

(よし、これなら……)

 

 朔陽が踏み込み、剣を振り上げ……そこに、サメが何かを吐き出してきた。

 光沢のある白色の結晶。

 朔陽は踏み込むのをやめ、聖剣を盾のように構えて受け止めに行く。

 

「! あだだだだっ!?」

 

 急所を庇っているつもりで庇えていない朔陽の構えを、聖剣が補正する。

 攻撃を受け止める度に聖剣を手放しそうになる朔陽の手を、聖剣の柄が掴む。

 謎の結晶は、輝く剣の光に受け止められ片っ端から無力化されていた。

 

(これは……ヘキサメチレンテトラミン! 膀胱炎の特効薬!)

 

 これは、股間の痛みの心強い味方だ。

 朔陽は結晶を聖剣で防ぎ、急所は守れているものの手足にビシバシ当たる結晶の痛みに表情を歪めながら、一歩ずつ接近する。

 そして、剣が届く距離にまで至った。

 

「くっ、このっ!」

 

 瞬閃、とまではいかない、彼なりに精一杯の斬撃四連が放たれる。

 (シャーク)の字の形に腹を切り裂かれたサメは、そのまま絶命した。

 甲羅がケツデカおばさんに乗られた後のせんべいのようになった亀が、サメの口の中からよろよろろ這い出してくる。

 

「た、助かった……感謝するぞ、坊主」

 

「いえ」

 

 朔陽は空を……否、ドームの頂点を見つめる。

 

 そこには、このドームの周辺を泳ぎ回る黒い影がいくつもあった。

 

(サメの花言葉は……『お前を殺す』、だっけか)

 

 サメの花言葉は『お前を殺す』だが、サメの宝石言葉は『価値のある映画』だ。

 日本人は、名作駄作を問わずサメ映画を好む傾向にある。

 ゆえに、日本人に対してサメは天敵だ。

 日本人とサメは傾向の影響で相性が悪い。

 

 ハワイを始めとするポリネシア神話において、人はサメと同一視される。

 サメと人の間に子供が生まれ、死んだ人の魂はサメへと変わる。

 それは、日本でもそうだ。

 伝承においては、最初の天皇・神武天皇の祖母はサメだったとされている。

 日本でもサメと人間は子作りできる存在であると、神話に語られているのである。

 

 日本人の遺伝子には、今もサメの遺伝子が連綿と受け継がれており……だからこそ、出来の悪いサメ映画をも愛してしまうのだと、科学的に証明した科学者は多い。

 日本人はサメが大好きだ。

 それは遺伝子が好きだからだ。

 主人公がサメ、敵がサメ、サメをモチーフにしたロボ、サメを題材にしたモンスターパニック、サメを模した武器……創作であれば、枚挙に暇がない。

 

 シャーロック・ホームズ、略してシャークもその正体はサメだったのではないか、と推測する小説研究家も現代においては少なくない。

 日本でも学生達の手元から伝統のある鉛筆が消え、芯を補充するだけで使える便利なシャークペンシルが学生の相棒となって久しい。

 サメは人類史と共に在る重要な生物だ。

 少なくとも、地球においてはずっとそうだった。

 

「多いっ……!」

 

 相性が悪いが、放置もできない。

 何せ、亀が現魔王のペットと呼んだそのサメ達は。

 信じられないほどの数で、朔陽の居る海底ドームの周辺を包囲していたのだから。

 

 

 



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その3

 魔王が飼っているサメは、一匹のサメを頂点とする軍団である。

 軍団の長の名は、魔王海軍将・サメイラム。

 魔将とは別枠に、名誉職のような扱いで将の名を与えられたサメであった。

 

 サメイラムはサメ軍団の頭脳として機能して、サメの軍団を手足のごとく操り、海底ドームへと次々と突撃させている。

 すると、時々ドーム内部に突っ込んで来る個体もいるわけだ。

 当然のように泳ぎもすれば走りもするサメを、一匹一匹聖剣を手にした朔陽が切り捌いていく。

 

「両手で振れ! 一閃する度に身体が流れているぞ!」

 

「はい、亀さん!」

 

 サメは強い。

 朔陽が剣を振っても噛み付いて剣を止めることもあった。

 尻尾の一撃は朔陽の手から剣を弾き飛ばすのに十分な威力がある。

 口からは、大した威力ではないがヘキサメチレンテトラミンの結晶を吐き出し、上位個体は光線を吐き出す。

 地を走り、海底に潜り、空を飛び、時には空間転移すら織り交ぜる。

 

 地球でサメが恐れられる理由がよく分かる、そんな強さを見せつけていた。

 

「うう、しんどい……!

 沖縄で皆がナチスの遺産たるサメを狩ってた時はあんなに楽そうに見えたのに……!」

 

 朔陽がサメという強生物と戦えているのは、ひとえに武器が優秀であるからだ。

 歯に噛み止められればエネルギー放出で歯を弾き、サメの尾に弾かれそうになっても朔陽の手の内に留まり、サメの吐く光線を聖剣の光で相殺してくれている。

 それでも、朔陽はサメとの一対一で生き残るのが精一杯。

 

 サメとの攻防は、常に火薬の爆発を剣で受け止めているようなもの。

 カップラーメンに入っている火薬を見たことがない現代人など存在しないだろうが、火薬が収束し爆発した時の衝撃は、一般人の手を一撃で痺れさせてしまうものだ。

 朔陽も最近始めた地味な鍛錬がなければ、とっくに剣が振れなくなっていただろう。

 ……このままだと、振れなくなるのも時間の問題だ。

 

「今助けを呼んでくる、持ちこたえろ!」

 

 このままではいかんと判断した亀は、朔陽に助言を送るのを止め、城内に仲間を呼びに走った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 城がにわかに騒がしくなって来た。

 切子は何事かと部屋を出て、城のバルコニーに出て外を見渡そうとする。

 見渡そうとしたのだが、バルコニーには先客が居た。

 

「貴様か」

 

「竜王様……」

 

「貴様も見るか? 惚れた男の見せ場だぞ」

 

 竜王に促され、城の外を見る切子。

 そこには、聖剣を携えサメと戦う朔陽の姿があった。

 

「! 佐藤さん!」

 

「まあ待て待て待て」

 

 竜王は助けに駆け出そうとする切子を止め、海底ドームの空に指を振る。

 すると、ドームの頂点と海水の境界が揺らぎ、サメが一匹落ちてきた。

 同時に朔陽がサメを切り捨て、朔陽は新たに落ちて来たサメと退治する。

 

 あのサメは障害を突破して城の周辺に落ちて来たのではない。

 どうやら、竜王が招いたために侵入して来ているようだ。

 竜王は朔陽が処理しきれない数のサメは招かず、けれども朔陽が楽をしない程度のペースでサメを招き入れている。

 

「これは……」

 

「奴が倒せない量は落とさん。

 あくまで奴が余裕を持って倒せる量のサメを落とすようにしておる」

 

「……何のために?」

 

「鍛えるためだ。まさか二週間もたずに惨殺される未来が見えるとは思わなかったぞ」

 

 竜王は呆れた顔をしていた。

 

「未来が見える……?」

 

「強さのテコ入れというやつだ。

 いかんな、未来が見えるとついつい早死にする若者に肩入れしてしまう」

 

 竜王の目には色々なものが見えている。

 例えば、あまりにも弱すぎて戦いに巻き込まれてぽっくり逝った誰かさんの未来、とか。

 ちょっと鍛えれば、いざという時一歩分多く動ける。

 一歩分回避できる距離が増える。

 未来に生き残る可能性が生まれる。

 竜王の目的は、魔王のペットを利用した朔陽の経験値稼ぎであった。

 

「忍者と姫も合流したか。なら、落とすサメを少し増やして……」

 

 竜王と切子の眼下で、和子とヴァニラが朔陽に加勢する。

 溜め息一つ吐き、竜王は落とすサメの量を増やした。

 サメがこの城の守りを加速度的に壊し、どんどん流入量を増やしているように見せかけて、朔陽に楽をさせない状況を維持し続ける。

 

「地道な努力と積み重ね。

 予習と復習、反復練習。

 鍛錬と実戦の中で費やした時間こそが、凡夫を戦士に鍛え上げる」

 

「……」

 

「まあ、貴様には関係あるまい?

 心配は無用だ、今の奴に命の危険はない。

 奴がサメの試練を受けているのと同じように、貴様にも越えるべき試練があろう」

 

 竜王が作る"強くなるための試練"でひーこらいってる朔陽達を見下ろしながら、竜王は木之森切子に問いかけた。

 切子は朔陽の方を見て、頑張っている朔陽を見て、意を決する。

 

「……あては」

 

 語られるのは、地図の恋。

 地図に恋をして、地図と共に歩いていこうとする恋。

 切子は自分が間違えた時、彼が自分に正しい道を示してくれると信じていた。

 一緒に幸せを見つけていきたいと、そう思っていた。

 

「人並みの恋よなあ」

 

「……う」

 

「まあよい。余に望みを言うなり、何か訊くなりするがよい」

 

「え!? いいんですか!?」

 

「平凡な恋ではあるが、余は好きだぞ」

 

 そして竜王は、平凡でも懸命な恋なら高く評価する男であった。

 まさしく王の器である。

 

「質問するならば一つのみだが、その質問についてならいくら質問しても構わん」

 

「サービス精神旺盛ですね」

 

「ふはははは、余のこの言葉の意味に気付けぬのであれば、貴様は不幸になるだろうな」

 

 太っ腹なことだ。

 本命の質問が的確なものかどうか、事前に確かめることができるというのだから。

 切子は考える。

 訊くべきことをどう問うか考え、竜王の意図を考え……そして、気付く。

 "不幸になる"と竜王は言った。

 幸福になれない、ではなく、不幸になると言った。

 そこに引っかかりを覚え、切子は思考を回す。

 

 やがて、背筋が凍りつくような感覚と共に、切子は一つの仮説に辿り着いた。

 自称全知の王が誘導した意図そのままに。

 

「……あの、もしかして」

 

(いや、まさか)

 

「あてが、佐藤さんに好かれる方法を聞いて、実行した場合……」

 

(でも、だって)

 

「あてか佐藤さんのどっちかに、不都合とか起きたりします……?」

 

(そんなこと、あるわけ)

 

 まだ、切子が朔陽に好かれる方法の内容すら訊いていないというのに。

 

「不都合? 不都合の定義にもよるな。

 まあ貴様かあの少年のどちらかの在り方は、決定的に変わるだろう」

 

「―――」

 

「ショックか? だがそれは仕方ない。

 貴様とあの少年は、どちらかが変わらんとどうにもならん。

 相性が悪いのではなく……二人の間に、そういう関係性が綺麗に成立せんのだ」

 

 切子の内から、その方法を訊こうという気が失せていく。

 竜王は懐からサイコロを一つ取り出して、数字をいくつか口にした。

 

「5、3、4、1、1、1、3、3」

 

 バルコニーに置かれたテーブルの上に、サイコロを振っては拾い、また振っていく。

 最初は5。次に3。そこから4、1、1と出て、1、3、3と出る。

 その過程は、竜王がどれだけ正確に『未来』を見ているかの証明だった。

 

「貴様が変わるか。奴を変えるか。余は選択を尊重しよう。余にその方法を聞くか?」

 

「……あ」

 

「好きにするがいい。

 余には貴様の気持ちが分からんでもない。

 貴様、このまま何もなければ告白は失敗に終わると確信しかけているだろう」

 

「―――」

 

 竜王は鼻を鳴らす。

 その表情には、何故か呆れと感嘆が見て取れた。

 

「佐藤朔陽は貴様のことを理解していた。

 貴様が奴の友であるからだ。

 だが、同時に……貴様も奴の友であり、奴の理解者であったはずだ」

 

 朔陽は切子のことを理解している。

 その気持ちを、思考を、想いを、苦しみを、恋の甘さと辛さを理解している。

 だが、それは一方通行の理解なのだろうか?

 一方通行の理解で友人など名乗れるものなのだろうか?

 いや、違う。

 そんなはずはない。

 それがちゃんと友人関係であるのなら、そこには相互理解があるはずだ。

 

 しからば切子もまた、朔陽のことを理解しているはずなのだ。

 朔陽が今考えていることも。

 朔陽の苦悩も。

 朔陽がいくら隠そうとしても、切子はそれを大なり小なり察しているはずなのだ。

 

「……佐藤朔陽の気持ちが分かっていた貴様なら。結末は最初から、分かっていたはずだ」

 

 それは当たり前の帰結。

 友人として仲が良く、互いのことをよく理解しているのなら、告白をした瞬間にその結果はうっすらと見えてしまうもの。

 うっすらと見える『告白の失敗』が、切子を過剰に不安にさせる。

 だからこそ彼女はすがったのだ。

 竜王の知慧という、告白を成功させる蜘蛛の糸のような可能性に。

 

「余の知があれば、その結末も変えられよう。だが」

 

「あてか佐藤さんか、どちらかの心を変える方法以外にはない……」

 

「心を大きく変えて関係を持つ方法ではあるな。

 だが、躊躇うことか?

 お前達の恋愛経験が0から1になることで、その心にも変化が生まれる。

 要は関係を持つ前に心が変わるか、持った後に心が変わるかの違いしかないのだぞ」

 

 和子に言わせるのなら、それは恋のために他殺か自殺かを選ぶ二択だ。

 同じ状況、同じ気持ち、同じ恋心を抱いていたなら、和子は間違いなく自殺を――自分を変えることを――選ぶに違いない。

 自分を変えてしまえば、と思う切子の心に、料理上手のこのみさんの言葉が蘇った。

 

■■■■■■■■

 

「いや、さあ。恋愛って相手の都合のいい人間になることなのかね?」

 

「愛は、受け入れて一緒に居るものじゃない?

 家族の横暴をさらっと流す家族愛。

 友達の気に入らない所をまあいいやと受け止める友愛。

 仲間の失敗を笑って許す信愛。

 愛は、相手に嫌われることを恐れることじゃない。

 相手の都合のいい人間になることでもない。

 男の近くで、男を飾る綺麗なアクセサリーになることでもないのよ」

 

■■■■■■■■

 

 そして、また別種の理解がやって来る。

 竜王が提示する二択は、切子が朔陽に都合のいいもの変わるか、朔陽を切子に都合のいいものに変えるかという二択である、という理解が、だ。

 

 例えばの話だが、浮気性の男を好きになってしまった女性が居るとする。

 この女性がその男と付き合った後、浮気性を直そうとするのは当然の話しだろう。

 浮気性を直してから付き合おう、と考える女性も少なくはないはずだ。

 なんにせよ、『その人が好き』と『その人の全部が好き』はイコールではないため、『この人のここは直して欲しい』という感情は誰もが持ってしまうものなのだ。

 

 "このアニメ好きだけど脚本は交代して欲しい"と思うのと、同じように。

 

 恋愛は、『そのままの相手を好きになる』という側面を持つと同時に、『好きになった相手を変えようとする』という側面も持つ。

 『ありのままの自分を好きになって欲しい』という側面を持つと同時に、『好きになってもらえる自分に変わりたい』という側面も持つ。

 変化も恋愛の一側面。

 不変も恋愛の一側面なのだ。

 

 何を好み、何を嫌い、どれを受け入れ、どれを拒絶するかは、切子の自由。

 どこまで過激なことをやるかも、どこまで穏便に終わらせるかも切子の自由。

 

(あてが変わるか……佐藤さんを変えるか……)

 

 相手を変える恋がある。

 自分を愛してくれるように相手を変える恋がある。

 男の気に入らない部分を変えて理想の恋人に変える恋がある。

 良い影響を与えて相手の欠点をなくしてあげる恋がある。

 

 相手を変えない恋がある。

 ありのままの相手を受け入れる恋がある。

 相手の醜悪な欠点を修正せずそのままにする恋がある。

 自分が居ても居なくても相手に変化がないような、無色透明な恋がある。

 

 この二種の恋は対極だ。

 和子の恋は、傾向としては前者にあたる。

 切子は恋愛で変わることを否定しないし、変わることで始まる恋も否定しないが、傾向としては後者寄りだった。

 

(今ここでこうして恋をしている自分か……

 あてが好きになった佐藤さんか……どちらかを……)

 

 うだうだ難しいことを考えないで、さっさと朔陽と関係を持ったっていい。

 それは当たり前の権利として許されていることだ。

 その後に後悔したっていい。

 恋に愚行はつきもので、そこから後悔するのも当たり前の権利であるからだ。

 

 切子には、後悔すると分かった上で、朔陽と付き合うために全力を尽くす権利がある。

 

(そうでもしないと、あては恋人関係にはなれない……でも……それでも―――)

 

 けれど、思ってしまった。

 思ってしまったのだ。

 今の彼を、自分を好きになってくれる彼に変えていいのかと。

 今の彼を好きな自分は、それで矛盾しないのかと。

 そう思ってしまったのだ。

 

(―――あての心は、それは嫌だと、言っている……)

 

 死に等しい『変化』を、恋にはあって当たり前だと思うのが和子であり。

 当たり前だと思えないのが切子だった。

 良くも悪くも、切子は普通で。

 

(嫌だ……佐藤さんが好きな気持ちは間違いなくここにある、けど、けど……)

 

 ありのままの自分を、そのままの彼が、ごく自然に愛してくれたらよかったのに。

 切子だってこんなに苦しむことはなかったはずなのに。

 恋愛はいつだって、そういう風に上手くは行かない。

 70億人の中の1人に恋をしても、その1人が自分を70億の中から選んでくれるとは限らない。

 

 切子は気付き、理解し、悲しみ、納得する。

 木之森切子は、切子に絶対に惚れることのない今の朔陽を―――『この佐藤朔陽』を、好きになったのだと。

 切子が朔陽を自分の物にするには、惚れた朔陽を殺さねばならないのだ。

 それ嫌なら、その恋を諦めるしかない。

 

 未来も運命も見通す竜王は、ただ切子を無理なく『納得』させるために必要な流れに持っていくために、言葉で流れを作った。

 結果は、切子の顔を見れば分かる。

 

 涙が流れる。

 泣き顔が濡れる。

 透明な雫が、静かに滴り落ちる。

 漏れる嗚咽を、竜王は痛ましい表情で見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切子は一つの決意と、一つの納得を得た。

 決意が表で納得が裏、裏表に二つで一つ。

 得た『一つ』を胸に抱いて、竜王の前から去っていった。

 

 涙する少女とすれ違いに、亀が竜王のもとへやってくる。

 

「真面目な少年をサメで玩具にして、純情な少女を泣かせて吸う空気は美味いですか?」

 

「不味い」

 

 亀は辛辣に嫌味を言って、竜王は心底嫌そうな顔をした。

 

「サメは古代の日本と中国の伝承圏においては竜とされます。

 竜王様からすればこの仕込みは楽だったんでしょう。ですが……」

 

「待て、現魔王のペットがここに来たのは偶然だ。余はそこまで悪辣ではない」

 

 怪しまれるのも当然のことだ。

 竜王は今は不完全とはいえ全知の存在。色々仕込むのは難しくないだろう。

 ただ、サメに関しては本当に冤罪だった。

 竜王と亀は、バルコニーから全力で戦っている朔陽達を見下ろす。

 

 サメが尾で朔陽の腹を強打した。

 朔陽は無様に転がされ、激痛と吐き気が朔陽を襲うが、少年は何度でも立ち上がる。

 そのガッツを、竜王は好ましく思った。

 戦う子供達を見下ろす竜王を、亀は胡乱げな目で見ていた。

 

「あのタケミカヅチみたいな筋肉の女の子は、竜王様の言葉で傷付いたでしょうね」

 

「で、あろうな。

 まあよかろう。

 余はあの娘の友人ではない。

 友人が気付かないよう全力で守るという責務は、余には発生せんのだからな」

 

 友人に傷一つ付けないという役目が朔陽にあったとしても、竜王にそれはない。

 

「悪役を買って出るのも、先人の役割というものだ」

 

 必ず誰かが傷付かなくてはならない『何か』があるのなら、傷付ける役を買って出る誰か一人が必要になるものだ。

 それは恋も例外ではなく。

 

「……いや、悪役ではなく敵役か。

 あの少年が目指していたのは、少女を傷つけない未来であっただろうしな」

 

「竜王様。そこは語っても意味はありますまい。

 貴方はあの子を傷付けた時点で、俯瞰する第三者とは言い難い者となったのです」

 

「む」

 

「大人しく、女の子を泣かせた外道として振る舞いなされ。敬意は払いますので」

 

 敬意を払っているのか払っていないのかよく分からない亀の物言いに、竜王は苦笑する。

 

「未来視は、夢と恋を終わらせる。余は外道よ。

 あってはならない終わらせ方と知りつつも、そう終わらせるのだから。

 先の見えぬ未来に突貫する彼らの方が、まだ尊いのであろうな」

 

 未来視は恋に死をもたらし、夢を殺す。

 恋は夢のようなもの、とはよくいったもので、恋も夢も未来が未知であるからこそ成立するものだ。

 恋も夢も、未来に成功が約束された瞬間、失敗が約束された瞬間、その価値を失ってしまう。

 

 こうしないと未来に成立しないぞ、と言う。

 ああしないと未来に失敗するぞ、と言う。

 それは本来反則だ。

 恋愛で失敗に繋がる道を示し、成功する道を示し、未だ来ていない未来のための選択を『今』させるなど、反則にもほどがある。

 

 未来視とは、そういうものなのだ。

 運命や未来が見えてしまうから、ロマンがない。

 未知が生んでくれるロマンがごっそり抜けてしまう。

 つまりは、夢のない男になってしまうわけだ。

 

「竜王様が全て悪いわけでもないでしょう。思春期の男女など、扱いに困って当然です」

 

「まあ、そうであろうな」

 

 しかしながら、思春期の子供の恋バナに付いて語る亀と竜王という構図は、実にシュールだ。

 

「例え話をしよう」

 

「また話が長くなりそうですな、竜王様」

 

「まあ聞け。そうだな……あの朔陽と切子とやらが恋人になった仮定で話すとしよう」

 

「うわっ」

 

 話の題材がいきなり趣味悪いな、と亀は思った。

 

「そこにあの和子とやらが横恋慕した仮定で話すとしよう」

 

「うわ」

 

 性格悪いな、と亀は思った。

 

「ここからは更に架空の仮定だ。

 朔陽は切子を10好きで100幸せにできる要素を持っているとする。

 切子は朔陽を100好きで10幸せにできる要素を持っているとする。

 朔陽と和子は、互いが100好きで100幸せにできる要素を持っているとする」

 

(例えがクソ野郎過ぎます、竜王様……)

 

「これなら朔陽と切子は分かれて和子とくっつくべきだ。

 それが一番皆が幸せになれる方法であろう?

 だが、それは許されん。

 人間はこの『合理性』を、『浮気』や『一途』といった概念で否定するからだ」

 

「そりゃそうでしょうよ」

 

 こういう面を見ないと、「もっと論理的に話せ」という感情の主張と「もっと気持ちを見せてよ」という合理の主張がぶつかり合って、どちらも譲らぬまま別れてしまうことになる。

 

「愛や恋は合理性の対極だ。

 愛があれば、自分が損をする行動をいくら重ねようが許される。

 合理的でない思考も、恋という源泉からはいくらでも涌き出でよう」

 

「ですな。ここ一万年、人はオレの目から見ても変わりませんよ」

 

「だが同時に、一定の免罪符にもなっている。

 愛のため、恋のため、と付いているから許されているものも多い。

 愛や恋のために命や幸せを投げ出す者も少なくなかろう。免罪符だからな」

 

「そいつは免罪符というより、崖の前で背中を押す手な気がしますがね」

 

 ふぅ、と竜王は息を吐く。

 

「極論を言ってしまえば、恋愛と幸福は密接したものではなく独立したものだ。

 恋愛と幸福は良くて相互補完関係であり、それ以上に深い関係を持つものではない」

 

「それは、確かにそうですな」

 

 不幸でも、金がなくても、愛があるから幸せだと言う者は居る。

 これは愛や恋が幸福の不足を補っていると言える。

 逆に、愛がなくても金があれば充実した人生を送れていると言っている者も居る。

 漫画の中だと、金があっても幸せがないという金持ちが出てくることも多いが、世の中の大抵のものは金で買えるのだ。

 現実で愛してくれる嫁が居なければ、金にあかせてアニメのブルーレイごと嫁を買えばいいだけの話である。

 

 愛は幸福の不足を補う。

 が、愛と幸は本質的には独立した要素だ。

 愛が幸を殴り倒すこともあれば、幸が愛を蹴り殺すこともある。

 例えば、"相手の幸福を思って身を引く"などの行為は、幸福を恋愛より優先した選択である……と言えなくもない。

 

「全ての人の幸せを望むような人間は……

 全ての友と仲間が幸せになることを望むような人間は……

 それを誠実に、合理的に考えるような人間は……

 そもそも恋愛に向いてないのだ。それは愚か者と同義であるからな」

 

「……」

 

「よく言うだろう?

 恋は人を愚かにすると。

 ならばそれが正解なのだ。愚かになるのが自然の成り行きというものなのだよ」

 

 『皆の幸せのために』生きている人間は、そもそも恋愛に向いていなかったりもする。

 器用な天才はそこからでもハーレムに持っていけるかもしれないが、いかんせん朔陽は委員長には向いていても、ハーレムの主には向いていなかった。

 彼女が出来るかも微妙なレベルで。

 

「余はその辺上手いこと着地させたかったのだが、上手くいかんなぁ」

 

「あの子らは純情なのですよ。竜王様と違って」

 

「言うな貴様。

 はぁ……余は、惚れた男の心を望む方向に誘導するくらいは、別にいいと思うのだが」

 

「潔癖な若者の心を察するべきでしょう。その目は飾りのガラス玉ですかな?」

 

「ガラス玉ではないが、節穴ではあったかもしれん。余も無能になったものだ」

 

 亀と竜王は語り合いつつ、バルコニーから下を見下ろす。

 

 ひいこら言いながら戦う朔陽の左右で、神速の立ち回りを見せる忍者の和子と、神域の魔法を見せるヴァニラが華麗に戦っていた。

 

「戦いジョーズだな」

 

「立ち回りジョーズですねえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切子は涙を拭って、顔を洗って、まだ溢れてくる涙を水で洗って誤魔化した。

 涙が収まってから、外で戦っている朔陽達の下へ赴く。

 

「サクヒ様、この世界に来てすぐの頃と比べるとたくましくなりましたね」

 

「そう?」

 

「そうです。ほら、この辺りの腕、少し太くなった気がしませんか?」

 

「そうかなー? 自分だと分からないなそういうの……」

 

「私も触るから姫様も触ろう。ほら、つんつんって」

 

「やめなさい和子ちゃん」

 

 朔陽を見て、その隣の二人を見て。

 切子はその向こうに"いつかの未来に彼を幸せにする女性"の姿を見た、気がした。

 何故、そんな幻覚を見たのかは分からない。

 この海底幻想の世界が、幻を映したのかもしれない。

 だが確かに見たのだ。

 それが切子に、自分では朔陽を幸せにできないという現実と、朔陽はいつかどこかで幸せになるという未来の、両方を見せてくれた。

 

(負けた)

 

 それは、切子にとっては敗北だ。

 

(あては、負けたんだな……)

 

 朔陽が未来に恋仲になる女性に、恋の鞘当てで負けたということだ。

 その女性への劣等感ではなく、敗北感だけが切子の胸に満ちている。

 その女に劣っているという悲しみと悔しさではなく、敗北したという納得だけが胸に広がる。

 

 切子が劣等感を抱かなかったのは、失恋の原因を自分の価値の低さに見出さなかったのは、"切子がそう思わないように"と朔陽がずっと気を使っていたからだろう。

 朔陽はずっと切子の能力と人格を肯定していたし、切子の恋心が肯定されるべきものであると考え動いていた。

 だからこそ、切子は失恋の原因を過剰に自分に求めないでいられた。

 失恋の責任を過剰に自分に押し付けないでいられた。

 少女の目から溢れる涙に、余分な感情は混ざらない。

 

(結局、あてはいい人止まりか)

 

 朔陽は切子をいい人だと言った。

 いい人だから幸せになって欲しいと考えた。

 いい人だから、傷付けたくないと願った。

 いい人だから、いい人止まり。

 

 朔陽にとっての切子は、どこまでも『いい人』であって『好きな人』ではなくて。

 

「佐藤さん」

 

 切子はサメを殺し尽くした朔陽の前に立ち、再度"恋心を告白"する。

 誰かが何かを言う声が、耳に届いているはずなのに、聞こえない。

 

「好きです」

 

 彼女の目は、耳は、口は、聖剣を手にした朔陽の方だけを向いている。

 

「あてじゃだめ、かな」

 

 朔陽が首を横に振る。

 切子の視界が涙で滲んだ。

 

「僕には君を幸せにできない。

 ……一時の、かりそめの幸せならできるかもしれない。

 でもそんなものに、君の人生を無駄遣いさせたくないんだ。

 それが無為に終わるだろうと分かっているから、なおさらに。

 この先、僕との恋愛関係に切子さんの人生を無駄遣いさせたくない」

 

 朔陽が考えに考えた断り文句が、これだった。

 

「僕みたいなやつは、やめておいた方がいい。

 何かを結実させないからと言って、恋に費やす時間を無駄遣いなんて言う男なんだ」

 

 不器用で、上手い言い回しもなく、切り取った本音を、ありったけの気遣いで包んで渡す。

 恋の成就を願う彼女の、幸福を願う。

 

「僕は君に、幸せになって欲しいんだ」

 

 恋と幸は、同一のものではなく、重なることもあるけど、とても遠い時もあり。

 

 木之森切子の恋は、ここに終わった。

 

「―――ありがとう」

 

 終わった。

 もう一度始まることもなく、ここから逆転することもない。

 次に繋がる終わりを迎え、最後の失恋の涙が流れる。

 

「佐藤さん。あてに負い目があるなら……一つ、お願いを聞いて欲しい」

 

「僕にできることなら、なんでも」

 

「もしも、この先誰かを好きになったら。

 友達とか仲間とか気にしないで、何もかも気にしないで、気持ちに素直になって」

 

「へ?」

 

「あてという友達との約束。だから、その時になったら約束を守るかは佐藤さんの自由」

 

 友情は一方通行ではない。

 いつだって双方向だ。

 どんな時でも助け『合い』だ。

 朔陽が切子を傷付けたくないと思うのと同様に、切子も朔陽が傷付かない終わりを望んでいた。

 

 朔陽が切子の"次の恋"がよいものであることを願っていたのと同じように、切子も朔陽の"次の恋"が良いものであることを願っていた。

 

「そん時素直になってくれたら、あては嬉しい」

 

 朔陽の胸の内が熱くなる。

 切子は失恋の辛さを必死に抑え込みながら、朔陽の未来の恋のことを案じていた。

 友の未来を案じていた。

 外見がゴツいからなんだというのか。彼女はこういう風にいい子であるから、朔陽はずっと、ずっと、彼女が幸せになることを願っていたのだ。

 

「くはははははは! 貴様の負けだな、佐藤朔陽!」

 

「うわっ、竜王様」

 

「恋は小賢しく考えるものではなく、落ちるもの!

 恋に落ちるということをそこな少女はよく分かっているようだな!」

 

 突如現れた竜王が突然恋を語り出す。

 こっそり生き残っていたサメが竜王に襲いかかったが、竜王の音速サマーソルトキックに粉砕されていた。

 おお、と姫と和子が賞賛の声を漏らす。

 

「余は魔王軍に住所を知られたので、さっさと逃げることにした」

 

「そんな借金取りに追われる債務者みたいな……」

 

「余は魔王軍に借金しているようなものなのだ。

 魔王軍が借金取りならヤクザじみた後ろ盾も居る。取り立てからは逃げんとな」

 

「うちの日本って国も見ようによっちゃ借金だらけですけど……

 竜王様ほど偉そうに堂々と情けないことは言ってなかったですね多分……」

 

 圧巻の王の器であった。

 

「貴様らはちゃんと元の場所に帰してやろう。だが余は夜逃げする」

 

「夜逃げ」

 

「竜goo城はこのドームごとお引っ越しだ。奴らに見つからん場所にまた逃げるだろう」

 

「お引っ越し」

 

「お前達が通って来た転移路も途切れるだろうな。

 まあ仕方ない。よもそろそろFirefoxの奴を倒すために時間を割かねばならん時期だ」

 

「ぶ、ブラウザ戦争……」

 

「と、いうわけでだ。試練に挑むなら、今が最後のチャンスであるぞ」

 

 朔陽達には朔陽達の、竜王には竜王の、倒すべき敵が居る。

 それはそれとして、これが最後のチャンスであるならと、ヴァニラ姫がダメ元で試練の先陣を切った。

 

「私にとって恋愛とは、契約です。

 私の人生を全てその人に捧げる代わりに、その人の人生の全てを貰います。

 自分の人生とその人の人生を、死するその時まで同一とする契約です」

 

「よし、合格だ余」

 

 国のために生まれて、国のために死ぬ。

 そんな人生が定められているヴァニラ姫が、自分の全てを異性に捧げるためには、そのパートナーと共に一つの人生を歩み、その人生を国のために使うしか無い。

 そういう恋愛観が微妙に受けたようだ。

 合格判定。

 

「私にとっては……」

 

「そこな忍者の話は余はもう盗み聞きで聞いたから、もう合格でいいぞ」

 

「……釈然としない」

 

 ただ、合格判定を貰った話であっても、二回聞こうとは思わないらしい。

 和子が釈然としない顔でしょんぼりしている。

 竜王は"ラブコメ漫画は結末が分からないから面白いんであって二周はしねえわ"派の人間なのかもしれない。

 

「僕にとっての恋は……切子さんが言った通り、落ちるものなんだと思います」

 

 そして女子二人の恋愛観念は即合格出したくせに、竜王はここにきて合格判定を出すのをちょっと迷った。

 

「うーむ……余的にはパクリのコピペ引用はどうかと思うが……まあいい、合格」

 

「ゆるっゆるですね、竜王様の合格基準」

 

「ゆるっゆるではない。あまっあまにしているのだ」

 

 甘々らしい。

 

「だが急げ。率直に言って時間がない。

 質問するならさっさと一つ、できれば質問内容も悩まず決めろ」

 

「外の光景段々ヤバくなって来ましたしね……」

 

 サメ映画におけるサメは、急転直下のワープ襲撃で人間を理不尽に潰しに来る。

 この竜goo城がそんなサメの軍団に食い潰されていないのは、ひとえにこの城を囲むドーム状の結界のおかげだ。

 その結界がミシミシいっている。

 結界がどのくらい保つのかは分からないが、時間的余裕がないということは間違いなさそうだ。

 

「なら、僕らが『今一番すべきこと』とそれを成功させる実行法を教えてください」

 

「む、無難……いや、一番正しい問い方か。余は面白くないが、まあいい」

 

 朔陽の問いは堅実だ。

 堅実ゆえに正解に近い。

 

「ダッツハーゲンの姫。城の裏庭に貴様の先祖の霊を弔う墓があったな」

 

「はい。それがどうかいたしましたか?」

 

「あれを壊せ」

 

「……え?」

 

「問題になるようであればいくらでも工作すれば良い。

 すぐに壊せ。

 そうすれば、国民の3/4と地球人の半分が死ぬ事態は……とりあえずは、避けられる」

 

「えっ!?」

 

 なのだが、堅実な問いへの答えとして返って来たのは、至極物騒な返答だった。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!

 うちのしぶといクラスメイトがそう簡単に死ぬなんて……」

 

「戦えん手料理部にYouTuberにただの幼女までおるではないか。

 あれは死ぬわ、普通に死ぬ。生体兵器の者達はそうそう死なぬかもしれんが……」

 

「うぐ」

 

 そう言われると、朔陽は言い返せない。

 なんだかんだ専門分野のエキスパートが多い分、直接戦闘に向いてない人間もそれなりにいるのだ、朔陽のクラスは。

 

「他に助言もしてやりたいが、余は初代魔王でな。

 ちとその辺面倒というか……

 あまり人間に極端に肩入れするのもどうにもな……」

 

「……!?」

 

 口を開けば衝撃の事実しか口走らない竜王のノリに、いい加減皆の思考が停止し始める。

 肩入れを迷う竜王の背中を、亀が押した。

 

「肩入れとか今更でしょう、竜王様」

 

「それもそうか。

 よし、もののついでの助言だ。

 困った時に鶏と蛇の絵の看板が見えた時、教会の地下室を目指せ。

 とりあえずお前達全員が生き残る可能性が0%から5%くらいには増えるであろう」

 

「あ、はい」

 

 結界がミシミシと音を立てる。

 竜王は帰還用の魔法陣を作り、そこに人間全員を招き入れた。

 

「そうだ、そこな姫。

 貴様らはフュンフの研究所から逃げた人間の行方を追っていたな?

 魔族領内の人間国の周辺を探してみると良い。

 吸血鬼の国を越え、国境を越え、魔族領を極力通らないのが吉である」

 

「え」

 

「それと、兄を大事にしてやれ」

 

 姫を魔法陣の中に押し込み、切子の肩を軽く叩く。

 

「次の恋に進むがいい。恋とはそうして、前進し続けるものなのだから」

 

「……少しだけ、心の整理をする時間を置いたら、そうします」

 

 そして、和子に寄り添われている朔陽と目を合わせる。

 

「聖剣、手放すでないぞ」

 

 別れの挨拶さえ言わせない、問答無用の魔法転送。

 

「え、あ、待っ、まだありがとうも―――」

 

 "ありがとう"さえ言わせない、傍若無人で問答無用な竜王らしい鮮烈の別れ。

 サメがドームを突き破って侵入し、雨のように城に降り注ぐ。

 サメの雨がしんしんと降る、梅雨の時期の図書館のようなその城で、竜王は歌うように英語の一文を呟いた。

 

「A relationship, I think, is like a shark.

 You know? It has to constantly move forward or it dies.」

 

 朔陽はその言葉の意味を知っていた。

 その言葉は、アカデミー賞最多ノミネートを誇る映画界の巨匠、ウディ・アレンの名言。

 全ての恋する少女へと、贈られるべき言葉。

 

 ―――恋愛とはサメのようなものだ。常に前進してないと死んでしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋敷に帰宅した朔陽は、まだ肉を食っている一球を発見した。

 城の墓はとりあえず調査後に破壊予定、ということでお茶を濁すことが決まった。

 サメは朔陽達が全滅させたわけでもないので、またいずれどこかで戦うことになるだろう。

 目のサメるような嫌な話だ。

 

「おう、おかえり。……ん? 木之森をフったか?」

 

「……よく分かるね、本当に」

 

「疲れた顔してるからな」

 

 察しのいい幼馴染に、朔陽は苦笑する。肩の力が抜ける。安心する。

 同性との気安い触れ合いが癒しになっているのだと、心底実感した。

 

「はぁ……傷付いてないかな、切子さん」

 

「話聞いてる分には傷付いてはねえと思うがな。

 悲しんではいるかもしれねえがそれも一過性のもんだろ。ってか」

 

 一球がじっ、と朔陽を見る。

 バッターボックスに立ち、ピッチャーを睨んでいる時のような目つきだ。

 

「お前さ」

 

「うん?」

 

「木之森に告白されてから、フッてから、溜め息つく頻度が百倍くらいになったぞ」

 

「え゛」

 

「一番ダメージ受けてんの、お前じゃねえの?」

 

 告白というものを軽く扱えない者ほど、告白をするのにエネルギーを使う。ダメージを食らう。

 それはフる方も同じこと。

 単純な心理的ダメージで言えば、切子より朔陽の方が大きかった。

 

「別にダメージ受けるな、なんて無茶は言わねえけどよ。

 この一件で深く落ち込む権利があるのって木之森だけじゃねえの?」

 

「おっしゃるとおりです……」

 

「お前も落ち込むのはほどほどにしとけよ、ほどほどにな」

 

 朔陽の今回の告白対処は、採点するならば何点ほどになるだろうか。

 採点者次第では、極端に低い点が付けられてしまうだろう。

 朔陽は精一杯だった。誠実だった。真摯だった。だが、決して上手くはなかったのだ。

 一球が呆れてしまうくらいに、器用に立ち回ることができていなかった。

 

「お前は器用な方だと思うんだが、なんでそう生き方と恋愛が下手かね」

 

「……恋愛上手って何さ」

 

「あ? 決まってんだろ」

 

 ビシッ、と自分を指差して。

 ドヤッ、と得意げな顔をして。

 一球は笑う。

 

「自分も楽しんで、女も楽しませる。

 自分も笑って、女も笑って終わらせる。

 恋愛で悩む必要もも難しく考える必要も無いやつ。

 つまりだな……俺みたいなイケてる男のことさ!」

 

 朔陽は、思わず吹き出してしまった。

 

「野球一筋で彼女なんて作ったこともないくせに、よく言うよ」

 

「おう、俺の恋人は野球だ。だから恋人には一途だし、恋人を泣かせたことは一度もねえぜ」

 

 思わず笑ってしまった。

 

「そりゃ確かに、天下一の恋愛上手だ」

 

 井之頭一球はバカだ。

 学校の成績は良いが、それが逆に勉強しても直らないバカだということを証明している。

 バカということは単純であるということ。

 単純であるということは、一途であるということだ。

 だから一球は"何を愛するか"を一切迷うことはない。

 彼の中の優先順位は揺らがない。

 

 そういう意味では、一球の生き方は、朔陽の生き方よりもずっと強くて頑丈だった。

 

 

 



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出席番号16番、笑って話せる黒歴史・田村たつき

 朔陽は「巡り合わせ次第では一生縁を持てなかったと思えるくらい、凄い人だよ」とクラスの何人かを評価している。

 だが逆に、「朔陽はなんであいつと仲良くやれてんだろうな」と言われるクラスメイトが、このクラスには何人か存在する。

 出席番号16番・田村たつきが、まさしくその一人だった。

 

「え? たつきさんが戻って来てる?」

 

 第三者から和子が伝言を受け取り、和子が朔陽に伝言を渡し、自室で伝言を受け取った朔陽が驚いた顔をした。

 息抜きにオセロ一式を手作りしていた朔陽が、作業を全て止めて立ち上がる。

 田村たつき。和子もまだしっかり話したことのないクラスメイトであった。

 

「たつきさんってどんな人?」

 

「え? うーん……うちのクラスで、一番恋愛上手な人かな」

 

「!」

 

 恋愛上手。

 なんともまあ、甘美な響きだ。

 クラスメイト全員に何かしら得意分野があるとは事前に聞いていたことだが、恋愛方面にも特化した者が居るとは。

 和子は"じゃあなんでこの前の切子さんのことで頼らなかったんだろう"と首を傾げる。

 友人をよく頼る朔陽のようなタイプが、何故そんな有望な人間を頼らないのか和子は疑問に思ったが、考えても答えは出なそうなのでとりあえず脇に置いておく。

 どうせ王都に居なかったとかそんなんだろう、とあたりをつけたようだ。

 

「後は……北派蟷螂拳の達人だったかな」

 

螳螂(とうろう)?」

 

蟷螂(かまきり)のことだよ」

 

 螳螂拳は、凄まじい拳速による攻勢・それを組み上げた手数・独特の崩し技などを特徴とする強力な中国拳法だ。

 こと一部の分派に至ってはその拳速は光に例えられるため、極めれば光速の拳法家としてそれなりの戦闘者となることも可能。

 カマキリを模した蟷螂拳は虫タイプの攻撃。

 草食系男子の朔陽には特に効果抜群だ。

 

「カマキリの拳法の達人……こわそう」

 

「会って話さないと、実像ってのは見えてこないよ。

 和子ちゃんだって昔いちご牛乳のことを

 『普通の牛乳と違って牛の血が混じってるから甘い牛乳』

 だって勘違いしてたじゃない。だから真実ってのはその目で……」

 

「サクヒは私の恥を忘れないよね。もーやんなる」

 

 "幼馴染が牛の血は甘いんだとか言い出した日のこととかそりゃ忘れないよ"と朔陽は言おうとしたが、言わない。

 言わないのが情けであった。

 

「ちょっと行ってくるね」

 

「行ってらっしゃい」

 

 どこ行くんだ、とは聞かない。

 この話の流れなら、和子はたつきに会いに行くのだろう。

 朔陽もその辺りをよく理解しているので、作りかけの手製オセロを脇にどけ、テーブルの上に置かれていた果物をナイフで剥き出した。

 どうやら和子とたつきの話が終わった後に持っていくつもりのようだ。

 

 和子は朔陽の部屋を出て、田村たつきを探すべく動き始めるが、廊下を歩いて数秒後。嘘つき寧々とエンカウントしてしまった。

 

「あ」

 

「あ、和子ちゃんじゃーん」

 

「……」

 

「何故身構える」

 

「嘘ついてくるかな、って思って」

 

「ウチも嫌われたもんだにゃあ」

 

 寧々は苦笑する。

 息をするように嘘をついてきたという前科のせいなのだが、嘘をやめる気は無さそうだ。

 

「何やってんのさ……忍者の修行?」

 

「人探し。田村たつきさんという人を探している」

 

「あー、王城の近くで見たかな。こっちの世界の服買おうとしてたみたい」

 

「ありがと。じゃあ、探しに行……」

 

「まあ嘘なんだけど」

 

「ふわっ」

 

 居場所を聞いて、飛び出そうとした和子がずっこける。

 今たつきちゃん屋敷に居るよ、と寧々は笑った。

 許せぬ、嘘つき罰すべし、と和子は鬼の形相で寧々にデコピンを繰り出した。

 

「イダァイ!」

 

「私、朔陽と違って笑って許さない人間だから」

 

 ほどほどに加減したデコピンが、寧々を悶え転げ回させる。

 和子は寧々を撃沈させて、屋敷にいるというたつきを探し始めた。

 

「田村さんビッチっぽく見えるけど義理堅い女の子だから、変に絡まないでねー」

 

 寧々が何か言っているが、和子は聞くだけ聞いて応えはしない。

 "もしや屋敷に居るというのも嘘なのでは"と思い、屋敷の中の気配を探ると、あまり使われていない部屋に人の気配があった。

 誰かがそこにいる。和子は足早にそこへ向かった。

 

 部屋に足を踏み入れた和子の思考が、停止する。

 汚かった。

 部屋が異様に汚かったのだ。

 汚いまま片付けられていない部屋の中央に、綺麗な人が一人立っている。

 

 野球の井之頭&剣道部の剣崎の二人が先日までこの部屋を使っていたことを、和子は瞬時に思い出した。

 恐らく彼らが散らかしたまま片付けもせずどこかに出かけていったのだ。

 男が皆雑というわけではないが、雑な男はとことん雑である。

 "後で誰かが片付けるだろ"臭がプンプンしていた。

 

 そんな汚い部屋だからこそ、その人物の綺麗さは際立っていた。

 シミ一つない美白の肌。綺麗に染められている栗色の髪。

 髪の長さは和子と同じくらいだろうか?

 この世界に存在する服を、地球のファッションセンス基準で着こなしているため、一見すると地球の服を着ていないのに地球の服を着ているように見えてしまう。

 綺麗な肌と、ハイセンスに着こなされたファッションが、手首に見える赤い石のブレスレットの輝きを際立たせているようだった。

 ファッションはスカート周りと首周り、袖口と首周り、靴周りに特にこだわりが見える。

 

「部屋、汚い……」

 

「違うわ、この部屋は汚くなんてない」

 

「……?」

 

「あーしが美しいから相対的に汚く見えているだけなのよ」

 

「何言ってんのあなた」

 

 こいつ濃いな、と和子は直感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ冗談よ、とたつきが笑ったので仕切り直し。

 改めて、若鷺和子と田村たつきは自己紹介した。

 見れば見るほど、たつきの容姿は美しい。

 目がパッチリしてるだとか、唇が艶めかしいだとか、スタイルがスラッとしていて綺麗だとか、見れば見るほど褒め言葉が湧いて出てくるタイプだ。

 日々の手入れと卓越したセンスがなければ成り立たない容姿と服装が、恋愛上手という朔陽の評価を裏付けている。

 

 和子はたつきに用があった。

 先日の切子の告白から始まった騒動は、まだ和子の記憶に新しい。

 和子は自分の恋愛的レベルアップが必要だと考えていた。

 朔陽と切子の問題について、自分が蚊帳の外にしかいられなかったことが、心のどこかにしこりとして残っているのかもしれない。

 

(過剰にモテモテなソシャゲ主人公みたいな恋愛力が欲しい……)

 

 そう思い、たつきを呼び止め、先日あったことと自分の意向を伝えたのだ。

 

「へえ、あーしが居ない時にそんなことがねえ」

 

「女の子の失恋も関わっていることなので、どうか密に、密に」

 

「あーしも言い触らしたりなんかしないわよ。しっかし、切子ちゃんがねえ」

 

「私には分からない。彼が、彼女が、何をすれば一番の正解だったのか」

 

 和子は初めに"何が正解だったのか"と聞いてみた。

 朔陽と切子の選択は、和子から見ても80点から90点はあるように見えた。

 人によっては40点から50点だったりもするかもしれない。

 この一件に関して、誰もが100点だと認める解答はあるのか、和子は気になってしまったのだ。

 

「訳知り顔であーしが何か言うこともできるけど……

 どんなに間違っていても、当事者が悩んで決めたことなら、全部正解だと思うけどねえ」

 

「……そう?」

 

「そうよ。後から何が正解だったなんて、赤の他人ならどうとでも言えるじゃないの」

 

 対し、たつきは懸命に考えて出した答えなら全て100点だと返答する。

 たつきはその選択の正しさより、その日その時その瞬間、その恋愛の当事者が答えを出すからこそ価値があるのだと語った。

 

「想いがそのままの形と色で輝けるのはその瞬間だけよ。

 後から振り返って何が正解か考え直すことはできるわ。

 けれどもね、想いなんて時間が立てば美化も劣化もするものでしょう」

 

「ふむ」

 

「大人になったらいい想い出になるんじゃないかしら。

 本気でやったなら、泣きたくなる想い出にはなっても、後悔の想い出にはならないでしょうし」

 

「それは体験談?

 『恋の記憶』が『恋の想い出』になった、貴女の話?」

 

 和子の率直な物言いに、たつきは乾いた笑いを顔に浮かべた。

 

「ふふ、聞きたい?

 今やクラスの全員が知る、貴女だけが知らないあーしの黒歴史を」

 

「是非」

 

 朔陽と切子は自分の恋愛事情のことで散々悩んだ。

 和子も朔陽との関係上、色々と悩まされた。

 だが恋バナとは本来、自分とは無関係なものを眺めている分にはとても楽しいものである。

 恋愛上手の肩書持つクラスメイトの恋バナに、和子は興味津々だった。

 

「あーし劇場、開幕! 昔々、あるところに」

 

「何故昔話風」

 

「たつきちゃんという乙女とさっきゅん……朔陽くんという男の子がいました」

 

「ふむふむ」

 

「朔陽くんは誰にでも優しい男の子です。

 八方美人だと揶揄する人とも仲良くし、友達になるような子でした。

 当然たつきちゃんにも優しくします。

 たつきちゃんは思いました。『こいつあーしのこと好きだな』」

 

「うわっ」

 

 もうオチが見えた。

 

「たつきちゃんはちょっと嬉しく思ったわけです。

 その内告白してくるだろうと思いつつ、こう考えました。

 『告白してくるまでちょっとからかってやろう』と」

 

「うわっ」

 

「若かったたつきちゃんは色々漫画にハマってました。

 女の子を手の平の上で弄ぶ男をかっこいいと思ってました。

 男に囲まれいいように操る女が素敵だと思ってました。

 なので自分に惚れてる誰かをからかう自分、というのに酔っていたのです」

 

 オチがヤバいという確信が生えた。

 

「たつきちゃんは朔陽くんに抱きついたり、思わせぶりな態度を取ることが増えました。

 朔陽くんは笑って流して、笑って許して、笑って応えてくれたりもしました。

 たつきちゃんは『嬉しいくせに、照れを隠してるのかしら』と得意げな顔をしていました」

 

「……」

 

「朔陽くんが優しくしてくれるから勘違いしちゃったのです。

 好意的な反応貰えてるしこれでいいんだな、と。

 勿論、朔陽くんの友人や周りの人間はたつきちゃんを煙たがります。

 『あーしに取られると思ったからって、嫉妬しすぎよこの人ら』と思うたつきちゃん」

 

「……うわっ」

 

「たつきちゃんは朔陽くんが自分に惚れてると信じて疑いません。

 あの人あーしにベタ惚れだと、まあそんな感じに言い触らすわけで。

 ベタ惚れだからこの前こういうこともあった、みたいに話盛って話すわけで。

 朔陽くんと交流がなくて、たつきちゃんと交流があった人は大体信じました。

 たつきちゃんが真実とその誇張のつもりで流した噂は、広がっていきます」

 

「うわッ」

 

 モンスター映画で最強のモンスターが出現し、人間サイドの強者が次々と死んでいくクライマックスのような"どうなっちゃうの"感が醸し出される。

 

「たつきちゃんは次第に焦れていきます。

 いつ告白してくるの、と思っているのに告白は来ません。

 そりゃそうです。朔陽くんはたつきちゃんに惚れていたわけではないので。

 彼の好意はあくまで友人に向けるもの。

 彼は田村たつきを好きだったけど好きじゃなかったのです。残念」

 

「う、うん、それで?」

 

「たつきちゃんは『告白させてあげないと』と思いました」

 

「うわぁ」

 

「『自分は相手のこと好きじゃないけど相手は自分のこと好きだから』

 『告白させてあげないと』『それが気遣いよね』と思ったりもしたわけで。

 校舎裏に呼び出して、告白するならしてもいいよと言っちゃったわけです」

 

「うっ……うわっ」

 

「当然、朔陽君は告白なんてしません。

 たつきちゃんは自分の外の現実と自分の中の現実の差異を受け入れられません。

 そのギャップを受け入れられないで、彼に告白させようと必死で食い下がって。

 あたかも自分が上のように振る舞って、『告白させてやらないと』と必死になって」

 

「ふぅぅぅ……うわぁ……」

 

「もうそこからはたつきちゃんも正確には覚えてません。

 ぎゃーぎゃー騒いだ覚えはあります。

 泣いた覚えもあります。

 ……結構酷いことを朔陽くんに言った覚えもあります。

 とにかくもう、学校の至る所で酷いことを喚き散らしながら逃げるように帰りました」

 

「私もう、なんだか、この先聞きたくなくなってきた」

 

「ここからが本番だかんね?」

 

「ここからが!?」

 

 佐藤朔陽が田村たつきに惚れていない、友人として好きなだけ、と判明してからのここからが酷かった。

 

「たつきちゃんは気付きました。

 朔陽くんは自分を理解していたが、自分は朔陽くんを理解していなかった。

 朔陽君は自分に優しかったが、自分は朔陽くんに優しくしてなかった。

 自分は朔陽くんを特別視していたが、朔陽くんはそうでもなかった。

 朔陽くんは自分の外側をよく見ていて、たつきちゃんは自分の内しか見ていなかったと」

 

「うん、それならここから事態は軟着陸……」

 

「そして告白未遂大惨事の翌日、学校に行ったたつきちゃんは。

 たつきちゃんが朔陽くんに酷いことされたと大騒ぎになっているのを見ました」

 

「!?」

 

「勿論朔陽くんに非はありません。

 たつきちゃんにも最大限に柔らかい対応と言葉遣いをしていました。

 でも学校の皆は『酷い』『さっきゅん酷いことを』『もう自分はもう』

 『二度と恋なんてできない』みたいなたつきちゃんの断片的な台詞を覚えていて」

 

「うわ」

 

「放課後の学生達の間でブワッと広がり、一晩でTwitterやLINEも拡散して」

 

「うっわぁ」

 

「『朔陽がたつきに乱暴した』

 『告白がこじれた』

 『朔陽がたつきに告白し断られたので酷いことをした』

 『たつきが告白して朔陽が酷い振り方をした』

 とか色々噂が立って、噂が捻じ曲がって、エスカレートしていって。

 翌日の朝には、先生方が当事者を呼び出そうとするくらいの大騒ぎになってました」

 

「……うわぁ……」

 

 和子の頭の中に、切子が自分に告白して来たというのに、"傷付けずに終わらせないと"ということを何よりも優先して考えていた朔陽の姿が蘇る。

 

「たつきちゃんは何も言えませんでした。

 一連の事柄がぜーんぶ自分の恥だったからです。

 一から十まで全部自白するとか無理でした。

 叫び出したい気持ちを押し込んで、たつきちゃんは黙り込んでたわけです」

 

「うぅわ」

 

「たつきちゃんに話を聞こうとした周りの皆はこう思いました。

 『何聞かれても喋らないくらい酷い目にあわされたんだな……』

 と。当然ですね、はい。当然のように事態は悪化したわけです、はい」

 

「……どこまで行くの」

 

「無論、行くところまで。

 朔陽くんにも味方は居ます。

 たつきちゃんにも味方は居ます。

 当然、両者はぶつかり合います。赤の他人も巻き込んで。

 つまりは校内戦争です。

 "耳にした噂の形"でどっちに味方するか違って、他の学生も二つの勢力に別れました」

 

「うぎゃあ……」

 

「結果、校舎が一つなくなるほどの大抗争に発展しました」

 

 学校を真っ二つに割る大戦争である。

 

「朔陽くんは真実を話していたし、喧嘩が起きてれば止めようとした。

 でもまあ、ほらね?

 当事者が言っても、嘘か言い訳か作り話にしか思われないわけで……

 むしろ『自分がやったことを認めろ』って感じに皆の火に油を注ぐ形になって……」

 

「うーわー」

 

 朔陽のために、たつきのために、というお題目が終始掲げられていたなら良かったのだが、そうでもなかった。

 むしろここまで来ると『自分と違う意見の人間はくたばれ』という側面を持ってしまう。

 よくある話だ。

 問題の当事者を置き去りにして、後から問題に加わってきた人間が騒ぎ立て、当事者が収拾をつけようとしてもどうにもならなくなる、なんて話は。

 

「それで、その後は……」

 

「うん、あーしが謝りまくった。謝って回った。さっきゅんも一緒に。

 さっきゅんに諭されて、あーしが勇気出したのよ。

 ……死者出なかったのは奇跡だったわね。

 さっきゅんが争いを止める意志を見せてたのと、その取り巻きが強かったのがあったから」

 

「なるほど……」

 

「今こうしてあーしが普通に暮らせてるのが奇跡なのよ。

 あの時あーしの味方したのは多くが他のクラスだったけど……

 学校全体に飛びした騒動をその後も、さっきゅんは納めに動いてたわね」

 

「ほほー」

 

「騒動から約半年。

 さっきゅんは四方八方に飛び回り、半年かけて事態を綺麗に治めたのでした。

 騒動の時は最悪の罵倒し合ってた人達もなんと仲直り。

 誰かが悪いわけでもなく、全員勘違いしてただけだから悪くない、と皆が思う結末に」

 

「サクヒは誰かが近くで喧嘩してると死にたくなる病でも発症してるの?」

 

 最悪のオチを予想していたら予想以上に綺麗なオチが来たものだから、和子は心底驚いてしまった。期待外れに予想以上の結末を持って来るとは、現委員長の名は伊達ではないといった所か。

 朔陽は昔から一貫して、誰かと誰かの仲を仲裁しているようだ。

 

「あーしは本気で謝ったわ。

 騒動が治まるちょっと前に、何度も何度も頭を下げた。

 腰が痛くなるくらい頭下げて。

 喉が痛くなるくらい声出し続けて。

 途中からは卑怯なことに、ポロポロ涙までこぼしながら謝ってた」

 

「……サクヒが許さないわけなくない?」

 

「ええ、彼は最初から一貫してあーしを許してた。

 勘違いしてただけで悪意はなかったんだからいいんだよ、だって。

 でもあーしは許されても謝り続けた。

 彼は簡単に許したけど、あーしは簡単に許されていいことじゃないと思ったから」

 

「……」

 

「許してもらえるまで謝った、じゃなくて、あーしの気の済むまで謝ったわけだ」

 

 許されることと、贖罪をするのは別の話だ。

 朔陽があっさりと許してくれたからといって、たつきがやらかした事実が消えるのか? たつきの中の罪悪感が消えるのか? そんなわけがない。

 朔陽が既に許している以上、それは自己満足のような謝罪ではあったが、たつきはけじめとして声が枯れるまで謝った。

 そして今も、朔陽の頼れる友人として、あの日の騒動のけじめを付け続けている。

 

「いや本当に……

 自分が全面的に悪くて……

 相手が全面的に許してくれるのは……つらい……」

 

「うん、まあ、ドンマイ」

 

 生涯のトータルで見れば、たつきより和子の方がよっぽど朔陽に苦労や面倒をかけているはずなのだが、そうは見えないのは幼馴染という関係性のせいか。

 あるいは、和子が打たれ弱いくせに時々図太さを見せるタイプであるからか。

 

「あなたは、あーしのようになっては駄目よ……」

 

「田村さん……」

 

「今はもうさっきゅんに恋愛感情はないけれど……

 敬意と感謝だけはありったけあるから、彼を支えることに異論はないの」

 

 実感のこもった言葉だ。

 過去を知った上で聞くと内から滲む悲惨臭が凄い。

 だが、辛い過去が強靭な意志を育んだのだと思えば、その過去にもきっと価値がある。

 その想い出がくれる強さはきっとあるはずだ。

 

「一緒に頑張りましょう。皆で力を合わせて、一緒に日本に帰るために」

 

「……はい!」

 

 たつきが土産を手に持って、どこぞへと歩き去っていく。

 朔陽を探しに行ったのだろうか?

 帰って来たという報告をして、土産を渡すつもりなのかもしれない。

 たつきの背中を見送る和子は、寧々が言っていたことを思い出す。

 

―――田村さんビッチっぽく見えるけど義理堅い女の子だから、変に絡まないでねー

 

 なるほど、恋愛上手という評価と遊んでいそうな出で立ちの割に、話してみれば義理堅い印象しか受けなかった。

 朔陽が"会って話さないと、実像ってのは見えてこない"と言うわけだ。

 

(珍しく本当のこと言ってたな。疑ったこと、後で謝らないと)

 

 和子は申し訳ない気持ちになりつつ、心中で寧々に謝った。

 

「あれ、和子ちゃん? たつきさんこっちに来てなかった?」

 

「あ、サクヒ。……入れ違いとは、なんてタイミングの悪い」

 

 そこに朔陽が現れる。

 なんと間の悪い。

 もう少し早く朔陽が来るか、もう少したつきがここに居れば、入れ違いにはならなかっただろうに。

 

「じゃあたつきさんに会ったんだ。綺麗な男の人だったでしょ?」

 

「うん、綺麗な女の―――え?」

 

 

 

 今、朔陽はなんと言った?

 

 

 

「……男?」

 

「うん、男。そう言ってなかった?」

 

 男。

 女じゃなくて男。

 和子も認める美人、クラスでもトップクラスの美人だったのに男。

 いや、それだとあの過去はどうなるか?

 あの過去話の構図ってまさか……と、和子が思ったところで、再度寧々の言葉が蘇る。

 

―――田村さんビッチっぽく見えるけど義理堅い女の子だから、変に絡まないでねー

 

 あの嘘つき野郎、と和子は心中にて静かにキレた。

 

 寧々はいつもの寧々だった、という話。

 

「たつきさんは凄いよ、男でも女でも狙った獲物は逃さず恋人に……どうしたの?」

 

「……いや、なんでも」

 

 朔陽がたつきを頼らなかった理由も大体分かった。

 それなら、自分一人で悩んで答えを出して、最大限の誠意を見せた方がいい。

 和子は戦慄している。

 

「聖闘士星矢……否、フェイント性や……ホモ挿す流星拳……」

 

「何言ってんの和子ちゃん」

 

 戦慄しすぎて、今自分が何を言ってるのかも把握できていないようだ。

 

 たつきはクラスの全員が知っていると言っていたが、それも凄まじい話だ。

 和子が見る限り、クラスの中に平時の不和は無い。

 少なくとも目立ったものがないことは確実だ。

 皆がたつきの告白の件を知りながら、たつきを笑いものにすることはなく、告白時のそれをネタにして話す者も居ない。

 田村たつきはヤバいやつだよ、と言っている者も居なかった。

 

 和子は今日までたつきの性別すら知らなかった。

 つまり、陰口などでたつきをネタにする者もなく、たつきの居ない場所でたつきを笑っている者も居なかったということだ。

 それどころか、女装勘違い告白野郎だったたつきを、男性としても女性としても受け入れているということでもある。

 

 朔陽が作り上げ、制御しているこのコミュニティは、田村たつきというやらかしたイロモノを受け入れるくらい懐が深いというわけである。

 

「サクヒ凄いよ……ホント凄い……」

 

「え、何どうしたのいきなり」

 

「何か疲れてない? 困ってることない? 膝枕してあげようか?」

 

「いいよ、今は何も困ってないから。近日中に忙しくなるかもしれないけど」

 

 そして、和子は気付いた。

 ずっとずっとひきこもりをしていた自分が、一度もひきこもりと呼ばれていないことを。

 ひきこもりをネタにされ、からかわれたことも一度も無い。

 いつだってクラスメイトは和子に好意的で、このコミュニティには年単位のひきこもりをごく自然に受け入れる、優しくも暖かい懐の深さがあった。

 問題児の集まりの中にそれを作ったのは、間違いなく佐藤朔陽その人で。

 

 和子はなんだかたまらなくなって、衝動的に、無言でぎゅっと朔陽を抱きしめていた。

 

 

 



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19話

 和子は恋愛絡みの様々な話を聞き、ふと思った。

 

「サクヒ、うちのクラスで恋愛強者は誰かだいたい分かったけど、戦闘強者なら誰?」

 

 朔陽はほとんど考えることもなく、ノータイムで答える。

 

「張飛くん」

 

「誰?」

 

「不良っぽい人だよ。千ヶ崎張飛(ちがさき ちょうひ)くん」

 

「ああ、あのドラゴンを殴ってた人」

 

 和子の頭の中で、名前と顔が一致した。

 耳にやたら沢山ピアスを付け、染めた金髪を逆立てて、やたらと悪い目つきで四方八方を睨んでいた男だった。

 まるで世界中全てが敵に見えているかのように、周囲と協調する気配をまるで見せていなかったので、和子も"マジなヤンキーこわい"と思い覚えていたのである。

 

「かつて、冷戦があった。僕らの中学時代、学生間であった冷戦だ」

 

「冷戦……あったっけ?」

 

「僕らの中学校は関わりが薄かったけど、僕は色々あって県外の学校にも友達が居たからね」

 

「その県外の友達が巻き込まれたから知ってた、って感じ?」

 

「そういうこと。

 当時現場になった界隈では、ソビエトと合衆国の冷戦が引き起こされていた」

 

 教師の親と火星で決別し参戦した曽川、鉄血宰相ビスマルク、キラキラネームでいじられちょっとグレていた江ノ島天使、中国からやって来た元番長董仲穎。

 彼らの頭文字を取り、日本東側の中学生達が連合を組んだのがソビエト連邦。

 メリケンサック装備の不良学生二千人を動員したと言われる日本西側勢力がメリケン合衆国だ。

 不良を中心とした西側不連合が、国会議事堂を占拠しようとしたのに対し、それを不良の喧嘩の枠内に収めるべく東側不良連合が立ち上がった形になる。

 東側不良連合には、特に不良でない者も多くが助力していたそうだ。

 

 両派の抗争の影響は県外にまで及び、特に宮崎県、群馬県、福島県のきゅうり三大産地において地元ヤクザを巻き込んみ生物兵器まで使用される事態となった。

 これによりその年のきゅうり生産量は50%まで減少し、価格は高騰。

 後の時代にキューリ危機と呼ばれる、不良東西冷戦のピークである。

 国が動く事態になりかけたその時、千ヶ崎張飛は歴史の主舞台へと上がった。

 

 張飛は単独で一つの勢力として機能し、一週間のみの三国志が開始される。

 朔陽はこれを『張飛が三国志を始め、張飛が三国志を終わらせた』と表現した。

 

 西側不良をピンに見立て、車を投げてのボーリング。

 西側不良を百人以上積み上げてのジェンガの作成。

 西側不良を道頓堀に放り込み、道頓堀全てを堰き止める。

 当時の西側不良を全滅させた張飛の武勇伝は枚挙にいとまがないが、所詮は不良界隈の話だ。

 不良は誰もが張飛のことを知っているが、不良でないものはそうでもない。

 

 不良東西冷戦はソビエトの勝利に終わり、日本の民主主義は守られたのだった。

 

「彼の功績はとても大きかった。

 でも、東側の不良勢力はあまりにも無事過ぎたんだ。

 東側の不良達は東京になだれ込み、東京不良戦国時代が始まった。

 23区に23の不良勢力が出来、皆が覇を唱え始めたんだよ。

 日本全国から自分の限界に挑戦する不良達が集まる戦争。

 後に、挑戦戦争と呼ばれるようになる最後の大戦争が始まったのさ」

 

「戦争扱いかー……戦争扱いかー」

 

「メリケンの残党が北挑戦区画に流入して、新宿や練馬区などを抑えた。

 これに応じてソビエトも南挑戦区画の支援を開始した。

 最終的にまた張飛くんが暴れて、東側と言われたソビエト側の不良勢力も叩き潰されて……」

 

「うん、もういい、もういいよ、よーくよーくわかったから」

 

 歴史オタクの男子に興味のない歴史抗議を聞かされた女子のような顔を、和子はしている。

 和子は張飛の人柄を聞きたかったのであって、歴史講義を聞きたかったわけではないのだ。

 

「この後の中国地方東部鳥取での、砂にまみれた中東イラク戦争にならないと僕出て来な……」

 

「もう私お腹いっぱいだから」

 

 朔陽はまるで、英雄を語る語り部のようであった。

 人は英雄の人柄を聞かれた時、歴史を語る。

 英雄の人柄は歴史に記されているからだ。

 そういう意味では、千ヶ崎張飛は既に『伝説の不良』と化していると言える。

 

 ……現代で伝説の不良という肩書きを持つ者が居るという時点で、驚かれて然るべきことだが。

 

「張飛くんは良いところも悪いところもある人だよ。僕は好きだけど」

 

「サクヒは友達皆好きじゃん」

 

「好きだから友達やってんだからそりゃそうでしょ」

 

 良いところだけを見ているから友達というわけでもなく、悪いところがあるから友達を辞めるというわけでもなく。

 

「例えばほら、たつきさんの話は聞いてるよね?」

 

「うん、本人から」

 

「噂話を聞いて"女を弄ぶクズを殴る"って目的で張飛くんはたつきさん側に付いた。

 これは間違いなく良い部分だよ。

 でも誤解が解ける前に行動に出て、校舎を殴って消滅させた。これは悪い部分なんだ」

 

「……不良やっばい」

 

 朔陽が和子にそれを語ったのが、大体一ヶ月前のことだっただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朔陽がそれを和子に語った一ヶ月後、屋敷のソファーでうとうとしていた朔陽を、和子が揺り起こした。

 

「サクヒ! サクヒ!」

 

「……んにゃ……あれ、もう登校時間?」

 

 朔陽は寝起きで寝ぼけていた。

 頭の中を意味のない言葉がぐるぐると回る。

 アル中ってアルトリア顔中毒のことだっけ? アルコール中毒のことだっけ?

 ジャンキーって麻薬好きのことだっけ? ジャンヌオルタ好きの邪ンキーのことだっけ?

 ナポレオンは「私の辞書に不可能は無い」と言ったんだっけ? 「私の頭部にふか(もう)は無い」と言ったんだっけ?

 ナポレオンの頭にふかふか毛はあったっけ……ハゲを帽子で隠してたんだっけ……?

 そんな感じに寝ぼけていた。

 

「寝ぼけてないで! 事件事件!」

 

 だが、和子の鬼気迫った声に、一瞬で意識を正常なものに戻していた。

 

「状況説明お願い」

 

「街中で、前に話してた千ヶ崎さんが暴れてる!」

 

「どのくらい死んでる?」

 

「え? ま、まだ誰も死んでないと思うけど……」

 

「おかしい、異常事態だ。まだ誰も死んでないなんて」

 

「その判断基準はおかしくない?」

 

 おかしいのだがおかしくない。

 朔陽は基本的に個々人の行動原理や戦闘力を把握した上で発言している。

 

「和子ちゃん、先行して様子を見て来て。僕も全速力で現場に向かうから」

 

「基本目標は?」

 

「第一に死人を出さないこと。第二に怪我人を出さないこと。第三にそれ以外の被害の漸減」

 

「了解」

 

 和子が消え、朔陽が走り出す。

 最短の移動手段と最短の経路を選び、朔陽は現場に到着する。

 そして、状況を理解した。

 

 今日は東京タワーブレードを持っていない敬刀、螳螂拳の達人の男の娘たつき、魔将を太陽に投げ込んだ柔道部の辻が、不良の張飛を囲んでいる。

 これならば、死人が出ていなかったとしても何もおかしくはない。

 クラスメイトが不良の蛮行を止めていたのだ。

 

 そこで和子が跳び上がり、張飛の頭上から鉄板を投げる。

 鉄の板が張飛を囲み、ヤンキーの姿を覆い尽くして、その鉄板の上を和子の土遁壁が覆って包み『箱』を完成させる。

 捕らえた、と和子は思った。

 それは意味がない、と朔陽は思った。

 厚み3cmはあろうかという鉄板を、内側から不良の指が貫き貫通させた。

 ギギギ、と鉄板が引き千切られ、岩の土遁壁が砕け落ちていく。

 張飛が行儀悪く唾を吐き捨てると、吐き捨てられた唾が鉄板を貫通した。

 

 和子の息を飲む音が、無情に街中に小さく響いて消えていく。

 

「うわっ、マジギレ顔の張飛くんだ……」

 

 ただ、その不良が息を吸っただけで、その場の全ての空気が動いたかのような錯覚がある。

 その不良が息を吐いただけで、街中の空気が動いたかのような気すらする。

 遠目に戦いを見ていた王都の民は皆、その姿に圧倒された。

 国の騎士団が来てもこれは止められないのでは、と皆で思ってしまう程に。

 朔陽が走る。

 

 だが朔陽が彼を止められる位置に辿り着くまでには、たっぷり数秒は必要だった。

 数秒自由にできる時間があれば、格闘ゲームの勝敗なんて一瞬で決まってしまうというのに。

 

「どけ」

 

「事情を話す気は無いのか」

 

「てめえらのことなんざ知るか。

 ここにはスジを通してねえ奴が居る。

 オレが動くにはそれだけで十分だ。二度も言わせんな、どけ」

 

「それは無理な相談だな」

 

 そこからの攻防は、一瞬だった。

 攻防終了まで約五秒、刹那の交錯であった。

 

 屋根の上から攻めれば、家が邪魔になって見えないはず。

 そう考え、辻は手を柔道特有の構えにし、屋根の上から駆け下りるようにして張飛に飛びかかろうとした。

 だが、無駄。

 張飛は辻が乗っていた交番もどきを蹴り、辻を交番ごと雲の上まで蹴り飛ばし、辻という存在を根本から無力化してみせた。

 

 一秒が経過。

 

 蟷螂拳を振るうたつきは腕を捕まれ、地平線の向こうへと投げ飛ばされる。

 見かけが綺麗な女性であってもチンコが付いている存在に張飛が加減するわけもなく、たつきはあっという間に大陸上空を通過し、大陸も何も無い海上の空に到着してもなお止まらない。

 重力と遠心力が釣り合った人工衛星のごとく、たつきの体はこの星の周囲の周回を始めた。

 

 二秒が経過。

 

 和子は風より速く跳ぶ。

 忍者特有の身のこなしで『空間殺法』と称される類の立体的高速移動攻撃を仕掛けたが、張飛は眼前の空間に頭突きを行い、ただの頭突きで空間内を通る光を選択的に破壊する。

 光が破壊された範囲では、前など見えようはずもない。

 和子の足が止まってしまう。

 張飛は目の前の空間に噛みつき、首の力だけで広範囲の空間を引き寄せた。

 周囲の家の位置がズレる。

 遠方で子供が転ぶ。

 そして一番近くにいた和子は、すっ飛ぶように引き寄せられ、不良流ヤクザキックの直撃を受けてしまった。

 

 三秒が経過。

 

 気絶した和子がふっ飛ばされどこかにぶつかる前に、敬刀が竹刀を振り下ろす。

 彼が得意とする飛ぶ斬撃だ。

 されど張飛は拳を縦横無尽に振り回し、飛ぶ斬撃を片っ端から粉砕していく。

 鋼鉄の砲弾が、戦車の鋼鉄の砲弾を粉砕するような異様な音が、連続で鳴り響く。

 飛ぶ斬撃を全てくぐり抜けた張飛の拳が、鉄をも切り裂く竹刀と衝突。

 (ケン)(ケン)の鍔迫り合いが始まりを告げる。

 

 四秒が経過。

 

 0.01333333333秒の刹那を競う速度の世界で、その一瞬、張飛は敬刀を上回る。

 張飛は吠えた。

 それこそ、敬刀の後ろの地表が音波で砂状化してしまうほどの声量で。

 収束された大声は、敬刀の耳の穴から内部に入り、頭の中の器官をめちゃくちゃにして、敬刀に膝をつかせることに成功した。

 "音は竹刀では防げない"。

 いともたやすく行われる、常識外れの音量攻撃だった。

 

 五秒が経過し、戦いは終わる。

 

「……お、まえ。こんなに……強かったか……?」

 

「魔王軍よりは歯ごたえあったぜ、お前ら」

 

 張飛が親指で地平線の彼方を指差した。

 気絶しそうになっている頭を必死に動かし、敬刀はその方向を見る。

 すると、遠く遠く、国境と呼ばれる人と魔王の領域の境界の更に向こうに、塔のようなものが薄っすらと見えてきた。

 

「……ジェンガ?」

 

 ジェンガに見えたそれに目を凝らし、敬刀は息を飲む。

 それは、倒した魔王軍兵士の体を積み上げ、雲まで届きそうな程高くまで打ち立てたジェンガ。

 ジェンガのない世界に打ち立てられた、世界一高いジェンガであった。

 

 ジェンガの高さは大体400mほどだ。

 上に乗せられた兵士の重みで、下の兵士は押し潰され、大体厚み20cmほどになっている。

 下から上まで数えて約2000段。

 ジェンガは一段につき三つ積み木を置く玩具であるため、合計で約6000。

 不良に殴り倒された魔王軍兵士が六千以上積み上げられて作られた塔は、信じられないスケールをもって、大陸のどこからでも見えるモニュメントとして屹立していた。

 

 張飛がこの世界に来てから、彼が思うがままにブラブラとする過程で、一体何千体の魔物が彼に喧嘩を売ったのだろうか。

 一体何万体の魔物がこの不良の拳に殴り倒されたのだろうか。

 間接的被害も合わせれば、彼の拳に殴られた魔王の配下は十万単位に届くかもしれない。

 

 誰もが彼を放置した。

 不良の中の不良である彼を放置した。

 千ヶ崎張飛に首輪は付けられないと諦めていた。

 そうして放置されていた間、張飛は国境線や魔族領に思うがまま殴り込み、多くの人に正確に把握されないまま、無制限に無尽蔵に戦闘経験値を積み上げ続けた。

 

「そりゃ……ヤンキーのお前も、強くなるか……」

 

「……ふん」

 

 その結果がこれだ。

 不良は喧嘩をすればするだけ強くなる。

 クラスで一番喧嘩が強いのは不良だと、不良系漫画も言っている。

 日本において不良はだいたい無条件に強い。

 単純に、不良戦国時代においてイキっているだけの雑魚に分類される不良は、誰も最後まで生き残れなかったからだ。

 ある者は歴史の闇に消え、ある者は不良を辞め、ある者は最後まで強者として残り続けた。

 

 その頂点に伝説を残したのが、千ヶ崎張飛。

 一人で三国志を始め、一人で終わらせた伝説こそが彼なのだ。

 

 誰も張飛を止められない。

 このクラスの舵取りをずっとやって来た、朔陽一人を除いては。

 

「ストップ、張飛くん!」

 

「……」

 

 朔陽が歩き出す張飛の前に立ちはだかり、その歩みを止める。

 クラスメイトの稼いだ数秒がくれたチャンス……で、あったのだが、張飛は朔陽に攻撃せず、言葉をかけることもなく、無視してその脇を通り抜けようとする。

 

「待った! せめて、こういう行動を取った事情の説明を……」

 

「知るか」

 

 まるで聞く耳持たれない。

 他の人は張飛を暴虐の化身、何の意味もなく暴力を振るう人間だと思っているが、朔陽は違う。

 朔陽は張飛が何の理由もなく喧嘩をする人間ではないということを知っていた。

 だから止めねばならないと考える。

 されど張飛は止まらない。

 

 止めるには、相応の誠意と覚悟が必要だった。

 

「分かってる。君の流儀は分かってる。君はスジの通らないことはしない」

 

 朔陽は、懐より小刀を取り出し……自分の言葉に聞く耳持たない張飛の前で、自分の左手親指を切り落とした。

 

 古来より伝わる謝意と誠意の表明法の一つ、(エンコ)詰めである。

 

「―――!」

 

 張飛が不良顔でギョッとして、朔陽は苦悶顔で泣きそうになっていた。

 指を切り落とした痛みで叫びそうになるが、ぐっと堪える。

 張飛の足は止まり、張飛はもはや朔陽の言葉を聞かざるを得ない。

 

 指一本を犠牲にして、朔陽は彼の足を止めていた。

 

「だけど、ここは僕の指一本で我慢して、止まってくれないか」

 

 切り落とされた指は地に落ちて、ポタポタポタと、止めどなく血が指の断面から滴り落ちる。

 

「足りなければ、もう一本詰めるから。一度止まって、僕に事情を話してみない?」

 

「……お前」

 

 左の親指に続き、朔陽は人差し指まで切り落とした。

 言葉以上に雄弁な、『これ以上暴れるな』という警告である。

 朔陽は友情を信じた。

 張飛が自分を友人だと思ってくれていると信じた。

 これは"張飛の友"を痛めつけ、人質に取る行為であり、だからこそ張飛に対し有効な脅迫と成り得るものである。

 

「分かった、分かった! 分かったからやめろ!」

 

「僕とちゃんと話をするって、ここで約束するんだ、張飛くん」

 

「お前そんな青い顔でよくも……わぁった、約束してやらあ。だからまず止血させろ」

 

 "指を詰めて誠意を示さなければ、張飛は止められないのか?"

 そう問われれば、朔陽は迷いなく答えるだろう。

 "間違いなく止まらない"、と。

 朔陽がこのクラスの委員長をしているのには、相応の理由がある。

 クラスの皆がそれを望んだからだ。

 彼でなければ、このクラスの人間は統制できないからだ。

 

 指を詰めなければまず話も聞いてもらえない友人の手綱さえ握って、クラス全体の連携を取れないようでは、クラス対抗の体育祭で勝つことすらできないだろう。

 それが、委員長の果たすべき責務というものだ。

 

「傷口の根本を縛って……ああクソッ、落ちた指はどこに行った?」

 

「張飛くん、慌ててる時こそ探しものは見つからないものだよ」

 

「じゃあ落ち着いてるテメーが探せッ! テメーの指だろうがッ!」

 

 復帰してきた和子や、張飛の人柄をロクに知らない町の住民が目を丸くしている。

 ほんの少し前までそこに居た暴君が、いつの間にかどこかへ消え去ってしまったかのようだ。

 先程まで理不尽に暴力と破壊を振り撒いていた張飛が、今は必死に下に落ちて砂と土に混じった友人の指を探している。

 

 張飛が指を見つけた頃には、張飛に上に蹴り飛ばされて落ちて来た辻と、横に蹴り飛ばされて星の周りを一周してきたたつきが、空中で壮絶に激突していた。

 

「よし、見つかった……苦労させやがってクソが……!」

 

「で、張飛くんはなんでこんなことしたのさ?」

 

「……テメー本当に精神だけはとことんタフだな」

 

 朔陽はさっきまで必死で痛みを堪えていたくせに、もう微笑みを顔に浮かべられるようになっている。

 痛みが消えたわけではない。ただのやせ我慢だ。

 張飛から話を聞き出すためのやせ我慢である。

 不良らしくない溜め息を吐き、張飛は朔陽の向こう側の樽を指差した。

 

「オレは戦いの最中にもずっとそっちを見てたんだ。

 そこに今も隠れてんのは分かってる。さっさと出て来い、潰すぞ」

 

 ガタッ、と樽が揺れて、その後ろから太っちょの中年男が転がり出てくる。

 朔陽はその顔に見覚えがあった。

 黄泉瓜巨人軍の襲来の時、極めて早く集まった貴族の中の一人、朔陽のケツに熱烈な視線を送っていたホモの貴族であった。

 

「張飛くん、ホモ・ジェナイザーさんがどうかしたの?」

 

「誰だよ」

 

「今この国の貴族のトップ5には入る人だよ。

 人によって勢力の大きさの判断は分かれるけど……

 この人がトップをやってる貴族派閥が一番大きい、って言ってる人も居るね」

 

「大貴族様か」

 

「うん、その認識で間違いない」

 

「まあどうでもいいけどな」

 

 張飛は物陰に向けて手招きする。

 すると、ぐすぐす涙を流している小さな女の子が、泥と泥水と靴跡でぐしゃぐしゃになった画用紙を抱いて現れた。

 張飛はその子の肩に優しく手を置いて、ホモを睨む。

 

「二度は言わせんな。この子に謝れ」

 

 朔陽は靴跡を見て、ホモが履いている靴とその靴跡が一致するのをひと目で見抜き、状況を七割がた察していた。

 

「テメーは馬車から降りた時、風に飛ばされたこの子の絵を踏んだ。

 この子が親の顔を書いて、親にあげようとしてた絵だ。

 テメーは踏んだが謝りもせずどっか行こうとしてたな。

 だからオレは謝れと言ったが……テメー、無視して更に絵をグリグリ踏みつけやがったな?

 オレの指摘はさぞかし気に食わなかったんだろうがよ、だが、ガキの絵にやることじゃねえだろ」

 

「なっ」

 

 確かに、ホモには覚えがある。

 子供の絵をうっかり踏みつけた覚えもある。

 そこからガラの悪い男に絡まれて、"最近ヤクザ者がやっているという貴族相手の絡み屋か"と思って、わざわざ絵を踏みつけにしてやった覚えもある。

 謝れ、と言われた覚えもある。

 だが貴族の彼からすれば、そんな理由で特権階級である自分に喧嘩を売ってくる人間が存在することすら、信じられない。

 

「そ……それだけか!?

 それだけのために、これだけのことをやったのか!?

 儂の護衛を全て殴り倒し!

 街中でバケモノのように暴れ!

 同じ世界から来た数少ない同郷の同胞を、邪魔だからと攻撃したのか……!?」

 

「奴らには後で頭を下げておく。だが、テメーを逃したくはなかったからな」

 

 子供を泣かせたオッサンが、謝らずにどっかに行こうとした。

 それだけを理由に彼は喧嘩した。

 貴族の護衛を全て殴り倒し、騒ぎを聞きつけたクラスメイトを全員薙ぎ倒し、こうして大貴族の一人を追い詰めたのだ。

 

 彼は恐らく、この異世界で地球人というコミュニティから拒絶され、一人ぼっちになってしまうということすらも、恐れていないに違いない。

 

「悪いことをしたら謝れなんてのは、ガキでも知ってることだ。

 それを? いい歳したオッサンが? ガキ相手にやらかして?

 謝りもしないってのは『スジが通ってねえ』って言うんだよ、このデブ」

 

 気に入らないから暴れる。

 それは子供の理屈ではあるが、不良が血みどろになりながら貫く在り方でもある。

 

「てめえはスジを通さなかった。

 気に入るか、気に入らないか。

 俺達の判断基準なんてそんなもんだ。

 気に入った奴は(タマ)賭けてでも守る。

 気に入らねえ奴は何があろうと絶対に(タマ)取ってやる」

 

「ひぃっ」

 

「てめえが謝る気になるまで、殴ってやらあ」

 

 張飛が拳を振り上げると、朔陽が止めるべく割って入る。

 しかも指に小刀を当てていた。

 "暴れるなら切り落とす"という脅しに、張飛は苦い顔で拳を降ろす。

 朔陽は張飛が止まってくれたこの僅かな時間に、貴族の彼に謝罪を促した。

 

「ジェナイザー卿、あの子に謝って下さい」

 

「あ、謝れば良いのか!? よし……!」

 

「あ、そっちじゃないです。

 張飛くんじゃなくてあの子の方に謝って下さい。

 こういう時に謝る相手を間違えると、張飛くんは荒れ狂うので……」

 

「ええい、面倒な。金は払うと言ってもか?

 貴族がこういう非を認めるのは、後々少し厄介なことになるのだが」

 

 朔陽が首を横に振る。

 

「彼が求めていることは、金でも物でもありません。

 あなたを痛めつけることでも、あなたを惨めな姿にすることでもありません。

 あなたがスジを通すことです。それだけなんです。信じられないかもしれませんが」

 

「バカな、大義名分に隠して自分の実益を求めているのでは……」

 

「彼らは損得で動いてるんじゃないんです。

 先の事も考えてない。保身も利益も考えてない。

 彼が言っている通り、気に入らないから戦っているのです」

 

「それが地球人か?」

 

「それが不良なのです。彼は特別ですよ」

 

 にっちもさっちもいかなくなって、貴族は自分が踏みつけにした絵を抱きしめる、年齢一桁らしき女の子に頭を下げた。

 

「すまなかった。この通りだ、許してくれ」

 

 女の子は涙で濡れた顔を拭き、赤くなった顔で元気に許す。

 

「うん、いいよ!」

 

 あまりにも元気なその許しに、その子のために喧嘩したはずの張飛から、毒気もやる気も根こそぎ消えていくのが目に見えた。

 

「いいのか?」

 

「うん。ごめんなさいしたらゆるしてあげなさい、っておかーさんも言ってた!」

 

「……そうか」

 

 子供の純粋な言い分が、不良の戦闘意欲を削る。

 "ごめんなさいされたら許す"というその生き方が、張飛にはとても眩しく見えた。

 許された、と思った中年貴族がほっと息を吐く。

 朔陽は貴族に頭を下げて平謝りを始める始末。

 

「いかんな、これからはもっと気を付けて毎日を生きなければなさそうだ……」

 

「すみません、貴族の方にこんなご迷惑をかけてしまって。何とお詫びしたら良いか」

 

「いや、構わん。

 いい教訓になった。

 何事も争いや諍いにならないのが一番だ。今後も気をつけよう」

 

「本当にすみません。二度と同じことが起こらないよう、僕の方でも気をつけておきます」

 

 太っちょの貴族もまた朔陽と張飛を許し、困った顔で笑っていた。

 "これをネタにこの世界における地球人の立場が悪くなるのでは"と危惧していた朔陽もまた、少し安心してほっと息を吐いた。

 地球人は乱暴者で暴れ者、なんて噂を流されてはたまらないが、貴族の所作を見る限りその心配も杞憂のままに終わりそうだ。

 

 不良は気に入らない男だけを見ていて、女の子は自分の絵だけを見ていて、貴族は何を見れば良いのかようやく気付いて、朔陽は未来と社会を見ていた。

 ほっと息を吐く朔陽の脇を抜けるようにして、女の子が貴族に駆け寄った。

 

「紙、持ってる?」

 

 貴族は女の子の手の中でくしゃくしゃになった紙を見て、眉を寄せる。

 そして懐からやたら高そうな箱を取り出し、箱からやたら高そうな紙を抜き取り、子供に手渡した。

 

「これでいいか?」

 

「ありがとうおじさん!」

 

「ああ。……今度は、誰にも絵を踏まれないようにな」

 

「うん!」

 

 女の子が走り去っていく。

 貴族と女の子の今のやりとりを見て、張飛はたいそうふて腐れた顔をしていた。

 張飛が暴れて、朔陽が仲裁し、貴族が謝った。

 結果、絵を踏まれて泣いていた子供に笑顔が取り戻されたわけだが……あの貴族を顔面が変形するまで殴ろうと思っていた張飛からすれば、なんとも言えない気持ちなのだろう。

 

 あの貴族をボコボコにしていれば、この結末はなかった。

 グロテスクで血みどろな喧嘩に成り果てていれば、張飛が女の子を泣かせる側になっていたかもしれない。

 だから張飛は、ふて腐れた顔をするしかない。

 

「だから何事も暴力で解決するのはよくないって言ったじゃん、張飛くん」

 

「ちっ」

 

 ブレーキ役の委員長がそんなこと言うもんだから、張飛は舌打ちでしか返せなかった。

 

「テメーもやりすぎの部類だろうが。指捨てやがって」

 

「回復魔法で治るかもしれないじゃん?」

 

「治らないかもしれねえだろ」

 

「でもこうでもしないと君は絶対に足を止めなかったかもしれないし」

 

「そんなことしなくても止めてたかもしれねえだろ」

 

 かもしれない、かもしれない、の連続。

 ただ、こういう時の判断は往々にして、張飛より朔陽の方が正しかった。

 

「テメーはいつもそうだ。ダチの問題に余計に首突っ込んで、要らねえ苦労背負いやがって」

 

 人を殺しそうな目で朔陽を睨む張飛。朔陽の方は慣れたもので、その強烈な視線をゆるりと受け流していく。

 

「だからテメーは"ずっと"苦労をしょいこむことになる」

 

「"ちょっと"の苦労をしょいこむだけさ」

 

「そのくせ、"ちょっと"しか報われてねえ」

 

「いいや、僕は"ずっと"報われてるんだよ、張飛くん」

 

 過去から未来に至るまでの長い間(ずっと)、朔陽は報われている。

 少なくとも朔陽の主観ではそうだ。

 張飛はバカを見るような目をして、溜め息を吐いた。

 

「どうしたの?」

 

「なんでもねえ」

 

 朔陽もまた張飛を呆れた目で見て、この後のことを想像して苦笑した。

 

「おい、どうかしたか」

 

「なんでもないよ」

 

 また舌打ちする張飛。仲が良いのやら、悪いのやら。

 二人がその辺りのベンチに腰を降ろすと、ようやく騎士団やら姫様やらがやって来る。

 

「いつもいつも余計なことしやがって。気に入らねえ」

 

「余計なことしてるのは君の方だよ。こんな大騒ぎにしちゃって、もう」

 

 言葉とは裏腹に、二人の表情には敵意が見えない。

 気に入らねえ、という言葉には、朔陽への親しみがあり。

 こんな大騒ぎにしちゃって、という言葉には、褒めるような響きがあった。

 朔陽は張飛を止めた。

 だが、張飛は自分を止める友人を嫌うことはなく、朔陽は子供のためならどんな敵にも立ち向かって行けるこの不良が嫌いではなかった。

 

 優等生と不良の、奇妙な距離感の友情である。

 

「不完全燃焼に終わっちまったぜ、お前のくだらない横槍のせいで」

 

「じゃあ場所用意してあげようか?」

 

「ん?」

 

「実はさ、吸血鬼の国に行く話が出てるんだ。

 どうにも動きがきな臭いらしくてね。

 僕やヴァニラ姫が行くって話になってるんだけど」

 

「戦場か」

 

「まだ戦うと決まったわけじゃないけど、多分戦いになる。勘だけどね」

 

 朔陽と姫が行くとなれば、脳裏にちらつくのが竜王の助言。

 

■■■■■■■■

 

「そうだ、そこな姫。

 貴様らはフュンフの研究所から逃げた人間の行方を追っていたな?

 魔族領内の人間国の周辺を探してみると良い。

 吸血鬼の国を越え、国境を越え、魔族領を極力通らないのが吉である」

 

■■■■■■■■

 

 容易な道のりではなかろうが、それでも最善の道であることは保証されている。

 竜王の言葉を信じるなら、ではあるが。

 朔陽は直感的に、越えられない道程ではなくとも、戦いのある道程であるとは思っていた。

 

「相手は吸血鬼の王様と吸血鬼の国一つ。大暴れしてみる気はないかい?」

 

「上等」

 

 朔陽の呼びかけに、張飛は獰猛に笑んで答えた。

 「いてー」とぼんやり声に出している敬刀達を朔陽が見る。

 実は、吸血鬼の国に行くということで、朔陽が呼びかけて戦える数人を集めたがために張飛の足止めが成立していたのだが、結果はご覧の有様だ。

 柔道部も、螳螂拳士も、剣道部も、忍者も、ダメージは軽くないように見えた。

 

「……どのくらい加減したの?」

 

「ほとんど加減してねえな。回復魔法でどうにかなるといいんだが」

 

「……」

 

 後先考えない。

 暴力に躊躇いがない。

 そのくせ喧嘩がやたら強い。

 張飛がそういう人間だということは朔陽も分かっていたつもりだったが、このタイミングで連れて行こうとしていた仲間が全滅させられたのは、流石に頭を抱えてしまった。

 

「怒ってるか?」

 

「当たり前でしょうが。君が殴った数人は、僕の大切な友達なんだよ」

 

「悪かったよ」

 

「謝って、反省できたならいいよ。あの女の子もそう言ってたから」

 

「……テメー」

 

「後で皆にもちゃんと謝るように。

 あと、本当は僕が皆の手当手をしたいんだけど、ちょっとね。

 なんか血を流しすぎてフラフラしてきた。

 医者が来るまで、皆の手当ては張飛くんがやっておいてくれないかな」

 

「……ちっ」

 

「張飛くん。そこは舌打ちじゃなくて『はい』、ね」

 

「……はいはい」

 

 回復魔法が使えるヴァニラ姫の姿が見えて、ちょっと安心した朔陽は、切り落とした指を握りながら瞳を閉じた。

 

 

 



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