そのままの君が好き。 (花道)
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プロローグ 雨は降り続けている。
♯1 再会。


 

 

 

 ーーー陽乃、貴女は雪ノ下家の長女なのよ。

 ーーー陽乃、あまり私を落胆させないで。

 ーーー陽乃、貴女は……。

 ーーー陽乃!! 貴女は私の言う事だけ聞いていればいいの!!

 ーーー後悔するわよ、陽乃。

 

 

 全てが嫌になった。

 口を開けば「雪ノ下家の長女」。

 自由を装っているが、本当の自由なんてそこには存在しない。

 未来はすでに決まっている。

 所詮、操り人形でしかない。

 

 

 ーーーわたしは操り人形じゃない。

 ーーーわたしはあなたのおもちゃじゃない。

 ーーーわたしにも夢くらいあった。

 ーーーわたしだって……。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 雨に濡れていた。

 傘も差さずに一人の女性が暗くなってきた道を歩いていた。崩れた髪の毛は顔を隠し、濡れたシャツからは黒の下着が微かに見えていた。

 滴り落ちる雫。

 剥がれ落ちた仮面。

 引き裂かれたプライド。

 とうの昔になくした自尊心。

 なんだが、全てがバカらしくなってしまう。

 生まれて初めて母親と喧嘩して、家を飛び出して、「わたしは一人でも生きていける」とあの時は簡単に思っていた。

 でも、彼女がーーー雪ノ下陽乃が思っているよりも、現実は厳しかった。

 大学は辞めた。アルバイトは思ったよりも長続きしない。友達もいない。頼れる人は誰もいない。

 いや、この短い人生を振り返っても、そんな人は初めから陽乃にはいなかった。

 陽乃が頼めば誰もが言うことを聞いてくれた。

 陽乃が声をかければ誰もが振り向いた。

 陽乃がなにかを提案すれば、誰もが頷いた。

 手にしていた力はもうこの手にはない。

 今の陽乃の周りには、そんな人誰もいない。

 土砂降りの雨は終わることなく降り続いている。

 流れた涙も雫とともに消えていく。

 

 

 こんな姿、誰にも見られたくない。

 

 

 今まで完璧な人間を演じて生きてきた。

 親の……母親の理想に応え、求めていた夢を棄て、そのかわりに親の夢を追い続けた。

 後戻りもできず、ただその道を進むことしかできなかった。

 どれだけ進んでもその道は交わることはなかった。

 親の期待には応えた。応えたつもりだった。だけど、応えれば応えるほどに期待はどんどん膨らんでいった。

 しんどかった。期待に応えるのが。

 辛かった。自分を偽るのが。

 本当の自分はどこにいるのかも解らず、現実と理想の(はざま)で揺れ動いて、犠牲にし続けた。

 限界なんてとうの昔に過ぎていた。

 でも、それすらも偽るのが陽乃に許された唯一の行為だった。

 決して弱みを見せない。

 それは『雪ノ下の長女』として、当然のことだった。

 

 

 だから、その偽りの仮面が壊れてしまったら、こんなにも弱くなってしまう。

 こんなにも一人が嫌になってしまう。

 一人が嫌なくせに、こんな姿、彼にも、妹にも、誰にも見せたくない。

 

 

 思っていたよりも陽乃は弱かった。

 思っていたよりも陽乃は賢くなかった。

 思っていたよりも陽乃はバカだった。

 思っていたよりも陽乃には才能がなかった。

 

 

 雨は降り続けている。

 変わらず、まだ雨に濡れている。

 寒い。

 胸の奥が痛い。

 強くなりたい。

 人肌に触れたい。

 伸ばした手の先には、()()も、誰もいない。

 

 

 ーーー誰でもいい、誰か……助けて。

 

 

 そんなことも言えずに、何ヶ月経っただろう。

 

 

 もう、終わってもいいんじゃないか?

 

 

 負けて惨めに生きていくくらいなら、もういっそ死んで楽になった方がいいんじゃないか?

 

 

 僅かに残ったプライドが終わりを求めてくる。

 擦り減らした心が生きてみようと訴えかけてくる。

 

 

 立ち止まり、雨空を見上げる。

 どす黒い空模様。

 22年間生きてきた。

 5歳で自分の運命を理解()った。

 16年間我慢してきた。

 21歳で母親と初めて喧嘩して家を出てきた。

 22歳で初めて壁にぶつかった。

 世界は自分中心に廻っていると勘違いしていた。

 結局は自分も誰かに使われる側の人間だった。

 視線を落とす。

 水溜りに映る顔は、降り注ぐ雨に弾かれてどうなっているのかわからないか、きっとそこには酷い顔があるはずだ。

 前方から人が歩いてくる。

 雨に濡れながら陽乃は再び歩き出す。

 すれ違い、離れていく。

 足音は遠のいていく。

 遠のいていった足音が不意に止まる。

 

 

「……陽乃……さん……?」

 

 

 不意に、名前を呼ばれた。

 聞き覚えのある声に思わず足を止めてしまった。

 振り返らない。振り返れない。

 こんな顔なんて見せたくない。

 いや、それよりも、どうしてこのタイミングで?

 もう二度と会えないと思っていたのに。

 彼の傘が雨を遮る。

 

 

「久しぶりですね」

 

 

 もう一度声を聞いて、思わず振り返ってしまった。

 少し低くなった声。身長もあの時より高くなっていた。大人になった彼。

 記憶の中の彼とは明らかに成長していた。

 現実を受け入れられない。

 声のかけかたが解らない。

 頬は濡れていて流れているのが涙か雨か解らない。

 でも、だけど。

 心は確かに揺れていた。

 

 

 

 ーーー気づけば私は彼を……比企谷君を抱きしめていた。

 

 

 

 心の中の雨が止んだ気がした。

 

 

 

 

 

 プロローグ 雨は降り続けている。

 ♯1 再会。

 

 

 

 




さー、完結まで頑張るぞ。


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♯2 存在価値。

 

 

 

 いつ以来だろう。

 こんなにも人目もはばからずに泣いたのは。

 いつ以来だろう。

 こんなに力強く人を抱きしめたのは。

 いつ以来だろう。

 こんなにも心が満たされていくのは。

 暖かかった。

 嬉しかった。

 でも、少し悪いことをしてしまった。

 彼の服を濡らしてしまったから。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 恥ずかしい事をしてしまった。

 穴があったら入りたい。

 あんな往来で比企谷八幡に抱きついたことが今頃になって恥ずかしくなってきた。

 さらに手を握られて、比企谷の家に着いて来て行ってしまった。

 今はバスタオルで髪と体を拭いて、少しサイズの大きい比企谷のジャージとTシャツに身を包んで、彼の家に、彼のベットに腰掛けている。

 実家を離れ、一人暮らしをしているとは思わなかった。以前の彼なら、絶対に家を出て行かないと思っていた。

 だから、少し意外だった。

 ガチャ、とドアを開け比企谷が顔を出す。

 

「風呂、沸かしたんで入ってください」

 

「うん、ありがとう。比企谷君」

 

 立ち上がって、彼の前に行く。

 彼は陽乃の髪の毛を見つめていた。

 

「……髪の毛、伸びましたね」

 

 セミロングだった髪の毛は伸ばし続けてロングに変わっていた。

 

「うん」

「少し、痩せましたね」

 

 もともとスレンダーだった身体は少し痩せていた。

 

「……うん」

 

 伸ばされた比企谷の右手が途中で止まる。彼は視線を左下に落とし、右手を引っ込める。

 なにを思っているのか、考えたくなかった。

 こんな落ちぶれた姿を見て、失望されるのか怖かった。

 だから、逢いたくなかった。

 ずっと、ずっと。

 逢いたくなんて、なかった。

 

「今日はもう遅いからうちに泊まってください。男と二人はちょっと抵抗あるかもしれないですけど」

「ううん、大丈夫だよ。ありがとう、比企谷君」

 

 陽乃はできる限り、あの時と同じ笑顔を浮かべようとした。

 けど、思ったよりも笑顔は長続きしない。笑い方を、あの時の笑い方を忘れてしまった。どうやって笑っていたのか、そんな簡単なことすらも思い出せない。

 「なにをしてるんだろう」と陽乃は思いながら、彼の横を通る。

 思わずそんな感情を心に抱いてしまった。

 雨に濡れて、行くあてもなくて、後輩の男の子の家に上がり込んで、新しい服やお風呂まで用意された。

 もう、あの時の雪ノ下陽乃ではないのか。

 わずかに残っていたプライドも彼の前では完全に砕け散ってしまった。

 お風呂場の前まで来ると、比企谷は新しいタオルを渡して、部屋に戻った。さすがに下着の用意はできない。

 扉を閉めて、Tシャツを脱ぎ、ジャージを下ろして下着を外し、畳んで、お風呂に入る。

 お湯をとって軽く指先で温度を確認する。熱すぎず、ぬるすぎない丁度いい温度のお湯を身体に流していく。三回ほど、それを繰り返す。陽乃は先に身体と髪の毛を洗うことにした。

 

 

 ちゃぽん、と水が跳ねる。

 右足から、お湯に入っていく。両足、身体とゆっくり浸かっていく。

 温かい。

 お風呂ってやっぱり気持ちいい。

 当たり前のことを再確認した。

 思わず両眼を閉じてしまう。

 

 今日まで色々あった。死にたいと考えていたのに、彼に、比企谷八幡に再会しただけでその思いは簡単に霧散した。

 閉じかけていた未来は簡単にまた道を開いた。

 理想はもう存在しない。

 夢は諦めた。

 目指すべき道も解らない。

 今まで生きてきた人生が正しかったのかも、それさえも解らなくなってしまった。

 チカチカと光るあの星のように、今、陽乃が消えたところで誰も気にしない。

 だからこそ、こんなことを考えてしまう。

 

 

 ーーーわたしに、まだ価値なんてあるのかな……。

 

 

 自分の存在価値を。

 

 

 

 ♯2 存在価値。

 

 



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♯3 ありのままのわたし。

 

 

 

 ジューと魚を焼く音が響いている。

 一口大に刻んだキャベツと豚肉、短冊切りにした人参と生姜、斜め薄切りにしたネギ。

 胡麻油を熱した鍋にキャベツをぶち込み、炒める。焼き色がつき、かさが減るまでしっかりと炒める。人参と生姜も加えてさらに炒める。

 魚をひっくり返す。綺麗な焼き色が身についている。皮を焼いていく。

 炒めたキャベツ、人参、生姜の中に豚肉を入れて焼き色がつくまでもう少し炒める。

 余ったキャベツと人参はさらに細かく刻んでサラダにする。ボールにキャベツ、人参、酢、塩、砂糖、こしょうを入れて全体になじませるように混ぜる。

 豚肉の色が変わったので、ネギを加え、水を流し込み、5分ほど煮て、味噌を溶かす。

 菜箸で魚の焼き加減を確認する。

 もう少しだけ焼く。

 もう一度確認する。

 火を止めて、魚とサラダを皿に盛り付ける。

 あとは味噌汁で今日の晩ご飯が完成する。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 少し、お風呂で寝ていた。

 疲れているのか、安心からか、どっちかは解らない。

 お風呂から出て、身体と髪の毛の水気を拭き取り、、さっき貸してもらったジャージとTシャツを着る。やっぱり少しサイズが大きい。

 髪の毛をある程度拭いて、彼のいる部屋へと向かう。

 扉を開けるといい匂いがした。

 中へ入るとエプロンを付けた比企谷が料理を運んでいた。

 焼き魚とキャベツのサラダと味噌汁。

 比企谷はエプロンを外す。

 

「長かったですね。風呂」

「うん、ごめんね」

「いや、別に怒ってないですよ?」

「うん」

「とりあえずご飯食べましょうか」

 

 そう言って彼はご飯とコップを持ってきた。

 

「これ、比企谷君が作ったの?」

「そうですけど」

「すごいね」

「普通ですよ」

 

 全然普通じゃない気がする。

 そう言えば夢は専業主夫だとか言っていたような気がする。

 そんな事を思いながら、陽乃は彼の前に座った。

 カップにお茶を注いでくれた彼に「ありがとう」と言う。

 素っ気なく「いただきます」という比企谷。

 遅れて陽乃も手を合わせて「いただきます」と言う。

 味噌汁を手に持って一口飲む。

 

「あ、美味しい」

 

 そう言うと比企谷の口元が僅かに微笑んだ気がした。

 味噌汁の具であるキャベツを食べる。甘くて美味しい。

 味噌汁を置いて、焼き魚に醤油を垂らして、身をほぐして、一口食べる。

 ふっくらした身がすごく美味しい。

 ご飯を食べる。本当に美味しい。

 

 ーーーご飯ってこんなに美味しかったっけ……?

 

 もう一度味噌汁を飲む。

 

 

 ーーー美味しい。

 

 

 涙が弾けた。

 

 

 それは陽乃の意思とは関係なく、どんどん溢れてくる。

 溢れてきては止まらない。

 止められない。

 

 

 ーーーあれ、どうして……?

 

 

 目元を指先でこする。

 あぁ、人前で泣いてしまった。弱みを見せてしまった。

 いや、それよりもとても暖かかった。

 心がどんどん満たされていく。

 自分なんてもう価値がない。

 誰にも認めてもられない。

 誰も本当の雪ノ下陽乃を見てくれない。

 でも、彼は、比企谷八幡は違う。

 ぼろぼろの陽乃を見て声をかけてくれた。

 優しくしてくれた。

 手を差し伸べてくれた。

 それだけで嬉しかった。

 いろんな感情が出てきては消えていく。

 家を出てから、こんなにちゃんとした料理を食べたことがあっただろうか。

 そんな記憶はほとんど存在しない。

 最初のうちはちゃんと料理をしていた。でも確かたった数日で面倒くさくなってやめてしまった。インスタント食品、コンビニ弁当、ジャンクフードなどばかり食べてきた。

 

 

 ーーー美味しい。

 

 

 ーーー本当に、美味しい。

 

 

 ーーー今まで生きてきて、一番美味しい。

 

 

 目元を両手で隠す。

 涙が止まらない。

 肩が不規則に揺れ動く。

 後輩になんて姿を見せているのだろう。

 そんな陽乃の思いとは裏腹に涙はどんどんと溢れてくる。

 止まらない。

 いつまでも溢れてくる。

 

「……ごめん……ね」

 

 絞り出した言葉は変わらず謝罪。

 

「気にしないで、比企谷君は食べてて」

「……、」

「ごめん」

 

 まだ、謝罪を続ける。

 

「……陽乃さん」

「ごめん、気にしないで」

 

 

 まだ……。

 

 

 立ち上がった彼に腕を引かれて、その華奢な身体を抱きしめられる。

 

 

「……え……?」

 

 

 状況が理解できずに惚けた声を出す陽乃。

 

「……比企谷……君……?」

 

 力が強かった。

 心臓が飛び出しそうなほど恥ずかしい。

 箸が床に転がっている。

 力強く背中に腕が回される。

 

「陽乃さん、大丈夫ですから」

「……」

「少なくとも俺はまだ陽乃さんの味方です」

「……、」

「だから、そんなに自分を責めないで下さい。そんな顔しないで下さい」

 

 陽乃の左右に瞳が揺れる。

 涙は止まらない。

 頬が赤い。

 陽乃の両手が比企谷の背中へ回る。

 

「だって、あなたは俺の()()()雪ノ下陽乃なんですから」

 

 

 

 

 仮面、プライド、自尊心は完全に砕けた。

 今泣いているのは、素顔の雪ノ下陽乃。

 

 

 

 ーーーありがとう、比企谷君。

 

 

 

 

 ♯3 ありのままのわたし。

 

 

 

 



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♯4 甘いね。

 

 

 

 比企谷八幡の記憶に残っている雪ノ下陽乃は言葉通りの完璧な存在だった。

 容姿、才能、作法、家柄、作り上げたそれら全てが同年、先達、後輩の誰よりも優れていて、飛び抜けていた。

 

 彼女がなにか言えば全員が頷いた。

 彼女が歩けば誰もが視線を奪われた。

 彼女がなにかを行えば全てが正しくなった。

 

 だから、陽乃が家を棄てたと雪ノ下雪乃から聞いた時は驚いた。

 そして同時に、「もう二度と逢えないんだな」と思っていた。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 まだ陽乃の涙は止まらない。

 比企谷は優しく陽乃の頭に手を置いて抱きしめながら撫でた。

 抱きしめた陽乃の身体は比企谷の思っている以上に華奢で、簡単に折れてしまうのではないか、と思わせるほどに細い。

 女の子特有の柔らかさはあるが、それ以上に細いという印象が強かった。

 

「ごめん、比企谷君」

 

 陽乃はまた謝罪を続ける。

 比企谷は変わらず抱きしめる。

 抱きしめながら、比企谷は陽乃に言葉をかける。

 

「違いますよ陽乃さん」

「え?」

「こういう時は謝るんじゃないです」

 

 謝る以外には、なにも解らないという表情をする陽乃に比企谷は肩に両手を当てて正面を見る。

 陽乃の顔を見つめたまま、比企谷は言葉を続ける。

 

 

「ありがとうで良いんですよ」

 

 

 そう。ただ、その一言で、それだけの言葉でいい。

 それだけの言葉で人は嬉しくなるものだ。

 そう聞いて、陽乃は比企谷の手を掴む。

 両手でしっかりもその手を握る。

 男らしいゴツゴツした手。そのくせに指先は女の子のように細く長い。

 

「……」

 

 もう仮面はない。

 もうプライドは剥がれ落ちた。

 自尊心は砕けた。

 残っているのは本当の雪ノ下陽乃だけ。

 今までの上部だけのありがとうじゃない。

 今の陽乃なら、本当に心の底からのありがとうが言えるはずだ。

 

 

「……ありがとう……比企谷君」

 

 

 今度は陽乃の方から比企谷に抱きついた。

 力の限り、強く抱きしめた。

 もう陽乃の眼に涙はなかった。

 優しく微笑んだ陽乃がいる。

 人肌が恋しかった。

 誰かと話したかった。

 暖かい食事を誰かと食べたかった。

 手を繋いで、普通に、普通の女の子として生きていきたかった。

 好き好んであの家に産まれたわけじゃない。

 あの生き方しか選択肢がなかった。

 他の生き方なんて選べなかった。

 抑え込んでいた感情がどんどん溢れてくる。

 家を出てから数ヶ月。

 なにをしても上手くいかなかった。

 雪ノ下と言う名の武器を棄てて初めて実感した。

 外に出ればこんな名前なんの意味もないことを。

 騙されたこともあった。

 街を出て行けばチャンスがあると思っていた。

 でも、この街を離れたくなかった。

 親しい後輩はいても、本当の友達はいなかった。それでも生まれ育った故郷を離れたくなかった。

 棄てるのは簡単なはずなのに、それができなかった。

 この街を棄てればもう二度と逢えないと思ったから。

 もし、あの時この街を棄てていれば今、こんな状況にはなっていなかった。

 

 

 解っている。

 今、抱いてはいけない想いが心にあることも。

 いつもどこかで抑え込んでいた。

 彼には妹の雪乃やその友達の由比ヶ浜結衣がいる。

 だから、陽乃の抱いていた想いは間違っているのだと。

 だから、棄てるべきなんだと。

 何度も言い聞かせたのに。

 

 

 溢れた想いが再び、彼を好きだと再認識させる。

 

 

 比企谷の顔を見つめる。

 その後の行動を予測したのか、比企谷は陽乃の肩を掴んで、離した。

 

「駄目です。陽乃さん」

 

 比企谷は目線を背ける。

 

「それはそんな簡単にしていいことじゃないです」

 

 解っていた。

 比企谷はノリに流されない。

 今の陽乃でもそんなこと簡単に予想ができた。

 でも、それでも。

 

 

 

 ーーーごめん、雪乃ちゃん。

 

 

 

 彼の頬に手を当てた。

 

 

 触れ合いそうだった唇が寸前で止まる。

 比企谷の頬に触れていた手が崩れ落ちる。

 陽乃は視線を落とす。

 ただ一言だけ陽乃は呟いた。

 

 

 

 ーーーやっぱり裏切れないや

 

 

 

 と。

 

 

 

 

 

 夕食を終えた二人の間に会話はなかった。

 陽乃は後悔していた。

 あんな軽率な行動をしてしまった自分自身を恥じていた。

 比企谷八幡は誰とも付き合っていない。あの時はそうだった。だけど、今は? 今比企谷八幡の隣には誰がいるのか。雪ノ下雪乃か。由比ヶ浜結衣か。それともあの生徒会長か。もしかしたら、陽乃の知らない誰かが彼の隣を歩いているかもしれない。

 浅はかだった。

 変わらない。

 やっぱり馬鹿だ。

 自分を軽蔑してしまう。

 

「陽乃さん」

 呼ばれて視線をあげる

「……これ飲みます?」

 

 彼の手にはMAX(マックス)コーヒーがある。

 確かものすごく甘い缶コーヒーだ。

 

「うまいですよ」

 

 手を伸ばして受け取る。

 手が触れ合うだけで心がざわつく。

 

「ありがと」

 

 両手で缶コーヒーを持つ。

 片手でタブを弾いた比企谷が陽乃の隣に座る。

 隣で美味しそうにMAXコーヒーを飲む比企谷。

 釣られて陽乃もタブを弾いてMAXコーヒーを飲む。

 舌の上に広がる強烈な甘み。鼻を突き抜けて、香りまでもが甘い。

 思わず、顔をしかめてしまう。

 比企谷は変わらず美味しそうに飲んでいる。

 

「すごい甘いね」

「それがいいんですよ」

 

 そう言って比企谷は笑う。

 凛々しくなった横顔。

 やっぱり低くなった声。

 意外にまつ毛も長い。

 もう一口、飲む。

 

 

「……、」

 

 

 ーーーやっぱり甘いや。

 

 

 

 ♯4 甘いね。

 

 

 

 



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♯5 少しだけ雨が止んだ気がした。

 

 

 

 出逢うはずじゃなかった出逢い。

 暖かい食卓。

 子供のように泣いた。

 甘いコーヒー。

 優しい君。

 生きようとする意志が溢れてくる。

 ありがとう。

 少し、雨が止んだ気がした。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 MAXコーヒーをテーブルの上に置く。

 比企谷はお風呂に入っている。

 改めて比企谷の部屋を見渡すとギターが数本並べられていた。

 音楽を始めたのだろうか?

 そう言えば趣味は人間観察だとか言っていたから、新しい趣味を見つけたのかもしれない。それが音楽になるなんて思ってなかったが。

 陽乃の趣味はふらっと旅行に出かけることだった。

 最近は色々ありすぎてそんな事をしている暇はなかった。

 落ち着いたら、またどこかに行きたい。

 

 

 ーーーそう言えばわたしって男の子の家に入るの初めてな気がする。

 

 

 ボッと陽乃の顔が真っ赤に染まる。

 

 

 ーーーえ? じゃあわたしは初めてであんな大胆なことしたの?

 

 

 ブシュー、と陽乃の顔から煙が上がった気がした。

 ほっぺたを左手で引っ張る。

 痛い。現実だ。夢じゃない。

 後ろのベッドに頭を預ける。

 背中まで伸びきった髪の毛を左手でいじる。

 枝毛がある。

 ガチャとドアが開く。

 髪の毛を拭きながら、比企谷が入ってくる。

 陽乃の前を通り過ぎて、冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップに注いで飲む。

 コップ片手に比企谷は陽乃の隣に座る。

 そして尋ねる。

 

「これからどうするんですか?」

 

 これからの事を。陽乃の事を。

 

「……、」

 

 正直に言えば、もう一人になりたくなかった。

 ここにいたい。それが本音だった。

 でも、ここにいたら迷惑をかけてしまう。

 だから、

 

「出て行くよ。比企谷君もその方がいいでしょ?」

 

 最後に思い出をくれたから、出て行く覚悟はできてる。

 比企谷の顔を見て、忘れたはずの笑顔を精一杯を浮かべる。

 

「明日には出て行くから。今日は本当にありがとう」

 

 感謝の言葉を述べて、陽乃は余っていたMAXコーヒーを飲み干した。

 やっぱりすごく甘い。

 

「俺は別に」

 

 比企谷はバスタオルを肩から外し、右手で握る。

 

「陽乃さんがここにいたかったらいてもいいですよ?」

「え?」

 

 予想外の言葉に陽乃は眼を少し見開いた。

 

「そんなボロボロの陽乃さんを出て行かせるほど、俺は悪魔になったつもりはないので」

 

 また、泣きそうになった。

 

「ただ、働いてもらいますけど。さすがに二人を賄えるだけの甲斐性はまだないので……それでもいいんなら、ですけど」

「……」

「どうします?」

 

 

「わたしは……ここに、いたい」

 

 

 

 

 ♯5 少しだけ、雨が止んだ気がした。

 

 

 

 

 

 プロローグ 雨は降り続けている。

 

 

  終

 

 

 次章

 第一章 もう一歩、もう一度、もう一歩。

 

 

  始

 

 

 

 

 



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行間 拝啓
行間 1 拝啓、新しい生活にはもう慣れましたか?


 

 

 

 貴方の影はしなやかに、どこまでも伸びていく。

 その紫煙はいつもよりも高く伸びていた。

 

 

 

『ーーー陽乃』

 

『友達は出来たか?』

 

『学校は楽しいか?』

 

『虐められてないか?』

 

『勉強にはついていけてるか?』

 

『彼氏は出来たか?』

 

『陽乃』

 

『沢山学び、沢山遊んで、好きなように生きなさい』

 

『好きに生きて、好きなものになりなさい』

 

『お前ならなんにでもなれるよ』

 

『何? 不安だって?』

 

『大丈夫』

 

『お前は儂の自慢の孫なんだから』

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 行間 1 拝啓、新しい生活にはもう慣れましたか?

 

 

 

 

 あなたはわたしを『雪ノ下家の長女の陽乃』ではなく、ただの『陽乃』として見てくれた。

 それが嬉しくて、たまらなくて、あなたの影をずっと追いかけてきた。

 用事もないのに、よくあなたの家に遊びにいった。

 悪さやバカをして、よく怒られたね。

 怒鳴り声からの拳骨があなたの得意技だったね。

 厳しく叱りつけた後にはたくさんの愛情をくれたね。

 ただ楽しくて、そんな日々がずっと続くと思ってた。

 大好きだった。

 本当に大好きだった。

 

 

 その大きい手で頭を撫でられるのが好きだった。

 煙草を吸う横顔が好きだった。

 真剣な表情で将棋を指している姿が好きだった。

 お酒を飲んで真っ赤な染まるあなたの顔が好きだった。

 羊羹で喜んでいるあなたが好きだった。

 

 

 声が聞きたいのに、もう二度とあなたの声は聞けません。

 その手に触れたいのに、もう二度とこの手はあなたに触れません。

 

 

 陽の光、煙草、将棋、羊羹にお酒。

 あなたの好きなものはすぐにたくさん思いつくのに、不思議と嫌いなものは、なにも思いつきません。

 嫌いな食べ物、苦手なもの。あんなに近くにいたのに、わたしは何一つ知りません。

 遠く離れた今となってはそれを知る方法は一つもありません。

 わたしの心にはまだ土砂降りの雨が降り続けています。

 伸ばした左手の先にはあなたの背中がもうありません。

 視界は涙で閉ざされています。

 言葉はすぐに溶けていき、消えてしまいます。

 

 

 この声はもう届かない。

 この想いはもう届かない。

 その手はもう掴めない。

 

 

 もっと一緒にいたかった。

 ずっと一緒にいたかった。

 わたしの成長を見守ってほしかった。

 わたしがダメになりそうな時はまた叱ってほしかった。

 あなたの拳骨や怒鳴り声をもう一度受けたかった。

 あなたの愛をもっと感じたかった。

 あなたの手を引いて、この街を歩きたかった。

 何度も、何度だって、何百回だって同じことを繰り返したかった。

 将来の夢のことをたくさん話したかった。

 結婚式を見せたかった。

 もっと、もっといろんなことがしたかった。

 

 

 なのに、どうして……?

 

 

 もう一度。

 もう一度だけ、あなたに抱きしめられたい。

 あなたの背中に手を回したい。

 ありがとうと伝えたい。

 

 

 

 この声はもう届かないけど、待って、置いていかないで。

 まだ、まだわたしはーーー。

 

 

 

 



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第一章 もう一歩、もう一度、もう一歩。
♯6 あれから一週間。


 

 

 

 ーーー待って、置いていかないで。

 

 

 老年の男の背中へ手を伸ばす少女は()()()()()

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 ようやく見慣れてきた白を基調とした部屋。

 何故か中途半端に伸ばされた左腕。

 陽乃は重たくなった身体を起こす。

 気をぬくと落ちてきそうな瞼。ボサボサの頭。多分間抜けな顔がそこにはある。

 絶対に彼には見せたくない姿。

 寝癖がひどい後頭部の髪を軽く押さえる。

 

 

 夢を見ていた。

 懐かしい夢だ。

 大好きだった人の、あの人の夢。

 優しくも、時に厳しくて、でも陽乃はその人が大好きだった。

 理由もないのに、毎日のように家に押しかけ、優しく頭を撫でられて、悪さやバカをして、よく怒られた。

 怒鳴り声や、拳骨がよく飛び交っていた。

 

 

 ーーー……。

 

 

 意識が覚醒していく。

 目元を軽く押さえる。そこで、ふと気づく。目元が濡れている事に。その水滴が涙だという事に。

 

 

 ーーーあれ。……どうしてわたしは、泣いているの……?

 

 

 溢れ出した涙が頬に伝い、線を残し、掌に弾ける。

 

 

 ーーー夢……夢か。

 

 

 貴方はもう見えない。掌にはなにも無い。

 ひんやりとした地面に足を置き、立ち上がる。

 見慣れてきた景色が広がる。

 弾けた水滴も乾いている。

 隣のベッドを見る。

 まだ比企谷八幡は寝ている。

 陽乃も一応そのベッドで寝ている。まだ、陽乃用の布団は届いていない。

 ベッドから足を出し、一歩進む。

 髪をはらう。

 

 

 

 ーーー拝啓、おじいちゃん。新しい生活にはもう慣れましたか?

 

 

 

 今日も、新しい日常が始まる。

 

 

 

 

 

 第一章 もう一歩、もう一度、もう一歩。

 

 

 

 

 

 あれから一週間が経過した。

 陽乃は伸ばされた髪の毛を一つに束ね、エプロンをつけていた。

 熱したフライパンに油を広げて、黄身が割れないように、優しく生卵を落とす。

 低音が響く。

 ()()()、レタスを一口サイズにカットし、小皿に盛り付ける。

 トースターに食パンをセットする。

 白身が薄っすらと固まってきたので、お湯をフライパンに入れて、蓋をする。

 冷蔵庫からバターといちごジャムとオレンジジュース、MAXコーヒーを取ってテーブルに置く。

 ガチャ、とドアが開く。

 寝癖のついた頭を押さえながら、比企谷八幡が眠たそうな顔をして、顔を出した。

 

「おはよ、比企谷君」

 

 陽乃はニコッと笑う。

 

「……おはようございます。陽乃さん」

「朝ごはんもうちょっとでできるから、顔洗ってきたら?」

「……そうします」

 

 目元を指先で擦りながら、比企谷は来た道を戻っていく。

 陽乃は静かに笑う。

 今までの当たり前のようないつもの笑顔がそこには帰ってきていた。

 

 

 

 いちごジャムをたっぷり塗ったトーストを陽乃は一口食べた。

 甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がる。

 その目の前でいちごジャムたっぷりのトーストにかぶりつき、たるんだ口元をMAXコーヒーで引き締める比企谷がいる。

 どちらかといえば甘みの方が強いいちごジャムに甘みの塊であるMAXコーヒー。組み合わせは人それぞれ確かに自由だ。もしかしたら陽乃の知らない世界がそこにはあるのかもしれない。

 だが、その世界に飛び込もうとは思わない陽乃だった。

 

 陽乃はオレンジジュースを飲む。

 

 半熟の黄身目掛け箸を刺す。黄身から箸を抜き取ると箸の先が黄色に染まる。穴から黄身が流れる。パリパリしてる白身の端を食べる。パリパリしている。「当たり前か」と陽乃は思う。トマトをつまみ上げ、食べる。酸っぱい。

 トーストを半分まで食べた比企谷が箸でトマトを弄っていた。

 不思議に思った陽乃が目玉焼きを食べながら、比企谷に尋ねる。

 

「食べないの? トマト」

「いや、食べます」

「もしかしてトマト嫌いだった?」

「大丈夫です」

 

 そう言って比企谷はトマトを口に放り込んだ。

 「これからは作る前に確認しよう」と、陽乃は思った。

 

 

 再びトーストを食べる。

 ありふれた日常がある。

 変化した心模様。

 伸ばされた髪の毛に枝毛がある。

 柔らかな笑顔は確かに変化した。

 あの時のような、ありのままの素顔で陽乃は笑う。

 当たり前の日常が、こんな日が、君かいるだけで、こんなにも楽しいと思える。

 まるで、あなたがまだ生きていた時のように。

 それはとても嬉しいことだ。

 満ち足りた心が温かく、火を灯している。

 

 

 

 

 ♯6 あれから一週間。

 

 

 



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♯7 もう一歩。

 

 

 

 暖かな気候。

 秋空。

 あなたの隣を歩く。

 途中、信号に捕まり、立ち止まる。

 伸ばされた髪の毛を見つめる。

 個人的にはどっちでもよかった。

 ただ、少しだけ気になった。

 ロングかショートかどっちが好きなのかを。

 変わらず髪の毛を見つめる。

 伸ばしていると面倒くさいことも確かに多い。

 この髪型が似合っているのかも、少し不安になる。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 空を見上げていると、どこまでも青空が続いている。

 陽乃の隣には比企谷八幡か並んで歩いている。

 今日は陽乃の住んでいたマンションの解約と必要な物を取りに行った帰り道。MAXコーヒー片手に歩く比企谷とブラックコーヒー片手の陽乃。こうやって歩いていると、カップルみたいに間違えられるのてはないか、と淡い期待を抱いてしまう。

 黒の靴に黒のパンツ、黒のシャツと陽乃が着る服は黒系が多くなった。隣を歩く比企谷八幡の方も、似たような服を着ている。

 

 あれから一週間。

 

 アルバイトも決まった。

 いよいよ本格的に二人で住む準備も佳境に入ってきた。陽乃のアルバイトは小さなカフェ。時給、距離、店の雰囲気などもなかなか悪くない。

 面接時に初老の店長がその場で採用してくれたのはよかった。

 必要な書類も全て提出した。

 おかげで明日からにでも働けそうだ。

 突然、風が吹く。

 目を閉じる。

 髪の毛か激しく揺れる。

 乱れた髪の毛を整える。

 そこで、ふ思う。

 「髪の毛伸びたな」と。

 途中で揃える事もなく、ただ自然に伸ばし続けて二年あまり。改めて、伸びたことを実感する。

 街並みは陽乃が生まれた時からあまり変わらない。

 だけど、陽乃は変化した。セミロングだった髪の毛を伸ばした。着る服も黒系が多くなった。母親と喧嘩して家を出た。望んだ未来は訪れなかった。

 それでも。

 それなりには幸せな日々だったと陽乃は思いたかった。

 自身の夢を棄てて、父の仕事を継ぐ。その決まったレールを走り続けた。

 

 

 後悔は無い。

 

 

 隣を見上げる。

 あの時よりも君は大きくなった。声も少し低くなった。

 彼の隣にいると、不思議と祖父のことを思い出す。

 性格もなにも似つかないのに、煙草も吸わないのに、将棋も指さないのに、お酒も飲まないのに、羊羹も食べないのに、あの人を思い出す。

 陽乃の大切な人。

 ずっと憧れ続けた人、その背を追いかけて、導かれ、夢を見つけ、今日まで生きてきた。

 よく怒られた。よく拳骨を落とされた。

 それなのに大好きだった。

 道の端で意味もないのに、左手を空へ伸ばす。

 あの人へ届きもしないのに、ただこの手を伸ばす。

 無意味な行動だとは陽乃も理解している。

 比企谷八幡はただその行動を見つめていた。

 

 

 ーーーおじいちゃん。わたしね、好きな人ができたよ。

 

 

 まだ、伸ばしている。

 

 

 ーーーでもね、その代わりに夢をなくしたの。

 

 

 瞼を下ろす。

 

 

 ーーーだけどね、また、その夢を目指してみようと思うの。

 

 

 ようやく、腕を下ろす。

 

 

 ーーーだから、まだもうちょっとだけ見守っていてほしい。

 

 

 

 

 ーーーおじいちゃん。

 

 

 

 

 

  06.23

 

 

 

 

 

  ♯7 もう一歩。

 

 

 

 

 



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♯8 手を繋ぐ。

 

 

 

 ふわり、羽のように心がざわつく。

 感情表現豊かに陽乃は真っ赤に染まる。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

「この後どうします?」

 

 

 MAXコーヒーを飲みながら、比企谷八幡は陽乃に尋ねる。

 陽乃は右手の腕時計に視線を落とす。

 13時を少し過ぎていた。思い返せばまだ昼食を食べていなかった。

 ちびり、とブラックコーヒーを陽乃は飲む。

 陽乃の身体は変わらず華奢なままだ。体質なのか、一度減った体重を戻すのに、苦労する。

 それでもお腹は減るし、やっぱりご飯は食べたい陽乃。

 お腹辺りに手を当てて、

 

「お昼ご飯でも食べに行く?」

 

 陽乃は目線を上げで、尋ねる。

 

「そうですね。なに食べます?」

 

 比企谷は同意して、陽乃に聞く。

 

「なにか食べたいものある?」

 

 さらに陽乃が聞き返す。

 

「俺は別に。陽乃さんの好きなもので良いですよ」

 

 陽乃は思う。この問いかけは永遠に終わらないと。どちらも遠慮した結果、大して食べたくもないものを食べる羽目になる。

 そうなるくらいなら、陽乃はいつもある場所へ提案する。

 

「じゃあファミレスにする? そこなら色々あるし」

「……じゃあサイゼでお願いします」

「わかった。サイゼね」

 

 そうして二人はまた歩き出す。

 行き先はファミレス。

 お洒落や高級からかけ離れた場所。

 それでも不思議とそんな空間が嫌いじゃなかった。

 あの家にいた頃はあまり行かなかったが、出て行ってからちょくちょく食べに行くようになった。別段美味しいわけじゃないけど、暖かい料理は嬉しかった。

 影は重なる。

 隣は居心地が良い。

 歩く速度は変わらない。

 焦らず、ゆっくりと、目的地へ向かう。

 土砂降りの雨がいつしか砂漠の心に小さなオアシスを作った。

 いつか乾くかも知れないが、それぐらいの余裕は今の陽乃にはある。

 指先が触れ合う。

 陽乃は少し、離れる。

 頬がほのかに赤く染まる。

 視線を逸らす。

 陽の光は変わらず二人を照らしている。

 雲が呑気に浮遊している。

 空はこんなに広い。

 特に意味なんてなかった。

 そう。意味はない。

 意味もないのに不意に陽乃は彼の手を握った。

 突然の行動に、比企谷は陽乃の方に視線を送る。

 陽乃は視線を逸らしたままだ。

 顔は合わせない。合わせられない。

 きっと、そこには真っ赤な花が咲いている。

 だから、合わせない。

 色んな理由を思い浮かんでは、考えて、そして勝手に否定する。

 比企谷八幡がどんな表情をしてるのかも解らずに、そのまま彼の手を引く。

 でも、そんな陽乃でも、一つだけ解ることがある。

 

 

 37℃の温もりが掌にじんじんと伝わってくるということ。

 

 

 これだけは確かに解る。

 

 

 耳まで赤く染まる陽乃。

 その様子を静かに見守る比企谷。

 二つの影が重なったまま、彼と手を繋ぐ。

 ブラックコーヒーを飲み干す。

 なぜか、少しだけ甘く感じた。

 

 

 

 ♯8 手を繋ぐ。

 

 

 

 



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♯9 ありがとう。

 

 

 

 午後17時。

 落ち始めた太陽、染まり始めた町並み。

 右手には37℃の温もり。

 君の隣を手を繋いで歩いている。

 居心地が良かった。

 心には確かな幸福感が満たされている。

 ただ君に逢いたくて、名前を呼ばれたくて、幸せ繋ぎ止めたくて。

 追いつけない速度で過ぎていく時間。

 どうして、こんなに嬉しいのだろう。

 どうして、こんなに悲しいのだろう。

 どうして……ーーー。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 太陽に照らされて、2人は歩いていく。

 満ち足りている。

 これ以上の幸せがないくらいに嬉しかった。

 こんな簡単に心が踊っている自分に、単純だなとは自分でも思う。

 でも、単純にもちゃんと理由はある。

 成長した比企谷が、祖父に似た雰囲気を持っている事。

 それだけで、陽乃は比企谷八幡のことが信用できた。

 多分、他の誰かが、祖父と似た雰囲気を持っていても、陽乃は信用しなかっただろう。だけど、比企谷のことは彼が高校の時から、どんな性格なのかをちゃんと知っていた。

 多分、それも含まれている。

 2人の間にはあまり会話はない。一言、二言でほとんど会話は終わる。

 それでも、比企谷は隣を歩いてくれるし、一緒にいてくれる。

 楽しい時間は過ぎていくのがいつも早い。

 ずっと、続いていってほしい。

 これからも、これまでも。

 だって、まだまだ楽しい事はたくさんあるんだから。まだまだやりたいことがあるのだから。

 

 

 そんなわがままを陽乃は思わず望んでしまう。

 

 

 心のオアシスがいつ乾くのかもわからずに、伸ばした手は決して祖父に届かないのに、でも、幸せは今確かにここにあって、これ以上望んじゃいけないのに、陽乃は望んでしまう。

 でもまだその前にやっていないことがある。

 

 

 まだ、あの一言を言えてない。

 

 

 助けてくれたから、お礼を言わなきゃいけないのに、まだ言えずにいる。言うタイミングはたくさんあったのに、たった一歩、その勇気が出なくて、今日まで引き伸ばしてきた。

 でも言わなきゃいけない。

 今日こそは必ず言う。

 そう決めている。

 決めたらやりきらないといけない。

 だって。

 

 

 ーーーだって、わたしは雪ノ下陽乃なんだから。

 

 

 ーーー決めたなら、必ずやり抜く。

 

 

 ーーーそれさえも失えば、わたしは、わたしじゃなくなってしまう。

 

 

 

 立ち止まるのは偶然じゃない。

 もう充分立ち止まった。

 進まなくちゃ駄目だ。

 

 掴んでいた手が離れ、陽乃は比企谷の前に立つ。

 夕陽に照らされる陽乃の姿は今まで見てきた何物よりも美しかった。

 顔は変わらず林檎のように赤い。

 

 

「比企谷君。今日は言いたいことがあるの」

 

 手を伸ばし、再び比企谷の指に触れる。

 

「あの時ね、比企谷君はわたしを助けてくれた」

 

 揺れる瞳で比企谷を見つめる。

 頭で紡ぎ出した言葉が消しゴムに消されたかのように、どんどん消えていく。それでも、必死になって言葉を探して、見つけ出して、繋ぎ合わせていく。

 

「だから、」

 

 

 夕陽に照らされる2人。

 群衆は変わらず歩き続けている。

 時間は2人の意思を無視して刻み続ける。

 

 

「だから……」

 

 

 だだ一言。

 君が教えてくれた一言。

 

 

 

 いい事があったみたいに、心は輝いている。

 

 

 

 長く細く、しなやかな指。かつて、腐った魚のようだった瞳はそこには存在しない。

 大きく伸びた身長。

 少し伸びた髪の毛。

 いつか、こんな日が終わる事も、ちゃんと理解している。

 だけど、これだけは忘れたくない。

 君を愛したことを後悔しない。

 君の幸せをいつでも願っている。

 だから……、

 

 

 ♯9 ありがとう。

 

 

 



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♯10 〝今まで〟生きてきて、

 

 

 

 特別な事なんて何もないかもしれない。

 ただ、それでも毎日は楽しくてしかたなかった。

 そう思えた。

 本心だった。

 心の底からそう思えた。

 当たり前の日々が過ぎていく。

 過ぎていく時間が惜しいくらいに今の生活を噛みしめている。

 楽しい、と心の底から思っている。

 こんな日がもう一度来るなんて思ってなかった。

 だから、すごく感謝している。

 止まっていた時間は確かに動き出した。

 寝坊助の貴方の寝顔に視線を落とす。

 眉にかかっている髪の毛にそっと左手で触れる。

 陽乃は優しく微笑む。

 

 

 

 今日も新しい日が始まる。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 今日は2人とも休みだった。

 陽乃の作った朝食を食べた後、2人で出かける準備を進める。行き先は特に決めてない。ただ、休みだから出かける事にしただけ。

 陽乃は伸ばした髪の毛を一つにまとめるだけで、化粧はしなかった。服装もいつも通り黒で統一されている。

 比企谷は髪の毛を少し散髪した。ツーブロックになった髪型は意外に似合っていた。比企谷曰く美容師に無理矢理やられたらしい。比企谷の服装も変わらず黒で統一されている。

 財布、スマートフォン、腕時計。必要なものを確認して玄関に向かう。黒のハイカットを履き、比企谷を待つ。比企谷は背中に鞄を預けていた。

 簡単な準備が整い、比企谷も玄関に向かう。

 2人揃って家を出る。

 心の中で陽乃は「行ってきます」と言った。

 

 

 

 

 気温は少し低くなり、肌寒くなっていた。

 カーディガンやパーカーはまだ必要ないが、もうそろそろ準備はしていた方がいいかもしれない。

 あの時のように手は繋いでいない。今は恥ずかしくてそんな事は出来ない。あの時は少し自分に正直すぎた。

 だけど、彼の隣を歩くだけで陽乃は嬉しかった。会話はなくてもいい。そんなものは必要ない。言葉にしないとちゃんと想いは伝わらないかもしれない。でも、言葉にしたら間違うかもしれない。何かを伝えるのは思いのほか難しい。

 言わなければわからない。言ったとしても伝わらない。

 そう考えると言葉は完璧じゃないのかもしれない。

 だから世界には8000を超える言語があるのかもしれない。

 そんな事を陽乃は考えてしまう。

 あの時、いや、正確にはもっと前。この道が始まった当初にちゃんとこの想いを伝えていれば、喧嘩は起こらなかったかもしれない。間違えなかったかもしれない。だけど、それは結果論でしかない。そんな考察は無意味だ。そんなこと解っている。

 

 

 では、正解はないのか?

 

 

 そんな事陽乃には解らない。

 わかるのはこれからも陽乃は生きていくという事だけ。

 常識やマナー、知識、必要最低限の力は少なくとも母に与えられた。陽乃はいまだに母に助けられて生きている。

 努力は無駄じゃなかった。後悔もしていない。そう思いたい。

 でも時々、一ヶ月のうちに何回もこんな事を考えてしまうのはどうしてだろう。

 本当は後悔しているのだろうか。母は落胆していた。父はなにも言わなかった。雪乃には悪い事をした。比企谷には迷惑をかけた。いろんな感情が心に浮かんでは消えていく。

 たった一度の挫折は思ったよりも傷が深い。

 挫折なしの人生にありがちなことだ。一度くらい挫折を経験していた方がいい。

 負けなしの人生なんて色彩がない。面白みがない。

 たいしたことじゃない。いつものことだ。

 そう言い聞かせた。

 だからいつか、この傷も癒える時が来るのだろう。

 太陽が眩しい。

 

 

 不意に、

 

 

 陽乃の左手が比企谷の右手と繋がれる。

 驚いたように、陽乃は比企谷は見る。

 比企谷は視線を向けない。

 耳は赤く染まっていない。

 顔は背けている。

 少しだけ笑みがこぼれる。

 

 

 ーーー君はいつもそうだね。

 

 

 いいタイミングで君は手を差し伸べてくれる。

 だから、甘えてしまう。

 でも、今はこう思いたい。

 

 

 

 ーーー君に出逢えて本当に良かったーーー。

 

 

 

 

 

 ♯10 〝今まで〟生きてきて、

 

 

 

 

 

 放って置けなかった。

 弱りきった陽乃さんを放っていたら、そのまま死んでしまうんじゃないかって思ってしまった。

 そう思ってしまった。

 だから、一緒に居ようと思った。

 せめて、その傷が癒えるまでは俺がずっと一緒に居ようって思った。

 あの時より華奢になった身体。伸びた髪の毛。魔王のような覇気はそこには存在しない。

 

 

 変わり果てた姿を見て、俺はただ驚いた。

 

 

 これが本当にあの雪ノ下陽乃なのか、と。

 誰もが見惚れた姿はそこにはなかった。

 誰もが惹かれたカリスマ性はそこにはなかった。

 俺が()()()姿はそこにはなかった。

 本当は雪ノ下に連絡するのが正しい選択なのも分かっている。

 でも俺はその選択をしなかった。

 〝あの人〟に今の陽乃さんを合わせたら、きっと俺は後悔するから。

 俺たちの間にはまだ壁がある。

 当たり前と言われたら、当たり前なのかもしれない。

 陽乃さんが意図しているのか分からないが、作っている空白がある。そして、その空白には俺は触れられない。

 隣を歩く陽乃さんの表情がどことなく暗いのは多分、今家族の事を思い出しているからだろう。

 一緒に住み始めて九日。一週間と少し。

 まだまだ俺たちの距離は遠い。

 でも、少しずつ、だが確実に距離は短くなっている。

 陽乃さんの身体はまだ華奢なままだ。アルバイトも楽しそうに行っている。家を棄てて、大学も辞めて、得てきた人脈やその他全てを棄てて、後悔がないなんてそんな事は無い筈なのに、楽しそうにしている。

 笑ってる筈なのに、心の霧は晴れていない。

 駆け抜けた日々。重ねた痛み。俺では決して経験出来ない事だ。

 痛みを知ったその瞳から溢れ出した涙。

 心が痛かった。どうして、あの時、俺は助けに行かなかったんだと後悔した。もう二度と逢えないとどうして決めつけたのか。俺には陽乃さんの日常がどんなものだったのか分からない。分からないけど、手を差し伸ばすくらいは出来た筈だ。それをしなかった自分を悔いた。

 〝約束〟した筈なのに、俺は果たせなかった。

 憧れがあった。

 後悔があった。

 悔しさがあった。

 雪解けはまだ遠い。

 だけど、あなたの隣には俺が歩いていく。

 これからも歩いていく。

 だから、あなたの手をこの手でしっかりと握る。

 後悔だけはしたくない。せめてこの気持ちに嘘偽りは一切無いと信じたい。

 立ち止まって動けないなら俺が背中を押す。

 

 

 もう二度とあなたを離さない為にーーー。

 

 

 

 



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♯11 〝今〟が、

 

 

 

 手を引かれ、君の隣で、歩き慣れた街を歩く。

 心の空白はいまだに埋まらない。

 傷はまだ癒えない。

 だけど、笑顔は少しだけ取り戻した。

 時間はまだまだかかる。

 でも、焦らないでいい。

 だって時間はこんなにも2人の背中を押して進んでいってくれるから。

 ゆっくりでいい。

 少しずつでいい。

 歩くような速さで、2人で進んでいけばいい。

 だから、この温もりだけは消えないで。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 手を引かれながら歩いていく。

 風が気持ちいい。

 どこまでも青空が広がっている。雲は一つもなかった。陽乃の大きな瞳に青が彩られる。

 37℃の温もりを感じながら、目的地へさらに進んでいく。

 どんどん進んでいく。

 肌寒くなってもまだロンTで十分対応できた。

 靴のすり減る音。呼吸音、風の音。群衆の声。

 360度見渡しても、そこには見慣れた景色しかない。

 なのに、何故だろう。

 心には当然まだ不安がある。

 会話はない。

 なのに、何故だろう。

 それなのに楽しかった。

 歩きながら、色々考える。

 もし、比企谷と陽乃が同じ年だったら、どうなっていただろう。こんな関係になっていたのかな。ただの友達で終わっていたのかな。それとも友達ですらなかったのかな。

 さらに色々考える。

 逆の立場だったら、陽乃はどうしただろう。比企谷が名家の長男で、陽乃が普通の家庭の長女。比企谷の性格を考えると、多分、接点なしに終わっていたかもしれないし、陽乃の性格を考えればなんとかして友達になったかもしれない。

 でも、やっぱりこの形が一番ベストだ。

 風でポニーテールが揺れる。

 そして再確認する。

 

 

 ーーーあぁ、そうか。

 

 

 刈り上げられツーブロックになった髪の毛。その後頭部のアホ毛が風に揺れる。

 

 

 ーーー好きだから、会話がなくても、なにもなくっても楽しいのか……。

 

 

 手を引かれながら歩いていく。

 

 

 ーーーわたしはやっぱり比企谷君が好きなんだな。

 

 

 一歩ずつ。

 また一歩ずつ。

 

 

 ーーーいつからだろう。

 

 

 手を繋いで歩いていく。

 目的地にはまだ着かない。

 

 

 ーーーいつから、君のことが好きだったんだろう。

 

 

 人が溢れている。

 他人か、友達か、恋人か、家族かはもちろん解らない。陽乃達の姿はどんな風に映っているだろう。恋人に見えるだろうか。そう考えると陽乃の顔がりんごのように真っ赤に染まった。平熱なんて超えていた。

 不安はいつのまにか消えていた。

 心は確かに燃えている。

 過去と未来の真ん中で今分岐点に立っている。

 このまま進めば未来は変わる気がする。

 色々あったね、と笑い合える未来が訪れるかもしれない。

 それは友達としてか。恋人としてか。

 流れる黒髪。揺れる風景。すれ違う光。

 当たり前の日常とはどういう事なのか陽乃にはまだ解らない。

 多分、これからも解らない。

 だってまだこの生活は始まったばかりなのだから。

 

 

 

 

 

  ♯11 〝今〟が、

 

 

 

 

 

 比企谷が行きたかった場所は千葉市にある小さな楽器屋だった。陽乃は初めて楽器屋に来た。店内には以前聞いていた好きなロックアーティストの歌が流れていた。見渡す限り楽器で埋め尽くされた小さな部屋。ギター、ベース、見たことがないギターのような楽器。ドラムも少し置いてあった。

 ギターを適当に眺めている。

 こうして見ると色々なギターがある。その中でも鳥がネックに何度も描かれているギターは綺麗だなと思った。値段を見て、以外に高いなとも思った。

 

 

 ーーーそういえば比企谷君のギターにも鳥が描いてあったな。

 

 

 もしかして同じやつだろうか。そんな事を頭の片隅で考えながら、さらに見ていく。

 

 

 ーーーこっちは多分ベースかな。弦が4本しかないし。

 

 

 正直陽乃にはギターとベースの違いがそこまで解らない。解っているのは、弦の本数が違う事と、音が違う事。それ以上の事はなにも知らない。

 そんな事を考えながら待つ事数分。

 

「すいません、修理してたギター取りに行くのにここまで付き合わせちゃって」

 

 ギターを背負った比企谷が陽乃に声をかける。

 

「ううん、大丈夫だよ」

 

 そう言って陽乃は笑う。

 

「ギター始めたんだね」

「はい」

 

 陽乃の問いに頬をかきながら、比企谷は答える。

 

「楽しい?」

「まぁ弾けるようになれば」

「そっか」

 

 再びギターを眺める。

 

「陽乃さんも始めます?」

「え?」

 

 予想外の一言に陽乃はキョトンとなってしまった。

 

「新しいこと始めたら案外楽しいかもしれないですよ」

「無理だよ。楽器買うお金ないし」

「俺のギター貸しますよ」

 

 意外と強い押しに陽乃は少し悩んだ。

 

「……考えとくね」

 

 悩んだ末に、決められなかった。

 

「はい、考えといてください」

 

 そう言って比企谷は笑った。

 

 

 

 

 



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♯12 一番幸せかもしれない。

 

 

 

 茜空、赤く染まった雲、赤く染まった街並み。

 左手にはまだ37℃の温もりがある。

 ギターを背負う比企谷。買い物袋を持つ陽乃。

 今日も楽しかった。

 当たり前の日常は当たり前のように過ぎていく。

 追いつけない速度で過ぎていく。

 穏やかな毎日。

 チカチカと光る一番星。

 何十光年も離れた過去の光。

 それは存在しているのかも解らない星の光。

 それなのに、その光はとても綺麗だ。

 手で掴むことはできない。触れることもできない。

 それなのに、その光に魅せられている。

 

 

 

 心は踊っている。

 トラウマや傷なんて忘れているかのように。

 一つ、夢があった。

 多分、ありふれた夢だと思う。

 漫画家になりたいとか、音楽で食べていきたいとか、そんな大それた夢じゃない。

 望んだ事はそんな難しい事じゃない。

 幸せになりたかった。

 ただ普通の女の子として生きたかった。母親の決めた許嫁じゃなくて、好きな人と自由に恋愛して、その人と結婚して、子供を作って、みんなで旅行に行って美味しいものを食べて、家族で楽しいねー美味しいねーって言って笑いあって、老後も子供や孫たちに囲まれて仲良く暮らして……そんな風に生きてみたかった。

 周りから見たら、雪ノ下に生まれたことが恵まれて見えたかもしれない。でも、それは違う。それは本当の陽乃を知らないからそう見えただけ。

 この生活に幸せなんてどこにもなかった。

 親の言いつけを守り、何事においても一番になって、勝ち続けて、トップに立ち続ける人生。

 そんな人生楽しくない。人を蹴落としてまで一番になる必要はない。陽乃には才能がなかった。母にはそれをこなすだけの力があった。親が出来れば当然娘も期待される。

 そんな生活が嫌になった。

 

 

 

 思い出はなにかあるだろうか。

 父と母との思い出はどれだけ考えても出てこない。

 雪乃との思い出すらあまりない。

 たくさん出てくるとすれば、それは祖父ーーー雪ノ下(しょう)(よう)との思い出だけ。

 どうしてあれだけの時間を過ごしたのに、家族との思い出があまりないのだろう。

 答えが解らないまま、陽乃は湯船に浸かり続けた。

 

 

 

 

 お風呂に入って、夕食を終えて、2人で並んでテレビを見ていた。ニュースはいつも通りの日本を報道している。とくに面白くはなかったが、ほかに陽乃の興味が湧く番組はやってなかった。

 比企谷はMAXコーヒーを一口飲む。

 陽乃はオレンジジュースを一口飲む。

 甘酸っぱい。

 こてん、と比企谷の左肩に陽乃は頭を預ける。

 シャンプーの匂いがする。

 比企谷はなにも言わなかった。

 陽乃もなにも言わなかった。

 ずっとこのまま……、と思ってしまう。

 いつまでも……、と願ってしまう。

 テレビでキャスターが淡々と喋っている。隣のキャスター気取りの芸能人は偉そうに持論を語っている。

 なにも変わらない日常。超常なんてものはどこにも存在しない。

 それでもやっぱり楽しいと思える日常がある。

 ギターに視線を送る。青、黒、黒と、三本のギターが並んでいる。

 テレビからは変わらず芸能人が持論を語っている。

 もう一度オレンジジュースを飲む。

 伸びきった髪の毛がやっぱり邪魔だ。

 視界に入る髪の毛をはらう。

 秋が過ぎていく。

 夜が更けていく。

 自然に涙が流れていく。

 長い睫毛に縁取られた赤い瞳が濡れている。

 

 

 

 そして、心の中で一言陽乃は呟いた。

 

 

 

 ーーーー今まで生きてきて今が一番幸せかもしれない。

 

 

 

 とーーー。

 

 

 

 

 

 そのままの君が好き。

 

 

 

  ♯12 一番幸せかもしれない。

 

 

 




状況整理。

9/25、陽乃、比企谷と再会し、一緒に住み始める。
10/2、陽乃のアルバイトが決まり、前に住んでたマンションを解約する。
10/4、まだまだ距離が遠い二人。でも少しずつ距離は縮まっている。

完結まであと40話くらいかな?
頑張ります。


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♯13 散髪。





 

 

 

 決意は未だ硬くない。

 でも決めた。

 もう決めたことだ。

 伸び切った髪の毛を一つに束ね、陽乃は今日街へ行く。

 服装は変わらず黒で統一。

 長いまつげに縁取られた大きな瞳で陽乃はスマートフォンの画面とにらめっこ。

 イヤホンから届けられる世界的白人ラッパーの最新作を聴きながら、もう一度看板を確認する。

 目的地は決まっている。

 店の前に陽乃は立つ。

 ドアノブを回し陽乃は店内へ。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 二週間の間は基本なにも起きずに平和な時間だった。

 

 

 きっかけと言えばきっかけかもしれない。

 「陽乃ちゃん少し髪の毛切ろっか」と店長に言われてしまったら、従うしかない。陽乃の基本的なバイト内容は接客だが、簡単な調理だったら、手伝ったりもする。その際に髪の毛が長すぎるのは問題らしい。腰あたりまである髪の毛を一つに束ねているので、料理に入る可能性は低いがそれでも少し長すぎるらしい。厨房の人間ならもちろんヘアネットをつけたりするが、陽乃の仕事内容は基本接客。だから支給されてない。

 陽乃自身ももうそろそろ髪の毛が切りたかったからちょうど良いきっかけができたと思い、店長の話を快諾。

 翌日には近くの美容院を調べ、予約し、現在に至る。

 店の前で陽乃は音楽を止めてイヤホンを外す。

 『いろは唄』。美容院とは思えない店名だが、正真正銘美容院である。

 ズボンのポケットにスマートフォンとイヤホンを入れながら、店内へ入店。

 シャンプーの香りが充満している。

 女性店員が「いらっしゃいませー」と言う。それに続くようにほかの店員達も言う。

 店内は別にこれといって特に特徴があるわけでもなく、どこにでもある美容院だ。陽乃はスタッフに散髪と告げると空いてた椅子に案内される。

 

「綺麗な黒髪ですね」

 

 一回も染めた事はないので、綺麗なのはそのせいかもしれない。

 

「ありがとうございます」

 

 取り敢えずお礼を言う陽乃。

 

「どのような髪型にされますか?」

「肩あたりまで切ろうかと思っているんですが」

「そうですか」

 

 そう言ってスタッフはペラペラと雑誌をめくる。

 

「このような感じですか?」

 

 スタッフが見せてくれたのは以前の陽乃の髪型に近いものだった。こういう髪型がなんて言うのがは解らないが、取り敢えず理想の髪型に早速出会えた。

 

「じゃあこれでお願いします」

「わかりました。では髪の毛を濡らしますのでこちらにどうぞ」

「はい」

 

 

 

 

 

「ありがとうございましたー」

 

 

 

 散髪を終えて、新しくなった髪型。

 新しい自分で夕暮れの街を歩く。

 早く貴方に逢いたくて少し早足で歩く。

 貴方の驚いた顔が見たいから。

 

 

 

 少し買いすぎてしまった。

 今日も寒いから、今夜は鍋でも食べようかと思い、色々と吟味しているうちに結局全て買ってしまった。

 現時刻を確認。18時過ぎ。この時間だとまだ比企谷は帰ってきていないが、夕食の準備をしているうちに帰ってくるだろう。

 陽乃はスマートフォンを取り出し、LINEを一通送る。

 

 

 陽乃

 『今日は鍋だよ。』

 

 

 口元に笑みを浮かべながら信号待ち。

 

 

 ーーー♪

 LINEが帰ってきた。

 

 

 比企谷

 『分かりました。もうすぐ帰ります。』

 

 

 絵文字はない。

 そっけない会話だが、これが二人のやり取り。

 それだけで十分だ。

 最後にもう一度、陽乃はLINEを送る。

 

 

 陽乃

 『うん、待ってるね。』

 

 

 とーーー。

 

 

  ♯13 散髪

 

 

 2人で鍋を食べる。

 少し火照った体。

 食事の時も会話はほとんどない。

 でも、それでも良い。

 彼が美味しそうに食べてくれているから。

 それだけで、幸せだから。

 

 



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♯14 もう一度。

 

 

 

 

 

 夢ならどれほど良かっただろうか。

 そう思ってしまう日が陽乃には未だにある。

 後悔などしていない。

 何度もそう言い聞かせていた。

 あの日、全てを投げ出した。

 その結末はもう変えようのないことだ。

 そう。

 後悔は……ない。

 だが……もし。

 もしもまだ……後悔が残っているとしたら、それは逃げ出したことじゃなくて、雪乃のこと。

 悪いことをした。

 陽乃は素直にそう思う。

 陽乃が逃げ出したことによって、結果的に雪乃に全てを背負わせてしまったこと。

 それはまぎれもない事実であり、陽乃に今更どうこう出来るものじゃない。

 飲み込んだ言葉の断片は、消えずに陽乃の中に深く刻まれている。

 雪乃はなにも言わなかった。いや、言えなかった。高校卒業後も雪乃は実家には戻らず、あのマンションで一人暮らしを続けていた。そして今は陽乃が全てを投げ出したせいで、あの家に連れ戻されている筈だ。

 これらは全て憶測でしかない。

 だけど、それでも陽乃にはわかる。

 あの人のことだ。

 どんな手を使ってでも雪乃を呼び戻すだろうし、最悪、陽乃がまたあの環境に戻される日もそう遠くないかもしれない。

 そんなことを思いながら、今日も陽乃は目覚める。

 隣で眠る彼の背をなぞる。

 陽乃の知らない横顔が君にはある。

 君の知らない横顔が陽乃にもある。

 陽乃の過去を君は全て知っているわけじゃない。

 君の過去を陽乃は全て知っているわけじゃない。

 別にそれがどうというわけじゃない。

 そんな事は当たり前のことだし、これからもその事について話すことはないと思っている。

 君の背中は随分と大きくなった。

 か細かった光は太くなった。

 あの日の悲しみも、苦しみも、未だに心から離れない。

 流れた涙は多分、まだ癒えてない。

 溢れた想いは止められずにいる。

 きっと、もうこれ以上傷付くことはない。

 比企谷は陽乃にとっての光。

 それは多分、雪乃や結衣、あの3人の後輩の子にとっても同じだった筈だ。

 今ではその光を陽乃が独り占めしてしまっている。

 一度、光を失った。

 もう二度とあの経験だけはしたくない。

 伸ばした手の先に、貴方が、君がいないことなんてもう考えたくない。だから、出来るならその温もりをいつまでも感じていたい。

 わかっている。

 これは、陽乃のわがまま。

 でも、だけど。

 陽乃の思っている以上に、君は陽乃の光なんだ。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 陽乃は雪乃との間にあまりいい思い出がない。

 姉の後を追いかけていた妹と、その妹にちょっかいを出しては嫌われていた姉。

 陽乃と違って、雪乃にはまだ選択できるだけの自由があった。それが少し羨ましくて、疎ましかった。

 いっそのこと妹なんていなければ、こんな思いを持たずに済んだかもしれない。

 だけど、姉妹の情が無いわけじゃない。

 できるなら、仲良くしたいと思う時もある。

 でも、今は壁がある。とても分厚くて、いくら叩いても壊れない壁がある。陽乃には壊せるだけの力がない。

 陽乃は雪乃が思ってるほど完璧な存在じゃない。ソー=オーディンサンみたいに超人的な力があって、何百万人もの命を救えるような存在じゃない。スティーブ=ロジャースみたいな高潔な心があるわけでもない。トニー=スタークみたいな馬鹿みたいなお金持ちでもない。ブルース=バナーのように7つも博士号を持っている天才なわけでもない。

 陽乃にはそんなスーパーヒーローのような才能はどこにもなかった。

 陽乃にあったのは、努力で人並み以上の結果を出し続ける根性だけだった。

 だが、それも限界はある。

 結果を出せば出すほど、母からの要求は大きくなっていった。テストで100点を取ればその次もそれが当たり前で、学年で一番を取ってもそれが当然だと言われ、全国模試で10位になったら努力が足りないといわれる。

 この道の先に光はあるのか。壁はあるのか。どこまで行けばこの人は満足するんだ。気づけばそんな感情ばかり抱いていた。

 思えば母や父から褒められた記憶が陽乃にはない。

 良く褒められたのは、祖父である雪ノ下翔陽だけだ。

 子供のような無垢な笑顔で、頭をガシガシとガサツに撫でられ揉みくちゃにされた。でも陽乃はそれが好きだった。だからだろうか。気づけばテストで100点を取るたびに、祖父に真っ先に報告しに行っていた。

 それは雪乃も同じはず。

 陽乃は祖父が大好きだった。

 雪乃も多分祖父が好きだった。

 そして今、2人は同じ人を好きになっている。

 かつて、2人が祖父を好きだったのと同じように。

 どのような道のりだったとしても、その先には残酷な結果が待っている。

 姉妹じゃなければこんな思いは抱かずに済んだ。

 何度もそう思った。

 だけど、それは願って良いことじゃない。二人はこの世界でただ二人しかいない血の繋がった姉妹なのだから。

 姉妹だから、陽乃は思う。

 もう一度雪乃に逢いたいと。

 逢って話がしたい。

 今までのこと。

 これからのこと。

 そして、好きな人のことも。

 全部話し合いたい。

 まずはその身体を力一杯抱きしめたい。

 文句を言われても離さない。

 顔を真っ赤にしても離さない。

 二人仲良く家を出ようとはまだ言えない。

 でも、いつかは必ず。

 必ずその手を引く。

 もう一度、

 

 

 

 

 ♯14 もう一度。

 

 



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♯15 姉妹。

 

 

 

 

 甘いコーヒーの匂い。

 忘れかけていた笑顔。

 思い出してきた本当の笑顔。

 溶け出した氷。

 胸の奥の、もっともっと奥にある見えない心。

 覚悟は決めた。

 もう陽乃は一歩目を進み始めた。

 なら、もう大丈夫。

 きっとあの人も見守ってくれている。

 だから陽乃は二歩目を踏み出せる。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 曇り空の下、陽乃は歩く。

 いつも通り黒で統一された衣服。

 風に揺れる髪の毛を軽く押さえる。

 正直に言えば緊張している。昔の陽乃なら考えられない事だ。

 巡り巡る季節を超えて、もはやいつぶりに逢うのかも覚えていない。

 答えは出ない。正解は分からない。分からないまま投げ棄てるつもりはない。

 だから今日逢いに行こうと決めた。

 君は怒るだろうか。それとも嘲笑するだろうか。はたまた興味すら失っているだろうか。どんな顔をされるのかなんて簡単に想像できるのに、色々考えてしまう。

 歩みはいつのまにか止まっていた。

 締め付けるこの胸の奥のざわめき。

 スマートフォンには何度も消そうと思い続けた番号がある。

 指先が触れるだけで、電話は繋がる。

 でも、その親指が動かない。

 きっと、陽乃はまだ怖いんだ。

 どうやって声をかければいいのか、今更どんな顔で逢えばいいのか、陽乃には分からない。

 あの日の悲しみも、苦しみも、今更無かったことになんてできない。

 押し付けた、という罪悪感がある

 逃げ出した、という恥ずかしさがある。

 抱きしめたい、という思いがある。

 心の中の濁流に飲み込まれそうになる。

 だけど、逃げ出すつもりは微塵もない。

 逢おうと決めたから。

 だから、その指先が画面に触れる。

 スマートフォンを耳元へ。

 長い長いコール音。

 時間にして、たったの10秒。

 それがとてつもなく長く感じる。

 

 

『ーーーはい』

 

 

 聞きたいと思っていた声。

 なのに、こんなに緊張している自分がいる。

 逢おうと決めたのに、躊躇ってしまう。

 自分は今、どんな顔をしているだろうか。

 電話に出てくれた嬉しさがある、

 声を聞けた喜びがある。

 言葉を発する事への恐怖がある。

 考えていた事を言えない恥ずかしさがある。

 

『……』

 

「……もしもし、雪乃ちゃん?」

 

『……』

 

 相手の顔が想像できないことがこんなにも怖いだなんて陽乃は知らなかった。

 返事は返ってこない。

 時間は10秒も経過していない。

 なのに。

 それなのに。

 時間が永劫に感じてしまう。

 

『……今さら』

 

 聞きたいと望んでいた声を聞けた喜びが陽乃を襲う。

 後悔がある。

 悔しさがある。

 恥ずかしさがある。

 今まで生きてきて体験したことのない思いが陽乃の中を渦巻いている。

 

『今さら、なんのようかしら。姉さん?』

 

 震えている。

 こんな自分をまだ『姉さん』と呼んでくれている事への嬉しさでつい頬が緩んでしまう。

 きっと、正解なんて死ぬまでわからない。

 だからせめて後悔しないようにと何度も考えた。

 考えた結果、何もわからなかった。

 だから。

 だからせめて。

 後悔だけはしないように。

 いつか2人で、手を繋いでとは言わない。隣で軽口を言い合える程度の関係で、君の隣を歩みたい。

 例え、君が拒絶しても、こちらから行く。

 まずはその華奢な体を抱きしめたい。

 嫌がる顔が見たい。

 純粋に笑っていた頃の君の笑顔をもう一度見てみたい。

 

「久しぶりだね。雪乃ちゃん」

『……声、震えてるわよ』

「それはお互い様だよ」

『今さら、なんのよう?』

「……今から逢えない?」

『……ごめんなさいそれは無理』

「そっか……でも残念だね。雪乃ちゃん」

『……残念?』

「外、見てみて」

 

 見上げていた陽乃はベランダから顔を出した雪乃を見て、もう一度だけ笑みを浮かべた。

 

 

 

 ♯15 姉妹。

 

 



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♯16 姉妹②

 

 

 

 

 憧れていた。

 でも、今思えばその感情は憧れとは違うものだった。

 その背中は何度も見てきたつもりだった。

 こういう人を天才というんだなと、ずっと勘違いしていた。

 あの時までは。

 握りしめた紙切れがくしゃくしゃになる。

 この紙はもう二度と元通りには戻らない。

 だけど、貴女は違う。

 貴女はまだやり直せる。

 さよならだけの人生じゃない。

 頑張ってください。

 

 

 陽乃さんーーー。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 痩せた。

 雪ノ下雪乃が一番最初に思ったことはそんな些細なものだった。

 次に思ったことは元気そうで良かった。

 不思議なことに憎悪とか嫌悪といった感情は、一切込み上がってこなかった。

 逃げ出したことを責めるつもりなんて最初からなかった。

 ただ。

 やっぱり少しだけ会いにくかった。

 もともとそんなに仲が良かったわけじゃない。

 その背中をずっと見てきたから、その重荷を()はちゃんと知っている。

 課せられていた重圧も、必要以上の期待も、才能以上の努力も、()はちゃんと理解している。

 それなのに、心の奥底に残るこの違和感はやっぱり嫉妬という感情なのだろうか。

 そんなことを考えていたのに、次の瞬間には、一瞬にして頭が真っ白になった。

 

 雪ノ下陽乃に抱きしめられた。

 力強く背中に手が回されている。

 陽乃が今どんな顔をしているのか、髪の毛に隠れて表情が出てこない。

 笑っているのか、赤くなっているのか、泣いているのか。

 何もわからなかった。

 ただ、この状況に戸惑う自分がいるだけだった。

 ふわふわと漂っていた両手を自然と陽乃の背中に回す。

 ここが往来の場だと理解していながらも雪乃は陽乃を抱きしめた。

 回した両手が痩せた身体を浮き彫りにした。

 伏せた瞼に思いが募る。

 正しい選択はわかっている。

 今この場で母に連絡することが正しい選択なのは、よく理解している。

 だけど。

 きっと、自分が考えている事は母を落胆させる事だろう。

 でも。それでも。

 その選択は妹としては間違っていない選択だ。

 全てを棄てた陽乃と全てを押し付けられた雪乃。

 特別な才能を持っているとずっと思っていた。

 母の期待を一身に背負い、ずっと一人で戦っていた。

 陽乃の味方はいつも一人しかいなかった。

 二人の祖父である雪ノ下翔陽だけが陽乃の味方だった。

 あの人だったら、いくらでも陽乃を救えた。

 でもあの人はもういない。

 だから、妹である自分が助けなくちゃいけない。

 なのに。

 今どうやって生活しているのか? お金はあるのか? 帰れる家はちゃんとあるのか? 悪い人に騙されていないか? 病気はしていないか? 

 聞きたいことはたくさんあるのに、それを言葉にできない。

 言葉が溶けてしまう。

 

「急にごめんね。雪乃ちゃん」

「……後悔、しているの?」

「……うん」

「姉さんらしくないわね」

「そうだね」

 

 変わらず表情は見えない。

 声音から察するに、別に泣いているわけじゃない。

 

「……痩せたね」

「……うん」

 

 あの時、こうしていれば。

 あの日に戻れれば。

 だけど、あの頃の貴女にはもう戻れない。

 

「ねぇ、雪乃ちゃん」

「なに?」

「雪乃ちゃんは、変わったね」

「……、」

「なんか、優しくなったね」

 

 

 

 ♯16 姉妹②

 

 

 

 思い出は空の彼方。

 幸せは長く続かない。

 抱きしめた体温を忘れたくない。

 こんな弱い自分を見せることなんてないと思っていた。

 あの時、こうしていれば。

 あの時に戻れれば。

 だけど、あの頃には決して戻れない。

 時間を巻き戻すことなんて誰にもできない。

 だから、進むしかない。

 正解はわからない。

 最善はわからない。

 正しい選択なんてきっと誰にもできない。

 間違いだらけなのは、重々承知している。

 それでも前に進むしかない。

 

 

 ーーーありがとう、雪乃ちゃん。

 

 

 



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♯17 姉妹③

 

 

 

 何度も。

 何度も忘れようとした。

 貴女が残していった思い出とともに。

 距離が離れて、時間が経って取り返しがつかないほどに、貴女は遠くへ行ってしまった。

 もう2度と、逢うことはない。

 そう思っていた。

 なのに。

 貴女はふらりとわたしの前に現れた。

 もう2度と逢うことはないと。

 そう、思っていたのに。

 何度も。

 何度も忘れようとしたのに。

 貴女の代わりになろうと。

 貴女を越えようと。

 貴女はきっと知らない。

 わたしの努力も。

 あの人の嘲笑も。

 彼の悲しみも。

 彼女の心配も。

 貴女は、まだ知らない。

 間違いは正せない。

 過去は変えられない。

 だけど、未来は変えることができる。

 だから、せめて。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 視界が歪んだ。

 溢れ出した雫が頬を伝い、線を残して消えていく。

 涙の意味はわからない。

 安心か、不安か。

 背中に回した両手の力が強くなる。

 唇を噛んで、頭で言葉を紡いで、口にする前に消えていく。

 どれだけ考えても、言葉が纏まらない。

 涙ばかり溢れてくる。

 揺れ動く木の葉。

 光のざわめき。

 37度の温もり。

 

「泣いてるの? 姉さん」

「……うん」

「……姉さんも泣けるのね」

「最近、涙腺が緩いの」

「……そう」

「……、」

「ねぇ、姉さん」

「なに? 雪乃ちゃん」

「わたしはなにも変わっていないわ」

「……」

「あの時のまま、わたしの時間はずっと止まっているの。超えるべき存在を失って、それでもあの人に認めてもらえるように必死になって頑張って、バカみたいにまっすぐ進んで、でも。……でもやっぱり、つまらないの。張り合いがないの。姉さんのいない日々が恐ろしくつまらないの。ずっと、ずっと、前に進めないの。どれだけもがいても、姉さんの背中すら見えない」

「……雪乃ちゃん」

 

 背中から肩へ移した両手が一気に陽乃を突き放す。

 肩に手を置いたまま、雪乃は陽乃を見つめる。

 陽乃は雪乃の表情を見て気づいた。

 充血した瞳。流れた涙。震える唇。

 泣いていたのは、陽乃だけじゃなかった。

 大きく、綺麗な青色の瞳が揺れていた。

 一筋流れた雫が、陽乃の胸を抉る。

 止まってしまった時間。

 引き裂いた現実。

 ずっと追いかけてきた妹。

 ずっと走り続けた姉。

 相変わらず、陽乃は言葉を紡げない。

 いつのまにか不器用になっていた。

 あれだけ簡単だったコミュニケーションがうまくできない。

 あの時の陽乃はもういない。

 手にした仮面はとうの昔に光を失われた。

 培った力の半分も発揮できない。

 でも。それでも、なんとか言葉にしようと必死になって考える。

 正しい選択なんて陽乃にはわからない。

 それでも必死になって考える。

 だけど。

 

「わたしが、どれだけ……」

「……、」

「どれだけ心配したかなんて、姉さんは知らないでしょ?」

 

 

 不意の言葉に、纏まらない言葉が完全に溶けてしまった。

 

 

「どれだけ由比ヶ浜さんが心配してくれたか、姉さんは知らないでしょ?」

「……」

「どれだけ彼が……比企谷君が姉さんのことを探していたかなんて知らないでしょ?」

「……」

「なにも知らないのよ、姉さんは。わたしの時間を止めたことも、由比ヶ浜さんの心配も、比企谷君の心配も、なにも知らないのよ」

「……」

「改めて聞くわよ、姉さん。そんな姉さんが今さらなんのよう?」

 

 なにも言えなかった。

 小さく開いたままの口。

 瞬きの回数が急激に増える。

 誰にも理解されないと思っていた。

 誰とも心は繋がらないと思っていた。

 家族や友人との思い出すらもなく、ずっとあの人以外ーーー祖父以外味方なんていないと思っていた。

 そう思っていた。

 勝手にそう決めつけていた。

 誰にも理解されない。

 誰とも繋がれない。

 あの日から、ずっと一人で生きてきたつもりだった。

 でも、実は違うのかもしれない。

 本当は誰かが後ろから追いかけていたのかもしれない。

 慕ってくれた後輩はいた。

 でも、陽乃はその後輩に全部をさらけ出せていただろうか。

 なにも、知らない。

 陽乃はまだなにも知らない。

 突き刺さった言葉。

 心臓が動いている。

 心がずっと熱い。

 誰にも聞こえない悲鳴が内側で響いている。

 それを言葉にしなくちゃいけない。

 たった一言。

 簡単な一言。

 

「……逢いたかったじゃ、だめ?」

 

 流れた涙は君に羽を貰って、キラキラ輝いて飛んだ。

 あまりにも綺麗だから。

 雪乃は右手を伸ばして、人差し指でその涙を優しく拭き取る。

 伏せた瞼に思い出が重なる。

 あまりいい思い出はない。

 祖父に拳骨を落とされて泣きながら笑っている陽乃。

 二人で手を繋いで、一緒に食べたアイスクリーム。

 親に内緒で祖父から貰ったお小遣いで、はしゃいでいる2人。

 それでも、数少ない思い出たちが確かにそこにはある。

 さよならだけの人生じゃない。

 あの時、こうしていれば。

 あの日に戻れたら。

 だけど、あの頃には決して戻れない。

 進むしか、できない。

 過去は変えられない。

 だけど、未来は変えられる。

 だから。

 だから……。

 せめて、これからも続くであろう未来だけは、暖かな景色を。

 

「また、ただの姉妹に戻れないかな?」

「もう……遅いよ」

「……遅くないよ」

「もうやり直せないんだよ?」

「また一から始めよ?」

「姉さん、わたしはーーー」

 

 言葉を塞ぐかわりにもう一度抱きしめる。

 もう離さないように。

 もう一度、姉妹に戻るために。

 

 

 

  ♯17 姉妹③

 

 

 

 あの日わたしが全てを投げ出さなかったとして。

 それで今も抱えてるわたしの後悔はなくなるのかな?

 あの日君が心の奥底に静かにしまい込んだ言葉を聞いたとして。

 それで今も続いてる亀裂を埋めることができたのかな?

 君の体温が、その指が、その瞳が。

 全て愛おしくて、離したくなくて。

 だから、神様。

 ほんの少しでいいから、もう二度とはなれないように、今を強く結んでほしくて。

 

 



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♯18 姉妹④

 

 

 

 偽りじゃない本当の気持ち。

 彩りのない日々が、鮮やかな君の面影で輝きだす。

 声にならないくらいに、溢れてくるこの想い。

 いつか、この瞬間を思い出せなくなる日が来ても、きっと、必ず思い出すから。

 君の体温も。

 君の呼吸も。

 君の涙も。

 君の影も。

 全部、必ず思い出すから。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 ベンチへ腰掛けた陽乃と雪乃は無言のまま、空を見上げていた。

 正直に言えば、複雑な感情がまだ雪乃にはある。

 陽乃にも、まだ似たような感情がある。

 たった数ヶ月逢わなかっただけで、どんな顔をして会話をしたらいいのか、2人とも今さらになってわからなくなっていた。

 でも、会話などなくてもいい。

 もともとそんなに仲良くはなかった。

 だから、これでいい。

 会話はいらない。話し合ったところで、全てを理解できるわけじゃないから。

 たった2人の姉妹だから、分かり合えることもある

 だから、このままの関係でいいと思っていた。

 だけど、言わなければならないことがある。

 今の生活。比企谷八幡への想い。そしてこれからのこと。

 だから、陽乃は言う。

 

「雪乃ちゃんに言わなきゃダメなことがあるの」

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 緊張している。

 陽乃は弱くなった。

 力を失った。

 仮面は光を失くした。

 全て過去のものになってしまった。

 

「わたし……ね」

 

 だけど言わなければいけない。

 心配をかけた。

 後悔ならたくさんした。

 これ以上の後悔はしたくない。

 だから陽乃は言う。

 

「わたし」

 

 手が震える。

 怖い。

 陽乃は知っている。

 雪乃が彼のことを好きだったことを。

 言ってしまえば、変わってしまうかもしれない。

 だから怖い。

 

「……」

 

 言おうと決意したのに、やっぱり言葉は消えてしまう。

 それが悔しくてたまらない。

 

「姉さん」

 

 震えてる手に雪乃の細い手が重なる。

 顔を見ると、雪乃は笑っていた、

 その笑みに釣られて、陽乃も少し笑う。

 

「頑張って」

 

 優しい言葉が今は嬉しい。

 たった一言でも陽乃に勇気をくれる。

 

「うん、ありがとう。雪乃ちゃん」

「教えて。今の姉さんを」

「……うん」

 

 手に感じる温もり。

 偽りはない本当のことを言う。

 彩りのない日々はようやく終わる。

 頬を撫でるような風。

 雪乃の長く美しい黒髪が風に舞う。

 その姿が天使のように美しく思える。

 

「……今……ね、……比企谷くんの家に住んでるの」

「うん」

「もう2週間くらいかな。バイトも始めたんだ」

「うん」

「今は毎日が楽しい」

 

 そう。

 今は陽乃は毎日が楽しい。

 でも、雪乃はどうなのだろう。

 きっと辛い日々を過ごしているはずだ。

 後悔はない。

 未練はない。

 だけど、雪乃のことだけは心配だった。

 陽乃が逃げたから、多大な迷惑をかけた。

 そう考えるとまた言葉が止まってしまう。

 陽乃だけが今幸せを感じている。

 そう思うと、涙がまた溢れてしまう。

 無傷のまま、雪乃を愛することはもうできない。

 

「姉さん」

 

 手を握られる力が少し強くなった。

 そう感じてもう一度雪乃を見る。

 笑みを浮かべながら、雪乃はもう一度同じ言葉を言う。

 

 

「続き、聞かせて」

 

 

 片手で、陽乃は雪乃をもう一度抱きしめる。

 回された雪乃の手が陽乃の背中を優しく撫でる。

 答えなんてわからない。

 正解なんてわからない。

 逢おうと決めた陽乃のこの行動にどれだけの意味があるのか。

 向き合おうと決めた雪乃のこの行動にどれだけの意味があるのか。

 ざわめく心は風のように吹き荒れる。

 涙腺はずっと緩い。

 頑張って、と耳元の声が頬を濡らす。

 この温もりだけは本物であってほしい。

 

「ねえ、雪乃ちゃん」

「なに、姉さん?」

「辛かった」

「……」

「ずっと辛かった」

「……、」

「雪乃ちゃんに逢いたかった。昔のようにまた話したかった」

「姉さん」

「もう、離したくない。ずっとずっと大好きだった」

 

 

 

 ♯18 姉妹④

 

 

 

 姉さんは涙もろくなった。

 姉さんは笑うのがへたになった。

 多分、これが本当の姉さんの姿。

 あの人に強要されて演じてきた仮面を脱ぎ捨てて、弱くなった。

 それはあの頃と同じ。

 お爺ちゃんに拳骨を落とされて泣き笑うあの時と同じ姿。

 お爺ちゃんが生きていた時と同じ姿。

 でも、笑うのはへたになった。

 ねぇ、お爺ちゃん。

 帰ってきたよ、あの時の姉さんが。

 

 



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♯19 約束。

 

 

 

 傷だらけの春が終わる。

 心を曝け出すことはとても恥ずかしいことだ。

 今まで隠してきた想いを陽乃は今日、初めて口にした。

 ずっと大好きで、大嫌いだった。

 その自由を捨てようとしている雪乃に苛立ちを覚えたこともあった。

 たくさん後悔した。

 たくさん嘘をついた。

 でも、もうそんなことはどうでもいい。

 野に咲いた名も知らない花が揺れている。

 雪乃の背中に回した手が熱い。

 この瞬間を永遠に結んでほしい。

 どんな時ももう忘れない。

 どんな時ももうなくさない。

 どんな時ももう偽らない。

 さよならだけの人生じゃないから。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 穏やかな笑顔があった。

 風に揺れながら踊る髪の黒。

 その後ろ姿が綺麗で陽乃は思わず見惚れてしまった。

 

「姉さん、今日は逢えてよかった」

 

 歩きながら、雪乃はそう呟いた。

 陽乃はその言葉を聞いて、頬が熱くなった。

 この選択はきっと間違いじゃない。

 逃げ出したことは後悔している。

 押し付けたことえの罪悪感もある。

 でもこれからまた楽しい日々を2人で過ごしたい。

 これが愛だとはまだ大胆に叫ぶことはできない。

 でもいつか。

 いつの日かきっと。

 もっと大きな声で大好きだと言う。

 必ず言う。

 

「ねぇ」

 

 言葉を繋ぎながら、振り返る雪乃。

 

「わたし、多分比企谷くんに惹かれてた」

「……」

「ううん、わたしだけじゃない。きっと由比ヶ浜さんや一色さんも、彼に惹かれていたと思う」

「……、」

「でも、彼が選んだのはわたしたちじゃなかった。彼は姉さんを選んだの。ぼろぼろになって、行き場も失って、光を絶たれて、昔に戻った姉さんを……選んだの」

 

 風に髪の毛が舞う。

 2人の間に風が通り過ぎる。

 

「雪乃ちゃん」

「後悔をしたつもりじゃないけど、なんて言うのかしらね? この感情は。嫉妬じゃないし、悔しさでもない」

 

 笑みを浮かべたまま、雪乃は小さく呟いた。

 

「彼への同情……かしら?」

「同情……?」

「えぇ、同情。だって昔の姉さんに戻ったってことは、比企谷くんはお爺ちゃんみたいに手を焼くってことになるんだもの」

 

 その笑顔は雪乃がまだ小学生の時によく見た笑顔。

 いたずら的で、どこか色気があって、歳不相応の笑顔が年相応の笑顔に変わっていた。

 

「……昔のわたし」

「……もう姉さんはあの人に縛られて生きる必要はないわ」

「雪乃……ちゃん……?」

「幸せになってね、姉さん。わたしも頑張るから」

 

 そう言い切ると、雪乃は陽乃を抱きしめた。

 頬が触れる。

 呼吸が止まる。

 痛みはもう消えた。

 傷は消えないままでいい。

 もう誰にも偽ることはない。

 もう追いかける日々は終わる。

 これからは貴女の隣を歩く。

 雪乃はそう思いながら、強く背中に手を回す。

 だから。

 だから……。

 

「また逢いましょう。姉さん」

 

 再会の約束をする。

 もう二度と間違わないように。

 もう二度と道を(たが)わないように。

 

「うん」

「2人でお爺ちゃんのお墓参りにも行きましょう」

「……うん」

「またアイスクリームを2人で食べましょう」

「そうだね」

「姉さん。わたしもずっと大好きだったよ」

「うん、知ってる」

 

 正解はわからない。

 最善策なんてもっとわからない。

 でも、だけど。

 この選択はきっと間違いじゃなかった。

 たくさんの間違いと、後悔と嘘を重ねてきた。

 だから、この答えだけはどうか間違いじゃないようにと、神様に願う。

 この関係をずっと強く結んでくれますように、と強く願う。

 あの時、こうしていれば。

 あの時に戻れれば。

 だけど、あの頃には決して戻れない

 だから、進むしかない。

 さよならだけの人生じゃないから。

 

 

「これからまたよろしくね、雪乃ちゃん」

「えぇ、よろしく、姉さん」

 

 

 抱き合ったまま、2人はその言葉を残して、離れる。

 この未来(さき)が見えないなんて当たり前だ。

 だってこの未来(さき)はこれから2人で作っていくものだから。

 昔みたいに手を繋ぐことはもうない。

 でもまた2人で出かけることくらいならできる。

 それを幸せと呼ばずになんと呼ぶのだろう。

 もうこの手を離さない。

 もう二度と離すことはない。

 

 

 

  ♯19 約束。

 

 

 

 



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♯20  もう一歩。

 

 

 

 帰り道、一人で歩く。

 心が晴れているように感じた。

 誰も陽乃のことなんて見ていない。

 それは、ある意味陽乃が望んだ姿。

 すれ違ったところで、誰も声をかけてこない。

 月が光る。

 星が輝く。

 信号が赤に変わる。

 立ち止まった足元に、もう足枷はついていない。

 スマートフォンを取り出す。

 時刻は19時。

 夜風は少し冷たく感じる。

 でもそれは心地の良い冷たさ。

 身を切るような冷たさもない。

 LINE(ライン)を起動して、一通送る。

 

 

 陽乃

 『もうすぐ家に着くよ。』 既読

 

 

 既読マークがすぐにつく。

 それを見て、少し頬が緩くなる。

 

 

 ーーー♪

 比企谷

 『わかりました。』 既読

 

 

 素っ気ない返事が返ってくる。

 かっこいい台詞なんて元々期待してはいないから、その台詞に安心感を感じてしまう。

 これ以上のLINEはニ人には必要ない。

 いつも必要最低限だけの言葉を送り合う。

 それがとても心地いい。

 目の前を通り過ぎていく車両。

 吹いた風に揺れる髪の毛。

 伏せた瞳の先にある、暖かな笑み。

 弾む心音。

 もう雨は止んだ。

 もう雨が降ることはないと言い切りたい。

 天国にいるはずのあなたにも、ちゃんと伝えたい。

 もう、大丈夫だよ、と。

 今度は二人で逢いに行くから、と。

 また、二人で笑っている姿を見せるから、と。

 どうか安らかに見ていてほしい。

 これからの2人を。

 これからの雪乃を。

 これからの陽乃を。

 手を合わせる。

 あなたにこの想いが届くように。

 世界は今日も平常運転で、新しいことなんて何一つ起きはしない。

 なのに。

 どうしてだろう。

 はやる気持ちを抑えられずにいる。

 自然と笑みがこぼれてしまう。

 秋の風に吹かれ、流れた髪の毛を正す。

 信号機が青に変わる。

 止まる車両。

 歩き始める人たち。

 それに釣られて、陽乃も歩き出す。

 

 

 早くあなたに逢いたい。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 夕食の準備を終えた比企谷八幡は、リビングでスマートフォンを見つめていた。

 聞きたいことはたくさんあった。

 でも、あなたの言葉で聞きたかった。

 だからLINEを送るのを我慢した。

 あなたの帰りを待ちわびている。

 あなたの声が早く聞きたい。

 あなたの口から、今日のことを話してほしい。

 お茶を飲んで、口を潤す。

 チャイムが聞こえる。

 待ちわびた音を聞いて、歩き出す。

 ドアが開ける。

 その笑顔にもう陰りはない。

 それを見て、比企谷も静かに笑う。

 

「お帰りなさい。陽乃さん」

「ただいま、比企谷くん」

 

 

 

 

  ♯20  もう一歩。

 

 

 

  第一章 もう一歩、もう一度、もう一歩。

 

 

 

   終

 

 

 

  次章

  第二章 (ひと)りじゃ何一つ気づけなかっただろう。

 

 

 

   始

 



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行間 誕生日
行間 2 煙草と翔陽と陽乃。


今回賛否分かれそうです。


 

 

 

 煙草に火をつける仕草を、今でも鮮明に覚えている。

 ゆらゆらと揺らめき煙が空へ向かって伸びていき、静かに消えていく。

 吐き出される肺に溜められた煙。

 先端から燃える煙草が徐々に短くなっていく。

 煙草を吸う祖父の横顔をずっと見つめてきた。

 目を閉じて、満足そうに煙を吐き出す。

 子供の頃の陽乃には不思議な光景だった。

 まだ幼い陽乃には当然煙草の良さなんてわからない。

 でも祖父の表情には陽乃が大好きなお菓子を食べている時のような満足感が表れていた。

 灰皿に煙草を軽く叩きつけ、灰を落とす。

 その仕草をずっと見つめてきた。

 忘れることなんてできない大切な思い出。

 

 

 ずっと、いつまでも、この日と変わらず貴方が隣にいると思っていた。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 一人で生きていたならば、こんな気持ちにならなかった。

 貴方の影を追いかけて、今日までなんとか生きてきた。

 決して格好のいい人生じゃなかった。

 偽って、騙して、裏切って、泥臭く生きてきた。

 貴方の影を今でも探してしまう。

 拳骨の痛みを今でも覚えている。

 貴方の残してくれた愛情を今でも感じている。

 

 ーーねぇ、お爺ちゃん。

 ーーわたしね、好きな人がいるの。

 ーー貴方と似つかわしくない光に恋をしているの。

 ーー少しだけまた笑えるようになったよ。

 

 ベランダから空を眺めながら、会話なんてできるはずもないのに、貴方に向けて言葉を紡いでいく。

 手を合わせる。

 雲が流れていく。

 時間が過ぎていく。

 風が頬を優しく撫でていく。

 揺れる髪の毛を正して、もう一度空を見つめる。

 貴方は言った。

 死んでもお前を見守っているよ、と言ってくれた。

 格好悪い姿ばかり見せてきた。

 これからはこだわって生きていく。

 自然に笑えることが、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくてたまらない。

 心は開け放たれた。

 もう閉じられることはない。

 ポケットから貴方がよく吸っていたピースという銘柄の煙草とライターを取り出す。

 普段煙草は吸わないが、今日は特別。

 口に咥え、火をつけ、ふかす。

 もう一度、煙草を吸う。

 咳き込みながら、煙を吐き出す。

 この年になっても煙草の良さは正直わからない。

 でも、今日は特別。

 貴方のことだから、天国でもきっと幸せそうに煙草を吸っていると思う。

 ジジジと煙草が燃えていく。

 先端から煙が伸びていく。

 貴方の真似をする。

 

 ーー『それおいしいの?』

 ーー『ん? 煙草か? そうだな、味を言うのは難しいが、美味いぞ』

 ーー『どんなあじ?』

 ーー『……甘味があるかな。上品な甘味だ』

 

 甘味なんて全然感じない。

 ただ頭がクラクラするだけだ。

 正直美味しさなんて、陽乃には全然わからない。

 でも、貴方は煙草が大好きだった。

 今煙草は苦手だが、貴方の吸っている姿は好きだった。

 

「……」

 

 まだ自分には煙草は似合わない。

 なんだか背伸びをしているみたいだ。

 ても今日だけは特別。

 ……だって。

 

 

「誕生日おめでとう、お爺ちゃん」

 

 

 

 

 

  10.25

 

 

 

 

 

  行間 2 煙草と翔陽と陽乃。

 

 

 



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第二章 独りじゃ何一つ気づけなかっただろう。
#21 君と歩む日々。


 

 

 

 11月5日。

 冬の厳しさが増してきたこの頃。

 陽乃に少しだけ変化があった。

 黒で統一されていた衣服に赤色が新たに加わった。

 赤のパーカーに黒のパンツとハイカット。

 微かな変化だが、確かな変化でもある。

 自然と笑うことも増えてきた。

 少しだけの勇気がそこにはある。

 風に揺れる髪の毛を軽く押さえながら歩いていく。

 吐き出された白い吐息は空気に溶けていく。

 ワイヤレスイヤホンは今日も音楽を届けてくれる。

 悴んだ掌を軽く擦り合わせ、ポケットに収める。

 手を繋ぐ親子。

 寄り添うカップル。

 待ち合わせ場所まであと少し。

 もうすぐ君に逢える。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 掌に缶コーヒーの温もりを感じながら、陽乃は待ち合わせ場所に到着した。

 息を吐き、缶コーヒーをふくみ、苦味を感じながら飲み込む。

 あの頃とは違い、陽乃に声をかける人はいない。

 〝降り続けていた雨〟は止んだ。

 もう降らないと言い切りたい。

 その根拠は顔にある。

 落ち込んだ表情はもう存在しない。

 笑えることも増えてきた。

 歩みは止まったが、まだ新たな方向へ歩き出した。

 捨てた希望にも、少しずつ向き合える日が増えてきた。

 情熱を燃やしていたあの頃には、きっともう戻れない。

 すれ違いを繰り返してきた妹とも向き合えた。

 そして、君と再会できたこと。

 彩りのなかった日々に確かな彩りが今はある。

 だから、〝雨〟はもう止んだと言い切りたい。

 華奢な体に冬の風が通り過ぎる。

 その風に体が少し震える。

 瞼が自然と落ちる。

 忘れられない君との日々。

 たったニヶ月足らずの小さな思い出たち。

 遠のく足音。

 近づく足音。

 聞こえづらい会話。

 笑い声。

 いつの間にか音楽は止まっていた。

 そのことに気づいて、スマートフォンを取り出す。

 掌に広がる冷たさ。

 不意に飛び込んでくる時刻。

 19時27分。

 君はまだ来ない。

 空気をまた吐き出す。

 音楽は流さず、スマートフォンをポケットにしまう。

 イヤホンを外すと、町の喧騒が大きくなった。

 見上げると、猫背の君が歩いていた。

 寒さからくる猫背じゃなく、生粋の猫背。

 それでも周りの人達と比べたら、少しだけ背が高い。

 陽乃と目があっても、歩く速度は変わらない。

 ゆっくりと近づいてくる。

 ニヶ月経っても君は全く変わらない。

 でも、その変わらない姿勢は嫌いじゃない。

 そんな君に居心地の良さを感じて、恋までしている。

 手を繋ぐ親子、寄り添うカップル、仕事終わりのサラリーマン、大声で笑いあう高校生。

 そして、君。

 多種多様な彩りが広がっている。

 

「……待たせましたか?」

「ううん、わたしも今来たところだよ」

 

 君は少しだけ笑う。

 

「行きますか」

「そうだね」

「なに食べます?」

「寒いからあったかいのがいいな」

「じゃあラーメン……しゃぶしゃぶでも食べに行きますか」

「ラーメンでもいいけど」

「……美味いところ知ってますよ」

「任せるよ。全部君に」

 

 

 

 

  第ニ章 (ひと)りじゃ何一つ気づけなかっただろう。

 

 

 

 

  #21 君と歩む日々。

 

 

 




第二章スタートです。
三年かけてまだ第二章です。
相変わらず短い文章でごめんね。
長い文章は書けないんだ。
このスタイルで完結まで頑張ります。


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#22 いつかの夢をもう一度。

 

 

 

 

 左から、彼の肩に頭を預ける。

 気がきくような言葉はいらない。

 素晴らしい特別もいらない。

 ありふれた当たり前の日常が、今は、ただただ心地良い。

 心は君で溢れている。

 それはきっと、待ち望んでいた日々。

 どれだけ渇望しても、届かないものだと思っていた。

 だけど。

 今は……。

 その幸せが、もう目の前にある。

 たった一度の、たった一人を、愛する幸せ。

 愛が溢れてゆく。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 赤の衣服を着ることが多くなった。

 以前のように、黒で統一されることが最近は少なくなった。

 どこかワンポイントに赤が追加される、

 今は赤い靴下がお気に入り。

 カフェでのアルバイトも順調だった。

 これだけ長く続いたアルバイトは初めてだった。

 いつも続いて1ヶ月程度だったが、あのカフェは居心地が良く、働きやすい。

 カフェで笑うことも増えた。

 お客様との他愛無い会話が今では密かな楽しみになっていた。

 

「陽乃ちゃんは最近また一段と綺麗になったねぇ」

 

 常連客のお婆ちゃんにそう言われることが多くなった気がする。

 昔から容姿はよく褒められた方だと陽乃自身自覚はしていたが、あの時と今でどう変化したのか、自分ではあまりわからなかった。

 強いてあげるとしたら化粧のやり方は変化した。

 あの時も特別こだわりがあったわけではないが、化粧が薄くなったという自覚はある。

 もしかしたらその変化が今現れているのかもしれない。

 

「ありがとうございます?」

 

 だから、そう言われるとなんて返したら良いかわからず、いつもこうなってしまう。

 あの時は自信が満ちていた。

 綺麗なんて言葉は聞き飽きていた。

 筈だった。

 

「好きな人でもできたのかい?」

 

 そう言われて浮かぶのは彼の顔。

 その瞬間、陽乃の口角が僅かに上がる。

 お婆ちゃんの左の薬指にはめられた指輪が光る。

 

「……はい」

 

「良い人かい?」

 

 その問いに、陽乃はお婆ちゃんの目を真っ直ぐ見つめて返事をする。

 

「はい」

 

「なら良かった」

 

 そう言ってお婆ちゃんは笑う。

 釣られて陽乃も少し笑う。

 店内では静かにピアノが流れていく。

 コーヒーカップに指をかける。

 持ち上げた先にある穏やかな笑顔。

 こんな風に歳を取りたい。

 彼と2人で、穏やかに、気がきくような言葉もなく、素晴らしい特別もない。

 たった一度の、たった1人を愛する喜びを、彼には内緒で、密かに味わいたい。

 ただ、ありふれた毎日をこれからも楽しみたい。

 

 

 ーーねぇ、お爺ちゃん。

 

 

 この想いは祖父には届かないかもしれない。

 それでも伝えずにはいられない。

 

 

 ーーもうすぐあの時の夢が叶いそうだよ。

 

 

 愛が溢れてくる。

 

 

 

 

  #22 いつかの夢をもう一度。

 

 

 

 



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#23 いろは、襲来。

 

 

 

 

 今日は怠けようと決めていた。

 だけど、そんな日に限って連絡が来る。

 震えるスマホを拾い上げ、着信を確認し、出ることなくその場にそっと置く。

 今日は怠ける。

 その強い意思が比企谷にはある。

 だから絶対に電話には出ない

 どんなことがあっても、今日は家から出ない。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

  そのままの君が好き。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 いろは唄という美容院がある。

 比企谷も何度か行ったことはあった。

 その美容院に、今日比企谷は訪れていた。

 散髪が目的……ではない。

 散髪ならつい1週間前に行った。

 呼び出されたのだ。

 その美容院の一人娘に。

 

「……」

 

 そして、彼はもうその一人娘の目の前にいる。

 彼女は何故か怒りを露わにしていた。

 腕を組み、比企谷を見下ろしていた。

 比企谷は目を逸らしていた。

 言葉を発することなく、目だけで怒りを表現する彼女の女優としての才能に戦慄しながら、比企谷は恐る恐る口を開く。

 

「……なんで怒ってんの?」

 

「なんでだと思います?」

 

 

 質問を質問で返される。

 これほど嫌なことはないだろう。

 目を逸らしながら考える比企谷に彼女が口を開く。

 

「先輩」

 

「なに?」

 

「他のところで髪切りましたよね?」

 

「……切ったけど」

 

「それを怒ってるんです」

 

「それでなんでお前が怒るんだよ」

 

「私の練習台なので」

 

「ちょっといろはさん? 今の発言普通に酷いからね?」

 

 彼女ーー(いっ)(しき)いろはが怒っていた理由は簡単だった。

 比企谷が他の美容院で散髪した。

 たったそれだけの理由だった。

 高校卒業後、美容師の専門学校に通い、美容師になったいろははまだ見習いだった。

 やることはいつもカット後の清掃、接客、洗髪のどれか。

 お客様の髪を切ることなど、まだまだ先の話だった。

 それはもちろん比企谷も同様だ。

 彼の髪を切ることはないが、洗髪ならできる。

 いろはの技術向上の為の練習台。

 と口では言っているが、

 

「まぁそのことはもういいです。横に置いておきます」

 

 別に彼がどこで髪を切ろうか、実際はあまり気にしていない。

 

「横に置けるかどうかは俺が決めるから」

 

「ラーメンでも食べに行きますか」

 

「行ってらっしゃい」

 

 そう言って出口に向かう比企谷の手首を強引に掴むいろは。

 怪訝な面持ちで振り返る比企谷。

 

「なに言ってるんですか? 先輩も行くんですよ」

 

「無理。忙しい」

 

 もちろん嘘だ。

 今日は怠けると昨日から決めていたのだ。

 それなのに呼び出されてここまで来た。

 そのことを褒めてほしいくらいだ。

 そう思いながら、いろはの手をほどき、ドアへ向かう。

 

「セミロングのお姉さん」

 

 その声を聞いて、比企谷の足が止まる。

 

 ーーセミロングのお姉さん? お姉さん……? ……陽乃さん? まさか、知っているのか? どこで見られた? いや、まだ陽乃さんとは決まっていない。

 

 様々な言葉が浮かんでは消えていく。

 情報を整理していく。

 

 ーーそうだ。まだ陽乃さんとは決まってない。

 

「なんのことだ?」

 

 だから知らないふりをする。

 

「陽乃さんとデートしてたこと、結衣先輩に報告しちゃおうかなー」

 

 ーーあ、終わった。

 

 観念して固まっている比企谷にいろはは屈託のない笑顔を浮かべながら、

 

 

「じゃあラーメン、食べに行きますか」

 

 

 

  #23 いろは、襲来。

 

 

 

 



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