チャットの相手がウサ耳科学者だった (水羊羹)
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自称天才なお前と転生者な俺
俺には前世の記憶がある。
気がつけば、こうして第二の人生を歩んでいるのだが。
残念な事……残念でいいのだろうか?
ともかく、創作物のようにチートなんて物は持っていなかった。
ただ前世の記憶があるだけの、平凡な人間だ。
産まれた場所は前世と同じ現代日本だし、世界樹や異世界なんて物も存在していなかった。
同じクラスや知り合いに主人公のような人もいなかったので、やはりこの世界はファンタジーがない平和な世界なのだろう。
俺としては、魔法とかには少し憧れたが。
まあ、前世と同じように過ごしている。
大きな不満もない……いや、一つだけあったか。
やはり、世界が違うからだろう。
前世で好きだったアニメやラノベが、この世界にはなかったのだ。
特に、ISのようなロボット物が少ない。
その事を知った俺は、ないなら自分で作るか、と小説を書き始めた。
前世から趣味でネット投稿していたので、今生でもやってみるかという思いもあった。
その決定が、俺とある人物を引き合わせる事になるのだった──
♦♦♦
高校が終わり、帰宅した俺。
親に声を掛けてから部屋に戻り、着替えてパソコンの電源を入れる。
インターネットから小説投稿サイトにアクセスして、自分の作品へとジャンプ。
「お、感想来てるじゃん」
新たな感想に、思わず笑みが浮かぶ。
最近、ロボット物を投稿し始めたのだが、やはり俺のセンスでは人気が出なかった。
前世で見た要素を自分なりに噛み砕き、それをオリジナル小説として書いているのだが、現実は甘くなかったという事だ。
まあ、数少ない読者が読んでくれるだけでも嬉しいものだが。
返信しながら考えていると、メッセージも来ている事に気がつく。
感想は作品にある感想欄に書けばいいので、作者本人に送るメッセージは中々使われない。
だから、意外だ。
俺のような無名のユーザーに、メッセージを送ってくるのは。
「とりあえず、中身を見てみるか。ユーザー名は……アリス?」
女性だろうか。
いや、名前が女性だからと言って、ユーザーが女だとは限らないだろう。
その辺は俺が気にする事でもない。
一体、どんな内容が書かれているのか……
「うぉ!?」
メッセージを開くと、びっしりとした文字列が迎えてきた。
思わず仰け反りながらも、目を細めて詳しく確認してみる。
どうやら、限界一杯まで文字を書いて送ってきたらしい。
そこまでして俺に伝えたい内容とは、見るのが怖いような。
とはいえ、読まないわけにはいかないだろう。
「えぇと……はっ?」
文字を目で追うにつれて、俺は眉根を寄せていた。
小難しい論理的な内容で纏められており、端的に表すと俺の作品の批評だった。
天才科学者が主人公なのは良い判断だ。
しかし、お前のような凡人では、彼女の天才さを表現できていない。
いつもなら鼻で笑っていたが、妙に腹が立ったので親切な私が教えてやる云々。
以後、説得力のあるグラフ付きで、科学者の視点を長々と説明している。
頻繁に混ざる、煽りセリフがセットで。
「……」
確かに、前世で好きだったキャラクターを元にして、俺なりに偉大な作者達をリスペクトして書いていたが。
ま、まさか素人の小説にここまで噛み付いてくるとは……
「てか、普通にムカつく」
口元を歪ませた俺は、衝動的に喧嘩腰で返事を書いていた。
自分の技量では彼女を凄く書くのは難しいが、それをお前に指摘される謂れはない、と。
送信したところで我に返り、貴重な読者を失う可能性に頭を抱える。
こいつの書き方が煽り塗れだったのは事実だが、言っている内容は頷けるものもあった。
大人の対応をするべきだった、と後悔していると、メッセージが来た。
「はやっ」
早速中を見ると、内容は更に煽りが混ざっていた。
凡人のために貴重な時間を割いてあげているのに、まさかここまで低脳だとは思わなかった云々。
お前が書いているのは天才ではない、ただの都合の良い人形等々。
こんな汚物にも劣る駄作なんか、さっさと消去しろ。
「あああああむっかつくうううう!」
頭を掻きむしって声を上げ、目の前に映るメッセージを睨みつける。
なんだよ、なんでここまで言われなきゃいけないんだ。
理不尽な言葉に、心の底から不快感が募る。
いや、落ち着け。
ここで感情的になったら、相手の思う壷だ。
深呼吸をしていき、熱くなっている心を冷ましていく。
「運営に報告するか?」
ここまでの罵倒ならば、直ぐにアカウント停止にできるだろう。
そうすれば、この評論家気取りはいなくなり、俺は平穏に細々と小説を執筆できる。
しかし──それでは、納得がいかない。
そんな対応をすれば、こいつから逃げた事になるような気がする。
ここまで言われたのに、逃げて負ける?
冗談ではない。
言われっぱなしは嫌だ。
「だったら、認めさせてやろうじゃねぇか」
勝手に宣戦布告させてもらう。
主人公をお前が唸るような、凄まじい天才科学者にしてやる。
まずは、もっとプロットの練り直しだ。
主人公を含めて登場人物の背景を考え、それを小説に落とし込まなければ。
転生してから感じていなかった情熱を胸に、俺はキーボードに指を添えるのだった。
♦♦♦
アリスという名のあんちくしょうと戦って──一方的に言い負かされたが──から、一ヶ月ほど経った。
小説をエタらせたくはなかったので、既存の作品を改訂しながら更新していた。
俺のやる気が作品にも移っているのか、評価は徐々に上がってきている。
読者の中では、今の主人公でも好きだと言ってくれた。
しかし、相変わらずあいつはボロクソに酷評してくるのだ。
「また来てる……」
学校から帰ってメッセージを見ると、アリスからメッセージが届いていた。
中を開くと、相変わらずの長文が迎えてくる。
塵芥一つ分ほどはマシになったが、やっぱり天才に見えない。
凡人に毛が生えた程度だ。
そもそも、主人公の性格がムカつく。
天才はコミュ障ではない、凡人と会話する必要がないだけ。
お前は何一つ理解していないし、不愉快だ。
「もはや、ただの感情論じゃねえか」
要約した内容に、思わず俺は眉間を揉む。
なんなんだ、こいつは。
主人公に感情移入しすぎではないだろうか。
俺が書いている主人公は、天才科学者の名を欲しいままにしている。
しかし、凄いコミュ障なので、時折空回りしてコメディーになったりする。
それと、主人公は寂しがり屋にした。
本当は皆と仲良くなりたいのだが、天才故に人々を無意識に見下してしまう。
そのせいで、色んな人から煙たがられている。
このアリスとかいう自称天才は、そんな主人公の性格が気に食わないのだろう。
「子供かよ……ん?」
ため息をついていると、デスクトップに見慣れぬアイコンがある事に気がつく。
試しにクリックしてみれば、チャット画面が開いた。
どうやら、リアルタイムでチャットできるソフトのようだ。
しかし、なんでこんなソフトが自分のパソコンに?
首を捻っていると、チャットに文字が現れた。
【おい、凡人】
「……こんな言葉を書くって事は」
半ば確信しながら、俺はチャットに文字を打ち込む。
【なんだよ、自称天才】
【自称じゃない。私は正真正銘天才だから。まあ、お前のような存在じゃあ理解できないか】
【いやいや、お前は天才じゃなくてただのガキだろガキ】
【はっ? なに、喧嘩売ってるの?】
【既に買ってるんだよなぁ】
メッセージとは違うからか、思いつくままの言葉が出てくる。
相手も同じようで、いつものような長文ではない。
しかし、いつの間に俺はこいつと連絡先を交換していたんだ。
不思議に思っていると、俺の思考を読んだかのようにチャットが来る。
【お、やるのか? お前のパソコンはもうハッキングしてるから、お前の情報を全部世界に流してもいいんだぞ?】
【はぁ? ハッキング? なに馬鹿な事言ってんの? 天才さんの頭の中は俺には理解できませんわ】
そう返すと、まるでため息を漏らした様子で三拍ほど間を置いた後。
【凡人ですらない馬鹿なお前に、天才の私がわかりやすく教えてやる。お前が今使っているチャットソフト、それは私がハッキングしてインストールしたやつだ】
「は、うそ!?」
信じられない……いや、信じたくない。
話だけには聞いた事があるが、ハッキングなんて向こうの世界の話だった。
しかし、この自称天才はハッキングしたと言っている。
ハッタリ、ではないだろう。
こいつの言葉が正しければ、今の状況に説明がつくのだから。
てっきり、空想上のキャラに憧れた厨二病かと思っていたのに。
この世界に、ファンタジー要素やSF要素がない事は確認済みだ。
俺の転生要素以外、前世と変わらない平凡な世界。
その中に現れた、映画のような凄腕ハッカー。
思わず唾を飲みこみ、どう返事をするか頭を悩ませる。
十中八九、こいつの言葉は真実だ。
だから、彼の機嫌を損ねてしまえば、本当に俺の情報をばら撒かれてしまう。
【どうした? 今更私に喧嘩を売ったのを後悔したか? それも仕方ない。凡人は凡人らしく無意味な人生を送っておけばいいんだよ。ほら、理解したならあの汚物を消せ。それとも、私が消してやろうか?】
ここぞとばかりに煽ってくる、
ここは、素直に折れるべきか。
みっともなく謝れば、こいつの性格上満更でもなく受け取ってくれるだろう。
理性がそう告げる──しかし、感情が収まらない。
ここまで言われて、引き下がれるだろうか。
馬鹿なのは自分でもわかっている。
情報を握られている状態で、負けを認めていないのだから。
でも、やっぱり無理だ。
こいつに負けを認めるのだけは、死んでもお断りである。
頬を叩いて気合いを入れ直し、脳みそをフル回転させて返事を書く。
【お前が優秀なのは理解した】
【ようやくか。相変わらず、凡人は理解力に乏しい】
【だが、いいのか?】
意味深に止めれば、少しして返事が来る。
【なんだよ、もったいぶらずに言え】
【仮に、お前がハッキングで俺の情報を世間に公表したとする。もちろん、俺は社会的に危うい位置になり、色々と大変な目に遭うだろう】
【そうだ。だから、素直に負けを認めろ】
【そこなんだよ】
【はっ?】
食いついた。
思わず口角を上げながら、俺はチャットの言葉を繋ぐ。
【今まで、俺達は言い合いをして勝負していた】
【はぁ? 天才の私と、凡人のお前が? 勝負というのは、同格の者同士でやるんだぞ? お前のような凡人が、私と釣り合うわけないだろ】
「こ、こいつ……」
反論したくなる気持ちを抑え、文字を並べていく。
【だけど、ここでお前がハッキングを使ったとしたら、お前は勝負の土俵を降りたことになる】
何故かはわからないが、こいつは俺の小説に拘っていた。
ハッキングして消せばいいのに、俺の心を折るように仕向けていたのだ。
恐らく、俺自身に作品を削除させたかったのだろう。
俺が消したのを確認して、優越感に浸りたかったと思われる。
天才の私にかかれば、所詮凡人の思考を変える事など容易い、と。
推測混じりだが、大きく外れてはいないはずだ。
今までの不本意ながらの付き合いで、こいつの性格は大まかに掴めた。
プライドが高く、傲慢で、他人を見下し、自分が正しいと思って、コミュ障でもあり──そして、途方もなく天才。
この画面越しのやつは、俺が知っている誰よりも優秀だろう。
まさに、前世で見た創作上のキャラの如く、頭が良い。
もちろん、俺が転生したとはいえ、ここは現実だ。
まさかこいつが二次元のキャラだとは思えないが、ともかくそれぐらい凄いという事である。
そこで、一つ思うわけだ。
果たして、他人を凡人と認識している天才が、相手から逃げるのか、と。
本人にとっては、アリを踏みつぶすような気持ちなのだろう。
しかし、俺が言葉にした事で、嫌でも意識せざるを得ない。
特に、プライドが高いこいつなら、尚更だ。
【どうした? 凡人の戯言なんて気にならないだろう? 情報をばら撒くならばら撒けばいい。だけど、その瞬間お前は俺に負けた事になるからな】
そこまで打ったところで、額の汗を拭う。
これは賭けだ。
安い挑発だとは理解している。
わざわざ、こいつが俺の話に乗る必要はない。
凡人がいきがっている、と冷たく笑うことだってできるはずだ。
しかし、俺は半ば自分の勝利を確信していた。
緊張から滲む手汗を服で拭いていると、やつからのチャットが来る。
【覚えてろよー!】
「はっ?」
この後、アリスは退室した。
予想外の展開に、思わず俺は目を点にして首を傾げる。
どうなっているんだ?
いなくなったという事はつまり、あいつは敵前逃亡?
勝った、のか?
アリスに、凄腕ハッカーに、天才に……?
ゆっくりと言葉が身体に染み渡り、徐々に実感していく。
自然と表情は満面の笑みになっていき、椅子から立ち上がってガッツポーズ。
「よっしゃああああああ!」
ようやく、ようやく。
初めて、あいつを言い負かす事ができた。
小説を酷評され、物語のつまらなさを書かれ、キャラの不愉快さを並べられ。
何度も挫けそうになった。
だけど、持ち前の負けん気を駆使して、なんとかやつに食らいついていた。
そして、今日。
今までの俺の行動が、遂に実を結んだのだ。
「はっはー! 天才だがなんだか知らないけど、所詮子供よ! 転生者の俺の方が強かったなぁ!」
「うるさいよ!」
「ご、ごめんなさい!」
母さんに怒られてしまった。
やはり、この世で一番強いのは、偉大な母である。
改めてそう認識した俺は、己の勝利を噛み締めるのだった。
♦♦♦
なんだか、今日はおかしい。
アリスを言い負かした次の日、俺はいつも通り登校していたのだが。
やけに見られているような気がする。
大半は生暖かい眼差しで、何人かは侮蔑の色が混ざっていた。
特に有名なわけでもないので、こんな視線に心当たりはない。
首を傾げながら教室に入ると、やはりここでも注目を浴びてしまう。
どういう事だ?
「なあ、どうした?」
「おはよーさん」
尋ねた俺の方に、級友が近づいてきた。
手には携帯を持っており、ニヤニヤとからかいの笑みが浮かんでいる。
彼は俺の肩を組むと、顔を寄せて囁く。
「お前、小説を書いてたんだな」
「…………はっ?」
何故、知っている。
誰にも教えた事がないのに。
混乱している俺を見て、彼は携帯の画面を見せつける。
どうやらメールのようで、学校中に一斉送信されたのだろう。
そして、肝心の内容だが……
「突然メールが来た時はびっくりしたぞ。でも、まさかお前が小説の宣伝をするとはなぁ」
俺のメールアドレスで、自作小説のURLを貼って誘導していた。
今投稿しているのから、パソコンにあるはずの没にしていた黒歴史物まで。
「はああああああああ!?」
携帯をひったくって目を凝らすが、画面に書かれている内容は変わらない。
めちゃくちゃ自信があるから見てくれ、絶対面白いから云々。
待て。
これはナンダ?
メールを送った覚えはない。
そもそも、誰にも小説の事を教えるつもりはなかったのだが。
愕然としていると、俺の携帯がメールを受信したようだ。
嫌な予感に従って取り出し、画面を見る。
【ごっめーん。間違えてお前のメールアドレスで送っちゃった☆ 故意じゃないから仕方ないよね。天才は過去を振り返らないのだ! というわけで、許せ凡人】
「あああああああああああああああッ!」
「ちょ、おい落ち着けよ!」
衝動的に携帯を叩き割ろうとした俺に、級友が羽交い締めしてきた。
対して、俺はジタバタと暴れながら、口角泡を飛ばす。
「離せ今ここでこいつを根絶やしにしなければうわああああ!」
「だから、落ち着けって! なにがあったかわからないけど、俺はお前の小説を褒めに来たんだよ!」
「……へ?」
思わず動きを止めると、俺から離れた級友がため息をつく。
呆れ半分、感心半分の表情を浮かべ、肩を竦める。
「確かに何個かは見るに堪えない小説もあったが、今連載してるロボット物は面白いぞ」
「え?」
「クラスの中では、前からお前の作品を読んでた人もいたようだしな」
そう告げて顔を動かした級友。
彼の視線の先を追えば、あまり接点のなかったクラスメイトが尊敬の眼差しを送ってきていた。
他にも、何人かの人が俺に好意的だ。
もちろん、女子のほとんどは引いていたが。
それにしても、面白い……面白いか。
まさか生の声を聞けるとは思わず、照れてしまう。
そっぽを向いて顔を背け、小さな声で呟く。
「……ありがとう」
「気にするなって。それで、せっかくだしお前の作品について語ろうぜ。色々と裏設定とかも聞かせてくれよ」
「話せない事もあるけど、それでもいいなら」
「それでいいぞ」
「じゃ、じゃあ、話そうか」
こうして、俺は級友を含めた何人かと、作品について語り合いをした。
今日の出来事を通して、新たな友人ができたのは僥倖だろう。
アリスの野郎には殺意しか湧いていなかったが、ちょっとは感謝してもいいかもしれない。
ひそひそと囁いている女子を見て、やっぱりあいつは許せないと思いながら、俺は共通の趣味を持つ仲間を手に入れる事ができたのだった。
♦♦♦
アリスによる俺の黒歴史暴露事件から、数ヶ月ほど経った。
生の声を参考にしたからか、ますます小説の出来は良くなっていた。
ブクマも四桁を越えてから久しく、そろそろ累計ランキングへの道が見え始めている。
まさか、自分の作品がここまで評価されるとは。
毎日頭を悩ませて考えていたとはいえ、初めの骨格は前世でのキャラ達だ。
そう考えると、やはり作家達には足を向けて眠れない。
「お、来たか」
執筆をしていた俺のパソコンに、チャットが送られた。
開くと案の定、アリスからだ。
俺の学校生活を変化させた元凶である、天才。
このまま剣呑な関係が更に深くなるかと思っていたが、意外や意外。
思ったよりも、仲良くなったのだ。
彼の方で心境の変化があったのか、以前より少しだけ言葉のトゲが少なくなっている。
【やっほっほー。汚物の量産頑張ってるー?】
【汚物言うなし】
【えー、どう見てもくちゃい小説じゃん】
【そんな事ないわ! 色んな人に評価されているんだから】
【それは、そいつらが凡人達だからだよ。天才の私からすれば、ゲロマズ料理に喜ぶマヌケにしか見えないし】
「相変わらず、口の悪い……」
俺を含めて見下しているのは変わらないが、やはり前より柔らかくなっている。
原因は、アリスの口調の変化だろう。
メールを送った以降、吹っ切れでもしたのか言葉遣いが変わったのだ。
初めてチャットで見た時は、ついに頭がイカれたかと心配したものだ。
直ぐに泣きそうになるほどの罵倒が返ってきたが。
それにしても、もしかしてアリスは女性なのだろうか。
最初の乱暴な口調から、てっきり男かと思っていたのだが。
今のアリスは、自由奔放で無邪気な感じがする。
「それに……」
前世の記憶も削磨され、覚えている内容は虫食い状態だ。
そんな忘れかけている記憶の中で、なにかが引っかかっていた。
とはいえ、思い出しても特に意味はないだろうし、俺のやる事は変わらない。
こいつに俺の小説を認めさせる、それだけだ。
そんな事を考えていると、アリスからのチャットが来る。
【お前の主人公さ、夢とか持ってるの?】
【突然だな】
【いいから、答えて】
普段の汚い言葉はなりを潜め、文字越しに真剣な雰囲気が伝わってくる。
一度キーボードから指を離した俺は、腕を組んで思考を巡らせていく。
夢、夢と来たか。
改めて考えてみれば、あまり深く考えていなかった気がする。
もちろん、各キャラごとに信念等は設定していた。
しかし、今のアリスが告げた時のような、文字を通して訴えかけてくる夢や、信念を作っていたのかと言えば、首を傾げざるを得ない。
どこか、自分のキャラ達を創作だと思っていなかったか。
空想上の存在だと、見切りをつけていなかっただろうか。
俺達にとっては幻想でも、作品の中の彼女達にとっては現実だ。
生きている、と言っても過言ではない。
「一度、見直してみるべきか」
一つのキャラクターとしてではなく、一人の人間として。
ここまで考えたところで、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。
確かに、これではアリスが汚物と言ったのも頷ける。
作品の都合で動くキャラなど、ただの人形ではないか。
そんな作者の自己満足、見るに堪えないものだ。
「……」
ため息一つ。
瞬きして気持ちを切り替え、素直にアリスへと返信をする。
【悪い。あるにはあるが、お前を満足させるような夢は持ってない】
【おろ? 素直に認めるんだ、珍しい】
【今回ばかりはな。お前の言っている内容が正しかったし。それで、そんな事を言った理由を聞いてもいいのか?】
【んー、そうだにゃあ】
そこで、アリスは迷うように時間を置き。
【ねぇ、天才ってなんだと思う?】
【はっ? なんだよ、いきなり】
【私はねぇ、天才って言葉は凡人共が作り出した蔑称だと思うんだ】
【蔑称?】
意味がわからない。
むしろ、天才は真逆である賞賛の意味ではないだろうか。
首を捻っていると、アリスは言葉を繋ぐ。
【自分達には理解できないから、天才って都合の良い言葉を押し付ける。自ら学ぼうとしないで、無理だーできるわけないーって諦める。そのくせ、自分より優秀な天才達の足は引っ張る。
【なにが言いたい?】
【私はね、変えたいんだよ。この腐りに腐ったヘドロのような世界を。天才という名の窮屈な鳥かごをぶっ壊して、大空へ羽ばたきたいんだよ】
【仮に、大空へ羽ばたいたらどうなるんだ?】
【天災になる】
「はっ?」
思わず声に出してしまうが、無理もないだろう。
突然あやふやな事を言っていたかと思えば、今度は自然災害になりたいと告げてきたのだから。
唖然と固まる俺をよそに、アリスはチャットを送る。
【自然のように何物にも縛られず、思うがままにしたい。凡人共は家に籠る事しかできず、災害が収まるのを怯えて待つ。そんなやつらの無様な姿を見て、嘲笑うんだよ。そして、腐る事しかできない汚物は、私が消毒して綺麗にしてあげるんだ。それが、私の夢】
【よくわからないけど、お前が現状に不満を持っているのはわかった】
【うんうん。凡人のお前にしては、上出来じゃないか】
【一言多いわ】
呆れの表情を浮かべながら、俺は予想以上に重い内容に驚いていた。
まさか、アリスがそんな思いを抱えていたとは。
天才の考える事は……いや、こういう思考が嫌いなんだったか。
相変わらず、アリスの考えは難しい。
これなら良いだろう。
ともかく、こいつの夢が物騒なのは理解した。
「……でも、そうだなぁ」
初めて、アリスの方から真面目な話をしてくれたのだ。
ネット上だけとはいえ、俺も真剣に答えるべきだ。
こういう時、真っ先に思いつくのが空想関連なのは、小説を書いているからか。
空気を変えるために、冗談交じりにチャットを送信する。
【なんなら、テロでも起こしてみたら? 小説とかではよくあるじゃん】
【テロ……テロかぁ。例えば?】
【んー、そうだなぁ。世界中にウイルスをばら撒くとか、ロボットを作って見せつけるとか? まあ、流石に現実じゃあ無理だろうけど】
思わず笑っていたのだが、アリスの返信を見て笑顔が凍る。
【……うん。いいね、それ。ちょうど、研究にも一段落ついたところだし、お披露目ついでに派手な花火を咲かせるのも一興かな】
「おいおい、嘘だよな?」
頬が引き攣っていく。
いくらアリスが天才だとはいえ、まさか実際にそんな事をできるわけがない。
リアルバイオハザードとか、普通にヤバいのだが。
チャットするための指が止まっている中、アリスは独り言を漏らすように言葉を続ける。
【たまには面白い発想をするじゃん。おかげで、私も色々と楽しくなりそうだよ。じゃあ、こっちは準備があるからもう切るね】
【え、ちょっと待て】
【あ、そうそう。お前の小説、主人公の妹の可愛さは認める。箒ちゃんにそっくり! だから、今後も期待してるよ】
【え?】
そこで区切れ、アリスは退室した。
対して、俺は唖然と固まってしまい、身体中から大量の冷や汗を垂らす。
なんか、踏んではいけない地雷にダイブしたような気がする。
具体的には、今後世界がひっくり返るような。
というか、あいつ俺の作品を初めて小説と言ってくれた。
しかも、期待しているという言葉まで。
「ヤバい。普通に嬉しいんだけど」
思わず顔がニヤけていると、不意に文字の一部分に目が行く。
箒というのは、話の流れからアリスの妹だろう。
あいつ、妹いたのか。
いや、それはいい。
問題は箒という名前から、嫌な予感が膨れ上がっている事だ。
喉元に小骨が刺さっているような、取れそうで取れない不快感。
なにか大切な事を忘れているような気がする。
「マジで不安だ……」
頭を抱えるが、現状俺ができる事はない。
色々とやっちまった感が拭えないけど、まあ仕方ない仕方ない。
現実逃避だ、現実逃避。
キャラの練り直しをしよう、そうしよう。
問題の先送りを決意した俺は、執筆を再開するのだった。
♦♦♦
アリスとの連絡が途絶えてから、一ヶ月ほど経つ。
結局、あの日を最後にあいつはチャットに現れなくなった。
なにかあったのだろうか。
まあ、恐らく家族に止められでもしたのだろう。
心配はしていない……していないが、あいつの批評がないと心細くもある。
どうやら、俺は思った以上に、アリスの事を好いていたらしい。
なんだか筆も乗らず、累計ランキング目前にして、ポイントは停滞している。
「はぁ……」
パソコンから身体を離した俺は、身体を伸ばして力を抜く。
今日は休日なので、朝から執筆していたが。
やはり、ここずっと調子が悪い。
アリスの存在が、ここまで大きくなっているとは。
「気分転換に散歩でもするか……ん?」
チャイムが鳴った。
両親は出掛けているので、自然と俺が対応する事になる。
自室を出て玄関に向かい、ドアを開けようとする。
唐突に、嫌な予感がしてきた。
この扉を開けると、俺はとんでもない事に巻き込まれるような気がする。
「どうしよう」
また、チャイムが鳴る。
覗き窓から外にいる人を見てみようか。
いや、それをしても取り返しのつかない事が起きる予感を覚える。
ならば、居留守はどうか……一番まずい展開になる確信がある。
ええい、考えていても仕方がない。
頭を振った俺は、勢いよくドアを開いた。
「む、いたか」
玄関前にいたのは、俺と同年代の少女だった。
日本刀のような鋭い美貌を持っており、その場にいるだけで威圧感が凄い。
彼女は俺の存在を認識すると、折り目正しい礼をする。
「突然の訪問すまない」
「あ、いや……誰?」
「私は織斑千冬と言う。よろしく頼む」
「よろしく……織斑、千冬?」
おりむらちふゆ。
ちふゆ。
千冬。
あれ、凄く嫌な予感がしてきたぞ。
脳内記憶の霧が晴れていく中、織斑は背中に隠れていた少女を前に突き出す。
不思議な格好をしていた。
服は清楚な感じで可愛らしいのだが、何故か頭にウサ耳を装着していた。
全体的に退廃的な雰囲気があるも、それ以上に見る者を魅了する絶世の美少女だ。
織斑千冬にも劣らず、二人が街中を歩けば誰もが振り向くだろう。
「ほら、お前も自己紹介しろ」
「わ、わかってるって。……えー、オッホン。相変わらず、汚物を量産しているのかな?」
「真面目にやらんか!」
「いたっ!? もー、相変わらずちーちゃんの愛は重いなぁ」
織斑に叩かれた少女は、嬉しそうに笑っていた。
どうやら、これが二人のコミュニケーションらしい。
そんな事より、俺は内心の震えを抑えるので精一杯だった。
み、見覚えがある。
今生で?
いや、違う。
前世……そう、今ではほとんど覚えていない前世だ。
織斑と少女の二人を、俺は知っている。
「はぁ……こいつの名は篠ノ之束。見ての通り、ただの変態だ」
「ちょ、流石にそれは束さんも傷つくなぁ。まあ、いいや。そう、私が天災な篠ノ之束さんです! 特別に、君には束さんと呼ぶ権利をあげようじゃないか!」
ぶいぶいとVサインをしてくる少女──篠ノ之。
対して、俺は目を大きく見開き、思わず問い返す。
「篠ノ之、束?」
「ノンノン。束さんは束さんだよ。親しみを込めて呼びたまえ」
しのののたばね。
たばね。
束。
………………篠ノ之束!?
「しのの、ののののの!?」
「ちょっと、のが多いかなぁ。大丈夫?」
「だいじょぶじゃないです」
「え?」
そうかー、ここってISの世界だったのかー。
どうりでこの世界にはISの原作がないわけだ。
という事は、俺がチャットしていたアリスは篠ノ之?
今後世界的にテロを起こす天才科学者と、舌戦を繰り広げていたのか?
あ、意識が……
「あれー?」
「おい、大丈夫か!?」
慌てた様子で駆け寄る二人を尻目に、俺は過去の自分を殴りながら意識を暗転させるのだった。
♦♦♦
よくわからないまま、俺は篠ノ之束と知己になっていた。
今後も、彼女に巻き込まれ、散々な目に合うのだが。
まあ、わかりきった事だろう。
ただの凡人に過ぎない俺を構う理由は知らないが、織斑がニヤニヤしていた事から、なにかしら理由があると思われる。
とりあえず、今の俺が考えているのは、篠ノ之の世界テロを止める事だ。
できるかわからないが、発端は俺にあるようだし。
責任は取らなければ。
今後の俺がどうなるか、現時点では知る由もない。
ただ、退屈しない事だけは確かだ。
こうして、ネットから始まった関係は、新たな関係となって紡がれるのであった。
「よーっし、まずは手始めに世界中の核を起動させちゃうよー!」
「やめてッ!? 本当に、シャレにならないからやめてくれ!」
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凡人なあいつと天才な私
この世界はつまらない。
私が少し頭を捻れば……いや、捻るまでもなく、ほとんどの理を導ける。
凡人共が簡単な問題に唸っている間に、私ならば幾つもの概念を掌握できるだろう。
私と奴らの間には、それほどの差があるのだ。
月とすっぽん、という諺がある。
自画自賛だと思われようが、それほど隔絶されているのである。
まあ、一部私の目にかなう
とはいえ、残りの有象無象からは、大した価値を感じられない。
凡人は凡人なりに足掻いているのなら、まだ私もここまで失望しなかった。
しかし、私が見た奴らは、どいつもこいつも他人の足を引っ張る事を厭わない。
自らを高める事を放棄して、楽な方に堕落していく腐りきった思考。
愕然とした。
同じ祖先から産まれたとは思えない……いや、思いたくない姿だった。
今考えるとあの瞬間から、私の中で凡人という存在を見限ったのだろう。
一部の人間以外は路傍の石と認識し、自分の中で全てが自己完結。
そうして過ごしてきたし、これからだって変わらない生き方だと思っていた。
しかし、ある凡人との出会いが、この私の凝り固まった思考を砕く事になるのだった──
♦♦♦
「ふんふふーん」
適当に口ずさみながら、複数のパソコンを同時に操作していく。
研究に一段落がついたので、こうして私は自分の部屋で暇つぶしをしているのだ。
豆腐のように柔らかいセキュリティーを潜り、凡人共の大事な情報を盗む。
面白い情報だったら見逃すが、つまらない物だったら世間にばら撒くつもりだ。
いや、違った。
私の気分次第で、どうするか決めるつもりだ。
「この前でアメリカの情報はほとんど見ちゃったしなぁ」
たまには、自分がいる国の情報でも見てみようか。
まあ、以前に調べ尽くしたし、あまり期待できそうにないけど。
暇を潰せるような物はないか、と気ままにネットワークを弄っていると、あるサイトに目が止まる。
どうやら小説投稿サイトのようで、素人達が駄作を投稿しているようだ。
「ふーん……」
興味が湧いた。
人間という生物は、趣味に全力を傾ける種族である。
私の研究も、広義的に見れば趣味と言えるだろう。
では、凡人共がしているこれは、私のような有意義な物なのだろうか。
しかし、サイトを覗いた私が目にしたのは、予想を下回る……いや、ある意味予想通りの惨状だった。
駄作を投稿しているだけなら、まだ良い。
凡人共の呆れたセンスのなさが浮き彫りになるだけだし、そこについて私がとやかく考える熱量は持たない。
しかし、一部の奴ら。
もちろん、全体数から考えれば極小数だが、こいつらは失望せざるを得ない事を行っていた。
「規約違反、ねぇ」
憐れな事に、凡人はルールで自らを雁字搦めに縛っている。
私のような存在からすれば、そんな物は意味をなさない。
しかし、奴らは欲を抑制させて規律ある世界にするため、法という概念を守らなければならないのだ。
まあ、私は従う気が全くないけど。
「はぁ……」
思わず漏れる、ため息。
所詮、凡人は凡人であった。
複数アカウントを作成して、気に入らない作品を荒らして足を引っ張っているその動き。
醜い──ああ、醜いのだ。
悪臭を覚えるほどの、醜悪さである。
凡人共がなにをしていようと、私からすればどうでもいい。
興味がない、と言ってもいいだろう。
しかし、このような悪辣な姿を見ると、どうしても苛立ちを抑えきれない。
「ま、暇つぶしにはいっかなー」
ちょちょいのちょい、とサイトの全情報を回収。
今適当に創作したソフトにそれを突っ込み、違反行動をしていた全てのアカウントをロックオン。
時間にして、三分ほど。
手を抜いていたとはいえ、思ったより時間がかかってしまった。
まあ、凡人が同じソフトを作ろうとするなら、年単位の時間が必要だろうが。
「ふっふっふー。やっぱり、束さんは天才だね」
笑みを浮かべた私は、目をつけたアカウントの作品を流し読む。
数秒ほどで概要を掴み、あまりの幼稚さに吐き気を催す。
「うへぇ……」
見るに堪えない。
小説分野では専門外な私ですら、こいつらの作品の酷さが一目瞭然だ。
展開はどの作品も似たり寄ったりだし、そもそも構成力がなっていない。
いや、これも当然か。
この駄作を量産している存在は、自らを高める事を放棄したのだから。
「あー、時間を無駄にしたぁ」
私の一秒と、こいつらの一秒は価値が違う。
それこそ、砂金とただの砂ほどの差がある。
何故、こんな無為な行為をしてしまったのか。
凡人共が生意気にも、私の目に止まるような行動をしていたからだ。
つまり、このやるせなさは、こいつらで憂さ晴らしするのが妥当だろう。
刹那でそう結論づけ、ぱぱっと駄作の駄作たる証左を書き込む。
メッセージとして送ると、暫くして何個かの作品が消去された。
どうやら、私の指摘があまりにも的確すぎたから、自分から身の程をわきまえたのだろう。
凡人以下のグズにしては、わかっている。
「おお?」
満足していた私のパソコンに、凡人からの返信が返ってきた。
しかし、書いてある内容が支離滅裂で、子供ですら納得できない幼稚さだ。
喚きに等しい文章を見て、私は失笑が浮かぶ。
「論外」
もはや、思考に留めておく価値すらない。
片手間に作品の粗を送信した後、私は部屋の時計を確認する。
思ったより、時間が経っていた。
得られた物はなかったが、まあ暇つぶし程度にはなったか。
サイトを閉じようとした私は、また違う作品に目がいく。
今度は真っ当に投稿しているようで、そこだけは凡人にしては褒められるか。
しかし、それ以上に、作品のタイトルに目が惹かれた。
題名から察すると、寂しがり屋な天才科学者が主人公らしい。
「……ま、せっかくだし束さんが見てあげようではないか」
クリックして作品に飛び、数分かけて作品を読んでいく。
……なんだ、これは。
内容のクオリティー自体は、さっきまで見ていた駄作と変わらない。
いや、整合性が取れていないのを見れば、こちらの方が酷いできだ。
これだけなら、鼻で笑って作品を閉じただろう。
しかし、この作品から感じる、言いようのない不快感。
嫌悪したと言っても良い。
眉をしかめた私は、自身の精神分析を試みる。
論理的に、理性的に、現状の感情のロジックを紐解いていく。
直ぐに結論は出た……出たが、これは冗談だろうか。
「この束さんが、同族嫌悪?」
ありえない。
何故、たかだか凡人ごときの駄作が、この私の心を惑わせる作品になっているのだ。
冷静に考えても、客観的に見ても、到底信じられる話ではない。
とはいえ、結果として私の中では、そのような結論に至っている。
「……ムカつく」
良くも悪くも、小説で感情を乱されたのは初めてだ。
まさか、私が凡人にやられるとは。
素直に許容できるわけがなく、自然と呟きには怒気が含まれてしまう。
やられっぱなしは、許さない。
こうなったら、こいつの心を完膚なきまで折ってやろう。
私に嫌悪させたのを心の底から後悔させながら、こいつ自身の手で削除させてやる。
自然と舌を打ちながら、先ほどのように批評を文字にしていく。
思ったより怒りを抱いていたのか、内容は五割ほど力が入っていた。
石を蹴飛ばすような労力から、ハエを手で払うぐらいの労力に上がっている。
まあ、いい。
メッセージは送信したので、後は勝手に折れて作品を消すだろう。
そうすれば、この苛立ちも収まるはずだ。
「くだらない思考は捨てて、建設的な事を考えよっと」
具体的には、ちーちゃんの事とか。
最近、ちーちゃんの愛が重くなってきているのだ。
もちろん、私は全て受け止めるつもりである。
しかし、やっぱりちーちゃんのデレを拝みたいのも事実。
そのためには、束さんの天才頭脳を光らせなければ。
「待っててね、ちーちゃん! 束さんが最高のシチュエーションでちーちゃんをうへへ……うん?」
明るい未来を思い描いていると、パソコンからメールの受信を伝えられた。
おかしい。
私のパソコンにメールを送る人なんかいないはずなのに。
クリックしてみれば、なにやら小説投稿サイトについてだった。
……なんだっけ?
ああ、そうだ。
汚物を披露している、酔狂な凡人が集うサイトだったか。
どうやら、汚物の製作者が私にメッセージを寄越してきたらしい。
「で、内容は……は?」
間抜けにも、声が漏れる。
私に対して送ってきたのは、あの汚物にも劣る物を作っている作者だ。
てっきり、私の素晴らしい指摘に感激して、感涙の返事をしてきたのかと思っていたのだが。
生意気にも、私に歯向かってきていた。
ただの凡人が、この私に?
こいつは、バカなのだろうか。
いや、バカではなく、愚かなのだろう。
一生で二度はない私の親切を、踏みにじっているのだから。
「ふぅん……」
あくまでもあの汚物を消すつもりはない、と。
凡人のくせに、反骨心だけは一丁前にあるらしい。
だけど、私には関係ない。
私が目障りだと思っているのだ。
凡人は凡人らしく、大人しく従っておけば良い。
口元を歪ませた私は、キーボードに手を添えてハッキングしようと試みる。
「消えろ」
自分でも驚くほどの、低い声が零れた。
それほど、あの作品に心を乱されているのだろう。
更に、怒りの炎が燃え盛る……いや、これではダメだ。
感情的になりすぎている。
そう判断したので、呼気を緩めて気持ちを切り替えていく。
直ぐに心は水面のように鎮まった。
「うーん」
改めて冷静になったが、やはりこいつの作品は鼻につく。
とりあえず、返答を送って心を折ってやろう。
もう一度私の指摘を目にすれば、流石に凡人も身の程を知るはずである。
「お前如きに天才は書けないよ」
呟きを漏らした私は、嘲笑の笑みを浮かべて文字を打ち込むのだった。
♦♦♦
あれから、一ヶ月ほど経った。
直ぐに尻尾を巻いて逃げるかと思われたが、この凡人はいまだに私に歯向かっている。
凡人なりに反論をしてきているが、私が論破すれば最後には負け犬の遠吠え。
しかし、翌日には再び喧嘩を売ってくるのだ。
舐めているのだろうか。
一日で交わしたやり取りは、最近は十を優に超える。
もちろん、私は馬鹿正直に取り合っていない。
暇な時……それも、本当に他にやる事がない時だけ、こいつの足掻きに付き合ってあげている。
しかし、この凡人は関係ないと言いたいのか、健気に文章を送ってくるのだ。
相変わらず、汚物を削除する気配はない。
「もー、なんなんだよ!」
調べた情報によると、こいつは正真正銘絵に描いたような凡人だった。
顔も頭脳も身体能力も、周囲の環境も平凡の一言に尽きる。
そこらに転がる小石と同じ、取るに足らない有象無象。
私とは住む世界が違う、矮小な存在。
そのはずなのに、現実では私に食らいつこうとしている。
決して心を折ろうとせず、私の言葉を経験値にしようとして、不屈の闘志を燃え上がらせているのだ。
なにがこいつを、ここまで掻き立てているのだろうか。
一度気になると好奇心は収まらず、自然とこの身の程知らずに興味が湧く。
「確かめてみようかな」
こいつがパソコンを起動したのは、ハッキングで確認済みだ。
ついでにソフトを一つダウンロードさせ、私も同じソフトを開く。
画面が切り替わり、チャットの画面が映る。
よし、問題ない。
五分ほどで創作したにしては、中々上出来な代物ではないだろうか。
流石、天才な束さんである。
自分に満足しながら、私はこの凡人をチャットに呼ぶ。
暫くすると、凡人から自称天才という不愉快な言葉が返ってきた。
「はぁ?」
言うことにおいて、この束さんを
自然と頬が引き攣り、眉間にシワが寄る。
今まで、私に膝を折ってきた凡人共は、例外なく私を天才と称した。
理解できない、レベルが違う、化け物だ、と。
もちろん、その言葉は当然だ。
凡人と私の見えている景色は、文字通り世界規模で異なっているのだから。
しかし、このチャット越しにいる凡人は違う。
私の才を絶対に認めず、自分と同じステージに引きずり下ろそうとしているのだ。
自称だから俺と同じ凡人なんだろう、と。
「……あはっ」
笑いが漏れ、唇が大きく裂ける。
こんな……こんな、私を見上げるのではなく、私と対等になろうなんて無謀な思考。
無知故に起こる、アリが象に挑もうとする狂的な考え。
なんて──なんて、面白い。
久方ぶりだ、私の前に挑戦者が現れたのは。
私が幼少だった頃には、数多の凡人共が私に挑んできていた。
時には論理的に、時には道徳的に、時には感情的に。
しかし、私の才能を目にすれば、全ての凡人は恐怖に戦いた。
そして、凡人らしく私を排除しようと、様々な手を打ってきた。
まあ、それも私が片手間に対処すれば、絶望した表情で挫折したのだけど。
「いいねいいね!」
抱いていた不快感が今も渦巻いているが、それ以上にこの身の程知らずが愉快で堪らない。
私を苛立たせた汚物を創っている、凡人。
今度こそ完膚なきまでにこいつの心を折れば、きっと酷く痛快な気持ちになるだろう。
歯向かう
「……」
チャットでハッキングしている事を教えながら、私は口元に描いていた孤を消した。
なにか、違和感を覚える。
本当に、私はこんな思いを抱いていたのだろうか。
小石如きの存在に心を乱される……そんなの、とうに昔の話だったはずだ。
私がまだ、人間という存在に失望していなかった時の話。
何故、今になって捨てた感情を再び?
思わず小首を傾げていると、凡人から返信が来た。
「やっと理解したのか」
私が優秀だと、察せたようだ。
これで、こいつは今までの凡人と同じように、身の程を弁えるだろう。
自分が愚かだったと私に許しを乞うて、それを鼻で笑いながら踏みにじる。
そう、いつも通り変わらないはずだ。
有象無象の無知に嘲笑し、無謀な姿に愉悦を沸かせるだけ。
なのに……
「私は、期待している?」
ありえない。
この束さんが、凡人の何に期待を持つというのだ。
理解不能な現状に眉をしかめていると、こいつは生意気にも私と勝負していた、などとのたまってきた。
「まだそんなアホな事を考えているんだ……はっ?」
往生際の悪さに憐れみすら抱いていた私だったが、次に現れたチャット文字に目が釘付けになってしまう。
──勝負の土俵を降りる……?
今まで以上に脳が回転し、眼前の言葉を視覚を通して咀嚼していく。
意味を認識した数瞬後、強く歯ぎしり。
同時に握り込んだマウスが、粉微塵に砕け散った。
「こ、この束さんが勝負を降りるだとッ!」
こいつは、この凡人はなにを言っている?
勝負というのは、凡人同士が自身のエゴを通すためにする愚かな行為だ。
また、同格でなければ戦いは釣り合わない。
私はお前らとは次元が違うのだ。
それこそ、二次元と三次元の如く、決して超えられない壁がある。
だが、チャット越しのこいつは、実際に私と……まさか。
「既成事実を作ったつもりか!」
私がどのような思考に至ろうが、打ち出された文字は消えない。
つまり、こいつが勝負という言葉を述べた時点で、私は強制的に同じ舞台に立たされたのだ。
凡人共が滑稽に踊る、どうしようもなく退屈なステージへと。
刹那でそこまで結論づけた私は、思わずキーボードに手を添えて指を滑らせる。
数瞬後にはこいつを含めた周囲の情報を把握し、あとはエンターキーを押せばいい。
そうすれば、先ほどの私の宣言通り、日本中に情報がばら撒かれるだろう。
しかし──
「ぐ、ぐぅ……」
──押せない。
あの言葉が凡人の虚勢だと理解しているし、私の方が圧倒的有利なのは自明の理だ。
仮に言う通りにしてしまえば、私自身が己を許せなくなるから。
たかが凡人如きにムキになっているなんて、と。
「あああもうムカつくうううぅぅぅ!」
両手を机に叩きつけた私は、捨て台詞を吐いてパソコンを閉じた。
その勢いで立ち上がり、椅子に敷いていたクッションを壁に投げつける。
細胞レベルで天才な私の力が加えられたからか、ドゴンと重低音が鳴って壁にめり込む。
「ふぅ……ふぅ……!」
肩で大きく呼吸しながら、ブラックアウトした画面を睨みつける。
認めない──認めるものか。
私が、ただの凡人に土をつけられたなどと。
敗北なんて文字は、私の脳内にはない。
天才は……私という存在は、全てにおいて勝っているのだ。
例え、私自身にとってはゴミのような競技でも、誰かの下につくのはありえてはならない。
どのような些細な物であろうと、だ。
「……違う。それでは、私も奴らと同じ所まで堕ちちゃう」
少し経って落ち着き、現状を省みる余裕ができた。
椅子に座り直して天井を仰ぎ、眉根を寄せてため息を一つ。
今の私がどう考えようと、今回のやり取りは私の負けである。
ひっじょーに不本意だが、そこは認めざるを得ない。
先ほどまでは敗北ではない、と思っていたが。
冷静になってしまった事で、現実から目を逸らせなくなったのだから。
眼前の事象を受け入れなければ、私が嫌悪する凡人と同じになってしまう。
「そういえば……」
最後に私が敗北を認めた時は、いつだろうか。
物心ついた頃には既に、私は必ず勝者側だった。
私の考えに誰もがついていけず、最後には
あるいは、負けを認めず喚き散らし、知性を窺わせない醜い姿を晒したか。
……ちーちゃんだけ、かな。
私をありのままで、受け止めてくれたのは。
その点で言えば、箒ちゃんも同じだろう。
いや、箒ちゃんは特別だ。
だから、今回のケースは非常に稀であり──
「あれ?」
ふと、気がつく。
という事は、私が凡人に言い負かされたのは……今が初めて?
ちーちゃんのような力もなく、箒ちゃんのように特別でもなく。
凡人が凡人のまま、私に挑戦して勝利をもぎ取ったのは。
無意識に口元に手を添え、この過程に間違えがないか確認。
結論──私は、
「……は、あは、あははははははっ!」
自然と内から笑みがこみ上げ、腹を抱えてうずくまる。
涙が滲むほど笑い転げてしまい、椅子から落ちて床に転倒。
理性が服が汚れると訴えるが、感情が抑制されない。
口を閉じようとしていても、唇の隙間から笑い声が漏れてしまう。
暫く思う存分ゲラゲラと鳴いた後、身体の向きを変えて仰向けになる。
天井を見上げながら、手のひらを伸ばして照明に翳す。
「束さんに勝っちゃうんだ。凡人なのに」
世間では天才と言われる、中途半端な
本当に才能の欠片も窺えない、ただの凡人がだ。
しかも、私の言葉を一ヶ月も耐えた上で。
我ながら、結構キツい事を言っている自覚はあった。
心を折るためだったので、当然だが。
「それを、あいつは乗り越えた」
問題の矮小さや、過程等はさして重要ではない。
留意すべき点なのは、一つ。
私に対して、諦めずに挑んでいたという事。
そして、その努力が実ったという事。
「いいじゃん」
決して挫折せず、堕落しようともせず。
ただひたむきに挑戦するその姿──これこそが、私が期待していた人間の在り方。
夢を見て、夢を追い、夢を実現せんと欲す。
欲望に浅ましく、それ以上にその生き方の輝き。
「……」
そんな私好みの姿を見せられたら、気にならないわけないではないか。
気分はさながら、草食動物の生態観察という感じだ。
「ま、束さんを負かしたのは許さないけどねー」
それはそれ、である。
飛び起きて身体を伸ばし、笑みを一つ。
先ほどまでの怒りは消え失せ、代わりに抑えきれない好奇心が沸き立つ。
私の仕返しを受けて、あいつはどんな対応をするのだろう。
また、言い合いを仕掛けてくるのだろうか。
それでもいい。
喜んで私が潰してあげよう。
そうすれば不倶戴天の意志で、あいつは挑んできてくれるのだから。
自然と頬を緩ませた私は、パソコンに向かうのだった。
♦♦♦
「──でねでね。あいつったら、携帯を叩き割ろうとしてたんだよ!」
「……なんというか、そいつが不憫だな」
「えー、どこが?」
「主に、お前に目をつけられたところが」
「ひどーい!」
私の前でそんな悲しい事を告げるのは、私の大親友であるちーちゃんだ。
今日はちーちゃんと二人で、そう二人で!
二人で仲良く、お話しているところなのである。
美味しい料理も食べ終わり、こうして近状を話し合っている。
「それで?」
「んー、なにが?」
「いや、お前の悪戯はそんな生易しい物ではないからな。結局、そいつの個人情報をばらしたのか? だとしたら、私は然るべきツッコミをせざるを得ないのだが」
「ちょちょちょっと待つんだちーちゃん! その愛の拳を下ろしたまえ!」
「愛など微塵も込められていないがな」
そう告げつつも、ちーちゃんは嘆息して拳を下げてくれた。
危ない、危ない。
このまま私の頭が、ちーちゃんの愛で埋められてしまうところだった。
ふぃーっと額の汗を拭う仕草をした私を見て、ちーちゃんは呆れた表情を浮かべる。
「相変わらず、食えないやつだ」
「え、ちーちゃんは束さんを食べたかったの? もー、しょうがないにゃあ。ちょっとだけだよ?」
「やめんか! それに、頬も赤らめるな!」
ちーちゃんに求められたのなら、ばっちこ……仕方ない。
服を脱ごうとしたのだが、ちーちゃんに止められてしまった。
残念、あと少しだったのに。
口を尖らせた私は、改めて話の軌道修正を図る。
「えーっと、それでなんだっけ? ちーちゃんと束さんの家族計画の話だっけ?」
「違う」
「束さんは女の子が欲しいなぁ。あ、でもちーちゃんが男の子の方が欲しいって言うなら──」
「そうか。そんなに、私の愛が欲しいのか。欲しければ、思う存分くれてやってもいいんだぞ?」
「──束さんが最近観察してる凡人についてだったね!」
もちろん、覚えている。
ちーちゃんとの会話は、一言一句私の脳内メモリに記録しているのだから。
少し悪ふざけが過ぎた。
久しぶりにちーちゃんと二人っきりだから、いつもよりテンションが高いのだ。
だから、ちょっとばかしの気の緩みは許してほしい。
「はぁ……まあ、いい。で、他にはなにをやらかしたんだ?」
「んーっと、あいつの性癖を女子の携帯に送ったぐらい?」
「お、お前……」
「ああ、安心して。エロ本とかじゃなくて、ちょっとエッチな少年誌レベルに妥協してあげたから!」
束さんは凡人の事も考えてあげる、優しい天才科学者なのである。
胸を張ってそう告げると、頬を引き攣らせていたちーちゃんが口を開く。
「その、お前がそんな事をした理由とかあるのか?」
「えっ?」
その問いかけに、私は首を傾けた。
どうだろうか。
私があいつに言い負かされた、次の日。
ちょっとしたジョークのつもりで、あいつの小説を高校の生徒達に送信したのだが。
つい魔が差し……手が滑って、一緒に没ネタも添付してしまった。
まあ、その事はどうでもいい。
それで、凡人共の反応を覗いていると、意外と男女含めて満更でもなかったのだ。
あー、そんな趣味を持っているのか、といった具合に。
たしか、あの時だったか。
私の胸に、モヤモヤした感情が出現したのは。
自己分析をしようとしたのだが、その前に女子の方に追加でメールを送信していた。
今考えると、あれは無意識での行動だったのだろう。
「どうした?」
「あ、ううん。うーん、なんでか自分でもわかんないや」
「ほぉ、お前が理解できないのか。珍しいな」
「そうだねー。こんな事は初めて、かな?」
私に解けない式はない。
例え、凡人共にとっては不定形な、感情の揺らぎであろうと。
今までがそうだったので、現状は愉快な気持ちではない。
しかし、一科学者として、新たな課題に取り組むのは好きだ。
好奇心が刺激され、そういう意味ではあいつに感謝しても良いだろう。
そんな思考を巡らせている私を見て、不意にちーちゃんはニヤリとほくそ笑む。
「なるほど。さては束、お前惚れたな?」
「……惚れた?」
「ああ。お前が起こした行動は、いわゆる嫉妬という感情からに違いない。恐らく、好意的な女子を見て妬いたのだろう」
「嫉妬?」
ちーちゃんがボケちゃった。
私が目を離した間に、一体ちーちゃんの身になにが起きてしまったのだ。
付近には私達以外誰もいないのに……まさか、若年症の病気?
大変だ、急いで私が診察してあげなければ。
数瞬で結論を出した私は、ちーちゃんに駆け寄って額に手を添える。
「……なんの真似だ?」
「熱はなさそうだね。という事は、脳になにかしら問題があるのかな」
「おい、私は正常だからな」
「そんなはずないって! ちーちゃんが脈略のない事を話したんだよ! これはきっと、ちーちゃんの身に大変な事が起きたに違いない。だから、このまま束さんの部屋に行こう」
そしてあわよくば……違った。
ちーちゃんの親友として、大切な人を助けるため、私は心を鬼にして私情を挟まない。
だから、安心して身をゆだねて欲しい。
重々しく頷いていると、ちーちゃんはため息をついて椅子を顎でしゃくった。
「私はなんともないから、席に戻ってくれ」
「いやいや、そんな痩せ我慢しなくても──」
「座れ」
「──らじゃー!」
風を纏い、一瞬で元いた位置に戻った私。
敬礼のポーズで姿勢を正し、ちーちゃんの言葉を座して待つ。
恐ろしい威圧だった。
私でなければ、失禁していただろう。
これが泣く子も漏らすちーちゃんの凄まじさ……そんなちーちゃんも素敵!
「はぁ。お前との話は進まん」
「はっはっは。ちーちゃんに褒められちゃったぜ!」
「褒めてないわ! まったく……で、話を戻すぞ」
「へい、なんでござんしょう」
「……お前が嫉妬している、という内容についてだ」
私の口調は、無視する方針にしたらしい。
残念だが、いい加減ちーちゃんの堪忍袋の緒が切れてしまうので、そろそろ真面目に取り合おう。
とはいえ……
「あのねぇ、ちーちゃん。天才の束さんが凡人に嫉妬? ないない、一ミクロンの入る余地もないほどありえない事だよ。ちーちゃんに家事スキルが備わるぐらい、絶対に存在しない仮定だからね?」
ちっちっちと指を振り、これみよがしに肩を竦めた。
そして、呆れた表情を浮かべた私を見て、何故かちーちゃんがこめかみをひくつかせる。
「お前には後で問いただしたい事が増えたが、まあそれはいい。とりあえずは、だ。いい加減認めろ。お前自身も、私の言葉を理解しているだろう?」
「へいへい、ちーちゃん。君はなにを言っているんだい? 束さんにはちーちゃんの言葉がさっぱり理解できないぜ!」
「……気づいていないようだから、教えてやろう。お前が凡人と称する人の事を話している時──楽しそうに笑っていたぞ」
その言葉に、私は笑みを固めた。
ちーちゃんの告げている内容は、恐らく盤面通りの話ではない。
長年親友としての自負がある私だからこそ、直ぐに察してしまう。
ちーちゃんの込められた視線の意味に、そして今の彼女がなにを思っているのかも。
「……あいつは、ただの実験対象者だよ。それ以上でも、それ以下でもない」
「違うな。束、お前が抱いている気持ちはそうじゃない。お前の行動を聞いていれば、誰でもわかる事だ。まあ、恋愛面ではないだろう。さっきのは、私なりの冗談だからな」
あれ、ジョークだったんだ。
普段そういう事を言わないから、まったくわからなかった。
「じゃあ、なんだって言うのさ」
自然と不貞腐れて呟くと、ちーちゃんは肩を竦めて口を開く。
「さあ? そこまでは私にもわからん」
「ガクッ。なんてこった、ちーちゃんが話し合いを放棄した! 束さんは断固告訴する思いだよ!」
「ただ、まぁ……お前の視野が広がった事は、私にとって好ましいがな」
そう告げたちーちゃんは、微笑んだ。
恐らく初めて見たであろう、彼女の歳相応な可憐な笑顔。
柔らかさを感じるその表情を目にし、思わず私は心を奪われていた。
普段のおふざけ半分の思いではなく、心の底から織斑千冬という存在に、魅入っていた。
「……」
「ん? どうした?」
「……ちーちゃん、結婚しよう」
「はっ?」
前のめりになった私は、唖然とするちーちゃんの手を握った。
頬を熱くさせながら、この愛しい親友を射止めんと言葉を滑らせる。
「世の凡人共は法律だのなんだのうるさいけど問題ないよ束さんの手にかかれば同性婚なんて三十分で認めさせるしというかそもそも凡人如きのルールに縛られる必要はないよねだからちーちゃん結婚しよう今すぐしようそうしよう!」
「落ち着けッ!」
「あふんっ」
ちーちゃんからの愛のデコピンを食らい、私は強制的に椅子に戻された。
痛みを伴うが、これもちーちゃんなりの愛情表現だ。
そう思えば、どことなく額からじんわりと優しさが染み渡るような。
おでこを撫でてニヤニヤしている私に、疲れた表情のちーちゃんが声を掛ける。
「お前と話すのが面倒になったから、端的に言うぞ? お前がどう考えているのか知らないが、少なくともそいつに関しては目をかけているんだろう?」
「まあ、そうなるのかな」
「普段から人をまともに認識しないお前が、だぞ? これの意味がわかるか?」
「それは……」
言葉に詰まる私を見て、目の前の彼女は愉快げに笑う。
「気にもとめなかった小石を、お前は認識した。それは何故だ?」
「だから、それはあいつが私に挑戦してきて、それで……その、私を言い負かしたから」
「ああ、そうだ。
「…………そう、だね。ちーちゃんの言う通りかも」
一度は捨てた物を、目の前で見せつけられたからか。
私には彼の輝きが眩しく思えて、いつの間にか目が離せなくなっていたようだ。
地を這う人間が、空を飛ぶのを夢見て飛行機を発明したように。
ただただひたむきに前を向くその姿に、些か実験対象以上の気持ちを抱いているのは否めない。
「お前がそいつの小説をばらまいたのは、学校中に教えたかったからか? こいつはこんなに頑張ったんだ。凄いだろう、って」
「じゃあ、ついでに性癖を送信したのは?」
「それは……いや、これは私が言うべきではない」
「え、なにそれ?」
「お前自身がその答えを見つけなきゃいけないからな。少なくとも、今は言っても理解できないだろうし……今はまだ、な」
くくっと喉を震わせたちーちゃん。
口角が緩やかに吊り上がっており、私を見つめる視線は楽しそうだ。
対して、私は思索にふける。
客観的に見れば、たかが素人の小説だろう。
平凡で、なんの面白味もなく、私達の会話は大袈裟でしかない。
でも、違うのだ。
他の有象無象にとっては些事であろうと、私の中ではあいつの軌跡は大きな意味を持つ。
それこそ、もう一度人間という存在に、期待を抱いてしまいかねないほどに。
「……ねぇ、ちーちゃん」
「なんだ?」
「他にも、いるかな?」
問うと、彼女は目を見開いた。
だが数瞬で元に戻り、柔らかい笑みを浮かべて頷く。
「ああ。この世界は広い。だから、そいつのような人間もいるはずだ」
「そっか……」
だったら、もう一度だけ。
凡人達に夢を見てもいいかな──青空のように広がる、無限の可能性を。
自然と微笑んでいた私は、胸中を過ぎる思いに馳せるのだった。
♦♦♦
ちーちゃんとお話してから、数ヶ月ほど経過したのだが。
私の気持ちが変化したからか、あいつとのチャットが楽しく思えてきた。
相変わらず内容は不愉快な部分が多いが、あいつ自身の頑張りを考えれば、まあ少しは認めてやらんでもないといった心境だ。
それに、最近現れた属性羅列でしかなかった主人公の妹。
あの腹立たしいクソさに怒り、ひたすら妹とはなにかを教授したおかげで、あいつの小説に出てくる妹に関して
汚名返上……いや、そもそも妥当な評価であったか。
ともかく、あの日が私達にとって、転換期となったのは間違いない。
そして、現在──
「……」
パソコンの前で、私はある通知を待っていた。
恐らく初めてであろう緊張をしながら、じっとメールが受信されるのを待つ。
凡人達に送った、私の夢をどう思ったかの返答を。
「ぐぬぅ。まさか、束さんが凡人に心を乱される日が来るとは」
想定外であるが、どこかで予想はしていたのだろう。
あの凡人……いや、挑戦者とメッセージのやり取りをしていた時から。
ペットボトルの水を一息に飲み干し、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へポイ。
綺麗に入ったので、満足。
ふと手のひらを見てみると、珍しく手汗をかいていた。
理由はわかっている。
私が……天才の束さんが、凡人の言葉一つを首を長くして待機しているからだ。
「どうして、こうなっちゃったんだろうねぇ」
零れた呟きには、自嘲の意が含まれていた。
小石と同等の価値観しか持たなかったはずなのに、今ではこんなに変わってしまった。
そこ等の人と同じように、些細な事で一喜一憂する滑稽な姿。
これも、あいつが私に希望を見せてきたからに違いない。
でなければ、この束さんが、心変わりするわけないのだから。
……この後、あいつにチャットする時に、驚かせてやろう。
私は世界を震撼させる天才で、そんな私に作品の批評されていた事を誇れ、と。
まあ、あいつの性格なら、変わらずに歯向かってくるだろうが。
「楽しみだなぁ……お、きたきた!」
メールが受信され、私は沸き立つ気持ちを抑えつけた。
今回提出した論文は、我ながら自信作だ。
凡人にもわかるよう配慮しているし、なによりこれを読んで夢想しない人間はいない。
私の夢を乗せたそれは──
「えっ……?」
愕然としてしまう。
メールに書かれた文字が、正常に認識できない。
しかし、今は恨めしくすらある私の冴え渡る頭脳が、婉曲的な返事の意味を察してしまう──私の夢が、凡人に踏みにじられたという結果を。
「な、なんで!?」
わからない。
何故、どうして。
論文は完璧だったはずだ。
これ以上ないほどに、私の夢を克明に示していた。
無限を冠する可能性を、凡人でも理解してくれると信じていたのに。
だが、実際にはどうだ。
理解不能、机上の論理、空想の話……違う。
凡人共はこの理論をある程度理解した上で、私にこう告げたのだ──やっぱり、お前は
「なにが……天才だよ……!」
たかが中学生の小娘の才能を、素直に認められないのか。
ネットに拡散して私の夢を笑い物にして、嘲笑の記号として“天才”と称する。
しかし、自分が取り入れられる部分だけは、ちゃっかり物にしていた。
私が調べた数分でも、それぐらいの事は把握できている。
掲示板でも、取り上げられていた。
天才の考えている事はわからない、所詮俺らは凡人だから意味不明、そもそもこんな事考えているのが痛い云々……。
語尾に笑いの文字がはっきりと察せるほど、こいつらは私を嘲っていた。
恐らく、私の才能に嫉妬した科学者の一人が、タレコミして自演で荒らしているのだろう。
いや、それすらも私の妄想かもしれない。
だけど、一つだけ確かな真理がある──それはやはり、凡人はどうしようもなく愚かで、そして世界が腐りきっているという事。
「は、ははっ……クソが!」
パソコンを叩き割り、その勢いで机も拳で粉砕。
口からは汚い言葉が漏れるが、そんな事を気にする余裕すらない。
私の内に渦巻くのは、ドス黒く燃え盛る焔だった。
「クソがクソがクソがあああッ!」
一度期待を持ってしまっていただけに、負の感情は倍増している。
落胆、失望、激怒、虚無感……表す言葉は無数にあるが。
そのどれもを抱いており、またそれ等を混ぜ合わせて凝縮していた。
手当り次第に当たり散らし、瞬く間に室内が削れていく。
壁には亀裂が走り、家具等は中身も含めてバラバラだ。
「凡人のくせに、腐っているくせに!」
憎い。
許せない。
滅ぼしたい。
完膚なきまでに、私をコケにした奴らを破壊してやりたい。
いや、そうだよ。
なにを躊躇っている必要があるのだ。
奴らの事を慮る理由など、私にはこれっぽっちもないではないか。
私の夢を馬鹿にした世界なんて──ぜんぶこわせばいい。
「アハッ」
手始めは、この日本だ。
凡人如きでは足掻く事すら許されない絶対的な差を見せつけた上で、私の力を見せつけて踏み潰してやる。
お前ら如きが名付ける天才という称号を捨てて、代わりに私だけが許される“てんさい”に……
「束っ!」
高速で今後の計画を練っていると、扉が乱暴に開かれた。
続いてちーちゃんが焦った表情で踏み入れ、何故か私を見て言葉をなくす。
対して、私は満面の笑みを浮かべ、両手を広げる。
「ちーちゃん! ちょうど良いところに来てくれた!」
「束……なにがあった?」
「んん? ちーちゃんは変な事を聞くんだねぇ。束さんはいつも絶好調さ! 今も、とっても素敵で最高な計画を思いついたところなんだよ! ちーちゃんも、もちろん協力してくれるよね?」
こてりと小首を傾げた私の元に、ゆっくりと近寄るちーちゃん。
眼前で立ち止まると、沈痛な面持ちで問いかける。
「どうして──泣いているんだ?」
「……えっ?」
ちーちゃんが手を伸ばし、私の頬を優しく拭う。
確かに、そこには涙の跡があった。
私も頬に手を添えると、濡れた感触が返ってくる。
泣いている……この束さんが?
予想だにしない事に呆然とする私に、ちーちゃんは顔を寄せて口を開く。
間近に見える綺麗な瞳には、マヌケな顔の私が映っていた。
「長年お前と一緒にいるから、大まかな事は察せられる。論文の発表、失敗したんだな?」
「失敗なんてしてない! 奴らは、凡人共はっ!」
「もういい。無理に喋るな」
「あっ……」
ちーちゃんに抱き締められた私は、思わず背中に手を回していた。
ぎゅっと強く抱き寄せ、胸に顔を埋めて俯く。
たどたどしく撫でてくるちーちゃんの手が、今は心地良い。
「昔のお前も知っているからわかる。本当は、皆に認められたかったんだろう? ありのままのお前を」
「…………うん」
ちーちゃんの前だからか、本心は素直に零れた。
下唇を噛み、目を瞑って大好きな親友に身をゆだねる。
「天才としてのお前ではなく、ただの篠ノ之束として。お前の夢を皆と一緒に実現したかったんだよな?」
「……うん」
その言葉に包容力は少なく、だけどそれ以上に側で見守るような暖かみがある。
慣れていないとわかるぎこちない手つきに、端的で明快な言葉選び。
「お前が気に入っている人を見たから、他の人達にも期待したんだろう。互いに高め合えるような、刺激的で楽しい日々を」
「うん……」
「だが、駄目だったんだろ?」
無言で頷くと、ちーちゃんはどこか嬉しげに言葉を繋ぐ。
まるで、自分の子供が大切な事を学んだかのように。
「束。今のお前は──悔しいんだ」
「くや、しい?」
「ああ。自分の思い通り……いや、信じていた人に裏切られた気持ちになって、色々と心がぐちゃぐちゃになっている。その中でも一番は、悔しいという気持ちのはずだ」
すとん、と腑に落ちた。
悔しい……ああ、そうか。
私は、凡人共に認められなくて悔しかったんだ。
最初は無理だと諦めていて、あいつに人の輝きを見せつけられて、もう一度だけ希望を手にして、でもやっぱり凡人はどうしようもなく腐ってて……
「ちーちゃん」
「今は泣け、思う存分な。私の胸ぐらい、貸してやるから」
見上げた私に微笑む、ちーちゃん。
普段漂う鋭い雰囲気は微塵もなく、どこか優しい顔でこちらを見つめている。
まるで、箒ちゃんと一緒にいる時の、私のような面立ちだ。
そんな姉らしいちーちゃんを目にしたら、私を慰めようと理解できる親友の姿を見てしまったら──
「う、うぅぅぅ……!」
より強くしがみつき、私は声を押し殺して泣く。
背中を一定のリズムで叩いてくるちーちゃんに感謝しながら、胸中で燃える炎を消火せんと、ただただ瞳から雫を垂らしていく。
この日──私は、人生で初めて悔し涙を流した。
♦♦♦
抜けるような蒼天の中、私達は仲良く住宅街を歩む。
側には大好きな親友がいて、自然と私は頬を緩ませてしまう。
くるくると回り、その勢いで駆け出す。
「こっちだよ、ちーちゃん!」
「おい、ふらふらしながら歩くな」
「ふっふっふ。捕まえてごらんなさーい。束さんを捕まえれば、なんと束さんと一緒に暮らす事ができます!」
「いらん」
にべもない。
即答で切り捨てられ、思わず私は頬を膨らませる。
なんだい、ちーちゃんのケチ。
もう少し付き合ってくれても……あ、なるほど。
ちーちゃんの言葉の裏を察せた私は、ニヤニヤと後ろ手で指を組む。
そして、ちーちゃんの顔を下から覗く。
「いっくんと、二人っきりで暮らしたいからでしょ?」
ぴくり、と。
私だけにわかる動きで、ちーちゃんの頬が微かに震えた。
しかし、直後には鋭い眼差しになり、私の顔を睥睨。
ちーちゃんの背中に、牙を剥く狼さんを幻視してしまう。
まあ、どう見ても彼女の照れ隠しなので、私からすれば可愛い子犬なのだが。
「……違う」
「またまた〜、束さんはちゃーんとわかってるんだからね。むふふ……それにしても、ブラコンなちーちゃんも可愛いなぁ」
「ちっ!」
「きゃー! ちーちゃんに食べられちゃうー!」
舌を打ったちーちゃんは、私に殴りかかってきた。
ただ、一応威力に配慮している様子から、やっぱりちーちゃんは優しいという事が窺える。
そう考えながら、私は身を翻して側にあった塀の上に飛び乗った。
両手でバランスを取り、軽やかにステップ。
「ほらほら、ちーちゃん! 早く行くよー!」
「わかったから、そこから降りろ! 近所の人に迷惑だ」
「えー、なんで束さんが凡人共に遠慮しなきゃいけないの?」
「それに、その服も汚れるぞ」
「うっ……」
その言葉を聞き、私は固まって視線を落とす。
すると、いつもの服装ではなく、ちーちゃんに選んで貰った服が目に入る。
つい先日、一緒に買い物へと行った時に購入した物だ。
振り返れば、ちーちゃんは呆れた表情を向けていた。
「私に付き合わせているんだから、それぐらいの配慮はしろ」
「わかったよぉ」
ぴょんっと飛び降りた私は、服のシワを整えて天を仰ぐ。
満点の青空を飛行機雲が横切り、キャンパスに新たな色を描き込む。
対して、私の心の中は曇り空だった。
いや、正確には違う。
私の弱気な心が、晴れ渡る空を曇らせているのだ。
あの日、私が涙を流してから。
暫くは憤怒が収まらなかったが、最近気分転換にチャットをした時、凡人からの返事を見て、ふと閃いたのだ。
──ロボットを作って見せつけるとか?
なるほど、と思った。
あの凡人共は、内容に理解を示していたとはいえ、机上の空論だとも考えているのだろう。
私が提出した理論を、あいつらでは実現できないから。
そして、容易く実現できるであろう私を疎み、様々な方面から潰そうと画策する。
ならば、逆にこう考えればいい──実物を世間に見せつけ、世界中に凡人と私の差を披露させる。
すると、どうなるか。
技術革命が起き、誰もが私の理論を認めざるを得なくなり、そして否が応にもその先に目が向く。
無限を抱いた私の夢──宇宙へと。
そうすれば、今の世を牛耳る汚物がなにかしら手を打つだろう。
しかし、それを私が踏み潰し、この世界に必要ない物を駆除する。
そして、可能性の芽を育てた後で、私は天災になるのだ。
今ある
あとは行動に移すだけ、なのだが……
「はぁ……」
私の心境が顔に出ていたのか、嘆息したちーちゃんの声が耳朶を打った。
こほんと仕切り直すように咳払いを落とし、彼女は顔を下げた私に声を掛ける。
「束。お前がここ一ヶ月ほど、精力的に動いていたのは知ってる。世界に証明するんだろう? お前の生き様を」
「うん、そうだよ」
「それで、お前の考えを変えた原点である人に、今から会いにいく」
「ピンポンピンポーン! だーいせーいかーい! でも、よくわかったね。束さんは、ちーちゃんと行きたい場所があるとしか言ってないのに」
頬に指を添えて首を傾けると、ちーちゃんはニヤリとした笑みを浮かべた。
腕を組んで私の元に近寄り、くくっと喉を震わせる。
「お前が行く場所など、そこしかないだろうからな。それに、一夏がいるから遠出できないと私が断った時、お前がなにをしたか見たからな」
「……あー、あれはあれだよ。仕方がなかったというか、苦渋の決断だったというか」
「あの時は驚いた──お前が、親に頼み事をするとは」
ちーちゃんの言う通り、私はまだ小さいいっくんのお守りを両親に告げた。
他に適当な人材がいなかったし、なによりちーちゃんが納得できる人は……あいつらしかいなかったから。
つい高圧的になった私を見て、酷く驚愕した表情を浮かべた後、優しい笑顔で了承してくれたあいつらが記憶に新しい。
……ムカつく。
特に、女の方が涙を湛えていたのが。
「別に、凡人には凡人なりの使い道があるだけだし」
「そうだとしても、お前が自分から話しかけたのを見るとな」
「もうあいつらの事はいいでしょ! それより、ついたよ」
「ん、ここか」
足を止めた私達は、平凡な一軒家の前にいた。
いかにも凡人らしい、取るに足らない建築物だ。
ここに、あいつがいる。
ただの凡人でありながら、私の心を揺り動かした人間が。
もう一度天を仰ぎ、ため息を一つ。
自己分析は既に済ませているので、今の私の感情が手に取るように理解してしまう。
端的に表すと、怖いのだ。
あいつも、他の凡人と同じように私を拒絶するのではないか、と。
以前それとなく探りを入れた時は、私の論文は目にしていなかったようだが。
【──今の俺は、世の中の情報なんて興味ない。ただ、お前を唸らせる小説を考えるので忙しいからな】
不覚にも、少しほっとしていた私がいた。
脇道に逸れず、前向きに私を越えようと挑むあいつに。
しかし、今日を以てその関係も終わる。
あいつも凡人と同じように、私の夢を笑うのだろうか。
論文を読んで、嘲笑うのだろうか。
もし、あいつが私を失望させる反応をしたのなら、その時は──
「束?」
「へ、なに?」
「いや、押さないのか?」
「んー、ちょっとね」
「……面倒だな。私が押す」
「あ、ちょ」
私を押しのけたちーちゃんが、インターフォンを鳴らした。
まだ、心の準備ができていないのだが。
慌ててちーちゃんの背中に隠れ、無意識に髪を撫でつける。
頭では、私のトレードマークが揺れていた。
私の聴覚が、玄関に近づく足音を捉える。
何故か逡巡するように立ち止まり、やがてやけくそになった様子で、ドアを勢いよく開く。
「ふぅ……」
挨拶を始めた二人の声をよそに、私は目を瞑って胸に手を添えた。
なにを緊張する必要があるのだ。
あいつは凡人で、私は天才。
いつも通り、自由に自分を振る舞えばいい。
それが私が束さんである所以であり、また天才である証左でもある。
「ほら、お前も自己紹介しろ」
ちーちゃんに押された私は、何故か目をぐるぐる回している男の前に立つ。
事前に調べたのと同じ、なんの変哲もない顔。
雰囲気も凡人の域を出ず、そのマヌケ面が失笑を誘う。
でも、私は確信していた。
このただの凡人が、今後の私達の運命を変えるという事を。
それこそ、私が夢想した無限の可能性の如く。
──さあ、君は私になにを魅せてくれる?
この天才に目をつけられた代償は重いよ。
内心で心を弾ませた私は、常に浮かべる軽薄な笑みを形作るのだった。
♦♦♦
この世界は、退屈だ。
私の手のひら一つで、ほとんどの凡人を操れる。
平凡で、取るに足りず、嫌悪すらする存在価値のない汚物。
今までは、そう思っていた。
でも、その考えは少し変わったかもしれない。
世の中には、私が想像できないほど身の程知らずで、くだらない事に情熱を注いで、しかし私が手を添えなければ結果が芽生えず──そして、見ていて眩しい凡人達がいる。
どんなに才能がなくとも己を高める事を厭わない、心の強い人達が。
そんな凡人を天から眺められれば、きっと凄く楽しいだろう。
天才……いや、天災となった私が、その輝きを特等席で観戦するのだ。
自由に、何物にも囚われず、やりたいようにする。
だから、お前も好きなようにして、私を楽しませろ。
……恨むなら、私を言い負かした過去の己を呪え。
まあ──私と出会った事は、絶対に後悔させないから。
こうして、汚物の閲覧から始まった関係は、新たな関係となって紡がれるのだった。
「とりあえず、一緒に盛大な花火を咲かせよう!」
「おま、日本にミサイルとかバカなのか!? いやバカなんだろ!」
「束……覚悟はできているんだろうな?」
「……あれ? やっぱり、世界中の核を起動させた方がいいかな?」
『いいわけないだろっ!』
これにて本編完結。
蛇足編として、そのうち千冬さん視点を投稿する予定です。
活動報告も投稿する予定ですので、一読していただけると幸いです。
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