もしも、下宿初日に佐倉双葉と出会ったら (菓子子)
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第一章『From "Unknown" to "Known"』
4/9 『U.F.O』


設定は出来る限り原作に準拠しています。
が、原作には色々と明かされていない設定がありますので、それらを解釈している場面が多少あります。
ネタバレ防止のため、第三章まで読み切られていない方は、感想欄をご覧にならないことをオススメ致します。
一部、原作の台詞をお借りしていたり、参考にさせていただいています。
『それでもいいよ!』という方は、どうぞお付き合いくださいませ。


 屋根裏部屋を半日中掃除していると、流石に小腹がすいてきた。

「言っておくが、あんまり部屋は期待すんじゃねえぞ」という佐倉惣治郎さんから言われた忠告の通り、趣を感じる木造の廊下一面に埃という埃がかぶさっている。

その上にもさらに埃が落ちている有様だから、掃いても掃いてもエンドレスで湧き出てくるような気がした。俺はその立ち込めるような粉をなんとか掃除した後、一息つく。

もうこのまま、寝てしまおうか……。

 ベッドをちらと横目で窺う。

 ううむ、やっぱりこちらも覆われている……流石に埃まみれで目を覚ますのは嫌なので、もう少し頑張らないといけないようだ。

では……アレを出すとしようか。

 眠気で落ちてしまいそうな目を擦りながら、もう片方の手でローソンのビニール袋をまさぐる。

ガラガラと特徴的な音を鳴らすそれを手に取って、階段へと向かった。

ギッ、ギッ、ギッ……と足を出す度に鳴る階段の音にちょっとだけ寒気を覚えながら、微妙に冷えた木の感触を足で味わう。

 電気を点けて、それでもなお薄暗いキッチンへ入る。ええと、ポットは……あ、あった。

 蓋をベリベリと剥がし、ポットに水を並々と注ぐ。タイマーをセットして前髪をいじりながら物思いに耽っていると、ここ最近の記憶がじわじわと蘇ってきた。

 犯罪、転校、下宿。一番初めの二字熟語がなければ、無限の未来に胸を躍らす晴れやかな展開かもしれないけれど、それが付いている俺にとっては中々に胸が痛い展開だ。俺の保護者兼観察者である惣治郎さんも冷たい印象だったし、これからの高校生活を考えると気が滅入ってしまう。あー…………。

 あれ、そうと言えば惣治郎さんはどこに行ったんだろう。「ちょっくらスーパー寄ってくる。勝手に外に出んじゃねぇよ」と言ってたけれど……近くにスーパー、あったよな?

そんなに時間が掛かっているという事は、何かとてつもない量を買い込んでいるのだろうか。ルブランを経営しているようだから、仕込み用かな?

 とつらつら益体のない事を考えていると、いきなり鳴った携帯の着信音にビビる。ただでさえ薄暗いんだから、やめて欲しいんだけど……惣治郎さんが忘れていったのだろうか。とりあえずそれが鳴りやむのを待つ。

 ……中々切れないな。

 首を限界まで伸ばして、画面に表示されている送信先を見る。ええと……『佐倉双葉』?

 佐倉?

 惣治郎さんのご家族か何かだろうか。しかし、惣治郎さんからはあまりそういった雰囲気には見えないし、そう言った話も聞いていないんだけれど。うーん……あ、ポット沸いてる。

 水を内側の線まで注ぐ。本当はそこまでキッチリとする必要はないとは思うけれど、何故かしてしまう。

 タイマーを三分にセット。その間に用でも足しておこうか……。

 椅子に座り込んで、スマホの画面を右へ左へとスクロールさせる遊びに興じていると、奥の方からカランカランと扉が開く音が聞こえてきた。どうやら、やっと惣治郎さんが帰ってきて――、

 

「そ、そーじろー……。ハラ、ヘッタ……」

 

 え、誰?

 明らかに惣治郎さんの声じゃない。女性……少女、の声? 随分と弱弱しいけれど……。

 

「なにゆえ電話でない……。HPがピンチ。あと3歩歩いたら、死ぬ。ゲームオーバー」

 

 妙にゲームチックな台詞に耳を傾けながら伺い見ると、そこには腹を手で押さえた少女がいた。

 肩や太ももが出た、やや奇抜な服にジャケットを羽織っている。

 特徴的なのはその大きな眼鏡と、鮮やかな赤に近い茶髪だ。流石に地毛ではないだろうし多分、染めてる。前からじゃあまり見えにくいけれど、耳にはめているのはヘッドフォンだろうか。

 

「……んん?」

 

 何かに気付いたらしい彼女は、鼻をスンスンとし始める。

 

「こ、この匂いは……!!」

 

 ユラリユラリ、ふらつきながらもある一点に吸い寄せられるようにカウンターにもたれ掛かった。

 彼女の視線の先にあるのは、みんな大好きカップ焼きそば『UFO』……それ、俺の。

 湯を入れて何分経っているかなんて、今の彼女には関係ないようだ。すぐさまUFOをキッチンの方へ持っていくと、俺の視界から消える。ややあって、水が跳ね返る音が聞こえてきた。……多分、湯切っているんだろう。

 そしてホクホク顔で、元々置かれてあった場所にカップ焼きそばを再設置する彼女。

 その脇に用意してあった箸を手に取るや否や、凄まじいスピードと凄まじく大きな音を立てながら麺を吸い上げていく。すげぇ、UFO食べてあんな嬉しそうな顔をしてる人、見た事ない……。作った俺としても、これ以上の反応はないな。なんだか俺まで嬉しくなってきて……いやいやいや。

 誰だこの子。

 そもそも俺はどうしてこうやって身を隠しているんだろう……。この構図だけ切り取ると、ただ和やかな食事風景をまじまじと盗み見ている訳で、なんだか余計な罪悪感が芽生えてくる。

冷静になれ、俺。

UFOを作ったのは俺で、勝手に上がって来て俺のUFOを食べたのは彼女。俺には全く非はないんだ。

 

「あー……。ワタシ、復活。やっぱり、焼きそばはコレに限るな……」

 

 カウンターにもたれ掛かって、今度は実に満足げに腹をさすっている正体不明の彼女。

 というかもう食べたのか。

 小さい体ながらとんでもない早さだ……とか感心してる場合じゃない。このままじゃ俺の待ちに待ったUFOを食い散らかされた挙句逃げられてしまう。

 よし。

 

「あの」

 

 声を掛ける。向こうを向いていた彼女が、姿勢はそのままでこちらを見る。

 

「……」

「……」

 

返事が返ってこない。

が、口が微妙に開いて、目をまんまるに開けているから、一目見ただけで驚いて言葉を失っているのが分かった。

 

「…………」

「…………」

 

 ……長いな。

部屋の空気が固まった心地がする。まるで時間が止まったんじゃないかと思う程に。

 

「……ええと……」

「……………………ひ」

「ひ?」

 

 「ひ」と言ったのは恐らく、息を吸い込んだからだろう。その証拠に、食べてる時はあんなに緩んでいた顔が、めちゃくちゃ引きつっていく。

 その後に起こることを予感させるには、十分すぎる表情だった。

 

 

「ひぇぇぇぇぇぇええええぇえぇぇぇええ」

 

 カウンター席を蹴り散らかして、一度躓きながらも立ち上がって扉へ一目散に走る。すると不思議な事に、ひとりでに扉が開いていく。

 

「あー、腰が痛ぇ……って、え、双葉!?」

 

 惣治郎さんだった。どうやら彼が絶好のタイミングで開けたらしい。

 ……ん? 今、双葉って……。

 

「お前、部屋から出て……うおお!?」

 

 その惣治郎さんまでもを突き飛ばし、彼女は外へと飛び出していった。

 散らかったカウンター椅子と、派手に尻もちをついた惣治郎さんに、空になったUFOの残骸と床に落ちた箸。

 彼女の正体に疑問は持ちながらも、そんな局地的過ぎる台風が過ぎ去ったような光景から、これを全部片づけないといけないのかという事に気付く。

 ……今日はあまり、眠れなさそうだ。

 



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日記1 4/9-4/20

4/9

佐倉双葉と出会った。

惣治郎さんの携帯の着信を偶々見てしまった時、苗字が同じだったから惣治郎さんの娘かあるいは孫かと思っていた……のだけれど、惣治郎さんの様子を見る限りどうやら複雑な事情があるようだった。

 そんなプライベートな事をほぼ初対面の人に聞くわけにもいかないし、前科持ちに家庭の事情を明け透け話す人なんていないだろうし。

 これからの高校生活も課題が山積みだが、もし……双彼女の事を聞くためには、やはり惣治郎さんの信頼を得なければならないようだ。

 頑張ろう。

 結局UFOは食べることはできなかった。お腹すいた。

 

4/11

朝:

惣治郎さんが朝食にとカレーをご馳走してくれた。

カレーと言えば普通は夕食に食べるものだと勝手に思っていて、かつカレーに対して少し重たいイメージがあったから、朝からガツガツと食べるのは少しだけ躊躇った。

しかしこれも惣治郎さんの信頼奪取のため。背に腹は代えられない。

と意気込んで挑戦してみると、これがなかなかどうして美味しかった。というかめっちゃウマかった。

余計に舌にヒリつかず、かつカレーの深みを増幅させているスパイスが良い。おかげで、寝不足気味の頭と目が一気に覚めた心地がした。

コーヒーにも合うし。

このレシピを考えた人はきっと、天才に違いない。

そのルブラン特製カレーに舌鼓を打っている途中、惣治郎さんの電話がなって「仕事にプライベートに大忙しだ」なんて言っていたけれど、あの電話は双葉からのものに違いなかった。

時々、惣治郎さんの仕事を手伝う約束をした。

 

夜:

坂本竜司とモルガナに出会った、なんて悠長に言っていられる場合じゃなかった。

 どこかの童話で見たようなお城に、何に使うのか知りたくもない拷問道具、甲冑を来た兵士……な、何を言っているか分からないと思うが……といった感じだ。

 実際俺にもまだ分からない。

 イワクつき転校生からのスタートだから、新生活は目まぐるしくなるという事はある程度覚悟していたけれど、これは目まぐるしいなんていう次元の範疇を超えている気がする。

 ……頑張ろう。

 

4/14

昼:

 渋谷の駅前で、高巻杏という丁度俺の前の席に座っている女子が泣いているのを見かけた。

惣治郎さんから『余計な事に首を突っ込むんじゃねぇって言っただろ』という言葉が今にも聞こえてきそうだったが、やっぱりそのまま見過ごしてしまうのは気掛かりで、声を掛けてしまった。

鴨志田の情報を聞いた。何か俺に出来る事はないだろうか……。

しかし、あまり表立って動くことは得策ではないだろう。先生からもしばらくは警戒されていると思うし。

 また余計な事をして、身を滅ぼすのはごめんだし。……いや、逆に考えれば、今は落ちるところまで落ちてしまっているのだから、これはもうむしろ堂々とするしかないのでは……?

 ……いや、高巻に迷惑を掛けるのは避けたい。やめておこう。

 

夜:

 惣治郎さんの手伝いをする傍ら、コーヒーの淹れ方を教わった。

 一度最初から見よう見まねでやってみた。「豆がないているぞ」と手厳しい評価を頂いた。

 ところで、コーヒーに関して詳しかったり淹れ方が上手かったりすれば、なんと……モテる、らしい。

 一刻も早く精進しなければならない。

 

4/20

 

 夜に惣治郎さんの手伝いをした。

「近々頼みたい事がある、かもしれねえ」と、カレーを仕込みながら言う惣治郎さん。

 確かに最近は元気がないように見えるし、よく見て見れば目の辺りにうっすらと隈ができていた。

 惣治郎さんの信頼を得られるチャンスだろう。

 そういえば、あの少女……佐倉双葉はどうしているのだろう、とUFOを作っている時に思い出す。

彼女が豪快な食べっぷりをしている映像付きで。

俺への頼み事は、もしかしたら――彼女の事なのかもしれない。

 



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4/23『Secret』

「双葉と会ってやってくれねぇか」と頼まれたのは、つい今朝の話だ。

 後ろ指で刺突されるような登下校を終えた夜、特に何もすることがなかったので、四月中は殆どルブランの手伝いに従事していた。

時々珈琲の豆について説明してくれる時の惣治郎さんが、ちょっとだけテンションが高くなるという事は、この度重なるバイトから得た発見の内の一つである。

ともかく。

その甲斐あってか、良く惣治郎さんが声を掛けてくれるようになった。そして今日、長らくタブーだと思われていた『双葉』という単語を、惣治郎さん自身が切り出してきたのだ。

最近どこか調子がおかしいようだと。何か、塞ぎこんでしまっているのかもしれないと。

オレじゃない、話せる相手が必要なのかもな……と、惣治郎さんは首をもたげた。

それから、惣治郎さんから双葉についてのプロフィールをざっと語ってもらった。学校へと行かず、部屋に籠ってしまっているということ。あまりコミュニケーションが得意ではないという事。すこぶる頭が良くて、時々話が自分の中で完結してしまう事。丈は小さいが、べらぼうに大食いである事。そして――()()が大好物だと。

その情報と、先日会った双葉の容姿とを、重ね合わせる。うん、大体は俺が想像していたのと大差はない。UFOを、ダイソンみたいな吸引力で平らげられたのを、この目で見ている訳だし。

よし。

 ならば今日会おう。惣治郎さんの信頼をいち早く得ようという下心がない訳ではないが、なんだかちょっとなんとなく、気になる。

 惣治郎さんに作ってくれたカレーのお礼を言って、学校へと向かった。()()は……きっと、渋谷にあるはずだ。

 

 後ろ指以下略、渋谷で用を済ませて田園都市線に乗って、惣治郎宅へ着いた。いかにも年季が入った木造建築といった風情で、控えめに『佐倉』と書かれた表札を確認して、インターホンを押す。

 ……案の定、反応はなかった。

惣治郎さんから渡されていた合鍵を差し込んで回し、中へと入る。一応おじゃましますと呟いてから、靴を脱ぎ、二階への階段を見つけて、昇る。

ううん、意外と暗い。勝手知ったる人の家という訳ではないので、どこに電気のボタンが付いているか全く分からない。惣治郎さんは「二階に行ったら、直ぐ部屋がどこか分かるよ」と言っていたけれど、正直この暗さではどこに部屋があるかすら――。

あった。

一つだけ……というより、まだ一つだけしか部屋を確認できていないのだけれど、確かに双葉の部屋だと思われる扉があった。

 『PRIVATE/DO NOT ENTER』と書かれた張り紙に、『CAUTION』と印刷されてある黄色のテープが、やたらと自意識高めに張り巡らされていた扉が目の前にあった。ご丁寧に入るな、プライベートだと注意を促されている訳だけれども……なんというか、そこまで言われると開けたくなってくるような。「絶対押すなよ!」と煽られる時と同じ感覚を覚える。

 とにかく。

 少しだけ緊張してきたので一つ深呼吸を入れてから、そのおかしな扉をノックした。

 

「……」

 

 返事がない。もう一度。

 

「…………」

 

 ……居留守を決め込むつもりだろうか。惣治郎さんから話は聞いているはずなのだけれど――警戒されているのだろうか。

 かくなる上は。

 声帯を閉め、自分が出せる一番低い声になるよう喉の調子を整える。

 

「オレだよ。惣治郎だ」

「全っ然似てない……ハッ!」

 

 ダメ出しをくらってしまったけれど、思わぬ形で双葉からの応答が得られた。モナに付き添われて練習した甲斐があったな……。

 

「騙したな! あまりにも似てなかったから、思わず……」

 

 ぐぬぬ、やりおる……と、双葉はうなだれ……ているはず。

 

「そうじろーから大体話は聞いてる。けど……迷惑だ。放っておいてくれないか?」

 

 扉越しに伝わってくる声色は、やっぱり高校生というよりかは幼い印象を受けた。けれど、その口から出る言葉はなんだか投げやりで、重い。

 

「友達なんて、もういらない。私は一人で暮らして、一人で生きていく」

 

 惣治郎さんの手も借りずに? と言ってしまうのは、流石に無粋だろうか。

 

「一人で生きていく、なんて言っちゃう私、マジカッケー」

 

 ……。

 格好いいのか……。

 

「と、とにかく! そんなのいらないから、うん。ああ、あと……UFOの件は、世話になった。美味かった。けどな、あんなところにあんな飯テロを仕掛けているそっちにも、非はあると思うぞ、マジで! ハラ減ってる時にあの魅惑のソースに見向きもしない奴は、人間じゃない。つまり、私は人間としての本能を全うしただけに過ぎないのだ。分かったか?」

 

 めちゃくちゃな三段論法を駆使しながら、勝手にUFOを食べた事の弁明をする双葉。ということはつまり、少しくらいは悪いと思ってくれているという事なのだろうか。

 大食い。

 食べ物に、目がない。

 

「以上でこの話は終了! さっさと立ち去れ」

 

 と言い残して、向こうの足音が遠くなっていくのを感じる。どうやら、俺の話も聞かずに籠城するらしかった。議論の余地はないと、オマエと話すつもりなんかないんだと――そういった類の拒絶を覚える。

 もちろんこのまま弁を尽くしたとしても、無視されてしまうだろう。惣治郎のめちゃくちゃ上手いモノマネもしてしまったし、そもそも俺はあまり多弁な方でもないし。丸腰で敵の城に攻め入って、ただ城門をいたづらに叩いても何も起こらない。

 

「双葉」

 

 けれどそれは丸腰だった場合の話だ。ちゃんとした装備をしていれば、もしくはこの状況を打破できる秘策をもっていたとしたら――話は変わってくる。

 

「……」

 

 佐倉双葉は応じない。物音さえも聞こえない。しかしそれは、俺の話を聞いてくれているという事の証左だ。ここが、この場面が一番『秘策』を出すには最適な場面。逃がしたりはしない。

 渋谷で買って来たソレをビニール袋から取り出す。そして、息を潜めているはずの双葉に、出来るだけ何気ない調子で、こう言った――。

 

「うみゃあ棒、食べる?」

 



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4/23『Delicious』

 俺が手に持っていたビニール袋を胸元前に提げた瞬間、その中に入っていた『うみゃあ棒(お徳用)』は忽然とその姿を消した。

 あまりにも急に起きたその怪現象に、俺は驚く事すらできず、ただ数学のうさみん(宇佐美先生)が量子テレポーテーションについて熱く語っていた事をボンヤリと思い出す。

 波とは状態の事を指し、一見物質とは乖離した概念だそうだ。しかしもっとミクロな視点で――例えば電子について考えてみた場合、それはあろうことか物質であり、波であるという性質を兼ね備えているらしい。

 だから電子は普段見る物質とは隔離して考える必要があり、それを量子と呼び――と、この辺りで俺の記憶は途切れている。あまりにも眠すぎて机に突っ伏してしまったからだ。

 と、圧縮された記憶が一瞬にして蘇った後、俺は現状を今さらながら把握する。

 視界に入ってきたものを整理すると……不健康そうな白い手と、不気味に光る大きな眼鏡の残像。

 ということはつまり、双葉は驚くべき速度でその扉を開けて、うみゃあ棒をすかさず視認し、最短距離で目的物を確保、閉扉。

 というのが、この一連の事象の真相らしかった。なんという頭の無駄遣い。

 緻密な計画が練られていたと思ってしまうような、鮮やかすぎる手際の良さだった。それは、まるでさながら本物の怪盗のよう。

 

「ふっふーん。この手は二度そうじろうから受けているからな! この私をナメてもらっては困る」

 

 フフフ、と悪役を気取ったような声をあげて笑う双葉。白く光った眼鏡をクイっとさせている姿がありありと思い浮かぶ。

 けれどこの方法、まさか惣治郎さんの使いまわしだったとは。

 それに二回も。双葉の反応を窺う限り、どちらもどうやら成功しているようだし。

 しかし……目にもとまらぬ速さでブツを巻き上げられるという奇策を弄された俺は、もう打つ手がなかった。

 これはもう、起死回生の惣治郎さんのモノマネを再演するしかないのだろうか。咳払いをして、喉仏を下げ、限界まで音域を――、

 

「いや、もうニセそうじろうはいいから……」

 

 却下された。

 

「それより……話って、なに話すんだ?」

 

 尋ねる声は扉でこもってはいたけれど、それでもしっかりと――そして、ガサガサとうみゃあ棒の包装を解く音は聞き取る事ができた。

 どうやら……作戦は成功してしまったらしい。

 

それから俺たちは、スラスラとはとてもいえないがポツポツと、たわいのない会話を始めた。俺もそれほど話すことは得意ではないので、当たり前といえば当たり前だ。

 

 ――最近興味を持っていることは。

「並行プログラミング。と後はGPUの有用性だな。性能はCPUに比べてぶっちぎりに良いのに、電力も食わんとか何それチート? って感じだ! そのうち擬人化したGPUが、持ち前のチート性能でCPUを粉々にしてくっていうアニメが流行ると思われ」

 

 ――最近読んだ本は。

「線形の参考書。やっぱ時代はディープラーニング的な? まあ概念が抽象的すぎるっつー点が面倒だけど。え、難易度? ……ちょっと前に読んだ心理学のそれに毛が生えた程度だな」

 

――趣味は。

「ハッキング」

 

 と、よくありそうで当たり障りのない質問を投げかけたつもりが、どこをどう曲がるか分からない変化球を投げ返された時もあったけど、それはそれとして。

 それでも双葉は実に楽しそうに話しているように思われた。自身の知識をひけらかして威圧するようなものではなく、ただ自分の喋りたい、話したいことを出しているかのような。

 そんな、彼女、らしい? 一面も垣間見る事ができた。

 しかし……どうやら本当に双葉は頭がキレるというか、賢いというか。

 息を切らしながら指数対数をいじくっている俺からしてみれば、実に羨ましい限りではある。

 

「はー、喋った喋った。……こんな感じで、良かったのか?」

 

 急に何か心配しているような口調になって、扉の向こうで押し黙る。俺の反応を窺っているようだった。

 そんなことはなかった、と双葉に伝える。

 

「……そう、か。よしよし、コミュ力ステータスが上がった音が聞こえるぞ!」

 

 なるほど。それならその勢いで外に出たり――、

 

「それは出ない!」

 

 ……出ないのか。

 しかし、彼女が部屋から出る事自体はそれ程久しぶりじゃないという事に気付く。

 確か、二週間前だっけ……荷解きの合間にUFOを作っていたら、春にそっと吹くそよ風のように静かに、彼女はルブランに姿を現した。

 そして台風のように辺りを蹴散らして去っていった訳だけど。

 ともかく。

 あの時の真意を探ろうと、俺は双葉に声を掛けた。

 

「……う、ううむ」

 

 何故か言い澱む双葉。

 

「なんか、普通に名前呼びされんの、なんか、ここら辺がムズムズする」

 

 ……どこら辺?

 募る疑問はさておき……確かにほぼ初対面なのだからここは『佐倉』と言うべきなのかもしれない。

 が、惣治郎さんと被ってしまうのだ。あ、因みに惣治郎さんと話したりするときは、一応『佐倉さん』と呼んでいる。

 

「ぐぬぬ……だから、なんか食べたかったんだって。そんでそうじろうが電話に出なかったから、ルブランに来た」

 

 ふむ。

 それはとても自然で、疑いのない理由のように思える。

 しかし、惣治郎さんの言う通り双葉はこうして引きこもっているのだ。

 双葉が空腹に耐えられないような健啖家は無きにしもあらずだけれど、それなら普通に部屋にずっと居るなんて続くはずもない。

 つまり、何か別の理由があったのではないのか、と勘繰ってしまうのだ。

 

「……」

 

 今度は完全に口を噤まれてしまった。

 ここにきて久しぶりに、沈黙が流れる。

 改めて扉の外装に目が行くようになる程の時間が過ぎたあと、扉の向こうで空気が掠れる音がした。

 

「……分からない。気づいたら、ルブランの前に立ってた。……何かから、逃げてた……んだと、思う」

 

 逃げていた?

 何か怖い夢を見たという意味なのだろうか。

 

「……もういいよ。忘れたしな」

 

 ……覚えていないのなら、仕方ないか。夢に関する記憶は忘れやすいって聞いたことがあるし。

 そして――それほど怖い体験をしてしまったのなら、忘れてしまうのも当然だろう。

 人は忘れられるから生きていける。

 という誰が言ったのか分からない格言を、俺は聞いた事があった。

 

「……こんな感じでいいんなら、また付き合ってやっても、いい。今日は……たた、楽しかったぞ? うみゃあ棒も、その、うん、アリガトウ。うまかった」

 

 そういえば、かなり前からうみゃあ棒のサクサク音がしなくなっている事に気付く。

 もう食べきってたんだ……ここに来て、双葉がただの食いしん坊だった説が浮上した。

 

「では、サラダバー」

 

 そんな気の抜けた台詞が扉から伝わって来て。

双葉の足音が遠のく音を聞いた。

 



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日記2 4/30-5/14

4/30

学校行った後に時間が空いていたので、またお徳用うみゃあ棒を買って、双葉へ持っていった。「待ちかねたよ……。ワタシを、いつまで待たせるつもりなんだい?」と妙に見透かしたような事を言われたのがなんだか鼻に付いた。きっとあの時、頬に手でも当ててキメ顔をしていたに違いない。なんとなく双葉との付き合い方がわかってきた気がした。

 

5/1

竜司とゲーセンへ行った。どうやら竜司は格ゲーが得意らしく、様々な機種に連れまわされては完膚なきまでにボコボコにされた。大人げない。あまりにも大人げなかったので、竜司を音ゲーエリアに連れて行って雪辱を果たした。帰り際にお徳用うみゃあ棒を買っていって双葉に渡しに行くと、「嫌がらせか!!」と怒鳴られた。仕方がないので扉の前で出来るだけ音を立てて食べていると、「よこせ!!」とまた怒鳴られた。……双葉との付き合い方が分かった気がした。

 

5/5

詳しい事は言えないけれど、皆と打ち上げをした。盛りに盛られた食事を囲んで、喋って、笑って、笑って、喋った。一ヶ月前にはお互いの名前すら知らなかった(竜司と杏は知り合っていたんだっけ?)とは思えない程のスピードで、仲が深くなっているのを感じる。竜司も杏も、割と積極的なタイプだからかな? 余った6000円を、何に使おうか迷っている。

 

5/9

竜司と勉強会を開いた。開始十分ですやすやと寝息をし始める竜司を叱咤激励しながら、なんとか明日の範囲を終える事が出来た。そして明日は明後日の範囲を詰めて、明後日は明々後日のという要領で終わらすつもりだ。……その日暮らし感が尋常じゃないけれど、背に腹は代えられない。諦めと妥協が、人を強くすることだってあるのだ。この事を双葉に言うと心底馬鹿にされそうなので、最近は双葉に会っていない。決して、テスト勉強の所為で行く暇がないという訳じゃない。

 

5/14

昼:喜多川と、斑目とかいう著名な画家と出会った。

  高巻を絵のモデルにしたくて、ずっと付けていたらしい。胡散臭い。言動も一々どこか変な所があって、胡散臭さがさらに際立っていた。天才画家の所作は変態チックだと聞いた事があるけれど、そしたら本当に、喜多川は画家なのかもしれない。高巻が個展へ行こうとしていた事について、モルガナはずっと『ワガハイの杏殿がぁ……』とニャアニャアと叫んでいて煩い。猫か。思いがけない恋敵が出現したようだった。

夜:久しぶりに、今度はキットカットを持って双葉へ会いに行った。――――

 



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5/14『Slow』

5/14

 

「……おひさ。6日と五時間十四分振りの、おひさ」

 

 階段を上る音に気付いたのか、扉をノックする前に向こうから声が掛けられる。双葉の言う通りここに来たのは久し振りで、この奇怪な装飾が施された扉に対峙するのも6日……と五時間なんちゃら振り。よく覚えてるもんだ。

 

「もう、来ないのかと思ったぞ。うみゃあ棒をいきなり持ち出してきたかと思えば、またどっかに行く。パソコン立ち上げた直後の、マウスカーソルの変なグルグルを見てるような感じだった。……退屈、だった」

 

 退屈。

 やはりこのご時世パソコンという文明の利器が出来てからも、やはり引きこもってばかりいれば退屈に感じてしまうものなのだろうか。あまりそこらへんの事はよく分からないけれども。

 しかし、退屈だったという事は――少なからずは、俺との会話を窮屈には思っていなかったと受け取っても良いんだろうか。

 ふむ。

 ふむふむ。

 嬉しい事を聞いた気がする。

 

「じゃなくて! そそ、その……そうじろーはあんまり、お菓子買ってきてくれないから」

 

 双葉は早口でまくし立てる。彼女は時々こうやって、口が頭の回転に追いついていないような調子になるようだ。俺はもちろんそういった事を経験したことはないのだけれど……あれって、どういう感覚なのだろうか。

 扉が小さく開かれる。そこからそろりと細い手が出てきて、何かを欲しているように手をこまねいた。

 

「ブツを寄越せ、ブツを、よこせ……」

 

 ……。

 なんかヤバイ取引でもしているみたいだ。

 

「アレがないと、私は……ダメな体になった。アレがない世界は私には、耐えられない」

 

 本当にヤバイものを渡しているみたいじゃないか。なかなかどうしてノリがいい。

 指を折り曲げて催促してくる腕に、袋詰めされたキットカットを入れて貰ったビニール袋を通す。ワシャワシャとうるさい感触を確かめてから、彼女はまたそっと手を引いて、扉を閉じる。

 

「おお!?」

 

 これもまた好物だったのか、バリバリと音をならして包装を解いているらしい音が聞こえてくる。大体スナック菓子が好きな事は心得た。

 

「ひょふわはるは」

 

 なんて?

 

「よく分かるな、って言った。二回連続で当ててくるとか、出来るヤツ! ひょっとして、読心術の持ち主か!?」

 

 それをやんわりと否定して、よっこらせと扉へ背を付けた。そんな雰囲気を大体察したのか、双葉の咀嚼のスピードが緩まる。どうやら話の体制に入ってくれているらしかった。

 虚空、というより天井を見つめて、今日あったことを思い出す。杏が何者かに付けられていて、それが良く分からない胡散臭い奴で、どうやらソイツが大物画家の弟子らしくて。

 そういった事を簡潔に、時には子細に呟いて、双葉にそれを聞いてもらう。何もオチはなくて、あらかじめちゃんと起承転結を考えていたようなしっかりとした話ではないけれど

、徒然なるままに、思い出した記憶の流れに任せて話を紡ぐ。

 その中で相手がピックアップしたものを拾いなおして、それに俺がまた訂正を加えたり、話を連想させていったり。何も爆笑したり怒ったりすることは無い。ただ、会話という川に身を任せてずっと揺蕩っているような、そんな心地の良い感覚だけがあった。

 

「洸星? ああ、知ってる。奇人変人が寄せ集まった吹き溜まりみたいなとこ」

 

今日出会った画家のプロフィールに双葉が食いつく。それにしてもずいぶん辛辣な評価だな。

 

「半分冗談」

 

 ってことは、半分本音か。

 

「ふっふーん。……そんな事より。斑目の弟子っつーことは、喜多川祐介だな?」

 

 ええと、確かそんな名前で――なんで知ってるんだ双葉。

 

「覚えちゃうからねー。私、見たら全部覚えちゃうから」

 

 ふうん。便利な頭をしているもんだ。

 もしそれほどの記憶力があるのなら、さぞかし俺のテストの点数も良かったのだろう……と、余計な考えが思い浮かぶ。

 

「……そんなに、良いものじゃ、ない」

 

 と言って、双葉は押し黙る。気持ちキットカットを食べる速さが増しているように思われた。どうやら、何か良くないものを踏んでしまったらしい。

 閑話休題、話題を変えよう。

 

「他に、洸星にいる有名人……? んー、まー、一番なのはヒフミじゃね?」

 

 ひふ……え、なんて?

 

「東郷一二三、女流棋士」

 

 じょりゅう、きし……ああ、棋士か。将棋の。

 

「そそ。一度リーグ優勝もしてる」

 

 女子高生で、女流棋士……。世の中には、とんでもない二足の草鞋を履いている人がいるんだな。

 

「人と、あんまり喋らないタイプ。どこの研究会にも属してないから、孤高の天才なんて、5chでは書かれてる。神田の教会で一人もくもくと研究してるらしい」

 

 孤高で、天才。

 アニメなんかで良くカップリングされるような、悪く言えばお決まりのジャンル共存だ。それは人との感覚が合わなくて、自ら他人と距離を置いているパターンだったり、あるいはあまりにも普段の素行が悪くて、他人から距離を置かれているパターンだったりと、色々な住み分けがある。

しかしそれでも総じて似ている部分は、特に秀でている部分以外は軒並み不器用である時が多い。それは友達付き合いにも言えることで、それをコミュ力MAXな主人公がガンガン攻めて、最後には付き合っちゃうみたいなラノベ、全然関係ないけど普通にありそうだ。

 ともかく。

 目には見えないが、目の前にいる彼女もそんなジャンルに位置づけられるような人であるという事は、話しながらなんとなく分かってきたような気がする。

 じゃあ、彼女は。

 誰と出会って。

 何を知って。

 今、ここでそうしているのだろう。

 

「所詮、将棋とかお遊びに決まってる。天才がなんぼのもんじゃーい」

 

 もんじゃーい、の後にカタカタとタイプがされている音が断続的に聞こえてくる。何か調べ物でもしているのだろうか。

 ともかく。

 言い方が荒くなったのは、天才だと言われている一二三への対抗心だろうか? それとも――一種の同族嫌悪に陥っていたりするのか。

 ジャンル被り。

 住み分け。

 

「ホレ」

 

 出し抜けに、双葉が呆けた声を上げる。何だなんだ――とオウム返しに負けじとホレ、と言っているとスマホが鳴った。

 宛名には『HoneyOTU』と書かれている。

 誰だコイツ。

 

「あ、ミスった」

 

 またまた通知が来る。今度の宛名には『双葉』と書かれていた。

 うんうん、やはり知っている人が通知欄にいると落ち着くな。クラス替え直後の教室に旧知がいるような、そんな安心感を覚える。

 じゃなくて。

 ええ、双葉? 俺、双葉とLINE交換なんかしていた記憶はないんだけれど。

 

「それ、ワタシのLINE垢だから。さっきのは消しといて」

 

 さっきのって……ハニーなんとかってアカウントの事かな?

 いやいや、重要なのはそこじゃなくて――どうして俺は自分のスマホを触っていないのに、勝手に友達登録されているんだ?

 

「ふっふーん。朝飯前だ」

 

 と言ったのを聞いた後、タイピングの音が止んだ。

 絶対悪い事してる……。

 

「天才を語るんなら、これくらいはしてもらわないとな!」

 

 天才の定義、狭すぎ。大人げないなあ。

 

「と、とにかく!! 来れなかったり、遅くなりそうだったら、直ちにここにLINE入れる! 以上!」

 

 ふむ。

 まあ確かに、直接喋る以外に伝達できる手段があってもいいだろうとは思う。双葉は話す事よりもネットを触っている事の方が多いはずだから、喋ってくれない事も文字じゃ言ってくれそうだし。という下心を隠しつつ、俺は「わかった」とだけ呟いた。

 

「……」

 

 会話が途切れる。このまままったりと過ごすのもやぶさかじゃないけれど、まあ折角来たのだからもう一つ二つくらいは話題を持ち出しても――。

 

「……あ……うぅ……」

 

 駆動輪付きの椅子が、ガラガラと動く音がした。軽いものが落ちる音が鳴って、キットカットを取りこぼしたのだろうということに思い当たる。

 

「……やめ……ろぉ……」

 

 双葉……?

 何が――扉の向こうで、何が、起きている?

 彼女の苦しそうな嗚咽が、呻き声が、扉越しにも伝わってくる。その悲痛な叫びに共鳴したのか、全身に、鳥肌が立った心地がした。

 ドアノブに、手を、掛けていた。一度も触ったことがなかったそれに。ひとりでに、体が動いていた。

 回す。案の定鍵がかかっていて開ける事ができない。双葉、何があった、大丈夫か……湧き上がる焦燥が言霊となって現れたような、そんな単純な言葉の羅列が頭に思い浮かぶ。それをそのまま口に出しても、ただ双葉の呼吸が荒くなっていくだけだ。

 

「だ……大丈夫……問題、ない」

「そんな訳、」

「大丈夫……だから」

 

 くそ。

 俺が焦ってどうするんだよ……。

 直ぐ近くにいるのに。木の板一枚挟んだだけなのに。それでもなお近づけないという冗談みたいな状況が、俺を更に焦らせているのだと感じる。

 長い。

 長くて、遠い。

 

「今日は、帰って……欲しい。また話すから、また言うから……だから今日は、帰って」

 

 双葉の消え入りそうで震えた声が、俺の頭を揺らした。

 

 

 

 あの後、双葉は果たしてあの扉を開けてはくれなかった。

 そして再三の食い下がりも空しく、俺はのこのこと自分の部屋に戻ってきた。

 最後の双葉の、消え入りそうで震えた声が、まだ俺の頭を揺らしている。

 あれは間違いなく、双葉から告げられた初めての拒絶だったのだと思う。

 俺と双葉はまだ『それ』を話す程には打ち解けていなくて。

 『それ』を話してくれない程度には、まだ心を開いてくれていなくて。

 実際あの扉が一瞬鉄製の分厚いものと錯覚を覚えたくらいだ……どうしても悲観的になってしまう。

 じゃあ、俺では役者不足なのだろうか。あのまま、一生あんな感じで心を開いてくれないままなんだろう。とか、そこまで悲観的に思っていない自分も確かにいた。

 それなら、いつか話してもらえるようになるまで、これからも通い続けよう。仲良くなろう。なんて、そんな感情を伴った実感が、ごく自然に、当たり前のように胸に沸き起こる心地がする。

 それが本当に庇護欲からくるものなのかは、今では判然としないのも事実だけれど。

 俺達の戦いはこれからなんだと。

 そう適当に脳内でナレーションをして、次は何を持って行ってやろうかと考えていた。

 



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5/15『One』

『私の好きなアニメの円盤が発売されている。どこかで買ってきてほしい』

『……ダメだ。店頭販売で付録が付くから、なるべくネットでは買いたくない。頼む』

『自分、で……?』

『それは無理な相談だ。頼む』

『難しい』

『やだ』

『……ありがとう。助かる』

『では』

 

 五月十五日。

 双葉とLINEを交換した翌日。

 双葉との距離をゆっくりと縮め、そっと歩み寄ろうと誓った俺の決意をかわすように、さっそく双葉から連絡が掛かった。

 ただ、肩透かしを食らったとか拍子抜けをしたというような気持ちはなく、双葉からアクティブに連絡をくれたという事実には、顔の頬を緩めざるを得なかった。今まで扉越しに会話をしていた甲斐があったな、とモルガナと言い合って、ひっそりとガッツポーズをした。

 それに加えて、双葉にとっては大事であろう頼み事。LINEを交換した数日は『今日はいい天気だ』とか、『元気?』みたいに控えめなやり取りと交わすことに終止するのが定石だと言う。しかし、そんなこまごましい過程をすっとばしての頼み事。

 これはきっと、双葉が俺に対してはもう、無用な言葉は交わすまいと、かすかに信頼してくれている証拠に違いない。

 だから、余計な詮索はせずに、ただそのリクエストに応えてあげるというのが最適解なのではないだろうか。何も不必要なことは言わずに、任務を遂行することが、俺に課せられた使命なのである。

 それはただのパシリなんじゃねーのか、というモルガナの突っ込みには無視をきめて、俺は秋葉原を目指して今、電車に揺れていた。

 田園都市線を使って渋谷を過ぎ、表参道で東京メトロ銀座線に乗り換える。神田まで、本で暇をつぶした後、最後は山手線。都会特有の入り組んだ路線の構造は、やはりどこかメメントスを彷彿とさせる。

 

「まあなー」

 

 鞄の中でゴソゴソと動くモルガナ。視界が狭い鞄の中では、平衡感覚を掴むことが難しらしく、いつも登下校の帰りは気分を悪くしていたけれど。

 最近はもう慣れたらしく、俺の教科書が吐しゃ物色に染まる心配をせずに済んでいる。

 

「やっぱり慣れって大事だな。お前も、もう東京の生活には慣れてきたんじゃないのか? 怪盗の方も、リーダーとして肝が据わってきたようにも思える。ワガハイが見込んだだけはあるな」

 

 それは見込み違いだ……というより、皆それぞれペルソナを持っているのだから、肝が据わっていない人なんていないと思うけど。

 そんな益体の無い雑談をしていると、電光板に『秋葉原』の文字が浮かび上がった。どうやら、そろそろ着くようだ。

 ともかく。

 俺は、モルガナを連れて秋葉原に来ていた。目的は勿論、双葉から頼まれた買うため。東京にはTSUTAYAなりなんなり、アニメのDVDを取り扱っているお店は沢山あると思うけれど、ここにあるのは確実だろう。それに、双葉の趣味に一度触れておくというのも、大切な気がしたから。

 それに……他の目的も、ないわけではなかった。

 

 

 

 

 無事お目当ての物を買い、その後少し辺りを散策し、駅まで戻った。メイド喫茶やたいへん露出度の高いアレ等を取り扱った店にも立ち寄ったけれど、俺とモルガナは終止圧倒されるばかりで、特筆すべきものはなかったので割愛する。しかし、メイド喫茶のオムライスの値段は、流石に高すぎるのではと思った。

 お腹がいっぱいになるまでサブカルを堪能した俺達は、そのまま行きとは逆の電車に乗って、そして神田で……降りる。

 しばらく歩いた後、俺たちはある教会の前で足を止めた。とんがり屋根の頂上に十字架、白を基調とした外壁に左右対称な窓の位置……と、何の変哲もないそれだ。

 DVDを鞄に入れてしまったために、そこから出ざるを得なかったモルガナと目を合わせながら、俺は昨日の会話を思い出していた。

 

『棋士か……いいじゃねえか。ワガハイ達はチームだから、戦略を学ぶにはうってつけの相手だぜ!』

 

 モルガナを足にいさせながら懸垂をする謎の体操を終えて、ベッドに横になりながら、双葉から聞いた有名な棋士の話をしていると、そんな返事が返ってきた。

 東郷一二三から学ぶことがたくさんあるんじゃないのか。だから、噂の通り神田へ行けば会えるかもしれないぜ、と。

 確かにその場の戦局をきちんと理解して、咄嗟に良い戦略を練れるスキルを身に付けることは大事なことだろう。血迷って竜司の猪突猛進な案を採用してしまっては、いつ失敗してしまうか分かったものではないし。

 しかし、モルガナはそう簡単に言うが……単純な話、知りもしない俺に将棋を教えてくれるなんて普通ありうるのだろうか。ネットで聞けば、彼女は女流棋士の範疇を超えた美貌の持ち主らしく、ファンやアンチも掃いて捨てる程いるようだ。そんな彼女が見ず知らずの学生を懇意にしてくれるとは、あまり思えないが。

 

「くっくっくっ……それについては大丈夫だぜ」

 

 なんだと……まさか、何か秘策があるというのか。

 

「毎日銭湯に通っているからな……今のワガハイ達に、死角はないぜ」

 

 ……期待して損した。

 ともかく。

 そんなこと、今気にしてもしょうがない、か……噂の教会に彼女がいるかどうかも、まだ確かめていないわけだし。それに、その噂が本当だったとしても、そこまで噂されているというのなら、東郷がいつまでも教会にいるというのも忍びない話だろう。きっと、場所を替えているに違いない。

 いないことをモルガナに言って、さっさと帰ってしまおうと意気込む。そして、その教会の扉をあけた。

 ……。

 やはりシンメトリーな配置になっている椅子に、人がまばらに座っているのが見えた。各々俯くなり、ただ座っているなりして、この教会の一部になっているような錯覚を覚える。

 そんな景色を見ながら、前へ前へと進んでいく内に、俺ははたと、ある事に気付いた。

そもそも俺は、東郷一二三の顔を見たことがなかったのだ。

彼女の情報は殆ど双葉の口から得ていたから……ネットで確認することを、すっかり忘れてしまっていた。

しかし、そんな間抜けな心配は、椅子の上に()()()を乗せていた彼女を見つけたことで雲散霧消した。

 サラッとした黒髪のロングヘアーに、金色のおもりがついた、花柄の装飾品を髪に留めている。

 

「あれがハンドスピナーってやつか?」

 

 違う。確かに似てはいるけれど、あれはどう見たって花柄だろう。

 ともかく。

 目の辺りは、俯いている彼女の前髪でうかがい知ることはできないけれど……いかにも大和撫子といった風情だ。

 ……。

 ……絶対、この人だよな……。

 危機管理というか……分かりやすすぎる。

 一方で彼女は将棋に集中しきっているらしく、俺が前に立っていても表情一つ崩すことなく、盤面をじっと見つめている。そのまま何も言わずに帰ることもできそうだが……モルガナが彼女を見て、目を光らせてしまっている以上難しい話のようだった。

 よし……、と気合を入れなおして、改めて東郷一二三らしき人物を見る。

 やはり右手を顎に当てたまま、一向に動く気配がない。そんな沈思黙考を絵に描いたような表情は、間違いなく美形の内にはいるだろう。『美人過ぎる女子高生』とかいうお触書きは、なるほど確かにそのようだった。これでは、相当の数のファンがいるに違いない。

 ……ということは、やっぱりこの教会に押しかけに来る人も多いだろうから……嫌な顔をされて、軽くあしらわれてしまいそうだ。そもそも、今将棋に打ち込んでいるのだから、もし話しかけると迷惑なイメージを持たれてしまうかもしれないじゃないか。それなら、まだ待っておいた方が……。

 

「だーっ! もう早く行けよ! なんでそこで優柔不断になんだよ!」

 

 いや、少し待って欲しい。俺は機が熟す瞬間を待っているんだ。そこまで焦らなくても、機はあちらからやって来るはずだ。

 

「機が熟すもクソもあるか! いつまで待つつもりだよ、日が暮れちまう!」

「……ここは、動物の持ち込みは禁止なんですが」

 

 そこまで急く必要はないだろ……ん?

 誰だ、今の声。

 声がした方に目を向ける。すると、目の前にいた彼女は、今まで凝視していた将棋盤には目もくれずに、俺の鞄をついっとたしなめるように見ていた。

 

「……私の前に立たれているということは、何か、御用があるのでしょうか」

 

 落ち着き払った、芯のある声を投げかけて、彼女は厳しい表情のまま、俺に目線を移す。

 五月十五日、こうして、俺は東郷一二三と出会った。

 



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5/15『Two』

「用がなければ、帰っていただけませんか? 今、研究に励んでいる身ですので」

 

 東郷はそう言って、怜悧な目をもって俺を見る。

 その目で射貫かれたような気持ちになった俺は、なるほど確かに、多くの試合を勝ち抜いてきた歴戦の勇者のような威圧感を東郷に対して抱いた。目の前にある将棋盤を除けば、ただ座っている制服姿の女子高生に見えなくもない。しかし、その現実離れした目力は、ただの女子高生ではないことを示す何よりの証左だろう。

 けれど……。

 随分と不用心なファーストコンタクトになってしまった。くどいけれど、俺は神田には東郷がいないと踏んで来てしまった訳で、東郷の詳細なプロフィールは勿論、もしあった時に話すようなネタすら用意できていない。

半ば藁にも縋るような気持ちでモルガナが入っている鞄に目をむける。

が、DVDでスペースが限られているのにも関わらず、モルガナは行儀よく、ひっそりと息を潜めているようだった。……どうしよう。

 

「あの……」

 

 ……マズいな。このままでは、猫を鞄に詰め、何も言わずに目の前で立ち尽くしている変質者だと認識されてしまう。彼女の顔色を窺ってみれば、その冷ややかな表情から、こころなしか訝し気なそれへと変貌しているような気がした。

 なにか……そう、とりあえず、何かその場をやり過ごせるようなことを言わなければ。

 でも、全く喋ることを準備していないから……ええい、ままよ!

 

「君が、一二三ちゃん?」

「……」

 

  恐らく、俺の深層意識化では、この緊張を崩すためにカタ過ぎない言葉を選んだつもりだったのだろう。他人事のように言うが、一応同い年なのだから、これくらいの冗談は許してもらえると思ったのかもしれない。

 しかし、突然訪れた窮地に、ほぼ反射的に俺の口から放たれたその言葉は、前で右手を顎に当てている彼女の表情を固まらせるには、十分すぎるそれだった。

 

「……」

 

 自分から出た実に頭の悪い発言に、血の気がサッと引いてゆく感覚を覚える。目も当てられない今の現実の逃避として、下宿から今日までの事を思い出していた俺は、初めて()()と会った時もこんな状況だったっけ、とボンヤリ思い出していた。

 

「……帰ろうぜ」

 

 鞄の中から聞こえてきた声に、俺は無理やり現実に引き戻される。

 そちらを見ると、憐れむような目で、モルガナはこちらを見ていた。ムカつく顔をしている……。こんな状況になってしまった責任はお前にもあるんじゃないのか、と俺は東郷のそれにも負けない目でモルガナを睨む。

 けど……モルガナの言う事は一理あった。これ以上何かを言ったとしても、墓穴を掘ってしまう事は目に見えている。実際彼女は……あれ?

 東郷はきっと俺を蔑むような目で見ているに違いないと思っていた。しかし今は、謎が解けたと言わんばかりに目をしばたかせている。

 

「もしかして、貴方……私のファン、ということなのでしょうか?」

 

 もう一度ちゃんと、彼女を見る。

 そこには、先ほどの棋士の威圧感は鳴りを潜めた――普通の、物憂げな女子高生がいた。

 

 

 

 

 

 

 

「あの……すみません。将棋を指している時は、その……周りが見えなくなってしまって」

 

 東郷はそう言って、本当に申し訳なさそうに眉を八の字にした。健気すぎる。聖人君子なのではないかと思ってしまう程の、懐の広さだった。いつもこんな感じで彼女のファンに対応しているのだろうか。彼女が教会で指すことが珍しい事ではないのなら、その、恐らく俺みたいにここへ来てしまうファンも多いだろうから……自分のことを棚に上げるようだけれど、正直大変そうだ。

 

「え……? あ、そうですね。ですが、私を通じて将棋に興味を持って下さったのであれば……無下な態度も取れません。あと、その……純粋に、嬉しいですし」

 

 駒を将棋盤にビシッと打ち付ける仕草をしながら、落ち着いた笑みを俺に見せる。……神対応、だな。ファンが多い理由も頷ける。

 よし。

 東郷の性格を大体は掴めたところで……本題に入ろう。正直、将棋という仕事の邪魔をしてしまったことには多少の罪悪感はあるけれど……ここは多少強引に攻めないと難しい局面のように思う。

 そもそも、他の手段が思いつかなかったというのもあったが。

 

「……はい? 私を……将棋の師匠に、ですか。……いまいち、おっしゃっている意味が分からないのですが……」

 

 打ち付けていた手を止めて、その右手をそのまま顎にもっていく東郷。どうやらその仕草が、彼女が考えている時の癖なようだ。

 もちろん、彼女が動揺するのも無理のない頼みなことは自覚している。逆の立場なら、見ず知らずの同い年くらいの男の人に、見返りもなしに将棋を教えるなんて考えられないから。竜司なら「……ナメてんのか、ああん?」なんてドスの聞いた声をもって一蹴するに違いない。……竜司が頭を使うゲームをしているなんて姿は想像しづらいけれど。そもそも、将棋のルールすら知らなそうだ。

 閑話休題、俺が稽古を付けてくださいと頼み込んだのは、やはり他に現実的な手が思いつかなかったからに他ならない。

 俺が東郷から得たいことは、もちろん異形のモンスターと戦う際に有効な戦術などだ。それを直截的に言ったらドン引きされることは目に見えているし、その辺りをボカして説明したとしても、東郷にとっては何の話だか見当もつかないだろう。

 だから、戦術を教えて欲しいということに焦点を当てると、やはり東郷の指す将棋を学んで、それをモンスターとやり合う時にも応用できるような形にしていくことが、一番の正攻法なのだと思った。将棋はただの遊びだなんて豪語した双葉の言い草にはとりあえず目を瞑るとして……、とにかくその方法なら、彼女から情報を聞き出せるはずだ。

 それらをなるべくオブラートに包んで、東郷に交渉を仕掛ける。

 

「……私の指し方に、興味を抱いたと……そうですか。そう言ってもらえると……ありがたいです。あ……では、ダークインフェルノ飛車なども……ご存じなのでしょうか」

 

 ……?

 今、聞きなれない横文字が聞こえてきた気がするのだけれど……。

 

「な、なんでもないです! ええ……なんでもありま、せん」

 

 何故か頬を赤くした後、「しかし、師匠……ですか……」と考える体勢を取り、沈思黙考といった様子で唸り始める。

 

「……」

 

 どうやら長考しているようだ。

 ……そういえば、ダークナニガシとは一体何の話だったんだろう。どこか、中学校時代のアレコレを彷彿とさせる――、

 

「それでは……」

 

 ――響きだったな、と思っていた時。

 考え込んでいた東郷は、ようやくその顔を上げて俺を見た。

その表情は随分と張り詰めていて、目が座り、眉毛がキリリと険しいものとなっている。さっきまでの、比較的穏やかなそれとは似ても似つかない表情。その一瞬の変貌に、俺は思わず生唾を呑み込んだ。

 

「申し訳ありませんが、将棋の世界とは則ち、一握りの才能と一握りの努力家が織りなす宴……あなたにその資格があるのかどうか、僭越ながら私が確かめさせていただきます」

 

 滔々と、実に流ちょうに東郷は話した。

 

「六枚落ち、一手二十秒の早指しで。それで貴方に、将棋を教えるに足るるかどうか、見極めさせていただきます。それでよろしければ」

 

 温かみを根こそぎ落としたかのように、冷徹なその言葉が俺の肌を撫でる。鞄の中にいるモルガナもきっと、ブルブル震えているに違いなかった。

 けれどここで引き返し……あるいは、そのまま圧倒されっぱなしでは終われない。乗りかかってしまったからには、中途半端は許されないと思うから。

 余計な事は考えまいと、俺は意識的にかぶりを振って、その後首肯した。すると彼女も同じく頷いて、俺の了解を認識した素振りを見せる。

 東郷が深呼吸をする。吸う息が心なしか震えているように思えるのはきっと、武者震いからだろうか。

 真剣。本気。真摯。

 初対面の相手にも、将棋のルールさえ分かるかどうか分からない人でも、真剣に向かう覚悟。東郷が、いつもどんな世界を渡り歩いてきているのかが垣間見える。

 ……本気で潰そうとしてきていることを、疑う余地はなかった。

 それならば俺も、倒すつもりで挑まなければ。彼女のその覚悟に、真摯に向き合うぐらいの気概は見せなくてはならないようだ。

 そう俺は結論付けて、彼女が作り出この一瞬で作り出した緊張感に呑まれそうになりながらも、しっかりと彼女を見据えた。

 

「参ります」

 

 こうして、東郷との、入門を掛けた勝負が始まった。

 



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5/15『Three』

「蒼穹をなす臥竜は、我が手に堕ちました。この厳しい局面を、貴方はどう生き残るおつもりです?」

 

 ……。

 

「感じる? この戦場にコダマする、犠牲となって散りゆくモノノフ達の、雷鳴の如き号哭……」

 

 ……………。

 

「眠れる獅子たる由縁の業火を見せよ……今、その力を解放せん! アルティメット・コメット・ジークフリートォ!!」

 

 …………………。

 

「ありがとうございました」

 

 そう言って東郷は、深々と腰を曲げた。

 かという俺も、慣れないお辞儀にギクシャクしながら応える。が、頭の中は、今起こったことを整理することで手一杯だった。ハンデをものともしない力強い将棋に、考えもつかないような手を、ものの数秒で繰り出してくる思考速度。

 そして……。

 

「あの……勝負になると、その、熱くなってしまうんです。……引かれたでしょう?」

 

 なにより、一見寡黙そうな彼女の、過激な()()だった。いや、彼女自身は自覚はないのだろうけれど……どうしてだか、背中の辺りが痒くなってきそうな口調だった。

 ダークナニガシって、そういう事だったんだ……と、今更ながら納得する。

 ともかく。

 俺はそこまで引いていない、と言って、首を横に振る。

 

「そ、そうですか……なら、良かったのですが」

 

 実際そこまで引いていない。それにしても、女流棋士で美人でその口調と、随分キャラが濃すぎる気もするが。

 そして、どうして将棋を指している時だけそんな変わった性格になるのかが気掛かりだ。スポーツ選手の中には、大声を出してアドレナリンを出し、競技のパフォーマンスを上げる人がいるらしいが……彼女も、そういったことを実践している人なのだろうか。

 

「いえ……少し、違います。私はなんというか、自然と声が出てしまうんです。……ええと、あ、この駒……」

 

 東郷は他の駒よりは大きな、『王将』と彫られている駒を指でなぞる。

 

「これに、成りきってしまうんです。将棋盤は戦場、歩は足軽――」

 

 ふむふむ。

 

「――龍は『金龍』、馬は『ペガサス』」

 

 ……いきなりファンタジー風な名前になったな。

 

「ええ……それだけは譲れません」

 

 重々しく東郷は頷く。どうやらその呼び方が、かなり気に入っているようだった。

 

「と、とにかく、私が王将、そして周りの駒が私に仕える戦士達のような気持ちに……本気になると、なってしまいます。そうすれば自ずと、戦の局面や、状況の優劣が見えるようになるような……そんな気がします」

 

 なるほど……? なりきってしまう事で、得られる恩恵もあるのか。

 

「ええ……? あなたも、如何でしょうか?」

 

 いつしか落ち着いた表情になっている東郷が、柔和な微笑を見せる。

 そんな様子に思わず頷いてしまいそうになる。……やんわりと、断っておいた。

 しかし、こう話し込んだとしても……俺は彼女に、完膚なきまでに、そしてハンデありで負けてしまったのだ。対局が始まる前の東郷の言い方なら、この勝負に勝てば、将棋を教えてくれるということだったのだろう。しかし……、

 

「あ……その件なのですが……。新手の研究台としてであれば、その……どうでしょう?」

 

 

 ……え?

 

「確かに勝負には、勝たせていただきました。……しかし、一度は攻め入られてしまいました。それ即ち、私は攻め入られてしまう前に、貴方の攻めを対処することができなかったということです」

 

 確かに俺は序盤に、自陣の手駒をふんだんに使って、ただでさえハンデで駒が少ない東郷の陣地に切り込んだ。が、軽くいなすように捌かれて、反撃された訳だけど……。

 

「そうですね。やはり、詰めは少し甘かったかもしれません。……しかし、貴方はしっかりと、どの駒の長所を殺すことなく動かせているように思えました。……ほぼ、直観的に、です。……つまり、貴方には勝負師としての、勘があると……」

 

 ……。

 

「……そう思いました。……それもまた、私の勘、ですけど」

 

 と、そう言ってはにかむ東郷はやはり普通の女子高生のようで、勝負師や、棋士にはとても見えなかった。

 

 

 

 

「でかしたな!」

 

 また来てもいいかと東郷に告げて、そして別れて。

 神田の辺りで暇をつぶしていたらしいモルガナは、俺が教会の扉を開けた直後を見計らうように、奥の暗がりになっている所から顔を出した。このあたりのタイミングの良さで、少しずつモルガナと良い関係を結べていることを感じる。

 

「ちげーよ。おまえがボコボコにされてないかって、ヒヤヒヤしながら教会の窓から見てたんだ」

 

 ……そうですか。

 

「まーまー、そんなのはどうでもいいってことよ! 東郷と知り合いになれたというのはデカいぜ? 双葉が教えてくれた甲斐があったな~」

 

 別に本気になって隠すようなことではないのかもしれないが、取り立てて皆に話す理由がない以上、双葉のことは怪盗団のメンバーには話していない。

モルガナを除いては。モルガナにバレずに双葉と会い続けるのは、双葉の言葉を借りれば、無理ゲーというやつだから。

 

「けど、東郷……はかなり、頭のキレそうな人ではあったな。……どうだ、双葉とどっちが賢そうだ?」

 

 ……ううん。

 いや、確かに東郷と双葉は天才の部類に入るはずだけれど……なぜだか、全然違った印象があった。そもそも別ジャンルというか……まあ、性格という面では、双葉の方がかなり尖ったそれをしている気がするけど。

 では、フタバのその内気な性格を決定づけた原因はなんだったのだろうか。……ただの遺伝? 父親……マスター? じゃあ……母親は。

「オーイ、早く入れてくれよー」と矢継ぎ早やに言うモルガナを放ったらかして、何も閃かなさそうな議題にうんうんと唸っていると、前から来た男と肩をぶつけてしまった。

 俺がぼうっとしていたから当たったのだろうかと思い、「すみません」と謝る。

 

「……チッ」

 

 しかしその男は何も反応を示さない。……今一瞬、舌打ちのような音まで聞こえたような気がするし。そんなに邪魔だったのだろうか。

 

「……行こうぜ」

 

 俺がよろけた隙に入ったのか、鞄の中からモルガナの低い声が聞こえてくる。モルガナもモルガナで、何か彼に思うことがあるようだった。

 まあいい。

 今日はさっさと帰って、さっさと双葉にこれを渡しに行こう。「お勤め、ご苦労!」と双葉の変な労いの声が想像できる。

 短い時間だったとはいえ、将棋をすることになったので思ったよりも空は暗い。今、日は長い方だから、かなりの時間が経っているのかもしれなかった。

 スマホで一応時間を確認して、教会を後にする。東郷は、今も将棋に励んでいるのだろうか。

 …………この時。

 もしも男にも当たらず、この後起こるであろうもう少し先を考えていたら……きっと、あんな事にはならなかったのかもしれなかった。

 回避できたのかもしれなかった。

 けれど、今は……この大きな荷物を渡した時の、双葉の表情をただただ想像しながら、家路につく。

 自費だったらどうしよう……それはちょっと、想像したくない。

 



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日記3 5/15-5/23

5/15

 

夕方:東郷一二三と出会った。

   理知的に見える容姿から垣間見える、あの何かが漲った闘争心は、やはり紛いもなく第一線で活躍している棋士のそれだった。本当に興味半分で来てしまった自分が恥ずかしい……。どこの馬の骨か分からない(使い方を間違えているかもしれない)不審者を、あろうことか弟子にしてくれるという神対応は、穏やかな懐の広さを感じると共に、少なくとも俺からは『孤高の天才』などというレッテルを張られている訳をうかがい知る事は出来なかった。

   それよりだ。双葉がBD代をばっくれようとしている。「おおっ!乙!」なんて言って威勢よく俺を迎えに来て(扉は開かなかった)くれたところまでは良かったのだけれど、どういうことか一斉代金の話を口にしない。あえて聞くのも野暮だとは思って、結局その日はうやむやになってしまった。もしこのまま知らぬふりを決め込むというのなら、俺も俺なりに何か痛快な仕返しを考えないといけない。鴨志田の時の6000円を、まさかこんな所で使ってしまうとは。

夜:竜司と杏が、斑目の個展に行ったことについての報告を受けた。杏が、喜多川の絵のモデルになるらしい。確かに昨日彼がそんな事を言っていた気がするけれど、どうしてまたそんな事を受けてしまったのだろう。この事をモルガナに知られてしまうとまた発狂しかねないので、その視線を気にしながらこの日記を書いている。明日喜多川の自宅でその理由を教えてくれるらしい。もしかしてもう明日する気なんだろうか。随分と気の早い話だ。

 

5/16

 

昼:生徒会長が、怪盗の事を色々嗅ぎまわっているらしい。恐らく校長とかからの差し金だろう。名前は新島真と言うらしい。

 

夜:色々な事が起きすぎて、ここに全て書き記しているとキリがない。なので、一番心残りだったことを正直に白状しておく。杏がフルヌードにはならなかった。

 

5/20

 

昼:中間試験のテスト結果が張り出されていた。厳しい。竜司と傷を舐め合うのもやぶさかではなかったけれど、杏の英語の結果の良さに白けてしまった。なんだか勝手に裏切られた感じだ。もっと頑張らなければならない。新島は噂の通り、総合でトップに躍り出ていた。すごい。

 

夜:少し用があって、また喜多川&斑目宅に足を運んだ。杏はやはり、脱がなかった。

それよりも最近、なんだかつけられている気がする。恐らく、彼女の所為で自意識過剰になっているのだろう。しかし気を付けなければ。

 

5/23

 

夜:任務完了。

 



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5/26『Bath』

5/26

 

俺の住んでいる屋根裏部屋はもちろん、ルブランには体を洗う場所がない。かと言って汚い体でパレスに入り、仲間はおろかモンスターにまでも顰蹙をかう訳にはいかないので、近くの銭湯に通わざるを得ない。こうして四茶にある『富士の湯』は俺の行きつけの銭湯になっており、例に漏れず今日も今日とてそこに通っていた。

一回500円。

なんだワンコインじゃんラッキーといっても、これが毎日の出費となれば一介の高校生である俺にとっては馬鹿にできない。しかも、最近とある理由で模倣銃を四人分揃えたり、薬局にある絆創膏を買い占めないといけないようになったので尚更だ。最近温めに温めていた鴨志田の6000円も吹っ飛んでしまったし……。

 ともかく。

 微妙に立て付けの悪い扉を開けて、脱衣所で支度をしていると、なにやら浴槽から良い香りが漂ってきて……そうか、今日は木曜日だったっけ。

 ドアを開ける。眼前に広がるのは、素朴でありかつ趣を感じる富士山の絵と――、

 

「よぉ。入ってんぜ」

 

 ……頭をワシャワシャと泡立てている、佐倉惣治郎……マスターだった。

 

 

「あんがとよ。男に背中を磨かれるのはめったにない体験だな。また頼むわ」

 

 男には、ねぇ。

 ちょっと、いやかなり気になる発言をした惣治郎さんの背中をゴシゴシとなぞる。やっぱり、モテそうだもんなこの人……。

 

「おいおい、まだ惣治郎『さん』って言ってんのか。別に惣治郎で良いからな。あとはまあ、マスターとかな。さん付けされるとなんか、ここら辺がかゆくなるわ」

 

 心の中とか、店番をしている時はマスターと呼ばせてもらっているけれど、一応そうでない時は『さん』付けしていたのだけれど。マスターはそれが嫌だったらしい。首筋に爪を立て痒そうにそこをひっかく仕草をしている。

 ……ん?

 『ここら辺』という話題に、何かデジャヴめいたものを一瞬感じる。あれは……そうだ、双葉だ。なるほど、いーっとなるのはそこだったのな。

 

「けどまあ、従順なもんだねぇ。人殴ったって聞いたときは、どんなならず者が来んだと思ったのによ。なんだか、拍子抜けしちまった」

 

 ヒドい事を言う。

 それはさておいて。

 マスターの俺に対する物腰は、日を追うごとに柔らかくなっていった。どうやら双葉から俺が時々来ている事は知らされているみたいで、会った日の翌日は、気持ち、話しかけてくれる回数が多いように感じた。

 とにかく、マスターは俺への警戒を、ある程度は解いてくれたらしい。最初双葉の存在を教えてくれなかったのも、そういうことだったのだろう。

 

「本当にお前さんが、ねぇ……」

「……」

「……別にいいけどよ。それより、双葉と話してくれてありがとな。秘策、役に立っただろ?」

 

 

 悪い笑みを浮かべるマスター。俺もそれに応じたいところだけれど、如何せん完全に成功したわけではなかったので、微妙な笑みになる。

 秘策。

 それは俺が実行した、うみゃあ棒(お徳用)によって双葉の心を動かそうという無謀も甚だしい奇策であり愚策……と当時の俺はそう思っていたのだけれど、今思えば、俺より何十倍も双葉の事を考えてきたはずであるマスターが考えたものが、成功しないはずなかったのだ。……その結果が『食べ物で落とす』であったというのが、なんとも締まらない話ではあるけれど。

 

「……嬉しそうだったよ、あいつ」

 

 ふむ。

 好物のうみゃあ棒をあんなにたくさん食べれたのなら、さぞかし幸せだったに違いないだろう。

 

「違ぇよ。……まあいいか。野暮に口出しすんのは好きじゃねぇ」

 

 と言って、マスターは屈託のない笑いを俺に見せる。いつものどこか含みのあるような笑顔とは、まるっきり正反対に感じる。

 それは、俺にとっては始めて見た、マスターの心からの笑顔のように思えた。楽しんでいるような、喜んでいるような……それはきっと、双葉の事だからこそなのだろうと、疑いもなく腑に落ちる。

 

 そういえば、マスターはどうして富士の湯にいるのだろう。まさかこんな事を言うだけの為に来たんじゃあるまい。佐倉家にはちゃんと浴室があるはずだし……、ここで見かけるのも初めてなのだ。偶には来るのだろうか。今日は薬湯だし、あり得ない話じゃない。

 

「あぁ、それには理由があってな。けどその前に……体流させてくれ」

 

 ゆっくりとマスターはこちらを振り向いて、左手で自分の背中を指した。

 

「どんだけ背中洗うつもりだよ。皮まで剥がすつもりかよ」

 

 

 今日お湯を貯めていると、浴槽から水が漏れていたという事を、湯につかりながら惣治郎さんは教えてくれる。

 

「まあ、偶には良いもんだな。薬湯が老骨には染みるよ」

 

 今日は遅いから業者に頼めないとかで、明日運んで貰うらしい。

 じゃあ双葉は来ているのかと、ふと思う。

 

「双葉、今日はお留守番するんだってよ」

 

 ……頑なに出ようとしないのな。予想を悪い意味で裏切らない。

 しかしそれは流石に、ちょっと不潔だな……。一応毎日体くらいは水で流しているんだろう。いくら引きこもりだからと言っても、まさかシャワーも浴びないという訳にもいかないだろうし。

 

「おうよ。夜遅くに水の流れる音がしてるからな。一応気にはなるらしい」

 

 ふむ。

 じゃあ今日だけは我慢するということか。一日くらいは大丈夫だろうと判断したのだろう。なんたる引きこもり精神。

 ……。

 待てよ……?

 モワンとした、少しキツめの体臭を振りまくオーラを纏いながらアニメを見ている双葉を想像していると、唐突に未払いDVDの事を思い出した。6000円。仕返し。前倒し。

 思考が、こんな時に限って凄まじく速いスピードで進む。頭の中にある情報をかき集め、吟味し、再確認し、判断。……なんて大仰な事をやっている訳じゃないのだけれど。

 悪さをするときは勢いが大事なのだ……と、どこかの誰かが言っていたような気がするし。

 マスターに向き直る。湯の熱で少しふわふわとした気持ちになっているけれど、そこはちょっと抑えて、髪の毛一本分冷静に。

 

「そのお風呂の着工、もう少し待ってもらえませんか?」

 



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5/27『From “Unknown”』

5/27

 

 LINEアイコン右上にある、『427』という数字を見て俺はゲンナリとする。どうやらマスターが、この事件の全貌を語ったのだろう。確かに惨い事を計画しておきながら、宣戦布告をしないなんて公平さに欠ける。これで俺と双葉の立場は、丁度イーブンイーブン……どっちに転ぼうが恨みっこなしの状態となった。

 相手の窮地に付け込んで仕掛けたのだから公平もクソもないだろうという進言は、この際は考えないものとする。

 昨夜のマスターとの議論はかなりの時間を要した。正論を詭弁で退け、義憤を欺瞞で押しのけながらの撤退戦を余儀なくされていたのだけれど、あまりにも埒が明かなかったので、サウナ室で我慢比べという事になった。もちろん勝った。もちろんそれを提案したのも、言うまでもなく俺だ。スチームサウナでタコのように赤くなるマスターを見て、罪悪感と後悔が尋常じゃなかったけれど、しかしこれは大いなる野望と、深淵なる目的のため。マスターには申し訳ないけれど、犠牲になってもらう。

 さて。

 こうして俺は、通知の鳴りやまないスマホをポケットに入れて、佐倉宅の前に来ていた。

 玄関扉をやや強めに開ける。これで双葉は俺の侵入に気付いたのだろう、スマホのバイブレーションがピタリと止んだ。……あまりにもの通知に、スマホの充電が切れただけかもしれない。

 ともかく、扉を閉め靴を脱ぎ、階段をのそのそと上がる。そして見えた『PRIVATE/DO NOT ENTER』の文字。俺と双葉を隔てている、薄くも分厚い、鉄壁の扉。

 それを俺は、今改めて、こじ開けようとしている。

 

「やぁ……待ちかねたよ。いつもワタシを、待たせてくれるな……」

 

 どこかで、そしていつか聞いたような口調が、扉の向こうから流れてくる。その声は心なしか、怒りで震えているようだった。

 

「しかしよくワタシのLINEを開かなかったな。もし開いてたら、そのスマホ、ウイルスで使いもんにならなくしてたのに」

 

 ……マジか。なんてもの送り付けてたんだコイツ。

 

「まあ、それはいい。風呂だ。……ワタシが業者に電話すらできないコミュ障をいいことに、至福の時間のお風呂タイムを一日に飽き足らず、二日もお預けにする。なんてやつ! 極悪非道、衆悪千万。くっころ……ぐぬぬ」

 

そう言って、歯ぎしりをして……いそうな様子の双葉。相変わらずどんな表情をしているかは分からないけれど、なんとなくというか、どんな気持ちでいるのかが分かるようになった。それと、双葉は実はとても感情が豊かな子であるという事も……次第に、理解していった。

 

「理由は多分、分かる。あれは、その、ごめ……ん。あんなに高いとは思わなかった。そうじろーから貰った分だけで、足りるとか思ってた。……全然ダメだったというのは、貰った後で知った」

 

 けれど、喜んだ時、楽しそうな時に見せる表情は、出会って一ヶ月経った今でも分からない。実際の双葉は、あの日UFOを食べた時で更新は止まっているのだ。扉越しで話しているのは、LINEで文章を送信しているのとなんら変わらない。ただ、無機質な情報のやり取りに肉声があてがわれただけなのだ。

 

「だ……だから、待ってほしい。ちょっと……そうだな、二か月後、くらい。それなら、お小遣いが溜まる」

 

 それを取っ払ってみたいなんて、声付きLINEに終止符を打ちたいなんて思うのは、双葉の気持ちなんて碌に考えない、俺の単なるエゴだろうか? 降って湧いてきたような切っ掛けにかこつけて、俺と双葉を切り取る扉を無くしたいなんて考えるのは、一人じゃなんにもできない俺の、俺自身に対する言い訳だろうか。

 なんて。

 そんな詩的で自意識過剰な事を考える程、俺はそこまで賢くはない。もっと感情的で、論理に訴えない、間抜けに思われるようなやつ。

 

「お金は、払わなくていい……だと? じゃあ……なんで?」

 

 双葉と会って、話したい。

 何一つ、初めから変わっていない……それが俺の、この計画を実行した理由。

それ以上もそれ以下もない。

 

「……?」

 

 スーハ―、スーハ―。

 

 俺はどうやら、アドリブに弱い。

 それは東郷の時に改めて感じた、俺の弱点のようだった。いきなり気の利いたことなんて思いつかない。当意即妙なんて言葉すら最近知ったほどに教養もないのだから、それは当たり前だ。

 しかし逆に、ちゃんと何を言うかを準備して、しっかりと深呼吸したのならば、俺にも勝機はある……はずだ。モルガナに「大丈夫かよ……」なんて割と普通に心配されたけれど、あれほど練習したのだから、失敗しないはずがない。考えに考え抜いた台詞を諳んじて、それを咀嚼するようにうんうんと頷く。大丈夫、大丈夫……。

 察しの良い人はもちろん、悪い人でも何を言うかぐらいは分かるかもしれない。けれど、それは俺が思いついた、多分一番無難な言葉。

 何気なく、すっかり打ち解けた、友達同士のようなノリで。

 よし。

 3、2、1……。

 

 

「双葉、一緒に銭湯行こう」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……?」

 

「……」

 

「……双葉?」

 

「……どこの、戦場?」

 

「いや、銭湯。戦闘じゃなくて、銭湯」

 

 そんな軽いノリでドンパチしようと誘う奴があるか。

 

「いや、どどど、どうして、そうなる。脈略がない。前後の、繋がりに、欠ける」

 

 ……そうか?

 とりあえず俺は、風呂に入れないのだから、銭湯に行ったらいいじゃないと、マリー・アントワネット論法で説明する。……なんだかマジックのネタバラシをしているようでちょっと、具合が悪い。

 

「だとしてもだ! 一緒に銭湯入るって、お……おかしい? 超展開すぎない!?」

「普通だ」

「普通なの!? そ……そうなんだ。ノーマル、なんだ……」

 

 ……多分。

 

「ちょ、ちょっと、セーブさせて」

「無理だ」

「ぐぬぬ……じゃあ、考えさせて、ほしい。一世一代。頑張る」

 

 どう一世一代で、何を頑張るのかは判然としなかったけれど、双葉はそう言って黙り込んだ。心なしか、ドタドタと何かをしているような音が、扉から聞こえてくる気がする。

 もう、後戻りはできない。

 俺は、変化が欲しいと望んだ。……だから、どっちに転んでも、後悔はしないようにしよう……と、心に決めている。もしその結果関係が悪化したとしても、拒まれてしまっても……誰にも文句は言えないのだ。むしろ、勝算はきっと小さいのだろう。

 ……。

 けれどやっぱり、ちょっと緊張しないでもない。

 いや、めちゃめちゃしている。なんなら今は去った高校の受験の時よりも緊張しているかもしれない。呼吸が浅い。待ち遠しい。

 

「フ、フタバは……ケツイが、ミナギった」

 

 と。

 天井を見上げて、勝算を計算し結果E判定だという事に絶望しかけていると、突然()()()()()()()……本当の意味で。

 双葉が、目の前にいた。

 あの日と同じ、ギークな服を着ていた。

 恥ずかしそうな表情を、初めて見た。

 髪は相変わらず、鮮やかなオレンジ色をしていた。

 扉はもうとっくに、開いていた。

 

「シ、シクヨロな、トモダチィ」

 

 こうして、俺は佐倉双葉と出会った。

 



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5/27『to “Known”』

 天井に架かっているファンがグルグルと回っているのを、火照った眼でボンヤリと見つめながら、俺は自身が犯した罪について考えていた。

 まず始めは暴行。スキンヘッドのおじさんを、怒りに任せ怪我を負わせてしまったやつ。これで俺の人生は急転、積み上げてきたものが一つ残さず爆発四散し、代わりに身に覚えのない、俺に対する悪い噂をトントンと積み上げることとなった。湯上りで頭がボーっとしているから、戯言が全然上手くないのはとりあえず置いておくとして……しかしこれにはれっきとした理由があったのだ。俺が恥じ入る筋合いはない。むしろ胸を張るべきだ。よってこれはノーカウント。

 そして不法侵入。曲がりなりにも人が住まうパレスであろうことか、土足と可笑しな装束を着て窓やら塀から侵入し、さらに盗みを働いた。……いや、これは認知世界のことなのだから、これも勘定に入れなくて良いだろう。

 つまり俺は、世間からはどう非難されようとも、自身のしょっぱい正義には反しないように一応心掛けてきたのだ。最近よくネタにされている、『一線を越えていない』ってやつ。

 ともかく。

 俺は未熟な高校生なりの考えと冷静さをもってして、万事物事を良く見つめ、そして生きていた。何も恥入ることはない……むしろ胸を張っていい半生を過ごしてきたと豪語してもよい。よかった。

 よかった……のだけれど。

 『女湯』と書かれた、中が見えないような構造をしているガラスに目を移して、先ほどやらかしたソレについて考える。

 恫喝。そして誘拐。外の世界を拒む少女を、卑劣な手段でおびき寄せ、すぐさま銭湯へ連行。怪盗の名に恥じぬ、圧巻の手際だと言っていい。

 しかしこれは、どう考えてもただの非道な犯罪行為であるという事実は、銭湯から出た後に、じわじわと俺の脳内に忍び寄ってきていた。

 湯冷めと共に、頭も冷めた。

 

「どうしよう……」

 

 頭を抱える。

 いや、どうしようなんて、どうしようにしても俺がした事は変わらないのだけれど。双葉が銭湯から出てきて「よしっ! 次は交番に行こう!」なんて言われてもおかしくない。されるがままだ。

 ……謝ろう。

 謝って済む話じゃないって事は、十分心得ているつもりだ。しかしまずは双葉に誠心誠意をもって謝罪の意を顕す。話はそれからだ。

 そう()()()()考えていると、富士の湯には見慣れない、オレンジ色の物がピンボケした目に映る。

 

「まだ風呂に入ってないのか? すげぇ顔、青いぞ?」

 

 双葉だった。

 諸々全て洗い流せたようで、染めた髪がいっそう艶やかになっている。出てすかさず眼鏡を付けたからか、少しだけレンズが曇っているように見えた。

 時間からすると、その長い髪を乾かすのに結構時間が掛かっていたのだろうか。

 

「ホントに? せっかく入んなら、もっと浸かる、べし!」

 

 台詞の通りベシッと人差し指を反らして、俺を指さす。か細い手でポージングをした双葉は、中々にキマッている。

 いやいや。

 それより、謝らないと。双葉独特の空気に流されてる場合じゃない。

 

「まーいい。疲れたし眠いしな。コーヒー牛乳飲みたい」

 

 すぐさま自販機へ走り、ビンのそれを買い蓋を外し、双葉に手渡す。「おー!」と声を上げながらも、それを受け取る。

 

「んじゃまー、後は……その……」

 

 言い澱む。

 なんだろう。心なしか頬が赤くなっているような気がするのは、お風呂あがりだからだろうか。

 

「……久しぶりに、UFO食べたい」

 

 

 

 双葉をルブランに上がらせ(幸い交番へは行かずに済んだ)、カウンターで待たせる。突っ伏すように机に頬を預けて、今にも寝てしまいそうな雰囲気だ。流石に寝るにはまだ早い時間だと思うけれど、まあ、眠たくなる気持ちも分かる。

 『CLOSED』と掲げられた札を見ておや、と思うと、マスターはいなかった。どうやら、どこかに出かけているらしい。双葉は人が苦手なようだから、客がいなくて助かる。

 一応UFOを開けてあげたが、やはり箸のスピードが遅い。トロンとした目をこすりながらなんとか口に運んでいる様子は、チキンラーメンを食べるポニョを彷彿とさせる絵面だ。

 別に期待していたわけじゃないんだけど、滝のように麺を啜り上げるアレを久しぶりに見てみたいとは思わなかったと言えば、嘘になるけれど。

 そんな双葉を見つめながら、今日あった事を思い起こす。双葉から何百ものウイルス付きLINEが送られて、銭湯に誘って、OK貰って。

 ……そういえば、OKしてもらった理由が謎だよな。

 掘り返す度にボロが出てきそうな計画だったと思う。いくらマスターをやり込めたとしても、双葉が彼に泣きついたりしていれば、マスターは普通に業者を呼んでいただろう。少し、いやかなり不潔になったかもしれないが、最終二日とも家から出ないで我慢するという選択肢もあったはずだ。なのに彼女は今ここに居て、眠たそうにUFOをモソモソ食べている。それとなく理由を聞いてみようか……。

 

「あー……。たぶん、変化が欲しかったんだと、思う」

 

 変化?

 そう喋る双葉は思ったより、いや、普段よりも饒舌で、淀みなく言葉を紡いでいく。早すぎる頭の回転が眠気で中和されて、その、とてもいい感じになっているんだろうか。

 

「外に出ると、ホントに色々あるんだろうって思う。色んな人に出会ったり、迷ったり、なんだかんだで着いたり」

 

 双葉は語る。

 カックンカクンと、首を上下左右に振り回しながらも、語る。

 

「けれど、ヒッキーになってるとそれがない。5ch流し読みして、バズってるツイートを適当に読んで、アニメ見て、それだけ。何もない。」

 

 ワタシには、何もない。

 そう言って、双葉の口元が歪む。誰かに憐れんでいるような、誰かを笑っているような、様々な感情が綯い交ぜになったような表情。

 双葉はやっぱり、感情が豊かな子だ。と、場違いにそう思う。

 

「けどそれを、部屋から出ないと決めたのは自分だって、分かってる。ここから出ないのも、自分の意志だって。そうやって自分を縛って、締め付けて、そうして……出なくなった。自分一人じゃ……出れなくなった」

 

 まるで、自分の中にもう一人自分が居るかのように、自虐を込めて双葉は感情を吐き出す。それは堰を切ったように溢れ出した感じではなかったけれど、段々と、俺の心に染みわたっていく。

 自分の中のもう一人の自分……か。

 

「だから……フラグが、欲しくなった……私の人生を変えてくれる、ご都合主義のラノベ的な……展開を、いつしか、望むように……なった」

 

 そのフラグが……俺だった?

 

「…………」

 

 スゥスゥと、空気が漏れる小さな音がルブランに響く。そちらを振り向くと、双葉が目を閉じて眠っていた。頬がグニャリと変形して、なんか餅みたい。

 結局謝りそびれてしまった……仕方がない、また今度にしよう。

 実に弾力のありそうなソレを突きたくなる衝動をなんとか抑え込んで、椅子で眠りこける双葉を抱え込んだ。……想像以上に軽いな。

 ええと……まあ双葉の部屋まで届けようか。一瞬自分のベッドで寝させることを考えたけれど、それをマスターに見られてしまったらどう誤解されるか想像するだけでも恐ろしい。

 余ったUFOは後で片づけてっと……おや?

 パックの中身を見てみると、焼きそばがない。しなびた野菜も奇麗さっぱりなくなっている。

 つまりは、微睡みながらもちゃんと全部食べてくれていた訳で。

 

「フフフ……ごち」

 

 勝ち誇らしげに、そんな寝言を言う双葉に、不覚にもドキッとしてしまう。口の周の広範囲についたソースの跡が、苦戦しながら食した様子を物語っていた。

 双葉……なかなかやりおる。

 腕から伝わるほのかな重みを感じながら、そう思った。

 



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第二章『Confession Beneath the Fireworks』
6/6『Behind』


6/6

 

 定期テストが、あと一ヶ月まで迫っている。

 なんだあと一ヶ月もあるじゃん、と思っている方の気持ちは良く分かる。実際俺もそうだった。テスト勉強はテスト期間にすればいいだろ、と高を括って挑んだ結果、竜司や杏と肩を並べるという見るも無残な結果に。

いや、別にあいつ達をディスりたい訳じゃない。

それでもしかし、怪盗団が進学校の落ちこぼれ集団だという事実は少々、目も当てられない。

という訳で俺は、備えあれば憂いなしとばかりに筆記用具店に足を運んでいた。付箋、シャー芯、ノート……必要になってくるであろうと思われるものを、片っ端から詰めまくる。シャーペンって500円もするのか。高ぇ……。

ボールペンは一応、色んな種類のものを買っていこう。赤、青、オレンジ……あれ。

 

「あ……あわわ……」

 

 店の一角で膝を丸め、ノートを抱えたオレンジ色の物体Xがいた。

 言うまでもなく、双葉だ。

 

「お……おお!」

 

 双葉は俺の視線に気づいたのか、大声をあげて俺を目指して疾走する。危ないですので、店内では走らないようお願い申し上げます、お客様。

 

「やべぇ……死ぬかと、思った。銭湯行って、慣れたと思ったジブンを、今すぐにでも殴りたい……」

 

 なるほど……大体読めたぞ。

 俺に銭湯へ連行されて、一人でも外出できると踏んだ双葉は部屋から出た……ところまでは良かったけれど、人に酔って比較的静かな文房具店に一時避難したという感じか。

 ううむ、ポジティブで行動力があるという点は認めざるを得ない。

 しかし平日に双葉と会うのは随分久しぶりな気がする。いつもは暇な休日に俺が足を運んで部屋の前で喋っていただけだったから、こういうイレギュラーが無ければ会うのは中々難しい。

 マダラメのパレス攻略も相当に時間が掛かった訳だし。また一二三と会う時間も作らないといけないのだから、首だんだんと回らなくなってくる。

 

「うう……ちょっと、落ち着く。しばらくここで、待機な」

 

 そういって、双葉は俺の影に隠れて深呼吸をする。それを何回か続けていると、すーはーと繰り返す呼吸音に震えがなくなっていった。

 双葉がそうやって気を溜めている間に、俺は考える。確かに双葉が脱ヒッキーを成し遂げたのは喜ばしいことだけれど、どうしてそんな突然にそうしようと決めたんだろう。彼女が、ええと、ご都合主義的に部屋から出してほしいと望んでいた事は、あの日の述懐で知ることができた。しかしその日の俺の一つの行動だけで、彼女のしがらみが解かれて部屋から一人で出てきたというのは、ちょっと辻褄が合わない気がする。

 深読みしすぎなだけかもしれない。最近、少しこの性分が鬱陶しい。

 

「……あまり、あの部屋に閉じこもる事は好きじゃ、ない。だから、まー、大脱走だ。エクソダス!」

 

 大脱走。

 ……なにか、既視感があるような。

 しかし、店内で大声を出されるのは困りますお客様。

 双葉はあまり声の調節が得意じゃない。という事は大体勘づいていた。向こう何か月は惣治郎としか喋っていなかったのだろうから、まあ、仕方のない事だろう。

 

「けど、丁度いい所に来た。これなら、安心して帰れる。必須アイテムが揃ったぜ?」

 

抱えていたノートを掲げる双葉。何に使うつもりなんだろう。

 

「ふっふっふっ……それはまたのお楽しみだ! 楽しみは、またに取っておけ。残り物には福が……福がええと……scanfされる」

 

 なんて言ったんだ今。

 ともかく。

 俺は筆記用具諸々と、双葉のノートを持ってレジで精算を済ませた後、彼女と一緒に惣治郎宅へと向かった。ノートを渡すと、素直にありがとうと言ってくれたのは結構、嬉しかった。

 

 

「空がある。風が、気持ちいい。人が居て、喧噪があって、静寂がある。こんな感覚は、久しぶりだ」

 

 変に詩的な事を口にして、外の空気を目いっぱい吸う双葉。どこぞのディストピアから転生してきたようなセリフだなしかし……。

 

「ずっと部屋にいると、なんか時間が止まった気持ちになるんだ。ネットでニュースとか見ても、所詮は文字だから味気ない。だからなんか今は、生きてる、って、そんな実感がある」

 

 銭湯の日を除けば久しぶりのお外にテンションが上がっているのか、妙に饒舌な双葉。感動しているのはとても良いことだ。けどなんか、ここら辺がいーっとなるな。

 

「うるせーなー。いいだろー、別に……」

 

 ふてくされられた。

 

「逆に感動しない方が変だとワタシは主張する! 慣れすぎて、感覚が鈍って……きて……」

 

 反論を試みようとしかのか声を荒げた双葉が突然、何も言わなくなる。いきなりどうしたんだと少し頭を低くして顔色をよく見てみると、見たことのない剣呑な表情になっていた。

 そんなに機嫌悪くならなくても……ってうおっ!?

 

「……こっち」

 

 いきなり手を掴まれて、行き先とは90度違う道に引っ張られる。いきなりどうした、双葉。

 なんか自然な流れで手握られてるし……お客様。

 

「……次は、ここ」

 

 今度も同じ角度で曲がらされて、ついに佐倉宅とは真逆の方向に進む。なにか、忘れ物でもしたのだろうか。いや、それなら来た道を引き返せば良いわけだし……。

 声を掛けてみても、全然応じないし。目を見ても集中しているのか何かを必死に計算しているのか、ただ二つの瞳がビクビクと縦横無尽に彼女の目で動きまくっているだけだ。ブツブツと何か呟いているようだが、生憎今回は逆にボリュームが小さすぎて聞き取ることができない。

そんな調子で、右に左に早足で直進しては曲がって、曲がって直進してを繰り返す。俺はただ適当に行っているようにしか思えないが、真剣な双葉の表情を見ると、どうやらそうでもないらしかった。

 そして。

 

「……見っけ」

 

 双葉が、道で何故か漫画を読みながら歩いている女性を、俺を掴んでいる手とは反対のそれで掴んだ。え、ちょっと何やってんの、双葉。

 その女性は対して驚いた風もなく、アメコミを顔に当てて立ち尽くしている。彼女も双葉も何か悟った風に落ち着いていて、俺だけが取り残されているといった格好だ。全然状況が飲み込めない。色々突っ込みたいのと考えたいのとで思考が混ざって、ただ固まっているしかなかった。

 

「何やってる。尾行は、お前には向いてないと思うぞ。バレバレだし、簡単に見つかったんならただ付いてきてるのと同じだ」

 

 尾行?

 この見知らぬ女性……俺たちをつけてたのか?

 いや、見知らぬ女性じゃない。この輪郭と服装は、確かどっかで。

 

「……あなたに、妹さんが居たなんて。知らなかった」

 

 その女性は不敵に向き直って、顔を隠していたアメコミを下ろした。

 

「あなたの妹さんって、相当賢いのね。お手上げよ」

 

 彼女……新島真は肩を落としてそう言った。

 



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6/6『Promise』

「何してた」

「用があるのは隣の彼。貴方じゃない」

「尾行してまで聞きたかったのか?」

「それは……」

「とにかく今日は引け。見た感じおんなじ制服だから、また学校でも会うだろ」

 

 立ち尽くしている俺を余所にして舌戦が繰り広げられる。今ここでその用件を聞き出そうかと考えてはみたけれど、あまり双葉には聞かれたくない話である事は明白だ。最近よく気配を感じていたのは彼女だったのか……。それにしても、制服のまま尾行とは中々……良く言えば大胆とも言える。

 アメコミで顔を隠していたのは、多分気配を察知されたくなかったからだろう。しかし路上で視界不安のままフラフラと歩いたり、時々立ち止まったりしている様子を想像してみれば、どう見ても変質者のそれだ。逆に今まで気づかなかった俺が間抜けだったのかもしれない……。

 

「……そうね。じゃあ、また明日」

 

 新島は苦々しい顔を浮かべて、左手に漫画を携えながら踵を返した。え、本当に帰るんだ。

 双葉に警戒心を抱いたからかもしれない。という事は逆説的に、いつも尾行されている俺は舐められているという事なんだよな……。

 

「なんなんだアイツ……」

 

 険しく目を細めて、口を一の字に曲げる双葉。さっきまでの逼迫したような雰囲気は鳴りを潜めて、いつもの感じになっている。瞳も動いていないし、小さな声でブツブツ呟いていない。

 

「まーいいや! 帰ろう! にしてもさー……その……」

 

 この話は終わったとばかりに、左手でノートが入った袋を持ち上げながら両手を上げて伸びる。俺も釣られて伸びる。

 思う存分伸びたかと思えば、今度は顔を伏せて、なにやら恥ずかしそうに肩をモジモジしている。

 なんだろう。

 

「やっぱり……妹って思われるんだな、その、うん」

 

 ……。

 あー……。

 そういえば、そんな感じの事を新島が言ってた気がする。あの時は色々な衝撃があったのですっかり忘れていた。ううん、手を掴んでいたのは不可抗力があったとはいえしかし……。

 どう返そうか迷って双葉をチラっと見ると、俺のレスポンスを待っているのか表情を固めたまま歩みを進めている。やべぇ、こっちまで恥ずかしくなってきた。

 双葉は俺の事をどう思っているんだろう、とふと気になる。俺は双葉の友達でありたいと強く願っている訳だけれども、周りから見たらそう思われるとは限らないのだという事は、今知った。

 俺がそうであると認識していても、彼女もそう思っている可能性は限りなくゼロに近い。という表現はあまりにも使い古されて陳腐なそれだけれど、つまりは使い古されている程大多数の人が感じている事なのだろう。俺は双葉といい友達でありたいと思っているが、双葉はそうじゃないのかもしれない。

 そもそも友達と思ってすらいないかも。

 それは、ちょっとリアルにへこむな……。

 認識の齟齬。

 認知。

 歪み。

 

「なんか反応しろよー!」

 

 と俺がへこんでいると、痺れを切らしたのか双葉が俺の脇腹をグーで突く。痛い。

 

「何も思いつかなかったらさっさと歩く! 曲がる! エスコート! 行くぞ!」

 

 RPGの主人公とばかりに人差し指を前へ指さして悠然と歩みを進める双葉。最近やったゲームに触発されているのだろうか……。

 

「部屋まで案内する!」

 

 

 

 

「うーん……ここに来るの結構、久しぶり。ま、どこもかしこも、おひさなんだけどね~」

 

 勇者フタバに先導されて行き着いた場所は、双葉の部屋でなく俺の部屋だった。

 彼女は全然自身の部屋に入らせようとしない。何か知られたくない秘密があるのかと、眠った双葉を背負って入った時はあまり周りを見ないように心掛けた。けれど、不可抗力で視界に入ったものについては特に変わった事がなかった。

 いや、まあかなり部屋の中は汚かったけれど。

 自分の家で遊ぶより人のお家で遊んだ方が楽なんだろう……けれどあの部屋は俺にとって、中々掃除のし甲斐があった。

 一日で屋根裏部屋を片づけた腕がなるぜ。

 

「スン……スンスン……しかし、人の部屋はやっぱり独特の匂いがあるな」

 

 え……俺、そんなにニオう?

 手の匂いを嗅ぐ俺を余所にして、双葉は買ったノートを取り出す。

 

「じゃーん。これに、ワタシがしたい事を書き込んでいって、出来たらそれに丸をする。そんな感じで使う、つもり」

 

 死ぬ前にやりたいことリスト、みたいなものが一昔前に流行ったのを思い出す。ああいう用途で使うのかな?

 

「で、だ。それを確認して丸を付ける係を……その……もし良かったら、やって欲しい」

 

 顔を伏せて、指の端と端を合わせて目を逸らす双葉。これが、彼女なりのお願いの仕方なんだろうか。

 そういう事ならやぶさかでもない……けれど、別に自分で丸をすれば良いような気もするけれど。外に出れるようになって、その後は自分の行動次第でどうにもなるだろうし、誰の束縛も受けないはずだ。俺を挟む意味なんてあるんだろうか?

 

「ひ」

 

 ひ?

 ……既視感があるような。

 

「ひとりじゃ多分、今はあんまできないと思う、から。今日も偶々来てくれなくっても、LINEで呼ぶつもりだったし。だから……必須アイテム的な?」

 

 ああ……そういう事か。

 つまりは自分で行動が出来るようになるまで、俺に見守ってほしいと言っているのだろう。その口実を、双葉は考えに考えて今日無理やり外に出たのかもしれない。そしてノートを買おうとした結果、そこで立ち往生してしまったのはなんだか、本末転倒な気がするけれど。

 

「いいじゃん……別に」

 

 すねられた。

 まあ、俺自身も願ったり叶ったりの話だ。一度外に出てそのまま終わりなのが一番良くないパターンだったから、こうやって双葉から行動を起こしてくれるのはとても嬉しかった。

 双葉も、一生懸命変わろうとしている。

 ノート代108円で元が取れすぎるくらいの事実を、俺は受け入れる。

 

「ホントに!? じゃ、じゃあ書こう……今すぐにだ!」

 

 そうやって、時々つまらない話も交えながら、俺たちはそのノートに未来を書き入れていった。

 雨脚が強くなる空模様も気にならない程に、その作業に没頭した。

 



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6/7『Theft』

 尋常じゃない量の雨が、頼りない屋根の上に降り注いでいる。

 時間は午前九時。普通なら学校の席に着いていて、船を漕ぐ杏の後ろ姿に釣られて俺も寝てしまうような時間帯だけれど、今日はモルガナを抱いてベッドで横になっていた。

 微妙に角度が悪いテレビの画面を見る。依然として世田谷区には大雨と暴風警報が発令されていて、今のこの大雨を見る限り、消えそうにない。

 つまり、今日は休校だった。

 いきなりポーンと休みが出来ると、何もせずダラダラしてしまう日が多い。本日も例に漏れずに暇を持て余す事になりそうだった。

 

「オイオイ……、昨日は勉強道具を一式買いに行ったんだろ? 勉強すりゃいいじゃねぇか」

 

 モルガナもモルガナでそれなりに気分が上がらないのか、俺の腹の上で丸くなりながらそんな事を言う。その通りだ。

 確かに昨日は勉強する気はあった。実際帰ってすぐさま行動に移すつもりだったのだ。しかし勇者フタバの介入によって、双葉のやりたい事リストを作るというタスクが舞い込んできたのだ。しかも最優先事項。実際それはものの一時間もかからなかったのだけれど、双葉が『おっ! スターフォルネウスじゃん!!』と言い出して勝手にゲームをやり始めた辺りから俺のスケジュールが狂い始めた。それまでの勉強に対するただならぬ意欲はかくも空しく消え去り、その積みゲーを一緒に崩した後時計を確認しれ見れば、ものの見事に勉強時間も消え去っていた。雨が降りしきる中双葉を送り届け、ご飯を食べて長湯に浸かり、気が付いた頃には短針がてっぺんを通過していた。恐るべし双葉。怪盗ばりに様々な物を奪われていった。

 

「ジョーカーの名が廃るぞ……。そんな下らない言い訳はいいから、今からでもやろうぜ」

 

 呆れ声でサッサと始めろと言わんばかりに尻尾を器用に俺の顔面へと多段ヒットさせてくるモナ。

 しかし総じて一度取りこぼしたものは、中々取り戻すのは難しいものなのだ。友人関係然り、スポーツの感覚しか……。

 

「いいからはじめろよ!」

 

 怒られた。

 いや、でも待て……何か俺は、しなくてはならない事があったはず。多分。勉強なぞ下らない事より、もっと大事で重要な事が……あ。

 ベッドから身を上げる。

 そのまま勉強机を通り過ぎて、階段へ。

 

「ちょ、どこ行くんだよジョーカー」

「ちょっと掃除してくる」

 

 

 

「なんできたの!?」

「掃除しに来た」

「訳が分からないよ……。てか、良く来たな。風邪ひいても知らないぞ!」

 

 いきなりの押しかけに動転しながらも、ちゃんと気遣ってくれる双葉。優しい。

 

「いや、でもちょっ……ええぇ……? 待って、ちょっと掃除させて」

 

 その掃除をしに来たんだけれど……。五分やそこらでどうにかなる程のカオスさじゃないと思うし。

 

「な、何故それを……ああぁ……あの時か。双葉ミスディレクション、した」

 

 語呂良いな、それ。一二三に教えてあげたいくらいだ。

 双葉誤方針。

 

「開けてほしい」

「やや、いやいや……いきなり人の部屋に上がり込むとか、ゴンゴドウダン。いくない」

「昨日、双葉も俺の部屋に来た」

「うう……」

 

 わたわたと慌てだす双葉。あまりにもここから話すのに慣れ過ぎて、向こうがどうなっているのかが大体分かってしまうようになった。このスキル、他にどこで使えばいいんだろう。

 

「ド……ドウゾ……」

 

 扉が開く。双葉を背負って来たのを入れれば、これで三回目か。ふむ……双葉が出られるようになった今でも、狭き門ではあるようだ。

 俺の部屋には普通に来るのに。

 入らせてくれない、理由。

 さてさて。

 中に入ると、部屋の明かりは消されていて、パソコンの画面からいびつな光が飛び出していた。その画面中央には黒いウィンドウが開いていて、緑色の英文字がびっしりと並んでいる。何をやっていたんだろう。

 ハッカー物の映画で、少し見たことがあるような気がするけれど。

 流石にパソコンの明かりだけでは掃除がままならないので、明かりをつけるボタンを探し、押す。改めて視界が開いたその先には、やはり多くのゴミだと思われる何かやゴミ袋が山積みになっていて、五分では到底終わるわけではないという事を再認識させられる。

 思ったより多い。

 彼女を運んだ時に見たものは、氷山の一角でしかなかったようだ。

部屋の外観を再確認。足元には切り取られた新聞が散らばっていて、左にはごみ袋積み所と化した物置がある。すこし視線を右にずらせば双葉を下ろしたベッドがあって、もう一つ右にずらすと、パジャマ姿の双葉が座り心地の良さそうな椅子で三角座りをしている。

押し入れらしいそれにはシールやら写真やらが……ちょっと待て。

 パジャマ姿?

 

「な、なんだよ……そんなジロジロ、見るな」

 

 おお……ホントだ。双葉がパジャマを着ている……。

 全体的にパステルカラーのようなピンク色で、そこかしこに小さなお花が添えられている。ううむ……筆舌に尽くしがたい可愛さだ。

 

「あんまり背は昔から変わってない。だから、人に見られない服はそのままだ」

 

 ……なるほど。

 

「BTW、掃除してくれるんなら……えっと、私はどうすれば良い?」

 

 三角座りで丸まりながら(?)、双葉は口をとがらせ……る。ううん、私服と何ら変わりはないはずなのに、どうしてだか目線のやり場に困る。新発見だ。

 

「取り敢えず、着替えてほしい」

「ふふん、了解した。では……」

 

 手の結びを解いて立つと、そのまま押し入れを開ける。そこから服を出すのだろうか……。

 

「サラダバー」

 

 パタン、と乾いた音がなる。

 そのまま入ってしまった。どうやらそこで着替えるつもりらしい。早速衣擦れ音が聞こえてくるし。

 ……。

 流石に無防備すぎる気が……。俺に押し入れを開けられる、とか考えるだろう、普通。

「そんなこと、出来っこないだろ?」なんて双葉にもなめられてるという線が濃厚だ。そんなに草食系に見えるのだろうか……。もっとガツガツ行くべきじゃないだろうか? と俺の悪魔的思考が語り掛けてくる。

 

「うん……んしょっと……」

 

 衣擦れ音。くぐもった声。

 やべぇ、俺には刺激が強すぎる……。やはり俺は草食系なのかもしれない。

 チキンとも言う。チキンなのに草食系とはこれいかに。

 おもむろに周りを見渡すと、双葉がいつもはめているヘッドフォンが目に留まる。これを使ってやり過ごそうか……双葉がいつも何か聞いているのか気になるし。ただの飾りなのかもしれないけれど、それにしては高そうだ。

 耳にあてがう。爆音のEDMが流れているかと思っていたけれど、なんというか、無音に近い音が流れている。

 

「ん……?」

 

これは、空気の音、だろうか。風が耳の辺りを撫でる感覚に近い。

 何か他に聞こえないのかと、耳を澄ます。すると……、

 

『はいよ、いつものな』

 

 これは……マスターの、声か?

 どうして?

 電話……しているようには思えないけど。マスターが接客をしている時のそれだ。

 ひょっとして……。

 

「あーあ」

 

 ヘッドフォンからではない、後ろから聞こえてきた声に反応して、振り向く。

 そこには、いつもの服を着た双葉が、苦笑いを浮かべて立っていた。

 

「バレちゃった」

 



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日記4 5/27-6/7

5/27(金)

 

 双葉と出会った。UFOを食べた後はそれなりにおねむだったらしく、口をモゴモゴと動かしながら眠ってしまった。そのまま寝させる訳にもいかなかったので部屋まで背負う事になったのだけれど、双葉の体はなかなかどうして軽かった。普段食べている物はどこに行ったんだろう。力学の神秘を感じた。初めて部屋に侵入してみると思ったよりも散らかっていて、何も踏まずに双葉をベッドへ乗せるにはそれなりの努力を要した。入った瞬間双葉は苦しそうな声を上げていたけれど、なにか悪い夢でも見ていたのだろうか。……例えば、わけのわからない野郎に拉致られる夢とか。

 

5/28(土)

 

 割と久しぶりに一二三のいる教会へ行った。前に行ってからだいぶ時間が空いているというのに、何も言わずに将棋を指してもらった。相変わらず一二三は強い。夜からテレビ番組の取材があるという事で早めのお開きとなったけれど、最後まで一二三は泰然自若としていた。将棋に対するすさまじい才能を除けばただの女子高生なのだから、何か別にしたい事とかあるはずなのに、まるでそれは運命だから仕方ない。と読んでいるかのような、割り切りの良さだった。何か、普通に遊びに誘っても良いのかもしれない。杏も竜司も、付き合ってくれるだろうし。いや……喜多川も、かな。

 

5/30(土)

 

 なんとか目標としていた期日には間に合せる事に成功した。

 

5/31(日)

 

 起きたらなんと夕方になっていて、しかも体の節々が痛い。モルガナが俺の腰の上で丸まりながら、別段なにもせずにボーっとしていると、双葉が目の前に現れた。どうやら、ルブランにまでならクエストクリアらしい。なるほど。一応なんか疲れていそうな俺の事は気遣ってくれているようだった。嬉しい。今のところはどうにか隠せているようだけれど、双葉の事だから割とあっさりバレてしまいそう。怖い。

 

6/3(金)

 

 教会へ将棋を指しに行った。何故かいつもの弁舌を振るわない一二三に乗じて攻め入っていると、『将棋モード』ではない普通の一二三の口調で詰んでますよ、と投了を促された。将棋でないモードにも太刀打ちできないのかと絶望の淵で佇んでいると、一二三がグラビアの撮影をする事になったのだと打ち明けてくれた。貴方といると、ついつい口が弾んでしまいますと言ってくれていたけれど、全然そんな自覚はない。ただ、俺からはあまり喋らないから場を持たせるために喋ってくれたのだと思う。閑話休題、――

 

「嫌、なのか?」

 

「……はい。どうして、分かったんでしょう……?」

 

 そりゃあ、そんなに嫌そうな顔をしていると、誰でもそう思うに決まっている。

 

「そう……ですか。ふふふ」

 

 右手で口元を隠して笑って見せる一二三だけれど、心なしか元気がないように見える。無理やり感情を流し出したような、そんな不自然な笑み。

 気を遣われているようだ。

 

「嫌なら、断ったらいいんじゃないか?」

 

 聡明な一二三の事だから、勿論その選択肢も十分視野に入れているはずだ。しかし、どうしても気になって聞いてしまう。

 

「ええ……しかし、『将棋界を盛り上げたいんでしょ?』とその界隈の人に言われて」

 

確かにそのための助力となるのならば、仕方のない事なのかもしれません。と一二三は続ける。

 

「私も、ただ一人ではここまで来れていませんし……。あの、教会の神父さんだってそうです。最近は、孤高の人だなんて烙印を押されてしまっていますが……たくさんの人に励まされ、励まし合ってそしてここまでたどり着いたのです。人という字は人同士が支え合っているように見えるという例えそのままですが……私が誰かのそんな後押しになれるのなら、躊躇っている時間は……ありません」

 

 言い切る。

 いつものように視線を落として、終わった譜面をじっと見る一二三。

その何気ない所作とは裏腹に――振り絞るように言った言葉には、強い感情が籠っている。

 誰かのため。

 その為なら、自分を切り捨てる事も厭わない。

 俺は、そう言っているように思えた。

 

「あ、でも貴方は見ないで下さいね。そのお写真」

「何故?」

 

 なにゆえ?

 

「……貴方はもう、将棋、しているじゃないですか」

 

 

 そんな事があった。俺は不覚にもそんな彼女をカッコいいと思った。正直に告白しておくと、俺……いや、俺たちはそれほどまでの意志と覚悟はないのかもしれない。周りの環境があって、助けたい特定の誰かがいて、個人的な感情もない交ぜになって俺たちは今こうやって生きていて。あっちに行ったりこっちに行ったり、貫いている事なんて何一つないんじゃないかってくらい適当に過ごしている人にとっては、やはり一二三のような強いココロを持った人に憧れてしまうんだろうか。俺も、そんな人になってみたいなぁ。……今日はこんな調子でずっと書いていけそうだけれど、これ以上ポエミーな語り口をつらつらと並べても、明日には恥ずかしくなってやけを起こしてしまいそうなので、これでおしまいにしておく。もう、ちょっと手遅れかもしれないけれど。

 

6/7(火)

 

 双葉に初めて怒った。完膚なきまでに叱った。そしてギャン泣きされた。惣治郎には言わないと約束されたけれど、盗聴器は直ちに取るよう言った。……その後めっちゃ落ち込んでいたけれど、何かフォローをしてあげるべきだろうか? 一応彼女も女子高生の年なのだから……大丈夫、だよな?

 



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6/8『Four』

 今日は肩を少し濡らす程度の雨が、教会に降り注いでいた。

 それに呼応するように、余計な考えが俺の頭の中に降り注ぐ。

 その中身は、無論件の双葉の盗聴問題だ。いや、もう既にその問題自体は収束してあるのだけれど、そのアフターケアに難があった。一応にと入れておいたLINEの返信は来る気配すらなく、通学の行きしなによった部屋は物音すら聞こえなかった。またうみゃあ棒で釣ってしまおうか――なんて邪な考えすらしとしとと降ってくる。

 いや、ここで甘やかすような事をしてはいけない。といってもそのままの放置は今後の関係にヒビが走るかも……ううむ。

 

「悩んで……いられるみたいですね」

 

 目の前では、一二三が新手を考えているのか一人将棋を指している。一人で考えている時は、いつもの一二三でいるようだ。

 勝負に対して熱くなるタイプなのだろうか。

 

「将棋を指していると、時々相手の感情を読んでしまう事があります。貴方は……そうですね、手に迷い、があったと言いますか。いつも悩んでおられるような雰囲気ですが、今日は、特に」

 

 ふむ。

 将棋を指しただけで感情を読み取られるというのはぞっとしない話だけれど……一二三だけの特技なのだろうか。

 

「何を考えているのか分からない人は、大体何も考えていないらしいのですが、どうなんでしょう……?」

 

 どうなんでしょう、と言われても。

 俺は何も考えていない奴だと思われているのだろうか。甚だ心外……傷つく……。

 

「ふふふ……冗談ですよ。悩む事は良いことです。それすなわち、問題を正面から受け止めているという事に他なりません、から」

 

 中々嬉しい事を言ってくれる。

 けれどなぁ……悩みに悩んで、その結果良い目が出たという経験は、実際あまりない。

 

「考えすぎは、マイナス思考の元……ですから。長考をしても必ずしも、いいえ、むしろ読み通りになる事は少ないのと同様です」

 

 考えすぎ。

 マイナス思考。

 ではどうしたらいいんだろう。その話を鵜呑みにするとしたら、悩んだとしても状況が良くならない訳だから結局、悩むべきじゃないんだろうか。

 

「ようは、匙加減が大事……だという事です。メリハリ、とも置き換えられますね。悩むべきことはしっかりと悩んで、しかしいつまで経っても思考の輪から抜け出せない時は……流れに身を任せば吉……だと、私は読みます」

 

 そう言いながら駒へと手を伸ばす挙動は、一糸の乱れもない。呼吸すらも禁じられていると錯覚してしまいそうな一二三のその静かな挙動に、思わず息をのむ。

 にしても、含蓄のある話だとは……思う。将棋を指しながらこうやって時折詰まりながらも言葉を出せているのだから、本当に、頭が良い人の思考回路が全く分からない。

 流れに身を任せる……か。

 じゃあ、一二三がグラビアを受け入れた事も、結局は流されてしまったからじゃないのだろうか。

 

「……」

 

 一二三が先ほど持った駒をポロっと落とす。咄嗟に反応したのか、拾おうとした手がそのまま将棋盤に当たってしまう。盤上の駒達は揺れに揺れて、端っこにいたそれらの何枚かはボロボロと落っこちていた。

 

「痛い所を、突かれてしまいました」

 

 どうやら痛い所を突いてしまったようだ。

 

「時々貴方は、やはりそうやって妙手を放つ鋭い勘を持っているようです……。確かにそうかもしれない、と、一瞬思ってしまいましたから……これは、一本取られましたね」

 

 ふふふ、と口元に手を当てて笑う一二三。正直言った瞬間は怒られそうだと思ったけれど……そんな冷徹なまでの冷静さは、流石といった……ところなのか?

 さっき駒を落としていたから、これでトントンかも。

 

「日が経つにつれて……次第に、物事が大きくなっているのを感じます。私では対処しきれなかった部分もあったのかもしれません」

 

 退場した駒を、また先ほどの状況に戻す一二三。迷いがない所作から見て、全ての駒の配置の場所を記憶しているんだと思う。

 将棋盤、必要ないんじゃ……?

 

「それなのにも関わらず、深く考えてすらない理屈を通して、あたかも私の本当の動機のように語っていたのかもしれません……。改めて、自身の未熟さを思い知らされた様な心地です。……失望、しましたか?」

 

 ……そんな。

 むしろ、親近感が湧いた……と言うのは、気が利くどころか、少しデリカシーがなさすぎるかなと、言いとどまる。

 

「私もまだまだ子供だと……言う、ことでしょう。……いつになったら、大人になれるんでしょうね?」

 

 自嘲気味に笑みを浮かべたまま、目を細める。その視線が注がれているのは、駒を落とした前の場面だ。持った駒をフラフラと彷徨わせて、ピシッと張り詰めた空気を打ち破るかのような音が鳴る。

 

「そういえば」

 

 一二三の言葉に、熱気が宿る。

 

「私は負ける事をあまり良しとはしません。たった一回でも、一本でも、負かされた日と相手は覚えてしまっているくらいに。ですので……貴方に、リベンジを挑みます。『この』新手で……貴方を負かして差し上げましょう」

 

 スラスラとした淀みのない流れで捲し立てる一二三。将棋盤を見ると、さっきまで優勢に思えた玉があっという間に詰まされていた。新手って……もしかして、『今』考えたのか?

 喋っている間に?

 ……。

 

「ハンデ無し、一手十五秒の早指しで……それでは、参ります」

 

 ……大人げないと思う。

 



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6/9『Phenomenon』

 思考がまとまらない。

 今朝からずっとこんな感じだった。今日は社会科見学があってテレビ関係のありがたい話なんかを聞いたはずなのだけれど、頭を抱えてもサッパリと思い出せない。竜司がいつもの調子でオラついていたというくらい。むしろいつでもあのスタンスを取れるのは、普通にすごい事なのかもしれないな……と今思った。

 いや……今朝というよりかは、三日前からか。

 勿論昨日一二三から言われた事は覚えて、肝に銘じているつもりだ。しかし何度も頭の中から取り払おうとしても、ウォーキングデッドの例えそのままにいつの間にか頭に居ついている状態だった。忘れたくても忘れられないって現象――なんて言うんだったっけな。

 ともかく。

 俺は屋根裏のベッドに深く沈み込んで、制服のまま寝転がっていた。当にルブランは開店していて、カチャカチャとコップや何やらが擦れる音が聞こえてくる。マスターが何か洗い物でもしているのだろうか。

モナはスイーツと杏殿に目がくらんで、遊園地に行ってしまったし。今頃ゲロ酔いマシーンに乗って、さぞ三半規管を揺すられているに違いない。

徐にスマホを開けて、今日何度目か分からない通知が来ていない事を確認する作業をする。

 ……女々しい。

 もういっそ寝てしまおうか。寝れば少なくともこんなにジメジメ考える必要もないし。ナントカはマイナス思考の元、なんて箴言を一二三から言われたくらいだから――制服とセットは……ええい、もういいや。

 ワックスが付いた髪を枕に押し付ける。すると、だんだんと思考が鈍化していくのが分かった。ひつじがい………っぴき。

 

「―――!? ……―…?」

 

 なにやら下が騒がしい。おもむろに首を上げて耳に意識を集中させると、ギシギシと階段がなる音がした。

 誰かが、上がってくる。それも、おっかなびっくりの忍び足で。

 頭が見えた。なんとなく反射的に、頭を枕に打ち付ける。

 ……お。

 オレンジ色だった……。

 フタバ? フタバナンデ? 取り敢えず、寝たふりをして様子を見てみるか……。

 

「ね……寝て、る?」

 

 早足でこちらに寄ってくるのが、気配で分かる。度重なる扉を隔てたコミュニケーションで培った、俺のスキル。

 

「ど、どうしよう。うーん……起こすのもなんだか、悪いし……な」

 

 と言いながらも、足音で双葉が直ぐ近くにいる事を悟る。息遣いまで聞こえてきた。どうやら近いどころか、超至近距離にいるらしい。

 鼻から、口から。空気が出て、時折漏れる音が、耳をゾワゾワさせた。

 やべぇ……。

 

「ぐ……ぬぬ……」

 

 顔に、細い何かが垂れる感触がある。これは――双葉の髪、だろうか。

 てか今どんな状況なの今。

もしかして、顔を見られている……のか?

 

「……はぁ」

 

 無駄に研ぎ澄まされた耳に、双葉の息がかかる。あったかい。……じゃなくて!

 めちゃくちゃこう、ムズムズする。更に髪の感触も合わさって……もうムリ。

 目を開ける。と、目の前に双葉の目があった。おおう、想像していたよりも近かったぜ。起き上がれば、普通に頭突きになってしまう距離感だ。

 

「……」

 

 双葉が目を見開いたまま、固まる。これも、既視感のある光景だ。

 

「……」

 

 やっぱり余りにもフリーズしている時間が長いから、前はどんな感じだっけあの後どうなったっけと思い出す余裕が出てくる。

 散らばったUFO、ゴロゴロと転がった丸椅子、尻もちをついたマスター……いや、もっと前。

 マスターに体当たりした前。扉がひとりでに開いた前。双葉がもの凄い形相で逃げて行った前。

 あ――。

 

「ひ」

 

 手を。

 双葉のその、か細い手をしっかりと掴む。折れてしまうんじゃないかと思う程に。

 いや、折れてしまうのは流石にマズいのでちょっとだけ力を緩める。

 けれど今回ばっかりは――逃げられずに済んだ。

 

「ひぃいっ……ぐえほぁ」

 

 叫ぶためのエネルギーが、叫びそびれたので暴発したのかせき込む双葉。すげぇ音出したな。

 

「お……ゴホッ……おひさ。ゲンキ、してた?」

 

 距離感を計りかねているのか、微妙な軽いノリで挨拶を投げかけてくる双葉。手で掬われた涙が出た目に、大きな隈が出来ているのが見て取れた。

 こうして俺と双葉は。

 さしてそこまで久しぶりでもない再会を果たした。

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 頭を下げる双葉。突き出された頭髪からピョコっと飛び出た一房のアホ毛も、さも謝っているかのようにしなしなと垂れ下がった。自我を持っているだと……。

 そんな冗談は置いておいて。

 俺も直ぐカッとなってしまったのも、少なからず悪いと思っていた。いやむしろ、この三日間でどれほど後悔した事か。柄でもない事をすると、本当に痛い目にしか合わないな。

 

「いや……それは違う。ちゃんと怒っていたから、自分の間違いに気付いた。いや、悪い事だって事は分かっていたんだけれど――なんかこう、『ちゃんと』分かった的な? うーん……伝えづらし」

 

 ちゃんと。本当の意味で自分がしていた事に気付いた、という事なのか?

 

「そそ、そんな感じ。表層的な事実じゃなくて内在する繋がりが解けた過程に従って敷衍せしめた真実を逆照射する事に成功した、うん」

 

 なるほどわからん。

 

「と、とにかく。今は反省もしているし……後悔もしている。だからさ! その……いいよな?」

 

 零れ落ちそうになった眼鏡を直しながら、もう一方の手で後ろから何か物体をチラチラと見せてくる。確かあれは……ああそうだ、

 

「じゃーん。盟約の~と~」

 

 盟約ノート。双葉がひきこもりから完全脱却するために創作された、なにやら名前が物騒なノートだ。どうしてちょっとなんか、カッコよい感じの名前になったのかは忘れてしまった。

 使い方は単純明快。そこに自分たちが決めた双葉にさせる盟約を書いて、それを彼女に交わして貰うといった物だ。ズバリ、この盟約ノートに書かれたものは、絶対。

 

「ええと、その①……人が大勢いる所に行く、だって!」

 

 人が大勢いるところか……遊園地。

 

「遊園地! いんじゃね?」

 

 いや、今行くと色々面倒な事になりそうだ。竜司や杏の誘いを断ったのにも関わらず、その遊園地に居る所を目撃、遭遇されてしまうと実に気まずい事になる。

 

「じゃあ……やっぱ、あそこだな!」

 

 うんうん、と激しく三回頷いて、ドタドタと階段を下りて行った。早い。

 俺も置いて行かれないように、鞄に財布があるかどうかをちゃんと確かめ、足早に階段へと向かう。

 

「遅くならねぇ内に、帰って来いよ」

 

 カウンターの向こうから、マスターの声がする。口元の笑みを片手で押さえているけれど

、隠しきれていない。軽く会釈をして、入り口を目指す。

 ドアノブに手を掛ける。ガラスの向こうからは、朱色のアホ毛が嬉しそうに、ピョコピョコと跳ねているように見えた。

 



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6/10『Frienemy』

「現役高校生探偵、『明智吾郎』くんです!」

 

「どうも」

 

 彼の控えめな応答に重ねるように、黄色い声が小さなスタジオに鳴り響く。やっぱりああいった雰囲気の男子が、皆からは好まれるらしかった。では彼女はどんな反応をしているのだろうと、二つ右の席に座っている杏を覗き込んだ。

 

「……」

 

 退屈そうに髪をいじっていた。うん、予想通りと言えば予想通りの反応だ。

 そうしている間にも、MCによる内容のあるようでないような会話で収録が進行していく。本当に内容があるのかと、試しに五秒前くらいの会話を思い出してみる――、思い出せなかった。

 

「ズバリ聞いちゃうけどさ、最近の怪盗、どう思う!?」

 

 怪盗。

 その単語がMCから発せられると、一瞬明智も、一緒に座っている生徒も、MCも、居住まいを正したようにゴソゴソと動いた。どうやら、皆この話題を気にしているらしい。

 斯く言う俺も。テレビで見ない日はない、といえば誇張し過ぎなのかもしれないけれど、それくらい明智は怪盗団騒ぎにつけてテレビに出演しているように思えた。曲がりなりにも俺と同世代なのに、ハッキリと自分の意見を出せているのだから、世間の注目も伊達ではないのだろう。

 本当に、世の中には型破りの高校生がそこら中にいるようだ。

 

「正義のヒーローなんて、本当にいたら嬉しいと思いますよ、僕」

「へぇ、頭っから否定じゃないんだ」

「これでも僕、サンタクロースとか実在したらいいのにって、未だに時々考えますから」

 

 かわいー、とか、分かるーなんて率直な感想が女子生徒を中心にして漏れる。

 こうやって親近感を沸かせるような発言をして、高校生で探偵なんて想像もつかないような人なのに、それでも親しみをもってもらう……という、明智の悪辣な作戦。――と邪推してしまうのは、単純に明智が女の子からモテているという事への僻みだ。

 

「……チッ」

 

 案の定竜司が明らかに苛立っている。その気持ち分かる。

 

「でも、もし本当に怪盗がこの世にいるのだとしたら……」

「僕は、法で裁かれるべきだと思います」

 

 ……!

 

「斑目画伯のした罪は、重いです。許されるような事ではありません」

「でも、それを法律以外の尺度で勝手にさばくのは、ただの私刑……正義から一番遠い行いです」

 

 正義から、一番遠い、行い。

 私刑。

 リンチ。

 

「相変わらず凄いね! カリスマっていうか、なんか話に聞き入っちゃうよね」

 

 MCは明智をほめちぎる。生徒の中にも、明智に賛同している人がいるようだ。

 論理にスキがない、ように思えてしまうくらいの、力強い断言。表面だけの言葉を弄ぶような、胡散臭い人とは一線を画しているのを、情けなくも感じてしまった。

 明智が有名になっている理由が、なんとなく分かる気がした。

 

 

 

「……あ、君はさっきの!」

 

 収録見学が終わり、どうしたものかと迷っていると、横から声が掛った。

 

「会えてよかった、お礼が言いたくてね」

 

 ……明智だ。

 お礼――とは、俺がアナウンサーに話しかけられて、明智と少し議論する形になったということを言っているのだろう。もちろんこのような場に慣れていない俺は、最後から最後までタジタジだったように思う。杏や竜司から顰蹙を買っていたらどうしよう……。

 アドリブの弱さを、遺憾なく発揮してしまった。

 

「やっぱりアンチテーゼがなきゃ、アウフヘーベンは起こらない……」

 

 アウフ……なんて?

 

「ハハ、ごめんごめん。君との議論が、とても有意義だったってこと。あんなにハッキリと意見をぶつけてくれる人、僕の周りにはあまりいなくてね。大人たちは……」

 

 明智の言っていることをそっちのけで、俺は明智を観察する。本当に印象が良くて、誰からも好かれそうだというような感じだ。それがどこか作り物めいてみえてしまうのは、やっぱり俺の僻み嫉みも入っているのかもしれないけれど。まあ、芸能界では人当たりが良くなくては叩かれたりするご時世なんだから、ある程度はそうなってしまうものなのだろう。本心だけでこの世界を渡っていけるひとは、もしかしたら殆どいないのかもしれないし。

 

「ハハハ、そんなに邪険に見ないで欲しいな。確かに……そうだね、僕が思っている事と君が思っていることはある意味、真っ向から対立してる。けど、そんな感情理性は抜きにして、僕と君とは仲良くなれると思うんだ。また君と議論してみたい、という下心はあるんだけれど」

 

 そういって、明智は苦笑する。そんな明け透けな物言いが、俺にはどうしても引っかかってしまうんだけれど……まあいい。

 どうしても猜疑心はぬぐえないけれど、やっぱり明智はいい奴だと思う部分もあるし。それに――。

 

『法律以外の尺度で勝手にさばくのは、ただの私刑……正義から一番遠い行いです』

 

 あの断定に、俺はまだ反論ができていない。

 代案なき否定は禁ず。

 つまり、俺は今明智に宿題を出されているのだと思う。怪盗団を続ける意味、意義。それをなあなあにしたまま、目を逸らしながら、堂々と怪盗行為を続けられるくらいには、俺も肝が据わっていない。

 ここ数日で、俺は考えすぎる性質があるみたいだし。ならばその答えが出せるまで、明智とはたまに話すようにしよう。

 

「本当に! 良かった、実は断られる可能性の方が大きいような気がしていたからね……。本当に、秀尽には面白い子が多いよ」

 

 ……ということは、秀尽にも親しい知り合いがいるということか。

 こいつ、顔も広いのか……。天才は大体人見知りだって思った時もあったけど、明智は本当に完璧超人なのかもしれない。

 

「また会えるのを楽しみにしてるよ」

 

 明智が言う。それに俺は、ああ、と短めに応える――。

 

「やぁ! 明智君じゃないか!」

「え? ああ、麻倉さんでしたか」

 

 虚を突かれた明智だったが、すぐに切り替えて麻倉というらしい人と話し始める。やっぱり顔が広いな……。

 

「いやぁ、流石は明智くんだよね! 君なら、頑張れば芸能界だけでも生きていけるんじゃないのかな? その気はないかい? オレは女性が専門だけど、明智くんならプロデュースさせて欲しいくらいなんだよね」

「ハハハ、じゃあ僕も頑張っちゃおっかな。その気になれば、是非麻倉さんにお願いさせてください」

「もちろんさ! ああ、けど……今は、ちょっとね。大切な取引先ができそうな所なんだよ。だから今はちょっとアレだけれど、いやいや、明智くんがそう言ってくれるなら……」

 

 今度は麻倉……さん? という……ええと、プロデューサーを観察。観察と大仰な事を言っているけれど、単に俺がその会話についていないだけだ。どちらの会話も速すぎて、追いつけない。そういう時は、黙って相手の出方を窺うしかない。

 その後一言二言交わして、その麻倉さんはどこかへ行ってしまった。ずっと俺が立ち尽くしていたのに気づいたのか、明智は苦笑して、深いため息をついた。

 

「麻倉史郎さん、って人。プロデューサー。何回も芸能界に誘われているものだから、僕も少し困っちゃうよね」

 

 その台詞を嫌味なしに言えるのは凄いな。もしそれを竜司に言わせてみれば、杏に蹴られる事必至だ。

 

「あ、もうこんな時間だ。ごめん、また直ぐに用事があったんだ。それじゃあね!」

 

 そう言って、明智もどこかへ行ってしまった。残されたのは俺一人。竜司もトイレから全然戻ってこないし、杏も先に行ってしまった。

 

「おい! ワガハイを忘れるとはいい度胸だな」

 

 突っ込みが鞄の中から聞こえてきた。モルガナ……は、うん、忘れていなかったぜ。

 

「嘘っぽいなぁ。まあ、それはいいとして……アイツ、どこかで見た事はないか?」

 

 明智?

 

「違ぇよ。まあいいけどな。もう芸能界なんて懲り懲りだぜ。また変な奴に絡まれてるし」

 

 それは、明智か。

 

「色々言われたしなぁ。杏殿も、少し考えていたようだから……ひょっとしてジョーカーも、揺らいだりしてないだろうな?」

 

 それは……もちろん。

 けれど……ちょっとだけ、胸につっかえるものを感じているのも、事実だ。

 怪盗は正義なのだろうか。それとも、正義から一番遠い行いだろうか。

 正義なんて言葉が抽象的すぎて、それを一人で抱え込むには少々、重すぎる話題だと思うし。

 ……色々な人に、聞いてみようか。

 



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日記5 6/9-6/24

6/9

 

 双葉と秋葉原へ行った。平日で、さらには夕方過ぎなのにも関わらず、人通りは絶えない。離れないよう手を繋いで歩いていると、あまりにもの人に酔ったのか双葉が目を回していた。らいじょうぶらいじょうぶと呂律の回らない舌で応答を続ける双葉に危険を感じた俺は、傍にあった喫茶店へと入ることにした。おかえりなさいませ、ご主人様といきなりメイド服に身を包んだ女性に言われた時は、ひょっとして俺は今異世界転移、いや転生をしてどこぞの王室の方と入れ替わってしまったのかと肝を冷やした。結局ここがメイド喫茶だという事は、双葉の指摘で悟ることができたのだけれど、入って直ぐに店を変える訳にもいかず、そこで冷たいものと軽めの夕食を頼むことにした。どちらもあまりに慣れない環境だったので会話が続かず、食事にも集中できなかった。……今度はちゃんと調べてから入るようにしよう。そんな感じで、初めての双葉との……ううん、なんだろう。ナニカは失敗に終わってしまった。

 

6/11

 

今日は喜多川の歓迎会があった。ひとしきり鍋を食べた後、竜司と喜多川で銭湯へ行く事になった。その時に竜司から理想の女性像についての話題が振られたけれど、あまりにも湯が熱すぎてなあなあになってしまった。全然関係ないけれど、竜司と杏はお似合いだと思う。喜多川は……うん。

 

6/13

 

 新島に色々とバレた。マズい。あの凄まじい尾行能力による努力が遂に実ってしまった。祐介を招き入れておいて、その二日後に怪盗団存続の危機に立たされているという事実には閉口するしかない。が、危機に瀕しているというのなら、やはりその場での最善を尽くすしかない。一二三との対局で培われた状況判断力が、役に立てばいいのだけれど。

 

6/16

 

 今日も今日とて情報収集をした。新島もどうやら個別に動いているらしく、ヤバそうな人たちに絡まれ……もとい話しているのを見かけた。大胆というか、猪突猛進というか、とにかく彼女にはそのような気概があるようだ。それの仲立ちをした後、彼女が一応お礼を言ってくれた。ということは、やはり彼女もいい人なのだろう。最近なんだか良くお礼を言われる気がする。

 

6/19

 

 記憶の糸ピックが届いていた。こんなもの、頼んでいたっけ?

 

6/20

 

 新島氏暴走。侵入開始。

 

6/23

 

 連日の攻略でベッドに突っ伏していると、双葉が訪ねてきた。どうやら最近来ない事を憂いていたらしい。その時は本当に眠たかったのでちょっとおざなりな対応をしてしまった。疲れている理由も割と適当だったかもしれないし。再来週、いや、できれば来週中にまとまった時間を作りたい。盟約ノートも、結局全然できていないし……作ったからには、最後までやり遂げないと。

 

 

6/24

 

 攻略完了。すぐさまテスト勉強に移行する。それと明日、できれば盟約ノートその二『同世代のカルチャーを知る』をどうにかして埋めよう。問題は誰を誘うかだけれど、ああ、一度、一二三に会わせてみるのも良いかもしれない。

 



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6/25『Genius』

 双葉がベソをかきながら、自陣が壊滅状態と化した哀れな玉将に手を伸ばした。

 こんな状況になったのたのはざっと一時間前の事で、今も絶え間なく、お気に入りのアスタリスクマークが入ったシャツに涙を落としている。始めの内はきちんと拭っていたのだけれど、半時間もたてば面倒になったのか、指していない方の手はズボンをぎゅっと固く握りしめている。それが中々に強く握っているので、跡が付いてしまうのではないかと内心俺はハラハラしていた。

 双葉と相対するのは、予定調和のように手を盤上に滑らせる東郷一二三。しかし彼女なりにも苦戦しているのか、時折つく吐息が熱い、気がする。ひとしきり喋った後沈黙して、また自分を鼓舞するためかちょっと良く分からない横文字の単語を並べて、双葉を威嚇していた。

 そんな世紀末のような激しい局面の中で、俺は彼女たちの間にひっそりと佇んでいた。もちろん俺からは何もアクションは起こすことができず、小二時間ずっとひっそりしている。どちらも俺の存在なんて気づいていないくらいひっそりとしているので、このままひっそりと帰ってしまいたかった。しかしこの泣きべそ少女を放っておくわけにもいかないので、どこぞの奈良の大仏のように彼女たちを温かく見守っている次第だ。

 お話は、俺たちがこの教会を訪れる前に遡る――。

 

 盟約ノートが、全然埋まっていない。

 プロットを思うがままに好き勝手書いておいて、結局は書ききることができていないような作家の気持ちだった。「いや違う、これは時間の問題なんだ。する時間がないのだから、したくてもすることができないだけなんだ」と自分を慰めては早や二週間半、ついに双葉からお叱りの声を頂いた。

 という経緯があって、俺は双葉を連れ立って神田の教会を目指していたのである。

 埋める予定の盟約は『同世代のカルチャーを知る』。

誰と双葉を話させようかという事はかなりの時間悩んでいた。竜司や杏に任せるのも考えたけれど、怪盗団について知らない双葉と語らってもらうというのもなんだか気が引ける。それでは一般人である三島は……うん、彼からは並々ならぬ闇を感じるので、やめておいた。許せ三島。

そういう訳で、第一希望でもあったのだけれど、消去法的にも一二三に会わせる事にした。普段将棋の事しかあまり喋らないので、彼女のカルチャーに対する素養については分からない部分もあるのだけれど(失礼)、それが適任なのだと結論付けた。

四茶を出て表参道まで揺られて、メトロ銀座線に乗り換えて神田駅まで。電車内でも人が近くにいるからか、終始そわそわしていた双葉を宥めながら、ついに教会に着く。一二三には行くとLINEで連絡してあるので、中では一二三がいつものように将棋を指しているはずだ。

これから人と会う事がやはり怖いのか、またそわそわし始める双葉を宥めて、扉を開ける。中は意外とひんやりしていて、涼しい空気が俺たちの肌を撫でる。それにちょっとだけ身震いをして、辺りを見回した。ええと――、ああ、やっぱりいつもの場所にいるようだ。

そこまで言って、声を掛ける――前に、一二三が気付いたのか首をこちらに向けた。

 

「ああ……どうも。ええと、佐倉双葉さんというのは……?」

 

 後ろを振り返る。すると、もの凄い緩やかなスピードで、トテトテと俺の歩みを追従している双葉がいた。心なしか、肩がこわばっている気がする。

 

「ど……ども。佐倉双葉……でしゅ」

 

 あ、噛んだ。

 

「失礼……噛んだ」

「あ、はい……お話は、伺っております」

 

 いつもの丁寧な口調で、一二三は席を一度立ち、中腰姿勢になる。そのまま彼女は指で、将棋の盤面と対になる所を指した。

 

「どうぞ……そちらへ」

「お、う、うん……」

 

 いきなりの手厚い対応に調子が出ないのか、壊れかけのロボットみたいな足取りで指定された場所まで移動する双葉。視線をこっちに向けては一二三を見て、またこっちを向けては……とエンドレスに視線を彷徨わせる双葉。もしかしなくてもそれはSOSの合図なのかもしれないけれど、ここで助けてしまっては双葉の自立計画に背いてしまうことになる。

 が、そのまま一二三に預けてしまうのも無責任なように思えるし、少し双葉も可哀そうだ。

 LINEでも一応伝えてはいたのだけれど、改めて一二三に双葉の事を話した方が良さそうだ。

 

「それでは……今日貴方がここに来た理由を教えて貰えますか」

「え、えと……文化、カルチャーが、知りたくて。あんまし、そこらへんググっても良く分からないから……」

 

 ……。

 バイトの面接みたいだ。

 

「なるほど……了解しました。それではまず、あなた自身の事をお聞かせ願いますでしょうか」

 

 だから。

 バイトの面接みたいだって。

 

「わ……ワタシ? え、えと、えと……あわわ」

 

 それでもってこちらは、初めての面接でドギマギしている新社会人を見ているようだった。

 ともかく。

 このままでは流石に埒が明かないと判断して、手短に今回の経緯を改めて話す。

 

「ええ、分かって……います。貴方が教えてくださいましたので」

 

 ではどうして双葉に訊いたのだろう。……双葉を試したとか?

 ……。

 一二三の強かな一面を垣間見た気がする。

 

「これ……」

 

 そんな勝負師らしい盤外戦術に俺がドギマギしていると、突然双葉が声を発した。

 そちらを見てみると、双葉が勝手に将棋の駒を取って、見事に王を寄せていく。ってなにやってんの双葉。

 止めようとすると、一二三が目線で俺を制した。

 双葉はそんな動向もお構いなしに、一二三とは対照的に軽やかな手つきで、王を、金を、銀を――すべての駒を捌いていく。

 ――そして。

 

「詰んだ」

 

 あっけらかんと。

 凄まじく長い長い手を終えた後、そんな何気ない調子で、双葉は一二三を見た。彼女にそれを示すかのように。それが難しくともなんともないような事を、強調するように。

 そして――一二三に、挑発するように。

 

 アの口で一二三が口を開いたかと思えば、小さな顎に手を当てて考える素振りを見せる。どうやら言葉を選んでいるらしかった。

 一息ついた後、すっと射貫くような目で双葉を見据えた。そこにはもう、普通の女子高生としての一二三は、見る影もないように思えた。

 

「将棋経験者ですか?」

「いや。ルールくらいなら知ってるってだけ」

「では、なぜ――」

「これくらい余裕。猿でもできるんじゃね」

「おい、双葉」

 

 失礼だぞ、と言っても、双方の顔の向きは、相対したまんまだ。どうやら二人とも、お互いに睨みつけている相手に集中しきっている。

 双葉も双葉で、先ほどまでのキョドリ具合とは似てもつかないくらいに、言葉が淀みなく出ていた。そして目も据わっていて――あれは確か、真の尾行に気付いた時と同じ目だ。

 

「天才がなんぼのもんじゃい」

 

 と。

 いつか耳にした事を、双葉は言う。その台詞から伝わる感情は、やはり一二三に対する対抗心のように思えて、そして。

 示し合わせたかのように、双葉と一二三は一斉に駒を並べ始める。双葉の方はてんでバラバラに、適当に並べているようだけれど、一二三は、王、金、銀――の順で、そして完璧なまでに揃えながら、マス目の真ん中に駒を配置していく。

 並べ終わり、辺りは静寂に包まれた。空気が張り付めて、教会に入った時よりも冷たい印象がした。

 ふぅ、と一息ついてから、一二三が口を開けた。

 

「ハンデ無し、一手二十秒の早指しで。先攻は貴方に譲りましょう。それでは――」

「参ります」「参る!」

 

 彼女と彼女の声が、共鳴するように重なる。

 こうして、天才同士の戦いが幕を上げた。

 



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6/25『Discourage』

前半は読み飛ばしてもらっても構いません。


「―――! ……――…―!」

「……」

 

 目まぐるしく手順が入れ替わる。二人ともほぼ即指し。盤面は中盤を飛ばして終盤、双葉が一二三の陣形に攻め入っている状況だ。と言っても、双葉は囲いすらしない超攻撃型。序盤の構想なんて考えてもいないような、一見無謀とも言える非常に尖った戦法。

 

「……―。――……? ……―…」

「……」

 

 プロの棋士である一二三なら攻め入ることができる場面がいくらでもあったはずだが、未だに動きをみせていない。

 一方で彼女の口撃は増すばかりだった――自身を、そして自陣の駒……いや、戦士達をも叱咤激励する咆哮が戦場にこだまする。……少しだけ口調が移ってしまった。

 対照的に、双葉は盤面では動きを見せていなくとも、始まってから一言も声を発していない。しかし時折聞こえてくる鼻歌が、彼女がこの勝負を楽しんでいるということをなによりも示していた。

 

「―……――。――………!」

「……♪」

 

 駒が飛ぶ。大駒が縦横無尽に81マスを駆け巡る。

 そして――、

 

「……」

 

 双葉が一二三を見た。さながら悪役のようなその目つきから、宣戦布告の合図が読み取れる。

 双葉が指を離す。線対称の五角形に彫られた文字は『龍馬』。

 その(一二三曰く)飛馬が利いている場所にあるのは――一二三の『王』

 王手。

 

「……――」

 

 一二三がそれを躱す。が、すかさず双葉が別の駒で再王手。それを合駒でいなして、また切り込む。

 ノーガード戦法みたく大量の駒をつぎ込んでいく双葉を、一二三が捌く。

まるで試合を早送りで見ているかのような、即指しに即指しを重ねた格好がいつまでも続くかのように思われた。

それは意地と意地のぶつかり合い。

俺の想像を遥かに凌ぐ空中戦が今、天才たちとの間で繰り広げられている。

 

「あ、れ……?」

 

 双葉がついに、沈黙を破った。彼女の右手は、持ち駒があるはずの場所でスカスカと宙を舞う。

 どうやら……駒が切れてしまったようだ。

 双葉が、もう一度前を見る。目が開き、冷や汗を掻いて、何が起こったのか分からないといった表情。

 その視線の先には――まるでこの時を待っていたかのように口元に手を当てて笑う、一二三の姿があった。

 

「―――!」

 

 その彼女が放った一手は、ここに来て初めての攻める一手だ。双葉は虚を突かれたのか一瞬表情を強張らせて、今の現状を読む。

 一転攻勢――高速に動く盤面の中で、一二三はそれをやってのけたのだった。

 

「あ……」

「……」

 

 一二三が攻める。

 

「ぐ……うう」

「……それも」

 

 一二三が攻める。

 

「……この……」

「それも……それも」

 

 一二三が攻める。

 

「どれもこれも最善手なように、私には思えます。センス、勘、それらを形にする理詰めの想像力と実行力……どれも超一級品ではあります。ここにきて一手も間違えない終盤力も、目を見張るものがあります」

「……」

 

 一二三が語る。

 その一方で双葉は――苦しそうな唸り声を上げ、目に涙を溜めていた。それでもなお、その()()()()()()()()()()を止めていないのは……まだこの勝負を諦めていないからか。

 だけど……。

 

「しかし貴方には足りないもの……そうですね……ざっと五つくらいはあるんじゃないでしょうか。それを得ない限り、貴方は私に勝つことはないでしょう。私は貴方に負ける事はないでしょう」

 

 あまり、将棋を舐めないでいただけませんか……と、底冷えしそうな声で、一二三は努めて冷静に言う。彼女が双葉に対して怒っているのは、誰の目から見ても明らかだった。

 そう言い放った彼女が指した一手は、王手。瞬く間に陣形を立て直した末に放った、力強い一手だ。

 

「……」

 

 双葉は何の反応もみせない。この期に及んでも双葉は思考を諦めていなかった。十五秒をフルに使って、その状況下で最上の一手をひねり出す。しかし一二三は容赦なしに追撃をかける。逃げる。攻める。逃げる――。

 そして双葉が投了をしたのは、王も何も動かせなくなった実に十分後の事だった。

 

 

 

 

「う」

 

 電車の中。

 平日ならこの時間帯は、仕事帰りでもう少し賑わっているのだけれど、今日は休日なのも手伝ってか乗客の数はまばらだ。

 けれど、同じ車両に乗っている人の目は総じて……ある一点に向けられていた。

 

「うう」

 

 その視線の先は、俺……の直ぐ右斜め下隣にいる、双葉だ。何度宥めても止めどなく溢れる大粒の涙を、床に落としている。そろそろ水たまりができるんじゃないのか……と、昔聞いた曲の歌詞を思い出してなんとなくそう思った。

 

「ううう」

 

 将棋に負けて悔しいからか。それとも『将棋を舐めないでもらえますか』という言葉が効いたのか。初めて――挫折を味わったからか。

 あるいはその全部か。

 ともかく、双葉はさっきからこんな調子でずっと泣き続けている。そのうち干からびてしまうんじゃないかと内心危惧しているのだけれど。

それにしても、ずいぶん異常なまでに悔しがるのだなと思う。相手はプロで、さらにハンデ無しなのだから、勝てる訳でもないだろうに。それでもなお悔しがっているのは……自身の才能をもってしても、勝てない何かを一二三から見出したからだろうか。

双葉の才能は、確かに一二三の言う通り凄まじい。駒の動かし方という最小限の知識のみで、あそこまでの読みのスピードと直観力は正直常軌を逸している……と、素人の目からしてもそう思う。

しかしそれは彼女にとって当たり前なのだ。俺のスマホに勝手にウイルスやら彼女自身のLINEのアドレスを入れてきたのも、恐らくそういう生き方で培ってきたものだと。

 

「うううう」

 

 しかし、一二三は百戦錬磨の経験によって、もしかしたら双葉のそれとは劣る才能を磨いてきた。勝って負けて、その度に自分の才能見つめなおしてきた。

それが――双葉と一二三との違いなのだと。一二三はそれを言いたかったんじゃないのか? と愚考する。

 まあ……。

 そういった事で説教を垂れるのは、あまりするべき状況ではないだろう。今はただ、双葉を温かく見守っていれば良い。

 

「ううううう」

 

 ……。

 しかし……。

 こうも泣かれると、その……なんか、慰めたくなる衝動が湧き出てくるな。

 ううむ……こうも母性を刺激される少女が、かつて今まであっただろうか。やべえ、めちゃくちゃウズウズしてきたぞ。

 そんな感じで手をワキワキさせていると、ふいに右手に違和感を感じる。

 見ると……双葉の手が、繋がれていた。

 

「うう……ヒック」

 

 双葉からの反応はない。さきほどと同様に、嗚咽時々しゃくりあげの雨模様が続いている。

 その手が、俺の手と妙に馴染む。双葉と手を繋ぐの、これで何度目だっけ……とつらつら、益体のないことを考える。

 そうしていると、あっという間に四茶に着いた。電車を一緒に降りた後、双葉の手が離される。

 

「……今日、ちょっと寄るとこあるから。じゃ……じゃあな!」

 

 一人で帰れるのかと問う前に、双葉は駅構内の階段に吸い込まれていった。それはとても覚束ない足取りだったけれど……何か強い目的を持っているように思われた。

 右手には、まだ温かみが残っている。それをぎゅっと握りしめて、俺はルブランを目指した。

 



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6/26『Monster』

 数学の問題集の、今回のテスト範囲であろう部分を一通り終わらせて、一息つく。

 ベッドに寝転がって、いつものようにモナの肉球をいじっていると、突然スマホが鳴りだした。

 宛名を見る。一二三からのようだ……ええと、『分かりました』?

 分かりました? 何を?

 かなり要領を得ない文面に首を捻らせていると、

 

「――……―!?」

 

 今度は、一階が何やら騒がしい。ルブランで何かあったのだろうか……と重い腰を上げると、ドタドタと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。

誰かが上がってくる。

じっと待っていると、オレンジ色のアホ毛が跳ねているのが見える。ああ、やはりふた……ば……?

 

「…………おー」

 

 双葉の様子がおかしい。いや、今俺の目の前にいるのは間違いなく双葉だ。しかしその目はひどく充血していて、目に大きな隈ができていた。髪もボサボサだし、何より昨日とまったく同じ服を着ているようだ。

 もしかして、寝てない?

 そう問いかけるよりも先に、双葉が荒々しく俺の腕を掴んだ。どうやら、その体でどこかに出かけるつもりらしかった。

 ……もしかして……。

 

「ふふ……ククク………」

 

 怪しく眼鏡を光らせて、奇妙な笑い声をあげる双葉。一度夜を徹するとテンションがおかしくなる経験が俺にもあるのだけれど、ひょっとしたら双葉は今そういう状況なのだろうか?

 その大きな眼鏡を片手で上げて、俺を見る。彼女にとってそれはキメ顔のつもりだったのかもしれないが、その不健康な顔色も相まって、俺にはとても歪なそれに見えた。

 

「復讐の、時間だ」

 

 

 

 その後、大方の予想通り双葉に腕を引っ張られて向かった先は、神田の教会だった。

 連日教会に通い詰める敬虔なキリスト教徒の気分を味わいながら扉を開けると、果たしてそこには一二三が、いつもと変わらない位置で将棋を指していた。

 連絡も入れずに、一二三と会おうとは双葉も中々リスキーなことをすると首を傾げていたのだけれど、二人と話をしているとどうやらそうではないらしい事が分かってきた。

 なんと、()が一二三を教会に来るようにLINEで指示したらしい。おいおいちょっと待てと焦りながらスマホを開くと、確かに履歴に「教会で待つ」と書かれた後がある。

「分かりました」と通知がきたのは、どうやら一二三がその無骨なLINEに応答したからのようだった。

もちろん不思議に思うのは、俺がこのLINEを送信した覚えがないことなのだけれど――こんなさながら果たし状のような文面に、最低限必要な詮索も入れずに二つ返事で来てくれる一二三も一二三で不思議だ。

さて。

それならもう犯人は、遠隔操作やら何やらを使ったと思われる彼女しかいないだろう、ということになり、一二三と一致団結して双葉を問い詰めた。その矢が降ってくるように猛烈な問い質しを、「てへぺろ」の一言で済ませようとした双葉への処置は、鉄拳制裁にしくはない……と一度は息巻いたのだけれど、一二三が滔々と被疑者に悪い事はしてはならないということを教え説いてくれていたので、止む無くその右腕を解いた。

ともかく。

昨日に引き続き一堂に会した俺たちは、双葉の頼みで一二三との再戦をすることになった。そのような双葉の我儘に、一二三は快くとはいかないが「一局だけでしたら」と応じてくれた。どうやら、俺のLINEで大体の事は読んでいたらしい。さすがは一二三だ。

ハンデ無し、十五秒将棋、一局対決――そんな条件を双葉は何も言わずに呑み込んで、彼女たちの戦いがまた始まった。

 

 まず驚いたことは、双葉が大幅な戦略の変更をした事だった。

 昨日の猪突猛進を具現化したような動かし方とは打って変わって、どっしりと構えられた、スキのない防陣と、相手の隙を虎視眈々と待ち構えると言わんばかりの攻陣が、盤上でひしめき合っていた。

 次に、双葉が異常な程の早指しをこなしたことだった。

 駒と駒が複雑に絡まりあった中盤と終盤は少し考えている場面もあったけれど、序盤に関してはほぼノータイムの即指し。まるで、そう動かすことが決められていたかのように錯覚してしまう程に、異常なスピードで双葉の手が動いた。その早さに釣られるようにして、一二三の指す速さもだんだんと早くなっていったのが分かった。

 そして、最後に――。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 彼女が、教会の天井を見上げる。苦しそうに息を漏らして、キッカリ十五秒後、指を震わせながら自駒を持ち上げた。

すかさず、相手は即指しでそれに応じる。

 

「……ッ!」

 

 また十五秒の間が空く。相手が即指しをしている理由は、彼女の思考時間を一瞬たりとも削るためかのように思われた。たまらず彼女は、声を発さず眉を潜める。それでもなお考えるのを止めていないのは、彼女は本当に端から真剣勝負で挑んでいるからだろう。

 しかし……。

 

「……」

 

 手を伸ばす。その動きにいつものようなキレはなく、よろよろと、何かに――駒に救いの手を求めるかのようなそれだった。

 スマホで、秒針をじっと見つめる。制限時間は刻々と迫ってくる。十秒、……五…三、

 一。

 

「あ……あぁ……」

 

 その弱弱しい手は、駒を掴む……素振りだけを見せて、膝の上に置かれた。

 ゼロ。

 

「ありま、せん……」

 

 ――そして。

 昨日の平均的なそれとは2倍以上の手数を要して――東郷一二三は、投了を告げた。

 勝ったのは、双葉だった。

 

 

「「「…………」」」

 

 互いに思う所があるのか、将棋が終わっても沈黙していた。双葉は前かがみになるようにして、一二三は――心ここにあらずといった感じだ。そして、明らかに……目に涙を浮かべている。

 かくいう俺も、終始冷静に局面を分析している余裕はなかった。

 結局は、先手の利をいかした双葉の優勢を、ずっと一二三は覆すことができなかった。本当に危なげのない勝利というか……素人のそれではなく、むしろ老獪した雰囲気すら見せた双葉の指し方だったように思えた。謎めいているのは、そんな1日ちょっとで、変わるものなのだろうかということだ。

 天才。

 将棋のプロを志している、またはプロである人たちの殆どは、そういった人たちの事を言うのだろう。そして、女流棋士でありリーグの優勝経験を持つ一二三も、名だたる鬼才の持ち主であるという事は疑いようもない。

 

「……くっ……うう……」

 

 その稀有な才能を持つ一二三が、尋常でなはい数の勝ちと負けを経験して、今ここにいるのだ。

 そんな血が滲むような努力を、双葉はたった1日で巻き返した。叩き潰した。

 一二三が天才であるならば、双葉は、一体。

 その時、俺は……少なからず、双葉に対して一種の恐怖に似た感情を覚えた。

 

「……くぅ」

 

 ……んん?

 首を上下に揺らす双葉に違和感を覚えて、横から双葉の表情を窺う。

 寝ていた。

 ガチ寝してる……さっき恐怖に似た感情を覚えた、なんて仰々しい事を宣ったのにこれでは、どこか拍子抜けではある。

 とりあえず、双葉はおぶって帰るとして……。

 

「……大丈夫か?」

 

 悔しそうにスカートを握りしめる一二三に、ハンカチを差し出す。こういう時は、何を行ったらよいかは正直分からない……し、陳腐な慰めしか頭には思い浮かばない。そんな自分を、少しだけ恥じる。

 

「ええ……ありがとう、ございます。負けてしまった時の、いつもの癖ですので……その……は、い」

 

 まだ気持ちの整理がついていないのか、しどろもどろに言葉を紡ぐ一二三。

 そっとしておこう……その方が今は、良さそうだ。

 

 やはり、意外と女の子らしい感触を背中に感じてドギマギしながら電車に揺られ、そのまま佐倉宅へ着いた。教会からずっと双葉を背負っている訳だけれども、信じられないくらい、起きる気配がなかった。時々耳をかゆくさせる寝息と、背中の温かみが無ければ、正直死人を背負っていると思ってしまうレベルだ。

 一二三に渡したハンカチは、次会った時にもってきてくれれば良いから、とだけ言ってそのまま別れた。泣いている女性を放っておくのは如何なものかとは思ったが最後は、負けると条件反射のように泣いてしまうという一二三の言う事を信じることにした。双葉を送り届けないといけないし……うん。

 えっちらおっちらと階段を昇って、部屋に鍵が掛かってないことにホッとし、ドアノブを回す。

 開けた瞬間、何か目を差す光に目を細める。徐々に目を開きながら見ると、どうやらパソコンの画面から出ているもののようだった。つけっぱなしのまま部屋を空けてしまったのだろうか……。

 その光に目を奪われていると、何かに躓いて前によろめく。ずりおちてくる双葉を支えつつなんとか体勢を整えてそちらを見ると、その物体は、飛車の駒が控えめに印刷された将棋の本のようだった。

 パソコンの光を頼りに辺りを見回すと、そのような本が十何冊も床にちりばめられていることに気付く。

 ……。

……もしかして、これ、全部読んだのか?

 こんな量を1日で読むなんて事は、物理的に可能なのだろうか。いや、もし読めたとしても、一二三に勝てるかどうかと言われれば、無理に決まっているのだけれど。

 床に落ちている障害物を器用に躱しながら、ついに双葉をベッドにインさせることに成功する。……ふぅ、2回目となると流石に慣れてくるな……と、何故かこれだけで一仕事終えたような気持ち。

 暗がりの中で双葉を見る。先の激闘を制したとは到底思えないくらい、実に気持ちよさそうな寝顔だった。……うん、大丈夫。いつもの双葉だ。

 パソコン、一応消しておこうか……。

 画面の前に立つ。じわじわとくっきり見えてくる画面。白いウィンドウに、細かな文字が綴られていた。

 

「これは……?」

 

 そのびっしりと書かれたそれに、目を凝らす。

 

 7六歩、3四歩、2六歩―――

 

 ………………符号、か?

 確かに符号だ。

 そこには『後手:東郷一二三』と書かれている。

 ………………。

 ほぼ無意識にマウスに手を伸ばして、画面をスクロールさせる。ガリガリという音が、双葉の部屋に響く。

 迄97手で先手の勝ち。

 迄103手で先手の勝ち。

 先手の勝ち。

 先手の勝ち。

 勝ち。

 先手の――。

 遂に東郷の名前が出なくなり、代わりに知らない棋士の名前が画面に映し出される。

 そして――さっきからスクロールバーが、()()()()()()()()

 先手の勝ち。

 先手の勝ち。

 先手の勝ち。

 全て先手の勝ち。偶然ではないだろう。それがなにより――()()()()()()()()()()かのように、思われた。

 そんな。

 ……まさか。

 

「……ううん……?」

 

 凄まじい速さでパソコンを落として、双葉の方を振り返る。……どうやら、寝返りを打っただけらしい。

 そのまま、そそくさと双葉の部屋を出る。そして、今見たものを忘れるように、髪をクシャクシャと掻きまわした。

 しかし――屋根裏部屋で見せた彼女のキメ顔は、どうにも頭から離れてくれなかった。

 







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7/2『Desire』

「あの日の事は……忘れてください」

 

 ……ええと。

 

「いいえ、この言い方では少し語弊がありますね。……それでは、先週私の目から零れ落ちた液体についての考察は、よしていただけませんか……?」

 

 要するに、泣いてしまった事を見られたのが恥ずかしいから、見なかった事にしてほしいということだろうか。

 

「はい、そうで……いえ、違います。いや、見なかったことにしてほしいという事は本当です。しかし……その、私は断じて、泣いてなんかおりません」

 

 そこだけは譲らないとばかりに、キリリとした目で俺を睨みつける一二三。

 確かに自身が泣いている場面を杏や竜司や祐介もろもろに見られたらと思うと、かなりの悶絶モノではあった。彼女がそう否定するのも無理はない事だと言える。

 

「しかし彼女には、してやられました……。完敗です。その発想力もハッキリいって意味不明ですが、それを実行し、かつ成功させる努力と才能を……私はこの目で見ました」

 

 ここぞとばかりに、話題を強引に変える一二三。俺はもう少しその考察を続けたいのですが、一二三先生。

 と、冗談はこれくらいにして。

 一二三と双葉が大健闘を繰り広げた、その一週間後。

 例によって俺は、神田の教会に来ていた。

 もはやここまで頻繁に通い詰めていると、この教会の常連さんに、今どきの高校生としては珍しいまことに敬虔な信者だと思われているかもしれなかった。……どちらかと言うと、あまり声を大にしてはとても言えない事をいつもしている訳だけれど。

 ともかく。

 迫るテスト期間から命からがら逃げだしてきた俺は、一二三と()()()を話すために、授業が終わったのちそのまま神田駅へと向かった。

 議題は勿論、どうして双葉が一二三に勝ちえたのか、だ。

 俺は早速、双葉の部屋で見た事を洗いざらい一二三に打ち明けた。大量の将棋本を買い込んでいた事。そして何より、膨大な量の棋譜が、パソコンに保存されてあった事。

 少し明け透けにして話すのは躊躇う部分もあったが、そこはなんとか割り切る事にした。

 そうして、一二三が盤上で感じた事とをまとめて、ある程度は双葉がたった一日でしたことを、推論する事にした。

 まず第一に、彼女はあの膨大な棋譜を全て覚えたという事。

 覚えるといってもただそこらへんにある棋譜ではなく、先手勝利、それも一二三が苦手とする、どちらも居飛車の戦法を取った場合の物に限られていたようだった。自身が先手になる事、そして一二三が居飛車党である事を読み切った上で、それに賭けた。

 次に、序盤で双葉が見せた連続即指しは、『一二三が負けた時の棋譜をそのままなぞった』からだという事。

 ここで疑問に上がってくるのは、どうして将棋のように指し手が膨大にあるこの将棋で、過去の棋譜を再現できたかという事だった。たった一手であり得る手は何十通り、そして序盤でならなおさらの話。とても出来るようには思えない。

 しかし一二三は、

 

「序盤といえど、定石という物があります……。始めの内は駒が固定されているので、最善手が研究されていますから。……あとは、持ち時間が短かったというのもあるのでしょう。十五秒将棋では、本気の勝負をしようとなれば、どうしても読みが浅くなります。それでも一手を考える為に、先手後手一回ずつでそれぞれ二回、つまり三十秒の猶予があるはず。しかし、双葉さんはそれさえも自らの即指しで削ってきた。……そうなると、記憶や経験に頼らないとならない局面も当然出てきます。……そして、知らぬうちに私は、過去の負け戦と同じ手を打ってしまった数も増えた」

 

 それでも変化が生まれてしまった時は、買った本と自前の思考力を頼りに、強引に元に戻そうと試みた。

それでもダメな時は……他のプロ棋士の棋譜を、()()()()()()()()()()()()()()、凌いだと言う。

だから、中盤では考える場面も増えたのだろう。

そのようにして中盤を乗り切り、戦局を覆せない一二三は焦って、思考が淀み。

あとは、詰め将棋。

双葉は、序盤の構想力も、または慎重な戦略も、あの一日で身に付けていてすらなかった。

美しくも、なんともない……ただ過去をなぞっただけ。端から見れば、反則だと思われてしまいそうな戦術に、彼女は彼女の持てる全てを、ありったけに詰め込んだ。

そして、睡眠不足という不利な状況もものともせず、勝利した。

結論。

双葉はすごい。

 

 

 

 

「それにしても……」

 

 ある程度双葉の戦略を推察した後、そのまま帰るというのもなんだか味気なかったので、いつも通り十五秒将棋をすることにした。

 最近のそれは、何か一二三の指し方から怪盗行為についてプラスになるような事を見抜こう。という当初の目的よりかは、ただ将棋を楽しむためのものになっているような気がする。

 要するに、普通に嵌っていた。

 

「どうしてあそこまで……双葉さんは、勝つことに拘ったのでしょう、という話をしませんか? ……いいえ、勝つこと自体に意味を見出す事については言うまでもないですが」

 

 苦しい局面にウンウン唸る俺に、何故か質問を投げかけてくる一二三。彼女は、喋りながら将棋を指すことについて慣れているから、対局中に喋ることは造作もない事なのかもしれない。しかし、まだ習いたての初心者で、かつ普通に喋ることもままならない俺にとっては、聞き取った事を理解するだけでも一苦労だ。

 

「しかし、睡眠不足も厭わない超過密スケジュールを組み、臨むというのは少し不自然なように思われます。まるで、純粋な負けた事への悔しさからというよりかは――何か別の思惑を読みました」

 

 そんな訳で、一二三から話を振ってきたとしても無視してしまう流れとなってしまう……が、近頃はお構いなしに話を続けるようになってきた。

 ……それは一二三と親しくなってきた事の証なのかもしれない。けれど、脳内で聞き手と指し手を両立させるのは、非常に困難を極める。

 頭がパンクしそうだった。

 それでも、一手を終えて少し思考に余裕ができる。

一二三が言った事を思い出す。

勝つことに拘った、別の理由――。

 して、その理由とは。

 十秒もかからずに、一二三が次の手を打った。

 そして、一つ咳ばらいをして、手を顎に当てた。

 

「例えば――双葉さんが、貴方に対して好意を持っている……等でしょうか」

 

 ……。

 …………。

 

「十五秒……過ぎていますが」

「!」

 

 咄嗟に動いた手の赴くままに、自駒を動かす……悪手だったかもしれない。

 というか今、なんて言っ……。

 ……ああ。

 分かった、全てを理解した。

今、きっと一二三は揺さぶりを掛けたのだ。俺が思いがけない出来事に遭遇したとしても、咄嗟に状況判断ができるようにと、一二三はそんな冗談で俺を試したのだ。

先ほど、俺と一二三が親しくなっていると言ったばかりだけれど……いやいや、これはきつい事を一二三も言ってくれたものだ。

まったく、参ってしまう。

 そんな一二三の軽口ににこやかな微笑みを持って返すと、一二三もまた、同じようにほほ笑んだ。

 そして、次の手を打つ。

 

「だって、そうでしょう? あの時のメールでお伺いした限りですけれど……引きこもりがちの双葉さんを外の世界へ連れ出し、秋葉原にて逢いびきする始末。惚れた腫れたどころの話ではありません」

 

 逢いびきって。

 ちょ、ちょっと待て。流石に冗談にしては言い過ぎじゃ――。

 

「……十五秒、経ってます」

「!!」

 

 ……やばい、とんでもない場所に打ってしまったぞ。

 いかにも不機嫌そうだと言わんばかりに、目を細めて一二三を見る。すると、一二三もまた同様に、俺を睨みつけた。

 

「……まさかとは思いますが、その諸々の行動は、只の親切心でやったとでも仰るつもりですか?」

 

 一二三が指す。

 

「そんな貴方に、女性の友人を紹介されたら……双葉さんは、どう思ったのでしょう、か」

 

 いや……あの時一二三が不機嫌だったのは、天才同士の対抗意識があったから……だろう?

 一二三が指す。

 

「勿論あったでしょう。だからこそ、彼女は……双葉さんは、負ける訳にはいかなかったのです。取柄の一つである、頭脳においては……劣ることは許されなかった」

 

 ……。

 一二三が指す。

 

「しかし、現に双葉さんは私に負けました。……将棋は、ほぼすべてのスポーツと同じく……たった一戦で、実力差というものはお互い分かってしまいます。ですが、彼女は分かっていながらも、泣きながらも、決して白旗を挙げる事はしなかった――現に私は、何ゆえ彼女は諦めないのかと、不思議に思いました。ですが、今なら分かるような……そんな気がします」

 

 そんな事情も知らないで、将棋云々と語ってしまった自身が恥ずかしいです……と、唇を噛む一二三。

 しかし一二三は、手を休める事はしなかった。

 見る見るうちに、俺の玉は追い込まれていく。

 

「……彼女は貴方に、見て欲しかったのでしょう。自身の雄姿を――格好良い所を。承認して、受け入れて欲しかった。だから彼女は……たった、一日で」

 

 ……。

 一二三は、指す。

 俺を糾弾するかのように、刺した。

 ――そして。

 

「――なんて、少し熱い事を言ってしまいましたが……これはもちろん……私の妄想です、ので。気にしないでいただ……すみません」

 

 突然語調が弱まった彼女を見てみると、将棋モードの一二三は消えていた。

 

「……ですが……」

 

 それもそのはず。

 

「どうか、最善を……尽くしていただけると」

 

 俺の玉は、完全に詰まされていたのである。

 



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7/3『School』

 

「おお、ここが……いつも行ってる場所か。なんというか……『ザ・ガッコウ』って感じだ!」

 

 日曜日。

 特にテスト期間を挟んだ休日は、皆テスト勉強に精を出しているのか、秀尽学園校内には先生はおろか生徒すら見られない。

 

「で、だ……。何する?」

 

 速効帰って勉強したい。

 

「ダメ、無理、却下! 折角来たんだからさ―、えっと……」

 

 双葉がしげしげと校内を見渡す。あまりにも見慣れた光景なので、靴箱やトロフィー置き場の描写は割愛されてもらう。

 

「ね、案内して」

 

 腕を引っ張られる。長らく学校に行っていないと、そこまで興味がそそられるものなのだろうか。というより、彼女はそもそも学校へ行きたくないから行っていないはずなのに、案内をせがまれるのは少し、不自然な気もする。

 というのは、流石に口には出さない。多分彼女なりの理由があるのだろう、うん。

 

「あら、もしかして……」

 

 突然前方から声を掛けられて、俺は前を向き、双葉は俺の陰に隠れる。一糸乱れぬこの一聯の流れは、もう手慣れたものだ。

 

「それと、後ろにいるのは……妹さん、かしら?」

「い……! いもうとじゃ、ないぃ……」

 

 前に現れたのは果たして、現秀尽学園生徒会会長、新島真だった。

 

「貴方も、学校に勉強しにきたのかしら? あまり、そのようなタイプには見えないけど」

 

 真の言う事は、いつもどこか皮肉めいているように聞こえるな……。

敵対していた頃よりかはましになっている気はするが、根っこの部分は変わっていないか。

 

「あら、それは心外ね。そんなつもりは毛頭ないし……勉強するのはいい事だし」

 

 ……怪しい。

 

「まあまあ、そんな事より……彼女、は何をしに連れてきたの? 校内見学?」

 

 ううむ、なんと説明したらよいものか。正直には到底言えないし。

 

「……深くは聞かないでおくわ。そうね……貴方はここに来て日も浅いだろうし、少しだけなら……ええと、一緒に周ってあげてもいいけど」

 

 おお、それは心強い……けど、真も真でテスト期間だろうし。なんていったって校内トップを堅守しているのだから、勉強量も半端ではないはずだ。

 今回は遠慮して……。

 

「今日のノルマはもう終わったから。ちゃんと一か月前から勉強スケジュールを立てた通りに進んでいるから、もう超過分のタスクは残ってないのよ」

 

 さいですか。

 一か月前からもうテスト勉強を始めていたとは……あの頃は確か俺、その為の文房具を買いに行ってたんじゃなかったっけ。

 ともかく。

 そこまで懇意にしてくれて断るってのもなんだから、折角なら案内してもらおうか。まだ俺も知らない場所とかあるだろうし、俺も俺で何か気付くことが――。

 

『そんな貴方に、女性の友人を紹介されたら……双葉さんは、どう思ったのでしょう、か』

 

 あるかもしれない、と思ったと同時に、昨日一二三が言ったことを思い出す。

 反射的に真を見ると、どこか苦笑いを浮かべた表情で、俺の背中の方を見ている、ような気がした。

 双葉を見る。

 

「………………………………」

 

 めっちゃ真を睨んでいた。

 ううん、これは、どういう事だ……?

 ……ああ、確か、真と双葉は前に一度会っているんだったか。その時は真も真で俺をつけていたから、第一印象も中々に良くはなかったように思う。

 それと、天才かどうかは分からないけれど、彼女も秀才である事は間違いないだろうし……それを真の言動から感じ取って、そんな渋柿を食んだ後みたいな表情になって――。

 

『勿論あったでしょう。だからこそ、彼女は……双葉さんは、負けるわけにはいかなかったのです。取柄の一つである、頭脳においては……劣る事は許されなかった』

 

 ……。

 昨日の一二三がグイグイ突っ込んでくる。

 いや……いやいや、まさか双葉も、嫌いな人と難なく知らない場所に行ける程、図太い神経は持っていない……はず。だからといって、それが俺に異性としての好意を持ってくれているという事に直結してしまうのは、日本男児が小学生、はたまた中学生の時分に陥りやすい思考回路という訳であるからして……。

 

「だ、大丈夫? ……二人とも、もの凄く苦い表情をしているけど……もしかして、お節介、だった?」

 

 ううむ、こんな短時間で整理できるような問題ではなかった。

 一二三に説教を受けた後、何も考えずにとりあえず置いておいて、テスト勉強に打ち込んでしまった事が裏目に出た……か。

 とりあえず、迷惑を掛けてしまうだろうから、真には申し訳ないけれど遠慮させてもらおうか……。

 

「……フフ、了解。それじゃあまたね」

 

 最後に笑った理由は判然としなかったけれど、真が嫌な気持ちになってはいないようだったので、ひとまず安心する。

 真がせかせかと廊下を歩いて行って、またポツンと俺達だけが靴箱に取り残される。

 どこからともなく沈黙がやってくる。

 俺はやはり無意識的に話しかけて会話をするタイプではないから、こうして変な間ができあがるのは、双葉が意識的か無意識的に口をつぐんでいるから。だという事を、今知った。

 そういえば、ここまで来た時までにはそのような事を意識した事はなかった。という事はつまり、双葉は会話が途切れる度に何か話を振ってくれていた……のだろうか。

 ……気を遣わせてしまっていたのかもしれない。

 双葉を見る。

 

「……ううん……んんー……んんん」

 

 今度は何か、とびっきり堅いものを噛んでいるかのような険しい表情をしていた。

 まるで、一飲みじゃ到底呑み込めない代物を、頑張ってかみ砕いているかのような。

 そんな、表情をしている。

 もしかして……彼女も彼女なりに、何かに悩んでいる……のか?

 双葉は一向にその表情を崩さない。

 全然、今から構内を紹介する雰囲気でもなさそうだ。

 あまりに双葉がうつろなので、試しに玄関から出てみる……と、その動きに追従するように、双葉も俺の後に続いた。

 すごい……この双葉、ホーミング性能がある。

 流石にずっとこのままというのも危ないだろうから、強引に双葉を引っ張って。

 こうして、俺は帰ってテスト勉強に励むために、四茶を目指した。

 

 

 

 

 ふむふむ……異性に対して興味を持った女性は、その対象に対して何か積極的なアピールをするらしい……と、ネットで見かけたサイトに載ってある。

 今のところ、彼女のそういった行動には心当たりがない……し、もしこれが只の俺と一二三の勘違いだとしたら、恥ずかしいにも程があった。穴があったら全力で潜る。あと、一二三にめっちゃ怒る。

 

「……一二三?」

 

 双葉が唐突に深い思考から目覚める。

 

「……あいつは強かった。今まで出会った中で一番。……なんで、勝てたか知ってる?」

 

 俺はとりあえず、一二三の推論をそのままに言う。

 

「……そー。やっぱバレたかー。じゃあもう、ハンデなしでは勝つのは無理ゲーだな」

 

 ……そんな事を双葉が言うなんて。正直俺は虚勢を張ってでも、『ま、ヨユーだけどな!』なんて言うんじゃないかと思っていた。

 

「いや、あの実力差は、さすがにちょいキツい。けど……」

 

 双葉はおもむろにスマホを取り出して、何かポチポチと打ち始める。

 

「ほれ」

 

 見せてきたスマホの画面に映し出されていたのは、あの日双葉の部屋で見た、棋譜のリストだった。

 

「ここ、全部一二三が負けてる。しかも女流の棋戦は少ないっぽいから、ここ最近……負けが混んでる」

 

 双葉がスクロールしていく画面を目で追うと、確かに日付は、最近のものばかりだ。

 つまり、それが意味する事は。

 

「スランプ」

 

 だったから勝てたんだよねー、多分。と、双葉は遠慮がちに付け加える。

 ……そんな事、一二三は言ってなかったよな……。

 

「まあ、また一回くらい……最強級の一二三とやってみたい、的な?」

 

 そう言い残して、また双葉はブツブツと呟き始めた。

 一二三と双葉が、和気藹々と将棋を指す。そんな光景が何故か、とても簡単に想像できてしまう。

 実は、意外と……一二三と双葉は、馬が合うのかもしれない、と思った。

 

 



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日記6 7/9-7/10

7/9

 朝、何気なく怪盗チャンネルを開き、スレがとんでもなく賑わっているのを見てベッドから転げ落ちた。その時に巻き込んだらしい、「潰れるかと思ったわ!」と憤るモルガナを宥めながら、一階に降りてテレビを付けた。ニュース番組だった。その画面には、金城が、見せたことすらないような沈痛な面持ちを讃えながら、警察に搬送されている様子が映し出されていた。どうやら、作戦は成功したようだった。

 放課後に皆と集まって、真が引き続き怪盗団の仲間となる事を再確認した。俺は、彼女は当面の目的を果たす事ができたから、怪盗団から離脱してしまう事を危惧していたのだけれど、その心配は杞憂に終わった。寧ろ、「居場所、見つかったから」と迎合すらしてくれた。

 そういえば、俺達は総じてはみ出し者というか、どこか一般の人とはズレてしまった厄介者ばかりだ。それは冴えないカーストの生徒たちが、仲間を見つけて肩を寄せ合うそれと重なって見えてしまう時もある。案外、居心地は悪くない。

 

 

7/10

 

 今日は渋谷のファミレスへ行って、テスト勉強に励もうかと意気込んでいると、竜司から連絡が入った。まさか竜司まで俺の勉強時間を削りに来たのかもしれないと、内心怖がりながらLINEを開くと、一人では勉強できないからルブランでしたいという事だった。それにホッとして、『わかった』と打つと、ノータイムで人が店内に押し寄せてきた。それも四人。竜司、杏、祐介……そして真。

 こうして急遽、勉強会が開かれた。

 

 

 

「あ〝――! ムリムリ、公式暗記とか絶対ムリ……」

「ちょっと、竜司うっさい」

「少しくらい静かにしろ、竜司」

「わぁーったよ……。てか、なんでここにユースケがいるわけ? お前、テスト期間じゃねーじゃん!」

「偶には『サユリ』に顔を出そうと思ってな。あとは…そうだな、久しぶりにマスターのコーヒーでもいただこうかと――」

「またあのにっげぇヤツ飲むのか? 意味わかんねぇ…」

「だからうっさいバカ竜司!」

「……少し、休憩にしましょうか……」

 

 真がヤレヤレとこめかみを抑える。

真が、ちゃんと仲間として馴染んでいる事をしみじみと感じながら、俺もペンをノートに置いた。

 

「あー、そうだ、打ち上げどうすっべ? またビュッフェ? それともシースー?」

「ビュッフェ、だと……?」

「だから、寿司行くお金ないから。けど、またビュッフェってのもマンネリかな」

「夏祭りどうかしら? 最近のだと――そうね、十八日にあるそうよ」

「いーじゃん!! それにしようぜ! よっしゃ、目的できたら俄然、やる気出て来たわ」

「やっぱリュージは単純だな!」

「ああ? なんだこの化け猫!」

「だからワガハイは猫じゃねぇ!」

「ま、まあまあ……けど、夏祭り行くってのは案外いいアイデアかも。祐介もそれでいい?」

「ああ。ビュッフェも捨てがたいが、夏の美を俺は取る」

「浴衣か? 浴衣だな?」

「リーダーも、それでいいかしら?」

 

 ……夏祭りか。もうそんな季節になっているという事自体が驚きだけれど……しかし、久しぶりに友人と連れ立って夏祭りに行くというのも悪くない。ぶっちゃけ楽しそうだ。

 そして特に断る理由もなかったから、俺は皆に返事を――。

 突然スマホが鳴る。誰からだろう――双葉だ。

 目を向ける皆に少し詫びを入れて、文面を見た。

 

『まつなつり一緒にいかないあk』

 

 ……何て?

 謎の怪文書に首を捻っていると、追って『夏祭り』『一緒に』『行かないか』と立て続けに送られてきた。

 夏祭り、一緒に、行かないか?

 ……もしかしなくても、誘われている?

 ふと、一週間前に見たサイトの文面を思い出した。

 顔が少し、熱くなったような気がした。

 周りが俺を、不思議な様子で見ている。

 双葉が、画面の向こう側から、俺を見ている、ような気がする。

 ……どうしよう。

 



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7/18『Confession』

お話の都合上、天気を雨→晴れに変更しています。


 電車に乗った頃から、嫌な予感はしていた。

 見渡す限り、人、人、人。今360度見渡すことができるパノラマ写真を撮れば、さぞかしインスタ映えするそれが撮れそうだ。そんな湧いて出てくる人々を掻きわけるように進みながら、俺達は一夏の儚い夢花火(祐介談)を見る為に、ゆっくりと歩みを進める。

 

「も……もうムリ、死ぬ。タンマ。電池切れ間近」

 

 つい先ほどまでは、きっちり言葉の最後に『!』を付けながら、道行く人々の群れにギャーギャー騒いでいた双葉も、ついにその元気もなくなったようだった。元はと言えば、双葉が誘った話だが……。

 

「……ううぅ。けど、こんなに人が多い事は、さすがに予測不可能」

 

 かと言って、全て双葉の所為だからと無下にもできない。数か月に及ぶ朝の通勤ラッシュを、モルガナと共に凌いできた俺でさえ人の熱気に酔ってしまうくらいだ。

 このままでは花火を楽しむどころではないので、一旦近くのコンビニに寄る事にした。

 『コーラな! コカ・コーラだぞ!』と双葉。

 双葉はコカ・コーラ派らしい。ペプシもいいと思うんだけど。あの独特の甘みが良いと言うのに。

 店の奥まで行き、冷蔵庫の扉を開けて黒色の液体が入れられたペットボトルに手を伸ばす。俺は――近くにあった三ツ矢サイダーにした。

 やはりそこそこ並んでいる列の後ろに付き、ようやっと支払いを終わらせて、コンビニ脇のベンチに腰掛けた。

 

「はーあぁ、生き返る。やはりコーラはコカ・コーラに限る。そこは譲らない! けど……」

 

 ぞろぞろと、会場へ向かう人たちに一瞥をして、双葉は溜息をつく。そんな彼女の苦しい様子は、夏祭りに来たことを後悔しているように見えた。

 

「い……! い、いやいや、そんなことは……な、い」

 

 明らかに動揺している。

 

「……ううん、まあ……うん。け、けど別に、これはこんなに多い人の所為という訳であるからして――」

 

 少し上目遣いになって、俺を見る。

 

「——が来てくれたのは、嬉しい。LINE打って、返信来た時は、スマホ、手から落としたし。……わたし以外に誘った相手だって、いたと思うし」

 

 竜司や真や、怪盗団の面々が思い浮かぶ。が、俺は首を横に振る。

 

「そ、そか……」

 

 と呟いた後、双葉も同様にかぶりを振って、

 

「いや、嘘。そうじろーが言ってた。『アイツの友達が来ていたぞ』って」

 

 う。

 ……なるほど。あの時ギリギリのタイミングで双葉からLINEが送られてきたのは偶然だと思っていた。

 マスターの差し金だったのか。

 ううむ……と唸っている俺を余所にして、双葉は少しだけ目を細めながら、笑ったように見えた。

 その微笑は、何かを確信している事が内から漏れたような――そんな気がした。

 そして。

 今まで俺が言ってこなかった事を、双葉は口にする。

 

()()()の……オナカマ?」

 

 双葉が、探りを入れるような目で俺を見る。

 その真っすぐな瞳に、俺は『なんの話だ』と応じた。

 どうしてそれを……と考えるのは後だ。今は、何でもないように、本当に意味が分からないように流す。思い出すのは……それから。

 

「……ふうん。これくらいのカマじゃ、やっぱ無理か」

 

 なおも表情を崩さずに双葉は呟く。しかし、その目は……苛烈なまでに動いていた。

 それは、真の尾行に気付いた時に。

 それは、一度目、二度目に一二三とやり合った時に。

 双葉が冗談じゃないほどのスピードで何かを考えて、もしくは思い出している時のサイン。

 

「怪盗団の噂が広まったのは、秀尽学園から。鴨志田って男が体育館で土下座したって、5chで書かれてた」

 

 ……なんだ。

 それくらいの事で、怪盗団を俺に決めつけるなんて、それは中々に無理な話だろう。ひょっとしたら双葉は、冗談で言っているのだろうか。

 という感じで終わる話ではないという事は、双葉のその目から伺う限り分かってはいるけれど。

 双葉は滅多なことでは本気になるような人ではないという事を――俺は、知っている。

 

「喜多川祐介の話を聞いたのが五月十四日。んで、斑目の記者会見が多分、六月五日。喜多川をルブランに呼んでたのが六月十一日」

「六月六日、秀尽の生徒会長が私たちをつけてた。そんで、七月三日に学校で……仲良く話してた。金城潤矢が捕まったのは七月九日。……金城は確か、ここらへんの高校生に違法なシゴトを働かせてたらしいな? ……生徒会長も、そりゃ、手を焼いた……と、思う」

 

 …………。

 単純な、接続詞も文章の繋がりも何もない、ただの過去にあった事象の羅列。しかも恐らく、正確な日付付きの。

 けどそれは、そんな余計な物を挟む必要はないと、双葉が断定しているという事の証左なのかもしれなかった。

 俺になら分かるだろうと。

 これら一環の事柄に全て関わっている俺になら、わたしの言っている事が分かるだろうと。

 そう、双葉に指摘されているような気さえした。

 

「あと……ううん、あんま関係ないけど、最近、わたしの部屋の前まで、気配を消して入ってくるの上手すぎ。やばい。普通にビビる。こんな人混みの中も、軽くヒョイヒョイって行って……何回はぐれると思ったか分からん!」

 

 まじか。

 パレスを攻略している時に、戦えない程の強敵と遭遇してしまったら、どうしても身を隠したり、見つからないよう忍び足で通り過ぎる事を余儀なくされる。

 どうやらその行為が重なって、最近は癖になってしまっているらしかった。何気ない時に無意識に気配を消しているとか、ちょっとだけ中二病の香りがしないでもないが。

ともかく。

双葉には、完全にバレているという事は分かった。

 しかし……やはりどうしても、ぶっちゃけて言える気にはなれない。

 

「……まだ、シラ、切るの? なんで……」

 

 そう言葉を区切って、少しだけ悲しそうな目で俺を見る双葉。

 もうバレちまったんだからいいだろ別に。と、脳内の自分の別人格が語り掛けてくるような気がする……けれど、やっぱり。

 確かに言おうが言わまいが、双葉は俺達を怪盗団だと確信しているという事実は変わらないかもしれない。上手く双葉を騙して、俺達が怪盗団ではないという証明をするための証拠もないし、俺のしょっぱい弁舌で上手く騙されてくれるほど、双葉はありふれた頭をしていない。

 しかし、もその事を俺の口から明かしてしまったとしたら……多分、これから向こうずっと、双葉は怪盗団と関わってしまう。

 それは何より、避けたい事だ。

 別に驕りとかじゃないけれど、怪盗団という存在は世間一般にも知られるようになってきた。そしてなお、俺たちの活動はこれからも続いていくだろう。

そうしたら、警察や他の大きな機関が動きを見せてくるかもしれない。

 危険な目にも遭うかもしれない。

 そんな世界に双葉が巻き込まれるのは……たまったもんじゃない。

 双葉だから……、双葉だから?

 うん?

 どうして今、双葉だから嫌だって、思ったんだろう。

 

「……まー、いいや。その内、なるようにはなると思うし」

 

 そんな意味深な発言をして、双葉はスマホの画面を開いた。どうやら、ヤフーのニュース欄を見ている模様。

 

「ふふん…ジ…ド、か」

 

 スワイプしていた手を、あるニュース記事の見出しで止めて、双葉はなにやらニヤニヤしている。

 そんな様子を見ていた俺に気付き、ばつが悪いと感じたのか一つ、咳ばらいを入れて、

 

「と、とにかく! わたしはいつでも、助けになってやってもいいぞ、的な。そんな感じ! 頑張ればハッキングなんて余裕だし、どっかの電子端末に実にやっかいなウイルスを送り付ける事もできるし、あと、あと……」

 

 新社会人の面接さながら、自分の良い所を思いつくままにアピールしまくる双葉。

 それは、ただ単純な好意からきているものであるという事は、俺でも分かる。

 けれど……俺は、首を縦には振れない。

 

「な……なんで! 私は……わたしは、こんなに――」

 

その後、二度三度俺の名前を繰り返したっきり、双葉は例によってブツブツと考え始めてしまった。

こんなに……俺を、なんなんだ?

いつもの調子なら、どれくらい時間が掛かりそうかと概算しようとしていたところ、双葉は意外と早く思考から目覚めた。

 いきなり頭を上げたかと思いきや、今度は口をあうあうと動かせて、俺を見る。どうやら、言葉を選んでいるらしかった。

 

「……最近、無駄に口を開いてるなと感じてた」

 

 突然の話題転換に少しだけ動揺して、それでもなんとか双葉が言いたい事の大体を掴む。

 アイツは、唐突に話を変えやがるんだ。とはマスターからの一言。

 正確な日にちは分からないけれど、双葉と出会ってからもう三ヶ月も経っている。だから、もう慣れてしまった。

 今は多分、一緒に学校見学に行った時とかの、あの当たりの話だろうか……確かに最初の頃の彼女よりかは、会話を繋いだり話題を振ってくれる事が多くなったと感じていた。

 それは……話すのに慣れたからだという事で、一応結論付けたんだけれど。

 

「なんでかっていうのは……最初は自分でも分からなかった。けど、学校帰りの電車で考えてた時に、わたしは――に嫌われたくないんだ、という意見で、概ね脳内会議は一致した。何気なく開いたサイトで『好かれるためには、その人の前で黙るべからず』――的な事を書いてあったのを、ちょっと前に見た事を思い出した」

 

 俺に、嫌われたくない……?

 ちょっと待て、今、双葉は何の話をしている?

 もしかして……俺の、事なのか?

 

「けどそれは、やっぱ何か違うって思った。それで、今日――あ」

 

 突然顔がボンッ、と赤くなり、その熱を冷やすが如く、もの凄い勢いでコーラをあおる双葉。

 黒い液体は、みるみる内に減っていく。

 それを一気に飲み干して落ち着いたと思いきや、今度は双葉の顔がみるみる内に青くなっていく。

 

「き、きかんに……入った」

 

 そう双葉は言い残して、ゲホゲホとあまり可愛いとは言えない声を上げながらコーラを出した。……あーあ、鼻水まで出てしまっている。

 そっとティッシュを差し出す。

 

「サ……サンクス。ううぅ」

 

 眼から零れ落ちそうな涙を、意外と慣れた手つきで拭って、チーン、と鼻水を出した。

 少しだけ落ち着いて、それでもまた少しだけ頬を染めて。

 双葉は、俺の名前を呼んだ。

 そのたった少ない言葉の中にも、様々な感情が混じっているように思われた。

 あるいは、恐怖心。

あるいは、緊張感。

あるいは……。

 ……にわかに俺まで、緊張してくる。

 そして。

 

「わたしは――」

 

 ―――――――――――ドォ…ン

 

 と。

 どこからか、打ち上げ花火の音が聞こえた気がした。

 多分、ここからじゃビルが壁になって見えていないだろうけれど。

 俺は、皆が上を見上げる中、ただ双葉から目が離すことができないでいた。

 いや……外したくなかった、か。

 双葉も俺を見ている。

 そして――。

 

「わ、わたし、は……貴方のことが、スキ……だ」

 

 …………。

 …………………………………。

 

「……たぶん」

 

 ………………………………?

 たぶん……?

 

「多分、わたしが望んでいることは、友達とかのそれじゃない……んだと思う。けど、そんなの初めてだから分かんないし……そもそも、友達とかがあんまりいたことがないから、なおさら」

 

 双葉は語る。

 

「けど、わたしは……もう、ありのままの自分を偽って、明るく振舞うのに……割と結構、疲れた」

 

双葉は語る。

 

「だから……もう、ありのままの自分でいいって、言って欲しい。そして――わたしをもっと、色んな所に連れて行って欲しい。もっと、わたしの隣で歩いてほしい。もっと、盟約ノートでわたしを、繋いでほしい。もっと、もっと……」

 

――思えば。

いや、思えばなんて、正直数えたらキリのない話ではある。

初めから俺は……なんてそれも、野暮すぎて言えない話。

だからそのまま、自分の答えをそのまま言おう。

美辞麗句なんか飾らない、愚直で単純な俺の告白を。

 

 

「……」

「…………………」

 

 今度は、双葉が黙る番だった。

 その沈黙から一拍空いて、双葉の肩が小さく震え始める。

 

「……なんか、なんだこれ、なみだ、でてきた……。わけわかんない……」

 

 その震える肩に俺はそっと両手で掴み、双葉を見た。

 周りが見えない。さっきまで話した内容さえ、殆ど覚えていない。

 けれど……同じように俺を見つめてくれる双葉が目の前にいる。

 それだけで十分だった。

 かすかに空気を切り裂く音と、重い破裂音が耳に残っている。

 目の前の君は、その音でどんなに綺麗な花火を思い描いているのだろう……と、多分きっと、お互いに思いながら。

 俺達は目を閉じた。

 



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7/18『Medjed』

 しばらくの間コンビニの前で休憩をし、今度こそ本当に花火を見に行った。

 次々と打ちあがる花火を見て、『うおぉ! すげー、波状攻撃じゃん!』とは双葉。

 夜空が光で埋め尽くされたフィナーレも終え、引き潮のように元来た道へ歩き出す見物客とともに、歩を進める。

 

「すごかったなー! あれ、花火職人の本気を見た。褒めてつかわす」

 

 ちょっと前のグロッキーはどこへいったのか、謎に上から目線で俺に語り掛けてくる双葉。

 というか、もう人混みには慣れたのかな。頬も花火の興奮からか朱色に染まっているように見える。

 

「おお!? ホントだ! 全然気にならない。じゃあ、もうコミケの行列はヨユーだな。…なんつって」

 

 それから、花火の感想を言い合う周りの人たちに釣られて、俺達も他愛の無い話をした。マスターも連れて行きたかったなー、とか、花火なんて見たの何年ぶり、とか、そういう類の。

 そうしている内に、始めは空間に所狭しと敷き詰められていた人も次第に少なくなっていき、四茶に着くころにはまばら、と言って良いほどにいなくなる。

 すると、喧噪から離れた途端に、互いの沈黙を自ずから意識するようになってしまう。

 

「………あ、うう、う……ん」

 

 何かを言いかけたのだろうか、大げさに身振り手振りを交えながら双葉は何か話題を繋ごうとしている模様。

 さっき無理やり話をするのはやめるって言ったはずだが……。

 けど、それは別に悪いことじゃないのだと思う。むしろ良い事だ、とも。

 双葉と出会った初めの頃なんて、俺が話掛けなければ双葉はお菓子を食べる手を止めようとしてくれなかったわけだし。

 それはつまり、双葉は人にある程度合わせられることができるようになった、ともとれる。

 彼女はそれを疲れたなんて言っているから、やはりそれに慣れるのはかなり時間が掛かりそうだけれども。

 

「…………」

 

 それにしても……。

 なんだか俺まで気になってきた。

 花火大会の時とのギャップもあると思うし、何より、隣には互いの気持ちを明かしあった、()()がいる訳で。

 ……。

 たまらずスマホを開けた。

 ……そういえば、双葉はあの時よく分からないことを言っていた気が。

 ヤフーのニュース欄を流し読みして、その記事の見出しの中に怪盗団と書かれたものを発見する。

 なんだ……? ……メジエド?

 そのニュース記事にのってあったURLを指で押す。

 すると、英語の長文問題でも見たことがないような長い英語の文章が、俺のスマホの画面に映し出された。

 ……やばい全然分からん。いや、でも高校までの知識を総動員すれば……!

 

「日本を騒がせている怪盗団に次ぐ、偽りの正義を語るのは止めろ」

 

 うんうんと見た事もない単語に悪戦苦闘していると、何でもないように双葉が最初の文章を諳んじた。

 

「偽りの正義が蔓延することを我々は望まぬ。我々こそが本当の正義の執行者だ。だが、我々は寛大だ。怪盗団に改心の機会を与えることにした」

 

 びっくりして双葉の方を見ると、その記事を見るまでもなくメジエドの声明文? とやらを読み上げていっている。

 すごいな……。いやいや、感心している場合じゃないか。

 

「心を入れ替えるのであれば、我々の傘下に入る事を認めよう」

「拒否する場合は、正義の裁きが下るだろう」

「我々はメジエド、不可視な存在。姿なき姿を以て悪を打ち倒す」

 

 最後までそれを読んで、その後実に自慢げなそれでどや顔を決めた双葉。

 しかし全然ムカつかない。

 

「……一応だけど、メジエドってのは世界中にそのメンバーがいるハッカー集団な。ってことはまあ、日本にもそれがいるんだけど、多分この声明文はソイツからのっぽいな」

 

 ふうん……世界中の、ハッカー集団。

 その彼らが……怪盗団を、狙っている?

 

「だと思う。メジエドは義憤に駆られてんよみたいな事を抜かしてるけど、九割九分怪盗団がチヤホヤされている事に対する妬みだな。あとの残りは……売名じゃね?」

 

 手厳しい自己分析だな。しかし……ネットのニュースとはいえ、ヤフーの記事にのるくらいなのだから、恐らく無名の集まりという訳ではないのだろう。

 それにしても……メジエドに関してやたらと詳しいな。双葉自身パソコンが得意なようだから、当然知ってはいるはずだけれど……。

 

「ああ……まあ、わたしがメジエドの開祖的な? 部分もあるし。…けどまあ、面倒なものに目を付けられたもんだな」

 

 今とても聞き捨てならない事を聞いたような気がするが……とりあえず置いておこう。

 LINEがどうやら騒がしいので、グループラインのアイコンを押す。すると、怪盗団の面々がてんやわんやメジエドについて議論を交わしているチャットが一気に流れてきた。

 真によると、確かに結構ヤバい連中らしい。大企業の情報をリークしたり、他にも義賊という範疇ではとても収まらないようなお茶目もしでかしているのだとか。

 双葉を見る。

 

「……………」

 

 めっちゃ見てくる。まるで自分を使ってくれとでも言っているような、それはとても熱いまなざしだった。

 が、しかし、やはり……。

 

「おい!」

 

 あまり聞かない、少し乱暴に声を荒げて、双葉は立ち止まった。

 横で歩いていた俺も、それに合わせて足を止める。

 もう一度双葉をしっかりと見る――と、険しい目をして俺を睨みつけていた。

 どうやら、かなり本気で怒って……いらっしゃる?

 

「私は、この春から数えきれないくらい、……助けてもらった。けど何だ、自分が窮地に陥ったらわたしの事なんて知らんぷりか? セコイぞ! まるで、まるで……蛇の、生焼けだ!」

 

 生……焼け?

 

「ああ、ミスった生殺し。……この際だから言わせてもらうけど、カ、カレ、カ…シ、カカ……」

 

 今度は尋常じゃない速さで『カ』を刻んでいる。

 ……何が言いたいのか全然見えてこない。

 

「と・に・か・く! 助けてくれたことは嬉しいけど、自分だけ助けて良い気になってるのは、ぶっちゃけ気に食わないぞ! わたしも助けたいのに。だ……大好きな、キミを」

 

 だからそれは、ズルいぞ。と。

 消え入りそうな声で言いつつ、視線をどこかに彷徨わせながら、絞り出した自分の言葉に恥ずかしがる双葉――に俺まで何か胸にくるものがあったけれど、それと同時に、その言葉から気付かされたものがあった。

 その、ズルいという言葉に……俺は、自分が認識していなかった事実を知った。

 俺が、双葉を怪盗団に関わらせたくなかったという理由。

 それはもちろん、双葉が危険に晒されたくなかったからというのもある。

 しかし――双葉から助けられるというのは何か違うと、考えている自分がいた。

 だから、俺はその申し入れを断った――それを双葉は、ズルいと形容した。

 双葉に手を差し伸べて、酔っていた自分の一つの人格……それを俺は認識していなかった、のだと思う。

 人は、助け助けられる関係である……というのは、あまりにも使い古された表現だけれど。

 それに……()()()()()()になったのだから、尚更だ。

 

「ど……どうした?」

 

 呆けている俺を心配したのか、アワアワしている彼女に向って。

 俺は謝って、それからお願いをした。

 俺達を助けてください、と。

 

「……ふむふむ。それでよーし。まかせろ、我がパソコンという刀の錆にしてくれる……」

 

 ……ほどほどにお願いしたい。

 

「ダーメ。カレシをイジメる輩には正義の鉄槌が必要だ! ……あ、もう着いた」

 

 気づいたらルブランの目の前にいた。ガラスの向こうから見るに、マスターがまだカウンターの前に立っているようだ。

 ドアを開ける――すると、聞きなれない女性の声が、ルブランから漏れ出てきた。

 

「本当に教えてくれないんですね」

「ひっ!」

 

 少し語気が強めなその声に、双葉は肩を震わせる。

 透かさず俺も、双葉を背中に隠すように移動して……あ、あれ?

 そのまま佐倉宅へと帰って行ってしまった。

 そんなにビックリしたのか。……またねと言いそびれてしまった。

 

「そうですか。でしたら、こっちにも考えがあります」

「あ? それはどういう……」

 

 外で突っ立っててもしょうがないので、中に入る。

 

「ごちそうさま」

「オイ! 話は終わってねえぞ!」

 

 マスターに怒鳴られるその女の人は、カウンターの席に置いてあった荷物を持って、俺と入れ違いにルブランから出ていった。

 マスターの大きなため息が漏れ出る。

 ひょっとして……いや、それにしては言葉がよそよそしすぎるか。じゃあ、一体何の話をしていたのだろう。

 

「なんでもねえ……。あぁ、悪い。お帰り、双葉はもう帰したのか?」

 

 その言い方だと、やはり双葉に夏休みの誘いをけしかけたのはマスターだったのか……という事は、口に出さずに。

 なにがあった? と簡潔に問う。

 

「……」

 

 はあ、とまたマスターは溜息を一つついて。

 

「ずっと隠したまんまってのも、アレだしな……。分かった、教えてやる。けど……今でてった女と……あと、双葉には絶対言うんじゃねえぞ」

 

 これは絶対だ。と言って、マスターは俺を見る。

 マスターは今から、何を話そうとしているのかは全く分からない。

 けどそれは、どうやらあまり面白い話ではないという事は、マスターの溜息から読む事ができた。

 



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7/18『Regret』

「その面構えじゃ、なるようにはなったみてぇだな。……いいや、野暮な事は聞かねぇよ」

 

 俺が淹れたコーヒーを飲んで、少しマスターは落ち着いたようだった。

 そもそもマスターには、双葉の事を隠せる訳はないと思ってはいたが、まさか何も言わずに悟られるとは……。俺、結構表情を隠すの上手いと思っていたのだけれど。

 今回の夏祭りの立役者は、マスターと言ってもいい。あの時双葉からLINEが来ていなければ、俺は怪盗団の面々と花火を見に行っていたはずだし、そもそもマスターが双葉の気持ちに気付いていなければ、双葉に夏祭りの事を告げるという余計な根回しもしなかっただろう。

 

「しっかし……旨いじゃねえか。四月の頃よりかは格段に上手くなりやがって。オレの指導のおかげか。なぁ?」

 

 それほど俺達の事を見ているにも関わらず、その話題の事は露も出さずに珈琲の話を振ってくるというのは、いかにもマスターらしい。

 俺も、大人になったらこういう人になりたいなあ、と、ボンヤリ思った。

 

「あぁ……悪い。本題に入るとするか。ええと……どこから話したもんか……」

 

 右手を眼鏡に押し当てて、考える素振りを見せるマスター。

 双葉とは対照的な、そのゆっくりとした眼鏡の位置調整は、しかしながらどこか洗練された動きのようにも見える。

 そう言えば、俺も合わせて三人とも眼鏡を付けているのか。だからといって何てことは無いんだけど。

 

「一色若葉……って、知ってるか?」

 

 出し抜けに、マスターがそんな事を言う。

 ……若葉……? いや、聞いたことはない、と思う。

 

「そうか。彼女は……双葉の、母親だ」

 

 ……!

 

「アイツ……双葉の母親とは、双葉が生まれる前から知り合いでな」

「のめり込むと周りが見えなくなって、毎日遅くまで熱心に仕事に打ち込んでいた」

「子供ができて少しは変わるかと思ったんだが双葉が生まれてからも、相変わらずだった」

「そんなでも、双葉の面倒は毎日ちゃんとみていたよ」

 

 変わり者で、目つきが悪くて、空気が読めなくて、自由奔放で。

 と、マスターが語る若葉さんの人となりは、どこかあの()()を思わせた。

 あれ……でも、ちょっと待てよ。

 ()()()()()()()()()()、知り合いだって?

 

「あぁ。双葉には……父親はいない」

 

 ……。

 

「いや、いたんだろうが、俺には分からん。アイツは何も言わなかったからな」

 

 アイツは一人で双葉を生んで、一人で子供を育てたんだ。と。

 という事はつまり……?

 佐倉双葉の旧姓は『一色』。

 そして、佐倉惣治郎さんは彼女の親……少なくとも、肉親では無くて。

 では、蒸発してしまった父親はともかく……母親は、一体今、どこにいる?

 

「……だがアイツは、双葉を残して、突然、いなくなっちまった……」

 

 沈痛な面持ちでマスターは目を閉じ、顔を伏せるマスターから語られる話は

、どこか、後悔を滲ませているように聞こえた。

 

「……自殺だ。車道に飛び込んだんだ。双葉の目の前でな……」

 

 瞬間、頭の中に様々な感情が交錯する。

 それは、誰かに対する憐れみでもあって。

 同時に、違う誰かに対する怒りでもあって。

 悲しみ、苦しみ……また、半端な高校生の語彙力では言い表せないような、根源的なもの。

 そんな情けない俺を察したのか、マスターは柔和な微笑を見せた。

 

「はじめは塞ぎ込んで、一言も話してくれなかった。ついには部屋に引きこもっちまったしな。けど……お前のお陰で、双葉はちゃんと、外に出られるようになった訳だが」

 

 マスターは続ける。

 

「それで、数か月前からだ…」

「何もねえのに、急に怯えたりするようになった」

「声が聞こえる…母親が見ている……ってな…」

 

 ……それって。

 双葉と出会って一ヶ月ほど経った時、彼女が何かに怯えているのを目撃した事を思い出す。

 あの時、確か双葉は『また話すから』と言っていた。

 けど、今は。

 そんな素振りを、一度たりとも見ていない――じゃないか。

 

「あぁ。……アイツが幻覚や幻聴を認めるようになった時に、舞い込んできた案件が……お前だった。始めは会わせるつもりすら毛頭なかった。けど一度双葉と偶然ルブランで会っちまった手前もあったし、何より話していて実はコイツ、碌でもない奴ではないという事は……分かったよ」

 

 それが……マスターが、俺と双葉を引き合わせたキッカケ。

 それなら――双葉の幻覚を止めるために……いや、始めはそんな気持ちすらなかったのかもしれない。

 双葉が困っていた。苦しんでいた。

 だから、マスターは。

 俺の問いかけに、マスターはゆっくりと首肯する。

 

「あの日――唯一の親を失った双葉に必要なのは、何者にも脅かされない、安心できる環境だった」

「だから、俺はアイツが望まないことはしねえ。アイツの嫌がることもしねえ」

「って、それだけじゃダメだって事くらいは分かっていた」

「だが、俺ができることなんてそんぐらいしかなかったんだよ」

 

 

 だから、俺と双葉を……。

 と、独り言のように呟くと、その声を拾ったのかマスターは、あぁ、と頷いた。

 

「正直、賭けだった。何にもできねえ自分を悔いた。けど、俺の目は間違いじゃなかった。仲良くやってるようだし、何より、双葉がうなされなくなったってのがな。……お前には、感謝してもしきれねえよ」

 

 そんな、マスターにしては珍しい事を言う。

 それくらい――双葉がマスターにとって、大事な存在だったのだろう。

 彼女は一色若葉さんの忘れ形見な訳で。

 だから、恐らく。

 

「オイオイ、妙な勘繰りはするもんじゃねえぞ? ……まあ、多分お前の考えてる事で大体あってるよ」

 

 イイ趣味してるよなあ、互いにな。と、結構ギリギリな事を言うマスター。

 

「まあ、とにかく、これで一件落着――」

 

 双葉の行動に限った話であれば。

 外に出られるようになって。

 学校にも行けるようになって。

 一二三という同世代の知り合いもできて。

 空気を読むことを知って。

 人ごみを目の当たりにしても比較的ダイジョウブなように精神力を鍛えて。

 彼女にとっては、中々に密度の濃い数か月だったように思う。実際双葉なりに新しい事にも挑戦していたし、俺も俺なりに努力は尽くした。

 だから、これはきっと、万事解決なはずで。

 はずなんだけど。

 最後の最後で、惣治郎さんは。

 

「——な、はず、なんだよ」

 

 言葉を、濁した。

 言葉の続きを問う俺に、マスターは幾分か躊躇ったのち、静かに口を開く。

 

「若葉がいなくなった最初は、全然口も開いてくれなかった、ってのはさっき言ったよな? けど、俺から話しかけていると、ポツポツと口を開くようになってな」

「それで、分かったんだ」

「双葉は、母の死を、全て自分のせいにしてるんだってな……」

 

 ……そんな。

 だって、若葉さん……は、双葉の面倒見が良かったはずなのだから、双葉もそこまで自分に責任を持つような理由はない……はず。

 

「……俺、最初に一色若葉の名前を知ってるか、って聞いたよな?」

 

 ……!!

 ……そうか。

 確かに今日日まで、双葉の母親の事は全く知らなかった。

 知ろうとさえもしなかった。

 それは、彼女が語ろうとしなかったから。

 一色若葉に一番近しい存在であった――双葉が。

 

「双葉は、もしかしたら若葉の事をただ()()()()()()なんじゃないのか。若葉に代替する、なんて言っちゃ聞こえは悪いが、大切な存在ができたからな」

「お前といる時だけは愛を感じる事ができる。お前と話してる時だけは、アイツの事を忘れていられる。……けど、それは」

 

 何か、先の事を言いかけようとしていたマスターの口が止まり、固く結ばれる。

 黙ってその様子をじっと見ていると、次第にその口の緊張が、解かれていった。

 

「……なんだよ。そんなに睨むもんじゃねえぞ。まぁ――悪い、年を取るとどうも頭が悪い方向に行きやがる」

 

 といって、俺に朗らかな笑みを見せた。

 

「今は、お前と双葉が……そうだな、上手くやっている事を祝おうじゃねえか。なあ、どこまでいったんだよ実際」

 

 ……。

 ……最初に、野暮な事は聞かないって言いませんでしたかマスター。 

 



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第三章『Wake Up, Get Up, Make Your Move!!』
7/20『Destination』


さて、三章は一二三パートになります。「双葉のお話だけ読みたい!」という方は、『All-out』の前書きだけを見て、後はすっ飛ばしていただいても構いません。



「では、始めよう……」

 

 そんな仰々しい事を言って、双葉は座り心地の良さそうな椅子にドカッと腰かける。

 彼女の目の前には、奇妙な文字がひっきりなしに羅列されているパソコンのモニター。

 そして、右手には買い込んでいたスナック菓子の類がぎゅうぎゅうに詰まれていた。いかにも、準備は万端だといった風情だ。

 

「コミュ力を爆上げしてくれた分の借りは返す。どうやって料理しようか?」

 

 パソコンを見つめながらニヤリと不敵に笑う双葉は、いかにもらしい『キャラ』に入っているように思われた。

 いや、これが彼女の素なのか……? 

とにかく、とんでもなく大げさなことはしてもらいたくない。双葉が本気になったら何をしでかすか分からない。という事は、俺が三ヶ月弱双葉と向き合って来た中で培った経験だ。

 

「却下。容赦なく行く。カレシを困らせたという業は深いぞ? 消し炭にしてやる」

 

 俺の提案お構いなしに、双葉は何をしようかもう既に決めてあるようだった。なら何故聞いた。

 頼むから、消し炭にはしないで欲しい。

 

「オイ、大丈夫なのか? ワガハイ、いくら教養があるといっても、双葉のレベルじゃ何をしてるか全く分らんぞ」

「お、おお、にゃんこだ。なんだ、腹が減ってるのか?」

 

 そう言って、双葉は俺目がけてポテチをポイっと投げかけた。

 

「それでも食べさしとけ。じゃあその内鳴くのやめるだろ」

「ワガハイは猫じゃ……! あー、フタバには声、聞こえてねえのか……」

 

 受け取ったポテチの裏面を見て、そのカロリー量が猫の標準的な一食分の摂取量を大幅に越えている事を確認する。

 小分けにすればなんとかいけるだろうか……。

 

「いや、大丈夫だ。これくらい、ワガハイの運動量なら一瞬で消費できるハズだ」

「…………」

 

 ……今度はモルガナの鳴き声には目もくれず、キーボードを信じられないような速さでタイピングをしながら、押し黙ってしまった。

 どうやら集中モードに入っているらしい。モルガナの『オイ、オーイ』という鳴き声にも全然反応しない。

 

「困ったな……。呼びかけにも応じないって、相当の集中力だぞ」

 

 呆れた声でモルガナはそう言って、ベッドに上る。軽い身のこなしだ。

 ベッドに上った後、猫特有の伸びを一つして、辺りをきょろきょろと見回し始めた。

 俺もそれに倣うようにして、辺りの様子を確認する。

 俺が今立っている右隅から見て、正面奥には外から見る事のできる冷蔵庫が冷気を放っていた。ざっと見た限り缶のようなものがいくつか見れるから、多分レッドブルみたいな栄養ドリンクを冷やしているのだろう。

 しかしその更に奥には、何日溜め込んだか知れないごみ袋が高々と積み上げられていた。それは今にも崩れ落ちてきそうな不安定ななりをしていたが、何故か全くビクともしていない。

 煩雑に積み上げつつ物質の重心を理解して計算しているという、双葉の才能の表れだろうか……。

 そのゴミのオブジェと言うべきそれを一通り眺めた後、視線をずらしてみればこのオブジェのみならずごみ袋がそこかしこに散見された。ここに足を運んで何回目かになるが、相変わらず部屋の中は……うん、少し大変なことになっている。

 

「にしても汚いよな。女の人の部屋とはとても思えねえぜ」

 

 ハッキリ言わないであげて欲しい。

 

「双葉のそれが終わるのは全く見当もつかないな……どうだジョーカー、この後予定が無かったら、この部屋を掃除していかねーか?」

 

 ううむ、やはり曲がりなりにもメジエドは世界的なハッカー集団らしいから、いくら双葉ができるといっても一分二分そこらでは無理だろう。その間、ずっとボンヤリキーボードのカタカタ音を聞いているわけにもいかないだろうから――、

 モルガナの提案に頷こうとした直前、ズボンのポケットから携帯の着信音が鳴る。

 ポケットから取り出して、送信先を見る……一二三からのようだ。

 

『こんにちは』

『すみません、今からお時間はありますか?』

『少しご相談したいことがありまして。いえ、忙しいようでしたら大丈夫です』

 

 実に丁寧な言い回しは、まさしく一二三の口調だ。

 ……しかし、放課後に一二三から連絡がくるのは珍しいな。けど掃除と、双葉を見届けなければ……。

 一二三のLINEとゴミのオブジェを見比べて、しばし考える。

 

「……一二三からか? いいぜ、ワガハイが見守っとくし」

 

 ……そうか。ではお言葉に甘えて――、

 

「あ」

 

 双葉がいきなり大きな声を上げた。その声に少しだけ驚き、手に持ってたスマホを床に落としてしまう。

 それを拾った――のは、双葉だった。

 

「ねえ、え、ええと、あのさ、パレスって――どんなとこなんだ?」

 

 何か言いにくい事を言おうとしているのか、いささか言葉が詰まっている双葉。

 双葉には怪盗団の手伝いをしてもらうのだからと、一応怪盗団の話や、アプリやその他諸々についてはかいつまんで話してある。もちろん、怪盗団総意の上でだ。

 その時にパレスの事も話してあるはずなんだけど……。

 

「一緒にパレス付いていったら……ダメ?」

 

 ダメ。

 それよりスマホ返して。

 

「ぐぬぬ……分かった。ホレ」

 

 あれ、案外すんなりと引き下がるのか。

 双葉からスマホを受け取り、モルガナと目を見合わせる。

 

「では……サラダバー」

 

 この時、双葉は少し笑っていたのを……俺は、見抜くことができなかった。

 

  一二三が何を悩んでいるのかについては、実は心当たりがなかった訳ではない。

 双葉と初めて学校へ行った後、一二三は今スランプらしいという話を電車の中で聞いていたからだ。

 スランプ……恐らく今も、棋士との戦いには勝てていない。

 それを一人で克服するというのは、やはり難しい。そして、なによりとても苦しい。

 将棋仲間も、神田の教会では一人も見た事がないから……孤高と付く異名の通り、彼女はずっと一人で戦っているのだろう。

 だから、将棋が上手ではない、俺に。

 と、つらつらと電車の中で、一二三のLINEを見ながら考えてから、ホームボタンを押した。

 すると、偶然『異世界ナビ』のアイコンが目に入る。

 

『双葉は、もしかしたら若葉の事をただ忘れてるだけなんじゃないのか』

 

 突然、先日マスターが放った言葉を思い出した。

 心の傷。

 心の――、歪み。

 …………。

 おもむろにスマホの上に乗せた指が、震えているのに気づく。

 何気なく、何気なく、何気なく、だ。

 そう自分に言い聞かせて、それでも一駅分躊躇って……何気なくを努めて、そのアプリをタップした。

 

『佐倉惣治郎宅の、佐倉双葉』

 

 そして、何気なく彼女の名前を言って。

 

 しかし――幸か不幸か。

 

 

 

 

 

「目的地が見つかりませんでした」

 

 

 彼女の名が、ヒットする事はなかった。

 



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7/20『Abyss』

「――おめでとうございます。ひとまず安心ですね」

 

 隣を歩く一二三が胸を撫でおろす。

 まるで、自分が安心したとでもいうような様子だ。

 

「いえ……はい、少し。あの時、余計な事を喋ってしまったせいで、貴方と佐倉さんの関係が悪化してしまうと考えたらと……寝れない夜もありました」

 

 そこまで責任を感じなくても。一二三らしいけれども。

 むしろ、俺は一二三に感謝しなくてはいけないのだ。

双葉が獅子奮迅の攻めで一二三を負かした数日後、いつものように教会で行った対局の最中に一二三が双葉の気持ちを推し量ってくれた。

あれがなければ、双葉に告白する事はおろか、夏祭りに誘われたとしても怪盗団と行くからと、断っていたかもしれないからだ。

 

「ふふ。また佐倉さんについての話、聞かせてくださいね。プロ棋士を志す前に、私も恋話が気になる女性ですので」

 

 あ、いや、でももし嫌でしたらその……いいです。と、俺が断る前から遠慮してくる一二三。

 にしても一二三も惣治郎さんも、他人の惚れた腫れた話には目がないらしい。そこまで気になるものなのだろうか?

 想像してみよう。

 杏と竜司がもし、付き合い始めたとする。

 …………。

 めちゃくちゃ気になるな……。

 

「さて……ここです。私が行きたかった所」

 

 竜司が付き合うという謎シチュエーションに悶々としていると、おもむろに一二三が足を止めた。どうやら、目的地に着いたようだ。

 顔を上げて、そのお店の全体を見る。

 古書店が立ち並ぶここ神保町に相応しい、落ち着いた雰囲気のある本屋だ。

 そのお店からはちきれんばかりに本が積まれていて、雨が降ったらどうするんだろう、という率直な感想が浮かぶ。

 辛うじてささやかな雨除けとなっている屋根の上を仰ぎ見れば、『薙瓜書店』という看板が……なぎ、うりと読むのだろうか。

 

「この本屋さん、将棋関連の本が充実しているんです。私も、よく利用させてもらっています」

 

 本屋の事をわざわざ本屋さんという所に、一二三らしさが遺憾なくにじみ出ているな。

 しかし、将棋の本か……。確かに沢山の人に読んでこられたような本が所狭しと並んでいるから、将棋に限らず良書が埋まっていると言われれば、頷かざるを得ない。

 

「近くにカレー屋さんがあって、そこのカツカレーも、おすすめです。ゲン担ぎで、大事な一局の、時は……必ず……」

 

 カレー屋の事も、わざわざ以下略。

 確かにさっきから腹の虫がうずくような香りに、鼻腔がくすぐられている心地があった。

 ゲン担ぎをする事は、棋士の間では珍しくないという話を聞いたことがある気がする。この辺りも、将棋がスポーツの一種だと例えられたりする要因になっているのだろうか。

 ……あれ、一二三の言う事、途中で途切れなかったか?

 一二三の方を見ると、何か思い出したくない事でも思い出してしまったかのように、指でこめかみを押し当てている。

 

「あっ」

 

 ?

 突然声を上げて、薙瓜書店ではないどこかを見る。俺もそれに従うようにして右側の道路を見ると、一二三をじっと見る女の人が立っていた。

 知り合い……だろうか。

 しかし……。

 

「……おつかれさまです。先輩」

 

「……別に」

 

 ……。

 ふむ。

 あまりにも無愛想な態度に一瞬戸惑っていたようだが、直ぐに何か思いついたのだろうか、あ、と顔を上げる。

 

「……失礼しました。今日、対局はなかったですね……」

 

 今の態度でそれを読む一二三はやはり流石だ。

けれど、そんな気の利いた言葉にすら反応せず、彼女の先輩とおぼしき人物はどこかへ歩いてしまった。

 

「……ごめんなさい。私と一緒だからあなたまで睨まれて……」

 

 ちょっと怖かったと言って、場を和ますのが精いっぱいだった。

 しかし――『私と一緒だから』、か。

 

「以前のタイトル戦で、私が負かしてしまった……先輩なんです。……私、先輩方にあまり好かれていないみたいで……」

 

 と言って、苦笑いを浮かべる一二三。気遣ってくれているようだ。

 好かれていないというのは、やはり仕方のないことなのだろう。彼女は何もやっていない……いや、勝負事に先輩だろうが何だろうが本気で挑む、というやるべき事をやっただけなのだから、これは完全に相手の逆恨みなはずだ。……恐らくだけど。

『孤高の天才』なんて呼ばれている理由はもしかして、天才であるが故に、孤高になってしまうという揶揄も入っていたりするのか?

 孤高で、天才、か。

 ……。

 あれ、このくだり前にもやったっけ……。

 

「注目されると、敵も味方も……増えます。あることないこと、言われて……」

 

 あることも、ないことも……か。

 特に彼女は、その……何かと目立つ行動、というか言動をしているのだから、うわさ話に尾ひれも付きやすいのだろう。

 

「比較は変かもしれませんが……怪盗団も、同じなんですかね」

 

 怪盗団、と一二三が言った瞬間に、ちょっとだけ心臓がドキリとする。

 双葉に見抜かれてしまったという失策が、少しトラウマ化してしまっているのかもしれなかった。

 とりあえず……『何のはなし?』と応じる。

 

「あ、ええ、すみません。いきなりでしたよね。……ええと、怪盗団……さんは、最近テレビやネット等で騒がれているじゃないですか。それが……なにか、ちょっと自分と重ねちゃうんです」

 

 そう言って、ボンヤリと遠くを見る一二三。

 表情は……読み取れなかった。

 

「けれど、怪盗団は強いんです。とても、とても……私には真似のできないほど、強い」

 

 強い?

 

「はい。……怪盗団チャンネル、というサイトをご存じですか? ……そうですよね。あそこを一度覗いてみたんですが……本当に、ええと、なんと言えばよいか……」

 

 一二三は続ける。

 

「まず……批判をしている方がいました。次に、よく分からない部分を擁護している方。そして怪盗団を余所に今後の活動について議論を交わしている方々。自己顕示欲を満たす為に動いているような方。……本当に、本当に沢山の人が、怪盗団に期待していました。そして妬んでもいました。誇りに思っている方もいらっしゃいましたし、貶している方もいました」

 

 一二三はもしかして、怪チャンのスレッドの事を言っているのだろうか。

 確かにあのスレは……うん、まともに見ていると気持ちが穏やかじゃなくなること間違いなしだ。

 

「けど、怪盗団は淡々と、それが自身の在り方であるかのように、悪人の罪を次々と暴いています。そこに……怪盗団の、何者にも振り回されない、『意志の強さ』を……感じます」

 

 意志の、強さ……正直俺は、そこまで大層な事を思った記憶がないけれど。

 しかし、しなければならない事……つまり悪い大人の改心だが、それは今後一切変わらないと思う。

 誰がなんと言おうと……俺達怪盗団のメンバーの意志は、ちょっとやそっとじゃ変えられないから。

 竜司も、杏も、祐介も、真も……ついでにモルガナも皆、怪盗団の活動に対する心構えや理由は、少しだけだがズレている気がする。

 複雑怪奇に志が交わりながら構成されていて、かつその方向性が一緒なのだから、ビクともしないのも当然だ。

 しかし……その苦しみを分かち合えずに、ただ孤独で戦っている人がいる。

 言うまでもなく、一二三だ。

 彼女はその批判を一身に受けて、同業者からも疎まれ、生業としている将棋を広めるために芸能界でも精力的に活動して、今もたゆまぬ努力を続けている。

 そんな俺達が集まってやっとの事でしている営みを、一二三はこなしている。

 それを……俺は、カッコイイと言ったんだっけ。

 

「……その点私は、ダメなんです。一人一人の無責任な発言に気にしないこともできないで、右に左にフラフラと……情けない」

 

 ……そうか。

 一二三も俺は、どこか超人じみた人だと感じている節があった――将棋の実力しかり、普段の会話から出てくるオーラしかり。

 けれど……そんな事はなかった、のか。

 当たり前と言えば当たり前なのだけど。

 一二三の事を、少しだけ分かったような気がした。

 ともかく。

 一二三が相談したい事……それが、人の意見にいちいち耳を傾けてしまうという悩み。その所為で将棋の調子にも影響が出てしまった……と、いう事だろうか?

 

「……はい。驚きました……知っていたんですね、私の不調……。流石ですね」

「最近は、大事な時に集中力が途切れてしまう事が度々あって……いけません。ひらめきも……あまり、起こらないんです」

 

 ……なるほど。

 

「今日は、ありがとうございました……。悩みを打ち明けると、こんなに心が軽くなった心地がするんですね……新発見です。これは何か、お返しをしないと……」

「……あの、教会に戻って一局指しませんか? スランプ脱却のカギは、やはり将棋を指し続ける事と聞きますし……今日は少し長めに付きあって頂けると、その、嬉しいのですが。……あ、双葉さんに怪しまれない程度で……その、はい」

 

 あくまでも遠慮し続ける一二三が、目を閉じた瞬間、キリリとした表情になる。

 

「今なら、私の禁断の秘儀……エターナル・アビス・矢倉で盤上を無間地獄にして差し上げましょう」

 

 ……。

 ……アビスって、どういう意味だ?

 



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7/21『Frontal』





「で? なんだよいきなり。俺らに相談したい事って」

 

「珍しいよね。いつもは私たちが相談されてる側なのにさ」

 

「そのくらい難しい議題なんでしょう。けど、いつもは頼っている人に頼られると、……なんだか……悪い気はしないわ」

 

「だな。なに、迷うことは無い。ただ俺達に打ち明けるだけでいい」

 

「ワガハイは大体知ってるんだが。まあ、ここは一通り言っておけよ。ヒフミの事」

 

 ルブランの屋根裏部屋。つまり自室。

 ついこの前までは、渋谷駅の渡り廊下をアジトにしていたのだけれど、ここ最近は屋根裏部屋に入り浸っていた。こちらとしては自分の部屋に呼んでいるようなものだから、とても楽である。

 ともかく。

 双葉にメジエドの一件を片づける助けをしてもらい、一二三から彼女の悩みを聞いた後、色々な事があった。といっても、まだ一日しか経っていないのだけれど。

 まず、メジエドに所属している複数の日本人の個人情報が、メジエドが開設しているHPに不正に載せられていた事。

 まだXデーには何日もの空きがあるが、怪盗団に優秀なハッカーが居たと分かった今、迂闊に怪盗団に手出しは出来ないでしょう……とは、チャット内での真。

 次に、一二三に対しての助言を思いつく事ができなかったという事。

 俺達みたいに、悩みを共有できる友人や相談相手を作ればいい……と言うは、将棋仲間にすら疎まれている一二三には無理な要件にも思えるし。

 かと言って、グラビア等の芸能界に顔を出すのをやめればいい……言うのは、『将棋界を盛り上げたいんでしょ?』という一二三に言われた言葉に刃向かってしまう。「嫌なら辞めちまえよ」というのは……正直、俺だけの決断で助言をするのは、少々気が引ける。

 という訳で最後に、この事に対して双葉に相談をしに行った。

「ぐぅ~~~……くぅうぅぅ……」

 

 が、机の上で爆睡していた。もろもろが終わった後、疲れからかそのまま寝ているようだった。

 頭と机の間で潰れている、まるでついたような餅を連想させる彼女の頬を触る事を、鬼の形相で耐えた事は言うまでもない。

彼女をそっとベッドの上に乗せた後、「さてどうしたものか」と考えていると、LINEのグループが賑わっている事に気付く。メジエドの件がひと段落したために、一度アジトに集まっておきたいという事らしい。

そうして皆が屋根裏部屋に集まり、双葉やメジエドについての確認や、雑談が始まった。

メジエドは今度どう行動するのだろうか云々。

双葉に対して、怪盗団としてどう接していけば良いのか云々。

俺はいつものように聞き手に周っていたが、時々一二三の事を考えてしまうときがあって――それを目敏く皆に察せられてしまったのが、俺が一二三の事を相談したキッカケでもある。

とにかく、コマゴマとした理由がいくつもあって――俺はこうして、友人の困りごとへの助けを別の友人に求めるという、ちょっと複雑な事になった。

 勝手に言いふらす形になってしまって一二三には申し訳ない……ので、せめて良案が出るまでは粘りたい。許せ一二三。

 皆に、今の一二三の情報を話す。

 

 彼女がグラビアの仕事をしている。彼女はそれを辞めたいと思っているが、『将棋界を盛り上げる為』に断る決意ができないでいる。

 人の意見に一々耳を傾けてしまう。元々はあまり気にしていなかったが、芸能界での仕事が増えるにつれて過激化、それが本業に悪影響を及ぼし、スランプに陥っている。

 その事に対して、自分の意志を貫いている怪盗団に羨望を抱いている。

 

「……うーん、なんだかよく分かんね。要は将棋に専念しちまえば良いって話じゃねーの?」

 

「ううむ、確かにリュージには分からんだろうな」

 

「ああん?」

 

「……その気持ち、ちょっと分かると思う。私も、貴方たちに出会うまでは、生徒会長として……うん、色々あったから」

 

「……そうだね。けど、どうすればいいんだろう……」

 

 杏が足を組んで真面目に考えだすと、周りも各々の姿勢で考え始めた。

 しばらくの間、沈黙が流れる。

すると――おもむろに口を開いたのは、竜司だった。

 

「あー、とりあえず、その、一二三ってーの? そいつのプロセッサーがそいつを芸能界に入らせてんなら、そいつに説得しに行きゃいーじゃん」

 

「プロデューサーね、竜司。……けど、そんなに単純なことなのかな。東郷さんは仕方ないって言ってるんなら、それをプロデューサーに相談しても意味なさそうだと思う」

 

「そうか? 彼女がその仕事に対して気が引けているのだとしたら、プロデューサーもなんとなく気づくようなものであるはずだが。なあなあの状態で続けているのも、その方の責任もあるだろ」

 

「そう決めつけるのは早いと思う。……とりあえず、彼女以外の要因を考えるのは止めて、東郷さんがちゃんと決められる方法を考えるべきじゃないかしら」

 

 うーん……と、どこからともなく唸り声が聞こえてくる。

 しかし、真の言った事が――やっぱり正しいか。

 確かに一二三が行き詰まっている要因は沢山ある。彼女の大変さを特に親身に分かってあげられる将棋仲間がいない事。その他大勢が(俺も含めて)、一二三を正しく導いてあげられていない事、彼女が将棋界を盛り上げたいと言う名目があるために、無下に断れない事――仲間たちが色々と話してくれている間に、本当に沢山の理由が挙げられた。

 けど、それはただ一二三に付きまとっているファクターでしかなくて……彼女が仕方ないと思っている限りは、それらを逐一取り除いたとしてもまた新たなトゲに絡まってしまう。

だから、やっぱり一二三が『キッパリ辞めます』と言える意志を持てるような、そんなフォローをしてあげなくてはならない……のだろうか。

 そのために俺は、なんと言えば良いのか。

 考える。

 彼女が喋っていた事を、ボヤっとした思考のままグルグルと思い出す。

 ……。

 …………。

 ………………ダメだ。

 一二三が格好良く中二的台詞をキメている事しか思い出せねえ。

 いやそれは冗談だけど。

 しかし……一二三は、あんまり自分の事は語っていない事に思い至る。

 いつも一二三は俺に将棋を教えてくれていて。

 そして、いつも俺の相談役に回ってくれていたのだ。

 そんな――尊敬すべき先生のような彼女の悩みを、俺が打破する事ができるのだろうか?

 ちゃんと考えるまで、彼女の事を全然知らない事すら知らなかった、この俺に。

 ……。

 ダメだ……考えすぎは、マイナス思考の、元。考えすぎはマイナス思考の元。

 一二三直伝のおまじないを頭の中でかみ砕くように咀嚼して、ふぅ、とため息を吐く。

 周りを見る。各々考えてくれているようだ――竜司は少し飽きているようだが――幸い俺のグダグダな思考はバレていないらしい。

 よし。

 大体の腹は決まった。

 今回も、正攻法で行こう……双葉のように、だ。

 まず相手の事をちゃんと知る。その上で、結論を出す。

 スマートな方法とはとても言えないが、一番着実で現実的な道だろう。

 となると、長期的な計画になりそうだ。

 双葉にはなんと言えば良いだろう、ちゃんと話せば、分かってくれるだろうか。

 

「……おや? 何か良い案が浮かんだような顔をしているじゃないか……ところで、今はもう、夕食時のようだぞ」

 

 と、祐介が言うと、まるで狙ったかのように祐介自身の腹が鳴った。

 連鎖的に竜司のお腹も。

 その音で少しだけ間が空いた後、皆の視線が俺に集められる。

 ……どうやら、ルブランで食べて帰る気満々らしい。

 



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7/23『Suddenly』

文章力がマシになったらこの部分は書き直します。


 終業式が終わり、待ち望んだ夏休みが始まる。

 夏休みを謳歌する上で一番の悩みの種だったメジエドについても、当面は考える必要は無くなった。だから、怪盗団のメンバーの喜びも一入だろう。

 期末試験が散々だったから、宿題を頑張らなくてはならない――という真の助言は、ひとまず脇に置いておくとして。

 何をしようか……と、階段近くの物置と化したそれにモナバックを置いて、考える。

 ……そうだ、一二三の所に行こうか。ちゃんと一二三について知る、とは、俺の夏休みの目標の一つだ。

彼女はそこまで自身の事をペラペラ喋る人物ではないという事を、一昨日の議論で学んだ。

 だから、神田に比較的足繁く通うべきなのは明白だから……モルガナにそう説明して、モナバッグをそのままに、財布とICOCAが入ったスマホをポケットに入れ、ルブランの階段を下りる。

 惣治郎さんは、常連客と話しているようだ……慣れた感じで客と話すマスターに一礼してから、俺はドアを開けた。

 

「おす……」

 

 するとそこには目を真っ赤に染めた双葉の姿が。

 ……。

 普通にビックリした。

 

「やべー、寝てねー、日の光が目に刺さる。……お、おぉ?」

 

 おぉ?

 

「こ、こんなトコロに寄りかかりやすそーな物体Xが……しめしめ」

 

 微妙に呂律が回ってない舌でそう言って、寄りかかった――俺の胸に。

 ……ここ、外、なんだけど。

 

「いーじゃん、別に。怪盗団の危機を救ったのは私、だからこれくらいのご褒美は許させるべき! ふぅぅ~」

 

 まるで風船が萎んでいくように大きな息を吐いて、そのままもたれかかる質量が重くなっていく。

 いや……しかし、別にもたれるのがどうのこうの言っている訳ではなくて、外で、しかもマスターの店の真ん前でしている事が問題であるからして。

 しかも、双葉の目にはやはり隈ができていて……昨日、丸二日寝ていたんじゃないのか?

 俺が双葉の肩を持つと、しぶしぶといった様子で俺から離れる双葉。

 

「二日じゃ全然、足りん。この疲れは多分あと二日分のストックいる。けど……大丈夫だ。今ので大体、回復した」

 

 マジか。睡眠時間が三日四日かかる疲労なんて、想像し難いけれど……そこまで大変な作業だったのだろうか。

 

「ある程度効率化は進められてるから楽っちゃ楽だけど……まー、相変わらず時間は掛かった。けどなぁ……コードが……ううむ」

 

 なにやらよく分からない単語を言った後、腕を組んでうんうん唸り始める。

 

「うー、や、そんな事は今どうでもよーし。コレよ、コレ」

 

 双葉は細い手でスマホを取り出して、多分もの凄い速さでスマホを操作し、あるサイトを俺に見せる。

『東郷一二三の全てを大暴露!? 孤高の棋士の家庭事情、超複雑!』……だって?

 

「読んでみたら、多分分かるが……まあ、ちょっとヘビーな話題も、ある。情報の仕入れ先が気になる所だけど……まあ、うん、耳に入れておこうと思って」

 

 双葉の言っている事を少しだけ耳に入れながら、一二三についての記事らしいそれを読む。

 父が体を壊していて……一人で働く母に頭があがらなくて……その母が、夜のお店で働いていて。

 ……。

 一二三の事を知りたいと思ってはいたが……皮肉すぎた。

 見知らぬ他者に干渉されることを恐れている一二三が、こんな記事を見てしまったらと思うと、ゾッとする。

 

「……完っ全にメディアのネタにされてるな。人でなし! ……まー、ヒフミもここまで晒されるってのは、予想外なはず、だ」

「行くんだろ? 今から……ヒフミんとこ」

 

 ……え、なんで。

 ハッタリか? ……いや、彼女にとってそれはないか。

 ……あれ。

 そもそも、どうして双葉は、俺の所に一二三の情報を渡して来たんだ?

 

「……」

 

 一瞬、固まる。

 

「……あ、あれよ。一昨日、一二三んとこ行くって言ってたじゃん。そんで、なんとなく」

 

 ……そうか。一二三の所へ行くと言った覚えは正直あまり無かったが、双葉がそう言うのならそうなんだろう。

 

「そー。……全く、女友達がよく居るなー、()()()()()は。三人目か?」

 

 う。

 そうだ、一二三へ行くことの理由を双葉に説明する義務を、完全に失念していた――やばい、全然考えてないぞ。

 

「……フフ、大丈夫だ」

 

 え?

 

「浮気をするフラチな輩とは違うという事を、私は会ってから今までで見抜いてる。……私を舐めるなよ?」

 

 ふっふーん、と手を腰に当て、胸を張る双葉。……そこまで言われると、少し恥ずかしかった。

 そうか……それでは、心おきなく、といった具合だ。双葉にお別れをして、四茶から神田に……あれ。

 

「? どうした?」

 

 バイバイ、と振っていた手を途中で止めた事を不思議に思ったのか、双葉は首を傾げている。

 そういえば、まだ双葉がここまでわざわざ来てくれた理由は分かっていなくないか? 一二三についてのサイトを見せたかったのなら、URLをLINEに貼ってくれれば良いわけだし……。

 

「ふふふ……勘の良いガキは嫌いだよ……」

 

 なんだそれ。俺はガキではない。

 何かキャラが入ったのか、クツクツと大げさに肩を揺らして笑う双葉。その目の隈も相まって、結構……いや、ちょっとだけ変な人に見える。

 そんな変な人は、人差し指をビシッと――俺の胸の辺りを指した。

 

「それは――そこに物体Xがあったからだ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 見切り発車で、それこそ連絡も入れずに俺は神田に向かうと――果たして、一二三はいつもの場所に座っていた。

 

「……」

 

 話しかけようと彼女の傍まで寄った時、俺はふいに違和感を覚えた。

 一二三が――将棋盤を出していないのだ。

 ただ、そこに座って、視線を床に落として……何も考えていないように見える。

 さっきから全然喋っていないし……いや、それはいつもの事か。

 ともかく、俺は一二三に声を掛けた。

 

「あ……こんにちは。なんでしょう、最近よく会いに来てくださいますよね……」

 

 ふふ、と言って笑って見せる一二三には、いつものような笑顔はない。

 もしかして、と思っていた事が、確信へと変わる。

 一二三は、もう……あの記事を、読んでいるのか。

 

「……ええ。貴方も見ましたか。……けど、もう良いんです……もう」

 

 もう、良い……だって?。

 

「……今日は、貴方にお願いをしに、来ました。ですから、今日貴方が来るという事は、読ん……いいえ、これはただの勘、ですね。我ながら、珍しいです」

「将棋の指南を、今日で終わりにさせてください」

 

 ……!

 どうして。

 

「私……将棋、辞める事にしたんです」

 

 ……。

 …………え。

 やめる、って。え、いや、それって……どういう事だ?

 

「そして、芸能界に入ります。麻……私の世話をしてくれている人にも、言ってしまいましたから……撤回はできません。……お母さんや、様々な人と話し合いました。貴方には、事後報告になってしまって……申し訳ないと思っています」

 

 何を……言って。

 状況が呑み込めない。

 だって――一二三の悩みを聞いてから、まだ二日しか経っていないんだぞ?

 これからという、時だって……思っていたのに。

 

「いいえ。そんな事……ないです。私の身の上話を聞いてくださったのが、たとえ二日前だったとしても……私は、その、結構前から……考えていたんです」

「読んだのでしょう……? あの記事を。お父さんは病で働く事ができず、お母さんに……全てを任せてしまっています。だから……私だけが、我儘を言っていられないんです。私も、生活を楽にしてあげたい。だから……仕方のない、事なんです」

 

 いや、それなら……どうして将棋ではなく、芸能界に?

 

「いいえ……もう、何も今は、新手が思いつかないんです。最近はスランプ気味でしたし……」

 

 ……それは、誰にでもある事だろう、スランプは。

 克服できないスランプがないという事は……一二三だって、知っているはずだ。

 

「……もう、二足の草鞋を履くのに疲れたんです。ずっとこんな調子でしていたら、世間も黙って見てはくれないでしょう……メディアも、あんな感じで。女流棋士という仕事も、ただの棋士とは違って……対局数も少ない。安定して勝っていかないと……また、生活を苦しめることになってしまいます。だから、お母さんや……麻倉さんは、芸能界の方が良いと、行って下さいました」

 

 ……ダメだ。

 全く、どう反論していいか……分からない。

 話が急すぎる。

 

「これで……いいんです。これで、お母さんの仕事も楽にさせてあげられる。お父さんも心配せずに見守ってくれる。……私も、その……大丈夫、なんです」

 

 大丈夫、大丈夫と言う一二三の言葉はどうしてか、俺に言っているようには思えなかった。

 まるで、自分に言い聞かせているかのようだった。

 この結末を納得できないでいる――彼女の、別の人格に。

 だって――当事者である一二三が……一番、苦しい顔をしているから。

 

「!! これは、その……」

 

 珍しく一二三が口ごもっている。

 やはり、まだ諦めきれていないのかもしれない。

 

「もう、放っておいてくださいま、せんか。……とにかく、指南は、終わりという事で。……それでは」

 

 最後に突き放すような事を言って、一二三はそのまま出て行ってしまった。

 ……。

 椅子に座りなおし、項垂れる。

 ……どうすれば、いいんだろう、と、声が漏れ出た。

 

「……もし」

 

 誰かから、声が掛けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……それはちょっと、偶然が過ぎるぜ。偶然すぎる偶然は、誰かの思惑が取り巻いてる……って事を、ワガハイはどっかで聞いた事がある」

 

 屋根裏部屋。

 モナバッグを置いてそのままで出て行ってしまった事をブイブイ言われてから、俺はモルガナと、ベッドに腰を落ち着ける。

 

「にしても、ヒフミか……どうやら、相当参ってるみてえだな。けど……麻倉、か。どこかで……聞いた事ないか?」

 

 言われてみれば、確かに……。

『お母さんや、麻倉さんに……』と一二三は言っていたけれど……そもそも誰だ。

 一昨日竜司らが言っていた――一二三のマネージャーとか、プロデューサーみたいな人なのだろうか。

 

「プロデューサー……待てよ……あ、そうか、分かったぞ!」

 

 モルガナがいきなり声を荒げる。

 

「麻倉史郎……前にアケチとテレビ局で喋ってた、アイツじゃないか?」

 

麻倉、史郎……? ああ、モルガナが、『どこかで見た事はないか?』って言っていた人か。

そうかもしれない。

それはさておいて……どこかで見た事あったっけ。と、モルガナが言っていた事をもう一度考え直してみる。

 ……。

 教会の前。

 前から来た男。

 肩が、ぶつかる。

 

 あ。

 あいつか……一二三と初めて会って後、教会から出てきた時に俺とぶつかった人。

 ぶつかられた時は随分感じが悪かったから……テレビ局で見た時は、全然気づかなかった。

 

「恐らくそうだな。……どうする? そのアサクラってのに言っちまったんだろ? じゃあ……そいつとコンタクトを取る必要があるみてえだな」

 

 ……そうしたら。

 アイツしかいないか。

 

「「明智」」

 



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7/24『Palace』

微独自解釈&設定があります。


 モルガナと話をしたその翌日、貰っていた名刺に書いてあった、明智の電話番号に電話を繋げた。

 勿論用件は、明智に麻倉さんの取次をしてもらうこと。いきなり麻倉さんと喋ろうとして、一体何のつもりなんだろうと疑われないような、口実も用意してあった。

 しかし、明智と電話してからというものの、トントン拍子に物事は進んだ。俺がモルガナとうんうん唸ってこしらえた、麻倉と俺が会うための、スキのない理由を満足に語り終える時間もないまま、彼は俺と麻倉を合わせる手筈まで、整えてくれたのだ。

 流石は顔が広い明智だ。こうやって貸しを作ることで、相手を段々と懐柔していくのだろうか……。俺は明智に疑いの目を向けながらも(完全に立場が逆だ)、礼を言って、指定された場所へと向かった。

 待ち合わせをしている場所は、やはりあのテレビ局だそうだ。彼が仕事の合間を縫って、この建物から出てきてもらうことになっているらしい。

 

「それにしても……随分と拍子抜けだったな。麻倉と会うのは、最悪一週間は覚悟していたが……あまり、時間を掛けるなよ?」

 

 俺達が怪盗をする前から、異世界で活動している者の勘なのか、そう言って俺の気を引き締めようとしてくるモルガナ。今や真や祐介が入って来て、段々と纏まってきている感じはあった。しかし、杏や、竜司、あと俺のような感情に振り回されがちな三人を制してくれたのは、いつもモルガナだった。とても足を向けて寝ることはできない。最近は、俺の腹の上で寝るのを好んでいるようだが……それはともかく。

 正直、明智を怪しんだとしても、今は一二三と、あと……まあ、色々大変なことで頭が一杯な感はあった。これ以上悩み事を増やされると、俺は双葉、一二三や真ほど利口じゃないから、そのうち頭がパンクしてしまうだろう。

 

「……まあ、確かにそうだが。けど、怪盗団の()()()として、あとちょっと頑張ってほしいけどな。そんなお前の期末テストの順位が、下から数えた方が」もうそろそろ麻倉が来てもいい頃合いだ。一応、言うべきことをきちんと整理しておいた方が「って、無視すんなー!」良いかもしれない。

 モルガナが何かにゃあにゃあと言っているようだが。しかし、そんな些事は、この大事な局面では気にしちゃいられなかった。あと、ヒトが知らなくていい事実は、この地球に生きている限り往々にしてある。

 

「しっかりしろよ……双葉みてぇにとは言わないが。てか、双葉のパレスって結局、見つかんなかったんだよな?」

 

 ……今、そんな重い話題を話すのか?

 

「いつやっても変わんねーよ。で、どうだったんだ?」

 

 俺の軽口を軽くいなして、再度確認をしてきたモルガナ。

 

『目的地が見つかりませんでした』

 

 機会音声特有の、少しだけ違和感のある声を思い出す。

 あの時……モルガナの言う通り、双葉のパレスは見つからなかった。もちろん双葉にパレスが無いということは、普段双葉を見ている俺なら直ぐに分かっている。

 あれほど元気で。あれほど無邪気で。あれほど表裏がない……ように、見えて。

 そんな双葉を見て、誰が双葉のことを怪しいと言うのだろう。くだらない妄想だと言われても、仕方のないことだ。

 しかしどうも、心の中にある、得体の知れないモヤモヤとしたものは、()()()以来晴れてくれることはなかった。

 夏祭り終わり、マスターが話してくれた――あの日以来。

 なあなあにできる話じゃないということは、嫌というほど分かっているつもりだ。しかし、解決する為の材料が、証拠が、今は極端に少ないように思えた。

 まだ先に進むことはできない――と、誰かが言っているような気さえした。

 

「ふむ……まあ確かに、ワガハイ達が見てきたパレスは全部、悪人のばっかだ。けど……個々のパレスが出現する要因は、悪いことを考えているかどうかじゃない。欲望や、認知が歪んだかどうかだ。……だから、トラウマを抱えている双葉にパレスが出現している可能性は、十分にあり得る」

 

 前に、双葉が扉の向こうで苦しんでいた理由も(確か五月中ごろの頃だ)、認知の歪みから色んな幻覚が見えたってことで一応の説明が付く……と、続けて話すモルガナ。

 なんだか双葉のパレスが存在している、つまり双葉自身の認知が歪んでいるという前提で話が進んで行ってしまっているが……実際、結局のところは見つかっていないのだ。

 とすればむしろ、こう考える事もできるだろう。双葉は、母親のことに対して実は、既に気持ちの整理がついている。俺のその話をしない理由は、その、例えば話す機会を逸しているだけ……だ、とか。

 

「……だったらそれが一番いいんだけどな。ワガハイ達がこうやって話をしていることが、実は全くの無駄だった……これが、双葉に関していえば、ハッピーエンドだろ」

 

 こうして話していることが全く全て無駄。それが、ハッピーエンド。

 ふむ。

 

「けど、ご主人の言う通り、双葉は若葉さんのことを忘れている可能性が高い。そこらへんの可能性は、ご主人が言っていただろ?」

 

 忘れている、か……確かに、それが今考え付く中で、一番現実的な可能性なのかもしれない。

 もしそうなら――アプリに引っかからなかったのは、どうしてなんだ?

 モルガナはしばらく、うーん、ごろごろ、と唸りながら考えていた。普通にかわいい。

 

「母親は、その、もしそうならの話だが、双葉の認知を歪ませている、いわば核だ。それを、双葉を苦しめているその原因を、双葉自身が()()()ら……どうなる?」

 

 ……それは、

 

「やぁ、キミかい? 明智君から、鞄の中の黒猫が目印だって聞いた時は、ホントかなぁ? って思ったけど……ホント、だった」

 

 モルガナと、案外込み入ってしまった話をして時間を埋めていると、ハッハッハ、と大きな笑い声をあげて近づいて来る人がいた。

 中年男性、スーツ姿、赤い眼鏡。

 ううむ、芸能界の大物プロデューサーといえば、派手な色の眼鏡をかけているというのが定説らしいが……俺の中でそれは、立証されつつあった。

 もしかしなくても、麻倉だろう。

 俺は気持ち居住まいを正して、こんばんは、夜分遅くにすみません、と、形式的な挨拶を済ませる。

 

「いや、いーのいーの! 丁度俺も休憩したかったからねぇ」

 

 麻倉さんは大げさに手を振って、朗らかに笑った。

 

「それに……」

 

 と思えば、途端に眼鏡が光、怪しい顔つきになる。

 

「君も、面白いキャラ、してるねぇ」

 

 ……え?

「……なんだ?」

 

 俺とモルガナが、一緒に首を傾げる。

 キャラ?

 

「そう、キャラ! 癖っ毛……いや、それはワックスかな? 表情を隠している眼鏡、整った顔立ち、スラっとした出で立ち、そして何より……鞄に入ってるその猫ちゃん! キャラ立ちのオンパレードって感じだよね! お手本みたいな子だなぁ」

 

 突然の褒め殺しに、俺は少々参ってしまった。普段は教室で陰口を言われている存在だから、そういった褒め言葉に否応なしに反応してしまっている。ダメだ、しゃんとしないと。

 

「突然の呼び出しにビックリしたけど……もしかして、もしかしなくても――俺に、プロデュースしてほしい、ってことなのかな!?」

 

 放たれた矢のような速さで、また言葉が飛んできた。

やばい……ある程度覚悟をしていたことではあったけど、やはりこの人、喋るのめっちゃ速い。彼の言葉を一つ一つ理解して、処理することに脳が忙殺されて、言葉を返すどころの騒ぎでは無かった。芸能界は恐ろしい所だと、改めて痛感する。

 

「オイオイ、しっかりしろよ。このまま芸能界デビューとか……いや、なくはないな」

 

 ……ないのか。

 

「表はアイドル、裏では怪盗。ワクワクする組み合わせじゃねーか。そして、ワガハイがアイドルになったら……! も、もももしかしたら、杏殿が振り向いて……」

 

 鞄の中で、ありそうにない幻想を垂れ流しているモルガナ。オイオイ、しっかりしろよと言いたくなったが、あまりにも情けなかったので、言う気も失せた。

 俺がしゃんとしなければ。ボコボコと鞄の中で暴れるモルガナを宥め。一つ深呼吸。伝えたいことを頭の中で並べて、そして麻倉に喋りかける。

 

「え、違うって? それじゃあどうして――あぁ、一二三ちゃん……ね」

 

 麻倉の話すスピードが少しだけ、遅くなった気がした。

 

「じゃあ君は、彼女のファン……いや、違うな……知り合いかな?」

 

 俺は素直にはい、と答えてから、彼女が芸能界に入ることを決意したいきさつを、それとなく伺ってみる。

 

「え、それ聞いちゃう? ……いいよ、特別に教えてあげる。一二三ちゃんの友人……なんだよね? ファンにしては……情報が回るの、ちょっと早いから」

 

 そういって、麻倉は声のトーンを下げる。

 

「一二三ちゃん、万人受けする顔してるしねぇ……将棋界なんて、言っちゃ悪いけど、そんなしょっぱい業界に置いておくには、少しだけ……もったいないでしょ? 彼女は彼女なりに活躍できる場があるって、考えたんだ。そして彼女……スランプ気味だったじゃない? だから……『今だ』って、そう思った」

 

 あ、今のは、一二三ちゃんには内緒だよ? と、人差し指を口元に近づける麻倉。

 

「君は一二三ちゃんのことが心配なんだよね? 分かるよ、その気持ち……将棋と同じく、芸能界は時には辛くて、大変だ。けど、大丈夫……一二三ちゃんには彼女の母親っていう大先輩がいるし、なにより俺がいる……ハッハッハ、ちょっと疑ったね? ま、そこは呑み込んでよ……なんなら俺の名前を、ウィキかなんかで調べてくれたっていい。あ、情熱大陸にも一応出演している身だからね? 見た? ……そっか、みてないか」

 

 急にしょんぼりしたかと思えば、また大きな声を出して、快活に笑う麻倉。

 

 「まあ、俺が言うのだから間違いなし! ってね。……ああ、一二三ちゃんとは話したよ、じっくりと、ね。もちろん全会一致さ――強引に決めたとかいうのは、そんなことは決してない。彼女も言ってなかっただろう? 『強引に決められました』……なんて」

 

 ……確かに、そうだ。

 彼女はちゃんと、色々な人と話し合った……と言っている。

 そしてなにより――芸能界に入るのが嫌だ、という事を彼女自身から聞いていないのだ。

 麻倉……さんも、いい人に見える。あの時、一二三と初めてあったときに、教会ですれ違った人の面影は影も形もない。

 だから、麻倉さんに任せていいとさえ、思った時もあった。しっかりとした後ろ盾がありながら、それでも一二三には将棋をしてもらいたいと思ってしまうのは……俺のワガママなんだろうかと、悩んだ時もあった。

 

「あ、ゴメン! もう行かなくちゃ。……最後に君、もう一度『あの件』……考え直してくれるかな。もしオッケーなら――俺が必ずヒットさせてあげるよ。本当は女の子だけしか仕事は持たないんだけどね。君だけは特別。それじゃ!」

 

 そう言って麻倉は俺に名刺を渡し、颯爽とテレビ局の中へと消えていった。

 俺はその名刺を無造作に財布にしまい、やはり多かった麻倉さんの口数に、ふう、とため息を吐く。

 

「……おつかれだな。完璧だったな、アサクラ。やはり、芸能界のドンと言われてるだけはあるぜ。……で、どうする?」

 

 確かにモルガナの言う通り、麻倉の言う事は聞く限り、非の打ちどころはないように思える。麻倉自身もキャリアはあるし、その界隈で名を馳せているということは、ネットで調べた限りでは本物らしい。唯一、彼が情熱大陸に出ていたことは知らなかったが。

 それと、一二三の母親……東郷光代、だったか。彼女もそれなりのキャリアがあるようだった。その人たちに囲まれているのだから、彼女が失敗することはあまり考えられないだろう。田舎から飛び出してきたようなアイドルとは……訳も、状況も違う。

 一二三も一二三で、俺の知る限り、真と肩を並べるか、いやそれ以上に分別のある人である事は言うまでもないだろう。

 皆幸せになれる。

 ハッピーエンドしか見えなかった。

 

 ――教会で、あの話を聞くまでは。

 

「……そうか。いいぜ、ワガハイは付き合ってやる。他のメンバー達も多分、大丈夫だ。そもそも――カモシダん時も、結構ワガママな動機だったからな」

 

 弱者を助ける……それがお前の、続ける理由だろう? と、ニヤリと顔を歪めて呟くモルガナ。

 

「オーイ! もう出てきていいぜー。あ、あと……『麻倉史郎』!」

 後ろに向かって声を掛けた後、俺の携帯に向かってその名前を入力した。

 背後からゾロゾロと出てくる竜司、杏、祐介、真。

 そして――携帯から聞こえてくる、無機質な声。

 名前はもちろん、麻倉史郎。そして目的地はここ、テレビ局。

 

「さて……本音を聞きに行くとしよう」

 

 麻倉パレスへの、宣戦布告だった。彼の建前を聞いて、彼の本音を聞くための、さして久しぶりでもないパレスへの潜入。

 そして俺はまた、立ち会うことになる。

 それは、俺も、竜司も、杏も、祐介も、真も体験した……きっと人生で一番、大切だったこと。

 自分自身への、全てのモノへの、反逆を。

 



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7/24『Rome』

「ッシ! 早速当てようぜ!」

 

 ここまでは予定通り。後は麻倉がこのテレビ局を何と認識しているかだが……。

 

「プロデューサーらしい認識の歪みを考えれば、そう難しくもないだろ。確か、彼は女性をターゲットにしているようだったな……なんだろう」

 

「……城、とか?」

 

『候補が見つかりません』

 

「ダメそうね。けど、その方向でいいと思う。前に城と認識していたのは、確か……鴨志田だったのよね?」

 

 そう問いかける真に、杏はうん、と頷いた。

 城か――自分を学校の王様だと思い、鴨志田の中の学校が変貌していった、その成れの果て。

 その城の中には彼を守るお城の番人と、ひどい格好をさせられた杏と、何故かブルマしか履いていなかった女子生徒達が……あれ、もっとあったっけ。

 何度思い出しても腹の立つ光景だったが、果たして麻倉も同じような光景を、テレビ局に投影しているのだろうか。

 自分が王様で……アイドルやタレントを活躍させる場、それがテレビ局。

 劇場――とかどうだろう。

 

『候補が見つかりません』

 

「ジョーカーもお手上げか。確かに舞台の演者とアイドルを重ねるのは良いかもしれねえ。けど……もっと何かないのか? 何かっていうか……例えばもっと規模の大きいものとか」

 

 規模?

 劇場でもかなり規模が大きい気がするけど。じゃあ……東京ドームとか?

 

「おぉっ、ぽいな。じゃあ、えーっと……スタジアム!」

 

 視界が歪む。どうやら正解したらしい。

 感覚の違和感から来る謎の疲労感におもわず俺は目を閉して、その場をやり過ごした。

 足がふらつく。体勢を戻そうと、右足をふらついた方向に移動させる。

 コツ、と聞きなれない音がした。

 ……?

 目を開く。すると眼前には、ゴツゴツとした石畳が広がっていた。

 日本のものではないだろう。むしろ、どっちかと言えば……ヨーロッパ寄りの。不揃いの形をした石材が、それでもさながらジグソーパズルのようにハマっている感じ。

 じゃあ勿論、スタジアムと言ってもやはり東京ドームのように近代的なそれという訳にはいかないだろう。その辺り、何故か異世界はちゃんとしているし。

 でも……ヨーロッパで、スタジアムって……なんだ?

 

「こ……これ……」

 

 後ろにいた真が、何かとんでもない物を見たような顔をして、目を見張っている。

 俺もそちらを見て――おお。

 これは……。

 

「スタジアムって言うより……コロッセオ、よね」

 

 真が目を向けたその先には、西洋らしい威容のある建物があった。

 建築したての頃は、石材がその真っ白な輝きを放っていたであろうことは疑いのない、威圧感で満ちた円形競技場。写真で見たものとそっくりな、相変わらずのトンデモない再現度だ。

 

「ほぉお……すっげぇ。どこにあんだっけこれ。パリ?」

「ローマ。一回見た事はあるけど……まあ、こんな感じだったかな」

「え……!? 杏殿、行った事あるのか?」

「まあ……両親と一緒にだけど。けどまさか、もう一度見る事になるなんて。……しかも異世界で」

 

 目をどんよりと真横に細めながら、そのコロッセオをじっと見つめる杏。これが強い欲望の歪みから生まれてきたものだと知っているからこそ、そんな複雑な気持ちになるのだろう。

 

「筆舌に尽くしがたい造形美だ……。やはり世界遺産という名がつくばかりのことはある。これが二千年前に建てられたというのか……信じられん」

 

 各々の反応などお構いなしに、祐介は指で構図を切って自分の世界に入ってしまっている。どうやら、偽物とは言っても、実物大のそれを見る事は初めてのようだ。

 杏が外国に行っているというイメージはなんとなく分かるけれど、祐介がヨーロッパに行っていないというのは少しだけ予想外だった。ヨーロッパに行けば、ルーブル美術館とか、サグラダファミリアとか……素人の俺でも目が肥えそうなものは沢山ありそうなのに。

 

「ああ……金がないからな。今は替えの服を買う事すらも、危うい」

 

 全く、俗世から離れてしまったものだな……と実に満足げに頷く祐介。

 なんとなく、あれ、この服つい最近も見たような……と思ったことが確かに数回あったが。

 そういう事だったんだ……。

 ともかく。

 偽コロッセオを見て観光気分をずっと味わう訳にもいかないのでとりあえず、麻倉のパレスと思しきその建物に向かって歩く。

 すると、その外観から見える縦に長いかまぼこ状の穴に一つずつ、なにやら彫像が置かれてあるという事が見えてきた。

 

「あれ、あんなのコロッセオには無かったと思うんだけど。なんだろう……?」

「昔、少なくとも建築当初はああいった彫像が置かれていたそうよ。……流石に、()()()()()()()()()()()()訳では、ないでしょうけれど」

 

 真が間髪入れずにその知識を披露してくれる。確かに真の言う通り、こちらから見える限りはその像が全て、女性を模したそれであるようだった。なんなら裸婦像もちらほら見かけられた。

 コロッセオは戦う場である。だからむしろ、その像には屈強そうな男や、強面のおっさんとかが相応しいだろう。

 しかしその偽コロッセオには、何かで戦えそうには到底思えない、端正な顔をした女の人のそれしかなかった。

 というか……これって……。

 

「あれ……この人どっかで……つーかテレビで見た事あんぞ」

 

 竜司が見た事あるらしい人の像を指で指している。

 けど俺は……ついに竜司が誰の事を言いたいのかはついに知ることができなかった。

 なぜなら。

 ()()()()()()が……テレビで見た事のある人だったからである。

 ある人はタレントで。

 ある人はアイドルで。

 一人一人が様々な服を着て……俺達を迎えているように見えた。

 

「「……」」

 

 皆もその事にピンと来たのか、その場で立ち尽くす。祐介も驚きか、言葉が出ていないようだった。

 俺も立ち尽くして、あくまでも鑑賞目的ではなく彼女たちを左から右へ見ていく――。

 いた。

 黒を基調とし、胸部には白のストライプが当てられた水着を着た一二三……の彫像が。

 やはり……麻倉は、そういう目で彼女を見ていたということなのだろうか?

 ……少し動揺しているのが自分でも分かる。

 いや、でも彼女はその水着を何かの撮影で着ていたような気がする。

 たまたま麻倉が認知した彼女がその姿の一二三だった――という可能性は多分、他の像を見る限りはないか。

 とにかく、麻倉の本音を聞いているまでは変な邪推もできないから……と自分で無理やり納得させて、コロッセオの内部を目指した。

 そのかまぼこ状の入り口をくぐった途端に、辺りは暗くなる。が、内部はカモシダパレスを彷彿とさせる豪華な床や灯りがついてあって、それほど気にはならなかった。

  パッと見た限りは、行けそうな道や開けれそうな扉はいくつかあったが……とりあえずは、肝心の場所――このコロッセオの一番内部である所の闘技場を目指すのが賢いだろうか。

 その事を皆に告げた後、そのまま構造に従って内へ内へと歩みを進めていく。所々に棚や置物があるのを見つけて、やはり構造はともかく内部の様子は、麻倉の住処としてのお城のような感じである事をなんとなく想像して。

 そして――割にあっさりと最奥部にたどり着く。

 まず目に飛び込んでくるのは、からっとした日の光だ。異世界の空は全体的に暗い感じがあったからどうも少し違和感があるが……何か今から競技をするにはお誂え向きな気候だった。確かヨーロッパでは気候的に夏は乾燥しているらしいから……あれ、違ったっけ。

 次に、今は何も映っていない巨大スクリーンが、スタジアムのてっぺんギリギリに埋め込まれる形で一つ二つ、対で鎮座していた。……これは流石にコロッセオには無かったと思うから、このパレス自前のものだろう。

 最後に、やはり外観に劣らないその観客席の存在感。日よけが付いている席、傾斜面がそのまま棚田のように、階段状になっている席……様々な趣向を凝らした円形のそれらが、何層にも積み重ねられている。普段の生活で経験しえない非現実が、そこにはあった。

 今にも競技場全体が、俺達に襲ってきそうな感覚に、俺は……まずい、さっきから普通に観光しているようなテンションになってしまう。

 気を引き締めるために、忍ばせてある短刀に手を伸ばす……ふう、少しは落ち着いた。

 まずは麻倉のシャドウを探さなくては。話はそれからだ。

 

「おや? 怪盗団か? まさかオレにプロデュースされたいのか?」

 

 フン、という機嫌の悪そうな咳払いと共に、上から……いや、背後から声がかかった。

 背後を振り返る……するとそこには、席の最上段でふんぞり返る、王様のコスプレをした麻倉の姿があった。

 ……あの辺りの年代が考える王様の格好は、どうやら皆同じなようだった。

 しかし鴨志田よりは少しはマシな格好をしている。彼はマントを引きはがせば、さながら童話に出てくるはだかの王様になった。しかし麻倉のそれは、僅かに見える胸元から大げさな甲冑が重ね着されている。見るからに暑そうだ。

 

「そんなわけないでしょ! なんなのよあの彫像は、趣味悪い!」

 

 入口やそこかしこに置いてあった何十体もの像に怒り心頭だったのか、ぶつけるように言い放つ杏。モデルとしてやっている身だから、俺達よりも怒っているに違いない。

 

「誤解するなよ。オレは彼女らに営業させてやってるんだ。ところで、キミたちなかなか人気があるようじゃないか? ここはひとつ……オレのプロデュースで芸能界のてっぺんを獲らないか?」

 

 リアル麻倉と違わない多弁さの中に、俺は少しだけ違和感を覚えた。

 営業……っていったか? 今。

 ああ? と麻倉は顎をしゃくる。

 

「なんだ、そんな事も知らなかったのか? 怪盗さんよぉ。てっきり……まあいい、特別に教えてやる。若いアイドルとか女の子がする営業なんて、一つに決まっているだろう」

 

 ニタリ、といやらしい笑みを浮かべて、

 

「枕営業、さ……厳しい世界を生き抜くためには、対価が必要なんだよぉ……ま、お前らみたいなコスプレ集団には分からない話かもしれねえがな!」

 

 そんな事を、言った。

 

「……! なんてことを!」

「……救いがたいな。ではあの像は、そういう事だったのか?」

 

 祐介はとんでもないことを、そしてひどく妥当な事を麻倉に言った。

 そんな、まさか。

 一二三を――俺は。

 

「お? なんだ、お前さっきの兄ちゃんじゃないか。大丈夫だ、まだ一二三ちゃんには手を出していない……()()、な」

 

 ……コイツ。

 

「……フフ、思い出せば思い出す程笑えてくる。あいつ、全然棋士やめてくれなくてな。けど、一二三ちゃんの母親と協力して『皆のため』なんて説得したら、すぐ騙されてくれたよ! フフ、健気だねえ……一二三ちゃんは。それが自分の身を滅ぼすなんて露も知らないなんて! 名前も知らない他人の為に自分の夢を捨てて! 望まない格好で写真を撮られて! 訳の分からん奴とヤッたりしてな! ハハ! ハハハハ!! ……健気すぎて、泣けてくるよなぁ?」

 

 ……ゆるさない。

 頭に血がのぼる。ほぼ無意識に俺は短刀を握って、そして――、

 ――真に肩を掴まれていた。

 

「……バカも休み休み、言いなさい。私たちがあなたを正しくプロデュースするわ」

 

 珍しいじゃない、ジョーカー、と真はささやいた。

 危ない……こんな挑発につられてしまったら、怪盗の面目が丸つぶれだった。短刀をしまって、ふう、と大きく息をはく。

 

「調子に乗んなよ、素人が! 表舞台に立てないようにしてくれるわ! ……ああ、あとお望みの一二三を出してやる」

 

 おもむろに麻倉は手を叩いた。

 すると、その音に合わさるようにして、パカッ、と競技場の地面が開いた。その下には、何やら大きな物体と、座っている人がかすかに見える。

 それを唖然とした表情でみている内に、みるみる開いた地面は端へと追いやられて行って……地下にあったらしきもう一つのフィールドが現れた。

 突然巨大スクリーンがつき、その座っている人がでかでかと映し出される。

 水着姿の一二三だった。

 麻倉の認知上の彼女だろう。

 そして、そのフィールド殆どを占める()()()()()()を……彼女は見ているようだった。

 これは……もしや。

 

「ここは闘技場なんだからさ……あそこでちゃんとやってもらわないと。観客席でファイトなんて、ナンセンスだとは思わないかな? 郷に入っては郷に従え……の語源、知らないか?」

 

 そう麻倉は言い残して、最上段の陰へと消えていった。

 

「え!? ……戦わねーの?」

「けど、あの一二三さんって所詮認知上のなんでしょ? 余裕じゃない?」

「いや……恐らく、麻倉は一二三の事を少なくとも『将棋の強い人』と認識しているだろうから、相応に強いだろう。と、ワガハイは思う」

「When in Rome, do as the Romans do.ね……どうする。誰が、する?」

 

 真がそう言った瞬間、メンバーの視線が一気に俺に集まる。まるで、一二三の弟子なんだからそれくらいはしろよ、とでも言うような眼光だった。

 本当にするのか……とたじろいでいると、急にポケットの辺りが騒がしくなる。

 スマホを開いた。着信。

 ……。

 着信主は……佐倉双葉。

 



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7/24『Fake』

「ふぅ、やっと繋がった。……フフ、どうして電話が繋がっているかビビったろ? しょうがないなー、今なら教えてやっても……え、別にいい? そ、そっか。おう」

 

 ……。

 

「私が電話をした理由は他でもない! 一度パレスを見ておきたかったからだ! ね、見せて見せて」

 

 ……。

 

「その事は教えないといっただろ、って? ……ふっふーん、甘いな。見せないと言われて好奇心がうずかないヤツなんてない! 好奇心あらずんば人にあらずぇちょ、待ってタンマ切らないでごめんなさい」

 

 ほぼ反射的に電話を切るボタンを押そうとしていた手を、すんでのところで引っ込める。

 なぜなぜなぜ。どうじて俺は今双葉と電話を取っている? そもそもどうして電話が通じている? どうして俺がパレスにいることを双葉が知っている?

 エンドレスに湧き上がる疑問に頭がショートしそうになる感覚に、どこかデジャブめいたものを感じながら、どうにか頑張ってそれらを脇に置いて。

 

「え……その声って……ええと、双葉ちゃん? ほんとうに?」

 

 丁度俺の近くにいた真が、スマホから漏れて出てきた双葉の大きな声を拾ったらしい。

 彼女も流石に、この事態には困惑しているようだった。たちまち皆も俺のスマホに注視して、驚いた顔をしている。

 

「え……繋がんの? ってか双葉って……アイツ?」

「驚いたな。風情のあるコロッセオに巨大スクリーン、そしてスマホとは……なかなかどうして、世界観が混沌としている」

「……おいジョーカー、どうして電話が繋がっているのかは謎だが……とりあえず、一応切っておいたほうがいいんじゃないか? ……あまりにも予想外すぎる。気になっちまうのは分かるが、不安な要素はなるべく一旦リセットした方がいいぜ」

 

 ……確かに。

 モルガナのおかげで冷静になれた。今はとにかく、シャドウ一二三を将棋で打ち倒す方法を考えなくてはならないから――あれ?

 今何か、ひらめいような気がしたんだけど。

 ともかく。

 パレスから出た時に、ちゃんと折り返して電話することを一応伝えておいて……俺はもう一度、その電話を切るボタンを――、

 

「待って!」

 

押そうとしていたところ、不意に誰かに肩を叩かれた。

真だった。

 

「よく、わからないけど……双葉ちゃん、将棋とても強いんでしょう? ()()の東郷さんにも、一度勝ったことがあるのよね?」

 

 あ。

 そうか……俺は俺自身がどうにかしなくてはいけないという事に執着しすぎて、肝心なことに気付いていなかった。

 仲間から託された一二三との将棋の対戦は、正直俺だけでは心細い。まだ戦ったことがないから分からないけれど、さっきのモルガナの言う通りなら、厳しい戦いになることは避けられない。

 そして俺は、ハンデなしでは一度も一二三に勝ったことがない――つまり勝機すら薄いのだ。

 けど、双葉は一二三との対局のプロフェッショナルだ。一二三に勝つために将棋の勉強をして、一二三に勝つためだけの勉強法を実践している。

その彼女が絶好のタイミングに電話で繋がってきた事は、渡りに船と言うほかなかないだろう。

 もちろん今すぐ電話を切るべきなのかもしれないし、俺が、将棋が上手ければそれで済む話なのだが……こればっかりは、背に腹は代えられなさそうだ。

 LINE通話をビデオモードにした後、スクリーンに映し出されているコロッセオに夢中になる双葉をなんとか宥めながら、今の状況と、今双葉にして欲しいことをかいつまんで説明する。

 もちろんして欲しいことは、俺が打つ将棋の手助けをしてもらうこと。

 

「なる、オッケー大丈夫。多分まだ感覚は覚えてると思うし。……けど、二人で戦うってちょっとチートな気がするが。そのあたりはちゃんとナシつけてる感じ?」

 

『ええ! 大丈夫……です! 掛かってきなさい!』

 

 双葉の疑問を口にする声に被さるように発せられた大きな声に、少しだけ思考が停止する。

 え……?

 突然彼女の声に呼応するようにあげられたそれに、俺は驚いて仲間のいる方を見た。

 

「え……? や、私じゃないし」

 

 パンサーは長いツインテールをバタバタさせながら首を振る。

 じゃあ誰だ……? クイーンでもない。

けど、この声はどこかで……。

 

『無視、ですか……、さきほどからずっとここで座らせられている人の身にもなってくれませんか? ええ』

 

 二回目の声で俺はようやく、それが拡声器やら何やらで音が大きくなった、機械じみた声である事に気付く。

 それと同時に、俺はコロッセオに無理やり設置されているスクリーンが目に入った。

 そこには、やはり黒と白の水着を着て……さながら麻倉のように椅子にふんぞり返っているシャドウ一二三が映っていた。

 

『誰でもいいですよ……二人でも、三人でも。私は勝負をしたいんです……勝負をしなくては、ならないんです! さあ! 早くここまで下りてきてください』

 

 そう言って、一二三は自身が座っている椅子とは対に置かれている椅子を指で指した。

 声色や、言葉の端々に残っている丁寧語は、まさしく本物のヒフミのそれだったが……口調と、態度と、後は声の大きさが、かけ離れている。

 そしてさらに機械を通して喋っているから、ボイスチェンジャーを使って誰か知らない人が、一二三の声を使って喋っているような錯覚を覚えた。

 

「一二三さん……いつもこんな感じなのかな?」

「いや、これはあくまでも麻倉が生み出した認知上のヒフミだ。ワガハイも一二三に会ったことがあるから断言できる。態度が妙にデカいのは……多分、パレスの主の性格に影響されているからだろう」

「へぇ、まあ認知ん時のパンサーも全然別人だったからな」

「それは言わない約束でしょ……」

 他のメンバー達も各々混乱しているようだった。

 ともかく。

 俺が観客席から降りて、シャドウ一二三に指定された椅子に腰かけた。それはどうやら大理石でできているようで、見栄えはいいがちょっと座り心地は良くない。

 その後、スマホの画面に将棋台を収め……たかったが、いかんせん将棋台がべらぼうに大きかったので、入りきらない。

 

「その辺りは抜かりない。パソコンには譜面出してくれるアプリ入れてるから……準備は万端だ、問題ない」

 

 ふん! と電話越しからでも分かるくらいの息を吐いて、双葉は小さな画面の向こうで胸を張った。自信あり気のようだ。

 

『……準備はできたようですね? それでは……いきます! 7六歩!』

 

 そうシャドウ一二三が宣言すると、そちらも大理石で作ってあるらしい大きな駒が自然と動き、歩が突かれる。将棋台が大きすぎてとても自分の手では指せないから、声で連動する仕組みになっているらしい。

7六歩……一二三曰く、プロ棋士の間でもよく指されている手だそうだ。初手だけでシャドウ一二三の実力を推し量るには流石に無理がある話だけれど、その初手を知っている分には、どうやら動かし方しか知らないような初心者という訳ではないようだ。

よし、と声を出して、気合を入れなおす。

そうだ、まだまだ序盤だけれど、一応の方針は決めておくために双葉と話し合った方が――、

 

「……やべえ」

 

 ――良いと思ったのだが、早くも問題発生らしい。

 さっきまでの自信はどこにいったんだ。

 

「……この、勝負……」

 

 やけに芝居がかった妙な間を開けながら、双葉は画面越しにキメ顔をして、

 

「……負けるかも分からん」

 

 さっきも言ったように、まだ初手しか指されていないこんな序盤で。

 そんな弱気な事を言った。

 




異世界では電話が繋がるのかどうかについてですが、その当たりの考察を活動報告にて纏めてありますので、気になる方がいましたらそちらをご覧ください。気になりませんでしたら『このお話(原作ではない)では電話が繋がるんだ』と思っていただければ。


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7/24『Wake Up, Get Up, Make Your Move!!』

「…………はぁ」

 

 ネットに転がっている、謂れのない誹謗中傷に溜息をついて、私は自分の頭を枕に打ち付けます。

 部屋は、ネットが見せている賑わいとは対照的にシンとしていて、やや色褪せた畳の真ん中には、足の付いた将棋盤がぽつねんと立っています。

 夏休みが始まってしまったことが幸か不幸か、私はベッドの上から離れない生活をここ数日していました。神田の教会へ、神父さんや彼と将棋を指しに行ったり、薙瓜書房へ将棋の参考書を求めに行ったりと、かなりフットワークが軽いことで知られているようですが、たった一つのキッカケで、こうも落ちてしまうことは私自身も驚いています。そしてまだ、この堕落した生活から抜け出そうとする意思すら、出てこないままでした。

 私は、何をやっているのか。

 私は、何がしたいのか。

 この二つの問題は、長く私の頭を悩ませていました。

 日課となっていた将棋の鍛錬に励む必要がなくなってしまった私にとって、長い休日というものはとても退屈なものでした。その挙句、スマホに手を伸ばしてしまったことが運の尽き。双葉さん曰く、エゴサーチというものを、半ば茫然としながら、続けているのでした。

わざわざ私への非難を見に行き、勝手に心を痛めている私に対して、正に滑稽ここに極まれりと言うほかありません。ですが、なぜだか、自身を傷つけている自分の手を、止めることはできませんでした。

 これが――何をやっているのかという一つ目の問い。

 また、最近の目まぐるしい状況の変化と、対局中のスランプによって、完全に自分を見失っていると言う感覚がありました。

 そして周りに流されるまま、麻倉さんやお母さんに言われるまま……将棋を。

 とはいえ、将棋が体の一部となっていた私に突然趣味が沸いて出てくるわけもありません。それが、何をしたいのか……という二つめの問いでした。

……?

突然、携帯が一度二度震えます。どうやら、LINEのようでした。

一体、誰からでしょう……といっても、普段から送られてくる人は数人くらいしかいないのですが。

通知のバナーを見ると、文法なぞ知ったことではないと言ったような自由な文体が目に付きます。どうやら、双葉さんからのようでした。

 

『HELP USへるぱす』

『やばいので、助けてほしい』

『将棋めっちゃTUEE奴と対局してる』

『応戦モトム』

 

 相変わらず速い双葉さんの送信ラッシュに、私は少しだけ驚きます。

 私はそれ程電気機器には弱くないということを自負していますが、とはいえ双葉さんのタイピングの速さには及ぶべくもありません。

 さて、どうやら双葉さんは、どこかで将棋をなさっているようです。僅か一日で将棋を極めた彼女ですら苦しんでいる相手なのですから、双葉さんが今対局をされている相手は、きっと相当の手練れに違いありません。

私は深呼吸をして落ち着きを取り戻してから、ゆっくりと文字を打ち始め――、

 

『今向かいま』

 

 ――の部分で手を止め、消してはまた書き直します。

 

『用事があるので難しいです。すみません』

 

『そか』

『じゃあ、うん、』

 

 双葉さんはきっと次は彼女がよく使われている別れ際の言葉、『サラダバー』と打つつもりであることは、見るからに分かりました。

 今の私は将棋をやるべきではない。将棋とは距離を置きたい。

 そんなワガママな理由で断ってしまった私を情けなく思いました。

 が。

 しばらく経っても、その挨拶がスマホの画面に現れることはありませんでした。あの双葉さんとのLINEですから、LINE上で妙な間があるのは珍しいことです。ですので私は、余計な勘繰りを働かせてしまいました。

 彼女は、彼女の為ではなく私の為に、このLINEをしてきてくれたのではないのかと、そう思ったのです。

 勘繰りというよりかは、私自身の願いと言った方が正しかったかもしれませんが。

 

『えっと……』

 

 この時の私の心情を、上手く言い表すことができません。

 何かを変えたいと思ったのでしょうか。 

 何かが変わってしいと願ったのでしょうか。

 恐らく、無下に断ってしまうことが忍びなかった故の帳尻合わせのつもりだったのでしょうが……私は。

 その対局が行われている場所を、聞くことにしました。

 

 双葉が頑張って無双してくれるだろう、という大体の理想からは程遠く、俺達は中盤から終盤に掛けて苦しい後退戦を強いられていた。

 というか普通にシャドウ一二三が強かった。本物の一二三とは肩を並べるまでもないかもしれないけれど、確実に双葉や、俺達以上に『視えている』ものがあるような指し方をしていた。

 そして何よりの誤算は、双葉が思ったより勘が鈍っていたということだ。時々俺が考えもつかないような手を思いついたりはしていたが、大体は一見しただけでも分かるような悪手を連発していた。また堅実な手が好きな俺とは違い、双葉は完全にイケイケ押せ押せタイプ。今のところはなんとか均衡を保っている感じだけれど、崩れるのも時間の問題だろう。

 他の皆は何をしているのだろうと周りを見渡してみると、観客席の中段あたりで、各々くつろいだ座り方で将棋台や、それが映っているスクリーンを見ていた。真が何か皆に喋っているのを見る限り、どうやら将棋講座が開かれているようだ。

 

「おい、集中しろ。いくら形勢が動いていないからって、油断はキンモツだぞ?」

 

 画面から聞こえる双葉の少し張り詰めた声に、俺は即座に将棋台へ向き直る。双葉はやはり集中しきっているからか、口調がマジだ。

 そういえば、シャドウ一二三が初手を打った時に、とても弱気な発言をしていたっけ。

あれはどういう意味だったのだろうか。

 

「……うー。それ聞いちゃう?」

 

 聞いちゃう。

 

「あん時……えっと、ひふみんに完徹でやり合ったときだけど、私が初手をいきなし打ったのは、もちろん一二三が後手なのしか棋譜読んでなかったから。……私をお、おんぶして帰った時、私のパソコン見たろ?」

 

 ……どうしてそれを。

 というか今双葉、一二三のことひふみんて言わなかったか?

 ……いつの間にか、双葉と一二三との間で友情ができている匂いがする。

 

「ふふん、ちゃんと履歴が残ってるからなー。……まーそれは置いといて。あの時、多分()()()()()()()()()()()なかったはずだ。……先手と後手では攻め方が全然違うだろ? だからとりま研究する量を二分の一するために、一二三が後手ばっかの棋譜持ってきて、そんでもって当日の時にも先手で打たしてもらった訳である」

 

 けど……シャドウ一二三は、いきなり初手を打ってきた。

 

「そーゆーこと。……まーあれから、ちょっとはそれ以外もリサーチしたんだけどね……。ひふみんって、その、居飛車党じゃん? エターナル・アビス・矢倉しかり」

 

 ……その技名、結構有名なんだ。

 

「うん、カッコイイ。……で、居飛車党ひふみんのいつもの初手は、もち例外もあるけど……大体は2六歩。よって計算外。QED」

 

 ううむ、確かに一二三がいつも打っているときはいつも飛車の前の歩を突いていたような。

 一方シャドウ一二三が見せる動きは、完全に振り飛車のそれだ。……麻倉が、一二三が好む戦型までは認知しきれていなかったということなのだろうか。

 双葉との雑談を交えながらも、しかし戦局は悪くなるばかりだ。まるでお手本のように自陣が追い込まれて行き、そして。

 

『――詰めろ、です。貴方たちが何をごちゃごちゃ相談していたかは読む必要すらありませんが……どうやら、大したことではなかったようですね』

 

 一二三よりかは辛口の口調で、駒と口両方から俺達を攻めるシャドウ一二三。

 もしかして……、詰んでる? のか?

 

「びみょい。ぱっと見十二手だが、逃げ切って反撃する可能性が微レ存?」

 

 大ピンチであるのにも関わらず、双葉は淡々と詰まされるまでの手数を分析する。

 え、これで終わり……なのか? そして、双葉が謎の余裕を見せているのはどうしてだ?

 俺も譜面をじっくりと見て、確かに十二手で詰まされそうなことを確認する。……無理やり攻めても詰めろが掛かっている訳だから、相手がポカをするよう誘い込むことも不可能だろう。

 万事休す、なのか?

 ……とりあえず王を守るために、

 

『あ』

 

 何か思いついたのか?

 

『や、そういうんじゃない……けど、やべーミスった』

 

 何がどうヤバいのかは全く判然としなかったが、とにかく何かはヤバいのだろう、双葉は音声越しでも分かるくらいに焦っている。

 

『あわ、あわわ……思い込みってこえぇ。……あ、その、そこに行くのって何か、アプリが必要なんだよな!?』

 

 たしかにそうだけど、今の状況で何の関係があるんだ? と言った瞬間、俺の後方……つまりモナやパンサー達が観戦していたあたりがやにわに騒がしくなる。

 一体何が……………………………え。

 俺は今度こそ完全に、頭の中が真っ白になった。

 目を疑った。

 なぜなら、ここにはいるはずのない彼女が……俺の()()()にいたのだから。

 

『や……やってもうた……』

 

 画面から耳に入ってくる双葉のおどろおどろしい声を、俺は頭の中で処理しきれないまま。

 私服姿の東郷一二三が立っているのを、茫然と見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 テレビ局の自動ドアを通った瞬間、私は眼前に現れた不可思議な光景に目を疑いました。

『テレビ局!』と双葉さんが送ってくれた文面と睨めっこした僅か十分後、私は久し振りに家の外へとこっそり飛び出しました。

 どうしてテレビ局で将棋の大会がされているのだろうという好奇心が半分、残りは……恐らく、どうしても相手のお願いを断わることができない私の性格といったところでしょうか。

 とにかく、私は電車を利用してテレビ局へと向かったのです。

 しかし目の前に現れたるは、実に格好いいマントを羽織られている男性に、歴史を感じさせる競技場、そして大きな将棋台。

 全く持って意味が分かりません。

 全く持って意味が分からなかったので……これは私が今夢を……そう、白昼夢を見ているのだとひとまず思うことにしました。

 きっと私の身体は今、電車に揺られてすやすやと眠りについているに違いありません。

 とにかくとにかく、私はその摩訶不思議な夢の世界で、立ち尽くしていました。

 

「……!」

 

 私がここにいることがよほど予想外なのか、それとも私の代わりに驚いてくれているのか、これもまたお洒落な仮面越しに、マント姿の男性大きく目を開いています。

 そういえば……髪型などの端々がなんだか、彼と似ているような。

 その男性の容姿をもう少し観察しようとしていた私でしたが、大きな椅子に座っている彼の真後ろ……彼と同じように椅子に座っている人を発見します。

 もちろん遠目ですが、将棋台の向こうの彼女が、何故だか私とそっくりなように感じた瞬間、

 

『……今すぐ立ち去りなさい』

 

 私とそっくりの声で、勝つ敵意が込められたような声で、彼女はそう言いました。

 

『貴方はここにいてはいけません……もちろん、彼の手助けをすることも』

 

 彼女は、眼前に広がる大きな将棋台を指で指しました。その動作で私は、どうしてここに呼ばれたのかをようやく思い出します。

 双葉さんの、将棋の手助けをすること。

 そのことを思い出す前に、彼女から釘を刺されていたのでした。

 

「なぜですか」

 

 私は問いました。夢の中にいるはずなのに。

 

『貴方はもう、分かっているはずでしょう……? 貴方には金輪際、もう将棋をする資格などないということを』

「……何の話ですか」

『逃げたからに、決まっているでしょう……!』

「……?」

 

 彼女は不快感を顕わにします。どうして分かっていないんだという侮蔑、そして憐れみが彼女の表情から見え隠れしていました。

 

『貴方は将棋の世界から退いたのですよ……人の手を借りて。貴方はスランプに陥ったあげく将棋初心者にも負け、完全に自信をなくしました。だから辞めようと決意した……しかし、踏ん切りがつかなかった。……だから、人の手を借りることにしたのです』

「違います。私は……ただ、人の話を聞いて、そちらを参考にしただけです」

『責任転嫁でしょうか』

「……違います」

『それは貴方が優柔不断の阿呆だったから……自分の道を決めてくれた大人に、責任を押し付けているのではないですか?』

 

 違うといったにも関わらず、まるで確信しているかのように同じ質問を繰り返す彼女に、私は反射的に反応してしまいます。

 

「だから……それは間違いですと、そう言っているでしょう。ええ、確かに自信をなくしたことは事実です。自尊心が傷ついて、それでも頑張ったけれどダメだった。……だから……私は……」

 

 自分自身で、辞めたのだと。

 その言葉は……いつまで経っても、私の口から出ることはありませんでした。

 ……はい、私はとっくに気付いていました。

 彼女に言われるでもなく……とうの昔に。

 私は意志が弱いから、面倒くらいから、大人の人に決めて貰っているだけなのだと。

 自分の意志がない……ただの傀儡であることを。

 

「でも……仕方がないじゃないですか!」

 

 私はだだをこねる子供のように、口をついていました。

 直ぐ近くに彼がいることと、ここが夢の中であることは、もう私の頭からは完全に消え去っていました。

 

「毎日、毎日毎日毎日……、私への批判を聞かない日はありません! 先輩からも疎まれて、私が負ければ、ほくそ笑んでいるんです! 負けたくなかった、負けられなかった、負けることが怖かった……でも」

 

 勝利の女神が微笑んでくれることはありませんでした。

 そんな辛くて、悔しくて、仕方がないことを終わりにしようとしたって、誰が責められるのでしょう。

 責めてくれる相手も、進んで人を遠ざけていた私には、いるはずもありませんでした。

 誰からも蔑まれる悲しい将棋人生は終わりにしようと。

 そう思ってしまうことは、とても自然なように思えました。

 

『……ふふ』

 

 彼女は私に笑い掛けました。

 

『ありがとうございます……私を認めてくださって』

「……何を……」

『貴方が、自分で考えることを止めた成れの果てが、私……認知上の、私ですから。』

 

 彼女は少しよく分からないことを言って、続けます。

 

『何も考えなくていい、人に決めて貰えればそれでいい……そうした生き方は、大切な事だと私は読みます。そうすれば、誰からも正しいと言われている……そんな気がしますから。楽しいですよ……とっても』

「そんな……姿になってでも、でしょうか?」

『ええ、もちろん。水着姿は、麻倉さんが、引いては私を知っている人々がそう望んでいるからです。何も恥ずべきことはありません。他人からの承認……それは貴方が一番、欲しいと思っていたものではないのですか?』

 

 ……ああ。

 それは……なんて、素晴らしい世界なので――、

 

 

 

「一二三!」

 

 ――突然、そばにいたマスク姿の彼が、大きな声で私の名前を呼びました。

 彼の大声を私は聞いたことがありません。ですから、たとえ夢の中とはいえ、私は驚いて彼の方を向いてしまいます。

 

「一二三……お前はそれでいいのか? 自分でない誰かに決められる人生を歩んで、それで満足なのか?」

 

 彼は私の目の前に立ちます。どこからともなく『そうだぞ!』と聞こえてくるのは、私の気のせいでしょうか。

 

「思い出せ、一二三! どうしてお前は将棋の道へ進もうと決めたんだ? 苦しい家計を支える為か? タレントとして活躍するための前準備のためか?」

 

 半ば茫然としながら、その男性は紛うことなく彼自身であることに気付きました。

 彼は普段全くといって良いほど喋らない、寡黙な方でした。そんな彼が声を荒げて、私の目を見て語り掛けました。

 

「将棋の先輩と人付き合いをするためか? 辛い思いをするためか? 名前も知らない誰かから認めてもらうことか? ……違う」

 

 そう言い切ると、彼は一旦言葉の波を止めて、大きく息を吸い込みました。そして、その吸った息に全く似つかないほどに小さな声を、私すらも気付けなかった言葉を、振り絞るように言いました。

 

「将棋がどうしようもなく好きだったから……だろう?」

「…………あ」

 

 虚を突かれ、その場でへたり込む私に、彼は続けます。

 

「一二三にとっては心外かもしれないけれど……俺はその気持ち、分かるよ。知り合いからにだって、他人からだって、嫌われるということはどうしようもなく辛いことだ。思考停止する人は仕方ないだろう。けど、俺は……一二三には、そういう人にはなって欲しくない」

「……っなんで、そんなこと……」

「自分の意志を持つことで初めて、生きていける実感が沸くからだよ……一二三」

 

 彼は痛くなるほど私の肩を握って、よく分からないたとえ話を私に言いました。

 冤罪を着せられ、転校を余儀なくされた男の話。

 先生にも、挙句は同じ部活の仲間にも嫌われてしまったヤンキーの話。

 親友を人質のように扱われた女の話。

 自分のしたいことが見えなくなった芸術家の話。

 姉と比較された上、誰からも孤立してしまった生徒会長の話。

 彼らは、総じて一度は今の私のようになってしまったんだ、と、そう言いました。

 

「けどな、一二三……誰もそこで、諦めはしなかったんだ。自分がしたいこと、自分がしなければならないことは決して、見失わなかった。だから()()は……後悔せずに、今日も生きていられている」

「そんなこと、私にはもう……できません」

「できるさ」

「……っ、知ったような口を――」

「知ってるよ、俺は。だって一二三には、物事を深く見通すことができる……素敵な頭脳を持っているじゃないか」

 

『それは、認めざるをえない……』とまた、どこからか声が聞こえます。

 その言葉に合わせるように彼は頷きました。

 

「それに、一二三は決して一人じゃないよ。一二三の将棋を心待ちにしてくれているファンもいるし、君を心配してくれている一二三の父親も、教会の神父さんも」

 

 それと、まあ……俺と、双葉とか? と、彼は照れたように手を頭に持っていきました。

 

「だからさ、一二三。もう一度、考え直してくれないか」

 

 当てていた手を降ろして、もう一つの手で私の肩を強く掴みました。

 その痛みと引き換えにするようにして、私は私を見てくれていた人のことを、ようやく思い出していました。

 ずっと私のことを心配してくれていたお父さんのことも、私の癖に何も言わないまま将棋を指してくれていた神父さんのことも、頻繁にLINEを送ってくれていた双葉さんのことも。

 目の前で語り掛けてくれる、彼のことも。

 それらをしっかりと思い出した上で、私は考えました。彼の言っていたことが本当かは定かではありませんが、物事をしっかりと見つめなおすつもりで、私は考え抜きました。

 何が正しくて、何が間違っているのかではなく……何をしたかったのか。

 たくさん、たくさん。深く、深く。

 そして――私は最後まで、読み切りました。

 

「……いやだ」

 

 絶対に、いやだ。

 

「次の一手を考えられないなんて……そんなの、もう……沢山、です!」

 

 そう打ち明けた私の心には、清々しい気持ちだけが残りました。

 

《遅かった……ですね》

 

「……っ!?」

 

 と思ったのも、束の間。

 私は頭が割れるような、強烈な痛みにまた腰を付いてしまいました。

 

《元々は険しい道のりだと知って進んだと言うのに……道半ばで下るおつもりですか?》

 

 それは彼の声ではなく、もっとしゃがれた声でしたが、

 

《人生に見切りをつけるには、まだ早い》

 

 きっとこれは、自分自身の声だと……本能的に、そう思いました。

 

《我は汝、汝は我……契約、ここに結びましょう》

 

「……ううぅ、ああああ!!」

 

《誰にも思いつけないような、思考の奇策……》

《……期待していますよ》

 

「ええ、来なさい……『ハンゾウ』!!」

 

 私はその()()を。

 思いっきり、引き剥がしました。

 

 



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7/24『All-out』

副題は『もしも、東郷一二三がペルソナに覚醒したら』です。


相手の腸だと思われる部位に短刀を切りつけ、すぐさま後方へ下がる。

 見かけによらず、しぶとく俺達の体力を減らし続けるシャドウ麻倉の術中に嵌ってしまっているのか、ペルソナを発動する速さが全員鈍くなっているように感じる。限界が近いようだ。

 モナに前線の状況を伝える。

 

「マジかよ……メディア発動できるまでもう少しは掛かりそうだ。パンサーはどうにかできないのか?」

 

「ダメ、ちょっとキツい……! 飛ばし過ぎた、かもね……。ジョーカーは、どう?」

 

 ……。イシスに替えればなんとか体力を繋ぐことはできるけれど、そうすれば防御が心もとない。……けど……背に腹は……。

 

「東郷、システム!」

 

 突然、大きな風が吹く。

俺は思わず目を閉じて、その場で姿勢を崩した。相手もその影響にさらされているのか、踏み込んで攻撃してくるような気配はない。

しばらくその場で耐えて風が収まるのを待ちながら、うっすらと目を開けていく。

 

「おい、大丈夫か? ……随分と苦戦しているようだが」「いきましょう、ジョーカー」

 

 すると、後衛に回っていたクイーンとフォックスが目の前に立っていた。

フォックスとクイーンの手を取って立ち上がりながら、どうしてここにいるのかを問う。

 

「……それが分からないのよ」

 

 え?

 

「唐突に一陣の風が舞ったかと思えば、知らない間にここに来てしまっていた次第だ」

 

一体どういうことだ……? そういえば、スカルとパンサーはどこへ?

 

「ぐえぇ……」「い……ったぁ……」

 

 ……後ろの方――ちょうどフォックスとクイーンがいた場所で二人仲良くノびていた。

 この状況を鑑みると、どうやらさっきの暴風が、四人の位置を替えたらしい。

 

「大丈夫ですか? その……ジョ、ジョーカーさん」

 

 声をした方へ振り向くと、大理石に座っているくノ一の姿をした少女が、目は盤面の方に向けながらこちらを心配している。

 そっちこそ、上手くいっているのか? と、声を掛ける。

 

「ええ……心配には及びません。やはり偽物は偽物……大したことは。二面同時に、指して差し上げましょう」

 

 東郷システムは私の得意戦法ですから、とキリリとした笑みを浮かべて応じる一二三。

 いや、今は一二三じゃないのか……?

 とにかく。

 どうやら、彼女のペルソナの能力によって前衛と後衛を交代させたようだ。俺達のペルソナに、そのような能力を宿したことはないから……もしかしたら、彼女のペルソナはかなり特別なものなのかもしれない。

派手に尻もちをついたことで付いたマントの汚れを払って、禍々しい姿をしたシャドウ麻倉を見据える。

 

 事の始まりは、十数分前に遡る。

 俺と双葉が、シャドウ一二三と対局をしながらも、麻倉の認知通りに強いシャドウ一二三に思わぬ苦戦を強いられていると、突然本物の一二三が目の前に現れた。

 ドッキリ番組のようなご本人登場に驚いている一方で、一二三はさして驚いていないところに更に驚きながら、申し訳なさそうに喋る双葉の話を聞いていた。

どうやら、双葉が一二三に助けを呼ぼうとしたところ、場所を『双葉の自室』ではなく、間違って『テレビ局』と伝えてしまったらしい。そうして一二三は律儀にもテレビ局に来てくれ、偶発的に異世界ナビが起動して……今の状況になったようだ。

 とにかくその直後、シャドウ一二三は自分自身を……もとい現れた一二三をなじった。

 いや、シャドウ一二三が言ったことは彼女の行動を責めてはいなかったのだろう。むしろ、同意すらしていたかもしれない。

 しかし、気持ちの整理がついていなかった一二三はその事実を告げられ、深く……傷ついた。

何も言い返すことができないまま、絶望している彼女を見ていると居ても立っても居られなかった。

 だから、俺は……昨日の神田の神父さんから聞いた話を、一二三に。

 こうして()()()口調で話した一二三の真意を聞いた俺は、一二三がペルソナの光に包まれていくのを見た。

 彼女のトレードマークである花柄の髪飾りはそのままに、黒と赤を基調とした、一二三らしい落ち着いたスタイルのくノ一姿。幸い、怪盗姿がやや過激なパンサーと同じ轍を踏むことはなかった。

 被っていた能面を剥がし、その勢いのまま「そこ、代わっていただけますか」と

 絶望的だった盤面の状況を瞬く間に回復させる一二三を見て、このままでは負けると見込んだのか、建物の奥へと消えていたシャドウ麻倉が顔を出し、とても描写できない体躯となって一二三を襲撃、これに俺達が応戦。

 こうして今のコロッセオは、戦闘と戦闘が入り乱れた混戦が続いている。

 

「食らいなさい!」

 

 真が、モンスターの容姿に構わず渾身のフレイを放つと、たまらずシャドウ麻倉は後ろ向きにのけ反った。

 

「核熱が弱点のようね……了解。ジョーカー、任せたわよ!」

 

 その隙を逃さず、真とバトンタッチをして、地面の駒を踏まないよう気を付けながらシャドウ麻倉に肉薄。その間に短刀を軽く握り、小さく振りかぶる――、

 

「アクセラレータ・田楽刺し!」

 

 ――や否や、俺の足元に香車が打ち込まれる。すると、振りかぶっていた短刀の刀身が段々とその大きさを増していき、

 

『グゥウッ……!』

 

 麻倉を捉える頃には、その体を貫通するほどに大きく、細く鋭くなった。俺はそのあまりにも凄絶な光景に少しだけ冷や汗を掻きつつも、身をえぐるように刀身をねじこみながら、反撃を食らわないよう後ろに下がる。……シャドウ麻倉が倒れるのも、時間の問題だろうか。

 

『お、お前ら……オレの建物で好き勝手暴れてくれちゃってよお? コスプレ集団の癖に……大人の世界を分かってないようだな。若いから何をしたって許させるとか、思ってるのか?』

 

「自分達の世界を……価値観を、俺達に押し付けないでくれないか」

「ええ。確かに何でもできるという道理は通らない……けど、それだけで大人の自分に従えと言う貴方の道理も通らないはずよ、麻倉。そうやって、若い子達の可能性を潰してきたのね」

「ヒフミも潰されるところだったんだよな……。そんな可能性、ワガハイ達が許さねえ!」

 

 気持ちと気持ちがぶつかり合う。……分かり合えることはきっと、二度とない水掛け論だろう。

 だからこうして決着を付ける。こうして俺達は、何人もの悪人を改心させてきた。

 

『長い物には巻かれればいいんです……。そうすれば、貴方たちにも平穏な日々が必ず……やってくるんですよ?』

 

 一二三の手によって、みるみる劣勢に立たされたシャドウ一二三が、おもむろに口を開いた。けれどその声は、掛かってきなさいと言っていた時とは似ても似つかない、弱弱しい声。苦しそうに息を吐いて、涙目でそう訴える彼女は、まるで俺達に、その考え方を認めて欲しいと言っているようだった。

 

「……っ、それは――」

 

 一二三が、彼女の赦しに呼応するように、口を開いた。だが、

 

「誰かに……何、巻かれる? そんな人生、こっちから願い下げ……だ。少なくとも……俺達は全員、そうだぜ」

「……!」

 

 一二三がハッキリとしたことを応えるより先に、いつの間にか復活していたスカルが食いつく。機先を制された一二三は驚きつつも……やっぱり。

 否定されて、それでも将棋を頑張っても……否定されて。

 だから、誰かに肯定されることは、きっと――息が詰まりそうなほど、嬉しいに決まっているはずだ。

 

「東郷さん……私たちは絶対、貴方の味方だから!」

 

 スカルの手を借りずに、ピョンと立ち上がったパンサーが吠える。

 その声に合わさるように、俺達全員は一二三の方を見る。

 そして……深く深く、頷いた。

 一二三の目に、何か光るものが見えたのはきっと、見間違えじゃないだろう。

 ――そして。

 

 

「王手!」「フレイラ!」

 

 ほぼ同時に、勝負を終わらせる声がコロッセオ中に響き渡る。

 総攻撃の、始まりだ。

 




活動報告に一二三のペルソナの説明等を載せました。もしよろしければご覧ください。


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7/24『Reunion』

「……ありがとうございました」

 

 どの陣地にも攻め入られたような跡がある、血で血を洗った投了図。私と相手の実力が拮抗していた、なによりの証でした。

 しかし、私は勝ちました。

 今までの自分に――打ち勝ったのです。

 

『……どうして』

 

 押し殺したような声が、大きな将棋盤を挟んでもなお、私の耳に届きました。

 

『どうして、ダメなのでしょうか。頼れる人に任せる生き方が……どうして間違っているのでしょうか』

 

 かつての自分が、私にそう語り掛けます。

 

『自分で考えて、生きる……? そのような大変なこと、私には荷が重すぎるんですよ……きっと。自分を信じない方が……明らかに賢くて、楽な生き方に違いない……のに』

 

 自失したように椅子の上で、彼女は項垂れました。

 それは、赤子が母親の赦しを待っているかのような、弱く細い意思の表明でした。

 ですから私は。

 彼女に、告げなくてはなりません。

 

「人に依存して生きることは、一般的に言うならば……きっと間違った生き方ではないのでしょう。己自身を頼みとして、結果躓いたり、挫けたりしたことは……枚挙にいとまがありませんから。貴方の言う通り……明らかに賢くて、楽に生きたいのならば……不特定多数の一般人の指す方向に向かう駒となれば、それでよろしい……はずです」

 

 楽で、賢くて、正しい世界。

 そんな理想郷のような場所でも……私は満足できなくなってしまいました。

 彼が、彼女たちが、もっと素敵な人生を歩む指標を私に与えてくれたからです。

 

「ですが、私は苦しく、愚かで、正しいかどうかも分からない道を選んだ……ただ、それだけ」

 

 

 楽か苦しいかは関係なく。

 賢いか愚かかも関係なく。

 正しいか間違っているかすら関係ない。

 私が、私自身がそう生きたいと思った……それだけが、全てだと。

 私はそう、読みました。

 

『…………そう、ですか』

 

 彼女はそう呟くと、蛍が彼女の周りから散ってゆくようにして、彼女が謎の光に包まれました。

 その光が彼女の実体を奪っていくように、段々と視認し辛くなります。

 

『では、負けてしまった私の方から、その、一言……応援しています、よ』

 

 きっと彼女は最後まで、私の言ったことなんてよく理解していなかったのだと思います。

 理解していなかったし、認めていなかったでしょう。

 しかし彼女は消えゆく中、私にエールを送ってくれているようでした。周りから見れば、駄々っ子のような結論を出した私と、ここに残る私を励ましてくれている彼女とでは、どちらが成長した私であるかなんて、どう見たって後者だと思うだろうに違いありませんでしたが。

 ともかく。

 私の夢の中での戦いは、どうやら終わりを迎えたようでした。

 

『貴方のなすべき事を……ね』

 

 彼女は小さな微笑を讃えた後、まん丸に切り取られた空に、消えてゆきました。

 

「……」

 

 ……あれ?

 おかしいですね……てっきり私は、今にも夢から醒めそうな雰囲気だと思っていたのですが。

 まだ何か思い残したことがあるのでしょうか。

 

『グアァアアアァ!!』

 

 とても人のものとは思えないような断末魔が、私の鼓膜をブルブルと震わせます。

 声のした方を振り向くと、やはりとても描写できないような形をされた怪物を、素敵な身なりをされた方たちが蹂躙している真っ最中でした。

 私は物陰から(と言っても周りには椅子くらいしかありませんでしたが)息を潜めて、事の成り行きをじっと見守ります。

 二度三度その怪物と言葉を交わした後、彼女と同様の現象を見届けてから、彼が何か光っているものを手にしています。彼らが何やら騒いでいることから鑑みると、どうやらその光るものを手に入れることが、彼らの目的だったようです。

 その朗らかな雰囲気に釣られて、私も嬉しい気持ちになっていたのも束の間。

 ズン、と、建物全体が大きく震えた音を感じ取ります。

 その音が連鎖を作るように重なっていき、ついには私のお腹までも揺らす轟音となって私達を襲い掛かりました。彼らもどうやら、混乱しているようです。

 ――ですが。

 彼だけは、微妙な体勢を取ったまま、その場を動こうとしません。まるで金縛りにかかったように、その場に縛り付けられていました。

 一体何をして……何かを、()()()()のでしょうか?

 彼が向いている方向に目を動かしそうになった――その時でした。

 コロッセオに取り付けられていた巨大スクリーンが、地響きを立てて崩れ落ちてきました。

 そして、その落下地点の中に、彼がいるということは、疑うべくもありません。危ない! と私は大きな声を上げて、彼に向って走っていると、

 

「………っ!?」

 

 私は躓いて、固い地面に、強かに体を打ち付けます。視界もなんだか狭くなって、意識が遠のいてゆく感覚がありました。

 彼は驚いて私を見ています。今は私より、自身の身の安全を確保してもらいたかったのですが……声を出す事すらままなりません。

 ああ……ここまでか、と。

 さぞかし起きたときは寝ざめが悪いに違いありません、と楽観的に思いながら、私は目を閉じました。

 

 

 

 

 

 随分と長い間、おかしな夢を見ていたような気がします。

 しかも今回は何故だか、その一部始終を覚えていました。私は朝食を食べ終える頃には殆どを忘れてしまいますから、かなり不思議なことです。

 しかし一方で、ベッドで横になった記憶は、頭のどこを探しても見当たりません。スマホを見ながら、そのまま寝てしまったのでしょうか。

 あれ?

 そういえば、私が今横たわっているはずのベッドのフカフカがありません。皆無です。むしろゴツゴツとした感触が背中から伝わってきて、ここがベッドの上ではないということを思い知らされます。

 では、ここは一体どこなのでしょうか。ベッドから床に落ちてしまったのか、それとも……ええい、と目を閉じたまま、上半身を手で持ち上げます。

 

「ふぎゃ」

 

 ……勢い余って、誰かのおでことかち合ってしまったようです。痛い。

 

「……っ、つつ……お、起きたか。良かったぁ」

 

 安心したのか、目の前で全身を弛緩させているお方はなんと、双葉さんでした。その隣には、当たり前のように彼がいます。

 

「……ふ、不法侵入……でしょうか」

「……うぇ? ……あー、違う、ノーギルティ―。周りをよーく見てみろ」

 

 双葉さんに言われるがまま、周りを見渡します。……って、ここは。

 

「教会……ですか?」

 

 私はいつも座っている椅子にどうやら横になっていたようでした。

 

 「そうだ。俺と双葉で一二三の様子を見に行ったら、そこで君が寝ていて……」

 

 どうしてか、彼は矢継ぎ早やに説明をします。もしかしたら、寝ている様子を見てしまったことを申し訳なく思っているのでしょうか。女性の寝顔は見てはならないと言いますし。私は全然、気にならないんですけれど。

 

「まあ、何も問題ないのなら良かった。どうやら少しだけ、うなされていたようだから……心配した」

 

 うなされて……いた。

 それは恐らく、私が水着姿の彼女に責められていた場面に違いありません。

 ともかく、彼の言うことを信じる限り、あれは夢だったようです。

 私が決意を抱いたことも。

 ……私が、不覚ながらあの彼に少しだけ、ドキリとしてしまったことも。

 全部、夢。

 

「…………そう、ですか」

 

 悲しくなんてないと言えば、嘘になります。

 ですが、私が決めたことは、たとえそれが夢の中で起こったことだったとしても、曲げるつもりは一つもありませんでした。

 生きたいように生きる。

 ……それが、彼女とした約束ですから。

 

「…………………むぅ」

 

 ああ……そういえば、折角彼と双葉さんに来ていただいたのですから。

 一局ずつ、指してほしいところ……もう、指すことをためらう理由なんて、ありません。

 

「ええと、その……色々ありましたが、私はもう、大丈夫ですので……。もしよろしければ、私と一局……いかがでしょうか?」

 

 まずはここから、一歩を踏み出します。

 

「遠慮なくかかってきてください……お相手、願えます?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、もう無理、よくない。この展開はリアルに……良くないと思うぞ、カレシィ!」

 

 将棋盤を全く持ってきていなかったことに気付き、意気消沈していると。

 双葉さんが出し抜けに、彼に向って大きな声をあげました。

 

「だな!」「うん!」「ああ」「そうね」「ワガハイも、そう思うぜ」

 

 また、教会の扉からぞろぞろと、高校生らしき方たちが数人押し寄せてきました。この教会に若い人が来ること自体あまりあることではありませんから私は当然、その方たちの方を向いてしまいます。

 もちろんこの教会には初めて来た様子でしたが……私は彼らを見るなり、強烈な既視感を覚えました。

 ええ、間違いありません……。彼らは正しく、私の夢の中で出てきた登場人物でした。

 そして……目の前で、気まずそうに双葉さんの方を見ている彼は。

 幾分か躊躇ったのちに……ゆっくりと口を、開きました。

 

「ようこそ、怪盗団へ……東郷一二三」

 



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間章『夏休み』
7/26『新入り』


間の章です。貴方達はこれらをご覧になってもいいし、ご覧にならなくてもいい。(ごーこんきっさ風)
『All out』の前書きを確認して、こちらにいらっしゃった方も同様です。



「あづかった……ヒートナントカ現象だっけ? マジ半端ねえな」

 

 マスターから出されたコーラを一気して、竜司はカウンターに項垂れる。「あざっす! 美味かったっす!」と乱暴ながら、真っ先にお礼を言っているところが、竜司の憎めない部分ではあった。

 

()()()()()よ、竜司。けど、ルブランはやっぱ涼しいね。汗かいてきた分、余計冷えてる気がする」

 

 シャツのネックをパタパタさせている杏。今そんなことをされると、俺が見ている角度なら、その、ギリギリ見え……。

 

「……」

 

 背後に座っていた双葉に容赦なく関節を決められた。痛い。

 

「……やっぱりちょっと、距離を感じちゃうね。双葉ちゃんは……ええと、話すのが苦手な子なのかな?」

 

 突然真に自分の名前を呼ばれて息をのんでいる双葉の替わりに、俺が首肯する。

 

「ふむ……それなら彼女と上手くやっているお前には、ますます唸らざるを得ないな。……流石は、俺の見込んだ男だ」

 

 ……この手の質問には、どう反応すればいいのか分からない。

 

「あはは、珍しく赤くなってんじゃん。ジョーカー唯一の弱点って感じだねー、覚えとかなきゃ」

「……そう言って攻められた時の対処法は、おいおい考えておくよ、杏」

 

 やはり、アドリブには弱かった。

 

「まーまー、いいじゃねえか、んなことは」

 

「今日集まってきたのは、コイツをいじるためじゃないだろう?」と話題をずらしてくれるモルガナ。

 

「せっかくオタカラが手に入って……そんで新しく入って来たメンバーとの親睦を深める為に、打ち上げをするって話、LINEでしただろう?」

 

 モルガナの『新しく入って来たメンバー』の部分で、心なしか皆の表情が変わった気がして、

 

「……そ、そーだよ、打ち上げ打ち上げ! あーどこ行くかなぁ。……やっぱ肉? それとも寿司?」

 

 竜司の、珍しい場のフォローが、今置かれている状況の複雑さを物語っていた。

 俺も含めて、ゆっくりと皆の目がある人の方に向いた。

 今日、地蔵のように全く喋っていない人に――それも、俺の背中で息を潜めている彼女ではない。

 

「…………え? そ、その……何でしょう」

 

 ギギギ、と音が聞こえてきそうなぎこちなさで、東郷一二三は愛想笑いを浮かべる。

 

「……さっきまでの話は、聞いていたか?」

「え……あっ! すみません、もう一度……本当にごめんなさい」

「や、そんな謝らなくても大丈夫……てか、そんなにかしこまらなくてもいいっていうか……」

 

 こちらが悲しくなってくるくらいの沈痛な表情を浮かべている一二三。

 ……やばい、彼女の話下手が皆に伝播してしまっていた。

 しかし、一二三はそこまで話すことが苦手という訳でもなかったと思うけど……俺と初めて会った時も毅然としていたし。

 

「あまり、大勢の前で話すことは……少し。逆に、将棋と同様、一対一で話す時は大丈夫なのですが」

 

 なるほど……?

 確かに授業で、皆の前で発表する時とかは少しだけ緊張してしまうときもあるが……そういう事なのか。

 

「……へえ、東郷さん、貴方と喋る時も丁寧語なのね」

 

 さすが真、よく見ているな。

 

「だな。ワガハイが居るときも、ずっとそうだった気がするぜ」

「あ、じゃあ別に私達だから、一歩引いて喋っている訳じゃないんだね。……ちょっと、安心したかも」

 

 一二三が一呼吸置いて、

 

「あ……はい。……お母さんにそう、教わりましたから」

「メールもそんな感じだしな」

「ええぇ!? おまっ……双葉、あの東郷一二三とメル友なのか!?」

「……それほどでも、なし」

 

 『あの』も何も、直ぐ近くに彼女がいる訳だが。そういえば竜司、前に一二三のことを可愛いとかなんとか言っていたっけ……。

 ともかく。

 やはり多少のぎこちなさは残るけれど、なんとかといった感じで会話に付いて行っている一二三と双葉。こうして会話していく内に、なんとか打ち解けてもらいたいものだ。

 そうして皆との距離を縮めるための第一歩として、打ち上げをしなければならない訳だが。

 

「……そうだな。俺は全力で美術館を推させてもらうが」

「美術館でどう会話を弾ませればいいんだよ……やっぱ飯だろ、飯飯。……お前、何かねーの?」

 

 海……とか――、

 

「却下。クーラー生活の私にそんな苦行はマジ卍。秒で溶ける自信しかない」

 

 ――で、バーベキューをするのはどうだろう。

 

「おーっ、いいねー! なんだか、夏っぽいしな」

「……肉、食べ放題?」

 

 俺は背中にいる小さな健啖家に向かって、大げさに頷く。

 

「……カレシと二人なら」

 

 俺以外には聞こえないように、ボソリと呟いた。そんなことを言われると嬉しくない訳はないが、皆との仲を深めようという目的は全く果たせていない。

 と言っても、いきなり知らない大勢の人と海に行くという話も、少し難しすぎる話なような気がする。まずはその前段階として、一人ずつ喋れるような機会を取れば良いんじゃないだろうか。

 と、双葉の応答を待っている皆を無視する形でつらつらと考えていると、俺はある事に気付いた。

 

「双葉は……皆とは、仲良くならなくてもいいのか?」

 

 それは、双葉が怪盗団のメンバーと良い関係を築こうとはさして思っていないという可能性だった。

 一二三は麻倉パレス攻略を通して、怪盗団の一員となった訳だし……当然、彼女自身もそう望んでいる。

 けど、双葉はそうではない。ペルソナを持っていない彼女のような人が、怪盗団に関わることはこれまでなかったから……完全に失念していた。

 また、誰とでも仲良くなりたいという感情が、誰でも持っている訳ではないということも。

もちろん竜司や祐介なんかは癖が強いことは確かだけれど、皆俺には勿体ないくらい、いい奴であることは間違いない。けど、それはただの主観的な意見でしかなかった。

 だから、その為の確認。

 もっと、自分の世界を広げようという意思があるのか……はたまたもう、これで満足しているのか。

 俺が望んでいることを押し付けるのではなく、あくまでも双葉の意見を尊重したかった。

 

「……分からない。だって、リア友が右手で数えられないくらいに増えるとか……知らない、し」

 

 ……。

 

「……けど、カレシが楽しいって言うんなら……きっと、私も楽しい気がする。だ、だから……頑張る」

 

 一瞬瞳に不安そうな色を見せた後、しっかりと俺を見た。

 思わず目頭が熱くなるのを堪えながら、皆に双葉も行けることを伝える。一二三も、微笑をもって返してくれた。

 

「決まりだな。ではまた、LINEかなんかで連絡を取り合って、一二三と誰が会うのか、もしくは双葉と誰が会うのかを決めるとしよう。最終目標は……海で、バーベキューか」

「あれ、どうしたのモルガナ。やる気ないね」

「い、いや、全然そんなことはない……けど、ワガハイって真っ黒だろ? 光が吸収されて、焼けそうだぜ」

「そん時は冷たい水でもくれてやるよ。……けど、海はお預けかー。しゃーないけど、厳ぃな」

「夏休みは長いからね。ゆっくりいきましょう。あ……ねえねえ、東郷さん、いつでもいいんだけど、もし良ければ私に将棋、教えてくれないかしら」

「あ……はい、私で、良ければ」

「俺にも手合わせ願おうか」

「え……あ、俺も俺も! 美少女将棋の中の人と将棋を指せるとか、マジで――」

 

 先ほどまでの緊張感は、夏休みの話題でどうやら和らいだのか、各々自由に喋り出した。その輪の中に一二三が入っていることが、何より嬉しいことだった。

 

「……夏休み。今ずっと長期休暇してるから、全然実感がない」

 

 双葉は、皆が和気藹々と話している様子をボーっと見ていた。

 

「けど、カレシが学校に行かなくていいという事実はやばい。私、独り占めだ」

 

 ……別に独占されるつもりはないけれど。

 

「むー、言葉の綾だ。……けど、一ヶ月もあるなら……何でもできる気がする。色んな所、行こうな?」

「双葉が望むところなら……どこでも」

 

 こうして、長くて短い夏休みが始まった。

 



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--/--『居間』

「あつい……溶ける。いや、既に半分溶けてる」

 

 半身溶解人間と化したらしい双葉が、夏の暑さにぶうぶう文句を言っている。

 今日もいつものタンクトップに短パンと、結構露出度の高い服を着ていた。が、それでもこのうだるような暑さには参っているようだった。

 

「もうルブランでやろー? 勝手に惣治郎が持ってきてくれるっしょ」

「『こういうのは、卓袱台を囲んで食った方が、味があるんだよ』」

「やっぱ似てない」

「……」

「何オレの真似なんかしてんだ? ……ったく、なあ、できたぞお前達」

 

 遠くから本物の声が近づいてきたのでそちらを向くと、大きなお皿に、これまた大きなスイカを盛りつけたものをマスターが運んできてくれていた。

 運ばせてしまった。重たそうだから、俺が持つつもりだったんだけど……申し訳ないことをしてしまった。

 

「あ……? おいおい、舐めて貰っちゃ困るな。これくらいどうってこたねえよ」

「そうだぞ!」

「……にしてもお前ら、なんでこんなに暑いのにくっ付いてんだよ」

「扇風機が一つしかないからだ、そうじろう」

「首ふりゃいいだろ、首」

 

 何言ってんだよ、と惣治郎さんは突っ込みを入れて、そっとちゃぶ台にスイカのお皿を置いた。

 因みに一度、同じ質問をしたのだけれど、双葉には一瞬で却下されている。どうして惣治郎さんの言うことには従うのだろう……これは、かなり重要な問題だ。

 「ちぇー」と渋々、マスターと俺との間の位置に座っている間、扇風機をマスターと双葉の間に置いて、満を持して首を振るボタンを押した。

 俺達は今、佐倉家の居間でスイカを囲んで食べている。もちろんここに来るのは初めてだし、むしろ佐倉家の扉を開けること自体、久しぶりのことだった。双葉との些細な連絡事項などは、殆どの場合LINEで済ませてしまうから、双葉の部屋に行くことが少なくなったのである。

改めて居間を見渡す。日で色褪せた畳の隅っこに、マスター御用達であるらしいリクライニングチェアーが置いてある。その椅子に座った時の視線の先には、テレビが簡素なテレビ台の上に乗っていた。大きさ的には、ルブランのそれよりも少し小さい程度だろうか。

 テレビ台の中に備え付けられているガラス扉の中には、よく分からない置物や、あれは……写真立てだろうか? 何故か裏返されているので、その写真を見ることはできないけれど――、

 

「もらったぁ!」

 

 双葉が勢いよく、最後の一切れにかじりつく。マスターはともかく、俺も並みの早さで食べているつもりなのだけれど、最終的には双葉が殆ど平らげていた。相変わらずの大食いだ。

 

「あー、うまかったー」

 

 そしてものの十数秒で。しかし乱暴に食べているせいか、口の周りが汚くなりはじめていた。

 ちゃぶ台に置いてあるボックスティッシュを摘まんで、そっと双葉に渡す。

 

「今、手ばっちいから無理。拭いてー」

 

 拭く……双葉の、口を。

 自分の手で……。

 ……。

 

「まず手をティッシュで拭いたらいい」

「ぐぬぬ……うい」

「……」

 

 マスターの視線が気になるところだけれど、心を鬼にして双葉に渡した。

 

「あーあー、ちょっとは構ってくれたっていいのに」

「双葉は、恥ずかしいって感情は二の次なのか?」

「ない。恥ずかしいということは、コンパイルがミスっていることと、パソコンのスペックが低いことを指す」

「……コンパイル、って何?」

「あとは、自分の感情に嘘を吐いたとき……かな」

「深いな」

 

 かな、と言った時の双葉の表情は、相当のドヤ顔であったことをここに記しておく。

 

「あー、花、摘みに行ってくる。サラバダ」

 

 流石にスイカにがっつきすぎたのか、慌てた様子でトイレに駆け込んでしまった。頭の回転の速さに比例しているのか、いつもドタドタとせわしない。もう少し落ち着いても良いと思うけれど……一二三までとは言わないが。

 マスターも考えていることは大体同じだったようで、「ったく……変わんねえなぁ」とボヤいていた。

 

「あ? ……ああ、昔っから双葉はあんなだよ。学校に行きゃあ少しは落ち着くかとは思ってはいたが……あの様子じゃ中々、淑女になりそうじゃねえよな」

 

 ま、それがアイツの良い部分でもあるんだけどよ、とマスターは念を押した。

 

「で……どうなんだよ、最近は」

「……先生に目を付けられないようには、気を付けているつもりです」

「あほ。そんなこと聞いてんじゃねえよ」

「……野暮なことは聞かないとか何とか、仰っていませんでしたか?」

「お前のことはな。だが、オレは双葉の一応保護者だ。アイツのことについては、知る必要がある、とオレは考える」

 

 屁理屈にもなっていない。が、それが屁理屈にもなっていないと言ったところで、マスターお得意の口八丁で何かを言ってくるに違いなかった。

 しばらく男の意地をかけた睨み合いを続けながらタイムリミットを、つまり双葉の帰還を待っていたのだけれど、帰ってくる気配すらない。

 俺は観念して、不敵に笑うマスターに、これ見よかしに溜息を吐いた。

 

「ボチボチですよ。というより、まだ夏祭りから数日しか経っていないじゃないです……か」

「そうだっけか?」

 

 言った俺からしても、あの告白の日からまだちょっとしか経っていないということに驚いてしまう。一二三の件が色々と差し迫っていたから……その分、早く終えることができ、こうしてゆっくりと夏休みを謳歌できているのだけれど。

 

「それより、あの日……双葉が俺に夏祭りの連絡をするように言ったのは、マスターですよね?」

 

 双葉から、やけに荒いお誘いのLINEが送られてきたのは、ちょうど俺が怪盗団の皆と一緒に花火を見に行こうと決めているところだった。あの場……つまりルブランにいたのは勿論皆とマスターだったから、順当に、マスターが密かに双葉に連絡をよこしたと考えるのが妥当だろう。

 

「ああ、そうだよ」

 

 意外にもマスターは、何かはぐらかす訳でもなくそう言い切った。

 

「余計なお節介だったよな」

「そんな、こと……」

 

 ない、と言えば嘘になる。

 しかし、あれがあったおかげで、今まで事が上手く運んでいるということは、紛れもない事実だった。そう、一二三を助けることができて、それで――、

 

『双葉は、もしかしたら――』

 

 不意に、帰りのルブランで聞いたマスターの話を思い出した。

 

『――ただ忘れてるだけなんじゃないのか』

 

「……ぃ、おい、大丈夫か?」

「え? あ、はい」

 

 あの話は、マスター自身が考えすぎだと言っているんだ。それを今さら引っ張り出して悶々と考えたところで、得られるものは何もないはずだ。

 何か違うことを考えなければ……あ、

 

「その写真立て、って……」

「ん?」

 

 俺は先ほど見つけた、テレビ台の中で写真が伏せられているそれを指で指した。

 

「それ……もしかして、」

「さて、仕切りなおすか!」

 

 双葉がトイレから戻って来るなり、ドカッと腰を下ろした。

 

「え? もう残ってねえぞ?」

「無論、もうおなかいっぱい、お手上げだ!」

「どっちだよ」

「けど、こうして三人で集まって食べるのって楽しいな! ……なんだか、懐かしい気がする」

 

 ……。

 

「……また、一緒に食べたい。そうじろう、いいよな?」

「ああ、いつでも切ってやるよ」

 

 微笑んだマスターの表情の奥には。

 どこか、暗い感情が潜んでいるように思えた。

 



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--/--『料理』

「オッケーモウマンタイ。よし、できる、できる……自分ならできる……!」

 

 台所に出されたネギ、豆腐、豚挽き肉、豆板醤を一瞥しながら、慣れない様子で包丁を握る双葉。

 今日の献立は、出されている具材から分かるようにシンプルな麻婆豆腐だ。レシピに必要な材料は少ないながらも、ある程度のクオリティーを出すことができる、初心者御用達の料理。

 

「よし、自己暗示完了。え、えと……まずは、豆腐を、切る……と」

 

 アプリで見かけたその調理方法を、持ち前の記憶力で辿る。そして恐る恐る、豆腐のペラペラとした蓋を開けた。ポテトチップスの封を開ける時は一切の躊躇がない彼女としては、驚かざるを得ない変わり身っぷりだった。

 

「夕飯がポテチなら最高なのになー」

 

 小学生のような発想を垂れ流しながら、双葉は溜息をついた。

 双葉が初料理(カップ麺を除く)に挑戦するキッカケとなったのは、マスターが風邪を引いたことだ。アイスにスナック菓子と荒れに荒れまくる双葉の胃を、夕食毎の健康的な献立で沈めてきたマスターが離脱したのは、彼女にとって重大な問題だった。

 かと言って、少しだけ美味しいコーヒーと辛いカレーを作れる程度の俺に、マスターのような料理の腕はない。外食という選択肢もあったけれど、せっかくなので一緒に夕食を作ることになったという経緯がある。

 双葉は涙目で拒絶していたけれど。しかしこのまま、「カップ麺は料理の内に入るに決まってる!」とドヤ顔で言い切る彼女自身のためにもここは一つ、心を鬼にする必要があると感じた。

 

「……」

 

 真剣な顔つきで、そっと豆腐をまな板の上に降ろし、包丁を逆手に持つ。

 逆手に持つ。

 ……どうやって切るつもりなんだろう。

 

「え、逆手じゃない? ……順手?」

 

 包丁の持ち方に逆手も順手もないと思う。

 逆手で持ったまま豆腐を捌く双葉も見てみたくはあったが、流石に切れるはずがないので、手取り包丁の正しい持ち方、及び左手を猫の手にするよう教える。

 ……しかし。

そういったやむを得ない事情でその手に触れていると、やはり双葉の手は小さいということを再確認する。

 ゲームのし過ぎで中央に窪みができている両親指に、常日頃タイピングに勤しんでいるからかギタリストのようにかたい指先。一方で爪が生えている側面を挟めば、ふにふにとした感触が俺の指から伝わってきて、ともすれば一生この側面をふにふにしていたい気持ちに陥らせるような魅力を秘めていた。

 

「……そうじろうに、彼女の指だけで興奮するヘンタイだって言いつけてやってもいい」

 

 そんな人聞きの悪いことを言う双葉を、気を取り直してもう一度豆腐の前に立たせる。

 やはりどこか必要以上に緊張しているようだったので、深呼吸をするように促した。

 

「ふー、ふー。……おし、やってやる」

 

 気合を入れなおして、そのままの勢いで双葉は――サクリと、

 

 自分の指を切った。

 

「ひっ……ん?」

 

 一瞬真顔で、何が起こったのかを確認した後、

 

「ぎゃあぁあ!」

 

 飛び出してきそうな程に目を見開いた。

 

「ち……血!」

「落ち着け。水で流せば問題ないし、我慢できるくらいの痛さだ」

「む……うう。大丈夫。耐えられそう」

「上出来だ。……俺は、二階から絆創膏を持ってくるから、双葉は安静に、うん、安静に」

 

 自分にも暗示がかかるように言いなおした。仲間が深手を負ってしまったときに身に付けた、その場しのぎの処世術だ。

 また、絆創膏はとある理由で、セントラル街で大量購入しているから、俺が住んでいる屋根裏部屋にも多数貯蓄されていた。

 とりあえず、双葉にそのまま台所の水で手を冷やすように言って、早く二階にあがってしまおう。

 双葉に背を向けかけると、何か言い澱むようにしながら、傷口を俺に見せるようにして、双葉は「ん」とだけ呟いた。

 

「……だ、唾液は菌の増殖を抑制する、働きをする酵素や成分を含んでいる」

「……?」

 

 傷が付いている方の手を押し付けてくる双葉。

 

「だ、だから、その……な?」

「な……と言われても」

 

 いつか惣治郎さんが言ったように、双葉は時々こうして、一見俺達にはよく分からない言動をすることがある。これに関しては特に有効な手段がないので、素直に聞き返すしかなかった。

 

「……――!!」

 

 ボンッ、と双葉の頭から何かがショートしたような音がして、

 

「な、なんでもない! 早く取って来て!」

 

 右の腕で俺をグイグイと押しながら、しどろもどろになって双葉は話した。

 さらに頬を赤くしている双葉を見て、双葉が何を言いたいのか考えていると、

 

「……あ」

 

 ようやく合点がいった。

 

「くれぐれも舐めちゃダメだ、双葉。唾にも勿論、体に悪い細菌が入ってるからな」

「…………あい」

 

 俺の推論は間違っていないはずだったけれど、その時の双葉は、筆舌に尽くしがたい微妙な表情をしていた。

 

 

 

 

「うめー! なんだろ、やっぱ自分で作った料理はカクベツに美味い気がする。新発見だな」

 

 口に沢山の麻婆豆腐を詰めながら、器用に話す双葉。食べながら会話をすることは行儀が悪いけれど、口をモゴモゴと動かしながら喋っている様子はなんだか無性に可愛かったので、そのままにしている。

 

「ま、そうじろうには敵わないけどなー」

「……そうだな」

 

 殆ど俺が作ったんだけど。まあ、これは言わぬが花だろう。

 あの後――双葉が手を切った後、常備してあった絆創膏を双葉の指に貼って応急処置をした。「もう切れない、ムリ、トラウマんなった」と包丁を見るなり慄いていた双葉だったが、もし無理やり切らそうにもその手では包丁を持つことさえままならないから、最終的に切った具材を混ぜる作業をさせることにした。慣れない手つきで混ぜたためか、最後まで原型を留めることができなかった豆腐がチラホラ見かけたけれど、これはこれで美味しかった。

 

「……マスターが作る料理で、一番何が好きなんだ?」

 

 一通り食べた後、俺は適当に話題を振ってみる。

 

「基本的に全部好きだけど……けど、そうだな……あれ?」

「どうしたんだ?」

「……カレー」

 

 確かにマスターが作るカレーのクオリティは高い。どう表現していいかは分からないけれど、隙がないというか、既に完成されているというか――、

 

「……そうだ、カレーだ。なんで今まで……忘れてたんだろ」

 

 ……そこまで、神妙に打ち明ける必要はないと思うけど。

 双葉が引きこもりから脱却しつつある今、ルブランで三人と夕ご飯を食べること自体、珍しくなくなってきている。当然マスターの作った料理は全部美味しいし、特筆して美味いカレーは何回も食べているはずで――え、

 

「まだ、一緒に食べたことはない……か?」

 

 最近食べさせてもらった記憶もある。初めてマスターの手料理をご馳走してもらったときに、朝食で食べたカレーの味も忘れられない。

 けど。

 三人で食卓を囲んで食べたことは、どうしてだか思い出せなかった。

 

「すごい偶然……だな。また、作ってもらうことにしよう」

「……うん」

 

 少し間があった後、ゆっくりと首肯する。その同意の言葉は少し、歯切れが悪いような気がした。

 まあ、残りがあれば俺も作ることはできるのだけれど。また双葉に振舞ってあげようか……。

 

「えー……。前食べたときはただただ、辛かった」

「……傷ついた」

「い、いや……ダイジョブ。カレシの作った料理なら……きっと、食える」

「涙目になって言わないでくれ」

 

 双葉が見せた優しい気遣いにもっと傷つきながらも、俺は最後の一口を口に運んで――、

 

「あーん」

 

 ……。

 俺がこれに応えたかどうかもきっと、言わぬが花に違いなかった。

 



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--/--『猫』

「だーっ、あっちー……」

 

 駅構内から出たら、意味分かんねえほどに暑かった。電車の中がキンキンに冷えてた分、余計に暑く感じる。

 

「もー、こっちまで暑くなるじゃん」

「そんなこと言ってもよー、暑いもんは暑いだろ」

「あーダメダメ、こっから暑いって単語言うのナシだかんね」

 

 隣で両腕をだらしなくぶら下げながら歩いてる(すげえ格好だ)杏も、やっぱこの暑さには参っているみてえだ。熱中症予防かどうかは知らないけど、高巻らしい派手なキャップを被っている。ずりぃ。

 

「いや、でもルブラン着くまで我慢我慢我慢! 着いたら、うんめぇコーラが待ってると思ったら耐えられる気がするぜ」

「コーラばっかり……ほんっと、舌が子供なんだから」

「は? そっちだってクリームマシマシのクレープいっつも食べてるだろうが」

「ちょ……あ、あれはいいの! そういうデリケートな話持ってくんのマジありえないんですけど」

 

 ギャルっぽい口調だな。ま、容姿には合ってる……けど!

 

「高巻が、コーラが何だとか言い出したからだろ!」

「でもクレープは関係ないじゃん!」

「――!」

「―――!」

 

 結局暑さでイライラしながら、言い合いもヒートアップしながら歩いてると、奇麗な模様があるドアの前に到着する。流石にいい加減暑さから逃げたかったから、俺は勢いよく扉を開けた。

 

「うーっすす、涼すぃい……」

 

 開けたらそこは、天国だった。クーラーがガンッガンにキマった室内に、今までオーバーヒートしてた頭が一瞬で冷やされる。

 

「こんちはー……って、あれ?」

 

 後から入って来た高巻が、不思議そうな声を上げる。

 

「なんだよ」

「皆……いなくない?」

「え……あ、確かに」

 

 いつもはカウンターの向こう側で、暇そうにニュースを見てるマスターの気配も、二階からアイツが降りてくる様子もない。けど、扉は開いていた。

 

「おいおい、不用心だな……ぁぁああああ!?」

 

 なんとなく奥に向かって歩いてたら、パンッパンに大きく腫れた頭のヒトが目に入る。さっきまで全然感じてなかった気配に、俺は大声を上げた。

 

「なっ……なんなのよ、もう」

 

 一回は俺の声で驚いてた高巻だけど、すぐにめんどくさいような落ち着いた声で俺に突っ込む。そこらへん肝、座ってるよな……どこぞの生徒会長とは違ってな。

 

「ひぃい!?」

 

 逆に驚いてたのは、目の前にいる腫れた頭のヒトだった。ビクッと上に伸びて、あわあわと手を無茶苦茶に動かしている。なんだこいつ。

 

「あん……?」

 

 冷静になって見てみると、その頭が謎に光ってるのが分かる。

 

「なんだよ、かぶりものかよ……」

 

 俺はガクッと肩を落とした。クーラーと合わせて、更に体温が冷えた気がする。

 

「へ……へい、らっしゃい!」

 

 かぶりものをしている謎の少女(少年?)も我に返ったのか、テーブル席から立ってお決まりの台詞を叫んだ。威勢はいいけど、緊張か何かで足がガクガク震えてるのが、ちょっと気になんな……。

従業員か? ……マスターが? こんなよく分からん人を雇ったのか?

 

「あ!……双葉、ちゃんだよね」

「え?」

 

 こいつは誰だと首をひねってると、結構すぐに高巻がその正体を言い当てた。確かに言われてみれば、かぶりものの中からオレンジ色よりの茶髪ロングがチラッと見える。

 

「違う。私はマスターが買い出しでルブランを空けたから、緊急従業員としてはせ参じたものである」

 

 握りこぶしを、自分の胸にトンと当てて応える緊急従業員……もとい、双葉。設定といい容姿といい、接しずれぇ。

 

「そーなんだ……じゃ、」

「言わなくても分かる。……そうじろーと一緒に、買い出しに出かけてる」

「そうなのか?」

 

 双葉一人……いや、アイツの彼女をルブランに一人置いて、スーパーに買い出しに出かけてんのか? したら少し、らしくない気がするな。

 

「……そうじろーが心配だから、重い荷物持つって」

「なる……」

「あー……」

「うん……」

 

 高巻、俺、双葉の順で、アイツが行ってしまった理由に相槌を打った。確かにそれは、あいつらしかった。

てかこれ今の状況、双葉と仲良くなるチャンスじゃねぇか?

俺達と双葉はそこまで接点はない。アイツからの話を聞く限り、合う趣味というのも中々ない気がする。高巻と双葉が好きそうなファッションも、全然違うっぽいし……。

 けど、ジョーカーの話となりゃ話は別だ。アイツが唯一、今んところどっちもよく知ってる人で、会話が弾みそうな話題な気がする。

 んじゃ、そうと決まれば。

 

「なあ、アイツんこと、お前はどう思ってるんだ?」

「……うぇ?」

 

 こういうときは、単刀直入に聞いてみるのが一番だ。てか、他に考えるのがめんどい。

 ……けど、一向に双葉からの返事は帰ってこなかった。むしろ顔が赤くなって(かぶりものなのに)、今にも爆発しそうなふいんきだ。……なんだ? 何が起こって――、

 

「いてぇ!」

 

 後ろから頭を一発揺らされた。涙目で後ろを振り向くと、鬼の形相で手刀を構えた高巻が仁王立ちしている。

 

「またそうやってデリケートなところにズカズカ入ってく。ほら、双葉ちゃん、赤くなってるじゃん」

「お前も見えんのかよ……」

 

 かぶりものをしてるのに。顔隠して被ってる意味、ないんじゃね?

 

「ぐぬぬ……リュージ、危険人物。ブラックリスト行きな」

 

 籠った声で、双葉は物騒なことを言いながら威嚇している。クソ、のっけから躓いちまった……。

 

「なぁ……どうすんだよ。俺はもうお手上げだ」

 

手刀を降ろした高巻に、俺はそう呟く。てか、もういい加減喉が限界。コーラのみてぇ。

 

「なぁ、ふた――」

「緊急従業員だ」

 

 その設定まだ続いてんのかよ。

 

「……キンキュウジュウギョウインサン。コーラ飲みたい……でーす」

「待ってろ、今出す」

 

 一応従業員としての役目を果たそうとはしてるのか、そもそも俺達と喋りたくなかっただけなのかは分からんけど、双葉はかぶりものをしたまま、器用にカウンターの向こうに行ってコップ、氷、冷蔵庫からコーラを取り出していた。

 

「へい、お待ち」

 

 中華料理屋の店員みたいな声を出して、カウンターの机にコトリとコーラが並々注がれたコップを置いた。俺は滑るように近くの椅子に座って、カップを一気に傾ける。

 

「……――~~んー!! あー、生き返るわ……」

 

 味から推測して、これはコカ・コーラか。やっぱうめぇ。

 

「おおっ!? リュージ……できるな」

「だろ? やっぱコーラと言えば、これだって」

「わかる」

 

 意外と双葉が乗ってくる。どうやらそっちもコカ・コーラ派か。

 

「え、えと……タカマキ=サン。……も、何か、飲む?」

「あ、じゃあ……コーヒー、アイスで」

「私……コーヒー、淹れられない……」

「そうなんだ……ええと、じゃあ何があるのかな――」

 

 と、杏と双葉が話をしていると、

 

「くぅ~~……う。あれ、リュージと杏殿、来てたのか」

 

 二階の方から、物音一つ立てずにモルガナが降りてきた。すっかり猫としての動作が板についてんのな。

 

「おっ、にゃんこ、起きたのか!」

 

 モルガナに気付いた双葉は、杏の注文を放置して階段の方に駆け寄っていく。

 

「わっ、何だお前……って、双葉か。……ちょちょ、やめろぉー!」

 

 猫なりの抵抗むなしく、双葉の手によって顔が伸ばされたりしわくちゃにされているモルガナ。あ、モルガナの声、双葉は聞こえてなかったんだっけか?

 

「ぐふふ、モルガナの顔は面白いな。止めろって言っても、止めてやらないからな?」

「……聞こえてないんだよな?」

 

 双葉はパレス、行ってねえし……あれ、でも電話はしてたんだっけ? あれはどっちに入るんだ? セーフ? アウト?

 

「ただいま」

 

 考えてると、ルブランの入り口についている鈴が鳴る。したら、いくつものビニール袋を両手に抱えたお人よしが、同じく帰って来たマスターの前で立っていた。

 

「おかえり!」

 

 これもまた驚異的な反射神経で(陸上のスタートダッシュくらい)、双葉はそっちの方に走って行く。目まぐるしい。

 

「大丈夫か? ケガしなかったか? ……よし、私に任しておけ。今すぐコーラを用意してやる……ペプシでな!」

 

 また颯爽と双葉はキッチンの方へ消えていく。俺達の時と対応、全然違くね?

 

「猫みてぇだな」

 

「「「猫のお前(モルガナ)が言うな」」」

 

 俺と、杏と、双葉の突っ込みが被る。今思ったけど、多分、双葉とは仲良くなれる気がするわ。

 あと。

 双葉、モルガナの声、聞こえてたのかよ。

 



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--/--『ありがとう』

投稿しようかどうか迷った話なんですが、一応。


「あー……負けた。……ありがとうござ、いまし、た」

「ありがとうございました」

 

 双葉が、悔しそうに頭を下げる。ちゃんと対局のお礼が言えるようになったのは、一二三先生のご鞭撻の賜物だろう。

 

「いやー、やっぱひふみんは強いな。戦術変えられたら手も足も出ない」

「ひふみん……」

 

 一二三は、双葉が彼女に付けた愛称に少し返答に窮したようだったが、

 

「……いえ、双葉さんも中々力を付けているように思われます。……少しずつですが、段々と中盤の安定感が増していますね」

 

 双葉を見つめながら、ふんわりと笑った。やはり俺の知らない間に、すっかり打ち解けているようだ。確かに微笑ましいことこの上なかったけれど、少しだけ複雑な感情が僕の胸の内にわだかまっている気がする。どうやら俺は、俺自身が彼女たちの蚊帳の外に置かれているように勝手に感じていて、そのことに対して少しばかり嫉妬しているようだった。

 情けない。が、嫉妬しているのならしょうがない。双葉や一二三のように、俺は彼女達と肩を並べられるような才能を持っていないからだ。ここはグッと堪えて、中に入れてもらうのを待つだけだ。

 

「あ、やっぱそう思う? 思っちゃう? ぐふふ……一二三城を没落させるのは、そう遠くない未来にあるな」

「ええ……楽しみです。……ですが、私も負けていられませんね。まだまだ鍛錬が、必要なようです」

 

 ……ダメだ。どうしても会話に入る隙がない。ではここは寧ろ、あえて聞き手に徹して彼女達の会話に耳を傾けるのはどうだろう。一二三は頭が良いから、双葉の突飛な会話にも合わせてくれるだろうし、彼女達の会話も、なんとなく一度は聞いておきたいな。

 よし、そうと決まればと、俺は自分自身の気配を限界にまで薄くするよう心掛ける。ずっと体勢を維持できるような楽な姿勢を取って、息を潜める。あまり視界は広くないらしいシャドウにしか効かない、子供だましのような気配の消し方だけれど、ないよりはマシだろう。

 

「毎日どれだけやってる? 将棋」

「そうですね……指したいときに指しているから、あまり時間を計ったことはないのですが……休日でしたら、一日中指しているときもあります」

「ま、マジか……一日中。で、でも、勉強も大変だろ? 私と違って、ひふみん、学校行ってるし……」

「はい。集中していると、時間を忘れてしまいますから……勉強のときも、そうですが」

「あー、分かるわー」

 

 分からない。潜入道具を作っているときは、作業に没頭しているときはあったが。

 

「え、えっと……その……」

 

 一二三は少しだけ言葉に詰まって、

 

「双葉さんは、いつもはどう過ごされているのですか?」

 

 何気ない質問を、双葉に返した。慣れない会話に、少し難しいと感じているのかもしれない。

 俺も含めると、三人とも会話やお喋りが上手という訳ではないだろう。弾む会話より、ぎこちない会話が多いように感じる。

 それでも、双葉も一二三も、お互いに仲良くなりたいという意志は、会話の中からひしひしと感じられた。思うままに喋り続ける双葉に対して、慌てながらも、時には冷静に返している一二三の姿は、どこか懐かしい思いがした。俺が双葉と出会って、もう四ヶ月も経つのか……。

 しかし、先輩であるはずの一二三が丁寧な言葉を使っている一方で、年下であるはずの双葉がニコニコしながらありのままで喋っているのを見ていると、ちょっと面白い組み合わせだな、と思ってしまう。言葉だけを取り出せば、一二三が後輩のように思ってしまうんだけれど。

 

「ねぇねぇ」

「なんでしょう?」

「ひふみんってさー……その口調、どうにかなんないの?」

「え?」

 

 一二三が呆けた声を上げたのと、僕が耳を疑ったのは、ほぼ同時だった。

 

「いっ……いや、それはちょっとゴヘイあるな……。わ、私は全然、それで良いと思ってる。 ……けど、別バージョンのひふみんも見たいっていうか……」

「別バージョン、ですか……」

 

 別バージョンの一二三、つまり丁寧語で喋らない一二三……か。

 言われてみると、少しだけ興味はあった。確かに誰に対しても敬っているような口調は、彼女の容姿も相まって随分とガッチリはまっているように思える。人と戦うという世界に身を置いている仕事柄、相手に敬意を示すことを心掛けた結果、後天的にそうなったのだとも考えられた。別に俺達が友達だからと言って、馴れ馴れしい口調に矯正する必要は全くないと思うし、むしろいつもの口調で喋ってくれる方が、自分がより出せるというものだろう。

 だがしかし、一二三がタメ語で喋っているというシチュエーションは少々、いやはっきり言ってかなり興味があった。俺は依然と、彼女達の会話の行き先をじっと見守っている。

 

「……ですが……これが恐らく、私の素ですので……難しい提案ですね」

「そうだな。これが世に言う無茶振り。……でも、ちょっとだけでいいからさ、頼む、一生のお願いだ」

 

おお、中々グイグイ行くな、双葉。

 

「そうですね……では、言って欲しい言葉を指定して頂けませんか? あまり、皆の口調を真似るということに関しては、不得手なので……」

「ぃよし! 分かった。ダイジョーブだ、任せておけ」

 

 自分の手で、双葉はトンと胸をついた。その直後、双葉の瞳はせわしなく目の中で動きだした。

 

「えと……まずは小手調べだな……『今日は、ありがとう』」

「今日は、ありがとう……ございました」

「それじゃいつものひふみんじゃん! じゃ、じゃあ、『またね』」

「では、また次の対局まで。ごきげんよう……」

「全然違う件!」

 

 双葉が突っ込みに回っている……。

一方で、一二三は「なんでしょう?」とばかりに、顎を右手に乗せて首を傾げていた。

 

「やべぇ……話し方、脊髄にまで染み込んでる。……どうする? ジョーカー」

 

 双葉は実に真剣な表情を浮かべながら、僕を見た。あの双葉でも、この問題にはお手上げらしい。

 かと言う俺も、一二三が勝手に丁寧語で喋ってしまうことへの対応策は全く見つからないでいた。

ええい、ここはもう行き当たりばったりだ、思いついたものを言っていくしかない。

 

「食らえ!」

「食らいなさい!」

「何っ!?」

「まさか!?」

「来い……アルセーヌ!」

「来なさい……ハンゾウ!」

 

 俺と一二三の、言葉の応酬が続く。途中からは、面白そうに双葉も交じっていたけれど、一向に一二三の口調が、ですます調から抜けきることはなかった。一二三自身も言っていたように、本当に彼女の素の喋り方なのかもしれなかった。確かに俺は、一二三の口からはいつもの口調しか聞いていなかっ……たっんだっけ?

 

「あー……笑った。これで一週間は行ける、バッチリ」

 

 思い出しかけている時に、双葉が俺の所に近寄って来た。どうやら満足したらしい。

 

「また来る。今度こそは、ハンデ無しで勝つ!」

「……はい、また、お会いしましょう」

 

 一二三は、主に双葉に沢山喋らされたことで少し息を切らしたが、穏やかな笑顔で双葉に振り向いて見せた。彼女にとってはいい迷惑だったかもしれないけれど、双葉の楽しんでいる様子を見て、なんとなくそういった雰囲気を味わってくれているようだ。

 双葉が、無邪気に遊んでしまったことに謝りを入れて、俺も席を立つ。久しぶりに立ったものだから、少々立ち眩みがした。もう夕方だとは言っても、夏真っ盛りだから教会を出た瞬間に、またクラっときそうな気がする。

 

「あの……」

 

 一二三に呼び止められる。いつもと変わらない、適度に間が空いた口調だ。しかし、今はどこか、何かを言う事をためらっているような気がした。俺は立ち上がった姿勢のまま、顔を一二三の方に向けて窺う。

 

「その、今日は……あ、」

 

 あ……?

 

「ありが、とう……」

「……」

 

 声の抑揚で、次の言葉がないことを悟った。一二三は俯いてしまっていて、よく表情を読み取ることはできなかったが、恥ずかしがっているということが目に見えて明らかだった。

 俺も何だか恥ずかしくなってしまって、「ああ」とか「おう」とか曖昧な事を言って、その場を離れる。表情筋がモゾモゾして、今にもニヤけてしまいそうだ。

 

「なに、笑ってる」

 

 しかし、双葉の疑うようなジト目を見て一瞬で感情を失う。俺は「なんでもない」と言って、その場を誤魔化そうとした。触らぬ双葉に祟り無しである。

 

「ぐぬぬ……カレシ、怪しい」

 

 ルブランに着くまで、双葉の包囲網が解かれることはなかった。

 双葉も、一二三の「ありがとう」が聞けるまで、仲良くなってもらいたいものだ。

 



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8/11『双葉の場合』

 大量の雨が、屋根裏部屋の屋根に打ち付けられている。今はまだ天井から時折激しい音が鳴り響く程度に留まっているけれど、雨漏りが発生するのも時間の問題だろう。スマホのホーム画面から見る事のできる、四軒茶屋本日の降水確率は、見事に100%を叩き出していた。最近稀に見られるようになった、ゲリラ豪雨の到来だ。

 

「100%って言っても、めちゃくちゃ雨が降るってことを予測する指標じゃないけどなー。ただ、今現在の雲行きなら、必ず雨が降ってるはずだ、ってのを言ってるだけだった……と、思う」

 

 双葉が、やけに速い口調で俺に指摘した。俺がいつも寝ているベッドでうつ伏せになって、ノートパソコンを広げている。今の雨脚にも負けないくらいの密度で、キーボードの音が俺の耳にも届いてくる。

 そんなに指を打ち付けて、一体何をやっているのだろう……と気になり、中腰になりながら椅子をずらしてノートパソコンの画面を覗いてみる。def、return、print……英語の授業で見たことはあるけれど、一体何を示しているのかは全く見当のつかない文字の羅列が、双葉が操作しているパソコンの画面に映し出されていた。

 

「すげぇな……。これ、双葉が全部打ってるのか?」

 

 俺の膝に、器用に座っているモルガナが、一緒に画面を覗いて驚いた表情を浮かべている。俺が双葉といるときは、基本的に空気を読んで、どこかに出かけてくれているモルガナ。でも、今日は天気で外が危険だから、モルガナが雨の中外出をするつもりも、俺がモルガナに空気を読んでもらうつもりもなかった。

双葉が俺の視線に気づいたのか、

 

「んー? なんだ、カレシ、プログラミング……気になる? 気になっちゃう?」

 

 なおもその手を止めずに、そして顔をこちらに向ける。キーボードに目を向けないまま文字を打つブラインドタッチは、ある程度パソコンを触り慣れた人なら誰にもできるらしいが、ここまでくると、流石にそう多くはいないんじゃないかと思われた。俺が喋らずに将棋盤を凝視している間、会話を楽しもうとしてくる一二三を思い出す。

 

「ん、文字打つのと……あと、この手の言語に慣れてきたら、そこまで頭のリソースを割かなくてもよくなる、から」

 

 この手の言語?

 

「うん、プログラミング言語。今やってんのはパイソン。オブジェクト指向型ならジャバを齧っといた方が良さげだけど、やっぱ今の流れはパイソンだな! 人工知能も夢あるし、んで――」

 

 聞きなれない単語がポンポン飛び出してくる双葉のアツい説明を聞きながら、俺とモルガナは、お互い顔を見合わせる。バイソン……大型の野牛が一体どう人工知能と繋がるのかは全く見当が付かないけれど、双葉が今とても難しいことをやっているということは、ひしひしと伝わって来た。

 その……プログラミング言語を使って、今は何をしているんだ……と、俺は訊いてみる。

 

「今は……バイト、だな」

 

 バイト?

 

「うん。パイソンを扱いなれてない個人や企業に、コードと良いアルゴリズムを教える簡単なお仕事。私、メジエドとかもやってたから、結構有名なんだよ?」

「……ってことは、その年でプログラマーの仕事してんのかよ!?」

「そゆことー、だ、にゃんこ」

 

 高校一年生の年齢で、既に仕事に就く能力を備えている……今流行りの言葉で置き換えるなら、まさしくチート能力と言って差し支えないだろう。

 しかし、その双葉の驚異的な実力の裏には、膨大な数の努力と勉強量があるということも、忘れてはならない。一二三も、双葉にも……天才、秀才だともてはやされている姿の影には、何か大事なことを犠牲にして、コツコツと積み上げてきた基礎があるということ。俺が秀尽に転校し、様々な人と接してきた中で気づくことができた、大切なことの一つだ。

 ……かと言っておいそれと勉強する気にもなれず(これが凡人と秀才を分けているんだとも思う)、俺はおもむろにテレビを点ける。若い芸人が頑張ってロケをしているバラエティ番組、動物のオモシロ動画百連発と銘打っているテレビ番組、水素水を異様なテンションで推している通販番組……適当にモルガナとああだこうだ言いながらザッピングしていると、あるワイドショーが目に止まる。

 

『なるほど。この場にいる全員……ひいては、テレビの前にいる皆さんは、怪盗団を支持している……と。あはは、困っちゃうな。でしたらどうして、僕をここに呼んだんです?』

 

 笑い声が起きる。しかし、以前ほどの勢いはなかった。

 俺が、社会見学をしに行った……あの時と。

 

「……アケチか……」

 

 モルガナが、いつもよりかは少し低い声を出して、テレビ画面に映る明智吾郎を見つめている。モルガナもモルガナで、あいつに思うところがあるようだ。

 双葉がメジエドをやっつけた日以来、いつも怪盗団とは対極の位置に自分を置いていた明智の評価は、瞬く間に沈んでいった。前は明智を支持していた女子生徒が、人々が、段々と怪盗団に賛同するように、世論が傾いて行っている。双葉曰く、明智の考えに反対するスレが、所々に立っているらしい。

 しかし、明智はその怪盗団を迎合する風潮にひるむことはなかった。決して自分の考えを曲げることはせず、その結果、今のようなワイド―ショーに呼ばれることは少なくなった。それでも出たときは、多少のユーモアを交えて怪盗団の思想に反対する姿勢を見せる。ここ最近は、明智がそうしている姿を見ることが多くなったように思える。

 

『……正義から一番遠い行いです』

 

 唐突に、社会見学で聞いた明智の言い分を思い出した。その言葉に言い返すことが出来なくなった俺は、確か正義とは何か、を、色々な人に訊いてみようかと思ったんだっけ。双葉と一二三の問題で忘れかけていたけれど、確か、そう思った気がする。

 ……雑談ついでに、双葉に訊いてみようか。

 

「……ん? なんだ、いきなり」

 

 手が疲れてきたのか、カタカタとキーボードを打つ手を止めて、視線をこちらに向けた。俺は特に意味はないんだけど、と、はぐらかす。

 

「んー……、んんんーー?」

 

 双葉が、ゴロゴロとベッドの上で転がりながら、変な声を上げる。その無邪気な姿に、かわいいと思っている自分がいる。

 また、双葉があからさまに考えている素振りを見せているときは、大体結論はついていて、どう伝えたらいいのか迷っていることが多い、ということを、俺は知っている。

 

「まー、色々あると思うけど……。あのね、今やってる戦隊モノ、見てない?」

 

 見ていない、と、俺は素直に応える。

 

「ちぇー……。まあ、いいや。でね、まあ、いつもみたいに悪役が現れたんだけど……その悪者をやっつけてる途中で、そいつに、妻が、子供がいるってことを知る……の」

 

 ……。

 

「悪の組織に雇われて、怪物に変身できるよう改造されただけ……いわゆる、派遣社員というやつだな! で……、戦隊ヒーローは当然、その怪物をやっつけるかどうか悩んだ」

「もちろん、悪いのはその悪役だよ? 組織に言われるがままになって、建物を破壊して、一般市民を傷つけて、ヒーローを窮地に追いやった。最終的に、その怪物は……無残に、やっつけられた」

「その男はきっと……自分の身を守ることが、妻と子供を守って、生活させていくことが、正義だったんじゃないかって……」

 

 双葉……。

 

「5chに書いてた」

 

 ……。

 感動を返してくれ。

 

「こっから大事だから! で、私が言いたいのは……正義って、正しいことって、独りよがりなものなのかな……って。私が正しいと思ってやったことで、地球のどっかで苦しんでる人がいる。でも、そんなの、気にしてらんないじゃん? やっぱ自分が一番大事じゃん?」

 

 おもむろに双葉は腰を上げて、ベッドの上に立った。俺のベッドのスプリングが軋む音がする。

 

「よって! 正義とは! 独善的なものであーる!」

 

 と、双葉は高らかに宣言した。と同時に、ギシギシとベッドが悲鳴をあげる。どちらも聞いていて「なるほど」と思った。

 

「ん、で……だ、だから」

 

 先ほどまでは大きくなっていた双葉の声のボリュームが、一気に下がった。両手を合わせながら指を不自然に動かして、顔を伏せて、何かを言いたそうにモジモジしている。

 

「私が、その……イチャイチャしたいと考えていることは、圧倒的に独善的だ。だから……これは、正義なので、ある。私は今、正義を執行しているので、ある」

 

 と、意味不明なことを呟きながら、ベッドを降りて、こちらに近づいてきた。頬が心なしか、朱に染まっている。双葉のそんないじらしい振る舞いを目の当たりにした俺も当然、そういった気持ちになってくる。

 

「……ワガハイがいること、忘れんなよな」

 

 ……モルガナの、うんざりとした声を聞くまでは。

 



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--/--『一二三の場合』

「ふうん……ここに、一二三さん……一二三ちゃんかしら? ……とにかく、彼女がいるのね」

 

 やや当時の色は失われてはいるようだが、それでも立派な趣のある教会を見上げて、そう呟く真。やはり教会を普段目にする機会はないようで、かなりまじまじとその外観を観察しているようだ。

 

「彼女……キリシタン、なのかな? ……あぁ、違うのね。ここにいる神父さんと、仲が良いんだ」

 

 俺が説明を加えると、真はなるほど、と言うように頷く。

 ここにいる牧師さんは、俺もお世話になった方だ。七月の下旬頃、麻倉に唆されて将棋を辞めると一二三が言い出したあの時。もし俺の帰り際に、彼から声を掛けられ、今の一二三が今までどうやって育ってきたのかを教えてくれなければ、きっと今のような状況にはなっていないだろう。一二三が芸能界で、多くの人に振り回されている姿を想像して、少し身震いがする。

 

「ああ、違う違う」

 

 え?

 

「プロテスタント系の聖職者は、確かに牧師さんって呼ばれてる。けど、ここの司祭はきっと、神父さんって言うのが正しいと思う」

 

 プロテスタント系じゃない……ということは、カトリック系だということか?

 いや、もし真の言うことが正しかったとしても、どうしてここがカトリック教会だということが分かったんだ?

 

「ほら、この教会って、かなり煌びやかでしょ? プロテスタントのものは、もうちょっと簡素な造りになってるんじゃないかな。多分だけど、中に絵画や、像が置かれてるはず」

 

 ……真の言う通りだった。真の見識の広さには、いつも舌を巻いてしまう。世界の物事すべてを知っているような錯覚さえ感じた。

 

「ううん、なんでもは知らない。知ってることだけよ」

「……」

 

 ……そうか。

 俺は敢えて真の台詞には突っ込まずに、教会の扉を開ける。視線の先には、確かに絵画が立てかけられてあった。俺は真に改めて感心しながら、一二三がいつも座っているはずの方へ目を向ける。

 いた。俺は後ろに向かって頷いて、一二三がいたことを知らせる。すると、真も同じく笑みを浮かべながら頷くや否や、俺と扉の間を縫って、一二三の所へ行ってしまった。やや遅れる形で、俺も彼女に続く。

 

「こんにちは」

「……あ、はい、こんにちは」

「一二三さん……って、呼べばいい? 一二三は……まだちょっと、慣れ慣れしいよね?」

「あ、あの……ええと……」

 

 開幕早々、真の激しい質問攻めで参っている様子の一二三。真は基本的に喋るペースは速い。それに関して言うならば、一二三は俺と同様、彼女の対極に位置している存在だ。だから、彼女同士でちゃんとしたコミュニケーションを取れるかどうか、少し心配している……しかし賢い真のことだ、ちゃんとその辺りは、しっかり把握してくれればいい……んだけど。

 

「……なんと呼んでいただいても、構いませんけど。私は……そうですね、新島先輩と呼べば、いいんでしょうか……?」

 

 と、俺が真と一二三について考えている間に、ようやく一二三が口を開いた。

 

「そう……? じゃあ、お言葉に甘えて、一二三でいいかな。あと……新島先輩はちょっと、堅苦しいかも。全然、真でいいよ」

 

 ううむ、俺や双葉の時でさえ「さん」付けなのだから、流石に一応目上の先輩である真を呼び捨てすることは、一二三にとっては難しいことなんじゃないのか……?

 チラリと一二三を見てみると、案の定困った顔をしていた。どう断ったらよいものかと、迷っている様子である。

 

「あ、全然遠慮なんかしなくていいからね。ほら、私達はもう――」

 

 仲間でしょう? と、真は言った。

 

「仲、間……」

 

 その言葉を聞くなり、一二三は少し目を見開いて、仲間、と途切れ途切れに呟く。ややあって、真の言ったことの意味にようやく気付いたのか、頬を朱に染めて、下を向いた。どこからどう見ても嬉しそうだ。その喜びを噛みしめるように、もう一度、いや二度、仲間の三文字を口の中で繰り返している……ように見える。

 一言で一二三を喜ばせる真さん、マジカッケー……と言ったところだろうか。

 

「ええと……では……」

「うん、真って呼ん――」

「新島……さんで」

「あ……うん」

 

 真はガクリと肩を落とした。一二三に名前で呼んでもらうまでの道のりは、まだまだこれからのようだ。

 

「新島……さん……そうよね、先輩だものね……」

 

 一人、年が一つ上であることの格差を痛感しながらも、

 

「気を取り直して……早速、今日のメインテーマに取り掛かりましょう。よろしくお願いします、一二三先生」

 

 文字通り気を取り直すように、ふう、と一息ついて、一二三に頭を下げる真。

 今日のメインテーマ……それは、真が一二三に将棋を教えて貰うこと。夏休みに入ったときに、ルブランで話をしていた計画が、本日ようやく進んだということだ。祐介も、あと竜司も彼女に教えて貰いたいそうだったが、とりあえずの先鋒として真が選ばれている。

 一二三は、その真の突然の所作に、少しだけ驚いている様子だったが、同様に頭を下げる。

 

「え……あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします。ええと……失礼かもしれませんが、新島さんは……ええと、将棋のルールは……」

「うん、心配しないで。一応頭に入ってる。定石の手順は流石に多すぎて覚えきれなかったけど、囲いは少しだけ齧ってるつもり」

「なるほど……分かりました。それなら、スムーズにお教えすることができそうです」

 

 嬉しそうにはにかむ一二三。しかし、ちょっとの間だけ、申し訳なさそうな目をして俺を見てきた。なんだろう。

 

「……あ、分かった」

 

 真はその状況の一部始終を見ていたのか、俺が推察するよりまえに声を漏らす。

 

「貴方が初めて来た時は、全然ルールを知らなかったのに……って、言いたいそうよ」

 

 ぐ……なるほど、そういうことか。

 でも一二三は優しいから、きっと「そんなことはありません」と訂正してくれるに違いない。そんな期待の眼差しを一二三に向けながら、僕は一二三を待った。

 

「え……? い、いや、そんなことは……ちょっとはあったような、気がします」

「ふふ……だそうよ」

 

 二人してにこやかな顔で見つめられる。取り付く島もなかった。

 真……まさか俺をダシにして、一二三との距離を近づけるとは。俺達の怪盗団の参謀役としては、流石の機転の利かせようだったが、ダシに使われた俺からしてみれば、とても複雑な気持ちになる。

 まあ、ろくにルールも知らずに飛び込んでいった俺が悪いんだけど。

 

「うん、じゃあ……改めて、気を取り直して――」

「――……。初心者でしたら、振り飛車が良いと思います」

「どうして?」

「居飛車は、相手それぞれの、種類の異なる振り飛車に対して異なる定石を踏まなければなりません。有体に言えば、覚えることが多い……ということに、なります。ですが、居飛車なら――」

「じゃあ、――」

「――四間飛車、でしょうか……」

「――」

「――……、――」

 

 こうして、一二三による真のための将棋勉強会が始まった。流石に一二三とよく将棋を指しているから、将棋の用語や語句が分からないことはなかった。しかし、専門分野のことを語っているから、いくら一二三とは言えど喋るのは速い。真は難なくついていけているようだけれど、俺はかなり話に付いていくので精一杯だ。

 一時間ほど経つと、真の携帯が鳴った。どうやら「お姉ちゃん」かららしい。席を外して、教会を出てしまえば、当然教会の中にいるのは俺と一二三だけになる。

 一二三を見る。将棋盤に目を落として、真と作り上げた盤面をよく観察していた。俺が彼女と会ったときと変わっていない、よく見る所作。

 しかし、当時から見せていた憂いを帯びた表情は、どこを探しても見当たらない。きっと、大事な何かが見つかったからだろう。

 俺は一二三に、嬉しそうだな、と言ってみる。

 

「……分かります?」

 

 分かります。

 

「……ふふ、そうですか。やはり、貴方には見破られてしまうようですね」

 

 勝負師として、これはいけません。と、一二三は微笑んで見せる。

 

「……やはり、私が、人に認められているからだと、読みます。それがたまらなく、嬉しい。他人に承認してもらう……いいえ、」

 

 仲間に。と、一二三は付け加える。

 

「貴方のお陰です。貴方がいなければ、きっと、この感情を知ることはできなかったでしょう……感謝しても、しきれません」

 

 一二三がまた笑う。俺は彼女の言葉に否定も肯定もせず、ただ笑って返した。

 ……。

 ……真が中々帰ってこない。

 かなり込み入った話のようだ――俺は何か話す話題はないかと、頭の中を探した。すると、昨日した双葉との会話を、思い出した。

 

「……? 正しいとは何か、ですか……」

 

 うん、と俺は頷く。高校生の何気ない会話にしては高尚な話題かもしれないが、いい時間つぶしにはなるだろう。

 

「そうですね……。では、」

 

 一二三は居住まいを正した。

 

「正しいこと……それは皆が正しいと思っていること。だと、私は思っていました。従って、その皆に従っていれば、正しい生き方ができるのだと……読んで、いたんです」

「しかしその結果、自身の身を破滅させるようなことに……なりかけました。ですので、この考え方は……改めなければ、ならないようです」

「しかし、かと言って一人で考えたものだけを信じることは難しい……誰にだって、過ちを犯すことは、ありますから。では、どうすればいいんだろう……と、私はハンゾウをこの身に宿してから、考えていました。ずっと……ずっと。ですが今日、何か見えたような気がします」

「用は、信じる人の問題なのではないのか……と。見ず知らずの、怪しい人についていくのではなく、貴方や、新島さん、そして双葉さん……という、私の掛け替えのない仲間を、信じる。間違えそうになったときは、貴方たちに直してもらう。そんな生き方を……私はしてみたい」

「大体、そんな感じでしょうか……あ、貴方から頂いた質問と、少しズレてますね。しかし……心の中を整理してみれば、これが私の結論……です」

 

 いかがでしょうか。と、上目遣いで俺を見た。なるほど。と、僕は返した。

 

「……どうしてそのようなことを、お聞きになったんです?」

 

 ……やはり、聞かれてしまうか。

 

「はい、聞かれてしまいます」

 

 正義について問われたこと。その問いに、満足に答えることができなかったこと――。少し記憶がおぼろげな部分はあったけれど、明智のことをかいつまんで話した。

 

「なるほど。……そうして、自分の中の正しさ、または正義について、聞いて回っている……と」

「大体、そんなところだ」

「ふむ……では、自分にとっての正義を……見つけることはできましたか?」

「……」

 

 いや、それが、全くと言って良いほど見つけることができそうになかった。

 双葉にとっての正義とは、独善的なもの。一二三にとっての正しさとは、信頼できる仲間を信じること。何一つ共通点がない。しかし、彼女達の言うことを聞いていると、どれも正しいように思えてしまった。あっちになびけば、こっちになびく。こんな調子では、明智に顔向けができない。

 

「……ふふ。ええ、そうですね。正義の定義とは、とても曖昧なもの……もちろん、一人一人、千差万別の解釈があるでしょう。だから……何かキッカケのようなものが、必要なのかもしれません」

 

 キッカケ?

 

「はい。私は自身のペルソナを通じて、正しさとはなんなのかを知るキッカケを得ることができました。……双葉さんも、やはり何かキッカケがあったのではないでしょうか」

 

 ……確かに。

 

「ですので……早急に結論を出す必要は、もしかしたらないかもしれません。……貴方にもきっと、私達が体験したような出来事が、必ず……待っている。……と、私は読みます」

 

 俺が、正義について考えなければならないような出来事。キッカケ。

 そんな想像もつかない体験が一体なんなのか、今の俺には知る由もない。でも、一二三がそうだと読んだのなら、きっと。

 焦っても仕方がない。気を長くして待っていよう。

 そろそろ帰ろうか……俺は一二三にお礼を言おうと席を立ったところで、何か忘れているような感覚に襲われた。

 

「新島さん……全然、帰ってきませんね」

 

 ……そういえば。

 



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--/-- 『??の場合』

あくまでオリキャラです。


『今日はアキバでメモリの特売がある。だがしかし、急なバイトが入った。すまないが、買ってきて』

『また、バイト?』

『うん。ちょっとな。頼む、カレシ』

『分かった』

『感謝感激雨あられ:-)))) ハードディスクじゃないぞ、メモリな! 16GB!』

 

 SNSのログと睨めっこするのをやめて、マルチタスクから消した。一緒に『美少女将棋』も消しておいた。対局中に、どうしてもデフォルメ化された一二三が気になってしまって、集中することができないと巷で噂の将棋アプリだ。

 秋葉原駅で降りて、電気街口から出る。まだピークじゃない時間帯だけれど、それでも沢山の人がここメイン通りに詰め掛けていた。双葉と来るときは、間違ってもはぐれたりはしないよう細心の注意を払って歩いているからか、単騎でアキバに突入している今は、少しだけ心に余裕を感じた。

 双葉に指定されたお店に入る。正直、メモリとハードディスクが、パソコンの中でどんな役回りをしているのかすら分からない機械オンチだから、何がどこにあるのかすら分からない。でも、人が殺到しているところを目指して突っ込めば、なんとかなるだろう。

 ……しかし、特売をしていそうな場所はない。店員さんに訊いてみるも、特売は午後の一時から始まると言われてしまった。今はまだ午前の十一時。早く来すぎてしまっていたらしい。

 とはいえ、電気機器が揃っている店だけで暇を潰せるほど、もちろんギークな趣味を持っていない。少し早いかもしれないが、昼ご飯を食べることにしようか……。

 お店を出て、適当に目に入ったところに飛び込む。券売機で『一番オススメ!』と銘打たれてあるボタンを押して、中へと入った。店内は思ったより混んでいて、カウンターの席に回される。

 

「んー、んまっ! トーキョーに来ても、やっぱこれは、外さないなー」

 

 隙が無い、魅惑的なソースの香りが、どこからともなくやってくる。嗅いでいるだけで、お腹が減ってくるような気がする。

 

「んんー、定食かこれかで迷ったけど……染みわたる……」

 

 ……。

 友達で来ている人たちが多いのと、厨房が忙しそうなのと、店員さんの声がとても威勢がいいから、あまり浮いてはいない。浮いてはいないけど、隣の席で実に美味しそうに齧り付きながら、一人食レポをしている人がいたら、どうしても気になってしまった。気になってしまうので、俺は眼鏡を器用に曇らせながら、横を見た。

 女の人。栗色の髪の毛を、首元に少し掛かる程度に伸ばしている。表情は流石に見ることはできないが、声色から判断すると、ボーイッシュな印象があった。年齢は多分、俺より五つくらい年上だろうか……?

 

「……?」

 

 あ、まずい、目が合った……気がする。いや、多分気付かれていないはずだ――、

 

「んん? あれ、あれあれ??」

 

 ――と思っていたんだけど。めっちゃ見てくる……それも、俺にお構いなしで。

 妙な人に絡まれてしまったかもしれない。とりあえず、すみません、と謝って、その場をやりすごさないと。

 

「すみま――、」

「君……もしかして……」

 

 

 その人は、とっくに箸を置いていた。なんだろう。一通り記憶の中を探ってみるが、やっぱりこの人とは初対面のように思えた。

 

「ペルソナ……使えちゃったり、する?」

 

 え。

 僕は固まった。

 店員の威勢の良い声が、僕の鼓膜の中で反響していた。

 

 

「いやあ、やっぱ分かっちゃうもんなんだなー……って。なんかこう、ビビッときちゃった

的な? 懐かしいなー」

 

 女の人は、第一印象と全く変わらない、快活な笑顔を放ちながら言った。

 

「それで、君は……うん……あ、そうなんだ。じゃあ、アイツと一緒で……君がリーダーって感じかな?」

 

 リーダー……と言えば今、真が参謀役な訳で。しかし、強いて言うなら黒猫か。『猫じゃねぇ!』というモルガナの突っ込みが、聞こえてくる気がする。

 

「へー、そっちは猫なんだ」

 

意外にも、彼女は驚いた様子を見せない。

 

「ま、まあねー。……こっちは、なんてったって熊だから」

 

 ……くま?

 

「そ! それも、人に化けるクマ。その猫ちゃんも、人間になれる?」

 

 ……まあ、今は人になれるよう頑張っているといった感じか。

 

「ふうん。まー、色々あんだね」

 

 と言ったのを皮切りに、女の人は大きな器を持って、ご飯を掻きこみ始めた。俺が今食べている量の軽く二倍はあるはずなのに、見る見るうちに具材が吸い込まれていく。信じられない光景だった。

 

「……よし、食った食った。もう入らん」

 

 お腹に手を当てて、満足そうな笑みを浮かべている。とっても幸せそうだ。

 

「君に、聞きたいことは沢山あるけど……きっと、キリないかんね。我慢、我慢」

 

 僕も聞きたいことは色々あった。多分、もう二度と会うことのない、僕達の数少ない先輩なんだろうから。

 けど、これでいいのかもしれないと思っている自分もいた。先輩と出会えたこと自体が奇跡なんだから。元気で、大人になっている人がいる。それを知れた時点で、相当ラッキーに違いないんだ。

 それに、ちょっと、セコい気もするし。

 

「でも」栗色の髪の先輩は、俺を見た。「一つだけ、質問に答えたげる。なんでも。とっておきの武術でもいいし、オススメのカンフー映画でもよし!」

 

 アチョー、と声を出している俳優さんがよくしている構えをして、僕に言った。少しだけ考えて、よし、と一つ頷いた。もちろん、カンフー映画を聞くつもりはない。

 

「守りたい人を、出来る範囲で守りきること」

 

 僕の質問に間髪入れずに、言い切った。

 

「あたしには二人いるよ。君にもいるのかな? ……いたらいいな。とにかく、守りたいなって思える親友を、んで……うん、ちゃんと守ること。それがあたしの中の、大切で正しいこと」

 

 優しい声だった。何かを、誰かを、思い出しているようだ。

 

「でもね、頑張りすぎちゃったらダメ。焦ってもダメ。……きっと、あたしみたくゴーマンになる。自分に酔っちゃう。だから……自分のできる範囲で、精一杯頑張る! そんな感じ、かな」

 

 照れくさそうに笑った後、彼女は席を立った。もう食べ終わっていたようだ。俺はまだ、頼んだ肉丼の半分以上も丼の中に入っている。楽しみながら全部、食べきれるだろうか……。

 米粒一つも残さずきっちり食べ終えた後、俺はその店を出た。もちろん彼女はもう居なかった。

 あれ以降一人で、俺はその店に一度も立ち寄っていない。

 

 

 

 

 

 

「……アキバ行ったのに、メモリ買ってくるの忘れた?」

 

 四茶に帰った後、双葉にへそを曲げられたことは、言うまでもない。

 




あ、全然関係ないんですけど、千枝さんってめっちゃかっこかわいいですよね。全然関係ないんですけど。


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8/21『命日』

 朝目が覚めたら、壁にエアコンが付いてはいないだろうかと、そんな願望が湧き上がってくる程度の熱帯夜だった。更に、俺よりかは二、三度高い体温を持っているモルガナといつも一緒に寝ているものだから、思わずマスターに「エアコンが付く予定はありますか」と聞いてしまいたいくらいの衝動に駆られてしまう。

 しかし、泣き言を言っていられないのが現状だ。起きたらベッドがビッショビショだったら、その時は富士の湯に直行して、朝風呂と洒落込もうじゃないか。

一階に降りてきた俺は、マスターへ朝の挨拶を済ませる。当たり前のように、客は1人も入っていない。

 

「よぉ。遅いな」

 

と、コーヒーカップをカウンターに置きながらマスターは言った。そのカップには、黒い液体がやや控えめに注がれている。俺のために用意してくれたのだろうか……と、目でマスターに催促を入れる。

 

「いいや。違うよ」

 

え?

 

「じゃあ……誰のもの、何ですか」

「……ああ」

 

マスターは、いつもより少しだけ重たい声で言う。

 

「今日は、若葉……双葉の母親。あいつの、命日なんだ。だから毎年、こうやってな……」

 

……なるほど。

 

「そんな辛気くさい顔をするな。そこまで俺のコーヒーを飲みたいってか。お前の分もあるから」

 

とマスターは冗談を言って、コーヒーの準備をし始めてくれる。俺は少し迷ったが、若葉さんのために置かれたコーヒーカップの隣の席に座ることにした。

カウンターの向こうから、そして左の席から、心がフッと軽くなるような香りが鼻孔をくすぐってくる。俺はまだあまり働いていない頭を揺らしながら、隣にいるはずの若葉さんの姿を、ボンヤリと想像している。

 

「双葉な、若葉にそっくりだよ」

 

考えていることを悟られたようなマスターの言葉にドキリとする。ドキリとするが、俺は黙ってマスターの目を見る。

 

「頭がいいところも、常識でははかれないところも」

 

マスターは語る。

 

「若葉よぉ……仕事も子育ても、充実してるときに、死んじまいやがって……」

 

夏祭りに、マスターから聞いたことを思い出す……確か、死因は自殺……だったはず。

 

「ああ、そうだ。そういやお前、俺と検事のやり取り……ああ、前に来たスーツの女、検事なんだけど。その時の話、気にしてただろ」

 

銀髪の、高圧的な態度でマスターに接していた女の人。双葉と若葉さんのことで、あの日ルブランで口論になっていたんだっけ。

 

「ああ」マスターは頷いた。「けど、あの女が、俺に何を話しに来たのかはまだ言ってないはずだ。この際だから……一応、言っておくよ」

 

とマスターは言って、少しの間、左の方に顔を向けた。彼の視線の先には、祐介が持ってきた「サユリ」が置かれてある。

 

「あの女が俺から聞き出そうとしていたことは、若葉の研究についてだ」

 

研究?

 

「研究内容は……まあ、よく分からなかったよ。素人の目からだから、尚更な。一般人からしてみれば、まるで異世界のような話だったわ」

 

……異世界。

一応、その研究分野の名前くらいは、聞いておこうか……。

 

「認知訶学……と言うらしい。カガクのカは、摩訶不思議の『訶』だそうだ」

 

……認知。

異世界。認知。摩訶不思議。

少しだけ。

少しだけ、根拠のない、心にモヤがかかるような感覚に陥る。

 

「とにかく、その研究を巡って、ゴタゴタがあったんだが……。当然、若葉も巻き込まれてた」

 

マスターは語る。

 

「それでな、若葉の死因だが、自殺ってことになってるが、不審な点もある」

 

え?

 

「研究内容を奪って、利用したい輩がいたとかな……」

 

 若葉さんの、研究内容を奪う?

 それって。

若葉さんは、自らの手で自分を殺めた訳じゃなくて……誰かに、殺された?

それなら、全く話が違ってくるんじゃないのか?

 

「誤解するな。証拠はいっさいない」

「……でも。もし、他殺だったら……双葉が気を病んだ必要も、理由もないんじゃ……ないんですか」

 

 双葉は、目の前で母親に車道に飛び込まれたことに、心を病んでいたはずだ。

 

「……、証拠はない、と言っているだろ」とマスターは言った。「双葉を更に悩ませる訳にはいかなかった。だから俺は、双葉には言ってない」

 

 ……。

 

「ただ……俺、後悔してることがあるんだよ」

「後悔、ですか」

「若葉な、死ぬ直前、SOSを発してたんだ……死ぬかもしれないってな」

 

 とマスターは言う。

 

「冗談だと思って受け取って流しちまったんだけどよ、もし、もし、真面目に受け取ってたら……俺が双葉を引き取ったのは、贖罪の気持ちもあるんだ」

「……」

 

 マスターに掛けるべき言葉を、俺は思いつくことができない。

 双葉の世話をしたときに。扉の向こうにいる双葉に、料理を出したときに。双葉が始めて、ルブランに顔を出したときに。

 マスターはずっと、そんなことを考えていたのか。ずっと。本当に……ずっと。

 そんなマスターの気持ちを、俺は推し量ることができない。推し量れる、訳がなかった。

 

「悪い。辛気くさいのは、俺だったか」とマスターは言った。「こんな日だから、色々と思い出しちまう」

 

 そしてマスターは、はぁ、と、深い深いため息をつく。まだ、マスターに掛けるべき言葉は見つからない。

 

「別の話でもするか」

「……! はい」

 

 マスターが思わぬ助け舟を出してくれたので、俺は思い切って乗ってみる。

 

「お前、よぉ……最近、女、引っ掛け過ぎじゃねぇか?」

「……え?」

 

 ……その舟が、ちゃんと木でできているかどうかを、確かめもしないまま。

 

「一二三ちゃん……だっけか。最近はあんまり見なくなったが、確か『美人棋士』だとか言って、テレビにちょくちょく出ていた、あの子。……ルブランに来ていたよな?」

「……はい」

 

 一二三が加入して、怪盗団も、実に女の人が半分を占める構成になった。杏、真、一二三……よって、計三人。杏も真も、同じ高校の連れだということで話は付いているが、一二三は……まあ、祐介の同じ高校の友達、と説明すれば、何ら問題はない、と思う。

 マスターが心配する気持ちは、痛いほど分かる。仮に俺がマスターと同じ立場だったとして、双葉のカレシが何人もの女を引っ掛けまくっている不埒な輩だとしたら、怪盗団の総意関係なしに、一人でメメントスへ潜り、そいつの心を改心しに行くことも辞さないだろう。

 しかし、俺は彼女達と不健全なことをしたことはないし、するつもりもない。双葉とでさえ健全なお付き合いを心掛けている俺が思っているのだから、間違いない。

 また、俺はいわばあぶれ者だ。クラスの女子生徒にさえ、話しかけられた経験がないんだ。一部の例外はあるけれど……例えば、川上とか……あと、武見先生とか、まあ一部の例外はあるけれど、団員以外の女性と話した経験はあまりない。だから、何も隠すことはないと、そうマスターに胸を張って言える自信があった。

 

「それで……昨日とかよ」

「昨日?」

 

昨日……は、双葉に頼まれて秋葉原に出掛けただけだが……。

 

「お前から、女のにおいが、した」

「...」

 

 え。

 

「肉の匂いじゃ、なく?」

 

 俺は一応聞いてみる。

 

「……肉が何の話かは知らないが」マスターはあたまをかいた。

「俺の予想は、な」「はい」

「お前より、少し年上」

 

 ……う。

 

「茶髪」

 

 ……うう。

 

「気が強くて……あと、お前の口ぶりからすれば、肉の好きな女だ」

 

「……」

 

 図星だった。

 というより、普通にすごい。勘が鋭すぎる。ここまでくると、もう超能力といっても、差し支えないような気がする。

 

「ま、俺も人のことを言える筋はない」とマスターは呟く。「が、双葉の保護者の目線からすると、やっぱ、なんだ……穏やかじゃないよな」

 

 マスターは、なんだかやりきれない表情を浮かべている。俺は弁明しようと色々考えるが、まさか何のヒントもなしに、俺が昨日女性と会ったことを悟られるとは思ってもいなかったので、相変わらずアドリブ力のない俺は、言い訳の一つも思い浮かばない。正直に話そうとしても、「ペルソナを扱う先輩と出会った」なんて荒唐無稽な話、信じてくれないのがオチだろう。

 だかしかし俺は、マスターにも見えるように、迫真の苦々しい表情を顔に貼り付ける。さきほどよりかはちょっと軽い、それでいて少し重い空気が、ルブランを包む。

 そんな緊張感を打ち破るように、扉の鈴が鳴った。

 



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日記7 8/21-8/26

8/21

 

午前:マスターから、若葉さんの話を聞いた。若葉さんが、『認知訶学』という分野の研究をしていたこと。その研究内容を、誰かが盗もうとしたかもしれないということ。そして、何より……あの時に感じたモヤモヤの理由は分からない。でも、それが分からないままではダメだと……そう感じた。――――と出会った。その時に、――の話をした。

 

午後:暑さと、そして夏の宿題という悪魔から逃れるために双葉の部屋へと行った。相変わらず、双葉の部屋はキンッキンに冷えていた。案の定というかなんというか、今日が若葉さんの命日であるということを、双葉は知らないようだった。今日は暑いから、この部屋で寝てもいいぞ、と双葉に誘われたが、さすがに断っておいた。

 

8/23

 

洸星コンビということで、祐介と一二三が、双葉に会いにルブランへと来てくれた。大方の予想通り、祐介と双葉はかなり相性が良さそうだった。いつも貧しさにあえいでいる祐介が、マスターに耳打ちで「カレーを食べさせていただけないだろうか」と提案していたが、マスター曰く材料を切らしていたらしく、オムライスを作ってくれた。

 

8/26

 

午前:祐介と竜司、そしてモルガナと共に、一二三がいる教会へ遊びに行った。祐介は予習を済ませてくれていたのか、既に将棋の指し方や囲いを覚えていたので早速一二三と指していた。一方で竜司は、目の前にいる一二三に鼻を伸ばし切っていたので、全然将棋に集中できていなかった。アプリで培った将棋のスキルも、本人の前ではあまり役に立たないらしい。

 

午後:午後は予定があるのでと、一二三に言われた俺たちは、徒歩で神保町まで行って、そこで祐介念願のカレーを食べた。実に美味しそうに頬張る祐介に、半ば引きながら笑った俺と竜司は、ここからどこに行こうかと、午後の予定を話し合った結果、渋谷か原宿で、新しい水着を買うことになった。祐介の食事代は俺が持つことになったが、まあ、この借りはメメントスの活躍で返してもらうことにしよう。祐介はお古の水着を使おうと言って、神保町で別れた。そして――

 

 都心辺りで路線を乗り継いだりしても、料金は余り変わらないから、無意識のうちにフットワークが軽くなっている気がする。というわけで、俺と竜司...とモルガナは渋谷を通過して、原宿まで水着を買い求めに来ている。

 知っての通り、原宿は都内有数のファッション街として有名な町だ。女物ならともかく、男物の水着を吟味して選ぶというのはなんだかやり過ぎな気もする。もし、ここには居ない祐介も含めた3人で海に行くのなら、近場にある適当な店で済ませてしまっても良かったのだが、今回……29日を予定している「海へ遊びに行くイベント」は、ファッションに関して相当の知識を備えているはずの杏も含めた7人での大移動だ。やり過ぎに越したことはないだろう。

 さっきから竜司は、原宿を練り歩くナイスバディなお姉さんに興味津々のようで、もはや今回の目的を既に忘れているように思われる。だから、ここは俺がちゃんと、目ぼしい店を見つけてしまおうか……と。

 一心不乱に目を動かし続けていると、オレンジ色の髪が目に入る。

 というか、三つ編みのカチューシャも、写真映えしそうな色の薄い髪も、モルガナがかつて「ハンドスピナーみてえだな」と評したヘアピンも一緒に目に入って来た。とんでもない量の情報が、俺の目を襲っている。

 

「……あ? なんだよ、いきなり立ち止まっ……うおっ!?」

 

 竜司も気付いたらしい。俺たちは2人して、額に汗を掻きながら立ち止まる。

 店先の大きな窓から鑑みるに、彼女たちは水着が売られている店に入っているようだ。何が目的なんだと言えば、まあ、俺たちも同じなんだろう。

 杏が先導するように前に出て、後に真と一二三が付いて行く形になっている。そして最後尾にいる双葉は、慣れない店に挙動不審になりながらも、この状況に耐えようと斜め掛け鞄を必死に掴んでいるようだ。

 

「どうする?」「はいるか?」

 

 俺に質問をする竜司とモルガナの声が被る。因みに、鞄の横ポケットの中には保冷剤が仕込まれてあるから、モルガナが暑さで苦しむ心配はない。

 ともかく。

 いくら気心の知れた仲間だとは言っても、「覗き」は流石に避けた方が……というより、普通に失礼だ。やめた方がいいだろう。こういったことがきっかけになって、ギスギスした関係になってしまう可能性だって大いにありえる。ここは怪盗団のリーダーとして、適切な判断をしなければ……。

 

「あ、あそこ、男用のも置いてるらしいぜ? 」

 

 ……え?

 

「悪い奴らに目がつけられないように、見張る必要もありそうだな……どうする、ジョーカー?」

「原宿でお姉さ……い、いや、水着を買う……本来の目的、忘れちゃいねぇだろ?」

 

 ……。

 悪い奴らって俺たちのことじゃないの、とか、本来の目的を忘れて居たのは竜司の方じゃないのか、とか、まあ色々言いたいことはあったが……それはともかくとして。

 

「……それなら」

「ん?」「お?」

「仕方ない……かな!」

 

 という訳で。

 俺たちは店へと入る。

 店内は程よい涼しさだった。試着をする人もいるだろうから、少し暖かめに調整してあるのかもしれない。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 元気の良い店員の声が、店中に響き渡る。俺は咄嗟の判断で身を屈め、ついでに手で竜司の頭を押した。真が気にしているようだったが……どうやら、見つからずに済んだようだ。

 俺たちは、男物が掛けられてある棚の、一番彼女達に近い場所まで移動した後、サードアイを使って感覚を研ぎ澄ませる。パレス攻略で培ったスキルを無駄なく発揮するとしたら、間違いなく今この瞬間だろう。

 すると、俺の胸元と、鞄の中から鳴り続ける速い鼓動の音と共に、彼女達の声が聞こえてきた。

 

「ちょ……ちょっと双葉、大丈夫?」

「……よ、陽キャ率たっけぇ……あわわ、私、場違いすぎ……!?」

「大丈夫。私たちがついてる」

「……ま、真パイセン……あれ、ひふみんは?」

 と双葉が言ったと同時に、俺は目線を動かして一二三を探す。

 いた。黒白チェックの柄で、落ち着いた色合いの水着の前で立ち止まり、じっとそれを見つめている。

 

「どうしたの、一二三?」と、真が声を掛ける。

「……」

「ねえ……一二三ちゃん?」

「……」

「……ダメみたい。集中し切ってるようね。よほど、その水着が気に入ったのかしら」

「え。どうして集中したら、声が聞こえなくなるの?」

「うむ、よくあることだな」

「や、ないでしょ普通……」

 

 杏が適宜双葉に突っ込みを入れながら喋っていると、ややあって一二三がハッとした表情になり、彼女達の方を向いた。頰が心なしか、朱に染まっている。

 

「……ご、ごめんなさい。ちょっと、気になってしまって……」

「すごい集中っぷりだったね。もう決まった感じ?」

「はい。これにします」

「はやっ! えっと……冗談で聞いたつもりだったんだけど……」

 

杏は焦っているようだ。ということはつまり、杏は服を決めるのに、かなり迷うタイプなんだろう。

 

「思い切りがいいね」

「ええと……そうかもしれません。時には思い切りの良さも、大切ですから」

「杏、将棋、苦手そう」

「うう……分かってるし……」

 

 ふむ……。

 

「まあ……これは、しゃあねぇよな」

「だな。真も一二三も双葉も、頭の出来は一級品のようだからな。流石に、杏殿がかわいそうだぜ……」

「ああ……」

 

 成績がいまいち芳しくない二人組とモルガナが、杏に向けて同情の眼差しを向けた。

 

「でも……双葉、本当に大丈夫? しんどくなったら、言ってよ?」

「う、うん」双葉は素直に頷いた。「で、でも……今日は頑張らないと、いけない、から」

 双葉は気つけのつもりだろうか、自分の頬を両手で叩いて、「いひゃい」と言った。確かに痛そう。

 

「どうして」

「ん?」

「どうして……今日、頑張る必要が、あるんですか?」

「え、え……私、そんなこと、言った?」

「そうね。その口ぶりからすると、まるで何か大切な理由があるみたい」

「……あ。言われてみれば、確かに……」

 

 三人とも双葉を見る。複数の人に視線を投げかけられることに慣れていないからか、双葉はさらに挙動不審になって、目を泳がせている。

 その緊張が最高潮に達したとき、ついに双葉は肩を落とした。どうやら、観念したようだ。

 そして、双葉は言った。

 

「……から」

「え?」杏が聞き返す。

「……さ、最近……遊べてない、から。……バイトで。だ、だから、シャレオツな水着を着て、その、カレシをビックリさせたい! ……の。だから今日は、いつも遊べてない分まで、頑張る。そう決め、た」

 

 双葉が手をモジモジとさせている。さっきまで和気あいあいとしていた四人組の雰囲気に、静寂が満たされる。

 

「……か」

 

 と初めに言ったのは、おそらく一二三だったはずだ。

 

「「「「かわいい……」」」」

 

 その一言に押されるように、女子陣はそんな素朴な感想を言った……俺も含めて。

 

「よし。じゃあ、私も今日は張り切っちゃう!」

「ええ。ええ。やりましょう」

「できる限りのことは尽くすわ」

 

 結束が更に深まるのを見届けた後。

 俺は彼女たちに背を向けて、店の出口の方へと歩く。もう、ここに用はないだろう。

 

「え、ちょ、お前、どこ行く……ってか、なんでそんな菩薩みたいな顔してんだ?」

「今すぐ、双葉を抱きしめたくなる衝動を、必死でこらえている」

「なにそれ、キモ」

「……」

 

 そんな、ストレートに言わなくても。

 

 ――そして、水着選びは竜司のセンスに一任することになった。夏休みの終盤にまた、夏休みの楽しみが一つ増えてしまった。

 

8/28

 

夜、双葉が買ってきた手持ち花火を持って、マスターも呼び、三人で花火大会をした。少しだけ涼しくなってきた夜風を浴びながら、理由のない、なんとなくな哀愁に浸った。



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8/29『海と夏の終わり』

「双葉のこと、今日はよろしく頼む」

「はい」

 

 いつもは泰然自若として、カウンターの奥で客を待っているマスターだが、今日は誰から見ても分かるくらいにそわそわして落ち着きがない。そんなマスターを安心させるために、俺は本日三度目の同じ質問に対して、同じ相槌を打つ。

 

「変なヤロウに声かけられないよう、しっかり見といてくれよ」

「はい」

 

そして万が一、双葉の平和を脅かす輩が現れた場合は、実力行使に至るまでだ。

 

「あほ。余計なことすんな」

 

 ……あれ、ミスったな。

 

「……けど、まあ……」

 

 マスターの目が厳しいものになったかと思えば、弱弱しく閉じられる。

 

「これくらいで、ごちゃごちゃ言うわけにはいかねぇか。判子も勢いで押しちまったし……保険も、自分で払うとか言い出すもんな。そうか、もうあと1週間……か」

 

独り言のつもりなのかもしれないけれど、俺の耳にはバッチリ……ん? それにしても、なんの話なんだろう。 判子? 保険?

 

「あれ。なんだお前。双葉から聞いてないのか」

「……何を、ですか?」

 

と俺が聞くと、マスターは頭に当てていた手を下ろして、口を……。

 

「ね、ねえ! もう行っていいー?」

 

開きかけていたが、双葉の大きな声に止められる。

 

「え? あ、ああ、行っといで。気をつけてな」

 

と、マスターには珍しい、柔らかな笑みを双葉に見せた後、ルブランの中に入ってしまった。

 

……とまあ、気になることは少々あったけれど。

俺たちは電車に乗って、途中の大きな駅で皆と合流し、海が近づくにつれて人が増えていく車両内で、主に双葉が目を回しながらも、目的地にたどり着く。

 

「おー! こ、これが、うみ……」

 

真の予想通り、その海辺には多くの人が詰めかけていた。花火大会で培った経験が功を奏しているのか、人混みにもあまり双葉は物怖じしていない様子。

適当に砂浜をうろついて、更衣室から近いスペースを探した後、杏が持ってきてくれたパラソルや何やらをその場所に展開。身につけるべき衣服が女子よりも一つだけ少なくて済む俺たちは、早々更衣室から引き上げて来て、女子達を待った。

ちなみに竜司が買ってきてくれた水着は、竜司らしいと言えば竜司らしい、センスの尖ったものだったけれど、まあ文句は言えまい。

 俺はそんなダサダサ水着の模様の解釈に勤しんでいると、一番乗りで杏が元気に出てくる。

「おお!」とどこからともなく、特に竜司がいる方面から歓声が沸く。竜司は、何やらいやらしい手つきと目つきで杏をガン見しているから、きっと杏はそんな竜司を見て「竜司、ほんとキモい! と――、

 

「あははっ! 少しは見直した?」

 

 ――罵ってくるだろうな、と思っていたのだけれど。竜司も思わぬ杏の反応に動揺しているのか、棒付きアイスの棒の部分をただ噛み続けているだけだ。読モという仕事柄、こういった視線には慣れっこなのかもしれない。

 そんな二人の掛け合いを黙って見ている真も真で、白を基調とした水着に水色のショルダーバッグと、杏とは対照的に清楚さを前面に押し出したような風情となっている。杏ももちろん、イメージと違わぬ美麗さを解き放っていた。

 風情となっているし、解き放ってもいたが……杏や真に申し訳はないけれど、俺はついにくる()()瞬間を前にして硬直していた。女性陣が一致団結して選んだという(想像)双葉の水着のお披露目。壁の下からかろうじて見ることのできるサンダルの持ち主より、俺は緊張している自信があった。

 そして、ついにそのサンダルが動きを見せる。

 

「……」

 

 まず目に飛び込んできたのは、淡い色の苺の柄だった。

 黄色の布を下地としたフリフリの水着に、控えめではないが、しかし過剰なほどではない、ちょうど良い数の苺の柄が、一般的な水玉模様のように散りばめられている。胸の辺りまで伸びているオレンジ色の髪と、生地の黄色と苺の薄い赤色が、絶妙な釣り合いを取っている。

 あと両肩と腰の辺りにある装飾とか白い肌とか、とにかく手放しで喜びたい部分は沢山あったが……もう何も言うまい。この世の全ての「かわいさ」を百倍くらいに濃縮した結果、そんな姿となって顕現したのだと説明されても、俺は疑わないだろう。だから、何故か顔にグルグル巻きにされているタオルでさえ、かわいいという名の正義の前では、些事というものでしかなかった。

 

「……かわいいよ、双葉」

 

 だから俺は、率直な感想を述べる。正直、水着のお店で双葉の言葉を聞いてから、どう褒めたものかと色々台詞を練っていたのだけれど、、、そんな前準備も、練りに練った語彙の全てが無意味なように思えた。簡単に言うと、双葉の水着姿を見た衝撃によって、その記憶が消し飛んでしまっていたのだ。

 

「あ……う。ふん。でひょ?」

 

 双葉はその被り物をしたまま下を向く。恥ずかしがっているのを悟られないようにグルグル巻きにしているのかもしれない。もしそうだとしたら、俺もポーカーフェイスを貫けている自信がないから、そういった点ではウィンウィンの関係にある……のかもしれない。

 

「今日は、楽しもう」と俺が言うと、

「う……ふぃ!」

 

 と言って、双葉は背筋を伸ばして俺を見た……つもりなんだろう。しかしもちろん前が見えていないことによる弊害か、双葉は俺がいる方向とは90度異なる場所に、グーサインを決めている。そういったところもかわいいと思ってしまっているのだから、ちょっと今日、俺はかなりダメな人になっているじゃないのか。

 その責任をとりあえず暑さの所為にすることにして、俺は縛られているそのタオルを解く。そして現れた双葉の満面の笑みを見て、この海の思い出を掛け替えのないものにしようと、そう思った。

 

 

 

……と、2人して意気込んだのも束の間。

4人用のバナナボートに乗り、持参してきたUFOを食べて(熱湯をどうやって持ってきたのかは分からない)、ひとしきり皆とビーチバレーを楽しんだ双葉は、慣れない太陽と、そして慣れない運動によって見事にノックアウトを決められていた。

日焼け止めはしっかりと塗っていたから、翌日お肌の激痛に顔を歪める心配はなさそうだけれど、ベッドに突っ伏しながら「筋肉痛が、痛い」と言っている姿は、ありありと思い浮かべることができた。

まあ、体力がある内はちゃんと楽しめていたようだから、よしとしておこうか。

一方で、異世界やらメメントスやらで常日頃から汗を流している俺たちは、双葉がダウンした後もビーチバレーを続けている。新入りの一二三はまだ運動に慣れていない為か、双葉と一緒にパラソルの下で休んでいるようだ。祐介はあまり日の光を浴びたくないらしく、そしてあまりビーチバレーには興味がないようだったので、双葉がさらわれないための見張りを頼んである。

とは言え、俺も流石に休みたくなってきた。まだ遊び足りないらしい杏、真、竜司に断りを入れて、一度そこに戻ることにしようか。

途中で見かけたかき氷が売られてあるお店に立ち寄ってはみたが……ポケットの中には、2人分しか買えない量の小銭が。仕方ないので、俺は2人が好きそうな色をチョイスして、持っていくことにした。

杏が持ってきた派手目のパラソルが目に入る。シートの上には、当たり前だけれど、だらしなく腹を出してすやすやとご就寝中の双葉。その隣には、三角座りで、ややボーっとしながら海を見つめている一二三。

……あれ?

 

「祐介は?」

 

 俺は近づきながら、一二三に聞いてみる。

 

「……え? ああ、戻ってこられたのですね」半ば放心状態で視線を海に投げかけていた一二三は俺を確認して、言った。「祐介……さんは、『あの赤くて歪なフォルムは、、もしや!?』と言い残したのを最後に、どこかへ出かけてしまいました」

 

祐介め……。あと、赤くて歪なフォルムとは一体なんのことだろう。ちょっとだけ気になる。

 

「さぁ……?」一二三は首を傾げて、「大丈夫です。双葉さんは、私がお守りしていましたたから」

と言って、軽い笑みを見せた。それにつられるようにして、俺も笑う。

「そして、そちらは……ああ、そんな。ありがとうございます。では、私は……イチゴを頂いても、いいですか?」

 

俺は頷いて、左手に持っていた、苺のシロップが掛けられてあるかき氷を、一二三に渡す。正直、これは双葉の物だったんだけれど……。

 

「くー。くー……ぐこっ! ……くー……」

 

 ……まあ、気持ちよさそうに寝ているのを起こすのも、可哀そうか。そう俺は割り切ることにして、宇治抹茶と練乳が掛かったかき氷に口を付ける。素直においしい。

 

「……隣、いいか」「はい、構いません」

「どうして、海を見ていたんだ?」「……それは……」

 

 一二三は少しの間、考え込む姿勢を取る。言葉を選んでいるらしかった。

 

「……そうですね……。やはり、噛みしめていたんだと、思います。今まで、こういった経験をしたことが、なかったので……ええと、その、はい」

 

 と言って、一二三は頬を染めた。まるで恥ずかしがっているようで、実際恥ずかしいと思っているのかもしれないが、別にそんな感情を覚える必要は、無い気がする。

 

「……え? どうして、ですか?」

 

 ……それは、まあ、ここに来た皆の殆どが、友達と一緒に海に来た経験がないからなんだけど。

 

「……あ。なるほど」

 

 合点がいったらしい。

 竜司はひょっとしたらあるのかもしれない。でも、杏は中学生の時もあまり友達はいなかった、と鈴井さんは言っていた。真も祐介も双葉も、友達付き合いより、強く興味を惹かれるものがあった。そして一二三の場合は、それが将棋だっただけの話だろう。

元々は、世の中のあぶれ者が集まった連中なんだ、俺達は。

 

「皆さん、いい人ばかりです」「ああ」

「私には、もったいないくらいです」「……そうか?」

「はい。毎日が、その、幸せで……本当に、不安になってしまうくらい、幸せ、なんです」

 

 ……そんな、付き合ってから一ヶ月経ったあたりの双葉のようなことを、一二三が言うなんて。

 まあ、気持ちは分からないでもない。映画を見ている時、まだ上映途中なのに登場人物全員がハッピーな思いをしていたら、途端にこっちは不安になってくる……あの心境に、一二三は陥っているに違いない。

 でもここは映画の中でも異世界の中でもなんでもない、ただの現実だ。何の脈絡もなく人が幸せになっても構わないし、ご都合主義的な展開で何か恩恵が得られたとしても、誰かから批判を浴びせられるような心配もない。だから俺は、「諦めて、受け入れろ」としか、一二三に言う言葉は思いつかなかった。

 

「……ええ。そうなん……ですよね」

 

 しかし、一二三はそれでもなお何かが気掛かりなご様子。これはかなり重症なのかもしれない……早急に対処が必要だ。

 と、俺はそんな感じで適当に考えていたのだが。

 

「……ええ、考えすぎですよね。ごめんなさい。最近、将棋の調子も良くて……ええと、麻倉の一件から、公式戦、全勝しているんです」

「すごいじゃないか」

「ありがとうございます。でも……ああ、ダメですね。後ろ向きなことばかり言っていると、勘も鈍ります」

 

 かぶりを振った一二三は、無理やり話題を変えたくなったのだろう、すやすやと寝ている双葉を見た。

 

「双葉さんって……そう言えば、時々電池が切れたように眠るんでしたっけ」

 

 ああ、と言って俺は首肯する。一番記憶に新しいのは、双葉が一二三に初めて将棋で勝った時だろうか。

 でも、それが一体どうし……え。

 

「久しぶりの運動ですから、当然疲れたのでしょう。……そして最近、バイトをなさっているのだとLINEで窺っています」

 

 一二三の口から、淡々と何かを推論する材料となったものたちが、並べられていく。

 

「今回が、正しく()()なのではないかと……私の勘が、そう告げています」

「……まさか」

 

 と俺は言う。絶えず、じんわりと肌に浮かんでくるそれに、冷や汗が交じる。

 その汗を封じ込めようと、俺は半ばシャーベット状になったかき氷の中に、スプーンを入れる。

 

「…ところで、なんですけど」

 

と一二三は言うなり、持参している自身の鞄の中に手を入れる。そして板のようなものを、そこから引き抜いた、、って、え。

 

「もしかして……」

「はい。将棋盤です」

「ここまできて、将棋」

「いいえ。違います」一二三は神妙に首を振る。「だからこその将棋です。いつもとは違う環境、そして服装……新しい戦術が浮かんできそうな、予感。よければ、手合わせ願えます 」

 

と言って、極めて真剣な顔つきで俺に話しかける一二三。テキパキと駒の準備を進めている様子から、俺に「今日ぐらいは別にいいんじゃ……」と言う選択肢は残されていないようだ。

海。喧騒。砂浜。波の音。水着。美女……そして、将棋。

新しいジャンルの胎動に半ば戦慄に近い感情を覚えつつも、俺は駒に手を伸ばした。

 

「ぐぅ……まさか、紫外しぇんの猛威がこれほどとは……私、一生のふかく……」

 

 今度は一二三の予想通り、とうとう双葉が目覚めることはなかった。今はこうして寝言なのか素面の発言なのか微妙なラインの言葉をポツポツと喋りながら、帰りの電車に揺られている。様子を見る限り、完全復活するには二、三日は掛かるかもしれない。

 

「次の機会までに……筋トレ……すべき……腕立ては軽く五回………できるようになる」

 

 俺の肩に寄りかかりながら、涎が口から出そうで出ないギリギリのせめぎあいを繰り広げている双葉。俺はそんな彼女を鑑賞していたが、皆……特に竜司や杏からの奇異の視線に耐え切れなくなって、視線を窓の方に移す。

 太陽はもう見えない。辺りも少し暗い。時刻は午後六時を指している。まだまだ暑いけれど、しかし着実に短くなっている日を車窓から感じて、夏休み、ひいては夏がもうすぐ終わってしまうことを悟る。

 でも、それに代わるような何かが。それこそ今回の夏休みよりも刺激的な何かが始まろうとしている。そんな予感がしてならない。

それは、夏休みという楽しいイベントが終わってしまうことに対する悲しさを紛らわすために、自分の脳が勝手に拵えた虚構なのかもしれない。何かが終わるということは、別の何かが始まるということ。そんな現実非現実構わずにこすられ続けられている陳腐な言葉に頼ってしまっているのかもしれない。

でも、その予感が的中していたのだとしたら。

 

「ぐー……むにゃむにゃ……」

 

 その始まりにも、双葉が安心して寝られるような終わり方があることを、強く願った。

 



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最終章『Our ____ Ending』
9/8『Trip』


9/7

 

 結局、双葉が目を覚ますのを見届けられないまま、俺たちは東京を旅立つことになった。行き先はもちろん、いわゆるワイハー。

 出発時間ギリギリに竜司をキャッチした後、搭乗機付属のイヤホンをガンガンに鳴らしてアニソンを聞いている三島、どう突っ込むべきなのか分からない、尖ったセンスのアイマスクを着用している竜司が隣にして、俺は大きい飛行機の窓から一面に広がる海と今回の目的地を見た。

 飛行機を降りた後、どんな英語に対しても「アイファインセンキュー」と返している、日本人の恥をそのまま具現化したような竜司を見たりして、1日目のホテルの部屋は、三島と一緒だということを知った。杏は持ち前の英語力を発揮して、部屋割りも順調に決まっていたようだから……それこそ杏にとっては、ここハワイは得意とする場所なのかもしれない。

 ボリューミーな胸を持った女の人や、水着姿の杏や真を見てひとしきり鼻の下を伸ばしたりとひとしきり自由時間を堪能した後、ホテルへと戻った。

 カイちゃんのランキングで、ハワイにもあったファストフード店の社長が、怪盗チャンネルで槍玉に上がっていることを、三島から聞いた。気にはなる。気にはなるが、それはそれとして、ハワイに来てまで怪盗チャンネルに入り浸っている三島がそれなりに心配になった。いやまあ、双葉からLINEが来てはいないか、逐一スマホをチェックしている俺も、人のことは言えないのかもしれなかった。

 そして、忘れられない2日目が、始まった。

 

 

 

「やべー、さっそく日本に帰りたくなって来た!」

 

 竜司がそんな明るい声で言う。日本での怪盗人気は日に日に高まるばかりで、早速竜司は、自身の自己顕示欲の器を抑えられないようだ。

 

「落ち着きなさすぎ」

「今くらい忘れましょうよ」

 

 冷静な突っ込みを入れる真と杏。真に至っては、いつもより元気がないように見える。タクシードライバーの愚痴の聞き役は、かなりキツかったらしい。

 

「みんな冷めちゃってよお……なあ、お前もそう思うだろ、祐介?」

 

「どうだろう」

 

 話しかけられている竜司を見ないで、適当に返事をしている祐介。そんな時は大体、興味のある構図に目を奪われていることが多い。

 

「……ホントかよ……一二三は?」

「……え、あ、その……どうでしょう」

 

 せっかく話しかけられたのだから、何か気の利く返事を用意しようと考えたけれど、話の内容を聞いていないので何を考えれば分からない、と思っていそうな表情を浮かべた一二三が、祐介の隣で戸惑っている。

 ……え。祐介? そして一二三?

 どうしてここに? と俺が聞く前に、

 

「ってなんでいんの!?」

 

 と竜司が言ってくれた。竜司が近くにいると話の流れが速くなる法則が、自分の中で提唱されつつある。

 

「ロスじゃなかったの?」

「いや、嵐が本土に上陸しているとかで、急にロサンゼルス行きは中止になってしまってな」

「その結果、途中にあるハワイへ行くことになったんです」

 

 なるほど。

 

「まじかよ……。で、どっちが雨男なんだ? それとも、雨女?」

「まあ、順当に考えれば、一二三でしょうね」

「……え。どうしてです?」

「一二三って、先々月にあった花火大会、来てた?」

「……いいえ? 行っていません、けど」

「祐介は来てたわ。でも、雨は降ってないから……少なくとも、祐介は雨男じゃないのかも」

 

 ……なるほど。

 

「マジか。 一二三、雨、ハワイに連れてくんなよ?」

「……はい。善処します……」

 

 沈痛な面持ちで、苦々しげに歯を食いしばっている一二三。竜司の冗談を本気で受け取ってしまっているのだろうか。それとも決して雨は寄せ付けまいと、空に向かって念を送っているのだろうか。

 

「いやいや、冗談だから! ……あー、えっと、せっかく奇跡的に集まったんだから、一緒に写真でも取らない?」

 

 収集がつかなくなりそうなところに、絶妙なタイミングで助け舟を出してくれる杏。皆んなの同意が得られた後、近くにいた川上先生、もといべっきぃを呼んで、一列に並んでパシャリ。

 写真を確認。うん、いい感じに写っている。俺、杏、竜司、祐介、双葉、真、そして一二三。ワイハーの空気を吸って気分が軽くなっているのか、皆思い思いの表情で写真に写っていた。俺は川上先生にお礼を言って、彼らの元に駆け寄る。

 ……。

 …………。

 ………………?

 あれ?

 今、見てはいけないようなものを見てしまったような気がする。俺はスマホを開いて、もう一度写真の確認をしてみる。……おかしな物は、やっぱり写っていない。いるのは俺と、杏と、竜司と、真と、祐介と、一二三と……。

 最後のもう一人を認めた時、俺はスマホを落としてしまった。

 いるはずじゃない人。未だマスターの家で、爆睡を決め込んでいるはずの人。俺はフォックスに抓まれた気持ちになりながら、スローモーションで自由落下していくスマホを見た。

 しかし、万有引力の法則に従っているそれが地面に落ちるよりも前に、俺よりもずいぶんと背丈の低い彼女がスマホに触れた。一度二度、その手の中でお手玉をしながらも、ギリギリのところで胸の中で捕まえる。

 それを抱きかかえながら、上目遣いで見ていた彼女は、お手玉をした時にずれた眼鏡をクイっと上げて、ついでに自分の口の端も上げて、ニヒルな笑みを浮かべた。

 

「俺、参上!」

 

 言うまでもなく、双葉だった。

 

 

 閑話休題。

 まったく俺達の理解を超えていたけれど、ありのままさっき起こったことを話すと、ハワイに双葉がいた。それこそ本当に事態の収拾がつかない様子だったので、とりあえず場所を移して、双葉に事の顛末を聞くことになった。

 

「なんでって……別に? 来たかったから、来た。会えるかは正直、微妙だったけど……ま、竜司の馬鹿でかい声はハワイ全土に響くからな、余裕で見つかった。……ちなみにな、皆のホテルも調査済み&ブッキング済み!」

「フットワーク軽すぎんだろ……。てか、なん……下世話な話、カネはどうしたんよ。マスターが出してくれたのか?」

「ううん。自分で稼いだ」

「かせっ……はぁ!?」

 

 驚きの声を上げている竜司を余所に、俺の方を向く双葉。

 

「最近、私、一丁前にバイトやってたでしょ? あれ、全部この日の為。たかが移動するために五万円とか、足元見すぎっていうか、やっぱお金の掛からない自分の部屋ってサイコー! って感じだったけど……まあ、頑張った」

「双葉……バイト、できたんだ?」

「うん。元祖メジエド、なめるなよ?」

「でも……双葉、未成年でしょ? だから、惣治郎さんから、了解を得ないといけないはずよ」

「大丈夫だ、問題ない」

 

 そう言って、胸を張る双葉。

 

『判子も勢いで押しちまったし……保険も、自分で払うとか言い出すもんな』

 

 一週間前、皆で海に行く前に、マスターが言っていたことを思い出す。思い出して、理解する。

 そうしてひとしきり双葉に対する質問があって、皆が「どうやら双葉は、本当に自力でここに来たらしい」ということを理解し始めてくる。

 ドヤ顔であらゆる問いに即答する双葉。顔を見合わせる、俺と一二三以外の怪盗メンバー。

 して、彼らが次に沸き起こって来る感情は。

 

「「「「……」」」」

 

 有無を言わさぬ、ドン引きだった。

 

『マジかよ』

 

 そんな言葉が喉から出かかっていることは、皆の表情を見て手に取るように分かる。しかし、僭越ながら言わせてもらうと、双葉と上手く付き合っていく上で、こういった言動には慣れていかなくちゃならない。

 一二三との将棋の再戦然り。

 異世界を一目見たいと思った情動然り。

 そんな双葉の半端ない意志の強さを、俺と一二三は知っている。常人ではすぐに諦めてしまうようなことを、まず成し遂げる前提で物事を考える突飛さと、そしてなにより成し遂げてしまう賢さを、双葉は兼ね備えているのだ。誰しも必ず困った一面があるというのはよく言ったものだが、双葉の場合はその頑固さが、そういった一面になるのだろう。それを本当の意味で理解して、そして受け入れることで、双葉とのコミュが始まっていく。

 ……いや、でも、流石にこの一件はビックリした。流石に引きはしないけれど、改めて双葉のヤバさを味わった気持ちだ。

 

「……いや、まあ、でもすげーな。好きな人を追いかけてハワイまで来るとか、どんだけコイツのこと好きなんだよ」

 

 と言って、竜司が肩を組んでくる。

 

「そ、そそ、そんなの言ってないし! 来たかっただけだし!」

「……これが、ツンデレか」

「にしては、順序が逆のような気もするけどね」

「……? ねえ、一二三。つんでれ、って……何かしら?」

「な、なんでしょう……?」

 

 竜司が双葉に突っ込んだのを皮切りに、各々双葉の、ツンデレの可能性について語り出す皆。いつもより少しだけ皆の声が明るめなのは、双葉の性格になんとか折り合いをつけようと努力してくれているのかもしれない。杓子定規で双葉を見るような人はここにはいないということは信じているのだけれど、やっぱりなんというか、安心する。

 というかこの下り、前にもやったっけ? ……まあ、人との付き合いはその繰り返しなんだと考えたら、悪くはない話だろうか。

 

「……あ。そういえば、日焼け止め持ってくるの忘れた。ちょっと行って、買ってくる!」

「……あ。私もだ……」

「双葉も? じゃ、一緒に買う?」

「う、うぃ!」

「じゃ、私も付いていくわ。一二三も、どう」

「あ、はい。行きます」

 

 捌けていく女性陣。最近、彼女達の親密さが日ごとに増していっている気がする。微笑ましい。微笑ましいけれど、

 

「……行っちまったな」

「ああ。……暇であれば、クロッキーのコツでも伝授するが」

「やんねえし……」

「……」

 

 一方で男性陣は、肩身の狭い思いをなんとなく共有している、ような気がする。

 おかしいな。確かつい最近までは、男性の比率が多かったはずなのだけれど。

 という訳で、しばらくの間暇になった俺達三人組は、さっそく充てがわれた自由時間を利用して、ハワイで怪盗団の知名度を調査することになった。それこそ双葉曰く、エゴサーチというやつだ。ここの住民や観光客に「怪盗というものを知っているか」と聞きまくり、生きて行く上で欠かせない自己顕示欲を満たすことに躍起になっていた竜司は、

 

「あれ? ちょっとかわいくね? あの子にも話、聞いてみようぜ」

 

 突然、木陰で休んでいる女性を指さして言った。

 

「あ……自由時間、もうそろそろ終わりだよ?」

 

 俺達は彼女に近づくと、特に警戒する様子もなく、その女の人は俺達に話しかけてきてくれる。秀尽の生徒だろうか?

 

「そうだよ」女の人は頷く。「そっちの金髪の彼、行きの飛行機の中で騒いでたよね?」

「あ、花壇のとこで見た子?」

「ごめんね、驚かせちゃって。私、引率の3年。気晴らしして引き受けちゃったんだけどね。自由時間、持て余しちゃって……」

 

 なるほど、という事は、真の同級生か。

 

「おまたせー」

 

 遠くの方から、杏の活発な声が聞こえてくる。用事は済んだようだ。

 

「そろそろ行こうかな。じゃあ」

 

 ふわふわした髪型が特徴的な先輩は立ち上がって、俺達の前から姿を消した。

 

「ごめんね。待った?」

「いま話してたのって……誰か知り合いだったの?」

「いいや、たまたまだ。シュウジンの3年ということは、真の同級生か」

「うん、ほとんど話したことないけどね」

 

 木陰にいた彼女について話している皆の輪から少し外れたところに、双葉が呆然として突っ立っている。

 暑さにやられたのかもしれない。心配になった俺は双葉に駆け寄って、

 

「大丈夫か、双葉」

 

 と声を掛ける。しかし、

 

「……」

 

 俺の言葉に応じる様子はない。目は虚ろとして、地面のある一点を見ている。

 

「カレ……ナンパ……、…レシは浮気し……」

「双葉?」

「……っ!?」

 

 双葉が少しの間、身構える。でも、

 

「な……なんでもない! ……ごめん。ちょと、ボーっとして、た」

 

 直ぐにいつもの双葉に戻った。

 

「本当に、大丈夫か?」

「う……うん。大丈夫」

「ん? なんだよ双葉、今更ここに来たこと、後悔してんのか?」

「し、しし、してないし!」

 

 大げさに頬を赤らめて、竜司の軽口に反論する双葉。別に、変な様子はない。

 俺はちょっとだけその違和感の正体を掴もうとしたけれど、あまり深くは考えないでおいた。

 



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9/9『Nightmare』

「で」「うん」

「双葉は、同じホテルに泊まってるんだろ?」「うん」

「LINEで部屋番言われて、『暇だったら、来て』って言われてんだろ?」「うん」

「行けよ」「……ううん」

 

いやいや。

……いやいや。

ホテルの一室。俺と竜司はそれぞれ別のベッドに腰を掛け、膝をつき合わせるようにして座っている。元の住民である三島は、さっきからトイレに行ったっきりで、全然出てくる様子はない。

 

「……でも、二人きりは、まずくないか、流石に。それにホテルだぞ?」

「んだよ、じゃあ、俺も行けばいいのか? 双葉の部屋に、お前と一緒によ」

「ああ、頼む」

「いや、行かねえから……」

 

……煮え切らないな。

 

「いやいやいや、煮えきってねーのはお前だろ? 女の方から誘われてんのに行ってやんねーとか、どんだけ薄情なんだよ」

「……」

 

図星だった。

いや、確かに図星だけれど、事はそこまで単純じゃないのも確かだろう。自分でお金を稼いで、はるばる日本から自力でやってきた双葉が、一体どのようなテンションで俺を部屋に誘っているのか。「バンブー麻雀しようぜ!」くらいの感じだったら、面前清一色を決めに行こう、みたいなノリで行くことができるのだけれど。扉を開けた時、顔を真っ赤にした双葉が「あの……その」と口を濁された時には、もう何をどうすればいいのか全く分からない。

好きな人の前では、どんな屈強な男の理性でも、木綿豆腐を握るが如く砕け散るということを、俺は知っている。

とどのつまり、致すつもりで行くか、それともせざる雰囲気を醸し出しながら扉を開くのか。この選択が、双葉とのお付き合いの今後を左右する、一つの分水嶺のように思えた。

 

「……」

 

だから、俺は考える。とりあえず行ってみて、双葉の反応を伺ってから決める、といった安易な発想は、今回の場合はよろしくない。アドリブに弱い俺が、そんな器用な真似をできるかと問われれば、残念ながらノーと答えるしかない。

だから、考える。考える。考える。

 

「だぁーっ! めんどくせぇな……まあ、お前らしいけどよ。でも、双葉に『チキン』だって言われても、俺知らねえぞ」

 

そして竜司が堪え切れなくなった頃。

俺は一つ「よし」と呟いて、席を立つ。

 

「お? 腹、決まったか?」「ああ」

 

と俺は呟き、必要最低限のものを、ポケットの中に詰める。行き先はもちろん、双葉の部屋。

謎にキリリとした表情と、哀愁漂う表情がない交ぜになった顔を貼り付けている竜司。「だ、だれか……ふぅ、ぉあっ!」と、悲しいうめき声が聞こえてくるこの部屋のトイレ。

 

「野暮かもしんねぇけど……持ったか? アレ」という竜司の声に、俺は「余計なお世話だ」と返した。

 

 

208号室。双葉が泊まっている部屋。

俺はそのドアノブに手を掛けて、離す。ふぅ、とため息をつき、今度は勢いに任せるように持って……離す。

 

「ふぅ……」

 

素直な緊張。初めて双葉の部屋に入った時より緊張している、気がする。しかし、ずっと扉と対峙していても何も始まらない。

よし、と俺はもう一度気合を入れて、扉を開ける。

 

「……?」

 

第一感触は、「軽い」だった。

手応えがない。というよりかはむしろ、ドアノブを回しただけで、勝手に扉が開かれていくようだった。俺は不思議に思いながらも、段々と部屋の内装が見えてきて、内心ドキドキしてくる。

壁と扉とのなす角が45度になったあたりで、長いオレンジ色の髪が視界に入ってくる。双葉だ。どうやら、双葉が扉にもたれ掛かっているらしい。だから扉の感触が軽かったのかと、俺は一人で納得する。

……どうして双葉がここにいるのかは、かなり気になるところではあるが……眼前に迫ってくるドアから距離を置こうと、一歩下がる。

すると当然、向こうにいる双葉から絶えず力を加えられている扉は、運動方程式に従って速度を上げながら円を描く。そして遂に、なす角がおよそ80度になった辺りで、双葉と扉が完全に切り離される。

扉という名の支えを失った双葉は、ふらつきながらも前進。千鳥足で進んだ先にあるのは、俺の胸。

ドサリ。20km弱を見事に走破した、駅伝の選手にタオルを被せるように、膝を折って、俺は双葉を抱きかかえる。

 

「双葉」

「……」

「ここじゃ、まずい」

 

咄嗟に口を衝いて出てきたのは、そんな言葉だった。ここじゃまずい。何がまずいのかは、言った俺自身もいまいち判然としなかったけれど……今の様子を川上先生に見られでもしたら、少年院送りになることは間違いないだろう。『あの時は二児のパパだと言いましたが、彼女はその二児の内の一人なんです』と答えればもしかしたら、情状酌量の余地が……いや、ないな。ううむ。

 

「双葉?」

 

俺はもう一度、彼女に声を掛ける。しかし、双葉は微動だにしない。張り詰めた空気を感じる。服には湿り気のある物体がべったりと張りついて……え?

俺は咄嗟に双葉の肩を掴んで、胸から離す。すると、双葉の口から俺の胸まで、ビヨーンと伸びた一本の白い糸が紡がれているのをこの目で見た。言わずもがな、涎だ。そして、双葉の口から、

 

「……ぐぅ」

 

豪快ないびきが聞こえてくる。……え。ああ……そういうことか。

双葉は俺を、わざわざ扉の前で待ってくれていた。恐らく、出迎えるついでに俺を驚かせるつもりだったんだろう。しかし初めて乗った飛行機の疲れと、中々双葉の部屋に行く決心がつかなかった俺の優柔不断さが相まって、そのままもたれ掛かって寝てしまった……そういった感じだろうか?

合点はいく。合点はいったが、腰が抜けた。

 

「……」

 

一世一代の、覚悟のつもりだったんだけど。

双葉の立てる寝息を聞きながら、それが一瞬にして水の泡と化したことを悟る。……墓場まで持っていこう。

しかし落ち込んだままではダメだから、なんとか抜けた腰を持ち直し、双葉のお尻を腕に乗せて胸に抱えるようにする。双葉をおんぶしたことは何度かあるが、抱っこをしたことはもちろん初めての経験だった。

扉は幸い開いたままだったので、俺は中へと入る。手前の方には靴入れとトイレ付きシャワーがあって、奥にあるリビングにはベッドとソファーが一つずつ。ぱっと見、中々にリッチなお部屋だ。

既に、そこへ座った跡があるベッドに双葉を下ろす。お腹を出して風邪を引かないよう、一応薄い毛布を掛けておく。任務完了。

……そして、その後俺はどうするかだが……まあ、素直に部屋に戻ればいいか。一般的なホテルのように、この部屋はオートロック式だから、そのまま出たとしても、誰かに忍び入られるような心配はないだろうから……。うん。

 

「……」

 

しかしなんとなく、名残惜しいような気がする。とても迷って、そして決断して来たのだから、それに見合うとは言わないまでも、何か対価が欲しい、と、俺の本能がそう言っている。

という訳で、側にあったティッシュを摘んで、双葉の口元にべったりとついたヨダレを拭くことにした。双葉の唇の柔らかい感覚が、紙切れ一枚越しに伝わってくる。拭き拭き。気持ち念入りにそれを拭き取る。

……ふぅ。これでなんか満足した。ということにしておこう。

ティッシュをくずカゴに放り投げ、今一度双葉の寝顔を一目見た後、身を翻して、そのまま――。

 

「……?」

 

潔く扉に向かって歩こうとしたが、右手首から温かい感触を覚えた。双葉が俺の手首を掴んでいるようだ。俺は振り返ってみるが、見た感じ起きているような気配はない。

 

「……」

 

俺はこの手を振りほどくことができる。振りほどいて、そそくさと元いた部屋に戻ることは造作もないことだろう。今の双葉の動作に意志があれば、理由を問いただすことができるはず。しかし今、双葉がグッスリと睡眠中なのだ。無理やり起こして聞くようなものでもないし、起きるまで待ってやる必要もないだろう。

 

「……」

 

しかし……まあ。

まあまあ。

この手を無下に解く必要も、もしかしたらないのかもしれない。彼女が一人で泊まるには少し、この部屋は広すぎる。こんなだだっ広い部屋に居て寂しいと感じた双葉の気持ちが外面に現れた結果が、この手首を掴んでいるか細い手なのだとしたら。その手を振りほどかない権利だってあると思うし、双葉とお付き合いをしている俺にとって、むしろこれは義務なのではないのだろうか。

あと、何もしないで戻って、竜司や三島にやいのやいの言われるのもなんか癪だ。うんうん、うん。

と、自分で勝手に理由をつけ、俺はこの部屋に留まることにした。と言っても同じベッドに寝るわけにはいかないし、かと言って、双葉をこのベッドから放り出すわけにもいかない。

あり得ない選択肢を徹底的に除いて、そして残されている選択肢は、一体何か。

 

「……」

 

俺は、所在なさげに佇んでいる、人がちょうど横になることができそうなソファーを見た。

 

 

 

 

『……――』

 

 夢を、見ていた。視界一面に広がるスクリーンを見て、俺はここが双葉の部屋であることを知る。少なくとも、ベルベットルームではなさそうだ。

 

『……―て』

 

 俺は冷えた廊下に、仰向けになって寝ている。そんな俺の胴体に跨るようにして、馬乗りになっている人がいた。縺オ縺溘?は俺の胸に手をついて、自身の涙を俺の顔に掛けている。

 

『……け縺ヲ』

 

 怖い。得体の知れない、暗いものに対する純粋な恐怖が、俺の心を満たしている。

 でも、彼女から目を逸らしてはいけない。そんな豌励′縺た。目を騾ク繧峨○ば、全てが邨る。そ繧薙↑豌励′して、縺ェ繧峨↑縺九▲縺溘。

 俺は、縺オ縺溘?を見た。

 

『たすけて』

 

 

 

 

「……っ!」

 

 目が覚める。シャツにはじんわりと、ベタベタとした気持ち悪い感覚があった。……いや、これは双葉の涎か。なら全然、全くもって気持ち悪くはない。しかしその他にも、びっしょりと汗をかいているようだ。夢の内容は、どうしても思い出すことができない。

 でも、最後の言葉。俺に助けを求める言葉は耳に残っていた。もう一度そのまま目を閉じて、同じ夢を見ようかと少しだけ思ったが……嫌な夢だった気もするので、やめておこう。

 手探りで、近くにある机に置かれているはずの眼鏡を探して掛ける。寝相は悪くない方なので、身体はまだソファーの上にあった。俺はその身を起こして、立ち上がる。

 辺りは暗い。まだ夜は明けていないようだ。しかし、間接照明は付けているから、真っ暗という訳でもない。双葉がまだ寝ていることを目で確認してから――え。

 

「……うぁ、……ううっ」

 

 双葉の様子がおかしい。ベッドのシーツをキュッと握って、額に汗を浮かべている。ひょっとして、双葉も悪い夢を見させられているのだろうか。俺は双葉の肩を揺する。

 

「……ひっ!」起きた。が、目はまだ焦点が定まっていない。「……うあ、あ、ああぁ……」

「双葉、俺だ。安心しろ」

 

 俺は双葉に落ち着いてもらうために、努めて冷静な声でそう呼びかけた。

 でも。

 

「ご……ごめん、なさい。怖い。許して、下さい」

「……っ」

 

 双葉はまだ、俺を見てはいなかった。誰もいないはずのある一点を恐ろし気に見て、誰かに向かって謝っている。

 何か怖いものに追われる夢から醒めた時、まだ追いかけられ続けている錯覚に陥ることがあるのだと、どこかで聞いたことがあった。双葉は今、そんな状況にあるのだろうか? だとしたら一体、双葉は誰に追われている?

 湧き上がる疑問を抑え込んで、俺は双葉を抱きしめた。反射的に逃れようともがく双葉だったが、それでも俺は強引に、信じられないくらいに汗ばんでいる身体を引き寄せた。

 

「う……う。あ、ああ、ああぁ……」

 

 双葉の目から、言葉にならない嗚咽が聞こえてきた。俺は後ろに回していた手に、もう一度力をいれた。それに応じるように、双葉の両手が俺の背を掴んだ。か細い手のはずなのに、背中がひどく、痛く感じた。

 ごめんなさい、許して。そして小さく俺の名を、双葉は壊れた機械のように繰り返した。しゃくりあげる度に震える双葉の小さな背中を、俺は何も言えずにさすることしかできなかった。

 ほの暗い時間が経つと、双葉の呼吸は落ち着いてきて、肩を上下する頻度も少なくなった。俺の胸から顔を離して、とろんとした目をした双葉に、俺は目を奪われた。どれくらいそうしていただろうか、双葉はゆっくりと、その目を閉じた。瞼に浮かんでいた涙の残滓が、双葉の頬に光る一筋を作った。

()()が正しい行為なのかは分からなかった。でも今は、双葉が望んでいること以外を考える余裕は、自分の中に残されていなかった。

 じっくりしっかりと狙いを定め、自分も目を閉じて、そして、そのまま。

 ……。

 目を開けた時には、双葉は深い深い、眠りについていた。首をカクリとこちらに傾けた双葉を、そっとベッドに横たえながら、

 

『……あ……うぅ……』

 

 俺は。

 

『……やめ……ろぉ……』

 

 今まで、記憶の隅に押し付けていたそれを、思い出していた。

 



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9/10『Dependence』

「ひぇぇぇええぇええぇぇ」

 

 という、けたたましい緊急用避難サイレン、いや、双葉の叫び声で目が覚めた。

 顔を起こすと、俺の顔が型取られたベッドのシーツと、珍しく裸眼の姿で、驚きの表情を浮かべている双葉が目に入った。どうやら、彼女を寝かしつけた後、そのまま自分も寝落ちしてしまったようだ。

 ゆっくりと立って、無理な体勢で寝たことによる弊害か、凝りに凝った体をほぐすため、一人ラジオ体操を開始する。「おはよう」と俺が話しかけると、「お、おう」と、呆けた声が返ってきた。

 

「じゃなくて! ……な、なな、なんでいんの?」

 

 ……え? それは、双葉からLINEをもらったからで……。

 

「それは覚えてるけど……けど、来たことは、知らない」

「……え?」

 

 うーん。嘘を吐いているようには見えない。ということは普通に、ド忘れしているということなのか?

 まあ、その内思い出してくると思うけれど。寝る直前のことや、途中で起きたことのことは確かに、俺もあまり思い出せないことはある。しかしそれも時間の問題だ、ほら、段々と双葉の顔が赤くなってきて、「き、昨日のことは忘れろ! いいな?」と俺に話しかけて――、

 

「……うーん?」

 

 ――こない。

 

「本当に忘れたのか?」「うん、サッパリ」

「本当に?」「マジだ」

 

 双葉はやけに自信ありげに答える。記憶力には自信がある双葉がそういうのだから、多分そうなんだろう。双葉にとっては、あまり思い出したくない記憶だと思うし。

 ……と、簡単に片づけてしまっていいのか、これは。 ここでしてしまったこととか、その、なんというか、色んな意味で。

 

「ま、LINEで伝える手間が省けたから、よし。今日、午後から自由時間だな? ここに集合しよ?」

 

 と言って双葉は、手に持っているスマホの画面を押した。すると間もなく、俺のスマホに双葉からLINEが来たという連絡が入る。トーク欄に貼られたURLをタップすると、自分の現在地と共に、マーカーが入れられた地図が画面に表示された。そのマーカーは、近くのビーチを指し示しているようだ。

 流石の、双葉のスマホの使いこなしようには拍手を送るとして……何気なく今、『午後から自由時間だな』と言っていたけれど、どうして修学旅行の予定を双葉が知っているんだ? 自分たちが泊っているホテルの場所の特定されているのも不思議だし、相変わらず双葉の情報網の広さは計り知れない。双葉、恐ろしい子。

 ふと、枕の傍にあるデジタル時計を見ると、ホテルのロビーに集合するちょうど三十分前を指し示していた。それまでに部屋に戻って、簡単な朝食は済ませておきたい。……双葉は、何を食べるんだろう。

 

「もちろん、これ、だ……」

 

タメを作りながら双葉は、シャカシャカと音がなる、円柱状のブツをバッグから取り出した。ここに来ても、か……まあ、なんとなく予想はしていたが。マスターがちゃんとした食事を作ってくれていなければ、双葉の体はボロボロになっていたに違いないことは、想像に難くはない。

 部屋に戻ると俺は言って、双葉に背を向けて……俺は立ち止まり、振り返る。「ん?」と頭にハテナマークを浮かべながら、蓋をべりべりと剥がしている双葉。

 うん。一応、言っておこう。そのまま言わないというのも少し、不誠実な気がするし。

 俺は208号室に来てから寝るまでのあらましを、双葉に語った。もちろん、双葉が悪夢を見ていたことは、できる限り伏せながら。

 お話しが核心に迫ってくると、双葉は真っ赤な顔をして「マジか!」と言ったのと時を同じくして、ベリィ、という汚い音を立てながら、蓋と箱が完全に分離していた。湯切りの時、どうするつもりなんだろう、と、俺は他人事のように考える。

 露出したUFOに躊躇なく熱湯を流し込みながら、「私は聞いてない。だから……再戦を要求する!」と双葉は言ったが、「朝にするのは刺激が強すぎる」という理由でお断りをした。ぶいぶい言いながら頬を膨らます双葉を今度こそ背にして、俺は扉へと向かった。そのドアを閉めたとき、竜司の言う通り、俺は筋金入りのチキン野郎なのかもしれない、と思った。

 

 

 

「よ、ようカレシ、奇遇だな?」

 

 何の演出なのかは分からなかったが、双葉はさも『たまたまハワイで俺と出会った』風を装いながらベンチに腰かけていた。この手の殆どは聞いてもよく分からない理由が働いているのだけれど、双葉には尋常じゃない頭脳を持っているから、意外と侮ることはできない。

 とりあえずそのノリに従うことにして、おっ、と少し驚いた表情を見せながら、二人並べば少し余裕があるくらいのベンチ、つまり双葉の隣に座る。

 かなり長い間待ってくれていたのだろうか。だとしたら、クーラー慣れしている双葉にとって、この環境はさぞかし辛かっただろう。

 ……でも、あれ?

 

「暑い。ルブランに帰って、浴びるくらいオレンジジュース飲みたい」

 

 そう言っている割には、意外と汗、かいていないな。

 

そんな俺の疑問に、双葉は「ん?」と首を傾げると、「んあぁ」と変な声を出す。

 

「ずっとクーラー暮らしだったからなー。自分の身体、ついに汗を掻くことを忘れた、らしい」

 

 なるほど。汗の掻き方までは、流石に覚えていなかったということか。

 

「そゆこと! ……でも、おかしい。昔、給食で苺が出て来たとき、私の苺にケチャップを掛けて食べさせたクラスメイトの名前と顔と住所とそいつが取ってた国語のテストが赤点だったことは、ちゃんと覚えてるのに……」

「……」

 

 今日の朝食を思い出すようなノリで(UFOだが)、双葉は言う。……そっとしておこう。

 ……いや、本当にそっとしておくべきなのか、これは。

 

「……」

 

 俺は何気ない風を装って、双葉の目を盗み見る。いつもアンバランスな眼鏡を掛けているから忘れられがちだけれど、皆が想像しているよりかは少しだけつぶらな瞳が、水面に反射した光を更に反射してキラキラと光っている。刻一刻と変わる、瞳に映る景色はさながら万華鏡のようで……あれ、俺は今、何をしようとしてたんだっけ。双葉の瞳に見惚れている内に、忘れてしまった。

 

「ね」「ん?」

「なんかいい匂い、しない?」「んー……」

 

 言われてみれば、確かに。食欲をそそられるニンニクの匂いが、鼻孔を刺激した。そのニオイの出どころを探すべく首を回すと、ある一台のキッチンカーが目に止まった。側面にでかでかとエビのロゴマークが貼られていることから考えると、これは……ええっと、ガーリックシュリンプ……だったか? 真が広げていたハワイの雑誌に、そんな単語が載っていたような気がする

 

「……ぐぅ」

 

 双葉の腹の虫がなった、ように見せかける双葉自身の音真似が、実に正確な振動数と長さで口から繰り出される。そのクオリティの高さに免じて、二つ買ってあげようか……。

 

「食べるか?」と俺が聞くと、

「……うん。あんがと」と言い、顔が伏せられた。見えてはいないだろうが、その反応に俺は二回ほど頷いておいた。

 

 

 

 

 「オニーチャンタチ、ニホンジン?」と片言の日本語で話しかけてきた店主に、「あ、ああぁ、えと……ぅ」と双葉はコミュ難を、そして俺は持ち前のアドリブの弱さを余すことなく発揮した。怪盗団の話になり、日本で流行っているという旨のニュースを見たと言っては、皆がエビを好きになれるよう改心させておいて、と店主に頼まれた俺たちはただうんうんと頷いた。しかしその愛想笑いを好意的に受け取ってくれたのか、店主から、ガーリックシュリンプを大サービスされてしまった……。いくら日本人が多いとはいえど、ここはアメリカ。もちろんアメリカンサイズでの大盛りを受け取り、肝を冷やした俺だったが、

 

「ひょゆ(余裕)ー!」

 

 と、ガーリックシュリンプを頬張りつつ、「大丈夫か?」と声を掛ける俺に双葉はそう言った。ムチムチブクブクと大きくなっていく双葉の腹を、俺は黙って見ていることしかできなかった。

 そして食べ終わり、たわいのない話を繰り広げたり、止まったり同じ方向を見つめたり、驚異的な速さで双葉の腹の体積が小さくなっていく怪奇現象に、目を丸くしたりして。

 俺たちはビーチを眺めながら、二人で異国を楽しんだ……。

 

 

 

 海と空が、隣にいる彼女の髪の色に染まった頃。

 双葉の助力もあり、遂にガーリンクシュリンプを食べ終えた俺たちは、初めに座ったベンチに戻ってきていた。

 くぁ、と、一つ、双葉が大きな大きな欠伸をこぼす。不意に緩んだ涙腺から、眠気を告げる涙が零れ落ちる。

 

「うー」と、双葉は唸った。「眠い。飛行機でも一杯寝た。でも、ダメだった。ハイバネーションの時に起こされるのはやはり、キツイな」

 

 ハイバ……なんだって?

 

「ハイバネーション。冬眠とか、あとは……えっと、シャットダウンする前に、前買ったメモリからハードディスクに一時的に――」

 

 その後、少しの間パソコンについての蘊蓄を披露されたが、あまり理解した気にすらなれなかった。

 

「――で、えっと、私……寝て、中々起きないことが、結構ある」

 

 一二三と将棋をした時のこととか、つい数日前の時のことか、と俺が聞くと、双葉は「うん」と言い、頷いた。

 

「あれ、自分で起きることができない。だから……飛行機を予約していた当日に、そうじろうに無理矢理起こしてもらった。でもやっぱり、死ぬほど眠たかったから、そうじろうの車に乗って、そのまま飛行機に入って、寝た。それでも、眠気は覚めなかった。だから、カレシが来る前に寝ちゃったのも……そのせ、い」

 

 途中で喋ることすらも億劫になってきたのか、双葉は中途半端に口を開いたり閉じたりしながら、俺の肩に寄りかかる双葉。その肩から、さっきから強く胸を打っている鼓動の音を聞かれていないだろうかと、内心ハラハラする。

 

「私ね、今が一番幸せ」

 

 そんな焦りを他所に、双葉は言った。俺は体勢を崩さないように、細心の注意を払いながら双葉を見る。瞼はゆったりと閉じられていて、そこから夕焼け色の涙が溢れている。

 

「一二三がいる。私を見てくれる、怪盗団の皆がいる。そうじろうも笑ってくれる。で、やっぱり一番に、君がいる。君以外、他には何もいらないって、時々思う」

「それは……」

「うん、分かってる。それは、君が望んでいる答えじゃない。でも」

 

 そこで一つ、双葉は言葉を区切った。首を少し動かすようにはしたが、それはただ、俺に預けている自分の首の位置を、調整しただけのようだった。

 

「……でもね、時々考えることがある。例えば目が覚めたら、一二三が居なくなってる。例えば目が覚めたら、そうじろうが居なくなってる。そのことに私は、君の胸に飛び込んで泣いてる。小さい時から泣きまくって、それはもう本当にガッバガバになった涙腺を、これでもかってくらいに、緩ませてる」

「……」

 

 考えてもしょうがない話、だとは思った。明日に誰が死んでいて、誰が死から逃れられているかを一生懸命考えても、何か成果が得られる訳でもないから。だから無駄、だとは思わないけど、その思考に意味を見出すことは、難しい気がした。

 でもそのことは、あえて双葉には言わないでおいた。いくら賢いとはいっても、双葉はまだ人生をあまり経験したことのない、言うならば≪≪か弱い≫≫少女だ。ここは大目に見て、というより温かい目で見て、うんうんと頷いてあげるくらいの気概は、俺にもある。双葉の気持ちを尊重して、理解することもできた。

 

「けど、」

 

 けど、

 

「君が居なくなると……もう、ダメ、だと思う」

 

 その『ダメ』の中に、どんな意味が含まれているのか、俺は理解することはできなかった。

 

「だ、だから……えと、その、なんというか……ずっと一緒にいる必要はないけど、どっかに行かれるのは困るというか、なんというか、離れたくな……う、」

 

 ひとしきり口から溢れ続ける言葉を漏らした後、双葉は喉から絞り出したような、奇妙な声を上げた。何をする訳でもないはずなのに、手が忙しなく動いている。

 

「私、今……結構ハズイこと、言った?」

「うん」俺は頷いた。「結構、恥ずかしいことを、言っていた」

 

 忙しなく動いていた手は、更にその激しさを増した。

 

「わ、忘れて」

「うん」俺は、さっきよりも大きく頷いた。「絶対、神に誓って決して、忘れる」

「ぐぬぬ……カレシ、もしかして、反抗期? これ、渡したくなくなった」

 

 ニヤついている俺の口元に気づいたのか、双葉は睨むような目つきで俺を見る。俺も負けじと見返してやると、段々と双葉の目が鋭いものから丸くなり、そしてとうとう目線を逸らして、はぁ、とため息をついた。

 

「……こ、これ」

 

 おずおずと背中から取り出したのは、イルカの形の装飾が施された、ブレスレットだった。その目にはめられた石の、淡くも儚い青色が、どこか双葉を思わせる……。

 

「受け取って欲しい。……わ、私の気が、変わらない内にな!」

 

 変な言い回しにツッコみそうになりながらも、俺は素直にそれを受け取り、ありがとう、とお礼を言った。因みに俺は何も用意していない。まずい。帰りまでに、土産屋に寄れる機会は果たしてあるんだろうか。

 翌日のスケジュールに頭を悩ましていると、夕焼けの朱が紫に近づいているのを感じた。時計を確認しなくても、集合時間が近づいてきているのが分かった。……でも。

 

「……あ。もう、自由時間、終わる。……戻る?」

「……もう少しだけ」

「お、おう。じゃ、じゃあ……コンゴトモヨロシク」

 

 辺りが暗く、静かになっていくにつれて、人通りは少なくなった。寄り返す波だけが、時間が流れていることを教えてくれた。美しいハワイの夕暮れを、二人っきりで楽しんだ……。

 



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日記8 9/12-9/24

 色々進んでいます。全て原作の中にあるイベントなので、特に注視して読む必要はありませんが、各コープの内容やストーリーのあらましを、大体思い出すことができます。



9/12

 

 ハワイからルブランへ帰ってくると、マスターが心底ホッとしたような顔で俺達を出迎えてくれた。双葉がハワイに着いた後、全然連絡を寄越して来なかったらしい。今後もそういったことがないようにと、もう一度マスターの携帯に俺の電話番号を登録するように頼み込んでみたのだが、しばらく間があった後、「いや、俺は携帯に、男の電話番号は入れない主義なんだ」という定型文を頂いた。

前に聞いた時は即座に断られてしまったから、今回は迷っている素振りがあった分、前回に比べたら十分すぎる進歩だと言えるだろう。マスターが俺の電話番号を入手する日も近いということを確信した。

因みに、ルブランの扉を開けて開口一番、「アローハ!」と言ってみたくなってしまった理由は、ベッドに横たわってこの日記を書いている今でも分からない。あと、モルガナのご機嫌が悪い気がするのは、気のせいであって欲しいと思う。

 

9/13

 

 モルガナが家出した。

 

9/15

 

 モルガナに再会した。そしてまた、怪盗団の女性の割合が増えてしまいそうな予感があった。

双葉が、なんだか最近、暗い表情をしている時が増えた気がする。どうした、と双葉に聞いても、「な、なんでもない」と、とても動揺した声で返されるだけで、一向に埒が明かない。俺の思いすぎだといいんだけど。竜司曰く『そりゃ……お前、「アレ」だろ』と言われてしまったが、多分違うと思う。

 

9/17

 

 増えた。そして、モルガナが何やら恥ずかしいことを言っていた。最近は少し、世間からの目に動揺して、俺達が……空中分解とまではいかないけれど、バラバラになってしまいそうな危うさがあった。でも、そんなモルガナの恥ずかしい告白で、俺達チームとしての結束が改めて強くなった気がする。やっぱり、恥ずかしいことは、高校生である今の内に言っておくべきなのだと思う。うん。

 あと、双葉が春に『ナシつけとく』と言っていたんだけど、あれは一体どういう意味なんだろう……? 梨?

 

9/19

 

 連日でパレスを攻略するのは少し疲れるかも、という春の意見で、今日は一日中オフとなり、俺は休憩中に冷蔵庫にあった濡れカツサンドを齧りながら、マスターの手伝いをした。すると、ルブランに陽気な初老男性……もとい、きな臭い怪しいおじさんがやってきた。彼はマスターと会ってなにやら嬉しそうだったが、しかしマスターはとても嫌そうな顔をしていた。彼が誰なのかを聞き出そうとしたが、美味いカレーの作り方を教えると言われ、有耶無耶にされてしまった。

 双葉の口数が、例えば一緒にご飯を食べる時、例えば適当に互いの部屋を行き来する時に、ほんのちょっぴり、減っているような気がする。もしや愛想を尽かされたのでは……と、夜も眠れなかったが、竜司に「それはない」と言われた。

 

9/22

 

 一二三が将棋で八百長をしている。そんな下らない噂が、下らない週刊誌やネットでよく見かけると、双葉が言っていた。一二三も当然小耳には挟んでいるはずだが、宮殿に侵入している時にも、双葉とLINE通話で目隠し将棋している時にも、全くその話題を口にすることはなかった。もしかしたら、攻略途中で気掛かりなことをなるべく減らそうと、俺達に気を遣ってくれているのかもしれない。ならば俺達は、できるだけ早急にルートを確保しなくてはならない。

 くたくたの身体で帰ってくると、マスターが例のおじさんに言い寄られていた。話を聞く限り、マスターに金をせびっているらしい。ここは機転を利かせて、なんとかマスターを助けてあげたいと思った俺だったが、アドリブ力のない俺は、ただ澄ました顔を顔面に張り付けて、その様子をじっと見ていることしかできなかった。

 が、ちょっと前に、マスターの携帯に自分の電話番号を入れてはどうかと提案していたことを不意に思い出した。そして、逆にマスターの携帯に電話を入れ、おじさんの気を逸らしてやろうというアイデアが降りて来るに至った。俺が着信を入れたことに気付いてくれたマスターは、口八丁でおじさんを退散させた後、珍しく機転が利いた俺を褒めてくれた。アドレスは登録してくれなかった。

 

9/24

 

 攻略完了。あとは待つだけだ。その間に、一二三の噂が広まった原因、マスターとおじさんの関係、そして、双葉が最近元気のない理由を知ることを、目標にしたい。

 



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9/26『Hifumi』

「私は負け組だった……一度でいいから、成功を味わいたかったの」

「お母、さん……」

 

 女流棋士とプロ棋士が戦うエキシビジョンマッチに負けろ、という、一二三の母親からのお達しがあったのは、ついこの間のことだったそうだ。

 連勝街道をひた走る天才女流棋士が、プロ棋士に惨敗し打ちのめされる。そしてその後、ドン底から這い上がってきた一二三は再び、強かな女性として世間から脚光をあびる。母親が描いたシナリオを聞いた一二三は、母親に初めて反抗することを選んだ。

 もし、一二三が麻倉の言いなりになっていたら。もしも、一二三がペルソナに覚醒していなかったら。一二三はまた、別の道を選んでいたのかもしれない。

 

「でも、自分の力じゃ無理、だから、一二三を利用したの……」

 

 娘や息子の人生に、親自身を投影することは、そう珍しいことじゃない。そんな親に命令され続ける人生に不満を感じて、「私の人生は私のものよ」と言い、親に刃向かうことも、当然よくあることだ。今回の一件が少し大ごとになってしまったのは、一二三が親さえ羨む程度に賢かったのと、一二三が自分の人生に不満を持つのが、人よりほんのちょっぴり、遅かっただけなんだろうと思う。

 

「ごめんね、一二三。私、悪いお母さんに、なってたね……」

 

 滔々と、本音を一人娘に語りかけるシャドウ東郷。通常、俺たちがターゲットを改心させると、完全に自分の非を認めることが多い。それは今回も例に漏れていないようだけれど、一つだけ、イレギュラーなことがあった。

 それは、謝るべき相手が、すぐ目の前にいること。忍び装束を纏った一二三が、後衛から既に姿を現している。もちろん、顔の殆どが隠されてあるから、こちらからは表情を窺うことはできない。

 母親の本音を、一二三はどんな思いで受け取っているのか。一二三母は、いわば一二三がペルソナに覚醒せざるをえなくなった元凶だ。確かに持ち前の美貌があるから、母親が何もしなくても、時々メディアに取り上げられただろうことは想像に難くない。でも、バックに母親と麻倉がいたから、『美しすぎる棋士』だとニュースや世間でもてはやされ、対局中の姿が特徴的だと、ネットで叩かれることが過剰になったのは間違いじゃないと、俺は思う。

 むしろ逆に、一二三がもっと将棋を追求することができた環境も、あり得たかもしれないのだ。

 怒っているのだろうか。恨んでいるのだろうか。親に向かって罵詈雑言を並べ立てる一二三の姿は、あまり想像したくないけれど、「なにしてくれてんだ、てめえ」と吐き捨てる権利を、一二三は持っているとさえ思う。

 

「お母さん。……ずっと今まで、ありがとう」

 

 でも、一二三は。

 たしかに熱のこもった声で、そう言った。

 

「一人じゃ将棋しか指せない私を、ずっと、支えてくれていた……ん、だよね。私、何もできなかったから……お母さんじゃなかったら、辛いことも沢山、あったと思う」

「そ、そんなこと……」

「小学生の、将棋の大会のこと、覚えてる? 私、優勝して……お母さん、本当に喜んでくれたよね。だからあの時、頑張ろうって、思ったんだよ?」

 

 一二三の母親は、いつしか膝から崩れ落ちていた。目を瞑り、何も言わずに、目頭を押さえている。

 自分の人生が失敗したことに対して、今度は我が子の人生を成功させてやろうと考えたそんな母親の主張に、嘘偽りはないのだろう。

 けど一二三は、その先のことまでをも読み切っていたんだ。一二三を利用しようとした母親にも、我が子を思い、彼女の成功に、素直に喜べる感情はあった。……自分の人生に行き詰まり、だんだんと、一二三の人生に肩入れするようになった。

 そして、欲望が歪んだ。

 娘を思いやり、娘の成長を感じていく母親が。

 娘の人生に取り憑き、我が物のように振る舞う化け物へと、姿を変えた。

 しかし、変わり果てた姿になる前の母親を、一二三は覚えていたのだ。

 そして、読み切ってみせた。

 ……怪盗として、認知世界における母親を改心させるという、世にも奇妙な投了図は、さすがに予想していなかっただろうけど。

 

「でもね、お母さん。私はもう、大丈夫だから。ずっと、お母さんと、お父さんに支えられてきたから、直ぐには一人で歩けないかもしれない。……けど今は、私を支えてくれる、仲間がいるの。だから、もう、大丈夫なんだよ」

 

 それが本音であることは、一二三が極めて稀に口にする、女性らしい口ぶりを聞いて、溢れるほどに伝わってくる。

 母親の影が薄くなる。顔を上げて、じっと一二三を見つめている。

 そして、その姿を消す時、最後に見せた表情は。

 とても母親らしい、娘を見守る温かい笑顔だったと、俺は思う。

 

 

 

「ど、どうしよう……」

 

 薙瓜書店近く、一二三オススメのカレー屋店内。

 運ばれてきた『カツカレー(大盛り)』に目もくれず、濁った目で虚空を見つめている一二三。

 

「八百長……まさか、お母さんが、手を回していたなんて。私はてっきり、最近の調子が良いものとばかり……情けない、です」

 

 唇を噛み締めているのを見る限り、その「情けない」の言葉が、一二三自身に向いているということは疑いようもない。そしてまた、口調がいつも通りになっていた。素の一二三は、なんだかレアな気がして良いと思うのだけれど、いつもの「ですます調」の一二三も、これはこれで、味がある。

 と、一二三通ぶったりしたところで、今一二三が置かれている状況が好転することはない。かと言って、一二三母を改心させた後、何か実益のあるような行動を取ることもせず、二人でカレー屋に来ているのは、所謂ちょっとした現実逃避というものだろう。

 

「……冷めるぞ、一二三」

「え?」

「カレー」

「……あ、ええ」一二三は雑に頷いた。「そうですね。そうですよね。食べ物に、罪はありませんから」

 

と言い、とてもゆったりとした動作でカレーを食べ始める。そんな、触れればポロポロと粉を落として崩れてしまいそうな一二三に、「いや、自分がそのカレーを頼んだんだろう」と、突っ込む気には、もちろんなれなかった。祐介が画家として大成したら、またあの寿司屋に連れて行ってもらおう……。

 

 互いに、黙々とカレーを食べ続ける。双葉や他のメンバーと食べる時は、喋りながらの食事が多いのだけれど、何かまとまった話をしない限りは、将棋を指している時は勿論、一二三とは何も話さない。

 それは、一二三と俺が心と心で通じ合った所謂|魂友≪ソウルフレンド≫だから……という訳では当然ない。ただ単に、どちらも喋ることに対して、人より多くのエネルギーを使う人種だからだ。でもなんか、それがちょっといい。

 一二三も、その何か、『なんだかいい感じ』を感じてくれていたらいいな、と思いながら、前を向いてみる。

 

「……う、ううん……」

 

 渋い顔をしていた。苦悶の声をあげながらも、手を休めることなくカレーを口に運び続けている。……すごい絵面だ。やっぱり、今後のすべき事に対して、何か思うところがあるんだろうか。

 一二三が考えなければならないことは、主に二つある。プロ棋士と指しあう、エキシビジョンマッチをどうするのか。そして、曲がりなりにも八百長が真実だったことに、どう対処すればいいのか。どちらも、俺のような一介の高校生ではどうすることもできないような問題だ。

 それでも、一二三は一生懸命考え続けている。まず沢山の一手を思いつく限りに考えて、状況や自分の立場を加味しながら、あり得そうな数手を一瞬で絞り込む……らしい。

 

 ……。

 中々、一二三が頭を上げてくれないな。

 まあ、一刻を争う事態でもない、か。俺が下手な考えを出して、それを一二三が万一採用して、結果一二三の棋士生命を断つようなことがあれば、ハラキリ以外の責任の取り方が分からない。

 しかし。

 まあ、このまま一二三を放置しておくというのも、かわいそうな話ではある。あと、いつもと様子が違う一二三の姿を見て心配そうにしているカレー屋の店主にも、沈痛な面持ちで食されているカレーにも悪い。

 よし。考えてみよう。『今は、私を支えてくれる、仲間がいるの』なんて言葉を言われてしまった訳だし。

 俺は急いでカレーを口へ流し込んだ後、両肘を机につき、合わせた両手に頭をおいて、考えを巡らそうとすると――。

 

「整いました」

 

 いつの間にか、一二三の中で心の整理がついているようだった。表情は晴やかで、迷っている様子が微塵もない。……カレー、味わって食べておいた方が良かったかもしれない。

 

「エキシビジョンマッチを……受けます」

「……そうか」

「もちろん、私が八百長をしていたことを、公表した上で、ですが。……鼠が猫に挑むようなものだということは、もちろん、分かってはいます。八百長で勝ち上がってきた私がプロ棋士と指しあうなんて、はっきり言って、身の程知らずにも、程があります……。でも、ちゃんと戦って、そうすれば……ちゃんと、リスタートを切ることができると、私は思うんです」

「リスタート、って」

「はい」一二三は頷いた。「女流棋士協会を、辞めます。アマチュアから、もう一回、やりなおし……ですね」

 

 なるほど。

 ……なるほど。

 

「双葉はきっと、驚くだろうな」

「そう……ですね。きっと。でも、納得してくれるとも、思います」

「負けるなよ」

「はい」と言い、一二三はもう一度頷いてくれた。「……あの」

「?」

「その、ええと……」

 

 一二三は顔に手をあてて、何かを考え始めた。俺はその間に、一二三の話をしっかり聞く準備を済ませる。

 

「八百長が分かったあとも、貴方は私を見捨てないでくれる……確信が、メメントスで母の話を聞きながら、あったんです」

 

「誰かに信じてもらえること……何より、自分の道は、自分で切り開くこと。……貴方には、本当に、沢山のことを教えてもらいました」

 

「貴方は……私の、かけがえのない人、です」

 

「わ、私……」

 

「……」

 

「……私の事、もっと頼ってくださっても……ええと、いいです、から。貴方から頂いたご恩、私、一生を掛けて償わせて……」

 

 ……。

 規模がすごい。そして、恩は償うものじゃなく、返すものな気がするぞ、一二三。

 

「な、なに言ってるんでしょう、私……」

 

 自分の口調の違和感に一二三も気付いたようで、右に左に視線を彷徨わせている。俺は何か一二三に言おうとしたが、止めた。

 その代わりに、一二三よろしくいくつかのことを想像していた。

 一つは、あり()る未来のこと。何か人生で行き詰まりを感じた俺は、一二三に連絡を入れて、いつもの教会で将棋を指しあいながら、相談を聞いてくれる。そして今よりほんの少しだけ大人になった一二三は、冷静で、自信に満ちた表情で俺に「……と読みます」と言うのだ。

 もう一つは、あり得ない未来のこと。もしも、下宿初日に佐倉双葉と出会っていなかったら。俺は、目線を下げて、何か俺の言葉を待っている一二三に、一二三が望むようなことを、言えたのかもしれない。

 だから、俺は何も言わない。これ以上、一二三の考えていることに踏み込んだりはしない。あちらから近づいてきた時に言うべき言葉は、もう用意してある。でも、一二三がそんなリスクを犯す人物ではないことを、俺は知っていた。

 

「と、とにかく」と一二三は言った。ピンと張り詰めた空気が、少しだけ和やかになる。

 

「副業も、私なりに頑張るつもりですので。稼業も……今度こそ実力で周りを……認めさせてやります!」

 

 それは、一二三の大きな決意だった。一二三との固い絆を感じる……。

 

「これが、私の新しい力……」

「え?」

「あ、い、いえ、なんでもありません。……帰りましょうか」

「うん」

 

 俺が先に立ち上がり、清算を済ませる。今日だけ、教会へ将棋に誘われなかったのは、きっと、もう夜が迫っていたからだと、俺は思うことにした。

 




美形で孤高の大和撫子なのに、ものすごい真面目な顔で変なことを言ったり、天然にボケたりするギャップが、一二三の魅力の一つだと思うんですけど、このお話の主人公って、あんまり声を荒げながら、一二三に突っ込めるキャラじゃないんですよね。双葉も、どちらかと言えばボケる人寄りですし。これは反省……。

ともあれ、これで一二三パートはお終いです。ここ一週間はずっと一二三のことを考えていました。うん。もっと双葉と喋らせたかったけど、お話の展開上組み込めませんでした。すみません。双葉と一二三の絡みをもっと書きたい人生だった……。


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9/28『Monologue』

『…前が―したんだ!』

 

 カレシといる間だけ、あの日のことを忘れることができた。

 幻聴も、いつの間にか聞こえなくなってた。

 だから、ずっとこのまま、忘れることができるんじゃないかって、思ってた。

 

『なんだ、…の目は!』

 

 コンディションは、最悪だ。

 あまり、十分に睡眠を取れない。頭を空っぽにして寝ようと思っているのに、どこからか、いつか聞いた、私を傷つける声が湧き出てくる。必死で目を閉じて、耳を塞いで、カレシのことだけを想って、そして、朝が来ている。最近は、そのループの中に私はいた。

 そのループから抜け出すための、条件式は分からない。けど、日に日に体調は悪くなってる。『ゲームのやりすぎだ』って言い訳してるけど、そろそろカレシも気付き始めてくる、気がする。

だって、私のカレシだからな! 彼女の体調の悪さを気付く程の甲斐性は、あってしかるべき! うん。

 

『貴方がこ…したのよ!』

 

 これが、また聞こえてくるようになったのは、異世界があることを知った時。で、スマホの画面から異世界の景色を見た時だ。

 流石に、全部までは思い出すことはなかったけど。

 私を苦しめている原因を、全然ハッキリじゃないけど、なんとなーく、ボンヤーリと、頭は思い出し始めてる。

 ま、なんでも覚えちゃうことの弊害的な? それを見せつけるために、図書館で見て覚えた棚の本の並び、今でも忘れらんないし。

 それと。

 そうじろうが、私が今いる部屋に住み始める前の話と、今に飾ってある写真立てを見せてくれないのと、中々カレーを作ってくれない理由を教えてくれないことが、その原因と繋がってることも。

 なんとなーく、分かり始めてる。

 

『―す気味わ…い……』

 

「う……うぅ……」

 

 頭が痛い。怖い。どれだけ頭を掻きむしっても、この声は消えてなくなってくれない。

 でも、カレシがいる。カレシを想う数だけ、カレシが傍にいる時間だけ、声が遠くなる、気がする。

 カレシが笑顔を投げかけてくれる度に。

 唇を合わせてくれる度に。

私を抱きしめる度に。

 私がニオイを嗅ぐ度に。

 温もりを肌で感じる度に。

 あの声を、あの記憶を、忘れたままでいられる。

 

『人ご…し!』

 

 だから、ずっと、このままで。

 今のままで。私が想う、カレシのままで。

 ……とかなんとか思っちゃうけど、大丈夫、いつか本気出す!

 

 

 

 

 

 

「双葉」

「なになにー?」

「何か、俺に隠してないか」

「ぶべらっ」

 

 と。

 別に、強いて何もしていないのに、双葉は殴られた時のような悲鳴を上げた後、口の中に含んでいたメロンソーダをぶちまけた。俺は慌てて、店の机に撒かれた緑色の液体を、紙ナプキンで拭く。……最近、紙ナプキンが有能に働いてくれているな。

 

「ゲッホ、ゴッホォエッ! なん……のはな、シゲェッホォ!」

 

 平和なこの世で発されたとは到底思えない、殺伐とした断末魔をあげ続ける双葉は、ブンブンと首を振りながら、俺の質問を否定している。どうやら、何にもないということらしい。

 閑話休題。

 『バック・トゥー・ザ・ニンジャ』。それが、今日俺たちが四茶の映画館で観た映画のタイトルだ。ここ現代日本で、『忍者なんているはずがない』と、国内外を問わず言われ続けている中、世を忍びながら生き続けている忍者の末裔が、ひょんなことから戦国時代へとタイムスリップしてしまう。織田信長、木下藤吉郎等の有名人と出会いながら、自らの動きを光速にまで近づけることで、自力で現代へと戻ろうとする、とんだやべーカルトムービーだ。

 ともかく、そんな映画の興奮覚めやまないまま、ルブランへと帰ってきた俺たちは、『バック・トゥー・ザ・ニンジャ』の感想を語り合っているのだった。

 

「あの映画、軽く50回は見てるけど、やっぱ音響は映画館じゃないとな。そう思うでしょ?」「ああ。それよりも、隠し……」

「え、ええ、SFはな、『いつか実現するかもしれない』夢物語……つまり、『希望』なんだよ! ……分かるか?」

「……」

 

 あくまで、隠していることは言わないつもりらしい。まあ、今聞く必要もない……か。映画について語っているところに、水を差すのも悪いし。

 俺は、双葉からの質問に「なんとなく」と返すと、双葉は「……ホントに?」と、疑わしい目でこっちを見てきた。あんまり信じてくれていない。

 

「でも、あれだなー」いつもより饒舌になった双葉は続けて言う。「過去に戻れたり、未来に行ったりするのって、なんか、ドキドキする」

「それは、まあ」

 

 分かる。小学生の時に、猫型ロボットが出てくるアニメを見て、未来や過去に想いを馳せるほどの情熱は、流石に今は持っていないけれど。

 

「胸が、高まる」

 

 頬杖をついて、何やら考える仕草を取っている双葉。心なしか、顔がニヤついている。

 いつか失うはずの情熱をずっと持ち続けられる人が、大成するのかもしれないな、と、今双葉を見てなんとなく思った。

 

「…んまー、流石に、体ごとは無理だと思うけど」

「うん?」

「電話を、昔の自分に掛けることなら、ワンチャン、ある?」

 

 双葉は首をかしげる。聞かれてももちろん分からないので、負けじと俺も首をかしげる。

 こうして首のかしげ合いが始まり、双葉の首の角度が直角になりつつある中で、埒が明かないからと、俺はなんとか質問を捻り出そうと頭を回す。もちろん、首をかしげたままで。

 

「音だけ、過去に送ることはできるのか?」

 

 音は実体のないものだ、と俺は思っている。だから、実体がある体を過去に送ることよりかは、難しい気がしたのだ。

 

「分かんない。でも、電気信号に変えればいんじゃね?」

「電気信号?」

「うん。……暇だったら、フーリエから説明する、けど」

「……フーリエ?」

 

 誰? と聞いてしまえば最後、双葉の口が止まらない予感があったので、俺は素直に「遠慮しておく」と言った。

 別の質問を考えよう。

 ……。

 

「もし、昔の自分に電話を掛けることができたら……いつの自分に、何を言いたい?」

 

 俺は、一歩踏み込む。

 カウンターの奥を覗いてみると、マスターは居眠りをしていた。寝たふりをしている可能性もあるかもしれないが、まあ、聞かれたところで、どうってことはないはずだ。

 

「……やっぱり」

「うん」

「給食で出てくる苺、ケチャップついてるから注意しろ……とか?」

「……」

 

 マジか。

 そんなに根に持っていたのか、それ……。

 食べ物の恨みは、いつまで経っても消えないらしい。気を付けよう。

 

「カレシは?」

「え?」

「何、電話したい?」

「うーん……」

 

 色々な選択肢が、頭をよぎった。昨日の自分に、ベッドの角に足の小指をぶつけないよう気を付けろ、とか。いつかの自分に、スキンヘッドの酔っ払いに絡まれている女性を助けたことは、間違いじゃない、とか。宝くじの当選番号とか。

 

「半年前の、自分に」

「んー」

「焼きそば、一人分多めに作っておいたほうがいい、とか」

「んへへ」

 

 双葉は全身を弛緩させて、笑った。あ、双葉の舌、メロンソーダで緑色になってる。

 

 

 

 とまあ、そんな感じで。

 双葉が若葉さんのことを覚えていないということが分かったり、本当に寝ていたらしいマスターが作ってくれたオムライスに舌鼓を打ったり、時間がゆったりと進んでいる気がする、と双葉に言うと、いきなり相対性理論の話を持ち掛けられたりした後、当然、俺は佐倉家まで双葉を送ることになった。

 玄関前で、双葉の「サラダバー」を聞いた後、来た道を引き返してルブランへと戻る。

扉を開けると、一人、常連さんがルブランに来てくれていた。マスターの目の前を通っても、俺には目もくれずに新聞とテレビのニュースを交互に見続けている。俺がすぐマスターの家から帰って来ると予想はしていたのかもしれないが、ルブランに来た人が、客である可能性を微塵も信じていないかのような立ち振る舞いだ。別にいいけど。まあ、俺自身も、ルブランに二人以上のお客さんが入っているところは、あまり見たことがない。

 大丈夫かな、色々と。と、俺が余計な心配をしていると、マスターは唐突に口を開いた。

 

「……あ」

「?」

「悪いが、これ、双葉んとこに持って行ってくれ。渡しそびれちまった」

 

 そう言って、頭を掻きながら比較的大きな紙袋を差し出した。何が入っているんだろう。

 俺は素直に頷いて、チラ、と紙袋を覗いてみる。マスターが咎める様子はない。

 ……。

 うみゃあ棒、お徳用……。

 懐かしいな。

 

「どうしても食いたいって、うるさくてな。頼むよ、な?」

 

 マスターは、コーヒーを飲んで一息ついているお客さんに視線を向けた。客がいるから、ここを動けない。だから、お前が持っていけ。マスターはそう言いたいようだ。

 双葉はもう外をほぼ不自由なく出られるようになったのだから、別にマスターが買ってくる必要はない。でも、買ってきてあるものはもうしょうがない。と俺はひとまず納得することにして、ルブランを出た。

いつもと変わらない、短いみちのりを歩く。段々と、日が短くなっている。そして、佐倉宅が近づくにつれて、自分の足取りが少しだけ、重くなっていることに気付いた。

 そう言えば、双葉も双葉で、さっき俺が見送った時も、あまり自分の家に帰りたがっていないように思えた。その理由が、今の俺にはなんとなく分かるような気がした。最近、双葉に元気がない理由も、ハワイの、ホテルの一幕のことも。

 俺の予想が、もし本当に正しかったら。そう思うと、足取りが重くなるのもしかたがない、気がした。

 すぐに着く。そして、マスターから借りている合鍵を鍵穴に差して中に入る。一応玄関から、ここにいるはずの人の名前を読んでみるが、案の定返事はない。双葉は、自分の部屋ではヘッドフォンを耳に当てがっていることが多い。俺は観念して、少し冷たくなってきた階段を昇った。

 

「……――っ」

 

 最初は、くぐもった声が聞こえて来た。押し殺しているのか。それとも、他の誰かに聞かれまいと抑えているのか。俺は不安になりながらも、歩みを進める。

 

「うっ……ぐぅう……」

 

 その声は。

 ハワイで聞いた、何かに怯えているような声で。

 半年前に聞いた、誰かの苦しそうな声で。

 俺は、無意識にその扉を開けていた。

 

「……! な、な……!」

 

 双葉が、椅子に座って蹲りながら、驚きで目を開いている。が、俺は気にも留めずに双葉に近づいた。

 

「……双葉」

「ど、ど、どうして……」

 

 そんなことは、どうだっていい。

 俺は、うみゃあ棒(お徳用)が入った紙袋を部屋に落として、双葉に話しかける。

 

「どうして、は、こっちの台詞だ。何があった?」

「……なんでもないよ」双葉は首を振った。「なんでもない」

 

 ルブランで聞いた時に続き、あくまで双葉は白を切るつもりのようだ。でも、流石にこの状況では見逃せるはずがない。その事は双葉自身がよく分かっているつもりなのに、母親に怒られたときの子供のように、口をキュッと結び、部屋の隅っこで体育館座りをしている。

 

「……そうか」

 

 それなら。双葉が教えてくれないのなら、アイツに教えて貰うしかない。俺はスマホをポケットから取り出して、黒と赤の、歪な模様のアイコンをタップして――、

 

「……っ! やめ――」

「佐倉双葉」

 

 ――音声を入力した。画面に、『ヒットしました。』という文字が表示される。

 ……前に調べたのは、確か夏休み手前だっただろうか。でもその時は、双葉の名前を入力しても、検索結果が出ることはなかった。

 その理由が、今なら分かる。双葉がすっかり、若葉さんや、過去に関する記憶を忘れていたから。でも今は違う。双葉は少しずつ、思い出し始めている。消滅したはずの認知の歪みが、また双葉の前に現れ始めているのだろう。

 

「どうして、何も言ってくれなかった。こんなに……しんどくなるまで、言ってくれなかったんだ。もう双葉は、思い出してるんだろう? 若――」

「やめて!」双葉は叫んだ。「……やめて。これ以上、何も言わないで。お願い」

「何を……」

「誰にも、思い出したくない過去はある。……誰にも、触れてほしくない、過去も、ある」

 

 それは、もっともらしい一般論だった。でも。

 

「そんなこと言ってられる場合じゃ、ないだろう? 双葉が何を思って、俺に何を隠しているのかは、ええと、俺はあまり賢くないから、分からないよ。でも、このままじゃ、ダメだってこと、は、誰にだって分かる」

「……嫌」双葉は、俺に視線を合わせてくれない。「嫌、なの」

「双葉も、もう分かっているはずだ。自分の過去と、向き合う必要が。……それで……」

 

 一つ、言いたいことはあったが、あくまで予想に過ぎなかったから、やめておいた。

 

「……とにかく。辛いかもしれないけど、ちょっと、頑張ってみよう? 大丈夫、俺だけじゃ頼りないかもだが、一二三や、皆がいる。全然、心配することは……」

「いや、って!」

 

 双葉は、目を閉じた。声色には、明らかに、拒絶の意志が感じられた。

 

「嫌って、言ってるじゃん。トラウマは、あるかもだけど、向き合うにも、時間が掛かる……でしょ? 強制するとか、マジ、やめて。私が、元気になるまで、待って。……正義を、押し付けないで」

「……っ」

 

 双葉の為を想って言っているんだ、とか。

 これ以上、待っていられない、とか。

 どうして拒絶するんだ、とか。

 いくらでも、双葉に言いたいことは思いついた。

 でも、それらの言葉から、双葉を傷つけること以上に、何か意味を見出すことができなかった。

 今、目の前にいるのが双葉以外の誰かだったら、そうか、と打ち切って、この場から立ち去っていたかもしれない。

 そんな女々しいことを言っているのが竜司だとしたら、みぞおちにお友達パンチを繰り出して、一発KOを狙っていたかもしれない。

 でも、俺は冷たく返すことも、何か敵対的な行動に出ることはどうしてもできなかった。だから俺は、ただ何も言わず、立ち尽くすことしかできない。

 

「……出てって」

 

 双葉の、突き放すような言葉に突き動かされるように、俺は部屋から出て、扉を閉じて。

 その場で、へたり込んでしまった。

 かさり、と音がなる。うみゃあ棒(お徳用)を、双葉に渡せていないことに、今更気付く。

 

「俺は」

 

 何をすべきなんだ? 今すぐパレスに行って、双葉の認知の歪みを取り除いてあげることか? トラウマを克服する準備ができるまで、待ってやることか? 何も言わずに、何も持ち出さずに、ただじっと見守ってあげることなのか?

 双葉に、何をしてあげられる? 双葉にとっての幸せってなんだ? 正義を押し付けるって、なんだ?

 

「……くそ」

 

 分からない。分からないことが多すぎる。人生の中で一番、頭の中がゴチャゴチャしている自信がある。自分が怒っているのか、悲しんでいるのかさえ分からない。

 佐倉宅を後にしながら、おもむろにうみゃあ棒(お徳用)をビニール袋の中から取って、包装や何やらを強引に開けて、口に放り込む。

 あんまりおいしくなかった。でも、サクサクと音が鳴っている時だけ、頭のゴチャゴチャを忘れることができた。



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9/29『Ego』

「何か、この世が終わる時のような表情をしていらっしゃいますが」

「別に?」

 

 神田。一二三がいつもいる教会。

 なんとなくこの教会に行って、なんとなく一二三と将棋をしている風に見せかける。一二三は、対局をしている人の心の具合を読む、ある種の異能的な何かを持っているから、今日は努めて、定石通りに指すことを心掛けていた。

 が。

 

「いいえ。嘘です」

「……」

 

 見抜かれている。バッチリ、俺が今色々と不安定であることを、読み切られていた。まあ、正直なところ、騙し通せるとは思っていなかったが。

 別に、弱っているところをまざまざと見せつけるために、ここに来た訳じゃない。

今、双葉が抱えていること。この問題に対して、何をどうすればいいのか、全く分からない。だから、その為の相談。俺は、数日前に貰った、『一二三相談カード』を早速切ろうとしていた。まあ、一二三の問題が解決していなくても、俺は一二三に助けを求めていたに違いない。

 

「それで、何でしょう」「え?」

「何か、私に聞いてほしいことが、あるんですよね」

「……」俺は、眼鏡をあげる仕草をした。「まだ、何も言ってないんだけど」

 

 話が早くて助かる。と、小説お決まりの文句の一つを言おうかどうか迷ったが、やめておいた。

 

 俺は、駒を打つ手を止めずに、俺が今持ちうる限りの情報を提示した。確か、すこし前までは指したまま話すことさえ辛かったんだっけ。そう思えば、着々と、俺も成長している気がした。まだ、一二三と双葉に、平手で勝った試しはないんだけど。

 さて。

 俺は、夏休みの時にマスターから聞いていた話や、夏祭りに聞いた話を、順に思い出した。

 

 双葉が幼い頃、若葉さんという母親をなくしているということ。その死を、全て自分の所為にしていた……こと。しかし、あまりにも辛い経験だったからか、その記憶を今はなくしてしまっているらしいということ。記憶をなくしているということについては、8月21日、つまり若葉の命日に、双葉がいつも通り俺と話していたことから、ほぼ確定だといっていいだろう。

 また、パレスが出現する条件は、悪いことを企んでいるかどうかではなく、認知が歪んでいるかどうかだということ。7月の下旬ごろ、アプリで確認してみると、双葉のパレスはなかったということ。

 若葉さんが『認知訶学』という学問を専攻していたこと。若葉さんの死は、自殺をではなく、他殺かもしれないこと。その可能性を、双葉には告げていないこと。

 そして最後に、双葉が過去と向き合うことを拒絶していること。

 ……。

 ややこしい。ややこしすぎるが、一二三なら理解してくれるだろうと、変な安心感がある。

 

「ふむ……」一二三は、さして顔をしかめるでもなく、考える素振りを見せた。「これが、貴方の知り合いの知り合いが置かれている、状況ですか」

「そうだ」俺は即答した。「俺の、知り合いの知り合いの話だ」

 

 因みに、ほぼ確実に、一二三はこのお話が、双葉であることを知られてしまっているだろう。そして、俺も、一二三に悟られていることはなんとなく分かっている。だから、この知り合いの知り合いの話……という下りに、あまり意味はない、と思う。

 それでも、一二三が無理やり話を合わせてくれているのは、きっと、一二三が優しいからだ。

 

「異世界……彼女の名前に、メメントスの反応はあったのでしょうか?」

「ああ」俺は、双葉の部屋に行った時のことを思い出した。

 

 一度、試したときには、アプリで双葉の名前を言っても反応はなかった。しかし今、現実や夢の中でさえうなされて、思い出しかけているならばヒットするんじゃないかと思い、もう一回、試してみたのだ。

 そしたら、ヒットした。しかも、パレスだ。双葉パレスが、認知世界の惣治郎宅に存在していた。キーワードが『墓場』であることが分かるのも、そう時間は掛からなかった。

 

「話は変わりますが」「?」

「この話……皆には、伝えましたか?」

「……」

「……そうですか」

 

 俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、一二三は目を閉じて、ゆっくりと頷いた。

 それからしばらくの間、一二三はずっと目を閉じたまま考えていたようだ。一二三の頭の中で、どのような読みと想像が入り乱れていたのかは、俺が到底知りえるものではないだろう。そして、俺がどれだけイイ感じに年を取っても、今頃繰り広げられている思考の速度には到底追いつけないであろうことは、想像に難くなかった。

 

「……一番、手っ取り早い方法は」と一二三は顔をあげた。「やはり、双葉さんのパレスを攻略することでしょうね」

 

 一二三は続けた。

 

「今すぐ、竜司……さんや、真さんにグループで連絡を入れて、集まって、認知世界へ侵入すること。その選択がどう転ぶのかは分かりませんが、今の状況に終止符を打つことができる」

 

 ジ・エンドです。と一二三は言った。

 

「ですが、今の状況を続けるというのは……正直、疑問手だと思います。彼女は、放っておいてほしいと言っている。そして貴方も、あまり多くの人に伝えたくない。分かります。ですが、私達ができることは、彼女を改心させること……つまり、パレスを攻略することしか、方法がないのではないでしょうか。貴方一人でパレスを攻略するなんて、もってのほかですし。……私を含めたとしても、攻略なんてとてもできませんよ……」

 

 一二三が言っていることは、どこまでも正しい気がした。きっと、俺達が結集すれば、双葉のパレスは攻略できる。パレスが果てしなく遠いのも、モナカーを使えばきっとたどり着けるだろう。そして、そこにいるはずのシャドウ双葉を倒せば、きっと。

 

「え、いや、まあ、はい。そうですね」と一二三が何故か、あちらこちらに視線を彷徨わせている。

「? どうした?」と俺は言った。

「えー、ええと、その……最近、私のペルソナが、進化? したんですけど」

「ええ?」

 

 初耳だった。

 

「レベルがあがったんでしょうか」

「レベリングシステムだったのか、あれって」

「通信交換した覚えも、ありませんし……」

「ペルソナを?」

 

 もっとなんか、こう、大切な切っ掛けが……あぁ、なるほど。あの時か。

 いや、しかし、どうして今そんな話になったんだ? 俺は、モナカーの話しかしていないはずだったが……。

 

「ああ、そのことなんです」と一二三は言った。「サンゾウの姿は、触れられないシルエットだったのですが、どうやら新しいペルソナは、触れるし……乗ることもできるらしいん、です」

「なるほど」と俺は言った。

 

 触れられることもできるし、乗ることもできるペルソナ。以前の俺だったら驚きのあまり卒倒していたかもしれないが、ヨハンナを持つ真が加入している今、驚くべき点はないだろう。

 

「それが」と一二三は言った。「どう見ても、車の形をしていて」

「ええ」と俺は言った。「まじか」

 

 車の形をしたペルソナ。それは即ち、モナカーという便利なスキルを持つ、モルガナのリストラを意味する。なんてことはないが、それにしたって、最近のモルガナは肩身の狭い思いをしすぎな気がした。帰ったら、何か好きなものでも奢ってあげよう……。

 

「ああ、でも」と一二三は言った。「スポーツカーなので、ええと、定員は二人だけなので。その、モナさんの活躍が、減ることはないかと」

「なるほど」と俺は頷いた。

 

 話が逸れすぎた。戻そう。

 俺は、一二三に今の状況の説明をした。それを打破する解決策として、一二三は『双葉のパレスを攻略する』という、素直な案を提示してくれた。一見非の打ちどころがない、真っ当な意見だ。

 でも。

 

「でも」「?」

「その選択が、本当に双葉にとって幸せなのだろうか」

「……」

 

 俺は顔を上げる。一二三は、俺のことをじっと見ていた。「聞かせてください」と、一二三がその目で語っていた。

 だから、俺は考える。今思っていることを言葉にしようと、考える。そして。

 口を開けた。

 

「パレスは、きっと、春も加入した俺達なら、攻略することができる。双葉の幻聴や、幻覚だってきれいさっぱりなくなると思う」

 

 俺は語る。

 

「でも、その時に必ず、双葉は過去と向き合わなくちゃならない。それが、どんなに辛くて、悲しい過去でも。……一二三は、過去の自分と向き合えたんだよな? ……『シャドウ一二三』という名の。俺も、昔やらかしてしまったことを、ちゃんとそれが正しいことだったんだと、ようやく最近思えるようになってきた」

 

 俺は語る。

 

「双葉はまだ、向き合いたくないと言っていた。……まだ、一二三のように、強くない。そして、あの時俺が一二三に言ったように、双葉に言ってやれる勇気がない。双葉が、自分の心と二度と向き合ってくれなくなるかもしれないから。……酷い記憶を思い出して、双葉の心が、壊れてしまうかもしれないから」

「……っ、じゃあ」

 

 一二三は、手をキュッと握っていた。

 

「どうする、つもりなんですか。このまま、双葉さんが苦しんでいるのを、黙って見ているんですか」

「そうだ」

「……!」

「俺達は、何もしない。双葉の過去に、何も一切干渉しない」

「それでは、意味がありません。双葉さんの――、」

「その代わり、双葉が忘れられるように、話して、沢山将棋をして、色んな所に連れて行く。認知世界や、怪盗団のことも、もう話さない」

「いや、ええと」一二三は首を振った。「はっきり言って、双葉さんの記憶力は化物です。……すぐに忘れられるとは思いません」

「でも、完璧じゃない。実際、俺と出会ってからしばらくの間は、全部忘れられていたように思う」

「ですが、状況の改善が見込まれません。現実逃避は、毒にはならないかもしれませんが……薬にもなりません」

「……」

 

 俺は少し、黙ってしまった。

 

「……時間さえ稼げば、それでいい。心の準備ができるようになるまで、待てばいいだけだ。希望的観測だけど、その間に忘れてくれるかもしれない。……人は忘れるから、生きていられる……と、誰かが言っていた」

 

「私は、それでも双葉さんを救うことが、正しいと読みます」

 

「俺は、自分の正しさを双葉には押し付けたくない」

 

 それきり、一二三は俺から目を逸らしてしまった。苦々しい表情を浮かべて、荒れに荒れた盤面を見つめていた。

 

「……やっぱり」と一二三は言った。「双葉さんの意思に関係なく、今すぐにでも、パレスを攻略して……改心させてあげたい」

「……意思に、関係なく?」確かめるように、俺は一二三を見た。

「はい」一二三は頷いた。「双葉さんは今、トラウマとは向き合わずに、忘れようとしているんですよね? 改心させることは即ち、双葉さんにできている腫れ物を直で触るようなものです。……もしかしたら、双葉さんに嫌われてしまうかもしれません」

「き、嫌られ……」

「しかし、嫌われることによる対価はあります」俺の反応を待たずに、一二三は続けた。「今、改心させてあげることは、対症療法でもなんでもない、根本的な解決です。そして手間が掛からない。嫌がられても、改心させた後なら、双葉さんが考え直してくれるはずです」

 

……。

双葉が、俺を袖にする覚悟で突撃する。まさに当たって砕ける、ハイリスクハイリターンの荒技だ。

 

「問題は、あなたに、それを行う勇気が――」

「ないよ」即答だった。「あるわけないだろ」

 

流石にここで、愛する人のためならどうたらこうたらと言って、一二三に格好をつけられるほど、俺は達観している人じゃない。

 女々しい考えかもしれないが、それは……いや、女々しい以外にないか。

 そして一つ、一二三の話を聞いて、分かったことがあった。

 結局のところ。

 俺はただ、怖いだけなのだ。

 これ以上、双葉から拒絶されることが。

 これ以上、双葉のつらい表情を見ることが。

 怖くて、たまらない。

 正しさがなんだ、押し付けるがなんだ。俺は、麻倉パレスで苦しむ一二三に、真実と向き合えと、あれほど話したじゃないか。

 そんな彼女に口をつくなんて、余りにもおこがましい。

 

「……結局」気づいたことを、俺は、二文字で纏めることができた。「俺のエゴだということか」

「そうですね」頷いて、一二三は意外にあっさりと俺の言ったことを認めた。「でも一つ、勘違いしないでください」

「勘違い?」と俺は言った。

「人それぞれの指し方があります、ので。今私が挙げた一手は、貴方の棋風とは異なっています。……最善手ではないかもしれませんが、きっと貴方に相応しい手が……あるはず、なんですけど」

 

早口でまくし立てながら、一二三は額に皺を寄せた。将棋をしている時でさえ滅多に見せない、珍しい表情だった。

 

「……難しい。本当に、難しい」一二三はさらに、俺に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、一人呟いた。「将棋と人生、異なる点を一つ挙げるとするならば、持ち時間の明確さなんです。今、逼迫した状況にあるのか。それとも余裕があるのか。秒読みで、もっともらしい手を指し続けるしかないのか。じっと盤面を見てさえいれば、自ずといい手が思い浮かんでくるのか。手がかりがない以上、自身の第六感を信じて、行動に出るしかない」

 

 だから、貴方の考えを、支持します。と、一二三は言った。

 

「残念ながら、私は貴方ほど、双葉さんのことは知りません。私より多くのことを知った上で、貴方がそうだと思うのなら。……私は否定することが、できません」

 

 と一二三は苦笑した。

「一二三」と俺は言った。が、その先の感情を、言葉にすることはできなかった。

 でも、一二三の笑顔を見て、憑き物が落ちた感覚がある。ただ俺は、一二三に俺が想っていることを認めてもらうために、ここまで足を運んだのかもしれなかった。

 

「ですが」

「?」

「将棋も人生も、どちらも状況を濁すための……対症療法なら、あります」

 

 と言った一二三の頬が、心なしか朱に染まっている気がした。

 それが決して勘違いではないことを、俺はかなり後になって知ることになる。

 



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9/30『Fool』

 俺はあまり、例えばパツキンモンキーのようによく汗を掻く人ではないのだが、今年の猛暑は流石に堪えた。朝目を覚ますと、特に首のあたりが汗でベタついている。こちらからはあまりニオイはしないが、モルガナが毎日顔をしかめていることから判断する限り、体にまといしその汗を、洗い流さないまま1日を生活するのは、衛生的な面からも躊躇われた。

 ということで、朝風呂である。富士の湯。夜にもう一度行かなくてはならないから、一日1000円。高校生にとっては手痛い出費が、夏休みに毎日それが続いたのだから、31を掛けて、31000円。自分の汗を流すだけでこうも出費がかさむのが、あまり納得はいかない。

 しかし、今日からはもう10月。時折吹く風が、もう夏をすっかり忘れてしまったような空気をはらんでいた。気温もずんずんと下がってきて、「別に、わざわざ銭湯に行かなくてもよくね?」と思う日も増えた。流石に行くけど。

 「風呂から出た後に、後悔している人はいない」という箴言を思い出して、俺は富士の湯へと赴き、服を脱ぎ、惣治郎宅のものとよく似た、すりガラスの扉を開ける。

すると。

 

「よぉ」

 

 マスターがいた。体より頭が先派のマスターは、頭の上に沢山の泡を作り上げていた。俺はどうも、と言って、躊躇なく彼の隣に座り、体を洗い始める。

 

「随分と、涼しくなったもんだな」

「そうですね」

 

 俺は、ほとんど何も考えずに、マスターにそう返した。一二三や双葉ほどではないが、会話中にしばしば発生する、変な間を嫌うことも少なくなった。双葉に関してはもう、何も言わなくても意思疎通ができると、俺は自負している。

 

「これで、電気代が浮けば、いいんだけどよ」

「……なるほど」

 

 電気代とは、つまりは双葉のクーラー代のことを言っているんだろう。設定温度は17度。更には、「ここで食べるアイスが、イイとは思わんかね」まで言い出した。流されるがままに、一度食べてみたのだが、ただ唇が青くなっただけだった。

 

「あの」「なんだ?」

「一つ、質問があるんですけど」

「言ってみろ」

 

 誰についての質問なのかは、言わずもがなだろう。

 先日、一二三と会話をしている時に、今までマスターから、双葉や若葉さんについての話を聞いたことを、ほぼ洗いざらい思い出した。

 思い出し尽くした。けど、一つだけ、気になることがあったのだ。

 俺は周りを見渡した。俺とマスター以外、誰もいないようだ。まあ、誰かが入ってきてしまったら、改めてルブランで話せばいいだろう。

 

「若葉さんの、ことなんです」

「……そうかよ」

「マスターは……若葉さんは、他殺かもしれないと、言ってましたよね」

 

 誰かに殺されるかもしれない、と、生前若葉さんはマスターに仰っていたという。

 

「……またその話か――」

「でも、そんなはずがない」マスターの言葉を遮るように、俺は言った。

「……はずがない、だと?」

 

 はい、と言って俺は頷いた。

 

「若葉さんが誰かの手によって殺害されたのだとしたら、彼女の身に起こったことは、飛び込み自殺を装った他殺。例えば信号待ちをしている時に、後ろから背中を押されたのかもしれない。……でも」

「でも?」

「すぐ側に……双葉が、いた。手を繋いでいたのかもしれない。後ろについて、一緒に待っていたのかもしれない。……その状況で、その、犯人が若葉さんの背中を押せると思いますか? 双葉に、顔を覚えられるかもしれない、危ない状況で」

「……愚問、だよ」

 

 マスターは、吐き捨てるように言った。

 

「もし見つかったとしても、若葉が押された時、きっと双葉は、「誰が押したのか」なんて考える余裕が、ある訳がない。ただ、若葉を見ていることしか、できなかったはずだ」

 

 この話はもう、終わりにしろ。

 マスターの短い言葉は、シャワーの音で掻き消された。

 俺も蛇口をひねる。まだ髪は洗ってはいなかったが、頭からシャワーを被る。流れ出した水滴が、段々と鬱陶しくなってきた髪を滑り落ちる。

 

「……そうですね」

 

 水が、髪に馴染んでくる。額を伝って、目じりの横を通り、頰を流れ、顎で溜まり、下へと落ちていった。

 マスターの言う通りだった。

 双葉が近くにいようが、若葉さんが危機に晒されている状況の中で、双葉が周りに気を配る余裕を持っているはずがない。

 

「そうですね」

 

 たとえ、車に引きずられ、赤色の何かでアスファルトを汚して、変り果てた姿になってゆく自分の母親をただ見つめることしかできない彼女の娘が、どのようなことを思おうが、心にどれほど大きな傷を作ろうが、それは双葉だけの問題であって、犯人の問題ではない。

 

「……」

 

 頭の中は、一週間置いた双葉の部屋のように、ゴチャゴチャとしていた。マスターに、何を伝えたいのか。伝えたところで、どうしたいのか。分からない。分からなかったので、俺は別のことを考えることにした。

 あの、と俺が言うと、マスターはあからさまに嫌そうな顔をした。「まだ何かあんのかよ」とでも言いたげなその表情に、ちょっとだけたじろいでしまったが、ここは一二三が提案してくれた『対症療法』を信じるしかない。

 マスターに向き直る。掛け湯の熱で少しふわふわとした気持ちになっているけれど、そこはちょっと抑えて、髪の毛一本分冷静に。

 

「双葉の住む部屋を、変えてもいいですか?」

 

 

 

 

 

「双葉さんの幻覚症状が、今のところ、殆ど双葉さんの部屋のみで確認されているとしたら」

 

 環境ごと、変えてしまえばいいんじゃないでしょうか。と、一二三は言った。

 言われてみればそうだった。ハワイのホテルで見た、悪夢にうなされている事例を除いてみると、五月頃にあったものと、昨日確認したものは、どちらも双葉の部屋でのみに発生している。双葉パレスも『佐倉惣治郎宅』、引いて言えば『双葉の部屋』に存在しているのだから、双葉の諸症状が、双葉をとりまく環境に起因していたとしてもおかしくはない。

 だから、双葉が住んでいる場所を移す。しばらくの間、あのパソコンで溢れかえっている部屋から、双葉を引っこ抜く。そして、あの一戸建ての空き部屋の一つに、双葉を放り投げる。

 双葉のトラウマが解消されたことにはならないが、苦しめられている幻覚や幻聴から逃げ出せる可能性がある。根本的な治療ではないが対症療法だ、と一二三が言ったのは、つまりはそういう意味だ。

 

「……分かったよ」

 

 意外にも、マスターはその提案を受け入れてくれた。どうやら、時々扉越しの双葉の様子がおかしくなっていることを、薄々感づいていたらしかった。もちろん、説得する際にパレスや認知世界等の名前は伏せてある。ここで一つ得をしたことが、長時間サウナに入る苦行からお互いに免れたことだった。

 そして。

 

「ただいま」

 

 俺はルブランの戸を開けた。今日は一人、常連さんが来ているらしかった。気にしていないかもしれないが、とりあえず彼に会釈をして、階段を昇った。横を通り過ぎる際に、何故かマスターが恨みがましい視線を投げかけて来た理由は分からなかった。

 ギシギシと音が出る階段を鳴らせながら、双葉がプチ引っ越しをした場所を想像した。確か、二階にはもう一つ部屋があったはず。そこに移動したのかもしれない。LINEでまだ連絡が来ていないことが、少し気掛かりだな。

 モルガナが入ったカバンを降ろして、一息つく。いつもと変わらない、怪盗道具を制作している机、アナログテレビ、筋トレで使っている柱、皆からもらった置物やアクセサリーを飾っている棚、パソコン、パソコン、パソコンパソコン……。

 え?

 

「え?」

 

 部屋中に散乱するデスクトップパソコンやらノートパソコンやらが視界に入って、ようやく俺は自室に違和感を見つけた。おかしい。明らかにパソコンの量が多すぎる。闇ネットタナカのサイトを開くぐらいしか、パソコンの使い道を知らない俺の部屋に、溢れかえるほどのパソコンが置かれていた。どう考えてもおかしい。まるで、ここは彼女の部屋のようで――、

 

「よ」

 

 俺のベッドの上で蠢く物体があった。というか双葉だった。俺に見向きもせず、パソコンに釘付けになりながら曖昧に右手をあげていた。明らかに、犯人は双葉のようだ。

 

「双葉の仕業?」

「なにがー?」

「いや」と俺は言った。「この、パソコン」

「そりゃ、だって、持ってこない訳にはいかないじゃん」

「ええ?」ますます訳が分からない。「いや、部屋に来るにしたって、いつもノートパソコン一つで済ませていただろう? ……あと、引っ越しの件、は……」

 

 言葉が詰まった。メンチを切ったマスターの目を思い出した。冷や汗がぶわっと全身から溢れ出した。

 

「え、い、それって」

 

 あまりの驚きに、言語能力が著しく低下した俺は、ただ意味のない言葉を口から出すしかなかった。

 

「え……だって」双葉の頬が、朱に染まった。「そういうことでしょ?」

 

 そういうこと。双葉の引っ越し先、イズ、ココ。

 ……一二三が恥ずかしがっていたのは、そういうことだったのか。

 

「ね、寝るベッドもい、一緒だよな? な?」

「……あほ」

 

 そんな極限の状況で。

 俺は、何の捻りもない突っ込みを繰り出すことしか、できなかったのだ。

 



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10/3『Eye』

「やるぞ! ゲーム!」

 

 双葉がここで暮らし始めたからと言って、特にこれといって変わったことはなかった。

 朝に双葉とマスターが作ってくれたご飯を頂く。昼食までの間、話したくなったら適当に喋りつつ、双葉は最適なアルゴリズムの導出、俺は図書室から借りてきた本を読む。昼に双葉とマスターが作ってくれた以下略。

 同棲という二文字から想像されるような、めくるめく桃色的展開なんてなかった。というか、マスターが下の階で目を光らせている以上、変えられるものも変えられない。一つ変わったことをあげるとするならば、一日の四分の一を過ごす場所が、ベッドからソファになったくらいのものだ。

 

 

「よし……なんとか動いたな」

 

 双葉が大きなカセットをゲーム機器に挿入すると、『豪血寺一味』という字がデカデカと書かれた画面が表示された。最近日本でも脚光を浴びつつある、対戦型の格闘ゲームだ。

 双葉はもっと、複雑で解像度が高い、最新型のゲームをしているイメージがあったから、わざわざレトロゲームを選んできたのは、かなり意外だった。

 

「ふっふーん」と双葉は言った。「分かってないなー。レトゲーの良さ、今日はその身に叩き込んでやる!」

 

 ふしゅー、と、荒い息を鼻から吐いて、双葉は一方のコントローラーを掴んだ。そして、チラチラと俺を見ながら、隣の椅子に座るよう目配せしてくる。俺も俺でゲームの快楽に溺れてしまいたかったが、しかし。

 

「双葉」

「ん?」双葉は首をかしげた。

「今日は、月曜日だ」

 

 学生は、学校に行かなくてはならない。

 

「あー……」と双葉は言った。「昨日、一昨日ってずっと遊びっぱなしだったから、すっかり忘れてた。まだ、夏休み気分が抜けてないか?」

 

 もう夏休みが明けて一ヶ月も経つぞ、とついつい言いたくなったが、双葉はここ最近ずっと夏休み気分を味わっているのに気づいたので、指摘するのはやめておいた。

 

「で、でもさ。一戦だけやんない? 一回だけなら電車間に合うかもだし、仮に遅れたとしても、そんなにダメージ入んないし」

 

 これ以上ない名案だとばかりに、双葉は大げさに頷いている。俺も同調して首を縦に振りたくなる、衝動をなんとか抑えた。双葉の遊びや行動にできるだけ付き合うのが当面の俺の目標であることは確かだが、甘やかしてばっかりなのもそれはそれで問題だろう。あと、俺はあまり遅刻くらいしてもいいという考えはもっていない。秀尽学園への登校初日で遅刻してしまったことには、ひとまず目を瞑っておくと幸せになれる。

 

「いや」と俺は言った。「今は、難しい。ゲームなら、いつでもできるだろう?」

 

 その後、双葉がしぶしぶ頷いて、そしてこの会話は終わるのだと俺は思っていた。日頃のやり取りと変わらない、たわいのない話だと思っていた。

 

「……学校の方が、大事?」

 

 けれど俺に向けられたのは肯定の言葉なんかじゃなく、双葉の怪訝そうな目だった。

 

「え?」

「私より?」

「そういう問題、じゃ」

 

 質問の意図を考えるより前に、俺は頭の中で適当な理由を探していた。

 

「ないよ。マスターはマスターだし、俺は学生だ。だから、マスターはルブランを経営しないといけないし、俺は学校に行かなくちゃならない義務がある」

「そ、そんなの」と双葉は言った。「高等教育は、別に義務なんかじゃ――」

「ああ、ああ。そうだな」

 

 双葉に変な理屈を捏ねくり回される前に、俺は機先を制して言った。

 

「でもさ、ええと、ほら、皆が心配するから。竜司は常習犯だから何とも思われないだろうけど、俺が『双葉とゲームをしてたら遅くなった』なんて、正直に言う訳にもいかないし」

 

 どこにでも踏み越えてはいけない境界がある。俺はまだ朝の冴えない頭で、ひとまず双葉を甘やかさない境界を、そこに引くことにした。

 

「だから、分かってくれ、双葉」

「うぅ……」

 

 いつしか双葉は、目に涙さえ浮かべていた。どうして双葉はそこまで心を乱しているのか。分からない。途端に罪悪感が芽生え始めてきた。でもここで許してしまっては元も子もない。でもでも、双葉を泣かせてしまうことだけは絶対にダメだ。

 

「じゃあ、約束」

「約束?」双葉は俺を見た。

「うん、約束」

 

と俺は言った。

 

「もうすぐ今、手を焼いていることは終わる」

 

 今週の金曜日に前倒しになった、奥村の記者会見の予定を俺は思い出した。

 

「終わったら双葉の好きなところに連れて行こう。家でゲームをしても、将棋をしてもなんでもいいから」

「うん……うん、分かった」

 

 ようやく双葉が顔を上げて笑顔を見せてくれた。

 

「約束」

「うん、約束」

 

俺は恥ずかしながらも指切りげんまんをして、それからルブランを出た。電車はギリギリ間に合う時間帯だ。急いで走らなくては。

 

「双葉の目、笑ってなかったぞ」

「……気のせいじゃないかな」

 

 鞄から聞こえてくる声を振り切るように、俺は四軒茶屋駅まで走り続けた。

 

 

 

 

 

「やあ」

 

 乗り換えの電車を待っていると、不意に後ろから声を掛けられた。

 

「ああ」

 

 俺は手を上げて、彼に気付いている意志を伝えた。

 

「奇遇だね、こんなところで会うなんて。今日はいつもと乗った電車が違ったのかな?」

「ああ、うん」

 

 言いながら、高校生探偵として知られている明智吾郎は、愛嬌のある笑みを浮かべた。笑顔の練習をしているのなら、そんな誰からも好かれそうな笑みにも納得がいく。でも、その屈託のない表情が天然ものなのだとしたら、彼は人に好かれるためだけに生まれて来たのだと誰かから言われても、頷かざるをえないだろう。

 

「いやぁ」明智は笑ったまま、俺に言った。「それにしても、最近は涼しくて過ごしやすくなってきたね。仕事柄、この黒い手袋はつけておくようにしているから、夏はあまり好きじゃないんだけど」

「ああ、うん」

「君はどう? 一年間ずっと、ある季節のまま時が止まったとしたら、どんな季節だったらいい?」

「え? あ、あー。えっと」

 

 淀みの無い、流れるような明智の話術に、俺は一瞬思考が遅れてしまった。それにしても、明智のようなコミュニケーション能力の高い人は、どうしてこんなに話題を出すことがうまいんだろう、と素朴に不思議に思う。彼からはもっと、学ぶべき部分がありそうだ。

 と、全く関係のないことを考えている間、回答を準備する時間が過ぎていった気の利いたことを思い付く暇もないまま、

 

「ああ、うん、どうかな。やっぱり、季節は沢山あった方が楽しいと思う」

 

 と、捻りもなにもない、残念な言葉が俺の口から絞り出されていた。ううん。

 

「うん、そうだね。あはは……やっぱり、君から学べることは多いよ」

 

 明智は神妙に頷きながら、俺の平凡なゴロを肯定してみせた。明智の性格からしたら、俺が何を喋ろうとも、頷いてくれていたのかもしれない。いい奴すぎる。明智のそんなたらし性によって、心を奪われた女性の数は計り知れない。

 

「あ、そうだ」突然思いついたように、明智は言った。「折角会ったことだし、聞いておこうかな。この前の問いに対する、答えをね」

「問い?」

「うん」と明智は言った。「君にとっての、正義とは何?」

「ああ」

 

 と俺は言った。俺は前にした明智との会話を思い出した。そういえば――、

 ――そんな質問を、前にもされたような気がする。

 

「ほとんど、受け売りに近いんだけど」

「うん、何?」

「……いや、やっぱりやめておく」

 

流石に、『守りたい人を、何がなんでも守り切ること』なんてそんな恥ずかしいこと、誰の前でも言えるはずがない。

 ……秋葉原で出会ったお姉さんは、今でも元気にやっているだろうか。

 

「なんだよ、つれないなぁ」明智は肩をすくめた。「結構、君とは親密になっていたと思ったんだけどな」

 

 苦笑いの明智に、俺は照れ笑いで返した。

 いや、けどまあ、そうか。

 

 明智と二人で喋ることは実際、あまり()()()()()()()()()ような気がする。

 

「ま、いいけど。聞いたのも、それなりに前のことだったしね」

 

 意外にも、明智はあっさりと引き下がってくれた。それは明智の踏み込まないキャラ故のことなのか、それとも単に興味がないだけなのかは分からなかった。

まだ電車が来るまで時間があった。もう一つくらい、話題を出すことができるだろうか。明智にリードされてばかりでは申し訳がない。何か話題を、ええと……そうだな。

 

「奥村」「え?」

 

 咄嗟に思いついた単語を口にした。そこからなんとかまとまった話題にしようと、頭で文章を考える。

 

「ええと、ほら、記者会見」と俺は言った。「前倒しで、今週の金曜になったらしいな」

「ああ、うん、そうだね」

 

 来週の月曜日に開かれる予定だった、オクムラフーズ社長、奥村邦和の記者会見。前々から開かれると予告されていたことだったが、最近、予定を四日早めたその日に行われるらしいということが、ニュースで流れていた。

 

「でも、よく知ってるね」

「まあな」

 

焦って変なことを言わないように、俺は努めて冷静を装って言う。

 

「やっぱり、見るのかい?」

「いや、ええと、どうだろう」と俺は言った。「遊ぶ約束……というか、予定があるから。行った先で見ることになるかもしれない」

「行った、先?」

 

 ここで明智は、まるで初めて俺の言うことに興味を持ったように、突っ込んで訊いてきた。あまり声高々とリークすることはないかもしれないが、変に隠したってしょうがないだろう。俺は握りこぶしを頭に乗せて、ネズミのマスコットの真似をしたつもりになる。

 

「あはは、ああ、なるほど」明智は笑ってくれた。「そりゃ随分と、楽しそうな予定だね」

 

 どうやら場を湿らせずにやり過ごせられたようだ。一難が去ったことに胸を撫でおろしていると、遂にお待ちかねの電車が来た。コミュ強と話をするのは確かに楽しいが、双葉や一二三と話しているときの軽く十倍はエネルギーを持っていかれる気がした。俺は別れの挨拶とばかりに手を上げて、そそくさとその電車に乗った。

 

「じゃあね」

「ああ、じゃあ」

 

 明智が視界から消えていく。すると、ゴソゴソと鞄の中から物音が聞こえてくる。

 

「アケチの目も、なんだか笑っていなかったぜ」

「……ダウト」

 

 これ以上、悩み事を増やさないで欲しい。だからそれもやっぱり、気のせいに違いないのだ。

 車内は相変わらず人でごった返している。その中で、椅子に座れていないことに何故かイライラしている自分に気付いた。

 

「……」

 

 なんとなく眉間を揉んでみる。そう言えば、イライラの原因の殆どは睡眠不足だと、どこかのエライ人が言っていた気がする。

 今日は早く寝よう……。

 




モチベーションが死んでいたので、気つけにとP5Dを購入しました。双葉かっこかわいい。だがしかし、一二三がいない。


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10/7『X』

 日本で一、二を争う遊園地の貸切。メメントスを数百回往復しなければ得られないような料金を目の当たりにして、夢の国に入国する前まで俺は戦慄していた。というよりしろ、緊張でブルっていた。回らない寿司屋にマスターが連れて行ってくれた時に、時価と書かれたウニに戦々恐々して結局頼むことができなかった俺に、莫大な予算を必要とするこの行事に、俺が心から楽しめるわけがない。そう踏んでいた。

 しかし、デスティニーランドは凄かった。より詳細に説明すると、デスティニーランドの店員さんが凄かった。どのアトラクションの店員さんも、厳しい現実を忘れさせてくれるような、そんな魔法のような笑顔を俺たちに振りまいてくれた。そんな訳で、俺はそれなりに、いや、十二分に良い夢を見ることができている。

 

「双葉ちゃんも、来たらよかったのにね」

 

 どのアトラクションも適度に乗っていた杏は言った。他のメンバーも、彼女の言葉に頷いていている。唯一心配そうに、俺に目配せをしていたのは一二三だ。

 

「ああ。だが、用事があるらしくて」

 

 嘘だ。双葉には今日、大切な用事があるとは言ったが、デスティニーランドに行くとは言っていない。理由はもちろん、双葉を怪盗団から遠ざけるためだ。素直に招待することも考えたが、その場合、怪盗団の話を双葉の前ではしないよう、皆んなを説得するための別の嘘を用意する必要があった。

 

「でもよー実際。お前は強引に連れて行きたかったんじゃねぇのかよ。だって……な? 彼女と遊園地デートゥボェ!」

 

 開園早々、名前にジェットコースターと付くジェットコースターを全て乗り回し、目も回していた竜司がなんか言っていた。心なしか、顔面が蒼く白く染まっている気がする。

 

「いや、まあ。けど、双葉の予定も優先したいし」

 

 これも嘘だ。一緒に遊園地を楽しみたかった。夏祭りでの経験もあって、双葉は人混み嫌いを克服したようだが、かと言って人混みが好きになることはない。だから双葉と俺が心置きなく夢の国に入られるタイミングは、今しかなかったと言っても過言ではないだろう。でも、双葉が過去を思い出してしまう可能性の芽は、なるべく潰しておきたかった。

 何気なしに、視線を彷徨わせてみる。どこを向いても、どこで写真を撮っても、幻想的できれいな風景が映っている。とりわけ、俺たちを見下ろすように聳え立っている大きな城は、夜の雰囲気に当てられて中々の迫力があった。時々、思ったよりも静かな花火が夜空に浮かんでいる。

 花火で思い出すのは、やっぱり今年の花火大会だ。あの日から、俺と双葉の関係はゆっくりと始まった。

 でも、その日と同じくらいに、大切で忘れがたい1日があった。四月九日。屋根裏部屋での下宿初日。ベッドの埃に甘んじて、かつマスターが携帯を忘れてさえいなければ、双葉との出会いは全く異なったものになっていただろう。そう思うと、あの天下のインスタント焼きそばが、俺たちを引き合わせてくれたと考えられなくも……いや、それでは全く趣がない。全然あはれじゃない。やっぱりあれは必然の出会いだったのだと、そう思うことにしようか。

 思い返せば、全部が楽しかった。泣けるくらいに楽しかった。双葉にUFOをタダ食いされたこと。双葉の部屋にうみゃあ棒を持ち込んだこと。双葉の偏った知識に困惑したこと。やや強引な理由で双葉を富士の湯に拉致したこと。湯上りの双葉にUFOをご馳走したこと。

 双葉と真の尾行を突き止めたこと。双葉の部屋に、掃除をしに行ったこと。盗聴を責められた双葉と、仲直りをしたこと。双葉が一二三に将棋で勝ったこと。双葉と秀尽学園に訪問したこと。双葉と作った盟約ノートを完成させたこと。双葉と花火大会に行ったこと。

 双葉と居間でスイカを食べて、一二三をメンバーとして迎えて、麻婆豆腐を作って、海に行って、ハワイに行ったこと。

 それくらいの、いや、それ以上の幸せをこれから将来、双葉と積み重ねていけるのだろうか。俺は双葉との思い出を思い出す度に、時々不安になる。それは半分本気で、半分惚気のどうしようもないものなのかもしれなかった。でもこの不安を止められる訳もないし、これからも避けられない不運と苦境は、きっと俺たちを襲ってくる。

だから、一二三のような、尊敬できる人に相談する。マスターのように、薄暗い感情の まま、一人でじっと考え込む。時には双葉のように、天真爛漫に振舞ってみる。そんな対策法と心の処方箋は、俺が今まで過ごしてきた中で手に入れた、掛け替えのない友人と経験によるものだ。

 だから、きっと、大丈夫なはずで。何も思い詰めて苦しむことはなくて。睡眠不足で疲れる必要も、ない。

 俺は納得して、深く沈んだ思考を上へ上へと引っ張り上げる。すると次第に、みんなの声が聞こえ始めてくる。

 

「始まるようです」

 

 一二三が顔を上げた。祐介も真も、各々自分のスマホの画面を見つめている。もうそろそろ、奥村の記者会見が始まる時間だ。

 

『本日はお忙しい中、弊社にお集まりいただきありがとうございます』

 

「ドンピシャだな」

「お父様……」

 

 記者会見は恙なく進行していった。社員に過酷な労働を強制したこと。食品の衛生管理がずさんだったこと。企業の実態を奥村は真摯に語りかけていると、俺には思えた。

 一通りの会見があった後に、質疑応答の時間に移っていった。奥村の怒りを引き出すのが目的の、煽りを含んだ質問にも、奥村は冷静に対処していた。

そして。

 

『――まずは、ここまで間違いありませんよね?』

『……はい』

『それって、偶然なんでしょうか? そこのところ、どうなんです?』

『……』

 

初めて、奥村は間を空けた。その間に、鳴り響くシャッター音が、やけにうるさかった。

 

『それについては、重大な発表があります』

 

「いよいよだな……」とモルガナが言った。「オクムラが、廃人化の話をするぞ」

 

 いよいよだった。もうすぐ、奥村との一件に片がつく。双葉と遊びに行ける。表情が少し浮ついているように見える、心配そうに父親を見つめる春以外の皆と同様、はやる気持ちをなんとか抑えていた。

 会場が一瞬、静寂で満たされる。奥村は、口を開いた。

 

『実は……あ……あぁ』

 

 初めは、奥村が犯人の名前を告白することを躊躇っているのだと思った。でも明らかに黙る時間が長すぎる。奥村の様子がおかしい。

 

「え、え……なに、これ?」

 

 奥村は必死の形相で胸を抑えた。目を剥きながら天井を見上げ、苦しそうに喉を詰まらせている。それが演技ではないことは、誰にでも分かった。

 突如、奥村は何かを吐き出して、下を向いた。表情は、この画面からは知ることができない。

 そして。

 

「ひっ……」

 

 杏の小さな叫び声が聞こえた。わずかだが、会場からの悲鳴も聞き取ることができた。おぞましい表情に変わり果てた奥村は、数刻画面に映ったのち、社員の陰に隠れていった。

 

「え……?」

「お、お父様……!?」

「な、なんか、いきなり倒れたんだけど!」

 

 あの姿、そしてあのタイミング。皆口では言っていないが、奥村の身に起こったことを考えるなら、あれは廃人化……による、症状か。

 しかし、なぜだ? シャドウ奥村は、前の四人と同じように、ちゃんと改心させたはず。だとしたら、何が原因となって、奥村が廃人化してしまったんだ?

 周りを見渡してみると、口々にみんなが慌てる中ただ一人、一二三だけが額に汗を浮かべて何かを考えていた。俺もそれに参加しようと、もう一度考え込む姿勢を取ろうとした俺の行動は、けたたましく鳴り響いた着信によって防がれた。

 俺は慌てて、ポケットにしまいかけたスマホを持ち直した。着信元は『佐倉双葉』。ノータイムでスマホを耳に当てた。

記者会見の後に掛かってきた双葉からの電話が、果たしてただの偶然なのだろうか?

 

「双葉?」

「あ……カレ、シ」

 

 スマホ越しに聞こえてくる双葉の声は、ひどく元気がないように思えた。

 

「どうした?」

「今日……いつ、帰ってこられそう?」

 

 俺はもう一度、周りを見渡した。まだ場は騒然としていた。更に今は、四茶から遠い埋浜にいるのだから、すぐ帰られそうではない。

 

「いや、まだちょっと、難しいかな」俺は素直に答えた。

「……分かった」

 

 やっぱり何か、元気がない? という双葉への質問は、彼女からの新しい質問に被せられた。

 

「ねぇ」と双葉は言った。「明日、遊びに行けるよね?」

「え?」

 

 なんで今、その話を持ち出すんだ?

 

「分からないよ」と俺は言った。「分からない」

 

 今、明日のことを考えていられる余裕がなかった。今すべきことにばかり、思考が寄ってしまっていた。その言葉が、双葉にどう解釈されるのかというところまで、頭が回っていなかった。

 

「……うん、分かった」

 

 だから、双葉が頷いてくれたことに、安心してさえいたのだ。

 

「うん、じゃあ」と俺は言った。

「サラバダ」

「サラダバ……え?」

 

 電話が切れた。双葉から電話を切ることはあまりよくあることではなかった。するともしかしたら、珍しく双葉が気を遣ってくれたのかもしれない。

 

「お、おい、モルガナ……これ、どういうことだよ?」

「そんな馬鹿な! ありえない」

「……私たち、間違ったことはしていない……よね?」

 

 依然と、場の混乱は続いている。春は、まだスマホで見たことが受け入れられないのか、茫然と立ち尽くしている。祐介まで、今が冗談を言えるような状況ではないことを、悟っているようだ。

 俺は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

>奥村やみんなが気になる。

>双葉が気になる。

 



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10/7『Misdirection』

鬱展開注意。選んだ選択肢に従ってお読みください。
また、ネタバレ防止のため、書いてくださった感想は全て書き終わった後に返信させていただきたいなと考えています。


>奥村やみんなが気になる。

 

 

 

 

 

 春や、みんなとの話し合いが終わり、電車でルブランまで戻ってくると、なぜかマスターが肩を落として座っていた。

 

「今日はもう、閉められたんですね」

 

 ドアノブに掛けられた板が、『CLOSE』と書かれていたことが気になり、俺は言った。

 

「ああ。ちょっとな」

 

 とマスターは言った。心ここにあらず、といった感じだ。

 そっとしておこう。そう思った俺は、奥まで行って階段を上った。元気がなさそうに見えた双葉が気になる。一段、二段と足を階段に乗せていると、

 

「双葉はいねぇよ」とマスターは言った。

「え?」

 

 双葉が、いない?

 

「ああ」とマスターは言った。「以前、双葉を俺が引き取る前に、住まわせていた奴がいてな。ああ、ほら、あれだよ。前、俺に金せびってた胡散臭いやつ。あいつだ」

 

 金せびってた胡散臭いやつ。俺は、少し前に奥村パレスから帰ってきたときに、マスターに言い寄っていた陽気な初老男性を思い出した。

 

「あいつがまた来た。双葉は二階にいたから、当然俺たちが気になって降りてきた。双葉に……ひでぇことをさせていたのに、あいつはなんとも思ってないように、双葉に話しかけた。それで……双葉は……」

 

 ちょっと、思い出しちまったらしい。とマスターは言った。

 

「あいつの顔と声を見るなり、双葉が頭を手で押さえて叫びだした。怖い、怖い、ごめんなさい……ってな。どれだけ双葉を呼んでも、あいつの声にも俺の声にも反応はしなかった。ただあいつが、あいつだけが双葉を見て笑ってたよ」

「それで、双葉は」

「突然、双葉が走って外に出てった。追いかけて扉を開けた頃には、双葉の姿はもうなかった。あいつは放っておいて、俺は家に帰って双葉を探した。でも、いなかった。玄関にも、居間にも、鍵が開いてた双葉の部屋にもいなかった。寿司屋にもいなかった。四茶の駅前にも、駅のホームにもいなかった」

 

 眩暈がした。階段を駆け上がった。でも、マスターがいない間に帰ってはいなかった。俺は鞄を床に置いて、階段を下りた。

 

「お前の元に行ってると思ってたんだが。そうか。ダメだったか。……でも、そのうち――」

 

 俺はマスターの話を最後まで聞かずに、ルブランを飛び出した。双葉が行った場所。逃げた場所。俺はかつて双葉と行ったところを思い出していた。

 でも一つ、気になることがあった。俺は駅に向かいかけていた足を強引に回して、方向転換を切ってルブランに戻ってきた。

 

「おじさんが、来たのは」と俺は言った。「何時ですか」

 

 マスターは、奥村の記者会見が始まった時刻の、ちょうど半時間前の時間を言った。俺は一つ頭を下げて、また夜の中を走りだした。

双葉が電話をくれたのは記者会見が始まった直後。おじさんが来て記憶を思い出したのだとしたら、あの意味深な電話にも納得がいく。しかしそれなら、記者会見が始まる前に電話が来てもいいはずだ。三十分後、思い直して電話を寄越したとも考えられるが、少し違和感が残る。歯車がかみ合っていない感覚があった。

今更後悔が胸に押し寄せてきた。双葉のスマホに電話を掛けながら、そんなしょうがない感情は胸に押しとどめた。

 

 

  何度も双葉に電話を掛けた。しかし双葉は電話に出なかった。

 一緒にコーラを飲んだコンビニのベンチに行った。富士の湯に行った。秋葉原に行った。しかし双葉はいなかった。

 終電の列車の中で、いつまで経っても返信が来ない双葉のLINEをぼうっと眺めていると、一二三から連絡が入ってきた。もしかしたら、同じ車両にまだ人がいたかもしれない。しかし俺は、そんな事も気にせずに通話ボタンを押していた。

 

「いたか?」

「……いえ」

 

 ほとんど事情を説明していないのに、一二三は二つ返事で神田の教会に向かってくれた。何も聞いてこない一二三の優しさが、ただただ温かかった。

 

「そうか」と俺は言った。「ごめん、ありがとう。また事情は説明するし、お礼も――」

「あの」

「?」

「私のことは、お気になさらないでください。それよりも今は、双葉さんのことが先決です」

「……そうだな、ありがとう」

 

 何度目か分からない、その感謝の言葉を俺は一二三に繰り返した。

 

「帰ってもう一度、四茶の辺りを調べてくる。もしかしたら家に、帰っているかもしれない」

「そうですね、その可能性が高いです」

「一二三もそう思うか?」

「はい」と一二三は言った。「……他のところを探し回った今だから、言えることですが」

「……うん」俺は頷いた。

 

 その言葉は、もし双葉が四茶にいなかった場合、一二三でもお手上げだということを意味しているような気がしてならなかった。

 

「それじゃ。おやすみ」

「はい。それでは――」

 

 一二三がそう言ったのを確認して、スマホを耳から離そうとした時だった。

 

「あの」

 

 と、とても小さな一二三の声がスマホから聞こえてきた。

 

「どうした?」

「……………………」

「なんだよ」

「……いえ、あの」と一二三は言った。「すみません。今、言うべき話じゃありませんでした。根拠のない、ただの憶測だったんです」

「なにを……」

「それでは。……しばらくはまだ、起きていますので」

 

一二三はそう言い残して、電話を切った。ポツンと一人、俺だけが電車の中に取り残された気分だった。ふと電光掲示板に目をやると、『もうすぐ 四軒茶屋』という字が浮かび上がっていた。

少し待って、俺は電車を降りた。気が付けば佐倉惣治郎宅の前にいた。

 マスターから借りた合いかぎを使い玄関に上がった。人の気配はなく、明かりもついていない。いるとしたら、自分自身の部屋だろう。

 ギッ、ギッ、ギッ……と足を出す度に鳴る階段の音にちょっとだけ寒気を覚えながら、微妙に冷えた木の感触を足で味わう余裕もないまま、二階につく。

 ドアノブを回した。鍵は閉まってなかった。

 

 

「双葉?」

 

 

 いた。電気もつけないまま、ベッドの上に横たわっていた。俺はホッとして、膝から崩れ落ちそうになった。

双葉からの応答はない。

 

「いや、その」と俺は言った。「ごめん。あの時ちょっと、色々あってさ。あんまり、双葉のことを考えられてなくて。本当にごめん」

 

 

 俺は、電車の中でずっと考えていた言い訳を双葉に話した。双葉からの応答はない。

 

 

「行けるよ、明日。行こう。絶対行こう。あ、ほら、探してるときに思ったんだけどさ、秋葉原って、あんまり双葉と一緒に行ったことがなかっただろ? だから案内してほしくって」

 

 

 俺はたまらず電気をつけた。でも、双葉は。

 もしかして、寝てる? 耳をすませて聞いてみたが、規則的な寝息は聞こえてこない。だとしたらまだ、双葉に拗ねられているということになる。

 

 

「いや、ほんとに、悪かったって。でもそこまで、拗ねなくてもいいだろう?」

 

 

 俺は双葉に近づいた。

近づいて、双葉の肩をゆすった。

びっくりするくらいに脱力していた双葉の体に、俺は驚いてしまった。耐えられなくなって、俺は双葉の体を揺らし続けた。そして、ついに俺は、

 

 

 

 ベッドに、血が染み付いていることに気付いた。

 

 

「え……ぁ……」

 

 

 後ずさる。何かが体に当たった拍子に、俺は尻餅をついた。双葉が大事にしていたパソコンが、けたたましい音を立てて床に落ちた。

 何が起きたのかは分からなかった。何が起こったのかさえ、分からなかった。

 

 

「さく、ら…………ふたば」

 

 

 けどたった一つだけ、分かることがある。

 

 

『候補が見つかりません』

 

 

 もう、何もかもが手遅れだった。何もかもが時間切れだった。

 

 何時間経っただろうか。俺は震える足で立ち上がり、双葉を仰向けに寝かせ、眼鏡を外して、

 

 奥村とよく似た表情を浮かべた双葉の目を、そっと閉じた。

 



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『Our Bad Ending』

『Misdirection』の続きです。


 長い雨が降り続いている。

 

 依然とは比べ物にならないほどの、短い半年が過ぎた。俺は元の家に帰って来ていた。怪盗団との交流は、もうほとんどなかった。

 

 ただ一人、一二三だけが毎日、毎日電話を掛けてきてくれていた。明日から新しい女流棋戦が始まる話。母親とちゃんと和解した話。最近、神田の教会で鍛錬することが、少し寂しく思えるようになった話。以前より口数が少なくなった俺に、一二三は柄でもなく気丈に明るく話しかけてくれた。

 

 あの一件から、怪盗団という名がメディアに出てくることはなくなった。その理由が、リーダーの脱退だということを世間に知られたら、どれほど目を丸くされただろう。いや、そもそも既に、世間は怪盗団の名を覚えていないのかもしれない。知りたいと思わないかもしれない。今の俺と同じように、世間の人は皆、無気力で無力だった。

 

 あの一件から。俺は全てがどうでもよくなった。全てのものが無価値で、無意味なように思えて仕方がなくなった。だから俺は、ただ規則正しく学校に行って、規則正しく寝て過ごす生活を送った。何人もの友人があの手この手で俺を励まそうとしたが、数か月何も示さないでいたらようやく諦めてくれたようだった。いつも鞄の中に入っていた尊大な黒猫は、いつしかどこかに行ってしまっていた。

 

 どうでもいい。あの時まで彼女が何を考えていたのかなんて、明智が意味深な笑みを浮かべていた理由なんて、パレスがどうして消えていたのかなんて、なぜ彼女があの部屋で横たわっていたのかなんて、電話の目的なんて、一二三が考えた根拠のないただの憶測なんて、若葉さんの研究内容なんて、若葉さんを殺した犯人なんて、一二三が毎日電話を……そうだ。

 

 ただ、一二三だけが気がかりだった。どれだけそっけなく振舞っても、どれだけ無視を決め込んでも、一二三は俺に電話を掛け続けてくれた。そして、自分なりに楽しいお話を受話器越しから届けてくれた。もう、構わないでいいのに。もう、彼女が戻ってくることはないのに。もう、それがどれほど無意味なことだということは分かっているはずなのに。

 

 長い雨が降り続いている。その雨はまだ、止みそうにはない。

 

 

 

 長い雨が降り続いていました。

 

 彼は双葉さんを失ってから、すっかり元気をなくしてしまったようでした。私や真さんが計画して、彼を励まそうと何度も計画を企てましたが、すべて失敗に終わってしまいました。結局、彼の空いてしまった穴は誰にも埋められることはできないようでした。

 

 今彼を無理やり勇気づけることは、かえって元気をなくす結果になるだろう。彼が克服するには、よりもっと多くの時間を掛ける必要がある。怪盗団のみんなも、誰もがそう言いました。でも、私はそうは思いませんでした。そんな言葉を逃げ道にして、彼を諦めてはいけない。むしろ、彼に話しかけ続けなければ、きっと彼は戻ってこなくなるとさえ思いました。

 

 それに。彼は私の初恋の人だから。彼の笑顔を、もう一度見たいから。諦めたくない。諦めるのが、怖い。毎週、いや、毎日彼に電話を掛け続けなければ、きっと双葉さんは浮かばれない。だから今日も私は、彼に自分なりの楽しい話を届けるのです。

 

 ただ。結局彼に言うことができなかった、根拠のないただの推論。あれをもっと早く、思いつけていれば。……そう、ちょうど奥村さんの記者会見が始まった時に、その推論を導くことができたはずなのに。私が彼にその推論を言えてさえあれば、もっと違う結末になったはずなのに。それだけが、心残りでした。でも、やはりもう、双葉さんは帰っては来ない。

 

 長い雨が降り続いていました。その()()雨はまだ、止みそうにはありません。

 



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10/7『Reconsider』

選んだ選択肢に従ってお読みください。


>双葉が気になる。

 

 

 

 

 

 

「ごめん、帰る」

 

 と俺は言い残して、夢の国を出た。埋浜から四軒茶屋までは電車で約一時間。まったり椅子に座って考えていられる時間はなかった。

 遠くから一二三の声が聞こえた気がした。でも、振り向かないで舞浜駅を目指した。それだけ俺は、あの双葉からの電話に焦っていた。

 JL武蔵野線に飛び乗ると、汗がにじんだ額を手で拭いながら、電話の理由について考え始めた。

 双葉からの、遊びの催促の電話。いつ帰ってこられるかについての電話。何の変哲もない内容だし、なんならLINEで文字を打つだけで済みそうな話だった。だから、その話の内容から得られそうな情報はない。では問題とすべきところは、一体なんだ?

 なぜ、あんなLINEで済むような内容を、記者会見の直後にわざわざ聞いてきたのか。考えられる理由の一つとして、ただの偶然で、ただの双葉の気まぐれだった可能性がある。……でもそれは、俺の希望的観測以外の何物でもなかった。きっと意味があるはずだ。

 LINEじゃなく、電話。LINEは受信してから返信するまでに、時間的な猶予がある。しかし電話は、受信して出ればすぐさま要件を聞く必要がある。つまり双葉は、俺に対して早いレスポンスを求めていた? あの時間に、双葉は、俺の声と返答を聞くことを欲した。

 じゃあやっぱり、なおさらタイミングが重要になってくる。電話の直前には、奥村の記者会見。記者会見、で、奥村は改心した姿を衆目の目に晒した。そして、廃人化して、廃人になった奥村が、テレビに映し出され、て。

 

「………え?」

 

 何か今、糸口が見えた気がした。もう少し、深く考えてみようか。

 その時双葉は、何をしていたのか。民放ではほとんどが、一大企業である奥村フーズの記者会見の中継を行っていた。ルブランでもあの映像が流れてしまった可能性が高い。双葉が二階に居たとしても、俺たちのようにスマホで中継を見ることができた。

 双葉は、廃人化した奥村の姿を見た。廃人化とは、認知世界における自分が殺された時に起こる現象。

 

『認知訶学……と言うらしい。カガクの「カ」は、摩訶不思議の「訶」だそうだ』

 

 若葉さんの研究内容。

 異世界。認知。摩訶不思議。パレス。

 

『誤解するな。証拠はいっさいない』

 

 若葉さんは自殺ではなく、他殺によって殺された可能性。事件当日の若葉さんの隣には、双葉がいた。

 

『給食で出てくる苺、ケチャップついてるから注意しろ……とか?』

 

 双葉は記憶力がいい。いじわるをされた同級生の顔と名前すらしっかりと覚えているほどの記憶力だ。

 

『すぐ側に……双葉が、いた。手を繋いでいたのかもしれない。後ろについて、一緒に待っていたのかもしれない。……その状況で、その、犯人が若葉さんの背中を押せると思いますか? 双葉に、顔を覚えられるかもしれない、危ない状況で』

 

 できるだけ安全な状態で行いたかったら、双葉が近くにいない時にすれば良かったはずだ。しかし犯人は、容疑がバレる可能性を孕んだ状況で、リスキーな行為に出た。そう思っていた。

 でも。

 もう一つの可能性があった。双葉が近くにいるのに、双葉に見られる心配をせずに若葉さんを殺めることができる可能性。たった一つの、チート級の方法が。

 

「若葉さんは……」

 

 若葉さんは、廃人化させられた。若葉さんの研究内容が危ういと踏んだ、認知世界を知る()()が、認知世界を使って、認知世界に存在する若葉さんに手をかけた。何故なら、それが一番安全で、足のつかない方法だったからだ。

 双葉は見た。廃人化し、変わり果てた姿となった母親が道路へ投げ出されるのを見た。その姿が、記者会見で映った、廃人化した奥村と重なって見えた。だから、思い出した。全てを思い出した。

気が動転した双葉は、俺にLINEをせずに電話を掛けた。目の前に迫りくる過去から逃げようと、昔を振り切ろうと、俺に電話を掛けた。内容はなんだってよかった。明日遊ぶことでも、なにげない俺たちの話でも、先の見えない未来のことでもなんでもよかった。

 

「……まさか」

 

今のは全部、事実でもなんでもない俺の妄想か。乗りついだ電車は渋谷に到着しようとしているところだった。あと二駅。あと二駅待てば、全てが分かるはずだ。

 俺は何も映らない外を眺めながら、双葉に電話を掛け続けた。

 

 

 走って帰ってくると、髪が乱れたマスターが、ちょうどルブランへ帰ってくるところを見かけた。詳しい事情は聞かなかったが、ルブランで一悶着あったらしい。昔双葉を引き取っていた男が、ルブランに来るなり双葉に心ないことを言った。そして、双葉はルブランから出て行ってしまった。辺りを探し回ったがついに双葉を見つけられることはできず、双葉がルブランに帰ってきてはいないかと、一度戻ってきたらしかった。

 今すぐ心無い言葉を双葉に浴びせた彼を追いかけて、一つ思いっきりグーでぶっ飛ばしてやりたくなったが、そうしている時間も惜しいのでやめておいた。折悪しくルブランにその男が来てしまったことが、双葉が過去を思い出すことに拍車をかけてしまったのかもしれない。そう思った。二階に双葉がいないことを確認して、俺はルブランを出た。

 スマホを見ると、一二三から着信が来ていた。出るかどうかかなり本気で迷ったが、一度惣治郎宅を見て、それから電話に出ようと思った。しかし無視は流石に忍びなかったので、『今から惣治郎さんの家に行く』と謎のLINEを送りつけて、俺は旧・双葉の部屋を目指した。気づけば佐倉惣治郎宅の前にいた。

 マスターから借りた合い鍵を使い玄関に上がった。人の気配はなく、明かりもついていない。いるとしたら、自分自身の部屋だろう。

 ギッ、ギッ、ギッ……と足を出す度に鳴る階段の音にちょっとだけ寒気を覚えながら、微妙に冷えた木の感触を足で味わう余裕もないまま、二階につく。

 ドアノブを回した。鍵は閉まってなかった。

 

 

「双葉?」

 

 

 いなかった。電気もついていないから、当然だろう。鍵が閉まっていなかったのも、双葉がここで生活をしなくなったからだ。俺は切り替えて、身を翻そうとすると。

 聞きなれたバイブ音が、部屋の中で鳴った。

 その長方形に光る光源を頼りにしながら、俺は鳴り続けているスマホを手に取る。

 

「これ、双葉の……」

 

 双葉のスマホだった。送った着信元は、一二三からのようだ。そのスマホを取る前に電話は切れた。

 どうしてスマホだけがここにあるんだ? スマホがここにあるということは、双葉は一度、ここに戻ってきたということだ。その理由も気にはなるが、今は双葉の姿は見えない。スマホだけを置いて、どこかに隠れているという線も現実的ではない。

 じゃあ、双葉はどこへ行ったんだ? スマホという、現代のマストアイテムを手放してどこへ消えた? スマホだけを置いて、ここからワープしたとしか、もう思えな――、

 

「……あ」

 

 俺は自分のスマホを操作して、『異世界ナビ』を表示させる。

 

「……佐倉、双葉」

 

『候補が見つかりました』

 

「……双葉」

 

 俺の勘が正しければ。

 双葉は、今。

 そこにいるのか?

 

 

 

 

 双葉の思う認知世界は、かつてないほどの静寂に包まれていた。夜の砂漠。かなり冷えてはいるけれど、今まで走ってきた身だから、この涼しさは全く苦に……いや、流石に寒い。めちゃくちゃ寒かった。でも、そんな泣き言は言っていられない状況だった。

 遠くにピラミッドが見えた。かなりの距離がありそうだ。デスティニーランドにモルガナを放っておいてしまった今の俺には足がない。仕方がなく、俺は無心で走り続けた。今日は、パレス三周分は間違いなく走っている。

 

「やぁ」

 

 横から落ち着いた声が聞こえた。俺が立ち止まる前に、何かに足をとられてすっ転んだ。

 

「ロキ!」

 

 同じ、聞きなれない男の声。それと共に、前方に吹っ飛ぶ俺の体の向きは、いかにもイケメンそうなその声がした方とは真逆の方向にベクトルを変えた。何が何だか分からないまま、俺は冷えた砂に打ち付けられる。

 

「ぐ……」

「また会ったね。いや……この姿じゃ、久し振りかな?」

「なにを、」

 

 首を回そうとしたが、男は俺の頭を乱暴に掴んだ。そうやすやすと顔を拝ませてくれるつもりはないらしい。ということはやはり、男と俺は知り合いなのかもしれない。

 

「一回だけ回答する権利をあげよう。僕が誰なのか。当てたら頭を離してあげる」

「わかった」

「随分要領がいいね……」

 

 こんな時は従うに限る。

 でも、全く心当たりがなかった。俺の知り合いで、かつ異世界に行くことができて、かつ夢の国から一番早い電車で四軒茶屋に着くことができる人。俺の記憶の中で、そんな人は一人もいなかった。

 

「あの、ヒントは」

「ないよ」

 

 ふむ。ノーヒントで俺が答えることのできる問題。

 何かまだ、俺が思い出せていない記憶があるのだろうか? 走った直後にうつぶせになって、肺が圧迫されて、なんだか意識が朦朧としてきた。でも、諦めるには早すぎる。

 俺はボンヤリとした頭で、忘れられていた記憶を引っ張りあげた――。

 



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7/23,7/24,8/21『Remember』

7/23

 

「やぁ」

 

神田の教会で、神父さんから一二三の家の事情を知った帰りのことだった。

電車の中で、明智と鉢合わせた。明智はやっぱり、いつものアタッシュケースを左手に持っていた。突然に知り合いと出会い、挙動不審になりそうだった俺は、それを誤魔化すように無理矢理声を出した。

 

「お、おう」

 

どもった。いや、まだ慌てるような時間じゃない。軽く会釈をして明智に向き直る。

 

「奇遇だなぁ。こんな所で会えるとは思ってもいなかったから、嬉しいよ」

 

明智は手を差し出した。……なんだ?

 

「あはは、珍しいものを見るような目で見ないでよ。握手だよ、握手」

「あ、ああ」と俺は言った。「すまん。その習慣に慣れてなくて。悪い手だったよな」

「いや、それは」明智は微妙な笑みを浮かべて言った。言ったきり、少し間を空けた。

「やっぱりいいや。もしかしてさっき、将棋でも指しに行っていたのかな?」

「ええ?」

 

図星だった。正確を期して言えば、将棋はしていない。でも、神田へ一二三に会いに行ったことは確かだ。「ああ」とか「ええ?」とか、まだ殆ど言葉らしい言葉を明智に言えていないのに。とんでもない推理力だった。

 

「第二の私立探偵高校生は、伊達じゃないということか……」

 

やはり天才か。なんなら一二三も天才だし、双葉も天才だ。三人の天才に囲まれたこんな状況で、俺になにができるというのだろう。

 

「いやぁ」明智はあからさまに照れた。照れる真似をしていた。「いや、それ程でもないんだけど。まあ、それでいいや」

 

明智は勝手に納得して、仕方なさそうに肩を落として笑った。

 

「あ、もう降りないと」

 

と明智は言った。言って、胸ポケットから手のひらサイズ程の紙を取り出した。

 

「これ、名刺。ちょっと大袈裟すぎるかもしれないけど、意外と役に立つんだ」

「なるほど」

 

俺はその名刺を受け取った。明智はともかく、自分の名刺なんて今後数年は持つことはないだろう。今はもっぱら、見ず知らずの人に予告状を差し出してばかりの人生だ。

 

「それじゃ」

「ああ」

 

電車を降りて、人混みに紛れる明智を俺は見送った。

感情表現の豊かな人。双葉のそれに勝るとも劣らないけれど、明智はそれは何か、洗練されている感を抱いた。少ない動作で、ストレートに自分の思っていることを伝えられる能力を持っている。そう思った。

 

 

 

7/24

 

 

 

パレスの主を改心させると、持ち主を失ったパレスは崩壊する。先の例に漏れず、今まさに麻倉パレスも所々が崩れ始めていた。

このままでは、偽コロッセオ共々俺たちも木っ端微塵になってしまう。この難を逃れるための方法は、今のところたった一つしか見つかっていない。

逃げる。ひたすら逃げる。無我夢中で逃げ惑う。そんな古典的な方法で、今までに3回にも及ぶ危機を脱してきた俺たちは、モルガナにさっさと車になるよう指示しようとしていいるところだった。

しかし。俺たちを遠くで見つめる黒い影が目に入った。その影は明らかに人の形をしていた。俺たちや、麻倉以外の誰かがこのパレスに来ているのか? 気になった俺は、竜司や真の制止を振り切って、黒い影の所まで駆け寄った。

 

「お前は誰だ?」

 

影は何も答えなかった。しかしよく見てみれば、その影は人が黒いコスチュームに身を包んだ姿のようだった。シルエットからして、中に入っているのは男だろう。

 

『我が名は双葉!』

 

ボケのつもりなのか何なのか、スマホから自分の名を叫ぶ双葉の声が聞こえて来た。

 

「……ふたば?」

 

声のする方向からして、それを喋ったのは目の前にいる男だろう。それに、どこかで聞いたことのある声だ。

 

『え、なに今の声。カレシ、そんな声も出せるなんて多才だな! マスターの声も、きっとそのうち上手くなる!』

「ちょっと、双葉」

 

スマホを取り出そうとして、一瞬目を離した隙に、

 

「あれ……?」

 

その男は消えていた。さながらデパートに親が連れてきた小さな子供のような、逃げ足の速さだった。

慌てて後を追おうとしたが、

 

「まずいな……」

 

気づけば、足元まで崩れ落ちそうになっていた。残念ながら迷子センターに連絡を入れる時間さえなさそうだ。

俺は迎えに来てくれた、竜司の操縦するモナカーに飛び乗った。

 

 

8/21

 

 ――そんな緊張感を打ち破るように、扉の鈴が鳴った。

 

「こんにちは」

 

 明智だった。相も変わらず洗練された、自然な声だ。ともすれば野暮ったく思われそうな長い髪は、アッシュに染めた髪色で軽減されていた。

 

「あ、ああ」

 

 マスターは、バツが悪い素振りも見せずに言った。感傷に浸ろうにも、客が来ないとマスターの首が回らなくなる。喫茶店、それも個人が経営するそれは、手間や技術の割に合っていないことを、たった数ヶ月店の手伝いをしただけでもなんとなく感じていた。

 

「近くで用事があったので、寄らさせていただきました。珈琲、頂けますか」

「はいよ。ブレンドは?」

「いつもので」

「いつもの?」

「ええ、はい。……えっと――」

「いや、分かってる。ちょっと時間かかるけど、いいか?」

「はい、構いません」

 

 マスターとのやり取りを終えると、明智は俺の隣に座る。マスターは、何か仕込みがあるのか奥のキッチンへと入って行った。

 

「やぁ」

「ああ、うん」

「奇遇……でも、ないかな。時々ここで会うことはあるけれど、いつも君、どこかに行ってしまうから」

「ああ」

 

 常連というほどでもないが、明智は時々、ここに足を運んでくれていた。学校からの帰りや、一回帰ってきてからまた外に出る時に顔を合わせたのは、一度や二度じゃない。それでも、こうして隣に座られるのは、確か今回が初めてだったはずだ。

 

「あれ……これ」

 

 明智は言うと、目の前にあったカップを手に取る。それはマスターが置いた、今日が命日である一色若葉さんへのものだった。

 

「君の?」

「ああ、いや」俺は口ごもった。「……さっき、来てくれた人のもので。もう、帰ってしまったらしい」

「殆ど口をつけずに?」

「うん。そうらしい」

「もったいないね」

「うん」

 

 俺の返答が素っ気ないことに気付いたのだろうか。明智は俺の顔を見た。

 

「もしかして、君のだった?」

「え?」俺は明智の顔を見返した。「あ、うん、そう。そうなんだ」

「じゃあ、それは?」

「え?」

 

 俺はまた明智を見た。彼が指さした先には、俺の目の前に置かれたカフェオレが置かれてある。それは今まで俺が、ちびちびと飲んでいたものだった。

 ……まずいな。墓穴を掘ったかもしれない。でも、後には引き下がれない。

 

「お口直しで」

「お口直し?」

「そう」俺は仰々しく頷いた。「まだ、ブラックコーヒーは飲めないから。でも諦める訳にはいかないから、こうやって甘いカフェオレを脇に置きながら挑戦してる」

 

 どうだろう。いや、ダメだろう。泣く子も黙る探偵をそんな、浅い嘘で誤魔化せる訳がない。

 

「あはは」

 

 しかし明智は、そんな俺を見て笑った。

 

「君、やっぱり面白い」

「そんな」

 

 ラノベとかに出てくる、冴えない主人公と冴えないヒロインの冴えないやり取りを傍から見てなぜかくつくつと笑っている第二のヒロインみたいなことを言われても。

 それに、やはりこんな嘘で明智が騙されてくれるはずがない。でも今は、明智は壁に掛けられた『サユリ』を見て興味深そうに頷いている。

 だとしたら何故、明智は追及してこないのか。

 やっぱり明智が元来持っている優しさ故のことなのか。

 やっぱりそもそも俺にそこまで興味がないのか。

 食えない奴だ。と、俺は初めて、明智に対して『いい人』以外の感想を抱いた。

 

「あ、それでさ」明智は突然思い出したように言った。「一つ、聞きたいことがあるんだけど」

 

 なんだ? と俺が言おうとする前に、

 

「そうじろー!」

 

 けたたましい鈴の音と共に、双葉が入って来た。

 

「……っと! カ、レ……!?」

 

 おそらく、シ、と双葉は言おうとしたようだったが、

 

「きゃ、客。……しゃぃあせー」

 

 手前に居た来客に気付き、言葉を濁した。双葉や俺のような人種は、初対面の人に対してあまり強く出ることができない。言うなれば水と油……いや、水に対する紙みたいなものだ。

 ふん、とか、ふゃ、とか、怪しい謎の言葉を漏らしながら、双葉は俺のもう一方の隣に座る。

 

「謎のイケメン男子……ナニヤツ。……あれ、そのコーヒー飲んでないの?」

「ああ、これは」と明智は言った。「僕のじゃないよ」

「カレシの?」

「いや、俺のでもない」

「訳わからん……。でも、まあいいや! 私が飲んでしんぜよー」

 

 と言って、双葉は身を乗り出してそのカップを引き寄せた。そしてその中身を一気にあおる。

 

「……ぬるい! これじゃ売り物になんない!」

「え、双葉?」キッチンから、マスターの驚く声が聞こえてきた。

 

「……双葉?」

 

 双葉の名を繰り返したのは、明智だった。

 

「なんだ?」と俺は聞いた。

「え? ああ、いや」と明智は言った。「なんでもないよ。……あ、もう行かなくちゃ。君にも、それに双葉さんにも悪いだろうし、ね?」

「え?」

 

 明智はそそくさと席を立った。どうやら本当に帰るつもりらしい。さすがに気を遣われ過ぎな気がするし、なにより話が急すぎる。

 

「ええと」俺は聞いた。「一つ、聞きたい事ってなに?」

「なんでもないよ」と明智は言った。「……それに、もう用は済んだ」

 

 用は、済んだ?

 

「それって、どういう――」

「それじゃあね」

 

 と言って、そそくさと店を出て行った明智。食えない奴……というより、これじゃあただの変な人だ。ルブランにわざわざ来て、何も頼まずに帰る。なのに、もう用は済んだとか言い出す。

 何かがおかしい。ぬるい、ぬるいと言いながらもブラックコーヒーを飲み続けている双葉を余所に、俺は思った。

 

「わりぃな、遅れちまって……って、明智は?」

 

 マスターの仕込みがただの無駄骨だったことに気付くのは、それからかなり後の話だ。

 

 



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10/7『Ringleader』

自己解釈があります。


「……Aか」

 

 その名を呼ぶと、俺の背中を踏んでいた足がかすかに動いた。

 

「どうしてそう思う?」

 

 図星を突かれている(と思う)のに、Aはすんなりとは首を縦に振ってはくれない。あ、いや、俺はうつ伏せになってしまっているから、彼が頷いているかどうかは全くの想像なんだけど。

 俺を足で踏んづけているのはAだと思う理由は色んなことが考えられる。だから俺は手始めに、一番無難そうなカードを切ることにした。

 

「双葉の名前と、そして佐倉惣治郎の名前を知っている人が、そもそもあまりいないからだ」

 

彼からの反応はない。続けよう。

 

「多分お前も、俺達と同じ方法でパレスに侵入したんだろう。パレスに入る為のキーワードは、『佐倉双葉』、『佐倉惣治郎宅』そして『墓場』だ。墓場は虱潰しで当てられるかもしれないけど、どちらにせよ両者の名前を知っている必要がある。また双葉は高校に通っていない。だから、その二人の名前を知っているのは、俺の仲間を除けば後はマスターと、そしていつもルブランに通い詰めていたA、お前くらいしかいない」

「本当に? 中学校の同級生も、知っている人はいるんじゃないかな」

「双葉は中卒扱いになっている。双葉の引きこもりの原因が、彼女の母親の死と、その葬式での出来事にあったとすると、中学生でマスターの名前を知っている人はいないと思う」

 

 それに、マスターが引き取る以前は、双葉はまだ旧姓である『一色』を名乗っていたということだから、もっと可能性は低くなるだろう。

 

「じゃあ、動機は?」「動機?」

「僕が、ここに来ている動機」「ああ」

 

 すこぶるどうでもいい。というより、あまり彼に構っていられる暇があるのかって話だ。

 ……それにしても、やけに質問してくる犯人だな。でも、解決パートとしては、悪くない。

 

「じゃあ、一つだけ訊かせてくれ」「何?」

「双葉のパレスに来たのは、双葉を改心させるためか?」

「……ノーだ」

 

 改心させるために、パレスに来た訳じゃない。ということは、つまり。

 話はぐっと分かりやすくなる。

 双葉を廃人化させる目的で来たのだ。暇つぶしにここら辺をウロウロしていたのでもなかろう。

 

「それなら、今回の目的は双葉じゃない」と俺は言った。「俺だ」

「……どうしてそんなことが分かるのかな」

「多分、だけど」と俺は言った。「双葉を廃人化させること自体に、何かメリットがあるとは思えない。精々、俺が悲しんで、何かをする気力が起きなくなるだけだ」

 

 でも、犯人は、それこそが今回の目的なのだろう。

 

「俺が何もできなくなると、当然怪盗団が動かなくなる。悪い奴らを改心させることができなくなる。認知世界を使って、水面下で色々と動かれる心配がなくなる。だから怪盗団を快く思っていない連中は、怪盗団自体を潰すより、そのリーダーである俺を潰した方が手っ取り早いと考えた。でも俺は自分のパレスを持ってない。だから俺にとって一番近しい存在の、双葉に手を掛けた方が容易いと思った」

「あてにならない推論だね」

「頼んできたのはそっちだ。証拠が不十分すぎるくらいは、大目に見て欲しい」

 

 これでも、少ない時間で結構頑張って考えた方なんだ。それに、本当のところがどうであろうと、双葉に手を掛けようとしたのはほぼ確実。……だと、思う。

 

「そんなことより、ちょっと」と俺は言った。「そろそろ足をどかせてくれないか?」

「そんなこと?」とAは言った。「そんなこと、だって?」

「ああ、そんなことだ」と俺は言った。「こんなこと、双葉に比べたら限りなくどうでもいい話だ。俺に直接来ないで、双葉という弱点を突こうとしたお前の小賢しさには一言言っておきたくない訳でもないけど、今はそんな時間すら惜しい。……あ、あと、双葉が今どこにいるか、知っていたら教えてくれないか?」

「……」

 

 Aは言葉を失っていた。もしかしたら、憂さ晴らしに一言言わなかった俺の優しさに、彼は感銘を受けているのかもしれない。……いや、それはないか。

 

「彼女は、パレスに行ったよ」とAはようやく口を開けた。

 

 やっぱりそうか。でも……どうしてだ?

 何故双葉はパレスに向かった? 記憶を思い出して、気が動転していたのか? 悪い記憶が流れてくる奔流を潰そうと、単独でパレスを壊そうとしに行ったのか?

 ……それとも。

 

「……ずっと会いたかった、母親に会いに行ったのだろうか」

「いや、違うと思う。彼女は今、死んだ若葉さんのことなんて眼中にもないよ」

 

 え?

 

「じゃあ、誰に」

「君に会いに行ったんだ」

「俺?」

「うん」と彼は言った。「認知上の……彼女が『そうであって欲しい』と願う、彼女の中の君に、ね」

 

 双葉が認知していた……俺?

 

「約束を守ってくれる。自分の言う事を聞いてくれる。自分のために尽くしてくれる。自分のことをだけをずっと見てくれる。そんな理想の彼氏を、佐倉双葉は自分の心の中に作り上げた。彼女はそのことを自覚していた。だから彼女は、自身のパレスの中へ入って行った」

「……」

「結局、彼女は彼女の中にいる君を愛していただけってこと」

「彼女の中にいる……俺」

「現実世界にいる君は、愛想を尽かされた」

「……それこそ」と俺は言った。「あてにならない推論だろう」

 

 でも、なるほど。

愛想を尽かされた、と言われれば心にくるものがあるけれど、確かに、心当たりはある。

 電話で語ったことは、双葉にとっては約束を反故にされたのだと感じただろう。ゲームの誘いに乗らず、学校に行ってしまった俺を見て、自分の言う事を中々聞いてくれないやっかいな奴だと双葉は思ったのかもしれない。

 背中から感じる力が弱くなっていた。それに乗じて、俺は体に鞭打って飛び起きる。

 

「うわっ!? ……ちょ、ちょっと」

 

 パレスまではまだ遠い。走っていってもその内バテてしまうだろう。足にも少し、疲労が溜まってきつつあった。少しの間だけ、歩いて調子を整えようか。

 

「だから、君がパレスに行っても意味がないんだって。どうせ、心を開いてくれないのがオチだよ?」

「うるさい」

「それよりもさ、あ、ほら、僕と話をしよう。君は興味がないのかい? 僕がどうして君を倒さなくちゃいけないのか。どうして君が怪盗団のリーダーだってことを、僕が知ってるのか」

「知らない」

「……っ、そもそも君は、あそこに行って何をしようってんだよ」

「ファイナ……」

 

 おっと。興が乗って変なことを口走りそうになってしまった。

 

「別に、普通のことをするだけだ」

 

と俺は言った。

 謝りに行く。ただそれだけのことだ。

 

「はぁ?」

「お前はもう帰っていい。俺が近くにいる中で、今から双葉を廃人化させに行く訳にもいかないだろ」

「ちょっと、待てって……」

「待たない。お前がどのような人生を歩んでいて、どのような事情で怪盗団を解散させようとしているのかは知らないし、分からない。全く気にならないことはないけど、今ちょっと、忙しいから。後にしてくれ」

「……ふざけるなよ」

 

 初めて、Aはその気取った喋り方を止めていた。

 

「はぁ……」

 

 俺は足を止めない。Aは俺に怒っている。申し訳ないけど、俺が今彼に対して無下な態度を取っていること以外、彼の怒りに全く心当たりがない。俺にとってAは、時々顔を合わせて喋ったりする『いい奴だけど、よく分かんない奴』でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。

 ……ん?

 今、遠くの方で砂煙が見えた。砂嵐だろうか? それにしても少し、規模が小さいようだ。そのミニチュア砂嵐は、もの凄い速さでパレスの方へ向かっている。気になる……けど、まあいい。

 

「わかった、じゃあ、こうしよう」と俺は言った。「これ以上、何もするな。そしたら俺たちは何もお前を咎めないし、団員にも君のことを話さない。それにほら、お互い、顔も割れていることだし」

 

 厳密には、立場がイーブンになった訳じゃない。Aが断然有利だ。警察との繋がりを持っている彼は、直ぐにこちらに監視を送って来るだろう。だから当分は、怪盗稼業を様子見する必要がある。

 俺は足を止めない。後ろから聞こえて来た足音は聞こえなくなった。どうやら諦めてくれたらしい。「お前に用はない」ということを伝えるのに、随分と時間が掛かってしまった。

 

「……僕は、君の彼女を廃人化させようとしていたんだ。どうして何も言わずに立ち去れる?」

 

 俺は足を止めない。双葉を廃人化させる計画は、俺が来たことでとん挫してしまった。殺人未遂は立派な犯罪だが、人を殺そうと思うところまでは、罪に問われることはない。

 

「怪盗団を炙り出すために、麻倉に一二三を贔屓に見てもらえるように、唆したのも僕だ」

 

 俺は足を止めない。一二三と一二三の母親の関係は、今はいい方向に向かっているようだし、麻倉も自分の非を世間に対して認めている。何も問題はない。

 

「……一色若葉を、」

 

 Aは、震える声で双葉の母親の名前を呼んだ。そう言えば、さっきもそのようなことを言っていたような気がするな。

 

 ……若葉さんの、名前を?

 

「……?」

 

 俺は、若葉さんの名前を出していないはずだ。あくまで、Aが知っているのは双葉と惣治郎さんの名前の二つだけだと思っていた。

 じゃあAは、どうして若葉さんの名前を知っている?

 

 

「一色若葉を、殺したのも僕なのに?」

 

 

 僕は、足を止めてしまった。

 Aにとって、それは俺に対して切ることのできる最後のカードだったのかもしれない。Aはそれに賭けた。それがどれほど双葉にとって辛いものだったのか、重いものだったのかを俺が悟っている可能性に賭けた。

俺はその賭けに負けていた。

 

「……そうか、お前が」

 

 黙ってやり過ごせばよかったのかもしれない。俺が今からすぐにパレスに行けば、どっちに転がるにせよ全てが終わる。万事が解決する。

 それでも、俺が立ち止まってしまったのは。

 

「お前がやったのか」

 

 全ての元凶がそこにいたから。

 




名前が伏せてあるのは、ジュス&カロに捕まえられたくないからです。


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10/7『Last Surprise』

 身を隠せられるような、ちょうどいい遮蔽物もない。立場が優位になったり不利になったりするような、地形の起伏もない。平べったい砂漠の中で行われたのは、素直で愚直な力と力のぶつかり合いだった。

 

「ぐ……」

 

怒りに任せて放たれた攻撃は、凄まじいものだった。

あらかた全ての攻撃を避けて、チャージ直後のメガトンレイド。防御姿勢を取っていても、確実に相手に突き刺さる。

今や無抵抗にその場で倒れている始末だった。いつでもトドメを刺すことができる。破けた黒い服から確認できる傷はとても痛々しかった。

それでもなんとか立ち上がろうと地面に手をつく。が、数秒も経たずに力が入らなくなる。そして、完膚なきまでにボッコボコにされた相手を恨めしげに見つめている。

 

俺が。

 

「……まじか」

 

Aは思ったより強かった。無尽蔵にペルソナ「ロキ」を出し続けても、全く疲れた様子も見せずに、見たことがない大技を繰り出してきた。片や俺は、ハリティーの持つ小気功と、武見妙に土下座して割り引いてもらった「貼る中気功」で何とか誤魔化せている程度だ。

 

「仲間をずっと頼っていのが仇になったね。君一人じゃ、何にもできない。一人で今までやってきた僕には勝てる訳がない」

「……」

 

ぐうの音も出ない。モナやスカルの助けなしに、シャドウと相対したことだって記憶にない。そもそも俺一人ではAには勝つことができないことなんて、始めに一発Aから大技をお見舞いされた時から、分かりきっていることだった。

 

「……まだ、まだ」

 

それでも、勝敗が見えていても俺は、Aに背を向けることはできない。

 

「……はぁ」Aはため息をついた。「しつこいなぁ。君はもっと、クレバーな人だと思っていたんだけ、ど!」

 

Aは俺の脇腹を蹴った。俺は声を出すこともできないまま、強制的に体勢を変えさせられる。……腹から聞こえてきた鈍い音からして、多分一本、いや二本はやられたかもしれない。

無抵抗に干上がっているだけなのに、本気で蹴りを入れるなんてAもなかなかどうしてひどい奴だ。前言撤回、彼は全然いい奴なんかじゃない。

 

「俺の、は、ら……」

 

俺の腹は都合のいいサンドバッグなんかじゃない。と言ったつもりが、余りにも胸への衝撃が大きくて言葉に詰まる。上手に息を吸うことすらもできない。

 

「僕に勝てないことは分かってるはずなのに。なかなかどうして、諦めの悪い人だ」

「勝てる、とか、負けるとかじゃ、ないよ」

 

何とか、思っていることをAに伝える。吸うことのできる空気の量はまだ少ない。

 

「お前がしたことに、俺がただ、許せないだけだ」

「したことって……若葉さんを殺したことかい?」

「ああ」と俺は言った。「お前にとって、それは朝飯前のことだったのかもしれない。でも双葉にとっては、とても決定的なことだった。重くて辛い、悲しいことだった。お前のしたことは、若葉さんの人生を断っただけじゃない。……双葉の中の時間を止まらせることにも繋がってしまった」

 

双葉はまだ、あの時間の中に取り残されている。大切な母親を失った時間という名の亡霊に取り憑かれている。

そして双葉は、その亡霊を祓うよりも、自身に亡霊が憑いていることを忘れることを選んだ。

俺は、双葉が選んだその選択を間違いだとは思っていない。心の中の亡霊を祓うことは難しくて、もっと苦しいことだからだ。

だから俺は待つことにした。双葉が、過去と向き合えるような大人になるまで待つことを選んだ。

でも、時間切れはすぐそこに迫っていた。

 

「双葉のパレスを生んだ元凶は紛れもなくお前だ、A。それに、この問題は今も進行中だ。だから許せない。それにお前を見逃してパレスに向かったとしても、双葉に会わせる顔がない」

 

いや。

Aが全て悪いわけじゃないことは分かっている。拗れに拗れを重ねたような双葉の今の状況は、今の今まで見過ごしていた俺の責任でもある。

だから今言ったことは、半分本気で、半分当てつけだ。

理屈の上では、Aがしたことは一つのキッカケで過ぎない。でも理屈と理性だけで自分の感情をコントロールできるほど、俺は大人ではない。

 だから。

 俺はどれだけボロボロにされても、生きてる内は立ち上がることを選んだ。

 

「……ぐっ……」

 

 全身が痛い。でも、上半身より、足は思ったより動かせられる。手をつく。体を持ち上げる。両足が震えているのを、なんとか堪える。体を起こす。ふらつく頭を必死の思いで止める。胸が詰まる。脇腹の辺りがようやく、痛みを訴えてくる。痛い。痛いけど、足はまだ動かせる。

 

「だから」Aは言った。「双葉さんの所に行っても、意味はない。……もう、嫌われてしまったんだから。それとも何、君、もしかしてストーカー気質があるのかな?」

 

 やっぱりうるさいし、知らなかった。そんなこと、いくらでも謝ればいい。鼻水を垂らそうが、どんなに女々しい事を言おうが、俺は双葉を諦めるつもりはない。非の打ちどころがない土下座の角度や、至高の言い訳なんかを考えるのは後だ。

 

「……そう、か」

 

 Aの声はもう聞こえなくなっていた。それほど俺の集中力は研ぎ澄まされていた。その勢いのまま、詰みから逃れるための試行に没頭していく。

 

「それならもう……」

 

 双葉が待っている。双葉がパレスで待っている。なら俺は、助けないといけない。

 

「引導を渡してあげよう」

 

 だから俺は、考える。窮地を脱する方法を。考える。双葉が幸せになれる方法を。考える。一二三を思わず唸らせるような方法を。考える。幸せなハッピーエンドを迎えられる方法を。

 でも。

 右足に、力が入らなくなった。

 鼓膜が揺れる破裂音が耳に残っていた。

 Aが取り出した物の銃口から、煙が出ていた。

 俺はそのまま、前へ倒れる。

 はずだった。

 

 

 

「――見つけた」

 

 

 

 でも、倒れなかった。僕は誰かに抱きとめられていた。それはどこか頼りない、小さな身体だった。月の光に照らされる、オレンジ色の髪が見えた。

 

「遅くなった。やられたのはコイツか? 二秒で片、付けてやる」

 

 夜の砂漠に負けないくらいに冷え切った声で、その少女は。

 佐倉双葉は、そう言った。

 

「……!」

 

 勇ましさに満ちた彼女の目を見て、俺は絶句した。走馬灯だと思った。死期を悟った俺の頭が、「まあまあそれなりによくやったよ」とでも言うように、気を遣って過去の双葉の映像を流してくれているのだとさえ思った。

 でも、こんなに、自信に溢れる双葉の姿を、俺は見たことがなかった。

 

「本当に、双葉……なのか? どうやってここまで……?」

「一二三に連れられて来た」

 

 ほら、あっち。と言って、双葉が指し示した場所には、原型を想像できないほどにひしゃげたボティーを携えた車が文字通り横たわっていた。フロントは見事に大きな凹みを作っていて、所々に沢山の擦り傷が残っている。

 その中から、咳をしながら這い出てくる一二三の姿があった。マスクと頭の被り物を外して、最早忍び装束としての役割を果たせていない怪盗服を着た大和撫子。普段の奇麗に整っていた髪が乱れていることから鑑みれば、一二三は相当の壁と苦難を乗り越えて、ここにいることが伺えた。

 

「ピラミッドの、内部構造って、思ったよりも複雑だったんですね」

 

 言いながら、ボコボコになった自慢の愛車、兼自身のペルソナをさすって労わる一二三。

 

「B級ライセンスが取れる日も近そうです」

「……一二三、頂上で蹲ってた私を、あの車で迎えに来てくれた」

 

 まじか。

 え、車? 車で来た。一二三が、パレスの中をフルスロットルで、突っ切って来てくれた。

 

「あ……」

 

 俺は、Aと相対した時に見えた、砂塵のようなものを思い出した。ピラミッド、つまり双葉のパレスを目指しているように思えた、一筋の竜巻。

 あれは、一二三の車が巻き上げていた砂ぼこりだったのか。

 それと、俺のスマホに来ていた、一二三からの着信。結局出なかったのだけれど、あれは一二三がたった一人で行った推理を、俺とすり合わせるつもりの連絡だったのではないか。

 つまり。

 一二三は、又聞きの情報と自分の頭だけで。

 双葉がここにいることを割り出して、ここに来てくれて。

 Aと相対している俺を見て、戦闘ではなく、補助要員である一二三がAとの戦闘に参加しても焼け石に水だと判断し。

 真っ先に双葉のパレスへと向かったのか。

 

「一二三……できる」

 

 それはもう、できるとかできないとかの次元では語れないような気がした。

 結局のところ。

 俺はなんにもできなかった凡才で。

 双葉と一二三は、なんでもできる天才だったということだろう。

 

「平気なのか?」

「あ、う、うん。ダメか?」

「あ、いや、そうじゃなくて」と俺は言った。「パレスとか、ええと、色々……それに、その姿……」

 

 よく見ると、双葉は見たことのないスーツに身を包んでいた。首のてっぺんから手足の先まで覆っている、黒を基調とした服。腕の部分や下半身にはダボついた生地が使われているのとは対照的に、上半身には双葉らしい体のラインをありありと確認することができる――いや、今は子細に双葉の姿を鑑賞できる時間はない。

 けど、その服って。え。

 まさか。

 

「しかも、アタックフォルムだ」

「アタックフォルム」

 

 じゃあ、ディフェンスフォルムとかもあるのだろうか。

 でも、そうか。双葉は、もう。

 

「心配かけた」

「……そうか」

 

 俺は、その言葉に。

 

「そうか」

 

 どれほど救われただろう。

 

「そそんで、えー、あー、ちょっと、言いづらいんだけど……」

「?」

「今まで、その、ありがとな! 感謝しかないし、それに、私のことをずっと見守ってくれてたこと、今なら言われなくても分かる。……だから――」

 

 その時、何かが終わる気配があった。

 忘れられる訳がない。四月九日。あの日から、積み上げて、時には崩れ落ちそうになって、よくないものを溜め込んで、バラバラに散らしたりした結果、歪な形となってできたよくわからない何かが。

 一陣の風が吹いた。風が双葉の橙色の髪を揺らした。

 月明かりの下、大きな眼鏡を掛けて、パッチリとした睫毛を携えながら、不敵に笑ってみせた双葉の表情は、多分、いや絶対に、今後の人生で忘れることはないだろう。そう思った。

 その時、何かが終わる気配があった。

 そして、新しい何かが始まる、その瞬間だった。

 

「――今度は私が、カレシを守る番だ」

 



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『Our Happy Ending』

あれから、一年と大体半年が過ぎた。

 俺が双葉に助けてもらってからの展開、及びAの処遇と怪盗団の行く末諸々は、完全に蛇足だから言わないでおく。……三人でAとの死闘を繰り広げてから向かった双葉のパレスのオタカラが、『何でも言う事を聞いてくれる認知上の俺』だったことなんて、言いたくない。

 それを俺と一二三に見られて双葉は顔から火が出そうなほどに恥ずかしがり、何故か全裸だった認知上の俺を見られて、俺が恥ずかしがり、そして一二三も顔を赤くした。まあこれで、おあいこだ。

 しかし、どうしても一つ気になったことがあった。一二三が、どうやって双葉を説得して、更にはペルソナに覚醒させたか、だ。将棋や神保町でのカレー等の折りに聞いてみたりしたのだが、一向に教えてくれる様子がない。

 

「寝取る、と言ったら。意外とそれが、双葉さんには効いたようです」

 

 一度冗談交じりに言っていたことを、はてさて、冗談のまま受け取ってよかったのかどうか。

 一二三はとっくに高校を卒業して、アマチュアから棋戦優勝を目指して頑張っている話は、昨日神田の教会で本人から聞いたものだ。

 

「ふぅ……」

 

 下宿部屋を半日中掃除していると、流石に小腹がすいてきた。

 「広いし安いし、清潔感もあります」という不動産屋から言われた文句とは反して、趣も何もないマンション部屋の廊下一面に埃という埃がかぶさっている。

 その上にもさらに埃が落ちている有様だから、掃いても掃いてもエンドレスで湧き出てくるような気がした。俺はその立ち込めるような粉をなんとか掃除した後、一息つく。

もうこのまま、寝てしまおうか……。

 ベッドをちらと横目で窺う。

 ううむ、やっぱりこちらも覆われている……流石に埃まみれで目を覚ますのは嫌なので、もう少し頑張らないといけないようだ。

では……アレを出すとしようか。

 眠気で落ちてしまいそうな目を擦りながら、もう片方の手でローソンのビニール袋をまさぐる。

ガラガラと特徴的な音を鳴らすそれを手に取って、流し台へと向かった。

 足を出す度に、四月にしては冷えている廊下にちょっとだけ寒気を覚えながら、フローリングの感触を足で味わう。

 電気を点けないで、なお薄暗いキッチンへと入る。ええと、ポットは……あ、あった。

 蓋をベリベリと剥がし、ポットに水を並々と注ぐ。タイマーをセットして前髪をいじりながら物思いに耽っていると、ここ最近の記憶がじわじわと蘇ってきた。

 怪盗、転校、受験。一番初めの二字熟語があったからこそ、俺の人生は波乱で、そして晴れやかな展開となったが、元の高校に出戻りになった後、『受験』という言葉が意味するところを嫌というほど痛感させられた。それでも、春や真の力をかりて、そこそこの大学に入ることができた。

因みに一二三はとっくに高校を卒業して、アマチュアから棋戦優勝を目指して頑張っているそうだ。

 そして、待ちに待った入学式直後の下宿の掃除。また東京の学校に行くことになったから、マスターの家もそろそろ恋しくなってきたのだけれど、流石にそこまで迷惑は掛けられない。

 あー…………。

 あ、そういえば、入学式の、入学生代表の言葉。半分寝ながら聞いていたから、あまり話の内容までは覚えていないのだけれど、その声が、どこか彼女の声に似ていたような気がしなくもない。

 いつだったか、『高卒試験って、今でも取れるらしいな!』と言っていたような気もするが……いやいや、まさか。

 とつらつら益体の無いことを考えていると、もうポットが沸いていた。

 水を内側の線まで注ぐ。本当はそこまでキッチリとする必要はないとは思うけれど、何故かしてしまう。

 タイマーを三分にセット。その間に、玄関周りでも掃除しておこうか……。

 しかしなんとなく集中できなくて、座り込んでスマホの画面を右へ左へとスクロールさせる遊びに興じていると、なんといきなり目の前の扉が開いた。

 

「」

 

その声を聞くまで、扉を開けた人が一体誰なのか見当をつけることができなかった。

 でも、ただ一つだけ、分かったことがある。

 

「……おかえり」

 

 俺はまた、UFOを二つ作りそびれてしまったらしい。

 

 

 

 

 

 

 




蛇足的なあとがきは活動報告にあります。


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余章
11/30


PQ2発売記念遅刻投稿ずさー
というのは建前で、久しぶりにこっちの世界の双葉と一二三に会いたくなったので書きました。よろしくお願いします。


『だからー』

「うん」

 

 師走の到来が間近に迫った、11月30日。

 暖房設備の「だ」の字もなかった屋根裏部屋が懐かしくなる。それでもまだ暖房をつけるのは贅沢な気がして、フリースを着て机に向かっている。

 

『遠心力と向心力はイコールじゃない。遠心力は見かけの力だから本当は存在しない。でも円運動してる物体と同じ舞台に立ったら、物体は止まってるように見えるから、遠心力も含めて同じ力のつり合いを考えたらいい。こっちがオススメだな。向心力は遠心力じゃなくて、円の中心に向かってる力の成分とイコールで結んだらおけ』

「なるほど」

『絶対分かってない! 電話越しでもカレシの気持ち、ちゃんと分かるからな』

「うん」意味がないことは分かってはいるけど、俺は頷いた。「全然分かってない」

 

 数十分、いや、下手したら一時間以上俺を悩ませ続けている物理の問題。自分で解いてみても、解説を読みこんでみても、挙句の果てにはYahoo知恵袋で質問してみても分からなかったそれを、俺は双葉に電話を掛けて教えてもらっていた。

 まあ、双葉と喋る口実ができたので一概にも悪いとは言えない。最近は双葉も俺に気を遣っているのか、あんまり喋る機会がなかったから。だから実際、通話のボタンを押すとき、内心ウキウキしていたのは認めざるを得ない。

 そこまでは良かった……んだけど。

 

『単振動は……だって、ほら、振動してんでしょ? じゃあ、ノータイムで周期が出せるし、周期が出せることが分かってる訳だから、そこから――に繋げられるのはよゆーじゃん』

「なるほど」

『絶対分かってない!』

 

 双葉は。

 教えるのが壊滅的に下手だった。

 いや、嘘だ。俺の理解力が足りないだけ。でも、『公式知ってたら勝つる』なんて言われても、どこにその公式を当てはめれば良いかが分からない。

 

「まあ、いいや」

『ぐぬぬ……。え、なにー?』

「いい。とりあえず休憩してから考える」

『そ、そうか。まあ、いいけど……本当に大丈夫か?』

「うん」僕は言った。「勉強だけが全てじゃない」

『うわー。適当な一般論を言って誤魔化すパターンのやつだー……』

「双葉と話したいし」

『いっ!?』スマホから、高い音が聞こえてきた。『そ、そそ、そんなこと言われると……まぁー……やぶさかじゃ、ないけど』

 

 ちょろい。

 でも、ちょっと恥ずかしい台詞だったかもしれない。今更ながら、耳の奥が熱くなる。

 でもでも、まだ一応自分は高校生だから、これくらいの痛いことは言っても許される気がして。

 同時に、もうすぐ自分が高校生ではなくなってしまうことに、内心焦りも感じていた。

 年明けだとは言っても、一次試験の日も遠いとは言えない距離にある。

 そして瞬く間に二次試験。落ちたら、浪人。

 ……ダメだ。暗いことを考えたくない。

 だから、(ペルソナに覚醒して以来)いつでも前を向いている双葉と話したくなるのだ。

 

『でも、なんでだ?』

「うん?」

 

 どかりとベッドに腰を下ろして、俺は言った。

 

『カレシって、どっちかって言ったら文系行くのかなって、思ってた。杏も竜司も、一緒の国公立受けるって頑張ってるし』

「うん。皆とは会ったりしているのか?」

『たまにねー。ハロウィンの日とか、ルブランにお菓子、持ってきてくれた。でも、私誘うの苦手だから、いっつも竜司とかが誘ってくれる』

「へぇ」俺は言った。「それは、楽しそうだ」

『……寂しい? そっちで、一人で』

「まぁ、ちょっと。でも大丈夫」

『そっち、行ってあげてもいいけど』

「構わない」

『そっか』

「双葉も、大事な高校生活があるだろ?」

『…ぅだけど』

 

 耳にあてがったスマホはそのままに、俺はベッドの上で伸びる。コキコキとあちこちから音がなった。一年前と比べたら、大分筋肉も落ちてきている。筋トレも時々しているにはしているけれど、全盛期とは程遠い。

 

『……しぃのは、カレシだけじゃないし』

「え?」

『私も結構、いや、そんなだけど、まぁ、ちょろっとは……寂しいし』

「……あぁ」

 

 そうか。

 双葉も。

 ……それは。

 

「ちょっと嬉しいかもしれない」

『なにぃ! もしやドSか?』

「そういう訳じゃないけど」

『じゃあ、来て』

「え」

『ルブラン。そして私の部屋。今すぐ。これ、カレシの、カノジョのお願い』

「まじで?」

『マジだ』

 

 時計を見る。時刻は夕方の五時半過ぎ。新幹線を使わなくても一応行けないことはないけれど、帰りの電車を乗れるかどうかは怪しいし、四軒茶屋に行ってすぐ戻る訳でもないから多分無理。

 難しいな……でも、双葉の頼みだし……明日の学校に遅刻しても……まぁ。

 と、ブドウ糖切れの頭で思案を巡らせていると。

 

『うっそー』

「なんだよ……」

 

 軽い声が聞こえてきた。

 

「どう断ったらいいか考えていた」

『んふふ、分かってるし』双葉は言った。『勉強、頑張ってるの。だから、わがまま言えない』

「助かるよ」

『あと、わがまま言ったら、割と本気で考えてくれることもな!』

「……適わないな」

 

 俺は笑った。スマホ越しに、双葉の笑い声が聞こえてきた。

 

「切るよ」

『ん。頑張りたまえ~』

「ああ」

 

 言って、俺は終了ボタンを押した。すると一件、誰かからLINEが来ていることに気付く。

 差出人は東郷一二三。

 ……まじか。

 アイコンを押して、内容を見た。

 

『近くで棋戦があって、今――に来ています。お忙しいところ恐縮ですが、何やら美味しそうなカレー屋さんを見つけたので、そちらに来てくださると嬉しいです』

 

 相変わらず文面はカチコチにお堅い。

 その下には、しっかりとその店らしきURLが張られていた。やっぱり、相変わらず一二三は一二三だ。

 しかし、双葉の件を断ってしまった手前、ほいほいと一二三の元へは行きづらい。

 

『いえ、その、難しければ一人で食べられますので』

『行くよ』

 

 まあ、行くけど。

 許せ、双葉。

 

「行くのか?」

「ああ」

 

 ベッドの下で、ずっと空気を読んでくれていたモルガナに向かって頷いて。

 俺は着ていたフリースの代わりにジャケットを羽織って、もう真っ暗になった夜の街へと繰り出した。

 

 

 

 一二三に指定されて向かった店は、知る人ぞ知るような年季の入ったカレー屋さんではなく、最近できたらしいフランチャイズ店だった。死角にいるのか、店の外のウィンドウから一二三の姿を捉えることはできない。店に入ると、カレー特有のいい匂いがした。それでも、ルブランの店に漂っていた匂いを思い出すことはできなかった。

 事情を聴いていたらしい店員さんに連れられて、店の奥まで進む。すると、綺麗に流したロングヘアと、かつてモルガナがハンドスピナーだと揶揄した髪飾りを見つけた。店員さんにお礼を言って、俺は一二三の対面に座った。

 

「あなたなら、どう指しますか」

 

 久しぶり、という前に、机を凝視して、思案顔を浮かべている一二三に機先を制される。

 机に置かれていたものは、言うまでもなく将棋盤だった。

 ……一体どういう状況なんだ、これは。

 突っ込もうにも、一二三の表情が真剣すぎて、水を差すのも憚られる気がする。とりあえず腰を落ち着けて、考えてみることにした。

 盤面を読む。昔に培った経験と知識を、脳の奥深くから引っ張り上げる。

 ……。

 

「こう、かな」

 

 俺は自駒を滑らせて、こうだと思った位置に置いた。

 

「……ふふ」

 

 一二三の口から零れた笑い声が気になって、俺は彼女を見た。

 

「相変わらずですね。どの駒も犠牲にしない、堅実で優しい指し回し。……お久しぶりです」

 

 言って、一二三は。

 ようやく俺に視線を向けた。

 

 

 

「……ごちそうさまでした」

 

 一二三は丁寧に手を合わせる。俺もほぼ同時に食べ終わって、追うように一二三の真似をした。

 南無。

 美味かった。でも途中から一二三との会話に意識を割きすぎた所為で、この味を再現してみろと言われても、できるかどうかは分からない。

 意外と、一二三と話すべきことや、話したい話題はそんなに多くなかった。何せ東京を離れてから、ほとんどの自由時間を受験に費やしていたんだ。球体と三角錐の共通部分の体積を求める積分とか、マルクスアウレリウスアントニヌスがどうだとかをドヤ顔で語ったとしても、女流棋士として快進撃を続けている一二三に伝わる訳がない。

 だから当然、東京での思い出に頼ることになってしまう。

 カレーを店員さんに片してもらってから、改めて一二三は将棋盤を持ち出して、名残惜しそうに駒を空打ちした。

 ……音、店に響いてないかな。

 まあいいや。

 

「……それにしても、懐かしいです」

「うん?」

「貴方がこちらに戻ってから、まだ一年も経っていないのに……時々神田で指していると、寂しく思ってしまいます」

「ああ」俺は頷いた。「そうだね」

 

 去年よりかは幾分かアクティブになった双葉が、たまに制服姿のまま教会に乗り込んでくるらしいが。

 それでも、以前のように三人で集まって指すようなことはなくなった。

 そうして、将棋に役立つ知識と経験を手元に残して、思い出は風化していくのだろう。

 でも、まあ。

 俺の第一志望は東京にある大学で。双葉もすぐには高校を卒業できないし、東京に大きな将棋会館がある以上、一二三も離れるに離れられないから。

 また集まれる未来も、なくはない話だ。

 その事を伝えると、一二三の表情が、目に見えて明るくなる。

 

「そう……ですよね。では、来年までに、もっと力を付けておかないといけません」

「お手柔らかに頼む」

 

 俺は苦笑した。多分今の一二三の状態でも、平手で100回指しても勝てそうな気がしない。

 来年か。

 俺は……ちゃんと来年、大学生になれているだろうか?

 毎日勉強していれば必ず入られるような大学を、俺は志していない。理由はあるけど、声を大にしては言えない。

 ともかく、どれだけ正しい努力をしたつもりでも、落ちる可能性は大いにあるのだ。そして浪人なんてことになれば、東京にある有名な予備校に行くことにならない限り、再上京はお預けになる。

 一二三の期待に応えられるだろうか、俺は。

 ……寝不足のせいもあるのか、思考が段々と暗くなってきた。

 

「……あ、そういえば。最近、研究会に入ったんです」

 

 そんな俺を知ってか知らずか、一二三は話題を変えた。

 乗っかろう。

 

「研究会?」

「はい」一二三は頷いた。「知り合いの棋士たちと集まって、同じ場所で将棋の研究をするんです。初めは、その、他の棋士と関わりを持ったことがなかったので……随分と緊張してしまって、駒が全然掴めなくて……フフ。でも今は、とても充実しています」

「……そうか」

 

 それは。

 とても凄いことだと思う。

 かつて女流棋士に敬遠されていた一二三が。

 勇気を振り絞って、ライバルと接点を持とうと頑張っているんだ。

 

「変わったな、一二三は」

 

 言葉が漏れた。

 一二三は何も言わず、スッと俺を見た。

 

「すごいよ、本当に。SNSでどれだけ言われても毅然としてるし、着々と女流タイトルも獲っていってる。……なんだか、一二三が遠く見えるよ」

 

 でも。

 

「双葉もだ。休んでいた間は、『お勤め、ご苦労!』なんて言っていたのに、今は自分の意志で高校に通ってる。竜司も最近LINEで横文字を使うようになった。皆……本当に、すごいと思う」

 

 でも。

 でも、俺は?

 模試の点数も劇的に上がらない。第一志望校は、Cがやっとだ。

 昨日覚えたはずの英単語も頻繁に忘れるし、教えてくれる双葉の言っていることも理解できない。

 取り残されているようだった。

 東京(あの場所)にいない、俺だけが。

 

「貴方が弱音なんて……珍しいですね」

 

 淡々と一二三は言った。

 

「え……?」虚を突かれて、一瞬黙ってしまった。「い、いや。別に、皆を褒めただけだ」

「私、最近彼氏ができたんです」

 

 今度こそ俺は何も言えなくなった。

 固まっている俺に構わず、一二三は続けた。

 

「嘘です」

「う……」

 

 嘘、かいな。

 似非関西弁が頭をよぎった後、俺は机に突っ伏した。

 

「……そんなに動揺されるとは思いませんでした。すみません」

「いや……別に、構わない」

 

 そもそも動揺するこっちの方がおかしい。

 素直に祝ってやるべきなのだ。こんな時は。

 

「とにかく。私が言いたいのは、すぐに人は変われないということです」調子を崩さずに、一二三は言った。「特別に運がいい場合を除いて、何もしていないのに、突然誰かに好かれることも、突然模試の結果がよくなることも、突然外に出る意思が芽生えることもありません。全ては目に見えない努力の結果なんです」

 

 だから、安心して努力して下さい、と。

 最後に厳しくも優しい言葉を投げかけて、話を締めた。

 ああ。

 やっぱり、見透かされていたのか。

 

「……敵わないな」

「それも中々、変わりませんね」

 

 一二三は笑った。俺もつられて笑った。

 支払いを済ませてから、一二三を駅まで送ることにした。知名度が上がってきたからだろう、チラチラと一二三を見る通行人が何人かいた。

 

「そういえば」思い出して、俺は言った。「今日は、勝ったんだよね。おめでとう」

「あ……ありがとう、ございます」

「なんでも、新手を繰り出したらしいけど」

 

 名付けて……なんだっけ?

 

「ワールド・エクスィード・飛車です」

「……え?」

「だから」憮然とした態度で、一二三は繰り返した。「ワールド・エクスィード・飛車」

「ワールド・エク、」

「改心の技名なんです」

「なるほど」

 

 確かに。

 人の根っこの部分は、早々変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 一二三を見送った後、家路につく。

 さっきまで抱え込んでいた妙なわだかまりは、もうすっかりどこかに行ってしまっていた。

何せ今日は双葉と一二三両方と話せたんだ。何にも変化がない方がおかしいだろう。

今は勉強へのモチベーションに満ち溢れていた。帰ったらもう少し、勉強机に向かおうか……。

 でも……まあ。

 たまには面と向かって、アイツと話してみたくなる。

 明日は休日だ。少しくらい、休暇を取っても許されるだろう。

 久しぶりの四軒茶屋凱旋への算段を立てていると、あっという間に着いた。

 ドアノブを引く。。

 すると、モルガナが招き猫よろしく、玄関前で丸くなっていた。

 何をしているんだろう。

 

「空気、読んでんだよ」

「?」

 

 大丈夫か?

 まあいい。

 モルガナを跨いで、ポッケの財布とコートを仕舞うため自分の部屋まで上がる。

 扉越しにガサゴソと物音が聞こえてくる。

 誰だ?

 反射的に息を潜めて、久しぶりにサードアイを開眼させながら、そっと扉を開けた。

 

「よ」

 

 すると、そこには。

 俺がベッドの下奥深くに隠していたはずのソレをしげしげと眺めている双葉がいた。

 

「18歳になったからもしやと思ってきてみたが……案の定だな……」

「ふ、ふた……お前、」

「まぁ、『眼鏡っ子特集』って書いてるから、許す!」

「許された」

 

 謎の判断基準。

 ……じゃなくて。

 夢じゃないよな?

 

「違うし! 明日休みだからなー、来ちゃった♡。……なんて言うんでしょー、最近のカップル!」

「……」

「……ねぇねぇ。いくら反応鈍いっていっても、もうちょっと驚いてくれてもいーじゃん」

「……いや」

 

 だって。

 ああ、チクショウ。

 口元が緩みすぎて、何も言えないなんて。

 言える訳がないだろう。

 

「……おひさ」

 

 前に会った時より、ほんのちょっとだけ大人になった笑みを見せて、双葉は俺に飛びついてくる。

 俺はしっかりと彼女を受け止めて。

 なんとか、口を動かした。

 

「久しぶり、双葉」

 



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10/31『Unrest』

「……つつ」

 

 床の冷えた感触で目を覚ます。朝起きた時に体に毛布が掛けられていないと、心細く感じる機会が増えた。

秋。

確かベッドに潜り込んだ時は、しっかりとこの体に掛け布団を巻き付けたはずなのだが。

 それなのに、こうしてベッドから滑り落ちた先にある、寝床と呼ぶには心許ないカーペットで目を覚ますのは何故か。

 それは。

 

「……ぐぅ」

 

寝床を共にする同居人が、信じられないくらいに寝相が悪いから。

 

 

 

 

 手探りで探し当てて、手に取った眼鏡を掛ける……と、想定していたより度がキツくて少しふらつく。同居人の眼鏡だった。間違えて掛けてしまったそれを、所定の場所に戻してから、改めて自分の眼鏡を掛ける。

 ハッキリ言うと寝覚めは最悪だ。なんなら寝た時よりも疲れが溜まっている気さえする。昨日の俺は明日、つまり今日の課題を終えるために少しだけ夜更かしをしてから寝床についた。寝床についた時、その同居人はまだパソコンをカタカタやっていた。

 つまり、後から二人兼用のベッドに入って来てから、俺が巻き付けていた掛け布団を奪った上、ベッドから蹴り落としたということになる。許せない。

 

「……くぁ」

 

 と一つ欠伸をしてから、食パンを二切れトースターに放り込む。俺のは二分、双葉のは少し多めの二分半焦げ目をつけてから取り出して、バターをナイフでさっと塗る。自分のものより少しだけ焦げた双葉の食パンには、コーヒーシュガーを掛けてやる。

 それから、もう秋だと言うのにも関わらず、大胆に腹を出した同居人に声を掛ける。反応はない。今度は肩を少し揺すってみる。反応はない。

……ただのしかばねのようだ?

 

「……んんー?」

 

 あ、しかばねじゃなかった。モゾモゾと掛け布団と共に寝返りをうった数秒後、うっすらとその大きな瞳を少しだけ覗かせる。

 

「ぁに?」

「何、って? 朝だ、双葉。起きて」

「……ぅふぐふん」

「……あと五分?」

「んん」

「焼いたパン、冷めるよ?」

「んぁー」

 

 前もって焼かれていた食パンに対して不満の声をあげる双葉だったが、時すでに遅し、だ。

 シュガートーストは焼きたてを好む双葉には、この手に限る。

 のそのそとベッドから這い出て来て、俺が一度間違って掛けた眼鏡を手に取る双葉。今日はちゃんと自分の足で食卓の椅子に座るようだ。

 

「……食パン、焼きすぎ」

「……ん? あぁ」ぶすっとした顔の双葉を見て、彼女の感情を判断する。「ごめん、次からは焼く長さは二分二十秒にしてみる」

「替えて」

「え?」俺は言った。「俺のと?」

「ん」

「いいけど……」

 

 砂糖ついてないぞ、と俺が指摘する前に、双葉は二人の前にある二つの皿を取り換えた。

 俺は回ってきたシュガートーストを手に取って食べてみる。……案の定もの凄く甘い。もの凄く甘かったが、血糖値の上がらない朝にはちょうどいいのかもしれない――と、納得することにして、いつものより少しだけカリカリの食パンを処理していく。

 

「……甘くない」

「……」

 

 しかし。

 朝が弱いとはいえ、双葉の機嫌が今日は拍車をかけて悪い気がする。

 ……もしかして、アレか? アレの日なのか? だとしたらしょうがない。変に刺激するのは火に油を注ぐようなものだから、あまり話掛けないでこうか。

 と、苦渋の決断を行ったのにも関わらず、双葉は俺に絡んでくる。

 

「お砂糖取って」「うん」

「部屋寒い。なんとかして」「うん」エアコンのスイッチを入れる。

「…………………ねぇ」「うん……うん?」

 

 俺は顔をあげた。相槌または謝罪が使えない呼びかけに戸惑って、俺は双葉の顔を見た。

 朝起きた直後特有の、虚ろな表情はそこにはなかった。もう目は覚めきっているようだ。その代わりに、怒りかそれとも悲しみか、色んな感情がない交ぜになった表情で、情けない寝ぐせのついた俺を見ていた。

 

「私を……怒らないの?」

 

 双葉は俺に聞いた。双葉は……、

 どうしてそんなことを聞くんだ? 双葉は俺に怒って欲しいのか? だとしたらそれは何故? そもそも今日はどうしてそんなに機嫌が悪いんだ? どうして。

 どうして双葉は、そんな悲しい顔をしているんだ?

 俺は頭の中で溢れ出した問いに、どこから手を付ければいいか分からなくて、悩んでしまう。

 でも、なにか、言わないと。

 

「双葉、」「なんでもない」

 

 だから、何かまとまったことを聞く前に、双葉に機先を制されてた。

 

「ごめん、なんでもないから。……わ、忘れ、て」

 

 双葉は席を立つ。今どんな表情をしているのかはもう、長い前髪に隠れて見ることはできない。

 双葉は戸惑う俺を置いてけぼりにして、せかせかと服を着替え始めた。

 

「ちょ、ちょっと」俺も慌てて席を立つ。「急にどうしたんだよ、双葉」

「なんでも、ない」

「なんか、俺、やったか? だったら、謝らせて欲し……」

「っ、だから!」双葉は俺を見ずに、声を荒げた。「なんっ、……でも、ないって」

 

 言いながら、双葉は手早くお気に入りのジャケットに腕を通して、そのジャケットに財布を仕舞った後、そそくさと扉の方向に向かって行く。

 

「今日……夕飯、いらないから」

 

 そう言い残して、双葉はアパートを出て行ってしまった。

双葉に渡した食パンは、一つも口が付けられていなかった。

 

 

 

 

 

 三日前、奇跡的に身長が1cm伸びて、150cm代の仲間入りを果たしたとかで浮かれていたはずなのに、今日は打って変わって……だ。

でも。

 この秋の空模様のように移り気な双葉の心象に悩まされていてもしょうがない。今日は二コマ目から取っていた講義がある日だ。さっさと残された二枚の食パンを平らげて、大学へ向かう準備をしようか。

 食べて、講義に必要な教科書累々を鞄に詰め込んで。

 

「……う、く」

 

 なんとか胃から食パンだったものがせりあがって来そうな感覚を我慢しながら、アパートを出る。空気はすっかりと冷えていた。これから更に寒くなるという事実だけで寒気が……。

 大学の門を通ってから、数分歩いた先にある建物に入って、講義のある部屋まで向かい、真ん中より少し後ろ目の席に陣取る。案の定双葉の姿は見当たらない。そもそも講義に出なくても大体分かるとかなんとかで、双葉が出席数が単位に響かない講義に姿を見せることは稀だ。

 

「あ、あのっ」

 

 趣味がプログラミングなのも考えもので……うん?

 

「先輩」

「うん? ……あ、」

 

 振り向くと、赤い長い髪をポニーテールで纏めた、なんだか見覚えのある顔がこちらを覗いている。

 たしか名前は、よし――、

 

「昨日は、その、ありがとうございました」

「ああ」俺は言葉を選ぶ時間を掛けずに言った。「昨日財布を落として、路頭に迷っていた子」

 

 昨日、大学の講義を終えて、双葉の待つアパートに帰ろうとしていた頃。

 同じ場所をしきりに行ったり来たりしている学生を見かけた。

 おもむろに屈んだり、キョロキョロと視線を彷徨わせている様子から見るに、何かをこの近くで落としてしまったらしいと。

 そして、話しかけたのだった。

 

「もう警察には伝えた?」

「あ、や、まだでして……というか……」

「そっか」

「それで、その……返すお金のことなんですけど」

「ああ、うん」俺は頷いた。「全然、財布が見つかった時とか、いつでもいいから」

 

 そのキョロキョロしていた学生に声を掛けると、アパートに一度帰ってから初めて、いつも入れていた鞄のポケットの中に、財布が入っていないと気が付いたことを話してくれた。

 それから一緒になってその財布の捜索を続けたものの、一向に見つかる気配すら現れず、その学生のお腹から『ぐぎゅるる』と大きな音が出たのと同時に、捜索は中断された。

 

「それがですね……お恥ずかしい話なんですけど」

「?」

「鞄の別のポケットの中に入ってまして……財布」

「……お、おお」

 

 それから近くのファミレスに移動して、ひとしきり食べた。

 ひとしきり食べた……というか、ひとしきり食べているところをずっと見ていた。

 まさかあのお腹に、カルボナーラとナポリタンとペペロンチーノ一人前が、体積を増すことなく入るなんて。

 保存の法則が崩れた瞬間を目の当たりにしてしまった。

 

「それは……なんというか」俺は言葉を選んで言う。「不幸中の幸いだったね」

「いや……本当……すみませんデシタ……」

「ああ、話は戻るけど。……本当に返さなくてもいいんだよ?」

「いえ、それはダメです」彼女はキッパリと言った。「私、借りは返す主義なので」

 

 ああ、そういえば、ファミレスで食事を交わした時も確か、そのようなことを言っていた。

 それが二十年そこらを生きて来て培ってきた主義なのだとしたら、俺が口を出す権利もないだろう。

 なるほど。と俺は頷いておいた。

 

「そこで……その、もし先輩がよかったら、なんですけど……」

「?」

 

 一呼吸置いて、赤髪の彼女は言った。

 

「今日の夜って、ご予定ありますか?」

 




P5R発売日投稿ずさー
お久しぶりです。
あと2話続きます。
短い間になりますが、よろしくお願いいたします(_ _)


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10/31『Marrow』

 神保町は、例えば本のインクの匂いだったり、カレーの香ばしい匂いだったり、魅惑的なで印象的な匂いを醸し出している店が多いイメージがある。

 そのイメージに違わず、今日の神保町も、道沿いに建ってある店を通る毎に、思わず立ち止まってしまいそうな衝動に駆られる。ちょっと本屋に寄って行こうか。ちょっとガッツリ夕食を食べる前に、小腹を満たしておくか……。

 その欲望に従ってしまうと、待ち合わせの時間に遅れることは必至だ。

曲がりなりにも一時期、色んな人の欲望を窘める行為に励んでいたのだから、これくらいの欲望に負けてどうする。抗っていけ。

と、自分で自身を叱咤激励していたら、目的地に着いていた。

定番のカツカレーが美味しいと評判のカレー屋さん。そこで、既に待っている人がいるはずだ。

店に入り、店員さんに、もう席を取ってもらっている人がいることを告げてから、そちらへ向かう。

 

「よ、よう」

 

 どもってしまったのは、その人と会うのが久しぶりだったから。

 そして――何より、年を重ねるごとに鋭さを増した、その人の美貌にあてられたからだ。

 

「こんにちは」

 

 そんな俺の心象なんかお構いなしに、()()を見つめている時のそれとはかけ離れた柔和な笑みを返しつつ、彼女は言う。

 一二三は言う。

 

 

 

 

 ただでさえ、現役の女子高生だった時も、その(将棋に打ち込んでいる時以外の)落ち着いた振る舞いと、大和撫子という形容がよく似合う顔立ちから、和風美人の称号をほしいままにしていたのに。

 その一二三が、成人になる年を迎えたらどうなるか。答えは言わずもがなだった。

 

「何頼む?」

「そうですね……ここに来たのも久しぶりですし……」

「そうなんだ」なんとなく相槌を返す。

「カツカレーで」

「なるほど」

「特盛りで」

「特盛り」

 

 ……俺の周り、よく食べる女の人が多いような。よしなんとかさん然り、双葉然り。

 俺はカツカレーの大盛りを頼むと、店員さんは一二三をチロチロと横目に見ながら、厨房に帰っていく。

 

「変に勘ぐられたかもしれませんね」

 

 クスリと一二三は笑う。

 

「え?」

「あの店員さんに」

「えっと……あ、ああ」俺は頷いた。「それはないんじゃないかな」

 

 恐らく、先程の店員さんに、俺と一二三は今デート中なのではないのかと疑われた可能性を、気にしているんだろう。

 

「そうですか?」

「うん」

「どうして?」

 

 俺の頷きから、間髪入れずに聞いてくる一二三。

 

「一二三が有名人だからだ」俺は言う。「女流棋士として名を馳せてる一二三が、顔を隠すこともしないで男の人と喋っているのは不自然だ。それに俺と一二三は、この店に初めて二人で来た訳じゃない。その辺りの事情を知っている店員さんだって、この店に残ってるはずだ」

 

 それに今、一二三は男の棋士とお付き合いをしていることを、世間に公言しているだろう、とは。

 どういう訳か、口から出てこなかった。

 

「なるほど、なるほど」俺が言ったことを、ゆっくりと口の中で噛むように一二三は言った。「……ともあれ、今日はお誘いいただいて……ありがとうございます」

「あ、い、いや。こちらこそ、急に呼び出してごめん」

「いえ。……久しぶりにこうやってお食事をすることは久しぶりだったので、その……嬉しかったです」

 

 窓から入って来る光は、電灯から発せられたものばかりだ。秋の夜長。行き交う人は各々秋の装いと呼ぶに相応しい長袖の服に身を包んでいる。俺と一二三もその例に漏れず、肌の露出は極端に少ない装いとなっている。

 

「それで、その……双葉さんは」

「ああ、ごめん」俺は言った。「今日は、連れてないんだ」

「いえ、そうではなく」

「?」

「喧嘩……されたんですよね?」

 

 え。

いや、なんで。

読むことに長けている一二三とは言っても流石に、それはもう千里眼の域なんじゃないか?

と、俺は一二三の異能の発現に戦慄していると。

 

「双葉さんからも、LINEが入ってたんです」

「あ、ああ」

 

 なるほど。

 ストレートに事情が伝わっていたのか。少しホッとした。

 しかし、双葉も俺も、困ったら一二三に相談していたんだな……。

 ……。

 

「……? どうして笑われているのですか?」

「あ、いや、なんでも」わざとらしく咳ばらいをする。「それで……双葉は何か言ってた?」

 

 怒っているだろうか。ああ、怒っているだろうな。

 何故なら、双葉がどうしてあの時怒っていたのか、今でも分かっていないのだから。

 もう何年も一緒にいるはずなのに、双葉の気持ちを察せられていないのだから。

 

「いえ」しかし一二三は首を横に振った。「電話から聞く限り、申し訳なさそうでしたよ。『寝ぼけて、変なこと言った』、『私は、サイテーだ』、エトセトラ」

「……」

「昨日、双葉さんは、貴方が誰かとファミレスで食事されていることを、偶然見かけたそうです」

「……!」

 

 え。

 あの、よしなんとかさんといた場面を、双葉に見られていたのか。

 いや、別に後ろめたいことをした訳じゃない。でも……でも、双葉に『あらぬ誤解』をされてもおかしくはない状況ではあったはずだ。

 

「いえ」再び一二三は、俺の推論を否定する。「双葉さんは信じていたはずです。貴方は双葉さんを心から大事に思っている。それは、誰の目から見ても明らかです」

 

 恐ろしいくらい恥ずかしいことを言われて、耳を赤くしながら何かを言おうとした俺を、

 

「でも」

 

 しかし、一二三は制した。

 

「ほんの出来心で、試してみたくなったそうです。私はちゃんと慕われているか。私が我が儘をいうと、ちゃんと彼は叱ってくれるだろうか」

 

 だから俺は、双葉を朝見た時に、妙に機嫌が悪いと感じた。

 その時に俺は、更に機嫌が悪くなることを恐れて、あまり構わないよう心掛けた。

 そんな俺の振る舞いが、双葉の目からは自分に無関心なように映った。

 

「……」

 

 だから、双葉は。

 それなら、双葉が申し訳なさを感じる必要なんて、ないじゃないか。

 

「……俺のせいだ」

「貴方は悪くないです」

「でも、俺は双葉の気持ちに気づけなかった。推測できるヒントは幾らでもあったのに」

「どうしたって言葉にしないと分からないことだってあります」

「でも相手は……双葉なんだ」俺は一二三の目を見て言う。「惚気たい訳じゃないけど、俺はずっと双葉と過ごしてきたんだ。それにしたって、数年ぽっちの付き合いかもしれない。でも……それでも、双葉の気持ちは慮ってしかるべきだ」

「それは……」

「『人は変われない』……だろう?」

 

 いつぞやか、一二三は今回と同じようにどこかのカレー屋さんで言っていた。

 人は簡単には変われない。考え方や、自分の中の信念とか、正義とか、判断基準とかを、RPGの装備みたいにガチャガチャと切り替えることはできない。

 今回の件もそれに当てはめてみれば、俺は双葉の構って欲しいという心情を、汲み取るべきだったのだ。

 

「……それでも、双葉さんと会ってから、もう4, 5年は経っているでしょう」

「あの日から、双葉の何かが特別に変わったようには、俺には見えないよ。ずっと双葉は双葉だ」

「それは双葉さんがずっと身近にいるから、日常の些細な変化に気づいていないだけです」

「……っ、じゃあ、」反論する一二三に腹が立ってきて、俺は少し乱暴な口調で言ってしまう。「一二三は何か変わったことでもあるのか?」

「はい」

 

 一二三はあっさりと頷いた。

 

「好きな人が変わりました」

「……………………あ、ああ。棋士の」

「変わる前の人は聞かないんですか?」

 

 一二三は試すように俺を見た。それを聞くことは、俺と一二三の関係の、核心的な部分に触れる気がして、なんとなく視線を逸らしてしまった。逸らされた一二三は、その視界の端っこで、薄く笑っている気がした。

 

「変わりますよ。変わります。すぐに、意識的に自分を変えることはできないけれど、どう頑張っても、人と関わってさえいれば、人は変わってしまいます。……私も。双葉さんも」

 

 じゃあ。

 どうしたらいいんだ?

 人が知らない間に変わっていくのを、ただ眺めるしかないのか?

 

「そんなこと、貴方にも分かっているはずです」

「……。こうやって?」

「はい」

 

 一二三は笑って頷いた。

俺も仕方なく笑う。

 程なくしてやって来た特盛りカツカレーを、俺たちは――、

 

「……え?」

 

 特盛り? あれ、俺は大盛りを頼んだはずなんだけれど。間違ってオーダーが通ってしまっていたようだ。

 ちょっと、一二三……、

 

「ううん、相変わらず美味しそうですね……!」

 

 ……は聞く耳を持っていなかったようだ。目の前のカツカレーにご執心だ。

 仲直りはとりあえず、この『カツカレー特盛りを完食する』という試練を突破してからか。

 大変そうだ。でも。

 

「早く食べましょう……!」

 

 あっという間に時間は過ぎそうだ。

 

 



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10/31『Lust』

「よ、よう」

「……うん」

 

 なんとなく想像はしていた。

 双葉がアキバや神田や品川でもなく、四軒茶屋にいる可能性を。

 と言っても実家に滞在しているか、ルブランで先程までの俺たちと同じように特製カレーをかき込んでいる――というのが大方の想像だった。

 だから、双葉が四軒茶屋駅のホームを出た先で待ち伏せをしていると、流石に面食らってしまう。

 ……俺が双葉は四軒茶屋にいることを読んだのと同様に、双葉は俺が四軒茶屋に来ることを読んでいたらしい。おあいこだ。

 

「……」「……」

 

 誰に言われなくとも隣に並び、どちらからともなく並んで歩きはじめる。あたりはすっかり夜だ。エンジン音、多くの足音諸々の喧噪は、商店街から小道に曲がるまでの間は続くだろう。吐く息はまだ全然白くない。

先に口を開いたのは双葉だった。

 

「寒いなー」

「うん」

「秋? 何それ? 美味しいの? レベルの寒さじゃね?」

「本当に」

「ん……」

「もう一年の六分の五まで来た」

「それが?」

「そう言われると、なんとなく、感慨深くならない?」

「そんなに」

「そっか」俺は頷いた。「双葉なら、そう言うと思った」

 

 数年前とほぼ変わらない位置から双葉の声が聞こえる。それだけの事実がとても幸せなことなのだろう。それでも幸せだなぁと、心が温まるなぁと、それこそ感慨深く感じないのは、きっとそれが今の俺たちの当たり前だからだ。

 偶然俺の右手が双葉の左手に触れる。どうしようかと迷っていると、双葉から先に握ってきた。俺も負けじと握り返す。じんわりと右手が温かくなってくる。

 

「ひ」

「ひ?」

「ひさ、しぶりだな。こうやって手を、つつつ……」

「筒?」

「繋ぐの」

「ああ」俺は頷いた。「そうかも」

 

 確かに、今更改まって手を繋ぐような行為をした覚えは、少し前の記憶を辿ってみても見当たらない。

 だから、これはレアイベントなのだろう。じっくり堪能しなければならない義務が発生していると言える。

 

「いやー、それにしても暑いなー。なんだか頬も熱いし……流石にジャケットは着こみ過ぎ過ぎた説あるな」

「ふっ……くく……」

「なんで笑うし!?」

「双葉、さっき寒いって言ったばかりなのに、暑いって言ってる」

「~~っ!」

 

 言うと、双葉の言う通り少し赤みが差していた双葉の頬が、より一層朱色に染まる。

 心なしか、右手から伝わる温度が高くなった気もした。

 

「じゃ、手、もう繋がへん……」

 

 なんで関西弁なんだ。

 ともあれ。

 

「いや、それはい……ダメだ」

「何で?」

「久しぶりだから」

「……そ」言って双葉は、んふふと笑った。「久しぶりなら、仕方ないなー」

 

 そうだ、仕方ない。

 俺が双葉の心情に気づけなかったのも、ほんの出来心で、双葉が冷蔵庫で大切に保管していたコンビニで買ったらしい極上プリンを食べてしまい、真顔で理詰めで叱られたことも、よしなんとかさんのお誘いに乗ることが、双葉に対する引け目になるのが嫌で、断る口実を作るために、急いで一二三にカレーを食べる約束を作ったのも、全て俺の不徳の致すところには違いないけれど、過ぎてしまったものなのだから、仕方のないものは仕方ない。

 でも、このまま今朝の出来事をなあなあで終わらせてしまうことは、仕方ないことじゃないだろう。

 

「ごめん」

 

 ありがちな、謝罪の言葉が被らなかったことに内心ホッとしながら、俺は続ける。

 

「どうしても、サボっちゃうんだよな。ずっと一緒にいるから、わざわざ面と向かって喋ることが、野暮ったいと思っていたんだろう」

「……」

「双葉。もっと話そう。もっと手を繋いで、もっと……その……」

「〇〇〇?」

「ちょ……いや、まあ……要するにそんな感じだ」

「……〇〇〇」

「いや……言いたかったのはそういうことじゃなくてだな……」俺は頭を掻く。「相互理解を、したい」

 

 改めて。

 色んな分野を知って、見識を広めて、得難い体験をしていった。少なくとも、俺たちが下宿初日に出会ってから。お互い。

 そんな様々な荒波に揉まれて、俺たちはきっと変わってしまったんだ。ズレてしまったんだ。

 双葉はどもることが少なくなった。ネット用語をあまり使わなくなった。初対面の人でも、多少のぎこちなさは残るが、コミュニケーションを取れるようになった。それは表面的な変化だ。だからきっと、内面も少なからず変化している部分はあるはずだ。

 そして、それは俺についても言えることだ。

だから、その変化と、元々の認識の差異を、埋めるための相互理解。

 

「それって、自己満足じゃね?」

「そうかも」

「昔の方がよかったって、失望しちゃうかも」

「それはない」

「誓って?」

「うん」俺は頷く。「誓って」

「……そ、あんがと。んで……ごめん」

 

 それは何に対しての感謝で、何に対しての謝罪なのか。

 その疑問も、理解を深めていく内に解けていくのだろうか。

 分からない。分からないけれど、前よりかは少しだけ前向きになれてる。そんな気がする。

 

「行こ」

「うん」

 

 俺は頷く。

 どこへ行くか。

 それくらいは、今の俺にも分かった。

 

「行こう」

 

 ……もうコーヒーを飲む程度のキャパしか、俺の胃には残されていないけれど。

 



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