巻物語 (一葉 さゑら)
しおりを挟む

巻物語 第開話 こよみドッペル
001-B


 前日譚というか前哨戦。

 

 早い話、僕には三人の幼馴染がいる。

 幼くて馴染みのある人という意味で、幼馴染。こんなことを言っていたら老倉に助走をつけて殴られそうだが……ともかく、三人の幼い知り合いがいる。

 とはいえ、その三人全員が見た目通りの女児ではない。

 三人全員が何かしら世の中の道理に逆らっていて、摂理に反している。

 反抗期なんてとうの昔に置いてきたくせに、反抗し続けている。

 鬱蒼と、生きている。

 

 もっと言えば、『馴染みのある人』だなんて表してみたは良いものの、その中に『人』は一人もいないし、そもそも彼女達が僕に馴染むなんてことは一生かけたとしてもないだろう。

 だって、3人とも、もう既に生きていないのだから。生きているように見えて、その実死に続けているだけなのだから。

 リビングデッドならぬ、ビーイングデッド。

 生死が曖昧なのではなく、はっきりし過ぎているが故の不死。そのくせ存在理由だけは一丁前。

 

 中世において不死者が魔女として断罪され続け、蘇生者が聖者として崇め奉られた歴史があるけれど、これは、実は意外と理にかなっていて、むしろ、聖者だからこそ蘇生したように、魔女──つまり人ならざる者だからこそ不死者なのであるとも言えるかもしれない。

 人ならざる者はヒトデナシであり、怪異なのである。

 だからこそ、僕は自分の吸血鬼もどきとしての治癒力を後遺症と呼ぶのだし、これが単なる後遺症であるからこそ、僕は人間であると自分に言ってやれるのだ。

 まぁ、そんな詭弁をつらつらと並べるまでもなく、忍野や影縫さんは僕のことを人間だとみなしてくれているようなので、不死云々のことは総じて僕の独りよがりなのかもしれない。

 段違いの知識を抱える専門家には間違いなくなにかしらの線引きがあるはずだから──生死の境を朗々と区切ってしまう程度には。

 

 話を戻すと、結局の所、僕にとってこの三人の幼馴染というのは、どうしようもなく不死であり、どうしようもなく死に続けている……けれど、それでもやっぱりどうしようもなく動いている。そんな死体もどき達なのだ。肢体に見えるけど死体には見えない、ただの少女達なのだ。

 

 だが、もしもそんなことを少女に告白してみたところで、

「いやいや阿良々木さん。私は別に死に続けているつもりはありませんよ。私はこの通りちゃんと死んでいます。ただの阿良々木さんと会話できるだけの運のいい美霊女です。まぁ、今となっては女神なんですけどね!」

 なんてあいつは言うかもしれないし、別の童女に言ったところで、

「やっぱり鬼いちゃんは人でなしだね。目に節穴があいているあたりが」

 としか言われないだろう。あいつに至っては多分、

「──呵呵ッ」

 と一笑に付すだけだ。

 

 神霊少女。

 傀儡童女。

 吸血幼女。

 三者三様と評するには余りにもゲテモノで外道な存在だけれど、僕がこれまでに歩んできた人生で彼女達以上に死に近いものなど見たことなかった。

 人に関して、本物の死を目の当たりにする機会がなかった。

 体が死んでいても、心は生きていたし。

 心は失くとも、体は動いていた。

 死ぬことを殺されていたけれど、それでも生きていた。

 パーツパーツはどこか欠けてしまっていたかもしれないけれど、それでも、僕があいつらをあいつらなのだと言い張れるくらいにはあいつらは生きていた。

 動いていた。

 これ以上ないくらいに、現実的だった。

 ……しかし、一転どうだろうか。

 今この状況は、一体全体何なのだろうか。

 

 

 僕は、何故、今、死体の上に座っているのだろうか?

 

 

 まるっきりの死を直視してしまった僕はどうしてやればいいのだろうか。

 動かない、話さない、生きていない。

 死体としては当たり前の在り方が逆に僕を混乱へと誘う。

 僕は人生を迷って溺れて、それでもなんとかもがきながら生きているわけだけれど、それでもこんなに理解に苦しむ状況は経験したことがない。そもそもの話、どれもこれもが僕の意思とは無関係に進んでいるわけで、ともすれば自分が木石になったかのようにすら感じる訳である。いい加減丸石に(あるいは流木)でもなってしまいそうだ。

 そんなわけで、なにが『そんなわけ』なのか分からない僕は、煙くさい道路の隅で、大して良くもない頭を抱えるのだった。

 

 力尽き、精根尽きた死体の上で。

 阿良々木暦は『誰よりも知り尽くした人の死体』の側で混乱と共に嘆くのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

002-B

 閑散な道を一人で歩いている途中。たったったっ、と跳ねるようなリズムの軽い音が迫ってきた。

 その音は、初めは、たたた──と短めの間隔だったが近付いてくるに連れ、たったったっ、たっ、たっ、たっ、と音の聞こえる間隔は伸びていった。ドップラー効果的におかしい気がするな、と受験以降すっかり抜け落ち始めた知識ながらにそんなことを考えもしたが、なんてことはない。

 ただ単に、音の主がドップラー効果を覆す位のトップスピードへと移行しているだけだった。

 その音は、地面を蹴る音だった。

 速くなれば接地時間も短くなり、滞空時間が長くなる。この連続音が人の走って近付いてくる音だと考えればなんの問題もない。当たり前の結論への帰結。

 ただ、突っ込むべき箇所があるとするならそれは多分、その音がどれだけ僕に近づこうと何故がその間隔は伸びる一方だということだろう。

 つまり、減速の兆しが全くない。

 音の主はおおよそ予想がつく。

 大方、僕を見かけて駆け寄ってきたといった所だろう。

 できた後輩である。

 

 できればこの出来具合を破茶滅茶な妹達に見習って欲しい所ではあったけれど、前に火憐ちゃんに会わせた時のことを思い出すとどうにも気が進まない。

 と、僕は足を止め、音のする方へ首を向けるのだった。

 

「へいへいへい! 喧嘩してるか? 阿良々木先輩!」

 

 予想通りの声。しかし予想外の動き。

 後ろを振り向きかけた僕の首は彼女の動きにつられ、空を見上げる形となりやがて最後には元居た場所へと戻ってきてしまった。

 

 それはもう──見事なムーンサルトだった。

 

 神原駿河という可愛い後輩の名誉ため、注釈として言わせてもらうと、本来彼女は先輩に向かって『元気してるか?』みたいなノリで喧嘩の有無を聞いてくるようなサイケデリックな後輩ではないし、また、声をかけると同時に先輩の旋毛を見下すが如く飛び越えていくほどアクロバティックな後輩でもない。本当にできた後輩なのだ。

 確かに、かつては出会い頭に襲われたことや飛び越えられたことがあったかもしれないが、それはもう昔の話。彼女の暗黒期、ストーカー時代の話だ。

 悲しいことに、僕よりひたぎと仲睦まじく生活している今の神原は、本人も文学少女を自称するほどに落ち着いた可愛い後輩になっている。

「腐っても本好きだぞ!」とは本人の談。

 ……やっぱこいつ本好きじゃねえわ。

 本好きに謝れ。

 

 しかし、今の第一声は僕の聞き間違いで、本当は本当に『元気してるか?』と言っていた可能性を忘れてはならない。それが先輩に対する正しい口の利きかたなのかはともかくとして。

 煙を上げて着地、制止、ポージングを決めた後輩に若干引きつつも僕は彼女に向き直った。

 知り合いの半数以上が怪異という僕にとって貴重な『人間の少女』である神原へと向き直った。

 

「どうしたんだ、阿良々木先輩?そんな後輩のパンツを目の前にして、食うか食われるかの葛藤に襲われた時のような顔をして?」

「食わねえよ……ていうかお前。お前神原、お前、食われるってお前、もうそれパンツ被ってるだけじゃん! というか後輩のパンツを目の前にして、そんなアブノーマルな選択肢なんて出ねえよ! そもそも後輩のパンツを前にする状況なんてねえよ!」

「おっ、そのツッコミは紛うことなき阿良々木先輩だな。やんごとなき阿良々木先輩だな。──よし、ところで、阿良々木先輩。喧嘩してるか?」

「なにが『よし』なんだ。春休みの月曜日、それも朗らかな日の下でそんなバイオレンスが横行してたまるか」

 

 神原の言う『喧嘩』とはもしかして、僕と誰かの関係に歪みが生じているかどうかの話──例えば僕とひたぎの仲の話──なのかとも思ったが、二人っきりで合格祝いをする程度には仲睦まじい自覚があるし、そもそも神原の発言に深く考えること自体が不毛なことに気付いて虚しくなった。

 なんだか釈然としないため首を傾げた拍子に違和感が目に入る。

 

  違和感の正体はすぐに判明した。

 神原が珍しくロングスカートをはいている。

  え、マジで?

 

 『可愛い』とか『綺麗だ』とか、普段とのギャップに萌える前に、そんな格好で僕の身長を超える跳躍を見せたことへのうっすらとした恐怖を覚えた……が、それにしたって珍しい。度重なるあいつの部屋の掃除の中で、こういった服を数着持っていることは知っていたが(神原曰く、祖母からの贈り物らしい)、まさかこんな形でお披露目されるとは思いもしなかった。

 釈然しない気持ちはどこへやら、彼女のスカート姿に愕然とする僕を他所に神原は数回頷いて頓珍漢なことを語り出す。

 

「うむ、私も阿良々木先輩が喧嘩をしているなんて露ほどにも思っていなかったぞ。実の所、阿良々木先輩のご明察の通り、私は学校へバスケットボールのコーチを頼まれてこれから教えに行くところなのだ。まさかこんな所で会えるとは思っていなかったが、やはり視界に入ったからには挨拶ぐらいするのが後輩としての行事だと思いこうやして参上させてもらった」

 

 いや、ツッコミどころが多すぎる。

 なぜ喧嘩の話を持ち出したのかが結局分からないし(なにが『実のところ』なのか……)、僕は神原の外出目的を一切推察できていなかった。

 色々と買いかぶり過ぎだ……。

 それにいくらバスケットボールをプレイしないとはいえ、コーチングに専念するにしたってロングスカートはないだろう。

 後輩にキレられるぞ。

 一つ一つに突っ込むとキリがないと僕は見切りをつけ、一番気になる(身にはならないだろうが)彼女の身につけているスカートについて聞いてみた。……酷い字面だ。

 

「ふーん、バスケットねぇ。だけど神原。お前の格好はどうみてもお花畑にピクニックに行く前の少女だぜ? そんな格好じゃプレイは勿論、コーチングだってままならないんじゃないのか?」

「いやだなぁ、先輩。こんなお天道さんの見守る中でプレイだとかコーチングだとか……興奮してしまうではないか!」

「興奮してしまわないよ。スポーツの神様に謝れよ。解釈を誤ったことを謝罪しろよ」

「断る。私は何も間違ってない。いや、むしろ本当に間違っているのは阿良々木先輩なのではないだろうか。阿良々木先輩は本来私と同じ意味で用いたのではないか? 何を持って私を間違っていると断定するのだ。何も間違っていないではないか!」

 

 こうも語気を強めて断定されてしまうと僕が悪かったような気がしないでも、ないな。

 なにを言っているんだこいつは。

 なんで逆ギレしたんだよ。

 今回に限っては完全にこいつのミスである。

 むやみやたらに先輩を変態にするんじゃない。

 なんでどうでもいい所で頑ななんだ。

 

「……まぁ、その格好、似合ってるよ。お前の部屋に埃かぶっていたスカートとは思えないぜ。馬子にも衣装なんて言うけど、この場合は馬装にも美女って感じだな」

「やめてくれ、先輩。阿良々木先輩みたいな頭脳明晰才色兼備馬耳東風な人に言われても嫌味にしか聞こえない」

「嫌味を言ったのはお前だよ。一気に自惚れ野郎みたいになっちゃったじゃねえか」

 

 わざとか?

 わざとなのか?

 そんな疑問を他所に、神原は照れたようにスカートをつまみ上げる。

 

「ああいや、これはスカートではない。スカートに見えるワンピースなのだ。それにこれはつい先日買ったものでな、今日初お披露目なんだ」

「へぇ、そうなのか。……もしかして、さては、本当はお前。バスケのコーチとか言っておきながらデートでも行くんじゃないのか?」

「いやいや、阿良々木先輩。確かに私は人よりもレズの気配が強いことは認めるが、なにもそんな可愛い後輩に手を出そうだなんて考えたことはないぞ。私は戦場ヶ原先輩一筋なのだ」

「……別に僕、そのデートの相手が女子だなんて言ってないし、思ってもみなかったよ? それに、そのセリフ。全裸合宿を企画した奴が言っていいセリフでもないしな。あと、戦場ヶ原ひたぎは僕の彼女だ」

 

 とんでもねえことを言いやがるぜ。

 どこができた後輩なんだ。

 

「しかしそうか、似合っているのか。……うん、それは『良かった』。ワザワザこれを選んだ甲斐があった。お褒めの言葉、心から感謝するぞ、阿良々木先輩」

「お、おう。気にすんなよ」

 

 謙遜してみたものの、感謝された気がしない。

 高圧的なわけでもないし、へりくだっているわけでもない。敬ってくれているのだって伝わる。

 だけどなんだか、こう──褒めたことを褒められたような、褒められた人間じゃないのは分かっているんだけど……。

 うーん。

 憎めない。

 安心した表情で自分のスカート、もといワンピースを見下ろす彼女はただの可愛い後輩にしか見えない。

 喋らなければ美人を地で行く後輩だ。

 けど、僕の知ってる後輩だと神原が一番まともなんだよな……。

 常識を疑うなあ。

 

「ところで、阿良々木先輩。昨晩私がセイコヨを妄想してる時に気がついたんだが『エクササイズ』と『戦参(いくささん)ず』ってなんだか語感が似てないか?」

「語感……セイコヨ……? あっ、まさかお前。セイコヨって生死郎×暦のことか?! てめぇよりにもやってなんでその組み合わせなんだよ! というかその語感ネタもToLOVEる13巻のお静ちゃんのボケじゃねえか! あと、お前のその妄想と語感ネタになんの互換性があるんだよ!」

 

 語感の互換ネタ。ツッコミ入れつつも、なんとなく想像できてしまう自分が嫌だった。

 

「私はダークネスよりも無印のお静ちゃんの方が可愛いと思うんだが、先輩はどうだ?」

「あ、ああ。確かにあの頃のお静ちゃんは現代と戦国時代のギャップが上手く描かれていたし、あの無垢な動作の一つ一つが際立っていて……って違う!」

「なんだ、セイコヨの方が語りたかったのか。だが阿良々木先輩。これはしょうがないことでもあるのだ。物語シリーズに私好みの男キャラが阿良々木先輩と生死郎くんと忍野さんの三人しか出てこないから、私には殆ど選択肢がないのだ。ほら、竿役として顔無しのモブを出すのは私的にNGだし……だから、その、すまない」

「いや知らねえよ! お前の主義思想も趣味嗜好もどうでも良いわ! 確かにお前に選択肢はねえよ。ただしそれはあくまでも僕を使ってバラの花を咲かせないという選択肢だけどな!」

 

 そうなると神原には生死郎×メメしか残って居ないわけだが、想像をしようにも想像を絶する気持ち悪さだった。男キャラなんて貝木とかヴァンパイアハンターとか他にも結構いるだろ。

 好みに合わなかったのか?

 貝木なんて珍しくあんなに尽くしたのに!

 ……いや、もうよそう。

 精神衛生上良くない。

 竿役?とか思ったけど絶対突っ込まない。

 

 というか、シリーズって八九寺じゃないんだから。メタキャラは幼女達で十分だ。

 全くもって、可愛くない後輩だ。

 気が抜けない。

 そうこう話していると、どうやら行き先の方向は同じことが判明したので、楽しいお喋りは継続しつつ歩き出す。その間神原はワンピースが歩くたびにひらめくのが気になるのか、一歩一歩足を進めるたびに布の先を見ていた。

 

「やっぱり慣れない服だと不便があるのか?」

「うん、中々どうしてこのスースーした感じが苦手だ」

「へぇ……お前ならその空いた感じがたまらない、くらい言いそうなものなんだけどな」

「私にだって苦手な性感帯くらいある!」

「快感なんじゃん」

 

 そういえば火憐ちゃんもスカートが苦手そうだったな。なんだろう、ボーイッシュな女子は皆スースーが苦手なのだろうか?

 逆にガーリッシュな女子にズボンを履かせてもまたしかり、別ベクトルの可愛さを発現したりするのだろうか。

 そういえば、別に可愛いとか思ったことはないが、月火ちゃんのズボン姿って見たことがないな。

 ……着せてみるか。

 っと、そうじゃない。

 

「神原。苦手なのになんでそんな服着てるんだ? こう言ったら失礼かもしれないけど、やっぱり自分でも違和感を感じるくらいには『らしくない』服装なんだろう?」

「……ふむ、いや、うん」

 

 神原は唸る。

 そして頷く。

 

「そうだな、阿良々木先輩には言っておこう。実はな、この服は花柄なんだ」

「……? それは見れば分かるよ。若竹色の──今はパステルカラーとか言うんだっけ?──に花が散らばってるのはここからでもよく見える」

「そう、だから、花なんだ」

 

 そうか、と僕はここでピンときた。

 普段の鈍感さからすると奇跡にも等しい閃き。

 神原駿河の落ち着いた声と、軽やかな笑顔が脳を刺激した。

 花とはすなわち、沼地蠟花のこと──今年の四月、花の匂いとともに神原の前に現れて、泥沼のように神原と関わり合い、蠟のように溶けていった彼女のことなのだと。

 

「私はまだ、先輩達に置いていかれたにも関わらず一人で直江津高校に残っているし、そのことになんだか複雑な思いはある。だけど、それでもあいつとの1on1で何かから卒業したのも本当なんだ。独り立ちなんて畏れ多いけど、それでも吹っ切れるくらいには立ち直った。だから──」

 

 くしゃり、と伸びた髪の毛を握って神原ははにかんだ。

 

「一緒にバスケをしてやろうと思って、そう思って今日は来たんだ」

 

 あるいは着たのだろう。

 あの女に勝って──と、神原の何かが終わった日の翌日に聞いた話が脳裏をよぎった。

 僕が1年かかって、素人も玄人も専門家も人間も怪異も神様も現世も地獄も、文字通り地の果ての果てまで迷惑をかけきった末に卒業した青春。それを彼女は一足先に卒業したのだ。

 あの羽川でさえ大人しかったこの時期に、既に神原はもう一人前になったのだ。

 それは決して悪いことでも良いことでもなく、なるべくしてなった変化。

『そんなんだから大人にならない』と妹達は言っていたけれど、僕に合わせてもらえれば、『そんなんだから僕はいつまで経っても子供』なのだろう。

 

「ふうん。じゃ、楽しんでこいよ。まだお前の高校生活は一年もあるんだからさ」

 

 ただ、一人前になろうとも僕たちはまだまだ子供。

 大人になるにはまだ早い。

 青春が終わろうとも、成長が終わることはないのだから。

 であるとすれば、僕に言うことはなにもなく、また、彼女もするべきことはただ一つだった。

 

「──ああ!」

 

 人生を謳歌する。

 それはいつだって子供に許された最大の特権なのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

003-B

 神原とはその後も益体のない話を続け、やがて高校近くの交差点で別れた。

 

 結局、僕は彼女に花柄ワンピースの真意を追及することはしなかった。

 けれど、神原の語る『あいつ』については聞き齧りの知識しかないけれど、もしも、神原と同じチームだったなら、それはもう、世間を賑わせるツーマンセルになっていたのだろうと思った。

 それはかつてのヴァルハラコンビのような関係ではなく。

 忍と僕のような関係性。

 味方でもなく、ある意味では敵ではあるけども、互いにとってなくてはかけがえのない関係。

 ある意味ではどこまでも束縛してくる鎖であり、ある意味では外敵から身を守ってくれる鎧。

 矛盾しているわけでもなく、言ってしまえば、そう。

 共依存、または必要十分。そんな関係。

 

「ほほう。嬉しいことを言ってくれるわ、この悦ばせ上手さんめ」

 

 一切の前振りもなく、脈絡もない。ただ人がそこにいるからと、まるで山男のように忍が現れる。

 瞬きしたら現れたくらいの気軽さだった。

犬が歩くから棒に当たる位の必然だった。

 その唐突さに対して、道を歩いていたら犬と目があった程度の感覚で反応できるようになった僕は、果たして成長したと言えるのだろうか。もしそうだとしたら、逆に、小さな体で精一杯の威厳を表現する忍は退行したようにも感じるが。

 

「なあ、お前様。儂はそろそろ限界なのじゃが」

「悪いが、まだ少し時間かかると思う」

「いやじゃいやじゃ、いやなのじゃ〜。もうわしまてない。まじもうむり!」

「退化しすぎだろ」

 

 全盛期どころか人間時代の面影すら全くない。

 どの時代の精神状態だよ。

真昼間の道路の真ん中で一頻り手足をバタバタさせた後、ケロッとした顔で忍は会話を再開する。

 

「……して、お前様。散々駄々をこねた後に言うのもなんじゃが、今更後の祭りを履行するようなものなのじゃが、お前様がこんな陽気な日の元を歩いているその理由、忘れていることはあるまいな?」

「分かってるって。……本当に理解し難いし、そもそも聞いてやる必要ないんじゃないのかという位にはくだらない理由だけど、僕は忍のために歩いているんだ。友達の誘いを断ってまできてやったんだ。早々に忘れるわけないだろ」

「……友達。やっぱり儂、お前様のいう友達がイマジナリーフレンドのような気がしてならないんじゃが」

「いや、お前も影から見てるだろ」

 

 実在もするし、触れもする。

 ちゃんと生きている。死んでない。

 あいつは死体じゃないのだ。

 

「しかしそうなると儂はもう、お前様がニヒルに笑って『友達はいらない、人間強度が下がるから』と言うのを聞けないということじゃな」

「そもそもお前の前でそんな発言をしたことない。今の阿良々木暦はもうそんなピーキーで荒れた少年じゃない。お酒の力を借りないとハッチャケられないような、ごく一般的な落ち着いた勝ち組大学生だ」

 

 お酒は飲んだことないけど。

 未成年飲酒、ダメ、ゼッタイ。

 まぁ、いくら忍が生き続けようとも、否、生き続けている限り僕がその言葉を吐くことはないだろう。

 

「『生き続ける』なんて称されるとまるで儂が人間のようじゃ……そうじゃな、儂のことは『死に続ける』と称せ」

「いや、吸血鬼は不死なんだからそれはおかしいだろ?斧乃木ちゃんだって言ってたぞ。吸血鬼は死んで蘇って生き続ける怪異だって。死に続ける斧乃木ちゃんとは違うんだって」

 

 死に続ける怪異。

 つまり、不死身ではない怪異。

 考えてみれば、斧乃木ちゃんは限りなく不死に近い怪異なのだ。それを精神の有無という限りなく明暗のつきにくい問題にすり替えて誤魔化している。

 あの黒い穴に消されないために。

 あるいは、余弦さんの仕事の対象とならないために。

 斧乃木ちゃんは人間が生き返るという摂理からの背離を、死に続けるという行為に置換しているのだ。

 だというのに、忍がもしも死に続けているというならそれは斧乃木ちゃんのズレの露呈の他ならないだろう。

 

 穴案件だ。

 大問題だ。

 

 これはマズイと忍に訴えてみると、「カカッ」と嗤われた。『──呵呵ッ!』と笑っているようではないので、なにか思うところがあることが伺える。

 

「ふん、お前様は勘違いしておる。履き違えとる。怪異を現象・物質として捉えようとしすぎじゃ。……お前様が怪異と親密に、緊密になりすぎた弊害とも言えよう。いいかお前様。怪異は人間ではない、生き物ですらない。あやふやで曖昧。幻想など何もない──謂わば、一種の概念のようなものじゃ。それをそんな言葉一つでどうこうなど、『烏滸がましい』と知れい。異例の立場に居座っているからと調子に乗るな。図に乗ると寝首を掻くと言うたじゃろう?」

「……いや、そんな風に思ってなんかいないさ。ただ、僕は忍を、斧乃木ちゃんや八九寺達を概念だとも思えないだけなんだ。『重いです、阿良々木さん』なんて言われちゃうかも知れないけど、僕はいつだってお前たちのことを大切な奴らだと思っているし、僕が生きている限りそれは変わらないだろう」

「……随分と上からじゃな。変態娘のことを言えんぞ」

「信頼してるんだ」

 

 僕のちょっとした、どうでもいい冗談にも似た一言が意外と後を引きずってしまったけれど、つまるところ、僕は一年前から少しも変わってなんかいないという話だった。

 生きているとも死んでいるとも言えそうで言えない、中途半端な概念のくせして、認識されなきゃ儚く消えてしまう存在未満のモノ。気配未満のモノ。

 

 物ノ怪。

 モノノケ。

 物の気。

 

 曖昧を極端に許し続けた古代の日本だからこそ、八百万もの()()がいると考えれば、なんとなく身近に感じるものだ。それこそが、怪異にとって最も快適な感情であり、環境であると僕は知らなかったけど。

 

「ところでお前様、お前様が今向かっている所のミスドの話なんじゃが、もちろんロリポップも買っていいんじゃろうな?」

「良くねえよ。80円セール対象外だろうが」

「ちっ」

 

 舌打ちをしてもダメなものはダメ。

 というか、金銭的な問題でムリ。

 舌切り雀は舌打ちできないのだ。

 そもそも、忍が朝っぱらから80円セールのチラシを持って顔面蹴り上げてきたからこうして出かけているのを忘れないでほしい。

 

 僕の町のミスタードーナツは勿論、オーストラリア染みた荒野に立地しているわけではなく、程よく人通りがあり住宅街から然程離れていない、よくある街角に存在している。

 貝木泥舟に出会った場所ということもあり、少し敬遠しがちになっていたが、先のとおり、忍のドーナツレスが爆発してしまったため、遂にといった具合で来店する次第になっていた。

 

「ロリとポップしてラリパッパしとる奴がロリポップはダメなんて言うとは……これが同族嫌悪というやつか? いや、これはもう差別じゃ! 人種差別じゃ!」

 

 随分と好き勝手言ってくれるものである。

 曖昧であやふやな存在を自称するならもっと謙虚で儚くなってほしいものだ。

 

「全く意味が分からないくせに、妙に的確に僕の評価を貶めるその発言を改めてもらおうか。あと、これはセール品かセール品じゃないかの区別だ。断じて同族嫌悪や差別ではない」

「中学生を半裸に剥いて、迷子の小娘を家に誘拐して、その上、あろうことか恩人のロリ時代に変態行為を及ぼうとしておった口が何を言っても無駄じゃ。もし儂に『阿良々木暦は誰よりも紳士である』と言って欲しければロリポップとソーセージパイを献上するのじゃな」

「てめぇ! あろうことか菓子パンですらないソーセージパイを上乗せするだと!? そんな金があるなら普段から買いに来てるわ!」

「いまなら、『阿良々木暦は身長が高い』と言ってやっても良いのじゃぞ?」

「お願いします、僕の誤解を解いて下さい!」

 

 我ながらちょろい男だった。

 阿良々木暦は決して少女に欲情なんてせず、いたずらしない。そして、足長の高身長である。

 そう、低座高、高身長のイケメンでございます。

 ……誤解はやっぱり解かなくちゃいけないから──もしかしたら僕のことを165センチもない低身長野郎だろうだなんて思っている人がいるかもしれないし。うん。

 …………。

 

 言ったもの勝ちだった。

 

「今思えば安請け合いだったかもしれないな。120円だけに。せめて結局果たされなかったくるぶしマッサージを要求しておくべきだったか……」

「せんからな? 儂、せんからな?」

「どうした忍? 昨日まであんなにも涙目で『儂にマッサージさせてくれないなんて、ぱないのぅ……』って言ってたじゃないか」

「言ってとらんわ。あと、適当にとってつけたような語尾(ぱないの)で儂のキャラを陳腐にするでない」

 

 言ったもの勝ちだった。

 というか、でっち上げたもの勝ちだった。

 しかし、会話を続けていれば、ものの数分もしない内に「ぱないの! 100円セールどころか80円って! 五個買えば一個おまけのところが、二個もお得になるとはな! これはもう、ドーナツ界のリーマンショックと言っても良いのではないか!? ばないの!」なんて言いだすのだから、年寄りは恐ろしい。

 キャラの陳腐化を恐れていないのか、それともただ単に脳が老化しているのか。ほぼ600歳の吸血鬼なのだから記憶力が摩耗していてもなんらおかしくはないのだが(本来人間の記憶限界はおよそ140年らしい)忍の場合、それ以上に精神力が磨り減る隙がないくらい頑強だから一概に言えない。また眷属についても覚えていたし。けれどそれもまた、老人特有の図太さなんて言われてしまったら論が堂々巡りしてしまいそうな話だった。

 

「おい、ロリホップ」

「忍、ロリポップを買うと約束したはずなのに、僕がロリに対してどんな反応をするのかより分かりやすくなってしまったあだ名で呼ぶのは止めろ」

「噛みました」

「無理がありすぎだろうが!」

 

 阿良々木の破片もないじゃねえか。

 

 しかし、大学生活が始まってからより忍を陰に閉じ込める時間が増えたせいか、こうやってはしゃいでいるのを最後に見たのが随分と昔に感じる。そのせいか、その興奮度はいつもの五割り増しのようだ。

 お喋りになった今となってはドーナツを餌に芸をさせることはできなくなったが(逆にドーナツを餌に芸をさせられそうだ)、それでも忍のチラシを持った時の浮かれっぷりは自分から率先して芸をしそうなほどで、泥舟でも浮き上がりそうな具合だった。

 それを口に出したものなら、不吉を絵で表したような詐欺師が「泥舟は沈むが枯れ木は浮くものだろう?」とか、らしくもない冗談を言いながら僕の財布を奪い去っていきそうだから絶対にしないが。

 

 それは置いておくとして、取り敢えず忍はこれ以上ないくらいにご機嫌だった。『死に続けている』なんて自称した奴とは思えない程生き生きしていた。

 

「楽しみすぎて逝きそうじゃ!」

 

 歳を重ねすぎて逆に面白みが出てくるようなジョークは控えてほしい。

 だがまぁ、元気なのはなんであろうといいことだ。

 もっとも、彼女のその喜びようは残念ながら、僅か五分もしないうちに瓦解してしまうのだが。

 

 あるどうしようもない事実──。

 

 ──ミスタードーナツが休店しているという事実によって。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

004-B

「ペアリングを切れ。ちょっと世界を滅ぼしてくる」

「いやいやいや」

 

 忍さんや、口調がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード時代に戻っちゃってるから。

 鉄血にして冷血にして熱血な金髪美女を彷彿させる強気な口調で忍は阿呆なことを言い出す。

 

「切望した! ミスタードーナツが店長の一身上の都合で休店しない世界を切望した!」

「……まぁ、しょうがない。七刀先生、帰るぞ」

「嫌じゃ」

 

 忍がぶくっとほおを膨らまし、プイッと顔を晒す。

 ううん……可愛くない。

 

「ほら、僕も週末課題とかあるしさ。そろそろ帰りたいんだよ……あっそうだ。今日はコンビニでドーナツでも買ってやるよ」

「コンビニのドーナツなど笑止じゃ。あんな邪道で手と口を汚すなど、この儂が許さん」

「いや、目も汚さないうちに邪道とか言ってやるなよ」

 

 ローソンのオールドファッションとか美味しいらしいじゃん。

 今にも癇癪を起こしそう、というか既に起こしつつある忍は、以前、僕の性格に引っ張られているせいでこんな愉快な性質を持ったと話していたが、どうも僕の性格から乖離している気がしてならない。

 というか、おかしくないか?

 去年の春休み、僕は彼女の性格に近づくことはなかった。だとすれば、忍がこうも奔放になったのも実際は元からそうだったのでは。

 実際日本に湖作ったり南極まで飛び出すくらいには奔放だったらしいし。

 

「のう、お前様。ちょっと気合い出して隣町まで行くのはどうか?」

「自由奔放すぎるだろ。僕はこれから八九寺の所は遊びに行くという使命があるのだ」

「大学課題遂行の義務はどこへ言ったんじゃ」

「知らん」

「知らんのか」

「忘れた」

「ダメじゃろ」

「課題なんてなかった」

「それは嘘じゃろう。昨日半泣きでツンデレ娘のトコへ課題を持っていったではないか」

 

 ……うん。

 だけどあいつの取っている授業と僕の授業って、全然違うからあんまり一緒にやる意味はないんだよね。「机が狭いから帰ってくれるかしら?」なんて彼氏に言う台詞じゃないだろ……。

 ちなみに、ひたぎが将来を見据えた実用性重視の科目を取っているとしたなら、僕は興味の向くままに取ったエンジョイ系の科目。

 こんなところでも差が出るなぁ、と感慨深くなったのを覚えている。

 

「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃあ!」

 

 さっきとは違い冗談抜きの駄々をこね始める600歳児。

 手に負えない、の一言に尽きる。

 普段の忍を知らない者からしたら金髪幼女の可愛らしいぐずりだと微笑むこともできただろうが、僕と忍は酢いも甘いも味わいあった仲なのでただ喧しいこまっしゃくれたガキにしか見えないのだった。

 一つため息をつき、そんな忍に僕は言った。

 皮肉めいた一言を言った。

 

 言ってしまった。

 

「そんなに嫌なら時でも戻してみろよ、もしできるんならな。昨日だったらミスタードーナツも開店してるだろ?」

 

 後に後悔する一言とは正にこのことを言うのだと思う。

 だって、まさか、僕の何気なく吐いた、そんな冗談みたいな言葉があろうことか殺伐とした──八月のトリップなど比にならない──旅行になるとは誰も思わないだろう。

 どれもこれもこの目の前の幼女があろうことか元大災害にして大妖怪である吸血鬼であり、また、倫理観や常識を地獄の底においてきた吸血鬼であったせいなのだ。

 もしも忍がドーナツに対してそこまで執着がなかったら。

 もしも忍がもう少し精神的に成長していたら。

 存在し得ない未来を妄想する位には意外性とウィットに富んだ未来がまさにこの時、始まったのだ。

 

「お前様がそこまで言うなら仕方ないのお……。よし、やっちゃお」

 

 口調とは裏腹に凄惨に笑ったその笑顔を見た時、僕はようやくここで、過去での辛い逆行体験を思い出したのだった。

 手遅れすぎる想起だった。

 

 

 白蛇神社、もしくは浪白神社。

 

 今となっては蛞蝓神社、もしくは蝸牛神社と改名したほうがいいのではないかと僕の中で話題の、そんな神社の入り口。

 神社自体が修繕されたことで八月の頃とは見間違えるほど立派な朱色に塗られた鳥居を前にして僕は、ひそひそ声で忍に話しかけた。

 寺院では不思議と小声になる現象をなんと言うのだろうか気になった。

 

「おい、忍。お前の熱い思いに押されてここまできちゃったけど、霊的エネルギーはもう八九寺のお陰で安定してるから、タイムスリップはできないんじゃないのか?」

「ふむ、最近の神社は初期費用や維持費などの関係からプラスチックの鳥居を用いる神社が増えているそうじゃが、感心感心。ちゃんと祈祷された良い鳥居じゃ。それこそ神柱のようじゃ」

「え、なに。お前みたいな大妖怪になるとそんなことまでわかっちゃうわけ?……いや、けど僕が今一番聞きたいことはそんなことじゃないんだよなあ」

「ふん、お前様の心配事くらい分かっとるわ。伊達に400年も生きとるわけじゃない」

 

 こいつ、初対面の時よりも更に100年ほど豪快にサバを読んだな。もうここまでくると歴史改変の域だ。

 僕は半分ほど開けた目で忍をしばらく見つめる傍ら耳と鼻を頼りに八九寺を探す。

 耳をすませて八九寺の膝裏のこすれ音を探し、鼻で八九寺の鎖骨の匂いを辿る。

 

「行為自体が気持ち悪いし、その対象もニッチすぎじゃろう。あと、お前様のあの小娘を思った時の高鳴りが儂の中まで入り込んできて気持ち悪いんじゃが……」

 

『想った』と表記するレベルじゃ、と忍。

 素直に恥ずかしかった。

 中学女子のように顔を赤らめるでないと殴られた。

 

「……悪い悪い。けど、八九寺はこの山一帯にはいなさそうだな」

「えぇ……」

 

 ドン引きだった。

 もしかして、これから一生目を合わせてくれないんじゃないんだろうか。そんな目だった。

『愚かな人類め!』などと涙目でトシくんがつま先でも切ってくれれば展開として都合が良かったのだが、勿論トシくんがこんな所に出没するわけもなく。僕は規制から免れるべく忍の話を大袈裟に戻す。

 全力でお茶を濁す。

 茶道初めて三日目のお点前のように。

 

「け、けどさぁ! どんな方法かは分からないけど、忍があの黒い扉を開いたとして、それが八九寺の権威に、又は神威に関わるなら僕は身を粉にしてでも反対するぞ!」

「動揺のせいか慣用表現の誤用しちゃってるし、そもそも話題を微妙に戻しきれてないのじゃが……。ちゅーか、儂の性格は絶対にお前様に引っ張られていることを改めて確認したわい」

「……ぐ、ぐぅ」

「……まぁいい。安心するが良い、お前様。既に手は考えておる」

「へえ、どんな?」

「そうじゃな。……とある本で女児が『衛星は軌道に乗っており、軌道というのは地球の周りを輪になって流れている空気が正体である。気流だよ、君』と言った話を紹介しておったのじゃが、コレ、儂はあながち間違いじゃないと思うんじゃ。空気とは雰囲気、つまり衛星を引っ張っているのは地球が発する重力という雰囲気だと考えればどうじゃ、違いないと思わんか?」

「口調が余りにも僕の知っている女児からかけ離れている点に目を瞑ればたしかに、重力のことを地球の発する雰囲気と再解釈するのは中々面白い試みだと思うぜ? ……だけど、それがなんの関係があるんだ? まさか僕たち『タイムスリップできそうな雰囲気を出す』なんて戯言的な仮説を実行するのか?」

「なわけなかろう。そんなの現実でフラグだのなんだのと戯けるのとなんら変わらんじゃろうに。オカルトにうつつを抜かしている暇があったら現実を見んか。……そうじゃない。儂がしようというのはまさにその反対じゃ。否、斜めに反対のものじゃ」

「斜めに反対? おいおい忍、お前らしくもない。回りくどいぜ。こんな得体の知れない会話なんて僕達らしくないじゃないか。あの日の『文庫100ページを1000円で売り払う』という誓いはどこに行っちまったんだよ」

「多分、お前様がそんなこと言うとる間は帰ってこんと思うよ」

 

 相違ない。

 しかし、こうなってくると、もうわけがわからない。

 よく考えなくても、自分がこんなことに付き合う道理などないはずなのに、そんなことにまで考えが及ばないほど分からない。

 忍がなにをしようとしているのか。

 僕たちがどうなってしまうのか。

 ドーナツはどうなるのか。

 自信満々な忍を見るに、なんの術もなく『ただなんとなく家に帰るのも癪だからここに来た』というわけではなさそうだ。しかし、かといって、去年のようにタイムスリップするだけのエネルギーがあるはずもないのでどうにもならない。

 

 物語が進まない。

 

 忍がキメ顔で言っていた『逆』についても普通に考えれば『地球(もしくは鳥居)がタイムスリップできそうな雰囲気(的な何か)を出す』というのことになりそうだけど、できそうにないし、忍曰く『斜め逆』らしいから、うーん、といったところだ。

 センター受験者、というか高校卒業者としては斜め逆といえば『対偶』が浮かぶが、浮かんだところでそれは当たり前の条件式の他ならないしなぁ。

 やっぱりお手上げだ。

 

「のぶえもーん、答えが分からないよー」

「全く暦は仕方ないんだから」

 

 漫画版ドラえもんっぽい返しだった。

 しかし、アニメ版ドラえもんの流れで忍は続ける。

 

「そんなんじゃいつまで経ってもバサ姉と結婚できないぞ」

「まさかの立ち位置!?」

「いや、だってヶ原さんはどう見ても静ちゃんじゃないじゃろう?」

「そう言われるとジャイ子ポジが似合ってる気もしなくもないな……いや、今はもう更生して静ちゃんが似合う女になったはず」

 

 逆に、羽川の方が静ちゃんから遠ざかっていくのだが、それはもっと未来の話。具体的には二、三年後。

 斜め上過ぎる成長だ。

 ……って、ん?斜め上?

 

「……あ、忍。お前の試みが分かった気がする」

「ほう?言ってみせよ」

「斜め逆の転換。つまり、『雰囲気を地球から出す』んじゃなくて、『地球を雰囲気から出す』ことだったんじゃないのか? ……つまりさ、霊的エネルギーって、言っちゃえば概念なんだろ? それこそさっきの話じゃないけど、忍達『怪異』と同じようなものなわけだ。なら、時間飛行がどんな仕組みかは分からないけど、ここらに漂う霊的エネルギーという概念、つまり『雰囲気』に僕らが同化して現在という地球から抜け出せるんじゃないのか?」

 

 イメージ的には、大気と地球を分離して、大気ごとを昔にもっていく感じ。そうすればエネルギーを使うという話からエネルギー自体に乗っかる話になるため、エネルギー消費がなくなるのではないか……と思ったのだが、あまりにも言葉遊びが過ぎる上に雑すぎるか。

 忍に答えを聞こうと思い、地面に絵を描いて説明していたので、そこから顔を上げて忍の方は向く。

 

「なあ忍──」

 

「……なるほど、その手があったか。たしかに大き過ぎる穴がいくつかあるが、それを埋めさえすれば行けるかも分からん。よし、お前様! ちょっとやってみようぞ!」

 

「『やってみようぞ』って、え? ……なに? もしかして何も考えてなかったの? 俺が『えー、わからねー。忍ってやっぱ凄え』みたいに考えてたのはまるっきり馬鹿だったってこと? あと、大き過ぎる穴に可能性をかけるな。ルーレットじゃないんだから成功率は上がらないからな?」

 

 なにも考えてなかったのか……。

 その場しのぎだったんだ……。

 まさに、言ったもん勝ちだった。

 一人偲ぶ僕が馬鹿みたいじゃん。

 

「面白いこと言うてないで早うこっちによれ。ミスタードーナツが儂らを待ってる」

「いや、待ってない……って、あれ?」

 

 ……ちょっと待て、戸惑いの感情の渦の奥底から今、物凄く初歩的で大事なことが出てきそうだった。

 なんだろう、この根底からして無意味な行為に及ぼうとしているようなこの感覚。『親睦会でフルーツバスケット、ただし会場は海上』みたいなっ。

 業を煮やした忍が近づいてきて僕の腕を掴み、去年のような詠唱をすることもなく僕に抱きついてよじ登ってきた。だけど僕はそんなことに反応する余裕はなく、必死に何かを探る。起床から今の今までを辿ろうとする。

 忍がコアラのように僕にしがみつき登り、遂に僕の顔面まで到達する。体勢としては忍のお腹が僕の鼻に当たる形だ。

 通常だったら「当てるなら肋骨にしろ」と嘯く所だが、何かが出かけている僕はなお頭をひねる。

 

 起きて、ご飯を食べて、妹の相手をして、忍にチラシ見せられ、神原と話して……。

 

「夢の世界へ、さぁいくぞー!」

 

 目の前が真っ暗なまま、忍の張り上げた声が鼓膜を突き刺した。そして、一瞬の浮遊感とともに思い出した何かは、とてつもなく、手遅れな情報だった。

 

 心の中で嘆きが滲み出して、溶けていく。

 

「80円セール、今日からじゃん……」

 

 あらゆる意味で意味のない旅が始まった瞬間だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

005-B

 およそ9ヶ月ぶりにもう一度白状させてもらえるなら、僕は今回も忍が行うタイムスリップの成功を信じていなかった。

 全然。

 ピンからキリで言えば、さらにその下。

 つまり0割。

 0パーセント。

 

 全く信じていなかった。

 

 多分、僕の中にはまだタイムスリップやタイムワープが非現実的なものであり、そう軽々しく行えない神聖的なものであるという意識があったのだ。

 一度経験したにも関わらず。

 一度経験したからこそ。

 易々と何回もできるものじゃないと思っていたのだ。

 

 というか、いくら好物のドーナツが発端とはいえ、それでもまさかドーナツ程度のことでここまで大掛かりなことを実行に移すなんてことはないとタカを括っていたというのが正直なところだ。

 

 前にも言った記憶があるが、僕はこのタイムスリップ云々の話を忍の『ごっこ遊び』だと考えていたのだ。

 忍が気まぐれに初めて気まぐれに終わらせていく、そんなごっこ遊び。

 仮定の遊びにして過程を楽しむ遊び。

 言ってしまえば、いつものお約束の遣り取りだ。

 

 自信満々に『ミスタードーナツアフリカ上陸計画』なる物を見せてきた昼下がりのように。

 一気呵成に作ったであろう低クオリティな変態仮面のコスチュームを持って僕の睡眠を妨げて来た朝ぼらけのように。

 

 そんな他愛ないごっこ遊びだと。

 忍を舐めて痛い目見たくせにまた舐めてしまった。

 喉元過ぎれば熱さ忘れて火傷も直ってしまった。

 ただ、今回僕が甘く見ていたのは忍本人ではなく忍のドーナツに対する執着心だったけれど。ドーナツだけに。

 

 ドーナツ大好きかよ。

 それでいいのか600歳。

 

 だけど、その辺に漂っている非科学的なナニカになって過去に戻ってしまおうなどと、今時中学生でもしないであろう類の妄想に巻き込まれたとはいえ、僕がゴールデンウィークだからと浮かれていたのは紛れもない事実である。

 

 特に、神原に余計なことを言っていた自覚もある。

 

 子供が子供の世話を焼くなど、まるでいい歳してママゴトをするかのような羞恥。その上、その内容が首ナイフ問題並みの見当違いなのだからタチが悪い。

 タイムスリップをタイムストリップと言い間違えるようなものだ。

 一文字違いが大問題である。

 上下を入れ替えたらとんだサービスタイムになってしまった。

 恥ずかしいお節介を焼いたものだ。

 

 しかし、それでも僕のことを先輩だなんて呼んでくれるのだから直江津高校きっての麒麟児は器が違う。

 器量が良くて、丁度良い。

 ちゃんとしていて、しゃんとしている。

 

 一本筋が、通っている。

 

 僕みたいな筋が枝分かれして、千切れ途切れで、破れかぶれな人間とは根本的に違うのだ。

 けれど、歩んできた人生が違うということは、そういう所が違うということなのだろうとも思う。

 例えばタイムスリップで真っ先に思い浮かんだ八九寺なんかは一本筋が筋肉になって歩いているような少女だし、戦場ヶ原は筋で衣服を編んで着て歩いている。そんなことを言っていたら羽川は筋を通り越して一人一枚岩だ。

 

 どいつもこいつもブレない。

 キャラが濃いというかなんというか。

 

 そんな彼女達だからこそ、そんな性質とはまるで正反対な僕みたいな根無し草に興味を示したのだと思うし、僕は彼女達に馬鹿みたいにすり寄っていった。

 観客と道化のような関わり合いだ。

 だから徐々に僕が負い目を感じ始める。今の関係性に疑いを持ってしまう。それこそが負い目になると知らずに思い込んでしまう。まさに泥沼の様相。

 

 そういう意味で言えば、八九寺とのファーストコンタクトの時に忍野に言われた通り、まさしくあの時の僕は調子コイていて余裕がなかったと言える。

 その結果が、忍野扇の爆弾と去年事件の全貌に直接繋がることになってしまったのだが……。

 

 閑話休題。

 

 ええと……どんな話をしていたのか忘れてしまいそうだが、つまり、忍のこんな剽軽な実行が成功するとは思っていなかったのだ。

 

 逆説的に言ってしまえば。

 

 端的に告げてしまうならば、タイムスリップは成功した。

 成功してしまった。

 ──多分。

 

 確証は持てていないけど。

 

 というのも、ここまで語っても尚、未だに僕の視界は幼女の柔らかいお腹で一杯、何も見えない。けれど、抱きつかれてから瞬きをするよりも早く、ちょっとした浮遊感の後異様な匂いが香り出したのだ。

 僕にとって、忍に抱きつかれているだけで浮遊感が起きたこと自体驚くべきことなのに、それに加えて香りの変化があった。これはもう、忍が何かやらかしてしまったことを察するには余りある証拠だった。タイムスリップしたのかは、置いていての話だけど。

 

 鼻につく匂いは三種類。

 一つ目は、煙の匂い。

 包まれたような息苦しさはなく、ツンと香ってくる指向性のある香り。

 二つ目は嗅いだことのない匂い。

 それは辺り一面に漂っている。後に弾薬に添加された硝煙遅延剤によるものだと分かるその匂いは、僕に強烈な違和感を与えた。

 そして最後は、後ろの方から香ってくる吐き気を催す何らかの香り。不思議なことに、その香りは僕にとって途轍もなく懐かしさを感じさせるものだった。

 

 そんな混ざり合う三者三様の異臭漂う中、忍は動く気配を見せない。コアラ抱っこを止めるそぶりが感じられない。

 

「おい、忍。いい加減どいてくれ。やっぱり失敗したんだろ?」

 

 申告しやすいように煽るように言う。前回と違ってスリップ後直ぐに判明したということはどこか遠い異国にでも出てしまうまたのだろうか?

 

「……」

 

 帰ってきたのは無言だった。

 八月のタイムスリップの時のように、案外ぞんざいな態度で軽口を叩き返してくるだろうという僕の予想とは裏腹に、忍から帰ってきた反応はびくりと肩を震わせて僕を抱きしめる力を強めるというものだった。

 

「……忍?」

 

 それがなんだかどうも冗談ならない事態の時に表れる反射に思えて、僕は冷や汗がどっと出るのを感じる。最悪の事態、とは行かないまでも少なくとも8月の時に似ている展開になっているのは確定のようだった。

 

「……おいおい。まさか、また12年前にタイムスリップしちゃったのか?」

「……」

 

 あらゆる確認を含めて再度声をかける。

 無言を貫き、更に力を強める忍。

 忍は自分の顔を僕の頭にうずめたようで、彼女の鼻の頭が旋毛に当たる感触が伝わってくる。これはこれで……なんてことはなく普通に痛い。万力でカリカリやられている気分だ。単純に腕力が強い。

 頭が弾け飛びそうだっ!

 

「痛いたいたいたたた! 忍! シャレにならない強さになっちゃってるから! 僕の頭が潰れちゃうから……あっ」

「……」

 

 情けない声で悲鳴をあげていると、忍は腕に込める力を弱めてくれた。そして、その代わりにワナワナと腕を震えさせ始めた。

 

「おいっ、忍……って、忍? お前、震えてるのか?」

 

 あの忍が?

 笑いを堪えているとかか?

 いや、違う。

 怒っている?

 いや、そうでもない。

 畏れているのか?

 百戦錬磨の600歳の大怪異が?

 死んでも死なないような不死身の吸血鬼が?

 冷や汗どころではなく、震えているというのか?

 

「おい、忍!?」

 

 平行世界が滅びかけていた時でさえ見せなかった異常な態度。それが伝染して、僕まで気が動転しそうになる。畏れの対象が恐れているのがこんなに怖いことだとは思わなかった。怖いというか不安になる。

 ぐらついて倒れてしまいそうだ。

 そのまま滅入ってしまいそうだ。

 恐怖に飲み込まれて何もできなくなる前に、とりあえず忍を離そうと彼女の幼女らしいイカ腹を両手で掴み前へグッと押した。柔らかな肌に自分の指が沈み込んでいくのを見ると、どうにも痛そうで力を緩めそうになるが、今一番痛いのは確実に僕の頭なので、吸血鬼だけに心を鬼にして敢行する。

 忍が意外と簡単に手足の力を抜いたため、彼女の体は僕に押されるがままに宙へと持ち上がっていき、数秒もしない内に高い高いのポージングになる。

 力が込められないほどに何かを怖がっていたのだろうか。

 

「……忍?」

 

 忍は口を一文字に結び大きな金色の瞳をつぅ、と逸らしている。綺麗に移ろう瞳孔が転がるビーズのようだ。

 タイムスリップという現象に引きずられているのだろうか、その表情が前回の時間遡行に失敗した時の忍を彷彿とさせる。

 ……いや、前回が『陳謝』の表情というなら今回の場合は『心配』や『不安』の感情がより色濃く出ているように見える。

 僕に怒られないか心配しているのか。

 元の世界に戻れるかが不安なのか。

 それともまた別の懸念があるのか。

 現状が飲み込めていないことも手伝って僕にはまだ、夏休みの時のようにフラ歩いていれば、物語と時間が過ぎるままに帰れるんだろうなぁくらいの余裕がある。

 ということはつまり、そんな呑気な感情がペアリングによって忍に流入しているにも関わらず、忍は何かに怯えているような態度をとっているのだ。

 

 もしかして演技なのだろうか。なんて考えるまでもなく、この状況がマズイなんてことは僕でも分かる。だって、異臭が漂う場所がおかしくないはずがないのだから。

 そうこうウダウダと混乱していると忍は重い口を開けた。

 

「……そのぉ、えっとな、お前様」

「なんだ?」

「……うん。あの、えと……そのじゃな」

 

 知悉とまでは行かないまでも把握くらいさせてくれと、湧き出る焦燥が僕を苛立たせる。責め立てる。

 

「なんだよ、いつもの歯に衣着せぬ物言いはどこに言ったんだよ」

「う、うむ。その……お前様、失神するでないぞ?」

「……は?」

「──後ろ。心を落ち着かせながらゆっくりと後ろを振り向くのじゃ。……いいか? 絶対に水に波立つのも許さんくらいの気概で平常さを保つのじゃ! 分かったのか?!」

「わ、分かった。分かったよ。──要は、そんなに語気を強めて言うほどの何かが後ろにあるってことなんだろ?」

 

 僕だけでなく、忍も落ち着かせる意味を込めて数回深呼吸をしようと思ったが、なにぶん異臭が凄いので忍を再び抱きかかえることで代替とする。暖かい。

 そして、幼女らしい少し早い心拍数でトクトクと血が巡っているのを感じた。

 ……そういえば、僕が遭った怪異の中でちゃんと生きている怪異って忍だけなんだよな。扇ちゃんは微妙なラインとして、そのほかの怪異は総じてあやふやだった。体なくて、型作られていなかった。

 人に宿ったり霊体だったり死体だったりと、こう評すのもなんだが──ちゃんと死んでいる。

 丁と終わっている。

 生き様が整理されていた。

 大抵の怪異が死の上に成り立っている中、生き続けることを強いられた怪異が『怪異の王』と呼ばれるのは偶然か必然か。ひょっとしたら吸血鬼という怪異は『怪異』という概念よりも『UMA』といった生物に近いんじゃないのか──なんて、現実逃避。

 

 よし、戯言はこの辺でお開きだ。

 なんの不自由もなくのうのうと生きてきた僕に似合わない言葉遣いはもうお終い。脳のどこかへ仕舞うべきだ。

 

 振り向く前に己にある自信の程を確認しよう。

 

 春休みの地獄。

 ゴールデンウィークの悪夢。

 夏休みを起点とした一連の騒動。

 どれも凡庸だとか一般的とかからかけ離れた体験群だ。

 修羅場、といっても過言ではないだろう。実際地獄の入り口まで行っちゃってるし。

 逝っちゃってるし。

 それに比べたら後ろの後悔なんて(想像はつかないが)僕が殺される寸前だったとかいう安い洋映画のような展開でない限り心乱す道理はない。

 

 だから、僕は振り向こう。

 なんでもない日常の延長線上を観やろう。

 ニチアサを見るようなドキドキもなく、八九寺を目にした時の胸の高鳴りもない。ただ淡々と小さい妹のパンツを目撃した時のような適当さで。大きな妹の胸を揉んだ時のような気軽さで。

 

 何でもない、街角を。

 さぁ、見よう。

 日常を。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

006-B

「ほげえええええええええ!!!!」

「叫ぶでないと言ったじゃろう!」

 

 まだ何も視認していないが、取り敢えず叫んでみた。

 ちいさなおててが僕の口に当てられる。

 良い反応だった。

 

 さてはて、僕は振り向いたと同時にここがさっきまで居た白蛇神社でないことに気づいた。

 それどころか僕の故郷ですらない。

 見覚えのない土地だ。見覚えのあるたちはどこかと言われても地元としか答えようがないが。

 なんせ僕は大学生になった今でも故郷も街を捨てていない。その街だってお世辞にも都会とは言えず、閑散とした田舎町の更に郊外だ。そんな外れから通える場所に偏差値70オーバーの高校生が推薦でいく大学があるというのだから、もうどこに住んでいるのか大凡予想がつくというものだが、それはどうでといい。

 

 とにもかくにも、僕の居たはずの街はミスタードーナツが開店しただけで一大事になるような田舎街なのだ。

 

 それがどうだろう。

 どうしてしまったのだろう。

 周りに広がるビルで形成されたジャングル模様。所狭しとギシギシに並び立つ建物と綺麗に舗装された道が美しい近未来感を醸し出している。

 家と家の間が10メートル空いている、なんてものではない。そもそも一軒家が存在しないなんて、僕からしたらもはやSFの世界だ。

 そして、目の端に移る一際目立つ塔を見て僕は遂に現在地を悟る。

 

「ええええ……って、え?」

 

 634メートルの電波塔は、思ったよりも、小さかった。

 まさかの現在地に「冗談だろ……」と忍に話しかけようとした瞬間。

 

 目の端に何かが溜まる。振り向いた先ニーメトル。

 歩行者用道路を塞ぐようにナニカが落ちて居た。

 

「あ、あああああ───!!」

 

 気付いた時には叫んでいた。さっきのおふざけの様な大声ではない。渾身の叫びだ。

 修羅場なんて、忍の忠告なんてあったものではない。

 無意識からの、本能からの慟哭だった。

 現在地が東京? そんなの12年前にタイムワープしたあの時に比べたら些細な問題だ。それに、自慢じゃないが僕は地獄に突然飛ばされたことだってある。

 僕の叫びはそんな大局的な光景からの発見にはよらない。

 より身近な場所で見られた光景。

 

 もっと言えば、わずか2メートル先に置かれた『物体』。

 

『物体』になってしまったモノ。

 成り果てた、者。

 

 死に果てた、人間。

 

「あああぁああ……、ああ」

 

 突如立つことになった大都会の片隅で。

 側にポツリと置かれていたのは、明らかに事切れた肢体。

 

 その死体は、僕だった。

 

 制服に身を包んだ阿良々木暦が、死んでいた。

 

 銃創を3発頭にこさえて、忌んでいた。

 

「────っ!……あぁ。……しのぶ───忍!」

 

 既に抱きしめているのを忘れて抱きしめる。

 しっかりと自身の両腕の中には華奢な幼女が収まっているというのにきつく締め上げる。喪失した何かを搔き集めるように締め付ける!

 今の僕には忍が痛そうだとか、目の前に何があるのかとかそういった、自分の内面以外に対する認識能力が残っていなかった。残っていない、というか、ずり落ちたている。壊死したのだ!

 何故自分が、何を自分が怖がっているのかすらも分からない。ただ、それを目にした途端に自分を構成する何かが抜け落ちて──まるで、死んでしまったかのような寒さに襲われたのだ。

 どんなに腕に力を込めても、増すのは自己が瓦解していくような喪失感だけ。取り戻そうと力を込めた先から溢れ落ちて行く。

 生の象徴のような怪異を目に収めていても、頭は死の概念に苛まれる。

 死体から目を離そうだとか、忍を放そうだとか様々な自己防衛がチラ見しては消滅していく。

 

 まるで、羽川家を視察した時のような恐慌状態。

 自分の行動が制御できず、五感が失われていく。

 

 ああ、アレは、まぎれもない死体。

 僕の死体だった。

 頭に三発の致命傷を受けて、程なくして死体になった僕の肢体だった。

 

 全身が震えているのにそれを感じることができない。

 運動神経と感覚神経のバイパスが完全に遮断されている。忍からしたら、体が震えて目玉がせわしなくギョロギョロと動く僕はさぞかしおかしく見えただろう。

 否、シャレにならない程に醜い姿だった。

 

 小声で震え声を発音する僕。

 

 アスファルトで平に均された道路。

 光を遮るビル群。

 あたりを薄っすら漂う煙。

 そして死体。

 その全てが僕を攻撃するナニカで、僕はその全てを遮らなければいけないという強迫観念に襲われていた。

 

 ──そうか。

 そうか。そうかそうか。

 なるほど。

 たしかにそうだ。あのキオクだ。あの、キオクだったのか。

 

 ナツかしいとカンじた、そのカオりは、僕のチのニオいだったのか。

 

 そりゃあ、懐かしいと感じるはずだろう!

 

 春休みに数人分の僕を流したあの匂い。

 ゴールデンウィークのに腹から流したあの香り。

 些細なことで流して、多大なほどに失った。

 最近では千石と会うたびに流し続けたのだ。

 忘れるわけがない。忘れるはずもない。

 だって、今もなお、僕にはソレが通っているのだから。

 生きているのだから、流れているのだ。

 

「ううううううう!」

 

 怖い。

 ドッペルゲンガーの方がまだましだ。

 だって、生きている。その怪異は生きているのだ。

 死んでいるってことは、終わっているということだ。

 なら、あの姿は、僕の終わりということなのだろう?

 

 嘘だろう?

 

 僕は、あんな姿になるのか。

 あんな──力尽きたモノになるのか。

 生きたその終わりに。

 

 物語の終わりに。

 

 形も肩身も何もあったものではない。あんなモノになるのか。……人は終わればああなるのか!嗚呼!

 

「ううぅ……だ、大丈夫だ、忍。僕は、まだ、生きている。死んでいない。アレは僕であって僕じゃない。だから、終わらない──死なない」

「たわけ。そんな震えた体のどこが大丈夫なのじゃ。放っておいたら一日過ぎる前にああなるぞ」

 

 かぷっと、そう応えて忍は僕の首筋に噛み付いた。

 甘く噛んで、なめとった。

 僕についている、二つの小さな穴を。

 その存在を教えるように。

 忍は僕の在り処を訴えた。有り方を修正した。

 

「ふん。お前様は吸血鬼モドキの人間なのじゃろう?なら、そんな死体一つで死が移ったりせん。──お前様は限りなくリビングデッドなのじゃ。お前様は人間のアレよりも濃厚に死んで、生きている。根深くこの世に足を下ろしてしまっておる」

 

『死が移る』とはどういう意味なのかよく分からない。しかし、その言葉を聞いてようやく僕に熱が戻ってくるのを感じる。恥ずかしい話だが、震えはしばらく止みそうになったけれど、それでもなんとか自分の存在証明が頭の中で決着ついた気がした。

 

 住み分けができた気がした。

 

 は、はぁ。とつっかえながら息を吐く。

 呼吸すらままならない錯乱状態だったようだ。

 

「とりあえず、怪しまれるといかんじゃろう。お前様はそこで待っておれ」

 

 するりと僕の腕から抜け出した忍は死んでいる方の阿良々木暦に向かって歩き出す。

 なんなく死体の元にたどり着いた忍。彼女はペタペタと無造作に死体に触りまくる。死に具合を確かめているようだが、その様子は検診する少女というより不謹慎な子供だ。

 しばらく呆然とそれを見ている僕だったが、銃弾が打ち込まれた死体があるというのに周りに誰もいないことに気付く。

 

「おい、忍。そろそろ戻ってこい」

 

 体の震えは動ける程度には戻っていた。

 鬼の目にも涙というが、吸血鬼の献身も馬鹿にできない。

 忍は了承を示して戻ってくる。

 阿良々木暦を持って、帰ってくる。

 持って帰って、くる?

 

「おい。そんなもん持ってくるなよ──阿良々木暦が移るだろ!」

「小学生のいじめか。ちゅーか、それでいいのか、お前様は。って、儂が言いたいのはそんなことじゃなくてじゃの……ほれ、なんか全体的におかしく思わんか?」

「顔のことと身長のこと以外でか?」

「以外でじゃ」

 

 ボケたつもりだったが、その返しだとどうも僕の顔と身長がおかしいと言われた気分になるな。

 釈然としない。

 

「……色々おかしいな」

「そう、おかしいのじゃ。煙でよく見えんかったが、お前様の死体からしてこの煙の正体が火薬であることは分かる。分かるのじゃが、それがわからない」

「──なぜ、日本で、それも首都東京で銃が死因になり得るのか」

「うむ。加えて言えば死体のお前様が着ていたこの妙な制服と何故か握られた拳銃。……そして、これじゃ」

 

 忍は死体の懐から明らかに銃刀法を無視した刃渡りを持つナイフのような形をした刃物を取り出した。4〜50センチほどの大振りなものだ。

 帯銃している時点で色々とおかしい気もするが、そうやって死体を点検していくとどんどんおかしな点が見えてくる。

 骨の具合からして銃が当たった形跡があるにも関わらず破れていない衣類。

 胸ポケットに入れられた聞いたこともない物騒な名前の高校の生徒手帳。

 

「……『東京武探高等学校 Rank.C武装探偵 阿良々木暦』らしいぞ」

「なんだよその武装探偵って。そんな高校も職業も聞いたことがないぞ」

「良かったなお前様。この世界でも最低ランクなどという改めて死にたくなるような事態は避けられたようだぞ」

「やかましいわ。つーか、最低ランクがCかもしれないだろ? ……ってそんなことはどうでもいい。おい、これは一体どういうことなんだよ、過去世界どころか並行世界に来ちゃってんじゃねえか! 勿論帰れるんだろうな?」

「ふむ、考えられる可能性はいくつかあるが、おそらく、儂らの世界の霊的エネルギーの性質とこの世界の何かの性質とがたまたま合致したのじゃろう。胡散臭い哲学者がよく使う『チャンネルが合った』という奴じゃ。故に、過去へ飛ぶ際にこの世界に引っ張られたのかもしれんの。……もしかしたら、儂らはとんでもないものと一体化していたのではないだろうか……」

「意味深長な発言の終わり方で煙に巻こうとするな。とんでもないのはお前とこのザマだよ。……え、まじで? これってマジモンにやばいやつじゃん。下手したらこのスリップのせいで世界自体が壊れる典型的な古典SFの流れの奴じゃん!」

 

 大抵は元の世界の博士が助けに来てなんだかんだあっていい話で終わることの多いこの手の話。残念ながら僕の世界はまだドラえもんが発明されていないし、博士も迎えにきてくれない。

 しかも、この世界の阿良々木くんの首筋が綺麗なことから、彼は吸血鬼に遭っていない可能性が高い。ということは彼はまだ18歳じゃないのかもしれないのだ。

 もしそうなれば、この先の未来はもうダダ崩れである。

 目を覆いたくなるような大惨事まっしぐらだ。

 

「いや、お前様よ、早まるでない。この世界の阿良々木暦は儂らがくる前に死んでおった。ちゅーことはこの世界を世界βとすると、世界βでは阿良々木暦が吸血鬼に出会わずして死ぬのが正史ということじゃ。生死だけに」

「つまらないこと言ってないでその生徒手帳で僕の年齢を確認しろ。それによってそのジョークが成立するのか決まるんだから」

「ふむ、この阿良々木暦は17歳のようじゃな。やば、儂の知らないお前様じゃん。興奮しそうじゃ」

「やめろ、人生で一番イキってる時の僕を汚すんじゃない。人間強度どころか、人間としての尊厳が弾け飛ぶわ」

「まぁ、その前に頭がハジキで飛んだようじゃけどな」

 

 僕の死体に対する熱い弄りはなんなのか。

 可愛さ余って憎さ百倍という奴だろうか。

 勝手に死にやがって、的な。

 

「……忍のしでかしたことはとりあえず横に置いておくとして、この状況を誰かに見つかるのが一番危険なことは一目瞭然。だから忍。なんとかしろ」

「吸血鬼使いの荒い奴じゃ」

「お前は常識をもっと丁寧に扱え」

 

 忍はに手を振り翳し「えいっ」という可愛らしい掛け声とともに阿良々木(β)へと叩きつけた。

 腐っても吸血鬼の超パワー。他人に思えない死体の未来の惨状を予期して、反射的に固く目を閉じること数秒。「もう良い」と告げられた声を信じ、徐々に目を開けた。恐る恐るの動作だった。

 

 死体は衣類を残して肉体部分が綺麗さっぱり消えていた。

 

「……は?」

「なにを驚いておる。儂が綺麗さっぱり何かを消すのなんて見慣れた光景じゃろうに」

「いや、だってそれは──」

 

 突如、僕の言葉を遮るようにポツンと残された制服の中から無機質な電子音が鳴り始めた。

 

「──電話」

「どれ、誰からか見てやろう」

 

 この意味不明な状況に物怖じすることなく忍は携帯電話──僕の高校時代の物と同じだ──を取り出してこちらに投げてくる。見ねえのかよ。

 受け取る。

 待ち受けの写真は、死体の所持していた銃だった。

 

 ちなみに僕の待ち受けはひたぎさんとのツーショットである。

 

 画面に表示された電話の差出人は見知らぬ男と思わしき名前。

 

「も──もしもし」

『お前、作戦は終了してんだから早く戻ってこいよ!』

「わ、悪い」

『そんなんだから協調性がないって言われんだよ。さっさと戻ってこい!」

 

 がなり立てるように怒りを表明する電話主。竹を割ったような性格なのだろうか。

 

 怒られている立場なのだが、なんだか『そうか、この世界の僕も協調性がなかったのか』と安心感を覚えてしまった。

 だが、いくらこちらが穏やかな気持ちであっても向こう側の御冠状態が和らぐわけではない。

 

「……えっと、集合どこだっけ? ちょっと頭打って朦朧としてて、ごめん」

 

 嘘は言っていない。

 阿良々木くんはしっかりと頭を打っている。

 三発の凶弾が頭に被弾している。

 

「はぁ!? そういうのは先に言えよな! だからお前は……ってもうそれはいいか。……まあ、なんだ。そういうことなら阿良々木は事後ミーティングに来なくていいから早く救護科(アンビュラス)にいけ。報酬はまた今度学校で渡すことにするわ」

「わ、悪いな」

「いいってことよ。こっちもホシの誘導一人で任せて悪かったな。大事にならなくて良かったよ」

 

 剛毅な声は最後にもう一度、僕を気遣う言葉を投げかけて消えた。沈黙を貫く携帯電話は、大学に進学する際に変えたはずの機種だった。

 所々聞きなれない単語があったが、これではっきりした。

 この世界は僕の世界とズレがある。

 ズレているから平行が生じる。

 平行世界。

 

「忍。『東京武装探偵高等学校』の住所を見てくれ。どうやら僕はそこの『あんびゅらす』とかいう場所に行かなくてはいけないらしい」

「アンビュラス……救急車じゃな」

「救急車はアンビュランスだろ……けど、多分似たような意味なんじゃ……保健室とか?」

「ほけんしつ?」

「そこに引っかかるなよ。……ええと、怪我人を治療する学校の施設だよ」

 

 意外と常識のないやつである。

 いや、世界的に見たら全人口が学校について把握していることを常識とする日本が異例なのか?……いや、そんなわけないよな。

 見るもの全てを魅了するお姫様から国を滅ぼした末に吸血鬼にジョブチェンジするという驚異の経歴を持つ方が異例にきまっている。

 

「なるほど、要は発展場じゃな?」

「お前の常識はどうなってんだよ」

「まあ、保健室行くのは良しとして……つまり、お前様はこの世界のお前様と取って代わって何食わぬ顔して学園生活をエンジョイするということかの? 全くとんだドッペルゲンガーもいたもんじゃ」

「よせやい忍。エンジョイする気なんてこれっぽっちもないわ。この阿良々木暦はどう考えても普通じゃない高校に通っていたらしいし、どうやら少なくとも命を預けるような戦友にいい印象を持たれていないらしい。エンジョイなんて以ての外だろ……全く、これじゃどこかの阿良々木くんと同じだぜ」

 

 というか、僕と同じだ。

 協調という建前の同調を強要してくるのが気持ち悪くて周りを排斥していたあの頃の僕と同じだ。

 本当、色々僕の世界とズレているんだからこういう所こそ違っていて欲しかったぜ。なにが悲しくて黒歴史と向き合わなければいけないんだ。

 とんだ拷問である。

 

「それに、僕の青春はもう終わったんだ。どんなに恋しくてもそれが戻ってくることはない」

「迷子の小娘に対するセクハラはなくならないのにな」

「あれは人生だ」

 

 老人になった僕がシワシワな肌をあいつに擦り付ける日が楽しみでしょうがない。

 

「儂は悲しくてしょうがないよ」

「……それはしょうがないことだから」

 

 そして、どうしようもないことなのだ。

 諦める仕様がないから、諦めてほしい。

 

「お前様のその偏愛は置いておいて。それならこれからどうするつもりなのじゃ? 」

「いや、当たり前だけど元の世界に戻る手段を探すのは最優先事項だ。……だけど、そうかあ……僕。死んでるのか……」

 

 これからのことを考えた、その時。

 不意に腑に落ちた。ふとした時に納得とは舞い降りるものらしい。理解と納得のパスが適当に繋がった感じだ。

 頭にこびりついた先程の風景は色褪せる気配がないというのに、僕は今になってやっと、この世界の阿良々木暦が死んだことは、僕が死んだことと同値でないと思えるようになった。

 呪縛が解かれたような気分だった。

 解呪されたような。

 憑き物が落ちたような──そんな心持ち。

 そんなの気の持ちようだと言われてしまえばそうなのかもしれないが、僕は今の今まで生きた心地がしていなかったことを痛烈に実感していた。

 

「お前様?」

「いや、なんでもない。ここでとやかく言ってもどうにもならない。だからとりあえずここから離れよう」

 

 現象と概念。

 闘争と平和。

 世界と世界。

 思い返せば去年のあの時も歩くことから始まった。

 だから、踏み出そうと思う。

 青春を振り返る物語を。

 

 こうして、僕と忍は東京武装探偵高等学校を目指して歩くことになる。

 

 僕は死体の制服を着て。

 なんだか、追い剥ぎのようで気分は良くなかったが、忍に複製してもらおうにも年季というのは再現できないそうなので妥協する次第となった。

 

 なんだか妙なオチがついてしまったが、これが、これまでの話。

 やっと、次からが本当に始まり。

 1ページ目。

 振り返る話が未来に控えているというのもなんだか妙な話だが──話は話。

 

 巻き戻ろうが物語。

 

 巻物語である。

 

 青春を振り返る話は、始まったばかりだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

007-B

 午後五時。夕焼けの落とす影が目を焼く時間。

 公立高校では放課後に位置付けられ、部活動に力を入れる生徒達の声や機材によって音が飽和するはずの時間。

 そんな中、不気味なくらいに沈黙を保つ高校の前に僕は立っていた。

 

 東京武偵高校、武偵高の校門に立っていた。

 

 ここまでの道のりは、見知らぬ小学生になじられたりしたものの、特筆することはなく、概ね順調だった。

 どのくらい順調だったかといえば、小学生にいじられつつも、遺された携帯を使ってこの世界について幾らか調べることに成功するくらい順調だった。

 

 17歳の頃の携帯電話なんて両親のメールアドレスと電話番号が記載されただけの高価なメモ帳と成り果てていたものだが、この世界の僕はそれなりに頑張っていたらしく、連絡先には見慣れない名前がずらりと並んでいた。その数は下手したら三桁に登るように思える。

 これだけあるのならひょっとしたらひたぎや羽川の名前があるかもしれない、と血眼になって探したけど残念ながら存在しなかった。無論、千石撫子や神原駿河の名前もない。なんだかんだありそうな臥煙さんのアドレスもなかった。

 

 どうやら、この世界と元の世界の交友関係は限りなく別物、もしくは元の世界の彼女達とは出会ってないと考えた方がいいのかもしれない。

 彼女達は多分、直江津高校に通っているのだろう。

 だってこんな高校に来る学生なんてまともじゃない奴だけだろうし。

 

「その理論でいったらあの女達は極めてこの高校と親和性が高いことになるのじゃが……」

「いやいや、あいつらはあくまでも驚異的に性格が破綻していたり頭脳が発達していたり身体能力が高かったりするだけだ……?」

 

 何かが引っかかったが気のせいだろう。呆れた忍の表情は見なかったことにした。

 小学生にほっぺたをペタペタされながら次に調べたのは東京武偵高等学校について。

 

 検索ワードに『武偵』と打ち込んでから数十分。僕を叩くのに余念がない小学生も後髪引かれる思いで(誰の思いかは内緒だ)帰る時間になった頃。大体の世界事情を把握しきった僕がまず一番初めに思った、というか口に出したのが「やべえ世界じゃん」だった。

 

 どうやら『武偵高』は文字通り『武偵』という職業のための専門学校として位置づけられているらしく、公式ホームページには日本で設立された理由として、国家自衛のため、軍と代わりとなる武力云々と結構なページに跨って書かれていた。

 しかし、公然の秘密である本来の理由は『アメリカの銃産業を支える』ことに終始しているらしく、調べれば調べるほどにデンジャラス。まともな高校とは到底思えない。

 しかもどうやらこの武偵制度。国際規模のライセンス制度のようで、武偵高自体世界各国に散らばって存在しているらしい。そうなってくると何故、武偵制度を作る必要があったのかという歴史的背景が気になってくるけど、残念ながら明確な答えは得られなかった。

 

「絶対武偵って一般市民に敬遠されてるよな」

「そりゃそうじゃろう。現代日本でこれを認めるのは言わば、うさぎが蛇とシェアハウスをしてるようなものじゃ。それを平然とやり過ごせるのは余程の馬鹿か欠陥品位のものじゃろうな。……それにしてもこの武偵制度とやら、随分とこの国の根幹に根付いているようじゃな」

「パッと街を見回しただけでも武偵刑事に武偵弁護士に武偵税理士に武偵栄養士の看板が見えるし、もうなんでもござれって感じだよ──節操がないというか、制限がないというか」

「制御がない、が的確かもしれんの。まあ、そうでなくとも毛も生え揃わぬ内に暴力を教え込むこと自体おかしいのじゃが。全く、戦時下でもあるまいし」

 

 銃を構えて斜を向く少年少女の写真を見て忍は言う。

 

「──いや。案外第二次世界大戦が休戦状態な世界なのかもしれないぜ? SFやなんかだとよくある設定だろ。日本が負けなかっただとか、天皇制が続いているだとか」

「その割にはアメリカに絶対服従のようじゃが……。いや、世界によって常識なんぞ変わってくるのもまた道理じゃ。深く気にするまい。それよりもこの学校の学科を見るのじゃ……なんとまあ胡散臭いことじゃ。超能力なんてあるのか、ぱないの!」

 

 忍は両手で操作していた携帯の画面を指差す。

 画面の中、臙脂色を基調としたホームページには武偵高の組織図が並んでいた。

 

 ・強襲学部(アサルト)

 強襲科(アサルト)狙撃科(スナイプ)

 ・諜報学部(レザド)

 諜報科(レザド)尋問科(ダギュラ)

 ・通信学部(コネクト)

 通信科(コネクト)情報科(インフォルマ)

 ・探偵学部(インケスタ)

 探偵科(インケスタ)鑑識科(レピア)

 ・兵站学部(ロジ)

 車輌科(ロジ)装備科(アムド)

 ・衛生学部(メディカ)

 衛生科(メディカ)救護科(アンビュラス)

 ・研究部(リサーチ)

 超能力捜査研究科(SSR)特殊捜査研究科(CVR)

 ・教養学部(コルト)

 一般教科(ノルマーレ)

 

 表に照らし合わせて考えると先の電話で聞いた『アンビュラス』はどうやら、『衛生学部』もしくは『救護科』を指していたことが分かる。

 そしてそれとは別に忍が胡散臭いといった『SSR』とかいう学科。大学のサークルであろうとも受理されなさそうな名前の学科の紹介欄にはただ一言『求ム、サイキック』としか書かれていなかった。

 

胡散臭い学科(SSR)もそうだけど、平然と尋問やら強襲やら並んでるのはどうなんだ? 平成の中野学校かよ」

「高卒認定すら貰えなさそうな学科ばっかりじゃな」

「忍おまえ、保健室は知らないのに高認は知ってるのかよ」

「お前さまが夏頃から『学校辞めて高認取ろうかなぁ』などと情けないことを言っておったからの……それよりも、じゃ。この世界のお前様はどこに所属していたのか分かっておるのか?」

「あー、いや。手帳にも携帯にも特に書いてなかった。僕としては一般教科あたりにいて欲しいんだが……」

「先の電話を見る限りその線は薄そうじゃな」

 

 チームの隊長らしき人物からかかってきた電話を思い出す。敵の誘導を任されていたっていうのだからこの世界の僕はおそらく強襲科、あるいは探偵科に所属していたんだろう。

 一般的とは言えないけれどそこそこ平和的に過ごしてきた身には余りある立場極まりない。こういった仕事は火憐ちゃん辺りの仕事だろう。荒らし事を専門とする彼女にはピッタリだ。

 

 そんな会話の後、忍はしばしの睡眠をとるといって影に潜っていった。

 現れる時と同様初めからいなかったかのようにいなくなった忍を見送った僕は武偵高へと足を向ける。

 そして、少しの逡巡を挟んで僕は足を踏み入れた。

 

 武偵高は元々滑走路として利用するはずだった土地を学園島としてリユースとして建てられている。

 外観からして左右非対称な建物で、インターネットで公開されていた内部構造は学校に似つかわしくない複雑さを誇っていた。無駄に多い曲がり角に唐突に設置されたどこへ繋がるかわからないドア。

 しかも、実際に歩いてみて分かったが、インターネットに公開されている地図と見比べると意図的に省かれた場所や通路が多々存在している。扇ちゃんのような怪異の仕業かと思ったが、あれはあくまで僕の自己嫌悪の記憶をもとに作り騙られたものなので、これはやはり学校側の恣意的な改変なのだろう。

 その証拠にといわんばかりに、ネットと矛盾する扉には鍵がかかっていた。

 

 忍が寝て手持ち無沙汰な僕は一人粛々と廊下を歩く。

 

 この世界の今日はゴールデンウィーク入りたて。

 日付だけの話をすれば忍のタイムスリップは成功したことになる。

 もう少し成功の判断範囲を広げれば、帯銃許可証も容易に取得できて、帯銃と帯剣を義務付けられた高校が存在する、平たく言ってイかれた世界だったという──大失敗判定になるけれど。

 他人の世界にケチをつけるようでなんだか申し訳ない気もしてきたが、早い所帰りたいとあうのが僕の本心だった。

 僕は十七歳だった。

 つまりこの世界での僕は羽川には矯正されておらず、ひたぎは落ちておらず、八九寺には遭ってすらいない。千石は呪われていないし神原に呪われてもいない。大きい方の妹は熱を出していないし小さい妹は未だ判明していない。そして扇ちゃんも居ず……僕の青春は継続中。

 高校二年生の頃の青春なんて、青くもなく春でもない、ロクでもない黒い思い出、黒歴史だ。

 忍にも愚痴ったが、本当に本来なら僕はこうして高校に立っているのすら苦痛に感じる程に自分のティーンズ時代を嫌っている。自己嫌悪や同族嫌悪とはまた違うのだが──なんというか、見ていられない。なのにましてや、どうして見知らぬ高校にいたいと思うだろうか。

 溜息をつきたい気分を抑えてノロノロと歩みを進める。

 気の重さの理由には、未だ何故こんなところに来てしまったのかという疑念があるからなのだろう。

 前回のように八九寺を助けるわけでもなく、世界を救うわけでもない。

 ただひたすらに五里霧中な状況でもがいているようないじらしさ。当たって砕けろの精神でいようにも当たるものがない虚しさ。右手を壁について迷路をさまよっているつもりが柱に手をついていたような不毛さ。気だけで四十度の熱にうなされているような呆け具合。

 そういった無駄を煮込んだ液体で溺れているような気分だ。

 

 緊急性を考慮してなのか校舎から一番近い位置に救護科はある。だから目的地までたどり着くまでそう時間はかからないはずなのだが、精神的疲労と肉体的疲労のダブルパンチも相まって歩みは遅々として進まない。

 僕は廊下の掲示板に貼られたチア募集中の文字が目に留まり休憩がてらに足を止めた。

 廊下の隅、無造作に置かれたゴミ箱の中身は薬莢の空き箱だった。

 

『校舎内で撃つな』『定期的に完全分解を』『eV/Abs(M)MeV/hV)!』『体育祭委員長失踪のお知らせ及び再募集について』『ネコ』

 

 内容も形もバラバラな張り紙。

 誰かのイタズラなのか、無造作に貼られていたと思われる貼り紙達は全体として大きく口を開けた巨大な魚を描くように貼り直されていた。

 尾びれは黒く、背骨は黄色い。背びれはピンクでお腹は白色。目は金色の画鋲でできた──そんなトンチキな魚が追いかけていたのは天井から後で吊り下げられた箱。

 手を伸ばせばギリギリ届きそうな位置にある真っ白いその箱の中には数枚のプリントが入れられている。

 むやみやたらに触ってはいけないものなのかと思案しつつも吸血鬼化の影響の残る目で覗いてみると武偵にあてたいくつかの依頼が入っていた。学校外からの依頼がまとめて入れられてあるようだ。

 

「猫探しに、犬探し。ゴキブリ退治に殺人犯探し。アナウンス録音依頼なんてものもあるのか……まるで何でも屋だな」

 

 依頼の紙には対応して0.01〜3.00の単位が割り振られている。インターネットで得た情報通り、授業をサボっていても依頼さえやり続けて入れば卒業できるというのは本当の話らしい。改めてとんでもない学校だ。

 羽川にも出会わず吸血鬼に遭わない、その上こんな高校に通っていたら僕はきっと……。

 いや、これは妄言だ。

 青春を終えた僕には烏滸がましい戯言だ。

 

 『仮定の話は過程の話ほどに下らない』とは羽川の金言の一つだけれど、なるほど確かにこうして仮定の僕が身近になってようやく思い知る。いやむしろ、羽川が日頃の体験をもとにそう思ったというのだから忍野とひたぎに『本物過ぎる』と言われるだけがある。

 

 本当に本物過ぎだろ。

 人生に本気過ぎる。

 

「あら、あらららら? アラララくんなのだ! もしかして単位落としちゃったの?」

「阿良々木家が子々孫々と受け継いできた大事な家名を横着して呼ぶな。僕の名前は阿良々木だ」

「失礼なのだ!」

「お前がな!?」

 

 突如降り注がれたやり慣れた文句。

 決まった人との決まり文句。

 勿論声色からして明らかにあいつとは違うと分かる。

 相手が違うならそれはもうただのやりとりではあるのだが、それでも(我ながら)律儀にツッコミつつ掲示板から目を離して後ろを振り向く。

 思いがけず動作にこなれた感じが出てしまい、なんだか気恥ずかしかった。

 

 そして顔を掲示板から離しながら、

 ──そういえば、振り向くたびに驚いていたな。と考える。

 

 神原が跳んで驚いて。

 僕が飛んで驚いて。

 死体に出会って驚いて、

 少女に出遇って驚いた。

 

 さて、今度はどうだろう。

 後ろを向いて数秒間。

 

「あれ?」

 

 何もなくて驚いた。

 誰もいなくて驚いた。

 

 背の高い廊下には人一人の気配ない。

 声は確かにしたのだ。やりとりを交わすほどしっかりと。しかしどうだろう。目の前には誰もいない。

 あの痛烈な幼いハイトーンボイスはどこにいってしまったのだ。

 ピンポンダッシュのように逃げたのか?

 ……僕、嫌われ過ぎだろ。

 

「阿良々木君!こっちなのだ!」

「……おお」

 

 再び声がする。

 発信源は眼前、しかしあまりにも下。

 けれど僕から僅か数センチ先。

 地面からおよそ140センチあたりに見える明るい茶色に包まれたつむじ。

 そこから声が聞こえた。

 見知らぬ少女が抱きつかんばかりの距離にいた。

 

「……なんでそんなに近いんだ?」

「今日の阿良々木君は珍しい匂いがするのだ! 甘いスイーツフレーバーな匂いなのだ!まさか、別の女の影?!」

「僕と君はそんな関係なのか!?」

 

 第二次性徴を迎えていないような少女と!?

 とんだ犯罪だ!

 色々飛ばして実刑だ!

 

「あははは! 今日の阿良々木君は面白いのだ!」

 

 くるり、と短いスカートを翻して一回転。

 離れた少女はどこからどう見ても制服のコスプレをした小学生だった。小学校の制服ではないのかと問われればそれは違う。なぜやら制服から判断すると彼女と僕は同じ高校であるらしいからだ。

 しかも彼女の話し振りによると僕との関係は同学年、または彼女が年上。

 あと分かることがあるとすれば、この世界の僕はツッコミを入れるだけで面白扱いされるような存在だったことだが……それは聞かなかったことにした。

 腫れ物扱いした。

 おそらく目の前の少女達と同じように。

 

 しかし、今、彼女の身体年齢や精神年齢よりも重要なのは彼女が僕から見てどの立ち位置にいるのか、だ。留年も飛び級も珍しくもないというこの高校において、彼女がどの学科のどの学年に所属しているか、僕とどんな関係を結んでいたのか、どのように接していたか。細かなことを言えばキリがないが、僕が彼女に対してどんな会話を為せば僕と僕の差異を感じさせないで済ませられるか。

 それが重要だった。

 

「あやや、一転して阿良々木くんの顔に雲がかかったのだ!あっ!もしかして任務で仲間が──」

「ああ、いや、そうじゃない。ん?いや、そうなのか?……えっと、さっき頭を打って朦朧としてるんだよ。だから、その、あの」

 

 どもりにどもる。

 嘘は得意な方だと思っていたけれど、誤魔化すのはどうも苦手だった。

 

「なに!それは大変なのだ!!──はっ!もしかして阿良々木君が阿良々木くんであることも一回留年していることもクラスでやや煙たがられて友達がいないこともあややとの熱い日々も忘れちゃったりしてるのだ?!」

「熱い日々?!本当にそんな関係だったのか?!」

 

 このままじゃ本格的にロリロリハンターズの名前を欲しいままにできちゃいそうだ。こんなんだから八九寺に阿良々木ハーレム(ロリ)とか言われるのだ。

 僕はひたぎ一筋だっていうのに!

 

「いや待て!クラスで煙たがれような奴がそんな生活を送れるわけがないだろ!」

 

 ましてやロリ一直線な見た目の少女となんて、ぶっちゃけありえない。

 そもそも十七歳の僕は妹のせいで完全に好みが年上であったはず。硬派をきどっていたし、ロリコンなんて論外だ!多分。

 

「ふはふはふは!その調子じゃ阿良々木くんは本格的に記憶の混濁が見られるようなのだ!ならばあややがどんなことを言ってもそれは確かに事実なのだ!よし、よく聞くのだ!残念ながらさっきのセリフはほとんど真実、さあ阿良々木くんは何が嘘か言ってみるといいのだ!」

「くそ!小さい体してなんて恐ろしいことを!」

 

 留年か嫌われ者かロリコンか。

 ほとんど嘘であったとしてもクズ人間じゃないか。

 一体前世でどんな悪徳を積んだらこんな人間になるんだ。

 相当な渋面で熟考し、芳醇なワインのように声を絞り出した。

 

「……り、留年なんてしてない」

「ふはふは!あややとの関係を否定しなかったことは褒めるけど、残念ながら『少しずつ全てが間違っている』というのが正解だったのだ」

「……どういうことだよ」

「あややが言ったことは全部がほとんど真実だけど、全部が少し嘘なのだ!阿良々木君は留年はしてないけど留年しかけているし、クラスで煙たがれているけど友達はいるし、あややとそんな関係じゃないけど仲が良いのだ!」

 

 彼女は己の寸胴ボディを見せつけるように腰に手を当てて背を反らした。ピクリとも膨らまない胸だったが僕の胸は心踊るように夢で膨らんだ。

 ここで重要なのは胸は脹めども触手は動かないところだ。

 そう、別に僕は第二次性徴を終える前の少女の肉体に興味があるわけじゃない。

 僕は少女だけが持つあどけない表情や仕草やどたどしい口の動かし方とそこから聞こえてくる鈴を転がしたような声や絹よりも細やかな髪の毛などが好きなわけではない。好きな子に対するアプローチとして給食の好きなオカズをおずおずと差し出す、そんな愛くるしくてかわいらしい精神構造とそこからくるちょっとした動作が好きなのだ。

 

 だから決して僕は少女趣味ではない。

 

「ところで、僕が君に突発的で限定的な記憶障害を患ってしまったことがバレてしまったことを承知で聞くが、君から見て僕は一体どんな人物像で君はどんな人なのか教えてくれないか?」

「お安い御用なのだ!もしも記憶障害が嘘でこれはいい機会だと言わんばかりの質問だったとしても、小狡い阿良々木くんらしいと受け流して答えてあげるのだ!私から見た阿良々木君はラノベや漫画やアニメの影響を受け過ぎた結果、現実に対して受動的になり過ぎた元陽気者なのだ!クラスでは二大昼行灯の一人だとか不良だとかイキリオタクだとか言われてるのだ!そしてあややは平賀文さんなのだ!装備科二年Aランクなのだ!」

「うんうん、ナルホドナルホド。ソーナノカー」

 

 首をカラカラと元気よく動かして相槌を打つ。

 忍や八九寺、斧乃木ちゃんあたりが聞いていたらさぞかし喜び勇んで馬鹿にして来ただろう。

 ……目の前の少女といいロリが僕に対して厳しすぎる。

 僕からの親愛と反比例しているようだ。

 

 しかしこの阿良々木暦。なまじ厳しい世界に身を置いているせいか周りからの評価も一層底辺に近いようだ。幼女達からの評価に加えて社会的地位も低いとなると、僕にしてみれば落ちるところまで落ちた気分である。

 地獄の底にですら幼女がいたというのに。

 

「それで、そのコミュ障で嫌われ者の阿良々木暦さんと平賀さんが仲良しな理由はなんなんだ?男女の仲じゃないことは確定だとして」

「雇い主とバイトの関係なのだ!」

「友達ですらないのかよ」

「あややのスケジュール管理をいっつもスカしてるクセに万年貧乏な阿良々木くんに任せてるのだ!」

 

 さっきの物言いで分かってはいたが、平賀さんは一言多いタイプの人間だった。

 一言一言も積み重ねていけば文、文章と連なっていくように僕と彼女の間にも因縁の断片が無数に繋がりあって今の関係に落ち着いたらしい。詳しく聞いてみると彼女との繋がりに腑に落ちる部分もあり、携帯に登録されたアドレスのほとんどがその管理対象としてのものだったという悲しすぎる事実も判明した。

 しかし、このような事情があるのなら彼女とまず初めに会えたのは僥倖という他ない。数少ない友達からの事情バレの原因を一つ潰すことができたのだ。

 そしてそう考えると、これまた悲しいことに数えるのも憚れるほど友人が少ないこともまた僥倖と言えるだろう。

 人間強度が高くて助かった。

 やはり僕は間違っていなかったのだ。

 

 平賀さんはポヤポヤ笑っていた。

 

「あ、そうだ。阿良々木君。銃を見せるのだ!頭を打った原因が分かるかもしれないのだ!」

「いや、構内で抜くのは禁止だろ?」

「……む、校則をやけに気にするのは変わっていないのだ。平気で授業サボったり法律は破るくせに小さいところで厳しいのだ!」

 

 なにか琴線に触れたのか急にプンプンと怒り出す平賀。遠慮なく銃がしまってある胸元辺りを叩き出すので、暴発しないかヒヤヒヤしながら大人しく差し出す。

 

「分かった、悪かったよ。ほら」

 

 僕は銃に関して、てんで素人だ。拳銃や機関銃と言われても語感から形を推察することしたできないし、リボルバー、オートマチックという単語すら説明できない。

 そんな僕が彼女に渡したのはいかにも銃っぽい銃。

 黒塗りで黒塗りで”Γ”を90度回転させたような形。

 あまりにもイメージ通りな銃なので、誰かに向けた時にひょっとしたらオモチャの銃なのではないかと頓珍漢な勘違いを産みかねない──そんな銃。

 であるはずなのだが、平賀さんは不思議そうに大きな目をくりっと揺らして疑問の声をあげた。

 

「……ん?阿良々木くん、おかしいのだ。阿良々木くんが普段使っている銃と違うのだ。阿良々木くんの銃はあややがフルオートできるように改造したグロッグ17なのだ。AWBの規制緩和に倣って所持可能になった割と安価でベーシック、かつ扱い易いとあややもオススメした覚えがあるからそれは確実なのだ。なのにこの銃は生産国も効果も何もかも違う銃──これはファイブセブンなのだ。殺傷性が高すぎるしマズルフラッシュも明る過ぎるしであんまり武偵向きじゃない銃なのだ」

「……つまりそれは僕の銃じゃないってことか?」

「自分の装備も忘れるって阿良々木くんヤバ過ぎ。早く保健室に行くのだ!……ってそうじゃなくて、あややが言いたいのはここなのだ!──このモデル、マニュアルセーフティがない初期モデル、しかもいろいろと殺しに特化した改造が施されてるのだ!」

「と言うと?」

「普通じゃない」

 

 よく分からないが、この銃は一般的でもなく武偵向きでもない。人殺しに特化した銃ということなのだろうか?

 なるほど、僕の先程の検討は全く正鵠を射れていなかったわけだ。まさしく見当外れだ。

 

「ちなみにこのファイブセブンは別の短機関銃のサイドアームなのだ!」

「ふうん、いや、けどさ。『なのだ!』って言われても目が覚めた時には胸にこの銃しかなかったし周りには空薬莢一つ落ちてなかったぞ。いや、煙は立ち込めてたし交戦があったのは確実なんだが……」

 

 言っていてよく分からなくなってきた。

 うーん、これ以上嘘八百並べていると平賀からあらぬ嫌疑がかけられそうだ。

 伺うように平賀さんを見下ろすと、彼女の目は渡した銃に釘付けになっている。

 

「どうしたんだ?」

「……実はこの銃、もう生産終了したレア銃なのだ。ダブルアクションだし事故ることも多いけど実用的でいい銃なのだ」

「つまり、欲しいのか?」

「……うん」

 

 お菓子をねだるように彼女は小さくうなずいた。

 度し難い。

 けど、平賀は装備科を名乗っていた。それも僕の数少ない友人らしい。僕が銃の価値を知らないせいなのかもしれないが、こんな銃一丁で良好な関係を築けるなら安いものだと思ってしまうが(恐らく)装備オタクであろう平賀がここまでヨダレを垂らすのだ。余程レアと見ていいだろう。

 今現在、僕にとって袖が触れ合う縁は赤い糸並みの価値がある。

 実を取るべきだとは分かっているのだが、平賀の上目遣いとこれからの関係を考えると……。

 こんな時羽川なら瞬時に判断を下せるのだろうと思わずにはいられない。

 

「……僕は記憶をいくらか失って困惑しているけどこの高校に帯銃義務があるのは覚えている。だから今ここで渡すことはできない……けど、僕としてはあげてもいいとも思ってる」

「ほんと?!」

「銃を胸に抱き込むな。セーフティがないんだろ」

「あややがそんな下手をこくわけがないのだ……ってあわわわわ!」

 

 硬いもの同士が 当たる音が響き平賀さんが慌てる。

 発信源は平賀さんの腕の中、ファイブセブンからだ。

 暴発でもするのかと思わず身構えたが何も起こることなかった。平賀も「引き金が軽く引っかかっただけなのだ……」と胸を撫でおろしていた。

 暴発。

 

 暴発といえば、例外の方が多い規則(アンリミテッドルールブック)が真っ先に思い浮かぶけど銃における爆発はどんなものなのだろうか。銃身が爆発でもするのか?

 そもそも普通に撃つ場合にしろ、銃というのは果たしてどんな工程を経てどんな表現でどんな結果をもたらすのだろうか。

 

 平々凡々な僕とはいえ、親に警察を持つ身。ピストルくらい見たことあるだろうと思われるかもしれないが、そんなことは全くない。両親が公私をきっぱり分ける性格だったこともあるが、そもそも銃自体、おいそれと持ち出せるものではないらしい。

 ましてや一般人が所持できるものではない。

 アメリカでは女児用にショッキングピンクカラーの銃が売られていると聞くが、それはあくまでも外国での話。日本で生活と銃がそこまで密着することはない。大体日本はドライバー一本持ち歩くだけで捕まるのだ。

 ましてや銃なんて持てるはずがない。

 

 ……はずだったんだけどなあ。

 

 ましてやましてやと繰り返してみたものの、目の前の彼女が極めて殺傷性の高い銃を弄んでいることは事実。ここは僕の知っている現代日本であって現代日本ではない。アメリカの銃産業を支えるために銃刀法を改訂したばかりか、中学生がオラオラと射撃訓練に勤しむような日本なのだ。

 ここで僕がそんなこと知らねえよ、と言い張ったところで、放たれた弾丸は脆いものに触れたと僕に襲いかかるだろう。頑なであることは硬いことと同義ではない。

 主義主張は大抵暴力に敗れるのだ。

 破れるのだ。

 

 正義は勝利の上に成り立つのだから。

 

「平賀さん」

「あややでいいのだ!」

「……平賀文さん」

「なんで距離をとったのだ?!」

「平賀さん──取引をしよう」

 

 主義思想は暴力に敗れるかもしれない。

 けれど、暴力はなにも殴ることだけを指す言葉じゃない。

 ──理論武装。

 ひたぎや羽川に比べたらあまりにも貧相で頼りないソレだけど、一介の大学生として偏差値最底辺の高校二年生にはまず負けない類の暴力。

 

 大丈夫、幼い女の子を殴ることには慣れている、と割と最低なことを考えながら僕は辿々しい口撃を彼女に向けるのだった。

 

 ──完敗だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

008-B

 大学に入って知ったことの一つに『梵我一如』の考えがある。

 これは『世界の根源とはつまり自分の根源と同一』という紀元前千五百年くらいの古代インドにおける伝統的な論調だ。東洋哲学の祖とも言えるかもしれない考えだ。

 

 『緑』という色が見える原理を説明できても『緑』がなにかを説明できないように、人は何かの現象が発生するまでの過程は説明できても現象の発生の正体は説明できない。けれど、人はその正体を感じ取っている。だから人を人たらしめるものとは『現象の正体を感じ取ること』と言い換えられるし、また、世界は『現象の正体』を最小要素として成り立っていると言い換えられる。だからつまり『人は世界だ』といえるだろう。というのが梵我一如の簡単な内容だ。

 

 そしてこれは1994年に西洋哲学によって提示された問題に酷似している。

 別に僕は東洋哲学が西洋哲学より3500年分優れているなんていうつもりもないし、ましてや、この話を理解して悟りに至ったなんていうつもりもない。

 しかし、この論理の根本的な自覚は東洋哲学における『悟り』と言われているのは事実だし、その悟りは人に概念的な全能感を与えていると言われている。

 その証拠に梵我一如を整えて主張したヤージュニャヴァルキヤはこの論理を以って『人とは元来不死である』と妻を諭した。

 だからこそ考えてしまう。

 

 概念的な不死。

 怪異的な不死。

 

 そこに一体なんの違いがあるのだろうか。

 もっと言えば『吸血鬼』の不死のメカニズムとはなんなのか。

 

 僕は忍に血を吸わせる度にそんな思考の海に嵌っていく。いくら逃げ出そうとしてもその海は僕を引っ張って捉えて離さない。

 

 まるで底なし沼だ。

 

 忍野メメはかつて怪異を『舞台裏の存在』と評した。

 その時の言葉を僕はただ単に、人間の住む場所が表舞台だとしてその逆にいるモノだと捉えていたが、今ならそれは全くの勘違いだと断言できる。

 なぜなら忍は怪異を『概念的な存在』と言ったから。概念ということはつまり、『世界の根幹』と同義だ。

 なら、舞台裏が表舞台を支えるように怪異は人間の世界を支えるナニカなのだと言える。怪異は認識されなくては消えてしまう儚いものらしいが、そんなのどんな概念にだって当てはまることだ。

 事実、人間が科学を発達させるまでは『化学』なんて概念はなかったし、取って代わって『錬金術』という概念が世界には存在していた。

 逆を返せば、逆を介したならば。『怪異』とは既に認識されないものになっており、それは『認識するものは認識できない』という梵我一如のメカニズムに繋がっていくのではないだろうか。

 

 つまり、概念が現象として現れるのが怪異なら、概念的な不死が現象となるのが吸血鬼と言えるのではないか。

 

 不死殺しの専門家は不死鳥の怪異を殺す術を持っていた。その手札が明らかになることは無かったが、それが斧乃木余接という使い魔に依存しないことは想像に難くない。

 専門家は人である。

 人であるからには怪異に対して行う対処の術はただ一つ。

 

 十字架で吸血鬼を欠損する。

 改心して神を不必要にする。

 行動で地縛霊を曖昧にする。

 改善で悪魔を不必要にする。

 御札で呪いを根絶しにする。

 憂いを断って猫を退治する。

 

 怪異を否定して現象を殺す。

 

 その方法や程度に差はあれど本質的に行なっているのはどれも同じで、残酷だ。

 赤の概念を吹き消すように、否定して。

 赤の他人を搔き消すように、拒絶する。

 

 不死の専門家がどんな方法でそれを行うのかは分からない。

 ただ、その方法は確実に怪異から『不死』の概念を奪い去っていくだろう。吸血鬼にとっての太陽光のように。

 勿論、専門家以外にも概念を喪失させあるもの。

 ──『概念の喪失の概念(くらやみ)』だってある。

 

 もう一歩、思考を進める。

 

 概念の否定とは、つまり条件の否定だ。

 

 不死の概念の条件は有様。

 思しの概念の条件は願い。

 迷子の概念の条件は記憶。

 成就の概念の条件も願い。

 呪いの概念の条件は成功。

 構成の概念の条件は要求。

 

 ある意味では前提とも言えるかもしれない。

 原因と結果。

 目的と手段。

 表裏一体で表裏逆転しやすいこの関係を崩すことが怪異の否定に繋がることを僕はこれまでの経験から学んでいた。

 

 文字に書き起こすとまるで簡単そうに見えなくもないが、その為に要求されるのは、怪異に対する豊富な知識を始めとした途方も無い数の能力であることは言うまでもない。

 忍の話を聞く限り、数ヶ月間延々とそれについて講演会できるくらいの知識は最低限、要求されるだろう。

 

 なぜこんなことをタラタラと詭弁たらしく述べたのか。

 

 それはひとえに僕の存在に疑問を持ったから他ならない。

 当たり前だが、ここでの疑問は『僕は怪異なのか人間なのか』などというものではない。

 それはもっと素朴な疑問──、

 

『僕は存在は道理に反しているのか否か』という単純なイエス・ノークエスチョンだ。

 

 条件を満たせば概念が生じる。

 それはなにも怪異だけじゃない。

 

『くらやみ』だって同様だ。

 

『くらやみ』の発生条件は僕の疑問と同じく極めて単純明解で『道理に反しているか否か』。

 ここまで言えば(ここまで言わなくても)察しはつくというものだろう。

 去年の夏、タイムスリップした時、そしてバタフライエフェクトによって世界を滅ぼしてしまった時に『くらやみ』は起きなかった。

 

 同じ世界に僕と忍が2人存在していたにも関わらず、だ。

 

 扇ちゃんの存在ですら裁かれたのだ。

 ましてや、同一人物の存在が放って置かれるはずがない。

 だというのに『くらやみ』は現れなかった。結果、一つの世界が滅ぼされることになった。

 これはつまり、『阿良々木暦』という人間と『忍野忍』という怪異が世界に二重に存在することが『道理に反していない』ことを表している──否。そうではない。

 忍野の手紙によれば、あの時の荒廃した世界は元の世界とは違う世界線……つまり、今と同じような状況だったという。

 

 ならば考えられる可能性はそう多くない。

 

 世界にとって別の世界線の同一人物は別の人としてみなされるという可能性。

 去年のタイムスリップも実の所、世界線移動だったのではないかという可能性。

 

 そう考えてみれば、去年であったショタ阿良々木暦と僕は別人であるし、死にかけたキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと忍野忍は別の怪異といえる。だから、『同じ世界に同じ人が2人いる』という明らかに理に反する事態にはならない。

 だから、あの時の『くらやみ』が出現することはなかったといえよう。

 

 ならば、この世界でも『くらやみ』の心配はいらないのではないか。

 

 その答えも、否だ。

 残念ながら、それを是とする考えはこの世界の『阿良々木暦』の死によって捨てざるを得なくなってしまった。

 忍野扇の例を考えてみてほしい。

 彼女は『くらやみ』から忍野メメによる『承認』によって逃れることに成功したのだ。あの場面に専門家らしい技術や知識は介入することなく、ただ『忍野扇』という『存在の承認』によってことは為された。

 

 為されてしまった。

 名付けられたのだ。

 

 つまりそれは、『存在の成立』が専門家であろうが全くの素人であろうが然るべき誰かが認めて名付けてしまえば為されてしまうということだ。

 

 今回僕は平賀文と話した。

 名前を呼ばれた。

 

 そう──『阿良々木君』と()()()()()()のだ。

 元の世界の阿良々木暦としてではなく。

 この世界の阿良々木暦として。

『阿良々木暦』が『阿良々木暦』になってしまったのだ。

 

 だとしたらこれは、道理に反してしまうのではないだろうか。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()という、非道に相当してしまうのではないだろうか。

 八九寺の成仏するはずが現実にとどまっているという矛盾に対応されるまでに4ヶ月足らず。

 だとしたら、僕があのくらやみに再会するのはそう遠くない未来のはず。

 

 果たして僕は、来るべきその時のためにどんな条件を否定すればいいのか。あるいは元の世界に戻るのか。

 

 考えることは、山積みだった。

 その山は僕に崩されるのが先か、くらやみに消されるのが先か。

 

 どちらにせよ、山の先に見える景色が禄でもないことは想像に難くなかった。

 

 そんな思い詰める1日の夜。

 平賀さんとの商談で歴史的大敗を期した後。

 

「引き続き依頼の顧客管理を行うこと、賃金は日当千円。ファイブセブンとやらは平賀某特製の改造銃と数日後交換。記憶喪失については雇用関係が切れるまで黙秘する。そして、この世界について聞き出せたのは峰理子とやらの性癖と平賀某が話題の転入生に身長を抜かされたことという究極的にどうでも良い私的情報のみ……」

 

 腕を組んで深く頷く金髪の美幼女を前に、僕はそれは綺麗な正座の姿勢を取っていた。

 本来S字を描かなくてはならない背骨も今ばかりは見事なI(アイ)の字を描いている。

 

「『装備科には商談のための能力も要求されるのだ!Aランク試験には大企業の営業さんから利益をふんだんにもぎ取れるようでなければならないのだ!』……か。──のう、お前様。即堕ち2コマって知っておるか?記憶喪失という秘密を盾に有利な条件を強要される結果に終わってしまったのはまあ良い。ただ、何故初対面の女子から他人の性癖とプライベートを聞き出せるくせに、なぜこの世界の常識は一つも聞き出せなかったのじゃ」

「ゆ、油断してた」

「ゆたにしとる場合か。情けない」

「いやでも忍。ブロンド髪のロリ巨乳がいると知れただけ良かったと言えるんじゃないのか?」

「……ほう?何故じゃ?」

「僕のモチベーションが頗る上がる」

「死ね」

 

 端的な罵倒。

 そして蹴り踏まれた。

 某の上半身は床と協力して45度を作る。

 上から数えて三番目の肋骨の下あたりを忍の右足の親指でグリグリされた。

 ギコギコと音は鳴らなかった。

 

「お前様がロリと巨乳が合わさって最強に見えると非常に興奮していることは誰よりも分かっておる。それこそ言葉にせんでも良いくらいにな」

「やめろよ、恥ずかしい」

「恥ずかしいのは儂じゃ。この際言っておくが、お前様のロリに対する情熱は、お前様が高校生だったからこそ許されていたところがあるんじゃからな。大学生になった今、ただの犯罪者予備軍にしか思えんわ。ついでに言えばこれからについても嗚呼、心配じゃ。貧相ロリとの商談があと少し遅れておったら危うく儂らは野宿するところじゃったんだぞ」

 

 念のため、平賀さん=貧相ロリ、らしい。

 僕からすれば正にどんぐりの背比べである。

 しかし、忍の言うことは否定しようがないくらいに事実だ。ホイホイと平賀さんについて行き彼女の工房でさらに数十分会話を重ねたが、いつのまにか彼女の都合に合わせて話がまとまっていた。

 アンパンマンについて話し始めた筈が、いつの間にかしまじろうについて話し終えていた気分だ。

 例えにしては意味が分からないしそれはただ単に時間が経って番組が変わっただけに思えるかもしれないが、その通り、僕の感覚として、彼女との会話は訳がわからないまま時間が過ぎた感じだった。

『なのだ!』という彼女の口癖は彼女にとって会話の整理を行うための栞のようなものなのではないか、と邪推したくなるくらいには見事な会話運びなのだった。

 

 なのだ!

 

 けれど僕だって、忍の言葉の最後から分かるように、平賀さんにただ敗北しただけじゃない。

 七転び八起き、一つの情報をつかんだのだ。

 それは今僕が忍に肋骨を動かされている場所。

 それは都会の冷たい石畳の上なんかじゃない。

 床暖房に防弾加工が施された武偵高自慢の施設、男子寮の一室。そのフローリングの上なのだ。

 僕はこの世界の僕が住んでいたという部屋にたどり着くことができていたのだ。

 起きたのに寝る為の場所を探し当てたとはなんとも皮肉的で吉凶的な何かを感じるが、マストな情報なのは確か。こうして僕が少女に言い負けることに命燃やす系お兄さんなだけではないことを証明したのだ。

 

「けどお前様は側にこうして幼女に踏まれつつ別の幼女にこき使われとる訳じゃろう?どう言い繕ってもロリ奴隷がいいところじゃ」

「言葉通りに捉えたらそれはお前を指す言葉だけどな」

 

 そうなると僕はロリマスターなわけだけどそれはそれで、いや、どれもこれも嫌だった。

 忍の柔足を掴んで引っ張るようにして、彼女を僕の膝に乗っける。ご機嫌をとるように忠誠を示し(頭を撫で)ながら僕は一つ、提案をした。

 

「よし、過去の話はもうよそう。予想がつかない未来を僕達は考えるべきだ」

「明日のミスタードーナツの開店は昼前じゃ」

「いかないよ?この事態でのうのうと菓子食って美味いなんて言える訳ないだろうが」

 

 そもそも金がない。

 現在使えるお金は平賀さんから貰った千円だけだ。

 これじゃあロリ奴隷どころかロリ寄生だよ。

 

「いや、ここはお前様の部屋なんじゃからその辺に通帳なりなんなりあるはずじゃろう。携帯のパスワードがお前様と同じだったのじゃ。引き下ろしにさして手間取るまい」

「よくやった、忍!」

「まあ、単位がギリギリなお前様の通帳に大した金額は期待できないじゃろ」

「やめろ。この世界の僕だって頑張ってるに決まってるだろうが。十七歳の僕は正義感だけで生きていたような男だぞ。例え成績は酷くても依頼は狂ったようにこなしているはずだ」

 

 脳内に浮かんでは消える、平賀さんの僕に対する評価を必死に振り払っての言葉だった。

 依頼の報酬に対する税金は学生の内は免除されるらしい。そして掲示板を見たところ、猫探しにですら五千円近くの懸賞がかけられていた。

 つまりこの世界の僕が余程金遣いが荒くない限り明日の夜ご飯が忍の血液なんてなことにはならないはず。

 僕は僕を信じるぞ!

 

「おっ、お前様。通帳と貯金箱発見したぞ」

「中身はどうだ?」

 

 いつのまにか膝を降りた忍が目当てのものを見つけたようだ。貯金箱の音を立てないようにそろりそろりと忍び寄ってくる。

 無意識に僕の喉が鳴った。

 

「うむ!貯金は23円じゃ」

「……」

「貯金箱の方は音すらしないな!」

「……」

 

 失望や絶望、呆れといったあらゆるネガティブな言葉を用いようとも僕の心境は測れるまい。

 月初で全財産が1023円、しかもそれで一人暮らしをする学生なんて聞いたことない。イジメやカツアゲを疑うレベルだ。

 単純計算で平賀さんから月三万円支給されているというのに、なんでこんな生活に陥るんだ……。

 

「……待てよ?もしかして、この世界の阿良々木暦が依頼で無茶な役回りをさせられたのって、金欲しさに無理矢理繋がりのないチームに参加したからじゃないのか?」

「よくある話じゃがその線は薄いじゃろ。昨日今日で金が必要になるような状況じゃなかったことは、こやつのメールで分かっておる。きっと単位欲しさじゃろ」

「いや、目的が金が単位かはどうでもいいんだけどな」

 

 ようは何か切羽詰まった状況だったのではないかということだ。追い詰められて、どうでもよくなって、ヤケになって……。

 まさか自殺したなんて過大評価を送るつもりは毛頭はないが、僕の死に誰かの陰謀が絡んでいるなら、明日学校に姿を見せるのはまずいのではないのか、そう思ったのだ。

 

「……ふむ。金欲しさじゃないことはこやつの財布に十万近く入っていたことからも分かるんじゃが、これもどうでもいいことなのかの?」

「は?財布?」

「学生証と一緒にしまってあった。ゴールデンリングを買おうと思ったのじゃが、この調子ではそもそもミスタードーナツに行ってくれなさそうだしの」

「忍、お前ったやつは……!揉むぞ?!」

「どこをじゃ?」

「おっぱい」

「ド直球か」

 

 呆れたように財布をテーブルに置いた忍。

 どうやらお金の問題はなんとか解決したようだった。

 通帳を見て分かったことだが、この世界の僕は振込だけのために銀行を利用していたようだ。預金額が定期的に大きい金額が入っては直ぐに小銭数枚程度の金額に変わっていた。

 貯金箱の方は大きく『伍拾萬』と書かれていてなおかつ目立たないように小さく穴が空いていることから三日坊主の類だと判断する。意志薄弱極まりない。

 

「あー、疲れた」

 

 金の無心する必要がなくなったことは僕に意外にも大きな安心感をもたらしたようで、近くにソファがあるにも関わらず僕は大の字に倒れ伏す。

 力が抜けた。

 

「あとは阿良々木暦の所属学科と武偵ランクと普段の生活と舞台に必要な知識がわかれば問題ないんだけどな」

「その大半が貧相ロリから得られていたと思うと涙がちょちょぎれるわ」

 

 申し訳ない。

 申し開きもない。

 

「……忍。当たり前だけど僕達、元の世界に戻れるんだろうな?」

「心配するでない。お前様が学校生活をエンジョイする傍らにエネルギーの高い場所を見つければ戻ることは容易じゃ」

「ならいいんだけど……」

 

 この世界の阿良々木暦に成り代わりつつある身としては、どんな風にこの世を去ったものかとも思うのだ。

 本当なら電話も何も無視して忍の言ったようにエネルギーの高い場所を探せば良かっただけの話が、いつのまにか大きな話になってしまった。

 いつだってどうでもいい話を大きく取り上げてきた僕ではあるが、今回は元々が大きな騒動なだけあって収束する未来がまるで見えない。

 月日ちゃんなら「うがー!」と喚いているところだ。

 もうなんというか、もう考えるのも億劫だ。

 なるようになれと思ってここまできたけれど、やはりここからもなるようになれで進んでいきそうだ。

 

 この現状に対する楽観的な考えは余りにも自分らしくないとは分かっていても止められない。

 なるように流されていく。

 最早河口は近く、事は海のように壮大だ。

 

「……まぁいっか」

「お前さ──!!」

 

 再び僕の膝に腰を下ろしかけていた忍。

 肩を震わせたと思ったら影に潜っていった。

 トイレか?

 そんなわけがない。

 この慌てようは見覚えがある。

 

 光。

 水。

 湿気。

 包丁。

 汗。

 自宅。

 小さい方の妹。

 僕と忍。

 

 そうだ、忍も風呂に浸かっている最中に月火ちゃんが入ってきたときの慌てようと同じだ。

 

 ……つまり。これは。

 

「お、阿良々木。もう帰ってきていたのか」

 

 呑気にそう言って部屋に入ってきたのは、目元が隠れそうなくらいに髪を伸ばした男。

 寮の共同生活の相手。

 

 なるほど今日という日はまだ続くようだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

009-B

『夢を見た』なんてフレーズが小説のありふれた始まり方としてあるのだから、今も昔も夢というものは人々に『始まり』を連想させるものなのだと思う。『いやいや、予知夢や夢占いという言葉があるように、寧ろ夢が過去のものであるという意識が根付いているんだよ!』と鋭いツッコミを入れる人もいるかもしれないが、まあ、それならそれで良い。

 だって僕が言いたいのは、僕にとって『夢ほど終わりを連想させるものはなかった。ということなのだから。

 

 泣きたくなるほどに終焉で切ないほどに終演。

 

 そんな演目が夢なのだと、少数派を進んで好むことがなくなった今でも感じている。

 夢を見て始まろうが、夢が叶おうが夢に敵わなかろうが結局は夢に終わる。

 人の夢と書いて儚いと読むそうだが、僕からしたらなんとまあ見当違いもいいところだ。

 夢ほど捉えようがなくて、夢ほど囚われるものはない。

 夢は、人を捕える。

 人でなくても捕らえる。

 

 どこまでも身勝手で自由気ままで()らわれない。

 そんな人の終点。

 

 ああ、そう。告白しよう。 僕は夢を見ていた。

 

 それは確か夏のようで冬のような季節だった気がする。

 受験生だった僕は家のようで学校のような場所で寝転がっていた。だらけていたわけでもなく眠いわけでもないのに寝転がっていたのだ。正確には寝転がらされていた。

 

『あら、阿良々木くん。随分愚鈍な目覚めを披露してくれるじゃない』

 

 第一声。

 夢の中ですら、そんなセリフを吐くのが実に彼女らしいのだが、その時の僕にはそんなことに頭を使う余裕がなく、なぜ名前呼びじゃないのかなんて考えていた。

 その方がよっぽどどうでもいいというのに。

 そんなことに気付きもせず。

 

 ふわふわとした感覚。定期的に混じる第三者の視界。

 如実に夢だと教えてくれる現象が現れているにも関わらずそれが夢だと自覚できないのは夢の中だと知ってはいけないだけの理由があるのかないか……。

 

『阿良々木くん。貴方には扇ちゃんという後輩がいるそうね。……だけれどその子、私には見えないのよ』

 

 目の前にいるような背後にいるような、真下にいるような。霧のように曖昧に存在する彼女は冷淡とも取れる口調で熱烈に語る。

 淡々と、爛々と。

 彼女が話す内容はしっちゃかめっちゃかで繋がりなどあってないようなものだった。まるで思いついた言葉をそのまま吐いているような印象。

 

 思いつく。

 

 それは多分、僕が思っていた。

 僕が考えて、彼女に言わせて。

 

(口を濁す……)

 

 なんとなく頭に浮かんだ言葉、離れなくなる。

 濁す、茶色?モザイク。

 目の前にいるような気がする彼女の口元が僕の想像した通りに曖昧に歪んで霞んで濁った。

 

 そうして僕をえも言われぬ全能感が満たした。

 

 夢を見た。

 

 

 だからこそ、起きた。

 

 その日は、意外と、いい寝起きだった。

 

 

 

「す、すまん……久しぶりに帰ってきたばかりなのに迷惑かけるな……」

「ああ、うん……」

 

 久しぶりに帰ったのは僕かそれとも目の前で病床つく男か。明らかに辛そうな表情で、それでも僕を気遣う病人から目を背ける。なんかもう、色々と申し訳なさでいっぱいだ。

 

『タイミングが悪い奴よのう……』

 

 タイミングが悪いのは僕かそれとも目の前で病床につく男か。

 

 うーん。

 多分どちらも僕だろう。

 

『遠山金次』

 聞き出した彼の名前。

 昨晩、遠山はとんでもなく憔悴した様子で帰宅した。突然の登場にどうしたもんかと焦ったが、遠山は一目もくれず風呂にも入らず、着替えるだけ着替えて泥のように眠り始めてしまった。

 泥というか、トロトロに溶けていた。

 

 僕に対するあまりの無関心さにこの世界の僕と遠山の不仲を疑ってもみたけど、とくに何か言うわけでもなく彼に習うように寝た、次の朝。

 

 遠山は三十八度後半の熱を出していた。

 これじゃあトロトロじゃなくてトロ火だよ!なんて冗談が言えないくらい遠山は衰弱していた。

 話す気力もなかったというのも頷けるというものだ。

 病人が怠くて何もする気が起きないのはなんの不思議もない摂理なのだから。

 むしろ、超実践的空手の名を被ったナニカをつい先日修めてしまった彼女のように、高熱を出しても元気百倍な方が逆に心配になる。

  主に人間かどうかが。

 

 ゼエゼエと息を吐く遠山を傍目にどうしたものかと目を瞑る。

 インフルエンザのような流行り病にしては(いささ)か季節外れ過ぎるし、かといってなにかしらの予兆が長期にわたっての発症かと言われたらそうでもなさそうだ。

 なら、考えられる原因は持病からくるものなのか風邪の類かのどちらかなのだが、各々によって対応は変わるためそれとなく聞いてみることにした。

 

「ああ……アリアと白雪のケンカに巻き込まれて海に落ちた」

「……ケンカ?海……?え?」

 

 グッタリげっそりとした顔。

 焦点の合っていない目。

 

 色々言いたかったけど黙々と冷蔵庫にあった冷却シートを貼り付け氷枕を彼の頭の下に敷いた。これが初期刃牙にいそうな設定の妹だったならせいぜい体を拭くくらいで済ませるところだが、あいにく誰とも知らぬような隣人を雑に見舞うことは僕の常識が許さなかった。

 一通りの看病済ませ、リビングに避難する。

 

「……よし」

 

 そして遠山が寝室から出てくる気配がないことを確認。

 用心して用心しすぎることはない、それは去年得た教訓の一つだった。

 

「カモン忍」

 

 呼ばれることは薄々予感していたのか大したラグも生じることなく目をこすりつつも影から出て来た忍はよいしょ、と僕の膝に小さなお尻を乗っけた。

 彼女の尾骶骨(びていこつ)が僕の太もも越しに大腿骨と共鳴した(詩的表現)。

 

「……お早うお前様。儂の場合、遅いようと嘆きたい気分じゃがそれを我慢して他のことを言わせてもらうなら、起き抜け早々儂の尾骶骨に悪寒を感じることなのじゃが……」

 

 忍もぞもぞと小ぶりの桃尻を動かす。太腿に擦れるコリコリとした感触が僕を更なるステージに誘うのはそう遠くない未来なのだと確信させられた。

 くにくにというかムニュムニュというか、くむくむ。

 ふむ、ここには包丁を持つ妹も千枚通しを作る妹もいない。ならばこれはもう──行けるところまで行っちゃっていいんじゃないのか?

 かのルーズベルトも『心ゆくままに生きろ』と言っていたのだ。今の僕に非難も批判もする人はいない!

 世界は肯定している!

 

「儂が否定するわ、このバカチンが」

「バチカン?いつから忍は聖職者になったんだよ」

「吸血鬼にも聖職者にも迫害されるような冗句をいうでないわ」

「いいんだよ、どうせ非難されるのだから……」

「アンニュイな顔して分かりにくいルーズベルトネタを続けるでない、誰に伝わるんじゃ。伝わなさの度合いで言ったら、儂がナポレオンのナポリタンを食った時の反応をモノマネするようなものじゃろ」

「なにそれ見たい」

 

 勿論、ナポリタンとナポレオンは全く関係ない。

 そもそもナポレオンはナポリタンを食べたことはない。

 僕は阿呆な発言をした忍に思わずため息をついて、彼女の尾骶骨を触って改めて挨拶した。

 挨拶に始まり挨拶に終わる一日を心がける、極めて紳士的な心遣いからの行動。

 

「おはよう。忍が健康的に生きているようで嬉しいよ。あと悪いけど、しばらくは昼夜逆転の生活を頼むことになると思う……とそれよりも、今の話聞いていたよな」

「いや、触る必要あった?なあ、触る必要あった?」

「え?聞いてなかった?……しょうがないなあ、遠山の発言に出てきた『アリア』と『シラユキ』についてだよ」

「ねえねえ?なんで触ったの?」

「……だから」

「──ねえ?」

「しつけえよ!話が進まねえだろうが!」

 

 我ながら失礼を棚に上げての言葉だった。八つ当たりよりもタチの悪い、こうなってくるとただの逆ギレだ。

 その後、「──ほう?」という忍の返しから始まる舌戦の末、最終的に僕が平々に頭を下げて許しを乞い『一尾骶骨一肋骨の誓い』を立てて話は進むことに相成る。

 業の深いツーマンセルはコアラ抱っこの状態で第一真肋と尾骶骨を触り合う。

 

「「……えへへ」」

 

 お互い、マジ照れ。

 気持ちの悪い、もういっそ気色の悪い、もう一歩踏み込んで気味の悪いと言われても仕方のない絵面だった。

 こりこり。

 

「……して、それがどうしたのじゃ。そやつらがあやつの知り合い以上に何かあるというのか?」

「疑心暗鬼で過敏になり過ぎだって言われるかもしれないけど、何か引っかかるんだよな。例えば遠山は俺に向かってあたかも知り合いのように『アリア』と『シラユキ』の名を告げてきただろ?」

「それはあやつらがこの世界のお前様と──」

 

 知り合い、ではない。

 その可能性は極めて低い。

 

「それはないと思う。だってこの世界の僕の携帯に『アリア』と『シラユキ』の連絡先は無かったからな。──ということは、だ。その二人の名前は平賀さんの顧客でもく僕と個人的にメールアドレスを交換するような間柄じゃないにも関わらず、あたかも僕が知っているのが当たり前のように話されたんだ。つまりそれは『アリア』と『シラユキ』がこの学校において周知されてしかるべき有名人ということじゃないのか?」

「それがなんの問題があるのじゃ」

「いやいや、この学校で有名になるなんて余程武偵として名を馳せているか悪名高いか人として人気かの三択じゃないか。こそこそ動きたい僕等が関わるべきじゃない」

 

 それに、もう一つちょっとした懸念があるしな。

 

「……ふむ、もしお前様のその推測が正しかったとしても、お前様とそやつらに繋がりはないのじゃから問題はないはずじゃろう?」

「……遠山は『巻き込まれた』らしいから多分『アリア』と『シラユキ』はケンカをするような仲だ。しかも口ぶりからして遠山の前で、常習的に。なら、ルームメイトの僕の前でそれが行われる可能性は大だ」

「痴情のもつれか?」

「あってほしくない可能性の一つだけど、かといって否定するほど低い可能性でもない。実際のところはわからないけど、この部屋で銃やら剣やら暴力満載のケンカなんてされてみろ。僕の目の前でケンカされるくらいならいい、まず間違いなく巻き込まれるぞ」

「めんどくさいのぅ」

「同意するぜ。……だからこそ、この世界の僕もこの部屋を留守にすることが多かったんじゃないのか、なんて邪推するくらいにな」

 

『アリア』と『シラユキ』の性別が男だという意外なオチがあるかもしれないからなんとも言えないが。

 ……いや、それはないか。

 部屋に置かれた、男子寮の部屋にしては可愛すぎる食器や小物や数種類の香水。極めつきにはピンクのスーツケースなんてものが置かれていては誤解しようがない。意識すれば男子部屋らしかぬ甘い匂いが薄く漂っているしこれはもう、確定だ。

 

 しかし、『アリア』と『シラユキ』の性別がなんであれ、同室でワイワイと仲良く三人で話している状況で僕が居辛さを感じないのかと言われたら、それはない。

 世にも珍妙な笑顔でコンビニ行ってくる、と部屋を後にする場面が容易に想像できる。

 気遣いができるわけじゃなく、気後れして。

 友達を増やすのも、友達同士を見るのも。

 

 今となっては羽川の尽力によって無事、なんの抵抗もなく友達を作れる体になっているけど、かつては例によって例のごとく例に漏れず例の理由から友達作りに過剰な拒絶反応を示していたのはいうまでもないことだ。

 ここでの僕がどういう行動理由を伴ってどんな交友関係を築いていたかは完全なブラックボックス(わからない上に触りたくないという二重の意味で)だけど、それでもこうして自分の住む部屋を見る限りそれはロクでもないものだろう。最大の身内贔屓を以ってしても、断言できる。

 

 空の貯金箱、無造作に置かれた預金通帳、保険証。

 

 以上が阿良々木暦と遠山金次の部屋における阿良々木暦の私物である。

『アリア』と『シラユキ』の私物よりも少ない。

 異常、とまではいかないにしろ少なすぎる。ベコベコのカバンを背負った中学生だってまだ部屋に私物を置いてるよ。

 けど、羽川の家庭事情を知って居る身としては本当に、本当に情けない限りだが、僕にはそんな阿良々木暦の断捨離精神が理解できてしまう。

 行動理由は分からなくても、行動原理は理解できてしまう。

 

 ──要は、私物少ない俺カッコいい!だ。

 

 アホらしい、馬鹿らしい、男子寮なのに何を格好つけているのだと散々に言われてしまいそうだけどなんてことはない。それが事実であり、本心である。

 

 そもそも高校二年生の行動原理がまさか高尚な啓蒙書や啓発書にあるはずがない。好んで受け入れるのなんて大体がテレビや雑誌などメディア発信のもので、そう。基本ミーハーなのだ。我ながら情けないことだけど、そのくせ多数派なモノを少数派だと勘違いして取り入れるなんてこともザラだった。

 だけど僕には東京でカバンを持たないことで都会民アピールをするような、そんな自意識過剰かつ浅ましい行動が理解できてしまう。

 

 一度通った道であるし痛い目見た勘違いでもあるから。

 

 無為無食に過ごして遊生夢死になり、最後には走尸行肉になることを良しとする。そんな正義もへったくれもないことを人間の悲願であり人生の本質だと本気で考えていた過去の自分。

 いかに志や理念をこねくり回して自信として設定したとしても学生としてあるべき姿をなしていない時点で人として落第的なのは明白で。

 そう、努力が足りていなかった。

 圧倒的な努力が必要だった。

 

 クラスに馴染む。

 数学以外の教科も勉強する。

 先生を困らせないようにする。

 学校をサボらない。

 学校という構造を、その組織に在籍する意義理由を想像すらせずソレを起こすことが媚諂う優等生であることだと断定して反抗する。

 学生として最低限の努力を怠り最底辺だった僕。

 言い訳のように『正義の活動』に励んでいた。

 

 私物の有無と一見関係なさそうな僕の過去(実際この僕は私物がすこぶる多い)だけど、どちらの僕にも根底にあるのは同じことだし、それは簡単には逃げ出せない人間の欲望である……。

 なんかかっこよく言い過ぎた気がするから言い直すと、ワガママ、ダダ、カンシャクだ。

 全くもって食えない話。

 他人の色恋沙汰よりも食いたくない話だ。

 痛くはあるけど……。

 

 しかし、あんまり過去の自分を卑下することでまた、扇ちゃんのような第二の自分が現れてしまうことを防ぐために不承不承にフォローをいれるなら。

 それは決して今の僕の感性が正しいわけじゃないことだろうか。

 なぜなら『中二病を嫌うのが高二病で、高二病を嫌うのが大二病』なんて言われるくらいに自分の感性はぐるぐると繰り返すものだ。

 

 流行と同じく。

 それこそモードのように。

 

 高校二年生という時代があったからこそ今の僕があるのは否定しようのない事実だし、あの時代の僕だったから忍を助けることができたのもまた事実。無い無い尽くしの僕が戦場ヶ原ひたぎをはじめとする少女達に出会い、仲良くなれたのも、広義的に捉えればかつての僕のおかげとも言えるだろう。

 いや、それは流石に針小棒大か。

 

 過去のおかげで今がある。

 ──こんなありきたりな話を前にもした気がする。だからぶっちゃけてしまうと、今、僕はビクビクしながら生きている。

 今この言動は未来の自分が嫌うのではと恐れていて。

 今この思考が過去と同じになることを恐れている。

 

「いやいや、過去の恥を恥と思うほど非生産的なことはないんだよ。阿良々木くん」

 忍野なら飄々と笑うかもしれないが、未来の僕にそこまでの思考は期待できそうにない。何処かの誰かに過去の恥は恥だと講釈たれてくれること請け合いだ。

 それはもう──

 過去の僕のように。

 現在の僕のように。

 

 現在に囚われる身でありつつ未来と過去に縛られるなど滑稽極まりない。どうやら過去に過ちを繰り返した結果僕はなんとも不自由な人間になってしまったようだった。

 それを人間らしくなった、とは過ぎた一言か。

 だけどまあ、そんな感じ。

 

 やりきれない感じ。

 

 馬鹿と勘違いは死ぬまで治らないが、こういうモノをみせつけられてしまうと本当になんというか……。

 ゴールデンウィークで、羽川のことを格好良いなどと勘違いすることがなくて本当に良かった。

 ただ、ひたすらに安堵する。

 

 ……うん。

 

 私物三つから話がだいぶ飛んでしまったが『アリア』と『シラユキ』に関する推測は大体合っているはず。未だ部屋に眠る羽川の下が上下セットを賭けてもいい。嘘、やっぱ無理。代わりに月火ちゃんの無駄に多いパンツを賭ける。

 武偵高における有名人が何を意味するか分からないけど、例えば直江津高校の神原駿河に対する印象をバレーボール選手だと答えたら、奇異の視線は避けられない(忌避の視線になるかもしれない)。

 だからこそ、有名人と会うのは厄介だ。

 具体的にはまず、上記の通り、他人との会話で名前が上がること自体面倒くさい。

 加えて本人と対話をする事態に陥った時に、実際に会っての印象と噂の印象との差異を抑えた対応をしなければならないことが更に面倒くさい。

 

 その二人が例え、どんな実力者や優良枠であっても百害あって一利なしなことは明白。

 ただでさえ探偵の卵の巣窟なのだ。

 虎穴に入らずんば虎子を得ずとは言うけれど僕たちは虎子は必要としないし、虎の尾を踏んでは敵わない。というか、僕は虎の子(しのぶ)をひた隠する立場だということを念頭に置いておかなければならない。

 

「……登校まであと何分だっけ?遠山の欠席連絡とか必要だよな?それとも今日は特別日程らしいから欠席連絡不要だったりとかってあるのか?」

「登校までは後四十分あまりといったところじゃ。連絡はあやつに聞くしかないじゃろ」

「遠山か」

 

 時折寝室から聞こえてくる咳がなんとも哀愁を誘う。

 多分いいやつなんだろうけど、いいやつだからこそ僕は苦手としていたんだろうなあ。

 テーブルに置かれていた茶菓子の包装を解いては口に入れるを繰り返している忍。綺麗に並べられた正方形の菓子包が8を超えたあたりで彼女はピタッと手を止めた。

 

「……来るぞ」

「なにが?」

 

 渡された忍の苦手な味の最中を口に入れる。朝食うには甘すぎる餡がたまらなく歯の裏をくすぐる。

 なんでもない一言だけど、静かに呟かれるとなんだかとても物騒に聞こえるな。なんて僕が考えていると。

 部屋の中に来客を知らせるチャイムが鳴った。

 来る、とは来客のことだったのか。

 

 遠山の客……多分アリア、もしくはシラユキだろう。話の流れ的に。

 そんな運命を信じるロマンチスト、阿良々木暦は備え付けのインターホンに「誰でしょう?」と声を吹き込んだ。気分は舞踏会の王子様だ。

 

「……あんたこそ誰よ?」

 

 ゼロケルビンの返答。

 けれど、その声はとても愛くるしいものだ。例えるならそう、アニメだったら釘宮理恵あたりが声を当てていそうな感じ。

 美しさは正義の証!

 

「来客が住民の名前を尋ねるってどういうことだよ……。第一声で僕をなじった小学生でも名乗りだけは立派にできていたぞ」

「う、うるさいわね!あんたは部屋の住民じゃないでしょ!いい加減鍵開けないと、風穴空けるわよ!」

「もしもそれを行為に移したなら、僕は可及的速やかに然るべきところに電話をかけるからな」

「ぐっ……」

 

 可愛らしく唸りあげるアニメ声の主。おそらくその顔は可愛くないことになってるだろう。……名前を聞きたいだけなのに、この調子だと彼女を部屋に入れたら僕は殺されちゃうのではないか。

 なんというか、怒りの発端が行方不明な相手には慣れているが怒りの沸点が低い相手は初めてだからいまいち勝手が分からないな。

 勝手なのはむこうなのだけど。

 

 こちらも唸りたい気分だと考えているといつのまにか唸り声が途絶えている。と思ったらまるで地面が砕けたかのような音が響き渡り、更にしばらくして沈黙が空間を上塗りした。

 そして沈黙に浸ること十秒余。

 自分でもなにを待っているのかよく分からなくなって来た頃。

 

「……アリアよ。神崎・H・アリアよ。強襲科2年Sランクの双剣双銃(カドラ)のアリアよ!」

 

 根をあげたのか、埒があかないと踏んだのか。

 甲高い声で彼女が名乗り上げた。

 ここでのポイントは甲高くはあってもつんざくような声じゃないところ。この状態なら月火ちゃんのプラチナ怒判定によるとまだ爆発まで猶予があるらしい。どうでもよいが、当の月火ちゃんの場合、甲高いもつんざくも金切りも通り越して0の次は実行になるため判定が不能なのがなんとも不毛な話だった。

 それにしてもSランク……。

 確か一学校の一学年に一人いれば良いどころか、全国の学校に一人いるかいないかの超優秀な武偵だったっけ。

 つまり頭の良さに換えれば羽川の2ランク下くらい。

 

 ……それは凄い!

 

「神崎……H……ふむ。H(エッチ)な娘じゃな!」

「何言っちゃってんの?」

「なんですって?!やっぱあんた部屋に入ったら風穴よ!私の大切な名前を馬鹿にしてもう許さないんだから!」

 

 にゅっと現れた忍の親父ギャグ以下の一言のせいで、火に油どころかニトロに着火くらいの怒りを不当に浴びせられてしまった。どうすんだよ、これ。甲高いがつんざくになっちゃったじゃん。顔を突き合わせて10秒で印象が決まるはずが、突き合わせる前10秒から印象が地の底まで落ちちゃってんじゃん。

 誤魔化すように遠山に確認を取るといって思わずインターホンから離れた。

 

「やはり女じゃったの」

「やはり、じゃねえよ……僕に恨みでもあんのか!」

「あるに決まっとるじゃろう」

 

 それもそうだ。

 なんだかんだ仲良くしてても春休みの件は未だ和解していない。

 ……油断してれば寝首をかくと宣言されていたとはいえ、まさかのかられ方をされたな。一本取られたぜ。

 さすが、熱血にして冷血、冷血にして鉄血な吸血鬼だっただけある。

 腐っても鬼なのだ。

 やはり人とは相容れない化け物か。

 少し寂しいけど仕方のないことなのか……。

 

「ぱないくらい腹が減ったのじゃ。早くミスドに連れて行けい」

「お前さ。昨日僕に安易なキャラ付けはするなって言ってたけどさ。そろそろ自分が最も安易なキャラ付けに走っていることを自覚したほうがいいぞ。デビューしたての地下アイドルかよ」

「……カカッ」

 

 片方の口角を上げ不機嫌そうに笑うと忍は再び影に落ちていった……。

 いや、なにニヒル気取ってんだよ。

 おまえなんか熱血でも冷血でも鉄血でもねえよ。

 微温湯だよ、適温設定だよ。

 

 そんなこんなでインターホンへと戻る。

 勿論遠山に確認は取っていない。忍と遊んだだけだ。

 遠山に知らせるまでもなく彼女が『アリア』だというのならそれはもう彼の知り合いには違いないし、それにああ言ったのは、ただなんとなく覚悟を決める時間が欲しかっただけだったから。

 つまり、今の僕は覚悟完了、というわけだ。

 嫌に静かな玄関先に向かってすぐに鍵を開ける旨を伝えると共に軽く謝り、玄関へ向かう。

 不思議なことに玄関が内向きに歪んでいたが、そこに触れる勇気を持たない僕は迫真のスルーをかまして恐る恐る鍵を開けた。

 そのままドアも恐る恐る開けたいところだったが残念、外側からのモーメントに負けてしまい、高い加速度を保ったままドアは開けられてしまった。

 

「遅い!インターホンを押す前に鍵を開けなさい!」

「ならインターホンを押す前に来たことを教えてくれ」

 

 教えてくれても開けなかっただろうけど。

 突き刺すような口調が僕に向けられる。

 それは凡そ初対面の相手にかけるべきでないトゲトゲしいものだったが、彼女が武偵で有ることを考慮したら本当に突き刺されなかっただけマシというものか。

 目の前には声に違わず可愛らしい立ち姿の女子があった。

 

「……神崎・H・アリア、さん。で良いんだよな?」

「ええ。同学年っぽいし『さん』はいらないわ」

「なんで同学年だと思うんだ?この寮は学年関係なく適当に埋められているらしいが」

「勘よ」

 

 燃え上がるような赤髪のツインテール。おでこは少し額を開けるように癖のついた前髪が隠している。少し高い鼻にきめ細かい肌、ハーフやクォーターのいいとこ取りのような顔立ちだ。目は口調や印象に沿うようなツリ目、体型は150もないような低身長に違わず寸胴ボディ。

 それはもう、見事な少女だった。あえて小女と評価したいくらいだ。

 こうも可愛い少女然とした武偵ばかりと面識を持つと、武偵高がアイドル育成高校で、武偵とはアイドルを指す因果なのではないのかと勘違いしそうだ。斧乃木ちゃんあたりなら喜んで入学しそうだ。

 

 小さく可愛らしい子供のような少女。

 

 しかし、目の前の小女にそれを伝えようものなら、胸元から少し見える余りにも無意味なブラの紐が雄弁してくれているように、僕の死は免れないだろう。

 大人ぶりたい、とは違う。

 必死さを感じた。

 

「良い勘だな。ホームズにでもなれそうだ」

 

 武偵生が探偵の卵ということで、適当にジョーク混じりのおべっかでゴマをする。それは赤髪から赤、赤から緋色、緋色から『緋色の研究』とあまりにも杜撰な連想からの言葉だった。

 発言後すぐ、現実的な職業としての武偵を志す彼女達に創作物の探偵ジョークは煽りにしかならないのではと思い直した。しかしまあ、実在の探偵ジョークが言えるかと言われればそれは否定するしかないのだが。

 プライドと同時にプロ意識もたかそうな目の前の彼女のことだ。やべえ、撃たれる!と初対面にしてはこちらも中々失礼なことを考えていたのだけど、なぜか急に少女はそわそわし出す。

 

「ふ、ふうん!あんた、見る目があるじゃない!……それとも分かってて言ってるの?」

「……?」

 

 よく分からないが……これはいけるのではないだろうか。上手く行けばこの少女を懐柔できるかもしれないぞ。

 

 いつのまにか僕は『アリア』と『シラユキ』に関わらないと心に定めた目標も忘れ、野良猫をあやすような気持ちで彼女に接し始めていた。

 ホームズジョークは勝負の鍵!神崎だってこんなに殊勝になるのだ。

 そんなかすかな情報を頼りに言葉を選ぶ。

 気分はアマガミの会話モード。

 会話モードといえば、僕は一ヶ月間森島はるかへエッチな話題を振ることに生き甲斐を見出していた時期がある。結局、火憐ちゃんにゲームごと壊されてその習慣は幕を閉じたのだけど、思えば僕の年上好きはあそこから来ているのかもしれない。なんて。

 

「分かっているか?といったかね。『……凡庸な人間は自分の水準以上のものには理解をもたないが、才能ある人物はひと目で天才を見抜いてしまう』君から教えてもらったことだよ、ホームズ君」

「……ふふ。あんた面白いじゃない!台詞を空で言えるなんて、もしかしてひいおじ……相当のホームズのファンなのかしら?」

「お得意の勘で当ててみろよ、ホームズ君」

「馬鹿にしてるならぶっ殺すわよ」

「ええっ?!」

 

 ジェットコースターを彷彿させるテンションの急降下だった。

 モリアーティか?モリアーティネタだからダメなのか?

 それとも『推理』→『勘』の改変がいけなかったのだろうか。

 

 ともあれ、今ので僕の中に眠るホームズ名言集はほぼほぼ底をついたと言っても良い。

 基本的に一文が長い洋物推理小説を相当文暗記するなんて土台無理な話だ。あと覚えているのはワトソンに対する横暴なセリフくらいだし、そんなセリフを並べたところで到底ホームズのように気難しいシャーロキアンの要求を満たせるとは思えない。

 つまりはお手上げ、会話失敗だ。

 

 目の前の少女が、他人からホームズ知識を聞くことに幸福を覚えるタイプのファンでないことを祈りつつ僕は扉に手を掛け家に入るよう告げた。

 神崎は玄関で靴脱ぐ程度には日本に慣れているようで、丁寧に靴を揃えて廊下を歩く。その堂々とした立ち振る舞いはまるで自室に帰ってきたかのようだ。

 実際自室のように扱っているんだろうけど。

 

「ただいまー」

「待て、それはおかしいだろう」

 

 そこまで自室なのか?

 実質じゃなくて実際に自室なのか?

 男子寮とは名ばかりの同棲生活を遠山と神崎は営んでいたのか?!

 

「なによ」

「……手を洗ったらテーブルに座れ」

「いやよ、そんな暇はないわ。あんたも武偵なら分かるでしょ。私はキンジと任務の計画を立てなければ行けないの」

「遠山は熱を出して寝てる。看病以外での入室は禁止だ」

「なら私が看病してあげるわ!」

「原因が神崎だったとしてもか?」

「はあ?何言って……まさか」

 

 神崎は遠山が遺言のように告げた『海に落ちた』事件を思い出したのか、目にも留まらぬ速さで寝室に走り出す。この調子だと寝室に入るなり大声で遠山に絡むことは間違いない。怒ったり笑ったり焦ったりと喜怒哀楽の変化がまるで子供のようだ。

 よくよく考えたら、特にこれといって神崎の暴走を止める理由も止めてあげる利益もないわけだが、この時の僕はまたなぜか変な常識──あるいは良識や善意といった何かしら──が働いてしまいつい無意識に呼んでしまった。

 

「忍!」

 

 瞬間神崎が転んだ。ワックスで輝くフローリングへ頭を打つ音が部屋に響いた。神崎からしたら突然足が詰まったように感じただろう。足がもつれて転んで。Sランクの威厳も何もない、紛れもなくそれは醜態だった。

 事故ではない、意図的に起きた事件だった。

 タネは簡単、吸血鬼の力で忍が神崎の脛を叩いただけだ。

 

「痛った〜〜〜〜!!」

 

 痛いのは叩かれた脛か床と挨拶したおでこか。

 当然どちらも痛むらしく神崎は両手で脛とおでこを交互にさすっていた。キャラ物の絆創膏をあげたい。

 

 結果的には寝室で叫ぶかリビングで叫ぶかの違いとなってしまったがそれでも遠山が出てくる気配はない、結果オーライだ。

 恥を晒した恥ずかしさからか、大人しくなった神崎は再度僕が告げた「席に着いてくれ」の言葉に大人しく従った。

 

「私は神崎・H・アリアと名乗ったわ。今度はあなたの名前を教えなさい」

 

 神崎はどこまでも不遜に僕の名前を聞く。

 聞くというより『要求する』や『答えを見る』といった表現の方が適切であることを隠そうとしないその意思の強さは、僕に初期のひたぎを想起させた。

 ひたぎが儚さ故の強さだとしたら、神崎は自信所以の強さ。それはどちらも凝固な意志で作られたもので、けれどどちらも少し小突けば壊れてしまいそうなほど繊細な脆弱さを内包している、諸刃の剣のような強かさだった。

 勿論、彼女が十七歳だということを考慮に入れるなら、それはとても健全な心持ちであるといえる。ただ神崎は武偵だ。銃を撃ち、ナイフを突き悪を取り締まる立場にある。僕はまだ武偵について何も知らないといってもいい立場だし、神崎の武偵としてのあり方も知らない。公私は分けることは当たり前であることからも一概には言えないことも重々承知しているが、それでも疑問に思ってしまう。

 学生武偵の存在は正しいのか、と。

 奥の部屋で寝ている病人が常日頃から銃を撃っていることにとてつもない違和感を感じているし、目の前の少女から甘い香りとは別に煙たい匂いが漂ってくることに嫌悪感さえ抱く。

 争いがほとんどない甘い世界から来たから。などというベールを取り払ったとしても僕には到底その悪感情を取り除けるようには思えなかった。

 

「阿良々木暦だ。所属、ランクは事情があって言えない。追求は勘弁してくれ」

「阿良々木暦……。なるほどね、あんたが阿良々木暦だったのね」

 

 意外にも得心いった様子のアリア。

 

「僕のことを知ってたのか?」

「そりゃあ知ってるわよ。まさかこの部屋に住んでるとは思わなかったけど。……まあ、あんたその人が有名なわけじゃなくてその様子じゃ自覚がないようだけど、あんたは平賀さんの顧客の選定と管理で有名なのよ。Sランクに最も近い装備科なんて言われる希代の大天才と名高い平賀文はイタリアのベレッタ・ベレッタ並に知名度があるし、かくいう私もここに留学してから真っ先に平賀さんに銃の改良を依頼したけれど『阿良々木くんを通して欲しいのだ!』って断られちゃったわ」

 

 向こうでは深遠な美少女の彼氏かつ大天才を堕落させた男かつカリスマバスケットボールプレイヤーに執心される先輩として有名だったけど、なんだかこの世界の僕も同じような目立ち方──つまり、周りが有名人であることで逆に目立っているということ──をしているようで趣深く感じるな。

 

「それに、殆ど授業を受けずに一人で依頼ばっかをこなしている協調性皆無の武偵崩れだとも噂で聞いたわ。所属科はどこだったかしら……ていうか、同じクラスのくせにもう一月近くもあっていないってあんた、とんだ不良じゃない!家にも帰ってなかったみたいだし、もしかして秘密任務でもやっていたの?」

「……。さあ、それは僕にも分からない。それよりも『ただいま』ってどういうことだよ」

「その辺のことキンジは話してないのね……。えっと、どこから話したものかしら。生徒会長の白雪は知っているわよね?SSR所属Aランク武偵の」

「あー、うん。知ってるよ。遠山と仲のいい──」

 

 我ながら適当なことを言っているものだ。

 もはやこれはバーナム効果に近い何かを感じるな。

 

「あんなの仲がいいなんて言わないわよ!泥棒猫がキンジに依存しているだけだわ!」

「……落ち着いてくれ」

 

 突然ボルテージが上がったな。

 これは本当に忍の言っていたことが瓢箪から駒、正しいのかもしれない。

 そういえば、ここの僕は神崎と面識がなかったようだけどそれならなぜこの部屋を空けることが多かったのだろうか。……まさか遠山といることに過剰な気まずさを感じていたとは考え辛いし(というかそこまで情けない自分を想像したくない)。

 

「そ、そうね。……それで、その白雪が今とある事情で標的者(ターゲット)になっちゃってて、私とキンジが彼女の護衛任務にあたってあるのよ」

「護衛?語弊の間違いじゃなくてか。『白雪』がAランク武偵なんじゃなかったっけ?ならなんで学年トップクラスに護衛をつける必要があるんだ」

「それ以上は守秘義務があるから言えないわ。ま、そんなわけでコヨミには申し訳ないのだけれどこの家を白雪の護衛の城にしているわ」

 

 淹れたインスタントコーヒーを飲み右手で特徴的なピンクのテールをかきあげる神崎。ふしぎと所々の所作が忍に似ているように感じるのはなぜだろうか。

 言いようのない違和感を感じながらも僕は更に疑問を投げかけた。

 

「『城』だっけ?……それにしても城に最も欠かせない城の主が見えないんだけど、もしかして任務は先日に終了していて神崎は後始末に荷物を取りに来たとかなのか?」

「昨晩は色々あって白雪も私も女子寮で過ごしたのよ。そして今日はアドシアードのリハ日じゃない。今は学校まで彼女を送ってきた帰りよ」

 

 アドシアード?

 なにかのイベントか?

 

「──なるほど、大体そっちの事情は分かった」

「そう?ならよかったわ。……次は私の番ね」

 

 獲物を見つけた小虎のようにニヤリと笑う神崎。彼女の目線が彼女自身の足首──さっき忍が掴んだ場所だ──だったので、僕の背中は冷や汗でびっしょりだ。神崎の勘が優れているのはさっき分かったがまさか、もう忍までたどり着いたとか言わないだろうな。もしもバレてしまったら『実はスタンドが〜』と留学生にも伝わりそうなジョークでごまかそう、そう思った矢先、救い主のように遠山が寝室からのっそりと顔を出した。

 

「……アリア、来てたのか」

「遅いわよ、キンジ!」

 

 いつもの癖か、神崎は振り向きざまに悪態を吐く。

 ただ口調に反して彼女の顔はそれはもう、いい笑顔なんだから僕は内心両手を上げるしかない。

 食えねえな。本当に忍の言った通りじゃないか。

 突如世界の気まぐれによって独り身になった僕にはあまりにも酷な光景だ。惨い、と言ってもいい。

 振り向いた彼女は遠山の容体の芳しくなさに顔を歪める。

 

「……と、普段のあたしなら言うでしょうけど、今のキンジは依頼者と関係を持とうとした業が祟って熱にうなされているようだし勘弁してあげるわ」

「……悪い、阿良々木。科目別準備が始まったら欄豹に欠席を伝えといてくれ」

「無視!?」

 

 そう言ったきり意識が朦朧としているのか頭に手を当てて遠山は部屋に戻っていった。

 無視された神崎は唇を噛み締め手に持つカップにヒビを入れている。

 ヒビから漏れる黒い液体。

 日々の鬱憤が溜まっての行動、というよりかは、ここ最近のストレスが響いた様子。もしかしたら遠山と喧嘩でもしているのかもしれない。

 そんな神崎と重ねてしまったのは障り猫を再発した時の彼女だった。共通項が性別くらいしかないように思える位正反対2人がダブついて見えたのはきっと、その原因が同じだからだろう。

 あの羽川ですら自己完結の叶わなかったことがまだ幼さの中からない神崎に解決できるとは思えない。神崎は今、現在進行形でやりきれないどうしようもなさだけが募っているはずで、それはいつ爆発してもおかしくないのだろう。

 

 じゃあ僕が去年同様、神崎に僕が手助けを押し付けるのかと言われたら、それはないだろう。

 何遍も繰り返すようだが僕はこの世界の有名人に関わりたくない。それは僕たちが目立ちたくないという理由だけでない。

 ちょっとした懸念──つまり、誰かと関わりを持つことで僕がこの世界に縛り付けられる可能性があるからだ。それは良く言えば、僕の存在に矛盾がなくなる可能性があるということ。

 

 名前を認知され、存在を認められ、関係を持つ。

 

 これらは元の世界へ帰還するために最も避けなければならないはず。『くらやみ』が現れようが現れまいがどちらにせよ僕等にとっていい話ではないというのはなんとも言いがたい話で、やはりそう考えると早急に元の世界へ戻る手立てを見つければならないと思考がぐるぐるしてしまう話でもあった。

 忍曰く、力が溜まりやすいめぼしい場所は『八九寺』の中にあるらしいがそれは果たして……。

 

 まあ、なんにせよ。去年のように無闇矢鱈に動いて物事を解決するような状況でもない。

 それに僕のことはともかく、神崎と遠山に関してはなんだかんだ遠山があの調子ならなんとかなってしまうだろうことも何となく分かってしまう。

 だから神崎や遠山にどうこう言うつもりも、どうこうするつもりもない。

 人は勝手に助かるだけとは言えども、助けを欲していない者に手を差し出すのはただの道化である。

 驕りを奢りと勘違いしては、いけない。

 だから──。

 

「なあ、神崎。キンジって強襲科だっけ?」

「一時的に転科してるのよ」

「ふうん」

 

 ──だから僕はただ、自分がやはり強襲科所属であったことに軽い目眩を覚えながら彼女に告げるのだった。

 

「ノーベリ」

 

 神崎の手助けをするつもりはない。

 しかしその一言は、神崎が自己解決するにあたって必要な一言だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

010-B

「誠意っちゅう名の何かがあってもいいと思うんや。ほら、度数で言うと40パー位の」

「あんた開口早々何言ってんですか」

 

 今回の話。

 こんな話。

 

 

 

【010-B】

 

 

『生徒呼出 2年B組襲撃科 阿良々木暦』

 

 

 

 

 

 神崎と別れ、素知らぬ顔して武偵高に登校すると、掲示板の前には大勢の生徒たちが詰めかけていた。

 見れば一昔前のドラマで見た覚えのある張り紙がる掲示板のど真ん中に張り出されている。言っちゃ悪いが日本最底辺偏差値にしてこんなに荒れた学校なのに、それでもなお職員室に呼び出される馬鹿がいるのか……なんて呆れかえる気持ちでいっぱいになる。

 

 なんか僕だった。

 二度見する。

 僕だった。

 

 ──いやいやいや。

 何を否定したいのか自分でも分からない。

 けれど何となくかぶりを振って近くの壁際に身を隠す。

 大学の授業用資料で見た『人間の動く理由に言葉を当てることは叶わないのだ』なんて戯言が頭をよぎったが残念ながら今の状況はそこまで学術的でない。

 ただ単に落ちこぼれた生徒として晒し者に名実ともになりたくなくて(名の方は既になっているが)、つい現状の否定及びハイドしただけだ。

 実に浅ましい行動だった。

 

 幸い張り紙からは3メートル離れていて、他の生徒に僕は見つかっていない。

 どうにかしてあの張り紙をどうにかしたいのだが、どうすればいいのか分からない。否、他の依頼の紙をビリビリ破り取っていく生徒に倣い、僕も生徒呼出の紙を剥がしに行けばいいのは分かる。

 ただ、単位に飢えた生徒たちを掻い潜り、目立つことなく張り紙を取ってこれるビジョンが浮かばない。

 

 堂々と行けばいい?

 いやいやいや。

 恥ずかしいから無理。

 際限ない焦燥感と羞恥心がふつふつと湧き上がっているせいか、春先にも関わらず自分の立つ場所がいやに乾ききっているように感じる。

 

 一体何をやらかしたら制服改造・髪染め・銃所持その他諸々常識的に考えて良い顔されないどころか法に触れるレベルの行動が往々にまかり通ってしまう学校で呼び出されるなんて食らうんだよ。

 仮に元の世界の僕みたいに素行不良だったにしたって、いくらなんでも要領が悪すぎだろ。

 

 ……もしかして犯罪でも犯したのか。

 法に触れたのは僕の方だったりするのだろうか。

 だとしたら、武偵法により3倍刑に処せられて帰るどころの話じゃなくなってしまうんだが。

 

 大体、目立ちたくないと言いつつ目立つ行動を起こすわけでもなく、ただヒソヒソと動きたい・動こうと努め続けているだけの男が、なぜこうも衆目の前に晒されなければならないのか。

 僕がなにをしたっていうんだよ。

 幼女になじられたり少女と会話したり少女の足を引っ掛けたりしただけじゃないか。

 ここまでお膳立てされてしまうとなんだか作為的なものを感じるまである。

 

 依然、唖然と遠くで僕を呼ぶ紙切れを見る僕だったが耳が周囲から的確に僕の名前と小さな笑い声を拾い上げたことで遂に肩を落とした。

 がっくりと。

 忌避されることも無視されることもそれなりに経験してきた僕だけど、嘲笑を共唱的に浴びせられることはなかなか経験してこなかったから普通に辛い。

 涙がちょちょぎれるそうだ。

 そんな感じで柄にもなく本気で泣きそうになっていると、近くからアッケラカンとした声がした。

 

「あはは!阿良々木くんが呼び出されてるのだー!」

「……平賀」

「ん?さん付けはもうやめたの?あれはあれで新鮮だったからまたやって欲しいのだ。ってそうじゃないのだ!阿良々木くん。なにしたのだ?」

「なにもしてない。ぼくも登校してきて吃驚仰天してるところだ」

 

 話しかけられたのをいい機会だと思い込み、僕は覚悟を決めて平賀から一旦離れて張り紙を掲示板から取り外す。

 終えてしまえばなんでもないことだったがそれでも、ギョロリでもぎょろぎょろでもない。

 ぞろりと視線が僕へと集まるの感じた。

 経験上、悪意や侮蔑といった悪感情には聡いつもりだが、僕を終点として収束するそれらは決してそういったものでなく、意外なことに、なんというか……こう。バーゲンセールの商品を見るような──いや、違う。神原の隣を歩いている時のような視線だった──でもなく。

 

 なんだ?この視線は。

 周りを見て気付く。

 掲示板の周りに佇む武偵達は誰一人として僕を見ていなかった。

 視線じゃない視線。

 多分、気配とか言われてるもの。

 磁力のような、妙な引力。まるで僕がブラックホールにでもなってしまったかのようだ。

 見られていないのに観られている。

 

『観察対象を見るな。視線を悟られるな。気配で見ろ』

 まるで意味不明な指示を出す演出家のような言葉だが、ここにいる武偵の卵達はおそらくこんな教えを受けているのだろう。

 異様な状況にありながらそれが当たり前であるとする違和感。

 例えるならこれは、回らないコーヒーカップに当たり前のような顔をして乗っている人たちを見た時のような──そんな常識のズレに気分を悪くしながら僕は平賀さんの元へと戻った。

 平賀さんもこの手の視線には慣れているようで僕の肩……には手が届かなくて腰を叩いて慰めてくれた。

 

「あはは!ごしゅーしょー様なのだ!」

「本当に思ってんのかよ……」

「ないのだ!」

 

 堂々としたものなのだ。

 呼び出しの紙を剥がしてから1分も経っていないのに、用は済んだと言わんばかりに周りの生徒はいつのまにか疎らになっていて、その事が、いかに右手に握る紙の内容が珍しいものなのかを主張している気がする。

 

「平賀。最近こんな呼び出しってあったっけ?」

「いやいや阿良々木くん。この学校で呼び出しなんてそうそうないのだ。……あ、けど。確か会長さんが1週間くらい前に同じような感じで呼び出されて話題になってたのだ。かく言うあややも優秀で良い子なのに呼び出されていたから不思議に思ったのだ」

「会長……シラユキ……」

「んゆ?阿良々木くんってば会長のこと下で読んでたっけ?」

 

 怪訝そうな顔の平賀さんに虚言を返す。

 

「いや……ぱっと上が出てこなくって。僕みたいにそうそうない苗字だったら覚えていられるんだけど」

「んー?けど、星伽はなかなかない名前なのだ」

 

 滅茶苦茶珍しい苗字だった。

 

「……そうか?僕の地元だと普通クラスに二人いる苗字なんだけどな」

 

 しかし僕も後には引けない。

 臥煙さんもびっくりの大胆不敵さで嘘を重ねる。

 しかも無意味な嘘だ。

 嘘といえば、ひたぎが『嘘つきは貝木の始まりよ』とついこないだ嘯いていて、僕が『嘘のついたことのない聖人がこの世にいるとは思えないが、それはそれとしても全人類貝木は嫌すぎる』とツッコミをいれたのを思い出した。

 

 嫌嫌嫌、だ。

 

 それにしてもAクラスの生徒はともかく、僕程度の武偵が呼び出されることがあんなにも注目されるのだろうか。

 まさか、僕が会長と同じ武偵ランクA以上で実力もコミュ力もない日陰者から能ある鷹へと見事な転身を遂げちゃうのだろうか。

 

「あははは、それはないのだ!」

「なんでだよ。もしかしたら僕の知らない内に最優秀武偵賞にノミネートしたのかもしれないだろ」

「んー。やっぱりそれもありえないのだ!それにされたとしてもそれは多分、あややの名前なのだ」

 

 取りつく島もありませんと言われた気分だ。にべもない。

 神原のような礼儀正しく失礼な性格とはまた違うけど、平賀は平賀で竹を割ったような物言いを好む性格だった。

 

「ま、まぁ誰が最優秀武偵でもいいけど……やっぱり変じゃないか?さっきの過剰な注目が平賀の恩恵だったとしてもさ。平賀本人よりも注目を浴びるってのはおかしいだろ」

「んゆ。それは阿良々木くんの自業自得なのだ……というか、今まで注目されているの気がついてなかったのだ?」

「いやだって──うん。まあそうだな。学校を休んでた多自覚はあるけど、それだって依頼で長期的に留守にしてる奴がいるわけだし」

 

 苦しい言い訳。

 神崎から得た情報をはじめ様々なパーツを使い、危ういバランスで成り立つストーンタワーのようなストーリーを仕立てていく。

 我ながらいつボロが出てもおかしくない物言いだったけれど、どういうわけか僕が気付かなかったことに納得した平賀は裏表のなさそうな笑顔を絶やすことなく「流石低ランク武偵なのだ!」と笑った。

 バカにしてんのか。

 低いテストの平均点を聞いてテンションが上がったものの、帰ってきたテストの点数が平均点だった時のような気分になった。

 

「さっきの注目はどう考えても阿良々木くんが『平賀への依頼は直接僕に会いにこない限り受け付けない』とか気取ってるせいなのだ。阿良々木くんが登校してくるなんてちょーお久だし、そりゃあ注目も集まるもんなのだ!ちゅーか、阿良々木くんが不登校児だったからあややもここ最近依頼が減って金欠になりかけてたのだ」

「そんなこと言ってたのか、僕」

 

 じゃああの武偵達は平賀さんに依頼したいが為に僕を血眼になって探していたのか。

 仕事がなくて切迫していたならば、平賀が直接依頼を受け取れば良いんじゃないのかとも思わないでもなかったが、改造(イリーガル)なやり取りのことだ。何か間接受注しなければならない事情があるのかもしれない。

 

 いまいち釈然としない面もあったけど、目の前の雇用主より学校を休み続けた僕に非があることは火を見るよりも明らかだったため、頭を垂れて素直に謝罪することにした。

 

「わり」

「心が篭ってないのだ?!」

 

 僕の責任じゃないし。

 とまあ、そんなやり取りを重ねていると再び人が増え始めた。始業時間も近いし、おそらく交通機関で通う生徒達が到着し始めたのだろう。

 また妙な注目を集めるのも嫌なので平賀との会話を切り上げることにする。

 

「それじゃあ僕はそろそろ行くから」

「んー。……あ、そうだ。今日はアドシアードの準備だけだから阿良々木くんは教務科に早く行った方がいいのだ」

「教務科ねぇ。あんまり縁がない場所だから迷いそうだな」

 

 迷ったついでに自室に戻っていそうだ。

 職員室にはいつだっていい思い出がない。

 

「あはは、この学校は阿良々木くんの人生よりは単純だから安心するといいのだ」

「何も安心できないけどな。あと僕の人生はそこまで複雑じゃないから」

 

 なあなあに流されてきた男の人生よりも単純って、それはもう扉ひとっ飛びレベルの明瞭さだろ。

 《どこでもドア、ただし取っ手は壊れてる》みたいな。

 昨日頭に叩き込んだ学校の見取り図によれば、教員室はどの学科教室からも等しい距離に存在している。場所でいえば学校の中心に近い。

 馬鹿でかい人工島に建てられた学校なだけあって、教員室までは歩いて数分は掛かりそうだ。だけどまあ、かといって行く気力が初めから削がれるような距離ではない。

 ちゃっちゃと行って適当にやり過ごすしかない。

 人生の奔流を流れるように生きてきた僕らしい楽観的な考えにうつつを抜かしていると、平賀さんが急にウインクをし始めた。

 

後で来て欲しいのだ(BCNU)

 

 ……ウインク覚えたてなのかな。

 健全なる一般市民の僕が、武偵が好んでよく使う『瞬き信号』を知っている筈もなく、僕がその光景を見る目は終始うろん気だった。

 しかし相手の意図を分かっていないのはどうやらお互い様なようで、僕の何か言いたげな目に気付くことなく平賀は「まったあとでねー、なのだ!」と元気いっぱいに自分の専科へと走って行った。

 もしも僕が模範的な武偵生であったなら、こちらもまた元気いっぱいに「瞬き信号の意味ねえじゃねえか」と突っ込めたのだが、僕は彼女の挨拶を辞令的なものと受け取るに留まり、ただ片手を上げたのだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

011-B

 高校一年時に、進学校のテストにも拘らず100点を取ったことがある。そしてそのテストは驚いたことに、あの戦場ヶ原でさえ満点を取っていなかったという。

 

 そのせいか、あたかも僕の数学の成績が全国トップクラスであるかのように勘違いしている人がいるらしいけど、実際はそんなことなく、僕の数学の実力は精々偏差値60とちょっとしかない。

 数年後に終わるらしいセンター試験に直せば、9割行くか行かないかだ。

 

 高校数学の公式及びその応用は全て頭に入れたというのにこの成績。羽川と戦場ヶ原を味方につけてのこの体たらくなので、才能がなさすぎると羽川に愚痴ったら過程にオリジナリティが溢れすぎていると窘められたこともある。

 確かに思い返せば、解答解説を読んでも違和感を持ったことは数知れず、特にセンター試験では誘導に乗っかれず最後まで苦労させられた。

 なんていうか……なんと言おうか……。

 そう──僕は台形の面積を求める時に図形を切り貼りして長方形に直すタイプの人間なのだ。

 あるいはベクトルの置換を極力少なくできないか試行錯誤して沼にハマるタイプ。問題文の解釈を、出題者の意図を履き違えたまま正解するタイプ。

 公式の意味を曲解するタイプ。

 

 それでもまあ、何だかんだ彼女と同じ良い大学に入れたのだから僕は運が良かったのだと思う。

 要領は悪かったけど。

 

 じゃあなんで高校時代の僕はあんなに理数科目の点数が良かったのかというと、やはりその理由、要因、原因には彼女の存在があるのだろう。

 

 老倉育。僕の幼馴染。

 『ハウマッチお幾ら?』と英語のディスカッションで話しかけたらみぞうちに良い打撃をくれた華の女子大生。この世界に存在しているかは分からないけど、いたとしたら絶対生き辛そうな顔をして街を歩いてるだろう未曾有の高校生。

 そんな老倉育が僕の根元に燻っているに違いない。

 そりゃあ、出会った人と影響を与え合って生きて行くのが人生というものなのだから(僕が人かは置いておいて)僕の根底に彼女がいようとなんの不思議もないわけだが、僕が言いたいのはそんな陳腐な話ではなく──ある意味では陳腐な話なのだが──もっと、当たり前の話。

 意識もしないような当然のこと。

 そう──老倉育が数学好きでなかったという話。

 

 小さいことからABCだの次数だの虚数だのと小難しい単語を複素数平面に乗っけるのが大好きな奴だったけど、それでも彼女は臆面もなく、恥じらいもなく、躊躇なく言い切ってしまう。

 

「私が数学好き?私は蓼食う虫じゃないことを知っていての言葉なのか?」なんて。

 彼女曰く、『人間の細胞はセテウスの船の如く十年と経たず綺麗さっぱり変わり切って、代わり切る。手足の皮膚から脳味噌の神経まで全て。……ああ、そうだ。昔の私は今の私ではない。だから昔の私がどれだけ数学に夢中だったとしてもそれは【老倉育】という別人であり、結論から述べるならば、私という【老倉育】は数学が好きではないのだ』とのこと。

 ご高説拝聴願った時は思わず乾いた笑いが出てしまい老倉にボロカスに罵詈雑言を浴びせられた。

 そして笑ってしまったのが禍となり、これ以降、老倉は僕の『数学好き』なイメージ払拭するべく高校の卒業論文で書いたらしい『私がいかに数学が好きではないか』という電波エッセイを見せてきたり、大学のディスカッションの話題で必ずといっていいほど『非生産的な学問としての数学』を滔々と語ってきたりしている。

 「フェルマーの最終定理に人生をかけた数学者ばりに数学に囚われてんじゃねえか」と突っ込みたい気持ちも山々なのだが、割り切った彼女と違い未だ距離を測りかねている僕は何も言わずに聞き続けている。

 

 放っておけば一晩中喋っていそうなその姿勢はまるで、彼氏に対する愚痴を話すそぶりで彼氏の自慢する女だ。

 どこかで屈託しそうなものだが、一体なにがそこまで彼女を切迫しているのか。

 それに老倉育はああ言うけれど、人間の本質は細胞の中に留まり続けるようなものではないし──彼女の語ったテセウスの船に倣うなら──現在の彼女は造り変わった船なんかではなく、取っ払った古材で作られた船だ。その際どちらが【老倉育】なのかと聞かれたら、もちろん僕は古材こそが育であると断言しよう。

 僕を始めとした様々な要因という名の波に溺れて削られて磨耗した成れの果て。若干18歳の彼女の本質はやはり数学に魅了されたどうしようもない少女なのである。

 

 多分、いや、分かりきったことだが彼女が嫌いなのは数学そのものではなくあくまで数学とそれに付随する僕との淡い思い出だ。

 僕への期待が裏切られ、自らの人生が確定的に狂わされた分岐点の記憶。それは覆しようのない事実であるとともに、僕が背負ってはいけない罪悪だ。

 なぜなら彼女が救援を口に出さなかったのが悪いし、ただ警察の息子であっただけの僕に何かを期待することがそもそもの悪手であり手違いであり、そしてなによりもお門違いだった。

 

『気付かなくてごめん』

 

 喉の声帯が何度この言葉を造り整えたか。

 僕が謝ることはとても簡単で、けれど、羽川やひたぎにいわせたらそれはただの逃避だという。

 僕にとっても、老倉にとっても。

 結果として『謝らない』という、なんとも度し難い自己満足のような贖罪を選んでいないか問われて否と答えたらそれはそれで嘘になってしまうけれど──それでもまあ。

 最終的には老倉育とはなんだかんだ話す仲に戻ることができた。

 そしてそれは僕達が大人になったからなどではなく、僕が彼女に気付かなかったことを気遣いしないと決めた、その意思が伝わったからだと僕は信じたい。

 どんなに彼女が数学嫌いであろうと数学は彼女のことを好きなのだから……。

 まあ、そんな彼女の所属は数学科なのだけど。

 

「……それで、4月に入ってから一度も学校に来ない理由はなんや?」

「……」

 

 ついつい現実逃避をしたいという願望が募りすぎて、心の距離が最も離れているであろう老倉育に長いこと思いを馳せてしまったが此処は職員室。

 この学校では教務科と書いてマスターズと読むらしい。

 なんだか力関係が分かり易い名称だなあ、なんて考えながら軽々しく入ってみたらそこは、開けてびっくり入ってびっくりのオンパレードだった。

 

 簡単にいうと嗅覚的に視覚的に聴覚的に驚いた。

 まず、部屋中に隠しきれない煙臭さが充満している。あのニオイの原因は銃の火薬なのだろうが、慣れない僕にとっては異臭以外の何物でもない。その上、目の前でこちらをギロギロギラギラと射抜かんばかりの視線を向けている蘭豹先生はただでさえ煙い室内で平然とタバコをふかしている。硝煙の匂いに甘煙いタバコが入り混じり吐き気を催すフレーバーを部屋中に醸し出していた。

 

 次に驚いたのは目に入る凶器と狂気の数々。

 凶器といってもこの世界では当たり前に持たれている銃火器や刀剣類であるのだが、だからといって侮ることなかれ。

 一般女生徒が手に持った文具にさえ腰を抜かしそうになった小心者の阿良々木さんだから驚いたんじゃないですか? なんていえたもんじゃない。

 手の届く範囲に必ず何かしらの凶器が置かれているのだ。

 僕の懐に銃が忍ばされているように。

 蘭豹先生の手元に馬鹿でかい拳銃が置かれているように。

 足元だろうが天井だろうがお構い無しに凶器が落ちている。もしくはぶら下がっている。

 その凶器の密度たるや、どこぞの武器庫だと言われても「なるほどですね!」と元気よく相槌を打ってしまいそうな程だ。

 

 最後に聴覚的驚愕。

 これは意外なことに入室した僕が初めに違和感を覚えた驚きだった。

 少ない。

 あまりにも少ない。

 当然のように欠けている。

 こんなにも武器があちらこちらに散らばっているというのに肝心のそれらを扱う人が少な過ぎるのだ。

 

 ……いや、言葉が足りなかった。

 足りている。

 想像し難いしと思うし、体験している僕も信じ難いと思ってしまうが、『足りない、けど、足りている』のだ。

 

 人の声は足りているのに、人の数が足りていない。

 

 僕の後ろで、隣で、向こうで、四方八方から賑やかな話し声が聞こえる。学校のイベント(アドシアード)に関する計画や問題児に関する愚痴など、まあ職員室で普段交わされていそうないかにもな会話。実際入室前のぼくは、そのガヤを聞いて非常識な学校にしてはまとも面もあるのだと妙な拍子抜けを食らった。

 それがどうだろう。いや、どうなっているのだろうか。

 教室の中には蘭豹先生含め数人の先生しかいない。

 1メートル先で交わされているだろう会話の声を耳が捉えているにも関わらず、5メートル先まで人が見えない。

 

 超指向性スピーカーなんてちゃちなものじゃない。

 もはやこれは怪異だとか超能力の類だ。

 忍が何も言わないという事はこの現象はあくまでも人間による技術的なものなのだろうが。

 

 非常識の大本山はやはり、非常識だった。

 

「阿良々木ぃ。まさか無視してるんかぁ?」

「……聴いてます、ハイ」

「はい、じゃない!舐めとんのか!うちがしたのはオープンクエスチョンや!」

「ははぁ……すみません」

 

 のらりくらりと謝り倒す。

 のらりくらり、というには余りにも錆び付いた動作と言動だったけど。

 だけど、僕に呼び出しをくらうような覚えがあるはずないので僕は空気を読んで、それこそ煙に巻くようにやりすごすしかなかったのだった。

 蘭豹先生も答えないどころか応えすらしない僕の様子に心底呆れ果てたのか、吸った煙を僕に向かって吐き出して更にそこから一つ大きなため息をついた。

 

「……はあ。何も怒っとるわけやないし、武偵は自分で考えて自分で行動するのが当たり前や。だから本当はこないなこと言いたくもない──けどなぁ、阿良々木。報連相も武偵にとっては最重要事項や」

「……」

「確かに阿良々木は依頼の受領と終了の報告を怠ってなかったらしいけどな、それかてお前の組んでたチームの奴が代理報告してただけなんやろ?……お前は学生や。社会のヤシロにも入ってないようなぺーぺーが学校の出欠席すら連絡できません、じゃ話にならんやろ。お前のその、生徒のプライベートがたーっぷり詰まったケータイをなぜ今まで使わなかったんやっちゅーこと聞きたいだけなんよ?」

 

 手に持つ銃の曲がり角のトンガリ(なんというかちょっと曲がって出っ張っている奴だ)カチカチ鳴らして蘭豹先生は遂に三度問うた。

 仏の顔も三度までというがそれは阿修羅であっても変わらないらしく、先生は右腕の力を不自然に抜いて組んでいた足も両足地につけた。

 僕でも分かる──『答えなきゃ撃つ』を全身で表現していた。

 紫煙、というには余りにも濃すぎる空気が先生の口から漏れて宙へ消えていく。それを見ながら僕が『先生』なんて単語を思い浮かべたのはいつぶりだろうか、などと考えていると直ぐに先生の銃を持つ手に再び力が入り始めた。

 慌てた。

 それはもう。

 沢山。

 

「修行です!」

 

 多分この暴力的な世界に適合した言い訳が見つからなかったからだろう。

 思わぬ言葉が自分の口から出た。

 

「……ほう?」

 

 蘭豹先生はニタリと笑い「続けろ」と銃をついに構えた。

 咄嗟の言い訳に巫山戯たことだと半ば切れかけているのと中々面白えこというじゃねえかと戦闘民族ばりの威嚇をしているの。どちらの方が僕にとって利益ある反応か。

 僕は目の前に燻る煙と一緒に消えてしまいたいと嘆きたい気持ちをぐっと抑えて胸を張った。

 

「修行です!」

 

 ──途端。

 マズルフラッシュ。

 爆音、震える頰。

 まるで巨人が象の土手っ腹を思いっきり殴ったかのような音がした。

 少し遅れて体の右側から途轍もない力が加わる。

 よろけそうになる体を無理やり支えて僕は阿呆みたいに口を開けていた。

 

「……へ?」

「次は上半身や」

 

 静かに呟いた先生の言葉。

 そらを聞いて「ああ、撃たれたのか」と納得する。

 恐る恐る後ろを見れば割れた花瓶が涙を流していた。

 恐る恐る前へ向き直ると、とてもいい笑顔で先生が笑っていた。

 

(……撃った。撃ちやがった!)

 

 ドット吹き出る冷や汗と早まる鼓動。

 ドクドク耳裏まで届く早鐘はまるで警鐘のようだ。

 僕の後ろに配置された割れた花瓶が水を垂らす音だけが職員室に響いている。

 不自然な喧騒も今ばかりは鳴りを潜め、時計の音すらしない。

 

 1秒、2秒。

 

 ここがどこだか判らなくなりそうな数秒間。

 ひたすら心臓を握り締められて刹那の時を耐える。

 清廉潔白を示すべく先生を見返しても見るけれど、恐怖から面白いほど自分の目が泳いでいるのが分かった。

 

 やがて蘭豹先生は銃を下ろして楽しそうに笑い始める。

 傍目には笑顔から笑顔に変わっただけなのだが、僕にとってその変化は南極から東京へ帰ってきたかのような変化だった。

 事実、周りの喧騒もこれをきっかけにまた戻り始めた。

 

「小夜鳴先生!こいつどう診ます?」

「蘭豹先生。職員室で発砲するのはあれほどやめて下さいって言ったじゃないですか」

 

 ぬっ、と僕の背中から現れたのは長身痩躯の優男。

 柔らかい物腰と丁寧な口調からは想像もできない身につけた白衣から漂う、病院を連想させる強烈な匂いが印象的な先生だ。

 しばらく蘭豹先生に箴言を掛けながら僕を観察した小夜鳴先生は顎に手を当ててほお、と吐息を漏らす。

 

「……うーん。これが阿良々木くんの言う『修行』の成果なのかは分かりませんが、肉体改造はかなり無理のある程度には行っていますね」

「そうか?自分にして見れば前よりもヒョロヒョロになった気しかせえへんけどなぁ」

「いえいえ、そんなことありません。前回の健康診断を担当した身からすると、これは驚くべき変化ですよ。癖のある体勢からの発砲が原因で無駄についてしまった右太ももと左右の二の腕と胸の筋肉。それ以前に普段の姿勢の悪さから偏ってしまっていた重心。平均よりもやや硬かった筈の股関節と手首。目につく肉体的欠陥が全て改善されています!特に筋肉バランスは理想的と言ってもいいですね!……阿良々木くん、参考までにここ数ヶ月何をしていたのか僕にも教えてくれませんか?!」

「あ、いえ……」

 

 早口でまくし立てられても、そんな肉体改造に心当たりがない……こともないが、それは十中八九吸血鬼化の名残だろう。

 体調を最も良い状態に保つという特性。

 妹には『お兄ちゃんはシックスパック作って調子乗り始めた』などと散々な評価を受けていたため、どんなに食べても太らない体になった程度にしか気に留めていなかったけれど、言われてみれば今の僕は細マッスル男、略して細マッチョだ。

 肉付きの良い男。

 まさに良い男。

 男、オブジ、男。

 それが今の僕。

 吸血行為のためのあらゆる必要事項に対応できるようにと本能が改造した肉体。

 人間に化け物だと気づかれることなく近付く為に理想的に配置された骨格と筋肉。

 そう考えると僕の体は一般人としてだけじゃなく、武偵としても最上と言ってもいいのかもしれなかった。

 ……身長を無視すれば。

 

「ほーん」

 

 蘭豹先生は面白くなさそうに銃を机に置く。

 代わりにパチスロの雑誌を手に取る。

 テンション下がりすぎだろ。

 面白いまでの二面相だ。

 面白いか面白くないかで生きているに違いない。

 

「ま、そんなことはどうでもええ。阿良々木がどんな生活を送ろうがうちらの管轄やない。修行も依頼も学科も好きにしたらええよ。留年もあと一年は可能やし自主退学だったらいつでも歓迎や」

 

 歓迎するなよ。

 小夜鳴先生も呆れたように蘭豹先生を見てるじゃん。

 蘭豹はいかにも億劫そうに三本目の煙草を咥え、先っぽを千切り火をつける。

 随分と健康に悪そうな吸い方をするな、おい。

 いつ撃たれるか戦々恐々としている生徒を目の前に悠々と浮かぶ煙に目を細める先生。やけに様になる仕草ではあったが怯え続ける方は堪ったものじゃない。

 武偵のぶの字も知らないような小心者にいつまでも睨みを向けるんじゃないと叫びたい思いでいっぱいだ。なんで銃を持ってないのにそんなに威圧的なんだよ。

 精神はもう、いっぱいいっぱいである。

 

 よく考えたら、先生にとって僕の不良素行はどうでもいい話で。そんなどうでもいい理由のために銃を突きつけ続けられるなんてのは大分理不尽な話で。しかし非はこっちにあるわけで。

 

 追い詰められた心が、こここそが逆境だと言わんばかりに妙に肝っ玉の据わった怒りの感情をひり出し始めた頃合で。

 蘭豹はようやっと吸い終わった煙草の吸殻を灰皿に落とした。

 既に灰皿にこんもりと盛られた残骸の山のせいか、灰皿に落とすというよりも灰皿に投棄したように思えてならなかった。

 タバコに色が移り、心なしか色の薄くなった唇を歪ませて蘭豹は言う。

 

「よし!じゃあ、阿良々木。お前罰として今日中に地下倉庫(ジャンクション)の掃除してこい。ゴミ袋一袋に古くなった弾入れてこいや」

「……は?っああいや。分かりました!了解しましたから銃向けないでください!」

「初めからそういえ。かや……あ、いや、地下倉庫の奥の方にある弾が大体古いからEランクの阿良々木でもさすがに身分けくらいつくやろ」

「かや……?って、はい?Eランク?」

 

 最低ランクなのか?Cランクじゃなくて?

 最低ランクの落ちこぼれがこんな学校で不良を働いたのか?出会ったばかりの僕ですら痛感した教師の柄の悪さを一年多く味わった上でこの素行って自殺志願かよ。

 この世界に業界は4つもない。

 最も色濃く才能を受け継ぎ最も素質の無かった暗殺者の兄はいないのだ。

 

「そりゃそうやろ。今年のランク測定試験をサボったのはお前やろうが」

「……」

「ルームメイト揃って同じ行動取りやがって。うちは優しいから今回はこれで勘弁してやるが、今後同じような態度を取るなら……」

 

 分かったらさっさと行かんかい!

 ブンブンと馬鹿でかい銃を振り回す蘭豹から逃げるように僕は退出した。

 廊下の扉を開けると職員室以上に大きな喧騒が僕を震わせた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

012-B

 いくら僕が前説が得意だとはいっても章が切り替わるたびに無駄話をしていてはまるで紙面が足りない。聴く方も根気が足りない。語り足りないのも確かなのだが、ここはぐっと堪えて今回は一つ嘆くだけにしたいと思う。

 男子大学生の嘆きなんてものはナマケモノのあくびほどの価値もないのは重々承知の上での嘆きであることを留意してほしい。

 

 これはいわば、嘆きを超えた嘆き。

 悲劇だ。

 客観的に見れば喜劇と言った方が正しいのかもしれないけれど、なけなしのプライドを振り絞ってここは悲劇だと強く主張させてもらうことにしたい。僕のプライドは多分、もうドライフルーツみたいになっていると思う。

 

 ……つまり。

 

 情けない話、僕こと阿良々木暦はホームシックにかかりつつあった。

 

 ぐすん、暦……寂しい。というわけ。

 

「どんなわけなんだよ、鬼いちゃん」と斧乃木ちゃんに聞かれたら笑われること必至だが、自分でもびっくりするくらい見事にホームシックにかかっている。そして、そのあまりの情けなさに一周回ってこの心境をすんなり受け入れてしまった次第。

 その要因はいくつも考えられるが、決定的に僕が「あっかかってるな」と自覚を持ったのは昼時のことだった。

 

 やいのやいのと言われ言いながら、彼女の弁当に舌鼓を打つのが当たり前になっていた僕にとって高校でコンビニ弁当を一人で食べるという行為は僕に大きな虚無感を与えた。かつてはそれが普通だったのに。

 人間強度が下がってしまっている。この世界の僕に叱責されてしまいそうだ。

 毎日面を合わせていたパサパサなハンバーグが今となっては恨めしい。『虚無感を与える』という一言に小一時間付き合わせてくる彼女もいないことを実感させてくる。

 【350円】と記載されたラベルを見つめて弁当の隅に詰められたパスタを掴み口に入れる。すると何味かイマイチわからない味が口に広がった記憶は新しく、口の奥に押し込めれば喉、胸、腹と移動していったあの感覚は元の世界に戻っても忘れないだろう。

 

 言語も知識も通じるのに、まるで外国に留学した当日の夜みたいな、そんなアンニュイな気分になってしまうのはただ単純にこの世界の常識に慣れていないせいだということは理解している。

 この学校のシステムとカリキュラムは粗方把握した。

 ネット上に書かれていた4月に行われる入学式から3月に行われる卒業式まで全ての予定行事を把握したし、その殆どが行われていない(、、、、、、、)ことも把握した。それが誰かに対する防犯なのか、それとも予定変更のホームページ更新を怠っているのかは分からない(聞いたところで十中八九後者だと言われるだろう)。

 ただ、そんはいい加減で大雑把なカリキュラムの中でも『殆ど』というからにはちゃんと行われている行事もあるわけで。

 現在進行形で進められている準備もそのイベントのためであるわけで。

 

 アドシアード。

 

 生徒たちにはもっぱら授業参観だとか言われている行事があった。そしてそれはゴールデンウィークにも関わらず今の僕を含めた大多数の武偵生が学校に集まる大きな理由でもあった。

 アドシアードなんて称されてしまうと、少し修辞的で洒落た言い方過ぎる気もするが、要は大抵の高校で開催される『文化祭』のようなもので、それを対外に大々的に行う事で武偵高の認知と理解を社会全体に求めるのが狙いらしい。

 一歩間違えれば暴漢になりかねない立場を繕うための行事とだけあって、学校を渦巻く熱気は凄まじく部外者意識が強い僕は申し訳なくなってくる。

 弁当を食べていた時だって、視線の先では校舎の銃痕をパテで埋める男子生徒や落ちている空薬莢を拾って袋に入れる女子生徒がいた。

 しかし思い返せば僕はいつだって大きな学校行事の準備ではこんな立場を取ってきたから、だから今まで通りといえば今まで通りなのだが、当たり前のように僕を殺せる実力のある人を当たり前のように働かせて僕一人座っているというのは、なんというか謎の不安感を煽られる。

 

 まあいくら『申し訳ない。周りは僕より凄い』と口にしてても、女生徒がゴミを拾おうと屈む度にスカートの中が見えてしまいそうになり、僕はその度に一喜一憂していたのは確証のない事実だけど。

 それを突っ込んでくれる人もいない。

 そんなわけで、僕はホームシックなのだ。

 

 体育館の方から聞こえるエレキギターの音。

 面白おかしいスピーカー・マイクチェックの声。

 校庭には射撃の的が沢山並べられ、それに肌が眩しいチアリーディング参加予定の女性徒が試し撃ちしている。ブロンドの髪がキラキラと光って綺麗だ。

 

 右手に握るゴミ袋を見る。

 聞けば今から取りに行く弾薬はアドシアード開催記念・協力謝礼として生徒に振舞われる配布物らしい。ゴミ袋に入れても惜しくない弾薬というのだから、その品質の程度も察せられる。言うまでもなく、在庫処理だ。

 僕からすれば、自分の銃の口径どころか、まずもって撃ち方がわからないため謝礼云々はどうでも良い。

 気になるのはその地下倉庫が一体全体どのような場所なのかだ。ホームページには当たり前のように掲載されていなかったし(倉庫をわざわざ記載する学校はないだろうとのこと)そこらへんで歩いていた女生徒曰く『あそこに近づくのは罰ゲーム』らしい。

 近づくのですらダメなのか。

 僕はもうその一言からしてこのおつかいに嫌気が差していた。

 

 校門脇にポツリと配置された鈍色の扉から階段を下りること2階分。

 歩いているうちにどうやら武偵高の地下空間は船のような多層構造になっていることが分かってきた。

 馬鹿広い空間に物体が点在している地元のような倉庫かと思っていたが、あちらこちらに配線が巡らされ黄色のペンキで【WARNING】が施された空間に少しの息苦しさを感じる。地下にあるせいか、5月にも関わらず業務用冷蔵庫に入ったかのような寒気を覚えた。

 

 地下二階からは階段ではなくエレベーターを使う。非常階段もあるそうだが、切羽詰まっているわけではないし湿気が多く滑りそうなのでこちらを選んだ。

 武偵手帳をエレベーターに備え付けられた読み取り機に当て、赤色で書かれた『七』のボタンを押す。

 金属が擦れ合う音、外れて嵌り直す音、レールの軋みがエレベーター全体に響き渡り体全体に慣性が重くのしかかる。運動方程式がふと浮かんでしまうあたり僕はまだ受験生気分が抜けていないようだ。

 

 無機質な高音。地下7階に到着する。

 地下倉庫──武偵高の最深部。

 外よりも数度なんてレベルでは済まないほど寒い空間。

 薄暗く細い廊下が際限なく続いている。

 細々遠くに続く淡い蛍光灯と赤い非常灯が曰く言いがたい不気味さを醸し出していた。

 

 遠くから水の流れる音がする。

 地下水路と繋がっているのだろうか。

 左右に広がる弾薬棚が怖くてなるべく道の真ん中を歩きながら考える。

 

「……思ったよりもジメジメしてるな」

「儂のゔぁんぱいあいやーに寄ると、近くに地下りばーがあるようじゃな」

「さすがの人間でも水音くらい聞こえるよ。あとなんでそんな文明開化直後の英国に影響を受けすぎた日本人みたいな口調なんだよ」

 

 暗がりのお陰で若干テンション高めの忍を引き連れて火薬庫を進む。

 しばらくは黙って手を繋いで歩いていたのだけど、自称お喋りな吸血鬼は小さな頭を目下にひっさげて「のう、お前様」と口をついた。

 

「ここまで色々な者と話していたのを聞いて思ったのじゃが……この世界のお前様、落ちこぼれ臭すごくない?」

「やめろよお前、止めろよ。すごくないよ。優秀な武偵の卵だったはずだよ」

「いやいやお前様。身長は変わらずちっこくてサボりグセも相変わらずで情に厚そうな教諭には見捨てられかけている。これをおこぼれと言わずして何が落第生なんじゃよ」

「ばっかお前。馬鹿かお前。この馬鹿が」

 

 落第まではいってねえよ。

 際の際まで社会の崖を見にいっただけだし。

 

「図星を突かれ語彙力さえままならんとはいよいよもって認めたようなものじゃようが」

「……」

「なんとかゆうてみぃ、みーにゆーてみー」

「……そういえば、この地下倉庫。倉庫って言う割には弾丸と弾薬と銃弾しか見当たらなくないか?」

「なんじゃつれない……実質火薬庫なんじゃろ。実際火薬庫なんて言ったら他所からの反感が凄いじゃろうしな」

 

 なるほどね。と、どこか他人事のように納得する。

 ん?それだったら、右横にある僕の体半分の大きさがあるこの鉄球は何に使うのだろうか。

 

「ちゅーかお前様、最近儂をポンポン呼び出してるけど、なんか儂のことをポケモンか何かと勘違いしとらんか?」

「ドラえもんだろ?」

「それは先生に申し訳ないので、もしその認識を持っているならポケモン以上に改めて欲しいのじゃが……」

「相変わらず藤子先生とミスドに対しての認識が凄いな……。あ、いや。それだったらお前だって僕のこと、財布かミスタードーナツ直通のどこでもドアかと思ってんだろ」

 

 ここ二、三日で何回ドーナツ食わせろと言われたと思っている。あと一回でも強請られたら僕は吸血鬼の主食に対する認識をドーナツに置換していただろう。

 

「そもさん、うぬが儂を性欲の捌け口とみなしておるようにな」

「説破……なわけないだろうが!」

 

 とんでもねえ問答だな。

 

「なんじゃ、もう儂の鎖骨と肩甲骨の窪みには興奮せんと言うのか?」

「当たり前だ!」

「蜂の妹でも?」

「しない!」

「鶯の方でも?」

「しない!」

「バサねぇでも?」

「し、しない!」

「ヶ原さんでも?」

「し……いや、する!」

「蝸牛の小娘でも?」

「する!」

「罰当たりめ」

「あいつは成り上がりだから」

「今となっては神憑(かみがか)りじゃがな」

 

 そう考えると去年だけで八九寺は何回級昇進したんだ?

 死んで二階級特進なんてことはないにしても、地縛霊から土地神となると相当数上がっていると思うんだが。

 その内最高神まで登りつめていそうだ。

 それも自力じゃなくて周りからの持ち上げで。

 エスカレーターのように。

 

「まあ逆に僕たちはこうしてこれ以上ないくらいに下に来ているわけどさ」

「落ちこぼれが最下層に行くとは面白い皮肉じゃな」

「何も面白くねえよ。……しかしこんな陰気臭い火薬庫の奥に眠る弾っていうのは一体全体何年物なんだろうな」

「儂は自分の年齢より少ない年数は数えられんから分からん。せめて500年物になってもらわんと話にならん」

「お前はなにと張り合ってるんだ、伝統工芸家の師匠かよ。それに頑なに100年詐欺るのはなんでだよ」

「仮にお前様があと数ヶ月で30になるという時期に20代前半の女と結婚することになった時、お前様は相手の父親になんと名乗る?」

「お嬢さんと同年代の阿良々木暦です!」

「わかれば良い」

 

 年齢マジックってすごい。

 小学一年生と高校生の結婚と10年の年の差婚を比較したときと同じ驚きを感じた。

 ただ、忍が滅茶苦茶年齢を気にしているな。これが千年経っても心は乙女ってやつか。見苦しい、とは言えないな。

 

 しばらくは服から火薬の匂いが落ちないだろうと容易に予想がつくような空気の中、会話を途切れさせることなく歩き続けるとようやく廊下に終わりが見えてきた。

 水の音が強くなることから火薬庫の終わり際は随分と下水溝に近いことが予想できる。海の上に建てられた施設の地下部分だし地下水じゃなくて海水の可能性もありそうだが、ベタつくような空気感でもないし、むしろ湿気が多くてしかるべき場所なのに乾燥しすぎている気すらするからその可能性は低いと思われる。

 

 廊下の奥に広がる大きなスペースが見え始めた頃、タップダンサーになったかのようにカッカッと音を響かせて跳ねるように歩いていた忍が突如停止した。

 

「待て」

 

 小声で短く呼び止められる。

 

「これを見よ」

 

 指し示した先のスペースにはなんの変哲も無い床が広がっている。

 今は人間に近い視力しかないためよく目を凝らしても忍の言う『これ』は分からない……が、床にしてはやけに輝きすぎている気がした。

 スペースだけ違う素材を敷いているのか?水に対する腐食防止とかのために。

 直江津高校の廊下とトイレの床の材質が違ったことを思い出して推測してみせるが忍は即座に否定する。

 

「違う。これは変化しているのじゃ」

「変化?ちょっとキラキラしているだけってことか?なんのために」

「阿呆。そもそも地下地上の差異抜きにして何か変じゃと感じないのか。情けない」

「情けないって……妙な変化と言っても、地下室にしてはやけに寒くて、水が近くにあるにしては空気が乾き過ぎてるってことくらいだろ?」

「……そこまで分かっていながらどうしてこの床面の異常が推測できんのか」

「詳しく見えないから」

 

 あと、ここのスペースには埃が多く舞ってているのか強い蛍光灯の明かりをキラキラと反射するので視界がすこぶる悪いのだ。とても目を凝らしにくい。

 

「……答えだけを教える。よいか、お前様」

 

 床面を指していた指は忍の視界全体──広く開いたスペースを示すようにぐるぐると円を描く。

 

「凍っている」

 

 忍はポツリと言った。

 

「床面、空気中。気体であるべき水分が全て凍らされているのじゃ」

 

 地上の気温は25度。

 それは地下であることを考慮したっておかしい現象だった。

 しかし、僕にとって最も身近な異常である怪異の仕業なのかと推理を及ばせる間も無く「馬鹿な!」と飛び出しかけた言葉はさらなる一言で打ち消されることになる。

 

「そこにいるのは誰だ!」

 

 スペースの奥から投げかけられた鋭い口調で問いかけ。

 屹然としていて明瞭な声だ。

 ここは立ち入り禁止区域だし向こう方も僕と同じでおつかいを頼まれたのだろう。流石に銃を向けられることはないだろうが、誤解はないに越したことはない。

 軽く手を上げながら声が聞こえる方に近づくことにした。

 

「あー、別に怪しいもんじゃなくて、多分、君と同じ目的だと思うんですよね。だからそんなに警戒しなく……て、も──?!」

「あ、こら!こっちに来るな!」

 

 後に彼女の正体を知って僕はぶったまげることになる。

 意外な繋がりを発見して親近感を覚えることにもなる。

 形成された氷の空間の奥。

 火薬棚を背もたれに座っていたのは背の高い女性。

 

 初めに見えたのは日本離れした白銀の髪の毛。

 すっとした一本筋の通った綺麗な鼻筋。

 つやうやとした色白の肌。

 そして神々しく白光する大剣。

 あと、彼女の膝に乗った小さな弁当。

 

 火薬溢れる危険地帯最奥にいたのはボッチ飯に励む鎧姿の銀髪少女だった。

 僕は彼女の一人飯を見苦しい姿だとは思わなかった。

 

 ──ただ。お昼に感じたあの虚しさが少し、和らいだ気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

013-B

「違うからな!これは私の手作りだ!」

「いや、なんの心配だよ。その辺の誤解は一切ねえよ」

 

 そんな一言で会話の火蓋は切って落とされた。

 雰囲気はともかく、気温は氷点下を覚悟するくらい寒かったけど、そんなことは気にしていないように彼女は熱弁した。自分は一人でメシを食うような寂しい人間じゃないと涙ながらに訴えていた。

 目尻に浮かんだ涙は床に落ちる時には氷になっていた。

 

「忍」

「奇々怪々な現象は確実にあやつの仕業じゃろう。その証拠にあやつの周りだけ氷が厚くなっておる」

 

 銀髪の彼女は怪異じゃない。

 あいつは人間だ。

 些細なことで傷つく、極めて物象的な人間だ。

 思い浮かぶのは昨日忍と共に揶揄した学科。

 

 

 超能力捜査研究科(SSR)

 

 

 非常に信じがたいことだが、というか非常そのものなのだが目の前の銀髪薄幸少女は超能力者なのだ。

 ……いや、まてよ。落ち着け。つい印象に残っていたから断定的に結びつけてしまったけれど、この地下空間には電気も通っているしそれなりの道具があれば機械を使って人為的に再現不可能なわけでは決してない。

 

「おい、ええと……」

「……(ひじり)だ。聖 (はふり)。いい名前だろう!」

「……偽名くせえ」

 

 聖も祝も大凡実在の人間の名前とは思えない。

 似合いすぎて、ありえない。

 小洒落過ぎて、嘘っぽい。

 

「……まあハーフだったりするのかもしれないからその名前にツッコミはしないけど、そのコスプレからして聖は明らかにこの学校の人間じゃないだろ。ここは立ち入り禁止だ」

「ふふ……お前だって立ち会っているではないか」

「僕は先生にお使いを頼まれたんだ」

「なら私もお使いに頼まれたのだ」

「誰にだよ」

「さて、誰だったかな?……というか、金髪の幼女を引き連れて暗がりに来られても、そちらの方がお使いだとは思えないな。どうだ、ここは一つ犯罪者同士見逃し合わないか?」

「犯罪者はお前だけだよ馬鹿野郎」

「ふむ、『野郎』とは男を表す言葉じゃないのか?私はれきっとした女だ」

 

 ああ言えばこう言う奴だ。

 下衆の後知恵だが、鎧を着こむような怪しい奴は問答無用で縛りつければよかったな。

 目の前で鼻歌を歌ってお弁当をしまう銀髪不審者から目を逸らさず、けれどこういう時の勝手が分からなくて立ちつくしていると忍は僕の手を離して聖に問いかけた。

 

「おぬし、冷凍能力者(クライオキネシス)か?」

「……超能力なんて信じていいのは小学生までだよ、金髪ちゃん」

「かかっ! 小娘がよくほざくわ──後ろの大剣(ソレ)聖剣(デュランダル)じゃろ。300年前にフランスで見た覚えがある。残念じゃが本質は喪失しとるし、儂らを相手取る武具としては些か弱り過ぎではあるが紛れもなくその剣はかの聖剣じゃ。聖を名乗るその傲慢さとフランスの聖剣を持つ事実から推理するに」

「そこまでだ、金髪」

「儂は金髪などという名前ではない。忍。忍野忍じゃ」

 

 残忍に笑って名乗る忍。

 少しの逡巡を挟み銀髪は頭を振り払うような動作をした。

 

「……いや、呼ばない。私は貴様の名前を呼ばない」

「ならば、儂はうぬの名を呼ぶとしよう。その田舎娘らしい容貌に相応しいチンケな名前をな──ジャンヌ・ダルク。その末裔よ」

 

 ……は?

 名を馬鹿にされて腹の底が煮え繰り返ってます、と分かりやすい表情を浮かべる銀髪の少女を前に僕は疑問を浮かべるしかない。

 いや、疑問が浮かんだだけ僥倖といえる。

 最低頭は動き続けているのだから。

 

 超能力者って……

 デュランダルって。

 ジャンヌ・ダルクって!

 

 なんだよそれ。

 そもそも忍はデュランダルを知っているのか?!

 確か、デュランダルってローランの歌に出てくる剣だよな。乗馬用のロングソードで刃こぼれ錆つきが一切起きない不滅の剣、だったっけ? というか、あれ? 確かジャンヌ・ダルクって処刑されたあの有名な聖人だよな。だとしたら、子孫がいるはずなくないか?

 

「──待て。待てよ、お前ら。ちょっと待て。待ってくれ」

「なんじゃ。驚くのは後にせんか」

「いやいやいや!いやおかしいだろ!なんだよジャンヌ・ダルクって!聖祝が偽名なのは分かってたけど、え?なに?自己犠牲の聖者の末裔だって?しかもその末裔が氷系超能力者だと?おいおい、勘弁してくれよ。どうしちゃったんだよ、僕の常識と日常は。なんだってこんなびっくり箱になってしまったんだよ」

 

 ジャンヌ・ダルクの末裔だとかいう彼女に詰め寄るように叫ぶ。動揺のあまり入るのをあれだけためらっていた氷が統べるスペースに足を踏み入れていた。

 僕はジャリジャリと滑ることなく、けれど、足を滑らすように歩を進める。

 僕の『聖祝が偽名と気付いていた』発言に驚いた顔を見せていた聖──ジャンヌは僕の行進に顔を引き締めて僕に応えた。

 

「……ふむ、お前の言うことは理解できる。日常が壊れる感覚というのはなにも何も変えがたい悲壮感を伴うものだ。その感覚は偉大なる初代ジャンヌ・ダルクも幾度となく経験していただろう。ただ、その日常とは何をもって日常とするのだ?……もっと直接的に言おう。──お前は誰だ。推定600年以上の時を生きた金髪の幼女を連れておいてごく一般的を自称するお前は何者なのだ?」

 

 弁当をしまい終えた彼女は立てかけいた光る大剣を手にとりこちらに向ける。

 コスプレでもなんでもない、鉄の塊を磨き上げたもの。剣先を向けられているだけだというのに魂を貫かれたような感覚が身体中を走る。否応なく僕の歩みは止められる。

 蛇に睨まれた蛙になってしまったようだ。

 

「もう一度言う。お前は、何者だ」

「……その問いは去年聞き飽きたよ」

 

 質問を聞き流して街全体を巻き添いにする騒動に発展したのも記憶に新しい。

 僕は固まった身体を無理矢理捻り、拳を振り下ろして突きつけられた大剣を殴り飛ばした。

 

「……っ!ってえええ!!」

「お前様はなにをしたいんじゃ……」

 

 どうやらいつのまにか体に氷が纏わされていたらしい。体全体を動かしたことでパキパキと氷が剥がれ白い粉が舞う。

 赤くなった手を隠して愛剣を殴り飛ばしたというのに表情も視線も変えない彼女を見返した。

 

「阿良々木暦。ただの人間だ」

「そうか。では阿良々木暦、出会って早々悪いが計画のためだ、死んでくれ」

 

 気付けば目の前にヒヤリとした感覚が在った。つまりは、大剣が眼前に迫っていた。

 忍がそれを蹴り飛ばした。

 

「物騒じゃの。しかしどうしてうぬは聖剣に嫌われていると見た。全盛期に遠く及ばない今の儂が聖剣に触ったというのに、怪我ひとつないとはな」

「……助かったよ、忍」

「気をつけよ。あの聖剣は儂が最後に見た時から性質を変化させておる。おそらくローランの携えておった剣とはもはや別物と考えて良いじゃろう。あの感じ、もはやあれは聖剣ではない──魔剣じゃ」

「魔剣……」

 

 正直言って魔剣だろうが聖剣だろうがどちらでもいい。見分けつかないし。

 それよりも人間である僕にとっての一番の厄介は場を覆う気温だ。

 ジャンヌ・ダルクの目が据われば据わる程低くなっていくのを感じる。いい加減白い息も出始めた。

 まさか地下室で聖人の末裔で銀髪で超能力者で魔剣持ちの少女と元怪異の王である吸血鬼を味方につけながらゲテモノ格闘バトルを繰り広げるとは思いもしていなかった。

 銃は放つことができないし剣は持っていない。

 なによりも覚悟が足りない。

 次の攻防に備え、袋を放り投げて不恰好に拳を握った。

 

「はあああああ!」

 

 剣気一閃、再び突き出される魔剣。

 頭の横を通り過ぎるのを見ながらカウンター気味に殴り返す。

 

「はあっ!──んがっ!」

 

 豚のような声が聞こえる。

 いや、豚のような声が出た。

 僕の拳が届くよりも早く彼女の剣の軌道が突きからスウィングへと変化した。剣の横腹が僕の頬骨を揺らし体を浮かし吹っ飛ばす。

 鳴き真似の回数だけ体が床にあたりバウンドする。そしてそのまま受け身をとれぬまま無様に転がった。

 震える右手で床に手をつくとジャンヌは拍子抜けとばかりにほっと一息吐いた。

 

「他愛ない、無様だ。貴様如きが武偵とは到底思えない。もしや、お前の方がコスプレだったのではないか?」

「……うるせえよ、ボッチ飯。コスプレを知ってるとは随分と日本を気に入ったようじゃねえか……って膝が焼けるように痛い!」

 

 膝が急に痛みを帯びる。

 立ち上がり際の痛みに思わず膝をついたことで更に痛む。

 見れば、膝小僧に氷が張り付いていた。

 

「ふん──ただの人間如きが驕ったな」

「儂からすればうぬもただの人間じゃがな」

「なっ──!」

 

 声に反応して振り向いたジャンヌの顔面を忍が蹴り飛ばした。

 こちらに吹っ飛んできたジャンヌを迎えるように僕は走り出し羽交い締めにする。

 

「放せ!」

「誰が離すか!やっと捕まえたぞ馬鹿野郎!」

「私は女だ!」

「あれ本気で言ってたんですか?!」

 

 フランス語に慣れているせいか名詞に融通がきかないのか?

 忍も結果右足をふらふらと宙で振りつつ近づいてきた。

 

「人間が手間をかけさせおって。言葉の割には呆気なかったがの」

「化け物がよく言うよ、金髪」

「儂は怪異じゃ」

「僕からしたらどちらも人外だよ」

 

 人間は水を凍らせない。

 凍らせたとしても精々雰囲気と人間関係がまでだ。

 しばらくジタバタしていたジャンヌ・ダルクだったが、数分もすると諦めた身体の力を抜いてデュランダルを地面に落とした。

 

「……くそ。聞いてないぞ。こんな奴がいるなんて」

「奇遇だな。僕も聞いてなかった」

「だが幸いお前は私について何も知らない。お前にとっての私は、ただ、一人弁当を食っていただけの女だ。阿良々木、お前は何をもって私をどうしようと言う?……ふふふ、武偵は融通が効かない。理解したらさっさと放せ。今日の所はこれで引いてやる」

「いや、ここ立ち入り禁止だし見逃すわけないだろ。周りの状況見てみろよ。地下倉庫じゃなくて地下冷蔵庫になっちゃってんじゃねえか。どうするんだよこれ。こんな凍った弾丸持って帰ったら僕の上半身がなくなっちゃうわ」

「くっ……ならば私も騎士だ!好きにしろ!」

「儂、漫画でこの台詞読んだぞ」

 

 しかし残念ながら殺しの許可は下りなかった。

 あと、このジャンヌは知らないが、1代目ジャンヌは騎士ではなく軍人である。

 さて、どうしたものだろうか。一戦交えたとはいえ、涙目で「このこのぉ」両手をフリフリする彼女をどうにかする胆力があるかと聞かれても首を横に降るしかない一般人としては困るばかりである。

 白銀の騎士による珍妙なダンスをしばし鑑賞した忍が口を開いて提案すること曰く、

 

「よし、犯すか」

「いや駄目だろ」

 

 見ろよ。この冷気の中でも一切震えを見せていなかったジャンヌ・ダルクちゃんがガクガク震えちゃってんじゃん。

 なんかもうバイブモードみたいになってるよ。

 

「しかし、好きにしろと」

「そういう意味じゃないから……いや、そういう意味なのか?」

 

 顔を真っ赤にして必死に顔を横に振られる。

 ですよね。

 

「まあいいや。取り敢えず何してたかくらい教えろよ。それを聞かなきゃどうしようもない」

「なら一生話さない」

「なら僕も一生離さねえよ」

「ヶ原さんにチクっても良いか?」

「そしたら僕はドスられて、一生ミスド行けなくなるからな?」

「墓場まで持っていくと約束しよう」

 

 忍に墓場ってあるのか?

 道のりが長すぎてポロポロ落としそうだ。

 

「じゃあ目的とか話さなくていいから超能力者って世界にどれくらいいるのか教えてくれよ」

「……そのぐらいならいいだろう。武偵でいえば、私は少なくとも10人の超偵を知っている。大体が歴史に名を刻んだ傑物達の末裔だ。超能力者と言ってもその性質はまちまちだし、信仰や契約による異能力もあるから一概にはいえんがな。それにそもそも人間じゃない奴らも多い」

「人間じゃない?それは怪異とかってことか?」

「カイイ?とは何か分からんが日本で言うところのモノノケや妖怪といえば分かりやすいだろうか。言ってもどうせ信じないと思うが私の最も身近な人外は吸血鬼だ」

「……へ、へぇ」

「そういう反応になるから言いたくなかったのだ。……だが、実際、アイツの姿を見ると逆に私も信じがたく思えてくるよ。吸血鬼なのにニンニクを含め好き嫌いなく食べるし日光浴を楽しむ。血液こそ同一型のものしか受け付けないらしいが、それでもあれはもはや人外の域すら超越し始めているよ」

「……。そんなに凄い怪異なら、やっぱり細切れにしても生き返ったりする不死身だったりするのか?」

「いや、それはないだろう。あいつらにはどうあがいても逃れられない魔蔵があるからな。あれがなかったらど──……」

 

 急におし黙るジャンヌ・ダルク。僕は眉をひそめる。

 瞬間、本当に瞼を閉じて開けたような意識の合間。

 そんな意識の境を縫って剛音が響いた。

 

 爆音。

 

 うなるような低音からHiHiHiAを超える認識外の高音まで全ての音階を叩きつけられたかのようなまさに爆音。

 全人類によるつんざくような悲鳴のようだ。

 

「「──!!」」

 

 忍は影に逃げ、ジャンヌはいつのまにか僕から逃げ出していた。

 

「どうやら、迎えが来たようだ。ここらで失礼するよ。もう2度と会わないことを期待してサヨウナラ、とでも言っておこうか」

 

 涙を流して耳を抑える僕にそんな声が聞こえるはずがなく。気づいた頃にはダイヤモンドダストも床一面に広がる薄い氷もなくなり、地下室に一人。

 僕が涙ながらに跪くのみとなっていた。

 

「はあ、はあ。……ッ!かひっ」

 

 湿気の戻った火薬室で爆音の後遺症に喘ぐ。

 

「かひゅ……あ、あー。あああああ!ああ。ああ……ふぅ」

 

 ややあって、一息つく。

 

「……やられたの」

「なんだったんだ、アレ。地球が割れたと思ったわ」

「どこかのタイミングで救助でも頼んだのじゃろう。流石あの大々的な処刑を免れた者の末裔なことはあるな」

「……見て来たように言うじゃないか」

「見ておっても不思議じゃないじゃろう」

 

 ジャンヌ・ダルクが処刑された日は1431年の五月。

 こいつが約600歳だとすると確かに不思議じゃない。

 ジャストのタイミングと言ってもいいかもしれない。

 

「想像してみたが、あんまり良い気分はしないな」

「勝手に自殺されるのと勝手に殺されるのはどちらが辛いのか。どこかの誰かの戯言を思い出したわ」

「そりゃあ殺される方が嫌だろ」

「……そうかもしれないの」

 

 忍の過去、一国総自殺という現代日本のスローガンから真逆に突き進んだ経験を考慮したとしてもそれは変わらないと思うのは僕の間違いなのだろうか。

 ……いや、忍の場合。その原因を押し付けられてもいるのか。

 想像もできない。

 

 他人に尽くして他人に殺される身も、他人に尽くされて他人に殺させられる身も。

 想像したくない。

 

「……フランスの聖女ジャンヌ・ダルク、か。いつから銀髪の血が混ざったんだろうな」

「ロシアの方に逃げたんじゃろ」

 

 氷漬けならぬ氷付けられた腰を上げ側に落ちていた緑色のゴミ袋を拾う。

 ひと段落ついてもこの世界に居残っているようだったらSSRに行ってみたいな。

 適当に弾が入れられた木箱を手に取り僕は呟くのだった。

 

 白い吐息は、もう出なかった。

 

 

 話はもう少し続く。

 いや、正確にはまだ始まってすらいないのだが。

 

 その後、適当に弾を詰め込んだゴミ袋を職員室前に置いた僕は(地上までの運搬作業は忍に手伝ってもらった)もう帰っても良いんじゃないかと思いながら廊下を歩いていた。

 

「あややや!やっと見つけたのだ!」

「……平賀?」

 

 幼女に話しかけられるとは珍しい。

 会話のスタートが抱きつくじゃない違和感を感じつつも応対する。

 ……探していたとは、一体何事だろうか。

 ぷくーっと頬を膨らませて精一杯『怒ってます!』と訴えてくる。

 子供らしさがあざと過ぎて何かあるんじゃないかと疑ってしまう僕はきっと八九寺に毒されているのだろう。生を得て僅か20年余りで神にまで到達してしまった、きっての早熟乙女に。

 

「悪い」

「本当なのだ!」

 

 多分、さっき会った時にまた後で行くとでも約束してたんだろう。

 微妙に違うにしても瞬き信号を知らない僕にしては奇跡的な勘の働き方を以って僕はそう結論づけた。

 

「そういえば朝に後で行くって言ってたな。ごめん。完全に忘れてたよ」

 

 ぞわり、と背中に悪寒が走った。

 寒気なんかじゃあない。

 これは強烈な予感だ。

 羽川と初めてあった時も戦場ヶ原の時も感じたあの感じ。

 キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと遭遇した時と同じ。

 本能の訴え。

 

 聞き逃すな。

 然りと受け取れ。

 受け止めろ。

 これが産声。

 お前の始まりの嬌声。

 

 

 

 

「何言ってるのだ?さっきまで一緒に話をしてたのだ!」

 

 

 

 

 遂に始まる物語。

 未知との遭遇は、既知との遭遇だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【001-AA】

【001-AA】

 

 

「帰ってきたのか、あの人……」

 

 体育館に備え付けられたトレーニングルーム。生徒からはマッチョルームの名前で親しまれているこの部屋で、一年強襲科(アサルト)Aランクの火野ライカは体育館の入り口を見てつぶやいた。

 隣でガチャコンと背筋を鍛えていた間宮あかりは不思議そうな顔で尋ね返す。

 

「あの人?」

「ああ、そうか。あかりがここに来た時にはもういなかったっけ」

「……うん? あれ? 前にもこんなやりとりしなかったっけ?」

 

 遠山キンジがアサルトに復帰した時のことだろう。

 しかし、どうして様子が違うとアカリは察する。

 アカリがライカの視線の先に向ければ、確かに見慣れない男子生徒がいる。少し緊張しているのか、ぎこちない動きで体育館の端を歩いていた。

 かえって、周りを見れば数人の生徒──恐らく上級生が入り口を見ている。しかし、その内の誰も入り口に行こうとしない。

 

(遠山キンジ……先輩が帰って来た時は大騒ぎだったよね……?)

 

 体育館の雰囲気はかつての時のように盛り上がることはない。それどころか、どんよりとした圧力が徐々に蔓延している気がする。

 歓迎ではない、それは明らかに責めるような──。

 ライカちゃん、と声をかけようとしてアカリは声を引きつらせた。

 

 怒ってる。アカリは息を呑む。

 

 荒っぽい性格だけど、義と正義と可愛いを大切にする友達想いなライカ。その彼女が見たことない位、噛み締められた口元に歪んだ顔をしている。それを隠そうともしていない。勝気なつり目がさらにつりあがった彼女の顔は一般市民が見たら卒倒ものだろう。

 

 思い返せば先の発言も少し震え気味だった。

 あれは怒りからくるものだったのか。

 けど、なぜそんなに怒りをあらわにするのか。

 泡のようにアカリの心内には疑問が浮かび弾けていく。

 

「──ライカちゃん?」

 

 忿怒の情を隠そうとしない彼女にこうも話しかけられるのはアカリの女人望たる所以なのだろう。

 戸惑いながらの呼びかけは、幸い功を奏したようで、ライカは相好を崩す、とまではいかないまでも冷静さを取り戻した。

 ふぅ、と一息ついた彼女は手に持ったダンベルを下ろして座り込む。

 そして小さな声で謝罪した。

 

「……悪りぃな」

「気にしてないからいいよ。それで、えっと、あの……」

「あの人──阿良々木暦先輩のことだろ?」

 

 阿良々木暦、先輩。

 アカリは小さく呟く。

 髪は長く、体系はやや痩せ型。背は男子にしては小さい。

 世間より平均身長が高い武偵の世界ではやや珍しいタイプの武偵。

 

「ニ年Cランク強襲科(アサルト)。実力はニ年の平均よりやや高いくらい。Aランク装備科(アムド)(あや)先輩の窓口として有名……だった先輩だよ」

「文先輩って、この学校のAランク以上の大半がお世話になっているあの文先輩のこと?」

 

 違法改造さえなければSランク確実な才媛と名高い先輩だ。

 アカリはそんな先輩の元で働くなんて、阿良々木先輩はすごい先輩なんだなぁ、と能天気に考える。

 

「……ん?けど、Cランクなら私と一緒じゃん!」

 

 そして、そんな先輩と同格なことに気付いたアカリは喜色満面の笑みを浮かべた。

 彼女は確実なステップアップを変なところで感じていた。

 

「あれ? なんでライカちゃんさっき『だった』っていったの?」

「ようやく気付いたか、うりうり」

「きゃっ、髪が乱れちゃうよぉ」

「愛いヤツよなぁ」

 

 口端だけを上げて笑みを表現したライカはアカリをひとしきりいじり倒して、話し始めた。

 なぜ、かの先輩がアサルトから良い顔をされないのか、その事情を。

 

「あの先輩はな、『仲間殺し』って呼ばれてるんだよ」

「へっ?」

「『仲間殺し』。まあ、平たく言えば、あの先輩とチームを組むと必ず『重症、ないしは退学するような事態』になるんだ」

「……それは、阿良々木先輩が弱いってこと?」

「いんや、実力は中の上だって言ったろ?そうじゃないんだ。……そうだな。アカリは聞いたことないかもしれないけど、あたし達みたいな奴等の世界には何人か存在の真偽すらの怪しい人物がいるんだよ」

 

 アカリは一瞬考えて応える。

 

「へえ……緑松校長みたいに?」

「ぶっ!い、いやっ。そうじゃない。例えるなら聖徳太子みたいなもんだ」

 

 ツボに入ったのかケラケラとライカは笑う。

 アカリはむー、と頬を膨らませて話を促す。

 

「悪い悪い。そんでな。そんな人達の中に『無為式』って呼ばれる人がいるんだよ」

「無意識?」

「違う、無為式。無為混沌の無為に方程式の式って書いて無為式。まあ無意識とのダブルミーニングでもあるからそこはどうでもいいんだけどよ。とりあえず、そう呼ばれている人がいるんだよ」

「ふうん。その人はどのくらい強いの?」

 

 アカリは同じく二つ名を持つ自身のアミカを思い出す。

 

「……さあ?」

「へ?」

「分からない、いや、正確には分かることができない。『無為式』っていうのはそういうものらしいからな」

「んん? どゆこと?」

「存在しているのか、武偵なのか、人なのか。そういった基本的な情報が喪失しちまってるんだよ。あたしの推測が正しければ多分、そんな『些細な』こと気にする必要なくらいにその『性質』の方が悪名高いからなのかもしれないな」

「些細?性質?悪名?」

 

 小首を傾げるアカリにリスを幻視してライカは思わず微笑む。

 

「『ムイシキ』ってのはな。『無意識』に、そして『無為』に『(のっと)る』っていう、そいつの性質をそのまんまストレートに表した(もの)なんだよ」

「ライカちゃん、わざと難しく言ってない?」

「……あー、そうだな。例えば社会が歯車仕掛けであたし達がその歯車だとするだろ? あたしの歯車の歯の数が60、アカリのが30ってな調子でな。いや、無駄歯も考えて61と30にしようか」

「無駄歯?」

「互いの歯車が壊れないように歯を一つ増やすんだ。つまり、あたしとアカリの関係に思いやりを挟む(プラスワン)ってことだな」

「ふーん、じゃあ60と30の時はお互いずっと本心で接し合ってる状態ってこと?」

「そう。そんな状態だと始めは良くても、直ぐに相手が嫌になっちゃうだろ?……そんで、言っちゃえば、その『無為式』って奴はな60の歯車なんだよ」

「ん?」

「そして、タチの悪いことに、問答無用であたしの歯車を60に変えちまう。始めはなあなあに上手くやってるんだけど、段々と雲行きが怪しくなっていて、気付いたら周りは破損した歯車ばかり。残ってるのは『無為式』だけってな」

 

 より詳しく言えば、『無為式』は自分が代理品だと誤解しているがゆえに、どんな所でも一旦は収まってしまう。

 そのことが更に性質を悪にしているのだが、ライカは今は言う必要はないと判断した。

 アカリは『ふーん』と分かったような分かっていないような相槌を打つ。

 

「けど、それが阿良々木先輩の何と関係あるの?もしかして先輩がその無為式? とかいう人なの?」

「いや、違う」

「えー!じゃあ、なんの話だったのこれ!」

「あははははは!」

「うがーっ」

「あははははは!」

「笑いすぎだよっ!」

「くく。いやな、阿良々木先輩はな、さらにその数段タチが悪い。許せないくらいに、タチが悪いって話なんだよ」

「あ!わかった!阿良々木先輩は『無為式』なんじゃなくて『有為(うい)式』なんだ!」

「それは別にいる」

「いるんだ!」

 

 アカリ、さっきから叫びっぱなしである。

 余談だが、『無為式』と『有為式』の違いは、天然か人工かの違いだ。

 

「阿良々木先輩はな──」

 

「おい、後輩。さっきからうるせえぞ」

 

 どすの利いた声が二人に刺さった。

 

「ひゅっ」

 

 アカリが短く息を吸う。

 周りを見れば、上級生も同輩も、マッチョルームにいた全員が間宮アカリと火野ライカを見ていた。

 

(やっちまった!阿良々木先輩タブー具合を図り違えた)

 

 ライカは内心舌打ちをする。

 そっとアカリの腕を引っ張り上げた。

 

「……すんません。行くぞ、アカリ」

「えっ、ちょっ?ライカちゃん?」

「ちっ」

 

 憎々しげに睨まれた二人は逃げ出すようにマッチョルームにを出た。

 そして、体育館の出口へ向かう。

 途中ですれ違った阿良々木暦の顔には余裕ありげな笑いの表情が浮かんでいた。

 

 アカリは不思議そうに一瞥し、ライカは苦渋の表情を晒して体育館から出ていった。

 

 

 そう遠くない日の出来事だった。




【解説】

《無為式》
……元ネタは西尾維新のデビュー作より、主人公《いーちゃん》の異名から。

《無駄歯》
……歯車を組み合わせる時の工夫の一つ。
ずっと同じ歯同士が当たり続けると摩擦による歯の削れ具合に特徴が出てしまい、直ぐに歯車がダメになってしまいます。
そのため、お互いの歯車の削れ具合を一定にするため、なるべく同じ歯同士が噛み合わないように片方の歯に一本足す工夫を施します。
全ての歯車仕掛けに使えるわけではないので注意が要注意。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

014-B

「──【影法師】。『ドッペルゲンガー』の名前の方が世間では浸透している。その時々によって『自己像幻視』という超常現象であったり、『離魂病』という病気になったりする、なんともまあ、定義からしてアヤフヤな怪異じゃ。アヤフヤでなくなった時が最期じゃと考えると、そのアヤフヤこそが本質とも言えるかもしれんがな。……まあ、概要としてはそんなところかの」

「ドッペルゲンガーねえ。都市伝説の怪異って聞くと、なんだか今まで遭った怪異よりずいぶん身近に感じるな」

 

 春先のビル風が足を冷やしていく午後8時。

 僕は忍と先の出来事について話し合っていた。

 平賀から聞いた、あの不可解な話についてだ。

 

「ちなみに都市伝説ではなく、地方民話において離魂病は『自身が妖怪であることに気づいてない者』のことを指す用語として度々出てくる。轆轤(ろくろ)首の風土記が有名じゃの」

「ふうん。それが病気ってやつか。……ええと、ドッペルゲンガーって他人を巻き込んだメリーさんみたいな話だったよな?もう一人の自分が好き勝手に動いているという話を沢山聞いて、最後にはドッペルゲンガーと出会って終わるって感じの」

 

 都市伝説らしい、雑な余韻を漂わせる終わり方が印象的だ。

 丁寧にバッドエンドを描写されても困るが、古典話が持つ筆の払いのような終わり方に比べるとどうもそれが浮き彫りになっている気がする。

 筆ペンとマジックペンの違いのような。

 

 人伝いの物語が体をなしている時点でそれはもう一つの怪異現象であるけれど、それはそれ、といったところなのかもしれない。

 

「微妙に違っており、しかし概ね合っておる」

「適当なことを言った自覚はある」

 

 そうか、と忍は相槌を打つ。

 そして「しかし、解せぬ」と、苦々しげに吐き捨てた。

 僕はソファの背に体重を乗せて聞き返す。

 

「解せぬ?」

「お主も聞いておったであろう?あの銀髪娘の話を」

「そりゃあ話していたのは僕だから聞いてはいたよ」

「あの時のお前様は無自覚にミラクルを起こしていた。砂鉄しかとれぬ砂場で砂金を探り当てるような奇跡。端的に言うならば、儂らに対して果てしないほどのアドバンテージをもたらす情報を聞き出していた」

「情報? なんのことだよ」

「儂らが知っておくべき『この世界と儂らの世界の差異』じゃ」

 

 僕の膝の間に挟まって体を揺らす忍。

 今の彼女はすこぶる機嫌がいい。

 帰り道に見つけたミスタードーナツで好きなだけドーナツを買い与えたお陰だろうか。

 自分の金じゃないと思うとつい、財布が緩んでしまった。

 僕の夕飯も兼ねているからいいけどさ。

 忍はポンデリングを玉の数だけ千切り小さな口に運ぶ。

「これはその情報からの推測じゃが」と前置き、

 そして告げた。

 

「この世界の『怪異』──ここはあやつに倣い『神仏妖怪』と称するならば、その『神仏妖怪』と儂らの世界の『怪異』。この二つは似て非なるモノ、否、完全な別物である可能性がある」

 

「……『神仏妖怪』ってジャンヌ・ダルクの言っていた、この世界の吸血鬼のことでいいんだよな?」

「うむ。あの魔剣自体もそうじゃな。あの時は流れに乗って軽口を叩いてしまったが、改めて考えると聖剣がたった数世紀の内に魔剣にまで身を落とすとは、考え辛い。否、考えられない。ならば、あの魔剣がそもそも『儂の知っていた聖剣とは違うものだった』と考えた方が合理的と言えよう」

 

 そうなれば、魔剣(デュランダル)はこの世界固有のアイテムになり『神仏妖怪』の類に分類される。ということか。

 

「ならさ、ジャンヌが意図的に性質を歪めた可能性はないのか。自然に堕ちるまでもなく落とされたってことは」

「──いや、だとしたら余計おかしな話じゃろう。なぜ聖剣という、唯一無二の自己同一性を捨て、たかだか自らの異能に相性のいい剣に仕立て直す必要があるのじゃ」

「……ううん。僕は聖剣の希少価値を知らないけれど、そう聞くと確かにそんなことする意味はないかもしれないな。けどさ。だけどさ、それがどうしたっていうんだ?その『神仏妖怪と怪異の違いが』どうしたっていうんだ?」

 

 一体それのどこが重要な情報だというのだろう。

 

 忍が吸血鬼としてのメリットデメリットを極限まで特化したタイプなら、ジャンヌ・ダルクの話した吸血鬼は汎用性を極めきったタイプ。

 本人にすれば大きな違いなのかもしれないが、僕からすればどちらも規格外なことには変わらない。

 忍が知っている怪異だろうが、見慣れない神仏妖怪だろうが、人外であることにそう違いはなくて、相違ないはずだ。

 

 ややこしくなってきた話にぐるぐると目を回しそうになる。

 くるりを僕を見上げた忍は、そんな僕を見下すように笑った。

 

「かかか。大いに違っておるわ。寺と社ほどに違う、御門違いじゃ。……良いか? 何度も言うたように、怪異は人間の裏舞台、舞台裏じゃ。その上、あろうがなかろうが事足りてしまう類の【現象】でもある。そしてそれ故に、通常交わることはない幻想でもある」

 

 遭わない限り、か。

 

「だが恐らく、かの吸血鬼を始めとした神仏妖怪は違う。遭うまでもなく、会えてしまう。おはようと挨拶して、辛苦を共にできてしまう。巷説伝説小説なにもあったものではない。儂らからしたらまるでファンタジーじゃ」

 

 ファンタジー、ね。

 いろいろ思うところはあるけれど、少なくともホラーであるよりは幾分マシだ。

 つまり『神仏妖怪』は表舞台、あるいはそこに近い場所にいる存在で『怪異』とは性質を全く異にするものだということなのだろう。

 少しの疑問は残るが概ね納得した。

 

「ぶっちゃけ存在が違うのじゃ。性格が違って格が違う。次元が違ってコンテンツが違うのじゃ。儂らを概念・現象と見立てるなら彼奴らは紛れもない物体。剣で突かれて苦しみ、銃で撃たれて死ぬ生物じゃ。根本からして繋がっておらん。系譜を異にしておる」

「その言い分だと、この世界の異形がまるで人間と変わらないと言っているように聞こえるけど良いのか?」

「そう言っておるのだからそう聞こえて当然じゃろう。これに関しては軽薄な小僧もイキって同意すること間違いなし、なのじゃ」

「忍野が……」

 

 わざわざその名を持ち出すということ本当にそうなのかもしれない──って、あれ?

 

「……ちょっと待て。それならおかしくないか?

 

 

 ──ならなんで、この世界に『怪異』がいるんだ?」

 

 

 まさか、『神仏妖怪』と『怪異』が混在する世界なのか?

 いやいやいや。なんなら超能力が立派な一つの学問として認められている世界だぞ。

 ならば、超常は人間と同じ──表舞台に存在していると考えたほうが自然だ。

 この世界に『神仏妖怪』と『怪異』の2パターン存在するとは考えにくい。

 その方が矛盾がなくて、おかしくない。

 

 ああ、なるほど。

 

 だから──解せぬ、なのか。

 ようやく、僕の思考が忍に追いつく。

 

「勿論、今回の件が『怪異のドッペルゲンガー』ではなく『神仏妖怪のドッペルゲンガー』である可能性は十二分にある。それに重ねて推理すれば、『ドッペルゲンガー』が人為的なもの──例えば極めて精巧な変装じゃったとか──の可能性だってある」

「僕に変装する理由がわからない」

「発明娘のバイトを騙って詐欺を行うためとかはどうじゃ?」

「僕が携帯を持っている限り、その可能性は低い」

 

「まあ、なんにせよ。儂らがこの世界に来てしまった理由が今回の異変にあるかもしれん。明日からは気をつけたほうが良いじゃろう」

 

 もしも今回起きた怪奇現象が現象のまま解決に向かうなら、そこに帰還への鍵が落ちているに間違いない。

 さしあたっては、平賀に事情聴取してみるのが手っ取り早いだろう。

 忘れかけていたが、銃の交換もしなければならないし。

 銃か……。

 少なくない日数を過ごさなければいけない以上、授業を見据えてある程度は打てるようにならなきゃいけないだろう。

 

 百発百中は無理だとしても攻めてその半分。

 半人前であれるように頑張ろう。

 

 情けない決意を固める僕を他所に、忍は眠そうに一つ欠伸をすると、

 

「まあ、犯人は現場に戻ってくるとはよく言ったものじゃが、いくらなんでもこんな学校を舞台にしておいて、昨日今日で戻ってくるなんていうことはないじゃろう」

 

 と最後にぼやくと影へと潜っていった。

 ずいぶん急に寝入ったなぁ。と思ったが、特に挨拶をすることもなく僕はそれを見送った。

 

「……あ、ドーナツ全部食われてる」

 

 そんなオチもついた所で今夜は就寝。

 

 そして、翌日。

 起きて、翌朝。

 

 僕は数時間と経たない内に知ることになる。

 僕を相手取っていた犯人は随分と手際が良いことを。

 そして、すこぶる手癖が悪いことを。

 僕相手にその行動力は役不足だろうに。

 

 朝起きたら、僕の携帯がなくなっていた。

 

『僕の』とは、この世界の僕の方だ。

 つまり、平賀あやの顧客情報が入った重要端末が盗み出されてしまった。

 不思議なことに忍を起こして確認してみたが『足音はしなかったし、儂とお前様以外の匂いは絶対にしていなかった』と断言された。

 自室の鍵はキチンと施錠されていたので、僕が無くしてしまった可能性もある。が、いくら探せど携帯は出てこない。

 

 推理小説でよくあるパターンとして、犯人が部屋のどこかで隠れてやり過ごそうとするというものがあるので、一応床下から天井裏まで探してみたが、何一つとしてめぼしい発見はなかった。

 

 部屋の外では神崎と遠山が怒鳴りあう声がしている。

 痴話喧嘩か?

 だとしたら、遠山も随分罪深い性癖……好み……傾向……。

 ロリコンなんだな。

 

 忍の話を信じれば、遠山は昨日この部屋で寝ていないようなので、携帯について知っていることはないだろう。

 

 半刻あたりかけて、粗方探せそうなところは探し切った僕は、覚悟を決め、甲高い神崎の声が響くリビングへと足を向けた。

 躊躇いはあったが、不思議と、喧嘩の中に入ることに嫌悪感は感じなかった。

 

「おはよう」

 

 多分聞いてないんだろうなあ、と思いつつドアを開けて挨拶をする。

 ビュン!と空を切ったような挨拶が返ってきた。

 鉛玉。

 

「こわっ」

 

 思わず戦く。

 壁にめり込んだ金属片。

 銃口から煙を上げた発砲主はギラギラとした目でこちらを見てる笑った。

 

「いいところに来たわね、阿良々木暦!その根暗唐変木昼行灯男を捕まえ(arrest)しなさい!」

「は?」

「や、やめろ阿良々木!こいつに耳を貸すな!」

「ん?」

「この男は依頼人に手を出す不届き者よ」

「事故だって言ってんだろうがっ!」

 

 なんだ、やっぱり痴話喧嘩じゃないか。犬も食わんな。

 ぴょんぴょん跳ねまわる神崎は目の毒だし、目の前で行われる会話は耳に毒だ。

 Follow me!と言われても、僕なんかは、彼女が戦場ヶ原ひたぎでないだけ温情に溢れていふれていると思ってしまうので、両者二肩入れをすることがイマイチできない。

 仕方がないので、銃はやめてくれと言うに留めてコーヒーをすすることにした。

 

 ……あれ?

 あれれ?んんん?

 むむ?……え?

 

 テーブルに僕の携帯が置かれている。

 スピード解決にしたって、早すぎる。

 なあんだ、こんな所に書き忘れていたのか。とは流石に考えられない。

 

 見つかった携帯の様子にしたっておかしい。

 

 かけておいた目覚ましは解除されているし、なんだか妙にボロボロだ。

 おまけに着信履歴が残っている。

 かかってきた時刻は昨晩の10時。

 僕がまだ寝てもいなかった時間帯。

 気付かないはずがない。

 

 着信元は……!?

 

 何故──から着信がきている?

 こんなアドレス、というか──の連絡先なんて持ってなかったはずだ。

 念のため、再び携帯に入っている連絡先を確認する。

 しかし、安心院(あじむ)から始まり於菟街(をとまち)に至るまでの中に、前回との違いは何もなかった。

 追加も、減りもしない。昨日の携帯の中身そのまんま。

 違いはひとつ、この着信だけだ。

 

 ……かけ直す?

 いや。

 

「……止めておくか」

「何を辞めるんだ?」

 

 制服をボロボロにしつつテーブルに着席した遠山が不思議そうに聞いてくる。

 

「武偵」

「まじで?!」

「なんでちょっと、嬉しそうなんだよ」

「い、いやなんでもない……はは」

 

 なんで残念そうに笑うんだよ。

 まさか、ルームメイトにまで毛嫌いされているとは。

 神崎がこちらを見て眉を潜めているのが目に入った。ちらりと彼女を見返すとわざとらしく慌て、誤魔化すようにコーヒーを口に含み、熱さでヒーヒー言い始めた。

 こっちはこっちで分からない。

 

 尤も、分かる気もないのだが。

 

「そういえば、今日の予定はもう決まってるか?」

 

 僕が聞く。

 

「特に」

「なっ──!」

 

 しれっと答えた遠山に信じられないといった表情の神崎。

 なるほど。

 喧嘩はまだ継続中、と。

 

「そういう阿良々木は何か予定あるのか?」

「そうだな、少し強襲科のことを勉強し直そうと思うんだが、教科書とか参考書とかオススメは何かないか?」

「なに一般中学(パンチュー)出身の新入生みたいなこと言ってんだ、そんなもんあるわけないだろ。強襲科はそんなもの読んでる暇あったら体鍛えるべしって場所だろ」

「とんだ脳筋集団だな……。まあ、僕はインテリ系目指してるから」

「……」

 

 最後の沈黙は神崎のものだ。

 何か思案するように顎に手を当てて僕を見ている。

 何を勘付かれたのだろうか。

 こういう腹の探り合いは苦手だから、下手に突かれる前に逃げるべく「おおっと、時間だ」なんていいながら席を立つことにした。

 早い話、遁走だ。

 

「おおっと──「ちょっと待ちなさい、コヨミ」はい」

 

 無理だった。

 麻痺したように浮かせた体が固まった。

 

「あんた、何か隠してるわね」

「……武偵は秘密を持ってなんぼだ」

「アリア。武偵同士でそれはタブー「知ってるわ」はい」

 

 遠山が謝罪するようにこちらを見る。

 僕は気にするな、とジェスチャーをして坐り直す。

 神崎に向き直る。

 

「……コヨミ。あなた一体何を隠してるの?」

「言わなきゃいけないのか?」

「言いなさい」

「なぜ?」

「私達の任務クエストに影響するかもしれないからよ」

「にんむ……ああ、『星伽白雪』に関する依頼か。それなら全く関係ないから安心していい」

「証拠は?脳筋の強襲科でも当たり障りない概要くらいは言えるでしょう?」

「おい、強襲科Sランク」

 

 遠山はぼやくようにツッコミをいれる。普通につっこむには胆力が足りないらしい。

 それに対して神崎は「私はオルメスだからいいのよ」と一切悪びれない。

 なんだか力関係が見えるな。

 

「そうだな。神崎はどんなことのどんな内容をどんな風に言って欲しいんだ?」

「ナンセンスな質問ね、コヨミ。そんなこと自分で考えなさい」

「神崎はどんな料理が食いたいかと聞かれてなんでもいいと答えるタイプだな」

「惜しいわね。私の食べたいものを察しろと命じるタイプよ」

 

 思ったより傲慢だった。

 アリアは毅然として続ける。

 

「それにその手の質問は料理を作る方も考えることを止めているじゃない。その点を棚に上げている時点で、その質問は意味をなしていないわ」

「なら、問いかけを変えようか。……僕の事情をどのように推測している?」

「そうね、あなたが今『事情』と口にした時点で、武偵高経由の依頼クエスト関連ではないことは確定したわ。勘も含めた推測を披露するなら、おおよそ『アンタの身に何かが起こって、どうするべきか迷っている』ってとこかしら。……だから、コヨミに尋ねたいことは『コヨミに何が起こったのか?』ってことよ」

「……なるほどね」

「否定しないのね」

「神崎が反応を伺っていたからな」

 

 嘘です。図星だったからです。

 目を閉じて思案するふりをする。

 

(武偵という人種がどういうものなのか少しわかってきた)

 

 神崎が話している途中、彼女を窘めていたはずの遠山が僕を舐めるように捉えていた。その大胆不敵な態度にピンと来る。

 よく警官が使う、飴と鞭の応用だ。

 鞭が神崎アリアで飴が遠山キンジ。

 どうして、なかなか性格の良い奴らじゃないか。

 遠山が自分のことをEランクだといっていたが、それでも一般人よりは手馴れているようだった。

 

『あれあれ?先輩。もしかして、こんなこと考えていませんか?』

『阿良々木くん。あなたが今考えていることはなんとなく想像つくけれど、私は超能力を持っているわけでも特別頭が冴えているわけでもないの。ましてや、なんでもなんて──』

『おねーさんはなんでも知っている』

 

 だがしかし、僕の置かれていた環境はお世辞にも一般的とは言えない。

 見透かしたような奴や見透かした奴。

 察しが良すぎて未来が見えちゃうのような人種を沢山知っている。

 

 だから、今、ここで、僕が。

『一般的』という、出来損ないな僕が。

 何をいうべきなのか。

 それはあまりにも、簡単なのことだった。

 

「秘密」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

015-B

『可もなく不可もなく』というフレーズがある。

 

 このフレーズを初めて聞いたのは僕がまだ、幼稚園の頃だった。

 良いも悪いも、酸いも甘いも、右も左も分からない阿良々木少年は、しかし、幼いながらもその言葉の意味を掴んでいた。

 そして僕は、決して良い意味ではないそのフレーズの発音具合が、舌触りと耳障りがなんとなく好きだった。

 

『可もなく不可もなく』。

 

 正義に振り切った両親。

 やんちゃ過ぎるほどに御転婆だった妹達。

 

 そんな家族の中で過ごしてきたせいか、幼い僕はおさないながらもこうはなるまいと密かに決意を固めていた。

『可もなく不可もない』。

 そんな人間であろうと思っていた。

 

 結局は、家族に反対する自分に反抗してしまい、周りより些か振り切った行動をとるようになってしまったが、それでもやはり、僕の根底にはそのフレーズがあるらしい。

 

 佇むにはやや長過ぎる期間。

 横たわるには怠けすぎな時間。

 潜伏期間なのか、どうなのか。

 表面化するのかしないのか。

 

 今日もそいつは可もなく不可もなく僕に影響を与えているのだった。

 

 ただ、それだけの話だった。

 

「……なんていうか、中途半端なだけな気がしてきた」

「ランクもCだしちょうど良いのだ」

 

 丁度良い中途半端ってなんだよ。

 

 あの後、あの一言だけにしておけば良かったものを「勘と詰問だけじゃ真理にはたどり着けないんだぜ、ホームズ君」とおちゃらけてしまったが為に神崎に痛烈な強打を鳩尾に貰い、ほうほうと逃げ出すことになった。

 熱心なシャーロキアンなだけあって、ホームズジョークでバカにされるのは彼女の怒りの琴線に触れたらしい。

 

 しかし、怒るとすぐに手が出るのは流石Sランク武偵といったところだろうか、こうなると取り残してきた遠山に被害があっていないかが心配だ。

 などと、とりとめのないことを考えながら男子寮を出るとばったり平賀に出会った。

 

 狙っているんじゃないかと疑うほどの遭遇率に、

 『犬も歩けば棒に当たる』

 そんな諺が頭をよぎった。

 予想外の出会いに僕が「あっ」と声を出し、しばらく停止していると「ちょうど良かったのだ」と平賀に手を引っ張られた。

 

 そうして現在、僕は平賀のラボに来ているのだった。

 

「はい、これ。約束の品なのだ!」

 

 乱雑に積み上げられた鉄塊の山に平賀は上半身を突っ込み、ゴソゴソと何かを掴み取みとると振り向き様に差し出した。

 なにを差し出したのかと目をやる。

 

「……約束?なんかしたっけ?」

「ファイブセブンと交換する約束なのだ!」

「平賀お手製の銃と交換であってるよな?」

「うん!だからこれを受け取るのだ!」

 

 取り出したのは銃だったのか。

 差し出されたグリップを握ると気持ち悪いほどに手に馴染む。まるで粘着質な粘性の水を掴んでいるみたいだ。

 

「グロッグ17、か?」

「んん?結構外見を変えたのによく分かったのだ。そう、これはあやや渾身の改造銃なのだ!」

「へえ。思ったよりしっかりしてるんだな」

 

 インターネットで調べたら、プラスチックが所々使われていると書かれていたからどんなものなのかと思っていたが、中々重厚的な外見に仕上がっている。

 

「それに、見た目の割に結構軽いんだな」

「良いところに目をつけたのだ。この改造銃は今まで阿良々木君が使っていたグロッグ17とは違ってプラの部位はC/Cコンポジット、つまり炭素繊維強化炭素複合材を用いているのだ。だから丈夫そうな見た目の割に軽く感じるのだ。グリップも阿良々木君に合わせて掘り抜いたから力が入り易いはずなのだ!」

「ああ、って掘り抜いた?」

「なかなか手間のかかる作業だったのだ」

 

 個人に合わせて削り出すなんて正規の職人さんにたのんだら、それだけでウン万円取られるだろ。

 採算見合ってるのか?

 

「それで、改造銃ってのはどういうことなんだ?」

「うーん、今回は安定性の向上を意識してたから派手なギミックはないのだ。……あ、けど改造の結果この銃は普通の弾倉(マガジン)は使用できなくなったのだ」

 

 それを人は退化という。『けど』ってなんだよ。

 確かに改造であって改良、あるいは改善とは言っていなかったけれど。

 そこはAランクの意地を見せて欲しかった。

 本音を言えば、素人でもCランクの実力を持てるような、そんな不思議アイテムに改造して欲しいところではあった。が、それは叶わぬ期待だったらしい。

 

「勿論、他の市販のマガジンだって受け付けないのた!」

「やっぱり不良品じゃん」

「違うのだ!……ええと、つまりその、この銃はあややの作ったこの特製マガジンを使わなきゃいけないということなのだ」

「特製マガジン? なにいってんだ……って長ッ。さすがに拳銃には合わないだろ」

「むふふ、世に出回る100連マガジンの不細工なこと不細工なこと。アーティストとしても名高いあややからしたら、笑止千万なのだ。見るのだ!この形!この素材!この機構!現代科学とアートの結晶なのだ!」

 

 高く上げた右手に特製だというマガジンを持ち、その高さと同じくらいの高笑いをキメる平賀。

 そして渡されたマガジンはなんというか、歪だった。

 普通なら一直線なはずのマガジンだが、平賀お手製だというソレはやや銃身に向かってカーブしている。またマガジンの幅もどことなく凸凹と有機的な線を描いている。

 装填数は何と張り合ったのか、中途半端に101発。

 

「なあ平賀──」

「まずは、射撃場に行くのだ」

 

 食い気味にラボの裏手に備え付けられた射撃スペースを平賀は示した。

「射撃中の筋肉運動も見るから」とあっという間に上半身裸にされてしまう。あれやれよのうちに、完全に技術者の目になってしまった平賀の言われるがままに、僕は【壱】と番号の振られた個室に入って銃を構えた。

 僅か三分足らずの所業だった。

 

(……あれ?俺、銃撃つの初めてじゃないか?)

 

 今更過ぎる疑念が頭をよぎる。

 

「フルオートにして的を撃つのだ!」

 

 適当に構えて見たけれどそれが正しいのかすらわからないくらいには素人だ。

 

 なぜ言われるがままに構えてしまったのか

 ──自縄自縛というか、自業自得というか、流された僕が悪いのか。

 自問自答の末、自暴自棄にも似た雑な態度で銃の側面を見る。

 

(もう、どうにでもなれ)

 

【semi/auto】と丁寧に書かれたトリガーを操作する。

 反動でずっこけることだけは避けようと、足を前後に開いて腰が引けないように意識する。

 そして、右手でグリップを握り左手をそこに添えるようにした。

 

「ファイヤー!」

 

 平賀の掛け声に合わせて俊速の打撃音と誤解しそうな轟音が響く。

 無意識的に自分の体が石のように硬直した。

 

(ね、狙いを定める余裕がない!)

 

 というか、前を見る余裕がない。

 ハリウッドより東宝派な僕だから、あんまりガン=カタ系の映画は嗜んでいないが、それでも『よくもまあこんなのを走りながら打って命中させるものだ』と今なら思える。

 調べたところによると、グロッグ17はオーストリア国で正式採用されている銃らしい。

 こんな音が往々にして鳴り響く国とかもう、世紀末だろ。

 

 気をぬくと手元が暴れそうになる。

 変な構えのせいか、腰の辺りが痛くなってくる。

 

 永遠に思えた振動もやがて止む。

 

(弾切れか……)

 

 かつてない衝撃に震える両腕を痛む腰に当てる。

 そうして呆然と立ち尽くしていると平賀が『射出スピードは当社比1.5倍なのだ!』と元気よく駆け寄ってきた。

 耳が痛い僕にはその無邪気な姿に腹をたてる気力すらなかった。

 今回は試し打ちだから50発ほどしか打たなかったがやろうと思えば更にこの2倍撃てるのだと思うと、ただでさえ震える両手が遂には取れる気さえする。

 

「……で、撃って見た感触はどうだったのだ?」

「ああいや、なんというか、凄かった」

 

 普段なら誤解されそうなやり取りだ。

 しかし、その言葉に嘘偽りはなく本当に凄すぎて何が起こったのかすら把握できなかった。

 それをどう都合よく解釈したのか知らないが、平賀はドヤ顔で胸を張り、

 

「そうだろう、そうだろう」

 

 と快活な笑みを浮かべる。

 銃を自らの手で組み上げそれを自慢げに語る幼女という異常な光景に慣れを感じ始めたことに眩暈を覚える。

 

「実は、つい最近とあるツテで手に入れた先端科学兵装(ノイエ・エンジェ)の技術を試験的に投入して見たのだ。……阿良々木君は撃ってて不思議に思わなかったのかな?」

「不思議?反動が思ったよりもなかったとか?」

 

 正直、両肩が脱臼するくらいは覚悟していた。

 ゆえに、少し肩透かしをくらった気分だった。

 ただこれは、僕の身体の後遺症による可能性が高い。

 だが何も言わないよりは武偵らしさが出るのかなと口に出してみた。

 幸いどうやら正解を引いたようで、平賀は心底嬉しそうに笑う。

 

「おぉ!そうなのだ!実はね、この銃とこのマガジンは二つで一つになっていて、セットで使うと反動が衰退するのだ!」

「セットで反動半減って、なんだかゲームみたいだな」

 

 セット装備ボーナス《反動ー1》ってところだろうか。

 二つで一つと言えば僕と忍の関係もそうだけど。

 その場合、ユニットボーナス《人間性ー1》が妥当だろう。

 

「このギミックを阿良々木君のためにすごく、すっごく簡単に説明するとね、銃本体で生じる振動とマガジンでのスプリングで起きる振動が逆位相で打ち消しあう、みたいな感じなのだ!これは従来の遅延式とは一線を画す位の効果があって、提供元が特許申請とって世界に公開したら革命が起きるような技術なのだ」

「へえ。簡単に言いすぎて似非科学みたいになってるな」

「そうなのだ。行き過ぎた科学は魔法なのだ」

「……会話が微妙に噛み合ってないな」

「えへへ、噛んじゃったのだ」

「だから噛み合ってないんだって……」

「噛みまみた」

「やっぱ噛んでる?!」

「ウニ食べた?」

「食べてないよ!」

 

 噛んでもいない。

 そして、終ぞ噛み合わなかった。

 

「技術的なことはよくわからないけどさ。平賀が言っていたギミックっていうのはその土井町エンジェルって奴だったのか?」

「ノイエ・アンジェなのだ」

「失礼、噛みました」

「違う、わざとなのだ」

「かみまみた」

「わざとじゃないのだっ?!」

「鍛冶屋いた?」

「あややが鍛冶屋だ!」

 

 正確には高等職人(スミス・マイスター)らしい。

 それはさておき、これで攻守交代するも同点といったところか。

 最後にボケ返すのは八九寺にはないアイデンティティだし、ここは勝ちを譲るべきか。

 ……いや、なぜこんなやりとりに平賀がついていけるのかという話なのだが。

 

「それでね、麗木(うららぎ)君」

「確かに時期的にも春真っ盛りで、今この瞬間ばかりはその名前を名乗ってもいい気がするけれと──って、そのくだりはもういい……ってえ? 本当になんでこのくだり知ってるの?」

「やりとりは(くだ)りでも会話は平行線なのだ」

「やかわしいわっ」

「失礼?」

「噛みました……」

 

 素で噛んじゃった、えへ。

 危ない危ない。

 狙いも何もなく噛んだなんてことを八九寺プロデューサーに知られたら、語り部ごと交代させらてしまう。

 危機の危機とはこれいかに。

 ……。

 

「──よし、話を戻そうか」

「了解なのだ!反動軽減までは話したよね?」

「むしろ反動軽減の話しかしてないよ」

 

 銃を片手になにを長々と話しているんだか。

 全く、合理性に欠けるぜ。

 

「なぬ!?それでは時間が足りないのだ。本当はセラミック素材を使ったことで実現したこととか色々話したかったのだ……」

「詳しいことは言われても分からないから結果オーライだ」

「むぅ……残念。──阿良々木君、あれを見るのだ」

「あれ?」

 

 平賀が示したのは僕がさっきまで撃っていた的。

 人が銃を持つ画像が貼り付けられている。銃を中心に同心円が広がっているところから、いかに武偵が非殺傷を不文律としているかが窺える。

 そう言えば、結果を見てなかったな。

 射撃中は銃身がブレないように銃口ばかり見ていた。

 

「……あれ?」

「むふふ。阿良々木君は今『思ったよりもハイスコアだな』って考えている顔しているのだ」

「え、ああ、うん。よく分かったな」

 

 平賀と僕の『思ったより』には大分差があるだろう。

 しかし、それでも、それを差し引いたとしても、思っていたスコアと差があったと言わざるを得ない。

 有り体に言えば、同心円の中心付近に当たった玉の数が予想よりも多かったのだ。

 

「実はこの銃には反動軽減だけじゃなくて、反動のベクトル制御も盛り込んでいて、阿良々木君の構えの癖に合わせて力の逃げる方向を曲げているのだ。だから安定して撃ち続けられるのだ」

 

 彼女の話によれば、元々グロッグ17に搭載されていた弾道の収束性能も高めたこともあり、例えオートマティック状態であっても、まっすぐに飛ばせ易くなっているらしい。

 僕が銃を撃ったのは今日が初めてだから、この世界の僕の癖に合わせた機構がうまく作用したとは思えないけど、どうだろうか。

 肉体に多少のズレがあるとは言えこの世界の阿良々木暦と僕は同じ遺伝子を持っているはず(というか、持っていなければ困る)。ならば、二人の僕が同じ筋肉配置をしていたということもありえるのかもしれない。

 いや、保健の先生の話を聞く限りそれはないか。

 

 本当に反動制御のお陰なのか平賀に聞いてみようにも、この質問が武偵未満の素人じみたものだと捉えられるかもしれないと思うと、聞くに聞けない。

 僕は、なんだかモヤモヤとした気分で反動云々の含蓄を聞く。

 しかし、そんな僕の疑問を知ってか話をひと段落させた平賀は、むむむ、と前髪をいじり、不思議そうな顔を僕に向けてきた。

 

「あと、ついでに射撃の講評もさせてもらうと、構えが崩れているのは気になるけど、体全体の筋肉の質が向上したのかな……前よりも無理な力の受け入れは減っていたのだ」

 

 渡りに船。

 その言葉に乗っかるように聞いてみる。

 

「まあ、ちょっとあって。……けど、そうなると、その反動制御というのは宝の持ち腐れになっているということか?」

「ううん。多少の無駄はあるけど幸い身長が全く変化してないから、まだその恩恵はなくなっていないのだ」

「そうか、身長が全く変化していないなら確かに大丈夫かもな」

「うん!阿良々木君の身長が全く伸びてなかったのは不幸中の幸い、怪我の功名だったのだ!」

 

 どちらかというと踏まれ蹴られ、泣きっ面になった所を蜂に刺され、弱り目に祟り目な気分だった。

 悪いことが重なったわけではないけれど、藪から棒に致命傷を食らった気分だった。

 

「けど、やっぱりその射撃姿勢は癖になると前の射撃姿勢よりも良くないから、早く矯正しとくべきなのだ」

「……そうだな。ゴールデンウィーク明けまでには直しておくよ」

 

 去年のゴールデンウィークとは違い、この世界にはブラック羽川どころか、羽川翼その人そのものがいないのだから、静かに自分と向き合えるだろう。

 

「それがいいのだ!」

 

 平賀はにぱっと笑うと僕の手からひょいと銃を取り上げた。

 

「おいおい、なにするんだよ」

「調整なのだ!今の肉体のまま阿良々木君が射撃姿勢を直した想定で反動半減と反動制御を調整するのだ」

「……そうか、ありがとよ」

「その代わり、コレをやってる間に顧客整理の件を頼むのだ」

「了解。何人までとか、どんな客とか要望はあったりするのか?」

「んー、お任せするのだ」

 

 いいのだろうか。

 初日のアルバイターに専門税理士を任命するようなものだぞ。

 いや、平賀は僕について知らないからそれがいつものことなのかもしれない。

 幸い、携帯には今までも送受信の履歴が残っていたので業務自体はなんとかなりそうだ。

 彼女はすでに自分のラボに戻っているようだし、分からないなりに進めて見るとしようか。

 僕はここでようやく服を着て、彼女に続くようにラボへと移動する。

 

 そして、よし、と心を決めた僕は手始めに平賀に紙と鉛筆を借りることにした。

 

 

「──できたのだ!」

 

 

 はっと、気付けばお昼を過ぎていた。僕としたことが雑談を挟む暇さえなく、時間が経っていた。

 顧客名簿を書き出したり、依頼の内容をカテゴライズしたり、相手の立場(ランク)と状況を鑑みながら優先順位を付けたりしている内に、どうやら時間の感覚が飛んでいたようだ。

 

 というか、前任である阿良々木暦君の管理が雑すぎる。

 顧客名簿は連絡帳で済まし依頼云々はメモ帳にパパッとメモするだけって、それがマズイことくらい、僕でもわかるぞ。

 

「阿良々木君の方はどうなのだ?」

「大体終わってるからちょっと待て。……ええと、この紙がここから一ヶ月の予定を示したもので、こっちがその客の所属とランクをまとめたもの。そんでこれがそれぞれの依頼内容だ」

「……え?なんだって?」

「なんだよ、聞いてなかったのか?だからこれが──」

 

「あ、阿良々木君が仕事をしているのだ!」

 

 なにもそんな一大事のように言わなくても。

 メールで雑に打ち込んだだだけのスケジュールで済ませていた僕サイドが100パーセント悪いのでとやかくいうつもりはないが。

 うちの阿良々木暦が失礼しました。

 本当に驚いた目をパチパチしながら彼女は渡した紙に目を通す。

 

「……うん、これなら昇給も考えてもいいのだ」

 

 そして、嬉しそうに平賀は微笑んだ。

 

(ああ、なるほど)

 

 その笑顔と言葉に嬉しくなるわけでもなく、誇らしげになるわけでもなく、僕はただ悟る。

 

 平賀は僕を『藁にもすがる思い』の藁程度にしか認めてなかったんだな。と。

 

 よくもまあ、昨日まで笑って接してくれていたものだ。

 僕が商談で負けるのも当然だろう。

 彼女にとってこれまでの日当とは子供にあげるお小遣いと遜色なかったのかもしれない。これからの日当もお小遣いである可能性は大だけど。

 

 読み終えた紙を机の上に置いた平賀は、

 

「それはそれとして。はい、どうぞー、なのだ」

「ありがとう」

 

 そう言って先と同じようにグリップを差し出した。

 先と同じように握ってみれば、以前にまして手に吸い付くような気がした。

 ……グリップの調整もしてくれたのか。

 

「ぬふふふふー。また調整がして欲しくなったら遠慮なく来るといいのだ。サービスとして無料で調整してあげるのだ。バイト代から天引するけど」

「それは無料と言わない」

 

 後払いという。

 ごきゅごきゅと漫画のような音を立ててお茶を飲んだ彼女は、ぷはーっと息を吐いていった。

 

「それにしてもビックリしたのだ。昨日お昼に来たと思ったら新しい銃を明日までに寄越して欲しいだなんて。しかも出来たら直接家まで来て欲しいなんて言われたから何事かと思ったのだ」

 

 覚えのない、ドッペルゲンガーとの話し合いのことだろう。

 

「…………。悪かったな、迷惑かけた」

 

 飲み込めないなにかを無理やり嚥下したかのような葛藤を超えて、一言だけ、そう返した。

 そして、ついに来たか、と思う。

 忍にも聞いていて欲しいと影を叩くように合図すると靴の裏に衝撃が返ってきた。

 一方目の前の彼女はソワソワとして四角い額のようなものを取り出した。

 

「そ、し、て〜。じゃじゃーん!どうなのだ!?つい飾ってしまったのだ!」

 

 目をキランキランに輝かせた平賀が取り出したのは綺麗に額縁された古臭い銃。

 確かこういうの、レボルバー、っていうんだったか。

 平賀はケースのガラスに頬ずりをしてうへへ、とだらしなく笑っていた。僕は普通に汚ねえと思った。

 

「堪んないのだ、この光沢、この曇り、このフォルム。ただ一人のために作られた漆のグリップはそのグロッグに生かさずにはいられなかったのだ!阿良々木君のは漆じゃないけどね」

「度し難いなぁ」

「この銃は阿良々木君が持ってても豚に真珠なのだ!昨日あややに渡したのは紛れもなく、正解の行動だったのだ!」

「……そこまで喜んでもらえると、僕も嬉しいよ。こっちはファイセブン を差し出さずに済んだし、平賀はその銃を手に入れた。ウィンウィン、というやつだな」

「むう、ファイセブンがこの手にないのは今だに心残りなのだ……。あと、『ニューモデルアーミー』のことを『銃』だなんて無粋な呼び方をしないで欲しいのだ!この価値を分からない阿良々木君は毎度【ニューモデルアーミーレボルバー1861年モデルプレミアムカスタム】と畏敬の念を込めて呼ぶといいのだ!」

「長えよ!」

 

 ニューモデルアーミーレボルバー1061年モデルプレミアムカスタムを見る平賀の瞳にはニューモデルアーミーレボルバーカスタム1061年プレミアムモデルしか写っていなかった。

 そんな熱烈な視線をニューモデルアーミーレボルバー1061年プレミアムモデルに向けているのを見ると、さっきまで古臭いとしか思えなかったニューモデルアーミーレボルバー1061年プレミアムモデルもなんだか、侘び寂びのような趣と情緒を放っているような気がするから不思議である。

 

「ちなみに、そのニューモデルアーミーレボルバー1061年プレミアムモデルはいくらぐらいするんだ」

「500万以上は余裕でするのだ。けど、あややはお宝に値段はつけない主義だからプライスレスって答えたいところなのだ」

「たっか……」

 

 文庫本が1万冊近く買えるじゃん。

 一冊読むのに40分かかるとして40万分。

 つまり、飲まず食わずで約280日潰せる価値。

 それをたったニューモデルアーミーレボルバー10──もとい、この銃一丁に捨てるだと……。

 

「因みに、そのグロッグ17は改造代金含めて武偵弾三つ分くらいなのだ」

「へえ……」

「だから相場から考えるとあと武偵弾二つ分くらいの改造は請け負ってあげてもいいのだ」

「……」

 

 武偵弾ってのがイマイチ分からないがそれが恐ろしく高価なものなことだけは分かった。

 砲弾や大型バリスタ用の鉄杭のような攻城兵器みたいなものか……なんというものを武偵は作っているのか。

 

「聞きたいことが一つある」

「応えるのだ」

「このグロッグ17ってさ、明らかに見た目だけで中身別物だよな」

「うん。あややが改造すると大抵そうなるのだ。阿良々木君のルームメイトであるとーやま君のベレッタもぶっちゃけ名ばかりで中身はまるで別物なのだ」

「へえ。じゃあ昨日あげたその銃も中身は別モンにしちゃうのか?」

「するわけないのだ。これはこの部品でこうやって構成されているからこそ意味があるのだ……それよりも、阿良々木君。こんな時間まで引き止めちゃったけど、だいじょーぶ?なのだ」

 

 引き止める?

 僕がどこかに行こうとしてたように見えたのだろうか。

 

「昨日、阿良々木君『明日は午後から予定がある』って言ってたのだ。だけどもう午後1時過ぎちゃってるから……」

 

 彼女は申し訳なさそうにちらりとこちらを伺うそぶりを見せる。

 午後に予定だって?

 ドッペルゲンガーは一体何をするつもりなんだ?

 

「まだ、時間まで余裕があるから大丈夫だ」

「それなら良かったのだ」

「……ちなみに、どこに行くかってことも話したっけ?」

「確か、映画館に行くっていってたような気がするのだ……ほら、新宿にあるあの」

 

 新宿の映画館。

 多すぎるだろ。何軒あると思ってるんだよ。

 落ち着け、なぜそこに行く前提で考えているんだ?

 無視すればいい話じゃないのか。

 いや、知っておいて損はないだろう。

 

混迷極まりつつある思考の末に、僕は誤魔化すように言葉を吐いた。

 

「あぁ、そこまで話していたのか」

「けど、なんでわざわざ新宿まで遠出するのだ? しかも穴場なわけでもない駅前の映画館。このあたりで見るんじゃダメなの?」

「……新宿近くにいるやつと見に行くからな」

「ふうん、あややの知り合いじゃなさそうなのだ」

 

 新宿、駅前、映画館。

 とりあえず頭の中に置いておく。

 

「んじゃあ、そろそろ僕は行くから」

「ハイなのだ〜。あ、マガジンの予備と弾丸もオマケだから持っていって欲しいのだ」

「何から何まで……」

「お互い様なのだっ」

 

 手渡しでマガジンを受け取ると制服に仕込まれたやたら大きい内ポケットに銃とマガジンをしまい込む。不思議なことに制服の膨らみはほとんどなかった。

 

「……ってあれ?」

 

 空の予備マガジンの中に折り畳まれた紙が入っているな。

 ……なんだこれ?

 

『秘密任務について』

 

「……あっ、それはっ!」

 

 平賀さんがひときわ大きい声を出して紙に向かって手を伸ばす。

 

「ええと、『来年度三月より、海外り──」

「ダメッ!!」

 

 そして、ほとんど目を通さないうちに取られてしまった。

 こんな早い動きもできたのか。

 平賀さんは急な運動のせいでハァハァと息を荒くする。

 

「はあ、はあ……っ! いっ!い、言っちゃダメなのだ!これだけは他の人に話してはダメなのだっ!」

「い、言わない。約束するから取り敢えず落ち着けって」

「この紙の存在自体も、私が任務を受けたことも絶対になのだ!」

「分かった、分かった。絶対に言わないから安心しろ。それに、そもそも言うような相手がいない」

「……ほんとに、頼むのだ」

 

 すごい慌てようだな。

 受けたこと自体を隠蔽って、遠山たちの受けている任務とは扱いがずいぶん違うようだった。

 

「ちなみにだが、もし約束を破ったらどうするんだ?」

馘首(かくしゅ)とりどり揃えているのだ」

「選択肢が一つしかないっ」

 

 最後にちょっとしたハプニングもありつつも、僕はラボから出るのだった。

 

 そこに新しい武器や経験によって得られた清々しさはなく。

 突飛な出来事を体験中だというのにどこか作られたレールを走らされているような、そんな違和感が僕を満たしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【001-A】〜【002-A】

【001-A】

 

 

(あで)やか。

少女はその本意を考えていた。

 

身に纏う服飾を取り払う度に彼女の側面はその性質を変えていく。

 

ネクタイを、襟を、ブレザーを、ワイシャツを、フリルを、スカートを、靴下を。

変えて、変えて、変えて。回帰して。

 

やがて生まれたままの姿になる。

そして、変身。

少女は女になる。

 

手で空を掬うように、姿鏡に映る自分を撫でる。

 

「ほう」と一息。

込められた想いは自惚れではなく、確固たる自信と事実。

武装された信念は服を脱ごうともあせることはない。

 

リップクリームで着彩された小さな唇は三日月をかたどるように吊りあがり、口端が描く軌跡はラメ入りのピンクにキラリと光る。

イタズラに失敗した少女のようにチロリと出された先のとんがる舌は、見る者の脳髄の底の奥深くに『陶酔』という名の麻酔を舐めつけるように付与するに違いない。

 

犯罪的な妖艶さは母譲りのものなのか。

魅せる動作は父譲りか。

 

才能がなくとも、努力をしていても。

その心から漏れ出すオーラはやはり、選ばれし者から這い出た奇跡を示し続けている。

 

女から男へ。

 

外国人然とした白い肌は純国産だと一目でわかるように。

スッとした鼻筋は露骨に厳つく。

大きく風変わりな色合いの瞳は、黒く、穿つような目付きに。

華奢なボディラインは堅く。

呟く声は低く、笑いは捻て。

纏う服は肩パッドが入り、フリルなど入る隙間がないような四角いフォルム。

 

そして、突き刺すような視線で再度姿鏡の前に立つ。

 

「うんっ!ん゛ん!……あーあ。あああ──よし」

 

少女、もとい男は見事なまでの変装に、自身の努力を感じる。

先祖の仇敵に教わった変装術に変声術。

 

自分とは特に確執があるわけではないけれど、それでもかつての大敵の子孫に躊躇なく技術を教える彼は人としての器からして違うのだと思う。

 

(それに比べて私は……なんて、烏滸がましいのかな)

 

彼女は演技をすることなく、自然に、捻くれた笑みを浮かべた。

 

やがて部屋から出た女が向かうのは、見慣れたラボラトリー。

 

好きなこと以外には適当に寛容な本人の性格を如実に表す字体で『入り口』と書かれた扉を彼女は開けた。

 

「んぅー? あぁ、やっと来たのだ、阿良々木君。待ちくたびれちゃったのだ」

「……待たせて悪かったな」

 

いやほんとほんと。ケータイいじってて予定より20分遅れたとかはないからさ。なんて。

 

語り部は交代だ。

 

ここから先は、私の領分。

なあに、思い他人の心を盗むより難しいことはない。

3分でことを済ませてやるよ。

なんて。私は歪に微笑むのだ。

 

 

【002-A】

 

 

うぅん、期待はずれかなぁ。

 

目の前のギフテッドとしばし談笑を楽しんだ後に私は思った。

 

急に登校し出したあの男が私の計画にヒビを入れるかもしれない。そんな思いで軽い調査に乗り出して来たものの、結果はお世辞にも芳しいとは言えなかった。

 

内向的思考に主眼を置いた臆病な性格。

 

そう結論付けざるをえない彼に対する評価は、残念ながら今回も変わりそうになかった。

武偵高2年としてはごくごく平均的なCランク程度の実力。かといって遠山のように素晴らしい一発芸を持っているわけでも、不知火のように実力を隠しているわけでもない。

オールラウンダーと言えば聞こえはいいけれど、結局の所は器用貧乏以下の平凡生だ。

一般的な生徒ともいうけれど。

やはりそれは、凡才と同義なのだろう。

 

一本の強く、太く、鋭い。

そんなナイフを、技術を、信念を、覚悟を。

彼は持っていない。

 

(……だとすれば、私がなぜ今回、再調査に赴いたのか)

 

そう改めて問われると言葉に詰まる。

いや、言葉に詰まるからこそ調査を行なっているとも言えるのだろうが。

 

母に言わせれば『女の勘』。

父に言わせれば『嗅覚』。

 

若干思考停止気味ではあるが、まあ、そんな所だろう。

 

「それで、あの銃のことなんだけど、来週の頭辺りに持って来てくれると嬉しいのだ!」

「……来週の頭?」

「うん。ホントは今すぐにでも渡そうと思えば渡せるけど、ヤッパリ微調整は怠りたくないし……その代わり、今回のはこっちの領分に興味関心のない阿良々木君でもビックリするようなギミックましましでお届けするのだ!」

 

改造銃の依頼でもしたのか?

いや、阿良々木暦は臆病な性格を如実に表す汎用性至上主義だ。一般的なモデルこそが最高の状態だといってはばからないタイプ。

別に改造銃を使うことが勇気を示すことであるとは思っていないらしいが、その辺は理科する必要はないはずだ。

 

しかし、彼女の怪しげな改造を進んで受け入れるのは考え辛いのには変わらない。

 

「そ、それは楽しみだ。それで『代金』はいつ払えばいい?受け取り時か?受け取り前か?それとももう払ったっけ?」

「……? その懐のやつで十分なのだ!」

 

懐のやつ?

懐のやつってなんだ?

いや、武偵として普通に考えたら銃かナイフか。

けど、目の前のスペシャリストがわざわざCランクの得物を欲しがるだろうか?

 

カマをかけてみるか……いや、ここで追求しても怪しまれるだけだな。

 

──待てよ。

ここに来た時彼女はなんて言った?

『待ちくたびれた』

確かにそう言った。

だとすれば、彼女は阿良々木暦に何か用件があったということ他ならない。

だがしかし、今現在に至るまで話したのはどうでもいいことだけ。取るに足らない、雑多でざっくりとした諸問題についての、ごく一般的でステレオタイプな雑談だ。

 

だとしたら、一体、本題とは──。

 

「……阿良々木君じゃないのだ」

「!!」

「君は阿良々木君じゃないのだ!」

 

頰が引きつりそうになるのを抑える。

平賀は得意げに笑う。

 

「むふふ、甘い、甘すぎるのだ!声も体も顔付きも、何もかもが微妙に違うのだ!」

「は、はぁ?急に何を言いだすんだよ。前会ったまんまだろ?」

「『前』ねえ……確かにそうかもしれないのだ。だけど、その体の阿良々木君と会っていたとしてもそれは3月末までの、武偵のランク認定試験までの阿良々木君なのだ。……わかったのだ!ひょっとして、君は阿良々木君の今の姿をしらないのだ!」

 

……おいおい。マジで言っているのか?

勘弁してくれよ。

天下の大怪盗の娘が事前調査を怠ったせいで変装を見破られるだって?

 

「……fuck」

 

つい汚い言葉が口に出る。

それすらも悪手とは知らずに。

 

「英国人を気取るには少々訛りがきつすぎるのだ。あやや、その罵り方聞いたことあるのだ。

 

 

「君、フランス人系なのだ」

 

 

ガバッと手に持ったカバンを掴んだ。鞄に仕込んだボイスレコーダーにノイズが入るななんて気にしている暇はない。

そして迷うことなく、予め確保しておいた退路まで最短距離、最短経路で翔ける。

 

しくった(fuck)

しくった(fuck)しくった(fuck)しくった(fuck)

 

何が領分だ!

司法取引を終えたばかりで浮かれていたのか?!

まさか私がこんな平凡な武偵ごときに遅れを取るなんて!

張り付いた変装マスクをビリビリに破きたい衝動を抑えて廊下を走る。

 

(今ばかりは阿良々木の悪名に感謝だな)

 

モーゼの海のように自主的に避ける武偵をみて思う。

平賀文は決して私を追いかけることはしないだろう。

まず私の追跡を面倒くさいと感じた上で、手にある仕事と天秤にかけ、再び面倒臭いと判断する。

天才らしい思考だ。

私の大っ嫌いな天才の考えだ。

天然で斜を向き、自身の行動に一切の責任を感じない。

身勝手で、曲がっている。

反吐がでる。

 

校舎を一目散に駆け抜け、監視カメラを潜り抜けて海辺近くの廃棄された排水口に身をひそめる。

 

「クソッ!クソッ!……畜生!」

 

マスクを剥ぎ、服を脱ぎ捨て、サラシを解き、いつもの服装に着替える。

そして、変装後のルーチンを心の内で唱えた。

 

私は可愛い、私は可愛い。私は、可愛い。と。

 

アイデンティティの確立方法は一つ以上持つべきだと教えてくれたのは父だった。

怪盗の祖であるあの男の子孫とは思えないくらいに純日本風の顔付きの父。そうでありながら、あの男の才能を最も色濃く受け継いだ彼は、今の私を見て、なんと言うだろうか。

 

「……戯言ね」

 

冗句、と言い換えてもいい。

寿限無の名前のように、内容があっても意味はない。

下らない感傷だった。

 

「ふぅ。いけないいけない。まだヨミくんの性格に引っ張られているのかな」

 

『阿良々木暦だからヨミくんね!』なんてノリで名付けたあだ名。

呼んだのは多分、半年以来じゃないだろうか。

 

「ええと……ジャンヌと待ち合わせているのは倉庫の方だったよね」

 

心に渦巻く阿良々木暦への怨嗟と自分へのやりきれなさを閉じ込めて私は呟いた。

 

「峰・理子・リュパン4世だなんて、確実に名前負けだよ」

 

自嘲した笑みは倉庫へ続く真っ黒な空洞に溶けて、消えてった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

016-B

 結局のところ、僕は新宿に行かなかった。

 理由は様々あるけれど、やはり一番の要因は一重に『面倒臭かった』のだ。

 時間と労力と電車賃をケチった末に、ドッペルゲンガーの正体を掴む機会を失うなんて、なんたる阿保さ加減か、なんて声も聞こえてきてしまいそうだが、しかし、僕には不思議とその選択に後悔はなかった。

 

 何者かが新宿の映画館で何かをしている頃。

 一体僕が何をしていたのか──何をしているのか。

 

 それを語るには少し時間を戻さなければいけない。

 

 平賀さんと別れた後、2丁の銃に2つのマガジンと沢山の弾丸を抱えた僕は、流石にこの大荷物を不便に感じ、寮に戻ることにした。

 昨日の観察で分かった事だが女子はスカートの中に、男子は腰の辺りにそれぞれ銃やナイフをしまっているようだ。しかし僕は腰にぶら提げようにも肝心のガンホルダーを持っておらず、またそれがどこで手に入るわからない。

 そこで、いくら不勉強なこの世界の阿良々木暦くんとはいえ、スペアの1つは持っているだろうと考え、一つ家捜しと洒落込もうとした訳であった。

 

 途中、見かけたチェーン店で牛丼を食べたりしつつ家に到着する。

 神崎アリアと遠山キンジは既に家におらず、ただ閑散とした寮室が僕を迎えてくれた。

 

「さて、これからどうしようか」

 

 そりゃあ、ガンホルダーを探すのだけれども。

 そうではなく。

 今後の活動の方針をどうしようか、という話。

 正直、ここ二日ほど適当に過ごしてみたはいいものの方針について全く目処が立っていない。無計画だったというよりかは、計画に対して無頓着だった。

 

 僕の人生自体、指標があるわけでもなかったので、いつも通りといえばそうなのかもしれないが、この状況を鑑みると、いつも通りというには少々異常がすぎた。

 だけど、異常がすぎたところで、そう易々と、例えば物語のようにトントン拍子で丁度いい具合の進路が見つかるわけがなく。

 僕はなんとなく行動した結果、なんとなく道を失っていた。

 

 考えてみれば、新宿に行くことこそが道標であった気がしなくもないが今更なにを言おうがもう遅い。

 自分は此処にいて、事態は新宿にある。

 

 繰り返すようだが、八月の時のようにこのタイムスリップの意義も見つかっていないし、探すと言っていた魔力溜まりも見つけていない。後者に関しては見つけようとすらしていない。

 

 しかし、『なぜこんな世界に来てしまったのか』。

 

 これに関しては、実は二つに一つだと僕は思っている。

 

 つまり、『偶然来てしまった』或いは『必然来てしまった』の二択だ。

 

 別に、『世の中には嫌いな人か好きな人しかいない』みたいな詭弁を振りかざすような心算(こころづもり)は一切無い。

 事実として()()である。ただそれだけの話で。

 そんなこと分からない人はいない、と思われるかもしれないが実際、僕はそんなことがわからなくて困っているし、『そんなこと』とはどんなことかと聞かれても、そんなことすら分からないと答えるほか、術がない。

 

 こんがらがって来たが、要は『なぜこんな世界に来てしまったのか』という問いに関して何も答えることができない。それだけの話なのだ。

 もっとも、『必然来てしまった』場合の、『必然』については心当たりがないことはないけれど、しかし、そんな仮定の仮定の話しをしたところで現状、損しかしないのは目に見えているし、身に沁みて分かっている。

 

 だからこそ、『これからどうしようか』という素朴な疑問にしてあくなき命題にぶち当たってしまう訳だが、それに応えてくれる存在はどうやら身辺にはいなさそうだった。

 

 ついでにいえば、ガンホルダーも見つかりそうになかった。

 

 取らぬ狸の皮算用にして骨折り損のくたびれもうけをしてしまった僕は、自身の余りの愚かさにソファに沈む。

 

「平賀にたかるべきだった」

 

 割と最低な、痛恨の悔恨が口から漏れる。

 しかしこれもまた、後の祭り。

 後夜祭なんて浮き足立った余韻があるわけでもなく、なんだかあらゆる事が裏目に出ているような不愉快な気分。

 泥沼に足を取られているような気分。

 沈み足だ。

 

 撃つ手はあっても打つ手はない。

 ガンホルダーを見つけるのもこの世界からの脱出も一先ず後回し。

 そもそも初めての射撃で僕は疲れているのだ。

 自分の無体さを慰めるように言い聞かせ、目を閉じる。

 

「……」

 

 こんな気分をなんというのだろうか。

 開放的で、心もとない。

 私立直江津高校を卒業したすぐ後の春休みに感じた感情に似た何かが僕の中をぐるぐると練り歩く。

 春休みの場合、僕はなんの身分にも囚われていない最も『阿良々木暦』というべき阿良々木暦だった。

 裸一貫で世間に放り出されたような──開放的だけれど、スースーし過ぎて、罪悪感に苛まれて落ち着かない気分だった。

 アイデンティティの喪失だの感傷的だの現実逃避だのと切り捨ててしまった不安定な心移りだったけれど、再び経験してみると(ややその性質が違うが)改めて思う。

 否、初めて気付く。

 

 僕が紛れもなく人間であると。

 身分という社会に縛られ、肩書きという決め付けに従い、知人という重荷を背負う。そして、その全てに安心感を覚える。

 

 根本的に群れることを前提とした自分の脆弱な精神構造を自覚させられる。

 何者でもない、まっさらな自分として世界を飛び回る羽川でさえ、彼女の力を振るう先は人間なのだ。かつて化物だっただけの自分がそう簡単に(しがらみ)から抜け出せる、その意思を持とうという考えが浮かぶとは思ってはいなかったが、こうしてただ時の過ぎるままに身を任せると改めて自分の狭量さを思い知る。

 

 なによりも、尸位素餐な僕が何を言っても説得力がないだろうが、阿良々木暦はよくやっている方だと思っている自分がいるのもまた事実なのが、救いようがない。

 

 どの位そうしていただろうか。

 

 気がつけばウトウトとしていたようで、ハッと気がついたのは部屋にチャイムの音が鳴り響いた時だった。

 遠慮なく、連続的に鳴らされるインターホンにしかめ面になる。寝起きの耳にチャイムの音は痛い。

 

 おそらく遠山の客だろう。

 重い腰に重いジャケットを乗せた僕は、一つ伸びして立ち上がった。

 ギシギシ悲鳴をあげる廊下を進み、浴場への扉を横目に玄関に着く。

 遠山の不在を告げてお引き取り願おう、そう思い玄関の扉を開けた。

 するとそこには、

 

「ういーっす!おひさっ!しけた休日を過ごしているだろうヨミくんのためにリコりんが只今参上いたしましたーっ!」

 

 きらめく笑顔が可愛らしい、金髪ロリ巨乳系美少女がいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

017-B

 趣味が高じて刊行することで始まった、ちょっと不思議な青春譚も気付けばアニメ化どころか、三部作の映画化を経て、遂に漫画化まで果たしたというから、時が経つのは早いというものだ。

 たった一年とそこらの話の筈なのに、かれこれもう、干支一回り分程の付き合いに感じてしまう。

 まるで化かされた気分だ。

 干支に猫はいないというのに──いわんや物語にはいたのだけれど。

 

 それはまあ、ともかくとして。

 聡明な諸君は、既に干支一回り分、いい加減で、いい加減に変わらない(そして、好い加減ではない)僕の思考回路に付き合い続け、そろそろ色々ともう、僕について熟知し過ぎたために『どうせ峰・理子・リュパン4世に会ったのだから、前説代わりに、得意げにロリ巨乳について語りだすのだろう?』だなんて思い始めているのかもしれない。

 

 とんでもない。

 

 僕をなんと心得る。

 言うなれば、僕は戦場ヶ原ひたぎと付き合い羽川翼に欲情する男だ。

 加えて、自分より背の高い妹とアブノーマルなスキンシップをしてしまったこともあるお兄ちゃんでもある。

 さらにさらに、こんな場で、しかも、こんな話題の中で持ち出すのもどうなんだ、ということを重々承知で言わせてもらうならば、いたいけな中学生であった千石撫子を袖にしたこともあるくらいだ。

 

 やはり、付き合いが長くなりすぎるというのは良いこともあれば悪いこともある。一長一短で甲乙つけがたい。

 

 何が言いたいのかというと、何か誤解していないだろうかということが言いたい。

 八九寺に襲いかかること数回。

 忍と談笑すること無数回。

 斧乃木ちゃんと戯れて久しく。

 

 たったこれだけのことで、僕にロリで始まってコンで終わるようなレッテルを付けてはいないだろうか。もしそうならば、嘆かわしい。

 酷い誤解である。

 そして、思いもよらなかった誤算である。

 馬鹿と言われようが阿呆と貶されようが何も思わない聖人君子と例えられることがしばしばある僕だが、そんな僕でもロリコン呼ばわりだけは許容できない。

 一切、認めない。

 なんというかもう、ロリコンという嗜好自体を認めない。

 

 ノーロリータ、ノールックだ。

 

 そんな漢、阿良々木暦が今更ロリ巨乳に何を思うというのだろうか。

 誤解が誤解を招くようなことを避けるために言わせてもらうが、これは別に僕が子供嫌いだという話ではない。

 なぜなら大人ならば、幼い子供が可愛く見える。確かにそれは数学的に言って真だから。大人が失った無邪気で健気な様子に憧れるのは決して無理のある話ではないし、分からなくない。けれど、だからといって、幼い子供が可愛く見えなければ大人でないなんてことはないだろう。

 高校生という青い春を終え、大学生という沼を迎えた僕はもう大人といってもいい。

 

 しかし、だからこそ、僕は幼子に興味を抱くことがあってはならない。そういう話。

 

 つまりは勿論、目の前の彼女が可愛くないという話でもない。

 むしろ、ロリだけなら諸手を上げて歓迎する。高校生で150にも届かない身長というのは、ただそれだけで可愛いきらいがある。それは確かに真であり、究極的に微笑ましい。

 また巨乳であるだけなら、これまた歓待だ。男という性を背負っているからには巨乳に魅力がないとは口が裂けても言えないからな。

 

 しかし、目の前の彼女はロリ巨乳。ちっこくて、大きい。

 

 未知の存在を前に僕は何を思う──何も思わない、当然だ。

 たかだか背が多少低くておっぱいが大きい女子を見つけた程度で、その身体的特徴および、その魅力について滔々と何千文字も語るわけないだろう。いくら博学才頴な皆々様であったとしても、好みから離れた何かしらについて語れと言われても「ははぁ……まぁそれもいいと思いますよ、えぇ。はい」としか言えないことは必至。

 

 そもそもロリ巨乳だなんて、なんと罪深い存在だろうか。

 

 僕がいままで見てきた幼い子供達は幼い子供らしい体型であったし、僕自身、別に特別好きとかいう話ではないが、子どものその、ストンとした寸胴ボディにこそ魅力と夢と希望と砂糖とスパイスと素敵な何かが詰まっていると確信していた。

 

 それに、ロリコンだのなんだのという風評被害を恐れずに言えば、プニプニとしたイカ腹は何物にも変えがたい至高の感触を保有していると信仰していたし、あの何か詰まったような舌足らずの発声は天使の奏でるメロディーにも勝る甘美な旋律が宿ると疑っていなかった。

 

 だからこそ、腰のくびれを感じられるような体型に憧れる少女達には憐憫の目を向けてきたし、モデルの膨よかな胸に目を輝かせる幼女

 達には落胆の思いを向けていた。

 

 成長が罪とは思わない。

 ただ、子供らしくあってほしい。

 その考えは今も色あせる事なく僕の中で燦々と輝いているし、再三と言ってきた。

 

 あどけない顔に化粧が乗るはずがない。

 無垢な精神に汚れた世界を見せていいはずがない。

 幼子とはただそれだけで、ただそうであるだけで美しい。

 湧き出る思いは言語よりもはるかに重く、穿つ衝動は吸血鬼の一撃よりも鋭い。過ぎ去った時間の中に置いてきてしまった感情や感性がたまらなく愛おしいし、哀しくもある。手の届かないもどかしさは悲劇的で、見るのとのできる幸せは筆舌しがたい。

 

 中身が20を超えるようなロリ体型の怪異もいるが、それはそれでありだ。他にもフランス革命ら辺から生きているような可変式ロリの怪異もあるが、そちらにも風情があることはいうまでもないだろう。

 なぜなら、健全な体に魂が宿るように、健全なロリ体型にはロリの魂が宿るのだから。そこに年齢は関係なく、むしろ、セクハラに寛容になるだけアリなのかもしれない(勿論、見たまんまの精神であるのが一番望ましいことは自明なのだが)。

 

 ただ、ロリ巨乳。

 

 僕はそんな存在に目を向けたことも耳を傾けたこともなかった。

 いや、インターネット上のいくつかのウェブサイトでそれらしき画像を見たこと位はある。

 しかし、それだけ。されどもそれだけ。

 その是非について考えたことなんて一度もなかった。

 語る機会だってなかったはずだ。

 

 引き締まったウエスト。

 適度に張り出したヒップ。

 そして、あふれんばかりのバスト。

 

 普通であったらモデル体型で済まされるそのステータスは、ロリというたった2文字を前提にした時、根底から覆される。

 滲み出る愛らしさと母性。

 感じる幼さと艶やかさ。

 

 相反する特徴が共存する違和感。

 しかし、今ここに存在する現実感(リアリティ)

 2つの情感は、あるはずの違和感を打ち消し現実感だけを高める。

 存在してはいけないものがあるような妙な恍惚とちょっとした罪悪感、背徳感すら覚える。

 

 罪深い、とはつまり慈悲深いことなのだと悟らされたよ。

 

 完済されたイデアを見てしまったかのような充実感はまるで投与された麻酔のように僕の脳味噌を侵して行く。

 犯して行く。

 溶かして、解かして、梳かしていく。

 

 嗚呼、ロリ巨乳。

 

 幼い体と美しい躰つきと成熟した精神。

 三つ巴は手を噛み合い組み合い繋がり合う。

 

 嗚呼、ロリ巨乳。

 初めて見たけれど、いいじゃん。

 

 ……うん。

 いいね。

 

 

「ヨミくん、お茶ー」

 

 そんな名も知らぬ金髪ロリ巨乳はソファに座り甘い声、甘すぎる声で飲み物を要求する。

 ロリ巨乳だならまだしも金髪って──などとという話は置いておいて、硬派阿良々木を顎で使うとはいい度胸だ。

 やれやれ、の首あたりに手を当てて精一杯のアンニュイを気取ってみたが、そんな僕の努力は実を結ぶことなく、彼女はこちらを一切見ずさっきまで僕が座っていたソファに身を委ねた。

 

「うわわっ、あったかい!さてはさっきまで寝てたなー?」

 

 スウィートボイスでそう言う、僕の座っていた場所を占領するロリ巨乳さんは触れるか触れないかな瀬戸際のような手つきでソファを撫でる。さわり、さわりと何度も何度もゆらりゆらりと指先を振る。

 なんていやらしい仕草をしやがる。妹どもがやってたら鉄拳制裁を通り越して家族会議モノのいやらしさ、率直に言ってエロイぞ。

 

 ロリ巨乳なのに。

 ロリ巨乳だからか!?

 

 いや、くだらないことを言っている場合ではない。

 雑念を振り払うべく、『アダ名で呼ばれるような相手と仲良くないなんてことはない筈』とややこしいプロセスで行った推測をして、その後僕は砕けた調子で言葉を返した。

 

「ああ、寝てたよ。ぐっすり気持ちよく寝てたよ」

「ふうん。じゃあもしかしてお邪魔だった?」

「微妙なラインだな。ある面では邪魔だったし、ある面ではちょうど良かったとも言える」

「丁度いーい?どゆこと?」

「調度良いってことだ」

 

 つまり、いろんな面でご都合的だったって話。

 言い換えると、千日手のような状況に丁度良い調味料になってくれるかもしれないと期待している、ということ。

 僕は首に当てていた手をだらんと垂らし、コーヒーを入れるためインスタント類が入った引き出しに手をやる。

 

「逆にお前はなにしに来たんだよ。本当は遠山に用事があったとかじゃないのか?」

「だからヨミくんの休日を癒しにきてあげたんだって」

「へえ、それじゃぁ、何かしてくれるのか?」

「えー、ヨミくんはなにしてほしーの? ……ふふん、もしかしてえっちなことかぁ?」

「はっ、正月に帰省した時に会った姪が思いの外良い女に成長していた時のトキメキ以下の魅力しかないお前を相手にどう欲情しろと?」

「中途半端に魅力的な例を出されると反応しづらいよ?!」

 

 打てば響くような会話を続けつつ、こぽこぽとお湯を注ぎ待つこと数分。

 良い感じに出来上がったインスタントコーヒーをソファへ持っていくと、意外にも彼女はちょこんと座って待っていた。ケータイをいじるわけでもなく、テレビをやるわけでもなく、他でもない、僕をじっと見つめて待っていた。

 フリフリの制服に派手な髪の色に似つかわしくない健気な様子に胸の奥がくすぐられるように錯覚する。直ぐになんだか猛烈にひたぎに申し訳なさを覚え、僕は必死に頭を振ってそんな錯覚を払う。

 そして、咳払いを一つして、僕は口を開いた。

 

「そんなに喉が渇いていたのか?」

「そうじゃない、そうじゃないよ、ヨミくん」

「顔にゴミがついていた」

「それでもない」

「見惚れてた」

「それだけはない」

 

 ん? 感情の昂りとともに髪の毛が逆立つかのように彼女の金髪が奇妙な動きでうねってたような。

 いや、気のせいか。

 

 考えてみれば、美貌といって差し支えない彼女が、今になって僕の顔に見惚れる筈がないことは分かりきっていたことなのだが、彼女ほどの美貌であるからこそ、僕は少し傷ついた(しかし同時に、変な勘違いを暴発せずに済んだことに安心した)。

 

 なんとなく、頭を再度振る。

 また、対面するような位置に座り、コーヒーをふぅふぅと冷ます彼女を横目に観察する。彼女は猫舌らしく、カップに口をつけるたび「あちあち」といって掌で舌を扇いでいた。

 それはいつまででも見ていられそうなくらいに愛らしい態度だったけれど、埒のあかない状況でもあったため、僕はコーヒーに口をつけることを合図に、観察を切り上げて会話を進めることにした。

 

「それで、僕に惚れている気配もなさそうなお前が、なぜ、急に、僕の元へと訪れたのか。その理由をそろそろ聞かせてほしい」

「んー、その回答にはまだまだヨミくんは好感度が足りないなぁ」

「ふーん、そいつは課金(コーヒー)でどうにかできないのか?」

「うわっ、ひどいソシャゲ脳。そんなんじゃゆとりだって言われちゃうぞっ」

「万年ゆとり教育の武偵がよく言うよ」

「思考力はついてるからゆとりじゃないよ、ぷんぷんっ」

「たしかにゆとりと言うには些か物騒な学校だな」

 

 なんて言っちゃって。

 さりげない武偵ジョーク。昨日の今日でこの手のネタを出せてしまう自分の才能が怖いぜ。

 しかし僕が小粋なジョークを決めて得意げになっているというのに、目の前の少女は笑うどころか、その表情を少し曇らせた。打てば響く彼女が突然どうしたというのか。

 

「……ねえ、ヨミくん。私、今から変なこと聞いていい?」

 

 そして、遂にはそんなことを言い出す。

 第一印象と派手な服装から陽気な性格だと思っていたけれど、もしかして彼女はこの手のジョークやおふざけを嫌う超合理的主義者だったりするのか。コーヒーの入ったカップに口をつけつつ一抹の不安を覚え、しかし態度を変えるには少し手遅れで、僕は幾分か声色を落としてたものの、依然として明るめの調子で聞き返す。

 

「どうしたんだ?」

「いや、あのね、その──なんかヨミくん、変じゃない?」

「変?それは、へんてこりんだとか、奇妙だとかいう意味の」

 

 変、か?

 と質問に質問を重ねるように聞き返そうとすると、目の前の神妙な顔つきをした女児は僕の遮るように肯定した。

 

「その変。その辺りだとか編集だとかの意味じゃなくて、いつもと違う様子を意味するその変。例えば、りこりんが自分のコト私って言ったり、ヨミくんが『ジョークをいったりする』。その変」

「……」

 

 

「ヨミくん、随分と髪伸びたんだね」

 

 

「──それは」

「それに、右頬の頰骨から3センチと2ミリ下にあった切り傷とおでこの中心線から左6ミリにあったニキビの潰れ跡、それと微妙な右顔面と左顔面との歪み。もっともつと一杯あるケド……全部治ってる」

「……」

「おかしいよね、それなのにあややはヨミくんが阿良々木暦だっていうんだ。商売においてはこと日本一の才能を秘めるあいつがそう断言するんだ。商売人の必須スキルとして、客の顔を忘れるはずのない実質Sランク武偵の平賀文が、だよ?」

 

 大きい目がまるで洞窟の穴のように僕を見つめる。

 僕の心を覆ったのは、ただ単純に『ヤバい』という心情だった。それが彼女のストーカーのような観察眼から来たものなのか、正体がバレかかっているからなのかは分からない。しかし、この手の感情には昨日今日で数回目だったため、りこりん、そう自称する少女の口調が乱れていることにも気付かぬまま僕は目を逸らした。

 要は、僕は努めて動揺を隠した。

 サッ、と砂糖を掬い、コーヒーに入れる。

 

「平賀がそういったなら、確かに僕は僕なんだろうな。傷跡やニキビ跡を隠す方法なんていくらでもあるように、僕が僕足りえる要素だって沢山あってしかるべきだ。たかだかそれだけの理由で鬼の首とったように偽物認定してくれるな」

「それは無理な言い訳だと分かってて言ってる?」

 

 いや、それがそうでもない。けどれきっとした根拠だってある。

 平賀や教務科の先生も『りこりん』と同様に、僕の肉付きの違いには気付いていた。肉付きの差に気がついておいて傷跡の有無に気付かないはずがない。だとしたら、傷跡の有無が本人認証に繋がらないはず。

 白々しい態度で見返していると、彼女は溜息を吐いた。

 諦めたような表情であったし、呆れた表情だった。

 

「……たしかに化粧やらなんやらで誤魔化す方法はあるよ。ヨミくんの知らない方法も含めたら130は思いつく」

「なら『りこりん』の知らない方法も入れたら150は行くかもしれないな」

「その気色悪い呼び方を止めろ。……が、たしかにそうかもしれない。それこそ、Aランク武偵を欺き続けるような技量をCランク武偵が隠し持っていても不思議じゃない……かもね」

 

 ニヤっと笑って『りこりん』はそう言った。

 そこにどれだけの意味があったのだろうか、笑みを保ったまま彼女は首筋のあたりに手を当て長い金髪を払う。

 

「……なあ、一つ聞いてもいいか?」

「どうぞ」

「りこりん「峰でいい」峰が僕を見たのは昨日の校舎だということは僕でも想像がつく。ただ、不思議なことに僕は、昨日という日にお前を見た覚えがないんだ。僕が言えることじゃないが、峰は小さい。それに混じりっけのないキレイな金髪だ、到底見逃すとは思えない」

「もしかしたら口説いてるの? 悪いことは言わないから童貞臭すぎて吐きそうだから辞めなって」

「悪口だって悪いことなんだぞ」

「忠告は良いことだろう」

「忠告っていうのは心の中に告げるって書くけど、まさかこんな別ベクトルで心の中の中心をえぐってくるとは思わなかったよ」

 

 大体、彼女いるからセーフだし。

 プラマイゼロで差し引き無効だし。正負だし。

 というか、この子、峰っていう名字なのか。

 フージコチャーンってか。

 ボンキュッボンの峰不二子とは身長という面で似ても似つかない彼女の体型に思わず笑いが漏れる。「やばっ」と思うが、手遅れで。

 峰は不機嫌そうに鼻を鳴らしコーヒーカップをテーブルに置き「何を笑ってる」と聞いてきた。

 

「いや、別に」

「……チッ、もーいいや、はっきり言って、くっきり問う。お前、阿良々木暦じゃないだろ」

「だから言っているだろ、僕が阿良々木暦だ」

「私の知ってる阿良々木暦はそんな平然と嘘をつける性格じゃない」

「つまり、本音だってことだろ」

「……」

 

 どうなってんだよ……。

 後遺症により人より鋭敏な聴覚がそんな独り言を捉える。

 もし僕が彼女の立場だったら、と考えるとそのボヤキ無理はないだろう。まさか、別世界の同人が忍び込んでるとは思わないだろうし。

 

「余談と捉えてもいいけどさ、Aランク武偵っていうのはどうでもいいクラスメイトの古傷の位置を覚えているものなのか?」

「嘘しか言わないヨミくんにリコりんが『それ』に答えると思うの?」

 

 胸を強調するように腕を組み、媚びるようにしなを作り彼女は笑う。底意地の悪い笑みだ。

 したり顔、とでもいうのだろうか。

 してやったり、という勝気な様子が表情からビンビン伝わってくる。

 

「おかわり」

 

 どこに図にのる要素があったのか、表情を崩すことなくそのままお代わりまで要求してきやがる。

 僕からすると、そろそろ帰って欲しいくらいなのだが、彼女はどうあっても僕の変化について追求するつもりらしい。もういっそ、バラしてしまおうかななんて、適当なことを考えてもみるが、かつての過去を弄った結果の惨劇を考えるとそれもできない。

 過去を変えただけで世界が滅ぶのだ。並行世界を変えるなんてことをしたら連鎖的に僕の世界まで壊れるかもしれない。

 

 こんな時、推理の得意な僕の友達がいれば、と想像せずにはいられないが、そうも思っていられないのが現状だ。

 彼女(おそらく本名は峰リコか、それに準ずる何かなのだろう)の言葉を真実だと捉えて考えると、峰はどうやらAランク武偵であるらしい。150にも届かない体格や物珍しい金髪、それに母性に溢れる部位(ウェイト)を加味すれば、多分、彼女は戦闘と隠密活動以外を専攻している。

 

 探偵科か、情報科か、はたまた特殊捜査科か。

 

 なんにせよ、一連の会話から人の捜査や推理に関しては限りなくプロフェッショナルに近いことが簡単に予想できる。そういえばAランクってプロレベル相当だっけか。

 とんでもねえな。

 面倒な奴に目をつけられたものである。

 

「はいよ」

「どーも、ヨミくん。さんくす」

「……なあ、峰。一つ聞いてもいいか?」

「なに?」

「確かに僕は、3月までの僕とは違うよ。それも、致命的で革命的で確定的に異なっているよ。……けど、それってお前からしてありえないレベルの変化なのか?成長といっても差し支えないレベルの話じゃないのか?峰も分かっていると思うけど、人間なんて、特にこの時期の男なんて生き物はそれこそ3日見なかったらなんとやら、だ。ましてや3週間以上も会ってないならそこそこ劇的な成長だって、あってしかるべきだろう。体格の変化、傷の有無なんて年月の経過に比べたら些細なものじゃないのか?」

「それっぽいこと言ってるのは分かるけど、やっぱり理解はできないよ。Aランクだなんてあんまり誇れる数字じゃないけど、私はそれでもAランクだ。そのAランクの勘が告げているんだ、何かがおかしいって。何かといっても、何かは分かっている──お前がおかしいんだ」

 

 Aランクは誇るべき数値だろ。

 凡百の武偵が草葉の陰で泣いてるよ。

 思考の遠くでツッコミが思い浮かんで、弾けた。

 

「……それで、そのおかしさの追求がもし当たっていたとして、そのことに確信を得ることがお前になんの得があるというんだ。高々クラスの見知ったやつレベルの男の秘密を暴いたところで峰になんの利益があるというんだ」

「それは──」

 

 初めて、彼女が口ごもる。

 僕には知りようのなかいことだけど、やはり、彼女も何かしらの爆弾を抱えているらしい。

 もう何回したか分からないくらいの睨み合いの果てに、ため息をついたのは峰の方だった。

 これ見よがしにおかわりのコーヒーを口に含むと

 

「マズ」

 

 と顔をしかめ砂糖を継ぎ足す。

 

「そんな苦虫を噛んだような顔をするくらいなら飲まなきゃいいだろ」

「コーヒーは美容にいいの、知らないの?」

 

 知らないなぁ。

 心からどうでもいいと考えつつ、僕はこれも彼女の会話テクニックなのだと、平静を保つことにした──つまり、しかめっ面の本当の要因は聞かないことにしたのだ。

 

「可愛げのない」

 

 そう一言いうに留めて。

 

「可愛げのある女は可愛くない女なのよ、分かる?」

「言葉の強い女が強い女だと限らないように、か?」

 

 売り言葉に買い言葉。

 峰不二子のような言い回しに付き合うと、またもや彼女は目を見開いて言葉を失った。

 よく分からないが、この度の舌戦は僕に軍配が上がったらしい。

 

 一体全体どこで彼女が僕に違和感を抱いたのかは分からないが、この調子だと他にも僕について何か思う武偵がいてもおかしくない。となれば、今は何も思いつかないけれど何かしらの対抗策を練っておくべきかもしれない、などと暗黙の最中に影の中にいる忍に相談するべきことを考える。

 そんな僕を前に峰は何か決意したような目つきと態度で、

 

「あのね──」

 

 と、言いかけた。

 その時、突如けたたましくベルが響いた。

 無機質な音は僕の太ももから聞こえた。

 この世界の僕の携帯が鳴った。

 

【from 神崎・H・アリア】

 

「……アリア?」

 

 呟いて電話に出る

 

「もしもし」

『「もしもし」じゃないわよ!どうなってるのよ、アレ!』

 

 切羽詰まったような怒声に思わず携帯電話を耳から離す。

 ただ事でもない様子を勘付いたのか、峰も会話を聞こうと僕の方へ寄って来た。

 

「……落ち着けって、何があったんだよ」

『何がって、アンタ……!』

 

 神崎が短く息を飲む音がする。

 

『……ちょっと、アララギ。アンタ今どこにいるのよ』

「どこって、寮室だよ。お前が最近まで常駐してたっていう、遠山と僕の寮室だよ。……そういえば聞きたいんだけど、明らかにお前のサイズに合ってない女性用下着と服があったんだけど。あれって遠山の知られざる性癖だったりするのか?」

『いや、それはシラユキの……ってそれは今どうでもいいのよ』

 

 ああ、そういえば、『白雪の護衛任務』だとか、なんとか言ってたな。そうか、遠山は神崎と星伽と同棲していたのか。

 ……いや、そこに何か思うことはないけれど。

 

『それよりもあんた、今1人?』

「いや、峰がいる」

『はぁ?峰ってリコのことよね、どういう状況よ、ソレ。……まあいいわ、多分リコに聞かれても問題ないし』

「なんでだ?」

『勘よ』

 

 峰といい、神崎といい。

 小さい子は勘に従う法則があるのか。

 神崎の許しが出たせいか、完全に聞く態勢に入った峰を視界の端に捉えつつ僕は何があったのかと再度質問した。

 

『アンタが居たのよ』

「はあ?」

『だから、アンタが居たのよ。それもラグジュアリーショップの中に!』

「はあ?」

 

 思わず2度聞き返す。

 2人の僕が存在している。これはまさに昨日のあの時と同じ状況だ。

 降って湧いたように現れた新たな手がかりにやや呆然とする。

 そんな調子の僕に腹を立てたのか神崎は更に声を荒げた。

 

『答えなさいよ!』

「おい、神崎。お前今、どこにいる」

『新宿に決まってんでしょ!すっとぼけるんじゃないわよ、あんなにマジマジと下着を取ってたじゃない。思わず風穴を開けようかと思ったわよ!』

「思わずで人の穴を増やそうとしないでくれ。あとちょっと待ってくれ。状況が掴めない」

『……はぁ。待たなくてもいいわよ、別に。どうせアンタじゃないんでしょう、あの変態は。……それよりも怪しいのはアンタの隣の奴だと私の勘が告げているのだけど、そこの所どうなのかしら、リコ?』

 

 神崎の問いかけに合わせてちらり、と見やればおデコに小さな手を当ててため息をつく峰の姿があった。

 

「名探偵、ビンゴらしいぞ」

『捕まえておきなさい』

「グッバイ、ヨミくん!」

「任せとけ」

 

 逃げ出そうとする峰を捕まえて抱え込む。

 この手の捕らえは八九寺で慣れたものだ。

 峰が暴れるたびに香りだつ甘ったるいにおいと、感ぜられらるやわっこい感触が気にはなるが、八九寺と違って肉を噛んで骨を断ってくることはないため、楽なものである。

 アリアが電話を切ったのを見計らい、僕は組み敷くように峰を押さえつけた。

 

「放せ、ヘンタイっ」

「断る、それよりも、心当たりを話したらどうだ?」

「断るっ!」

 

 なんて、やり取りもしたが、数分もすれば彼女も力尽き、ぐったりして愚痴をこぼす。

 

「あのバカ……自分の計画だろ」

「自分の計画?」

「……ふんっ」

 

 組み敷かれているというのに強情なものである。

 しかし、この状況、誰かに見られたら大変なことになるな。

 こんな安直なシャレ、言いたくないがまさに大変な変態、という奴だ。

 いつまで押さえてればいいのか、神崎がここにくるまでずっと押さえているのは互いにとって良くない。

 僕は精神的に、峰は肉体的にキツイだろう。

 そこで僕はよいしょ、と峰を無言で抱き上げた。八九寺と同じくらいの身長なのに、彼女がやたら重く感じるのは、大きな胸とそこから見える黒光りした銃のせいなのだろう。

 

「ジロジロみるな。あと、やけに抱き慣れている気がするのはきのせいか?」

「いいから大人しくしてろって。こっちもいろいろ聞きたいことがあるから。単純な攻守交代だと考えてハーフタイムを享受してろ」

 

 平賀文と神崎アリアが見たという2人目の僕について、峰リコが知っているというなら、聞かない手はない。

 

「お前──」

 

 逃げる素振りをしなくなったのを見計らい、今度はこちらの番だと僕が詰問しようとすると、今度はお前の番だと言わんばかりにけたたましい呼び鈴が再び鳴った。

 出なくていいのか、と目線を向けてくる峰から目を背け、僕が渋々携帯を手に取るとそこには『from 平賀文』と書かれている。

 昨日作った資料に不備でもあったのだろうか。

 僕が唯一の収入源に愛想をつかされたらどうしようかと、少しの不安に煽られながらポチッと受信ボタンに触れる。

 少しのノイズと共に、舌足らずな高音が聞こえてきた。

 

『ああ、よかったのだ!あららぎくん、もう電車に乗っちゃった?』

「ええと、はい?」

『いやいや、ナイフナイフ! あやや机に置きっぱなしにしてるのだ!折角研いだのに持ってかないってどういうことなのだ!』

 

 冗談めかした口調で平賀文は笑う。

 しかし、ちょっと待ってほしい。

 僕は今日、彼女にナイフを研いでもらった覚えはない。

 

「平賀、今、お前、どこにいる?」

 

 確かめるように、自分を納得させるように。

 言葉を切って切って、丁寧に問いかける。

 

「何を言っているのだ?武偵校(、、、)にきまってるのだ。早く取りに来るのだ」

 

 プッ──と切れた携帯を片手に峰リコを見る。

 隣に座っていたはずの彼女はその姿を消しており、代わりにあったのは、小さな張り紙一枚。

 

『帰る』

 

 丸っこい字体で書かれた端的な事実だった。

神崎アリアからの電話は新宿から、平賀あやからの電話は武偵高から。……つまり、それが指し示すことは。

 

 

「……『阿良々木暦』が『三人』いる」

 

 

 小さな部屋で1人、『阿良々木暦(ぼく)』が頭を抱えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

018-B

 アドシアード。

 それは一年に一度行われる、私立直江津高校でいうところの『文化祭』のようなものらしい。……と、いっても僕らの学校のようにお化け屋敷や喫茶店のような出し物が祭りの中心になっているわけではなくて、どうやらこの祭りは国からの『監査会』も兼ねているという。

 祭り事のついでに(まつりごと)が掛かっているとあってはなんだか洒落が効いている気もしないでもないが、考えてみればそりゃこんな危なっかしい学校なのだ。むしろ一年に一度の監査で済んでいる方が驚きというものである。

 

 そんなわけで、木の下を見れば空薬莢が落ちていて廊下の壁を見ればナイフが刺さっている、そんな荒っぽい様子も今日ばかりは静まっているとみえて、武偵高は今とても分かりやすく猫をかぶっていた。

 

 校庭には体操服を着た未武装の生徒たちが談笑をしていて、プールでは水着姿で楽しく競技に興じている。武偵高ということもあり競技でこそ銃を使っているが、銃から放たれた弾は不自然なほど(、、、、、、)に生徒に当たっていない。プールの隅や校舎の裏では賑やかに小突きあいがおきてもいるが、それはご愛嬌というものだろう。体育館からはバンド演奏、校舎内では喫茶店や雑貨店。

 これではまるで、本当に普通の高校のようではないか。

 

「まあ、肝心の監査官は顔の良い教師に酒を注がれておるんじゃけどな」

「台無しだよ」

 

 生徒の努力も、国からの監査も。

 そんなことをしているから政に対して制度の形骸化が叫ばれてしまうのだ。形骸化といえば僕と忍の関係も、大概そうなのかもしれないが、この有様に比べたら流石に体裁は保っていると思いたいところではあった。

 

「そんなことより、これからどうするのじゃ」

 

 そんな吸血鬼の形骸化の果てである忍は足をぷらぷらとさせて聞いてくる。

 ちなみに忍の服装はあの春休みの頃に着ていた同じだ。10歳の時の格好だ。同じ服を2度と着ることがない彼女としては異例の格好だと言える。違う世界線だからまたカウントも降り出し、振り直しということなのだろうか。

 

「とりあえず、やることはやるよ」

 

 適当に答える。けれど、実際のところ、今の僕にできるのは一日一日を噛み締めて生きていくだとか、最低限の受験知識を忘れないようにするだとかだけなので仕方がない。

 

「やることってなんじゃ? よもや肋骨演奏家のプロを志すことにしたわけでもあるまい」

「そりゃそうだ。そんなおぞましいプロがいてたまるか」

「この世界には案外おるかもしらんけどな。なにせ、我が主様よりも小さい子が銃を持っている世界なのじゃから」

「たしかにそうだけど……ん? 今、たとえにかこつけて僕の背の低さを誇張しなかったか?」

「括弧つけて言わせてもらえればそれは『誤解』じゃ。『小さい』と言うたのは背丈の話じゃのうて年齢の話じゃよ」

「それならいい。──そう、それなら……」

「カッコつけたセリフじゃが、背景を考えると恰好つかぬのう」

 

 カカッ。と忍は笑った。

 かこつけたような笑いだった。

 ただそれも今の、肩車という格好の前では恰好つかないというものだった。

 

「しかし、まぁ、お前様の学校には及ばないものの、この学校もなかなかの大きさじゃのう」

「僕の学校はバカみたいな田舎だからこその、あの大きさだけど、この学校に関しては海を埋め立てた上に立てたっていうんだから凄いよなぁ。規模っていうか、そもそもの格からして違うぜ」

「正確には、格じゃなくて、質が違うようじゃけどな」

「なんだよ、忍。武偵(ここ)の世界と普通の社会との確執があるってことと掛けているのか?」

「『なんだよ、忍』じゃないわ。そんな分かりにくい掛詞、はなから考えておらんかったわ。儂を下手な洒落好きにするでないわ」

 

 ゴスゴス、と僕の肋骨に忍は小さな踵をぶつける。

 僕よりもよっぽど肋骨奏者として向いている気が正直しないでもなかったが、けれどそれも当然のことだ。だって、僕が彼女に同じことをしたら絵面がヤバイしな。

 何はともあれ、今日という日は政、もとい祭りごとの日だ。

 年に一度の大祭である。

 

「ふん、あの迷子娘なら、『えっ、なんですかお祭りさん。祭り子供なんてロリコなんちゃらな下心が透けて見えますよ。明け透けですよ』なんて言っておったのかもしれんのう」

「まてよ、忍。たしかにアイツならそんなツッコミどころが多くありすぎてどこからツッコめばいいのか分からなさそうな事を言うかもしれないけれど、そもそもとして、アイツは僕の心を読めないんだから今の発言の起点となる『まつりごと』を『祭り子供』と噛む発想が生まれないじゃないか。あと、そこに目を瞑ったとしても、僕はロリコンじゃないし、それにロリコなんちゃらって元の文字数より2倍も長くなっちゃってるし、それにそれになによりも、僕の名前を年中ハッピー野郎みたいな噛み方をしちゃってるし!!」

「ツッコんだのう。長々と、あの少女に対する愛と同じくらいの長さでツッコんだのう。──おぉ、怖い怖い。今あやつがここにいたら、お前様にマッハのスピードでスカートに顔を突っ込まれていそうじゃ、パンツをガン見されそうじゃ」

「下心だけにな」

「10歳のパンツを心に例えるでないわ、たわけ者が」

「けどさ、少なくとも30歳のパンツよりは心ってやつがあると思わないか? 40、50、60と年を経ていくうちにパンツに宿るのは心じゃなくてシミになっていくだろうし。まあ、仕方のない事なんだろうけどさ」

「やめんか。スカートの中身を題材にした観念的な話を広げるでないわ。そして、その話を広げた上で儂にパスしてくるでないわ」

「えー」

「『えー』じゃないわ!」

「ちなみに、600歳のパンツって何が詰まってるんだ?」

「こらっ、なにをさりげなく儂のワンピースの裾をめくっておる。──ちゅーか、肩車しつつパンツを見ようとしてるせいでお前様の首と眼球がエグいほど曲っておるではないか!」

「あー、祭りだと思うとなんだかテンション上がってくるなー」

「とってつけたようにそんなこと言っても今の状況と所業が『テンションが上がっている』の一言で許される範囲を超えていることは覆るわけじゃないからな」

「あ、そういえば、この世界でもそろそろミスドのセールがあるらしいぜ」

「許す!!」

 

 許された。

 御歳600歳の御大。流石の寛容さだった。

 もしくは、見た目通りの幼さだった。

 

「それで、お前様。こうして儂を肩車して歩いているのはいいんじゃが、お前様は一体どこへ向かっておるのじゃ?」

「あれ? 言ってなかったっけ、火薬庫だよ」

「ふむ。とすると、考えられる可能性としてはあのマスターズとやらの女豹に命じられたのか?」

「ご明察だよ、忍」

 

 その通り、正に、大正解。

 僕は、アドシアード当日である今日。なぜこんな雑用に身をやつしているのかと聞かれたら、それは間違えようも誤解することもなくあの蘭豹とかいう頭のネジが一本、二本三本と言わず、ダース単位でぶっ飛んでいるあの女教師が原因だと言わざるを得ないのだった。というか、このやるせない気分を考えると、むしろ言いふらして回りたいくらいだった。

 まあ、当の本人は、お偉いさんと一緒になって御相伴を預かっているようだし本当にもう、なんというか、この学校がこの学校になったワケだと嘆かずにはいられない。

 

「しかしそんなネガティブになることもなかろう。どうせお前様が暇になったところで、この現状を打破する手立てが浮かぶようには思えんしこれもまた余興だと思えば良い。なに、お前様は道草をくうことに関してはこと及ぶものなしじゃろう?」

「けどさ、忍。たしかに僕は寄り道や道草を食ったらすることになんの忌避感もないよ。だけど、『もしかしたら会心の一手が見つかっていたのかも知れない』と思うとやるせないんだよ。僕がこうやって弾薬のお使いをしようがしなかろうが現状は変わらないかもしれないけど、『もしかしたら』の可能性がこのお使いによって生まれたのは確かなんだ。僕がもしネガティブになっているというならそれは、お使いじゃなくてお使いが生んだその可能性が原因なんだよ」

「……ふむ、まるで自由からの逃走じゃのう。否、差し詰め『シュレディンガーの苦悩』といったところか」

 

 本当に。例え、答えが出たところでなんの意味もないあたり、忍のネーミングは的を射ていた。

 

 体育館、屋内プール、渡り廊下、廊下、マスターズ、廊下、校庭と経て、そうしてやっと弾薬庫への入口がある武偵高の校門へとたどり着く。

 僕は忍を肩車をしていたこともあり人影を避けてきたが、校門近くのこの辺りは屋台やなんかが立ち並んでおり、流石に忍を隠して通り抜けるのは難しそうだった。

 

 なぜ隠すのか。

 だって、万が一にもこいつの存在がバレてみろ。それはもう、蝶よ花よと愛でられるに決まっている。この世界のどんな絹よりも綺麗な金髪とこの世に二つとない可愛らしくもありつつ美貌という言葉がこれ以上なく似合う顔立ち。傾国の美女に相応しい立ち振る舞い。

 忍がいたら、例え彼女の隣に国民的スターがいたとしてもソイツは霞と化すだろう。国民的スターだったならまだしも、これが僕だったら、どうだろうか。矮小と狭量の極みたる僕ごときがあらゆる下賎な言葉の対義語である忍の隣にいたら、一体何が起こるだろうか。

 考えたくも想像したくもない妄想だが、考えずにはいられない。

 ああ、美人とはなんともまあそれだけで罪なものなのだ!

 

 ということで、僕は一旦屋台群に背を向けて、忍に話しかける。

 

「おい、忍」

「なんじゃ、我が主様よ」

「人通りが多そうだから僕の影に隠れていろよ」

 

 掴んでいた忍の太ももから手を離す。

 が、しかし、いつまで待っても肩にのしかかる重量は変わらない。

 いつもなら、委細承知したといわんばかりの速さで僕に落ちる僕自身の陰から影へと落ちていくのだが、はてどうしたのだろうか。

 

「……のう、お前様」

「なんだ?」

「いやな、ちょっと気になることが三点ほどあってのう。儂が影に引っ込む前に聞こうと思って、の」

「おいおい、らしくないじゃないか。僕らは忍が死んだら僕だって死んでやる、そう誓い合う仲だっていうのにつれないじゃないか。僕の器は大概小さいけど、忍の質問だったら二十四時間予約も前置きもなしに受け付けてやるくらいの度量はあるぜ?」

「いや、誓い合ってないから。別に儂はお前様が死んだところで後追いはせんけどな。あと二十四時間受け付ける度量は並大抵手間はないからな──ってそうではない。儂がしたいのはツッコミではなくて質問じゃ」

「失礼、ボケました」

「いらんテンプレートを作ろうとするでない。会話を前に進ませるのじゃ」

 

 話を聞くまではテコでも動かない、と僕の脇の下に忍は両足を差し込んでグッと僕の方を固めた。一体なにをむきになっているんだ、と彼女の太ももを解こうとするも形骸化したといえども元吸血鬼の力は強くビクともしない。

 腕には相当の力を込め、言葉は平然と。僕は返答する。

 

「会話を前に進めるだって? これまた僕達らしくないことをいうじゃないか。ただただ雑談してたらいつのまにか事が始まって終わってましたってのが僕達の常だったじゃないか。なんだったら、僕はお前とアドシアードが終わるまでこうして話し合っていたっていいんだぜ?」

「どうでもいいが、先ほどと論調が全く変わっておらんのう。ワンパターンは雑談に向いてないぞ」

「……おいおい」

「もういいわい。あと、儂が聞きたいのはそこなのじゃ」

 

 ビシィ! と人差し指だけを伸ばした右腕を前へと突き出す忍。

 

「まず、一つ。なぜ、お前様が校門が見えた後すぐに校舎の方へ振り返ったのか。二つ目。なぜ、お前様はそんなに儂を影の中へ入れようと急かすのか。そして最後に、儂に対する過剰なまでの美辞麗句はともかく、その後の儂への声がけがなぜあんなににもぞんざいじゃったのか」

「……」

「のう、お前様。まさかとは思うが、もしかして、ひょっとして、万が一の話なのじゃが……あそこの校門。ひいては校舎と校門をつなぐ道沿いに数多建てられた屋台の中。あそこには儂に見られなくないナニカがあるのではないか?──例えば、そう『ミスタードーナツ』の出店、とか?」

 

 前髪をだらんとたらして鼻をひくひくと動かす忍。

 人間性を捨てたとした思えない角度まで首をかしげるその様子は忍という存在に違わぬホラーっぷりだ。

 どちらかといえば、和ホラーよりではあるけど。

 そんな彼女に僕は、先程は遮られてしまった言葉で前置きを入れる。つまり「──おいおい」と肩をすくめた。

 

「考えても見てくれよ。僕が忍にウソをついたことなんてあったか? 頼む、信じてくれ。僕に断じてやましいことはない。僕が忍に偽ることなんて絶対にない。なんなら羽川に誓ってもいい──僕は忍に嘘なんてついてない!」

「そりゃあ、そもそもお前様は儂に嘘も本当も何も話しておらんからのう。そんなことをほざくなら、お前様よ。今ここで言ってみせるとよい──僕はミスタードーナツの出店なんか見ていません、とな」

 

 べしべしと僕の頭を忍は叩き、煽りを深めるように口元をゆがめた。

 なるほど、伊達に600歳も生きていない。実に狡猾だ。

 であれば、ここで白状させてもらうなら正直言って僕は、忍の言う通り、あの屋台群のなかにミスタードーナツを見つけていた。そして、忍にそれを悟らせないようにそこから背を向けたし、購買意欲を湧かせないようにするために影の中に入るように指示をした。その際に尤もらしいおだてをしたし、なによりおだてと声がけのテンションの落差がそれを示すなによりの証左だった。

 だけど、僕がそれを正直に言うことになんの得があるだろうか。

 忍にそれを告白すれば僕の財布は痛手を受けて、得たものは残らず少女の腹へと消えていく。

 それになんの利益があるだろうか。

 他人は無責任に忍の笑顔、僕達の円滑な関係が得られるなんて言うかもしれない。物は言いようだ。

 だから、僕は言おう。

 

 そんなものはくそくらえ、だと。

 

 むやみやたらにこの世界の僕の貯金を崩すわけにもいかない今、僕はなんとしてでもこの場を凌ぐ必要があるのだ。

 

「『僕はミスタードーナツの出店なんか見てない。オールドファッション八十円の(のぼり)なんて目にしてない』」

「平然と嘘をつくでないわ。信憑性を出すために付け足した言葉がこれ以上ない証拠になっておるではないか」

 

 しまった。言ってしまった。

 長々と丁寧に準備した隠し事を30文字にも満たないボロで台無しにしてしまった。

 

「……上手いこと罠に嵌めてくるじゃないか、忍」

「儂のかけた罠を無視した上で、自分で罠を仕掛けてその罠に引っかかっただけじゃろ」

「まぁ、あそこにミスタードーナツがあることは無事わかったんだ。満足したなら影に引っ込んでろよ。影にしまい込んだスーパーマリオブラザーズがまだやりかけなんだろ」

「何も満足しとらんわ、阿呆め。それに今儂がやっとるのは怪盗ワリオじゃ」

「一緒じゃん。ワリオもマリオの内だろ。マリオがワリオの内のようにさ」

「儂はお前様のようにセンター対策をせっせとしとるわけじゃないが、それでもその必要十分条件が偽なことは儂にもわかるぞ」

 

 八九寺がああ言えばこう言い返す奴で、斧乃木ちゃんがああ言えばこう殴り返すような奴なら、忍はああ言えばこうやり返すやつだな。鸚鵡返しに否定し返してくる厄介な奴だ。まあ、一番厄介なのは羽川のようにああ言えばこう諭すやつなんだけどな。

 

「ふむ、それで例えるとあのツンデレ娘はどうなるのじゃ?」

「ああ言えばこう殺りかえす奴、かな」

「仮にも彼女にする例えではないな……ん? しかし、あやつは更生したんじゃなかったか?」

「いや、更生する前はああ言えば殺す奴だった」

「恐ろしい話じゃ」

「あ、そうだ。どうせなら神原のも言ってやろうか?」

「言わんでもいいわい。『ああ言えばヤリ返す』じゃろ?」

「正確にはああ言わなくてもヤリ過ぎる、だな」

「よりタチが悪いわ」

「違いない」

 

 ははは、と僕は笑って、忍はカカッ、と嗤った。

 祭りの場にふさわしい、朗らかなやり取りだった。

 

「──さて、そろそろ行くか」

「待て、お前様。ミスタードーナツの話が終わっておらんじゃろう」

「……チッ」

「いま舌打ちしたかっ!? お前様ッ!」

「あのさぁー、忍。いや、忍ぼうとしない。お前少しは自分がどれだけ目立つ存在か考えたことないのか? 僕はあくまでお前のことを考えて、ここはぐっとこらえて影に隠れたろって言ってるんだぜ」

「言っとらんじゃろ。そんなこと一度として言っておらんじゃろ。さっきまではその貧相で薄っぺらい財布の心配だけをしてたじゃろうが。あと、儂の名前をサボりぐせのある忍者のように呼ぶな」

「だからさぁ、忍ばない。ワガママ言わずに大人しく影に戻ろう? なっ……また今度買ってやるからさ」

「……確かに儂は今からミスタードーナツに寄ってそのセールの品を寄越せとワガママを言うつもりじゃったが、まだ儂はそれを口にしておらん。してないうちから嗜めるでない。まるで儂が徹頭徹尾ワガママを撒き散らしているようじゃろ」

「違うのか?」

「そうだけどっ」

 

 そうらしい。

 聞か返しておいてなんだけど、僕は違うと思うが、わざわざそれを教えてあげようとは思わなかった。

 僕と忍の意地のぶつかり合いもそろそろ分水嶺になりそうだ、と僕が考えたところで校庭の方でひときわ大きい歓声が上がるのがきこえた。

 

「ふむ、何かあったようじゃな」

「時刻がもうすぐ11時を指すから、多分体育祭の中間発表があったんだろ。中間発表はチアリーディングより前にあったはずだから、間違いない」

「なぜチアリーディング基準で日程が頭に入っているか、なんて今更問いはしないが、しかし。そうなると弾薬は何時までに運べばいいのじゃ? たしか先日の弾丸はこの祭の報酬だったはずじゃが」

「さあ……けど、火薬庫は先日に一回行ったとこだし、最悪チアリーディングには間に合うだろ」

 

 前回は手探りのお使いだったけど、今回は下見済みのデートスポットに行くようなものだ。余裕を持って考えても祭の閉会式には間に合う計算になる。

 

「それは分からんじゃろう。もしかしたら火薬庫の奥底に、またあの白髪娘があるかもしらんぞ」

「あんなことが二度三度と起こらないだろ」

「ほう、言ったな?」

「あぁ、言ったさ。なんならお前の好きなゴールデンリングをかけてやってもいい」

「オールドファッションは?」

「ああ、いいさ」

「ロリポップは?」

「セール対象外だからだめだ」

 

 少し前にもこんなやり取りしたよな。

 聞かれる前にソーセージパイもダメだ、と告げると忍は僕に蹴りを入れると影の中に入っていってしまった。

 拗ねたのか、とも思ったがペアリングから伝わってくる感じからするとどうやら、ただ単に買ってこいということらしい。

 やれやれ、ワガママなお姫様だぜ。

 ただまあ、結果的に僕が要求したことは叶ったのだから、多少の出費は我慢しよう。千円にも満たない額の出費でガタガタ言うのは既に一度高校卒業した身としては情けないものがあるからな。

 ジリジリと照りつける天気の下、僕は意気揚々と火薬庫への一歩を踏み出した。

 よもや、地下には洪水と氷による地獄絵図が広がっているとも知らずに。僕がゴールデンリングとオールドファッションを無条件に買う羽目になる40分前の出来事であった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

019-B

「さて、そういえば我が主人様はとある節に文字通り地獄を見てきたそうじゃが」

 

 忍は言った。

 右手にオールドファッション、左手にエンゼルリングを持って。

 

「はてさて、地獄にはこのような光景が広がってあったのじゃろうか。儂には地獄とも天国とも、そもそも死自体から遠い場所にいる身にてそこのところ、気になるのじゃが」

 

「……僕の知ってる地獄は幼女が河原のそばで楽しく小石を積み上げるような場所だよ。それに、少なくとも──こんな氷山は広がっていなかった」

 

 弾薬庫に続く鉄の扉が気温に似合わない冷たさを持っていた時から嫌な予感はしていた。そうでなくとも、床が霜でも降ったかのようにやけに滑るし、そもそも気温自体が先日ここに訪れた時よりもさらに寒くなっていた。僕らが進むにつれて、ますます顕著になっていく予感の断片は僕に否応なく、ジャンヌダルクの末裔とかいうあの少女を想起させた。

 

「魔剣……かぁ。言いようによっては妖刀【心渡】も魔剣の一種であるわけだし、他にもないと考える方が不自然といえばそうなんだけど、改めてそういうのを目にすると新鮮味があるよなあ」

 

 白銀に輝く両手剣の姿を思い出して呟く。

 

「うむ。しかし、お前様。魔剣と妖刀は実際には似て非なるものじゃ。あのデュランダルをカテゴライズするなら心渡よりもむしろ、かの半吸血鬼が用いていた十字架(クロス)の方が近しいことになるじやろうし」

「クロスっていうと……あぁ、エピソード君の」

 

 あまり思い出したくない記憶を引っ張り出す。

 それは人の背丈を優に超える大きさの十字架でで、吸血鬼が触れると体の芯を焼かれるような痛みが走る凶器だった。

 

「なあ忍。十字架の形をしたあの鈍器は確かに凶悪だったよ。けどさ、あれはあくまで対アンデット用の武器で十字架という訳だし、どっちかっていうと聖剣って感じじゃないのか? ……ああ、いや、鈍器が剣に含まれるかどうかという話はさておいて、だけど」

「お主も聞いておったじゃろ。かの魔剣デュランダルがかつては聖剣として名を馳せていたことを。魔剣と聖剣は言わば光と闇。否、天井と床の関係じゃ。一繋がりであり正反対のように見える、しかし見方を変えれば床は天井たりえて天井は床たりうる。そういうことじゃ」

「……どういうことだ?」

「つまり、聖剣は魔剣ともいえるし、魔剣は聖剣ともいえる。正義と悪が立場によって入れ替わるように、な」

「あぁ、なるほど」

 

 カツン、と地下道に足音が反響する。

 それに、十字架はどちからというと負のものじゃ、と忍は付け足して、話を転換した。

 

「しかし、妖刀はそうでない」

「……えーと、それは妖刀の対義語になるような言葉はないからってことか?」

「否、言葉遊びの問題ではない。なんなら妖刀に背反する言葉はある──そうではなく、妖刀は一辺倒に妖刀たり得るという話なのじゃ」

「なんでだよ。妖刀に対する言葉があるって言うなら、それも立場によって変わるはずだろ?」

「いやいや、それは検討はずれというものじゃよ、お前様。妖刀はその対義語がなくとも妖刀であるし、そもそも妖刀なんてものはないのじゃから」

 

 忍はポンデリングを齧り、ニタッと笑った。

 妖刀は、ない?

 聖剣は魔剣があるからこそ、魔剣は聖剣があるからこそ成り立つ。けど妖刀は妖刀に対極する何かがあろうがなかろうが関係なく成立する。むしろ、妖刀はない。

 一体、どういうことだろう? 僕にはどうにも言葉遊びにしか聞こえないんだが。

 

「だめだ、よく分からん」

「わかる必要もあるまい。じゃが、ここで話を終わらせるのはあまりにも無責任というものじゃ。……そうじゃな、要は、儂が今こうして心渡を複製したり手に持って使ったりしたいること。それそのことこそが妖刀が妖刀たる所以にして由縁である、とだけ言っておこうかの」

「んー、さらに分からない。あってそうなことを言ってそうな気がする、まるで評論文だ」

「しかし、怪異とはえてしてそういうものじゃ」

 

怪異と評論文を同列に見るというのも変な話だが。僕は一層寒くなる室温に身震いをする。

 

「妖刀は怪異じゃないだろ」

「さてはて……と、話はそろそろ終い──奴さんのお出ましじゃ」

「……ああ。僕にも見えてるよ」

 

 忍が僕の肩を蹴り2回転半のムーンサルトを決めて着地する。僕はそれを見届け、肩の力を抜いて軽く息を吐いて自然体の姿勢をとる。

 両手に持っていたドーナツは既にお腹の中に入ってしまったと見えて、彼女はそれはもう、上機嫌な笑みを浮かべていた。

 ダイヤモンドダストによってキラキラと光る空気中の奥、カツカツと軽やかな音を立てながら鎧姿の女が1人歩くのが見える。僕は少しの逡巡を挟み、腰のあたりにつけていたグロッグ17を手に取った。

 

「お前様。分かってあると思うが、ソレは極力使うなよ。『癖』になる」

「……了解」

 

 癖になる、という忍の言葉が指すのは右手に包まれるこの鉄塊のことだろうが、僕はなんとなく、さっき忍に行った吸血行為を思い出す。今回は現実的な死が近しいから特例的に行ったが、もしこの状況が続いていくとしたらどうするべきなのか。そこのところは早急に考えていかなくてはいけないのかもしれない。

 吸血鬼化が進んでいるのか、握った銃がミシリと音を立てる。

 ここは日本最大級の火薬庫だ。おいそれと火花を咲かせるわけにはいかないだろう。

 大丈夫。

 大丈夫、僕は、大丈夫。

 気丈に振る舞うことすら烏滸がましく思えるような非日常、超常。その最先端にいることに対する自覚を丹田のその奥に封じ込める。

 

「──来るぞ」

 

 忍が小さく呟くのと同時に僕は身を翻して左の棚に身を寄せた。それは単に勘による行動であったが、正しかったらしく、先ほどいた場所には巨大な氷柱が建っていた。

 ヒッ、と息を呑む。

 殺意が高すぎやしませんかねえ! 僕は睨みつけるように奥の影からぬるりと顔を出した美少女に目を向けた。

 

「……避けたか。あれで死んでおけば楽に死ねたものを」

「──あんなんで殺されて楽に死ねるわけねえだろうがっ!」

「ほう、まだ吠える余裕があるとはな。リコからは警戒に値しないごく平凡な武偵だときいていたが──まあ、それもこれで。まずは隣にいる金髪の方を対処するべきだなっ」

 

 やはりでてきたのは見覚えのある銀髪。

 ジャンヌダルク。

 彼女は、セリフを言い終えると同時に再び手にした剣を振るった。するとタイムラグなく、すらっとしたその直剣の動きに合わせて勢いよく氷柱が地面からそり立ち僕らの元へとせまってくる。

 

「お前様ッ──これを使えっ!」

「こ、これ? って、心渡じゃねえか!」

 

 妖刀心渡は、怪異のみを叩っ斬る性質を持つ妖刀で、フィクションみたいに長い刀身をもつ。その性質からして当然ながら『氷柱』なんていう現実現物現象を切ることなぞできはしない。はずだ。

 心渡じゃ意味がないと回避の体制をとると忍から追加のお言葉が飛んでくる。

 

「阿呆! この氷柱の大元は、あやつの超常であろうがっ」

「いくらなんでもそれは屁理屈だろう!」

「屁理屈も理屈の内じゃ!」

 

 だとしたら、こんなにも無責任な理屈はないな。

 もしこれで僕がアイスマンになるようなことがあれば恨むぜ、と僕は半ばヤケになりながら手にした心渡を氷に向かって振るった。それは型も何もあったものではない、まるでホームランでも打つかのような大振りだった。

 氷と心渡が接する瞬間の僕の頭に切れるか切れないかの二者択一の選択肢しか浮かんでいなかったのは、妖刀に対するある種の信頼からか。

 結果はそれに違わず、否、違っていたのかもしれないが、しかし、心渡はヌタッとした感触を僕の手に伝えながら氷を断ち切った。

 屁理屈も理屈の内だと証明したのだった。

 心渡が氷に触れると、まるで心渡はあたかも灼熱のマグマにでもなったかのように氷を触れたそばから消していく。それに伴う感覚はなんというか、湯川を切りつつ水を断ちつつ氷を割くような感じだ。

 

「よくやった」

 

 手に残るなんとも言えない残滓に思わず渋面を作る僕に忍はそう言って、氷柱の迫り来る軌道に沿うように駆け抜けジャンヌダルクへと迫っていく。その距離はおよそ30メートルに始まりあっという間に縮まっていく。そして、その距離が半分を切ったあたりで忍はおもむろに口の中へ手を突っ込んだ。

 

「ハァッ!」

 

 喉を鞘に忍は心渡を用いて居合斬りを敢行する。

 しかし、銀髪の彼女もタダでやられるとはみえないらしく右手に持った怪しい輝きを放つ魔剣を以って応戦する。

「甘いわ!」とデュランダルで忍を切り裂こうとすれば、「若造が!」と忍は左手を犠牲にしつつ心渡を振るう。ガガガッと周りの棚やら天井やらに傷を付けつつも2人が止まることはなかった。

 

(……こうして、忍が誰かとやりあうのを見るのは初めてかもしれない)

 

 いわんや、千石が神さまになっていた時は毎日見てたけど──あれは『やり合う』というよりも『やられてやられてやられてやられる』とすべなき一方的なものだったし。

 彼女のその、獰猛かつ狡猾にジャンヌの首や心臓をためらいなく抜き手で狙う様子はさすが死を知り尽くした怪異の王と言ったところだろうか。徐々に戦況はジャンヌダルクから忍へと移っていった。

 

「カカッ!」

「いつまでも笑っていられると思うな!」

「笑う? つまらなくて欠伸が出そうなものなのに? カカカッ」

 

 そんな彼女たちを尻目に僕はと言えば、棚や電気器具に及ぶ戦いの余波を一手に引き受けていた。火薬に迫る衝撃があれば体を呈し、電線に迫る氷があれば刀で引き裂いて。僕は何がどう作用してどんなことが起こるか想像もつかないズブの素人だ。それゆえに、こんな泥臭くてがむしゃらな方法をとるほか術がない。はたからみたら、今の僕は多分パントマイムをしているように見えるのだろう。

 少し悲しくなりながら、壮絶な戦いを再び、その暇を縫うように見やる。

 ジャンヌはデュランダルで忍の腹を切り裂くと同時に傷口を凍らせているようだ。どうやら彼女は傷口の出血が忍の超回復(実際には『超回帰』という方が正確だろう)のトリガーだと睨んだらしい。超能力者らしからぬ繊細な考えだ。超能力者というと、もっとその能力をあてにして他の技術には劣っているイメージがあったけど。

 

「何を惚けておる、お前様!」

 

 ハッと気づいた時には目の前に氷柱が立っていた。

 

「う、うわあああああ!」

 

 恥も外見もない、腰が抜けるように這々の体で避けるというよりも転ぶように迫り来るソレから逃れる。目の端で氷の柱は木箱が置かれた箱を破壊しつつ壁に大きな氷山を建築していた。ああ、危ねえ!

 

「はは。情けないな、阿良々木暦! やはり、戦力の上方修正は必要なかったな! 全く、アイツも用心深すぎる、日本人の血が混ざってるからか?! こんな幼子におんぶ抱っことは、恥ずかしくないのか、阿良々木暦」

「お前様」

「──分かってる。さすがに、そこまで馬鹿じゃねえよ」

 

 こんなあからさまな挑発に乗るほど、今の僕は孤独じゃない。けれど、彼女の言葉は手から血が滲むくらいには図星であり僕は八つ当たりをするように手当たり次第周りの氷を斬っていった。忍が少しでも戦いやすくなるように、と心の中で言い訳をして。

 そもそもとして、僕は気付いていたのだ。正確には、『こうして忍が戦っているのを見たのは初めてかもしれない』といった時点でその事実には根本的に自覚していたのだ。

 すなわちそれは、今まで彼女は戦う姿を見せなかったのではなくて、戦う必要がなかったのだということに。

 実際、千石にやられた時など、必要な時には必ず忍は僕の隣にいてくれた。けど、それにしたって隣にいただけだった。つまり、忍は自らが目の前の聖者に立ち向かうことで雄弁に代弁していたのだ──僕にとって、この戦いは荷が重いということを。

 忍はあえて何も言わないことを選んだようで、腹にこびり付いた氷を自ら切り裂いて剥がす。

 

「……貴様、その回復力」

「──ほう、気づいたか」

「貴様、吸血鬼だな。あの忌々しいデカブツ以外にまだ生き残っていたとは驚きだが、それならそうとやりようはある」

「……ふむ、なるほど」

 

 忍はチラリとこちらを見てくる。

 やり取りを覚えておけということだろう。

心渡の刃先を床に近づけた忍。それをみて顔をしかめるジャンヌダルク。

 

「して、小娘。先程やりようがあると言うたな」

「言ったが?」

「いやな。未だ儂にダメージ一つ負わせられないうぬがやりようがあるとは滑稽な話じゃと思ってな」

「……吸血鬼が人間に勝っていた時期はもう過ぎている。それに、貴様。その口ぶりからすると知らないらしい。一体どちらが滑稽なのか」

「知らない?」

「そうだ、阿良々木。お前は随分とその吸血鬼を信頼しているらしいが、ならば教えてやろう。いかにその安寧が脆弱なものであるかを」

 

 今の忍は本気を出せば17歳ごろのナリを取ることが可能な位には吸血鬼だ。斧乃木ちゃんですら瞬殺できる実力を持つ彼女をもってしてやりようがあるとは、一体どういうことなのだろうか。

 固唾を呑んで言葉を待つ。

 ふぅ、とジャンヌダルクが冷気を吐く。デュランダルの剣先が僅かに浮いた。

 

「吸血鬼は、絶対ではない──吸血鬼は、死ぬんだ。……この意味がわかるか、阿良々木」

「そ、そりゃあ吸血鬼も怪異である以上死ぬことだってあるはずだ。死ぬって表現が正しいかは別として。けど、ここは地下でしかも冷気に満ちている。夜でないにしたって、吸血鬼の領域に限りなく近いはず。なら──」

「そうではない。こいつらはな、ともすれば人間よりも脆い特徴があるんだ……なぁ、吸血鬼」

「──さて、な」

 

 脆い、特徴?

 それは太陽光や十字架の話じゃあ、ないのか。闇に包まれた吸血鬼はそれこそ怪異の王。脳みそに手を突っ込もうが心臓を破裂させようが生き返る。生きしのぶ。生きながらえる。

気が狂おうが、怪しくも生き異う。

そういうモノなはずだ。

 

「魔臓……知らぬとは言わせないぞ、吸血鬼」

「……ま、まぞう?」

「そうだ、阿良々木。吸血鬼は全個体に共通する特徴があるんだ」

「それが、マゾウとかいうものだっていうのか?」

「魔族の臓器とかいて魔臓だ。吸血鬼は四つの特殊な臓器を持っている。これらは吸血鬼の回復の源であり吸血鬼を吸血鬼たらしめる本質なのだ。つまり、阿良々木。お前のそのパートナーもそいつを全て破壊して仕舞えばおしまいということだ」

「ま、魔蔵──回復力の源?!」

「加えて言えば、吸血鬼の能力も私は把握済みだ。考え辛いが、貴様は刀を作り出す能力者の遺伝子を取り込んだといったところか」

「……何を言いだすかと思えば、くだらん。戯言ここに極まれり、と言った所じゃな。興醒めじゃ」

 

 忍は心渡を身体にしまいロンダート、バク転バク転、ムーンサルト空中3捻りを加えて僕の元へ戻ってくる。そして(……よく分からんが、この世界の吸血鬼は儂とはだいぶ違う生き物のようじゃな)と囁いて忍は影の中に入っていった。

 

「ふむ、弱点を突かれて逃げたか。……まあいい。さあ阿良々木。あとは貴様だけだ。悪いが死んでもらうぞ!」

 

殊更に強い客気とともに払われる大剣。今までと同じように床面からそり立つ氷柱が迫ってくるのかと思い膝を曲げて避けるモーションをとる。しかし、僕とジャンヌの動作は

 

「──待ちなさい!」

 

と、空を切る静止の音に阻まれるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

020-B

「待ちなさい!!!!」

 

 距離を詰めたジャンヌダルクが剣を振りかざし今にも僕に斬りかかろうとしたその時、僕が咄嗟に出した両手共々止めるように暗い火薬庫に甲高い声が響いた。

 聞き覚えのあるアニメ声。彼女の闘志に応えるように吠える二丁拳銃。そして、私は自信満々です、といわんばかりのしたり顔。

 間違いない。

 神崎アリアだった。

 

「神崎アリアぁ! なぜお前がここにいる! お前は遠山キンジと星伽白雪諸共、あの時に水に沈めたはずだ!!」

「あらあら、お大事に。あなたの目が雹と入れ替わっていたなんて」

「ダメだよ、アリア。女性の目はいつだって見たいものしか映さない。見たいものとはつまり美しいものなのさ。そして、だからこそ女性の目はあんなにも美しい光を放つ」

「……遠山。それに星伽までおめおめと生き残っていたか!」

 

 ジャンヌダルクの背後から現れたのは、神崎、遠山、そして星伽と呼ばれる女性。そうか、あれが星伽白雪か……。

 長い黒髪ロングの大和撫子。こんな緊急事態にもかかわらず、羽川と同レベルのたわわに実ったそれに目が行くのは彼女が巫女服なせいなのか。どこか羽川を思い出す風貌だ。

 ザッ──と、氷を足元から自分を押し出すように生やしたジャンヌダルクは僕から飛ぶように離れる。対して神崎達はゆっくりと僕の元まで近寄ってきた。

 ああ、忍はこいつらの気配を感じて影に戻ったのか。

 

「あら、ごきげんようコヨミ。災難だったわね。その様子じゃ随分とやられたようじゃない」

 

 太いツインテールを揺らした神崎はしゃがみこんで僕の瞳を覗き込む。

 なぜここに神崎達がいるのか、何がここで行われていたのか、ジャンヌダルクとどんな因縁があるのか。

 いろいろ聞きたいことはあったが、こちらを物凄い目で見てくるジャンヌダルクと、それに呼応するように目に見えて下がっていく気温に僕はその全ての疑問を飲み込んだ。だんまりした。

 

「皆してビショビショだし、『生き残る』ってなんだよ……とかいろいろ聞きたいことはあるけど──あんまり状況を聞いてる暇はなさそうだな」

「あらコヨミは分かってるじゃない。……キンジもこの対応力を見習うべきじゃないのかしら」

「キ、キンちゃんはいつもスマートです!!」

「ああそうだね、アリア。君のいう通り無駄話をしている時間はないようだ。お相手は今にも踊りたがっている」

 

 あれ? というか、遠山のキャラが変わっていないか。テコ入れでも入ったのだろうか。だとしても、そのキャラクターは明らかにミステイクだし、それにそれを自分のキャラだとテコ入れ(デビュー)するには余りにも中途半端な時期だと思うのだが。

 ま、まあ。なにはともあれ、少なくともこいつらは僕の敵としてではなく、ジャンヌの敵としてここに駆けつけたようだ。

 

「待って、キンちゃん。──ここは、私にやらせてほしい。私は星伽の巫女。星伽の巫女は守護りの巫女。誰かに尽くして、誰かのためにこの身を投げ打つが定め。だから、今が、その時なんだと思うの」

 

 星伽が僕らを庇うように前へ出る。

 それになにやら意味深な口上を述べている。

 見た目からはおっとりしたような印象を受けたが、随分な気丈夫らしい。手にした薙刀を一振りすると、鋭く喝を入れた。

 

「掟を破るか、星伽の巫女」

「──貴女はジャンヌダルクの系譜を継いでいるんだっけ?」

「……」

「30世だか400年の歴史だか知らないけれど、時間が経ち過ぎたようね。──忘れているようだから今一度、焼き直してあげるわ」

 

 星伽は片手で薙刀を構えるように、刃をジャンヌダルクに向けたまま、腕を引く。腰を下ろして逆側の手を伸ばして照準をつけ、そしてそのまま薙刀を持った手首を返し肩から力を入れて野球ボールを投げるかのように薙刀を思い切り振るった。

 ジャンヌダルクとの距離が相当あるというのに、まさか薙刀を投げるわけではあるまい──と、僕がそう思うのも束の間。

 彼女の薙刀を起点としてジャンヌダルクに向かって炎が噴き出した。あっという間にその炎は僕らを燃やさんとする勢いで広がって行く。

 

「あぶねぇ! 火薬が誘爆するぞ!」

「落ち着きなさい、コヨミ。ジャンヌの超能力で空中に舞った火薬は全くないし、棚に置かれた銃弾もまだ一つ残らず氷漬けになってるからその心配は。……というか、ここまで氷漬けになっているって、私たちが来るまでどんな激戦を繰り広げていたのよ。よく死ななかったわね」

「これが落ち着けるか。お前らはこの異常な光景をよく受け入れられるな!」

「あら、私はともかく、キンジはさっきまで変なリアリストを気取っていたわよ。超常だろうが日常だろうが現実だというのに、ね」

「……ははは」

 

 じとっと睨む神崎に苦笑いを浮かべる遠山。

 ……ひょっとして、超能力とかそういう力が当たり前に蔓延る世界なのか? だとしたら怪異も、いやそれどころか……。

 気になるところだが、隣にいる2人の目は僕と話しているにも関わらず僕の方を向くことはなく、星伽の演武のような太刀筋とジャンヌダルクの整った剣術の打ち合いに向けられている。

 多分、これは目の前の異常から目が離せない、なんてことではなく武偵として戦場から目を離すことがありえないんだろう。僕には想像もつかないことだけれど。

 2人の武偵と1人の似非武偵が見守る中、魔剣と薙刀が織りなす剣舞は徐々に熾烈の一途を辿っていく。火花が散れば氷華が散り、炎が踊れば氷塊が舞う。金属が金属を叩く音が響く度に空間を支配する熱量が変化していく異常な空間。

 聞きたいことも言いたいことも一秒単位で増えていくものの、僕はなんとなく黙って見てなくてはいけないという雰囲気に縛られていた。

 

「あの時の炎とこの焔、どちらが痛い?」

「──ッ! 黙れっ」

「……ふぅ。キンちゃん、見ててね。私を。ちゃんと」

 

 ジャンヌダルクと星伽のやりとりは、チリチリとひりつくような熱となって僕の頰を焼く。網膜が熱の急激な上下に歪んだ景色を捉える中、星伽はするりと髪留めのリボンを解いた。

 

「星伽神社所属巫女、星伽白雪。改め当代【緋巫女】。参ります」

「来い哀れな囚われの巫女よ」

「囚われた聖女が、よくもまあ!」

 

 彼女は火を纏った薙刀を両手にジャンヌダルクへと再び突進していった。

 

「は? ヒミコ? ヒミコってあの卑弥呼?」

 

 そして、僕はいよいよもって、この空間に流れる『黙って唐突に始まる因縁じみた戦いを見守らねばならない』という空気に耐えきれなくなって口が開く。いや、耐えきれなくなったのはこの空気ではなく、頭に流れ込む未知の情報の多さゆえのことだった。

 

「少しは空気読みなさいよ、コヨミ」

「いや、だって」

「だっても何もないわ」

「あるだろ。神崎、もしかしてお前。卑弥呼って超有名な占いの人なんだけど、知らないのか?」

「バカにしないでっ」

「占いの人……」

 

 ガンを飛ばしてくる神崎と呆れたように笑う遠山。遠山が卑弥呼を占いの人なんて俗っぽいくくりに入れるのはどうなのかと断りを入れるが、しかし、時代の違いこそあれやっていることは同じ……はずだ。

 反論しようにも、目の前をちらつく炎に思わず語尾が弱くなる。

 

「いや、やっぱ訂正するわ。僕、あんな物騒な占い知らねえ」

「まあアンタが近付けばまず抹消は免れないでしょうね」

「うーん、さすが卑弥呼の末裔というだけはあるね」

「キンジ、その言い方は幼馴染としてどうなのよ。随分と他人事のようじゃない」

「まさか。ただ俺はあの炎が彼女の美しい激情を表しているといっただけさ」

「いや、言ってねえだろ」

 

 あと、やっぱりそのキャラ設定は無理があると思う。

 なんだか、会話を始めた途端に野次馬と化してしまった気がする。この雰囲気を防ぐためのあの雰囲気だったのだろうか。

 けど、もとより僕達は外様も良いところ。この雰囲気も、良いご身分ではあることは重々承知の位置取りといえよう。

 

 あと、今更ながら神崎の「追いついた」という発言から、僕と忍がジャンヌダルクをここに引き止めてしまったことが歴史改変に繋がる気がしないでもないが、それはまあ置いておくことにする。よもや、ジャンヌダルクがここから悠々自適に脱出劇を描くことが正式な歴史であったとしたら、と思うと僕の背筋が凍りそうだけど……しかし。

 歴史は、今が作ることだから。

 未来は、誰にも分からないから。

 僕にも、彼らにも。

 だから、この世界の正史は今僕がここにいて、こうやってジャンヌダルクを引き止めてしまう歴史のはずだ。

 そうなると、僕達が外様である云々は矛盾していることになるけれど仕方がない。なぜなら、歴史は捻られるものだから。捻ってメビウスの輪にして矛盾をなくしてしまうものだから。

 そしてそれは後世からでも、否、後世からこそ行えることだから。

 つまり、今それを気にしたって仕方がないのものなのである。

 ──戯言だけどね!

 

「……こんな時に八九寺がいてくれたなら、お目目ぐるぐるな僕を殴ってでも止めてくれたのだろうか」

「ハチクジ? 籤が殴るわけないじゃない。変なこと言って、普通じゃありえない光景だからって白昼夢と間違えてるんじゃないでしょうね。現実を受け入れないのは怠慢よ」

「籤って、そりゃあ紙が殴ることはないだろうよ。けどまあ、八九寺が白昼夢のようなものであるという点では大意はあってるけどな……」

 

 暑さと寒さが同時に襲ってくるせいか、気のせいか。

 少し意識が朦朧としてきた。

 

クソッ(fuck)クソッ(fuck)クソッ(fuck)!!」

「聖女がそんな汚い言葉を使っていいの?」

うるさい(shut up )! 神は死んだ! あの日、ジャンヌダルク1世と共に燃え尽きたんだ!」

「訛りのキツイ英語……フランス語じゃなくていいの?」

「貴様ァ! 私をあんな場所にまだ閉じ込める気か!!」

 

 しかし、バカなことを考えて口に出している間にも戦況は勇ましく終局に向けて一歩、また一歩と踏み出しているようだ。

 ここまで圧倒的な火力で押していた星伽だったが、挑発に乗ったジャンヌダルクの癇癪によって増大した氷柱群に押されて後退する。

 

「阿良々木! 貴様がここにいなければ私は今頃!」

「──今頃、なに? 私を誘拐することにも殺害することにも失敗してスタコラと逃げて、それで? ふふ、追い詰められた現実(わたし)から目を逸らして良いの?」

「ああああああああ!!!」

 

 ミシミシ、を通り越してバキバキと音を立てて遂に部屋全体が分厚い氷で覆われる。しかし、ジャンヌはその大きな力の代償を払うかのようにぜえぜえとが肩で息をし始めた。

「……そろそろ集中力も切れたかな?」星伽がとどめを刺すべく薙刀を振りかぶった。

 

「白雪! まだだ!」

「いや、遅いっ!」

 

 遠山の叫びに覆いかぶさるように鋭く発声したのはニヤリと笑ったジャンヌダルクだった。

 一瞬の出来事だった。

 星伽が遠山の忠告に体を硬直させたのを見逃さずジャンヌダルクは星伽が持つ薙刀を彼女の手から払い落とす。そして、跳ね上がるように立ち上がり、その勢いのまま星伽の土手っ腹に思い切り膝を入れた。

 迷いのない一撃に、現実の女性からはまずもって聞こえないような鈍い悲鳴が星伽から上がる。

 重たい砂袋を落としたような音が部屋に響き渡り、数秒。神崎と遠山が星伽の名を叫んだ。

 

「……ふん、気絶したか」

 

 他愛もなさそうな声でジャンヌダルクが呟く。割と追い詰められていた気もしたが、肩で息をしている様子もないので、部屋を冷凍庫にする勢いだったあの激情込みで演技だったのだろう。

 魔剣を左右に振るって刀身についた煤をジャンヌは落とす。

 

「アリア」

 

 遠山が一言つぶやいて、上着を床に落とす。水を吸っていたせいか、やけに大きな音が聞こえた。

 星伽がやられたから次は自分の番だ、ということだろうか。それとも敵討ちといった感じだろうか。

 なんにしても、状況判断が早い行動だった。

 

「……探偵科Eランク武偵、遠山金次。強襲科ではSランクだったらしいが、体つきは特段評価に値しない。かといって銃の腕にも長けているわけでもなく敵の策略にはまり溺れ死にそうになる程度の脳しかない。──ははは、別に後ろのSランクと一緒に戦ってくれても良いのだぞ。なんの異能も持たない武偵など、超能力者からすれば何人いようが変わらん」

「……今の俺は、今のジャンヌに優しくできない」

「なんだそれは、わたしに負けたあとなら遠山は私に優しくするというわけか? はは、奴隷根性甚だしいな! さすが神崎アリアの相棒だ!」

 

 棚にぶつかり沈んだ星伽をえっさこらさと僕と神崎が運ぶのを他所に、遠山とジャンヌダルクがカッコいいやりとりをし始めた。キザッたい遠山の口調とジャンヌダルクの大袈裟な身振りがこの空間を劇場のように演出する。まるで、遠山のキャラ変更はこのためにあったのではないか、よもやこの一連の流れは僕以外全員によるヤラセなのではないか、なんて考えが僕の頭をよぎる。

 

「この桜吹雪、散らせるものなら、散らせてみやがれッ!!」

「望みの通り、凍り散るがいいッ!!」

 

 しかし、振り返ってみれば、勝負は一瞬だった。

 ヤラセのように綺麗な流れで、ヤラセにはないほどに苛烈で。

 しかし、ヤラセではないかと思わせるような非日常的な結末で。

 銃撃戦も斬撃戦も打撃戦も接近戦も遠隔戦も頭脳戦も異能戦もなにもない。宣言通りあっけなくて、通常通りのあたりまえで、通常ではありえない結末。

 ──ジャンヌダルクが遠山の腰から下を凍らせた。

 

 そりゃそうだ。この部屋全体を冷凍庫にできるのだ。人1人の半身を氷つけるくらいわけはない。丁寧に遠山のベレッタは氷塊の中に閉じ込められている。しかし、遠山は手まで凍りつかされる前にベレッタを手放して、余裕綽々に『やれやれ』と肩をすくめて手をヒラヒラとさせている。

 

「手の早い子だ」

 

 なんてのは遠山の言葉だけどそれは平常に聞けば、なんとまあちゃらけた言葉なわけであって、非常である今現在のところで聞いたところで、非常に非情な現実を突きつけられた状況を端的に言い表したようにしか聞こえないのだった。負け犬の遠吠えと変わらない実質上の白旗宣言だった。事実、その余りにも呑気すぎる発言は僕達にむしろ『ああ、やばいんだな』と大きな動揺を波状させた。

 いや、逆だ。

 遠山以外の全員に動揺を発現させた。

「なにやってんのよ!」と発砲する神崎アリア。なんだか彼女の発砲は日常的な動作に見えるから不思議だ。登場人物ならぬ日常人物たる僕にとって、その音は文字通り非常音であるというのに。

 

「貴様の上半身を残してやったのは、遠山という桜吹雪を散る様を花見して貰おうと思ったからだ。言うだろう? 散り際こそ美しき、ってな」

 

 上手いんだか上手くないんだかよくわからないことを吶喊しながら遠山に突撃するジャンヌダルクを前に僕は逡巡する。

『なにか、できることはあるのだろうか』ではなく、『できれば神崎が()()のが正確だ』と。しかし、声をかけるにはあまりにも時間が足りない、と。

 やるべきことは浮かんでいた。

 神崎が発砲した時点で、思い出していたから。

 幸い(というか、不幸中の幸いなのだが、そう言うにはあまりにも皮肉が過ぎる)、去年の春休みから今年の春休みに至るまでの人生経験が僕に迷いという行動を取るのを防いでくれたようで、ジャンヌダルクが遠山に突撃してから僕が行動を取るまでにそうタイムラグはなかった。

 

「伏せろ! 遠山!!」

 

 つまりは、僕は、引き金を引いた。

 手にした、グロッグ17をジャンヌダルクに照準を合わせて、明確な意思を持って撃ったのだ。

 撃った瞬間に僕を襲ったのは、衝撃でもなく後悔でもなく唐突な無気力だった。『あ、やったんだな』という自分の何かがぽっかりと抜け落ちたような喪失感にも似た感覚が僕を覆った。フルオートにしていなかったため、銃口から飛び出したのはたった数グラムの鉛一つだったが、そんなの御構いなしと腹から下を切り落とされたかのような感じだった。

 本来なら外したことを考えて2発3発と撃ち込むべきなのだろうが、気力はまさしく一球入魂、1発の銃弾に全て吸い込まれてしまっていた。

 しかし、そんな重みはないが僕の想みを背負った銃弾は、ビギナーズラック甚だしいことに、狙い通りジャンヌダルクの突貫の延長線上を走って行ってくれたようで、吸血鬼の目はその行方をゆっくりと映し出した。

 

 ……って、あれ?

 あれあれあれ? どういうことだ?

 ん? 気のせいか? むむむ。いや、気のせいじゃない。

 ──遠山の眼球が()()()()()()()()()()()

 

 予定なら、僕の銃弾はジャンヌダルクの上段に構えた聖剣もとい魔剣のどこかに当たり遠山へ繰り出されるだろう袈裟斬りをそらすはずだったのだが。けれど、あれ?

 確かに銃弾は当たった。音を立ててジャンヌダルクはバランスを崩し袈裟斬りの勢いは落ちたし、その行き先も逸れて当たりどころも遠山の脳天から肩にずれた。

 僕の予定なら、武偵高の制服に防刃ベストがあることを加味すれば、まあ致命傷が深刻な打撲に繰り下がる程度に落ち着くはずだった。その後の展開はまま適当にどうにかするしかないとは思っていたものの、それでもその間に神崎の冷静さを取り戻してジャンヌダルクをどうにかする手はずだった。

 しかし、どうしたのだろうか。

 僕の目がおかしくなったのだろうか。

 吸血鬼が怪異の王である所以であるところの『できると思ったことができる』という特性が暴走して僕の目ん玉が都合のいい景色を映し出してしまったのか。

 

「──は?」

 

 と間抜けな声を出した時にはもう、遠山は、ジャンヌダルクの魔剣であるデュランダルを白刃どりしていた。

 噂に聞く真剣白刃取りである。

 しかも、指二本で。

 

「逮捕よっ!!」

 

 いや、『逮捕よっ』じゃないだろ。さっきまで『なにやってんのよ!』と怒り散らしていただろう。なにをそんなに冷静さを取り戻しているんだ。

 僕なんかお前の落ち着きに反比例するように動揺を取り戻したんだぞ。正確には、一周回ってさらに半周したわけだから、反比例ではなく三角関数的なんだろうけどな! そんなどうでもいいことを考えてしまうくらい動揺しているんだぞ。

 なんだか、星伽も遠山のもとに駆け寄って縋り泣いているし、遠山も遠山で当然のように受け入れて頭を撫でているし。

 

 なんだよこれ。

 一瞬の出来事すぎるだろう。

 今までの経験則的にも、問題発生はたらたらと、問題解明から解決はさくさくとっていうのは分かっていたけれど、これは余りも急展開すぎる。序破急ならぬ、序序急である。それなんてスージーQ?

 

「助かったわ」

「え、いや。うん」

 

 ジャンヌに手錠をかけた神崎が僕に近付いてそんなことを言うが、正直それどころじゃない。なんだか、証明問題を自明の一言で片付けられたような。しかるべき描写によって何秒にも感じていた数秒のやりとりが丸々省かれてしまっため数秒のやりとりにさえ感じることができなくなってしまったような。

 そんな視点のズレと時間のズレを感じる。

 気のせいなんだろうけど。

 

「くそっ、阿良々木。お前のせいだからな」

 

 悪態をつくジャンヌダルク。この期に及んで僕に敵意を向ける彼女だけど、僕は彼女がこうやって睨みつけてくれることになんだか安心感を覚えていた。それは僕にしては珍しい種類の安堵の気持ちだった。

 僕の射撃で死ななくて、良かった、と。

 行動に迷いはなかった、なんてあの時はカッコつけてみたが本来、迷いなんてのはいつ生じてもおかしくないものだ。事象の前に生まれたら『迷い』というレッテルが貼られるだけで、それは後悔や心配や憂慮なんて言葉で事後最中に生まれることだってある。

 

 つまりはそういうこと。

 数分経った今になって僕は手汗をびっしょりとかいていた。

『癖になる』と忍は言っていたが、撃った今なら、撃ってしまった今になって分かった。

 癖になるのではない、後戻りできなくなるのだと。

 かの信長公は鉄砲はその殺人の容易さだけでなく、罪悪感なく人を殺せるという点で優れている。と言ったそうだが、それはてんで的外れだと言わざるを得ない。かの時代の人はそもそも死に近かったからそんなことを言えたのだ。

 銃の引き金は、弾を出すキッカケであるとともに、区切りをつけるスイッチなのだ。文字通りSwitchする。

 人を変え、人の位置を変える。

 神崎アリアの発砲が日常的な動作だと思ったというのは、鈍感な僕が珍しく感じ取った彼女と僕の明確な差異だったのかもしれない。

 

 今回、僕が一歩立ち入りかけた世界で彼女達は生きているのだ、という。

 

「コヨミ」

「はい」

「私達は地上に戻るわ。あんたも時間の参考人だから後で一緒に教務科(マスターズ)に来てもらうから、呼んだら来なさいよ」

「……ああ」

 

 右手に握ったグロッグ17を見る。

 できることなら、今後は使うことがないようにしよう。

 誓った僕は、それを腰に戻した。

 

 一度解散するのも効率が悪いし、この状況じゃあ僕のお使いも遂行はとてもじゃないがかなわない。ということで、僕は彼女達について行くことにした。先頭に遠山と星伽後ろに神崎とジャンヌダルク。その後ろに僕とジャンヌを囲うように隊列を組んで道を歩く。

 錆びついた階段を数階分登って、凍りついたエレベーターに絶望してさらに数階分の階段を上って。

 入り口が近付いたところで手錠を繋がれながらもデュランダルを抱き込んだジャンヌダルクが首を大袈裟に傾げて振り返った。

 

「ああ、そうそう。こうやって捕まってしまったからな。教えといてやろう」

「教える?」

「先日、神崎アリアがラグジュアリーショップで見たという阿良々木暦は私だ。それに、私の仲間が一度だけお前に扮して平賀文の元へ訪れた」

「は? お前、それって──」

「が、()()()()()。それに、平賀文にはバレたらしい……なあ、阿良々木暦。お前には、この意味が分かるか?」

「……つまり、それは」

 

 なんのためにこいつがラグジュアリーショップに僕の格好で入店したのかはさて置きたくはないが、さて置いて。

 一度だけ、平賀の元に現れて、バレた?

 となると、平賀さんは阿良々木暦とそうじゃない誰かの違いは付いていたということ──は?

 

「数が、合わない……」

 

 ジャンヌ・ダルクの言っていたということが本当ならば、平賀文が言っていた新宿の阿良々木と、新宿のラグジュアリーショップに行った阿良々木が別人ということになる。つまり、この僕と、新宿の二人で合計3人。

 じゃあ、新宿に遊びにいった阿良々木暦は誰なんだ?

 まて、ならそもそも──。

 

「……どういうこと?」

 

 神崎が呟く。

 と言ったところで入り口に着く。

 遠山が重い扉を開いてその奥から眩い光が差し込んで、

 そして、

 

 

「やっと追いつめたぞ、偽物め!!」

 

 

 その先には、銃を構える男が1人、立っていた。

 何故だろうか、僕はその男の名前を知っていた。

 その男の名前は。

 

 ──阿良々木暦。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

021-B

 ある日。

 色々あった、とある日に、臥煙さんと会話を交わした。

 有事の際に必要限で不可欠なやり取りしかしてこなかった僕と臥煙さんなので、当時は『さて、どんなもんで会話をしたもんか』と思わないでもなかったけど、意外にも彼女はファンキーなキャップを触りながらも饒舌に世間話に花を咲かせてくれた。

 

「なんだい、こよみんは存外バカなんだねえ」

 

 なんて軽口をきいてくれるくらいには、心砕いてくれた。

 勿論、第一声からこれであったわけではないし、これは、様々なやり取りがあり僕がレスポンスした後の更なる返しの一言だったけど。

 僕と臥煙さんが初めてあった湖の上で、そよ風が吹く中、会話は成立し続いていたのだ。

 

「そりゃあ、なんでも知ってる臥煙さんに比べたら僕なんて馬鹿かもしれないですけれど」

 

 思わず口をついた言葉だったけど、思わず口に出してしまっただけに僕は、直ぐに反論したことを後悔した。こんな子供みたいな反論しているようじゃ、そりゃあ僕はバカなわけだ、と。

 案の定、臥煙さんは泥まみれで帰宅した息子を見たような目で哄笑していた。

 

「ははは。違うよ、こよみん。私はそんな知識がないだとか知性がないだとか地頭が悪いだとか愚かだとかそんなことを指してバカだと言っているんじゃないんだ」

「僕も自分のことをそこまで馬鹿にしてなかったよ」

「本当かい? ならやっぱり君はバカじゃないか」

 

 なんて、バカであることを再確認したのかバカではないと言い直してくれたのか、いまいち判別のつかない事を臥煙さんは言う。

 彼女の言葉は当たり前のことを言う調子でそれが殊更に辛辣に感じたが、しかし、こうして僕と臥煙さんがベンチに腰を下ろして話す構図は違和感しかなかった。けど、一方で僕は不思議と僕は臥煙さんに親近感にも似た変な慣れを感じていた。そのせいか、僕は馴れ馴れしくも口を開いた。

 凝りもしない言葉で、性懲りも無く。

 

「あの、臥煙さん」

「どうしたんだい、そんなシケた面しちゃって。まるで大人と子供の境目に瀕して人生の岐路に立たされて迷子になりかけた青年のような声色で」

「い、意地が悪い……」

「そりゃそうさ。なんてったって、私は大人だからね」

「大人はそんな知ったかぶりをしませんよ」

「私はなんでも知っているからセーフなのさ」

「なら。分かっているなら、教えて下さいよ」

「……なにを?」

「何をしたら良いのかを、です。今回の騒動で僕は、扇ちゃんを創造し、神様を偽造しました。扇ちゃんは僕の青春の帳尻を合わせようとしてくれたようですが、その実扇ちゃんの存在が僕の記帳をさらにあやふやにしてしまった。──そう、この僕が、僕という帳簿を滲ませたんです」

 

 例えば、忍に血液を提供するように。

 あるいは、羽川が怪異を受け入れたように。

 もしくは、神原が何も願ってはいけないように。

 僕はその責任をどう取るべきなのだろうか。

 どのような辻褄をどのように合わせるべきなのか。

 僕はその答えを持見合わせて、ない。

 

「だから僕は、二人に責任を取らなくちゃいけない……と、思うんです」

 

 曖昧であるからこその怪異。そう言われてしまうと、扇ちゃんと八九寺という元怪異コンビの存在の帳尻を合わせるのはどうなのかと思わなくもない。しかし、それ以上に椅子取りゲームみたいに神を据えてハンカチ落としみたいに扇ちゃんの存在の辻褄を合わせるのは、僕にはどうにも違うように思えて仕方がなかった。

 というか、それを許したせいでの今回の一件だったわけだし。

 

「なーんだ、こよみんは私にそんな事を教えて欲しいのかい?」

「そ、そんなことって」

「そんなことさ。……要はさ、こよみんは私に閉めて欲しいんでしょ、仕舞って欲しいんでしょ? 君の青春を、この一年間を。そしてあわよくば占めてもらってこれからの人生を締めて欲しいんでしょ。『そう決められてしまったから』なんて言いたいんでしょ?」

「違いますよ。それは、全然僕の意志と合ってません。僕はただ、彼女達にどう責任を取ったらいいのかを知りたいだけです。扇ちゃんに時々会いに行って何か行うだとか、八九寺のいる白蛇神社にお参りに行くだとか、そういうことを専門家として貴女に聞きたいんです」

「いいや、それこそ違うね。君にそんな自責主義で他利主義な面があるわけないだろう。

「いいかい? こよみん、君の青春はもう終わっちゃった。人生でたった一度きりで一人きりの時間はもう時間切れしちゃった。

「だけど、どうだい? 君の人生は劇的に変わったかい、それとも何も変わらなかったかい。人生観は逆転したかい、それとも反転したかい。交友関係は一新されたかい、それとも腐れぐずったかい。出会いと別れが訪れたかい。泣いちゃいたくなるようなエモーショナルさに襲われたかい、それとも死にたくなるような怠さに襲われたかい。押入れに引きこもって耳も顔もふせちゃいたくなったかい、それとも顔を上げて耳を澄ましたくなるような清々しさに身をつまされたかい。なんだい、どうだい。君の人生ははじまったのかい。それとも、君の人生はロスタイムに突入したのかい。

「──なぁ、こよみん。君は不安なんだろ? 何も変わらないことが。

「実感がないことが」

 

 僕は臥煙さんの問いになんと答えただろうか。

 臥煙さんの言葉はキツイようでその実、限りなく甘言に近い諫言だった。おしゃぶりを加えた赤ちゃんに対する態度のように柔和な口調だった。

 

「……そう、ですね。包括的現実ってあるじゃないですか」

「あるねー」

「あれって、水面に映った月を拾い上げたことが、本物の月を掬い上げるのと同じだと言ってるようなことらしいですよ」

「正確には違うけどね。……けどね、こよみん。そんな東洋哲学的な禅問答じみた考えの例えを持ち出されても、おねーさんにはなにも伝わらないぜ」

「いえ、なんてことはないんですよ。この話っていうのは、結局の所、ベクトルの内積や複素数の積と似たようなものです。スカラーの程度が色の明度だったら、ベクトルや虚数の程度は色相やその彩度に例えられる。なのにベクトルにベクトルをかけてしまうとスカラーになってしまう。そんな話なんです──ベクトルの二乗とスカラーの二乗が同じになってしまうなんて、考えてみれば変な話ですけど」

 

 かぶっていた帽子を手に取り、くるりと回す臥煙さん。専門家の元締め、なんていう厳つい言葉から想像できないくらい彼女の指は細く、女性らしい。

 

「……おねーさんには年端もいかない学生の講釈たれに付き合う時間なんてないんだよ? そんなテセウスの船みたいな論調は貝木くんだけでお腹いっぱいだよ」

「ええ、ええ。わかっています。あと、あの人と同じにされるのはやめてください──一言、あと1フレーズだけでも聞けば多分、臥煙さんにも僕の言いたいことが伝わると思います。……はい。つまり、僕はここ言いたいんですよ。『青春なんて痛いだけだ』と」

「ふーん。ま、おねーさんからしたら今の君もケッコー痛いぜ。絆創膏じゃ隠し切れないくらいに」

「普段の素行が悪いからですかね。傷の数が多いのは」

「知らないよ、そんなこと」

 

 カツン、と臥煙さんは小石を小石で突いた。

 つまらなそうに、あるいは楽しそうに。

 泣きたくなるくらい透き通る湖面が雲の隙間を縫うようにして降り注ぐ太陽光を浴びてキラキラと輝いている。

 

「言っただろう。私は暇じゃないんだ。いくら専門家の元締めにして総締めたる私であると言っても、青いケツを引き締める役目なんてゴメンだよ。それは助け合いじゃない、ただのなすり付けだ」

「……」

「あ、お尻のなすり付けって意味じゃないからね」

「それくらいは分かります」

「いや、分かってないなー。それは尻拭いって点では正しいんだよ。……ま、君のチンケな悩みとかその辺はおいおい片がつくから気にしても無駄だよ。具体的には春休み中にお風呂の中でふと気がつくはずさ」

 

 我ながら、この面倒くさい葛藤がそんなアルキメデスみたいに行くとは思えないけれど、なんでも知っていると豪語する臥煙さんがそういうと説得力があるから不思議だ。

 貫禄のなせる技なのか実績が伴っているならなのか、いずれにせよ、僕はそんな与太話にも近い言い分を信じてみようという気になっていた。流れも言葉数もない、そんな臥煙さんのたった一言に僕の心が揺れていたのは、僕が彼女のこんな叱咤を待っていたことの裏返しでもあったのかもしれない。

 臥煙さんは揺れる湖に反射する光から目をそらし、くるっと首を回して僕の瞳を覗き込んだ。緩慢なその動作につられて見た臥煙さんの瞳は、特別大きな目というわけではないけれど、広く見渡すような目だった。

 

「そういえばこよみん。お風呂といえば、こよみんの家のお風呂には鏡はあるかい?」

「ええ、まあ。ありますよ。そう大きいものではないですけれど」

「なら、その鏡を利用することはどのくらいある?」

「どのくらいって……そりゃあ、まあ。じっと鏡を見ることはあまりないですけど、やっぱり見るには見ますよ。毎日」

 

『鏡を見る』。たしかに言われてみれば意識するほどでもない動作だ。けど、してないかって言われると、特段そんなわけないわけで。

 逆に、どんなに見ないようにしよったって、位置の都合上、シャワーが鏡に当たった拍子にチラッと見えちゃうわけで。

 

「『鏡を見る』ねえ……。いやね、風呂場の鏡ってのは対策しない限り直ぐに曇るものだからね。案外気にしない人なんかも多いんだけど、こよみんはどうやら毎日見る人のようだ」

「それがどうかしたんですか?」

「『それがどうかした』だなんて、そんなこと云うなんて、つれないじゃないか、何かいいことあったのかい? ……簡単な話だよ。なんでも知っているおねーさんに言わせて貰えば他愛のない話さ」

「……」

「つまり、世界に自分は2人いるのさ」

「えっと、ああ。それは、鏡の中に映る自分とそれを見る自分ってことですか?」

「そうともいうし、違うともいう。さっきこよみんが自分で話していたじゃないか。水面に映った月と月そのものの話をさ」

 

 月は全ての水面にその姿を映し、水面の月はただ一つの月に包含される。会話が昔の修行僧の戯論に再び立ち返る──それも、うまいこと僕のひけらかしたい知識を利用されたうえで──ことに妙な居心地の悪さを感じる。僕と違ってそれを侃諤に言っちゃうのだから、全く敵わない。

 

「構造主義ですか。勘弁してください、包含的だのなんだのと偉そうに言いましたが、その実僕はその方面の知識はあまりないんですよ」

「そうかい? 怪異に関わる以上、必須に近い知識なんだけどね」

 

 だとしたら、忍は忍野のやつにその辺の知識も詰められたのだろうか。だとしたらその気苦労は、あの時の憔悴具合はなにも僕に対する恨みだけからくるものではなかったんだな。

 臥煙さんはそんな風に僕が忍のことを見抜いたからか、チラッと僕の首筋をみて言った。

 

「しかし、妙な話だよね。吸血鬼が鏡に映らないってのは。浅学薄叡な私なんかはどうもそこに恣意的な思惑を感じてしまうんだけどね」

「普通の人間とは違う点を挙げる、つまり人間味をなくすという意味では成功していると思いますけど」

「おやおや、随分とテキストじみたことを言うんだね。そんな設定の妥当性を評価するような言い方をして。まるで吸血鬼がゲームや小説のキャラクターのようじゃないか」

 

 なんか、この人の放つツッコミは心の底に遺恨を残すようにちくっとするな。チクっと、ではなく、ちくっと。

 身悶えするような柔らかさを孕んだ痛みだ。

 

「……すみません。考慮が足りてませんでした」

「いや、いいんだよ。こよみんも気が緩んでいたのだろう。無理もない。君は今、一年間の積念と責念だけでなく、これまでの人生全てを清算したんだ。いわんや、清算しきってないにしても、それでも振り返ることはした。それはもう使ってが取れてとっても使えたことだろう。ポロっと軽はずみな発言が出てもそれは仕方がないものさ。なんせ君はまだ高校生なのだからね」

「──それは」

「っと、見透かしたことを言って慌てさせてしまったかな?」

「……」

 

 鯉が跳ね、水面が揺れたのを覚えている。ツン、と冬の冷たい匂いが鼻腔を揺らす。太陽は斜めに傾いていた。

 

「しかし、君も難儀なものだ。まだ鏡に映る時期に新しい自分を作ったと思ったら今度は鏡の中の自分を消してしまうなんて。そんな数の帳尻が合ってればいいなんてものじゃないんだよ? 自分ってやつは。その上、結局取ったのは、本人を移項して鏡の中に足して本人を移項して、新しい自分を別の文字に置き換えるなんて解決方法ときた。全く、アレは流石のおねーさんにも予想だにしない未来だったよ。ホントに、頼むからアレコレを全て私がやっただなんて吹聴しないでくれよ」

 

 目尻を下げてあたかも困ったかのような表情を見せる臥煙さんだが、鼻から下が軽薄な笑みを浮かべているところを見るとそれも怪しい話だった。

 だって、その笑み、忍野にそっくりなんだぜ。

 

「……自分」

「ん?」

「自分は、世界に1人なんだと思ってたんですよ」

「そうだね、自分1人さ。君みたいに創りださない限りはね。自分ってのは世界に唯一なんていう稀有な存在だよ」

「けど、違ったんです。忍に出遭って、羽川に助けられて、戦場ヶ原に出逢って。そうやって自分を『阿良々木暦』だと認識する人が増えるたびに自分が増えていったんです」

「それは、さっき君が言った月の話とも、構造主義とも違うことなのかい?」

「はい。増えた阿良々木暦は決して僕に包含されないし、かといって世界に阿良々木暦が増えた分そのままいるなんて思っちゃいない」

「そう思えるのは、こよみんが扇ちゃんを創ってしまったからからなのかな?」

 

 霧のように僕の言葉をはぐらかして水流のように僕を踊らせる臥煙さんの言葉は、いつのまにか和らいだ印象を潜め、欣然としていた。

 

「多分、扇ちゃんは。いえ、あの『くらやみ』は多分、そうやって生まれた阿良々木暦の1人なんですよ。皆と出会って増えたように、僕の心に生まれた阿良々木暦だったんです」

「……そうかい」

 

 臥煙さんは静かにベンチを立つ。

 そして、パーカーのハードの表裏を正して一つ背伸びをした。

 

「本物と偽物。こよみんはどちらの価値が高いと思う?」

 

 ほぅ、と伸びきった彼女の肺から漏れる白い吐息。

 

「その問答なら、昔聞きました」

「貝木くんなんかは『偽物の方が本物になろうとする分だけ本物より価値がある』だなんて嘯いていたものだけどね」

「その答えこそ聞きました」

「なら、こよみんはどう思う? 偽物と本物……いや、わかりやすく言おう。自分と鏡の中の自分、どちらの方が本物だと君は思うかい?」

「そりゃあ、僕ですよ。今、ここで、こうやって貴女と話している僕こそが本物でしょう」

「私には水面の君も同じように口を開けているように見えるけどねえ」

 

 嫌な笑みを浮かべた臥煙さんが水面にいた。

 水面に浮かぶ阿良々木暦の顔は、彼の髪の毛に隠れて見えない。

 

「けど、臥煙さんは水面に映る僕と話しているわけではないでしょう?」

「しかし、その事実は目の前のこよみんがこよみんである証拠にはならないじゃないか」

「そんなのは悪魔の証明です。水面と比べるなんて、タチの悪い」

「悪魔なら実在するよ。だって君の後輩が飼っていたじゃないか」

「あれは」

「結局、偽物も本物も気づいてないのさ。どちらが本物なのかなんてね。私に合わせてもらえれば正義も悪も何もかも、どちらがどっちなんて関係ないんだよ。良いやつっぽいのがいれば悪そうな奴がいる。そうやって世界は成り立っているのさ」

「……それでも本物は、正義はあると思いますけど」

「それもまた、正解なのかもね。──ああ、こよみん」

 

 驚くくらい自分の主張をトカゲの尻尾切りにした臥煙さんはそれから間もなく僕を呼びかける。

 

「さっき言った鏡の話、忘れてくれていいから」

「え?」

「あと、扇ちゃんのことも真宵ちゃんのことも全部なんの心配もしなくていい。君は君の人生を歩みなさい」

「えっと、それは」

「あはは。なあに、気にすんなよ、人は一人で助かるだけなんだ。それに人生は長い。とりあえずのところは来たる大学生活を目一杯楽しみなさい。大人の私がこよみんにあげられるアドバイスはこれくらいさ。よく言うだろう──悩めよ、少年ってね」

 

 言い残すと、臥煙さんは振り替えることなく歩いていった。

 僕との会話は終わり。そういうことだろう。

 次の仕事の時間がきたのかもしれない。

 

「あの、ありがとうございました」

 

 屋根が落とす影に包まれていくその背中に、なんとなく頭を下げてお礼を言ってみた。

 

「いいよ。……ただ、その下がった頭に免じて言わせてもらうなら」

 

 臥煙さんはヒラヒラと手を振って応えた。

 

「私は世界に私以外いらないけどね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

022-B

 かつて僕は『忍野扇』を自責の念──臥煙さんがいうところの自己批判精神から作り出した。

 そのプロセスは、一を知って十を知るように概念を知って怪異を作り出した羽川翼とは『自意識を介さない』という点で、全くもって異にしていて、ほぼほぼ偶然、ともすれば行きすぎて最早『必然』や『運命』といった言葉で言い表せてしまうようなアクシデントに近いものだった。しかし、なんであれ僕は『忍野扇』──つまるところの『阿良々木暦』を作り出した。現実にいる、本人である『阿良々木暦』とは明確に異なる、別の『阿良々木暦』を作り出してしまったわけだった。

 そしてそれは、どんな界隈のどんな世界から見ても明らかな『違反行為』であり、また修正されるべき、されてしかるべき『くらやみ』案件だった。

 何に矛盾があって、どうすれば良かったのか。すとんと決着した今になっても考えることはあるけれど、僕は改めてそこになんの疑問も挟むつもりも異論を放つつもりもない。

 むしろ、粛々と受け入れる気さえある。

 『すみませんでした。一つの世界に自分が二人以上いるのはやってはいけないことでした』と殊更に頭を低くする覚悟がある。

 あの案件の条件については、誰がいつ何時何分地球が何回回った時に決めたものなのか、僕には皆目見当もつかないことだけど、僕は不思議とそのルールになんの違和感も抱くことはできなかった。それは羽川翼が、髪の毛が白黒斑らになることを受け入れたように、あるいは僕が吸血鬼としての後遺症を受け入れたように。

 僕は、白黒付けるが曖昧模糊とした、世界のルールを受け入れていた。

 かえって、この世界(便宜上、僕の世界にはなかった用語を取り出して『武偵世界』と呼称しようと思う)はどうだろうか。武偵世界に来て、僕は何人もの『僕』と出会っただろうか。

 ある時は見て、ある時は聞いて、ある時は口に出して。

 一体全体、何体の『阿良々木暦』の存在を感じただろうか。

 一人でないことは間違いない。二人でないことも異論ない。しかし、三人でないことも確かだった。もしも、四人の僕がこの武偵世界の東京という舞台に、一堂に会していたとするならば『世界に似た人が三人いる』という噂話のような俗説の真さに(ある意味では偽さに)拍車がかかるというものだけれど、しかし、それはないだろう。

 結局の所、僕という存在は僕しか存在しないし、僕以外の阿良々木暦も僕以外の阿良々木暦しか存在しない。一人でも二人でも三人でもない『阿良々木暦』はカウントの仕方によっては結局は一人でしかありえないのだ。

 合計N人の阿良々木暦ではなくて、1足す1足す1足す……、を繰り返した結果がN人の阿良々木暦になるだけなのである。

 当たり前の話『へえ、そう考えると今回の事件もたちまち解決だね!』とはならない。方程式を知ったところで微分積分が解けないように(いや、解ける人もいるかもしれないが、それは1を知って100を知るような人──羽川のような人だけだろう)、そんな解釈違いを知ったところで事件究明には至らない。

 それどころか、そうなってくると気になるのが、この世界に来たばかりの頃にも考えたことではあるのだが、『くらやみ』のことになる。

 世界の調停者にして帳尻合わせの超常現象である『くらやみ』。

 僕が作り出した忍野扇はなぜ裁かれたのか。これを再度考え直す必要が出てくるのだ。

 正直言って、いくらなんでも僕が作り出した僕の化身とも言える怪異だった(、、、)彼女が、それでも僕と同等であり、そのせいで『僕が同じ世界に二人いる』とみなされ『くらやみ』が出現したとは僕には思えないのだ。姿形が違う、性格も違う彼女が僕と同じだとみなされてしまうなら、無性生殖で分裂するような生物がウジャウジャいる海では日夜『くらやみ』が出動していなければおかしいという話になる。

 いやなに、確かに人間は雌雄同体ではないし、無性生殖で分裂するように増えるというわけではない。そういう意味で生み出された怪異が特異的であることは認めざるをえない。

 しかし、忍野扇の生まれ方は『くらやみ』に責め立てられるほどに特異的であっただろうか?

 調べてみれば、人の怨念から生じた怪談は無数にあるし、その念がが自身に向いていることだって往々にある。それに、同じ人間が二人以上いることだってドッペルゲンガーの都市伝説が認める通りだろう。

 

 なのに、なぜ、忍野扇の怪異譚だけが『くらやみ』に認められなかったのだろうか。

 

「お前様。それは違うぞ」

「違う?」

「忍野扇の怪異譚が『くらやみ』案件だったのではない。忍野扇の怪異譚も『くらやみ』案件じゃった、とは考えられないじゃろうか?」

「それは……いや、けど、そうなると……いや、そうか」

「そう、怪談、巷説、伝説。こう言った人の口から語られる物には欠かせないものがあるじゃろう。ほれ、お前様もよく締めに言うやつじゃ」

「──後日談」

「というか、今回の『オチ』じゃな」

 

 そして、ドッペルゲンガーのオチは、そう。

 主人公の『消滅』だ。

 あたかも、もとより人は一人で生きていて、二人もいなかったかのように日常は立ち返るあのオチに、あの物語の終わりの裏に『くらやみ』が介入していたという可能性はゼロではない。

 となると、くらやみは僕の青春であたかも主役級の扱いを受けていたが、実の所オチをつける役割を担っていたのかもしれない。

 

「噂のない所には煙は立たぬ。それはお前様がよく知っておることじゃろう」

 

 脳裏の裏に最悪の詐欺師が浮かぶ。

 僕がそれをよく知っているその原因だった。

 そして、僕以上にそれを熟知した、嫌な専門家(スペシャリスト)だった。

 

「じゃあ忍野扇──扇ちゃんがああやって裁かれることは世界から見たら当然のことだったっていうのかよ」

「さあ? しかし、ああやってお前様かあの娘かどちらかが消えることは物語としては良く出来ておったじゃろう? 結果、お前様は一人になったわけじゃし、あの娘も一人になったわけじゃし」

 

 雌雄同体、あるいは無性生殖のように、と忍は言った。

 

「なら、一人であることが大切なら、一人が集合した今の状況は『くらやみ』案件じゃない、ということか」

「いや、それも違うじゃろうな」

「じゃあ、どういうことだよ?」

世界観(ユニバース)が違うのじゃ。あのオチはお前様とあの娘の話が『怪異譚』じゃったからこそのものじゃろう? 郷に入っては郷に従え、じゃ」

「……つまり?」

「つまり、この世界のこの話はきっと、怪異譚ではなく『推理小説』じゃ。それもただの推理小説ではない、『バカミステリー』の類じゃな」

「バカミステリー……オチ……」

 

 なるほど。バカミステリー。

 世界線を飛び越えて始まり、学生が銃を持つ学校で事態が発生。完璧な変装術が存在して、小学生並みの体格である天然のピンク髪が武偵として天才少女の扱いを受けている。超能力者が平然と闊歩していて、ありえないような低身長の子供が僕よりも力が強かったりする。

 

 こんな世界で起こる超常現象が僕の知っている枠に当てはまるはずがない、というわけか。ならば、僕が考えるべきこともこの世界の重力がちゃんと月の重力の6倍であるかどうかとか、そんなバカらしいことなのだろう。

 

「なんだか、気が抜けるような話だぜ」

「気が抜けるほど殺伐とした世界ではないはずなんじゃがな……」

 

 ギャグミステリーでこんな世界観だと、死んでも生き返りそうな気がしてしまうが。そんなことはない。

 忍の言う通り、いつまでも漫画や小説の世界に入り込んでいた気分ではいけないのかもしれない。

 

「緊張感を持ってバカミスを解こうことになるなんてな」

「まるで、ミスタードーナツを食べながら死ぬようなものじゃな」

 

 それはどうだろう。どちらがどちらに当てはまるかによってだいぶ意味合いが変わってくるだろうけど。いや、どちらにせよ、本来の意味からはずれているか。

 しかし、キュッと目を細める忍を目の前に、それを指摘するのは野暮な気がしてしまった。

 

「…して、バカミスの解き方の基本はなんじゃ?」

「うーん。やっぱり『ノックスの十戒』に反することじゃないか?」

 

 犯人と死体は物語のある程度の始めに登場していなければならなくて、探偵方法に超自然能力を用いてはならなくて、犯行現場に秘密の抜け穴・通路が2つ以上あってはならなくて、未発見の毒薬や難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならなくて、並外れた身体能力を持つ怪人を登場させてはならなくて、探偵は偶然や第六感によって事件を解決してはならなくて、変装して登場人物を騙す場合を除いて探偵自身が犯人であってはならなくて、探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならなくて、『ワトスン役』は自分の判断をすべて読者に知らせなくてはならなくて、双子や変装による一人二役はあらかじめ読者に知らせなければならない。

 僕がスマホで検索せしめた情報をひけらかせば、ふむ、と目の前の幼女は目をくるりと回した。

 

「ならば、考えることはそもそもの話なのじゃろう」

「そもそもの話?」

「基本のキ、と言うやつじゃ」

 

 ミステリーの基本。

 謎解きの見本、あるいは綻びの諮問。

 

「須らく定義されているもの、いわんや、まさかここを曖昧にしていては敵わんという肝じゃ。言ってしまえば一連の現象の『謎』じゃな」

「謎──それって、つまり。僕が二人も三人も同時多発的に現れたってことじゃないのか?」

「いやいや。そんなの謎として弱いじゃろう。メタ的に考えるなら、事件として弱い。探偵も刑事も出る幕がないじゃろう」

「メタ的にって……」

 

 ここが別世界にして別の世界線の話だとするならば、その思考はある意味正しいのかもしれないけれど、その視点から物事を考えるのは現実を生きる僕らからしたら大分そそっかしい人と変わりないのではないだろうか。忍が事あるごとに世界を滅ぼそうとしたり(実際滅ぼしたり)することを考えれば、十分そそっかしいという括りに入るのかもしれないが。そうではなくて。

 しかし、なんてこともないように忍がいうように、なんてことのないようにメタ視点で考えてみるなら、ばバカミステリーに入れどバカミステリーらしからぬ城跡を踏んだ謎を僕はすでに見ていたことに思い当たる。

 それも、序盤も序盤。最序盤に。

 忘れたかった記憶ではあるけれど、アレが確かに、もっともそれらしい謎であった。

 

「──阿良々木暦の死体」

 

 ずしん、とのしかかるような重みとシュールさに溢れるフレーズを口に出してみれば、案の定、忍は口が避けるほどに唇を引き上げた。

 

「……僕の死体。僕が、初めて見た僕の死体」

「そう。あの謎じゃ。読み返す必要も思い返す必要もないほどにお前様の記憶に刻まれた、お前様が制服を追い剥ぎして放置していった、あの死体の話じゃ」

「僕、あろうことか自分の死体に対してそんな雑な対応したっけ?」

 

 覚えてないしもう一回読み返さなきゃ。

 具体的には6話あたりを。

 言葉遣いも心も乱れている、006-Bを……!

 ……。

 

「しかし、あれから程よい日数が経過している以上、儂らはいくつかの疑問を持たざるを得ない筈じゃ」

「それは死体が腐り始めているはず……とかいう話じゃないよな」

「うむ」

 

 老倉の一件を思い出しだが、直ぐに自ら否定する。

 惚けたことを言い連なるような猶予はない、と責め立てるような目で見てくる忍。

 

「そうじゃないなら、論じるべき話は、あの死体が『死んでいなかった』っていう話……であってるよな?」

「正確には、あの死体の存在が亡くなった、という話じゃな」

 

 死体がもう一回死ぬなんて、ややこしい言い回しをするまでもなく、その事実は単純明快で。

 そして、思い返せば妙な話でもあった。

 僕がこの世界に妙に迎合されきったことがどれだけおかしいことだったのか。今になって分かるその奇々怪々さ。

 僕の体つきや髪の毛の変化が受け入れられたは、まあ分かる。武偵という存在は、教科書によれば1日にして大人と子供、男と女の間を行き来するのが当たり前の職業らしい。それに比べたら、体つきや髪の毛が少しの間で多少変わるくらい、なんてことない変化だ。そもそも僕の場合、カツラや矯正器具でいくらでも誤魔化せる範囲の変貌だし。

 それよりも、もっと、根幹の鈍感にあるおかしい事実。

『阿良々木暦』がのこのこと出歩いている、という事実。

 死んだはずの僕が、のうのうと跋扈しているという怪異現象が野放しにされているという現状のおかしさ、ってのが今になって浮上してきた。それとも、まだあの死体が見つかっていないとでもいうのか?

 

「……待て。そもそもあの死体って放置していったっけ? 忍が食べたりしなかったっけ」

「じゃとしたら、お前様の目の前でお前様をたべたとしたら、儂、性格悪すぎじゃろ」

「見えないところで、とか」

「否。そもそも儂は早い所、この世界から退散するつもりでおったからの。多少の死体荒らし程度、逃げ切る算段がある以上、効率を求めるならしないわけがないと思っておったわけじゃが……なんだ、お前様は違ったのか?」

「いや、そんな気軽に同意を求められてもそれに『勿論さ』なんて応えられるほど僕は人間性を失ってないよ」

 

 ナチュラルに死体荒らしとかいうな。

 それが許されるのは未開社会か終末世界かのどっちかだけだ。

 

「そうか。では、なぜあの死体を放置したのじゃ?」

「それは……気が、動転していたから、とか?」

 

 思わず他人事のように疑問形で答えてしまう。けれど、実際、今の今まで忘れていた以上、僕の脳みそはあの時の出来事を思い出したくない物として見ていたワケだし、事実、僕は天地がひっくり返るほど動揺していた。『ほげええええ』なんていってしまうくらいには気が動転していた。

 

「それよりも忍。なんでここにいる奴らは僕が生きている事について驚かないんだ? あの時、阿良々木暦の死体から発見した電話では適当に弁明したけれど、こうも日数がたってしまえば、あの死体だって見つかるだろうし、何よりここは武偵高校だ。在籍生徒である阿良々木暦の死が通知されないはずがないだろ」

 

 もし武偵高校が隠匿していたとしても、次の日の朝に僕の名前の呼び出しが行われていたのはおかしな話だし、先生の対応も演技だったという事になる。

 演技にしては真に迫り過ぎていた気もするけれど、ここであれらが全て誰かに向けたブラフだとしたら、それは武偵高校が僕の置かれている状況をある程度把握していてなおかつ武偵高校が演技を打って出る必要があると判断したという事になる。

 ……なぜ?

 

「おいっ! まだ入ってるのか!?」

「──ああ、今出るよ」

 

 脳味噌の隅がチリッと何かの閃きを示唆した所で一枚扉を隔てた先からどやる声がした。

 タイムリミットはそろそろ近いようだ。

 

「……落ち着け、お前様。事件に関するカードは確実に儂らのほうが多く持っているはずじゃ。反面、この世界における身の回りのカードは一般人より少ない」

「だから、会話を事件から離れないようにする」

「──そうじゃ」

「……あれ? ちょっと待ってくれよ」

 

 忍の言う『事件に関するカード』を頭の中で整理していると、ふとこれまた忍の言った『事件の基本のキ』というワードが思い起こした。そして、連鎖的にあの死体よりもっともっともっと重要で根幹的で当たり前な大前提(、、、)が浮かび上がってきた。

 

「そうだよ、忍。そもそも、僕らは何をゴールに話を進めればいいんだ? 一連のバカミステリーを解く。これはまあ、今を凌ぐ方策として有効だから良いけれど、だけど、だからなんなんだ(、、、、、、、、、)? 今を凌いでどうするんだその先に僕らが帰るような展開があるとは思えないし、だとしたら、僕は何を彼らと話せば良いんだよ」

 

 そもそも今という状況は、僕を偽物だと嘯く阿良々木少年共々神崎一派に連行されている状況だ。遠山の寮室のトイレにすかさず逃げ込んだものの、一歩外に出れば神崎達による詰問が待っていることだろう。それはもう、事件究明に燃えた裁判のような詰問が。また、ここで全てを喋ってしまうこともまた1つの道ではあったが、あまりにも先が見えない展開になりそうなので、僕らとしてはそれは遠慮したいところであった。

 そろそろトイレにこもって5分も経ち、尻も痛み始め(というのも、便器に座った僕の膝に、更に僕と向かい合うように忍が座っているせいである)たため、一度ガタンと座り直す。その音に反応したのか、扉の先にある遠山は胡乱げに再度、僕の所在を確認してくる。

 忍は鬱陶しそうに、扉に目配せすると「それは知らん」とバッサリと僕の疑問を切り捨てた。

 

「……じゃが、一つ儂がいるのはあの阿良々木暦と名乗る男が『阿良々木暦』であることは間違いないということじゃ。これに関しては儂の吸血鬼としての血と、お前様とあいつの血に誓っても良い」

「となると、あの阿良々木暦くんが、この世界の阿良々木暦って事になるのか」

 

 ふうむ、そう考えるとかの少年は無性にムカつく顔をしていた気がしてくる。基本的に今の自分より昔の自分が嫌いな僕だけど、昔の自分だが別の世界の自分である自分に対してすら腹が立つとは新しい発見だな。

 

「ならこの場はとりあえず、誤魔化し誤魔化し凌いで、それでここにきて初めに言っていた『僕の地元に行く』ってやつをゴールとして目指すのはどうだ?」

「まあ、それしかないじゃろうな」

 

 もとより儂はお前様がそれで行くと決めた道ならば、それに付き従うまでじゃ。などと僕にミスドを買うことを強要した者と同一人物には見えないような奴隷根性を見せた忍は、話は終わりじゃ、とでもいうかのように僕の影へと沈み込んでいった。僕はそんな殊勝にもみえる心がけに対して、面倒ごとから逃げたな、と元従僕らしく元主人に対して深い理解を示して便座から立ち上がった。

 わざとらしくトイレットペーパーを引っ張りトイレに流し、扉をあける。

 

「……もう腹の調子はいいのか?」

「調子に乗りそうな位には」

「いい加減な返しだな」

 

 もう、良い頃合いだしな。

 そんな返しを口内で噛み砕き、そうして僕は遠山の背中についていくのだった。

 武偵による私的裁判が始まる三分前。

 真っ赤な瞳が僕を見抜く、射的裁判は判決がそのまま逮捕につながる点において所謂私的裁判とは一線を画すらしかった。

 隠し事が多い僕からしたら、勘弁極まりない価値観の押し付けだけれど、まあ、なるようになるのだろう。と、どうやらここまできて僕はまだゲーム感覚であったことを、自覚していなかった。






裁判長……神崎アリア
裁判官……遠山キンジ、星伽白雪
被告人……阿良々木暦
容疑者……阿良々木暦
参考人……ジャンヌダルク、峰理子



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

023-B

「ねえ、この事件の名前って何が良いかしら? 『阿良々木暦増幅事件』と『阿良々木暦分裂事件』のどちらかと思うのだけれど」

「強いて言うなら『阿良々木暦混在事件』じゃないか」

「ふうん……日本語は細かいニュアンスが多くて面倒だわ」

 

 遠山と神崎のやりとりが耳に入る。僕ならばさしずめこの会は『阿良々木暦判別裁判』とでも名付けただろうか。

 ぐるりと2つの長いソファに座る5人──僕を起点として時計回りに拳銃を僕に向ける神崎アリア、ソファを別にして峰リコ、武偵世界の阿良々木暦、手錠を掛けられたジャンヌダルク、ソファ戻って遠山キンジ──を恨めしく見渡して、僕は緊張した雰囲気に乱れる呼吸を整えた。

 

「まあ良いわ。人は揃ったようだしそろそろ始めるとするわ。……今回はジャンヌがここにいられる時間も限られていることだし、コヨミと事件に関するスパイダーウェブの作成とプロファイリングは飛ばすことにして、時系列の整理から行うってことでいいわよね」

 

 神崎は目を爛々と輝かせている。

 しかして、見方が変われば味方が変わるとはよく言ったもので、かつて穏やかに僕と話していた時の彼女の態度は、今や一転して、僕を裁くのを今か今かと狙っているかのようだ。

 生粋の探偵気質といえば聞こえは良いのかもしれないが、去年の一年を過ごしきった僕からしてみれば彼女のそれは、なんだか何かに囚われているかのような危うさを孕んでいるように感じてしまう。

 

「それを分かりやすく定義付けるなら……そうね。では、一連の事件の始まりは『阿良々木暦の失踪日』としましょう。コヨミはどうやら春休みの日の地ある日を境に蒸発したそうじゃない」

「……失踪、か。そうは言ってもいつのまにかいなくなっていたしなぁ」

「本人が目の前にいるんだから、あんたが覚えているかなんてどーでもいいわよ」

「ああ。確かにな」

「うんうん! で、コヨコヨ的にははその辺どーなのっ」

 

 コヨコヨは止めろ、そう呼んでいいのはひたぎと羽川だけだ。

 なんて峰を睨もうしたが、残念失念、彼女の言葉を皮切りに既に僕は僕以上の人等の眼から睨まれていた。全員から、とは言わないまでも半分ほどからは、既に。

 残りの目ん玉がどちらへ転がっているのかといえ、そう──、この部屋には神崎が言うところの『本人』──阿良々木暦が2人もいるのである。

 どちらかが偽物だと思割れている以上、僕の方へ半分の眼が向いたことは嬉しくもあり、悲しくもあるなぁ。なんて思いつつもう1人の僕を見れば彼もまた僕を見ていた。

 にらみ合い、にらめっこの状態だ。

 

「……僕は言えるぞ」

 

 ゾワっとする物言い、いや、物聞きだった。

 初めて聞いた阿良々木暦の声。ただでさえ自分に精巧に似せた人形を見ているようで気持ちのいい感じはしなかったというのに……ああ、これはヤバい。

 危険だ、という意味でヤバい。

 鏡写しのような声だ。まるで心の中が二つに増えてしまったかのように錯覚してしまう。時々ふと沸き立つように心内に広がる独り言が常駐し始めたかのようである。

 僕は思わず顔をしかめる。

 神崎はそんな僕の様子を見てなにを勘違いしたのか、ふん、と鼻を鳴らすと「アンタは答えられないのね」と訳知り顔で言った。

 

「おい、偽物」

 

 阿良々木暦が発言するたびに僕は蹲り、頭を掻きむしって声にならぬ声を張り上げたくなる衝動に駆られる。この感覚は多分この先ずっと続くのだろうか、と思わずの憂慮が発生するレベルである。

 けどこの一言に関しては、何も僕の心持ちだけのせいというわけでもなかった。

 かつて僕は延々と偽物を語り尽くしたはずだが、よもやこんな時になって再びその言葉を聞くとは思いもしなかった。

 それも、去年のさらに去年の僕の口から。

 端的に言って、彼の一言目は皮肉以外の何モノでもない。

 

「なんだよ、偽善者」

 

 僕から抑えに抑えて出たのは、そんな大人気ない一言。

 僕が僕である由縁の一言。

 そして、僕がこの話し合いの目標と理性を幾分か見失った瞬間でもあった。

 

「まあ、待て。話し合いで(エペ)を向けるな。それが言語製のものであっても、だ。イギリス人だってできることだぞ」

「いやいや、それをヌイヌイが言う?」

「というかイギリス人でもってどういうことよ!!」

「……まあ待て」

 

 ジャンヌ、峰、神崎、再び峰、そして武偵世界の阿良々木暦。順々に、とは言いがたくわちゃわちゃとしたやりとりが堰を切ったようになされる……かと思いきや、遠山がストップをかけた。

 

「武偵として相応しくやっていこう。ただでさえ今日は色々あったんだ。ロスタイムみたいな推理パートでも決めないなら、武偵じゃないだろう?」

「あら、武偵を辞める人間が武偵を語るなんて珍しいじゃない。もしかしてアンタってば、ようやく辞めるのを止める気になったってことかしら?」

「話の腰を折るなって、アリア。らしくないぞ。──時系列で話し合うんだろう?」

「ええ、勿論よ」

「なら早く一歩目を踏み出してくれ。言っておくが、今の今まで小さな一歩も大きな一歩も踏み出せてないからな」

 

 余計なことを。

 なにがあったか知らないが、遠山の気配が少なからず変化しているような気がする。吸血鬼に近い今の僕の目からしても姿勢や筋肉の力みに変化は見られないけれど、なんというか態度が妙だ。

 それが原因なのか神崎も遠山に対して若干の『弱さ』のようなものを見せているようだし。

 弱さというよりも甘さというか。この場合の甘さは隙というよりも好きのような。感情甘くて勘定誤る、というような。

 ──いや、まてまて、僕の思考が余計な所で有耶無耶にされかけているな。

 良くないぞ、僕。

 

「じゃあ、自分の失踪日を知っている方の阿良々木……そうね、阿良々木Aとしましょうか。教えなさい」

「3月14日だ。ホワイトデーといえば覚えやすいだろ?」

「ええ、そうね。ホワイトデー」

「じゃあ、次に行くわよ……って、阿良々木B、なにぼーっとしてるの?」

「聞いてるよ。あと、Bっていうな」

 

 そう呼んでいいのは羽川とひたぎだけ……とは言わないが。

 いい気はしないから。言っても、言われても。

 

「ちゃっちゃと行きましょう。ジャンヌの引き渡し時間までそう時間はないわ」

「なら次は、偽物が現れ始めた時期だろ。……偽物としては本物なんだ。お前が現れ始めた日にちくらいわかるだろ? なんてったって当の本人のことなんだからな」

「阿良々木B、余計なことを言うな」

「阿良々木Bはあんたでしょ」

 

 なんだか悪い方向に話が流れてきたな。前々から、僕に会話のディレクター能力がないことは(八九寺の度々の指摘から)重々自覚していたけど、まさかここまでとは。

 最悪のケース、数分後には神崎に「タイホー!」と言われかねない。時系列順に確認を問うていくというのが、そもそも悪い。否、推理法としては正しすぎて、僕にとって都合が悪い。そりゃあボロが出るよ。丸裸の状態で高校生クイズに優勝できるくらいの舌弁スキルがあれば別の話なのだろうけど。

 とはいえ、まだ間に合わない段階ではない。

 全く本来、考えようによっては、こういった探偵事が合理性の塊というならば、僕にとってこれほどありがたいものはないはずなのだ。

 約束事にがんじがらめになり、過度な御都合主義は排され、順序立てて進むなんて、まるで怪異現象と相違ない。

 物怪異なんていう、なんてミステリー。彼等だって、現実には即していないだけで理には合っている。

 しからば、かつての経験はこういう時にこそ生かされるべきなのだ。

 今の僕とかつての僕。

 今までの経験と過去の現象。

 なんだい、都合のいい二項対立にすら感じるほどである。

 ただ一点違うのは、犯人がこの僕であり、探偵があの僕であるだけだ。

 

「おーけー、僕。阿良々木Aを名乗る不束者」

 

 ならば、狂気を煙に巻く犯人のように一丁、話を捻じ曲げてやろうじゃないか。会話スキルがなさすぎて会話がありすぎる男の会話は、ともすれば物語だって作れちゃうんだぜ? 

 

「事件の真相について正直に話そうじゃないか」

「何よ、突然生き生きし始めちゃって」

「時を行き来してるからな……なんて戯言はともかく、時系列通りに語るんだろ? なら、僕が仕切ってやる。現状、偽物メーターなんてものが僕とそいつの間で揺れ動いているなら、僕の方に軍配が上がっているんだ。誤魔化しとかも直ぐに分かるだろ?」

「ちょ、ちょっと待てよ。いきなりでしゃばるなよ、僕」

 

 阿良々木A(と僕がいうのは癪だが)の静止を無視し、話を続ける。

 

「その前に、この事件に必要なのは何も時系列だけじゃない。だよな、遠山」

「……まぁな。まだ俺の中でも憶測の段階だし、とやかく口を出すつもりはないが。この一連の謎にはもう一つ鍵があるはずだ」

「無論、その程度のことは時間の蚊帳の外にいる我々もわかっている──お前が言いたい『鍵』というのは『阿良々木暦』が何人いたのか、だろう? もっとも、私がいえたことではないが」

 

 ティーカップを片手にジャンヌがほくそ笑んだ。

 

「その通り。だからこの際だ、それを念頭に話を進めよう。まず、僕が知ってる阿良々木暦を改めてあげさせてもらうと一人は勿論、春休みに失踪した阿良々木暦とこの場にいる二人の阿良々木暦。あとは平賀さんが会ったという阿良々木暦だ」

 

 ちらっと周りの顔色を伺う。

 夕日が影となり分かりにくいことを加味しても、動揺を態度に表す人はいなかった。

 先ほどまで阿良々木Bが身をどこかに潜めていたという話が本当ならば、ここ最近でもっとも早くに平賀さんと会った阿良々木暦は僕で間違い無いだろう。あの着信履歴が異様に多かった携帯がその証のはず。

 となると、平賀さんが会ったという僕以外の、あの、ヴィンテージ銃を預けた阿良々木暦は目の前の阿良々木暦である可能性もあるということだ。

 

「いや、新宿のラグジュアリー店にいたアンタもいたじゃない」

「なら、同じ時刻にリコと話してたコヨコヨも?」

「ラグジュアリー店にいたのはジャンヌ・ダルクの変装で間違いない。それと、峰と話していた阿良々木暦は僕だ」

 

 そして、そうだ。その裏では平賀さんが再び阿良々木暦と会っていた。

 ……あれ? 平賀さんは2回も僕以外の阿良々木暦とあっていることになるのか。しまった、時系列順の話じゃねえのに、分からんことが多すぎるぞ。この方向は間違ったか。

 

「えっと、コヨミの話ぶりからすると阿良々木暦はこれまでに4人いることになるけれど、どうなのかしら」

「その前に、アリア。今あげた阿良々木暦群を時系列に直せば共通の阿良々木もいるんじゃないか?」

「なるほど! さすがキーくん!! てことは、同時に最大3人のコヨコヨが出ていたってことだから──」

「いや、今の阿良々木Bの話の中に『僕』は一人もいない」

 

 いよいよもって時系列も会話に舞い戻り、推理パートとしての順当さを感じ、僕は光明を見出し始めた──なんてモノローグを付けようと思ったがしかし。

阿良々木Aが軽い調子で峰の台詞を刺し殺した……殺してしまった。

 

 しん、と卓が静まり返る。

 

 不自然な沈黙だった。「あ、そうなんだ。そりゃいいヒントだぜ」なんて一言は場を見渡してもどこにも落ちていなかった。けれどそれは多分、決して意味のない沈黙ではなく、恐らく、ここに集まった面子が並の探偵達に比べて数段優秀だったゆえに舞い降りた沈黙だった。

 つまりは、この阿良々木Aの発言が「ちょいちょいちょーい」なんて一昔前のバラエティで見かけるような誰かのツッコミを誘発する以上に重要な一言だったのである。そして、数段頭の回転が速い彼らは瞬間にしてそれを感じ取ったんだろう。

 

「なる、ほど」

 

 台風の目のような間を切り裂いて、真っ先に重々しく口を開いたのはジャンヌダルクだった。彼女は登場人物の中では一番外樣に近い人物だった。

 

「と、なると、やはり。『教授』の言ったこともあながち間違いではなかったということか」

「『教授』が間違ったことを言うわけないだろ」

「『教授』? なに峰は語調を強めてんだよ」

「……なんでもない。それよりも! そっちのコヨコヨが身を潜めてたのはいつまでのことなの?」

「さっきも言っただろ──先ほど、だ。今さっき。今の今までのその先。さっきお前らに声をかけた時だ」

「……だよねー、はは。笑えないジョークだよ」

「笑えないジョークってそれはもう、ジョークじゃないだろ」

「うん、そう。むしろ悲しいほどに、真実だね」

 

 と。

 峰はアリアのコーヒーを不味そうに口に含んだ。そして吐き出すことなく嚥下した。大概態度の悪い所作だったが、その光景をアリアは見咎めるに留めた。

 やり取りで察するに余りあることだが沈黙の理由と阿良々木Aの発言が重要な理由を解説すると、それは『先程まで身を潜めていた』の『先程』が僕らが思っていた以上に『先程』だったからだった。

 えっと……、なんだっけ? では済まされない。

 御都合主義で耳が遠くて鈍感な主人公も流石に聞き咎める。

 小さい方の妹ならば、とてもいい笑顔を浮かべるだろう。

 大きい方の妹ならば、とても大きな声を上げるだろう。

 選択の余地なく、円滑なオチもなく。

 このヒントが導き出す答え。きっとそれは、推理小説では起きちゃいけない結論だった。

 

「阿良々木暦がこの場に足りない」

 

 誰がこぼした言葉だっただろうか。

 円卓には落ちた一枚の推論。

 二人の本人と、二人の変装名人がいて。

 それでもなお。

 それはまさかの登場人物不足の他ならなかったのだ。

 

「「「「……」」」」

 

 場の空気が死んでしまい、僕としても余計なことは言いたくない。進行役を買うとは言ったが、それはあくまで良い方向に会話を持って行きたかったからだ。なので、今の僕らにどんな思いと推測が渦巻いているかを更に説明する前に、阿良々木Aの発言によってする必要がほぼなくなってしまった『時系列の整理』を僕の主観ながらに行ってみることにする。

 

 まず、僕がこの世界に来たのがゴールデンウィークのことだった。そこで出会ったのが、阿良々木暦の死体だ。

 その日のうちに平賀と熱にうなされた遠山と出会い、次の日にまた平賀と出会った。ああ、その前に神崎とも会ったっけ。

 たしか、この日は行き当たりばったりな癖してハードでタイトなスケジュールで蘭豹に怒られたり地下倉庫に行かされたりしたんだ。そこでジャンヌダルクと出会い、その後に阿良々木暦の別個体の存在を知った。その後もコンビニで遠山と会って神崎の愚痴を聞かされたりしたり忍から怪異の講釈を聞いたりした。

 次の日には異世界に対する緊張感は薄れていた気がする。ピント薄く張った緊張の水面は緩んだように波打って、それよりも別の自分がウヨウヨ闊歩する現実に心が波立っていた。そんな中、平賀さんに銃をもらい、峰と会い、僕以外に二人の阿良々木暦がいたのを知る。

 そして、来るべき今日。

 戦場ヶ原に「あなたの順応性は高すぎてなんだか気持ち悪いわ」となんの飾りつけもなくどストレートに言葉で殴られた経験がある僕らしく、なんだかんだ武偵としての日常を過ごしてきた今日。

 ジャンヌダルクとイザコザを起こしたり阿良々木暦と出会ったりしながら今に至るというわけである。

 

 こうして見てもらえれば分かるだろうが、『阿良々木暦』が同時多発的に出現していたのは峰リコと初コンタクトを取ったあの時だけなのである。

 峰リコと話す僕。

 何故かラグジュアリー店に居た僕。

 そして、平賀文と会っていた僕。

 まあ、変な話である。僕が僕以外に何人もいるのだから。

 しかしそれだって、僕以外に変装した人間が二人いただけなら話は早かった。いや、普通に考えたらそうなのだろう。いち早く僕が『阿良々木暦A』でないことに気付いた人物がいたっておかしくないのだから。実際、峰はそれを怪しんで僕のもとに来たわけだし。

 特に、平賀文と会ったという方はそうなのかもしれない。

 また、他方でラグジュアリー店にいたという阿良々木暦。こちらも変装でもおかしくない。なぜなら、ラグジュアリー店とは女性用下着店であり、目の前の変装名人2人──峰リコとジャンヌダルク──が女性だからである。だから、先程のジャンヌの証言は疑う必要はない。

 ならば、普通ならば、そこに阿良々木Aが居ないというならば、こう考えるべきであろう。

 

 目の前の女子2人が変装して別々の場所にいた、と。

 

 しかし、待ってほしい。

 僕と話していたのは峰リコである。

 と、なると、当たり前の話。峰リコは阿良々木暦になり得ない。成り変わることができないのである。

 つまり、阿良々木Aが当時あの場に居合わせていないというならば、この場にいる阿良々木暦Aと僕、ジャンヌダルクと峰リコ以外に『阿良々木暦』がいないとおかしいのである。

 推理小説の推理パートにおいて、登場人物画まだ登場しきっていないなんて、そんなタブーあってはいけないだろう。

 それはいくらなんでも、控えめにいってズルである。

 

「……髪長い方のコヨミ。あなた、峰リコと会った時のこと憶えているわよね?」

「ああ、うん。憶えている。ていうか、今、思い返していたよ。……なあ、神崎」

「諭す必要はないわ。私の勘が言っているもの。確かにあれはアンタだったわ」

「ちなみに、コヨコヨと話していた峰リコちゃんはちゃんと私だよ。流石にそこは疑われないとおもうけど」

「そこまで疑い出したらキリがないだろ……。神崎には粗方聞いたが、そうか。なら、ジャンヌがあの場にいた内の一人だったりするのか?」

 

 よかった。

 ここまで散々、皆々様一蓮托生で同じ思いを抱いて同じ疑問を持っているかのような言葉遣いをしてきたけれど、その実僕だけ見当違いな方向を向いて『やれやれ、僕はなんて独りよがりなんだ』的なモノローグを入れる羽目になるかと薄々ヒヤヒヤしてたのだが、よかった。

 どうやらやはり、皆持ち待つ議論点は共通しているようだった。

 いつの間にか妙な鋭さは身を潜め、いつものような雰囲気に戻った遠山の問いかけにジャンヌダルクは改めて答える。

 

「そうだな。……うん。し、下着を買いに行った……かな?」

 

 誰だお前。可愛いかよ。

『かな』って。ここに来て、キャラとしての深みを増してくるのかよ。意外性の塊か。高飛車系日本語堪能白髪美人闇組織ハーフで偉人の末裔のくせして乙女の面も見せてくるのか。二次元趣味特攻か。これで二次元趣味に理解を示す系のキャラとかだったら逆に受け入れるよ、僕は。

 ──じゃなくて。

 

「なら、ここにいない阿良々木暦は平賀と会っていたってことか」

「そのようね。ねえ、アンタらの仲間には他にもコイツに化けそうな人はいたりするわけ?」

「いや、それはないだろう。そもそも阿良々木暦に変装して街をうろついていたのはリコの頼みだからな」

「? それがどうして他に居ないことになるのよ」

「今のリコには『イ・ウー』との繋がりがない。頼るツテがないのだ」

「その言い方はヒドいよー! 確かにそうだけどっ」

 

 たはっ、と自身のおでこを叩く峰。

 ユラユラとゆれながら大げさな所作をするものがたら胸元がちらりと目に入る。でけえ。

 

「じゃあ、そのコヨミはどこのどいつよ! Aの方は心当たりあったりしろ!」

「いや、命令形……ってか、Sランクなら自分で推理しろよ……ってイタぁ! 殴るなよ! 分かった、言う。言うから!」

 

 凄い、あの阿良々木暦ってば一言で地雷を抉っていく。

 あの頃の僕って髪も短ければ思慮も短かったのか。思い慮れば神崎はどう見ても頭が回るビジュアルじゃあないことくらい分かるもの……ってこっちを睨んでいらっしゃる! 怖っ、戦場ヶ原よりも勘が鋭い! 

 なんて、阿良々木Aはすっかり怯えた調子で情報を提供するようになっていた。

 

「ひ、平賀が阿良々木暦って言ったんだろ。な、ならソイツは阿良々木暦だよ! 訳わかんねえけど、お前も阿良々木暦って言われたんだろ? なら、お前も阿良々木暦だっ」

「はあ? 脳みそ半分足りてないの? 日本人なんだから日本語くらいマスターしときなさいよ」

「脳みそ半分足りないはお前だろうが、このチンチクリ──ごめんなさい! ごめんなさい! そうです、言葉が足りませんでした。訂正します! 平賀文は『人の顔を見間違えない』んだよ! 確実に100%識別するんだ。顧客の顔は、ゼッタイ」

「……なるほどね」

 

 神崎に蹴られならが必死に出した阿良々木Aの言葉に対し、妙に得心いったように頷く峰。そういえば、コイツは平賀さんに変装を見破られたんだったな。

 思い返せば、平賀さんはこの世界に来たばかりの僕に対してもなんの違和感もない態度を取っていた。少し盲目的すぎる位に信頼を寄せてくれていた。武偵に関する僕の知識の矮小さを記憶喪失だと信じ、急激なバイトに対する変化も成長だと受け止めていた。僕はそれを彼女が僕に対して興味がないからだ、と受け止めていたが。そうか。

 あれは、彼女の自分に対する絶大な信頼と自身の表れだったのか。

 きっと、彼女の『人間個別判別能力』とも言える能力は本質的に無意識下で行われているのだろう。なんとなく、という神崎の推理法のように説明しようと思えばできそうだけど説明できない。むしろ、説明することがあてつけのようになってしまうような代物。

 だからこそ、彼女はそれに信頼を置いているのかもしれない。

 髪が長くなろうが、知識が薄れていようが、なんとなくコイツは阿良々木暦っぽい。ならば、こいつは阿良々木暦なのだろう。

 そんな、書き起こせばやはり僕に対して興味がないだけなのではないだけではないかと疑いたくなるようなプロセスを踏んだ確信を彼女は持っていた。

 だとすればやはり、彼女が伝えた阿良々木暦はやはり、阿良々木暦なのだろう。僕でもない、目の前の僕でもない、ナニカ。

 それはまさに、ドッペルゲンガー。

 単純で純粋な怪異現象。

 ……この世界にも、やはり、それは在るのだろうか。

 

 そんな思考を裂くように、突如、コーヒーを飲んだ遠山はなんでもないように口を開いた。

 先ほどの阿良々木Aのように。軽々と、楽々と。

 

「しかし、平賀さんがここに居てくれたらなぁ。阿良々木暦ABなんてつける間もなくどちらが阿良々木暦か問題についてはスピード解決ってことだろ? どっちも阿良々木暦だって言われたんなら同時に見せて比べてもらえればいい」

「それよ!! 阿良々木暦分裂事件の手掛かりも増えるわ! 阿良々木、電話しなさい!」

「いや、待て。今日の平賀はアドシアードにきた企業への対応で忙しい。それに、もし、見比べた上でどっちも阿良々木暦だって言われたらどうするんだよ」

「えー、よく見たらコヨコヨの顔、全然違うし直ぐ分かるくない? そもそも、髪の長さ違うんだし」

 

 いや、その理屈でいうなら今の時点でもどっちが阿良々木暦かだなんて分かるだろ。問題なのは、僕が成長した顔つきとして違和感ないのことであって……ってそもそも、その問題を解決させないように話題をそらさなきゃ行けないんだっけ? 半分忘れてたけど。

 それにしても、髪の長さ、ねえ。

 ……って髪の長さ? 

 

「……あ」

 

 そうだ。髪の長さ。これって、とても重要な鍵じゃないのか。

 目の前の僕は短くて、僕は長い。

 なら……って、いやいや、そういえば、んんん?

 あれ? 初めに出遭った死体の髪の長さって、どっちだったっけ? 

 

「……ああ」

 

 いや、憶えてる。

 そうだ、あの時の阿良々木暦の髪の長さは、そう。

 ──短かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

024-B

 なぜ、この世界の服を着て、この世界の僕の携帯を持つ。

「……理解ったか」

 なぜ、あの時の肢体は短髪だったのか。

「……やはり、愚か」

 なぜ、目の前のコイツが本物なのか。

「愚か、お前は、愚か」

 なぜ、目の前のコイツは短髪なのか。

「何故、気づかないのか。その愚かさはおろか、愚か」

 髪の毛なんて、そう。

「……相変わらず、愚かですねえ。阿良々木()()?」

 切ってしまえるのに。

 

 

【024-B】

 

 

 下を見た僕の耳打するように目の前から僕と同じ声がする。

 思えばこれも、本来ならおかしな話である。

 なぜ、僕が考える声と同じ声を発することができるのか。

 普通、人間が発する声というのは本人が思うのとは違う声であるのが当たり前である。骨振動だかなんだかという話はおいといたとしても、ホームビデオやスマホが浸透した現代っ子には心当たりのある話だろう。

 だというのに、なぜか。目の前の声は僕と同じ声がするのだ。鏡写し、鏡越しの声ではない。それそのままの声。

 それでいて、この世界の知人達に違和感を抱かせないなんて。

 いうなればそう、こいつの声は写すのではなく、写したかのような声なのだ。

 

「……」

 

 カタカタと急激に頭が整理されていく。

 バラバラだったパーツが『髪の毛』によって再配置、接合されていく。

 なにが、『昔の僕のよう』『一年前の僕は』だ。『自傷癖で自責気味な自分から成長した』だ。

 なにも成長していないじゃないか。

 僕は何も、成長していない──僕は、僕を見て(、、、、、、、)そう実感していた。

 

「どうした? 顔を上げないのか?」

「まて、待て待て、ちょっと待て」

 

 つまりはそういうことだったのだ。

 端的に言えば、目の前の阿良々木暦。コイツは怪異だ。

 それもクロスオーバーもへったくれもない。

 僕の世界から、僕の世界で、僕の世界の、この僕の僕が。

 この僕が生み出した怪異だった。

 

「……お前は、僕だったのか」

 

 尋常じゃない雰囲気を感じたのか、周りの武偵は腰あたりに手をあてて黙っている。神崎は訝しげな目でもって、峰とジャンヌは好奇の目でもって見守る。唯一僕らの会話を止めようとする遠山も神崎に手で静止を促されている。

震えるような僕の声に、目の前の阿良々木暦は一度呼吸を行うと先程までの狼狽が元々なかったかのような態度で足を組み、嗤い、僕の目を射殺すように覗き込んだ。

 

「やっと気付いたか? いつまで演技という名の便宜を図り続ければいいのかと思ったけど──そうだよ。僕はお前だ。さっき『偽善者』といったようだけど……はは。自傷癖はどうやら治らなかったようだね。阿良々木暦。君は懲りずに凝らずにまたまた。はたまた君は。そうなんだ。

「君は、僕を『生み出した』」

 

 忍野扇、ミラーワールド、そして阿良々木暦(ドッペルゲンガー)

 僕ってやつは、どこまでも内向的なんだ。

 大学生にもなってみっともない。

 大学デビューなんて以ての外じゃないか。

 

「そして、阿良々木B。お前は条件を満たした」

「……条件?」

「そう、因ともいっていい。否、印と言い直そう。僕は今、君によって僕という現象に因果の印を付けられたんだ。名付けられ、格付けられ、条件付けられた」

「……印……条件……」

「つまり、阿良々木暦風にいうなら『この話のオチ』ってやつさ。そして──」

 

「『ドッペルゲンガーのオチは、そう。

 主人公の消滅だ』」

「──ッ!!」

 

 

 ああ、やられたっ。

 そうか、コイツはこれを待っていたのか。僕がコイツに【ドッペルゲンガー】という現象を名付けるのを。

『成り代わったという事実』が『現象』という形で表面に現れるんじゃない。

 『現象』が現れるから『事実』が定義されるんだ。

 つまりは千石撫子と似た状況。彼女の場合、彼女は同級生達の呪いを『自覚』し、『対処』しようとしたことで曖昧模糊として幽かだった筈の呪いを、怪異として具象化して確かにしてしまった。今の僕も同様。僕は目の前のコイツを僕のドッペルゲンガーとして『自認』し、一人の怪異として警戒してしまったのである。

 それは、言の葉の霊だ。零を一にする行為。要は名付けであり、例を実として位置付ける行為だったのだ。

 そうして、ドッペルゲンガーはニヤリと笑う。

 

「巻いていこう。オチの長い物語は嫌われている」

「ちょっと待て」

「いや待たないさ。さあニセモノ。顔を上げろ。顔を上げて前を見るんだ」

 

 カヒュ、カヒュゥ。

 触れるか触れないかなところで震える奥歯、更に奥の方から弱く短い息が漏れるのを感じる。

 なんだかんだ、ヤケになりやすくてピンチになりやすくて、勢いで清水から飛び降りる事がある僕だけど。こんなに密な距離で、淡々と自分の消滅が近づくのは初めての体験だった。

 そして、初体験で有ろうと無かろうと毎回襲うで有ろう濃密な恐怖が、奥歯僕にねっとりと纏わりつく。

 周りから見れば、きっと、まるで僕が容疑者でコイツが探偵のように映るのだろう。いつだって推理小説の主人公というやつは自信ありげで、満ち足りたような顔で人を急き立てるものだから。

 言え、言え、と。

 心の蟠りをえぐり取るような目ん玉で陰湿に執拗に舐めくりまわしていじくり回してきて、それでいて悪びれない。名探偵というのはタチの悪い、とんだダークヒーローである。

 こうなってしまったら、どこぞと知らぬ何奴に悪態をつこうともう遅い。

 例え、この場の何人が僕を被害者かも知れないと思おうが僕は自分のたった一つの動作──首をくいっと上げる──だけで消滅してしまう。

 それがどう物語の終着点に行くのかなんて関係ないのだ。

 それが、最もドッペルゲンガーという巷説の恐ろしいところだった。

 

「し、し。しの」

「──無駄だ。今、お前がここでかの最愛の奴隷を呼んだところで何の意味もない。お前と違って無知蒙昧でない彼女が今この時点で現れない時点で察しがつくというものだろう?」

「……」

 

 わからない。

 話から、話の輪から離れていくような錯覚を覚える。コレが極度の緊張感からくるものなのか、コイツ固有の【在り方】からくるものなのかはそれこそ分からないけれど。

 

「ちょっと、結局どういうことなのよ。私達が置いてけぼりなんですけど!」

「ちょっと、待っててくれ。ことが終わったら煮るなり焼くなり好きにしてくれて良いから」

「……ジャンヌを引き渡すまでもう時間がないわ。あと10分以内に説明しなさい」

「分かった」

 

 汗が滴り落ちる。

 吸血鬼の視力で捉えた雫に映る僕は驚くほどに疲れ果てて褪せて焦っていた。

 ぐるぐると数々の取り留めのない会話の種が浮かんでは消えていく。僕がこの先生きのこるルートが全く見えない。

 とどのつまりの詰み。

 思わず受け入れてしまいそうになるほどのどん詰まりだった。

 

「──さぁ、顔を上げてくれ

「会話をしよう

「なんなら弁解だってかまわない

「どっちが阿良々木暦でどっちが何者なのか

「決めようじゃないか」

 

 適当並べやがって!! 

 そう言えればどれだけ良かっただろうか。

 ただの一言だって許さずに消そうとするなんて、王道をこよなく愛する僕から産み出た怪異とは思えない。

 それとも何だ。羽川が押し殺していた二面性を異なるアプローチで表現したとように、僕は押し殺したかった二面性を異なるアプローチで否定したとでもいうのか。

 むしろ、今回の方が愚直で安直で直球の否定だった、と。

 そして、それに気づかなかった僕はどれほど愚かなのか、と。

 ──と。

 

 しかし、そんなこと考えても意味はない。

 

「……分かった。分かったよ。阿良々木暦。認めるよ。僕は確かに阿良々木暦であって阿良々木暦じゃない。そして君はきっと僕より阿良々木暦たりえるよ」

「なら、顔を上げろ」

「だからさ、きっと君は阿良々木暦になることができない」

「……」

 

 散々自責の念に囚われて、反省して、後悔したところで。

 僕は過去には戻れない。入れ替わらない、なり変わらない。

 なぜなら僕は、ドッペルゲンガーなんかじゃあないのだから。

 

「【ドッペルゲンガー】、君は良くやったよ。成り代わり立ち代わりで良くやった。だから、手詰まりな被害者の悪あがきとして聞いてくれ。よくある自供、犯罪者の独白というやつさ」

 

 それは【阿良々木暦】である僕、あるいはお前にしかできないことなのだから。

 

「つまり、こういうことなんだろう!? 僕がこの世界で会った初めての死体はお前が殺した阿良々木暦の死体だったんだ。今思えば往来の中で弾痕残る死体があるなんておかしな話だし、大方、成りかわる直前に僕が運悪く現れてしまったとからそんなとこじゃないのか。

「それでいて、悪鬼巷説の成就を逃したお前は次に僕を殺そうとした。いや、違うな。お前の狙いは初めから僕だった。ただ、そのためにこの世界を利用としていたんだ」

 

 つまり、図式としてはこう。

 どのタイミングかは不明だが僕がドッペルゲンガーを生みだす。

 そして、ドッペルゲンガーがこの世界にやってくる。

 その後、僕より先にこの世界の阿良々木暦と接敵したドッペルゲンガーがこの世界の阿良々木暦と成り代わろうとする。

 その瞬間に僕が転移する。

 ドッペルゲンガーとしては、時空転移の不安定さからくるタイムラグなどを考えれば余裕に行える犯行だったはずだったのだろうが、僕のタイミングの悪さが一枚上手を行ってしまったのだろう。

 なんというか、僕の巻き込まれる事件の発端って毎回こんな感じな気がするな。

 

「その後、徐々にこの世界の阿良々木暦の成り代わりとお前の成り代わりがクロスオーバーして、今に至る」

「くくく。焦りすぎにしても、自供がざっくばらんになりすぎてるんじゃないのか?」

「どうせ、僕の知らない僕がお前なんだ。推理も何もないだろう」

 

消去法で生まれた答えは推理とは言わない。ただの事実だ。

 それに、僕は名探偵じゃないし。むしろ、名も何もかも奪われかけている身だ。

 

「まあ、確かに、その真偽はそれこそ、『さて置いて』おいてもいいことなのかもしれないな……もういいだろう? いい加減、顔を上げろ」

「いい加減……か。いい塩梅の話ならもう散々扇ちゃんとしてきんだけど」

 

 と、言ったところで僕は目を伏せたまま、手を挙げた。その行動はあたかも、阿良々木暦Aに対して降伏するように、白旗を挙げるように、僕は彼に右手を差し出した。

 

「なんだ、殊勝じゃないか。そんな態度を見、せ……て?」

「この極限下でできる事はなにかって最初は思った」

「まだ、何か」

「……だから、お前に取って変わられてしまう。その理由を考えてみたんだ」

 

余裕のない事態の中での考察だ。今の考えが当たっているかなんて分からない。けれど、目の前の影法師(ドッペルゲンガー)がこの世界の阿良々木暦ではない僕と取って変わろうとする理由はなんなのかがどうしても引っかかった。それは、諦めの悪い僕らしい思考だった。

 

「もしかして、今、この世界の阿良々木暦にとって替わったドッペルゲンガー。それはもしかして、この僕──武偵世界に移り来てしまった『阿良々木暦』なんじゃないのか」

「……」

「なぜなら、君は短髪だ!」

「──ッ!!」

「つまり、僕が初めてあったあの死体と同じ髪型、同じ服装をしている! そして、先程いった『僕のドッペルゲンガーである』という推察に対する冷静すぎる態度。つまり、君は」

「うるさい! これ以上の言葉は必要ない!」

 

阿良々木Aはここに来て再び、さっきアリアに問い詰められた時のような慌て具合──むしろ、それ以上の狼狽を取り戻す。

机を乗り越え、僕の頭をつかみ、無理やり顔を起こそうとしてくる。

伸びた前髪が掴まれ、グイッと手前上へと強く引っ張り上げられる。

 

「いつまで顔を下げているつもりかと何度言わせるんだ!」

「──つまり、君は、今、この機会! これを逃したら『消滅する』ということだ!」

 

時間稼ぎのような即興はここまで。僕はドッペルゲンガーに無理矢理顔を上げさせられるのと同時に、右手を、再度、強く自分の眼前に差し出した。今度は抵抗するように、突っ張って。

 

「まだ無駄な足掻きを──!?」

「消滅する前、とはいえドッペルゲンガーの性質としてこの僕と同じ知識を有しているなら分かるだろう? この意味が。だから、お前は、今、こうやって怯えている!」

「お前、それ。それは……」

 

僕の眼前であると同時に、ドッペルゲンガーの眼前でもある、その位置。そこに在ったのは右手だけではなかった。

携帯電話。

僕の右手には固く携帯電話が握り閉められていた。もちろん弄っていたのは鳴らないジャンクと化した僕のケータイではなく、この世界の阿良々木暦のモノである。

 

「『もうどうにもならない。故郷から遠く離れたこんな場所で僕は死ぬのか』。一時はそう思った。てか、今さっきまで考えていた。けど、そう思うと同時に、過去に一度そう思ったことがある事を思い出した」

 

 どうせ知り合いもいないだろうし、平賀文の顧客リストで埋まっていたその連絡先。そのひとつ。

 つい先日行った平賀さんのバイトの最中、ふと見つけたある人への連絡先。思わず見つけてしまったあの時ばかりは、今よりもよっぽど脂っぽくてやけに冷たい汗が背中の筋を撫でたものだった。

 

「かつて同じことを考えていた時の僕は、パラレルワールド、並行世界ではないけれど、しかし同じように別世界──『裏世界』なんて場所にいたんだ」

「……【臥煙 遠江】!!」

「『頭のいい敵にとっておきの方法を教えよう』」

 

 僕は、消滅するかしないかの瀬戸際で、頭を伏せたその上で頼りに頼った彼女との連絡(メール)を抜粋して読み上げだ。

 

「『ペンは剣よりも強いってのは、剣を持った連中の言葉さ』」

「……まさか、まさかまさかまさか!!」

「『そのまさかさ。例外の方が多い規則が溢れるこの世界において唯一無二の効力はペンじゃない──暴力だよ』」

 

 

 

「【例外の方が多い規則(アンリミテッドルールブック)】。キメ顔は君の心の中にある」

 

 

 なかなかアレンジの効いた決め台詞が窓の外から聞こえた。

 

 

 後の事は次の章で。

 推理も何もない暴力的で冒涜的な小説だ。

 1話ぐらい、オチがなくたって、いいだろう?



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

025-B

 話は冒頭に登場した彼女(トップバッター)──神原駿河まで戻る。

 僕はあの時、彼女のナニカを振り切った姿勢に深い感動と依然とした畏敬の念を描写した。それは彼女が自らの(しがらみ)を振り払ったから、というだけではなく、彼女が彼女で在るがままに、あるいはその我儘を受け入れたからだった。

 奔放でいて気遣い屋な神原が、僕のことを大層買ってくれているように、僕は彼女をとっても買っていた。それは、もう。

 過不足なく。そして大大に。

 多分、そう。彼女みたいなをイイオンナ、というのだろう。

 そんなことを、恥ずかしげもなく、臆面もなく、心の底から思っていた。

 面と向かって言ったなら『いやいや阿良々木先輩』と大袈裟で謙遜が過ぎた不遜が返ってくるだろう。

 だから、僕はいうのだ。『それすらも』と。

 

 さて、そんなイイオンナである神原駿河にも系譜というものがある──つまりは、母親がいる。

【臥煙遠江】という早逝の女傑である。

 神原駿河の母親でありつつ、なんでも知っているお姉さんの妹でもある彼女ではあるが、しかし、僕は実のところ、一回も彼女と会ったことがない。冷静に考えてみれば、死者と出会うのは不可逆的に無理なのでソレも当然の話なのだが、そこは地獄から舞い戻るのを地でいく僕である。なぜだか、そんな当たり前の未衝突を不思議に思ってしまう次第である。

 

 とはいえ、会った事はないとはいえ。そうも言えぬような曖昧な邂逅はゆるっと一度、果たされている。

 写し鏡──もとい移す鏡の中に入ってしまったアディショナルタイムのような頃合いに、一度、僕は彼女と混浴を果たしていた。

 物語の表紙を飾った老倉よりもヒロインヒロインしたイベントを人妻と繰り広げてしまっていた。

 いや、繰り広げちゃってんじゃねえよ、という話なのだが。ホントに何しちゃってるんだよという感じなのだが、それは僕自身も思っちゃっていることなので、平にご容赦してほしい。

 もしも、聞こえが悪かったら困るので、ユーモアに言い表してみると、そう。僕らは湯灌し合った。

 互いに互いを湯灌するなんて、ガロンの世界観でも行われるまい。

 背徳を通り越した悪徳。害悪極まりない。

 決して、夫を持つ亡霊と彼女持ちの吸血鬼(ビーイングデッド)が繰り広げて良い絵面ではなかった。

 

 それはさておき。

 曖昧な衝突と未完成な出会いの狭間という溶け合ってしまいそうな関係性を夢の中で繰り広げた僕らは、今一度、またしても非核心的な出会いを繰り返す。

 並行世界で、もう一度。

 

「久し振りだね、暦」

「距離感バグってますよ」

 

 そんな感じの相対の開会であり、再開の開催だった。

 

「まあこうやって、度々会ってもみれば、最愛の関係にもなるってものじゃん?」

「あなたの夫が泣いてますよ。……そもそも、度々っていうか一度しか会ってないし、浮気にもなりませんから」

「けど、その一度は風呂場だぜ?」

「……え、江戸時代じゃ普通だから」

「はっはー。てやんでいっ」

 

 というか、命からがら逃げてきた直後だというのに、一体僕は何を言っているんだ。

 着地に失敗したらしく、じくじくと頭右足をかばいながら立ち上がる。……えぇと、ここは、どこだ? 

 

「ま、代替に、毎晩私が鳴いてるんだから、恨みっこなしでしょ?」

「湯浴みっこは足し引き相殺して良いことじゃないでしょ……」

「けど、熟寝(うまい)っこはできてるといるから良し!」

「上手いこと言えてませんよ」

 

 それを聞く感じ、上手いこといってるとも思えないし、夫婦関係。

そして、どうやら神原の下ネタのルーツはこの女傑からのものらしいことも分かった。比べるのもなんだけど、やはり奔放がすぎる!

 

 見渡すと、場所はどこか廃屋の小部屋らしかった。

 斧乃木ちゃんの【例外の方が多い規則】によってここにダイレクトシュートを決められた僕は、立ち込める土煙の中、その視界を晴らすように放たれた軽快な台詞に、反射的に返事をしていた。心境としては、廃墟に入り込んでしまった時に虚ろに向けて虚勢を張った声を上げるとかのような感じだった。

 

「いやいや、阿良々木くん。亡人の裸婦を『印象薄い記憶』に分類するほうが疑問だぜ」

 

 たしかにその通りだ。

 けれど、その話は置いといて。

 今はそうではない。

 

「いやいや、そうじゃろう。置いとくでないわ、その話を。その不謹慎で浮ついた情事を」

「って、忍?」

「のう、お前様。儂の知らぬ所で見過ごせない事があったようじゃが」

「……なにもなかったよ」

「うんうん、何にもなかったぜ。阿良々木くんに起こったのは、未亡人ならぬ美貌人にして亡人のお姉さんと裸で触りっこしただけで、何にもなかった。なぁ? ……ま、いわんや、何人もないことなのかもしれねーけどさ」

「ほう?── ほほう?」

 

 取り繕う暇もなく、取りつく島もなくなってしまったので、僕は目を逸らした。逸らした先の光景、斧乃木ちゃんは、瓦礫の上に座り、ゲームを触っていた。ニンテンドーの元祖二画面のやつ。

 時代感あふれるけれど、あれって、あんなに分厚かったっけ? 弁当みたいだ。

 

「視界どころか現実からも目が逸れているぞ、お前様」

「……い、異議あり!」

「なんじゃ」

「あの時は、お前を探すためにしょうがなかったんだ!」

「そんなっ。私のことそんな風に思っていたの!?」

「ええと、遠江さんはちょっと、黙ってて下さい」

「……誤魔化すにしてももっと創意工夫を凝らして、一生懸命せい」

「じゃあ、直球勝負で」

「うむ、わしが寝る前に解決せい。しからばこの件は流してやらんこともない」

「──了解」

 

 ならば、問わせてもらう。

 忍の顔はとうに僕から外れ──あるいは、逸れて。臥煙遠江へと向いていた。どうやら、浮ついた情事は彼女の500年の前には数秒保たない話題だったようだ。

 だから、この常套句で冗句のようなやり取りはもうしまい。

 きっとここから先は、よりカクシンテキな話になることは想像に難くなかった。

 

「臥煙遠江さん。あと、斧乃木余接ちゃん。あなた方は、本当に僕たちのことを知っているのですか?」

「知っているか知っていないかなんてのは、どうでもいいのさ。大事なのは、その先の先。未来の話だろう?」

 

カクシンテキな話にならなかった。肩透かしもいいところである。

 見事なまでのはぐらかし。重なる戯言はかき消さないほどの煙となり僕を霧中へと誘う。まるで夢中である。

 というか、確信的な決意を返して欲しい。

いい加減核心的な話をさせてほしい。

 ここまで煙に巻かれてしまうと、寧ろ、こうやってはぐらかさなければいけない理由があるのかと勘ぐってしまいそうになる。

 

が、しかし。

 専門家としては、それはある意味正しい態度かもしれない。

 だって、専門書は結論と理由に小難しいレトリックをつけた物になりがちであるし。

 だって、純小説はありふれた風情を陰鬱に、かつ叙情的に書き殴った物になりがちだし。

 だって、政は当たり前の事柄を当たり前の別柄に誤解されるような言い回しをするものになりがちだし。

 コケにされていると言われてしまえばそれまでだが、分かる人には分かるコケなのだと言われてしまえばきまりが悪い。

 これが素人の虚仮威しであれば薄ら寒さに凍えながら『何をそんな斜に構えて、物知り顔で陰鬱なこと語ってんだよ。いい歳してまだ思春期か?』と何様な態度で断罪を試みたくなってしまいなくなるし、鏡写しに水をかけ合いたくなってしまうが。しかし。

 

 けれど、遠江さんはそうじゃない。彼女は立派にいっぱしの専門家である。そうでなくとも、畏るべき専門家集団のトップを担う素養を持つ女傑である。

 そうも考えれば、コケの良し悪しは分からずとも、コケの有無に対しては理解を示してやろうという気にはなりはしまいか。

 納得はせずとも知ったかくらいはしてやろうという気概は出てくるものだ。

 なにせ世の中には、知っていることだけは知っている人もいれば、何でも知っている人もいる。知ったかぶることを知ったかぶる人もいれば、ただ知った風である人もいる。

 無知の知の思想をすくい取って満足するような生き方しかできない、平々凡々に平穏平安な僕からすれば、なんとも遠い世界のお話だけれど、そんな彼女達には恐るべき共通点があるのだから。

 知を知り、知を記し、知を敷いてみせる。

 その極地に至った人間にしかできない現象にして現像。

 想像にして創造。

 手抜きでない煙──摂理。それは絶域。

 なんだか、ラップみたいになってきたが、そういうこと。

 要は、煙に巻いたような話だった。

 

 とはいえ、事件は終盤も終盤。五里霧中な結末など、素人の虚仮威しよりも見てられない。目も当てられない。

 焦点当てるべきはただ、分かりやすいオチ。それだけである。

 

落ち着け、僕。

 遠江さんは超天才肌である。なんとなくの確信に理由が付けられていないのかもしれない。

 結論とレトリックだけの専門書のような状態なのかもしれない。

ならば、僕が翻訳の言葉を、理由を聞き出すしかないじゃないか。

 

「……未来の話。確かにそれは重要かもしれません。けれど、遠江さん。知を切り捨てる程度には持っている遠江さんなら分かるでしょう? 僕らにとっての未来がなんなのか」

「分かるとも。阿良々木暦くんの未来が君にとっての現在にしか過ぎないことも。私が君の時間に介入したことの意味も。君たちが今後進むべき未来も。ついでに言えば、一連の【ドッペル騒動】の真相もな。……けど、それをこの遠江ちゃんがアンタに伝える由縁がねーのも分かっちゃあいるぜ」

「──それを言うならば、僕も貴女に拐われる通りはないはずですが」

「それはあった。あったからこそ私はソレを行ったわけだからな」

 

 タチの悪い運命論者に捕まった気分だ。

 なんと言うか、この人はアレだ。

 きっと彼女の庇護下にあった人物に多大な影響を与えてきたのだろう。

 はぐらかした調子も、何かに従ったような強情さも、妙に説得力のある喋りも、知ったかのような風体も。

 全部全部、どこかで色んな誰かから感じたことがある。

 統合された専門性はこうもやりにくいのか。

 

「けどね、私は一方でこー考えてもいるわけだ。『その誘拐という果を被った君達は、その因を知る権利があるんじゃないのか』ってな」

「と言いうと?」

「『被害者面が気に入らねえ』ってことさ」

 

 彼女はシニカルに花笑み、暗く澱んだ目つきだった。

 僕は、ぐうの音も出なかった。

 だって、今回の件に関しては、分かりやすく僕は加害者だったから。

 僕が世界を跨いだせいで、この世界は冒された。

 僕がドッペルゲンガーを生み出したから、この事件が始まった。

 断罪なんて烏滸がましい。

 立場をわきまえていないのは僕らだったというわけだ。

 僕らはこの世界における絶対悪だったという。そんなオチ。

 早すぎるしっぺ返し。挙げ足取り。

 早すぎて、他人事のように身につまされた気分すらしていた。

 

「……ん? いやいや、違う違う。そーじゃねえ。いやね、別に阿良々木くんの軽率な行動の数々が因であることをここで箴言するつもりはないんだ。さっきも言ったけど、私がしたいのは過去の話じゃなくて、未来の話だからね。だから、『被害者面』っつーのはそーゆーことじゃない」

「……え?」

「理にかなったことを聞いたって君達がどうこうなるわけじゃない。それは建設的じゃないだろう? 君は自分を責める事の悪を随分と自覚したらしーけど、大人の世界では君を叱ってくれる人なんていないんだぜ?」

 

 責めること、責められること。

 今、そんなことを考えるべきではないことは分かっている。しかし、過去と未来、因と果。それを繋ぎ止める要は省みることしかないんじゃないだろうか。

 一方通行の時を過ごす僕らにとっては、特に。

 

「ただね、君は知らなきゃあいけない」

「……未来をですか?」

「いやいや。過去のことさ」

「過去?」

 

 今まで散々否定されてきたワードがポツリと現れ僕の心を鷲掴む。

 遠江さんは目つきはそのままに微笑むと僕との距離を詰めた。

 

「君達にとっては過去じゃないが、私達にとっては過去。けど、対岸の火事とは言わせない。そんな事実にして罪」

「……」

「……事件の真相さ。まさか、さっき君の分身に傾聴させていた戯言、アレが本当に真相だなんて思ってないよね?  ──うんうん、だと思った! じゃあ、私が教えてあげる。名探偵ってのは、遅れてやってくるもんだからね」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

026-B

 前置きが随分と長くなってしまったが、ここからが真相編。

 名探偵登場というやつである。

 今度こそカクシンテキな話だ。

 埃の被った机に腰をかけた遠江さんはシニカルに笑って居る。

 

「そもそも、あのドッペルゲンガーは君のドッペルゲンガーじゃない。この世界の阿良々木暦のドッペルゲンガーなのさ」

 

 僕が武偵のみんなに振舞った推理は、この時点で既に破綻してしまったのだが、それ以上に、この発言は、この世界が怪異とは縁のない世界であるという定説を覆すものだった。

 

「……やっぱり、そうなんですね」

 

 とはいえ、僕は既にその事実に気付いていたし、だからこそ、ドッペルゲンガーに前髪を掴まれたあの時に、臥煙遠江さんとのコンタクトの時間稼ぎにあのような事を言ったのだ。

 

 

『もしかして、今、この世界の阿良々木暦にとって替わったドッペルゲンガー。それはもしかして、この僕──武偵世界に移り来てしまった【阿良々木暦】なんじゃないのか』

『なぜなら、君は短髪だ! つまり、僕が初めてあったあの肢体と同じ髪型、同じ服装をしている! そして、先程いった【僕のドッペルゲンガーである】という推察に対する冷静すぎる態度。つまり、君は』

 

 

 あの時のセリフに繋がる言葉こそが、遠江さんの『あのドッペルゲンガーは君のドッペルゲンガーじゃない。この世界の阿良々木暦のドッペルゲンガーなのだ』であり、これこそがあのドッペルゲンガーが消滅寸前であった理由だった。

 なぜなら、怪異は存在理由を持たなければならないし。

 彼の存在理由であった『武偵世界の阿良々木暦に取って替わる』というモノは既に僕が達成してしまったのだから。

 

 遠江さんは含みをもたせた表情で続ける。

 

「そして、勿論、あのドッペルゲンガーは君達のいう【怪異】でもある。つまり、この世界にとっての不純物であることは間違いない。だから、あのドッペルゲンガーという【怪異】が発生しちゃったせいで、息を潜めていた異形のもの達がざわめきを立て始めちゃっている」

「この世界の異形……っていうのは、その、怪異とは違うんですか?」

「違うねー、全然違う。忍ちゃんをはじめとする怪異ってのはいわゆる現象としての怪異で、性質としては怪異譚や怪談そのものだよ。それに比べて私達の世界の異形ってのは説話の中の登場人物なの。要は怪異譚を媒介にしない怪物──大きくいっちゃえば、生物だ」

「せ、生物」

「そ。だから息もするし、生きもする。噂立たなくても存在するし、ポッと私たちの前に現れたりもする」

「じゃあ、括りとしてはUMAみたいなものってことですか?」

「改めてカテゴライズする意味はあまりないけど、そうだね。そういうことになる……けれどね、だからこそ、彼らを殺すことだって可能なのさ──そういう意味では阿良々木くんに近いのかもしれねーな。知らんけど」

「……僕は人間です」

「くくく、そんなことは至ってどうでもいいことだよ、私にとってはね。──ともかく推理、もとい整理を続けさせてもらうと、君達の出会ったドッペルゲンガーはいわばこの世界の産物だったのさ」

 

 だから、血も通い、息をし、動き回ってたし、なにより殺すことだって可能だった。あのドッペルゲンガーは僕たちの世界の【怪異現象】でありつつも、この世界の【異形】としての性能を持ち合わせたいた、ということなのか。

 

「……ん? あれ? 待ってください、遠江さん。自分で同じような推測を立てておいてなんですが、あのドッペルゲンガーが僕の世界の産物じゃないなら、話がおかしなことになるんじゃないんですか? もし、この世界の異形が生物だと言うなら、あのドッペルゲンガーが生物だっていうなら【系譜】がなければいけないですし」

 

 系譜、とはつまり歴史。人の歴史はつまり、僕の父母。

 ドッペルゲンガーに親がいたら、それはもう僕じゃない。

 別の親を持ち、別の境遇にあり、僕と同じ(たち)の、別人だ。

 それに、彼の発生が直近だったとしたら、その時点で系譜が有るなんてことはあり得ない。

 鶏が先か卵が先かなんて問題は怪異でなくちゃあ起こらない問題だ。

 

「んー? そんなの決まってるじゃん。阿良々木暦のドッペルゲンガーなんだろ? だったら、その親は勿論ドッペルゲンガーに決まっているじゃん」

「いやいや……えっと、それじゃあつまり」

「阿良々木暦のドッペルゲンガーの親は、阿良々木暦の親のドッペルゲンガーってことだよ」

 

 いや、やはりそれはおかしいだろ。疑いの目で遠江さんの顔をみる。

 彼女は有無を言わさない態度で僕を見下していた。

 そこにはこれ以上の踏み込みを許さないようなオーラがあった。

 

「阿良々木くん。ここは君のいた世界とは別の世界だよ。別の摂理があり、別の法則があって、別の生態系が蠢いている。表面上の理解だけで否定してもらっちゃー困る。それに、その否定は私が言いたい真相を曇らせる。……まさか、あれで本当に解いた気分になってるんじゃないんだろーね。正体不明の【阿良々木くん】はまだ沢山いたはずだよ?」

「……たしかに、先のドッペルゲンガーでも誰かの変装でもないという阿良々木暦はまだいます。けれど、そんなこと言ってこのドッペル騒動がこれ以上こんがらがったら、本当に、伴わなくなっちゃうんじゃあ……」

「伴わない? なにが」

「阿良々木暦がです」

 

 どんな僕が何人、いつ、どこにいたのか。

 この数日で何回考えたのか、数えるのも億劫になる謎。

 僕は結局、なるがままに即興的(アドリブ)な答えしか導き出せなかった。それも、残った謎を全てドッペルゲンガーに押し付けるような形でしか。

 

「……君がこれまでと違って誰かを頼らなかったことは認めるよ。成長という意味でね。けど、けどね。阿良々木くん。それじゃー、知るも知らないも分かるも分からないもない。分かるもんだってわからなくなる」

「……はぁ」

「だから、この件に関しては運がなかったとしか言えない。阿良々木くんのそのスタンスっていうの? その、【成長した自立】という意識、それが君を謎の答えから遠ざけちゃってたね。……つまり。あっちがたてばこっちがたたないというか。一度できるようになった事を深めたくなるのは人のサガだけど、往々にして現実はそれを否定したくなるらしい。──阿良々木くん、今回ばっかりは君は他の人を頼るべきだった」

「他の人……」

「たとえばさ、私。携帯電話で私の名前を見つけたその時点でなんで連絡を取らなかったんだい? 」

「だって、僕はあなたを知らないし、それにもし、あなたが僕たちを知らなかった時の言い訳が立たない」

「ふうん? ──それでこうやって助けられてちゃー、立つ瀬がないね」

「まあ、それはそうなんですけど……」

 

 後悔する時って、大体そんな感じだよな。なんて、言い訳じみたことを思った。

 僕の釈然としない態度を察したようで、遠江さんは「ふむ」と顎に手をやり暫く考える素振りを見せた。……そして、しばらくして、遠江さんは一つ、質問をした。

 

「阿良々木くん。頼るべき時ってのは、どんな時だと思う?」

「それは、自力じゃどうにもなんない時なんじゃないんですか?」

「そりゃそうだ。私が聞きたいのはそんな毒にも薬にもならないような事じゃないよ」

「うーん、なら、自分の手を汚したくない時とかでしょうか?」

「だからって、毒の方に考えを振ってほしいわけじゃない。……他人を頼るべき時は他人の『目』が必要な時さ」

「他人の目……」

「そ。今の君はいわば記憶喪失した状態に似ている。この世界の普通が偏向して見えてしまうだけでも大変だっていうのに、加えてここにくる前までの歴史がまるっきり分かっていない」

「ああ、そういうことですか」

「歴史って言ったって、日本史とか世界史の話じゃないぜ?」

「はい、要はここに来る前のコト──文脈(コンテクスト)ってのとですよね」

「まさしくねー。ってところまで言えば、もう分かるよね?」

「ええ。……僕は知る必要があった、僕が知りようもない過去を、知識を、そして、アイデアを」

 

 目を閉じる。

 思い浮かぶのはこれまでのこと。

 神原駿河。ミスド。休店の看板。忍の駄々。黒い門。転移。黒いアスファルト。短髪阿良々木暦の死体。携帯電話と『任務』の言葉。訪れた武偵高。夕日。平賀文。異なる銃。名付け。宿舎。風邪を引いて衰弱した遠山金次。少ない私物。神崎アリアに『ホームズ』。強襲科。生徒呼び出しの張り出し。異常なまでの視線の集中。平賀文との話し合い。硝煙と数種類のタバコ、不思議な甘い香りが混ざり合う職員室で酒を飲む蘭豹先生。不敵な彼女の笑みと命じられたゴミ捨ての依頼。アドシアードの喧騒に浮ついた生徒。昼さがりの春風とは裏腹に寒々しい地下空間。ジャンヌ・ダルクの末裔。氷の異能。爆発。帰り際に聞いた怪異現象(ドッペルゲンガー)の発端。平賀文のラボでの試し撃ち。影法師と平賀文の会話。影法師の物だと思われる見覚えのないニューモデルアーミーレボルバー1061年プレミアムモデル。新宿に現れた阿良々木暦。峰リコとの会話。身バレの危機にラグジュアリー店の阿良々木暦。同時に現れた平賀文と話していた阿良々木暦。そこからの数日は特筆すべきことはなく今日、アドシアード当日。下らない会話に地下室。再び現れたジャンヌ・ダルクに吸血鬼『魔臓』の存在。ジャンヌ・ダルクの証言に、新たに現れた阿良々木暦。話し合い。探り合い、推理のし合い。存在の奪い合い。概念の制定に今までの整理。そして、例外の方が多い規則。臥煙遠江。

 これまでの間々に挟まれた戸惑いと、反省。そして少しの意地と【成長した】という驕りの文字は数え切れないほど。

 駆け巡る沸騰しそうなほどの思いは走馬灯のようだった。

 そして、それが終わって瞼の裏が真っ暗になって、やがて、僕はこれ以上ないまでに冷静になっていた。

 遠江さんが言ったこと。

『僕が頼るべきだった』ということ。

 それは、きっと。僕が孤立していたことを戒めた言葉ではない。むしろ、その孤立した中にあってようやく得られる客観性を求めるべきだったということ。

 何人も阿良々木先暦がいる。

 何人かは偽物で、何人かは本物。

 本物の人数は現時点で、足りていない。

 そういう客観性。

 だれが本物でだれが偽物でとかいう人称確認以前の問題──人数確認。

 

「つまり、遠江さん。この怪異。影法師(ドッペルゲンガー)は」

「そう、ドッペルゲンガーは」

「「一人ではなかった」」

 

 僕は勘違いしていた。

 今ある手札でレッテル貼をすることに必死になってしまって、そもそもの客観性、過去、知識にアイデアを──詰まる所の登場人物の確認を怠っていた。

『まだ、出てきていない登場人物がいるなんておかしい』──そうじゃなかった。まだ、出てきていない登場人物がいるのならばそれを推理するべきだったのだ。

 

「あのドッペルゲンガーは君の雑な総括を利用して、逆に自分を強大に脅威的に見せようとしてけどね、実際はそうじゃない。新宿に用事があった阿良々木くんは別にいるし、平賀文と三回密会していた輩は別にいる」

「だから、ドッペルゲンガーは少なくともあと一人。多ければ四人以上いなければいけない」

 

 そういう話だったのだ。

 

「いや、それはないでしょ、鬼いちゃん」

「……斧乃木ちゃん?」

「さっきから聞いてたら、遠江お姉ちゃんといい、鬼いちゃんといい、随分とまどろっこしい会話をしているじゃないか。見てろよ、その金髪老婆なんて既に疲れて寝ているじゃないか」

「え? ホントだ、寝てやがる……じゃなくて。なら、聞かせてくれよ。客観的に見て、ドッペルゲンガーは何人だったんだよ。ここから始まる分かりやすて壮大な推理パートを飛ばすってんなら、そのくらい教えてくれるってことでいいんだよな?」

「ふふふ、当たり前じゃないか。鬼いちゃん。……何人か、だって? おいおい、勘弁してくれよ。そんなの決まっているじゃないか──二人だよ。そうに決まっている」

 

 ビシッと横ピースを決めた斧乃木ちゃんは無表情で埃かぶった机に立ってセリフとポーズをキメる。

 

「『そうに決まっている』だって? いやいや、斧乃木ちゃん。客観という言葉を無責任という言葉と間違えているんじゃないのか? 確かに僕は多少周りを見る癖を見失っていたよ。けど、こうしてどんなに思い出をかき集めてもその証拠が見つからないんだ。なんで決まっているなんて言い切れるんだよ」

「喧嘩腰にいっても無駄だよ、鬼いちゃん。ドッペルゲンガーは二人。その事実は変わらない。もっといえば、鬼いちゃんがその結論に至れなかったという情けなさも変わらない。諸業無情というやつさ」

 

 それを言うなら諸行無常だ。

 それに所業無情というやつでもない。

 しかし斧乃木ちゃんの言うことがもしも本当ならば、僕はその理由を、証拠を尋ねざなくてはならないだろう。

 

「簡単なことさ。この世界にいるのは、二種類の阿良々木暦。つまり、お前と、この世界の阿良々木暦しかいないからさ。本人が二人いるならば、ドッペルゲンガーは二人しか生まれない。表裏一体という言葉はあれど、表裏表一体という言葉ないだろ?」

「表裏表って」

 

 例えが分かりにくい。

 ドッペルゲンガーが三体いると、その元となる人物が3人いなければいかなあと言うことを端的にまとめたかったのだろうが。

 分かりにくい。

 

「ならば、分かりやすく、嬲一体と言いなおしてもいい」

「それは、言い直しちゃダメだ。いろんな意味で」

 

 つくづく、最後の一言が間違う童女だった。

 けれど、裏を返せば、それは最後の一言以外は正しい──そう思わざるを得ない。遠江さんを見ても、呆れるような表情はすれど、斧乃木ちゃんの言葉を否定するような素振りは見せていない。

 

「けどね、鬼いちゃん」

「……なんだよ?」

「けどね、鬼いちゃん。今、あなたがそんな事を知ったところで、だからなんだって話でもあるんだ」

「いや、そんなこと……」

「ないって、言い切れるのかい? ならボクは止めないけれど。けれど、ここには謎はあれど、ただそれだけなんだ。事件も、被害者も、加害者も──いや、鬼いちゃんは明確に加害者では在るけれど──そう、この謎には解いたところで何もないんだ。謎々本には解けばページをめくる作業があるし、推理小説には解けば犯人を逮捕できる土壌がある。ホラー小説なら危機を乗り越えることが可能かもしれないし、SFならば未来を良くすることができるかもしれない。けれど、今ここ、この時点において、鬼いちゃんがこの謎を解いたという現在において、殊更ストーリーが進むということはないんだ。むしろ、それによって虚無の時間に突入したといってもいい」

「……」

 

 もしも、僕が知りうる全ての阿良々木暦が明らかになった時、その時は、僕と忍は元いた世界に戻ることができるのかもしれない。心のどこかでそう思っていた自分がいた事を否定できないのは、確かに改めて自己分析するまでもない、明白な事実だった。

 だからこそ、僕は一連の騒動に率先して首を突っ込んでいったのだし、こうして『遠江さん』という元の世界との縁を引っ張り上げた時にはもう、ロスタイムに入った気分になっていた。

 

「じゃあ、僕はどうすればいいんだ?」

「知らないよ、そんなこと」

「……」

「知ってても、いう義理がない。縁がない。関係がない。鬼いちゃん、気付いてないのかもしれないけれど、ボクとあなたは会ってからまだ、数十分の仲なんだぜ?」

「急に突き放してくるじゃん……」

 

 けど、冷たい、とは言うまい。

 

「ボクは人形だからね。そりゃ冷たいよ」

 

 絶対に冷たいとは言ってやらねえ。

 未だに決めポーズを崩さないその姿勢と言葉にはイラっとするところはあるが、言っていることは理解できなくもない。

 忍は寝こけてズブズブと影に沈みかけているし(やはり度胸というか器が僕とは違う)、頼れるのは僕しか……って、あれ? 

 

『頼れる』? だって? 

 ぱち。と頭のパズルが音を立ててハマった気がした。

 ぱちぱち。ぱちぱちぱちと。

 

「どうしたんだい? 鬼いちゃん。そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」

「遠江さん」

「私は斧乃木余接に煽りをやめるよう命令することはしないよ」

「いえ、そうではなくて。遠江さん、さっき『僕が他の人を頼るべきだった』って、いいましたよね?」

「言ったね」

「そして、ドッペルゲンガーは2人居たんですよね」

「らしいね」

「そして、この世界には、『二種類の』阿良々木暦が、いるんですよね」

「うん」

「それって、色々端折ますが。要するに、あの分からなかった阿良々木暦が僕のドッペルゲンガーだってこと──だと、限りませんよね?」

「……その通り」

 

 ──ああ、そういうことだったのか。

 分かったつもりになって、突き進んで人数合わせて人称合わせて、それで。その先にあるのは、やっぱり間違いだったのだ。

 目の前を見やれば、遠江さんは笑い、斧乃木ちゃんは無表情だ。

 変わらない。変わらない光景だ。

 それが、なんだか納得に拍車をかけた。

 

「……あの日。あの、忘れもしないこの世界にきた日。あの時に見たあの死体。あれを殺したのはドッペルゲンガーなんかじゃない」

「一応、聞かせて貰おうかな。なんで阿良々木くんはそう考えるのか」

「殺し方が違ったんです」

「殺し方?」

「ええ。あの死体は明らかに銃殺されていた。けど、それをドッペルゲンガーが、行ったというのはありえない。なぜなら、さっきドッペルゲンガーが僕を消そうとした時に銃は使っていなかった」

 

 目を合わせ、帳尻を合わせることで僕を消そうとしてきた。

 それは『くらやみ』のような、概念的な殺人だった。

 

「それはどーかな。たまたま君を殺す時は概念的に消滅させようとしただけかもしれないじゃないか」

「いえ、にしてもおかしいんですよ。……だって、僕が見たのは死体だったんですよ。ビーイングデッドでもリビングデッドでもない。すでに事切れた、阿良々木暦の亡骸だったんです。ドッペルゲンガーが殺したとして、死体が『残る』はずがないのに、そこには、死体が転がっていたんです」

 

 ドッペルゲンガーの話の終わり方は、本人の消滅、そして入れ替わりだ。

 

「つまり、あの死体そのものが、ドッペルゲンガーのアリバイを証明するものだと言いたいのかい?」

「はい。それに、気になることはまだあります。あの死体はには銃痕はあれど、血溜まりが存在しなかった。真昼間の高層ビルの下、ただ死体が存在するなんてそれも『ありえない』。死因を隠すために血溜まりを消し、人払いをしていたにしても、あまりにもお粗末すぎる。これじゃあまるで、誰かが『僕とあの死体を引き合わせたいとでも意図した』かのようだ」

「……」

「おかしいのはここからです。もし僕のドッペルゲンガーがいたとしたなら、なぜ、僕の下に訪れないのか」

「それは君がこの世界の阿良々木暦と置き換わったからさ。だから、君のドッペルゲンガーは君の従来の行動原理に基づいて平賀文と会話を重ねていった」

「そんな椅子取りゲームみたいな……」

「けど、実際そうなってる」

「にしては、色々おかしいでしょう。例えばニューモデルアーミーレボルバー1061年プレミアムモデルの出所。僕のドッペルゲンガーが出現した時が僕と同じだったとして、そいつが数日であんな高価なものを入手できるとは思えない。それに、銃の改造の依頼とか平賀さんに対する僕のアプローチは、僕にしてはあまりにも周到すぎる」

「あ、低い方向の信頼はあるんだ」

「今でさえ、このザマですからね」

「くくく。……じゃあ、君のドッペルゲンガーはどこにいるんだい?」

「……さあ?」

 

 そこまでは、分かんない。

 やっぱり僕は名探偵にはなれないらしい。けど、その辺の手がかりもなんとなく見えてはいる。

 

「斧乃木ちゃん、君は『二種類の阿良々木暦』とは言った。『2人の阿良々木暦』ではなく、『二種類の阿良々木暦』と。まるで、僕という阿良々木暦がまとめて数えられる人数いるかのように」

「……あれ、 ボク、そんなこと言ったっけ? 聞き間違いじゃないの(笑)」

「確かに言ってたぜ。横ピースにキメ顔で」

 

 だから、それが多分、最後の鍵だ。

 この謎を締めくくり、解き明かし、そして、次に進むための。

 残念ながら、僕はそれを創造し使用する名探偵にはなれなかったけれど。どうやらここには名探偵がいるという。

 

「だから、聞かせて下さい。遠江さん、『この世界の僕を殺し』『平賀文さんにニューモデルアーミーレボルバー1061年プレミアムモデルを渡し』『新宿に予定があり』そして、『今まで正体の見えなかったドッペルゲンガーではない阿良々木暦』それは誰ですか!?」

 

 遠江さんが答える寸前。ある出来事が頭をよぎった。

 思い出したのは、タイムスリップした時のこと。

 一種類の阿良々木暦が2人いた、あの時のこと。

 年齢の違う。ショタ時代の僕と、そして、高校生の僕が。

 

「その阿良々木暦は、勿論、君さ。

「君の、長くとも数ヶ月後の姿。

「つまり。君の知りたかった最後の阿良々木暦は近い将来『この世界の君を殺し』『平賀文に銃を渡し』『新宿に行き』そして、『君のドッペルゲンガーを殺し、君をこの世界のドッペルゲンガーにしようとする──そんな君だ。

「そして私は、そんな未来の君を、止めて、大人しく元いた世界に帰って欲しい。

「おねーさんはこの世界の住人としてごく当たり前にそう、思っちゃったりしちゃってるのさ」

 

 つまり。

 ここが結論。

 だから要するに。

 僕こそがあらゆる阿良々木暦を殺そうとするドッペルゲンガーだった。らしい。

 ゆえの暦ドッペル。

なんて。

なんて、笑えない冗談だろうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

027-B

 後日談、というか今回のオチ。

 まあ、状況は全然落ち着いちゃいないんだけど。

 僕は愛すべき妹達に起こされることなく起床した。

『知らない天井だ』なんて言うことはもう、流石になかった。

 高校を卒業した時点で、火憐ちゃんと月火ちゃんが僕を起こしてくれることはなかったが、僕は実家暮らしだったので目を覚ませばいつも下階では姦しい声が聞こえてきていた。だから特段、独りで起きることにはなんの感傷もないのだが、それでも起きて顔を上げても静寂が家を満たしていることには一抹の寂しさを覚える。

 まあ、それでも太陽は相も変わらずいい感じに顔を見せているので、僕は布団から身を起こし、出かける準備を済ませ、仕上げに洗面台の鏡に向かい、ヘアスタイルを整える。

 姿写しの向こうに見えるのは昨日と変わらない長髪の青年。

 ここで、もし、鏡に写っていたのが短髪の青年だったなら、いい感じの余韻を持つホラーエンドになったのかもしれないが、そんなことはなかった。

 腕時計を見ればそろそろいい時間である。

 僕は誰に言うでもなく一言「行ってきます」と添えるとドアに手をかけた。

 そうして外に出て数分。道すがら考えていたのは先日の事件のこと。

 

『そんな未来の君を、止めて、大人しく元の世界に帰って欲しい』

 

 特に、遠江さんの言葉のこと。

 まさか、ドッペルゲンガーでもなくこの世界の阿良々木暦でもなく、ましては他人でもない、他の誰でもないただこの自分が犯罪のオンパレードを行うことを宣言される事になるとは夢にも思っていなかったが、意外な事に、話の本題はその後にあった。

 

『ゆえに、君には近々過去に戻ってもらうことになる』

 

 もちろん僕は、そんな遠江さんの依頼を受ける意向を示した。

 受ける理由なんて必要ないくらいに、既に、僕は立場として被害者ではいられなかったし、未来の自分とはいえ、自分の尻拭いくらいはいい加減できなくてはならないという使命感に駆られたからでもあった。

 

『過去に戻る、と言っても君達の世界流で行うのではなく、私達の世界流で執り行うことになるから、それまでは待機してもらうことになるんだけどね』

 

 と言って、遠江さんは諸々の理由や事情を説明してくれた。

 本題というだけあって、内容は入り組んでいて理解するのにそこそこの時間を要したが、それでもなんとか表面をなぞることはできた。

 

「……おはよーなのだ!」

「あれ、平賀? どうしてここに? ここは男子寮だぞ」

「あやや、聞いたのだ! 阿良々木くんと遠山くんの部屋で爆発事故があったって! 大丈夫だったのだ?!」

「あー、なるほど」

 

 遠江さんとのその後を語るならば、こちらも語らねばなるまい。

 そう、結局あの裁判染みた話し合いは、爆発オチにて終了していた。幸いなことに、ジャンヌ・ダルクは捕縛されたまま、無事逮捕まで至ったらしいが、部屋の中は滅茶苦茶になってしまった。

 そのため、僕と遠山は一時的にそれぞれ別の小部屋に押し込められているのであった。なお、ドッペル騒動についての言い訳その他は今日行う予定である。てか、ケータイには、見るのも恐ろしい位、神崎からの着信があった。

 

「いや、なるほど。じゃなくて」

「ああ、ごめんごめん。心配してくれてありがとな。……けど、大丈夫だよ。貴重品は全部無事だったし。爆発も人一人殺せるくらいの規模だったから、そう危なくもなかったから」

「なら安心なのだ」

 

 自分で言っといて、どこが安心なのだか分からないが、そう、人一人。ここで言い訳をしても意味もないので、ぶっちゃけてしまうと、斧乃木ちゃんは僕らの脱出と同時に僕のドッペルゲンガーを殺してしまっていた。結局、あれがどっちの世界のどのような怪異だったのかは分からずじまいだったけれど、遠江さん曰く、これもまたドッペルゲンガーの対処の一つということらしい。

 力関係として本人よりドッペルゲンガーの方が上なら、他人がドッペルゲンガーを始末してしまえばいいという。

 対処されたのが僕の生き写しということもあって、後気味は決して良くないが、これにて決着。

 この【世界の僕】という立ち位置は、晴れて、この僕が任命されたということらしかった。

 

「……名実ともにドッペルゲンガーになっちまっあなぁ」

「んん?」

「なあ、平賀。お前、もし自分の体が二つになったらどうする?」

「うーん、イタリアとアメリカに同時留学したいのだ」

「そりゃいい考えだ」

 

 殺すでも生かすでもなく活かす。

 いや、この場合は行かすのだろうが、確かにそれは有意義な答えだった。

 

「そーいえば、アララギくん」

「ん?」

「あれから銃の調子はいかがなのだ?」

「すこぶるいいよ。今ならランクも上がりそうだ」

「なら良かったのだ。……あと、それでね、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、学校に着いたらラボによって貰っていい?」

「ああいいよ。丁度、バイト関連の話もしたかったしな」

「ん! 約束なのだ!」

 

 そう言って彼女はタクシーを止めると乗り込んで先に言ってしまった。さすが武器商人、ブルジョワジー。

 

「……さて」

 

 庶民派な僕はバス停へと歩みを進める。

 今日は5月8日。アドシアードの片付けも済み、本格的に学校が始まる日だ。全然知らない未知の世界に飛び込むということもあり、変な緊張感が僕を満たしている。

 そういえば、遠江さんは別れ際に気になることを言っていた。

 

『僕に監視者を寄越す』と。

 

 さっきもいったが、流石に自分のやらかしくらい、いい加減理解しているので、僕はそのことは四の五の言わず受け入れたが、一体誰が来るのだろうか。普通に考えたなら、僕の世界よろしく斧乃木余接ちゃんが来るのだろうけれど……。

 

「のう、お前様」

「あれ、忍。まだ起きていたのか」

「いやなに、聞き忘れておったことがあってな」

 

 忍は顔のみ影から覗かせる。

 ホントに聞きたいことがあるだけらしく、聞いたら直ぐに引っ込むつもりのようだ。

 

「聞き忘れたこと?」

「うむ。まあ、今となっては些細でどうでも良いことなのじゃが」

「ふうん。……なんだよ」

「あの人形娘のことじゃ。アレは一体、何者なんじゃろうなと思ってな」

「そりゃあ、人形で式神な怪異だろ」

「それは、そうじゃ。力も儂らの世界のあやつと同程度じゃったからな。……しかし、儂らの世界のお前様の作り出したお前様の異世界ならともかく、ここは並行世界という怪異の存在すら怪しい異世界じゃ。だというのに、それなのになお、あの人形娘は儂らの世界のアイデンティに接続しアジャストしておった。……そんな機能、あまりにも強大だとは思わんか? 機能を通り越した力であるところの能力を超えた超能力とは異にする異能力とは一線を画す権限。あそこまでいくと、まるで権能のようじゃ」

「権能」

 

 それは、能う権利であり、つまりは摂理である。斧乃木余接の全く変わらない振る舞いが、そんなメタ性の保有に匹敵しているということなのだろうか。

 

「──条理破壊の操人形(デウスエクス・マキナ)。たかだか人間ごときが、そんな、神殺しならぬ神話殺しを作ったとは思いたくないが……、忠告だけはしておこうと思ってな」

「それは、遠江さんを盲信するなということか?」

「……まあ、わかってればそれで良いのじゃが──が、ゆめゆめ忘れるなよ。お前様と儂はいわば一心同体。おはようからおやすみまで、儂のゆりかごからお前様の墓場まで、そんなツーマンセルなのじゃ。……じゃから、儂を失望させるでないぞ」

「ああ、わかってる」

 

 斧乃木ちゃんがそんな大仰な存在だとは思えないけれど、あの二人の立ち位置がわからない以上、安心し切るのは得策ではない。

 全く、気の休まらない状況である。

 僕の言葉を聞いた忍はとぷん、と影の中へと消えていった。

 あくびもしていたし、しばらくは出てくることはないだろう。

 

 さて、空を仰げば、雲はない。いわゆる快晴だ。

 

 まっさらな青。白ひとつない真っ青。

 見慣れない舗装路は予想を裏切らない熱波を放ち、花粉を放つ街路樹は綺麗な緑葉を揺らしている。

 僕が平安貴族だったら一句読みたくなるくらいの清々しい日である。ならば、いつまでもこんな陰湿な憂いを纏っているのは健康的でないだろう。

 だから、今日ばかりは、僕は進もうと思う。

 

 花をスカートに携え、服より華やかに(わら)っていた神原のように。

 実直に、それでいて、謳歌として。

 能天気、あるいは阿呆でいることはすげー得意だ。

 大学生になったからといってそこは変わらない。

 むしろ、大学に入ってからというものの、一層、得意になった気さえする。

 

 家族があって、友達ができて、恋人ができて、そうやって。

 人の縁が広がることで僕は確かに幸せになった。

 執着が生まれ、弱みが増えて、情けなくなった。

 カッコつけることはできないし、格好だって悪くなった。

 調子に乗って異世界にだって来てしまった。

 それでも!

 僕は、幸せだ。

 急ぐことなく大人になれて、今まで生きてきて、これからも生きていける。

 生きて生きて生きて、そして。

 時を巻き戻して、かつての時を繰り返して。

 やがて僕は人殺しをするのかもしれない。

 ならば、僕はそれを止めよう。

 明日の僕を戒めて、未来であり過去の過ちを止めてみせよう。

 そして、元の世界に帰って、一つ息を吸って、はいて。

 

 大学のカフェテリア、できればオープンテラス席に行くのである。

 こんな青空の下、テラスから見える木々のせせらぎなんかを感じちゃったりしながらコーヒーでも一口ふくむのだ。

 それで、僕は自分の席の向こう側にいる最愛の彼女──戦場ヶ原ひたぎが『それで? 何があったの、暦?』なんて問うてくるのにげんなりしつつ、報告するのだ。

 本を読むように。あるいは、巻物を解くように。

 左から読んで、右から閉じて。

 それで、いつもの日常に戻っていく。

 

 その為に一歩。

 僕が為の二歩。

 照りつける日差しを駆けていく。

 

「──って、あれ?」

 

 気づけば浮かんでいた笑みと軽くなった足取りに身を任せていると、ゴマのような影が視界を横切る。

 目の前──いや、上? 

 

「きゃああああああああああああ!!」

「おいおいおいおいおいおい」

 

 ゴマほどの大きさだと思っていたソレはあっという間にその正体──重力に引かれた少女となっていた。

 空気抵抗に晒されたロングヘアが顔を隠してしまい、少女の顔は見えないが、どうやら制服を見るに僕と同学生のようだ。

 僕は思わず腕を差し出し、受け取る姿勢を取った。

 

「むんっ!!」

 

 本当にギリギリだったのか、腕を差し出してから文字通り間もなくして、ずしりと腕に大きな負荷がかかる。衝撃を和らげようと曲げた膝がミシミシと悲鳴をあげる。それは、普通の人間だったら関節が砕けてしまう程度には重かった。

 痛さのあまり、目尻に涙がたまる。

 と、それと同時に、頭にふとした光景、というか思い出が浮かぶ。

 

「……ご、ごめんなさい」

 

 女性徒は、腕をぎゅっと握られて謝罪する。

 しかし、僕の耳にその声が届くことはなかった。

 正確には、僕の耳に届いたものの、言語の形態として脳みそが処理することはなかった。

 それは痛みに耐えることに必死になっていた、ということではなく。

 その他の情報の波すらも処理しきれていなかったからだった。

 てか、いつのまにやら痛みを感じる余裕すらもなくなっていた。

 

「ごめんなさい。つい、足を滑らせてしまって。……ええと、言い訳じゃないけれど、私、普段からこんな感じというわけではないのよ。なんならむしろ、しっかり者のお姉さんとして名が通っているくらいよ。だから──」

 

 自分の痴態をアワアワと否定する女性徒。

 ボサボサになっていた彼女の髪は再び重力に引かれ、顔面を露わにしていく。

 

「──ゴホン。いやね、まさか屋上の隅にあんな物が置いてあるなんて、流石の私も気がつかなかったわ。ていうか、思いもしなかったわ。助けられた私がいうのもなんだけれど、あなたも気をつけた方がいいわよ。……捨てられたバナナには」

 

 その御顔は忘れるはずもない、どころか考えなかった時だってない。

 ……ああ、そうか。

 5月8日。

 一年前。それは僕が彼女に会った日。

 

「こんな格好でいうのもなんだけれど、今日付けであなたの監査役に着きました、【戦場ヶ原ひたぎ】と申します。以後、よろしく」

 

 抱え込まれた恥ずかしさからか、今まで見たこともないような照れ顔を見せてながらも、毅然とした態度で彼女はそう言ったのだった。

 

 巻き直すべき物語(まきもの)は一本でも、巻戻った巻物(ものがたり)はそうではないらしく。

 

 そんなわけで、物語は続く。読めど読めど、開けど開けど。

 ()()なく、果てしない。

 人生のように。




【あとがき】
長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。
これにて、【暦ドッペル】完結となります。

色々言いたいことはありますが、それは飲み込みまして。
まずは、次章の目処が立つまでこのssを【完結】にさせていただくことを、ご報告させていただきます。

以降は『TSしまりん日和』の更新をしていこうと思いますので、そちらの方もよろしければ検索してみてください。
ss本編の方はともかく、可愛い支援絵だけでも。是非。

最後に。
感想を書いてくださった方、評価をつけてくださった方、誤字報告を行ってくださった方、そして読んでくださった皆様に、重ね重ね、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

戴貳巻物語 第復話 ひたぎポイズン
001-B


 00?-B

 

 京都。

 碁盤の目を掻い潜ったような小さな〼目(ますめ)の奥の純和食料理専門店。

 中廊下、二階の奥の十畳間取り。採光のために取り付けられた付書院に肘をかけ、片手団扇をあおぐ男は口を開いた。

 

「首を洗って待ってたよ、阿良々木君。もっとも、君にとって現れたのは僕だということは分かってるし、真相を顕にするのが僕の役割ってことも判っているけれど」

 

どこか上機嫌に、けれど興味のなさそうな態度を崩さず言葉を零した。

 

「──いや、違うね。なんというか、こうじゃない。この場で言うべきことはそうじゃない。……そうそう、ここは『こう』言うべきだった。──やあ、阿良々木君。待ちくたびれたよ。何か良いことでもあったのかい?」

 

 団扇を置き、仰ぐように男は天井を顔を上げ、僕を見下す。その動作は僕を煽っているようでもあり、その場の空気を呷ってしまうような圧力を持っていた。見上げた根性というには余りにも様になっていた。茶化せない胡散臭さだった。

 無意識にたじろぐ僕は、けれど踏みとどまり、彼からニ畳離れた畳の真ん中に腰を下ろす。

 そして、意を決する。

 ……さてはて、物語の幕切れ、あるいは、巻物の捲り切れは、こうして始まるのであった。

 

 巻物語、第貮巻。

 それは、一巻の終わりの後の、一巻の終わりのような事件の追録だ。

 僕も誰も彼も、誰が為の事件だったのか。

 それを振り返るには京都より遥か東の都──東京都武装探偵高校に戻らなければならない。

 

 巻き戻した物語を再び開くような話。

 貳巻物語(ふたまきものがたり)

 気を付けろ。巻物はニ巻(にかん)目だが、二巻(ふたまき)あるのだ。

 

 

 002-B

 

 

「『不器用』ならぬ『武器不要』。戦場ヶ原ひたぎは情報科の美しきクールビューティホープで、ある種のカリスマ的存在だな。武偵ランクこそBだが、中学一年生の頃から変動してないってことも加味すると、あえてそのランクで止めてるってこともありえるな」

 

 後日談が今朝、それから数時間。昼下がりの学食。

 僕は遠山と顔を突き合わせて昼食をとっていた。

 というのも、僕はこの世界の戦場ヶ原ひたぎについて早急に情報を求めていたし、この遠山キンジ何某という男は、少ない日数の付き合いではあるが、妙なツテを多く持つことを知っていたから。日本有数の神社の本家巫女やら日本に在籍する数少ないSランクやらをはじめとして、少なくない実力者が慕っているのに自分では昼行灯だと自嘲しているのを僕は知っていたから。

 

 だから、戦場ヶ原ひたぎについて知るべく僕は遠山に学食を奢っていた。

 

 しかし、話は戻るが、知れば知るほど僕の彼女である『戦場ヶ原ひたぎ』とこの世界の『戦場ヶ原ひたぎ』は、性質を異にしているようだと分かる。

 クールでビューティなカリスマのホープと聞くと、まるで中学生の頃の彼女がそのまま高校生になったのようだけれど、果たして彼女の家庭環境は何事もないのだろうか。

 だとしたら、僕はとても嬉しいのだけれど。

 そして一転、これは残念なことなのだが、この世界の戦場ヶ原ひたぎは僕とは付き合っていないようだ。

 何度生まれ変わっても付き合う運命だと思い上がるつもりはないけれど、世界が滅んでも付き合っていたことを知っているために、普通にショックだった。

 僕はあからさまに肩を落としてキンジの前で項垂れる。

 

「ふうん。けれど、武器不要だなんて、彼女の周りは随分と平和なんだな。武器を振るうことがないくらいカリスマ性が突き抜けているってことなのか?」

「いや、よく考えてみてくれよ阿良々木。こんな学校にいて武器不要だなんて、そっちのほうがよっぽど平和じゃないだろ。俺はおっかなくて近づきたくないぜ」

 

 キンジは嫌そうに顔を顰め、両手をおどけて上げる。

 左手に持ったハンバーガーからレタスの破片がヒラヒラと机に溢れた。

 

「それにほら、今だって阿良々木のことをしっかり監視している」

 

 遠山は手を降る素振りでやや離れた席を指す。

 前髪に隠れた左目を動かせば、一際キレイに背筋を伸ばした戦場ヶ原ひたぎがジッとこちらを見つめていた。

 

「Eランクの武偵がよく気づくな」

「あんなハイドする気もない監視、武偵なら中学生だって気付くぜ?」

 

 素人と武偵の技量の差が激し過ぎないか? 

 全く、物騒な世界だ。

 中学生までドンパチやる世界だったとは。……まさか、小学生までも、なんてことは流石にないよな? 

 目の前のテリヤキバーガーのタレに反射する自分の歪んだ顔は、我ながら疲れているように見えた。

 

「それにしても、阿良々木。お前、情報科に目をつけられるなんて何したんだ?」

「……何するんだろうなぁ、ホントに」

「はあ? なんだそりゃ」

 

 遠山は訝しげにこちらを見る。

 

「いや、監視される理由に心当たりはあるんだけれど、戦場ヶ原が監視する理由には心当たりはないってだけだ。普通に考えるなら戦場ヶ原が監視依頼を受けたって線だけど──ああ、どんなに記憶を遡っても、依頼主を推測すると彼女に依頼した理由が嫌がらせ以外に思い当たらない」

「嫌がらせ……? 何だ、阿良々木は『武器不要』と知り合いなのか?」

「いや、知り合いじゃない。知り合いじゃないからこそ嫌がらせなんだよ」

「躱すような物言いだな」

「この場合、躱されているのは僕の方だよ」

 

 本当に、薬みたいな毒のような人だ。

 神原に言われるだけのことはある。

 

「良く分かんねえけど、情報科から監視されてるってことは情報科からバックを探れないってとだから、まあ、これ以上の情報を求めるなら理子行きだな。良かったら紹介するぜ」

「理子って言うと……あの、金髪ロングか」

「まあ、安くは済まないが、阿良々木からの依頼なら金さえあれば働いてくれるだろ。割と気に入られてるしな、お前」

「……遠山ほどじゃないよ」

「はあ? 何言ってんだ?」

 

 呆れたように肩をすくませる遠山に肩をすくませ、お互いに笑いをこぼした。

 ……なんかいいな、こういう男の友情みたいの。僕、男友達マジで少ないから、普通に滅茶苦茶楽しいわ。

 実年齢だと相手は何個も下の後輩もいいとこだけど。

 年甲斐も大人気もなくワクワクソワソワする。

 

「それじゃあ、理子に連絡取っておくから後はそっちでやってくれよ」

「分かった。ありがとう」

「俺は何もしてねえよ。Eランク並みのことしかな」

「──分かったよ」

 

 食事を済ませた遠山を見送り、僕は付け合せのポテトに手を付けた。

 

「──阿良々木さん」

 

 そして、数秒と経たず、目の前には女生徒──戦場ヶ原ひたぎ──が着席する。片手には某喫茶チェーン店のコーヒーをテイクアウトした時に使用される紙コップが握られている。

 

「なんだ?」

 

 ツンドラ系女子。とかつての彼女は言っていたか。

 出会った頃そっくりの姿と表情に思わず心が綻ぶ。

 

「……上半身から首筋までの筋繊維と目尻に若干の弛緩が見られました。肺呼吸もコンマ秒緩やかになり吸気より呼気が長くなっています。……なぜ、親愛と安堵の態勢を?」

 

 あんまりな分析に綻んだはずの心臓がキュッと竦む。

 怖いよ、この世界の戦場ヶ原。

 ロボットかよ。

 

「……戦場ヶ原さん?」

「戦場ヶ原で結構です。敬称は不要……同級(タメ)、ですから」

「──それなら、こっちにも敬語は不要だ。むず痒くてしょうがない」

「分かりました──いえ、分かったわ。阿良々木くん。……これでいいかしら?」

 

 おお! 口調が鋭い! 

 やっぱ戦場ヶ原ひたぎはこうでなくっちゃ! 

 僕はもとの世界と同じ口調に高揚し、今となっては聞くことのない名字呼びに若干の興奮を覚えていた。

 名前呼びは名前呼びで親しみを感じるけれど、名字呼びは一周回ってエロスを感じてしまうのは僕だけだろうか。

 

「体温と口角と目尻が上昇して、キモいわ、阿良々木くん」

「結論が感情論っ」

「自分を棚上げしてツッコまないで頂戴、虫唾が走るわ」

「ごめんなさいっ」

 

 あれ、中学時代のまま成長したにしては精神性が擦れてないか、この世界の戦場ヶ原ひたぎさん。

 武偵という世界の荒波み揉まれたからか?

 

「それでね、阿良々木くん。貴方の監視依頼を受けた理由を話しに来たのだけれど、時間いいかしら?」

「……え、聞いていいのか?」

「どうせ、峰理子辺りに探らせる予定だったのでしょう? 他人に腹を探られる位なら切腹するわ」

「痛くない腹なのか?」

「痛いし、もっと痛くなるわ」

「──なら別に、僕は探るのを止めてもいいよ。お世辞にも真っ白いとは言えないけれど、別に切羽詰まってるってほどでもないんだ。……戦場ヶ原に苦痛を与えてまで暴きたいことなんて、僕にはない」

「……そう。かっこいいこと言うのね。まるで彼氏みたいだわ」

「か、か、か、か、彼氏がおられるんですか!?!?」

 

 ここ一番の声量が出てしまった。

 縮み上がり過ぎた心臓も飛び出ると思った。

 うるさそうに顔をしかめた戦場ヶ原は『物の喩えよ』と言った。

 きっと、顔をしかめたのは僕の声量に驚いた訳ではなく、『彼氏がいない』と語るのと『彼氏がいる』と騙るのの、どちらかがプライドを損なうのか判断した結果なのだろう。

 

 その証左に、戦場ヶ原は苛立たしそうに右頬に人差し指を当てた。その指の隙間から見えたのは僕の世界の彼女にはなかったタコ。ケアされた白磁からやや浮いた硬さを感じる厚みだった。

 言いようのない感情が沸き起こるのを押さえるようにハンバーガーを人齧りし、咀嚼、嚥下する。

 幾ばくかの沈黙を経て彼女はそっと指を話した。

 

「ま、良いでしょう」

「……何がだ?」

「合格です、阿良々木くん」

「──どうも?」

 

 首を傾げる僕の鼻先に、戦場ヶ原はピッと人差し指を立てる。そして、僕と同方向に子首を傾げた。

 

「話します──白状します。だから」

 

 戦場ヶ原ひたぎは無表情だった。

 しかし、目は潤んでいた。

 

「だから……依頼を受けて欲しいの。私の【怪異】について」

 

 受けたらどうなの、とも、受けなさい、でもなく。

 受けて欲しい。

 甘えるほど親しくもなく、命令できるほど愛されない立ち位置は、僕と彼女の間の机の距離感に似ていた。

 そして、そっと口を開いた。

 

「──毒を盛られたの」

 

 唇を離した際に微かに鳴ったリップ音が、僕の耳朶を強烈に打っていった。まるで、口火を切った音のようだった。







久しぶり、お元気でしたか?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

001-A

 001-A

 

「どうも。

「と、改めて前置くというのは、少々馴れ馴れしいのかしら? けれど、私、ツンツン気を張りすぎるには不幸ではないし、そもそも相談って畏まってするものではないはずよね。『親しき中にも礼儀あり』っていうなら『親しくないからこそ礼儀を忘れるべき』ことってあるでしょう? ……そうね、だから、奇を衒わず言ってみようかしら。

 

「──戦場ヶ原ひたぎ、17歳です。武装探偵を目指しています。とういうのも、ほら、私ってば、ファザコンだから。

「私のお父さん、武装探偵なのよね。だから、ゆくゆくはお父さんのお手伝いがしたいっていうか──ま、女子の武偵生にはそこそこよくある話ね。阿良々木くんが聞いたことあるかは──まあ、聞かないほうが良さそうだから、聞かないでおいてあげるわ。

「……ともかく、私は上手くやっていた方だという自信があるのよ。

「平均卒業率が100%を切ってしまう異常な高校の中で、比較的、皆でお手手をつないで卒業できる情報科に所属して、異常過ぎず優秀なBランクの評価を受ける。交友は浅過ぎず狭過ぎず、深過ぎず広過ぎない、そこそこ私の手の届く範囲で築いていたし、友達はみんな私のことを少なからず好意的に見ていてくれている。人間関係に気を割いてストレスフルになることもなく、気さくで野暮ったい人間関係もない。

「能動的孤独でも精神的マッチョ論者でもない。

「なんでもない、けれど人知れず、人並み以上な人生を歩んでいた──はずだったのよ。

 

「あの──【蟹】と出遭うまでは。

 

「……まあ、そういえば、蟹って一言に行ってしまったけれど、その一言のことを阿良々木君は知っているかしら。あの、生で良し焼いて良し茹でても良し炊いたなら尚良しって感じの甲殻類なのだけれど。私、食べ物といては蟹って生き物は好きなのだけれど、生物としては食べにくいから嫌いなのよね。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いみたいに、素直に直進しない小生意気な生き様も専用のカラトリーが用意されてしまうような困っしゃくれた死に様もなんだか、嫌になってしまう位、嫌いなの

「だからね今となって思うのだけれど、私がそんな自分の生き様にに使わない非中庸的感情を高々、矮小な一生物に向けてしまったから、きっと出遭ってしまった思うのよね。あの蟹に、あの、怪異に──。

 

「怪異の専門家であるあなたには、分かったような口をきくなって言われてしまうかしら。けど、許してほしいわ、悟り世代だから、なんて。

「……悟りついでに言ってしまうけれど、おかしい、なんてこと、私がよく分かっているのよ。『──あれ、そもそも私、そんなに蟹のこと嫌いだったかしら?』なんて振り返りは散々したけれど、しょうがないのよ。気付いた時にはあんまりにも偏見は築かれていて、傷つけられていたのだから。

 

「そう、傷が、付いていたの。だから……。いえ。

 

「──前置きが長くなってしまったわね。常々回りくどい言い回しと展開を唾棄してきたのだけれど、いざ自分の身に不幸が起きてしまうと自分可愛さに冗長になってしまうのは新しい発見だわ、反省反省。戦場ヶ原ひたぎが、戦場ヶ原浸りになってしまっていたわ。

「……けどね、どうか阿良々木君には分かってほしいのよ? この婉曲が私を辛うじて人語を解せる程度の冷静さを保たせているってことにね。例えるなら、私のこの慇懃無礼な語り部な有様は、拷問時に数を数えているようなものってことなの。幾分か回りくどい言い回しも、嘘偽りなく、本心を曝け出しているってだけなの……。

「──あら、そう? ありがとう。彼氏みたいに優しい言葉をくれるじゃない。

「……折角だし、もうちょっと甘えてみようかしら。きっと、私の相談事を聞いてくれた後に、今の私の我慢強さと理性を分かってもらえるって信じて、本題に入らせてもらうとしようかしら。

 

「ええと……何から話せば良いのかしら。正直な話、何にもかも分からないから、何にも理解していなくてなんとも言えないのだけれど、気付いたのは身体検査の翌日だったわ。私は都合があってバスジャックの起きたあの日に一年生と混じって身体検査を受けたの。

「──詳細に? 解決に必要? ……そうね、阿良々木君が女子の体型と数値の関連性にメンヘルな理想を持っているなら即刻改めてもらうけれど、本来の私の身長は165cm、体重が55kgよ。世の女性が羨むナイスバディな数値ってことなの。ある程度の衣服を着用しての数値だったし、女子的な嗜みからその昨晩に測っていた時もそうだったから間違いはないわ。だから、私はその時も特に何を思うこともなく、少し体重計を軋ませつつ、右足……左足、と全身をはかりに掛けたわ。

「そして、左右に振れながら収束した針が差し示したのは──5kg、なんて非常識なことはなく──、

 

「端的に言いましょう──57.00kgだったわ。

 

「言い訳ではないけれど、身体測定は昼食後だったから、賞味1~2キログラムの体重さなんてその時は気にしなかったわ。けれど、体重を気にするほど私は乙女じゃないけれど、なんとなく57.00という数値が気にくわなかったから、私は家に帰ってもう一度体重を測ることにしたの。57.00でなかったらなんでもよかったわ。それより多くとも、少なくとも、ね。

「あ、そうそう、話が前後するけれど、その日は、情報科の先輩から譲ってもらった依頼を行っていたわ。古典をベースにした暗号の解析。強襲科の阿良々木君には門外漢でしょうから詳細は省くけれど、結局、とある能の動作と組み合わせて解くタイプの物だったわね。ちなみにその戯曲は能にしては派手な演出が入っていたりもして、思わず楽しんでしまったわ。

「それで結局、家に着いたのは午後10時頃かしら。身体測定から何も食べていなかったせいでお腹は空いていたけれど、それ以上に頭脳労働で疲れてしまっていた私は、這う這うの体でシャワーを浴びるなり迂闊にもドライヤーをすることもなく寝てしまったわ。

「起きれば朝。まあ、頭はボサボサだし、お腹は空いているしであまり良くはないコンディションだったけれど私は体を起こしたの。

 

「……そう、気付いたのはこの時よ

 

「この時私は蟹について考えることもなく寝ぼけ眼でこう思ったのよ。『──ああ、今なら体重計は57kgを指し示すはずがない』と。当然よね、消費行動こそすれ何も取り込んでいないのだから。武偵とはいえ、あの時ばかりは中学時代の気持ちを思い出して低体重を望んでいたかも──っていうもは明け透け過ぎ、かしら? 

「それで、測り、に……体重をは、か──ッ」

 

 と、ここで、戦場ヶ原は言葉を止めた。

 ここまでの話で突っ込みたい所はたくさんあったが、僕は何も言わなかった。

 というのも、数時間、僕は忍から吸血行為を行われており、最も吸血鬼に近い状態だったし、そのせいで、今戦場ヶ原がどんな怪異に遭ってしまっていたのかが、あらかた見当ついていた、ついてしまったのだから。

 だから、僕は静かに促す。

 動揺しないように、動揺がばれていませんように。

 

「……ごめんなさい。計ったの。そしたら……」

「……そしたら? そしたら、どうしたんだ?」

「そしたら──私の、お腹が……」

 

 そう言って、さめざめと彼女は泣き出した。お話をお聞きの諸君には、彼女が急に泣き出したように感じたのかもしれないが、そんなことはない。話し始めた当初より彼女は泣いていた。ただ、涙を流していなかっただけに過ぎない。

 彼女は確かに、悲鳴を上げ続けていた。

 だから僕はもう、彼女に話を促そうとはしなかった。

 いわんや、あの忍野でも聞き出すまい。悪趣味だ。

 僕の吸血鬼もどきの目ん玉は実のところ、彼女の話が始まる前から一点に釘付けだった。

 一点、というか、八点。点、というか目。

 ──そう、僕の目にはずっと彼女の腹に刺さる八つの目と、その奥で蠢く怪異の姿が映っていたのだった。

 

 戦場ヶ原ひたぎのその細い腰の上。

 本来、引き締まった腹筋が見えるはずのそこには、ボコボコと蠢くまん丸い腹があった。

 ボコボコと、コポコポと赤子が腹を蹴っているとは思えない活発さのその奥に見える8つの目。

 泣きながら孕んだ素肌を見せようとする彼女を止め、僕は表情を隠した。

 腹の底から腹が煮えくり返るような激情を辺りに八つ当たらなかったのは、ただひたすらに、僕の成長の証左に他ならなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。