森のピアノと (さがせんせい)
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ピアニスト来訪

 せわしなく動く人の群れの中を歩くのは、やっぱり得意じゃない。

 これが森のみんな――蛇やねずみ、鳥たちだったなら、どれだけ簡単に歩けただろう。

 せっかく時間が取れたというのに、俺――一ノ瀬カイの先生は、

「昔からの友人から話が来ていてね。息子の教えている吹奏楽部に来てみないか? って誘われてね。せっかくの機会だ。ピアノだけじゃなく、他の音と奏でられる音色の勉強をしてきなさい」

 だもんなぁ。

 もちろん、興味がないわけではない。条件次第では、ピアノと合わせてもらえるかも、とも言われている。

 俺と同じ、学生に混じっての演奏。

 まだ16歳の俺だけど、なんていうか、学生に混じっての演奏って不思議な気分だ。

「そっか……俺、年の近い人たちと演奏するのって、初めてなんだ」

 ここのところ、ずっと先生と二人でピアノを弾いてきた。いや、弾いていたのは俺一人だけど。

 でも、これから少しの間は、誰かと一緒に弾けるかもしれないんだ。

「ピアノ、早く弾きたいな」

 とは言っても、とりあえずのところは聞いているだけなんだろうと予想がつく。

「いつもみたいに、オケと合わせていきなり弾いてみよう、なんてことにはならないだろうし……あー、弾きたい! ピアノが弾きたい!」

 この辺は先生の知り合いもいないし、好き勝手にピアノを弾ける環境はないと聞かされている。

 唯一、いま向かっている高校だけが、ピアノを弾ける場所なのではないだろうか?

 つまり……。

「演奏に参加できない限りは、弾けないってこと?」

 先生、これはなんの罰なのだろう……それはないな。

 俺のために必死になって居場所を勝ち取ってくれた――いいや。いまも必死で勝ち取り続けている先生が、俺のためにならないことをするはずがない。

「やっぱり、学べることがあるんだよな」

 時間があるわけではない。俺と先生の目標のためにも、時間は惜しい。学べることは全部学んでおくべきだ。でも、まるでないわけでもない。阿字野先生が行けって言ったんだから、無駄な時間になるわけがない。

 だとしたら、きっと俺は、もっとうまくなれる!

 まあ、とりあえずは――。

「時間もあるし、どこかで昼食にでもするか」

 ちょうど、ピアノの音が聞こえて来る。うん、あのお店でいいかな。

 ためらうことなく、俺は店のドアを開いた。

 

 

 

 人混みを抜け、少し歩いてみれば、目当ての高校が見えてきた。

「ひゃー、思ったより遠かったな」

 ただ歩いてきたわけじゃなく、早足で来てこれだ。

 時間を確認すれば、約束していた時間に迫りつつあった。初日から遅刻ってのはあまりに格好つかないぞ!

 店のピアノで遊びすぎたか!?

「こんなんじゃ阿字野にどやされる!」

 早歩きだったのを、慌てて走りに変更する。そうでなければ、遅刻するのが確定するからだ。

 走る中、視界の端に、森のような場所を見つけた。

 深く、昔よくいた森に似た場所。

「こんな日じゃなければ、寄っていけるのに!」

 絶対に今度来よう。今日は――たぶん無理だけど。次は必ず寄っていくからな!

 誰にでもなく、そう伝えておく。

 小さい頃からの習慣のように、流れるように言葉が出て行く。

「って、やばい!」

 高校を目の前にして、時間はもう、聞いていた通りなら、最後の授業を終えただろう。このままだと、すぐに部活が始まってしまう。

 無情にも、授業終了の鐘が鳴り終えた頃。

 やっとの思いで駆けてきた俺は、北宇治高校と取り付けられたプレートを確認しつつ、多少の緊張感を持ちながら正門を抜けた。

 さて、とりあえず音楽室を探そうか。

「こんなことなら、阿字野から地図を貰ってくるんだった……」

 だいじょうぶ、なんとかなるよ。

 そんなことを言っていた自分を殴りたくなる。

 どう考えても、初めてくる土地だ。わかるわけがない。一体、なにを思っていたんだか。

「あとでなにか言われないよう、今日覚えて帰ればいいよな、きっと」

 とりあえず、帰る生徒に聞けばいいのだろうか? ああ、でも俺、今日私服で来てるから、そもそも怪しまれてるかも。

 楽器の音が聞こえ始めればわかるものなのかな。それまで待ってたら遅刻確定。

「下手に職員室に行くのも問題だよな。一応、顧問の先生なら話しているはずだけど、普通は職員室なんて行かずに音楽室に行くものだろうし」

 よし、校内回るか。

 通っている高校――といっても、ピアノの練習やバイトで休みがちだけど――と同じであれば、校舎内を回っていれば、いずれ音楽室も見つかるだろう。

 校舎が多いと大変なんだよなぁ。

 とりあえず、あっちから探そう。

 と思った矢先、楽器……だろうか? それらしきもののケースを持つ女の子が歩いていくのが見えた。

「話しかけるべきか、追うべきか」

 ここで見失う選択肢はあってはならない。

 よし、話しかけるか。

「あの、すいません!」

「…………」

 手を挙げながら駆け寄ってみると、ビクリと肩を震わせながら、女の子が振り向く。

「えっと……音楽室に行きたいんだけど、場所がわからなくて。どこか教えてもらえないかなって」

 青みがかった長髪に、ピンク色の瞳。

 なにを考えているのか読み取りづらい、無表情の顔。けれど、その印象と相まって、綺麗という言葉が似合いそうだ。少なくとも、俺の知っている女の子の中では、一番似合う。

「音楽室なら、こっち」

 外部の人間だというのに、特に警戒することなく歩き出す女の子。

 助かった……普通に案内してくれるっぽい。

「えっと、きみは吹奏楽部の人?」

「……」

 道中、話しかけてみるが反応はない。

 静かげな印象があったが、本当にそのものかもしれない。

 雨宮もたまに集中してて反応しないことはあったけど、それとは別物だな。

 友人のことを思い出しながら、前を歩く女の子を眺める。

「それ、なんて楽器が入ってるの?」

「……」

 もう一度話しけるが、やはり反応なし。これは手強いぞ。

 森の蛇が威嚇してこないように付き合うのより手強い。あいつらは怒れば怒ったで威嚇してくるし、噛み付いてもくるから。

「……オーボエ」

 なんて思っていると、小さな声が耳に届く。

「オーボエ?」

「そう、オーボエ」

 聞き返してみれば、今度は反応があった。

「聞いたことあるよ。ジャ――知り合いの人から、オケの話を聞かされてさ」

 気軽に出してはいけない名を言ってしまいそうになるのを誤魔化しながら、女の子との会話を続ける。

 もちろん、そこまで口数の多いわけではないのだが、なんだかんだ、話してみれば会話になるものだ。

「あそこ」

 指の向けられた方向は、廊下突き当たりの教室。

 どうやら、そこが音楽室らしい。

「うん、ありがとう。おかげで遅刻しないで済みそうだよ」

「遅刻?」

「そう、遅刻。今日からしばらく見学っていうか、演奏? う〜ん……とりあえず、お邪魔させてもらうんだけど、初日から迷って遅刻ってのは格好つかないだろ?」

 第一、阿字野先生が怒る未来がよく見える。

「昨日言ってた人、だったんだ」

「え? なに?」

 女の子の言葉がよく聞こえず、聞き返しても、今度は返事がなかった。

 代わりに、教室に入る前にこちらを振り返る。

「滝先生が、隣の準備室で待ってると思う」

 それだけ言い残し、彼女は教室へと入っていった。

「……準備室って、こっちか」

 どうにも、一人で入るのは慣れないというか、若干不安だ。だいたい、阿字野がノックしてくれてたからかな。

「仕方ない。いざ、行きますか」

 扉を二回ノック、っと。

『はい、どなたですか?』

「すいません、阿字野先生からの紹介で来ました、一ノ瀬カイです」

 部屋の中から聞こえて来る声に答えると、ゆっくりと扉が開く。

 中から顔を覗かせたのは、優しげな印象の、メガネをかけた男性だった。知的というか、育ちの良さそうな人だが、第一印象はと聞かれれば、顔のいい、優しそうな人、だろうか?

「ああ、キミが一ノ瀬くんですね。初めまして、滝昇です。今回は父の件もあったみたいですが、どうかよろしくお願いします」

「いえ。こちらこそ、いい経験ができそうで嬉しいです。多くの楽器が奏でる音には、僕も興味がありますから」

「いい機会になればいいんですが。いま、吹奏楽部は夏の大会に向けて練習を始めています。ですが、音のまとまりは正直、よくありません。そういった、マイナス面も含めて、よく勉強してください。一応、そちらの事情もわかっているつもりです」

 そっか。阿字野は俺たちのことも話しているのか。

 なんとなく、いまのやりとりでそれがわかった。

「ありがとうございます。それで、僕はなにをすれば?」

「まずは、みなさんに一ノ瀬くんの紹介をしましょう。そのあとは、各パート、もしくは気になるパートの練習を覗いてみてください。合奏のときは、思ったままの感想なんかも聞きたいところですね。ああ、それと」

 忘れてはいませんよ、と言いたいばかりに手を振り、こちらに差し出す。

「何度かピアノを弾いてもらう機会もあると思います。そのときはどうか、よろしくお願いしますね」

「はい!」

 こちらに差し出された手を、俺は迷うことなく握った。

 よかった、ピアノが弾ける!

「嬉しそうですね」

「あっ……すいません、ピアノが弾けると思ったら、つい」

「阿字野先生の話してくれた通りの子みたいですね、一ノ瀬くんは。でも、まずはみなさんの音に耳を傾けてみてください」

 ひとます準備室に入れてもらい、今後の話を進めていく。

 俺が来るのは、夏の大会が終わるまで。

 なんでも、今年は全国まで行くというのが目標らしく、この学校の吹奏楽部は、本気で取り組んでいるらしい。

 ちなみに、滝先生は隣の音楽室に今日の部活動の話をしに行ってしまった。ついでに、前日に話していたらしい、俺のことも話すと言っていた。

「コンクールか……」

 始めて出たときは、酷かったなぁ。

 でも、もうそうも言ってられないか。1年後には、俺もその舞台に立つんだ。もう少し待っててくれよ、ショパン。

 心の中で、また会うことを誓いつつ、滝先生の話が終わるのを待つ。

「一ノ瀬くん、話が終わりましたので、どうぞ中に入ってきてください」

 しばらくすると、準備室のドアが開き、滝先生が中に入ってくる。

「わかりました」

「はい。では、行きましょうか」

 手を軽く掲げ、向こう側へと振る滝先生。

 まるで、本番さながらのような言動に、思わず笑みが漏れる。

 本来、音楽室と準備室は繋がっているのだが、せっかくだから、ということで、一度廊下に出て、音楽室のドアから入ることになった。

「いやぁ。入る前に、ひとつ謝っておきますね」

 入室直前、軽い声音で話しかけられた。

「なにをですか?」

「それが、みなさんから今日から来る人はどんな人なんですか? と聞かれて、少々ハードルを上げてしまいました」

 笑顔で語られるそれは、思いもよらないものだった。

「初日からハードルを上げないでくださいよ……まあ、問題事とかは慣れてるので大丈夫ですけど」

「それはよかった。なら、みなさんの相手も頼んでいいですか?」

「音楽のことも聞いてみたいし、やってみます」

 その会話を最後に、音楽室のドアが開かれる。

「では、一ノ瀬カイくん。ようこそ、北宇治高校、吹奏楽部に」

 言われながら、一歩、音楽室に足を踏み入れる。

 すると、すぐに中の様子が視界に入ってきた。

 50人以上はいるな……俺が入ってきたせいか、みんな何事かをしきりに話している。あ、さっき案内してくれたオーボエの子もいるぞ。

「えー、みなさん。彼が、今日からコンクールが終わるまでの間に度々来てくれることになる、一ノ瀬カイくんになります。色々事情はありますが、彼はみなさんと同じ高校生で、現在は高校2年生です。これから数ヶ月間、多くの機会に関わると思いますが、たくさんのことを、彼から学び、また、教えてあげてください」

『はい!』

 教室中から、多くの感情を持った声が響く。

「では、一ノ瀬くん。自己紹介を」

「えっと、一ノ瀬カイです。諸々の事情で、しばらく滞在させてもらいます。みなさんから、色々なことを学べれば嬉しいです。まずは夏まで、よろしくお願いします」

 あいさつを済ませると、あちこちから、よろしくと声をかけられた。

 同時に、最前列にいる人たちの会話が聞こえてくるが、内容は、俺が男なのか女なのか、といった感じのものだ。滝先生が俺のことは「彼」と呼んでいることから察してほしいものだけど。

「一ノ瀬くんは、幼い頃からピアノを弾いていて、今回もピアノ関係の件でうちに来ることになっていました。コンクールまで、みなさんのパートを回り、また、合奏を聞いてもらい、感想も貰います。度々一緒に演奏をすることもあると思いますが、それまで楽しみにしていてください」

「先生! 一ノ瀬くんはどのパートから回るんですか?」

「決まってないなら、トロンボーンからどうでしょうか!」

 話がひと段落したのか、今度は質問の嵐だ。

「一ノ瀬くんは、なぜうちの吹奏楽部に来たんですか!?」

「もしかして有名な方だったり?」

 これは、ぜんぶ答えていかないと終わらない流れかな、なんて思ったのも束の間。

「みなさん、質問は一ノ瀬くんの都合のいいときに。あなたたちは全国を目指しているんですから、あまり遊んでばかりもいられませんよ。最初は低音パートから回していこうかと考えていたのですが、田中さん、よろしいですね?」

「はい、任せてください」

 メガネをかけた、黒髪の女の人に滝先生が話を振ると、まるで問題なさそうに快諾してくれた。

「では、一ノ瀬くんは彼女たちのところへ。今日のところは、低音パートの練習を見学してみてください」

「はい」

 どうやら質問タイムの空気ではなくなったようで、名残惜しそうではあるが、みんなが練習のために教室を出て行く。

 譜面台と楽器を持って教室を出ることから、パートごとに分かれて飽き教室などで練習するようだ。もっとも、俺はそんなことも教わらないと知らなかったわけだけど。

「よっし、じゃあ一ノ瀬くん、だっけ? キミはこっちだよー」

 銀色の楽器を持った人が、俺を連れて行こうと誘導を開始する。

 その後ろには、さらに6人ほどの生徒が続き、どこかもわからない飽き教室へと連行された。

「さて、ひとまず各楽器について説明しちゃいたいところだけど、まずは自己紹介からにしておくか。私は低音パートのパートリーダーにして、副部長の3年生、田中あすかだよん。気軽にあすか先輩って呼んでくれていいからね」

「はあ……」

 どうしよう。あまり先輩ってものと縁がなかったせいか、どうにも呼びづらい。むしろあすかさんって方がしっくり来るぐらいだ。

「あれー? 反応が微妙だなぁ。他校の生徒を先輩って呼ぶのは嫌だった?」

「あ、いえ。元から高校では先輩との付き合いもないですから。ただ、そもそも先輩って呼ぶのが慣れてないだけで。さん付けとかでもいいですか?」

「う〜ん……まあ、一ノ瀬くんは外部の人でもあるからね。それでもいっか」

 思ったより、簡単に了承をもらえた。

 副部長なだけあって、話せばわかってもらえる人なのかもしれない。部活っていうのは、正直よくわからないけれど。

「じゃあ、どんどん自己紹介していこっか」

 あすかさんの進行により、スムーズに話が進んで行く。

 とりあえずは、初日。

 ここでなにが学べるのか、それを探っていこう。

 



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低音パート

1年半くらいぶりの更新でしょうか?
よもや2話目の投稿があるとは誰も思っていなかった。
けれど帰ってきましたとも。
ピアノの森はアニメが放送され、ユーフォは映画化。これは、書くしかないと。
作者の最押しは奏ちゃんなんですけどね。というか、ユーフォパートの4人が大好きなんですけどね。
さて、彼女たちの絡む話でひとつ話を書くのも楽しそうですが、まずはこのクロスオーバー、2話目をどうぞ。


 お互いの自己紹介も終え、とりあえずのところ談笑に移った俺たち。

 低音パートの人たちはみんな接しやすく、あすかさんを筆頭に話が弾んでいく。

 練習時間というより、俺の紹介や馴染むための時間なせいか、教室にいる皆が楽器を持たず、話に集中していた。そのぶん、残りの時間の練習は濃くするって、あすかさんは最初に言っていたけれど。

「ほほう、つまり一ノ瀬くんはほんとに小さい頃からピアノを弾いて過ごしてきたわけだ」

「はい。それはもう、当時は森のピアノそのものが遊び場だったんですよ。あのピアノがあったから、いまこうしていられるってのもありますけどね」

 いまは俺がピアノを弾くに至った経緯を説明している最中であり、ところどころでみんなからの質問も受けているところだったりする。

 俺の出生や住んでいた場所だけは言うことができないのではぐらかしたけど、どうやらそこに関しての興味はないようで助かった。先生からも注意しろって言われていたからな。

「にしてもピアノが遊び場ってのも不思議な話だよねー」

「おとぎ話みたいで素敵じゃないですか」

 あすかさんの言葉に反応を示したのは、今年高校生になったばかりの川島緑輝。緑輝でサファイアと読むらしいけど、本人はあまりよく思っていないらしく、「みどり」と名乗っているとか。

 楽器はコントラバス担当で、中学校でも演奏してきたと話していたっけ。

「おとぎ話か」

「夢があっていいねぇ」

 大柄の、メガネをかけた男子と、ぽわぽわした雰囲気の女子が二人で話しているのが目に留まる。

 二人はチューバ担当で、男子の方が後藤卓也。女子が長瀬梨子。卓也は真面目そうで、口数は多くなさそうだけど、しっかり聞いているようなタイプで、梨子は雰囲気の通りなのかな。前に誰かが癒し系って言葉を使っていたけど、それが当てはまりそうだ。

「そうか?」

「そうだよ。だって、本当に夢見たいなお話だったから」

 自己紹介もそこそこに二人の世界に入りつつあるな。よし、あのままにしておこう。

「ちょいちょーい。二人だけの世界に入り浸るのはいいけど、二人だけのときにしてよねー」

 あすかさんが突っ込むとすぐに独特の世界から帰ってきたみたいだけど、梨子の方は顔を赤くさせると慌てた様子で手を振っていた。

「うわぁ……モロバレ」

 何事かを知っている様子でつぶやいて、すぐさま口を手で塞いだのは黄前久美子。

 今年入ったばかりの1年生らしい。緑輝と同じだな。

「モロバレ?」

「あっ、いや! なんでも! なんでもないです!」

 聞き返してみると、慌てた様子で手を前に突き出して振る動作を繰り返す。

 第一印象は、どこか冷めたような、落ち着いた雰囲気が見られたが、接っしてみると、中々どうして。少しだけ印象が更新された。

「そういえば、一ノ瀬先輩って、北宇治に転校してきたんですか?」

 なんて考えていれば、活発な印象の女の子が、元気良く手を上げてから質問を口にする。

「あ、それみどりも思ってました! どうなんでしょうか?」

 一人、また一人と視線が突き刺さる。

「あー……転校じゃないよ。しばらくこっちにはいるし、ほぼ毎日北宇治の吹奏楽部には来るけど、高校は変わらない、かな」

「え? じゃあ、毎日学校終わってからこっちに来るんですか? うひゃー、大変そう……」

「うーん、それも違うというか……なんだろう、学校行ってる場合じゃない、みたいな?」

 応えると、俺とあすかさんを除く全員から訝しげな顔をされた。

 元々、高校にだって毎日通っていたわけじゃない。

「誰かにノートを取っておいてもらうのなんてしょっちゅうでさ、進学校だから勉強だけはなんとかしてるけど、そう通っているわけじゃないんだよね。だから、こっちにいる間も何度かは戻って授業受けて、で、残りはこっちで皆と演奏って感じ」

 これが俺と先生の予定。

 でも、テストも落とせないからなんとかするしかない。

「ほぼ毎日なんて言ってるけど、実際はそう毎日来れるわけじゃないよ」

 ここまで話しても、やっぱり表情は変わらない。

 別に、理解が欲しいわけじゃない。一般的に言うのなら、多分理解されない話だから。

 俺と先生の――より詳しく言うのなら、先生の目的には多分、俺の高校卒業がどうとかは含まれていない。今は日本にいるから、高校に通っているってだけの話だと思う。

「必要なのは、そこじゃないんだよな」

「ほほう? どういうことかな?」

 隣で、小さな声が響く。

 独り言に目ざとく食いついてくるあすかさんの目には、興味と、わかりづらいけどどこか冷めた感情が入り混じっているように見えた。

「先生との約束、ですかね。それを果たすために、俺はいるんだと思います」

 もっとも、先生が本当に目指しているのは、その遥か先なんだろうけど。

 この日本で俺が活動するには、足枷が多すぎる。だからきっと、阿字野は俺を海外に出したいんだ。それに今回の遠出は、ショパンコンクールに向けての……。

「約束ねぇ。ふーん、そっか」

 一人で納得されてしまった。

 俺の周りにはいなかったタイプの人だな、この人。

 野生の動物たちの鋭さとも、臆病さとも違う。

 目標に燃えるような人柄でも、冷めきっているようにも見えなくて。枯れているわけじゃない。

 阿字野とも、ジャンとも違う。もちろん、レイちゃんとも。出会ってきた人たちの中に、あすかさんと重なる人なんていない。

「そういえば、進学校って言ってたけど、一ノ瀬くんはもしかして、勉強できる人なのかな?」

 あすかさんとの会話は聞こえていなかったのか、梨子が聞いてくる。これ以上の追求はなさそうだし、梨子の質問に応えても問題なさそうだな。

「んーできると言うか、できるようになるまで勉強してきたって言うか。赤点とか取れないし、成績は保てるように学んでるよ」

「秀才!」

「うわぁ……」

 1年生の子たちから各々の声が漏れる。

「あの、コンクールの出場経験はどうなんですか? 今回はピアノ関係のために来ているんですよね? あ、それともオケなんですか?」

「どっちもだよ。コンクールは――小学生のときに1度と、つい最近の2回だけかな。小学生のときはてんでダメ。前回のは……いい経験だった、かな?」

 小学生のときのはともかく、前回のは調べれば出てくるだろうな。

 俺のことを熱心に調べるかは別として、ネット検索でもすれば、ヒットする可能性は高い。とはいえ、出てくるのはソリスト賞を取ったってことだけど。

 あのときは1位に該当者がなくて、初めてソリスト賞に選ばれて、最初は焦ってたっけなぁ。

「JAPANソリスト・コンクール、だったかな」

「ん? それって確か……」

 あすかさんが顎に手をやって、なにかを思い出そうとしている。

 この人、音楽的知識もあるみたいだし、もしかしたらピアノコンクールに関しても知っているかもな。

「なんだったかなぁ。どこかで見た気がするんだけど。まあ、それはあとにしよっか。ほーら、練習始めるよー」

「「「「はーい!」」」」

「はい」

「……はーい」

 パートでの全体練習の後、楽器ごとに各々の場所に移っていく。というより、個人練だ。

 コンクールメンバー以外の人たちはまた別メニューでの練習のため、更に他へと移るらしい。

「みんなの練習聞かせてもらったけど、やっぱりあすかさんの音、違ったなぁ。でも、みんな上手かった。いい音だった」

 あの音がひとつひとつ重なって、音楽を奏でるんだよな。

 早く聴いてみたいし、合わせたい。ピアノを弾きたくなってくる。

「あの喫茶店、また弾きに来てもいいって言ってたな。帰りも寄って行こうかな」

 阿字野がこっちで用意してくれた寝ぐらもあることだし、幸い、そこからも近い。ピアノが弾ける環境は寝ぐらにもあるけど、せっかくなら喫茶店で弾かせてもらおう。

「あ、一ノ瀬くん。これで部活動の時間内での練習は終わりだから、音楽室に戻るよ」

 パートで集まっていた部屋に戻ってくると、撤収を始めている梨子が教えてくれる。

 そのまま、卓也も加わって、3人で話しながら戻ると、ほとんどの生徒が戻ってきていた。

「じゃあ、私たちは席に行くね」

「またな」

「おう、ありがと」

 で、俺は席なんかないんだけど?

 入ってきて棒立ちになると無駄に視線を集めるわけで。あー、とりあえず、どこか居場所を見つけないとな。

「おや、一ノ瀬くん。キミはこちらですよ」

「え? あ、はい」

 そこにタイミングよく入ってきた滝先生が、手招きをして俺を呼ぶ。

 けれど、その場所は滝先生の横なわけで。

 最初に自己紹介をした位置とほとんど変わらない。

「さて、皆さん。今日から一人仲間が増えました。明日以降も、皆さんのパートを回ってもらうことなります。彼のことが気になることもわかりますが、けれど。我々がコンクールの最中であることも忘れないでくださいね」

 そう締めくくった滝先生の話も終わり、部活動の初日は終わりを告げた。

 本当は、そのままピアノを弾きに帰りたかったのだが、吹奏楽部の皆から色々な話を振られ、かなりの時間を使ってしまった。

 滝先生の協力がなければ、帰れないのではないかという具合にだ。

「それでは一ノ瀬くん。阿字野先生の期待もあって大変かもしれませんが、明日からもよろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

「キミも、なにか掴めるといいですね。ああ、それと、これ」

 滝先生が箱から取り出して、差し出してきたのは、小さなおもちゃのピアノ。

 昔、バーで1度弾いたピアノにそっくりだ。マスターはディスプレイ用に買ったって言っていたっけ。

「これは?」

「棚を整理していた際に発見したものです。動作は問題ないので、一ノ瀬くんさえよければ、ぜひにと」

「――懐かしいな。いいんですか?」

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「気に入っていただけたなら良かったです。では、帰りも気をつけて」

 受け取ったおもちゃのピアノが壊れないよう箱にしまい直し、カバンに入れる。

 音楽室への道を覚えながら校門へと向かいながら時間を確認するが、やはり、これから喫茶店に寄るには少し厳しいだろう。

 夜は酒場だって言っていたし、流石にマリアのときのように誤魔化すのは効かないか。

「楽しかったけど、こりゃ今日の演奏はなしだなぁ」

 残念だとは思う。

 喫茶店なら、誰かに向けて弾くこともできたし。でも、歳の近い人たちと普通の話すのなんて、かなり久しぶりな気もする。

 だからなのかはわからないけど、悪くなかった。

「北宇治高校、吹奏楽部か」

 思っていたよりも、俺が学ぶことはまだまだ多いみたいだ。

 先生のために、自分のために。

 もっと、もっと弾きたくなる。

「帰って自主練だな」

 行きは時間に余裕もなく、景色を眺めながらとはいかなかったが、帰りはその余裕があった。

 いや、あってしまった、と云うべきなんだろうか。

「ん?」

 川沿いの帰り道に、膝を抱えて顔を埋める女の子が一人。

 顔こそ見えないものの、赤いリボン型のヘアクリップが覗いている。

 随分と小柄な印象なんだけど、なんだろう? 学生服のままだし、学校帰りかな。普通の学生ってあんな風に川沿いで丸くなるもんだっけ。

「はあ……さって、どうしたもんか」

 どうやら、俺はまだ帰るには早いらしい。

 




カイの過去話等は話を進めるうちに補足していきます。
ピアノの森の原作知っている方がハーメルンにどれだけいることやら……。
そんな人たちにもわかるように書いていくようにします。


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出会い

 ――ピアノに感情が乗っていくのが、よくわかる。

 防音の建物だからこそ、夜でもピアノを弾ける環境に感謝しながら、紡がれていく音には、どうしようもなく、感情が乗り移っていく。

 はずだった。

 なのに、音が途中で途切れる。

「頑張るって、なんですか? かぁ……」

 帰りに出会った、中学生の女の子。

 放っておくのも忍びなくて話しかけたのだが、最初は警戒されたものだ。野生の蛇だって威嚇するんだから、人だって変わらない。

 話しかけた手前、このまま帰るのも格好がつかない。なので、滝先生にもらったおもちゃのピアノを取り出して、少ない鍵盤でも弾けるように曲をアレンジしながら、隣で弾き続けた。

 それが良かったのか、彼女が吹奏楽部だったことが幸いしたのか。

 誤解も解いてもらえて、少しだけ話すことができた。話してみれば、甘え上手な猫みたいな子だったのは印象的だったけど、その実、それはどこか空虚なもので。

 どことなく、上から目線でバカにされているような。

 滝先生からもらったおもちゃのピアノを弾くと、その音や曲にも興味を示すのに遠慮や嫌悪が見え隠れする。なにより、別れる間際に言われた言葉が頭に残る。

「あれは絶対、なんか抱えてるよなぁ」

 でも、余所見している暇は俺にはない。それはそれとして、わかっているけど、割り切れるかはまた別だ。

「なんて答えたら、良かったんだろうな……」

 俺は自分が頑張るのに、疑問なんて持っていない。

 そうすることが全部だったし、そうすることでしか、ここまで来れなかった。

 俺だけじゃない。俺にピアノを、多くのことを教えてくれた阿字野先生だって必死だった。だから、俺にはやるという選択しかなかったんだ。

 俺は、俺にはなるしかない道がある。

「でも、普通は違うのかもな」

 俺は俺でしかない。あの子の気持ちも、過去もわかりはしない。

 次に会ったとき、俺は彼女になにを言うのだろうか。

 まだわからない未来。

 自分に課せられているもの。

 それらすべてを振り払うように、より深くピアノに集中することしか、いまの俺にはできなかった――。

 

 

 

 

 

 翌日、朝になろうかという時間に音楽室に足を運ぶ。

 どういう理由か、滝先生から音楽室の鍵を受け取ってしまったので、図らずも音楽室一番乗りだ。

「俺、ここの生徒じゃないんだけどな。滝先生公認とはいえ、なんだか不法侵入してる気分だ」

 まだ朝練というには早いのか、生徒の足音は聞こえない。

「あ、ピアノ……」

 音楽室に置いてある、グランドピアノ。

 北宇治のみんなとは、まだ合わせることのない音色。

「少しくらいなら、いいよな」

 鐘が鳴ったら終えればいい。どうせ音楽室でなら、他の教室へは音は響かないだろう。というか、こんな時間に人いるのかよ。

「流石に、弦が切れることもないよな」

 軽く鍵を叩き、出していい力加減を確認する。

 ついでに調律……は時間がないから、また今度な。

「さって、じゃあちょこっとばかり、付き合ってくれよ。最初はそうだな。おもちゃのピアノつながりで、こいつから」

 あのときはディスプレイ用のおもちゃで、少ない鍵盤のみで弾いたっけ。

 さあ、今度のアレンジは、制限なしで。

 ただ、没頭するために。

 楽しむために。

 懐かしむために。

 忘れず、俺の中に在るために。

 手は、思い描いた通りに鍵を叩いていく。

 コンクールとも、ショパンとも関係ない。ただ、楽しむだけの音。

「たんたんタヌキ?」

 2曲目を弾き終えた直後。

 すぐ近くで弾いていた曲を当てる声が届いた。

「……キミは、昨日の」

「たんたんタヌキ……」

 そこにいたのは、俺を音楽室まで案内してくれた、オーボエの子だった。

 うまく感情の読み取れない表情は相変わらずだが、彼女の方から話しかけてくるとは思わなかったから、意外だ。

「うん、正解。アレンジだからだけどね」

「1曲目は、わからなかった」

「あー……最初のも聞いてたんだ。最初のはね、待ちどおしい日曜日って曲。前に作った曲なんだけどね」

「そう」

 それ以上は話すこともなく、彼女は持っていたオーボエの準備をしていく。

 掴みどころがなければ、主張もない。それに、機能的というか、でもどこか見えない妄執を感じさせる。

 外部者の俺と二人きりなのに、警戒してる様子が一切ない。それ特有の視線や態度を感じれない。

「本当に、変わった人ばかりだな、ここ」

 いろいろな楽器に、それぞれの奏者。

 そりゃ、何十人と集まれば、中には変わった人もいるよな。とはいえ、昨日だけで鮮烈な印象ばかりだ。まさか、3人も濃い人に会うことになるなんて。

「あ、一ノ瀬くんじゃないの。ほほう? 今日は随分と早いね」

 鍵盤を空叩きしていると、今度はあすかさんだ。

「滝先生から了承もらって、音楽室で待たせてもらってたんです」

「そっかー。もしかして、ピアノ弾いてた?」

「え? ああ、弾いてましたよ。時間があれば調律でもしようかと思ったんですけど、さすがにそこまでの余裕はなかったですね」

 いや、本当に時間さえあればなぁ。こうして弾いたときも、2箇所の音のズレがあったし。キーボードは使うけど、ピアノはあまり使ってないみたいだしなぁ。僅かなズレなら拾われることもないのか。

「一ノ瀬くんのピアノねぇ。なに弾いてたの?」

「たんたんタヌキ」

 あすかさんの質問に答えたのは、俺ではなく、オーボエの準備をしていた子だった。

「おや、みぞれちゃん。聞いてたの?」

「はい、2曲だけ」

 いや、2曲しか弾いてなんだけどね。というか、みぞれって言うのか。

「ふーん。もう1曲は?」

「待ちどおしい日曜日」

「……知らない曲だね。練習曲とかかな?」

「創作曲、みたいです」

 俺の外で俺の話が進められていく。

「みぞれちゃんが興味持つなんてねぇ。そっかそっか。じゃあ、そのうち聞かせてねー」

 会話は簡単に終わり、あすかさんも部活動の準備に入る。

 あの人、興味失うのが早いのもあるけど、元から興味ないのに興味あるかのように見せてる面も絶対にあるよな。高校生なのに、どこか大人ぶっているというか。

 小さい頃から大人の中で、嵐の中で生きてきたからこそ、感じ取れる人の側面というものもある。

「歪だ」

 でも、それは俺も同じ。むしろ、彼女たちよりよっぽど酷いように映るんだろうな。

 自分の中で納得させるよう、ピアノにも蓋をする。

 多分、俺が突っ込んでいい話じゃない。

「あら、一ノ瀬くん。今日はもう来てるんだ」

 しばらく、あすかさんを観察していたら、トランペットパートをまとめていた3年生の人に話しかけられた。確か、あすかさんとも楽しげに話していた人だ。

 昨日の部活終わりに少しだけ話したが、名前は中世古香織さん、だったかな。

「滝先生に許可を貰えたので、1番乗りで来ました」

「そうなんだ? 北宇治のみんなにはもう慣れた?」

「そうですねぇ。まだ話していない人も多いですし、低音パートの人たちとしか練習もしてませんから、ぼちぼちですね」

 応えると、なにかが琴線に触れたのか、小さく笑みを浮かべていた。

「ぼちぼちかぁ。あ、そうだった。あのね、昨日あのあと、滝先生と話したんだけど、今日はトランペットパートの練習に付き合ってもらうことになったから、先に教えておくね」

「そうなんですか? わかりました、よろしくお願いします」

「うん、こちらこそ。それで――ピアノ、弾いてたの?」

 来る人、来る人がそれを聞いてくるな。ピアノ奏者ってことは昨日の時点で滝先生が話しているからいいけど、いまなんて鍵盤閉じて、ピアノ椅子に座ってるだけだぞ?

「みんな、そこは気にするんですね」

「ふふっ、もしかして、もう誰かに聞かれてた?」

「誰かというか、来た人全員になにかしら聞かれましたよ。3人だけですけど」

 視線をその内の2人に送ると、目の前にいる香織さんがそちらを向き、納得したように頷いていた。

 というか、最初の濃い2人で割と疲れた。野生動物たちの方が純粋でわかりやすい。

「あの2人が興味を示したんだ……あ、でもね。多分、みんな同じことを聞くと思うよ?」

「へ?」

「一ノ瀬くんは、あの滝先生が呼んできた人だからね。みんな、滝先生が認めている一ノ瀬くんの演奏が気になってるんだよ」

 それは、初知りだった。

 思えば、当然のことなんだろうけれど。これ、もしかして1回弾いた方が早いんじゃないのか?

「おー、すごいね一ノ瀬くん。香織の美貌にこれっぽっちも反応を示さないとは。やりますなぁ」

「ちょ、あすか!?」

 会話の最中に、茶化すようにはいってきたあすかさん。

「ま、一ノ瀬くん、顔も綺麗だし、見慣れてるって感じかな?」

「はあ……」

 さてさて、このよくわからない人たちが集う吹奏楽。

 眼前ではじゃれあうかのごとく近距離でなにごとかを言い合う3年生や、俄然せずにオーボエと向き合う2年生。まばらに人も集まり始めて来たわけで。

「今日はどんな音に出会うんだかなぁ」

 とりあえず、こっちに寄ってくる人の相手から、しないとダメかぁ……。



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トランペットパート

 ――香織さんたちのトランペットパートは、彼女を中心に回っていることがよくわかる。

 というより、崇拝者がいることによって、円滑に進められているというか。

「やっぱり変人ばっかりだ」

 昨日の低音パートから打って変わり、今日はトランペットパートの練習に参加している。

 あすかさんに、香織さん。

 どちらも、この吹奏楽部での影響力が強い人らしい。そうした人たちから先に会わせていくということは、なんらかの意味があるんだろう。

 というか、影響力の強い人の元には変人が集まりやすいのだろうか?

「リボンでかいなー」

 香織さんと楽しげに話す、同学年の女の子。

 相槌を打つたびに、頭のリボンが揺れるのだが、主張が強い。

「というわけで、もうみんな話したことがあるかもしれないけど、ピアノ奏者の一ノ瀬海くんです。仲良くしてあげてね」

 香織さん含む、7人のパート。とりわけ、パート内での比率で言えば2年生が多いみたいだが、仲は良さそうだ。

 人気の楽器だってジャンから聞いたことがあるけど、限りある枠なのにここにいるってことは、みんな上手なんだろうな。

「一ノ瀬はピアノ、うまいの?」

 リボンの子――吉川優子が聞いてくるが、これには困る。

 コンクール基準でいけば、俺のピアノは微妙な位置にいる。いわゆる、正確なピアノであり、模範的なピアノがうまいという枠であるのなら……。

「優等生ではない、かな」

「なにそれ」

 納得いく答えではなかったのか、優子の目つきがきつくなる。

「さっき、みぞれからとても上手だったって聞いてるのよ? あの子だってピアノ弾けるから、余計にわかるのかも」

「えー……コンクール目線でなら、優等生じゃないのは本当なんだけどな」

 さっき弾いていたのも、アレンジしすぎたものだし、この前のコンクールでも、途中で弦が切れたから、足りない音を補うために、演奏中に急遽アレンジして弾いた。

 少しのミスなんて気にもしない骨太な演奏だと評されたこともある。

「みぞれが人のこと誉めるのは珍しいのよ……滝先生が呼ぶだけのことはあるってことね」

「まあまあ、優子ちゃん。でも一ノ瀬くんのピアノは、みんな気にしてるからね。しつこいかもしれないけど、許してあげてね」

 胸の前で手を合わせる香織さん。

「怒っているわけじゃないですよ。気になるのも理解できますし、一人だけ聞いたことがある状況が良くないのもわかります」

 いまがコンクールの練習中でなければ、滝先生から時間を貰い、部活動中に弾くってのも有りなんだけど、さすがに練習時間を削らせてまでってのは気がひける。

「コンクールがどうとかは別として、滝先生がお呼びになったんですから、上手なんですよね?」

 それでも追求しようとしてくるのは、初めて話す1年生の子だ。

 艶のある長い黒髪と、滲み出る自信に溢れたクール系美少女。最初に自己紹介してもらったのだが、高坂麗奈と名乗っていた。1年生はもう一人、吉沢秋子という子がいる。

 ちなみに、今回のコンクール曲のソロを担当しているのも、麗奈だとか。早い話、トランペットパートで最も優れた奏者が彼女だ。

「下手だとは言わない。個人的な視点で見ていいのなら、俺にはピアノを弾くしかない、と思う程度にはってことしか、答えられないかな」

「ピアノしかないってことですか?」

「んー…………まあ、そんな感じかな。俺にとっても、小さい頃から森のピアノが全部だったし」

「森のピアノ?」

「そう、森のピアノ。俺がガキの頃に、家のすぐ側に捨てられていたピアノのことでさ」

 いい遊び場でもあり、俺のピアノに関わるすべてに通じているきっかけ。

 阿字野に会えたのも、いまこうして生きていられるのも、森のピアノのおかげだ。

「ああ、一ノ瀬くんのことが気になって聞いたら、あすかが少し教えてくれたよ」

「私も。梨子が楽しそうに話してくれたわ」

 二人を皮切りに、もう一人の3年生である沙菜さんに、2年生の友恵が自分たちも聞いたと教えてくれた。

 既に部内に広まっているとでも言うのか? 前にいたPクラでも噂が広まるのは早かったが、そういうところは学校でも変わらないというか、女子特有だな。

「え? なにそれ。俺知らないんだけど?」

「私も初知りです」

 トランペットパート唯一の男子である純一は聞かされていないらしい。1年生は……低音パート組が広めていないためだろう。

 麗奈も秋子も、いま知ったはずだ。

 低音パートにいる男子は卓也だけなので、彼も特に話していないのだろう。あまり多くを話すタイプじゃないみたいだしな。

「知らなくてもいいんじゃない? 滝野は一ノ瀬のことなんて興味ないって言ってたもんねー」

「ちょ、吉川! 本人の前で言うか普通!?」

「あはは、気にしないって」

 途端に慌てる純一に伝えるが、彼が答えるよりも早く、

「うわー人が良いねぇ、一ノ瀬くん」

 などと友恵に遮られてしまっていた。どんまい、純一。

「みんな仲良くね。優子ちゃんも、そんなこと言ったダメだよ?」

「はい、香織先輩!」

 場を仕切る香織さんに、とてもいい返事をする優子。それを呆れた様子で眺めているメンバーから、いつものことなんだとわかる。

「高坂さんと吉川さんが知らなかったのは、1年生の間じゃ広まってないからだと思うよ。私たちも、偶然知っただけだから。だからね、滝野くんも落ち込まないで」

「は、はい!」

 純一が背筋を伸ばして応えるが、話しかけられただけでこれとは。惚れていてもおかしくないな。

 そういえば、阿字野先生が「吹奏楽部では人間関係の構図も見えるかもしれないな」とか言ってたっけ。見ていて面白いかと問われれば、それなりに面白い。

 演奏以外で、これだけの人たちと接するのも珍しい。

「それじゃあ、練習始めようか。一ノ瀬くんに聞きたいことは、また部活の後でね。あ、でも無理強いしちゃダメだよ?」

 香織さんが指示を出すと、麗奈が真っ先に個人練に向かう。

 それに続き、教室からみんなが出て行く。

 最後に出る香織さんは、俺に向き直ってから、後の予定についても話してくれた。

「一ノ瀬くんも知ってると思うけど、今日はこの後、全体合奏もあるから時間になったら音楽室に戻ってね」

「わかりました」

「うん。じゃあ、みんなの練習、好きに見て行って。本人の許可が出たら、トランペットパート以外の人でもいいからね」

 ひとつ手を振り、歩き出す香織さん。

 昨日のあすかさんとは違い、他人のことを気にかけ、調和を重んじる人のようだ。仲の良し悪しに個性は関係ないとも聞くが、予想よりも違う人たちなんだな。

 あすかさんは他人とかどうでもいいみたいだし、自分の練習時間が削られなければ満足して吹いていそうなイメージがある。

 香織さんは積極的に人に教えていそうだし、全員で頑張りたいって人な気がしている。

 だからこそ、合うのかもしれないけど。

「さって、誰から覗きに行こうかなぁ。ソロの練習も聞いてみたいし、話しやすそうな人から見ていくってのも有りだし」

 とりあえず、迷ったら気の向くままに、だな。

 

 

 

 

 麗奈のソロと、香織さん、優子の個人練を見せてもらった後。コンクールには出ない組が一同に集まって合奏練習をしていたので、そこで見学をしてから。

 残り時間が少ないので適当に歩いていると、廊下の突き当たりに人影があった。

「あれって……」

 彼女とは、とことん縁があるみたいだな。

 とはいえ練習中のようなので、静かに佇み、奏でられる音に集中する。

 音が外れることはなく、完璧なまでに楽譜をなぞられる演奏。まるで、雨宮のような、正確で安心する音だ。

「でも、違うんだよなぁ」

 雨宮とは決定的に違う。

 誰かに聞かせるために音じゃない、楽しむための音でもなく。

 この音は――苦しいだけだ。

 この音には、なにもない。乗せるべき感情も、伝えるべき相手も、なにもない。技術があるだけの、苦しい音だ。

「俺がそう感じるだけならいいんだけど……」

 奏でる音は個人のもの。

 不用意に立ち入って、いまの完璧な演奏が崩れるのもまずい。けれど、彼女の感情の乗った音を聞きたいという欲も確かにある。

 まだ府大会には猶予があるけど、どうなんだろうな。

「って、時間かよ! ああ、もう……そのうち話してみるか!」

 とりあえず、今日のところはダメだな。

 この後全体合奏だし、邪魔できるわけがない。

 それに、最初にやらないといけないのは、会話の成立からだし、彼女と普通に話せるようにならないと。心を、開いてもらう必要がある。

「演奏よりも難しそうだよ、阿字野」

 自分を送り込んだ先生の顔を思い浮かべながら、音楽室に戻るために身を翻す。

「ピアノの人……」

 と、譜面台やら水筒を持っているオーボエの女の子がこちらに寄ってくる。

「えーと、みぞれだっけ?」

 あすかさんと優子が呼んでいた名前を思い出し、彼女に対して呼んでみると、小さく頷いてくれた。

 もしかして、会話が続かないだけで、話は聞いているタイプなんだろうか? だとしたら、思ったより話せそうだ。

「いろいろ持ってくの大変そうだな。それ持ってもいい?」

 楽器に、チューナーやリードケース、タオルにと上げていけば多くの物が出てくるが、とりわけ楽器と譜面台は大きい。

 会話のために立ち止まっていたのが幸いしたのか、一時的に置かれていた譜面台を持ち上げる。

「楽器店で演奏してたときのよりも軽い……最近のはそうなのか?」

「あの……」

「だいじょうぶ。落とさずに音楽室まで運ぶって」

「え? ……わかった」

 やはり会話といった会話はなく、音楽室への道を進む。

 ここは、こちらから聞いていくしかないか。

「オーボエ、吹いてて楽しい?」

「……わからない」

「わからない? でも、凄い正確に吹いていたじゃん。それだけやる気があるってことだろ?」

「……わからない。なんのために吹いているのか、わからない」

 なんのために、か。

 ただわからないわけじゃなく、なにか、あるいは誰かのために吹いていた過去がある言い方だった。

「あなたは、なんでピアノを弾いてるの?」

 そのまま沈黙するかと思ったが、予想外にも、彼女は質問を返してきた。

 少し考えたのち、答えは自然と溢れていく。

「そうすることが、俺の全部だからかなー」

「全部?」

「そう、全部。それが俺に与えられたすべてで、そうなることが、俺と俺の先生の目指すモノだから。なんて、抽象的なことしか言えなくてごめん」

「誰かの、ため……?」

 彼女の目に、不安の色がよぎる。

「それがないとは言えない。でも、俺は俺のためにも弾いていたい。世界中に、俺の音を響かせたい。いまはそう思ってる」

「そう……」

 俺の答えを聞いて以降、みぞれが声を発することはなかった。

 ただ、前を見据える瞳に浮かぶ表情に、いい色が見られることはない。

 そのまま、話だけは進み、距離感は変わらないまま、音楽室へとたどり着く。

「譜面台、ありがとう」

「ああ、うん。そうだ、今度オーボエの音、しっかり聞かせてくれない?」

 せっかくなのでお願いしてみると、案外簡単に頷いてくれた。

 そのまま、音楽室に入っていく彼女の後に続いて音楽室に入る。

「今日は滝先生はまだいないのか。しかたない、ピアノ椅子にでも座って待ってようかな」

 演奏中はどこにいればいいのか、滝先生が来たら聞くとしよう。

 




海は絶対に共感覚以上のなにかを持っている気がしますが、それを他人に伝染させるような手法も身につけてますよね。
それはそれとして、みなさん誓いのフィナーレは見に行きましたか? 作者も5回ほど行っていますが、リズ含めて感情どばどばで大変な状況です。


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初演奏

 音楽室でしばらく待っていると、滝先生が部長に連れられてやってきた。

「すいません、少し遅れてしまいました。それでは、早速始めましょうか」

 指揮者台の上に立ち、楽譜を広げた滝先生が、部員に指示を出す。

 俺はそれをピアノ椅子から眺めているのをやめ、彼の側まで近づく。

「おや、一ノ瀬くん。どうかしましたか?」

「演奏中についてですが、どこかで聞いていた方がいいでしょうか? それとも、音楽室から出ていた方がいいですか?」

「ああ、そういえば言っていませんでしたね。全体合奏中は、私の後ろか、ピアノの近くで聞いていてください。椅子は余っているものを好きに使っていいですからね」

「わかりました。ありがとうございます。それでは、ピアノの近くで聞くことにします」

 決まれば早いもので、ピアノのすぐ側にパイプ椅子を設置し、そこから演奏を聴くことにする。

 奏者でもなく、観客でもない。けれど、奏者側からの立ち位置で。

 なんだか、特等席で聞いている気分になる。

「と、そうでした。一ノ瀬くん、我々の演奏する曲のことは聞いていますか?」

「はい、府大会の演奏は聞きに行きましたし、僕の先生から一通りの譜面はもらってます」

 関西大会の練習に参加させてもらうのだから、当然の義務として京都府大会の演奏は阿字野と聞きにいっている。ジャンも来たがっていたが、そのときは予定が合わなかったんだよなぁ。

 電話越しだったけど、合わせることになるかもしれない子たちの演奏は聞いておいて損はないよ。と言っていたっけ。

「流石ですね。それなら安心です。では、1度合わせてみましょうか」

 ジャンの言葉を思い出していると、滝先生からそんな提案をされた。吹奏楽部の面々も、顧問の突然の誘いに驚いている。

 驚いていないのは、あすかさんと、みぞれだけか?

「一ノ瀬くん、どうでしょう?」

 向けられる瞳には、あなたならできるでしょう? という信頼が見て取れた。

「阿字野は俺のことをどう話したんだよ……」

「私も父づてですが、オケコンでなら無類ない才能を有している、と聞いています。一ノ瀬くんの先生から、事前に練習風景と演奏の録音を送っていただきましたが、正直、聞いたときは驚きましたよ」

 笑みを浮かべながら言われるが、北宇治の吹奏楽部の糧になるだろう、なんて意図も見える。

 阿字野がいつの練習を送ったのかはわからないけど、下手にやったら怒られそうだな。でも、ピアノが弾ける。こんなにも早く、ピアノが弾ける!

「あの、先生。一ノ瀬くんはまだ参加2日目です。それでいきなりピアノを組み込むなんて、そんなこと!」

「そうでしょうか?」

「え……?」

 まずいと思ったのか、部長が意見するが、滝先生はものともしない。

 これには、他の部員も動揺を隠せていない。

「本番で弾いてきた回数も、練習量も、彼はあなたたちよりもずっと多い。私も多くを知るわけではありませんが、一ノ瀬くんがこの程度の無茶振りを退けられないわけがありません」

 部員全員の視線が、俺へと刺さる。

「うへぇ……」

 演奏中なら気にならない視線も、こうした場では結構くる。

 興味、期待、不安、不信。

 多くの感情を向けられているのがわかる。この先、ショパンコンクールで向けられることになる感情だ。だからこそ、逃げてはいられない。もとより、ピアノから逃げるなんてありえない。

「一ノ瀬くん、どうしますか?」

 見計らったように、再度投げかけられる。

「――やります」

「そうですか。わかりました、それでは始めましょう」

 言われるがままに、鍵盤の蓋を開ける。

「アレンジして、好きに合わせていただいて構いません。本来ならコンクールの場ではできない演奏なので、一ノ瀬くんの好きなように弾いてください。私が彼らに教えたいのは、そこですから。ですから、あなたの解釈通りの、一ノ瀬くんのピアノでお願いします」

「わかりました」

 ここ最近で合わせたのは、M響とだっけ。

 指揮者もつとめる世界的ピアニスト、ジャン=ジャック・セローの指揮のもと、ピアノ協奏曲第3番を弾いたんだ。サイコーに緊張したけど、サイコーに気持ち良かった時間。

 もう1度、あれ以上の演奏をしたい。

 それ以上に、演奏をしたい!

「みなさんが不安なのはわかります。まとまりつつある演奏に、不協和音が生じるかもしれない。来たばかりの彼が、私たちと1度も合わせたことのない音が演奏を壊すかもしれない。コンクール前のこの大事なときに、とも思っていることでしょう。けれど、私は全国に行くには彼の演奏を聴くべきだと判断しました。同時に、合わせてみるべきだとも」

「……わかりました。みんな、やろう!」

 滝先生の言葉に、不承不承ながらも納得を示し、部員のやる気を盛り上げようとする部長。

 俺は人を纏めるようなことはしたことがないが、あの立ち位置は大変そうだな。

「ま、一ノ瀬のピアノが気になってたのは事実だしな」

「仕方ないわね。やってやるわよ!」

「一ノ瀬さんのピアノ、楽しみです!」

「森のピアノってどんな感じなんだろうねぇ」

 昨日、今日と参加させてもらったパートから声が鳴る。

「ピアノが入るなんて、ちょっと面白そう」

「うまく演奏に入れるといいんだけど……」

 まだパート練に参加していないパートの人たちからは否定的な声や、心配の声も聞こえる。

 不安なら、俺にだってあることだし、仕方ない。

「最初から受け入れられてる方が稀だよな」

 手をほぐしながら、事前に力を抜いておけばよかったかなぁと思う。

 滝先生は思ったより攻める性質のようだ。

 それぞれが演奏の準備をし、俺も鍵盤に手を添える。

「なにがあったとしても、1度通します。全員、最後まで演奏を止めずに」

 始まる前の程よい緊張感。この短い時間は、ジャンの言葉を思い出す。M響との初舞台。ジャンが指揮をしたコンチェルト。

 集中だ。

 全神経を集中して。最大なる集中を……みんなを、信じて!

 タクトが振られ、最初の1音で落ち着いた。この曲は、京都府大会で聞いてから、何度も共演をシミュレーションしてきた曲だ。

 でも、実際に合わせるとシミュレーションとは違って。

 指揮は以前として変わらないのに、先走る音、ワンテンポのズレ。曲にまとまりがなくなっていく。

 確かに聞き取れる、俺に合わせる道を示してくれる音は3つだけ。しだいにばらけていく音が、減っていく音量が、耳に残る。

 これはもう、曲じゃない――。

 

 

 

 

 

「みなさん、お疲れ様でした。一ノ瀬くんも、ありがとうございます」

「これで、良かったんですか?」

「良い、とは?」

 一ノ瀬さんが、私には理解できない質問をすると、滝先生は更に質問を重ねる。

「あー……コンクール前なのに、合わせるための演奏じゃなく、僕個人の合わせたいシミュレーション通りに弾きましたが、だいじょうぶですか?」

 だいじょうぶではない。

 最後まで演奏を続けるといった滝先生の言葉通り、確かに演奏は最後まで続いた。

 けれど、いまのは曲じゃなかった。

 一ノ瀬さんの演奏は技術も、表現も、正直に言って高校生のレベルを遥かに超えていた。私たちの演奏にも、きっと合っていたはずなんだ……。

「いやー、凄かったね」

「あすか先輩……」

「演奏壊滅って、こういう感じなんだね」

 あすか先輩はおどけた様子で話しかけてくるが、最後まで吹ききっていた。

 ピアノは、恐らく私たちのほとんどの部員の予想よりもうまかった。なのに、一緒に吹いていると、とてもちぐはぐな感じがした。

 演奏中も、焦りが先行し、演奏を続けるのが辛いと思うほどに。

 挑みかかってくるのだ。

 落ち着こうとしても、何度冷静に吹こうとしても、ピアノに耳を取られてワンテンポ遅れる。テンポが速る。

 不安感が押し寄せる……追いかけられるような感覚に支配される。

 あの、噛みつかれるような感じは一体、なんだったのだろう……吹ききってなお、感覚がよみがえる。

「ねえ、黄前ちゃん」

「――なんですか?」

「一ノ瀬くんのピアノ、三日月感あったよね」

「はい?」

 あすか先輩の感想に、私は間抜けな返事をしてしまった。だって、私にはそんなもの、まるで感じれなかったから。

「あれれ〜わからなかった? うーん……まあ、滝先生のやり方って、一歩間違えると崩壊しかねないもんね。仕方ないか」

 私の反応に満足しなかったのか、再び前を向き、滝先生と一ノ瀬さんに視線を向けるあすか先輩。

 三日月……感じなかったよね。

 それよりも、段々と減っていく音の方が気になった。

 周りを見てみれば、みんな疲れた顔をしていた。

 対照的なのは、麗奈だ。まるで楽しくて仕方がない、けれど楽しく遊べないこどものような……ああ、これは後で色々爆発しそう。

「さて、一ノ瀬くん。いま、なにをイメージして弾いていましたか?」

 彼女がなにを思っているのか知りたくもあったが、滝先生の声に、思考が途切れる。

 つられるまま前へと視線が動く。

「三日月です。あとは、満天の星空に、僕個人の解釈で、月明かりに照らされた森に連れて行きたいと思ったんです」

「なるほど。解釈の差異はありましたが、素晴らしい表現力でした。みなさんの中で、演奏中に、一ノ瀬くんのいった景色が見えた人はいますか?」

 続いて、私たち部員へと質問が移る。

 誰もが、周りの人と、どう感じたのかを聞き合う中。しっかりと挙げられた手は、3人だけだった。

「……そうですね。では一ノ瀬くん。もう1度、お願いできますか?」

 その言葉の意味はすぐにわかった。

 周りが騒がしくなるのがわかった。誰かが息を呑む音も聞こえる。

「わかりました。なら次は――」

 一ノ瀬さんは首を縦に振り、なにかに納得したように弾く姿勢をとった。

 否定の声は上がらない。私は先ほどの演奏を思い出しながら、不安ながらに楽器を構える。

 タクトが振られ、次いで演奏が始まる。

 また同じことが繰り返されるのかと思ったけど、今度は、さっきとはまるで違った。

 ピアノは軽やかに流れ、私たちの演奏とひとつになっていく。

 いい感じ……曲になった! オケとしっかり噛み合ったピアノだ。

 2度目の演奏はそのまま、全員がいつも通りの演奏をこなし、最後まで曲を保ったまま終わった。

「はい、いいでしょう。みなさん、急な演奏で混乱もあったと思いますが、演奏力を高め、表現力、変化への対応力をつけるにはいい経験になったと思います。それで、最後に質問なのですが、1度目と2度目。みなさんは、どちらのピアノにより表現力があったように感じましたか?」

 滝先生の質問に隠された意図を知らぬまま、私たちは皆、思い思いに手を挙げた――。

 



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カイの表現

 滝先生主導のもと行われた、北宇治高校吹奏楽部との初演奏。

 1度目は、俺の解釈で、シミュレーションのまま弾いた結果、演奏はほぼ壊滅した。

 それならと、2度目はもとから出来上がっている北宇治の音に合わせ、寄り添うイメージで弾き切った。

「どうでしたか、彼らの演奏は」

 疲れているのか、座り込んで動かないみんなを放り、滝先生が話しかけてくる。

「京都府大会で聞いたときも思いましたけど、ダイナミックで、力強い。トランペットのソロは伸びやかで、甘く切ない響きを、静かに穏やかに表現するんだなって」

「一ノ瀬くんの弾く三日月の舞は、三日月よりも月明かりといった感じでしたね」

「そうですね。森の中、唯一照らしてくれる一筋の月光」

「確固としたイメージですね。素晴らしい表現力でした。それで――最初の演奏と、いまの演奏。一ノ瀬くんがいま話してくれた表現は、どちらのことですか?」

 この人、笑顔はいい人そうに見えるのに、結構腹黒いのか?

 自分が受け持っている部員の前で、それを言わせるか。ジャンもそうだったけど、指揮者ってバッサリ切っていくタイプの人ばかりなんじゃないだろうな。

 けど、ここにいるみんなは俺と同じ。

 コンクールで最高の結果を出そうとしている、自分の持てる全部を出し切ろうとしている人たちだ。ウソをついても、どうにもならない。

「自分の思った通りに弾いたのは、最初の演奏です」

「いまの演奏は、オーケストラに合わせたピアノでしたね。決して間違いではなく、演奏としてはこれでも正解でした。優等生としてなら、満点に近いのかもしれない」

 ジャンも、似たようなことを言っていた。M響での初合わせのときと、同じ状況だ。

「前にも、似たようなことがありました」

「……そうでしたか。そのときは、なにを言われたか覚えていますか?」

「えっと、優等生の演奏をするつもりなら僕を選ぶべきではなかった、信じて思いっきりぶつかって来なさい。ということを言われました。それから、オケの全員にですけど、最大なる集中を、と」

「いいことを教わっていますね。みなさん、一ノ瀬くんの話を聞いていましたか? 彼の演奏は、ピアノではありますが、私たちの演奏ではぶつかり合えないのが現状です。彼のピアノに対する姿勢や、表現力をできる限り学んでください。いいですね?」

 滝先生が、部員全員に伝える。

 思えば、M響での練習中はもっとお互いに声をかけていた気がする。ぶつかりあって、やっといい音にしているのが日常だった。

「俺とじゃなくて、みんなでぶつかってみるのも、音の表現の確立やイメージの共有にいいかも」

「ええ、私もそう思います。難しいことではありますけどね」

 誰も彼も、遠慮なく言い合えるわけじゃない。

 そうした人たちといられることが、どれだけ幸福なことだろう。少なくとも、この場所は、それができる場所だと感じる。そのはずなのに、互いが互いに遠慮しているような違和感が拭えない。

「さて……思ったより時間を使ってしまいましたね。今日はここまでとします。明日はパート練習のあと、また全体での練習をします。一ノ瀬くん、明日は演奏を聞いて、どう思ったかを教えてください。みなさん、いいですね?」

 全員から、疲れた声ではあるが、しっかりと返事が返ってくる。

 部活動はそのまま終わったが、今日は昨日以上に人がやって来る……。

 あのピアノはなんだだの、最初の演奏はどうなっているんだ、とも。逆に、2回目の演奏は良かった、ピアノなのにあそこまで噛み合うとは思ってもいなかった、なんて言葉もあった。

 ピアノがメインに出張る曲じゃないし、そちらの演奏も、俺がシミュレーションしたアレンジだからなぁ。

「やっぱり、上手なんですね」

 周りから人が引いていくタイミングで話かけてきたのは、トランペットパートの麗奈だった。

「それは、ありがとう。そう言ってもらえて良かったよ」

「どうやったら、あそこまでの表現力を得られるんですか?」

「気になる?」

「気になります」

 聞き返すと、間髪入れずに答えが返ってくる。

 その顔は真剣で、本気で聞いてきているのがこっちにまで伝わって来るほどだ。

「……自分を、信じることかな。『どうせ』とか『俺なんか』って塞ぎ込まないで、伸び伸びと。自分のできることはすべてやって、毎日続ける。毎日、毎日積み重ねていけば、おのずと結果が出るよ。それが必ず、自身になる。自分を信じることができるようになれば、あとは簡単さ」

「それは、自信をつけるための話じゃないですか?」

「ん? それもそうか……」

 2度の合わせ、そして京都府大会の演奏。3回ぶんの音を思い出しながら、阿字野の教えも交えて口を開く。

「八方破れの演奏で、色々な方向にエネルギーが飛び出していた。エネルギーを外に出さず、自分の中に……エネルギーを感じて、感じて、掴み取る。そうしながら、音をイメージしていくんだ。どこかで、必ず熱くなるところや、落ち着くところがあるから」

「それ、どうやったらわかりますか?」

「俺は色々なところにいったり、色々な遊びをしたよ。虫眼鏡と太陽光で紙を焼いて楽譜を書いたり、山にいったり、海に潜ったり。飛び出すエネルギーをひとつひとつ、内なるエネルギーに変えていって、更なるエネルギーとして、音楽に表すんだ。って言っても、わかりづらいかもしれないけど」

「いえ、少しわかったような気がします。ありがとうございました」

 そう応えた麗奈は、ひとつ礼をすると、楽器を片付けに行ってしまった。

 自分のやってきたことは、森のピアノが根底にあったからこその練習にも思えるが、それでも他の誰かがつかめるものがあるのなら。

「ねえ、一ノ瀬。ちょっといい?」

「お、次は優子かー。いいよ、なに?」

 気になることは聞きに来る性質なのか、自分の意見をしっかり持っているからなのか。トランペットパートの子たちは主張が激しい。

「パート練のとき、聞いたわよね」

「俺のピアノの話?」

「そう、それ。初めてであれだけ弾けるんだったら、コンクールでもいいところまで行けるんじゃないの? なのにどうして、優等生じゃないなんて言うのよ」

 これは、怒りだろうか。

「事実だから、かな。前にも、指揮してくれた人が他の人に言っていたよ。優等生のピアノを選ぶなら、俺を選ぶべきじゃなかったってな。現に、俺も、俺の先生も同じ意見だったし。コンクールの裁定にもよるけど、やっぱり向いてはないよ」

「うそ! だって、だってあんたのピアノは……」

「2回目の演奏は、優等生だったと思うよ。でも、俺はそれじゃダメなんだ」

 阿字野が望んでいるのは、俺が世界に響かせたい音は、俺の――一ノ瀬海のピアノだ。

 雨宮のような、正確で正しいピアノはかっこいいし、憧れる。でも、俺にはそれができるわけでも、向いているわけでもない。

 小学生の頃から、そうしたピアノがかっこいいとは思っている。

 でも、俺はもう、俺の音を見つけたんだ。一ノ瀬海のピアノを、世界に。

「あれだけ正確なピアノが弾けるなら、それで――」

「俺のピアノじゃないよ」

「――え?」

 言葉を遮って発言したせいか、優子から間抜けな声が漏れた。

「あくまで、俺のできる優等生のピアノだっただけ。俺が弾きたいのは、表現したいのは1度目だった。でも、ぶつかり合うのに失敗したんだと思う。俺には俺の音があって、ピアノがある。だからごめん。パート練のときの言葉に、ウソはないよ」

「そう……」

「そうそう。コンクールも、過去に2回出たきりだしね」

「結果は?」

「1度目は……予選落ち。2度目はソリスト賞、かな。最優秀には程遠いって感じだな」

 予選落ち……と、正面で小さな声が溢れる。

 優子はコンクールに対しても強い思いがあるのか、その結果に納得がいかない様子だ。

「それだけうまいのに、どうして」

「コンクールだから、かな。1度目のコンクールは置いておいて、2度目のコンクールは途中で弦が切れちゃってさ。で、仕方ないからアレンジしたんだ。もちろん、コンクールなら『不運だった』で落とされるよ」

 このときは、例外としてソリスト賞があり、M響が目をかけてくれたから良かっただけ。

 なにも動かなければ、そのまま落ちていただろう。

「そんなの!」

「でも、今度はそうはさせない」

 阿字野との、言葉にはしないけど約束がある。

 俺にも、個人的な目的がある。まだ果たせていないけど、俺には夢見ている光景がある。もう、自分の中では決めたこと。

「今度は、俺の未来がかかっているからね、ピアニスト・一ノ瀬海の今後がさ」

「あはは、なによそれ」

 少しおチャラけた感じで言うと、優子もつられて笑みを浮かべた。

 これで、出来上がりつつあった嫌な雰囲気も霧散するだろう。

「まあいっか。それと、もうひとつ質問。みぞれが聞いた曲って、どんな曲だったの?」

「んー……アレンジ盛りのわりとかっこいい感じの曲?」

 なんてぼかして伝えたら、横から曲名が飛んできた。

「たんたんタヌキ」

「あ、みぞれ。たんたんタヌキがどうしたの?」

「曲……弾いてた」

 意味を理解したのか、優子が俺に目線を移す。より正しく言うのなら、俺の手と、ピアノにだ。

 考え込んだ彼女は、次に滝先生へと話しかける。

「滝先生。一ノ瀬くんにピアノを弾いてもらいたいんですけど、いいですか?」

「ええ、構いませんよ。一ノ瀬くん、予定が空いているのなら、みなさんが帰るまではピアノを好きに使ってもらって構いません」

「ありがとうございます。さあ、そういうわけだから!」

 もちろん弾くわよね? と、声に出さなくても言いたいことがわかった。

「弾いていいなら、せっかくだしな」

「たんたんタヌキ」

 みぞれがまた横で曲名をつぶやく。

「もしかして、気に入った?」

「……わからない。でも、あなたのピアノ、なんだか不思議」

 俺はキミのことが不思議なんだけど。

 とりあえず、北宇治のみんなに聞いてもらう、楽しいピアノ。

 少しばかりの俺のステージを、目一杯、楽しんでもらおう。



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共演を終えて

 あのあと、みんなの要望を聞きながら結構な曲数を弾くことになった。

「ん〜楽しかったぁ」

 大きく伸びをし、音楽室で弾いていた時間を思い出す。

 最初は優子とみぞれが聞いていただけだったのが、弾き終えてみれば、部員のほぼ全員から拍手までされてしまった。

 たんたんタヌキのアレンジを弾いただけだけど、楽しんでほしいっていう思いは伝わったんだろう。

 まあ、そのあとがリクエストに応えていく時間になったのは、ちょっと大変だったけど。

「俺のピアノ……」

 それはきっと、森のピアノが根底にあって。

「北宇治はもうすぐ、次の関西大会なんだよな」

 俺よりも早く、北宇治のみんなは本番を迎える。

 今日聞いた演奏でも、完成度は高かった。まだ京都府大会が終わったばかりなのに、変化していた。

「俺も、もっとうまくならないとな。ショパンコンクールまでに、もっと」

 阿字野とジャンも、ギリギリ仕上がるかどうかと言っていたっけ。

 現役時代は日本国内の音楽コンクールで賞を勝ち取り続けた阿字野と、世界的ピアニストのジャンが、揃ってそう言っているんだ。

 俺に、練習をしない選択なんてない。

 けれど、ピアノを弾いてばかりいても、掴めないものだってあることを知っている。かけがえのない、俺の先生が長年教えてくれたことだから。

「やっぱり、森っぽい場所は必要だよな」

 だからこうして、落ち着ける場所に来ている。

 月明かりだけが俺を照らす、木に囲まれた中。ここにいると、森のピアノを思い出す。それからの、阿字野との出会いや、教わったこと。そして――森のピアノが、俺の中にしかなくなった日のこと。

「森のピアノは、もう俺の中に、しっかりと」

 寝転がりながら夜空を見つつ、手だけは鍵盤がなくても、思いのままに、空中で曲を弾く。

 昨日、今日と一人でいる時間があまりなかったからか、こうした時間があると落ち着ける。

「コンクールか……」

 かける思いは人それぞれで。北宇治のみんなを見ていても、色々あるんだと感じる。

 この先にあるショパンコンクールにも、そうした人はいるだろう。それでも、今回は俺も負けられない。

 阿字野との約束。

 俺個人の契約。

「はあ……」

 やることは多いし、まだ掴めてない部分もある。

 この前のジャンのコンサートでの演奏を聞いて、わかったこともあった。それでも足りないのは、曲を理解して、俺の中にあるシミュレーションを繰り返し修正していく必要がある。

「ほんと、余裕ないんだな」

 伸び伸びと音を出すには、その余裕のなさは不必要なんだけどなぁ。

 いま欲しいのは、苦しい音じゃない。

「俺の音……ピアノ……世界中に、か」

 弾く手を止めて、月明かりに手をかざす。

 こうした時間は、やっと勝ち取ったもので。いまの時間は、多分、俺の人生の中で、楽しい時間なんだと思う。でも、この時間が続くのは、ショパンコンクールが終わるまで。

「阿字野……俺は――」

 

 

 

 

 

 一ノ瀬さんの演奏は、私たち吹奏楽部員全体に衝撃をもたらした。

「たった2回の演奏で合わせるって、ピアニストってそれが普通なの?」

「普通じゃないです! 一ノ瀬さんは、凄いピアニストなんだと思います。緑、手は挙げれませんでしたが、1度目の演奏でも、確かにそれを感じました。逆に、2度目では一体感を感じましたよ。あれだけのピアニストは、そう簡単にはいないはずです」

 部活の帰り道、低音パートの仲間でもあり、友達でもある葉月ちゃんと緑ちゃんが、今日の演奏についてを語っていた。

 葉月ちゃんが一ノ瀬さんのピアノを聞いたのは、部活動後のピアノだけだったから、余計に気になるのかもしれない。

「ねえねえ、久美子と高坂さんは? どう感じたの?」

 その話は、私と麗奈にも飛び火していく。

「私は、よくわからなくなったかも……一ノ瀬さんのピアノを聞いてると、落ち着かなかったかな」

 正直なところ、1度目の演奏は私の中では襲いかかってくるような印象を受けてしまった。

 なにしろ、吹くのを途中で止めてしまった人がいたくらいなのだ。同じように感じた人はいたと思う。

「え〜……高坂さんは?」

「私は――コンクール前に一ノ瀬さんのピアノを聞けて良かった。荒削りだし大胆なピアノだったけど、切なくて、まるごと包み込まれているみたいだった。鎧塚先輩みたいな完璧な演奏じゃないけど、少しも完璧じゃないのに、凄く響くの。なんだか、聞いていると愛おしくなる」

 絶賛だった。

 常に自信に溢れた麗奈が、他人をここまで褒めるのも珍しい。

「逆に、2回目の演奏はどこか窮屈そうだった。私だけかもしれないけど、1回目の演奏の方が、ピアノの良さは出ていたと思う」

「でも、演奏めちゃくちゃになってたよ?」

「うん、だから吹奏楽の合奏としては、2回目が正解で、正確なんだと思う。優等生のピアノなら、絶対に2回目」

 麗奈はそう言いながらも、個人としては1度目の演奏の方が気に入っているらしい。

「麗奈ちゃんは、1度目の演奏が好きなんですね」

 緑ちゃんは納得したように、小さな手を合わせながら顔を綻ばせる。

 あすか先輩も、多分支持するなら1度目の演奏なんだろうなぁ。あと、滝先生の質問に手を挙げていた最後の一人である、鎧塚先輩も。

「コンクールまで時間ないけど、今日一ノ瀬さんのピアノを聞けたのは、北宇治にとってプラスだと思うよ」

「あ、それは緑も思います! 感情込めて音を奏でるって、どういうことかわかった気がします。一ノ瀬さんの音って、緑が聞いてきた音の中で最も感情や情景が流れ込んでくるので」

「えーなにそれ! もう〜私も聞きたかったなぁ」

「一ノ瀬さん、言ったら弾いてくれると思うよ? さっきも優子先輩と鎧塚先輩が話しかけてたとき、弾いてくれてたし」

「あー、たんたんタヌキね」

「それは聞いた! すっごいよねぇ。あんなにかっこよく弾かれたらわかんないよ」

 一ノ瀬さんの、アレンジされた演奏には最初、なんの曲だかわからない人が多かった。

 なんだっけ? 聞いたことある。といった感想は漏れていたんだけど、あすか先輩が曲名を言うまでわかる人はいなかったのだ。

 いや、正確には、一ノ瀬さんにリクエストした人がいたんだけど。

「緑、一ノ瀬さんのピアノ好きですよ。感情が溢れ出してきて、細かいミスなんて気にならない骨太なピアノです!」

「これからは休憩時間中に弾いてくれるって言っていたし、なにかリクエストしてみようかなー」

 そうして、今日の話をしながら、まずは緑ちゃんが。

 次に、葉月ちゃんがわかれていく。

 残ったのは、私と麗奈の二人。

「一ノ瀬さんの奏でる音……」

「麗奈?」

 二人になってから、麗奈の声は真剣なものに変わっていた。

「あの音は、特別だった……」

 絞り出すように出した声は、少しだけ震えていて。

「特別……」

「久美子、どこまで練習したら、あんな風に吹けるようになるんだろう」

「わからない。でも、一ノ瀬さんもきっと、凄い練習しているんだよね。じゃなきゃ、急に合わせられるわけないよ。アレンジだって、弾き慣れてたし」

「そう思う。でも、それだけじゃあの演奏はできない。きっと、一ノ瀬さんにも色々あるんだろうね」

 私にはわからなかった音。

 麗奈と、あすか先輩。それから鎧塚先輩に、緑ちゃん。

 もしかしたら、他にもわかった人はいたのかもしれない。

「もっと、うまくなりたいね」

「なる。絶対に」

 一ノ瀬さんが北宇治に与えた衝撃は計り知れない。

 北宇治のトランペットパートのエースでさえ、これなのだ。きっと、明日からの練習は更に激化する。

 それなのに、いまだどこか不安が拭えないのは、なぜなんだろう……。



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思わぬ出会い

 あれよこれよと話は進み、気づいてみれば、阿字野が行ってこいと言うものだから、北宇治の合宿にまで付いて来てしまった。

 滝先生にも、いいカンフル剤になるから是非、と言われてしまった。

 過去、色々と言われてきたが、まさかカンフル剤扱いされる日が来るとは思いもしなかった。

 けれど、悪いことじゃない。

「送り迎え付きとか、格段に楽だなぁ」

 基本、自力で行って、自力で帰ってばかりだったからな。

 こうして待ってれば目的地というのも、悪くない。

 なんてことを、バスに揺られながら考えてしまう。

「バイクもいいけど、ゆったりした時間もありだなぁ。今度、阿字野と旅行にでも行くかー」

「阿字野?」

「先生だよ、俺の」

 誰からの質問だったのかはわからず、適当に答えておく。

「前に言ってた、森のピアノは?」

「それは俺の原点。いまのピアノを形作ってくれた、俺を育ててくれたピアノかな」

「へー。一ノ瀬はピアノに育てられたわけね」

 また質問が飛んでくる。

 さっきは後ろから。今度は前の席からだ。

「ちょっと、いま私が話してるんですけど!」

「えー? 一ノ瀬はあんたのものじゃないでしょー。それとも、思春期真っ只中の優子ちゃんは、嫉妬ですか〜?」

「ちーがーいーまーすー!!」

 ぎゃあぎゃあ、わいわいと。

 俺が座る列を挟み、元気な声がバスの中で響く。

「だいたい、なんで毎回私が話してるときに絡んでくるのよ!」

「あんたこそ、どうして私が話してるときに同じように話してるかなぁ」

 何日か通っているだけでもわかるけど、言い争っている優子と夏紀。この二人は喧嘩するほど仲がいい関係なんだろう。

 もっとも、本人たちは否定するだろうし、そう簡単に言い表せるものでもないんだろうけど。

 しばらく言い合いを眺めていると、後ろの席から手が伸びてくる。

「……あめ、食べる?」

 突き出された手に乗っているのは、青い包装紙に包まれた飴玉。そして、こちらを見るみぞれの顔。依然として、その顔にこれといった表情が浮かぶことはない。

 とはいえ、好き勝手やっているといえば、彼女もだ。

「おう、ありがとう」

 主張が薄いのかと思えば、気づくと一人で好きなように動いている節がある。

 それでも個を感じないことに疑問はあるものの、この子もどこか歪なんだろうなぁ。どこか、友人でもあり、ピアノストでもある雨宮と似たところがある。

 いや、考えごとをしている阿字野の方が近いのか? 二度と掴めないものの、それでも掴みたくて……。

「解決するといいよなー」

「……?」

 意味はわからなかったのか、小さな動作ではあったが、首を傾げられてしまった。

 無意識に、なにかを求めているんだろうか?

「みぞれは、音を出すときになにを考えているんだ?」

 もらったソーダ味のあめを口に入れながら、気になっていたことを聞く。

 彼女の演奏は、完璧なピアノを弾く雨宮とよく似ていた。違うことは、雨宮の音を聞いているとかっこいいと思えるのに、みぞれの音は、空虚で寂しい。

「なにも」

 期待していた答えは、彼女からは聞こえなかった。

「なにも……わからない」

「――……そっか」

 楽しいのか、つまらないのか。

 それすらも、いまの彼女は感じていないのかもしれない。

「俺はさ、ピアノを弾くときは色々考えてるぜ?」

「いろいろ?」

「うん、いろいろ。誰に聞かせたいとか、ショパンの望む速度でだとか、これまで関わってきた人たちのこと。阿字野が教えてくれたこと」

「どう弾くか、じゃないんだ」

「もちろんそれも考えてるさ。でも、どう弾くかなんて、そのうちわかってくるし。ステージは生きてるから、その場その場で弾くしかないんだよ」

 練習でどれだけ考えて、自分の思うように弾けたって、実際に弾かないといけないのは本番だ。

 その日のコンディション、俺以外の演奏者、ステージを見に来た人たち。

 多くの影響を受ける本番では、これまでやってきたことだけでなく、その日その日の判断も必要なんだ。

「変なの……」

「いや、その言い方は酷いなぁ」

「……ごめんなさい」

「あ、いや。責めてるわけじゃなくてさ。うん、少しわかりづらい言い方だった」

 無機質な声の中、少しだけ紛れた不安げな感情。

 ちゃんと接してみると、みぞれもしっかりと感情が出ているのか? わかりづらいだけで、森にいた多くの動物のように、接し方が違うだけなのかもしれない。

「わかんないことを、わからないままにしないために、だよな」

 もう少し、踏み込んでみる勇気も必要だ。

「あれ? みぞれと一ノ瀬、仲良くなったの?」

 夏紀との言い合いに負け越している優子が切り上げ、みぞれへと声をかける。

「……?」

 しかし、みぞれはまたも首を傾げ、優子が訝しげな視線を俺に向ける。

 前にも理不尽に向けられたなー、この目。

「ぷぷぷ。相手にされてないでやんの〜」

「なんですってぇ!?」

 わかりやすい挑発に乗った優子が、またも大声を上げる。

「もう少し静かにしなさいよねぇ」

 さすがに騒ぎすぎたのか、あすかさんが二人を注意する。

 優しげな顔だが、声が冷え切っていたので次はないだろう。

「まったく、いつもいつも邪魔ばっかりして」

 仕方ないといった様子で座席に座り込む優子と、楽しげな顔を見せながら静かに腰を下ろす夏紀。

 対照的な二人だが、これがいつもの北宇治なんだろう。

 離れた位置に座る久美子が「うわーいつも通りだなぁ」とつぶやいていたから、みんな見慣れたものらしい。

「そういえば一ノ瀬、さっきあんたの先生のこと話してたわよね?」

 思い出したように、優子が身を乗り出してくる。

「んー? 阿字野のことか?」

「そう! その人! どんな人なわけ?」

 まさか阿字野に食いつく人がいるなんてな。

「それは――」

「みんな、もう着くから、降りる準備しておいてね!」

 今度は部長の声がバスの中に響く。

「また後で聞くから」

「りょーかい」

 もっとも、俺の荷物はそう多いわけじゃない。

 みんなは楽器や楽譜なんかがあるけど、俺は今回、おもちゃのピアノくらいしか、特別な荷物はない。

 ピアノ以外の楽器にも不慣れなので、楽器を運ぶことも少なく、手持ち無沙汰のままバスから降り、練習場へと向かう。

「さすがに、ピアノはないよなぁ」

 あくまで練習場所なだけで、ピアノがそう堂々と置かれているはずもない。

 せめてキーボードくらい……。

「あ、吹部の方で持ってきてるかな? あとで滝先生に確認してみよう」

 おもちゃのピアノじゃ限界があるし、なにより弾きたいときに鳴らしたい音がない! なんてことになりかねない。

 部活の時間中はシミュレーション。

 帰ってからは、ショパンの思想、長い歴史を感じながら弾き続け。

「夏休みで良かったな」

「おや、学生らしい言葉ですね」

 つい漏らした言葉に反応があったので振り返ってみれば、滝先生が笑みを浮かべながら立っていた。

「どうですか、何日か経ちましたが、吹奏楽部での日々は」

「毎日、多くの音が聞こえてきて楽しいです。自分の音ばかりじゃなく、他の音を気にかけたり、誰がなにを考えて吹いているのかわかってくるので、発見が多いです」

「それは良かった。なにも教えれないままでは、阿字野先生に怒られてしまいますからね」

「あはは……先生は怒らないと思いますよ。それに、僕にプラスになるからこそ、動いてくれたんですし」

 阿字野の行動理念からして、そこだけは揺るがない。

 これまで教わってきたことで無駄になったことなんて、ひとつもないんだから。

「いい先生をお持ちになりましたね。では、しっかり学びましょう。キミは時間を無駄にはしていないでしょうけど、より拾えるものが多くあるように。そして、我々がキミから多くを学ぶために」

「はい!」

 滝先生に続いて部屋に入ると、既に合奏のできる状態でみんなが待っていた。

「みなさん、すぐに練習といきたいところですが、まずはみなさんに紹介したい人がいます」

 滝先生の言葉に続いて、2人の男女が入ってくる。

 みんなの声を聞く限り、男性の方は既に知られているらしく、女性に関心が集まっている。

「今日から木管楽器を指導してくださる、新山聡美先生です」

 滝先生の隣まで来ると、滝先生が紹介する。

「新山聡美といいます。よろしく」

 綺麗な女性ということと、木管楽器の指導ということで、一部の生徒たちがざわめく。

「新山先生は若いですが優秀です。指示には従うように」

「滝先生にそう言ってもらえると嬉しいです」

 見つめ合い二人のせいか、滝先生の彼女説が早くも広まっていく。

 麗奈の目が死んだ魚のような目をしていたが、あれはどういう意味だったんだろうか?

「あら、そこにいるのって……」

「ねぇ、僕も気になっていたんだよ。滝くん、彼、この前M響とピアノ弾いてたよね?」

 などと周りを見ていれば、滝先生を挟んで、新山先生たちの反対側に立っていた俺に話が向いていた。

「双方に紹介がまだでしたね。一ノ瀬くん、こちら、夏休みの間練習を見てくれている、パーカッションのプロでもある、橋本先生です」

「はしもっちゃんと呼んでくれていいよ〜。キミ、この前のJAPANソリスト・コンクールで、初めてソリスト賞に選ばれてたよね? 演奏聞いたのはコンクール曲とM響とのセッションだけなんだけど、一緒に演奏してみたいと思ったよ」

「ありがとうございます。ピアニストとして、光栄です」

 差し出された手を握り返すと、ほどよい力加減で握り返された。

「うん、初めて聞くピアノだっただけに、僕もう興奮しちゃってさぁ。ピアノコンクールに聞きにきてくれって友人が言うもんだから付き合いで行ったんだけど、行って正解だったよ。あ、よければ、あとで弾いてよ。キーボードしかないけど」

「十分です!」

「お、言うねぇ。プロの前でその自信! いいね、いいねぇ」

 橋本先生との会話の中で出てきた単語がみんなに聞こえたのか、新山先生が来たときと同じようにざわめく音が広がっていく。

「ん? もしかして、言ってなかったのかい?」

「一ノ瀬くんのことは、深く話していませんので。個人の問題もありますから、話していいラインは一ノ瀬くん本人に任せようと思っていましたから」

「あら〜、それは失敬」

「いえ、だいじょうぶです。コンクール結果なら、隠すことじゃないですから。探せば簡単に出てくる内容ですしね」

 そうして、思わぬ出会いはあったものの、指導者が増えた北宇治の練習は、さらに質が上がっていく。

 



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月光

 橋本先生と一ノ瀬さんは、気がつくと休憩時間に話していることが多く、橋本先生がドラムを叩く動作をすると、一ノ瀬さんは笑いながらピアノを弾く仕草をする。

 二人がとても楽しそうに話すものだから、周辺には人が集まる。

「えぇ? カイくん、森でピアノ弾いてたの? ロマンチックだな〜。あ、だからあんな月光弾けたの?」

「あはは、あれは先生の教えもあってこそですけどね。でも、森のピアノがなかったら、そもそもこうしてピアノを弾いてなんていなかったと思います」

「うんうん、きっかけは大事だよね。何事も、ちょっとしたことで変わるわけだし。なにより動機付けにもなる!」

 このように、初対面のはずなのに、長年の友人のように会話が続いているのだ。

 一ノ瀬さんって、やっぱりどこか変だよなぁ。

「久美子ちゃん、どうかしましたか?」

 ぼうっと二人の様子を眺めていると、緑ちゃんから声をかけられた。

「んー? とくに意味があるわけじゃないんだけどさぁ。一ノ瀬さん、どうしてああも簡単に人と話せるんだろうって」

「一ノ瀬さん、警戒心を抱かせないと言うか、話しやすいんじゃないですか?」

「そうかなぁ?」

「そうですよ! あんなに音楽が好きな人が、いい人じゃないわけないじゃないですか!」

 にこにこと、それはもう嬉しそうに話されると、毒気が抜かれる。

 緑ちゃんも、自分の世界観というか価値観があるからね。

「おや、もう仲が良くなったようですね」

「ふふっ、あの二人、ちょっと似てるせいかも」

 先生方はそれを予想していたのか、こちらも談笑していた。

「さて。みなさん、次の演奏で本日は終わりとしますので、最後の集中をしてください。一ノ瀬くん、橋本先生。仲がいいのは良いことですが、そろそろ始めますよ。続きは練習後にお願いします」

「「はーい!」」

 滝先生が呼びかけると、騒いでいたみんなが席に戻っていく。

 それは中心にいた二人も例外ではなく、声を揃えて返事をし、前へと歩く。

「いやー、滝くん怖いねぇ」

「たはは、思ったよりねちっこくて、蛇みたいですよね」

「お、確かに! いやー、さすがは滝くん」

「なにか言いましたか?」

「「なんでもないでーす!」」

 滝先生から抑揚のない声が聞こえたかと思えば、肩を組んで陽気な返事をする一ノ瀬さんと橋本先生。

 いやいやいや、仲良くなりすぎでしょ……。

 よく話しかけているところを見かける優子先輩や鎧塚先輩の様子をうかがってみれば「なにあれ……」と呟いて呆れていた。鎧塚先輩に限っては無反応である。

「一ノ瀬くんは人との壁とかないのかねぇ」

「あすか先輩……」

 休憩時間にも関わらず、外に一人、吹きに行っていたあすか先輩が帰ってくるなり、二人の光景を目にしたのだろう。

 普段と変わらぬ声だが、少しばかりの驚きと呆れが感じられた。

「ああいうタイプは調子狂わされそうだからねー。まあ、一ノ瀬くんにかき乱す気がないからいいんだけど」

 どこか冷静で、それでいて冷え切ったような声に転じたそれは、私の耳に残る。

「先輩、それどういう――」

「練習始まるよ、黄前ちゃん。ほーら、集中集中」

 頰をつままれ追求できぬまま、滝先生の話が始まってしまう。

 結局、あすか先輩の発言に対して質問することはなく、この日の練習は終わりを告げられた。

 

 

 

 

 夕食も食べ、お風呂にも入り。

 あとはもう寝るだけとなった時間の中。

「……ピアノ?」

 隣にいたみぞれから声が上がったのは、そのときだった。

「どうしたの?」

「誰かが、弾いてる」

「え? あ、ちょっと……みぞれ?」

「優子、行こう……」

 服の裾を掴まれたかと思えば、珍しくみぞれから行動を起こした。

「はあ……いこっか。こんな時間に楽器持ち出すような人はいないと思ったんだけど」

 そもそも、ピアノとは言ったが、あるとしたらキーボードだろう。

 キーボード……なんか、すっごく心当たりがある気がするのよねぇ。

 みぞれにつられるままに進んでいくと、どうしたことか。

「よりにもよって外で弾くって……」

 充電してあったのか、キーボードを持ち出し、音量こそ抑えているが、好き勝手に鍵盤を叩く一ノ瀬の姿がそこにはあった。

「月光……」

「え? みぞれ、わかるの?」

 隣で聞くみぞれに尋ねると、ひとつ首を縦に振り、

「ベートーベン。ピアノ・ソナタ第14番……嬰ハ短調作品27−2」

「うわっ、予想よりずっと詳しく出てきたわね……」

 その曲名は、月光――。

 月明かりはしっかり辺りを照らしているのに、一ノ瀬の付近だけに月明かりが集まっているように思える。

 最初の演奏のときから、ずっと耳に残る、一ノ瀬のピアノ。

「……っ」

 聞いていると、みぞれが息を飲んだのがわかった。

 ふと隣を見れば、胸の前で手を握り、目を瞑って聞き入っている様子のみぞれが視界に映る。

 いつも、誰の演奏にも反応を見せたりしないのに……珍しい。

「っていうか、なんなのよこれ…………」

 隣の光景も滅多に見ないものなのだが、それ以上に、どうしてもわからない点がある。

 キーボードを弾く一ノ瀬の周りに、リスや小鳥たちが集まってきているのはおかしいでしょ! なんであいつの肩にも小鳥がとまってるのよ!

 そう声に出して叫びたいところなんだけど、みぞれも聞き入っているし、なにより、あいつの演奏はそんなことを許さない。

 練習疲れもあり、積極的に演奏を聴きたいとは思わない私の耳も、このピアノの音は絶対に逃さない。

 鼓動が逸るのを感じる。

 どうしようもなく、切なくなる。

 音に疲れた私を、まるごと包んで、こんなにも心を締め付けて……こんなにも、愛おしい。

「――……きれい」

 いつしか、私は森にいた。

 背の高い木々に囲まれ、空から降る月の光のみが照らす、森の中に。

 やがて最後の一音を弾き終えると、一ノ瀬の周りにいた動物たちが散り散りに去っていく。

「ふぅー……あれ?」

 大きく伸びた一ノ瀬は、近くで聞いていた私とみぞれに、すぐに気がついた。

「優子にみぞれじゃんかー。どうかした?」

「音、聞こえたから」

 彼の問いに、みぞれが簡素に答える。

「ふーん? そっか。来たのは二人だけ?」

「たぶんね。他の子たち、もう寝ちゃってるか、もしくは女子会よろしくなってるからね」

「あー……うん、なんとなくわかる」

「いや、なんで男のあんたがわかるのよ」

 確かに、悔しいけど、女の私から見ても綺麗ではあるけど! 女装させたら様になるどころか、男と思わないくらいになるとは思うけど!

「そう睨むなって優子。威嚇してくる蛇じゃあるまいし」

「誰が蛇よ!」

 んもう、この無神経! わざとやってるわけじゃないのはわかるけど、これはこれでむかつく!

「優子は、人……?」

「んーまあ、人だろうな」

「あ、あんたたちねぇ……」

 みぞれが首をこてんと傾けながら、なぜか疑問系で聞いてくる。

 たまにノリがいいというか、空気を読まないというか。こういうときのみぞれは結構掻き乱してくるわけね。

「私が人かどうかの話をしたいわけじゃなくてね」

「優子、人じゃない?」

「みぞれー? 私は人だからね? いいわね!」

「……わかった」

 ひとまずは良しとして、一ノ瀬に向き直る。

「他に人がいないからいいけど、弾くならせめて中で弾きなさいよ。どうして外なわけ?」

「悪いかなーとは思ったんだけど、月が綺麗だったから、ちょっと月明かりの中、森を感じながら弾きたくなったんだよ。ほら、ここってちょうど机も椅子もあったわけで」

「はあ……あんたねぇ。滝先生には許可取ったんでしょうね?」

「……弾く許可は取ったよ」

「場所は?」

「…………すいませんでした」

 呆れた。

 あれだけのピアノが弾けるのに、こうしたところは自由人なのね。

 いや、自由人だからこそ? ほんと、よくわからない奴。

「ピアノ、もっと聞きたい」

 こっちが一人呆れてるところに、一ノ瀬の服を掴んだみぞれが彼に話しかける。

 他人に対して積極的なみぞれを見るのは、これで二度目だと思う。

 かつて、私たちの中心にいて、いまは、私たちを振り回している一人の女の子。

 彼女以外に、みぞれが自分から話しかけに行くなんてね。

「私も、もう少し聞きたいかな」

「なんだよ、さっきまでは文句言ってたくせに」

 嫌味を口にする一ノ瀬だが、その顔には笑顔を浮かべていて。

「だめ?」

「いや、いいよ。でも、今日は俺のステージ。演目は、ショパンだけでな」

 言うが早いか、一ノ瀬は再びキーボードの前に座り込んだ。

 私たちも、机を挟んで反対側の椅子に腰かける。

「なんでショパンオンリーなわけ?」

「俺と、俺の先生のためかな。結局は自分事だけど、ショパンを弾くのは、コンクールのため。そこで、俺の音を世界に届けるため」

 私たちが全国出場のために全力で当たる中、一ノ瀬は世界を相手にしようとしている。

 こいつの口から漏れる言葉から、いくつかそれらしいコンクールは見つけている。

 世界……。もっと、うまくならなきゃ。

 こんな間近に、もっと上を目指して努力している人がいるんだもの。もっと、もっと。

「うまくなりたい」

 呟いた言葉は、演奏に掻き消え、誰に聞かれることもなかった。

 けれど、確実に。

 私の中で、練習に対する気持ちが変化した瞬間でもあった。

 同時に、みぞれにも変化が起きていたことを、私は次の日の合奏で、知ることになる――。



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悲しげな音は

なにやら昨日からランキングにのっていたようで。
ハーメルンではマイナー作品になるであろう「ピアノの森」のクロスオーバーが思ったよりも読まれているようで嬉しいです。
もっと増えても、いいんですよ。


 演奏の最中、突然音が変わることは、ありえないことではない。

 小学生の頃に出たコンクールでも、ピアノが変わった人を見てきた。だから、たとえピアノじゃなくても、それがないとは言い切れない。

 音は生きているから、変化もする。

「昨日、なにかあったのかな?」

 最初は、正確すぎる音だけだった。感じるものはない、完成した無機質な音。

 でも、いまは。

「いろいろ、ごちゃごちゃしてる……」

 いい変化なのかはわからないけど、感情のなかった音に、一気に感情が戻ってきた。

 それなのに、音は良くはならなくて。

 感じる音は、悲しげで、不安で、とても綺麗なのに寂しい。

 昨日ピアノを聞いていたときは、普段となにも変わらないように見えた。優子もなにも言わなかったし、おそらくあの時点じゃまだ普通だったんだろう。

 となれば、あの後か。

 ピアノを弾いて、別れた後。

「はあ……やっと感情が出てきたのに、前途多難だなぁ」

 だからこそ、本気で聞きたいと思える。

 いまだ表情は変わらないのに、感情が漏れ出し始めた、みぞれのオーボエを。

 この音は、特別になれる。ジャンや阿字野が聞いたなら、きっと楽しみだと言うに違いない。

 みぞれがオーボエの声を聞いてくれたなら。

 俺にはわからない、彼女の中にあるなにかが変わりさえすれば――。

 そうしている間に、何度目かの合奏が終わった。

「どう思う? なんか小声で呟いてたけど」

 隣で聞いていた橋本先生――昨日話でノリが合うのか、『はしもっちゃん』と呼ぶことになったけど――が耳打ちしてくる。

「いやー……オーボエがですね」

「ああ、あのうまい子ね。滝くんはあれでいいみたいだけど、やっぱり気になるよねぇ。特に、今日は不安定っていうか」

「はしもっちゃんもそう思います? 昨日と同じように音は正確なんですけど、無機質な色に少しだけ色がついたというか……」

「そう、それそれ。でも、色が多すぎるね。しかも、寒色や無彩色というか、どうにも不安や寂しさを誘うんだよねぇ。まあ、無理に突っ込んで崩れるのはまずいとは思うけど」

 阿字野も、人には崩れやすい人がいるって言ってたな。

 繊細そうに見えるから、心配ではあるけど。優子も、それがわかっているから気遣っている節がある。

「寂しさはありますけど、綺麗ですよ。月みたい――あっ……」

「なになに、どうしたわけ?」

「いや、もしかしたらなんですけど、昨日の夜にキーボードいじってたんですけど、そのときにみぞれと優子が聞いてて」

「お、青春の話〜? 僕そういうのも好きだよー」

「ではなくてですね」

「えぇ……カイくん絶対モテるでしょ〜」

 はしもっちゃんの話は置いておいて、みぞれの演奏に生じた僅かな変化。

 月光。

 湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう。

 遥か、彼方からの魂の悲しげな声。

 過去、そのように表現されることもあった一曲だ。

 ベートーベンのエピソードとしては、叶わぬ恋があり、その切なさも表現されていると評されることもあれば、身近にいた人の喪失という面も持っているらしい。

 みぞれはピアノに関して知識があるのはわかっている。だから、もしかしたら昨日月光を聞いたせいで、それらの感情と自らのなんらかの環境や想いがリンクしてしまった可能性はゼロじゃない。

 けど、同時にこの曲は変化し、展開していく曲でもある。

 もしも。

 もしも、この状況からみぞれの音が更に変わることがあるのなら。

 深い悩みや後悔の中、それでも顔を上げて、悩みから逃げずに、己の心を出し切ることができたなら。

「そうしたら、みぞれの音はきっと変わる。いまよりもずっと、もっとずっと良くなる」

 いまはまだ、この小さな変化に気づいた人は少ないだろう。

 周りはなにも変容を見せず。

 恐らく気づいただろう滝先生と新山先生は沈黙を守る。

「学生だからか?」

「正解。まだ学生だからね。カイくんの先生がどうかはわからないけど、普通は、まだ高校生だから。それで終わるもんだよ。でも、もったいないよね、こういうの」

「そうですね。あのオーボエは、もっと遠くまで響くことができるのに。このまま籠の中にいても、なにも変わらない。もっと大空に、世界に響くことができる音になると思います」

「だね。よし、ここはこの橋本大先生に任せなさい」

 そう言うと、はしもっちゃんが一歩前に出る。

 振り返り、俺に笑いかけた後、

「こういうのはね、大人の役目なのさ。導くのも、ちょっと嫌われるのもね」

 やけに大きな背中を見せつけながら、滝先生の隣へと歩みを進める。

「滝くん、ちょっといいかな?」

「はい、なんでしょう?」

「うん、いまの演奏について、思ったことを言いたくてさ」

「……そうですか。では、お願いします」

 確認を取ったはしもっちゃんは、咳払いをひとつすると、みんなに話しかける。

 それは、全体の演奏面、パーカスに対する細かい指摘。

 最後に――。

「ねえ、滝くん。オーボエのソロ、あれでいいの?」

 これまで特に指摘のなかったオーボエに対しての指摘に、みんなが息を呑んだのがわかった。

 そんな空気はものともせず、はしもっちゃんはみぞれに向き直る。

「音も綺麗だし、ピッチも安定してる……昨日までの演奏なら、ぶっちゃけつまらなかった。けど、今日の演奏は感情が出ていた。けど、キミはそれでいいわけ? 正直、今日の演奏は悲しすぎる。ずっと悲鳴を聞かされているみたいだったよ」

 ストレートに言ってのけるなぁ。

「昨日はロボット。今日は泣き叫ぶこども。1日でここまで演奏が変わる奏者も珍しいけど、逆に不安定すぎる。鎧塚さん、キミはこのソロをどう吹きたいと思っている? なにを感じながら演奏してる?」

「……月明かりと、森……あと、湖?」

「それでかぁ……このソロはそんな悲壮感でちゃ困る。世界で一番うまい私の音を聴いて! くらいじゃないと! ほら、カイくんやトランペットのソロの子みたいに!」

 ああ、麗奈は確かに自信満々に吹くよな。

 府大会のときも、この会場で一番のトランペット奏者は自分だ! と言わんばかりの演奏だったし。

 麗奈は主張するタイプなんだろうな。

 みぞれも、主張がないわけじゃなく、むしろ音の主張は強い部類だ。けれど、その届く音がここまでつらいのは、俺の演奏だよなぁ。

 月明かりに、森と湖。

 そんなつもりはなかったけど、夜に弾いた月光の側面を演奏に重ねてしまっている。

「表現力はある! あとはその方向性だ! キミたちの演奏はどんどんうまくなってる。でも、些細な食い違いや、方向性の違いで届けるべき表現がてんでバラバラになってるんだよ。この表現が1方向にまとまりさえすれば。そこが強豪校との決定的な差だ」

 これ以上突っ込むつもりはないのか、みぞれへの指摘をやめ、全体への指摘に変える。

「おや。橋本先生も、たまには良いことを言いますね」

「たまには余計だろ? 僕は歩く名言集だよ」

 悪い方向に行きかけた雰囲気まで修正してみせ、あたりには笑顔が戻る。

 厳しくも優しい指導者か。

 俺も過去、阿字野のピアノをなぞって弾いたことがある。自分の音じゃなく、阿字野の真似をして、耳に残る鮮烈な音を再現してしまったことが。

 それじゃダメなんだ。

「自分の音を響かせないと……」

 各々に課題を残し、2日目の練習は終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 夜は花火やら出し物をやって盛り上がり、男子連中で楽しんだ。

「さて、みんな寝る時間だよなぁ」

 充電しておいたキーボードを持ち出し、寝泊りしている部屋から離れた場所まで来る。

 ここまで来れば、寝ている人たちに迷惑はかけないだろう。

「やっぱりあんたか……」

 などと思っていたら、優子が待ち構えていた。

 ついでと言わんばかりに、後ろに久美子までいるんだけど。

 にしても。

「優子って、リボンないと認識しづらいよな」

「あんたケンカ売ってるわけ!?」

「いやいや。それで、どうしてわかったんだー? 誰にも見られずにキーボード持ち出したんだけど?」

「さっき黄前と話しているときにね。キーボードがないのに気づいたのよ。まさか、今日も弾くつもり?」

「え? 昨日も弾いてたんですか?」

 優子に聞いてみれば、久美子に昨日のことがばれた。

 隠す必要はないけどな。

「弾くよ、もちろん。朝も弾いてたしな」

「あんた、呆れる程の体力ね」

「まあね。体力つけないと、やっていけないからさ。肉体も精神もタフでないとピアノは弾けないよ。コンサート1回2時間……ヘタすれば3時間。体力も精神も強くなければ、集中力をもって演奏することはできない! これ、俺の先生の受け売りだけどね」

 俺が言われたことを伝えると、優子は真剣な顔になった。

 久美子も、どこか真面目に聞いているように感じる。

「ねえ、一ノ瀬。みぞれの演奏のことだけど」

「あー、うん。たぶん、俺が弾いた月光のせいだと思う」

「そう、だよね……あの子、いろいろあってさ――――……一ノ瀬、今日も弾くんだよね? みぞれ、連れてきてもいい?」

 ここで俺を怒らないのも、みぞれを気遣うのも、優子の優しさなんだろう。

 誰が聞いていても、聞いていなくても。弾くことは変わらない。

「わかった。みぞれを連れてくるまで待ってるよ」

「ありがとう。黄前、あんたは戻って、ちゃんと寝るのよ!」

「え? あっ……あの、私も麗奈を連れてきたいんですけど、いいですか?」

「…………はあ、どうなの、一ノ瀬」

 久美子が素直に従うと思っていたのか、しばしの沈黙の後、優子がこちらに聞いてくる。

「俺は構わないよ。二人とも待ってるから、早く連れてきたら?」

 遠のいていくふたつの足音を聞きながら、夜空を見上げる。

 星々が輝く空の下。

 綺麗なはずなのに、どこか悲しげなその空は、今日の北宇治の演奏とよく似ていた。

 俺がいま響かせるべき音は、この夜空を明るく照らす音なのかもしれない。



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一ノ瀬とは

本日はとても嬉しい発表がありましたね。
これで今年も生きていけそうです。


 滝先生が来てから、吹奏楽部は大きく変わった。

 けれど、府大会のあと、部は更に変わったように見える。

「一ノ瀬海くん、かぁ……」

 滝先生が呼び寄せた、私たちよりひとつ年下の男の子。

 綺麗な顔立ちに、最初は女の子なのかと思ったけど、話してみれば、確かに男の子だとわかった。違ったのは、話していても視線が必ず目に向いていることだろう。そこだけは、他の男の子とは違っていた。

 とはいえ、来て2日目で、どんどんレベルを上げている北宇治の吹奏楽部の演奏に、アレンジを加えてピアノで合わせてきた規格外な子だった。

 ここは、やはり滝先生が連れてきただけはあると部員のみんなを納得させたものだ。

 最初の一曲で演奏が崩れたときは、とんでもない子かとも思ったけれど、音が減り、あすかや高坂さんなどの音と共に吹いていると、そのピアノはどこまでも音が響くようで、楽器が減ってしまったオケなのに、いつもより上手に吹けている気がした。

 あのピアノは、きっと特別だ。どれだけ練習したら、どれだけ恵まれたら、あの領域に辿り着けるんだろう。

 そのことだけが、私の中に残った感想。

「うぅー……一ノ瀬くんは普通の子だと思ったのに」

「まあまあ。一ノ瀬くん、とってもいい子だよ?」

「それはわかってるけどぉ……わかってるんだけどさぁ」

 目の前で机にうなだれる晴香を宥める。

 本人のことは別として、きっと演奏面で言いたいことがあるんだろう。

 私たちが一ノ瀬くんとピアノを合わせたのは、いまだ2回きり。

 合宿の際中は演奏を聴いて、他の先生方と同じように意見を出してくれていたんだけど、その指摘は思いの外的確で、同じ高校生でも差があるものだと思い知らされた。

「香織は、一ノ瀬くんの演奏どう思う?」

「んー……綺麗な音だったかな。最初のピアノは特に」

「はあ……香織もそっち側かぁ」

 晴香は一度上げた顔を、再び机へと戻してしまう。

「もう、どうしたの?」

「私たちはどんどんうまくなってる。それがわかる……けど、あの日聴いた一ノ瀬くんの演奏が、どうしても頭から離れない。あんなピアノ弾かれたら、あんな表現力を見せつけられたら、わからなくなるよ」

 吹奏楽とピアノは違う。

 そう言うのは簡単だったけれど、どうしてもその一言が出てこなかった。

「……一ノ瀬くん、高校生なんだよね」

「そうだね」

「なら、どうして北宇治に来てるんだろう……よくわからないのは、少し怖い」

 滝先生は、一ノ瀬くんのことについては特に説明をしてくれない。

 唯一話があったのは、彼がピアノ奏者であることだけ。

 一ノ瀬くんもまた、ピアノや音楽に関しては聞かれればすぐに応えてくれるが、自分のこととなると、当たり障りのないことばかり話しているような気がする。

 あの子のピアノはよく見えるのに、あの子自身が見えてこない。そんなところだろうか?

「休憩中だからって、緩みすぎじゃないの〜?」

 そうして晴香を宥めつつ、自分の中に湧いた疑問を紐解こうとしていると、ユーフォニアムを持ったあすかが教室に入ってくる。

「あすか」

「あすかぁ……」

 最近見ていなかった弱気な晴香を見てか、あすかの目が吊り上がったような気がした。

「ほーら、部長が暗い顔をしないの」

「わひゃってふ!」

 両の頬を摘まれながら抵抗する晴香を笑いながら見届けたあすかは、すぐに手を離して晴香を解放する。

「まったく。手がかかるのは後輩だけでいいんだけどな」

「あすか?」

「ううん、なんでもない。じゃあ、個人練行ってくるから」

 声をかける間もなく、あすかは教室を出て行く。

 あの日、滝先生の質問にしっかりと手を挙げていたのは、3人だけだった。

 そのうちの一人であるあすかは、一ノ瀬くんをどう見ているんだろう。

「香織〜」

 隣にいる彼女にも聞いてみようかと思った矢先、それより早く、向こう側から声をかけられる。

「はいはい。それよりもいいの?」

「なにが?」

「なにって、部活のスケジュール、まだ詰めきれてないところがあるんでしょう?」

「あっ! あすか、ちょっと待って!」

 思い出したのか、晴香はあすかが出て行った方向へと早足に駆けて行く。

 けれど、焦っていたのか、プリントと筆記用具は置き去りだ。

「もう、しょうがないんだから」

 机に広げられたそれらをひとつにまとめると、私も二人を追うように、教室を後にした。

 

 

 

 

 

 一ノ瀬の夜のリサイタルを聞いてから、みぞれの様子がおかしいことにはすぐに気づいた。

「まさか、黄前まで事情を知っているとは思わなかったけど……」

 けど、あの子は多分、知っているからといって、悪い方向に話を進めるタイプには見えない。あるとすれば夏紀と希美かと思っていたが、部活に復帰したいらしい希美がみぞれに近づく気配はいまのところなかった。

 みぞれと希美のことをあいつが知れば、ロクに動けなくなるのは見えてる。

 部活を1年のときにやめ、なにも告げることなくみぞれを置いていった彼女に、悪気がなかったわけじゃない。端から見ていても、希美が限界に来ていたことはわかっていたし、あのまま残っていても、彼女にはつらい日々が続いていただろう。

 なにより、少々勝手が過ぎるのではないか、という個人的な気持ちがないわけでもない。だからこそ、自分はこの問題に首を突っ込むべきではないのだ。

「なんとかできるならなんとかしてるわよ……」

 その方法が思いつかないから、無理に動かないだけだ。より詳しく言うのなら、動けないのだ。

 みぞれと希美の間では、たぶん本人たちも気づかないうちにズレが生じている。それすら気づかないのだから、会って話す機会を作るだけではダメかもしれない。

「でも……」

 みぞれの世界は希美しかいないわけじゃない。

 いつか、彼女以外の人がみぞれに手を伸ばすかもしれない。

 自分のように、みぞれの側に立つ人が現れるかもしれない。

「もしも、それがあいつなら――」

 現に、あいつの音を聞いて、みぞれの音にも変化があった。

『……月明かりと、森……あと、湖?』

 夜のリサイタルを聞いていなければ、決して気づけない変化。

 みぞれは一ノ瀬のピアノに、なにかを感じている。この1年、誰からの干渉も受け付けなかったみぞれが、だ。

 希美でも自分でもない。いきなり来た一ノ瀬が、みぞれの心を開きかけている?

「もし本当にそうなら、このまま……あいつがみぞれの側に立ってくれればいいのに」

 あの子は一人では立てない。

 側で寄る辺となり、支えてあげないと。

 友達として、みぞれのことは大切に思っている。けど、あの子の心の隙間を埋めるには、きっと一人では足りないのだろう。この1年を通して、それが薄っすらとわかってしまう。

 だから、一ノ瀬にも……いや、あいつはいつまでも北宇治にいるわけじゃない。同じ高校生なのだから、夏休みが終われば元の高校に戻るだろう。

「なに、弱気になってるのよ。バカじゃないの……」

 当然のことだった。

 いっそのこと、一ノ瀬が北宇治に転校してくればいいのだ。部員のみんなとも仲が良くなってきているし、先生方からの受けもいい。現在通っている高校での成績も良いって梨子から聞いているし、北宇治の生徒になるのになんの障害もないはず。

 そう、理不尽な思いを止められはしなかった。

 それほどに、みぞれの心に触れられる存在は貴重なんだから。だからこそ、一緒にみぞれを支えてくれたらと思ってしまう。同時に、そんなことはさせられないとも感じている。

 あれだけの技術と感性、視野は一朝一夕で身につくものではない。

 なにより、一ノ瀬のもつピアノへの想い……まだ出会って日が浅いのに、ひしひしと伝わって来る、ピアノにかける想い。

 毎日のように血の滲むような努力の末に掴み取ったのだろうあいつの演奏を聴かされたら、なにも家なくなる。。だからこそ、あいつの道の邪魔をしてはいけない。

 今日思ってしまったことは、明日には忘れていよう。

 でなければ、あいつさえ巻き込んでしまいかねないのだから――。

 

 

 

 

 

 一ノ瀬……一ノ瀬海。

 よくわからないけど、少しだけ気になったのは、あの音のせい。

 人の心に無遠慮に入ってくるピアノの音。でも、それが嫌なんてことはなくて、むしろ心地よかった……。

 わからなくなる。

 私とは真逆のような人なのに、奏でる音は、どこまでも自由で、どこまでも響く音のように思えた。

 あの音は、私を解き放つような、そんな……でも、私には無理。

 綺麗で、心地いい音なのに、聞いているとどうしても不安になる。

「どうして……」

 側にいてくれないの?

 最後まで声に出なかった言葉が、自分の中に沈んでいく……。

 どうして、私だけ――。



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フルート

 色々な楽器のパート練に参加させてもらい、たまにチューニングやタンギング、拍取りなんかで少しキーボードで弾いたりして練習にも加えてもらっていた。

 チューナーなんかの機器は使ってこなかったけど、M響の人たちが使っていたのを少し見ていたので用途は知っていた。

「まあ、こうしてしっかり見るのは初めてなんだけど」

 合奏練習の休憩時間中に優子が使用しているのを後ろから眺めながら、チューニングが終わるのを待つ。

 やがて音が合ったのか、チューナーをしまってしまう。

「演奏中ずっとつけてるわけじゃないんだな」

「まあね。そういう練習をするとこもあるけど、うちはあまりやらないわね。それより、あんまりジロジロ見られると集中できないんだけど」

「そう? でも本場は俺一人じゃなくてもっと大勢の人に注目されるし、審査員なんてもっとよく見てくるんじゃないか? ああ、でも見るよりは聴くだから少し違うかな」

「あんたねぇ……こんな近くで見られてたら気になるのは普通でしょうが」

 目を吊り上げてさも睨んでますといった表情を向ける優子。

 そんなに嫌だっただろうか?

「悪かったって。ほら、昼の弁当のおかずやるから、機嫌直せって」

「……はあ、いいわよ。というか、いつも思ってたんだけど、あんたもしかして自炊してるわけ?」

「してるよ。なんだかんだで一人暮らし始めて結構経つしな」

 優子との会話中に生活のことを話したら、他のメンバーが釣れてしまった。

「一ノ瀬くん、もう一人暮らししてるの?」

 香織さんが驚いた様子で会話に入ってきて、俺の代わりに優子が嬉しそうに答える。

「はい。一ノ瀬、結構前から一人暮らしをしているみたいで、こっちでも部屋を借りてるらしいですよ」

「へぇ……凄いね」

 高校生で一人暮らしって、そう多くはないもんなぁ。

 でも、俺にとっては生きることに関しては慣れたものというか……正直、暮らしじたいは一人の方が快適だ。時間も自由だし、なにかを忘れていても責められることはない。

 なにより、安全だ。

 俺の生きてきた環境って、比べられるとひどいもんだしなぁ。これは言わないというより、言えない問題だし、黙っておこう。

「一人暮らしかぁ。大変そうだけど、私もそういったこと考えないとなぁ」

 香織さんは今年度で高校を卒業するから、割と間近に迫った話でもあるんだよな。大学入ってすぐに一人暮らしをする必要はないけど、考えてしまうこともあるんだろう。

「一人暮らしって、大変じゃないの?」

「大変ですよ。阿字野にはよく、料理について小言を言われますし、他の人たちからも結構色々と突っ込まれますからね。あとは……俺の家はないですけど、人の集まり場所にされたりはあるみたいですよ」

 香織さんの質問に答えると、彼女は笑顔を浮かべて頷いていた。真剣に聞いているのか、楽しんでいるやら。

 うちに来るとしたら、先生である阿字野か、親であるレイちゃんくらいのものだろう。

 以前、年齢も性別も偽ってバイトをしていた事があったが、彼女たちから俺の情報が出回ることもないし、M響の人たちも家にまでは来ない。

 うん、やっぱり他に心当たりのある人はいないか。

「そういえば一ノ瀬、あんたのことで気になってたことがあって、悪いけど、少しだけ調べたんだけど……」

 なんて話をしていれば、こちらを見上げる優子が、少し不安げに声をかけてくる。

「ふむ……それで?」

「あ、うん……あのさ、あんた橋本先生が知ってたり、滝先生が一目置いていたりするじゃない? だから橋本先生の言ってたコンクールを調べたのよ」

 はしもっちゃんが言っていたとすると、M響のときだな。それなら一切問題ないやつだ。

「ふむふむ……」

「悪いとは思ったのよ? でも、やっぱり気になって」

「なるほど、なるほど」

「真面目に聞いてる? とにかく、それで結果も見たけど、初のソリスト賞って発表されていたけど、つまりあんたはプロと一緒に演奏したことがあるってことよね?」

 もちろん真面目に聞いているのだが、受け答えはお気に召さなかったらしい。

 ついでに、調べればわかることだけど、いままでこの北宇治の吹奏楽部では話題に上がらなかったことが話題に上がった。

「本当だよ。ソリスト賞をもらって、M響の楽団と一緒に演奏したし、北宇治に来る前も何度か演奏させてもらってる」

 とはいえ、既に公開されている情報なだけに、隠すことはなにもない。

 優子がなにを気にして調べたのかはわからないけど、そう怒る事でもないらしい。

 一番懸念するべきことがバレたわけじゃないので、こっちとしては一安心、かな? いやー、俺の出生とかだったら危なかったなー。

「それで、優子の知りたかったことはわかったのか?」

「うん、ありがとう。ねえ、一ノ瀬。ひとつ聞きたいんだけど、M響は、あんたのピアノと合わせたんだよね」

「もちろん」

「それは……あんたのピアノ? それとも、優等生のピアノ? 弾いたんでしょ、プロの一員として」

 どこまでも真剣な瞳に、適当を言うことを妨げられる。

 本当に知りたかったことは、訪ねたかったことは、こっちか。

 どう作用したのかまではわからないけど、2日目のピアノに、夜に弾いたピアノ。それらが影響を与えちまったらしいことは俺にも理解できた。これが滝先生の期待通りなのか、はたまた、阿字野が俺に課した課題なのか。

「…………弾いたのは、俺のピアノだったよ。それでもって、めちゃくちゃいい演奏になった」

 どう答えればいいのかわからず、悩んだ末に、事実と思ったことを偽りなく伝えた。

「そっか……そうだよ、ね。あんたのピアノにも合わせられるんだ……そっか。ありがとね、話してくれて」

 すぐに顔を背けてしまったので、その表情は窺えなかった。

 握られた拳がきつく締められていたので、それ以上、この場で俺が声を発することはしなかったけれど。

 

 

 

 

 

 この後の合奏では、俺がすることはないし、みぞれのこともあるので、この日初めて、俺は合奏練習への参加をやめ、広い校内を歩いて回ることにした。

 滝先生からは簡単に許可が出て、はしもっちゃんたちからは、代わりにしっかり見ておくからとまで言われてしまったほどだ。

「任せておけば、安心ではあるけどさ」

 さて、思ったよりも緑が多く、そして広い学校だ。

 せっかくだし、ゆっくり見て回るかな。俺にも、新しい発見があるかもしれないし。

 なんて意気揚々よ歩き出した矢先。

「……フルート?」

 おかしいな。

 いまは音楽室での合奏練習と、別チームのもなかも合奏をしているはずだ。

 それに、言い方は悪いが、このレベルで選考から漏れるはずがない。もし吹奏楽部の一員なら、いまは音楽室にいるはずだ。

「はしもっちゃんや新山先生みたいに、他にも外部講師でも来てるのか?」

 だとしても、いま単独の演奏が聞こえるのはおかしいよな。

 どこからか聞こえて来る音に耳を澄ませながら、そんなことを考えるものの、内情を知らないのだから打ち止めだ。

「にしてもこの音……」

 自信を感じるし、どこか自分を大きく見せたいという感情が乗っているような気がしてならない。

 音に嫌味があるわけでもなく、雑に吹いているわけでもないから、音としてはいい音をしているんだけど、なんだろう。この音は、主張がはっきりとしていない。

 芯がないというか、少しふらついているというか……気のせいか? 演奏者自身に、なにか悩みや迷いでもあるんだろうか?

 しばらく聴いていると、俺が感じた音の他に、楽しさや、美しさなども感じるときが出てきた。

「音が澄んでいるんだな。だから、よく響くし、綺麗だ」

 失礼な話になるが、吹部の奏者と比べても、この音を奏でている人の方が奏者としてのレベルは上だ。

「もったいないな」

 もちろん、どこで吹くのかは個人の自由だし、北宇治の生徒という保証もない。それでも、これだけ吹けるなら、吹部に入ってくれれば、北宇治の演奏がよくなるのは間違いないんだけどな。

 もちろん、俺の感じたことが気のせいであればって前提があるけどさ。

「俺が音に敏感になってるだけならいいんだけど」

 と、一曲吹き終えたのか、それ以上の演奏はしないのか。午前中、それ以上フルートの音が響くことはなかった。

 昼休憩の間に優子にもそれとなく聞いてみたが、引き出せた反応は微妙な表情をし沈黙を保つ彼女の姿のみであり、それ以上聞き込んでくるなという無言の圧力を感じたので、深くは突っ込むことはしなかったのだ。

 ちなみに、弁当のおかずは徴収されたのだが、「あんた、その顔でこの腕で、本当に男なわけ? 女の方が幸せじゃない?」などと言われたのだが納得いかない。

 香織さんからも、「いいなぁ、一ノ瀬くん。これならいいお嫁さんになれるね」と揶揄われた。彼女も人を弄ったりするのは意外だったが、普段見ないような面が観れたのでいいことにしよう。

 そうして人との繋がりを感じながら、今日も部活が終わり、

「一ノ瀬くん、今日もいいピアノだねぇ。キミが弾いてくれるとお客さんが増えるから嬉しいよ。もっと遊んでくれていいからね」

 いまは初日に寄った喫茶店で仲良くなったマスターの好意と打算に甘え、店にあるピアノを弾かせてもらっている。

 ショパンばかりだけど、それでも人は増えるのだ。

「うわぁ、ねえ夏紀。この喫茶店から流れてくるピアノの音、すっごく上手だよ。誰か弾いてるのかな?」

「希美……あれ、この音どこかで」

 いまも女性の2人組が来店し、ピアノから少し離れた席に腰を下ろすのが視界の端に映った。

 夏服の制服だけは確認できたのだが、あれは北宇治の生徒だな。

 なんてことを思いながら、再びピアノに没頭する。

 それからしばらく弾いていたのだが、ふと、先ほど来た女子生徒が持っていた荷物のひとつが気になり、そちらを見やる。

「「あっ」」

 瞬間、席に座っていたうちの1人と、声が重なる。

「夏紀?」

「一ノ瀬……うわぁ、聞いたことあるなって思ってたけど、そうかあんたかぁ……はあ、どうしたものか」

 額に手を当て、ため息を吐く夏紀。

 人の顔を見てすぐの行動がこれとは、些か失礼ではないか?

「となると、連れは吹部の……あれ? 部員じゃないな」

 けれど、隣の席に楽器ケースが置かれているので、無関係ではなさそうだな。けど、夏紀とは明らかに楽器が違う。演奏面で教わることでもあったのだろうか?

「それ、なんの楽器?」

「あ、キミがピアノ弾いてた人? これはねー、フルートだよ!」

 初めて会ったにも関わらず、人懐っこい笑みを浮かべながら答えてきた、ポニーテールの女の子。

 はきはきとした声に、勝気そうな顔立ちから、快活な雰囲気を感じさせる子だ。

 夏紀もポニーテールだし、被るなぁ。でも雰囲気違うし、見分けは簡単につくんだけどさ。

「ん? フルート?」

「そう、フルート。知ってる?」

「ああ、もちろん知ってるけど……あの、もしかして昼間北宇治のどこかで吹いてた?」

「よく知ってるね! うんうん、吹いてたよー。あ、もしかして聞こえてた? ……でもキミ、北宇治の生徒じゃないような?」

 この人が、昼間の演奏者だったのか。

 というか、自己紹介もまだだっけ。

「会っちゃったもんは仕方ないか。希美、こいつは一ノ瀬海。今年顧問になった滝先生が連れてきた外部の生徒だよ」

 説明しようとすると、先に夏紀の方から話してくれた。

「というわけで、夏の間は吹奏楽部にお邪魔させてもらってるんだよ」

「へえ〜。他の学校から呼ばれるなんてすごいね! あ、私は傘木希美ね。で、貴方楽器は? どこのパートなの?」

「希美、ストップ。それに一ノ瀬はピアノ奏者だよ」

 印象通りというか、ぐいぐい来るタイプのようだ。

 わかりやすくて、話しやすいから楽でいいんだけどね。こういった人の方が気楽に話せるし。

「あーピアノか。道理でさっきまでいい演奏してたわけだ」

「お、それは嬉しいね。で、俺からもひとつ聞きたいんだけど、希美のフルート、綺麗な音だったけど、吹奏楽部には入る気ないの?」

「――っ」

 質問した直後、2人が俯いてしまった。

 これは、なにかやらかしたんだろうか?

 元気っ子といった様子だった希美でさえ、どこか辛そうだ。

「……ねえ、一ノ瀬」

 それに変わってなのか、夏紀の方から声をかけてくる。

「なんだ?」

「……あんたなら、相談にのってくれる?」

 



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頼みごと

 真剣な眼だ。

 それでいて、少し不安気であり、暗闇の中を歩き回って迷子になってしまったような……。

「話だけ聞くってのは、虫のいい話だよな。わかった、力になれるかはともかく、協力はするよ。あ、もちろんブラックなことは引き受けないぜ?」

「あんたはどういう眼で人を見てるわけ……そうじゃなくてさ。その、希美のことなんだけど」

 夏紀は隣に座る子を指しながら話を進める。

 どうにも、彼女――傘木希美は去年に吹奏楽部をやめたものの、顧問が滝戦線となり部活の在り方が変わったことで、吹奏楽部に復帰したいとのことらしい。

 別に、いまから本番の席が欲しいわけじゃなく、けれども戻りたいか……。

「俺は完全に部外者なんだけどなぁ。なにをしろと?」

「あすか先輩の説得に力を貸して欲しいんだけど」

 そして、目下最大の問題と言えば、低音パートの首領の説得だ。

 希美としては、あすかさんからの了承を得たうえで部活に戻りたいのだとか。これは効率的な手段を選ぶだとか打算ではなく、彼女のけじめなんだろう。

「それは通さないといけないんだな?」

「うん……あすか先輩には恩義があるっていうか、あの人に認めて欲しいんだ」

「そっか……うん、なら仕方がない。俺からはなにも言えないしな」

 なんて言ったものの、現状はなにも好転していなく、聞けば今日まで粘ってきたものの、あすかさんからは復帰の了承を貰えていないらしい。

 あすかさんって効率的なやり方を選びそうだし、その上、どうも他人に関心を向けていない節がある。ああいうタイプは苦手なんだよなぁ。

「どうしたものか」

「一ノ瀬でも悩むことがあるのか」

 夏紀が唸る俺を見てとても失礼な言葉を口にする。

「おまえは俺をなんだと思ってるんだよ……」

「さっきのお返しだけど?」

 舌を出して小悪魔的な動作をして見せてくる夏紀。ブラック云々のことだろうか。

 優子にといい、煽ってくるなぁ。

 勝ち誇ったような顔しているけど、これくらいなら小学校の頃にもっと酷いものがあったし、気にすることでもない。

「むっ……」

 俺の様子が気に入らないのか、若干頬を膨らませる夏紀に対し、希美が興味を持ったように話しかける。

「優子が男子相手に夢中になるのなんて初めて見たかも」

「夢中にはなってないよ。やられたぶんを返しただけだし」

「返せてる……のかな?」

「…………ノーコメント」

 優子と接するときの気負っていない積極性とも、他の部員といるときに見るアンニュイなものとも違う。希美といるときの夏紀は、どこか熱を感じる。

 それは、俺を表舞台に立たせようと奮闘してくれる阿字野に近いもののようであり、けれど遠いようでもあった。

 っと、脱線してたな。

 あすかさんにも復帰を認めない理由があるんだろうけど、そっちを聞いてみないことにはどうにもできない気がするんだよなぁ。けど、たぶん本心を話してはくれないだろうし、「部員じゃないキミには関係ないことだよ」とでも言ってきそうだ。

 当たって砕けに行くのはどうなのだろうか。

「ふう……考えても仕方ないことか。とりあえず、あすかさんと話す際には俺も一緒に行くよ」

「いいの? 聞いておいてなんだけど、あすか先輩の圧凄いよ?」

「だったら滝先生に話を通して復帰すればいいだろ。でも、それじゃ納得できない理由があるから、あすかさんなんだろ? ならしょうがない。それを尊重するしかないじゃないか」

 人によってはどうでもいいことであっても、当人にとっては他のなにかを蔑ろにしてもやらずにはいられない事がある。

 どうあれ、納得のいく形にするには通らないといけない道があるなんてこと、とっくに知っているんだ。譲れないモノ、譲りたくないモノがあるなんてこと、自覚しているんだ。

「俺は他人だから、直接どうこうできるわけじゃないけど、それでも――手伝うくらいはできるよ」

 支えられてきた。

 悪辣な環境の中、俺がいま、こうしてピアノを弾けているのは、多くの人たちがいたからだ。俺にも、その僅かな手伝いくらいなら、きっとできるさ。

「ふふっ、なんか一ノ瀬くんを見てると、できる! って気がしてくるよ」

「流されないでよ、希美……こいつのは子供の能天気って奴なんだからさぁ。でも、ありがと。少しだけ元気出たよ」

 来店した当初よりも明るい表情を浮かべる2人。

 なにも解決はしていないが、気持ちは1歩前に進めただろうか?

「へいへい、子供の俺は退散しますよ。じゃあ、また明日」

「うん、明日ね」

 希美が小さく手を振ってくるので、そのまま席を立つ。

 またピアノの前で姿勢を整え、鍵盤に手を置く。

 明日のことはひとまず忘れ、ピアノに集中しよう。面倒なことはいくらでもやってくるが、いまだけは。ピアノを弾く間だけは、雑念を捨てて、俺のピアノのためだけに――。

 

 

 

 

 改めて、一ノ瀬のピアノに耳を奪われる。

 聞こうと思わなくても、つい耳を傾けてしまう。そうして、行きたいわけでもないのに、森へと連れて行かれる。

「やっぱり、凄い……」

 滝先生が連れてきた同い年の男子。

 部活の終わった後に、優子のリクエストに応えた一ノ瀬が弾いたあのとき。それが私が初めて、あいつのピアノを聴いたときだ。

「一ノ瀬くん、凄いね……楽団でピアノソロを聴いたこともあったけど、全然違う……」

 隣に座る希美が、その声音が、どこか弱々しい。

「練習、したんだろうなぁ。きっと、へこたれる時間もないくらい、練習したんだろうね」

「……希美?」

「うん、よし! やっぱり練習はウソをつかない!」

 一瞬陰ったように見えたのは気のせいだったかのように、希美は満足そうに笑顔を浮かべる。

 やっぱり気のせいか。

「にしても、一ノ瀬は謎が多いなぁ」

「そうなの?」

「そうそう。滝先生が連れてきた凄腕のピアニスト。いい奴だし、ピアノの腕は凄いけど、それ以外はよくわからない。時折達観した顔をすれば、子供みたいな笑顔をするし、落ち着いているかと思えば急に騒ぐし……」

「へぇ、そっかそっか」

「なに? なんでそんな笑顔なわけ」

「いや〜夏紀、一ノ瀬くんのことよく見てるんだなぁって」

「は!? ちょ、違うから。違う、違う」

「はいはい」

 絶対勘違いされた。

 本当、あいつは人を狂わせる。それでも頼ったのはきっと――。

「あ、そういえばアジ……阿字野? って人が一ノ瀬の先生って聞いたんだけど、それくらいだったなぁ。あいつ個人のことでわかってるのって」

「阿字野? それって、ピアニストの阿字野壮介!?」

 意外なことに、希美は知っているようにフルネームで聞いてくる。

「ごめん、その阿字野さんかは知らないよ」

「えぇ……あ、でもそうだよね。阿字野壮介って、確か若い頃の事故でピアニストとしては引退してたはずだし……すっごいピアニストだったらしいけどね。ごめん、忘れて」

 希美から出てくる情報を忘れるには遅すぎて。それらの情報は、しっかりと覚えてしまう。

 阿字野壮介。事故で引退したはずのピアニスト、か。

 1度湧いた疑念は消えることなく、残り続ける。

 

 

 

 

 

 翌日。

 放課後、もしくはあすかさんの都合がいいときに話を聞く手筈になっているので、空いている教室で各パートから漏れてくる音を聞きながらキーボードを弄る。

「あすかさんとの話が始まる前に連絡するって言ってたけど、普通に考えれば放課後になるよなぁ。もしかして練習参加させてもらってた方が良かったんじゃ?」

 どうして空いている教室で一人キーボードを弾いているのだろうか。手っ取り早く、低音パートの練習に混ぜてもらえば良かった。

「はあ……ダメだなぁ」

 やってしまったものはどうしようもない。

 こういうときは弾くに限る。

 曲に没頭していけば、より深く理解ができるし、練習にもなる。今日はいい風が吹いていたから、その風に乗せるように、どこまでも、どこまでも伸びていくように。

 ――どれくらい弾いているのか自分でも気になりだした頃。

 突然に教室の扉が開かれ、小柄な影が飛び込んでくる。

「なんだ?」

 息を上げながら入ってきたのは、みぞれだった。

 俺に構うこともなく、教室の隅へと消えていく姿は、なにかから隠れるようであり、怯えているふうに映る。

「……なんだか、俺と阿字野が会ったときみたいだな」

 あのときは俺がピアノの下で泣いていたんだっけ。それを落ち着かせるために阿字野がピアノを弾いて――そう、よく覚えている。あれ以来は聴いていないけど、それでも心に残ってる。

 後で原曲を聴いて知ったけど、あのとき聴いたのは阿字野のアレンジだった。だけど、やっぱり残っているのは、俺が好きなのは阿字野の弾いた曲だった。

「…………茶色の、小瓶……」

 弾き終わるのと、曲名がつぶやかれたのは同時だった。

 振り返ると、物陰から少しだけ顔を出したみぞれが、こちらを覗いていた。

 



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