深夜廻 繋いだ手をもう一度 (本編完結) (めんりん)
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本編
ぷろろーぐ


注意。

深夜廻を未プレイもしくは内容をご存知ではない方、この先に進むことはお勧め致しません。

また、個人的な解釈、ご都合主義、捏造設定のオンパレードになるかと思います。深夜廻をラストまでご存知の方も、閲覧は自己責任でお願いいたします。






前置きが長過ぎますね(^^;
以上のことを踏まえた上で、私に共感してくださる方がおられれば幸いです


*10月6日、ハルの髪色の表現修正
*10月7日、ハルの髪型修正
*タイトルをひらがなに変更


夕暮れの山道。茜色と称するには、深すぎる紅が大空を覆う。

 

 

ひぐらしと風の織り成す二重奏は、夏の風物の目玉だが、いまこの瞬間においては、風情はなくただ不気味な静寂を撫でるのみ。

 

 

 

 

「……………」

 

 

 

灯火のような街灯を辿りながら、1人の少女が山道を登っていく。

 

 

日本人にしては珍しい、色素の薄い金髪で編んだ三つ編みを首の後ろから下げている。頭の真ん中あたりで結んだ青いリボンが、少女の大人しげな雰囲気に一輪の花を咲かせる。

 

 

 

だが、その可愛らしい少女の雰囲気に影を差すものがある。

 

 

 

それは、少女の細い左の肩口。

 

 

少女の左腕は、肩口から先が存在しなかった。まるで、巨大な何かにバッサリと切り落とされたかのように。

 

 

 

通すべき腕がない肩口の袖は、所在無さげに風に煽られ揺れ動く。

 

 

 

残った右手には、小さな花束が握られている。黄色や桃といった、柔らかな色合いの花たちの存在だけが、少女の歩く不気味な山道のなかで温かみを持っている。

 

 

 

 

片手が塞がっていても使えるようにと、両親から待たされた紐付きの小さな懐中電灯を首に下げ、少女は小さな歩幅で懸命に山道を踏みしめる。

 

 

 

 

目的地は、もうすぐそこにある。

 

 

 

 

「ここを、登って…あ、見えた」

 

 

 

鈴を鳴らすような声が、風に運ばれ山を泳ぐ。

 

 

 

 

目的地が見えた少女は、小走りで一本道を駆けていく。

 

 

 

やがて、道の先にある大きな木の下で少女は立ち止まった。

 

 

 

 

「来たよ、ユイ」

 

 

 

見上げるほどの大木に向かって、少女は囁きかける。正確には、この場所で命を絶った、少女のたった1人の親友に向かって。

 

 

 

 

「ごめんね、引越しのお手伝いしてたらこんな時間になっちゃった」

 

 

 

ゆっくりと歩きながら、少女は言葉を紡ぐ。まるで本当に親友がそこにいるかのような、とても自然な声音だった。

 

 

 

「はい、ママにわがまま言って買ってもらったんだ。…………今日が……最後になるから……ユイに…綺麗なお花をあげたいって…」

 

 

 

だが、言い終わらぬうちに少女の瞳には涙が溢れでてくる。視界は歪み、言葉もたどたどしく力を失っていく。

 

 

 

 

置いた花束の上に、大粒の涙が次々と落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

「……ごめんね、一緒にいてあげられなくて……ごめんね…ユイが苦しいのに…気づいてあげられなくて………ごめんね……ユイを…助けてあげられなくて………ごめんね……っ」

 

 

 

崩れ落ちる少女の瞳からは、止まることなく涙が溢れ出る。落ちる涙は包まれた花たちを濡らし、少女の嗚咽は夕暮れに消えていく。

 

 

 

 

だが、どれほど涙を流しても

 

 

 

 

どれほど己の無力を呪っても

 

 

 

 

どれほど花を送ろうと

 

 

 

 

少女の親友は生き返らない。

 

 

 

 

 

 

 

あの日、山の神に踊らされ、怨霊と化したユイとの切れぬ縁を、自らの左腕とともに断ち切ってから、2週間の時が過ぎた。

 

 

 

 

最初は泣かなかった。

 

 

 

怨霊となってしまったとはいえ、ユイとの縁を切ったのは、他ならぬ少女……ハルの意志だ。

 

 

 

そして、出血と痛みで朦朧とする意識のなかで、最後に正気に戻ったユイを見たような気がしたからだ。

 

 

 

 

だが、かけがえのない親友を失った悲しみと喪失感が、そう易々と癒されるはずはなかった。

 

 

 

 

悲しみの海に身を投げ出した。

 

 

 

 

 

なぜ、どうしてと、己の無力と浅はかさを責め続けた。

 

 

 

 

 

 

涙は止まず、後悔も悲しみも消えない。

 

 

 

 

しかし、それでも、前に進まねばならない。

 

 

 

 

立ち止まっているわけにはいかない。

 

 

 

 

ユイにいつまでも情けない姿を見せてはいけない。

 

 

 

 

そう思ったからこそ、ハルは今日この場にやって来たのだ。

 

 

 

 

明日には、ここから遠くの街に引越しをしてしまう。もしかしたら、長い間ここには来れなくなってしまうかもしれない。

 

 

 

次にこうして花を添えられるのも、いつになるかわからない。

 

 

 

 

だから、もう泣かない。とびきりの笑顔で、"またね"、と言うはずだった。

 

 

 

 

 

 

 

そう、決めたはずだった。

 

 

 

 

 

 

 

「…ユイぃ…ユイぃ…っ!」

 

 

 

 

 

だが、理不尽に友を奪われた少女の嘆きはなくならない。もはや慟哭と化した少女の泣き声は、闇に覆われかけた夕暮れに消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

そんな時、閉ざされかけた夕暮れに、さらに暗い影が覆いかぶさった。

 

 

 

 

「……え…?」

 

 

 

突如落とされた影に、ハルは涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこに、()()がいた。

 

 

 

 

赤黒い靄を握るように、それだけで人間の大人と同じ大きさはあるだろう強大な手。

 

 

 

その青白くボロボロの指に挟む巨大な真紅の鋏。

 

 

 

 

ハルの左腕を切り落とし、ユイの魂を妄執から解放した()()()の神

 

 

 

 

 

「…コトワリさま…」

 

 

 

 

 

鋏の切っ先をやや下に向けたまま、かの神はハルを見下ろしている。

 

 

 

 

「…いいよ、もう」

 

 

 

 

何もかも諦めたような声で、ハルはつぶやく。常人であれば発狂してもおかしくない状況ですら、今のハルにとっては関係のないこと。

 

 

 

 

 

「……もう…耐えられない…」

 

 

 

絞り出すかのような小さな声に、異形の神は動かない。ただひたすらに、縁切りの神はハルを見下ろしている。

 

 

 

 

いや、待っている。自らが力を払うに値する、その言葉と意思を。

 

 

 

 

 

 

「ユイが…ユイが……っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして間もなく、その時はやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ユイがいない世界は………()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

直後、開かれた凶刃がハルの体を挟み込んだ。

 

 




追記
短編、のここでの使わ方がいまいちわからないため、この作品の形態を短編から通常の連載に変更いたしました


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第1話 : 早すぎる再会

今しがた投稿したのですが、不備があったため再投稿です(^^;)

もし、あれ?っとなった方がおられれば申し訳ありません


*タイトル名および表記を漢字に変更


 

 

"…もうやめよう…ユイ"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

禍々しい姿に成り果てた親友に、ハルは涙ながらに問いかける。

 

 

 

 

 

 

 

ハルの左腕には、幾重にも連なる細くも決して途切れぬ赤い糸がびっしりと巻きついている。()()()()()()より借り受けている断ち鋏ですら、切る速度が追いつかないほどの間隔で、いくら切っても新たな糸が次々と現れてはハルの左腕に絡みつく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"ギャァァァォァァァァォォ"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼岸花が咲き狂う暗い洞窟に、ユイの咆哮が響き渡る。

 

 

 

 

 

そしてまた一本、異形とかしたユイの咆哮に呼応するのように、新たな赤い糸がハルの左腕を捕らえていく。

 

 

 

決して離さない、いや離れたくないというユイの哀しき願いが、死してなおハルを思う心が、拠り所を失い獣のように暴れ狂う。

 

 

 

そんな親友のどこまでも優しい心を理解しているらこそ、ハルは涙が止められない。

 

 

 

自分がどんなに願おうと、ユイがどれほど狂おうと、もう全てが手遅れなのだから。

 

 

 

"私だって…ずっと…ずっと…一緒がいい!ユイと離れたくなんかない!!……だけど…こんなの…っ"

 

 

 

離れたいなどと、微塵も思っていない。叶うことならば、ずっと隣で笑い合っていたい。

 

 

 

 

支え合っていたい。

 

 

 

だが今のユイにハルの言葉も願いも届きはしない。妄執に取り憑かれた怨霊に、生者の思いは届かない。

 

 

 

 

 

 

一本、また一本と、赤い糸がハルの左腕に絡みついていくなか、ハルは決断を迫られる。

 

 

恐らく、この糸が全身に絡みついた時、ハルもまたユイと同じように人ではなくなってしまうのだろう。

 

 

 

ユイの1人にしないという意味では、その選択もまた間違いではないのかもしれない。

 

 

 

 

 

だが、幼心に鞭を打ってハルは己の弱さに異を唱える。

 

 

 

 

 

 

一緒にいることだけが、友を想う全てではないと。

 

 

 

 

"寂しい思いをさせて…ごめんね…でも…いやだから…これ以上…ユイを苦しめたくないから"

 

 

 

故に、ハルは決断する。涙に濡れた瞳の奥に、静かな覚悟を灯す。

 

 

 

 

 

 

 

 

この切れぬ糸を、ユイとの縁を、断ち切ることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

対価は払う。だから、どうか救ってあげてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の一番にして唯一の、親友を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"…こんなこと…こんなこと……もう…いやだっ!!"

 

 

 

 

 

 

 

 

最早ほとんど動かさなくなった左腕を伸ばし、ハルは力の限りで叫ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてハルの強い願いに、神が動いた。

 

 

 

 

 

 

赤黒い靄を握るようにして出現した、青白い手。その靄の左右から伸ばしたそれぞれの両腕に握る巨大な真紅の断ち鋏。

 

 

 

 

縁切りの神が、突如ハルの背後に具現した。

 

 

 

 

 

 

 

具現した神は、ハルの強い拒絶の願いに応える。

 

 

 

 

 

 

直後、洞窟内に無慈悲に咲く彼岸花が霞むほどの紅を宿した、鮮血の花が咲いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

びちゃりっ

 

 

 

 

 

 

 

 

水々しい不快な音とともに、小さな腕が零れ落ちる。そこに絡みついていた無数の糸は、拠り所を失い瞬く間に霧散していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

その神が断ち切ったのは、ユイではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

縁切りの神により断ち切られたのは、ハルとユイを繋ぐ縁。ユイの妄執を具現させた、赤い糸。

 

 

 

 

 

それを、糸が絡みつくハルの小さな()()ごと断ち切ったのだ。

 

 

 

 

 

 

"ぎゃぁぁあぁぉあぁぁぁ"

 

 

 

 

 

 

 

唯一の拠り所であったハルとの縁を失い、異形と化したユイは崩れ落ちる。

 

 

 

 

同時に、かの神もまた忽然と姿を消した。役目を果たしたのか、ハルが借り受けていた赤い断ち鋏とともに。

 

 

 

 

 

"…ユイ……"

 

 

 

 

 

失った左腕の肩口から、血を垂れ流しながら、ハルはかつてユイであった異形が、小さな光の粒子と消えていくのを見ていた。

 

 

 

 

それは、まるで暗闇に閉ざされた洞窟内を照らす、無数の蛍のように幻想的な光景だった。

 

 

 

 

 

 

 

"……ばいばい…"

 

 

 

 

 

 

 

そして、光が完全に消える様を見届けることなく、ハルはその場に背を向けて去っていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

歩くたびに生まれる足跡のすぐそばに、大きな血の雫がぽたぽたと洞窟の地を打ちつけられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

欠損による激痛と出血に朦朧としながら、小さな足を一生懸命に動かしてハルは進む。

 

 

 

 

 

 

既に視界は赤く、足取りはおぼつかない。片腕を失ったことによる平衡感覚の麻痺もあいまって、もはやまっすぐ歩くことすら不可能な状態だった。

 

 

 

 

 

"…はあ…はあ…うぅ…ぐ…"

 

 

 

 

痛みと不快感に耐える顔は、大量の脂汗に濡れ、瞳は涙でいっぱいになっている。

 

 

 

 

それでも、足を止めることは許されない。

 

 

 

 

これから先は、一人で歩んでいかねばならない。弱さは、繋ぐ手とともに置いてきた。

 

 

 

 

 

 

だが、人が気力で体を支えられる時間には、必ず限界がある。いかに強靱な願いや決意があろうと、人の身で生きていく以上、超えられない壁は絶対に存在する。

 

 

 

 

 

 

そして、歩き始めて数分、ハルの体はその限界を迎えた。

 

 

 

 

むしろ、か弱いハルの小さな身体が、欠損の痛みと出血と戦いながらよくもこれほど歩いたものだろう。

 

 

 

 

どさりと倒れこむハルの体。近くにはハルの傷の悲惨さを表すかのように血の雫が一筋の道を形作っていた。

 

 

 

 

その血の足跡を辿り、倒れるハルを見下ろす一人の少女。

 

 

 

 

少女は力尽きて意識を失うハルを支えるようにして優しく肩に背負い、洞窟の出口に向かって歩いていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

洞窟を出た二人は、ゆっくりと山道を下る。空に浮かぶ満月と星々が、夜の帳をうっすらと照らし出す。

 

 

 

 

 

未だ目覚めぬハルを背負い、少女は歩く。ハルに比べれば、うんと力強くてしっかりとした足取り。

 

 

 

 

申しわけ程度に取り付けられた街灯をたどって、少女は落ち葉を踏みしめる。

 

 

 

 

 

これが、少女がハルとともにいられる、最後の時であると知りながら。

 

 

 

*****

 

 

山道の入り口。少女の目の前には、アスファルトの道が見える。そこに向かって一歩を踏み出すことを、少女はしない。

 

 

 

 

出来ない。

 

 

 

 

 

これ以上、自分が先に進めぬことを、少女はとっくに理解していた。

 

 

 

 

 

故に、いると信じていた。

 

 

 

 

山の入り口で、まるで2人を待っていたかのように、白と茶色の毛並みをした小さな子犬が1人佇んでいるのを確認して、少女は子犬に優しく微笑む。

 

 

 

 

"…ハル…"

 

 

 

 

 

そして、隣に背負う親友の名を呼ぶ。

 

 

 

 

その声に、うっすらとだがハルの瞼が開く。

 

 

 

 

"…ユ、イ…?

 

 

 

朦朧とする意識のなか、隣に寄り添う少女の名を呼ぶ。

 

 

 

 

"ハル…ごめんね、怖い思いをさせて。…ありがとう、私のこと、探してくれて"

 

 

 

 

ゆっくりと、少女の…ユイの姿がおぼろげになっていく。そう見えるのは、決してハルの錯覚ではない。

 

 

 

 

 

"…ありがとう、ありがとう"

 

 

 

 

"…ま…って…ユ、イ"

 

 

 

 

存在が希薄になっていく親友に向かって、ハルは残った右腕を伸ばす。

 

 

 

 

 

"ありがとう…………さよなら"

 

 

 

 

だが、ハルの右腕が伸びる速度よりも、ユイが遠のく速度の方が、僅かに速かった。

 

 

 

 

 

 

"…いや、いや、いかないで…"

 

 

 

 

 

いやいやとするように、ハルは濡れた瞳で必死に手を伸ばす。だが、その手がユイをつかむことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"いかないでっ!ユイ!ユイーーーーーーーーーー!"

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

 

右手を精一杯に伸ばしたまま、ハルは飛び起きる。

 

 

 

 

「……夢…」

 

 

 

 

正確には、あの日の出来事の追体験、といったところだろうか。あまりに強く記憶に刻まれた出来事を夢という形で繰り返すことは、そう珍しいことではない。

 

 

 

 

「…嫌な夢」

 

 

 

 

自分で自分の傷口を抉ってしまったことになんとも言えない気分になりながら、ハルはベッドから立ち上がる。

 

 

 

 

 

寝汗が染み込んだお気に入りの水色のパジャマが重い。触ってみれば、髪はガサつき、肌もベトベトして気持ち悪いことこの上ない。

 

 

 

 

 

 

「…お水」

 

 

 

 

極めつけは、汗で水分を失ったかさかさの喉。パサパサのビスケットでも流し込んだのかとさえ錯覚するほどに水気を失った喉の渇きをうるおすために、ハルは二階の自室の扉をくぐる。

 

 

 

 

リビングの扉を開け台所に向かい、洗いものカゴからまだ水滴が残るグラスを取る。

 

 

 

 

そのグラスを右手に持ち、()()で蛇口を上に押し上げる。

 

 

 

 

「……え…?」

 

 

 

だが、ここまできてようやくハルは異変に気が付いた。

 

 

 

 

今自分は、何で何をした?

 

 

 

 

答えは明確、左手で蛇口を上に押し上げるだけの、至って日常的な行動だ。

 

 

 

 

 

左腕を失う前までの話、であるならば。

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

とっさに手を引いた反動で、手に持つグラスが重力に引かれて落下。ハルの足元で甲高い音とともに砕け散る。

 

 

 

だが、そんなことは今のハルにとってはどうでもいいこと。

 

 

 

「…なんで…?私の手……」

 

 

 

左手をグーパーグーパーのようにして動かしてみるが、どこにも違和感はない。そこにあるのが自然であるかのようにハルの思い通りに動く。

 

 

 

試しにこれは夢か、まだ自分は夢を見ているかもしれないと、ハルは両手で思いっきり自分の両頬をつねる。

 

 

 

「うぅ…いたい」

 

 

 

その結果はこのとおり。つねられた頬はじーんとした痛みとともにハルに今が夢でも何でもない現実であることを示した。

 

 

 

 

「どうして…なんでっ」

 

 

 

 

先程から次々と起こる異常事態に、ハルの精神許容量が急激に圧迫されていく。

 

 

 

 

 

悪い夢ならはやく覚めてくれと、今しがた現実と理解した自身の頭に向かって抗議するも、もちろん返答はない。

 

 

 

 

 

 

 

だが、今日この日に限り、運命はとことんハルを弄ぶことにしたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

ピンポーーン

 

 

 

 

 

 

 

文字通り外と中で頭を抱えるハルの耳に、来客を告げるチャイムの音が飛び込んだ。

 

 

 

 

「むぅ…こんなときに…」

 

 

 

散乱するガラス片をそのままに、来客が誰かも確認せず玄関へと向かう。

 

 

 

 

スリッパを履き、パタパタと足音を立てて廊下を歩く。

 

 

 

 

 

ピンポーーン

 

 

 

 

「はぁーい」

 

 

 

再度チャイムが鳴るのと、ハルが玄関の扉を開けるのは、ほとんど同時であった。

 

 

 

 

 

「……っ!?」

 

 

 

そして、来客の姿を見た瞬間、今朝から何度目になるか、あまりの信じられない事態にハルはまたしても言葉を失うこととなった。

 

 

 

 

しかし、ある意味それは仕方のないことだろう。

 

 

 

なにせそこにはーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーー!やっぱり!寝坊だよ、ハル!」

 

 

 

 

永遠の別れを告げたはずの親友が、頬を膨らませて立っていたのだから。

 

 

 

 

 

 



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第2話 : 奇跡と理不尽は紙一重

平仮名のほうがそれっぽくはありますがやはり読みにくいので漢字も使います(^^;

そして捏造設定てんこ盛り、苦手な方はレッツプラウザバック


*花火の日までの日数の訂正
*前の話で起こったはずの事象の後処理を追加


 

 

「……ユ、イ…?」

 

 

 

 

 

 

あまりの驚愕にハルは目を見開く。思わず体がぐらついたのは決して暑さのせいなどではないだろう。

 

 

 

 

久しぶりに動かした左手がつかむドアノブの感触が、辛うじてハルの意識を現実に押しとどめる。

 

 

 

「もー!まだパジャマだし!それと髪!またそんなぐしゃぐしゃにして」

 

 

 

 

そんなハルの混乱など知るはずもないユイは、扉から出てきたハルの姿を見るなり仁王の如く柳眉を逆立てる。

 

 

 

門を開けてずんずんと進んでいくユイ。そしてハルの目の前まで来ると、背中に背負った小ぶりなリュックの中からブラシを取り出し、いまだ寝癖の目立つハルの髪に当てていく。

 

 

 

 

「しっかりと乾かした?ハルの髪は柔らかいんだから、ちゃんとドライヤーしないと跳ねちゃうよっていつも言ってるでしょ?」

 

 

 

 

まるで姉のような厳しめな口調で言いつつ、手慣れた手つきでハルの髪を整えていく。ブラシで梳かれるれるたびに、あちらこちらに跳ねていたハルの薄い金髪が下に流れ出す。

 

 

 

 

「ねぇ聞いてる?………って……ハル?」

 

 

 

 

いくら話しかけても反応がないことに疑問を持ったユイが、ブラシを止めてハルの顔を覗き込んでくる。

 

 

すると、突然ハルが無言のままユイの頬を両手で挟んだ。

 

 

 

「うにゅ…ちょっと、ハル?」

 

 

 

あまりの唐突さに目を丸くするするユイ。だがそんなことを当のハルは気づく様子もなくただ呆然と目を見開いている。

 

 

 

 

「っハル!?どうしたの!?」

 

 

 

流石におかしいとハルを問いつめようとするユイだが、ハルの瞳にぶわっと涙が溢れ出したのを確認するや否や、慌ててハルの肩を掴み、目と目を合わせる。

 

 

 

 

 

 

「ユ、ユイ…」

 

 

 

「ん?なに?」

 

 

 

泣き出す前の秒読み段階に入りつつも、ハルの頭の中から困惑と混乱は消えない。

 

 

 

 

だがそれ以上に、今こうしてユイと再び出会えたことに、形容できないほどの感動に震えていた。

 

 

 

 

あの時、自ら断ち切った縁が再び結ばれたのか?

 

 

 

 

届かなかった手が、何かをつかむことが出来ていたのか?

 

 

 

 

 

 

いや、理屈などどうでもいい、永遠の別れを告げた親友が目の前にいるこの奇跡が、偽りでないのなら。

 

 

 

 

 

 

「う、う、うあ、あああっ!」

 

 

 

「わぷっ」

 

 

 

飛び込んできたハルを、ユイは受け止める。なぜ今ハルがこのような状況になっているか、ユイにはわからない。

 

 

 

だが、ハルがこうして自分に泣きついてくるのは、決まって何か寂しいことや悲しいことがあった時だ。

 

 

 

そうしてハルが泣き止むまでの数分間、ユイは自分の肩で嗚咽を零すハルの頭を優しくさすり続けた。

 

 

 

*****

 

 

 

 

「落ち着いた?」

 

 

 

ハルの瞳から落ちる涙を指で拭いながら、ユイは優しく微笑む。いまだぐすんぐすんとしながらも、ハルも少しだけ笑いながらユイと目を合わせて口を開く。

 

 

 

 

「うん、ありがと」

 

 

 

「ん」

 

 

 

ごしごしと滲む視界から涙の残党を片付けたハルを見て、ユイもまた笑みを深める。

 

 

 

その笑顔は、まぎれもない本来のユイが見せる優しく暖かみのある笑顔だった。

 

 

 

と、次の瞬間にはその笑顔が跡形もなく消え去り、まるで能面のように無表情となる。

 

 

 

「ところでハル」

 

 

 

「う、うん」

 

 

 

そしてハルはこのユイの無表情を知っている。

 

 

 

 

これは、お説教が飛んでくる前触れだ。

 

 

 

 

 

「ちょっとくさい」

 

 

 

「ええっ!?」

 

 

 

 

そして予想正しく、いやその上をいく辛辣な言葉がハルの胸に突き刺さった。思わず仰け反って自分の腕やら着ているパジャマに鼻を当てて匂いを確かめるハル。

 

 

 

 

「怖い夢でも見たの?いっぱい汗かいたでしょ」

 

 

 

「ぎくっ」

 

 

 

まるで見てきたかのように図星を突いてくる親友を前に、ハルの心は次第に萎んでいく。その勢いは、封を切られた風船もかくやという勢いだ。

 

 

 

「そんなんでお出かけなんて出来ないじゃん、ほらいくよ」

 

 

 

言うや否や、ユイはハルの手を引っ張り玄関へと入っていく。呆気にとられたハルは慌てて扉を閉めて扉の鍵をかける。

 

 

 

そして靴を脱いだハルは、同じく靴を脱いで廊下を歩くユイに引っ張られるがまま浴室へと連行された。

 

 

 

「とりあえずシャワー浴びてからだね。朝ごはんは?」

 

 

 

「ま、まだ食べてない…」

 

 

 

もはや完全に主導権を握られたハルに言い訳の余地はない。しどろもどろと呟くハルに、ユイはため息をつきながらもせっせとやることを頭に入れていく。

 

 

 

「わかった。じゃあとりあえずハルはシャワーを浴びて汗を流して。上がったらちゃんと髪乾かして整えること。朝ごはんは簡単なの用意しとくから。わかった?」

 

 

 

 

これが本当に同い年の女の子とは到底思えない。一体どれだけ自分が甘やかされて育てられているかを痛感しながらも、ハルは敗者の常として大人しく首を縦に振った。

 

 

 

 

「は、はい…」

 

 

「ん、よろしい」

 

 

 

ハルがパジャマのボタンを外し始めると、ユイもまた浴室の扉をくぐり外へと向かう。

 

 

 

いまだに状況の整理はつかない。ただこうして再び一緒にいられるなら、それ以上ことはどうだっていい。

 

 

 

それだげで、もう何もいらない。

 

 

 

 

久しく満ち足りた気分の中、ハルはシャワーの蛇口を左手で捻った。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

浴室をでたユイがまずはじめに向かったのは二階にあるハルの自室だ。そして見慣れた部屋のタンスから変えの下着と服を見繕うと、再び一階へと降りていく。

 

 

 

ちなみに下は可愛らしいスカートをチョイスしたかったが、この後の予定を鑑みて泣く泣く半ズボンを引っ張り出すことにした。

 

 

 

 

それらを浴室にある洗濯機の上に置くと、今度はそのままリビングへと入っていく。

 

 

 

 

 

 

「わっ…と。ハルったらまたやってるし」

 

 

 

 

だがリビングへ入りキッチンに足を向けたユイの目に、粉々に散乱したガラス片が写り込んだ。一緒に溢れている中身の液体から考えるに、水を飲もうとして手を滑らしたのだろう。

 

 

すでに見慣れた親友の少々ドジな一面にまた一つ溜息をこぼしつつも、見たところ怪我はしていないようなのでひとまずは良しとしておく。あとで一言二言お説教することには変わらないが。

 

 

 

 

「えっと…たしかここらへんに……あ、あった」

 

 

 

 

ユイは散らばるガラス片を小さく飛び越え、キッチンの奥に立て掛けられた小さな箒とちりとりを取り出すと、そそくさとガラス片を集める。集めたガラス片を古い新聞紙で包み、ゴミ箱の横にわかるように置いておけば片付けは終了だ。

 

 

 

 

 

ガラス片を片付け終わったユイは、本来の目的である朝ごはんの支度に取り掛かる。戸棚から必要な調理器具を引っ張り出し、冷蔵庫から牛乳と卵を2つ取り出す。

 

 

 

 

 

小さめのフライパンを火にかけ熱を入れていく。取り出した卵を即座に割って、それをボールに入れたら、菜箸でかき混ぜる。その様子はもはやそこらの主婦となんら差はない。

 

 

 

 

混ぜた卵に牛乳と砂糖を適量放り込み、さらに軽く混ぜる。そしてボールに食べやすく四つ切りにした食パンを浸すと同時に、煙が立ち込めてきたフライパンに油を垂らし、それをフライパン全体に伸ばしていく。

 

 

 

 

十分に油を塗ったフライパンに、卵に浸した食パンを順番に乗せていけば、こんがり焼けたフレンチトーストの完成。

 

 

 

それを取り出した皿に乗せ、最後に冷蔵庫に貼り付けられた小さなホワイトボードに〈卵2、牛乳少し、フレンチトースト〉と書き込んで、とりあえずの作業は完了である。

 

 

 

 

 

この冷蔵庫に鎮座ましますホワイトボードは、ハルの自宅で料理をすることが度々あるユイのために、この家の真の主であるハルの母親が用意したものだ。

 

 

 

 

共働きで家を留守にしがちなハルの両親が、いかにして1人になってしまうハルを守るかと試行錯誤した結果、生まれたのがこのホワイトボードだ。

 

 

 

 

普段ならハルが学校から帰って帰ってくる前か少し後には母親が帰宅できるために心配はないのだが、現在の夏休みなどの長期休暇などに入ると、どうしてもハルが1人になる時間が増えてしまう。

 

 

 

 

そこで見出されたのがユイ。小学生にして主婦レベルの家事能力を持ち、なおかつハルと最も親しい友人。

 

 

 

ハルの母親は、ユイに気が向けばでいいのでハルと一緒にいてあげて欲しいと頼んだのである。

 

 

唯一の親友であるハルとさらに一緒にいられるならと、ユイはこれを快諾。以後1年以上にわたり、ユイはハルの親友兼第三の保護者としての立ち位置を確保し続けている。

 

 

つまりこのホワイトボードは、ユイが冷蔵庫の中身をなんのためにどれだけ消費したのかと言うことをハルの母親が把握するためのものだ。

 

 

 

ちなみに、ハルとハルの父親は料理がてんでできないためこのホワイトボードを使うのはユイとハルの母親だけである。

 

 

 

 

 

 

 

とは言ったものの、ハルの母親はただでユイにお願いをしているわけではない。日頃お世話になっているユイを、ハルと一緒にランチに連れ出したり、おやつにケーキを振舞ったりと、互いにウィンウィンな関係を維持していたりする。

 

 

 

 

 

ちなみに、ハルの父親もまたユイのことは信頼しているようで、夏休みの朝っぱらからユイが自宅のキッチンで作業していてもまるで気にしない。それどころか、夫婦揃って2人に行ってきますを言う日すらあるぐらいだ。

 

 

 

 

これは、ユイの家庭環境があまりよろしくないことを把握しているハルの両親が、少しでもユイを危険から遠ざけられればと考え出した結果でもある。

 

 

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

もはや家族ぐるみはおろか半ば以上に家族となっているように見えないわけでもないユイは、今日も今日とてハルの姉のように面倒を見ている。

 

 

 

 

余談ではあるが、ハルの母親の格言である

 

 

 

 

 

「台所に立つ人間が最も偉い」

 

 

 

 

という制度にのっとり、この家でのカーストは上からハルの母親、ユイ、そしてハルの父親が最下位とまさかの位置付けをなされている。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、ハルはこの序列からは除外されている。

 

 

 

 

 

理由は単純、小動物に包丁を握らせるわけにはいかないという3人の静かな決意が表面化しただけである。

 

 

 

「よいっ…しょ」

 

 

 

コップを2つ取り出し、それらにお茶を入れたものをフレンチトーストが乗せられた皿と一緒にテーブルに置く。

 

 

 

そして、リビングでやることを片付けユイは、座って待つか浴室へ向かうべきか数秒悩んだ末に、後者を選択して再び浴室へと向かう。

 

 

 

 

「あ、ユイ」

 

 

 

 

が、ユイが椅子から立ち上がるとほぼ同時に、着替えを済ませたハルがリビングへとやってきた。まだ三つ編みにはしていないため、長い金糸のような髪が、時折吹き抜ける風に揺られてなびく。

 

 

 

 

「おー偉い。早かったね。髪もちゃんと整ってる」

 

 

 

 

 

本当に驚いたのだろう、ユイは目を丸くしてハルを見た。対してハルは僅かに表情を歪めるが、即座に笑顔を作る。

 

 

 

 

「う、うん!多分お腹すいてたから急いだのかな」

 

 

 

ハルとしては、ユイに褒められたことは嬉しい限りなのだが、それはユイが死んで自分一人でやるようになったからでもあるので、その心中はやや複雑だ。

 

 

 

「まったく…まあいいや、ご飯できてるよ」

 

 

 

じゃーんと手を広げながらユイはテーブルに置かれたフレンチトーストを示す。

 

 

 

 

「わぁ!ユイのフレンチトースト!」

 

 

 

目の前のハイスペック極まりない親友の作る味は身にしみて知っているが故に、目を輝かせてハルはテーブルに着席。

 

 

 

迎えに座ったユイの言葉を今か今かと待つその様子は、まてをされている子犬のようだ。

 

 

 

 

「ん、召し上がれ」

 

 

 

「いただきます!」

 

 

 

言うや否や、ハルは箸で掴んだ四つ切りされたフレンチトーストの一角にかぶりつく。かぶりつくと言っても、手や口がミニマムサイズなためにせいぜいパクつくと言った表情のほうがむしろ適切なのかもしれない。

 

 

 

やれやれと言った様子のユイもまた、その顔には年不相応の母性的な笑みが広がっている。

 

 

 

長年の付き合いのユイのひいき目を抜きにしても、小さな口を夢中でもきゅもきゅと動かす目の前の小動物は、十分に見てて微笑ましい。

 

 

 

 

「あ、そうだハル。この後どうする?」

 

 

 

ハルが最後の一切れを掴もうとする直前、ユイが思い出したかのように口を開く。

 

 

 

 

「この後?」

 

 

 

ハルはきょとんとしたように首をかしげる。目覚めて早々、現在進行形で理解不能な状況にあるハルとしては、この後どころか今がどういった状況なのか知りたいと言うのが正直なところである。

 

 

 

一旦手を止めて、ハルは意を決してユイにその問いを投げかけることにした。

 

 

 

 

「あ、あのね、ユイ…できれば怒らないでほしいんだけど……」

 

 

 

ズボンをぎゅっと握りながら、ハルはおそるおそる口を開く。

 

 

 

 

「ん、なぁに?」

 

 

 

そんなハルの混乱などカケラも知らないユイは、いつもの様子でハルを見る。

 

 

 

 

「…え、えっとね…今日この後ってなにするんだったっけ?てゆうか今日はいつ……なの…?」

 

 

 

 

だが、ハルのこの言葉を聞いた瞬間、ユイは口ではなく真っ先に手を動かした。

 

 

 

思わずびくっとして目を瞑るハル。しかしおでこに触れる暖かい感触におそるおそるといった様子で目を開くと、そこには先程とは違った意味で目を丸くしたユイの姿があった。

 

 

 

 

「大丈夫、熱はない?!痛いとことかは?!」

 

 

 

強いて言うなら色々あり過ぎて頭が痛い。

 

 

 

なんてことを口走るわけにもいかず、ハルは慌てて横に首を往復させる。

 

 

 

 

「だ、だいじょうぶだよ!ただ凄く怖い夢見て……それで…」

 

 

 

自分で言って苦しいと思いながらも、これ以上のことは何も言えないハルはなんとかそれだけ口にした。

 

 

 

まさか目の前の親友に向かって

 

 

 

 

なんで生きてるの?

 

 

 

などと口が裂けても言えないし、絶対に言いたくもない。

 

 

 

 

そんなハルの言えない苦しみを全て察したわけではないだろうが、とりあえずは安心したらしいユイは再びやれやれといった表情になりつつ口を開く。

 

 

 

 

 

「まったく……しょうがないんだから」

 

 

 

そんなユイを見て、ハルもまた胸を撫で下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが次の瞬間には、ハルは目覚めて色々あったなかでも、間違いなく最大級の理不尽を叩きつけられることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「下見だよ、裏山に隣町の花火が見られる場所とリスを探しに行くんでしょ?」

 

 

 

 

 

溜息をつきそうなユイの言葉に、今度こそハルは言葉を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんのことはなかった。ハルの左腕が今もなお存在する理由も、ユイが生きている理由も全て同じ理由だったのだ。

 

 

 

 

むしろ、今ここに至ってはそれらが存在するのが当然だ。

 

 

 

 

 

 

何せ今は、ハルが己の左腕と引き換えにユイを弔ったあの日から、2週間以上も前の日なのだから。

 

 

 

 

 

 



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第3話 : 臆病者の決意

ルーズリーフにプロットなどを立ててから書く派ですか?

いきなり勢いで書く派ですか?

私はルーズリーフに大体の流れを書きつつも結局はそれを見ずに勢いで書き終わってる派です(・ω・三・ω・)フンフン


 

目覚めた時間が、直前の記憶よりも前の時間軸であることを何というか

 

 

 

 

 

諸説はもちろん存在するだろう。広辞苑や某インターネットサイトのなんでも辞典の方にもなればさらに詳しく解説してくれることだろうが、今は小学四年生レベルの解答で事足りる。

 

 

 

 

時間遡行

 

 

 

 

小説やアニメ、ゲーム等の世界では日常茶飯事なこれが、今この瞬間におけるハルを取り巻く不可解な現象の全てである。

 

 

 

 

*****

 

 

 

「………う、そ………」

 

 

 

 

あまりの衝撃に、ハルは呆然とするしかない。以前に数々の修羅場もとい不可思議体験を敢行してきたが、それらと今のこれはまさしく文字通りに次元が違う。

 

 

 

 

「嘘じゃないって。それよりもハル、ほんとに大丈夫?顔色悪いよ?」

 

 

 

心配そうに顔を覗き込んでくるユイには悪いが、ハルとしてはそれどころではない。

 

 

 

この不可思議現象に陥るハルの直前の記憶は、ユイが自らの命を絶った大木のもとで、かの縁切りの神と遭遇したところで途切れている。

 

 

であれば、十中八九そのエンカウントが原因ではあろうが、果たしてそんなとんでもない力まであの鋏おばけは所有しているのだろうか。

 

 

 

「う、うん、大丈夫」

 

 

しかし、かの神についていくら憶測を立てたところで、自分の頭で出来ることなどたかが知れている。ならそれについては深く考えず、この降って湧いたような奇跡を最大限に祝福すべきだろう。

 

 

 

という結論の元、ハルは目と鼻の先にまで覗き込んできそうな親友に手を振って問題ないことを示すと、残り一切れとなったフレンチトーストに箸を伸ばす。

 

 

 

卵のふわとろ加減と絶妙にマッチする甘味に目を細め、はぐはぐと小さな口を動かしてユイの作ったフレンチトーストを頬張るハル。

 

 

 

これだけ食欲があれば大丈夫だろう、そう結論づけたユイもまた心配げな表情を押し込めると、眼前の小動物の食事シーンの観察を再開する。

 

 

本人は大きくアーンをしているつもりなのだろうが、当のフレンチトーストはリスに囓られた程度のペースでしかその体積を減らしていないところがまた少し、ユイとしては可愛らしかったりする。

 

 

 

「それで、どうする?それ食べたら山行く?」

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

 

だがそんな余裕も束の間、ユイのその言葉を聞いた瞬間、ハルの脳裏に先程の夢と同じ映像が再度映し出される。

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで大量の人の指と眼球を寄せ集めたかのような、おぞましい姿をした巨大な蜘蛛。死んだユイの魂を弄び、ハルの命すらあと一歩というところまで追い込んだ、絶望の化身。

 

 

 

あの見るもの全てに吐き気を催すような不気味な薄ら笑いと声を思い出すだけで、ハルは己の体内で消化されようとするフレンチトーストが来た道を戻ろうするのを必死に押しとどめなければならなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

「だめっ!!」

 

 

 

そして心の軋みは、叫びとなって外気を震わせた。目をあらん限りに見開き、荒れた呼吸がハルの華奢な肩を上下させる。

 

 

 

「ハ、ハル?」

 

 

 

普段滅多に目にすることのないハルの張り詰めた表情に、ユイは戸惑いの表情を浮かべる。

 

 

 

 

 

「そ、その…ほら!今は虫とかいて山はいやだなーって。それに花火見られる場所なら私知ってるよ!この間ママに教えてもらったもん!」

 

 

 

そんなユイの顔を見て、ハルは慌ててその場を取り繕う。もちろん口から出たのは殆どが嘘というわけではない。虫が嫌いなのはユイも知っていることであるし、花火が見られる場所も、前回と同じ場所を選べば問題はないだろう。

 

 

 

とにかく、これ以上ユイを山に近づけるわけにはいかない。行けば必ずあの醜悪な神はユイを狙ってくる。二度も同じ過ちを犯しては意味がない。

 

 

 

最悪、花火を諦める必要すら考えなければならない。

 

 

だが、それでユイの命を救えるなら構わない。花火なら、また見られる機会もあるだろう。

 

 

 

 

そこまで考えて、ハルはユイに違う提案を持ちかけた。

 

 

 

「ユ、ユイ、私またわんちゃん達と遊びたいな」

 

 

 

 

「クロとチャコのこと?」

 

 

 

首を縦に振るハルに、ユイは怪訝そうな表情を隠せない。長い付き合いということもあり、ハルが何かを隠しているのことを、なんとなくユイは感じ取っていた。

 

 

 

そもそも、昨日の時点で山に行こうと言ったのはハルの方だ。なのに今のこの変わりよう、気にするなという方が無理な話だろう。

 

 

 

「まあ…ハルがそう言うなら、そうしよっか」

 

 

 

だか、果たしてハルが隠したいと思うことをここで無理に問い詰める必要はあるのだろうか。

 

 

 

それに、昨日ハルの口から伝えられた話もある。自分たちが一緒にこの街で夏を過ごせるのは、これが最後になるのだ。

 

 

出来る限り、ハルの望みは叶えてやりたい。

 

 

 

ユイは自身にそう言い聞かせ、ハルの苦し紛れとも言える提案に乗った。

 

 

 

「じゃあ支度しないとね!おいで、髪結んであげる」

 

 

 

そう言うや否や、ユイは椅子から立ち上がると洗面所へと足を進める。

 

 

 

「あ、待って、ユイ!」

 

 

 

そんな足の速い親友の背中を追って、食べたお皿を流しに置き、ハルもまた洗面所へと駆けていった。

 

 

 

 

*****

 

 

「あ、そうだハル」

 

 

 

 

「んー?」

 

 

 

夕暮れ時、町内大探検を終えた2人と2匹は、2人の秘密基地であり二匹…クロとチャコの住処でもある空き地に戻ってきた。

 

 

朝の一連の騒動からはや半日、あれよこれよと遊び倒していたらいつのまにかお天道が就寝召される時間が近づいてきてしまった。

 

 

色々あった朝食を終えて、ハルの要望通りに2人は自分らの秘密基地である空き地に向かった。そこで密かにユイが飼っている二匹の子犬、クロとチャコとともに街中の散歩へと出かけたのだ。はじめのうちは空き地で互いにうりうりとただじゃれ合うだけだったのだが、流石に1時間もすればそれもだんだんと飽きてくるのが必定。

 

 

 

そんな退屈に耐えかねたユイの

 

 

 

 

「ここ狭い!もっと広いとこ行こ!」

 

 

 

 

 

と言う一声に残る者たちも即決で賛成。終いには隣町まで行ってしまいかける大冒険を繰り広げてしまった。

 

 

 

 

道中の木陰で食べたハルの母親特製弁当による英気の補充もあり、彼女らの移動距離、活動時間はともに当初の予定を大幅に増大されることとなったのは彼女らだけの秘密…というよりもただの誤算か。

 

 

 

 

しかしそんな大冒険も、流石に黄昏時が迫ってくれば終了せざるをえない。

 

 

 

 

そんなこんなで、彼女らは出発地点でもありクロとチャコにとっては住処でもあるこの空き地に戻ってきた。

 

 

 

「またグラス、割ったでしょ」

 

 

 

 

「あ!そうだ、たしかその後すぐユイが来て…あれ?ってことはユイが片付けてくれたの?」

 

 

 

 

「うん。まあそれはいいんだけど。ハルも怪我してないみたいだしね。…それよりも…どうしたの?今日のハル……なんか変」

 

 

 

「っ……」

 

 

 

甘えてくるチャコの茶色の毛並みに撫でながら、ユイは口を開いた。当初は無理に問い詰めるつもりはユイにはなかったが、今日1日のハルの行動を見て考えを改めさせられた。

 

 

 

 

そもそも、ハルは普段から寝坊などする子ではない。学校がなくとも朝は両親とともに起きて朝食等を済ませるぐらいには規則正しい生活を送っている。

 

 

それにハルのことだ、今日の朝からユイと遊ぶ約束をしていることも家族に伝えていることだろう。

 

 

 

にもかかわらず、結果はあの通り。ユイが時折探りを入れてみても、こわい夢を見て起きられなかった、の一点張り。

 

 

 

今回の急な予定変更からしてもだ。

 

虫が嫌いというのはユイも以前から知り得ていたことではある。だがそれだけが理由で、ほんの数日前まではなんともなかった山に行きたくないというのはどう考えてもおかしい。

 

加えて、昨日の別れ際に、『母親の友人が山で見たというリスを探すついでに、近々隣町で行われる花火大会が見られる場所の下見をしよう』と言ったのは紛れもなくハルの方だ。なのに昨日の今日で、『ママから場所を聞いた』という言い方は不自然極まりない。

 

 

 

 

 

 

 

さらに日中のハルの行動。

 

 

 

 

基本ユイがいく後をちょこちょこと付いて回るのがハルの基本的な行動方針だ。それはクロやチャコがいてもなんら変わることはない。

 

 

 

だが、クロやチャコ、何よりユイが山へ行こうとする時だけ、ハルは普段の彼女からは信じられないくらい行動的にだった。クロやチャコが行こうとすれば、抱き上げて別の方向を向かせたり、ユイが行こうとすれば、手を引っ張ってあれが見たいあっちに行きたいと露骨な方向転換を求める。

 

 

 

 

ここまで来れば、ハルが山に行こうとしない…いや、ユイ達を山から遠ざけようとしていることなど簡単に推測できる。

 

 

 

 

 

「…山に…何があるの?」

 

 

 

 

 

 

 

短く、だがこれ以上ないほどに核心を突く言葉。一切の小細工なし、ど真ん中ストレート。ユイらしいその言葉が、狼狽えるハルの心の隙間を捉える。

 

 

 

 

 

「な、何でもないよ?ほ、ほら!私、虫が」

 

 

 

 

暑さとは違う、冷水のような汗を背中に感じながらも、ハルは必死に口を動かす。

 

 

 

 

「ハル」

 

 

 

 

 

 

「だ、だいじょうだよ?花火見られる場所ならママに」

 

 

 

そうだ、場所なら知っているのだ。以前に見たあの高台からなら隣町の花火が見られることは既に知っている、わざわざ山に行く必要はない。

 

 

そもそも、その花火を見た帰り道にユイとはぐれ、危険極まりない夜の冒険をする羽目になったのだ。

 

 

 

挙句、見つけたユイは既に死亡していたのだから、いかな理由があろうと山に行くこと自体が前提から間違っている。

 

 

 

 

 

 

なんて、そんなもの全ては建前だ。

 

 

 

 

 

 

 

ハルはただ単純に、二度と目の前の親友を失いたくないだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

嫌だ、あんな結末、もう見たくない

 

 

 

 

 

 

「ハル」

 

 

 

 

「そ、それに!リスを見たって話もほうとうは」

 

 

 

 

誰も救われない結果だった。クロとユイは死亡し、ハルは片腕を失った。

 

 

 

 

ではそれを対価に何がもたらされたのか?

 

 

 

 

 

何もありはしなかった。失うだけ失って、奪われるだけ奪われて、弄ばれるだけ弄ばれた。

 

 

 

 

そこに慈悲はなく、救済もなく、残ったものは枯れぬ涙と癒えぬ喪失感。

 

 

 

 

 

憎しみすら生まれない、絶対的な絶望のみ。

 

 

 

 

 

嫌だ、そんなのは。失うのも、奪われるのも、もうたくさんだ。

 

 

 

 

 

 

 

「ハル」

 

 

 

 

 

「だ、だいたい!花火なんて別に無理に見に行かなくたってーーーー」

 

 

 

 

 

嫌だ

 

 

 

 

 

 

 

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嫌だ、もう1人ぼっちになるのはーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

「ハルっ!!」

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

 

そこに響く、たった一つの叫び。

 

 

 

 

己の名を呼ぶ、親友の声。

 

 

 

 

ただそれだけで、虚ろな言の葉は砕け散る。

 

 

 

2人を見つめる二匹の子犬は、まるで固まってしまったのかのようにその場から動かず、ただじっと2人の主の成り行きを見守っている。

 

 

 

 

「…ハル、本当のことを教えて」

 

 

 

「あ……う………」

 

 

 

 

ハルのすぐ目の前にまで来たユイの瞳が、まっすぐにハルを捉える。まるで絶えず何かに怯えているような、そんな弱々しい瞳だった。

 

 

 

 

 

それでもなお頑なに口を開こうとしないハルを、ユイはそっと抱き締める。

 

 

 

 

 

 

「…あ…」

 

 

突然のことに、びくっと体を震わせるハル。そんなハルの小さな体を、同じくらい小さな体で、ユイはしっかりと抱き寄せる。

 

 

 

そして耳元で、ただ優しく、囁きかけるようにして口を開く。

 

 

 

「ねぇ、ハル」

 

 

 

「…………」

 

 

 

「ハルは…私のこと、嫌い?」

 

 

 

ぶんぶんと、抱き寄せられた状態で首を振るハル。

 

 

 

 

「ハルは私のこと、信じられない?」

 

 

 

ハルは首を振る。

 

 

 

 

「それでも…話せない?」

 

 

 

しかし今度は首を縦に降る。ユイは首筋のなぞる暖かい涙に答え、震えるハルの頭を優しく撫でる。

 

 

 

「ねぇ、ハル。少しでいいから、話してほしいな。全部なんて言わないから。ハルが話してもいいなってだけ。ハルが…少しでも楽になれるだけでいいから。ね?」

 

 

 

「……………………」

 

 

 

沈みかける太陽に照らされる小さな空き地に、沈黙が舞い降りる。

 

 

 

そんな優しくも悲しい沈黙を破ったのは、ハルだった。

 

 

 

 

「…ねえ……ユイ…」

 

 

 

 

「…うん」

 

 

 

 

鼻声で、つっかえつっかえで、弱々しい口調のハルの背中を、赤ん坊をさするようにしてユイは撫で続ける。

 

 

 

 

 

 

「……私…もうすぐ引越し……しちゃう」

 

 

 

 

 

 

「……うん…」

 

 

 

 

ユイからしてみれば、昨日告げられた衝撃の事実。ハルからしてみれば、とうの昔に伝えた真実。

 

 

 

それぞれのうちで違う意味を持つこの言葉に、ユイの瞳にもまた光るものが浮き始める。

 

 

 

 

 

「…もし…私がこのまま引越しして……」

 

 

 

「…うん」

 

 

 

 

「……もし…クロがいなくなっちゃって……」

 

 

 

「…うん」

 

 

 

「………もし…このままお父さんと仲良くできなくて…」

 

 

 

「…うん」

 

 

 

 

「……そしたら…そしたらユイは…死んじゃいたいって………思う?」

 

 

 

 

ユイの肩から頭を上げて、ハルはユイと目を合わせて問う。未だその人形のように整っているはずの顔は涙でぐしゃぐしゃではあるが、それでも、赤くなった目だけは決してユイから離そうとはしない。

 

 

 

 

正直、ユイとしては非常に困惑している。ハルの行動もそうだが、何より、この何かを暗示させる…いや知っているかのような言い回しが引っかかって仕方がない。

 

 

 

引越しはまだいい、それは昨日聞いた。

 

 

 

 

 

クロがいなくなるというのも、まあ可能性としてなくはない。

 

 

 

 

だが、父親のことを一度でもハルに話したことはあっただろうか。ハルの両親には殆ど勘付かれているだろう。でなければこうも密な関係は築けない。

 

 

 

だが、いくら勘付いているとはいえ、それをあの両親がハルに漏らすとはどうしても考えられない。ハルとユイの間に暗雲を立ち込めさせるようなことをするはずがない。

 

 

 

ここで、どうして知っているの?、っと聞くのは簡単だ。だが、ユイはそれを選択することはどうしてもできなかった。

 

 

 

 

なぜかはわからない。だがそれをした瞬間、今目の前にいる親友と、ここにいる自分の間に深い溝が出来てしまう気がしてならないからだ。決して埋まることのない、決して越えることのできない、大きな溝が。

 

 

 

根拠はない、しかし、これまでどおりの関係ではいられなくなる。この直感だけは、恐らく外れてはいない。

 

 

 

 

故にユイは、己の中にある全ての疑念を打ち払い、ハルの静かな問いに答えることを選んだ。

 

 

 

 

 

その答えはーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「死なないよ」

 

 

 

 

否。滲む視界に喝を入れ、ハルを睨むようにしてユイは言った。

 

 

 

 

「…ユイ…?」

 

 

 

 

「そんなんで死んだりなんてしない。ハルが引越ししたって、私いっぱい手紙書くもん、会いに行くもん!」

 

 

 

 

いつしかユイは声を張り上げていた。狼狽えるハルに、ユイは容赦なく畳み掛ける。

 

 

 

 

「クロがいなくなる?そんなことない、私ちゃんとお世話する!この子達を守る!」

 

 

 

 

「…ユイっ」

 

 

 

 

「お父さんにだって負けない!そんなんで私死んじゃおうなんて思わない!そんなんでクロを…チャコを…お母さんを……ハルをっ!悲しませなりなんてしない!!」

 

 

 

 

 

 

「……ユイぃ…っ!!」

 

 

 

 

 

 

涙を浮かべて叫ぶユイに、ハルもまた涙に潤んだ声で答える。堪らずユイに飛び込むハルを、ユイもまた求めていたかのように抱き締める。

 

 

 

 

互いの頰に感じる涙がどちらのものか、既にわからない。

 

 

 

 

黄昏に染まる小さな空き地の一角に、2人の少女の涙が零れ落ちた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「…さて、そろそろ帰ろっか」

 

 

 

抱擁を解いて先に口を開いたのは、ユイだった。

 

 

 

「そうだね、もうじき暗くなっちゃう。また怖いのに会いたくないもんね」

 

 

 

 

お化け、妖怪、幽霊。その他言い方はあるだろうが、ひとまずはこの安パイな呼び方を選んでおく。

 

 

 

 

「うん、じゃあ行こ。送ってくよ」

 

 

 

「ううん、大丈夫。1人で帰れる」

 

 

 

 

昨日と同じように、自分を送ってくれるというユイの声を、ハルは断る。

 

 

 

 

「ハル?」

 

 

 

昨日の夜、ハルからすれば一月弱は前の話だが、そこで2人は、かの縁切りの神による襲撃をうけている。ユイから聞いていないが、ハルを送り届けた帰り道にユイが再び襲われている可能性もある。

 

 

 

それがわかっていて、ユイをわざわざ危険に晒すことなどしない。

 

 

 

 

「ほんとに大丈夫?」

 

 

 

「ほんとにほんとに大丈夫。ユイこそ、気をつけてね」

 

 

 

 

一応、これでもハルはユイを探して幽霊かお化けかはわからないが、少なくとも普通の存在ではない者たちが闊歩する深夜の街を歩き回った経験がある。あのなんでもカットな神とでさえ何度か激闘(実際は必死に逃げただけではあるが)を繰り広げもしたのだ。場数はそれなりに踏んでいる。

 

 

 

 

「まあ…ハルがそこまで言うなら……気をつけてね、ちゃんとまっすぐ帰るんだよ?」

 

 

 

「わかってるってば。……あのさ…ユイ」

 

 

 

 

「ん?」

 

 

 

 

「花火……やっぱり見に行きたい、一緒に」

 

 

 

シャツの裾をぎゅっと握りしめながら、ハルは口を開く。そんなもじもじと涙ぐむハルに返ってきたのは、変わらぬユイの苦笑だった。

 

 

 

 

「まったく…うん、行こうね。2人で、一緒に」

 

 

 

*****

 

 

 

深夜

 

 

月が傾き、ただ暗い闇が街を覆うなか、ハルは自分の体温が残るベッドから降り立った。

 

 

 

 

 

パジャマを脱ぎ、予め用意しておいた動きやすいシャツと半ズボンに着替える。流れる金髪をいつもどおり後ろで一房の三つ編みでまとめ、ユイと色違いの青いリボンを結ぶ。

 

 

 

お気に入りの小さなリュックに懐中電灯や換えの電池といった必要最低限のものを詰め込み、ポッケに財布から取り出した100円玉と10円玉を数枚ずつだけ入れる。

 

 

 

両親にバレないよう、忍足で階段を降り、そっと玄関の扉を閉めて外に出る。

 

 

 

 

 

これからハルがしようとすることをユイが知れば、一も二もなくすっ飛んでくるだろう。もしかしたら、いつものお説教などでは済まないかもしれない。

 

 

目覚めてからずっと、目を背け続けてきた。

 

 

 

 

一番手っ取り早く、しかし恐らく一番困難な選択肢。ユイやクロ、ハル自身を含む、全てを守るための最短にして最難関のルート。

 

 

 

 

山の神の打倒

 

 

 

 

 

これさえ成し遂げてしまえば、あとはなんの憂いもない。花火に行こうがなんだろうが、大抵のことはこれで解決できる。逆に言えば、アレが存在する限りハルにもユイにも安寧は訪れない。

 

 

 

であるなら、成し遂げねばならない。ユイを守るためにも、自身が知るあの絶望に満ちた未来を変えるためにも。

 

 

 

 

 

ハルは決死の思いで夜の街を駆ける。

 

 

しかし、その勇み足は家から出て少ししたところにある一軒の家の前で止まることとなる。

 

 

 

「…ユイ」

 

 

既に何度も見た、しかし終ぞ入ったことはない親友の家。この家のどこかで眠る親友に向かって、ハルは囁きかける。

 

 

 

「ユイ、勝手なことしてごめんね。……でも、守るから。私がユイも、わんちゃん達も、ぜんぶぜんぶ。あのお化けやっつけて、みんなで山に花火行けるようにする」

 

 

 

命を賭けるには、あまりにささやか過ぎるのかもしれない。しかしこれが、これだけが、ハルが命を賭して守りたいものなのだ。

 

 

 

今日の夕暮れに、以前は聞けなかった、ユイの本心を聞くことができた。ユイは、死ぬつもりなどなかった。

 

 

自分だって、辛いはずなのに。ただハルを大事に思ってくれるユイを優しさを、改めて側に感じた

 

 

だからこそ、ハルは許せなかった。ユイは死ぬつもりはなかった。しかしあの未来では、ユイは自殺であると後の警察の調査で明らかにされている。

 

 

 

それは何故か。

 

 

馬鹿な、そんなもの問いかけるまでもない。全ては、あの醜悪な神の見えざる手だ。悲しみと苦しみに打ちひしがれ、それでもなお立ち向かおうとしたユイの、ほんの少しの弱みにつけこんで、自殺という最悪の形で命を奪った。

 

 

しかも自殺をさせるだけでは飽き足らず、死んだユイの魂を弄び、挙句怨霊と化したユイを操りハルを殺そうとしたのだ。他ならぬユイの手で、ハルの命を奪わせようとした。

 

 

何故、ここまでされなければならないのか。

 

 

 

こんなことが許されるのか。

 

 

 

自分が、ユイが、一体何をしたというのか。

 

 

 

あの時抱くことのできなかった感情……激情が、はじめてハルの内に火を灯した。

 

 

 

「…私…頑張るからね。ぜったいぜったい…負けないから」

 

 

 

その言葉を最後に、ハルはユイの眠る家に背を向けて走り去っていく。

 

 

 

目指すは、今もなおそびえる暗き山。その深奥で不気味に微笑む、山の神。

 

 

 

 

親友の命を守るために

 

 

 

 

 

己が未来に進むために

 

 

 

 

ハルの、最後の深夜廻(しんよまわり)が、今静かに幕をあげた。

 

 

 

 



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第4話 : 供物

*注意
今回の話は、小説や本編、そして様々な考察動画、サイト等から考え出した、私個人の考察を前提に組み上げております。十中八九、異なる意見を持つ方、また、明確に私とは違う考察をされる方がおられるとは思います。

しかし、物語の進行上、この考えを改めるのは困難のため、私の考察を否とされる方、感想欄にてそのことを書くことはご遠慮ください。もし否とされる方はそのままプラウザバックをお願い致します。


身勝手とは思いますが、どうかご容赦願います。


それでは、どうぞ。


 

 

深夜。

 

 

それは夜明け前の、闇がもっとも深くなる時間のことを指す。月明かりすら存在しない街の静寂と暗闇は、人々に底知れない不安と恐怖を植え付ける…………だけならまだマシだ。

 

 

 

と言うのも、この街は日が沈んだその瞬間から次に日が昇るまで、人ではない存在…ひとえに怪異と呼べるものたちが一斉に街を闊歩し始める。マンホールから無数の手が出てきたり、現代風にタイヤの中で燃えながら突進をかましてくる何かから人面巨大蟹まで何でもござれ。

 

 

 

日本全国をくまなく探しても、この街ほどお天道様のありがたみを痛感できる街は恐らく存在しないだろう。

 

 

 

不気味なまでの闇に覆われた街中を、懐中電灯の明かりで灯しながら走るハルはそう確信している。

 

 

 

そんなささやかでも小さくもない愚痴を頭の片隅から追いやり、ハルは自身の目的を達成させるための算段をもう一度振り返る。

 

 

 

 

現在ハルの走っている位置は、進行方向左に山の雑木林が見える一本道だ。もうしばらくすれば、入り口が見えるだろう。

 

 

 

ではそのまま入り口から山に入り、山の神が居座るあの洞窟の深奥に討ち入りを果たすのか。

 

 

 

答えは否、断じて否だ。

 

 

 

今のハルに許される対抗手段など、石か紙飛行機を投げつけるのが精々といったところだ。

 

 

 

まかり間違っても、月に代わってお仕置きが出来るわけでもなければ、ワルプルでギルなデストロイの夜めがけてロケットランシャーをぶっ放すことが出来るわけでもない。

 

 

 

前回ハルがあの洞窟で山の神を退けることが出来たのは、ひとえにかの縁切りの神の力添えがあったことがもっとも大きな要因と言える。

 

 

 

そもそもあの神のお陰で、洞窟の入り口が見つかったのだし、山の神の生命戦とも言える赤い糸を切ることが出来たのだって、かの神から借り受けた断ち鋏があったからこそだ。

 

 

 

で、あるならば。今回もその縁切りの神の援護射撃なくしてハルが勝利を収めることは不可能に近い。

 

 

 

まして今回は山の神から『逃げる』のではなく、山の神を『倒す』ことが目的なのだ。尚更ハルの乏しい腕力だけでそれを成し遂げることなど到底無理な話である。

 

 

 

 

以上のことを踏まえ、ハルの第一の目的地は洞窟ではなく、山のさらに下方にあるはずの寂れた神社だ。その時代に忘れ去られたかのようにして存在する神社こそ、件の縁切りの神を祀る神社である…のだが。

 

 

 

現在はダムによって水流に飲み込まれるか否かまでその立地が危ぶまれていそうなことに加え、境内にはお菓子ならジュースやらのゴミが散乱している等、まあ酷い荒れ具合なのである。

 

 

 

その神社で、前回と同じように社の前の人の形をした石畳みからゴミをすべて取り除けば、縁切りの神を解放し、助力を得られるのではないか、というのがハルの考えだ。

 

 

 

まああれを解放ととるか、それとも封印ととるべきかは定かではない。しかしああでもしないと、ハルを見つけ次第に鋏をジャキンジャキンしてくるのだからハルとして困るどころか最早たまったものではないが。

 

 

 

 

「…はあ…はあ…着いた」

 

 

 

そしてハルの決して多くない持久力の残量が4割を切ると同時に、彼女はとりあえずの目的地であった山の入り口に到達する。並び立つ木々の隙間に、無理やり風穴を開けたようなその暗闇は、心なしかいつもよりずっと不気味に見える。

 

 

 

 

「………」

 

 

これより先は、恐らくハルが歩んできたどの道よりも険しく困難な道のりとなるだろう。なんせ特撮ヒーローが袋叩きにしても勝てるかどうかと思われる存在に、なんの力もないただの少女の身で挑まなければならないのだから。

 

 

 

 

「待っててね、ユイ。今度は…絶対に助けるから。絶対に……守るから」

 

 

 

だが、それでも、例えどんな理不尽が待ち構えていたとしても、やり遂げねばならない。そうでもしなければ、せっかくのこの機会に自分が存在している意味がない。

 

 

 

安穏としているだけでは駄目なのだ。脅威からただ逃げるのではなく、勇気を持って立ち向かうこと。

 

 

 

それだけが、絶望の先にある、希望を掴むことができる唯一の手段なのだから。

 

 

 

 

 

 

「…よしっ!」

 

 

 

 

両手に力を入れて、ハルは自分の両頬を叩く。気合いは十分、あとはこのまま縁切りの神の神社まで一直線。

 

 

 

ちなみに、思いのほか手に力が入ってしまったことで、大きな瞳が若干潤んでいるのはご愛嬌である。

 

 

 

 

 

そうして、ハルが勇みよく一歩を踏み出した瞬間ーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

「…えっ?」

 

 

 

 

 

ちいさな獣の鳴き声に、ハルは来た道を振り返る。暗い道の先、明滅を繰り返す街灯に当てられたアスファルトの上を、小柄な黒い毛並みを揺らして走るちいさな影。

 

 

 

 

「…うそ…なんで…」

 

 

 

 

ユイの愛犬が一匹、クロがハルの元まで駆け寄って来た。

 

 

 

 

「ついてきちゃダメ、ほら、お家におかえり」

 

 

 

足元で尻尾を振りながら自分を見上げる子犬に、ハルは来た道を指差して引き返すように促す。だが、当のクロはハルの指などなんのその、とてとてとハルの周りを回っては尻尾を振っている。

 

 

 

 

「ダメだってば!」

 

 

 

極めつけに、ハルが声を張り上げてもまるで効果なし。ハルの正面に座り込んだまま、クロはテコでも動かんとばかりにハルを見つめ続ける。

 

 

 

「はぁ…どうしよう…」

 

 

 

予想外のアクシデントに、ハルは頭を抱えることとなった。流石に怪異ではなく子犬が妨げになるのは想定の範囲外である。

 

 

 

だがこうなっては仕方がない。一度クロを連れて空き地まで引き返すこと他に選択肢はないだろう。大幅なタイムロスにはなるが、クロを危険な目に合わせるのでは本末転倒もいいとこだ。

 

 

 

幸いというかある意味そうでもないというか、夜はまだ長い。空き地からまたここに戻って来たとしても、神社と洞窟に行くぐらいの時間は十分に残されている。

 

 

 

 

 

そうして、ハルは足元でうろうろするクロを抱き上げ、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

刹那ののちに背後めがけて振り向いた。

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

振り向いた先、ハルの正面に異形がいた。体全体が霧のような靄で出来た人型の何か。これまで幾度となく遭遇して来た怪異だが、まさかこれほどまでに接近を許したのは初である。

 

 

 

「…あ……う…」

 

 

 

言葉が出ない。怪異の正体も名前もろくには知らないが、一つだけハルが確信していることがある。

 

 

 

それは害意、もはや殺意とすら言える恐怖。一度でも掴まれれば終わりとすら思える憎悪にも似た、生者に対する圧倒的な負の感情。

 

 

 

現状、怪異に対する唯一の対処法は逃げの一手しかない。フィクションの世界のようにとんでもな式神がいるわけでも、怪異絶対滅するマンな槍もないのであれば、触れられる前に怪異をあの手この手で振り切るしかない。

 

 

 

故に、今のような怪異までの距離がものの数センチしかないハルの状況はほぼ詰みといっても過言ではない。基本的な人間ステータスとして、ハルは決して運動能力が秀でている部類ではない。寧ろ走力、持久力、瞬発力という全体的な運動能力は軒並み平均以下とすら言える、典型的な運動音痴だ。

 

 

 

だからこそ、いち早く怪異の存在を感知し、なるべく接近を許さないよう立ち回る必要があるにもかかわらず、この状況。ハルが助かる確率は限りなくゼロに近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしそれは、ハル1人であるならば、の話。

 

 

 

 

 

 

「ウアウっ!!!」

 

 

 

 

突如、抱き上げられていたクロがハルの腕を脱出したかと思えば、これまで見たことのないほどに怒りを露わにして、怪異にむかって吠える。

 

 

 

「ク、クロっ!?」

 

 

突然のクロの豹変に、ある種ハルは怪異の接近よりも驚愕している。お昼に一緒に散歩した時ののほほんとした様子はどこに行ったのか、今はまさに狼のような荒々しさで怪異に向かい合っている。

 

 

 

 

「ウルルルルル…」

 

 

 

喉を鳴らし、歯をむき出しにして怪異を睨むクロ。そんなクロの姿に当てられたのか、靄のような人影が徐々に後退していく。

 

 

 

 

「ウアウっ!!!!!」

 

 

 

そして、クロの2度目の咆哮を最後に、怪異は闇に溶けるようにしてその姿を消した。

 

 

 

「…………」

 

 

 

ハルは唖然とした。まさか怪異をこの小さな子犬が撃退してしまうとは想像もしていなかった。

 

 

 

「ううん、違う。初めてじゃ…ないもんね」

 

 

 

だが、以前の記憶を思い出し、ハルはそうでもないことに気が付いた。

 

 

 

「君は…ゆうかんだね」

 

 

 

足元に擦り寄るクロの頭を撫でながら、ハルは以前にも似たような状況で、もう片方の子犬、チャコに助けられた場面を思い返す。自分よりもうんと大きな怪異にむかって、ハルを守るようにして立ち向かってくれた小さな背中。

 

 

 

この子たちは、自分の身を盾にしてまでハルを守ってくれたのだ。

 

 

 

 

「ありがとね、クロ」

 

 

 

 

 

撫でられて気持ち良さそうに目を細めるクロを見つめながら、ハルは改めて感謝を述べる。

 

 

 

 

「さて、それじゃ一旦空き地に」

 

 

 

だがハルがそう言ってクロを抱き上げようとした瞬間、

 

 

 

 

ぺしっ

 

 

 

「いたっ」

 

 

 

実際は痛いわけではないが、なんとなく口に出てしまうことぐらい誰にだってある。まして子犬に前足で手を叩かれてたりなどしたら尚更だ。

 

 

 

「クロ?」

 

 

疑問に思いながらも、ハルは再びクロを抱き上げようと手を伸ばす。

 

 

 

 

ぺしつ

 

 

 

「いたっ」

 

 

 

実際は痛いわけではないが、なんとなく口に出てしまうことぐらい誰にだってある。まして子犬に前足で手を叩かれてたりなどしたら以下同文。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

試しに、今度は両手ではなく、右手だけを伸ばしクロの頭に添えて撫でる。クロは叩くことなく、寧ろ目を細めて尻尾をブンブンしているあたりハルを嫌いになったわけではなさそうだ。

 

 

 

 

そして頭を撫でながら、そのどさくさに紛れてもう片方の手を伸ばし、クロを抱き上げようとして

 

 

 

 

 

 

ぺしっ

 

 

 

 

 

「いたっ」

 

 

 

 

 

実際は痛いわけではないが……以下省略。

 

 

 

 

 

 

「クロ…」

 

 

 

やはりというかなんというか、これは故意だ。クロはハルに抱き上げられる…その後の行動を感じ取って意図的にハルの行動を阻害している。

 

 

 

まるで、これからハルが何をしようしているかを見通しているかのような行動だ。

 

 

 

「お願い、クロ。これから行くところはとっても危ない場所なの。君をつれてはいけないよ」

 

 

 

ちょこんとしゃがみ込み、ハルはクロに問いかける。死因も日時も場所も定かではないが、前回、たしかにクロはその命を散らしている。十中八九、あの悪神の手によるものだろうということしか推測できない以上、これより先にクロを連れて行くわけにはいかない。

 

 

 

だが当のクロはハルの言葉を聞いた途端、その小さな腰を上げたかと思えば、あろうことかハルと山の入り口のちょうど真ん中あたりに座り込んだ。

 

 

 

意地でも1人でいかすまいとするその姿は、ハルの決意を揺らすには十分なものだった。

 

 

 

 

「ダメなんだってば!お願いだからいうことを聞いて」

 

 

 

だがそれでも、ハルは頑なにクロの同行を拒む。

 

 

 

行かせるわけにはいかない。

 

 

 

連れて行くわけにはいかない。

 

 

 

死なすわけにはいかないのだ、もう2度と。

 

 

 

 

そうして半ば無理矢理にハルがクロを抱き上げようとした瞬間、クロが吠える。

 

 

 

「え?」

 

 

 

立ち上がったクロは、先程と同じように尻尾を逆立てる。喉を鳴らして唸るその姿は、クロへと両手を伸ばすハルを止めるには十分であった。

 

 

 

「…怒ってる……の?」

 

 

ハルはクロに向かって問いかける。そんなハルの言葉に対するクロの返答は、ひときわ大きい唸り声。

 

 

 

 

「…?!クロ…」

 

 

 

 

 

そこでハルはようやく気付いた。自分がクロを、ユイを守りたいのと同じく、クロもまたハルを守りたいのだと。だからこそ、危険を承知で夜の街を走りハルを追いかけて来たのだ。

 

 

 

 

己もずっと小さな体に似合わない勇敢な子犬の姿に、ハルはもう一度両手を伸ばして抱き上げる。

 

 

「ほんとうに…ほんとうに…君たちはゆうかんだね」

 

 

 

クロもまた、今度は抵抗しなかった。ハルに抱かれ、彼女の色白で柔らかな頬に顔を擦り寄る。

 

 

 

 

抱き上げていたクロを下ろし、見上げてくる子犬にハルは目を合わせて問いかける。

 

 

 

 

 

「いこう、一緒に」

 

 

 

 

 

その言葉を待っていたかのように、クロは大きく吠えるとハルの隣に駆け寄る。

 

 

 

「私が守る、きみも、チャコも、ユイも。みんなみんな」

 

 

 

 

目指すは森の下層にある寂れた神社。幼い1人の少女と一匹の子犬は、まるで寄り添うようにして不気味極まりない雑木林の入口へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

明滅を繰り返す頼りない街灯を頼りに、ハルとクロは鬱蒼とした山道を登っていく。流石に消えかけの街灯達だけでは頼りないということで、ハルの右手には家からこっそりとかすめてきた青い懐中電灯が握られている。

 

 

勝手に持ち出したことがバレても、まあそんなに厳しく怒られるわけでもないが、やはり両親に黙って家のものを持ち出していること事実は、ハルの幼心にわずかな罪悪感をもたらした。

 

 

 

まあ懐中電灯うんぬんの前に、こんな時間に外を出歩いていることがバレたほうがよっぽど怒られるのだろうが。

 

 

 

普段浮かべる柔和な笑みのまま、背後に鬼を具現化させる自身の母親の姿を思い出し、ハルは背筋が緊急冷却されていくのを感じずにはいられない。

 

 

 

 

「えっと…たしかこっちであってる…よね」

 

 

 

 

 

そんな思考を頭の片隅に追いやり、ハルはもはや獣道とかしてそうな道を踏みしめる。ハルが目指す神社は、山の入り口からさらに下方に位置した場所にある。

 

 

 

前回は雑木林の入口からさらに奥にある、地下水道からダムに上がり、そこから下に回り込むようにして、ほとんど偶然のようにして神社にたどり着いたのだが、今は問題なく山道が通れるためにそこまで回りくどいことをする必要はなさそうだ。

 

 

 

まあその地下水道もまた山や街と同じくらい怪異たちのホットスポットになっているので、できれば2度と使いたくないというのがハルの本音なのだが。

 

 

 

 

そうこうしているうちに山の中腹あたりまで登ったハルは、目の前の分かれ道を左…つまりは山の神がいる洞窟のある上方ではなく、反対方向の下方へと伸びる右に進んでいく。

 

 

 

ハルの後ろをちょこちょこと歩くクロもまた、ハルの小さな背中を追って山を下っていく。

 

 

ただでさえ頼りない光源を、群がる羽虫たちにたかられる哀れな街灯と懐中電灯を頼りにして、ハルとクロはさらに下へ下へと山を下る。

 

 

 

 

階段のようになっている段差を降りた先で、彼女らは木々がひらけた、小さな広間のような場所へとたどり着く。

 

 

 

 

 

 

 

そして、ハルはこの場所を知っている。

 

 

 

 

 

 

「……ここって…あの時の…」

 

 

 

忘れるはずがない、忘れられるはずがない。

 

 

 

 

 

ここは、度重なる冒険の果てに、ハルがユイと再会を果たした場所だ。

 

 

 

あの時の、おぞましい怨霊と成り果てたユイの姿は、今でもハルの脳裏に消えない傷とともに焼き付いている。

 

 

 

あの黒い針を無数に地面から生やす恐ろしい攻撃も、狂った叫び声も、何一つ忘れてはいない。

 

 

 

 

「守るんだから。もう…ユイをあんな風になんかさせない」

 

 

 

 

 

頭を振り、忌まわしい記憶をハルは振り払う。

 

 

 

 

 

「……あれ……そういえば……」

 

 

 

 

 

 

だがそうしようとした瞬間、ハルの脳裏にそれとは別の記憶が呼び起こされる。

 

 

 

 

「なんで私…あの洞窟に行った時、初めてじゃないって思ったんだろ…」

 

 

 

思い起こされるのは、ここでユイとの無情な再会を終えた後のこと。あの後、ハルは自身を死に誘おうとする山の神の言霊に逆らい、縁切りの神の力添えとともに洞窟の入り口にたどり着いた。

 

 

 

だが、洞窟の奥に進めば進むほど、ハルの頭によぎったのは強い既視感と、生前と思われるユイが洞窟の奥へと進んでいく謎のビジョン。

 

 

 

 

だがそれらに対する考察は、後に対峙したかの悪神とのあれこれでうやむやになったままだ。

 

 

 

だが一体なぜこのタイミングでそのことを思い出したのだろう?

 

 

 

なんとなく喉に何かが引っかかるような後味の悪さの中、ハルは思考する。

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

突然立ち止まり無言になったハルにならい、クロもまた足を止めてハルの横に座り込む。

 

 

 

 

ハルは覚えている限りのことを記憶の引き出しから引っこ抜いては次々と頭の端に投げていく。

 

 

 

何か、何かがおかしい。

 

 

 

 

あの時の既視感と謎のビジョン、そして今のこの状況。

 

 

 

 

手がかりは、

 

 

 

 

(そうだ!ユイのメモ!たしかこんな風だった…)

 

 

 

 

ハルは以前、街を探索する中で、生前のユイが残したとされる日記らしき紙の切れ端をいくつか拾っていた。そこには、ユイの苦しみや悲しみなど、普段決して口にはしなかったユイの弱音が綴られているものもあった。

 

 

 

だが一方で、奇妙な内容のメモもまた存在した。

 

 

 

(…『どうしよう。どこをさがしてもみつからない』…ユイが探してたのは…クロ…?)

 

 

 

たしかに、文面だけ見ればそうとも取れる。実際、クロは野良犬だ。空き地を抜け出してしまうことだって十分にあり得ることだろう。

 

 

 

(…『わたしはどうなってもいい。あのこはぜったいたすけなきゃ』…これも…クロ…かな?)

 

 

 

恐らく、死ぬ前にユイは()()を探して街を駆け巡っていた。恐らく1日や2日ではないだろう。しかも、ユイはその何かを助けられるのなら、自分がどうなっても構わないとすら言っていることから、その何かがユイにとってどれだけ大切な存在だったのかが窺い知れる。

 

 

 

(…あれ、でもならあのメモ…『ハルの代わりにクロが死んだ』っていうのは?…私の代わり?クロが私の代わりに死んだ?…どうゆうこと…?)

 

 

 

そう、あのメモの最大の謎はここだ。ユイが探していたのがクロだとするならば、なぜそこにハルの名前が出てくるのか。実際、ハルにはユイと一緒にクロを探した記憶はない。

 

 

 

 

極めつけは、ハルの代わりにクロが死んだ、という悲惨極まりない言葉。

 

 

 

(…変だよ。クロが死んだ時、私は近くにいたの?…そんなはずない、私、クロが死んだことはユイから聞いただけだもん。もし私が近くにいたら、ユイはあんな言い方はしな……い……)

 

 

 

だが、この瞬間、ハルの脳裏にある種の天啓が舞い降りる。

 

 

 

 

ひとつだけ、存在する。

 

 

 

 

ユイのメモと、ハルの違和感を繋げる、唯一の可能性が。

 

 

 

 

(まって…まってよ…嘘だ…そんなの…)

 

 

 

だが、もしそれが真実だとするなら、これまでの前提の全てがまるごとひっくり返ってしまう。今ハルがここにいるということの意味が、恐らく180度変わってくる。

 

 

 

(…あれ…いつだっけ…!?ユイと一緒に花火の下見いったの…いつだっけ?!昨日?…違う…違う違う!!いったのは昨日!…でも…でも!!)

 

 

 

本来の時間軸なら、確かに昨日はユイとともに花火の下見を兼ねてハルは山を訪れている。

 

 

 

訪れている。

 

 

 

 

では、()()()()()()()、いつだ?

 

 

 

 

「あ…あ…あ…あぁぁぁぁぁ!」

 

 

 

そして、ハルはたどり着いた。この土壇場で。このどうしようもないタイミングで。もう取り返しがつかない、最悪のこの瞬間に。

 

 

 

 

ハルは、ひとつの残酷な真実に辿り着いてしまった。

 

 

 

 

 

思えば最初から変だったのだ。あの洞窟での妙な既視感と謎のビジョン、そしてユイのメモ。

 

 

 

だが、そう思うのは当然だった。なにせそれらの前提から全て間違っていたのだから。

 

 

 

 

ユイが死んだのは、たしかに山の神の仕業だ。

 

 

 

 

クロが死んだのも、恐らくは山の神によるものだろう。

 

 

 

 

ではクロは、いつ、どこで死んだのか?

 

 

 

どこ、というのは考えるまでもない。山の神に殺されたのならほぼ間違いなくあの洞窟だ。

 

 

 

では、いつ?

 

 

 

そもそも、何故クロが洞窟を訪れなければならなかったのか?

 

 

 

 

その答えが、ユイのメモだ。

 

 

 

端から間違っていた。ユイが探していたのはクロではない。それどころか、今のハルと同じように、クロは街を駆け巡るユイの隣にいたはずだ。

 

 

 

 

では、ユイの探していた、()()()、とは?

 

 

 

ユイが自身の命を投げ打ってでも助けたい、大切な存在とは?

 

 

 

馬鹿な、そんなもの答えは一つしかありえない。

 

 

 

これで、全てが繋がった。

 

 

 

ハルの既視感、ユイが生前に洞窟を訪れた理由、クロが洞窟でその命を散らした理由。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ユイが死ななければならなかった理由。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユイは山の神に魅入られて自殺させられたのではない。本来、捧げられるはずだった供物の代用と、本来の供物を誘き出すための、ただの餌として殺されただけだった。

 

 

 

 

 

 

山の神に魅入られたのは、ユイではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真に山の神に魅入られたのは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハルがその真実に辿り着いた刹那、彼女の視界は一瞬で紅に染まり、突如としてその姿を消した。

 

 

 

 

「っ!?グァウ!!!!」

 

 

 

 

目の前で忽然と消えたハルに、クロは驚きと怒りを露わにして吠える。

 

 

 

だが、木々に囲まれた広間に残されたのは、もう1人の主人を失った哀れな忠犬と、忠犬の主人が持っていた、小さな懐中電灯だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"…ごめんね…"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏の暖かな風に乗せられて、広間に呆然と佇むクロの耳に、そんな、ひどく悲しげなハルの言葉が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 





しゅ、主人公がどちらか一方と明言したつもりはありまそんそん(●ฅ́дฅ̀●


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第5話 : もう一つの夜

前回から二週間と少し……この作品のスパンとしては過去最長ですかね…(−_−;)
だって難産でしたもん…とまあ言い訳もそこそこに、すでに展開を勘付かれているかたも多数かもしれませぬが………まあここまで来たら一つお付き合いくださいませ(^◇^;)


 

 

光が強くなればなるほど、その影に生まれる闇も強くなる。

 

 

 

 

それが、天地開闢の時から連綿と続く世界の絶対法則。

 

 

 

 

大切な親友と過ごす時間と、それ以外の時の虚しさを知る1人の少女は、恐らく誰よりも強くこの法則に縛られて生きている。

 

 

 

光と闇。温もりと冷たさ。安らぎと苦しみ。

 

 

 

少女にとって世界とは、清々しいほどの二面性を持つ、優しくて残酷な小さな箱庭。

 

 

右手を繋ぎながら左手に武器を持っていなければ生きられない。

 

 

 

光を浴びるためには、その身を闇に浸さなければならない。

 

 

 

 

このどうしようもない泥沼から抜け出す術を、少女はまだ知らない。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

"まったく…うん、行こうね。2人で、一緒に"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕暮れ時。空き地で子犬たちやハルと別れたユイは1人無言で帰路を歩む。鈴虫や蝉といった夏の名物たちの合唱が、夕日に照らされる街を彩る。

 

 

 

だが、そんなこととは対照的に、ユイの表情は晴れない。

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

ハルと一緒にいた時の潑刺とした雰囲気は何処へやら。その表情には普段の明るさはかけらも見当たらず、もしこの顔のまま空き地に顔を出せば、臆病なチャコあたりはクロの背中から出てこないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

ユイにとって帰路というものは憂鬱な存在でしかない。直前までハルと過ごした時間が楽しければ楽しいほど、その対価と言わんばかりに鬱々とした気分にさせられる。

 

 

 

年頃の子供が、遊び足りなくて駄々をこねているわけではない。ただ単純に、この後に過ごす時間になんら希望も意味も抱けないだけだ。

 

 

 

人にはそれぞれ、大なり小なりはあれど、好きな場所と嫌いな場所、というものがあるだろう。

 

 

 

好きな場所。例えばお気に入りの公園であったり、行きつけの喫茶店や川沿いの土手など、その種類は多岐にわたる。

 

 

 

嫌いな場所。勉強が嫌いなら学校、疲れ果てた社会人なら職場、あとはなんとなく通りたくない道その他諸々。

 

 

 

 

一概には言えないが、敢えて模範解答を示せと言われればこんなものか。

 

 

 

 

 

だが、ユイの場合は違う。

 

 

 

 

ユイにとって、好きな場所、という明確なものは存在しない。

 

 

 

ハルと一緒にいられる場所

 

 

 

強いていうならば、ユイの答えはこうだ。場所ではなく、人に依存する不明瞭な答えなのかもしれない。

 

 

 

だが反面、嫌いな場所、ということならこれ以上ないほど正確な答えを用意できる。

 

 

 

「……………」

 

 

 

それは、今まさにユイの目の前に佇む一つの一軒家。ついでに言えば、ユイの帰路における最終地点。

 

 

 

自宅。

 

 

ユイの最も身近な場所であり、彼女がこの世で最もいたくない最悪な場所でもある。

 

 

 

「…………はぁ…」

 

 

願わくば、いや叶うなら願われたって足を踏み入れたくはないのだが、残念ながら小学四年生の少女が自宅以外に活動拠点を確保することは、金銭的にも社会的にも非常に厳しい。

 

 

 

まあ、帰らなかったら帰らなかったらで、また体に巻く包帯や絆創膏が増えるだけなので、ユイに選択肢など初めから存在していないのだが。

 

 

 

もう何度目になるか、憂鬱から来る重たい溜息と共に、ユイは自宅の門をくぐる。

 

 

 

ポッケから取り出した鍵を鍵穴に差し込み、捻る。

 

 

玄関に入り、今しがた開けた鍵を閉める。本音を言えばこのままチェーンをかけてタンスとソファーあたりをドアの前に置いておきたいところだが、そんなことをした暁には文字通り命を失いかねないのでやめておく。

 

 

 

「……くさい………」

 

 

 

リビングに入った途端鼻につく、アルコールの匂い。テーブルの上に片付けもせずに放ったらかしにしたビールの空き缶や焼酎の空瓶のせいだ。

 

 

 

もちろんユイが取り出したものでも買ってきたものでも、まして口にしたものでもないが、飲み散らかした当の父親が帰って来る前に片付けておかないと後々危ないということはユイ自身が一番よくわかっている。

 

 

 

仕方なく、自らの身を守るためだと自身に言い聞かせ、ユイはテーブルの上に散乱する飲み捨てられた亡骸をまとめてキッチンに運び、匂いが残らないよう一つ一つ丁寧に水洗いをしてからゴミ袋に分別していく。

 

 

 

ハルの家でキッチンに立つことは楽しい。いつ使われてもいいように整えられているし、ユイ自身もやらなくていいと言われていても率先して片付けまでやってしまうくらいには晴々とした気分でいられる。

 

 

だが自宅のキッチンは違う。昨日のカレーを作るときに出た玉ねぎやニンジンの皮が未だシンクに片付けられもせずに残っているし、キッチンの奥には空き缶で体積をパンパンに膨らませたゴミ袋が打ち捨てられるようにして置かれている。

 

 

 

その中身の空き缶全てがアルコール類なのは最早言うまでもない。そしてその空き缶のほとんどを洗ってゴミ袋に詰めているのがユイであることもだ。

 

 

 

ユイの母親はもう何年も酒は口にしていない。簡単だ、下手に酔いが回ろうものなら、そのまま自身の夫に包丁を突き刺してしまいかねないのだから。

 

 

 

そんなことをユイと2人で出かけた先で母親がぼそっと口にしていたことを、ユイは今でも鮮明に覚えている。

 

 

 

つまり、この夥しいアルコール類の亡骸の山は、全てユイの父親1人が作り出したものに他ならない。

 

 

 

そしてそれは、残念ながらユイの体から包帯や絆創膏が消えない理由と無関係ではない。

 

 

 

 

冷蔵庫を開けて、中に残っている食材をざっと見で確認しつつ、思い浮かべた献立に必要なものを引っ張り出す。

 

 

 

母親から日を過ごすためにもらった千円がまだ財布の中に残ってはいるが、折角なのでそれはお小遣いに回してしまう。

 

 

 

時刻はまだ夕飯には少し早い時間ではあるものの、あと2時間もすれば父親が帰宅してしまうので、それまでには調理から食事、後片付けに入浴等を済ませて二階の自室に閉じこもりたい。

 

 

 

母親からも、できる限り夜は一階に来ないよう言いつけられている。普段から家庭内で荒れている父親が、酒に酔ってユイや母親に暴力を振るうからだ。今ユイが額に巻いている包帯も、つい最近その父親から振るわれた暴力が原因でもある。

 

 

 

 

 

仕事や生活面で溜まるストレスを、酒とギャンブル、そして家庭内暴力という形で表現する男を父親とは心底思いたくはないのがユイの一番の本音だが。

 

 

 

 

 

軽く濡らしたまな板の上に並べた玉ねぎの皮を剥き、それを少量切ってボールに移す。キャベツは適当に食べやすい大きさを切り取り、残りはラップをして冷蔵庫の元あった場所に戻す。

 

 

本当は人参やピーマンといった野菜も加えたいのだが、誰に、というよりハルに振る舞うわけでもなく、ただ自分の栄養摂取以外の目的はないのでその辺は省略する。

 

 

まあハルはユイがピーマンを加えようとすると、それはそれは渋い面もちで口をへの字にしていたりするのだが。

 

 

後は熱して油を伸ばしたフライパンに麺、野菜、そして少量の豚肉を一緒くたに放り込んで適当に火を通す。もちろん、食材にはそれぞれ火の通りやすさが違うため、このように全てを同じタイミングで炒めるのは得策ではないが、こんな鬱々とした気分でそんな手間をかける気にもならないユイは、無言でフライパンの中で踊る食材たちを見つめるだけ。

 

 

最後に、いい加減な量のソースをフライパンにそのままぶちまければ、適当大雑把焼きそばの出来上がり。ユイ一人分の量しかないため、手間も時間もそんなにかからない。

 

 

 

それを皿に移し、簡単に手を洗ってからテーブルに運ぶ。

 

 

 

 

「…いただきます……」

 

 

 

そう口にしたきり、ユイは黙々と自らが作った雑な焼きそばを作業のように口に入れていく。

 

 

 

部屋の電気も、テレビもつけず、ただひたすらにユイの立てる小さな咀嚼音だけが、薄暗いリビングを虚しく彷徨う。

 

 

 

ひどい味だと思う。キャベツや玉ねぎは焦げていないものの方が少ないし、肉は何も考えずに放り込んだためか、ところどころくっついたままだ。挙げ句の果てに、ソースが完全に食材に絡んでいない。

 

 

こんなものを料理とは呼びたくない。

 

 

 

「…ご馳走さま…」

 

 

いい加減な焼きそばもどきを平らげ、使った皿や調理器具、シンクに残ったゴミ等を全て片付けたユイが時計を見れば、タイムリミットは残り1時間と言ったところか。

 

 

 

「ギリギリ間に合うかな」

 

 

 

手に残る水分をぴっぴと飛ばして、ユイは二階の自室から替えの下着とパジャマを引っさげて浴室に入る。

 

 

 

「うん……っしょ」

 

 

シャツやズボンといった衣服を洗濯カゴに放り込み、額に巻いた包帯を外し、下着だけの姿で、ユイはふと鏡に映る自分を見つめる。

 

 

そこに映される、普段は服の下に隠れて見えない無数の痣が刻まれた痛々しい小さな白い肢体。包帯を外した額には、横髪に隠れるようにしてまだ新しい大きな切り傷が露わになる。

 

 

誰が見ても普通ではない。これが全て父親によるものだと知られれば、最低でも警察が動く事態ぐらいにはなるだろう。

 

 

 

だがそうはしない。それをすれば、恐らく今のユイの生活は終わりを告げることとなる。ハルと一緒にいられる時間がなくなることだけは絶対に嫌だ。

 

 

 

それだけは、何があっても絶対に()()()()

 

 

 

だが、そんなことを言っていられるのも今のうち。あと一月もしないうちに、ユイはその唯一の心の拠り所さえも手放さなければならない。

 

 

 

 

そうなったら、自分は一体何を希望にして生きていけばいいのだろう。

 

 

 

 

 

何のために、この痛みと苦しみを耐えていけばいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

先の見えない不安の中、ユイは鏡から視線を外して浴室のドアをくぐった

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

シャワーを浴び終えたユイは、ドライヤーで手早く髪を乾かしてリビングに向かう。冷蔵庫から買っておいたパックのリンゴジュースだけを持ち出して、早足で二階の自室に入ってから扉を閉める。

 

 

 

自室に取り付けられた小さな置き時計を確認して見れば、帰宅してからちょうど2時間ほど。

 

 

「いたっ!…そうだ、包帯包帯」

 

 

ふと揺れた髪が額の傷口に触れる。鋭い痛みとともに新しい包帯をまだ巻いていないことを思い出し、ユイは勉強机に置かれた小さな白い救急箱から包帯を取り出し、慣れた手つきで額の傷を隠すようにして巻いていく。

 

 

初めて包帯を巻くほどの怪我を負った時、母親から一人で巻けるようにと教えられて以来、ユイは自室にも救急箱を置かれることになった。願わくばそんな時は永遠にきてほしくなかったのだが、そんな願いは叶うはずもなく、今では片手間ですら巻けるようになってしまった。

 

 

 

 

「これでよしっと」

 

 

 

 

そして、ユイが包帯を巻き終えるのと同時に、玄関の扉が開く音が聞こえてくる。帰って来たのが母親であるなら、おかえりの一言も言ってあげたいが、父親であった場合は身の危険があるために、ユイは自室にこもっていることを選択した。

 

 

 

持ち出したパックにストローを差し込み、中のジュースを吸い上げる。シャワー後で火照った体に、冷えた果実の甘みが染み渡る。

 

 

 

 

勉強机に置かれた小さな置き時計が示す時刻は7時過ぎ。眠りに落ちるにはまだ些か早い。

 

 

 

 

「…ハル、何してるかな」

 

 

 

 

夜は嫌いだ。大した意味もないのに、何となく心が不安にさせられる。

 

 

 

 

それに、昨日遭遇したあの巨大な鋏を持った怪異。あんなものが平気でそこいらをふらふらしているなど、いよいよこの街の正気を疑いたくなる。

 

 

 

 

まあ、ユイにとっては家にいようが外にいようが、身の危険があるという意味では対して違いを感じられないのだが。せいぜい雨風が凌げるから、100歩譲って家がマシ、といったところか。

 

 

 

そして何より、ハルに会えない。ユイにとって、それが一番辛い。

 

 

 

 

ユイの世界は、ハルを中心に回っていると言っても過言ではない。

 

 

 

 

ハルと一緒にいたい。笑顔が見たい。手を握ってあげたい。守ってあげたい。

 

 

 

周りから見れば、ユイがハルの面倒を見ているように見えるだろう。雛鳥を守る親鳥のように見えているかもしれない。

 

 

 

だが、それは間違いだ。本当に救われているのは、ユイの方。ハルと一緒にいる時だけが、ハルが隣にいてくれる時だけが、それだけが、今のユイの心の拠り所になっている。

 

 

 

 

「いいや、寝ちゃお。やることもないし」

 

 

 

時刻はようやく日が落ちた頃合いだが、別段起きていなければならない理由もない。起きていたって、辛くて寂しいだけだ。ならば、早いとこ意識を閉ざして夢の世界に逃げ込んだ方が賢明というものだろう。

 

 

 

それに、明日になればまたハルに会える。

 

 

 

明日こそ、ハルやクロ、チャコたちと一緒に山に行こう。

 

 

 

そう心に決めて、ユイは部屋の電気を消して、ベッドに入り薄いブランケットを被る。普段とは違い、就寝用に背中に流している焦げ茶色の髪が跳ねてしまわないよう、しっかりと伸ばしてから横になる。

 

 

 

「…山…ハル、どうしたんだろう」

 

 

だが、いざ暗闇で視界が曖昧になると、途端に夕暮れのハルとの会話が脳裏に蘇る。

 

 

 

 

涙をぽろぽろと流しながらも、遂には全てを語ってはくれなかった親友の姿を思い出し、ユイは胸が僅かにざわつくのを感じた。

 

 

 

「…大丈夫…かな…」

 

 

あの時、ハルはたしかに様子がおかしかった。昨日、ユイに引越しをしてしまうと打ち明けた時よりも、遥かに重く、そしてどこか悲しげな姿が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

 

それはつまり、引っ越しをしてしまうこと以上の何かを、ハルはユイに隠しているということだ。

 

 

 

 

言いようのない不安が、暗雲のように立ち込める。下からは大きな怒鳴り声と、何かが割れる大きな音が、部屋の扉越しに聞こえてくる。

 

 

 

 

そんな現実から逃げるように、一つの小さな願いとともにユイは瞼を閉じる。

 

 

 

 

 

 

明日は、今日より少しでも、ハルと一緒にいられますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、このささやかな願いを叶えるための代償は、決して容易いものではなかった。

 

 

 

それを、彼女は思い知ることとなる。

 

 

 

 

対価の必要ない願いなど、この世のどこにもないのだということを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"…ごめんね…"

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

「っ!!?」

 

 

深夜、街が完全に眠りに落ちた頃、突如としてユイはベッドで飛び起きる。

 

 

 

「………ハル……?」

 

 

 

意識のない眠りの中で、ハルの声を聞いた気がした。ひどく悲しげで、切ない、きいているだけで胸が張り裂けてしまいそうなくらい悲痛な声音だった。

 

 

 

「……はぁ…疲れてるのかな、私……ん?」

 

 

そんな時、窓の外、正確には玄関のすぐ外あたりから鳴き声が聞こえて来た。小さな子犬が、一生懸命に自分を呼ぶこの声を、ユイは知っている。

 

 

 

「うそ…チャコ?どうして…!」

 

 

 

ベッドを飛び出し、ユイは部屋を出る。足音を立てないよう、細心の注意を払いながら階段を降りる。

 

 

先ほど片付けたのは何だったのか、ユイが帰宅した直後と同じようにアルコールの匂いと空の容器が散乱するリビングを抜け、ユイは玄関の扉を開ける。

 

 

 

「ワウっ!」

 

 

そこには、やはりというべきが、空き地で眠っているはずのチャコが、薄茶色の毛並みを揺らしながらユイを出迎えた。

 

 

 

「こら!こんな時間に何してるの!早くお家に帰りなさい」

 

 

めっ、と言うように、周りに聞こえないよう小さな声でユイは目の前の子犬を叱りつける。

 

 

普段なら、気の弱いチャコはユイに叱られればすぐにしゅんとうな垂れてしまうのだが、今はなぜかそうはならない。それどころか、ユイの目を真っ直ぐに見たまま視線を外そうとしない。

 

 

 

まるで、目の前の主人に、何か大事なことを伝えようとしているかのように。

 

 

 

 

「…チャコ…?」

 

 

そんな、いつもとは違う子犬の雰囲気に、ユイは困惑する。

 

 

 

「…どうしたの?クロは?…あなたがクロと離れて一人でここに来るなんて………」

 

 

気の弱くて臆病なチャコが、夜の街を一人で歩くというのはユイとしてはどうしても考えられない。だが、事実としてチャコは今彼女の目の前にいるし、クロの姿も見えない。

 

 

クロとチャコの関係は、ユイとハルのそれに近いものがある。怖がりで気の弱いチャコは、決してクロの側を離れることはない。

 

 

 

 

そのチャコが、一人でここにいるということは、

 

 

 

 

 

「…チャコ…クロは…どうしたの?」

 

 

 

クロの身に何かがあった、もしくは、クロが一人でどこかに行ってしまったか。

 

 

 

そんな張り詰めたユイの声に、チャコはユイから視線を外すと、ある方向を見て吠える。

 

 

チャコの視線を追い、ユイもまたその方向を見た。

 

 

 

 

 

そして、直感的に理解した。クロがどこに向かったのか、

 

 

 

 

そしてなぜクロだけでなく、チャコまでがここにいるのか。

 

 

 

チャコとユイの見た先にあるのは、一つの巨大な影。この街を見下ろす不動の巨城。

 

 

 

「…チャコ、クロは…ううん、ハルは…あそこに向かったの?」

 

 

 

チャコは答えない。ただじっとユイの目を見上げている。しかしそれが、ユイにとっては何よりの答えだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ギリっ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユイの奥歯を噛みしめる音が、わずかに夜の街を震わせる。

 

 

 

 

「…ハルの……ハルのバカ!!」

 

 

 

山に何かがある、いや、()()

 

 

 

そして恐らく、あの様子だとハルはその何かの正体を知っている。あれだけ言っても話そうとしないのだ、よほど恐ろしいものなのだろう。

 

 

 

それなのに、ハルは一人で山に向かった。ユイと、クロやチャコとみんなで花火に行きたい。ただそれだけのために。

 

 

 

自分になんの相談もなく、一人で。

 

 

 

ユイは生まれて初めて、自身のはらわたが煮えくりかえるほどの怒りを感じた。

 

 

 

 

「ああっもう!!」

 

 

怒りのままに、ユイは扉を閉めて家に戻る。自室まで駆け上がったユイは、身に付けていたパジャマを床に脱ぎ捨て、箪笥から引っ張り出したシャツとショートパンツを大急ぎで身に付ける。

 

 

 

素早く髪を頭の後ろで一つにまとめると、それを縛って愛用のリボンを結ぶ。

 

 

 

そして小ぶりのリュックに懐中電灯と電池、財布だけを詰め込み、再び階段を降りて外に出る。そして、そこで待っていたチャコに向かって静かに言った。

 

 

 

「チャコ、私をハルとクロのとこまで連れて行って」

 

 

本来なら、チャコを巻き込むようなことはしたくない。だが、今だけは一緒に行かなくてはならない気がした。根拠はない、ただそうしなければならないという確かな思いが、ユイにはあった。

 

 

 

「ワウっ!」

 

 

 

そしてユイの声に、チャコは一際大きな声で応える。そうして山に向かって走り出すチャコを追って、ユイもまた走り出す。

 

 

 

 

 

「絶対に…絶対に許してあげないから。追いかけて、見つけ出して、たっっくさんお説教するまで、許さないんだから!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

形容し難いほどの闇が広がる街を、彼女は駆ける。目指すは、今もなおそこにそびえる暗き巨山。そして、そこにいるだろう彼女の親友。

 

 

 

 

語られることない、もう一つの夜の物語の幕が、今切って落とされた。

 

 

 




ということで、主人公交代です(^.^)
あー…地下水道のとことかどうなってたか……おっと誰か来ましたね、ではまた^ ^

多分また今回と同じくらいの間をいただくことになると思いますが、出来る限り早め早めと頑張りますので、何卒ご容赦を( ´Д`)


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第6話 : 暗雲

思ったより早くでけたV( ・ω・)V
と、喜びたいところなのですが……今回私はこの話を執筆中に、必要だと頭では理解しているものの、鬱々とした感じの内容にナーバスになりつつ、書きたくないものを書いていることで溜まるフラストレーション(たぶん原因はアイツ)が何故か相互しあって執筆速度が上がるという不思議体験をしました(・ω・)

つまりなにが言いたいかと申しますと………御免なさい、の一言です。

なので苦し紛れの言い訳に一つの言葉(私が聞いたのはとあるゲームの劇中)を残します。


『夜明け前が最も暗い』

前置きが長くなりました、お楽しみ…というよりは受け止めて頂ければ幸いです。








「なに……これ……」

 

 

 

勢いのままチャコとともに深夜の家を飛び出して数分。ユイは山の入り口にやってきた。

 

 

 

自分に黙って、恐らくは超が付くほどの危険地帯である山に向かったハルを追いかけて、これでもかと雷を落としてやろうと勇み足で街を駆け抜けそのまま山に突入してやる心積もりだった。

 

 

 

が、そうは問屋が何とやら。山の入る前の入り口で、ユイはまさかの足止めを食らう羽目になった。

 

 

 

 

その理由は、

 

 

 

 

 

「あかい………糸?」

 

 

 

山の入り口どころか、目に見える範囲全ての木々の間に、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた無数の赤い糸。哀れな獲物を捕らえるための罠か、それとも侵入者を阻む結界か。

 

 

どちらであれ、不用意に触れていい代物ではないことだけはハッキリわかる。

 

 

 

 

「どうしよう…これじゃ山に入れない…」

 

 

 

いきなり手詰まりとなるユイ。だが、思考の海に潜ろうとするユイの耳に、しきりに自分を呼ぶ愛犬の声が届く。

 

 

 

「チャコ?」

 

 

 

ユイが振り向いたのを確認すると、チャコは来た道とは反対方向、つまりは山の入り口を通り越してさらに奥へと走り去っていく。

 

 

 

「え、あ、ちょっとチャコ!?」

 

 

 

そんないつになく行動的な愛犬を追いかけ、ユイもまた入り口から奥へと走る。

 

 

 

 

そしてたどり着いたのは、錆びた鉄格子で閉ざされたコンクリート製の古いトンネル。見ただけでは詳しくはわからないが、長い間誰にも利用されていないことだけは、枯れ葉のつもり具合で何となくわかる。

 

 

 

「ワウっ!」

 

 

「チャコ?」

 

 

 

そのトンネルの入り口付近に大量に詰もった枯れ葉に向かい、しきりに吠えるチャコ。

 

 

 

 

 

 

 

未だ拭えぬ疑問が残るなか、ユイはチャコの指す枯れ葉の山を手で払う。そして二度、三度と枯れ葉を払うと、うっすらと見えて来た地面の上に、一本の古びた鍵が置かれていた。

 

 

 

「これって…もしかしてそこの鍵?」

 

 

指でつまみ上げた鍵を見つめ、ユイは隣にいるチャコに問いかける。その問いかけに答えるかの如く、子犬は駆け出すと鉄格子の前に座り込んだ。

 

 

 

まさかと思いながらも、ユイはチャコの後を追って鉄格子の前までやって来ると、手の中にある、鉄格子と同じくボロボロに錆び付いた鍵を見つめる。

 

 

 

そして、恐る恐る鍵穴に向かって小さな鍵を差し込み、回す。

 

 

 

古びているためか、すんなりとはいかなかったが、ガリガリと内部の錆を削りながらも、たしかに鉄格子の錠は外れ、そして耳障りな音を立てながら開いた。

 

 

 

暗くてはっきりとは見通せないが、どうやらこの先に下に続く階段があることだけは、街灯によって辛うじてわかった。

 

 

 

「ここからなら、山のどこかに出られる…かも」

 

 

だがこの先は、ユイも知らない道だ。何があるかもわからないし、何が()()かもわからない。

 

 

「怖がってる場合じゃない。ハルを追いかけないと」

 

 

しかし、立ち止まっている暇などない。こうしている間にも、ユイとハルの距離は開いていっているかもしれないのだから。

 

 

 

己の内より出る恐怖を勇気で塗りかえ、ユイは暗闇へと踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

階段の先は、入り口の鉄格子と同じか、それ以上に古びた地下水路だった。足場も壁も変色して、最早元の色など判別できない。

 

 

長い間放置された排水管は、侵食の影響か表面が錆びてボロボロになっている。取り付けられたバルブは錆と何かしらの液体でヌルヌルしており、正直ゴム手袋をしていても触りたくはない。

 

 

 

「暗いなぁ…チャコ、私から離れちゃダメだよ」

 

 

懐中電灯を持った右手を後ろに向けつつ、ユイはチャコがちゃんと自分の後ろについて来ているか確かめる。

 

 

 

「ワウっ!」

 

 

 

 

そしてちょこちょこと小さな足を動かしてチャコが付いて来ていることを確認すると、再び前を向く。

 

 

 

地下空間という環境だからか、ありふれた運動靴を履いているはずなのに、まるでフラメンコを踊っているかのようにユイの足音が反響している。

 

 

 

とはいえ、不衛生極まりない環境ではあるが、今のところ街にいるような怪異との遭遇はない。出来ることなら、こんな暗くてじめじめとした場所などさっさと走り抜けてしまいたいところだが、やはりそう都合よくはいかないらしい。

 

 

 

 

ギチギチギチギチギチギチっ

 

 

 

「……?」

 

 

明らかに自分やチャコでは発しようがない不快音に、ユイは足を止める。そして、足元ではなく、そこよりやや前方に向かって懐中電灯の光をあてる。

 

 

 

 

 

 

「っ!!?」

 

 

 

 

 

 

 

そして、絶句した。

 

 

 

光に当てられて浮かび上がったのは、小さな鼠。瞳を光らし、ユイに向かって歯を鳴らすその姿は、見るもの全てに少なからずの寒気と恐怖を与えるだろう。

 

 

 

それが、無数。一匹二匹どころではない。楽観的に見積もっても十匹は下らない。

 

 

 

暗闇に生きる小さな捕食者たちは、その汚い前歯を鳴らし侵入者を威嚇する。

 

 

 

 

ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチっ

 

 

 

 

本来ならば、ありえない光景だ。威嚇というのは、相手を追い払うためにする行動であって、鼠などの敵に見つからないことを絶対とする小動物が取る行動ではない。

 

 

戦えない小動物が取るべき行動では、断じてない。

 

 

 

自分を見つめる、いや睨む無数の目に、ユイは思わず足を止める。

 

 

 

 

だが、そんな主人の前に、小さな影が躍り出る。

 

 

 

「ワウっ!!」

 

 

 

「チャ、チャコ?!」

 

 

 

チャコはその小さな背にユイを庇うようにして立いち、およそ普段からは考えられないほどの気迫で吠える。

 

 

 

「ワウっ!ワウっ!!」

 

 

チャコの気迫に押されてか、鼠たちがじりじりと後退する。そして、ダメ押しとばかりにチャコが前に出ると、それを皮切りに、まるで蜘蛛の子を散らすかの如くその場から消え失せる。

 

 

 

「チャコ……」

 

 

その光景に、ユイは驚きを隠せない。普段は自分かクロにべったりで、気が弱い子犬が、自ら前に出て主人に牙を剥く者たちへと立ち向かった。

 

 

 

 

「ありがとう、チャコ」

 

 

 

とはいえ、足元に擦り寄って褒めて褒めてと言わんばかりに尻尾を振る姿は、普段とそう変わらない。そんな愛犬の頭を、ユイもまた優しく撫でる。

 

 

 

「さてと、それじゃいこっか」

 

 

チャコの頭から手を離すと、ユイは鼠たちが塞いでいた道に向かって足を向けるた。そこにある、さらに下層へと続く階段を、足元を照らしながら慎重に降りていく。

 

 

 

カツンっ、カツンっ

 

 

 

先程よりも、心なしか大きくなっている足音の反響が、地下空間に木霊する。

 

 

 

 

そして、階段を降り終えた先は、濁りきった汚水がすぐ横を流れる水路が広がっていた。暗くてそう見えるのか、それとも水そのものが限界まで汚染されているのか、流れる水は濁りきったヘドロのような緑色をしている。

 

 

 

それに、何より匂いがひどい。腐臭と呼ぶことすら烏滸がましい、言葉で表現できない程の悪臭が、水路に充満している。

 

 

 

「ひどい匂い…チャコ、大丈夫?」

 

 

 

先程とは違い、ユイのやや前を歩くことにしたらしいチャコに心配そうに声をかける。人間の自分でこれなのだ、犬のチャコなど卒倒してもおかしくはない。

 

 

 

「ワウっ!」

 

 

元気に吠えるチャコであるが、何となく動きがぎこちないのは見てとれる。やはり嗅覚が優れている故に、ここの強烈な悪臭は、犬にとってはあまり相性がよろしくないのだろう。

 

 

 

「早くここを抜けないと。チャコの鼻が曲がっちゃう」

 

 

 

割と冗談ではないだろう呟きとともに、ユイは地下水路の奥へと進んでいく。少しでもチャコを守ろうと、チャコを壁側を歩かして、ユイ自身は水側の通路を歩く。

 

 

 

とはいっても、通路自体かなり幅が小さく、ユイとチャコが並ぶのがやっとと言えるほどの幅しかない。もちろん、通路に柵など存在しないので、少しつまづいて横に傾こうものなら、そのまま汚水にダイブ、となる。

 

 

 

 

 

 

 

そして、街に様々な怪異が巣喰うように、この地下水路を住処とする怪異たちもまた確かに存在している。

 

 

 

 

 

 

びちゃりっ

 

 

 

「っ!?」

 

 

自身のすぐ後ろから発せられた何かしらの落下音に、ユイは体ごと振り向く。

 

 

 

そして、()()

 

 

 

ユイの正面、およそ数メートルもない至近距離に、異形の存在が。

 

 

 

体全体が泥で構成された、まさしく泥人形と呼べる怪異が、辛うじて腕の形を保っているドロドロとした右手をユイに向かって伸ばす。

 

 

 

これがハルであったなら、絶体絶命の危機であったかもしれない。だが、ここにいるのは、ハルではない。

 

 

 

ユイは瞬時に自身の状況を理解すると、自分に向かって手を伸ばす泥人形に背を向け、

 

 

 

「走って!!」

 

 

 

チャコに向かって叫ぶと同時に、ユイもまた全力で駆ける。振り向いた勢いを足に溜めて、一歩でそれを全開で解き放つ。

 

 

ユイの運動能力は高い。初速、最高速度、持久力、どれを取っても紛うことなき一級品。その小さな体から生まれるとは到底考えられない速さは、鈍重な泥人形如きが捕らえられるものでは決してない。

 

 

 

奇襲のように現れ手を伸ばしたはずの怪異を物ともせず、ユイはただ速力を以ってこれを引き離す。

 

 

 

靴の踵が生み出す甲高い音が、次々と闇色の地下水路を跳ね回る。

 

 

 

だが、一つだけ忘れてはならないことがある。それは、ここが広い街中ではなく、限りなく一本道に近しい地下水路であるということ。

 

 

 

後ろから来る脅威は、前に走れば逃れられるかもしれない。

 

 

 

 

では、()から迫る脅威はどうするか?

 

 

 

「っ!?うわっ!!」

 

 

全速で走るユイの前に、明滅を繰り返す電灯に映し出されたチャコが突如として足を止めた。

 

 

慌てて両足で急制動をかけ、ユイはその場で緊急停止。

 

 

 

「ちょっ、チャコ!?」

 

 

突然の行動に、ユイは困惑する。いくらこちらの法が速いとはいえ、止まって入ればいずれ追いつかれるのは自明の理。

 

 

 

 

だと言うのに、チャコはその場から動かない。いや、動けない。

 

 

 

 

水面の一点を睨んだまま、チャコは唸ったまま微動だにしない。

 

 

 

「チャコ…?なにをーー」

 

 

 

してるの?

 

 

というユイの言葉が後に続くことはなかった。

 

 

 

代わりに、まさしくチャコが睨んでいた水面から巨大な()が勢いよく這い出る。

 

 

 

 

「…うそでしょ……」

 

 

 

腕の大きさは、掌だけでもユイの身長は超えている。これに指と腕部分を合わせれば、一体どれだけの大きさになるのか。ぬめぬめと黒光りした巨大な右腕が、まるで通路を塞ぐようにしてユイとチャコの前に持ち上がる。

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

振り返れば、後数メートルの地点まで先程の泥人形が迫っている。しかも、途中で増えたのか、その数は一体から五体にまで増えている。

 

 

 

「そんな……」

 

 

 

前にも後ろにも怪異。横は壁か汚染された水。まさしく八方塞がり。

 

 

 

「ワウっ!!ワウっ!!!」

 

 

 

何とか道を開こうと、チャコが前方の腕型の怪異に向かって吠えるてはいるが、先程の鼠たちとは違って巨大な怪異は微動だにしない。

 

 

 

それどころか、返答と言わんばかりに怪異は自らの体を通路に横向けに叩きつけると、まるで薙ぎ払うようにして彼女らに迫る。

 

 

 

「チャコっ!!」

 

 

それを目の当たりにし、ユイは咄嗟にチャコを抱え込む。背中越しに、泥人形たちがすぐ後ろに迫っていることを感じるも、逃げ場はない。

 

 

 

(…ハルっ!!!!)

 

 

 

そして、泥人形の手と巨大な腕の双方がユイの体に触れようとした、その時

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全ての光が消えた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…え…」

 

 

 

突然のことに、ユイの思考は停止する。何も見えない。抱き抱えているはずのチャコすら見えない、完全なる暗闇。

 

 

 

水路に取り付けられた電灯はおろか、ユイの持っていた懐中電灯すら光を失っている。

 

 

「…なにが…」

 

 

ひとまず、立ち上がろうとしたユイ。

 

 

 

だが、直後ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザシュっ

 

 

 

 

「…え?」

 

 

何かが肉を貫くような、不快な音がユイの耳を叩く。しかも、一度ではない。

 

 

 

 

ザシュっ

 

 

 

ザシュっ

 

 

 

 

ザシュっ

 

 

 

 

ザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュっ!!!!!!

 

 

 

 

何度も何度も、まるで途切れることを知らないように、何かは何かを貫き続ける。肉を貫く不快な音が反響も相まって、まるで悲鳴のように次々と地下空間を駆け巡る。

 

 

 

 

 

「………」

 

 

 

あまりの展開に、ユイは言葉を失う。見えないという恐怖が、その場の沈黙に拍車をかける。

 

 

 

 

どれだけそうしていただろうか。時間にすればものの数秒であるはずなのに、ユイは何時間もそうしているように感じた。

 

 

 

 

音が止んだ数秒後に、再び周りの灯りがともり始める。ユイは光を取り戻した懐中電灯を拾い上げ、目の前に広がる惨劇に戦慄した。

 

 

 

「なんなの…どうなってるの…これ…」

 

 

 

ユイが目にしたのは、背中の通路に広がる大量の泥。泥人形ではなく、正真正銘ただの泥だ。先程のように動くことも人の形をとるでもなく、ただただ通路にぶち撒かれている。

 

 

 

 

だが、これよりも問題なのはユイの前方。恐らくこれが、先程の音の正体の大部分なのだろう。

 

 

そこにあったのは、巨大な腕の残骸だ。水面から伸びていたはずの腕部分は肘から下あたりが無くなっており、ズタボロの断面からどす黒い、血と呼ぶべきなのか、正体不明な液体が垂れ流しになっている。

 

 

また、ユイが辛うじてこれを腕と判別できたのは、虫食いのように穴だらけになった掌と、苦し紛れに残された指のかけらがあったからだ。その指も、元の原型を留めているのは親指のみで、その他の指は全て第一関節より先が残されているものは一本もない。

 

 

薬指に至っては、第一関節はおろか、付け根よりもさらに深い位置から根こそぎ抉られたかのように消えている。

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

今日、何度自分は言葉を失えばいいのだろうか。つい先程まで、自分たちを追い詰めていた怪異たちが、ものの数秒後には無残なスクラップになっているなど、どう考えても普通ではない。

 

 

 

 

「…進もう。とりあえずここから離れないと」

 

 

 

心配そうにこちらを見上げるチャコに無理やり笑いかけると、2人は動かなくなった腕型の怪異の隣を抜け、水路の奥へと進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、こんなものは序章に過ぎない。彼女らが乗り越えるべき夜の試練、それはまだ始まったばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……ここ…は……」

 

 

 

広場にて意識を閉ざされてから、どれだけの時が経ったのか。

 

 

 

意識を取り戻したハルは瞼を開ける。

 

 

 

 

 

 

だが、直後に彼女は瞼を開けたことを後悔することとなる。

 

 

 

 

「…っ!!?……あ…ああ…あ…っ」

 

 

 

 

そこに、()()

 

 

 

 

 

 

かつてクロとユイの命を奪い、ハルの命すら奪い掛けた、絶望の化身。

 

 

 

 

 

ハルが倒すと誓った、山の神。

 

 

 

 

その姿を言葉で表すなら、まるで青白い大きな人の指で形作られた巨大な蜘蛛。全長は十メートルでは足りないだろう。そして何より不気味なのが、体の至る所にある赤く大きな瞳。その全てが、今はハルに向けられている。

 

 

 

「な、なんでっ!?動かないっ!!」

 

 

 

あまりの恐怖に、必死になって逃げようとするも首から下が動く気配はない。辛うじて動く首を回してみると、見覚えのある赤い糸で編まれた巨大な蜘蛛の巣が、自分の手足を磔のように拘束していることがわかった。

 

 

「…う……あ……」

 

 

 

そして、ソレはハルの目と鼻の先にまで、巨大な顔を寄せ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

哀れな獲物を見下すように。無知なる供物を憐れむように。目の前で己に恐怖する少女の姿を見て、嗤った。

 

 

 

「ひっ!?」

 

 

 

 

 

その光景に、ハルはいかに自分が愚かな行動に出たのかを思い知る。

 

 

 

 

 

 

こんなものを、自分は打倒しようとしていたのか。

 

 

 

 

 

 

 

こんなものに、自分は挑むつもりだったのか。

 

 

 

 

 

 

馬鹿な。勝てるはずがない。これは、人がどうこう出来る次元に立っている存在では、決してない。

 

 

 

 

 

 

吐息という名の腐臭が、ハルの顔を撫でる。

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、ハルの本当の恐怖はここからだった。

 

 

 

 

 

突如、ハルを囚えている蜘蛛の巣が新たな質量によって振動する。

 

 

 

「な、なにっ………」

 

 

恐怖に怯えながらも、ハルは懸命に首を動かして、振動の発生源と思われる頭上を見る。

 

 

 

 

そして、理解した。今の自分の立場を。自分という存在が、今この場所に置いてどのような意味を持つのかを。

 

 

 

だからこそ、恐怖した。これから訪れる、およそ考えられるなかで最も残酷な自身の未来を。

 

 

 

「いや…いやだよ……」

 

 

 

頭上にいたのは、巨大な蜘蛛。目の前の山の神には遥かに劣るが、一メートルはあろうかという大きさの時点で普通の蜘蛛ではない。山の神の近くにいるというのなら、子蜘蛛、ということだろうか。

 

 

 

子蜘蛛は、赤く光る複眼を爛々とさせながら、徐々に、だが確実にハルに近づいていく。

 

 

 

「いや…いや…いや…っ!」

 

 

 

見れば、頭上だけでなくいつのまにかハルの四方八方から大量の子蜘蛛が巣の中心…つまりはハルを目指してゆっくりと8本の足を動かしている。

 

 

 

 

「お願いっ!動いてよ!!」

 

 

 

 

 

その光景を目の当たりにして、必死になって手足を動かすも、ハルの華奢な手足は微動だにしない。

 

 

 

 

 

 

 

そうしている間に、ゆっくりと、だが確実に、子蜘蛛の輪は狭まっていく。子蜘蛛たちは急がない。

 

 

まるで獲物が自分たちに恐怖する姿を楽しむように、ゆっくりと、ゆっくりと、捕食者は供物に向かって足を伸ばす。

 

 

 

 

 

「やだ…こないで…いや…いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 

 

 

あらんばかりの恐怖を凝縮したハルの絶叫が、洞窟内に響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

希望という光を照らすステンドガラスに、絶望という名の小さな罅が刻まれた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 




余談ですが、原作と本作を比較して、最も魔改造されているのは?、っと聞かれれば、私は一も二もなくこう答えます。

ユイです、っと

もう一つ、場面転換の表現を改行連打から単純な*****に変更しました。

読みにくいわ!( ゚д゚)クワッと思われた方、申し訳ありません。


追記
自分なりに読み返してみて、こちらの方が読みやすかったので全話通して場面転換の表現を改めました。

別にいい(・ω・)どーでもいいや(・ω・)という方、スルーお願いします。

終わり方が終わり方なので、なるべく急ぎます、私の精神衛生的にも(・Д・)


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第7話 : 襲来、赤き縁切りの刃

ごめんなさい詳しいことはまた後で追記します。


とりあえずおまたせしました、長い間更新が滞り申し訳ありませんでした。

12月28日 02:00.追記

やっとこさ投稿できると思ったらまさかの事態になったのが↑です、ドタバタしてて申し訳ありませんm(__)m

実に三週間、段々と更新期間が開いてしまっています……なんとか年内に最終話までいきたいと思っていますが、年越し後になる可能性も低くないのが現状です。まあこれは本当に私の頑張りと気合の問題なのでなんとかします(・ω・三・ω・)フンフン

肝心の内容ですが……なんと文字数が過去最多、しかも通常の2倍オーバー…多分これが更新間隔空いた原因の一つですね…途中で切ろうかとも思いましたが、構成上これしかなくて( ; ; )

何が起こるかは……まあタイトルからご察しいただけるかと思います


それでは、物語も大詰め、お楽しみいただければ幸いでございます。


 

 

結果から言うと、ユイとチャコによる地下水路における探索での障害は殆ど存在しなかった。

 

 

 

あの目を覆いたくなる惨劇後に、光を取り戻した蛍光灯や手持ちの懐中電灯を頼りに奥へ奥へと進み続けたユイとチャコ。あのような悪環境においてはいかな嗅覚であろうと当てになるはずもなく、二人はそれぞれの勘を信じて進むしかない。

 

 

先に進む道を塞ぐ鍵がかかったままの扉もいくつかあり、鍵を探すことを検討したが、闇雲に地下水路を探索するリスクや、それにかかる時間を考慮して、止むを得ずユイは手近の鉄パイプで扉の鍵を強引に破る方法を選んだ。

 

 

 

とは言ったものの、地下水路そのものが平和だったかと言えば、そんなことは断じてない。だが、あの惨劇の後に二人が怪異に襲われることもまたなかった。

 

 

 

何故か。

 

 

 

簡単だ、いく先々で、恐らく同種と見られる腕型の怪異や泥人形は、その悉くが同じように何者かに惨殺されていた。泥人形に関しては、死すると同時にどうやらただの泥に戻るようなので、具体的に何があったのかは定かではない。

 

 

 

しかし、それは腕型の怪異の死骸を見れば何となくの察しはつく。どの怪異も、最初のものと同じく、その巨大な身体中ならぬ腕中を虫食いの如く穴だらけにされており、その死骸は凄惨という表現では足りないほどに惨たらしい有様だった。

 

 

 

加えて言えば、水路の奥には真っ白な赤ん坊やら黒い巨体に赤い触手を取り付けたようなものから、果ては巨大な人面蟹のような怪異もいたのだろうが、全て同様のやり方で葬られた後だった。

 

 

人面蟹については多少抵抗したのか、その重機のような鋏を振り回した痕跡が水路のそこかしこに残ってはいたが、硬いはずの鋏は側面から易々と貫かれ、両手の鋏と半分の足を失い、もはや巨大な顔だけと言っても過言ではない胴体部分は、さながら達磨のような無残な姿で転がっていた。

 

 

 

 

だが、その謎の存在のおかげで道中怪異に襲われずに済んだのだから、ユイの心情は複雑だ。仮にも、自分が目にした死骸の数だけの怪異が自分たちを襲うことを想像するとゾッとしない。

 

 

が、そんな恐ろしい怪異たちを歯牙にも掛けない何者かに遭遇することを想像すると、もはや生きた心地がしないのもまた事実。

 

 

なのだが、その何者かの行動は些か以上に妙である。仮にも怪異を葬っているのだから、その何者かもまた怪異かそれに近しい存在のはずだ。まさかどこぞの陰陽道を極めた何たらとかいう者の仕業などではあるまい。

 

 

だが、その存在が攻撃するのは怪異ばかりで、ユイやチャコに対しては何ら敵意を見せてこない。

 

 

 

これまでとは違い、自分たちに害意のない怪異なのか。

 

 

 

怪異に対してのみその力を振るう怪異なのか。

 

 

 

はたまた、怪異とはまた別の存在なのか。

 

 

 

 

そんな考えが次々と浮かんだが、ユイはそれら全てを頭の奥底にしまった。その何者かについて考えているよりも、障害の殆どが排除された地下水路を抜けることを優先するべきと判断したからだ。

 

 

 

正直、地下水路といい山の入り口の赤い糸といい、状況はユイの想像よりも遥かによろしくなかった。

 

 

 

特に、あの赤い糸は非常に不味い。もしハルが山を訪れる前からあの糸があったなら、髪の毛一本ほどはマシな状況だったかもしれない。

 

 

 

 

だが、もしあれが()()()()()()()()()に張られたものだとしたら、正直、状況は最悪と言っていい。

 

 

 

何故なら、あの赤い糸を張った何かの狙いは即ち、ハルということになるからだ。

 

 

 

あの赤い糸は、侵入者を阻む結界であり、餌を逃がさないための檻となる。

 

 

 

そして、残念ながらユイは後者の可能性が高いと踏んでいる。少なくても、日中にハルやクロとともに山の近くを通った際にはあんな糸はどこにもなかった。

 

 

 

加えて、ハルが山に入ったとして、どうやってハルはあの入り口以外から山に入ったのだろうか。少なくても、地下水路の入り口の鉄格子は、先程ユイが開けるまで長い間放置されていたのは間違いない。

 

 

 

ここを通らず、正規の入り口は使えない。ここまで材料があっては、状況を楽観視することはユイにはできない。

 

 

 

ハルが危ない。

 

 

 

そんな焦燥が、自然とユイの脳内から邪魔な思考を取り除いていた。

 

 

 

 

だが、それとは別に、彼女には無視できない懸念材料がある。

 

 

 

 

 

ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチっ

 

 

 

 

それが、今もユイとチャコの前方で歯を打ち鳴らす鼠の群れ。怪異とは違い、この鼠たちだけは、謎の存在に葬られることもなく、度々姿を現しては二人に対して威嚇を繰り返していた。

 

 

 

「ワウっ!!」

 

 

だがそれも、この小さくも頼もしい子犬の一声と一睨み、そして一歩で毎回毎回一目散に散っていくのだが。

 

 

 

「…鼠たちは殺されてない。一体なにが起こってるの…」

 

 

 

鼠たちが走り去っていた方向を見つめ、ユイは今日何度目になるかもわからない困惑に襲われた。怪異は殺されているのに鼠には健在。それどころか、奥に進めば進むほど、こうした鼠たちによる妨害が増えている。

 

 

 

「…ハル…お願い、無事でいて…っ!」

 

 

 

そんな思考を頭を左右に振ることで投げ捨て、ユイは通路の奥の扉を開ける。

 

 

 

 

扉の向こうには、あいもかわらず真っ暗な景色が広がっていた。違うとこといえば、そこは地下水路ではなく、ダムの外観に取り付けられた階段の踊り場であり、さらに上に続いているところか。

 

 

 

夏の生温い風が、ユイの髪と、それを縛るリボンを煽る。

 

 

 

「外に出た…?そっか、ここは山のダムだったんだ」

 

 

 

上に続く階段を上りながら、ユイは自分が今どこにいるのかをようやく理解した。たしかに、ここからなら入り口を用いずに山に入れるかもしれない。

 

 

だが、当然正規の道のりと比較するとかなりの遠回りなはず。

 

 

 

「急がないとっ」

 

 

階段を駆け足で上がり、そんなユイを守るようにチャコが先んじて階段を登り終える。

 

 

短い階段の先には、わずかな光も照らされていない一本道が伸びていた。

 

 

 

 

「暗い……真っ直ぐなのに先が全然見えないや」

 

 

懐中電灯のスイッチを入れ、自分というよりはチャコの前方を照らすようにして歩く。

 

 

扇のように広がる光を頼りに、2人は進む。じめじめとした閉鎖的な地下水路に比べれば、まだこちらの方が幾分かマシかもしれないと、ユイは前方を歩く子犬を見て思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、そんな甘い考えは外の空気を吸ってからものの数秒で覆ることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

「……あれ…?」

 

 

 

ユイとチャコの前方を照らす光の明度が僅かに落ちた。

 

 

 

「…おかしいな、電池切れたかな」

 

 

 

試しに一度スイッチを切り、再びつける。だが、地面に落ちる光の明度は先程よりなお低い。

 

 

そして、本格的に電池切れかとユイがリュックの中を確かめようとした時、ついに地面に落ちていた光が消えた。

 

 

 

 

「っ!? ワウっ!ワウっ!!」

 

 

 

 

光が急に消えたことにびっくりしたのか、チャコが突如として騒ぎ始めた。

 

 

 

 

 

「ごめんごめん。いま電池を変える…から…」

 

 

 

 

 

そんな愛犬の怖がりな面に苦笑しつつ予備の電池を取り出そうとして、しかし手を止めた。

 

 

 

 

(なに…この寒気…)

 

 

 

 

背筋が冷たい、なんてものではない。

 

 

 

今の季節は夏、それも夏休み真っ只中だ。いくらダムの外側とはいえ、この寒気はおかしい。であれば、これは気温から来るものではない。

 

 

 

 

 

これは、未知なる恐怖、その到来の前触れだ。

 

 

 

 

 

ユイは勢いよく来た道を振り返る。一寸先をも見通せない闇を凝視するが、なにも見えないし感じない。

 

 

 

 

ならば前かと前方を見ても、やはり何もない。

 

 

 

 

だが、気のせいかとユイが安打しかけた時、待っていたと言わんばかりの絶好のこの瞬間に、()()は姿を現した。

 

 

 

 

 

ズウゥゥゥゥゥぅぅンっ!

 

 

 

 

「っ!?なにっ!?」

 

 

およそ聞いたことのない重厚な振動音に、ユイは首だけでなく、体ごと振り返る。

 

 

 

 

そこにあったのは、またしても巨大な腕だった。だが、地下水路で遭遇した腕型の怪異とそれは、まるで様子が異なっていた。

 

 

 

一つは、その腕が水中からでなく、むしろその逆、ユイの頭上よりも遥かに高い位置から下に向かって振り下ろされていること。

 

 

 

 

 

二つめは、かの怪異のように表面に黒ずんでぬめぬめした皮膚はなく、人の骨格が剥き出しになった骸骨のようであること。

 

 

 

 

三つめは、ただ単純にその大きさがかの怪異より桁外れに大きいこと。

 

 

 

 

「…じょうだんでしょ…」

 

 

 

 

そして、ユイはその腕をつたいながら視線を上に、そして横、つまりは足場のない暗い空中に向けたところで、瞳と首の運動を止めた。

 

 

 

 

まず真っ先に思い浮かぶのは、学校の理科室にある骨格標本。それから頭と両腕を取り外し、頭部にくしゃくしゃの髪をつけて巨大化。

 

 

 

最大限に平和的に表現すればそんな見た目のような、あまりに大きい骨と髪だけの人の頭部と両腕が、何もない空中に浮きながらユイとチャコを見下ろしていた。

 

 

 

 

紛れもなく、怪異だ。それも、今までとはあまりにスケールが違う規格外な。

 

 

 

 

怪異はその巨大な右腕を躊躇うことなく立ち尽くすユイめがけて振り下ろす。

 

 

 

 

「っ!?チャコっ!!」

 

 

 

だが、迫り来る死を前に、一瞬早くユイの硬直が解ける。恐怖にすくむ足に叱咤を入れて、あらん限りの力で地を蹴りだす。

 

 

 

 

ズウゥゥゥゥゥぅぅんっ!!

 

 

 

今しがたユイが立っていた場所に、またもその巨大な右腕が叩きつけられる。あんなものをまともに食らえば、いやまともどころか掠りでもしてしまえば、結果がどうなるかなどと想像するだけで背筋が寒くなる。

 

 

 

 

それを本能的に理解してか、ユイとチャコはすでに怪異から少しでも距離を取るべく全力で駆けている。

 

 

 

 

 

(早く…っ!早く早くっ!森の中に入ってしまえば……っ!)

 

 

 

 

 

前方にうっすらと見えてきた木々の群れにそんな願いを託し、ユイは時折後ろを振り返りながら駆ける。

 

 

 

「なっ!?」

 

 

 

だが、振り返ることも束の間、次の瞬間には怪異はユイの後方から真横に出現。物理法則を完全に無視した超移動に、わずかにユイの反応が遅れた。

 

 

 

そして、怪異は駆けるユイとチャコ、2人の間にその巨大な左腕を叩きつける。

 

 

 

「きゃあっ!?」

 

 

 

信じられないほどの重々しい風圧が巻き起こり、弾かれるようにしてユイの小さな体が来た道を転がっていく。そして、ユイがようやく回転が止めた体を起こしたのは、すでに前方のチャコと完全に分断された後だった。

 

 

 

「…う…ぐっ!」

 

 

まだ痛みが残るなか、ユイは自分を見下ろす巨大な頭蓋を見る。風穴のようなその大きな目に当たる部位は、時折不気味なまでの赤い光を発している。

 

 

 

正直、状況は手詰まりに近しい。チャコとは分断され、自身の横には怪異。しかも、これまでとは文字通り桁が違う弩級の類だ。加えて言えば、こちらは大きな怪我は負ってはいないものの、吹き飛ばされた衝撃と痛みは未だ引いていない。

 

 

 

 

「それが…なに」

 

 

 

だが、諦めるなどと言う選択肢などないし、あったとしても選ぶつもりは毛頭ない。

 

 

 

 

そんな情けない姿を晒すためにここまで来たわけでは、断じてない。

 

 

 

 

 

「こんなところで……遊んでる場合じゃないのっ!!」

 

 

 

 

ユイの叫びに対する怪異の返答は、巨人のような左腕による振り下ろし。普通なら、下がって避けるべきだろう。だが、それではいつまでたっても前に進めない。

 

 

 

故に、ユイは前に出ることを選ぶ。未だ節々が痛む小さな体に鞭を打ち、今まさに振り下ろされんとする左腕の直下、つまりはチャコがいるだろう通路の前方に向けて。

 

 

 

あらん限りの全力を振り絞り駆ける。そして、あわや巨大な腕がユイを押し潰さんとした寸前を狙い、なりふり構わず前方へ向けて体を投げ出した。

 

 

加減も計算もない、いわゆる全力ダイブ。直後にユイの背後にはその巨人のような腕が叩きつけられ、そこから生まれる風圧と飛び込みによる勢いで、ユイは再び吹き飛ばされる。

 

 

 

だが、今度は咄嗟に肩から着地し、勢いを殺すために自ら回転。そして回転の勢いをわずかに残して立ち上がり、そのままさらに駆ける。

 

 

 

あれだけの巨体だ、一度腕を振り下ろしてから次の行動に移るまでにそれまでに間隔が空く。そんな半分以上賭けのような憶測を立てつつ、ユイはひたすらに走る。

 

 

 

吹き飛ばされたとはいえ、あと少しすれば先程見た森に入れるはずだ。

 

 

 

だが、そんなユイの希望を打ち砕くように、突如として走るユイの左、その宙空に再び巨大な頭蓋と両腕が姿を現した。

 

 

 

そして、ユイの逃げ道を塞ぐように、再び左腕が振り下ろされる。

 

 

 

「ぐっ!?うぅぅっ!!?」

 

 

 

咄嗟に足を止めて両腕で顔を庇うことで、何とか吹き飛ばされることは防いだものの、これでは勝ち目のないイタチごっこの繰り返しだ。

 

 

 

「…それでも…っ!」

 

 

 

だが、彼女は屈しない。屈することは許されない。ここで諦めることは、すなわち彼女のたった1人の親友の命を見捨てることと同義だ。

 

 

 

そして、彼女の強い心に応えるものが、ここにはいる。

 

 

 

「ワウっ!!」

 

 

 

「チャコっ!?」

 

 

 

主人を助けるために、危険を顧みずに駆けつけた子犬は、主人を傷つけた怪異に向かって果敢に吠える。

 

 

 

だが、子犬の威嚇など、この巨大な怪異に対して一体どれだけの効果があるのか。それは、まさしく小鳥が山に向かって囀るようなもの。訪れる結末を想像することは、難しいことではない。

 

 

 

 

「だめっ!!逃げてチャコっ!?」

 

 

 

もたらされる最悪の未来を想像したユイの、悲痛な声が響き渡る。しかし、それでもなお、子犬は主人を守るために立ち塞がる。その不気味な双眸に臆することなく、確固たる意志を持って眼前の脅威に向かって吠える。

 

 

 

 

 

「ウゥゥっ…ワウっ!!」

 

 

 

 

そして、怪異はゆっくりと巨大な右腕を持ち上げ、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

刹那の後に掻き消えた。

 

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

あまりの出来事に、ユイは呆然と立ち尽くす。そんなユイに追い打ちをかけるように、怪異がいたであろう宙空から、数匹の鼠がチャコのそばに落ちる。

 

 

 

「ワウっ!!ワウっ!!ウゥゥゥゥ…っ!」

 

 

 

先程とは打って変わり、烈火のごとく怒り狂うチャコを見た鼠たちは、たまらずその場を走り去って行く。ユイに背を向け、鼠たちは一目散に反対方向へと駆けていき、そのまま山に解けるようにして消えた。

 

 

 

 

「…なんだったの…?おばけじゃない?鼠?…だめだ、わかんない…」

 

 

 

予想外の展開に、ユイはお手上げと言わんばかりに思考を放り投げる。そんなユイに、いまさっきまでの雰囲気は何処へやらといったいつも通りのチャコが駆け寄って来る。

 

 

 

「もうっ、危ないでしょ。でも……ありがとう、チャコ」

 

 

 

優しい手つきでユイに頭を撫でられご満悦な子犬とともに、ユイは再び前へと歩みを再開する。

 

 

 

 

程なくしてダムを抜けたユイは、アスファルトに舗装された道を抜け、そのまま草木が生い茂る獣道に入る。途中何故か大きな法螺貝が落ちているのを目にしたが、残念ながらリュックには入らないのでそのままにしておいた。

 

 

 

そして、そんな短い獣道の先にある開けた場所で、またしてもユイは彼らとの再会を果たした。

 

 

 

 

ギチギチギチギチギチギチギチギチ

 

 

 

 

数枚の鼠たちが、何かを囲むようにしながらユイとチャコに向かって歯を打ち鳴らす。

 

 

 

「ウゥゥゥゥ…っ!」

 

 

 

 

そんな鼠たちに対抗して、チャコもまたその穏やかな雰囲気を荒々しいものへと変化させていく。

 

 

 

「ワウっ!!」

 

 

チャコが一歩を踏み出して吠える。その度に、鼠たちはじりじりと後退を余儀なくされる。だが、彼らは後退をしながらも、決して今までのように逃げ去ることはなかった。

 

 

 

全員が何かを囲むようにしながら、必死に威嚇を繰り返す。それは、まるで何かを守るために侵入者を撃退しようとする自然動物の姿そのものだった。

 

 

 

 

「ワウっ!ワウっ!ゥゥゥゥ…ワウっ!!」

 

 

 

彼らのそんな姿を、主人への脅威としたのか、一気に詰め寄ったチャコがさらに吠える。

 

 

 

そして、止むを得ずといったように逃げ去っていく彼らの中心にいたのは、彼らと同じく、一匹の鼠だった。そのぐったりとした姿は、もう二度と立ち上がることも、瞼を開けることもない事実を、何よりも雄弁に物語っていた。

 

 

 

「…友達を…守りたかった…の…?」

 

 

 

先程まで自分の命を脅かしていた者達の真実を目の当たりし、ユイは立ち尽くす。そんな彼女の考えを肯定するかのように、巨大な人間の頭蓋が、突如として再び彼女らの前に具現する。

 

 

 

 

「ワウっ!…ウゥゥゥゥ…ウゥゥゥゥ…っ!!」

 

 

 

主人を傷つけんとする存在に、チャコが怒りを露わにして唸る。だが、ユイはそんな自身を守ろうとする子犬を、そっと包み込むように抱き上げた。

 

 

 

「ありがとう、でも大丈夫だよ。もう…こわくないから」

 

 

 

キョトンとした目をするチャコを下ろすと、ユイは自ら怪異に向かって足を進める。恐れをまるで知らない少女の姿に、逆に怪異が戸惑うように後退していく。そんな怪異…鼠たちを尻目に、しゃがみ込んだユイは、手が土で汚れることも厭わず、その場で小さな穴を掘る。

 

 

そして、鼠の亡骸をそっと抱き上げて、穴に寝かせた上から土を被せ、最後に小さな木の棒を立てる。まるで、死した者を弔うかのように。

 

 

 

「これで……いい?」

 

 

 

優しく微笑みながら、ユイは自身を見下ろす鼠たちに問いかける。そんな彼女の言葉に応えるように、鼠たちは元の姿に戻り、その全てが、まるで彼女を認めたかのように左右に引き道の真ん中を促すように開けた。

 

 

 

 

 

「ありがとう。いこ、チャコ」

 

 

 

ユイは後ろで見守っている子犬に声をかけると、鼠たちが開けてくれた道を進んでいく。

 

 

 

ゆっくりとした足並みでその場を去っていく少女と子犬の姿が見えなくなるまで、鼠たちはただじっと二人の背中を見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

鼠たちの縄張りを抜けたユイとチャコは、アスファルトに舗装された広い道を歩いていた。電池を入れ替えて光を取り戻した懐中電灯を頼りに、ユイはチャコが歩く後ろをついて歩く。

 

 

 

今更ながら、どうしてチャコはこうも迷いなく進めるのだろうかと考えなくもないユイだが、

 

 

 

(匂い…うん、匂いだよ。だってチャコ犬だし)

 

 

 

などと言った無理やり半分理屈半分な考えでとりあえずは納得しておくことにした。まあもしそうだとするなら、チャコが今ハルとクロのどちらの匂いをたどっているのかは少し興味のあるところだが。

 

 

 

そんなことを考えながら歩いていると、どうやら道を下っていたらしい二人の前に、本来は通ることのできない道が姿を現した。

 

 

 

「ダムの水が枯れてる…ここを通れば、山に出れる…かも」

 

 

 

本来なら、ダムから供給された水に塞がれているはずのダムぞこの道が、今はなぜか水気を失い、地面を露出している。明らかに異常現象ではあるが、方向的にここを通れば目的地である山に出れる可能性は高い。

 

 

 

「行こう、ハルを助けなきゃ」

 

 

 

数瞬の迷いもなく、ユイは前に進むことを選ぶ。例えこの先にどんな困難が待っていようと、乗り越えなければならないのだから。

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

ダムぞこは、まさしく廃墟と呼ぶにふさわしい有様をしていた。ぬかるんだ地面、元は家屋だったであろう瓦礫の山。もはやなにが書いてあったのかわからない看板に、一枚の葉も残さない枯れた木々。

 

 

 

正直、こんな場所が街にあったことさえユイは知り得なかった。そんな生き物の気配など微塵も感じるはずがなかろうダムぞこに、しかし怪異は住み着いていた。

 

 

 

いや、彼らこそ生前はこの忘れられた土地の住人だったのかもしれない。

 

 

 

 

「んっ!!」

 

 

 

猛スピードで突進をしてくる黒い蛙ような小さな影に、ユイは懐中電灯の光を浴びせることで追い払う。正直、この懐中電灯がここまで怪異に有効であるのはユイからすれば、嬉しい誤算だった。

 

 

 

なんせ地下水路ではそもそも最初の一回を除けば生きた…というよりは動くことのできる怪異と遭遇することはなく、次に遭遇したネズミたちには欠片ほどの効力も見られなかった。

 

 

 

よくテレビや本で目にする[おばけは光に弱い]という世論の正しさが、少しだけ実感することが出来た気がした。

 

 

 

「っと、あれはだめだったよね…走るよ、チャコ」

 

 

 

とは言ったものの、向けられた光を物ともせずに襲い掛かってくる怪異もしっかりと存在していた。その一つが、水路で遭遇した泥人形のような怪異だ。

 

 

 

まあこの怪異については移動速度が鈍重なため、余程のことでもない限りはこの怪異によって危機に陥るということはない。

 

 

 

実際、今も三体の泥人形が後ろから迫ってきてはいるものの、元々運動能力が高水準なユイは勿論、小型犬であるチャコに追い縋れるほどではない。

 

 

 

(あ、でもハルだと危ないかも。あの子運動音痴だし…)

 

 

 

毎年運動会の徒競走で泣きべそをかきながら最下位を走っているハルの姿を思い出し、こんな状況にもかかわらずユイは自身の口元が緩むのを感じた。

 

 

 

(走り方は教えてるのに…一向に上達しないし)

 

 

親友の筋金入りの運動音痴っぷりに、やれやれと思いを馳せていると、半壊したなにかの建物の扉の前でチャコが座り込んでいるのが見えた。

 

 

試しにユイがその扉のノブを下へ動かすも、案の定というべきか、鍵がかけられていて開かない。

 

 

 

「この先なの?」

 

 

 

ユイの問いかけに、チャコは扉をその短い前足でとてとてと引っ掻く。

 

 

 

 

「仕方ない…か」

 

 

 

そう言って、ユイは近くに転がっているボロボロだがしっかりと重さの残る木材を両手で持ち、

 

 

 

「せぇー……のっ!!」

 

 

 

振りかぶった木材を勢いよくドアノブめがけて振り下ろす。古びたドアノブがその威力に耐えられるはずもなく、まるで崩れ落ちるようにドアノブは外れ、扉が開く。

 

 

 

(ごめんなさい…)

 

 

 

非常時とは言え、誰のものとも知れない鍵を力ずくで破壊してしまったことに心の中で謝罪しつつ、ユイはチョコとともに家屋を抜ける。幸い出口に鍵はかかっておらず…というより扉そのものがなかったために、また鍵を破壊しなければならない状況に陥ることはなかった。

 

 

 

 

しかし、先に進み続けて数分、ユイは何か違和感を感じ始める。

 

 

 

 

(…おばけがいない。さっきまであんなにいたのに…)

 

 

 

徐々に草木が見え始めていることから、山に近い場所にまで来ていることは間違いない。だが、先ほどまでいた怪異の姿がまるでないのは逆に不気味だ。

 

 

 

勿論、いないに越したことはないし、遭遇しないで済むのならそれは喜ぶべきことなのだが。

 

 

 

 

「ん?なんだろ…これ」

 

 

 

ユイが立ち止まったのは、もはやいつ建てられたのか判別すらできない古い石碑の前。

 

 

 

「んー……だめ、掠れて全然読めない」

 

 

 

懐中電灯で照らして見ても、そもそも文字そのものが既に長い年月の間で失われて、とても読めるものではなかった。

 

 

 

だが、本格的に草木が生い茂り、山の麓のような場所に建てられた二枚目の石碑は、部分部分ではあるが、辛うじて内容を読み取ることができた。

 

 

 

「じんじゃ…かみさまをおまつりし……もういやだとくちに……神社?こんなところに?」

 

 

 

どうやら、この先に神社があり、そこでなんらかの神を祀っているという内容だが、それ以上は文字が掠れて読みとれない。

 

 

 

「行こ。どのみち山はこっちなんだし」

 

 

ダムぞことは違い、灯篭で囲まれ石畳で整備された道を進み、古びた木色の鳥居の先にある石造りの階段を上っていく。神社にありがちな、長い長い階段を、二人はやや駆け足で登っていく。

 

 

 

途中、踊り場の掲示板に貼られた古い張り紙の、[境内にゴミを捨てないでください]という言葉を横目に、彼女らはさらに上に登る。

 

 

 

階段の先にあったのは、古くて風化が酷い神社だった。屋根の瓦も木製の柱も既に腐り果てており、原型をとどめていることが奇跡なほどに寂れている。最後に参拝客が訪れたのはいつなのか、まるでわからない。

 

 

 

そんな寂れた境内の中央に、一際目を引くものがある。

 

 

 

「人……かな…」

 

 

まるで藁人形のような簡易なものだが、巨大な人影を模したように、石畳が敷かれており、それぞれの四肢と頭部の先には、何か石碑のようなものが建てられている。

 

 

 

だが、残念ながら石畳の上にはお菓子や空き缶といったゴミが無造作に捨てられており、神社のもつ独特な神聖な雰囲気はかけらも感じられない。

 

 

 

「なんか…ひどいな…」

 

 

 

時の流れの残酷さを、少しだけ垣間見たユイの脳裏に、ハルとの記憶がよぎる。

 

 

 

 

(…いつか…引っ越しして…時間が経てば…ハルも私のこと、こんなふうに忘れちゃうのかな…)

 

 

 

 

何気ない寂しさのなか、ユイが石畳の上、部位から考えるから頭部に位置する場所に落ちていた空き缶を手に取った、その時

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神社を吹き抜ける風が鳴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…え……?」

 

 

 

 

 

()()は、唐突に現れた。

 

 

 

宙空に浮かぶ、巨大な赤黒い靄。それに大きく、ぼろぼろの青白い人の指を無理矢理に生やせたような、形容しがたいおぞましい姿。そして、その巨大な指で握る、赤い大きな断ち鋏。

 

 

 

「あなた……は……」

 

 

 

怪異、ではない。大きさで言えば、地下水路にいた人面蟹や、今しがた対峙した鼠たちによる巨大人体模型の方が遥かに大きい。

 

 

 

だが、今自分の目の前にいるこの存在は、そんなものとは一線を画するものだと、直感的にユイは理解した。いや、させられた。

 

 

 

この存在の前では、彷徨うだけの怪異など、その全てが塵芥同然と化すだろう。それほどまでに現れた怪異ではない何かは、圧倒的な存在感を放っていた。

 

 

 

 

 

そして、ユイはこの存在を知っている。

 

 

 

 

「…昨日も会ったよね。あなたなの?あなたが…ハルを山に呼んだの?」

 

 

 

ユイは昨日、この謎の存在と遭遇している。ハルを自宅まで送りとどけたその帰り道、ユイはこの存在に襲撃されている。

 

 

 

 

「あのこは、どこ?」

 

 

 

ユイの言葉の温度が、もはや小学生の女子児童が体現していいものではないほどに低下して行く。そんな主人の静かな怒りに呼応してか、隣に立つチャコの雰囲気もまた、低い唸り声とともに変化していく

 

 

 

だが、ユイの問いかけに、ソレは答えない。ただ無言で指を開き、その手に持つ鋏の切っ先をユイに向ける。

 

 

 

向かい合うユイもまた、腰を落として下半身に力を込める。

 

 

 

「ハルのためなら……おばけなんか…あなたなんか怖くないっ!あのこを返してっ!!」

 

 

 

そんなユイの怒りと決意に

 

 

 

 

 

"グォォォォォァァァァァ!!"

 

 

 

 

 

 

ソレは雄叫びと凄まじい速度での突進で答えた。

 

 

 

 

 

 

 

大きく開いた切っ先が、ユイの体を両断せんと迫る。

 

 

 

 

「チャコ逃げてっ!!」

 

 

 

迫り来る死の刃を、全力で真横に跳ぶことによってなんとか躱す。今しがたユイが立っていた場所の延長線上で、大木がまとめて数本、真っ二つになり崩れ落ちる。

 

 

明らかに異常な威力だ、あんなものまともにくらえば、ユイはおろか怪異であろうと迎える結末はその木々と変わらないだろう。

 

 

 

かと言って、あんなものに真正面から挑んだところで勝ち目などあるはずがない。

 

 

 

(なにか…っ!なにかないの!?弱点でもなんでもいい…!なにか…っ!?)

 

 

 

再び迫る凶刃を、同じように横に跳ぶことで辛うじて躱す。そして、獲物を捕らえられなかった刃が、その先にある石畳の上の空き缶を弾き飛ばした。

 

 

 

 

「はあ…はあ…ん…?」

 

 

 

極限状態での運動により、上がりかけた息を整えようとしたユイは、ゴミが取り除かれた石畳、人で言えば頭部から胴体に繋がる部位が淡く光っているのを目にする。

 

 

 

 

「まさか…ゴミ拾いしろってこと?」

 

 

 

こんな時にこんな場所でこんなものを相手に、笑えない冗談だと、ユイは自身の堪忍袋が盛大に弾ける音を聞いた。もし今この状況を見ている神さまがいるのなら、幾度かひっぱたいたとしてもバチは当たらないだろう。いや当たるとしてもひっぱたく。

 

 

 

 

「ああっもう!!」

 

 

三度迫る刃の下を、滑り込むようにして避けると、その勢いのまま石畳の(賽銭箱に向かって)左腕部分に捨てられたお菓子の箱とゴミ袋を蹴り飛ばす。サッカーボールをシュートするような見事なフォームで蹴られ、それらは石畳から離れた場所に着地し、ゴミが取り除かれた左腕は淡く光出す。

 

 

 

 

「あと三つっ!!」

 

 

 

左右に稲妻を描くような高速移動から迫る凶刃を何とかやり過ごし、左脚にある酒瓶を掴み投げ捨てる。

 

 

 

「二つっ!」

 

 

 

しかし、鋏をもったソレは、突然自身と同じ姿をした分身を編み出すと、斜め正面から挟み込むようにしてユイに迫る。

 

 

 

 

"ウォォォォォォォアああ!!"

 

 

 

 

「うそっ!!?」

 

 

声にならない叫びとともに迫る二対の凶刃を前に、ユイは脊髄反射でその場でしゃがむ。直後、ユイの頭上すれすれを二対の刃が通過し、うち一つが跡形もなく消えた。

 

 

 

だが、このような状況下でも、しかしユイの心は少しも折れていなかった。

 

 

 

 

(大丈夫…っこんなの…いつもに比べれば、痛くも怖くもないっ!)

 

 

 

 

未だ残る頭部の包帯や、動くたびに僅かに痛む痣。日々の生活で実の父親から受けた虐待の傷が、ユイの心に強くも悲しい火を燃やしていた。

 

 

 

 

おばけがなんだ。迫る刃がどうした。

 

 

 

 

こんなもの、避けることすら許されない理不尽な暴力に比べれば、何のことはない。

 

 

 

 

痛いなら、危ないなら、躱せば済む話だ。

 

 

 

 

それが出来ない痛みと苦しみを、すでにユイは知っている。

 

 

 

 

「あと一つっ!!」

 

 

 

 

右脚部分に捨てられたコンビニ袋を二つ纏めて放り投げる。残るは右手、そこに捨てらている大きめのゴミ袋のみ。

 

 

 

「っ!チャコっ!?」

 

 

だが、その最後の一つであるゴミ袋を、チャコが小さな体で懸命に石畳から押し出そうとしていた。そこに追い討ちをかけるように、凶刃を携える影がチャコの背後から具現し、鋏を開く。

 

 

 

 

 

 

 

「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

悲痛な叫びとともにユイが手を伸ばすも、届くはずがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、開かれた赤い刃がチャコを切り裂かんと迫る、その刹那ーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キンッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金属と金属を打ち鳴らしたかのような甲高い音とともに、閉じかけた鋏が少しだけ上に弾かれる。

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

信じられない奇跡に、ユイの思考が一瞬だけ硬直する。

 

 

 

 

 

"オォォォォォォォォォァァァっ!!"

 

 

 

 

 

 

だが、そんな一瞬の奇跡も束の間。怒り狂ったように荒ぶる影が、再度チャコを切り裂かんとその刃を開く。

 

 

 

 

しかも本気ということなのか、その数は先程の分身よりもさらに多い、()()

 

 

 

 

だが、凶刃がチャコを捉えるよりも速く、硬直から回復したユイがチャコの元に駆け寄り、

 

 

 

 

「これで最後っ!!」

 

 

 

今まさにチャコが押し出そうとしていたゴミ袋をあらん限りの力で蹴り飛ばす。

 

 

 

 

直後、五つの赤い刃全てがユイに迫り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その全てが、ユイの首、右手、左手、右足、左足を断ち切る寸前で静止した。

 

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 

分身が消え、残る本体に首に刃を突きつけられながら、ユイは影を睨む。球体状の靄の中央、そこに一文字に引かれるようにして出来た口は何も語らない。

 

 

ユイの頬を、暑さとは違う一筋の汗が伝う。

 

 

 

いつまでそうしていたのか。時間にすれば数秒のはずだが、ユイにとっては永遠にも等しい濃密な時間だった。

 

 

 

やがて影はユイの首に当てていた鋏を開くと、とある方角をじっと見つめた後、現れた時と同じように忽然と姿を消した。

 

 

 

「…………ぷはぁっ!」

 

 

そこで、ユイは自身が息を無意識のうちに止めていたことに気づいた。あまりの息苦しさにたまらずその場に座り込む。

 

 

 

 

「はぁ…はぁ…はぁ…チャコは…大丈夫…?」

 

 

 

 

 

未だ整わない呼吸のなか、心配そうにすり寄ってくるチャコの頭を撫でる。見たところ、これといった怪我も様子の変化も見当たらない。

 

 

 

「よかった……っ!?…これ…」

 

 

 

座り込んだユイの指先が、何かに触れた。それは今しがた影が姿を消した場所。

 

 

 

そこに、まるで最初からあったかのように置かれている、()()()()()()()()

 

 

 

「なんで…これってさっきの」

 

 

驚きのあまり、ユイは思わず数歩後ずさる。当然だろう、何せほんの少し前に自身の首に突きつけられていたものが急に目の前に出てきたのだ。戸惑って然るべきだ。

 

 

 

だが、一体なぜ?

 

 

 

「慌ててたから落とした……なんてことはないはずだし…」

 

 

 

むしろそうであるなら即刻この場を離れなければならないが、まあそんなことはないだろう。

 

 

 

 

で、あるならば

 

 

 

 

「私に……使えってこと…?」

 

 

 

あり得ないが、もはやそれしか考えられない。それに、これが本来と同じように鋏として機能するなら、たしかにこの先必要になるかもしれない。

 

 

 

「これなら……あの糸が切れるかもしれない」

 

 

 

山の入り口に、まるで巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされていた赤い糸。それを、この不気味な鋏で切ることが出来れば、山でハルを探す上での大きな助けになる。

 

 

 

ユイは、鋏を手に取る。ずっしりとした重さで、片手では到底扱えそうにない。

 

 

 

 

「…待っててね、ハル。今行くから」

 

 

 

 

 

借り受けた赤い鋏を手に、神社の横手を抜けて、ユイとチャコはついに目的地であった山へと足を踏み入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、彼女らを見つめる()()もまた、二人が山に入ったことを確認すると、溶けるようにして闇の中へと姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 

 

四方八方からじわじわと迫る大量の小蜘蛛の中心で、ハルは絶叫する。絡め取られているハルの華奢で白い両手首と足首が、血で滲むほどにもがいても、赤い糸で編まれた蜘蛛の巣はびくともしない。

 

 

 

(やだ、やだやだやだやだやだやだっ!!)

 

 

 

怖い。

 

 

ハルの心を埋め尽くす恐怖の波。あと数分もせず、にじり寄る小蜘蛛たちの()()となる未来を想像し、ハルは力の限りで巣から逃れようと手足をよじる。

 

 

 

(やだよぉっ!!こんな…こんなのやだぁっ!!)

 

 

 

恐怖と絶望にもがく哀れな少女を前に、醜神は嗤う。自らに立ち向かおうなどと思い上がった供物を、これ以上ない形で嘲笑う。

 

 

 

そして、ハルの抵抗も虚しく、とうとう子蜘蛛の一匹がハルの足元に到達した。

 

 

 

「ひっ!?」

 

 

キチキチと虫類特有の奇怪音を鳴らしながら、ハルの右足を食らわんと最初の子蜘蛛が、その醜悪な口を開く。

 

 

 

 

(…ユイっ!!)

 

 

 

恐怖のあまり、思わずハルは目を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、いつまで待っても想像しているような痛みや不快感が襲ってこない。

 

 

 

 

 

 

 

(…なに…?)

 

 

 

恐る恐る、ハルは目を開ける。そこには、自身の足に食らいつかんとしていた蜘蛛は勿論、その他ハルを囲む全ての子蜘蛛が、ハルではなく、この洞窟の最深部の入り口に目を向けていた。

 

 

 

 

「グルルル………」

 

 

 

そこには、狼かと見間違うほどに怒りをたぎらせた、一匹の黒い子犬がいた。

 

 

 

 

「クロっ!?」

 

 

 

 

その小さな姿を見たハルは、助けが来たことに安堵ーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

などしていない。

 

 

 

 

「だめ…来ちゃだめ!きみはっ!!」

 

 

 

 

 

「グアウっ!!」

 

 

 

 

だが、ハルの叫びも虚しく、囚われたもう一人の主人の姿を見るや否や、黒い子犬が吠える。

 

 

 

そして、晩餐に水を差された子蜘蛛たちもまた、ハルを捕らえている巣から地面に降り立つと、無数の群れとなって邪魔者を睨みつける。

 

 

 

 

「グルルル……ウァウっ!!」

 

 

雄叫びとともに、クロが子蜘蛛の群れめがけて駆ける。その速度は、本来の自然界においては蜘蛛類如きがどうこう出来るものでは、決してない。一度捕らわれれば最後、その牙と爪で一方的に蹂躙されて終わりだ。

 

 

 

だが、それはあくまで本来の自然界での話。今クロが挑んでいるのは、自然に生きる蜘蛛たちではない。

 

 

 

走りよりその速度のまま飛びかからんとするクロ、それを子蜘蛛の太く長い足が雑に払い除ける。

 

 

 

空中で殴りつけられたクロは、そのまま洞窟の硬い岩壁に叩き付けられる。

 

 

 

 

「クロっ!!」

 

 

 

ハルの悲痛な叫びが洞窟に響き渡る。だが、よろよろと立ち上がったクロを、今度は別の子蜘蛛が同じように殴り飛ばす。

 

 

 

立ち上がる。

 

 

 

殴り飛ばす。

 

 

 

立ち上がる。

 

 

殴り飛ばす。

 

 

 

立ち上がる。

 

 

 

殴り飛ばす。

 

 

 

立ち上がる。

 

 

 

殴り飛ばす。

 

 

 

 

 

 

まるで弄ばれるかのように、クロの体はボールのように洞窟内を跳ね回る。

 

 

 

 

「やめてよ…やめて……もうやめてぇっ!!」

 

 

 

遂に立ち上がることすらできなくなったクロを、なおも嬲ろうとする子蜘蛛たちに向かって、ハルは叫ぶ。

 

 

 

 

「…クロを…殺さないで…お願いだから……」

 

 

 

何かを諦めるかのようなハルの痛々しい言葉に、子蜘蛛たちの動きが止まった。

 

 

 

だが、

 

 

 

 

"……………"

 

 

 

しかし、子蜘蛛たちの親玉たる醜神が、無言でその巨大な足、いや指で倒れるクロを指差した。

 

 

 

それを合図に、クロのすぐ近くにいた子蜘蛛の一匹が足を持ち上げる。しかも殴るためではなく、その針のように鋭い足の先を向けるようにして。

 

 

 

 

殺せ

 

 

 

ハルの絶望を煽るために、ただそのためだけに、醜神は子蜘蛛たちに命じた。

 

 

 

 

「っ!?お願いやめてっ!!お願いだからっ!!」

 

 

 

だが、ハルの張り詰めた表情を目にしても、醜神はその顔が見たかったと言わんばかりに、ただそのおぞましい笑みを深めるのみ。

 

 

 

子蜘蛛の足が、徐々に後ろに後ろに引き絞られていく。

 

 

 

(やだよ…これじゃ…これじゃなにも変わらないっ!!なんのために……私はここにいるのっ!?)

 

 

 

 

 

そんなハルの思いも虚しく、子蜘蛛の足は遂に限界点に到達する。

 

 

 

 

 

(いやだ…)

 

 

 

 

 

 

だが、圧倒的な恐怖と絶望の狭間で、ハルの記憶に()()()()がよぎる。

 

 

 

 

 

「いやだよ…」

 

 

 

 

つぶやくようなハルの小さな言葉に、醜神は気づかない。それが、自らに対して唯一天敵足りうる者の襲来を告げる、言霊だとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

「いやだ…あなたに…これ以上なにかを奪われるのは……」

 

 

 

 

 

 

そして、無慈悲なる矛先が倒れ臥すクロの体に迫り、

 

 

 

 

 

 

 

 

「…()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

ぐちゃりっ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

直後、クロを囲んでいた子蜘蛛が数匹纏めて()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

 

 

"…………"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耳障りな圧縮音に、ハルと醜神が同時に音が生まれた場所に目を向けた。

 

 

 

 

 

そこには、

 

 

 

 

 

 

「……コトワリ…さま…」

 

 

 

 

 

 

醜神の対となる存在、縁切りの神が、いつかの時と同じようにただ静かに佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 




これ次話の題名ラグナロクとかにしてもいい(っ・д・)≡⊃)3゚)∵


また、誤字報告をしてくださった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。ご指摘、誠にありがとうございます。

1月14日
活動報告を更新致しました、よろしければ一度お目通しください


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第8話 : "ユイ" 悲劇と絶望の向こう側

だっっっっっいぶ更新期間が空いてしまったこと、深く謝罪申し上げますm(__)m

今回の話は、投稿当初から既に考えていたのですが、いかんせん文字にするとまあえぐいことに…多分連続して最大文字数更新してる気がします…


また、今回の話で元の探索アドベンチャーというジャンルから大きく外れることとなりました。

加えて、繰り返しますがこの流れはプロローグ投稿の時期から既に考案していたものです、こんなの納得いくかーって方もいるかも思いますが、何卒ご容赦くださいませ。


それでは、物語も大詰め、クライマックスに突入です。お楽しみいただけたら幸いでございます


 

キキキキキチッキキキチチチキチキチっ!

 

 

 

「ああもうっ!しつこい!!」

 

 

 

忘れられた神社で謎の存在とのあれこれの後、無事(?)に当初の目的どおりに山に足を踏み入れたユイとチャコ。

 

 

 

大幅な遠回りの末にたどり着いたユイが山に入って得た情報は三つ。

 

 

 

 

 

一つは、彼女より先に、ハルが確実に山に足を踏み入れていたこと。

 

 

 

 

 

二つ目は、考えたくはないがハルは既に何者かに連れ去られた後だということ。

 

 

 

 

その証拠が、神社から山に入ってすぐに広がる広間のような一角。そこに落ちていた、ハルのものと思われる懐中電灯。

 

 

 

まるで持ち主が忽然と消えたかのように、光を灯したまま地に落ちていた懐中電灯を目にした瞬間、ユイは当たって欲しくはない己の予想が、残念ながら外れていないことを痛感した。

 

 

 

そして三つ目は、ハルの失踪と無関係ではないだろう蜘蛛型の怪異の群れ。足と胴体の比率的に、恐らくは子蜘蛛なのだろうが、いかんせん体長がユイと同じかそれ以上に大きいため、あれに『子』という言葉を置くにはユイとしては僅かばかり抵抗がある。

 

現在ユイとチャコは、その子蜘蛛の群れに追われつつ、チャコが目指しているだろう山の上層に向けて暗い山中を駆け抜けている。

 

 

 

だがこれまでの怪異とは異なり、ユイとチャコの俊足をもってしても、蜘蛛たちの追跡は振り切れず、逆に追いつかれてしまいそうになる危機に直面することも多々あった。

 

 

 

だが、事実二人はまだ一度も子蜘蛛たちに振れられてすらいない。

 

 

 

 

それは

 

 

 

 

「邪魔っ!!」

 

 

キンっ、という金属同士を打ち鳴らしたような音とともに、ユイは手に持つ赤い断ち鋏で、自分たちの進路を塞ぐようにして張り巡らされた同じく赤い蜘蛛の巣の糸を切る。

 

 

 

その瞬間、直前まで二人を追い回していた子蜘蛛たちが全て黒い靄のようにして霧散する。どうやらあの赤い蜘蛛の巣は、獲物を逃さない檻にして侵入者を阻む結界、そしてどうやら子蜘蛛たちの生命線でもあるようだ。

 

 

本来なら如何なる手段を用いても人の力では決して切ることは叶わないだろう赤い糸、それをまるで布切れの如く両断するこの赤い刃が、こうして子蜘蛛たちから二人の命を守っている。

 

 

 

 

 

「はぁ…はぁ…はぁ…なに、これ。洞窟…?」

 

 

 

山の中、それも上に向かって命を賭けたデスレースを繰り返したせいか、流石に息が上がり始めたユイが見たのは、本来そこに立っていた地蔵様が何故か木っ端微塵となり地に広がっている様と、その背中に隠れていただろう洞窟らしきものの入り口で自分を見つめるチャコの姿。

 

 

 

「山にこんな洞窟が…」

 

 

 

暗い入り口が、あたかも大口を開けているかのようにして現れる。いや、むしろ隠されていたものを強引に暴かれたのかもしれない。

 

 

 

「うん、大丈夫。いこ」

 

 

 

 

心配そうに見上げてくる子犬を頭を安心させるように撫で、ユイは暗闇に足を踏み入れる。

 

 

 

 

 

これより先に、かつてない理不尽なまでの絶望が待ち受けているとも知らず。

 

 

 

 

 

 

"…………………"

 

 

 

 

 

そして、彼女らを見つめていた()()もまた、彼女らを追うように、ゆっくりと洞窟へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

「コトワリさま…」

 

 

首だけを動かして、ハルはただ呆然とその名を呼んだ。あの超常の存在を、ハルは知っている。

 

 

いや、忘れるわけがない。かつて幾度となくハルの命を脅かし、だが最後にはその力をハルに貸し与え、あまつさえハルの左腕とともに怨霊へと成り果てたユイの魂を救済した、縁切りの神。

 

 

 

そんな神が、まるでハルの願いを聞き届けたように、今再び姿を現した。

 

 

 

 

キチキキキチキチキチキチキチキチキキキっ!!!

 

 

 

 

その姿を見た途端、クロを殺そうと迫っていた子蜘蛛たちが、まるで怯えるようにして一斉に後退していく。本能的に理解したのだろう、目の前にいる存在と、矮小なる自分たちの間に広がる、圧倒的なまでの格の差を。

 

 

 

だが

 

 

 

(なんで…鋏を…持ってない……?)

 

 

 

 

ハルは直前の神の行動を振り返り、その違和感の正体に気づく。

 

 

 

先程、あの神は現れたと同時に、クロを囲む子蜘蛛数匹を()()()()()

 

 

 

だが、以前ならば問答無用でその力の体現とも言える断ち鋏で切り裂いていたはず。事実、町を探索中に怪異がかの神によって惨殺された場面に遭遇したこともある。だが、その時は間違いなく鋏は所持していたはずだ。

 

 

 

しかし、今その鋏はハルの見える範囲には存在しない。

 

 

 

 

そんな思考に、ハルが少しばかり意識を割いた直後、再び醜神が動く。

 

 

 

"………………"

 

 

 

その無数の骨を無理矢理繋ぎ合わせたような太い脚を、縁切りの神を指差すようにして持ち上げる。

 

 

 

 

キキキキキチキキチキキキキっ

 

 

 

 

だが、自らの命を容易く葬る相手を前に、子蜘蛛たちは一匹として前に出ようとしない。

 

 

 

 

 

だが

 

 

 

 

 

 

ザシュっ!

 

 

 

そんな子蜘蛛たちの群れ、その最後方にいた者達数匹を、突如地面から出現した黒い針が貫いた。胴体部分を貫かれ、さながら公開処刑の如く持ち上げられた後、創造主に逆らった哀れな駒達は黒い靄となって搔き消える。

 

 

 

 

"…………ス…ス…メ…"

 

 

 

地の底から鳴り響くやうな、おぞましい声が、洞窟内に浸透する。

 

 

 

 

 

直後

 

 

 

 

キキキキキキチッキキキチチチキチキチキキキキキキチッキキキチチチキチキチっ!!!!!

 

 

 

創造主に逆らった者達の成れの果て、その二の舞にならんと、無数の子蜘蛛その全てが、縁切りの神に突貫していく。

 

 

 

だが、神はその場から動かず、ただ無慈悲に向かってくる命を奪う。逆らうことも、逃げることも許されない哀れな者達の命が、洞窟内から次々と消えていく。

 

 

 

潰され、薙ぎ払われ、貫ぬかれ、投げ飛ばされ、抉られ、子蜘蛛たちの数が凄まじい速度で減少していく。

 

 

 

"グォォォォォァァァァァっ!!"

 

 

 

雄叫びとともに、縁切りの神はその両手で持ち上げた子蜘蛛の足を纏めて引きちぎり、それぞれを別の個体の胴体へと突き刺す。

 

 

 

足をちぎられた者も、その足を突き立てられた者達も、その全てが黒い靄となって消えていく。既に突貫した半数以上の子蜘蛛たちが、神にかすり傷一つ負わすことすら出来ずに蹴散らされていた。

 

 

 

あまりに格が違う。争いにすら、時間稼ぎにすらならない一方的な虐殺。神という存在が、いかに規格外かということを、ハルは目の前の光景から思い知らされた。

 

 

 

(すごい…あの蜘蛛たちがあんな簡単に…)

 

 

 

直前まで自身の命を脅かしていた者達が、次々と葬られている光景に、ハルの心に僅かではあるが希望が生まれようとしていた。

 

 

 

だが、ハルは失念していた。

 

 

 

無理もないことだろう。かつての経験があるとは言え、ハルはまだ幼い少女なのだ。手足を拘束された挙句、無数の子蜘蛛に小さな体を陵辱されるという、およそ万人が恐怖するだろう凄惨な死に方をする直前だったのだ。

 

 

失念して当たり前、寧ろ未だ意識を保てていること自体、賞賛に値することだろう。

 

 

 

 

だからこそ、忘れていた。

 

 

 

 

 

今ここにおいて、自分がどのような立場なのか。

 

 

 

 

 

あの縁切りの神が、なんのために姿を現したのか。

 

 

 

 

 

そして、目の前の醜神が、どれほど恐ろしい存在であるのか。

 

 

 

 

"…………………"

 

 

 

 

突如、醜神が縁切りの神ではなく、一瞬だけ未だ捕らわれいるハルの方を垣間見た。

 

 

 

 

 

(っ!?)

 

 

 

内心で心臓を跳ね上がるハル。だが、既に子蜘蛛たちの数は最初の半分以下にまで減らされており、今もなおその数は減り続けている。

 

 

 

そうして、子蜘蛛たちが最後の数匹にまで数を減らした、その時

 

 

 

「っ!?」

 

 

ハルを捕らえている蜘蛛の巣が振動する。見れば天井から巣に降り立った数匹の子蜘蛛が、再びハルに迫らんとしていた。しかもにじり寄るような速度であった先程とは違い、明確な殺意を持って迫っている。

 

 

 

「い、いやっ!いやぁっ!!」

 

 

 

再来する死の恐怖を前に、ハルは血が滲む両手首と足首を動かして必死にもがく。だが、そんなハルの心を嘲笑うかの如く、瞬く間にハルの元に子蜘蛛たちが到達する。

 

 

 

 

"グゥォァァァァァァァぁぁぁっ!!"

 

 

 

 

直後、倒れ臥す子犬と己に群がる子蜘蛛全てを蹴散らした縁切りの神が、最早目視不可能な速度でハルの元に飛来、少女を食らわんと顎を開いていた子蜘蛛たちをまとめて薙ぎ払う。超常の力で払い除けられた子蜘蛛たちは、勢いのまま壁に叩きつけられ、そのまま黒い靄となって消えた。

 

 

 

 

この瞬間、ハルの視界は縁切りの神によって遮られおり、かの神もまた背を向けていたために気付かなかった。

 

 

 

縁切りの神が、一瞬とはいえ自身に背を見せたこと。

 

 

 

ほんの僅かな時、自身から意識を逸らしたこと。

 

 

 

 

この、1秒にすら満たない瞬間。縁切りの神が、縁結びの醜神に見せた、隙とも言えない、刹那の時。

 

 

 

 

 

 

 

この刹那の時、醜神は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え………」

 

 

 

 

 

 

 

直後、地面から出現した一本の黒い針が、縁切りの神の体を真下から貫いた。

 

 

 

 

「……コト……ワリ……さ…ま…?」

 

 

 

 

呆然と目を見開くハル。そんなハルの目の前で貫かれた縁切りの神は、動かない。

 

 

 

ザンっ

 

 

 

 

 

ザンザンザンザンザンザンっ!

 

 

 

 

 

ザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンザンっ!!

 

 

 

 

動かない神の体を、針山の如く出現した無数の黒い針が貫く。それは、最早体のどこを見ても、針が貫いていない場所が見当たらないほどに、無慈悲かつ残酷な光景だった。

 

 

 

 

 

「コ、コトワリさまぁぁっ!?」

 

 

 

 

 

 

ハルの張り詰めたような絶叫が、洞窟内に木霊する。やがて針が引き抜かれると、縁切りの神は力尽きたように地に落ち、黒い粒子となって消えた。

 

 

 

「…そんな…そんな……コトワリ…さま…」

 

 

その光景を、縁切りの神の消失を目にしたハルの瞳から、今度こそ光が失われた。

 

 

思えば、最初からあの神に縋っていた。あの縁切りの神ならば、目の前の醜神に打ち勝つことができるのではないかと。あの絶望に満ちた未来を変えてくれるのではないかと、確かな希望を抱いていた。

 

 

 

 

 

だが、そんなハルの儚い願いは、たった今砕け散った。

 

 

 

未来を変える。

 

 

 

親友を守る。

 

 

 

希望を夢見た少女の思いが、昏い絶望に染められていく。

 

 

 

そんなハルの姿に、醜神は嗤い、新たに生まれた子蜘蛛の一匹が、天井より糸をつたって項垂れるハルの元にたどり着く。

 

 

 

三度、子蜘蛛がハルに向かって顎を開く。

 

 

 

項垂れるハルの頬を一筋の涙が流れた、その時ーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「触るな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本来なら溌剌と、凛としているはずの声が、今この瞬間は絶対零度の怒気を纏って放たれる。

 

 

 

 

「……な…んで…」

 

 

聞き覚えのある、いや、聞き間違えるはずのないその声に、ハルは問いかけるようにして暗い瞳を向ける。

 

 

 

醜神と子蜘蛛もまた、新たな侵入者が声を発した地点に目を向けた。

 

 

 

 

そこには

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私の親友に……っ…触るなぁぁっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

倒れ臥す子犬の片割れと、あらん限りの怒りをたぎらせたユイが、赤い断ち鋏の切っ先を醜神に向けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

「…なんで……ユイ…」

 

 

 

ただ呆然と、ハルは涙で溢れる瞳でユイを見つめる。なぜ、どうしてと、守らんとした親友がこの場に訪れてしまった事実に問いかける。

 

 

 

だが、そんな万感を込めるようなハルの言葉に、

 

 

 

「きまってるでしょ。一人で勝手に先走って泣きべそかいてる誰かさんを、ひっぱたきに来たの」

 

 

 

 

いまだ収まりきらない怒りを滲ませながら、ユイは睨むような目で応える。

 

 

 

「なんで黙ってたの、とか。なんで一人でこんなことしたの、とか。言いたいことはいっぱいあるよ。でも…」

 

 

 

赤い切っ先が、親友を汚そうとした醜神に向けられる。今しがた打ち倒したはずの仇敵、その力の体現とも言える鋏を持つ少女を前に、醜神の浮かべていた穢れた笑みが消えた。

 

 

 

「でもそれ以上に、ハルをこんな目に合わせてるあなたは、許さない。絶対に……許さないっ!!」

 

 

 

 

少女とは思えない、燃えたぎるような怒りをたぎらせ、ユイは叫ぶ。それは、己の唯一の親友を汚そうとした醜神に対する宣戦布告そのものだった。

 

 

 

「だから、もう少しだけ待ってて。すぐに助けて、ひっぱたいて、たっくさんお説教してあげるんだから」

 

 

 

 

「…っ…うん…」

 

 

 

ユイの厳しくも優しい、そして心強い言葉に、ハルの瞳から先程とは違う涙が溢れる。そんな泣き虫な親友の言葉に優しく頷き、ユイは自身と同じく怒りを隠そうともせずに唸るチャコを促す。

 

 

 

 

「チャコはクロを連れて逃げて。ハルは必ず、私が連れて帰るから」

 

 

 

 

「ウゥゥゥゥゥゥ……」

 

 

 

唸るチャコの頭を撫でて、どうにか宥める。おそらくこの先、先程のようにチャコを守りながら闘う余裕はない。そこに動けないクロまで加われば、ただでさえ分が悪い戦いの勝機がさらに遠のいてしまう。

 

 

 

「ウゥゥ…」

 

 

 

「ごめんね、お願い」

 

 

 

 

しゅんと項垂れるチャコが倒れ臥すクロの元に駆け寄っていくのを確認すると、ユイもまた己の倒すべき敵へと向き直る。断ち鋏を持つユイを警戒しているのか、醜神にいまだ動きはない。

 

 

 

ユイと醜神はしばし睨み合う。洞窟内にはこれといった自然の音は発生しないため、無音の緊張感がその場に舞い降りる。

 

 

 

そんな痛々しいまでの静寂を破ったのは、ユイ。鋏の切っ先を下げるとその場から一歩を踏み出す。

 

 

 

その小さな一歩が、開戦の狼煙となった

 

 

 

 

ユイが踏み出すと同時に、ハルの横にいた子蜘蛛が地面に着地、節足動物の待つ驚異的な速度でユイに迫る。

 

 

 

子蜘蛛とユイの距離が3メートルを切った瞬間、子蜘蛛は前方のユイめがけて飛び込むようにして跳ねる。速度と体重が乗った死の顎がユイに迫る。

 

 

 

「…邪魔…しないでっ!」

 

 

だが、ユイは飛び込んで来た子蜘蛛の顎めがけて断ち鋏の切っ先を思いっきり刺し込む。いくら運動能力が秀でているとは言え、ユイのそれは精々女子小学生の延長でしかない。

 

 

 

そんな非力さを補うためのカウンターまがいの一撃が、哀れな子蜘蛛を正面から貫いた。切っ先が貫通するとともに子蜘蛛は黒い靄となって搔き消え、それを確認するまでもなくユイはハルを捕らえる巣に向けて駆ける。

 

 

 

だが、ユイが子蜘蛛を仕留めるために費やした一瞬で、醜神もまたユイを迎え撃つ準備を整えていた。

 

 

 

突如ハルを捕らえる巣の前方に、まるでユイを阻むようにして赤い糸により編まれた巨大な蜘蛛の巣が二つ並ぶ。これにより、出現した二つの蜘蛛の巣を突破しなければユイはハルの元に辿り着くことすら不可能となる。

 

 

 

ユイにとってせめてのもの幸いは、この蜘蛛の巣が出現すると同時に、意識を取り戻したクロとチャコが既にこの場から逃れることに成功していたこと。

 

 

 

痛む身体を引きずるようにしながらも、ユイを心配そうに見つめていたクロの視線を感じながら、ユイは前へと踏み出す。そのまま駆け抜けて一つめの巣を切り裂こうとした瞬間、頭上から強烈な悪寒を感じたユイは即座に後ろへと走る。

 

 

直後、今しがたユイが立っていた場所とそのやや前方に何か重く水々しいものが落下する。

 

 

 

落下したのは、子蜘蛛になるはずだったもの。まだ脚が生えきっておらず、胴体を構成しているだろうものが流動体を脱していない。生まれるはずの命を使い捨てるかのように消費する醜神のやり方は、まさに暴君のそれだ。

 

 

子蜘蛛になるはずだったものが立て続けに落下し、地面に見るに耐えない水たまりを形成していく。だが、降り注ぐ子蜘蛛の命がユイを捉えることはなかった。ユイの駆ける速度に対し、子蜘蛛たちの落下はあまりに遅すぎたのだ。どれだけ頑張ったとしても、子蜘蛛たちの落ちる場所は精々走るユイの五歩後ろといったところ。

 

 

これを見越して先んじた場所に落下したとしても、それはユイがわずかに速度を調整するだけで対処できてしまう。

 

 

 

では広範囲に同時に落下させた場合は?

 

 

 

だがやはりこれもまったく意味を成さなかった。回避コースがないなら作ればいい。走りながらユイはタイミングを合わせて頭上を巨大な鋏で薙ぎ払う。運動能力が秀でたユイだからこそ出来る荒技だ。

 

 

振るわれる神の刃を前に、なり損ないの雑兵が出来ることなどあるはずがなく、刃に触れた途端に霧散する。そうして、落下させられる子蜘蛛の残弾が尽きる頃には、ユイとハルを隔てる二枚のうち、一枚目の蜘蛛の巣が断ち切られた。

 

 

 

 

"グォアァァァァァ…"

 

 

 

そこで初めて、今まで圧倒的な優位を保ち続けていた醜神が苦悶の声をあげる。続けて二枚めの巣を断ち切らんとユイが踏み込んだ刹那、あの呪言が轟く。

 

 

 

"…オイデ…オイデ…キリニオイデ"

 

 

 

「っ!?」

 

 

凄まじい悪寒を感じたユイは反射的に巣がある場所から飛び退く。直後、今しがたユイが立っていた場所から巣の目の前までを黒い針が覆い尽くした。

 

 

 

もしユイがあのまま踏み込んでいたら、あの黒い針によって人形のように串刺しになっていただろう。

 

 

 

(危なかった…でもあの黒い針…いや、そんなわけないか)

 

 

頭によぎった可能性を、ユイはあり得ないと振り払う。自分がこの醜神と対峙するのは初めてのはずだし、あの黒い針に見覚えなどあるはずがない。

 

 

 

「言うことを聞いたらダメっ!反対のことをするの!」

 

 

 

上からの声に首をあげると、ハルがユイに叫んでいるところだった。そんなハルの叫びを覆い隠すように、再び呪言が放たれる。

 

 

 

"ハシレ…ハシレ…ヨケロ"

 

 

 

ハルの言葉を信じるなら、ユイは動くなと言われていることになるが、この状況で足を止めるなど、正気の沙汰ではない。

 

 

 

だが、

 

 

 

「……………」

 

 

ユイは数瞬の迷いもなく足を止める。直後、ユイが立っている場所、巣が張り巡らせた箇所、ハルが捕えられている巣の場所、そして醜神が立つ場所を除く全ての地面が、黒い針に覆い尽くされる。

 

 

 

目論見が失敗に終わった醜神は、不気味な瞳をユイに向ける。何を考えてるかなど分かりもしないはずだが、ユイはそこに微かな苛立ちを見た。矮小な下等生物に翻弄されることによる微かな怒りを。

 

 

 

「言われなくても、あなたの言うことなんか聞いてやるもんか」

 

 

 

"ウゴクナ…トマレ…!"

 

 

そんな醜神の苛立ちが含まれる呪言を最後まで聞かず、ユイは脱兎のごとく駆ける。向かう先は、もちろん()()の巣が張り巡らされた場所。

 

 

 

駆け抜けるユイを追従するように黒い針が地面から出現するも、その細長い凶刃は標的には届かない。

 

 

 

 

"トマレ…トマレ…!ハシレ…ハシレ…!"

 

 

 

醜神が必死になって呪言を放つも、その都度ユイは完璧に醜神の言葉に逆らった。トマレと言われれば全力で駆け、ハシレと言われれば足に渾身の力を込めて即座に止まった。

 

 

他にも、糸を切りにこいと言われれば進行方向と反対に飛び退き、来るなと言われれば全力で巣へと駆け抜けた。柔軟な足腰と臨機応変な状況判断、そして言葉を聞いてから行動を起こすまでの反応速度。これら全てを総動員することで、ユイは醜神の呪言と黒い針のことごとくを回避することに成功していた。

 

 

 

だが、ユイとてすでに余裕はない。度重なる全力疾走と急ブレーキ、一回でも失敗すれば命が失われるという恐怖。息は荒れ荒れ、心臓が爆音を立ててユイに休むことを催促している。

 

 

 

それでも、諦めるわけにはいかない。ここで腰砕けになったしまえば、それこそ全てが水泡に帰す。ボロボロになるまで戦ったクロ、自分を信じてこの場を後にしたチャコ、そして自分を信じて見守ってくれている親友の命。

 

 

 

(負けない…ここまで来て…絶対に負けない!!)

 

 

 

小さな肩にのしかかる重圧に、ユイは決して膝を折ることなく立ち向かう。

 

 

 

 

そして、やがてその時はやってくる。

 

 

 

 

"トマ…ウゴクナ…!"

 

 

 

 

「うるさい!…いい加減に……黙れっ!!」

 

 

 

突き出された赤い刃は、二枚目の巣の真ん中を貫き、絡み合った赤い糸を確かに霧散させる。

 

 

 

 

 

その瞬間

 

 

 

 

 

"グゥォァアァァァァゥァァァァァァァァァァァァァァァァ………"

 

 

 

確かな苦痛を宿した絶叫とともに、醜神は崩れ落ちる。洞窟の最深部に倒れた巨軀は、それきりピクリとも動かない。

 

 

 

 

「ぐっ!…はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…げほっ!」

 

 

 

絶対的に酸素が足りない体を引きずって、ユイはハルの元まで歩く。断ち鋏を杖のようにして歩く姿は、先程までの俊敏性は欠片もない。

 

 

 

「ユイ…っ」

 

 

 

そんなユイの歩く様を、ハルは涙が滲む瞳で見つめる。そこには、よろよろと危なげながらもしっかりと自身を見つめて微笑む親友の姿があった。

 

 

 

 

「はぁ…はぁ…まっ…てて…すぐに…切るから…ね…」

 

 

 

できれば上を向くという労力すらも惜しいが、ユイは体に鞭を打ちハルに笑いかける。涙ながらに笑い返してくれるハルの顔を見れただけで、体から活力が戻ってくるような気がした。

 

 

 

 

だが、ユイがハルを捕らえる巣まであと数メートルと言うところまで歩いた、その時。

 

 

 

 

 

 

 

 

"オイデ…オイデ…オイデ…"

 

 

 

 

 

 

「なっ!?」

 

 

 

 

 

聞こえるはずのない、いや、二度と聞きたくないあの呪言が再び洞窟内に轟いた。

 

 

 

 

「うそ…まだ生きてるの…?」

 

 

 

直接その身に直接刃を突き立てたわけではないが、それでも簡単には信じられない。張られた巣は全て切ったはずだ。

 

子蜘蛛が小さな巣を切られれば霧散するように、あの醜神が張った二枚の巣を断ち切ったのだ。

 

 

 

 

ユイとしては、既に勝ったつもりでいた。第一、あの苦痛にまみれた絶叫が嘘偽りなはずがない。確信を持って言える、あれは確かに耐え難い痛みと苦しみから来るものだと。

 

 

 

 

"…キリニ…オイデ…"

 

 

 

では、なぜまたここでこの呪言が放たれるのか?

 

 

 

 

糸を切るだけでは足りないのか?

 

 

 

 

 

何か他の方法をとらなければ仕留めることは叶わないのか?

 

 

 

 

 

そんな疑問が、ユイの未だ酸欠でふらふらする脳内を飛び交う。

 

 

 

 

「とにかく…ハルを…助けない…と」

 

 

 

状況把握をするにも、まずはハルの救出が先だ。そう考えたユイは頭の中の疑念を振り払い、ハルの元へと一歩を踏み出す。

 

 

 

だが

 

 

 

 

 

「…っ!?来ちゃダメっ!!」

 

 

 

 

 

ハルが、これまでにないほどに悲痛な面持ちで叫ぶ。まるで、気付いてはいけないことに気づいてしまったかのように。

 

 

 

 

 

しかし、遅かった。

 

 

 

 

ハルの叫びが意味することにユイが辿り着いた時、全てが手遅れだった。そしてーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザシュ

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え………?」

 

 

 

 

呆然と呟くユイ、その腹部を、ユイの立つ前後から飛び出した黒い針が同時に貫いた。熱した棒を擦りつけたような激痛がユイを襲う。

 

 

 

 

「…が…ごぼ…ぶっ…」

 

 

 

 

信じられない、といったユイの口から夥しい量の血が溢れ出る。

 

 

 

 

 

「…いや…いや…いやぁぁぁぁぁぁ!!ユイっ!?」

 

 

 

 

「…ど……して…いと…は…」

 

 

 

 

 

そう言いかけたユイ、だが絶叫を上げて拘束を振りほどこうとするハルを見て、ようやく理解した。

 

 

 

自分の失敗と、あの時のハルの叫びの意味を。

 

 

 

 

 

糸ならあるではないか。これほどまでに分かりやすい、最後の糸が。

 

 

 

 

 

今までの二枚よりも高く、巨大な蜘蛛の巣。

 

 

 

 

ハルを捕らえる赤い糸が。

 

 

 

ユイは糸を全て切ってなどいなかった。もっとも重要で、絶対に切るべきものが残っていた。ハルを捕らえる巣、その赤い糸が、醜神の最後の生命線だったのだ。

 

 

 

だが、もう遅い。針が引き抜かれると同時に、ユイの体はそのままうつ伏せに地に沈む。彼岸花ですら霞むほどの赤が、倒れ臥すユイを中心に広がっていく。

 

 

 

担い手を失った赤き刃もまた、湧き出る血の泉に沈む。

 

 

 

 

「ユイっ!!ユイっ!?お願い返事してっ!!?…っ!?…」

 

 

 

 

そして、ユイが倒れると同時に、先程倒れたはずの醜神が起き上がる。

 

 

 

 

 

「…そ…んな……」

 

 

 

歯をカチカチと鳴らしながら、ハルの口から呆然と呟きが漏れる。

 

 

 

だが、再び回り出した絶望の歯車はそれだけで止まることはなかった。

 

 

 

 

キチキチキキキキチキチキチキチキチキキっ!!!

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

洞窟の天井から、無数の子蜘蛛が地に降り立った。その数は、先程縁切りの神が蹴散らしたときよりもさらに多い。その子蜘蛛全てが、ハルを無視してもう一つの供物…つまりは倒れ臥すユイの元に向かっている。

 

 

 

 

「っ!?やめてっ!?」

 

 

 

ハルの痛々しい叫びに、子蜘蛛たちは一切耳を貸す様子はない。瞬く間に子蜘蛛たちはユイを取り囲むと、その醜悪な顎をユイの頭部に近づけていく。

 

 

 

 

「お願いやめてっ!!お願いだから……っ……もう……やめてください…っ」

 

 

 

 

涙に掠れた声で、ハルは子蜘蛛の主たる醜神に懇願する。醜神は、その哀れな供物の言葉に、わずかに顔を傾ける。

 

 

 

「お願い……します……もう…なにもしません…だから…だから…っ…せめてユイだけはっ…ユイだけは………ユイ…だけは………」

 

 

 

己の全てを諦めることを条件に、ハルは醜神に懇願する。

 

 

 

"………………"

 

 

 

ハルの最後の願いを聞き届けたのか、醜神はハルを縛る糸を解き消失させる。拘束を解かれたハルの体は重力に従い落下し、硬い洞窟の地面に落ちる。

 

 

 

長時間にわたって手足を縛られていたせいか上手く着地ができず、ハルはそのまま倒れ込む。軽く頭を打ったせいか、わずかに流れ出た血がハルの頬を伝う。

 

 

 

子蜘蛛たちは落ちてきた供物に群がるように集まり、見るもの全てに吐き気を催すような数の子蜘蛛たちが倒れるハルを取り囲む。

 

 

 

「……ユイ………」

 

 

 

涙を流しながらも光を失った瞳で、ハルはただ最後に手を伸ばす。視界の全てを子蜘蛛に囲まれているため方向しかわからないが、横向きに倒れたまま左手をユイがあるだろう方向に伸ばす。

 

 

 

 

「…ごめんね……」

 

 

 

その呟きを最後に、ハルの視界は闇に閉ざされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

深い、とても深いどこかで、ユイは自身が沈んでいっていることを感じていた。

 

 

 

 

上も下もわからない、深海のような世界を、ユイはただ沈みゆくまま下に向かっていく。

 

 

 

 

 

(あれ……?わたし……どうなったんだっけ……どこに…いるんだっけ…)

 

 

 

 

やたらとふわふわする意識のなか、ユイは自身の記憶を辿る。

 

 

 

(ああ…そっか…お腹刺されたんだ………)

 

 

 

思い返されるのは、腹部に生まれた焼け付くのような痛みと、口内を支配する大量の鉄の味。

 

 

 

 

(……死んじゃった……よね…)

 

 

 

そう自覚した途端、ユイの目尻には涙が溢れ出る。

 

 

 

「ハル…ハルぅ…!…ごめん…ごめんね…守って…あげられなくて……っ…」

 

 

 

恐らく、自分が死んだということはハルもまた然りだろう。しかもユイが来た直後の様子からすれば下手をすれば子蜘蛛の餌となっているかもしれない。

 

 

 

怖がりで泣き虫なハルが、おぞましい子蜘蛛たちによって悲惨な死を迎えているかもしれないこと、そんな親友を守ることが出来なかったこと。

 

 

 

様々な思いと後悔、怒りが涙に変換されていく。

 

 

 

「なんで…なんで……なんでなんでなんでなんでなんでなんでっ!!」

 

 

 

理不尽な暴力にすら耐えた少女の心の防波堤が、ここに来て遂に決壊した。

 

 

 

「なんでっ!?私が何をしたのっ!?なんで大事なものばかり私の元からいなくなるのっ!?」

 

 

 

濃縮された理不尽への怒りが、憎悪が、濁流のように流れ出る。

 

 

 

だが、それは最初のうちだけだった。

 

 

 

怒りとは、憎悪とは、悲しみの裏返しでもあるのだから。

 

 

 

 

「なんで…なんで守れないの…っ!私には…私には…あの子しか……いないのに…っ…あの子がいれば……それだけでいいのに………っ!!」

 

 

 

 

いつしか理不尽な世界への怒りは、守れなかった不甲斐ない自分へと向けられていった。

 

 

 

流れる涙は止まず、ユイの体はさらにさらに沈んでいく。この感覚がなくなった時、本当に自分は死ぬのだろう。

 

 

 

そう考え、全てを投げ出そうとした、その時

 

 

 

 

 

 

 

"諦めるの?"

 

 

 

 

 

怒りを滲ませた、どこか聞き覚えのある声がユイの耳を震わせた。

 

 

 

 

「っ…だれ……?」

 

 

 

"諦めるの?苦労して、怖い思いして、ここまで来たのに?"

 

 

 

だが、声の主はユイの呟くような疑問には答えず、さらに言葉を重ねる。

 

 

 

「…だって…仕方ないじゃん…もう動けない…死んじゃった…」

 

 

 

 

"そんな言い訳は聞いてない。諦めるのかどうかって聞いてるんだけど?"

 

 

 

 

次々と飛び出す無遠慮な言葉に、流石に我慢できなくなったユイが声を荒げた。

 

 

 

 

「さっきから何なのっ!?私のこと……何も知らないくせにっ!!私の苦しみなんか知らないくせにっ!!」

 

 

 

"知ってるよ"

 

 

 

だが、万感を込めたユイの怨嗟にも等しい叫びに対する答えは、ひどく簡素で、それでいて微かな優しさが込められていた。

 

 

 

 

「嘘だっ!!そんなことわかるわけーーーー」

 

 

 

"だから知ってるって"

 

 

 

憤怒の形相で叫ぶユイ、だがーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

"だって、()()()()()()だから"

 

 

 

 

 

 

そう言ってユイの前に突如として現れたのは、ユイがよく知る少女だった。

 

 

 

 

動きやすいために、一つに縛ったやや色素の抜けた髪。せめてものおしゃれで、親友と色違いのリボンをつけている。服装は同じく動きやすさ重視のTシャツとハーフパンツ。頭に巻いた包帯は、父親から受けた暴力の傷を隠すため。

 

 

 

ユイが鏡の中でいつも見た、()()()()の姿だ。

 

 

 

「…なっ!?どうゆうことっ!?なんで私ーーー」

 

 

 

"はいはい、時間ないから簡単にいくよ"

 

 

 

驚愕に顔を染めるユイの言葉を、後から現れたユイと思われる少女は手を叩いて黙らせる。

 

 

 

"私はあなた。でもここじゃない世界のあなた。あなたから見たら未来の自分って感じかな"

 

 

 

 

「み、みらい…?うそ…これ夢…?」

 

 

 

"夢じゃないからしっかり聞いて。私はあなた。でもあなたが私になるって決まったわけじゃない。私は……そう、あなたが辿るかもしれない可能性の一つって感じかな"

 

 

 

途方も無い話を前に、ユイの脳内から煙が上がりかける。そんなユイ…つまりは自分の様子を察したのだろう、もう一人のユイが呆れつつもわかりやすい爆弾を放り投げる。

 

 

 

 

"こう言えばわかるかな、私は、()()()()()()()()()を知ってる"

 

 

 

「っ!?とうゆうことっ!?」

 

 

 

"どうもこうも、あなたが昨日まで会ってたハルと、今のハルは違う。今あそこにいるハルは、私と同じ未来にいたハルだから"

 

 

 

「未来の……ハル…」

 

 

 

突拍子も何もない話、だがもしこれが真実なら、ユイの感じた違和感は全て解消される。様子がおかしかったのも、山について何か知っていたようなことも、全てそれで説明がついてしまう。

 

 

 

"どうやって、は私もわからない。ただあの子がやろうとしたことはわかる"

 

 

 

「…教えて」

 

 

 

ユイの静かな、だが強い言葉に、もう一人のユイは一拍おいて、告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

"未来を変えるため"

 

 

 

 

 

「未来を……変える…?」

 

 

 

 

 

目を見開くユイに、もう一人のユイはただ静かに口を開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"そう、本来あの山の神に殺される私…つまりあなたとクロを救うために"

 

 

 

 

「私とクロが……死ぬ……」

 

 

 

聞かされる言葉の重さに、ユイは自分の意識が傾くような衝撃を受けた。だが、ユイが何か言う前に、もう一人のユイが焦りながら口を開いた。

 

 

 

"もう限界かな、これ以上はあなたが本当に死んじゃう。ねえ、最後に聞きたいことがあるの"

 

 

 

「聞きたいこと…?」

 

 

 

 

最後、と言う言葉をあえて無視して、ユイは問いかける。

 

 

 

 

"あなたは…今生きてる私はどうしたい?このまま諦める?それとも…もう少しだけ頑張ってみる?"

 

 

 

 

それは、最終確認だ。時間がないという以上、このままほかっておけばユイの体は死に至るのだろう。つまり、これが分水嶺だ、知るはずのない真実を知ってなお、どうするかを決める、最後の機会となる。

 

 

 

「…無理だよ…あんなのに勝てるわけない。あれだけ頑張っても…全部無駄だったんだから…」

 

 

 

だが、ユイの脳裏にはあの醜神のおぞましい姿と呪言がこびり付いて離れない。全力で立ち向かってなお、最初から最後まで弄ばれたという力の差が、ユイに二の足を踏ませていた。

 

 

 

"たしかに、あれは強い。今のまま戦ったら、多分まだ負ける"

 

 

 

それみたことか、ユイの瞳に、暗闇が滲んだ。だが、

 

 

 

"だから、私が力を貸してあげる"

 

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 

"私の全てを、あなたにあげる。もう…私が持ってても意味ないから"

 

 

 

 

困ったように、そして諦観しているような言葉が、ユイの耳をたたく。

 

 

 

「どういう…こと…?」

 

 

 

 

"言ったでしょ、時間がないの。これ以上、私は存在していられない。理由はわからないけど、あなたが山の深部に向かうにつれて、どんどん自分の存在がなくなっていくのがわかるんだ。私、今は幽霊だからさ"

 

 

 

優しく笑っているが、その言葉の中身は悲しいでは済まされない。自身が消えていくことがわかっていて、いまこの少女はここにいるのだから。

 

 

 

 

"もう一回聞くよ。どうしたい? このまま諦めるっていうなら、私が今この場で消してあげる。そのかわり、もう何があってもあの子には近づかないで"

 

 

 

そう話すもう一人のユイの言葉は、本当にこれは自分の声かとユイが思わされるほどにゾッとする寒さだった。

 

 

 

 

"でも……まだ少しでも、立ち向かう勇気があるなら、あの子を…助けようと思うなら…立ち上がって。そのための力と記憶を、私があなたにあげるから"

 

 

 

願うような言葉に、ユイの心に、ほんの少しだけ光が射した。

 

 

 

 

「私に…できるかな…」

 

 

そんなユイの弱々しい言葉を、これ以上ない言葉が、背中を押した。

 

 

 

 

"できるよ、私が保証する。ううん、違う。あなたとあの子なら、絶対勝てる"

 

 

 

そう言って差し出された手に、ユイは己の右手を重ねる。その上に、さらにもう一人のユイの手が重ねられる。

 

 

 

"自分と握手してる感じ"

 

 

 

「うん、変な感じ」

 

 

 

そう言ってお互い笑いあったのも束の間、膨大な何かがユイの頭に、体に流れ込んでくる。

 

 

 

「ねぇ、もしかしてここにくる間に助けてくれたのって」

 

 

 

ユイはずっと気になっていた疑問を、もう一人の自分に投げかける。それは、ユイとチャコのいく先々の怪異を殲滅し、あの鋏を持った異形の隙を作った謎の存在について。

 

 

 

"うん、私。結構しんどくて、最後は一回だけが限界だった"

 

 

 

 

「そっか…ありがとう、私たちを助けてくれて」

 

 

 

"いいよ、こうして我儘きいてもらってるし"

 

 

 

 

そういったもう一人の自分の体が、既に半分以上消えていることに、ユイは既に気付いていた。最後、と言ったのだ。こうなることはなんとなくわかっていた。

 

 

 

 

"ねぇ、我儘ついでに、もう一つだけお願いしていい?"

 

 

 

既に交わしている手と顔の半分ほどしかない己の言葉に、ユイはただ静かに口を開く。

 

 

 

 

「うん、いいよ」

 

 

 

"ありがとう。あのさーーーーー"

 

 

 

 

だがそれは、別れ際の願いというにはあまりにちんけで、そしてユイとして当たり前のお願いだった。

 

 

 

 

 

 

"あの子と…ハルと仲良くしてあげて。例えあなたの知らないハルだとしても、私にとっては"

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿にしないで」

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな馬鹿なことを抜かす己の言葉を遮り、ユイは力強く、だが笑顔で答える。

 

 

 

 

「いつのハルでも、どこのハルでも、私にとって、ハルはハルだから」

 

 

 

その瞳に、先程までの絶望の色はない。進むべき道を定めた、覚悟のある者の目だった。

 

 

 

 

"そっか…そうだね、ごめん"

 

 

もう一人のユイは、その言葉とユイの表情見て、満足そうに頷き………はしない。既に頷くための首も頭部も残ってはいない。あるのは繋いだ手の片方と、優しげな右の瞳だけ。

 

 

 

そうして、最後の一欠片が消える寸前、

 

 

 

 

 

"あの子を、よろしくね。そして、どうか生きて。あなたは、私になったらダメだからね"

 

 

 

ささやかな、だがこれ以上ないほどの言葉を残し、もう一人のユイは完全にユイの前から消失した。手に残る温度だけが、今しがたまでそこに彼女がいたことを証明していた。

 

 

 

そして、ユイは全てを知った。もう一人のユイが消えると同時に、彼女が所持していた記憶と、()()()力の残滓は全てユイに受け継がれている。

 

 

 

だから知りえた。ここではない、もう一つの未来、その残酷すぎる結末を。悲劇として言えない、絶望に満ちた終わりを。

 

 

 

そして、ハルがどれだけのものと覚悟を背負って今ここにいるのかを。

 

 

 

あの小さな背中に、泣き虫な心に、どれだけの重圧と悲しみを刻んでいるのかを。

 

 

 

 

 

「…ごめんね、そしてありがとう。もう、絶対に諦めないから」

 

 

己の全てを託してくれた、もう一人の自分に向けた言葉を最後に、ユイは沈みゆく意識を引き上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

倒れ臥すハルと、それに群がる子蜘蛛の群れ。そのうちの数匹が、動かないハルの白く細い足に、汚らしい唾液を垂らしながらかぶりつこうとしていた。また、違う一匹は、その醜悪な顎を開き、ハルの頭を噛み砕かんとする寸前だ。

 

 

 

だが、足には唾液を、頭部の付近には既に子蜘蛛の気配を感じているはずなのに、ハルは動かない。自分が何かすれば、ユイにまで魔の手が及ぶかもしれないと察しているからだ。

 

 

 

これから始まる蹂躙に、一切の抵抗は許されない。もはや諦めにも似た感情が、ハルの心と瞳、そして体から希望を奪っていた。

 

 

 

(ごめんね…守ってあげられなくて…ごめんね…ごめんね…)

 

 

 

もはや光はおろか焦点すら失ったハルの瞳から、一筋の、恐らくは彼女の最後となるだろう涙が零れ落ちる。

 

 

 

 

 

だが、結果から言えば、その涙は彼女の最後のものとなることはなかった。

 

 

 

 

闇色に彩られた瞳から涙が流れ、そして二匹の子蜘蛛がハルに顎を立てようとした、その刹那ーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザシュ

 

 

 

 

 

 

「…………?」

 

 

 

いつまでたっても引きちぎられるような痛みが襲ってこないことをハルが疑問に思ったのも束の間

 

 

 

 

 

ザシュ

 

 

 

ザシュザシュっ!!

 

 

 

 

ザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュザシュっ!!

 

 

 

 

 

夥しいまでの、肉を貫くような刺突音が洞窟内を駆け抜ける。

 

 

 

「……な……に…っ!!?」

 

 

 

 

呆然と、幽鬼のように立ち上がったハルが目にしたもの

 

 

 

それは、地面から出現した無数の()()()によって、その悉くが磔にされた子蜘蛛たちの姿だった。

 

 

 

 

「………う………そ…」

 

 

 

"…………………"

 

 

 

奇しくも、子蜘蛛の死骸が一斉に消失したことで姿を現した人物にハルと醜神が目を向けたタイミングは同時だった。

 

 

 

 

そこに立っていたのは、たしかにユイだ。

 

 

ただどう考えてもおかしい点がある。それは、貫かれたはずの腹部と背部にはまるで痕跡はなく、また足元に広がっていたはずの血溜まりも、最初からなかったかのように消えている。

 

 

 

そんなユイが、縁切りの神の力たる赤い断ち鋏を下げて、ハルの元まで歩いてくる。その速度は決して早いものではない、だが大怪我を負っている人間のそれでもなかった。

 

 

 

突如、数匹の子蜘蛛と、そのなり損ないの塊がユイの頭上及び進行方向に落下せんと迫る。

 

 

 

だが、

 

 

 

「邪魔」

 

 

 

そんな短くユイが吐き捨てるのと、地面から出現した黒い針が子蜘蛛とそのなり損ないを串刺しにしたのはほぼ同時だった。霧散したそれらをまるで気にせず、ユイはハルの元までたどり着く。

 

 

 

「…ユ……イ……」

 

 

 

「よかった、間に合った」

 

 

だが、そう言って微笑むユイの右の瞳は紅く染まり、右目からは瘴気とすら思えそうな赤黒い靄が漂っていた。

 

 

 

どう考えても普通の状態ではない。そしてこの瞳と瘴気を、ハルはなんとなくだが知っていた。

 

 

つまり、また守れなかったのだ。ユイがまた()()()をしているということが、何よりの証だった。

 

 

「ごめんね…ごめんね…私……またーー」

 

 

 

「大丈夫だよ、ちゃんと生きてるし。今は、()だから」

 

 

 

「……え……?」

 

 

 

呆然と目を見開くハルを、ユイはそっと抱き締める。

 

 

 

「…ユイ……?」

 

 

突然のことに、されるがままに抱きしめられるハル。そんなハルの耳元で、囁くようにユイは口を開く。

 

 

 

「ハル、ありがとね。私のために、こんなとこまで来てくれて」

 

 

 

「……………ユイ…」

 

 

 

未だ精神が戻っていないハル、だが、次の瞬間に発せられたユイの言葉は、そんなハルの心を響かせるには十分な威力だった。

 

 

 

 

「ありがとう、私のこと…探してくれて」

 

 

 

「…っ…!?」

 

 

びくり、ハルの小さな体が震えたことを、ユイは感じ取る。

 

 

 

 

「左手…痛かったよね。ごめんね、そうなる前に、離れてあげられなくて」

 

 

 

「……な…んで…それは…」

 

 

驚きに揺れるハルの体をしっかりと抱き締め、ユイは話し続ける。あの時の自分では、伝えられなかった。伝えてあげられなかった。

 

 

 

だから、今伝える。それが、もう一人の自分から全てを託された、自分の最初の役目。

 

 

 

 

「ありがとう、ごめんね。いっぱい怖がらせた、いっぱい痛い思いさせた、いっぱい悲しませた……………いっぱい……寂しがらせた」

 

 

 

そう言って、ユイは抱擁を解かないまま、ハルと顔を合わせる。そこには、先程までの濁りきった瞳ではなく、涙に溢れる、本来のハルの瞳があった。

 

 

 

「……ユイ…ユイぃぃっ!!!」

 

 

 

飛び込んでくるハルを、ユイはしっかりと受け止める。

 

 

 

「ごめんなさいっ…ごめんなさい……っ!!…ごめん…なさい……」

 

 

伝えられなかった謝罪、懺悔をするハルを、ユイは幼子をあやすようにして抱き締める。

 

 

 

ずっと苦しんでいたのだ、自分がもっと早く気づいていれば、もっと気を配ってていればと、己を責め続けていた。

 

 

 

ここまでハルを追い込んでしまったのは、間違いなくユイの死だ。だからこそ、ユイは何も言わずに抱き締める。

 

 

自分が不甲斐ないせいで、こんなにもハルを追い詰めてしまった。この子の左腕を奪ってしまった。

 

 

 

「ハルは悪くない。悪くないよ」

 

 

 

「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」

 

 

心の棘が抜けきらないハルの背中と頭を、優しくさすりながら、ユイは周囲に気を巡らす。

 

 

 

そして、出現した黒い針から自分とハルを守るようにして針を出現させ、自分たちを覆うようにして凶刃を防ぐ。

 

 

 

ガキんっ!!

 

 

 

 

まるで硬質な金属同士をぶつけたかのような音が鳴り響く。

 

 

 

 

「ハル…本当はハルの気がすむまでこうしてあげたい。でも…今はそれよりもやることがある、そうでしょ?」

 

 

 

「……………」

 

 

 

だが、それに対するハルの表情は暗い。当たり前だ、散々弄ばれ、今なお運命の手綱を握られているようなものなのだから。心にできた傷は、ユイの比ではない。

 

 

 

「辛いのもわかる。ずっと…見てたから。でも、だからこそ、もう終わらせよう。じゃないと……多分また同じ結果になる」

 

 

 

「同じ……結果」

 

 

 

再び迫る針を、今度は自分たちを守る壁のように同じく針を展開させることで、ユイは醜神の凶刃を防ぐ。ただし、このままでは間違いなくユイが先に倒れる。

 

 

 

当たり前だ、いくら受け継いだとはいえ、いまのユイの力は怨霊となったもう一人のユイの残滓のようなもの。カケラを行使するユイと、大元を持つ醜神ではやはり格が違う。

 

 

 

「ハルは!!今何のためにここにいるの!?またあんな結末にしたいのっ!?」

 

 

 

「っ!!?」

 

 

 

怒鳴りつけるのようなユイの言葉に、ハルは肩を大きく震わせる。

 

 

 

同じ結末。ユイとクロは死に、ハルは片腕を失い、何も残らない。あの時の痛みや悲しみ、そして喪失感が、再びハルを襲う。

 

 

 

全方位から迫る凶刃を、針をドーム状に展開することで防ぐ。ユイの額は、既に暑さではない汗でびしょ濡れ、力の源である右目は充血している。人の身で人ならざる力を行使することは、容易なことでない。

 

 

 

 

「大丈夫、今度はハル一人じゃないよ。私も……一緒に戦うから」

 

 

 

「…っ……ユイ…」

 

 

その言葉に、親友の優しさと強さに、ふらふらとだがハルは立ち上がる。そんなハルに、ユイは手に持った赤い断ち鋏をハルの前に差し出す。

 

 

 

 

 

「だからさ…今度は、一緒に帰ろうね、ハル」

 

 

 

「…っ…!?」

 

 

その言葉に、どれだけの思いが込められていただろう。

 

 

 

あの時は帰れなかった、手を離してしまった。

 

 

 

 

離さなければならなかった。そうしなければ、ハルは今ここにはいない。

 

 

 

 

どれほど悔やんでも、あの時山の入り口で離した手の温度が帰ってくることはなかった。

 

 

 

 

だが、だからこそ、今なら。この奇跡としか呼ぶことのできない、今ならば。変えられるかもしれない。絶望に彩られたあの未来を。悲劇に満ちたあの結末を。

 

 

 

 

取り戻せるかもしれない、あの日失った、繋いだ手の温もりを。

 

 

 

 

 

そのために、打ち倒すべき敵が、今目の前にいる。あの時いなかった親友が、今は隣にいる。

 

 

 

 

「うん」

 

 

 

 

ハルは、差し出された赤い断ち鋏を手に取る。

 

 

 

 

 

かつて、ハルはこの刃で三つのものを切った。

 

 

 

醜神の赤い糸、

 

 

 

己の左腕、

 

 

 

 

そして、ユイとの縁。

 

 

 

だが、今回は一つでいい。醜神を、山の神との因縁を、今ここで断ち切れば、それで全てが終わるのだ。それこそが、ここに立つ自分の役目だと、今ならはっきりとわかる。

 

 

終わらせる、そして取り戻す。あの時失ったもの、手放してしまったもの、全部まとめて。

 

 

 

だからーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

「帰ろう…一緒に帰ろう!ユイっ!!」

 

 

 

 

 

「うん、ハル!!」

 

 

 

 

 

 

かつて、ここではない別の未来のお話。

 

 

 

 

一人の少女は、神の悪戯によりその命を奪われた

 

 

 

もう一人の少女は、命を除く大切なもの全てを奪われた

 

 

 

 

だが、数々の奇跡と理不尽の果てに、今二人は再び並び立った。

 

 

 

 

 

 

ユイは右目を、ハルは鋏を、向かい立つ醜神に向ける。

 

 

 

 

 

運命を弄ばれた少女たちによる、最後の反逆が、今ようやく始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 




大分本作から逸脱したこの話…どう収集しようかな…


一応次の更新は2月中、を予定しております。またながーいこと空くことになるかもしれませんが、何卒よろしくお願い致しますm(._.)m


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第9話 : "あの時"を超えて

お久しぶりでごさいます。更新期間が2月近くも空いてしまったこと、大変申し訳ありません。色んなとこで色んなことにゴタゴタしてました…


さて、やっとこさできたクライマックス大詰め、楽しんでいただければ幸いです。


それでは、どぞ


 

 

夜に覆われた街にそびえる巨山。その裏側といえる洞窟の最深部に、不自然なまでの甲高い摩擦音が鳴り響く。

 

 

ガギンっ!!

 

 

その音の発生源たる、無数の黒い針。神が自らに歯向かう愚か者たちを貫かんとし、またそれをさせまいと同質の力を行使する少女が呼び出した、いわば神の鉾。

 

 

ユイは何度目かとなる力の源たる右目に鋭い痛みを覚えながらも、己と親友の命を守るために力を振るう。既に彼女の額には暑さとは関係ない汗が滲み、表情は苦悶に満ちていると言っても過言ではない。

 

 

ユイの手にした、いや譲り受けた力。それはかつて別の未来にて怨霊と化したもう1人の自分が、目の前の醜神より植え付けられた忌むべき印だ。この力があったせいで、あの時の自分を探しに来たハルを危険に晒し、あまつさえその華奢な左手を奪う要因となったことを、彼女は自らの記憶として知っている。

 

 

出来れば、使いたくはない。この力がなければ、ハルをあんな惨たらしい目に合わせることはなかったかもしれない。だが、今この瞬間に限り、この力を振るわない、という選択肢は許されない。

 

 

それは神を貫く鉾として、ではない。

 

 

いま唯一、醜神を倒し得る刃を託した親友の命を、今度こそ守り通すために。

 

 

 

そのためなら

 

 

 

(こんなの…なんでもないっ! ハルが味わった痛みに比べれば…あの子が味わった悲しみに比べれば…っ)

 

 

 

こんなもの

 

 

 

「…痛い…っ…もんかぁっ!」

 

 

降り注ぐ子蜘蛛のなり損ないたちからなら雨、その全てを、ユイの放つ無数の針が穿つ。

 

 

 

だが

 

 

「あぐ…っ! がぁっ…!」

 

 

「ユイっ!?」

 

 

再び、ユイの右目に焼け付くような痛みが走る。しかし、これはある意味当然のことだ。怨霊の身で振るっていた神の力、その欠片を生身のままで扱うのことが容易なはずはない。

 

 

撃った銃が腕に反動を伝えるように、忌まわしい醜神の力の欠片は、生者であるユイの肉体を蝕む。

 

 

加えて、あくまでユイの力は欠片だ。決して泉の如く無限に湧き出るものではない。しかもその限りある力は元々の所持者であったもう一人のユイが、怪異を殲滅する過程でかなり使用してしまっている。

 

 

文字通り、空っけつの手前だ。これがガソリンメーターで表すことの出来るものなら間違いなく給油マーカーが忙しなく己が本分を全うしているところだろう。

 

 

 

(それでも…やらなきゃいけないの…もうあの子のあんな顔は…見たくないっ!)

 

 

痛む右目を押さえ、落ちそうになる膝を叱咤して、ユイは心配そうに見つめるハルを見る。

 

 

「大丈夫だから…ハルはあいつを切ることだけ考えてっ! 絶対に手があるはず、それを探すのっ!!」

 

 

 

再び地面から迫る醜神の針を、同じくユイの針が迎え撃つ。耳障りな金属音にも似た摩擦音が生まれては洞窟内を駆け回る。

 

 

(…どうしようっ…このままじゃユイが…)

 

 

手に持つ断ち鋏を握り締めながら、ハルは必死に頭を回転させる。だが、どれだけフル回転させても、この状況を打破する術が見つからない。

 

 

醜神を倒すということは、かの神の生命線たる赤い糸を断ち切ることに他ならない。そのうち二本は、既にユイによって断たれているのであれば、あと一手で届くはずだ、醜神のその命に。

 

 

だが、勝利の女神はそこまで少女たちに甘くはなかった。何のことはない、先程から目をこれでもかと使ってその最後の糸を探しているもの、一向に見つからないのだ。つまり醜神は、これまでとは違い自身の生命線を彼女らに見せることなく力を振るっているということになる。

 

 

考えてみればそれは至極当たり前の話だ。どこに自身の弱点をわざわざ晒しながら戦う阿保がいようか。それだけ醜神は本気であり、追い詰めている証拠なのだろうが、結局は届かなければ全ては泡沫の夢に等しい。

 

 

(糸がどこにもない…ひょっとして背中に隠してるとか…でもそうだとしてもこれ以上近づくなんて…っ)

 

 

そう、今はユイがその身を呈してハルを守っているが、ユイの力が及ばぬ場所にハルが単独で行こうものなら、それこそ飛んで火に入る夏の虫。ハルの体はたちまち醜神の針に貫かれ、そうでなくとも降り注ぐ子蜘蛛や、醜神の巨大な腕か足に潰されて終わりだ。

 

 

ハルの持つ断ち鋏は刃であって盾ではない。ユイとは違い、運動能力に乏しいハルの筋力と反応速度では、ユイがしたような、鋏を振って子蜘蛛を迎撃などといった芸当は無理極まりない。

 

だがこのまま来るかどうかも分からないチャンスを待ち続けているだけでは到底勝機は訪れない。こうしてハルが手をこまねいている間にも、ユイは苦痛にさいなまれながらも必死にハルを守るために右目に宿る力を振るっている。

 

 

今もまた、ハルの喉元に迫る針の矛先が、横合いから突き出された無数の針からなる黒い壁によって阻まれる。

 

 

 

 

(どうしよう…どうしようどうしようっ?!)

 

 

 

 

ハルが迷うたびに、勝機が遠のいていく。

 

 

 

 

ハルが焦るたびに、ユイが命を削っていく。

 

 

 

 

 

 

このまま、終わってしまうのか。

 

 

 

 

 

また、繰り返してしまうのか。

 

 

 

 

 

また、失ってしまうのか。

 

 

 

 

 

 

神に定められた運命に、人が抗うことは不可能なのか。

 

 

 

 

 

 

己の無力感に、ハルは膝を折りそうになる。手に握る赤い刃が、滑り落ちそうになる。

 

 

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

 

 

そんな、心が折れかけたハルをつなぎとめる、親友の声。

 

 

 

 

「大丈夫だよ、ハル。信じて、私と、その刃と、そしてハル自身を。切るべきものをイメージして、その鋏に祈るの。そうすれば、きっと応えてくれる」

 

 

 

背中越しに、ハルを守りながら、ユイは振り向かず優しく問いかける。

 

 

 

「ユイ……」

 

 

 

「ハルならできる。あの時、ただ操られて暴れるだけだった私を救ってくれたのは、誰でもない、ハルの強い覚悟と願いなんだから」

 

 

 

 

だから大丈夫、そういって、ユイは戦いが始まって何度目となるかわからない、黒い針を出現させてハルに迫る無数の凶刃を迎え撃つ。

 

 

 

 

 

だが、ここにきてついに醜神のもつ力がユイのそれを上回った。いや、むしろよくここまでユイが醜神に食らいついたというべきだろう。いうなれば、残り燃料の少ない軽自動車で、燃料制限のないロケットに張り合うようなもの。元から持つ絶対的な力の差が、とうとうユイのカバーできる領域を超え始めた。

 

 

 

まるで鍔迫り合いのように切っ先が拮抗したのち、ユイの出現させた針だけが甲高い音とともに砕け散る。己を阻むものが消えた凶刃が、再びハルに迫る。

 

 

 

「させる…もんかぁぁ!!」

 

 

 

決死の咆哮とともに、ユイとハルを覆い隠すかのように左右に無数の針からなる二重の壁が出現する。醜神の濁流のような凶刃が一層目の壁を突き破り、二層目の壁に衝突、そこでひび割れるかのような音とともに双方の針が砕け散る。

 

 

 

「…がっ?! ぐっ…あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ?!」

 

 

 

だが、突如獣のような悲鳴を上げたユイが、右目を両手で押さえたまま膝から崩れ落ちる。

 

 

 

 

「ユイ?!」

 

 

 

絶叫を上げるユイに駆け寄ったハルが見たのは、真っ赤に充血するだけではなく、まるで涙のように押さえた右目から血を流し、荒い呼吸を繰り返すユイの痛々しい姿だった。先程よりも目に見えて勢いを失った瘴気のような靄が、弱々しく揺らめいている。

 

 

 

 

「もうやめて?! それ以上使ったらユイがっ?!」

 

 

 

ハルの目から見ても、ユイの今の状況は常識を逸している。右目から滴り落ちる血のような涙が、何よりもそのことを雄弁に物語っている。明らかに体が行使する力に耐えきれていない。

 

 

 

「だい…じょうぶ…まだ……残ってる…戦える…っ!」

 

 

 

肩におかれたハルの手を振り払い、震える膝と瞬きすらも苦しそうな右目を開いてユイは立ち上がる。重い体を引きずりながら、ほとんどが赤く染まった右目の視界のなかで、必死に前を向き、討ち果たすべき存在を見据えて。

 

 

そんな死に体のユイをみた醜神は、見るに堪えない悍ましい笑顔とともに再び魔の手を振るう。それと同時に、黒い巨大な波のような無数の矛先が、二人を覆い尽くすかのように迫る。

 

 

 

 

 

(私は…何をしてるの…)

 

 

 

 

 

 

自分と歳も背丈も変わらない親友が、こんなになってまで必死に立ち向かおうとしているなか、いったい自分は何をしているのだろうか?

 

 

 

 

 

この手に刃を握りながら、何をしているのだろうか?

 

 

 

 

何を思って、この刃を託されたのか?

 

 

 

 

何のために、今ここにいるのだろうか?

 

 

 

 

「そんなの…決まってるよ」

 

 

 

立ち上がり、一歩を踏み出す。次の一歩は、さっきよりも早く、そして強く。今にも倒れそうなユイの前に、ハルが立つ。

 

 

 

「っ?! だめっ?! 下がってハルっ?!」

 

 

 

 

だめだ、ここで下がったら、もう二度と踏み出せない。そんなことをするために、ここに立っているわけではない。

 

 

 

 

 

ただ守られるためではない。同じことを再び繰り返す為では、断じてない。

 

 

 

 

「私が守る…今度こそ、ユイを助ける…一緒に……帰るっ!」

 

 

 

押し寄せる死の壁を前に、もう一歩、ハルが踏み出す。その手に握る、赤き刃とともに。

 

 

 

 

「だからお願い…、私に力をかして。私に……今度こそ…」

 

 

 

 

 

今度こそ

 

 

 

 

 

「みんなを…ユイを守らせてっ!!」

 

 

 

そして、刃が光る。赤い刃が、さらにその深みを増しながら。切ることしか知らぬ神の刃が、今初めて、()()ためというハルの願いに応えた。不気味に、だがどこか優しく、そして強く光る断ち鋏を、ハルは小さな両手で頭上に掲げる。

 

 

 

「ハルっ?!」

 

 

 

 

凶刃が唸る。まるで壁一面に針を備えたような、巨大な波のようにしてハルとユイを押し潰さんと迫る。逃れようのない、絶対的な死。だが、ハルは逃げない。背中に手を伸ばそうとしているユイの悲痛な叫びを聞きながら、

 

 

 

 

 

 

「やあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 

 

 

全力の覚悟こめて、掲げた刃を振り下ろす。

 

 

 

 

 

 

 

結果は、すぐには現れなかった。暴風のようなものが洞窟内を暴れまわったかのような衝撃がユイの髪を揺らすなか、迫る黒い波とハルの双方は、まるで時間そのものが止まってしまったかのように静止している。

 

 

 

 

振り下ろされた赤い刃は、本来は開いて閉じる、という過程を得て初めて()()という現象を引き起こす鋏。であれば、今しがたハルが行ったのは切るという行為ではない。にもかかわらず、

 

 

 

 

「……う…そ…」

 

 

 

”…………………”

 

 

 

 

勝ったのは、ハルの振るった刃だった。音もなく静止していた黒い波、それを構成していた無数の凶刃全てが、静寂を破るかのように、その全てが音を立てて砕け散る。

 

 

それは、今まで彼女らが奪われてきたものから鑑みれば、ささやか過ぎることかもしれない。

 

 

だが、今初めて、たしかにハルは神の意志に逆らった。神の『死』という意志に、神の刃を用いたハルの『守る』という意志が勝った。

 

 

 

 

 

 

「ハル…」

 

 

己に背を向ける小さな背中を、半分が赤く染まった視界で見つめるユイ。だが、ハルは振り返ることなく、今度は断ち鋏を()()。まるで、糸ではなく、まるで別の何かを断ち切らんとするかのように。

 

 

 

「ごめんね…私がくよくよしてるから、ユイがいっぱい頑張った。いっぱい苦しんだ。これじゃあ…あの時と何も変わらないね」

 

 

背を向けたまま、ハルはユイに言葉を投げかける。今、ハルが目を向けるべきはユイではない、己を見つめる、いや恐らくは自身に逆らった人間を睨む醜神。

 

 

「でも、もうわかったから。私が切らなきゃいけないのは、このおばけを守る糸なんかじゃない…私が切る、あなた自身を」

 

 

奪われるだけだった、守られるだけだった弱い少女は、手に持った赤き刃を神に突き付ける。だが、今はその瞳には一寸の迷いもない。ただ目の前の絶望を乗り越えようとする強い意志だけが、瞳の奥で揺らめいている。

 

 

あの時、振り下ろした刃はたしかに閉じたままだった。しかし、確かに刃は切るべきものを断ち切っていた。

 

 

 

それは、ハルの心にのこった最後の弱さ。ユイに頼り、甘え、ただ守られるがままにされていた、これまでの弱さ。その全てを断ち切ったハルの心に、もはや迷いはない。

 

 

 

「あなたを切る。そうすれば、全部終わるよ。私たちだけじゃない、これまで、山であなたに騙されて命を奪われてきた人たち全ての縁、ここで全部切る」

 

 

 

この時、醜神は今まで感じたことのない何かを感じていた。醜神にとって、人という種は総じて自分に対する供物でしかない、弱くて小さな生き物だ。一人ではまともに生きることすら出来ず、ひたすらに他者との縁に縋る。そんな脆弱で矮小な人間など、神である自分にとって取るに足るはずがない。

 

 

 

人間など、少しつけ込むだけで簡単に騙されて命を捧げて来るだけの愚かで哀れな生贄。醜神にとって、人はただの餌であり退屈しのぎの玩具でしかない。

 

 

だというのに、この人間たちはなんだ。

 

 

かたやどこで手に入れたのか自分と同じ力を振るう者、かたや唯一の天敵だと思っていた縁切りの神の刃を持つ者。

 

 

おかしい、つい先程までは自分が完璧に優位に立っていたことは間違いない。哀れにも自らの領域に自分から囚われに来た供物を捕らえ、弄び、心を痛めつけた。自分を助けに来た小さな獣は勿論、長らく睨み合っていた宿敵を葬ることも出来た。

 

 

醜神に弓を引くことが出来るものなど、もはやいるはずがなかった。

 

 

 

だが実際は違った。どこで手に入れたのか、一度はその身を貫いたはずの人間は、自分と同じ力を携え、捕らえたはずの供物は、かの縁切りの神の力である赤い刃を握っている。

 

 

 

それでも、まだ己は優位に立っていたはずだった。己と同じ力を振るう愚か者に格の違いを見せつけ、同時に糸をしまい込むことで刃による反撃すら許さぬ絶対的な優位を確保したはずだった。

 

 

 

それがどうだ? たった一振りで、己の放つ絶対的な力の象徴でもある黒い鉾を砕かれ、今は逆に弱い人間の少女に刃を突きつけられている。

 

 

 

 

なんだ、これは。なぜこの人間は折れない。これまでのように思い通りにならない。

 

 

一つは、憤り。脆弱で矮小で愚かな人間風情が、絶対である己に逆らっていることによる怒り。

 

 

 

だが、これは知らない。この、押し潰されるような重圧と、脚が動かなくなるほどのなにか。

 

 

知らない、こんなものは知らない。

 

 

 

"……………………"

 

 

 

 

知らず、醜神はその巨大な骨格のような脚を一歩、()()()()()()

 

 

 

醜神の脚を後ろに下げたその感情を、理解できずに戸惑い、二の足を踏ませるその感情、人はそれを"恐怖"と呼ぶ。

 

 

 

「ハル一人に背負わせはしないよ」

 

 

よろよろと立ち上がったユイが、鋏を構えるハルと並び立つ。流れる血の涙は止まらず、視界は半分が赤色、冷や汗で濡れた額に前髪が張り付いている様は、なんとも痛々しい。

 

 

それでも、倒れ伏したい気持ちに撃鉄を撃ち込み、彼女は立ち上がる。全ては戦わんとする者のため、こんな自分のために、地獄を乗り越えて今ここに立ってくれている親友のために。

 

 

 

「ユイ…でもこれ以上無理したら…」

 

 

心配そうに見つめてくるハルの頭に、ユイはそっと片手を乗せる。こんな状況でも、絹のようにさらさらとした髪が心地よい。

 

 

「私は大丈夫。約束したんだ、もう諦めないって。だから私も戦う、二度とハル一人に背負わせたりしない。だから…あと少しだけ、一緒に頑張ろ」

 

 

微笑むユイに、ハルは何かを言おうとして、口をつぐむ。既にユイの右目は限界を超えている。弱々しい瘴気、充血した瞳、消えない血の涙の跡。それでもなお、彼女はハルの隣に立つことをやめないだろう。自分を信じ。この力と記憶を託してくれたもう一人の自分のためにも。

 

 

「…わかった。でも絶対に無理しないで。…ううん、そうなる前に……次で

、終わらせるから」

 

 

覚悟を胸に、ハルは鋏を開く。それに、これ以上戦いが長引けばユイがもたない。

 

 

 

だが、ハルの持つ断ち鋏の刃渡りは、せいぜい1メートル程度、それに対して醜神の全長は10メートルは下らない。ハルの立つ場所と醜神の立っている場所の距離を鑑みても、ハルが断ち鋏で醜神を切る、ということは物理的には不可能に近い。

 

 

 

しかし、忘れてはいけない。ハルの持つ鋏は、単なる大きな鋏、などではない。この刃は、『断ち切る』という人の願いと神の意志を具現化させた、正真正銘の神器。

 

 

切れぬものなど、あろうはずがない。

 

 

 

開かれた刃が、仄かな光を纏う。それは蒼白く、厳かで、そして、何より強い光だ。

 

 

 

ハルの強い願いと意志に、刃が応えた。地面に水平に開かれた刃が纏った光、それらがそれぞれの切っ先の延長線上に向けて突然放たれ、やがて巨大な刃と化した。

 

 

「……ハル…」

 

 

その光景を見たユイは、あまりの衝撃に言葉を失った。まるでテレビなどで見るおとぎ話のような光景だったからだ。だが、ただ言葉を失ったユイとは違い、醜神の反応は早かった。

 

 

 

"………ホ…ロ…ビ…ヨ…!"

 

 

 

 

おぞましい呪詛の言葉とともに、濁流のように押し寄せる針の壁。それが二人の左右から押し潰すかのように迫る。

 

 

「させないっ!!」

 

 

未だ激痛が残る右目から、絞り出すようにしてユイは叫ぶ。その意志に応え、醜神の放つ凶刃を妨げるようにして、ユイは無数の針を束ねた壁を作り出す。

 

 

 

 

ガガガギギギギギリリリリガガギリギリリリリギリギギリリリっ!!!!

 

 

 

 

直後、無限の針の切っ先同士をこすり合せるかのような耳障りな不協和音が響く。

 

 

「ユイっ!?」

 

 

「大丈夫っ!」

 

 

叫ぶハルに、ユイはハルが何かを言う前に叫び返す。

 

 

 

「針は私が止める……っ…からっ!! ハルは…自分のっ…やることに集中して……っ!」

 

 

 

 

今なお、壁を削り屑さんと前進を続ける刃を懸命に押しとどめながら、ユイはハルに叫ぶ。正直、体は限界だった。ここまで来るのに溜まった疲労や痛み、そこに加わるこの瞳の力。右目からは絶えず激痛が走り、視界は半分が紅色だ。

 

 

それでも、膝を折ることは許されない。己を信じ、自らの記憶と力の全てを託して消えたもう一人の自分と、片腕を切り落としてまで、そんな自分を救おうとしてくれたハルのために。

 

 

 

彼女らのあの戦いが、あの悲劇が、悲しみが、流した涙が、すべて無駄ではなかったのだと証明するために。

 

 

 

「絶対止めるっ!絶対守るっ!! 二度とハルにあんな思いはさせないっ!!」

 

 

 

右目に漂う弱々しかった瘴気が、一段と激しく猛る。これが、最後の一欠片。流れる血の涙も厭わずに、ただ全力で、ユイもまた守るための力を振るう。

 

 

 

「…ユイ…わかった、もう少しだけ頑張ろ。すぐに……終わらせるからっ!」

 

 

その言葉とともに、ハルは開いた刃を閉じる。赤い刃の纏う光の刃、伸ばされた一対の断頭台のような巨大な刃が、醜神の巨大な蜘蛛のような胴体を挟み込む。食い込んだ刃の隙間から、人と同じ赤い色の血液と思しき液体が噴き出した。

 

 

 

"グォォォォォ……オオオオオオオオァァァァァっ!!!!!"

 

 

 

胴体を挟み込まれた醜神が、声にならない絶叫を上げる。でたらめに腕を振り回そうとするが、あまりの痛みと衝撃に脚が自然と崩れる。洞窟の壁や醜神の足元に散った赤い血が、醜神を襲う刃の威力を雄弁に物語っていた。

 

 

「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」

 

 

だが、ハルもまた手に伝わる負担と、重過ぎる手応えに歯を食いしばっていた。振るう刃もそうでありながら、切る対象は神そのものだ。決して包丁で豆腐を切るわけではない。

 

 

硬すぎる、それどころか、絶えず血を吹き出しながらも、刃を押し返さんとする醜神の力がハルの体にちぎれんばかりの痛みを生み出していた。

 

 

 

"…オ…ノ…レェェェェェ…"

 

 

 

「うぐっ!? うぅぅぅぅっ!!」

 

 

 

そんな均衡が、徐々に崩れ始めた。押し返されているのは、ハルの持つ蒼白い光の刃。閉じなければならない刃と刃の距離が、だんだんと離されていく。

 

 

 

「ま…っ…けない…!」

 

 

それをわかっているからこそ、ハルは己の待てる全力をもって刃を閉ざそうとする。だが、いくら振るう刃が強くとも、それを握るハルは正真正銘の人間だ、しかも年端もいかない少女である。か弱い筋力でどうにかなるものではない。

 

 

 

「…いや…っ…だから…!」

 

 

だが、それがどうした。そんなことは、自分が無力な人間だということくらい、とっくに分かっている。そうだとしても、やり遂げなければならないから、今自分はここに立っているのだ。

 

 

 

 

「守れないのも…っ…守られるだけなのも…っ…!」

 

 

 

 

だから、これが最後のお願い。あともう一度だけ、ハルは奇跡を願う。

 

 

 

 

 

縋るためではない、逃げるためではない。

 

 

 

 

 

「諦めるのも……っ……()()()()()()!!」

 

 

 

 

 

今度こそ、止まった時間を動かし、未来へと進んでいくために。

 

 

 

 

そして、ハルの強い意志に応えるかのように、消えたはずの神は具現する。

 

 

 

 

「あうっ!?」

 

 

 

突如、ハルの左腕を包むシャツの袖が吹き飛び、指先からその細い肩口までの全てが露わとなる。そして、ただでさえ色白なハルの頬、その左頬から露わとなった左手に至る全てが変色、まるで死人のような青白いボロボロな肌へと変化した。

 

 

 

「……ありがとう、コトワリさま」

 

 

激しい鍔迫り合いのなか、ハルは自身に起きた現象に驚くことなく、自分の声に応えてくれた神に感謝を口にする。

 

 

仄かな光を放つハルの変色した左半身、その死人のように青白くボロボロな肌は、確かに不気味でおぞましい外見をしている。

 

 

だが、ハルはそれを拒むことも、恐怖を抱くこともしない。これは、今まで自分を守ってくれた縁切りの神が自身の声に応えてくれたものだと、体の内から感じられる微かな温かみともに確信していたから。

 

 

 

かつてこの場で神が切り落とした左腕に、今は神の力が宿った。

 

 

 

 

「甘えてばかりでごめんなさい、ぜんぶ終わったら、またお参りにいきます」

 

 

 

 

その言葉とともに、ハルは刃を握る腕に力を込める。先程までとは次元の違う、万力という言葉すら生温いほどの力で、巨大な刃を閉ざさんとする。

 

 

 

 

"グォォォォォォォォォォォォァァァァァァァァァァっ!!!!!!"

 

 

 

 

 

醜神の絶叫が響き渡る。

 

 

 

振るう刃は神器、そして担い手も半神。もはやハルと醜神の間に生物的な差など存在しなかった。

 

 

 

 

"オ…ノ…レぇぇぉぇぇぇぇえぉぇぇっ!!!"

 

 

 

痛みに耐えかねた醜神が、さらに針の壁、いやもはや巨大な波のような針の大群を生成するが、それは形を成したそばから崩れ去っていく。

 

 

 

「ハルっ!!」

 

 

見れば、ユイが押しとどめていた針の群れすら、その全てが瓦解していた。完全に瘴気が消え、右目を閉じたユイは、地面に膝をつきながらも親友の名を呼んだ。

 

 

 

 

巨大な霊的な刃が、徐々に一つに重なろうとしていた。醜神は死に物狂いで抵抗しようとするも、もはや針を生成することも、子蜘蛛を生み出す余力もなかった。

 

 

 

吹き出し続ける醜神の赤い血飛沫が、洞窟を血に染めていく。

 

 

 

 

そして、遂に決着の時が訪れる。

 

 

 

 

"オ…ノレぇぇぉぇぇぇぇ……オノレぇぇェェェェェェェエェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!!!"

 

 

 

 

「うぐ……っ!!…うああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 

 

 

醜神の怨嗟の絶叫と、ハルの咆哮。その二つがぶつかり合い、

 

 

 

 

 

 

巨大な刃が、一つに重なった。

 

 




なんかロープレのラストみたいな展開になってきた気がし……(´-ω-)

予定ではあと2話ほどで締めくくることが出来るかなと思っております、ここまで呼んでいただいた皆さま、あと少し、お付き合い頂ければと思います(^^)


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第10話 : 二人の夜明け

前話投稿から2ヶ月あまり……難産に難産で試行錯誤して何とかこの形に……これほどまでに時間が空いてしまい、大変申し訳ございませんm(__)m


 

巨大なる一対の刃が、閉じる。

 

 

大切なものを守るため、未来へと進むためと、幼い少女は半神と化したその身を以って、今諸悪の根源たる醜神を討つ。

 

 

青白い光を帯びていた刃は、今は何事もなかったかのように元のまま閉ざされたいる。

 

 

だが、

 

 

 

"ギィィぃぃぃぃぃぃぃぃやァォォァァォぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぉぁぁぁぁぁぉぉぉぁぁぁぁっ!!!!"

 

 

 

 

その切っ先の延長線上で、まるで無理やり封を切られた風船のように体液を撒き散らす醜神の姿があった。胴体の真ん中で、二つに分けられた醜神の巨躯。その断面から、夥しいほどこぼれ出る体液の色は、皮肉にもハルが額から流す血と同じ、赤色だった。

 

 

 

そんな聞くに耐えない絶叫を上げのたうち回る醜神の姿を、ハルと、隣に立つユイは、ただ静かに見下ろしていた。

 

 

 

「…終わった……のかな?」

 

 

未だ血の跡が残る右目を閉じたまま、開いている左目を向けて、ユイは問いかける。

 

 

 

「わからない。でも、いくらあのオバケでも、もう何もできないと思う…」

 

 

 

肌と同じく、青白く染まった瞳で、ハルはただ静かに醜神を見続ける。

 

 

 

"お……オ、ノ、レェェェェェ…っ"

 

 

だが、未だ止まる気配なく己の血液を垂れ流す醜神が、動く二本の前脚を用いて決死の形相で立ち上がった。

 

 

 

「終わって……ないね」

 

 

その光景を見て、ユイは再度右目を開こうとするが、本人の意思とは反対に、その右目は決して瞼を上げようとはしなかった。既に力は失われ、限界以上に酷使されたのだから、ある意味当然の結果とも言える。

 

 

「あぐっ!?」

 

 

焼けつくような激痛に耐えかねたユイの肩を、ハルが慌てて支える。

 

 

 

「ダメだよ?! それ以上無理したら、ほんとに見えなくなっちゃうよっ!」

 

 

「そんなことっ!?」

 

 

 

ユイが声を張り上げた、その瞬間。

 

 

 

"…ほ……ほ、ろ……ビ……ヨォォォォっ!!"

 

 

怨嗟に満ち溢れた叫びをあげながら、醜神が己が力の結晶である黒い針を、血にまみれた己の口内から放つ。

 

 

その数、僅か一本。先程までとは比べ物にならないほどにボロボロで、醜神の血がべっとりと付着している。死に体の神が放つ、正真正銘、最後の一撃。

 

 

 

その矛先は、たかが供物の身でありながら、多くの絶望と悲しみを乗り越え、神を宿し、我が身を切り裂いた愚かな少女

 

 

 

 

では、ない。

 

 

 

神の矛先は、滅びゆく絶望の権化たる醜神が道連れに選んだのは、己が身を切り裂きし愚か者ではない。

 

 

 

醜神が道連れに選ぶのは、そんな愚か者が何より大切に思っている、少女の片割れ。あと一歩というところで乱入し、あまつさえ少女に神の刃を託した不届き者。

 

 

 

先程までの体への負担でまともに動くことすらままならないユイへと、針の切っ先が迫る。反射的に、ユイはボロボロな体に最後の力を込め、ハルを突き飛ばそうとした。

 

 

 

しかし

 

 

 

「ハルっ!!?」

 

 

それよりも早く、まるで友をかばうかのように、ハルが彼女の前に立ちふさがる。その小さな背中に、ユイは喉がはち切れんばかりに叫ぶ。

 

 

 

ダメだと、逃げてくれと。

 

 

 

その叫びを背中に浴びつつも、ハルは決してそこを動かなかった。

 

 

「いやだ…いやだっ!! もうユイを置いていったりしないっ!! ユイを死なせたりしないっ!! 絶対に帰る!! 一緒にっ!! 帰るっ!!!」

 

 

 

だが、願いは届かず。放たれた死の刃は、醜神の怨嗟と絶望を存分に乗せた矛先は、真っ直ぐにハルへと迫り

 

 

 

 

 

「いや、いやぁぁっ!? ハルーーーー!!」

 

 

 

友を守らんとする、小さな体を貫く

 

 

 

 

 

 

ことはなかった。

 

 

 

 

「……あ…………」

 

 

 

ハルの体の、ほんの数センチ手前。まさにハルの胸を貫く寸前の所で、針は停止している。

 

 

 

"………………"

 

 

その針の矛先を握る、青白い巨腕。色こそ先程までのハルの左半身を覆っていたそれだが、今のハルの肌は元の色白い彼女のそれに戻っているし、いかんせん大きさがまるで違う。

 

 

 

"……バ……ばか……ナ…"

 

 

 

 

巨大な赤黒い靄を握りつぶすかのような、おぞましい姿をした、もう一体の神が、ハルの後ろに音もなく顕現した。

 

 

 

「…ことわり……サマ…?」

 

 

"………………"

 

 

 

まるで自分を守ってくれたかのような土壇場に現れた神に、ハルは戸惑いながら声をかけようとした。

 

 

 

しかし

 

 

 

"ぐぉぉぉぉぉぉォォォォォォアァァァァァぁぁぁぁっ!!!!"

 

 

 

縁切りの神は、これまで彼女らが聞いた以上の咆哮をあげると、握っていた醜神の刃をそのまま握りつぶす。硬質物を握りつぶす、およそ聞いたことのないような音が響き渡る。

 

 

 

"…オっ……おのレェぇぇぇぇぇぇぇぇぉぇ…っ!?"

 

 

 

決死の一撃を、文字通り粉々にされた醜神が叫ぶのも束の間、縁切りの神はその場に落ちている刃を拾い上げる動作なく手元に引き戻すと、凄まじい速度で元の大きさの半分以下となった醜神に肉迫する。

 

 

 

"おォォォォォォォォォォォォぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!"

 

 

 

そして、雄叫びとともにその身が五つに分身。あの時、ユイと対峙した時に見せた一撃が、今度は醜神に迫る。五つに増えた神の体と刃、その全てが、およそ人が捉えられる限界をはるかに超えた速度で、醜神の体を駆け巡る。

 

 

 

"ギィイィィィィぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァぁぁぁぁぁぁぁ…………"

 

 

 

惨虐な嵐に見舞われた醜神の体から、残った脚なおろか触覚のように生えていた巨大な人の指や眼球全てが切り落とされる。

 

 

 

そして、残った僅かな頭部からの断末魔を最後に、醜神はその長い長い生涯を終えた。

 

 

 

「…っ! ねぇ、あれって……」

 

 

何かに気づいたらしいユイが、動かなくなった醜神の体を指差した。

 

 

 

「………きれい…」

 

 

 

血溜まりという言葉すら生ぬるい、まるで真っ赤な池のように広がっていた醜神の血と、そこに沈む体。その全てから、まるで蛍のように小さな光が、ぽつぽつと生まれ始めた。

 

 

 

「…すごい…」

 

 

一つ、一つ、また一つ。生まれ出る光はとどまることを知らず、一つの塊のようになって宙を舞う。

 

 

そして、ひとしきり宙を舞った後、光は呆然とするハルとユイの周りを駆け巡り、そのまま消えていった。まるで、二人に感謝の意を告げたかのように。

 

 

 

「今のって…今まであのオバケに騙されて死んだ人たちの魂…とか?」

 

 

 

半信半疑、といった様子のユイが、未だすこし呆然としながら呟いた。正真な話、そんなことがと思うが、聞かずにはいられなかった。

 

 

「そう…かもしれない。ううん……そうだとしたら、よかった。これでもう、あのオバケに嫌なことされなくていいから」

 

 

 

そう言ったハルの先には、ただじっと彼女たちを見つめるかの神の姿があった。そんな神に向かって、ハルはペコリと頭を下げる。それにならって、ユイもまた慌てて頭を下げた。

 

 

 

チャンスをくれたこと

 

 

 

何度も命を救ってくれたこと

 

 

 

力を貸してくれたこと

 

 

 

勇気をくれたこと

 

 

 

ここに至る全てに感謝を込めて、ハルとユイは縁切りの神に深々とこうべを垂れる。そして、じっくりと下げた頭を上げた時、そこにかの神の姿も、醜神の死骸も流れ出た血も、全て跡形もなく消えていた。

 

 

 

ただ、もうこれ以上ここに咲く必要のない彼岸花たちだけが、咲き残っていた。

 

 

 

 

「これで、本当におわり……かな」

 

 

 

苦笑混じりに呟くユイに、ハルも恐る恐ると言った様子で口を開いた。

 

 

 

「だと…おもう。もう、これ以上あのオバケに騙されて、山で死んじゃう人も、いないはず」

 

 

あの最後に醜神の死骸から生まれ出た光、その全てが醜神に唆され、哀れにも山で命を絶ってしまった人達の魂だとするなら、一体どれほどの人達がその命を弄ばれてきたのだろう。

 

 

 

しかし

 

 

 

「そうだね、前の時間? 世界? でなら、私もその一人だったのかもしれないし?」

 

 

冗談混じりにそう返すユイの顔を、ハルはじっと見つめた。右目は今も閉じられたままで、血の跡も消えていない。それでも、その笑顔は、その表情は、かつてのハルが救おうとして救えなかった、かけがえのないハルの宝物だ。

 

 

 

「……帰ろう、ユイ。一緒に」

 

 

溢れる涙を瞳一杯にためながら、ハルは一度この場で失った左手を、ユイに差し出した。

 

 

 

「……うん。今度は…ちゃんとお家まで、一緒に帰ろうね」

 

 

差し出したハルの小さな手に、ユイもまた涙に馴染む視界の中同じく小さな手を重ねる。かつてここで断ち切られた手を、二人はきゅっと、強く握りしめた。

 

 

 

そして、互いに手を繋いだまま、二人はゆっくりとその場を後にした。二人の背後では、無数の彼岸花たちがその花びらを一斉に宙に舞わせる。

 

 

まるで、絶望に満ちた運命を乗り越えた二人を祝福するかのように。そして、もうこの場に自分たちが咲く必要ないと、その命を終えようとするかのように。

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

朝日が昇りつつある薄暗い空の下、二人の少女たちは手を繋いだまま山を下る。登るときは違い、二人の表情には絶えることのない笑顔が浮かんでいた。ハルは額から流した血の跡が残っており、ユイもまた力の源であった右目は閉じたままだ。

 

 

しかし、それでも彼女たちは笑っていた。あの時とは違うのだから。

 

 

 

あの時、ハルは左手を失い意識はなく、ユイはすでにこの世の者ではなかったが、今はちがう。

 

 

軽くはないだろう怪我を負っている、だが二人とも生きている。それだけで、笑う価値はある。

 

 

 

「そう言えば、今だから聞きたいんだけど…」

 

 

 

少しだけ聞きづらそうに、ハルはユイに向けて疑問を投げかける。

 

 

 

「んー?」

 

 

対してユイは、そんなハルの様子をさしえ気にした様子もなく口を開く。

 

 

 

 

「えっと…あのね、今のユイは…その……()()()…なの?」

 

 

 

「…あー…」

 

 

恐る恐るといったようにユイの顔を伺うハルに、ユイは己の記憶と人格について簡単に整理してみる。

 

 

 

たしかに、今のユイは過去ないしある意味では未来のユイの記憶を引き継いでいる。あの悲劇の結末や悲しみを、自分のものとして記憶はしている。

 

 

だが、だからといって人格が変わったかと言われればそんな大きな変化は感じない。というよりも、元々今のユイもあの時のユイも突き詰めれば同じ人間なので、分からないというのが正直な感想だ。

 

 

 

「どうだろ、記憶も何もかも全部あるけど…一応は全部私なわけだし…うーん…逆にさ、ハルはどっちだと思う?」

 

 

 

「へぇっ!?」

 

 

 

投げかけた質問がさらに難しくなって返ってきたことに驚くあまり、素っ頓狂な声が出た。

 

 

 

「わ、わかんないよ。わたしには…今のユイも、あの時のユイも、変わらないから」

 

 

 

「ならさ、それでいいじゃん」

 

 

「え?」

 

 

どういうこと? と首をかしげるハルに、ユイは笑った。

 

 

 

「変わんないよ、今の私も、あの時の私も。私は私。一回死んで、オバケになって、ハルに迷惑かけて、そして…今こうして、ハルに助けられてここにいる。それじゃあ、だめ?」

 

 

問いかけるようなユイの言葉に、ハルはすこしだけ目を見開く。

 

 

「それとも、ハルはあの時の私は好きで、今の私は嫌い?」

 

 

そんなハルに、ユイは少しだけ悪戯な笑みを浮かべて再度問いかける。

 

 

 

「そ、そんなことないっ!!」

 

 

慌てて頭を振って、ハルはユイを見る。そして、ユイの手をきゅっと握り締めながら、自分の思いを紡ぐ。

 

 

 

「そんなこと、ない。あの時のユイも、いまのユイも、ユイは、ユイ。私の…一番の友達」

 

 

 

 

「……うん」

 

 

 

握り締められた手を、ユイもまた握り返す。

 

 

 

 

 

そうしてさらに歩くこと数分、二人は山の入り口までやってきた。入り口の向こうには、無事に洞窟を脱出したチャコと、本調子ではないだろうが、元気にしっぽを振るクロの姿があった。

 

 

 

あの時は、チャコしかいなかった。

 

 

 

一人しか、この先には行けなかった。

 

 

 

しかし、今は

 

 

「いこう、ユイ」

 

 

 

「うん。帰ろ、みんなで」

 

 

二人は、揃って木々が織りなす入り口を抜けて、その先のアスファルトに足をつけた。そして、駆け寄ってきた二匹の子犬を抱きしめた後、二人と二匹は、朝日が昇り始めた街を、ゆっくりと歩く。それぞれが、帰る場所へと。

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

ここで物語が終わるのであれば、どれほど幸福なことだったであろう。しかし、運命の悪戯は、まだ終わってはいなかった。

 

 

時間遡行とは、その字が示す通り時を渡ることだ。つまり、縁切りの神によってハル本人の時間が巻き戻ったのではなく、捉え方によっては()()()()()()()()()()()()()()()と言ってもあながち間違いではない。

 

 

 

で、あるならば。

 

 

 

戻るべきではないものもまた、戻ってしまっているのだ。

 

 

 

確かにハルは、ユイとクロを救った。醜神によって奪われるはずだった命を、神の力を借りながらも救ってみせた。

 

 

だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()は、まだ生きている。救われるべきではない命もまた、そこにはある。

 

 

言うなれば、ハルがユイを救ったが故に生まれてしまった、望まれない奇跡。その負の奇跡が、今まさに彼女らの前に立ち塞がろうとしていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ハル、ほんとに大丈夫?」

 

 

空き地にてチャコとクロを寝床に送り届けた後、ユイはいつもようにハルを家まで送ろうとした。しかし、

 

 

 

「ユイの方がいっぱい怪我してるし、家も近い」

 

 

という珍しくハルの強い意見の元、二人が現在いるのはハルではなく、ユイの家の前であった。

 

 

 

 

「ちゃんとひとりで帰れる? 道わかるよね? でも怪我してるしーー」

 

 

 

まるで年の離れた妹を心配するかのようなユイの言葉に、ハルはむすっとなって反抗する。

 

 

 

「別に大丈夫だもん。それに怪我してるのはユイもだよ。目だってまだあけられないんでしょ?」

 

 

 

「あ…えっと…それはー…」

 

 

そらみたことか。心なしか、ふんすっと言ったようなハルの表情に、ユイはおそらく生まれて初めてハルに対してしどろもどろになっていく。

 

 

 

「もっと自分を心配してよ、ユイ。私は大丈夫だから、ちゃんとお医者さんに見てもらってね」

 

 

これが一種の姉離れというものなのだろうか。そんな少しばかり嬉しさと寂しさの混ざり合った感情の中、ユイはやれやれと言った様子で口を開いた。

 

 

 

「はーい。でもお医者さんにいくのはハルもだよ。あと、消毒もね?」

 

 

「ぎくっ」

 

 

やっぱりか。消毒という言葉を聞いて青ざめている親友の顔を満足げに見ながら、ユイは自宅の扉へと向かっていく。

 

 

やがて、思い出したかのようにハルへと振り返り、

 

 

「ハル、花火の下見、また行こうね」

 

 

「っ!? うんっ!」

 

 

 

嬉しそうに頷くハルを見つつ、今度こそ背中を向けて扉へと向かう。扉をくぐったユイを見て、ハルもまた自宅へと向かうため、ユイの家に背を向けた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

だが、一抹の不安がハルの胸をよぎった。それは、ハルがいくら足を動かそうと、ハルの胸の内から消えることはなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

「ただいま…」

 

 

最低限のボリュームで、ユイは帰宅を知らせる言葉を口にした。目のことや穴が空いた服など、諸々について言い訳を考えなければいけないため、少しばかり周りへの意識が疎かになっていた時だった。

 

 

バンっ

 

 

なんて生半可なものではない。まるで棍棒で殴られたかのような衝撃が、靴を脱いだばかりのユイの頭部を襲った。

 

 

そのまま壁に頭を叩きつけられ、一瞬残された左目の視界が明滅するが、続けて襲って来た髪の毛を強い力で引っ張られれる痛みで視界が色を取り戻す。

 

 

 

「痛……いっ!!」

 

 

目線を上げれば、そこにはやはりというかなんというか、ユイがこの世である意味怪異より見たくないものがいた。

 

 

「ガキのくせに生意気に夜遊びか? あ? 」

 

 

おそらくユイの帰宅するなり前から起きていたのだろう、寝間着姿の無精髭を生やしたユイの父親が、彼女の髪を左手で引っ張りながらそう言った。

 

 

 

「別にっ…! あそんでたわけじゃー」

 

 

 

「言い訳してんじゃねぇぞクソガキがっ!!」

 

 

 

あそんでいたわけじゃない。そう伝えようとするユイの頬に、一切の聞く耳もたずに平手を撃ち抜いた。平手というが、大の大人が、背丈の小さい女子児童に向けてやれば、体を横倒しにするには十分過ぎる威力を発揮する。

 

 

 

バチンっ!!

 

 

まるで紙風船を思いっきり潰したような破裂音とともに、ユイの小さな体は床に叩きつけられる。右目の痛みに勝るとも劣らない衝撃が、ユイの体を駆け巡る。

 

 

 

「がっ…あ…」

 

 

過剰すぎる衝撃と、断続的に熱を放つ右目の痛みが、辛うじてユイの意識を閉ざす寸前のところで保っていた。だが、そんな娘の様子を気にかける様子はなく、むしろ吐き捨てるようにして睨むと、再度ユイの父親は倒れる娘の髪を引っ張りそのままリビングに投げ入れた。

 

 

「あ……う…」

 

 

もはや痛みに反応するのがやっとのユイの背中を、父親の足が踏みつける。

 

 

「がっ…はぁっ!?」

 

 

痙攣すらしそうなほどにのたうつ娘の様子を気にするまでもなく、父親はおよそ人間性を疑うかのような言葉を投げかける。

 

 

 

「一体誰に似たんだよおい。学校で親に迷惑をかけるようなことはしちゃいけないって習ってねぇのか? ざっけんなよてめぇっ!!」

 

 

 

一回、二回と、父親はボロボロの娘の体を踏みつける。

 

 

 

「がはっ……ぐえぁっ…」

 

 

 

「ちっ!? 汚ねぇなっ!!」

 

 

 

度重なる内蔵の圧迫から、吐瀉物を吐き出すユイの背中めがけて、父親は先程よりも大きく足を上げて踏みつけようとする。

 

 

 

「ユイっ!? 何してるのやめてっ!?」

 

 

 

そこに異変に気付いた母親が慌ててリビングにやってきて、顔面蒼白でユイを抱き上げる。

 

 

 

「……お…かあ…さん…」

 

 

「ユイっ!? ユイっ!?」

 

 

右目から流れるような血の跡や、吐き出したものによって衣服や顔を汚した我が子を、母親涙ながらに必死に抱きしめる。

 

 

 

「邪魔だどけ。ガキのくせに夜遊びしてるクソガキを教育してやってんだよ」

 

 

 

だが、そんな妻と娘の様子などまるで意にかいすることなく、父親として、人間としてありえないほどに酷薄な言葉を放つ。その言葉に耐えかねたのか、はたまた、それまで堪えていたものが爆発したのか、ユイの母親はキッと目を釣り上げて夫のはずである男を睨む。

 

 

「ふざけないでっ! あんたこそユイに何してるのよっ!? 実の娘を殺す気っ!?」

 

 

「だから教育してるっつってんだよっ!! いいからどけっていってんだろうがぁっ!!」

 

 

怒鳴り散らす男の右足が、ユイの母親の顔面に直撃する。声を上げることもなく後ろに吹き飛ぶ母親と、その手から投げ出されて床を転がる娘。

 

 

 

「…おかあ…さん…お…かあさんっ!!」

 

 

 

鼻血を出して意識を失う母親に、ユイは必死に声を上げ、手を伸ばす。

 

 

 

「あーー……うるせぇぇなもうっ!!!」

 

 

叫び、半狂乱に陥った男が足を思いっきりユイの頭部めがけて振り下ろすべく、足を持ち上げるが、当のユイは上から迫る男の足に気づいていない。

 

 

 

そして、男が持ち上げた足を振り抜こうとした、その時。

 

 

 

ユイではない。父親でもない。母親でも、もちろんない。

 

 

 

この家の住人の、誰でもない新たな声が、その場に響いた。

 

 

 

 

 

 

「やめてぇっ!!」

 

 

 

 

 

 

「……あぁ?」

 

 

色素の薄い金髪を振り乱し、肩で息をしながらも、少女は…ハルは、ユイを傷つける存在に向かって叫んだ。

 

 

「やめてよ、ユイにひどいことしないでよっ!!」

 

 

「…ハ…ハル…?」

 

 

この場にいないはずの親友の叫びに、ユイは倒れたまま顔を向ける。そこには、今しがた別れたはずのハルが、自分の父親を強く睨みつけている光景があった。

 

 

「…んだガキ。誰が上がっていいって言った? 勝手に人ん家上がって好き勝手言ってんじゃねぇぞゴラぁぁぁっ!」

 

 

「あうっ!?」

 

 

だが、すでに怒りが頂点に達している男が、そんな侵入者に容赦を加えるはずはない。平手ではなく、正真正銘、男の殴り拳がハルの色白な頬を撃ち抜いた。側面から大きな衝撃を受けたハルの体は、横に吹き飛ぶだけでは飽き足らず、壁に叩きつけられた衝撃で頭を打ち、額から血を流して倒れた。

 

 

先程の山での戦いの時よりも、明らかに多いであろう血を額から流すハルの体はピクリとも動かない。

 

 

「そん……な…」

 

 

親友の無残な姿に、ユイは目の前が真っ白になるほどの怒りが込み上げてくるのを感じた。

 

 

だが、どれほどの怒りが込み上げようと、ユイの体は意思に反してまるで動こうとしない。

 

 

 

「ぐ……う…うぅぅぅぅあぁぁぁっ!!」

 

 

どれほど叫んでも、体は動かない。そんなユイの叫びを聞いてか、男は本来は座るために使うはずの丸椅子の脚を持ち上げ、そのまま振りかぶるようにして構えた。

 

 

 

「うるせぇ。まずはこの人ん家に勝手に上がるクソガキからーー」

 

 

 

そう言って、男は振りかぶった丸椅子を倒れ伏すハルに向かって振り下ろす。

 

 

(なんで…なんでよっ!? せっかくあのオバケを倒せたのにっ!! クロを助けられたのにっ!! ハルが助けてくれたのにっ!!)

 

 

目の前の非情な現実を前に、ユイは奥歯を踏みしめる。どれだけ手を伸ばそうと届かず、傷ついた右目は未だ開かない。

 

 

 

(これじゃぁっ!? なんのためにここまで…もう一人の私はっ! ハルはっ!! )

 

 

いやだ、こんな結末は。変えた未来の行き着く先が、こんなものなど。認められない、認めるわけにはいかない。

 

 

 

そんな心の叫びが、ユイの口から漏れ出す。

 

 

 

「いやだ…もうやだよぉ……」

 

 

 

全てに耐えてきた少女の心の防波堤が、破れる。

 

 

 

「誰か…だれか助けてぇっ!!」

 

 

 

ガンっ!

 

 

鈍い音が、小さめなリビングに響き渡る。思わず目を瞑ったユイの耳にも、なにかを叩きつけるような鈍い音が響いた。

 

 

 

だが、

 

 

 

「そこまでに、していただけます?」

 

 

 

そこには、この場の雰囲気にどう考えても相応しくない、にっこりと目を細めて笑う、淑女然とした女性がいた。

 

 

「……え…おば……さん?」

 

 

ユイの視線の先には、振り下ろされる椅子の脚を掴みとる、見知った女性の姿があった。

 

 

「ごめんなさい、ユイちゃん。そんな傷だらけになるまで…助けてあげられなくて」

 

 

 

僅かに悲痛なもの声に込めた女性は、そのまま力任せに椅子を男から奪い取る。女性としては高めな身長と、完璧に整ったプロポーション。年齢を感じさせない若々しい表情に、色素の薄い長い金髪を三つ編みにして前に垂らしている。この、柔和ながらもどこか研ぎ澄まされた氷のような雰囲気をもつ女性を、ユイは知っている。

 

 

「おばさん…おばさぁん…っ」

 

 

だからこそ、この人物がここに来てくれたことが、どれだけ安堵できることか、知っている。今まで、あらゆる理不尽に耐え抜いてきた少女は、目の前の女性の姿を見て、大粒のような涙を流した。

 

 

 

「…だれだ、おまえ?」

 

 

突然の乱入者が続いたと思えば、凶器を奪い取られたことの困惑を隠しつつ、ユイの父親はすぐ横に立つ女性にそう尋ねた。

 

 

「勝手にご自宅に上がってしまい、申し訳ございません。昨夜未明から行方の知れなかったうちの娘が、こちらの家に上がっていくのを目にしたので、つい」

 

 

少しも申し訳なく思っていないだろうその女性…ハルの母親は、早口にそうユイの父親に返答した。ハルの母親がそういうや否や、一人の男性が、二人の脇をすり抜け、倒れ伏すハルをそっと抱き起こした。

 

 

「あぁっ!? 次はだれーー?!」

 

 

「夫です、あなた、ハルは?」

 

 

叫ぶユイの父親を最低限の言葉で遮り、ハルの母親は男性…ハルの父親であり自身の夫である男性に問いかける。

 

 

「うーん…出血の割には大した怪我じゃないよ。でも頭を打ってるから、じきにくる救急車にはのせるよ」

 

 

穏やかそうなハルの父親は、そっとハルを床に寝かすと、今度はたおれるユイ元に駆け寄る。

 

 

「おじ、さん…」

 

 

安心感から、涙が止まらないユイの頭をそっと撫でつつ、簡単にユイの状態を確認する。

 

 

「よく頑張ったね、ユイちゃん。怖かったろう、もう大丈夫だから」

 

 

その言葉に、ユイは嗚咽をこぼして泣き始める。そこへ、意識を取り戻したらしいユイの母親が、少しフラつきながらも娘の元にやってきた。

 

 

 

「あの…この子もそうですが…そちらの娘さんは、ハルちゃんは大丈夫なんですか?」

 

 

心配そうにつぶやくユイの母親に、ハルの父親はその容姿に違わない穏やかな声で、諭すようにして口を開く。

 

 

「ええ、大丈夫です。少々頭を打っているので、念のため精密検査を受けさせますが、脈拍などは問題ありません。ユイちゃんの方も、打撲ないし打ち身はあれど、直接命にかかわるような怪我はしていないでしょう。ただし、その右目に関してはしっかりとした検査や治療が必要になりますので、この後一緒に病院へ行って診てもらいましょう」

 

 

スラスラと事態の詳細を述べたハルの父親に感謝を述べたユイの母親とユイに笑いかけ、ハルの父親は娘の元に戻っていった。眠るハルの手を握っているあたり、やはり親としては心配なのだろう。当然のことであるが。

 

 

 

「わかってるよな? お前ら家族揃って不法侵入だぞ? ふざけやがって」

 

 

その隣では、相変わらず無茶苦茶なことをほざく男がいたが、対するハルの母親は夫が頷くのを確認すると、先程とは打って変わって柔和な表情を向けた。

 

 

 

「ええ、承知しております。ですので、いちど警察の方へ参りましょう。本来なら当事者全員で行くことが望ましいですが、今はことがこと。子供たち二人は病院に行かなければなりませんし、その付き添いも必要かと。ですので、ひとまずは私と、()()()であるあなたが一緒に警察へいく、というのはいかがでしょう?」

 

 

「いや、それは……」

 

 

優しく、ゆっくりと()()の部分を強調した女性の言葉に、ユイの父親は途端にしどろもどろになっていく。

 

 

 

「いや、別に、その、あれだよ。警察に行くほどのことでもないってこれは」

 

 

そんな弱々しい言葉を聞いたハルの母親の口角が、上がった。なまじ美人な顔立ちなために、その冷たい笑顔はいっそう凄惨な表情を作り出していた。事態を見守るユイやユイの母親が思わず身震いしてしまうようなその表情に、彼女の夫ですら苦笑いを浮かべている。

 

 

 

「あら、なぜでしょう? あなたは被害者、私は加害者のはずです。私が困ることはあれ、あなたにとって不都合など、何もないはずですよ?」

 

 

 

「い、いや…別に…だから…」

 

 

どうして? と小さな顎を手の平に乗せて首をひねるその姿は、場違いながらも魅力に溢れる女性のそれだった。

 

 

だが、ユイと、ハルの父親は知っている。これは、一度怒らせたら、不動明王すら遥かに凌駕するほどに恐ろしい彼女が、激怒している合図だ。

 

 

「大丈夫です。私が捕まることはあれ、あなたが捕まることはないのでは? それにほら、すでに夫が呼んでくれていますので」

 

 

彼女が窓の外を促すと、まるで計ったようにサイレンの音が聞こえてきた。救急車の音はもちろん、パトカーの音もたしかに聞こえている。

 

 

 

「い、いいから。そのガキ連れてさっさと帰れよ、お、俺には関係なーーー」

 

 

 

ズガンっ!!

 

 

 

ここまで来て、あまりに無責任な言葉を吐こうとした男の耳を、鋭利な殺意が込められた拳が掠めた。その拳は男の耳を掠め、後ろの壁に直撃。ユイの見間違いでなければ、我が家の壁に、打ち付けられた細い拳を中心に、放射状の罅が入っている。

 

 

「ひ、ひぃっ!? な、な、なにすんだよおまえっ!!?」

 

 

その惨状を目の当たりにした男は、尻餅をついて後ろに逃げようとするが、後ろは今しがた彼女に殴られた壁があり、大した距離は逃げられない。

 

 

 

「はい、罪状追加です。これで警察に行きやすくなりましたね」

 

 

にっこりと笑っているが、正直その細められた目は一切笑っていないことはその場の全員が分かっている。

 

 

「だ、だからいいって行ってんだろっ!? 帰れ…帰れよぉぉっ!?」

 

 

さっきまでの威勢は何処へやら、半ベソをかきながら情けない声を出す男の胸ぐらを掴み、彼女は男を無理やりその場に立たせる。

 

 

「ぐえっ!?」

 

 

「いえいえ、そういうわけには参りません。可愛い娘を…()()()をここまで痛めつけた愚か者を黙って見過ごすほど、私は寛大ではありませんから」

 

 

大の男の胸ぐらを、華奢な女性が片手で掴み上げる光景は、すごいを通り越してもはやホラーである。

 

 

掴む右手に力を込めつつ、彼女は優しく、しかし底冷えするかのような声音で、ゆっくりと問いかける。

 

 

「ひ、ひぃぃっ!?」

 

 

 

「さあ、いかがなさいます? このまま大人しく警察にいきますか? それとも…………一度、あなたも病院の方へいかれますか?」

 

 

 

すぅっと開かれた瞳でそう問われれば、男は黙ってうなだれるしかない。簡単な話だ、このまま大人しく警察にいって全てを白状するか、一度病院のベッドを経由して同じことをするかの違いしかないのだから。

 

 

 

「よろしい」

 

 

その場に捨てるように男を地に下ろすと、それきり男は動かなくなる。すでに家の前から聞こえて来たサイレンの音や、この女性がいる限り抵抗は無駄だと察したのだろう。

 

 

 

彼女はそのまま眠る娘の片手を取る。

 

 

 

「よく、頑張ったわね。ハル…」

 

 

傷口を触らぬよう、優しくハルの頭を撫でるその姿は、先程までの鬼神のような雰囲気はどこにもない。

 

 

 

その後、あらかじめの段取りは伝えていたのだろう、インターフォンがなったと思えば、警察がユイの家に入ってきて、座り込むユイの父親を連行していった。同じくハルの母親もそれにならってパトカーに乗せられていったが、去り際に微笑みながらユイに手を振るその姿を見て、心配は無用と判断した。

 

 

警察と入れ替わるように入ってきた救急隊員は、ハルとハルの父親を救急車に乗せていった。どうやら救急車は二台いるようで、もう片方にはユイがのるらしい。

 

 

慣れない救急車で病院へ搬送されながら、ユイは傍に座る母親にずっと手を握られていた。これからどうなるか、などなど諸々なことに思いを馳せていると、自分を呼ぶ声が耳に聞こえた。

 

 

「ねぇ、ユイ」

 

 

頭に包帯を巻かれた母親が、優しくユイの名前を呼ぶ。

 

 

「うん?」

 

 

何だろうか、っと軽い気持ちで母親の返答を待っていたユイは、だが次の瞬間には思わず傷口に支障をきたすかもしれないレベルの答えが返ってきた。

 

 

 

「お引越し、しよっか」

 

 

 

「……へっ?」




山の神よりも、人間の方がよっぽど扱いずらい…どう乗り越えさせるかずーーーーーーーーーーっと悩んだ末が、ハルのお母さん魔改造。モデルになったキャラクターが知りたい方は「PSO2 魔人」とかで、画像検索すれば見れるかと…自分でも無理やり感半端ないとは思いますが、これが私の限界でした…

色々ありましたが、次回エピローグの予定です。


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エピローグ : 繋いだ手をもう一度

前回より早2ヶ月超……苦戦致しました…どのような形がエピローグと呼ばれるものとしてふさわしいのかと試行錯誤した結果、こんなにかかってしまいましたm(__)m

まあ前置きはさておきます…どの道、あとがきの方が色々と書きたいことあるので(^^)


それでは、これが私の考えた二人の「未来」です、どうぞ


 

 

 

12月の朝は辛い。夏と比べ物にならない寒さは、否応無く人の活力を奪い去る。もし、夏と冬の違いを、暑い寒い以外で語るなら、彼女は間違いなくこう答える。布団から出やすいか否か、だと。

 

 

けたたましく鳴り響く無情なる電子音。安眠をさまたげる愚か者を沈めんと彼女はもそもそと細い腕を音源に向けて伸ばす。が、伸ばされた腕は空を切り、わさわさと手を振るもその指先は音源にかすりもしない。

 

 

仕方なく、彼女は布団を被り直し、極力この無情なる騒音から離れようとベッドの上で丸くなる。そんな往生際の悪い彼女と、鳴り響く電子音の不毛な戦いが始まっておよそ五分。

 

 

終わりは、突然訪れる。

 

 

 

「…いい加減に…起きろハルーーーーーーーっ!」

 

 

 

バタンっと勢いよく部屋に入ってきた少女が、未だ電子音と格闘する彼女…ハルのミノムシのようにくるまっている掛け布団を思いっきり引っぺがす。

 

 

 

「…みゅう…」

 

 

突如として襲いくる寒さと第三者による無慈悲な攻撃に、思わず体が縮こまる。長く伸ばした淡い金髪があちこちに跳ねまわり、ごろごろと転がりまわったせいかモフモフとした花柄のパジャマが着崩れてしわくちゃになっている。

 

 

「さ、寒いよユイ…」

 

 

少しでも寒さから逃れようと、往生際の悪くダンゴムシのように体を丸めるハルの体を、第三者…ユイは自分の方に顔が向くようハルの体を転がして、

 

 

 

「寒いよ、じゃないっ! いつまでアラームと戦ってるの、もう朝だよ、遅刻するよっ!」

 

 

 

「…うーん…」

 

 

ここまでいっても、ハルの目は未だぼんやりと焦点が定まらず、覇気というものが欠片も感じられない。冬の朝にめっぽう弱い幼ななじみのいつものことだが、ユイはため息が溢れでるの止められない。

 

 

 

そこへ、

 

 

 

「ハルーー?」

 

 

ユイのものではない、別の女性の声が聞こえてくる。柔らかく、穏やかで、しかしどこか冷気のようなものを伴った声だ。声の発生源は、台所に立つ彼女の母親だ。つまり、これが最終勧告というものでもある。

 

 

 

「あの子、まだ寝てるのかしら? 仕方ないわねぇ…私が直接ーー」

 

 

そう言って彼女は右手で左手を握り、そのまま力任せに握り込む。一昔前の不良漫画や、ヤから始まりザで終わる職業の方々御用達の、ポキポキっとやるアレだ。違うのは、やっているのが線の細い女性であることと、発生した後がポキポキっ、などではなく、

 

 

バキバキっ!!!

 

 

という音であることだけだ。そんな処刑宣告を聞いたハルの動きは早かった。そばに立つユイのことは何のその。うつらうつらとしていた瞳が一瞬で光を取り戻し、壁にハンガーでひっかけていた制服を掻っ攫うようにして早変身、リビングへ駆け込む。これほどまでの敏捷性をハルが発揮する場面を、ユイは少なくとも体育の授業や体育祭等では見たことがない。

 

 

「お、おは、おはよう……」

 

 

ゼェゼェはぁはぁ。朝っぱらから息も絶え絶えな一人娘を、テーブルで新聞を読んでいる父親は苦笑いで、台所で彼女の朝食を作っていた母親はにっこりとした笑みで迎えた。

 

 

が、そんなにこにこスマイルも束の間。まるで凍土の白熊すらも震え上がりそうなほどの冷気を伴った声が、ハルの耳に突き刺さる。

 

 

「ハル、これで何度めだったかしら?」

 

 

こんなにも器用に笑ってない笑顔を見せる人類を、ハルは見たことがないし、これからも見たくはない。

 

 

「さ、さん…?」

 

 

「ご、よ」

 

12月の朝は寒い。だがこの全身を押し潰すかのような寒さは、決して自然界の法則のせいだけではないだろう。ハルは台所で微笑む(ただし目は笑っていない)母親の冷たい怒気に、冷や汗を流しながらも口を開いた。

 

 

「ご、ごめんなさい…以後気をつけます」

 

 

「まあ今回までは勘弁してあげます。ユイちゃんに感謝するのよ、じゃなかったら私が起こしに行ってるのだから」

 

 

それは起こす、ではなく、仕留める、の間違いではなかろうか?

 

 

「はい、肝に命じておきます」

 

 

くわばらくわばら、などと内心念仏を唱えながら顔を洗うために洗面所へと退避する。その姿を確認したユイは、そそそっとなるべく刺激を発しないように台所に入り、ハルの母親と一緒に朝食の準備を進めていく。

 

 

とはいえ準備といっても、切られた野菜を皿に盛るくらいしか既に仕事は残っていないのだが。

 

 

「いつもごめんなさいね、ユイちゃん」

 

 

毎朝毎朝、朝食の準備を手伝ってもらっていることと、洗面所で現在わしゃわしゃと歯を磨いている娘を起こしに来てくれていることに対してというのも含まれている。

 

 

「いえ、ご飯をご馳走になっていることに比べれば全然」

 

 

仕事柄、ユイの母親は朝早く、帰りが早いという学生のユイとは色々とワンテンポ早い生活を送っている。そのため、一緒に朝ごはんを食べてしまうと、学校に着く頃には既に腹の虫が鳴き始めるという状況が発生してしまう。朝部活がある日は勿論、そうでなくとも一限目から空腹と格闘するのは精神的にくるものがあるだろう。

 

 

ではと時間をずらせば、ユイは毎朝の朝食を一人で食べることになる。休みがまばらな母親との生活を鑑みると、週のほとんどの朝は孤食だ。

 

 

そんなものは例え神さま仏さまが許そうとウンタラカンタラ。ハルの母親の「なら朝食はうちで食べればよろしい。来ないならハルを(叩き)起こして全員でユイちゃんの家にいくわね」、なんて発言が元となり、一緒にこちらに引っ越してから今この時までの数年間、ユイは毎日ハルのうちにお邪魔してはハルを起こして朝食をハル家ファミリーと一緒に食べるという生活を送っている。

 

 

ちなみに、ハルの家とユイの家は同じマンションの、同じ階で、さらには部屋二つ分しか離れていないため、元からユイに選択肢などありはしなかった。もちろん、今の生活をユイ自身疎んだことなど一度もありはしない。

 

 

ユイの返事を聞いたハルの母親は、笑みを深めるとフライパンの上の目玉焼きに視線を戻す。

 

 

この生活の中でユイが唯一気がかりなことといえば、精々隣でフライパンを握る女性の見た目が、()()()ユイの()()()に拳を振り抜いた時と、今現在の姿が完全に一致するということだ。中年と言って差し支えないはずなのに、容姿は未だ女性の全盛期そのもの。

 

 

軽く聞いてみてみても、「日々の訓練の賜物よ」としか答えてくれない。まあ、なにかをどうにかした訓練をすれば拳で壁に罅を入れて、若さ(?)を保てるらしいので、いつか色んな、いろーーんな覚悟ができたら聞いてみようとユイは考えている。

 

 

「うー、冷たい」

 

 

そこへ、水を存分に使って手と顔が冷えたハルが洗面所から戻ってきた。だが黙って席にはつかず、

 

 

「あー…いいな〜クロは毛があって」

 

 

などどぼやきながらヒーターの前で濡れた手をひらひらし出した。そんな間抜けなことをしている主人の隣で、まるで漬物石のごとくヒーターの前に陣取っている小型犬が一匹。

 

 

かつて大冒険を繰り広げた二匹の子犬、クロはハルの家に、チャコはユイの家に、それぞれ正式に家族として迎え入れられている。最も、二匹はそれぞれが顔パスで双方の家に出入りしているため、どちらか一方の、というよりはもはや共同飼育と言えなくもない。

 

 

 

今頃はチャコもまた同じようにユイの家で床暖房の上でゴロゴロしていることだろう。

 

 

 

 

 

 

そんな朝から活気と覇気と気合の足りない一人と一匹の頭に手刀を振り下ろし、それぞれを席へとつかせたユイは、サラダと目玉焼きが盛られた皿を四枚をお盆に乗せ、テーブルに置く。そして軽く片付けを終えたハルの母親がクロの分のお皿を置いて席に着き、

 

 

 

「「「「いただきます」」」」

 

 

 

それぞれの朝が始まった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

「「いってきまーす」」

 

 

中からのいってらっしゃーいっという声を聞きながら、ハルはユイにつられるようにしてマンションの階段を下る。

 

 

早朝にもかかわらず、通学路は人に車にと大賑わいだ。これが田舎と都会の違いなのだろうか。

 

 

この都心程ではないが、しかし前に住んでいたドがつく田舎…というかもはや時代の流れに取り残されたかのようなあの街に比べれば十分に都会な街に、ユイと一緒に越してきてはや八年。

 

初めは、それこそ毎日色んなところでいろんなものことに対して驚いていた毎日だったが、小学校、中学校と順々に卒業し、高校生になって二度目の冬を迎えた今となっては、もはや当たり前の日常だ。

 

 

 

八年前、山の神との壮絶な死闘で疲弊しきっていた彼女たちを襲った最後の事件。

 

 

あの後、ほとんど傷害等の現行犯で警察官に捕まり、そのままあの男は社会的に見ればユイと、ユイの母親との関係の一切を絶たれ、以後いかなる理由があれど接触は禁じられた。

 

しかし、母子家庭となり、ことが露見した後の近所関係を踏まえれば、あの街で生活することは困難を極める。そこで、ユイの母親はユイの怪我が完治するか否かなのタイミングで、電撃的な引っ越しを敢行しようとした。

 

 

そんな話を聞きつけたハルの両親が、「自分たちももうじき引っ越すので、行き先決まってないならご一緒しません?」、なんてまるで外国のヒッチハイクのようなノリでまさかの同じ街にお引っ越し。

 

 

ちなみに、あの男と一緒に警察に連れられていったはずのハルの母親は、事情聴取だけして即解放された。まさか目の前の線の細い女性の拳が、一軒家の壁にひび割れたビッグアートを刻むなど、真面目な警察官たちに信じられるはずはなかった。

 

 

 

「あれから八年…か」

 

 

ぽつりと、ユイが口を開いた。吐き出される息は白く、靄のように現れては消えていく。

 

 

「なんか、まだ時々信じられなくなるんだ。本来なら、私は今ここにはいない。山で死んで、幽霊になって…って記憶は残ってるから」

 

 

「ユイ…」

 

 

こことは違う別の時間軸、ユイは小学校すら卒業することなくその短い命を失った。

 

 

その結末を変えるために、幼いハルは神の力を頼り、時を渡り、最後は死んだユイの記憶と力を携えた今のユイとともに、かの醜神のもたらす悲劇と絶望を打ち破った。

 

 

 

「でも、だからこそ、いつだって思う」

 

 

立ち止まり、ユイは真っ直ぐにハルの目を見る。あの時の後遺症で、色素が薄まり僅かに赤みを帯びた右の瞳が、ハルを真っ直ぐに見つめた。

 

 

「ハル、ありがとう。私を救ってくれて…私を探してくれて…私と…手を繋いでくれて」

 

 

優しく微笑みながら、もう何度口にされたか分からないその言葉は、ハルの心に柔らかな波紋を生んだ。

 

 

「…私こそ、ユイにはいっぱい助けてもらったよ。ううん、今だって、いっぱい助けられてる」

 

 

 

あの時の悲しみも、痛みも、全てハルの記憶に焼き付いている。何より大切な親友を助けられなかったこと、心の叫びに気づいてあげられなかったこと。

 

 

後悔もした、自分を責め、全てを投げ出しそうにもなった。

 

 

だが、だからこそ、今この瞬間の奇跡は、なりよりも尊いものなのだと理解できる。

 

 

何か一つでもボタンを掛け違えていれば、おそらく今ここにユイはいない。もしかしたら、ハルもいなかったかもしれない。

 

 

一人だけでは、ハルだけでは、同じ町に引っ越していたとして、今と同じように笑えていただろうか。

 

 

笑顔で両親に「いってきます」、と言えただろうか。

 

 

それはわからない、だがもしそんな未来があるとしても、ハルは間違いなく今この時を選ぶだろう。

 

 

 

「いつか、お互い好きな人ができて、恋人ができて、お母さんになって…おばあちゃんになったんだしても…遠く遠く、離れてしまったとしても…」

 

 

 

ゆっくりと紡がれたユイの言葉に、

 

 

 

「私たちなら、大丈夫。いつだってまた、こうやって手を繋げるよ」

 

 

 

ハルは左手で、ユイの右手を握った。

 

 

 

こうして、あの時からうんと成長を重ねた二人が、今こうして笑い合いながら手を繋げていること。それがどれほどの悲しみと絶望の積み重ねの上にあるものか、それはこの二人にしかわからない。

 

 

どれほどの苦難を乗り越えた末にあるものなのか、それはこの二人にしかわからない。

 

 

 

でも、だからこそ、彼女らには既に分かっている。

 

 

 

これから先、何があろうと、どれほどの時を重ねようと、この繋がれた手が離れることはない。

 

 

 

この心から繋がれた手が、離れてしまうことは、絶対にない。

 

 

 

 

「うん、何度でも言えるよ。ありがとう、ハル

 

 

 

「私こそ、ありがとう、ユイ。これからも、よろしくね」

 

 

 

 

手を繋ぎ、微笑み合う彼女らの歩く道は、これからも先もずっと続いていく。

 

 

 

 

「恋人と言えばハル、この間バスケ部の男子にラブレターもらってなかった?」

 

 

 

「うえっ!? なんでユイが知ってるの!?」

 

 

「はっはっはー。バスケ部と空手部掛け持ちの私の情報網を甘く見たら駄目よー。さあさあ、キリキリはきはき、全て吐くがよろしいっ!」

 

 

 

 

「だ、ダメっ! ダメったらダメっ! ダーーメーーっ!!」

 

 

 

 

指をワキワキと動かすユイと、そんな親友から逃れんとするハルの二人が、早朝の街を駆け抜ける。走って逃げたところで、どうせ目的地は同じなのだから、正直なところハルの逃走にはあまり意味はない。

 

 

 

これからも、こうした意味のないことを彼女たちは続けていくだろう。だが、それでいい。

 

 

 

二人の未来は、まだ始まったばかりなのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

" 終"

 

 

 

 

 

 

 

 




初めてこの話を投稿してから早いもので、まさか僅かとは言え年を重ねることになるとはおもいもしませんでした(^^)

更新速度が遅くて申し訳ありませんでしたm(._.)m

このような駄作に幾度となく感想をくださいましたこと、評価をしてくださった方、誤字報告をくださった方、その他一度でも目を通してくださった全ての方に、深く、深く感謝申し上げます。


本当に、ありがとうございました。


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今後に向けて
登場(予定)人物


ほぼ私のメモです…

物語のネタバレ込みなので、本編をお読みになってから目を通すことをお勧め致します


*9月7日 3人目の登場予定人物の項目を訂正


 

注意*

 

物語の進行上、必要と判断してフルネームを起用します。完全に私個人の提案なので、あってるあってないがあるかもですが、どうかご了承ください。また、今は意味不明な言葉も、物語の投稿をしていく上で明らかにしていく予定です。

 

 

 

 

 

 

・喜多川 唯 (きたがわ ゆい)・

 

つまりは "ユイ" 。 山の醜神やら元父親でのうんぬんかんぬんで負った傷が癒えてすぐ、ハルの引越し先にお引越し。以後八年間、マンションの部屋二つを隔てた距離で母親と一緒にハルとその両親とほとんど家族なような生活を送っている。

 

 

元の時間軸での死亡したこと、怨霊となってハルを襲ったこと等、以前のユイとしての記憶を保有しながらも、それが影響で人格が変容したりといったことはない。

 

 

幼少時から極めて高かった運動能力が功を成し、17歳の高校二年生となった今は学校の空手部と女子バスケ部を兼部して、日々部活に勉強にハルと忙しい毎日を送っている。

 

 

学力は中の上から上の下。バスケ部ではレギュラー、空手は県大会優勝、溌剌とした性格と整った容姿から、男女問わず人気は高い。

 

 

容姿は幼少時と変わらず、こげ茶色の髪を頭の後ろで一つ結び。しかし、過去の怨霊としての力を酷使した後遺症で、右目の色素が弱まり、瞳がうっすらと赤みを帯びるようになったが、視力に問題はない。

 

 

対怪異戦時の武器は、塩水を染み込ませた包帯と、靴底にお守りを仕込んだハイカットスニーカーによる徒手空拳。

 

 

 

 

・四季野 春 (しきの はる)

 

 

いわずもがな "ハル " 当初の予定通り、事件後に引越し。違うのはユイとクロとチャコも一緒に引越したこと。

 

 

かつてコトワリ様によって元の時間軸から遡り、未来を変えるために奔走した。最後には断ち挟だけてはなく、肉体にコトワリさまの力を宿すこともしたが、ユイとは異なり特に後遺症はない模様。

 

 

中学に入学したあたりから読書に目覚め、特に物語を好む。有名著者のものからライトノベル等、比較的にジャンル設定は緩め。中学時代はそれこそ図書室の主のように入り浸り、片っ端から本棚を読み漁り、歴代の生徒でただ一人、「あまりに頻繁に使用するから、勝手に貸し出し手続きをしてよし」という異例の処置をされた。

 

 

高校生になってからは流石に節度を守るようになったものの、寝不足で朝がポンコツなのは大体読書のせい。同じ学校に通うユイがいなければ、何度遅刻しそうになったか定かではない。

 

 

容姿はユイと同じく幼少時の延長線。日本人にしては珍しい、色素の薄い金髪を伸ばし、背中に流すようにして三つ編みにしている。極めて色白かつ人形のように整った容姿から、主に男子生徒のファン(?)が多い。

 

 

学力は学年内でも五本指に入るほど。これは大量に読み下した本によって、読むことに対しての抵抗が限りなくないことから発揮される集中力によってなされたもの。

 

 

ただし運動能力は依然として低く、五段階評価でギリギリで三が獲得できる程度のもの。それも保健体育の筆記テストでほぼ100点を取ってなお、総合成績は「三」である。

 

 

対怪異戦時は主に後方。せいぜいペットボトルに入れた塩水や、そのまま塩を投げつける程度。ただ、ユイの包帯のスペアを用意したり、万が一のために消毒用の水を持ち歩いたりと、ほぼほぼバックパッカー。直接戦闘するより、洞察力等を生かした支援が主な役割。

 

 

また、霊感等の人間以外に働く感覚も鋭い。

 

 

 

 

 

 

 

・???・

 

 

ハルとユイが八年ぶりに帰ってきた夜の街で出会う謎の人物。行方が知れなくなった妹を探しているというが………

 

 

流麗な黒髪を背中まで伸ばした女性。顔立ちは整っているが、どこか影のある印象を受ける。

 

 

対怪異戦時の武器は、柄にびっしりとお札が巻かれた泊鉈。

 

 

 

 

・???・

 

 

ハルの夢に現れる謎の少女。ハルと同年代程度の可愛らしい容姿をしている。儚げな雰囲気と左眼につけた眼帯が特徴的。

 

 

名前、目的、一切が謎に包まれている。

 

 

 

 



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番外1 校庭の幽霊倉庫 編
第1話 : 兆しの兆し


 

深夜。それは()()()にとっての魔の時間である。人ならざるものたちが平気で街を闊歩するその光景は、およそ万人にとって受け入れがたいものに違いない。

 

 

そんな不気味極まりない夜の街の街道に、少女が一人立っている。長く伸ばした薄金の髪で束ねた三つ編みを背中に流したその姿は、闇に支配されつつある街において、ある種異質なまでの美しさを感じる。

 

 

少女…ハルは首を巡らせて辺りを見る。見間違うはずはない、例え八年という月日が流れようと、この夜の街で彼女が体験した数多の出来事は、昨日のことのように鮮明に思い出せる。

 

 

ただ一つ当時の記憶と異なることがある。この街は明かりこそ少ないものの、全く先が見えないというほどのものではなかったはずだ。しかし、いま彼女の目に移る街は、夜の帳と、一寸先すら見渡せない濃い霧に包まれている。

 

 

 

そんな濃霧の中に、人影が一つ。

 

 

 

「あなたは……だれ?」

 

 

うっすらとしか見えない、性別すら分からない人影に向かって、ハルは問い掛ける。

 

 

"………………"

 

 

「え、なに?」

 

 

言葉ですらない、もはやただの音としか思えぬほどの小さな空気の振動に、ハルは問い掛けを重ねる。

 

 

 

"…………………"

 

 

だが、どれだけ彼女が問いかけようと、その音が言葉となることはなく、ハルの耳に届くこともなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

「んっ……ふあ〜…」

 

 

朝日が昇り始めてしばらくしたころ、今日も今日とて己が主人を遅刻という不名誉から守らんと、朝からけたたましく鳴りひびくアラームを止めることよってハルの朝が始まった。

 

 

ちなみに、この無駄に最新式のアラーム付きデジタル時計には一分ごとのスヌーズ機能が備わっており、現在で実に十三回目の起動である。ここまでアラームと朝から格闘する女子高生というのは非常に珍しいと言っていい。

 

 

眠たげにだらんとした目をこすりながら、まずはこの未だはびこる眠気の残滓を片付けようと洗面所に向かうため、ハルは自室の扉を開けてリビングに入った。

 

 

 

「…そっか…パパとママ…今日早かったっけ…」

 

 

そういえば昨日の夜に明日は仕事がウンタラカンタラと言っていた気がする……気がするが、残念ながらハルの脳が本格的に活動を開始するまでにはまだ時間がかかるようで、それ以上のことを考えることは放棄した。クロの姿が見当たらないため、おそらくはユイの家でチャコとお泊まりだろうが、たまにある事なので気にしない。

 

 

一種の夢遊病のようにふらふら〜っとした足取りで洗面台に向かい、これまたふわふわ〜っとしたように歯を磨き、

 

 

バシャンっ!!

 

 

 

と水道から流れ出る冬の冷水を顔に叩きつけた。

 

 

 

「うひゃあっ!?」

 

 

無から最大。数の法則を超えた落差を用い、ハルの体は冷たい水に対する脊髄反射を持って本日の活動を開始した。

 

 

毎度毎度こんなことをしなければまともに働かない自分の体と脳にブーたれつつ、ハルは朝食の準備を始める。

 

 

フライパンを温めつつ、割った卵と適量の砂糖をボールに入れてかき混ぜる。そこに四つ切りにした食パンを浸し、あとはそれを順々に油を引いたフライパンで焼いていく。

 

 

いつぞや、そして今も時折親友が作ってくれるフレンチトーストは、今やハル自身でも問題なく調理できる一品である。最も、これ以上の調理工程を必要とする料理に関しては、今のハルには難しい。主に起床時間的な意味で。

 

 

 

ケトルで沸かしたお湯でインスタントのココアを入れ、マグカップとフレンチトーストが乗った皿を持って席に着く。孤食を決して許さぬ両親(ほぼほぼ母親)と、朝部活のユイが揃っていないため、ハルにとっては久しぶりの一人朝ご飯である。

 

 

 

いただきます、と手を合わせ箸でつまんだ甘口フレンチトーストを一口。うん、おいしい。

 

 

あまりに静寂すぎる空気に耐えかね、テレビのリモコンのスイッチを押す。この時間帯ではどの局もニュース番組しか報道していないだろうが、なにも音がしないよりは幾分かはマシなはずだ。

 

 

 

適当にチャンネルをいじり、何となく地元付近の地名が見えたタイミングでリモコンを手放す。

 

 

 

そう時間もかからず朝食を食べ終えたハルは、手早くパジャマを脱ぎ捨て、慌てて畳んでベッドの上に置いた。もし床にパジャマを放って置いたことが母親か親友かに見つかった時のことを想像したためだ。

 

 

 

白のスクールシャツと灰色のスカートを履き、寒さ対策に黒のストッキングも忘れない。後は二年生であることを示す青色のリボンと、紺色のブレザーを着れば、服装の支度は終わりだ。

 

 

母親譲りの長い薄金の髪は三つ編みで束ね、ふんわりとした空色のマフラーを首に巻く。愛用のスクールバックを肩にかけながら昼食についての考えを巡らすが、やはり購買のパンで済ますしかあるまい、弁当を作るために早起きすることを昨日の時点ですでに諦めていたのは、他ならぬハル自身だ。

 

 

『ーーーーさんの行方は未だ掴めておらず、警察は依然として捜索を続けておりーーー』

 

 

戸締り、ガス栓等を確認し、最後にテレビの電源を切る。履き慣れたローファーを履いて

 

 

 

「いってきまーす」

 

 

 

誰もいない家に向かって声をかけ、ハルもまた一日の始まりへと足を向けた。

 

 

 

*****

 

 

 

 

「おはよーねぼすけさん」

 

 

 

ハルが席に着くなり、それまで喋っていた友達の輪から離れてやって来た一人の少女が、からかい混じりにハルに声をかけた。やや色素の薄い焦げ茶色の髪をポニーテールで纏めた、快活な雰囲気の少女だ。

 

 

「寝坊なんかしてないもん、ちゃんと間に合ってるもん」

 

 

事実として、まだ朝のホームルームが始まる予鈴が鳴るまでは幾許かの時間はある。が、この二人にとってはこのやり取りは既に挨拶の延長戦のような物なので互いに気にしていない。

 

 

「ちゃんと朝ご飯食べた?」

 

 

「ちゃんと作って食べたよ、食パンそのまま囓ったりすると誰かさんが怒るし」

 

 

誰かさん……ユイはハルの言葉にうんうんと頷いている。前にも同じような状況があり、その時の朝ご飯を、めんどくさいから食パンをそのまま囓った、と言ったハルにユイは激怒したことがある。曰く、女子力舐めてんのか、と。

 

 

 

「うーー寒い。よくこんな寒い中部活なんて出来るよね」

 

 

換気のためにクラスメイトが開けた窓から冷風が舞い込み、ハルの足元を撫でる。極端に雑な言い方をすれば、冷たい空気ほど重く、下に行きやすい、という理屈は知っているが、なぜ冬の風は人の防備が薄い足元から攻めにかかるのかとハルは考えられずにはいられない。

 

 

「ハルが大袈裟なの。運動した方があったまるに決まってるじゃん」

 

 

決まってるじゃん、なんて言う目の前の幼なじみに、ハルはジトーッとした眼を向ける。運動、なんて言ってるが、ハルは自身とこの幼なじみの間で「運動」という単語は本当に同じものを指し示す単語だとは断固として考えていない。

 

 

幼少時から抜きん出た運動能力を持っていたのは知っていたが、流石に中学の時に始めた空手が今やや県大会優勝レベルなどやり過ぎなどではないかと思う。そのくせ、手や足がゴツくなるなんてことはなく、制服から覗く手足はスラリとして傷ひとつない。

 

 

これだけならまだしも、今度は高校に入って空手部はもちろん、バスケ部を兼部しだし、わずか半年でレギュラーの座を勝ち取ったとか。

 

 

体育の授業に関して、毎度の学年末のテストでほぼほぼ満点を取ったとしても、未だ五段階評価の三の壁を乗り越えられないハルにしてみれば、そんな怪物スペックは羨ましい妬ましいを越して、もはや呆れる他ない。

 

 

「ふーんだ。私の体は運動用じゃないもーん」

 

 

そうだ、どのみちそんなに運動ができたとして、今の自分の趣味嗜好にはなんら影響をもたらさない。毎日美味しいご飯を食べて、大好きな読書ができる日常に、将来はオリンでピックな世界運動会に出場出来そうなデタラメ運動能力は必要ないのだ。そうだそうだ。べろべろバー。

 

 

そんなハルのめめっちい心の声を読んだわけではないだろうがないだろうが、

 

 

 

「そうやって怠けてると、いつの日か後悔するよ。お腹と体重計見たときに」

 

 

 

グサッッッッっとなる一言がユイの口から飛び出した。

 

 

「だ、大丈夫だもんっ! まだ身長に対してぜんっぜん痩せ気味判定だもんっ!!」

 

 

珍しく声を大きくしたハルが腕をブンブンと振りながらユイに食って掛かった。いや、単に痛いところを突かれて焦ったとも取れなくはない。

 

 

「それはそれでダメな気がするけど…」

 

 

やれやれと言わんばかりのユイと、お腹をペタペタとしながら何やらボソボソと独り言を呟き続けるハル。プリンがどうとかカロリーがどうとかウンタラカンタラ。

 

 

これはユイ個人の勘だが、よっぽど崩れた生活を送らない限り、ハルがその手のことで困ることはないと思っている。なぜか? そんなものは彼女の母親を見れば自ずと感じられる。お腹まわり云々よりもあれだけの若さを保つ方が遥かに難しいはずであるし。

 

 

まあ、あの母親は娘と違い、ユイをして反則的なまでの運動能の持ち主であるが、そこは遺伝させるのを忘れてたのだろうか。

 

 

 

「あ、藤村先生だ」

 

 

未だブツクサぶつくさと呟いていたハルが、ユイの言葉に教室の扉に目を向けると、一人の男性教師が教室から入ってきていた。

 

 

耳にかかる程度の黒髪を綺麗に切り揃え、黒のスーツを着こなす様が凛々しい。理知的に整えられた顔立ちとシルバーフレームの眼鏡の組み合わせは、大半の女子生徒の関心を引かないはずはない。

 

 

「………」

 

 

僅かに雰囲気を暗くするハルを他所に、教壇に立った藤村は、見た目に違わぬ綺麗なテノールボイスで口を開く。

 

 

「おはようみんな。今日の生物の授業のことだけどね、生物室からこの教室に変更になったから、間違えないように。今いない人にも伝えといてね」

 

 

それじゃ、と立ち去るかと思いきや、藤村はユイとハルのところまで歩いてくると、

 

 

「四季野さん、この間の単元テストよかったよ。少し難しくしたつもりだったのに、またやられた」

 

 

にこやかに、困り半分、嬉し半分といったような表情でハルに声を掛けた。

 

 

 

「たまたまヤマが当たっただけですよ」

 

 

先程の雰囲気を悟られぬよう三割増しにこやかに、しかし会話が長引かないよう言葉は最小限に。ハルは心が顔に出ないよう必死に取り繕いながらそう口にした。

 

 

「謙遜しなくても。ヤマが当たっただけであんな完璧な記述回答はできないさ」

 

 

だが、ハルの心を知って知らずか、会話は終わらない。仕方なく、多少強引に会話を終えるかと席を立とうとする。

 

 

「あ、先生時間大丈夫ですか? もうすぐ朝のH R始まっちゃいますよ」

 

 

しかし、それよりも早くユイが違和感のない当たり障りのない言葉でハルに助け舟を出した。ユイの言葉に教室の時計を見た藤村は

 

 

「おっと、こりゃいけない。では四季野さん、喜多川さん、また授業で」

 

 

そう言って、藤村は声をかけてきた数人の女子生徒を振り切って教室から出ていった。まだ朝の鐘が鳴るまで少しばかり時間はあるが、それを指摘されてまで生徒との会話を続ける教師はいないだろう。いないはずだ。

 

 

「藤村先生、かっこいいよねぇ…いいなー私もあんな風な彼氏ほしいー」

 

 

藤村に声をかけていた女子生徒数人の間から、そのような声が上がる。実際、藤村はその容姿や若さといった面だけではなく、授業やら課題の優しさなどからも人気は高い。

 

 

「と、言われてますけど?」

 

 

人気は高い、そんな教師に、ユイにしか分からないようにではあるが、嫌悪感を露わにする親友に、ユイは問いかける。

 

 

 

「私…あの人苦手。なんか…他の先生となんていうか…目が違うっていうか…」

 

 

僅かに考え込むように、感じた違和感を手繰り寄せるように、ハルは呟く。そう、容姿もよく、教師としても優秀で、なおかつ親しみやすい。そんな藤村にしかし、ハルはどうしても警戒心を抱かずにはいられなかった。

 

 

「ふーん。ま、正直言って、私もそれに関しては同意見なんだけど」

 

 

親友の呟きに、ユイもまた同調する。漠然とだが、あの教師は好きになれない。これがいわゆる、生理的に無理、というやつなのだろうか。それとも、過去の経験で培った勘のようなものが反応しているのだろうか。

 

 

 

(どちらにせよ、こういう勘に限って外れないんだよね…)

 

 

これまで、と言うよりも八年ほどまでのあれこれを思い出し、ユイは少しうんざりとした気分に陥った。

 

 

 

「なあ、校庭の隅にある小さい用具倉庫、知ってるか? あそこ、体育祭とかのものしかしまってないから、今みたいな時期は誰も近づかないはずなんだ。……でも、この間ーーーーー」

 

 

そんななか、それは突然聞こえてきた。クラスの男子グループが話していた、なんでもない噂話、しかし過去の経験上やはり無視はしたくないような話。思わず二人は揃って声がした方に顔を向けた。

 

 

この時、彼女らは思いもしなかっただろう。こんな他愛のない噂話が、何気なく聞こえてきた他人の会話から、まさかあんな事件に巻き込まれることになるとは。

 

 

そしてこれが、かつて神と相対した二人の少女を再び物語の中心に誘う、小さな兆しとなることなど、この時の彼女らは微塵も考えてはいなかった。

 




と、いうことで。半ば見切り発車の延長戦開始です…目指せ年内完結←

そして今更気づきました。評価とコメントを下さった方々、ありがとうございますm(__)m


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第2話 : 幽霊倉庫

毎度毎度次の日が休みの日の夜中に上げるのがセオリーなのは私だけでしょうか…次の日は昼に起きても誰にも咎められないというアカン安心感を糧に筆を走らせる今日この頃

追記
編集画面開きっぱなしにつき、感想への返信が遅れてしまい、申し訳ありませんm(._.)m なかなか書き終えるまで編集画面を閉じると言うことを覚えないボンクラ癖…治していきます


 

 

 

「なあ、校庭の隅にある小さい用具倉庫、知ってるか? あそこ、体育祭とかのものしかしまってないから、今みたいな時期は誰も近づかないはずなんだ。……でも、この間たまたま近くを通った一年が、中から変な物音がしたって騒いでてさ」

 

 

突然だった。といっても、ハルもユイも揃って他人の話を盗み聞きするような悪い趣味はないため、それ以前の話の内容や流れを聞いていなかったというだけの話である。

 

 

だが、意識的には聞いていなくても聴覚は音としてそれを拾い上げており、そこに自身らが考えを向けるだけの何かが発生したことにより、そこから先の音を声として認識しだした。

 

 

二人は一瞬、目を合わせる。

 

 

「ねね、品川。それ私らにも聞かせてくんない?」

 

 

ユイは男子グループの中の顔見知りに声をかけた。同じバスケ部同士、それなりに交流があるので違和感などはない。

 

 

「喜多川? それにし、四季野? 二人とも怪談好きなのか?」

 

 

が、それはユイからしたらの話。

 

男子生徒…品川は声をかけられた方を向いて、己の心臓が軽く高鳴ったことを感じた。今品川に声をかけてきた目の前の女子生徒とその相方は、この学校で知らぬ者は極めて少数派と言われるほどの有名人だ。

 

 

片や運動部を二つ掛け持ち、双方で非常に優秀な成績を残しているバキバキの体育系女子。これまで学内の表彰式で幾度となく壇上で賞状やら盾やらを授与されているのを目にしている。

 

 

片や本当に純血の日本人かと疑いたくなるほどに美しい薄金の髪と、新雪のような白い肌を持つ才女。嫌味のように毎回毎回張り出される学内のテスト順位表で、これまで一度たりとも5位より下に名前があるのを目にしたことはない。

 

 

これだけで十分にお腹いっぱいと言いたくなるが、おかわりにこの二人は幼馴染で仲良し、揃ってジャンル違いの際立つ容姿をしているなんて追い討ちまで完備している。まさに学校内のアイドル的存在だ。どっかこっかでデュオがどうとか口にしている輩がいるほどに。

 

 

そんな、ちょっとした有名人に突然話かけられたりして動揺しない男子生徒などこの学校内にいない。同じ部活だなんて関係ない、初見でなくてもドモる。

 

 

「まあ、少しね。その倉庫ってあれのこと? 校庭の端っこでぽつーんって感じのあれ? 」

 

 

そんな年頃男子の心中など欠片も気づかず、ユイは二階の窓から見える校庭の一点を指差した。

 

 

ユイの指し示した場所は、まさに広い校庭の端も端。校庭を巨大な長方形に見立てれば、校舎と校門から最も遠い頂点付近にそれはあった。

 

葉のない木々の下にひっそりとある小さな用具倉庫。用がなければ間違いなく近づこうとは思わないし、少なくとも生徒の中で日常的にあの倉庫を目的に近づく必要のある人物はいないだろう。

 

 

「ああ、それであってる。聞いてたかもしれないけど、あの倉庫には体育祭でしか使わないアーチとか、玉入れ用の籠と玉、あとはテント用の足くらいしかしまってないから、この時期…ってか、マジで体育祭の前日から当日くらいしか用がない」

 

 

品川の言葉に、ハルもユイも同意を示すように頷いた。たしかに、中に置かれているのがそれだけなら、その倉庫の扉が開かれるのは年に数回、件の体育祭の時期以外に考えられない。

 

 

今は師走の終盤、間違いなくその倉庫に近づく必要はない。

 

 

「が、その日野球部のバッティング練習で特大の大当たりが出たらしくてさ、一年が一人でボールを拾いに行ったんだと。その倉庫の近くに。んで、たまたまあの倉庫のすぐ近くまで行った一年が、中からなんか壁に何かがぶつかるみたいな音を聞いたんだと」

 

 

 

「別に音ぐらいするんじゃない? 風とか」

 

 

 

一通り話を書き終えたユイが、最もな疑問を口にした。誰もいない屋内から発生する音の、最たる原因になりうる一つだ。

 

 

「いや、それはない」

 

 

だが、品川は断固たる口調でユイの考えを否定した。

 

 

「どうして?」

 

 

「あの倉庫には窓なんてないんだって。だから音がすること自体おかしいってみんな言ってる」

 

 

(窓が…ない)

 

 

品川の言葉に、ハルは頭の中で一つずつ可能性を考え出しては消していく。

 

 

(窓がなくてもすきま風とか…でもそれだけでそんな音がなるような備品が動く? そもそも風で倒れるようなしまい方は絶対しないよね。なら転がった? うーん…これだけじゃわかんないなぁ…)

 

 

「なるほどね。ありがと品川、参考になった」

 

 

むむむ、といった顔で考え込んでいる幼馴染を尻目に、ユイはひとまず会話を切り上げるべく品川に声をかける。そろそろ予鈴もなる頃合いだ。

 

 

「いや、それはいいんだけどさ。喜多川と四季野って、怪談とか好きなのか?」

 

 

仮にそうなら、品川としては思わぬ収穫だ。同じ部活のユイはまだしも、これといった接点がないハルと話すきっかけができるのであれば、恋愛云々を無しにしても嬉しいことには変わりない。

 

 

「いんや、どっちかと言えば勘弁してほしいくらい。私も、ハルも」

 

 

だが、そんなささやかな楽しみになりえた夢を、ユイの一言が一刀両断に切り伏せる。

 

 

「ええ…じゃなんで聞いてきたさ」

 

 

 

どよよよーんとした品川の声のトーンに、ユイは呆れ半分に答えた。

 

 

 

「本物だったら困るから、だよ。あーあ…これ確かめなきゃダメなやつだ」

 

 

久しぶりに()()()()をしなければならないことに、ユイはただため息をつきながら件の倉庫を見つめる。願わくばこの自分の憂鬱が、気のせいでありますように、と。

 

 

 

*****

 

 

 

「よいしょっ…と」

 

 

夜。日付が変わる少し前のこの時間に、二人は自分たちが通う高校へと足を運んでいた。黒いダウンジャケットにデニムのショートパンツと黒のストッキング、モノクロカラーのハイカットスニーカーという動きやすい服装でまとめたユイが、長いポニーテールを揺らしながら校門を飛び越える。

 

 

「うん、大丈夫そう。ハル、いいよ」

 

周りを見渡し、誰もいないことを確認したユイは、同じく校門の外で待つハルへと声をかける。

 

 

「うんっ…しょ…ふん…ぬぅぅぅ」

 

 

可愛らしい声で一ミリも可愛らしくない踏ん張り声をあげながら、やっとこさハルが校門を超え…いやよじ登ってきた。

 

 

「いや、ふんぬーは駄目でしょ、色々と」

 

 

「いい、もん…だ、誰にも、はぁ…聞かれて、ないし」

 

 

校門を超えて、すでに息が切れつつあるハルの姿を見て、この先が少し不安になるユイ。暖かそうなファーのついたデニムコートにスラリとした黒い長ズボンと白のスニーカー。ついでに背中のクリーム色の小ぶりなリュック。どう考えても校門の乗り越えるのにそんな苦労が必要な服装には思えない。

 

 

これが学内男子の夢見る少女の姿だと思うと、ほんの少しだけ哀れに思えてくる。もっとも、本人にそんな夢の対象になっている自覚は毛ほどもないだろうが。

 

 

そもそも、なぜこんな時間に指導どころか補導すらされかれないリスクを冒して二人が学校に侵入しているかと言うと、偏に朝の噂話が原因である。

 

 

そう、噂だ。あくまで噂話。その時その時の日常にほんの少し色を足す程度の噂話。大多数の人間にとって、怪談なんてものは所詮その程度の認識でしかない。

 

 

だが、この二人は違う。彼女らは知っている、その手の話が、決して眉唾物では済まないことがあることを。人の理解が及ばぬ怪異という存在が、人の世界で平気な顔をして闊歩している光景を何度も見てきた。

 

 

嘘ではないのだ、幽霊だろうがお化けだろうが、なんと呼べば良いかわからない連中は、実際に存在する。

 

 

「それにしても、ほんとにいると思う? うーんと…お化け?」

 

 

今朝聞いた噂話は、別段珍しくもなんともない、どこにでもあるような学校の怪談だ。まだ建設されて真新しいらしい学校であることを加味しても、特に何かあるとは思えない。

 

 

「いなければそれでいいんだよ。でもいたら困るでしょ? 引っ越ししてきてから一度も、私たちはお化けを見てない。つまりあの街だけにしかお化けはいないってことだって思って安心してた。でも…それが違うなら」

 

 

「やばいよねぇ…うん、それは」

 

 

あの街で夜出歩くような人間は、それこそ()()()()の理由がなければいない。それはもしかしたら、多かれ少なかれ、誰もが感じていたのかもしれない、あの街の夜の異常さを。

 

 

実際、ハルとユイがこの街に引っ越して早八年、年に数回は夜中に街を見回ってみたが、遂に一度として怪異と遭遇することはなかった。そこで二人は結論づけた。怪異が存在するのはあの街だけ、少なくとも世間一般的に認知されている町々に怪異はいないと。

 

 

しかしそれが誤りで、尚且つその怪異が毎日通う学校に存在しているというならば、はっきり言って大問題である。噂が噂を呼び、いずれは真実味を帯びて果てはパンデミック…なんてことまでには流石にならないとは思うが、災いの種は摘めるうちに摘んでしまうのか吉である。

 

 

「うん、やっぱり気になる。もし本当にお化けなら、何とかしないと」

 

 

ハルの言葉に、ユイもまた頷いた。あんなものを見るのは、知るのは、自分たちだけでいい。

 

 

「さて、んじゃ早速向かいますか、その幽霊倉庫とやらに」

 

 

何があってもいいように、二人は並んで目的地の倉庫へと歩き始める。階段を降りて校庭へと足をつけた二人は、そのまま倉庫に直行…するのではなく、極力目立たぬよう校庭の端を歩きながら目的地を目指した。

 

 

 

「実際のとこさ、ハルはどう考えてるの?」

 

 

警戒心を緩めることなく、ユイはいつぞやと同じく懐中電灯片手に隣を歩くハルに声をかける。運動能力こそ残念なものの、その反対なのか、こと頭を回転させることにおいて、ハルのそれは常人を遥かに凌ぐ。そしてその機転は、夜の活動においては二人の生命線でもある。

 

 

「うーん…すきま風とか、不安定にしまわれた備品が動いたとか、はたまたお化けがーとか、色々思い浮かぶ。こればっかりは実際に見てみないと絞りきれないと思う」

 

 

「そのなかなら、個人的には前者二つのうちのどっちかがいいなぁ…」

 

 

「私も。コトワリ様の助けもないし、お化けがいたら色んな意味で不味いし」

 

 

そんなハルの発言を聞いたユイは、ぽかーんとした顔でハルを見つめた。そして直後には血相を変えた、おい、どうすんだ、と。

 

 

「そうじゃんっ! 見つけたら見つけたでやばいの私らじゃんっ! え? 逃げるよね? 一も二もなくダッシュよね?」

 

 

「うん、その時は凄い勢いで私置いていかれてるから少し待って欲しいかな」

 

 

ユイの()()()()とハルの()()()()では馬力も速度もレベルが違う。F1とママチャリぐらい違う。

 

 

「そうならないように、一応は備えは持ってきてるよ。使えるかどうかは、実際にその時になってみないと分からないけどね」

 

 

そう言って、ハルは背中に背負ったリュックを指した。何となしにリュックに手を伸ばしたユイを、体を回すことで拒む。

 

 

 

「まだ内緒。使わなくて済むなら、それが一番なんだから」

 

 

*****

 

 

 

歩き続けること数分、二人の目の前には一つの倉庫が建っていた。鉄の壁で四方を固めて、鉄でそのまま蓋をしたような簡素なプレハブのような簡素なデザイン。窓一つない無骨な用具倉庫は、夜の静けさに溶け込むようにしてそこにあった。

 

 

「で、来てみたはいいものの」

 

 

ユイは、ここに来るまでずっと疑問だったことを口に出した。

 

 

「どうやって確かめるの?」

 

 

そう尋ねられたハルの回答は、以下のようなものだった。

 

 

「中に入る方法を探す」

 

 

「探すって…ええ…」

 

 

見たところ、倉庫の扉は二枚が横開きに開くタイプだ。持ち手にかけられた錆だらけの古びたチェーンを、南京錠できっちりと固定している。

 

 

「窓はないから、入り口これだけでしょ?」

 

 

どう考えても鍵がなければ中に入ることは出来そうにない。無理やり破ろうにも、少しばかり殴る蹴るの暴行を加えたところで何とかなる扉ではない。

 

 

「うーん…とりあえずぐるっと回ってみようかな。何か反応があるかもしれないし」

 

 

そう言ったハルは、倉庫の周りをゆっくりと歩き始める。仕方なくユイもハルの後ろを歩きながら感覚を研ぎ澄ませてみるが、これといった反応はない。そうして特にこれといった発見もなく、二人は倉庫の入り口前に戻ってきた。

 

 

「何もないね。やっぱりだだの噂だったのかも」

 

 

「そうだね、それはそれで……?」

 

 

ユイの言葉に同意しようとして、あるものがハルの目に移った。そのままでは見えにくいため、手に持った懐中電灯をあててハルはそれを手にとった。

 

 

「ハル?」

 

 

親友の謎の行動に、ユイは困惑するも、それすら無視してハルは手に持ったそれ…扉を閉めている南京錠から目を離さない。

 

 

「これ、おかしくない?」

 

 

手に持った錠前を指して、ハルが口を開いた。つられてユイがそれを手に持って見てみるも、どこがおかしいか全くわからない。

 

 

「そう? 別に普通の錠前よね?」

 

 

だが、ユイの言葉にハルは首を振った。

 

 

「違う、そうじゃないよ。チェーンはこんなに錆びてるのに、錠前が綺麗すぎる。ほとんど新品だよ」

 

 

たしかに、扉を固定しているチェーンは錆だらけなのに対して、それを閉める南京錠は新品同様、錆どころか汚れ一つない。

 

 

「たしかにそうだけど、それがどうしたの? 誰かが先生とかが変えたんでしょ?」

 

 

ユイの言葉に、ハルは重々しく頷いた。そんな親友の表情に、ユイは自分が当ててはいけない答えを引き当ててしまったのだと直感した。

 

 

「そう、誰かが変えたんだよ。それも最近、多分ここ数日の話だと思う」

 

 

客観的に見れば、ハルの言葉は大袈裟である。誰も近寄らない倉庫の錠前を新しくしたとして、それがなんだといったところである。

 

 

ただし、あんな噂話がなければ、の話だが。

 

 

 

 

カンっ、カンっ

 

 

 

 

そして、そんな彼女らの答えを裏付けるようにして、鉄を叩くような弱々しい音が鳴った。発生源は、間違いなく倉庫の中。

 

 

直後、ハルは音の発生源…つまり倉庫の奥に最も近い裏手へと駆け出した。

 

 

「ちょっ! 待ってハルっ!」

 

 

走り出したハルを追って、ユイもまた走る。そうして再びやってきた倉庫の裏手で、ハルはおもむろに壁を叩いた。軽く、しかし適度に力を込めて、まるで扉をノックするように。

 

 

「ハル?」

 

 

「しっ」

 

 

声をかけてきたユイにそう言って、ハルはもう一度壁を叩く。先程より、僅かに強く。

 

 

 

すると

 

 

カンっ、カンっ

 

 

先程と同じく、弱々しい音が倉庫の中、つまりは二人のある位置から壁一枚を隔てたところから発生した。まるで、ハルの行動に答えるように。

 

 

「っ!?」

 

 

その音を聞いたハルの反応は早かった。来た道を走り再び扉の前につくと、冬場の乾燥した木から太い枝を一本折りだした。

 

 

「ちょ、待ってハルっ! 何してんの!?」

 

 

慌てて追いついたユイが、へし折った太い枝を扉めがけて振りかぶるハルの手首を止める。そんなハルの表情は、今までに見たことのないほどに焦燥に駆られていた。

 

 

「離してっ!! 」

 

 

ユイの制止を振りほどこうとハルが手に力を込めるも、ユイの手を振りほどくことは叶わない。

 

 

「離さない。一旦落ち着いて。じゃなきゃこのまま関節極めるよ」

 

 

ユイの本気の言葉に、ハルは手に持った枝を落とした。それを見たユイもまた、ハルの手首から手を離す。

 

 

「んで、どういうこと?」

 

 

ひとまずは落ち着きを取り戻した幼馴染に、ユイは問いかける。どう考えても、先程のハルの行動は常軌を逸していた。もちろん、ハルが普段からそんな非行奇行に走るような精神をしていない。

 

 

であれば、さっきの一連の暴挙には必ず理由があるはずだ。

 

 

 

「まだ…言えない」

 

 

だが、ハルの口から出たのは、そんな弱々しい、呟きのような言葉だった。だが、思わずユイが視線を鋭くした、その時。でもっ、と先程と同じようにハルが言葉をつぐんだ。

 

 

「もし、私の勘違いなら、それが一番いい。お化けだとしても、いい。でも……もし、万が一でも、私のこの考えが当たってるなら……もう手遅れかもしれない…」

 

 

ハルの言葉に、ユイは思わず首を傾げそうになるのを堪えた。お化けでもいい、というのはあまりに行き過ぎた答えだったからだ。ユイにとっては、お化け…つまり怪異と遭遇するのが最悪のケースだ。

 

 

しかし、ハルはそれがマシだと言った。なら、ハルにとっての最悪とは。

 

 

「鍵を壊す。中を確かめるまで、私…帰らない」

 

 

話は済んだと言わんばかりに、ハルは足元にある枝を拾い上げる。そしてそれを振りかぶり、

 

 

またしてもユイに手首を掴まれる。

 

 

「っ!? ユイっ!!」

 

 

幼馴染の行動に、おそらくハルは本気で怒りを露わにする。そんなハルを見て、ユイは思わずため息をついた。

 

 

「まったく…一度決めたらどんな無茶でも突き進むとこは、八年経っても変わんないね、ハルは」

 

 

「…ユイ?」

 

 

向けられた優しげな苦笑に、ハルの腕から力が抜ける。引かれるままに、ハルはユイの後ろに下がる。

 

 

「退いて。ハルの力じゃ、それ壊す前に朝が来ちゃうよ」

 

 

ハルを扉の前から退けると、ユイは先程までハルが立っていた場所に立つ。

 

 

「…ふぅ………」

 

 

目を閉じ、息を吐く。全身から無駄な力を抜いて脱力。静かに流れる清流の如く、心を極限まで沈ませる。

 

やるべきは一点突破。全力を込めて、最も脆弱な一点を撃ち抜くイメージ。

 

 

「………はぁっ!!」

 

 

直後、ユイは閉じていた瞼を勢いよく押し上げ、その場で左脚を軸に急速回転、同時に右脚を地から離す。そして、振り上げた右脚の先端に産み出した遠心力を集中させ、渾身の力で振り下ろす。

 

 

キンっ!!!

 

 

力が凝縮されたユイの踵が、甲高い音とともに錆だらけのチェーン、その中でも特に錆び付いていた一点を打ち抜いた。

 

 

「…うっそぉ…」

 

 

背中越しにそれを見ていたハルの口から、ごもっともな言葉が流れ出る。力技ここに極まれりである。そんなハルには目を向けず、一点を砕かれ宙ぶらりんになったチェーンをユイが投げ捨てる。

 

 

「ハルっ! そっち引いてっ!!」

 

 

その言葉に、慌ててハルはユイが掴む反対の扉の取っ手を掴み、全体重をかけて引っ張る。重い抵抗とともに、ゆっくりと重厚な扉が開かれていく。そして人が一人通ることのできる隙間ができるや否や、ハルは倉庫の中に駆け込み、懐中電灯で照らしながら奥へと走る。

 

 

「うっ…!?」

 

 

途端に鼻腔をつつく異臭に顔をしかめながらも、ハルはなり構わず全力で倉庫の奥へとひた走る。

 

 

中にあったのは、大方話で聞いた通りのものばかりだった。玉入れ用の籠と大きな竹竿、三角コーンの山、競技用だろうトラ柄のコーンバー。

 

 

 

「っ!? 大丈夫ですかっ!? 」

 

 

そして、倉庫の深奥、来賓のテント用だろう分厚いシーツにくるまるように倒れる、下着姿のひとりの女性…いや、少女。

 

 

年齢はおそらくハルとそう変わらない。だが、肩甲骨あたりまで伸ばした黒髪は艶を失い、砂と脂に汚れている。むき出しにされたガリガリの四肢は驚くほどに冷たく、唇はカサカサに乾ききっている。おそらく、既に自力で歩くことすらままならないだろう。

 

 

「…あ…あ…な…た……え…」

 

 

呂律がまともに回っておらず、おそらく十分な栄養どころか水分すら取れていない。ハルは弱り切った少女の頭を膝に乗せ、リュックから取り出したペットボトルの水をゆっくりと飲ませる。

 

 

「しっかりしてくださいっ! もう大丈夫ですからっ!!」

 

 

少しずつ、気管に水が詰まらないよう、慎重に少女に水を飲ませる。直後、ハルを追って中に入ってきたユイは倉庫の全容に息を呑む。

 

 

「ハルっ!? なっ…! うそ……その子は?」

 

 

「わかんない。でも、せめて水分だけでも摂取しないと。それに体が冷え切ってるから運んであげたいけど…」

 

 

ハルは着ていたデニムコートを脱ぐと、砂に汚れることに構わず少女をくるみ、コート越しに抱きしめる。少しでも体温を逃さぬようにする、苦肉の策だ。

 

 

「その体じゃ動けないでしょ。とりあえず救急車をーー」

 

 

そうして、ユイがジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、番号を入力する。

 

 

 

しかし、

 

 

「いいや、その必要はないよ。何故なら、君たち二人にもこれから、この薄汚い倉庫でそこの死にかけと一緒の運命を辿ることになるのだから」

 

 

倉庫の入り口、僅かばかりの月明かりに照らされたその場所に、一人の男性が立っていた。理知的に整った表情を、まるで獲物を見定める爬虫類のように歪ませながら。

 

 

 

 

 

 

 






個人的、早くこの章切り上げて次に行きたいであります←


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第3話 : 悪意を砕く

ふむ…もしかして個人更新間隔新記録( ゚д゚)

はい、どうでもよかです。

それでは、番外編その1クライマックス、そのラスボスには存分に踏み台になってもらいましょう。成長した2人の


 

「……なに言ってるんですか、藤村先生」

 

ユイが精一杯の力で己の感情を押し殺した声を向けたのは、月明かりとハルの落とした懐中電灯で照らされた倉庫の入り口、そこに立つ、一人の男性。黒のジャンパーと黒のミリタリーズボンという見慣れない服装だが、その嫌な声だけは忘れもしない。

 

 

「まさか、まさかこうも早く暴かれるとは思わなかった。流石は喜多川さんと四季野さんだ。僕の見込み通りだね」

 

 

男性…藤村は嬉々とした様子で笑う。今朝の爽やかな風ではない、理知的に整った顔を爬虫類のように歪め、どこまでもネットリとした声で。

 

 

「…でも流石にこれは僕にとっても不都合だ、早すぎる。せめてあと一日遅ければ、そこの汚いボロ雑巾を死体に変えられたのに」

 

 

その言葉に、ハルは我を失いそうになる。とても同じ人間の言葉に思えなかった。この男は、今ハルの腕の中で生死の境を彷徨っている少女をなんと言った?

 

真冬に、下着姿で不衛生かつ薄暗い倉庫で死にかけている少女に対し、「ボロ雑巾」と言った。

 

 

まともな服も暖も食料も水もなく、喘ぐ力もない少女を指して、そう言ったのだ。

 

 

そしてもちろん、そう感じたのはハルだけではない。

 

 

「よくもまあ…聞いてもないことをベラベラと…」

 

 

そんな心境のハルでさえ、心の底からゾッとするような低い声が、ユイの口から這い出た。

 

 

「…要約すると、あんたがこの子をここに閉じ込めた犯人、でいいのよね?」

 

 

「ああ、そうだとも」

 

 

まるで悪びれもせず、藤村はユイの言葉を全面的に肯定した。

 

 

「ああそう、なら続きは警察署でごゆっくり」

 

 

その言葉を聞くや否や、予めスマートフォンに入力しておいた番号へと発信ボタンを押した。これですぐに警察に連絡が届き、目の前の男を渡してしまえばそれで終わりだ。

 

 

しかし、

 

 

「…なんで? 繋がらない…?」

 

 

スマートフォンの画面に表示される、無情な圏外のマーク。そんなユイの表情を見た藤村の顔がさらに歪む。

 

 

「当たり前だ、僕がなんの備えもなしにのこのことこんな所に来ると思うかい? 学園全体に妨害電波を流してる、ここからじゃ外への連絡は不可能、だよ?」

 

 

ならばと重心を落とし、藤村を取り押さえようと構えるユイ。

 

 

「おっと、それも駄目だ、喜多川さん」

 

 

だが、その動きを察知したユイに対し、藤村は身につけたジャンパーから一本の薬品ボトルを取り出した。

 

 

「これは硫酸が入れられたボトルだ。度々テレビとかで見るだろう? これを顔にかけられた昔の有名人がどうなったとか、そういうやつだよ。君が不審な動きを見せるなら、このボトルを君ではなく、後ろにいる死にかけと四季野さんに向けて投げる。当たるかどうかはわからないが……どうだろう、試してみるかい?」

 

 

「……………」

 

 

その言葉を聞いたユイは、奥歯を噛み締めながらも重心を戻す。ユイならまだしも、後ろにいるハルや少女では投げられたボトルに反応することは不可能だ。

 

 

「そう、それでいい。なら次に、喜多川さん。君の携帯電話と四季野さんの携帯電話、それに四季野さんの背中のリュックを渡してもらおうか。このまま妨害電波を流し続けるわけにはいかないからね。ああ、携帯電話はこの袋に入れて投げてくれ。僕に近づこうなんて思わない方が賢明だ」

 

 

そう言って藤村がユイに投げたのは、なんの変哲も無いビニール袋だった。言われた通りに自身の携帯電話を袋に入れると、未だ少女を抱きしめたまま動かないハルのズボンのポケットから同じくスマートフォンを抜き取り袋に入れ、袋、リュックの順に投げる。

 

 

それらを受け取った藤村は、袋を二人には見えない倉庫の外の壁のそばに置く。じっとこちらを見て動かない二人に、なぜか藤村は悲しげに目を伏せる。

 

 

「ああ、残念、とても残念だ。こんな形で君たち二人を始末しなければいけないなんて」

 

 

藤村が本当にこの事態を嘆いているのはわかる。やっていることそのものはとても許される所業でないとしても、何故このようなことになっているのか、それを探ることしか、今の二人には選択肢がなかった。

 

 

「…先生、一応なんでこんなことしたのか教えてくれません?」

 

 

「ふむ…まあいいだろう、どのみち君たちと会うのはこれで最後だしね。冥土の土産、ということで教えてあげよう」

 

 

まるで演劇役者のように大袈裟な振る舞いをしながら、藤村は嬉々として語り始めた。

 

 

「言わなくても分かることだが、僕は優れている。頭脳も、容姿もね。僕がこれまで声をかけて靡かない女など一人もいなかった。なぜか? 当然だ、なにせこの僕が声をかけてやっているのだから」

 

 

男の口から飛び出たありえないほどの幼稚な理論に、思わず目眩がした。そしてそれだけで、ハルはもちろん、ユイでさえこの後の話の展開が読めてしまった。ああ、これは救いようがないな、と。

 

 

そんな二人の心境など欠片も察することなく、藤村は幼稚な理論と呼ぶのもおこがましい話を続ける。そして、この意識のない少女のことだろう話になった途端、初めて藤村の顔が怒りに歪んだ。

 

 

「だがついこの間だ、そこのボロ雑巾は僕にこう言ったんだ…っ!! 『嫌です』ってね!! 『あなたみたいな目をする人と関わり合いになりたくありません』とか抜かしやがった…っ!! 女の分際でっ!! たかだか女子高生の分際でっ!! 僕の玩具でしかないガキが僕を見下しやがったのさっ!!」

 

 

怒りを通り越して呆れる、というのはこういうことを言うのだろう。いや、ハルはすでに呆れすら通り越して憐れみすら感じている。なまじ優れていただけに、誰も言ってくれなかったのだろう、諭してくれる機会に恵まれなかったのだろう。そうして、子供のまま歳をとり、男をこんな幼稚な精神をした大人にしてしまったのだ。

 

 

「だから分からせてやったっ!! 簡単さ、通っている学校、帰宅時間、帰路、全部調べてやった。あとは人気の無い道に入ったところで気絶させて、持ち物と服を剥いでこの倉庫に放り込むだけの簡単なことさ。水も食料もない状態で一日放置してやれば、寒さ、飢え、乾きと排泄物で汚いボロ雑巾の完成だ、ここからじゃいくら叫んでも学校には聞こえないし、唯一校庭を使う野球部もここまでは来ない」

 

 

完璧だ、とどこまでも粘ついたその表情に、今朝、そして今まで見てきた大人の面影はない。そこにあるのは、ただ己の都合通りにいかずに駄々を捏ねているだけの憐れな子供の顔だけだ。

 

 

「残念だよ、君たち二人は賢い、そして美しい。僕のものになる権利がある。今ここで僕のものになると誓うならーーー」

 

 

「あ、もういいから」

 

 

だが、男の声をユイの声が遮った。

 

 

「長ったらしい上に要領悪くてついでにつまんないからまともに聞いてないけど、要はナンパ? 断られて癇癪起こしただけじゃん。私とハル…とくにハルを気に入ってた理由もわかったし」

 

 

まるで小馬鹿にしたような口調で、ユイは男に語りかける。

 

 

「…なんだと?」

 

案の定、先程までの役者っぷりは何処へやら。藤村の顔が面白いくらいに怒りに歪んだ。

 

 

「自分より年下の女の子引っ掛けて、ナンパ断られたら拉致監禁? あんた歳いくつなのよ、くっだらない。ガキ、ロリコン、面食いバカ」

 

 

「このクソガキっ!! 言わせておけばぁ!!」

 

 

男の顔が、これでもかと醜く歪む。いとも簡単に仮面の剥がれた男の顔を眺めながら、ユイは背中越しにハルに話を振った。

 

 

「あ、そう言えばハル、あいつハルにも目をつけてたみたいだけど?」

 

 

「絶対無理です、キモいです、嫌です」

 

 

ユイは半笑いで、ハルは至極真面目な表情でそう口にした。そんな二人の態度が、幼稚な精神をしているこの男を刺激しないはずはなかった。

 

 

「貴様らぁ…っ!! 少しばかり目をかけてやったぐらいで調子に乗りやがって…っ!! もういいっ! どうせお前らもそこのボロ雑巾と同じ目にあうんだからな。服を脱いでこっちに渡せ。この僕をここまで馬鹿にしたお前らに慈悲はない、下着も全部だ。さもないとこの瓶を投げる」

 

 

まるで玩具をひけらかす子供のように、男は手に持った硫酸の入った薬品ボトルを突きつける。だが、二人はまるで動じない。それどころか、ユイに至ってはくすくすと笑いをこらえきれていない様子だった。

 

 

「何がおかしいんだよっ!!」

 

 

怒鳴り散らす男に、

 

 

「うるっさいクソガキっ!! そんなにハルのパンツ欲しかった自分で取りに来い、バーーーーーーーカっ!!!」

 

 

ユイの渾身の怒鳴り声が、男の声を上から押し潰した。そんなことを言われた男の反応は早かった。半狂乱で金切り声を上げながらボトルを投擲、硫酸の入ったボトルは残念ながら真っ直ぐに彼女めがけて突き進む。

 

 

だが、これこそが彼女らの作戦。

 

 

藤村は気付くべきだった。携帯とリュックを投げた時、なぜユイが元の場所に戻らず、わざわざ自分から遠い倉庫の奥にとどまったのか。

 

ユイがハルの携帯を抜き取る一瞬、ユイがハルの口元に耳を寄せた瞬間にハルは、

 

 

「…下のシーツでボトル、いける?」

 

 

と、最小限のボリュームでユイに問いかけていたのだ。そんな親友の策に、ユイは一瞬ニヤッとするだけで応えた。これ以上の会話は、二人には必要ない。

 

 

頭を使うのは、ハルの役割。そんなハルの無茶を押し通すのは、ユイの役割だ。

 

 

「せぇのぉっ!!」

 

 

藤村がボトルを投擲すると同時に、ボトルの軌道を予測、完全に自分たちに着弾することを瞬時に判断、先程まで少女がくるまっていた厚手のテント用シーツを勢いよく振り上げる。

 

 

まるで三人を守るヴェールのように、シーツが三人を覆い、直後にボトルが着弾する。人や壁ではなく、シーツという比較的柔らかな緩衝材を経由して、ボトルがコンクリートに落ちる。着弾点から落下地点までの距離は精々数十センチ、少女たちの柔肌を焼かんと投擲された硫酸は、ボトルの外に出ることなく地面を転がっていく。

 

 

「ば、バカなっ!?」

 

 

男が驚愕の声を上げると同時に、ユイはシーツを投げ捨て駆ける。ついでに拾い上げたボトルを走りながら男めがけて投擲。

 

 

「ひ、ひぃぃっ!?」

 

 

尻餅をついた男の頭上を、男が投擲したよりも倍以上の速度でボトルが通過していった。勿論、かりに頭が元の場所にあったとして、ユイは当たるようなコントロールで投げてはいない。

 

 

だが、尻餅をついた男の恐怖がそれで過ぎ去ったわけではない。

 

 

ものの数秒で男の元に辿り着いたユイは、男の胸ぐらを左手で掴み無理やり立たせ、そのまま右の拳を鳩尾にねじ込む。

 

 

「おぐぅうぇっ!?」

 

 

くの字になるほどに男の体が仰け反るも、ユイの左手は男を掴んだまま離さない。

 

 

「私も一つ、教えてあげるよ。冥土の土産ってやつ」

 

 

「あひっ、ひぃっ!?」

 

 

ユイは涙と鼻水、そして唾液で顔をぐしゃぐしゃにした男の胸ぐらをぐっと引き寄せる。

 

 

思い浮かぶのは、忘れたくても忘れられない、あの男の顔。幼かった自分と母を散々痛めつけ、あまつさえハルにすら危害を加えた、自身の元父親の顔。

 

 

「私はね、自分の癇癪で平気で人を傷つけて踏ん反り返ってるような……っ!!」

 

 

あの男の最後の顔が、ハルの母親に締め上げられて泣きべそをかいていたあの時の顔が、今目の前の体液で顔をぐちゃぐちゃにしている男の顔と、ユイの中で重なった。

 

 

「アンタみたいなやつが一番嫌いなのよっ!!」

 

 

怒りのこもったユイの渾身の右拳が、男の顔面を正面から捉える。そのまま男の体は後方に数メートル吹き飛び、以後ハルの学校の外からの通報で警官達が駆けつけるその時まで、男の意識が戻ることはなかった。

 

 

 

 

 




次回で締めて、次から第2篇に入…れたらいいなぁ(´-ω-)


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番外1 エピローグ

進まない上に中身がテラ薄い…しかしこれ以上にいい区切り方が見つからかったのです…


 

 

ハルの通報により駆けつけた警官と救急により、男はもちろんパトカーへ、少女は救急車に乗せられていった。次の日…といっても日付的にそれから数時間後には冬休みの初日ということもあり、ユイとハルの二人もまた朝から事情聴取を受けた。

 

少女の身元はすぐに判明した。最近行方が知られなくなってなっていた人物であり、偶々ハルが一人朝ごはんを食していた朝にニュースで報道されていた少女でもあった。

 

 

衰弱が激しくしばらくは入院生活を余儀なくされるものの、命は無事であるらしい。ただし発見があと一日、いや半日でも遅ければ分からなかったというので、これに関しては警察はもちろん、少女の家族も泣きながらに安堵していたとのこと。

 

ただ事件の後遺症で人、とくに男性に対する恐怖心が植え付けられてしまっている可能性が高く、時間をかけて心のケアをしていく必要があるかもしれないこと。

 

そうなった場合、事情聴取はおろか男性は警官も医者も病室には入ることが難しくなるらしい。。だが、女性であり彼女の窮地を救った二人なら、今の彼女も心を開いてくれるやも知れない。

 

 

なんてことから、いつかその時が来たら彼女の心のケアに協力して欲しい、なんて事情聴取をした警官や少女の両親から頭を下げられれ、二人はそれを快諾。今は彼女の体力の回復を待っている。

 

 

もちろんいい話ばかりではない。未成年があんな時間に外にいたこと、理由はどうあれ学校に忍び込み、あまつさえ倉庫の鍵を破壊して中に入ったこと等、一歩間違えれば退学だけでは済まなかったと警察と学校の双方から厳重注意を受ける羽目となった。

 

 

とくに、ユイが藤村を殴り飛ばしたことについては数々の注意の中でも特別キツいお叱りを受けた。曰く、ユイの性別が男性だったら間違いなく過剰防衛と判断されているとのこと。

 

 

結果的に一人の少女の命が救われ、しかもその人物は警察が血眼になって探していた行方不明者だったこともあり、これ以上は言わないが以後軽率な行動を控えるよう、ユイとハルもしっかりとお灸を据えられたのだった。

 

 

学校の敷地内で監禁事件が発生した二人の学校は、世間からの猛烈なバッシングが危惧されたが、それよりも二人の女子高生が被害者を発見したことが話題性を呼んだらしく、違う意味で対応に忙しいらしい。

 

 

が、そんなもの今の二人にとっては至極、とっても、ベリーベリーにどうでもいいことだった。

 

なぜか? それは今二人を見下ろしてゴゴゴといった背景を浮かべていそうな人物に聞いてみて欲しい。

 

時刻は通報から一夜明け、長い長い事情聴取を終えて夕方。二人はハルの自宅のリビングで並んで正座させられていた。

 

 

 

「で、二人とも。一体全体何をどう考えればこんなことになるかしら、教えてくれる?」

 

 

怒気フルMAXのニッコリスマイルで二人を見下ろす女性の姿に、二人は絶賛戦慄中。時折カチんコチんとなる奥歯の音がもはやどちらのものなのかすら分からない。

 

中年とは思えない若々しく張りのある白い肌に、日本人離れした美しい薄金の髪を三つ編みに束ねて前に垂らす、この妙齢(にしか見えない)の美女。

 

この人物こそ、ハルの母親その人であり、おそらく二人が独断と偏見で決めたこの世で多種多様な存在をひっくるめたヒエラルキーの頂点に君臨する人物でもある。

 

 

「あ、あのね、ママ? これにはマリアナ海溝よりもずっと深い複雑かつ緊急を要する理由がーー」

 

 

バンっ!!

 

 

ハルの母親は、右脚をその場でフローリングに叩きつける。罅が入っていないのが不思議なほどの爆音だった。下の階の部屋から苦情が来ないかとっても心配である。

 

 

「ハル、正直に、簡潔に、要領よく話しなさい。どんなに賢く表現を飾っても言い訳は言い訳よ? わかって?」

 

 

「ま、まむっ!! イエスマムっ!!」

 

 

「ユイちゃんもよ、いいわね?」

 

 

「い、イエスマムっ!!」

 

 

ということで、ハルとユイはなるべく正直に、簡潔に、要領よく真実を白状することにした。忍び込んだ理由として、学校で不自然な噂を聞いたことと、ハルが偶々一人だった朝に目にしたニュースの内容が何となく重なってしまったことにしたこと以外は、概ね嘘偽りなく話した。

 

 

「なるほど…突拍子も何もあったものじゃ無いけれど、大体の理由は把握したわ。女の子二人が深夜に黙って学校に忍び込むなんて言語道断なのだけれど、それで一人の命が救われていることもまた事実。深夜徘徊と不法侵入の件はとりあえずこれで許します。……ただし、次はないわよ?」

 

 

コクコクコクコクコクと首を縦に振りながら、二人は頷いた。

 

 

「でも、鳩尾への一発はともかく顔面にもう一発は感心しないわね。その程度の男であれば、ユイちゃんなら最初の一撃で大人しくさせられたでしょう?」

 

 

「う、それは…。でもああでもしないと収まりがつかなかったというか…あいつの顔があの男の顔に重なって…それで…」

 

 

ハルの母親の指摘は、正確に的を射抜いている。あの時、ユイが放った鳩尾への一撃で既に藤村はほとんど行動不能に近かった。ユイの力であれば、その後虫の息になった藤村を警察が駆けつけるまで押さえつけておくことは容易なことだっただろう。

 

 

そうしなかった理由は、偏に感情が高ぶったことが原因だ。藤村の顔が、ユイがこの世で最も嫌悪する男の顔に重なり、その怒りのままに拳を振り抜いた。

 

 

「…ユイちゃんの気持ちはわかるわ。でも、ユイちゃんはもうあの時とは違うの。いかな理由があれ、武道を嗜んでいる人間がただ感情のままに力を振るうことは許されない。武道をただの暴力にしてはいけないの。それが分からないなら、今すぐにでも武道をやめなさい」

 

 

その言葉に、ユイは拳を握りしめる。薄々分かってはいたのだ、そんなことは。いくら危険な薬品を持っていたとはいえ、藤村は腕力的にはユイより格段に弱い。喧嘩にすらならない。

 

 

そんな男を、非常時とはいえユイは無力化をするため以上の力で殴り飛ばした。正当防衛、と言う考えもあるかもしれない。だが、それはやられたら何をしてもいい、ということでは断じてない。目には目を、なんて時代はとっくにおわっているのだ。

 

 

「だから、常に意識をしなさい。自分はもう、力を持つ側の人間だということを決して忘れては駄目よ」

 

 

「…はいっ……」

 

 

涙声で、必死にそれだけを絞り出して口にする。

 

 

「うん、よろしい。じゃあ今日はもう帰りなさい、お母さんも心配しているでしょう。今、冬休みでしょ? またいつでも遊びにいらっしゃい」

 

 

優しさに満ちた微笑みと一緒に、ハルの母親はユイの頭を撫でる。

 

 

「…はいっ!」

 

 

未だ涙声ではあるが、しっかりとした返事とともに、ユイは立ち上がりリビングを後にした。

 

 

「で、ハル、次はあなたの番よ」

 

 

数瞬前の笑みは何処へやら。いや笑っていることはまちがいないのだが、どう見ても暖かさを感じる類のものではない。心なしか先程よりもさらに低く冷たくなった母親の声に、ハルの華奢な両肩がビクッと震えた。

 

 

「八年前といい今回といい、黙って夜に出歩いては次から次へと危険な事件に首を突っ込んで」

 

 

ぐうの音も出ないとはこのことだろう。ハルはグサッッッッという心に何かが突き刺さるような音を聞いた気がした。

 

 

 

「確かに、今回はあなたたちのおかげで救われた命がある。八年前の事件では、他でもないユイちゃんが救われたわ。でもね、それは全て結果論。何か一つでも間違えていれば、大怪我を負っていたかもしれないし、もっと酷いことになっていたことだってありえるのよ」

 

 

もっと酷いこと、とは端的に言えば命を失うことだろう。事実、今回の事件で、もし藤村の持つ硫酸のボトルが当たってでもしていれば、一生消えることのない傷を負ったことだろう。

 

 

八年前の事件では傷どころか命そのものを失いかけた。

 

 

「あなたの行動が命を救ったこと、それ自体はとても喜ばしいことよ。ユイちゃんが救われたことは尚更ね。それらを成そうとしたハルの勇気と行動を、私も、お父さんも誇らしく思っているわ」

 

 

「…ママ…」

 

 

「でもね、それは心配しない理由にはならない。あなたは私たちの大事な一人娘なのよ。そのこと、忘れないで」

 

 

「…うん…」

 

 

まさか母親からこれほどのことを言われるとは思っておらず、ハルは目の奥がジーンとなるのを感じた。

 

 

「そう。時に厳しく、時に厳しく、さらに厳しくするのも、あなたを思ってのことなのよ」

 

 

「いや待って流石に厳しすぎない? ていうかむしろ厳しさしかないよね? せめてユイにしてるみたいに時に厳しく時に優しくって方針にしようよ」

 

 

「何を言いだすかと思えば…駄目よ、これ以上優しくするのはあなたの将来のためにならないもの」

 

 

「そんな鬼みたいな教育方針じゃ『将来』にたどり着くこと自体が不可能だよっ!!」

 

 

鬼畜すぎる教育方針を提示する母親と、それに抗議する娘の仁義なき言い争いは、結局一家の良心である父親が帰宅し止めに入るその時まで、終わることはなかった。

 

結果は勿論、母親の勝訴である。

 

 

 

*****

 

 

その日の夜。母親との戦いに敗れ、失意のままついた食事の席で母親の料理に舌鼓をうち、幸せ半分嘆き半分で入浴を終えたハルは、彼女にしては珍しく本を手に取ることなくベッドの中に入っていた。

 

 

流石に一日のほとんどを事情聴取等に費やし、追い打ちのように母親からの説教を終えた彼女に、これから夜更かしして読書をする気力はなかった。お嬢様な女子高校で小動物な女の子が、学園初の空手部を設立させようとあれこれ努力する小説の続きは、明日にでも読めばよかろう。

 

 

 

「ん、ユイからだ」

 

 

枕元に置いたスマートフォンが着信を知らせる。表示される発信者の名はユイ。ハルは横になりながらロック画面を外し、そのまま端末を耳に当てる。

 

 

 

『もしもーし、起きてた?』

 

 

電話越しに聞こえる親友の明るい声に、ハルは内心で胸を撫で下ろした。ユイのことなので叱られたことを必要以上に引きずっていることはないだろうが、やはりこうして声を聞くと安心できるのも事実だ。

 

 

「うん、起きてたよ。まあ…今絶賛お布団インだけど」

 

 

『あはは、私も』

 

 

そこからの会話は、特に何かあったわけでもない。先程のお叱りは効いたとか、これから気をつけていかなければとか、本日付で教育方針がベリーハードに突入したことなど。

 

 

その後、とりとめのない会話を少しした後、また明日、という決まり文句でハルは通話を終えた。

 

 

数分後、暖かな眠気につつまれ、ハルは抵抗することなく意識を手放した。また明日、そう言って同じく眠りについているだろう幼馴染に、また会うために。

 

 

 

だが、そんな優しい眠りにつくハルを嘲笑うかの如く、再び夢が彼女をあの街へと誘う。八年前と寸分違わぬ、あの夜の街へ。

 

 

そして、霧の向こうからハルに向かって問いかける誰かの声を、夢の中の彼女はまたしても聞き取ることは出来なかった。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

深夜。()()()にとっては決して人が出歩いてはいけない魔の時間に、一人の女性が佇んでいた。膝丈まである真っ黒なレンチコートに身を包み、細くしなやかな脚を守るパンツとブーツもなお黒い。両手に嵌めた薄手の黒い革手袋や女性にしては高めの身長も相まって、まるで闇夜の執行人を連想させる。

 

 

だが対照的に、コートに覆われていない首元から上、そして革手袋とコートの袖の隙間から垣間見える肌は病的なまでに白い。小さな顔に美しく整ったパーツ、背中まで伸ばした黒髪を風に靡かせるその姿は、まさに時間と容姿を掛け合わせ、文字通りに月下美人であった。

 

 

「…ここも、違う」

 

 

そんな女性の呟きは、()()である不気味な工場内を僅かに反響し消えていく。

 

 

「…一体、どこにいるの…」

 

 

悲痛な声を漏らし振り返る女性の前に立つ、複数の異形。黒い影法師に赤い瞳と切れ込みを入れたような口、それらを取り付けたような異形が五体、女性の行く手を遮るように立ち塞がっていた。

 

 

「退きなさい。あなたたちの求めるもの、私はあげられない」

 

 

僅かばかりに悲しみを含んだ女性の言葉を、異形はまるで嘲るようにしてケタケタと笑う。そうして、その全てが女性を蹂躙せんと迫る。彼らが求めるもの、命を奪うために。

 

 

「…そう、残念だわ…」

 

 

迫る異形たちを前に、女性は呟く。そして無防備なままの女性に異形の影法師がさらに迫り、

 

 

次の瞬間にはその全ての胴体が二つに分かたれる。

 

 

"…ケ…ケケ…"

 

 

訳がわからず自分たちの半分になった胴体と、目の前の女性を見る。そこには、細い右腕に異質な武器を握る女性の姿があった。

 

 

重厚感のある短い刃に、両手では恐らく握れない短い柄にはびっしりとお札が巻き付けられていた。

 

 

女性はその異質な刃物…泊鉈を、ただ横一文字に振り抜いただけだ。ただそれだけで、夜の街を闊歩する怪異の身を切り裂いてみせた。

 

 

不気味な笑みを残し、消失する影法師たち。そんな彼らを横目に女性はその場を後にする。不気味なまでの静寂の中、女性のブーツが立てるカツンカツンっという硬質な音が生まれては消えていく。

 

 

 

「…待っててね、必ず…必ず見つけ出すから…もう少しだけ待っていて、()()()

 

 

女性は夜の街を廻る。襲いくる怪異たちを斬り伏せ、ただひたすらに彷徨い歩く。全ては、愛するたった一人の妹を探し出すために。

 

 

 

 



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番外2 始まりの少女 編
第1話: 泡沫の邂逅


 

夕暮れ時、一日の終わりが刻一刻と迫っていることを知らせるようなこの時間に、二人は自宅マンションからほど近いファーストフード店にて軽食を取っていた。

 

午前は空手午後はバスケットとという中々にハード(本人にとってはこれが日常)なスケジュールを消費したユイはMサイズのポテトとシェイク、日がな一日中思考の中を泳ぎ回っていたハルは糖分補給を兼ねた小さなアップルパイとSサイズのオレンジジュース。

 

 

学校帰りのユイは制服、パッとだけ着替えたハルはグレーのニットワンピースをそれぞれ汚さぬよう各々が注文したものに手をつける。

 

 

「それでなんだっけ、夢?」

 

 

つまんだポテトを口に挟みながら、ユイが問いかける。

 

 

「うん。最初は夢だから気にしなくてもいいかなって思ったけど…それから何度か同じような…ううん、まったく同じ夢を見ることがあるの。普通ありえないでしょ?」

 

 

「うーん…」

 

 

ハルのその言葉に、ユイは頭を捻る。通常、夢とは本人の記憶から作られるものである。したがって、本人の記憶にないものは夢には登場しない。これを、ハルが見たという夢に当てはめると、たしかに違和感を感じてしまうことは否めない。

 

 

街そのものは間違いなくハルの記憶にあるものだろうが、では霧に包まれているとはどういうことか。少なくてもユイの記憶の中に、あの街が先の見えない程の濃霧に包まれたということは一度としてない。

 

 

では、何か霧に関連するものと合わさっているのか。だがそもそもそんな曖昧な夢を複数回も見ること自体がおかしい、というのが簡単に出せる結論だろう。

 

 

 

「まあ、同じ夢を何度も見るってのはおかしな話だけどさ。そもそも、その何回も見る夢は何なのって話じゃない?」

 

 

「やっぱりそうだよね…しかも内容がないあの街で、霧の向こうに誰かがいて、何か私に伝えようとしているようにも思えるの」

 

 

「ならさ、次見た時にその、うーん…霧の向こうの誰かさん? に聞いてみたらいいじゃん」

 

 

「無理だよ、夢の中なんて大抵は自分の意思なんか関係ないんだから」

 

 

「そこはほら、こう足腰に気合い入れてさ」

 

 

最近、ハルはこの目の前の幼馴染が自分の母親に似てきているような気がしてならない。特に、重要なところでデタラメな根性論を推してくるあたり。ハルにしてみれば、本人達が提示する無茶な理屈は、提示した本人達以外が実践できるよう考慮されていないことをそろそろ自覚して欲しいところである。

 

 

ーーユイが錆びたチェーンを踵で壊した? ノンノン、ママなら手刀で殺るーー

 

 

「ま、いんじゃない? 明日から年始まで部活ないし、私」

 

 

ハルが内心でため息をこぼしていると、いつのまにかポテトを食べ終わったユイがシェイクのストローに口をつけながら突然そんなことを言い出した。

 

 

「ん? それがどうかしたの?」

 

 

訳がわからず、ハルが聞き返す。

 

 

「いや、どうせハルのことだから、確かめるためにあの街に行くとか言うんでしょ? ならちょうどいいって話」

 

 

「え、いやちょっと待って。ユイも来るの?」

 

 

ハルの視界のなかで、ユイがぽかん、とした。鳩が豆鉄砲を食ったようとはまさにことだろう。さらにその顔のままストローを口にさしているので、余計にシュールだった。

 

 

「当たり前でしょ? ハルが1人であの街に行ってタダで済むわけないじゃん。まさかクロとチャコを連れて行くわけには行かないし」

 

 

「そりゃあ…そうだけど…」

 

 

ユイのその言葉に、ハルは俯く。八年前、ハルやユイとともに夜の街を駆け抜けたあの二匹の子犬、クロとチャコ。二匹ともここぞと言う時、果敢に二人を守らんと怪異の前に立ち塞がった勇敢な忠犬である。

 

 

が、そんな子犬たちも年を取り、今となっては過去のやんちゃぶりはなりを潜めるようになった。八年と言う時は、人にとってはもちろん、犬である彼らにとってはそれ以上に重い。

 

 

そもそも、クロとチャコを連れ出すという時点で色々と勘ぐられそうなのでこの案は元々に却下である。

 

 

 

「今頃はハルの家でおばさんの膝の上でぬくぬくしてるんじゃない? 餌付け早かったもんなぁ」

 

 

引っ越してきて早々に餌付けと教育を終えたあの母親に、二匹は基本べったりである。ユイの自宅に床暖房さえなければ、おそらくクロだけでなくチャコもまたハルの自宅に住まわっていたにちがいない。

 

 

が、今それは閑話休題だ。

 

 

「とにかく、そんなきな臭い用事はさっさと片付けて遊ぼうよ。まさかクリスマスをあの街で過ごしたくはないでしょ?」

 

 

「それは…まあたしかに…」

 

 

年に一度、街はイルミネーションの光に包まれジングルべーるとしている時に妖怪横町(?)のような街で怪異と追いかけっこなど、控えめに言ってもシャレにならない。

 

 

「ま、それでも行くかどうかはハルに任せるよ。夢のことも、ほんとに偶々だって可能性だってあるんだしさ。もう少し考えてみたら?」

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

その後、ユイとともに帰宅したハルは、とくに何事もなく一日を終えようとしていた。だが、何をしていても、心の何処かに生じた違和感が拭えずにいた。同じ夢を複数回見るということは勿論だが、場所があの街というのがどうにも不安を感じずにはいられない。

 

 

この違和感と不安を消すには、やはりあの街に行くしかないのだろうか?

 

 

だが、あの街に行くということは、命をベットする行為に他ならない。怪異が闊歩する街を歩くということは、自分から猛獣の檻に入って行くようなもの。それほどの危険を冒す価値が、果たしてあるのだろうか?

 

 

ただでさえ、昨日にユイと揃って学校、警察、そして母親からお叱りを受けたばかりなのだ。挙句あの母親が「大切な娘」などと口にしたのだ、どれほど心配をかけたのか、言うまでもない。

 

 

そんな母親に、両親に心配をかけてまで、大切な幼馴染を危険に巻き込んでまでして、あの街に行く価値があるのだろうか?

 

 

この自らに対する問いかけに答えを出せぬまま、ハルは眠りについた。だが、どんなに強く目を瞑ろうと、生じた違和感と不安を拭うことは出来ず、問いかけに対する答えを見つけ出すことも出来なかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

「………」

 

 

夢の中。

 

 

やはりというか何というか、ハルは再びあの街に立っていた。仕事をしない街灯や手紙以外の何かが入り込んでいるボロボロのポスト。狭い道幅と、その両サイドを囲む不気味な家々。本当に人が住んでいるのかほとほと疑問に思えてくる。

 

 

これまで夢で二度見た、いや見せられた、あの街の景色だった。濃い霧に包まれていることも同様だ。

 

 

そして、()()はいた

 

 

「…やっぱり」

 

 

ハルが見据える前方、霧の中に佇む一つの影。何かを伝えようと僅かな音…おそらくは声を出そうとしていると思われるが、どうしてかハルはそれを聞き取れない。

 

 

まるで、何かに音を遮られているかのような嫌な感覚すら覚える。

 

 

「………」

 

 

このままでは、また変わらない結果が待っていることだろう。ハルはこの謎の声を聞き取れず、夢の正体は分からずじまい。

 

 

そんなものは、もうごめんだ。考えても答えが出ないなら、直接確かめる他ない。

 

 

夕暮れ時の幼馴染の言葉を思い出す。理屈も何もありはしない、純粋なまでの根性論を。浮上しようとする意識を無理やり繋ぎ止め、感覚が薄れている足腰に力を入れる。

 

 

そうして、一歩。

 

 

「ぐ…っ! よいっ………しょっ!」

 

 

その一歩は、あまりに重く、遅い。だが確実に、ハルと影との距離は縮まっていく。まだ起きるな、途切れるな。今は眠る自身の体に訴え続けながら、ハルはさらに一歩ずつ影との距離を詰めていく。

 

 

そして、持てる意思を振り絞り、あと少しで手が届きそうになるような距離まで近づいたとき、ハルは見た。

 

 

そこにいたのは、暖かな色合いの髪を首筋あたりで切り揃えた、可愛らしい少女だった。歳は恐らくハルと同じぐらいだろう。

 

白地に空色のアクセントをあしらったセーラー服のようなワンピースが、儚げな少女の雰囲気と噛み合って非常に映える。

 

だが、ただ一つ、左眼につけた白い眼帯だけは、柔らかな少女の雰囲気に重い影を落としていた。

 

 

"…あなたを…………まってる…"

 

 

たった、それだけ。少女はそれだけ伝えると、柔らかく微笑んだ。

 

 

「駄目、待ってっ!!」

 

 

だが、ハルが手を伸ばすよりも早く、少女は霧の奥へと消えていき、同時にハルの意識は夢から現実へと浮上していった。ハルの掌には、ただ何も掴むことのできなかった空虚感だけが、重苦しく残った。

 

 

 

*****

 

 

 

「…待ってっ!!」

 

 

カバッと掛け布団を押し返し、ベッドの上で飛び起きる。真冬の夜だというのに、背中に浮き出る嫌な汗が気持ち悪い。だが、その感触こそがたった今夢で体験した出来事の重さを何より鮮明に伝えていた。

 

 

 

「…あの子は…」

 

 

記憶の限り、先程の少女とハルが会ったことはない。もしかしたら忘れているだけかもしれないが、眼帯などという特異なものをつけている人物をそう簡単に忘れるとは思えない。

 

 

 

「………」

 

 

ハルは枕元に置いたスマートフォンを手に取る。デジタル時計が指し示す時刻は既に真夜中だ。にもかかわらず、ハルは躊躇うことなくある人物の名前に触れ、発信。

 

 

『…ん〜…?』

 

 

数コールの後、およそ半日前より少しばかり寝ぼけた声が電話越しに聞こえて来る。

 

 

「…こんな時間にごめん、でも決めたから」

 

 

ハルは電話越しの相手…ユイに向かってそう口にした。迷いがないと言ったら嘘になる。両親や付き合わせてしまう幼馴染に対する罪悪感だってある。だが、それでも、今しがたの少女の声を無視することは、ハルにはどうしても出来なかった。

 

 

あの街で、再び何かが起ころうとしている。いや、もう既に起こってしまっているのかもしれない。

 

 

自分から首を突っ込む理由はないかもしれない。危険を冒す必要だってないのかもしれない。そんなことは、十分わかっている。そんなことをしても、両親やユイの母親に心配をかけてしまうだけだということだって重々承知している。

 

 

それでも、

 

 

「私、あの街に行く。行って、全部確かめる」

 

 

いま、あの街で何が起こっているのか。夢で出会った少女は何者なのか。その目的は何なのか。全てを明らかにするには、もう直接足を運び確かめるしか手段は残されていない。

 

 

『…そっか、決めたんだ。なら早いうちに片付けないとね。明日…ていうか今日の朝から行こ、急がないといけないんでしょ?』

 

 

確かめるような口調だが、半ばユイは確信している。こんな時間に電話をかけてきたということ自体が、ハルが時間がないと判断したという証拠なのだから。

 

 

「うん、色々用意しないと。ママたちには朝に連絡して、その後にもう一回電話、って感じでいい?」

 

 

『いいよ、それで。…あーあ、帰ってきたらまたおばさんに正座させられそう…』

 

 

「…うん、わかってる。でも…やるって、決めたから」

 

 

こんな短期間に、危険に次ぐ危険行為。恐らくこれまで以上のお叱りと恐怖が待っていることだろう。たが、甘んじて受けなければなるまい、それが、親不孝な娘なりの、精一杯の気持ちと覚悟なのだから。

 

 

「………………」

 

 

しかし、そんなハルとユイの会話を、扉の外で聞いていた人物がいたことは、流石にハルも予想はしていなかった。

 

 

だが、その予想外のことが、ある意味では最悪の形で二人の前に現れてしまうことを、この時のハルは知るよしもなかった。

 

 





今気づいたら番外入ってから深夜廻感がカケラもない( ゚д゚)


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第2話: 不可避の遭遇

「…そー…」

 

 

いわゆる、抜き足差し足忍び足。小さめな白いキャリーバッグと同じく小ぶりなクリーム色のリュックを携え、ハルは自宅のリビングへと足を踏み入れる。もちろんキャリーバッグをコロコロと引きずれば音が立って仕方がないため、細い両腕でえっちらほっちら、必死に地面と接触しないよう持ち上げながらである。

 

 

こんなことで眠るクロを起こしてワンっ!! なんて幸先が悪いにも程がある。

 

 

時刻はまだまだ暗さが残る冬の早朝。普段ならハルはともかく、ハルの両親は既に起床している時間だが、今日は休日。いつも通りなら両親が起きるまでにまだ幾許かの猶予がある。

 

 

こんな夜逃げのように家を発つのはハルとしても不本意である。が、二人であの街に行くといえば止められるのは目に見えている。あの母親はもちろん、温厚な父親でさえいい顔はしないだろう。

 

 

ので、できれば二人に会うことなくこのままリビングを通過してユイとの集合場所に向かうのがハルにとっては一番理想的である

 

 

「やあ、おはよう。ハル」

 

 

のたが…なぜか休日の早朝だというのに、テーブルにはいつものように優雅にコーヒーを飲む父親の姿があった。

 

 

首にかからない程度まで伸ばした黒髪に、とても中年とは思えない若々しくハリのありそうな肌、端正に整った青年のような顔立ち。母親も母親だが、この父親もまた大概な年齢詐欺であるとハルは思っている。

 

 

いっそのこと、父親でなくて兄や従兄弟だと言われた方が納得するのではなかろうかという若々しさである。

 

 

「…ぱ、パパ…き、今日は早い…んだね…」

 

 

これでもかと言うくらい、出鼻を挫かれた。今この状況においては、正直この父親はある意味では母親以上に厄介な人物である。優しげな顔立ちからは想像出来ないが、こと洞察力という点に関して、この父親の右に出るものはいないとハルは断言できる。

 

 

生半可な嘘はもちろん、真実に少しだけ交えた僅かな欠片さえも容易に見抜くその眼力は、今ハルが突発的に対応できるレベルではない。

 

 

 

「本当はもう少し寝ていようかと思ったんだけどね。ハルが何やらいそいそと準備をしていたから、気になって」

 

 

この時点で、ハルの逃げ道は無くなったも同然だった。両親に黙って遠出をする準備をしていたがバレたということは、必然的に言っては止められる場所に答えが限定されてしまう。

 

 

そんな限られた選択肢の中から、この父親が答えを導き出すまでに苦労をするとは思えない。

 

 

「気をつけて行っておいで。あ、ただ朝と夜に最低一回は連絡をすること。そうしてくれると、僕も母さんも安心できるからね」

 

 

「…え?」

 

 

だが、予想に反して父親の口から出たのは、ハルの出発を止めるものではなかった。寧ろ条件付きでのお許しである。

 

 

「…止めないの?」

 

 

正直、こんな形で旅行に行くなどと言っても通用しないだろう。この父親相手なら尚更だ。だからこそ、ハルは半ば白状するかのような思いで父親に問いかける。

 

 

「そうだね、本音を言えば止めたい。勿論、ハルだけじゃなくてユイちゃんもね。でもそれが本当の意味で二人のためになるのかと言ったら、恐らく違うだろうからね」

 

そうだろう?、っと暗に言いながら顔を向ける父親に、ハルはただ無言で返す。ほとんどノーヒントでありながら、狙い澄ましたかのように核心のみをついた父親の言葉に、安易な言葉を返すわけにはいかなかった。

 

 

「だから、やってみるといい。ハルの思うままに、やるべきと思ったことを、ね。ただし、無理、無茶、無謀は厳禁だ。いいね?」

 

 

父親の言葉に、ハルは胸のなかに渦巻いていた重みが軽くなっていくことを感じた。こんな親不孝な娘であっても、この父親はハルの選択を是としてくれた。

 

 

心に染みる、というのはこういうことを言うのだろう。

 

 

「ありがとう、パパ。帰って来たら、デートしようね」

 

 

「あはは、それは父親冥利に尽きるね。…行ってらっしゃい、ハル。気をつけるんだよ。色々と、ね」

 

 

冗談めかしたハルの言葉に、父親は和やかに笑って娘を送り出した。そんな父親に、ハルもまた笑顔で告げる。帰って来たら、これでもかと親孝行をしようと密かに決心を固めながら。

 

 

「うん。行ってきます、パパ。ん…? そう言えばママは?」

 

 

だがそこで、一つの疑念が降って湧いた。というより、なぜ今の今まで気づかなかったのだろう。最重要課題である母親の姿が見えないことに、ハルは今更になってそのことを父親に問いかける。

 

 

「ああ、何でも今日はやることがあるとかで、早くから用意して出かけたよ。行き先までは聞いてないから、あとで連絡が入ると思うよ」

 

 

「そう…なんだ…」

 

 

父親の言葉に、よかったと思う反面、後味の悪さもまた反面。何となく胸に引っかかるものを感じながらも、ハルは玄関に向かって足を運ぶ。

 

 

「それじゃ、行ってきます。ママにはあとで連絡する」

 

 

「……そうだね」

 

 

行ってらっしゃい、という父親の声に言葉を返し、ハルはそのままリビングを抜けて外に出る。冬の外気に思わず身震いするが、そんな寒さを予想して着込んできたライトグレーの膝丈まであるダッフルコートで耐え凌ぐ。フードと袖にそれぞれ取り付けられたファーが非常に暖かい…はずだ。

 

 

冷たい風に薄金の三つ編みを躍らせながら、ハルはユイとの集合場所であるマンションのエントランスへと向かうためにエスカレーターの下りボタンを押す。

 

 

そう時間をかけずやってきたエレベーターの扉をくぐり、『1』と書かれたボタンを押す。

 

 

「さて、行きますか」

 

 

そして、言い聞かせるようにしてハルが呟くと同時に、彼女を乗せたエレベーターは緩やかに下降を開始した。

 

 

地上八階というそれなりの高さから一度として途中停車することなくエレベーターは一階、エントランスホールへと到着する。チンっという音と共に開かれた扉の先には、やはりというか何というか、既に支度を済ませたユイが壁に背を預けて立っていた。

 

 

白いパーカーの上に黒のライダージャケットを重ね、デニムのショートパンツと黒ストッキングにブーツのような黒いハイカットスニーカー。概ね先日に諸々やらかした時と変わらない。

 

 

 

「んん…そういう勝負服…いや勝負…色?」

 

 

死装束? と聞くには少々縁起が悪いので、当たり障りのない表現に変えて問いかけてみる。

 

 

「叩かれたい?」

 

 

が、結果はこの通り。右の薄い紅眼がちょっとばかしギロっとなっているあたり割と本気かもしれない。

 

 

「じょ、冗談だよ、冗談。おはよ、ユイ」

 

 

「どうだか。はよ、ハル」

 

 

挨拶を返しつつ、ユイはボストンバッグを肩にかけ直す。財布携帯ハンカチなどの必需品はポケットにしまっているのだろうか。目に見える範囲に他の荷物は見当たらない。

 

 

一応、数日単位の覚悟をして着替え等も持参しているが、やはり手荷物は少ないに限る。特にお財布事情と帰宅後の雷云々を考慮して、この旅は迅速に終わらさなければならない。

 

 

あの街で過ごすだろう日数に比例して、帰宅後の彼女らの運命が決まる。ただの雷で済むか、大嵐が来るか、あるいは全て後の祭りとなるビッグバンクライシスが起こるか。それは神のみぞ知るところである。

 

 

「んじゃいこ。まだ始発はないから、ちょうどいい時間になるまでは歩くってことで」

 

 

「…まあ…そうなるよね。うへぇ…」

 

 

それなりの都会と言えども、始発まではあと一時間弱はある。普通ならば間違いなく集合時間を遅らせるべき案件なのだが、今回の旅にそれはご法度だ。何せバレたらその場で強制送還された後にトントン拍子でジ・エンドが確定している電撃的かつ事後報告な、謂わば半分家でのようなものだ。

 

 

イレギュラーにセオリーで立ち向かうのはナンセンスなのである。可及的速やかに危険区域から脱出するためには、多少の肉体運動的な経費は積極的に投資して然り、だ。

 

 

「…重たいぃ…」

 

 

カラカラと音を立ててキャリーバックを引きずるハルの姿は、何というか切なさすら感じさせるほどに緩やか……というよりノロマだった。人間がナメクジか何かにスピードを合わせたらこうなるかもしれない。

 

 

「そんなにたくさん詰め込むからでしょ、何をそんなにぎゅうぎゅうに押し込んだのよ」

 

 

「…秘密…」

 

 

実を言えば、ハルはユイに電話したあの時から今ここに至るまで、殆ど睡眠を取っていない。あの時間に寝てしまったら起きられない、というのもなくはないが、そんなものはオマケのオマケだ。

 

 

ハルが真夜中に忍び込んだ空き巣のごとく静かに推し進めていたこと、敢えて言うなら、それは()()()だ。

 

 

逃げるのではなく、避ける為でもない、第三の選択肢を選ぶための下準備。通用するかどうかすら未だ定かではないが、まあそんなものはやってみなければ分からない。だが、まさかここまで重量が嵩むのは想定外だった。控えめに言っても重過ぎる、今なら泥人形型の怪異からですら逃げることが危ぶまれる。

 

 

 

「はぁ…そんな速度じゃ日が暮れ…ちがう昇っちゃうよ」

 

 

ユイはノロノロと歩くハルからキャリーバックを掻っ攫うと、ぐいぐいと引っ張って先に進んでいく。さすがに速い、ハルとしては少々の遣る瀬無さと世の中の理不尽を感じざるを得ない。そのスラリとした体のどこにそんな馬鹿力を秘めているのだろうか。

 

 

「ま、待ってよ! え、てか速いし、速過ぎるしっ!」

 

 

そんなことを考えたいる間にも、重りと言っても差し支えないキャリーバックを引きずりながら猛然と突き進む幼馴染を追って、ハルもまた薄暗い街へと駆けていった。

 

 

 

*****

 

 

 

 

娘が扉を開けて外に出て行ったことを感じたハルの父親は、今までハルに気付かれないようストーブの前で寝たふりを敢行している黒い小型犬…クロに呼び掛ける。

 

 

「まさか、珍しくクロが僕を起こしに来たと思ったらこんなことになるなんてね。お手柄というか何というか…まあ、結果はこの通り、だけどね」

 

 

実を言うと、この父親を起こした…というか気づいていながら寝たふりをしていた父親をリビングに引きずって来たのはクロである。ハルとしては夜な夜な細心の注意を払って準備を進めていたつもりなのだろうが、犬の聴覚や嗅覚までは流石に誤魔化せなかった。

 

 

ので、密告のような形でこの男を起こしたにも関わらず、この有様。男の行動に、クロは今現在、ご立腹なのだ。呼び掛けにもガン無視である。

 

 

「そう怒らないで欲しいな。僕としても苦渋の決断なんだ。どこに大事な娘が危ないことをすると分かっていて止めない父親がいるものか」

 

 

ハルの前ではああ言ったが、彼だって欲を言うなら無理にでもハルを止めたかった。当然だ、彼にとって、ハルは大切な娘なのだから。その幼馴染たるユイもまた然り、である。

 

恐らくは先日の事件に似たり寄ったりか、あるいはそれ以上のことをしようとしているだろうことは何となく予想がついている。

 

 

「でもね、あの子たちが自分でやると決めたのなら、その意思を尊重してあげたいんだ。それが間違っていることなら勿論止めるさ。だから、あの子があの子のままでいる限り、僕は娘の背中を押し続けるよ」

 

 

親バカかな、なんて苦笑する男に、クロは鼻を鳴らすだけで応える。

 

 

「…けど、それはあくまで僕の考えだ。…彼女は…どうやら違うらしい」

 

 

そう、彼は1つだけ嘘をついた。正確には嘘ではないが、極限にまで表現を淡く、かつオブラートに包むことで()()()()()の存在を娘の思考から遠ざけた。

 

 

窓の外を見ながら、男は少しばかり物憂げにそう呟く。今この場にいない、己の美しい、そして何より娘思いの伴侶を思いながら。

 

 

「気をつけるんだよ、二人とも。本気になった彼女を相手にするのは……僕でも骨が折れる、では済まないからね」

 

 

 

*****

 

 

薄暗い街を歩くこと数分、ハルとユイの二人は最初の目的地でありセーブポイントでもある鉄道の駅に到着しようとしていた。

 

もっとも、ここから乗り換えに次ぐ乗り換えと地方の路線バスも経由しなければならないため、まだまだ旅は始まったばかりなのであるが。

 

 

「よっ…こいせ」

 

 

下り階段に差し掛かるため、ユイはこれまで引きずっていたハルのキャリーバッグを片手で持ち上げ、一段ずつ確実に階段を下っていく。如何にユイとはいえ、重量のあるキャリーバッグを持ったまま長い下り階段を駆け下りることはリスクが伴う。

 

 

ちなみに、ここに至るまでの道すがら、ハルは何度かユイからキャリーバッグの奪還を試みたが、その悉くを防がれた。

 

 

そーっと取ろうとすればその度に気配を察知され、失敗。

 

 

「重いでしょ? やっぱ私が持つよ」、「別に」………失敗。

 

 

敢えて力尽くで挑み、全体重をかけて取ろうとして、当たり前のように大惨敗、ビクともしなかった、失敗。

 

 

にもかかわらず、ユイの歩行速度は変わらず、疲れた様子など欠片も見せない。むしろ挑んでは敗れるハルの方が息切れし始めたため、ハルはもう諦めてあの無駄に重たいキャリーバッグはユイに任せることにした。

 

力と速度…ようは身体能力が物を言う土俵で、自分がこの半人外な幼馴染に勝てることは恐らく一生ないなと痛感しながら。指相撲に腕相撲で挑んでも勝てる気がしない。

 

 

現在ハルとユイが下りている階段の先は、交通量の多い国道を歩行者が下から通り抜けられるよう作られた短めの地下道となっている。日が出ているうちは、小学生などの通学路にも指定されているこの地下道も、薄暗い真冬の早朝となれば、不気味さを感じさせるには十分な暗さだ。壁に取り付けられた白い蛍光灯がなければ、およそここを通ろうと思う人間は少ないに違いない。

 

 

 

「このままいけば、一駅くらい歩けば始発に乗れそうだね」

 

 

携帯の画面に表示されるデジタル時計を見たユイがそう口にした。同じように携帯の画面を見たハルもまた、同意見だ。

 

 

「うん。それから新幹線に乗り換えて…また電車を何本か乗り継いで…最後はバス…で行けるはず。…これ到着するの夕方過ぎだね…」

 

 

「ちょうどいいじゃん、ビジネルホテルかなんか取って少し休憩したら探索開始って感じで」

 

 

「到着してすぐ探索って……どんな体力してるの…」

 

 

長旅を終えて即座に夜の冒険(なお深い意味はない)に駆り出すほど、ハルの体力は多くはない。むしろ許されるならそのままベッドにダイブして休息に勤しみたい。

 

が、この旅の目的は街の全容を把握した後に然るべき処置をして、即座に帰還しなければならない。滞在期間が伸びる旅に、財布と帰還後のあれこれが重くなってしまう。

 

 

故に、到着次第すぐに行動を起こすのは決して間違いではない。むしろ可能なら夕方からすでにある程度のプランを練りつつ散策を開始することすら考慮に入れるべきである。

 

 

「普段から引きこもって本ばっか読んでるからじゃん、たまには運動したら? ていうか外に出たら?」

 

 

「失敬な、誰がヒッキーなのさ。外行くよ、お菓子買ったり本買ったりーー」

 

 

「ほら、外に出る動機が見事なまでに引きこもる準備段階」

 

 

「だからヒッキーじゃないしっ!!」

 

 

やいのやいのとした二人の声が下に見えてきた地下道に反響していく。当たり前の話だが、地下道に近づけば近づくほど、音はより狭い空間を反響し、反対側へと向かっていく。

 

従って、二人が降ってきた方とは反対の出口から発生する音もまた、同様に彼女たちが降りてきた方面へと反響していく。

 

 

カツンっ、カツンっ

 

 

硬質な、かつ規則正しい一人分の足音を、二人の耳が捉える。

 

 

 

「いやそれ大して変わんなーーーっ!?」

 

 

その反対からやってくる人物を見て、ユイの体は一瞬で凍りつく。

 

 

「…ユイ?」

 

 

先程までの雰囲気はどこへやら、目を見開き硬直する幼馴染の視線を追って、

 

 

「…っ!? …うそ…なんで…」

 

 

ハルの体も同様に、一切の動作を停止させる。

 

 

やってしまった。

 

 

この旅の難易度は、精々がベリーハード程度だと思っていた。見つからずに街を出て、事後報告をして、諸々を片付けた後に雷を食らう。その程度で、終わると見越していた。

 

 

しかしそんな二人の甘過ぎる見通しは、たった今、砂上の城の如く容易に崩れ去ることとなる。

 

 

「…まったく…冗談キツイって…」

 

 

ユイの頬を、一筋の冷や汗が伝う。『理不尽』、そんな言葉でしか表現できないほどの、いっそ挑むことが馬鹿馬鹿しくすら思えてくる絶対的な壁が、二人の前にそびえ立っている。

 

 

何故なら、

 

 

「こんな朝早くから、一体どこにいくのかしら? ハル、ユイちゃん」

 

 

白い蛍光灯に照らされた、一直線上に伸びた地下道。その真ん中に、一人の女性が立っていた。二人が最も恐れ、今だけは遭遇したくないと切に願った、最重要警戒人物。

 

 

長い薄金の髪で束ねた三つ編みを前に垂らした、妙齢の美女。

 

 

「もう一度聞くわ。()()()、行くつもりなのかしら?」

 

 

普段は細められている二つの瞳を開き、一切の笑みを消したハルの母親が、二人の進まんとした道の前に、悠然と立ち塞がっていた。

 

 

 

 

 




夜の話になる前段階が多すぎる←


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第3話: ぶつかる思い

名前考えるのに使った時間が執筆に使った時間よりも長い…


11月19日 活動報告を更新


天井付近の壁に取り付けられた白い照明、その光に照らされる地下道の中心に一人の女性が立っている。

 

 

膝下まである黒一色の高級感溢れるウールコート、袖と襟にそれぞれ取り付けられたファーすらも黒い。靴はコートと同色の編み上げブーツと、ここまで黒以外の色は見受けられない。

 

 

が、それを身に纏う女性の色はまさに真逆。束ねた三つ編みの髪は照明の安い光すら反射して輝く見事なまでの薄金、服の隙間から僅かに覗く白磁色の肌にはシミひとつない。さらには寸分たがわずに整えられた顔の黄金比と、服の上からでも分かる完璧なプロポーション。

 

 

まさに神の悪戯を体現したかのような女性が一人、硬直して動けないハルとユイの前に立っている、いや、立ち塞がっている。

 

 

「おかしいわぁ、返事がないわね。三回も私に同じ質問をさせるつもりかしら、二人とも?」

 

 

そう話す間の女性…ハルの母親は、ピクリとも笑わない。どんな時でも笑顔を絶やさず、淑女然とした普段の彼女の姿など、かけらも見受けられない。

 

 

ハルもユイも、ただ黙っているわけではない。動きたくても動けないのだ。指先一本どころか、唇すら思うように動かない。唯一いま動作確認できているのは、カタカタと音を鳴らす奥歯のみ。

 

 

先日のお説教など、比べるのも愚かしい。今のこの重圧に比するようなプレッシャーなど、怪異といえどそう易々と放てるものではない。

 

 

「…ど、どう、し…て」

 

 

震えながら、つっかえながら。ようやく絞り出したハルの一声は、ひどく弱々しく、触れれば即座に四散するシャボン玉のように脆いものだった。

 

 

「…質問に質問で返すのは好きではないのだけれど…。昨日の…というより数時間前のあなたとユイちゃんの会話を聞いていたから、よ」

 

 

その言葉に、ハルは奥歯を噛みしめる。震える体と止まりかけた思考で何とか打開策はないかと考えをめぐらしてみたが、打開策など一ミリも出てこない。言葉で誤魔化すのは、会話を聞かれている限り不可能だ。

 

 

では残るは正面突破しか残されていない。しかし、

 

 

 

「二人とも、すぐに回れ右して帰りなさい。今なら特別に、無断で遠出しようとしたことは不問にしてあげる」

 

 

(…だめ…正面からママに挑んだって…勝ち目なんかあるわけがない)

 

 

それは、限りなく、ではない。絶対に不可能だ。今まで娘として育てられてきて、近くで見てきたからこそ確信できる。今ここにいる母親に挑むことと、丸腰で山の醜神に挑むことは同義だと。それほどまでに、二人とこの母親との間には絶対的な戦力差がある。

 

 

「………」

 

 

しかし、思わず後ろに足が動きそうになるハルの脳裏に、あの夢がよぎる。霧に閉ざされた街並み、ハルに待っていると告げて消えた謎の少女。

 

 

たったあれだけなのに、あの街で再び何かが起こっていることなど容易に想像できてしまう。もしこれが全て偶然か何かで、実際には何もなかったなんてことであったなら、どんなに気が楽なことだろう。

 

 

しかし、そんなことはあり得ない。八年前の事件を体験したハルからしてみれば、これだけの予兆があって街は平和でしたなどと、そんな馬鹿げた希望的観測など出来るはずがない。

 

 

無視をするべきなのかもしれない、いや寧ろすべきだろう。例え夢で見た少女が本当にあの街でハルを待っていたとしても、それはハルが絶対にあの街へ行かなくてはならない理由にはなり得ない。

 

 

見たことも会ったこともない人間のために、自身の命と親友の命を賭ける謂れはない。心配する親の気持ちを無下にしていい理由には断じてならない。

 

 

その、はずだ。

 

 

(…でも…でもっ!!)

 

 

だが、ハルは知っている。人ならざるものに、運命を弄ばれる苦しみを。理不尽に奪われる痛みを、怒りを、悲しみを、誰よりも理解している。

 

 

もし、同じ苦しみを強いられている者がいるのなら。あの少女が、過去の自分と同じ境遇に陥ってしまっているのなら

 

 

「…助けてあげたい」

 

 

絞り出した思いの丈は、酷くか弱い。

 

 

「…ハル?」

 

 

ハルの隣に立つユイが、怪訝な眼差しを向ける。

 

 

「もし、あの子が私と…私たちと同じなら、助けてあげたいの…」

 

 

それでも、この気持ちを押し込めて、見ないふりをすることは出来ない。それは、他ならぬハル自身が、あの時した選択を否定することとなる。

 

 

八年前のあの日、神にすがってでもハルはユイを助けることを選んだ。理不尽な運命に、己の命を賭すことを代償に挑んだ。大切な親友を助けるために、何より、大好きな幼馴染が隣にいてくれる、自分自身の未来を勝ち取るために。

 

 

あの少女の声に応えられるのは、ハルしかいないのだ。ここで自身と同じ境遇に苦しむものを見捨ててのうのうと生きていくことは、ハルには出来ない。

 

 

「理不尽に奪われるのは、とても苦しいの、悲しいの。一人だけじゃ、何一つ出来ないの。だから、誰かの助けが必要なんだよ、最初に手を差し伸べてくれる人が必要なんだよ。私が…そうだったように」

 

 

ハルは、ユイを失ったこと過去の自分を思い出す。あの時、ハルができたことは、せいぜいが悔やみながら自分の愚かさを責めることだけだった。縁切りの神がハルの声を聞き届けてくれていなければ、恐らくハルは未来永劫その苦しみから逃れることは出来なかっただろう。

 

 

 

「全部私の妄想なら、ただの夢だったらそれが一番いい。でも、もしあの子が昔の私みたいに苦しんでるなら、助けてあげたい。今度は私が、手を差し伸べてあげたい」

 

 

押し寄せる恐怖を精一杯押しのけて、ハルは冷たい瞳のままの母親を見る。放たれる重圧と冷気が容赦なくハルの体を蝕む。足は竦み、心臓は爆発しそうなくらいに暴れている。

 

 

それでも、目だけは決して逸らさない。この思いは、決して口先だけの薄っぺらい正義感などではない。

 

 

臆病な心に誓った、自分との約束なのだから。

 

 

「…まあ、そんなことらしいので…。通らせてはもらえませんか? おばさん…いいえ、真愛(あい)さん」

 

 

ユイが一歩、まるでハルを背に守るように歩みでる。

 

 

「ユイ…?」

 

背中越しに戸惑うようなハルの言葉を受けながらも、ユイが見据えるのは立ち塞がるハルの母親…アイの瞳。鋭利な黒曜石のようなその瞳に気圧されそうになりながらも、無理やり足を前に向ける。

 

 

「分かってますよ、こんなことはしなくてもいいことだって。お母さんやアイさんに心配かけてまでやることじゃないってことくらい。…でも、それでも、今私がここにいられるのは、あの時そんなバカげた無茶をしたハルがいたからなんです」

 

 

父親からの虐待と、ハルの引越しという二重苦に挟まれていたあの時、悪戯に定められていた自分の死。そんな神に仕組まれた不条理を覆せたのは、臆病な幼馴染が絶望や悲しみを一身に背負い、それでも尚立ち上がり、手を伸ばしたからだ。

 

 

神にすがり、何度も挫けそうになりながらも、ユイの後ろにいる幼馴染は立ち上がることをやめなかった。片腕を犠牲に自分の魂を解放してくれた、自分を助ける為に、過去にまでやってきた。

 

 

きっかけは悲しみと諦めだったのかもしれない。それでも、根底にあったのはユイを思う心だ。

 

 

 

「だから、決めたんです。ハルがまた無茶をするのなら、私も隣にいるって。次は私が、助ける側になるんだって」

 

 

八年前の戦いだけではない。それ以前から、痛みと苦しみで満ちていた自分の世界で、唯一暖かさをくれた弱虫な幼馴染。明けない夜を歩きつづけるユイの隣で、生きる希望を持たせ続けてくれた、大切な幼馴染。

 

 

ハルが行くというのなら、例え地獄の果てだろうと一緒に行こう。そこにハルの成すべきことがあるのなら、どんな障害からも守ってみせよう。

 

 

そのために、この八年間、ひたすらに強くあろうと思ってきた。あの日、自分をひたすらに傷つけ追い詰めた続けた父親を、一瞬で打ち砕いた人物の…何より強いと確信できる一人の女性の背を追って。

 

 

「ハルのためなら私…アイさんとだって戦います。そこ、退いてください」

 

 

手にしていた全ての荷物を手放し、ユイは戦うための構えを取る。重心を落とし、左手と左足を前に、反対に右手右足はやや引き絞るようにして後ろへ。ずっと追い続けてきた女性に、今ユイは初めて拳を向けた。

 

 

「…あなたたちの気持ちはわかったわ」

 

 

娘たちの言葉を聞いたアイは、静かに瞳を閉じ、穏やかな口調でそう口にした。一瞬和らいだその雰囲気に、二人は胸を撫で下ろそうとする。

 

 

だが、

 

 

「でも残念ね。それは私がここを退く理由にはなり得ない…っ!」

 

 

直後、先程までとは比にならない重圧が二人体にのしかかった。まるで周りの重力が数十倍にも膨れ上がったかのような圧倒的なプレッシャーに、総毛立つような悪寒がするのに、汗腺からは荒れ狂ったかように冷や汗が噴き出てくる。

 

 

「ママッ!!」

 

 

「あなたたちにもあるように、私にも譲れないものがある。大切なものを守るためなら、私は悪魔にでもなってみせるわ」

 

 

娘の声に、母はただ親としての覚悟を示す。言葉の通りの悪魔、いやそれすらも上回るかのような鬼気迫る表情。二人が生まれて初めて目にする、アイの本気の姿。

 

 

想像を絶する、なんてものではない。もはや同じ人間という種を相手にしているとは到底思えないほどの図抜けた迫力だった

 

 

「あ、あはは…これ、コトワリ様とどっちが強いかな……」

 

 

前に立つユイが、冗談交じりに背中越しのハルに問いかける。正直、こんな冗談でも言っていないとすぐにでも膝が笑い出しそうほどにユイの足は震えていた。

 

 

どう考えても今の自分たちが…というより人が無手で挑んでいい相手な気がしない。いっそ記憶にある神々にちなんで鬼神だの魔神だのと表現した方がしっくり来そうなほどだ。

 

 

そしてもちろんそれは、ハルだって同じこと。

 

 

怒らせなくても怖い、怒らせたら全て終わり。ある意味天災のような母親が、怒るとか怒らないという感情論ではなく、文字通り()()で二人を止めに来ている。率直に言って、マッハで逃げ出したいところだ。

 

 

「…そこで引き合いに出されるのが神様の時点でもうなんか…ほんとになんだろうね、あの人は…」

 

 

ため息交じりに出た言葉は、おそらく震えていたことだろう。それでも、ここを避けて通ることは今更できない。

 

 

「じゃ、いっちょ挑戦してみますか。ハルは下がっててね、これは……私の個人的に超えたい壁でもあるから」

 

 

目一杯の強がりと、本当の気持ちを混ぜたユイの言葉に、しかしハルは首を振る。

 

 

「ううん、私の都合でこんなことになってるんだもん、私だって戦うよ。それに…守られてばかりなのは、嫌だから」

 

 

背中のリュックから()()()を取り出したハルもまた、ユイの隣に並び立つ。

 

 

「…まったく、ほんとに無茶ばっか」

 

 

「だね。でも、二人ならきっとやれるよ」

 

 

互いに苦笑を交えた二人は、今一度目の前に立ち塞がる人物へと目を向ける。まるでアイを中心に巨大な嵐か何かが荒れ狂っているかのような錯覚を覚える。

 

 

が、二人からしてみれば、いつも挑む相手は出鱈目なあれやこれ。街をうろつく怪異から山の悪神、低俗な犯罪者。その次が、単に最強最悪の超人外な目の前の女性だったというだけだ。

 

 

「じゃ、いこっか」

 

 

「…うん」

 

 

短い問いかけに、二人は頷きあう。ユイは拳を構え、ハルは両手に持ったそれらを背中に隠す。

 

 

「…ふぅ…」

 

 

 

ユイは目を閉じ、心の中で戦うためのスイッチを入れる。戸惑いはある、恐れもある、罪悪感だってある。それでもこの選択が、挑戦が、決して間違いではないと証明するために。

 

 

憧れた存在に、今の自分を全力でぶつけるために。

 

 

 

「…行きます…アイさんっ!!」

 

 

「全力で来なさい、悉くねじ伏せてあげるわ」

 

 

 

直後、ハルの目では到底追いきれないほどの速度でユイが疾走、その速度と力強く踏み込んだ左足の力を乗せた右の正拳突きと、無造作に放たれるアイの手刀が衝突。

 

 

自らの危険を承知で進まんとする娘たちと、それを阻まんとする母との…おそらく人類史の中でも最高峰に度を越した親子喧嘩の幕が、今切って落とされた。

 

 

 

 

 

 

 




少し短いですが切りがいいのでこれで( 。・・)/⌒

しかし話の流れが完全に出来損ないの少年漫画みたいになってきた…はやく街に行ってくれないかな←お前のせい(  '-' )=⊃)`Д゚);、;'


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第4話: 母と娘

お久しぶりでございます。時間が時間なのでとりま投稿をば…そしてやはり戦闘シーンは苦手ですね^^;

他が別に得意というわけでもありませんが…


 

 

衝突する拳と手刀。全力で踏み込んだはずの拳を片手で、しかも無造作に止められたというのにユイの顔に焦りはない。当然だ、この程度のことで驚いていたのでは埒があかないし、そもそも挑もうなどと思っていない。

 

 

突き出した右手を引き戻すと同時に、反動を用いて左足を軸に急速回転、遠心力を乗せた裏拳をアイの横面めがけて放つ。

 

 

が、この攻撃もやんわりと顔の横に置かれた手の甲で防がれる。手応えはある、ただ拳を打ち込まれた方の女性の膂力が並外れている故にユイの拳が軽く見えるだけだ。普通の大人なら当たれば脳が卒倒するほどの裏拳も、この異常としか言いようのない膂力の前では毛ほどの効果もない。

 

 

燃えるようなユイの瞳に、氷のように冷え切ったアイの表情が映る。

 

 

「やぁぁっ!!」

 

 

飛ぶようにバックステップした後、流れるような乱舞をアイに打ち込む。

 

 

 

左から始まる刺すようなワンツー、右の掌と甲で順に流される。

 

 

しなやかな両脚を交互に使った下段、中断、上段の高速蹴打。下段は膝で、中段と上段は腕でそれぞれが軽く受け止められる。

 

 

占めの大外回し蹴り、ユイの動きに合わせアイも自ら回転、黒い旋風のような回し蹴りがユイの踵部分を正確に打ち据え、蹴りそのものが相殺される。直後、僅かによろめいたユイの首筋目掛けて居合抜きのごとくアイの手刀が迫る。

 

 

「ぐっ!?」

 

 

間一髪、ユイは後ろに仰け反ることで迫り来る刃を無理矢理に躱す。代わりに手刀が命中したと思われる自身の焦げ茶色の髪が、数本眼前を舞う。まるで空気そのものすら断ち切らんばかりの威力、いや鋭さだ。

 

 

(いやいやっ!? 当たったら私の首飛んでない!?)

 

 

そんなユイの内心などまったく省みることなく、追撃で放たれた黒い中段蹴りが剛風を纏いながらユイの脇腹に迫る。考えなくてもわかる、あんな蹴りをまともに貰おうものならその瞬間にゲームオーバーは必至だろう。

 

 

「せいっ…やぁっ!!」

 

 

ならば、受けなければいい。気合いの掛け声とともにユイはその場で重心を前に寄せつつ飛び上がり、宙空に体を残したままに回転を加えた回し蹴りを放つ。格闘世界の空中殺法が一つ、ローリングソバットと呼ばれる技だ。

 

 

余談だが、本来この空中殺法は自身に向かって突進してくる敵に対してのカウンターが主であり、至近距離から放たれる中段蹴りを回避するために使われることは全くと言っていいほどにないし、ましてやろうとして出来る芸当でもない。

 

 

が、そんな破天荒に繰り出されたユイの回避と合わせた攻撃を、さらに破天荒な手段でアイが迎撃する。アイは瞬時に振り抜いた右足の爪先を下に向け、踵を振り上げるような歪な蹴り上げをもってユイの空中殺法を相殺。

 

 

「うっそ…っ!?」

 

空中で下から掬い上げるような力を加えられたユイは、その勢いを利用し、バク宙…とうよりもはやサマーソルトのようにして後方へなんとか着地、アイはというと、欠片ほどのブレもなく振り抜いた足を地に戻し、最初の体制へと戻っている。

 

 

「ユイ…平気?」

 

 

ユイの背中越しに、心配げなハルの声がかかる。もちろん平気なわけがない、生半可な運動ではビクともしない己の心臓が、たったこれだけの時間でけたたましく早い鼓動で暴れまわっているのだ、本来なら戦略的撤退っというやつを使う場面である。

 

 

「平気なわけないよ。でも、やるしかないでしょっ!!」

 

 

叫び声とともに、再びユイが佇むアイに肉迫する。これ以上ない苦渋の策だが、ユイの後ろにはハルがいる。対人戦はおろか真っ当な運動ですらやっとと言った程度の身体能力しかないハルでは、アイを前に数秒と持たない。

 

 

故に、ユイはひたすらにアイに突貫し続け、アイとハルの距離を守らねばならない。ハルが両手に持ったものがどのようなものかわからないが、使わないということは、今はまだその時ではないということだ。

 

 

なら、その時を作らねばならない。無茶でもなんでも、目の前の超人外な女性の隙を、突破口となり得るチャンスを。

 

 

(それで失敗なんかしたら、承知しないからね)

 

 

やれやれと言わんばかりに心の中でため息をつきながら、ユイは左脚を踏み込み、再度右の拳で正拳突きを放つ。狙いはアイのほっそりとした腹部、そのど真ん中。

 

 

威力、速度、ともに最高峰。少なくても女性かつ十代の少女が放てるものとしては規格外の一撃だ。常人はおろか、生半な武道家でも防ぐことは叶わないだろう。

 

 

だが、今回は相手が悪い、悪過ぎる。威力と速度が存分に乗ったその一撃を、アイはその場で()()()()()。片手で、いなすこともなく、僅かな体幹のブレもなく。

 

 

「…強くなったわね、ユイちゃん」

 

 

「あはは……まっったく説得力ないです」

 

 

拳を受け止められたままかけられる言葉に、苦笑いが込み上げてくる。いっそどの口が言うのだと吠えてやりたい。

 

 

「いいえ、本当に強くなったわ。空手を始めてまだ数年程度、と言うのも考慮すれば素晴らしい才能よ。まだまだ、ユイちゃんは強くなれる。力も、そして心も」

 

 

 

拳を引き抜こうにも、セメントか何かで固められているかのごとくビクともしない。かといって無理に力を込めれば反動を利用されてドカンっ、と言うことになりかねないため、ユイはおとなしく適度に力をこめつつ精神を張り巡らせるしか択がない。

 

 

「けれど…」

 

 

 

瞬間、固められていた手が離される。まるで羽毛の如くやんわりとした感触に、研ぎ澄ましていたはずの精神が僅かに揺らぐ。

 

 

(…っ!? しまっーーー)

 

 

 

「まだまだ脆い」

 

 

一瞬という言葉ですら表せない、瞬きよりも短かな時。隙というにはあまりに些細なその刹那、それだけで十分だった。ユイの視界に佇むアイの姿が()()()

 

 

 

直後、

 

 

「かっ……はっ…!?」

 

 

見えた時には遅かった。感じた時には終わっていた。首筋に打ち込まれた一筋の手刀、腹部を打ち据える一度ではない掌打。その痛みを超えた重撃が、全て同時にユイの内部を駆け巡る。

 

 

 

「だめよ、それでは」

 

 

 

ガクン、っと。絶句するハルの先で、ユイの体が膝を折る。

 

 

 

「挑むのなら、瞬きの間も惜しみなさい」

 

 

 

アイが一歩を踏み出し、その隣でユイの体が完全に地に沈む。

 

 

 

「常に意識を張り続けなさい」

 

 

アイがさらに一歩を踏み出す、ハルへと…ただ立ち尽くす娘へとゆっくりと近づいていく。ユイに用いた絶速とは対照的に、その速度はあまりに緩やかで、それでいて重い。

 

 

「勝つことだけに執着しなさい」

 

 

カツン、カツン。ブーツの踵がアスファルトを踏み鳴らし、地下道を馳けて消えていく。一つなるたびに、絶対的な敗北がハルに近づいていく。

 

 

「一矢報いれば、なんて甘い考えは捨てなさい。そんな半端な覚悟で私の前に立っている時点で、あなたたちの負けよ」

 

 

アイはゆっくりと歩く。その先にいるのは、ただ目の前の出来事にただ呆然と立ち尽くす愛娘。

 

 

「……………」

 

 

「諦めなさい、ハル。勝つ以外の道を探しているような脆弱者が、あの街の夜を耐えられるはずがない。貴方達がそんなつまらないことで命を粗末にすることを、私は絶対に認めない」

 

 

ハルの数歩先で、アイはその歩みを止める。俯く娘を、母はただ冷たい瞳で静かに見つめる。力の差は歴然、比べるだけ無駄だ。この母親は、人類種が無策に挑んでいい相手ではなかった。

 

 

(…そっか、ママも知ってるんだ、あの街の異常さを)

 

 

言葉の意味から、ハルは確信を得る。母もまた、大なり小なりあの街の夜の異常性を把握しているのだ。

 

 

「…ママも知ってるんだ、あの街がおかしいって」

 

 

「なんとなく、ね。姿形が見えなくても、異常性をはらんでいることぐらいは感じられるわ」

 

 

つまり、実際に街に潜む怪異や神々を目にしたことはない、ということか。五感を用いず、第六感だけでそれらを感じることが出来ることは、素直に驚くこと所か、はたまたこの母親ならそれくらいは、と割り切るべきか。

 

 

 

「それがわかってて、ママは止めるの?あの街で、助けを求めてる子がいるってわかってて、ママは私たちを止めるの?」

 

 

顔を上げた娘の言葉に、どこか突き刺すような言葉に、しかし母は毅然とした氷のような表情は崩さない。

 

 

「そうよ、例え一つの命を見捨てることになったしても、私はあなたたちを止める。非情と蔑まれようが、人殺しと指を指されようがようが構わない。貴方達という大切なものを守るためなら、私はどんな蔑みも誹りも、怨嗟の声も甘んじて受け止める」

 

 

アイの覚悟は揺るがない。ハルがいくら言葉を重ねようと、もうこのどこまでも娘思いの母の心は動かないだろう。それほどまでに、アイの覚悟は重く、硬い。

 

 

彼女の言葉を、非情というのは簡単だ。冷酷と蔑むことも出来るかもしれない。だがそんなことは、アイ自身が一番よく分かっている。だが、これが最善なのだ、これ以外に道はないのだ。

 

 

彼女は自覚している。あの街に潜む()()、姿形は見えず、音もなく、だが確かにそこにある害ある者たち。

 

 

その者たちに、自分は()()()()と。いくら力があろうと、見えず聞こえず触れられもしない存在が相手では、手の打ちようがない。

 

 

どれだけの膂力があろうと、縮地の域に達した速度があろうと、アイはただの()だ。物理的に接触する手段がない脅威から娘を守るには、遠ざけるしかなかった。

 

 

「行かせないわ、絶対に。あんなに…あんなに貴方達を痛めつけた街に…私が守ってあげられなかった街なんかに……二度と足を踏み入れさせはしないっ!」

 

 

 

「……っ!」

 

 

初めて見た。母が、こんな大声を出す姿を。初めて見た、母がこんなにも怒りを露わにする姿を。初めて見た、ハルにでも、ユイにでもない、自分自身に怒りをぶつける母の痛々しい姿を。

 

 

「…そっか…。ママも…辛かったんだ…」

 

 

己の無力を呪い、行き場のない怒りに身を焦がれたのは、アイも同じだった。なぜ気づくことができなかったのか、これほどまでに娘を愛してやまない母が、危険を犯そうとする自分たちを止めないはずがない。

 

 

 

「…でもね、それなら尚更だよ」

 

 

だからこそ、ハルの心また決まった。母の気持ちはわかった、痛いほどに胸に響いた。愛されているのだと強く感じられた。

 

 

だからこそ、()()()()()()()()

 

 

「助けてあげられないって気持ちを、ママは知ってるのに…苦しんでるのに手を差し伸ばしてあげられない苦しみを知っているのに…それを無視しろっていうの? そんなの…そんなのおかしいよっ!!」

 

 

「…っ!?」

 

 

ハルが初めて見たように、アイもまた初めて目にする。ハルが、自分に向かって強い怒りを表す姿を。娘が発する怒号に、向けられた烈火のごとく怒りに、アイは生まれて初めて足を竦ませた。

 

 

 

「私は、あの子を助けてあげたい。手を差し伸べて、大丈夫だよって言ってあげたい。理不尽から救ってあげたい…あの日、ママが私たちにしてくれたみたいにっ!!」

 

 

「…ハル……」

 

 

なぜ、とアイは問いかける。他でもない、自身の体に。己の力をもってすれば、ハルの意識を刈り取り目的を達するのはあまりに容易い。並外れた身体能力と戦闘力を保持するユイですら羽虫のごとく圧倒できる自身の力ならば、対人格闘能力などかけらもないハルを眠らせることなど、息をするより容易なはず。

 

 

 

それなのに、アイは動かなかった。それが何なのか、彼女には分からない。戸惑いなのか、迷いなのか、それとも他の何かなのか。理由をはっきりと言葉にすることは出来ない。

 

 

だがこの隙が、意図せずして作られたこのアイの停止した一時が、勝負を分けた。

 

 

 

「だから勝つよ、ママ。卑怯者って言われてもいい、友達を利用する酷いやつって思われてたって、親不孝だって罵られてもいい。そういうの全部受け止めて、前に進むよ。…だって私は…誰よりも強くて、誰よりも優しい…ママの娘だからっ!!」

 

 

直後、ハルは手に持っていた()()を投げる。アイに向かって、正確にはアイの横…彼女の形のいい耳元に向かって。

 

 

(…スマートフォン…?)

 

 

自身に向かって投擲された薄型の携帯電話に対し、アイの取った行動は静止。投げたとはいえアイの目からしたら欠伸が出るほどに遅く、そもそも動かずとも体にあたることすらない。

 

 

だが、この油断が、最強最悪を誇る彼女の絶対的な仇となる。

 

 

 

ドーーーーーーーーーーーーンっ!!!!!!!!!

 

 

「なっ!!」

 

 

直後、アイの耳元で鳴り響く爆音。まるで大砲を打ち出したかのような大音量が鼓膜を殴りつけ、地下空間を駆け巡り連鎖的な爆発音を作り出す。

 

 

思わず両手で耳を覆うアイ。見ればハルもまた同じように顔をしかめてはいるものの、予め対策をしておいたのか両耳を塞ぐほどではない。

 

 

 

「これもっ!!」

 

 

続けて、ハルはポケットから大量の爆竹を足元に落とし、それら全てを纏めて踏み抜く。

 

 

 

パンっ!!パパパパパンっ!!バンバンバンバンっ!!!

 

 

 

「…この…っ!?」

 

 

立て続けに起こる耳障りな爆発音。アイは未だ大打撃を受けた聴覚を守るために両耳を塞いでいた。そんな彼女が背後に感じる、僅かな空気の乱れ。

 

 

 

「小賢しいっ!!」

 

 

反射的に、片手を風を乱したであろうものの正体…その首があるはずの高さめがけて振り抜く。その一撃は人が繰り出すにはあまりに早く、鋭すぎる。風すらも断ち切らんとする刃は、しかし空を切った。

 

 

 

「っ!?」

 

 

振り向いた先に目に移ったのは、僅かに頭を低くしたユイの姿。ユイは信じていた、咄嗟に繰り出すならば、蹴りでも掌底でもなく、もっとも予備動作を必要としない一撃、即ち首への手刀であると。

 

 

だがらこそ、予め頭を低くして走った。見てから反応するには、今の自分では遅すぎる。だから避けた、予め()()()()()()()()()走った。

 

 

見てから避けるのも、避けてから反撃するのも不可能。だから、繰り出される前に避けて、空いた時間は全て力を込めるのに費やした。頭を低くして、獣のようにして駆け、その全てを拳に乗せる。

 

 

戦いにおける先の先ですらない、読み合いそのものを放棄した、なり振り考えずに放つまさに乾坤一擲の一撃。

 

 

 

「はぁアぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 

怒号とともに、溜め込んだ全ての力を一点に注ぎ込む。抉り込むようなユイの右拳が、アイのほっそりとした腹部の中央を穿った。

 

 

 

「ごふっ!?」

 

 

苦悶の声とともに、体をくの字に折ったアイが後方へと転がる。立ち上がろうとするも、至近距離から鼓膜に衝撃に加え腹部への一撃から、その姿は先程の整然としたものではなく、手負いの獣のように荒々しい。

 

 

 

「…今のは…流石に効いたわ…」

 

 

 

荒い呼吸で片膝をつくアイの目線の先には、同じく腹部を抑えて立つユイの姿。

 

 

「…一瞬で気絶されられたと思ったら爆音アラームがして? 明らかにここしかないみたいな状況での全力パンチですから、少しくらいはそうでないと困ります」

 

 

そう、これがハルが勝つために編み出した策にして、ここ一番の大博打。ハルにとっても、これは使いたくなかったものであり、使う予定もなかった、正真正銘の最終手段。

 

 

使用条件は、()()()()()()()()()()()()()()()()。正面からアイに勝つことは土台無理な話だ。そんなものは風車に向かって凸込んだドンキ何某の如く。

 

 

だが、説得が通用しないのならば、ここを通る最低条件はアイに勝つこと。そのためにはアイの隙を作らなければならないが、それ自体が普通に戦えば無理難問。

 

 

しかし、唯一あったのだ、アイの油断を誘うことのできる、ほんの一雫の可能性が。その条件が、ユイが一度アイに敗れること。

 

 

いくらアイでも、意識を失った相手をいつまでも気に留めはしないだろう、そんな希望的観測に賭けた、策とも呼べないタチの悪いギャンブルだ。だが、この作戦の一番忌むべき点はそこでない。

 

 

この策のもっともな博打要素にして忌むべき点、それはハルが倒れたユイをもう一度起こす、という点。しかもその手段は耳障りこの上ない爆音ボリュームによる大爆発。

 

 

傷付き倒れた親友を、まるで捨て石の如く扱い、そして無理矢理戦わせるような策。もちろん考えたくて考えついたものではない。

 

 

 

「…ユイ、その…ごめんなさい」

 

 

けれど、こうでもしなければ、この人外極まりない母親に勝つことなど不可能だ。そうまでしても、勝たねばならなかった。自分の考えを、この母に通すためには。

 

 

「パフェね、パフェ。アイスとかプリンとかが山盛りになってるでかいの。それで手打ちにしてあげる」

 

 

やんわりと微笑む幼馴染に、ハルはため息混じりに頷いた。どうやらこの旅は、随分と自分の懐に対する当たりがキツイものらしいと感じながら。

 

 

 

「まだよ…この程度で…私に勝ったつもり…?」

 

 

 

娘二人に挟まれたアイが、未だフラつきながら立ち上がる。たしかに、アイならばまだ戦闘続行は可能かもしれない。だが、明らかに平衡感覚は戻っておらず、腹部のダメージも抜けきってはいない。

 

 

有り体に言って満身創痍だった。戦えるといっても、少し時間が経てば、という話だ。その相手がユイならば、些か厳しいと言わざるを得ない。

 

 

「やめてください。今のアイさんになら、多分私でも勝てます。こんな形にした私が言うのもおかしな話ですけど…今回は私たちの…いいえ、ハルの勝ちです」

 

 

 

それでも、アイは荒い息を吐きながらフラフラと立ち上がる。体を動かすのは最早気力と信念のみ。何に代えても娘たちを守らんとする、強き母の執念だった。

 

 

 

「……はぁ…はぁ…っ…行かせない、絶対に…っ、貴方達だけは…何があっても守り抜く…っ。こんな…こんな程度で私がっーーー」

 

 

 

「…ママ…」

 

 

引きずるようにして腕を振り上げるアイ、そんな母の痛々しい体を、娘が優しく抱き締める。

 

 

「…ハル…?」

 

背中に感じる暖かさに、アイの瞳が揺れる。久方ぶりに感じる娘の温もりは、執念に燃える母の心の火を一瞬で宥めた。

 

 

 

「大丈夫だから。私たち、もう大丈夫だから。ちゃんと帰ってくるよ、ママとパパの所に。約束する、あの子を助けて、二人で無事に帰ってくる」

 

 

振り上げたアイの腕が、ゆっくりと落ちる。呆然と佇むアイの体を、あれほどまでの身体能力を見せたアイの身体は、ハルが思っていた何倍も華奢でガラス細工のように儚かった。

 

 

「心配しないで。私たち、ママも知らないくらいに強くなったんだよ。だから、大丈夫、私たちを信じて。こんなに傷付けて…迷惑かけて、本当にごめんなさい。……ありがとう…大好き、誰よりも強くて、綺麗で、優しい…私のママ」

 

 

「……ハル…っ」

 

 

振り向いたアイもまた、娘を優しく抱き締める。久しく感じることのなかった、淡い熱が頬を伝う感触とともに、彼女は互いに娘と温もりを分かち合う。

 

 

 

何より強く、だが何より娘を失うことを恐れた母の心は、長い時を経てようやくその枷より解き放たれた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

"三日よ、それ以上過ぎたら承知しないわ"

 

 

 

その言葉とともに、アイは地下道を去っていった。

 

 

「うはぁ…もうラスボス終わった気分」

 

 

ヘナヘナ〜とその場に座り込むユイ。もっともだ、間違いなく一番消耗したのはこのやられて起き上がり必殺を叩き込んだ少女だろう。

 

 

「じゃあ帰る?」

 

 

「冗談」

 

 

揶揄うようなハルの言葉に、ユイは勘弁してと言うように苦笑する。

 

 

 

「あんなアツーい親子愛見せられてのこのこ帰れるわけないしょ。やってやろうじゃん、アイさんより強い怪異なんているかっての」

 

 

 

「…あー…あはは…」

 

 

ハルは未だ涙の名残のある表情がヒクつくのが分かった。あの母親より強い…控えめに言ってもシャレにならない。

 

 

「んじゃ行きますか。早いとこ行ってエネルギーを補給しよう、具体的に言えば駅弁とか食べたい」

 

 

「…私も、ドーナツとか食べたいな」

 

 

 

予想だにしないボスエンカウントを終えた二人は、既に疲れが色濃い体を引きずるようにして歩き出す。相変わらずハルの重たいスーツケースを巡ってやいのやいのと騒がしいことこの上ない二人の旅路は、まだ始まったばかり。

 

 

これから二人が目指すは、数多の怪異が跋扈する異常の街、夜を支配された面妖な地。それでも、二人の心に不安はない。

 

 

約束をしたのだ、無事に帰ると。最強を乗り越えた二人の心に、不安などあるはずがなかった。

 

 

 

(絶対に、無事にかえるよ。だから安心して待っててね、ママ、パパ)

 

 

 

母の温もりが残る掌を握りしめて、ハルは地下道の外へと踏み出す。空の端から漏れ出した緩やかな光が、二人が歩む道をひっそりと照らし出していた。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

支配された夜が明けかけた街の一角に、()()()はいた。昇り出した太陽から逃げるように、彼らはそこへと集まってくる。暗闇の中で羽虫が光にたかるように、彼らは光から逃げるために影は影へと蠢く。

 

 

「…よしよし、そんなに慌てなくても大丈夫だよ?」

 

 

そんな彼らの中心に、少女が一人。少女は恐ろしいものから逃げてきた彼らを、まるで幼子のようにしてあやす。白い左手でさするようにしてやれば、彼らはたちまち大人しくなる。奇しくも、母に甘える赤子のように。

 

 

「…ねぇ、楽しみだね、もうすぐ会えるんだよ」

 

 

誰に言うでもなく、彼女は呟く。周りの彼らに言っているわけではない、彼らは人の言葉を解さない。ならば、

 

 

 

「うん、楽しみ、とっても楽しみ。早く会いたいな……あなたもそう思うでしょ? ねぇ、()()()?」

 

 

 

少女の視線の先には、まるで宙空に磔にされるようにして縫いとめられた一柱の神。赤黒い靄を握りしめるような、巨大な青白い人の腕。

 

 

 

「ああ……早くおいでよ、そうしたら…きっと楽しいよ」

 

 

 

陶然と頬を染める少女は、右手に持った()()()()()を撫でていた彼らの一匹に突き立てる。

 

 

 

"っ!?!?!っ!!??!?"

 

 

 

言葉にならない悲鳴を上げて、それは霧散する。だが、少女は気にも留めない。今の少女にとって、そんなことは至極どうでもいい。

 

 

「…ほんとうに…ほんとうに、会えるのが待ち遠しい。あなたたちもそうでしょ? ねぇ…ハルちゃん、ユイちゃん…?

 

 

 

あははは…くふふ…きゃはっ…あは…あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!」

 

 

 

夜明けの街の一角に、少女の狂笑が響き渡る。そんな少女の姿に、彼らもまた声なき笑いをあげる。()()()()で左眼があるはずの場所を覆った少女は、来るべき待ち人の到来を前に、ただひたすらに笑い続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




もはや話のコンセプトが行方不明←


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第5話: 夜を狩る者

大変遅くなりました…


 

 

黄昏時を終え、魔の夜を迎えようとする街の一角。そこに二人の少女がいた。焦げ茶色のポニーテールと薄金の三つ編みというそれぞれ色合いの違う髪を靡かせた少女たちは、八年ぶりに帰郷した故郷に想いを馳せてーーーー

 

 

「というわけで久しぶりかつできればこれが最初で最後にしたい里帰りにやってきたわけだけど、ぶっちゃけどうすんの?」

 

 

 

はいなかった。

 

 

様々な感傷やら思い出やら込み上げてくる何かなど、微塵も感じない幼馴染の言葉に、と言うよりかはそのテンションに思わず出鼻を挫かれかける。帰って…きちゃったね…的なちょっとナイーブっぽい何かなど、コッパミジンコである。

 

 

「え、えっと…うん、そうだね…」

 

 

事前に組み立てておいた骨子が崩れるのを必死に食い止め、ハルは思考を回転させる。

 

 

地下道における母との大激戦を皮切りに、なんて恐ろしい流れもなく、二人はとりあえず無事に当初の目的地であった二人の故郷であるこの街に到着した。

 

 

もっとも、市営の地下鉄を乗り継ぎ、新幹線に乗り、地方鉄道に乗り、宿泊地として隣町のビジネスホテルに荷物を置き、さらにそこから路線バスをあっちこっちに乗り継いでようやくこの街にたどり着く頃には、既に日は傾き夜の帳が今にも降りて来そうな時間になってしまった。

 

 

あと駅弁美味しかったとはユイの言葉。

 

 

そして、新幹線内でのり弁、揚げ物弁当、とり飯の三冠制覇を成し遂げるのはやめて欲しかった、周りの視線がふわふわしたものから段々と見てはいけないものを見るような目になっていくのを感じてなんとも言えない気分になるのだから、というのがその時のハルの心の声。

 

 

閑話休題(それはさておき)

 

 

 

「夢で見たあの子を見つける。とにかく話はそれから」

 

「つまり、明確な目的地はないと?」

 

「オーイエス…」

 

 

正直なところ、ハルと夢で見た少女との接点など無いに等しい。夢で見た人間を探すこと自体が雲を掴むようなことと同義である以上、明確な探索範囲などありはしない。せいぜい、ここら一帯虱潰し握り寿司である。

 

 

「…まあ、そんなことだろうとは思ったけどさ」

 

 

はぁ、などとワザとらしく肩をすくめながらため息をつく幼なじみの姿に、ハルの華奢な肩身がさらに狭くなる。

 

 

「ならさ、とりあえずお参り。いこっか」

 

 

どこの、と言わなくても分かる。わざわざこんな妖怪横町のような街で参拝すべき神がおわす神社など、ハルは一箇所しか思い当たらない。どのみち、その予定でもいたのだから、ユイの言葉に異議があるはすもない。

 

 

「うん、安全祈願しにいこ」

 

「いや、笑えないしそれ」

 

 

西の空がまだ僅かに陽をのこすなか、二人はかの神がおわす神社、つまりはその境内であるあの山へと歩き出す。距離にすれば徒歩数分といったところ、夜の帳が下りる秒読み段階のような町並みの中を、肩を並べて歩む。

 

 

二人の間に会話が行き交う。弁当食べ過ぎだの、開幕からラスボス級に当たったのだから妥当な補給だの、カロリーがどうだの、食べた分は消費すればいいだの。あと僅かで魔の夜がやって来るとは思えないほどの和気藹々とした声が二人の間を行き交っている。

 

 

だが、二人は互いに理解している。これは、半分以上は強がりだと。やがて来たる夜に屈しないという自己暗示を含めた空元気。もしかしたら、夜になっても何も起きないかもしれないという甘い希望を抱きつつ、二人は普段通りの明るい雰囲気を維持しながら進んでいく。

 

 

しかし、現実とは常に人の想像を超えていくもの。それが良いものであれ悪いものであれ、だ。そして、今回は残念ながら悪い意味で、現実は二人の想像を遥かに上回ることとなる。

 

 

甘い目測とは、夜になっても街に怪異はおらず、なんの障害もなく謎の少女を見つけられること。

 

 

想定通りならば、夜になれば数多の怪異があいも変わらず街を闊歩しており、その中でヒントなく少女を探さねばならないこと。

 

 

しかし、

 

 

「……うそでしょ…なんなのよ…これ」

 

 

現実は、彼女たちの想定した遥か上にあった。それを目にしたユイの第一声に、驚愕以外の感情は見当たらない。

 

 

二人の前には半壊した社があった。いや、半壊しているだけならいい、それなら以前と差異はない。だが、八年前に既にボロボロになっていた社には、明らかな破壊の後が残されていた。支柱は折れ、賽銭箱は直線上の後方の社部分そのものと共に消失。屋根は崩れ落ち、境内の木々は乱雑に犯され大小様々に真っ二つにされている。

 

 

「…考えたくないけど…」

 

 

ハルの沈痛な声音が、蹂躙された境内の様子を物語っている。考えたくはない、だがこの光景が現実ではあるならば、答えなど自ずと絞られる。即ち。

 

 

「…コトワリさまに、何かあった。もしくは…」

 

「もしくは死んじゃった、とか?」

 

 

投げやり気味に投じられたユイの言葉を、しかしハルが否定することはなかった。むしろ端正に整ったハルの表情がさらに沈痛になるばかり。

 

 

「ユイ、ごめん。多分、この街でまたよくないことが起こってる、そしてそれは…多分八年前の時よりさらにひどいことなのかもしれない」

 

「だろうね。コトワリさまの神社がこんなことになるんだもん、それはそれはヤバイのが出てるでしょ。で、そんな時にハルの夢に出てきた女の子が無関係とは思えない、そうでしょ?」

 

 

ユイの問いかけに、ハルは無言で首を縦に降る。神の次元などそうそう察することのできるものではないが、かの縁切りの神の力はハルもユイも身を以て知っているし、目にしている。あの神を祀る神社をこうも蹂躙できる存在など、正直考えたくもない。

 

 

さらには、そこに示し合わすかのように現れた謎の少女。いや、少女とは断定できずとも、それに類する夢ならばハルは数度経験している。もし、少女と目の前の光景が関係しているのなら、事態は既に二人の想像よりずっと深い場所にまで行き着いているのかもしれない。

 

 

「それで、これからどうするの?」

 

「一時撤退、流石に想定を超え過ぎてる。街から出て、最悪ヒッチハイクしてでもホテルに帰る。お昼に人に聞き込みして女の子の情報を集める。コトワリさまですら手に負えない怪物がいるかもしれないなかで、夜にこの街を出歩くのは危険すぎる」

 

 

 

戦略撤退、それがハルの出した決断だ。だが仕方のないことだろう、あまりに状況が読めなさ過ぎる。少しめんどくさい人探しが一転、いつぞやかそれ以上に危険なデッドオアアライブな自体の真っ只中。

 

 

何か起こってるのだろう、とは想像していた、この街に呼ばれた以上はその手の事態に巻き込まれる覚悟はあった。ただその事態というものが、二人の、ハルの想定を遥かに上回る程に悪化していただけの話。

 

 

だが、悪い流れというものは得てして続いてしまうもの。蜘蛛の巣に囚われた蝶に抜け出す術がないように、危険と分かっていて自ら足を踏み入れた愚か者を、この街の夜がそう易々と逃すはずはなく。

 

 

「了解、ならとりあえずはここをーーっ!」

 

 

時すでに遅し。二人の背後、即ち退路に続く道は、既に夜の刺客により塞がれていた。赤みがかった不気味な人影、それが合計五体。振り向いた二人を逃がさんと取り囲み、徐々にその半円を狭めてくる。無論、触れられたりなどしたら碌なことにはならないだろう。

 

 

「はっ! もう遅いってさハル」

 

 

影を()()()()べく、一筋の冷や汗を頰に伝わらせたユイが即座に重心を落とし拳を構える。本来ならばありえない、人は怪異には決して勝てない。人ならざる助力なしに、怪異に抗うことは能わず。如何に人が人として待つ力を高めようと、極限の先に達する者であろうとそれは変わらない。ユイをして化け物だと断ずることの出来るあの女性であっても、生身だけで怪異に勝つことは絶対に不可能だ。

 

 

だが、

 

 

「…やっぱり、そう上手くはいかないよね。なら…お願い、ユイ。ぶっつけ本番になるけどーー」

 

 

 

それは人ならざる助力がなければ、の話。

 

 

ここに、一つの仮定を提示しよう。まず前提として、怪異なる尋常ならざる存在は実在している。そしてこの怪異の存在を認識出来るのは限られた人間のみであることもまた、事実だろう。

 

 

全く認識できない者、アイのように姿形は見えずとも朧げにその存在を認識出来る者。

 

 

そして、ハルやユイのように、確かな視覚、聴覚情報にて怪異を認識出来るもの。もしふたりのようなものが多数派ならば、今頃世の中ではお化けだの心霊だの言ったものはここまで世の中で騒がれるものではないだろう。もしくは既にバイオでハザードな場末である。

 

 

つまり、人によって怪異を認識出来るレベルは異なるということ。そして、怪異がどのようにして人を害すのか、それは彼らの動きを見れば明らかだ。()()()()()()、これの他には考えられない。

 

 

つまり、怪異とはたしかにそこに存在しているものであり、物理的な接触を持って人を害することを試みる存在だということ。

 

 

で、あるならば。怪異から人に物理的な接触を図ることと同じく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、怪異を退けることが出来るのではないか。と言うよりも接触した際、その瞬間に怪異の害する力を無効ないし上回ることが出来れば、打ち勝てるのではないか。

 

 

怪異などという人を害する存在があるのなら、怪異を害する人ならざる存在もあるだろう。そしてそれは、既にこの世に姿を見せている。お化けと呼ばれる眉唾物の答えが怪異であるならば、そのお化けに効果覿面だと風潮されているものもまた真実である…と思いたい。

 

 

この、理論然としていながらその実屁理屈まみれの科学のかけらもない考察を元にハルが手ずから生み出した努力の結晶。逃げるのではなく、打ち勝つために。

 

 

「上等っ! どのみちやるしかないでしょっ!」

 

 

直後、迫る怪異の頭部だろう部位に、ユイの渾身の右ストレートが()()()()()

 

 

"……っ!?…"

 

 

驚愕しているだろう同類を残して、頭部を貫かれた影はその場で霧散する。そして拳を振り抜いた故に怪異に触れたユイは、無傷である。

 

 

「うん、いけるね。これ」

 

 

そう言ってユイが見つめる彼女の両手は、指先を僅かに残して隙間なく包帯に覆われていた。ジャケットに隠れて見えないが、肘の下辺りまで同様に覆われている。

 

 

勿論、ここにくる前に大怪我をあったわけでもなければ、元からしていたものでもない。

 

 

これこそ、ハルが考えに考えを重ね、家族の目を盗みながら必死に作り上げた至高の一品。通称『清めの塩水with包帯』(仮)。本来、包帯とは決して濡らしてはならない医療具である。が、これはそのモラルに反し水、それも塩水に浸して作られたトンデモ品である。

 

 

勿論これは傷口を保護する目的で使われるものではない。これは巻かれた部位を守るための柔らかな鎧。ハルがわざわざ現地まで足を運び購入した良い意味での曰く付きな清めの塩を水に溶かして染み込ませた、対怪異用の決戦兵器である。

 

 

理論上(?)ならば、これを身につけていれば通常の打撃技が怪異に届く…はずであるとして作り上げられたこの一品、身に付けるのは勿論ハル本人ではなく、並外れた運動能力と格闘術を駆使するユイである。

 

 

しかして、ハルの屁理屈論にしてほぼほぼ願望なそれは叶うこととなり、至高の兵器は見事に怪異を打ち破り、また使用者を完全に怪異から守り通す。

 

 

「なら、これもっ!!」

 

 

次いで、ユイはその場で左脚を軸に体を急速回転、勢いそのままに踵を横一線に振り抜き残る怪異の頭を纏めて薙ぎ払う。ユイの身につけているハイカットスニーカー、そこに仕込まれた御守りもまた然り。某有名な日本の神社にてハルが決して多くはないお小遣いを叩いて購入した甲斐もあり、効果は絶大である。

 

 

"………っ!?"

 

 

自らの消滅が信じられない、と驚く暇もなく消滅する怪異。一方的に人を狩る側の怪異達はものの一瞬で狩られる側へ転じた刹那にて消え失せる。だが夜の脅威はとどまることを知らず、気付けば境内には今しがたユイが消滅せしめた倍の数の赤い影に囲まれている。

 

 

「このまま逃げるよっ! なるべく速度落とすから離れないでっ!」

 

 

「ごめんっ、お願いっ!」

 

 

包囲網の一角、境内から街へ繋がる道を塞ぐ影に向けて疾走するユイ。獣じみた速度を乗せて振り抜かれる拳が影を貫きそのまま消滅させる。だが、その穴を塞ぐため、また背中を見せた獲物を仕留めんと迫る影の群れ。そこへ、

 

「…私だって、このくらいっ!」

 

投げ込まれる複数の小瓶。既に封を切られた上で投じられるその中身はユイの身につけている包帯に染み込んでいるものと同じ塩水、その原液とも呼べるもの。瓶は中身を盛大に振り向きながら怪異へと迫り、

 

 

"………っ!!?"

 

 

投じられた瓶が地面で砕け散ると同時に、ユイを背後から襲わんとしていた影が複数まとめて消滅。

 

 

「おお、ハルが初めてカッコよく見える…」

 

 

「失敬な。てか今のうち、逃げるよっ!」

 

 

「はいはい、言われなくてなくって…もっ!」

 

 

真横に迫っていた一匹に目潰し気味の突きを放ち、ユイはハルがギリギリ追い縋れる速度で駆ける。幸いにして道は細く、ハルが牽制を兼ねて塩水入りの瓶を投擲すればそう易々と追撃することはできまい、さながら傍迷惑な手榴弾のようなものだ。

 

 

そのままド派手な逃走劇を続けること数分、山道を駆け抜けハルは息を切らしてゼーハー言いながら山道を抜ける、無論ユイは呼吸一つ乱してはいない。だが村快進撃めいた逃走劇は、山を抜け街道に躍り出た瞬間、突如として終わりを告げる。

 

 

「なっ!?」

 

 

まるで二人を待ち構えていたかの如く。山を駆け抜け街道に躍り出た二人が目にしたのは、これまで目にしたことのない怪異の群れ。実態そのものが朧げな影法師と、ケタケタと笑いながら片手に鉈をぶら下げた球体に手足を無理やり生やしたような怪異の群れ、その数およそ二十と余り。

 

 

「そんな…こんな…こんなことって…!?」

 

 

「…そこをどけぇっ!!!」

 

 

予想外の事態に困惑するハル、大切な幼馴染を守るために突貫するユイ。ユイの繰り出す疾風怒濤の乱舞が怪異の群れを蹴散らしているものの、やはり数の有利は覆せない。

 

二体を蹴散らせば三体が、三体を蹴散らせば五体が。まるでユイの奮闘をあざ笑うかの如く怪異は消えては現れその数を確実に増やしていく。

 

 

そして、

 

 

「っ!? ハルっ!!」

 

 

二人の奮闘空しく、清めの塩水を込めた瓶を投げユイを援護していたハルの背後に現れる巨人。黒い壁のよう図体に眼球と赤い触手を無数に取り付けたような悍ましく巨大な怪異が、いつのまにかハルの背後を取っていた。

 

 

(そ…んなっ………!)

 

 

なぜ、いつから、どうやって。まるで分からない、いや寧ろ怪異について理解していることの方が少ないのだからしょうがないと言えなくもない。だがこれはあまりに一方的過ぎる。反撃の糸口を掴んだのも束の間、夜の街は彼女らに一切の慈悲なく次から次へと理不尽を押し付ける。

 

 

だが流石というべきか、こんな状況下に置いてもハルは止まることなく思考を加速させる。その上で、自分の避けられぬ死を悟った。

 

 

自力での反撃は間に合わない、瓶を投げるよりも怪異の触手が自らの体を打ち据える方が早い。第一、このような巨大に効果があるはずとはいえ塩水の入った小瓶が一本二本着弾したとして滅することは不可能だろう。ハルだけでは絶対的に火力面においてこの場を脱する手段がない。

 

 

では怪異の攻撃を凌ぐことは可能か? 当然、不可能である。見たところ怪異の腕は無数に波打つ触手。科学的に、鞭は人が反応できる速度を遥かに超えて振るわれることが証明されている。同じような形状で、かつ数が識別不能となれば、ハルの低い運動能力では到底対処しきれるものではない。

 

 

ならばユイは? これも不可。ハルのもとに向かおうとするユイの眼前には、それを阻むかの如く影法師と鉈持ちの怪異が犇いている。いくらユイと言えども、一桁では収まらない怪異の群れを撃破してハルのもとに辿り着くことは絶対に叶わない。

 

 

「ぐぅぅあぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 

 

獣のような叫びを上げながらユイは怪異を蹴散らす、暴風雨のような拳打と蹴打がユイを取り囲む怪異を瞬く間に殲滅していく。だがそれでも、現時点でユイがハルの元へ駆けつけられる未来はない。

 

 

幼馴染の聞いたことのない怒号を耳にしながら、ハルは迫り来る絶対的な死を前に涙を流す。

 

 

軽率な行動であったと、恥じたところでもう遅い。これで自分は死ぬ。幼馴染を巻き込み、母との約束を違えたまま。

 

 

(乗り越えた…つもりだったのにな…)

 

 

だが甘かった、絶望という闇は、神をも妥当した少女すら飲み込まんとするまでに膨張していた。

 

 

(…ユイを巻き込むだけ巻き込んどいて、ママとの約束も守れないで…

 

 

 

 

 

…ごめんっ…なさい…っ)

 

 

 

閉じられたハルの白い瞼の隙間から、一筋の涙が溢れ落ちる。永遠のような静寂の中、ハルはただその時を待った、待つしか他なかった。

 

 

だが、

 

 

(…………?)

 

 

待てど暮らせど、思い描いていたような痛みや苦しみはやって来ない。流石に不審に思い、ハルが目を開けた、その時

 

 

ハルの眼前に迫っていた怪異の巨体が、()()()。頭から股下に相当する部位にかけ、上から下へと真っ直ぐに。

 

 

「…えっ……」

 

 

そして、この混乱と絶望極まる場所へと姿を見せる、放浪者。割れた怪異の体が完全に消滅する同時に、ハルの視界の中で()()の姿が露わとなる。

 

 

その女性を構成する色は、たったの二色。夜より深い黒と、相反する白のみ。身につけたロングコート、細くしなやかな脚を守るパンツとブーツ、手を保護する革手袋、背中に流した美しい長髪、そして切れ長気味の瞳は黒。それらを除き、顔や首、僅かに覗く手首などの素肌は雪のような白。

 

 

だが、彼女の姿を見てハルが注目したのは、女性の際立つ容姿ではない。ハルが何より目にして驚いたもの、それは女性が手にしている伯鉈。銃刀法違反に確実に引っかかるであろう刃渡りは勿論、柄の部分にびっしりと巻かれたお札の数が尋常ではない。

 

 

「……騒がしい夜ね…」

 

 

透き通るような、それでいてどこか狂気を含んでいそうな静かな声。ただそれだけで、怪異たちは一斉に女性の方を見て、後ずさる。ユイを足止めしていた者たちですら直前までの役目を放棄して一斉に距離をとる。

 

 

なぜか? 彼らは知っているからだ。この人物が、如何に自分たちにとって危険な存在であるかを。ひたすらに街を彷徨い歩き、近づく怪異の全てを惨殺せしめる、いわば怪異にとってのイレギュラー。

 

 

「…ねぇ、妹を…探しているの。この中に…知っている子、いるかしら?」

 

 

その問いかけは、問いかけでありながら彼ら怪異になんの選択肢も与えられていない。知らぬのなら用はなし、仮に知っていると言おうものなら…おそらく知らぬと言った者より残酷な未来がが待っていることだろう。

 

 

弦楽器のように美しいにもかかわらず、明らかな闇を感じさせるその声音は怪異は勿論、ユイとハルの二人までを硬直させた。彼女らも悟ったのだ、この問いかけの先にあるのは、イエスかノーなどと言った軽々しい答えなどでは断じてない。どのような答えを出したとしても、訪れる結末はただ一つ。

 

 

然して、彼女の問いかけに言葉で答える者はおらず、代わりに

 

 

"""""っっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!"""""

 

 

怪異たちが群れとなって女性に襲い掛かる。ハルとユイを完全に無視した、決死の突撃。視界を埋め尽くすような怪異の群れを前に、女性は告げる。本来であれば人という存在に対して絶対的な脅威であるはずの彼らに。

 

 

 

「…そう…知らないの……。ならいいの、あなた達も…()()()()()

 

 

粛々とした、処刑宣告を。

 

 

 

 



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第6話: 交わる「夜」

8月2日追加* お待たせ致しました…仕事を覚えて独り立ちするまでヒィヒィ言ってました。以前ほど執筆にさけない生活になってしまいましたが、亀の歩みの如くのペースになろうと完結まで持っていく所存ですので、どうかご容赦くださいませ


 

押し寄せる怪異の群れ。ただ危ない、では済まない光景だろう。少なくとも今のユイとハルなら後退しつつ牽制と反撃、その他の人間なら全力で逃げ出すかその場で卒倒するかだ。

 

 

しかし、件の女性がとった選択肢はそのいずれかでもなく。

 

 

"""""っ!?!!!!?&/#×#っ!"""""

 

 

その場で武器を一振り、無造作に横一文字を描くように払われた伯鉈が押し寄せる怪異の波の一陣を纏めて切り裂く。消滅する多数の怪異、ただ静かに佇む女性。控えめに言ってもすぐに受け入れられる光景ではない。多数の怪異を消滅させる、これだけならユイにも可能であるし、些か以上に対処できる数は減るものの、極論するならばハルにでも可能である。

 

 

では、自分たちとこの女性のしていることは同じことか? 仮にそう聞かれたならば、二人は断固として否と答えるだろう。

 

 

理由は単純、二人がしているのは「命を守るための戦い」だ。倒さなければ殺される、失う。故に拳を、足を、知恵を働かせて死に物狂いで戦い、守り、生きる。己と大切な人の命がかかっているからこそ、何が何でも切り抜ける、その一心で怪異に立ち向かう。

 

 

だが、この女性のしているのは戦いではない。言うならば「駆除」である。ただ歩いていて邪魔だから、必要ないから、そもそも特に生かしておく理由がないから。部屋に入ってきた羽虫を潰すが如く、使い終わったチリ紙を丸めて捨てるかの如く。

 

 

先ほどの「いらない」との言葉の通りに、この女性にとって、目の前の怪異たちは「いらない」もの、だから殺す。自身の質問に答えられぬのなら、その存在に毛ほどの価値もない。

 

 

「…逃げてもいいのよ、別に」

 

 

弦楽器のような声音で、女性はそう促す。もちろん、その言葉は本心から来ているもの

 

 

 

のはずがなく。

 

 

ドスっ!

 

 

 

鉈を振り回す球体のような怪異の口に、女性は同じく手にした泊鉈をねじ込む。そして鉤爪のような切っ先で怪異の喉を引っ掛け、

 

 

 

"÷%*☆・%°っ!?"

 

 

回転を加えて地面に叩きつける。

 

 

「…どうせ最後には、こうなるのだから」

 

 

黒曜石のような黒い瞳孔が、極限まで開かれる。ドロリとした狂気と殺意の入り混じった女性の在り方は、人という種に対して絶対的な優位を持っていたはずの怪異に一つの感情を沸きあがらせる。

 

 

それは、恐怖。本来なら自分達が一方的に与えて然るものが、ことこの女性と対面した時は立場は逆転する。

 

 

 

「…返しなさい、あの子を。教えなさい、あの子の居場所を…それが出来ないのなら……」

 

 

"……っっっっ!"

 

 

言いながら、女性は背後めがけて鉈を無造作に振り抜く。それだけで、先程ハルを狙ったの同じ、黒い壁のような巨体を持つ怪異の両脚が切り飛ばされ、背中越しに倒れる。

 

 

"っ!? っ!!!? っっっ!!??"

 

 

脚を失った巨体を何とか動かそうともがく怪異、そこへ

 

 

「…いますぐ消えなさい」

 

 

鉈を握る右手を頭上に掲げた女性が、もがく怪異の壁のような体躯の上に立ち、それを振り下ろす。

 

 

"っ!?!?!?!?"

 

 

悲鳴のようなものを上げながら触手のような腕を振り回すも、

 

 

「…うるさい」

 

再度、女性は鉈を振り下ろす。重厚な刃が、怪異の無数にある眼球の一つを切り潰す。

 

 

"っっっ!?!?!???!!?"

 

 

「…だからうるさいのよ」

 

 

刃を振り下ろす。怪異が何か悲鳴を発し、腕を振り回そうとする度に、女性は手にした刃を振り下ろし、体表にある怪異の眼球を一つずつ潰していく。

 

 

「…うるさい、汚い、醜い、邪魔、無価値、木偶、臭い、いらない」

 

 

次々と並び立てられる罵詈雑言、容姿が際立つ女性が怪異を蹂躙しながら催す公開殺戮は、ハルたちの根源的な恐怖心を存分に煽った。

 

 

「…亡霊風情が、これ以上あの子の未来に触るな」

 

 

それがトドメとなり、黒い壁のような怪異は消滅する。両脚を切断され、死の間際にはすべての眼球を潰された。仲間のそんな無残な姿を見た彼らの取った選択は、

 

 

"""""っっっっっっっっっっっっっっっ!!!""""

 

 

数に任せた特攻、後ろに逃げても殺される。ならば生き残る選択肢は前にしかない。力の差は歴然でもこの数に加えて、仲間が蹂躙されている今なら、そう踏んだのだろう。

 

 

 

だが、この場にいる彼らの敵は、件の女性だけではない。

 

 

 

「せいっ…やぁ!!!」

 

 

持ち前の俊足を用いて、背中を向けたままの女性と怪異の間に走り込み、そのまま脚撃一閃。ユイの放った回し蹴りが、怪異の群れ前方を薙ぎ払う。

 

 

「なんか色々飲み込めませんけど、あなたは敵じゃない。そうですよね?」

 

 

油断なく拳を構え、攻め贖っている怪異たちを牽制しつつ、ユイは背中越しの女性に問いかける。

 

 

「…さぁ。私はアイツらを殺すだけ。手掛かりを知らないなら、"普通"に殺すだけよ」

 

 

「なら、ひとまず共同戦線でお願いします。この街で何が起こっているのか、あなたなら事情を知っていそうですから」

 

 

ユイに遅れてやってきたハルの言葉に、女性は無言で返す。その沈黙を、二人は肯定と受け取った。

 

 

「じゃ、行きますか。ハル、今度は背中注意だよ」

 

 

「分かってる、ちゃんと援護する」

 

 

すでに在庫に余裕がなくなってきている瓶を取り出しつつ、ハルはそれを、ユイは拳を構え直す。して、一呼吸を置いた後、機を同じく突貫してきた怪異の波目掛けてユイが疾走。

 

 

巧みな身体捌きで、確実に怪異の数を減らしていく。振り回される鉈には手の甲を合わせて軌道を逸らしつつ、カウンターの正拳突き。背後を取られれば即座に蹴りを伴う反転をもって、まとめて怪異を薙ぎ払う。それでも対応しきれぬ者には、すかさずハルが瓶を投げ込み援護。培った技術と経験、機転、そして共に苦楽を同じくした絆を最大限に生かして、ユイとハルは目の前の脅威を確実に削いでいく。

 

 

対して、

 

 

「…鬱陶しい…」

 

 

女性がしているのは、脅威に立ち向かう者のそれではない。飛び回る羽虫に向かって手を払うかのような、単なる障害の駆除。いや、もはや障害と認識しているかすら怪しい。無造作に、雑に払われる絶殺の刃は、なぜか一度も空を切ることなく次々と怪異たちを惨殺していく。腕を切られる者、胴体を分かたれた者、足を失った者。女性が一歩を踏みしめ武器を振るうたびに、言語化が難しい怪異たちの阿鼻叫喚が響き渡る。

 

 

「こりゃまた…ぶっ飛んだ人がいたもんだね」

 

 

呆れ半分、恐れ半分と言った様子の感想が、ユイの口から溢れでる。女性の身体運びや身体能力は、ユイの見た所それほど目を見張るものではない。つい半日ほど前に人類の到達点か臨海突破を果たしたような超人外と相対した二人からすれば、たしかにその程度の感想が妥当なところだ。

 

 

だが、逆に言えばそこ以外は異質の一言。女性の攻撃が外れていないのはまぐれでも何でもない、狙っているからだ。こうすればこう動く、こうしたから次はこう動く。こうしているからここに刃を当てる。まるで怪異たちの行動が読めているかの如く。

 

 

いや、恐らくはほんとうに読めている。これ程までに怪異たちへの対処が容易にできる程に、この女性は慣れている。怪異に遭遇することにも、怪異に攻撃されることにも。そして、怪異を"殺す"ことにも。

 

 

アイのような怪物じみた身体能力はない、むしろ身体能力ならユイの方が数段上だ。しかし、こと"命のやり取り"という面に関して、この女性は二人の想像をはるかに超えるほどの場数を踏んでいる。

 

 

「…ばーさーかー?だっけ。見てるこっちが震えてきそうなくらいだよ」

 

 

ハルの部屋にあったとある漫画キャラクターを思い出しながら、ユイがそんなことを口にした。

 

 

「…私たち以外に、お化けを知っている。しかも退治の仕方まで…何者なんだろう、あの人」

 

 

目に見えて数と勢いが減少してきた怪異たちを相手取りながら、ハルは思考を回転させる。自分たち以上に"夜"に詳しく、しかも初めから逃げの選択肢を選ばない。そして決め手は…

 

 

(……亡霊…おそらくこの人は、私たちと同じような経験をしてる。もしかしたら、お化け以外にも会ったことがあるのかも)

 

 

見たところ、話は通じそうではある。街の異変を調べる上で、現地人との接触を試みていたハルにとって、目の前の女性はまさにうってつけだ。なんせ異変を異変と認識できている、ハルたちと同じ側の存在なのだから。

 

 

「はぁっ!!」

 

黒壁型の怪異が繰り出す無数の触手を驚異的な反射速度と予測をもって交わしたユイが一気に肉迫、その勢いのまま巨体故に疎かになる超近距離に迫り、渾身の右ストレート。

 

 

"*×=〆^%#¥€っ!"

 

 

足元付近にあった眼球がドス黒い液体をぶちまけながら押し潰される。さらに三角飛びの要領で怪異の体を足場にしてユイが跳躍、

 

 

「これで、おわりっ!!」

 

 

地表から数メートル離れた地点から自由落下を果たすまでの僅かな時間、その中でユイは自由落下とともに縦横無尽に手足を繰り出して怪異の体を徹底的に打ち据える。

 

 

空中という人が絶対的に無防備になる最中に、正確無比な重心コントロール。拳、熊手、肘打ち、足刀、膝、回し蹴り、一方的なまでの突いて砕いてを敢行し、ユイが地上に足をつけるのと、怪異の体が地に倒れ消滅するのは全くの同時だった。

 

 

「ふぅ…初めてにしてはまあ…」

 

 

改めて見る幼馴染の人外身体能力に安堵とため息を覚えつつ、掃討を終えた二人は振り返って女性の方を見る。

 

 

「…ああ、終わったのね」

 

 

二人よりいち早く怪異を片付けた女性が、二人へと歩み寄ってくる。先程までの狂気は鳴りを潜め、冷たく影のある雰囲気を醸し出している。

 

 

「ひとまず、危ないところを助けていただいてありがとうございました」

 

 

この女性がいなければ、間違いなくハルは命を落としていた。ハルの想定を遥かに上回る夜の波に飲み込まれる寸前に現れた女性に、まずは感謝を述べる。

 

 

「…べつに助けようとして助けたわけじゃないわ。鬱陶しい害虫を駆除したらたまたまそうなっただけのこと。…それで、私にききたいことがあるのでしょう? 」

 

 

ハルの言葉に、女性は何ら感情を示さない。この女性にとって先程の戦闘は、本当に助けたつもりはなく、ただ単に目の前の障害を除去しただけなのだろう。

 

 

「はい。率直に聞きます、あなたは"彼ら"をどれほど前からご存知なのですか?また、今のこの街の異変についても分かる範囲でいいので教えてください」

 

 

八年前とは比べるべくもなく数を増やしている怪異、蹂躙された神の社、そして女性のこと。今の二人に決定的に欠けている情報を得るため、ハルは目の前のイリーガルな女性に問いかける。

 

 

「…知っている、という話をするならもうずっと昔から。アレの存在を知っているってことは、貴方たちもおなじなのでしょう…?」

 

 

「はい。私達も八年前まではこの街に住んでいました」

 

 

「…なら、なぜ今になって戻ってきたの…? 里帰りをするにしては、時間を選ばなさ過ぎる」

 

 

女性の言葉はごもっともだ。この街の夜を知っているのなら、日が落ちている時間帯に外を歩くことは自殺行為に他ならない。しかし、二人にはその理由がある、夢で見た少女を探し出し、破壊された縁切りの神の社の謎を突き止めるという理由が。

 

 

そして、ハルはどこか直感で感じ取っていた。自分が出会ったあの少女、街の異変、怪異を狩るこの女性と、女性が口にした"あの子"。確率は決して高くはない、だが強ち間違いでもない。散りばめられたピースの輪郭が、少しずつ露わになっていくような感覚。

 

 

「女の子を探しているんです。私たちと同じ年頃の、女の子を」

 

 

「っ!?」

 

 

やはり。今まで幽鬼のようだった女性の瞳がくわっと開く。女性は細い指がめり込むのではないかという勢いでハルの両肩を強く掴む。

 

 

「その子の特徴は!? 左目に眼帯をーーー」

 

 

「して…いますっ!」

 

 

先程までの幽鬼のような脱力とは打って変わり、尋常ではない迫り方にハルは確信を持った。この女性と、自分たちが探している少女は、同一人物である、と。

 

 

「ちょっとっ! 落ち着いてください、ハルの肩がなくなります」

 

 

なくなりません、と言いたいところだが実際問題ハルの肩を掴む女性の力は華奢な見た目からは想像もできないほどに強い。それだけ切迫しているということでもあるのだろうが、とりあえずは離して欲しいといったところ。

 

 

「っ!? ごめんなさい…、でも今の話が本当なら、私とあなた達の目的は同じ…と思っていいのかしら?」

 

 

取り乱したことに気づき、女性の雰囲気や表情が先程のそれに戻る。掴んでいた手を戻し、長い髪を手櫛で軽く梳く。

 

 

「そうだと思います。そのためにも、ひとまずお互いの情報を交換しませんか? 私たちが最後に見た時よりも輪を掛けて、今のこの街は何かおかしいです。まるで、見えない何かが隠れひそんでるような、そんな感じがするんです」

 

 

ハルの言葉に、ユイもまた頷く。おかしいことは別におかしな話ではない。ことこの街に関して言えばの話だが。しかし、今のこの状況はそれとは一線を画している。爆発的に増えた怪異、蹂躙された神の社、そして、失踪した少女。

 

 

点と点だった事象が、線となり繋がりはじめた。ならば、この邂逅は決して偶然ではないのだろう。

 

 

 

「いいわ…ようやく、ようやく見つけたあの子の手かがりだもの。見ず知らずの子供の与太話にだってすがらせてもらう…」

 

 

「じゃあ自己紹介からですね。私はユイ、喜多川 唯です」

 

 

「四季野 春です。この街のアレやコレに関しては、多少なりともの経験があります」

 

 

 

二人の自己紹介に、女性は僅かな戸惑いを見せたのち、

 

 

「…千夜崎(ちよざき) 冬望子(ともこ)よ。恐らく、あなたたちと私が探している女の子の名前は…千夜崎(ちよざき) 琴喪(ことも)、私の…実の妹よ」

 

 

自らの名前と、互いに探すべき人物の名を告げた。ここに、かつて神の悪戯に翻弄された者たちが邂逅を果たした。それぞれの()を乗り越えた者たちの行く末はどこに通ずるのか。

 

 

「………あはっ」

 

 

それを知る者は、まだおらず。遠くから彼女らを見つめるその少女の口元には、三日月のような笑みが浮かんでいた。失った左目の奥に宿る紅い光が見つめるものは、果たして何なのか。

 

 

今再び、狂った夜の帳が舞い降りる。

 

 

 



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第7話: 闇の産声

もはや覚えてらっしゃる方いるのか案件で間が空きましたすみませんm(._.)m




「千夜崎…琴喪…。間違いありませんか?」

 

 

数々の情報交換の末の質問に、トモコは首肯する。ハルとユイは、時間遡行云々の下りを省き、かつて自分たちがこの町で暮らしていたこと、そこで山の洞窟に住う醜神と対峙したことをトモコに伝えた。そして、夢で見た町の風景と、そこに現れた少女に誘われてこの町に来たこと。

 

 

逆にトモコからは、少女の正体と、二人の過去についての経緯を聞いた。彼女らもまた、二人と同じように神の理不尽による被害者であることも。

 

そして、二度と怪異や神の理不尽で何かを奪われないよう、自らが知る限りで一番強力な神が座す神社で入手したお札を貼り付けた拍鉈で、怪異を狩り続け力をつけたこと。

 

 

「ええ…。あなたが話す身体的特徴は、全て妹…コトモに合致する。そもそも、左目に白い眼帯をつけた年頃の女の子なんて…少なくとも私が知る限りあの子しかいないもの…」

 

 

これでハルの夢にて現れた謎の少女の正体が判明した。

 

 

『千夜崎 琴喪』。夜の街と悪しき神により運命を翻弄された一人。神の生贄として連れ去られた姉であるトモコを救う為、幼き彼女は左目を神に奪われた。

 

 

どこかで聞いた話だと、ハルは率直に思った。トモコとコトモの物語は、ハルに親友と左腕を失ったかつての自分を思い出させた。

 

 

「似たような話ね…。まあ私たちは二人のように直接神を仕留められたわけではないけれど…。…仮に会えたなら、今度こそ八つ裂きにしてやるわ…」

 

 

拍鉈を握りしめるトモコの右手からギシリという音が鳴る。かつて神を打倒せしめたハルとユイには、トモコの気持ちは痛いほど伝わった。抗うことの許されぬ理不尽に奪われる辛さは、二人は何より知っているからだ。

 

 

だが、同時にハルは気になるワードを耳にした。

 

 

「あの、蒸し返すようで悪いのですが。直接打倒したわけではない、と言いましたよね? それってどういう…?」

 

 

「言葉通りよ…。あの時の私は今のようにアイツらを殺す術を持っていなかった…神なんて尚のこと。…だからあの子は必死に私を連れて逃げた…その時になにか一悶着あったみたいだけど…その後にあの子は左目を潰されたのだから、ヤツは死んだわけじゃないわ…おそらくね…」

 

 

トモコの言う通り、あの時幼いコトモは神と対峙した。だがハルのように神から神器を授かってではない。その身一つで、だ。その上で神と悶着した上で姉を救い出したのだ。

 

二人からしても正気の沙汰ではない、仮に自分たちが同じ状況でかつての山の醜神と対峙したと仮定すれば、それがどれだけ奇跡的な偉業なのかが身にしみて実感できた。

 

 

「でも、だとするなら今回の騒動にその神が関わってる可能性は? その時に生贄にし損ねた供物をまた狙う、なんてこともあるのでは?」

 

 

ハルの疑問は最もだ。この異常事態に合わせるかのように消えたコトモ。話によれば生贄となるはずだったトモコを救い出したのだ。逆に言えばそれは神に対する侮辱、供物を掻っ攫うなど、形はどうであれ神がそれを許すはずがない。

 

 

それを原因にして、かつての悪神が今度は彼女を…と言うのは理に叶った想像だ。

 

 

しかし、

 

 

「…いいえ。少なくともアイツは関わってはいないと思うわ…」

 

 

ハルの疑問は、トモコが真っ向から切り捨てた。

 

 

「…私も、あの子が消えて真っ先に向かったのはアイツの社よ。でも何もなかった、コトモの気配はおろか、私に手を出す素振りもない…それどころかもぬけの殻よ…わざわざ出向いてやったにも関わらず、ね…」

 

 

 

ハルの言う通り、トモコもまた同じように考え、コトモが失踪してすぐに彼女はかつてコトモの左目を奪った悪神の社へと向かった。会えばその場で切り刻んでやろうとも思っていたが、生憎と社はもぬけの殻。

 

 

悪神も妹も怪異すらいない、正真正銘のもぬけの殻。以降何度か足を運んだものの、これだけ身を晒しても身を表す気配がないため、今回に限ってはこの悪神は関わっていないと踏んだ。

 

 

「…だから同じように亡霊どもが活性化してる隣町まで来たら…あなたたちがいた…。しかも夢であの子を見たなんて…正真、私はあなたちのほうがよっぽど気になるわ」

 

 

「そうは言っても、私たちだって手がかりなしですよ。ハルが夢で見たって言う女の子も『まってる』としか言わなかったんでしょ?」

 

 

ユイの言う通り、仮にハルの夢に出てきたコトモが本物だったとして、なぜそのようなことを言ったのか。 そもそもどうやってハルの夢に現れるなんて芸当が出来たのか。そしてなぜ姿を消したのか。疑問は尽きない。

 

 

「…うん。そもそも『まってる』ってなんだろう。私をこの町に呼んで何がしたいのか、ってところが分かれば何か…」

 

 

「単純にこの町の夜をどうにかしてーって感じじゃないの?」

 

 

「いや、それなら私たちよりもお化けと戦い慣れてるトモコさんがいるし、コトモさんだって夜を知ってる。なのに私を呼ぶってことは-------」

 

 

そこまで言って、ハッとした。そうだ、もし夜に関する何かをしたいのであればコトモ自身で動くはずだ。それが出来るだけの経験と、何よりあの怪異をものともしない姉のトモコがいる。

 

 

わざわざ遠くにいるハルを呼ぶ意味がない。しかし、逆にそこに理由があるとすれば、

 

 

 

「…コトモ自身では出来ない理由がある、ということ?」

 

 

トモコの言葉に、ハルは頷く。

 

 

「あくまで可能性の話です。ですがコトモさんが失踪した理由が、そこにあるのなら…コトモさんは恐らく」

 

 

もし、コトモ自身では出来ない事情があるとするなら。もし、そこにコトモが失踪した理由があるとするなら。導かれる結論は、

 

 

「…あの子は…攫われた…っということになるわね。それも人ではない何かに…」

 

 

ギリっと奥歯を噛み締めるトモコの答えに、ハルは頷く。

 

 

「でも仮に攫われとしてさ、何に? トモコさんの話通りなら、一番ちょっかいかけてきそうな神様は外れでしょ? それに捜索範囲をこの町に広げてるならトモコさんが住んでる町にはいなさそうだし、 この町の悪い方の神様はもういないしで、現状手詰まりじゃない?」

 

 

ユイの言葉はごもっともだ。トモコの話によれば、コトモは事件後も身一つで夜の町を駆け回っていたそうだ。今更そこいらの怪異に遅れを取るとは思えない。

 

 

 

「…ハルちゃん、でいいかしら。なにか…知らない? コトモを攫えそうなやつとか」

 

 

「そうは言っても…話を聞いた限りじゃコトモさんは私たち以上に町に慣れてます、そんなコトモさんをどうにか出来そうなお化けなんて…」

 

 

 

時間遡行する前の記憶を遡っても、やはりハルの記憶にコトモをどうにか出来るような怪異はいない。いくつか強力なものもあるが、どれも幼きハルの機転で潜り抜けられた相手だ、成長し、経験を重ね続けてきたというコトモがそうそう攫われるようには考えられない。

 

 

しかし、ここで立ち止まっていてはなにも始まらない。

 

 

「…結局は、この町でも虱潰しに行くしかないわけね…」

 

 

心なしか、ため息混じりにトモコが吐き出した言葉にハルも頷く。

 

 

「はい。危険ですが、私が知ってるいくつかに特殊なお化けがいた場所があります、まずはそこから-------」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その必要、ないよーー?」

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

突如して聞こえた声に、三人は振り向いた。この怪異ひしめく禍つ夜に相応しくない、場違いなほどに明るい声に。

 

 

「やっと来たね、ハルちゃん。そっちはお友達のユイちゃんだよね、ほんとに仲良いね。あ、お姉ちゃんもいる、久しぶり、元気だった??」

 

 

 

「…こ、コ…ト…モ…?」

 

 

目を見開いて驚愕する姉を、満面の笑みで見つめる少女。首筋辺りで揃えた暖かな色合いの髪に可愛らしく整った顔立ち。黒いストッキングとは対称な真っ白なダッフルコートには襟と袖に同色のファーがついている。

 

 

そして何より目を引く、左目を覆う白い眼帯。

 

 

「そうだよお姉ちゃん。他の誰かに見える?」

 

 

驚愕する三人なんてその、どこまでも明るい声音で笑いかける少女…コトモ。

 

 

「…コトモっ!!」

 

 

駆け寄って妹を抱き締める姉。そんな姉を優しく抱き締め返す妹。トモコの瞳からは絶えず安堵と喜びの涙が流れている。側から見たら美しい光景だろう。

 

 

 

「…よかった…よかった…っ!私、またあなたがアイツらに何かされてしまったかと思ってずっと…ずっとずっと…っ!!」

 

 

自分を抱き締めて嗚咽を流す姉に、コトモもまた優しく語りかける。

 

 

「ごめんね、黙っていなくなって。私もずっとお姉ちゃんに会いたかったよ」

 

 

側から見たら美しい光景なのだ。しかし、ハルにはどうにも拭えぬ疑念があった。何かがおかしい。目の前の光景を、ただよかったねと祝福することができない。

 

 

見落としか、勘違いか。ハッキリとしない悪い考えが頭から離れない。嫌な予感がしてたまらない。本当にこれでいいのか? わざわざこの町に誘われてまでしてこれで終わりか? そもそも

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

(っ!?)

 

 

その考えに至った時、弾かれるようにしてハルはコトモを見た。そうして上げた彼女の視線の先には、

 

 

 

 

三日月のような口で()()、何かがいた。

 

 

「ずっと会いたかった、会いたかったよお姉ちゃん……もう……()()()()()()()()

 

 

瞬間、コトモの背後で無数の何かが蠢いた。街灯にも月明かりにも照らされていない闇の中で蠢くなにか。涙を流して妹を抱き締めるトモコは、それに気づけない。

 

 

 

「ユイっ!!」

 

 

「分かってる!!」

 

 

ハルが叫ぶと同時に、ユイが持てる脚力を全開にして駆ける。何が起こってるのかはまだ分からない。しかし、良くないことが起きていることだけは確かだ。何も解決などしていない、何も終わってなどいない。

 

 

あの少女が今ここに現れたことは、決して良いことなどではない。

 

 

「…一緒に行こうよ、お姉ちゃん?」

 

 

夜に広がる絶望が、これまでと比すること出来ない巨大な闇が、産声を上げた瞬間だった。

 

 

 

 



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第8話: 結束

お待たせしました。世間のあのウイルスの影響でドタバタしたり1日14時間労働が連続したり一年付き合った交際相手と別れたりと色々してたらこんなに期間が……(#)ཫ` )


あと少しでこの章も完結させられそうです、それでは、どうぞ


 

「させないっての!!」

 

 

間一髪。トモコとコトモを飲み込まんとする影をユイの脚が薙ぎ払う。そのまま回転の勢いを利用したユイはトモコの襟を掴み後退、コトモと影から距離を取る。それに合わせてハルが蓋を開けた瓶を投げ込み影の追撃を牽制する。

 

 

「げほっ! げほっ! なにをするの!?」

 

鬼のような形相でユイの胸ぐらを掴むトモコ、だがそんな手をユイは振り解かずそのまま前を示す。

 

 

「よく見てよ、あと少し私とハルが遅れてたら…あなた、とっくにここにはいないかもよ」

 

 

ユイの示す先にいるのは、一人の少女。だが、その可愛らしく整った表情は、この上なく醜悪な笑顔に塗り潰されている。

 

 

「あーあ。やっぱだめかー。流石に君らがいる前でそうすんなりとは無理だよねー」

 

 

おーよしよしと少女…コトモは蠢く無数の影の一つをあやすようにして撫でる。そこでようやく気づく。今しがたトモコを飲み込まんとし、またいまコトモがあやし、そして従えているとしか思えぬ影の正体に。

 

 

「…うそよ…。ありえない…どうしてそいつらが、そいつらと一緒にいるの…?」

 

 

それは、()()()だった。人の上半身はあろうかというほどの黒い手。紛れもない怪異だ。だが、トモコにとってはそれだけではない。

 

 

「…そいつは、そいつらは!! 私たちのお母さんを奪って、あなたの左眼を奪った奴の手下でしょ!! なんで、なんでそいつらと一緒にいるの!?」

 

 

怒号とも、慟哭ともとれるトモコの、姉の叫び。それに対する妹の返答は、

 

 

「だって。こうすれば一緒だよ? 私も、お母さんも、お姉ちゃんだって。一緒にいこうよ、一緒にいようよ、一緒にいてよ、一緒がいいよ、おいでよ。ねぇ、お姉…ちゃん!!」

 

 

狂気に染まった叫びに呼応して再び迫りくる影の波。無数の黒い手のような怪異がトモコに殺到する。

 

 

「ふ、ふざけないでよぉ!」

 

 

「なっ!? あーーもうっ!!」

 

 

錯乱したトモコが、拍鉈を引っ提げ影に突貫する。それを追ってユイもまたトモコを助けるために続く。

 

 

「あああああああっ!!」

 

 

立ち塞がり、また迫りくる怪異を鈍色の刃で次々と惨殺していくトモコ。怪異の指という指が瞬く間に切断され、そして消滅していく。一振りで三体を、返す一振りで五体を、トドメの叩きつけるような斬撃で七体を。型に当てはまらない剣技と凄まじい勢いで怪異を斬り伏せていくトモコと、その背中を守るユイ。

 

 

「…ちっ。この子たちだけじゃあの二人は無理か」

 

 

残虐な嵐のようなトモコと、その隙間を縫うようなユイの拳打を目の当たりにしたコトモは、苛々を募らせる。

 

 

「…でも、こっちはそうはいかないよねぇ?」

 

 

ニタァ、というような醜い笑顔を浮かべたコトモが見つめるのは、トモコとユイよりも一線後ろのハル。状況の見極めに徹していたハルに、魔の手を伸ばさんとコトモは手を動かす。

 

 

「ほらっ! あの一番弱いのからやっちゃって!」

 

 

コトモの声を聞き、数体の影がハルを目指して駆ける。コトモの判断は正しい、ユイやトモコと違い、残ったハルの戦闘能力は先の二人のそれと比べれば著しく低い。

 

 

だが、この少女の長所は戦闘能力でも、運動能力でもない。この少女の秀でているもの、それはこの場の誰よりも優れた判断力である。

 

 

「私だって…もうお荷物じゃいられないの!」

 

 

怪異をも退ける塩水、その原液ともいえる液体が入った瓶の蓋をあけたものを二本、筆を挟み込むようにして握ると、それを自らの前方の地面に向かって中身をぶち撒ける。三日月を描くようにして放たれたそれは、ほんの一瞬、ハルを怪異から守る絶対防衛戦となる。

 

 

「これも、効くでしょ!!」

 

 

瓶をぶち撒けたのは反対の手に握っているのは懐中電灯。それも消費電力と引き換えにギリギリまで出力を高めた改造品。通常の懐中電灯の数倍の速度で電池を食い散らすその暴れん坊のような懐中電灯は、その燃費に恥じぬ強烈な光を怪異たちに浴びせる。

 

 

 

"×>=:|「\|\|・@/&っ!"

 

 

思わず後退する怪異、そして、

 

 

「あー眩しいなぁもうそれ」

 

 

ハルに迫った怪異を一瞬で蹴散らす大外回し蹴り。ハルが作ったこの数秒は、ユイがハルの助けに向かうに充分以上の成果を出していた。

 

 

「どうやったのさ、そんなインチキカスタム」

 

 

「すぺしゃるネットサーフィン&図書館ず」

 

 

「コトモっ!! 説明しなさい、これはなんなの!! あなたは今何をしているの!?」

 

 

姉の叫びに、しかし妹は素知らぬ表情。まるでトモコの知らぬコトモの表情に、トモコの心はさらに乱れていく。

 

 

 

「はぁ…やっぱこうなるよねぇ。今のお姉ちゃんと神殺しの二人を相手にこんなやり方じゃ通用しないか」

 

 

「なっ!?」

 

 

神殺し。確かにコトモはそう口にした。だがそれはありえない。あり得るはずがない。

 

 

「なんで…それは、あの場にいた私たちしか…」

 

 

そう。あの山の最深部において二人が成し遂げたあの出来事は、他でもない二人しか知りえぬ真実。

 

 

「なんで? それはねぇ……これを見たらわかるんじゃないかなぁ!!」

 

 

突如、コトモが背後の蠢く影の集団に片手を刺しこむ。そしてグジュりというこの上ない不快な音とともに、コトモの手にはそれが握られていた。

 

 

「そんな…それは…その刃は…」

 

 

それは、二人にとって、何よりも忘れぬことのできぬものの一つだった。かつて二人を襲い、しかし最後には二人の未来を変える最後の一手を授けてくれた神の神器。

 

 

 

「ハルちゃんとユイちゃんなら、見たことあるよね? というか使ったこともあるみたいだねぇ…」

 

 

赤い断ち鋏。かの縁切りの神が持っていたはずの、絶対なる刃だった。

 

 

 

「じゃ、第二ラウンドといこうよ!! お姉ちゃんとあなたち二人も、一緒に連れて行ってあげるからさぁ!!」

 

 

 

怪異の群れとともに、今度はコトモ自らもハル、ユイ、トモコに対して向かってくる。絶殺の神器を携えたコトモに対し、いま取れる選択肢はそう多くはない。いくら怪異に対しての武器を手に入れたとて、神のそれには遠く及ばない。

 

 

身体能力だけなら、おそらくはユイが勝るだろう。だが如何せん武器の性能差があり過ぎる。ピストルで水爆に挑むようなものだ。

 

 

「一旦退こう、今の私たちにあれは対処できない」

 

 

重苦しい声音で発せられるハルの声に、ユイは同意を示す。

 

 

「さんせ。どうせこのままやってもジリ貧に追い込まれるし」

 

 

先んじて突貫してきた怪異を裏拳で霧散させながら、ユイは答える。

 

 

「勝手になさい、私は残るわ」

 

 

だが、案の定トモコの答えはこうだ。無理もない、そもそも目的の優先順位が二人とトモコでは違う。原因を解明するためにコトモを探していた二人に対し、トモコの目的はコトモの捜索のみ。そのコトモが目の前にいるこの状況で、トモコがみすみすチャンスを逃すはずはない。

 

 

「いいえ、貴方も一緒に来て下さい」

 

 

「ふざけないでっ!! 私がどれだけの思いと時間をかけてあの子を探してたか知らないでっ!!」

 

 

激昂するトモコの瞳を見つめるハル。そのあまりに冷静な視線が、トモコの心をさらに逆立てる。

 

 

「この街の夜がどうかなんてどうでもいいっ! 向かってくるなら全部殺すだけよっ! コトモを助けさえ出来ればそれでいいっ!! 部外者が首を突っ込んでんじゃないわよっ!!」

 

 

「だったらっ!!」

 

 

だが、トモコの激情に任せた怒号にハルの怒号が重なる。

 

 

「だったら、コトモさんを助けたいなら。尚のこと今は退くべきです。いくらトモコさんでも、底が見えないあの手のようなお化けを相手にし続けるのは危険です。加えてコトモさんが持ってるあの鋏、あれは無理です。無策で挑めば間違いなく負けます」

 

 

ハルは知っている。あの鋏の力の恐ろしさを。凄まじさを。万物を断ち切るあの刃は、物質はおろか、目に見えぬありとあらゆる縁を両断する。しかも武器のとしての耐久値は底無しだ。仮にゲームのような表示がされるとすれば間違いなく【?】もしくは【♾】となっているに違いないだろう。トモコの持つ拍鉈でさえも一撃で粉砕もしくは両断されかねない。

 

 

「…退いて、どうするの…」

 

 

先程とは打って変わって冷静で、しかし数段重たい声音でトモコはハルに問いかける。下手な返答をしようものなら、その瞬間にトモコとの協力関係が破綻しかねない。

 

 

「勝ちます。助けて、取り戻して、絶対に勝ちます」

 

 

「………」

 

 

交わる目線。氷のように見下ろすトモコの瞳がハルの瞳に映る。

 

 

「…いいわ、乗ってあげる。でももし今の言葉が嘘と分かれば…その時は…っ」

 

 

「構いません、煮るなり焼くなり好きにして下さい」

 

 

その言葉を聞いたトモコは、ハルに背を向け徐に迫り来る怪異の群れへと向き直る。

 

 

「…奥の手よ、そう何度も使えないわ」

 

 

そう零すと、彼女は先程まで怪異の大量虐殺をせしめた自身の拍鉈の柄に巻かれた札を一枚剥がし、それを地面に貼り付ける。

 

 

直後、

 

 

"キシャァァァァァァァァァっ!!!!"

 

 

「っ!?」

 

 

耳を劈くような巨大な咆哮が轟くとももに、全長数メートルもあろうかという巨大な百足の胴体が具現化した。ノイズ混じりのように時折霞んでは現れを繰り返す頭と尾のないその巨躯は、しかし脆弱な怪異如きが到底叶うものではない。

 

 

"っっっっっっっっっっ!!!!!!!"

 

 

()()を理解しているのか、先程までコトモに従い三人を喰らわんと特攻をしていた黒い手のような怪異たちは一斉に足を止めた、否止められた。

 

 

「今のうち、逃げるわよ」

 

百足の胴体を挟んだ怪異たちの反対側へと駆ける少女ら。しかしそれを追う術が怪異たちにはない。

 

 

怪異たちには、の話だが。

 

 

「へぇ…ここでその手札切るんだ、お姉ちゃん」

 

 

みるみる遠ざかっていく姉と二人の少女の背中を見つめながら、コトモはゆっくりと地面に貼られた札に近づき、

 

 

ジャキンっ!

 

 

手に持つ赤き刃で百足の胴体を分つ。一瞬で霧散する胴体と、まるで力尽きたかのように燃えて消えゆく札。

 

 

「まあいいよ、これでやっと()()()()()()()()()()()()()()

 

 

そう、どのみち待っていても彼女らは再びコトモの前に姿を現すだろう。かつてコトモ自身が神から姉を連れ戻した、あの忌まわしき社に。

 

 

そうなるよう、全てを仕組んだのだから。

 

 

「またね、お姉ちゃん。ハルちゃんにユイちゃんも、ね」

 

 

可愛らしく整った顔立ちに、これ以上ないほどに邪悪な笑みを浮かべながら、魔に落ちた少女は魑魅魍魎を従え静かに夜の街に消えていった。

 

 

 

*****

 

 

「大丈夫よ…撒いたみたい」

 

 

殿を務めていたトモコの言葉に、ハルとユイは肩を撫で下ろした。場所は変わってとある空き地。かつては二人が小さな愛犬を飼っていた感慨深い場所ではあるが、残念ながら今は感傷に浸っている場合ではない。

 

 

「それにしても、さっきの凄かったですね。あの百足?みたいなのってなんなんですか?」

 

 

先程トモコが使った人知を超えたその拍鉈、そこに巻かれた札を見ながらユイがそう口にした。

 

 

「…あれは昔、私とコトモを救ってくれた神のほんのカケラよ。この札があるから、私は奴らをこの手で狩ることができる」

 

 

犯す神あらば、守る神あり。この姉妹もまた、異なる二柱の神の間で生きる者たちなのだと、二人は自分たちの境遇と重ねた。

 

 

「…私の話はいいでしょう。それよりも、これからどうするのか聞かせてもらいましょうか」

 

 

言葉の節々に冷たい圧力を感じさせるトモコが見るのは、先程彼女に必ず勝つと宣言したハルだ。

 

 

「その前に、確認させてください。さっきの人は、私が夢で見た女の子です、そしてそれはあなたが探していた妹さん。間違いありませんか?」

 

 

「ええ、そうよ」

 

 

やはり。ハルをこの街に誘った少女の正体は、千夜崎 琴喪。かつてハルとユイが神の悪戯に翻弄されるよりもさらに前、単身で悪神に挑み、左目と引き換えに姉であるトモコを救った、いわば初めて夜の理不尽に抗った者。

 

 

「そして、あの手のような形をしたお化けはあなたとコトモさんを苦しめた神さまの手先、なんですよね?」

 

 

そう、ハルが口にした瞬間。ギリっと奥歯を砕かんばかりの鈍い音が二人の耳を刺した。

 

 

「ええそうよ!! お母さんを奪って、コトモの左眼を潰したあの忌々しい神の手先よ!! それが…っ…それがなんであの子と一緒にいるのっ!?」

 

 

ガンっ!!、と重い拍鉈を叩きつけられた木製の壁が破砕する。

 

 

「平穏になってきたと思っていたのにっ!! お母さんだけじゃ飽き足らず、今度はコトモまでっ!! どれだけ私たちから奪えば気が済むのよっ!どれだけ私たち家族をを踏みにじれば気が済むのっ! 私たちがなにをしたのっ!!」

 

 

感情に任せ、まるで慟哭のように悲痛な叫びを上げるトモコ。理不尽に奪われて、踏みにじられ、いまだ神の束縛から逃れられぬ者の怨嗟の声は、存分にハルとユイの心を打った。

 

 

「…お願いだから…もう許して…私たちを…放っておいてよ…」

 

 

だが、怨嗟の底にあるのは深い悲しみ。足掻けど足掻けど全てが徒労。ただただ平穏を求めて戦い続けた姉の心が、冷徹に染め悲しみに蓋をした彼女の心が決壊する。

 

 

「なら、終わらせましょう」

 

 

崩れ落ち、涙で頬を濡らしたトモコの前に、一人の少女がいた。膝を着いたトモコに合わせて、同じように屈んで優しく微笑む少女。

 

 

「やっと分かりました。どうしてコトモさんが私を、私たちをこの街に呼んだのか。あの人は、この異変を解決して欲しかったわけでも、自分をお化けから解放して欲しかったわけでもない」

 

 

そして少女は立ち上がり、そっとトモコに手を伸ばす。

 

 

「あの人は、ただトモコさんを救ってあげてほしかったんです。自分のために、ただひたすらにお化けを殺して、心を壊していくトモコさんを」

 

 

怪異が闊歩する魔の夜に、月明かりを優しく反射させる薄金の髪、確かな慈愛を感じさせる柔和な笑顔。トモコの脳裏でほんの一瞬、目の前の少女と、妹の、本当の笑顔が重なった。

 

 

「だから、終わらせましょう。悲しみの夜は、今日で終わりにするんです。そのために、私たちがいます」

 

 

「上等、未練がましい神さまの意図なんて、ブッチ切ってやろうじゃん」

 

 

幼馴染の言葉に、ユイもまた笑って己の拳を掌に叩きつけて応える。

 

 

「…かてるの? あれに…」

 

 

「勝てます、と言うより。もう、殆ど勝ってます」

 

 

流石にその言葉にはぎょっとするユイを尻目に、同じく目を見開くトモコの前に、ハルは再度手を伸ばす。

 

 

「あと一歩なんです。でも、その一歩は私たちだけでは届きません。あなたの、トモコさんの助けがないと出来ないことなんです。だから、一緒に勝ちましょう。そして、帰りましょう、コトモさんと一緒に」

 

 

「っ!?」

 

 

その言葉が、なによりもトモコの心に響く。一緒に帰ると、この少女は口にした。全ての因縁を断ち切り、妹と一緒に、今度こそ本当の意味で帰るのだと。

 

 

ならば、迷う必要はない。終わりのない放浪と殺戮の日々は、もう終わりにしよう。

 

 

軋む心を押し殺す日々を、終わりにしよう。

 

 

でもあと少しだけ、刃を握ろう。全ての元凶を片付けて、もう一度妹の手を掴むために。愛する妹と、今度こそともに帰るために。

 

 

「…ええ、そうね」

 

 

立ち上がる、だがまだ手は取らない。この差し伸べられた手は、己が立ち上がるために差し伸ばされたのではない。この自分よりも幼く小さな手を握るのは、

 

 

 

「勝つために、あの子と一緒に帰るために。ハルちゃん、ユイちゃん、私に力を貸して」

 

 

手を握る。柔らかく華奢で、包み込むような感触がする少女の掌に、トモコは初めて()()()()()()手を重ねる。

 

 

「はい。なら終わらせましょう、今夜中に、方を付けます」

 

 

そんな女性の言葉に、ハルは応える。優しげな笑みを、どこか不敵に変えながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

見ているか、悪戯に人を弄ぶ悪しき神よ。脆弱と侮り、嘲り、誇りと尊厳を踏みにじること幾星霜。

 

 

今宵其方に、報いが刻まれよう。理不尽に奪われ続けた反逆者たちの怒り、とくとその身で堪能するがいい。

 

 

 

 




今気づいたことを一つ。

本編より長い番外とは….(´・ω・`)?


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