ナハル・ニヴ ~神様転生とは~ (空想病)
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序章  ──── 残酷な物語
TypeB・最悪なプロローグ


※グロ・鬱・不幸注意


 疑問。
「両親や家族不在」「何の特徴もない」「冴えない青少年」
 神様が転生させるには、もはやうってつけな素材や要因ばかり。
 では。
 そんな人“以外”が、神様転生したら、どうなるのだろうか?

 ──これは、「そんな人たち」の物語。



 神様にはロクなやつがいない
 


Type[B]/The worst prologue

 

 

 

 

 …

 

 

 

 

 くだらない人生だった。

 そんなくだらない人生でも──それが私の人生だった。

 

 

 人生とは何だろう。

 

 

 生きることか?

 ただ人が生きることか?

 人として生きることか?

 人らしく生きることか?

 人と共に生きることか?

 人の為に生きることか?

 

 だとしたら、私は人生とは無縁の存在だったことになる。

 

 私の人生は──

 汚物の味を覚えること。

 孤独に血を舐めて傷を塞ぐ作業。

 高所から窓の外へ飛び降りることを夢想する瞬間。

 刃渡り十数センチの鉄の塊を、腹や首に押し当てて、自分の肉が引き裂かれるのを切望する志向。

 

 そんな人生だった。

 

 何度も死のうと思った。

 何度でも死んでやると想った。

 何度も、何度でも、殺してやると決めた。

 今ではない、いつか。

 此処ではない、どこか。

 私を責め苛むすべてを、ブッ壊してやると決めた。

 

 暴力。罵倒。恐喝。虐待。嘲笑。姦淫。ネグレクト。

 

 失敗だらけの毎日。

 謝罪だらけを紡ぐ自分。

 誰も助けてくれない──あの女も、女が連れてくる男も。

 部屋の押し入れの隅で裸のまま、熱い痛みと寒い殺意に、震え続ける私。

 ただ痛み続ける身体(カラダ)

 ただ嬲られ続ける精神(ココロ)

 ただ狂い狂って、狂い死にそうな、そんな日々。

 

 

 

 そんな日常から解放される日は、そう遠い話ではなかった。

 

 

 

 通報を受けて駆け付けてくれた警察や施設の人の手によって、私は救い出された。

 あいつらがどうなったのかは、もう分からない。知りたいとも思ったことがない。

 

 おいしいパンをはじめて食べた。

 暖かいスープをはじめて飲んだ。

 毛布の柔らかさをはじめて実感した。

 大人のことが初めて優しい存在に思えた。

 思うことができた。

 

 施設では、たくさんの幸福が転がっていた。

 私と同じような子や、そうでない子が、一緒になって遊んでいる。

 私の青痣(あおあざ)や火傷だらけの顔や肌のことを気味悪いものを見るような瞳は、どこにもない。

 

 はじめての友達ができた。

 はじめての幸福に恵まれた。

 

 クソみたいなくだらない人生の中で、……はじめて、生きていてよかったと……

 

 

 そう思えた。

 

 

 私は、友達と学校に通い、勉強したり、恋したり、くだらないことで笑ったり、バカみたいに過ごしたりして、くだらないと思いながらも、少しずつ、ほんの少しずつ、成長していくことができた。

 顔の傷や体中の虐待痕は、いつまでも私の全身に残り続けてしまったが、そんな私を見慣れている彼氏……施設ではじめての友達になってくれた彼には、なんの問題にもなっていないらしい。

 私たちは将来を誓い合い、共に暮らして、穏やかで幸福な毎日を過ごす

 

 

 

 

 

 はずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 なのに。

 

 何だ……これは?

 

 

 

 

 

 

 

「いやぁ、すまん。こちらの手違いで、君を交通事故で死なせてしまったようだ」

 

 そう目の前の人物は、さも申し訳なさそうに述懐していく。

 どことも知れぬ真っ白な世界の中で、その人と私だけが、そこにいる。

 

「お詫びと言ってはなんだが。君には異世界で、様々なチート能力を駆使して、気楽に生きていけるように手配しよう」

 

 最近、神の世界で流行している“神様転生”というヤツだと、自称・神様は、のたまった。

 

「何がいいかな? ハイエルフになって無限の魔法を扱うというのは? それとも傾城傾国の美貌をもって、逆ハーレムというのは? いちばん人気があるのは、そう、人間の国の勇者となって悪い魔王を討伐するなんていうのも…………んん?」

 

 俯き、ぶつぶつと何事かを呟く女を、そいつは不審に思って声を区切った。

 私は告げる。

 

「ふざけるな──ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな──ふざけるな!」

 

 自称・カミサマとやらに、悲嘆と憤怒の声で吼える。

 

「冗談じゃない!」

 

 何だそれは。

 何だそれは?

 何だそれは!

 

「そんなものいらない! 私を彼のところに帰せ!! 元居たあの世界にかえして!!!」

 

 彼と一緒に暮らすんだ。

 彼と一緒に過ごすんだ。

 手を繋いで、笑い合って、子どもは四人くらい欲しいとか、そんなに養えるのと微笑み指摘しながら、安いアパートで、私たち……家族は、はじまるところだったんだ。銀色の指輪が、私たちの絆の証だった。

 家庭を持つことは不安だった。自分も、あの女みたいな、最低なものに成り下がるんじゃないかと思ったら、怖くて怖くてたまらなかった。それでも、彼と一緒ならやっていけると思った。彼と共になら乗り越えてみせると、自分自身で誓ったんだ。

 病院に行く途中だった、私。

 青信号を渡っていた私に、突っ込んできたフロントライト。

 雨で視界が悪かったとか。打ち所が悪かったとか。そんなことの一切が、関係ない。

 

「手違いと言うなら、私を今すぐ戻せ! 神様なら! それぐらい出来るでしょう!?」

 

 だが自称・神様は「無理だよ」と事務的に通告するだけ。

 カミとやらは肩をすくめる。

 

「もう、あの世界での君の役目は終わってしまった。君の肉体は、完全に死んだんだ。あとは葬儀を終えて、灰になるまで焼かれるだけ……それに、言いづらいことだが、君一人が蘇ったところで」

「うるさい! 神様なんでしょ!? できないなんてはずがないでしょ?!」

「残念だが。僕にはその権限は、ない」

 

 取り縋る相手には到底及ばぬ次元の話らしい。

 神様とは何だ。神というのは、万能の絶対者ではないのか?

 

「それに、君の人生を閲覧させてもらったが、後半はマシなほうだが、前半は本当に酷いありさまじゃないか。実の母親と、母が連れてくる男に暴力を加えられ、おまけに、その、……あんな体験まで……そんな人生を与えてしまったことから、私たちとしても、その」

「そんなこと関係ない!」

 

 確かに。

 クソみたいな人生だった。

 最後は事故で終わるという、くだらない人生だった。

 幼少期の虐待の記憶は、未だに私の深い部分に暗い影を落としている。誰かと一緒に寝ることすら抵抗感があったほどだ。彼の胸の中で安らかな心地になれてから、まだほんの一年しか経っていないほど、あの汚辱の記憶は、私の人生の中で、大きなしこりとなって残り続けることが確定している。

 だとしても。

 私は引き下がらない。

 引き下がれるわけがない。

 

「あれは私の人生だ! 私の居場所だ! 私が、私の意志で勝ち得た……私のすべてだ!」

 

 神とやらの胸倉をつかんで、泣訴に近い悲鳴を奏でて、喚き吠える。

 

「おまえなんかに奪わせてたまるか!

 おまえなんかに奪われてたまるか!

 おまえなんかに!

 おまえみたいなモノに!!」

 

 私を暴力と虐待の孤独に住まわせた神様(モノ)

 あいつと、アイツラ全員の行状を見て見ぬフリして──私に一生の傷とトラウマを植え付けた──神様!

 神様!!

 神様!!!!

 神様!!!!!!!?

 

「二度目の人生なんてイラナイ! 私の! 私だけの人生を、返せ!!」

「だから、その……君に新しい人生を、だね」

「いらないって言ってるでしょう!?」

 

 もはや殴り掛からんばかりの勢いで抗弁する。

 

「返してよ! ねぇ!? お願いだから!!」

「いや……君は、新しい人生をやり直せるんだぞ? 他の誰もが羨むような、特別な力を我々から授かって──新しい家族に包まれて──新しい世界の中で、最高の仲間や、最強の機能を携えて──それで、君の人生は、今までよりもずっとまともで幸福なものに」

「ッ!! 馬鹿にするな!!」

 

 炎のような言葉が、唇を焼きそうだった。

 

「私を馬鹿にするな!

 私の人生を馬鹿にするな!

 私の今までを──今までのすべてを!

 あんたみたいな、か、神様が──馬鹿にするな!!」

 

 吐き出す言葉に猛毒が注ぎ込まれていく。

 こいつは一体、何を言っているのだろう──双方共に、しかしながら、明確に違う思いと考え──信義と信仰のもとで、互いの意を理解し損ねる(・・・)

 私は、涙交じりの視野で、神とやらを睨み据える。

 

「……私は、本当に、人生なんてクソだと思った! 今だって半分以上、そんな気がしたままだ! けれど、友達ができて、彼と出会って、恋に落ちて、結婚して──ようやく、まっとうな人生を送れると思った! こんな私でも……汚くて醜い、こんな……こんな傷だらけで、みじめで、きたない私でも! 『幸せになっていい』って! 彼が……あいつが、……教えてくれたのに!?」

 

 なのに今更……イマサラ……新しい人生なんて。

 どうして……今になって!

 

「──返して……返してよぉ……私の、私たち、の……っ!」

 

 絞り出した言葉が、嗚咽(おえつ)交じりに吐き出された。

 私は自分のおなかを抱えた。

 痛みに耐えかねたかのように、もう、その場に立っていられなくなる。

 あるいは幼少期の頃と同等と言える、膨大な絶望と失望感に打ちひしがれる。

 

「すまない」

 

 その精妙な声と共に、私は白い闇の中に包まれる────

 

 意識が整合性を失い、自分が大切に想っていた者との記憶だけを頼りに──

 

 新しい人生とやらへ──

 

 私は、放り捨てられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最悪のプロローグ

 

 

 

 




続くかは未定
(追記)続きます


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第一章 ──── 転生
第九紀・9812~9821年


/Transmigration …vol.01

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 第九紀・9812年──

 

 それが、その国、その世界で、彼女が生まれおちた──転生した年号だった。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 家屋を揺らすほどの風雨のなか。

 

「やっと、会えたね──」

 

 絶え間ない泣き声。

 判然としない意識。

 慌ただしい人の気配。

 大声で交わされる異界の言葉。

 

 

  ──■■■■■■■■■■■(おねがいしっかりして)! ■■■■(ねえさん)!!

  ──■■(クソ)! ■■■■■■■■■■■■■(いしゃはまだつかないのかい)

 

 

 それらを理解の外において、産声をあげ続ける、赤ん坊の、

 

 私。

 

 

「ああ、かわいい……とっても……アタシと、あいつの、あかちゃん……」

 

 

 紫の花の指輪をはめた女性。

 傷だらけの腕で私を抱き締め、愛情たっぷりに接してくれる、あたたかい優しさだけが、今の私に感じられることのすべてだった。

 

 

「アタシが、おかあさん、だよ……     」

 

 

 その女性は、異世界での私の母は、その一言を遺して、

 

 

 死んだ。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 第九紀・9821年──

 秋──

 

 この異世界に転生して、九年の月日が流れた。

 

 母親が、お産直後に死亡した転生者──ここでの名はナハル・ニヴという少女──は、母が世話になっていたらしい教会の院長の保護下にある孤児院で、育てられた。

 出産の頃から自分の意識を持ったままのナハルは、自分ではどうしようもない赤ん坊時代を過ごし、このような境遇に落とした神とやらを呪いながら、幼少期を過ごした。

 そんな少女が、教会という神様にもっとも近い場所で生まれ、今日に至るまで無事に生きているというのは、盛大な皮肉とも言える……否。

 

(あるいはこんな私だから、あの神と名乗ったクソ馬鹿は、教会(ここ)で私を見守っているという可能性が?)

 

 真偽など確かめようのないことが、どちらにしろ彼女にとってはクソ以下な状況だ。

 生まれてすぐに母親と死別する運命に置くことが、母親に虐待されていた私への配慮なのだとでも言うのだろうか?

 反吐が出る思いだった。

 

「どうかしたの、ナハル? そんな怖い顔して? お祈り?」

 

 ナハルと手伝いに向かうべく教会を探しまわっていた少女は、聖堂で祈りを上げるでもなく、険しい顔をしていた黒髪黒瞳の少女を怪訝そうに眺める。

 

「なんでもないよ、プレア」

 

 ナハルは苦笑を送る。名を呼ばれた友人も微笑んだ。

 白い髪のプレアは「先に水汲みに行ってるよ」と親友に言い残し、木桶を片手に聖堂を後にする。

 祭壇に掲げられた神の偶像──十字架ではなく、四秘宝とよばれるものの模造品(レプリカ)の列を睨み据えた。

 その幼児とは思えないほど鋭い眼光にともる色は、まさしく憎悪の炎の揺らめきというべきもの。

 

「……」

 

 九年がたった今でもなお、少女の脳裏に刻み込まれた、神とやらからの、愚劣極まる提言。

 

『こちらの手違いで死なせてしまった詫びに、いま流行(はや)りの異世界転生を!』

 

 思い出すだけで臓腑が煮えくりかえる。心臓が弾けそうな怒りしかない。

 

「クソが」

 

 次に会う機会があればタダではおかないという言葉を、少女は喉の奥に呑み込む。

 ナハル・ニヴ──否──鬼塚ハルナという人間は、神の手違いで死んで、こうして異世界でも困窮生活を余儀なくされている。

 チートだの特典だのとは無縁な、どこにでもいる孤児としての生だけが、ナハル・ニヴのすべてであった。

 

 

 

 

「うー、寒ー」

 

 朝の曇天は気が滅入ることこの上ない。

 おまけに、この地域は暦の上では秋の中頃だが、その気候はすでに冬といっても大差がない。近頃は天候不順に見舞われ、小作農にも影響が出ている。

 

「だいじょうぶ、プレア?」

 

 この少女は病弱であると出会った頃に言い聞かされ、最初はお手伝いに参加することもできないほどであった。

 が、いまでは慣れた様子で、木桶いっぱいに汲んだ水を運ぶ姿をみせている。

 プレアは気温差のためか、やけに赤みを帯びた頬を緩ませた。

 

「うん、平気──ナハルの方は?」

 

 平気平気と言い返すが、子供の身体で水汲みというのは、いろいろと重労働である。大人であればどうということもないだろうが、あいにく、この孤児院で働く大人は、他にやるべき仕事で手が一杯になっている。無論、この異世界に現代日本のような上下水道など整っていない──そういったものは、首都や宗教都市、あるいは魔法都市などにしか見られないという。少なくとも。旧帝国領と言われる寂しい山間の村落には、縁がないらしい。

 水汲みの手伝いをはじめた手は、湖の冷水で小刻みに震えかんじかんでいる。春や夏はどうということもない──むしろ水汲みに乗じて、ちょっとした水の浴びせあいも楽しめるが、この時期にはあまり繰り返したくない作業だ。

 両手をこすり合わせる熱で、寒いことを忘れようと努めるが、あまり意味のない気休めでしかない。

 

「はやく終わらせて、暖炉あたろー」

「だね」

 

 共同部屋で同じ班の八人。金髪や赤毛、青い髪など、こちらの世界では珍しくも何ともない様々な髪の色や肌の色の人種が集まっている。

 教会近くにある湖で、木桶いっぱいに水を貯め、三百メートル程度の林道を進む。これを数往復。食事を用意する煮炊きに使うだけでなく、子供たちに湯冷ましの飲料水として与える分を考えれば、一往復で終わる作業では断じてなかった。

 黙って歩くナハルの周りで、少女たちは互いを励ますような声で話し合う。

 

「こういうときは本当、〈魔法〉が使えたらって思う」

「そーそー。ウチにも「水」の〈魔法使い〉さんがいればいいのにねー?」

「あと「火」の〈魔法使い〉さんも。水を沸かす薪もいらなくなるよ」

「薪も「樹」の〈魔法使い〉さんが用意してくれればなー」

「あと灰掻きもお願いしたーい。お掃除の〈魔法使い〉さんに」

「お掃除のなんているの?」

「というか〈魔法使い〉って、都の大店(おおだな)の商人か、貴族とか、王様だけが雇えるもんでしょ?」

「いいよねー。私も魔法が使えたらなー。そしたらこんな水汲みなんてしなくて済むのにー」

「でも、院長先生は『使うな』って。あと『使えるようになっても、ぜったい使い過ぎないように』って」

「何で?」

「さぁ?」

「やっぱり神様に怒られるからとか?」

「でも魔法って、神様が授けてくれるものじゃないの?」

「違うんじゃない?」

「やっぱり修道院だから、ちゃんと自分の手でいろいろとやるようにって」

「めんどくさー」

「あーあ、一度でいいから空を飛ぶ「風」の魔法が使いたーい」

「わかるー」

「「風」の適性がないと、一生無理だろうけどねー」

 

 子供たちは笑い、口々に夢想する。

 それらに共通していることは、現状に対する不満と、将来への無条件な憧れだ。

 

「ナハルは、どんな魔法が使えるようになりたい?」

 

 プレアからの不意の質問。

 

「私は──、……」

 

 そこまで言いかけて口を噤む。

 ナハルの欲しい魔法は、『元の世界に戻る』──ただそれだけ。

 けれど、そんなことを口にしても理解されたことはない。

 図書館の司書を担う「本」の〈魔法使い〉たちの認識でも、そんな魔法は存在しない、見たことも聞いたこともないと教えられている。

 そもそも。

 世界を超えるなど、それこそ神々の所業──神話の御伽噺のようなものだ。

 こちらの世界の住人は、私がもといたあちらの世界など知らない。「あるかもしれない」という程度の認識で言えば、あちらの人間の認識と大差はないだろう。

 実際に魔法が存在する世界であるならば、そのくらいの奇跡があってもよさそうなものだが、本当に、通常の人間で扱える魔法ではないという。

 

 私は、この異世界に転生してから、多くのことを学んだ。

 

 ここは元の世界とは何もかも違うということ。文明は中世ヨーロッパに似ている。王や貴族が政治を行い、民衆がそれに従う。

 さらに極めつけは、〈魔法〉の存在であった。

 水を生み出す〈魔法〉があり、火を発する〈魔法〉があり、風や土、雷や氷、自然を自在に操る理──そういったファンタジーな力が、この世界には渦巻いている。

 しかも、そういう魔法を扱う者たちはそこここに存在し、専門の学校・教育機関まで存在しているというのは、もはや笑うしかない。

 

「水汲み、終わりました」

 

 台所の水瓶をいっぱいにした少女たち。

 

「ありがとう、ナハル。二班の皆も、ごくろうさま」

 

 班長を務めるナハルが布の山を抱えた修道女──ロースに一声かけると、労いの言葉を返してくれる。

 

「ああ、プレアちゃん、院長が少しお話があるって言ってたわ」

「クローガ院長が? わかりました、行ってきます」

 

 プレアが院長に呼び出しを喰らうのは珍しいことではない。プレアが院へ来たのは三年前だったが、普通の孤児とはどこか違った少女だった。プレアは慣れたように「あとでね」と目配せを送り、ナハルは小さく頷きを送る。それだけで親友は、花が咲くように表情をほころばせながら、階段を上へ駆け去っていく。

 

「皆、早く後片付けして、暖炉にあたっておいで」

 

 年若い修道女は、私が生まれた直後……母の死の場面から知っている顔であり、とても親切な女性だ。薄紅色の髪を修道女のベールに隠す表情は、親愛と慈悲に満ちている。

 木桶を渇いた布で拭き終わった少女らは勢い込んで暖炉のある大部屋をドタドタと目指すが、ナハルは修道女に仕事は他にないのか訊ねる。

 ロースは困った顔で微笑んだ。

 

「いつも言ってるけど。休む時には休んでいいのよ?」

「私なら平気です」

 

 なにしろ、ナハルの中身は成人女性そのもの。

 幼い身体で苦労することはあるが、こういった環境──孤児院での生活というのは、とても大変なものだと心得ている。少しでも助けになれるのであれば、なっておくにこしたことはない。けっして、神に対する信仰や修道ではなく、あくまで人としてのあたりまえな互助意識として、ナハルは手伝いを申し出ているだけであった。

 

「それじゃあ、一緒に針仕事をお願いね」

 

 ロースの抱える布山──破けてしまったシーツや冬服の量は、やんちゃざかりの孤児たちのおかげでかなりの枚数になっている。事あるごとに修繕を繰り返すのは、新品を買うほどの金銭的余裕が、この施設には不足していることの証左だ。

 裁縫箱を受け取ったナハルは、ロース修道女と肩を並べて大部屋へ。暖炉で暖められた空気が心地よく頬を叩く。

 優しい修道女とナハルが作業していると、大部屋にいた子供たちもナハルに倣うように仕事を手伝おうとする。ひとりでも大人の手伝いをしている子を見ると、子供たちもそれを真似したくなる傾向が強い。無論、遊びたい子は遊んだままだが、かなりの数の年長組がロース修道女の仕事に加わっていく。ナハルも生前は養護施設で長く過ごした。ナハルに教えられつつ、孤児たちは見様見真似で針をボロ服に通していく。「いつ習ったの?」と聞かれても、実際のこと──「生前に習った」──なんて言えるわけもない。それがナハルにとって無視し難い、密かなストレスとなっている。

 ナハルは、布山の中から小さい服を拾い上げて、手を止めた。

 

「……」

 

 小さな、ほんとうに小さな赤ちゃん服。

 しばらくパッチワークまみれの布地を撫でていると、無性に瞼が熱くなりかける。

 

「どうかした、ナハル?」

 

 見咎めたロースに顔を覗き込まれ、頭を振る。

「なんでもない」と答えることが、とても難しく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九紀・9821年 冬 -1

/Transmigration …vol.02

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 ナハルは、転生した直後から──つまり赤ん坊のころから、自分の記憶を持っている。

 赤ちゃんというのは一人では何もできない。

 夜、お腹がすいても、排便しても、頭や背中が痒くて痒くてたまらなくなっても、自分で自分のことを何一つできない状態を余儀なくされる。その不快感は想像を絶するものだ。

 その都度ごとに、この孤児院の大人たちの世話になり、ミルクを与えられ、おしめを換えてもらい、頭や背中を優しく撫でられ寝かしつけられた。

 本当にたくさんの迷惑をかけてしまったと、ナハルは痛感している。

 

 その恩返しとして、彼女は今日も修道女たちの手伝いを率先して行う。

 

 大人たちはナハル・ニヴのことを奇妙な子だと思っていた。言葉を話せる時期になってもたどたどしい口調で意味不明瞭すぎる単語──「コンニチハ」「ワタシ」「ニホンジン」「テンセイサセラレタ」──を繰り返した(日本語など異世界では通じないのだから当然だが)。その時期はそれなりに不安視されたが、他の子どもたちよりも物覚えが良いことは確かであった。足し算引き算に奇妙な記号(アラビア数字であるが、それも異世界には存在しない)を用いた時も、いろいろと変なところが多く見受けられるという印象を持たれていたが、そういった幼少期の奇行もなりをひそめ、今では他の子らと同様に読み書きを覚える頃には利発で気立てが良く、何よりも優しく、大人たちの手のかからない立派な子であるように認知された。

 五歳児とは思えないほど理解力に優れ、「遊ぶこと」よりも「学ぶこと」を楽しむ傾向が好ましく思われた。……日本語の通じない世界で、異世界の言語に習熟するために、彼女は必死になって勉強する必要があったとは、誰にも予想だに出来ない事情があったのだ。

 他の子らの世話や仲裁を任せても良い結果を生んだ。彼女はきちんと物事の道理をわきまえ、不正を許さず、年長や強者に媚びず、年少や弱者をいじめることを大いに嫌った。……日本人の一般的な道徳観念を備えたナハルにとっては、至極あたりまえなことであり、良い大人であれば当然の判断でしかなかった。

 

 それでも、問題がないことはなかった。

 

 彼女は赤ん坊のころから悪夢に(うな)されることが多い子で、酷い時にはもはや発狂というほどに強烈な絶叫であった。何か怖い夢を見たのかと大人が紋切型に問いかけても、「なんでもありません。ごめんなさい」と震える唇で謝るばかり。……彼女が転生させられた経緯、その発端となった事故、生前の記憶が、彼女の悪夢の大半を担っていた。そのような事情を懇切丁寧に話したところで、異世界の人々に理解されることはないと心得ていたナハルは、謝り倒す以外の処方がなかった。

 

 やっと掴んだはずの幸福──心から愛しあった相手──将来を誓い、未来を語り合い──夫と共にこれから築くはずだったもの、すべてを無為にされた。

 

 どうして自分が。

 何故こんなことに。

 あの時に戻れたなら。

 こんなことになるなんて。

 彼は今、どうしているだろう。

 

 そう思うごとに、彼女は枕を濡らし続けた。

 

(戻りたい……帰りたいよ……)

 

 切実に思い焦がれ、憎悪と苦悩のあまり掌に食い込んだ爪で出血するほど拳を握った。

 

(返してよ……私の人生を……)

 

 ナハル・ニヴの九年は、そうして過ぎ去っていった。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 集落はいよいよ冬の到来が本格化する。

 純白に雪化粧する山々を眺めながら、ナハルは班の皆と共に、院長たちの今年最後の買い出しを手伝うことに。

 このあたりの雪は冬になれば大人の背丈ほども降ることになるので、たいていの商店は売る品物が届かなくなる。今のうちに買いだめしておかなければ、いろいろと厳しい状況が起きかねない。食料の備蓄が尽きれば。薪が足りなくなったら。子供らが一斉に熱を出したら。コンビニや薬局で24時間年中無休に欲しいものが買いに行けるような世界ではないのが、この異世界だ。そんな場所で、ただでさえ貧しい暮らしを送っている孤児院では、最悪の事態にまで発展しかねない。やはり一日三食の食事で出されるメニューが、水っぽいスープと、二口で食べきれそうなパン切というのは、いろいろと察するのに余りある。不幸中の幸いというべきか、実際に人死にが出たことは、ナハルの見てきた九年間ではあり得なかった──と思った時に気づく。

 

(ああ、私のお母さん)

 

 ナハルの母はどういう事情でかは知らぬが、孤児院の世話になって、ナハルを出産した直後に亡くなっている。

 あれから人死には出していないと考えた方が正確だろうか。

 

(あのひとが、お母さん──)

 

 正直に言えばピンとこない。

 生まれて数分もしないで死別した女性(あのひと)よりも、まだ生前の頃の(クズ)の記憶の方が鮮明に映えるのだ。

 無論、ものすごく悪い意味で。

 

(でも、あのひとの、お母さんの笑顔と掌は……良かったな)

 

 この異世界で経験した数少ない良き事。

 まぎれもない母の愛。ナハルを産み、紫の花の指輪を形見として残した女性。

 彼女の指輪は、ナハルの首にネックレスとしてかけられ、いまも冬服の下で存在を主張してくる。

 母が死の直前に言った言葉を思いだす。

 

(「やっと、会えたね──」「アタシと、あいつの、あかちゃん……」「アタシが、おかあさん、だよ……」)

 

 異世界の言語を覚えるようになって、ようやくそう言っていたことを理解した。

 あいつ、というのが、おそらくというまでもなく、ナハルの父ということになるのだろう。

 だが、父親が誰で、どこでなにをしているのか、ナハルには知る術がない。

 母と共に生活していたロースや院長も、詳細は知らないようだった。

 

(なにか事情があるのだろうとは思うし)

 

 わからないことをわかろうとするほどの余裕は、今のナハルには欠片も存在しないのだ。

 男と女の話だと割り切って考えることが、生前の記憶を持つナハルには簡単であった。

 そんな昔のことよりも、今は目先のことが重要である。

 

(今年はいろいろと大変そうだな)

 

 商人との交渉がヒートアップしていく院長と修道女たち。

 ここで良い結果をうむことが、孤児院が春まで持つかどうかの瀬戸際となれば、必死になるのも当然である。

 もちろん。院には国からの支援もあるにはあるが、王室と最後まで戦った旧帝国の領地ということで資金供与は乏しい部類に入る。人々からのお布施もあるにはあるが、寂れた寒村──街の規模にも届かない人口では、そこまでの額にはなりえない。

 さらには院長が極度の〈魔法〉嫌いということで、国が直送してくる〈魔法具〉の(たぐい)も、すべて使用することは禁じられていた。「〈魔法〉なんぞに頼るのはやめなさい」というのが、院長クローガの絶対的な主義主張。誰もが憧れる〈魔法〉の存在を、あの老婆は鬼か仇のごとく思っているようであった。

 さすがに不思議かつ不審に思った修道女の一人が理由を聞いても、多くを語ってくれたことはない。

 

(それだけ、神様というのを篤く信仰している──って感じじゃないんだよね)

 

 儀礼や作法が粗末ということはない。

 神を信じているというよりも、自分が信じるものにまっすぐな人だ。

 教会がおおやけには〈魔法〉というものを「神の摂理に反しているやもしれない」と疑念を懐いている派閥に呼応しているというのでもなく、本当に〈魔法〉というものを信じ切っていない印象が強かった。

 これは噂であるが、院長の部屋には年代物の“剣”がいくつかあるらしく、『帝国の武人として名を馳せた』こともあるとかないとか。武人だったから〈魔法〉に頼るのを良しとしない性格なのだろうか。

 院長の噂について、子供たちの間で(ささや)かれているものが、もうひとつ。

『あるいは、〈魔者〉を討滅する〈勇者〉だった』──とも。

 

(元〈勇者〉──か)

 

 ファンタジーでしか聞いたことのない職業だが、こちらの世界では実際に〈勇者〉と呼ばれる人間が存在している。

 年長の子供たちや、修道女の話(いわ)く、『〈勇者〉様は、奇跡の象徴である〈聖痕〉を身に宿し、神から与えられた光の恩寵の力でもって武器を振るう。人々を守護するために悪しき存在──〈魔者〉を駆逐し、殲滅する』と。

 

 しかしながら、ナハルたちの住む地域では、実際に見た者はほとんどいないらしい。

 ナハルは興味本位で、事の真相を本人に訊ねたが、

 

『さてね』

 

 と肩をすくめられるだけに終わっている。

 

(何にせよ、(したた)かな女の人っていうのは、個人的に嫌いじゃないな)

 

 さらに言えば、あのひとが助産師役として、私をこの世界の母から取り上げてくれたのだ。感謝こそすれ、嫌う理由などひとつもない。

 不動の姿勢で村の商人と真っ向から根切り交渉を満足げに終えた院長の闊達さを眺めながら、やや積もった雪をだるまにして遊ぶプレアと同班の子供たちに声をかけた。

 

「そろそろ戻ってくるよ」

 

 荷車の上で監視塔を務めていたナハルの声に、慌てて立ち上がっていく子供たち。手の雪をはらって背筋を伸ばす。

 老婆の漆黒のベールが寒風にたなびき、年月を積んだしわだらけの面に厳格な表情を彫刻した姿が、商店の扉を勢いよく開け放った。

 

「買えるものはこれで全部だね。さぁさ、荷物を持って。院に帰るわよ!」

 

 大きな声で応じる子供たちと修道女の集団は、荷車に積んだ大量の荷を馬に牽かせ、手に手に荷物を抱えて家路を急ぐ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九紀・9821年 冬 -2

/Transmigration …vol.03

 

 

 

 

 

 村の外れの孤児院に帰る道すがら、プレアは荷馬車の御者台に座る院長の隣に座らされた。体の弱い子を気遣って……というよりも、何か話をするために同乗させたように見える。

「疲れたー」と駄々をこねる子供ら六人が、ひとつの話題を持ち出した。

 

「もう来年だよ」

「来年からは年長組だよ、私ら」

「そろそろ“独り立ち”の時期だね」

「私は院を出よっかなー、都の宿屋(オースタ)で働くんだー」

「私は仕立屋(ターリュール)になりたい。婚礼衣装とか、自分で縫ってみたいから」

「いいねー」

「私は、院に残るよ。修道女(バン・リアルタ)になって、院長や先生たちを手伝いたいし」

「ナハルはどうするか決めてる?」

 

 問われた少女は黒い長髪を横に振った。

 

 孤児院にはとにかく人が多い。院を管理する大人……院長、修道女、修道士……とくに子供が。

 孤児たちだけで数十人──あれだけの人数を集め、教育し、食事と寝床を提供するだけでも、馬鹿みたいな費用が掛かる。

 孤児たちは修道女たちに教えられ命じられ、日々の糧を得ながら成長していく。そんな生活も、十三歳前後でひとつの転換期を迎える。十三歳になった子供たちは立派な大人の一員となるよう独り立ちを推薦──もとい強要される。孤児院を出るものは、土地を買って農作業に従事するか、大工や石工などの職人に弟子入りするか、何かしらの商家に雇われ商いをするか、奨学金などの援助を受けつつ高等教院や軍学校に入学するかして、孤児院を離れる。あるいは、孤児院に残る道もあるにはある。つまり、神の道を本格的に歩むかを選ぶことになるのだ。男子は修道士に、女子は修道女として認められるべく、それぞれが聖なる儀式と宣誓を行い、神徒の位を得るのだが────ナハルは絶対に、その道を進むことはないと断言できた。

 とすると、遺された将来の道は、農人か職人か商人か学生か──おそらくはそんなところだろう。

 

(また学校に行くのは、なぁ)

 

 孤児であるナハルには、いろいろと大変なことだ。

 何しろ学費を払うアテがない。学生をするならば、まずは学費を援助してもらう必要があるわけだが、奨学金を受けられるのはその地域でも屈指の優秀かつ才能に満ちた者のみ。幸いというべきではないが、私には生前の──つまり大人としての教養や分別は残されていた。異世界では国語も英語も通用するわけもないが、算数に関しては基本的なことは共通だったので習熟に時間はかからなかった。何より、大人だった自分は勉強の重要性を十分に理解できていたので、将来のために学を積み上げていくことに余念がなかった。

 おかげさまで、同年代の子の中では比較的優等生でいることはできたのだが、なにしろ異世界の言語体系を覚えるのに苦労した分、他の子と比べ、劣っている部分もなくはない。

 幼少期に自分の意思で声を出せるようになったころ、日本語や英語で大人たちに話しかけてみたことが幾度もあるが、誰一人として何を言っているのか理解してもらえず、周囲から「なにやらおかしな声をあげる子だな」とみられる時期を過ごしたのは、歯痒かった。今でも時折ふとした拍子で日本語を呟くのを聞かれて変な表情をされることも、ままある。

 ちなみに日本でいう義務教育制度というものは、こちらの世界では存在していない。奨学金と言うのも国の主導で仕切られているものではなく、“教会”からの施しという方が、実態として正しいようだ。そして、私は信仰の社に、神さまを尊ぶ人々から、あまり良くしてもらいたいとはどうしても思えなかった。

 理由は単純。私は、私をこの世界に転がり落した神様とやらが、大嫌いだからだ。

 

(そうなると、農人か職人か商人しかないんだよな……)

 

 そうわかってはいても、それらになっている自分というものが、まったくといっていいほど想像がつかない。

 今は九歳。あと四年の猶予はあるとは言え、私には、この異世界に転生して、やりたいことがこれっぽっちも頭に浮かばなかった。

 私は望んで、この世界に流れ着いたのではない。

 神様どもの“手違い”という、くだらないにもほどがある理由で、私の人生は強制的に終了させられた。

 

 望んでいいのなら。

 叶うのであれば。

 私は、私の人生を取り戻したい。

 クソみたいな人生の中で、やっと掴んだ幸福を、未来を、この手に取り戻したい。

 

 彼と──彼と創るはずだった家庭を──家族を──

 

「ナハル、どうしたの?」

「…………なんでもない」

 

 折に触れて思う。

 どうして、自分はこんなところにいるのだ。

 何故、自分がこんな目に遭わねばならない。

 九年を経ても、ナハルの内で渦巻く感情は、一向に衰える気配を見せない。

 無論、世話になっている孤児院や村の住人達に対してそれなりの情と愛着を持っている──しかし同時に。

 日々繰り返される数々の悪夢。

 奪われた幸福への未練と執着。

 神とやらの無責任極まる運命への反感。

 そいつらを信仰する領域で養護されねばならないという屈辱にも似た悪寒。

 この九年でむしろ、神に対する絶望……嫌悪……憎しみと恨みの想念は増幅しているようだった。

 日を追うごとに、ナハルは神様転生という事象の悪辣さと傲慢さに対し、人知れず憤怒の熱量を蓄積していくのを実感せざるを得なかった。

 

(……帰りたい)

 

 帰れるはずもない。

 

(……戻りたい)

 

 戻る術も──ない。

 

 ナハルは必死に探した。探し続けてきた。

 この異世界から、もとの世界に帰る情報を。手がかりを。何かしらのヒントを。幼い体で行ける範囲、目を通せる資料、伝え聞けるだけの話、すべてを網羅した。

 けれど、この世界で得られる情報と常識の中で、こことは別の世界に関するものは、噂の端にも聞いたことがなかった。

 ナハルのような転生者──異世界人のことなど、存在を認知すらされていないようだった。

 

 結論を言えば、帰ることも、戻る方法も、ありえない。

 

 あれから、もう九年。

 彼は今、どうしているだろう。

 私のかわりに、いい人を見つけて、幸せになっているだろうか。

 その方がいい。彼は、意外とモテるから、きっと、たぶん、大丈夫だろう。

 そう思うと、無性に泣けてくる。

 

(……さびしい)

 

 胸の中に凍えた感情を抱えつつ、ナハルは皆と共に孤児院に戻った。

 孤児院は教会の土地の一角にある建物であり、その門戸は広く開かれたまま。午後の六時頃──晩課の鐘が撞き鳴らされる時に、分厚い格子戸が閉じられる。時間の経過は、ろうそくで測られ、それを監視する修道士が鐘を撞くのだ。

 荷馬車をプレアと共に降りた院長は真っ先に告げる。

 

「みんな、〈勇者〉様の像に」

 

 祈りを。

 そう言って、荷物を下ろし手を組む修道女と子供たち。ナハルは目をつむる彼女らを尻目に、夕刻の曇天を背にする彫刻を眺めた。

 院の玄関広場に聳える立像は、100年ほど前に『幾多の〈魔者〉を屠り、、この世界を救った』といわれる〈勇者〉を模したもの。背筋をピンと伸ばし、鎧兜には翼のような意匠が施されている。両手の大きな剣を大地に突き立て、彼方を見据える顔立ちは良く整っているが、それが本物の〈勇者〉と似ているか否か、判る人間はいない。院の歴史の授業で、修道女の語る寝物語で、その存在はさんざん教え込まれているが……やはり、ナハルには祈ることなどできなかった。

 顔を上げた院長が振り返るのと同時に、ナハルは一瞬だけ手を組んだ。

 

「さ、皆お入り。──〈魔者〉が山向こうの街に現れたと聞きます。急ぎなさい」

 

 拝礼を終えた子供らが荷物を抱え直すのと同時に、ナハルはさっさと歩を刻む。

 

 

 

 この世界には、〈魔者〉がいる。

 化けもの、異形のもの、人外のケダモノ。

〈魔者〉たちは人間を襲い、殺し、そして喰らうと言う。

 先ほどの勇者像は、そういった〈魔者〉の脅威──とくに、〈魔者〉たちの王である“魔王”を打倒し、人の世界を救った者として名高い人物だ。

 幸いにも、人を喰う〈魔者〉が私たちの住む領地に現れたという話は、ここ数年では聞かなかった。というのも「この大陸には神の御加護があるから」と。

 だから人々は、加護を授ける神様を礼拝し、崇敬し、賛美歌を唄い、その教義と信仰を是とし、生涯を賭して尊ぶ──というわけだ。

 だが、今その加護に揺らぎが生じているらしく、近隣の街で〈魔者〉の襲撃があったと、院長は商人から聞かされたらしい。

 

 ナハルにとっては全部「くそくらえ」な話だ。

 その神さまとやらのせいで、ナハルはこの異世界に転がり落ちた。すべてを奪われた。

 感謝などするはずないし、できるわけもない。

 

(〈魔者〉を倒す〈勇者〉、か……)

 

 あの〈勇者〉像は、果たして神の遣いなのか、それとも──

 

 西の空から、雪がちらつきはじめた。

 

 

 

 

 

 

 



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襲撃

/Transmigration …vol.04

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 行商人がまことしやかに語って聞かせた、噂の嵐。

 

「〈魔者〉があちこちで現れた」「西の街では二人喰われた」「首都でも被害が──」

「封印が解けたのか」「魔王が目覚めた兆し」「国の調査船団が暗黒大陸で全滅──」

 

 それら人々の不安と畏怖によって、天候すらも凍ついたかのような、冬の訪れ。

 高山の冷めたい大気が吹き下ろし、純白の雪化粧を人の土地に降り積もらせる。

 大雪に閉ざされた村は、数日前に門扉を閉ざしたきり、何人も訪れる者はいなくなった。

 これから春まで──少なくとも雪がやむまで、村に入ることも、出ることすらできない。

 日本の四季よりも夏は短く、冬が長い。五ヶ月から半年は冬というありさまであった。

 このような気候なので、冬の旅や行商の類は完全になくなる。凍死や凍傷になるリスクを考えると、気軽に出歩けるのは〈魔法〉で整備された都市部や、雪のない南方の一部地域だけとなる。

 

「〈魔者〉って、どんなのだろ?」

 

 夜六時過ぎ。

 夕食後の消灯間際。

 宿舎で同じ部屋に寝るナハルの班は、その話で持ちきりになっていた。

 

悪魔(ディアヴァル)とか骸骨(クナーヴァルラハ)とか?」

(ドラガン)じゃないの?」

「それら全部って話でしょ?」

「醜い化け物たち全部が〈魔者〉」

「でも、絵本に出てくる精霊(シュピーラド)妖精(シーオグ)は皆キレイで美人だって」

 

 閉ざされた村で、雪かきや家畜の世話──教会で礼拝し、学校で勉強をするだけの日々。

 皆が退屈になるのも無理はない。

 だから少しだけ、怖い話題が口をついて出ていく。

 

「そもそもなんで〈魔者〉なんているのかしら?」

「神様がいるなら、〈魔者〉なんていない世界にしてくれればいいのに」

「そもそも神様っているの?」

「教会でそれ言っちゃう?」

「まぁ、いるんでしょ? いないなら〈勇者〉さまとか誰が選んでるのよ?」

「神様や〈勇者〉さまがいなかったら、大陸が〈魔者〉であふれちゃうし?」

「だよねー。〈魔者〉の王──魔王さまとか討伐できるのも〈勇者〉さまだけだって、先生が言ってたし」

「あれ? 魔王って封印しかできないんじゃ?」

「似たようなもんでしょ」

「ねぇ、知ってる? 前、巡礼に来てた人が言ってたんだけど、ウチの孤児院を卒業した人って、意外と〈勇者〉さまが多いんだって」

「えぇ。本当に?」

「私、〈勇者〉様なんて実際に見たことないんだけど」

「──私は見たことあるよ」

「うそ。ほんとに、プレア?」

 

 白い髪の少女は遠慮がちに頷く。

 

「うん──すごく小さい時だったけど。〈勇者〉様を……首都で」

「へぇ。プレアがいうなら本当か」

「ね、〈聖痕〉ってどんなのだった?」

「やっぱり傷が光るの?」

「いいなー、私も一度は会ってみたいなー!」

 

 ナハルはそれらの声に耳を傾けつつ、悪夢で(うな)されないように飲んでいる薬──ここ一年服用しているが、効能は微妙──を口に含み、湯冷ましで流し込む。

 寝間着姿の少女らが楽し気に談笑する声を聞いたのか、階段をのぼってくる足音が。修道女のロースが部屋の扉を開けて現れる。

 

「こらー。もう消灯の時間よ? 蝋燭がもったいないから消しなさーい」

 

 了承の声を唱和させる子供たち。

 

「ナハル、お薬は?」

「さっき飲みました」

「そう──それじゃあ、みんな、良い夢を」

「良い夢を!」

 

 蝋燭を手に持った修道女に挨拶を返して、全員が寝床についた。室内は完全な闇となる。夜空には月もない。

 ナハルは目を閉じるが──眠れなかった。

 十数分ほど経過した時だ。

 

「……ねぇ、ナハル。起きてる?」

 

 友人の声に体を起こす。

 

「どうかした、プレア?」

「……ちょっと、お花をつみに」

「はいはい、おしっこね」

「う~、そんなハッキリ言わないでよ~」

 

 二人は寝床を抜け出し、真っ暗闇を手探るように廊下を進む。

 大人でもここまで完全な闇では、一人で用を足しに行くのは怖がるだろう。古い床板は軋むし、窓を叩く夜風も不気味な音色を奏でている。

 おまけに、トイレは宿舎の外だ。上下水道がない地域なので、トイレは基本的に肥溜め。なので、人間のいる建物よりも畑や菜園などに近い場所に設置されている。

 しかし、ナハルは疑問する。

 

「ていうか、夜は部屋の鉄桶ですればいいのに。朝一で捨てればいいんだし」

「そ、そんなの……は、はしたないじゃない!」

 

 ナハルは一応首肯してみせる。日本人であれば部屋の隅にある衝立の向こう──そこにあるバケツで用を足すというのは信じがたいことだが、夜の移動が難しい真の暗闇の中では、これが一番の最善手であると痛感できる。

 プレアは妙なところがある。

 トイレの件だけではない。普通の村人なら気にしないことに、平民なら当然のような慣習に、一定の抵抗や齟齬(そご)が生じている。

 

(なんというか、いいところの御嬢様って感じかな)

 

〈魔法〉の発展した首都……そこに住まう都市民や貴族や王様などには、ちゃんとした個室トイレがあり、真夜中でも光を一瞬で灯す装置が、〈魔法〉の力の恩恵によって普及しているとか。

 そういった環境下で育った人が、こうした平民の生活を直視すると、ちょうどプレアのような感じになるらしい。

 彼女が院を訪れたのは、ほんの数年前。

 親を亡くした孤児というよりも、何らかの事情で院長が預かっている、そういう“訳アリ”の娘であった。

 

(何にせよ、個人の事情に首を突っ込むのは野暮だからな)

 

 プレアに付き添うナハル。

 中身が成人女性である少女でなければ、真っ暗闇を付き添って歩くのは、かなり難しい頼み事だろう。

 しかし、プレアは急ぐわけでもなく、どこかとぼとぼとした足取りで廊下を進む。

 階段を降りているあたりで、ついに白い少女は立ち止まった。

 

「どうかしたの?」

「うん。あの、ね、ナハル。私ね…………言わなくちゃいけないことがあって」

「言わなくちゃいけない?」

 

 薄闇の中でかろうじて見透かせるプレアの表情は、だいぶ深刻なものだ。

 

「私ね、冬が明けたら、ここを出ることになったの」

「……ふーん?」

 

 こんなにもあらたまって言うべきことだろうかと疑念しつつ、一抹の寂しさを覚えるナハル。

 

「どこに行くの?」

「それは──ちょっと言えない」

「言ってくれなきゃ、手紙も書けないじゃない」

「書いてくれるの?」

「当然……私たちは親友でしょ?」

「うん!」

 

 花の咲くように笑うプレアの声に、ナハルは安堵して、

 ──ふと、違和感を覚える。

 はじめに感じたのは、鼻腔を突く焦げ臭さ。

 そしてお互いの顔が今、はっきりとわかる。

 

「え──明るい? え?」

 

 ナハルとプレアは首を傾げる。

 階段の窓の外の遥か先に、何か、(あかり)のようなものが。

 否。おかしい。村にあれほどの光量を発する道具も邸宅も存在しない。

 夜の雲を焦がさんばかりに立ち昇るのは、紅蓮一色の、炎。

 

「うそ、火事?」

 

 村の中心で火の手が上がっている。

 否。中心の一つだけではない。村の外れの湖のほとりに位置する教会の位置から、確認できるだけで五つの火と煙が確認できた。それらは見つめるうちに、広く、大きく、村の光景を飲み込んでいく。遠くにも人々の悲鳴が聞こえるほどの量が奏でられ始め、これが尋常ではない事態であることを即解させる。

 この世界で考えられる不審火の原因は、三つ。

 ひとつは戦争。──しかし、現在付近で戦争があるという話はない。

 ひとつは夜盗。──しかし、こんな寂れた村を襲う盗賊団が、この近辺にいただろうか。

 そして、最後のひとつは、

 

「まさか〈魔者〉?」

 

 消灯前の話題で交わされた噂。

 魔王復活に伴う〈魔者〉の発生報告。

 

(いや、可能性よりも先にすることがあるでしょ!)

 

 事態を飲み込んだナハルは、怯え固まるプレアの手を引き、行動に移った。

 

「起きろ! 村で火事だ! みんな起きろぉッ!」

 

 宿舎中に響く大声。

 それを聞いた修道女や子供たちが数名、廊下を駆けて外を指さすナハルを見つける。

 

「火事ですって!?」

「村で? 本当に?」

「ほんとに燃えてるよ先生!」

 

 村の惨状を直視し、軽く恐慌状態に陥るのも束の間。

 ──カラァンという聴きなれた鐘の音が大気を幾度も震わせる。

 どうやら、別の宿舎で寝ていた修道士たちも異常事態に気づき、警報としての鐘を撞きに鐘楼をのぼったようだ。 

 

「全員おちついて!」

 

 鐘の音と共に、寝間着姿の院長が指揮を行う。

 

「村の方は、修道士の皆に向かわせました。修道女の半分は、子供たちを起こして避難準備。残りの半分は避難してくる村人を受け入れる準備を!」

 

 完璧な采配を冷徹に行うクローガ院長。いつもの修道服の立ち姿に歓喜する一同。

 しかし、いつもとは違っていた。

 

「院長……その腰のものは?」

 

 それに加え、噂に聞いていた剣……それも二本を腰に引っ提げている姿を見せられ、誰もが目を瞠る。

 

「非常時のことです。自衛手段は多いに越したことはありません」

 

 帯剣した院長の指揮統率によって、パニックを免れた修道女らが一斉に頷き合い、長からの指示を全うしていく。

 ナハルは、院長の(しわ)だらけの上に傷だらけの掌に頭を撫でられた。

 

「よく皆に報せてくれましたね、ナハル。偉いわよ」

「い……いえ」

「今夜はこれから大変なことになりそうです。どうか、お友達や小さい子を、あなたが守ってくださいね」

 

 笑う院長の背中を見送るナハルの横で、プレアは今にも泣き崩れそうな顔色で、何か呟いている。

 ナハルは親友の手を軽く握って、微笑(わら)う。

 

「大丈夫だよ──きっと大丈夫。火事は消せばいいし、怪我をしたら治せばいい。だから、大丈夫」

 

 プレアは微かに手を握り返してくれた。

 

 

 

 

 しかし、ナハルの言葉……「大丈夫」という言葉は、現実のものになることはない。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 山間の寒村を襲撃した者たちは、村で破壊と殺戮の限りを尽くしていた。

 それを眺める一人の男。目鼻は整っており、その肌の色は浅黒い。

 都市で流行している紙巻の煙草を口にしながら、遠方との会話を可能する〈魔法〉のピアス越しに指示を飛ばす。

 

「対象を見つけ出せ。──そう。白い髪の少女だ。──ああ、そう。この村にいることは確かだ──出来れば殺さずに確保したい──ああ、そうだ。庇護していた連中も、村人諸共すべて殺せ。女子供も容赦するな。そういう“命令”だ」 

 

 何者かに連絡を取り付けた男は、村を見下ろせる山腹で、新たな〈魔者〉を解放。

 

「おまえたちも行け。ここは俺と精鋭十人でいい。せいぜい好き放題に喰い荒らしてこい」

 

 怪しい光を放つ腕輪を右手に嵌めた青年。彼の下知を受けた〈魔者〉たちが、一斉に斜面を駆け降りる。

 

「やな仕事だぜ、ほんと。まいっちまうよなー、あーあー」

 

 面倒くさげに金髪を掻きまわす男は、紫煙を吐き出しながら事の次第を子細に観測・観戦していく。

 猛獣種の〈魔者〉──巨大な熊・牛・虎・豹など──が、先遣隊と合わせて計100体の脅威となって、村を完全に取り囲んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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惨劇

/Transmigration …vol.05

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 村は惨劇の舞台と化した。

 四方から聞こえる獣の蛮声。

 勢いを増して逆巻く炎と黒煙。

 

 逃げ惑う人々が引き裂かれ食い千切られ、何処から現れたのかも判らぬ魔獣の群れの餌食となる。

 助けを求める声は届かない。息子の盾となって父が喰われ、娘を突き飛ばした母が炎上し倒壊する家屋の底に沈む。

 

「誰かぁ!」

「助けてくれ!」

「喰われたくない!」

「おとうさん! おかあさん!!」

 

 古いながらも高さのある壁に囲まれた村では逃げ場がない。 

 それら地獄もかくやという光景のなかで、教会の男たち──修道士が村人たちを教会へ誘導しようとする。神の守る聖域であれば、あるいは殺戮の獣共を払いのける効果もあるやも知れない。

 しかし、神に仕える信徒であろうとも、漆黒の体躯に赤い紋様を浮かべる〈魔者〉は容赦なく牙を剥いた。

 さらに、襲撃する者たちは……〈魔者〉だけではなかった。

 その人影は音もなく声もなく現れる。

 

「な、なんだおま」

 

 えら、という間もなく、子供を背に抱えた修道士が胸を短剣で貫かれていた。心臓を一突き。目の前の凶行に泣き叫ぶ子供にも、無慈悲な刃が振り下ろされた。

 黒衣を纏った“影”の集団は、一見すると夜盗や野伏の類に見えるが、その殺人技は洗練され完成されたものばかり。

 部隊長らしい赤茶髪の男が振り下ろした掌と共に、袋小路と炎に囲まれた集団が弓矢の斉射で一掃されていく。

 男も女も、老人も子供も、生まれて数日だろう赤ん坊に至るまで、殺された。

 殺戮の狂宴は、わずか十数分の内に幕を下ろした。

 ついに、100人近い村人らが全滅したのを認め、〈魔者〉の集団は湖近くの教会を目指す。

 その途上で。

 

「!!」

 

 襲撃者たちの先頭──豹の〈魔者〉が鮮血を吹いて倒れた。

 それも、三体同時に。

〈魔者〉と“影”の進軍が、たった一人の力によって阻まれる。

 

「……遅かったか」

 

 老女は〈魔者〉たちが背にする村の惨状に眉をしかめる。

 避難誘導のために派遣した修道士たち──院長は彼らの冥福を祈ることしかできなかった。

 

「ここから先へはいかさないよ。『憐れにも歪められた者』たち」

 

 その身を包むのは黒い修道服。見た目は老齢の修道女だが、両手に二振りの剣を提げている姿というのは、あまりにもそぐわない。

 

「このさきにあるのは私の孤児院だ。ウチの子ども達に手を出すというなら、誰であれ何であれ、容赦なく斬る」

 

 漆黒のヴェールを翻し、クローガ院長は剣を構える。

 魔獣らは警告など聞く耳持たぬ勢いで、攻め寄せた。

 

「神よ。──我が子ども達を、守る力を与えたまえ」

 

 ほのかに燐光を発する掌の傷。

 その光はクローガ院長の剣を包み込み、光の粒子を纏い始める。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 消灯から間もなく叩き起こされた孤児たちは全員、教会の中央に位置する礼拝堂に集められた。

 修道女たちが毛布を羽織らせ、心配ないと励ます声に頷きはするが、村から聞こえる獣の雄叫びや人間の断末魔を遠くに聞くというのは、いろいろな感情を掻き立てられる。

 恐怖。絶望。不安。憂鬱。混乱。

 青ざめて震える子。涙を流して肩を抱く子。努めて陽気に振る舞おうとして失敗する子。

 それらを眺めることしかできない己の無力さを噛み締めながら、ナハルは思う。

 

(クローガ院長が出て行って何分経った?)

 

 急遽灯された蝋燭の減り具合から行くと、10分は経っていないはず。

 

(こんなことになるなら、院長に剣を教えてもらえばよかった)

 

 しかし、修道女が剣を扱うなど、普通に考えればありえない。

 少なくとも、クローガ院長は自分が剣を使えることを周囲に教えていなかったし、徹底的に隠しているようでもあった。

 

(剣の噂が本当だったのなら……院長が〈勇者〉だったという話は)

 

 途端に現実味を帯びてくる。

〈勇者〉──神に選ばれた戦士──〈魔者〉を狩り殺す力を備えた存在。

 

(神に選ばれるとか、私は絶対に、ゼッタイに嫌だけど──?)

 

 ひとり考えに耽っていたナハルは、自分の隣にいる少女が起ちあがったことに、気づくのが遅れた。

 

「……プレア?」

 

 白い髪を揺らして、少女は礼拝堂の出入口を目指す。 

 この状況で、まさか先ほど行きそびれたトイレに向かうわけがない。

 ナハルは少女を追った。その小さな肩をとどめるのに、ロース修道女も駆け寄った。。

 

「ちょ、どこにいくの?」

「二人とも、どこにいく気?」

 

 親友と修道女の問いかけに、プレアは応じない。

 

「怖いのは分かるけど、今は外に出るのは」

「私のせいだ……」

「なに?」 

 

 白い少女は肩を震わせて泣いていた。

 

「私のせいなの。私が、ここにいたから、ここにいるからこんなことに」

「ちょ、なに馬鹿な事言って」

 

 そんなことあるはずないと言って聞かせるが、プレアは聴く耳をもたなかった。

 

「全部、ぜんぶ私のせいなんだ。だから、私が出ていけば……もっと早く出ていくべきだったのに!」

 

 意味不明なことを喚き始めるプレアは常態から逸脱している。

 なんとか少女を宥めようと努力する間もなく、轟音と咆哮が礼拝堂を揺らした。

 それに重なる孤児たちや修道女らの悲鳴。ナハルとプレアは、ロースの腕にかばわれるようにして身を伏せた。

 

「〈魔者〉!!!」

 

 刹那の悲鳴が、絶望の叫喚にとってかわる。

 吹き込んでくる夜風と共に、堂内を黒い暴力が血の色で染める。

 灯されていた燭台が倒され、火を広げていくのと同時に、神を奉る聖域は屠殺場の装いを呈していった。

 子供らをかばう修道女たちが〈魔者〉の爪牙に貫かれ、なんとか逃げ延びようと駆けまわる矮躯を“影”の白刃が狩り取っていく。

 ちょうど柱の陰の位置にいたナハルたち三人は、奇跡的に殺戮の中心から遠い場所にいたが、いつまでも無事でいられる保証は皆無であった。

 

「……逃げるわよ」

 

 ロースのひそめた声に、ナハルとプレアは抗弁しようとして口を塞がれる。

 

「ここで死んだらダメ」

「でも、でも皆が!」

「だめよ──お願いだから生きて、ナハル。──“姉さんの分まで”」

 

 鬼気迫るものを感じさせる横顔に、二人はなにも言えなくなる。

 プレアは極めて小さい声で「ごめんなさい」と言い続け、礼拝堂内で今も続く蹂躙劇に背を向ける。

 ナハルもまた、何もできない現実に視界が熱くなるのを抑えられない。

 

 どうしてこんなことになった。

 どうしてこんなことが許されるのか。

 どうしてこんな風に殺されねばならないのか。

 どうして村の人が、院の皆が、こんな結末を辿らねばならないのか。

 あの神とやらは何をやっている。

 私のような転生者を産み落とす前に、この惨状から皆を救うことが先ではないか──ナハルは胸の内で、かつて出会った神へと吠え散らした。

 漆黒の闇に紛れるように、忍び足で出入口を抜け、灰の混ざった雪が降りしきる中庭に出た──瞬間だった。

 

「見つけた」

 

 黒衣に身を包む襲撃者──その部隊を率いているらしい赤茶髪の男。

 

「対象を発見。繰り返す対象を発見。これより確保する」

「行って、二人とも! 走って!!」

 

 ロースに突き飛ばされるようにして走り出したが、手遅れだった。

 あっという間に黒衣の人間たちに包囲され、手を繋ぎ合っていた子供を取り押さえる。

 

「いやッ、はなして!」

「プレアを放せ!」

 

 強引に引き離され、その場に打ち据えられる二人。

 

「この──!」

 

 尚もナハルが抵抗しようとした刹那、白い刃が炎を照り返すのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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邂逅

/Transmigration …vol.06

 

 

 

 

 

 短剣は何の逡巡もなく、ナハルの体躯の中心を抉ろうとする。

 

「ッ!」

 

 とっさに地面の雪と灰を掴んで、凶刃の持ち主の眼をくらませる。

 

「チ、抵抗しても無駄だ!」

 

 抵抗するにきまってる。

 しかしながら、やはり大人と子供──襲撃者と九歳児では、勝敗など決まっていた。

 あっさりと捕まり、再び白刃がナハルの喉笛を掻き斬らんと振り上げられる。

 そこへ、親友の声が響いた。

 

「もうやめて! 私が目的なんでしょ? 私が捕まるから、ナハルには手を出さないで!」

 

 白い少女の言葉に、襲撃者たちは意外にも刃を止めた。

 涙まじりに「彼女(ナハル)を殺したらここで死んでやる」という言葉を添えられ、どうやら本気のようだと理解される。

 プレアの嘆願により羽交い絞めにされる程度で済んだナハルの耳に、

 

 パァン

 

 という渇いた破裂音が突き刺さった。

 振り返ると、抵抗していたロース修道女が絶叫をあげて倒れ伏している。赤茶髪の男が持つ〈魔法〉の銃で脚を撃たれたようだ。

 そいつはまるで狩りで得た獲物を検分するように、ロースの脚の傷を踏みにじる。

 修道女の悲鳴が夜の底を震わせた。

 男は目を細める。

 

「へぇ。修道女にしては、なかなか良い顔と胸だ。……このまま殺すのは、いかにももったいねぇな」

「隊長。いくら好みの女だからって、味見してる時間はありませんぜ?」

「なぁに。捕まえるように言われたガキは今さっき確保したんだ。ちょっとくらい(たの)しんでも、バチはあたらんだろう?」

 

 教会の修道女を襲う時点でバチもクソもない。

 プレアが再び「やめて!」と声を荒げるが、

 

「殺すわけじゃないから安心しろ」

 

 下卑た表情を浮かべて、ロースを取り囲む男たちの様子に、ナハルは腹の底から凍えるものを感じた。

 生前にも経験した──あのクズ女が、生前の母が連れ込んだ男どもに感じたのと同じ──絶対の殺意。

 冷たく濡れた大地を這うしかないロースは、気丈な眼差しで襲撃者の長を睨む。

 

「村を襲うだけじゃ、飽き足らず、──信仰の場で、修道女や子供らを殺すなんて」

「悪いが、俺はそこまで信心深くはないものでね」

「ア、アンタ達なんて、ウチの院長が、来てくれれば、一瞬で、斬り殺されるわよ」

「院長? 斬り殺? ──ああ、その院長ってのは、この剣の持ち主か?」

 

 言って、隊長と呼ばれた男は、院長が携行していった剣──その根本で折れて壊れた残骸を放り投げた。

 

「事前情報にはない戦力で多少は手間取ったが、100体の〈魔者〉相手じゃ、どうのしようもなかったな」

 

 一斉に嘲笑の吐息を吐く襲撃者たち。

 

「そん、な」

 

 ロースは絶望的な事実に、悔し涙をボロボロとこぼすしかない。 

 

「さぁて──と」

 

 脚を撃たれ、逃げることもままならない彼女は、四方を男に囲まれ、修道服を短剣で破かれ始める。悲鳴をあげる口を塞がれる光景は、いやでもナハルが生前に体験したことを想起させた。

 その現実を前に黒髪の少女は顔を大きく歪め、唇を噛み切った。

 少女の沸点を超えた。

 

 さわるな──

 さわるな──

 さわるな──

 さわるな──

 さわるな──

 

「汚い手で! そのひとに触るな! クソ共が!!」

 

 己を羽交い絞めにしていたやつの手が、修道女の肌に生唾を飲んだ一瞬の隙をつく。

 局部の膨らみを正確に蹴りつけ、完全な自由を得た。

 しかし、子供一人が逃げ出したところで、数秒後には捕まる運命であった。

 せめて──なにか武器を。

 

「!」

 

 奴が放り投げてくれた、折れた鉄塊──院長の剣の残骸を掴んだ。

 刃があったままでは持ち運ぶことは不能だろうが、その刃の大部分が欠けたおかげで、ナハルの腕力でも振り回すのに支障ない重量となっている。

 

「あああああああああ!」

 

 吶喊するナハル。

 小さい身体の無茶苦茶な突撃によって、隊長の背中に折れた刃先をめりこませることに成功した──が、

 

「てめぇ、このガキが!」

 

 折れた剣の殺傷力の低さに加え、子供の腕力による攻撃など、たかがしれている。

 反撃の蹴り足を、戦いの技能を持たぬ少女の身体には、躱す術がない。

 胸の空気が全部吐き出されるような衝撃と共に、中庭の灰と雪の上を転がる羽目になる。顔や手足を思い切り打ちつけ、ところどころから血が流れるが構うことはない。すぐに立ち上がって体勢を立て直すが、やはり子供の握力では剣を握り続けることは難しかったようで、今ではかなり遠いところに落としてしまった。もう武器がない。

 

「味見の前に、テメェの臓物をここでブチ撒けてやる」

 

 修道女への暴行よりも、少女への復讐に奔ることを選んだ部隊長。

 それほどの苦痛であり屈辱の一撃となったわけだ。

 ナハルはしてやったりと強い笑みを浮かべる。

 

「〈魔者〉共! このガキの五体を食い散らせ!」

 

 男の命令を受諾した魔獣たちが、ナハルをあっと言う間に包囲する。

 完全に、万事休す。

 それでもナハルは抵抗し続ける。

 壊れた剣がないのであれば、足もとに転がっている石を武器に選ぶ。 

 子供とは思えないほど強壮な心。

 敢闘する意思の力。

 その気迫や剣幕におされたかのごとく、〈魔者〉達が動きを止めた。

 

(……絶対にあきらめない)

 

 必ず生き延びる。

 

(生きて、あの神の顔面に、一発ブチ込むまで)

 

 死んでたまるものか。

 

(私は、絶対に負けない。こんなところで──)

 

 死んでも!

 

「負けてたまるか────────ッ!」

 

 その時。

 ナハルの全身が強烈な光に包まれた。

 急転直下の事態に、黒衣の襲撃者たちは色を失ったかのように立ちすくむ。

 光がやんだ直後……黒髪の少女を包囲していた〈魔者〉たち──50体が一斉に、その場に崩れ落ちていく。

 同時に。

 ナハルはその場で糸が切れたように腰を落とす──光が発生した瞬間に殺到した劇痛によって意識を失い、昏倒したのだ。

 

「い、今のは何だ!?」

「判らねぇ。一体?」

「お、おい……あれ」

 

 彼らが見つめる先に立っていた少女の全身……傷だらけでボロボロの身体を覆うかのように表れたものは、光り輝く神の御印。

 

 ──〈聖痕〉であった。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「ナハルが、〈勇者〉さま?」

 

 拘束されるまま、事の顛末を見つめることしかできないプレアだけは知っていた。

 あの輝きに満ちた幾何学模様の傷痕こそ、まさしく〈魔者〉を倒す唯一の存在、〈勇者〉にのみ与えられる〈聖痕〉であることを。

 それでも、理解できないことが、ひとつ。

 

「でも、あんな……ぜ、全身に、なんて」

 

 プレアは見たことも聞いたこともない。

〈聖痕〉の発現範囲は個人差があるが、せいぜい掌全体まで。

 それが全身に及ぶというのは、──それは、神話とされる書物の中にしか存在しない事象であった。

 

「あ、あれが〈聖痕〉? ……は! だからなんだってんだ! おい早くブチ殺せ! この得体の知れないガキ、生かしておく必要はねぇ!」

「で──ですが」

「あんな全身が〈聖痕〉まみれな〈勇者〉なんているわけがねぇ! あれだ、〈魔法〉かなんかで演出してるだけだ! はやく殺しちまえ!」

 

 むちゃくちゃな理論を含んだ命令を、実行できる部下はいなかった。

 躊躇して当然。

 長く人の世に災いを成す〈魔者〉──その“王”である魔王の復活が噂される状況で、〈聖痕〉を持つ〈勇者〉を殺す=魔王への対抗手段を失うというのは、人類全体の損失と見なされる。下手すれば、子孫八代にわたって不名誉な烙印を押されかねないとなると、いくら上司の命令とはいえ、従うことはできない。

 

「もういい! だったら、俺が!」

「それはご遠慮いただきたいのでございます」

 

 突如、降って湧いたような声。

 この場の誰もが、そこに現れた水色の女怪──左半身が崩れた片眼鏡の女の登場に度肝を抜かれた。

 

「な、何者だテメェ!」

「何者? 見ての通りの〈魔者〉でございます」

 

 右半身だけ見目麗しい女は、崩れた左半身を流動させて、赤茶髪の男を包み込んだ。

 途端、溺れたようにもがく男。水の触手に絡めとられた男はあっという間に意識を失う。

 隊長に襲い掛かる女怪へと部隊員たちは弓矢を放つ──が、それは一矢たりとも女の身体を傷つけることができない。

 矢は女の周囲を流動する粘液の壁にくるまれ、一瞬の後に溶解・吸収される。

 人間の業ではない。〈魔法〉とも違う(ことわり)の力──まさしく〈魔者〉の所業である。

 

「こいつ、攻撃が効かねぇぞ!」

「〈魔者〉が意思を持って“喋る”だと? そんなことあるのかよ!?」

「て、撤退だ! 俺らの制御下にない〈魔者〉なんて、どうしようもない!」

 

 隊長が捕縛されている事実など関係ない。それよりも優先すべきは我が身の安全であり、彼らの仕事は「少女の捕縛」と「村の壊滅」──その両方が成された以上、長居する必要はなかったのだ。

 しかし、

 

「撤退? もう、何もかも遅いのでございます」

 

 水女が告げるのと同時に、大量の気配が闇の中から現れる。

 ねじれた角を持つ悪魔、筋骨隆々な狼男、カタカタと震える骸骨、宙に浮く魔剣、トンガリ耳の女エルフ(ルハラハーン)──

 そして。

 兜も胸甲も、すべてが純白で統一された全身鎧の〈魔者〉──

 

「ご紹介いたします。私どもは“魔王軍”──そして、ここにおわしますは、全魔族を率いる我らが王──」

 

 神と人類の大敵。

 

「“魔王(アン・ターヴィルソル)”陛下でございます」

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「ナハル、しっかりして、ナハル!」

「  …… プ  レ、ア?」

 

〈聖痕〉の発現によって意識が飛んでいたナハル。

 真っ先に目に飛び込んでくる親友の姿に、反射的に跳ね起きる……が、全身が強烈な痛みを訴え、またその場に倒れ込む。

 

「プレア……ぶじ?」

「私は平気。だから、無理しないで。だいじょうぶ。もう、だいじょうぶだから」

 

 何がどう大丈夫なのかわからない。

 あれからどうなった。あのクズ共は、どこへ?

 

「目が覚めたようだな」

 

 優しい男の声。

 振り向く先にあるのは、見たことのない数の〈魔者〉──その最前列にいる、純白の全身鎧。

 

「まさかな……まさか〈聖痕〉を、しかも魔王滅殺級の〈大聖痕〉が発現する瞬間を、魔王である我自らが目撃することになるとは」

「──ま、おう?」

 

〈魔者〉の王!

 ナハルは村と孤児院を襲った黒い魔獣らの陵虐を思い出すが、魔王の清廉で真摯な声音に認識が混乱する。

 

「一応教えておくが。我等は、君らを襲った黒い連中とは、まったくの無関係だ」

 

 その意味が浸透するよりも先に、ナハルは状況を理解していく。

 野外で寝かされている自分。全身に刻み込まれた、複雑怪奇な光の紋様。意識が鮮明になるにつれ、今夜なにが起こったのか思い出す。

 

「村と院を襲った連中は?」

「一応は捕縛しているが……『殺せ』などと言ってくれるなよ? あれは一応、使い道があるのでな」

「ロース、は、修道女のひとは?」

「安心しろ。今はあちらで眠っている」

 

 指さされた先には、左半身が水色に崩れた女性に手当てをされている女性の姿が。

 

「脚の傷は我々が手当てした。少し厄介な傷だが、治療を続ければ治る」

「──院の、皆は? 村の人たちは?」

「……生き残ったのは君らだけだ。礼拝堂内も、焼き討ちされた村も、我々が念入りに調べたが。……助けることができず、すまない」

 

 何故か謝る魔王。

 遺体は見ない方がいいと率直に言われ、ナハルは頷くこともできない。判ってはいた──覚悟はできていたはずだが、実際に事実を前にすると、視界がぼやける。

 ナハルの班で生き残ったのは、ともに逃げることができた親友プレアだけ。

 修道女はロースをのぞいて全滅。

 その事実を前にして、少女の身内から溢れそうになるのは、強烈な怒り。

 襲撃者たちへの憤怒もあったが、それ以上に憎悪すべき存在が脳裏をチラつく。

 

 神。

 

 ナハルを転生させ、その先の世界でガン無視を決め込む無能者。

 奴がナハルという異物をこの世界に転生させたのであれば、無論、この世界にはぶこる悲劇や悪意を、どうにかすることだってできただろうに。

 だが、奴らは日々を誠実に過ごす村の人々が襲撃者に殺戮されるのをとどめず、果ては神に仕える教会の院長や修道女たち──孤児に至るまで死ぬのに任せた。

 許さないと思った。

 このとき完全に、ナハルの意志は神への暴虐の色に染まり尽くした。

 

「あなたは、本当に魔王なのですか?」

「そうだが?」

 

 ナハルはプレアが止めるのも聞かずに起き上がった。

 そして、包帯だらけの身体に鞭打つように片膝をつく。最敬礼の姿勢を〈魔者〉の王に向けた。

 

「おねがいがあります!」

 

 息をするのもつらい中で、はっきりと願った。

 

「私を、あなたの幕下に加えてください。部下として働かせてください!」

 

 傍にいたプレアのみならず、居並ぶ〈魔者〉たちまでもが、固唾をのんで見守るしかなかった。

 想像を超える申し出だったようで、魔王もまたその場にくぎ付けとなる。

 

「──神の御印を戴く、〈勇者〉である君が?」

「──はい。私は、神を許さない!」

 

〈勇者〉らしからぬ言動であったが、ナハルの思いは今や不動不可侵のものとなった。

 

「こんな……こんなことを、こんな悲惨な現実を許す存在を、私は、“私の手で殺したい”!」

 

 憎悪の血潮が心臓を痛いほど打ちつけていくのを実感した。

 迷いはない。

 十にも満たぬ少女とは思えないほど苛烈に過ぎる、裂帛の意志。

 

「お願いです! どうか、私に力を貸してください!〈勇者〉の証を刻まれた私なら、あなたのお役に立てることもあるはずです!」

 

「どうか」という泣訴の圧力。

 その言葉が真のものであることを確信させるのに十分な熱量を浴びせられ、魔王は頷く。

 

「なるほど──そうか──確かに、君の思いはよくわかった」

 

 そして、告げる。

 

 

 

「“断る”」

 

 

 

 

 

 



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別れ

/Transmigration …vol.07

 

 

 

 

 

 にべもなく拒否されたナハル。

 しかし、ここで引きさがることはできない。

 少女は両膝をついて、額に開いた傷……〈聖痕〉を大地にこすりつけながら、魔王への嘆願を続ける。

 

「お願いします! どうか!」

「断る、と言っている」

 

 魔王は鎧の肩を落として嘆息を吐いたようにみえた。

 兜の眉間をおさえる指が、カシャカシャと軽い音を奏でる。

 

「〈勇者〉が、よりにもよって魔王の幕下に……部下になるだと? 正気か? 人類の救済者たるものが、人類を裏切るつもりか?」

「なんと言われようと構いません。それで私の望みが果たせるのなら、私は」

「ナハル、待って!」

 

 プレアが必死の形相で親友の肩を掴む。

 

「なんてこと言うの! あなた自分がなにを言っているのか、本当にわかってるの?」

「プレア」

「魔王は〈魔者〉の……“人喰いの王”だよ? そんな存在の部下になってついていくなんて、殺されに行くようなものじゃないの」

 

 人を喰らう王。

 そう評された本人は否定する言葉を持たなかった。

 

「彼女の言う通りだな」

 

 苦笑と共に肯定してみせる声は明るかった。

 だとしても、ナハルの意志は揺らぐことはない。 

 

「お願いします」

「……本気で言っているのか?」

 

 絶句する魔王。

 彼にかわって、プレアは説得を続ける。

 

「正式にお……王や教会に認可されたわけじゃないと言っても、あなたが勇者の証を、〈聖痕〉を得た事実は変わらない! それなのに?!」

「プレア、私は決めたの」

 

 全身に刻みこまれた光輝の傷痕。

 こんなものを戴いたところで、ナハルには何の価値もない。

 このまま国と教会に〈勇者〉と祭り上げられるなど、真っ平御免である。

 ナハルの黒い瞳は、プレアの赤い瞳をまっすぐにとらえた。

 ついで、彼女の視線は濃厚な血の匂いが漂う方へ向けられる。

 

「今夜、たくさんの人が死んだ──村も、院長も、先生たちも──子どもたちも」

 

 プレアは、ナハルの言いたいことが理解でき始めていた。しかし、彼女はその現実から目をそらす──そらして当然の惨劇だった。

 だが黒髪の少女は、殺戮の惨状が広がる礼拝堂に向けて歩を進める。

 黒い〈魔者〉に喰い荒らされ、黒衣の連中に殺され尽くした。

 ナハルたちと同室同班の少女らも、一人たりとも残さずに。

 その事実を確かめるように、傷だらけの身体を抱えながら、半焼した堂内と、血の海地獄を見据え続ける。

 

「都の宿屋(オースタ)で働きたいと言っていたディラ。綺麗な婚礼衣装を作りたがっていたアロール。クイルは、この院で修道女(バン・リアルタ)になりたいって。……なのに──なのに……ッ」

 

 友らは、それぞれが思い思いの未来を描いていた。将来の展望に胸を躍らせ、孤児としての境遇を悲観することなく、日々を清く──たくましく生きていた。

 なのに──皆、死んでしまった。

 ここに──冷たい屍をさらして。

 たとえナハルでなくても思うだろう。

 絶対に許されていいことではないと。

 こんなことを許すものがいたら、それこそが悪だと。

 

「こんな地獄を産むのが神とやらの思し召しというのであれば……私は、そいつらを許すことはできない」

 

 壊滅した村。修道院の惨状。ナハルたちを逃がそうとして襲われ、傷を負ったロース。

 プレアも、それ以上抗弁する意欲を失ったように俯くままとなった。

 ナハルは決意した。

 自分の命は、この世界で農人や職人や商人として費やすものではなく。

 今ここで邂逅を果たした神の敵──魔王のために捧げるものだと。

 少女はあらためて魔王の足もとに進み、平服の限りを尽くす。

 

「魔王様──どうかお願いします」

 

 再びの訴えに対し、魔王はけんもほろろに突き放す。

 

「断る」

 

 純白の王は肩をすくめた。

 

「ふん。神を許さんだと? ならば復讐でも遂げる気か? なんの能力も知恵も持たない卑小な人間が、〈聖痕〉という名の烙印をおされたガキごときが、ほんとうにどうにかできる相手だと? ──笑わせるのも大概にしろ!」

 

 そう語気を荒げる王の姿は、魔王などという恐ろしい存在とは思えないほど人間的だ。

 まったくもって、彼の言ったことは真実であった。

 

「だとしても。私に残った道は、これしかありません」

「そんなに仇を討ちたいと? 殺された者らの無念を晴らしたいのか? 彼らを殺した黒い〈魔者〉は、君の〈聖痕〉で滅ぼしただろう? これ以上に復讐を望むのであれば、確保した襲撃者たちを殺させてやろうか?」

 

 少女は王を見上げる。

 

「違います」

「違う?」

「確かに、私はそいつらも、村と院を襲った連中も許せない──でも、根本的な問題は、神が、あいつらが、このクソみたいな状況を放置しているからだ!」

 

 ナハルは立ち上がる。

 彼女の脳裏に浮かぶのは、「手違い」という理由でヒトの人生を奪った存在の軽薄な表情。

 

「九年前、私をこの世界に産み落とすだけ落として、奴らは何もしてこなかった。この世界では奴らに干渉することはできないこともあるのだと納得してもよかった──だが! なんなんだ、このザマは! なんなんだ、このありさまは! 何が〈聖痕〉! 何が〈勇者〉! ふっざけるのも大概にしろ、自称神ごときが!」

 

 魔王には彼女が何を言っているのかわからないだろうが、少女の感情は許容量を超えた。

 いま神どもは、こんなモノをナハルに与えて、さぞやご満悦なのだろう。くそくらえだ。

 ナハルは魔王の兜に覆われた面貌を見透かさんばかりに見つめ、縋りつくままに願った。

 

「お願いします! どうか──どうか!」

「──君は、俺には不要なものだ」

 

 魔王の冷たい眼差しを受け止める少女。

 ナハルは魔王の手を放し、重い息を吐いた。

 

「そうですか。

 では、私はここで死にます」

 

〈勇者〉として、神の敵対者たる王の障害になるつもりなどない。

 神の企図を──魔王を殺す尖兵となる状況を阻むために、残された手段は、ひとつだけ。

 

(そんなクソったれなことになるぐらいなら、いっそのこと──!)

 

 目に入ったのは、打ち捨てられていた院長の壊れた剣。それを拾い上げて、ナハルは何の躊躇なく、半ばで折れた刃の先を自分の喉元に突き付けた。

 左手で柄をしっかり握り、右の掌で刃を押し込む形。

 

「! やめて!」

 

 親友(プレア)の制止する声にも構わず、ナハルは切っ先を横に動かす──赤い血が少女の柔らかい首に食い込み、肉を引き裂く刹那、

 

「────え?」

 

 少女の両手から剣が消えていた。

 純白の鎧がナハルの背後に回り込み、彼女から自決の凶器を取り上げていた。なんという早業。目にも止まらぬという体験とはこれのことか。

 

「…………そこまで、意志が固いとはな」

 

 幼く小さい肩に魔王の大きな手を乗せられるが、意外にも嫌悪感というものは感じなかった。

 転生してからの今日(こんにち)までにおいて──生前の体験で男性恐怖症ぎみのナハルであったが、ここまで接近を許した男というのは魔王が初めてであった。

 もしや、魔王は女性かと疑いかけた直後、

 

「おそれながら陛下」

 

 ロースの脚を治療していた〈魔者〉──水流を纏う女怪(じょかい)が歩み寄ってくる。

 彼女は崩れていない右顔面に疑念の相を表していた。右目の片眼鏡の位置をあらため、流動する左腕を大きな胸の下を抱える仕草は、どこか秘書のような佇まいを連想させた。

 

「我々がここへ来た目的をお忘れでしょうか──我々は、この地で覚醒すると巫女(マーン・シーキャハ)が予見された〈勇者〉、魔王を滅ぼす〈極大聖痕〉を確保すること──つまりは、この少女を連れ帰ることこそが、当初の目的だったはず」

 

 意外や意外に、魔王たちの目的というのが勇者(ナハル)であったという事実を知らされる。

 しかし。

 だとすると。

 魔王の発言は、ナハルを「不要」と断じた言葉はどういうことだろう。

 水の乙女は明言した。

 

「その少女──ナハル殿の申し出、受けないのは非常に愚かしいことかと」

「……イニー・ン・リィア」

 

 魔王は深い沈黙を保つのみ。

 他の魔王の配下たち──狼男や骸骨、宙に浮く魔剣や女エルフなども、女性の指摘する内容に同意見だというような反応だ。

 意外な援護者の到来に、ナハルは呆然と魔王を見上げるしかない。

 イニーという名の〈魔者〉は続ける。 

 

「確保対象である彼女自らが、魔王陛下の軍門にくだりたいとおっしゃっているのです。〈勇者〉自身の意志で神に敵対し、我々と同じ道を進みたいと。それをわざわざ無碍(むげ)にする必要性は」

「わかってる、イニー……わかっているが、この()は……」

 

 彼は舌を打つ。

 何かを言いかけ、言葉を濁す魔王。

 純白の鎧兜で表情は判らないが、酷く迷っている姿にナハルは視線を送り続ける。

 そして、

 

「……魔王陛下。私からもお願いいたします」

 

 さらなる援護者が、魔王の前で膝を屈した。

 

「彼女の望みを叶えさせてあげてください──私の親友の思いを──ナハルの意志を、どうか!」

 

 プレアだった。

 先ほどまでとは打って変わった主張、そのわけ。

 プレアにも分かったのだ。

 もう、彼女(ナハル)を押し留めることは不可能であるということを。

 ここで魔王に受け入れられなければ、〈勇者〉の少女は己の素っ首を切り落とすことで、神への叛意を遂げるだろうことを。

 

「いいの?」

 

 顔を上げてナハルは訊ねた。

 

「いいわけない。いいわけがない……けど」

 

 そうしなければ、ナハルは死ぬだけだ。

 ナハル・ニヴの決意の深さを肌身で感じ取った親友は、そうすること以外に処方がないと覚ったのだ。

 

「あんな、自分から、死ぬ、なんてこと──やらないで──言わないでよ──っ」

 

 大粒の涙で、煤で汚れた頬を濡らしていくプレア。

 本当に優しい友人の肩を、ナハルはそっと抱き締めるしかない。

 

「──(まま)ならんな」

 

 魔王は本日最大とも言うべき溜息を吐きだした。

 

「わかった」

 

 ナハルは振り返った。

 

「──受けよう、その申し出。〈勇者〉ナハル」

 

 あれだけ頑迷に断り続けてきた〈魔者〉の王が、折れた。

 ナハルは思わず安堵感のまま腰が抜けた。

 それを、魔王は片手ですくいあげるようにする──いわゆる、御姫様抱っこに近い形だ。

 と同時に、

 

「あのー、よろしいでしょうか、陛下?」

 

 魔王に近づく女性の声。

 彼方を見据えたまま歩み寄るエルフ(ルハラハーン)は、大胆にあいた胸の谷間に弓の弦を挟んだ女狩人の装束で、純白の全身鎧に話しかける。

 艶っぽい蠱惑的な金髪の持ち主に、魔王は平坦な様子で振り返った。

 

「どうした、ガル」

「はい。この村めがけて急速に接近する気配が。おそらく、統一王国軍の航空騎兵隊かと。距離は20000ファードほど」

「数は?」

「私の目には、33騎。旗の色は、ここから一番近い都・旧帝都の駐屯部隊ですね。──妙ねぇ? こんな田舎の村が襲われた程度にしては、反応が過敏過ぎないかしら?」

 

 異変を報せる鐘の音を聞いた、にしても反応が早すぎた。

 

「原因はひとつだけだろうな」

 

 魔王は白い少女を少しだけ見下ろした。

 プレアはばつが悪そうに視線を逸らす。

 

「到着予想時刻は?」

「あと十分もありませんわね?」

 

 充分だと告げる魔王。

 彼は白い髪の少女に話しかける。

 

「プレーァ……いや、プレアくん。我々は今からここを離脱する。君は、あと数分ほどで到着する救助隊に保護されなさい。こちらの二人──〈勇者〉と修道女は魔王(アン・ターヴィルソル)の名において預かる」

「あの、ロース先生もですか?」

「そうだ。彼女は我々が治療した。脚からの大量出血で命の危険があったからな。治療痕を見られては、君を救助しに来る者らに気付かれるかも。それは望ましくない結果を生む。──心配はいらない。彼女たちの安全は保障する。が、我々と彼女らのことを王国の者に報せてはいけない。たとえ、君の父君であろうともだ。いろいろと面倒が起こるのを避けなければ。そうだな──この二人については『死体が発見されず行方不明』──ここを襲った連中にかどわかされたという扱いにする。わかるか?」

 

 頷くプレアに、魔王は筋書きを語る。

 村と教会を襲った連中は、殺戮を終えて全員が立ち去った。プレアだけは礼拝堂とは別の場所に隠され、なんとか事なきを得た──そう言った流れを、魔王は唯一の生存者役となる少女に吹き込んだ。

 純白の鎧の掌がプレアの肩を叩く……何か不思議な光が、プレアの内側に浸透したように見えた。

 

「今のは?」

「“魔術”だ。いま言った内容をプレアくんの記憶に書き込んでいる」

「──〈魔法〉ではない?」

 

 あっけなく暴露する〈魔者〉の王。聞きなれない単語に首を傾げる間もなく、魔王は重ねて告げる。

 

「くれぐれも我々のこと、魔王軍のことは内密に。くれぐれもな……できるかい?」

「はい。──できます!」

 

 よしと頷く魔王。

 彼の配下らが出立の準備を整える。

 

「陛下。転移魔術の用意が整いました」

「では行こう」

「はい。魔王さま」

「き──気を付けてね、ナハル!」

 

 寂しそうに笑顔を歪める友達の姿に、ナハルは言った。

 

「うん。落ち着いたら、手紙、書くよ」

「え……でも、そんなこと」

 

 可能なのだろうか。

 ナハルはこれから魔王のもとで暮らすというのに。

 二人の視線を受けて、魔王が告げた。

 

「それくらいなら、我が配下の者に届けさせよう」

 

 これまた意外な申し出に、ナハルもプレアも、揃って相好を崩した。

 

「またね」

 

 あまりにも想定外な、突然の別れ。

 この冬を超えたら旅立つはずだったプレア──彼女の方が今、こうしてナハルを見送ることになろうとは。 

 

「うん、またね──きっとね!」

 

 純白の全身鎧に抱えられながら、少女は手を振ってみせる。

 次の瞬間、魔王たちと共にナハルの姿が消え失せた。

 焼け残った教会に取り残されたプレアは、ひとりの寂しさを痛感しながら、頬を拭う。

 

「──結局、言えなかったな」

 

 冬に出ていくという話。

 それ以上に言っておきたかった言葉を胸の内にとざして、プレアは夜の底で(むせ)び泣いた。

 

 

 

 数分後。

 彼女は無事に航空騎兵隊に保護され、故郷である王国の首都・エツィオーグに送られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




≪人物紹介コーナー≫第一弾

〇ナハル・ニヴ  異世界転生者。生前の名は鬼塚ハルナ。神様が嫌いな主人公。

〇プレア     異世界の??。ナハルとは親友同士。何か秘密があるっぽい。

〇ロース     異世界の修道女。ナハルの母の妹。つまり叔母。優しい女性。

〇クローガ    異世界の修道院長。ナハルたちの養育者。何故か剣術が使える。

●魔王      異世界の魔王。純白の全身鎧の姿。いろいろと謎が多い。本名は後々。

●イニー     片眼鏡の女幹部。体の半分が流動する水。名は、イニー・ン・リィア。

●ガル      魔王軍所属のエロエルフ。幹部の中でも最古参組らしい。本名は後々。


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確保

/Transmigration …vol.8

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「まさか、ここで魔王軍が、さらには魔王陛下自らがお出ましになるとは……」

 

 魔獣の群れに成す術もなく蹂躙(じゅうりん)された村。

 一人残らず鏖殺(おうさつ)されていく中で、ようやく発見した確保対象。

 馬鹿どもが勝手を働くのを止める間もなく起こった、〈聖痕〉の顕現。

 さらに、その〈聖痕〉授与者を助けたのは……魔王と手勢の者たちであった。

 

 それらすべてを村近くの山腹から観測していた男・ウワルは、命の危機に瀕していた。

 異常を観測した男は、別働隊に連絡を取ろうとしても繋がらず、孤立無援な状況に追い込まれた。

 連絡の〈魔法〉のピアスが応答しない理由を考えるならば……受信者たちの身に何かしらの異変があったということ。

 それが魔王軍の出現と同期しているという事実を思えば、答えなど限られていた。

 

(魔王は、やはり完全に復活していた)

 

 情報を伝えるために単身離脱をはかったウワル。

 夜の山を踏破する彼の前に現れた存在は、人間とは一線を画すもの──〈魔者〉であることは容易に知れた。

 青黒い肌の色。

 黒眼に白い瞳。

 肩まで伸びた髪の色は銀。鉤爪の生えた二枚の黒い翼。ねじれた羊角と剥き出しの乱杭歯が鋭く煌めく。

 白黒の山高帽と燕尾服──男とも女とも言い難い優美な面──怪奇な風貌──広く知られる悪魔の姿が、そこにはあった。

 悪魔は笑顔をこぼしながら問いかける。

 

「君が、我が同胞たちを制御し操り、村を襲わせた張本人と見て、間違いありませんね?」

 

 伸びた二本の爪が、鞭のようにしなる。

 瞬間、ウワルが与えられた中で最高の〈魔法〉道具……〈魔者〉制御の腕輪が真っ二つに割られ砕けた。

 

(本当に、嫌な仕事だ)

 

 だが、これが自分の任務であった。

 唯一生きる道筋として与えられた義務であった。

 幼少の頃から体を鍛え、学び、適性を見出され、〈魔者〉を使う〈魔法〉を扱うよう徹底的に訓練を積んだ。

 だというのに。

 護衛として手元に残しておいた精鋭十体の〈魔者〉が切り刻まれ、大地にサイコロ状の肉片となって転がっている。

 せっかくの紙巻を愉しむ余裕はなくなった。半ばで切り落とされた煙草の残骸を踏みしめる。

 想定外も想定外だ。

 上の命令で、旧帝国領の孤児院──そこにいる一人の少女を確保するために、ここまで足を運んだ。

 後腐れのないように、こういう裏の仕事を引き受ける傭兵団をけしかけ、目的も八割ほど達成されていたはずなのに、〈聖痕〉に選ばれた子と、一万年を生きるとされる魔王の登場で、すべてが御破算となった。

 傭兵団は全員が捕らえられ、ウワルもまた捕らえられる瀬戸際に立たされている。魔王軍が襲撃者を生け捕る理由は、考えられる限りひとつだけ。

 こんな状況では煙草でも吸いたくなるが、得体の知れない相手を前に迂闊な行動を起こすのは、危険すぎる。

 だからといって、このまま膠着状態を維持するのも、非常にマズい。

 

「なに悪いようには致しません。少しばかりとらえさせていただき、あなた方の情報を収集……つまり尋問させていただければ、それで十分ですので」

 

 魅力的とも言える可愛らしい笑顔で悪魔が(のたま)う。

 ウワルは短剣を二本両手に握り、虚勢をたっぷり含んだ声で返した。

 

「あいにく、ここで『ハイワカリマシタ』なんて言えるほど、素直な性格じゃあないんでね」

「そうですか。それは残念至極」

 

 本当に残念そうに肩を落とす悪魔。

 男か女か本気でわからない声色は、聴いているだけで脳をくすぐられるような色気をはらんでいた。

 

(仕方ない)

 

 任務失敗。

 その代償を払うのみ。

 ウワルは駆けだした……悪魔に対して一直線に。

 

「何を?」

 

 疑念するのも当然の暴挙。

 戦うのでも逃げるのでもない。

 秘密工作員たるウワルは敵の意表を突くと同時に、最も効果的な攻撃手段に打って出る。

 彼は奥歯に仕込んでいたスイッチを噛み締める。

 

 瞬間、

 

 ウワルの体内に仕込まれた「爆破」の〈魔法〉により、彼のすべてが、脳も心臓も粉々に吹き飛んだ。

 完全無欠な証拠隠滅であり、至近で衝撃に巻き込まれた相手も致命傷を負いかねない──自爆である。

 

 

 

 だが。

 

 

 

「いけませんね。そのように命を粗末にされては」

 

 ウワルは爆発したはずだった。

 確かに、そうなった。

 

「──え?」

 

 木っ端微塵に砕け、情報を敵に渡す危険性を完全完璧に排除できた。

 そのように教育され、そのように死ぬよう命じられてきた。

 にも関わらず彼は、生きている。

 自爆していない。

 

「な、ぜ?」

 

 痺れたような舌と唇で疑問をこぼした。

 悪魔は恍惚とした表情で宣言する。

 

「私の奥の手である“時間魔術”で、少しだけ時を戻させていただきました」

 

 柏手を打つ悪魔は朗らかに、絶望的な事実を言ってのけた。

 

「いやはや本当に見上げた覚悟! 立派な心意気だと感服いたしました!

 私がこの魔術を使ったのは数年ぶりになります。誇ってよいことですよ、これは!」

「くっ!」

 

 時が戻ったという信じがたい言葉。

 だが、戻ったのであれば再度自滅すればよいだけと、奥歯を噛み締めようとして、体が硬直する。

 否。

 体が、というのは正確ではない。──彼のすべてが、いま、停止していた。

 悪魔は音吐朗々(おんとろうろう)に語る。

 

「今度は、あなたの時を止めさせていただきました──本当に立派な仕事ぶりです。悪魔であるのに私、本気でときめいてしまいます!」

 

 青黒い肌の〈魔者〉は、もはや聞こえていない相手に対して、熱っぽい声で語り続ける。

 よっぽど男の殉職精神に興奮させられたようだ。

 先ほどまで平坦だったはずの胸……燕尾服の胸元が激しく隆起し始め、たわわに実ったものがシャツの前ボタンを弾きとばした。衣服からこぼれた胸の果実を男の胸板に合わせ、しどけない様子で男の首に腕を絡める。先端が鏃状になっている尻尾を伸ばし、男の全身を舐めるように縛りたてると、尻尾は二本三本と増えていき、いつしか大量の黒い触手の泉に、男の全身が沈んでいくかのような様相を呈していた。触手の悪魔は、時が停止している男と睦みあうがごとき距離で、腰をこすりつけながら囁く。

 

「で・す・が。

 ああ、なんという悲劇でしょう──

 私の大事な殿方となったあなたは、これから尋問の苦行を受けねばならない定め。どうか頑張って耐えてください。せめて、あなたの助命嘆願に動く事だけは致しましょう。大丈夫ですとも。あなたの代わりとなる罪人は今宵たくさん得られましたし。なにより、我等が魔王陛下は、この世の誰よりもお優しい方。我等のような“うち棄てられた者たち”を導く賢君であらせられる。きっと、あなたのことも良いように取り計らっていただけるはず!

 そうしたら、あとは私と、私の伴侶の皆様と、心ゆくまでたっぷりと愉しみあいましょう──ね?」

 

 悪魔あらため“淫魔”の名は、フアラーン。

 女性形を得た彼にして彼女は、昂然と上気した表情で明るい未来予想を語りながら、完璧に捕らえた襲撃者の頭目と共に、転移魔術の道具──黄金の鍵を起動。

 フアラーンが空間に差し込んだ鍵によって、転移の扉が開錠──彼女たちを闇の裂け目の奥に呑み込んでいく。

 

 

 こうして、すべての襲撃者たちは捕らえられ、魔王の治める国──人間たちが呼称するところの暗黒大陸へと連行された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




《人物紹介コーナー》第二弾

●フアラーン  青肌ヤンデレ時間停止触手プレイ性転換悪魔っこ。属性過多にもほどがあ(ry


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魔王の城 -1

/Transmigration …vol.09

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 魔王の片腕に抱かれたナハルは、目が眩むほどに濃密な闇をくぐる。

 一瞬の後に、網膜を焼きそうなほどの光が見えて、目を開けていられなかった。

 

「着いたぞ」

 

 王の声と、しっかりと大地に下ろされる感覚に、おそるおそる目を開く。

 

「──え?」

 

 ナハルは瞼を幾度となく瞬かせた。

 突き抜けそうなほど澄んだ空の色。

 木々と花々の香りを伴う潮風の奏。

 

「うそ──昼? え、夜じゃないの?」

「ああ。こちらとむこうでは時差があるんだ」

 

 時差という言葉を使われた衝撃もさることながら、目の前に聳える白亜の城塞に、ナハルの理解力が追いつけなくなりつつある。そのせいで足元がおぼつかなかった。

 

「わっと」

「傷が痛むか? やはりまだ歩けないか?」

「す、すいません」

「気にするな」

 

 そう言って、また魔王の片腕に抱えられる。

 

「魔王や〈魔者〉の国と聞いて、もっと別のものを想像していたか?」

「は…………はい」

 

 鎧の横顔に頷くナハル。

 正直に言えば。

 溶岩の吹き出る灼熱地獄や、死体の凍てつく凍土地獄や、陰鬱かつ毒々しい沼地や墓場に建立された漆黒の館などを想像していた。

 しかし、ナハルは振り返った。少女を抱く魔王もそれにあわせてくれる。

 彼女は何度も視線を駆け巡らせた。

 

「ここは、君たち人類、ティル・ドゥハスの民が言うところの暗黒大陸……我等〈魔者〉の国……ニーヴ大陸だ」

「……ニーヴ、大陸」

「そしてこの街は、君らの大陸に一番近い位置にある東の大都市・港湾都市ローンだ」

「港湾都市……ローン」

 

 ナハル・ニヴは目を疑った。

 二重の城壁に守られた城郭から見下ろせる景色は、生前の頃に見た日本の港町か、観光案内で見かけた地中海の街並みを想起させるほどに整備が行き届いていた。

 純白の城邑──水平線を照らす陽光──蒼穹と蒼海に散る竜騎と帆船──眼下に広がる精緻な港湾都市──大通りを行き交う〈魔者〉と人間──すべてが、少女の常識を超えていた。

 乖離しすぎていた。

 

「本当に、これが〈魔者〉の?」

「ああ、そうだ。ここは地方都市のひとつだが──今は城に入ろう。

 城下の見学は〈聖痕〉で開いた傷の処置をして、ゆっくり休んでからだな」

 

 魔王に抱えられるまま、ナハルは大階段を昇りきった城門の番兵──彼らが開いた扉の奥に進む。

 ナハルがまじまじと観察した彼らの背格好は、人間そのもの。この城に仕えているらしい彼らは、魔王とその部下一行に臣礼を尽くす。

 全身が鎧に覆われた魔王の他は、半身が水の乙女、女エルフ(ルハラハーン)、宙に浮かぶ魔剣、狼男や骸骨という、かなり衝撃的な造形の集団なのだが、まるで気にも留めていない。

 

(門番さんたちは、人間の形をした〈魔者〉だとでも言うの?)

 

 分厚い城門を、魔王に抱かれたまま進むナハルは、光に照らされる中庭に出る。

 

「────」

 

 思わず声がこぼれかけた。

 そこにあったのは緑の庭園──幾百もの花が咲き誇る大広場であった。

 

「あまり驚かれないのでございますね」

「え?」

 

 ナハルは声の主を見やった。

 右半分だけの美貌に微笑を浮かべた乙女は、疑問の声を発する。

 

「魔王さまの城と庭園をはじめてご覧になった人間は、平民の方であれば一人の例外もなく、腰を抜かすほど驚くものでございますが」

「ぇ、えーと」

 

 正直、生前の知識で見た観光地のテレビや旅行パンフなどで、こういった立派な建物や庭園などはいくらでも知ることができた。

 しかし、こちらの世界では、そういったものに触れる機会などそうそうあるものではない。

 

「いや、驚いてる、よ?」

 

 ナハルは言葉を濁すしかない。

 イニーという名の〈魔者〉は「そうですか」とだけ言って頷くのみ。

 庭園をまっすぐ抜けると、城の扉が開いた。

 

「おかえりなさいませ、魔王陛下」

 

 現れたのはアザラシの被り物──毛皮を頭から纏った女性であった。

 その美貌を見るに、年の頃は十代後半程度だろうが、眼や牙の様子は勿論、灰色の髪に隠れる位置──耳のあるべき部分に耳らしいものがない姿を見ると、ただの人間でないことは容易に理解された。

 魔王はアザラシ少女に訊ねる。

 

「グラン。他の者は?」

「フアラーン様たちは、先に本国の別邸にご到着されたと連絡が」

 

 魔王は二言三言何かをアザラシの女性に命じ、彼女に先導されるまま、魔王一行とナハルたちは城内を歩く。

 

「それでは陛下」

「君命に従い、私たちはひとまず」

「ああ、頼んだ」

 

 そう言ってグランと共に一行を離れたのは、女エルフ(ルハラハーン)の狩人。彼女はナハルと同時に運ばれた修道女ロースを宙に浮かぶ担架で搬送するのに同行していった。

 

「行こう」

 

 魔王が促すまま、ナハルを含め六名ほどで城の中枢部に至る。

 白亜の宮殿は、村や街で見たどのような建造物よりも大きく、さらに立派な内装を随所にあしらっていた。

 ひとしきり感心の吐息を吐く少女のために、魔王は指示を飛ばす。

 

(みそぎ)の間で、とりあえず〈聖痕〉の処置からだな。──イニー」

「はっ」

「やり方を教える。治癒魔術で傷を塞ぐ要領と同じだが、とんでもなく魔力を喰うからな。途中まで手伝おう」

「承知いたしました」

 

 魔王一行に伴われるまま、ナハルは中央の螺旋階段をのぼることに。

 

「あの、これから何を?」

「言ってるだろう。〈聖痕〉に処置を施す」

「それは、具体的にはどういう?」

「すごく簡単に言えば──風呂(フォカ)だな」

風呂(フォカ)?」

 

 聞き間違いだろうかと思いつつ、辿り着いた場所は大量の湯を張った大浴場。

 

「本当に?」

 

 呆気にとられるナハル。

 広い空間は温かで柔らかい湯気の香りで満たされ、浴槽に湯を注ぐ人魚像など、細部にまで贅を凝らした造りをしていた。風呂というよりも、天然温泉が湧き出る池という方がしっくりくる。

 ナハルはあれよあれよと血と泥が沁み込んだ寝間着を脱がされ、抵抗の間もなしに拾った野良猫を洗うかのごとく体中を清められていく。

 第二次性徴にも達していない幼い体を、水の女怪が広げた水流の左腕によって丁寧に丹念にお湯と洗剤と布で拭き上げられるたび、ナハルは気づいた。

 

「傷が、塞がって?」

 

 全身を覆っていた血と光の軌跡──それが、イニーが水流で絡め包み込む箇所から薄らいでいくのがわかった。痛みも一挙にひいていく。

 しかし、魔王は首を振る。

 

「塞がっているわけではない。あくまでも、外から見えにくくなるように隠しているだけだ。傷は癒えても、〈聖痕〉自体が消えることはない」

「そうですか──、……、──って!」

 

 ナハルは今更なことに気づく。

 女性のイニーがいるのは当然のことだとわかる……しかし、

 

「な、ななななな!」

「ん? どうした?」

「ナンデイルンデスカ!?」

 

 少女は全身鎧姿の魔王に指をさした。

 あと、ついでお風呂セットをかかえた骸骨の方も。

 

「んん? ……ああ。

 見た目では分からんだろうが、こっちの骸骨(クナーヴァルラハ)は“女”だぞ」

「!」

 

 意外な情報に面食らうナハル。

 名をアバル・クロガンというらしい全身骨格標本は、実に愛嬌のある動作で首を傾げ、頬を掻いて見せた。

 どうやら骸骨が肩をカタカタカシャカシャと震わせているのは、骸骨である彼女なりの“笑い声”であったらしい──声を出さない理由を訊ねると「骸骨だから声帯がなくて喋れない」という。そんなこと言いだしたら、骸骨が筋肉もなしにどうやって運動し自立歩行しているという話になるが、今はそんなことどうでもいい。

 

「っ、骸骨さんのことはわかりました! も、問題はあなたの方ですよ!」

「──おれが?」

 

 同性に裸体を見られるのはまだしも、男と一緒に風呂場にいるというのは、さすがに許容できる話ではなかった。

 

「問題って、──何か問題が?」

「し、失礼ですけど、あなたは男ですよね?」

「無論、そうだが」

「い、いくら魔王サマでも、その、女性の入浴の場に堂々と!」

「俺以外に〈聖痕〉を隠す術式を知らないんだから、しようがないだろう?」

 

 ぐうの音も出ない正論。

 

「だ、だからって!」

「はいはいはい。子供はおとなしく洗われておきなさい」

「~~~!」

 

 結局。

 三十分近くもの間、魔王監修のもとでしっかりと“処置”を受けたナハル。

 イニーが魔王のいう〈聖痕〉隠蔽の術式を実地で習うのに付き合わされた形になるが、文句など言えるはずもない。

 

「あとは任せたぞ。イニー。アバル」

 

 後事を託された〈魔者〉二人が頷くのを見届けて、魔王の鎧姿は大浴場を後にする。

 ナハルは湯船に顔をうずめるほどの羞恥に溺れるが、体の方は完璧に治癒されていくのは確かだった。

 

(結局、あの鎧の魔王は、本当に〈聖痕〉を隠すことができた)

 

 彼の言葉には虚言妄言の類は含まれていない。

 その誠実さを理解することで、ナハルは受けた仕打ちを水に流した。

 

「申し訳ありません〈勇者〉様。魔王様以外に、この術式に熟達するものが生き残っていれば、このようなことは」

 

 意外にも心底からの謝辞をこぼしてくれるイニーに対し、ナハルは顔を上げた。

 

「いいえ。そこまで気にしてませんから──あと、できればその〈勇者〉っていう呼び方は、やめてください。あと“様”づけも」

「承知いたしました。では……ナハルさんで」

 

 頷くナハル。

 久しぶりに長湯を愉しむ彼女は、体の芯まで凍りそうな状態と傷から完全に解放され、とてもつもない脱力感を覚えた。

 ついで、ひどい眠気にも見舞われる。

 

「大丈夫ですか?」

「うん……たぶん、だいじょうぶ」

「眠いのであれば、このままお休みください。あれだけ酷いことがあった上に、本来であれば就寝中の深夜の時間でございました。大丈夫。魔王様の保護したあなたに、危害を加えるものは、ここには存在しません」

「でも……うん……」

 

 お湯の中で船をこぐ少女。

 イニーの水溶液状の半身に抱かれ、あまりにも暖かく清らかな感触に包まれていると、夢見心地になるのを止められない。

 そのときだけは、村を包んだ炎も、孤児院の惨劇も、なにもかもを意識の水底に沈めながら、ナハルは微睡みのリズムに身をゆだねた。

 

「おやすみ、……なさい」

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「そうか、ナハルは眠ったか」

「はい。気丈にふるまっておいででしたが、あの御年齢で、あれだけの状況を目の当たりにしたのですから。むしろ良くもっている方かと。いまは客室に運び、アバル様が看ていてくれております」

「なら安心だな」

 

 イニーの報告を受けた魔王は、王の書斎に集まった幹部らに振り返った。

 

「どうするんだい、御大将(おんたいしょう)

 

 黒く太い腕を組み、王に対して慇懃無礼な口調をこぼす、人狼の大男。名はレアルトラ。

 

「どうとは?」

「無論、あの〈勇者〉をどのようにするのか、という話ではないかと」

 

 問い詰める語気で、王への忠義と尊礼に満ちた老人の声を発する魔剣。名はリギン。

 

「私も聞かせていただきたいですわね」

「ガルか……あの修道女の容体は?」

「病院に送らせましたわ。イニーちゃんが綺麗に傷を塞いだから、あれなら痕も残らないでしょうね。それよりも」

 

 彼ら彼女らの関心は、魔王自らの手で連れてきた、幼い〈勇者〉にのみ向けられる。

 ガルたちは問いただす。

 

「神に選ばれた証明たる〈聖痕〉──かつて、幾度となく我等魔王軍の前に立ちはだかり、そのたびに打ち砕いてきた〈勇者〉の証。そのなかでも大型の、魔王を滅殺可能な〈極大聖痕〉の顕現に立ち会い、その顕現者を手中に収めたことは、確実に我等の利となり益となるでしょう。──ですが」

「なんだって、あの時あの段になって、テメェは『不要』なんて言ったんだ? イニーの嬢ちゃんが言ったように、『断る』必要なんてこれっぱかしもなかっただろうがよ?」

「──ナハルという少女──あの〈勇者〉に、何か?」

 

 レアルトラ、リギンらの指摘。

 巫女の予言によって知った、魔王を滅殺する〈勇者〉の誕生。

 その危険性と有用性を考慮し、これまで停滞していた〈勇者〉の研究……彼らの力の源泉を理解するために、魔王と幹部たちはティル・ドゥハスの、人間たちの大陸に渡ったのだ。

 にもかかわらず。

 魔王がとった行動は驚愕に値した。

 得ようとしても見つけられず、学ぼうとしても追いきれず──最悪のタイミングで番狂わせを強要する〈勇者〉たちによって、魔王とその臣は、この9800年以上もの長きに渡り、無為な労苦を強いられてきた。殺しても尽きず、滅ぼしても果てなく、人間の〈勇者〉たちは魔王の行く手を遮り、矛を交え、盾を砕き、そしてそのたびに、魔王は封印の屈辱を呑むことになった。

 しかし。

 ようやく見つけた。

 魔王を滅ぼせるほどの〈勇者〉──その雛を。

 これまでの粗製乱造品じみた者ではなく、本当に、魔王を殺し滅ぼせる力の持ち主として〈聖痕〉を宿した少女……特上の研究素材……それが、ナハルであった。

 

 しかし、

 

「────少し、五分だけ、ひとりにさせてくれて」

 

 まるで答えになっていない答え。

 幹部たちは珍しい王命に首をかしげるが、有無を言わさぬ雰囲気を感じ取って、書斎を後にした。

 

「……」

 

 何か言いかけたイニーが無言で扉を閉めると、魔王は質素な椅子の背もたれに寄り掛かった。

 白い全身鎧が音をたてて軋む。

 

「────まさか、な」

 

 ひとり黙考に耽る魔王。

 彼の存在しない脳に去来するのは、一人の少女の姿。

 魔王は兜の面覆いを片手で覆い、深い感慨の息をもらした。

 ふと、もう片方の籠手が床に落ちる。留金が唐突に外れ、ガランと音を衝き立てる前に、落ちた籠手から漏れ出す漆黒のなにかが、純白の鎧の一部を受け止めていた。ついで、膨張し流動する黒霧が白銀の籠手を呑み込んでいく。それが引き金であったかのように、次々と脱落していく甲冑。頚当、胸当、肩当、上腕当、肘当、前腕当、腰当、剣帯、腿当、膝当、脛当、鉄靴──兜以外のすべてが脱げ外れた時、魔王の書斎すべてが“闇”の空間に置き換わっていた。

 それは、万象万物が生存することのできない領域。10000年という悠久の時を積み重ねた王の、力のありさま。

 夜よりも黒く濃い闇が純白の兜を床に脱ぎ落とすと、兜も他の鎧と同様、闇の帳の底に形を失う。

 そこにあるモノは、完全なる純黒の世界。

 闇そのものとなった魔王は、ひとり呟く。

 

 

「なぜ、…………何故、今になって…………」

 

 

 魔王にして闇たる男は、深く──深く深く──息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




《人物紹介コーナー》第三弾

●アバル・クロガン  骸骨(クナーヴァルラハ)。骸骨姿でわからないが性別は女性。笑顔が素敵。
●レアルトラ     人狼(コンリァフト)。筋肉マッチョな狼男。変身が解けると──?
●リギン       生命武器(アラム・ビォ)。宙に浮く魔剣。最古参であり最強格。


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魔王の城 -2

/Transmigration …vol.10

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 私は夢を見ている。

 とても優しい夢を。

 

 普通のマンションの一室。

 ファミリー向けの間取り。

 朝の支度をしてくれる彼。

 大きなおなかをさする私。

 その傍には、双子の姉妹。

 

 家族は微笑みを交わし、いつものように語り合う。

 

『もうすぐ生まれるんだよ』

 

 愛おしさを胎内に伝える母の声。

 それと同じ分量の愛情あふれる声音を、母の膨らんだ腹を興味津々に触れる幼い少女らに向ける。

 

『弟かな? 妹かな? 二人はどっちがいい?』

『うーん、どっちでもいー!』

『私もー!』

『どっちでも? なんで?』

『どっちでも、私がちゃんとお世話するんだ!』

『お姉ちゃんずるい! 私もお世話するから!』

 

 ありがとうという声に、我が子たちはくすぐったそうに微笑んだ。

 

『二人とも、朝ごはんができたから手伝ってくれる?』

 

 父親の言うことをよく聞き、率先して家事に赴く子供たち。

 妻は夫に感謝してもしきれなかった。

 

『大丈夫?』

『うん……ありがとう、おとうさん』

『気にしないでいいよ、おかあさん』

 

 お互いの新しい呼び方に笑みがこぼれる。

 皆で囲む、あたたかな朝食。おいしい白米と汁物と卵焼き。いただきますという声が重なる──

 

 

 

 どこにでもある、幸せな家庭──家族。

 

 

 

 かつて私が、彼と共に夢見ていた理想の未来。

 

 私が見るはずだった、なにもかも幸福な世界。

 

 それは何もかもが、太陽のように輝いている。

 

 

 

 

 

 

 私は、ナハル・ニヴは、その悪夢を遠くから眺めている。

 心臓が凍え砕けそうな、極低温の闇の底で。

 

「あ…………あ、ああ…………」

 

 どんなに手を伸ばしても、それを掴み取ることはできない。

 どんなに前へ進もうとも、そこへ辿り着くことはできない。

 

 私は死んだ。

 鬼塚ハルナは死んだ。

 

 神とやらの手違いによって。

 連日続く体調不良に「もしかして」と思い、彼に内緒で病院に行ったのが間違いだった──

 

 そのせいで、こんなことになってしまった。

 

「かえして……かえしてよ……、私の、私たちの……」

 

 何百何千、何万回も繰り返した恨み言を吐きつつ、膝を屈する。

 夢の儚さに押し潰され、あまりの不条理に臓腑が凍える。

 得られたはずの未来を根こそぎ奪われた。

 勝ち得たはずの幸福を全否定された。

 人生を、家族を、未来を──神ごときがすべて台無しにしやがった。

 許せない。

 許せるはずがない。

 許していいはずが──ない。

 ナハルは様々な感情に歪む視界に闇を映しながら、腹をおさえて蹲った。

 憎悪。

 絶望。

 積怨。

 憤怒。

 寂寥。

 悲嘆。

 哀哭。

 懊悩。

 そして、それらすべてにも勝る、一個の韜晦(とうかい)

 

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 

 死んでしまって、ごめんなさい──

 

 

「ごめんなさい──ごめん──ごめん」

 

 

 神に転生させられた時と同じように、嗚咽を噛み殺すこともできず、ナハルは腹部をきつく抱き締めながら、暗く冷たい涙の水底へ沈んでいく── 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 ナハルは、そんな夢から覚めた。

 

「……ッ」

 

 濡れた枕──毎日のように見る悪夢のなかでも、今回の夢は相当に悪辣な部類に入る。瞼が重い。涙を拭って、視界のもやを払う。瞳が潤んでしようがない。

 

「──こ、こ……は?」

 

 枕が自分のものではない。さらに言えば、このベッド──この部屋は孤児院のそれではない。

 

(ああ……そうだ)

 

 思い出してきた。

 ここは、孤児院ではない。

 魔王と一行に連れられて、ナハルは〈魔者〉の国に降り立った事実を思い出す。

 

「お目覚めですか?」

 

 呼びかける声も、院に住まう修道女らのそれとはまったく異なる。

 身体の左側が水に溶けてしまったような女性の姿──〈魔者〉──イニーという女怪の姿に、ナハルは平然と顔を上げる。

 

「おはようございます」

「おはようございます、と言いたいところですが。今はもう夕刻も終わる頃でございます」

 

 ナハルは驚き、視線を巡らせた。

 両開きの大窓の外はかすかに赤く染まっているが、どちらかと言えば夜の色合いが濃くなっている。潮の香りが心地よい。

 慌てて体を起こそうとするナハルであったが、イニーの右腕に抑えられたことで、強制的に寝床に戻された。

 マシュマロよりも柔らかいマットレスの弾力は、孤児院のボロベッドの類とは比べようもない心地よさであったが、何故か体が言うことを聞かないことに焦りを覚える。

 少女の疑念を理解したようにイニーの右顔面が頷いてくれた。

 

(みそぎ)()で〈聖痕〉の処置をしてから、もう今日で三日でございます。あれほどの傷を負ったわけですから、無理は禁物であると容易に判断できますが」

「三日、て、──わたし、っ」

「ご安心を。魔王様はいつでもあなたと面会する用意がございます。しかし、今はご自愛なさった方が賢明かと」

「だいじょうぶ、です」

 

 そうは言うものの、幼い体は上半身を起こすのにも酷く消耗しているようだった。

 吐く息が重く、体も熱っぽい。イニーの水っぽい左手が額に当てられるのが冷たくて心地よかった。

 

「やはり熱はまだ高い。魔王陛下と私が行った〈聖痕〉への処置は、本来であれば隠しておくことは不可能な傷を、あなたの体表から可能な限り隠蔽封印したもの──ですが、そのためには貴女ご自身の力も大いに摩耗されております──小さい体とは言え、その全身全域におよぶ〈聖痕〉の大きさを考えれば、致し方ないことかと」

 

 ナハルは寝起きだというのに、さらに襲い来る気怠さと眠気と疲労感の大進攻に敗北する。

 

「ごめんなさい──もうすこし、寝ます」

「構いません。どうか、いまは回復につとめられますように。──安き眠りを。〈勇者〉ナハル」

 

 そう祈ってくれる〈魔者〉の人間と水流の両手に右手を包まれながら、ナハルはまた深い眠りに堕ちる。

 安らかな眠りを──しかしながら、その言葉が実現することはないだろうことをナハルは承知していた。

 この九年間、悪夢を見続けている少女にとって、睡眠に安らぎを求めることなどありえないことだった。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 ティル・ドゥハス大陸──この世界の人間たちの大部分が生活圏としている大陸と対になるように、〈魔者〉の生存圏とされる暗黒大陸は存在している。

 しかし、暗黒大陸というのはあくまで人間側が呼称し仮称する言葉。未知なるものへの忌避と畏怖──行って帰ってくる者のないほど、存在が不確かな土地──何より、“人を喰らう化け物”たる〈魔者〉、その王である“魔王”が住まうというイメージが独り歩きした結果として、そのような蔑称にして別称が定着した歴史によるもの。

 しかし、そんな暗黒大陸にも、王を戴く者たちは存在しており、その者たちにも歴史と文明は存在していることは、ティル・ドゥハスの人間は知る由もない。

 そこに実際に住む者たちは、まったく別の名前でもって、自分たちの大陸を呼びあらわす。

 その名前は“ニーヴ”。

「天国」という意味を持つその名は、ティル・ドゥハスの民らにはまったく知られていない。────何故か。

 

 その大陸の東端に位置するのが、港湾都市ローン。

 都市長を務める海豹精(セルキー)をはじめ、多くの〈魔者〉が造営に携わり、また多くの人間が共存している都市のありさまは、ニーヴの民にとっては珍しくもない光景のひとつにすぎない。

 

 そんな港湾都市を一望できる魔王の城──正式名称はローン都市城塞だが、魔王とその部下たちが主に利用する城ということで、そのように称する市民が多い──にて。

 

「しっかし、まぁ、巫女殿の予見したとおりになるとはな」

「確かに──魔王様を殺せる〈勇者〉を掌握されるなんて、最初は信じられませんでしたわよ」

「おい。〈勇者〉の名前、聞いたか? どうやらナハル・ニヴっていうらしいぞ?」

「ナハル──ニヴ?」

「ああ。“ニーヴ”じゃなくて“ニヴ”、だ」

「──それはまた、不吉な名前だこと」

 

 六つの盤上に並べた精緻な人形駒を互いの手番で動かすボードゲームに早打ちで興じるのは、眼鏡をかけ教本を片手に開いた筋骨隆々の狼男・レアルトラと、全身を包帯に覆われた女性の枯死体。

 包帯だらけの女性は古ぼけた麻の布の上に数多くの副葬品らしい宝飾類で身を飾っており、そのどれもが百年以上の年月を蓄積した年代物だ。さらに、魔術的な効果もあることから、その死体がかなり高貴な出自であっただろうことを容易に予想させる。包帯に閉ざされた口元からこぼれる声はくぐもっていたが、実に典雅かつ聡明な口調を自ら誇っているかのように明朗闊達であった。

 包帯と指輪に包まれた細い指が、巧みな駒の配置によって、狼男の“王”を完封した。

 

「はい、(わたくし)の勝ちです」

「な────ちくしょお、やっぱり脳を使うのは木乃伊(サラガーン)の姫様が上手(うわて)か~」

「そのようですわね。もっとも、我が麗しの脳髄は、『ここ』にはありませんけれど」

 

 種族ジョークと共に軽く頭を突いて笑う木乃伊の女性。

 盤面の駒の配置を悔し気に睨みつけつつ、熱心に再考を重ねる勤勉な狼男に向けていた視線を別方向に向ける

 

「次のお相手は──リギンの御老公はどうです?」

「儂は遠慮しよう」

 

 生きる魔剣は手を振るかのように剣柄を揺らした。

 リギンはレアルトラに駒の進め方や盤上のルールを細かく教えてやっていたのだが、さすがに相手が悪すぎた。狼男は負けず嫌いな性格故に、つい先ほどの対局を中途から一人で考察・再試行し始める。一度集中し熱中すると、彼は完全に自分の世界に入り込んでしまう癖があった。

 

「儂もどちらかといえば、レアルトラ同様に“力押し”するだけの能しかないのでな」

「あら。7000年前の先達とは思えないほど弱気ですこと」

「頭脳労働を任せられる優秀な後輩諸君のおかげだよ。アーン・タシュタル殿」

 

 そのように褒められては打つ手がないと肩をすくめる木乃伊の女性。

 

「まったく──暇ですわね」

 

 レアルトラとの早打ちは十戦十勝を記録したが、同じ相手ばかりでは飽きもくるもの。

 アーンの主張に、リギンは生真面目に応じた。

 

「仕方あるまい。(くだん)の〈勇者〉殿が、未だに昏睡状態では、な」

「せめてアバルか、魔王様と対局できれば、何も文句はありませんのに」

 

 そのアバル──骸骨女は幼い〈勇者〉の看護に勤めている。親友の仕事を邪魔するほど、木乃伊の姫君は我儘体質ではない。

 魔王にしても、政務や公務に忙殺されながら、連行した〈勇者〉の処理を続けている最中であった。

 

「ならば我と一局どうだろう!」

「あら? ──ソタラハ?」

 

 アーンが振り向いた先は、娯楽室の窓の外──そこから縦の虹彩が鋭い瞳が、室内を睥睨していた。

 

「久方ぶりだの」

「リギン殿も息災そうで何よりです!」

「本当に久しぶりですわね。100年ぶりかしら。あなたもようやく封印が解けたようですわね?」

「ああ! 我等が盟主・魔王陛下の魔力がこの身に満ちたおかげだ! 陛下に御礼申し上げるべく本国へ馳せ参じたのだが、今はこちらにいると教えられてな!」

 

 ソタラハと呼ばれた真紅の巨獣は、巨大かつ膨大な爬虫類の姿に一対の被膜の翼を雄々しく広げた天空の王者、(ドラガン)であった。

 山ほどもある巨躯は人間が見上げれば死の恐怖に全身が硬直する〈魔者〉だが、同じ主を戴く同族たちにとっては、慣れ親しんだ同胞同輩にすぎない。

 

「あなたと一手打つのは申し分ないけど、さすがにその姿では駒を粉砕する虞がありますわね?」

「フハハハ! なるほど、我が爪は聖剣を砕き、どのような魔法の盾も貫き抉る──軍略盤の遊具など、鱗で撫でただけで粉微塵になりそうだな! では!」

 

 その一言を合図としたかのように、竜の全身が紅蓮の焔光に包まれる。

 一拍の後に現れたのは、黒い肌に赤い髪を撫でつけた美青年であった。

 ソタラハは竜の角と翼と尻尾を残した姿に転変を終えると、そのまま娯楽室の窓から入城を果たす。

 

「これでよし!」

「ちょ!」 

 

 竜男は人間形態に変身することで城に入るのに適切なサイズとなったが、竜形だった彼は何も身に着けていなかった。

 つまり、真っ裸である。

 

「わわわわ私の前でそ、そそそんないかがわしいもももももももものをォ!」

「おっと失敬! 服を持ってくるのを忘れていたようだ! 我、うっかり!」

「バカじゃないの!? ばかジャナイノ?!」

 

 赤面して顔を手で覆う木乃伊の姫に、大笑いしながら腰に両拳をあてて屹立する竜男。

 

「──にぎやかになってきたのぉ」

 

 そんな二人の様子に魔剣は懐かしさを刀身の内に感じる。

 

「うーん、女王がこっちで、衛兵があっち、天使が防いでくるから、悪魔がここを──えーと?」

 

 意外にも勤勉な狼男は熱心に教則本へ視線をおとし、盤上の駒を動かしながら再攻略法を練り続けている。

 

 

 

 

 続々と魔王軍幹部が招集・参画しつつある魔王の城──彼ら〈魔者〉の力は、かつての勢いを取り戻しつつあった。

 

 

 

 

 

 

 




《人物紹介コーナー》第四弾

●アーン・タシュタル  木乃伊(サラガーン)  包帯だらけなミイラの姫。骸骨女ことアバルの親友。
●ソタラハ        (ドラガン)   赤く巨大なドラゴン。一人称・我。よく服を忘れる。


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魔王の城 -3

/Transmigration …vol.11

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 ナハルが再び目を覚ましたのは、さらに三日後のことであった。

 

『おはようございます』

「────おはようございます」

 

 異世界の言語でそのように筆記された、小さいホワイトボードっぽいもの。

 ナハルの傍で介抱にあたってくれていたらしい──真っ白い骸骨の人が掲げるそれは、見る間に文字が溶けて、さらなる文字が自動的に浮かび上がる形で新たな言葉がつづられていく。

 

『一度、目が覚めてから三日が経ちましたが、体調の方はよろしいでしょうか?』

「はい──たぶん、もう大丈夫です」

 

 本当を言うと、未だに頭の中に霞がかかったような感覚を否定できない。

 ナハルは転生してから毎日のごとく続く悪夢に悩まされている。

 同じような悪夢の連続に魘されるのにも飽き飽きしているが、慣れようと思っても一向に慣れることができない。

 悪夢にもいろいろなものがある。

 襲われて燃え上がった村。遠くから聞こえる悲鳴と慟哭。孤児院の壊滅する様子。見知った修道女や子どもたちを襲う惨劇。

 

 ナハルを転生させた神様(クソッタレ)との会話──それ以上の、悪夢。

 思い出したくもないのに、幾度となく脳内を汚染していく──生前の記憶。

 

(忘れろ。あんな奴らのことは)

 

 無駄であると完全に諦めている──幾千回目の自己暗示。

 瞼をきつく閉じ、かっと見開いた。

 今、目の前にある現実に目を向ける。朝の光に照らされる窓の外の光景は、晴れ晴れとした蒼穹が広がっていた。

 ナハルはバッと体を起こす。優しく骨の掌で介添してくれる骸骨の人──名は確か、アバル・クロガンと紹介されたことを思い出す。

 

「ありがとうございます。クロガンさん」

 

 骸骨は一度頷き、ナハルにホワイトボードを掲げみせた。

 

『どうか。アバル、と』

「はい、アバルさん」

 

 ナハルはダブルサイズのベッドから降りた。

 あらためて自分の全身を眺める。これといった肉体の不調は感じられない。

〈聖痕〉によって切り刻まれたようだった肌も、まったく見分けがつかないほどに治療されていた。手の甲を撫でてみるが、痕もなければ疼痛も起こらない。包帯が額や首、胸や下腹部の周囲に残されている──そこを少しめくると、少しだが淡い光の軌跡が残っている程度。高熱や倦怠感から解放され、起き上がるのにも支障がなくなった少女の身体は、数日前の夜とは比べようもなく軽くなった。少し体を弾ませるだけでも宙に浮くかのように思える。食事を数日間とらなかったからというよりも、身体能力が空おそろしく感じるほど底上げされたようなイメージだろうか。

 

(確か、隠蔽、封印とか言ってたけど)

 

 いったいどういう技術のなせる業なのかは不明だが、ナハルは感嘆するほかない。そもそもにおいて〈聖痕〉という代物自体が、ナハルにとっては超常的すぎて理解が及ばなかった。

 自分でも驚くほど複雑に刻み込まれていた──その割には痛みなどは見た目の派手さほどではなかった──不可解な光の傷。

 それをどのようにして塞いだのか、まるで見当もつかない。

 

「あの、アバルさん」

『まずは、着替えを』

 

 疑問を呈する寸前、骸骨の女性に促されるまま、ナハルは彼女が用意してくれた衣服に袖を通していく。きっちり採寸されていたらしく、サイズはピッタリであった。孤児院では経済的理由からぶかぶかの古着しか与えられたことのなかった少女にとって、その着心地の良さは手放しに賞賛せざるを得ない。子供が着るのにぴったりなデザインの衣服は、ワンピースというよりもディアンドルという方が的確なもの。ロングスカートの足元を飾るのはピカピカに磨かれた黒革の靴で、こちらもサイズは合っていた。ナハルが着替えをすますと、アバルは満足げに頷きを繰り返している。まるで何かの出来に満足したように。

 ついでベッド脇のキャビネットに置かれていたナハルの私物に目が行く。

 泥と雪と血で汚れた古着は新品のように洗濯・修繕され、きっちり折り畳まれたその上に、この世界での母の形見──紫の色の花の指輪を提げるためのネックレスが安置されていた。

 ナハルはそれをアバルの骨の指に協力されながら、いつものように胸の中心へ提げる。

 カシャリと頷く骨の女性に姿見の前へ誘われると、鏡の前には黒髪の御嬢様という格好の少女がスカートの裾をひらひらしていた。

 そして凝然(ぎょうぜん)となった。

 

「あれ? この目……?」

 

 ナハルの瞳は、とくに珍しくもない黒色だった。

 しかし、今は。

 

「黄色? 橙色?」

 

 というよりも「黄金」と言っても差し支えない、光沢の彩。太陽の光が反射してということではない。鏡の中にあるナハルの両目は、琥珀にも似た輝きで満たされていた。無論、こんな瞳の色でなかったことは、ナハル自身が九年の生涯でよく理解している。

 ナハルはアバルに訊ねるような視線を向ける。骸骨は応じた。

 

『〈聖痕〉は全身に及んでおりました。そのため眼球──瞳にも無数に刻みこまれたことで、色が変わってしまったようです』

 

 と、アバルが伝言ボードに記述。

 

「そう、ですか」

 

 鏡の中の自分を凝視しつつ、瞬きを繰り返してみるが、とくにこれといった痛みも疼きもない。視力が極端に悪くなったということもないので、特段気にする必要もないかと納得するナハル。

 

「これを、治すことは?」

『申し訳ありません』

 

 伝言ボードをすぐさま消去するのと同時に、さっと追記していく骸骨。

 

魔王(アン・ターヴィルソル)陛下の御力でも、〈勇者〉の体内に刻まれた力……神の祝福を消去することはできません』

 

 文字はナハルが読む速度に合わせて消去と記述が成されていく。

 

『それが可能であれば、そもそも〈勇者〉の力そのものを、陛下の力ひとつで抹消することも可能なのです』

 

 ナハルは頷いた。

 勇者の力を失くすことができるのであれば、魔王が勇者に倒される道理が成り立たない。

 魔王と神──その能力の天秤がどちらに傾いているのか。

 黙考すること数秒、少女は重要なことを訊ねる。

 

「あの、私と一緒にここへ連れてこられた修道女……ロース、私のおば、は?」

 

 ナハルと共に、魔王一行に保護された修道女。

『ご安心を』というアバル。

 彼女は現在、都市の病院で入院中であると告げられる。しかし、ナハルは複雑な気分だった。

 

(いや、なんとなく覚えてはいるけど)

 

 ナハルは出生直後からの記憶を保持できている。当然だ。ナハルは転生して此方の世界に送り込まれた存在。

 あの嵐の夜に。

 自分を産んでくれた女性──その傍にいたのは、あの修道院の院長クローガと、

 あと、もう一人。

 

 ──お願いしっかりして! 姉さん(・・・)!!

 

 朧げな記憶の海の中で、母をそう呼称していた少女がいた。

 十代後半だった少女は、九年の間に一人の女性として成長し、姪であるナハルと孤児院で生活する修道女となった。

 ナハルは、何とはなしに理解していた。何か事情があって、ナハルを引き取ることはできなかったのだろう。叔母(ロース)と母は貧困にあえぐ孤児であり、ナハルを養う(すべ)が孤児院で共に暮らす以外になかったことを、赤ん坊時代に聞かされたことがいくらかあった。思わずポロリと、意志を示さぬ赤ん坊に述懐して、何故か謝辞と涙を落とされたことを、ナハルは聞き逃すことはなかった──できなかった。

 無論、興味がなかったはずもない。

 母たちの生い立ち。

 何故、母と叔母が孤児となったのか。

 母はどうして──“あのように”死んでしまったのか。

 そして、母の夫たる男──つまり、ナハルのこの世界での父親は?

 何故、これらのことを誰も教えてくれないのか──数え始めると不可解なことが多かった。多すぎた。

 けれどロースが、叔母である彼女の方から何も言ってこないのに、ナハルからいろいろと訊きにいけるはずもなかった。もっと言えば、言えない何かしらの事情があると考えることが妥当ではないのか。

 だから、ナハルは何も聞かないことにした。あたりさわりのない、聞き分けの良い子でいたほうが、誰にとっても都合が良いと考えた。

 結果的にその判断が正しいのか悪かったのか、ナハルには判断できるほどの情報がない。

 

『お会いになりに行かれますか?』

 

 ナハルの沈黙をどう受け取ったのか、アバルが提案してくれる。

 

「──そうですね。聞きたいこともありますし」

 

 付け加えれば、ロースのことが心配だった。

 家族としての繋がりはあまり感じられなかったことが、それとこれとは別に、孤児院で長年にわたり世話をしてくれた女性であることに違いはない。 

 彼女はやむにやまれぬ事態──治療の事情があったとは言え、意識を失っている間に〈魔者〉の国へ連れてこられたなどと、夢にも思うまい。

 

『わかりました。急ぎ手配を整えておきます。では、朝食を』

 

 骸骨の掌が叩かれたのと同時に、部屋の扉が開く。

 黒と白の給仕──メイドと呼ばれる装束を身に纏った人間の女性が四人、ナハルの朝食を運び込んできた。

 そのどれもが、ナハルがこれまで食べてきた食事よりも格段にグレードの高い代物で、なおかつ美味であった。湯気の立つスープ。ふわふわ食感の焼きたてパン。半熟卵の大きなオムレツなど、孤児院でも味わったことのない逸品である。さらには、デザートにだされた果物の甘さは、この九年間一度も堪能したことのない糖度に溢れ、愕然となる。

 

(なんというか……日本の高級ホテルみたいな感じだな)

 

 魔王の城の朝食に舌鼓を打ち終わったナハルは、少しばかりの休憩のあと、アバルに案内されるまま部屋の外へ。

 彼女曰く、

 

『魔王様がお呼びです』

 

 とのこと。

 少女は大いに頷いた。

 ナハルも魔王と話したいことは山ほどあった。断る理由などない。

 

 

 

 

 

 魔王の城の中でも比較的高層階に位置するらしい客間から骸骨のアバルに先導されること、数分。

 アバルに訊ねたところ、魔王は今、城の書斎にいるという。

 謁見の広間とかに通されるのかと内心で慄いていたが、書斎というのであればそこまで身構える必要はないだろう。

 その時、廊下の向こうから槍と斧を担いだ兵士が見えた。

 

(衛兵…………人馬(ケンテアール)牛人(ミノテアール)?)

 

 下半身が馬の人間と、上半身が牛の人間。

 どちらも亜人種と呼ばれる存在であり、純粋な人間種とは一線を画す生命だ。

 ちなみにエルフ(ルハラハーン)ドワーフ(アワク)も亜人種に属するというのが、ナハルたち人間の国の常識とされる。

 亜人の衛兵二名が骸骨──アバルに頭をさげて片膝をついた。

 アバルは軽く会釈する程度の対応で衛兵らをやり過ごすので、ナハルもそれに倣うようにしながらすれ違う。

 そうして、城のさらに上層へといたる階段をのぼる。

 ふと、アバルが足を止めた。どうやら目的地──書斎に辿り着いたらしい。真っ白い骨の指で、立派かつ精緻な細工の施された二枚扉を叩く。

 

「アバルか──入れ」

 

 聞き覚えのある声。

 指示に従い、白骨の女性が扉を開けて、中へ。

 ナハルは、言葉を失ったように立ち尽くした。 

 

「……ここが、書斎?」

 

 まるでダンスホールか歌劇場のごとく広大な空間。

 天井まで書棚の壁面を占領する蔵書の数は、少なくとも千単位──万単位に至るだろう。大きな窓から大量に射し込む朝日によって、読書に適した明るさが満ちている。いたるところでランプに火が灯され、暗いところなど少しもない。調度品も素晴らしく、巨大な暖炉の炉棚のレリーフや、シャンデリアをつるす天井のフレスコ画、机も椅子も宝石のように磨かれ手入れされ、そのどれもが芸術品とも見紛う仕上がりとなっていた。もはやこれは書斎というよりも、国立図書館と称すべき荘厳な知識の宝庫であった。

 茫然自失しかけるナハルは、アバルの手招きの関節音で上向けていた視線を戻した。

 畏敬によって頭を殴られたような衝撃を無理やりに押さえつけ、前へ。

 アバルはさらに図書館の奥へと続く階段をのぼる。

 

「ここは?」

 

 何かの控室と思われる扉の前。

 アバルは『ここが、王の書斎です』と示してくれる。

 

「何をしている? 入ってきて構わない」

 

 先ほどと同じ声……しかし、おかしい。

 図書館の入り口とここまでの距離を考えると、魔王の声の音量は変動がないように思えたが、これはいったい?

 疑念に首をひねる間もなく、アバルが一枚の扉を開いた。

 

「久しぶりだな──ナハル・ニヴ」

「──お久しぶりです。魔王陛下」

 

 ナハルは歩を刻みながら背筋を伸ばした。

 

「そう緊張しなくていい」

 

 ランプシェードやペン立てのある執務机に腰を落ち着けていたのは、あの純白の鎧──〈魔者〉の王たる魔王そのひとであった。

 署名と捺印を繰り返す彼の傍らで、片眼鏡をかけた水妖の〈魔者〉──イニーが秘書のごとく書類の束を抱えている。一礼する女怪に対し、ナハルも同じ礼で応えた。

 そこは、王の書斎というには簡素に過ぎる空間であった。

 先ほどの図書館でド肝を抜かれた後だと、そのシンプルな作りがより一層際立って見える。

 しかし、魔王はそんなことなど頓着した様子もなく、〈勇者〉の少女を招き入れた。

 

「体調は、もう随分とよさそうだな」

「はい。おかげさまで」

「ここまで足労をかけたな。こちらはいろいろと忙しくて、あまり見舞いにもいけず申し訳ない」

 

 お気になさらずとナハルを首を振ってみせる。

 徒歩数分程度の行程であったが、病み上がりのナハルは息すらあがらなかった。

 

「夢見心地は──悪かったようだな」

 

 何故それを。

 

「いかにも寝不足という表情、面構えだ。

 いかに〈聖痕〉が体に馴染んで身体機能が書き換わっても、〈勇者〉そのものの精神や脳構造まで、変質・変転させるものではないからな」

「──失礼ながら魔王陛下」

 

 あなたは、どこまで分かっているのだ。

 勇者の証である〈聖痕〉について、魔王はそれなりの知識を保持していることは理解できている。

 だが、それはいつ、どこで、どのようにして得た知識なのか、興味がないと言えば嘘になる。

 

「私は〈勇者〉のこと、〈聖痕〉のこと、魔王を滅殺するという力──何ひとつとして満足に理解できているとは言えません。私は田舎の村の教会で養われていた孤児に過ぎません。恐れながら、最初からすべて説明していただけませんか?」

 

 ナハルからの申し出に、魔王は鎧の肩をすくめた。

 

「最初から、と言ってもな──いったいどこから話せばいいのやら」

「お願いします」

 

 魔王はいかにも高級そうな羽ペンをおいて、最後の書類をイニーに手渡した。

 

「なら、君にひとつ確認しておかねばならないことがある」

「確認?」

「ああ。俺の扱う“魔術”──魔王の力でもってしても、〈勇者〉である君のことを深部までどうこうすることはできない。体の表面を治癒し、〈聖痕〉を隠すことはできても、肉体内部まで手を加えることは不可能だ。その黄金に変わった瞳のようにな。それと同じく、神の加護を受けた〈勇者〉の精神に介入したり、記憶をイジるなどの術理は通用しない。なので、君のことを知るには、君自身の口で、直接教えてもらう必要がある」

 

 それならば何なりと確認してくれと頷くナハル。

 今の自分であれば、どんなことでも流麗に言葉にできる自信があった。村での貧しい生活、友達との思い出、母との別離──ナハルの九年という生涯に関わる情報であれば、何でも答える用意があった。

 魔王は頷き、机に肘をつき、指を組んで〈勇者〉を見据える。兜の奥から視線を浴びせかける。

 白銀の見た目とは相反する、底知れない深淵を覗き込んだ時に懐くような漆黒の感情を、何も見えないスリットの奥底から感じ取れて、思わず後ずさりそうになる少女。

 そんな彼女に対し、魔王は告げた。

 

 

 

 

「ナハル・ニヴ、君はもしや──“転生者”ではないのか?」

 

 

 

 

 ナハルは一瞬、言葉を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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魔王の城 -4

〈魔者〉と〈魔法〉と“魔力”について


/Transmigration …vol.12

 

 

 

 

 

 ナハル・ニヴは完全に固まった。凍りついた。

 にかわのように貼りついた喉を使って、ようやく言葉を絞り出した。

 

「──いま、なんと?」

「君は“転生者”ではないのか、そう訊いたんだが?」

 

 転生者。

 その単語の意味を、ナハルは量りかねていた。

 

「転生者とは、神の導きによって、この世界とは別の世界から転生してきた存在──俗にいう『生まれ変わり』をなした者のことだ」

 

 魔王は指を組んだまま告げる。

 

「君の行動力・理解力・精神力は、九歳の人間のそれでは、ない。神に対して(はばか)りのない憎悪と呪詛。自刃してでも目的を達成しようとする意志。あちらの大陸でも滅多にお目にかかれない魔王の城への反応。人間とは異なる存在──〈魔者〉──イニーやアバルなどへの冷静かつ丁寧な応対……これらすべてが、通常人類の、それも十にも満たぬ子供がとれるものではない。成熟し尽くした大人の感性。人生や運命への諦念。他の諸々の要素を(かんが)みるに、君は、転生者としての特徴に満ち満ちている」

 

 羅列された指摘に、ナハルは反論することができない。

 反論すべきかどうかの判断もつかない。

 

「君は、転生者ではないのか?」

 

 魔王の射貫(いぬ)くような視線が、ナハルの瞳に痛いほど突き刺さる。

 

「……だったら、どうだというのです?」

 

 臓腑(ぞうふ)をねじられるような吐き気がした。

 ナハルは顔色が悪くなっていく自分を理解したが、どうしようもなかった。

 

「私が転生者だったら…………、あなたは、私を、元の世界に戻してくれるのですか? 帰る方法が、あるのですか?」

 

 (わら)にも縋る思いで、震えそうな声を紡いだ。

 脳裏をよぎる期待。

 淡く切ない希望。

 取り戻したい。

 取り返したい。

 あちらに残してきた──遺さざるを得なかったものを、すべて。

 何度も願った。

 何度も探した。

 何度も欲した。

 何度となく求め続けた。

 それでも『そんなことはありえない』という結論だけが編みこまれた九年間を、絶望の日々を思い出すだけで、心臓がひっくり返りそうな痛みをおぼえる。

 

「あなたは私を、あちらに、元の世界に、帰してくれるのですか?」 

 

 抑え込んできた思いがあふれかえった。

 帰りたい。

 帰りたい。

 帰りたい帰りたい帰りたい。

 帰りたくてたまらない。帰りたくてしようがない。

 帰れる方法があるのなら、魔王にだって魂を売り払うことも辞さない覚悟があった。

 

 けれど、結果はわかりきっている。

 

「残念だが」

 

 魔王は首を振った。

 そう。

 その通りだ。

 神にだって不可能なことが、どうして魔王には可能だと言えるのか?

 ナハルの全身に刻み込まれた〈聖痕〉の件を思い出してみても、神と魔王──両者の天秤がどちら側に傾いているのかは明らかであった。

 魔王は少し肩を落としてみせた。

 

「俺は、君の苦しみがわかるとは言わない。そんな都合のいいことを言っても、君のこれまでの苦悩が癒されるものではない」

 

 ナハルは魔王の述懐する言葉に、心の底から感謝した。

 気休めやきれいごとの言葉などいらない。

 それを、このひとは完全に理解してくれた。もはやそれだけで十分すぎる。瞼が熱く潤むのを心地よく感じた。

 

 おかしなことだが、目の前の魔王こそが、ナハル・ニヴという人間を、はじめて完全にわかってくれた存在となった。なってくれた。

 

 この話は──ナハルが──鬼塚ハルナが経験した事柄は、“神様に転生させられた”という話は、常人の理解を超え過ぎていた。

 言葉を覚えた直後のナハル・ニヴの言動と態度──あまりにも子どもらしからぬ少女の存在に疑念を懐かれること──それ自体は孤児院や村でもざんさんにわたって経験してきた。

 そのたびに、ナハルは真実を告げられなかった。

 ──否。

 正面から本当のことを告げたところで、子どもの妄言(もうげん)空言(そらごと)であると一笑にふされるだけだったのだ。ほとんどの例外なく、ナハルの転生譚を理解できるものはありえなかった。院長やロース修道女は一定の理解を示してはくれていた(そのように努力してくれた)ようだが、「元の世界に帰りたい」「戻る方法を教えて欲しい」と言い募る子供の奇態に、何の処置もできなかった。当然と言えば当然のことだった。だからナハルは、この話を積極的にすることをやめるしかなかった。誰にとっても良い子であるように努め、自分は神様に転生させられたなどというバカなホラ吹きであるというレッテルを貼られないよう、人々から奇異の眼で見られる事態を極力避けるようにした。

 そのたびに味わってきた徒労感と絶望感……自分という異分子が、この世界で生きる人々には永遠に理解されないのだという実感は、想像を絶する孤独をナハルの心胆にもたらした。

 しかし、今は──

 

「ありがとうございます。魔王(アン・ターヴィルソル)陛下」

 

 晴れやかな思いで、ナハルは魔王に頭をさげた。

 

「感謝されることではない。俺は、君を利用しようとしている、悪の首魁なのだからな」

 

 そんな自虐的に語る彼の口調がおかしかった。

 気づけば、アバルとイニーも微笑んだように体を揺らしている。

 

「それで──私がその転生者だったら、いったい、なんなのでしょう。何か問題が?」

「いや、問題ということはない」

 

 あっけらかんとした魔王の主張が、ナハルの胸を打った。

 

「しかし、そこを確認しておかなければ、魔王である俺もどれほど話をしていいのか……理解されるのかどうかが判らないのでな」 

 

 目を数回ほど瞬かせたナハル。

 

「君が転生者であるならば話は簡単だ。この世界には神が存在する。実在する。実存あるモノとして定義できる。

 大方の人類には疑問視されている神ではあるが、俺たち〈魔者〉の戦うべき相手というのは、間違いなく神なのだ」

「……」

 

 ナハルは俯いた。

 誰にも信じてはもらえなかった。

 ナハルが声を大にして唱えても、誰も本気にはしなかった。

 それは当然の摂理であった。ナハルにしても、生前の日本で「私は神様のせいで、異世界からやってきました!」なんていう子どもがいても、それが真実であるなどと信じはしなかっただろう。それが普通なのだ。

 この異世界においても、それは同じこと。

 神などいないもの──本当に実存するものだという者は、ナハルの周囲にはありえなかった。

 今までは。

 

「神は超常の力でもって、この世界に働きかける。直接的にせよ間接的にせよ、この世界を創ったモノが存在することは確かだ。そして、その神が送り込んでくるのが、“転生者”とよばれる者たち。彼らは、ある時は神々の尖兵として、ある時は技術の渡来者として、ある時は文明の先駆者ないしは後退者として、そして、ある時は人類の敵……〈魔者〉として、この世界での生を受ける」

「────え?」

「事実、ここにいるイニー・ン・リィアも、転生者だ」

 

 とんでもないことを告げられた。

 ナハルは目を瞠って、流動する半身をもった女怪を見やった。

 イニーは右顔を微笑ませたまま、魔王の言を訂正する。

 

「厳密には『転生者の可能性が高い』というだけでございます、陛下。

 この私には、生前の記憶といえるものが、ほぼ絶無に等しいですので」

「だが、イニーのような、既存の〈魔者〉たちに大別できない新種──人魚(マジィン・ワーラ)でもないし精霊(シュピーラド)でもない、悪魔(ディアヴァル)でもなければ妖精(シーオグ)でもない──いわゆる自然発生個体は、大概が転生者だ。この世界での親を持たぬ〈魔者〉は、あちらの世界から転がり落ちてきた者であることは、魔王である俺が一番よく理解している」

 

 ダテに10000年を生きているわけではないと肩をすくめる鎧。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 ナハルはたまらず駆け寄りかけた。

 なんとか二歩ほど進んだところで己を制する。

 

「それじゃあ──〈魔者〉は──あなたたちの正体は、私と同じ転生者、だと?」

「いや、すべてが転生者というわけではない。そもそも、転生者の多くは通常、君と同じ人間や、それに近しい亜人たちとして生まれ変わる事例が圧倒的に多い。〈魔者〉たちの中で親を持つもの──現存する個体の多くは、大概がこちらの世界で生まれた者たちだ」

 

 それを聞いても、ナハルは心中おだやかでいることが不可能に近かった。

 つまり。

 いま言われたことは裏を返すと、〈魔者〉たちの祖先はナハルと同じように、あちらの人間であった可能性を大いに示唆している。

 そんなものが子孫を成し、そうして生まれた〈魔者〉が人間を襲い、人間たちに狩られている事実を思えば、胃の内容物をブチ撒けそうな感触にさいなまれた。

 

「陛下、その言い方は語弊がございます」

 

 イニーが魔王の口述に修正を求めた。

 

「〈魔者〉の多くは、確かにこの世界で生まれた者。ですが、そのすべてが、元から〈魔者〉であったというわけではございません」

 

 イニーがなんの話をしているのか理解し損ねたナハル。

 

「……そうだな。これは隠していても、意味のない話か」

「えと、あの?」

 

 なんのことを言っているのだろう。

 そう言いたげな少女の様子に、白い鎧武者は毅然と顎を引いた。

 

「ナハルくん。君は本当の話を聞きたいか? 魔王である俺に協力するというのであれば、これから話す事実を受け入れてもらう必要に迫られるが、これは別に知らなくもいいことだ。なんだったら、君はこの国で、普通の人間として、我々の戦いとは無縁な場所で、安泰に暮らしていくこともできる。魔王である俺が、生活を保障する」

「……いえ。私は、あなたと共に戦います」

 

 戦わせてほしいという懇願に、魔王は一度溜息を吐いた。

 

「──本当に?」

「はい。誓って」

「──では、話そう」

「お願いします」

 

 魔王は諦めたように首を頷かせた。そうして、少女を真正面から見据える。

 

「ナハル・ニヴ。君は、人間の国において、〈魔者〉はどういうものであるのか、聞いているか?」

「は。詳しくはありませんが、──失礼ながら──人を襲い、喰い殺すバケモノ、だと」

「だろうな。しかし、イニーやアバルを見ての通り、そういったバケモノが〈魔者〉のすべてではないというのはわかってもらえるだろう。他にもこの城この都市に住む〈魔者〉は、一切人間を襲っていない。喰って殺すなどもってのほかだ。なのに何故、君たちの住む国では、そのような〈魔者〉がいると信じられているか、わかるか?」

「……もしかして、あの黒い〈魔者〉?」

 

 記憶の底から拾い上げたものは、村が襲われ、礼拝堂に避難していた孤児院の子らと修道女らを食い散らかしていた、漆黒の魔獣。

 

「そうだ。アレによって、〈魔者〉は人に害をなす災厄と悪逆の権化と恐れられている。しかし、我が国──ニーヴ大陸の〈魔者〉は、あのような黒化した存在は皆無である」

「えと、なぜ、ですか?」

「順を追って説明しよう。──アバル」

 

 魔王の下知に従い、白骨の女性が掲げ持っていたボードに、かわいらしくデフォルメされた骨のイラスト──おそらく彼女の自画像を描きこんでいく。

 

「〈魔者〉は“魔力”というもので駆動し生存することができる存在だ。〈魔者〉は“魔力”を補給されなければ、自我を保つことが難しいという機能が課されている」

 

 かわいい頭蓋骨に、矢印のマークで示された魔力が幾つも吸収されていく。

 しかし、ナハルはさっそく疑問を呈した。

 

「えと、まりょくって──魔力、ですか? ゲームで〈魔法〉を扱う的な? あれ、でも〈魔法〉って」

「ああ〈魔法〉の話とはまた別の……いや同じか? ……とりあえず魔力の補給は、〈魔者〉であることの絶対原則、ないしは掟、いや、法則というべきか。──そうだな。君ら転生者に馴染み深い言葉だと、ファンタジーゲームのようなルールやシステム、全体的な仕組みのひとつだと思ってくれ」

 

 意外にも転生者たちの知識に通暁しているらしい魔王は、アバルのボードを指さしながら、続けざまに説明していく。

 

「この魔力は、人間でいうところの空気や食事、水分補給と同様に重要なものだ。魔力がある限り〈魔者〉は理性と知性が働き、人間をむやみやたらに襲うなどといった行動を起こすことは絶対にない。そして、この大陸──より厳密には、魔王である俺が、高濃度かつ大量の魔力を発生させ、すべての〈魔者〉に魔力を安定的に供給することを可能にしている。魔王という称号は、『〈魔者〉の王』であることの他に、『“魔力”の王』としての意味合いが強い」

「ちなみに、陛下が封印されている間も、齢三百年程度の弱小個体までであれば、生存かつ活動に必要な濃度と量の魔力を供給していただけることが可能でございます。千年を生きている元老級などの幹部たちは、魔王陛下が封印されている間は、自己に貯蔵されている魔力が続く限りは活動を続けることができますが、自力で生み出すことは不可能。そのため、場合によっては各々が自己封印することで、生存に必要な魔力を節約するという手段で生命活動を維持しております」

 

 イニーの補足説明に首肯をおとす魔王。

 

「だが、我等〈魔者〉に必要不可欠な魔力というのは、ティル・ドゥハス大陸、つまり君たち人間の国には、あまり存在していない」

「え──何故、ですか?」

「君らの国の宗教観においては“神によって汚らわしい力から護られている”というのが妥当だろうな。いずれにせよ、あちらの大陸で発生した〈魔者〉は、重度の魔力欠乏に陥ることを余儀なくされる」

「魔力、欠乏?」

 

 その単語の意味するところは、人間でいうところの無酸素状態や栄養失調──などとは一線を画す事態を招くと魔王は告げる。

 

「魔力が欠乏した〈魔者〉は、少ない魔力を補うべく、従来の姿からは程遠い形態へ変転──全身を黒く変貌させる。これが“黒化”だ。黒化した〈魔者〉は、本能的に衝動的に魔力を追い求める、黒い魔獣と化す。そして、魔力の蓄えられた個体を襲い、喰らうという手段に出ることで、魔力を補給しようとする──つまり暴走する」

「暴走、魔力──蓄えられた?」

 

 襲い、喰らうという単語の意味が浸透していく。

 しかし、ナハルは頭を振った。

 

「そんな……じゃあ──!」

「そう。あちらの大陸で、もっとも効率の良い魔力補給の手段は、人間を殺し喰らうということだ」

 

 何故という疑問が率直に浮かぶ。

 

「どうして、人間を──動物や植物で、魔力は補給できないんですか?」

「初めてこの話を聞いた人間は、そういう者も多いが……そこは君がさっき言った〈魔法〉が大いに関係してくる」

 

 魔王は粛々とした口調で続ける。

 

「あちらの大陸で蔓延している〈魔法〉によって、人間たちは大いに栄えている。神が人間に与えた、〈魔者〉を打倒する力のひとつだという愚者(バカ)もいるが、今や都市部などでは〈魔法〉の恩恵失くしては生活が立ち行かないほどに発展し、人々の生活の基盤に根付いている。

 だが、〈魔法〉を使う上で、人間は魔力(・・・・・)を使わない(・・・・・)──知っているか?」

「は、はい。〈魔法〉は、神によってもたらされた奇跡の賜物だ、とかなんとか」

 

 だからナハルも魔力という単語を思い出すのに時間がかかった。

 それはあくまで生前の知識──ファンタジーゲームの単語としてのもの。

 この世界の〈魔法〉において、魔力という単語は付随しておらず、〈魔法〉を使うのに「魔力を消費する」といった話は聞いたことがない。

 少なくとも孤児院や村、近郊の街の人間などは、そういう認識でいる者が大半であった。〈魔法〉は適性さえあれば、誰でも自由に使える奇跡の力だと。

 しかし、魔王の認識は違うようだった。

 ナハルは、ふと思い出す。

 

「そういえば、クローガ院長は、何故か〈魔法〉は使わないひとでしたけど」

「君の村の長老の一人か」

「はい……ですが」

 

 孤児院を守るべく、剣を持って出ていった老女の姿が目に浮かぶ。

 沈黙する少女の様子を見て、魔王は察した。

 

「そうか。しかし、その院長の方策──〈魔法〉を積極的に使わないというのは、正しい判断だったな」

「……それって、どういう?」

 

 ナハルは胸に込みあがってくるものがあるのを実感したが、なんとか耐えた。

 

「ここでは、〈魔法〉によって魔力を消費するのではなく、〈魔法〉によって魔力が蓄積(・・)されていく。

 だから、暴走した〈魔者〉は、人間を襲うようになる。

 夜を昼のように明るく照らす照明の〈魔法〉がある。火をおこす〈魔法〉で、〈魔法〉で清められた水で煮炊きする。食事をおいしくする調味料を産む〈魔法〉や、家畜や農作物をよく育てる〈魔法〉がある。〈魔法〉によって作られた調理器具や家具が売られている。それらすべてを運搬するのに、空を飛ぶ〈魔法〉がある。長く保存する〈魔法〉がある。人を治癒する〈魔法〉や、痛みを取り除く〈魔法〉は、治療院などでは欠かせないものとなっている。

 そうして、そういった恩恵によって、人間には“魔の力”が延々と沁み込んでいく。

 ──そういうシステムだ」

「そ、そんなバカな!」

 

 そのような不条理があっていいものかと、ナハルは声を荒げた。

 

「人間たちの国でも、この情報を知っているものは限られている。〈魔法〉による魔力蓄積は、よほど国の枢要に近いものか、あるいは何らかの形で真実を知ってしまったものだけだ」

「だったら、どうして〈魔法〉を使うのを止めさせ────っ」

「そう。君が理解したとおりだ。

 それを知ったとしても(・・・・・・・)。もはや〈魔法〉がなければ国家の運用は維持できない。〈魔法〉を国防の要とする場合はより顕著だ。第一、生活に関わる〈魔法〉をすべて止めるなんてことをすれば、都市にすむ人間はまともな生活など送れなくなる。君の孤児院が〈魔法〉を使わない生活をしていたのであれば、それがどれだけ貧しく辛い状況になるかは、理解できるはずだ」

 

 確かに。ナハルは村の暮らしを、院の慎ましい生活を思い出す。

 水をくむのも、薪を割るのも、すべてが人の手によって行われることのつらさと厳しさを、少女は嫌になるほど心得ている。一人二人分ならばいざ知らず、数十人に必要な量となれば、その量は膨大となる。これが都市などの千単位万単位の人口を支えるとなると、想像もつかない。野菜を作り、家畜を育て、倹約と節制に励んでも、生きるのにギリギリな状態であった。それでも、絶対的に賄いきれない場合は、商店から物を買うことでしのいでいた(そして、その商品にしても、製品として保存・運搬するのに、〈魔法〉の恩恵を受けたものである可能性は大いにある)。

 それを国のすべての人間、大陸全土に生きる人々にさせようとすればどうなるか、想像するに難くない。

 

「じゃあ、だったら、どうして村は、私たちの孤児院は襲われたんです!? あそこでは院長の決定で、〈魔法〉はほとんど使っていなかった! 魔力なんてものが蓄積するはずがない環境だったはず! なのに?!」

「〈魔法〉のなかには、暴走した〈魔者〉を使役する〈魔法〉がある。それによって操られた魔獣たちが、君の村を──孤児院を襲ったようだ」

 

 絶句した少女。

 膝ががくがく震えるほどの怖気(おぞけ)を感じた。

 いったい、だれが何の目的でそのような暴挙を遂行させたのか──考えただけでおぞましい。吐き気を抑えるのが本気の本気でつらすぎる。

 

「そうして、もっとも重要なこと──先ほどイニーが言ったことに帰結する」

「もっとも、重要?」

 

 ナハルは彼女が言った一言一句を脳裏に思い浮かべた。

 

 ──〈魔者〉の多くは、確かにこの世界で生まれた者。ですが、そのすべてが、元から〈魔者〉であったというわけではございません──

 

 そして、人間には魔力が“蓄積”されていくという魔王の言葉が、痛いほど脳を揺さぶった。

 

「あ、ま……待って。うそ。嘘。そんな、まさか──まさかっ!」

 

 黒髪の少女はおぞましい予感に数歩を後ずさった。息ができない。

 琥珀色の瞳が忙しなく揺らめき、いろいろな単語が脳内を駆け散らかす。

 魔法。魔力。蓄積。魔者。魔王。人間。勇者。神々──あの夜──〈聖痕〉を発現した時に、ナハルが消し飛ばした、黒い獣たち。

 魔王は冷厳な佇まいで、口を両手で覆う少女に、明確な事実を告げる。

 

 

 

「人間の国で黒化し暴走した〈魔者〉は、元“人間だった者”──蓄積した魔力によって〈魔の者〉へと変異した者たちだ」

 

 

 

 ナハルは膝を屈し、胃の中の朝食をすべて床に吐き戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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統一王国

/Transmigration …vol.13

 

 

 

 

 /

 

 

 

 

 時は第九紀・9663年から9700年にまで遡る。

 

 9663年、百年ぶりに封印が解かれたその魔王は、まさに人類の天敵であった。

 

 純白の虚

 白き幽騎

 悪の権化

 純銀を鎧う絶望

 無をもたらす王君

 全魔の統率者にして軍団指揮官

 人類史上最悪にして最大にして最強の敵

 

 ……人喰いの魔王……

 

 それに立ち向かうべく名乗りを上げた一人の〈勇者〉と、彼が率いる精鋭軍に、世界の命運は託された。これが9699年のこと。

 大陸を跋扈し、人々を恐怖の底に沈め弄んだ魔王を誅すべく、数多くの血が流され、尊き命が喰い殺され、幾つもの国が滅びた──

 その無念を晴らすべく、魔王の幹部と雑兵たちは殲滅され、魔王との最後の一騎打ちにおいて、神の御業たる〈聖痕〉が一画、鋭く閃いた──

 

 こうして、悪逆にして惨忍非道を極めし魔王は見事討滅された。

 人類に平和の安息史がもたらされ、〈勇者〉はティル・ドゥハスの大地に秩序と安寧を回復させた。

 

 彼の功績を讃え、彼の血筋に敬意を表し、千年前に失われた小国が再建され、〈勇者〉は「王」となった。

 

 彼の築いた奇跡の王国は、僅か数年で、大陸全土にに覇を唱えた。

 

 北の氷原野を統べる女王の蛮国が、隷属を余儀なくされた。

 南の獣人騎士団による連合国軍が、半日も経たず殲滅された。

 西の魔装都市を擁する浮遊大陸が、一島も残さず墜落沈没した。

 そして。

 東の最強にして最大と謳われた真聖帝国が、三十年の長きに渡る戦いの末、敗れ去った。

 

 他にも大小さまざまにあった国家・集落・共同体、それらすべてを屈服させ懐柔させ隷従させ、大陸をただ一つの旗の下に合一させた。

 

 その神懸かりともいうべき大事業・征服行を成し遂げた〈勇者〉の王の名は──“イアラフトゥ”。

 

 ついに大陸全土をひとつとした国の名は──“シーァハーン”。

 

 

 

 

 神に愛されし「  王」“イアラフトゥ・イ・ラハール”──

「  王」たる彼こそが、第九紀・9700年、魔王を封印した〈勇者〉であった。

 

 

 

 

 /

 

 

 

 

 統一王国・首都“エツィオーグ”。

 

 目抜き通りを行き交う馬車の数々、その中で遠目にも格が違うと判る壮麗な造りの四頭立ては、王家の紋章旗を掲げた特別製である。

 馬車は一直線に通りを抜け、王の住居のひとつである“百合(リラ)”の宮へ。

 馬車だまりに停まった車から降りた男は、御付きの従者を侍らせ、宮の主人であるがごとく建物にあがる。

 豪奢な内装に目をくれず、数多くの調度品を素通りし、吹き抜けの煌びやかなシャンデリアを尻目に、建物の最上階へ。

 そして、女中二人が待機している扉の前に立つ。部屋の中にいる少女への取り付けを済ませ、御付きの者たちを外に残し、中へ。

 目当ての人物は、大きな窓のそばで、両膝を抱えて俯いていた。救出直後は軽い怪我も見られたが、〈魔法〉によって即日回復している。

 小さくなっている少女が、来客に対し顔を上げることなく問いかける。

 

「いまさら……私を宮殿に戻して、どういうおつもりです?」

 

 純白の絹と見まがう美しい長髪の少女は、きらびやかなレースやラフをあしらった衣服……襟ぐりを大きく取ったドレス(グーナ)ではなく、寝間着用に用意された子供用の服に身を包み、いらただし気な口調を隠す努力をしつつ、無遠慮にも見下ろしてくる黒髪の男に話しかける。

 

何分(なにぶん)、陛下のご意向ですので。私ごときでは、その真意を量ることなど」

 

 男は若い顔立ちのわりに、老塾した落ち着きのある声で、少女の詰問に応じる。

 蒼黒の胴衣に黒銀の毛皮でできた上掛けを羽織った男の様は、荘厳な漆黒の獣を思わせる風格を漂わせていた。その左目は、これまた黒い眼帯に覆われており、男の印象をより不吉かつ不気味なものに変貌させているように見える。多くの貴族達から“黒き獅子”あるいは“黒鷹の大公”という異名で呼ばれるにふさわしい眼光の右目が、数多くの女たちに恋情を催させ、今でもそういう噂が絶えないという。

 しかし、九歳の少女は鼻を鳴らして窓外を睨んだ。

 

「どうでしょうか。一応は貴方も王族の一員……あのロクデナシの「義理の弟」でしょう? 黒き大公殿下?」

「それを言うなら君もだな、我が麗しき「姪御(めいご)」殿、“白鴉(シロガラス)の姫君”よ」

「ッ、私は! もう、あの人とは関係ない!」

 

 手近に転がっていたぬいぐるみを掴んで、男の顔面に投げつける少女。

 だが、それは虚空を貫いて、柔らかな絨毯の上におちた。

 男は金属のように平坦な調子で告げる。

 

「実の父君に対して、そのような粗雑な言葉遣いをされるものではない。亡くなった母君も、そうは望まんだろう」

「あ、──あなたがそれを──もういい!」

「此度の件、あの村のことは、本当に気の毒だった」

「!」

「だが四年前、当時の情勢下において、姫の身の安全を確保するために、あの孤児院に隠れることが適切だと配慮されたのだ。結果は悲惨を極めこそしたが、こうして無事に戻れたのは、ひとえに父君のおかげだと」

「何が『父のおかげ』!? 『父のせいで』でしょ?!」

 

 少女は激するままに叫んだ。

 

「あれは! あの男は! “私の父なんかじゃない”! “お父さまなんかじゃない”!!」

 

 昂然とし、会話をすることに嫌気がさした少女は、首都の様子を眺めるでもなく眺める。最上階の部屋から見える眺望は、しかし少女に感動をもたらさない。

 宮殿の誇る百合の庭園の向こう、高い塀と深い堀を超えた先にある街辻は、実によく整備された道路だ。肉や魚、野菜や果物、パンや穀物を売る市場があり、衣服や道具や書籍を取り扱う商店がある。その軒先──平らに均された道の下には〈魔法〉の上下水道も完備され、実に清潔で衛生的だ。石畳の上を歩く人の波は、寒村で暮らしていたころとは比べようもない命の営みがあふれている証拠であった。人々の暮らしぶりは実に穏和で、かつ生き生きとしている。家族連れが親子三人で手をつないで歩き、老人に手を貸す若者や、転んで泣いてる子を助ける老女もいる。見上げれば都市上空を闊歩する航空騎兵隊の影が、一瞬の内に通り過ぎていくのが見えた。

 少女は否が応でも思い出す。

 一週間ほど前。

 彼女は空を駆ける騎士たちによって救出され、首都に連行された──否、“戻ってきた”。

 あの夜の惨劇──炎上する教会──煌々と刻まれた勇者の証──はじめて出来た大切な友達との別れが脳裏をよぎる。

 

「…………っ」

 

 こんなはずじゃなかった。

 こんな別れになるとは思ってもみなかった。

 いやだいやだと駄々をこねても、情勢は……世界はそれを許すことはなかった。

 黒い魔獣たちに襲われ、壊滅した村。炎上した孤児院から唯一生き残った少女……それを哀れんだ国の王が、彼女を保護したというわけでは断じてない。

 

「どうしてよ……どうして村が、あの孤児院が……これじゃあ、本当に、全部が全部、私のせいで……!」

 

 泣き腫らした顔に、さらに大粒の涙を溢れさせる姫君。

 

「泣いたところで何の意味もない」

 

 氷のような冷たい指摘。

 ギリッと表情を上向ける少女に対し、黒い男は凍てつく視線と言葉を落とした。

 

「こちらの用向きを伝える。君の父、国王陛下が御呼びになられた。支度をし、()く“王城”へ参上せよ、プレーアハン姫」

「……ええ、承知しました叔父上。……サウク大公殿下」

 

 王の義弟であり、参謀府を預かる重鎮であり、プレーアハンの叔父……母の弟。

 肉親に向けるような感情など一切取り交わすことなく、二人は別れた。

 プレーアハンは一人、肩を抱いて友の名を呼ぶ。

 

「…………ナハル」

 

 魔王に連れられて行った友の身を案じながら、プレアはきつく両肩を抱き締めた。

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 首都郊外、とある屋敷。

 

「もう一度、言ってみよ」

 

 暗がりの中に灯された蝋燭の火が、怪しく揺れる。

 

「ぜ、全滅、だと?」

 

 報せを受けた男たちが席を立った。蝋燭の火がまたも揺らめく。

 

「はい。全滅です。間違いございません」

 

 そう告げた男の声は、毒を呑んだように軋んでいた。

 

「ば、馬鹿な。飼いならした〈魔者〉100体を貸し与えてやって、それで全滅などするものか?」

「全滅です──此度の作戦従事者も、用意した傭兵団も、生き残りは一人も確認できず。──報告が遅れたのも、統一軍内部での事実確認に手間取ったがためのことで」

「それで、肝心の“対象”は?」

「“対象”は王直轄の航空機兵隊によって首都へと送還され、もはや我々では打つ手が」

「なんという失態か!」

 

 集まった要人の一人が銀の盃を中身ごと投げつけた。報告をした男──旧帝国情報工作員の長が、頭から果実酒をひっかぶる。金髪の男は一言も漏らさず、(いわお)の表情で頭をさげた。

 

「申し訳ございません」

 

 彼らがやっとの思いで探し出した殺害の対象。

 それに関わるすべての人間を含めた抹殺計画。

〈魔者〉を利用することで、不慮の事故という風に偽装して事を運ぶつもりだった者たちは、憤懣やるかたない様子で罵声と悲嘆の息を吐き出し続けた。

 

「せっかく用意してやった〈魔者〉まで一掃されているというのは、信じがたい」

「まったくだ。いかに“胎盤”があるとは言え、生育には時間がかかる」

「いったい、何が起こったのだ? まさかとは思うが、神の降臨か?」

「くだらん冗談を言っとる場合か! とにかく状況確認を!」

「〈魔者〉を一方的に葬れる力の持ち主は〈勇者〉だけだ──よもや、我等の感知しない、新たな〈勇者〉が?」

「いや、ありえんだろう」

「たとえ新たな〈勇者〉が奇跡的に誕生したとしても、数十体を相手にして生き残れる道理があるか?」

「確かに。軍学校や聖教会で戦闘力を教練されていない、つまり〈聖痕〉の扱いに熟達していない〈勇者〉など、生まれたての赤子同然」

「それが一度に100体殺しなど、神話の話──第八紀最後の英雄譚でしか聞いたことがない」

 

 第九紀の9800年という、途方もない歴史の中で数多く生まれてきた〈勇者〉たち。

 しかしながら。

 彼らの尽力をもってしても、〈魔者〉の首魁たる()魔王──人々に恐怖と絶望を与える王君を、完全に滅殺できた例はひとつもない。

 魔王と人類──そして、人類を守る神々。

 人類の敵である〈魔者〉──魔王との戦いにおける公式。

 それは、〈勇者〉が魔王を封じることで、人類は平和の時代を謳歌するということ。

 しかし一度(ひとたび)魔王の封印が解けてしまえば、平和の世は終わりをつげ、世界に災厄を成す〈魔者〉たちが力を振るう。

 それが、“神に守られし人類”の認識であった。

 

「やはり、王族を護衛する親衛隊が?」

「そんなものがいたという報告はないだろう? どこかに潜んでいたとでも?」

「そうとしか考えられんだろう。現に、掌握していた〈魔者〉100体を屠った何者かはいたはずだからな。そうなると、親衛隊あたりが妥当なところ」

「だが、本当にそれで全滅するものか?」

「元〈勇者〉の私兵や傭兵がいたという線もある」

「そちらの方がまだマシだ。親衛隊に工作員を訊問されれば、ここにいる我等にまで類が及ぶ」

「その心配はいらん。旧帝国魔法院が誇る工作員共には、任務遂行の際に自爆装置を埋め込んでいる。しかも、こちらに関わる情報を喋れば心の臓腑が弾ける特製品が、な」

「情報漏洩の心配はないとして──全滅原因の可能性は、親衛隊・八、私兵の類・二、というところか」

「口惜しい限りじゃ」

 

 暗黒の議場に集ったものたちが、一斉に溜息をもらす。

 

「……前回の魔王の封印から120年。時期的にも、そろそろ〈魔者〉の力が活発化して良い時節。実際、その兆候は確認されて久しい」

「だからこそ、今回の襲撃という作戦は良い手だと思ったんだがな」

「やはり我等の手でやるしかないのでは?」

「──今からでも、事をなすというのは?」

「馬鹿な。既に我等の働きで“五人”始末している。うち四人は数年前のこととはいえ、今、王の膝元たる首都で動くのは、大きな危険を伴う」

「ええ。対象らが病気療養という名目で外に出された折に、徹底的な犯人さがし──大粛清が巻き起こっている。あれを繰り返されては、さすがに我々の首も危ない」

「あれによって、王国の貴族どもが大量に消えてくれたのは痛快だったがな」

「しかし同時に、王の権威も一極集中化がなされた。残った王の側近は、揃いも揃って有能ばかり。──おかげで、我ら旧帝派は、いまだに肩身の狭い思いをしている」

「王が『我等の計画を利用して、大粛清に動いた』という噂も、うなずける話だ」

「だな」

「しかし。よりにもよって、あの娘が我々の旧領──もと帝国領内の村に隠されていたとは」

「ああ。あれには本気で驚かされたわ。やはり、あの王は切れ者よ。でなくば、馬鹿だ」

「まぁ、大公殿下の──義弟殿の所領地であればこその判断、というところでしょうが」

「は! あの若造め」

「灯台下暗しとはよく言ったものよ」

「見つけ出すまでに四年もかかった以上、我々の方が耄碌(もうろく)しておったというところだろうて」

「とにもかくにも。我等の作戦が失敗した事実は拭い難い。村ひとつ潰すくらいどうということもないが、あの王位継承権第一位にいる娘が生き延びてしまっては、何の意味もない」

「さよう。我等が悲願のために、あの娘に生きていてもらってはならぬ」

「ならば、次はどうする?」

「再び機を待つしかあるまい」

「そんな弱腰で、我等が真聖帝国の再興がなると思っているのか!」

「では聞くが。何か策があるのか?」

「飼っていた〈魔者〉を再び増やすのに、また数年の月日がいる。かと言って、我等が表立って動いても、出来ることはたかが知れておるわ」

「長老の言う通りだ。今は伏して、機会を待つほかない」

「我々は60年を待った。あと数年を待てぬ道理など無し」

「すべては“帝国のために”」

「我等が“帝国のために”」

 

 暗中にて、彼らは虎視眈々と、その時を待つ。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 闇の会合を、その闇の中にとけて聞き入っているものがいた。

 彼女はするりと天井裏から移動し、音もたてずに物置部屋に侵入。体中を覆っていた〈魔法〉の布を外すと、艶めかしい褐色の肌と、起伏に富んだ女の肢体が現れる。豊かな双丘の中心に赤い紋様があるが、これは奴隷の刻印。手早く裸体の上に新たな衣服を身に着ける少女は手鏡に映る自分の銀髪をいじりつつ、カチューシャの位置を整える。ニッコリと微笑むさまは小さな子供のように晴れやかだ。

 ふと、首飾りから声が聞こえてくる。

 

『ブアラ』

「はーい、ご主人?」

『首尾はどうだ?』

「守備? 防御がどうかしたの?」

『ちがう。仕事はちゃんと出来てるのか?』

「お仕事は、大丈夫だよ。ブアラはやればできる子だから! ご主人が言ってた“てーこくひみつこーさくいん”って人たちも、ぜんぜん気づいてなかったし?」

『──まぁ、無事で何よりだよ』

 

 主人から褒められた(?)銀髪褐色の乙女は、「にへへへ」と言って、だらしなく頬を緩ませる。

 

『会議の内容は把握──できたとは思えんから、録音録画したのをもって離脱しろ。──ちゃんと起動できたんだろうな?』

「もっちモチモチ、もちもちまんじゅうだよー!」

 

 ふざけているような明るい声量であるが、彼女はいたって真面目である。そもそも、この「通信」の〈魔法〉は互いの心の声をやり取りしている関係上、余人に声が聞こえるというものではない。

〈魔法〉の道具は種々様々に存在している──この通信の首飾りも然り──だが、〈魔法〉で情報隠蔽がなされている会議のなかへ“潜り込み”、ほぼ闇の中で交わされる一言一句もらすことなく映像と音声を同時に“記録できる道具”というのは、通常では存在しないはず。

 それこそ、“王室による特別受注品”でもなければ。

 

「今から帰るからねー、ご主人。帰ったら、いつものお願いねー?」

『ああ、好きなだけあたま撫でてやるから』

 

「やったー!」とウキウキ気分で跳ね回る少女。

 首飾りの通信が切れ、それをメイド服の内側へ大事そうに隠す。

 最後に真っ白な仮面を身に着けたブアラは、どこにでもいる普通のメイドという風情を構築。素知らぬ顔で屋敷の廊下を闊歩し、買い物に行くような気軽さで、一瞬の内に高い塀を飛び越えていく。

 

 旧帝派の極秘会談を偵察した銀髪褐色の奴隷少女は、自分の主人のもとへと、無事に帰還を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




≪人物紹介コーナー≫第五弾

〇プレーアハン    異世界の??。愛称・プレア。現、王位継承権・第一位。“白鴉の姫君”
〇サウク       異世界の大公。王の義弟。プレアの叔父。旧帝国領の主。“黒鷹の大公”

〇ブアラ       異世界の奴隷。主人が好きすぎるアホの子。銀髪褐色娘。


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黒鷹の大公

/Transmigration …vol.14

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 プレーアハンに与えられた私室から退去し、女中たちにくれぐれも頼むと言付(ことづ)けて、統一王国の大公──サウクは階段を降りた。

 美しく荘厳な白百合の宮殿を後にし、六人ほどが乗れる大きな馬車に乗り込んで参謀府に向かう。

 道すがら、窓外の光景を右目の瞳に映しつつ、先ほどのやりとりを思い出す。

 怒りにかられ、不条理を嘆き、世のすべてを拒むかのような、いたいけにすぎる我が姪の涙。

 表情を変えることなく、思う。

 そんな参謀の姿を見咎めた側近中の側近──車内の対面に座ることを唯一許した女補佐官が声をかけてくる。

 

「殿下」

「わかってる。今日の後の予定は、全部頭に入ってる。評議会に出席し予算審議。その後は領内の政務作業と公共事業見積もり。昼飯は軽く済むやつで頼むぞ、仕事の合間にとれるものでな。正午過ぎからは軍学校の視察に、魔法府長官との会談。その次は最も重要な〈魔者〉対策──ひと月も話されている魔王の復活についての」

「心得ておりますが、それよりも──」

 

 補佐官の言わんとしていることがわかった。

 しかし、素直にブチまけるのは、いろいろと心理的抵抗が大きすぎる。彼の立場と政治的位置を思えば、そうそうに感情的になってよいはずがない。

 

 ──サウク・アキニーツィ・イムパラハト。

 

 黒鷹の大公。

 プレーアハン姫の叔父。

 国政において王を補佐する参謀府の長。

 統一王国の国王が見初め妃とした女の弟として王侯貴族の仲間入りを果たしたことで、最終的には政略結婚の相手・旧帝国の姫君に婿養子として迎え入れられただけ(・・)の男。

 

 妻のいる夫。

 娘を持つ父。

 一般庶民から運良く成りあがった、王国民の一人。

 

 それが嘘偽りない、サウク本人の自己評価であった。

 サウクは嫌になるほど己の分を弁えている上、与えられた立場と役職──責任ある者としての義務を自己に課す生涯を、実に二十数年の長きに渡り続けてきた。

 しかし、補佐官は褐色の頬を緩ませ、銀色の前髪を横に振ってみせる。

 

「この車内でくらい、“黒鷹の大公”でいる必要はございませんが?」

 

 御者台とは壁で仕切られている以前に、この馬車は〈魔法〉によって自動的に運転されている。目的地の入力は補佐官のつとめとなっており、ほかの従者たちは、後続の馬車の中だ。

 

「…………そうだな────」

 

 サウクは熟考し、窓の外に見える遠い雲を見つめながら、呟く。

 

 

 

 

「……………………うちの姪っこのあたりが強すぎて、つらい」

 

 

 

 

 補佐官が小さくふきだすが、構いはしない。

 黒獅子、あるいは黒鷹の大公と宮中で恐れられる隻眼の男は、冷厳な表情のまま滔々と語りだす。

 

「しばらく会わない間に、姉さんに似て美人に育って、本当にうれしいよ。いや本当、あれならもう将来は引く手あまたって感じ。おじさんガチで感動してる。四年前はあんな小っっっちゃくて、人の背中でお馬さんごっこしてたのが嘘みたいなんだけど」

「ふふふ──殿下は──いえ、ご主人さまは本当に、家族思いですこと」

 

 サウクは端正な顔立ちを歪ませることなく述懐する。

 

「いいや。あの娘もつらいのは、わかる。理解できる。理解してやらないと…………やらねば、な」

 

 姪っこの拒絶や罵声に心砕かれている場合ではない。

 鉛のように重い溜息がこぼれる。

 そう。

 判ってはいても、サウクは気分が泥沼に沈む己を自覚するほかない。

 

「……………………どうしてプレアの居場所がバレたんだ? 新しい潜伏先の手配も万端整えられた直後に?」

 

 タイミングが悪いにも程がある。

 たった五歳で母を亡くし、頼るべき父は政争によって肉親すらも疑うしかない混沌の渦中にある。

 それを案じたからこそ、姫を療養と偽って宮殿の外に出した──暗殺者の魔手から逃がすために。

 だが、その父親によって、潜伏先を移すことが決められた。

 急なことではあったが、プレーアハンの安全には変えられないと言われれば、理解できた。

 そうして起こったことは──どう考えても王位継承権第一位の姫君を狙ったとしか思えない、夜襲。

 生き残ったプレア本人が語ったのだから間違いない。

 

(せっかくできた友達も……)

 

 生き残りはいなかった。

 村も、孤児院も、修道女たちや孤児たち、全員が犠牲となった。

 王直属の航空騎兵が到着した時点で、王女以外の生存者は確認できなかった。

 

(いったい、どういうつもりだ、国王──我が義兄上(あにうえ)は?)

 

 いまや宮中は権謀術数うずまく修羅の(ちまた)

 そんなところに九歳の娘を留め置くなど、これまでの国王らしくない差配に思えた。

 あるいは、

 

「王は、俺のことを疑っている?」

「──ま、まさか、そんな」

「ああ、いや、あくまで可能性の話だ──」

 

 しかし。

 それこそが妥当な判断である。

 状況的に言って一番怪しいのは、姫の隠匿に貢献してきたサウク以外、情報の漏洩先はあり得ない。

 しかし、

 

(プレアの秘匿は俺一人で全部やってたんだぞ。部下たちにも──目の前にいるヴァンにも、一切かかわらせてない)

 

 帝国の姫たる妻を娶ったとき、実に旧帝国領も三分の一がサウクの所領となった。

 その中にある寒村に、子供一人を隠す程度ならば、参謀府のコネを使うまでもなく十全にやり果せることができる。

 情報が漏れるとすれば、サウクの記憶を読むなどするしかないはずだが、そのあたりの防御対策もしっかりしていた。

 

(あるいは村に反抗分子が? いや、それならば下手に全滅なんてさせられるか? 証拠隠滅もかねて──それなら可能性が?)

 

 いずれにしても。

 村の内部に情報流出者がいたとも考えにくい。

 あの村は〈勇者〉を数多く輩出したことで有名な、国教会の巡礼地のひとつ。

 神への信仰に篤く、村人たちは教義に則して〈魔法〉を使わない質素かつ堅実な暮らしを続けることで有名な集団──そんなある種の閉鎖社会の中で、プレアの秘密を外に漏らすものがいたとは考えにくい。

 さらに、大公の脳裏に浮かぶのは、プレアの言動。

 

 

──あれは! あの男は! “私の父なんかじゃない”! “お父さまなんかじゃない”!!──

 

 

 左目の眼帯を撫でて熟慮に耽る。

 サウクの認識だと、プレアとプレアの父……国王との仲は悪くないはずだった。少なくとも四歳か五歳までは。

 だというのに、王宮を離れ、身を隠すことが決まった四年前の時点から、プレアはそのように主張し、親子の仲は急激に冷え切ったものに。

 

(やはり、王のおこなった粛正を怒っているのか? ──それにしては引っかかる気もするが?)

 

 王の子供たち──つまり、プレアの兄姉たち──当時、王位継承権第一位にあった王太子らや王女らに立て続けて起こった、不慮の死。

 

 一人は病死。

 一人は事故死。

 一人は転落死。

 一人は服毒死。

 

 だが、そのいずれにしても奇妙な点が多く、王派閥からは「暗殺に違いない!」とする主張が上がり続けた。

 そして実際、四人のうち二人については、王派閥の中でも保守系に属する者たちの犯行であるということが判明──そいつは一族郎党諸共に処刑され、領地も財産もすべてが没収された。そこから芋づる式に、王に対する叛意を持った貴族たちの粛正が行われ、統一王国はかつてない大粛清の嵐に見舞われた。

 無理もないとサウクは思う。

 育ててきた後継者──実の息子や娘を何者かによって奪われれば、サウクだって同じ挙に打って出ないという保証はできなかった。

 それを四人も。

 どの子も、叔父であるサウクが成長を影ながら見守り、なれど元敵国の帝室に婿入りした手前、王族に接近しすぎることは憚られた。

 

「せめてプレアだけは、そういうことから遠い所で、無事に育って欲しかったんだが──」

 

 黒鷹の大公は心から思う。

 我が子を奪われた心労から病んだ、実の姉の忘れ形見──彼女の未来を。

 プレアの叔父として。

 

(そのために、必要なことはすべてやる)

 

 サウクは胴衣の中に隠していた首飾りを手繰った。

 通信の〈魔法〉を起動。

 

「ブアラ」

『はーい、ご主人?』

 

 どうやら通信しても問題ない状況のようだ

 旧帝派の極秘会議に潜り込ませた少女──頭の弱い部下と交わす、脳内での会話。

 サウクはとりあえず、彼女に与えた仕事の進捗を量った。

 

『お仕事は、大丈夫だよ。ブアラはやればできる子だから! ご主人が言ってた“てーこくひみつこーさくいん”って人たちも、ぜんぜん気づいてなかったし?』

「──まぁ、無事で何よりだよ」

 

 だらしなく笑う声は子供っぽいが、無理もない。あの娘は、姉ともに買った時からこうなのだ。

 

「ああ、好きなだけあたま撫でてやるから」

 

 いつものご褒美に『やったー!』と跳ね回る声。

 通信を切り、自分の買った奴隷にして部下──銀髪褐色の娘をピックアップすべく、銀髪褐色の女補佐官に詳細な進路変更を命じる。

 予定していた仕事に遅れが出ない理想的な進路を進み、ブアラと合流。

 

「ごっしゅっじん~! たっだいま~!」

「うん、ご苦労」

「お姉ちゃんも~、ただいま~!」

「はいはい、おかえり」

「もー。そっけないぞー、二人とも? ほら、ご主人! 早く撫でて撫でて!」

「はいはい」

 

 ひっついてくる少女の銀髪をぐりぐりと撫でまわしていると、対面に座る姉の眼がうらやましそうに細められる。

 ふと、この二人に左目を奪われた時を思い出すが、それも昔のこと。

 

「ヴァンもやるか?」

「い、いえ! その必要は────その」 

「遠慮しなくていい。ほら?」

「──では、お言葉に甘えて」

 

 サウクは、補佐官のヴァンにも手を伸ばし、差し出された白銀の頭頂部を撫でつける。いつもの礼をこめて、しっかりと。

 くすぐったそうに震える補佐官の表情は窺い知れないが、妹と同様に蕩けた笑みを浮かべていることは、間違いないだろう。

 

 少しだけ己の無力感を慰められた黒鷹の大公は、気持ちを改めて評議会へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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魔王の城 -5

ナハルの話に戻ります


/Transmigration …vol.15

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 人間の領域──神に愛された大地──ティル・ドゥハス大陸と大海をはさんだ暗黒大陸。

 〈魔者〉の領域、ニーヴ大陸。

 港湾都市・ローン、魔王の城。

 

「────あ」

 

 少女は目を覚ました。

 ナハル・ニヴに与えられた客室……大窓から吹き込む風が心地よい、水平線を見渡せる寝室で。

 時刻は太陽が創る影の様子から、正午を過ぎた頃だろう。

 嘔吐して汚してしまった体と服も、誰かの手によってすっかり清められていた。

 柔らかい寝具に身を沈め、少女は一息つく。

 

「…………レー、くん」

 

 夢でしか会えないひとの名を呟いてしまった。

 

「起きたか?」

 

 声が聞こえた方を急ぎ振り返る。

 

「あ──」

「体調は?」

 

 ここが、この世界がナハルという存在の現実……その事実に、もはや何度目とも分からない溜息をこぼす。

 意識が戻って、はじめに飛び込んできた人物は、純白の全身鎧。手元にあった真っ黒い書物をパタリと閉じる。指先まで細部に装飾の彫り物が見られる鎧は、魔王という称号とは程遠い、清廉さと神聖さに満ち満ちていた。

 

「魔王──様?」

「気分はどうだ? 起きれるか? 水は飲めるか?」

 

 彼の問いかけに対し、少女は首を小さく振りながら、気を失う前のことをひとつひとつ思い出していく。

 

 ──ナハルが“転生者”であることを見抜き、すべてを理解してくれた魔王。

 ──同じ転生者だと明かされた、イニーという水妖の〈魔者〉。

 ──村と院を襲った、黒化した〈魔者〉たちの真実。

 ──〈魔法〉によって蓄積されていく“魔力”。

 

 ナハルは聞いた。すべてを思い出した。

〈魔者〉と“魔力”、そして〈魔法〉について。

 

「ぅ……あッ!」

 

 思い出しただけで臓物をひっかきまわされるような怖気を覚えた。再び喉元をすっぱい匂いが逆流しそうになるのを、両手で必死に抑えながら封じ込める。

 魔王の語った最後の言葉が脳裏を貫く。

 

 

 ──人間の国で黒化し暴走した〈魔者〉は、元“人間だった者”──

 ──蓄積した魔力によって〈魔の者〉へと変異した者たちだ──

 

 

「ぅ、ああ!」

 

 ナハルが、ナハルに刻まれた全身の〈聖痕〉が、吹き飛ばしてしまった者たち……

 

 否。

 

 魔力によって〈魔者〉と化した──“人間”!

 

 ベッドから跳ね起きる少女の身体。

 酸素を求めるように荒い呼吸を繰り返すが、胸の中の痛みと息苦しさはちっともおさまってくれない。

 ナハルは、自分は、人間を! 殺した!

 

 殺してしまった!

 

「わ、ぁ、あ、あ ああ ああ!」

「待て──落ち着け──」

 

 恐慌寸前、滂沱の涙をあふれさせるナハルの肩に、冷たい金属の手が添えられる。

 子供の腕で振り払おうとするが、優しい掌の持ち主──看病してくれていたらしい彼は、ナハルの暴れ狂う精神に語りかける。

 

「大丈夫だ。落ち着け」

「わ、わた、し……私が、わたしが、あの〈魔者〉を──あのひと(・・)たちを!」

「君のせいじゃない。……落ち着いて」

 

 ふと、その声音が非常に懐かしく思えた。

 生前、幾度か聞いたことがあるような、そんな切なくも美しい感動も、一瞬にして霧散してしまう。

 振り返ったそこにいるのは、当然のごとく純白の全身鎧だけ。

 

「少し、君が落ち着ける声を魔術で作ってみたが。……気に入らないか?」

「──はい。正直、すごく」

「はっきりしてるな、君は」

 

 ナハルの拒絶をあっけらかんと受け流して、この大陸を統べる王は声色を元のものに戻してくれる。魔王は自らの軽率さを猛省するように肩を落とした。

 その様子に、ナハルは幾分か冷静さを取り戻す。

 

「魔王陛下──ずっと気になっていたのですが」

「うん? なんだ?」

「陛下の鎧の下はどうなっているのですか?」

「ああ、まぁ気になるよな」

 

 魔王は少し考え込むようにした後、「〈聖痕〉があれば大丈夫だな」とひとりごちる。

 

「この鎧の下には『何もない』──ホラ」

 

 そう言って、鎧は気安く兜を取り外してみせた。その内側には何もない。

 中身がカラッポの鎧が、魔王の正体──というわけではない。

 

「俺の〈魔者〉としての体は、形のない“闇”だ」

「“闇”?」

「そう。〈聖痕〉を持っている君には見えもしないし影響もないだろうが、俺の“闇”を直視したり触れるものは、かなり大変(・・・・・)なことになる(・・・・・・)。そのため、この鎧を着て過ごすことで、魔王である俺は国民や配下の幹部たちと共に国務を執り行うことが可能なわけだ」

 

 兜を付け直した魔王。カラッポの全身鎧の内から声が響いた。

 

「やはり、あの話は、〈魔者〉の正体について語るのは、君には早かったようだな──すまない」

「私……あの〈魔者〉……あのひとたち、を」

「違う。殺したんじゃない。君の〈聖痕〉が、君らを喰い殺そうとしていた〈魔者〉を消滅させただけ。ただ、それだけだ」

 

 そう言い切る〈魔者〉の王に、ナハルは愕然となる。

 

「で──でも。私が、あの人たちを消さなければ…………魔王様たちが、彼らを救う、こと、だっ、て……?」

 

 言っているうちにナハルは思う。

 そんなことが可能なのか問うように、純白の鎧兜を見上げる。

 魔王は真実無念そうに首を振るだけ。

 

「すまないが──黒化した〈魔者〉は、魔王の俺でも救えない(・・・・)助けられない(・・・・・・)。黒化という重度の魔力欠乏に陥った〈魔者〉たちは、魔王からの魔力供給を十全に受け付ける肉体組成ではなくなってしまう。だからこその“黒化”だ。ちょうど、重度の飢餓状態に陥った人間に、大量の食糧を一度に与えても、良い結果にはならないように、魔王の魔力を分け与えることは毒を注ぐようなものだ。──黒化した〈魔者(ひとびと)〉は、人間を喰い続けさせるか、いっそ殺してやることでしか救えない。彼らの安息と救済はあり得ない。君が終わらせてやらなかったとしても、俺と配下の者たちが、彼ら全員に引導を渡していただけだろう」

「──そんなことって」

 

 ナハルは俯いた。

 慰められたような思いだったが、それでも、自らが招いた事実を重く受け止めるしかなかった。

 受け止めなければならないと、強く感じた。

 

「ナハル……やはり、君には荷が勝ちすぎるのでは?」

「それは、どういう?」

「『俺と共に神と戦う』という君の意志は尊敬に値する。しかし、だ。いかに君が“転生者”であるとは言え、我々〈魔者〉の真実を知った今も、本当に共に戦えると、そう言い切れるのか? 君が戦うのは神であると同時に、神の尖兵として送り込まれてくる人間たち──君の故郷をも敵に回すということになる」

「──それは」

「君が消し去った〈魔者(にんげん)〉たちのような事例は、これからも君の前に立ちはだかる障害となるだろう──それでも、君は戦えると、そう言い切れるのか?」

 

 少女は黙考を余儀なくされる。

 魔王の示した戦いの意味が、心の底から理解できた今。

 ナハルは結論しなければならない──ならないはずなのに。 

 

「結論を急ぐことはない。迷って当然だ。君は、まだ若く幼い。本当に戦いたいと思える時まで、この国でゆっくりしておくといい」

「あ……待って!」

 

 うじうじと悩んでいるうちに、魔王は立ち上がっていこうとする。

 引き止めなければという思いとは裏腹に、ナハルの指先は、立ち去っていく鎧布の端をとらえそこねた。

 ベッドから這い出てでも止めようとすることなく、少女は魔王の姿を見送った。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 そんな遣り取りを客室の外で聞いていた魔王軍幹部が、二人。

 一人は、骸骨の乙女と共にナハルの看病を任されていた水妖の淑女たる〈魔者〉、イニー。

 そしてもう一人は、

 

「どういうおつもりです、陛下?」

 

 金髪碧眼のエルフ(ルハラハーン)、ガルであった。

 戦闘時には一族伝来の狩人の装束に袖を通す彼女だが、平時においては丈の長い白衣に身を包んだ医療従事者として過ごしている。

 魔術を仕込んだ眼鏡をかけるエルフは、女王のごとく麗雅な双眸を眇め、詰問せずにはいられない調子でまくしたてた。

 

「あの娘を、ナハル・ニヴを陛下の軍勢に取り込み、〈勇者〉誕生の基本式の解明や、それを阻害する魔術式の開発、そうしてゆくゆくは〈勇者〉である彼女そのものを、魔術によらない方法で“教育”“洗脳”して、我が軍の尖兵として使い潰し、万が一すべてが御破算になったとしても、後の研究用の検体として保存するおつもりではなかったのですか?」

「さて、そうだったかな?」

 

 すっとぼけながら廊下を進む魔王。

 しかし実際として、二週間ほど前に本国の巫女が予言した時には、魔王滅殺級の〈極大聖痕〉の使い道として、そのように方針を固めていたはずだった。

 それを魔王軍の元老級筆頭幹部の中で、唯一封印処置が施されようがない亜人の()王女は聞かされて知っていた。

 にもかかわらず、魔王はどういう心境の変化があったのか、ナハルを積極的に利用しようとする方策を示さなくなった。

 ……神を殺すためなら何でも利用しようとする手練手管、冷徹な戦運びを常とする王の在り方としては、今のような少女への応対ぶりを見ると、あまりにもそぐわない印象が強い。ガルが惚れこんだ魔王とは、どこか噛み合わない気がしてならなかった。

 ガルは女王のごとき(ひとみ)のまま、イニーに視線を移した。

 

「イニーちゃんは、これでいいと思うの?」

「私は、陛下の御意(みこころ)のままに」 

 

 右半分だけの美貌……片眼鏡ごしの蒼い瞳は、いつものように涼し気な様子を維持している。

 それを見て取って、ガルは肩をすくめた。大きな胸を弾ませ、魔王の鎧の左腕に白衣の両腕を絡める。

 

「まぁ、いいです。あ、それと今朝アバルちゃんから依頼されてた件ですが」

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 ナハルは魔王を止められぬまま別れ、一人もの思いに耽り続ける。

 

 ──結論を急ぐことはない──

 ──迷って当然──

 ──本当に戦いたいと思える時まで──

 

 そう告げてくる王の真摯な声音には、抵抗することが酷く難しく感じられた。

 何か精神に作用する魔術なり能力なりが使用されたという可能性は低いだろう。

 極大の〈聖痕〉を総身に刻まれたナハルは、魔王による干渉を受け付けないと聞く。

 当の本人たる魔王がそう断言するのだから間違いないとみるべきだ。

 

(ま、それもあの魔王様が本当のことを言っていたら……の話だけど)

 

 そのように懸念しつつ、ナハルは魔王の言葉が真実であると思っていた。

 彼の言動はいちいち誠実で、どこまでもナハルという少女を案じていることが透けて見えるようだった。

 

「とにかく、魔王(あのひと)の気が変わらないうちに──、……」

 

 そう思いはしても、少女の両脚は部屋の外へ駆ける意欲を失っていた。堅く握り込んだ拳が、力なくほどけてしまう。

 考えてみれば当然──ナハルは、神と戦うという決意については揺るぎないものがあったが、その過程によって生じるであろう弊害、すなわち“人間”との戦いを念頭においていなかった。漠然とした感覚で、魔王が神への戦いへの道筋を照らしてくれるという期待があった。しかし、共に戦うと表明することは、魔王が現実に戦う者たち──ティル・ドゥハス大陸の民──異世界の人々や、ナハル以外の〈勇者〉との死闘も、諸共に共有するということ。

 これはナハルの認識が甘かったと言わざるを得ない。

 もし本当に、そのような事態に直面した場合、ナハルは本当に事を成し遂げられるのか?

 魔王の敵を討てるのか?

 黒化した〈魔者〉……元人間を殺したという事実だけでも、これだけ震え上がってたまらないというのに?

 

「それでも、私は……」

 

 神を許すことはできない。

 自分のすべてを奪い、手違いという理由だけで転生させたクソ共のことなど──許せるはずがなかった。

 その意志だけは変質しようがないことを確かめた時、部屋の扉をノックする音を聞く。

 

「はい」

 

 どうぞと言う声に対し、外の存在は無言でドアノブを回す。

 現れた〈魔者〉は、無言ということで予想していた通りの骸骨──アバルであった。

 

「アバルさん、何か?」

 

 首を傾げるナハルに対し、アバルは伝言ボードを掲げた。

 

『お客様がお待ちです。お加減の方はいかがでしょうか?』

「……お客様? ええ、体調はもうだいぶ」

 

 客とは誰のことだろうと思考を巡らせるナハル。

 骸骨の女性は客人の名を書き込んで示した。

 

『ナハル様の叔母。修道女のロース様です』

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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魔王の城 -6

/Transmigration …vol.16

 

 

 

 

 

 今朝方に依頼しておいた来客は、城門からほど近い中庭の庭園で待っていると聞いて、ナハルは会うことを決めた。

 

(本当は、こんな悩んでいる時に会うのもどうかと思うけど)

 

 ロースの体調や現状も気にかかっていた。

 また骸骨のアバルに城内を案内されるまま、ナハルは城の中庭に。

 そこで、およそ一週間ぶりに、生まれた頃から見知った女性との対面を果たす。

 修道院での黒と白の尼僧服ではなく、純白のワンピースに身を包んだその人は、薄紅色の髪を風になびかせて振り返った。

 

「──ナハル!」

 

 松葉杖を突いていたことを忘れたように転がりかけるロース。

 金髪碧眼に白衣姿のエルフ(ルハラハーン)に支えられ、事なきを得る。

 少女はロースに駆け寄った。

 

「っ、ナハル、大丈夫? 痛い目に遭ってない? 恐いことはなかった?」

「だ、大丈夫。何ともなかった──ことはないか?」

「え……! ナハル、その()は?」

 

 少女を生後間もなくから見知っている叔母は、ナハルの両の瞳に宿った琥珀の輝きに目を瞠った。

 ナハルは忌々しげに告げる。

 

「ああ。〈聖痕〉が現れた影響で、瞳の色が変わった感じ……」

「〈聖痕〉──話には聞いていたけど、本当に?」

「うん……変かな?」

「……ううん。ちっとも変じゃない。とっても綺麗よ」

 

 ロースは慈母のように柔らかな笑みで、姪の変化を受けいれてくれた。その事実が、ナハルの胸にあたたかな感覚をしみこませてくれる。

 二人は中庭の小さな白い円卓に座り、ささやかな茶会の席を設けられたそこで、改めて向き合った。二人の傍に控えるのは、遠くから見つめるアバルとガルだけである。

 

「久しぶりね、ナハル。ずっと眠っているって聞いて、心配してたのよ」

「心配をかけてごめんなさい。──()……」

「無理して叔母さんなんて言わなくてもいいのよ? いつも通り、ロースって」

 

 変わらない女性の申し出に、ナハルは頷いた。

 

「ロースは、その、大丈夫ですか?」

「ええ。治療院の方たちのおかげで、やっと松葉杖で歩けるくらいには治ってきたの。〈魔法〉の銃で太腿(ここ)を撃たれたのに、こんなすぐ回復するなんて、魔王様の国ってすごいのね。〈魔者〉の人たちもすごく親切で」

「いや、それもだけど……」

 

 言葉を探しているうちに、ナハルはここへ来ることになった、あの夜を思い出す。

 黒化した〈魔者〉を率いて、村と院を襲った襲撃者たち──あいつらによって、ロースはあわやというところまで追い詰められた。

 ナハルの言わんとする内容を理解して、ロースは薔薇が咲くような笑みを浮かべてみせた。

 

「何があったのかは、ガル先生──あそこにいるエルフ(ルハラハーン)の女性から聞いたわ──ナハルのおかげで、私はすっかり助かっちゃった。助けてくれて、本当に、ありがとう」

 

 感謝されるほどのことをしたつもりはない。ナハルにとって当然のことをしようとした。結果は散々だった気もするが、目の前のひとを助けられただけでも、良しとすべきだろう。

 そう理解しながらも、ナハルは確かめるように言葉を連ねた。

 

「でも。私はいきなり〈聖痕〉なんて(あらわ)れるし、いくら治療のためとはいえロースをいきなり〈魔者〉の国に連れてきちゃったり──なんというか」

「だとしても。あなたが私を救ってくれたことには、変わりないのよ?」

 

 まっすぐに語る叔母のありさまが眩しく感じられた。

 本当に、この人は聖母か何かの生まれ変わりではあるまいかと、ナハルは本気で疑ってしまいたくなる。

 ふと思う。

 この人ならば、いまナハルが抱える懊悩を解くヒントを与えてくれるのではないか──

 

「あの──ロース──折り入って相談したいことが」

「あら、相談?」

 

 きょとんとしつつも気軽に請け負うロース。

 ナハルは言うべきか言うまいか悩みつつも、つい、言ってしまった。

 

「私が、魔王陛下と一緒に、戦うって言ったら、どう思う?」

「──戦う? ナハルが、……誰と?」

「……………………神と」

 

 絶句という風に硬直するロース。

 叱責されるだろうか。

 呆れられるだろうか。

 馬鹿なことを言うなと憤激するのではないか──

 思い悩むナハルではあったが、修道女はしばしの間を空けて、告げる。

 

「それを、あなたが本当に望むのなら、私は止めない、かな?」

「……本当に?」

「ええ。個人的にはどうかなと思うけど……きっと姉さんが、あなたのお母さんが生きていたら、止めることはなかったと思うから」

 

 それはいったいどんな母親だと思うナハル。

 

「でも、神と戦うってことは、人類全部が敵になるかもしれないんだよ……それでも?」

「言ってるでしょ? それがあなたの本当の意志であるのなら、絶対に、私はそれを止めない。たとえ、それによって私が神から罰せられることになっても、私は私の意志を通すだけ。あなたがたとえ世界を滅ぼすことになっても、私と、私の姉さんは絶対に、あなたを裏切ることはない」

 

 どうしてそこまで──そういったナハルの疑念を読み取ったように、ロースは言い募る。

 

「だってあなたは、姉さんが愛した、姉さんの娘なんだから」

 

 まるで実の母のように、ナハルの頬を撫でるロース。

 そのあたたかさと柔らかさが胸にしみた。

 

「私…………もっと早く、母のことを聞いておけばよかった」

「うん。そこが不思議と言えば不思議だったわね。ナハルは言葉を覚えた頃から、話すのは不思議な世界や、テンセイのことばかりで、自分のお母さんのことはほとんど聞こうともしなかったから。あなたは本当にいいこ過ぎて、あの姉さんの子だとは思えないくらいよ?」

 

 ナハルは首を傾げた。

 

「もちろん、私ではあなたの悩んでいることは、全部が全部を理解できるわけじゃない。不安や悲しみを癒すことも難しいでしょうね。──それでも私は、あなたの味方でいることはできると思ってる。これは私の勝手な思い込みかもしれないけれど、相手のことを理解し尽くすことだけが、誰かを支えることの必須条件ということではないと思うの」

 

 そうだろうか──そうかもしれない──ナハルは叔母と正面から語り合う機会が少なかった。真実、ナハルが望めばそういった機会を設けることも可能だったろうが、たくさんの孤児たちの世話に追われるロースへの負担になることは、どうしても気が進まなかった。

 それも言い訳だなと自嘲するナハル。

 ロースはさらに語り明かした。

 

「その悩みはあなただけのもので、私にはどうすることもできないものだから。私が代わりに背負ってあげられるなら幾らでも背負ってあげたいけれど、そういうものでもなさそうだから……ごめんね」

「──いいえ」

 

 ナハルは微笑んで首を振った。

 ロースは、死に別れた姉のことを思うように空を見上げる。

 

「姉さんが良く言っていたな──『悩んでもいい。迷ってもいい。それでも、自分が信じたことをやり通すしかない』って」

 

 その言葉が、懊悩し葛藤を繰り返す少女の心に、力を与えてくれた。  

 

「本当に、姉さんそっくりに育っちゃって──叔母さんびっくりしてるわ」

 

 ナハルは、ロースの手に自分の手を添えて、ふと呟いた。

 

「ロース……教えてくれませんか? 私の、──お母さんのことを」

 

 今までは考えないように努めてきた。

 何か理由があるのだろうと、そう納得することで“母”という存在を遠ざけていた。

 でも今は。

 

「姉さんのこと? …………でも」

「だめ、ですか?」

 

 彼女がここまで信頼を寄せる、ナハルの母。それを知りたいと、今ようやく思うことができた。

 首から提げた紫の花の指輪を意識せずにはいられない。

 生まれてきたナハル・ニヴを真実心から慈しみ、愛おしみながら、傷だらけの両腕で抱きしめてくれた女性。

 生前の最悪な記憶から、母などというものに忌避感を懐いていたが故に、これまで考えようとすら思わなかった。

 

「九歳のあなたには、まだ早い気がするけど……わかった」

 

 ロース・ニヴは少し考え込んで、姪の願いに、ナハルの年齢以上に力強い要望に、満面の笑みで応えた。

 

「でも、ひとつだけお願いさせて……これから聞く話で、姉さんのこと、あなたのお母さんのことを、どうか嫌いにならないでほしい……あなたのお母さんは、本当に、心からあなたのことを愛していたことを、どうか覚えておいて」

 

 頷くナハル。

 その強い眼差しを受けて、ロースは風と戯れる薄紅色の髪をおさえた。

 空の彼方を見据える彼女の瞳は、懐かしい家族の思い出に笑みをこぼす。

 

「あなたのお母さんはね」

 

 ロースは訥々と語り始める。

 

 

 

 

 ナハルの母の名は、ドゥアーン・ニヴ。

 

 ──彼女は“毒蜘蛛”という異名でもって恐れられた、■■■であった。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 ナハルとの面会を終えたロースを送る役目は、金髪碧眼のエルフ(ルハラハーン)・ガルが担った。

 ロースが療養している治療院の長を務めるのだから、当然の差配と言えた。

 

「神と戦う──ね」

 

 ガルは半分笑った表情で、馬車に同席している患者の方を見やった。

 

「魔王様ですら難しいことを、あんな子供が……それを止めないというのは、大人としてどう思う?」

 

 質問を受けたロースは、生まれて初めて見る都市の光景を眺めながら、ガルの問いに答える。

 

「──本当は、あの子には戦いとは無縁な生活を送ってほしいです。姉さんのような傷を負うことなく……でも、……あの子が、ナハルが決めたことだから」

 

 静かに涙を零すナハルの叔母。

 彼女も彼女なりに、いろいろとこらえきれなくなったのだろう。

 ガルは頬杖をついて私見を述べる。

 

「首根っこ引っ掴んででも止めたほうがいいと思うけど……まぁ、そこまでする義理は、私にはないわね」

 

 なにより、あの娘は火がついてしまった。

 ロースを城門から見送った少女の確固たる瞳の色を思い出し、ガルは大いに鼻白んだ。

 

(いくら極大の〈聖痕〉があるとしても、魔王様はどうしてあの娘にあれほで肩入れするのか……)

 

 ガルは疑念を抱えながら、治療院に戻った。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 翌日の夜。

 ナハルはアバルに頼んで、魔王の執務室を訪れた。

 純白の全身鎧を着込む闇の王は、イニーの補佐の下で書類仕事を執り行っていた。魔術の照明具によって淡く照らされた室内において、その鎧は輝きを増しているように見える。

 本当に、綺麗だと思った。

 

「ナハルか……どうした? あらたまって?」

「はい。私の結論をお伝えしに参りました」

 

 なんの結論なのか、魔王は問わなかった。しかし、「早過ぎはしないか?」とだけ指摘しておきたかったようだ。

 ナハルは十分に考えたつもりで、ここへ来た。

 昨日、ロースとの──叔母との会話で(もう)(ひら)けた気がした。

 少なくとも、今は。

 

「私は、やはり、魔王(あなた)と共に戦います」

 

 決然と告げる転生者の少女。

 魔王は指を組んでナハルを眺めた。

 

「……本当にそれでいいのか?」

「正直なところ、まだわかりません」

 

 王は首を傾げた。

 

「私が、あなたと共に戦うことは間違っているのかもしれない。これから私は、多くの人間を不幸にするのかもしれない。そう考えただけで、足がすくんでしまいそうなくらいです」

「だったらやめておけばいい。ここで君一人が逃げ出したところで、俺には何の痛手にもならない。少なくともあちらの大陸に、人間側に〈極大聖痕〉を戴く〈勇者〉が渡らないだけでも、我が軍の優位は圧倒的となる。そのように迷ったままで、君は本当に戦えるつもりか?」

 

 ナハルには迷いがあった。

 迷いがあっても尚、魔王と(くつわ)を並べる意志だけは、変えようがなかった。

 

「昨日、私はロースと、私の叔母と話しました。彼女は言ってくれました」

「なんと?」

「『助けてくれて、本当に、ありがとう』……と」

 

 ほかにも様々なことをロースはナハルに教授してくれた。

 

「私は、黒く染まった〈魔者〉を殺しました。

 いくら〈聖痕〉のせいだといえ、私が消し飛ばしてしまった事実は覆らない。そう思うことでしか、私は彼らに報いることができません」

「そのように思い詰める必要はない。君は、まだ小さい。まだ幼い。そんな重い責任を抱える必要などないだろう。あれは事故だったと思えば」

「ええ。そうやって誤魔化すこともできるでしょう。人によっては、そうすることが正しい処置であり判断なのだと──けれど、私は、それだけはイヤなのです」

 

 本当の顔も名も知らぬ人々を、〈魔者〉となったモノを、ナハルは犠牲にした。

 しようがなかった、仕方のないことだった、不幸な事故や行き違いだと言って忘却することは、実に安易に思える。

 それこそが正しくて優しい決断であると。

 だが、それだけは、ナハルの心が許せなかった。

 

「私は、私が消してしまった〈魔者(ひと)〉たちのことを覚えておきたい。そうでなければ、彼らは永遠に、何者でもないまま終わってしまう。私とは無関係な他人だなんて、そんな薄情なことを言って忘れて日々を過ごすなど、私は、したくないのです」

 

 魔王は納得するように首を頷かせた。 

 

「それに叔母の言ってくれたことで、私のような存在でも、誰かを助けることはできたのだと、そう強く思ったのです」

 

 彼ら黒化した〈魔者〉を殺すことで、ナハルはロースを凌辱と死の淵から救いあげた。救うことができたのだ。

 ただの(てい)のいい釈明にすぎないかも知れない。見苦しい言い訳だと蔑まれて当然の弁解やも知れない。

 

 それでも、ナハルがいたことで、救われた人は確実にいたのである。

 

 修道院の数少ない生き残りである、叔母のロース。

 そしてもう一人──王国に残してきた親友のことを、ナハルは思う。

 

「私は、私が守りたいと望んだものを守ります。護らねばならないと思ったすべてを護ります。そのために私は、あなたと共に戦います」

 

 迷いも葛藤も、逡巡も躊躇も、何もかもを呑み込んで、ナハルは前を向いて進むことを選んだ。

 何もかもに背を向けて、何もかもを忘れて、安穏に安泰に過ごす選択肢を捨て去ることを選んだ。

 ロースが語ってくれた、母の言葉を心に刻む。

 

 ──『悩んでもいい。迷ってもいい。それでも、自分が信じたことをやり通すしかない

 

 そのように覚悟した少女の様子に、魔王は深く息をついた。

 

「わかった…………そこまで言われては、俺も覚悟するほかない」

 

 ナハルは総毛立つのを感じた。

 

「いいだろう。

 〈勇者〉ナハル・ニヴ。君を正式に、我が配下の列に加えよう」

 

 少女は深く頭をさげた。

 

「──はい! ありがとうございます!」

 

 こうして、転生者ナハル・ニヴ……魔王を滅ぼし殺せる唯一の勇者は、10000年を生きる魔王のもとへ、正式にくだることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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魔王の城 -7

/Transmigration …vol.17

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「例の〈勇者〉の娘が、正式に、魔王様の幕下に、配下の列に加わったらしいぞ」

「まじでか」

「計画通りと言えば計画通り、なのかしら?」

「そんなわけないでしょう? そもそもむこうの大陸の人間が、我等が陛下に(ぬか)づくこと自体、ありえない」

「だとすると! 我等が魔王陛下の魅力が、途方もなく半端ないということの証左か!」

 

 魔剣、人狼(コンリァフト)ミイラ(サラガーン)エルフ(ルハラハーン)、そして(ドラガン)の〈魔者〉は、日の出前の時間帯に集まり、ここ最近で一番の関心事について議論を交わしていた。

 

「アンタのその単純思考、本当うらやましいわ」

「はははは! 褒めるな誉めるな! 不死の女帝よ!」

「ほめてないって、言っておいた方がいいのかしら、これ?」

「竜の旦那は相変わらずだな。剣の御老公は? わざわざ報せてくれたんだし、何か意見でもあるんだろう?」

 

 ここに集った〈魔者〉の中で一番若い人狼、齢300年程度のレアルトラが訊ねる。

 宙を浮遊する魔剣──7000年の長きに渡り王に仕える長老は、逡巡するように四回転した。

 

「そうさな。気にならないと言えば嘘になるか──しかし」

 

 魔王を滅ぼす〈極大聖痕〉の持ち主、ナハル・ニヴ。

 若干九歳でありながらも決然とした様子で、魔王の居室に向かった転生者の姿を、魔剣の宝石の眼を細めて思い出す。

 

「実際の計画通り、あれほどの素質を持つ〈勇者〉を“神殺し”に利用できれば、それに越したことはないはずじゃが」

「だからこそ、計画にはない現象には注意を払うべきじゃないの?」

 

 ガルは漆黒のドレスとも見紛う豪奢な寝間着姿で、ナハルという存在に警戒感をあらわにしていた。

 

「魔王を殺せる〈勇者〉が、よりによって魔王陛下に忠誠を示す? いったい、どういう企みがあるのか知れたものじゃないわね。〈勇者〉どもは神の尖兵──手先の駒──神々の操り人形にすぎない。そんな奴儕(やつばら)が、魔王陛下に臣従し隷従し、仲良く(くつわ)を並べて戦う? 物語としては三文小説もいいところじゃない」

 

 彼女の持論を聞いた人狼は眉を顰めた。小山のごとき筋骨隆々な肉体を傾げ、古参組と言われるエルフの元女王を問いただす。

 

「そうか? 前回、魔王封印の執行者となった〈勇者〉、統一王国の初代国王は」

「やめて」

 

 しかし、ガルの舌鋒に即、断ち切られた。

 

「本気でやめて。あんな淫獣のことなんて、思い出したくもない」

「そ、そうか?」

「ガルの言う通りね。あの性獣ときたら、ミイラ(サラガーン)であるこの私や、挙句には骸骨(クナーヴァルラハ)のアバルまで口説いて──本当に恐ろしいヤツだった」

「あやつは女子(おなご)であれば平等に愛する紳士であったな! おっと、どうしたガル殿とアーン殿! 我に向かって長弓と王笏を構えて!」

 

 黒い肌に赤い髪、竜の角と尻尾を生やす青年は、魔王軍の女幹部らの行為に疑義を唱える。

 

「いずれにしても」

 

 この国、この大陸において、魔王に次いで長い時を生き続けた魔剣が刃を鳴らした。

 

「問題なのは前回の勇者ではなく、当代の勇者だ。

 あのナハル・ニヴ──『毒蜘蛛』の娘──これまでの人間たちとは比較にならぬ〈聖痕〉保持者じゃろうて」

 

 彼の意見は、ここに集う幹部たち全員が大なり小なり胸の内に懐いていたこと。

 長老とも称されるリギンは一計を案じた。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 翌朝。

 ナハルは魔王の許しのもと、闇の帝王と恐れられるべき存在の幕下に加わった。

 魔王を滅殺するという極大の〈聖痕〉を有する〈勇者〉として。

 そんな彼女は早々に難事へ直面することになった。

 

「勉強……ですか?」

 

 純白の鎧甲冑──魔王はそうだと頷いた。

 

「いきなり戦闘訓練でも始めると思っていたか? だとしたら間違いだ。君は〈勇者〉というものを根本的に理解できていない」

 

 まずは良く知り、良く学ぶことが奨励された。

 魔王の城にある巨大図書館、その一角の卓上に載籍浩瀚(さいせきこうかん)された古書の山。

 これが当座のナハルの攻略すべき敵と規定された。

 

「何冊あるんですか、これ」

「ざっと三百冊程度だ」

 

 ためしに一冊を手にとるナハル。

 豪奢な装丁に鈍器のような分厚さのそれは、九歳児の腕では持ち上げることにも苦労する。

 

「──シーァハーン統一王国史・第……三十巻? こっちは、ティル・ドウハス大陸博物学? こっちは──征竜王の物語?」

 

 これらと似たようなものばかりが、実に三百冊。

 魔王はイニーに用意させた教本を受け取り、教鞭を振るう教師のように語りだした。

 

「読み書きは教わってるな? では、まず手始めに『統一王国の主信仰である四宝教について』」

「いえ、あの」

「教会にいた君には多少なじみがあるだろうが、おさらいもかねて。

 四宝教は聖遺物とされる《石》《槍》《剣》《釜》を信仰の基盤として崇める偶像崇拝の典型だが、この四つの秘宝というのは」

「あの!」

 

 ナハルの声が高い天井によく響く。

 

「どうした?」

「いえ、その、私は、何も勉学や教養を積むために、あなたの配下になりたいと言ったつもりは!」

「まぁ焦るな」

 

 魔王は癇癪を起こす生徒の頭を軽く撫でた。掌に貼られた純白の皮布が黒髪を数度叩く。

 

「とにかく君には〈勇者〉としての素養を磨くところから始めてもらう。極大の〈聖痕〉があるとは言っても、使い方の基本もわからない状態では宝の持ち腐れだ」

 

 確かにとナハルは頷くほかない。

 ナハルの全身に刻まれた〈聖痕〉は、魔王の措置によって体表面に浮かび上がってくることはない。唯一の例外は琥珀色に変色した瞳だけ。だが、いったいどういうからくりで〈聖痕〉とやらを使うのかなど、まったく想像の埒外である。肉体の変調、というよりも身体能力の劇的な変化だけが、魔王を討伐するのに必要な権能のすべてであるとは思えなかった。きっとあの夜に──ナハルたちの孤児院が焼かれた時、迫り来た〈魔者〉数十体を消滅させた光の力、それを習得するものだとばかり思われた。

 しかし、魔王の企図する方向は違ったようだ。ナハルは問わずにはいられない。

 

「でも、もっと具体的に、〈聖痕〉の使い方を教えていただくことは」

「ああ。そういう、〈聖痕〉に具体的な使用方法なんて存在しない。スイッチを押すようにとか、体内の魔力を使用してとか、奇蹟や神秘の言葉を唱えてとか、そういう風に発動するものは、〈聖痕〉でもなんでもない。ただの道具でしかないだろう? もしもそんな風に発動する〈聖痕〉があるとしたら、十中八九“偽物”だと思え」

「でも──それだったらせめて、武術なり剣術なりを教わった方が?」

 

 ナハルの指摘に対し、魔王は重ねて告げる。

 

「そもそも〈聖痕〉の顕現と発動というのは、単純に肉体を鍛えるとか、そういうことを一切必要としない──〈聖痕〉自体が、保有者の身体能力を増強・補強する仕様を、通常の場合担うからな。場合によっては、ある程度の武術剣術を自動的に発揮することもある便利な仕組みさ。そして、この順序が逆転することはない。そんな構造であるなら、この世界の人類は全員“筋トレ”や“格闘技”に励めって話になるだろう? 君の過ごした教会──村でそんな風に〈勇者〉になりましょう、なんて教わったのか?」

 

 彼は転生者であるナハルにもわかりやすい表現で語ってくれた。その的確な表現に、ナハルはくすりと頬を緩める。

 

「……確かに、……ありえませんね」

「無論、肉体を鍛えておくに越したことはないが、今の君の、九歳児の肉体では、無理に鍛えてもあまり意味がない。だから、まずは頭の中を鍛えたほうが建設的だ。何事も基礎をしっかりしておくに越したことはない」

 

 納得した少女は魔王たちからの授業を受け入れた。

 

「〈聖痕〉とは、〈勇者〉であることの証というよりも、〈勇者〉が発現する奇跡の具現化と言った方がいい。〈聖痕〉がある者を〈勇者〉だと定められるというより、『〈勇者〉は〈聖痕〉という兵器を──回数制限付き異能の力を体内に有する存在』とでも表した方が適切だろう。この〈聖痕〉を各用途ごとに使用することで劣化・摩耗し、最終的にはすべてを消費することもありうる」

「各用途ごと?」

「大抵は〈魔者〉の殺傷や魔王の封印、もしくは肉体強化や戦闘補助に使われるが、場合によっては負傷した人間の治癒や、何かしらの加護や防御を授けるということも可能となる。まさに奇跡の発現だよ。そういう意味では、ナハルのような規模の、全身くまなく覆い尽くす〈極大聖痕〉は、まさしく〈勇者〉の中でもとびきりの量の“奇跡”を宿しているということになる」

 

 小さい手にちょうどいいサイズの羽ペンを握り、講義の内容を与えられた白紙の綴本に書き込んでいく。

 齢10000年という魔王は最良の教師として〈勇者〉ナハルに教鞭を振るった。(聖痕)の論説に一区切りをつけ、魔王は次の講義に。

 人間の信仰のはじまり──

 王国や教会の成り立ち──

 100年前に、魔王を封印した〈勇者〉について。

 

「これが、君の生まれ育ったティル・ドゥハス大陸全土を治めることになる、統一王国のはじまりの話だ──が」

 

 ナハルは首を傾げた。

 中身のカラッポな白い鎧が、音を立てて肩を揺らしている。

 

「これ、何度、読み返しても──ぷふふ、笑えてくるな」

 

 魔王は懐かしむように王国史のはじまりを綴ったページを撫でた。 

 

「イアラフトゥ……あいつが、あのロクデナシのイア(・・)が、こんな後世でもてはやされてるとはな、ッふふ!」

 

 魔王は口元を拳で押さえつけるが、そこから漏れる笑声の気配は大きくなるばかり。

 彼の補佐を務めるイニーも肩をすくめるしかない様子で右半分の美貌を微笑ませた。

 

「あのケダモノも、一応は英雄であり王の血筋であり、〈聖痕〉をたった二画(・・)だけ刻まれた〈勇者〉でございましたからね」

「あいつが〈勇者〉とはな……あの頃、イニーは水風船みたいな姿だったな?」

「はい。お懐かしいことです」

「いや本当に。封印が解けてからというもの、このネタを思い出すだけで、一ヶ月くらいは笑いっぱなしだ」

 

 ナハルは気になったことを口の端にこぼした。

 

「なんというか、魔王陛下と、その〈勇者〉は、仲が良かったんですか?」

「そうだな──悪くはなかったな」

 

 応える魔王の表情はわからない。

 それでも、声の気配から察するに、とても面白がっていることだけは確かであった。

 

「〈勇者〉の資格や素質からだいぶかけ離れていたくせに、腕っぷしだけは超一流だったもんだから、ただの地方の傭兵団の長のくせに、魔王(オレ)との戦争に駆り出されることになった──とんでもない大馬鹿野郎だよ」

「それに敗れてしまった魔王陛下も、十分に間が抜けておりますが」

「言うなよイニー。あんな反則級の力を使われたら、俺でなくても負けると思うぞ?」

 

 聞けば聞くほど不思議な感じだ。

 魔王は前回100年ほど前に封印されたことへの恨みつらみというものを全く吐き出してこない──むしろ、自分を封印した〈勇者〉に対して友好的とも言える口調でいられるというのは、いったいどういう事情なのだろうか。

 

「と、そろそろ昼か。午前はここまでにしよう。昼食後に休憩をはさんで、午後の講義にうつる。次の授業内容は“聖剣”の誕生について教えるとしよう」

 

 ナハルは大きく頷いて筆記帳をとじた。

 イニーに導かれるまま食堂へと向かう中、図書館に残った魔王が王国史の続きを紐解いていた。

 

「“お妃が二十人”とか……絶対もっとたくさんいただろうに」

 

 そう呟く魔王の声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 一人、図書館に残った魔王。

 

 彼は史書を閉じて、100年以上前の戦い……自分を封じることになる傭兵と、彼が率いた戦乙女たちとの邂逅を思い出す。

 

 暴走した〈魔者〉から人々を守ることだけを生業(なりわい)としていた者たち。

 幼馴染の女傭兵や女魔法使い、はぐれ女騎士や元軍人の少女、複雑な事情の末に王女や皇女──魔女や半魔族まで率いた傭兵団。

 

 その頭目であった唯一の男・イアラフトゥ。──のちの統一王国の初代国王。

 

 与えられた〈聖痕〉と、鍛え上げた鋼の肉体──愛する戦友にして恋人である女たちと共に、魔王と魔王の軍勢を正面から打ち破った──本物の勇士。

 彼に与えられた〈聖痕〉は、たったの──二つ。

 一画で、────を。

 残る一画で仲間を守る加護を授け、そのまま単身魔王の封印を成し遂げ、人類史に残る偉業を成した存在。

〈聖痕〉によって行われる奇跡を、魔王を封じることと、あともうひとつだけで消耗した、存在自体が奇跡のような──はたまた冗談のような男。

 バカみたいに強く、バカみたいにふざけて、バカみたいにまっすぐだった、〈勇者〉の出来損ない。

 魔王は切に思う。

 

「あの時、おまえに滅ぼされておけば、もうちょっと楽だったのかもな──」

 

 そう(うそぶ)く魔王。

 自重するように鼻を鳴らして、純白の全身鎧は骸骨姿の秘書官を呼ぶ。

 

「あいつらの様子は?」

 

 主人の意を汲み取ったアバルは伝言板にすぐさま記した。『問題ありません』と。

 魔王は頷き、王国史・第一巻を本の山に戻した。

 そして呟く。

 

「さて──どうなるかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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魔王の城 -8

/Transmigration …vol.18

 

 

 

 

 

 

 数日が経過した。

 

 魔王は図書館でナハルへ授業を行うのと同時に、転生者である彼女の生前のことについても質問することが多くなった。

 

 どこの生まれかと問われた ──「日本という国です」と答えた。

 職に就いていたか問われた ──「養護施設で働いてました」と答えた。

 家族構成について問われた ──「──夫、…………だけです」と答えた。

 父のことを問われた    ──「私が六歳の頃にいなくなりました」と答えた。

 母のことを問われた    ──「言いたくありません。興味もない」と答えた。

 友人はいたかと問われた  ──「数人はいました。養護施設の」と答えた。

 

 ほかにも生まれた年、死んだ時の年齢、生前の趣味、好きだったもの、嫌いだったもの……あまり深く追究されることはなく、本当に世間話や自己紹介程度の内容ばかり。

 転生者を知っている魔王にとって、現代日本の文明や科学技術程度には、なんの関心も示さなかった。ためしに、その話をふってみても、

 

「その程度のことなら、他の転生者から聞いて知っているからな」

 

 そう答えられて終わった。

 

「じゃあ、何故、私の生前のことを?」

「単純な興味本位、というだけではないな」

 

 魔王は長卓の向かい側で両手を組んだ。

 

「〈勇者〉である君を我が陣営に迎えるにあたり、本国にいる我が同胞、軍の幹部たちにも、ある程度の事情を説明しておく必要がある。また、君が本当に〈極大聖痕〉を顕現した超級の勇者であることも、幹部たちに布告しておきたい」

 

 授業の終わりの刻限。ナハルに対し、王は今後の予定をつめにかかる。

 ナハルは近くに侍る水妖の女性を見た後に首を傾げた。

 

「幹部──それは、イニーさんやアバルさん以外の?」

「ああ。君らを救った際にいた幹部たち以外にも、本国で国務と政務を行う“元老院”、軍務を取り仕切る“軍司令”、彼ら以上の力量があると認められた“筆頭官”など、その数は数百にはなる。だが、〈勇者〉と〈魔者〉の関係を思えば、それを快く思わない輩も多くいるだろう」

 

 少女は納得の首肯を落とす。魔王は言葉を続けた。

 

「無論、俺が一声“是”と言えば大多数は賛同するが、絶対とは言い切れない。何しろ〈魔者〉数十体を一瞬にして滅ぼすほどの力の持ち主だ。単純な生命保存の原則……生物的な感情として、危険極まりない爆発物だと見做す者は多い。たとえ、君にその気がないと言っても、どんなきっかけで暴発するか判らないと断じる連中がいるだろう。俺の──魔王直々に〈聖痕〉の封印処理が成されたとはいえ、伝え聞く〈極大聖痕〉の権能は計り知れないからな。力の弱い者や、単純に仲間や家族を大事に想う者にとっては、いろいろと物議を醸すことになる」

「はい」

「だからこそ、君の事情と心情を、ある程度まで理解しておくことで、『ナハル・ニヴは本当に神への叛意と敵意を明確に保持している』と周知されていくことが適切だと、俺は考えている」

「だから私の、転生前の情報を知っておきたいと?」

 

 魔王の兜が縦に揺れた。 

 納得を得たナハルに対し、魔王は逡巡するように兜の後頭部を掻く。

 

「俺の魔術……魔王の力をもってしても、〈勇者〉である君の個人的な記憶を読むことができないからな。面倒ではあるが、いろいろと協力してくれると助かる」

「ええ。そのくらいのことでしたら大丈夫です。お話しできることは、すべてお話します」

 

 ナハルは快諾する以外の選択肢がなかった。無論、ナハルはすべてを話すことはなかった。そもそもすべてを話す必要性すらない。

 ナハルが神の手違いによって殺された転生者であるという証拠として、彼女の生前の情報をある程度くらいは検分しておく必要があるのだ。個人的に言いたくないことや言わなくてもいいだろうと判断できることは、魔王にさえも口を(つぐ)んだが、魔王自身も、ナハルのそういった黙秘権を“良し”としてくれた。そもそも生前の身長、体重、スリーサイズ、自分と夫の間だけに通じる愛称や、彼と学生時にやりとりした手紙の内容──将来のために用意していた貯金(へそくり)の隠し場所などを赤裸々に語る必要はないのである。

 

「ま、誰にだって言いたくないことの一つや二つはあるから、な」

 

 声は、魔王自身のことも含まれている──そのことに言った本人が気づいている──苦く微笑んだような口調であった。

 ナハルも笑みを返した。

 

 

 

 

 

 さらに数日。

 魔王による個人授業にも慣れが生じてきた頃合いであった。

 孤児院でも読み書き計算の成績はよかったナハルにとって、歴史の授業や魔力の講義……〈勇者〉と〈魔者〉の関係性などを理解することに苦労はなかった。

 

〈欲を言えば、〈聖痕〉の使い方や神の殺し方について教えて欲しいんだけど〉

 

 そう告げるたびに魔王は「焦ることはない」と少女勇者を(たしな)めた。

 とりあえず彼に教わるままナハルは様々な知識を吸収していった。

 

(昨日聞いた今日の講義内容は、アバルさんが教師で、『征竜王の物語』か)

 

 図書館へ向かう道すがら、魔王の城の迷宮のごとき回廊や階段を探検気分で踏破するナハルは、赤色の分厚い装丁の小説に思いを馳せる。

 征竜王とは、何千年も前に存在したという“竜殺しの王”で、統一王国では比較的人気の読み物──娯楽小説のひとつだ。

 一説によると、100年ほど前に魔王を封じ、統一王国に君臨した初代国王の祖であるという噂もあるようだが、両者の血縁については些か信憑性に欠けていると聞く。

 しかし、征竜王自体は実在していたと、直接戦ったことのある魔王が証言していた。

 

(征竜……(ドラガン)……陛下の配下にもいるって聞くけど)

 

 現在、魔王の麾下に存在する竜は、ソタラハという巨竜が“ひとりだけ”と聞く。

 小さい竜──翼竜ならば何万体もいるようだが、どうやら竜と翼竜はまったく別種の生物と定義されているらしい。

 魔王の軍ならば竜など他にもいてよさそうにも思えるが、どうやら、その竜を残して他の個体は絶滅したとのこと。

 

(会っては見たいけど、……竜が実在するなんて、今でも信じられないな)

 

 これまで多くの人外と異形を見てきたが、本物の竜というのは、果たしてどんなものなのやら。 

 

(明日、陛下が帰ってこられたら聞いてみようかな)

 

 魔王は本日どうしても本国で行わねばならない政務があるとのことで、不在。

 

(それくらいなら、いい……のかな)

 

 ナハルは自分の立場を勘案して、あまり自分から何かを意見具申するということをしてこれていない。

 だが、ここでの生活が始まって一週間以上(意識不明だった期間を含めれば二週間超)を過ごしている。変に遠慮し続ける方が気がひけるというものだ。

 そして、ナハルはもうひとつ、重要な案件を考慮していた。

 

(あー。そろそろ、プレアに手紙でも書かないと)

 

 孤児院で別れた親友のことを思い出す。

 二週間以上も音信不通でいるというのは、いろいろと心配させているかもしれない。

 

(そういえば、どうやってプレアに手紙を出すんだろう?)

 

 魔王には何かしらの方法で手紙を届けることが可能な言動をしていたが、果たして。

 

「──って……あれ?」

 

 考え事をし過ぎたようだ。

 見覚えのない廊下の光景に足を止める。

 

「どこだろう、ここ?」

 

 城の内部は、あたりまえのことだがルート案内の表示などありはしない。

 仕方なく来た道を戻って歩くが、さらに迷う結果をうむだけであった。

 いったいどれだけ考え事に夢中だったというのか。

 

「どうしよう……巡回する衛兵さんもいないとか」

 

 最近はイニーやアバルの案内に頼らず城内を行き来しようとがんばったのが裏目に出てしまった形だ。

 窓があれば、外から確認できる位置でだいたいの移動手順は見えてくるのだが、城の中枢部にでも降りてしまったのか、外の景色を望めるものは一個もない。

 

「おかしいな。階段なんて一個も降りたはずないのに」

 

 図書館へは階段をのぼることはあっても降ることはなかったはず。奇妙な違和感を感じつつ、ひたすら廊下を駆けまわるナハル。

 そんな少女の前に、

 

「お困りのようだな! 小さき〈勇者〉殿!」

 

 巨獣の咆哮を思わせる男の大音声が現れた。

 ようやく衛兵にあえたと喜んだのも束の間、

 

「え、と──誰、でしょうか?」

「おっと! これは失敬!」

 

 男は浅黒い肌にマグマを思わせる赤い髪、鋭い二つの角と爬虫類を思わせる尾の持ち主であった。

 漆黒の軍服を身に纏う青年は、実に好意的な微笑みを浮かべて、廊下奥のひらけた空間──舞踏会でも開けそうな楕円形アリーナの中心で、両腕を組み仁王立ちしている。

 

「我が名はソタラハ! 魔王(アン・ターヴィルソル)陛下に仕えること幾千年! 魔王軍筆頭幹部の一人である!」

 

「お見知りおきを!」という強い声まで銅鑼(どら)のごとく豪快に響き渡る。

 元気がいいというか、騒々しいというか……ナハルは少し苦手に感じた。

 

「えと、すいません──私どうやら迷ってしまって」

「うむ! それならば安心されよ! 君が迷ったという事実は存在しない!」

「いえ、あの私は図書館へ」

「何しろ! 貴殿をリギン殿の“城”に一瞬で招き入れ! この闘技場にまでご足労頂いたのは! 我等の総意でありますが故!」

 

 ナハルは身を固くした。

 少女が迷ったのも無理はない。否、迷ったのではない。

 いかなる手段でか、ナハルにも気づかぬうちに魔王の城とは“別の城”に足を踏み入れるように手引きされていたのだ。

 

「いったい、なんの目的で?」

 

 かろうじて訊ねることができた。

 ナハルの傍には、水妖の乙女も、骸骨の女性も、純白の魔王も、誰一人としていない。

 代わりに、アリーナで対峙するソタラハの他に、筋骨隆々な狼男と、古い包帯を纏った姫君が、左右の観客席に佇んでいるのが見えた。

 ソタラハは傲然と告げる。

 

 

「ナハル・ニヴよ! 我から汝へ! 尋常に決闘を申し込む!」

 

 

 青年の身体が変転する。

 鋭い牙、肢の爪、被膜の翼、二本の角と巨大な尻尾──蜥蜴を思わせる巨大な面貌。

 

 そこに顕れたのは、真紅と漆黒に彩られた、(ドラガン)であった。

 

『いざ! 勝負!!』

 

 巨竜の大咆哮が、ナハルの総身にそそがれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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復讐の理由

コロナ禍の影響で更新が遅れました。お待たせして申し訳ありません。


/Transmigration …vol.19

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 生前のナハルも、人並みにRPG──ロールプレイングゲームのひとつやふたつに触れる機会はあった。ファンタジーを題材にした映画やアニメなども、それなりに視聴する程度に好ましく思っていた。

 ファンタジーの世界を訪れる機会があれば、一度でいいから本物の“竜”と会ってみたいというのは、いくらか自然な発想だと言える。RPGにおいて定番にして普遍的な敵役、あるいは味方役。主人公に牙を剥いて対峙するものもあれば、反対に助言や叡智を授け人々を守る役目を自らに課すものもいる、大自然の脅威にして最大の理解者。あらゆる人種や世代を超越して人気を博すキャラクター。そんな存在が実在し生存している姿を、直接目にする機会が巡ってくるのであれば、ファンにとっては垂涎(すいぜん)ものだろう。

 しかし、だ。

 ナハルは突然の事態に、惑乱するほかない。

 

「けっ、とう? しょうぶ? いったい、なにを、何の話をして?」

 

 少女の目の前に聳えるのは、ビルのごとき巨竜の威容。

 ナハルは委縮しつつも(たず)ねた。

 訊ねずにはいられなかった。

 目の前の(ドラガン)が──巨大な爬虫類の肢体に雄々しく広がる両翼の持ち主が──何を言っているのか、即座に判断するのは難しかった。

 

『ハハッ! 難しいことなどひとつもない!』

 

 問いに答えた竜の口調は快晴の空のごとく澄んでいた。

 ソタラハは竜の大きな口で、文字通りに大笑する。

 

『〈勇者〉である貴殿と! 〈魔者〉である我が! ただ“戦う”! それだけの話! ただ、それだけの事柄に過ぎぬのだっ!!』

「待っ──ッ!」

 

 異論反論をぶつける間もなく、黒い空へと咆哮するソタラハの翼がすばやく羽搏(はばた)く。

 生み出される塵風に目を開けていられないナハル。どうにか風圧に耐えきり、瞼を押し開け、琥珀色の瞳が世界を映した瞬間、

 

「──!」

 

 飛翔する竜の(あぎと)が、少女を丸呑みせん勢いで突っ込んできていた。

 本能的に左へ跳ぶ。

 二秒後、ナハルがいたあたりに、巨大な竜の重量が突進。その衝撃で、大地が大鋸屑(おがくず)のごとくめくれあがり吹き飛んでいく。楕円形劇場の観客席が──石椅子が、余波を受けただけで崩れ壊れた。

 その衝撃的な光景を眺め、少女の心臓が破裂せんばかりに加速していく。

 

「う、うそ、な、なんで、こんな」

 

 助けを求めるように観客席にいる人狼(コンリァフト)を見るが、〈魔者〉は腕を組んだ姿勢で睥睨するだけ。もう一方の〈魔者〉──木乃伊(サラガーン)の姫君も、値踏みするような瞳と姿勢で腰掛けている。他に誰か、助けてくれそうな人物を探して視線をさまよわせるが、闘技場には他の気配は絶無であった。

 

『やはり的が小さい! さらにはすばやい! だが! 逃がしはせぬ!』

 

 態勢を整え再び鼻面をナハルの矮躯(わいく)に向かって照準する赤竜。

 ナハルは遮二無二になって声を発した。

 

「ま、待ってください! 私は、魔王陛下の部下として働」

『待つという選択肢など、我には存在しない!』

 

 傲然と轟く竜の絶叫。

 ソタラハの突撃が、空間を薙ぎ払い突っ込んでくる。

 ナハルはどうにか二度目の回避行動に成功する──しかし、

 

「ま、待って! 本当に待って! 私は〈聖痕〉を持っている〈勇者〉ですけど、あなた達〈魔者〉と敵対するつもりはない!」

『ハハ! 魔王陛下の幕下に加わったという話か! その程度の情報ならば、重々承知している!』

「な」

『〈勇者〉ナハル・ニヴ! 生前の記憶を持つ転生者! 神への復讐を標榜する黒髪金眸の少女だと、すでに魔王の配下に連なる者どもに(あまね)く通達されている! 当然のことだ!』

 

 竜が滞空すべく羽搏(はばた)いた程度の風圧で、ナハルの総身は切り刻まれそうな威力を伴っていた。

 その中でも少女は説得と抗弁を続ける。

 そうしなければ殺されるだけだった。

 

「私は、こんな、急に戦うなんて……決闘なんて……私はまだ、戦い方なんて、一個も教わってない!」

『ダっははははハハハハッ! これはこれは! 異なことを申されるな!』

 

 ソタラハの竜声に、ナハルは恐怖に身をすくませながら耳を傾ける。

 

『〈聖痕〉を全身に宿す〈勇者〉が、よりにもよって“戦えぬ”などと!

 そのようなことは、な……絶対に完全にありえない(・・・・・)!』

 

 ソタラハは颶風(ぐふう)のごとく宙を疾駆し、ナハルの小さな肉体を鋭い鼻先に捕らえた。

 小さな勇者は空を翔けて上昇していく感覚に翻弄される。

 

「ひッ!」

『〈聖痕(それ)〉を宿した時点で──貴殿はもはや、只人ではないのだ!』

 

 死んだ時に味わった交通事故の衝撃、あの時のそれとは比べようもない程に重く(はや)い突撃を受けながらも、少女の身体は確かに、動いていた。

 無意識というには流麗にすぎる身のこなし──体を独楽(コマ)のように回転させ、ソタラハの竜鱗の上を舞踏家……あるいは武闘家のように舞い踊る。巨竜の一撃を寸分たがわず回避しおおせる技前(わざまえ)は、それを成し遂げたナハル本人が肝を冷やすほどに完璧であった。

 そのまま、空中に放り棄てられる形となった〈勇者〉ナハル。

 上空で旋回した赤竜は、その口腔部を赤く、(あか)く、輝かせる。

 

「炎!?」

『ご名答、ダァッ!!』

 

 竜の叫喚と共に、ナハルの全身を灼熱の吐息が蹂躙していた。太陽を思わせる光輝の奔流。真上から真下へと吐き出された炎熱の火力は、闘技場の大地を貫き、あまりの高熱高圧によって巨大な漆黒の陥穽(かんせい)を作り上げる。それほどまでに超高熱の魔力線であった。

 通常人類であれば、放たれた炎熱に触れた瞬間、蒸発・即死して然るべき赤竜の火線にさらされたナハルは──

 

「う……嘘?」

 

 無傷。

 まったくの無傷。

 魔力の炎熱に吹き飛ばされ、そのまま大地の上に墜落したにも関わらず、骨が折れるどころか、薄皮一枚分の擦り傷すら、見当たらない。

 ふと思い、肌を撫でる。あの忌まわしい〈聖痕〉が、淡い光をともして浮かび上がってきた。

 

「な、なんで」

『見よ! 魔王陛下によって封印処理されて尚、我が灼熱の炎を軽々と無にする魔力への耐性! 怯えた言の葉とは裏腹に、堅実なる闘争機能のまま、鋭敏なる回避行動をやり果せる肉体の強弁ぶり! いやはや、すさまじいものではないか!!』

 

 吐き気がした。息が苦しい。

 ソタラハの攻撃や口撃のせいでは断じてない。

 ただ、自分自身というモノの異常性に、ナハルは口を抑えねばならないほど強い嘔吐感を覚えたのだ。

 

『まったくもって神の奇跡とやらは奇天烈(きてれつ)の極みだ! 実に恐ろしい! 実におぞましい! まさに人界における奇跡の象徴! 神より与えられし光の恩寵! ──吐き気を催す!!』

 

 快晴の日光のごとく朗らかな声音。ナハルも同様の感想しか持てなかった。ソタラハは雄然と宣告する。

 

『通常人類を〈勇者〉という別個の存在に強化、もとい変異(・・)させる〈聖痕〉! いったいどれほど多くの同胞が! 神共による選別者によって屠られ! 嬲られ! 辱められ! 滅びの淵へと追い立てられてきた事か!! まったくもって反則の極み! 転生者らの(のたま)う“ちーと”のそれであるな!! なァ!!?』

 

 吠えながらも炎弾を口腔より連射する天空の赤竜。

 連鎖する火山弾の破裂音は、人間の鼓膜をいとも容易く突き破る音圧の暴力であったが、ナハルの身体には何の影響も示せない。

 火焔の直撃を受けても、〈勇者〉の身体はビクともしなかった。

 今更ながらに実感する。

 

「こんな──こんな、もの──!」

 

 ちーと……“チート”……その単語の意味を思う。

 血が滲むほど、自分自身の肌に爪を喰い込ませる。

 思い出さずにはいられない。

 転生特典だの何だのと、戯言(ざれごと)を呟いていた神とやらを。

 

 

 

 ────「お詫びと言ってはなんだが。君には異世界で、様々なチート能力を駆使して、気楽に生きていけるように手配しよう」────

 

 

 

 こんなものが欲しいと誰が頼んだというのか。ガリガリと両肩から両腕に爪を立てる。噛み締めすぎた唇から赤いものがこぼれていく。

 こんなもの、何ひとつとしてナハルは──鬼塚ハルナは、望んでなどいなかった。

 にもかかわらず、あの神とやらは、ナハル・ニヴに〈聖痕〉という名の特典を施した。

 冗談ではないと思った。悪ふざけにも程がある。ナハルにとって、神とやらに選ばれた証など、汚辱の証明以外の何物にもならなかった。

 

『呆けている時間はないぞ、転生者の〈勇者〉殿!』

 

 ソタラハは、ナハルの異変など(かえり)みることなく、再突撃を敢行する。

 〈勇者〉の小さな肉体は、〈聖痕〉に汚染された体は、魔力によらぬ攻撃──巨竜の大質量による物理攻撃──〈魔者〉からの脅威を寸手のところで回避してみせる。

 翼を広げる赤竜は、尚も鋭く、どこか楽し気に声を発し続ける。

 

『貴殿は戦い方など教わっていないと言ったが! 断言しよう! 戦闘訓練などという生温(なまぬる)い仕儀に訴えたところで! 〈勇者〉の質と力が向上することは決してない!』

 

 その言葉は、ナハルに教鞭を振るってくれる魔王──彼が言っていたことと符合していた。

 しかし、ソタラハは魔王らが“教えていなかったこと”……隠していた事実を告げる。

 

『〈勇者〉の〈聖痕〉を強化成長させる方法は、たったの「二つ」!

 我等〈魔者〉と戦い、そして殺すか! あるいは! もうひとつの手法に頼るか! ……つまり!』

 

 赤竜の翼が天を覆うほどに広げられる。

 瞬間、大量の火球が皮膜の内側で集束し、特大の光線数本となってナハルの身に降りかかる。

 少女はさらに高速で走り出す。火線の驟雨から逃げおおせるために。

 

『貴殿が“神”との戦いを望むのであれば! 我等を! 〈魔者〉を!

 殺して殺して殺して殺して殺して、殺し殺し殺し、殺し尽くすつもりでかからねばならない!』

 

 そうすることでしか、少女(ナハル)の目指す神への戦いは成し遂げられないと、赤竜は高らかに宣言する。

 

『戦うがいい〈勇者〉ナハル・ニヴ! 貴殿の目指す“神との戦い”に必要な力と技量を、己が物とするために!

 さもなくば! 貴殿はここで! 我に殺され──あえなく、つたなく、死ぬだけだァッ!』

 

 ソタラハは、自らが照射し続けた烈光の槍雨とともに降下する。

 魔力攻撃をひたすら無力化していくナハルの矮躯めがけて、墜落する勢いで爪牙と竜鱗の質量を叩き込んだ。火線の驟雨が目くらましとなり、ナハルの肉体が反応するのが遅れる──しかし、やはり〈勇者〉は健在であった。

 ソタラハは鼻白んだ。

 

()せんな! 何故、我を殺しにかからん! 〈勇者〉であるならば、自前の剣を〈聖痕〉によって造ることも容易なはず! 何故それをしない!?』

 

 攻撃の意思をほんのひとかけらでも懐けば、〈聖痕〉がそれに呼応して攻撃の手段を供出することを、ナハルも直感していた。理解せざるをえなかった。

 それでも、ナハルは首を横に振った。

 

「私は、──あなたたちを──〈魔者〉を、殺さない」

『「殺さぬ」だと! それはまた面妖な!』

 

 竜の鎌首を傾げるソタラハに、ナハルは言い募った。

 

「あなたたちは……魔王陛下の臣……神の敵対者……だったら……“私の敵じゃない”!」

 

 頭を振って戦いを拒絶する少女。 

 しかし、

 

『愚か! 愚劣愚昧愚鈍愚考愚案! 愚かしいにも程があるッ!!』

 

 ソタラハの気勢は削がれることはない。

 少女の配慮と誠意を、巨竜はむしろ侮辱だとばかりにがなり立てる。

 

『その程度の御覚悟で! その程度の敵愾心で! 我等の大敵“神”どもを許さぬなどと大言壮語するとは! 片腹痛いわ!!』

 

 激昂の色を灯す竜の瞳に、ナハルは数歩も後ずさった。

 少女の申し立てる内容を、赤い巨竜は傲慢にも鼻を鳴らしてはねつけた。

 

『もっと本気でぶつかってこられよ! それとも! 貴殿の放言する神への敵意と憎悪、復讐の妄念など! その程度ということでよろしいか?!』

 

 ナハルの喉がひきつった。

 赤竜の超重量の突撃を受けたからではない。

 

『神に挑むのであればすべてを使え! 傲慢に! 傲岸に! ありとあらゆる手段を講じ、ありとあらゆる力を尽くせ!

 我等、魔王の(ともがら)たちが、子々孫々に渡り挑み続けた神々との戦い! 彼奴等(きゃつら)悪逆(あくぎゃく)放埓(ほうらつ)の手管によって、どれほどの人と魔が、無意味に命と魂を散らせ続けたことか! 我等“見捨てられし者”“歪められし者”どもの怨嗟と呪詛の重みは! 貴殿ごときの復讐心とやらとは、比較にならぬほどであろうよ!』

 

 少女の琥珀色の瞳が、潤むように輝きを増した。

 ソタラハとの戦闘による死への恐怖からではない。

 

『〈魔者(われら)〉を殺さず力だけを得ようとすれば、いったいどれほどの時を逸し、(いたずら)に弄することか! それだけの時間のなかで、いったいどれほど多くの同胞が、大いなる災禍と悪難に見舞われることか! ……しかし! それもまた“()し”! 貴殿の意思決定権は、貴殿のみが有するものである!』

 

 あくまでもナハルの意志を尊重するソタラハは、気づかない。

 

『であるならば転生者よ! そのちっぽけな復讐心を棄てて! 我等が王の庇護に守られたまま! 人として安寧なる一生を終えるがいい!!』

 

 突撃体勢を整えた竜は、ようやく気付いた。

 

『──ぬ?』

 

 少女の逆鱗に触れてしまった事実を。

 

 

 

 

 

 

「ちっぽけ?」

 

 

 

 

 

 

 ナハルの瞳から、涙がこぼれだす。黄金の色に輝く、涙が。

 

「ちっぽけ……だと?」

 

 その涙の光は、大地に落ちるよりも先に、針のように鋭い金属の形状に変化して突き刺さる。〈聖痕〉が輝きを増し、蠕動する虫のように肌の底を這い回る感触があった。

 ナハルはそれらに見向きもしない。

 ただ、己の復讐の理由、憎悪の根源、転生前の記憶が、脳の中を炎のように燃え広がる。

 懐かしくも暖かい光景──生前の夫──彼の微笑み──差し伸べられた優しい掌を、瞬きの間に幻視する。

 夢幻の中で、幾度も触れ合おうと伸ばした掌が、何もない空間を掻き毟る。指先に感じられる冷たさと虚しさが、ナハルの心臓を貫いていく……いつものように。

 

「私、には……私に、は、家族が、いた……家族になってくれたひとが……家族をつくろうと言ってくれた相手が、……彼が……」

 

 鬼塚ハルナが、恋し、愛して、愛し合ってくれた──彼。

 

 虐待の痕が体のあちこちに残った、世界で一番穢い女を、その手を取ってくれた、優しく愛しいひと。

 

 彼と共に生きていこうと思った。

 彼と共に生きていたいと願った。

 彼と共に幸せになろうと誓った。

 

 彼の子を生みたいと──彼の子を産もうと──彼と共に、家族を。

 

 そう、夢を、見ていた。

 

 そして、ついに、あの時、転生する直前の晩──

 

「私は、────私には…………」

 

 連日続く気怠さと吐き気に、「もしや」と思った。

 市販の“妊娠検査薬”を使ってみた。

 結果は……

 

 

 

 

 

私のおなかには(・・・・・・・)! 子供がいたんだ(・・・・・・・)!!」

 

 

 

 

 彼と──夫とそういう営みをするのに抵抗がなくなってから、一年がたった頃。

 妊娠検査薬の結果を見て、私は本当に嬉しかった。待ちに待った結果に、うれしくて、うれしくてうれしくて、本当にうれしかった。

 こんな自分でも、穢い私でも、彼の子が産めるということが、どんなに望ましく思っていたことか。

 彼に内緒で、彼をびっくりさせたくて、ひとりで病院に──産婦人科に向かった──あの雨の日に、

 

 

 

 よりにもよって事故で──神の手違いによって、死んだ。

 

 

 

 否。

 殺された。

 鬼塚ハルナは殺された。

 

 

 

 おなかの命も──あたらしい家族も──生まれてくるはずだった彼との子も、一緒に

 

 

 

 

「私は! 彼と共に──彼との子と一緒に、生きたかった!」

 

 鬼塚ハルナ……ナハル・ニヴは、魂の底から慟哭した。

 転生してから今日まで溜め込み続けた憤怒の烈火を吐き散らした。

 

「彼と一緒に暮らして! 生まれてくる子を育てて! 生きて──生きて──生きて生きて生きて! そうして普通に死にたかった!」

 

 彼がいたから、自分の人生を生きたいと願った。

 こんな自分でも、穢れきった自分でも、顔も胸も腹も背も腕も足も傷まみれにされた自分でも、幸せになれると思えた。

 信じることができた。

 

「なのに! ──なのにッ!?」

 

 すべてを奪った。

 神によって奪われた。

 神と名乗るモノによって、すべてを。

 

「……許せない──許さない!!!」

 

 許していいはずがない。

 許していい道理などない。

 許していいという者がいたら、ナハルはそいつを許さない。

 絶対に。

 

(あいつ)は殺す! 絶対に殺す!」

 

 張り裂けそうな声が大気を震撼させる中。

 少女の流す滂沱の涙は大地の上に集積し、いつの間にか光り輝く刃──両刃の長剣の形状をかたどった、ようにみえた。

 ナハルの〈聖痕〉だらけの身体が、無意識に剣の柄を掴みとるのと同時に、長い刀身は波打つ形状に変貌、剣の形状を得体の知れないものに転化していく。目まぐるしく捩じくれ膨れて歪み崩れ、生きているかのようにのたうち回る。刃の部分は大剣、細剣、斧、槍、弓矢、戦鎚、鉈、鞭、鎖鎌、金砕棒などに変わり、それらが複数融合したような姿を現す。ついには柄部分から先が無数の(とげ)のように光の刃が突き出す形へと変型。ナハルが武器を掴む片手で空間を払うと、その凶器は光の雫をあたりに飛び散らせていく。輝く雫は空中で針のように尖り、泡のように膨れ、大地の上に幾本も棘の刃を突き立ち抉った。

 ソタラハはその光景を目にし、戦慄の声を牙の間からもらすのみ。

 

『おお……凡百な〈勇者〉どもとは比較にならぬ……まごうことなき……これこそ、我が父が語っていた真の聖剣──本物の“神聖武器”!』

 

 神聖、と呼ぶには禍々しいにもほどがある凶刃は、今もなお千変万化の状態を維持していた。棘の刃は、所有者であるナハルの憤怒と憎念にあてられ一切の定型を持たず、その光量と刃渡りを広げ続けている。

 赤竜は歓喜の雄叫びを上げて羽搏いた。

 

『今こそ! 我が全身全霊を賭すに値する!』

 

 ソタラハが竜の両腕に赤い魔力を(みなぎらせ)らせた。流動する紅蓮の砂塵──竜の掌サイズの砂嵐のごとき脈動を見て、観客席で成り行きを静観していた魔王軍幹部──レアルトラとアーンが腰を浮かせた。二人は口々に「お、おい竜の旦那! ここで“それ”を使う気かよ!」「ちょ、誰がそこまでしていいって!」と言っているが、巨竜は一切応じない。灼熱の息吹をゴォと吹いて、竜の巨大な面貌を大量の陽炎で揺らめかせる。

 対して、ナハルは激情に身をゆだねるまま、光剣を右肩へ担ぐように両手で構える。輝きを撒き散らす棘剣(きょくけん)が後光のごとく少女の後背を鮮やかに照らし、黄金と白亜の色彩が漆黒の天空を焼灼しはじめた。

 

「私の復讐は……ちっぽけなんかじゃない……ちっぽけなんて言わせない」

 

 怒りの矛先にいるのは、巨大な竜の姿ではない。

 

「私は──絶対に──神を──!」

 

 ナハルからすべてを奪った(モノ)

 殺しても殺したりない──ありったけの憎悪をこめて、巨大な光の棘を袈裟斬りに振り下ろす──

 

 

 

「二人とも。そこまでだ」

 

 

 

 刹那。澄明すぎる男の声に、武器を持つ両手を掴みとられていた。

 

「な! 我が陛下!」

 

 ソタラハは両腕の赤い魔力を散らし、焼けた大地の上に着陸。そして幹部たち全員が、ド肝を抜かれたように片膝を落とした。

 決闘の場に水妖の女怪・イニーと共に姿を現したのは、純白の全身鎧に身を包む〈魔者〉の王……本国にいるはずの魔王そのひとであった。

 

「ナハル」

 

 魔王に優しく呼びかけられるナハルは、野獣のような形相で王を見上げ両腕を振るう。が、魔王の片手の力に制止されビクともしない。

 

「よせ、ナハル。武器を放せ──頼む」

 

 静かな声に促され、ナハルは荒い呼吸を落ち着けていった。

 剣柄を握っていた両手から力を抜くと、光の武装は瞬く間に霧散、消滅する。

 

「うん」

 

 満足げに頷く魔王の両腕に、ナハルは崩れるように倒れ込んだ。尋常でない量の汗が全身から吹き上がる。呼吸がしづらい。

 

「いきなり“使い過ぎだ”。封印処理も解けかかっている。これじゃあ、また俺が風呂(フォカ)にいれてやらんとならんぞ?」

 

 冗談めかした口調にそのまま小さな体を抱きかかえられた。ナハルは意識が朦朧としながらも(たず)ねる。

 

「魔王、さま……私、いったい……〈勇者〉って、いったい……」

 

 魔王はナハルの髪を撫でつけるのと同時に、体表面に浮かび上がっていた黄金の輝きを鎮めるよう、ナハルの額に魔力を透す。

 彼はそのまま少し考え込むようにしつつ、返答を保留。代わりに、彼は膝をつく巨竜……委縮したように軍服を着る人間の形状に変化した、赤髪褐色肌の青年の傍に。

 

「ソタラハ」

「申し訳ございません、陛下! 此度の件についての責任は、ひとえに我が!」

「いや。おまえらがナハルの──〈勇者〉の持つ戦闘能力をはかり、何より、神と戦おうと明言するナハルの個人的な心情を見定めようと行ったことはわかっている。そうしなければ納得もいかなかっただろうことも」

 

 ソタラハは「見事なる慧眼!」と尊崇の眼差しで魔王に微笑む。

 ここにいる魔王軍幹部たちは、神の選定を受けながらも神と敵対しようなどという少女の言い分を、そう易々と信じられることができなかったのだ。

 それでも、と魔王は続ける。

 

「まず、ナハルに謝罪を」

「は! 申し訳ない、ナハル・ニヴ殿! 貴殿の力と、真の心意を試すべく! 我はふさわしくない物言いをしてしまったようだ! そのうえ興が乗ってしまい、御身の危険も顧みずに勝負を続けることを選びかけた──すべて、ここに謝罪させていただきたい!」

「え、と……あの」

「まことに! 申し訳ない!」

 

 平身低頭の限りを尽くす赤髪の青年に、ナハルはどうにか頷きを返す。

 

「おお! 寛大な心遣い、大変痛み入る!」

 

 土下座の姿勢で額を地面にこすりつけていたソタラハは、感謝感動のあまり顔を上げた。快い表情と声音に、先ほどまでの戦意や敵意はひとかけらも見いだせない。

 

「レアルトラとアーンも、これで納得がいったか?」

 

 魔王の質疑に対し、劇場に降りて近寄ってきた人狼(コンリァフト)木乃伊(サラガーン)は、重く首肯する。

 

「ええ、まぁ……そういう事情っていうのは、想像もしてなかったですが」

「〈勇者〉ナハルの真意は判りました。そして、これだけの能力──〈聖痕〉であれば、陛下の望みに近づけるだろうことも」

 

 幹部たちの様子に頷きを送る魔王。

 純白の全身鎧は、とりあえずの応急処置を終えたナハルの身体を、連れてきていたイニーの右腕に託した。

 ナハルは縋りつくように問いを繰り返した。

 

「魔王様……、私は一体、なんなのですか?」

 

 超常の力を発揮する〈聖痕〉。その能力の一端を知ることになったナハルは、問わずにはいられなかった。

 

「〈勇者〉とは何か、という問いか?」

 

 魔王は、逡巡する間もなく語り明かす。 

 

「〈勇者〉とは。己の愛する者、真に大切だと思う者のために戦いし者──それらを想う心を力の糧とし、神から与えられた超常の力を振るうことを許された人間の総称だ」

 

 だからこそ〈勇者〉の力と剣は、竜の鋼鱗を引き裂き、鉄の城壁を割断し、闇の軍団を掃討し、魔の王侯さえをも滅却できる。

 そういう“力”──戦闘機能を与えられてしまった、神の選定者の総称であった。

 故に、ナハルがこの力を振るうに際して、生前の夫──愛する男のことを想い起こすことで、その機能は十全に発揮されうる。

 

「努力や鍛錬、才能や才覚、継続や事前準備という概念からは程遠い、神の手によって公然と行われる反則技(チート)──それが〈聖痕〉と、それによって生み出される〈勇者〉の仕組み──神の選定システム……あんなものとやり合わなければならない〈魔者(われわれ)〉にとっては、まさに悪夢以外の何物でもないわけだ。おまけに、最近はアチラの大陸、人間の国で──いや、これはまたの機会に話そう」

 

 瞼が重くなりつつある少女の様子に、魔王は改めて告げた。

 

「今はゆっくり休め。()きた〈聖痕〉を鎮めて、十分以上に養生するように」 

 

 ナハルは「はい」と答えたかったが、イニーの体の柔らかさに包みこまれ、深い眠りの淵に落ちていく。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 イニーに抱きかかえられた〈勇者〉の少女が、漆黒の天空を戴く闘技場から運び出される。

 その様子を、観客席のさらに上、屋根の上から眺める人影があった。

 

「子どもがいた、ね」

 

 金髪碧眼のエルフ(ルハラハーン)──ガルは、屋根のふちに腰掛け、憮然とした表情を浮かべながら両手で頬杖をついている。

 しかし、ガルの艶めかしい肢体、女の輪郭は地上にいる同胞たちには見えていない。

 隠形の衣(フェート・フィアダ)によって発生した霧を身に纏ったことで、ガルはほとんどの存在から認知されえない隠密性を発揮可能。

 

『夫と引き離され、子を奪われた女か──神への復讐を望むには十分な理由だのう』

「それはどうかしら? リギンの御爺様」

『うん?』

 

 そんな彼女と意思疎通する声の主は、ここにはいない。否、厳密にいえば、この場所──この城そのものというべき人物。

 

「確かに、数多くある転生者の中では極めつけに運がない事例でしょうね──けれど、すべての婚姻や出産が、そのまま幸せに直結するだなんて、私個人は思っておりませんの」

 

 影を落とすガルの微笑み。

 数千ファードという彼方を見透かすエルフ(ルハラハーン)の眼は、ふと、眼下で幹部三人へ説教を続けていた魔王と視線が合った。

 

「おまえがそう考えることは否定のしようがない」

 

 気づいた時には、ガルの背後に魔王の純白の姿は転移していた。

 魔術を行使するための準備行程もなしに行えるのは、まさしく〈魔者〉の王たる証に他ならない。

 

「だが彼女の、ナハルの転生した経緯を考えるならば、彼女の一番の幸せを、神によって奪われた事実には、何の変わりもない」

「陛下には、本当にかないませんわね」

 

 エルフは頭を振った。隠形の衣の頭巾を落として、盗み見と盗み聞きを働いていた非礼を詫びる。

 

「これで納得がいったか? 俺がナハルに肩入れをする理由について、だったか?」

「やはり私どもの考えを読まれておいででした? それとも──アバルちゃん──骸骨姫様や、リギンの御爺様の奸計に、まんまとのせられちゃったのかしら?」

 

 とぼけるように肩をすくめる魔王の姿に、ガルは軽い微苦笑で応えた。

 

「そうですわね……神への刃となりえる〈極大聖痕〉、不幸な境遇に堕とされた娘、復讐の炎に憑かれた女……確かに、手放すには惜しい逸材ですわね」

「理解してくれて助かるよ」

「ただ……」

「?」

「いえ。なんでもありませんわ」

 

 ガルは最後に残った疑問を、己の胸の内に留め置いた。

 幹部らへの声掛けを済ませた魔王は、リギンに二言三言話しかけた後、転移によってリギンの城をあとにした。おそらく、ナハルの解けかかった封印の処理に向かったのだろう。

 金髪碧眼の亜人は黙考してみる。

 

(……陛下は、魔王様は一体、どこまで知っていた(・・・・・・・・・)のかしら?)

 

 それがガルの気がかりと言えば気がかりであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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~ありし日の“二人”の夢~

一年十ヶ月ぶりの更新


/Transmigration …vol.20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつくと、どことも知れぬ診察室の光景が目の前に広がる。

 診察をしてくれた年配の女医が、穏やかな口調で言ってくれる。

 

 

 ────おめでとうございます。ご懐妊です。

 

 

 ああ、まただ。

 またいつもの夢だ。

 私は幾度となく、数限りなく夢を見る。

 見続けてしまう。

 

 あの雨の日。

 

 事故に遭わず、“何事もなく”産婦人科を受診した夢。

 

 車に轢かれ、クソみたいな神様転生なんてすることもなく、診断書や母子手帳などをもらい、夕飯の買い出し等をすませ、仕事から帰ってくる彼を、二人の家であるアパートで、待つ。

 夕飯が万端整ったタイミングで、玄関のドアが開いた。『ただいま』と『おかえり』という、いつものやりとり。にやつく頬を懸命に押し固めながら、彼の上着と鞄を受け取る。

 いつも通りお風呂を共にし、いつも以上に腕によりをかけたごちそうを振る舞う。『おいしい!』と子どものように笑う旦那を眺める私。食べ終わった皿の片付けを務める旦那を待ちつつ、ポケットにしのばせた今日の診断結果をもてあそぶ。

 エプロンを脱いだ旦那がソファに座る私の横に並び、病院はどうだったかと問いかけてくる。

 ここだと思った。

 最近続いていた不調の原因がわかったと、実に神妙な面持ちで、深刻そうな声色で、いたずらっぽく彼に教える。

 

 

『妊娠した』と。

 

 

 硬直する夫の横っ面に、さらなる一撃を打ち込む。

 

 

『子どもができたよ』と。

 

 

 途端、テーブルに足をぶつけるほど飛び跳ねて喜ぶ彼。

 思ってた通りの反応過ぎてびっくりする私。

 虐待の痕で全身傷だらけの女を心から選んでくれた男に、私は泣き笑いながら、『これから大変だよ』と言い添える。

 彼は朗らかに笑う。

『大丈夫』と、なんの根拠もなく宣う誠実な男が、力いっぱい私の肩を抱き締めてくれる。

 

 

『ぼくたちなら、きっと、大丈夫──』

 

 

 とろけてしまいそうなほど甘い声が、涙の色で輝いていた。

 彼の声の暖かさと誠実さで、目頭がつんと熱くなる。

 けれど私は、そんな簡単に泣いてあげない。

 

 昔からこのひとは、まっすぐで、正直で、世の中の怖さや厳しさとは無縁そうに振る舞って、こっちが心配になるほど純粋なやつで。

 本当はそんなことないって判っているし、私と同じくらい親や家族に恵まれた人生ではなかったというのに、こんなにも良いひとで。

 

 だから、私が、しっかりしないと。

 彼を支えられるように、守ってあげられるように、強く、優しく、一緒に生きていたいと、そう思えた最初で最後の相手だから……

 

 

 

 

 なのに。

 

 私は死んでしまった。

 

 

 

 

 彼を残して。

 たった一人の家族をのこして。

 この身に宿した命を……新しい家族を…………道連れに。 

 

 彼は今、どうしているだろう。

 私が死んだら、きっと、たくさん泣くだろう。

 うぬぼれではなく、彼はそういうひとだから。

 できれば泣いてほしくないけれど、泣き虫な私の千倍くらい泣き虫だから。

 事故の後、彼が私の鞄の中の妊娠検査キットを見つけたらと思うと、胸が凍えて砕けそうになる。

 思った瞬間、見たくない光景が目の前に映る。

 

 

 どことも知れぬ霊安室で、冷たくなった私の亡骸に縋りつく夫を、彼の姿を幻視する。

 

 

 今まで聞いたこともない程の大声を奏でて、(わたし)が死んだ事実をいやだいやだと拒絶し、幾度となく名前を呼び続けている、悲惨な姿。

 

 

 ──幻ではない。

 

 

 彼は、

 あの人は、

 私の旦那様は、

 そういうひとだから。

 私なんかが世界の中心だと。

 私と出会えたことは人生で一番の幸福だと。

 恥ずかしげもなく語っちゃうほどのひとだから。

 こんな汚い私を、……全身が虐待痕だらけのキズモノを、救ってくれた彼だから。

 

 

 ああ。

 どうか。

 お願いだから。

 私のことは、忘れて。

 君なら絶対に、私よりも素敵なお嫁さんを貰えるから。

 

 

 

 

 だから……もう、泣かないで。

 

 あなたは、もう、泣かないで。

 

 

 

 

「ごめん……ごめん……、ごめん、……ごめんなさい  」

 

 

 

 

 触れることのできない背中に手を伸ばし、感じられない体温(ぬくもり)を抱き締めながら、終わることない悪夢の底で、私はひとり(むせ)び泣く。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 そこで夢の境界が曖昧になる。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 それは100年前の物語。

 

 第九紀・9701年 冬の物語

 

 二人の男の、戦いの、終局(おわり)

 

 

「────勝負、……あった、な」

 

 

 崩れゆく城郭。

 壊れていく大伽藍。

 それら崩壊するすべての、中心。

 四肢の砕かれた鎧。

 割れた兜から零れる闇の一雫(ひとしずく)

 純白無比の“闇”……魔王(アン・ターヴィルソル)が、ひとりの男を、心の底から賞嘆する。

 

 

「さすがは、当代最強、剣の王と呼ばれるに、たる──真の《勇者》だ」

 

 

 城下においても、幹部たちの敗北や封印の報告があげられていた。この王城の要石にして、魔剣の極みたる生武器(アラム・ビオ)レギンも、鉄屑同然のありさまで転がっている。

 ありとあらゆる魔術を統べ、すべての魔力を総括する“全魔の王”が、たった一人の人間に、完全敗北を喫していた。

 勇者と魔王の血塗られた歴史に、またひとつ、巨大な白と黒の星が灯された。

 魔王は悔し気というには澄明(ちょうめい)にすぎる音調で独語する。

 

 

「神の力──〈聖痕〉の力で強化したのは、自分の仲間の女たちに対してへの、ただ、一度だけ。

 だというのに、この我を、ここまで完膚なきまでに打ちのめすとは、さすがというほかにない」

 

 

 驚嘆して余りある事実。

 歴代の〈勇者〉たちが身に帯びて戦う超級の戦闘手段──〈聖痕〉。

 それを、魔王との戦いで使用せず、城下にて魔王軍幹部の元老級悪魔たちと戦う仲間たち──彼の“女”たちへの加護だけを願った。

 結果、魔王軍は総崩れ。彼と彼女らの率いる人間たち──魔王討伐軍の矛は、確実に、完全に、魔王の命脈を絶った。

 

白々(しらじら)しい真似(まね)はよせ」

 

 だというのに。

 勇者は事もなげに、黒い闇の粒子を指弾する。

 

「くそ堅苦しい口調しやがって。一緒に大陸を〈魔者〉退治しながら旅した仲間(ダチ)なんだ。

 だから、いつもどおりに呼べや、『ニアラス』」

 

 ニアラスと呼ばれた白銀の鎧の残骸──そのうちに(こご)る闇は、さもおかしげに嘆息する。

 

「……おまえは本当に、空気を読まんな、『イア』」

 

 通称・剣王。名をイアラフトゥ。

 それが、彼の名だった。のちにリーァハト統一王国を(おこ)す王──俗にいう『征翼王』──または『征欲王』とも。

 聖剣の選定を受けたといういわれもなく、高貴なる血統の出自という証明もなく、ただただ、屈強かつ豪壮な傭兵団の団長として、大陸で跋扈(ばっこ)する〈魔者〉退治を請け負ってきた(つわもの)

 イアは、崩れゆく魔王ニアラスの身体を見下ろしつつ、傭兵団の仲間である幼馴染が鍛えた“星剣”を、背中の鞘にしまった。魔王城の要石としての機能を有していたレギンが討伐され、城としての機能と形状を保てなくなった場が自壊し続ける空間に腰を下ろし、「よっこらせ」と胡坐(あぐら)をかく。白い紙巻の煙草に火をともした。

 崩壊し、氷のごとく凍てつきつつある空間のなかで、その煙草は勇者の口元にのみ灯る、希望の光のようにも見えた。

 イアは紫煙をくゆらせる。

 

「思い返してみりゃ、今回ほどキツい仕事はなかったな。これで世の中が平和にならないんじゃ、マジでやってられねえ。お(まんま)の食いっぱぐれじゃねえか」

「ふふ。安心しろ。魔王である俺が封じられれば、少なくとも、人の大陸の災禍は遠のく。俺という極大の“魔”にあてられた人々も、少しは、ましになるだろう」

「だがよ。人は今後も“魔法”を使うぞ。いまの時代、いいや、この世界に生きる人間で、魔法の恩恵なしで生きていくことは、難しいを通り越して不可能な話だ」

 

 イアが評する内容に、魔王は存在しない首……闇の微粒子を頷かせた。

 魔王を打倒した英傑は未来を予告する。

 

「魔法を使い続ければ、魔力の汚染は拡大するのみ。そうしたら、遠からず魔王(おまえ)は復活する。これまで何百──いや何千回と繰り返されてきた歴史をたどるだけ。……くそ。やっぱりお(まんま)のくいっぱぐれじゃねえか」

「…………そこまでわかっていながら、どうして、俺を、魔王を封じるという、役儀を負った?」

 

 大損も大損だろうに。

 魔王のことなど放置して、仲間たちと楽しく日々を過ごせればそれでよい──それが彼、イアラフトゥという男の信義であり信条であったはず。

 普段は金に汚い、だが、女性関係では湯水のように金使(かねづか)いの荒い……奴隷にされた女を見ると、大金を積んで自分のところに引き取る傭兵団の長たる男は、魔王との激戦のさなかに負った傷の走る左の目元を微笑ませた。

 

「そんなの。『ダチのため』に決まってんだろ?」

「…………そう、だな。おまえは、そういう男だ」

 

 空間がガラス細工のように罅割れる。

 すでに、封印の刻限まで、残り僅か。

 人の世を乱した魔王の居城が倒壊し、人心は喜びの輪を広げ、平和の賛歌が鳴り渡る──いつものように。

 あきれ返るほど繰り返してきた行程をたどるべく、魔王(アン・ターヴィルソル)──ニアラスは最後の力を振り絞るように、告げる。

 

「さぁ〈勇者〉よ。

 お前の、勝ちだ。

 おまえの、望みを、果たすがいい。

 おまえが、その手に残された〈聖痕〉に、願いさえすれば、この人の世に、安息は約束される──」

 

 それを聞いたイアは、不愉快げに赤い傷の走る鼻を鳴らした。

 

「〈聖痕〉による願望成就? ハッ。バカにすんな、魔王──いいや、“純白”のニアラス。

 俺の願いは、俺たちの手で、必ず叶える。神様なんぞの手なんて、借りるまでもねえぜ」

 

 そう言うとわかっていた魔王は、闇の粒子を塵芥(ちりあくた)のごとく微風に朽ち融かしながら、真に尊敬に値する人間を振り仰ぐ。

 勇者は言い募る。

 

「100年かそこいらの安住なんざ、こんなちっこい〈聖痕〉なんぞに──神なんぞに頼らなくても、俺たちの力で築いてやるさ。人間さまをなめくさるなってんだよ」

 

 闇の魔王は微笑(わら)う。

 それでいい。

 それが正解。

 では──

 

「では、おまえは、何を望む──イアラフトゥ」

 

 聖痕の力は奇跡の形象。

 その手に宿る光の傷は、彼自身がいくら否定しようとも、保有者の望みを実現させ得る願望成就の機構であり機械だ。

 望みさえすれば巨万の富を、永遠の悦楽を、絶世の美女も、思うがままだ。

 だが、彼にはそんなものいらない。それに勝るものを、既に手にしている。

 イアは天上を見上げ、煙草を手に考える。

 

「…………、ダチのために」

 

 瞬間。

 罅割(ひびわ)れた空間を、清烈な輝きが満たした。

 彼に残された最後の〈聖痕〉── 奇跡の一画(いっかく)が、まばゆいほどの光をあふれさせる。

 イアは願う。

 

「〈聖痕〉よ。俺の友達(ダチ)の願いを叶えろ。

 この“おひとよし”で、ずうずうしくて、いつまでも一人の女を追いかけてる、純粋で純情すぎる男の願いを、叶えてくれ──」

 

 ばかなことを。

 魔王にむかって、勇者の力を──〈聖痕〉の願望成就を託す勇者など。

 

 

「 はは は。 だめ だよ イア 」

 

 

 魔王は暗澹(あんたん)とした様子で、無形(むけい)の身体を崩していく。

 

 

「 そ の 願い は 叶わ ない 」

 

 

 ほつれていく意識と言葉の中で、勇者は、友は、固く首を振った。

 

 

「……いいや──」

 

 

 イアは強い口調で、魔王の残骸に手を伸ばした。

 はじめて会った時のように──いつかの酒場のときのように──手と手を固く握りあう。

 

 

「──叶うさ、絶対に!」

 

 

 だから待ってろと、そう告げる友の黒い右の瞳を見上げながら、魔王は勇者と別れた。

 

 

「あんたは絶対、夢をかなえるんだ。──あんたの“女”を、その手に取り戻せ──だから、それまで待ってろよ、■■」

 

 

 名が呼ばれた瞬間、空間が断絶していく。魔王を封じる世界の法則が、彼を長き揺籃(ようらん)(おり)(とざ)される。

 誰もいない、何もない、永遠停滞の淵の底へ落ちながら、“彼”は言う。

 

 

 

 

「 … … あ あ、 待 っ て る … … 」

 

 

 

 

 闇色の涙が純白の鉄片に零れた。そのあとの言葉は紡がれなかった。闇の肉体が、空間の罅割れのうちに封じられ、閉じ込められる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、魔王は封じられた。

 世には平和が、もたらされた。

 

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 

 ナハルは目を覚ます。

 

「──え」

 

 少女は寝台から飛び起きた。

 

「……夢?」

 

 夢にしては現実感が伴いすぎた。

 まるで自分が、実際そこにいたかのような臨場感。

 いったい全体、何がどうなっているのか、彼女にはわからない。

 ナハルは夢の後半部を鮮明に思い出す。思い出すことができた。

 

「いまの、……魔王、さま、の?」

 

 本当にあったことだろうか。

 だが、それを何故、自分は夢に見たのか、理解が追いつかないでいる。

 

「まさか、これも」

 

 聖痕とやらの奇跡(ちから)

 思い至って見下ろすと、背中の長い髪の一本が神々しいまでの輝きに満ちており、そして、黒い髪の色に戻っていく。

 間違いない。これも〈聖痕〉の力。

 

「……〈聖痕〉」

 

 ためしに、ナハルは寝台脇に活けられた花──わずかに(しお)れたそれらに触れて“願う”。すると、花は淡い輝きに包まれ、たちまちのうちに瑞々(みずみず)しさを増し、萎れていた姿が嘘のように復活する。

 これが〈聖痕〉の能力(チカラ)

 まさに奇跡の御業だ。

 しかも、ナハル・ニヴの総体に刻まれた〈聖痕〉の数は、“幾億”にも及ぶという。

 それはまさに、夜に瞬く星の数にも匹敵する──爪の先から髪の毛一本にまで刻み施された神の(しるし)だ。

 彼女は心底おぞましく思う。神とやらの恩寵のなす事柄を、心の底から恨めしく思う。

 こんな夢を見せてなんのつもりなのか──いや、それとも。

 

「……これは、私が願ったから?」

 

〈聖痕〉は保有者の、つまり、ナハルの願いに即した力を発揮する。

 生存を望めば戦いの術を与え、自己を害する暴威の群れを瞬滅せしめる。それが神の御業の証たる願望成就。

 

「くそッ!」

 

 ナハルは毒づき、小さな拳で枕を潰した。

 あまりにも忌々しい。

 あまりにも呪わしい。

 自分をここへ、この世界へ追い落としておきながら、何が恩寵か。何が奇跡か。

 こんな盗み見のごとき現象を、ナハルが本当に必要だと思ったのだろうか。

 

「ごめんなさい、……魔王さま」

 

 あなたの過去を盗み見するような真似をして。

 忘れようにも、忘れられない。

 魔王の切なる声が、一人の男の願いが、ナハルの耳には残されていた。

 

 剣王、イアラフトゥは言っていた。

 ──『この“おひとよし”で、ずうずうしくて、いつまでも一人の女を追いかけてる、純粋で純情すぎる男の願いを』と。

 

「魔王さまの、願い……」

 

 考えたこともなかった。

 考えてみれば、魔王にも願いの一つや二つはあって当然。叶うことなら、私も彼の望みをかなえたい。

 だが、そう思い、真摯(しんし)に願うナハルに対し、聖痕の群れは無反応。無力感と脱力感で、ベッドを荒々しく叩いた。神の敵対者たる魔王

 

「何が願望機だ……何が〈聖痕〉だ……」

 

 神とやらへの呪詛を強めるナハル……彼女は勇者との戦いに敗れ、封じられていく男の切々たる声音を思い出す。

 

『 … … あ あ、 待 っ て る … … 』

 

 彼が(こいねが)待人(まちびとは)は、果たしてどんな女性(ひと)だろう。

 あれほどの声を──想いを──受け止めるべき相手とは、何者なのかという興味。

 

「魔王さまにも……恋人とかがいたのかな……」

 

 明日にでも訊ねに行ってみようか、しかし、これは彼にとって、とてつもなく個人的な事柄でもあるはず……あまり気乗りしない。

 何より、これはナハルが〈聖痕〉を通じて、夢で見たこと。どう説明したとて、盗み見を本人に明かす気持ちにはなれない。

 そして同時に、ナハルはもうひとつの夢のことを思い出し、たまらず涙をこぼす。

 魔王封印の直前に見ていた、自分の夢──すでに千回はくりかえしたみたと確信できる、正真正銘の悪夢に思いを致す。

 

「ごめん……ごめん、レーくん」

 

 一人にしてしまって、ごめん。

 そして、ナハルは少女の身体を──自分のお腹を抱きしめる。

 

「ごめんね、ごめんね……」

 

 生前、そこに宿っていたはずの、生命(いのち)……

 事故によって奪われた、彼との子供……

 産んであげられなくて……

 本当に申し訳ない。

 

 

 

 

 

 

 

 あの時に戻りたいと願っても、事故に会う前に戻りたいと切に願っても、〈聖痕〉はやはり望みをかなえはしない。

 軌跡など嘘っぱちじゃないか、そう泣き続ける少女の声に対し、戸外に佇む魔王は、何も言わず無音で立ち去っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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友への手紙 -1

/Transmigration …vol.21

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 異世界の〈魔者〉の国。ニーヴ大陸は港湾都市。ローン。

〈勇者〉ナハル・ニヴを迎え入れた魔王(アン・ターヴィルソル)が居留する城。

 その庭園の一角で。

 車椅子に乗せられた少女が一人。

 

 ──ナハルが眠り続けてから、有に一年が経過していたらしい。

 意識を失ったらいきなり一歳、歳をとってしまうなんて、夢にも思わなかった。

 

(夢……か)

 

 ナハルはぼんやりと思い出す。

 目の前で椅子に座る魔王が、超然と足をくむ王様が、100年前の、あの戦いで、あれほど切実な声を零していたとは、想像もつかない。

 

(私が一年ぶりに起きたっていう報せを、魔王さまが驚きもしなかったのは気になるけど)

 

 魔王曰く、

 

「そんな気はしてた」とか。

 

 彼は続けて説明してくれた。

 

「〈勇者〉と〈聖痕〉は、いまだ未解明な部分が多いし、何より、(ナハル)に与えられた聖痕の量は幾億にも及ぶ。それを性急な戦闘行為で浪費したことに、肉体が耐えきれなかった可能性は高い」

「はぁ」

 

 ナハルは気もそぞろだった。

 自分の室内で純白の鎧姿の王様がいるというのも現実味がないが、その中身は伽藍洞の空っぽ──闇の粒子で満たされているとはだれも思わないだろう。

 それぐらい軽妙な動作をまじえて、魔王は告げる。

 

「これからは聖痕を多用しても大丈夫だろう。『ようやく準備は整った』というべきかな?」

「準備?」

「修行だよ」

 

 言って、彼は多くの書物をナハルの室内に運び入れ、肉体改造の術理を根本から教え込んだ。

 剣術、槍術、斧術、状術、拳法、古武術など、それは多彩な“戦い”の基本教練となった。

 今は小休憩の時間だが、一年も眠り通しだった体は筋肉が固まり、〈魔術〉の恩恵で人並みに歩ける程度には回復できたが、「無理は禁物」と、今に至る。

 

「……言ってることとやってることが、極端な気がするな」

「?」

「ううん、こっちの話です」

 

 ナハルは骸骨姿の乙女・介助役のアバルに手を振ってみせた。彼女は微かに頷く音を頸骨に響かせる。

 そうしながら、膝上におかれた参考書……歴史書の一部とされるそれを読み解く。

 

「『〈勇者〉とは。己の愛する者、真に大切だと思う者のために戦いし者。人を想う心を力の糧とし、神から与えられた超常の力を振るうことを許された、人間の総称だ』」

 

 征竜王伝説・下巻より。

 

「…………」

 

 思わず渋面(じゅうめん)を広げるナハルの表情。

 そこへ懐かしい……と呼ぶには交流の短い魔者たちが、声をあげて近づいてきた。

 

「おう、起きたか、ナハル殿」

「いまは復調、祝着至極じゃ」

「一年も眠りを姫やらかすとは思わなんだ! 壮健そうで何よりである!」

 

 眼鏡をかけた、上半身が屈強な狼人間・レアルトラ、魔剣の形状をして浮遊する生命武器(アラム・ビオ)・レギン、そして、(ドラガン)の──ナハルが眠り続ける主因となった赤髪に褐色肌の軍人・ソタラハ。

 

「んで。眠り姫様の読み物は?」

 

 全身にボロ布を巻きつけた、貴金属の宝飾品で覆われた木乃伊(サラガーン)のアーンが黒絹のような髪をなびかせて、ナハルの腰の重そうな本を凝視する。

 

「征竜王伝説? なによ、ソタラハの父母の話じゃない?」

「え?」

 

 驚きの声をあげるナハル。

 

「いやはや! 人間どもの想像力は怪奇千万! よくぞ我が父母からあのような厳粛な物語をこしらえたものだ! 賞嘆に値する!」

 

 元気いっぱいに叫ぶソタラハは笑い続けるだけで詳細は語ってくれない。

 

「ま。こっちとあっちじゃ、認識の違いぐらいあって当然ってことっすよ」

「はあ……」

 

 人狼の男の洒脱な声に生返事を返すしかない少女は、黄金に染まった神を意識した。

 あるいは、そう。征竜王の本当の話というのも、聖痕は夢の形で見せてくれるのだろうか?

 

(やめておこう──人のプライバシーをのぞき見るみたいな感じだし)

 

 そう心に決めるナハルだが、諸事情によって過去の覗き見──過去視の際に多用することになることを、彼女本人は知るよしもない。

 

「ナハル様!」

 

 庭園入口に、これまたナハルの知る魔者が、息を切らして現れる。

 水色の肢体に艶めく透明な肌。

 

「イニーさん」

 

 お久しぶりですという言葉は声に出来なかった。

 彼女は車椅子姿のナハルに、とびかかるような速度で歩み寄る。そして、豊満な胸に抱きしめ、ついでその手を取って膝を屈した。

 

「……お目覚めになられて、本当に、本当によかったぁ……!」

 

 陛下も随分とご心配なさってお出ででしたという言葉が、妙にナハルの心をくすぐった。

 

「イニーは過保護ね」

「ロース修道女なみに気にかけておられていたからな、イニー殿は」

 

 そういって呆れるアーンやレアルトラ達同僚を放置して、水妖の乙女は慌てて手を引く。

 ぽたぽたと指先からこぼれる、涙にも似た雫が、ナハルを濡らしてしまっていた。

 

「も、申し訳ありません。お召し物と本をお汚しに!」

「ああ、いえ。気にしないでいいですから」

 

 本当に心配してくれたことが肌で感じられる。本当に素晴らしく性格がよい。水妖という特性で、服と本に付着した水分を律儀に抜き取っていく様すら誠実そのものだ。

 

「それで、イニー殿。我等が陛下は」

 

 水妖は口調をあらためるように、必要のない咳ばらいを一つ。

 

「ナハル様の体調も快復なされたことですし、本格的な調査と修練を兼ねて、一度魔都の方に移住していただく手筈に」

「魔都?」

「魔王さまの都──私たち魔者の大陸の首都ってところかしら?」

 

 説明するアーンに、首肯を小さく繰り返すアバル。

 

「それはいい! 我の方も、ナハル殿とは本格的に修練を積んでみたかった折にて!」

「いやいや。実戦闘面はまだ無理でしょ。魔法解析と魔術鍛錬が先になるんじゃないかしら?」

「ん、おお、陛下!」

 

 従卒を幾人も連れた純白の鎧姿が一同の許に現れた。女エルフ(ルハラハーン)であるガルも、白いパンツスーツ姿で秘書然とした佇まいだ。

 

「調子は良さそうだな、ナハル」

 

 少女は少しだけ深呼吸する時を要した。

 

「はい、陛下」

 

 思い出されるのは(くだん)の夢。

 友にして仲間たる勇者に打ちのめされ、封じられていく最中に交わされた、一人の男の願いの成就。

 

「そう畏まる必要はない」

 

 中身が闇の粒子の身で構築されているとは信じがたいほど気さくな調子で、魔王はナハルと目線を合わせるべく片膝をついた。

 

「魔都への移住の話、ナハルは聞いたか」

「はい、陛下」

 

 自分としては何の異存もない覚悟を露わにする少女に、魔王はたたえるように黄金の神に房を撫で梳いてやった。

 彼は続ける。

 

「なぁ、ナハル。友達へ手紙を書いてみてはどうだろうか?」

「手紙──!」

 

 ナハルは、向こうの大陸に残してきた友のことをようやく思いだすことができた。本当なら、ソタラハに襲撃修練を受ける前に書く予定だったが──

 

「でも、一年も経っているし……何を書いたらいいか」

「なんでもいいさ。君がこの国で思ったこと感じたこと、出会った魔者たちのことは……まぁ書いてくれて構わない」

「〈魔法〉の真実は、よろしいでしょうか?」

「そこは──まぁ、いいだろう。王族ともなれば、そのあたりの事情に精通刺させておくのも、教養のひとつだ」

 

 少し違和感の残る許容の言葉であったが、ナハルは今夜中にも、親友プレアへの手紙を書きあげようと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 

 

 親愛なるプレアへ。

 

 

 この手紙をあなたに送る私は、ナハルです。

 ナハル・ニヴです。

 あの雪の日、村が襲われ、教会が焼けたとき以来ですね。覚えてていますでしょうか。

 これが私たちの初めての手紙、ではないですね。昔少しだけ、文字の練習でした文通(の真似事でしたね)を思い出します。少しだけ懐かしいし、同時に緊張もしています。

 

 一年ぶりの連絡──手紙となってしまって、ほんとうにごめんなさい。

 

 あなたも知っているでしょうが、私の身体に刻まれた「聖痕」、その数があまりにも多すぎて、魔王陛下に封印処理をしてもらわなければ大変な状態が続いたことが起因しています。聖痕とやらが多いのも考えものですよ。髪の色まで黒から金色にかえるなんて、ひどいものです。言い訳にもならない理由だけれど、本当に心配をかけたことでしょう。本当に、ほんとうにごめんなさい。

 ロース修道女も無事ですので、どうかご安心を。

 彼女は私の叔母──亡くなった母の妹でもあるので、魔王さまに処遇を頼んでいるところです。おそらく、〈魔者〉の大陸に生きる人々の一人として、元気に暮らせていけるはずです。

 そう。

 こちらの大陸──そちらのいうところの暗黒大陸は、なんというべきか、本当に良いところです。気候もおだやかで、港湾都市ローンの海風は、本当に(こころよ)い感じがします。保養地としては格別ではないでしょうか?

 

 そちらは一年たって、どうなっていることでしょう──

 

 私がいた時ですら、魔王深津の兆しの噂だのなんだので混乱していたのですから……少しは落ち着いているといいのですが。

 その噂の魔王(アン・ターヴィルソル)陛下は、本当にいい人で、ちょっと混乱しております。

 プレアも少しだけ、ほんの少しだけ陛下と話したでしょうが、どうしてこんなにも優しく接してくれる方が、世界を滅ぼす業悪な王などと呼ばれているのか不思議なくらいです。

 何か理由があってのことなのだろうと確信しています。

 私が陛下から聞いた〈魔者〉の正体──〈魔法〉の秘密──それらを書き記すのは、次の機会に、プレアの返事が届いてからにしようかと思います。

 

 私の親友プレアへ。

 

 どうか、心穏やかに健やかに日々を過ごせますようにと、私は願ってやみません。

 こんなひどい時代に、どうか負けないで。

 また会える日が来るのを心待ちにしております。

 

 

 あなたの友 ナハル・ニヴより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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友への手紙 -2

・人物紹介

“黑鷹の大公”“黒獅子”

「サウク・アキニーツィ・イムパラハト」

 義兄・国王の命令で帝室に婿入りした。黒髪隻眼の“参謀”。

 姪思いのおじさん。


/Transmigration …vol.22

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 人間の地────ティル・ドゥハス大陸。

 

 統一王国・首都エツィオーグ。

 統一国王の名は、ファウクーン・リアハ・ウァラハス・リーァハト。

 彼を政治的に支える文官と、軍事的に支える武官とは、もとから対立するような構造をなしている。それは問題ない。国を運営するうえで、三機構が癒着することは、国の腐敗と頽廃を招くからだ。

 

「ですから! すでに諸方にて、〈魔者〉の大量発生をこれほどの数が確認されているのです!」

 

 白熱する議論。

 がなりたてる若者は、統一王国の国務尚書。名をマクティーラ・メアフ・ディールタス伯爵。

 若年ながら伯爵家を継いだ栗毛の若者──文官の長は、とある資料を手に熱弁を振るう。

 彼に賛同し、「国庫を開放すべし」という意見を持つのは、九人いる文官のうち四人。

 国務尚書のほかは、土木尚書、コラッハ・スィール。宮内尚書、ペーコーグ・セルヴィーシャハ。典礼尚書、イービス・アウラ―二―。

 彼の言論は続けて議場を震わせる。

 

「旧帝領にて『九』地域、北方氷原にて『十』地域、西方魔装都市地域では『十二』、南方の亜人獣人特別自治区でも『十三』、そして我等が首都の膝元であるエラバル副首都を含む『十六』──総計六十もの領地にて、人喰いの〈魔者〉による人的被害が出ている! 先日派遣した調査船団からも通信が途絶えた現状を鑑みても、魔王の復活は確定事項であると申し上げさせていただきます!」

 

 がなり声をあげて書類の束を机上にブチまける。

 議会にてハト派に位置づけられるマクティーラ国務尚書。年齢は三十台半ばということで議場内では若輩とみなされる青年は、栗毛の髪と紅玉の瞳で堂々と議事場内のお歴々に危機意識を促した。彼は続けざまに、国軍による防衛策──〈魔者〉根絶に必要な兵力の登用を訴える。が、これに難色を示すのは、ハト派と対極に位置するタカ派、統一王国の財政を司るシーナハ・カニ―財務尚書である。壮健な若人に対し、こちらは宮仕えをはじめて三十年、国務尚書が生きた時間分を政治に注いできた、禿頭の御老公である。

 彼と同意見──国庫解放などもってのほかと考える派閥は、内務尚書ラクーン・マドラ・ファルトール、司法尚書キーラ・セルヴィーシャハ、内閣書記官長、パーロージ・バルド。

 国財の長は静かに述べた。

 

「そんなことはわかっておる。だが、我が国の軍事費用はすでに他の財源を圧迫している。とくに、ここ数年続いた異常気象による災害救助費が響いているのだ。寒村が雪にとざされ、酷暑で土地が干上がり、地の恵みを得られなかった民への給付慰労会は、もはや過去に例を見ない額を呈示しておる。そんな時節に、復活しているかどうかも判らぬ魔王への対策費用などと──のう?」

「何を馬鹿な! 実際に〈魔者〉によって壊滅した村落もあるのですぞ? これが後々にどういう被害に発展するか、考えてみてはどうか?!」

「国務尚書くん。お気持ちはわかるが、ない袖は振れぬのが道理というものだろうに?」

 

 口をはさんだのは老人ではなく、女性の好悪を感じさせぬ一声。

 

「魔王復活は確定事項。だが、現在の財源で対策費用──軍務に回す金はないなどとは、おっしゃられまいな?」

「無論、そうだが……」

 

 国務尚書はあきらめたように席に腰を落とした。

 癇癪を起しかける自己を制するように長い栗毛をかきむしる。

 

 彼を制したのは、魔法府の長である魔法尚書を務める女幕僚ララァバである。

 

 見た目は十代後半でも通りそうな若い娘に見えるが、実際は、〈魔法〉によって老化を遅らせているとか、あるいは変身の〈魔法〉や幻惑の〈魔法〉によって姿を変えているとか、そういう噂だけは枚挙に暇がない。いずれにしても、銀色の長髪と眼鏡越しに見える紫水晶の瞳に、蠱惑的な雰囲気を纏う年齢不詳の才媛として、長く王国の魔法発展に尽力してきた影の実力者だ。

 彼女は手を組み足を組み、黒衣の上からでも主張の強い胸元を張り出して、居丈高に主張する。

 

「国務尚書くんは、我が国の財政を破綻させることをお望みなのか? 無用な出資と出兵により、自ら国益を損ねるというのは如何なものか?」

「無用であるはずがないことは再三申し上げている通りだ! 現に〈魔者〉の被害は」

「拡大する一方、と言いたいことは判る。判るが、」

「!」

「!!」

 

 文官らが円卓の議場を囲んでいる中に、国王の参謀にして義弟・サウクの姿はあった。

 参謀府の長として、議場を席巻せねばならぬ身分というのもあるが、

 

(実際、軍事方面で我が国が出来ること──それを左右するのは、間違いなく金だからな)

 

 サウクは左目の眼帯を撫でつつ黙考に耽る。

 

(〈魔者〉への対策は喫緊の課題。どうあっても軍務省としては予算を捥ぎ取る必要がある──のだが)

 

 右目をちらつかせ、右側の席──国王の席に近い位置にいる友人を見た。

 シキーン・ガルダ・ティルガラホール軍務尚書。

 サウクと同年代の彼は、いかにも苦労性な気質を表す白髪に、震えた双肩がいかにも小動物的だ。「臆病者」とのそしりは免れないだろうが、彼がそれだけではないことは、少ない軍事費で国土防衛の任に必要な最低限度の兵装と兵員と兵站とを揃えることができる辣腕家(らつわんか)だからである。サウクではこうはいかない。おそらく国王自身が同じ仕事をなさそうとしても、彼の行には及ぶまい。

 

(おっと、不敬罪不敬罪)

 

 いや、むしろこの場合は“不経済”というべきか。

 大地は枯れ、作物の実りないこと、早数年。一年前はどうにかなるだろという楽観論が先行していたが、もはや、その地平を軽く飛び越えてしまった。

〈魔者〉の襲撃は勿論、腹が空いては農民は生きていない……彼らは国が徴税する各地の国庫を襲い、収奪された食い扶持にありついている……つまりは内乱だ。

 

(内乱といえば、チィーガルのやつぼやいてたな。

「これ以上、戦域が広がるようなら俺は陛下に直談判(じかだんぱん)するぞ」──あいつなら本当にやりかねないな)

 

 チィーガル・ガースタ・ドゥブ・スラウラ辺境伯。

 もっとも遠方かつ国土最重要地である聖地守護の退任を司る彼は、この場にいない。サウクの左席は空だ。現在、彼は報告があった〈魔者〉の群体に襲われた都市防衛のため駆り出されており、会議などに出席している場合ではなかったのだ。

 

 白熱する議論だが、方向性が定まらぬ原因はひとつであった。

 国庫解放の賛成が四、反対が四、棄権が一で、両陣営が意見を自分たちよりに持っていこうと躍起になっている。あれではほとんど言い争いだ。醜い権力抗争そのものといったありさまである。

 サウクは涼しい顔で茶をたしなむ女性を睨み据える。

 

(あの女狐──ここぞとばかりに棄権しおってからに)

 

 無論、魔法尚書の特性・特質というべきか。彼女は自国内の魔法研究関連に関する議題ではいの一番に参画する癖に、こういった国政にかかわることには無関心極まれりなのだ。

 

(〈魔法〉は万民に享受されるべきもの──という熱意は本物だが、……)

 

 黒衣黒髪に妖しい色気。花鳥を思わせる典雅な黒いドレスに肩掛けまで、すべてが魔法工房による一級品ときてる。

 それでいて、サウクを見てくる熱っぽい視線。〈魔法〉で幾度も左眼を直して差し上げようと言ってくるが、ありがた迷惑この上ない。

 彼女の視線を追い払うようににらみつける眼圧をあげると、魔法尚書は悪戯っ子のような微笑で論議に戻った。

 サウクは大きく息を吐く。

 

(はぁ。いっそのこと、──あのとき、宰相位にでも就いた方がよかったか……?)

 

 彼は自虐的に考える。軍事もとい戦闘での才能に恵まれていたばかりに、義兄から“参謀”などという新たな役職を創設されたが、最近は富に思う……空位である宰相位について、王の国政と軍事、両輪を支えるものとなるべきものがいるのではないか、と。

 だが、自分は王の義弟。おまけに、帝国の姫へ婿入りしたことで、その道は完全に閉ざされた。王を補佐する宰相の権威に、家族の情や帝国の血が混じることを忌避する動きは必ず来る。絶対に。

 黒獅子と呼ばれた戦地の覇者──黑鷹の大公は毒によって潰された左眼に、空の玉座を見据える。さらに一座を見渡す教皇席に座すものもいるが、恐れ多すぎて眺めることも難しい。

 

(本日も体調を理由に欠席──王が議論に参じていれば、結論まで一足飛びだろうに)

 

 国政を蔑ろにして久しい義兄──だがそれも、四人の子を殺された事実を思えば、無理もない。

 ちなみに、教皇には国政にかかわる権道はない。信仰は民を導きはするが、政治の道具とされた歴史もあり、その反省によって、教会の権威は信仰を司ることのみとなった。政治は政治

宗教は宗教、司法は司法であり、軍事は軍事が担う──だが、それも民が飢えていなければであり、民が“喰われていなければ”という注釈がつくだろう。

 さて、どうしたものかと目を閉じるサウクに、隣席から声がかかった。

 

「な、なぁ、サウク」

「どうした、シキーン?」

「これ、いつになったら、終わるのかな?」

「帝国になればいつも通りに散会だろうよ」

「そ、そう、じゃあなくて」

「うん?」

「いつになったら、我等の王は立ち直っていただけるのだろうか?」

 

 自分と同じことを考えていた友に、彼は片目の身の笑顔を向ける。

 

「大丈夫だ。我が義兄は、きっと戻ってこられる」

 

 そう。必ず。

 

「あ、ああ、そうだ。これ、今月の文……今、渡しておこうかと」

「おお。ありがとな」

 

 シキーンとの相談や雑談に、こういった文通を使い続けて数年となる。

 サウクは自分の広い袖口に文を大切にしまい込んで、また難しい顔で議場を見やる。

 

「今晩は空いているか。久々に飲みたい気分なんだが」

「いや、国家の重大事というときだから、控えておくよ」

「ふふ、そうかい?」

 

 定刻を告げる教会の鐘が鳴り、本日の議論は決着を見ずに散会となった。

 

 

 

 

 



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友への手紙 -3

/Transmigration …vol.23

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 王城の敷地外に存在する各政務機関のなかで、ひときわ立派な造りをしている議事堂──国家の法律運用を司る司法府、国家の〈魔法〉技術の管理と発展を担う魔法府、軍の統率と作戦=軍事行動を王に代わって取り仕切る参謀府、これらと並び称される国家の枢要を担う国務府のおかれた宮殿のごとき官邸は、通称を「評議会」という国の最高機関の象徴的建造物だ。

 その評議会に集められたのは、国王の政務を輔弼(ほひつ)する政務官たち──内閣が組閣され、貴族のみならず、平民の中から選抜・推挙された百官によって、国の(まつりごと)を王に対し助言する。内部では貴族院と平民院の二つの組織に別れ、各府庁の官僚たちと連携しつつ、国という船の舵取りを行うものたちが、今日も政務に会議に邁進していた。

 いかに賢王賢帝とはいえ、たった一人で政治のすべてを行えるはずもない。交通、運輸、衛生、福祉、財政、経済、諸々の国民生活に必要な事業の采配には、緻密かつ慎重な手腕が求められるのが世の常である。

 これまでは。

 だが、王位継承者、王の子息たちが相次いで死ぬというという悲劇に見舞われ、王妃は病に伏し、王は国政を蔑ろにする日々を送っている。

 

 そんな状況の中で、与えられた百合(リラ)の宮殿に引きこもった王女──統一王国の第一王位継承者──元々の継承権は第五位の最下位だった少女──プレーァハン・バーン・ニーファフト・リーァハトは、今日も窓辺でうつ伏せになる。

 

「…………」

 

 どんな名医に診せようと、どれほど癒しの〈魔法〉を授けられても、彼女の鬱屈とした状態は晴れなかった。

 療養食は喉を通らず、薬まで吐き戻す始末。体挌は目に見えて細くなり、体重は激減。ドレスを着ようとすれば、コルセットなどを用いる必要がないほどといえば、その異常ぶりがよくわかるだろう。今の彼女には、そのドレスを纏う余裕もない。

 枯れ枝のように細くなった手首で、彼女は思う。

 

(ナハル、生きてるかな?)

 

 悪夢と慟哭に泣きはらした眼で、寒空の下でカーテンの隙間からこぼれ落ちる陽光の揺れを、見つめる。パキリと暖炉の薪が爆ぜた。

 今のプレアの胸中は複雑と煩雑の見本市だ。

 生きているはずという期待と、生きてはいまいという絶望が、混在する。

 

 あの雪の夜。

 魔者に襲撃され教会が焼けた後──

 

 プレアはナハルを止められなかった。

 ナハルは自刃するほどの覚悟を見せて、魔王軍の幕下に入った。

 そうすることが彼女の望み。そうなることだけが彼女の欲動であり、希望だった。

 であるなら、プレアごときには止めるすべはない。彼女を笑って見送ってやったが、果たして本当に、〈勇者〉として選ばれたナハルが、魔王の勢力圏内で生きていけるのだろうか。

 当初は何らかの連絡があればとも思ったが、考えるまでもなく、そんなものが届く距離ではないことは絶対的だ。

 そもそも両者ともに、互いの位置が──居住する場所すら共有知識として知りえていない状況で、どうやって連絡が届くというのか。我ながら失笑ものである。

 

(ナハルが生きていないのなら、私は──)

 

 生きている意味なんてない。

 そう思い詰めるほどに、涙が滾滾(こんこん)と溢れかえる。

 肩を震わせ、嗚咽が喉の奥からこぼれかけた時だった。

 

「ぴぃ、ぴぃ、ぴぃ」

 

 鳥の鳴き声が、プレアの耳元で(ささや)いた。

 

「────え?」

 

 プレアは鳥の(たぐい)など飼っていない。精神的治療と称して、叔父上からいただいたもの(ペット)もあるにはあったが、すべて勝手に他人の手に譲ってしまった。理由を問われれば鳴き声や羽音がうるさかったと言ってすませ、それに叔父もそれを承服してくれた。納得するしかなかった。──実際に、傍らに動物がいても、それを(くび)り殺しそうなほど、プレアの精神状況は破綻寸前の半歩手前であったから。実際、送られてきた見舞いの品の花々は散乱し、人形やぬいぐるみは切り刻まれ叩きつけられるように破壊され、残骸がそのあたりを転がっている。部屋は即日に変えられ、メイドらの手で清掃されたに違いない。この広い室内にあるのは、大きな天蓋付きベッドと文机と椅子が一脚あるだけ。プレアが暴れだしても、重大なことは起こらない程度の強度をそなえた調度品に魔法で強化されたガラスの格子窓。ほとんど囚人部屋のような、それにしては豪華絢爛たる収容所であった。

 プレアは部屋を見渡す。

 窓も一切が閉ざされている。

 この室内に限っては、プレア自身の手で、すべての扉と窓の施錠は確認できている。天井(てんせい)という明かり取りの窓も完全に閉じていた。

 なのに、その青毛の美しい小鳥は、すべての障害を取りはらって、プレアの肩先にとまっている。

 だが、不思議なことに、これまでのペットの類と較べ、嫌な感じはしなかった。

 それどころか、何か神聖な、心地よい何かをプレアにもたらす──その予兆めいたものを感じ取る。

 プレアが指を差し出すと、青い鳥は「ぴぃ」と鳴きつつ、金色の光を放った。

 

「!」

 

 愕然となるプレアの前で、青い小鳥は一通の封書に変わっていた。

 まるで奇跡の力のように。

 

「まさか」

 

 痩せた指で封書を開いたプレア。

 彼女は黄金の便箋、その文面にある友の名に、涙を禁じ得なかった。

 

 

「ナハル!」

 

 

 これはナハルからの手紙だ。そう確信した。

 いったい、どういう原理でこんな奇跡のような手紙が届けられたのかプレアにはわからない──ナハルの幾億もある聖痕をひとつ消費するだけで、友の許へ届く手紙を、青い小鳥にかえることは簡単であった。そうなれるまでに、ナハルは己の力を使いこなせるようになったのだ。

 プレアは手紙を大事そうに、慈しむように、胸元に抱きしめた。

 

 

「────ありがとう、ナハル」

 

 

 あなたが生きていてくれて、本当にうれしい。

 プレアはその思いを文書に(したた)めずにはいられなかった。

 感動の思いのまま筆を執り、感激の想いそのままにインクを走らせる。

 

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 

 親愛なるナハルへ。

 

 

 本当に久しぶりの手紙に、私は驚きを隠せません。

 あなたが生きていた──生きていてくれた事実に対し、すべての神に感謝を捧げます。 

 いえ、あなたを助け、導いてくれた魔王陛下にこそ、この感謝はふさわしいのかしら?

 

 どちらにせよ。

 あなたからこうして文を頂戴できて、嬉しくて嬉しくて、嬉しすぎて飛び上がってしまいそう!

 

 だって、本当に久しぶりの、一年もの間、音信不通だったのだから、でも、責めたりはしません。あなたが生きて手紙をくれたこと──これ以上を望む方がどうかしてる!

 

 こちらこそありがとう、ナハル。手紙をくれて。

 ほんとうにありがとう、ナハル。あなたが生きていて。

 

 ああ、もうとにかく無事で何よりです。いろいろなことを()きたいところですけど、あなたへの返信をおくらせるわけには……

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 そこまでを書いて、プレアは思った。

 

「どうやって返信すればいいのかしら?」

 

 そう思う間に、彼女の用意した便箋を、また現れた青い小鳥が催促するように突っついた。

 プレアは理解した。きっと、この小鳥は、彼女の“使い”なのだと。

 

「お願い、できる?」

 

 小鳥は頷くように「ぴぃ」と鳴いた。プレアは返信を続ける。

 

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 

 返信を遅らせわけにはいかないので、簡潔に。

 

 こちらは相変わらず元気に──というと噓になりますが、あなたからの手紙で、ようやく立ち直れそうです。

 あなたには打ち明けたいことが山ほどありますし、秘密にしていたことは海のように深く秘めたままです。

 あなたはびっくりするでしょうか、それとも「ふーん」の一言で済ませるかもしれませんね。

 

 それでも、

 こんな私と、あなたは“親友”になってくれた。

 はじめての“友達”になってくれた。

 その恩は、決して忘れません。

 

 

    

 私の親友ナハルへ。

 

 

 

 どうか、心穏やかに健やかに日々を過ごせますようにと、私も願ってやみません。

 

 どうか、どうか無理だけはしないで。また連絡できるときに、手紙をくださいな。

 

 私も、あなたとまた会える日が来ることを本当に、本当に心待ちにしております。

 

 

 

 

 

 あなたの友 プレアより

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 

 短めに気持ちだけを押し込めただけの文書になってしまったが、プレアが納得して普通の便箋をたたんで封書に入れると、青い小鳥はそれを(くわ)えてくれる。

 

「ナハルのもとへ。お願いね?」

 

 そう青い毛並みを一撫ですると、小鳥は承知したように飛び立ち、部屋の中を旋回しつつ、黄金の輝きを零して、何処(いずこ)かへ消えた。

 部屋には、ナハルの記した黄金の便箋が残るのみ。

 すべてが夢のような出来事だったが、彼女の胸元に抱かれる伴からの手紙の質感は、真実(まこと)であった。

 

「ナハル────生きてて本当に、良かった」

 

 プレアは、半ば自暴自棄になり、自死することまで考えていた自分が嘘だったような活力に満ちていた。

 ナハル・ニヴが生きていた!

 生きて、プレア(わたし)に手紙をくれた!

 たったそれだけのことがこんなにも嬉しいし愛おしい!

 百の良薬でも癒せなかった王女の身体は、その場でワルツでも踊り回りそうな衝動に駆られ震えていた。

 と、そこへ、室内に響き渡るノック音。

 

「はーい!」

 

 いつもであれば返事などする余裕などなかった……あっても「うるさいッ」の一言で済ませて追い返していたが、今日この時に限っては、話は別。

 

「王女殿下? えと、サウク大公殿下がお見えに」

「ああ、叔父様ですね」

 

 どうぞ通してくださいとメイドに申し付けると、サウクは驚愕しながら姪のもとへ訪れる。

 

「プレア? いったい。どうした? 昨日までのおまえとはずいぶんと」

「別人のようですか?」 

 

 そうですねとプレアは白い髪を大きく振って頷いた。

 

「ようやく。うじうじする時間に終わりを告げることができたのです、我が友に感謝しないと」

「わが友?」

 

 頭をひねる隻眼の甥をとりあえず無視して、プレアは食事の用意をメイドに頼んだ。

 ナハルが無事とわかった瞬間に、眠っていた食欲が旺盛になり、胃袋を鳴らし始めたのだ。

 

「そういえば、まもなく私の十歳の誕生日でしたね?」

「ああ。そのことでおまえの状態を見てから、開くかどうか決めようと思っていたが」

「素敵な誕生日になりそうです、叔父上」

 

 ナハルはそう言うと、待ち切れなくなったと言わんばかりに歩き出して、一年ぶりに部屋を出た。

 あっけらかんと置いていかれる叔父のサウク。

 メイドや料理長らが驚きつつも、食材である干し肉の細切れ、果実や生野菜にまでそのままかぶりつく勢いを見せるプレア。長い修道院暮らしにおいてもやったこともない──ナハルたちとのつまみ食いは日常茶飯事だったが、このような鯨飲馬食(げいいんばしょく)に耽るなど姫として王女として不適格だろうに。だが、次にナハルと会った時に、痩せた姿など見せられるわけがない。

 

「まずは穀物(グラーン)雑炊(ぞうすい)からにしておきなさい」

 

 肉体の不調を取り払った様子の姪っ子を、サウクはおかしみを込めた笑顔と共に見届けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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太陽剣の勇者


そろそろ、第一章・完


/Transmigration …vol.24

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 ナハルとプレアの文通は続けられた。

 奇跡の御業を降着させる聖痕、幾億もあるそれを使えば、互いの居住地も知りえぬ遠隔地にいる二人が文通を交わすことぐらい、わけがなかったんだ。

 ナハルは無造作に念じるだけで、文通用の小鳥──青い鳥を生み出せるまでに成長をみせた。

 魔王はその成長ぶりに難色をしめすことなく、逆に聖痕の実態把握に大いに役立つと嬉しそうに語ってくれた。

 イニーたち幹部級の魔者たちの協力もあって、ナハルは何不自由のない生活を約束された。

 それと引き換えるように、彼女の「聖痕」についてえ、様々な検証がなされた。

 実際に研究に立ち会った女医のエルフ(ルハラハーン)、ガルイヤーリァハ・ギィーの観測・調査するところ「マヂでありえない」“量”に辟易(へきえき)していた。

 髪の毛一本一本に刻印された聖痕など、それこそ電子顕微鏡でもなければ観測不能な神の(しるし)である。彼女らの扱う〈魔術〉をもってしても、全容を把握することは困難を極めた。

 ナハルが研究対象となるうえで、連れてこられたのは、魔王の国の首都──魔都であるが、それを航空送迎コンテナ──飛行機の飛竜(ラグ・ドラガン)版に揺られていた彼女が見たものは、信じがたいものであった。

 

「これが、魔都?」

 

 天を貫くビル群。建造途中の鉄骨の群れ。それは中世風であった人間の大陸よりも1000年は文明の進んだ、現代世界にも通じる超然とした世界であった。

 

「100年前の戦い──征翼の傭兵団との戦いで、ほとんどぶち壊れたが、魔王さま復活のおかげで、ここまで再建できた」

 

 そうレアルトラ──人狼の青年は語る。

 近現代的な造形を超えた、半ば未来的ともいえる建物の群れは、御伽噺に出てくるおどろどろしい魔王城などとは、似ても似つかぬ造形である。

 

「お次はリギンの旦那が核となる魔王城だ」

 

 そう教えてくれる人狼の説明を受けるまま、コンテナは空を行く。

 同情した中で骸骨(クナーヴァルラハ)のアバルと木乃伊(サラガーン)のアーンなどは平静そのものであったが、

 

「あの、大丈夫、ですか、ソタラハさん?」

 

 飛竜コンテナに乗り込んだメンバーの中で、一人体調が悪そう今にも吐いてしまいそうな青い顔なのが、(ドラガン)であるはずのソタラハ、ただ一人であった。

 

「ソタラハの旦那が飛竜の周りを飛ぶと気流が乱れに乱れて墜落する危険もあるからな。だからといって、魔王さまの近衛兵長を務める幹部が同乗しないわけにいかないってんで」

「乗り物酔いしている、と?」

 

 普段の、快活闊達(かいかつかったつ)を絵にかいたような姿が嘘のように、ダラリと垂れ下がった全身。空虚な瞳。ナハルが心配の声をあげるたびに、だいじょうぶと主張しようとして褐色の掌をあげる様すら苦しげであった。

 ちなみに、同乗している魔王陛下は外の様子を眺めつつぼんやりと思案に耽り、その横の席で秘書官たる水妖のイニーが書類の確認を行っている。仕事熱心なことこの上ない。

 ようやく空の旅も終わり。魔術式地上車に乗り換える。いっそ転移術でここまでくればと問いかけて、魔都の全貌を見晴るかすのに都合がいいのが、あのコンテナによる飛行だったのだと理解するナハル。

 

(本当にこれが魔都なの?)

 

 見る限り、人間と魔者が平和に共存する街だとわかる。道行く異形に人々は関心を示さず、東京は新宿渋谷の雑踏に、仮装の化け物が降り立っている光景、だと言える。古い洋館なども無論あるにはあるが、絶対数は明らかに少ない。

 しかし。違和感を感じるナハル、彼女こそがここでは異分子なのだ。

 なにしろ億単位の「聖痕」を肉体に刻み込まれ、その総数すら測り知れない。

 

「お、見えてきた」

 

 ナハルは可能な限り窓辺に寄って、見た。

 

「す、すご……」

 

 言葉にならないとはこのことである。

 荘厳無比な魔王城──ドイツのノイシュヴァンシュタイン城にも似た本物の城は、リギンという魔者──浮遊し喋る魔剣のおじいさんが“核”となっているらしい話が信じられないほど、巨大かつ精緻の極みであった。十を超える堀池と城壁に囲まれ、二十を超える城砦と楼閣が天を突く。数ヵ所の空中庭園まで設けられた絢爛豪華(けんらんごうか)な魔王城は、ナハルの感嘆と関心を買ってやまない、水晶のごとき美しさであった。

 あの夢の中で観た、打ち壊され朽ち果てた外観は100年前のもの──それをここまで復元する〈魔者〉たちの文明レベルには、ほとほと呆れるしかない。

 

「武器製造は勿論、城郭(じょうかく)城壁(じょうへき)までおったてられる生命武器(アラム・ビオ)は、旦那ぐらいなものさ」

 

 レアルトラは賞嘆してやまない。眼鏡をかけた人狼は、謙遜する魔剣を笑って「さすがは最古参」と称揚する。

 

「俺の(いえ)のほとんどがそうだ。リギンがいなければ、うちの要塞造営事業は成り立たんだろう」

 

 そう評する魔王の声に、魔剣の老爺は「滅相もございません」と謙遜して微笑む。

 飛竜の発着場付きの魔王城について早々、ナハルには私室が用意されていた。

 港湾都市ローンよりも大きく広い。サンルーム付きという部屋は、近くにある美麗な湖の景勝地を見渡すことができ、港湾都市・ローンから見た景色の良さを存分に思い出させてくれる。どこまでも行き届いた魔王の差配に、ナハルは恐縮するほかない。

 

「では、さっそく修業を始める」

 

 ナハルは一も二もなく頷いた。

 軽い運動とストレッチにはアバルが付き従い、準備運動は万端整えられた。

 

「よし。次は、武器の製造だが……」

 

 それについては、既に一家言(いっかげん)を要してしまっているナハル。

 ……神への憎しみ、恨み、憎悪と怨嗟が引鉄(ひきがね)となり、彼女の腕には白光(びゃっこう)棘剣(きょくけん)──光り輝く鋼鉄以上の硬度に満ちた、刺々(トゲトゲ)しい──あるいは神々しい刃が、無数に輝く光の(とげ)となって生成される。

 ナハルの棘剣(きょくけん)は、(つか)部分が茨が巻かれたような形状で、場合によっては束を茨の枝葉のごとく広げ防御や攻撃にも使える。刀身120センチ──こちらの単位表記では「1.2ファード」あるいは「120ファー」──とそこそこ長いわりに、ナハルが振るう分には重みを感じない。が、その重量は1.2トン──現地の単位表記だと「1.2マター」──にもなるのだが、これすらも、ナハルの意志で改変可能。その刀身をキロメートル単位で伸ばしたり、円状に広げるなどして盾となるものを変成するなどの術理も確立された。刃を小さくした小剣を投擲して的に当てる技能や、手を触れた大地から棘剣を大量に生成・攻撃に転化することも可能となった。

 

「形状変化に重量調整、おまけに武器製造に関しては一本の聖痕が永続発動的に使用可能──おそらく、歴代で最も凶悪な勇者となりうるじゃろうな」とは、剣の指南役を務めたリギンの言葉である。

 

 ナハルの奇跡は、一度「こうだ」と決まった場合、それを再使用するのに聖痕を使用しないことも確認された。それが永続発動。

 棘剣も、棘鞭も、棘盾にいたるまあですべてが「一個の奇跡」とカウントされる──つまり、「聖痕が減らない」のである。

 通常ならばありえないことだと魔王は評した。

 勇者が武器などを練成した場合、それが破壊されるなどして奇跡を破却すると、別の聖痕の発動が必要になる──これを単一発動という──ところに、ナハルの場合は武器を破壊しても、一本の聖痕がそれを再生・再錬成可能という特別仕様だ。

 どこまでもインチキくさいというかチートじみている……ナハル・ニヴは無限の強さを秘めた、当代最高の〈勇者〉と称してもよかった。

 しかし、ナハルは鍛錬と修練を自己に課し続けた。

 幼い体はめきめき成長速度を上げ、事件から5年後──14歳になるころには、他の大人と遜色ない印象を受けるまで成長する。

 金髪には黒い髪房が混じっていたが、どちらが彼女の生来のそれであるかは、一同には瞭然たる事実である。

 話を現在に戻す。

 

「さて、うちの巫女(マーン・シーキャハ)が迎えに…………?」

 

 来ているはずと魔王が告げた──そんな折に、魔都へ急報が入った。

 

「港湾都市ローンが、〈勇者〉を名乗る一団に襲撃を受けている」と。

 

 

 

 そして、

 その港湾都市には、ナハルの叔母である修道女、ロースが残留している。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「これが噂に聞く暗黒大陸か?」

 

 緩やかな崖に沿って造営された一個の都市を、男は見上げた。

 暗黒大陸政党部隊の第一陣として、最初の船に乗った〈勇者〉ディーヴァス・アウス。

 (どう)に輝く髪に青の瞳。頬や額を含む全身には190を超える「聖痕」が顔面を含む右半身に刻み重ねられ、独自の光彩を放っていた。

 だが、彼の乗る船は長旅の末に座礁転覆し、そのまま海魔──海の魔者どもの襲撃を受け、同じ船団に乗っていた勇者(見習いを含む〉十五人が死亡。彼の「奇跡」でもって、船団の生き残りたちは、暗黒大陸の西海岸に漂着することができた。

 

「魔法の方位盤を見ても、確かにここが、暗黒大陸──〈魔者〉どもの根城であることは、確かかと」

 

 奇跡の成就によって、見事に命を拾った船団の一人、マカーンタ女史は告げる。彼女は父である提督の下、一等航海士として船団を導いていたが、急激な嵐に襲われ、それをディーヴァスに救われている。

 提督も船長も遭難死──否、海のバケモノ海魔に捕食された中で、おそらく現状、ここにいる漂着者の中では彼女が最上位に位置する(勇者はあくまで船団の客員であり護衛要員でしかない)。金髪の短い髪に(みどり)色の瞳の女性は日に焼けた褐色肌に涙をあふれさせ、自分たちの生存を神たちに感謝した。袖のない衣服は肩先と腹が露出しているが、彼女の筋肉美に覆われ、盛大に海水を吸った丈長の作業員オーバーオールの裾を絞っている。一刻も早く漂着者らの確認と救助に当たるマカーンタ。

 そんな祈りと救助活動に参加することなく、下卑(げび)た声を発する男が、一人。

 

「はは。〈魔者〉共が都市を築いているとは」

 

 彼の視線の席には、港湾都市・ローンが広がっている。

 感嘆に値すると剣を抜くディーヴァスに、マカーンタは悠長にたずねる。

 

「ゆ、〈勇者〉様、い、一体なにを?」

「勿論。魔者退治に決まっておろうが!」

 

 そう言って、彼は光り輝く剣を伸長させ、太陽のごとき輝きを燦々(さんさん)爛々(らんらん)と照らし出す。彼の右腕の聖痕一画が消滅し、巨大な攻撃態勢を構築させる──だが。

 

「お、お待ちください!」マカーンタ航海士が声を荒げた。「この都市の住人すべてが〈魔者〉であるとも思えません! どうか、今は交戦を控え、救助に徹す」

「貴様に命令される覚えはないぞ、一等航海士風情(ふぜい)が!」

 

 マカーンタは色を失った。鼻の奥がツンとなる前に、勇者に()たぐられるまま吹き飛ぶ一等航海士を、仲間たちが救いに行く。

 

「はん。聖痕に選ばれもせん、ゴミムシどもが。『必ずや暗黒大陸への旅を完遂させます』だのなんだのと言いつつ、この有様だあ! 我が戦友も海の藻屑と果てた──だが、まあよい。許してやる。俺は勇者故に寛大だ。夜伽(よとぎ)の五つで許してやろう」

 

 碧色の瞳が愕然と見開かれ、日に焼けた頬にサッと朱が差す──ディーヴァスは獲物を前にした肉食獣よろしく、歯を剥いて舌を舐めた。

 

「我こそが! 魔王退治の一番槍だ! はは、褒賞も何もかも思うがままだ! おまけに今回は随分と殺し甲斐のある数ではないか! せいぜい逃げまどえよ! 人喰いの〈魔者〉ども!」

 

 港で漂着者らの救護に駆け付けんとしてていた魔者たちに向かって、彼の聖剣が光輝を放った。

 太陽もかくやという灼熱の顕現──都市の港を破壊し、崖の家々を焼き払わんとした一撃を、

 

「そうはいかんのだよなー」

 

 気の抜けた声の持ち主が、足をすっころばせる感じで彼の攻撃方向を無理やりに天頂方面へ変えた。

 そうしなければ、港湾都市の住人や、そこの孤児院で働きだしたロースも、無事ではすまなかっただろう。

 

「だ、誰だ! 無礼者めが!」

 

 浜に転ばされ砂をかぶった勇者を見つめるのは、小さな純白の鎧を着た、黒髪の少年兵。ただの童にしては、闇一色の眼球が人外(じんがい)じみた雰囲気を(かも)し出している。

 その鎧の意匠は魔王国の民にとっては勝手知ったものであるが、初対面の勇者たち船団の生き残りにはわかるはずもない。

 

「万一に備えて、各都市に分散させておいて正解だったな。とりあえず、二、三か所からも増員しとくか」

 

 そう告げる声は大人の声。小さな鎧が徐々に大きさを増し、いつもの状態に近づいていく。少年兵は(クロガド)をかぶった。

 

「誰だと聞いているのだ、貴様!」

 

 銅色の髪が天を衝き、青い瞳が屈辱に戦慄(わなな)く勇者の姿に、純白の全身鎧を着込んだ男──闇は応えた。

 

「俺は魔王────魔王(アン・ターヴィルソル)陛下である。はい、拍手」

 

 自らの籠手(こて)で柏手をパチパチ打つ、純白の鎧。

 ディーヴァスは一瞬、怒りを忘れて自失した。

 

「魔王……だと?」

 

 誰もが固唾(かたず)をのんで見守った。

 ここで、こんな漂着地点の最初で、出会うべき相手にはふさわしくないように思えた。

 

「はっ! 虚偽を申し立てるな!」ディーヴァスは無論、彼の言葉を信じなかった。「魔王ごときが、そんなにも神聖な鎧を見に帯びているはずがない! 動く鎧の魔者か、何かであろう!」

 

 そう結論づける勇者の反応を、魔王は肯定的に頷いてみせた。

 

「うん。まあ。信じられないのも無理はないけど、本当は本当だからなー」

 

 緩い感じで答える魔王に対し、マカーンタ航海士が父の言を思い出した。

 

「パパが、提督が言っておりました……魔王は全身を純白の鎧で隠す“闇の王”だと……だとしたら、本当に?」

「は! なるほど、面白い考えだな! 魔王ともあろうものが! こんな大陸の端の砂浜で一体なにをやっているのやら!」

「それは勿論、都市にいる我が民と、君ら漂着者を助けるために来たんだけど?」

「笑わせるなあ!」

 

 ディーヴァスの剣が、またも太陽の色に染まる。刃渡り1.9ファードの、極小の太陽だ。

 

「魔王が民を救うぅ? そんな馬鹿な話があるものか!」

「いやいや。世界は広い。そういう魔王が一人くらいいても不思議でも何でもない、でしょ?」

 

 勇者は答えなかった。答える代わりに、再び聖痕を消費し、瞬間的に脚を強化。

 そして、

 

「んなものがいてたまるかあああああ!」

 

 太陽の剣を魔王の鎧に振り下ろすディーヴァス。

 わずか一秒にも満たない剣戟(けんげき)

 魔王の鎧の上腕部が断ち切られた。漂着者たちの歓声(かんせい)が鳴り響く。

 

「民を護るとは、我々勇者の仕事だ! 魔王と僭称(せんしょう)する鎧ごときが、(わら)えること言ってんじゃねえぞ!」

 

 宣告と共に太陽の刃を向けるディーヴァス。対して魔王は、

 

「ああ、やはり薄かったか……二、三体じゃあ、やっぱりちょっと足りないか?」

 

 どこまでもマイペースな純白の鎧に、ディーヴァスは(ほぞ)を噛んだ。

 

「ふざけてんじゃ──っ!!」

 

 追撃の剣戟を浴びせようとしたところで、赤髪褐色の軍服の青年に蹴りを入れられた。

 一瞬のことで受け身を取り損ねたが、彼が蹴ったのは“太陽の刃”である。

 

(嘘だろ? 俺の太陽剣を蹴っただと?)

 

 どれほどの技量、どれほどの耐性のなせる業かと戦慄する勇者。

 軍服の青年は、烈火のごとき怒気を孕んだ暴声で、言い捨てる。

 

「なにが太陽の刃か。そんな“(うず)()”など、このソタラハには微熱程度にも感じられん──」

「よもや、まさか貴様が本物の魔王か!」

 

 彼の服装の見事な仕立て。彼の戦闘力の発露に誤解したディーヴァスは、竜の逆鱗に触れた。

 漂着者を統べる勇者の問いかけに、極低温の竜声が一言をそえる。

 

「──私と陛下を間違えるなどとは、万死に値する──」 

 

 炎を吹き出し、本来の竜の姿に立ち戻っていくソタラハ。翼が生え角が伸び、竜の鱗と翼に覆われた、四足獣の偉容。

 ここにいる全員を焼死させるには十分すぎるほどの熱量を喉元に蓄積しつつ、竜の瞳で漂着者の群れを睥睨する。

 恐慌に囚われ、マカーンタのように失禁すらするものが多い中で、ディーヴァスだけは余裕な表情のままだ。

 

「りゅ、竜など恐るるに足らん! 征竜王伝説に、攻略法は書いてあった!」

 

 不愉快な伝説を話題にさ、ソタラハの殺意が増す中。

 

「よせ、ソタラハ」

「な、ですが、陛下!」

「彼らは“漂着者”だ。そのことを肝に命じろ──わかったな?」

 

 魔王の分身体である鎧に、彼は礼節の限りを尽くした。

 

「どうか、話を聞いてほしい」

 

 魔王はどこまでも友好的に接した。

 

「我々は話し合いですべてを解決できるはずだ。当方に敵意はない。そちらも、剣をおさめてくれれば」

「ふっざっけるなああああああああああああああ!」

 

 勇者の咆哮(ほうこう)があがった。

 どうあっても。勇者としての矜持(きょうじ)、教会からの先例という名の“入れ知恵”が、彼の認識を敵対の方向へ(かじ)を切らせるしかないらしい。

 

「ここで魔王を討伐すれば、恩賞は我が物! 逃げる道理などなければ、話し合う余地などあるわけもない!」

「──本当に?」

「む、無論だ!」

 

 そもそも人喰いの魔王の話など聞く耳もたない、太陽剣の勇者。

 

(ああ──ダメだ)

 

 魔王は決断する。

 

「では『死ぬがいい』」

 

 突如発生した黒い靄が形象を整え、闇の棺と化した。それが刹那のうちに、ディーヴァスの全身を覆いつくす──それでも、彼は雄叫びをあげて太陽剣を振るい、棺の破壊を試みた。が、すべてが無駄であった。右半身に刻み込まれた100を超える聖痕も、すべてが無為である──

 魔王の死刑宣告は、絶対。

 棺は徐々に小さくなって、最後には黒い(ハコ)となっていく。その中に収棺された人間の運命は、圧死あるのみ。彼は、彼自身が持つ太陽剣すら維持できなくなり──

 

 

 

 

「待ってくださいッ!」

 

 

 

 その少女の声が、浜辺に(こだま)した。

 ソタラハの飛行速度に適う魔者は存在しない──

 聖痕による奇跡を使い、ここまで転移してきたナハル・ニヴが、戦闘に介入した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・分岐点のひとつ・

    ディーヴァスを ▷ 助けない
            ▶ 助ける


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第九紀・9823年 春

※R-15※


/Transmigration …vol.25

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 ナハルの決断は迅速を極めた。

 

港湾都市(ローン)に戻ります!」

 

 彼女は自分の髪房を一掴みするが、その手を、魔王の純白の籠手が止める。

 

「行く必要はない。ソタラハが救援に『飛んだ』上に、ローンには“俺を含む”防衛部隊もいる。君の叔母君は早急に避難させると約束するとも」

 

 |慇懃(いんぎん)な言葉遣いになった魔王。

 そんな彼への違和感を持ちつつ、ナハルは自論をぶつける。

 

「私の叔母だけが助かってもしょうがありません、魔王陛下。私は、ローンの人たちすべてに世話となりました……ローンの城のメイドさんたち、都市の多くの人々と出会い、私は学びました……ここは「よい国」なのだと。彼らが教えてくれたのです」

 

 感心しきったように小さな勇者の抗弁を聞く魔王と幹部たち。イニーに至っては涙を両目に(たた)え始めているが、ナハルはそちらには気づかず、魔王の兜の奥にある闇色に告げる。

 

「私はあなたの部下です。であるからには、あなたの民は、この大陸の人々は、絶対に守らなければいけないんです!」

 

 少女の決意と覚悟に気圧(けお)されたように、魔王は手を離した。

 瞬間、奇跡を実現する聖痕が彼女の髪色から放たれ、瞬間的に、彼女の身体を転移させる。

 

「…………まったく。いい部下を持ったな、俺は」

「────はい」

 

 頷くイニーに頭を一撫でする魔王。

 彼女は小声で呟いていた──「とても、とてもご立派です、おかあさん

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 そうして今に至る。

 ナハルの制止を受けた魔王(分身体)は闇の(ひつぎ)を解いて、中で圧死する運命にあった若者を救命する。

 だが、納得できないという声もあがった。

 

「ナハル殿! どういうおつもりか!」魔王の近衛兵長にして(ドラガン)たるソタラハは怒声を張り上げた。「我らが王陛下に対して無礼千万! 場合によっては!」

 

 ただではおかぬと告げる赤竜を、魔王は腕を振って制した。

 

「ナハル──君が俺の臣下であること──俺の配下にして部下である事実は、周知の通りだ。そこで問うが、『何故、止める』?」

 

 魔王は死の恐怖に膝をつく勇者──右半身に190の聖痕を刻み込んだ若者の狼藉を許さなかった。

 

「港湾都市への破壊行為、ローン住人への殺戮的言動、すべてが罪科にあたるとは思わんか」

「思います!」

 

 少女は(おく)さなかった。

 魔王の秘技の一端──死の技を目前にしても、「待て」と言えた、その胆力。

 

「ですが、そのいずれもが、魔王陛下のおかげで未遂に終わっております! 都市は無事であり、住人への被害もない。ならば、まだ重篤な罪とは言えないはず!」

 

 魔王は頷いた。

 

「それも、俺が止めなければどうなっていたか分からんが?」

「そこは魔王陛下のご英断あってのこと! 誠に尊敬に値します!」

「尊敬──」

 

 魔王は盛大にため息をついた。

 マカーンタ一等航海士に助け起こされる太陽剣の勇者の前に歩み立つ。

 ナハルは一瞬「駄目だったか」と思ったが、魔王は闇を解放することなく、代わりに言葉を賜す。

 

「勇者よ、名は?」

「──ディーヴァス・アウス」

「《軽蔑すべき・傭兵よ。汝の罪を魔王が(ゆる)す。ただし、聖痕は一画を除き、すべて剝奪(はくだつ)する》」

 

 魔王はナハルの言葉に翻意(ほんい)してくれた。

 しかし、それがすべてのきっかけとなった。

 

「せ、聖痕を、剥奪? ば、バカなことを申せ!」

 

 ディーヴァスは拒絶するように全身の力を総動員して立ち上がる。

 太陽の刃の再錬成では抗しえぬと悟ったか、彼は別の反撃手段に撃って出る。

 

「そんな屈辱を味わうくらいならば、いっそ死んだほうがマシだ!」

 

 止めようとするマカーンタを突き飛ばして、彼は懐から何かを取り出す。

 

「──それは」

「これは我等を襲った海魔の肉の断片だ! これをもって、私は魔者の力を!」

 

 取り込むつもりだと全員が了解した。どうやって取り込むのかは、彼が実演してくれる。

 

「聖痕よ!《我が願いを叶えたまえ!》」

 

 正気を失った男の惨めな抵抗にしては、あまりにも愚かすぎた。

 海魔の肉片が息を吹き返したように暴れ狂い膨れ上がり、ディーヴァスの肢体を吞み込み始める。

 

『おお、感じるぞ……コレが、魔者のチカラ……』

「ッ、ばかなことを!」

 

 魔王が激昂の声をあげた。

 魔者化していく勇者は、下卑た笑顔に蛸足を巻き付け、巨大なクラゲかウミウシの成りそこないじみた容姿となった。黒く透明な肉体に、幾多の触手。光を失った片目には、絶望の色が這い出ていた。墨汁のごとき体液が、ヘドロのように各所から吹き出ていて、その様は黒い魔者の暴徒そのものであった。

 

「くそ。自ら「魔者化」し暴走するとは、愚かにもほどがある!」

「いかがしますか、我が陛下?」

「ああなっては駆除駆逐するしかない。ソタラハ、おまえの炎で」

「待ってください!」

 

 制止の声をあげたのは、意外にも、彼に冷遇されていたとみえる一等航海士の女性であった。

 

「魔王陛下様ならば、ディーヴァスさまを、我等の恩人を、救うことが?」

「無理だ」

 

 彼は即座に断言する。

 

「あれでは「黒化魔者」と同じだ。魔力の供給バランスが取れずに、自滅していくのを待つだけ。残念だが、手の施しようがない」

 

 それを聞いたマカーンタは落涙する。

 自分たちを救ってくれた恩人が、救いようのない化け物になったと聞いては、無理もないだろう。

 

「……陛下。我儘(わがまま)を一つ聞いていただきたいのですが」

 

 それを言ったナハルは、自分の小さな手の甲や掌、全身、そして金色の髪に至るまで刻まれた聖痕を意識する。

 

「私ならば、私の聖痕による奇跡なら──もしかしたら」

「馬鹿な!」

 

 叫んだのはソタラハの竜声であった。

 

「いくら貴官が“極大”に号されているにしても、そこまでの奇跡は!」

「できると思うか?」

「はい」

 

 謎の自信に満ちた少女の声に、誰もが呆然となる中で、魔王は命じた。

 

「では、彼を救え、ナハル・ニヴ」

 

 頷いたナハルは、触手攻撃を多重に行うバケモノ──海魔と人間の融合体を前に、ひたすら前進。攻撃を聖痕の力で防御し、(ごく)至近距離にまで接近。

 

「聖痕よ。《願いを聞け》」

 

 その一言で、彼女の掌が太陽のように輝きだした。

 

「《元に」海魔の悪あがきを乱暴に引きちぎりながら、ナハルは拳を握った。「戻れ》!」

 

 獰猛(どうもう)な蛇の牙のごとく鋭い一閃──それでも。

 撃ち込まれた暴力は、聖痕による奇跡にほかならなかった。

 

『あ、ああ、あ?」

 

 これまで誰もなしえなかった奇跡が、そこにはあった。死に崩れる海魔の身体から、太陽剣の勇者ことディーヴァスが、五体満足に現れ、たたらを踏んで数歩を歩く。

 

「……あぇ?」

 

 意識もあった。完全に無事であった。

 

「やった! やりましたな、陛下!」

 

 竜が驚愕と狂喜に燃え上がるのとは対照的に、魔王は深い沈黙と冷厳な首肯を落とした。

 

「特大聖痕による魔者の暴走の抑止──実験するつもりではいたが、まさか、ほんとうにやり遂げるとは……」

 

 ナハルは重度の疲労を感じてはいたが、魔王の膝元まで戻る体力はあった。

 砂浜の上に跪拝するナハル。

 

「申し訳ありません。差し出がましい真似を」

「いいや、よくやった」

 

 救済された勇者ディーヴァスを、漂着者たちが歓迎していた。

 

「何はともあれ、聖痕は剥奪しておくが」

 

 魔王は疲弊しきったディーヴァスのもとへ。

 そして先ほどのやりとりが再言される羽目に。

 彼の聖痕は完全に剥奪された。

 純白の籠手の指先に額を突かれた勇者は、あれだけの数の聖痕──右半身を刺青のように覆うそれ、残存数189の内、188を奪い取られ、残りは右目脇の一画のみとなった。

 ディーヴァスはなす術を失い、項垂れるだけ。

 

「これで、君は〈勇者見習い〉以下の存在だ。本来であれば戦闘の末に殺されていた命──我が部下、ナハル・ニヴの温情と奇跡に感謝するといい」

「は、はい……」

 

 おこっている事態がよくつかめていない表情で、元勇者は首を頷かせた。

 マカーンタ一等航海士の肩を借りて、とにかく漂着者救済の列に加わる。

 

「ありがとうございます、陛下」

 

 そう告げるナハルに対し、魔王は安全とした口調で応えた。

 

「君は不殺主義者か、何かか?」

「不殺?」

「殺しに来ている敵を前にして『殺すな』などと」

「失礼ながら、私は殺すなとは申しておりません」

「なに?」

「ただ、彼の行状が、死に値するかどうかと問われれば、刑死させるには値しないと判断した──だから陛下をお止めしたのです」

「なぜそんなまだるっこしいことを?」

「あなたには、正しくいてほしいから」

 

 そう判断したナハル。

 驚嘆したように沈黙を続ける魔王であったが、

 

「優しいな、君は……魔者化し暴走したものまで救うとは……その優しさが(あだ)にならん未来を願おう」

 

 そう告げる魔王の分身体。

 無論、彼女も都市に少しでも被害が出ていたり、叔母(ロース)に何かあれば止めはしなかったろう──彼女は現実主義的な瞳で、魔者たちに救助されていく漂着者たちを見つめる。

 

「彼らはどうなるのでしょうか」

「傷を癒した後は、ここの住人となるか、もとの大陸──ティル・ドゥハスに戻してやるか、だ」

「よろしいのですか。魔王さまの存在を知った人々を生かして帰して?」

「君は……殺したいのか殺したくないのか、わからんな」

「できれば、殺したくはありません──本当ですよ?」

「元の大陸に還りたいものは多少記憶をイジる。それで済む話だ」

 

 魔王は呆れたように肩をすくめ、ソタラハと共にローン市長のもとへ赴く。

 ナハルは追いかけるように述べ立てた。

 

「言っているでしょう? 私はただ、あなたには、正しく生きてほしいだけです」

 

 波間を一人歩くナハルの胸中に去来するのは、かつて見た鮮明な夢。

 

(──「〈聖痕〉よ。俺の友達(ダチ)の願いを叶えろ。この“おひとよし”で、ずうずうしくて、いつまでも一人の女を追いかけてる、純粋で純情すぎる男の願いを、叶えてくれ──」)

 

 ナハルもまた心の中で、魔王の願いが、彼の祈りが通じることを、強く願う。

 しかし、聖痕は何の奇跡も起こさない。

 

(どうすれば、彼の願いを叶えられるだろう)

 

 最近はそればかりを思考し、志向するナハル。

 魔王の願いなんぞ神の力とやらで叶わぬことだとしても、自分を救ってくれた、闘いの法を教えてくれた男に対し、彼女は一方ならぬ思いを募らせる。

 

(善行を積ませる──なんて論外よね。きっと。いや、そもそも、魔王さまの追いかけてる女性って、どこの誰だ、ろう?)

 

 魔王の想い人を考えただけで、ナハルは涙を領の目の端から溢れさせる。

 おかしい。何故だろう。波間に涙を落としつつ、さまざまな疑問と疑念を残して、港湾都市襲撃未遂事件は、落着した。 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 魔都──魔王城にて。

 

「今回の襲撃未遂事件における、漂着者のリストです」

「うん。ではローン市の民事局にかけあって、早急に住居なり生活物資なり揃えてやってくれ」

 

 (あしこ)まりましたと笑顔で退室していくイニー。

 ナハルが黒化魔者をどうにかしたと聞いて以来、ずっとあれだ。

 

「よほどうれしかったのかね……」

 

 その先を言葉にするのはためらわれた。

 魔王の執務室──普通のオフィスビルのそれよりも豪奢な作りのそこに残っているのは、純白の全身鎧で中身を隠す魔王と、彼に臣従するパンツスーツ姿の女エルフ(ルハラハーン)──ガル。

 

「今回の件、本当にこれでよろしかったんですの?」

 

 勇者からの聖痕剥奪は、魔王ニアラスにとっては簡素な作業のひとつであり、重要な『生命維持活動』のひとつだ。

 

「〈魔者〉が人を襲う、人の中の〈勇者〉が〈魔者〉を倒す、そして、その〈勇者〉を倒し喰らうのも、魔王の責務のひとつであり、生態の一種ではありませんでしたか?」

 

 ガルは興味深そうな瞳で、デスクの上ににじり寄った。

 魔王は泰然と書類整理を続けつつ、ガルの疑問に答える。

 

「聖痕だけを剥奪し、それを喰らう法もある──前魔王は、我が師は、そちらの方を好んだからな」

「そして(ほろ)びた」

 

 9822年前に。そして、当時齢1200程度だった(ニアラス)が跡を継いだ。

 第八紀から第九紀へ。

 人を喰うことを辞めた──人を殺すことを辞めた魔王に待っているのは、残酷なまでの枯死(こし)しかない。

 聖痕のみを喰らってもダメなのだ。

 神に選ばれた上質な魂を捕食すること。

 それが、魔王を魔王たらしめる材料となる。

 

「両陣営──人間と魔者の共存を考える上では、我々魔王国の方が圧倒的に絶対的に正しいはずです。にもかかわらず、どうして〈勇者〉などという邪魔者があふれ出すのでございましょう?」

「さあな。それこそ『神のみぞ知るところ』だろうさ」 

 

 ガルが考えるまでもなく、〈勇者〉とは魔王の餌だ。糧秣であり食料なのだ。

 そういった意味では、ナハルを殺し喰らえば、彼は神を超える力を手にするだろうことは確実。

 無限にも近い「聖痕」を宿す勇者、ナハル・ニヴ──下手に聖痕を使わせて消耗させるよりも、今、この時の状態のまま食い散らかしてしまえば、その時に得られる魔王の力は途方もない──だからこそ、魔王国最高峰の巫女の見立てに従い、「極大聖痕」を宿す勇者を探し当て、手中に収めた。無論、これから先、彼女の聖痕が“増大”する可能性があることを考えれば時期尚早(じきしょうそう)の感は否めない。

 それでも、ガルは引っかかるのだ。

 一万年を生きて準備してきた魔王が、たかだか十年しか生きていない勇者に、ここまで入れ込むなど──充分に嫉心(しっしん)をいだいて当然。ガルが、いくら芳醇な香りを漂わせる1000の聖痕持ちのエルフの肉体を差し出そうとしても、彼は受け取ってはくれない──むしろ、ガルの傷を癒し、その罪科を許して、傍に置いてくれて、四千年が経とうとしている。

 

「では、私はローン漂着者の治療に向かいますわ」

 

 彼女は引き下がり、魔王もいつもの調子で「頼んだ」と告げるのみ。

 ガルは思案する。

 

(あの娘──ナハル・ニヴには何かがあるに違いない)

 

 そう確信しつつ、彼女は転移魔術専用の部屋へと向けて足を向けた。

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 その夜。

 港湾都市・ローンにて。

 

「くそ! くそ! くそ!」

 

 罵詈雑言と共に、元・勇者であるディーヴァス・アウスは、集合住宅室内の家具にあたりちらしていたが、

 

「痛っ!」

 

 足の小指を盛大にぶつけた衝撃でつんのめる身体を、備えつけの寝台の上に横たえる。

 室内は清潔だが、いろいろと手狭な印象を受ける。「仮設の集合住宅なので、がまんしてください」と、アザラシの皮を頭にかぶった少女に言われたのを思い出すだに、怒りが沸点を超える。それは自己の境遇への怒り。

 

「ちくしょう──以前までは、こんな痛み、()でもなかったというのに!」

 

 船団の遭難からしてケチのつけ始めであった。

 船は座礁転覆を余儀なくされ、それの救助活動中に海魔に遭遇。ディーヴァスの「太陽剣」以外の勇者──「氷結剣」と「雷霆剣」が犠牲となった。ディーヴァスは尚も抗戦するも、とにかく生存の可能性にすべてを託して、聖痕を起動。何とか神の奇跡が通じ、《生存者全員を暗黒大陸へ!》──そう願うほかになかった。

 だが、漂着してより数刻もせず邂逅を果たした、純白の魔王。

 その魔王に殺されそうになる寸前、ディーヴァスは年端もいかぬ少女の嘆願を受けて、聖痕の剥奪のみの刑に処せられた。

 同輩たちの中で、三桁にも及ぶ聖痕を発現できるものは多くない。たいていは、教会で聖痕に選ばれないか、選ばれても五画~十画──二桁程度が関の山と言われている。

 だが、ディーヴァス・アウスは、度重なる洗礼式によって、漂着以前は250の聖痕をその身に宿していた──それが、海難での戦いで60を失い、魔王への敗北で、189画をなくすはめになった。

 たった一画では勇者見習いとも呼べはしない。嬰児や赤子が自然発生的に聖痕を宿した時と同じ数量でしかなく、加護も、奇跡も、武力さえ望めない。

 

「もう、終わりだ、俺の人生────」

 

 小指の痛み以上の悲嘆にくれ、ディーヴァスは嗚咽(おえつ)を禁じ得ない。

 国に帰ったところで、もはや勇者ではないのだ。“太陽剣の勇者”ディーヴァス・アウスは、確かに今日死んだのだ、魔王の手によって。

 

「ちくしょ、チクショ、畜生…………」

 

 枕に顔を埋め、自らの醜態を外に漏らさぬよう努力するが無駄であった。

 彼は子供のように泣き喚き、この世すべてに絶望しそうになっていた、そんなときに、室内に客が来たことを報せる鐘がチリリリンと響いた。続いてノックの音。ディーヴァスは無理やりにでも涙と鼻水を飲み下し、平静な自分を装う。

 

「あの、ディーヴァスさま?」

 

 部屋の鍵は開いていた。

 現れたのは、バスローブ姿の女性──短すぎる金髪に碧の瞳、小麦色に焼けた肌の、風呂上がりで上気した姿が美しい、マカーンタ・アマレール一等航海士であった。

 彼女は部屋の惨状に怯えつつ、平静さ冷静さをとりつくろうディーヴァスに申し出た。

 

「お約束の通り、夜伽(よとぎ)に参ったの、ですが?」

「…………………………………………はぁ?」

 

 ディーヴァスは自分の聴覚を疑うしかなかった。

 こいつは自分が、目の前の元勇者に、何をされたのか忘れてしまったとでもいうのか?

 マカーンタは指と指を合わせ、赤面しながら告げる。

 

「私程度でお相手を務められれば、それで構いません。それに──」

 

 彼女は船乗り(マールニャラハ)の長として働いた自分の筋肉質な肉体と短すぎる金髪にコンプレックスを懐いているようであるが、それでも勇気をもって、彼のもとを訪ねた。それに、

 

「それに、勇者として聖痕の奇跡を叶えられたディーヴァス様がいなければ、我々全員が、海の藻屑(もくず)と果てたか、海魔の餌となったことは、事実です。それを思えば、あなたは我らの、いえ、私の命の恩人。その事実は消えはしません。この身でよろしければ、存分に、お楽しみいただきとうございます」

「いや、だが」

「……やはり、私程度では、ご満足いただけぬ、と」

「いや、そうではなく」

 

 ディーヴァスはこれまでにないほど返答に(きゅう)した。

 目の前の女性の(つや)っぽい声に、耳まで真っ赤になる。見下ろせば、彼女の小麦色の肢体は起伏に富みすぎていて、男のそこを刺激してやまない。それがバスローブ一枚きりで、目の前にあるのだ。碧の双玉が、桜色の唇が、物欲しげに元勇者だった男を見ているような、そんな気分にあてられる。

 しどろもどろに視線を右往左往させ、顔面を茹でられたように赤面しつつ、彼は下腹部のそこを膨らませながら、告白する。

 

「…………俺、童貞(はじめて)なんです」

 

 (あざけ)られるだろうか。(さげす)まれるだろうか。

 夜伽(よとぎ)五つでなんのかんのと言いつつ、この体たらく。

 どちらの反応が返ってきても、男の名折れであったが──

 

「私も処女(はじめて)です」

 

 お揃いですねと微笑(ほほえ)む女性。

 この夜、二人はめでたく結ばれた。

 後に、彼と彼女は港湾都市ローン市民となり、数年後には五人の子宝に恵まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、さまざまな疑問と葛藤、騒乱と混沌と謎に満ちた第九紀・9823年──冬は幕を閉じ、23年の春を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 Q. ディーヴァスを助けた結果?
 A. 魔王の国の人口が増えました



  今回で、第一章【転生】編が、終幕。
  次回から怒涛の第二章【乱世】編…開幕…

  と、その前に「断章」をひとつ、はさみます。

  タイトルは──「TypeC・最善のプロローグ」
  お楽しみいただければ幸いです! by空想病



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断章  ──── 残酷な選択
TypeC・最善のプロローグ


Type[B]とType[C]、別々のプロローグの意味するところは


Type[C]/The best prologue

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……とてもあたたかで、やわらかくて、やさしいばしょに、わたしたちはいる。

 

 ……ここは、どこかって?

 

 ……わたしたちには、わからない。

 

 ……けれど、わかっていることがひとつ。

 

 ……ここが、おかあさんの「おなか」だということ。

 

 ……わたしたちはここからそとにでて、おかあさんのいるそとにいく。

 

 ……おかあさんがいるばしょだもの、きっとすてきなところにちがいないわ。

 

 ……きっとそとでも、おかあさんが、わたしたちをまもってくれる。

 

 ……あいしてくれる。

 

 ……いつくしんでくれる。

 

 ……こもりうたは、もう、うたってくれている。

 

 ……おいしいごはんも、あたたかなふくも、すてきなベッドも、

 

 ……ぜんぶよういしてくれる。

 

 ……そうおもえば、いまくらくてせまいことなんて、なにもこわいことない。

 

 

 

 

 

 

 ……あれ?

 

 ……きゅうに、くるしくなった。

 

 ……とつぜんに、つらくなった。

 

 ……なんにも、みえなくなった。

 

 ……どうしたの、おかあさん?

 

 ……どうかしたの、おかあさん?

 

 ……もう、いき、できない。

 

 ……つめたい。

 

 ……くるしい。

 

 ……死んじゃう。

 

 ……まだ、そとにでれていないのに。

 

 ……まだ、おかあさんと、であえていないのに。

 

 …………わたしたち、死んじゃうの?

 

 …………死ぬ?

 

 …………まだ、

 

 …………生まれても、

 

 …………いない……の、に……

 

 …………やだ。

 

 …………やだ!

 

 …………おかあさんにあいたい!

 

 ……………………おかあさんっ!

 

 ……………………おかあさんッ!!

 

 ……………………おかあさんッ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 次の瞬間、私たちは「真っ白い」場所にいた──

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『はい、こんにちは』

 

 ……だぁれ?

 ……あなたが、おかあさん?

 

『いやいや、残念ながら違うんだ、これが』

 

 ……じゃあ、わたしたちのおかあさんは、どこ?

 ……わたしたちのおかあさん、どうなっちゃったの?

 

『ああ。それも残念なことにね。君たちのお母さんは死んでしまったんだ。交通事故というやつでね』

 

 ……こうつう? じこ?

 ……おかあさん、死んじゃったのの?

 

『そうだよ?』

 

 ……おかあさん、わたしたちのこといらなくなったの?

 ……おかあさん、わたしたちとあってくれないの?

 

『いやいや。きっと逢ってくれただろう、会って必要としてくれたことだろう、愛して、慈しんで、守ってくれるに違いなかったろう──だが、そうはならなかった』

 

 ……あなたは、だぁれ?

 ……あなたは、なぁに?

 

『僕かい? 僕は神様』

 

 

 ……かみさま?

 

 

 

 

 

 

 

 

 神様は教えてくれた。

 この白い場所は、神の世界であるということ。

 おかあさんが、事故に遭って亡くなったこと。

 それと一緒に“私たち”も死んでしまったこと。

 それがあまりにも「かわいそう」だから、今流行(はや)りの神様転生を、異世界転生をプレゼントしようと、そう持ち掛けてきた。

 

 それが最善だと……

 

 私たちは選択を迫られた。

 

 一、このまま死に絶えるか……

 二、母が転生した異世界へ転生するか……

 

 死にたくなどなかったし、母と逢いたかった私たちは、後者を選んだ。その代わり、それぞれ別の場所・別の時代で生を()けることになったが、しょうがないことだと甘んじて受け入れ、

 そして、

 異世界の地にて、それぞれ生誕を迎えた──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自称・神様と名乗る存在によって、私たちは転生を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、私は──── 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出逢えた!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




序章 Type[B] ナハル・ニヴ
断章 Type[C] ???/???


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第二章 ──── 乱世
第九紀・9827年 春



【乱世】編、はじまる。


/Chaotic times …vol.1

 

 

 

 

 

 

 魔王城にて与えられた自室にて。

 朝の目覚めはいつも最悪だ。あの日に死んだ夢、子供たちから呪われる夢、彼が老いながら一人で孤独に死んでいく夢……ありとあらゆる悪夢を見てきた。見せられてきた。

 それでも、ナハルは決然と起き上がる。

 起き上がることを己の義務としている。

 

 あれから、四年が経った。

 

 ナハル・ニヴは14歳となった。

 彼女の朝は、あいかわらず悪夢からの解放からはじまるが、

 

「──よし」

 

 涙をぬぐったナハルは寝台を整え、身支度(みじたく)をし、紫の花の指輪──そのネックレスを首にかける。こちらでの母の形見だ。一日だって外したことはない。そして、「棘剣」とは別に用意された剣と盾を見に帯びた。

 軽装鎧も頼りない胸当てぐらいにしか見えないが、彼女の肌着や下着は、魔王国内のアーン・タシュタル工房にて、ドワーフ(アワク)が丁寧に錬成し編み込んだ最硬度のダマスカス鋼糸によるもの。羽毛のように軽く、どんな竜鱗鎧(スケイルメイル)にも見劣りしない。剣と盾も同じダマスカス製であり、“あちら”で活動する分には問題ない。さすがに、リギンの鋼鉄の城壁の硬さや武具の多さには比べるべくもないが、人間の一人旅に出るには十分な装備品である。

 そう。

 旅だ。

 ナハルは旅立ちの準備をしている。14の春だというのに。

 話が上がったのは一年前、9826年のこと。

 

「統一王国の内部が分裂しかかっている」

 

 という、元老院議会での、魔王の見立て。

 国政には未だに疎い──それよりも、リギンやレアルトラ、ソタラハとの実戦訓練、アーンやアバル、そしてガルが教鞭を振るう〈魔術学〉の授業の方が得意であり、ナハルは好きであったから。

 政治の世界はまだよくわからないが、

 

「少しずつ覚えていけばいい」

 

 という魔王陛下のありがたい言葉もあるので、それに甘えておく。

 

「それにしても」

 

 ナハルは昨夜の別れの宴を思い出す。

 なかでも際立って鮮明に残るのは、今も世話役を務めてくれる、喋れない骸骨乙女・アバルの、貴重な《歌声》を聴いたこと。あれほどの美声を「恥ずかしいから」といって隠すなど、いかにももったいないち思えた。

 兎角、この四年間は充実した内容になっていた。

 それでも、ティル・ドゥハス統一大陸──人間の地に対する興味は、さほどでもなかった。

 かの大陸で、〈魔者〉が相当数制御不能の「黒化」に見舞われていると、聞くまでは。

 

「現国王の政治に不満を懐く辺境伯スラウラが離反の意を示し、かの大陸における聖地を含む南西部や旧帝国領を独自に支配したのがきっかけだ。そこまで重篤な状態とは呼べないが、かの辺境伯に味方する貴族や百官が多数派を占めれば、確実に国は割れるだろう──イアラフトゥのもたらした平和も、六十年強しかもたなんだか」

 

 懐かしむような、それともおかしさをこらえるような、魔王の微笑。

 かの大陸が完全統一されたのは9760年初頭。67年前、『三十年戦争』と呼ばれる戦いにリーァハト王家が帝国に勝利してより、大陸には大規模な戦争は起こっていなかった。各部族や諸方での小規模な内乱や一揆の小勢も」があるにはあったが、今回のはそれが徐々に膨れ上がり、国を割っての戦争状態にまで至ろうとしていると、魔王は分析している。

 彼はひとつ咳払いする。

 

「そこで。ナハルには現地に行って、状況を調べてもらいたい」

「私がですか?」

 

 驚いたナハルは頓狂(とんきょう)な声をあげた。

 数年ぶりの帰郷というわけだが、ナハルはあちらにはそこまでの執着はない──たった一人の“親友”は別として。

 魔王は仔細を述べる。

 

「あちらでは人心が乱れに乱れ、「黒化」した〈魔者〉による人喰いも増加傾向だ。一部地域では、〈魔者〉に占拠された村落もあると聞く──行ってくれるか? 「黒化」を止められる唯一の勇者──ナハル」

(つつし)んで、拝命いたします」

 

 彼がナハルに何を求めているのか、一秒で了解した。

 それから、一年間の準備期間が設けられた。

 ナハルは現地での暮らし方や旅のしかた──野宿や戦闘時の注意事項などを、頭の中に叩き込む。

 いざと言う時の護衛役もいるため、そこまで不安はない。不安があるとすれば、魔王の動向が掴みづらくなるだろうことだが、それも、護衛役を通じて確認してもらう手筈は整えている。

 

「それでは、行ってきます」

 

 ナハルの姿は、14歳の少女とは思えぬ出で立ちであった。

 度重なる修練を積んで、すらりと伸びた手足。一般男性平均以上(1 7 0ファー)を超える高身長。相も変わらず無数の聖痕で輝いた、腰まで伸びる金の髪。少し黒い髪房が点在するのが目立つが、充分現地の人間で通る髪色である。というか、もともとの髪色が「聖痕」の使用によって元に戻されているだけという有様だ。ナハルには他にも全身に魔王が封印処理した特大聖痕を蔵している。人間や魔者との戦いにおいて、後れを取る心配は絶無と言えた。

 薄汚れた旅装は、旅の巡礼者に化けるために必要な措置であり、その化粧はガルが務めた。

 

「ありがとうございます、ガル先生」

「礼なんていいわ……ようやく面倒な生徒が卒業していくと思えば、安いものよ」

 

 4000歳を優に超えるガルには、本当に学ぶべきことが多かった。この、旅の途中っぽい薄汚れた化粧ひとつとっても、ナハルには真似することは難しい。エルフの弓術や短剣術は勿論のこと、山や谷での過ごし方──野営の基本──大陸で食せる果物や木の実の知識などのサバイバル術についても、多くを教えてもらった。見た目は二十代前半で通る美麗なエルフは、いつも露出の「少ない」恰好で過ごすことを好む。胸の谷間が開いた女狩人の装束も長袖で、短いスカートの内側の太腿を黒タイツに隠した姿だ。それも、彼女の身に刻まれた戦傷の数──というよりも凌辱の痕を隠すためだと教わった後は、深掘りすることをためらったほどだ。〈魔術〉で傷を完全に塞ぎ消すこともできると聞くのに、彼女はあえて傷を残しているらしい。とくに、彼女の腹部には大きな傷があると聞くが、実際に見た者は稀だという。彼女を救ったのは魔王さまと、最古参に数えられるリギンと、いくらかの元老級悪魔たちだけだと。

 

「ガル殿は相も変わらず手厳しい!」

 

 そう評したのは軍服姿のソタラハであった。ガルは鼻を鳴らして言い訳する。

 

「愛のムチというやつよ」

「そうか! それは知らなかった!」

「ああ、やっぱり(ドラガン)には冗談とか通じないわね~」

 

 赤髪褐色の青年は、相も変わらず豪放磊落(ごうほうらいらく)の生きた見本だ。

 これほどの好青年であるが、戦闘時の竜形態には本気でナハルとぶつかってくれる上、リギンの能力で武装した“白銀化”した赤竜の戦闘力は、本当に見事なものだ。魔王陛下の近衛兵長を拝命するだけの武力に恵まれている。それに何より、戦闘における心得──神への敵愾心(てきがいしん)を萎えさせることなく、復讐の炎に薪を潤沢に用意する術を教えてくれた彼には、感謝してもしきれない。

 復讐は正当な権利であり、それを余人がどうこうできる権利はない。彼の自論出であり信念であった。

 

「いやはや。人間にしてはヤルものじゃよ、貴殿は」

 

 浮遊魔術の、もとい重力魔術のフォンという音色が近づく。

 好々爺(こうこうや)めいた声を飛ばしてくるのは、生命武器(アラム・ビオ)として最高位の力を備えた魔剣・リギンであった。

 

「儂らの修業を悉く耐え抜いた。奇跡の力に頼むことなく──まるでかつてのイアラフトゥがそうしていたように、お主も己の腕力体力だけで、すべての(ことわり)を破壊する時が来るやもしれんな」

「まさか」

 

 ナハルは笑った。

 100年以上前に魔王を封じた、魔王の友。

 彼の剣才は努力の賜物であり、彼は次元の壁や世界の理にまで、その刃を届かせたと聞くが、本当のところはナハルにはよくわかっていない。

 ナハルはソタラハとガルに別れの握手をし、リギンにも柄頭に触れて、部屋を辞した。

 転移魔術専用の部屋には、眼鏡をかけた人狼(コンリァフト)レアルトラ、ボロ布と宝飾品を纏う木乃伊(サラガーン)アーン・タシュタル、まごうことなき乙女の骸骨(クナーヴァルラハ)アバル・クロガン──青い肌の悪魔フアラーンなど、元老級または幹部級と称される魔者たちがそろっていた。

 そして、ナハルの護衛役兼通信係を拝命した、水妖のイニー。

 

『頑張って、ナハルちゃん!』

「まぁせいぜい元気でね、ナハル」

「また一緒に軍戯(チェス)しようや、嬢ちゃん」

 

 伝言板で激励してくれるアバル。手をヒラヒラ振って別れるアーン。趣味のチェス相手が一人いなくなって寂しいレアルトラ。

 ナハルは彼らにも別れを告げつつ、必ず戻ってくることを約束する。今回の任務は、あくまで統一王国内部の“探り”に過ぎない。ナハルが何かとんでもないことをしでかす可能性は皆無と言えるだろう。

 もっとも。

 個人的な事情、一人の“親友”の状態を確認しに行く余裕があれば──そう夢想だにする14歳の勇者。

 

「……」

 

 ナハルは最後の二人に目を向けた。

 純白の魔王ニアラスと、あともう一人。

 

「じゃ、行ってくるね、ロース」

 

 ナハルの叔母たる彼女は、可能な限り、ナハルの母のことを教えてくれた。ナハルたちを救うために受けた魔法銃の銃創(じゅうそう)は完全に消えてひさしいが、当時のことを思い出すたびに、足を震わせる叔母に対し、ナハルは告げる。

 

「私はもう大丈夫だから。ロースの方も頑張って」

 

 少女の面差しに、何かとんでもない衝撃を受けたように硬直する修道女は、数瞬でもとの笑みを取り戻した。

 

「ほんとうに、お母(ねえ)さんに似てきちゃったわね」

 

 ロースは、自分よりも上背(うわぜい)の伸びた(めい)を、腕の中に抱き寄せた。

 

「これがお別れじゃない、わね?」

「うん。私はいつでも戻ってくるつもりだし」

「ほんと、……いうこと全部、姉さんのそれね」

「え?」

 

 そう、かつての姉、彼女(ナハル)の母──ドゥアーン・ニヴも、こう言って旅立ったのだ──

 姪の首元を見上げれば、紫の花の指輪を通したネックレスが光をともしている。

 

「ロース?」

「なんでもないわ。お役目、しっかりね」

 

 あの結末とは違う。姉が死んだ結末とは──

 ナハルは姉ではなく、姉はナハルではない──

 それでも。嫌な予感に手足をがんじがらめにされる前に、ロースは愛しい姪っ子を解放した。そうしなけれな、取り縋ってでも彼女を止めてしまいそうな自分がいたから。

 ロースは気持ちよく微笑(ほほえ)む。

 

「いってらっしゃい、ナハル!」

「うん。いってきます!」

 

 黑だった髪色がほぼ金色(こんじき)になりおおせるほどの、破格の〈勇者〉──その運命がどこへ行こうとも、無事に務めを果たせることを祈りながら、ロースは聖印を切る。

 

「ドゥアーン姉さん。どうか、ナハルを護って──」

 

 姉が形見に残した紫の花の指輪──それが彼女(ナハル)をあるべきところへ導きますように──

 唯一の肉親──親族との別れを済ませたナハルを、魔王は最期通牒のごとく問いただす。

 

「本当に、大丈夫か?」

 

 ナハルは勢いよく首肯した。

 

「大丈夫です!」

 

 不安はあって当然。

 恐怖に足がすくむのも普通。

 それでも、足を止めないと誓った──魔王の部下となった、配下となった、あの日から。

 

「この任務は、他の魔者──たとえ幹部クラスでも難しい案件です。でも、同じ人類である私ならば」

「問題なく、遺漏(いろう)なく、遂行可能──そういったのは私自身だったな」

 

 魔王は決心したように、ナハルの頭を撫でた。

 ナハルは彼のこの手つきがたまらなく好ましかった。まるで“彼”に撫でられているような心地を味わえるから──

 

「それでは」

 

 言って手を離す魔王に、ナハルは決然と頷く。

 水妖のイニーが小さく丸く変成されていき、軽装鎧の内側──14歳の少女の双つの丘になりきっていない胸元との間にへばりつく

 まるで、心臓や肺腑──急所を守るように硬度を高められるだけ高めていくイニー。

 

「これからは、このような形での護衛となります。ご容赦のほどを」

「ううん。ありがとう、イニー」

 

 魔王がしてくれたのを真似るように、ナハルはイニーの頭部分を指先で撫でた。

 

「…………フフッ」

「どうかした、イニー?」

「失礼しました、あまりにも、その……嬉しくて」

 

 釈然(しゃくぜん)とせずに首を傾げるナハル。

 そろそろ刻限であった。 

 二人で一人となった彼女たちは、室内の魔術陣──〈転移魔術〉の門の上に立つ。

 転移魔術士官たちが魔王の下知を受けて、魔術式を駆動させる。

 

「大規模転移術式、準備よし」

「陛下による魔力装填──規定値へ」

「目標大陸の座標(イヴァ―ル)固定、秒読み開始」

 

 ナハルは首元の指輪を握りながら、整然と顎を引いて、背筋を伸ばす。

 

 (クイグ)── (キャハル)── (チリィ)── (ドー)── (エン)──

 

「《ティル・ドゥハス大陸行き》〈大転移魔術〉、解放!」

 

 魔王の号令と魔力と共に、輝煌が魔術陣の上を満たした──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




読んでくれてる人いるかな?(;^_^A


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傭兵団

/Chaotic times …vol.02

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「なるべく穏便に、にこやかな対応を心がけましょう」

 そう言ってくれる水妖のイニー。

 まるでハイキングでも楽しむような感慨で、ナハルはそれにひとつ頷いた。深呼吸を忘れずに。

 

 

 樫材(かしざい)(とびら)を開ける。

 

 

 ナハルは辺鄙(へんぴ)な酒場にいた。異世界にありがちな汚い宿屋という風情がそこらを漂う。

 客は多くもなければ少なくもないが、とある団体客の、その共通シンボルを見て、ビンゴと心の中で笑う。

 金色の髪に黒房の片鱗をなびかせ、旅のローブに上質な剣と盾とで護られるさまは、旅する戦乙女と評するにふさわしい。

 が、なかなかに怪しい。何かを企んだような鋭い瞳が金色に輝きつつ、カウンター席をまっすぐ目指した。

 

「ご注文は?」

 

 決して愛想はよくない店主の男に対し、とりあえず水を注文。

 この時代、この地域でも、水は希少品だ。無料のセルフサービスなど行ってなどいない。

 

「おう姉ちゃん」

 

 狙い通り。いかめしい男の群れ──団体客の一群が、ナハルの周囲を席ごと囲みだす。

 胸当ての内でイニーが警戒しチルノがよくわかるほど震えていたが、とりあえず「何か用件でも?」と愛想よく(たず)ねるナハル。

 

「ここらじゃ見ないツラだと思ってなあ、……巡礼者サマか、何かかい?」

「まぁ、そんなところです」

 

 ティル・ドゥハス大陸に根付く四柱の神による国生み伝説。

 開祖トゥアタ・デー・ダナンがもたらした、神々の四秘宝。

 その切っ先から逃れること(あた)わぬヌアダの剣、無敵と称されたルグの槍、王位を告げるファールの石、あらゆる食材を生むダグダの釜──

 ティル・ドゥハス大陸に来寇(らいこう)した開祖たちは、この四秘宝によって蛮族や他種族を駆逐し、人の世の平和を勝ち取ったとされている。

 これが、教会に伝わる四宝信仰──戦闘民族の名残、などとも称される「剣」「槍」「石」「釜」を神具として崇め奉る“四宝教”の歴史である。 

 その四宝はレプリカ──模造品が、まるで十字架の宗教よろしく、各地の教会や寺院に祭られている。中には本物があるとかないとかで物議になっていたり。

 それをひとつひとつ巡礼することを己に課した巡礼者──宗教家は意外にも数多く、さして珍しいものでもない。だが、

 

「それにしちゃあ、女のひとりたびは危険だぜえ? なんなら、俺らが護衛に雇われようか?」

「いえ結構」ナハルは強い口調で水をあおった。「自分の面倒は自分で看ますから」

 

 巡礼の旅には危険がつきもの。単純な事故や遭難は勿論のこと、今であれば人喰いの〈魔者〉が最たる例だ。が、そうでない時代は当然、夜盗(やとう)だの野伏(のぶせり)だのが幅を利かす。

 

「しかし、巡礼者にしてはいい剣と盾じゃねえぇか……ちょいと見せてくれると嬉しいね」

「……」

 

 額に一文字の傷を刻んだリーダー格と思しき男に乞われるまま、ナハルは剣の柄を男に差し出した。

 すらりと抜かれた刀身は鏡のように磨きこまれ、刃こぼれ一つしていない。

 

「結構な業物じゃねえか、ドワーフ(アワク)鍛冶師(ガウ)の手のものだな?」

「ご名答」

 

 丁寧に応対するナハルだったが、男は剣を返そうともしない。

 彼の仲間たちが、下卑た笑い声で舌なめずりを始める。一対七。完全に劣勢とみられる。

 

「お嬢ちゃんみたいな別嬪(べっぴん)さんには勿体ない業物だ。ここはひとつ、俺様の剣として、いただいておくから」

 

 それ以上は、言葉を発せさせなかった。

 

「ッ!」

 

 ナハルはダマスカス鋼製の盾で男を速攻にぶん殴り、肋骨へ盛大に罅を入れさせた。男の手からダマスカス剣が離れ、宙に放られたと同時に剣を手早く回収する。

 

「てめえ、俺らの班長(キャナラ)に何」

 

 を、と言いかけながら剣を抜いた男の得物を、ナハルは返す剣で、その掴部分のみを残し、割り砕いた。

 鋭い笑みを浮かべる、金色の女剣士がそこにはいた。

 折れた剣の切っ先が天井に深く突き刺さっていて、一座が強烈にざわめく。

 両膝をついて苦悶の表情をつくる班長(キャナラ)とやらに、ナハルは回復の魔術をかけてあげた。

 

「ま、魔法まで扱えるとは恐れ入る……おまえさん、巡礼者じゃねえ、ただものじゃねえな……王国の近衛兵団長さんか、魔法騎士長か、何かか……?」

 

(魔法でなく魔術だけどね)と思考を闇に沈めるナハル。

 

「私の素性はどうでもいい」

 

 ナハルは冷徹な金色の瞳に聖痕の影を映しながら、超然(ちょうぜん)嫣然(えんぜん)と微笑む。

 

「あなたたちの属する傭兵団に、私も入りたいのだけれど。団長(マスティール)殿に、話を通してもらえるかしら?」

 

 男たちが入墨や装備に共通している印章(シェアラ)は、獰悪(どうあく)な毒をもつ生物──(シュカルプ)のそれによく似ていた。

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

「やることが派手ね~、あの子は。地味にやりますって言葉は何だったのかしら?」

「まぁまぁ」

「どうせだったら棘剣(きょくけん)の一撃で店ごと吹っ飛ばしたらいいんじゃ?」

「まぁま──それは絶対ダメだろ」

 

 木乃伊(サラガーン)人狼(コンリァフト)の評する声に、魔王(アン・タ―ヴィルソル)は即座にツッコミを入れる。

 魔王は、彼女と連日続けた討議のことを思い出しつつ、監視任務を遠巻きながら覗き見る。

 

 そうして思い出す。

 

『通常、魔王(おれ)が復活した場合、挙国一致体制がとられるのが常だ』

 

 旅立ちの前夜。

 そう魔王は彼女(ナハル)に話していた。

 しかし、この時点で国を割ってる内紛している余裕はない。

 一刻も早く両陣営の手が結ばれ、対・魔王への対策や戦略をねらればならないというのに、この体たらくはどうしたことか。

 

 統一王国は“王派閥”の中央部、“辺境伯派閥”の西部に分断された。

 王派閥派の緊縮財政に堪えかねて、辺境伯スラウラが反旗を翻したという。

 そんな中で中道中立を貫く“教会”であるが、ここも随分と怪しいこと。

 

「おそらく財務尚書あたりと癒着し、私腹を肥やしている……この金の流れは、そうとしか言えない」

 

 魔王による侵攻への備え、といえば聞こえはいいが、とにかく徴税吏(ちょうぜいり)を酷使させてでも、農民や商人から吸い上げられるだけの財貨を吸い上げようとしている。余剰に余分に。たっぷりと。

 しかし、疑問は残る。

 

(誰かが意図的に、人類側の抵抗力を削ごうとしている?)

 

 そんなk仮説が脳裏を閃く魔王。

 そこまでは理解できるが、目的の真意が見えない。

 人類を弱くし、魔者側に与するものがいるなど、そんなことはあり得ない歴史だ。この齢一万年を数える魔王でも、そんんあ勢力の誕生に貢献した覚えはない。

 魔者が人を喰らう世で人心が乱れるのは恒であるが、それにしても、この流れは嫌な感じだ。

 何故なら、

 

(俺ならば、100年かそこらで復活してしまえるからな)

 

 人間たちの〈魔法〉による汚染濃度によって、魔王は復活する。

 人類側が〈魔法〉を使えば使う分だけ、魔王の復活は早く、しかも強力化させてしまうのだ。だが、人類に今更〈魔法〉を捨てさせることは難しい。いまある便利な生活を捨て、すべて不便だった時代の通りに五キロと強要されて、それにしtが得るものがどれほどいるというのか。〈魔法〉で洗浄された水が水道を通り、〈魔法〉の電気が各家庭の夜を照らす──人の数が増えるごとに〈魔法〉もまた指数関数的に、その汚染濃度を広げていく。人類が一切知りえぬまま。

 

「そういえば。ナハル嬢と文通していた、プレア嬢──いや、王位第一継承者たるプレーァハン姫殿下には、ナハル殿が仔細をお伝えしたと、報告が」

「ああ。だが、姫君一人が真実にたどりついても、魔法は捨てられるんだろ、リギン」

 

 それこそ、その事実に独自に気づきながら、民のためにそれを利用せざるを得なかった、イアラフトゥのように

 

「果たして、今回はどうなることやら」

 

 魔術の監視装置を見れば、ナハルはひとつの立派な洋館の前に立っていた。

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 蠍の印章をでかでかと垂らした紋章旗のある建物。

 

「ここが?」

 

 ナハルが首をひねるも無理はない。

 建物は広壮かつ堅牢で、まるでというか、ほとんど貴族の屋敷と変わらない。

 白壁面に青い屋根側。屋敷の周りは鉄格子とごく小さな堀まで設けられている──しかも、ここは一等地。高級市街地のど真ん中だ。

 

「疑いなさんな、お嬢ちゃん」

「俺らはアンタさんの腕を見込んで連れてきたんだ」

「ここが、俺らの拠点──“|蠍〈シュカルプ〉”の傭兵団の拠点であります」

 

 手ひどくやられた男たちが案内する中、ナハルは進む。

 中もそれなりに整えられた、傭兵団のアジト。

 何事かと驚く仲間に、団長に面通しがしたいと率直に告げる少女──ナハルを指さして、事を急がさせた。

 数分後。待っていたナハルたちのもとに、伝令役の団員が伝える。

 

副団長(ナグ・マスティール)が、お見えになるそうです」

「副団長?」

団長(マスティール)は、その、魔者討伐の任務中でして、今は席を外しております」

 

 それはタイミングが悪かったか。

 素直に己の不運を呪うナハルだったが、この傭兵団の副団長の噂も、既に蒐集(しゅうしゅう)済みである。

 果たして、どちら(・・・)の副団長だろうかと熟慮しつつ、

 

「わかりました。ぜひ、御会いさせてください」

 

 にこりと微笑むナハル。

 月の光に感銘を受けたように呆ける伝令役が我に返り、「どうぞ、こちらへ」と先導する。

 洋館内部は清潔そのもの。噂の荒くれどもが集う場所ではあるだろうが、そこらへんの手入れに雑味はない──というより。

 

(これは、〈魔法具〉を使って清掃してるな)

 

 肩をすくめかけるナハル。この傭兵団から〈魔者〉が出たという話は聞かないが、果たして。

 思案にふける内に、ナハルはひとつの部屋の前へ。三階の両開きの立派な扉だ。取っ手部分は黄金の金具が輝いている。

 ノックをした伝令が内部の人物を呼ぶと、鷹揚で迫力のある女性の声が返ってきた。

 ナハルは、開かれた扉の先に進む。

 

「貴様が入団希望者か」

 

 武器を丁寧に分解し手入れをする女性は、ソファの上でご機嫌ナナメという格好だ。控えめに言って、客人を遇する気はないと態度に現れている。

 

「受付嬢も通さずに、うちの第六班を返り討ちにしての入団希望か……おもしれーことするな、おまえ」

 

 頬杖をついて金色の女を睥睨(へいげい)する副団長。

 そんな中でも、ナハル冷静にやりとりを試みる。微笑みさえ浮かべながら。

 

「ええ。旅の資金集めに」

「ふん。ご苦労なことだ」

 

 彼女の手元で徐々に形を成していく金属の塊は、魔力が込められた特別製の二丁拳銃であった。赫々(あかあか)と塗装された金属は、どこか毒々(どくどく)しい煌きに満ちている。

 ナハルは女性の仔細をつぶさに観察する。

 薄桃色の長い髪、猛禽類のような切れ長の赤い瞳。爪も銃器同様に赤く塗られ、豊満な女の美を、精緻なまでに磨き上げておきながら、その筋肉質な見た目から発せられるオーラは尋常ではない強者のそれ。

 ナハルと同じ女性勇者。背中を中心に“蝶の翅のごとく”発現した聖痕──その総数、120。

 三桁の量ともなれば“大勇者”に号されて当然の、女傑である。

 

「うちに入りたいというからには、相当な使い手なんだろ?」

 

 彼女が言うのはナハルの背にした盾と、腰にある業物の剣に相違ない。

 

「んじゃあ、私がテストしてやんよ。

 それに合格したら、晴れておまえはウチラの仲間だ」

 

 乱杭歯のような鋭い歯をギラつかせて、副団長は裁断を下した。

 彼女の名は──クルータン・ジェラグ。

蟲葬(ちゅうそう)の勇者」とも渾名(あだな)される、「毒蟲(どくむし)」の女勇者である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




新キャラ登場!


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魔法銃

/Chaotic times …vol.03

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 ナハルたちは、傭兵団の根城──その中庭に降り立っていた。

 

「ルールはとくにねえ! “(シュカルプ)”傭兵団副団長(ナグ・マスティール)たる俺さま、クルータン様に一撃を入れるだけでいい!」

 

 誇り高く己の所属する傭兵団の名を叫ぶ副団長、クルータン・ジェラグ。

 彼女は赤い拳銃を両脇の収納具に入れて、丈長の黒いコートと、黒い帽子という、その筋では典型的な容姿の銃火器使いだ。無骨な姿に見えるが、明るい薄桃色の髪と赤いマニキュアが、狂暴な笑みを艶然と飾っている。

 

(イニーからの情報通りではあるけど)

(申し訳ありません。この展開は少々想定を超えておりました)

 

 こちらとしては団長あたりが試験を課すものと思っていたのだが、あてが盛大に外れた。そして、副団長権限で試験を行いにくるとも思ってはいなかった部分もある。

 胸当ての装甲の内にへばりつく水妖に(気にしないでいいから)と念話するナハル。

 念話の魔術は距離が離れるほどに精度も音量も落ちる、が、ナハルの装甲に隠れている〈魔者〉との距離を考えれば、二人は何の問題もなく念話が可能だ。

 

(魔法銃か……)

 

 正直、第一印象としては最悪な部類だ。ナハルが孤児院を焼きだされた際に、ロースが太腿を撃たれたのが、この武器である。

 無論、クルータン・ジェラグには一切かかわりのない話であるが、それ以来ナハルは、銃器の類が嫌いな傾向にあった。

 自分の身内を傷つけた武器を持った勇者に対しての第一印象としては、もはや「最悪」に近い感じ。

 何より、魔法銃は銃という特性故に、簡単に人間たちの国で普及している。武力の簡便化であり、。殺意の具象化──何かを殺傷することに、これほど特化した道具はなく、これほど習熟に時間のかからない──弾を装填し、狙って、撃つを覚えるだけで、魔法銃は人同士を殺しあわせる武器たりえる。剣や盾のように複雑な型や理を覚える必要がない。統一王国での普及率は存外に高く、軍関係者で〈魔者化〉したものはその多くが魔法銃を多数多量に使用装備しているという分析結果が報告されている。が、当然人間たちの国には知りえない情報である。

 

(おっといけない)

 

 笑顔を絶やさずキープするのも、魔王からの教えだ。

 戦場では常に笑っておけ、死神が微笑むのは笑えなくなった奴だけだから。

 

「おい、なにがそんなにおかしいんだ?」

 

 だが、そんなナハルの心理が、クルータンには(かん)(さわ)るらしい。

 

「人様が貴重な時間を割いて入団試験してやろうって時に、にやにやニヤニヤと」

「それは申し訳ないことを──」

 

 それでも、ナハルは笑顔を崩さなかった。

 

(「俺は笑ったおまえの方が好きだよ」)

 

 修練中、魔王に言われた言葉を脳内に響かせながら、ナハルは剣を正眼に抜く。

 銃を相手に剣で挑むなど、あの女どうかしてるという野次馬の声は、無論ナハルの耳には届かない。

 

「もういい、吹っ飛べ」

 

 クルータンが引き金を引く瞬間、ナハルは瞬足で間合いを詰める。

 遠距離を相手にするなら棘剣の鞭を使うことも十分可能であるが、それは最終手段。

 ナハルは10ファード(メートル)の距離を一気に跳躍し、クルータンを剣でとらえられる範囲に。常人では目で追うことも不可能な速攻劇であった。

 だが、今度はクルータンが笑う番となった。

 ナハルが寸止めしようとした副団長の首への一刀を、拳銃の銃床で叩き落とされる!

(しまった!)と純粋に驚くナハル。だが、彼女は身を独楽(こま)のように回して態勢を整え、次の攻撃準備を整え──

 

「ッ」

 

 ようとした彼女の額に、容赦なく副団長は銃弾を叩きこもうと撃鉄を引いていた。引き絞られる引鉄。それを超速度で首を巡らせることで回避するナハル。

 

「はっ! 思ったよりやるじゃねえか!」

 

 クルータンは一旦距離を取るように跳んだナハルを勿論追撃する。銃火が乾いた音を響かせ、その弾丸をナハルのダマスカス剣が断ち切るように防御する。

 焦げ付くような火薬の臭い──魔法銃本来の特異な性能ではない。

 その所有者自身の反射速度と照準速度が尋常ならざる領域にあった。

 にもかかわらず、聖痕の発動は一度も確認できない。

 

(私と同じように修練を積んできたタイプ?)

 

 聖痕の奇跡ではなく、純粋な体力勝負になるか。

 そう直感し判断を下したナハルは、剣を構えなおす。

 相手への評価基準を改め、新たな戦術を構築するのに、一秒。

 

「は。悪かねえな」

 

 クルータンもそれに気づいていた。

 

「下段の構え──、防御から攻撃に転じるにはうってつけの、教則本みたいな()だな」

 

 そう判断を下せる彼女も、十分以上に教則本のような対応が身に染みている。ナハルのように教えを乞うたのではなく、あくまで我流でだったが。

 

「うちのもう一人の副隊長と同じ次元か、それか団長の能力をはるかに超えていやがるのか……ありえねえか後者は」

 

 答えは圧倒的に強者であるが、ナハルは口を貝のごとく閉ざしたままだ。

 

「教則本以上かどうか、しっかりと見てやる」

 

 クルータンは銃を二つ抜いた。

 彼女独特の構え。まるで拳法家のような足捌き。銃を持つ右手を前に、左手を後ろに……まるで騎士槍を構える重装騎士を思わせる雰囲気が、彼女のコートからたなびいていた。

 まさにその時。

 

「双方そこまで、です」

「え?」

「ち……これからって時にお楽しみを奪いやがって。団長の金魚のフンが」

「あら~、ジェラグ殿ったら、お人が悪いこと」

「それともクソ眼鏡さまと呼んでやろうかぁ、うん?」

 

 一触即発の空気を二人の方から感じるナハル。

 そんな中で、眼鏡の女性が居住まいを正してナハルに向き直り、スカートの裾をあげてお辞儀(じぎ)する。

 

「はじめまして。私は“(シュカルプ)”の副団長をジェラグ殿と連名で拝命しております、クワハトゥ・ナールトゥ、と申します」

 

 現れた人物は、銀髪を短めに整えた眼鏡の女性。身に帯びる黒白の服は、一般的にはメイド服と呼んで差し支えないものであるが、その背中に携えた二本の大剣……否、巨大な人斬り“(ばさみ)”だけが異彩を放っていた。

 彼女の情報もナハルは取得済みだ。聖痕数は92だが、次期に三桁に届くだろうと目されている女勇者だが、その全身はメイド服を含む白タイツや白手袋で覆いつくされている。

 

「それで、団長は?」

「今日は敵が超大型でしたので──力を解放して、既にお休みに」

「ちっ。また戦場でブッ倒れやがったな……当代最強、「斬鋼剣」の名が泣くぜ」

「あのー……」

 

 思わず挙手してしまうナハル。

 

「入団試験の方は?」

「ああ、そんなもの中止だ中止」

「もうジェラグさん──ご心配には及びません、ナハル・ニヴさん」

 

 眼鏡の先で作り物のガラス玉めいた灰色に輝く瞳が、ナハルの(それ)を射抜いていた。

 

「我々“(シュカルプ)”の傭兵団は、あなたを歓迎するとの、団長様からのお達しです」

「その、団長殿は?」

 

 周囲を窺うが、それらしい人物は見当たらない。

 クワハトゥは心底申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「あいにくですが、今日は任務で力を使われた後で、動くに動けません。ですが、我等が団長は「斬鋼剣」の勇者──その名において、あなたを正式に入団加盟させると」

「もしかして、私とジェラグさんのやりとりを?」

「ええ。遠見の(魔法〉で」

 

 それでこちらの実力が知れたと。

 

「しかしながら、いきなり団員に喧嘩を吹っ掛けるやり方はどうかともおっしゃっていたので、そのあたりはご留意くださいますと助かります」

「はい──失礼いたしました」 

 

 最後に怖いことを言い残していく少女は、ジェラグにナハルを館内の空き部屋へ通すように厳命し、洋館の奥へと消えた。

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 その日の深夜。

 ナハルは一階に与えられた私室で、とある方へと定時連絡(ていじれんらく)を取っていた。

 

『災難だったな。入団早々、部屋掃除から始めさせられるとは』

「いえ、よい下積み作業かと」

 

 ナハルは純白の鎧の魔王に礼節のこもった口調で応えた。

 

「予定通り、大陸でも屈指と謳われる傭兵団のひとつに潜入できました」

『よし、よくやったぞ、二人とも』

『あ、ナハルだ。おーい、元気してる?』

「はい、元気にしております、アーンさん」

『アーン、定時連絡の邪魔をするな』

『ええ、いいじゃないですか。少しくらい~』

 

 ナハルとイニーは、傭兵団の洋館で与えられた自室で、通信魔術装置を開いて、それであちらの大陸とやりとりを重ねている。

 装置自体はアンテナラジオに似た形状であるが、魔王と意思疎通を図り、彼の指示を仰げることは、単純に心強い。

 

「うん?」

『どうした』

「地下から、何か物音が──発砲音?」

「おそらくは地下からです」

 

 イニーが投下の魔術で見ると、魔法銃を構えた薄李色の髪の副団長の姿があった。

 

「…………」

 

 彼女は無言で的の目標を当てていく。しかも連続で中心を射抜いていく。

 なかなかの才能──否、努力の賜物であるように見えた。

 

『「蟲葬(ちゅうそう)の」か──魔法の弾丸にあたった相手は弾丸に込められた蟲の巣に食い散らされる。故に「蟲葬(ちゅうそう)」』

 

 軽装で大粒の汗を流しながら射撃訓練に勤しむ副団長。遠方で転移に近い速度で動く的を正確に射撃していく腕前は、他の団員が一目置くだけの武力がある。聖痕を使えば

 昼間、止められていなかったら、ナハルとどのような戦闘を繰り広げたろうか、想像がつかない。それを告げるとイニーは不機嫌そうに、こう言ってくれる。

 

「ナハル様が勝つに決まっておりますとも」

「イニー、勝ち負けを競う相手ではないよ?」

「それはそうですが」

「けど、贔屓にしてくれて、ありがと、イニー」

 

 仲間へのフォローは欠かさないナハル。

 ナハルは思った。

 こんな夜遅くまで一人鍛錬に励む姿は、それだけで尊敬に値する。

 いくらこちらが奥の手をいくつも伏せてあったとはいえ、体捌きは勇者のそれだ。

 魔法銃の使い手だからという理由だけで嫌うべき相手ではないと確信するナハル。

 

『──しかし。惜しむらくは「斬鋼剣(ざんこうけん)」の勇者と面識を得られなかったことだな』

 

 いったん脱線しかけた話を、魔王がどうにか軌道修正してくれた。

 

「はい。ですが。一両日中にも、お会いできるものと思われます」

 

 ナハルは資料を思い出す。

「斬鋼剣」の勇者──名は、クリーヴ・クリーヴォール──聖痕数、990。

 四桁にも届かんという“大勇者”を超えた次元にある勇者。

 その名にふさわしく、彼女の一刀は鋼すらも斬り裂く──

 だが、

 

「これって本当なんでしょうか──戦闘後、必ず倒れるか、失心するって話」

「あら本当よ」

 

 幼い声が聞こえた。自分と同年代か、それ以下の年齢。

 ナハル即座に監視装置を切って懐に隠した。

 そして、窓枠の方に目をやる。

 

「お恥ずかしい限りだけど、それが私「斬鋼剣の勇者」の特性なの、理解していただけると助かるわ。「大棘剣(だいきょくけん)」の勇者さん」

 

 ナハルは、月の影を帯びて現れた少女を見て驚いた。

 黑い短髪に黒曜石の瞳。纏う着物は純和風──

 美しい市松人形のような少女が、そこにはいた。

 

「それとも「茨姫(いばらひめ)」という称号の方が好ましかったかしら?」

「あ、あなたが、この傭兵団、の?」

「そう『団長』です。ようこそ我が“(シュカルプ)”の館へ!」

 

 微笑む黒髪の少女は窓枠から飛び降りた。しだれ桜の刺繍が艶やかな裾を翻し、こちらでは珍しい“着物”に身を包んで、五本の刀を宙に浮かせるように背負っていた。

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 最近、(ちまた)で噂になっていた。

 

 太陽のように輝き、夜の星々のごとく眩い、金髪の勇者。

 

 黒い人喰いの〈魔者〉に襲われた村落や都市に、その金色の髪に戦塵を思わせる黒房をともす勇者は現れる、と。

 

 彼女は、今までどのような勇者が実行実現できなかったこと、黒い〈魔者〉の完全鎮静化を行い、そして〈魔者〉諸共どこぞに消えると噂の勇者。あとに残されるものは奇跡の残滓(ざんし)。──黒い〈魔者〉とどこか似通った人間の気絶した姿。

 

 勇者界隈では、彼女の使う武装──(いばら)のごとくとげとげしい武具──「棘を幾多も生やした、輝き煌く神聖な剣」──謎の「大棘剣(だいきょくけん)」の勇者と、ひそやかに号されていた。

 

 誰も詳細を知りえなかった、その正体に迫ることすらできなかった勇者が、“蠍”の傭兵団に姿を現したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・新キャラ紹介
〇クルータン・ジェラグ   副団長その①、薄桃の長い髪、二丁拳銃
〇クワハトゥ・ナールトゥ  副団長その②、銀髪のメイド、人斬り鋏
〇クリーヴ・クリーヴォール “蠍”の団長、黒髪の和服少女、五本刀


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大棘剣の勇者 -1

/Chaotic times …vol.04

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

〈魔者の大陸〉ニーヴにて。

 

「おいおい、聞いたか? ナハル嬢ちゃんの活躍をよ」

「聞いてる聞いてる」

『聞いてない人なんて、こちらにはいないんじゃないでしょうか?』

 

 人狼(コンリァフト)の青年、木乃伊(サラガーン)の淑女、骸骨(クナーヴァルラハ)の乙女、それぞれが廊下で行き会い、共通の話題で盛り上がる。

 魔都において重要地に数えられる元老院の赤い絨毯の敷き詰められた廊下。

 それぞれの部署や議会に散会を強いられる前に、心やわらぐ話題である。

 三者の地位を明確にするにならば、

 

 魔王軍装甲擲弾兵総監(そうこうてきだんへいそうかん)  レアルトラ

 元老院財務長官(ざいむちょうかん)  アーン・タシュタル

 魔王府主席護衛官(しゅせきごえいかん) アバル・クロガン

 

 各々に拝命された役儀があり、魔王府内でも別の部署で働くことが多い。

 他の幹部らを列挙するならば、

 

 近衛兵長兼国土防衛司令官──赤竜ソタラハ。魔王府工務長官兼装具管理庁長官──生命武器リギン、魔王主席副官兼医術庁長官──元エルフ王家のガルイヤーリァハ・ギィー、などなど。

 そして、今はこの地にいない魔王主席秘書官──ナハルと共に旅だった水妖──イニー・ン・リィア。

 彼女は100年前に、魔王と共にかの大陸を周ったっ熟練、ナハルの旅の同行者には真っ先に自薦してみせたのも記憶に新しい。。

 

「あいつら、うまく王派閥派に潜り込めると思うか?」

 

 レアルトラは疑念する。アーンは指を回しながら講釈する。

 

「いま、かの大陸は分裂間近──いやもう分裂状態と言える。そんな状況で、王派閥派に属する『傭兵団』への加盟・潜入は、かの国で何が起こっているのか……その最前線で物事を見聞できる

 

 もっとも、それをおなじようにやってのけた唯一の魔者は、魔王以外にあり得ない──他の魔者では魔力不足で力を十分に発揮できず、人間どもに正体が露見、のちに狩られて終わるだろう。

 しかし、魔王は違う。純白の全身鎧という人間として通じる見た目、豊富な経験と知識、何より魔力を自己錬成し続けることができる上、単独で大陸間移動転移大魔術を遂行可能という、他の者とは一線も二線も画す存在なのだ。おまえに、護衛役に選んだイニーは変幻自在の“盾”や“剣”となりうるのも心強い。

 その魔王は今回、ナハルにこの重大な役儀を託した。

 

「託されてるなぁ、ナハルの嬢ちゃん」

「本当に、こっちがうらやなしくなるくらい」

『ですが、巫女(マーン・シーキャハ)のグナー様の見立てだと』

《私の見立てが、どうかなさって? アバル・クロガン様》

 

 酔いかけた声は、聴覚を通したものではない。

 脳が──否、魂が直接聞かされている、そのような声の響きを伴う、童女の一声。だが、その実年齢は20歳に近い。

 振り返ると、数人の官僚もとい巫女補佐官(女官)に衣服の裾を大量に預けもたせた少女が突っ立ていた。まるで十二単(じゅうにひとえ)ほどもある重量。魔術による軽量化が通じないため、こうして女官らが裾を運んでやっらねば、童女は一歩を刻むこともできない。まるで布の幽霊か集合体のような童女に、レアルトラは挨拶を普通に交わす。

 

(おう)、巫女様もご出勤ですかい?」

《もちろん。我が陛下の招令です》

 

 彼女こそが四年前、“極大勇者”の出現を、勇者ナハル・ニヴと魔王ニアラスの邂逅を果たさせて張本人と言えた。

 が、その面貌はすべて法衣の内に隠され、露わになっているのは幼い口元だけ。どんな面貌をしているのか興味関心を懐く者は多いが、これを一枚でも外すと彼女の予知能力や未来観測は抑制を失い、発狂してしまうだろうという魔王の見解を聞いてからは、誰も口に出して問い詰めることはしなくなった。

 こんな若い身空で、あまりにも強力すぎる能力を得たがために魔王に封じられた──その点だけをみれば、彼女はナハルの真の同族と言えるだろう。が、彼女の場合は生誕の瞬間から“魔王預かり”の身の上。年季が違いすぎる。

 アバルは『ちょうどよかった』といわんばかりに巫女へ昨日の言葉──彼女の予言めいた一言を一同に求めた。

 しかし、彼女は微笑みながら、それを丁重に断る。

 

《言の葉には呪が宿ります。私自身、気を付けておりますが、私の言った言葉がどのような影響を──波紋を広げるのか予測できない。このことは他言無用に願いますね、アバル様》

 

 言われたアバルは納得し、背中の骨を最敬礼の形にまで曲げた。

 

《それでは、我々は魔王府へ。皆さまは元老院や各部署で、刻苦(こっく)精励(せいれい)なさいますように》 

 

 そういって、巫女はアバルを連れて魔王府への階段をのぼっていく。女官らは口を出さない──彼女には法衣越しにすべてが「見えている」のだ。

 そんな布おばけな巫女たち一行を眺めていたレアルトラは、ひとつの話を思い出す。

 

「……そういえば聞いたか? ガル姐さんの話」

 

 話とは何か見当もつかない木乃伊(サラガーン)はたずねる。

 

「陛下がナハルの嬢ちゃんを、人間の世界に返そうとしてるって」

「……はぁ? なんでよ、それ?」

「さぁ。よくわかんねえよ。ガル姐さんの“直感”ってやつらしい」

 

 レアルトラは仄聞(そくぶん)を述べる。

 ナハルを人間世界の覇者として発たせ、魔王である自分を討つ旗頭に据えようとしているのではあるまいか──そういう論法だ。

 実際、ナハルは魔王でも剥奪不能な“極大”の聖痕保持者だ。彼女自身、その気にさえなれば、魔王を討つことは児戯に等しい。

 第九紀が終焉を迎え、次の第十紀を迎える──新たな魔王が発つのか、あるいは……

 

「馬鹿らし」

 

 アーンは強く否定する。

 ナハル自身は魔王に心酔し、彼を信奉しているという意見も大いにある。

 その証拠に、彼女は魔王の願いを密かに叶えると、魔王軍幹部らに言って聞かせたこともある──どのような願いなのかまでは、本人は黙して語らなかったが──

 

「あんた、その話はあんまりしないほうがいいかも。マジでそうなっちゃうかもだから」

「言の葉には呪、ね。りょーかいっすよ」

 

 先ほどの巫女の話を思い出す魔王府財務長官と装甲擲弾兵総監。

 彼らは自分たちが口にし、耳にした言葉を反芻しながら、それぞれの部署を目指す。

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 ティル・ドゥハス大陸へと渡ったナハルたちの活躍は、顕著という言葉では足りないほどの大活躍ぶりを見せた。

 

 

 

「斬鋼剣の勇者」にたとえられるように、あちらでは勇者の称号には“剣”が多く用いられる傾向にある。

 

 四年前に死亡した「氷結剣」「雷霆剣」「太陽剣」などを皮切りに向かった暗黒大陸調査船団に乗り込んだ勇者たち(「太陽剣」は生き残って暗黒大陸へと渡れたが、消息不明扱い──今は元乗組員であった女性航海士を娶り、二人目の子宝に恵まれていることは、無論こちらの大陸には知られていない)。

 

 これらの類例から分かる通り、「三文字に“剣”」をいれた称号をいただく勇者は、勇壮かつ強者であると見做されることが多く、事実、それだけの実力を周囲に認められたがゆえに、その称号を与えられた実力者だ。

 その中でも最高位に近い「斬鋼剣の勇者」──聖痕数は驚異の990──彼女の五つの刀から繰り出される一撃は、鋼さえも一刀両断してしまう威力を誇る。が、その代償というべきなのか、彼女は斬鋼の能力解放後すぐに倒れるか、眠りに落ちるかの択一しかなく、ちゅじ間の戦闘には向かないという弱点があった。それでも、その一撃は鋼を断ち、天と地にまで剣劇の一刀が風間れる様子は圧巻の一言に尽きる。

 

 他にも様々な剣の勇者がいる中で、逆に、剣の称号に値しない勇者も数多い。

 

「巨盾の勇者」シュキーア・コサンツィ、「星球の勇者」カスール・スマフティーン、「聖杖の勇者」シュナ―フタなど。いずれも“剣”ほどの実力を認められることのない勇者たちであるが、その原因は彼ら自身ではなく、彼らの信仰する宗教に由来する。人類の祖たる開祖トゥアタ・デー・ダナン。彼の一族ががもたらした四秘宝のうちの、最大の信仰対象が“ヌアダの剣”であった。「切っ先から逃れること(あた)わぬ剣」というのは、言い換えれば確実に敵を殺戮する剣であり、所有者に絶対勝利を約束る剣だと解釈できる。ヌアダの次点が“無敵となれるルグの槍”。さらに次点が同率三位で“石”と“釜”──王位継承者を選ぶ医師への信仰は「王権への敬意」を表明し、また、「食材の湧き出す」鎌に至っては、決して植えることがないようにという、農耕文化や採取文化への信仰の象徴とされた。

 さらに、勇者たるもの、100年前に“剣の力量”のみによって半ば強引に魔王を封滅したリーァハト王家の祖たる征翼王にして「剣王」──イアラフトゥ初代国王に「あやかりたい」という理由で、剣という武具に頼る勇者は非常に多い。洗礼前のただの子供ですら、木剣で勇者ごっこに興じるものが圧倒的に多数派を占める。イアラフトゥが傭兵団の仕切っていた団長だったことも、現在において統一大陸において傭兵団が100年後に数多く存在できた所以(ゆえん)であろう。

 しかしかしながら、すべての勇者が剣技をおさめ、極められるとは限らない。

 中には剣に奇跡の発現たる聖痕の力を宿すことが出来ない“落ちこぼれ”が発生し、彼らはやむなく個々人に適応した武具を調達し、それが彼らの称号となっていくのだ。

蟲葬(ちゅうそう)の勇者」クルータン・ジェラグは銃器と蟲使いの才覚に。「鋏刃(きょうじん)の勇者」クワハトゥ・ナールトゥは大鋏と従者の才能に。それぞれが恵まれている。

 

 

 そんな事情の中で現れた「大棘“剣”の勇者」──別称「茨姫(いばらひめ)」──または、その悪辣さや貪欲さ、〈魔者〉すらも毒し沈静化させる能力を指して「毒蛇」と称される新米勇者──ナハル・ニヴ。

 

 

 彼女が属することになった傭兵団“(シュカルプ)

 クリーヴによる「斬鋼剣」が蠍の尾毒の一撃であり、復調たる二人の二丁拳銃や大鋏の体剣が、そのまま蠍の両前肢を構築したようなチーム編成といえる。

 そこへ「茨姫」、あるいは「毒蛇」と号されるナハルの加盟は。単純な武力の強化にはおさまらなかった。

 

 

 彼女は、人食いの魔者を鎮静化させる奇跡が使えること。

 

 

 他の勇者たちでは試みようとも思わない──救うよりも殺す方が安易かつ簡略な方法だからだ。

 何故、〈魔者〉までをも救おうとするのかと戦場で問われたナハルは、即座に言い返した。

「信仰上の理由です」と。

 人間たちの奉じる四宝教に、そんな戒律があっただろうか。それとも彼女は、別に信仰している者や物があるのか、それはわからない。

 おまけに、彼女が沈静化させた魔者は、彼女の聖痕によって何処かへと転送・転移させられ、それ以上の詳細は不明ときている。

 

 とにもかくにも。

 傭兵団“蠍”の名声──噂はますます国土を席巻していき、そして

 王宮へと呼ばれるほどに相成った。

 

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 

 親愛なるプレアへ。

 

 私は魔王様からのお役目で人間の大陸に戻り、とある傭兵団に属することになりました。

 みんな「茨姫」だの「毒蛇」だの、様々な称号で呼んでくれるけど、少し騙してくる気がして、気が滅入る思いです。

 そうそう。

 我が傭兵団の団長は、私が黒い魔者を討伐し、沈静化できることを最初から見抜いていました。

 いやはや非常に驚かされました。さすがは「斬鋼剣」と号されるだけの存在です。

 

 私たちの噂──魔者退治の功績を称え、近く王宮に()ばれると聞いた時の皆の驚きようと言ったら!

 

 同時に。そろそろ、あなたが秘密にしていることもわかる気がしてきた、今日この頃です。

 

 あなたの友人ナハルより。

 

 

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 

 

 親愛なるナハルへ。

 

 傭兵団の活躍は、私がいるところにも良く届いています。

 叔父様も大層関心を寄せられているご様子でした。

 彼らの武力が王派閥に属することになればと、そう口癖のように申しております。

 それにしても……「茨姫」はともかく「毒蛇」というのは、納得のいかない名づけようですね。いったい、誰が最初に言い出したのやら。

 私は、ナハルは毒蛇から最も遠い人物だと個人的には思っているのに──

 いえ、何か理由があるんでしょう。そうでなければ「毒蛇」なんて思いつきもしないったらありません。

 

 私が抱えている秘密に気づいてくれて、ありがとう、ナハル。

 でも……、あともう少しだけ待ってください。

 きっと、直接あなたと対面できる日が、近日中にも来るはずです。

 その時にはすべてをお話するつもりです。

 

 どうか、どうかその日まで、あなたが無事壮健でありますよう、心から祈念いたしております。

 

 あなたの友人プレアより。

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

「んだあ? うちのエース様はぁ、誰と文通してんだよ?」

 

 仕事明けに受付に届いていた手紙の返事を更衣室で開封して、ナハルは微笑する。

 

「大切な友人と、です」

「そうか……そうだな……友人(トモダチ)は大切にしとけよ」

「……え?」

「なんでもねえ、ただの独り言。じゃあな」

 

 意外にも殊勝な言葉を返す「蟲葬の勇者」クルータンは、下着を変え私服に着替え、そのまま更衣室を後にした。ナハルは小首を傾げる。

 

(なんだか(さび)()だったような)

 

 クルータンにも友人はいる。

 団長であるクリーヴは勿論、同期同副長のクワハトウゥとも、何気に仲が良い。とんでもない毒舌吐きで、一部団員からは「毒舌姫」と揶揄(やゆ)されている始末だが、それだけではないことを、ナハルはこの一ヶ月で知るところまで来ている。

 そんな彼女が正直な述懐をしてきた──なにやら事情がありそうだが、それはナハルにはわからない。

 ダマスカス製の装備類を外し、個別ロッカーに。

 誰もいないこと──監視の魔法の類のない子を確認した後、イニーを鞄へと隠して、ナハルも更衣室を後にする。

 

「お疲れ様です、茨姫(いばらひめ)

「その姫って言うの……まぁ、いいや。ちょっと外に出てきます」

 

 外出許可を受付で済ませ、首都を練り歩くナハル。

 

(統一王国、首都・エツィオーグ──)

 

 翼という意を冠される都の喧騒は、外では〈魔者退治〉が行われているなどとは信じがたいほど安穏(あんのん)としている。

 安らかで穏やかな人波。

 老若男女が憩う庭園や甘味処、市場と出店の規模と多様さは、着目に値する。旧帝領などの整備が行き届いていない田舎では絶対に見られない光景だ。まさしく首都の名にふさわしい盛況ぶりである。

 そんな人の波をかいくぐりつつ、ナハルは首都の重要施設──国王の住まう巨城や各種宮殿、さらには政府庁舎や軍関係施設などを巡るのを己の責務としている。いざと言うときのために、備えておく必要があるからだ。

 

(それにしても、広いし……宮殿の数も多い)

 

 金髪を振って足で歩くと、一等地だけでもなかなかの邸宅の数だとわかる。二等地、三等地、四等地にまで幅を広げると、とてもではないが一日で回りきれるものではない。

 それが首都だ。

 奇跡の力での転移術は、魔者をニーヴの大陸──魔王陛下のもとへ送ること以外には使わないと決めている律儀な少女、ナハル。

 十二の宮殿が都市の四方八方に散在し、初代国王のハーレムの跡が、この都市には残されていた。初代国王は「剣王」と号されているが、実に「傭兵王」としても名をはせたことは、歴史書が語っている。宮殿の名は、最北に位置する百合(リラ)(クイリーン)(マガルリーン)(スー・タルーン)(マルプ)杏子(アプローグ)(ヴィステーリア)など、数え上げればキリがない。 一時は宮殿の数は20を超えていたというのだから、初代様の性欲……後宮の数は測り知れないものがある。

 

(これも不敬罪にあたる、かな?)

 

 思うくらいは許されるだろうという結論をくだす。

大棘剣(だいきょくけん)の勇者」ナハルは、自分が観光がてら偵察している宮殿のひとつに、最も大切な友人がいることを、まだ知らない。

 

「これだけ魔法の設備が充実していたら、首都“内”でも魔者騒動が起こってもおかしくないだろうに」

 

 ひとりごちるナハル。

 電灯、上下水道、馬車に使われる軽量化の魔法や建物自体が魔法で建造されたものを見る限り、此処でも〈魔者化〉するものはいて当然の道理。

 だが、ナハルが傭兵団で仕事をしているのは、近くても都市近郊の街道あたりだ。首都内で〈魔者〉が沸いたという噂や事実は確認できていない。

 魔者ということで、ナハルはかの大陸理に思いをはせる。

 

(魔王さまや皆、元気にやってるかな?)

 

 ガルたちの仄聞(そくぶん)を知らぬナハルは、公園の四阿(あずまや)に腰をおろし、そんなことをぼんやり考える。

 定時連絡は毎朝毎晩とっているが、それでも、直接言の葉を交わせないこと・顔を合わせられないことがここまで寂しいとは。特に気がかりなのは、魔王の動向であった。

 

(魔王さまの“待ち人”、まだわかってないんだよね)

 

 元老院の悪魔や、幹部級の魔者たち、ガル先生にもそれとなく聞いてみても、そんな話など寝耳に水といったありさまだ。有益な情報を、この四年間で得られることができなかった、ナハルは己の無能ぶりをいやでも痛感する。いっそ本人に聞こうとも何度か思ったが、そのたびに躊躇する自分がいて、歯がゆいったらなかった。

 何度でも耳に残響する、あの日見た夢。

 

(──「 … … あ あ、 待 っ て る … … 」──)

 

 彼のあの声が、切実な希望が、どうしても忘れられない。

 

(──会わせてあげたい)

 

 そう(こいねが)っても、金髪の聖痕は起動すらしない。

 いつも通り。

『お時間です、ナハル様』と促す鞄の中のイニーに従い、少女は立ち上がる。

 そうして「大棘剣の勇者」は出店の肉饅頭を自分とイニー、二人分買って、傭兵団の宿舎に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 

 首都エツィオーグ、魔法省地下にて。

 

「ふーん……黒化した〈魔者〉の鎮静と転移、いや、これは“転送”か?」

 

 魔法省長官ララァバは、妖然(ようぜん)と微笑んだ。

 なまめかしい女の肢体(からだ)を白衣で覆い、眼鏡をかけて、彼女は(わら)う。

 

「ナハル・ニヴ──茨姫に毒蛇──そして棘剣(きょくけん)、ふふはは!」

 

 長い黒髪が揺れるほどの哄笑(こうしょう)

 おもしろい玩具を見つけたような嬰児(えいじ)のそれに似た嗤笑(ししょう)を漏らしつつ、彼女は、首都内で発生した〈魔者〉たちを保瓶容器の群れを素通りしながら、新たに捕らえた罪人と魔者、両方を使って、魔法実験を繰り返す。

 不老の実験。

 不死の実験。

 不滅の実験。

 人々が目指す上位存在──“神”に届くための──実験。

 

「今度はうまくいきそうじゃないかしら、ねえ?」

 

 彼女は闇の一隅にいる人物へ問いを投げるが、答えは返らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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