深淵の剣 (足洗)
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1話 彼はイ物


息抜きに書かせていただきます。
アニメ本当に良かった。




 

 

 目覚めは扉を叩く音で始まった。

 叩く、などという程度ではない。そのまま殴って破らんばかりの勢いだ。

 

「おい! いい加減に起きろ!」

 

 扉越しに声を聞けば、もはやその怒気に疑い様はない。

 寝床から起き上がり、よたつく足取りで玄関まで歩く。途中何度も床に転がした酒瓶を蹴り、その度それらはきんきんと涼しげに鳴いた。二日酔いの頭では、音色は如何にもぎんぎんと劈いたが。

 扉を開ける。白んだ陽光に目を刺され、暫時眩む視界の中、仁王立ちするその少年を捉える。表情は見るまでもない。なまじ端整な顔立ち故に眉間に寄った皺が目立つ目立つ。

 

「よぅジルオ。今日は随分早いな」

「寝惚けるのも大概にしろ。集合時間まであと五分だ」

「集合……?」

 

 少年の言う通り、回転数の上がらぬ微睡んだ頭が少年の言葉を反芻する。

 集合、集合、集合、今日の予定は。

 

「……あぁ、探窟か」

「たっぷり一分間消費した」

 

 眉間の皺が一層深くなる。

 扉を開けた時点で気付いていたことだが、サバイバルジャケットを着込み石灯付きヘルムを被り、がっちりと梱包された背嚢を負っている。胸元から下がった紫の笛――月笛、探掘者師範代という組合認定の証を見ればなるほど、それは探窟への完全装備に他ならない。

 

「まぁ、その、なんだ。気ぃ付けて行って来い」

「お前も来るんだ!」

 

 孤児院の子らを躾けているだけはある。腹から放たれた叱責の声は我が鼓膜と酒精に浸かった脳を存分に揺さぶった。

 この頭痛と目眩、第一層の上昇負荷にもおさおさ劣るまい。

 

「三分で支度しろ。苦虫の腹を炒った気付け(・・・)を無理矢理食わされたくないならな」

「そいつぁおっかねぇ。二分ほど待ってくんな」

 

 顔を洗い口を漱ぎ髪を適当に撫で付ける。

 雑嚢を腰に革帯で留め、ナイフを装束の各所へ納め、最後に刀を佩く。

 それだけで準備は万端整った。

 

「……」

「何か言いたげだな」

 

 難しい顔に呆れを滲ませてジルオは溜息を零す。

 

「軽装が過ぎるんだよ、お前のそれは」

「使わねぇものを持ち歩いても仕方あるまい。二層より降る時はも少し増えちまうが」

「っ、当たり前だ! ……はぁ、そんなだから未だに蒼笛なんだよ、お前は」

「ははは違ぇねぇ!」

 

 からからと笑声を上げて少年へと向き直る。

 いよいよ怒り顔に拍車が掛かっていた。

 

「すまんすまん。そう怒らんでくれ、な?」

「はぁぁあ……」

 

 肺腑の空気を全て排出するかの勢いでもう一つ溜息を吐くや、ジルオはさっと背を向けた。

 

「行くぞ、時間がない。それと笛はどうした。一番忘れてはならんだろうに」

「おぉ、そうだったな」

 

 テーブルに放っていたそれを摘み、帯に括る。

 扉を見やれば、少年は既に歩き出していた。時間が無いとの言はどうやら比喩でも脅し文句でもないようだ。

 後ろ手に扉を閉めて、その背中を追った。

 

「それと、さり気なく限界深度を越えている件は追って沙汰する」

「ツチバシ二羽でどうだ」

「三羽だ」

 

 晴天。

 抜けるような蒼が視界を埋め尽くす。振り返って仰ぐ。狭苦しい我が(あば)ら家が、この透き通った空の下に在ってはもはや木っ端も同然である。

 スラムと市場の境、街から“中心”へとせり出した岸壁に己の(ねぐら)は建っている。扉を開けて少しばかり進むだけで、眼下にその“大口”を望むことができる。

 

「ジル、迎えに来てくれんのは有り難ぇがな。あんまりここいらにゃ近付くんじゃねぇよ。ガキ共が真似しちまう」

 

 境、などと表したが、ここはどちらかと言えばスラムの範疇である。治安など語るに及ばず、無法者(ならずもの)共が温床としていることは周知の事実。

 おいそれと踏み入って犯罪に巻き込まれた、などと笑い話にもならない。

 

「なら、お前も孤児院に住み込めばいい。そうすれば俺もこんなところにわざわざ足を運ばなくて済む」

「おいおい堪忍してくれ」

「ああそうだそれがいい。院長もきっとお喜びになる」

「かっ、そいつぁウレシイねぇ。鳥肌が立つくれぇよ」

 

 冷めたその横顔に切れのある皮肉が最高に映える。

 相変わらずの少年に安心するやらたじろぐやら。

 ベルチェロ孤児院、探窟組合が認可し、管理・運営する孤児院の一つ。己やこのジルオの生家と言って差し支えあるまい。

 ただ常々、この孤児院という呼称には違和感があった。

 

「教練所と言った方がしっくりくるんだがな」

「まぁな……だがこの(オース)で必要とされる人材も、孤児があり付けるまともな仕事も、大凡一つしかない」

 

 表情を変えず、少年は淡々と事実を語った。

 探窟家を教育し訓練し、養成したそれらを輩出する。いずれ名のある英雄と為りて、人民を、国を潤す偉業を、宝物を、発見を持ち帰る為に。

 

「はっ、穴に落ちて死ぬのが仕事か」

「ラーミナ」

 

 名を呼ばれ、立ち止まる。いつしか少年を追い抜いていたことに気付く。

 吹き上がった気流が己と少年を叩き、同時に其処彼処で白い花弁――トコシエコウが舞い踊った。その様、雪と呼ぶには燦々と眩く、骨と呼ぶには美し過ぎる。

 儚さからは無縁に思われた不屈の花は、しかし呆気なく深淵へと落ちてゆく。何もかもを呑み下す奈落へと続く咽喉(くち)

 骸も、命も、魂さえ。数多の、無数のそれを喰らい殺してきた巨大な(あな)

 

 ――――アビス

 

 少年はじっと己を見据えた。静かな眼差しだった。白銀糸の髪が揺れるばかりで、それ自身はまるで彫像の如く静謐している。 

 しかし瞳には物問いたげな色が揺蕩い、見え隠れした。

 齢に不相応なほど冷静で賢しい彼の、少年らしさのようなものを久しぶりに垣間見た気がする。それに少し、安堵を覚えた。

 

「……お前は昔からアビスが嫌いだったな」

「嫌っちゃいねぇさ。嫌っちゃいねぇが……」

 

 続く言葉は、形にはならなかった。するだけ野暮、というものだろう。

 

「いいじゃねぇかこの話は。おめぇさんの言う通り、昔からだ」

「……」

「さっさと行こうぜ。こりゃ遅刻確定だな、ははは」

 

 笑声に応えはなく、少年と二人黙して歩いた。

 ふと、肩口辺りにある少年の頭を見る。随分、大きくなった。

 背ばかり伸びた己とは違い、ジルオは人間として立派に成長を遂げている。それを見届けるべき者は、本来己ではない筈なのだが。

 

「ライザめ」

「? 何か言ったか」

「いんや」

 

 素知らぬふりで空を仰ぐ。かの女がそこに居ないことなど重々承知していながら。

 

「ガキ共に変わりはねぇか」

「相変わらずだ。皆元気が有り余っている。特に、あの悪戯娘がな」

「ははっ、誰に似たやら……や、瞭然よな」

「ああ、昨日も『もっと深層へ行かせろ』なんて駄々を捏ねてきた」

 

 そして、すくすくと育った御転婆がもう一人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深界一層“アビスの淵”。

 地上から約1350メートルまでを指すアビスの最上層。同時に、見習い探窟家たる“赤笛”達の限界深度であった。

 切り立った崖の下、岩壁には各所に洞穴やせり出た岩盤、一際大きなものでは石の方舟なんてものも突き出ている。

 こういった僅かな平地と空間が鳥獣の巣になり、そして己にとっては絶好の足掛かりとなった。

 

「やるかい」

 

 崖の上から大洞を見下ろす。“力場”とやらの影響で可視光が遮られ、一定の深度からは靄が掛かったように見通すことが叶わなくなる。

 観測を拒む正体不明の現象。深淵を深淵足らしめる元凶。

 まあしかし、今の己にとってはただ鬱陶しい霧か靄でしかない。目当ては穴の奥ではなく、淵を飛び回っている。

 

「ギャアッ! ギャアッ!」

 

 甲高く喧しい鳴声を上げる鳥が、壁面すれすれを滑空して横切った。鳥だ。各所の身体形状は鳥に相違ない。

 翼長は優に3メートルを超え、特徴的なのは頭頂から嘴までを覆うその堅固な頭骨。形は鳥のようだが、全体に見られる印象は古い図鑑で見た恐竜のようだ。

 槌嘴(ツチバシ)という。アビス浅層に生息する生物の一つ。

 そして、本日の獲物でもある。

 

「さてさて」

 

 後ろ腰に装備したリールと巻かれた“糸”と、その先に取り付けたフックと外れ止めを検める。問題無し。

 傍らに生えた樹、その一本の枝にフックを投げ付け、巻き付ける。かちり、と外れ止めが嵌った。

 引き付け、強度を見る。問題無し。

 眼下に障害物は皆無。

 一歩踏み出す。

 右脚は空を踏み、沈み――落ちた。

 視界が、それを埋めていた景色が加速する。あたかも己を置き去りに、天へ昇って行くかのように。

 実態は真逆。己が地の底へ墜落するのだ。

 程なく、“糸”が想定距離まで伸びきる。その瞬間にリールを停止、“糸”が一気に張り詰めた。

 

「ふっ」

 

 落下の勢力に乗った自分自身の重量が革帯越しに衝撃となって身体に跳ね戻る。締め上がる胴体と両脚、慣れた感覚だった。この程度の高度ならば何ほどの支障もない。

 吊られた振り子同様に、壁面間際をすり抜ける。

 狙うツチバシの飛翔進路――予測通り。残り一秒半で接敵。姿勢制御、両脚を揃えた。

 

「ギャィイ!?!?!?」

 

 足下がツチバシの背面に突き刺さる。足応え(・・・)は十二分、背骨を砕いた。

 間近に見ればなお分かる巨体、それに鉤縄を放り巻き付ける。足下で痛みに暴れる怪鳥は、好都合にもそれ自ら縄に巻かれていった。

 飛翔体勢は崩れ、羽ばたくことすら儘なるまい。もう一瞬で重力の手が鳥を持ち去る。その前に。

 鉤縄のもう一方、二つ目の鉤爪を崖の壁面目掛けて擲つ。狙い目は見付けていた。大樹の根が滝のように生えた岩壁、嫌でも鉤爪は引っ掛かる。

 巨体を再度蹴り付け、離脱。

 そのまま大鳥は奈落へ落下しようとする、が体に巻き付いた縛縄がそれを許さない。

 

「ギャッ!?」

 

 緊張する縄。

 同時に、縄に雁字搦めになった鳥が落下の衝撃でさらに締め上げられ、悲鳴を上げた。

 身を翻す。

 振り子の慣性により、我が身は再度同様の軌道をなぞる。のみならず、リールを伸長し吊るされた怪鳥に高度を合わせた。

 止め。

 腰に佩いた刀の柄を握る。

 接近。接近。接近。

 間合――今。

 

「シィッ!!」

 

 歯列から呼気を吐き散らし、擦れ違いに一閃。一文字の軌跡を描く。

 鳥の嘶きが途絶え、背後でぼとりと頭が落ちた。固い頭骨が岩肌を跳ね、砕き、硬質な音色を奏でた。

 吊られた鳥は、切断面から夥しい量の血を垂れ流す。期せずして血抜きの要が済んだ。

 早い内に鳥を持ち帰らねばならない。

 そして、約束ではもう二羽狩らねばならんが。

 

「……今日はやけに静かだな」

 

 小さな足場に降り、“糸”を撓ませる。外れ止めが開く手応え、リールを回して“糸”を巻き取る。

 羽虫を除けば、周囲に飛翔体の影はない。

 思えば、このツチバシを見付けるのも随分と時間を食った。

 

「どうも妙だ」

 

 再認識でしかない独白。

 しかし応えは、あった。

 

「!」

 

 大気を震撼させる轟き。

 周囲の岩壁をそれは反響した。

 鳴声。それも尋常な大きさではない。音量はもとより、これを発したであろう存在の体積、質量が。

 “糸”を投げる。直近の、崖から突き出た木々へ。再三の振り子の要領だ。滑空し推力を得、次の足場へ。足場から“糸”を投擲、さらに跳躍、滑空、次の――――

 そうして渡り蜘蛛の真似事を続けること数回。

 捻れた岩窟の向こうから突如それは姿を現した。

 

「ベニクチナワ……?」

 

 紅い皮膚、夥しい疣、(くちなわ)の名に相応しい無数の牙を群生(・・)した顎、ツチバシなど比較にもならない巨大長大なる躯。それが体表側面の皮膜を広げ、目の前を飛翔している。

 何故。

 疑問が間欠泉の如く噴出する。こいつは本来深界三層“大断層”を生息域としている筈だ。何故このような浅層に現れた。

 “樹住まいの化石群”と通称されるこの場所には、足場となる横穴に事欠かぬ。その一つに着地し、大蛇の進路を見る。

 彼奴はこちらに気付く様子もなく、真っ直ぐ一箇所を目指していた。到達点には――人影。崖の上に一人、狙いは小さな子供だ。組合指定の探窟装備、首元でちらと見えたのは赤の笛。

 認識するより早く身体は動いていた。

 間に合うか。

 直進する蛇とそれを追う己。速度差は然程のものでもないがこちらは後追いになった。ベニクチナワが、早い。

 

「っ」

 

 舌打ちしたところで速度は変わらず、距離も縮まりはしない。

 蛇が獲物に狙いを定める。静かに、息を殺して不意を衝く為の予備動作。一拍の間。しかしまだ、足りない。

 蛇腹が波打っている。もう半瞬で襲い掛かる。

 子供は。背を向けている。掘削作業に夢中で蛇の接近にすら気付いていない。

 その背中には、見覚えがあった。

 

「ナットォ!!!」

「え?」

 

 あわ良くばこちらに気を引けないか、そんな心算で発した声も空しく、大蛇はナットに飛び掛った。

 その直前に声に気付いたナットは、今まさにクチナワの存在を認識した。

 

「うわぁあああああああ!?」

 

 反射的に少年が逃げた先には、採掘品を詰めたのであろう背嚢があった。

 蛇の顎が喰らい付き、崖を抉る。

 ナットは――

 

「ひぃっ!?」

 

 驚くことに無事だった。

 ベニクチナワが喰らい付いたのは、ぱんぱんに膨れた背嚢の方であった。土壇場で標的に迷った末、でかい方を選んだということか。遺物や鉱石を腹に収める習性がある、そんなことをジルオが語っていた気もするが。

 今は一切合財どうでもいい。

 ようやく、到達した。

 着地と同時に小さな身体を抱え上げる。

 

「ミナ兄ちゃん!?」

「喋るな、舌ぁ噛むぞ!」

 

 入り組んだ化石群を疾走する。子供一人分の重さは、然したる障りともならない。しかし。

 

「ヴォォオオオオオオオオオ!!」

 

 背後で鳴り響く咆哮、轟音。障害となる岩を粉砕したのだ。

 蛇の化物は、その(なり)に相応しい爬行で追随してくる。

 

「わぁあーー!? くるくるきてるきてるきてるよぉ!?!?!?」

「おうおう見んでも分かる!」

 

 肩口で大騒ぎする少年を宥めながら、退路を探す。この場合、ナットさえ逃がしてしまえればそれでいい。

 後は始末(・・)すれば事は済むからだ。

 しかし、正統な爬虫類の系譜でもあるまいに、蛇の呼び名に恥じぬ執念深さで彼奴は我々を追い続ける。

 あの巨体では通行不可能な道幅を順次選んでいるが、それを無理矢理割り広げ砕くのだ。

 

「どうするかねぇ」

「んな暢気に言ってる場合かよ!?」

「いやぁ本にその通りなんだがな」

 

 背後に庇うものを置いて勝を得られるほど、深淵の生物共は甘くはない。

 だがどうにも、一対一を所望できるような状況でもない。最適な状況を設え損ねた己の手落ちだ。

 

「よし、ナット」

「え? は?」

 

 石柱を抜け、谷間を行き去り、岸壁を二つ三つ跳び越えた辺り。お誂えの場所を見付けた。

 

「着いたぞ」

「ここ袋小路じゃねぇか!!?」

 

 見たままの感想を叫ぶナットを下ろし、壁際へ寄せる。背後と左側面は壁、右側面は切り立った崖、崖の下は言うまでもなく奈落へ一直線。

 そして前方には無論のこと、ベニクチナワが迫ってくる。

 自らも進み出る。戦闘距離から可能な限りナットを遠ざける為に。まあ、気休め程度ではあるが。

 

「っ、ミナ兄ちゃん……!」

「恐いなら目ぇ瞑って耳塞いでろ。なぁに……一分で済む」

 

 そうして刀を抜いた。音の伴わぬ鞘走り。陽光を刃金が照り返す。

 

「ヴッ……!?」

 

 クチナワはなおも這い寄って来る。しかしそこに先程までの苛烈な勢いは無い。

 荒い息遣いの中に高まった警戒感を嗅ぎ取った。

 

「なんだなんだ、手前がびびってどうする。えぇおい?」

「ヴォォオオオ……!!」

 

 言葉など、まさか通じてはおらんだろうが。

 無い筈の二の足を踏んでいる蛇の化物に、切先で手招きをくれてやる。

 さあ、来い。来い。来い。

 

「こ」

 

 ――――ピィィィィイイイイイイイイ

 

「!」

「ヴァ!」

 

 突如、耳を劈く。

 頭上から音が降ってきた。

 反射的に振り仰いだ先で、風に踊る――金糸の髪。

 華奢な体躯を探窟装備で包んだ娘。丸眼鏡の中で碧い瞳が光る。

 

「リコ」

「ヴォヴォォォオオ!!」

「っ!」

 

 頭上の存在に気付いたのは対手も同じ、どころか彼奴は瞬時に獲物を選別した(・・・・)

 より脆弱で、喰い易い方を。

 蛇体が跳ね上がる。今度こそは一直線、リコを。

 

「ガキが!!」

 

 何を血迷った。

 沸騰した脳で、冷めた理性が思考する。否、血迷って見えたのは一体どちらだ。

 刀一本でベニクチナワに挑もうとする愚か者。正気を疑われて当然。

 あの娘は、己を助けたのだ。

 

「ええぇい!」

 

 忌々しさに息を吐く。腰から“糸”を引き抜き、頭上高く擲つ。

 手早く殺らなんだ己のまたしても手落ちだ。

 高さは10メートルを越えない。“糸”を頼りに駆け上る。上昇負荷も皆無だった。

 またも蛇の後塵を拝するとは。

 無茶な娘だ。無謀な。馬鹿なことを。

 全く以て――勇ましい娘だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2話 岸壁街

 もう十年以上も前になるか。

 

 

 暗い暗い穴の淵。それが原初の記憶だった。

 それ以外には何もない。あるのは目の前に横たわる暗闇と同じ、こびりつく様な無明だった。

 

 

 街の名はオース。

 大穴の縁をぐるりと囲む円環状に形成された広大な街。冒険者『探窟家』達によってここは築かれた。

 彼らの目的はただ一つ、秘境、神秘、未知なる世界、巨大なる縦穴、不可思議の坩堝、幻想の顕現。『アビス』を探索し、究明し、暴くこと。

 発掘される数々の遺物は、現代の技術力を遥かに凌駕する代物ばかり。

 それ一つで一国の命運を変えるとまで言われる法外無辺の品々。

 数多の探窟家が挑んでは、深淵の虚へと消えていく。それでもなお、人々の探究心は衰えることなど知らず、憧れは尽きることなどなかった。

 深淵への憧憬が死の恐怖すら忘却させる。

 それこそ、まるで。

 

「呪だ」

 

 

 

 

 

 

 オース南区、ここは岸壁街と呼ばれている。増改築を幾度と無く繰り返し、歪な肥大を遂げた街。スラム。

 定住権など持たない、盗掘者達の吹き溜まり。

 二ヶ月前、その最果てで己は始まった。

 

「……」

 

 吹き上がる風に叩かれる。せり出した物見の露台。手摺もなく、ふと望んだ眼下に打ち沈むは闇、闇、闇。おそらく、正規の探窟家が使う入り口よりもなおアビスの淵に近い場所だ。

 探窟家になってアビスを冒険したい。そんな憧れを語る子供が、時折ここから淵を覗き込んでいることがあった。身を投げれば簡単にアビスへ往くことが叶うだろう。行ったが最後、ではあるが。

 夢を語ったあの子供は今どうしているだろうか。

 その瞳は今も輝き続けているのだろうか。

 不意に背を撫でる気配。ゆっくりと振り返った。

 

「うおっ」

「あ?」

「んだよ」

「いや、こいつがいきなり振り返りやがったから……」

 

 三人、薄汚れた身形の男。いや、そういった姿をした人間なぞこの街には五万と居る。いやいや、そんな人間だけが住まうのがこの岸壁街だ。

 故に目の前に居座る三人の男の存在は別段驚くべきことではない。

 問題は、それぞれが手にした物。

 右の男は鉄パイプ、真ん中の男は大型のモンキーレンチと特に珍しくもない。

 面白味があったのは、鉄屑を組み合わせた鶴嘴の紛い物。それがなかなかに味わい深い意匠だった。

 しげしげとそれを眺めやる己に、どうも業を煮やした様子で真ん中ががなる(・・・)

 

「おいガキ、背中のそいつを寄越しな」

 

 男はこちらを指差して言った。纏っている襤褸の外套の下からは確かに刀がはみ出ていた。

 同時に、“ガキ”という呼称に違和を覚える。ガキ、なるほど己のことだろう。

 背丈も手脚も顔貌も、精々五つか六つの幼さ。ガキと呼んで差し支えはない。

 故にこの強烈な違和感は己の単なる錯覚なのだ。

 一人、心中で自分自身を納得させていると、がなりがさらに激しく飛んだ。

 

「無視してんじゃねぇぞ糞ガキ」

 

 がなるまま、進み出た男の一人が鉄パイプを振り被る。頭を狙ったようだが踏み込みも呼吸もあったものではない為に、それは肩口目掛けて落ちてくる。

 そうしてガツンと、それは露台の板床を叩いた。僅かに傷が付いた程度だった。

 

「あ?」

 

 何を呆けているのか。

 得物が獲物を捉えなかったのがそんなにも意外なのだろうか。

 確かに己がその場にじっとして居れば当たりもしようが。そんな筈はなかろうに。

 

「おのれらぁ物盗り、ということでよいのかな?」

 

 確認は大事なことだ。間違い、勘違い、見当違いを最小限に留めるのに必要な行為である。

 しかし、それが時に人を苛つかせることもある。実際、この期に及んでこの問いは如何にも悠長。舐め腐っていると取られても仕方がない。

 目の前の三人からは、隠し立てもせぬ怒気が背中から膨れ上がっていくのが見えた。

 襲い掛かってくる。とはいえ、己の背後は大洞の入り口。進み出る足には明らかな躊躇いがあった。

 そんな屁っ放り腰では。

 左側の男の、その右脚が踏み込んで床に着いた瞬間、膝を外側から内側へと蹴り込んだ。

 

「おご!?」

 

 見事、男は内股になって体勢を崩した。

 乗り出した男の上体が真ん中の男の進行を阻む。

 左側から悠々と三人組の包囲を抜けた。もとより、囲みにもなってはいないが。

 そのまま縺れ合う二人を無視して、鉄パイプを握っている男に接近する。当然、男はこちらを迎え撃とうと身構える。

 それでは遅い。

 

「へ?」

 

 相対する敵手の視界から消える術は数多存在する。これもその一つ。コツさえ掴めばこのように――第一歩を踏み抜く(・・)だけで男はこちらを見失った。

 人間の動作には常に“起こり”がある。肉の強張り、呼吸の乱れ、体勢の変化……それら諸々を隠し、あるいは極小化し、窮めては消し去ることこそ武道における基本であり命題だ。

 男はこちらの、前進における“起こり”を見失った。

 先程まで己が立っていた場所を呆けたように見詰める男の横顔を過ぎ去り、背後から蹴りをやる。

 

「ぎゃっっ」

 

 蹴りの威力は然して問題ではない。この男からすれば、目の前にいた筈のガキが突然背後に現れた、という事実にこそ肝を潰したろう。

 仰天した鉄パイプ野郎が派手に倒れ込む。

 未だ縺れ合う、間抜け二人を巻き込んで。

 

「ちょっま」

「げっ」

 

 ここは奈落の淵、手摺すら無い露台の端。

 男三人は団子のようにぐちゃりとまとまって、暗闇へ身を躍らせた。

 

「「「ぎゃぁぁあああああああああ!?!?!?」」」

 

 絶叫の三重奏が木霊する。

 しかし、男の一人、鶴嘴を持った者にはどうやら天運とやらが付いていた。

 

「ひぃぃい」

 

 ガチリ、と鶴嘴の尖端が板床を噛んでいる。ぎちぎちと木目を削りながら、それでも懸命に刃を立て続ける。

 台の端へと歩み寄り、下を覗けばそこには。

 

「くっふ、ははは」

 

 奈落の闇に浮かぶ姿は三つ。三つだ。

 一人目は二人目の脚に縋り、二人目は三人目の腰に抱き付き、三人目は鶴嘴の柄を死に物狂いで掴んでいた。

 三人共に健在。

 

「いや天晴な必死さだぜ、手前ら」

「たたたた助け、助けてくれぇ!!」

「落ちる落ちる落ちるっ!!」

「ひっひぃぃぃいいいい」

 

 恐怖というものを抽出してそれのみで成形したかのような形相だった。それはそれは凄まじい。

 

「助けて、か。ふむ、さてはてどうしようかねぇ」

「ひぃやぁぁあああああ」

「すいませんでしたホントに! オレら追剥とか初めてで調子乗ってました!!」

「お願いしますお願いします何でもしますからぁ!!」

「ほっほー、何でもと来たか」

 

 屈み込んで、先頭の一人に向き合う。涙と鼻水で汚い顔をさらに汚してこちらを見上げている。

 

「二度と盗みはやらんと誓うか」

「ちっ誓います! もう絶対しません!」

「助けたなら、己の言う通りにしてもらうぜ?」

「しますしますしますから早くぅ!!!」

「よぅし分かった」

 

 えいこらと立ち上がり周囲を見回す。

 縄の一本も探せばあろうや。それまでこやつらが耐えられるか、踏ん張り所だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スラムの住人が金を稼ぐ方法は多種多様だが、大半は違法行為である。

 スリ、追剥、置引、家宅や店を狙った強盗。露店に並ぶ品々の出所を一々確かめていては買い物も出来やしない。盗掘品の売買、横流しもまたこの街では顕著だろう。

 私娼や物乞いなどまだ真っ当な方だ。そうした者らは、他人から何かを奪い取るような真似はしない。

 靴磨きに精を出す少年が居る。歌や踊りで人を楽しませる少女も居る。

 そしてもう一つ、代表的な稼業がある。稼業と呼べるかも怪しげな、屑拾いという名の雑役だ。

 

「ったく、なんでオレ達がこんなこと!」

「仕方ないでしょー約束しちゃったんだから」

 

 街の外れの広大なゴミ溜には、東西北オースの廃棄物が一挙に集積されている。ここから再利用可能な器械や部品、製材を探して拾い集める。文字通りの屑拾いだ。

 

「なんてったってあのガキは馬鹿強だ。逆らったらどうなるか分からんからな」

「だからってこんなもんガキ共の仕事だろうが!」

 

 ガキの仕事……確かにそうだ。屑拾いなんてものは結局のところ、何の稼ぎの術も持たないガキがそれでも飯の種を得る為にやる雑役。それが実態だ。

 その結果、未成熟な子供が次々とゴミ山の汚濁と毒に侵され、病み――死んでいく。

 

「……」

 

 見回せば己ら以外にもゴミ山を漁る者はちらほら見付けられる。そうした大半が、十にも満たないガキなのだ。

 

「そらそら、無駄口叩いてねぇで手ぇ動かしな」

「はいよろこんで!!」

「手のひら返すの早すぎでしょ……」

「本当に噛み付く相手間違えたな。オレ達」

「うるっせぇ」

 

 がやがやと喧しい三匹を尻目に、己とても仕事をせねばならん。

 金属ネジは状態が良ければ規格を問わず買取対象だ。針金、ワイヤーは勿論、銅線などは特に高値が付く。となればそうした狙い目の物は真っ先に獲られ、時にはそれの奪い合いになる。諍いが喧嘩に発展し、容易に殺し合いが始まる。

 食い扶持を得る為に。明日も生きる為に。他人を害してでも。

 

 

 

 

 日が暮れる頃には、持ち込んだリヤカーは満杯になった。

 

「引き上げるぞ」

「「「へーい」」」

 

 この街の大通りは常に薄暗い。西日すら射さない。無作為に岸壁に張り付いた無数の家々が、まるで覆い被さるように道の両端を挟んでいるからだ。

 活気と呼ぶには辛気臭いが、それでもこの時刻の往来は賑やかだった。

 そうして程なく目的地へ到着する。

 店内を夥しい鉄屑で満たした店とも呼べぬ店。スクラップ屋などと標榜するからには、この様相こそ正しいのやもしれない。

 店の奥で煙草を吹かす親仁を呼び付け、持ち込んだ屑を見せる。何か言うまでもなく、男はすぐに値踏みを始めた。

 提示された額を元に、二、三回の交渉を経て話が着く。店主の男は番台の金庫から金を出した。

 

「四等分してくれ」

 

 じろり、と男は己と背後の三人を睨み付ける。それも一瞬のことだったが。

 店主はこちらの言う通り、鉄の盆に四等分された金を置いた。

 その一つを手に取り、重みを検め懐へ仕舞う。

 

「あとは手前らの取り分だ」

「へ?」

「ん?」

「はぁ?」

 

 そんな頓狂な声と顔で返事をする男達を横切り、ふと思い立ってリヤカーを指差す。

 

「こいつはやる。使うなりバラして売るなり好きにしな」

「いや、待て」

「じゃあな」

 

 用は済んだ。己の用は全て。背中に掛かる声に応える義理もない。

 なけなしの夕焼けさえ遠退いていく。夜と、歪な家々が作り出した暗闇に紛れ、帰路を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3話 憧れか呪い

 

 

 暗い路地を幾度か曲がり、細い石階段を上がって梯子を降りる。小路を進んで突き当たりを右に折れればようやっと玄関だ。

 道順は覚えたといえ、このややこしさは笑う他ない。

 扉などという上等な物はなく、貼り付けた布を暖簾のように押し退けて室内に入る。八帖ほどの広さも家具を一つ二つ置けば十分狭苦しい。

 正面奥に窓が一つ。その傍に設えたベッドには、この部屋の家主が身を起こして座っていた。

 

「よう爺さん。起きてたか」

 

 白髪と伸ばし放題の白髭がいやにはっきりと茜を映す。

 窓の外へと向けられていた目がゆっくりとこちらを捉える。皺の多い目元が、なにやら余計に老人の――ウィローの目を深く、さらに落ち窪んで見せた。

 

「丁度いい。飯にしようや」

「……おう」

 

 乾いた声音でそれだけ言って、老人は再び窓の外を眺めた。

 紅、赤、橙、桃。そんな暖色の混交した世界にあってなお、窓の外に広がる大穴(アビス)は黒く暗く、全ての色を拒絶する。

 一日の大半をああしてアビスを眺めて過ごす。それが老爺の日常だった。

 

「今日は実入りが良くてな。米と卵が買えた。精が付くぜ」

「また、喧嘩か」

 

 焜炉に火を入れ、米と水を張った鍋を掛ける。

 

「おいおい、いくら己でも毎度毎度チンピラと遊んでる訳じゃねぇぜ。今日のはきっちり真っ当に稼いだ金だよ」

「ふんっ、さてどうだろうな」

「まあ聞けや。今日の(・・・)チンピラ共はなかなか面白ぇ連中でな」

 

 そうして、己は今日あった他愛のない出来事を飯炊きのついでにぺらぺらとくっ喋る。

 そうして、老人は時折、相槌やら嫌味やらを挟みながら、それでも最後までこちらの馬鹿話に耳を傾ける。

 たった二ヶ月間の、それでもこれが己の日常だった。

 味噌と昆布の出汁にトコシエコウの実やらサイノナやら雑多に薬味をぶち込んで、最後に卵をとじ入れる。卵粥という名の雑炊だ。

 器に流し入れて爺へ。己の分を片手にもう片手で合掌する。

 ずず、と啜り食う。粗末だが、それでもやはり白米は旨かった。

 

「……」

「どうだ?」

「……うむ」

「はは、そうか」

 

 石灯の仄かな光が食卓を照らす。電灯はない。そもそもここには電気自体通っていない。

 食うだけ食ったら腹も膨れた。ガキの小さな身体は胃袋も相応に小さく、量がなくとも満足するので便利だ。

 ……ふと、また妙なことを考えている。ガキの身体、などと。まるで自分のものではないかのような言い草だ。あるいは――

 

「いつまで」

「あん?」

 

 不意に、老人の匙を持つ手が止まる。

 

「お前さん、いつまでこんな生活を続けるつもりだ」

「なんだぃ薮から棒に」

 

 使った器を水桶に放り、戸棚から白い陶製瓶を引っ張り出す。盃は、迷ったが二つ、卓に置いた。

 とくとく注げば、朧な灯りに清酒が煌いた。ひどく、香り立つ。ほわり(・・・)と酒精が広がった。

 一口、嘗めるように飲み下す。鼻を抜ける辛味、苦味、微かに甘味。

 ウィローもまた雑炊を置いて、盃を手に取った。

 瓶の口を向ける。

 

「もう二月になる」

「まだ二月よ。爺さんに拾われてから岸壁街(ここ)で暮らし始めて、日銭稼ぎもちょいと覚えて、時々阿呆共の相手してみたり、こうして酒かっ喰ろうて管巻いたり」

 

 今度はがぶりと一気に呷る。口一杯の火の匂い。胃の腑に落とし込めば、かっと湧き上がる熱が身体を炙った。

 酒臭い笑声が零れた。

 

「そう悪くねぇ暮らしだと、俺ぁ思うんだがな」

「馬鹿を言うな」

 

 老人は、吐いた悪態を飲み込むように盃を呷る。

 荒く息を吐く様が、ひどく虚しそうに見えた。

 

「お前さんはな、こんな所で燻ってていい奴じゃあないんだ」

「ほぅ、己がか? 随分買われたもんだ」

「茶化すな」

 

 自分と老爺、両方の盃に酒を注ぐ。

 しかし老人は盃の波立つ水面をただ見下ろしていた。

 

「お前さんを拾ったのは、別に親切心なんて大層なものがあったからじゃない。ただの……気紛れだ」

「おう、そのただの気紛れのお陰で、お飯食って安酒(こいつ)をやれてんだ。感謝してるよ」

「……」

 

 老人は暫時黙りこくってしまった。

 聞き様によっては、なるほど皮肉にも取れるか。そんな懸念を抱いてみたが、どうやらそうではないらしい。

 重苦しいものを喉元で蟠らせている。ウィローの表情がまさしくそのような形に歪む。

 

「俺は、探窟家だった。もう十年も……昔の話だ」

 

 まるで石でも吐くような、ひどく苦しげな話し出しだった。

 探窟家を夢見てこの街を訪れたこと。

 なかなか上がらぬ等級、遂に手に入れた紫の月笛、血反吐を吐いて掴んだ黒笛。

 家族を得た、最愛の妻を。子を授かった、無二の一人息子を。

 我が子もまた探窟家になった……なってくれた。

 家と、それを守る妻に見送られながら息子と肩を並べて深界へ挑む。

 幸福だった。無上の幸福があった。

 

「幸福は、確かに、この手にあった。あったんだよ」

 

 深界四層からの帰路。慎重に慎重を重ねた探索の末、発掘した成果に胸躍らせた。

 ――――深界生物の急襲、息つく間もない強襲、瓦解する発掘隊、一人また一人失われてゆく仲間達、重傷に倒れる我が子。

 退路は一つ。たった一つ。地上への急速上昇以外に選択肢はない。

 我が子を背負って、逃げた。一顧だにせず、苦楽を共にした仲間達の骸を踏み越えて、ただ逃げた。

 四層の上昇負荷。呼吸は血飛沫を伴い、血尿と血便を垂れ流しながら、視界は紅く染まる。自分が何処にいて、何処を走っているかも分からなかった。激痛が全身を苛み、痛み以外の感覚を失った。

 それでも走り、走り、走り、走り……気付けば脂石の洞穴の中にいた。深界三層“大断層”の最下部。

 傍らを見やると、赤い襤褸布が地面を汚していた。

 赤い、紅い、無二の我が子、その死骸が。

 

「……電報船の救助要請が届いちまった。俺は一人で、アビスから帰って来た」

「……女房はどうした」

「息子が死んだショックで身体を壊してな……そのまま、だ」

「そうか……」

 

 ふと立ち上がり、盃をもう一つ取り出す。中身を注いで、そのまま卓の端に置く。

 ありがとよ……風鳴りのような掠れ声がそんな言葉を紡いだ気がする。

 

(ここ)の血を失い過ぎて、俺もこの様だ。この足はもう二度と動かねぇと医者に太鼓判を押されたよ」

 

顳顬をこつこつと指で突いて、老人は自嘲の笑みを顔に貼り付けた。

 そのまま自分の盃を手に取り一気に飲み下す。それは。

 

「無念だよ」

 

 震える声で、ウィローは言った。

 

「無念、無念だ。息子は今も、穴の底に居る。帰してやることもできなかった……いや違う。そうじゃない。そうじゃあない。ああ、一緒に、死んでやればよかったんだ。一緒に。だが、俺は生き残っちまった。俺だけが生きている。俺だけが……」

「……」

「アビスに挑んだこと、探窟家になったことを後悔してるんじゃない。妻を悲しませたこと。息子と共に逝ってやれなかったこと。それが、どうしようもなく無念なんだよぉ……」

 

 俯き、卓に額を押し付けながら老人は懊悩する。十年、膿み続けた無念を、抱え続けた無念を。

 どれほどの時間そうしていたろうか。時間を掛けて、老人は吐き出しかけた感情を再び胃の腑に収めたのだ。

 落ち窪んだ目が己を見る。どこまでも倦み疲れ、老いた目が。

 

「ラーミナ、お前さんがただの子供じゃないなんてことは最初から分かってたよ。それどころか、初めはその子供らしさの欠片もねぇ口調と振る舞いが不気味でしょうがなかった……」

「で、あろうよ」

「だが、こうして一緒に暮らして、お前さんという人間を知っていく内に、それどころの話じゃねぇんだと気付いた」

「どういう意味だ、そりゃ」

「お前さんは強い。腕っ節のことだけじゃない。ここだ」

 

 ウィローは指で自身の胸を差した。胸、心臓、そして。

 

「こんな腐ったゴミ溜みたいな場所で、腐りかけた老い耄れの世話を焼いて、チンピラに情けまで掛ける。そんな人間を、俺は他に知らん」

「歯が浮くぜ爺さん。買い被りもいいとこだ」

 

 苦笑して鼻を鳴らす。

 とうとう呆けたか爺。どうやらこのご老体は、己を聖人君子か何かと勘違いしていなさる。

 そんなこちらの態度を無視して、老人は決然と言った。

 

「お前さんのような者こそ探窟家に――――白笛にならなきゃならん」

「あぁ??」

 

 それは飛躍だった。論理もへったくれもありはしない。

 

「さっきの話から何故(なにゆえ)そのような結に至るのだ」

 

 睨む己に、老人はちらとも怯む様子がない。その結論に、何の疑問も持っておらんのだ。

 

「子を一人置き去りにして、妻を死なせた。アビスへの夢は間違いだったのか……いいや、そんなことはない。あの奈落の底には全てがある。富も名誉も、秘宝も神秘も、夢と憧れは誰にも止められん。だからこそ暴かねばならん。憧れという呪いを、未知を晴らし白日に晒さねば、でなければっ――」

 

 言葉は、遂には掠れ、裂かれ、途絶えた。

 老人は乾いた咳を繰り返す。

 すぐさまその背中を擦った。肉の削ぎ落ちた触れるだに細く薄い背中を。

 

「ちょいと飲み過ぎだ。無理するんじゃねぇ。もう床に着きな」

「お、おまえさん、なら……」

 

 老人を肩に担ぎ、ベッドに寝かせる。ひゅうひゅうと不規則な呼吸を繰り返しながら、それでもウィローは訴えを止めない。

 

「なってくれ、しろ、ふえに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岸壁街での生活も、そろそろ半年が過ぎようとしていた。

 日を追う毎にウィローの体調は悪くなっていく。起きている時間が徐々に徐々に減っていき、今ではもうほとんど寝たきりだ。

 それでも時折、老人は己に請うのだ。白笛になってくれ、と。

 呆け老人の戯言、そう笑い飛ばしてしまうのは容易い。事実、半ばほどはそのように捉えている。

 しかし、かの男の無念を思う。深淵の闇を暴いて欲しいという、その願いの源泉。

 憧れこそは呪いである。そう老人は叫んだ。

 絶望と悲哀の中に彼が見付けた、それは一つの真実だった。

 

 

 

 何とはなしに街を歩く。

 時刻は夕方。家に帰ったとて、ウィローは寝ている。この街で世間話の相手を探すのは、実際のところかなり難しい。一銭にもならないからだ。

 当て所なく歩く。客引きする娼婦、ゴミ箱を漁る子供、蹲ったまま動かぬ老人、怪しげな露天商、家々の窓から通りを覗き見る無数の目。

 そうしたスラムの日常を横目に過ぎ去って、結局足が向いたのは、いつもの場所。街外れ。いつかの最果て。

 アビスの虚を望む露台。

 

「……?」

 

 闇を見下ろして何が面白いものか。スラムの人間達といえども、そうした正しい感性も多少持ち合わせがあったらしい。この場所では、偶の追剥以外に人と出くわしたことはない。

 今までは、なかった。しかし今日に限って、どうやら先客がある。

 その小さな人影は、台の縁の、ほんの間際に居た。うつ伏せになって大穴を覗き込んでいるらしい。

 近付くほどに輪郭が詳らかになる。子供だ。五つか六つの、幼児といって差し支えない。

 いや、外見年齢が十になるかならないか(・・・・・・・・・・)の己が、他人を指して子供だなんだと言うのも妙な話ではある。

 そんな内心は横に置くとして、様子が見えてくるにつれてさらなる違和感が湧いた。

 その子供の身形。比較的真新しい探窟家のジャケット、白銀糸の髪もきちんと切り揃えられている。有体に言って身綺麗過ぎるのだ。

 つまり、スラムの子供ではない。岸壁街の外、表のオースの住人か。

 回答を得たと同時に、己は子供のすぐ傍まで歩み寄っていた。子供は依然穴を食い入るように見詰めている為、こちらに気付く様子もない。

 

「……」

 

 真剣な顔だった。この虚の闇間に、あたかも何かを見出しているような。己には見えぬ何かが、彼には見えているのだろうか。

 

「何が見える」

「っ!?」

 

 出し抜けの問いに、案の定少年はびくりと身を震わせた。背後、直近に人が立っているなどと思いもしなかったらしい。

 少し悪いことをした。

 

「すまんすまん。驚かせたな」

「っ……っ……うん」

 

 どうにかこうにか平静を装い、少年は短く返答する。

 無表情に冷や汗を浮かべた顔がどうにも面白かった。

 

「それで、何が見えるんだ」

 

 再び同じ問いを投げる。

 少年は暫時、じっとこちらの顔を見上げてから、また眼下へ視線を移す。

 

「何も見えないよ」

「ふむ、そうか。ならば何故、そんなに熱心に穴を見詰めておるんだ?」

「……音を」

「音?」

「それと臭い」

「臭い」

 

 鸚鵡返しに間抜けな相槌を打つ己に、少年は呆れるでも笑うでもなく淡々と説明した。

 

「風の唸りが強いのは力場が弱まって深界の空気がいつもより多く吹き上がるから。そうすると色んな臭いが嗅げる」

「ほう、どれ」

 

 少年に倣って、己もまた板床にうつ伏せになる。

 顔だけを縁から覗かせ、闇の向こうへ鼻をひく付かせてみた。

 

「……少し、甘いか?」

「うん、トコシエコウの匂い。深界にもたくさん咲いてる」

「そんでちょいと青臭いな」

「緑の臭い。一層目の“アビスの淵”は植物が育ちやすい。でも空気がかなり冷たい……もしかしたら二層の逆さ森から流れてきたのかもしれない」

 

 ふと見やれば、輝く瞳がそこにはあった。表情が乏しいなどと大きな勘違いだ。

 暗い闇の向こうに、少年にしか見えない世界が確かに広がっている。

 

「勉強したのか」

「うん、オレ探窟家になりたいから」

「そうか。大したもんだ」

「……うん」

 

 変化しないと思われたその顔が、どこか和らいだように見えた。

 ここにも一人、憧れを追い求める者がいる。

 

 

 

 

 

 



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4話 殲滅の君

筆が滑る滑る。




 

 

 

「おめぇさん、名は。俺はラーミナという」

「……ジルオ」

 

 一瞬の逡巡を経て、少年はぽつりと言った。

 見も知らぬ相手に対する警戒心を捨てないのは、褒めるべきことだ。年の頃を思えば驚くほどしっかりしている。

 

「ジルオか。うむ、いい名だ。強そうだ」

「強そう」

「おう、強くて賢い男になるぜ。きっとな」

「……」

 

 仏頂面がほんの少しだけ綻んでいる。出会って間もない、ごくささやかな観察ではあったが。この少年、実はなかなか顔に出易い。

 えいこら立ち上がり、周囲を見渡す。

 もはや夕刻とは呼べぬ頃合だ。淵から這い出た暗闇が、夜の帳と溶け合い辺りを蔓延し始めた。

 

「なあジルオ。おめぇさんどうやってここまで来たんだ」

「地図で、調べながら」

「一人でか?」

 

 少年はこくりと首を縦に振った。

 こんな子供が、一人であの入り組んだ岸壁街の道とも言えぬ道を踏破し、その最果てまで辿り着いたという。先の適当な褒め言葉はどうやら遠からず真実となりそうだ。

 

「ははは、本当に凄ぇガキだ。とはいえ、こんなところをおめぇのようなのが一人で出歩いちゃいけねぇよ」

「……ごめんなさい」

「悪いことだと理解しておるなら良い」

 

 ひどく素直だった。説教される筋合いなどないと、言ってしまえばそれまでであろうに。

 この少年の聡明さはここまでの遣り取りで十分に知れた。自分のやっていることが如何に危険な行為なのかも理解していた筈だ。

 ここはオースの裏の顔。年端も往かぬ子供が無防備を晒そうものなら途端に食い物にされるだろう。

 

「さ、外まで送ろう。あぁおめぇさんが己を信用できるなら、だがな」

「……」

 

 おどけた調子で肩を竦めてやる。ジルオはそんなこちらを再び凝然と見詰めた。

 値踏み、というにはその瞳はあまりに透き通り、腹の底の底まで見通されそうな要らぬ心配すら湧いた。

 少年の吟味は大した間を置かず終わった。何かの得心に、うん、と一つ頷く。

 

「大丈夫、だと思う」

「ほほー、その心は」

「悪い奴なら、オレがここを覗き込んでる時に襲う。武器も持ってるし、騙す意味がない」

 

 ちら、と少年の視線が己の背負っているモノに向かう。

 

「それと……」

「うむ」

「……オレの話、まじめに聞いてくれたから」

 

 どこか気恥ずかしそうに、少年はぼそりと言った。

 

「あ? それだけか?」

「うん」

 

 初めこそ理路整然とした根拠を並べていた気がしたのだが、ここへ来てえらく素朴な話になった。

 

「大人や同班の奴らは、オレのやること変だって、笑うし」

「風の強さだの臭いだのってぇあれか」

「……」

 

 面白い、そう感じたことは嘘ではない。しかしあのように些細な賛辞に。

 なんだか無性に、この少年が可愛く思えてきた。

 

「ははっ、そうか。そいつぁ光栄だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな少年と連れ立って、暗く淀んだ街を歩く。

 独特の空気。その中に種々数多の臭いを嗅げる。大概が、反吐や糞尿、鉄錆と塵埃、碌でもないものばかりだったが。臭いこそはこの街をこの街足らしめている要素である。それは同時に、観念的な面においても。

 己の身体にもそれらは染み付いている。

 ではこの少年はどうか。答えは否。彼が纏うのは表の匂い。日向を歩けばこそ身に付くそれ。

 故以て、この場において少年は異質な存在だ。そして異物は、すぐに気取られる。

 路地の影、通りに並ぶ家々、何より往来する者共から、無遠慮な、無数の視線が降り注ぐ。僅かな警戒と多量の好奇の色。小動物がわざわざ自分から巣に入り込んできた。さて肉を食おうかい毛皮を剥ごうかい、弄び辱め穢し犯そう。そうしようそうしてやるそうして何が悪い。

 ふと、襤褸の外套を引っ張られる。

 機微に聡い少年が、それら夥しい視線に気付かぬ道理もない。取り繕った無表情は、むしろ労しかった。

 

「……」

 

 ぐるりと周囲を睨め回した。

 こちらと目が合った途端、まるで泡を食ったように視線は逸れ気配は遠退いていく。先程までの剥き出しの欲望を目から体内へと蹴り戻され、腹でも下したかよ。

 そのままジルオの右手を握る。こちらを見上げる瞳に笑みを返した。

 

「左手が物寂しいんだ。しばらく繋いでてくれんか?」

「……うん、いいよ」

「ありがとよ」

 

 目の数が一挙に減じていく。半年間、暇さえあればゴロツキやチンピラと遊び倒し、何やら仰々しい徒党を幾らも踏み潰せば、噂の一つ二つ立つだろう。

 少年が己の連れである、そう示した途端、少年は獲物から立派な腫れ物へと変化した。

 これでもう、この子を襲おうと近寄る者も居まい。

 

「ラーミナは」

「ん?」

「ずっとここに住んでるの?」

「ずっと、ってぇほどじゃない。どうしてだ」

「ここは、その、危ないところだって習った。絶対に子供が一人で行っちゃいけないって。でも、ラーミナも」

 

 齢こそ上であっても己とて子供ではないのか。そしてその子供がわざわざこんな所に好き好んで住み着いているのは何故か。

 生い立ちだの経緯だの、込み入った事情を聞いたという心算はないのだろう。少年の問いはただ純粋な疑問だった。

 

「拾われた場所がここだった、ってぇ以外大した理由はねぇな」

「……孤児院に行けばいいのに。そうすればいろいろ勉強できるし、将来探窟家になれるよ」

 

 探窟家になれる……そう口にした時の声色は微かに弾んでいた。夢、なのだろう。この少年にとってそれは何物より価値あることなのだろう。

 その純心がひどく眩かった。同時に。

 

「……おめぇさんと同じくらいの子供もこの街にゃ多く住んでる。養い親が居たり孤児だったり、ま、事情はいろいろだ。だが、その殆どは孤児院で働ける齢になる前に死んじまう。餓えや病や、諍いで……これも、いろいろだな」

「……」

「運良く生き残ったとして、それからも日々食って行かねばならん。親や幼い弟妹、血の繋がらない家族を養うガキも居る。金を稼いで食って行くってのが如何に大変かは、おめぇさんなら解るだろう?」

 

 返事を聞くまでもない。強く握られた手が何よりも雄弁だった。

 奇妙な話だが、スラムの住人こそは日々を忙殺されていくのだ。仕事にあり付けた幸運な者は安い給金をより稼ぐ為。そうでない者は一日足を棒にして食い物を探し餓えを凌ぐ為。

 時間は有限だ。無邪気に夢を追うにはあまりにも少ない。

 だからこそ。

 傍らの純心な少年を見る。見るからに消沈して俯く様には苦笑が漏れた。

 

「すまねぇな。辛気くせぇ話聞かせちまった。つまり、住みたくて住んでるのも居りゃあ、そうでない者も居る。それだけのこった」

「でも、オレ」

「境遇は人それぞれだ。おめぇさんが気にするこたぁねぇ」

 

 話の流れを思えば気にするなと言う方が無理であろう。

 少年は自身の言動を省みて落ち込んでいる。

 

「人間、生まれ方は選べん。皆、己の持ち札で生きて往くしかないのだ。どうしたとて有利不利はある。背負う労苦にも差が生まれるだろう。それでもな、ジルオ」

 

 立ち止まり、正面に回りこんで屈む。やや翳りを帯びたその目と向き合う為に。

 

「そう、おめぇと同い年くらいの娘だ。岸壁街に住んでおる」

「?」

「そいつの母親は身重でな。働けぬ母に代わり、その娘は毎日屑拾いで日銭を稼いで母と腹の子を養っている」

「……」

 

 小さな、それは小さな少女がゴミ山を必死に掘り返す姿を幾度も目にしたことがある。その懸命な姿が不思議と目に留まり、声を掛けたのが切欠だった。

 

「娘には夢があるそうだ。探窟家になるという夢が」

「!」

 

 屑拾い如きに何故そうまで真剣なのか、そんなことを無遠慮に問うた気がする。

 娘は嬉々として語って聞かせてくれた。自分の夢を、未知なる世界(アビス)に対する憧れを。

 

「ゴミ山から小難しい書物を拾ってきては四苦八苦読み漁ってな、手当たり次第知識の足し(・・)にしとるそうだ。最近じゃ部屋が本で埋まって狭い、などとぼやいておったわ。そらもう、楽しそうに」

「楽しい……?」

「おうよ。まあ疲れただのゴミが臭ぇだの文句は多いが、ははっ! あの娘は毎日実に楽しそうだぜ。おめぇと同じによ」

 

 同じなのだ。

 暗い穴の淵を一心に覗き込み、見える筈のない世界を確実に見出すこの少年の、あの輝く瞳と。

 黒く泥と鉄錆に薄汚れながら、それでも折れず曲がらず心から夢を追いかける、あの娘の瞳は。

 

「おめぇさんの努力は価値あるものだ。その娘の努力は尊いものだ。誰にもそれらを貶めることなどできん」

 

 ぐしゃぐしゃと、その子供らしい柔らかな髪を撫でる。されるがままの少年に笑みが零れた。

 

「自信持って頑張んな。応援してるぜ」

「うんっ…………ありがとう」

 

 飾り気も面白味もない声援を、しかし少年は殊更大切に受け取ってくれた。

 改めて、その目を見れば分かる。己の心配など最初から杞憂だったのだと。

 ふと気付く。街並の隙間から僅かに見える空に、とうとう星が瞬き始めていた。

 

「おっと、すっかり長話しちまった。俺ぁどうも話が説教臭くていけねぇや」

「ふふ。ラーミナの話し方、なんかオヤジっぽいしね」

「あぁん? こいつめ、なかなか言いおるわ」

 

 再び帰路を歩き出す。

 歩を進めながら、胸の内には一つ思うところがあった。

 己の、少年に対する期待。かの少女に対する期待。

 そして、老人の己に対する期待。

 

「……そうか」

 

 結局、己もまた同じなのだ。

 若者に明日を見出そうとする。己の無念、己の存念を、誰かに託さずには居られない。

 それは、なんともまあ、無責任な話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 岸壁街が複雑に入り組んだ構造をしているとは言え、道を知っていれば街を抜けるのに小一時間も掛かりはしない。

 東西に伸びる大通りを西進し、突き当たった集合住居を回り込めば表オースの工場地帯へ出る。道のりは至極単純。何事もなければすぐに辿り着く。

 何事も、起こらなければ。

 

「…………」

 

 いつしか、通りから人の姿が消えた。

 というより人気のない狭い路に入ったのだ。街の出口は近い。

 だが。

 

「……ジルオ」

「? ラーミナ?」

「走るぞ!」

 

 ジルオの手を引き、一気に駆ける。

 突然駆け出した己に少年は声も上げられず随った。

 

「――」

 

 後背、そして頭上から。ほんの一瞬だが乱れた足音を聞いた。

 さて、我々は果たして何時、何処から追われていた(・・・・・・)のか。

 己の油断と迂闊は今置いておくにしても、ここまで接近を許すとは。平素から相手取っているチンピラ共ではありえない。

 前方に三叉路が見えてくる。左は当初の進路、市場への道。対して右は岸壁街奥地へ逆戻りだが。

 ――迷いなく“右の道”を選んだ。

 これほどの尾行術に長けた者が複数人、そして今もなお増え続けている。出口は張られていると看るべきだ。

 何より、このような閉所で挟撃など受ければ。

 

「はっ、はぁっ、はっ……!」

 

 息を切らせ、それでも懸命に付いてくる少年を見やる。

 己の身一つならば多少の無茶も試そうが、この子を危険に晒すような真似は避けたい。

 穴倉染みた小路を疾駆すること暫し。追走者の気配絶えぬまま、とうとうそこは袋小路。

 

「!」

 

 高さ二メートルほどの石造りの塀が三方を囲み、塀の上からせり出すように増築された住居。見上げれば、遥か高みに四角形の夜空を望む。

 見当で二十メートル四方の伽藍の空間だった。

 逃げ場はない。

 

「っ!」

「……」

 

 傍らの少年が息を呑んだ。

 己らが辿ってきた道から足音が立つ。もはや隠す気もないらしい。

 程なく現れたのは、黒尽くめの人型。己と負けず劣らずに襤褸の外套を身に纏い、フードで顔を隠した輩。上背はあるが、一見では体格を覚らせない。それを意図した装いであろう。

 そういった風貌が、一つ、二つ、三つ。増えに増えて最終的には八つ。

 何処に隠れていたやら、いよいよ鈍い己の感覚が怨めしいわ。こうも群れられると狭苦しいことこの上ない。

 

「こんばんは」

 

 そう言って一人が進み出てくる。そして、目深に被っていたフードを取った。

 男の顔が露になる。眼鏡を掛け、濃茶色の髪を後ろへ撫で付けた、有体に言ってあまり特徴のない顔立ちだ。ただ一点、その顔貌に浮かべた笑みが特徴と言えばそうなる。

 柔和な表情(かたち)である。表情筋全てで友好なる意志を全面に表明している。

 ああ、その薄く開かれた瞼の奥に溝川のヘドロのような色さえ見えなければそれはそれは完璧だったろうに。

 

「ジルオ君、だね?」

 

 名を呼ばれた少年が、微かに震えたのが分かった。

 

「おじさん達と一緒に来てくれるかな? 大丈夫、手荒なことはしないから」

 

 言いつつ男はなおも近寄ってくる。

 その時、少年の手が強く己の左手を握った。そこから伝わってくる感情を、よもや読み誤ろう筈もない。怯え。

 翻って正面を見据える。相対した彼奴らが一体何者なのか。何故この少年を付け狙うのか。

 疑問は尽きない。

 しかし結論はとうに出ていた。

 

「なあジルオ、おめぇさん……」

「ラ、ラーミナ……?」

「おめぇさん、実はいいとこのお坊ちゃんでこいつらはおめぇさんを探しに来た使用人共、なんてこたぁねぇわな?」

「ないよ!」

 

 目に涙を浮かべてぶんぶんと首を横に振りながら少年は叫んだ。視線には若干の怒気すら感じる。

 

「ははは! だろうな」

 

 半眼に無言の抗議を添えるジルオの頭を撫で回し、繋いだ手をそっと離した。

 

「ぁ……」

「待ってな。すぐに終わらせる」

 

 左背、左肩に右手をやり“それ”の柄を握る。そうして左手では、胸元で結んだ布を解く。

 そもそも、鞘などという上等なものは持っていない。かといって抜き身をそのままにしておく訳にもいかない。そんなこんなで結局は、こうして布に包んで背負うことになった。

 はらり、女が衣服を脱ぎその身を露とするように。夜闇に煌く、白い刃金(はだ)

 鍔はなく、(はばき)もない。握りに柄巻はなく、(なかご)を嵌め込んだ柄木に鞣革を巻き付けてあるのみ。拵えとさえ呼べぬ粗末な有様。

 これではまるで、刃そのものだ。

 故に――――不足は無い。

 

「…………」

 

 不気味なほどに変わらぬ笑みの男が潜めた声で何やら指示を出す。

 武器を手に歩み寄ってくるガキが一人。敵対意志は明白だが、脅威には値しない。早々に排除しろ。

 そんなところだろう。警告も脅迫もなく、問答をする気は皆無。

 一人、黒フードが前へ出る。だらりと腕を下げたかと思えば、袖口から諸刃の剣身が飛び出した。明らかに隠剣、暗器の類。

 つまるところ、彼奴らの正体も見当が付く。所属組織ないし国家とその目的は今以て不明だが。

 知りたいとも思わん。知る必要もない。

 音も無い歩みで黒い影が接近する。まるで微風がそよぐようだ。

 翻る剣は光を返さない。剣身は黒く塗られ、むしろ周囲の闇と同化した。

 剣尖が迫り来る。首、頚、血の管を切ればいい。そうすれば人などあっさりと死ぬ。それをよく知っている動きだ。

 なるほど、これが暗殺者という奴らしい。

 間境。

 

「――――」

 

 血振いし、残心を解く。

 さあ次だ。

 

「っ!? なんだお前は」

「あぁ? 問答する気はねぇんだろ」

 

 鼻から失笑してやる。

 男の笑みの面に動揺が走るのが分かった。足元に転がっている(・・・・・・・・・)同僚と未だ立っている己とを交互に、信じられないと言うように見比べる。

 

「ジルオ、目ぇ瞑って十数えてろ」

 

 振り返らずに少年へ言いやる。あまり子供に見せて善いものでもない。

 

「行くぞ?」

 

 膝を抜き(・・)、踏み込む。

 チンピラとは違い、即座に構えを取る程度はできるようだ。しかし剣を振り抜く間は与えず、先程の者と同様に両手両脚の腱を斬り裂く。これで二度と暗器など握れまい。

 一。

 仲間が斃れたところでもはや揺らぎはせぬらしい。二つの影が、斬られた一人を踏み越えて迫る。

 振り下ろされた剣を弾き上げ、空いた胴に一閃。右方の者には返す刀で袈裟掛けをくれる。

 二。

 背後から風。弦を擦るかのような耳障りな音色。短刀が三本飛来する。

 最初の二本を弾き落とし、残りの一本を大きく弾き飛ばす。誰あろう擲った本人へ向けて。過たずそれはすとん、と右大腿に突き刺さった。

 膝を折って蹲った男の顎へ疾走からの膝蹴りを入れる。

 三。

 今度は三人。己の周囲を旋回する。三枚の風車のような軌道で、徐々に距離を詰めて来る。

 目眩まし。常に対象の死角を取る連携攻勢。

 三方から投擲。闇色の短刀が己の喉笛に吸い込まれる。上体を屈曲し躱す。頭上で金属音、短刀同士がぶつかり散華した。

 それを見越していたのだろう。三者が躍り掛かってくる。後方、左右から二人。前方から一人。

 短刀を眼前の一人へ擲つ。飛道具――それも転がっている者からくすねた短刀――を使うなどと予想もしていなかったらしい。それは目を射抜いた。

 四。

 即座転身し、跳びかかって来る二者の合間を潜り抜ける。すれ違い様、左方の脚を斬り飛ばした。

 血の尾を引いて、人間の足が宙を踊る。斬られた方はべちゃりと地面に落ちた。

 五。

 さらに転身し、同じくこちらを向いた敵手と相対する。

 両者共に前進し、彼は剣を振り上げ、我は下段に取る。

 間合。

 血の尾を引くは――我が刃。物打ちは逆袈裟の軌跡を紅く描いた。

 六。

 突如、笑みの男が走る。己には目もくれず、ジルオへ。

 させるものかよ。幸いにして、この場は投げ付ける物に事欠かぬ。

 足の甲、脹脛、外腿。それぞれ一本ずつ、投げればそれだけ当たる。男は悲鳴を上げた。

 

「ま、」

 

 釈明か命乞いか、そういった類の言葉を発する心算だったのやもしれぬ。それを文字通り斬って捨てた。

 これにて仕舞。

 

「……とは、行くまいな」

 

 血を振るい、棟を肩に担ぐ。

 奥を見やれば、少年は言われた通り、両目を閉じて両耳を塞ぎ壁際で蹲っていた。

 

「ジルオ」

「……まだ数え終わってないけど」

「そうか? 見立てが外れたなぁ。あぁ、目はまだ閉じておれ」

「?」

 

 少年を立たせ、手を引いて歩みを導いた。

 地面にぐったりと転がる者共を蹴り退け、少年の進路を確保する。死屍累々、とまではならずとも幼な子にとって惨い様であることに変わりはない。

 

「振り返らずに走れ。もう一ふん張りだ」

「う、うん」

「いい子だ」

 

 そう、少なくとももう一番(・・)。斬り合いとなるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 出口などと表したが、何も『ここから先は岸壁街でござい』などと通用の門が聳えている訳ではない。

 無節操な増築と改築によって各住居が互いに絡み合うようだった奥地とは違い、スラム外縁へ行くほどに建物自体が疎らになっていく。

 打ち捨てられ、無人の荒ら屋も多い。かと思えば、遮蔽物もない更地に行き会う。

 待ち伏せには絶好の場所だった。

 

「……」

 

 屋根を失って久しい一軒の小屋。その壁に背を預ける。

 傍らの少年へ向けて、口の前に人差し指を立てて見せた。少年が頷く。

 流石に、ここまで神経を尖らせておれば気配を拾い損ねることもない。慎重に小屋の向こう側を覗き見れば、勾配のややきつい坂道がある。道幅は馬車二輌分といったところ。両側に剥き出しの岩が突き出ており、坂の上にもちらほらと建屋が見えた。

 

 ――居るな

 

 先遣隊の異変にも既に感付いている筈だ。建屋の影からぎょろぎょろと周囲を這う視線、やはり見張りも立っている。

 別の道を選ぶ、という選択肢はある。

 ここは円環の街だ。当然、穴の縁を沿って歩けば東西南北どの地域にも辿り着く。少年の言うベルチェロ孤児院は西区にある。大外を反時計回りに進めば、時間は掛かるがより安全に帰路を往けるだろう。

 が、しかし。

 後顧の憂いと、極めて忌々しい事実がある。あの誘拐人(かどわかし)共を除かぬ限り、この少年は依然狙われ続けるということだ。

 小さな身体をさらに縮めて震える少年の姿。

 

「……平らげるが最善か」

 

 いざ答えを導き出してみればなんともはや単純明快。

 ともすれば短絡の極地を行く自身の思考力に苦笑が漏れる。

 

「何度もすまんな、ジルオ。だがこれで最後だ」

「ラーミナ……」

「往く。いい子にして待ってな」

 

 無遠慮かつ無警戒に小屋の影から出る。

 白刃を肩に担いで悠然と近付いてくるガキの姿を、対手の見張り役は果たしてどう受け取ったやら。

 自身とは反比例するように相手方の警戒感が膨れ上がるのを感じた。肌を視線の針が刺す。

 好し好し。注目は完全に己へと向けられている。

 尚、駄目押しを加えるなら。

 

「ジルオ! という名の子供は己が預かった! 身柄は岸壁街の何処(いずこ)かだ!」

 

 澄み渡る夜気に響く無粋な大声を、よもや聞き逃すことなどなかろう。

 空間を隔て、俄かに音もなくざわめき立つ気配。

 先遣隊は帰らず、どうやら状況の把握すらままならぬ様子。其処へ来て誘拐対象を横取りしたと叫ぶ不審人物の出現。さて相手方から己は何者に見えただろう。敵か、それとも他組織からの使者か。

 坂の上、建屋の陰から複数の“影”が這い出てくる。音もなく、それらは己を取り囲み始めた。

 迅速なる動きだった。小汚いスラムのガキになんと丁寧な応対だろう。

 窮している。

 混乱している。

 情報が欲しくて仕方がない。

 彼奴らの動揺が手に取るように分かった。愉快で堪らん。

 変わり映えのしない黒フード。その一人が徐に口を開く。

 

「…………何者だ。貴様、何を知っている」

「懐のそいつぁ飾りか。吐かせて訊くのが唯一の能であろうに」

 

 眉根を寄せて肩を竦める。

 安い挑発も今が売り時だ。なにせ並べただけ買い手が着く。

 そうして我先にとそれを買ったのは、どうやらこの部隊の長であった。舌打ちを隠すことさえ忘れ、男は手で合図を送る。その瞬間、居並んだ黒服共が一斉に武器を構えた。

 

「そうそれだ。やりゃあできるじゃねぇか」

 

 刀身を立て、柄を顔側面にまで持ち上げる。そうして切先はやや倒した。即ち、陰。八相。呼称は諸流派によって数多存在する。

 長期戦闘における筋力の消耗と視界を阻害しない腕の運用。敵の攻め手に応じ、千変万化する多様性も併せ持つ。

 確実に屠る為に。一人たりとも逃さぬ。そうした諸々の企図を腹に据える。

 黒服共がにじり寄る。間合まで僅か。じりじりとした牛歩。しかし見えている。彼奴らの攻撃距離。こちらの刃圏。

 機を待つ。相手の攻め掛かるその刹那。

 後の先。

 その機を。

 張り詰めた糸の如き緊迫。重く硬く、密度を伴う空気。

 来い。

 いつなりと来い。

 来い、来い、来い――――

 

「こ」

 

 思考が口を吐いて表れようとした、その瞬間。

 夜空に、その只中に浮かぶ蒼白の月光を、“何か”が照り返した。

 

「!」

 

 煌く。その質感は馴染み深い。脳の余剰が要らぬ思考を回す。

 対して身体は、実に優秀だった。思考などという煩雑な工程を廃して既に後方へと跳躍していた。無論、背後に立っていた黒服の一人を文字通り蹴散らして。

 そして月光に煌いたそれは大地に着弾した(・・・・)

 

 閃光、遅れて爆音

 

 炎熱、巻き上がる紅蓮

 

 炸裂、塵埃と岩石の飛礫(つぶて)

 

 強烈な爆発により発生した衝撃波が身体を吹き飛ばす。姿勢制御、受身を取って地面を削りながら停止する。

 振り返り、目に飛び込んできたのは炎と黒煙を上げる大地。その周辺では黒フード達が幾つも転がっていた。

 そして、未だ吹き荒ぶ爆風にそよぐ――金糸の髪。

 爆心を背にして何者かが立っている。

 

「……」

「やぁ、はじめまして」

 

 ひどく場違いな、至極真っ当な挨拶を寄越される。

 碧い瞳が己を捉えていた。そのままゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 場違いというならその人物の装いもこの場には相応しくない。枯草(カーキ)のジャケット、白い羽を飾る石灯ヘルメット、何よりその肩に担がれた鶴嘴。誰がどう見てもそれは探窟家の装い。探窟家の女だ。

 

「実は今、人を探しているんだ。六歳になる男の子で髪は銀色。名前は……ジルオという」

「……」

 

 女は立ち止まった。眼前に立って気付く。思った以上に小柄であると。

 しかし、その放たれる存在感は実体としての体積を遥かに上回っている。

 女の胸元でまたしても煌く。蒼白の月光を受けてなお純白の飾り笛――白笛。

 鶴嘴が女の掌中を回転し、止まる。その矛先が己を指した。

 

「居所を、教えてもらおうか?」

 

 穏やかな声だ。そして、ひどく凛然とした美しい声だった。女の美麗な見目に相応しい。

 整った面差し、浮かべた微笑は怜悧な印象を他者に与えることだろう。こうして直に相対しなければその印象を何一つ疑いはしなかったろう。

 差し向かう女の穏やかさ……その向こうに燻る灼熱の如き激しさ。それこそが今の、この女の真実。

 憤怒。

 この女は怒っている。激情を己が体内で収斂している。

 

「……」

 

 肩に担いでいた刀をゆっくりと上段に取る。両腕が肩を越え、刀身、切先は遥か頭上。疑う余地などあるまい。それは一刀両断の意志。

 対する女も鶴嘴を右脇へ引く。左脚を前へ、右脚は後ろへ。深い半身による脇構え。かの者の企図もまた明白。それは一撃必潰の意志。

 互いが互いを間合に収めている。攻勢の意図には一切の迷いもない。

 その時(・・・)が来たなら躊躇無くやるだろう。

 その時が。

 その時。

 それは――――今。

 

「ハァアッ!」

「シィッ!」

 

 美声が放つ裂帛の気合。

 歯列から吐き捨てる呼気。

 全身の筋肉が十二分の弛緩状態から瞬発した。体重と身体の移動力が余さず運剣に伝達し、眼前敵を完全に屠り去るだけの破壊力を我が刃は携える。

 眼前の敵、眼前の美しい女――その背後、夜闇から這い出た黒いソレを。

 擦れ違う。金糸の豊かな髪が空を泳いだ。ふと、覚えのある花の香りを嗅いだ気がする。

 振り下ろされた刃。それは過たず黒い装束の下、右肩から左脇腹までの生きた肉と骨を断った。

 

「げひぃ」

 

 そうして己自身の背後からそのような音声を聞く。潰れた蛙が発するものより酷い声、そして惨たらしい圧潰(あっかい)()。肉ごと骨が粉砕された音だ。

 それを為したのは誰あろう、怒れる女探窟家である。

 べちゃりと地面を汚す赤茶けた泥。鶴嘴の血振るいを済ませたのだろう。

 

「あーびっくりした。一瞬本当に斬られるかと思ったぞ」

「そいつぁ失敬した」

 

 軽口もそこそこに、黒煙から未だ湧き出す黒い装束の者共。先程の発破で仕留められたのはほんの僅かであったらしい。羨ましくも煤の汚れも目立たぬ黒フードが我々を取り囲んだ。

 期せずして背を預けあう格好になる。

 

「ふふん、いいじゃないか。尽きない火薬(ピースフォビア)で吹き飛ばすだけじゃ物足りないと思っていたんだ」

 

 女の語気に本性が表れ始めた。獰猛な肉食獣が牙を剥き出しにする。背中に浴びる荒々しい気配は正しくそのようなものだった。

 

「今さっきの爆撃(・・)を使わんというならそれに越したことはねぇな」

「はははは! 悪かったよ。わらわら集まってるのを見たら蹴散らしたくなって……ね!」

 

 女は接近してきた一人を振り抜かれた剣諸共叩き潰した。襤褸布と同等に成り果てた人間が地面に転がる。

 

「ジルオの名前を出した時点で、お前は味方だと思ったよ」

「別の誘拐人とは思わなかったのか」

 

 投擲された短剣を弾き落とす。その投擲に合わせて跳び掛かってきた者を、逆胴に斬り伏せる。

 背中越しにくつくつと笑声が上がる。

 

「自分の身を囮に子供一人を守ろうとしている。そんな奴なら、たとえ誘拐犯でも良い奴には違いないだろ?」

「…………そらまた、豪気なこって」

「ありがとう!」

 

 女は元気溌剌とした声で感謝を口にしながら、頭上高く振り上げた鶴嘴で正面にいた黒フードの脳天を貫いた。

 小柄な体格に見合わぬ膂力、並ならぬ鍛錬に裏打ちされたであろう体裁き、得物に対する高い練度。

 端から知れた事実を再度認識する。この女、只者ではない。

 そう、そして何よりも。

 

「それと、もう一つありがとう」

「ん?」

「お陰で手早く済ませられそうだ」

 

 激情を収斂し、矛として研ぎ上げる精神力。

 

「――よくも私の弟分を狙ってくれたな。二度とはさせない。これが如何に度し難い愚行か思い知らせてやる」

 

 憎しみなどという不純物を含まぬ、純正無比の怒り。その清廉なる逆襲の遂行に一切の迷いはない。

 

「お前達は、根絶やしだ」

 

 これが白笛。

 深淵を究めし英雄か。

 

 

 

 

 



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5話 白笛なる者

 

 

 手早く、その言に偽りはなかった。

 二十八名からなる武装集団をものの十分で殲滅せしめ、辺りには人型の襤褸が黒山を作っている。

 鶴嘴をぐるり一回し、女は軽く息を吐いた。まるで一仕事終えたことを満足するかのように。つまるところかの女にとってはその程度(・・・・)の労力でしかないと表している。

 己もまた得物を布に包み、再び背負った。

 女は目聡くそれを認め、笑みを浮かべる。

 

「最近の岸壁街は、そんなものを担いでなきゃならないほど荒れてるのかい?」

「護身用に何かしら忍ばせるのぁ珍しくもねぇ。だがまあ、己のこれはただの虚仮脅しだ」

「虚仮脅し?」

「長物なんざ持ち歩く阿呆にゃ、相応の阿呆しか近寄っては来ねぇのよ」

 

 随分前に行き会った三人組はマシな阿呆、というか愉快なバカだが。多少なりと考える頭があればこれ見よがしに武装した人間になど近寄るような真似はしまい。武器を持っていようが、そしてそれをガキと知ってなお……否、だからこそ(・・・・・)襲い掛かってくる者。救いようのない外道とそうでない者を選り分ける、(これ)は謂わば試金石だ。

 

「くふふ、さっきの身の(こな)しを思うとそうは見えないね」

「そりゃおめぇ、お互い様であろうさ」

 

 鶴嘴一本で大の男をばったばった薙ぎ倒す、一見には齢若い女子が何をか云わん、という話だ。

 女はますます愉しそうに笑った。立ち回りを演じる最中にも思ったが、あるいは躁の気があるのやもしれん。

 呆れるやら感心するやらの心地で息を吐く。そこで。

 

「おぉ、そうだ随分待たせっちまったな」

「?」

「ほれ、探し人がおったのであろうが」

 

 手で示してやると、女はその小さな人影に気付いた。

 所々に朽ちた小屋の物陰からおずおずと出てきたのは、散々連れまわした幼い少年。そうしてジルオもまた女の姿を認め、目を丸くする。

 

「ライザさん……!」

「ジルオか!」

 

 少年は駆け出した。そうして女もまた少年の方へ進み出る。

 数多の障害を除き、今ようやく再会の叶った姉弟分ら。感激するのも無理はない。

 ジルオが両手を伸ばす。

 女もまた手を差し伸べる。

 もうあと一歩、少年は女の腕に抱かれ安堵と喜びに涙を浮かべる――――などという光景を己はどこかで夢想していたようだ。それこそ夢幻であると、直後に悟る。

 

「こんの……」

 

 最後の一歩、両者が接触する直前で、女は地を踏み込んだ。一枚の絵画のような美しい構え……そう“構え”だ。左脚が地を噛み、右腕を引き絞っている。丁度弓の弦を引くのと同じ型。それが意味するところはつまり、打突。

 前進していた身体延いては体重が停止したことにより慣性が働き、減衰し損ねた運動力が体内を伝達。力の到達点は一つ、握り固められた拳である。

 射出器――肘で折り畳まれていた腕が解放され、弾頭――拳の(かしら)が空間を貫く。

 真っ直ぐに走る拳打の行方、あたかも時間が遅延したかに錯覚する中で、それを見付ける。柔らかな白銀糸の髪、少年の小さな頭頂だ。

 

「大馬鹿もんがぁぁああああああ!!」

「へぐぅ」

 

 鈍い打撃の音響。賢しい少年のその小さな頭には中身がみっちり詰まっているということの証であろう。

 膝を付いて頭を抱える様は実に痛そうだ。見て分かったことだが、やはり加減など一切しておらぬらしい。

 腰に両手を添えて女は仁王立つ。

 ただでさえ力強い光を宿した両瞳が怒りによってさらに爛々と燃え盛っていた。

 

「岸壁街に近付いてはダメだと常日頃教わっていただろう。そしてその理由も」

「……はい」

「自分のしたことがどういうことか分かるか?」

「はい……」

「私に言うことは」

「ごめんなさいっ!」

「許す!」

 

 下げられた少年の頭に、威勢も鋭く女は言を落とした。ぽかん、とジルオが女を見上げる。

 

「心配したぞ。無事で何よりだ、ジルオ」

「っ」

 

 そのまま女は少年を抱きすくめる。程なく、腕の中からすすり泣く声が聞こえ始めた。

 どうやらそれで落着らしい。

 

「おうおう」

 

 暫時繰り広げられるその仄温かな光景がなんともこそばゆい。まるで擽りを逃れる体でその場から離れる。

 温かさからは程遠い。打ち倒された多くの者共が転がる更地へ。

 黒衣を撫でる夜風さえどこか寒々しい。女の爆撃によって燃え上がっていた家屋の残骸もいつしか鎮まり、焦土の苦味ばかりが鼻腔を満たした。

 手近な一人を選び、装束と中身(・・)を検める。一人が終われば近くのもう一人、それが終わればまた一人……傍から見ればまるきりの屍肉漁りであろう。

 

「ふむ、腐っても隠密か」

 

 黒塗りにされた短刀類、幾らかの金銭、黒い外套の下の衣服はごく一般的な造りだった。

 身の証となるようなものは何一つ持っていない。

 

「当然だぁな」

「こぉら悪ガキ。何をしているんだ?」

 

 おどけた声が背に掛かる。粗方調べを済ませてからその女へと向き合った。ジルオはといえば、配慮されたか遠巻きにこちらを見ている。

 丁度よい。どうやらこの女こそは問いを投げるべき相手だ。

 

「こやつら、何故あの子を狙った」

「十中八九私への人質、交渉材料に使う為だろう」

 

 ひどくつまらなそうに女は鼻を鳴らした。

 そうして、胸元に下げた笛に指先で触れる。その手付きはともすると壊れ物を扱うかのような繊細さだった。

 

「見た通り私は白笛なんだが、地上では(・・・・)まだ日が浅くてな。こいつらはその利用価値と危険度、二つを秤に掛けて結果前者を選んだ度し難い奴らだ。ああ、舐められたものだ。まったく」

「ほぅ」

 

 アビスに入ることを国家より許諾された探窟家。その中でも人の限界を超えたとされる者にのみ与えられる称号、それこそは白笛。英雄、鉄人、伝説、超越者……あるいは奈落の星(ネザースター)などとも呼び習わされているとか。

 彼らが大穴の深きより持ち帰る遺物の価値は、事実国の趨勢を左右する。影響力という意味ではあらゆる国家のどのような要人にも引けを取るまい。

 なればこそ、この襲撃か。

 

「何処の手下(てか)だ。目星は付いてんのかい」

「予想くらいはな。確証を探すのは組合の仕事だ。そしてもし、予想が事実と判明したなら、そこからがようやく私の出番になる。二度とこんな真似ができないように、そんな気を起こすことさえできなくする。徹底的に」

 

 女は微笑する。凶暴なその意志を隠そうともしない。虎か獅子か、放つ威圧は猫科の大型肉食獣のそれ。

 なるほど。

 

「さっき宣言した通りさ。決断は何も変わらない。奴らは……根絶やしだ」

 

 気負いも迷いも不純もない。決意は澄み渡り、戦気は微塵と衰えを知らず。

 この女はやると言ったらやる。間違いない。確信できる。

 助勢は、どうやら元より不要であった。本日二度目の杞憂に溜息が漏れる。

 

「無茶はせんように……なんてのぁおめぇさんには無理があるか」

「ん? なんだ、手伝ってはくれないのか?」

 

 さも手を貸して当然のような言い草であった。内心を見透かされている。あるいは、本当にただ人手を欲しているだけか。

 

「天下の白笛殿御自らの御出陣。己のような下賤輩が出る幕などありますまい」

「むー、なんだか矢鱈に嫌味だぞ」

「ふっははは。あぁそうだ。岸壁街の方にも幾らか転がしてある。引き取りは任せたぜ」

 

 膨れ面の女を横切り、一人待つ少年に近寄る。

 

「ジルオ」

「? なに」

「ここでお別れだ」

「え……」

 

 理知的な顔に呆けのような表情が浮かぶ。

 僅かに身を屈めて、その丸くなった目を覗き込んだ。

 

「もうここへは来ちゃいけねぇよ。貧民窟ってのがどれだけ危ねぇかは今日で十分解ったろう?」

「で、でも」

「約束してくれるな?」

「……」

 

 半ば少年の言を遮って一方的な結論を迫る。この少年がこちらの意図を読み誤るようなことはあるまい。

 未だ涙の痕も消えないその目に、再び滲んだ光を見る。まるでそれを隠すように、少年はこくりと頷いた。

 もう一度、少年の頭を撫でる。その心根の優しさを掌で直に感じた。そんな心地がする。

 

「達者でな」

 

 少年と擦れ違いに己は往く。在るべき場所、今の己の居所へ。

 薄闇を自ら発する岸壁街が口を開けて待っている。

 

「ラーミナ!」

 

 背を叩く声にも振り返らず、真っ直ぐ歩を進める。

 それにも関わらず少年は声を上げた。

 

「ありがとう!」

「……」

 

 飾り気のない言葉はむしろ深く、より強く。

 我慢が利かず、ついつい手だけは振っていた。

 愛想も未練もないと気取りたかったのだが、己もまだまだ青いらしい。それが少しばかり可笑しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな背中が遠ざかっていくのをジルオはぼんやりと見送った。自身より少しだけ年長とはいえ、子供には違いないはずのその姿がどうしてかとても頼もしい。

 ほんの短い交流でしかなかったのに、こんなにも自分は動揺している。それが不思議だった。

 

「まったく、名乗りもせず名乗らせてもくれなかったな」

 

 傍らに立ったライザが、溜息混じりに苦言を漏らす。口元には笑みが浮かんでいたが。

 

「確かラーミナと、そう言っていたな」

「うん」

「ふふふ、そうかそうか。ラーミナ……ふふ、ラーミナか」

「?」

 

 何が可笑しいのか、彼の名を口ずさみながら彼女はくすくすと笑声を上げる。

 物問いたげなジルオの視線に気が付いて、ライザは少年の頭にぽんと触れた。

 

「いや、実にぴったりな名前じゃないか」

「そうなの……?」

「そうとも、“lamina”。異国の言葉だ。意味は、そう」

 

 彼女を仰ぎ見る。笑みを湛えたその、いつだって超然とした彼女の顔を。

 そこに浮かぶ色をジルオは何度も見たことがあった。アビスに挑み、未知を求め、窮地すら歓待する、どこまでも愉しげな、愉しげな。

 今、ライザの瞳が見据えるのは。

 

「“刃”」

 

 純粋な、あまりにも純粋な好奇心で彼女の碧眼は輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜半も過ぎて、静かな街を潜り抜ける。

 いつもの道を歩いていけば、狭苦しくも馴染んだ塒が己を出迎えた。暗い室内、光源は窓から差し込む盛り場の灯といやに白んだ月明かり。

 家主たる老爺は既に床に着き、微かな寝息を立てている。上下する胸を見なければ、あるいは生死を見誤るほど、微かで穏やかな寝姿だった。

 一度寝入るとそうそう目を覚ますことはない。その時間も少しずつ長くなってきた。明日の朝、果たしてこの老人は目を覚ますだろうか。ここのところ、よくそんなことを考える。

 

「なぁ爺さん。今日は妙な廻り合わせがあった」

 

 ベッドの縁に背を預け、聞かせるでもなく駄弁を始める。いつものように、日課をこなす。

 

「えらく賢いガキと、(かぶ)いた女子と知り合ってな。女の方は白笛だ。おめぇさんがあんまり執こく言うからどんなもんかと思やぁ、はっ、ありゃとんだ婆娑羅者だったぜ」

 

 大穴の闇に魅せられ、魅せられ過ぎればああなるのか。それとも生来ああいった気質なのか。

 

「まったく、なんともはや悔しいが、面白ぇ奴だったよ。くっふふふ、はははは……」

 

 この老人の言にまんまと乗せられ始めている。そんな己をただ笑った。

 夜も更け、街の灯も徐々に消えてゆく。

 そろそろ朝が近かった。

 

 

 

 

 

 

 







BDをボックスで販売してくださるの本当に助かります。
やっぱりオーゼンさんはイイ……。


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6話 帰還祭

アニメ版メイドインアビス続編製作決定ッッ!!



 あの一夜の悶着から暫く。代わり映えもしない日々が過ぎていった。

 屑を拾い、時には(不許可の)増改築の人足となり、時には刀を使って大道芸の真似事をした。食う為に必要な分を一日一日と捻出する。明日をも知れぬその日暮し。刹那的な、しかしこれ以上ないほど生きる実感に満ちた毎日。

 相変わらず周りも己自身も貧しかったが、生きていた。

 ひたすら生きていたのだ。

 

 

 

 

 その日も、家屋に圧迫されるような通りを歩いていた。さて今日はどうやって稼ごうかなどと考えつつも、結局はゴミ溜へ向かう足を自覚しながら。

 ふと、気付く。何やら騒々しい周囲の様に。

 行儀良く、などとは遥か縁遠い地域性であるから、騒々しくないことこそ珍しがるべきなのだろうが。今日この日に限っては、街の其処彼処からどこか浮付いた気色を感じた。

 肌に馴染まぬ空気に首を傾げながら歩を進める。

 なんであれ、日銭を稼がねば干上がってしまう。世知辛い現実というやつだ――

 

 

 

「……」

 

 ――などと嘯いていたのがおよそ一時間前。

 己の足は結局、塒へ向かって動いている。何故か。仕事がないからだ。

 拾った屑を売ろうにもスクラップ屋は朝から店を閉めている。日頃絶えず行われている筈の街の普請すら今日は募っている様子がない。

 

「いよいよ妙だな」

 

 塒の暖簾を潜り、中へ入る。

 窓辺のベッドでは老人が身を起こし座っていた。

 

「おう爺さん」

「……今日は早いな」

「それがなぁ」

 

 事の仔細、と呼ぶほどのものでもないが。街の奇妙な様子を老人に語って聞かせる。

 意外なことに、その答えは老人が知っていた。

 

「そりゃあ帰還祭だ……そうか、もうそんな時期か」

「帰還?」

「帰って来る。白笛が」

 

 吐息を零すような声で男は言った。感慨深くもあり、重苦しげでもある。

 然もあらん。ウィローにとって、否、探窟家にとって白笛とはそれほどに価値重き存在なのだろう。況やかの老人には尚一層。

 皺枯れの声が言を継ぐ。

 

「白笛の帰還には二種類ある。探窟家自身の帰還と白笛という“証”だけの帰還。今回は、どうやら探窟家本人らしい」

 

 老人が枕元から紙片を取り出した。ガリ版印刷の、如何にも粗末な号外記事。題字は『不動卿、近日凱旋』とある。

 半ば寝たきりの老い耄れが何時何処でそんなものを手に入れていたのか。抜け目のないこと。

 

「深界二層から電報船が届いて三日目……まあ、今日辺りだろうな」

「なるほど、仕事なんざやってられん訳だ」

 

 祭騒ぎとあってはオースの表も裏も関わりあるまい。皆が皆、浮かれて街へ繰り出そうというもの。そわそわとした空気感の中、人通りが然程見られなかったのはそれが理由か。

 ならば仕方ない。

 戸棚から徳利を引っ張り出し、どっかりと座り込む。ここぞとばかり昼酒と興じよう。

 

「ラーミナ」

「爺さんもやるかぃ。一口二口ならまあよかろうさ」

「街へ行って来い」

「んん?」

 

 意気揚々と盃に徳利の口を合わせ、合わせたところで手が止まる。

 振り返れば、ウィローがこちらを見下ろしている。

 

「どうしてだ。祭見物でもして来いってか」

「そうだ」

 

 にこりともせず老人は頷いた。

 

「今日はな、白笛の為に街総出でその帰りを祝う日だ。だから、見られる筈だ。白笛というものがどんな存在かを……」

「かっ、またその話か。お前さんも懲りねぇな」

 

 とりあえず一杯、注いだそれを呷る。

 

「ふ……白笛なら、ほれ、前に一度会ったぜ。猛虎のような女子によ」

「それだけでは分からん。白笛が街にとって、いや、人類にとってどれほど重く、大きな意味を持つのか」

「何度も言うておろう。俺ぁそんなもんになる気はねぇよ」

「ラーミナ」

 

 静かな目が己を見る。穏やかな静けさではなく、老いと疲れが齎す固化。石のような静謐がそこにある。

 しかし、その内側には確かに、老人の願いが未だ息衝いている。

 願い。

 無念への応報。

 未来への期待。

 己にそれを望むのは筋違いだ。血縁でも養親でもない赤の他人だから、などという事実はこの際些事であろう。問題はそこにはない。

 未来だの、希望だの、期待だの、先行きの諸々をこの(ラーミナ)に託す。その行為の無意味さこそ問題なのだ。どうしようもなく思う。己に将来(さき)などないのだと。

 老人の願いは筋違いで、叶う当てのないそれがひどく……ひどく哀れだった。

 盃を手渡す。半瞬の間を置いて、老人はそれを受け取った。そのまま盃の中の水面をじっと見下ろす。所在なさげに、まるで深淵に落とす目と同じ。

 

「……しょうがねぇな、まったく」

 

 大儀大儀と立ち上がる己を、ウィローはぼんやりと見上げた。

 

「摘みが欲しいな。ちょいと街へ出てくらぁ。爺さん何が食いてぇんだ?」

 

 身支度というほどの事もない。解れた革靴を紐で縛り(・・)、包んだ剣を背負い、襤褸布同然の外套を纏う。

 振り返ると、老爺がこちらを見ていた。真っ直ぐに、静かな目で、。

 

「……ありがとうよ」

 

 石のようだった目の奥に、やっと見えた熱、光、人がましさ、のようなもの。

 それに安堵する己の内心を隠して、肩を竦める。

 

「行ってくる。日暮れまでには戻るぜ」

 

 

 

 

 

 

 



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7話 嫉妬

 

 見渡す限りの人、人、人。

 日頃青空市が開く中央広場には今、所狭しと露店が並び、屋台が軒を連ねている。香具師の客引きの声も威勢よく、往来する人々を次々と捕まえては引き寄せる。

 それでもなお、人波が衰える様子はない。老若男女が入り乱れ、活気で辺りは満ち満ちていた。

 大穴の街オースは祭の真っ只中にあった。

 はしゃぎ回る子供らが幾度と無くぶつかり掛けながら人の合間を駆け抜けていく。しかしそれを咎める者はいなかった。大人とても盃片手に赤ら顔で笑っているのだから、この場では識者を気取る方が愚かしい。

 

「我らが英雄“白笛”が、長き深淵の旅路より今日この日この時帰還を果たされます!」

 

 一際分厚い人だかりの合間から、えらく芝居がかった声が響く。

 

「打ち立てた武勇数知れぬは殲滅卿、あらゆる未知を暴き究めし叡智の黎明卿、深淵の闇すら恐れぬ心魂宿せし先導卿、秘中の秘のさらに奥底に在りて我ら冒険者の栄光たるは神秘卿……常人を遥かに凌駕した存在、超人白笛。ならばかの御方の偉業、如何なる名で表しましょうや」

 

 小さなドラムが小刻みに叩かれ、その連打の音は観客の意識を掴む。

 暗幕の下、大穴と街の風景が描かれた背景(かきわり)に石灯のスポットが点る。

 

「アビスより巨大超重なる秘宝をその御手にて持ち帰ること数多、深界より出でた恐ろしき巨大超重生物をその御腕で以て押し返すこと幾多。探窟隊三十人を満載した大ゴンドラを軽々引き上げ、十メートルを優に超える大岩を小石のように投げ捨てる無双の剛力。純粋無比なる怪力乱神。武勇、叡智、心魂、奥秘、全てを揃えた白笛の中の白笛! 不倒、不退、不滅の探窟家。かの御方こそは不動卿! 人呼んで――――」

 

 弁士が言葉を区切ると同時に石灯が消える。喧騒に走ったほんの僅かな間隙。その静寂の間合を巧みに狙い澄まして、背景画の只中に突如それは表れた。再び点った石灯が、一枚の影絵を映し出す。

 大穴の街オースを覆い隠すほどの巨大な姿。矢鱈に鍔の広い笠を被っているということは辛うじて見て取れたが、太く肥大した両腕を広げて街を睥睨する様は忌憚無く言って化物以外の何者にも見えぬ。

 

「“動かざるオーゼン”!」

 

 しかして観客の反応は劇的であった。

 その名が叫ばれた瞬間、爆ぜんばかりの歓声と割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 英雄の二字に偽りはない。民心の畏敬がここには満ちている。

 これが白笛。

 

「……」

 

 槌嘴の串焼きを頬張りながら、その光景を衆人の熱の一歩外より眺めやる。それこそ愚かな識者を気取って。

 ウィローが自らをして囚われていると言い切った“憧れ”なるモノ。それをはっきりと目の当たりにした心地だった。

 アビス、延いてはそれに挑む探窟家、その最上位白笛。連なるようにして、それらは人類を魅了して止まぬ。

 凄まじいの一言に尽きた。ウィローの白笛に対する評に一切の過大はない。

 ――――しかし同時に、思わずには居られぬものが、あった。

 貧民窟の奥、薄汚れた狭い部屋、その起き上がることも満足にできない身体で、それでも窓辺から毎日のように暗い大穴を望む老人の姿を。

 あれが、あんなものが、憧れの終着点だというのか。全てを失い、明日をも知れぬ我が身に決して晴れることない無念を抱えて、それでも。

 それでもアビスに魂を(つな)がれている、あの哀れな姿が。かの老人の、彼らの願いだと。

 

「……爺さん、お前さんが見せたかったのぁ」

 

 石造りの欄干に背を預ける。大穴へ向けてせり出すようにして設計された空中庭園。活気から視線を背後へ流せば、何もかもを飲み込んでなお満ちぬ虚がぽっかりと口を開けてそこにある。

 老人は、こんなものを己に見せたかったのだろうか。人々の憧れ、その力が如何に強烈であるのか。それが人類の願いそのものであると知らしめたかったのか。

 本当に、そうか?

 

「俺にゃわからねぇよぅ、ウィロー」

 

 独白は歓声に掻き消えた。その無価値を表すように。

 

 

 

 

「大ゴンドラが動いてるぞ!」

 

 不意に大声が上がる。それは喧騒を断ち割って辺りに響き渡った。

 一瞬の静寂の後、波紋が拡大するように人々のざわめきが轟いていく。

 

「帰って来た!?」

「桟橋に急げ!」

「不動卿の凱旋だ!!」

 

 雪崩れのように人波が移動を始める。目指す先は、大穴に掛けられた大桟橋。

 人の流れからやや離れ、直近の高台へ歩を進めた。

 少し遠いが桟橋の様子を見るだけなら申し分なかろう。眼下を埋め尽くす人、人、また人。彼ら彼女らの視線は今ただ一箇所へと注がれている。

 夥しい量の鉄筋と鉄骨で編まれた堅牢な桟橋が、アビスを透かし見た途端ひどく儚く頼りないものになる。その尖端で、今まさに稼動する昇降機。

 ゆっくりと、霧と靄と力場の蓋の下からせり上がってくる影一つ。そうして大ゴンドラが桟橋に到達した。

 ずん、緩衝材にぶつかり鈍い音を立て、固定金具がゴンドラを完全に停止させる。扉が開かれ、赤い絨毯が敷き詰められた桟橋にその“影”は這い出してきた。

 

「不動卿だ!」

 

 誰ともなくその名が叫ばれ、歓声は遂に極点へ達する。

 ゆっくりとした足取りで影が、影と見紛う黒衣の人型が桟橋を歩いてくる。その背後にはぞろぞろと不動卿の麾下であろう探窟隊が続く。

 

「?」

 

 ふと、その時。分厚い人垣を掻き分けて一人が桟橋へと躍り出たのだ。すわ狼藉者か、警備が色めき立ち観衆にどよめきが走る。

 しかし、警備の兵はその人物を認めるやすぐに足を止め、どころかその場で直立し敬礼した。

 あれは何者か。その場の誰もが抱いたであろう疑問は、程なく氷解する。

 この距離からでも、あの所々にぐるぐると巻かれた特徴的な金糸の髪は見て取れた。

 

「ライザだ! 殲滅のライザだぞ!」

「本当か!?」

「殲滅卿自らの出迎えなんて!」

 

 再びの歓声、先程のそれをさらに上回る盛大さ。二人の白笛の登場には、どうやら観衆の共通認識として己には与り知らぬ感動があるらしい。

 迷いない足取りで娘は不動卿の許へ辿り着く。その姿を認めた時から知れていたことではあるが、不動卿は相当な偉丈夫である。並び立ったライザと見比べればより一層それは顕著だった。二回り、下手をすれば三回りは上背が高い。

 二人はその場で立ち止まり、暫時言葉を交わしているようだった。会話の内容など無論聞き取れるものではないが、遠目にも見える親しげな様が両者の交友の旧さを示していた。

 そこへ、後続していた探窟隊に促される形でようやく二人が歩き出す。観衆は英雄の凱旋式を今か今かと待ち構えているのだから。

 天井知らずに沸き立つ観客とそれに取り囲まれる白笛二人、それらをぼんやりと眺めた。物見遊山という御役目(・・・)もこれで十分に果たせたことだろう。

 その時。

 

「うん……?」

 

 不意に、視線がぶつかった。一所に留めず広く彷徨わせていたそれが期せずして一箇所に絞られる。誰あろうその娘、ライザへ向けて。

 こちらがあちらを捉えることは何も不思議なことではない。夥しい人ごみの中から己一人を見付け出してしまうかの娘の視力こそ驚嘆すべきものがあった。

 娘はこちらに気付いた途端、大きく手を振った。またぞろ、あの子供以上に無邪気な笑みを浮かべているに違いあるまい。

 軽く手を振り返し、身を預けていた手摺から離れる。食い物を見繕って塒に戻るとしよう。そんな心積もりで。

 

「……ミナ……!」

 

 生活雑貨やら調味料やら、買い足す物は何ぞなかったかと記憶を巡らせる。

 

「……-ミナッ……!」

 

 ウィローの好物の辛子饅頭はどこで買えるだろうか。表オースの地理にはとんと疎い故、この祭騒ぎの中で店を探すとなると骨が折れ――――

 

 

「ラァァァアアアミナァァァァアアアアアアア!!!」

 

 

 音による衝撃。それが空間を貫いた。

 満たすようだった人々の喧騒に風穴を空ける。それほどの量、それほどの大きさで。

 声の主は、探すまでもない。振り返り、今の今まで注視していたその者を再び見据える。

 ライザは両の手を口の両脇に添えて、なおも己の名を呼ぼうとしていた。危うい。

 こちらが気付いた様子を見て取ってかぶんぶんと手を振ってくる。

 

「……」

 

 一瞬の静寂が、徐々に囁きへ、囁きはざわめき、また喧騒が蘇りつつある。

 

 ――どうしたんだ

 ――誰を呼んだ

 ――殲滅卿が手を振ってるぞ

 ――誰だ

 ――あの子供

 

 口々に響く内容は概ねそのようなものだった。

 自然(じねん)である。この群集、衆人環視の中で注目の中心人物があのような真似をすれば。

 己に突き刺さる視線の針。堪ったものではない。

 堪ったものではないので、そそくさとその場を離れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年の姿が高台の奥へ消える。逃げるように、いや事実その場から逃走を図ったのだろう。この(ライザ)の暴挙に対して当然の反応と言えた。

 当の本人はといえば。

 

「あ! くそぅ、なんで逃げるんだあいつは」

「当たり前だろう。なんで分からないかねぇ、お前さんは」

 

 英雄の凱旋を祝う為にごった返す衆人環視の中。白笛様(・・・)がわざわざ大声上げて呼び掛ける人物とは何者か、注目が集まって然るべきであろう。

 それがどうして理解できないのか。この娘のそういった鈍さは相変わらずのようだ。

 笠の下から高台を一瞥し、再びライザを見る。むすっとした顔で首を傾げている。

 

「……何者だい」

「ん? ラーミナのことか? 岸壁街の住人だよ。最近知り合ったんだ。例の外来探窟隊との小競り合いにベルチェロの子供が巻き込まれた件で」

監視基地(シーカーキャンプ)にも報告は降りてたよ。お前さんが早々に片付けたんだろ?」

「少し違うぞオーゼン。私一人でやったんじゃない。あいつが手助けしてくれたんだ」

「あんなガキが手助けねぇ」

 

 ちら、と見えた姿は、薄汚れた襤褸を纏う貧相な子供。いかにも貧民窟に相応しいみすぼらしさだった。

 しかしまあ、そこは使い方次第。今なお無秩序に増改築が繰り返されている岸壁街は迷路そのものだ。土地勘のある住人を道案内に雇うことで今回の一件に用立てたのだろう。

 そのように疑いなくオーゼンは結論付けた。

 

「強いぞ、ラーミナは」

 

 それ故にライザの断言には、ひどく虚を衝かれた。

 見下ろした先、強かな笑みが娘の美しい顔を飾っている。

 

「ふふふ、面白い奴だ。思い返すと奇妙な縁だが、それに救われたよ。私一人じゃ、一度はジルオを奪われていただろう。ろくに礼もできていない」

 

 その笑み。愉しげな、超然とした笑みを常日頃見てきた。ささやかな平穏の中で、苛烈な探窟行の真っ只中で。

 いつ何時であろうとも揺るがないそれを。

 

「うん、こうしちゃいられない。ちょっと行って捕まえてくる」

 

 言うや、ライザは人混みへ向かって突進した。殲滅卿を前にした人々は次々に退き、断ち割れるようにしてライザの前には一条の道ができる。猪突猛進とはまさにこのことだろう。

 

「……」

 

 それを暫らく見送った。呆然と立ち尽くしていた、と言った方が正しいやもしれない。

 組合の役人やら国仕えの官僚が何やら話し掛けてくる。上役との晩餐がどうの、探窟した遺物の納品催促だの、小五月蝿い雑事についての雑音。

 たまに地上へ戻ってみればいつもこれだ。探窟品の上納義務さえなければわざわざこんな場所に出向きはしない。

 生涯の大半をアビスの深層で過ごしてきた。おそらくは死ぬまでその生き方は変わらなかったろう。

 あの、小娘に出会わなければ。

 

「…………」

 

 もう背中も見えなくなった。足腰の鍛え方が違う。鍛えたのは誰あろう、この不動卿だ。

 殲滅卿ライザは不動卿オーゼンが鍛え、磨ぎ澄まし、育て上げた。

 だから、その笑みは、いつ何時も自分に向けられていた。自分だけに。

 なおも何かしら言い募る役人共を見下ろす。途端に彼らは言葉を飲み込み、石化したかのように固まった。顔中から汗を噴出させる様は(すこぶ)る不快だが滑稽ではあった。

 

「……ふぅん」

 

 にちり、口端を吊り上げる。満面の笑みを刻む。

 

 ――少し子供を虐めたくなった

 

 目の前に一本拓けたその道へ歩を進めた。

 

 

 

 

 



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8話 御免だね

 手摺を乗り越え、水路を跨ぎ、石組みの塀に登りその上を駆ける。

 アビスの外周に沿って進むこと暫し。東区に入った途端に祭の喧騒も随分と遠くなった。久方ぶりの静寂に肌身から安堵する。

 路地を抜けた先はせり出た露台。それもスラムの奥深くにあったあの粗末な木台とは違う。石造りの堅固な展望台だ。

 この種の場所がオースには数多く設けられている。目的は勿論、あの大穴(アビス)を望む為。

 トコシエコウの花弁が舞う。悲しいかな、暗闇に白雪のようなそれはよく映えた。

 

「……不屈の花か」

「そうとも。私の大好きな花だ」

 

 (いら)えなど求めず発した言に、期せずして返答があった。しかし、驚きはごく少ない。その追跡者の気配は常に己の背を撫でていたのだから。

 だらり、と頭上からロープが垂れ下がってきた。そして次の瞬間には軽やかに彼女が滑り降りてくる。

 勢い着地したことで、豊かな金糸の髪が宙を踊る。白羽を飾ったヘルメットを人差し指で押し上げると、その下から勝気な瞳が現れた。

 殲滅卿、なんとも物騒な二つ名を持つ女子(おなご)

 

「ライザだ」

「?」

「前に会った時は名乗らず仕舞いだったろう? 君、用が済んだらさっさと帰ってしまったからな」

「んん、そうであったかな」

「そうであったとも! だからこれでようやく初めまして、だ」

 

 そう言って娘は右手を差し出してくる。快活な笑みが眩しくさえあった。

 こちらもまた手を出すと、待ち兼ねたとばかりがっしりと握られた。小さな手だった。しかし華奢だなどという印象は微塵も湧かぬ。力強く、芯から熱を伝えてくる。

 ともすると気圧されかねない覇気。思わず笑いがこぼれた。

 

「ラーミナだ」

「よろしくラーミナ。そしてありがとう。ジルオが世話になった」

「さて、世話なんぞ焼いたかねぇ。俺ぁただ小蟲を何匹か払っただけよ」

「ふふふ、小蟲っ! 小蟲ときたか」

 

 何が琴線に触れたやら、娘は身を捩るようにして笑った。

 

「くふふっ。ジルオから聞いた通り、今時変わった奴だな」

「お前さんほどじゃあねぇや」

「ほっほー、言ってくれるじゃないか」

 

 他愛ない軽口を一頻り笑い合い、笑い終わったところでふと気付く。未だ握られたままの己が手に。

 指を開き、軽く引き寄せてみる。ぐ、と娘が今一度力を込めたのが分かった。

 今度はもう少しばかり強く引く。結果は同様。しかし、明白になった事実もある。

 物問いに視線を上げるや、にこやかな笑顔がそこにあった。

 

何故(なにゆえ)手を放さんのかな」

「放せばまた逃げるだろう、君」

「塒へ(けえ)るのさ」

「ということは暇なんだな。丁度いい! 今夜はオーゼンと飲み明かす予定だ。君も付き合ってくれるだろう?」

 

 決定事項だとでも言わんばかりの口振りだった。

 さらに、握るだけであった手は、言い終わるを待たず腕に絡みーーどころか固められていた。捕縛術特有の腕絡めというやつだった。

 

「飲みの誘いに(やわら)なんぞ使う奴があるかい!」

「ふははは、ここにいるぞ」

 

 どうしてか自信満々に娘はのたまう。

 脱力し、絡んだ腕に隙を作る――といったこちらの意図を素早く察知した娘が、逃すものかと一歩体を詰め寄ってそれを阻んだ。

 技量の無駄遣いとはこのことであろう。

 

「えぇい放さんか」

「逃げないと約束するなら放してやるさ」

「強引な」

「よく言われる」

 

 口の端を吊り上げて悪戯小僧のような笑みを浮かべる。まったく食えない女子だ。

 とはいえこのまま押合い引合いしていたところで埒が明かぬ。どうしたものか、腹の内でそのように一人ごちていた――その時。

 それは、己が元来た道の奥から。

 

「……」

「ん?」

 

 立ち昇った気配。それに次ぎ、ゆっくりとした足音が響いた。石造りの地面を打つ硬質な靴音は、徐々に大きくより明確になっていく。

 音の反響から対象との距離は凡そ掴むことができる。故に今、足音の主は展望台と道の丁度境に立っている筈だ。しかして、実態は奇妙。己の目には、道の奥に相も変わらず闇が広がっているようにしか見えない。

 ……否。

 闇。小路の暗がりと思われたその、黒。

 不意に、実体など持たぬ筈の暗闇が蠢いたのだ。

 暗闇と見紛うほどの黒衣。それがゆっくりと陰の中より這い出てくる。

 

「やあ、オーゼン」

 

 ライザが言った。考えるまでもなく、それこそかの黒い異装の名。

 白昼に現れたるは不動卿オーゼン。しかしその装束の暗さなどすぐにどうでもよくなった。

 六尺、いや七尺を優に凌ぐ身の丈。偉丈夫という言葉がこれ程まで似合う者などそうは居るまい。

 各部に装甲を施した外套、肩口を隠すほどに鍔の広い笠。一度目にすれば見間違うことはないその姿。つい先程、深淵より帰還し大桟橋に降り立った不動卿その人である。

 やや距離を隔てて不動卿は足を止めた。

 

「見ろ、ラーミナを捕まえたぞ。今晩は三人で飲み比べだ」

 

 無邪気にライザははしゃいだ。まるで珍獣でも捕まえたような言い回しだ。

 不動卿はといえば、特に何の応えもない。

 笠の下、容の見えぬ顔がこちらを見ていた。そして視線の行方はライザではない。

 

「……」

 

 明らかにその目は己の姿を射抜いている。無言の中に微かな感情が見え隠れしている。読心術など持たぬ己にそれを読み解くことはできない。しかし、それが正か負か、好か悪か程度なら多少の感受性を働かせれば誰しも感じ取れよう。

 良解は得られず、滲むは悪意。

 理由は定かではない。どうしてか我方(ラーミナ)は、彼方(オーゼン)に憎まれている。

 

「はじめまして、私はオーゼン。しがない探窟家さ」

「これはこれは。無事の御帰還、お祝い申し上げる。白笛殿」

 

 ねっとりと絡み付くような声音だった。意図してか、それともかの者の悪意がそうさせているのか。

 努めて慇懃に祝言を口にすると、オーゼンは一層笑みを濃くした。

 笠の下から暗い色の目が、己の身を頭から爪先まで睨め回す。吟味、いやまるきり品定めの様相で。

 新しい玩具の具合を検めるように。

 

「ライザから聞いたよ。相当使()()そうじゃないか」

「はて、なんのことやら。己はただの貧民のガキだよ」

「オーゼン、信じるな。こいつは武装した殺し屋を一息に三人斬り捨てる奴だ」

 

 傍らの女を睨む。

 それはもう無邪気な、嬉々とした笑顔がこちらを見返した。

 

「ふふふふ、それはそれは。大したもんだ。ふふ、ふふふ。そうでなくちゃ……遊び甲斐がない」

「……」

「ん? なんだオーゼン。やる気か?」

 

 ライザの言葉は、至極端的にこの場の状況を、気色を言い当てていた。

 つまるところそうなのだろう。不動卿、名高き白笛オーゼンがこの場に現れた目的は一つ。何故そのような腹積もりに至ったかは皆目解らんが。

 彼方は我方との立ち合い、闘争を所望とのこと。

 とはいえもう二、三は探り合いの会話を愉しむつもりだったのだろう。オーゼンは溜息を吐き、肩を竦めて見せた。

 

「本当に風情のない娘だね、まったく」

「ふふん、なんせ師匠が師匠だからな」

「なんだ。お前さんら、師弟の間柄か」

「そうとも」

 

 僅か、誇るようにライザは頷く。

 なるほど、ならばあの時、桟橋で観衆が沸き立ったのも道理。

 不意に、ライザが離れる。諦めて解放してくれた、などという訳では決してあるまい。

 

「私も興味があるぞ。ラーミナ、お前がどれくらい強いのか」

(やっとう)振り回す様ぁ、さんざ見たろうが」

「おいおい、あんな雑魚と一緒にしない方がいい。オーゼンは――――」

 

 ライザが、その軽口を言い終わるを待たず。

 いや、会話の緩急、その不意を突いたのだ。

 黒の偉丈夫が動いていた。笠の巨大な鍔が、接近と共にさらに拡大する。視線を遮るのにこれほど絶好なものもない。彼方が果たしてどのような構えを取っているのか、此方からは皆目分からないのだ。

 退がることは出来ぬ。展望台の手摺を背にしている今、退路は無い。身投げして生涯を終えたいというならいざ知らず。

 ならば路は一つ。

 進む。

 

「!」

「おぉ!」

 

 ぬ、と。笠の下から放たれる一撃。黒く長い、それは脚だった。

 破城槌の如き勢力の乗ったオーゼンの前蹴りを跳び越える。

 前進しながら、膝頭に手を付いて反動を利し――――

 

「っ!?」

 

 触れた手、そして身体が弾かれた。

 その蹴り脚の、あまりの威力によって。

 企図の通りオーゼンの頭上を越えて回避は叶ったが、想定以上の飛距離を稼いで石畳に降り立つ。

 

「ははは! 気を付けろラーミナ。オーゼンの蹴りは運が悪いと内臓が()()()

「どんな馬鹿力だぃ」

「怪力乱神と言っておくれな。そっちの方が通りがいい」

 

 にたりと、逆月のような笑みが笠の陰に浮かぶ。こちらの驚きようが嬉しくて堪らぬとばかり。

 

「ちなみにオーゼンの性格は度し難くひねくれている。あんまり喜ばせると酷いことをするぞ」

「あんたも蹴られたいのかい」

 

 踏み込みが石畳を砕く。回し蹴りが空を薙いだ。

 頭上に躱した長い脚が鞭のように(しな)り、風が轟音を立てて荒ぶる。

 足技は留まることを知らず、次は踵落としが降ってくる。

 跳び下がった。見やれば元居た石の床が蜘蛛の巣状に円を描き、粉砕された。

 

「すばしっこいね。鼠の真似かい? ふふふ」

「そうよ鼠よ。たかが仔鼠一匹、見逃してくれても罰は当たらねぇぜ」

 

 無造作に拳が降り下された。

 さらに跳び、遠ざかる。

 砕けた石床がただの礫に変わる。

 

「そうもいかない。私は鼠だろうと兎だろうと狩りは手を抜かない主義なのさ」

 

 その黒い手が石畳の一枚を掴んだ。

 文字通り、岩の塊であるそれをオーゼンは事も無げにこちらへ擲った。

 横っ飛びに擦れ違う。背後で手摺が弾けて飛んだ音を聞いた。

 その間にも、黒の偉丈夫は詰め寄っている。

 大きな掌が我が身を捕えんと掴みかかってくる。空間を圧搾せんばかりの握力で突き出される手、指。

 頭と言わず、肩、腕、足、噛み付く蛇の如き敏速さ。突きの嵐。

 その指先が、遂に外套の裾を摘み取った。指二本。ただそれだけ。だが何が不足であろうか。その膂力あらば己が矮躯など軽石同然。

 

「捕まえた」

 

 飛び切りの、満面の、悪辣なる笑みが眼前を埋め尽くす。

 ライザの言葉通りとは恐れ入った。それは実に、なんとも、度し難い凶悪さよ。

 引き回され、摺り潰され、袋にされる――――その前に。

 抜き打ち。一閃にて外套を斬り裂いた。

 

「!」

「はっはっは!」

 

 さっさと跳び退がり、間合を去る。

 ライザは愉快そうに手を叩いた。

 一方で襤褸布だけを掴まされたオーゼンはといえば、打って変わって実に不満げな無表情に戻る。

 

「流石だラーミナ。本気のオーゼンから逃げ切ったぞ」

「本気なもんかい。遊びと言っただろう」

「嘘だなオーゼン。あの一瞬、ちょっとマジになったろう? さあここからだ! 気を付けろ。剣を抜いたラーミナはもっと凄いぞ。ふふふっ」

「……」

 

 正眼に置いた切先の向こう。黒笠の姿を捉える。

 その無表情に、今一度色を見た。それは、先達て見て取ったものと同じ。

 憎しという、悪意。

 ライザの上機嫌な様を受けてオーゼンが胸を悪くする。

 

「……あぁ」

 

 これはつまり、なんだ。

 己はどうやらとんだ親馬鹿に付き合わされていると。

 手塩にかけて育てた弟子が、何やらどこの馬の骨とも分からぬ剣術使いにご執心であると……目の前の御師匠様からはそのように見えている、らしい。

 溢しかけた溜息をぐっと飲み下し、剣先を下げる。

 

「おいおいラーミナ。まだこれからだろう」

「これからもどれからもありゃしねぇ。痴話喧嘩はそっちで片付けな」

「……知った風な口を利くじゃないのさ」

「知らねぇな」

 

 人と人との絆の有様など、それこそ他人が嘴を挿むことではない。

 

「知らねぇから、俺ぁもう(けえ)る」

「えぇ~! つまんない~!」

「ガキみてぇこと言うんじゃねぇや」

 

 不平を吐きながらわちゃわちゃ絡み付こうとするライザを躱す。また捕まっては堪ったものではない。

 

「なら一杯くらい付き合え! オーゼンの土産話を肴にさ」

「そんなもなぁ探窟家同士で楽しむがいい。己が混ざったところで詮無かろうが」

「それなら丁度いい。お前も探窟家になれ! ラーミナ。そうだジルオと一緒に私の弟子になるか? きっと楽しいぞ。ああ、絶対に楽しいに決まってる」

 

 屈託なく、そして一片の疑いもそこにはなく。ライザは勇ましく笑った。

 この娘の言葉にはいつ何時とて嘘がない。いつ何時とて心からの言葉だけを口にした。

 故に、この誘いもまた、彼女の心からの望みなのだろう。

 

「御免だ。他を当たりな」

 

 刃を包み、背負う。

 白笛という英傑達に背を向けて、家路を行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁんまた逃げられた。なかなか気難しい奴だ」

「あれで勧誘のつもりだったのかい」

 

 もう背中も見えなくなった。襤褸布を纏ったガキは、その姿に相応しい場所に帰って行った。

 けれどライザは、手摺に頬杖を突いたまま。いつまでもあの去って行った背中を追っている。その輝く瞳を見れば分かる。分かるのだ。

 この瞳が宿すのは純性の憧れだけだ。アビスという無限の虚のその奥さえも見通してしまいそうなほど、鋭く、眩く、強い。

 変わらない。鼻垂れの赤笛だった頃から、殲滅の姫君と謳われる白笛の今に至ってなお。

 この瞳の輝きは、微塵も失われることはなかった。

 だのに。

 

「あんな薄汚いガキの何がそんなに気に入ったんだい」

「わからないか?」

 

 当然の問いに、しかし問いを返された。それこそ、わかっていて当然だと言わんばかりに。

 ライザは微笑んで、また遠くを望む。その瞳はアビスではなく、岸壁街を向いている。

 

「あいつは面白い。あいつと冒険するアビスはきっともっとずっと面白い! そう思うんだ。なあ、オーゼンもそう思わなかったか?」

「………………知らないよ」

 

 

 

 



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9話 ソコで待つ

 そうしてその背中は薄汚れた暖簾を潜って行った。口では文句を言いながら、しかしあれが人の頼みを無下にするのを見たことなど終ぞない。

 奇妙な男だ。

 

「……」

 

 ふと思う。かの少年の異常に気付いたのは、果たしていつからであろうか。

 そう。あの背中。その大きさ、厚みをどうしてか見違えたこと。

 五歳かそこらの小さな身丈が、三月と経たず十歳前後のそれになり……出会ってから半年と少し、今やかの少年だったモノは青年に、早すぎる成長を遂げようとしている。

 

 岸壁街の最奥、アビスの虚の縁で横たわる幼児を拾った。満足な衣服すら身に帯びず、汚れた襤褸布に包まる様はただの捨て子にしか見えなかった。しかし、ただ一つ異質な――一振りの抜き身の剣を幼子は抱いていた。

 何故、そんな得体の知れない子供を引き取ってしまったのだろう。気紛れ、気の迷い、それとも今更に孤独が恐ろしくなったのか。それら諸々の所感は少なからず胸の内にあった。真っ当ではないにせよ、理由として不足はない筈だ。しかし一番の理由は、もっと下らない。善意や憐憫でさえない。

 探窟家としての己。その自己に根付き、もはや切っても切れないもの。好奇心。未知、異なるモノへの強烈な求心。

 憧れの呪い。それに類する感情だった。

 度し難い、そう思う。壊れた身体はガラクタ同然、息子を死なせ妻を亡くしてなお、この期に及んでまだ、自分は。

 アビスの闇に魅せられている。その香を少年から嗅ぎ取り、手を伸ばしていた。

 救い難い、枯れた心に唯一僅かな(みず)を含んだ自己嫌悪。十年前からずっと価値無き自罰の日々は続いている。

 そのようにして生涯を終えるのだと、苦しみながら死ぬことが義務だとさえ信じていた。

 その筈だった。だのに。

 

「……」

 

 幼な子との奇妙な共同生活は、己の想像とは随分かけ離れたものだった。

 かけ離れて、穏やかな。

 親子というには、あれには子供らしさが足りない。そして自分とて、今更親を称する分際にない。

 だからそう、あれはまるで()()()()友人のような。軽口を叩き合い、時に節介を焼きに来る。不意に、(ちか)しい友人を得たような。

 それは安堵だった。この上ない安堵。

 妻子を亡くした時諦めた、終わりなき孤独に対する恐怖。それが薄れ、解れ、今や霞のように消え掛かっている。

 奴はきっと、死に水を取ってくれるだろう。迷いなくそう思える。そんな、分不相応な安堵を噛み締めて。

 憧れに耽溺して、家族を見殺した自分が。

 こんな自分が。

 

「…………ぐ」

 

 胸を押さえる。苦しい。胸骨の奥、心臓が握り潰されるような痛みを必死に耐える。耐えて、甘受する。

 これが報いなのだ。相応しい末路なのだ。

 

「……いや」

 

 暖かな床で往生することすら自分には過ぎている。贅沢に過ぎる。

 この老木が死すべきはここではない。死すべき場所など、一つきりなのだ。

 

「……」

 

 身動ぎ一つで軋むガラクタのような体で床を抜け出し、床を這う。

 それだけで息は絶え絶えになり、心臓は死期の早着を割れ鐘のようにがなり立てた。

 それでも這い、進む。

 扉近くに立て掛けてあった木杖に縋り、膝立ちに歩く。牛歩よりなお遅々として、地虫同然に歩く。

 相応しい死に場所に行くのだ。

 行かねば、ならないのだ。

 

「……」

 

 ふ、と。思い立つものがある。

 下らぬ感傷だ。そんなものに何の意味が、価値があろうか。だが。

 それもまた義務、なのかもしれない。無責任に命を放る者が最期にできる唯一の、なけなしの。

 紙はあった。筆は烏の羽、インクは炭を水に溶かして。

 

「……ラーミナ」

 

 お前に遺せるものなんざ、これくらいだよ――――

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの入り組んだ道なき道を進んで登り、降ってまた登る。

 そうして荒ら住まいの暖簾を潜った。

 

(けえ)ったぜ……爺さん?」

 

 灯りも点らぬ室内は、夕陽の名残も覗けぬ暗闇。

 ただ窓越しに見える茜雲だけが、ほんの僅かな光源だった。

 窓辺のベッドは無人。そこに横たわっている筈の老爺の姿はない。

 

「……」

 

 床に触れる。ほんの僅かだが温もりが残っていた。ここを出てそう時は過ぎていない。行き違ったか。

 何者かが老爺を誘拐(かどわか)したならば、室内には相応の気配が残る。如何にしても残る。それが無い、ということは老人は自らの意思でここを発ったのだ。

 碌々立ち上がることもままならぬ足で、一体何処へ。

 その時、目の端を過るものがあった。

 

「!」

 

 食卓の上に半紙がある。手に取って検めればそれは置手紙で。

 それは――

 

「……ちぃっ!」

 

 荒ら屋を飛び出す。

 足取りに迷いはない。向かうべき場所はすぐに知れた。

 あそこ以外にありはしない。老いたりとはいえ、骨の髄からあの男は探窟家だ。未練、無念、憧れ――死病か呪いのようにそれらは奴の性根を染め上げていた。今際の際ですら拭うこと能わず。

 探窟家の死に場所など他にはない。そう、たった一つ。たった一つなのだ。

 

 

 暗がりの岸壁街を駆ける。道々はおろか空を圧し隠す歪な家々にすら人の気配は薄い。

 帰還祭は日暮れ刻の今こそが佳境。表も裏もなく、今こそオースは祝賀に沸いている。アビスの雲霞の如き未知がまた一つ晴れ、あるいはまた一つ大いなる未知が湯水の如くに湧いたのだろう。

 奥へ、さらに深みへ。

 無間の大穴、アビス。

 憧れは、止まらない。止められはしない。何をしても。如何にしても。

 死すらも、慮外へ打ち捨てる。

 

「糞喰らえだ……!」

 

 微かに、歓声が岸壁の合間を木霊する。

 夥しい人々の言祝ぎが聞こえる。

 それら全てに背を向けて行く。暗闇を突き進み、さらに闇の奥へ。大穴を望む露台、アビスの口端へ。

 

 

 

 

 岸壁街の最果て。虚の間際。深淵の縁。

 そこに、ソレはあった。

 露台の端、手摺すらない粗末な板床の絶えたその場所に、襤褸切れのように打ち捨てられている。

 襤褸を纏った老爺が、事切れていた。

 少し離れたところに木杖が転がっている。所々に捲れ上がった材木に足を取られ、取り落としたのだろう。本当は身を投げるつもりだったのだろう。為に、それは叶わなかった。

 枯木のように細った右手だけが、露台の縁からだらりと穴に垂れている。最後の、最期に残された力で、乞い求めたのが。

 

「……馬鹿野郎が」

 

 老爺の傍に腰を下ろし、眼下の闇を見る。

 こんなものを求めて、苦痛に蝕まれた体を引き摺り、なけなしの命を使い潰して、こんな場所で。

 そうまでしてこんな虚穴に喰われたかったのか。この中に、逝きたかったのか。

 何故だ。どうしてだ、ウィロー……。

 

 ――――無念だよ

「…………そうか」

 

 問いは、呆気なく氷解した。

 己は知っていた。老人が抱える懊悩、無念を、直に、確とこの耳で聞いたではないか。

 この男が最期の最期に乞い求めたのは、アビスではない。探窟家としての夢でも、矜持でもない。

 ただ、ただ。

 

「息子の傍に、行きたかったんだな……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラーミナへ

 

 お前に遺せるものはこれくらいしかなかった

 老いぼれの戯言と思ってくれ

 

 ありがとう

 何もない、ただ死ぬだけだった俺をお前が救った

 

 すまない

 最後まで迷惑をかける

 ただ、それでも、俺はあの子の所へ行かなければならん

 一緒には、死んでやれなかった

 だからせめて、同じ場所で死にたい

 アビスの底で一緒に眠ってやりたい

 

 すまない

 随分長く死人の我が儘に付き合わせちまった

 碌な恩返しもできなかった

 

 ベッドの下の探窟装備はお前の好きにするといい

 売って金にするもお前の自由だ

 

 こんなことを言う資格がないことはわかってる

 だが

 

 どうか、息災でいてくれ

 

 

 

 



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10話 弔いの為に

 

 

 

 ――――いつしか朝だった。

 

 

 

 

 岸壁街の住人には、無論のこと表オースの火葬場を使うことは許されていない。たとえ正規の手続きを踏み、相場の金子を支払う用意があろうと、そんなものは斟酌の材料にすら当たらないだろう。

 そも、()()()()()()()()()()に、葬儀が施される権利などないのだから。

 元は探窟家であったウィローも組合から籍を除かれて久しいという。今更、彼奴の居るかも分からぬ遠い遠い親類の、あるかも定かでない伝手を手繰るというのは土台現実的ではない。

 故に貧民窟の人間が、しかしそれでも、死者を送りたいと望むならば。

 

 

 日頃は屑拾いの為に赴く廃棄物溜めのさらに奥へ踏み入ると。

 そこには赤土の荒野が広がっている。廃棄物の毒に侵され草木も生えぬほどに穢された土は、まるで凝り損ねた血塊めいて薄汚い。

 ――――いや、比喩であるものか。この土に、大地には真実、夥しいまでの血潮が染み付き溶けている。

 

「なんとやらが夢の後だな。えぇ? そう思わねぇか、爺さん」

 

 土に掘った穴はおおよそ一畳半。そこに薪木を組み、敷き詰めて焼き場を作る。

 火葬……と言えば聞こえもよかろうか。ただの野焼きだ。(ごみ)を焼却する行為とこれの何が違う。

 老人の遺骸は、穴に納めればより一層小さく、痩せ細って見えた。芥も同然に。

 

「……」

 

 松明に火を着ける。心持ちどころかここは空気すら乾ききっている。松明はこれでもかと火勢を強めた。

 そして、薪木に火を掛ければ……そこで不意に、思い留まらせるものがあった。

 懐からそれを取り出す。合金製の小さな四角形。前と中ほど二ヶ所に孔があり、ここに気息が吹き抜けることで音が鳴る。

 ウィローの黒笛だ。

 

「持って逝くか?」

 

 尋ねてみても返事はない。

 笛。探窟家の笛である。己とは無論のこと、縁のない品だった。

 聞けば探窟家にとって笛とは何より重い意味を持つという。

 実力や年期の深さによって所持を許される笛の色は変わっていく。黒は確か、上から二番目だったか。

 しかしそれは、単なる指標であり些末な批評であり。砕いて言えば番付だ。如何にも下らぬ。

 ウィローが、いや探窟に生涯を、命すら懸けるかの者共がそんな虚栄を尊ぶと?

 否である。

 少なくとも、己が出会ってきた探窟家なる者の中に、そうした些事に拘泥する輩はいなかった。

 ウィローは言った。息子と共にアビスを究めることこそ幸福だったと。妻の待つ家路を歩くことこそ幸福だったと。

 ならばこの笛は、その証であろう。

 あの男の半生は紛れもなく幸福だった、その証なのだ。

 

「……」

 

 火を掛ける。

 炎が上がる。

 大穴の深淵を置き去りに、一つの肉体が解け、滅び、そして空へ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とはいえ、だ……」

 

 仄暗い岸壁街を抜けて、気付けばそこはオース南西。中央区に隣接する荒ら家跡地に行き着いていた。

 無際限に増改築を繰り返す岸壁街であるが、ここは随分昔に普請も放られ、今や住まう者とて居ない。

 西区は目と鼻の先、さりとて南区の臭気もまた色濃いとあって、住人の表裏関わりなくここに足を踏み入れる物好きは少ない。

 謂わば緩衝地帯、悪く言えば死腔だ。

 

「どうしたもんかねぇ」

 

 一日掛かりでようやくに老爺の遺骸は灰になった。朝日を拝みながら炎に肌を炙られていたかと思えば、今や茜が頬を焼いている。

 ふと、目をやれば嫌でも視界を染める、その黒。

 

「……」

 

 日暮れ刻のアビスは、昼日中はもとより、あるいは夜空の下で見るよりなお漆黒。瘴気のような常闇を垂れ流している。いずれは世界全てを喰い尽くさんばかりのおどろおどろしさ。

 鼻を鳴らし、道へ向き直る。道、のようなもの。舗装どころか地均しすら怪しいただの土の地面を進む。

 木炭とそれ以外を選り分け、遺灰は革袋に納まっている。オースの作法に則るならば、この灰をアビスに撒けばそれで弔いは済む。

 それで仕舞いだ。

 それで。

 

 ――――気に入らねぇ

 

 憤怒と呼ばわるほどの威勢はない。名状し難い苛立ちが、腹の底で蟠るのを感じた。

 ……しかしそれは、端から見れば幼児の駄々同然。友を満足に弔いもせずその遺灰を持ち歩くなど、罰当たりも甚だしい。

 結局、己に出来ることは一つ。その出来ることをせぬまま、こうしてただ歩き、無心に歩き、心頭を滅却したふりをしてここまで歩いた。

 悟りの兆しすら見えぬ。坊主の才能はないようだ。

 

「くっ」

 

 独りさもしく自嘲して笑う。虚しさここに極まった、その時。

 

「…………ん?」

 

 道とも言えぬ道を、しかしどうやら無意識の内に大穴から遠ざかるように歩んでいたらしい。

 勾配を登り、小高い丘陵から荒れ地を見下ろしている。

 その、訪れる者もない筈の廃屋の合間を――――小さな人影が過った。

 夕陽が影を長く延べる時刻。それでもその矮躯を見逃さなかったのは、良くも悪くもあれの容姿が特徴的だからだろう。

 その白銀の髪には、暖色の陽光がよく映える。まるで炉にくゆる焔のようだ。

 すぐさま丘を下る。早駆けに、けれど努めて足音は殺す。

 背嚢を提げたその童は、廃屋の物陰から陰へと潜むように歩を進める。陰から身を晒す際は特に注意深く、周囲を厳に警戒しながら。

 さてはて、一所懸命に苦心して一体どこを目指しているのやら。

 その背、半歩にまで忍び寄って。

 

「おう、悪ガキ」

「ッッッ!?」

 

 跳ね上がった。発条(ばね)仕掛けの絡繰細工めいた挙動であった。

 そうして、怯える仔栗鼠のように飛び退いてこちらを向いた。

 

「ようジルオ」

「! ラーミナ……!」

 

 こちらを認めた一瞬、安堵と共にその笑顔が光るようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 見晴らしの良い丘に、少年共々腰を下ろす。夕暮れは極まり、程なく群青の闇がオースを覆うだろう。

 その合間、昼と夜の僅かな狭間を容赦なく大穴(アビス)が貫いている。

 底無しに見えるこの深淵の、あるかも定かでない底を夢見る少年。気落ちを表すように、今はその青く輝かしい瞳を伏せている。

 

「約束したろう、ジルオ。岸壁街にゃ近付いちゃならねぇと」

「……うん」

「ここいらはまあ、確かに、人っ子一人立ち寄ることもそうねぇがな。あのまま小一時間も歩きゃそこはもう貧民窟の真っただ中よ。お前さんのような童が不用心に出歩いてるのを見付けた日にゃ、悪さを働いてくれようってな輩に満ち溢れておる」

 

 先日の誘拐人(かどわかし)のような玄人が相手であるならむしろまだマシ。食い詰め、()()()()()人間は底無しに貪欲に、天井知らずに残酷になれるものだ。

 そうした者共に食い散らかされる。

 虫唾の走る現実が、ある。

 

「……ごめんなさい」

 

 打ち沈み、暗く少年は呟いた。

 機微に聡い為に、叱責の声の中に燻る怒りの火口を感じ取ったのかもしれない。

 いかんいかん。この憤怒は自儘な独り善がり。間違ってもこの少年にぶつけるような代物ではない。

 肩身を縮めてどんどんと小さくなっていく少年がひどく可哀想だった。

 一吹き、笑う。

 

「しかし、やんちゃ盛りとはいえだ。お前さんが約束破ってまでこんな吹き溜まりに遊びに来たがるたぁ驚いたぜ。や、意地悪言う訳じゃねぇんだが。どういう風の吹き回しだい? くくくっ、大荷物まで抱えてよ」

 

 言って、少年の傍らに置かれた背嚢を叩く。見掛けの通り、その感触は軽くはない。

 側面の帯に鶴嘴が提げられ、石灯のヘルメットまで被れば、なるほどそれは探窟家の装備一式といった様子だが。

 

「ライザさんが……」

「ん?」

「帰還祭の日、ラーミナに会ったって」

「ああ、そんなこともあったか」

 

 街を挙げての祝祭の日。人人人の大波の中から運悪く目敏くも見付け出されてしまった。肉食獣、いや猛禽の如き目の冴え。ますますもってあの娘が娘に思えなくなるが。

 ジルオはそう言ったきり、暫時押し黙った。そうして一つ、二つ分ほどの呼吸を置き。

 

「……今度一緒に、探窟に行く約束をした。そう、言ってた……」

「は? 約束だぁ?」

「必要なら弟子にする。とも、言ってた……」

「…………」

 

 どうやらあの娘にとって一方的な宣言は約束事と同義であるらしい。

 こちらの承知は慮外の外のさらに果てに放り捨てて。

 ジルオは両膝に置いた手をぐっと握る。面を俯かせたまま、声だけがなにやら尖る。

 

「オレに自慢するんだ……ラーミナはもらった。私、オーゼン、ラーミナ、最強の探窟隊になる。面白くなる……すごく、楽しそうに。本当に楽しそうで……それが」

「それが?」

「…………羨ましくて」

 

 か細く、立ち消える火と煙のような声で少年は言った。ふと見れば、尖っていたのはその薄い唇で、頬はむっつりと膨れている。

 虚を突かれた心地だった。ライザの大法螺やら大人気無さに、ではなく。

 

「お前さん、俺に会いに来たのか?」

「……」

 

 問いに返事はなかった。だんまりを決め込んだ少年の顔が、夕暮れ色に変わっていく。

 危うい目に遭ったではないか。殺し屋共につけ狙われ、命すらどうなっていたかも知れぬ。危険な場所だと心底から思い知らされたろうに。

 それでもこの少年は、己に会う為ここにいる。探窟道具を背負って、道とも言えない道のりを歩んで。

 

「……まったく」

「……」

「怒れんではないか。ばぁか」

「んっ」

 

 銀糸の髪を撫でつける。幼子特有の柔い質感。さらさらと指通るそれは上等な絹のようだった。

 少年がくすぐったそうに目を細める。

 

「……」

 

 思うものがある。思わずにおられぬものが、ある。

 少年は恐れず来た。危険を顧みず、いや想定し、準備をし、装備を整え、慎重に警戒を重ねて。

 その尽力を称賛する。その努力を慈しむ。

 そして、敬服を覚えた。

 羨望と少年は言ったが、その望みの有様はもっと純粋だ。そして望みを叶える為に真っ向から困難に挑まんとする姿勢。

 己には無い。この、心ばかり老い耄れた我が身は、埒もないことを悩み続け、現実には何一つ為そうとはしなかった。動こうとはしなかった。

 愚劣よ。

 下手な考え休むに似たり。それを下回る蒙昧よ。

 

「ははっ、そうか」

「? ラーミナ……?」

「ありがとうよ、ジルオ」

 

 すべきことは、初めから一つであった。

 弔う術は、一つだったのだ。

 懐に手を入れ、その冷えた手触りを探り出す。

 

「! それ、黒笛」

友達(ダチ)公の形見だ。すっかり返しそびれちまったが、ようやっと()()()が分かった。お前さんのお蔭だ」

「??」

 

 当然の疑問符を頭上に散らす少年に笑む。

 すっくと立ち上がり、眼下を大穴を望む。

 

「用事が出来ちまった、あそこに」

「用事って……アビスに?」

「ああ」

 

 ウィローの望み、遺言は、しっかりと受け取っていた。とても単純で、細やかな望み。

 

「ちょっくら墓を作ってくる」

 

 

 

 

 

 

 

 



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11話 勝手な話

「作りにって……アビスの中に?」

「ああ、確かそう、大だんそーだの……脂石がどうのと言っていたか」

「――――」

 

 日暮れのオース中央区。少年を西区へ、住処であるベルチェロ孤児院へ送り届けんと夜道を踏む。

 その途上、並び歩いていた少年は突如足を止め。

 

「三層じゃないか!?」

「らしいな」

「三層の一番底だぞ!? 四層の真上だ!」

「ははっ、おかしなことを言うな。三層の下はそら四層であろうや」

「そーじゃなくて!!」

 

 薄ら惚ける抜けさくに、少年は顔を赤くして怒鳴り声を上げた。

 

「危険だって言ってるんだ! 原生生物の力も環境の過酷さも一層二層とは比べ物にならないっ……そう、教本には書いてた……」

「ほう、よっく勉強しとるなぁ。感心感心」

「っ、茶化すな……!」

 

 少年の首元で鈴が鳴く。笛を提げるにはなるほど、この子はまだ幼すぎる。

 それ故の、知ったかぶりを嫌った生真面目な言い様が、なにやら小気味よかった。

 

「く、黒笛でも簡単に死んでしまうような場所なんだよ!?」

「……ああ、知ってるよ」

 

 よく知っているとも。

 なればこそ。

 

「たかが穴蔵に行ってやらぬで何が報いか」

「え……?」

「いやなに、こっちの話だ」

 

 訝る幼子に曖昧な笑みを返す。

 

「そう心配するなジルオ。さっと行ってささっと(けえ)るからよ。はははっ」

「ッッッ!」

 

 ……おっと、どうやら軽口が過ぎたらしい。

 その小さな肩口から立ち昇る怒気を気取った。

 

「ラーミナ!!」

「へい」

「死ぬかもしれないんだ!! 戻ってこられないかもしれないんだぞ!? もう、二度と……会えないかもっ、しれないのにっ……!」

「……」

 

 尻すぼみに語気は弱まり、声は()()()()。宵闇の中、少年の瞳が滲み、星屑めいた光が零れた。

 ジルオは俯き、ヘルメットの下に顔を隠す。頬から流れ落ちた雫が地面を点々と染めた。

 それは久しく味わうことのなかった感覚だった。己という、ただ自儘に己が身命を玩弄する無頼に、こんな愚物に、どうしてそこまでと。

 涙すら流して、叱り付けてくれる。

 あまりにも勿体ない。直視を躊躇う眩さの、思慮深さ。

 

「……ふ」

 

 少年の前に屈み、見上げるようにして目を合わせる。

 一瞬驚いたようにこちらを見返すジルオだったが、すぐにぷいっとそっぽを向いた。

 背けた頬に、今も流れるままの涙。それをそっと袖口で拭う。

 

「んっ……」

「ありがとうよ」

 

 幾度目か。この少年にこうして感謝を口にするのは。

 いつからか忘れた……いや、無いもののように扱い、目を背けていたものを、この子は折に触れて思い出させてくれる。喩えるなら人倫(ひとのみち)、そんな風に呼ばわる何かを。

 恥を知らねばなるまい。魂ばかり老い耄れて、そんな当然の人間性を幼子に教わるなど。

 

「くくくくくっ」

「なっ、なんだよぉ……笑うなよぉ……!」

「く、ふふふ、はははっ、すまんすまん……」

 

 少年の両頬に触れる。もちもちとしてきめ細かな肌は、己の節くれ立った手とは大違いだ。

 もはや呆れたか、それとも不可解が勝ってか。頬をこねる己を、ジルオは実に曰く言い難い表情で見下ろしてくる。

 

「お前は本当に優しい子だよ! ジルオ」

 

 戻るとも。会いに行くとも。誰あろうお前が望んでくれるなら、それを叶えぬ道理がどこにある。

 

「生きて帰ってくる。約束だ。そうだ指切りでもするか?」

「ぇ……あ、し、しないよ! ガキ扱いするな!」

「ははは!」

 

 

 

 

 

 

 エールの泡が音を立てた。きめ細かく柔い白。それが微かな破裂を繰り返しながら消えていく。

 消え去り果てる前に、がぶりとそれに食らい付き、飲み干す。

 甘味の名残も鮮やかな内に、じわりと広がる苦味が心地好い。

 旨い。

 まだ旨いと感じる。

 石の床に転がったオーク樽は一本。序の口であった。舌がまともに働いているのがその証拠。

 

「ぷっはぁ!」

 

 円卓の対面に女が座っている。そいつは自分と同じくエールを飲み干すや、ジョッキを卓上に叩き付けた。

 粗暴であった。

 瀑布のように豊かな金糸の髪、ビスク人形めいて可憐な容貌。

 

「あんぐ」

 

 大口が開かれる。牙こそ無いが、娘のそれはもはや(あぎと)だ。鉄串に刺さった槌嘴(ツチバシ)の肉を、獣のようにかじり取り、貪る。

 獰猛であった。

 

「下品だね」

「んぐん?」

 

 魚醤ダレで口の周りをべとべとに汚したライザがこちらを見る。

 

「ん、やにわに失礼だな、オーゼン」

「さて、見たままを言ったまでさ」

 

 場所はオース東区、探窟組合本部からも程近い崖沿いの酒場。アビス帰りの探窟家共がその日の稼ぎを飯と酒に代える溜まり場であり、乱痴気騒ぐ為の盛り場でもある。

 その二階席、大きな飾り窓とステンドグラスが一階広間からの無遠慮な視線を断ってくれる。かと思えば、バルコニーに続く大窓を開け放てばオースの全景を――街の灯に穿たれたアビスの虚を望める。

 店主とは旧い馴染みだった。人目を憚るなどという行儀の持ち合わせがない白笛二人が、事前に報せも寄越さずいきなり店に現れても彼は慌てず騒がずあたかも我々の来店を予期していたかのようなスマートさでこの席へと通してくれた。

 (こな)れた対応……違う違う。随分前、白笛になったばかりのライザとここを訪れた時、物見客が万と押し寄せて収拾がつかなくなったことがある。

 店主の方が()()()のだ。

 

「親仁ー! エール樽のおかわりだ! あと肉! じゃんっじゃん持ってきてくれ~!」

 

 椅子を器用に傾けながら後ろへ振り返り、ライザは階下に向かって大声を放った。

 酔っ払いの歓声に紛れて返事があった。娘はそれに満足して、オットバスのハムの最後の一切れを手掴みで口に放り込む。

 

「肉ばかり何皿も。よく飽きないもんだ」

「あんたにだけは言われたくないな。それにほら見ろ、ちゃーんとトコシエコウの実だって食べてる」

「そりゃ薬味だろ」

「オウバだってこの通り、んっ、もひゃもひゃくっへるはほ」

「それも薬味だろうに。偏食屋は探窟家には不向きだよ」

「くくくっ、私にそれを言うのか?」

「あぁ言うさ。なにせ鼻垂れの頃から何一つ変わらないんでねェ。ついつい小言が零れちまうのさ……フフフ、覚えてるかい? お前さん、四層の帰りに鼻血を啜り過ぎて幽霊根まで登った途端赤いゲロを撒き散らしたんだ、ンフッ! 断層の壁に帯が引けるくらい派手にさぁ。まったくゲロ臭いわ血生臭いわで堪ったもんじゃなかったよ。まあなかなか、傑作ではあったが……ンフフフッ」

「くっ、どうでもいいことをいつまでも……年寄臭いぞ、オーゼン!」

「そりゃそうさ。現に年だからね。クッ、フフフフフフフ」

 

 一頻り笑いものにされて娘は御立腹といった様子だ。

 その時、階下から男手二人掛かりで新たな酒樽を、そしてエプロンドレスの女給三人が両手に腕に料理を抱えてやってきた。

 それを見て取るやライザはニヤリと笑む。

 

「丁度いい。腹ごなしも済んだことだし、そろそろ飲み比べと洒落込もうじゃないか。私を虚仮にしたことを後悔させてやるぞ」

「やなこった」

「なんと。敵前逃亡とはあんたらしくもない。あぁそれとも、肝の臓を悪くしたかな? 御・老・体♪」

「安い挑発したって無駄だよ。仕事が近いんだ」

「仕事?」

 

 ライザは樽の横っ腹の栓を抜き、じゃばじゃばとジョッキにエールを注ぐ。そうしてなみなみと中身を満たされたそれをこちらへ向けて無造作に放った。

 ジョッキの取っ手を摘み、手首で勢いを殺してそのまま口に運ぶ。

 自分の分のジョッキを手にいそいそと戻ってきたライザは、椅子に飛び乗るや丸焼きにされた槌嘴の(レッグ)を引き千切り、貪った。

 

「んん~っ、どんな仕事だ?」

「『遺物を回収して上納しろ』。いつも通りの、つまらん子供(ガキ)の使いさ」

「……」

 

 杯に口付けたままライザがこちらを見る。

 不可解、と言いたげな色に瞳が移ろう。

 

「不動卿を名指しで使うからには、遺物(モノ)は一級を超えるんだろう?」

「『決して切れない糸(スタースレッド)』」

「!」

 

 今度こそ確実に、娘の目の色が変わった。驚きと好奇と、そしてなおも蟠る不可解の鈍色。

 

「特級遺物。なるほど白笛が動く案件だ。だが、あれは」

「組合の保管庫に封印してある。持ち出された、なんて話も今のところ聞こえちゃいない。組合が紛失の事実を隠蔽してるっていうなら別だが。まあ順当にいって、『二本目』ということだろうさ」

 

 特級遺物はその()()()性質上、競売の対象にならず個人所有も許されず、決して社会の表に出回ることはない。あってはならない。

 もし一度でもそれらの跳梁を許したなら、国家などという人間の脆弱な枠組みは容易く瓦解するだろう。

 それを奪い合っての紛争、戦争による絶滅ならばまだしも人がましい。ある日突然、埃を吹き払うようにして一つの国が消えてなくなる可能性すら。

 実に笑える冗談だ。

 

「どこまで潜るんだ?」

「四層の南東、剣山奥地に生える樹齢2000年弱のダイラカズラの樹皮に埋まってるそうだよ」

「……」

 

 ライザはその美しい柳眉を顰め、目を細める。

 気に入らない、とでも言いたげな面だ。

 

「臭いな」

「肉ばかり食うからさ」

「そっちじゃない。えっ? そ、そんなに臭うか……?」

「真に受けんじゃないよこの子は」

 

 腕やら襟の内側やら、やたら神経質に嗅ぎ回る娘に呆れる。

 獣の糞に塗れても平気どころか大笑いしながら他人に擦り付けようとする悪童が。一端の乙女みたいな挙を見せている。

 もしやこれは、この娘なりの自虐的ユーモアなのか。

 

「悪かったね。嗤ってやればよかった」

「何を言ってるのか分からないがあんたがまたぞろ度し難いことを考えているのだけは分かるぞ」

 

 唇を尖らせ、しかめっ面を作って視線で抗議を訴える。

 そういう態度が幼稚(ガキ)だと言うのに。

 

「臭いのはその依頼だ。階層と発見場所まで特定して人選までドンピシャだと?」

「2000年もののダイラカズラなら捕食器が三層の下部に迫る大きさだ。その幹に食い込んだ『決して切れない糸』を取り出すとなりゃ、城を建てる規模の人足か重機が要るだろう。当然、そんな数の人間も、デカ物も、深界に持ち込める訳がない。とくれば、()()()()()膂力がある誰かが行くしかあるまい」

「ふんっ。まるで、不動卿オーゼンの為に誂えたような探窟行じゃないか」

 

 鼻を鳴らし、ライザはジョッキを空にした。

 気に食わない。全身からそんな毛色の思念が発散される。実に分かりやすい。

 

「依頼主は誰だ」

「例によってベオルスカ政府からの下知さ。ただ、情報源は別口でね」

「何処かの国の探窟隊か? オースじゃないんだろう」

「新興の北の小国で……て、お前さんに言ったところでどうせ名前なんて覚える気もないだろう。要は他国からの……プッ、フフフ、“善意の”情報提供というやつさ」

 

 自分の言った言葉に自分で笑う。みっともない真似なのは承知で、しかし失笑を禁じ得ない。

 我ながらなんて心にもない言葉を口にしているのだろう。善意、善意、善意で舗装された奈落の――――罠。

 

「罠か」

「九分九厘そうだろうね」

 

 満面の笑みを刻んで、静謐した娘の顔を見る。

 しかしその瞳だけは、“静”には程遠い色を放っている。烈火か業火か、赤を超えて白熱する覇気。

 次に放たれる言葉は容易に想像がついた。

 

「私も行く」

「駄目に決まってるだろ」

「えぇ~!!」

 

 どったんばったんとライザはテーブルを叩いて揺する。子供の駄々同然に。

 

「陰険な鼠がようやく尻尾を見せてきたんだ。だのにそこへお前さんまで出張っていったら相手方は躊躇なく尻尾を巻くだろう?」

 

 この“敵”には、その程度の知恵がある。

 例の、ベルチェロの少年に対する拉致未遂。組合が捜査に動いたにも拘わらずその首謀が未だに判明していないことからも、一筋縄ではいかない手合いと見るべきだ。

 少なく見積もって探窟家同士の抗争などという小競り合いではなく、もっと上。ベオルスカ政府に正面玄関から訪問し仕事を促せる立場の……つまるところ、そういう輩。

 ならば方法は一つだ。差し出された尻尾を有り難く引っ掴み引き摺り出し頭を踏み潰す。鼠の殺し方はこれに限る。

 

「ぶー」

 

 ライザはなおも不満顔で、文字通りぶー垂れてテーブルに突っ伏した。

 留守番に残されることが面白くない、喧嘩に参加できない、不平の大半はそんなところだろう。

 けれど、どうも、それだけではなかった。

 つまらない……娘は顔も上げず、卓面を吐息で白くして呟いた。

 

「どうしてこう、つまらない諍いばかり起きるんだ。そんなつまらないことをしてる暇などないだろう。ない筈だろう。見ろ!」

 

 ライザはバルコニーを、その向こう側を指差した。

 空すら飲み込み、闇すら及ばぬ深淵、アビスを。

 

「あんなものが、未知と神秘の坩堝が、ぽっかりと口を開けてそこにあるんだぞ! 見たいし知りたいし触れたい筈だ誰しもが。私は見たい! 私は知りたい! 私は触れたい! 味もみたい!!」

「拾い食いで何度腹を下したと思ってんだい」

「探求心は止められないんだ。ましてその出会いが人生最後の機会でないとどうして言える。食い逃せようか? 否!」

「知らないよ」

 

 他国からの旅行者が持ち込んだ食い物などは特に目敏く見付けては躊躇なく口に運ぶのだ。

 この娘の、その辺りの馬鹿さ加減、もといイカレ具合は結局今日に至っても矯正できなかった。師としては悔いるべきか、それとも恥じるべきか。

 

「憧れるのは、いけないことか」

「……」

「遺物は好きだ。珍妙で不可思議でロマンがある。だがその値付けに興味はない。私が白笛になったのはアビスの深みに行く為だ。ソコに行くあんたに追い付く為だ、オーゼン。名声だの権力だの、腹の足しにもなりゃしない」

「フッ」

 

 そして、そこには燃えるような光が。

 陽の光よりも眩く、星の瞬きよりも限りない。

 あこがれにあふれた目が。

 

「……世の中、お前さんやアビスに憑かれた私ら探窟家共のような()()ばかりじゃあない。特に国教を掲げてる国からすれば、アビス信仰ほど目障りなものもないだろうねェ」

 

 人が信仰に帰依する上で必要とされる奇跡や預言といった諸々を、アビスは現実に、現物の、資源や遺物として人々の手に恩恵として現す。奇跡の真偽を疑うことを認めない宗教とは比べるべくもないほど、アビス信仰は人間に都合が良い。

 勿論、傾倒する人間ばかりではない。

 他の神を崇める宗教国家がそうであるし、思想か信条か信念かいずれかが致命的に合わない人間。アビスそのものを、あるいはアビスに心酔する者共、アビスに纏わる有様を嫌悪する人間もいる。

 

「そうだ。あの剣術使いがいい例さね」

「……」

「上手く隠しちゃいたが、探窟家って人種を毛嫌いしていた。それにあの、アビスを見る目。あの気の患い方は相当に根深いよ。次に会った時はあまり執拗(しつ)こく絡まないこった。さもないと、腹立ち紛れに斬られないとも限らないからねェ。フフフ……」

「ラーミナはそんなことしないさ」

 

 ライザは、ゆっくりと首を左右する。微笑すら浮かべて、自身の言葉に何一つの疑いも持たず。

 

「……はっきり言うじゃないか」

「はっきり信じられるからな」

「ハッ、御執心だね。たかだか一度助けられたくらいで――惚れたのかい」

 

 心にもない言葉がまた口をついた。心にもない。そう、あってたまるものか。

 ライザはきょとんとしてこちらを見詰め返す。数秒、瞬きを繰り返す間が続き。

 突如、娘は噴き出して笑い声を上げた。

 

「ぷっふふ、くふふふはははははは! 私が? ラーミナに? くくくっ、ははははははっ!」

「……」

 

 抱腹絶倒するまま、ライザは椅子の背もたれから床に倒れる。

 しかし天井を仰ぎながら、それでも娘は笑い続けた。

 エールを舐める。苦み走った味がした。

 いい加減叩き起こしてくれようかというほどに笑い倒して、ようやくライザは身を起こした。

 

「そうだなー。ま、強さは申し分ない。顔も悪くない。大きくなればいい男になるだろうなぁあいつは。ふふふふ」

「……」

「ああしかしやんぬるかな。私の好みはもっと可愛い系なんだ。あと料理が美味いとなおポイントは高いぞ」

「知らないよ」

 

 椅子には座らず、ライザはテーブルを横切ってバルコニーへ出る。月光の下に舞い出たことで、揺れ動く髪はまるで蛍火を纏うようだった。

 アビスを背にして、不意に娘は振り返る。

 

「むしろオーゼンこそどうだ。ラーミナは」

「馬鹿も休み休み言いな」

「馬鹿なもんか。私の人を見る目はなかなかの精度なんだ。あんたもきっとあいつを気に入るさ」

「フンッ、冗談じゃない」

 

 ジョッキを傾けて……既に空であることに気付き舌打ちする。

 

「なあオーゼン。賭けをしないか」

「なんだい突然」

「突然思い付いたのさ」

 

 どうして得意げに胸を張って、ライザは朗らかに笑う。

 

「もしラーミナが自分の意志でアビスに降りたなら、その時は、あんたがあいつにアビスのことを教えてやって欲しいんだ」

「ハァ? なんで私がそんなことを。自分でやればいいだろうに」

「私にはほら、ジルオがいるからな」

 

 恐ろしいほど手前勝手な。文字通り一蹴してそのバルコニーから蹴落としてやってもいいくらいだ。

 だが。

 

「……で? お前さんは何を賭けるって言うんだい」

 

 聞くだけ聞いてやる。その大それた要求に見合う条件として、この娘が一体何を差し出すつもりか。

 愚にもつかない安物を引き合いに出したなら本当に蹴りを入れてやる――なんて、こちらの内心を、さも見透かしたかのようにライザはニヤリと笑みを刻み。

 

「ジルオの着せ替え権」

「乗った」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へっきしっ!」

「はっくちゅん!」

 

 孤児院の裏口を目の前にして、二人分のくしゃみが辺りに響く。

 無断外出のジルオを隠密裏に部屋へ戻そうとした矢先のこと。手で口を覆いながら互いに顔を見合わせ、続いてさささと周囲を警戒する。

 幸い、院の住人に気付かれた様子はなかった。

 

「……風邪か、ジルオ」

「……ラーミナこそ」

「や、なにやら寒気がこう、ぞぞぞっとな」

「オレも、なにか来た……」

 

 えてして悪い予感は中る。

 思い知りたくもなかったが、どうやらそれが世の理であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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12話 憧憬の萌芽

 岸壁街の入り組んだ道と隙間を潜ること暫し。

 この(ねぐら)に帰ることも、随分と少なくなった。

 静けさと物取りに狙われ難い立地を当て込んだ住処だ。ウィロー亡き今、己にとって使い勝手がよいとも言えず。

 数えるほどだった家具を売れるものは売り値付けも出来ないものは始末した。するとどうだ。人気の根こそぎ失せた空間のこのうら寂しさ。

 そこはもう部屋ではなく、ただの空洞だった。

 

「……さて」

 

 残りの荷物を背嚢に詰め込み、担ぐ。

 残す言葉とてもはや無し。

 ここは紛れもない、ただ一つの場所。我が故郷。

 生家を後にした。

 

 

 

 

 

 ウィローの遺した探窟道具一式は、実のところ己には使い道がない。

 長く保管され続けた各種装備、無論のこと相応の経年劣化は見られたがしかし、状態は悪くない。どころかナイフの一本に至るまで十分に実用に堪えるだろう。十年もの間使われることなどなかった筈の品々が何故。

 理由は一つだ。あの老爺が、日毎一日とて欠かすことなく手入れをし、繕い続けたからに相違ない。

 新品同様とは言わぬまでも、それら全ては間違いなく黒笛探窟家愛用の、歴戦の一品だった。

 さりとて、探窟家ならぬこの身には無用の長物。もとい過ぎた業物だ。

 なれば使うべき者が使うのが筋であろう。

 

「……いいの?」

 

 オース西区、孤児院から程近い坂道の途上。大穴の暗い真円を望む物見台のベンチに並んで腰掛けている。

 麗らかな午後の日差しは暖かだ。

 陽光に煌めく白銀の髪の下から、少年の遠慮がちな視線が己を見上げた。賢そうな面差しの中、くりくりと宝珠の如く大きな瞳が輝いた。欲しいものを目に前にして、期待と遠慮の狭間で揺れ動く。

 今一歩、健気に自制しようと頑張るジルオの様は、面白いやら可愛いやら。

 

「己が抱えて腐らせるより、お前さんが持っていた方がずっといい。前の持ち主にとってもそれがなにより冥利ってぇやつだ」

「でも……」

「嫌だってんなら無理にとは言わん。なんせ死人のお下がりだしな」

「そんなことない! ただ……これは、そのお爺さんがラーミナの為に遺したものなのに」

「だからこそよ」

 

 あの男の生きた証。憧れ、願い、痛み、幸福と不幸。その集成。

 捨てることなどできない。死蔵するくらいなら、使い潰してやりたい。

 この豊かな前途をひた歩む少年に託したい。

 そう思った。

 

「弔いと思って、使ってやってくれんか」

「……わかった」

「ありがとうよ、ジルオ」

 

 

 

 

 

 

 

 北区へ足を伸ばせばすぐに商店が所狭しと軒を連ね犇めく回廊通りに出る。岸壁を棚状に均した土地に基礎が築かれ、段々畑のように家々が建ち並ぶ様。

 その内の一軒、小造な店の扉を潜った。来客を告げる瀟洒なベルの音色。同時に、室内を満たすその独特の匂いが鼻を擽った。

 ジルオに伴われ最初に訪れたのは香辛店であった。カウンターで作業していた女がこちらを見て取り、柔らかに笑む。

 

「あらジルオ。今日はどうしたの」

「こんにちは、ラフィーさん。その、お……お遣いで」

「そうなの? えーっとそっちの子はぁ、そうそう前に何度か饅頭買ってってくれた」

「どうも」

「そっか、あんたも孤児院(ベルチェロ)の子だったのね。あんまり見ない顔ね。最近入ったの?」

 

 己とジルオの取り合わせに、こちらが何か言い訳するまでもなく女店主はなにやら早合点してくれた。

 気不味げなジルオの肩に手を回して笑う。

 

「えぇえぇ新参者ってぇやつですよ。不勉強な己に、今日はこの子がいろいろと教えてくれるそうで」

「ふふ、流石ジルオ。ちゃぁんと先輩やってるんだ」

「う、うん……」

 

 ジルオがこそっと己に耳打ちする。

 

(ラフィーさんの旦那さんは黒笛の探窟家なんだ。話の分かる人だから、いきなり組合に通報、とかはしないと思うけど……)

(怪しまれぬ内に、とっとと買う物買って退散するが吉か)

 

 組合の認可を通さぬ探窟は原則御法度だ。見付かれば盗窟者として厳罰に処される。それを子供の所業であるからと目溢ししてくれる者ばかりではあるまい。

 悪さをするならばれぬように。嘘は極力吐かずに済むに越したことはない。

 我らの様が滑稽なのか微笑ましいのか、女性(にょしょう)は口を手で押さえて笑声した。その拍子に、馬尾のように結んだ(あか)い髪が揺れる。

 

「ふふふ! 仲良いのねぇ、あんた達。ジルオがそんなに懐いてる人、ライザさん以外で初めて見るわ」

「べ、べつに、オレは……」

「いやいや、良くしてもらってんなぁ俺の方でね。本当に優しい子ですよ。かかっ、ちっと小生意気だが」

「むっ」

 

 むくれっ面が己を睨み上げる。笑みを向けると、むしろなお一層に幼子はぷりぷりと拗ねてしまった。

 調味料や香辛料はもとより各種生薬などを買い求め、そうして店を後にしようとした時。

 

「はい、これはおまけね」

 

 ラフィーは丸い包みを二つ、手渡してきた。

 出来立てらしく暖かで、そして実に芳しい匂いを放つそれ。

 

「また二人でおいで。今度はお茶でも出したげる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 辛子饅頭に噛り付く。刺激的な辛味と香味が口いっぱいに広がり鼻を抜ける。旨い。実に、旨い。

 あの老爺が好物にするのもわかる。墓を設えた暁にはたんと供えてやろう。

 同じく、隣を歩くジルオもまた旨そうに饅頭を頬張った。

 遅めの昼餉に舌鼓を打ちつ、ジルオは言った。

 

「奈落探索は下準備がすべてだ。それをおこたった者から死ぬ」

「ほーう」

 

 少年は人差し指を立てて如何にも講釈ぶった所作を見せる。孤児院の授業の受け売りだろう。いや、そこはそれ、しっかりと学び取っていればこそこうして知識を披露できる。

 勤勉であり、子供らしく見栄っ張りでもある。

 口の端を饅頭の餡で汚す様と相俟って、それは無闇矢鱈に愛らしくもあった。

 

「……なんだよ」

「くく、いんや?」

「んんっ」

 

 手拭いで口を拭いてやる。

 少年は恥ずかしそうにむずがった。

 

「じ、自分でできるよ……」

「ああそうだな。それでジルオ先生よ。己はこれからなにを準備すりゃあいいんだい? 是非ご教示賜りたく存ずるが」

「んぐ……うん、任せろ」

 

 大仰に謙る己に、腹を立てるどころかむしろその瞳に使命感を燃やして、ジルオは自身の胸を叩いた。

 

「まずは靴。単純に頑丈で分厚い革製がいい。最新の護謨製のやつとか、歩きやすいけど案外脆いんだ。それから服。なるべく通気性の良いやつを重ね着する。防寒には外套とかジャケットとか上着を別にして。そう、雨具もだ。アビスでは雨も雪も降るし、突然地下水が横穴を突き破って()()降って来ることもある。あと実は一番重要なのが背嚢だ。使い勝手の良いやつを選ばないと。荷物の出し入れ一秒が生死を別けることもあるって。ナイフは万能の器具だ。これだけは絶対にケチるなって院長がいつも言ってた。調理器具、これもそう。多少値が張っても良い物を選ばないと後悔する。探窟行が長引くほど、食事の質が心身の」

「おぅいジル、ジルオ先生よぅ。ちょいと手加減しておくれ。そう一気にあれやこれや詳らかにされてもこのトーシロにゃお手上げだ」

「あっ、ご、ごめん……」

 

 顔を赤くして肩身を萎ませる。一瞬我を忘れるほどの熱心さ。この少年にとって探窟なるものが如何に重大事かが解る。

 憧れの、その根深さが。

 

「……」

「ラーミナ……?」

「はは、一個一個で頼む。急ぐ道行でなし、ゆっくりでいい。ゆっくり、教えてくれ。お前さんの話を聞くのは俺も好きなんでな」

「っ、う、うん」

 

 少年ははにかんで、顔を綻ばせた。

 そして、その横顔越しに無間の大穴が黒く昏く口を空けている。

 

「…………」

 

 悍ましいと思う。恐ろしいと思う。

 しかし、なにより、なによりも。幼気な少年の瞳に萌える憧憬の新芽。

 ひどく度し難い、その輝きを俺は美しいと思った。

 思ってしまった。

 

 

 

 

 友の弔い。その旅立ちの準備が始まった。

 しかしてその最中、まさか。あのような小競り合いに巻き込まれるとは。

 その時の我らには知り得ようもないことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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13話 滑落亭

あの見開き一杯に描かれた酒場の雰囲気、最高。




 

 

 

 

 茜から群青、そうしてかの深淵より幾らかは淡く正常な夜闇の黒へ。暮れゆく世界とは逆行するかの如く、大穴を取り巻く(オース)は刻一刻活気付いていく。

 表の繁華な通りなどは、それこそ今こそ書き入れ時。客引きの威勢の良い売り文句、酔っ払い共の歓声に嬌声。

 喧しくも力に溢れた夜の風情が視界を占めた。

 酒精の香る猥雑な空気は忌避せざるところだが。連れ合いはこんな夜景に似つかわしくない幼い少年である。

 半日かけて買い集めた大荷物を背負って、帰り路を急ぎ歩く。

 

「疲れたか、ジルオ」

「ん、平気」

 

 ふとその時、傍らでくぐもった音が鳴った。小動物の唸りのような。

 

「……」

 

 見やった先では、少年が腹を隠して顔を赤くしている。音の出所はどうやらその小さな胃袋だった。

 

「半日歩き通しだったからな。とっくのとうに夕飯時だ……どうする、どこか寄って行くか?」

「え! い、いいの? あ、でもオレ、お金ないし……」

「なにをつまらねぇことを。おめぇさんのお蔭でこうして万端支度も整えられたんだぜ。ならばこいつぁ当然の見返りってぇもんだ」

「そう、なのかな……」

「そうとも」

 

 なおも躊躇いがちな少年に、心中に和みなど覚えてこの顔は微笑んでいた。

 

「ふっ、飯くれぇ奢らせてくれよ」

「……うん、わかった」

 

 背嚢一杯に収められた各種装備。幼子の助言が無ければ、己の頭ではそもそも思い付きさえしなかったろう物品は数多い。

 少年が己の軽率さを叱りたくなるのも道理だ。

 

「そらそら、ジルオは何が食いたい。遠慮せず言いな。こんな貧相(なり)だが金子(きんす)はまだたんまり余ってるぜ」

 

 貧民窟の(ねぐら)にあった家財道具は売り払ったところで大した金にはならなかった。塵だの屑鉄だの拾って換金したとて、その日の飯代になるかどうか。

 この金の出所は、そうした真っ当な仕事の成果ではなかった。

 今は腰に佩いてあるそれ。(それ)を振り回すしか能がない男が、それを振り回す時と場所に恵まれた。存外の頻度で。

 公私を問わず鎮護を求める声がある。罷り間違い大穴より外界へ登って来た獣を狩ることもあれば────地上に在って人の皮を被った獣を狩ることも屡々ある。人買、麻薬、強盗、詐欺師、殺し屋、時にはそれら全てを複合的に扱い売り買う奴輩。人を、弱者を食い物にする悪党数多。

 彼奴らを潰すことで得られる報酬は微々たるものだった。悪党の討滅を願うのは、往々にしてそれらに虐げられてきた弱い者達なのだから。

 潰して、潰して、潰して、潰した。塵のように湧いて出るそれが積もり積み重なり、結果として小山くらいになった。

 それだけの話だ。

 

「……昼間も思ったけど、ラーミナってどうやって稼いでるの?」

「そりゃあ無論のこと、日々齷齪ひいこら働いて質素倹約奮闘の賜物というやつで」

「…………」

「くくく、微塵も信用ならねぇって面だな」

「どうせオレがガキだからって教えてくれないんだろ。いいよ、もう」

「おいおい」

 

 むくれっ面がそっぽを向く。

 子供が知る必要などない、と勝手自儘に判じたことは実際まったく図星であった。見透かされている。本当に聡いのだ、この坊は。

 さても、一日付き合わせておいて最後にご機嫌損ねましたでは実に片手落ちである。

 どう気を引いたものか、幼子の形の良い後ろ頭を見ながらそう考えあぐねた。

 

「よぅしジルオ。飯だけなんてケチくせぇこたぁ言わねぇ。この際だ、おめぇさんの欲しい物してぇ事行きてぇ処諸々、あるならなんでも言ってみな。このラーミナ恩に報いるに骨折りは惜しまん……どうした?」

 

 己の芝居調子の駄弁を聞いてか聞かずか、ジルオは通りの向こうを見詰めたまま動かなかった。

 視線の先には一軒の酒屋。崖に面した建屋はやけに縦に長く、どうやら壁伝いに大穴へ()()()ように増築されている。

 玄関口は壁を取り去られ、荷馬車でも潜れそうな軒下から開放された店内を覗くことができた。とはいえ店内も、あるいは通りにまで侵出した屋外席であっても、酔いどれ客の乱痴気騒ぎは変わらない。

 酒宴に沸く飲み屋通り。そこに建ち並ぶ多くの店の中でもそこは一際の賑わいを放っていた。

 金属細工の吊り看板は、トコシエコウの花弁を象っているのだろう。公用語で書かれたその店名を己は思わず声に出して読み上げていた。

 

「『滑落亭』?」

「うん!」

 

 勢いよく銀髪が翻る。振り向いたジルオの両目は、軒先で街路を照らす石灯よりなお一層眩く、それはそれは輝いていた。

 両手をばたつかせて、堰を切ったように少年は喋りだした。

 

「探窟家御用達の()()()酒場! オースの探窟家なら一度は訪れなきゃいけない。来ない奴はモグリ扱いされる。ベテランの黒笛や、時には白笛が! 探窟行で見聞きしたいろいろな噂話を持ち寄ったり持ち帰ったり、現役探窟家達の情報交換所になってるんだって!」

「探窟家共の吹き溜まりって訳だ。にしちゃあ随分と、なんだ、験の悪ぃ名前じゃあねぇか?」

 

 これから大穴を降ってくれようという者に滑落とは。

 

「あえて縁起の悪い名前のここで不運を落として、これから向かう探窟では幸運を得られるようにっていう意図がある……らしい」

「ほーん、厄落としってやつか」

 

 今にも駆け出しそうな様子で、少年はうずうずと店先を見詰めた。

 他はいいのか、と尋ねたところで無駄であろう。

 

「酒の当てで飯になるかねぇ」

「大丈夫! この店は探窟家が食いたいものはなんだって作ってくれる! あっ」

「お、今度はどうした」

「……ここ探窟家じゃないと入れないんだ」

 

 打って変わって意気消沈した面持ちの少年が、この世の終わりのような声を漏らした。

 店内に目を(すが)める。

 

「んー、普通の客ばかりのように見えるが」

「あそこは表の席。観光客とか、探窟家じゃないオースの住人向けの席だ。もっと奥の、下の階の席に通されるのは笛持ちの探窟家だけで……」

 

 そんな再確認が済んだことでジルオはさらに深々と悄気(しょげ)返った。何がそこまで残念なのやら己には皆目理解してやれないが。

 骨折りどうこうと言うた矢先だ。吐いた唾を飲む訳にもいくまい。

 懐を探り、それを取り出した。光沢の失せた黒、表面に刻まれた細かな傷はかの老爺の百戦錬磨の証左。

 ウィローの黒笛である。

 

「! それ」

「さてお立合い、これを己が首に掛けたならばあら不思議。黒笛探窟家一丁上がりと」

 

 等級の詐称は間違いなく、(ベオルスカ)か組合の定めたる何かしらの法度に触れるのだろう。が、別に偽った身分で何か悪さをしている訳で無し、酒場で飯を食うくらいどうということはあるまい。

 とはいえ、ルール違反ではある。

 傍らの幼子にはどうか真似をしないでもらいたいものだ。

 ジルオに片目を瞑って笑みを送る。

 

「今回だけだぜ?」

「うん! えへへっ」

 

 夜天の下、日の出と見紛う笑顔が煌めく。

 ひしと、小さな手が己のそれに繋がれる。早く早くと力強く、駆け出した少年に引かれ、滑落亭の敷居を跨いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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14話 悪縁奇縁

 

 

 

 流石に、黒笛を提げるには己の容姿は些か若作りだったらしい。笛と己の顔を交互に見比べ訝しむ店員を素知らぬ風で躱し、早足で奥廊下へ踏み入る。

 薄暗がりを抜けた先、突如視界が拓けた。刹那、降り注ぐ暖色の石灯に目が眩む。

 

「……おぉ?」

「わぁっ」

 

 我知らず声を上げていた。同じく傍らで上がった少年のそれは紛れもなく歓声であった。

 驚嘆を以て、その上下に広大な空間を望む。

 宴席は随所から()()()いた。壁に、柱に、まるでサルノコシカケの如く吹き抜けに向かって露台が迫り出している。台にはそれぞれ円卓が据えられ、四、五人の客が杯を呷っていた。

 その全てが探窟家であった。

 高低差の激しい各所の座席への移動は梯子、あるいは杭の足場を渡って行うようだ。

 安全も配慮もありはしない。探窟家ならこれで事は足りようと言わんばかり。

 縦穴の只中にあって酒と飯を食らう。なるほどまさしくそれは、アビスに身を投じる者共の正しき有り様。

 

 ────聞いたか。例の黎明卿の『開通工事』、とうとう二層まで掘り抜いたらしいぞ

 ────払いは良いらしいぜ。体がまともに動くなら食い詰めた浮浪者でも雇ってくれるってよ

 ────ナキカバネの縄張りが明らかに広がってるの、あれなに。うちの後輩が何人か“声”にされたんだけど

 ────主食にしてた獣か虫か、また一種絶えたんだろうさ。アビスじゃ珍しくもない。どうせすぐに新種が見付かるし

 ────組合のピンハネえぐすぎんよ!? ピッケル新調できねぇじゃん!

 ────ならちょろまかして直接売っ払えよ。お尋ね者(ウォンテッド)の仲間入りだぜ

 ────アビスは国の利権ガッチガチだからねぇ

 ────上昇負荷を回避できる薬があるって噂、知ってるか?

 ────そんな都合の良い代物ある訳ないでしょう。精々が偽薬か、いいとこ感覚を麻痺させる劇薬ってところでしょうね

 ────糞! あの赤蛇野郎! 俺の相棒を食いやがって

 ────そうか。それはお悔み申し上げ

 ────掘り当てた遺物は全部そいつが背負ってたんだ! リュック一杯の遺物、二級は堅かったんだ畜生! 丸損だ!

 ────不動卿、ついこの間帰還祭だったっていうにもうアビスへトンボ返りだって

 ────特級遺物でも出たかな?

 ────近頃見掛けない面が多い。下りる時は用心しろ

 ────ベオルスカがまた他国と揉めてるんだ。遺物を寄越せ資源を寄越せ自分達にも甘い汁を吸わせろってさ

 ────ハッ、一度一層あたりでゲロ吐いてから言えってんだ乞食共め

 ────まったくだ! ハハハハッ!

 

 其処彼処で囁かれ、あるいは怒鳴り、あるいは笑い交わし交わされる話。情報。探窟家達にとってそれらは全て値千金の世間話なのだろう。

 探窟家による探窟家の為の酒場。御用達との呼び声に偽りなし。

 ジルオなど、漏れ聞こえてくる他愛のない会話にさえ目をキラキラさせている。

 ……この顔を見られただけでも、来た甲斐はあったか。

 手近に空いた卓が見当たらず、回廊から店内を見渡す。すると一階層下りたところに丁度二人掛けの空席を見付けた。

 世間話の収集に忙しい様子のジルオを引っ張り、梯子を伝い下りる。地上から見て地下一階の回廊を巡ろうとした。

 

「……」

「? ラーミナ?」

 

 その時、目端にそれが過った。

 客席の増設の為か、店が取り付いた岸壁の地肌を掘り拡げたのだろう。洞穴のような空間に据えられた円卓には四人の男が座っていた。そこへもう一人、歩み寄っていく。

 探窟家である。サバイバルジャケット。分厚い革靴。腰のベルトには各種登攀用の器具。

 この辺りでは珍しくもない何の変哲もない探窟家……を装っている。

 

「ジルオ、隠れろ」

「えっ」

 

 直近の、これもまた岸壁の掘削の名残なのだろう窪み、物陰に少年と共に身を隠す。

 

「どうしたのっ?」

「妙なのが紛れ込んでいる。覚えのある歩法だ……お前さんを襲った、あの黒服共と同じ」

「!?」

 

 歩幅は一定に変化せず、努めて足音を殺す足運び。なによりあの右袖、腕の内側だけが不自然に膨らんでいる。

 暗器だ。先夜、岸壁街の路地裏で襲撃者共が使っていた隠剣。

 偶さか同じ武器を仕込んでいた無関係の探窟家、その線も絶無ではない。しかし疑いの目を以てさらに(つぶさ)に観察すれば、男の纏う気配の剣呑さが嫌に鼻につく。鋭敏な感覚を備えたアビスの原生生物を相手取る為か、探窟家という連中はどうも自然態を心掛ける傾向にある……かの白笛の女性(にょしょう)達は例外としても。過去、アビスの獣や蟲を向こうに斬り合いを演じた幾度かの経験から、己もそのスタンスには同意できる。

 殺気立った人間など、威勢よく吠声(はいせい)を上げる小動物と変わりない。かの極限環境下においては目立つ餌程度の価値しかないのだろう。

 それを理解せぬ者。いや、本業を別とする者。人殺しが生業の、異物。

 

「……」

 

 不安げな眼差しが頬に触れる。

 努めて軽薄に笑って少年を見やる。

 

「すまんなジルオ、夕飯は他所で食おう。ここは小蟲がちらつきやがる」

「……ごめん」

「ばぁか、ここは謝るんじゃあなく悪態の一つも吐くところだぜ。目障りな蟲ケラが他人様のでぃなーの邪魔しやがってばーろーちくしょーめ! ってな」

 

 そんな必要など微塵とありはしない、責めを感じて翳るその顔。その柔らかな頬を軽く抓る。

 もにゅもにゅと頬を弄られる内に、少年は諦めたように笑った。

 

「……彼奴等がお前さんをまだ諦めてねぇのか、それとも別の目的で動いているのか今は判断がつかん。見付からねぇ内にとっとと出た方が良かろう」

「うん……」

「なぁに、また来ればいい。何度でも。笛の一つ二ついつでも都合できるしな」

「それ、組合に見付かったらヤバいよ……ふふっ」

「くくっ、そら、行くか」

 

 幼子を己の身で隠すように、元来た道へ戻る。戻ろうと踏み出した、その矢先であった。

 

「よう! ジルオじゃねぇか!?」

 

 複式呼吸の、それは強靭な腹筋に裏打ちされた男の音声(おんじょう)。低く分厚い、声量と音圧に富んだ威勢の良さ。

 一度顔を見合わせてから少年と二人、声のした方へ振り返る。

 髭面の大男が杯片手にこちらへ近寄って来る。

 

「なんだなんだ。こんな時間に酒場にいるなんざ、お前も随分やんちゃになったもんだなぁ! 院長にどやされるぞぉ、ハハハッ!」

「ハ、ハボルグ……」

「知り合いか」

「昼間の、ラフィーさんの旦那さん」

「ん? そっちの方は新顔か? ははぁ、真面目一徹なジルオにもこんな悪さ仲間がいたんだなぁ! いいぞ! 実にいい! ガキの時分ってのは目一杯無茶をしていろいろと学ぶもんだ。ハハハハハハッ!」

「……」

「……」

 

 赤ら顔で男は豪快に大笑した。

 店内空間の全域へ響き渡り、轟くかの大声だ。一時、酒宴の喧騒を断ち切ってしまうほどの。

 件の円卓をちらと盗み見る。全員がこちらを見ていた。己、ではなく、傍らの幼子を。

 

「見付かった」

「うわぁ」

「……ん? あー?……もしかして、なにか不味かったか?」

 

 男は武骨な見た目に反して存外に察しがいい。

 焦り顔のジルオの様に、我らにとって宜しからぬ事態の到来を予見したらしかった。

 到来。そう、彼奴等が動いていた。

 円卓で三人の男が席を立っている。しかし────即座には来なかった。なにやら言い合いを始め、間の抜けたことにその場でまごついている。

 

「……」

 

 選択肢は二つ。

 まず一つに逃走。この場から安全圏へ離脱する。ベルチェロ孤児院か、組合に事情を通じて直接庇護を求めるという手もあるだろう。

 そしてもう一つは。

 

「ハボルグ、と言ったか。お前さんは組合所属の探窟家だな?」

「あ、ああ、そうだ」

「ならばジルオを攫おうとした連中については聞き及んでいような」

「! お前、何もんだ。どうしてそんなことを知って」

「あれがそうだ」

「なにぃ?」

 

 顎でしゃくって視線の先の円卓を示す。

 話し合いに一区切りついたらしい。男達が真っ直ぐにこちらへ向かってきていた。

 

「己はここであれらを潰す」

「あぁ!? 潰すってお前」

「後始末を頼めるかい」

「ちょ、待ておい!」

 

 外套を払い、腰に佩いた刀を解く。そうしてそれらを傍らの少年に差し出した。

 

「預かっててくれ」

「う、うん。でも、ラーミナ……」

「いい加減、腹に据えかねておってな」

「え」

 

 こんな幼子一人に執念深く、諦めもせず、のこのことこんな場所にまで現れる奴輩めが。

 駆け足。背後より足音が迫る。微か、空気を裂くのは凶器の刃金か。

 

「ラーミ……!」

「後ろだッ!」

 

 反転して手掌を繰り出す。予想通りの位置に、男の喉笛があった。

 薄汚れた不景気面が呆気に取られて表情を失くす。それが驚きの色に変わる前に、突進の勢いを一点にぶつけ、倒す。

 喉輪落とし。

 男は後頭部から墜落した。

 動かなくなった男を見限り、進み出る。

 

「よう! 人攫い共!」

 

 滑落亭を訪れた全ての客、店員、店主にまでも届くように。

 宣言する。

 

「喧嘩をおっ始めるぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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15話 大捕り物

 

 

 男は有り体に言えば落伍者だった。

 秘宝と神秘の坩堝、奈落(アビス)に一攫千金の夢を見て南の果ての孤島(オース)を訪れた。過去そうして海を越えやってきた幾人、幾万人の夢追い人達同様に。

 そしてその甘やかな夢想の大半は押し並べて、初探窟の帰路であっさり打ち砕かれる。

 酷烈、凄絶、凶悪。滴るほどの悪辣さで襲い来るアビスの原生生物、そしてなにより人間を、人間だけを許さぬアビスの呪によって。

 恐怖と後悔を反吐として地面に撒き散らした日、男の心は折れた。命辛々地上に生還した男はそれきり探窟に赴くことを止めた。

 とはいえ命を拾ったからにはそれを存続する為の活計(たつき)を営まねばならない。オースへの渡海費用、アビスの探窟装備諸々、それらに私財のほとんどをなげうってしまった男は日々糊口を凌ぐのにさえ難儀した。

 旅費を捻出できないのだから故郷に帰ることもできない。男が食い詰め者として岸壁街に身を寄せたのはもはや自然の成り行きだった。

 浮浪者として貧民窟で暮らして一ヶ月目。

 パン一つを取り合って相手を血達磨になるまで石で殴りつけた日もあった。動かなくなった男がその後も生きていたかは知らない。

 物乞いの子供の上りをせしめたこともあった。追い縋ってくる子供を、やはり石で打った。背中越しに苦しげな泣き声を聞き捨てた。

 鬱屈と苛立ちが心胆を炙る。後悔、後悔、後悔、止まぬ()()()()を思う毎日。

 こんなところに来なければ。アビスに憧れなければ、こんな。こんな!

 そんなある日、不意に。

 奇妙な男達に出会った。黒服の、明らかに堅気の人間ではない、剣呑で陰惨な空気を纏う彼ら。

 彼らは仕事を斡旋してきた。その仕事は、簡単に言えば“荷物運び”だった。

 岸壁街の近く。塵溜めの奥地に潜むように建った“工場”の中で、巨大なゴンドラに様々な大きさの箱を積み込む。

 そのゴンドラは、どうやら奈落を昇降している。

 荷は大半が物だったが、ある時男は気付く。大量の箱の中に時折、声を発する箱が混ざっていることに。

 

 たすけて

 

 男は無心に荷運びを繰り返した。老若男女様々な声を無視して。ただの普通のくだらない作業を繰り返した。

 あまりにもうるさく騒ぐ箱は厳重に空気漏れすら無いよう梱包した。静かになった。

 箱の中身が逃げ出すこともあった。そういう時は雇い主から持たされた鉄の棒を使う。ある程度大人しくさせてまた箱詰めする。

 “作業内容”が増えてくると、報酬はどんどん上がっていった。仕事に従事していれば高い賃金とは別に食事まで用意された。

 一ヶ月、仕事は変わらずあった。日当も滞りなく支払われ続けた。

 仕事の内容が様変わりしたのは丁度三ヶ月目のこと。

 

 この子供を探せ。見付け次第こちらに報せろ

 

 雇い主の黒服から顔写真が配られ、男やその他の作業者がオースの街に解き放たれる。

 提示された報酬額は日当の約五十倍。子供を見付け、捕まえた者にはさらに倍額が上乗せされるそうだ。

 食い詰め者達は血眼で街を徘徊した。

 捕まえた子供がどうなるのか。子供を攫おうとするあの黒服達が何者なのか。男はもうそんなことに興味はなかった。

 

 男は落伍者だった。

 男はとうの昔からただの普通のくだらない、悪党だった。

 

 そして今夜、滑落亭にて。その日、街を駆けずり回って何の成果も得られなかったことを報告し、揉み手でどうにか給金を強請(ねだ)る時間。

 悪党は金の卵を見付けた。まったく予期せぬタイミングで件の少年が目の前に現れ、ひどく浮足立った。

 雇い主の黒服の制止によく分からない言い訳をがなり立てた。自分が最初に見付けたのだ。最初に捕まえ、報酬だって全て自分のものだ。そうあるべきだ。

 百五十倍の報酬。食い物を買い、酒を買い、女を買ったとてまだ余る。

 故郷に、帰ることさえも叶う。

 男は夢を見た。ナイフを手に駆けた。

 ガキ二人。後ろの大男が懸念だがガキを一人でも人質にしてしまえばこちらのもの。

 報酬は自分のものだ。自分だけのものだ。

 男は、久方振りに夢想した。

 そうして。

 夢想を潰され、喉を潰され、意識は奈落のような暗黒へと没した。

 

 

 

 

 

 

 昏倒した男を置き捨て、後続してきたもう一人に踏み込む。その走行に合わせ進突する。

 間合は極近接。体格で優る対手の内懐である。その手にした金属の棍棒を振り落としたところで、己の身体を捉えることは出来ない距離。

 踏み込みと同時に打ち出したこちらの肘が、男の水月(みぞおち)へ沈んだ。

 子供の体躯といえど全体重の移動力が一点に集約した肘鉄を急所に喰らって平気の平左を気取れるのか。残念ながら対手には無理と見える。

 もう一人、床板に接吻する男が増える。

 

「どうした外来探窟隊の歴々よ。ベルチェロ孤児院の子供一人攫う程度! どうということはないのだろう?」

 

 声を上げる。この場の全ての者達に、聞えよがしに、丁寧に説明してやる。

 

 ────ベルチェロ? 人攫いだって?

 ────ほら例の、殲滅のライザの身内をさ

 

 この者達の素性、目的、それを推し量らせる為。オースの探窟家共に、“敵”はどちらかを教えてやる。

 まさか居合わせた客に彼奴らの始末を協力させようというのではない。ただ、これから起こる沙汰を、邪魔する意味がないということ知らしめたかった。

 

「白笛ライザに相も変わらず御執心かい? いや、それとも、また何か別口で企みがお有りかな」

 

 奥の円卓で腰を上げた黒い探窟装備の二人。下手人と呼べるのはあれだけだ。

 今ほど転がした男達は、動きからしても素人。おそらく貧民窟辺りで用立てただけの破落戸(ごろつき)だろう。

 本命二匹。逃がす手はない。

 そしてあれらは逃げる他ない。かの黒服共がジルオの拉致とライザに対する脅迫を諦めていないならば、この場で事を荒立て騒ぎを大きくするのは失策中の失策。奴らの背景に国家間の陰謀が渦巻くというならなおのこと。

 

「足止めしろ! 全員でだ!」

 

 黒服の一人が叫んだ。

 するとどうだ。途端に其奴らはわらわらと。

 上から下から、十人ばかり。身形はやはり探窟家“風”。探窟家に化けた破落戸共が群がって来た。

 初めから大人数で店に入っていたらしい。素人ゆえに見逃していたか。

 

「ひのふのみの……十四、いや十五か。こいつぁ骨が折れる」

「おいおい」

 

 背後からのっそりと、その大柄が歩み出て己の隣に並び立った。

 手にした酒杯、その中身を無造作にぶちまける。今し方下層から登ってきた男の顔面にエールが浴びせ掛けられる。

 その頭上に酒杯の底を叩き付けた。頭蓋と空の器同士、快音が響く。

 男は下層に落ちていった。

 

「一人で全部相手にする気か。俺にもちょっくら手伝わせろ」

「手前で勝手にやりな。別に当てにはしてねぇよ」

「なんだおい、随分辛辣だな」

「元はと言えば組合とやらの手抜かりがこやつらをのさばらせておるのだろうが。オース探窟家の元締め様のよぅ」

「はははっ……ぐさりと言ってくれるじゃねぇか」

 

 髭面に困ったような笑みを浮かべて、ハボルグは杯を放り捨てた。

 この男に責任どうこうを問うのが筋違いなのは承知の上だ。それでもやはりどうして文句の一つも投げたくなる。

 悪意に晒されるのは誰あろう、背後に庇う幼子なのだから。

 

「奥の……あの二人だな? よし! 雑魚は任せろ!」

「かっ、そうかよ」

 

 ハボルグは状況を即座に了解していた。

 先んじて巨躯が前へ出る。二人がかりで襲い掛かって来た男達を、その太い腕が捕らえた。驚くほど敏速な動き。その分厚い体躯が断じて肥満体ではなく、筋骨の鎧である証左であった。

 足下のナイフを拾い上げ、床へ組み敷かれた破落戸共を跳び越える。

 視線の先で、黒服二人が早々に尻を捲って走り去ろうとしている。

 疾駆しながらナイフを擲った。

 

「!?」

 

 丁度、右手側の黒服、その裾を刃は突き破り壁に縫い留める。

 もう一人の黒服は相棒には目も呉れず、なんと縦穴に身を投じた。

 男が何かを頭上へ投げるのが見えた。金属の鉤爪と、宙に走る一本の細い線。鋼線(ワイヤー)だ。

 探窟家の装備としては標準的なのだろうが、なんとも用意周到な。ある意味滑稽なほどに。

 

「逃すかよ」

 

 回廊から、跳ぶ。縦穴へ。

 

「なっ、馬鹿野郎!?」

 

 背後からハボルグの怒声が響く。

 無視する。危険ではあったが、目測は悪くなかった。

 縦穴の中央に下がるそれ。一本のロープ。なるほど、ロープは滑車に通されており、先端には籠が吊られている。それは注文の料理や酒を各階層に運搬する為の昇降機なのだ。

 己の脚力は確実にそこまで到達してみせた。ロープに掴まる。下層で皿が割れる音がした。

 跳躍の勢いは止まらず、振り子運動で前へ。

 今まさに、ワイヤーで上層へ逃れんとする黒服の男へ。

 衝突した。

 己の蹴り足と、対手の脇腹が。

 

「げはっ!?」

「良い物持ってんじゃあねぇか! えぇ!?」

 

 手近な露台に黒服共々突っ込む。

 円卓が破砕し、酒精が舞い散り、料理が四散する。

 足蹴にした男が昏倒していることを確認し、先程縫い留めた方を見やる。

 流石にナイフ一本程度で長々足止めできるなどと思うまい。

 予想通り、黒服は今まさに出口へ逃げ込もうとする寸前。

 

(遠いか)

 

 脚で追い付ける距離ではない。

 取り逃がす。そう思われた。

 

「ラーミナ!」

「!」

 

 頭上を見る。思わず掴み取ったそれは金属の棍棒。先程己に殴りかかって来た男が使っていたもの。

 ジルオ。あの小僧っ子が寄越してくれた。

 

「かかっ! 本当に出来る男だよ、お前さん!」

 

 振り被り、渾身の力で投げ放つ。

 高速回転しながら鉄柱は出口へ、そこに走り込む男の後頭部へ、過たず。

 重い音色が縦穴の酒場に木霊した。仕留めた。

 本命の下手人二つ、確と。

 上層で奮闘する大男の様子を見る。ハボルグは剛の者だった。雑魚の十人やそこら、まるで相手にならない。

 ならば己の懸念はただ一つ。

 

「……死んでねぇだろうな」

 

 酒と料理塗れで白目を剥いて気絶した男を見下ろして、小さく溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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16話 挑み逝く理由

 

 

 縛り上げた下手人二匹を滑落亭から引き摺り出す。盛り場を離れ、路地の奥間へ進み上りまた下り、そうして入り組んだ家々の狭間の向こうに物見の露台があった。大穴の街にはこうして、至る所に奈落を望む為だけの場所が築かれている。

 そんなにあの虚穴が恋しいかよ。そんな皮肉も幾らか、口中に蟠った。がしかし今ばかりは人気の失せたこんな場所が重宝だった。

 二束の簀巻を欄干の傍へと放る。

 他の破落戸(ごろつき)共は滑落亭の主人がその処分を請け負ってくれた。

 

「女将とは旧い馴染みでな。いやぁあの店じゃ昔から喧嘩沙汰の度に世話になったもんだ!」

「慣れっこって訳だ」

 

 ハボルグの口添えもあって店内での乱痴気騒ぎについてはお咎めなしと沙汰が下った。ただし壊した卓だの椅子だの皿だのは、しっかりと請求の書状を投げ渡されたが。

 ならばと、悪党共の財布からそれを徴収してくれようとしたところ、悪銭は要らんと突っ撥ねられてしまった。

 

「貧乏人に手厳しいったらねぇや」

「また来いって意味だろう。気に入られたな」

「……皿洗いでもやらされるのかねぇ」

「オ、オレも手伝うよ!」

 

 そう言って、傍らで健気にジルオが奮起する。

 この坊と並んで酒場の厨房で手習いの真似事するのも、そう悪くはない。

 とまれかくまれ、目下の面倒事をまずは片付けよう。

 黒服の荷物、装備、懐や衣嚢を隅々まで漁る。ありふれた探窟用品に雑じって、腕にはやはり発条(バネ)仕掛けの仕込み直剣。他にも靴底の爪先には短刀。上着の裏地には鉄針。毒の薬瓶も幾らかあった。

 絵に描いたような暗殺者の装い。いやそんな図柄を好んで選ぶ絵描きがいるのかは知らんが。

 身元の特定に繋がるようなものは、やはり、何も……。

 

「!」

「なんだそりゃ。地図、か?」

 

 気を利かせてハボルグが石灯を点す。折り畳まれた抄造紙(しょうぞうし)。その言の通り、拡げた紙面には地図、と思しい画が描かれていた。うねるように引かれた幾重もの線は等高線だろうか。図面上には円の図形が疎らに点在する。円の周辺には赤字で印がされ、各それぞれに数字を打ってある。

 正直言って己にはその画の意味が皆目わからなかった。オースの地形図でないことは辛うじて見て取れるが。

 名称や文章を敢えて書き加えず、内容を不明瞭にするのはこうして盗み見られた時の予防策なのだろう。

 

「こいつは」

「ハボルグ、これ四層だ」

「やっぱりそうか」

「あん?」

 

 ジルオとハボルグが肯き合う。

 

「ラーミナ、これアビスの地図だ。それも四層『巨人の盃』の根元、ダイラカズラの群生地」

「ダイラカズラ?」

「バカでかいキノコを想像するといい。樹齢二千年、全長800メートル越えの植物の束だ。この丸……おそらくその支柱の位置だな」

「地形がこう盛り上がって、こっち側に傾斜してる。あ、こっちは支柱じゃなくて酸の水溜まりだ。てことは中心はこっちだから……たぶん南東部」

「ほう……」

「ジルオお前、よくわかるな。ここの地形は変わり易すぎるんで黒笛でも口伝と勘頼りだぞ?」

「最新の電報記録書に載ってたのをたまたま見ただけ。捕食器が倒木したらまた歪む。大して意味ないよ」

 

 誇るでもまして謙遜するでもなく、実にあっさりとした調子で少年は言った。

 ハボルグと顔を見合わせる。将来が楽しみとでも言おうか。頼もしいこと。

 子の有望なるを喜ぶのは後に回すとして、疑問はなお募る。

 

「奈落の深層の地図……そんなものを何故、誘拐人(かどわかし)風情が持ち歩いてやがる」

「……」

 

 背後に視線をやる。

 髭面の大男がなんとも意味ありげな沈黙を発していたからだ。

 ハボルグはほんの一瞬逡巡した様子を見せてから、諦めたように口を開いた。

 

「……こいつは黒笛の部外秘なんだが、今朝不動卿オーゼンがオースを発って深界四層へ向かった。目標は特級遺物『決して切れない糸(スタースレッド)』の回収だ」

「『決して切れない糸』って……でも、あれは組合が保管してる筈じゃ」

「二本目が出た。そう情報提供があった。ベオルスカ政府を通してな。発見したのはセレニの探窟隊だそうだが……」

 

 セレニ。極北に位置する極寒の雪国。鉱石資源の採掘の為に無茶な開拓事業を展開しそれが国庫を圧迫、貧困が蔓延し国内で大量の餓死者を出しているとか。流し見た新聞記事で、同盟国からも随分と痛烈に批判を浴びていた。

 閑話休題。

 貧窮する小国所属の探窟隊が極上の宝物を前にしてそれを他所へ譲る。

 きな臭い。鼻が曲がりそうなほどだ。

 

「ジルオを付け狙うなぁ、てっきりあの娘子を脅し賺す為だとばかり思っていたが……どうやら今少し遠大な悪巧みがあったらしい」

「!? 狙いはライザじゃなくオーゼンか!」

「凶暴な雌獅子を抑え付けるってぇ目的は変わらんのだろうが、延いては不動卿を孤立させることこそ主眼と見るべきだな」

 

 首謀共の目的が不動卿オーゼンを罠に嵌めることであったとして、地上の酒場で破落戸を飼っていたこやつらはさしずめ後詰といったところか。

 ジルオの拉致により殲滅卿ライザの動きを封殺する。配された役割が果たしてそれだけなのか……それだけとも、思えぬが。

 

「肝心のライザは何処にいる」

「近々予定されてる国賓との会談の為に本国へ出向いてる」

「こくひっ、会談だぁ? あの娘がか?」

「……あれでも白笛だぞ。国家の切り札であり、英雄だ。公の場に駆り出されるのはなにも珍しいことじゃない」

「にしたとて正気じゃあねぇな」

「言うな。俺だってそう思うけどよ」

「うん……」

 

 ハボルグもジルオも明言は避け、ただ目を逸らした。

 この場合憐れむべきはライザではなく、その相手をさせられる国のお偉方だろう。

 だがこれで敵方の“戦力の分散”という目論見はまんまと成功してしまった訳だ。

 紙面に目を落とす。無味乾燥にただ並べ置かれた図形達が、今はひどく悪辣なものに見えてくる。

 

「罠の配置図……そう都合のいい代物かねぇ」

「待ち伏せする戦闘要員の配置かもしれん。固定砲台、毒煙、もしくはそうだな……爆弾なんて線もありそうだ」

「そいつぁまた、たかが人間一人にえらい気合の入り様だな」

「不動卿オーゼンを敵に回すならその程度は絶対に必要だ。持ち込んでいない筈がねぇ」

 

 ハボルグはにこりともせず言い切った。

 

「オーゼンが早々やられるとは思わねぇが……こいつらは組合に持ち帰る。こりゃ対人戦闘の隊を編成しねぇとならねぇか。急いで後を追わねぇと……」

「ジルオ、地上から四層へはどの程度かかる?」

「えっ? う、うーん……黒笛だと早くて三週間くらい。慎重な隊なら一月以上掛けて下りるらしい、けど」

「白笛ならばどうだ」

「……一週間で十分だ、ってライザさんは言ってた……」

「そうかい。となると、今すぐ発った方がよさそうだな」

 

 立ち上がって、少年が見繕ってくれた大荷物に手を掛ける。片道一週間の旅程ともなれば流石にこれは必要だ。

 そんな己の肩を大きな手が掴んだ。

 

「……お前、どうする気だ」

「先刻言ったろうよ。潰すのさ。この蟲ケラ共を」

「一人で行こうってのか!? 深界四層だぞ」

「大人数引き連れての鈍足ではそれこそ、お前さんの言う通り手遅れになるぜ」

「無茶だって言ってんだ素人のガキが!」

「かかっ、違ぇねぇ」

 

 真っ直ぐすぎる正論に思わず失笑する。

 ハボルグ、屈託のない男だ。無茶無謀を働こうとしている子供を制止する、実に真っ当な大人の対応ではないか。

 しかし生憎とこの身は正常(まっとう)ではない。

 無法と無頼が伴の、貧民窟の下賤な糞ガキなのだ。

 後ろ腰に括り付けた刀の柄に触れる。武器、兇器、斬る為の、壊す為の、殺す為の刃。これを振り回すしか能のない男。救い様のない異物。

 

「……お前、オーゼンに義理立てする理由でもあんのか。なんでそこまで……」

「ねぇよ。だが四層には用がある。ダチ公に厄介な頼み事されちまってな。あとはぁ、そうさな」

 

 首に提げっぱなしの黒笛を爪弾いて、笑う。

 

「気に食わねぇのさ」

 

 奈落も、好き好んで奈落へ身を投げる探窟家という者共も、憧れに魂を焼かれた彼ら彼女ら。救えぬ。愚かしい。命を使い潰して、憧れの供物に捧げる狂人が。

 気に入らねぇ。ウィロー、あの大馬鹿野郎め。床で往生できたものを。看取らせもせず、一人で逝きやがって。白笛だ? ライザもオーゼンも大馬鹿の筆頭よ。何が切り札だ。英雄だ。

 だが、それ以上に、そんな狂った者共より、もっと気に食わねぇのは。

 

「他人の憧れにケチをつけやがる。腐った欲望でそれを穢しやがる」

 

 この蟲ケラ共が────この、己が。

 どうにも、気に食わねぇ。

 

「行ってくるぜ、ジルオ」

「ラーミナ……」

 

 揺れる青い瞳を見下ろす。白銀の髪を撫でる。

 この幼い少年もまた、いずれは憧れに進み出、挑み、そして。

 ならば、せめて。

 この子の行く末に不要なものは斬り捨てておこう。

 ただ、そう思った。理由などそれだけでいい。

 兇人(まがきもの)にそれ以上は無用だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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17話 肉色の地獄にて

 

 

 

 不動卿麾下探窟隊“地臥せり(ハイドギヴァー)”。

 少数精鋭の利。深界四層へ到達したのは地上を発ってから早七日目のことだった。

 彼らに油断はなかった。

 人間の悪意ほどけたたましく喧しいものはない。

 待ち伏せなどあれば、界層を同じくした段階で即座に気取ることができたろう。

 人が仕掛けた無機的な器械罠であれば、百戦錬磨の洞察眼がそれを見抜いたろう。

 油断はなかった。

 獣のような警戒心で、地臥せりは目的地へにじり寄った。

 

 ────空が燃えている。

 

 耳から脳を揺さぶるような爆音。それはありふれた化学的に調合された爆薬であり、爆発物だった。

 鉱物資源の採掘に用いられる発破。同様のものはオースにも流通しているだろう。

 狂っていたのはその量。

 刹那、圧倒的な質量の爆轟は、大穴を塞ぐほどに膨れ上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 饐えた臭いが鼻腔を満たしている。それは大気に充満している。

 臭気。湿気。長居すれば衣服どころか皮膚すら腐らせ、蝕む。捕食器を満たしていた酸が辺り一帯に流れ出したのだ。

 呼吸すら油断を許されない世界。深界とは常々そういう場所だった。

 安易に生命の存続を許さない。痛みを甘受し、死を覚悟してもなお足りない。

 

「イェルメ!? この糞野郎! 返事しろ! 死んだのか!? おい!! ザポ爺は!?」

「き、聞こえとるわ。破片は、抜くな。出血で死ぬ、ぞ……ぐ、ぅ……!」

 

 極限の世界。ゆえに、純一。

 そういうところで生きた。そういうところでしか生きられなかった。

 ろくでなし。ここに居るのはそんなものばかり。地上で安穏と、真っ当な人がましく生きられない。度し難い愚か者共。

 それで丁度いい。それで、いい。よかった。

 瘴気に混じって血の香が匂い立つ。イェルメの腹を鋭利な石塊が深々貫いている。おそらく臓器を射貫かれたのだろう。処置をしなければすぐ死ぬだろう。

 苦悶の声を漏らして身動ぎする気配。老い耄れのザポか。地臥せり随一の健脚にして軽業師裸足の体術達者。大人二人を抱えて致命傷を避け()()()()を生き延びているのだから、強かな爺だ。

 無傷と言えるのはシムレドだけのようだ。悪運の強さこそは探窟家に最も必要な才覚である。その悪運を以て、怪我人二人を引き摺ってこの場を切り抜ける程度やってもらう。

 

「イェルメは儂が背負う……えぇい光で目をやられた。見えん。シムレド、先導せい」

「わかった! オーゼンさん! オーゼンさんどこだ!? 不動卿!」

「うるさいよ」

 

 己が隊員共の慌てふためく様をもう少し嗤っていたかったが、執拗に呼び立てる声に仕方なく応えてやる。

 一声発するだけで、筋骨が軋んだ。

 

「なッ……オーゼンさん」

 

 ()()がまた一段、重みを増したような気がする。あるいは気の所為か。この肉体が、主の蛮行に耐えかねて怠慢を始めたからか。

 先刻倒壊したダイラカズラは、記憶が正しければ樹齢二千年級。その幹を為す植物群を含めて四本。頭上に圧しかかる覆いの重量も、その程度の手応えがある。

 両脚が地面を抉る。沈む。

 天井が傾ぐ。筋繊維の千切れる音を聞く。

 

「ッッ!!」

「オーゼンさん無茶だ!」

「うるさいって言ってんのが聞こえないのかい。目が開いてるなら、そっちの役立たず二人を連れてとっとと失せな。邪魔、だよ」

「……糞が、糞。あぁ糞。あの野郎共殺してやる。殺してやりてぇ。ぶっ殺す。生きて帰って必ず殺す……」

 

 剣呑に殺意を繰り返し口にしながらシムレドはイェルメを背負ったザポ爺を支える。瓦礫の隙間を掻き分け、掘り返し、徐々に足音は遠ざかっていく。狭苦しく仄暗い。天地が極小の狭間だけになった空間。

 不意にその向こうから。

 

「オーゼンさん! あいつらの首、残しといてくださいよ! 俺も殺してぇんだから!」

 

 昼行燈気取りのシムレド。その実、地臥せりの中で最も血の気が多い男だった。拾った当初などは、他の探窟隊を相手に刃傷沙汰を幾度となく繰り返す無頼漢だった。

 そんな男が、餓狼のような殺意を曲げてすごすごと引き下がっていった。

 変われば変わるものだ。それが少し、面白い。

 いや、変わったのは己も同じか。

 状況によっては仲間だろうが身内だろうが見捨てて行く。深界探窟はその連続、石積みのように命を踏み台として、それでも行く。往くことこそが。

 ずっとそうしてきた。それがここでの秩序(ルール)だ。そうでなければこの齢まで生きてはおられなかった。

 それが今やどうだ。

 己を犠牲にして他を生かそうとしている。己を礎として誰かを救おうとしている。

 

「くくくっ、自己犠牲だってぇ?」

 

 笑う。笑わせてくれる。

 そんな筈があるか。そんなつもりは毛頭ない。

 罠と承知でここへ来た。

 純一なこの世界を穢す不届き者共を捻り潰す為にここへ来た。

 死ぬつもりなど、ない。

 この不動卿オーゼンは。

 

「殺しに来たんだよ」

 

 一歩、踏み込む。それはまさしく大地を揺るがす震脚。

 足底と地面に生じたその僅かな反動を、この肉体の全力を、身体80ヶ所に埋め込んだ千人楔が増幅する。

 

「■■■■■■ッッ……!」

 

 人ならぬ獣の咆哮を上げて、覆す。傾けられた巨人の盃を無礼千万に裏返す。

 力場の光を遮っていた天井が跳ね上がり、久方の光明が我が身を照らす。

 縦穴が揺れる。震撼する。跳ね飛んだ巨大な植物群の支柱が地面を抉り壁面を穿つ。地形が変わり始めていた。

 アビスの胃袋を盛大に掻き回したのだ。いずれ縄張り意識の強い原生生物共は怒り狂って元凶を除きに来るだろう。

 一旦はこの場から退かねばならない。

 だが、肉体は自在性というものから程遠かった。血と骨の代わりに砂と鉛を詰めたかのように、身体が重い。

 筋はどれだけ破断した。骨はどれほど歪み罅割れたか。

 楔が、やはりまだ足りぬ。80本では肉体強度という限界に縛られる。帰ったらまた競売を覗かなくては。

 

「……」

 

 近付いてくる。気配。それは足音であり、息遣いであり、衣擦れであった。

 お出まし、という訳だ。

 ダイラカズラに戦術級量の爆弾を、地臥せり全員の目を欺き、如何にしてか巧妙に仕掛けてみせた輩だ。少し興味がある。

 どんな面をして、どんな科白の吐くやら。

 ひたひたと歩み寄って来る。集団。軍勢。砂塵と靄の煙る大気の向こうから、それらは来た。

 

「あぁ?」

 

 それは、それらは一様に、人の形をしていなかった。

 

 アァァァアアアァアァア

 ニィ、ブフゥゥウ

 ギャヒヒ、ゲヒヒヒヒヒ

 

 軍勢ではない。戦闘を目的として編成される部隊の集合体をそう呼ぶのなら、それらは違う。決して違う。

 群だ。

 ある者は、皮膚が爛れ、骨が覗いていた。片足はなく、金属の棒が義足のように突き出ていた。

 ある者は、あらゆる部分が肥大していた。増大していた。肉は肥え、血とも脂ともつかない液体で膨れ、どうしてか手足が一本ずつ余計に生えていた。

 謂わば動く死体。

 片や、人型に異物が混じった者も多い。

 鳥のような翼、蝙蝠のような翼膜を身体随所に生やしたモノ。

 獣のような顎、牙、爪、体毛を備えたモノ。

 人の身体から、蠕虫が無数に這いずり出しているモノ。

 

「ぷっ、ふふふ、くっふふはははははっ、なんだいこれは」

 

 煮崩れた生物の、人であったものの成れの果て。そうまさにこれこそ成れ果てだ。

 深界五層は未だ遠い。四層の半ばに過ぎないこの場所に、何故。

 正体は不明だが、わかったことも一つ。

 

「なるほどねぇ、道理で気配が読めない筈だ」

 

 それら人と獣と蟲の混合物達は、いずれもまるで深界生物のような気配を放っている。

 深界(ここ)に在って当たり前とばかりの違和感の無さ。

 深界にはない異物を第一に警戒していたことも災いした。

 

「こいつは私の手落ちかねぇ……ふふふ、死に損だねイェルメ」

 

 いや、まだ死んじゃいないのだったか。

 パッチワークめいた合成生物は刻一刻と数を増して、今や見渡す限り百匹を下らない。何処に隠れていたのやら。

 背後から来る。

 

「クケケケケケケケケケケケケ」

「……」

 

 やや身動ぎするようにして、裏拳を叩き込む。

 トカゲのような肌質と色をしたそれは、頬を打たれ、その頭だけが吹き飛んだ。存外に脆い。

 まだ。

 

「いだぁいよぉぉぉおおぉぉおぉぉお」

 

 既に足下に、人間の頭を挿げられた蠕虫が、蛇のような速度で噛み付いてくる。

 その鼻面を踏み付けた。割れ、破ける。水風船と同様の呆気なさ。

 踏み心地は最悪で────

 

「!?」

 

 爆ぜる。大蛇のような体躯が膨れ上がり、それは光と熱量へ。

 至近距離の爆風が全身を焼いた。しかし、装甲越し、顔面の防御姿勢も間に合った。

 傷は何程のことも。

 がちりとそれは巻き付いた。細いワイヤーのような感触だ。まったく、意表外の強さ、強靭(つよ)さで。

 振り解こうと藻掻き、気付く。それが叶わぬことを知る。

 己の膂力で千切れない。そんな物体。

 知らず口端が引き上がっていた。

 

「『決して切れない糸(スタースレッド)』か」

 

 やや微光を放つ、まさに糸と呼ぶに相応しい細さの、材質不明の紐。

 その引張強度は未知数だと言われる。破断できるだけの工具も物体も未だに発見されないからだ。

 片腕を顔の位置に持ち上げた姿勢で、糸は己の身体を取り巻いた。留め具と思しい鉤爪は、己の腹に突き刺さっていた。こんなもの肉を抉れば容易く抜けられる。

 しかし、数秒。いやさ一秒。僅かな間隙、足が、止まる。

 化物(けもの)達はそれを見過ごさなかった。

 瀑布のように異形が襲い来る。

 重石同然の身体、それを転じて、蹴り上げ。

 鳥擬きを蹴散らす。甲虫のような胸骨を蹴り割る。獣の(アギト)に拳を突き入れ、喉奥を貫徹する。

 その時、眼前で、それら全てが爆ぜた。

 先刻同様の発破。

 また一つ得心する。

 そうか。この深界生物擬き共の中に爆薬を仕込んで、我らの目を欺いたのか。

 

「……」

 

 蹈鞴を踏み、留まる。倒れては食い散らかされる。それは業腹だ。

 喰い殺すのはこちらの役。

 血が滂沱した。全身から。

 (やじり)が仕込まれていたらしい。右肩の肉がごっそりと殺げていた。

 糸を弾き飛ばし、左腕の自由を取り戻す。後背に跳び掛かって来た屍のような人型を殴り飛ばす。頭だけが遠く空中を貫通し、ダイラカズラの樹皮に赤い花を咲かせた。

 血が滴る。

 視界が歪み、霞む。

 身体が重みを増す。

 五感が遠ざかっていく。

 何匹を潰し、屠っただろう。時折それらは爆ぜ、こちらの肉を殺いでいった。

 そろそろだろうか。もうすぐだろうか。

 殴る。蹴り、砕く。

 

「……ふ、このあたりかねぇ」

 

 まったくつまらない死に方だ。

 利権だの国家の面子だの人間同士のくっっだらない諍い、そんなものの為に、なにをやっているんだか。

 まあ、特級遺物はこの手にある。こいつを奪い取れただけ、まだいいか。

 しかし一つ、心残りがあるとすれば。

 ライザ、あの娘とのくだらない賭け。その結果くらいは見ておきたかったが。

 まあ、いいさ。

 

「くふふ、度し難い」

 

 無数の鎌、鋭い刃が突き出た四本腕。蟷螂のような姿だ。悍ましい蟲と人の混ざりモノを頭上に仰いで、吐息する。

 

「度し難いねぇ……」

 

 刃が閃き、斬り裂く。

 ────蟷螂の首が落ちる。

 

「奈落の底は神秘の坩堝。そう聞いていたんだが、こりゃどうしたこった。まるきり地獄の釜の底じゃあねぇか」

 

 刃。一振りの片刃の剣を携えて、一人。

 その少年……その男は、己の眼前に立った。

 さらに一合、二合、異形の首を一刀のもとに斬り飛ばす。血飛沫一滴浴びることなく、化物の群に一筋、空隙を切り裂いて。

 

「あぁ~あ、やっぱし来るんじゃあなかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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18話 屍山血河

 

 

 

 血と肉の焼ける臭い。それは近く、あの塵溜めの奥地で嗅いだ。老爺を送った日、もはや鼻腔に、記憶に染み着いた死臭であった。

 しかし今それを発するのは死人ではない。生きた人間だ。全身から血を滴らせ、黒衣をなお一層暗く染める長身痩躯の、女。

 不動卿と呼ばわれ、畏れられる。英傑白笛、名をオーゼン。

 叙事詩に謳われる華麗な偉姿そこになく、ただ凄絶なる闘争者の歩むべき鬼道、その末路に女は在った。

 全身からの出血。身長と肉付き、体重を考慮に入れてもおそらく致死量は近い。

 装甲に鎧われた身体の負傷は一見にはわからぬが、裂傷、打撲は無数、手足の骨折も複数個所あると観る。右肩は特に酷い。肉が殺げ、焦げ付き、柘榴のような肉の合間から骨が覗いている。

 死に体。そう表して妥当な有り様。

 であるにもかかわらず、女はこの一瞬前まで、敵を屠り続けていた。半歩先に待ち受ける死を理解しながら、無視するでも諦めるでもなく、それを確と見定めて、戦い続けた。

 その様に、物思わずには居れなんだ。狂人なりの、兇人なりの────。

 くだらない。

 

「気に入らねぇ」

 

 命を起爆剤を叩くように一瞬にして散らす馬鹿者。そのただ一瞬の炸裂に全身全霊を投じる愚か者。

 蛮行の極みを働くその女に、俺は畏敬など覚えている。

 

「……だが、もっと気に食わねぇのは」

 

 己とオーゼンを取り囲む異形共。

 獣か蟲を人体に無理矢理縒り合わせたような怪物、腐り始めた屍のように無惨な肉塊。そういう、この世ならざるモノ達。

 否、これを、こんなものを遣わせた者共こそが。

 気に食わぬ。ひどく、この腑を煮立たせる。

 国家の陰謀だかなんだか知らぬ。知ったことではない。ただただ無粋極まる。

 

「気に食わない、ねぇ……まさかとは思うがお前さん、それだけの理由で深界(ここ)へ降りて来たってのかい」

「まさかよ。俺ぁただ墓を拵えに来ただけだ」

「墓?」

「お前さんと同じ、大馬鹿野郎のダチ公よ」

 

 屍めいた大柄の影に向き合う。腹肉が不定形に歪み、内側から鋭く肋骨が飛び出した。開閉するそれでこちらを咬もうというのだ。

 がちり、宙を噛み潰すそれの横合いを摺り抜け、通り過ぎ様首を刈り取る。

 

「墓前を浄めるついでに己ら全員撫で斬るぞ。恨み言は奈落へ置いてゆけ」

 

 また屍が一体、のっそりと来る。片腕の骨肉が瘤状に異常な肥大をしていた。それを巨大な槌のように打ち込む。

 正対して跳び越す。肉の槌を踏み付け、下段に向いた刀身で肩を斬り、断つ。

 その背後に佇んでいた犬面の人型の首を勢い落とす。転身して腕を失くした屍を断首する。傍らに踊り掛かって来た、手足に顎と牙を持った異形を、その手足と首それぞれに裁断する。

 

「!」

 

 後ろを顧みる。

 オーゼンの周囲を異形の群が取り巻こうとしていた。

 黒衣の直近。ガマガエルを思わせる滑りを帯びた皮膚、なにより太い後ろ足が、不気味な瞬発力でオーゼンに飛び掛かった。

 無造作な左拳がカエルを軽々と打ち払う。

 そして追随してきたさらに一匹へと向き合う為に身を捩る。

 

「ちぃっ……」

 

 だが女は、そのもう一歩が踏めぬ。かの者はあまりにも血を失い過ぎている。

 ヤマアラシの如く針を群生した人型の肉塊が迫る。

 追い付いた。

 横合いから喉を射貫き、その場に引き倒す。

 

「止まるんじゃあない……!」

「なに」

 

 肉塊が、膨れ上がる。光。熱気。焦げつく血の香。

 脳は実に緩慢な感覚受容に勤しんでいる。使い物にならぬ。

 ゆえに身体は、脳を経ず、反応反射した。危機に相対して不要な工程を排し、最短最善の回避行動を取る。

 外套を翻す。己ではなく、肉塊を覆う。

 爆散。

 針が布地を突き破り、しかして止まる。防刃の繊維に帷子を縫い込まれた外套である。ジルオの助言を汲んで買い求めたが、その重さと鬱陶しさに見合うだけの強度はあった。

 外套が覆い切れず、散逸した針を斬り弾き落としながらに評する。

 着弾なし。背後に庇ったオーゼンにしてもそれらは届かなかった。むしろ集り始めていた周りの異形達をこそその針と爆風は吹き払ってくれた。

 

「ケッ、悪趣味な上に悪辣な」

「…………」

「? なんだ」

「……呆れてものが言えないのさ」

「あぁん?」

 

 鍔広の笠の下から、その言の通りの呆れ顔がこちらを見ていた。以前のライザを交えた折に垣間見たものより、それは随分人がましい。

 不意に、影。羆を思わせる巨躯が頭上を覆う。

 体中を針に貫かれ、血飛沫を撒きながらにそれでも、襲い来る。

 

「首だ。首を落としな」

 

 その言に従う。静かながら確信の篭った声音に。

 羆の手には当然とばかりに、短刀ほどもあろう鋭い爪が生え揃っている。

 振り下ろされた前足を掻い潜り、横一閃。太い首がごろりと酸の水溜まりに転がった。

 そのまま骸が倒れ伏す。爆発、せず。

 

「ふぅん、首と胴が繋がったものだけが爆ぜる。そういう仕組みのようだねぇ。となれば、なるほど」

「悠長に得心しとる、場合か!」

 

 顎に手を添えて女は頷く。

 その横合いに跳び掛かって来た蟲の相の子と獣の相の子をそれぞれ斬る。防御姿勢など取らず、無防備に喉を晒すこれらから首級を刈るのは思いの外容易い。しかし、だからとて息つく暇はなかった。

 

「フフフ、先刻お前さんが言ったことだろう。全員撫で斬る。私は安心して思索に耽られるってもんさ」

「抜かせ。置き捨ててやってもよいのだぞ」

「おやおや、怪我をして弱り果てた乙女を見捨てていくってのかい。大言のわりに薄情な男だ。がっかりだねぇ」

「姥捨て山としちゃここは上等だぜ。景色もいい」

「殴られたいのかい」

 

 言いながらオーゼンは事も無げに、猛牛のように四つ足で突進してきた異形、牛に匹敵するその巨躯を正面から殴り飛ばした。

 100メートル近く距離を隔てて、地面を転がったそれが爆散した。

 只人があれを食らえば粉になるだろう。無論、拳の方をだ。まったくぞっとしない。

 異形、異形、異形、悪夢の如き肉色の地獄。

 肉を斬る。骨を断つ。首を落としていく。もとは人であったのだろう。善人であったかもしれぬ。悪人であったのやもしれぬ。それら全て、分け隔てなく、何程の区別なく、斬り捨てていく。

 

「……」

 

 不意に、オーゼンが笠を取った。女は実に、不可思議な色と形の髪をしていた。白と黒が対照を為して綺麗に入り交じり、両の側頭部で歪曲する様はまるで角のようだ。

 鍔の末端の金具の輪になにやら糸を通している。

 だらりと吊り下げたその平な笠を。次の瞬間、ぐるりと頭上で回す。

 ぐるり、ぐるりぐるりぐるり。竜巻のように風を、大気を切り裂き、逆巻く。

 

「伏せな」

「!」

 

 身体は稼働する。言われるまでもなかった。

 危機感という警告が、電光となって脊髄を駆け抜けたのだ。

 頭上を笠が、糸が過る。恐ろしい風切り音。そして現実にそれは切り裂いた。

 周囲一帯、十歩の間合に存在した異形共の首を、笠の鍔、なにより糸が。即席の裁断機と成って。

 

「ふむ、結構いけるじゃないか」

「この(アマ)! 危ねぇだろうが」

「あれくらい避けられるだろう。隙がでかいから使うつもりはなかったんだが、クククッ、なかなかにいい囮役がいるからさァ。つい」

「嫌な女だ、てめぇは」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「言ってろ」

 

 減じた数だけ異形は増える。

 それこそ無限、そんな感慨を抱くほど。

 あまりの大儀さにうんざりとした心持にさせられる。だが、妙な話だが。

 

「左をやれ。くれぐれも右側にそれを投げてくるんじゃねぇぞ」

「偉そうに命令すんじゃないよ。お前さんこそ気を付けな。斬り漏らしがあったら、諸共(ごと)薙ぐよ」

「ケッ」

「ククッ」

 

 負ける気はしなかった。微塵と。

 四層下部、ダイラカズラの根元。

 縦穴から五層の淵へ零れ落ちるほどに広大な大量の酸の池は。

 その日、夥しい血の紅に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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19話 後始末

 

 

 

 

 計画は失敗した。完膚なきまでに失敗した。

 血染めの溜め池に佇立する二つの人影を見やればその現実は瞭然にして動かし難い。忌まわしく、悍ましいあの“素体”と呼ばれる異形の群を差し向け、特級遺物たる『決して切れない糸』を不意打ちの捨て石に使ってなお殺し切れぬ。

 おそろしい。

 白笛の生命力、生存能力を侮った。

 あるいは、不動卿“動かざるオーゼン”を相手に、よくぞ健闘したなどと。まさか、そのような戯言は宣えまい。

 半端に手傷を負わせてしまったという意味では、何もしないより遥かに悪い。考え得る限り最悪の始末。

 地上の班と合流し、新たに方針を定める必要がある。

 例の子供の奪取が成功したなら、計画続行の目はある。

 白笛は増え過ぎた。いや増長し過ぎたのだ。たかだか穴蔵から宝物を持ち帰るだけのスカベンジャー風情が英雄だの鉄人だのと国の最重要人物として重宝がられ尊ばれ信奉される。この世は間違っている。アビスなど地球上に数多存在する自然物のただの一つに過ぎない。資源は分配され遺物は国益に用いられるべきもの。個人が所有しあまつさえその私的欲求や権力を高める為に私用するなどあってはならない。

 我が国にこそ、アビスの利潤は遣わされるべきだった────と。

 少なくとも幾つかの国々の高官や一部統治者は、()()()そう考えている。

 が、末端の“作業者”に過ぎない彼ないし彼女および自己の行動目的は、必ずしもそうした国益主義、愛国心、大義に当て嵌まらない。

 これも仕事だ。

 現階層における戦闘を含めたあらゆる記録は、既に技術提供元へ送信された。

 もとより作業者一名に監視の“眼”を移植することを含めた契約である。あの悪魔のような男はとうに全てを見届けた後だろうが。

 最低限の仕事は済んだといえる。

 ゆえに。

 

「よう」

 

 つい一瞬前、スコープの望遠越しに見ていた筈の姿。

 ダイラカズラの根元で異形の殺戮劇を繰り広げていたその一人が。

 そこに在る。立っている。

 男は自身の耳や鼻、眼窩から血を滴らせ、口中のそれをその場に吐き捨てる。

 

「こいつが上昇負荷か……まったく忌々しい。こんなものを身に受けてさえ、探窟家(あやつ)らは奈落が恋しくて仕方ないんだとよ」

 

 刃が閃く。夥しい骨肉を斬り断ち、溢れ出た血と脂に塗れた筈の片刃の刀身はしかし、水の玉を弾かんばかりに曇りなく鋭い。

 その切れ味、寸毫も失われてはおるまい。

 監視役として留まった我々十三名を一人残らず斬り裂ける。不足はない。

 此度、本計画における最大にして最悪の誤算。この少年……この青年は、何物も斬らずには置くまい。

 手の底を押し出すように留め具を解除し、袖口から直剣を出現させる。その刃のなんと、儚いことか。こんなものをいくら振り回したところで一体なんの役に立とうか。

 何故なら今この時、血みどろの、あたかも屍のような様を晒す青年が、この場の生殺与奪の全てを握っているのだから。

 

「やられたら徹底的にやり返す。こいつぁ探窟家共の流儀だそうだ。そちらはどうだい。覚悟はよいか?」

「……覚悟など、今更問われるまでもない」

 

 戯れに応えば、青年は笑った。それはひどく軽やかで、あるいは親しげでさえあった。

 剣尖を構え、一斉に襲い掛かる。ただ一人。我が子より年若い青年を、殺す為に。

 

 

 

 

 

 暖かな血の海に身を沈め、安らかな闇が魂を覆う。

 その今際の際、作業者の男の耳孔に響く。

 

「見事」

 

 餞の言葉に送られ、十三の魂は奈落へ還った。

 

 

 

 

 

 

 腰部に装着したリールを操作してゆっくりとワイヤーを伸ばす。滑落亭で捕えた下手人からまんまと盗み、もとい拝借した装備だった。いずれ返却するとしよう。覚えていたなら。

 ダイラカズラの天辺から地上まで見当で5、600メートル。

 よくもまあこの高さを()()()()ものだと呆れ返る。

 すっかり赤黒く染まった酸の水溜まりを歩きながら、鼻の穴を片側ずつ吹く。すると出るわ出るわ、同じほどに赤い洟がどぱどぱと。

 血涙は水で洗い流さねばどうにもならぬ。視界の四割方はほぼ塞がっていた。先の斬り合い、勝ちを拾えたのは岸壁街での経験に依るところが大きい。陽光に乏しく、年中暗闇に閉ざされた貧民窟では、否が応にも目に頼らぬ立ち回りを要する。有り難がる筋合いもないが。

 下穿きに滲む血尿。汗腺からも僅かだが脂っぽい血が沁み出ている。

 失血による生命の危機より、今はこの不快感の方が余程気掛かりだ。

 

「今日ほど風呂が恋しい日はねぇや……」

「大の男が、胆の小さいことお言いでないよ」

「粗暴に振る舞うにも限度ってもんがあらぁ」

「放っておけばいずれ乾くだろ。多少気触(かぶ)れりゃ皮の方から丈夫になる」

 

 死骸に腰を下ろした女は鰾膠(にべ)もなく宣った。

 己に負けず劣らず血塗れの癖に、剛胆というよりそれはそれは無頓着に。

 

「誰の所為だと思っていやがる。呪いでどうなるかてめぇ様はとっくにご存知だったんだろうが。だってぇのに容赦なくぶん投げやがって」

「逃したところで益のない相手だ。たとえ捕まえても、拷問(せめどい)する手間に見合う情報を持っているかどうか。腹癒せに虐め殺すくらいが精々の使い途さ。フフフ、その権利を譲ってもらえただけ有り難く思いな」

「お前さんほど性根がひねてりゃ嬉しくて涙くれぇ出たかもな」

「口の減らない男だね」

 

 口の減らない女は、言うや皮肉げに口端を引き上げた。逆月が叢雲からぬっと現れるかの恐ろしげな笑み。

 当人には格別対手を脅かすような意図はないようだ。むしろ気色を鑑みるに機嫌は良いらしい。言動は一々悪態に事欠かんが。

 血腥い息を鼻から吐く。早くも固まり始めた血の滓を耳から穿り出す。

 そうして耳孔に響く。それは低くくぐもった吠声。獣の唸り。

 まだ遠い。地形の劣悪さを差し引いて、四つ足の早駆けでも20分といったところ。

 

「……減らず口を叩くにしても場所が悪いな。とっとと行くぞ」

「あぁ……っ」

 

 緩慢に応えを寄越したかと思えば、オーゼンは半歩を踏まずして(くずお)れた。

 血染めの池に手を突いたきり立ち上がることさえできないでいる。

 

「……まったく、齢は取りたくないもんだ。この、程度で」

 

 水の溜まりに滴るは、死骸のそれではなくオーゼン自身から流れ出た血潮。傷口もろくろく塞がず動けという方が無茶な話だ。

 だが、こんな平地の真ん中でのんびり治療などしていてはそれこそ深界生物共の餌食である。

 如何にしても、この場を離れねばならぬ。

 蹲る長身痩躯に近寄り、その手元に屈む。

 

「肩を使え」

「……」

 

 逡巡と呼ぶほどの迷いもなく、オーゼンはこちらの進言に従った。

 足取りは鈍い。肩に掛かる負荷はそっくりその肉体の損傷の重みを表している。

 

「急ぐな。獣はまず死骸に寄っていく。あるいはこちらを追ってくるものがあったとして、相手をするのは俺だ」

「……ククッ、お優しいことで」

「敬老の精神は日頃から培ってきたんでな、ぃでででででで」

 

 右肩がみしみしと軋む。

 

「使い勝手の悪い杖だよ、まったく」

 

 

 

 

 

 

 

 



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20話 喧しい休息

 

 

 オーゼン曰く、呪いによる負荷は大穴の中心に寄るほど強く、穴から遠ざかるほどに緩くなる。

 奈落の底で身の安全を確保するなら、何を置いてもまず外側を目指せ、と。

 その教訓は、理屈はどうあれ腑に落ちる。生命の危機に陥った人間の心情としては、逃避を選択できるに越したことはないのだ。

 四層下部、ダイラカズラの群生林を地を這うように進む。今ばかりは虫ケラの如く慎ましやかに。深界の王者、原生のケダモノ共の歯牙を躱し、逃れねばならない。

 肩口から荒い息遣いが降ってくる。むしろこの重創(ふかで)にしてよくぞ歩けるものだと、驚嘆を覚えるほどだ。

 白笛。

 超人の異名は伊達ではない。

 だが、如何な常人離れした生命力を以てしても、限界はある。

 あとどれほどだ。この者はあと、どれほど歩き続けていられる。

 

「……上背が」

「?」

「もっと、チビだったろう。お前さん」

 

 やにわに女は不明瞭なことを口にした。

 いや、脈絡を追えばなるほど。

 

「男児三日会わざればなんとやら……とでも言えりゃあ自慢にもなるが。気が付いてみりゃ勝手に伸びておったのよ。雨後の筍みてぇに。奈落を下り始めてからはより顕著だな」

「なんだいそりゃ……」

 

 初めて対面した折は、この女の腰まで届かぬほどだった頭頂が今ではその胸の辺りにまで到達していた。

 成長期、の三字で片付けるには少々無理が勝つ。

 

「薄気味の悪い」

「カッカッ、拾われた爺にも同じことを言われた。己自身にしてから己のことはよくわからん」

 

 手足が伸びたことで殺し間、攻撃における有効射程は格段に広がった。

 筋力と骨格の成長に伴い、運剣に乗じる裁断力、斬撃力は飛躍した。

 敏捷、瞬発、耐久、持久、肉体面の強化著しく、延いては戦闘能力の上昇を認む。

 奈落に踏み入るに当たり、殺し合いが避けられぬことは想定していた。こちらが斬り、あるいは斬られ、打たれ撃たれ、殺されることも考慮の内。

 まるでこの状況にあって、その必要に駆られた肉体が所有者の要求に応えたかのような。尋常な生物にはあるまじき()()()でこの肉体は成長────否、変異した。

 

「爺が見付けた時、俺ぁ三つか四つのガキだったらしい。それが半年足らずでこの通りよ」

「まるで人間じゃあないね」

「おうよ。おそらく地上世界の生まれではあるまい。人の胎から産まれたかも定かではない」

「なら、お前さんを産み落としたのは、さしずめ……この大穴」

 

 悍ましき破滅の混沌と凄まじき生命の秩序に蝕まれ彩られた世界。その落胤(おとしご)

 なるほど、そう考えれば何の不思議も有りはしない。

 不意に、引き付けのような暗い笑声が耳朶を打った。オーゼンはニタニタと頬を歪めて己を見下ろす。

 

「ク、ククッ、死に掛けの女に身の上話をするのが、お前さんの口説きの手管なのかい?」

「戯けたことを」

「それとも……まさかだけどさァ。憐れみが降って涌いた、なんて、プッフフフフ、薄ら寒いこと言わないだろうね」

「本当に死ぬ寸前なら幾らでも睦言囁いてやるよ」

「反吐が出るねぇ」

「珍しく意見が合ったな。ならば頼むぜ。倒れてくれるなよ」

「そんな気はっ……毛頭ないよ」

 

 軽口の応酬は、気力の維持に多少役立ったようだ。肩に(もた)れ掛かる重量が増す。その分だけ自重を預けることへの手心、のようなものが消えてなくなった気がする。

 

「まあ」

「ん?」

「少しは、面白みが出てきたよ。貧民窟のガキにも」

「左様で」

 

 

 

 

 

 

 

 

 縦穴を遠ざかるほどに群生するダイラカズラの背丈は低く、天板の面積も小さくなっていく。霧と靄に煙る巨大なキノコ傘を遠景に、岩土の断崖を渡った。カズラの支柱を形成するものとは別種の草木を踏み、次第に木っ端な羽虫や鳥獣の類が散見し始めた。

 湿気が和らいできている。少なくとも、穴の縁からは順調に離れているようだ。

 ふと長い腕がぬっと持ち上がり、指先が前方を差す。岩場の向こうに洞穴が見えた。穴の向こうに目を眇めると、奇妙なことに微かに光が見て取れる。

 

「あそこだ」

 

 反駁する理由もない。飛び石のような足場を越え、洞穴に踏み入った。

 穴の先は緩い下り坂であった。戻りの際に待ち受けるだろう上昇負荷が懸念だが。

 

「ここいらはどうも、他より負荷が緩い。監視基地と同程度ってところかね」

「わかるのか」

「私を誰だと思ってるんだい」

「はっ、なるほど。積んできた年季が違うと」

 

 項を肘が抉った。

 簾のような植物の根を掻き分ける。すると突如、視界が拓けた。匙で刳り貫いたように広大な球形の空間だった。

 地肌一面を覆う緑の苔は、上等な絨毯めいた踏み心地。

 光源もまた苔だった。今し方踏み締めたそれとは違うものだろう。天井や壁の一部に取り付いて、自ずから発光している。

 光は柔らかで暖かだった。心情的にも、物理的にも。

 壁際にオーゼンを下ろす。女は大儀そうに苔の綿敷に身を沈めて、肺腑より深く深く、息を吐く。

 その様を見届けてから、肩に背負っていた荷物を下ろした。

 

「……ところで、その大荷物はなんだい」

「先達て失敬してきたもんだ。敵さんも流石に奈落へ降りるとなると装備も相応だ」

「そう言うあんたは、来た時手ぶらだったろう」

「途中までは担いでたんだが、なんせ強行軍でな。ハボルグ共々逸れちまったのさ」

「ハボルグ……あの男も来てるのかい」

「奈落の何処かにはな」

 

 アビスに対する知識を何一つ持ち合わせていない素人を一人行かせる訳にはいかぬと、当初はハボルグと相棒を組んで奈落へと下った。

 一層、二層までは順調に進んだが、三層、特に大断層の道行が厄介だった。迅速を期し、切り立った断崖絶壁を仔鼠(ネリタンタン)の巣穴伝いに下りたはいいが、大人の体格ではどうあっても通れない箇所がある。悠長に穴を掘り広げる暇はなく、岸壁側から一気に下降してくれよう……と考えたのが拙かった。

 飛翔する原生生物にとっては空中に躍り出た人間など羽虫と同等。

 あれは、その大顎で壁すら齧り取る巨大な翼竜であった。それと追い駆けっこをしている内に、いつしかハボルグの姿を見失った。

 

「まあ、あの奈落馬鹿なら、早々おっ死ぬようなことはなかろ。むしろ、刀一本でこんなところに出向くお前さんの方がよっぽどイカれてるよ」

「ケッ」

 

 無知なる己を見かねたジルオと似たようなことを宣う女に、鼻息を吹いて返す。

 無駄口を叩きながらも急ぎ火を熾す。石で組んだ簡易の竈に途上で拾い集めた薪を並べた。火付けの鉄棒を引っ掻き、火の粉を放つ。ダイラカズラの樹皮の火口は油を含んでいてよく燃えた。

 黒服の集団から掠め取った装備品から、小刀一振りと瓶を一本取り出す。

 

「傷口を」

「……」

 

 口答えもなくオーゼンは笠を取り、装甲付きの外套を脱いだ。しかし、右肩の皮膚には焦げた繊維が焼き付き、それは半ば一体と成っている。無理矢理に剥がせば真皮ごと持っていくだろう。

 火で小刀の刃を炙る。

 

「殺ぎ取るぞ」

「ああ、とっととやりな」

 

 平然と剛胆な女は言った。小胆な男としては、それは頼もしい限りだった。

 繊維と皮膚の合間に切先を差し入れる。肉を残し、繊維だけを()()()()ゆく。それは獲った獣の毛皮を剥ぎ取る作業に似ていた。

 刃は時に、避けようのないほど癒着した皮と肉を切り裂く。しかし、女は呻き声一つ上げない。こんなもの慣れ切った痛みだと言わんばかり。

 

「……」

「よし」

 

 繊維を取り払ったとて、右肩の惨状は然して変わらない。柘榴よりもなお一層鮮やかな肉色、その中央から肩の骨が覗く。

 いや、しかし、よくよく見れば。

 

「……傷口が、閉じてきている……?」

「ククッ、『千人楔』さ」

「楔?」

 

 差し上げた腕を己の眼前に晒す。

 嘗てはただ、しなやかで、嫋やかだったのだろう。指先から前腕、二の腕まで、流麗な形をしたその皮膚には、夥しい数の金属片が埋め込まれていた。等間隔に皮膚と肉を抉る菱形の装飾。

 オーゼンが掌中から親指でそれを弾く。宙で受け取ったものは、女の肉に埋設されたものと同じ。幾重にもかえしが生えた、楔。

 

「右肩に入れてたのが一つ外れた。肉体を強化する遺物だ。それ一つで使用者に千人力を揮わせる。が、私が重宝してるのはどちらかと言えば副次効果の方。いざ怪力を発揮する肉体が簡単に壊れないよう、こいつはまず宿主を頑丈に()()()()()のさ」

「再生するってのか。この状態から」

「時間は掛かるが。多少肉が削れた程度なら問題ない」

「……」

 

 驚くべき治癒力だ。それこそ。

 

「人間じゃない、かぁい?」

 

 己の驚く様を愉しげに見上げて、またぞろニタニタ笑いながら女は小首を傾げた。

 

「クククッ、あんたのお嫌いな探窟家。特に白笛なんてのは大なり小なり皆こういう人でなしのろくでなしなのさ。どうだい、なかなかに、悍ましかろう?」

「いいや、違いなどない」

「あぁ……?」

「己の刀とお前さんのそれと、何の違いも有りはしない。そう言った」

「……」

 

 瓶の蓋を開き、嗅ぐ。具合は良さそうだ。

 了承は特に得ず、中身を女の右肩へ浴びせ掛けた。

 オーゼンは微かに顔を顰めて己を睨んだ。

 

「っ、なにを」

「火酒だ。消毒代わりに浴びておけ」

「必要ないと言ったのがわからないのかい」

「うるせぇな。怪我人は大人しく看病されてりゃいいんだよ」

 

 傷口に当て布を施し、残りの白布を引き裂いて女の右肩に巻き付けていく。

 

「……」

「これでよし」

 

 見映えは悪いが、傷口を外気に晒すより痛みは和らぐだろう。

 露悪な女の暗い笑みは鳴りを潜め、今は平淡な視線が己を見上げている。

 

「さて、携帯食糧では滋養がねぇな。何か狩るか。さすればリクエストはお有りかな、お嬢さん」

「ふん」

「あ、おい」

 

 オーゼンは己の手から酒瓶を引っ手繰り、そのまま呷った。

 喉が鳴り、瓶の水嵩が半分以下に減じる。

 

「ふ……」

「馬鹿野郎。傷に悪ぃぞ」

「まったくだよ。空きっ腹にこんなもの飲ませるんじゃない……血が足りないねぇ。肉だ。肉獲ってきな。四層なら、あぁタケグマだ。背中にキノコを背負った大振りな鼠だよ。なんならツチバシでもいい。それとシャヨウコウベ、黄色く光る草だ。香りがいいのを採りな。付け合わせは、まあ炒った木の実あたりで我慢してあげよう」

 

 女はつらつらずらずらと注文を並べ立てる。ほんの刹那垣間見えたしおらしげな雰囲気も、夢か幻か霞のように雲散霧消し、暗く黒い露悪な笑みが逆月を刻む。

 

「なにぼうっと突っ立ってんだい。とっとと行ってきな」

「へいへい、仰せの儘に」

「当たり前さ」

 

 言うや、女は酒瓶を投げて寄越す。すっかりと調子を取り戻させてしまったらしい。

 後悔と共に瓶を呷った。

 喉は火入れされ、胃の腑には熱が廻る。酒は矢鱈と辛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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21話 帰り支度

 

 

 甘く苦い香りが鼻腔を満たし、喉を抜け舌に滲む。

 岩場を幾重も踏み越えた先。四層上部へ昇った穴の周縁奥地に、その温泉を見付けた。

 アビスの深層は海中に及ぶ。おそらくは海底火山が近しいゆえに湧いて出たのだろう。

 地底湖の様相で、小さな岩屋に張った湯殿。朦々と湯気が立ち込める中、女はその場で躊躇なく装備と装束を脱ぎ捨てた。

 異様に白い肌だった。血色を持たぬ石膏人形のような灰白色。日光を浴びず、奈落に蔓延る力場の光を浴び続けたなら、人はこのように変ずるのか。

 肢体、と呼ばわれるものがそこにある。黒い傷の色味が沈着した長い腕、長い脚は、さながら極限に圧縮された鋼糸の束。贅肉とは無縁の純然たる筋骨が、楔という遺物を喰らい完成した。その膂力は既に目の当たりにした通り。

 背筋含め、細く絞り込まれた胴回りには無数の傷が散見した。闘争の軌跡。かの者の戦歴。爪痕があり、噛み痕があり、刀傷、銃創、火傷。それは数限りなく。

 かの歩みし道の苛烈さを物語る。奈落の闇深き死中に活を見出し、かの者は今ここに生きていた。

 

「なにをじろじろ見てるんだい。フッ、それとも女の裸がそんなに珍しいのかい」

「まあな」

 

 間違いなく、世にも物珍しい女体だ。未だ嘗て見たことはない。百戦錬磨の戦士の肉鎧を纏った女性(にょしょう)など。

 オーゼンは湯に足を踏み入れ、胸辺りまで身体を浸けた。右肩を直に浸すような真似をすれば湯から引き摺り出してくれようとも思ったが、杞憂だったか。

 

「あまり深みに入るな。湯治といっても傷に障っては意味がねぇ」

「本当に小うるさいねぇ。あんたは粛々と見張り番やってな。そうすりゃ、覗き見くらい大目に見てやるさ」

 

 仰け反った女の逆しまの笑みが、にたりとこびり付いて来る。

 こやつと四層で過ごして早三日になるが、近頃こちらをおちょくるような言動が増えている。親しみだの馴れだのというより、新しい玩具を手酷く粗雑に扱う悪童のような有様で。

 

(だんま)り慎ましくしててくれりゃあ、役得くらいにゃ思えたかもな」

「ハッ、この(なり)を見て有り難がる男は無上の変態か単なるイカれだよ」

「……そうでもねぇと思うが」

 

 戦場刀の如き偉姿。どれほどの血と泥と傷に塗れようとも、その在り方の本質は揺るがぬ。

 その美しさは、不動のものだ。

 

「…………」

「ん」

 

 瞬間、羽音が迫る。

 それは掌大の、蚊を巨大化させたような蟲だった。

 腰から抜き打ち気味に斬り上げ、羽虫を縦に両断する。それは草地に堕ち、這い寄って来た蜥蜴の餌になった。

 時折こうして、血の臭いを嗅ぎ付けた吸血昆虫が岩屋に集って来る。湯浴みにわざわざ同行させられる己は体の良い蚊帳か、蚊取り線香という訳だ。

 血振るいを済ませ、刀身を肩に担いでその辺りの岩に腰を下ろす。

 厄介な蟲が漂ってはいないかと宙に視線を這わせていると、頬に刺さる視線に気付く。

 またぞろ平淡な眼差しの女を見返す。

 

「なんだ? ぶっ……!?」

 

 その両手の隙間から湯が鉄砲のように放出され、それは狙い過たず己の顔面を打った。

 

「…………」

「おい、こら、なんっ」

 

 握力が並外れている所為か、水圧の威力に上体が仰け反る。岩から転げ落ちるのだけはなんとか踏み止まるが、その場に留まり続けることは如何ともし難い。

 こちらの有り様もこちらの抗議の声も知らぬ存ぜぬと、女は無言で水鉄砲を連発した。

 どうでもよいが、これなら羽虫くらい自分で撃ち殺せるだろうに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁寧に皮を剥ぎ、血抜きをしたタケグマの肉は、獣臭さはあるもののなかなか()()()がある。

 芯までしっかりと火を通した赤身肉のこの噛み応えよ。脂身は少なく、それでいて澄んだ肉汁は純粋な旨味が豊富だ。今はトコシエコウを使っているが、他の香草や香味野菜で調理すればさらに良い味が出るだろう。

 奪った荷物にはチーズや大麦といった食材も幾らかあった。

 タケグマの骨、トコシエコウの実と葉、自生していたタロイモ等を煮込み、簡易な出汁を取る。

 そこにキノコの一種であるギントコを房から千切り入れ、火が通ったらさらに麦を入れ三分粥程度に煮込む。最後にチーズを溶かし込めば、チーズ仕立ての麦粥の出来上りである。

 匙で掬えばチーズと麦がとろみ、タロイモのデンプン質によってなお粘る。

 吹き冷ましながら熱い粥を頬張る。

 

「んむ」

 

 ろくな香味野菜がない為に出汁の主張が少々弱い。チーズの塩味と酸味は効いているが、主な調味料が藻塩だけではやはりこの程度が限度か。

 こりこりとしたキノコの食感はまあ悪くない。

 

「独り身の男が料理に凝り出したら、プッ、いよいよという感じだねぇ。クククッ」

不嫁後家(いかずごけ)に言われる筋合いじゃねぇよ。文句があるなら食うな」

「やだね」

 

 オーゼンはタケグマの心臓の素焼きを素手で齧り、粥を匙も使わずに啜った。行儀も何もあったものではない。

 この女とジルオは決して同じ食卓には並べまいと、妙な使命感を覚えた。

 食欲はもとより旺盛だったが、両腕を苦も無く使っているところを見るに身体は復調している様子。

 

「そろそろ動けるな」

「おやそうかい。私はもう少しここでゆっくりしていっても構わないけどねぇ。存外に便利な召使いがいることだし。フフフフフ」

「よしわかった不動の。お前さんは思う存分野宿しておれ。俺ぁ先に帰ぇる」

「フンッ、冗談の通じない男だ。つまらないねぇ。あぁつまらない」

 

 肉食獣よろしく女が肉を噛み千切る。そうして黒く獰猛な笑みを浮かべ、その手にした骨を手折った。

 

「湯治遊山にもそろそろ飽きてきた。珍しく地上(うえ)に愉しい用向きもあることだし……セレニの馬鹿共には灸を据えてやらないとねぇ」

「……」

「来るのかい?」

 

 オーゼンは有体に、戦列に加わるか、と問うている。

 己は探窟家ではない。探窟家、延いてはそれを擁する国家間の揉め事に首を突っ込む義理は、無いと言えば無いのだ。部外者が嘴を挿むな、とこの女が苦言を呈すれば引き下がる心積もりではあった。

 しかし、女が提示したのは選択肢であった。お前はやるか、それともやらぬか。

 答えなど。

 

「根を絶たねば毒草は枯れぬ。巣を絶やさねば毒蟲は依然蔓延る。己としちゃ、あの坊の安全が買えりゃそれでよかったが……こやつ等は一度ならず二度までもジルオを狙い、襲った」

「では?」

「首魁を斬る」

 

 もはや容赦せん。その余地を敵方は自らの手で潰したのだ。

 眼前の、くゆる焚火の向こうで人の悪い笑みが一層深まるのが見えた。見えぬふりをしておく。

 

「となると、ライザ、あの喧しい娘を呼び付けないとね。除け者にされたーだの臍を曲げるだけならまだいいが、腹癒せに一人で乗り込んで国一つ滅ぼしちまいそうだよ」

「……冗談じゃねぇぞ」

「冗談じゃないのさ」

 

 笑みを引っ込めた真顔のオーゼンに、返す言葉はなかった。

 

「協力する気があるんなら一つ、教えておく」

「ん?」

 

 オーゼンは懐から取り出したそれをこちらへ放った。

 受け取ったそれは実に奇怪な形をした器物だった。幾つもの球根を備えた植物の苗のような、しかし材質さえ定かならない物体。十中八九、この大穴由来のものだろう。

 

「一級遺物『頭の苗床(ライプシング)』。こいつはその子株だ。生物の頭にこいつを埋め込むと、母株からそれを操ることができる。厳密に言えば、特殊な“波”を使って脳に命令を書き込める。で、これはあんたが仕留めた死骸の頭から出て来たもの」

「奴らがそれを使い、あの異形共を操っていたということか」

()()()をどいつが持っていたかなんてのはどうでもいいのさ。問題は、この遺物の出所だ。アビスの遺物、とりわけ一級を超える代物を真に使い熟せるのは白笛くらいのもんさね。そしてこんなろくでもない使い方をする奴は、フフッ、白笛の中でも一人だろう。お前さんの言う異形、あの“成れ果て”を拵えたのも」

「何者だ」

 

 己の顔は、果たして今どのような形に歪んでいるのか。人を人ならぬモノに変え、死兵として使い潰すが如きあの所業。あの肉色の地獄を差し向けた張本人を思い、何を思う。

 腹の底に黒く溜まる。廻る。嫌悪とは似て非なる激情が。

 オーゼンは笑った。それはそれは愉快そうに、己の顔を見て笑った。

 

「黎明卿“新しきボンドルド”」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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22話 約束とおかえり

 

 

 また一体、青年は敵を屠る。

 『素体No.51』は、魚類に似た形質を発症した個体であった。手指が伸長し水掻きが発達し、筋肉もまた潜水、力泳に適した組成に変態が見られた。脚や肺が退化することなく陸上での行動能力を失わなかったことは実に幸いで、奈落下であっても支障は見られなかった。体長に即した大きく分厚い鱗は天然の鎧となり、拳銃弾程度であれば貫通を防ぐだけの強度を誇った。

 素体に成り果てる前の“彼”は漁師を生業としていたそうだ。やはり過去の体験、記憶が表れ出る形質に強く影響を及ぼすことは確かである。

 再び“視線”を青年にフォーカスする。

 堅固な魚鱗を、それでも青年は手にした剣で苦もなく斬り裂く。その切断力は驚異的である。

 まさに今首を落とされた『素体No.186』は、骨格が金属質状に変異した個体である。およそ鉄と同等の硬度と靭性を発揮する“彼女”は、当然ながら肉を幾ら傷付けようとその骨子には刀剣など()が立たない、筈であった。

 造船業、それも金属加工に従事していたという勇ましい女性だった。子供の養育費の為に今回の契約に応じてくれたのだ。心からの尊敬に値する人物であり、子を想う愛に満ち溢れた母御であった。

 強靭な内骨格の存在などものともせず、青年は頸骨ごとその首を断ち斬ってしまった。

 

「素晴らしい」

 

 

 

 仄暗い研究室の只中で仮面の男は感嘆した。

 一筋、仮面の頭頂から顎先まで縦に走る光条。紫紺の輝きが増した。その無邪気な感興を表すように。

 

「ギャリケー、是非貴方の意見も聞かせてください」

「は……」

 

 呼び掛けに応じて、側に控えていた白い外套が進み出る。

 分厚く白い装面、その右の額と左の頬に、互い違うようにして光学レンズを搭載している。

 男はギャリケーに接続端子のようなものを手渡した。それは男が座るコンソールから伸びたコードと繋がっている。

 ギャリケーはそのまま、なんの躊躇もなく端子を自身の耳孔へ差し入れた。

 

「……」

「如何ですか?」

「……類稀な切れ味。自分の経験でも、これ程の業物は見聞きしたことがありません」

「現代の刀匠、あるいは現行の鍛冶製鉄技術で同等の性能の刀剣が再現できると思いますか」

「不可能でしょう」

「私もそう思います。あれほどの量の血脂を浴び骨を断ってもなお切断力が落ちないなど、従来の金属では物理的に有り得ない。やはりあれもまた、アビスの産物なのでしょう。是非とも手に取って拝見したいものです。構造解析すれば複製も可能かもしれません。おっと、いや、いや、より新しいものを好むのは人間の性ですが、ああいった単純明快さにはなんとも弱い。私もまだまだ子供っぽいですね」

「ですが、卿よ」

 

 平素寡黙な白装面は、しかしさらに言い募る。

 

「あの斬撃の鋭さは、武器の性能に頼る者のそれではない」

「ほう、ではあれは彼の技術によって為し得ていると?」

「はい。あの男が斬り殺した素体は計148体。その全てに対して、奴の刃筋は寸毫もぶれていない。精妙を極めている」

「回収した素体の亡骸を後で検査しましょう。そして貴方の意見にはやはり私も賛同します。彼はとても強い。確かな技量と戦闘経験の厚い蓄積が感じられます。ギャリケー、()()()()()()どうです。彼に勝てると思いますか?」

「近接戦闘を避ければ、あるいは」

「素晴らしい。貴方にそこまで言わせる程とは」

 

 眼球に直接投影された監視記録を見る。

 屍山血河を一面に敷き詰める年若い剣士の姿。

 

「これは“成長”なのか。それとも“回帰”なのか。彼は実に興味深い存在です。いずれ是非とも、会ってみたいですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三層下部。ダイラカズラの傘を眼下に望む。

 脂石の層は文字通り、油のような光沢をした珪質の岩盤だった。

 大断層の岸壁とは違い、生物の巣穴は少ない。代わりとばかり、切り立った壁面には無数に棘のようなものが取り付いていた。それら全て生物の卵だという。それも一種ではなく、複数種、名称すら付けられていないものまで多様に。

 強固な岩石の堆積物をそれでも、植物の根は穿ち、太い足を縦穴に向かって伸ばしている。

 それを足場としながら、己は石壁を検めていく。穴の外縁をぐるりと巡り、かれこれ小一時間ほども。

 

「……」

 

 そうして幾重にも折り重なる木の根に出くわした。簾か女の髪のように流れ落ちる植物。

 その奥底に、岩が削れた箇所がある。覆い隠された窪み。土が乾いている。以前は鳥獣が巣でも張っていたか。

 背後を見やる。

 四層の果ても見えぬほどに巨大な、雄大な、自然物の支配域。巨大な植物群とそれに巣食う数限りない生き物。生命の、営みの、爆縮するかの景を。

 首に提げた黒笛を取る。

 木の根の奥深くへとそれを仕舞い込み、その上から遺灰を注ぎ入れた。

 土と小石と岩で丁寧に封をする。

 

「お前さんが倅と夢見た場所か。あぁ、眺めだけはそう悪くねぇ」

 

 墓と呼ぶのも烏滸がましい。寒々しい岩土に老爺を打ち捨て、その場から背を向ける。

 しかし一人ではない。きっと再び、奴は奈落で相見えるだろう。

 

「じゃあな、ウィロー」

 

 妻子に宜しく言っておいてくれ。

 

 ────世話になったな

 

 皺枯れた声が耳朶を掠める。

 まあ十中八九、三層の呪いというやつだ。

 

 

 

 

 

 岩壁に背を預け、待ち受けていたオーゼンと共に大断層の登頂を再開した。

 女は珍しく静かで、あれほど減らなかった憎まれ口も皮肉も、暫くは鳴りを潜めていた。

 洞を通り、時には岸壁側を飛翔生物を相手取りながら、牛歩のように崖を登る。昇る。

 三層の上昇負荷、頭痛に吐き気に五感の異常。より取り見取りの不調の連続を気付け薬や、時には刃の痛みに頼って追い払う。

 踏み拉くように進む。帰り路を。

 不意に。

 

「墓に参りたきゃ、私に言いな」

「?」

「どうせ監視基地からは丸見えなんだ。一々隠れて行くのも面倒だろう。なんなら……うちの隊で飼ってやってもいい」

 

 前方の、暗い洞を先行する黒い背中を見上げる。

 闇に溶け込むような姿が、その短い沈黙の中になにやらひどく言葉を選んで。

 

「あんたは、まあ、及第点だ」

「……」

 

 女はあの平淡な、解り難い仏頂面をしているのだろうか。

 

「くく、こいつぁ幻聴か? 随分とまあ、お優しいお言葉が聞こえた気がしたんだが」

「幻聴だよ」

「そうかい」

 

 

 

 

 

 

 

 アビスの淵より流れ落ちる大瀑布の水流を動力にする大ゴンドラ。

 深緑の風景は程なく霧に変わり、五里霧中をひた昇る。力場の視界は行とそう変わらず悪い。

 のっそりと傍らに大柄が立つ。ハボルグである。

 大断層の登攀の途上でマドカジャクの群につけ回されていたところを合流し、男はこうしてトンボ返りをさせられている。

 

「どうだ、一層の負荷は。まあ四層三層と昇って来た奴に聞くのも妙な話だが」

「痛飲明けに比べりゃ屁でもねぇな」

「ハハハハ!! そうか! まあお前ならそうだろうな!」

「お前さんには要らぬ手数を掛けたな」

「別に構わねぇよ。珍しいもの見られたしな」

「ん?」

 

 物問いに見上げると、ハボルグは愉快そうに一層笑みを深め。

 

「あの偏屈な不動卿に殲滅卿以来の直弟子が現れたんだ。こんなに面白い話はねぇぜ」

「……己のことか?」

「お前以外に誰がいるんだ」

 

 かの女は今監視基地に、己が麾下たる“地臥せり”と共に居残っている。あれがまさか妙なことを吹聴して回るとも思えぬ。

 この大男の早とちりか勘違い、あるいは話にならぬ世迷言であろう。

 

「戯けたことを抜かせ。そんなんじゃあねぇよ」

「おいおい白笛の直弟子だぞ? そうそうあることじゃないんだぞ」

「あの女が師匠面で指図してくることなんざ、それこそ碌なもんじゃねぇや」

 

 なにより……師弟の間柄などという席は、とうの昔から埋まっている。今更余所者が居座る余地などない。己が何故そんな野暮を働かねばならんのか。

 不動卿の二番弟子ラーミナ? 白笛探窟隊員ラーミナ?

 阿呆くせぇ。

 

「俺はただの貧民窟のガキよ。一刀(やっとう)使いのラーミナよ」

 

 ゴンドラが霧を抜ける。

 地上から突き出た鉄骨の昇降機が籠を受け止めた。いつか、帰還祭の折にはオーゼンらが渡った大桟橋に。

 

「探窟稼業はお前向きだと思うんだがなぁ」

「此度のこれはただの成り行きだ。己がわざわざこんな穴倉に潜ったなぁ厄介な約束と……」

 

 両扉が開き、桟橋に進み出たところでそれを見付ける。穴に伸びた橋梁の向こうから、小さな姿が駆けてくる。

 

「ラーミナ!!」

「あの坊の為だよ」

 

 白銀の髪の少年は勢い飛び付いてきた。それを胸に受け止め、両手で頭上高く抱き上げる。

 

「おかえりっ」

「ああ、今帰ったぜ。ジルオ」

 

 

 

 

 

 

 

 



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23話 海を越えたその先は、雪国

要するに地球教的なサムシング。



 

 

 

 

 黒く、暗い夜空だった。澄みきり、身を切るまでに鋭い夜気が、闇をこうも濃密にする。この寒気がそうさせる。

 しんしんと暗雲から降ってくる。牡丹の花にも似た丸みで、雪が。

 白い雪が真黒の空より、時に宙の只中で遊泳を楽しむかのようにゆっくりと降りてくる。

 何の気なしに地を踏み締めれば、積雪はくぐもった悲鳴を上げた。足首が埋まるほどの厚み。オースではなかなかお目にかかれない景色だった。

 貧民の分際ゆえ風雅の心得など碌々持ち合わせぬが、この白墨画の如くに雪化粧された世界には素朴な感動を覚えた。

 山間に位置する寂れた街。あるいはオースに比べればそれは街と呼ぶことすら躊躇われる寂れた村落だ。極北のセレニ国内においては数ある開拓村の一つ。

 天に突き立つ岳を望む。夜空を背に純白を纏う偉容は美しかった。

 雪は俗世の野暮な音を食らう。純粋な静寂に支配された空間は実に────

 

『今()()()。とりあえず三本。あー、流れ矢に当たるような間抜けはいないと、プッ、信じてるよ』

 

 耳孔に直接それは響いた。耳に差し入れた通信器械から。

 相変わらず仄暗く底意地の捻くれた声音だ。声それ自体は美声の類であることがより一層陰険さに拍車を掛けている。

 そうして己自身の言い様に嘲笑していれば世話もない。

 信じてる。あの女らしい皮肉であった。

 呆れる間もなくその刹那、それが恐るべき速度で飛来する。風を引き裂き、破壊的な衝撃波を拡散させながらに、それは空間を貫通する。

 それは目前に建つ洋館へ────着弾した。

 五階建ての母屋を挟むようにして尖塔が聳える、もはや城と表すべき風格の館。その屋根に、外壁に、塔の()()()に。

 小刻みに三拍。激しく突き刺さり、轟き爆散する。煉瓦や硝子が飛散し、瓦解する。

 雅やかな静寂は敢えなく蹴散らされた。

 

「……」

 

 それは巨大な鉄の柱だった。

 杭と呼ぶには長過ぎる。

 槍と呼ぶには太過ぎる。

 砲弾と呼ぶには不細工に過ぎる。

 全長3メートル、幅30センチ、H型断面鋼材、つまるところ建造物の基礎鉄骨だ。

 入手は容易であった。今なお此処彼処で鉱石採掘工事が実施されるこの国では建材を取り扱う業者は合法非合法問わず掃いて捨てるほどある。金に糸目を付けないなら尚の事。

 なによりも幸いなのは、運搬の手段を考える必要がなかったことだろう。

 オーゼンが、買い取った大量の鋼材全てを所定の位置まで運び込むのに半日と掛からなかった。あれはまるでそう、菜箸でも掴むような軽々しさであった。

 過大な重量物を投擲し、敵陣へぶつける。

 斯くも単純な行為が脅威の破壊を(もたら)している。

 まさしく人間兵器。

 また三本、鉄骨が館を射抜く。その内の一本は現実に壁を貫通し、反対の壁を抜けて前庭に刺さった。己が今、待機している場所である。

 

「馬鹿野郎! もっと山なりに投げねぇか!」

『なにか善からぬことを考えてそうだったんでねぇ、つい』

 

 なんだその唐突な読心術の開眼は。

 貫徹しなかったにせよ、鉄骨の直撃を食らった洋館内部は上を下への大混乱といったところ。

 

「……あの娘、中に居てこれを躱せるのか」

『あれの勘は深界の獣並だ。目を瞑ってたって当たりゃしないよ』

『失敬な!』

 

 漆黒の夜空に突如、明けの色が差す。緋の火色。

 爆炎が断続的に大気を叩く。洋館一階の端から端へ、硝子窓を吹き飛ばしながらそれは建物内部を横断した。

 紛れもなく『尽きない火薬(ピースフォビア)』を込めた『無尽槌(ブレイズリーブ)』による打撃。あの婆娑羅娘の進撃であった。

 

『うら若い乙女を捕まえて獣扱いとは心外極まる』

 

 一階から今度は縦に爆轟が上昇する。二階、三階、四階、五階。移動する災害はどうやら床と天井をぶち抜いている。

 

『一体私の何処が獣だというのか!』

「なんだ、無いなら無いと素直に言やぁいいものを。今度、姿見を買うてやる」

『プッ! ククククククッ、そりゃあいい。ついでに化粧台の一つも強請って部屋に置いたらどうだい。お前さんだっていい加減いい歳なんだからさァ』

『…………』

 

 地響きがする。揺れているのは大地ではなく、そこに基礎を埋めた建造物、眼前の洋館そのものが震えていた。

 天を突く尖塔が爆ぜる。花弁を開かせるように屋根が発破する。

 欠損した塔の頂から、金髪が夜空に踊った。瀑布の如く豊かな巻き髪。雪よりも強く煌めく黄金。

 鶴嘴を振り上げて少女のような女は叫ぶ。

 

「ラーミナァ!! オーゼンン!! こんの口さがない年寄り共! 喧嘩がしたいなら初めからそう言え! まとめて相手になってやる!」

 

 その時、強烈な光条が空に伸びる。一つ二つ三つとそれは数を増し、暫時夜空を彷徨った末に一点を示す。煙を上げる尖塔に佇む人影。探照灯がライザを捕捉した。

 あれだけ目立つ場所で大見得切っておれば然もありなん、ではあるが。

 

「……由緒正しい山岳信仰の宗教寺院。そう聞いていたがな。随分と気の利いたものを誂えてやがる」

『由緒だけは正しい。いや、古いだけさね。実態は武装した坊主共の群、僧兵というやつさ。どうやらたっぷりの御布施(みかじめ)を喰らってよくよく肥え太ってるらしい。フフフ』

 

 雪原をくぐもった足音が轍を刻む。建物の外に白いローブを纏った者達が現れた。その手には、黒い金属器械……小銃が握られている。

 火器で武装した僧侶共。臍で茶が沸きそうだ。

 さても動く。

 集団の死角に早駆けで回り込む。

 

「ライザ、お前さんは表でもう一暴れだ。己は予定通り裏へ回る」

『……むぅ、しょうがないな。憂さ晴らしはこいつらで済ませるさ。ただし! 祝杯はラーミナ、お前の奢りだ』

「貧乏人の寒い懐に無理を言うな」

『姿見、買ってくれるんだろ? そのついでさ。文句はあるまい』

 

 口は災いの元である。

 腹立ち紛れに、懐から引き抜いた短刀を擲つ。二投、三投、それらは探照灯の光源を貫き、破壊した。

 

「良いアシストだ!」

 

 晴れやかに声を上げ、女が跳ぶ。宙に踏み出すや、鶴嘴を逆手に持ち返る。

 背後の壁面にその切先を突き入れ、斬り裂きながら落ちる。落下速度を制御し、それでも凄まじい勢いで地表に降り立った。

 とはいえそこは紛れもない死地。武装した兵隊の包囲下に相違ない。

 しかしそれでもこの娘は、それを覆してしまうのだろう。

 

「さあ、貴様ら全員根絶やしだ」

 

 殲滅卿の名にし負う、あれはまこと鬼神の如き女だった。

 破裂音のような銃声。跳弾が雪を、流れ弾が石壁を削り、窓硝子を粉砕する。修理代は高く付きそうだと、内心他人事に貧乏性を弄ぶ。

 

 アッハハハハハハハハハハ!!

 

 無邪気な笑声であった。

 銃火器の包囲に、弾幕をものともせず吶喊する狂った女が発しているとは思えぬ。

 外壁の上に駆け登り、館を大回りに巡る。

 素直に裏口を見に行くのも間抜けだ。

 この手の輩は、おそらくこうした非常時に対する備えを怠りはすまい。

 館の裏手は林だった。葉を落とした枯木の合間を縫って、それを探す。

 

「お」

 

 折よく、それは自ら存在を主張してくれた。

 地面が真四角に持ち上がる。蝶番が金切り声を上げ、木製の蓋が開こうとしていた。

 地下通路。秘密の出口。実に浪漫に溢れた一品だ。

 中から白いローブ姿が四人、それに(かしず)かれた者が一人。豪奢な金刺繍、首にはそれこそきらぎらと宝飾された袈裟だか帯だかを提げている。

 此度の本命である。

 制空権はオーゼンの無体な仕儀で既に失われた。本拠地はライザの暴挙で燃え滓の穴だらけ。

 となれば逃げるしかあるまい。それも地上ないし地下を地虫のように慎ましく。

 当たりだ。

 

「冷える時分にご苦労だな」

「!?」

 

 こちらの気安い声に、彼らの反応は劇的であった。

 闇夜に緋色の花が瞬く。躊躇なく発砲してきた。

 しかしやんぬるかな、真っ正直に声のした方角を向いている。

 その横面を殴り飛ばした。

 直近、幾分反応の鈍い傍らの白衣姿、その眉間を柄頭で衝く。上体を跳ね、仰け反るようにそれは倒れ動かなくなった。

 さらに転身。回転による運動力、体重移動力を踵に乗せ、さらに一人。その蟀谷を蹴り抜く。

 金属音。背後である。

 銃口がこちらの背に差し向けられている。背筋から項へと震撼する警告。紫電の如き危機感に衝き動かされ、抜刀。

 振り向き様、小銃に斬り込む。

 刃は、その鉄器へと食い入る。左下方から右上方、斜めに斬線が走る。銃身が破断する。

 

「は?」

 

 あんぐりと口を開けた間抜け面に拳を叩き込む。

 近く枯木の幹に背中をぶつけ、男はずるずると地面に座り込んだ。

 昏倒を見て取って、ただ一人立ち尽くす男に向き合う。

 でっぷりと太った壮年、いや老年であろうか。この寒空の下にあって血色は悪くない。脂ぎって精気漲る。食っている物が良いのだろう。

 

「おのれが司教とやらか」

「き、貴様、貴様らは、まさか、オースの」

「こちらの素性はとうに承知と。いや話が早ぇや。そうよ、そのオースくんだりからわざわざ、白笛様がお為りになったのよ」

「ひっ、ひぃぃいい!!?」

 

 脂身は全身を震わせてその場に尻餅をついた。

 これが数多の信徒を抱える大宗教の祖とは、まったくお笑い種だ。それに加えて、悪辣に練られた陰謀の黒幕と来た。

 

「まあ、これも首魁の習い。諦めて縛に着きな」

「た、頼む! 助け、見逃してくれ! わしは、そうわしは今回の件、最後まで荒事は避けようと進言してきたのだ! そ、それを部下の、急進派の連中が勝手に! わしは鳩派だ! 常々オースの探窟家組合とは話し合いでの解決を願っていた!」

「へいへい、その辺りの経緯はその組合のお偉方とナシつけて」

「わしはただ子供を拐うよう指示しただけだ!」

「────」

 

 男を見下ろす。汗みずくで脂ぎった顔に愛想笑いが吹き出物のように表れる。

 こちらの沈黙に、まさか交渉の余地なるものを嗅ぎ取ったのだろうか。

 

「血を見ないで済む最善の方法だった! いや、さ、最善を目指したんだ。そちらの、高名な白笛、殲滅卿との交渉の席を我々は求めていた。歴史的に見ても、中世の頃から貴人を人質とする対話はあったことだ! その御子にはそれこそ貴人としてこちらに招待する準備が」

「おのれの指示だった、と。そう言うのだな」

「そうだ! そうだとも! わしの差配で、平和裏の」

 

 一陣、風切りに鳴り響く。

 しかして斬擊は二合。音を置き去って、刃は真実閃いた。

 

「は、へ?」

 

 白い僧衣、その袖口から、血花が咲いた。

 両の手首から吹き出た血の紅が、雪原を染める。目にも痛ましい鮮烈な色。

 善人も悪人も、血は平等に赤いのだ。

 

「あ、ぎゃひぃいいいいい!!」

「手首の腱を斬った。もはや筆すらも握れまい」

「ひぎぃああっ、あぐぁ、ど、どうじて……なんで、ごんな……!?」

「てめぇを生かす理由が消えた」

「は、はひゅ、たす、たすけ、ゆるじで」

 

 上段に執った刀を真っ直ぐ、脳天に振り落とす。

 唐竹割り。脳幹まで両断してくれる。

 

「ラーミナ!」

 

 ぴたり。

 制止の音声(おんじょう)に頭頂の寸前で刃を留める。

 超音境の打ち込みなれば、切っ先は真空を生み、触れずしてその額の薄皮を裂く。

 男は白目を剥き、泡を吹いて失神した。

 その無様を見限り振り返る。

 黄金の光、煌めく雌獅子たるライザ。

 そしてその背後で闇夜のような長身痩躯のオーゼン。こちらは実に人の悪い笑みが暗黒に浮かんでいた。

 ライザはまるで花を愛でる乙女のような貌をして言った。

 

「老獪ぶってる癖に殺気は刃のように容赦がないな」

「……」

「まったく、お前にそこまで想われたら私の怒る余地がないじゃないか。ジルオめ、モテモテだな!」

 

 娘の惚けた言い様に力が抜けた。

 ゆっくりと気息を吐き、残心を解く。

 傍に立った娘子は、己を見上げて、やはり華やぐように笑い。

 

「ありがとう」

 

 つい今しがた人を斬った男に、この娘はなんて顔をするのだ。いやこの娘とても同じ。つい先刻まで血霞を撒き散らすような闘争に身を置いていたのだ。

 異常なのは己か。それともこの女か。

 どちらも武人。武力を揮いて思い、願いを成就させんと欲する業の(たま)

 婆娑羅だの狂いだのと、もとより詰れた立場ではなかった。

 

「礼なぞされる筋合いじゃねぇよ」

「素直じゃないなぁ。んー? そんなにジルオが気に入ったのか? 私の弟子が。私の! 弟子が!」

「この娘、やにわに鬱陶しいぞ」

「いつもだよ」

 

 オーゼンは知らぬ存ぜぬと爪先で雪を弄くった。

 ぱん、柏手一打。ライザは叫んだ。

 

「仕事は片付いた! なら祝杯だ! 酒場に繰り出すぞー!」

「阿呆抜かせ。もう夜明けだ」

 

 枯木の向こう。

 白み始めた空の果て。気付けば朝陽が顔を覗かせている。

 

「知らん。夜だろうが朝だろうが酒は飲める。そして夜だろうが朝だろうが酒は旨い!」

「そいつぁ師弟水入らずで確かめな。俺ぁ宿に戻って寝るんだよ」

 

 踵を返そうとした己の肩を、万力も斯くやの握力で掴む。言わずもがな、黒衣の女が影のように己を縫い止めている。

 

「逃がさないよ」

「く、お、この、放しやがれ!」

「もう放さない。死ぬ時は一緒だよ」

「微塵の色気もねぇ! ちったぁ情感込めやがれってんだよ!」

 

 諦観の色濃いオーゼンの様が輪を掛けて不吉だった。ろくでもない始末になること請け合いとばかり。

 結局そこから一両日。蟒蛇女にしこたま飲まされる仕儀と相成った。

 

 

 

 

 

 誘拐(かどわかし)に端を発する此度の諍いはこうして落着した。

 少なくとも、表向きには。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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24話 可哀想な少年

 

 

 

 

 家政婦の作業着が源流なのだという。

 なるほど、言われて見れば確かに。前掛けは汚れ仕事の為にあり、頭飾りは髪が視界の妨げにならぬようにとの配慮、スカートの裾が短いのは……己の隣で、ニタニタと粘ついた笑みを湛えるこの女の趣味だろう。

 メイド服と呼ぶそうだ。冥土、とは特に語源的な関連はないとのこと。

 着せられている当人からすれば今この時、この場こそ冥土であり生き地獄であろうが。

 

「っ、く、ふ……うぅ……!」

「なっははははははは! 可愛い! 可愛いぞジルオ! あーんもう超絶的な似合いっぷりだ!」

 

 お礼参りの惨状に組合とセレニの役人が喧々諤々の対応を強いられている最中。というか、その当日である。

 窓の外に雪のちらつく宵の口。

 借り切った酒場の広間の中央には、安っぽい小上がりの舞台が設えてある。常ならば流しの踊り子や歌い手が酔っ払いの紙捻り目当てに技巧を披露する場なのだろうが、今夜は些か趣向が異なる。

 暖色の石灯に照らし出された小柄な姿。

 丁寧に梳かされた白銀の髪が、肩口にまでしな垂れている。

 

「髪が伸びちゃいねぇか」

「ウィッグだよ」

「うい……なんだって?」

(かつら)だよ。まったく、ものを知らない男だねぇ」

「はぁ、左様で」

 

 胸元に大きな白い帯で蝶々結びが成され、その結び目を留めるように青い宝石が飾られていた。

 膝小僧どころか腿まで晒すスカートの裾を、白手袋をした小ちゃな手が必死に押さえ付けている。

 つるりとした丸っこい革靴「パンプス」オーゼン曰くぱんぷすもまた深い青。

 林檎のような赤い顔と、その冴えた彩りの装いは実に対照的だ。

 

「ジルオ! ジぃルぅオっ! こっち見ろ。見ぃてってばジルオ。ほらニッコリ笑えー。かわいい! ぎゃんわい゛い゛ぞぉ!」

 

 閃光閃光、また閃光。

 どこから調達してきたやら、ライザは仰々しい写真機を手にして矢鱈滅多に発光器を焚いた。

 引いてみたり寄ってみたり、地を這うほど下方から()()()で覗き込んだり。その動きは機敏であるがこの上なく変態的だ。

 ジルオ。哀れなるかの少年に為す術はない。

 嫌がる男児に女児向けの衣装を着せるが如きこの無体な有り様は、言わずもがなこの二人の女共の仕業に他ならない。

 

「幼子を賭けの商品扱いたぁ、下衆な遊びをしやがって」

「一々口喧しい奴だねぇ。いいじゃないか。ただ服を着せ替えてるだけ。みだりに触れてもなきゃ虐めてもない、裸で吊ってる訳でもない。実に平和なお遊びだろう?」

「それが当たりめぇなんだよすっとこどっこい。というかな、賭けに勝ったの敗けたのの末ってぇならまだしも、お前さん方結局のところ思う儘にやらかしてるじゃあねぇか」

「それこそ当然さ。私達を、誰だと思ってる?」

 

 極上のしたり顔が己を見下げる。

 まさか、まさかであるが、我ら白笛様でござい、などと宣うのではあるまいな。ありそうだ。

 

「ラーミナぁっ!」

「おぉどうどう」

 

 もはや忍耐と羞恥の限度と、ジルオはお立ち台から逃れ己の腕に縋った。

 目に涙を溜め、今にも泣きじゃくりそうだ。だというのにそんなものお構い無しにライザは写真機を手繰る。

 

「ほっほう! これはこれはなかなか背徳的な……!」

 

 無遠慮な閃光電球の焦げ臭さ。女の興奮はさながら燃焼する金属の様相で熱を上げる。

 どうしてか、ジルオが己に必死に抱き着くほどそれはより熱く、激しくなっていくようだった。なんかこわかった。

 

「鼻息が荒いんだよみっともねぇ」

「荒ぶらいでか! いい表情(かお)だぁジルオ。まるで恋する乙女が想い人と再会を果たしたようだぞぉ!」

「脳味噌の何処から引っ張ってきた設定だそりゃ」

「このライザさん怖いよぉ……!」

「そろそろ落ち着きなライザ」

 

 黒衣の女がのっそりと立ち上がる。

 思いもよらぬ事態だ。暴走する弟子を見兼ねて、遂に師匠が諌めに入ってくれたか。

 

「まだまだ着せたいのが後につかえてるんだ。ロリータメイドだけでそんなに興奮してたら持たないよ」

 

 などと期待した己は無上の愚か者であった。

 

「おっと私としたことが、私の愛弟子があんまりにも可愛くて我を忘れてしまったぞ」

「次はこの振袖とかいうのを着な。東洋の果ての島国の民族衣装だ。なかなか雅だろう? ふむん、上からフリルのエプロンを合わせても具合は良さそうだねぇ。フフフフフフ」

「えー、私は断然! こっちのバニーだ! ジルオの清楚な雰囲気とのアンバランスさが滾るだろう?」

「趣の解らない子だね。お前さんのは露骨なんだよ」

「ほっほー、趣ときたか。ならばオーゼンは淫靡なジルオを見たくないと?」

「勘違いすんじゃない。私のが先で、お前さんのは後だ」

「よかろう」

「ラーミナぁ!?」

 

 ずいずいと突き出される二つの衣装、迫る女共の覇気にジルオは悲鳴を上げた。

 それこそ縋る思いで助けを乞うてくる。潤む瞳、固く握られた指の必死さは心から労しい。

 さても、異常な熱量を発するこやつらをどのように鎮めたものか。

 

「じゃあラーミナはこのジルオが可愛くないと言うのか?」

「あぁ?」

「この、こんな、フリッフリできゅるんきゅるんなジルオが、可愛くないと、お前はそう言うのかラーミナ!?」

「んん? いや、そうは言わんが」

 

 己の腹に抱き着いた童の、上目遣いの視線が顎を擽る。

 それは一体どう答えて欲しいのだジルオよ。

 眼前、二種の衣装、猛る女共、曇る少年。

 悩み、頭を捻り、捻転して、結論。

 

「兎は勘弁してやれ」

「!?」

「「えー」」

 

 兎の耳飾りはどうでもよいが、身体を覆う布地面積の少なさ、特に股座の儚さが男児にはあまりにも酷だ。

 振袖の方がまだしも、マシだろう。

 崖っぷちで命綱を切られた探窟家のような顔をする少年に、なるたけ優しく微笑んでやる。

 

「なかなか可憐だぜ、ジルオ」

「えっ……ッ~! ぅ、うれしくないよ!!」

 

 然もありなん。赤色灯も斯くやといった泣き顔で、童の心からの叫びが木霊する。

 夜はまだまだ長そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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25話 交わす一献

 

 

 刹那、音の絶えた世界に在った。

 それは無論のこと現実の仕儀ではなく、己が自失していたゆえの空想。勘違いだ。意識がほんの数秒暗転した。

 要は、微睡んでいたらしい。

 

「……」

 

 卓や床に転がる夥しい量の空の酒瓶。到底数える気にはならなかった。浴びるほど飲む、などとよく言ったもの。ライザめは事実本当に樽のエールを頭から被っていた。イカれてやがる。

 当人は心底愉快そうに笑っていたが。

 斯くも躁に振り切れた女は今、稀なる静けさで寝息を立てている。

 途中あまりにも喧しく大騒ぎする女に閉口し、気心知れた者を宥め役にわざわざ宿から呼び立てたのだ。此度の報復戦というか御礼参りというか、その事後処理の為に同行した探窟隊。ライザ麾下の(この女この有り様だが歴とした一隊の長である)月笛の若い男で、青瓢箪な風貌の、名前は、さて何だったか。

 

「むにゃむにゃ……もういっぱぁい! へへへ……」

「ギブ……ギブ、だから……ライザ」

 

 間抜けな寝言と必死な寝言。壁際のソファーに目をやる。

 眠るライザ。そしてそのライザに裸絞めを食らわされる青年。気絶しているのか眠っているのか定かではないが、大任を確と全うする若いのに敬意を込めて合掌する。

 

「んぅ……」

 

 むずがるような声、それはすぐ傍らに。自身も腰を下ろす長椅子にはもう一人。小さな体をさらに小さく丸めて、ジルオが眠っていた。

 鍔が折り返された白い帽子、襟の広い白い上衣に青いリボン、曰く“要”であるらしい妙に丈の短い半ズボン。水兵服(セーラー)を模した子供服だった。こんな珍奇な代物を一体何処から仕入れてくるのやら。

 なまじこの坊は何を着ても似合ってしまうゆえ、下手人もすっかり調子づく。

 白銀の髪を撫でる。細く、柔らかな、仔猫のような毛並だった。

 寝顔が微かに綻んだように見えた。良い夢でも見ているのか。そうならいい。安寧であってくれるなら。

 

「……らー……な……」

「ふ」

 

 あどけないこの姿が。

 どうやら己にとってこの上ない幸い、であるらしかった。

 

「なぁににやけてるんだい。大の男が、子供の寝顔を眺めながらさァ」

「てめぇじゃあるめぇし。邪なことを抜かすんじゃねぇよ」

「ククク、それはそれは失礼を」

 

 欠片もそんな心持ちはあるまいに。

 逆月のような笑みの女が、頬杖を突いて己を、傍らの童を眺めている。

 

「てめぇ早々に狸寝入りこきやがったな」

「当然さ。あんなのとまともに付き合ってたら肝の臓がいくらあっても足りゃしない。放っときゃ勝手に鱈腹飲んでああして静かになる」

「カッカッ! あんなのたぁ、ひでぇ言い様だな。おのれの弟子であろうが」

「探窟のね。行儀作法が習いたきゃとっとと他所へ行けって話さ。何処ぞの金持ちの家でメイドでも、王宮で侍女勤めでも。フッ、当人が望むなら伝手くらい繋げてやるけどねぇ」

「やめろやめろ」

 

 あんな雌獅子を放り込んだが最後王宮とやらが粉になって無くなるわ。

 くつくつと女の仄暗い笑声が静まり返った酒場に響く。店主も給仕もとうに帰った。今宵、というか先夜から、場所と酒と食糧を体よく掠め取ったようなものだ。無論金は払ったが、無調法には違いない。

 手近な酒瓶を手に取り、揺する。有り難いことに耳良い水音がした。

 盃を探そうとしたところ、隣席から二つ。卓上を滑ってグラスが寄越された。

 

「本当に行儀が成ってねぇな」

「フフフ」

 

 底が分厚くどっしりとしたロックグラスだが、氷などという気の利いたものは既に溶けて尽きた。

 手酌で一杯注ぎ入れ、卓上を滑走させる

 女は礼も言わずそれを受け取り、嘗めるように酒精を含む。舌の根でじっくりと味わうような、先刻のライザとは真逆の嗜み様で。

 品格というなら、まさに。この女の姿こそ、世に言うそれなのだろう。

 言動は何処までも度し難いが。

 

「なにさ」

「いいや」

 

 (いぶか)る女に我ながら曖昧な応えをする。

 己の面相ははて、今どのような形をしているだろうか。笑みなど浮かべていやしまいか。

 ひどく、懐かしい。何をか懐かしむ。来たこともない国の初めて軒を潜る酒場で、一体何を。

 こんな上等な酒ではなかった。密造された安酒を、小汚ない(ねぐら)で、あの貧民窟の奥底、紛れもない生家で。

 老爺と酌み交わした日々を。

 どうしてか思い出す。

 対する女が探窟家であるからか。わからない。

 ただ、良い酒だった。良い香りの、良い心持ちの、この束の間。

 

「旨い酒だと思うてな」

「……ふぅん」

「なんせほれ、こんな別嬪と御相伴だ」

「はっ倒すよ」

 

 実際、卓の下で女の蹴り足が己の脛を狙った。寸でのところを躱したが、当たれば悲惨なことになっていたろう。

 照れ隠しで骨を砕かれては堪らない。

 

「ん」

「あ?」

「ん!」

 

 グラスをずずいと押し出してくる。注げ、との仰せだ。

 瓶を傾け、半ばほどまで満たす。

 女はそれを水でも呷るように飲み干した。

 

「そら」

「? なんだ」

 

 卓の下からオーゼンは革袋を取り上げ、無造作に放って寄越した。

 両腕一抱えはある大きさ。そのわりに軽い。

 中身を検める。それは、札束だった。オース、いやベオルスカの紙幣である。

 

「なんだこりゃ」

「組合からの報酬だよ。今回の一件、事が厄介な方へ転ぶ前に片が付いたからね。しかもそれをやったのが白笛でもなく、オースの探窟家でもなきゃ、まして市民権も持ってない貧民出のガキときた。だが組合としちゃそれだと体裁が悪い。面子も立たない。だからこれは、口止め料兼袖の下、そして囲い込みの打診さ」

「囲う? 己をか」

「腕っ節がここまで立つなら使い途はいくらでもある。とでも、考えたのだろうね」

「はっ」

 

 失笑を禁じ得ない。

 跳ねっ返りの無頼を金で雇い入れ、体よく使おうという。破落戸(ヤクザ)の如き浅はかな魂胆が。

 

「気に入らないのかい」

「というより興味がねぇのよ」

「私に突き返すんじゃないよ面倒臭い。要らないなら自分で処理しな。暖炉の焚き付けくらいにはなるだろ」

 

 鰾膠(にべ)もなく言い捨ててオーゼンはグラスを嘗めた。

 袋の中で札束が束成す様を見下ろす。確かによく燃えるだろうが、他人に行儀云々を説いた手前もある。

 どうしたものか。

 後ろ暗い銭でなし。ジルオにそっくりやってしまうか。逆に困らせてしまうだけか。

 己の思案面をニヤニヤと見詰める視線には気付いている。

 人の悪い女を睨み返した時、ふと思い至った。

 

「お前さんからは何かねぇのか。えぇ?」

「なんだい突然」

「突然なものかよ。お前さんが奈落で往生しかけているところを助けてやったじゃあねぇか。忘れたとは言わせねぇぜ」

「ふんっ、恩着せがましい」

「へっ、お仕着せ上等よ。そらどうなんでぃ不動卿。天下の白笛御大は、借りを返さず踏み倒すような小器だってぇのかい?」

 

 我ながら調子良くはったりが吐けたもの。

 別段、この女には己に礼を尽くす義理などないのだ。

 偶さか共闘し、互いに命を拾い合った。貸し借りというなら既にチャラだ。

 多少の困り顔か悪態でも引き出せればそれでよかった。

 オーゼンは、しかしちらとも表情を変えず、いや心なしか()()()()して。

 

「……だから、飼ってやると言ったろ」

「あん?」

「…………お前さんからしてみりゃ、大した値打ちもないんだろうね。アビスに心をやっちまった狂い共と席を並べるなんざ」

 

 平淡な声音は先程と何の差異も感じられない。女は平静だ。

 その筈なのだが、妙なものが見える。殊勝の二字を足蹴にして笑うような女が、自嘲など浮かべて。

 

「そんなに嫌いかい、探窟家が」

「……さてな。己自身にしてから今一つ判然としやがらねぇ。だが」

 

 気に入らぬ。その一念に変わりはない。今もなお。

 だが、関わり、現実に目の当たりにしたものは、己の想像を超えていた。その辺りで寝息を立てている娘がそうだ。そして今、隣り合うこの者がそうだった。

 

「お前さんと踏む鉄火場は嫌いじゃあねぇよ」

「……」

 

 女の平淡な眼差しに、口の端を歪めて笑みを返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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26話 兎の縁

 

 

 外套を脱ぎ、長椅子で横になる少年を包む。

 

「さて、ジルオよぅ。宿に行くか。こんなところで寝てちゃ風邪っ引きだ」

「んん……」

 

 赤子のお包みのようにして被せた外套ごと童を抱き上げる。己が身体の異常な発育も、こういう時は重宝だ。

 

「あの娘が起きて騒ぎだしたらそう言っといてくれ」

「お前さんはどうするんだい」

「眠い。寝る」

「おやおや逃げるのかい。流石のラーミナ坊やも大虎(ライザ)の相手は荷が重すぎたと」

「何と言われようが俺ぁもう寝る! さあさ行くかいジル坊、ジルは良い子だ寝んねしな~と」

「…………」

「んな露骨に不満そうな顔するんじゃねぇよ。難儀だってんなら、そこの若ぇのに娘っ子の面倒見させりゃいい」

「…………」

「おい、それも嫌だってか」

 

 この御師匠殿の親馬鹿っぷりは身を以て思い知らされたものだが、しかしそれにしたとて難儀な。

 悋気と呼ぶには頑是(がんぜ)なく、それこそ幼子の嫉妬だ。それをして年甲斐もねぇなどと言った日にはまたぞろ脛を蹴られるだろう。

 その拗ねた仏頂面を見上げると、溜め息が漏れる。

 

「……河岸は変えなけりゃならんだろうな。他人様の店いつまでも占領してる訳にもいかねぇ」

「宿」

「追ん出されるわ。あの娘を引き連れていてはな」

「にぃくぅ~!! オットバスの……こぉぶがいぃぃい~……」

「ラ、ライザ、ほんとに、死、死ぬ……」

 

 声のした方を見やる。ライザと青年はいつの間にやら床に転がっていた。

 ライザが青年の上半身に覆い被さり、上四方固めを極めている。なるほど確かに、うっかり股座で鼻と口を覆えば呼吸が阻まれ死ぬだろう。

 

「あれ、なんとかしてやれ」

「ぶー」

「えぇい我が儘ばかり抜かすな。子供かおのれは」

 

 初めて対面した時は今少ししゃんとしていた印象だが、深界で再会してからこっち、この女どうも儘ならぬ。

 甘えたな童じゃあるまいに。

 この女も大概酔っているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 オースからこのセレニを訪れた組合の特使、および白笛両名の隊は同じ宿に拠点を設けている。

 誘拐を教唆した首魁の身柄は既に我が方にあり、敵勢力の総本山も怪物姫二人に文字通り()()()()にされた。

 この子を捕らえ、害そうとする輩はもはやいない。宿の隊員に世話を預け、己は再び酒場へ舞い戻ればよかろう。本心を言えば今は寝床が心底恋しいが。

 雪のちらつく通りを歩く。轍で半ば氷のように踏み均された雪の道。

 通りには存外、人気があった。ガス式の街灯に新鮮味など覚えつ、見上げた夜空の濃淡と叢雲の向こうで朧に存在を主張する月の位置を認める。夜半と呼ぶにはまだ少し早い。

 酒場に篭り切りで酒盛りなどすればなるほど、時間感覚など狂って当たり前か。

 この辺りこそこの街の盛り場なのだろうが、オースに比べればややうら寂しい。国の政が難航し、民草の経済(かねまわり)が滞っている証だ。金という血の巡りを悪くすれば国土という肉体は腐って落ちる。避け難くそれは道理。

 

「……」

 

 たかが剣術使い風情が、識者気取りで思索を巡らせたとて詮無いことだ。

 この街の住人達の、活力に乏しい顔が通りを行き交う。腕の中の温もりを今一度抱え直し、宿への帰路を行く。

 その時。

 

「んなぁ! 触るな! 放せったら!」

 

 行き過ぎようとした路地の奥から、その声は響いた。

 屑籠や酒瓶が転がる薄汚い暗がりで、男が三人屯している。いや囲いだ。追い詰めた者を逃がさぬように、三方固め、壁際に閉じ込めて。

 男達の合間から白い髪が見えた。周りを取り囲む大柄に比べれば一層小さく見える。小柄な娘が一人、紛れもなく襲われていた。

 

「んぅ……ラーミナ……?」

「おっと」

 

 腕の中で身動ぎする。ジルオの眠たげな目が己を見上げた。

 

「このアマ、騒ぐんじゃねぇ」

「とっとと寄越せ売女が! 今日も客を取ったんだろ」

「何見てやがる。見世物じゃねぇぞ!」

 

 通行人の幾人かは何事かと足を止めるが、それを見て取った三人目が怒号を飛ばすとそれらは蜘蛛の子のように逃げ散っていく。

 喚声に驚いた少年が身を竦ませた。

 路地を見やり、その奥の様子を見て取ったのだろう。

 戸惑い、揺れる青い瞳が、その不安げな眼差しが己を見る。

 

「……仕方ねぇ。少し待ってな」

「! うん」

 

 ジルオを下ろし、外套の前を閉じ合わせる。路地へと向かう。

 

「モグリは禁止だって何度も警告してやったのに。もう駄目だ。見逃してやってた分まできっちり払ってもらうぞ」

「体が売りたきゃ組の店に入れ。誰がこのシマを守ってやってると」

「ふっざけんな下衆野郎! 頼んでねぇんだよ! この街の誰もてめぇらなんか認めてねぇ! 腐れ宗教屋の腰巾着が偉そうにすんな!」

「なん、この、糞アマ」

 

 威勢の良い啖呵だった。眼前の男の血管を切り破る程度の切れ味。

 拳が握られ、振り被られる。その意図は歴然で、なんとなれば迷いなく娘子の顔を狙っている。

 娘は歯噛みして目を瞑った。

 そうして打ち出されようとする男の腕を、掴み、絡め取る。

 捻り上げた手を男の背中に回す。骨が鳴り、筋が引き攣る感触。柔軟さがない。運動不足だな。

 

「いでぇええ!? なんっ、がぁ……!!」

 

 藻掻く男を解放する。

 二の腕を押さえ、男はその場によろめいた。

 三人分の目玉がぎょろりと己を睨んだ。

 そしてすぐ、その気勢がやや殺がれたのがわかる。正義漢気取りの気障野郎かと思えば、自分達より遥かに若い青年、いや肉体年齢は未だ子供の範疇。

 まさかこんなガキに難癖を付けられるなどとは考えもしなかった。そういう面だ。

 敵愾心が弱まり、代わりに表出したのは侮りと、嘲弄の気色。

 

「ちっ、旅行者の子供か。余所者はすっこんでろ」

「ガキが」

 

 踏み込んでくる。その迷いの無さはある種、評価に値した。

 中空を走り、向かってくる拳を見ながらにそんなことを思う。

 まあしかし、好都合ではある。自ずから来てくれるのだ。こちらとしてもやり易い。

 拳打を掌で逸らし、入れ違いに顎に裏拳をぶつける。顎の尖端を弾くように軽く、頭蓋の中身を揺する。脳震盪というやつ。

 眼球がぐらつき焦点はぶれ、男は地面に崩れ落ちた。

 一瞬、その場に沈黙が下りる。今もなおしんしんと降り積もる雪のような静寂。

 

「て、てめぇ」

「なにをしやがった」

 

 見るからに怯んだ様子の男達へ向き直り、僅かに思案する。

 大義名分はそう、こんなところ。

 

「夜中に騒々しいんだよ。せっかくぐっすりだったってぇのに……」

「あぁ!? ぶつぶつなに言って────」

「うちの坊が起きちまったじゃあねぇかァッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 苦しげに呻き声を上げる男達を路地のゴミ溜めに寄せ集め、その辺りのゴミの袋を積んで被せていく。

 こうしておけば凍死することはあるまい。

 ぱんぱんと手を叩きながら、その場を後にしようとした。

 

「んななな待った待った! そこなお兄さん」

「ん?」

 

 振り返った路地の出口には果たして、白髪の娘が立っていた。

 くすんだ髪色だった。ジルオが白銀ならば、この娘のそれは灰色だった。地面に落ち、踏まれ均され土と混じり、薄汚れた雪の色。肩口まで伸びた髪は、乾いた空気の所為か栄養状態が悪いのかぱさついて見える。

 上は兎革の白いコート。下は丈の短いズボン、なのか。尻まで見えそうな小さなそれが辛うじて下腹部を覆い、太腿にぴたりと張り付いている。この寒空の下で大胆に生足を晒す様は、艶気よりむしろ寒気を催した。

 モグリの娼婦。所謂、私娼か。先程の男達の言からもわかる通り。

 

「ややぁ助かったよ。今のは流石に結構危ないとこだったから。お兄さん強いねぇ。カッコよかったよ~」

「そいつぁありがとさん。冷えるのに御苦労だなぁ。まあ悪ぃことは言わねぇから、今夜のところはもう帰ぇりなよ」

 

 言い置いて、その横合いを摺り抜けようとしたところ、娘はこちらの腕を取った。縋り、抱き着いてくる。

 化粧と、やや強く香水が匂う。吹き過ぎのような気もするが。

 

「んなぁ、つれないこと言わないでよぉ。お礼もさせてくれないの?」

「気にするこたぁねぇ。礼をされるほどのことはしてねぇんでな」

「おー謙虚だねぇ。そういう人この辺じゃ珍しいよ。ふふ、ますます好きになっちゃうんなぁ」

 

 指が絡み、繋がる。掌が合わさる。

 耳朶に唇が寄り、熱い吐息がその奥底を擽る。変わった声をした女だった。妙に耳に残り、()()()がある。独特の愛嬌がある。小動物的というかなんというか。

 思わず笑みが零れた。

 

「なるほど、今夜は客入りが悪いか。その上折悪く破落戸に絡まれ踏んだり蹴ったり。この空模様、夜半を過ぎれば吹雪きそうだ。金を持ってそうな旅行者を今こそ取り逃がす訳にはいかぬ、と……そんなところか?」

「うぐ……鋭いじゃあないの、若そうな癖に」

「くく、人は見掛けで判らぬものよ」

「ね、ね、ホントダメ? ウチはまあ、肉付きはあれだけどさ……()()()のテクはそこそこのもんよ? 手先が器用なのが売りです」

「一人なら付き合ってやってもよかったんだが、生憎と子連れでな」

「えっ」

 

 通りにぽつりと一人、少年が佇んでいる。すっかり待ち惚けを食わせてしまった。

 

「……」

「?」

 

 娘は子の姿を見付けた途端、なんとも曰く言い難い表情をした。嬉しげであるような、悲しげであるような、どうしてか相反する色が、その顔を彩る。

 一度、己の腕を取る娘の手に力が篭った。ぎゅっと、それこそ縋るような、儚げな必死さが。

 

「……んなぁ、それじゃあ仕方ないね。また別の人を探す────」

 

 ぐぎゅるる~

 突如、地を這うように低く、獣の唸り声の如き音色が路地に響いた。

 娘を見やる。

 それは実に気不味そうな顔をしていた。

 

「食えておらんのか」

「んまあ、うん、ここんとこ実入りがなくて……はい、一昨日からなにも」

 

 腹が鳴った羞恥などよりむしろ、惨めさ。空腹に甘んじ、誰かに縋らねばならぬ人としての矜持が。

 一瞬、娘の顔を翳らせた。

 それは、実際のところはわからぬ。己の全くの見当違い、勘違いであったやもしれぬ。

 惨め……己のこの発想は実に幼稚だ。飯が食えねば守るべき尊厳も糞も無いのだから。それを矜持などと。

 だが、恥じらう娘のそんな人がましさは、己の好むところではある。

 

「ここらで旨い飯屋はねぇか」

「え?」

「暇なら案内してくれ」

 

 暫時、目を瞬いてこちらを見詰めていた娘は、微かに笑みを浮かべ、静かに吐息した。

 

「んなぁ、お兄さんってば……結構チョロいなぁ」

「おぉ忙しいってんなら無理にとは言わん。引き留めてすまんかったな」

「んなぁー! ウソウソ! 安くて美味しいとこ知ってるって!」

 

 巡り合わせか、あるいはこれも縁か。

 強かで妙に愛嬌のある娘と出会った。

 

「お兄さん、あー、お兄さん呼びでいいんかな。お兄ちゃん♪とか、パパとか、ご主人様……なんて呼ばれたい?」

「別になんでも構わねぇが、俺ぁラーミナ。お前さんは?」

「ムタ」

 

 騒動を終わらせ、また一つ騒動の種を手ずから育てようとしている。その自覚はある。あるが、まあ。

 それもまた一興。

 

「ウチはムタだ。よろしく、ラーミナ」

 

 ふわりと、この雪のように柔らかに娘は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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27話 悪性腫瘍

 

 

 

 中央通りの盛り場を離れ、路地を跨ぐこと幾つか。

 裏通りはひどく雑然としていた。

 狭苦しい通りに行き交う人、人、人。早足に歩き去る者、足を止めて呆とする者、着飾った者、襤褸を纏う者、顔を隠す者、大声で笑う者、妙に人目を気にして肩身を縮める者、大荷物を抱えて走る者、それを追い掛ける者。ありふれた日常から怪しげな非日常まで。営みがある。

 この辺りは酒屋や飯屋が大半だが、露店商も幾らか通りに茣蓙を広げている。雑貨類、金物、肉に魚、果物、生薬まで手広いこと。出所が真っ当である保証はないが。

 

「なんだか、オースの岸壁街みたいだ」

 

 ジルオの言に内心で肯く。ここはあの貧民窟の仄暗い喧騒を思い出させた。

 しかし、人の活気も賑わいも表通りとは雲泥の差だ。

 

「ウチらにとっては闇市の方が生活の基本だからね。質を問わなきゃ、わりとなんでも揃うよ」

「地獄の沙汰も金次第か」

「そゆこと。んで、お金がないと今のウチみたいになります」

 

 お道化た調子で、盛大に腹を鳴らしながらムタは言った。

 当人が笑っているのだからまあ笑い話なのだろう。金はなく、盗みを働く器用さも、他者から奪う暴力も持ち合わせぬ、ならば飢えて死ぬしかない。

 オース、セレニ、他の国々とて同じ。何処を見渡しても掃いて捨てるほど散らばる現実。

 

「さ、こっちだよ。『雪どけ』ってお店なんだけ、ここいらじゃ珍しいくらいスープが具沢山なんだ。今の時期はトナカイ肉のローストが……」

 

 先導するムタがこちらを振り返った瞬間、小さな人影が娘にぶつかった。子供だ。背格好はジルオとどっこいの、幼子。

 咄嗟のこと、避ける間もない。

 

「ッッ……!」

 

 ムタの反応は劇的であった。衝突に身を固くし、腹を抱えるようにして背中を丸める。

 ある種、過剰なまでの大きな挙動で。

 体当たりを見舞った方の童は、詫びの一言もなく己の横合いを擦れ違う。そのまま駆け去っていった。

 

「大丈夫か」

「んなっ、なっははは! うん、大丈夫大丈夫。いやいや前方不注意ってやつだ」

「ああ、気を付けな」

 

 革の小袋を娘に差し出す。一瞬呆然とそれを見詰めた後、丸く大きな瞠目が己を見上げた。

 

「私の財布!……そっか、さっきの」

「スリ?」

「らしいな。なかなかいい腕だ」

「くあー、油断したぁ。ジモティーでこれは恥ずいんなぁ……」

 

 受け取った財布を急ぎコートの懐へ仕舞い、ムタは頬を掻く。気不味さを誤魔化すような仕草、そう見える。

 

「ごめんね! ありがと。こりゃご恩が重なりっぱなしで返済が大変だぁ。あははは」

 

 からからと笑うその様に含むところは覚えない。

 だが、どうにも募る。不審に至らぬまでの、疑問が。

 一握りほどの革袋の財布。中身の感触は硬貨ではなかった。あれは、丸められた札の束。

 

「さあさあ改めて案内するよぉ! もうすぐそこだから」

 

 再び先導役に立ち戻った背中に随う。

 傍らのジルオの手を取り、僅かに引き寄せておく。奇襲されれば即座、幼子を抱えてその場から瞬発できる。

 

「ラーミナ?」

「一応、逸れんようにな」

 

 とはいえ、警戒の念は二分ほど。娘子の気配には一向に、こちらを欺くような色は見えなかった。

 詐欺や騙し討ちが目的の者がわざわざ面倒な子連れを選ぶとは思えぬ。

 ゆえにこそ不可思議。金を持っていながら困窮した様子を見せる娘が。

 なにより、先程の挙措は。

 

「着いたよ」

 

 夜闇を暖かに照らす灯。鼻を擽る料理の匂い。

 現地語と公用語、立て看板には二種の言語で『雪どけ』と手書きされていた。

 

 

 

 

 

「うんまぁ~……」

 

 娘は涙すら浮かべて言った。そうして、卵とトマトの炒め合わせをバゲットに載せてさらに齧る。

 二日ぶりにありついた食事ともなれば、味も喜びも一入だろう。

 ジルオもまた己の隣で黙々と匙を口に運んでいる。よく煮込まれた肉や野菜が大杯にごろごろと詰まって、娘の評価通りなかなか食いでがあった。

 トナカイ肉のロースト。同じ薬食いであるところの鹿や猪とも違う。淡泊で獣臭さが少なく、赤ワインの浸けダレの濃さが良い塩梅だった。エールも合う。

 

「ラーミナ、また飲んでる」

「いや、酒に合うこの肉が悪い。実に、んむ……悪い。悪いぞぉこいつぁ。ははは」

「もぉ、昨夜もさんざん飲んだのに」

「すまんすまん。ジルオも早ぇとこ飲めるようになってくれぃ。お前さんが居てくれりゃ己も加減ってやつを覚えられる」

「ん……いいけど」

「おぉ楽しみが一つ増えたな。ありがとよ」

 

 軽口の約束事でも童は生真面目に受け取ったらしい。匙に口を付けたまま照れたように視線を逸らす。

 大きくなったこの子と酒を酌み交わす。それは楽しみだ。とても、とても楽しみだ。

 

「お前さんもどうだ。飯のついでだ、別に遠慮は要らんぜ」

「ん、いいよいいよウチは。最近はあんまし飲まないんだ。やっぱし健康って大事じゃん?」

「ほー、そうかい。そりゃ殊勝なこった」

 

 両手で頬杖をついたまま娘は首を左右した。代金に気を遣っているという風情ではなく、控えているというのも本当らしい。

 

「にゅふふふ」

「なんだ、ニヤニヤしやがって」

 

 先程から食べるのもそぞろに、ムタは己らの遣り取りを対面からじっと眺めていた。

 

「んなぁ、仲良いなって思ってさ。兄弟っていうか……親子みたいでさ」

「齢はそこまで離れてねぇ筈なんだがな」

「え、うっそだー! キミそんなに若いの? 見えない見えない」

「失礼な。こんなナリだがこう見えて俺ぁ…………俺ぁ実際んとこ幾つなんだろうな、ジルオ」

「いやわかんないけど……初めて会った頃より今のラーミナすごいでっかいし」

「子持ちって言われてもウチは信じるね」

「そうするとジルオが俺の子か。いや己に似ず、すっかり賢く育ってくれちまって。父ちゃんは嬉しいぜ」

「……」

「わ、赤くなった。照れてるよぅこの子~、かぁわいいんなー!」

「ッ~!」

 

 ムタは目をキラキラさせてジルオを囃す。なんとなれば身を乗り出し、頭を撫で頬を撫で存分に愛でた。

 それは初めこそ、小動物を可愛がるようなはしゃぎ様だったが。

 次第次第に、娘の眼差しは穏やかになっていった。陽光のような暖かみを宿して、瞳が、その手が優しく包む。幼子を。

 

「……ジルオくんは可愛いね。ウチも────」

 

 娘の柔らかな視線。それは目の前のジルオを見ているようで、その実遠い。まるで未だ行き着かぬところへ注がれている。

 どうしてか己の目に、かの女はそのように映った。

 子を想う姿。その様は、それこそまるで。

 

「あの……」

「あ、ごめんね。べたべた触っちゃって」

 

 戸惑うジルオに、ムタはすぐ身を退いた。

 子供好きゆえの強引な触れ合い方。そうも見えたが、娘のそれには繊細な慮りのようなものが感じられた。

 

「んー、やっぱし今日のウチってばついてるんなぁ。太っ腹な御大尽と、こーんな可愛い男の子と一緒にごはん食べられるなんて」

「急に改まってどうした」

「改めて喜びを噛み締めてるんさ。あの『カザフ』の連中に絡まれて、あーもー今夜は終わったなぁって絶望してたところにキミが颯爽と現れて一瞬でボコしてくれたんだもん。控えめに言っても最っ高だね! んなははは」

「『カザフ』?」

「そ。この街に流れて来たギャング、っていうの? まあ、本当にただのろくでなし共だよ」

 

 何処にでもいるチンピラ。と言うには確かに、あれらの遣り口は度を超えて横暴だった。

 

「一年くらい前からかな、奴らがこの街に居着いて好き放題し始めたのは」

「店に入れだのどうこうと脅されておったな」

「この街に元からあった娼館を奴らが乗っ取ったんだ。店にだけ客を呼び込みたいから私娼(たちんぼ)やってた娘達を脅して捕まえたり、酷いと殴り付けて追い払ったり。周りの店や住人からは用心棒代なんて言ってみかじめを巻き上げる。誰から守るってのさ? 誰よりも厄介者なのお前らなんだってわかれよ! ほんっと最低最悪の糞、っとととごめんねジルオくん。ちょっと耳塞いでてね」

「ん、別に」

 

 街のチンピラ風情では逆立ちしても届かぬ()()()を師匠に持つこの少年にとり、この程度の話題は些事であろう。

 密かに苦笑を堪える。

 

「最近はわりと大人しかったけど、急にまた騒ぎ出したのは……やっぱり『モデナ』のことがあったからだろうね」

「……」

 

 『モデナ』

 この単語には聞き覚えがあった。しかもごく最近。なんとなれば一昨日に。

 こちらの沈黙の間を物問いとでも勘違いしたのだろう。ムタは親切に説明を続けた。

 

「あ、『モデナ』っていうのはね。この街にある宗教団体の名前。正確に言うと、モデナ山の神様のことをこの国ではそう呼んでるんだけど。勝手に自分達の教義の名前にすり替えてるのが、モデナ教のイカれ坊主達。あいつらこそ正真正銘の下衆外道さ。貧民救済とか謳ってるけど、裏では人身売買だの麻薬密売だの黒いことをやってる」

「そんな噂が市井にまで出回ってんのか」

「噂なもんか! 実際にウチと同じ私娼仲間が……友達が、あいつらに壊されたんだ。それも、この国の役人への“接待”に遣わされてね」

 

 軋む。それは眼前の娘の口中。ムタは奥歯と共にその憤怒を噛み締めていた。

 

「……こんな仕事だから、先がないことは皆わかってた。だから助けを求めてあんなところに行っちゃったんだ、あの子……」

 

 暗く、その面相が悲哀に翳る。記憶の中の輩を悼んで。

 はっとして娘が己らを見る。

 

「ご、ごめんごめん! 別にキミ達の同情引きたいとかじゃなくて。それに、もう終わっちゃったことだし」

「終わった?」

「そう! こっからは良い話。つい一昨日の話、なんとモデナの屋敷がぐちゃぐちゃのばらばらにぶっ壊されたんだ!」

「……」

「……」

「どこの誰がやったかはわからないけど、とにかくモデナ教が壊滅させられたって。ま、肝心の司教の糞爺は行方知れずで、ちゃっかりとんずらこいたらしいってのが腹立つけどさ」

 

 実に身に覚えがある。身に詰まされるニュース速報だった。

 ジルオと視線だけ交わす。言わぬが花というものだ。

 けらけらと存分に笑った後、ムタは再び顔を顰めた。

 

「ただ問題なのが、カザフはモデナに取り入ってこの街にのさばってたんだ」

「あ? 破落戸を宗教屋が囲ってたってのか?」

「そう。自分達に逆らう人間、特にモデナ教以外の宗教を信仰してる人間とかを、カザフの糞チンピラを使って街から追い出して来たんだ」

「体のいい猟犬といったところだな」

「そんないいもんじゃない。街に巣食うダニだよ」

 

 今にも唾を吐き捨てそうなほどに嫌悪が娘の顔を彩った。ジルオの手前そんな真似はするまいが。

 とはいえ、その恨み節のお蔭で得心がいった。

 あのチンピラ共、カザフと呼ばれる破落戸共の横暴。私娼のそう暖かくもなかろう懐に為された無体で無茶な取り立ての背景が。

 奴らは字義通り、モデナなる宗教屋の有るか無きかはともかくも、権威という背景を。その後ろ盾を失ったのだ。突如現れた二人の白笛による暴挙、暴威によって。

 

「……ラーミナだってタイガイだと思う」

 

 ジルオのぼやきに気付かぬふりをしつつ。

 これまで得られた利権、利潤、それらが宗教屋による独裁に裏打ちされたものであったなら、奴らはこれより先否応なく窮状に立たされる。

 

「んまぁ、これで少しは街が落ち着くよ。奴らが荒らした分、時間は掛かるだろうけど」

「そう安堵するにはちょいと早いかもな」

「え?」

 

 窮鼠は誰彼構わず噛むもの。それが無法の無頼漢共とあればなおのこと。行き掛けの駄賃を貪ろうとしたところで何の不思議があろうか。

 

「奪えるだけ奪い退散する。最底辺のろくでなしなら自然、そのように考え動くのではないか」

「そ、そんな……」

 

 己の言に、対面の娘は顔を青くした。おそらくは最低最悪の想像がその脳裏を過ったのだろう。

 

「すまんすまん。こんなものは己の浅慮よ。本当にそうなるとは限らん」

「う、うん」

「なぁに、お前さんの言う通り、さっさと尻を捲って街を出ていく公算だって……」

 

 低くはない。そう締め括ろうとした、その時だった。

 荒く、粗野に、地を響く。大量の足音。それは表の通りを駆け抜けていく。

 

「なに」

「……」

 

 店の扉がけたたましい音と衝撃で開かれた。

 外から内へと、それらは雪崩れ込んでくる。

 手に手に武器を携えた悪相凶相の男達。

 引き攣るような沈黙に支配され静まり返る店内。そんな中、居合わせた客の一人が慄きを以て呟いた。

 

「カ、カザフだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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28話 それは祭囃子

 

 

 

 厨房の奥から壮年の男が出てくる。店主だろう。

 騒音の正体を見て取った男は苦々しく顔を歪めた。

 

「一体なんの用だ。今週分ならもう払って」

 

 店主が言い終わるを待たず、声は途切れた。

 重い打撃の楽。進み出てきた無頼の一人が手にした棍棒で店主の頭を殴り付けたのだ。

 時間が静止するかのような緊張が店内の空気を絞め上げた。凝固する、二人連れ、一人、一人、一人。己らを除く五人の客達はすっかり座席に縫い留められた様子だ。

 いや、それは対面に座する娘とて同じ。

 

「有り金を全部出せ。ここにいる全員だ」

 

 ドスを利かせた声を張る。無頼、巌のような男だ。体格もそこそこ。棍棒は木材をきちんと削り出した太い円柱形、握りには鞣革が巻かれている。

 店内に踏み入って来た者は他に二人。

 一人は鉈、いやあれは肉切り包丁か。刃の肉厚さだけなら斧にも匹敵する。

 もう一人は長柄の鎚、普請場で杭打ちに使うような大振りの物。もし店主があれで叩かれていたなら、命はなかったろう。

 己が斯くも悠長に観察を続けている最中も、ムタは律儀に顔を青褪めさせていた。

 

「ど、どうしようどうしようどうしよう……!」

「手っ取り早いのはお望み通り金をくれてやるこった。出さねば打つ、もしくは指くらい落としちまうぞ、と」

「お金を……でも、これは……」

「……」

 

 見掛けの派手な凶器をチラつかせるのは、なによりもそうした脅迫を強調する為。痛そうな鈍器、痛そうな刃物。実に分かり易い。()()()()()を優先した武器の選択だ。

 そして、同様の理由から奴らは火器を所持していない。あるいはそれらは懐中に仕舞われている。取り出し、構え、狙いを定め、撃つ。三ないし四の工程を要する銃火器類は現状……脅威には値しない。

 殺傷力に加減の利かぬ武器では不都合が多いのだ。殺しの後始末が面倒なのは程度の差こそあれ万国共通の理。

 死体から金品を剥ぐ手間すら、今の奴らには惜しい。

 

「こちらには好都合よな」

「なにが!? どこが!?」

「うるせぇぞ!!」

 

 至極真っ当な娘子の叫びを聞き取って、無頼の男ががなる。

 途端に、ムタは身を縮めた。

 男が歩み寄り、己らを順々に睨め付けていく。

 

「よぅしそこのお前らからだ! 財布と貴金属、金目の物を全部出せ。さもねぇと痛い目を見るぞ」

 

 お決まりの科白を繰り返す。脅しの教本などというものがこの世に存在するなら、それは第一項の第一行目を飾りそうなほどに、陳腐。呆れようか、それとも感心しようか。

 

「おい、ガキもだ」

 

 その時、目の前の男とは別の、太めの男が言った。

 過たず、その顔面の肉に埋もれた細い目線の先には、ジルオ。

 

「やめとけ。運ぶのが手間だ」

「馬鹿、あいつらが言ってたろ。ガキは大人の倍額だ」

 

 のっそりと進み出、手を伸ばして来る。ぶくぶくと太い腕、肉の皺の寄った手首、指すら。

 それはひどく醜悪だった。無論、それは今一時、己の気勢が見せている印象に過ぎぬ。

 この男を赦免し難い悪と断ずる、己が意思により。

 腰元で鯉口を切る。座の姿勢から、抜き打ちに────

 

「っ!」

 

 娘の動きは素早かった。身体の瞬発力云々、というよりその迷いの無さこそが。

 思考した末の動きではない。反射反応、煩雑な工程を超越した敏速で。

 娘は突き匙(フォーク)で、男の肉布団のような手を刺したのだ。

 

「ぎっ!? いでぇ!?」

 

 手を押さえて悶える男を掻い潜り、ムタがジルオを抱き寄せる。

 あるいは無頼を前にした時よりも、ムタの腕の中で戸惑いを露わにする少年の様が、なにやら可笑しかった。

 掻き抱いた矮躯、娘はそれをひしと、必死に包む。己の身を挺して守っている。

 そこに先刻までの周章狼狽ぶりは欠片もなかった。

 燃え盛るような敵愾心が瞳に宿り、無頼共一人一人を睨み付け、射殺さんばかり。

 

「失せろ下衆野郎!」

「このアマ!?」

 

 肉襦袢が肉切り包丁を振り上げた。それは実に、気の利いた冗談のような取り合わせだ。

 裁断機よろしく降ってくる腕を、斬り上げる。裁ち、飛ばす。

 半端な勢いで宙を舞った前腕は、包丁を握ったまま近場の柱に突き刺さった。

 

「ひぃっ、い、ぎぁ」

 

 悲鳴すら満足に上げられず、デブは床を転がった。

 棍棒持ちの男が泡を食って後退る。

 踏み込み、柄頭を打ち出し、その喉笛を潰す。こちらはそれこそ一声と上げず昏倒した。

 卓を乗り越え、最後の一人へ接近する。

 大鎚を持った痩せ型の男。迎え撃たねば、男の脳はどうやらその程度に思考力を回復させていた。

 鎚が振り下ろされる。

 しかし、大振りな金属の頭部は相応に重く、その動作は緩慢に過ぎた。

 間合を見計らいその四半歩外側で待てるほどの暇がある。

 床を重く打ち付けた鎚の頭を踏み付け、痩せ男と向き合う。男は曰く言い難い微妙な表情を浮かべた。

 笑みと、拳をその顔に返す。

 勢い、男はカウンターの向こうへもんどり打って消えた。

 再び静寂の下りた店内。床をのたうつ海象、もといデブに手拭を放り捨てる。

 振り返った先、ジルオを抱いたままムタは呆然と己と倒れ伏した男達を見ていた。

 

「二人とも怪我はねぇな?」

「えっ、は、はい。ジルオくんは!?」

「へ、平気だよ。大丈夫だから、その……」

「あ、ごめんね。苦しかったよね」

 

 ジルオを解放してからも、ムタはその全身をぺたぺたと触って検めた。

 子供の自己申告など信用してやらぬとばかり。娘のその過保護っぷりは、己をひどく牧歌的な心地にした。

 

「まったく、勇ましい娘っ子だ」

「んなぁ、ははは、ついね。つい、体が動いちゃってさ」

 

 娘は床にへたり込んだまま、ばつが悪そうに頬を掻いた。

 手を差し伸べ、引っ張り起こす。

 

「子供の為に体を張る。見上げたもんだが、あまり無茶をするもんじゃあねぇぜ」

「……うん、ごめんなさい」

「もう、お前さん一人の体ではないのだ」

「!」

 

 息を呑み、見開かれた黄金の瞳が己を映す。

 それはこれまでの疑問に対する明白な回答だった。

 ならば、己の今宵限りの仕事も決まった。

 

「労われよ」

「あ……ま、待って」

「おぉそうだ。すまねぇがジルオを頼む。事が済んだらここで落ち合おうや」

 

 言い置いて、行く。

 背中に追い縋る声には応えず、ひらひらと手を振って。

 雪どけの扉を潜った。

 寒空の冴えた空気、その中に漂いひりつく暴力の香り。

 それら全て、悉く掃き残しの無いよう、浚っていく。

 

 

 

 

 

 

「だ、ダメだよぅ! 無茶だよ! カザフには何十人も手下がいる。武器を持った奴らが大挙してるんだよ!? それを一人でなんて……!」

「大丈夫だよ」

「え?」

「ラーミナなら、大丈夫」

 

 揺るぎない確信を以て少年は頷く。

 行きずりの娼婦には、その一切の疑いを持たない瞳が理解できなかった。けれど。

 けれど、どうしてか。

 夜闇に消えた背中が目に焼き付いている。娘はただひとえにそれを、信じたい。そう願っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んががっ」

「起きたのかい」

 

 厳冬の酒場で、地べたを寝床にしていた娘子が突如起き出す。

 黒衣の長身痩躯は酒を啜りながらそれを流し見た。

 虚空を仰ぐ碧い瞳。日輪も斯くやの輝きを持つそれが今、爛々とその火勢を強めていくのだ。

 

「……匂いがする」

「あん?」

「祭の匂いだ。鉄錆と土埃、それから硝煙も少々」

「ほう」

 

 オーゼンがにたりと笑う。

 ライザは燦燦と大笑する。

 

「ラーミナめ。また愉しげなことをやってるな。この私達を差し置いて」

「行くかい」

「行く! トーカは留守番だ!」

 

 床で伸びた青年を置いて、白笛共は酒場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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29話 刀刃舞踊

 

 

 

 そう広くもない通りに、よくぞこうまで、と。

 呆れと失笑の気息が鼻を抜けた。

 誘蛾灯に集る羽虫の如く、多勢で大の男達が通りに面した店屋、露店に群がり、通行人に集り、金品を巻き上げているのだ。

 

「おらおらもたもたするんじゃねぇ!」

「逆らうやつは容赦するな!」

「殴り殺されてぇか! あぁ!?」

 

 手に手に様々な凶器を携え、怒号と猿叫、時には実際にその凶器を振るい、誰も彼も区別なく脅しつける。

 あるいはこれぞ面目躍如。愚直とも言える無頼、この悪党っぷり。

 獣、いや尻に火の着いた毒蟲共。見境などとうの昔に見失っていた。

 結構。

 上等だ。

 

「おい! そこのお前だ。金目のものを」

 

 ふらふらと出歩くカモを見付けた男が一人寄ってくる。

 手には刃渡り三尺ほどの木剣。諸刃の直刀を模したもの。

 なんとまあ実に、お誂え。

 殺し難い武器が欲しかったのは何も彼奴らばかりではない。

 

「なにシカトこいてんだこの────」

 

 貫手で脇腹を突く。丁度、第十肋骨の真下を掬い上げるような入射角。

 

「げは」

 

 指先は胃の腑を直撃した。

 もはや自然の摂理で、男は嘔吐し、くの字に体を折る。

 引き抜いた手を返す刀、打ち出す。拳はその鼻っ柱を存分に砕いた。

 気の利いた男だ。きちんと木剣をこちらに放ってから、男は路上で大の字を晒した。

 有り難く失敬した木剣を二度、三度振るう。赤樫だがそれにしては重い。どうやら鉄芯が埋められている。

 今しがたの仕儀を目撃していた幾人かが一斉に己を見る。信じ難いものを見るような目だ。

 笑止。

 

「殴り返されたのがそんなに意外か」

「なんだぁてめぇ!?」

「無頼よ。おのれらと同じ」

 

 誰何するだけその男は律儀であり、悠長だった。

 事実、隣からこちらに踏み込んできた大男は問答無用。大上段、夜天に凶器を振り被り、来る。

 この場における最速の判断能力を発揮したといえよう。もしくは迅速にそれを破棄したとも。

 何にせよ正しい。逆らう者はとっとと黙らせる。それが最適解。

 頭上に、棒の先に棘を群生した紡錘形の金属塊が見えている。鎚鉾、またの名を戦棍(メイス)

 本来それは甲冑を鎧った敵手を屠る為の武器。生身の人体など挽き潰して余りある。

 それは男の腕力と鉄器の落下重量が乗じ、石畳の表層を粉砕した。

 

「ぎゃ」

 

 擦れ違いに胴に一閃。抜き胴。

 男の驚愕と苦悶、戦棍の鉾先を左側面へ駆け過ぎる。

 通りに重く降りる沈黙。液体のような無音。その中に、徐々に波及する。理解が。

 “敵”が現れたのだ、と。

 店屋の中から、通りの路地から、持ち場を離れてまで男達は通りに姿を見せる。続々と。

 

「なんだ」

「あのガキだ」

「歯向かいやがって」

「あれにやられた」

「さっさとやれ」

「潰せ」

「片付けろ」

 

 “敵”、自分達の仕事を邪魔立てする敵を、ぶち殺す為に。

 

「殺せ!」

 

 いや、いやよかった。彼らが勤勉な暴力集団であったことは今この時、己にとり無上に幸いである。

 なにせ手間が省ける。

 居並ぶ一同へ向けて笑み。

 

「来いよ、ダニ共」

 

 易しく易しくどこまでも易しくを心掛け、選び抜いて発した挨拶兼号令は極めて有効に眼前の破落戸共の神経に響いてくれたようだ。

 それらは獣の群と化し、咆哮と殺気を吹いて、大挙する。

 

 

 

 

 

 屋根の上から眼下を望む。狭苦しい闇市のうらぶれた飲み屋通り。

 実に冴えない。掃き溜めのようなその場所で、しかして劇的に闘争が幕を開けた。

 一対多。数的な差は一見しても数十、ないし百倍を超える。だが。

 だのに。

 刃圏に踏み入った者から順当に、丁寧に、容赦なく、かの青年は打ち倒していく。

 それは、葦の叢を鉈で刈り取る様に似ていた。最小の労力で最大の破壊力を以て最高効率の伐採────鏖殺を実行する。

 殺戮機械とはああいうものか。

 我ながら素朴な、陳腐な感想に失笑する。

 無論この感想ほど実態は単純ではない。かの男の踏み込みの一歩、体重心の移動()()()にしても常人には、まして機械などには到底不可能だろう。

 況んやそれを相手取り戦い、勝つことなど。万に一つも。

 あるいは、アビスに巣食う原生生物共ならばどうか。未来予知にも匹敵するあの“感知能力”ならば、かの男を捉え得るかもしれない。

 それは、ひどく。

 

「……」

 

 見たいな。

 どう戦う。人間など足元にも及ばない獣の強靭な躯体と動体視力、そして人知の及ばぬ異能。

 それを前にした時、かの男ならどう戦う。どのようにして敵を殺す。

 好奇心。久しく動かなかった胸奥のその器官が、なにやら疼く。

 近頃の探窟行ですら、この臓器は動こうとはしなかった。慢性化した退屈は心臓の内側の肉を硬くする。その硬化した筈の部分が、熱を持ち、躍るのだ。

 あの男は嫌がるだろう。徹頭のアビス嫌い、なにより探窟家の救い難いこの執着を、この性を嫌っている。

 当然ながらそんなもの知ったことではない。

 奈落へ引っ張り込んでしまえば、容易には戻れない。あの度し難いアビスの呪いが男の帰路を阻み、己の目論見に味方する。

 それはなんとも奇妙な、痛快な話だった。

 

「くふふ」

「……なんだい。人の顔を見て笑うなんて、いい度胸じゃないか」

「これは失敬。いやなに、隣に立つ偉丈夫のニヤケ面があんまりにも面白かったものでな。つい」

「……」

 

 ライザの笑みに冷厳と睨み返す。当然、娘の表情はちらとも怯まず、変わらず、なんとなれば一層綻んでいく。

 

「ラーミナはやっぱり面白い奴だ。あんたもそう感じてきたんだろ、オーゼン」

「知らないよ」

「あいつは私達を、白笛を恐れないし、畏れない。なんなら敬いもしない! ハハハ」

「だからなんだってんだい」

 

 娘は真っ直ぐにこちらを見ていた。そうして真っ直ぐに、衒いも含めずに。

 

「あんたには、ああいう男が似合いだと思ったのさ」

「…………馬鹿も休み休み言いな」

「どうして? いいじゃないか! 老いらくの恋は今だぞ! オーゼ────」

 

 軸足で屋根瓦を抉り、身を捻る。

 娘の小尻に背足を蹴り入れた。

 屋根からぶっ飛んだライザが通りに落ちる。

 

「蹴るよ」

「蹴ってから言うな!」

 

 喧騒が絶ち消え、静まり返った通りに娘の叫びが木霊した。

 

 

 

 

 

 



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30話 団欒な闘争

 

 

 

 突如、屋根から女が降ってきた。

 ぐるぐると天然の癖で巻かれた金糸の髪が、冴えた夜気の中で星屑めいて輝く。

 瀑布のような髪の下、両瞳は烈日の如く眩い意志の光を放つ。

 さながら火炎か紫電のそれ。触れるも容易ならぬ存在の激しさ。激しいまでの、美貌。

 が、そんな煌びやかな外見とは裏腹に、娘は己が尻を擦りながら軒下をぴょんぴょこ跳び跳ねていた。その瞳が光って見えたのは痛みで滲んだ涙だった。

 奇態である。

 

「くひぃっ、び、尾骶骨を的確に……!」

「なにをしとるんだお前さん」

 

 なにやら訊くのも憚られたが、無視する訳にも行かぬ。

 尻を擦りながら前屈みでライザが近寄ってくる。

 

「お前がまた面白そうなことをやってる気配を感じてな。こうして馳せ参じたのさ」

「今のお前さんの方がよっぽど面白可笑しいんじゃあねぇか」

「うるさいな。うぅまだひりひりする……あとでトーカに軟膏塗ってもらおう」

 

 一切の躊躇なく尻を露にする娘と、それを面前にして真っ赤になって目を回す青年の顔が目に浮かぶ。

 

「オーゼン! この癇癪玉め! 照れ隠しで暴力なんてのは少女の所業だ! 五十年遅いぞ!」

「また蹴られたいのかい」

 

 黒衣が降り立つ。夜天の闇がそのまま人の形を取ったかの漆黒。

 すっかり見馴れた長身であるがやはり未だ驚嘆は禁じ得ない。なんせ雨樋に頭が届きそうなのだ。

 

「揃いも揃って何しに来た」

「酔狂を拗らせた男を笑いにさ」

「交ざりに来たに決まってるだろ。二日と空けずに兇気の香る祭が始まったんだ。見過ごせようか? 否、否、否!」

 

 平素通りの皮肉を垂れるオーゼンと物騒な躁気を垂れ流すライザ。相反するような風情であるがその実、こやつらの仕様は大して変わらぬ。

 同じほどに戦を好む。

 

「し、し、白笛」

「白笛だ」

「癖毛の金髪に、白い羽付きのヘルム……せ、殲滅卿だ。殲滅の、ライザだ」

「黒衣の巨躯。まさか、不動卿か!?」

「嘘だろ」

「もう出立したんじゃなかったのか!?」

「じょ、冗談じゃねぇ! まだセレニに居残ってたなんて聞いてねぇぞ!?」

 

 悠々駄弁に興じるこちらに、襲い掛かるでもなく見を決め込んでいた敵さん方が俄にざわつき始めた。

 他人事に、然もありなんなどと得心する。

 ここに居わすは世界にその名を轟かせる大英雄、奈落を極めし超人、深淵の闇に輝く恒星。

 呼ばわる偉名数知れず、しかし呼ぶべき異名は一つ。

 白笛。

 知らぬ者はなく、並ぶ者もない。この世界における至高の称号であった。

 加えて此度、あちらには事情がある。元の雇い主諸共に、白笛を現在進行形で敵に回しているというなかなか窮まった痛点を抱えている。

 なればこそこの略奪であり、これが済んだ暁には速やかな夜逃げが敢行される予定だったのではあるまいか。

 どうやらそれは確実に不可能になった。その厳然の絶望を二つ、眼前に望む心地とは如何なるものか。多少の憐れみが湧かぬでもない。

 

「ひのふのみの……うむ、五十人は残ってるな。いや結構結構。気を利かせてもらってすまないなラーミナ。これなら、まだ遊べる」

「た、助けてください!」

 

 獲物、ないし殴る的を指折り数える娘の様子に、堪らずと男が叫ぶ。武器を捨て、その場に跪いて頭まで垂れる。

 そして我も我もと追従する者は多かった。

 

「俺たち、ただの下っ端なんだ」

「命令されてその、仕方なく」

「あんたらに歯向かう気なんてこれっぽっちもない」

「奪った金は全部返す! ほら、この通り」

 

 じゃらじゃらと此処彼処で金品が投げ出されていく。

 むくつけき男共に平伏され、娘は暫時沈黙していた。

 戸惑い。あるいは、あっさりと服従を示すその様に興が殺がれたのか。

 またぞろ我が儘をぶち上げやしまいかと、娘の顔色を覗き。

 己は言葉を失くす。

 そこに宿った、意表外の色に。

 

「別に返さなくたっていいんだぞ」

 

 娘は、微笑んでいた。それはまるで友人に向けるような気さくな笑顔で。

 

「どうせ今から奪い取るんだ。この場の全員から、根刮(ねこそ)ぎな」

 

 宣言は単純にして明快。誤解の余地はない。

 しかし、男達にその言葉を理解した様子はなかった。

 性懲りもなく、いや当然の必死さで無頼の一人が言った。縋るように。

 

「み、見逃してくれ」

「どうして?」

「どっ……へ?」

「どうして私がお前達を見逃すんだ?」

 

 それはもはや幼児が口にする疑問だ。大人が回答に窮する純粋で、無垢に過ぎるそれ。

 幼子のような笑みのまま、女は小首を傾げる。

 

「鉄火を以て奪いに来たのだろう。欲しいものを(ほしいまま)にしたくて、戦いに来たのだろう。ならやろう。すぐやろう。殴ったり殴られたりしよう。斬ったり斬られたりしよう。殺したり殺されたりしよう!」

 

 両手を広げ高らかに少女が謳う。それは一つの理念。

 闘争の真実。

 

「逃げる奴はその背中を打つ。土下座してる奴はその頭を踏み潰す。抵抗しろ。しないならそれでも構わん。痛い思いをするだけだ。下手を打っても、なぁに死ぬだけだ。フフフハハハハハハッ! さあ────」

 

 華やぐ。可憐に、咲き誇る百合の花弁めいて。

 

「武器を取れ。死にたくないのなら」

 

 親しげな最後通牒を受けて、遂に男達の無理解は破裂した。

 死の恐怖。至上の原動力を得て、死に物狂いで立ち上がる。

 そうして生まれる。阿鼻叫喚が。

 

「あはッ! そう来なくては!」

 

 暴徒と化した者共を前にして、しかし、やはり、この娘は。ライザは笑った。無邪気に笑い、吶喊する。

 

「おい! ライザ!」

 

 小さな背中が向かっていく。

 それを追い掛けようとしたところを、肩を掴まれ制された。

 万力に匹敵し、あるいは凌ぐ握力。相当に加減されてはいたが、己の足をその場に縫い止めるだけの膂力が確実に込められた掌。

 振り仰いだオーゼンの顔を睨む。

 そんなもの何処吹く風と、女は笑みを深めるばかり。

 

「ライザを止める気なら無駄だよ。なにより無意味だ」

「猛虎が虐殺をやらかそうってんだ。てめぇ様こそ悠長に構えてる場合かよ」

「クフフ、あの娘が本気で殺したくなるくらい昂る相手は、ここには二人しかいないよ」

「……」

 

 残念ながら、そこに諧謔の響きはなかった。

 そしてどうやらその相手役の頭数にこの身も含まれている。それこそ冗談ではない。

 男達の野太い悲鳴が通りに響く。

 五十人を超える残存敵、果たして何分持つのやら。

 

「わからないねぇ。ライザのこれと、先刻まであんたがやってたことと、なにか違うのかい?」

「虎にじゃれ付かれた人間は無事では済まん。あの娘に手加減なんて器用な真似ができるかい」

「ククク、これはこれは。まるで自分は違う、とでも言いたげだ」

「あぁ?」

 

 皮肉と嫌味に悪態少々を添えた毒を舌から差し出して、黒衣の女は黒々笑う。

 

「そろそろ気付いたらどうだい。あんたも私らも、度し難い戦闘狂(くるい)だってことにさァ」

 

 有り難くもねぇ。それは実に悪辣な親愛の表明だった。

 その時、不意に、けたたましい音が耳孔を叩く。

 路面を削る車輪。瓦斯の臭い。咆哮を上げる内燃機関(エンジン)音。

 通りの向こう。大路に続く闇市の果てに、“それ”は駆け込んできた。

 

 

 

 

 

 

 



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31話 夜空を撫でる祈りの手

 

 

 

 

 なんのことはない。エンジン音を嘶かせ、現れたのは四つ輪の原動機車輌(オートモービル)であった。

 道幅が狭く勾配と断崖ばかりのオースでは滅多に見ない代物だ。対して、随所に舗装の行き届いたこの街ならば、それが走行していたところで何の不思議もない。

 その車輌は、一見しても大衆車には見えなかった。屋根はなく、車体はずんぐりとしてさながら臥せった蛙を思わせる。軍用車輌? 払い下げ品であろうか。

 街中を走るにしては珍しい。車輌それ自体に抱いたのはその程度の印象だった。

 奇異なのは、ただ一点。後部の荷台に鎮座するソレ。

 黒い鉄器。

 円環状に長い筒を纏め、下に脚立を付けたような────いや、まさか、あれは。

 

「銃身か!?」

「ハッ、回転機関(ガトリング)砲さ!」

 

 黒衣の女の笑み。昂りに気息が熱を持っている。

 オーゼン共々疾駆する。今なお無頼を相手に一騎当千を決め込む娘子の背を追う。

 

「ライザ!」

「ああ見えてる!」

 

 一人、男の側頭部を蹴り飛ばし、着地。しかし決して踵を着けず、脚の発条(ばね)がいつなりと回避行動に瞬発できるよう備えて────いやそれでも。それでもなお遅い。間に合わぬ。

 この機、この距離、この位置関係、この狭い小路に砲火をばら撒かれてしまえば、如何な猛虎の娘子といえど。

 逃れ得ぬ。

 そんな思考を脳内に遊ばせながら、泰然なる亀の思考を経ず肉体は脱兎の如く敏に稼働していた。

 一跳躍、ライザの前に出る。

 

「ばっ、余計な────」

 

 背面を叩く娘子の抗議を黙殺し。

 抜刀。

 時間感覚が加速する。視野が、認識が限界を超越する。

 視界内に存在するあらゆる動体が緩慢に、ひたすらに遅延してゆく。速度を減じ、減じ、減じ、遂には停止、限りなく静止に等しく。

 見える。

 機関銃を前にして津波のように逃げ惑う男達。それらに蹴散らされ舞い上がる塵埃の一粒すら。

 銃座に取り付く男、その視線、その砲門の狙う先。射線が。

 観えて、いる。

 鉄火が花開く。夜闇に咲き乱れ、大気を撃して(つんざ)く。

 下段から刃を持ち上げる。斬る必要などなかった。ただそこに、刃を()()だけでいい。

 虚空を刃が奔る。閃く。どこまでも軽やかに、早く、そして速く、疾く。

 そうして、自身および背後の娘に到達する筈だった八十六発の弾丸を全て斬り開き、躱した。

 その時、横合いから。

 

「退きな」

 

 伸び上がって、落ちる。オーゼンの黒く長い脚。それはまるでギロチンのように。

 地面を、石畳を踏み割る。

 これが並の脚力であれば地面の表層を僅かに潰し、足跡を付ける程度だったろう。

 しかし殊に、この女の一踏みは容易く地盤にまで及ぶ。

 道そのものが眼前に捲れ上がり、即席の防壁を成した。

 

「つくづく人間業じゃあねぇな」

「あんたにだけは言われたかないね」

「まったくだ」

 

 ここぞとばかり師弟共は同調する。

 壁の向こうでは銃撃が絶えず地面や建ち並ぶ店屋、そしてカザフの手下達を挽き潰している。

 悲鳴と血飛沫が同じ量だけ満ちるまさしく鉄火場。地獄に在って、娘は爛々と目を輝かせた。興味津々、幼児の身振り手振りで。銃声に負けじと糞喧しく。

 

「なあ! なあなあ! 今お前、弾丸を斬ったのか!? 機関銃の斉射をだ! 一発一発寸分のぶれなく斬ったよな!? 斬ったんだこいつ!」

「あぁあぁうるせぇ耳許でがなるな! 斬ってねぇよ! 弾が勝手に刃に当たって割れただけだ!」

「嘘吐け! 絶対弾道見えてたろ! ねぇもっかい! もっかい見たい! 見ぃたぁいぃ!」

「アホ抜かせとんちき! 宴席の見せもんじゃあねぇんだぞ!」

「私も見たぁい、プッフフフ」

「えぇい寄るな! 散れ! しっしっ」

 

 瓦礫の破片が雨のように降り注ぐ。壁を背に三人川の字で座り込みながら、待った。銃砲火器に付き纏う機構的必然。必ずある瞬間。必ず来る筈の機を。

 しかし待てど暮らせどそれは来ない。絶え間なく。間断など一瞬とてなく。

 

「流石に妙だ! 弾切れどころか給弾さえしていないぞ!」

「弾数だけじゃない。回転機関ったって、こんな長時間の連射に銃身が耐えられるもんかね」

「どうも手応えが軽過ぎる。というかおのれら、斬り落とされた弾丸を一発でも見たか」

「……実体ではない?」

「はぁん、なるほど。質量のある“光”だね、ありゃ」

「光ぃ? そんな怪態な銃があるのか」

「! そうかあるぞ。いや、ない。そんなものは存在しない……()()()()

「“尽きない弾丸”なんてものはあり得ない。奈落以外には」

「つまり、あれは」

「遺物だ!」

 

 ライザが快哉を叫ぶ。

 正解が出たところで微塵とて喜びは覚えなかった。

 右隣でわくわくと気色を踊らせる娘と、左隣でニタニタと厭らしく笑みを深める女など見えぬ。知らぬ。

 

「面制圧の弾幕は厄介だが、弾が軽いなら私の腕力でも弾き落とせるな」

「この程度の石畳も貫通できないとなると、大した遺物じゃなさそうだね。面倒だ、私は(こいつ)を押してゆっくり正面から行くよ」

「あの精度、物が悪いのか砲手がよくよくのヘボなのか。屋根伝いに走り寄ればそうそう当たるまい……三方から攻める」

 

 要項を纏め、結論。

 異議はなし。

 合図も要らず。

 反撃は、静かに始まった。

 己とライザ。左右に別れ、通りの両側、その軒先へと跳び上がる。

 オーゼンは己が身の丈を隠すほどの大きな地盤を押し進む。

 その時の火線の迷いっぷりときたら、実に人間的だった。

 一騎当千の化物を迎え撃つべきか。怪力乱神を振りかざす怪物を止めるべきか。

 不気味な刀使いを仕留めるべきか。

 悩み、悩みに悩み、悩み抜いた砲手の男は最善の答えを見付け出した。

 三十六計逃げるに如かず。運転手に何事か叫び、車輪を上滑りさせながら車輌が急発進する。

 良い判断だった。もう五秒も早くその決断を下せていたなら。

 

「遅い遅い」

 

 軽やかに笑いながら、ライザは行き掛けに拾った手斧を放ったのだ。

 高速回転しながらそれは恐るべき精確さで、車輪の軸に命中し、その強力な回転運動に割り込んだ。

 車軸が吹き飛ぶ。

 片足を失った車体が路面を滑り、跳ね回り、転がった。種々数多の機械部品を血か臓物の様相で撒き散らす。

 大路の中央でようやく止まり、見るも無惨にその機能を終えた。

 地上へ降り立つ。外に投げ出された砲手と運転手は、さて息があるかどうか。

 

「ふぅん、車ってこんなに脆いのか。運転してみたかったのに、残念だ」

 

 この女子(おなご)とだけは絶対に同乗しまい。そう内心で堅く決意する。

 気付けば傍らに黒い長身が並び立っていた。オーゼンは掌に付いた土を無造作に払う。

 

「粗方、片付いたようだね」

「歯応えがないなぁ。私はちっとも物足りていないぞ」

「おのれは……この期に及んでまだ言うか」

 

 呆れを通り越し、さりとて感心してやるのも非常に癪だ。

 娘の不満顔を見限って、灯りの落ちた街並みを眺めやる。

 

「?」

 

 薄く闇が膜を張っている。夜遊びが盛る時刻はとうに過ぎた。ただ静かなばかりの夜闇が満ち始めた頃合い。

 今しがた通ってきた闇市の、色濃くなっていく暗がりに。

 朧な光が見えた。光源を得る為の照明にしては、それは頼りなげな。

 人影である。

 幾条か、幾何学的な文様に走る光を顔に浮かべた。

 

「なんだ、ありゃ……」

「ん? どうしたラーミナ」

「いや今、妙な仮面を着けた野郎が」

 

 何の気なしに口にした己の言葉に、女性(にょしょう)達の空気が張り詰めた。

 

「────なんと言った」

「だから、妙な仮面を着けた野郎がいたと」

 

 親指の先を小路に向けた。

 その瞬間。

 

 

 夜空を“肉”が覆った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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32話 肉食令嬢

 

 

 

 男は、人を使うのが上手かった。

 適材適所、その仕事に見合うような人間を見繕い宛がう。部屋の死腔に形の合う家具を据え置くようなものだ。

 人材斡旋業、創業当初はその名に恥じない真っ当な仕事を真っ当な人間に結び付ける生業を営んでいた。

 けれど真っ当な凌ぎで男は満足しなかった。できなかった。

 男は人がましく強欲だった。

 金になる仕事。まともではない金額を弾き出せる仕事。堅気の稼ぎでは到底得られないような金、金、金。

 暴力による恐喝、脅迫、殺人とそれに伴う清掃“ゴミ”処理。男は自身に備わった才能を遺憾なく発揮し、悪徳なる様々な業務に対して最適の人材を顧客へ提供し続けた。無頼、破落戸、前科者、あらゆる意味で日の下を歩けないろくでなし。時には言葉も知らぬ狂人すら。

 使えるところに使えるものを。社是を掲げ、男は裏社会の腐臭漂う暗がりで小金を稼ぎ続けた。

 モデナ教は上客も上客。金払いの良さでは過去一番のお得意だった。

 宗教屋の御題目には欠片の興味もなかったが、信者からの集金能力において人後に落ちないモデナは、男にとって愛しい金蔓でありビジネスパートナーだった。

 まんまとその御用聞きに収まり、業務に人身売買という項目が加わっても、男にはどうでもよかった。この国において人間の売り買いや使役は歴とした合法である。むしろ人材斡旋などとは比べ物にならぬ人間一個の売買価格を知り、どうして今までこの業界に手を付けて来なかったのかと後悔を募らせたほどだ。

 とはいえ、金は増えていく。金が舞い込んでくる仕組みが、己の周囲で磐石になっていく。

 順風満帆だった。

 男は、その強欲が潤う快楽にひたすら身を委ねていた。

 

 遠く、ベオルスカの南海の孤島で、セレニの役人が捕まった。

 その背後で暗躍する宗教団体の存在、政府との癒着。

 身内を狙われたことで、あの白笛が激怒している。

 白笛が来る。

 白笛が来る。

 白笛が、来る。

 そんな報を耳にするまでは。

 

 そして、一昨日の夜モデナ教の総本山たる屋敷が文字通り潰されたことで、男は自身が奈落の際に立っている現実を認めた。

 金だ。金が要る。

 セレニを離れ他国に隠遁し、然る後に再起を図るには金が幾らあっても足りない。

 モデナにみかじめを上納した直後であったことも災いした。こんな木っ端な手数料程度では、足りない。圧倒的に足りない。

 手下共に集金をさせよう。とにもかくにも貧民共からあるだけ奪い、とっとと逃亡する。

 

 男は即断即決、指示も行動も実に迅速だった。

 モデナの瓦解から二日を経ず、逃亡の為のあらゆる準備を整え、後は集まった金を抱えて消えるだけ────事務所から極々近所の酒場で白笛が二日間酒盛りに興じていたなどとは露知らず。

 男は即断即決、指示も行動も迅速だった。けれどなにもかも早過ぎた。そしてひどく、間が悪かった。

 

 

 闇市からやや距離を隔てた路地に乗り付けた高級原動機車輌の中。有限会社カザフの取締役兼社長の男は後部座席で頭を抱えて蹲っている。

 絶望。その二字でべったりと背中を濡らして。

 

「お、おおおしまいだぁ……殺される。殺されちまう。し、白笛に盾突いて……部下も残ってない……」

 

 大枚叩いて手に入れた遺物の機銃『枯れない秘花(フラウフォビア)』もあっさり壊された。

 囮役に何十人と撃ち殺したが無駄になった。支払って来た何十人分の給金諸経費を思う。

 俺の金。俺の金が。

 今では命すら危うい。

 窮地。片足は既に墓穴に埋まっている。もうあと半歩で。

 

「た、た、頼む! 頼むぅ! 助けてっ、助けてくれ! あ、あんた、あんたらなら、なんとかできるんだろう!?」

 

 男は顔を上げた。縋る思いで見上げる。

 そこに座る白衣の人型を。朧に、幾何学の文様に光る不気味な仮面を。

 

「それは、契約の最終項目に同意する、という意味でよろしいですかしら。社長様」

 

 鈴を転がすような声が仮面の下から響いて来る。女の声、それもどこぞの貴族令嬢のような口調だった。

 

「…………すっ、する。同意する。するから、たのっ、たのみますから」

「ではこちらにサインを。ああ、難しそうなら拇印でも結構でしてよ」

 

 がたがたと震え上がり、主の言うことを聞かない指にインクを付け、差し出された書面に、押し、押して。

 躊躇。それは悪党に芯まで染まった男に残った最後の、たった一抹のもの。倫理、理性、正気、人間性。片足の小指程度だが、人道に何とか居座る男の最後の一滴だった。

 これを押せば、これを押したならそれは終わる。

 終わる。終わってしまう。

 親指を押し付ける。

 男は遂に全ての人倫に悖ることを選んだ。

 

「ひ、ひひ、ひへ、へは」

「はい確かに。どうもありがとうございます。では、こちらをどうぞ」

「ひっ」

 

 差し出されたのは奇怪な形をした器物。螺旋状の針に、植物の球根か葡萄の房のようなものが生っている。

 

「こちらをお耳にお入れになって。ほんの少し差し込むだけであとは自ずから奥へ這入ってゆきますわ」

「…………」

「あら、ご心配なさらないで。契約条項にも記載がありましたでしょう。社長様が生きている間に、わたくし共がそれを起動させることはありませんわ。お亡くなりになった後、そのお体だけ、頂戴しに参りますから」

 

 レース地の白手袋、しなやかな指先が胸骨の中心に触れる。官能的なまでに、心の臓腑を撫でられて。

 

「どうぞ、お大事になさってくださいましね」

 

 命を、魂を握られる実感。それは男の精神の一部を壊死させた。

 自失している間に、器械はあっさりと男の脳に巣食った。

 

「……あ、あの、しかし契約では、俺の身の安全は手下共の体と引き換えだと……でも、あれ、あいつら、あんな状態ですよ? その、使えるやつが残ってるかどうか……」

 

 車窓、カーテンの隙間から恐る恐る通りへ。闇市の凄惨な有り様を覗く。

 『枯れない秘花』の砲火は男達を原型すら残さず撃ち尽くしていった。五体満足でないのは無論、血や肉片や骨片が散逸するばかり。

 

「ふふふ、とぉんでもありませんわ。むしろあのように丁寧に準備までしていただけるなんて! わたくし大助かりですの。御社は本当にサービスが行き届いておられますのね」

「は、はあ……?」

「お肉ってね、粗挽きが一番ですのよ。味も、食感も」

 

 まるで雨垂れの滴のような形をした仮面だった。その下部、顎から鼻先までが突如、開く。口唇装甲板がスライドして口元だけが露わになる。

 深いルージュを引いた唇を、それよりなお深紅の舌が舐るのだ。

 

「ご馳走が、ほら、いっぱいですわぁ」

 

 吐息に熱情を覚えた。

 死骸の山、血と臓物の河に、この女は欲情している。食欲を、搔き立てている。そしてそれは、その肉欲がいずれは、この身に向けられるのだという事実を男は理解してしまった。

 車の扉をこじ開け、外へ。外へ外へ外へ。

 

「ひぃっ、ひぃいいぃいいいああああああああ!!」

「あぁもう行かれるんですの? よければわたくし共の船で隣国までお送りして……あらら」

 

 

 

 

 

 路地の暗がりに、転げるように消えていった背中へハンケチを振る。先の言葉に嘘はない。心から感謝に堪えない。

 大路を歩く。今回の目的、あれらを回収────賞味しに。

 

『ガイダンスは上手く運んだようですね、ゲルマ』

「まあ!」

 

 芳醇な血臭香る小路に行き着いたその時、声を発した。誰あろう自分自身の口唇が、喉が。かの御方のそれを代行する。

 

「黎明卿! こちらにいらしてたんですの!? それならそうと仰ってくださればよろしいのに」

『驚かせて申し訳ありません。話し合いのお邪魔をしてはいけないと思い、静かにしていたのですが。とんだ不躾でしたね』

「滅相もございませんわ。ふふ、お忙しいでしょうに、わざわざわたくしの瞳を覗いてくださって、わたくしとっても嬉しくて……」

『そう言っていただけるとなによりです』

 

 両頬を覆って身動ぎする。かの方の思慮は遠大であられるが、こうして個人として気に掛けてもらえるのはやはり格別なものがある。

 ゲルマは暫し、その場でぴょんぴょんと跳ねて踊った。

 

『ところでゲルマ、今大通りには殲滅卿と不動卿、そして彼がいます。急かすようで申し訳ありませんが、そろそろ“食事”を始めましょう』

「あらあら、そうでしたわね。もうわたくしったら」

『白笛お二方は無論ですが、彼に対しても手心は不要です』

「……卿がそこまで仰るほどですの」

『はい、素晴らしい逸材です。今夜は直に、その実力を拝見したいのです』

「そうでしたの……ならわたくし、一層頑張って皆様を頂かないといけませんわね!」

 

 赤色の暴力のような光景。薄く散る白雪が血溜まりに沈む。白衣が染まるのも構わず、その只中へ踏み入る。

 

『暴食による融合体、おそらく原生生物ほどの強度は見込めないでしょう。ですが同じ人体である分、吸収効率と親和性は良い筈です。きっとお口に合いますよ』

「それはとっても楽しみですわぁ」

『では』

「はい、では」

 

 襟首を捲る。

 白く、ほっそりとした首筋。丁度、耳の真下に、深々と黒い針が刺さっていた。

 女はそれに触れる。握り、無造作に。

 

「『いただきます』」

 

 引き抜いた。

 それは栓であり、堰であった。

 白衣から、まるで泡のように肉腫が膨れ上がる。衣服を引き裂き、肉は分化、枝分かれを繰り返した。

 そうして無数の太く強靭な触手が、辺り一面に取り付く。地面に、壁に、染みか溜まりに変わった死骸を、触手の粘膜が吸い上げる。尽く、一滴残らず。

 

「『あぁ、なんて、甘い』」

 

 嚥下していく。同化していく。肉の管を通して、その大元である女体へ到達し。

 

「『これは少し、太ってしまいそうですね』」

 

 肥大する。

 道幅を超えて、建屋を圧し潰し、粉砕して。

 肉が津波となり、山を為し、夜天を覆う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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33話 燃える夜長

 

 

 蠢いている。

 脈打っている。

 それは大量の血管のようだった。あるいは極限に肥大した筋繊維の束だった。収斂し、螺旋を描き、そうして再び分化、枝分かれを繰り返す。

 血のように赤かった体表が徐々に黒ずんでいく。酸化した血の黒々とした赤錆色さながらに。

 まるで海底でそよぐ磯巾着だ。不定形の触手が周辺の建屋の屋根より高く、大きく、山と膨れていく。

 夜空を背景に、悍ましく。

 

「なんだこいつは」

「わからん! 地上の生き物には到底見えないな。この感じはむしろ」

「原生生物、十中八九“奈落よりのモノ”だろうねぇ」

 

 触手の大群は文字通り大路に満ちる。闇市の狭苦しい道幅などとうに超え、身動ぎと共に着々と周囲の建物を崩している。

 掻き分けるようにして、家屋の狭間から肉腫は湧いた。

 蠢くばかりで一定しないかに思われた管の塊に、しかし、次第次第、形が生まれ始めている。

 一定の方向性。

 左右に三対、六つの脚。

 長くくねる尾。

 そして、首筋まで裂け割れた大顎。

 蜥蜴とも山椒魚ともつかぬ異様。神話伝承に綴られる竜とやらを悍ましく歪めればこうなるのやもしれぬ。

 黒い怪物が吼える。豚を絞め殺したかの全く以て汚らしい声だった。

 

「かぁっ! 血腥ぇ。野郎、カザフの手下共の死体を食ったのか……!?」

「らしいな。ハハッ見ろ! 血溜まりまで綺麗に平らげてるぞ」

 

 その弾む声音に思わず顔を顰める。

 死肉を喰らい、肥え太る化物だと。

 ヤクザ風情が事務所で飼うにしてはイカレ過ぎている。

 が、今その正体に思いを馳せる暇はなかった。

 

「来るよ」

 

 石畳をまるでシャベルのように掘削しながら、猛烈な勢いで肉塊の怪物は迫り来る。眼前に拡大する口腔。巨大な顎だ。しかもその輪郭、歯並び、生白い歯の形状までも、紛れもなく人間のそれだった。

 ライザと己は左右に別れ、離脱。

 そしてオーゼンは、待つ。

 巨体の突進を正面から。

 

「ハァッ……!!」

 

 咬合される歯を上下、両腕で掴み、止める。

 脚で地面を削り、重戦車の如きその突進力を真っ向から受け止めてみせた。

 これが不動卿。これぞ動かざるオーゼン。

 無論、暢気に感心している場合ではない。

 早々に足を止められた巨体などは俎板の鯉、もとい山椒魚。我が方に対するその害意は瞭然、ならば斬って刻まぬ道理もなし。

 化物の左脚、手始めにその前足を一本。

 

「貰う」

 

 不細工な横面を過ぎ去り様、裁断する。

 見た目に反して強靭な筋骨の手応えがあった。だがしかし、肉と骨ならば当然に刃は通る。

 断たれた脚は大路を転がった。

 切断面から滝のように血が噴出する。流れ出る────傷口の、その奥から、肉が盛り上がり、骨が生え、瞬く間にもそこには脚があった。

 再生した。

 

「巫山戯ろッ!」

 

 巨体が身を捩る。咬み合わせのつっかえ棒に身を窶すオーゼン諸共に。さしものオーゼンも強烈な遠心力に負け振り落とされた。宙を踊り、近く露店の暗幕へと突っ込んだ。

 肉塊は依然、止まらぬ。駒の如くに回転する。長い尾が建屋を蹴散らし、四散した建材を巻き込んでこちらへ振り回された。

 地面へ足下から身を投げる。石畳を滑り込み、あわや頭上に尾の鞭打を躱した。

 

「斬るのがダメならこれはどうだ!?」

 

 ライザ、猛虎の咆哮が聞こえる。化物の巨影の向こうで、娘が腰元から柄を引き抜いた。

 金属音と共に安全装置が解放され、絡繰仕掛けの鶴嘴が姿を現す。

 『無尽鎚』。殲滅卿の愛器。

 その機能は単純にして凶悪。

 

「おりゃぁああああああ!!」

 

 こちらからは死角である為、ただ娘の勇ましい喝を聞くばかり。

 しかし結果はすぐに見て取れた。確実に一撃、見舞った。

 閃光、火焔が闇夜を引き裂く。

 巨大な化物が、なんと宙を舞う。その脇腹から断続的に発破する。『尽きない火薬』による連続爆破。生体に対する比類なきこの殺傷力。

 頭上を越え、さらに大路の向こうへ。地響きと爆音を轟かせ、血と肉を撒き散らしながら化物は転げ回る。

 

「はっはっはー! どんなもんだい!」

 

 肉塊は噴煙を上げ、肉の焦げ付く臭いが大路に満ちる。

 不意に、露店の瓦礫が吹き飛ぶ。屋根やら柱やらを蹴り上げ、オーゼンが身を起こしていた。

 

「手を貸すかいお嬢さん」

「蹴り殺すよ」

 

 どうやら負傷はない。こちらを睨め付ける黒い眼光は元気そのものだ。

 

「私の金星ということでいいな? じゃあ二人とも、酒樽を奢ってもらおうか」

「んな約束した覚えはねぇぞ」

「人の尻馬に乗っておいて調子がいいねこの娘は」

「ふふん、誰がなんと言おうが止めを呉れたのは私だ。勝者には美酒を献上すると相場が決まって……」

 

 ────プギィィィイィィィイィィィイイイイイイイ

 

 それはやはり、屠殺される畜獣の悲鳴そのものであった。

 三者三様に振り返る。大路の向こうで身を擡げる巨体を。煙を立て、焦げ付く、脇腹の熱傷。そこから肉腫が吹き出、傷口が塞がる。いや、塞がるだけに留まらず、それはより分厚く、奇形に、見るからに強固に変態した。

 謂わば超再生。

 その時、化物がまた身動ぎした。どうしたことか、その喉が蠕動している。

 口端から、歯列から、唾液が溢れ出る。その粘る涎が、燃えているのだ。赤い火を帯びているのだ。

 途端、喉笛が膨らんで────

 

 オゲァ

 

 汚らわしさの極致のような声を発して、同時に口から“それ”が吐き出された。発射された。

 火球。

 ちらりと見えたのは成形された肉だった。火を纏った肉塊が砲弾さながらに撃ち出された。

 狙いは悪く、我ら三人を通り過ぎた肉の火球は大路の反対へ。

 着弾し、破裂した。大火を放散しながら、家屋を吹き飛ばした。それも()()()()、幾度も爆ぜ、幾度も小火を撒き散らす。

 

「……」

「……」

「……」

 

 三者共々に、言葉なく顔を見合わせる。

 そうして化物に向き直る。

 その口腔でまたしても火が溢れ出そうとしていた。

 

「ハハハッ! こりゃ不味い。『火薬』を喰われた。なんて悪食だ」

「ほう、見たところ耐性も付いてる。もう火を掛けても無駄だろうねぇ、フフフ……!」

「てめぇら楽しそうだな」

 

 片や燦然と瞳を輝かせ、片や笑みを黒々と深める女二人。切実に、こやつらにこの場を預けて、ジルオとムタを連れてさっさと退散してしまいたい。なんとなればこの国からおさらばしたいとも。

 払うほどの血糊もない刀身を振るう。八つ当たりに虚空を裂く。

 その程度で、この憂鬱は幾許も晴れまいが。

 

「長ぇ夜になりそうだ……」

「フフフ、腹は括れたのかい? 坊や」

 

 意趣返しも覿面効いてくる。厭らしい女め。

 

「では存分に楽しめるな! 異国の夜を」

 

 溌溂とライザが駆ける。オーゼンが続く。

 度し難い英雄共のその背を、己もまた追う。

 刹那、夜闇は緋色に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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34話 甘美な苦痛

 

 

 

 経験は力。

 外部から与えられるあらゆる刺激はこの体を強く逞しくしてくれる。

 苦痛は力。斬られる痛みが、打たれる痛みが、焼かれる痛みが、この体をより成育させる。

 貴方方の敵意が、殺意が、甘美に響く。もっと打って、もっと斬って。

 その強大で、尊い暴力を貪って、この体を育て上げる。次なる研究の為に。次の次の研究の果てに、至る為。

 

「『良い調子です。たった91人分の生体捕食で、殲滅卿の一撃に耐えるこの強度。やはり人体を使用する方が安定しますね』」

 

 大路に佇む三人。殲滅卿、不動卿、いずれも脅威。打倒は至難。いや、現状不可能である。果たして何十、何百の祈手(アンブラハンズ)を消費すればそれは叶うのか。

 そして、勇名も帯びず、笛も持たず、ただの一個人であるかの青年。練達の剣術を振るう正体不明の存在。

 

「『興味が尽きません』」

 

 ゲルマの肉体は今日ここで終わってしまうが、白笛二名と不世出の剣才。これから得られる経験と苦痛と破壊は、なによりも得難く稀少極まる。

 

「『あぁ、なんと、素晴らしい一夜でしょうか』」

 

 三者、それぞれが疾駆を始める。この身を完膚なく破壊する為に。

 ではこちらも彼らの注力に恥じぬよう、全力で応えなければ。

 

「『恋情で啄ばむ(ラング・ベゼ)』」

 

 

 

 

 

 

 

「祈手?」

「そうさ。黎明卿、ボンドルド率いる探窟隊……いや、ボンドルドという群体を、世間は皆知らずにそう呼んでる。お前さんが見たと言う仮面野郎は、おそらくその一人だろうね」

「言ってる意味がわからねぇぞ」

「フフフ、そういう度し難い遺物を使って、蟲のように()()()男がこの世には居るんだよ」

 

 燃え盛る肉塊を躱し、着弾点から爆ぜ広がる火の手より逃れ、駆け抜ける。

 車輌六台分はあろう道幅の大通りを満たすほどに巨大な山椒魚の化物……オーゼンはその中身が、一人の人間であるという。

 それを聞いたライザは晴れやかに。

 

「じゃあ話は簡単だ。あのでっぷりとした腹を掻っ捌いて、黎明卿殿を引き摺り出してやろう」

「賛成だ。あのろくでなしは一匹でも見付けたら潰しておくに限る」

「……」

 

 意気揚々戦意を高揚させる戦狂(ろくでなし)共の弁はさて置いても。

 此度の一件に関与、どころか元凶に位置付く者がのこのこ姿を現したのだ。

 生かして帰す道理はない。

 巨体は口中はおろか全身から炎を発した。火薬を喰らったなどとライザは嘯いたが、あれは明らかに体内で自ら燃焼物を生成している。

 刀剣の間合までもう十五歩。その途上、赤錆色の巨体が脈打った。

 その全身、とりわけ背中から触手が、鋭利な爪を生やした針が、伸びる。無数に、我々に殺到する。

 

「フハッ! まるでタマウガチだ!」

 

 ライザは槍の穂先のように太い爪を鶴嘴で手あたり次第弾く。叩き落とす。

 オーゼンは迫る爪先を巧みに躱し、触手の側を掴み取り、また千切り、無造作に薙ぎ払う。

 己とても呆けてはおられぬ。身体に到達する軌道に乗った針のみ斬る。斬る。も一つ斬る。

 そうして一本、弾き落とす。それは石で出来た道路を容易に刺し貫いた。尋常な生物の爪や骨がどうすればこんな硬度を発揮し得るのか。

 悍ましさを口中に噛み締め、触手に足を掛ける。

 一本、化物自ら通してくれた“道”を駆け上る。

 この不定形の怪物に果たして急所などという可愛げのある個所が存在するのか定かではない。が、試してやる。

 

「脳天を貫かれても、おのれは生きておられるかァッ!?」

 

 擡げた頭の頂点。脳の在所へ、逆手に握った刀身ごと身を落とす。

 その刃先が皮膚に到達せんとした、刹那。

 火を帯びた表層が蠢く。いや、せり出てくる。

 べったりと濡れそぼった髪、奇怪な仮面、細い首に肩幅、豊満な乳房、縊れた腰。

 赤錆色をした全裸の女。おそらくは妙齢の女が、山椒魚の頭から()り出て来たのだ。

 その腕に、触手の尖端同様の爪を形成して。

 この刃を受け止めた。

 

「ご機嫌よう。お強い御方」

「祈手か」

「はい。如何にもですわ。そしてこちらが、わたくし共の長であられます……」

「!」

 

 女の細い肩が盛り上がる。骨肉が挽き捏ね回され、成形、整形されていく。頭だ。女の首とは別にもう一本、生首がその左肩に生えてきた。一条、縦一文字に光を放つ、その顔もまた仮面であった。

 

「『はじめまして、ラーミナ。是非、こうして直にお会いしたかった』」

「てめぇが……ボンドルドか」

「『ええ、私達はボンドルド。アビスの探窟家であり、人々からは黎明卿と呼び馴らわされています。見知り置いていてくださってとても嬉しい』」

「目的はなんだ。今更出て来た要件は。モデナとカザフの報復だ、などとはまさか言うまい」

「『勿論、違いますよ。この度はラーミナ、貴方に提案を差し上げに参ったのです』」

「提案だ?」

「『私の隊へ来ませんか。貴方の技術、貴方の身体、そして貴方の精神を、是非とも学び取らせていただきた────』」

 

 刃を翻し、横一閃。雁首揃った仮面を二つ、飛ばす。この一太刀を返答に代える。

 

「冗談はその悪趣味な仮面だけにしておけ」

「『冗談などと、とんでもございません』」

 

 女の細腕が伸び、宙に踊った仮面を掴んでいた。水滴のような形状。それに触れた女の掌が、吸い付き、融け合う。癒着している。

 ようやく異状に気付く。ずぶ、ずぶ、と両足が怪物の肉に沈んでいた。

 

「『貴方の高潔な精神性、感受性をそのままにお迎えしたかったのですが。仕方がありません。せめてその身体、味わわせてくださいね』」

 

 眼前で女体が縦に裂け、開く。まるで食虫植物(ハエトリソウ)のように、左右に牙を生え揃えた顎が。

 飲まれゆく両脚。迫る口腔。

 間に合うか。斬り開くだけの暇が。

 

「なにを悠長にやってるんだい」

「うおっ」

 

 むんずと後ろ襟を掴まれ、凄まじい膂力に体を引かれる。

 両脚が解放されたと同時に、女の黒い蹴り足が、山椒魚の頭を踏み潰した。

 打点から放射状に大気が霧散する。衝撃波。その頭部に、肉と血と骨を吹き飛ばして擂鉢状の穴が穿たれた。

 さしもの怪物も苦しげに呻き、蹈鞴を踏んでいる。

 離脱し、再び間合いを取ったオーゼンは己を石畳に放り出した。見上げれば、そこにはまたぞ厭らしい笑みがある。

 

「女の裸に動揺したのかな? このスケベ」

「ハッ、戯け」

「ぬぉぉおおおおおおお!」

 

 気合の入った咆哮で、ライザは今一度化物に襲い掛かる。

 オーゼンが蹴り砕いた頭部の真裏。顎の下から掬い上げるように、鶴嘴でかち上げる。

 重い。鉄器の尖吶が肉を引き裂き下顎を割った。それだけの衝撃、痛打。

 返り血から逃れるようにしてライザは飛び退く。

 

「糞! やっぱり『火薬』が上手く点火しない」

「そのポンコツが壊れてるだけじゃないのかい」

「そんなことないもん! 今日は機嫌が良い方なんだぞ。なぁ?」

 

 言いつつ娘は鶴嘴に頬擦りする。叩いて火を吹かせる危険物を、さも愛玩動物が如く。やはりイカレか。

 血飛沫が止まり、巨体の揺動が収まる。再生、再生、再生。その速度が減じた様子は微塵もない。

 見る間に健在。怪物の名にし負う悍ましさ。

 

「切りがないな、これは」

「私が蹴った分、また頑強になってるだろうねぇ。フフフ」

 

 断じて笑い事ではなかった。窮地を助けられた手前、文句も出ない。

 しかし、一つ。一筋の端緒が。己は、あれを切り絶つ方法を見付けたやもしれぬ。

 

「首だ。女の首。あるいはその頭の中身を破壊する」

「なんだって?」

「さっきの祈手の女かい」

 

 無際限の再生が叶うというならば、何故あの時。己が並んだ二つの雁首を断った時、あれは咄嗟に()()生首を取った? 喪う、いや接続を絶たれる訳にはいかなかったのではないか。自身の長だと抜かしておきながら、仮面の男の首には目も呉れず。

 

「わざわざ体外に急所を晒したって? あれがそんな間抜けな手合いかね」

「どうも彼奴には、己の肉体に対する並ならぬ関心がある……ゾッとしねぇが。その重要な回収物の吟味の為に、“要”となる部位を差し向けたのではないか」

「なんにせよ、その女の頭は今はもう引っ込んでるんだろう。中から引き摺り出すという方針は同じだ」

「いや」

 

 あの再生力相手では、外部を幾ら傷付けたとしてもそれこそ切りがない。

 欲しい物は穴倉の奥深く。

 そうか。ならば、やることは探窟家(こやつら)と変わらぬ訳だ。

 

「俺が中に入る」

 

 

 

 

 

 

 

 

 





「ジャービス、聖書のヨナを知ってるか?」


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35話 一太刀、馳走

 

 

 

 

「正気かい」

「オーゼンが手酷く扱うからだぞ。見ろ、脳が不具合を起こしてるじゃないか」

「てめぇらにだきゃあ言われたかねぇよ」

「口どころか穴という穴から火を吹いてるんだよ? 焼身自殺がお望みかい」

「焼け死ねるならまだマシだろう。あの火力を見る限り『尽きない火薬』の“再現度”は大したものじゃあない。問題は、あの肉塊は触れるだけで生き物を喰えることだ。まさに飛んで腑に入るなんとやらだ。もしやラーミナは蟲の一生とかに憧れる奇矯な人だったか……?」

 

 真面目腐った二つの顔から四つの目玉が繁々と己を見る。

 女性(にょしょう)共の暖かな皮肉に涙が出そうだ。

 

「まあ、馬鹿正直に喰われてやる前に一つ、段取りを踏むのよ」

「段取り?」

「おうさ」

 

 策と呼ばわるのも憚る手短な手筈を突き合わせ、即座三者三様に走行。

 敵さん待ちくたびれている。

 一片の傷も残さず、どころか一瞬、また一瞬と()()を続ける肉塊。化物。歪んだ変態を遂げた、人間。

 

「『あぁ本当に、今宵この時間こそ光栄の極み』」

 

 それは実に、男とも女ともつかぬ、あるいはそれらを混ぜ合わせ湿りと粘りを与えたような。不快な音色で、怪物は腐臭にまみれた感嘆の息を吐く。

 六本の内、前足二本を広げ、それこそ歓待の様で。

 

「『お三方とも、どうぞご存分に為さってください』」

「不出来な肉塊が、賢しらに人の言葉を喋るんじゃない」

「ハッ、言われなくとも好き勝手にやらせてもらう。あんたの発想は毎度奇抜で面白いが、今夜のこいつは少しばかり品性に欠けるな、黎明卿!」

「死肉の味は堪能したかよ。血の色に腐った夜にはもう飽いた。そろそろ逝けぃ」

 

 切られた三つの啖呵へ返礼とばかり数多の火球が降り注ぐ。弾速、なにより速射性が先刻までとは桁違いに上がっている。

 周囲の家屋、路を地盤ごと吹き飛ばす爆風。散弾か榴弾の如くに爆散する瓦礫、砂礫、鉄片の雨霰。

 あらゆる感覚器と体術、そして勘働きを総動員して戦火を鉄火を潜り抜ける。刻一刻、ここはまともな人間の住まうべき世界ではなくなっていく。ここはもはや戦狂い共の楽土。

 

「『あぁ、なんと勇猛な』」

 

 感動と敬服。肉塊の漏らした一言に含有する主成分はその二つのみ。

 山椒魚の全身が脈動した。表皮という表皮、そのあらゆる箇所が膨れ、鉤爪を備えた触手が飛び出す。山嵐同然に。

 視界を殺到する。

 右を己が、左をライザが、中央をオーゼンが、それぞれに進突。

 謂わば肉の縄鏢(じょうひょう)の大群は獲物を追う為に三分割された。数さえ減ずれば、躱すは至難だが不可能ではない。躱し切れぬものは打ち払い、薙ぎ払う。それこそ先の二の舞を演ずる。

 かに見えた。

 化物は舞の演目に一つ、工夫を凝らした。

 前足二本、腕が肥大していく。それは幾重にも増え、分かれ、束ね巻かれ、さながらダイラカズラの支柱のように巨大に変貌した。

 

「『これなどはいかがでしょう』」

 

 槌だ。

 その運用想定は破城槌のそれ。

 巨大な太い支柱と化した腕が伸びる。高速で空中に撃ち出され、奔る。

 大路の両側に建ち並ぶ露店、店舗、家屋。突き崩し、摺り潰しながら、それらはライザと己目掛けて突き出された。

 石畳を滑り、頭上にそれを躱す。

 ライザなどは逆に壁面を走り上りながらその刺突を跳び越えた。

 紙を破るような気安さで、尖端が建造物の壁や窓を突き破る。そうして、この通りのそのまた向こうの棟を隔てた通りで、槌の尖端が諸々を粉砕する音色を聞く。

 この肉棒の腕力は、どうやら街一つ程度小一時間もあれば崩して潰せるらしい。

 だが、超常の膂力は何もこの化物の専売ではない。

 戦槌が瓦礫の中から立ち戻る。再び大路に、まるで抱擁するかのように、我ら皆諸共に挟み潰す為に。

 だがしかし大路の中央を走るはオーゼン。怪力無双の不動卿だ。

 女は肉塊の両腕を両手に受け止めた。事も無げに。

 そして、掴み、持ち上げる。自身の両脚で石畳を抉り、固定爪として。

 化物の巨体すら。

 

「アアァッッ……!!」

 

 戦気を吹いて、オーゼンは巨体を地面に叩き付けた。地が震える。辛うじて崩れ残っていた幾つかの建屋が衝撃の煽りを喰らい、完全に瓦礫に変わる。

 そして今、刃圏に至る。

 尋常ではない打撃を受けて、それでもなお蠢こうとする肉塊。その肉の宮に火が入る。またしても砲火を吐くつもりだ。

 好都合。

 ライザは変わらず並走していた。手筈通りに。

 刃を構える。左右から、両側面から、その口の両端から。

 

「咬筋を裂かれた動物はどうなるか知ってるか? 咬むことは勿論だが、口を()()()()()できなくなる」

 

 刀の物打ちが、鶴嘴の尖端が上下顎を繋ぐ筋肉を引き裂く。ライザは愉快げに笑ってそう蘊蓄を垂れた。

 巨大な口、つまるところそれは発射口。奴が体内で練り上げた火を吐き出す砲口。その開閉機構を娘子と共に破壊した。

 しかし、それも数秒後には元通り。傷など初めからなかったかのように、いずれ奴は意気揚々周辺を火の海に出来る。

 もう一打。いやさ、もう一踏み。

 怪力の脚力。一跳びに接近したオーゼンの蹴り脚が、強烈な地団太が、その顔面を踏み潰す。

 斯くなればどうなるか。

 吐き出す筈であった火球、および練り上げた燃焼物はその出口を失い。

 内部で爆ぜる。

 球形に膨れる肉塊。飛び散る血脂。飛び出る臓物。四肢は破断し、その悍ましい様はまるで爛れた睾丸だ。

 だがこれで、奴の動き、侵蝕力と火勢が弱まる。

 半開きの口から黒煙を上げ、肉塊は割れた石畳に傾いた。

 刀身を上段に立て、飛び込む。

 夥しい血とぐずぐずの肉を踏み越え、それを全身に浴びながら、奥へ。さらに奥へ。

 視界など絶無。見えるものはない。この強烈な死肉の焼ける臭いの中では鼻も利かぬ。蠕動する肉と脈動する血の凄まじい音で鼓膜が破れそうだ。

 五感はもはや頼りにならない。しかして委細問題はない。

 

「観えているぞ」

 

 その悍ましい気配。隠しようのない存在感。

 艶めくように生々しい。我慢などできないか。舌なめずりするような、その好奇心を。

 

「『おぉ、まさかそのような……!』」

 

 腐肉の奥底に埋没する赤錆の女体。嫋やかな両腕が己を抱擁する。

 

「ズァァアアアアアアッ!!」

 

 裂帛の咆哮。全身筋肉の発条(ばね)により、大上段から。

 脳天を唐竹に割り、斬り、断つ。

 女の微笑が縦二つに別たれた刹那、垣間見えたのは────黒い舌だった。奇怪な幾何学文様が深緑に光る。

 

「『おミ、ゴドでズ。ラァァ、ミ゛、ナァ────』」

 

 二つに両断された女体、黒い舌が、奇声を発しながらぐずぐずと溶けていく。

 そうして次の瞬間、肉の宮は弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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36話 それは身勝手な

 

 

 

 

 病室の窓際から日中の街を眺めた。

 薄く雪化粧を施された瓦屋根に、陽光が照り返し閃く。澄んだ冬空の冴えた青、それは眼球から入り、骨身にまで沁みるようだった。

 静の景色。しかし、窓硝子越しにも微かに喧騒はこの耳に届いていた。

 先夜の闘争と破壊による混乱。引っ掻き回された店屋、家屋の修繕、完全に瓦解したそれらの後始末。この国の役人共は今、てんやわんやの大騒ぎだろう。

 なにより、あの化物の死骸が問題だった。本体と思しき遺物、あの“舌”を両断した瞬間に肉塊の怪物はその形状を崩壊させた。総体のほぼ全てが液状化したのだ。そうして今や、もはや原型留めぬまでに溶解した肉と血の池が、大路一杯に満ちている。

 カザフというヤクザ者共の死体は、個々人の判別すらつくまい。

 身元不明の人間の遺骸の処理をどうするか。この国の政府の証拠隠滅の手腕が今こそ試される時だ。

 

「……」

 

 他人事に、そんな揶揄を腹の中で弄ぶ。

 此度の騒動をここまで大っぴらに晒し上げたのは誰あろう己である。いや、本を正せば宗教団体モデナ、そしてそれを擁してオースの探窟家に手を掛けたセレニの蛮行と失態こそ元凶だが。

 その裏で、蜘蛛の如く糸を引き、ともすればその獲物に餌を与え肥え太らせていたのもまたオースの探窟家────白笛だった。

 とんだ笑い話もあったものだ。

 直接被害を受けた現地住民からすれば断じて笑い話で済まされるものではない。

 建造物の半壊全壊、それの巻き添えを食い多数の怪我人も出ている。

 事が明るみになった時、果たして民草は誰を憎悪し、糾弾し、断罪するのか。

 

国政(まつりごと)というやつは平らかならんものよな」

「フフフ、そいつは政治屋の真似事かい?」

 

 扉の傍の壁に背を預けて立つ長身痩躯。

 オーゼンはその顔貌にたっぷりと厭味の化粧を施し、己を笑った。

 

「今更戸を叩けとは言わんが、わざわざ気配殺して忍び入って来るんじゃねぇよ」

「気付かないあんたが鈍感なのさ」

「かっ、そうかよ」

「具合は」

 

 欠片の興味もない、そんな口調で女は問うてくる。

 

「医者が言うには問題はないそうだ。潜伏期間はともかく、感染症の兆候も診られない。とっとと退院して病室を空けろとよ」

「ふぅん。あれだけ死体の血を浴びてもどうともないとは、体が特別製な証拠かねぇ」

 

 死骸の塊の、その胃の腑に生身で乗り込んだとあって一応の用心として医者を頼ったが、それはすっかり杞憂に終わった。

 運が良かったか。あるいはオーゼンの言の通り、己の身体が何かしら異常なのか。それは定かではない。

 

「不調がないんなら身支度しな。オースへ戻るよ。この国にもそろそろ飽きちまった」

「ジルオとライザはどうした?」

「土産を漁りに市へ出掛けたよ。あの間抜け面を引き摺ってね」

「間抜け面ぁ? ああ、トーカか」

 

 その言い様もまた無関心を装ってはいたが、声音の端々に不愉快との本音が見え隠れしている。

 相変わらず、難儀な親心もあったものだ。

 

「お前さんも付いて行きゃあよかったじゃねぇか」

「嫌なこった。それこそあの小娘、私が居たら調子に乗ってあれもこれもと買い込むに決まってる」

「ははっ、体のいい荷物持ちってぇ訳だ。師匠相手に不遜というか豪快というか」

「まったくさ。だからまあ軟弱なのが同行してた方が、そう無茶もできないだろ」

「トーカめは毎度のことながらご愁傷様だぁな」

「ふん。月笛風情が白笛の伴を任されるんだ。これ以上なく栄誉だろう?」

「栄誉云々はともかく、そいつぁこれ以上なく不遜な物言いだぜ」

「まあね、フフ」

 

 こちらの皮肉を女はニヤリと笑い、吹き払う。

 多少機嫌は良くなったようだ。

 

「言われてみりゃあ街の見物どころではなかったな。この国に来てからこっち、矢鱈と忙しねぇのなんの」

「別に観光に来た訳じゃないんだ。どうでもいいだろう」

 

 二日二晩酒場に入り浸るのは、確かに観光とは呼ぶまいが。もう少しマシな異国の過ごし方というものがあろうに。

 

「己としちゃオース探窟隊の用船に(かこつ)けて酒だの肴だの買い込むつもりだったが。なんせ税金が取られねぇ絶好機だからな」

「知らないよ。好きにすればいい。金なら余るくらい持ってるだろ」

 

 病床の傍ら、床に無造作に放ってある革袋は先夜オーゼンに投げ渡された札束のまた束。使い途を考えあぐねていたが、酒代に消えるくらいが如何にも()()()貧民らしかろう。

 

「お前さんもどうだ」

「あぁ?」

「出立まではまだ間があろう。なにより船の整備が終わらねば港で暇を持て余すだけだ」

「……」

 

 暫時、平淡にこちらを見下ろした女は、窓の外の晴れ空に目を遣った。

 

「荷物持ちはあんたがやりな」

「へいへい」

 

 鞘に納められた刀を腰に佩き、外套を羽織り、革袋を担ぐ。

 オーゼンと共に病室を出た。

 

「セレニ……というかこの街にも名産品の一つくらいねぇのか。己が知ることと言やぁ、ここが御大層な宗教団体様の御膝元ってくれぇなもんだ」

「あんたの無知は今に始まったことじゃないが、それにしても酷いね。しょうがない。無教養の徒には、この私が直々に指南をくれてやろう」

「そりゃそりゃお有り難ぇや。涙が出ちまうよ」

「ああ、泣いて喜びな。存分にね。フフフ……」

 

 軽口を叩きながら療養院の広間へ降りる。表玄関にはやはりというか、先夜の怪我人が数多く並んでいた。

 待合の長椅子を横目に、出口へ向かうその途上で。

 

「ラーミナ!」

「ん?」

 

 近く、見知った顔が我らを出迎えた。

 夜道に佇む(ひさ)ぎの装いではなく、くすんだ白のワンピースに厚手のコート。

 ムタの、それが昼間の姿なのだろう。

 

 

 

 

 

 療養院の待合所、その隅の長椅子に娘と並んで腰を落ち着ける。

 

「すまねぇな。昨夜(ゆうべ)は結局、碌々事情も通じねぇまま別れっちまってよ」

「ううん、いいんだそんなこと。ただ……」

「うん?」

「ありがとう、ラーミナ」

 

 灰色の髪間から、上目に己を見る瞳。黄金のそれがどうしてか潤む。濡れる。

 

「ははは、酒屋に置き捨てた手前、礼なんざ言われるとむしろ立つ瀬がねぇんだがなぁ」

「どうしてさ」

「大したこたぁしてねぇからよ。飯を奢っただけで」

「違う。それだけじゃない……!」

 

 ひどく思い詰めた顔をして、娘は再び俯いた。

 そうしてそっと、その腹を撫でる。愛おしげに、労しげに。

 

「この子が、この子の為に……ウチがうっかりカザフのこと喋ったから、ラーミナは」

「さてな。己は無頼と喧嘩沙汰起こしただけだ。そいつがとんだ大事になったなぁ流石に意表外だが、お前さんが気負う必要は何処にもねぇんだぜ?」

「でも!」

「街のチンピラ風情、掃除したところで何が変わる訳でもねぇ。まあほんの少しでも窮屈な思いが減るならそれに越したことはねぇと、それだけの話だ」

「ラーミナ……なんで、なんでそこまで……そんなこと言われちゃったら、ウチ、ウチ、なんにも返せないじゃないか……」

 

 それはいっそ、批難するように。娘は己の外套の袖口を掴む。

 無償の施しなど不気味なだけだ。まして施してやったなどと宣うなら、そのような傲慢は精々が反吐の元だ。

 この娘は偽善と報恩の違いをよくよく心得ている。ゆえにこそ、己の行いに戸惑うのだ。

 それはひどく快い。娘の困惑、思慮より根差すそれが、己はどうも気に入ってしまった。

 

「やりてぇからやった。私心私欲。何も誇るべきものはない。己はただ一刀(やっとう)振り回す相手を見付けて、実際に振り回してみせたのよ」

「んなぁ……そんな、そんなの……じゃあ、じゃあさ。ウチにできること、ないかな。なんでもいいよ! ウチにできることだったら、なんだってしてあげるから!」

「ほほう、なんでもいいのか?」

「うん! ラーミナが、して欲しいこと」

「ならば、元気な子を産んでくれ」

 

 言葉を失くして娘は目を見開き、己を見詰めた。

 

「……うん。わかった。わかったよ。ウチ、ちゃんとこの子、産む。ちゃんと育てる……」

 

 不思議なものだ。己は格別、憚るでもなく何をした訳でもないというのに。

 娘は泣くのだ。大粒の涙を溢すのだ。

 ふと、床に置いた革の袋が目端に過る。

 

「トナカイ肉は旨かった。うん、ありゃあべらぼうに旨かった」

「へ?」

「こいつは肉の礼だ」

「んなぁ、なにこれ……?」

「おぉっとっと、中身は家で確認しな。まあ気にするこたぁねぇ。所謂、泡の何某というやつだ」

「???」

 

 疑問符を浮かべる灰色の頭にそっと手を置く。化粧気の薄い顔は、涙痕も相まって子供のようにあどけない。

 

「何か困ったことがありゃあ、そうだな……ベルチェロ孤児院にでも文を送ってくれ。七日の内には馳せ参じてみせよう」

 

 快い縁だった。良い娘子だった。この一期の一会に、どうか幸いが運ばれることを祈る。

 

「赤子共々、息災でな」

 

 

 

 

 

 

 療養院を出てすぐ。門扉に背を預けた黒衣を見付けた。

 

「よう、待たせたな」

「……」

「さてどうするかね。悪いが諸事情あって懐が寒々しいんでな、高級酒纏め買いとは……」

「…………」

「おい、どうした? やにわにえらく静かじゃねぇか」

 

 女はその場で腕組みしたまま、明後日の晴れ空を眺めやるばかり。

 暫時、それこそ雲が通りの彼方から此方へ過ぎ去っていくほどの時を要して、女は己を見下ろし、続いて視線を療養院の方へ移す。

 この女の無表情は今に始まったことではないが、こうも分かり易い仏頂面は初めて見るやもしれぬ。

 いや、これは、いつか見た覚えがある。初見の、あの物見台で。己を睨めつけた悪意の貌、ではなく。

 そうだ。これは、ライザに向いていた貌だ。

 

「あの女」

「あん?」

「あんたが孕ませたのかい」

「…………」

 

 意表外というなら、これこそこの上ない意表外の言葉が、意表外な女の口から聞こえてきた。

 応えを寄越さぬ己に凍てつくような視線を突き刺し、女はなお言い募る。

 

「どうなんだい」

「いや、違うが。というか、昨日今日会ったばかりの女をどうやって孕ませろってんだ」

「ふーん」

「おい、なんだ、その面。信用ならねぇってか」

「私の知ったこっちゃないね」

「おい、おいったら」

 

 言うや、オーゼンは足早にその場を離れる。歩き去って行く黒い背中を慌てて追いかける。

 どうしてか(いか)る、その背を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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37話 奈落の子供達

申し訳ありません。時系列がぐいーんとずれ込みます。
1話の続きです。




 

 

 十三年。光陰などはそれこそ矢の如く。

 あの岸壁街の奥地、露台の闇の淵で“己”が始まってから、およそそれだけ経った。ウィローに拾われ、あの坊と出会い、騒々しい女性(にょしょう)共の巻き添えを食わされ、縁遠き者、親しき者、数多の人々と縁を結び────そうしてその数に匹敵するだけ、彼ら彼女らを奈落へ送った。

 弔いの花の香。トコシエコウが虚に舞う。

 皆、奈落へ落ちていく。衝き動かされ、断じて止まぬ、その憧れに身を委ねて。

 

「……どいつもこいつも」

 

 深淵はより深く、より暗く、口を開けて待っていた。次の贄を、挑む者を、貪食の餓鬼の如くに待ち侘びていた。

 ここへ。底へと。

 あの女は、笑ってそこへ行った。憧れ、それが人を蝕む悍ましい呪戒に過ぎぬことなどとうに承知で。一切合切を地上に残し、それでも。

 それでも、と。

 烈日のようなその瞳が望むのはただ一つ、奈落の暗黒の、最奥の果て。

 あいつは行っちまいやがった。

 

「トーカ、てめぇの女房は本当に……」

 

 度し難い。度し難い女だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光条。

 それは天を衝く柱であった。轟音、爆風、熱量を伴って円柱状に無際限に伸び行く光の束。

 空間を貫徹し、その進路上のあらゆるものを、質量の有無さえ問わず消し飛ばして進む。

 辛くも助けたナットを帰還コースへ蜻蛉返りさせ、あのお転婆娘──リコを追う途上においてのこの仕儀。

 

「なんだぁ……!?」

 

 頭上を光の川が流れているようだった。

 およそこの世の事象とは思えぬ。一見には火のようである。似て非なる。これは実に澄んでいる。空気の燃焼によって発生する火炎とはその成り立ちからして違う。ひどく、ひどく純粋な光。強いて言えば太陽光に近い。

 ────いや。

 一つ、知っている。

 

「……」

 

 これと同質の、純粋なる光。万物を滅却し無へ帰さしむる恐るべき閃光を。

 あの男が使っていた遺物。かの威力、この肌の粟立ちを思い出す。

 ともあれ、性質は同じであってもこれは明らかに異なる。そして意図だけは明白だ。これの用途。使途と言ってもいい。

 

「こいつは」

 

 砲火だ。

 狙い定めた対象へ撃ち放たれたもの。撃ち殺し滅する為の機構。

 何者かの意思によってこれは撃ち出された。発砲されたのだ。

 何に対して、何を狙って。

 深界一層。樹住まいの化石群。周囲には原形のまま珪石化した樹木が林立する。

 力場の光が木漏れ日となり差し込む、苔生した岩場のさらに先。

 紅色の滑りを帯びた体表。翼膜を広げ、空中で藻掻き暴れる巨体。

 ベニクチナワ。

 本来このような浅い層で出くわす筈のない原生生物である。一体何をとち狂ったか、あるいは奈落で……何かが歪んだか。

 理由は知れぬ。

 しかし、すべきことは変わらぬ。いや己に(あた)う仕業など。

 腰帯に吊るした笛を咥え、吹き出す。けたたましい音色が化石の木々を木霊する。

 赤蛇はしかとこちらを認めた。

 翼膜を翻し、気流に乗って直滑降。

 その怒りを気取る。

 接近と共に、奴の顎から腹に掛けて、削り取られたような傷が見えた。

 手負いの化物(けもの)、とりわけ原生生物共の厄介さは筆舌に難い。まずもって獲物を諦めるようなことはあり得ない。

 ()()()()

 

「よくぞ逃げずにいてくれた」

 

 お蔭で確実に、殺しておける。

 ここはなにせガキ共の稼ぎ場なれば、こんなデカ物にのさばられては不都合なのだ。

 己は駆ける。

 大顎が迫る。

 刀刃を抜き放ち、いざや一太刀────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え、え、え、え、これ人間じゃない! き、機械!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 探窟家稼業の花形は蓋し、遺物の発掘に他ならない。

 が、奈落において金を稼ぐ方法は何もそれだけではなかった。

 主戦たる探窟を妨げる種々数多の危険な原生生物を討伐し、脆弱な人間の安全圏を確保することもまた、穴潜りの仕事の一つである。

 

「まさか一層の、それもアビスの淵でベニクチナワが出るなんて。原生生物ってホント油断ならないね」

「一応組合には報告を上げといてくれ。お前さんも、本業の時は精々気を付けな」

「こんな大物を剣一本で仕留めちゃうような凄腕の狩人が一緒に潜ってくれたら、アタシとしては安心なんだけどな~?」

「討伐報酬は承知したが、この蛇体はどうだ。値は付きそうかい」

「ふつーに流すし……ん~っと、肉は無理。ベニクチって固いわ臭いわ毒抜きは手間だわ、食用にはならないんだ。研究用に欲しがるとこはあるけど、あそこ遠いから。運搬費が馬鹿になんないよ?」

「どの程度だ」

「今回の報酬がほとんど消えるくらい」

「おいおい丸損じゃねぇか」

「あ、ベニクチナワって確か腹に固形物を溜め込みたがるの。もしかしたら高等級の遺物とか呑み込んでるかも」

「捌いて取り出せってか……それならいっそ孤児院にでも投げるか。ガキ共の教材にゃ丁度いいだろう。運搬の算段は、そうさな、ベルチェロあたりに掛け合うゆえ。悪いがあのデカ物は暫くここに置かせてくれ」

 

 轟轟と巻上機の駆動音が床板に響く。つるべの錘が奈落の霧に消え、代わりに人を乗せたゴンドラが現れる。

 大ゴンドラの船着き場。探窟家の待合所兼遺物検査場にて、受付の娘子は用箋挟(バインダー)の書類に馴れた手付きで必要事項を書き込んでいく。

 事務所の建屋のすぐ外には広場があり、今そこを占有しているのは先刻己が仕留めた赤蛇の巨体と、断崖で吊るしたまま忘れていたツチバシである。

 

「ラーミナは遺物とかホンっト興味ないよね。ここに寄るのだって毎回なにかの討伐か捕獲だし。あははっ、あんたホントに探窟家?」

「食う為の活計(たずき)に過ぎぬでな。ついでに肉が食えれば儲け儲けってなもんで。宝探しはまあ、やりてぇ奴に譲るさ」

「ふふ、相変わらずだなー」

 

 二つ結びのオレンジ髪が揺れる。娘はころころと悪戯っぽく笑った。この組合事務所で遺物検査官を務める顔馴染みの少女、名はアーシャ。

 誰あろうナットの姉御である。

 

「あ、そだ。孤児院に寄るならこれ、あの子に渡しといて」

「なんだ?」

 

 小さな丸い器を手渡される。蓋には走り書きに「塗っとけ」の文字。

 

「軟膏。今回……危なかったんでしょ。あの子またどっかしら擦り剥いてるだろうから、ちゃんと処置しとけってラーミナからも言っといてよ」

「……ああ、承った」

「それとラーミナも。浅い層だからって傷とか放置しちゃダメよ。もしかして今隠してたりしない? 念の為診たげよっか? アタシね、今サバイバル環境下の救急医療講座受けててさ」

「あぁいぃいぃ。どっこも怪我なんざしてねぇからよ。ほぉれ、次が(つか)えてるぜ」

 

 今し方到着したゴンドラから草臥れた様子の一隊が降りてくる。背には、その日の成果と思しい大荷物。

 隊の長が受付から声を張った。

 

「あ、はぁい! ただいま! ごめんラーミナ、また今度ね」

「おう、頑張りな」

 

 はきはきと大の男達を相手取り仕事をこなす小さな背中を見送って、事務所を後にした。

 

 

 

 

 

 

 日暮れも間近。赤く昏い孤児院への道をツチバシを担いで歩く。

 先へ行かせたリコとナット、そして……“もう一人”。あるいはもう一機は、そろそろ部屋に辿り着いた頃合いか。

 ジルオはともかく院長にだけは見付からぬことを祈るばかりだ。

 刻刻、影がその色濃さを増す逢魔の時分。林道を一つ越えた辺りで孤児院の鐘楼が、その屋根の尖端で回る風見鶏が見えてきた。

 ベルチェロ院長に目通りする前に、先にツチバシの脱羽と処理を済ませてしまいたい。今からなら、ガキ共の夕飯に一品増やしてやれるだろう。

 勝手口から鍵を使って厨房に上がる。

 湯沸かしの為に、大鍋を見繕っていた、その時。

 

「痛ってぇえええ!! この、雑にやんなよ! 痛っ! くぅぅう、痛ぃった……!」

「んなぁ、うるせぇなぁ。大袈裟なんだよ。チビでも男だろ。こんくらい我慢しろよな」

 

 扉を隔ててもわかるほどのナットの元気な絶叫と、それを揶揄う落ち着いた声。

 

「チビ関係ねぇよ! くおっ、し、沁みるぅ……!?」

「怪我した時、すぐ処置しねぇからだ。傷口の奥に土が入っちまってる。ちょっと()()()から今度は痛ぇぞー」

「ちょ、ちょちょ待て、待ってくれって!」

「随分と賑やかだな、おい」

 

 医務室の扉を開く。ナットの涙目が天の助けとばかり己を見る。座った椅子の座面の縁を掴み震えている。余程痛かったようだ。

 そして、そんなナットの額の傷口を、鉗子とガーゼで器用に清拭する童が一人。ナットと同じサバイバルジャケット姿。

 子は、灰色の髪を揺らしてこちらに振り返る。黄金の両瞳が己を見上げる。

 

「なんだよ、糞親父かよ」

「おう、お前さんも今帰りか? ナナチ」

 

 ナナチは答えず、ただ口をへの字に曲げる。そして手にしたガーゼを乱暴に傷口へ貼り付けた。

 ナットの悲鳴が院内に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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38話 セレニから巣立ち

過去→現代→過去回想→現代
ごめんね、訳わかんなくてごめんね


 

 

 

 

 暦は廻る。気付けば、その地で厳冬の嘶きが聞こえ始めた頃。

 その文は届いた。

 

 

 

 

 生白い廊下、生白い扉。清潔への拘りも過ぎれば目に毒だ。

 改築されたらしい療養院の病的な白さは、医者と無縁の武骨者には異質に映る。

 国の医療に金が巡り始めたのだろう。血の巡りが増した肉や皮が旺盛に代謝するように。

 病室の戸を叩く。控えめな返事を聞き取って、引き戸を滑らせた。

 寝台に横たわる女が一人。そして、その傍らにひどく小振りな寝台がもう一つ。それには柵が設けられている。

 女は己の姿を見て取って破顔した。

 

「ラーミナ」

「すまねぇな。間に合わなんだか……」

「んなぁ、謝らないでよ。むしろこんなに早く来てくれるなんてびっくりだ」

 

 近くにあった丸椅子を引き寄せ、寝台の傍に座る。

 ムタの顔は、多少疲労の色が残るものの、実に晴れやかだ。血色もいい。

 

「よく、頑張ったな」

「んへへ、頑張りました」

 

 小振りな寝台、小児用ベッドを覗く。赤々と無垢な寝顔がそこにある。

 

「抱っこしてみる?」

「んん? 己がか? いやぁそりゃちょいと勘弁だぜ。うっかり潰しちまいそうだ」

「ふふっ、なんでさ。ほらぁ怖がらなくても大丈夫だから」

「お、おう」

 

 ジルオよりも小さく、ひどく熱い。純粋に過ぎる生命の塊。

 両腕に抱いた重みに、無頼漢は畏れ戦き、同時に惑う。この手は本来、こんなものに触れてよいものではないのだ。

 だのに。

 むずがるでもなく、赤子はすやすやと腕の中で眠り続けた。

 

「名前は決めたのか」

「うん」

 

 ムタは慈母の貌で微笑み、赤子の頭を撫でながら。

 

「ナナチ、この子はナナチだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「また、行くのかい」

「なんだって」

 

 頭頂部、分厚く鎧われたタチカナタの甲殻において、最高の硬度を誇る額を拳でぶち貫いたオーゼンが、まるで今思い出したとばかりに呟く。

 

「ッッ! ……セレニにだ」

 

 巨大なテッポウエビだった。体長は優に4、5メートルを超える。腹這いに身を起こした姿勢であっても、あのオーゼンが見上げるほどだ。

 

「まあな。明後日には発つ」

 

 厄介なのは、その両の爪。その爪は閉じる瞬間、衝撃波と高温を発する。圧力差を利用した気泡の消滅による空洞現象とそれに伴う水分子の電解がどうのこうの。

 

「足繫く、ご苦労なこったねぇ」

「そうでもねぇさ。もとより暇を持て余す身だ」

「子供が可愛いくって仕方ない、ってかい。フッ」

「まあ、それが無ぇと言やぁ嘘になる。生まれた頃から寝顔を拝んでりゃ情も湧く。それが他人様の子でもな」

「……」

 

 頭の痛くなる理屈に興味はない。知るべき要は、その強烈な熱波が生き物をずたずたにして殺せるということ。

 もう一匹、まさに今その伝家の宝刀を抜かんとする巨大エビに踏み込む。打ち下ろし、返す刀斬り上げ、その両腕を落とす。

 出所の知れぬ悲鳴を上げる甲殻類に、上段から止めを呉れた。

 

「…………」

 

 悲鳴は続く。女が振るう黒い手甲の拳がまた二匹、さらに三匹と、甲殻を砕く。巨大なタチカナタの群を蹂躙する。

 

「本当に違うのかい」

「何がだ」

「お前さんがどこで種を撒こうが欠片も興味はないよ」

「だから何の話だ」

「ばぁか」

「あぁ?」

 

 振り返った黒い背中は、一匹のタチカナタを壁面に叩き付け、粘つく染みに変えた。

 蜘蛛の巣状に亀裂が走り、岩肌が震撼する。

 洞穴が丸ごと倒壊したのはその直後だった。

 

 

 

 

 

 

 分厚い雪に覆われたセレニの地、一昨昨年より僅かに、一昨年よりもさらに少し、昨年よりは幾分活気が盛り始めた街。

 治安は、まあ悪からず。少なくとも、嘗て無頼共の傍若無人に晒されたスラムの姿ではなく、真っ当な人の住まう場所に変わった。

 国家統治者の首が何本か挿げ代わり、連盟の手入れと、ベオルスカ政府による支援──傀儡回しが効いたようだ。

 貧しいには違いあるまいが、仕事があり、働いただけ賃金が支払われる。以前国庫を逼迫させた採鉱事業は大幅な見直しが図られ、様々な改定に加え、他国の()()()()()を招聘。結果として、事業規模は縮小したにもかかわらず、鉱物資源の採取量は順調に増加しているという。

 セレニは今や、資源輸出国として過去にない安定を見た。国内餓死者数はここ十年来初めて減少傾向にある。

 生命線たる採鉱事業の成功。もっと早くにこういった措置に踏み切っていればよかったのだと、政府の対応の遅さを詰る声も多い。もっと早く、専門技術者を……探窟家をオースより借り受けていれば、と。

 

「……」

 

 療養院の階段を登る。

 鼻腔を満たす消毒液の臭気とは別に、臭いを覚える。ひどく生臭い。潤ったのはセレニか、それともベオルスカか。

 結局、『六年前』の一件は、白笛による埒外の暴威に(かこつ)けた政争に過ぎなかった。セレニが欲を掻き、いや追い詰められた末暴挙に出、その隙をベオルスカが衝き、その内懐に這入り込み、鉱物資源という内臓を食い物にしている。

 宿主たるセレニを寄生虫たるベオルスカは丁重に生かし続けた。

 ……だがそう見下げたものではない。現実に、その功利が少なくない民草を貧困と死病から救い上げた。

 あの娘らもまた、その一つ。

 病室の戸を叩く。控えめな返事を聞き取って、引き戸を滑らせた。

 寝台に横たわる女が、こちらを見て嬉しげに微笑んだ。

 

「ラーミナ、来てくれたんだ」

「……」

「ああ」

「ほらぁナナチ。ちゃんと挨拶」

「……よう」

「おう、また背が伸びたか」

 

 灰色の髪の童は、寝台の母に向かうばかりでこちらを見ようとはしなかった。

 その頭に触れる。弾けるように、童は己の手を跳ね退けた。

 

「っ!」

「ナナチ!」

 

 ムタの叱る声に、身を固くしたのも一瞬のこと、童は駆け足に病室から出て行った。

 

「もぅ、あの子ったら……」

「すまんすまん。嫌われてるってのに、軽々しい真似しちまった」

「ちぃがぁうよ。あれは照れてるだけ。ホントはラーミナが来てくれて嬉しいんだよ」

「だといいが……体の調子はどうだ?」

「んなぁ、一進一退ってとこ。やっぱり遺伝かな? ウチの母さんも同じ病気だったし」

 

 一月前よりも確実にやつれた顔で、女は笑う。朗らかに、笑うのだ。

 

「覚悟はできてるよ」

「……」

「心配なのはあの子のことだけ。ナナチのこと。でもそれも、ラーミナがいてくれる。だから不思議とね、ウチ怖くないんだ。病気も、死ぬことも」

 

 小枝のように細った腕、指が、己の節くれ立った手を握る。壊れ物をそうするように握り返す。

 

「だから、ね。ラーミナ、あの子の、ナナチのこと……」

「いや、駄目だ」

「えっ」

「任されてはやれん。あの子はお前さんの子だ。俺は幾らか些末な手伝いはしてやれる。だが、育ててやれるのはお前さんだけだ。あの子の親であるお前さんだけだ」

「……」

「遺言など訊かんぞ」

 

 手を握り、もう片手で灰色の髪を撫でる。

 眩そうにこちらを見上げる目に、笑みを返す。

 

「そう簡単には死なせねぇ。そうさな、ナナチが独り立ちするまでは頑張ってもらう」

「……んなぁ、厳しいなぁ。ラーミナは」

 

 病室を後に、療養院の廊下をやや急ぎ歩く。

 そんな己の背後に小振りな足音が追い縋った。灰色髪の下、黄金の瞳が睨め上げてくる。

 

「おい! どこいくんだよ!?」

「オースへ戻る」

「っ、き、来たばっかじゃねぇか! も、もう少し、母さんの傍について」

「急ぎの用事ができちまった。これから先も見舞いには来るがあまり長居はしてやれん。すまねぇな」

「ッ! ふざっけんな! 母さんも……母さんは、あんたのことずっと待ってんだぞ!?」

「そうだな……その為にも、行かねばならん」

 

 踵を返す。残された時間は少ない。極めて少ない。

 

「待て! 待ってよぉ……! くそっ! 糞野郎!! 糞親父ッ!! まって……ッッ、んなぁぁあああああ!!!」

 

 背中を叩く幼子の泣き声。己の不明と不甲斐なさを詰る。それでいい。それで正しい。

 いつか、お前の母御と共に、それを笑ってくれたなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なーんて、あの時はホントすごかったねーナナチー?」

「んなぁ……う、うっせぇよ」

 

 窓から差す日の光は、春の冴えと暖かな陽気。暖炉を焚かずとも過ごせる日和は、このセレニでは得難いものだ。

 街の目抜き通りからも程近い小さな家屋。手狭と言えばそれまでだが、親子二人でならそう不自由はなかろう。ムタがここを選んだ理由はパン屋が近く焼き立てが食えるからだそうだ。

 

「あの時は、その、この糞親父がろくに説明しやがらねぇから……」

 

 結局、地上の医療で及ばぬものを駆逐する為に、己が頼ったのは奈落の神秘だった。

 病を治す遺物は、実際のところ数多く存在するが、特定の病原を生体に都合よく絶つことのできる遺物をアビスに対して無知蒙昧を自称する己が見付け出すことなど不可能だった。

 ────オーゼン、あの女にはほとほとでかい借りができた。

 

「療養院中に響くくらい泣きじゃくってさ、医者先生とか看護婦さんとかに物投げて当たるし、退院の目途が立った最後の方はホンっト居辛かったんなぁ」

「うぅ……!」

 

 窓辺の卓に座ったナナチは、卓面に額が付くほど身を縮めた。

 ムタはころころと羞恥する我が子を笑う。

 つられて笑った己の様をナナチは目敏く捉え、きっと睨みを呉れた。

 

「わ、笑うなよぉ……!」

「くく、すまん」

「っっ! あぁもぉ!」

 

 ナナチは席を立ち、部屋の隅に置いた背嚢を背負った。

 

「もう行くの?」

「んなぁ、船の時間。港までそこそこ歩くし」

「……そっか」

 

 ムタは微かに吐息して、同じく席を立つ。

 ナナチが探窟家になりたいと打ち明けたのは、ムタが退院してすぐのこと。

 ベルチェロ孤児院は親無し子の為の家としてだけでなく、探窟家を養成する為の教練所として門戸を開いている。

 今日、ナナチはオースへ旅立つ。親元を離れ、夢を追う。

 奈落の夢を。

 

「……」

「忘れ物ない?」

「ねぇよ。何べんも確認したって」

「ナナチ」

 

 ムタは膝を付いて、その矮躯を抱き寄せた。

 

「いってらっしゃい」

「っ……いってきます、お母さん」

 

 

 

 

 

 

 

 港への道すがら、ちくちくと頬を刺す視線。

 隣を歩く童が、時折こちらを盗み見ていることには気付いていた。

 

「荷物が重いか」

「っ、べつに、こんなもん大したことねぇよ」

「そうかい」

「……」

 

 視線は己の横顔、肩、そして左手に注がれる。

 それはなにやらひどく、物欲しげな気色で。

 

「手、繋ぐか?」

「いっ、や、な、なんでだよ」

「嫌か?」

「いや……や、じゃ、ねぇけど」

 

 立ち止まり、左手を差し伸べる。往来の中で暫時、ナナチは自身の手とこちらのそれを見比べていた。

 そうして、おずおずと小さな手が重なった。

 

「……なぁ」

「ん?」

 

 無言のまま歩き続け、不意にナナチが口を開いた。

 

「あんた……ホントに、オイラの父親じゃないのか」

「ムタに聞いたのか?」

「うん……」

「まあ、そうだな。血は繋がってねぇな。そいつは確かだ」

「……そうかよ」

「だが」

 

 立ち止まり、再びナナチを見る。不思議そうに丸くなった黄金の瞳を。

 

「お前さんが己をどう呼ぶかはお前さんの自由だ。そしてお前さんがどう呼んでくれようが……俺ぁ嬉しいぜ。ナナチ」

「……うん」

 

 童は口をもごもごとさせて、喉の奥になにやら蟠らせている。

 ひどく、気力を絞って、顔を赤くしながら。

 

「と……とっ……」

「……」

「……糞親父」

「くっ、はははははっ! おう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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39話 身に過ぎた今

後付けというより思い付いた設定を順次ぶちこんでいる始末で、すみません。ご都合ですね。
なにより、個人的に思う原作最大の魅力である例の不可避の大原則をかなり冒涜しております。



 

 

 

 

「ってぇ~ッ! くっそぉ、お前の手当ていっつも雑なんだよ!」

「しょーがねぇだろ。オイラべつに医者じゃねぇし。処置してもらえるだけ有り難く思えよな」

「一応は医者見習いだろ!」

「まなー」

 

 ナットの抗議も何処吹く風とナナチはてきぱき清拭布を捨て鉗子を消毒する。

 ナットが怖々と額のガーゼを弄る。それを見て取り、思い出した。

 

「うぅまだズキズキする……」

「ナット」

「なに、ミナ兄ちゃん」

 

 不貞腐れた様子の少年に軟膏の器を手渡す。

 

「アーシャからだ。怪我したらちゃんと手当てしろとよ」

「うへ、またかよ……なぁ、兄ちゃんから姉ちゃんにさ、いちいち構うなって言っといてよ」

「心配してくれてんだから素直に言うこと聞いとけよ。ガキじゃあるまいし。あ、ガキだったわ」

「お前もな!!」

 

 真っ当な忠告にしっかりと毒を添えることも忘れない。ナナチとナットはおおよそ同い年の筈だが、口の達者さはナナチに軍配だ。

 

「かっかっ、まあそう怒るな。おぉそうだ、晩飯にな、ツチバシでもう一品何か拵えてもらおうと思うんだが、何がいい?」

「マジかよ。オレ唐揚げ!」

「ぷっ、やっぱガキじゃん」

「あ! じゃあナナチは要らねぇってことだな。兄ちゃん、ナナチの分はオレが食うから寮母さんにそう言っといて!」

「んなっ、オ、オイラ食わねぇなんて言ってねぇだろ」

「知らねぇー。はい決定! じゃオレ行くわ!」

 

 ナットは勢い、丸椅子から跳ねるように立ち上がり医務室を走り去った。

 リコが連れ込んだ例の“子供”を見に行くのだろう。

 

「んなろー……日に日に生意気になりやがって」

「お前さんもなかなかいい勝負だぜ」

「うっせ」

 

 ナナチは唇を尖らせた。あからさまに不機嫌そうな渋面で、なにやらじっと己の全身を見渡す。

 

「……あんた、また深界に潜ったのか」

「いや? ちょいと一層の辺りをぶらついただけだ」

「そのわりには随分汚れてんな。ズボンの腿の泥土、地面転がったり滑ったりしたろ。袖に血が付いてる。あんたがツチバシくらいで返り血浴びるわけねぇし。大物相手に大立周りしてたってとこか」

「ははぁ……よっく見てやがらぁ」

 

 昔から目端の利く童だったが、孤児院で学ぶようになってからは一層眼力に磨きが掛かっている。元が聡明なのだ。

 

「上、脱いで。んでそこ座れ」

「ふっ、こんな姿(なり)だが何処も怪我は負っちゃいねぇんだぜ。いやいや我ながら軽やかな身躱しでな、こう、しゅたた! っと」

「ドヤんな。こちとらあんたが不養生っつうか無頓着っつうか、いろいろ雑なことなんざもうとっくに知ってんだよ。ほら、こんなことで駄々こねんな」

 

 この言われ様である。至極真っ当な童の指図に、大の男がすごすご従うより外ない。

 

「……『腕』も。一応見せなよ」

「うん? おいおい己がいっくら無頓着ったって、流石に『こいつ』の点検までは怠けんよ。お前さん今日は探窟で疲れたろう」

「いいから。オイラが診ときてぇんだ」

 

 黄金の瞳が己を見上げる。揺らぎ、微かに翳り。

 幼子は決然として、同時にひどく悲しげだった。それは実に如何ともし難く。

 ────決して、こんな顔をさせたかった訳ではない。

 能う限りの手段、執るべき術を執った。これはその結果に過ぎない。これは己の選択である。そこに一片の後悔もない。百度相対したとて百度同じ決断を下すだろう。

 まあ、単にそれ以外の道を模索できない己が阿呆なのだと言われてしまえばそれまでなのだが。

 

「……わかった。手拭いを寄越してくれるか? 床が汚れちまう」

「うん……」

 

 上着を脱ぎ、上衣も脱ぎ、籠に放り込む。

 宣言の通り身体には直近に受けたような生傷はない。

 しかして一処、奇異なるは左腕だった。左の上腕から先の皮膚の色味が他の部位とは明らかに異なっている。継ぎ足したかのように。

 ナナチから金属の(へら)を受け取り、上腕に刺し入れた。皮膚と皮膚、その継ぎ目へ。

 左腕の表皮を捲る。それこそ腕長の手袋を外すかの所作で。

 

「っ……」

「……」

 

 幼子の震える視線がなにやらこそばゆい。

 原生生物から培養したこの人工皮膚は、色や質感こそ多少の違和が見られるが、使い心地はそう悪くない。特に鞘の掴みと鯉口を弾く触感の差異は大きな懸念であったが、それも今や随分と馴染んだもの。

 のっぺりとした皮膚はべりべりと剥がれ、その内部が露になる。

 絡繰仕掛けの義手。言わずもがな、遺物である。称して『意識で動く腕(サードワークス)』とか。

 手拭いを当てる。やはり接合部からは血が滴り落ちてきた。

 

「……ん、壊死はしてねぇ。でもやっぱり傷口は閉じねぇんな……」

「仕様ゆえ仕方あるまい。神経や筋肉ではなく繋げるのはあくまで意識だ……とは、オーゼンからの受け売りだ」

「痛みは」

「相変わらずだ」

「…………」

 

 当人などより余程、子は痛ましげな顔をする。

 

「……やはりこいつも原生生物の生体ほど適合するそうだ。人間の手指を模しておいて人間向きじゃねぇんだと。かっははは、可笑しな話だな」

「いや、笑えねぇから」

 

 奈落の遺物はどういう訳か等級が高いものほど人体ではその使用に耐えられないものが増えていく……ように思われてならない。意図してか、悪辣なまでに。

 

「痛みがあるということは、呪いはきっかりこの身が肩代わり出来ているという証左よ。まさかあのがめつい虚穴めに支払うもんがこの程度で済むたぁ思わなんだ。いやこれぞ無上の望外、まさしく最高の僥倖だ。俺ぁな、心底からそう思う。だからよ、ナナチ」

「……」

「そんな顔するんじゃあねぇよぅ」

 

 今にも泣きそうな面をする童の、灰色の髪を撫で付ける。

 ナナチは暫く声を殺した。何かを飲み込んでその分だけ代わりに息を吸い込む。

 

「……き、今日は血も採る。あんた免疫系の臓物ももう無いんだかんな」

「存外、無くても困らんものだな」

「感染症一発でアウトだっつうの。あと片肺無ぇ癖にやたらと動き回んじゃねぇよ!」

「ははは、あぁすまんすまん」

 

 己が牧歌的に笑うほど、幼子はぷりぷりと怒り顔になっていく。それがなんとも愛らしく、ついつい軽口が零れて落ちる。

 良い子に育ってくれた。ムタめの育て方が良いからだ。

 幼子が右腕の関節をアルコールで拭う。駆血帯を巻き、採血用の針を静脈に打つ。いずれも手早く、淀み無い。

 

「なぁナナチ」

「ん、なに」

「そろそろミーティに会いに行くか?」

 

 きょとんとした丸い目が己を見、数回の瞬きを経て、幼気な面差しにしっかりとした呆れ顔を浮かべる。

 

「あんたさぁ、オイラが赤笛だってこと忘れてねぇか」

「無論、見りゃわかるさ」

「じゃあそんなぽんぽん限界深度越えさせようとすんな。赤笛の二層下りは自殺扱い。知ってんだろ」

「流石に道行きが危ういか……うぅむ儘ならんものよ」

「あんたががっかりしてどうすんだよ……」

 

 賢しい子の至極常識的な正論を浴びて、肩を竦めてお道化る。

 阿呆が阿呆らしく振る舞うと、呆れながら童は吹き出した。

 

「なにか土産を見繕わねばな。お前さん、また文でも(したた)めちゃどうだい」

「うん……マルルクにもよろしく言っといて」

「おう、承ったぞ」

 

 ナナチは採血管に収めた己の血を保管庫に仕舞う。後々、組合出入りの医者を交えて検査だの分析だの諸々この子自身が着手するそうだ。

 医者見習いとは自称だが。きっとすぐにでも望むものになれよう。

 これは決して欲目などではない。

 

「……オイラ」

「ん?」

「オイラ……すぐ青笛になって、二層まで行けるようになるからさ。その」

 

 こちらを振り仰ぐ幼子の顔は、朱を差したような血巡りで。恥ずかしげにナナチは口をまごつかせた。

 

「あんたと、一緒に、ミーティに会いに行きたい。一緒にアビスを冒険したい、って」

「……」

「んなぁ」

 

 その灰色髪をくしゃくしゃとこねる。ナナチはなんとも小動物のような声で鳴いた。

 愛らしいと思った。健気な言葉に胸奥は暖まる。

 

「そうだな。そいつは、楽しみだ」

 

 幼子の成長に喜びなど噛み締めている。

 しかし、その喜悦と同じほどに、腑の底より滲み出るこれは。

 悲哀に似て懐しく、予感めいておそろしい。

 この黄金の瞳が直向きであればあるほどに、その望みが純粋であることを知るほどに。

 奈落の虚の昏さを知るのだ。それは深く、深く、光を喰らうと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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40話 悪戯小僧共

 

 

 街外れの茫漠とした荒野に己の些末な塒はあった。

 岸壁街、貧しき民草と貪欲な盗窟家とその他犯罪者共の温床は目と鼻の先。一攫千金を夢見る荒くれ蔓延る表オースの熱っぽい街景からもまた程近い。

 表と裏、双方の境。緩衝地帯。容易には相容れぬ両界の狭間は人気なく実に静か。住まうにはなかなかどうして悪くない。

 己のような偏屈者には相応しい場所だ。

 宵の口を過ぎた頃。月がなく星が火花の如く眩い夜。

 気配を覚え戸口に立つ。いやに低い位置から響くノックに扉を開けるとそこには、場所柄に似合わぬ面子が居並んでいた。

 

「こんばんは! ミナおじさん!」

「リコ。おめぇらまで、こんな時間にどうした」

 

 リコを筆頭にナナチ、ナット、そしてシギーと馴染みの顔ぶれだった。

 

「なんだなんだ、悪戯仲間揃い踏みだな」

「ん」

「おっす、兄ちゃん」

「こんばんはー。ラーミナさん、実はちょっとご相談がありまして」

 

 前置き少なくシギーが切り出す。向こう見ずで率先して無茶無謀を働くリコとそれを茶化すナット。騒々しさを担うこの二人に比してシギーは大分理知的、に見える。当人もそのように振る舞うが、実際のところこの三人の問題児具合は三者然して変わらぬ。知恵が回る分シギーこそは主犯、首謀者の地位に在ることも屡々だ。

 ナナチが補佐役に加わったことで手口が日々巧妙化している、とはジルオの苦々しい言だ。

 

「夜にここへは近付くなと言ったろうに」

「とりあえず中、入るぜ」

「わーい!」

「兄ちゃんちに来んの結構久しぶりだな」

「リーダーが特に怒るからね。他の悪戯の比じゃないくらい」

「……」

 

 勝手知ったるナナチが己の脇を摺り抜け、リコ達が続く。そうして、最後尾にもう一人。

 矮躯だ。背恰好はナナチらとどっこい。外套か目隠しに襤褸の布を被せられている。

 

「……邪魔をする」

 

 声変わり前の幼子の声音。遠慮がちに、件の“少年”は拙宅へ足を踏み入れた。

 

 

 

 

 子供らに蜂蜜入りのホットミルクを配る。甘ったるいミルクの香り、あちあちと旨そうにカップを啜る子らの様に満足する。

 とりわけナナチは昔からこういった衒いの無い甘味を好んだ。ほろほろと顔を綻ばせ、かと思えば慌てて引き締め取り繕いを繰り返している。

 そうして人心地ついて早々に、リコはその場に立ち上がり、勢いよく頭を垂れた。二筋の金髪が振り子となって空を切る。

 

「おじさまお願い! この子を暫くここに置いて欲しいの!」

「構わねぇよ」

「はお。あ、あっさり……」

 

 昼間、昏倒していたその少年の運搬を手伝った時点で、リコがこの種の頼み事をしに来るだろうことは予想がついていた。

 少年に向き合う。

 角の付いた兜、褐色の肌に赤い刺青、手足は生身ではなく絡繰仕掛けの義手だ。親近感でも抱けばよいのか。

 

「俺ぁラーミナってんだ。お前さんはなんてんだい」

「レグ! この子はレグだよ!」

 

 少年を抱き寄せながらにリコは言った。

 

「すまない。僕には記憶がないんだ。自分のことも、孤児院の部屋で目覚める前のことも、何も思い出せない……僕としても呼び名はレグで構わない」

「そうか。そいつぁ難儀だな」

 

 気後れした風の少年に同情が湧く。娘が数年前まで飼っていた犬の名前を付けられる気分とは、果たして如何なるものか。

 

「やっぱ電気椅子がまずかったんじゃね」

「リコが目盛り間違えるからだぞ」

「街一つ分の感電だしね。丸焦げにならなかったのが不思議なくらい」

「さっきの停電はてめぇらの仕業か……」

「はおぉ、反省してます」

 

 反省はあっても、それが次なる悪戯の抑止に繋がらないのがこの娘の厄介なところだ。それは道端に落ちた食い物を拾い食いする意地汚さに始まり、遺物のちょろまかし、限界深度を越えた探窟、白笛に対する飽くなき夢。そして迷い無き────絶界行への憧れ。

 好奇心の権化だった。あの日、あの奈落の深みで生まれたその時から。未知や神秘を暴き求めることに一切の躊躇がない。その過程に待つ痛みも、恐怖も、甘受する。果てに至ることが叶うならば。

 ああ、紛れもない。この子はあの婆娑羅娘の血を引いている。間違いなく、ライザの子だ。

 

「……」

「お、おじさま? その、わたくしめの本日の行いはですね、決して褒められたものではないということは重々承知しておりますので、本当に、ほんとーに、リーダーにだけはご内密に、こ、告発だけはどうか……お願いしますぅぅぅう!!」

「泣くほど恐ろしいんなら最初っからやらなきゃいいだろうが。きちんと事情を通じりゃ、ジルオとて話の分からん男じゃねぇんだ」

「だ、だってだって! リーダーに言ったら絶対レグを取り上げられちゃう! レグはね、アビス最高の遺物、奈落の至宝(オーバード)かもしれないの! レグのことを調べればアビスの謎の手掛かりが掴めるかも! 奈落の底に挑む為にレグは必要不可欠で、お母さんだって持ってない遺物を持っていれば白笛に近付け……私が最初に見付けたんだもん! レグは私のだもん!」

「尤もらしい理由でっち上げるんならせめて最後まで頑張れよ」

 

 ナナチの尤もな言に苦笑を一つ漏らす。

 

「どうせ寡男の独り住まいだ。ガキの一人寝起きするくれぇならまあ、支障はあるまい。レグ、お前さんがそれでいいんならな」

「僕は平気だ。あ、いや、そうしてくれるとありがたい」

 

 あわあわと言葉を選ぶ少年の様に、心根の優しさと思慮深さを覚えた。

 

「おうおう、お前さん方なんぞよりよっぽどしっかりしてるぜ。いや礼儀ってぇものが成ってる。感心感心」

「そ、そうだろうか」

「へっ、こっちは岸壁街育ちだぜ。ま、アウトローってやつ? 礼儀なんて生まれる前に落っことしてきてんだよ」

「そんなだからアーシャさんに叱られるんだよ。いつまでも子供っぽいってさ」

「う、うっせぇ! 姉ちゃんはカンケーねぇだろ!?」

「さて、戯れ合いもその辺にして、てめぇらそろそろ帰んな。あんまり遅いとそれこそジルオの雷が落ちるぜ」

 

 

 

 

 夜が更けるほど夜気が冷える。

 奈落の闇を視界の端に望み、星明りの降り注ぐ荒野を歩く。来訪を許しておいて今更だが、せめて街路まで子供らを送り届けねばならない。

 ふと、傍らを共に歩く灰色髪があった。

 

「……あんた、相変わらずガキには甘ぇな」

「なんだ藪から棒に」

「べつに。お人好しな糞野郎にちょっと呆れちまったってだけだ」

 

 ナナチはそう吐き捨てるように言った。

 口調の荒さについては、己はそもそも他人を詰れた筋ではない。どころか少なからぬ悪影響をこの子に与えてしまった科すらある。

 それでも、童がこのようにあからさまな悪態を吐くのは稀なことだった。

 言葉の強さに反して、表情は弱まるばかり。ひどく、寂しげな。

 

「お前さんの寝床、レグに使わせてやってもよいか?」

「……勝手にしろよ」

「ありがとうよ。代わりにお前さんは己のを使え。俺ぁ床でいいからよ」

「は? いや、なんでオイラまで泊まることになんだよ」

「いいじゃねぇかよぅ偶にゃあ。ああそれか、久しぶりに一緒に寝るか?」

「ば、ばっかじゃねぇの……もうガキじゃねぇっての」

「寂しいこと言うなよぅ」

 

 そうしてナナチを抱き上げる。

 

「んなぁっ!? ちょっ、お、下ろせよ!」

「あー! ナナチ抱っこされてやんのー!」

「うるせぇぞナット! おい、やだっ、糞親父、んぅ……!」

「すまねぇな」

 

 胸に置いた童の頭を撫でる。嫌がり、悪態を吐きながら、ナナチの手は己の腕を掴んで離さなかった。

 

「いつでも来ていい。や、まあなるたけ夜以外でな。ちんけな(あばら)ら家だが、あそこはお前さんの家でもあるんだぜ?」

「…………知ってる」

「そうか。ならいい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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41話 護身術

レグくんのヘソをいじくるのはアビス世界に課された不可避の運命(謎)




 

 

 

 朝焼けの冴えを肺腑に送り込む。

 白んだ光輝がオースを包んでいた。

 早朝、日の出と共に塒を這い出し大穴を見下ろす。相変わらず光を嫌い闇を孕む巨大な口腔。今更その悍ましさの表に言葉を尽くすのも阿呆らしい。

 闇を見限り、荒野の只中に立つ。

 手にした刃渡り二尺少しの木剣を正眼に据え、気息を整える。

 踏み込み打つ、退き打つ。前後に揺れる振り子のように、身体の体重移動力を乗じた木剣を振るう。

 素振りは基本的に身体の馴らしと筋力鍛練でしかない。鉛の芯を埋めた木剣の重量はおよそ2kg弱。真剣の倍近い。

 とはいえ、体に型を覚え込ませ、無駄な動作を排し筋力を浪費させなければ、こんなもの百や二百振るったとて大した消耗はない。

 体が暖まり、それだけ周辺の冷気が遠退いた。

 日課の消化というなら、この後軽い型稽古をやってそれで終いであるが。

 ふと小屋を見やる。戸口の脇に据えた椅子に腰掛ける灰色髪を。

 

「おう、ナナチ。早いな」

「んにゃー」

 

 返事なのか欠伸なのか、童は奇妙な鳴き声を発した。

 

「どら、朝飯前に一本付き合え」

「んなっ、久々の休みなのにそれかよぉ……てか前々から思ってたけど、オイラが剣術なんて鍛えて意味あんの」

「探窟家なら護身の術は多いほどよかろう。まあこんなもの深界の怪物共相手にゃ些細な手妻だが、それが九死に一生を見出す切欠になるやもしれぬ。そら、怠けてねぇか見てやるから」

「うへぇ……」

 

 不平の呻き、不承不承と童は椅子を立ち、小屋の中に取って返した。

 そうして扉が開く。

 童の両手には小振りな木剣がそれぞれ握られていた。順手、逆手、また順手と、手の内で弄び、手掌に馴染ませる。

 小太刀二刀、もとい小剣二振り。その武装は、ナナチの矮躯と腕力を鑑みた末の選択であった。

 

「よしよし、では一手」

「ん、なっ……!」

 

 軽やかに地を蹴って童が跳ぶ。

 ナナチの間合読みはやはり正確であった。到達した瞬間の、敏速の右は小手調べ、左が本命と見せて転身から右斬り上げ。

 

「んにゃにゃなななッ!」

 

 まずまずの連撃。引き足を打ちながらに頷く。

 幻惑を織り交ぜながら、童は的確にこちらの急所、股座、内股に膝と、下段を狙い続けた。体格差で己より優る敵手に対して正しい攻め手と言える。

 しかし。

 

「単調になってきたぞ」

「んなら、こんなのはどうよ!」

「お」

 

 下へ、下へと来たなら次は上に来るか────などと単純な道を童は選びはしなかった。

 さらに下へ。地を這うように、腱と甲利に刃先を滑らせる。

 こちらも下段に置いた木剣を差し向け、斬撃を受ける。澄んだ大気を硬質な拍子木が打った。

 返す刀、こちらから打ち下ろす。

 

「もらった!」

 

 ナナチは左でそれを受け……受けながら己の左側面へ滑るように駆け抜けた。

 傾けた右の小剣が胴を薙ぐ軌道。瞬機、攻防一体の打ち込み。

 

「悪くねぇが、機を誤った」

「んにゃ!?」

 

 丁度、己の掌に右小剣の柄頭が収まる。

 受け太刀の刹那、己の左手が木剣の柄を手放していたことに気付けていれば、踏み止まれたろう。

 小剣を童の腕ごと引き寄せ、足を払った。

 

「んなぁ!?」

「動きの切れが上がってきたな」

「……地面に転がしといてよく言うぜ」

「くくく」

 

 その小さな手を取って引き起こす。

 良い時間だ。

 

「ん?」

 

 戸口に立つ小さな人影があった。

 眠たげに目を擦る少年の姿。

 

「ようレグ。おはようさん」

「ん、おふぁよう……二人とも、なにをしてるんだい?」

「虐められてんだよ。助けろーポンコツー」

「えっ!?」

 

 ナナチの減らず口に、レグは実に素直に胆を潰し狼狽を露わにする。

 どうやらこの小童めの中で、あの少年は恰好の揶揄(からか)い相手に据えられているらしい。

 

「阿呆言ってねぇで朝飯食うぞ」

「うぇーい」

「え、あ、うん、わ、わかった……?」

 

 

 

 

 豆と玉葱、根菜のスープ。ふわりと焼けたオムレツに、珍しく手に入った生のトマトを添える。慎ましやかな食卓を三人で囲む。

 対面でナナチはパンにたっぷりとバターを塗り込め、齧る。

 続いてスープを匙で掬い、口に運ぼうとして。

 

「んなちっ」

「そう慌てて食わんでも、誰も盗りゃしねぇよ」

「う、うるへぇな。ふ、ふ……なちっ、んなちぃ……」

「レグもほれ、遠慮せずどんどん食え」

「う、うん……おぉ、卵がふわふわだ。んむ……うまい」

「そうかい。いや我ながら今日はいい具合に纏まった。おっとそうだベーコンもあったな。まだ食えるだろう? パンに合うぜ」

「まむまむ、独身生活満喫してんなぁあんた。それってさ、不意に虚しくなったりしねぇの」

 

 いつかどこぞの大女に似たようなことを言われた気がする。

 こういった減らず口は一体誰に似たのやら。

 

「お前さん方のお蔭で虚しがってる間もねぇほど騒がしい毎日だよ」

「ラーミナは皆の兄貴分、みたいなものなのか」

「親父だよ親父。見た目あんなだけど、中身はすんげぇじじくせぇんだぜ」

「あぁ……それはなんとなくわかる気がする」

 

 フライパンを火に掛ける己の背中に、ナナチとレグの無体な言が刺さった。

 

 

 

 

 

 朝の街路を子供ら二人を連れて歩く。行く先はベルチェロ孤児院近くの物見台。今日はレグの今後の処遇について皆で協議するとのこと。

 

「孤児院に入っちまうのが無難っちゃ無難だろうなぁ。仕事してりゃ読み書きやら世界史やらいろいろ嫌でも教わることになるし。記憶がすっぽ抜けてるお前にゃ打って付けの場所じゃね? 実際」

「そう、なのか……何かを思い出す手掛かりが得られるなら、確かに」

「べつに急いで決めるこたぁねぇさ。身の振り方が決まるまで、あの小屋は好きに使えばいい」

 

 兜を脱いだ栗毛の髪に触れる。頭に付いた妙な金属の飾りがひやりと冷たい。

 レグははにかんだ様子で目を瞬いた。

 

「ありがとう、ラーミナ」

「いいってこと……と、偉そうに言っておいて早々なんだがな」

「?」

「ナナチ」

「んだよ」

「四、五日ばかり留守居を頼めるか。なぁに仕事の片手間で構わねぇからよ」

「はぁ? なんでだよ」

「ちょいと穴に潜ってくる」

 

 子らが足を止めて己を見上げた。

 ナナチの静かな視線が、己の真意を探ろうとしてるのを感じた。

 

「ミーティとマルルクの顔を見に行くついでだ。引き篭もってる女に、レグのことを知らんか尋ねてくる」

「引きこも……?」

「……人には用心しろ用心しろってうるせぇ癖に、自分はほいほい行きやがる」

 

 非難がましい口調でナナチは呟く。

 至極尤もな言い分だ。さて、なんと弁解しようかなどと考えあぐねている己に、ナナチはそっと近寄って来る。

 そうして軽く、腹に拳を呉れた。

 

「手紙書くから。ちょっと待ってろよ」

「ああ、急ぎじゃねぇんだ。そらもうじっくりと推敲してくれていいんだぜ?」

「アホ」

 

 屈み込んで微笑むと、その拗ね顔はそっぽを向いた。

 レグが朗らかに笑う。

 

「ナナチはラーミナのことを大事に想ってるんだな」

「あぁ? ニヤケ面で恥ずいこと言ってんじゃねぇよポンコツ」

「うひゃいっ!? へ、ヘソを指で突くなぁ!?」

「はははは!」

 

 

 

 

 

 

 



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42話 監視基地の子供達

 

 

 ゴンドラの籠着場で思わぬ顔と遭遇した。

 白銀の髪、蒼く澄んだ両瞳、近頃は気難しく皺の寄りがちな眉間。

 しかしやはり、その面差しはまだまだ幼気だ。そう感じるのは、青年が己にとって今も変わらず“坊”であるから。どうにも可愛い童であるから。

 などと、うっかり口を滑らせ、また聞かれた日には烈火の如き憤怒と相対することとなろう。

 

「……なんで笑う」

「いいや」

 

 こちらの曖昧な応えに青年が訝る。

 若き月笛ジルオが己を出迎えた。足元にはなにやら大荷物が鎮座している。

 

「そっちこそなんでぃ、わざわざ見送りに来てくれたのか?」

監視基地(シーカーキャンプ)との往復ぐらいどうせお前なら一週間足らずだ。そんな奴の心配をしに来るほど俺だって暇じゃない」

「かぁっ、生意気言いやがる。お前さんの小せぇ時分は何処へ行くにも小鳥みてぇに己の後ろ尾け回してよ、ラーミナラーミナと元気に纏わり付いてきたってのに。よよよ、おとっつぁんは寂しいぜ」

「っ、何年前の話だそれは。それにそう、そもそもあれはどちらかと言えばお前の方が俺を連れ回して……」

「今じゃすっかりこの通り仔犬みてぇに可愛くなっちまってよぅ」

「うるさい黙れバカ殴るぞ」

 

 風を切って打ち出されるその拳を二発、三発と掌に受ける。

 賢明に成長を遂げた青年は、それでも変わらぬ。生真面目で照れ屋で実は少し見栄っ張りなのだ。その性は、あの頃からちっとも変わらず、やはり好ましい。荒くれ師匠から探窟家のイロハの他に口の悪さまで譲り受けてしまっているのは、まさしく玉に瑕だが。

 戯れ合いに付き合ってくれたのも束の間、ジルオはわざとらしい咳払いで話を改める。

 

「不動卿のところへ行くんだろう。例の……レグのことを尋ねに」

「まあ、ガキ共の様子見るついでにな」

「……あの少年の出自はともかく、アビスを登って来たのなら監視基地がそれを見逃しているとは思えない。つまり卿は、なんらかの思惑あってその素通りを許したということだ」

「そうだな。どういう存念かは知らんが。あの女め、間違ってもわざわざ電報なんぞ寄越すような筆まめじゃねぇ。直に聞き出してくれるわ」

 

 此度の異変、延いては我が身の召喚の旨を電報に(したた)めなかったのは無論、盗み見や漏洩を嫌ってのことでもあろう。

 いずれにせよ、こちらから出向く必要があった。

 

「子供らを頼む」

「ああ、それが今の俺の仕事だ」

「はは、立派になったなぁ」

 

 白銀の髪をくしゃりと撫で付ける。

 青年は不満そうに眉間に皺を寄せるが、この手を振り払うことはなかった。

 

「……お前にとっては俺も、いつまで経っても子供のままなんだな」

「おうさ。悪いがもう暫くは諦めてくれ」

 

 齢を()り、消えて去ってゆく者を多く見てきたが。

 こうして大きく、育っていく子供らを見届けてもこられた。

 

「近頃は、こればかりが楽しみでな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深界第二層『誘いの森』の逆さ森。

 絞った巾着のように穴にせり出た岸壁に、逆しまに生える歪曲した木々。力場によって運ばれる筈の光は遠く乏しいゆえに、この空間は常に仄暗い。冷涼な乱気流吹き荒ぶ高所を、逆さの木々の枝を足場に渡る。

 ここいらを縄張りにしている手長猿(インビョウ)共の盛大な歓迎を途上で受け、流し躱し時に斬り開いたその先に、見付けた。

 岩天井から生えた太いキノコのような建屋。丸い大きな望遠鏡の目玉がこちら側を見下ろしている。

 地獄渡りの板橋を伝って行けば、ゴンドラの籠着場はすぐそこだ。

 

「……」

 

 穴から遠ざかったことで穏やかになった冷気の風。ゆえに、接近するその気配を察知することは容易かった。

 己を中心に、円を描くように。視界の外へ外へ。逆さの木々を渡って来る。先の(ましら)にも劣らぬ敏速さ、身軽さで。

 左、後背よりそれが跳び掛かる。

 

「でりゃあーッ!」

 

 奇襲を狙っておいて、その元気な掛け声は御愛嬌だ。

 あえてその場を退かず、その進路から僅かに身を逸らす。丁度、脇を抜けるように、出迎える。

 頭から飛び込んで来たその矮躯をしっかりと小脇に捕まえた。丈の長い外套で全身を包み、頭は頭巾で覆われ顔容すら覗えないが、この声と落ち着きない元気溌溂ぶりは長らく見知ったもの。

 

「にゃははは! あーんつかまったー!」

「久しぶりだな悪戯娘。も少し静かに忍び寄れねぇのか。おぉ? うりうりうり~」

「んきゃははっ! ひゃめ、んにゃはははははは! こしょばいぃ!」

 

 脇腹を擽ってやると娘は大いに暴れ、大いに笑い転げた。

 危うく板橋から落っこちそうになるのを蹈鞴を踏んでなんとか堪え、娘共々地面に腰を下ろす。

 

「危ねぇ危ねぇ。こんな場所であんまり無茶すんな。えぇ? ミーティよぅ」

「今のはラーミナの所為だもん! それに、スキがあったらいつでも仕掛けて来いって言ったのもラーミナだもんね」

「ん、そうだったか? そんな話は覚えちゃいねぇな~」

「あー! 大人が嘘吐くんだ! ひっどーい! サイテー!」

「ハハハハッ!」

 

 頭巾が後ろに落ち、ぴょこんと尖った耳が震える。緋色の髪から伸びる、それは人ならぬ獣の耳朶。犬のような形だった。

 それは耳に留まらず、全身の柔らかな被毛であり、肉球と五本の爪を備えた両手であり、両瞳の奥の横長の虹彩に見られる。

 獣と人の相の子。成れ果てと呼ばれるアビスの落とし子。呪いの産物。

 

「……オーゼンが許しているのだからよいのだろうが、出歩く時は一応用心しな。お前さんの姿を人目に晒すと、まあなんというかな、障りがあってだな」

「ふふふ、わかってるよ。向こう一週間くらい正規ルートで降りてくる探窟家はいないってししょー言ってたから」

「……そうか。ならいい」

 

 ────六層、あの昏い袋小路の虚で、幼子は人としての“半分”を喪くした。

 

「元気だったか」

「うん! 元気だよ。私もししょーもマルルクも、あと地臥せりのおっちゃん達もみーんな!」

 

 ミーティはそう言って無邪気に笑った。

 あのような悪夢などなかったかのように。いや、そうではない。悪夢を垣間見てもなお、この子は燦燦と笑うのだ。笑うことができる。強い子なのだ。

 

「ラーミナさんっ」

 

 軽やかな足音が板橋を駆ける。

 控えめに己を呼ばわるのは、風に震えるカスミソウのような声。

 青い肩掛けにふわふわと揺れるエプロンドレス。小さな物入を付属した妙な髪飾り。近付くほど、布地に施された細かな刺繍が見て取れる。儚げで可憐。少女趣味とでも言えばいいのか。

 可憐な、少年が息せき切らせて己の前に立った。

 

「ようマルルク」

「いらっしゃい、ラーミナさん。お久しぶりです」

 

 紅潮した頬に花弁のような笑みを咲かせる。

 

「ああすっかりご無沙汰だ。元気だったか? ちっと背が伸びたか」

「えへへ、元気ですよ。ラーミナさんもお元気そうでよかった」

「おうとも、どら」

「うひゃ」

 

 脇の下から手を差し入れ、高く抱き上げる。その矮躯は軽々持ち上がった。

 

「あうっ、は、恥ずかしいですよぉ……!」

「嫌か?」

「や、やじゃないです……」

「あー! マルルクずるぅい! 私も私も!」

 

 幼子二人と存分に戯れ合いながら、ようようと監視基地へ歩を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 監視基地の最上層。

 植物の巨大な根をそのまま居住地に用立てたここは、大穴の外縁に近しい分呪いの負荷が緩い。

 そうでなければ、こんな高所に斯様に平然として登ってなど来られまい。吐き気と頭痛と幻覚を軽度に免除されながら、基地の屋上。緑生い茂る樹幹に足を踏み入れる。

 目的の黒衣の痩躯は、縁に佇み奈落を望んでいた。

 

「……来たのかい」

「おう、変わりないか」

「私を誰だとお思いだい」

「はっ、そうだったな、不動の」

 

 動かざる女。十数年の付き合いだが、この女は老いすらも不動(うごかず)のそれらしい。

 あの頃から変わらぬ黒々とした瞳が暫時己を睨め付け、そうして皮肉げに口端で笑む。

 

「土産くらいあるんだろうねぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 



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43話 置き去り

 

 

 

 監視基地は探窟家達にその門戸を開いている。一時逗留、傷病者の応急手当、装備・物資の提供、伝報の回収、そして無論のこと奈落の監視。

 指折り挙げてみればなかなか忙しなく思えるが、深界二層の最下部に位置するここは良くも悪くも場所柄が辺鄙だ。

 赤笛以下の半人前には深度制限があり、半人前に毛が生えた程度の青笛は到達すらできず死ぬか、命を拾って粛々地上へ引き返す。月笛、黒笛ともなればなるほど、訪問それ自体は容易かろうが、ある程度の実力を備えた者は先を急ぐように大断層から下へ挑んでいく。

 言ってしまえば『逆さ森』を降りる為の通過点に過ぎず、長居する者は少ない。

 思えば己は逗留者向けの居室をあまり利用したことがなかった。

 人前に姿を晒せぬミーティに会う為、それも理由の一つだが。

 通されるのはいつもこの広い一室だった。石で組まれた床、太く分厚い木々の枝が折り重なった天井、壁一面の書架を埋める書物、種々数多の探窟道具、二級、一級の遺物まで乱雑に並べ置かれていた。

 衣紋掛けには、見馴れた鍔広の笠と黒い鎧が据えられている。

 オーゼンの私室。相変わらず飾り気がない。

 

「らしいといえばらしいか」

「くだらないことを考えてるね」

 

 酒の大瓶を卓面にぶつける。

 勝手知ったる部屋、早々指定席に腰を落ち着けた己を長身黒衣の女が見下ろした。

 酒瓶、酒瓶、酒瓶。それは一つに留まらず、奥の冷暗所から次々次々次々と女は酒を運び出してくる。

 負けじと己も荷物を漁った。

 日持ちする瓶詰めが多い。あとは乾物だ。炒り豆、ドライフルーツ、カビに覆われ熟れ尽くしたドライソーセージにチーズ。魚の干物は序の口で、大量の大魚の目玉を出汁浸けにしたなかなか不気味なものまで。匂いからしてどれもこれも飲みの肴だ。

 まあこれらは用意周到なジルオが見繕い、持たせてくれた品々である。

 

「毎度毎度着の身着のまま穴に潜ってくるような馬鹿は、お前さんくらいのもんさね」

「重装備でやっ刀振り回すなぁ肌に合わんでな。道具があろうがなかろうが、死ぬ時ゃ死ぬのがこの奈落と」

「フッ、それが馬鹿だと言ってるのさ」

「違うかよ。むしろこいつぁてめぇの一家言だったろう?」

「その通り。大穴に憑かれるような馬鹿は皆、死ぬべき時に死ねばいい」

 

 死ぬべき時。それは果たして何時だろうか。

 望むような死に方が叶うなどと甘い考えは捨てねばならない。想像を絶する惨たらしい末路がこの奈落には満ち溢れている。

 

「みんな馬鹿ばっかりだよ」

 

 一滴も飲まぬ内から女は愚痴を垂れた。

 寄越された二つのグラスに酒を注ぐ。椅子に座り、足を組んでふん逸り返った女の面前へそれを差し出した。

 オーゼンはそれを引ったくり、一気に飲み干した。

 

「今日は一段と上機嫌じゃあねぇか」

「お陰様でね」

 

 注げ、とばかりに乾いた杯を突き出してくる。

 ()酒の二杯目も女は躊躇なく、水のように腑に注ぎ入れる。

 小刀でドライソーセージを切り分けた。

 何枚か摘まみ、己とても酒杯を呷る。きつい塩味と香辛が酒精と混じり、鼻を抜ける。堪らない。

 

「どいつもこいつも人にガキの世話を押し付けて、自分はどこぞへ好きに行っちまう。あぁそうさ。機嫌も上々、昂るってもんだろう?」

「ミーティの件はともかく、マルルクに関しちゃてめぇの御所望だったと思うんだがな」

 

 お仕着せの趣味についても、少年はよくよく付き合いがいい。逆らえない、と言うてしまえばそれまでだが。

 見当外れな軽口は承知だった。

 女の言う馬鹿が、一体誰を指しているのかも。

 

「ライザめは今頃、奈落の底に着いてんのかねぇ」

「そうでなきゃ、私が許さないよ。何の為にこの私が防人なんざ買って出たと思ってるんだい」

「地上がつまらねぇ面倒くせぇ鬱陶しいと散々己に愚痴ってやがったのは何処のどいつだ、おい」

「さあ、忘れたよ」

「偏屈め」

「お前さんだって今更地上世界で何をしようってんだい? 堅気に交じって商売の真似事? ああそれとも裏社会で一つ戦争でも起こしてみるかい。フフッ、お前さん殺しの腕だけは間違いなく特級だ。いい稼ぎになるよ? 請け負ってもいい」

「阿呆抜かせ」

 

 物騒な冗句を歌うように口ずさむ。

 何が危ういって、女の口調が半ばほど本気を漂わせていたことだ。

 意趣返しの心持ちで言う。

 

「無聊を託つあまり狂っちまえるなら、てめぇもまだまだ十分まともだよ」

「……うるさいよ」

 

 静かに、洞穴に吹く冷気のような声で女は言った。

 それはひどくうら寂しい響きだった。

 

「うるさいんだよ……」

 

 グラスで揺れる酒精を睨み付けて、なお繰り返す。

 まとも。正常。正気。そう呼ばわれることをまるで憎悪するかのように。

 誰あろう、正気を保っていられる己をこそ、厭うて。

 正気でなくなった者達は皆、一様に、もはや消え去った。奈落の底へ、深淵のさらに奥深くへ。

 望む通りに狂い、逝った。

 ライザは逝っちまったんだ。

 なみなみと満たしていた琥珀の水面を女はにべもなく空にする。

 そうして、卓上にしな垂れた。手の甲に唇を付け、片手に持った空杯を揺らす。ガラスの奥で黒い瞳が滲んでいた。奈辺を、昔日を見る目。

 

「……あんたもどうせ、置いてくんだろう?」

「ふ、そりゃ俺の台詞だと思ってたんだがなぁ」

「どうだか」

 

 流し目が己に刺さる。責めるような、縋るような。

 笑みと共に見返すと、女の視線はふいと逃げた。お前など知らぬ。そういう素気(すげ)ない仕草で。

 

「なんにも手に入りゃしない。儘ならないじゃないか。ライザも、あの子も────……間抜け面にガキ。私の邪魔をするのはいつだって私が嫌いなものだ」

 

 嘘など微塵も含まぬ。この女は本当にトーカを嫌い、その娘のリコを嫌っている。まるで子供のような純真さで。

 それでも、オーゼンはここに在り、ライザの娘の到来を待ち受けていた。

 

「当然さ。約束を結んじまったからね。厄介なことに」

「律儀だな」

「いいや。義理堅いのさ」

「ああ、そうだったな」

 

 揺れる杯に酒を注ぐ。

 己の杯を軽くぶつけた。慰めの鐘は澄んだ音色をしていた。

 

「まあ、愚痴の聞き役くらいなら当分は付き合ってやる。なにせほれ、俺ぁ体だけは若いんでな。おめぇさんよか寿命もたっぷりよ」

「叩き潰されたいのかい」

「かかっ! くわばらくわばら」

「……言質だ。精々斟酌に励みな」

「へいへい。御意のままに」

「嘘吐いたらタマウガチ飲ますからね」

「おめぇさんならマジでできそうだな」

 

 卓上から据わった目が己を見上げる。

 平淡で黒々とした目が、にこりともせず。

 

「約束は、守りな」

 

 

 

 

 

 

 



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