魔導兵 人間編 (時計塔)
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設定

について。

 

魔術師はその正体を知られてはいけない。 世界の理を壊すから。

魔術師は、見習いの教育を行わなくてはならない。 力の使い方を間違わないように。

魔術師は『悪魔落ち』を防がなくてはならない。 生来、犯罪を犯した魔術師は悪魔化する。人殺しなどの凶悪犯は一発。

魔術とは、セイレイと呼ばれる種族の力を借りる、従わせることによって科学では証明不可能な事情を可能にする力。

 

・身体能力の向上、元素の力を顕現させる、人を操る、幻覚を見せるなど……。その人の特性に合わせてセイレイは人間に力を貸す。

 

セイレイについて。

セイレイとは選ばれた者(魔術の素養がある者)にのみその姿を見せる種族。セイレイによっては獣型、昆虫型、魚類型、鳥類型など

種類は様々です。

セイレイと仲良くなるには信頼関係(ラポール)を築き上げなくてはなりません。ただ召喚するだけでは言うことを聞かずに帰ってしまいます。

 

人間について

 

人間はとても弱い存在です。セイレイたちは基本的に人間を見下しています。肉体や心が弱く、すぐに壊れてしまうからです。

そんな人間の中でも魔力(マナ)を持った者を魔術師と呼びます。この魔力は、貧弱な人間たちを哀れんだ昔の神様が選ばれた者たちに

与えた慈悲だと伝えられています。本当はもっと多くの魔術師がいたのですが、『神魔戦争』(ラグナロク)と呼ばれる神様と天使VS人間と悪魔

による戦いにより大半の魔術師たちは一掃されました。神様は怒り、以降魔力を持つ者は生まれませんでした。

 

 

 

天使の存在

 

天使はセイレイです。人間型という非常に珍しい種族に分けられます。噂によると、生来心の清い人間はそのまま高等種族であるセイレイ

に昇華されるらしいです。天使はセイレイですが、基本的に天界と呼ばれる場所でお仕事をしています。お仕事は、死んだ人間や動物の魂を回収、消去する

ことがメインです。白く綺麗な翼を持った人が現れたらそれは天使かも知れません。ちなみに位により羽の数が違うらしいです。

 

悪魔の存在

 

※禁止事項

悪魔とは、生来悪事を働いた汚れた魂が、天使たちの追随を逃れ、悪魔たちが回収し、悪魔王により新しい肉体を得られた者たちです。

悪魔はセイレイで、人型です。この点は天使と同じですが、一つ違う点は、彼らは決して人に従うことはありません。

『契約」と呼ばれるものを交わすことによって期間限定で力を与え、その期間が過ぎるとその人間の魂を奪うのです。

よって悪魔の契約を成した人間を狩ることは天使たちの裏の仕事です。

なぜ悪魔たちは魂を回収しているのか、それについてはまだわかりません。

悪魔王は『神魔戦争」を再び起こそうとしているのかもしれませんね。

 

魔術師の家系

 

霧島家 主人公である左霧の家です。現当主は霧島霧音、左霧のお母さんです。しかし病弱の為、次の当主は右霧、左霧の姉が最有力候補らしいです。魔術師としての力は年々衰えているので、周りから軽視されています。

 

雪ノ宮家 魔術師としてはあまり知られていないマイナーな家柄ですが、地主としての権力は強大です。マリアナ学園の創立も全て雪ノ宮家の権力の下に設立されました。近年、魔術の研究を始めたらしいのですが……。

 現当主は雪ノ宮雪江学園長先生です。

 

天王寺家 皇族の血を引くと言われている、日本で最も大きな魔術師の家柄です。が、基本的に魔術師は人に知られてはいけないという事情により、知名度は低いです。現当主は天王寺明歩さんです。

 

外国の魔術師

 

 エインズワース家

 西洋魔術を専門に扱っています。外国では特に魔術に対する規律が厳しく、教会などから監視されています。ですがそれに負けず、自分たちの種を残すため、近年強い魔術師の遺伝子を求めているらしいです。また『魔女狩り』と呼ばれる古くから伝わる習慣が今も受け継がれています。

 当主はユリウス・エインズワース、普段は雑貨屋を営んでいます。娘がいます。

 

 ディートリヒ家

 

 ドイツの片田舎にある小さな家です。こちらも古くから伝わる『魔女狩り』の習慣を恐れ、ひっそりと暮らしています。貧しく、作物をあまり育たない土地ですが、最低限の生きる糧だけを摂取するという吝嗇家だそうです。

 当主はエリーゼ・ディートリヒ。噂によると銀髪のとても美しい女性だそうですが、呪術を扱う恐ろしい魔女だそうです。娘がいます。

 

 

 セイレイオウ

 

 地上を作った『神』とされる方です。現在のセイレイオウは別の方ですが、初代のセイレイオウが世界を作り、生物を作り、そして魔力を与えたと言われています。現在のセイレイオウは行方不明で天使たちが秘密裏に捜索中です。

 

 魔王

 

 絶大な魔力を持つ者を言います。セイレイオウ マオウ アクマオウ はそれぞれの世界に君臨する絶対的な存在です。

 魔王とは強い魔力を持っているという意味で、別に世界を恐怖に陥れるとか、そんなことは考えていませんので悪しからず。

 

 魔導兵

 

 人工的に魔力を植え込まれた者をそう呼びます。第一次魔導兵計画、第二次魔導兵計画と続きましたが、遺伝子疾患などの影響により生産性に欠けるとして計画は頓挫しています。優秀な遺伝子を作ることはやはり難しい問題が多いようです。



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ある日の小さな家の出来事

 「――――ねぇ」

 

 男の腕の中で女は問いかけた。病に冒された幸薄な女は今、その生涯を全うしようとしている。手の施しようはない。最初からなかった。不治の病、そんな言葉を自分の人生の中で聞くことなど貴重な体験だ。男は場違いにもそんな考えを巡らせていた。

 

「――――なんだ? 咲耶」

 

 平坦な声で、男は女の問いに返答を返した。いつも通りの男の声に、女は少し困ったように眉を潜めたが、それも一瞬、たちまち苦しそうに顔を歪めさせて男の腕にすがりつく。男はそれを黙って見下ろしていた。感情のない瞳で、女を、見下ろしていた。

 男に出来ることは、ただ、女の体を、最後まで支え続けることだけ。全ては決められた宿命だった。この女と生きようと決めたその日から、全ての運命は終りへと向かっていた。

 

「私と一緒だったこと、後悔してない?」

 

「決められたレールの上だけを歩いていた俺に、生き方を教えてくれたのはあんただった。もしあんたがいなかったら俺は今も誰かの言いなりになって、ただ豚のように過ごしていただろう。つまりな」

 

「もう……屁理屈ばっかりね……」

 

「――――後悔など、するものか」

 

 女は男から望み通りの言葉を聞けたことに安心したのか、羽根のように軽い体を、更に自分の方へ押し付けた。まるで重さを感じられない、本当に羽根が生えて飛んでいってはしまわないだろうか。年齢にしては少女のような笑みを浮かべた女は、その体躯と相まって、天使にふさわしい存在に見えた。事実、その女は、男にとって天使そのものだったのだ。

 

「あんたは、あんたは、どうだった? 後悔は、してないか?」

 

 僅かに女が動くごとに、サラサラと零れ落ちるような漆黒の髪と、小さな顔を男に向けた。その体を壊してしまわないように、男はそっと女の背中を支えてやった。

 女は、涙を浮かべて笑っていた。男には理解出来なかった。いや、出会ったその日から、女のあらゆる行動一つ一つが、男には新鮮に感じられた。と同時に、かけがえのない思い出を、男は女からもらったのだ。

 

「後悔なんて、するもんですか。あなたと出会えて、あなたと暮らして、あなたに看取られて逝く。何度そんな絵空事を思い浮かべたことか。けれど、全て本当になった。ねぇあなた、私の夢は、全部叶ったのよ。これ以上はないの。これ以上は、嘘になってしまいそうで」

 

「嘘になどなるものか。願いがあるのならば望めばいい、俺が全てを叶えてやる。俺の全ては、あんたに捧げたんだ」

 

 女は辛そうに首を振った。男の手を弱々しく握りしめ。骨ばった細い指を、男の手に絡ませて、静かに、祈るように目を閉じる。それはまるで聖人。神話に出てくる、汚れ一つ知らない聖人そのものだった。

 

「ねぇ、約束よ。これからは、自分の為に生きて、私のことは忘れて。あなたは自由よ、どこまでも飛べるの。どうかありのままに生きてね。私は、きっとこの青い空の上から見守っているから」

 

「天国も地獄も存在しない。人は死ねば土に還るだけだ。だからあんたが死ねば、何も残らない。俺の生きる意味も、どこにもない……」

 

 相変わらずな調子で喋る男の顔に、女はそっと手を添えた。女にはわかるのだ。男の悲痛な声が、例え表に出なくても、心に映し出す感情が。女は泣いていた。いや笑っていたか。どちらでも良かった。必要なのは、男が求める言葉だけだろう。

 

「あるじゃない……私たちの、生きた『証』が……。どうか、お願い。あなたと、あの子に、幸福は未来が訪れますように……私の願いは、それだけです。神様……」

 

 女は、祈りの言葉を残すと、また苦しげに胸をかきむしる。男はまたいつもどおり女の手を握り、支え続ける。しかし、それも長くは続かなかった。やがて平穏は訪れる。後光がさしたように、女のベッドを照らしていた。都合のいい演出のようだ、男は最後の最後まで結局救いを差し伸べなかった神など最初から期待していなかった。だから女の祈りにも興味がない。

 ただ、こんなに美しい女の願いくらいは、聞いてやってもいいのではないか、と神に対して問を投げかけるだけだ。

 

「さようなら、私の最愛の旦那様……。皮肉屋で、理屈屋のあなた。大好きよ、ずっと」

 

「まだ教えて欲しいことがたくさんある。俺一人ではどうしていいか、わからない。咲耶教えてくれ、どうしたらいい?」

 

 答えはなかった。女はもう男の声など聞こえない。ただうわごとのように繰り返すだけだった。

 

「左霧……私の魔法使いさん……天国で、あなたを待っているわ。どんなに遅くなってもいい。きっと会えるから。その日まで、お別れよ」

 

「―――――――ああ、これが最後の約束だ。あんたは約束が多すぎる。次に会った時は一体どんな約束を交わすのだろうな」

 

 男は独り言のように女の手を握りながら呟いた。もう女の体に息はなかった。人生そのものだった女を失った男、『左霧』は最後まで皮肉を女の亡骸にこぼした。

 

「だから、俺は魔術師だと言っていただろうに」

 

 涙は流れなかった。枯れているのか、元からないのか。どうでも良いことだ。今、この時に感じた心の溝。それは、男が生涯抱え続ける傷となること。それだけを覚えていれば、十分だ。男は女の亡骸を抱え、ゆっくりと歩き出す。自分の人生を一変させた、恐ろしき女に敬意と、愛を込めて……。この時、男は人生では初めて祈りというものを捧げるのではあった。もちろん神、などというあやふやなものではない。尊敬する、最愛の人に向けてだ。

 

  



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内定通知書

「何故、採用にあたり、当校を選んだのでしょうか?」

 

「たまたま近くにあったのでこれは幸いと思い、急いでハローワークに駆け込んだだけです」

 

「あなたの理想となる人物像は何でしょうか?」

 

「生徒と仲良くお昼ご飯を食べられるような先生です」

 

「最後の質問です。あなたは――――」

 

「――はい。私は――――」

 

 人の役に立つ。それは彼にとっては初めての経験だった。

 彼『霧島 左(さ)霧(ぎり)』にとって、これから踏み出す一歩一歩は、まさに未知の世界。

――――だが、黒いスーツ姿で、本日面接を終えた彼は、嘆息していた。

 

「絶対落ちたな……はぁ」

 

 就職活動――――それは己の生活をかけた戦いである。彼は今からおよそ半年前より、その戦線に加わった若輩者だ。にも関わらず未だに内定一つ貰えずにいる。何がいけなかったのか、おかしな点はなかったか。常に頭の中で巡らせる計算の下、最善の選択肢を選ぶことが彼の特技なのだ。だが――――。

 

「正直者が好かれるっていうのは、やっぱり嘘なのかなぁ……」

 

 どんなに正直でも、やはりいけないものはいけない。例えば、近辺にあるから、などという理由では、『じゃあ私たちの職場ではなくても、他のところに行けばいいじゃない』と、ひねくれた面接官なら捉えてしまうからだ。ならばどう発言すれば良かったか。風通しのいい職場だから、規律のある学校だから。そんなものは、結局入ってからでなくては分からない。結局行き着く先は、何となく――――だからという曖昧な答えになってしまう。ならば、一層のこと、正直に答えてしまえ、彼の思考回路は極めて単純だった。

 

「ただいまー」

 

「お帰りなさいませ、左霧様。今回はいかがでしたか?」

「うん、バッチリ」

 

「そうですか……大丈夫です。世の中、職なんて山ほどあるんですから。過ぎたことをいちいちくよくよ考えてはなりません。明日に向けて、また頑張りましょうね。さぁ食事の支度が出来てますから……」

 

「待って、僕、バッチリって言ったんだけど……」

 

 左霧の帰宅を迎えてくれたのは、一人の女中だった。女中――そんな言葉は現代では聞きなれない者が多いだろう。旅館などにいけば仲居さんがたくさんいる。その一人だと思ってもらって構わない。明治時代に『ハイカラ』さんと呼ばれていた頃の着物に、汚れないようにタスキをかけた――――ファッショナブルな服装をした少女は、主人を半眼で見つめながらまるで責め立てるように言葉を放つ。

 

「今まで何度そのバッチリに騙されたのか、華恋は主人が信じられなくなってしまいそうです……」

 

「うっ……つ、次! 次はきっと上手くいく、と思う」

 

「せめて意気込みくらいは堂々と言ってほしいのですが」

 

「ごめん……」

 

 一応ご主人という肩書きをもらっているのだが、そんな威厳などまるで感じさせない。この家では、一家を守る大黒柱は華恋なのである。家庭の全てを担ってもらっている彼女に対して、左霧は頭が上がらなかった。そして、自分の不甲斐なさも伴い、とても彼女に発言出来るほどの器量が、この男にあるはずがなかった。

 

「左霧様、大変心苦しい、華恋は心苦しいのですが、言わせてもらいます」

 

「いや、心苦しいなら言わなくても」

 

「い わ せ て い た だ き ま す」

 

「――――はい」

 

 ――――頭が、上がらないのである。

 

「今まで左霧様の貯蓄で賄ってはきましたが、残念ながらその蓄えもそろそろ尽きようとしています。つきましては、本家に救援を頼むことを」

 

「――――華恋、それは出来ないよ。僕はもう、霧島家とは絶縁したからね」

 

「ですが、話を通せば、きっと」

 

「――華恋」

 

 左霧はしっかり、女中の名を告げる。その目に宿った意志の強さに華恋は息を飲んだ。そして即座に腰を折り、主に対しての謝罪を口にした。

 

「――失礼しました左霧様。出過ぎた真似を」

 

「構わないよ華恋。言いたいことがあるのならどんどん言ってもらって構わない。君は僕たちの家族同然なのだからね」

 

 そう言って、左霧は口元に笑みを浮かべた。厳密に言えば、華恋は女中などではない。給金を払っていなければ、他所から雇っているわけでもない。一緒の家で寝食を共にしているのだから、もはや家族も同然だ。なぜ彼女がこのような給仕の真似事をしているのかと言えば、それは本人の意志からだった。

 

「恐れ多いことです。私のような者が、あなた様の家族などと……ですが、言わせていただきます。甲斐性なし、穀潰し」

 

「あっはっは、まいったなぁ」

 

「――――社会不適合者、ニート、人間のクズ」

 

「おーい! 言いすぎじゃないかなぁ!?」

 

「失礼しました。――さぁ食事が冷めてしまいますから、居間へどうぞ」

 

 本当に、自分のことを主人だと認めているのか。口元に侮蔑の笑みを浮かべならあざ笑う少女にブルブルと震えながら左霧は、自称女中のあとについて行くのであった。

 

 居間には美味しそうな食事が並べられていた。和を中心とした彩のいい食卓だ。煮物、焼き魚、山菜、湯豆腐……これだけあれば、豪勢とは言えないが、一般家庭としては十分な食料供給である。

 左霧は自分の腹が減っていることに今更ながら気がつくのだった。

 左霧はこの空間が一番落ち着く。家族団らんを何よりも重んじている彼は、彼と、華恋と、そしてもう一人のかけがえのない家族を、誰よりも大事にしている。

 自分と、華恋の分、そして、もう一つの食器の前には、小さな可愛らしい少女が今か今かと左霧が座るのを待っていた。

 

「いつもすまないね、華恋」

 

「それは言いっこなしですよ。桜子さん」

 

「桜子……いつの間にそんな冗談を覚えたんだい?」

 

「んー、華恋が教えてくれたの。かいしょーなしの男の人を慰める方法だって!」

 

「……ちょっと、華恋さん?」

 

「コ、コホン、さぁ左霧様、どうぞ席へ」

 

 逃げるように自分の席にそそくさと着く華恋を横目に、左霧は先ほどの少女へと目を向けた。ニコニコと笑みを絶やさない太陽のような少女だ。どれだけ疲れていてもこの子の笑顔を見るだけで吹き飛んでしまう、左霧は自然と緩む口元に気づかずに、桜子と名乗る少女に帰宅を告げた。

 

「桜子、ただいま。遅くなってごめんね」

 

「んーん! おにーさまはお仕事がお忙しいのでしょうがないのです。桜子は強い子なので、我慢できますです」

 

「! いや、まだその」

 

 仕事はまだ見つかってすらない……リストラされたお父さんとは、こんな心苦しい気持ちなのだろうか。左霧の心境は複雑だった。

 ともあれ、桜子は左霧を兄と呼んでいる。つまり彼らは兄妹である。クリクリとした大きな瞳、黒い絹のような細い髪、今年六歳になる少女は、すくすくと兄の見る前で成長を続けている。それを確認することが、左霧の何よりの幸せなのだ。

 

「おにーさま、にゅーがくしきまで後何日でしょうか?」

 

「あはは、またそれかい? あと三日だよ。随分学校が楽しみなようだね」

 

「はい! たくさんお友達を作って、たくさん色んな遊びをしたいのです!」

 

「うーん、しっかり勉強もするんだよ?」

 

「はい! ほどほどに頑張ります!」

 

 ここで、ほどほど、などと口にするのが何とも、桜子らしいと左霧は苦笑した。華恋も仲睦まじい兄妹の会話に、慎ましく口を抑えながら笑っている。

 笑顔。この家には笑顔がある。左霧は、この数年間のことを振り返った。たくさんのことが同時に起きた。大変、などと口にする暇などなかった。だからこそ、いま、この瞬間に感じる幸福のひと時を手に入れることの難しさを、誰よりも知っているのだった。

 

 なくしたくない。そう思えるからこそ、彼は確固たる決意を胸に明日も頑張ろうと思えるのだ。

 そう、就職戦線という名の戦争に!

 

霧島左霧様

 マリアナ学園採用係

 内定通知書

 

 拝啓 ますますのご清栄のこととお慶び申し上げます。うんぬん……。

 あなたを採用することが内定致しました。つきましては……うんぬん……。

敬具

 

「お、おい、華恋、かれーーーーん!! 華恋はいるかぁ!?」

 

「何ですか朝から? ご近所に迷惑ですよ全く……」

 早朝、庭を掃除していた華恋は赤いポストの目の前で叫び声を上げている変質者――もとい主人に呆れながら返事をした。ないやらA4サイズの紙を空高く掲げ、手は痙攣でもしたかのようにプルプルと震えている。そもそもこの男、裸足だ。玄関サンダルすら使わない、裸足なのだ。華恋は総合的に主の容態を判断した。

 

「華恋、そんな可哀想な生き物を見るような目で僕を見ていないで、早くこっちに!」

 

「ゴメンなさい左霧様。私がもう少しあなた様を労わって上げていたら、こんなことには……」

 

「? 何が?」

 

「左霧様、呆けてしまったのですね……そんな、靴も履かないで……一体、一体どこへ行こうというのです!?」

 

「呆けてないよ! 早くこれを確認したくてうっかり履き忘れたの! これ!」

 

 なかなか厄介な女中である。左霧はしびれを切らして彼女の前に例の内定通知を突きつけた。華恋はそれに目を瞬かせて眺めていたが、しばらくすると手を叩いて喜びを顕にした。

 

「おめでとうございます左霧様! 努力の結果が実りましたね! ああ! 何ていい日でしょう!」

 

 まるで自分のことのように涙を浮かべながら喜んでくれる華恋に、左霧は思わず苦笑した。だが、彼自身も自らが成し得たことに未だ興奮が冷めない。目に浮かべた涙を拭いながら華恋は、主人の栄達を祝福した。

 

「これでようやく、ようやく桜子様に胸を張ってただいまが言えますね!」

 

「ああ!」

 

「立派な社会人ですね!」

 

「ああ!」

 

「ところで……いくらなんですか?」

 

「ああ!……え?」

 

 最初は華恋の言いたいことが分からなかった。笑顔のまま、左霧の返答を待つ彼女は、まるで審判を司る女神のようだった。ようやくそのことに気が付いた左霧は、しかし次の瞬間完全に彼女の期待を裏切る形で自らの、『稼ぎ』を口にしてしまった。

 

「まぁ、臨時教師だからね、そこは、さ、仕方ないよね、うん」

 

「左霧様」

 

「うん」

 

「死ぬ気で、稼いでくださいね?」

 

「うん、まずは生徒の信頼を勝ち取って、仲良くお昼ご飯を食べられるような先生を」

 

「働け」

 

「はい……」

 

 華恋は笑顔だった。その後ろに、何か見てはいけない、『何か』がいなければ。

 この瞬間、彼は覚悟した。早く、出来るだけ早くに、臨時ではなく、正式な教師になろうと。でないと、この阿修羅のような女中には勝てないぞと。

 



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行ってきます。行ってらっしゃいませ。

 満開の桜、その並木道を霧島兄妹と女中が歩いている。周りには、桜子と同じ年の子や、もう少し上の子が、朝日の下、元気に登校していた。

 そう――今日は桜子の入学式なのだ。訳あって、保育園には通えず、自宅で過ごす日々が多かった桜子は、この日を今か今かと待ちわびていた。新品の制服と帽子に身を包み、背中には真っ赤なランドセルを背負い、少し緊張気味に前を歩く桜子を、暖かい目で見守る二人。まるで子供を見守る親のような心境だ。

 

「桜子、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。桜子ならすぐ友達が出来るはずさ」

 

「そうですよ桜子様。私が昨日教えた挨拶で、友達一〇〇人、いえ二〇〇人は堅いです」

 

「はい! おうワレ、ちょっとツラ貸せや、ですね! ちゃんと覚えました!」

 

「桜子の小学校デビューが黒歴史になっちゃうよ!?」

 

 子供にも容赦なく自らのネタを仕込む恐ろしき女中。左霧は慌てて華恋が教えたワードは絶対に使ってはいけない言葉、むしろ忘れなさいと注意した。危うく入学そうそう、桜子の夢が潰えるところだったのだ。

 

「華恋、頼むから桜子に変なことを吹き込まないでくれよ」

 

「ちょっと一癖あった方が、周りから注目されると思うのですが……」

 

「変な子って思われるだけだから! 桜子、いつも通りに生活していればいいんだよ。特別なことなんて何も必要ないさ」

 

 不安そうな妹の手をそっと握りながら左霧は微笑みかけた。この子ならきっと上手くいく――左霧には、そう断言出来るほどの自信があるのだ。

 

「……はい、おにーさま!」

 

 兄の励ましに、少し気持ちが落ち着いたのか、桜子はいつもどおり眩しい笑顔でまた並木道を歩き出した。

 

「左霧様……見てください。桜子様の姿を」

 

「ああ、本当に、良かった……」

 

「はい……」

 

 先ほどの雰囲気とはうって変わり、慈愛に満ちた表情で、華恋は桜子の姿を目で追っていた。目にはうっすらと涙を浮かべながら。

 

「あはは、華恋は泣き虫だなぁ」

 

「む……乙女の涙を侮ってはいけません。これは罠です、わざと見せているんです」

 

「ふふ……はいはい」

 

 華恋は不満そうな表情で軽く左霧を睨んだ。それが本当なら、わざわざ言う必要なんてない。嘘が下手な華恋の気持ちを察し、左霧は追求することをやめた。素早く他の話題に切り替える。

 

「カメラもあるし、入学式が終わった後、三人で写真を撮ろう」

 

「そうですね。桜子様の晴れ姿ですから、学校をバックにお二人で」

 

「華恋、僕は三人って言ったんだよ? もし遠慮しているのなら、その必要はどこにもないよ」

 

 華恋は、少し複雑そうに左霧と桜子を交互に見ていたが、やがて嬉しそうに小さく頷いた。彼女が左霧たち兄妹の下に来てから、かなりの月日が経った。だが、依然として華恋は自分たちに遠慮している節があるのは、同居している左霧にとって、少し残念に感じることの一つだ。

 遠慮する必要なんてない――そうは言っているのだが、華恋自信がどこまで踏み込んでいいのかわかりかねている。実際、霧島という家が、どれだけ複雑な環境にあるのか、それを知っている地点で、華恋は物怖じしているのかもしれない。何にせよ、献身的に、自分と妹に尽くしてくれている彼女に、左霧は感謝しても足りないくらいなのだ。

 

「華恋、君は桜子にとって、母であり、姉でもある。僕たちには君が必要なんだ」

 

「もったいないお言葉です。あの日、あなた様にいただいた命、この華恋、精根尽き果てるまで、あなた様と桜子様に御使い致します」

 

「重いなぁ」

 

「私は重い女ですか。分かりました、首を吊って死ねばいいのですね」

 

 どこから持ってきたのか、桜の木に太いロープをくくり付けようとしている華恋を羽交い絞めで止めた。どんな時でもジョークを絶やさない彼女は、本当に女中の鏡なのだ。ただ、本音なのか、冗談なのかが分からないので、一応体を張って止めなくてはならない。

 

「……せっかく綺麗に咲いているのだから、そんなことをしたら台無しじゃないか?」

 

「離してください左霧様。重い女などと言われたら男性に嫌がれる女ランキング一位確実です。死んだほうがマシです!」

 

「君は僕たちによく『尽くしてくれる母親』のような存在だよ。お、重くなんてないよ!」

 

「最初からそう言ってください。全く、冗談がお好きですね、左霧様は」

 

 どうやら今のは本気だったらしい。軽く冷汗をかいた左霧は、今さっき瞳孔を開きながら暴れていた華恋を必死でなだめた。どうやら、彼女にとってNGワードだったらしい。密かにメモを取りながら左霧は溜息をついた。

 

「おにーさま? 華恋? どうしたのですか?」

 

 気がつくと桜子は兄の下に寄っていた。彼のスーツを掴みながら首を傾げ、キョトンとした瞳を二人に向けている。

 

「何でもございません。ただ、左霧様が私をいじめて楽しんでいるのです。何でもないのですが」

 

「おにーさま! めっ!」

 

「ええ!? 僕? 僕が悪いの!?」

 

 何だか釈然としない左霧だったが、今度は本当で泣き真似をして、桜子にすがりつく華恋は、完全に悪女だった。桜子が頬を膨らませながら兄を叱責してる。部が悪い左霧は押し黙るしかない。ただ、やっぱり少し重いなと、密かに華恋への感想を抱いたのは、秘密だ。

 

「みんな仲良くが一番です」

 

「はい、流石桜子様です」

 

「うん……納得いけないけれど、その通りだね」

 

 桜子の手が、左霧と華恋の両方の手を掴む。そして、三人の手が重なる。途端に、桜の花びらが風に舞い、人々を包み込んだ。それはまるで、これから始まる彼ら彼女らの物語を、祝福してくれるかのようだった。

 

                 ※

 

 教師になりたい――それは始め、彼の夢ではなかった。元々、彼には自分の道があらかじめ定められていると諦めていた時期があったのだが、その折に、ある人物と出会い、影響を受けた。それが今になって彼の夢を叶えたのだ。もちろん猛勉強した。教養という教養を受けてきた訳ではない。もちろん最低限の知恵は、『霧島家』という家から授けてもらったが、それ以外はひたすらに命令に準じる毎日だった。

 その知恵を授けてくれた人が、他でもない、後に彼が教師を目指すことになるきっかけとなるとは、彼も、その人も予想はしなかったであろう。左霧は、今自分が立っている場所が本当に現実なのか、判断がつかなかった。もし本当なら、少しは彼女の思いに報いることが出来ただろうかと、鏡に映った自分の姿を眺めながら目を細めた。

 

「左霧様、おはようございます。あら……」

 

「おはよう華恋、少し早く目が覚めちゃったよ」

 

 額をポリポリ掻きながら、にへらと緩みきった笑みを浮かべた主人に、華恋は口を抑えてクスリと笑った。主人にしては珍しく、早起きだった。自分が起こしに来るまで、絶対に布団から出たことない男が、黒いスーツに身を包みながら鏡越しに、必死に見繕っている。その光景が、華恋には滑稽に見えた。

 

「今日からお仕事ですね。左霧様、最初が肝心ですよ。変にカッコつけたり、モテようとしたり、話かけたりするのはNGです。あくまでも自然体に接することをおすすめします」

 

「うん……華恋が普段どんな目で僕を見ているのかわかったよ……」

 

「冗談です。左霧様はもう少しグイグイ押していったほうが女性は喜ぶと思いますよ」

 

「ちょっと、何か違うよ。僕は別に合コンに行くわけじゃないからね?」

 

「はい? 何を言っているのですか左霧様? 朝からそういうふしだらな話はやめてください。桜子様に悪影響を及ぼします」

 

「…………ごめん」

 

 なんだが、朝から災難だった。せっかく早起きしたのに、これでは損な気分になる。早起きは三文の徳なんて言われているが、明日からは華恋が起こしにくるまで、寝ていようと左霧は後ろ向きな決心をした。

 

 

「行ってきます」

 

「いってきまーす!」

 

「行ってらっしゃいませ。左霧様、桜子様」

 

 まだ春にしては肌寒い。それもそのはずだ。四月といえど、そう初めから急激に暖かくなるわけではない。ついこの間までは、手がかじかむほどの寒さをたたえていた風が弱くなっただけでも感謝しなければならない。桜子の小さな手は、手袋を外し、その白い肌を晒しても今は平気なようだ。この間まで、左霧のコートのポケットに手を入れて離れたかったのに、少し寂しい気持ちの左霧だった。

 華恋のかしこまった見送りに手を振りながら、霧島兄妹は仲良く学園への通学路を歩く。桜子は初等部へ、左霧は高等部の教師として、目的は違えど通路が同じなのは幸いだった。

 

「おにーさま! おにーさまは桜子の先生ではないのですか?」

 

「うん。僕は高等部の先生だからね。桜子よりもずっと年上の生徒が多いだろうなぁ」

 

「ええー!! じゃあおにーさまには学園では会えないの?」

 

「うーん……用事があれば会えると思うけど、多分難しいだろうね」

 

 初等部と高等部は同じ学び舎だが、距離が離れている。桜子に会うためには、中等部の学舎を抜けなければならない。それだけでもだいぶ時間がかかるのだ。

 それに、学園では教師と生徒という形になる。生徒として桜子に接しなくてはならない分、甘えが許されない立場だ。その為、あまり顔を合わせるのは好ましくないのではないかと、この男、覚悟だけは立派なのだ。

 

「おにーさまと一緒に給食、食べたかったな」

 

「桜子、給食はお友達と食べるものだよ。友達と食べる給食は美味しいよ」

 

「そうなの?」

 

「……きっとね」

 

 桜子の疑問には曖昧に答えるしかなかった。自分は桜子のように学校で勉学に励んだことなど一度もない。そのため、桜子がどのような生活を送るのかも分からなかった。頼りない兄であることは自覚しているが、経験がない以上励ますことも出来なかった。

 

「そっかぁ……お友達、出来るといいな」

 

そんな兄の気持ちは露知らず、桜子は期待に胸を抱いているようだ。およそ、不安など感じさせない笑顔に、左霧は安心した。

 

(この子なら大丈夫だろう)

 

 桜子のことより、多分自分の方が緊張している。左霧は、これから始まる教師生活に期待、六割、不安七割の中途半端な数値で自らの職場へと足を踏み入れるのであった。

 



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少女は学園長

「し、失礼します」

 

 左霧は呼ばれた通りに学園長室へのドアを開いた。新任教師はまず学園長へのお目通りを済ませ、『副担任』として担任教師の助手を務めるのがこの学園の基本らしい。臨時教師なので、このままでは一生副担任で終わってしまう可能性もある。

 つまり、彼の修行は、ここから始まったばかりなのだ。

 

 「入れ」

 

 扉を開けた先には、眼鏡をかけた――――少女が座っていた。それ以外に誰もいない。つまり先ほど聞こえた声は、少女から発せされた声なのだろうと左霧は判断した。

 執務机で何やら高速で羽ペンとインクを行き交いながら、涼やかな顔で腕を動かしている、初等部くらいの少女。チラリとこちらを横目で見たが、それから再び自らの仕事へと戻っていったようだ。

 

 その間、左霧はと言えば、当然困ったことになった。学園長室に行けと言われて来たと思えば、ちんまい少女が優雅に学園長ごっこをしている最中だった。

 ――やれやれ。左霧は、自分が緊張しているのもバカバカしくなり、肩の力を抜いて少女へと近づいていく。

 

「もしもし? お嬢ちゃん? 初等部の生徒かな? ここは学園長室だから、勝手に入って来ちゃダメだよ?」

 

 もし勝手に入ってきてしまったのなら、お咎めを食らってしまうであろうが、こんなに小さな子なら自分が注意するだけで十分であろう、この年頃ならイタズラの一つ二つで怒っていてはキリがない。そう思って優しく諭してあげた、のだが、

 

「たわけ」

 

 何やら不穏な声が聞こえたような気がした。鋭く尖った声が、彼の方を睨んだかと思うと、また自らの作業へと戻っていく。

 気のせい――? 幻聴かな? その仕草が自然すぎて、左霧は幻覚でも見たのかと思い、再び少女に問いかける。

 

「君は初等部の生徒だよね? 僕は今日赴任……来たばかりの先生なんだ。よかったら一緒に初等部へ戻ろう? 大丈夫、さっき行ったばかりだから道は覚えているんだ。ここにいたら怖い先生に見つかってしまうからね。さぁ一緒に――」

 

「たわけと言ったのだ、青二才が」

 

「――!?」

 

 今度は、幻聴などではない。完全に聞こえた。左霧を罵るような声で、はっきり、くっきりと、睨むような目で。

 その年齢にしては、ものすごい威圧感だった。まるで何歳も年上なのではないかと、錯覚してしまうほどの眼光だった。左霧は、額に冷や汗をかいていたが、内心は穏やかではない。

 

(ここは、しっかり注意してあげるべきだよね)

 

 いくら相手が異様な空気を漂わせていようが、所詮は子供。それに少女とくれば、扱いは容易い。桜子に毎日接している分、左霧には他愛もない作業だった。

 再び左霧に興味をなくした少女は、羽ペンを走らせている。左霧はこれ幸いと思い、素早く少女の後ろへとまわりこみ、豪華な椅子の上から、その体を抱きかかえた。抱えてしまったのだ。

 

「言うことを聞かないと、恐ろしい魔法使いが君を食べてしまうよ? そら、一緒に初等部へ戻ろう?」

 

 ニコリと、左霧は笑った。その笑顔は、男性ですら魅了してしまうほどの威力を称えている。左霧の容姿は、中性的、いやむしろ女性的な魅力の方が多い。色白の素肌、整った顔立ち、細長い眉、小さな口……これで胸部が膨れ上がっているなら、誰もが彼を女と見間違えても致し方ないであろう。

 

 しかし、今はそんなことは全く関係ない。彼の笑みにも、少女は反応しなかった。いや、反応した。ゾッとするような殺気を込めた瞳で。

 

「貴様、下ろせ」

 

「こらそんな言葉使いで話してはいけません。大人と話すときは敬語を使いましょう、ね?」

 

「ね? ではない! 下ろせ、こら、馬鹿者が!」

 

 両手を振り上げて、あらんばかりの力で暴れる少女に、流石の左霧も何やら事情があるのではないか、と察し、遂には、少女の言いなりになってしまった。

 陸地に到着した少女は、黒いレースのドレスを手で払いながら怒りを滲ませている。よく見たら、年相応の服装とは思えない。どちらかといえば、大人向けのパーティードレスのようだ。

 

「全く……様子を見てやろうと思ったが、またとんでもない奴が来たものだ……」

 

 少女は溜息を尽きながら再び執務椅子にどっかりと座る。足を組み、いかにも偉そうに威張り散らしている。どこに置いてあったのか、パイプを加えるとそれをゆっくりと吸い――勢いよく左霧に向かって吐き出した。

 

「げほっ! げほっ! ちょっと、げほ!? いくらなんでもその年で喫煙はっげほ!」

 

「ほんっとうに鈍い奴だな君は! 私が学園長だ! このマリアナ学園の、が く え ん ち ょ う だ! いい加減気づけ、阿呆!」

 

 プリプリと頬を膨らませこちらを叱りつける少女は、誰がどう見ても、年相応の女の子だった。おそらくこのまま何事もなく話を続けていたら、左霧は一生この少女を『学園長』だと認識しなかっただろう。一概に、左霧が悪いという訳では、決してないのだが。

 

「そんなことを言って僕を困らせても無駄だよ? ほら、一緒に教室へ行こう? 何があったか知らないけど、よかったら聞かせてほしいな。あ、でも僕は高等部の先生だったね。まぁいいや、今はここから出るのが先決だ」

 

「ええい私の手を握ろうとするな! いい加減にしないと解雇だ解雇! いいのか!?」

 

「こら、大人を舐めてはいけないよ。その言葉にどれだけの人の生活がかかっているか、ゆっくり教える必要があるみたいだね」

 

「ああこら、頭を撫でるな……気持ちいい……ではない、ふん!」

 

「痛い! 何てことするの! もう注意だけじゃすまないよ? お尻ペンペンの刑だ!」

 

 少女の恐るべきジャンプ力により、左霧はパイプで頭を叩かれてしまった。しかし、左霧は日頃から桜子の教育にも携わっているため、よくこういった反抗にも遭遇する。その時は、いつも『お尻ペンペンの刑』と相場が決まっていた。そしてこの場合も、それが教育的指導にふさわしいと思った。多少の身体的ダメージは、躾という面では効果的だ。だが、それには、怒り以上に、『思いやり』が伴わなくてはいけない。よって、左霧は、この見ず知らずの少女のために愛を込めて刑を執行しようとしているのだ。

 

「あ、こら! や、やめろ! 何をする気だこの阿呆! 砂上! 砂上百合! 砂上百合、二八歳! 助けてくれー!」

 

 誰かの名前を呼んだ途端、隣の教務室から一人の女性が血相を変えて飛んできた。

 ビシッとした白いワイシャツにタイトな黒いスカート、を着た美人だった。髪は薄茶色に染めていて、今が旬のキャリアウーマンを醸し出している。その女性が、美人が台無しな程に、眉を歪ませて――学園長の元へ歩み寄り、一言だけ、

 

「私はまだ、二七です!!」

 

 と必死な思い出告げるのであった。

 

 

                    ※

 

「全く最悪だ! 『霧島』というからどんな奴が来たかと思えば、ただのナヨナヨした男女ではないか! もう少し余計なことをしていたら、クビにしてやったところだぞ! え? わかっているのね? 君!」

 

「はい……大変ご無礼を、申し訳ありませんでした……」

 

「いいか? 世の中見た目だけで判断していてはダメなのだよ? この内面からにじみ出る、ほら、わかるだろ、君?」

 

「分かりません……」

 

「わかれよぉ! わかってくれよぉ霧島くぅん? 私の体からにじみ出る、大人のオーラを、感じてくれよぉ!」

 

 結果的に、左霧は、少女の前で正座をしなくてはいけなかった。そう、少女こそこの学園の創立者であり、学園長の『雪ノ宮(ゆきのみや) 雪(ゆき)江(え)』その人なのだ。左霧の拙い情報によれば、今年で確か四〇歳だと聞いていたのだが、

 

「ん? なんだその目は? まさかまだ疑っているんじゃないだろうな? もしそうなら、君の評価を今一度考えなければいけなくなるが?」

 

「い、いえ……雪ノ宮学園長は……そのとてもお若く見えますね……」

 

「ふんっ、これでも一児の母だ!」

 

 嘘だろう! と思わず口を開きかけたが、これ以上は藪ヘビだろうと我慢した。この場は大人しく首を縦に振っていた方が正解に違いない。社会というには認められないことも認めなくてはならない恐ろしい場所だ。左霧はそう習っていた。だが、その小さな体でどうやって稚児を産んだのか、それが左霧にとって最大の謎になってしまった。この男は無駄に物事を考えやすいたちなのだ。

 

「霧島さん、先程は失礼しました。私は、あなたの担当する一年三組の担任、『砂上 百合』といいます。以後私の指示に従って行動するように心がけてください」

 

「はいっ! よろしくお願いします先輩!」

 

 元気よく左霧は砂上の手を握った。彼女も先輩と呼ばれてまんざらでもなかったらしい。軽く咳払いをして左霧の手を快く握り返してくれた。

 

「ところで霧島さん……は男よね? とても男性には見えなくって、不快に思ったらごめんなさいね」

 

「あ、いえ、よく間違えられるので……。はい、正真正銘の男です」

 

 左霧は少し恥ずかしそうにもごもごと喋った。毎回、会う人に女性ですか? と尋ねられる自分に少なからず羞恥心があった。それは、彼の容姿だけではなく一挙一動からも女性らしさが滲み出ていることを、彼は気づいていない。現に、ナヨナヨとした喋り方や、恥じらう仕草などを教師二人が見て呆れている。

 

「大丈夫なのか? こいつは?」

 

「年下! 男の娘! 黒髪! 僕っ子! これは、まさかの豊作!?」

 

 いや、一人はかなり喜んでいた。そんな様子を見て、雪江は若干引いている。これが、婚期を逃そうとしている女の本性なのだ。

 

「砂上! ほれ、新人教師が困っておるぞ?」

 

「は!! またもや失礼しました。霧島さん、この学園のほとんどの生徒は世間に名を馳せる大企業の令嬢や、旧華族の淑女、はたまた海外のVIPからの留学生など、とにかくその命で国一つが動かせるほど方たちばかりです。故に、どんな危険が起きようとも、常に生徒たちの生命が第一です。つまり、もしその命を狙う者が現れたなら、あなたの取るべき行動は、わかりますね?」

 

「……はい! 私は命を懸けて、生徒たちを危険から守ります!」

 

 この学園の創設には、ある理由があった。それは、国の命運を担う若者たちを、あらゆる危険から守ることである。その為、学園内の敷地にはあらゆるセキュリティシステムを搭載し、監視カメラを取り付けている。一歩たりとも敷地内に入らせる訳にはいかないのだ。

 

「ふふ……そんなに固くならないで霧島さん、一応心意気だけは十分伝わったから」

 

 砂上は左霧の緊張した表情を解きほぐすように肩を軽く叩いた。その自然な仕草に思わずドキリとしたが、それよりも真剣な話題であるのに砂上が笑顔なのである。

 

「この学園が設立して以来、犯罪なんて一回も起こったことなんてないの。それよりも問題なのがねっ、あの小娘たちっ! いえ、お嬢様方のことなのよ……!」

 

 笑顔のまま、砂上の後ろから悪鬼の類が出現したかと思ったが、一瞬で雲散した。どうやら思い出したくないことを回想してしまったらしい。ブツブツと何やらいけない単語を喋っているところを見ると、この教師、ちょっとバカンスにでも羽根を伸ばすべきなのでは? と精神的な面に不安を覚える左霧だった。

 

「まぁ……多少癖のある生徒が多いのは確かだ。花よ蝶よと育った世間ことなど何も知らない小娘ばかりだからな。だからこそ、この学園が必要なわけではあるのだが、な」

 

 学園長は腰に手を当て、頷きながら砂上のフォローをする。未だに学園長なのか信じられない左霧は、黙って様子を窺うしかなかった。

 

「時に、左霧とやら……『霧島』に男児は生まれていたのか?」

 

「はい」

 

 左霧は躊躇なく端的に言い切った。その表情をジッと学園長は見ていたが、やがて面白くなさそうに、ふんっと鼻を鳴らした。

 

「まぁいい、数々の無礼があったわけだが、私は君に期待しているんだ。せいぜい、私を裏切らないでくれたまえよ? 霧島の」

 

「……精一杯、頑張ります!」

 

 この時、左霧はあることに気づいていた。自分という個人に期待しているのではなく、彼女は『霧島』という言葉にのみ固執していたことに。

 自分はもう、あの家とは関係のない赤の他人なのだ、と言うことは出来なかった。それは、自分がその性を捨てきれていないことと、あの家に多少の未練があること、両方の理由があったからだ。

 だからこそ、認められたいと思った。霧島ではなく、自分自身の価値を。その為に、彼は探し出すのだ。自分の、可能性を――――。

 



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花も恥じらうお年頃?

「霧島先生、覚悟はいいですか?」

 

「は、はい」

 

 左霧は少し上ずった声で砂上に返事をした。場所は一年三組の教室手前。その扉を開ければ、もう生徒たちはすぐそばにいるのだ。

 今左霧の思考を支配しているのは、ただ一つ。上手くやれるだろうかという一点のみ。

 

「大丈夫よ、霧島先生。ちょっと元気すぎるけど、みんないい子達だから」

 

「はい……」

 

 そんな不安を和らげるように砂上は柔らかい声で左霧の緊張を解そうとする。

 

(今からこれじゃ先が思いやられるな……よし!)

 

 左霧は気合を入れ直し、自らの思い描く理想の先生像を思い描――妄想し、自然と笑みを浮かべるのであった。

 そんな左霧の不審な態度に砂上は不思議そうな顔をしていたが、時間も迫っているため問いただす時間もない。

 

「じゃあ、私から先に入りますからね?」

 

「わかりました! 僕はそのあとに続いて入ればいいのですね!」

 

「違います。私が名前を呼んだら入ってきてください。さっき言いましたよ?」

 

「そうですねっ! そんな気がしましたが、気のせいだと思います!」

 

 もう自分で何を言っているのかわからなくなっていたが、気にしない。もう彼の頭は既に混乱状態に陥っているのだから。だが、やる気だけは大いになる。新人教師に求められる能力なんてせいぜいこのやる気くらいなのだから、彼は十分に条件を満たしていると言えるだろう。

 やがて砂上が教室に入り、自分の名前を呼ぶ声がした。突撃、制圧、ではない。失礼します、よろしくお願いします。左霧は昨日何回も練習したシチュエーションを頭で巡らせながら未知なる世界へと、今旅立つ。

 

「し、しつれいしま……ぶっ!」

 

「…………」

 

 クラスの中は静まりかえっていた。それもそのはず、この場合どのようなリアクションを取ればいいのか、大抵の者は分からないはずだからだ。

 結果からいえば、左霧はやらかした。大いなる失敗である。大失態である。彼は教室に入った途端、何でもない場所で見事に転んでしまったのだ。そんな天然ボケをかますよなキャラは、今時どこを探しても見つからないだろう。天然記念物に賞されても問題ない。

 

「い、いてて……やっぱり慣れない革靴だと歩きにくいなぁ」

 

 とうの本人は、自分がどのような状況に陥っているのか、まるで気づいていない。初対面での、生徒たちとの邂逅が、彼の夢見た初めての触れ合いが、残酷にもこのような形で迎えてしまったことに。

 

「き、霧島さん。大丈夫ですか?」

 

 その空気の中、最初に端を発したのは砂上だった。担任である以上、この面倒な状況を何とか収束させるしかない。なるべく彼の尊厳を傷つけないように、穏便に且つ迅速に……。

 

「あ、はい、大丈夫です。参ったなぁもう」

 

「じゃ、じゃあ、霧島先生、自己紹介をお願いします」

 

「はい!」

 

 立ち上がった左霧は、そのまま回れ右で、生徒たちの方へ振り向く。生徒たちが静まりかえった教室に、冷たい空気が漂う中、この男は堂々と自己紹介をしたのだ。

 

「霧島左霧です! 生徒の皆さん初めまして! 趣味は菜園! 座右の銘は一日十善! えっと……ああ、担当科目は国語です! 皆さんとは一緒にお昼ご飯を食べられるようなそんな関係を築いていけたらいいなと思っています! よろしくお願いします!」

 

 新米教師の自己紹介はほとんど彼の自己主張で終わった。元気よくハキハキとした、大変よくできました、と花丸をあげたいくらいの紹介であった。無論、先ほどの大失態がなければ、だが。

 さて、肝心なのは生徒たちの様子だ。このお嬢様学校と名高い学園の彼女らの反応やいかに――。

 

「ふふふ……おかしな先生!」

 

「男性の方? それとも女性の方かしら?」

 

「はいはーい! 先生質問でーす!」

 

「ドジっ子先生だぁ! かわいい!」

 

 笑っていた。どの生徒も屈託のない笑みを浮かべていた。まるで左霧が来ることを待ちわびていたかのように、生徒たちの笑顔が教室を包み込む。

 左霧は驚いていた。心配だったのだ。自分という異質な存在が、彼女たちに受け入れてもらえるのか、という不安に内心ではビクビクしていた。だが、どうだろう。この純粋な暖かい笑みの数々は。これが、学校なのだと、左霧の心は歓喜に震えている。

 

「あ、霧島先生? 質問されてますよ?」

 

 砂上自身も驚いていた。流石に第一印象としては最悪の対面としか言い様がなかったが、それすらもプラスに変えてしまったのは、左霧が醸し出す柔らかく、真っ直ぐな雰囲気なのだろう。さっきまで慌てていた彼はもうどこにもいない。どうやってスイッチを切り替えたのか、彼は教室に入った途端、生き生きとした本来の状態に戻っていたのだ。

 

「はい、何でしょうか?」

 

「せんせーは、男の方ですか? それとも、女?」

 

「僕は男です。よく間違われますけど」

 

 ええー! と周りから驚愕の声が響き渡る。それはそうだ、と砂上は生徒たちの反応に共感した。彼と初対面ならば、まず訪ねなくてはならないのは性別だろう。色白の肌、曲線を描く肢体。……胸の大きさ? とにかく、彼を男性と判断する材料が少なすぎる。だが、履歴書に男と書いてある以上、砂上はそうなのだろうと思い込まなければならない。詐称する必要性などどこにもないからだ。

 

「何歳ですかー?」

 

「今年で二四です。皆さんとは、ええと……大体九歳違いですね」

 

「だけど、百合先生とは四歳違いでーす!」

 

「私はまだ、二七歳! 三歳違いよ! 小娘!」

 

 またもや教室内が笑いの渦に巻き込まれた。どうやら砂上は年のことネタにされることが多いようだ。自が出てしまったことを恥じるように顔を赤くする砂上だったが、左霧自信は人気者なんですね! と尊敬の眼差しを向けるだけだった。純粋とは、時に恐ろしい。

 

「彼氏……じゃなかった、彼女はいますか?」

 

 当たり前のようにそんな質問が飛び交った。周りからは黄色い悲鳴が上がり、場も最高潮に達している。が、一人だけ瞳孔が開いたように左霧を見つめる熱い眼差しがあった。もちろん、砂上教論である。こういう仕草をするから生徒からからかいの対象になるのだと、本人はまるで気づいていない。

 左霧はニコニコしながら、

 

「秘密です」

 

 と言うのだから周りは色んな噂を交わし、あるいは妄想することが出来る。当然、行き遅れの方は地団駄を踏んでいることに、生徒たちも気づいている。気づかないふりをしている。

 趣味は? 家族は? どんな食べ物が好きですか? 好きな女性のタイプは? 好きな男性のタイプは? 薄い本に載りませんか? いっそBLになったらどうですか?

 途中から収集がつかなくなるような大惨事になったが、答えられる限り、左霧は気持ちよく答えた。従って、彼の対面は大成功と言えるだろう。

 

 

 

「とても元気のいい生徒さんですね! 僕ビックリしました!」

 

「ふふ、そうでしょう? お嬢様なんて信じられないくらいよね」

 

 職員室に戻った左霧は、先ほどのクラスの熱狂を興奮気味に話していた。砂上は長年勤めているだけあって態勢があるらしい。だが、今年は去年を上回るほどの賑やかっぷりに面食らっていることを隠せない。

 

「私も一週間くらい前にあの子達に会ったばかりなんだけど、今年はかなりクセ者ぞろいよ。霧島先生、一緒に頑張りましょうね」

 

「はい先輩! よろしくお願いします!」

 

「ところで、年上の女の人って霧島先生的にどんなポジション?」

 

「はい?」

 

 意味の分からない質問をここでもぶつけられ、左霧は戸惑っている。質問時間はもう終わっているし、今までの中で彼女の質問が一番意味不明であった。

 そんな左霧の反応に、イライラしながら、仕事中に関わらずとんでもない質問を更に続ける砂上。

 

「年上の先生は好きですか? 嫌いですか! あいた!」

 

「仕事中だ砂上、新任にセクハラするな」

 

 砂上は教頭先生に書類で叩かれ注意されてしまった。教務室から微笑する声が聞こえる。緊張感と程々の暖かい空気が、左霧は気に入った。だが、教頭先生と砂上はかなり仲が悪いらしい。さっきから、ハゲ死ね失せろ邪魔すんなと小さく呪っている砂上の声は、聞かないことにした左霧だった。

 

「諸君! おはよう!」

 

 バン! と戸が壊れるくらいの音を出し、隣の部屋から小さな少女――――雪ノ宮学園長が姿を現した。朝礼はもうとっくに終わっている。今日は生徒たちとの顔合わせと、簡単なガイダンスの午前授業なので教師たちは気が楽だった。それなのにこの学園のボスが直に顔を出したとなれば、皆の緊張も高まるというものだ。

 当然、さっき会ったばかりの左霧も驚きを隠せない。その、幼さに。

 

「楽にしてくれていい。特に用事という訳ではないのだが、うむ。改めて、今年も生徒たちをよろしく頼みたい。彼女たちは高校生とはいえ、一般の学生とは育ち方が違う。世間のことなどまるで知らないような者ばかりだ。君たちには世話をかける。だが、いずれの生徒も、この国を担う大事な人物には相違ない。教師として、あるいは『守護者』として彼女たちを守ってやってくれ。頼んだぞ」

 

 そういって雪ノ宮学園長はペコリとスカートを摘み、頭を下げた。先程は傲慢不遜に左霧を罵っていた彼女だが、やはりその仕草は大人である。ただ、何で小さいのかという謎が、左霧にとっては依然としてついてまわるのであった。

 

「……霧島、頼んだぞ?」

 

 片目でウインクをしながら熱い視線を送られた左霧。その目には、分かっているな? という脅しのような思念を感じて思わず唾を飲んだ。

 何故、自分だけ? そう思わないでもない左霧だが、おそらく自分の能力に関して不安な部分があるからなのだろうと判断した。ならば、それを覆すのみ。そう張り切る彼だったが、その意味はもっと深く、面倒な事情があるのだとこの時の彼には知るはずもなかった。

 何にせよ、彼の日常はこれから始まったばかりなのだ。周りから、ご愁傷さん、とか、死ぬなよ! とか おっぱい揉んでいい? とか言われても気にしない。だけどセクハラに男も女も関係ないので今度は注意しようと左霧は心に誓った。

 



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まん丸お月様

 学生が午前放下だとしても、教師はもちろん常勤だ。きっちりかっちり午後五時まで仕事をしたあと、自分の授業の準備、資料探しなどをすれば、大体六時過ぎくらいにはなる。

 なんにしても、明日から本格的な仕事が始まるわけで、その為、準備万端で事にあたりたい左霧なのであった。

 

「霧島先生、そろそろ終わりにしたらどう?」

 

チラホラと帰宅していく先生たちを横目に、砂上が左霧の肩を叩いた。手には高そうなバックを掲げている。どうやら砂上もひと段落着いたらしい。

左霧は腕時計を見て驚いた。時間に気がつかず作業に没頭していたため、時間感覚が麻痺していたのだ。

 

「そうですね……ちょっと不安ですが、ここまでにしておきます」

 

「授業なんてのはね。慣れよ、慣れ。嫌でも上手くなっていくから安心なさい。――ただ、それまでは生徒の質問責めに立ち往生するかもしれないけど」

 

「……頑張ります」

 

 口ではそう言ったが、何やら自分が情けない姿で生徒に笑われている場を想像して落ち込んでしまう。だが、何よりもそれで困るのは生徒たちなのだ。早く一人前になって、一つのクラスを任せられるようになりたい。――その前に臨時教師から昇格したいなと、とにかく欲望の尽きない左霧である。

 

「そ、それで、霧島先生。今日、よかったら、飲みに行きませんか? 一人だと色々大変じゃないですか? 今日くらい、パーっと」

 

「すいません先生! 家で華恋と桜子が待っているので! 失礼します」

 

 砂上の誘いをスパッと断り、さっさと教室を出て行った左霧。後は残業している先生方がチラホラといるだけ。上げた右手をゆっくりと下げ、固まった笑顔のまま立ち尽くす砂上。

 

「おー砂上、今日パーっといくか! パーっと!」

 

「いえ、結構です。さっさと帰ってください教頭先生」

 

 ドスの利いた声に、先程まで密かに笑っていた先生方は息を飲み、静かに、静かに自らの作業へと戻っていくのだった。

 この教務室には、鬼がいる――――そんな噂があるのも暗黙の了解だった。

 

「た、ただいまー! 桜子は無事に帰ったかい?」

 

「お帰りなさいませ、左霧様。桜子様は帰宅しておりますよ。左霧様があんまり遅いので私たちは捨てられたのではないかと思い、悲しみに浸っておりましたところで」

 

「……うん、嘘だよね?」

 

「はい、上司に早速怒鳴られて泣きながら残業をしている哀れな姿に涙していました」

 

「違うよ! 明日の準備をしていて遅くなったの!」

 

 どうやら左霧の帰りが遅いことに文句が言いたいらしい華恋。だが、左霧とて、仕事で仕方なく遅くなってしまったのであって決して帰りたくなかったわけではない。なので、自分が謝るのはいささか間違っているのではないかとちょっと困った目で華恋を見つめることしかしない。

 

「……何だか、帰りが遅い旦那を咎めている奥さんに見えませんか? 可愛くありませんか?」

 

「ひょっとして、それがやりたかっただけ?」

 

「さぁ夕飯はとっくに出来ております。どうぞ中へ」

 

 何事もなく左霧のカバンを持ち、さっさと中へ入っていった華恋。なぜ自分の家に帰ったのに疲れる思いをしなければならないのか、左霧は疑問に思うのだったが、華恋は気まぐれなのであまり気にしないことにした。

 

「桜子、初めての学校はどうだった?」

 

 夕飯を食べながら、今日一番聞きたかったことを言葉にした左霧。桜子は待ってましたとばかりに爛々とした目で詳細を告げる。

「おにいさま! 私ね! 三人も友達が出来たの! 一人はみっちゃんで二人目はさっちゃん! 三人目はともちゃん!」

 

「よかったじゃないか桜子! やっぱり僕の妹だなぁ」

 

「いえ、それはあまり関係ありません、と華恋は思います」

 

「あっはっはっは……僕もそう思う」

 

 女中の鋭いツッコミに耐えられず肩を落とした左霧。その肩を優しく叩く華恋は、どこかうっとりした表情だった。この女中、かなりSの気があることを否めない。

 

「明日ね、図工の時間に一緒にお絵かきするの! 楽しみ!」

 

 ちゃぶ台をガチャンガチャンと揺らし、お茶碗をグワングワンとかき混ぜながら口にはいっぱいの米粒をつけながら左霧に向けてその米粒ごと伝えた。声が大きいだけあって大きく口を開けているので、凄まじいほど米粒が飛ぶ、飛行する。

 

「そっかぁ、よかったねぇ……」

 

「よかったね、ではありません。桜子様、お行儀が悪うございます。左霧様もちゃんと注意してください」

 

「う~ん……よかったねぇ」

 

「……ダメだこの男」

 

 吐きつけるように毒舌をかました華恋は、桜子の口元の米を一粒ずつ綺麗に取った。当然左霧には布巾を投げてさっさと拭けと促すだけである。

 

「桜子様、華恋は悲しいです。私の料理は美味しくないですか? これでも安月給の左霧様の為に美味しく栄養バランスのいい献立を考えているのですが……」

 

「ううん、美味しいよ華恋! ごめーんね!」

 

「ああ! 可愛さ余って憎さ一〇〇倍でございます!」

 

「……どういうこと?」

 

 言いながら、華恋は桜子の頬を抱き寄せて、頬ずりをしていた。傍から見れば、仲の良い姉妹のようで、微笑ましい。躾だのなんだの言っているが、結局桜子に一番甘いのは華恋なのである。この家では桜子に躾を教えてくれる人がいない、ということが左霧の心配の種だった。本人は断固拒否していることが、一番の原因だが。

 

                 ※

 

 左霧は風呂上がりに居間で一息ついていた。庭の戸を開け放ってみたが、少し肌寒い。だが、見上げた夜空に満月が浮かび上がっているのを見て、思わず立ち止まる。

 空気が澄み渡っているのか、とても綺麗な満月だった。

 

「満月……」

 

 左霧は、少し昔のことを思い出した。今、こうして自分が働きながら生計を立てていること。家族がいること……何もかもが夢のようだった。月を見ていると、どちらが幻かわからなくなる時がある。夢か現か……それを確かめる声もまた、

 

「左霧様? こんなところにいたのですか? 風邪を引いてしまわれますよ?」

 

「おにいさま? あ! お月様! おにいさまはお月様を見ていたのね!」

 

「うん、とっても綺麗だよ。桜子おいで?」

 

 桜子をそのまま抱きかかえ、一緒に月を眺める。華恋と共にお風呂に入っているのか、石鹸とシャンプーの匂いが左霧の鼻腔をくすぐった。

 華恋も乾かないしっとりとした髪をなびかせながら、二人の隣へと、遠慮がちに寄り添った。

 

「おにいさま、月にはうさぎさんがいるんですよ? お餅をペッタンペッタンついているのです! 美味しそう……」

 

「桜子ったら、さっきご飯を食べたばかりだよ? 僕はカニさんがいるって聞いたことがあるなぁ」

「私はライオンがいると聞いたことがあります」

 

「えー! ウサギ! 絶対ウサギだよ!」

 

「カニかもよ?」

 

「ライオンです」

 

 そうすると桜子は頬をいっぱいに膨らましてたちまち不機嫌そうになる。バタバタと暴れて自分の主張を譲らない。やはりちょっとワガママに育ってしまったなと、左霧は苦笑した。

 

「ウサギさん! 絶対にウサギさんです!」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「だってそっちのほうが可愛いです!」

 

 どうやら桜子の基準はそこにあるらしい。カワイイは正義。カワイイは最強。

 

「ですが、ライオンも飼い慣らせばきっと可愛い……」

 

「うー! ウサギだもん! 華恋嫌い!」

 

「左霧様、今までお世話になりました」

 

「待って! 庭の木で首を吊ろうとしないで! っていうかいつの間に縄持ってきたの?」

 

 自分の意見を言おうとしただけなのに、即座に否定され、挙句自らの敬愛する主人に嫌われてしまった華恋は、迷惑なことに庭の木で首を括ろうとしていた。それほど、彼女にとってショッキングな出来事だったのだ。

 

「桜子、そういうこと言っちゃダメでしょ? 華恋に謝りなさい」

 

「だって……」

 

「だってじゃないでしょ? 僕たちはいつも華恋にお世話になっているじゃないか。桜子は、簡単に人を嫌いなる子なのかい?」

 

 珍しく兄に注意されて、少し涙目になった桜子。だが、兄の気持ちが通じたのか、兄の体を降りて、華恋の服に縋りつきながら、

 

「華恋、ゴメンなさい」

 

 と呟いた。根が純粋なので、言われたことはすんなり受け止める。もちろん華恋も半分冗談だったので、桜子の髪を優しく撫で、少女の無垢なる罪を許した。

 

「さぁ、桜子様。外はまだ寒うございます。中で暖まりましょう?」

 

「うん……!」

 

 華恋の手を繋ぎながら笑顔で頷く桜子。その変わりように苦笑しそうになる左霧だったが、月の光で照らされた二人が、どこか神秘的で思わず笑うのをやめた。その姿が、とても美しいと思ったから。

 

「おにいさま?」

 

「え……?」

 

「何をしているのですか左霧様、早くしないと月九が始まってしまいます!」

 

 二人に呼びかけられ、ボーッとしていた自分にようやく気がつく。気を抜くとすぐ呆けっとしてしまうのは彼の悪い癖だった。だが、それも平和の賜物であると自分では思っているので案外図太い性格なのかもしれない。

 

「今行くよ」

 

「早くしてくださいませ! 私っ昼ドラと月九を見なければ、眠れないたちなのです!」

 

「暇そうだね……華恋」

 

「……言わないでください」

 

 女中はどうやら日中暇らしい。何か彼女にも趣味の一つや二つ、あればいいと思うのだが。ドラマだけが生きがいのような言い方では、近所のおばあちゃんたちみたいで少し可愛そうである。

 

「私は、明日の絵の具道具の忘れ物がないか確かめてきます!」

 

「あはは……桜子ったら、さっき点検したばかりじゃないか」

 

 明日が楽しみで仕方がない桜子は、興奮気味に家の中に入っていった。

 とても賑やかに霧島家の夜は過ぎていく。月はまるで祝福するかのように彼らを照らしていた、というのはいささか言い過ぎかもしれない。しかし左霧は、願わくは、この平凡な毎日が一生続けばいい、そう願ってやまないのである。少なくとも桜子が成長するその日までは、と願ってやまないのである。

 否、そうすると、自らの心に誓うのであった。

 



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新米の苦悩

「せんせー、そこ間違ってますよー?」

 

「あ、ご、ごめんね、皆!」

 

 翌日の授業は、予想通り――予想したくなどなかったが、左霧にとって散々な結果だった。実習は受けているとはいえ、いざ本番となるとそうそう上手くなどいかない。わかっているとは言え、生徒たちから間違いを指摘されるというのは、先生としての威厳に欠けるものだ。

 黒板に書いた自らの達筆とはいえない文字を慌てて消す左霧の姿を見て、生徒たちは微笑ましくその先生の仕草を観察しているのだった。

 

「せんせーそんなに慌てなくてもだいじょーぶですよー?」

 

「ごめんね……授業、下手で……」

 

「いいって! どうせ授業なんて面白くないし。それよりもー先生のこと私たち知りたいなー、ねぇみんな?」

 

 その授業を楽しくやりたい、という思いが左霧にはあるわけだが、残念ながら生徒たちに伝えることはまだ出来ない。

 クラスの一人の掛け声に賛同するかのように波紋が生徒内に響き渡った。そうなるともう左霧では収拾がつかない。ガールズトークが繰り広げられ、その渦中に左霧という新人教師は生贄にされるのだった。

 

「わかった……じゃあ皆、何か聞きたいことはあるかな?」

 

「はいはーい! 先生って、男ですよね?」

 

「その質問は昨日もしたよ? 僕は正真正銘の男だよ」

 

「えー……でもぉ、証拠がないと分からないですよぉ?」

 

「証拠……? そんなこといっても……困ったなぁ」

 

 その本気で困惑している姿が面白いのか、周りの生徒はクスクスと屈託のない笑みを浮かべている。更に追求しようと他の生徒が少し突っ込んだ内容を口にするからいよいよ左霧も困惑を通り越して弱ってしまう。こういった反応は、実は今回が初めてではない。自分の容姿や体格に文句を言っても仕方がない。こういう質問があるたびに、左霧は今みたいな反応を余儀なくされるのだった。

 そんな頼りない先生を見かねたのか、ある生徒が立ち上がった。

 凛とした佇まいで、ぐるりと辺りを見渡し、そして最後に先生――左霧の方へ体を向けた。

 

「みんな、先生が困っているからそのくらいにしなさい」

 

「雪ノ宮さん……で、でも皆さん聞きたがっているし……」

 

「人には色々な事情があるものよ。先生だって聞かれたくないことくらいあるわ。特に、身体的な特徴なんてデリケートな問題でしょう?」

 

「う……そ、そうだよね。先生、ゴメンなさい」

 

「い、いや……気にしないで」

 

 本当は事態を収拾しなくてはならない左霧の代わりに、雪ノ宮学園長の娘である、『雪ノ宮雪子』が生徒たちを一つにまとめ上げた。

 左霧は感激した。こうやってクラスの均衡を保つことの出来るしっかりした生徒がいることは実に頼もしいものだ。

 

「先生、授業を続けてください」

 

 雪子はジッと先生の方を見て、固まっている左霧に声をかけた。無表情だが、その秀麗な容姿に思わず左霧は息を飲んだ。

 

(人形、みたいだな)

 

 はっと今の表現を頭から消した。例えそうだったとしても言われた本人は、人形だと言われて嬉しいとは思わないだろう。

 

「先生? 大丈夫ですか?」

 

「あ、はい! ゴメンなさい、授業、続けますね!」

 

 そんなことに頭を悩ませていると、雪子は怪訝そうに左霧に再び問いかける。チョークを取って黒板に向かうが、慌てているため何本も折ってしまった。もちろんその姿がおかしいので、生徒たちに笑われてしまったのは言うまでもない。

 

 

「雪ノ宮さん! さっきはありがとう助かったよ」

 

 授業が終わり、生徒たちが思い思いに羽を伸ばすなか、左霧は一人の生徒の背中に声をかけた。教室から出るところにいいタイミングで鉢合わせになったのだ。

 

「……霧島、先生」

 

 雪子は振り返り、先ほどのような感情の色が見えない表情で、左霧と対峙した。前髪は丁寧に切りそろえられて、後髪は首筋辺りまで伸ばしている。どことなく古風な感じがする少女だ。目元はキリっとした二重で、意志の強さを強調しているようだった。

 

「何の、お礼ですか?」

 

 雪子は、不思議そうに左霧に問いかけた。どうやら彼女にとってはあの場面の出来事など取るに足らないことだったようだ。それでも、自分が助けられたことは変わりがないので、改めて左霧はお礼を口にした。

 

「さっき僕が生徒たちに質問されているところ、雪ノ宮さんが助けてくれたでしょ? 君がいなかったら収拾がつかなくなるところだったよ。ありがとう」

 

「……あれは、別に先生を助けたわけではありません。授業が進まなくなると私が困るから言っただけです」

 

 

「そうなんだ。でも結果的に君に助けてもらっちゃったのは事実だよ。ありが」

 

「――お言葉ですが」

 

 雪子は鋭い口調で左霧の口を遮った。その目は、先ほどよりも心なしかキツいような気がした。まるで、嫌なものでも見るかのような。

「あなたは先生としての自覚が足らないと思います。先生なら、いつ、いかなる時でも生徒たちの育成に努めるべきです。であるのに今のあなたは何ですか? 私に助けられたとペコペコ頭を下げて。先生なら、先ほどの場面を恥じるべきであって、ましてや反省の色なしとなるともはやあなたに教鞭を振るう資格があるかも怪しい――と私は思います」

 

 しばらく、左霧は何が何だか分からなった。やがて自分が雪子に説教されていることに気づき、どう反応したらいいのか測りかねた。そして出た言葉が、

 

「あ、えっと……ゴメンなさい」

 

 なのだから、しょうがない。雪子もこれ以上は時間の無駄と判断したのか、それだけ言い残すと小さくお辞儀をしてその場から去っていった。その歩き方もまた、精錬されたようで、ヒールでも履いていたら『カツッカツッ!』音を立てていたかもしれない。

 いずれにせよ、左霧はダメ出しをされてしまったのだった。

 

「ううう……」

 

 ダメージの強さに思わず呻き声を上げてしまった。どうやら皆が皆、心の広い生徒たちばかりではないらしい。

 

「雪子さん、か……」

 

 昨日、左霧だけ念を押されたわけが何となくわかった。自分が受け持つクラスに、娘がいるとなれば、それはプレッシャーをかけるもの当然だ。自分のような新米教師なら余計気にもかける。

 

「せんせードンマイ! そういうこともあるって!」

 

 先ほどの会話を盗み聞きしていた一部の生徒たちが教室から顔を出して笑っていた。左霧はバツが悪そうに頭をかくことしか出来ない。

 

「さっすがきっついなぁ~学園長の娘!」

 

「私なんて怖くて話しかけれないよ~」

 

「なんか冷たいイメージあるよね……だがそこがいい!」

 

 どうやら雪子に対する生徒たちの評価はそんなところらしい。だが、決して悪意があるわけではなく、ただ単に憧れているようだった。

 雪ノ宮――というのはこの辺一帯を占めている地主の名で、学園にある莫大な敷地も全て雪ノ宮家のものなのだ。

 つまり、学園長――雪江は学園の長でありながら大地主の元締めも担っているということになる。そして、その娘となれば、もちろん正真正銘のお嬢様なのだ。

 

「清楚で、可憐で、気高い……私も雪子さんに罵ってもらいたい!」

 

「私も!」

 

「私も!」

 

「先生もこの気持ち、分かりますよね!?」

 

「ごめん、皆。ちっとも分からないよ……」

 

 恍惚の表情を浮かべたうら若き少女たちの気持ちには、左霧は上手く答えることが出来なかった。訂正、彼女たちは雪子によからぬ感情を抱いているようだ。

 先ほど言われた言葉が、意外にも左霧の心に深く突き刺さっていた。

 ――あなたに教鞭を振るう資格があるのか?

 悔しかった。初めてとはいえ一人の生徒に不安を抱かせてしまったのだ。授業のことも、生徒たちとのやり取りも、何が正しくて、何がいけないのか、その判断すらも今の左霧には分からなかった。

 

「よし……悩むの終わり! 教務室に戻ってさっきの授業のおさらいと、資料チェックしなきゃ!」

 

 雪子に言われたことは気になるが、今悩んでも仕方がない。クラスの生徒たちに別れを告げ、左霧は教務室へと勇み足でかけていくのであった。

 

 

「クックック……早速我が愛娘に接触したようだな。霧島の」

 

 教卓でプリントとしばらく睨みあっていたところ、舌っ足らずな声がどこからか聞こえた。左霧は重い体を上げ辺りを見渡す。

 

「ここだ、ここ! 君の目の前だよ!」

 

 驚いて下を見下ろすと、そこにはあどけなさの残る、小さな少女が立っていた。今日も今日とてヒラヒラとした人形のような衣装の着て、教務室に謎の雰囲気を作り出す少女。   雪ノ宮雪江は今日も学園長らしくない学園長だった。

 

「学園長……驚かせないでください」

 

「ふん、君が鈍感なのが悪いんだ。それでも霧島の血縁か?」

 

 不満そうに両手を組み、雪江は左霧を半眼で睨んだ。

 それを言われたら、はい、と返すしかないため左霧は頭をかいてごまかすしかない。その反応が好みだったらしく雪江は更に不敵な笑みを浮かべ、隣のイス――砂上の席に遠慮なく座り込んだ。

 

「教師の資格がない、って言われちゃいました……」

 

 左霧が正直にそう答えると、雪江も流石に思うところがあったのか、穏やかな声で静かに語った。

 

「そんなものを最初から持っている奴などどこにもいない。ああ、教員免許は持っているんだろうな……? ふむ、ならば今はそれでいい。技術など嫌でも身につく。今必要なのは勉強、努力、経験……そして」

 

「……そして?」

 

 左霧が聞き返すと、また雪江は不敵に笑い、小さな親指をゆっくりと左霧の胸元に突き刺す。

 

「君という存在だよ、左霧。君は失礼な男だが……決していなくなっていい人材ではない。必要とされているんだ。その事を心に留めておくといい」

 

「……が、学園長! 感激です!」

 

「ムフフフフ……ってまた頭を撫でるな! このたわけ!」

 

 雪江はしばらくされるがままになっていたが、すぐに学園長の威厳を取り戻し、持っていたパイプで左霧の額を殴打した。それでも笑っている左霧は、どこか不気味な姿だった。

 

「痛い! でも僕、嬉しいです!! 必要な人材、必要な先生……」

 

 至極単純な思考回路だな、と雪江は思った。この程度で教師のご機嫌がとれるのなら容易い。雪江は左霧の浮かれっぷりに呆れを通り越して関心してしまった。

 

「左霧」

 

「あ、はい。何でしょうか、学園長?」

 

 嬉しそうに教務室を飛び回っている左霧を呼び戻す。迷惑そうに見ている他の教師の為と、左霧に会いに来た理由を告げるために。

 

「雪子を、頼む。勝手ながら、これは親、保護者としての頼みだ」

 

 その言葉に、左霧は強い念を感じた。自分は生徒たちの親から子供を預かっている身なのだ。ここに、頭を下げ、てはいないがどうやら本当に母親らしい学園長が、頼むと言っている。

 左霧に言えることはただ一つだった。

 

「雪江さん、副担任ですけど雪子さんのことは僕にお任せ下さい! 雪ノ宮家の令嬢として、一生徒として、僕がしっかりと彼女を守ってみせます! ……といっても彼女はしっかりしているので、僕なんか必要ないと思いますけど」

 

 最後が締まらない半端な宣言だったが、雪江は左霧を真剣に見つめ、そして笑った。

 

「――――だからお前は新米教師なのだ」

 

 気分良さげにそう言って雪江は学園長室へ戻っていった。今の発言の意味を問う隙もなく、左霧もやりかけの仕事へと慌てて戻っていく。そしてここで聞かなかったことについて、激しく後悔するのであった。



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電話

左霧が学園に赴任してから二週間程が過ぎた。その地点での左霧の生活はとても充実していると自分では思っている。

 給料が入り、好きな職に付き、生徒は明るく元気(一部を除く)。特に、休み時間に生徒たちが質問をしに来てくれることがとても嬉しかった。自分の拙い授業を、それでも一生懸命ノートに書き写し、自らの声に耳を傾けてくれる(一部を除く)。

 この職に付いて、それだけでもよかったと思える瞬間なのだ。

 だが自分が彼女たちに期待に答えているか、と言えばとてもじゃないがそうは思えなかった。

 質問に的確に答えられるか、といえばノー。教科書を手に持ち、必死に質問内容について調べる。逆に生徒たちに間違いを指摘された時なんて自害したくなるほど恥ずかしい。  毎日、自分が答えられなかった内容をまとめ、左霧は教壇を下りていった。

 実際、生徒たちは授業などどうでもいいのだが、左霧の困った姿が見たくて必死でノートをとり、わざと答えられないような質問を投げつけていることは内緒の話だ。最も、それで生徒たちの意欲が増加傾向にあるのなら、左霧の指導も評価されるべきなのか。

 

 さて、今日は休日だ。左霧はもちろん華恋に起こされるまで布団へ潜りこんでいる。意識は半覚醒と言ったところだろうか。この状態でうだうだしているのが、この男は何より好きなのだ。早起きなのに結果的に寝坊になってしまうという典型的なダメ人間だと、霧島左霧の女中である華恋は自らの主人を見下ろしながら呆れていた。

 

どうやって起こそうか。今日は休日だし、少し寝坊したくらい別にどうということはない。だが、ここに来てしまった以上それ以外にすることがない。何よりも朝食を作ってしまった。自分で作った物は、美味しい時に食べてもらいたいのが作る側としての思いであり、美味しい時に食べるのが作ってもらう側の思いだ(華恋談)。

 

よって起こす。いや左霧が起きているのは分かっている。だがこの男は自分が来ていることが分かっていても丸く固まったまま動かない。それが気に入らない。ムカつく。いじめてやりたい。華恋は主人に優しくなかった。

 

「左霧様、朝食の準備が整いました。起きてください」

 

 まぁ流石に思っていても口には出来ない。華恋にとって左霧は唯一の人であり、絶対忠誠を誓った人であることに変わりはない。どんなに情けなくて、ムカついて、意地悪がしなくてなったとしてもそれを行使することは、決してしなくない。

 

「……いらない」

 ――――ブチ。

 左霧の寝ぼけた声が聞こえた後、何かが切れる音がした。

 

「――つまり、私の作った朝食が食べられないと……そう仰るのですね?」

 

「食べる食べる……食べるけどあと五分……」

 

「そんな時間はどこにもなぁぁぁぁい!!」

 

 華恋は左霧の布団を引っつかみ、中に入っているだらしない主人の姿を確認した。布団を取られたにも関わらず、左霧は体を丸くしたまま動かない。このしぶとさが、いつもいつも華恋を苛立たせている大きな原因だった。

 

「左霧様――クソご主人様……それ以上惰眠を貪るつもりであるのならば、華恋にも考えがございます」

 

「痛いよ華恋……踏まないでよ……起きる起きるよ、今起きるってば……」

 

 そうはいうものの一向に起きる気配がなかった。大抵今起きると言う人間は、すぐには起きない。そんなことくらい華恋は承知の上だった。

 

「……では、左霧様、失礼ながら」

 

 華恋は笑顔のまま左霧が入っている丸い塊をすくい上げると同時に、その華奢な体からは考えられない力で窓の外へと投げてしまった。

 

「嫌ですわ、私ったらはしたない……」

 

 わざとらしく体に科を作り、頬を赤くする華恋。外で聞こえた悲鳴はあとで近所から苦情をもらった。ちなみにここは二階なので良い子は絶対に真似をしないでください。あと、窓ガラスは左霧の給料から天引きだそうです(華恋談)

 

「ううう……死ぬかと思った……」

「デッド・オア・アライブというやつですね。左霧様おめでとうございます」

「めでたくないよ! 頼むから優しく起こしてください華恋さん……」

「優しく? 優しく起こして左霧様は起きるんですか? 本当に、神に誓ってそう言えるんですか? 誓ってください今ここで、さぁ、さぁ!」

「……僕が悪かったです! ゴメンなさい!」

「わかればよろしいのです。さぁ桜子様、どうぞ召し上がってくださいませ」

「んー……二人とも仲良くねー……」

「ちっ違います桜子様っ! これは左様が! 全部左霧様がわるいんですよう!」

 

 朝から騒がしい霧島宅。二階から落ちたにも関わらず傷一つない左霧は置いておき、桜子も寝ぼけ眼のままご飯を口にしていた。間違えて髪を食べているところが何とも微笑ましい。その幼い桜子に必死に弁解しているのが、霧島家のハイスペックお手伝いさん(華恋談)華恋である。いつもの朝、だけどちょっぴり心が弾んでいるのは今日が休日だからだということは、三人とも心の中では分かっている。

 

「全く、左霧様には困ってしまいます。どうしていつもいつも私が苦労しなければならないのでしょうか」

「……嫌なら起こさなくていいのに」

「何か、いったか小僧?」

「……だ、だって休日くらいゆっくりしてもいいじゃないか! それに華恋だって楽しんでやっているでしょ!」

「そんなことはありません。いつも苦渋の決断を迫られて、華恋はストレスでハゲそうです! ああ、敬愛するご主人様を痛めつけなくてはならないなんて! 私は女中失格でございます! ぷぷ」

「確信犯だよ……」

 棒読みで心にも思っていないことを、自称霧島家女中の華恋さんは言った。腹黒い、そして命の危険すら感じる今日この頃の左霧。

 

「それに比べて桜子様は本当に素晴らしいです! どうして妹君がこのように完璧に出来てしまったのでしょうか? どこかの兄が哀れでたまりません」

「んー? お兄様はすごいよー?」

 

 何のやり取りをしているのか分からず、桜子は顔を米粒だらけにしながら左霧と華恋のやり取りを見ていた。桜子がとりあえず兄のフォローを口にすると、華恋はすかさず「いけません!」と左霧の印象を悪くしようと必死だった。必死で桜子の口元について米粒をとっていた。

 

「お兄様は凄いよー、だって桜子たちはお兄様のおかげご飯を食べられるんだよー? もぐもぐ……」

「桜子……」

「桜子様……でしたらもっと上手にご飯を召し上がれるように頑張りましょう」

 

 どれだけ誰かに非難されても兄である左霧を尊敬している桜子。左霧自身、妹にそこまで尊敬される人物でないため、断言されると苦笑しか出ない。だが、その期待があるからこそその期待に答えられるように頑張ることが出来るのだ。

 

 

 

 

「左霧様、今日のご予定は?」

 

 洗い物は基本的に左霧や桜子も手伝う。桜子が食器を運び、左霧が水洗い、華恋が拭く係と決まっている。華恋は「家事は私に任せてください」と断っていたのだが、左霧自身が、

 

「僕は君を下働きさせるつもりはない」

 

 と珍しく強い口調で押し通されてしまい、役割分担も決められてしまった。この男は一見ナヨナヨしている風に見えるのだが、たまに頑固で一度決めたらなかなか譲らない性格なのだ。華恋もそれがわかっているので、彼の優しさに甘えることにした。

 

「左霧様、まだ春とは言え、お水が冷たくありませんか? それに手が荒れてしまいますから、私が」

「華恋ってば、僕は男だよ? 手が荒れたくらい何ともないよ。それより華恋こそ女性なんだから水回りは僕に任せて。せっかくの綺麗な手を傷つけなくない」

「…………左霧様」

「ん?」

「私を口説き落とそうなどと、百万年早いですよ?」

「……何の話?」

「……何でもありませんクソご主人様」

「華恋? なんで怒っているの?」

 

 華恋は左霧の質問に答えるつもりはないらしく、無言で食器を拭いていた。さっきよりも強く、壊れそうなくらいゴシゴシと。

 

「お兄様、食器は全部運び終わりました!」

 

 元気よく桜子は敬礼で仕事の終わりを告げた。その敬礼は角度や仕草がヘニャっとなっているところがチャーミングだと華恋は鼻血を出しながら訴えていたことがあった。左霧も否定はしなかった。華恋は桜子を溺愛し、左霧はシスコンだから。

 

「よし! じゃあ出かける準備をしようか!」

「はーい! お兄様、今日はどこに連れて行ってくださるの?」

 

 桜子は待ってましたとばかりに左霧の腕を両手で掴み甘えてきた。その子のサラサラな黒髪を愛おしいげに撫でながら昨日思案していた場所を告げようとした時、

 

 ジリリリリリリリリリリ――――。

「あっと、電話だ」

 霧島家の古風な黒電話が鳴り出した。玄関越しに置いてある、アンティークショップに売れば値打ち物になると華恋が断言したほどの骨董品だ。左霧は慌ててその年代物の重たい受話器を取り、ひと呼吸つきながら自らの名前を告げた。

 

「はい、霧島です――」

「……左霧ですか? 久しぶりですね」

 

 思わず息を吸うのも忘れてしまった。それほどまで、今電話越しに向かい合っている人物が左霧にとって強大な存在だったからだ。

 やがて無言のままでは失礼だと気がつき、背筋に凍りつくような緊張感を保ちながら、ゆっくりと相手へ言葉を紡ぐ。

 

 

「……霧音(きりね)様、お久しぶりでございます。新年は挨拶にも出向かず誠に申し訳ございません」

「良いのです。あなたはもう霧島家とは縁も由もないのですから」

 

 事務的に、冷たい声が耳元で鳴り響く。冷たいというのは言葉のことで、決してこの人物の口調ではない。感情の起伏を感じられない、生きた心地のしない声。機械のような、淡々とした声色が数年越しに彼の耳元へと伝わってきた。

 

「……本日は、どういったご用件でしょうか?」

 

 内心の思いを押し殺し、左霧もまた事務的に答えた。世話話をする間柄とはお世辞にもいえない。お互いそれを割り切っているからこそ、ここまで冷静に会話が出来るのだ。少なくとも左霧はそう思っている。

「――――ええ……そう、そう……用件、でしたね」

「? 霧音様? どこか具合が悪いのですか?」

 

 電話越しに対話している人は、くぐもった声で途切れ途切れに言葉を紡いだ。怪訝に思った左霧は失礼と思いながらも聞かずにはいられなかった。少なくとも、彼が知っているその人は今のような弱々しく、かすれかかったような声で対話などするわけがない。威厳と畏怖を併せ持つ、言葉の一つ一つがまるで自分を支配するようなそんな喋り方をする人だった。

 

「いいえ。心配せずとも大丈夫です」

「……そうですか」

 

 また一つの静寂。そろそろ出かける時間なのだが、どうしたものか。相手はどういうともりで電話をかけてきたのか、今さら自分という存在に価値を見出したとでもいうのだろうか。少なくとも親切心などという淡い幻想は抱かない。だとしたら何だ? だとしたら――。

 

「霧音様――」

「桜子は、元気?」

 

 その瞬間、その人の目的を左霧は悟った。悟った上で表面上は取り繕うことにした。数年ぶりに我が家に接触してきた訳。決して思いどおりになどさせるものか。自然と握りしめた拳を更に深く握る。

 

「桜子も華恋も元気にやっています。私は学園の教師になりました。これからも彼女たちと暮らしていくつもりです。今日は三人で出かけます。桜子の成長が著しいため、服を新調しなくてはいけませんから」

「……そうですか。あなたがマリアナ学園の教壇に立つことは存じています」

 

 なぜ知っているのだろう。そんな疑問を抱いたが、今はそれよりもこの人を牽制しなければならない。その思いが、恐怖に勝り、左霧を突き動かした。

 

「もう、僕たちに関わらないで頂きたい。あなたたちがどうような野心を抱いているか分かりません。ですが僕――僕たち家族を巻き込まないことはあの時、約束したはずです」

「…………そうですね」

「僕は――僕はもう『霧島』を捨てたのです」

「……あなたはそうでも、桜子は、どうかしら?」

「霧音様……!」

「左霧……どれだけ逃げたとしても、運命は変わることはありません。わかっているのでしょう? あなたは、賢い子ですから」

「……失礼します。二人を待たせているので」

「力は……どこまでも追ってくるのです。……早く決意なさい」

 

 一方的に電話を切り、少しの間目をつむる。そうでもしなければ激情を抑えられない。

 今日は休日だ。皆で楽しく過ごす日だ。だというのに自分のせいで台無しになどしたくない。せめて出かける前には、いつもどおり笑顔でいたい。左霧は壁に寄りかかりしばらく呆然と立っていた。

 



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不審

「深夜に学校を徘徊する生徒……ですか」

「正しくは学校の敷地内にある教会、なんだけどね。そこに入っていく生徒を見かけたって近隣の住民方から連絡があって」

 

 月曜日の出勤後、定時の朝会が終わり各人自分の作業に取り掛かる中、左霧は先輩にあたる砂上に招かれて学園長室を訪れた。相変わらず偉そうに、というか多分偉いであろう雪ノ宮学園長は、どっかりとソファに座り、詳細を聞いている。既に室内は学園長の吸ったパイプのせいで煙たかった。

 

「困ったものだ……うちの生徒は品行方正が売りだというのに、たまに飛んだ跳ねっ返りが入学してくるものだから……ああ、困った困った」

 

 本当に困っているのだろうか、と疑問に思うくらい適当に返事をしながらスパスパと幼女のような学園長はひたすらに嗜好品を口にしている。砂上は早くも額に青い筋を浮かべなからストレスに耐えていた。

 

「……警備員さんに立ち寄ってもらえばいいんじゃないですか?」

「それがね、左霧君……敷地内にある教会は一般人立ち入り禁止なの。で、学園長にお願いして特別に許可を貰おうとしたんだけど」

 

 砂上はこめかみを抑えながら目の前にいる幼女を睨みつける。とうの本人は全く気にした風もなく飄々として首を横に振った。

 

「あそこには大切な宝物が山ほどあるんだ。警備員だろうが、何であろうが立ち入らせる訳にはいかん! 雪ノ宮家の者以外は、な」

「って言っているの。じゃあどうしろってのよ、ねぇ?」

「……あはは、でも心配ですね。敷地内とはいえ、夜は危険です」

 

 規律を乱すこともしてはいけないが、何よりも生徒の安全が問題だ。人の子を預かっている以上は、誰ひとり危険な目に合わせるわけにはいかない。ここ何十年と万全のセキュリティで一人の被害を出していない、ということで有名なマリアナ学園の汚名にもなる。だというのにこの学園長は涼しげな顔をしている。困ったものだ。

 

「というかどうして私たちだけ?」

「一年三組の生徒だと思うからだ」

「ムカッ……失礼ですが、うちの生徒たちはそんな規律を破るような悪い子なんていません!」

「ぼ、僕もそう思います……多分」

「ちょっと霧島君! 多分ってどういうこと!? あんなに元気で素直な子達がそんな不良じみたことするわけないでしょう? ……おそらく」

 

 グダグダだった。というのも砂上も、左霧もまだ二、三週間程度しか見ていないわけで、その程度で生徒たち全員の素行を調べるのは無理難題だった。

 それを見計らったのか、意地悪そうに学園長は嘲笑い、押し付けるように一つの鍵を左霧の方へ押し付けた。

 

「教会の扉の鍵だ。今日辺り調べてとっ捕まえてくれ」

「でも、雪ノ宮家以外は立ち入り禁止だと……」

「馬鹿か君は。私が、この当主様が許可したんだ。いいに決まっているだろう。わかったらさっさと仕事に戻るがいい」

 

 古びた鍵を手の中で持て余しながら。理不尽な学園長のお叱りを受ける左霧だった。やれやれといった風に砂上は左霧と顔を見合わせながら呆れていた。最初から鍵を渡し、調べてくれと一言言ってくれればいい話だったのだ。どうにも学園長は気分屋でいけない。

 

「ああ、百合はダメだぞ?」

「どうしてですか?! 霧島君だけじゃ心配です! 私も、夜のデート、じゃなかった。付き添いとしてついていきます!」

「お前は公私混同するからダメだ」

「そんなことしません。ちょっと肩をくっつけたり手に触れてドキッとするくらしかしません」

「黙れさっさと結婚しろ」

「酷いです……学園長」

 

 砂上は学園長にいじり倒されてさっさと退室してしまった。左霧も砂上がいてくれた方が心強かったのだが、あてが外れた。というよりも何故副担任である自分に任せたのか、そこが一番の疑問なのだが。

 

「なぜ自分が、という顔をしているな?」

「ええ、まぁ……はい」

「砂上は私のお気に入りだが……いささか能力にムラがある。そこで君だ、私は君の能力について何も知らない。ちょうどいい機会だと思ったのだよ」

「ペーパーテストでは不満、だということでしょうか?」

「あんなもの、体裁を整えるだけの言い訳に過ぎない。大事なのは君自身の本当の力だ」

 

 左霧は少し内心残念に思った。その体裁を整えるテストの為に自分はかなり必死で勉強していたのだ。

 この学園に赴任している教師は、基本的に高学歴でその能力も非凡な人ばかりだ。左霧自身も生まれは比較的いいものの、他の先生方と比べると不安な点があることは事実だろう。そのため、採用試験では高得点を取って認めてもらおうという密かな野心があったわけだが。

 

「採用試験など通過点に過ぎん。本当に大変なのはこれからだ。君を、試させてもらう」

 

 頬杖をつきながら笑みを浮かべた学園長。つまり、これがホントの採用試験というわけだろうか。ならばどうすれば自分は認めてもらえるのか? そこまで考え、そして左霧は考え直した。

 

「学園長、一つ質問があるのですが」

「なんだね?」

「学園長はこの事態についてそこまで深刻に考えていないようですが」

「そんなことはないぞ。困った困った。困ったが、あそこにある資料は、『普通の人間』には理解できんからな。一体何をしているのやら」

 

 普通の人間、という言い回しに疑問を持ったが、それよりも大事なことがあるので、左霧は話を続けた。

 

「では――――生徒の処遇については、僕に一任してもらえませんか?」

「ふむ……まぁ、いいだろう。だがどうしてだ?」

「事を荒立てたくはありませんし、生徒にもきっと何かしらの理由があると思うので、僕一人で向き合ってみたいんです」

「一端の教師みたいなことを言う! いいだろう、許可しよう」

「ありがとうございます!」

 

 学園長の丸をもらったことで、左霧は気持ちよく退室した。その後ろ姿を確認した後、学園長雪ノ宮雪江は頭を悩ませていた。

 

「……困ったものだ、本当に」

 その心底疲れたような声は、誰に聞こえるでもなく広い学園長室へと響き渡るのであった。

「……お前が求めているものは、どれほど強大で危険な力なのか、分かっているのか……」

 

 雪江は二つの写真付きの書類を見つめ、また溜息をついた。

 

「まぁ何とかなるか! よし私はもう知らん! 何も知らん!」

 

 そう呟いたかと思うと、さっきとは一転して楽しそうに鼻歌を歌いながら、雪江は高そうなティーカップへと紅茶を注ぐのだった。

 

 

 

 

 

 雪子はいつも機嫌が悪そうである。ムッツリとした表情を変えることなくいつも机に佇んでいる。もともとこんな顔なのよ、なんて言い訳は通用しない。事実彼女はここ最近すこぶる機嫌悪いのだ。それは自分のやっていることが進まないことと、ここ最近赴任してきた先生が何だか凄く気に入らないのだ。何が気に入らないかって、まず一番に言いたいのが能力不足だということだ。まぁこの辺は経験がモノを言うことくらい雪子も知っているので大目に見てやってはいる。

 

「えー? せんせーって妹がいるの? 可愛い?」

「凄く可愛いよ! この前なんてね、遊園地に行ったときソフトクリームを顔に付けちゃって思わず写真撮っちゃったよ」

「わぁ、これって~シスコンってやつ?」

「そうなのかなぁ、普通だと思うんだけど」

 

 いえ、あなたは明らかにシスコンです。それもとびきりの! 雪子は立ち上がり堂々と叫んでやりたかった。だが今は授業の真っ最中。グダグダ状態とはいえ、雪ノ宮の娘である自分がこのふざけた会話に参加するわけにはいかない。

 そんな雪子の苛立ちも知らず、ヘタクソな授業と時折混ざるくだらない会話を続ける左霧。授業三割、雑談七割の状態。

 全面的に目の前の先生が悪いわけではない。授業に退屈した他の生徒が先生に質問をぶつけてきて、それを上手く避けることのできない可哀想な先生が、いちいち一つ一つ丁寧に返答しているのだ。激しく非効率であり、お人好し。雪子はそう分析した。

 だが、表面的には悪くない。ルックスもそれなりだし、顔も中性的。強いて言うなら胸やそのほかのラインがふっくらと丸みを帯びていて、正直最初は女性だと思っていた。

 まぁ世の中色々な人がいるし、詮索するのは野暮だろう。雪子はそう考えて、また小さく溜息を吐いた。

 

(何を考えているのかしら私は……)

 

 くだらない思考を一気に引き戻す。目の前の先生の容姿など知ったことではない。今自分が考えるべきことは他にもっとあるはずだ。まずは、この退屈な授業を終わらせる為にノートを取ること。静かに放課後まで過ごすこと。

そして――――。

 

「じゃあここ、雪ノ宮さん読んでくれるかな?」

「はぁ!?」

 

 思わず出してしまった反抗的な反応。正しくは「はぁ!? なんで私なんですか? どうして私なんですか? メンドくさいから他の人にしてください! というかどの行か分かりません勘弁してください!」なのだ。

 言える訳がない。自分の乱暴な本性(自覚している)を晒すわけにはいかない。何よりも聞いていなかった自分の失態だ。

 

「えっと……雪ノ宮さん?」

 

 だが、なぜだろう。ものすごく目の前の先生の困った表情がムカつくのは? 思わず意地悪をしてやりたいようなキョトンとしたつぶらな瞳。遂反抗的な態度を取らせてしまう威厳のない空気。

 どうする? 隣の人に聞くことも出来る。こんなことがバレれば雪ノ宮家の恥だ。母親から怒られ……はしないか。あの人はそんなことで怒ったりはしない。むしろ笑いの種にされてしまうだろう。

 

「雪ノ宮さん、もしかして具合でも悪いのかな? もしそうだったら保健室」

「すいません。先生の『雑談』に気を取られてしまい、どの行から読めばいいのかわかりませんでした。先生の『雑談』がとても面白くって……素晴らしい『雑談』でしたわ、先生」

「ご、ごめんね。五行目からです……」

 

 ありったけの嫌味を効かせたのだが、多少効果があったらしくオドオドとした表情でダメ教師は謝った。

 ――男らしくない人。そんな言葉を吐き捨てたくなった。今の状況はどう考えても自分は注意されるべき立場ではないか。そんなことも分からないで、まんまと雪子の罠に引っかかってしまった左霧。

 

(どうせ、学園長の娘だからってヘコヘコしているのでしょうけど……)

 

 雪子は雪ノ宮の人間ということもあり、初等部からこの学園に在籍している。だからほとんどの教師から正当な扱いを受けていないことは子供の頃から知っていた。教師たちだけではない。生徒たちからも雪ノ宮という名前だけでそれ以外は注目されることはなかった。おかげで、友達らしい友達はほとんど皆無。自分の暗い人生を省みて、思わず遠い目をしてしまう。

 

(まぁ、自分に非があるってことも認めているけどね……)

 

 そんな暗い幼少時代を過ごしていたこともあり、自分はひねくれている。そのひねくれた性格が災いして高等部に入って二週間程経ったが、依然として自分の周りには友達がいない。羨望やら時折感じる女の子からの熱い視線は当然無視するとして。

 

(いいのよ、私にはやるべきことがあるのだから)

 

 気に入らない先生の要求通りスラスラと教科書の文字を音読する。これで満足か? と鋭い視線を教壇に向け、苦笑いをしている男の顔を一瞥しながら、雪子は再び自分の椅子へと腰を下ろした。

 ノートをとる傍ら、雪子は教科書とは別の分厚い本を机から取り出してみる。

 

『魔道書~簡単な魔術の使い方~☆』

 

 それはあの古い教会から見つけた、長年自分が求めていた力。雪子は自然と口元に笑みを浮かべていた。絶対に手に入れなければならない。胸に秘めた熱い思いを奮い立たせ、雪子はその本をゆっくりと机の中にしまった。

 



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こんばんは

「よし……こんなところかな」

 

 当番だった日誌を付け、左霧は備え付けの時計を見上げた。

 十一時過ぎ。深夜といっても差し支えない時刻と言っていいだろう。手のうちにある鍵を握り締め、重たい腰を上げる。当然他の先生はいない。残業と称してこの時間まで教務室にいることは本来なら有り得ない。

 

「何もなかったらそれでよし。あった場合は……」

 

 左霧はゆっくりと首を横に振った。生徒たちを疑るのはよくない。もし何かあった場合でもきっと事情があるはずなのだ。だからといって夜中に学園へ侵入していいというわけではないのだが。きっと興味本位のことだろう。学生ならそのくらいの好奇心があった方がむしろ後々大物になるのではないだろうか。色々とプラス思考にモノを考え、気を紛らわせた。

 

 

 深夜の学園は何か別の建物のように感じる。昼間あんなに騒がしかった校庭がひっそりと佇み、リノリウムで出来た廊下はまるで奥の見えない暗闇が広がっている。時折点っている消防感知器のランプや誘導灯のランプが、怪しい雰囲気をより一層引き立てていた。

 

「えっと、確か玄関を出て裏側へ回るんだった……よね」

 

 暗い夜道を左霧は一人歩く。とりあえず家にいる家族には電話で連絡しておいた。その際に華恋はかなり不満気に文句を口にしていたのを思い出す。

 

「まさか浮気ですか!? あんなに愛していると布団の中で言ってくださったのに!」

「浮気じゃないし、そんなのと華恋に言った覚えもない。勝手に捏造しないで」

 

 一通り事情を話したはずなのに、なぜかおかしな方向に話が進むから華恋は面白い。ちょっとメンドくさいなと思う左霧だが、とりあえず会話を合わせておいた。

「そんな大役をもう新米のヘナヘナのけちょんけちょんの左霧様に任せたのですか?」

「けちょんけちょんって言わないで。うん僕もそう思ったんだけど、いきなり任されちゃって」

「分かりました。では今晩は桜子様と私で、寂しく、さ・み・し・く・! 夕餉と致します。ちなみに今日のおかずは左霧様の大好きなカレーです。華恋特性のルーにじっくりと煮込んだ野菜とお肉……思わず頬っぺたが腐って落ちてしまいます」

「うん、腐ったらおかしいよね。じゃあ今日は二人で留守番お願い」

「――――左霧様」

 

 急に先ほどとは違う真剣な声が電話越しから聞こえた。何事かと左霧も切ろうとした携帯を持ち直す。

 

「どうしたの?」

「嫌な予感がします。くれぐれもお気を付け下さいませ」

「それは……嫌な情報だね。華恋の勘はよく当たるから」

「今日は新月。夜の守護が最も薄れる日。考えすぎかとは思いますが」

「うん、わかった。気をつけるよ。ありがとう華恋」

「いえ、食い扶持がいなくなると困るのは私なので」

 

 残念すぎる一言を残し華恋との会話を終えた。どうやら桜子がつまみ食いをしたらしくバタバタとした騒がしい音が聞こえた。その微笑ましい光景を想像しながら再び左霧は夜の闇へと足を運ぶのだった。

 

「これはまた……なんというか、出そうだね」

 

 古びた南京錠に鍵を差込み、苦戦すること五分。ようやく鍵を解くことに成功し中に入った。中と言っても教会の外を囲っている門を開けただけでまだ教会内部に入っていない。

 ぐるりと周りを見渡しただけでも、庭は荒れ果てていて鬱蒼としている。どうやら管理自体も全くしていないようだ。

 教会自体は大きな門を中心としたヨーロッパ風の建物だ。建てたのは相当前のようで所々から小さな破損が見られ、哀愁が漂っている。

 懐中電灯を持ちしばらく立ちすくんでいた左霧だったが、ようやく勇気を振るい立たせ入口へと手をかけた。

 

「よ、よし……が、頑張れ、僕」

 

 ブツブツと傍から見れば不審な様子の左霧だが、幸い辺りには人一人いない。思い切って扉を開け、暗闇が続く教会へと遂に足を踏み入れた。

 

 

 ギシギシと歩くごとに床の板が軋む。抜け落ちて穴になっている場所を見極めながらゆっくりと奥へ進んでいく。月の光もない新月では懐中電灯の心細い光だけが道しるべだ。埃っぽい室内と蜘蛛の巣を払いながら教会の奥――――祭壇らしき場所へ近づいていった。

 

 ホコリのかぶったオルガン、救世主、神の像。大きな十字架……かろうじて教会としての体裁を整えているぐらいの機能しかない。巡礼者用の場所も少ない。普通の教会の間取りとどこか違う。直感的に左霧はそう感じた。電灯で更に辺りを見渡す。と、光に反射して暗闇の中から大きなステンドグラスが姿を現した。

 

「天使……」

 

ステンドクラスは美しい天使の姿を体現していた。羽は六枚で黄金の杖を振りかざし人々に祝福をもたらしている。人々は荘厳な天使の姿に跪き、感謝しているようだ。

 

「……これは……」

 

 その隣にもステンドグラスがあるのだが、そちらの方は残念ながら欠けてしまっている。天使たちが武器を持ち、何かと戦っているようだ。おそらく『ラグナロク』と言う、人類最大の過ちを犯した時代の出来事だろう。

 ラグナロク――――力を持った人類は、神々に戦いを挑んだ。人類はやがて『悪魔』と呼ばれる者と契約を結び、天界へたどり着く。数万の天使たちと神々に愚かにも人々は牙を剥いたのだ。結果は人類と悪魔の負けに終わる。この時、二度とこのようなことが起こらないように神は天界の門を閉じたのだ。神は人類に罰を与えた。それにより、人は弱く脆い生き物として生まれることになった。

ここまでが、左霧が知っている話。いつか大切な人に聞かせてもらった遠い記憶。

――――彼女は、天使になれただろうか。

あの、優しく甘い花のような匂いのする少女は。

全てを愛し、慈しむような笑顔を持つ少女は。

左霧は少しの間、昔の出来事に思いを馳せていた。

 

「……は! こんなことしてる場合じゃなかった!」

 

 しばらく物思いにふけっていた左霧は、思い返したように現実に戻る。ブルブルと頭を振り、頬を叩き、気合十分。いくつかある小部屋を調べて回ろう――――そう思った矢先。

 

「キャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」

 

 つんざくような悲鳴が教会内に響き渡った。

 左霧は咄嗟に悲鳴の聞こえた位置を把握する。

 一番手前の部屋。考える暇などない。生徒の悲鳴。それに間違いはない。

 悲鳴と共に赤く歪な光がドアから溢れ出している。嫌な予感がする。華恋の言った言葉を反芻した。

 グッと手に力を込め、左霧はドアの方へ向かった。迷うことなどあろうか。例え、その先に危険が待ち受けていても。彼は躊躇しない。妥協しない。後退しない。

 そういう風に出来ているのだから――――。

 

 

 

 

 血の契約書、呪文、魔道書。全ては彼女――――雪ノ宮雪子の下にある。

 彼女は力を欲している。『魔術』という忘れ去られた力を。

 ラグナロクによって消失した、元々人類が持つことを許された力。それは時代と共に風化した。しかし今のなお知る人ぞ知る、神秘なのだ。

 

「我が声に耳を傾けたまえ……」

 

 ナイフで薄く切りつけた腕から血が滴る。その血で召喚術の『門』を作る。『セイレイ』と呼ばれる存在を呼ぶための門。セイレイ界と人間界を繋ぐ糸。

 魔道書で得た知識を、拙く辿り、ようやくここまでたどり着いた。読み解くのにかなりの時間を費やしたことが苛立たしい。一分一秒でも惜しい。自分は早く力を手に入れたい。

 そして――――そして。

 

「雪ノ宮雪子が命じる。我が前に御身を現したまえ! セイレイよ!」

 

 魔導書に書いてあるとおりにやった。後は待つだけだ。雪子は、興奮と恐怖の入り混じったような感情を持て余している。鬼が出るか、それとも蛇が出るか……いずれにせよ、自分に強大な力が手に入ると疑わなかった。

 

「……? どうして! どうしてよ! 書いてある通りにやったじゃない!」

 

 何も起こらなかった。埃だらけの室内はただ静まり返っている。先ほどと何一つ変わっているものなどなかった。

 

「また……失敗。……くっ! いつになったら私は!」

 奥歯を噛み締め、雪子は悔しさを滲ませた。腕の切り傷からはまだ血が滴っている。ここまでしたというのに、何も変化は起きなかった。

 

「バカバカしい、何が魔術よ! 大嘘つき!」

 

 魔道書として大事にしていた本が途端に悪意の対象となった。乱暴に叩きつけ気を紛らわせる。

 また最初から――――。自分の情けなさに泣きたくなる。何年も、何年も、必死で追い求めてき物が、また消失してしまった。

 雪子はその場にペタンと座り込んだ。スカートは埃だらけ、足は泥だらけ。別にいい。自分が洗うわけではない。メイドには悪いが、今はそれどころではなかった。

 

「やっぱり……お母様に教えてもらうしか、ないのかしら……でも」

 

 母、雪江は『魔術師』である。そして雪子とは血が繋がっていない。これは誰にも話したことがない雪ノ宮家の極秘情報だ。人に知られる訳にはいかない。ちなみに雪子という名前も雪江に与えられたものなのだ。当時はネーミングセンスのない母を呪った事もあったが今はそんなことはどうでもいい。

 とにかく、自分は孤児だったということだ。なぜ雪ノ宮家に引き取られたのは分からない。小さな少女に手を引かれるまま、小さかった雪子は孤児院を後にした。以来、雪江とは母子という縁を結んでいる。今ではどちらが母なのか分からないほどに雪子は成長した。

 雪江は自分のことを何も話さなかった。しかし自分をとても愛してくれた。何にせよ、自分の場所を確立出来たのは、孤児であった自分にはありがたいことだ。そして雪ノ宮家とは、

 

「魔術師の家系……」

 

 母の話を盗み聞きしてしまったことがあった。縁者同士の話で血の繋がりのない雪子は参加することが出来なかった。偶然立ち寄ったドア越しに、雪子は聞いてしまったのだ。

 

「魔術師の血が絶えようとしている。何としても防がなくてはならない。今世紀こそ、我ら雪ノ宮が……の座を手に入れるのだ」

 

 何かおかしな宗教でもはまっているのかと最初は思った。だが、それは勘違いだと思い返した。

 

「! 何をしている雪子! その本をこちらに渡さんか!」

 

 絶対に入るなと言われていた屋敷の一部屋に立ち寄ったことがあった。いつもなら鍵がかけられていたのに、その日は何故か開け放たれておりこっそり入ることにしたのだ。

 その部屋は異様だった。おかしな像や石。大量の書物。極めつけは、地面に描かれた紋章だ。書物を一つ手に取ったとき、雪江の慌てた声が響き渡った。

 

「お母様、これは何ですか?」

「本だ」

「いえ、ですから何の本かと」

「くだらん本だ」

「そうですか。ではお借りしてもよろしいですか?」

「ダメーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 

 子供のように大きな声を上げ、雪子を押しながらドアの向こうへやろうとする。だが、雪子の方が身長も力も強かった。負けじと踏ん張りながら雪子は聞きただす。

 

「お母様は魔術師なの?」

「雪子、ゲームのやりすぎだ。もっと現実を見なさい。近頃は何もやる気のないニートとかいう若者が増えていて大変なのだ。別にニートでも構わんが何か一つ、やりたいことを見つけるのだ。金はあるからな!」

 

 小さな手を丸く丸めて雪江は自慢していた。しかしそれだけでは雪子は諦めない。次の言葉が雪江を絶望に叩き落としたのだ。

 

「でしたら私、尊敬するお母様の後をついで『魔術師』になります」

「ダメだ! じゃ、なかった。そんな職業はない! ゲームのやりすぎだぞ雪子!」

「ゲームなど私の部屋にひとつもありません。お母様、どうして私に隠し事をなさるのですか?」

「隠し事なんてしてない! とにかく『魔術師』なんてダメだ! ダメ、ダメ、ダメ! ブブブブーーーー!」

 

 手でバッテンを作り、雪子の顔に近づける。雪江は隠し事が下手だ。特に我が子に対しては甘さが滲み出てどうしても弱ってしまうらしい。そんな母が、雪子は好きなのだが。

 

「分かりました。お母様の言うことなら従います」

「そうか! わかってくれたか! 流石は我が子! 一生働かなくても楽して暮らせるように、お母さん頑張るからな! アッハッハッハッハッハ!!」

 

 だけど母親として失格だった。

 何にせよ、雪子は諦めてなどいない。手に隠し持った一冊の魔道書を大事に抱えながら雪子は自分の部屋に戻って行くのであった。

 

 

「お母様は絶対に教えてくれないし……」

 

 無理を言うことなど出来るはずがない。拾って育ててくれた親にこれ以上の負担をかけることなどしたくない。

 いや、こんなことがバレたら、雪ノ宮家として失格だ。途端に雪子は自分がここにいることに恐怖を覚えた。

 

「……帰ろう」

 

 埃まみれのスカートを払い、髪にかかった蜘蛛の巣を払いながら、雪子はキビキビとした動作でその場をあとにしようとした。屋敷へこっそり帰って、シャワーを浴びて、ベッドに潜り込みたい。そう思うとさっさとこの場を立ち去りたかった。

 

「こんばんは、お嬢さん。そして――――」

「え……?」

「――――さようなら」

 



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それは闇の使者、魂を奪う者

 左霧は小部屋の扉を勢いよく開けた。生徒が一人いる。雪ノ宮雪子だ。少女は腰が抜けたのか、ガタガタと体を震わせながら壁に張り付いている。見たところどこにも怪我はない。左霧は胸をなで下ろした。

 

「んぁ? もーひとりいたのかぁ? 今日は大量だぜ! さっさと魂捕まえてクソ上司に報告だあ!」

 

 人目見ただけで異様な気配を持つ者が傍にいる。大きな鎌を担ぎ、鬼のような形相と逞しい肉体。背中には強靭な翼を持っている。神話にも、昔話にも、時を超えて現れる、空想上の怪物――そのはずだ。

 左霧は背中が凍りつくような感覚に襲われた。信じられない、まさか――――。

 

「あ、くま……」

「貴様……人間の分際で、俺様たち悪魔の名前を口にするんじゃねぇ! 劣等種が!!」

悪魔は苛立たしげに大きな鎌を振るい、その場の物を叩き壊す。その音に、雪子は更に怯えてしまったようだ。圧倒的な膂力で全てを破壊する使者が今、目の前にいるのだ。

 

「いやぁ~昔に販売中止になったはずの本がまだあったなんてなぁ~ラッキーだわぁ~。しかも女なんて嬉しすぎる! 何発かヤったあとにぶち殺し決定! ついてるわ~」

 

 本?……。左霧は目の前に落ちている本を手に取る。

 

「魔道書? いや……これは」

 

 その本の表紙は確かに魔道書だった。しかし内容は全てデタラメ。用法や場所、呪いに関するあらゆる内容がちぐはぐなのだ。とても魔道書と呼べるものではない。

 

「そいつはぁ悪魔の書って言ってなぁ~数年? いや数百年? まぁいいか! とにかく悪辣な方法で魂を狩る連中が増えたってんで中止になっちゃったチョー便利な本なんだよ! なんと、契約なしで魂を狩れるんだぜ!? アクマにとっちゃこれほど便利な本はないってのによ~!」

「契約なし……? どういうことだ……?」

 

 悪魔は不機嫌そうに鼻を鳴らし、億劫そうに説明をする。左霧は、その内容を聞き出しながら、雪子に近づくチャンスをうかがうことにした。

 

「だからぁ、お前ら劣等種の魂借り放題ってこと! 力もない知恵もない! 挙句に簡単に騙されるクソ種族! 俺らに蹂躙されるだけの可哀想なお前らのことだよ!」

 

 どうやら、何がしかの用途で魔道書を使用した雪子が、悪魔を呼び出してしまったらしい。それも礼儀作法も知らない暴漢のようなタチの悪い悪魔だ。

 

「あ、あ、せ、せ、んせ……」

 

 左霧を呼ぶ声は、怪物の鎌によって遮られた。首元に当てられた巨大な武器は、常人ではとても持つことなどできない。それだけでも彼が異質な存在なのだと確信させるには十分だ。

「おおっと動くなよ? これから俺とお楽しみなんだからよぉ? ほぉ~人間にしてはなかなかいい女じゃねぇか? どうだぁ? 一緒に悪魔界に行かねぇか?」

「い、いや、いやぁ!」

 

 悪魔の顔が雪子の体を舐めまわすように見る。その視線に、雪子は身の毛のよだつような嫌悪感を隠せない。

 後悔しても遅い。なぜあれだけ母親に注意されたのか、やっと分かってしまった。それは現実に存在するのだ。怪物が!! 悪鬼が!! 悪魔が!!

 

「た、助けて……助けて……」

「ぶぁぁか!! 誰も助けてなんてくれねぇよ! 俺様悪魔! お前は劣等種! 家畜の分際で俺様を呼んだことを後悔するんだな!」

「雪子さん、大丈夫だよ。落ち着いて? 大したことはないよ。もう大丈夫、心配しないで」

「ぐはぁははははははははは! そうだ落ち着いて……んあ?」

「せ……先生?」

 

 左霧は落ち着いていた。恐ろしいほどに落ち着いていた。この状況は誰がどう見ても異常だ。非現実的な怪物が現れ、命の危険が差し迫ろうとしている。普通の人間なら、パニック二陥っているはずだ。例え、胆力の強い者でも目の前の圧倒的な存在に立ち向かうことなど無謀と言っていい。

 人と、悪魔の違い――――。

 

「なぁぁに生意気なことほざいていんだぁぁクソがぁぁ!!」

 

 一瞬にして悪魔は左霧の目の前に移動した。凶暴な片腕を上から下に叩きつけ、地面をえぐる。左霧のいた場所は、あっと言う間に陥没する。

 ――無理だ、もう。雪子の心は折れかけていた。圧倒的に違いすぎるのだ。目の前にいれば、ひれ伏したくなるような、そんな感覚に襲われる。まるで、それが正しいような、誰にも頭を下げたことない雪子ですら泣いて謝りたくなるほどだ。

 

「せ、せんせい、霧島先生!!」

「バァッハッハッハッハッハ! ざまぁねぇな! 俺様に逆らうとこうなるんだぞ? わかったか小娘! よしお楽しみタ~イム!」

「いや、いやぁぁぁぁぁ!」

 

 巨漢の悪魔が大声をあげて雪子に襲いかかろうとした。もうダメだ。自分はここで殺されてしまうのだ。当然の結果だと雪子は思った。尊敬する母の言うことを聞かずに、日頃の退屈と好奇心に負けて紐解いてしまった禁断の力。それは到底人間に扱える代物ではなかったのだ。

 

「…………?」

 

 目を強く瞑ったまま時が経った。だが一向に悪魔が自分を蹂躙することはなかった。恐る恐る目を開けてみる。そこにはまた、雪子には到底信じられない光景が目に映っていた。

 先ほど叩き潰されたはずの左霧は、何かに守れながら姿を現したのだ。

 

「その子からどいてもらおうか。低級悪魔……!」

「てめぇ……魔法使い? いや、この世界では魔術師か? なぜ魔力が存在しない世界にてめぇみたいなのがいる?」

 

 左霧から光が溢れている。奇跡の力。魔術。どの呼び方でもいい。この世ならぬ力は、左霧の周りを循環し、円を描くように次々と不思議な粒子が溢れ出した。

 

「こいつぁ……おもしれぇ……てめぇを狩れば、俺ァ上級悪魔入りよぉ! 計画は変更だぁ! まずはてめぇをぶっ殺す!」

 

 悪魔は嬉々として飛び上がる。狭い室内はまるで砂塵が渦を巻いたように騒然とし、二人の衝突が始まった。

 雪子はその光景を呆然と見ていた。逃げることができない。今自分が動いたらそれこそ命の保証がないと思った。いや、それ以前に何だ? なんなのだこれは? 自分はまだ夢を見ているのではないだろうか。ゲームのやりすぎ? 雪子の頭は襲いかかる非現実な出来事に混乱していた。

 まるで映画のワンシーンだ。悪魔が勢いよく鎌を振り下ろし、それを左霧が不思議な力で受け止める。あれはなんなのだろう。人間なのか? 彼は本当にただの先生なのか?

 

「さっさとくたばれクソ魔術師がぁ!」

 

 悪魔は思い切り鋭い鎌を振り上げた。これを普通に喰らえば真っ二つに胴体は切断され、殺されるだろう。悪魔に魂を狩られる。それはつまり、悪魔界へ売られることを意味する。

 

「なぜ、悪魔が今、魂を欲しているかは知らない……けどやられるわけにはいかない」

 

 左霧は精神を集中させ、呪文を唱えだした。それは失われた言霊。あるはずのない文字。神秘を表す魔術の型。

 光が収束する。一つの球体に形取り、左霧の手から一気に放出された。

 

「消滅せよ!! 光爆!!」

「ちっ……!」

 

 悪魔の中心めがけて放たれた必殺の一撃は、光粒となり降り注ぐ。まるでマシンガンで打たれたように悪魔は吹き飛ばされ瓦礫の下敷きになった。

 

「雪子さん! 大丈夫!? 怪我はないかい!?」

 

 先ほど戦っていた左霧は、慌てたように雪子の安否を確かめた。固まったように左霧の顔を見たまま動かない。あの光景を目撃したのなら、当たり前だ。

 

「……今は詳しく話している暇はないんだ。とりあえずここを出よう、ね?」

「……せ、先生、わ、私……」

「うん、怖かったよね。大丈夫僕に任せて! 僕が君を――――守るから!」

 

 守るから! その言葉を雪子は生涯忘れることはなかった。決して恋に落ちたわけではない。だがこの時に放たれた言葉は、何よりも力強く、自分の心に残っていた。まるで弱さを吹き飛ばしてしまうような綺麗な笑顔。大丈夫と思わせるような雰囲気を、彼は纏っていたのだ。

 

 

 

 

「……そうか、だからこんなところに悪魔が……」

「ゴメンなさい先生、私……とんでもないことを」

 

 雪子は涙ぐみながらその顔を手で覆った。長い黒髪ははらりと崩れ落ち、やつれているようだった。左霧はその気持ちを労わるように優しく体を抱きしめた。

 

「せ、先生?」

「確かに君はいけないことをした。だけど、ここにいる悪魔はどのみち放っておくわけにはいかなかった。だからといって君が反省しなくていいというわけではないけど」

 

 抱きしめられて恐縮してしまった雪子にまたあの笑顔で左霧は言い切った。

 

「まぁ僕に任せて! 学生は間違っても大丈夫! 大人がちゃんと責任を取るから!」

「……クス……はい!」

 

 雪子と左霧は走りながら教会の敷地内から出ることに成功した。建物がいつ崩れるかわからないほどのダメージを受けたのだ。そろそろ警察や消防が駆けつけて来るはず。雪子は内心関わりたくなかったが、自分がしたことから逃げるわけにはいかない。――他の人に信じてもらえるかは分からないが。

 

「……おかしい」

「? 何がですか?」

「随分時間が経っているはずなのに誰も来ない。警備員さんがすぐ駆けつけてくるはずなのに。それに……」

 

 まるで気配という気配を感じない。木々が揺れると音、風の感覚すらも――――。

 しまった! 左霧は足を止めた。そのあとに雪子も不思議な様子で左霧の横に止まった。

 

「先生?」

「雪子さん……申し訳ないけどもう少し恐いことになるかもしれない」

「え、ど、どういうことですか?」

「こぉ~いうことだよ~!」

「ひっ!?」

 雪子の後ろから覗き込んだのは、あの悪魔だった。そんな馬鹿な! 先ほどあの不思議な力でやられたはずではなかったのか? 再び雪子の頭は混乱状態に陥り、絶望の色に塗り固められた。

 

「……低級悪魔と言えど、流石に上手くはいかない、か……」

 

 かばうように左霧は雪子の前に足を出す。その言葉に悪魔は不快そうにしながらも、あの凶悪の大鎌を下げたまま、こちらの様子をうかがっているようだった。

 

「ん~……そっちの小娘はいいとして。お前、お前だよ。ムカつくな~俺様は低級悪魔なんかじゃねぇ」

「……悪魔は人型になるにつれ上級悪魔へと成長していくと聞いているが?」

 

 すると悪魔は途端に煙を上げ出した。雪子を庇い呪文を唱えようとしたが、次の瞬間、一人の男が姿を現したのだ。その男は顎を上げながら左霧の方を睨みつけた。これで満足か? そんな具合に悪魔は人間に変身したのだ。

 

「……この姿は嫌いなんだよ。なぜ、俺たちは成長するにつれて劣等種の姿になるのか……。だがこれでわかっただろう? 抵抗しても無駄だということがな」

 

 燃えるような赤髪に二本の大きな角がある。こちらがおそらく本当の姿なのだろう。腕を組み、先ほどのとは態度が違うような気がした。下卑な笑みも、闘気も見せない。だがなぜだろう、その姿には容赦しないとばかりに危険な空気が漂っているのは。

 

「例え、そうだとしても彼女に指一本触れさせるわけにはいかない」

 

 あくまでも事務的にそう左霧は答えた。上級悪魔――――その力は数千の低級悪魔たちが束になっても勝つことは出来ない。悪魔界を統括する幹部候補なのだとか。以前どこかで聞いたことがあった。

 その言葉に、何か満足したのか上級悪魔は手を広げ、道化のように笑い出した。

 

「いい。実にいい。取引をしよう魔術師!」

「取引? 悪魔とか? からかっているのか?」

「貴様にとっては悪いことではないはずだが? この場は見逃してやる。だが、その命尽きるとき、貴様の魂は俺がもらうことにしよう」

「……なっ……」

「だ、ダメですよ先生! 悪魔と取引なんて、わ、私が」

「お前のような小娘の命、もらったところで何の価値もねぇ。黙ってな小娘」

 

 凄んだ悪魔の言葉に再び怯えてしまった雪子を守るように左霧は悪魔を睨みつけた。

 

「まさか、その小娘を庇って、この俺の結界を潜り抜け、尚且この俺様を倒せるなんて……思っているわけないよなぁ?」

 

 内心、左霧は焦っていた。勝算などあるはずがなかった。自分は人間で、悪魔は高等種族。その力の差は歴然としている。例え、自分が『魔術師』であろうとも――――。

 それに、雪子を危険な目に合わせるわけにはいかないのだ。そのことが、左霧の天秤を素早く傾けた。

 

「……いいだろう。その契約、結んでやる」

「先生!?」

「大丈夫だよ雪子さん、何も心配いらないから」

「でも! でも!」

「ウワハハハハハハハハハハ!! いいだろう魔術師! 第六級悪魔、『ヴェルフェゴール』が貴様の命貰い受ける! 死のその時まで楽しみに待っているがいい!」

 

 雪子の泣き出しそうな声をかき消すように、高々とヴェルフェゴールは笑い出した。左霧の心は静かだった。不意に彼女の声が聞こえたような気がした。構いはしない。自分はどのみち――――。

 

「……なぜ、僕の魂を欲する?」

 

どこからか、書類を取り出した悪魔は、左霧を片目で盗み見たあと、深刻な声で呟いた。

 

「……王が欲しているからだ。上等な兵隊を、な」

 

 それに、と悪魔は書類を書き上げ、指でサインをくれとはやしたてた。左霧は口で親指をかんだ後、血の滴る指をしっかりと書類に押さえつけた。その様子を、ただ雪子は黙って見つめていた。

 

「それに、貴様からはどす黒い気配を感じる。こりゃ掘り出し物だ」

 

 ふざけたことを! 左霧は悪魔を鋭く睨みつけた。だが、これ以上この悪魔を刺激するのは危険だと判断した。悪魔は約束をしっかり守るというが、悪魔だけに信じられた話ではない。まるで悪徳業者に無理矢理サインを書かせられたような嫌悪を感じる。

 

「用が済んだのなら、さっさと帰ってもらうか」

「っけ! 誰が好き好んでこんな魔力のすくねぇ薄汚れた場所にいたいと思うか! だが、まぁ今日は気分がいい。この次はてめぇの命が尽きる時に現れるが……間違っても天使と契約を交わしてみろ? お前の大事なもんを根こそぎ奪いに来てやるからな!」

 

 大事そうにその書類を封筒に入れ、悪魔は遂に次元の裂け目から去っていった。と同時に辺りからいつもの気配が戻り始めた。今度こそ、左霧は安心して雪子の方へ振り向いた。当然、彼女の表情は硬いままだった。

 

「先生……大丈夫なんですか? 私、先生にとんでもないことを……」

「……心配しないで。でも雪子さんが無事で本当によかった……詳しい話は明日聞くとして、今日はもうお家に帰ろう?」

「……はい」

 

 雪子は終始硬い表情のままだった。心労も溜まっているだろう。一度に凄まじい体験を経験してしまったのだから。タクシーで送るまで、ずっと左霧の顔を見つめていた。

 一方の左霧はそこまで深刻ではなかった。なぜなら、あの契約がなくとも、自分はおそらく地獄に落ちることは確定していたからだ。自嘲気味に笑いながら、左霧も帰宅することにした。

 だが、この出来事は生涯雪子にとって決して忘れられない後悔になることは、まだ知る由もなかった。

 こうして、運命の鎖は絡み合う。それはまるで必然であったかのように。絡み合う、二本の鎖は、やがて数本に絡み合い、そして崩壊していくのだった。

 



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魔術師の弟子

 学園長室は静まり返っている。ティーカップに入れたそれぞれの紅茶は冷め切ってしまい、とても飲めたものではない。一人は目を瞑り沈黙を決め込んで、一人は生徒をジッと見つめ、肝心の生徒は、居心地が悪そうに俯いていた。

 

「あの、あの、私――――」

「黙っていなさい、雪子。左霧、隠していても仕方ない。何もかも話すことにする。遠慮なく質問してくれたまえ」

 

 母親は静かに、そして厳かに雪子を窘めた。かつてここまで母親を怒らせてしまったことがあっただろうか。そもそも母親の怒った顔など見たことがなかった。それが、ただ、雪子は悲しくて情けなくて両方の手を強く握り締め、スカートは皺だらけになってしまった。

 

「……では学園長。あなたは『魔術師』ですね?」

 

 等々、その言葉が表舞台に現れた。雪子は場違いな興奮を必死で抑えた。これ以上自分が口を挟むことは許されない。母が頑なに拒んでいた事実を、先生は堂々と質問した。母は苦々しくその口を開いた。

 

「――――私は、『魔術師』だ」

「……雪ノ宮、という家系は今まで聞いたことがありませんが……」

「当然だ。私の一族は、私だけが魔術師なのだよ。そして、私も雪ノ宮家の養子だ……雪子と同じ、な」

 

 隣に座っていた雪子の髪の毛を、母のように、慈しみようにそっと撫でた。途端に雪子は泣き出しそうになる。あの、母が、養子? 自分と同じ? どういうことだろう?

 

「雪ノ宮家は、どこから仕入れたのかは知らんが、魔術師の血を欲していた。自らの利益、莫大な権力を手に入れる為にな。そのため、前の当主、雪子の祖父は私を買ったのだ――――金で」

 

 何かを思い出すようにゆっくりと学園長は瞳を閉じた。雪子は母親の手を握りしめた。左霧は言葉を反芻した。買ったのだ……買ったのだ……買ったのだ……。

 

(……きな素体だ。……よくやく……至高の……だ)

 

 白い壁、薬の匂い、虐殺、廃棄、殺し合い。くるり、くるり、くるくるくるくる……。

 

 左霧は手を口に当て、吐き気を抑えた。幼い学園長。魔術師。合点がいく。なるべく不審に思われないように必死に隠したが、学園長にはバレているだろう。穏やかな目つきで左霧の奥を見通してるような気がした。

 

「左霧よ……知っているか? この世界には、純粋な魔術師の一族は三つしかもう存在せんのだ。一つは英国、一つはドイツ、そして天王寺――――我が国の魔術師だ」

「……はい」

「この先は……もう言わなくてもいいな? お前も私も、つまりはそういうことだ」

 

 雪子は何の話をしているのか分からなかった。だが、左霧と母の目が、悲しげに映るのを見て、声を出すのをやめた。つまりどういうことだろう? 二人は魔術師なのか? いや、先生は間違いなく魔術師だろう。あの力は、絶対にそうだ。

 

「この子は、『最後の生き残り』なのだ。私が引き取り面倒を見てきた。おかしいか? 私のやっていることが?」

「いいえ、そんなことは」

「おかしいと思っているのだろう!? 私が、こんな私が! この子を引き取ったとき、母性を感じてしまったことが!」

「いいえ! 決して、学園長、決してそんなことは……」

 

 雪江は自らが取り乱したことに恥じて謝罪した。母の頬は真っ赤に染め上がり興奮していた。雪子の知っている母は少なくとも冷静で、時に子供じみたところのあるおかしな人ではあったが、こんな表情は初めて見た。

 

「……雪子が何か探っていることは分かっていた。お前に行かせたのも、『魔術師』として信用していたからだ。話には聞いているよ?『霧島には鬼がいる』のだそうだな?」

 

 ピクリと左霧の体が反応したことに雪江は見逃さなかった。雪子は左霧の苦しそうな表所の訳を聞き出せるはずもなかった。

 

「だが……雪子があの本『悪魔の書』を持ち出していることは気づかなかった。私の監督不行き届けだ。左霧、雪子の命を救ってくれて、本当にありがとう……」

 

 チョコンと頭を下げた雪江に習い、雪子も慌てて前に出した。左霧は両手を振って「そんな、別に、僕は」などあわあわと普段通りに接していた。昨日はあんなにキリっとしていたのに、雪子は何となく残念に思った。

 雪子が入った教会やそれに関連する場所、例えば祠や神社などは比較的魔力の溜まりやすい場所で、魔術を行使するのに便利なのだとか。雪子がなぜあの古ぼけた教会をわざわざ選び、悪魔を呼び出してしまったのか。それは無自覚に、魔力の流れを辿ってしまった結果なのだとか。雪子自身は、ただ魔道書――――悪魔の書の言うとおり、埃っぽくジメジメした場所が最適と書いてあったから潜りこんだだけなのだが。

 

「雪子、魔術とは一つ道を謝ると今回のようなことや、それよりも酷い事件に巻き込まれることがあるのだ」

「はい……」

 

 もう雪子は懲り懲りだと思った。あんな恐い思いをするくらいなら、普通に生活して、普通に友達とおしゃべりして――――友達はいないけど。でピアノや習い事をしながら優雅にお嬢様らしく暮らしていく方がいいと決まっていた。このことを反省して、いい加減夢見がちな性格を治そう。そして普通に結婚して、普通に暮らしていくのだと改めて目標をたてていたのだ。母親だって、これ以上自分を危険な目に合わせたくないと思っている。だったら自分にはこの考えが最適だ。ていうか魔術なんて嫌いだ。そう思い始めていた矢先――――。

 

「左霧、この子を弟子にしてはもらえないか? ていうかしろ。これ学園長命令ね」

「ええ!?」

「学園長……どういうことですか?」

 

 雪江はいつものように開けっぴろげに笑ってた。今までのことは今まで、これからのことはこれから。そうとでも言うように、自分だけ勝手に心を入れ替えたかのようだった。

 一方の左霧は困惑していた。これ以上関わらせないことが前提ではなかったのか? 生徒を危険に巻き込む可能性は昨日の夜、指摘されたはずだ。教会の事件は不明の爆発となっているが。とりあえず雪子は自分の意思とは全く正反対に動いていることに戸惑っていた。

 

「悪魔と、契約してしまったらしいな?」

「あ……!」

 

 雪子は自分を守ってくれた先生の姿を思い出し、胸を痛めた。あの時先生は本当に、映画に出てくる魔法使いみたいだった。私を助けてくれた、正義の魔法使い。

 

「それは、自分が勝手にやったことです……」

「もちろん、取り消すつもりなのだろう?」

「…………」

「馬鹿者。そこは嘘でもはいと言え。まぁ、お前にそこまでさせてしまった以上、私にも意地がある。この子、教育してはもらえないか? ……経験はなくとも、『魔導』の力を持つ者だ。役に立つ」

「あなたは、自分の子供を人質にするつもりですか……!」

 

 それならば尚のこと聞き入れるわけにはいかない。自分は生徒を守ったはずなのに、再び危険にさらすことになるのだ。これ以上、この子を恐怖の渦中に叩き込むつもりならば、阻止しなくてはならない。しかし学園長は無言で否定を示した。

 

「左霧、今回のことで分かった。魔術を否定し続けても、いずれまた今回のようなことが起こる危険がある、ということがな」

「それは、雪子さんがこれ以上魔術と縁を切れば」

「本当にそれで終わると思うか? 魔術師が何を目指して生きているか、お前は知っているだろう?」

 

 そんなことは分かっている! 自分や、学園長以外の魔術師がどれだけ危険な存在なのかぐらい! 左霧は大声で怒鳴りたかった。前にいる者が自分の上司でなかったなら、そうしているところだ。

 

「魔王……!」

「そうだ。魔王不在のここ数年、どれほどの血が流れたか! 裏でどれほどの魔術師たち一派が滅んでしまったのか! 本当に、関わらせないというだけで、この子は、生きていけるのだろうか? なぁ左霧、本当にそう思うのか?」

 

 思う、と断言できるわけがなかった。そんなことなどお構いなしに襲ってくる連中だってぞろぞろいる。悪魔も人をたぶらかす。魔力など、もっていれば持っているだけ、人間には危険な所有物なのだ。

 

「僕が、守ります」

「自惚れるな小僧! お前一人に何が出来る? いや、私とお前だけで、本当に守りきれると思っているのか? 雪子が、下手をしたら学園の生徒たちすらも危険に晒すことになるのだぞ? いや、お前の、お前の家族すらも……!」

「そ、れは……」

 

 ただ一人、たった一人。守りたい少女がいた。その少女を守ることは出来なかった。今でも思い出すと胸が苦しくなる。自分は無力で、何も守ることが出来なかった。ただ一つを除いて――――。

「魔術師は動き出しているぞ、左霧。天王寺の一派がな」

「……くっ……僕は」

 

 こんなことの為に、学園に赴任したかったわけではなかった。だが、学園長は、おそらく最初からそのつもりで自分を採用したのだ。初めから自分の『そちら』の能力にしか興味がなかったのだ。

 

「お前が、なぜそこまで魔術を遠ざけようとするのか、まぁ私もわかる。母親だからな……。妹を、巻き込みたくないのだろう?」

「――――!」

 

 桜子! 自分の命よりも大切な少女! 自分の良心回路だと言ってもいいだろう! あの子がもし、もしだ、もし命を狙われ、死ぬようなことがあった場合? ああ! あった場合、自分はどうなってしまうのだろう? そんなことは考えたことがなかった! 考えたくなどなかった! だが時はそれを許さなかった。まだ六歳だぞ? それなのに! それなのに連中は、あの子の命すら平気で摘み取るのか?

 

 ――――やるに決まっている。左霧は確信した。その確信に足り得る経験を、自分はもうしたではないか? 無力で無垢な笑顔を、残忍に奪ったではないか。

 

「先生、私――――やります」

「雪子さん……?」

「やっぱりいけないと思うんですこのままじゃ。悪魔との契約って危険なんですよね? その他のことはわかりませんけど、でも私がお役に立てるなら、その、お願いします」

 

 それまで黙っていた雪子は、左霧の尋常ではない戸惑いに助言を処した。その目は決意と迷いを帯びていた。若くて、純粋で、愚かだと左霧は思った。

 

「今までの生活が、一変するかもしれないんだよ?」

「あんなの見ちゃったらもう仕方ないっていうか……確かに恐い思いはもうしたくないけど、逃げることは――――もっとしたくないから」

 

 逃げる? その言葉は、まるで左霧に向けた言葉のように思えた。もちろん雪子は、自分自身に言い聞かしているだけのはずだ。そう思うのは、そうだ。

 

 自分が、現実から目を背けているから――――。

 

「学園長、まだ雪子さんへの処遇は保留状態でしたよね?」

「ああもちろん。煮ようが焼こうが君次第だ」

 

 そういえばまだそんなのがあった……。雪子は頭を悩ませた。母はこんな時、非情である。いずれにせよ、先生の意見はまとまったようだ。さっきよりは顔色がいいし、何か吹っ切れてようにも見える。昨日、自らの命を呈して守ってくれた時のような姿、悔しいが格好良いと思えた。――――次の発言さえなければ。

 

「じゃあ、雪子さんを僕にください」

「はぁ!?」

「よかろう! 大事にしてやってくれ! 口先は悪いが、器量はいいからな。あと――処女だ!」

「ちょっとお母様!? 何言ってんのよ!」

「よろしくね! 雪子さん!」

「よろしくね! じゃない! あんた言っている意味分かってんの!?」

 

 仮にも先生になんていう態度。だが、そんなことはもうどうでもいい。雪子は何が何だか分からなかった。そして処女だった。

 

「うん! 君は今日から僕の弟子だよ? よろしくねっ!」

「……は?」

「じゃあ早速今日から勉強だね。まずは一冊魔道書を読んでもらおうかな。う~んどんなのがいいだろう? 弟子なんて初めてだから照れるなぁ~。あ、僕のことは普通に先生でいいからね? 師匠なんて恥ずかしいし、柄じゃないから」

 

 そう言いながら目の前の男はウンウン考えだした。母親は腹を抱えて笑っている。自分は大きな間違いをした。顔から火が出るほど、恥ずかしい間違えを。だが何よりも許せないのは、間違いなくこの、能天気男だ!

 

「……れが呼ぶか」

「え? 雪子さん何か言った?」

「誰が先生なんて呼ぶか! あんたなんか呼び捨てで十分よ! この! この! ポンコツ! ダメ男! ダメ男!」

「え!? 何!? どうして!? 僕、担任なのに!」

 

 自らの勘違いからきた恥ずかしさを左霧に向けた雪子は、ポカポカ、というかガンガンと左霧の胸を殴った。そして自分より『それ』が大きいことに落胆した。自分は女で、この人は男のはずなのに負けたのだ。

 そんな教師と生徒らしからぬ関係に、雪江は苦笑しつつも暖か目で見守っているのだった。

 

「行くわよ左霧! もう授業が始まるわ!」

「それ僕のセリフー!」

 

 本当に大丈夫なのか? どちらが教育されるのかわかったものではない。とりあえず、デコボコ師弟関係が、今ここに誕生した。

 それは後の大魔術師にして九九代目『魔王』雪ノ宮雪子の輝かしき誕生の、瞬間でもあった。それはまた別のお話。ここがスタート地点。そしてまだまだ続くのであった。

 



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居場所

「はい、じゃあ、これ」

「何ですかこれ? 辞書? 間に合ってます」

 雪子はいきなり渡されたキチガイなほど分厚い本にげんなりした。元々勉強は好きではない。必要な時間に必要な量をこなせば大抵それなりの点数は取れる。自主的に勉学に励んだことなど一度もなかった。それが雪子の自慢であり同時に残念な部分だと自覚している。自覚しているだけなのだが。

「違う違う魔道書だよ。なるべく読みやすくて簡単な初心者用の物を書庫からもってきたんだ」

「ちょっと! なにこれ? すっごい分厚いんですけど? 私が持っていた偽物の倍はあるわよ!?」

「そうだね!」

「そうだね! じゃないわよ! 全くいきなり家に来いっていうから何だと思ったら……」

 

 放課後、左霧は早速弟子である雪子を家に呼んだ。もちろん学園長から許可はもらってある。左霧の仕事の半分は彼女を一人前の魔術師に育てること。そして自らに降りかかる火の粉を退けられる力を手に入れること……。

 結局、魔力を持った人間は、強くなるしかない。そうしなければ殺される。至極単純で、残酷な世界だ。左霧は、雪子にそれを説明するべきなのか悩んだ。本人は、左霧に借りを返すという名目のために弟子になったのだ。まだ理解していない部分もある。魔術を学ぶことは『殺し方』を学ぶことなのだということを。

 

「魔道書の使い方……セイレイ召喚編?」

「そう。まずは自分のセイレイと契約を行うことが魔術の基本なんだ」

「セイレイ……」

 

 雪子は悪魔のことを思い出した。あんな思いをまたしなくてはならないのだろうか? だが、先生を巻き込んでしまったという事実があるので、安易に弱音を吐きたくない。しかし恐いものは、恐いのだ。

 

「雪子さん……あのね? 今からでも遅くはないんだ。君が、嫌だって言ってくれるなら、僕は」

「うっさい。やるったらやるの。召喚すればいいんでしょ? すっごいやつ、出してやるわよ!」

「雪子さん……」

 

 こうなったらやけだ。やってやる。自分の尻くらい自分で拭うくらいでなければ雪子のプライドが許さない。この左霧っていう先生を驚かせてやりたい気持ち、そして少なからず魔術という摩訶不思議な力に興味があるのだ。――怖くてもちょっとくらい我慢は出来るだろう。なぜなら自分は雪ノ宮の人間なのだから! 雪子は母親と約束した手前、簡単に引き下がるわけにはいかなかった。

 

「これ、読めばいいんでしょ? 退屈だけどやってやるわよ。期待しててね先生。絶対、あんな契約、すぐ解いてやるんだから」

「……ありがとう、雪子さん」

 自分が危機的状況にあるというのに、左霧は穏やかな笑顔を雪子に向けた。これが大人の落ち着きというものだろうか? しかし、雪子には、左霧が諦めているように見えて、不快だった。

 

「あ! お兄様! もうお帰りになったの?」

「おかえりなさいませ、左霧様……クビになったのですかって……あら?」

「やぁ、二人共、お帰り」

 

 雪子が左霧の家で話し込んでいると、二人がようやく帰宅してきた。小さな天使(左霧視点)桜子と色々と大変な自称女中、華恋だ。華恋の手には大きく膨れ上がったスーパーの袋が二つ。どうやら買い出しに行くついでに桜子を迎えに行ってくれたのだろう。

 

「何か、今不快な空気を察しました。ということで左霧様、殴らせてください」

「やだよ! でもゴメンなさい」

「なぜ謝るのですか……ところで左霧様、そちらの方は?」

 

 華恋は視線を雪子に移した。いきなり現れた和服姿の美人に雪子は恐縮しながらも、何か言わなくていけないという使命感に駆られ、立ち上がった。

 

「あ、あの、私は雪ノ宮雪子と申します。えっと、左霧……先生の受け持つクラスの、生徒です」

「雪ノ宮……はっ!! まさか!」

「まぁ!」

 

 華恋と桜子は同時に驚き、華恋は左霧のところへ滑り込むように駆け、桜子はカバンを背負ったまま雪子の方へ向かい、スカートを摘みながら丁寧にお辞儀をした。

 

「ようこそ霧島家へ……私は左霧の妹で、桜子と言います。何もないところですが、どうぞごゆっくり……」

「こ、こちらこそ……」

 小さなクリクリの目が、雪子に向けられている。満面の笑顔、黒くてしなやかな髪。なるほど、どことなく先生に似ているな、と雪子は目を丸くする。愛らしく左霧とじゃれあう姿に雪子は毒気を抜かれた。

「こらこら、桜子。何もないってことはないだろう?」

「えー? だって本当のことだもん!」

「そんなことはないよ? 例えば」

「何にもない!」

 

 意地悪そうな目つきで左霧をからかう桜子。左霧は「う」だと「え」だのと説得をしていたが、遂に屈し、涙目になりながら華恋へ相談した。

 

「華恋……桜子が反抗期だよ?」

「違います。事実です。それよりも……雪ノ宮の女を手篭めにするなんて、左霧様、グッジョブです。これで当分お金には困りませんね」

 今日も華恋の思惑は腹黒かった。いいかげん自分の印象を改めて欲しいと願う左霧だった。

「何を言っているの華恋は? 雪子さんはね、僕の弟子になったんだよ?」

「弟子……それは一体どういうことですか?」

 

 途端に華恋は鋭い視線を雪子に向ける。それは主を守らんがために前に出る騎士のような姿だ。

 

「まさか、霧島の『魔術』に手を出そうと?」

「違うよ、華恋。その手を下げなさい。命令だ」

 華恋は警戒をあらわにし、雪子に向けて手を開いた。不穏な空気を感じ雪子も華恋を睨みつける。いきなり敵意を示してきたのだから、雪子の反応は当然だ。

「ですが!」

 左霧の空気が変わった。いつもの穏やかな笑顔の下に隠された、鋭い刃。華恋はようやく自分が間違っていることに気づくのだった。

 

「下げろ、華恋。二度は言わんぞ?」

「……っ! 失礼しました。お許しください左霧様」

 そう告げると、何もなかったかのようにまた笑顔に戻る左霧。それを見ると華恋はようやく肩の力を抜くことが出来た。

「……気にしてないよ、雪子さん、紹介が遅れてごめん。こっちはお手伝いさんの華恋」

「……どうも」

 いきなりな態度をとられた雪子は少し不満らしく、その表情は固いまま。それでも最低限の礼儀ということで首だけ僅かに動かし会釈をする。何とも言えない空気が二人の前に漂う。

「華恋です。先程は失礼を……ですが、一体どういうことですか左霧様? 弟子をとろうなどと……」

「まあ、ちょっと僕も……このまま逃げてばかりじゃいけないじゃないかと……」

 

 左霧は雪子との一件を説明した。華恋は終始眉を潜めたままだった。だが、主の決断に対して自分が意見できるはずがないと判断したのか、溜息をつきながら了承した。

 

「なるほど……では左霧様のお仕事の半分は、雪子様の教育になるのですね?」

「そうなるのかな? 放課後の部活動みたいなものだけど」

「部活動って左霧……先生。まさかここに毎日私は通うことになるの?」

「そうなるけど……何か不満があるの?」

「……そう言うわけじゃないけど、いいのかしら、先生の自宅にお邪魔しちゃっても……迷惑じゃないの?」

「大丈夫です。もう迷惑ですから」

「……なんですって?」

 

先程から痛いほど視線を受けていることは分かっていたが、どうやら隣の召使は自分のことが嫌いらしい。初対面で、しかも女中ごときに文句を言われる筋合いもない。自分がお嬢様なのは外面だけで内面はご覧のとおり跳ねっ返り。当然、売られた喧嘩は買う。よって両者の前には赤い火花が散ることになった。

 

「大体なんですかあなたは? 左霧様に対してタメ口など……学生なら学生らしく振る舞いなさい」

「はぁ? 女中ごときに文句を言われる筋合いはないわ。私がその気になれば左霧なんてクビチョンパなんだから」

 そう言って雪子は冗談混じりに手刀を横にスっと振った。洒落にならない。

 左霧にとって一番聞きたくない言葉だった。だが正にその通り。彼女に逆らったり何かあった場合、自分の安い首など簡単に飛んでしまうのだ。今になって左霧は自分が爆弾を抱えていることにようやく気が付いた。

 

「なんて高飛車な子……左霧様、私は反対です。こんな子、さっさと溝にでも捨てたほうがいいです」

「左霧、こんな失礼な召使、さっさと富士の樹海にでも捨ててしまなさい。私がもっといい子を紹介してあげるわ」

「いや……とりあえず落ち着こう? ね?」

「「落ち着いているわよ!!」」

 

 どうやら取り返しのつかないことになっているようだ。そんな様子を不安に感じたのか。難しい話のため、左霧の傍で本を読んでいた桜子が中に割って入ってきたのだ。

 

「喧嘩はダメ~~~~!!」

「きゃ……!」

「ああっ! 桜子様、ご無体な……!」

「あわわわわわわわわわわわわ……」

 

 桜子は小さな体を機敏に動かし、雪子のスカートと華恋の和服を一気に捲し上げた。チラリと見てしまった二人の下着姿に左霧は大慌てで顔を両手で覆う。桜子はテカテカした顔で満足そうに頷いていた。

「喧嘩りょーせいばいだよ?」

 桜子の至極真っ当な意見に、二人は深く反省したようだ。それよりも、目の前の彼に見られたショックの方が大きかった。自分の妹ながら、やはり恐ろしい存在だ。左霧は密かに妹の成長を喜んでいた。

「あ、あ、あ、左霧に、見られちゃった……」

「はぁ……どうせならもっと派手な物を着てくればよかったです」

 

 華恋は少しずれているが、そんなことは最初からわかっていたので気にしない。

 ようやく大人しくなった二人を確認し、左霧はホッ胸をなで下ろした。これから上手くやっていけるのだろうか? いや、上手くやっていけなくてはならない。

 

「雪子様は、お茶がいいですか? 紅茶がいいですか? ああ、水でいいですね」

「紅茶、アールグレイでよろしく、召使。さっさと働きなさいよ――――アリのように」

 

 ……上手くいってほしいと切に願うのだった。

 

 

 

 

 

 夜、左霧は自室で鏡を見ている。等身大の鏡。特に何の変哲もない鏡。だが、その場では、『会話』が行われていた。会話――――つまりその場には左霧ともう一人の話し相手がいるはずだ。しかしその姿はどこにもない。にも関わらず、左霧は会話を続ける。まるで、親しい仲のように『彼ら』は話始めた。

 

「勝手なことをしてくれるなよ」

「……分かっているよ」

「いいや、お前は何も分かっていない。本来、俺たちはこんな茶番を続ける必要などどこにもない」

「でも全て任せると言ったのは君だよ? 今さら口出しなんてしないでもらいたいな」

「ああ、そうだな。だがお前が悪魔と契約をしたなら、話は別だ。何のつもりだ? 何様のつもりだ?」

「……あの時は、ああするしかなかった。雪子さん……彼女を守るには」

「雪子……? ああ、あの女か」

 

 鏡との対話。鏡の中の左霧は不満そうに腕を組みながら鼻を鳴らす。

「なぜ弟子など……」

「逃げてばかりじゃ、いられないってことだよ。左霧、君をいい加減わかっているだろう」

「ふん……弟子などとらなくても、俺は一人でも十分だがな」

「僕は違う。僕にはそんな力はない。いい機会だと思うんだ。僕は僕たちでやるしかないんだ」

「だから弟子だと? くだらない。それに何の価値がある? 大体、お前が弟子だと? ふっ、笑わせるなよ」

 

 明らかな挑発的な態度に、左霧は半眼で『彼』を睨んだ。とうの本人は涼しい顔で笑っている。何度見ても変わらない。いつも自分のことをからかい、弄ぶ。あの時、決して自分は舞台に立たないと言い張ったくせに。気まぐれにこうやって話をしにきては、自分のことを咎め、否定し、去っていく。遊び。彼にとって、この世に起こる全てことが享楽に過ぎないのだろう。

 

「何か用なの? それとも僕をからかうだけならさっさと帰って」

 

 怒っても無駄だ。自分が挑発されればされるほど、彼は楽しいのだ。思い通りになど決してならないと決意し、左霧は冷たく言い放った。

 

「そう怒るな。せっかくいい情報を持ってきたというのに」

「いい情報? 君がそういう時は大抵くだらない内容だけどね」

「既に動いているぞ。――――天王寺が」

 

 何でもないように鏡の中の自分は言い放った。退屈そうにあくびをしながら。左霧の体に冷たい汗がよぎる。まさか? なんで? どこで? どういうことだ? 頭をフル回転させて、状況を読み取る。その姿がおかしいのか、また鏡の中の自分は笑っていた。

 

「せいぜい気をつけろよ。お前が弟子の教育などというくだらない遊びをしている間に、その弟子が殺されてしまうかもしれないからな。クックック……」

「させないよ。僕が、雪子さんを、華恋を、そして桜子を……守るから」

「守ることに何の価値がある、とは言わないでおこう。どうせ俺にはわからんことだからな。お前の尖った目を見るのもいささか飽きてきた」

「君は、勝手だよ。いつも勝手だ。全部僕に押し付けて、傍観者を気取って……」

 

 口を噛み締めて、左霧は鏡を睨む。その手で、鏡を叩き割れたらどんなに爽快な気分だろう。だがそれには何の意味もない。いつの間にか握り締めていた拳をゆっくりと開く。彼が憎いわけではない。嫌いなわけではない。だが、そう、気に入らないのだ。

 

「お前は、俺だ。暇つぶしに生まれたもうひとりの俺。どうしようとお前の勝手だが……死んでもらっては困るぞ。悪魔の件は正直どうでもいいが……いささかこの世に未練があるからな」

 

 そう冗談なのか本気なのか分からないことを言い放ち、彼は去っていこうとした。だが、急に思い出したようにこちらを向き一言だけ、

 

「桜子を頼んだぞ」

 

 それだけ言って消えていった。それはどうやら彼にとって重要なことだったらしい。全てにおいて興味を示さない、彼が、唯一興味を示した対象。ただそれだけなのだ。それだけの理由。

 

「わかっているよ、左霧」

 

 所詮自分は彼のおもちゃ。分かっていたのに、それを言葉にするのは、ひどく惨めに思え、自分を哀れむ自分自身が嫌いになる。自分に感情を与えた彼を呪いたくなることすらある。

 それでも左霧は笑顔でいる。自分の場所を手に入れたから。他でもない自分の力で作ることが出来たから。例えそれにどんな思惑があろうとも、関係なかった。

 

「……出来るだろうか。僕に」

 

 失いたくはない。この心が自分の物ではなかったとしても、左霧は戦う。世間と社会と、『闇』と。

 だって、だって、そう――――

 

 ワタシハソノタメニツクラレタ

 



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私は何者?

事件から数日、学園では学園長の手によって事件の真相は闇の中へと消えた。当事者である雪子はもちろん、左霧が関わっていることも秘匿。以後、そのことは口にするなと先生方にもお達しがあった。それでも砂上などの一部の者からは事情の説明を要求する声が出たが、「黙れ」の一言で終了。権力の恐ろしさ改めて知る左霧だった。

 

「それじゃあ……本っ当に、何もなかったんですか?」

「はい」

「ほんっとうに!! ほんっとうに!! あのボロボロの教会が更に凄いことになっちゃった事件とは、左霧君は関係ないのよね」

「は、い」

「どうして苦しそうなの?」

「心、胸が痛くて」

「ふ~~~~ん」

 

 砂上と左霧は二人並んで教室へ向かう。砂上の疑惑の眼差しが左霧の顔近くへ接近してくるため、女性特有の甘い香りと、ほのかに香る香水の匂いを存分に浴びた。ドキドキと高鳴る心――――嘘をついていることに対する焦燥感をここ毎日左霧は耐えている。どうにもこうにも、砂上は左霧の口を割りたいようだ。学園長から聞けないのであれば、当日居残っていた左霧に問いただすのは必然。そこまでは学園長のフォローは届かない。自らの娘さえ守れれば、あとはどうでもいいらしい。世間の冷たさと、目の前の捜査官の尋問に必死で耐え忍ぶ左霧であった。

 

「あ、そろそろ教室ですね!」

「そうね、教室ね。だけど行かせないわ」

 

 安堵の息を吐き、自らの愛すべき生徒たちと待つ教室へと足早に向かおうとした左霧は、残念ながら目の前にシフトしてきた砂上によって防がれてしまった。

 

「あの、ホームルーム、始まっちゃいますよ?」

「そうね。けど昨日もここで逃げられちゃったから。左霧君、あれから私になるべく合わないように時間を上手くずらしてたでしょ? 昼休みなんて、私が教務室に入った途端資料室に潜り込んじゃって」

「う……」

 

 砂上の追随は厳しい。当事者を左霧と断定し、毎日のように質問を繰り返してくるのだ。一般人にはとても話せるような内容ではないし、話したとしても信じてもらえるような話ではない。正直、左霧はお手上げ状態だ。

 

 

「先生? 何をやっているんですか? 早くホームルーム、始めてください」

 

 そこへいいタイミングで雪子が教室から顔を覗かせた。事件からまだあまり経っていないにも関わらず、その表情はいつもどおりだ。普通の人なら今でもパニック状態にあってもおかしくない。

 

「……ええ、そうね。雪ノ宮さん、あなたも早く席につきなさい」

「……はい、分かりました」

 

 砂上と共に席に戻った雪子。一瞬だけ左霧の方を半眼で睨んでいた。学校では品行方正でお淑やかという羽衣を身にまとっていることは、この数日で大体分かった。権威の下に生まれた人間の苦労は左霧にもわかる。心の中でありがとうと口にして左霧も教室へと入っていくのだった。

 

「バッカじゃないの? 先生一人くらいにおどおどしちゃって!」

「でも、一応先輩だから……」

「そんなこと言ってたらいつまで経っても怪しまれるだけじゃない。全く、世話のやける……」

 

 キツい。とにかくキツい。雪子は左霧の前では本性を表すのだ。なぜそうなってしまったのかは本人にしか分からない。あの日、悪魔に襲われた時は、あんなに自分に抱きついて震えていたのに……。女性という生き物は左霧にとっては未知の生物に見える時がある。

 

「何? その目は?」

「い、いや別に……それよりも、どう調子は?」

「ふん……まぁ、一応一通り目は通したけど……魔道書って一々言い回しが面倒でよく意味が分からなかったわ」

 

 雪子はカバンに入れてあった左霧おすすめの魔道書を乱暴にめくった。ただでさえ教科書から体操着やらで重たい荷物を毎朝学校まで持ってきているにも関わらず、広辞苑も顔負けのヘンテコな本を持ち歩いているのだ。か弱い女子学生にはあまりの仕打ち。周りからは変な目で見られる。雪子は今日も最高に苛立っていた。

 

「でも……読めたんだよね?」

「そりゃそうよ。読めなきゃ本じゃないでしょ?」

「うん。その本は『魔力』がない人には読めないんだよ」

「え……?」

 魔力、という言葉に雪子は素早く反応した。つまり、自分には多少なりとも魔力があるということだ。嬉しいような迷惑なような少し複雑な感情が入り混じる。左霧や母のような、普通の人とは違う者たち。

 ――――魔術師。私は、魔術師なのだ。

 

「そんなに固くならないで? 雪子さん。君に教えてあげる魔術は、自分の身を守るための力だ」

「守るため?」

「そうだよ。僕が教えてあげる魔術は『光』だ。魔術の中で最も守備に特化した力なんだ。比較的安全な術だから安心して」

「でも、あの悪魔から逃げた時の術も使うのでしょう?」

 

 雪子はあの日のことをしっかり頭に刻んでいた。確かに左霧は悪魔を光の術とやらで牽制していた。それも無数の弾丸を浴びせるような、かなりえげつない方法で。

 左霧は清々しいほど笑顔だった。まるでそんなことは当たり前のように。

 

「身を守るってことはね、雪子さん。攻撃しないってことじゃないんだ。光の魔術は守りに特化した力、だけどもちろん攻撃の術も存在する」

 

「……あなたは何が言いたいの? 先生?」

 

 もどかしそうに雪子は問いただした。左霧は言いにくそうに口を閉ざしていたが、やがて雪子の方を真剣に見つめ、言葉にした。

 

「君に――――人を傷つけることが出来るのかい?」

「――――!」

 

 今更ながらに、雪子は左霧の言葉に衝撃を覚えた。母に流されるまま、魔術を教えてもらうことになったが、果たして自分は覚悟があるのだろうか?

 今まで平凡に――――平凡ではない、金があり権力があり、あらゆる贅を尽くしてきた箱入り娘が(自分ではそう思っているらしい)これから未知の世界へと足を踏み入れるのだ。その道筋には、おそらく想像もできない恐怖が待っているかもしれない。普通に過ごしていれば、絶対に体験することのない恐怖。

 ――――あの悪魔の襲われた時のように。

 だけど、だけれども。

 

「私は、どっちみち危険なんでしょう? お母様から聞いたわ。私の魔力量は年々増え続けているのよね」

「うん……君の『体』は魔力を欲している。今回の事件も決して雪子さんだけの責任じゃない」

 

 雪子はあの日、母から様々なことを聞いた。自分の体は、無意識に魔力を求めていること。魔術師は互いに争い、自らの強さを求めること。そのためならあらゆる犠牲もいとわない、悪辣な魔術師も存在すること……。

 

「先生、私、魔王にならなくちゃいけないの?」

 

 魔王とは――――

 決してファンタジーの世界に存在する、悪の帝王ではない。

 魔術師の頂点に君臨者。そこに行き届いた者は、一年に一つだけ神に願いを叶えてもらえる。どんな願いでもいい。死んだ人を生き返られることも、大金持になることも可能なのだ。

 なぜ、魔術師たちが魔術師と争うのか、それは魔王になるためなのだ。魔王は実力主義で、一年の終わりまでにその魔王を倒し、自らを魔王と名乗り上げれば、その年から倒した者が魔王になる。魔王になれば願いを叶えてもらえる。

 何とも、怪しいシステムだ、と最初雪子は思った。それもそうだ。人が苦労して築き上げた権力も財力も、魔王になれば何なく手に入れられる。雪ノ宮が雪江を欲したのもそのためなのだ。最も、雪江はそんなものに興味はない。神という存在が大嫌いなのだとか。何とも母らしいと雪子は苦笑した。

 

「君に、叶えたい願いがあるのなら」

 

 左霧は端的にそう言った。まるで自分には願いなどない、とでも言いたいかのように。

 雪子を弟子にしたということは、自分は魔王になるつもりがないということになる。魔王になりたい者なら、むやみに魔術師を増やしたりなどしない。あくまで彼は雪子を危険から守るために術を教えてくれるつもりらしい。

 

「願いねぇ……私、お金持ちだから特に欲しいものはないけど」

 けど、一つだけ、あるのだ。自らが犯した責務は、自らで拭わなくてはならない。雪ノ宮雪子、最大の過ち。本当に魔王になれば、叶えられるのならば自分は彼に果たさなくならないことがある。

 

「そうね、悪魔の契約とやらを解いてもらいましょうか」

「え……?」

「だってあんたは魔王にならないんでしょう? だったら私が魔王になってあんたの契約を解いてやるわ。まぁ私の方にも多少なりとも責任がなくもないわけだし? やってやるわよ、ええ」

 

 長い黒髪をバサリと翻し、鋭利な目を真っ直ぐに左霧に向けた。その姿に、不覚にも左霧は見惚れてしまった。

 

「ふふん。嬉しいでしょ、先生?」

「――――僕のことは、気にしないで。君は、あくまで君だけの為に力を使うべきだ」

「――――は?」

 

 だけど、左霧は拒絶した。自分の為に、そんな危険なことを犯す必要はない。まるで、自分のことなどどうでもいいような、そんな風に捉えてしまうのは雪子の気のせいだろうか。

 自分の好意を無下にされたことよりも、年老いた老人のように達観した左霧の目が雪子は気に入らない。気に入らないったら気に入らないのだ。目玉が飛び出すくらいビックリさせてやりたい。優しそうな目で見ないでほしい。あなたは命が惜しくはないの? 雪子の疑問は膨らむばかりだ。

 悪魔と契約した人間はその生涯を全うした後、魂を狩られ悪魔界へと誘われる。雪子は悪魔界という言葉を聞いただけで震え上がりそうになる。あんな怪物がたくさんいる場所で自分の魂が過ごさなくてはならないなんて、絶対にごめん被る。だが、この先生と来たら、

 

「きっと、そんなに悪い所じゃないと思うよ、うん」

「悪い場所に決まってるでしょ! 私たちあの乱暴な悪魔に襲われたのよ! 死にかけたのよ!?」

「ん~……でも、律儀に契約なんて面倒なことしてくれたでしょ? その気になれば、殺すことだって出来たはずなのに」

「! それはっ! 確かに……」

 

 ヴェルフェゴール、とか言ったか。あの赤髪の悪魔は雪子たちを弄ぶだけ弄んだあと、気が変わったように左霧と契約を取り付けたのだ。本来、人間が悪魔に勝つことなど不可能だ。にも関わらず、悪魔という生き物は基本的に契約を律儀に守るのだ。そのあたりは、人間よりも正直なのかもしれない。

 

「きっと管理が行き届いているんだね。むやみに人の命を刈り取らないようにって」

「そんなの……当たり前よ。あんなのがたくさん現れたらたまったもんじゃないわ」

「そうだね。できればもう会いたくはないね……さて」

 

 左霧は時計を確認し、立ち上がった。それは雪子にとって、胸の高鳴るお勉強の時間。昼間の授業などよりも刺激的で、興味深い。左霧という先生が、ようやく先生らしくなってくれる唯一の時間。

 

「魔術の勉強を始めよう、雪子さん」

「はい、先生」

 

 その時だけは、雪子も素直に従うことが出来るのであった。だが、決して左霧の言う通りになどしない。この精神年齢が八〇くらいのおじいさん先生をある意味で生き返らえたい。その為には自分のような若くて美人な娘が必要なのだ。雪子は勝手にそう解釈しながら生き生きとした表情で放課後の特別授業に勤しむのだった。

 



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いつかきっと

お兄様ってば、ずるい!」

 

 霧島家の今日の食卓。切干大根の煮物、里芋の味噌汁、たけのこご飯に焼き魚とくれば立派な和食の出来上がりだ。和食というのはシンプルであるが、だからこそ味付けが難しい。砂糖、みりん、醤油、塩、みそ、酒が基本的な調味料になるが、料理の本に書かれてある通りに入れてみても味が薄かったり逆に濃くなったりする。日本食は比較的薄味がベターであるが、そこから本人たちに合った旨みを見つけるには年月が必要だ。無論、霧島家の食卓を預かっているスーパー女中であるところの華恋さんはそこのところ抜かりはない。

 主である左霧は何でも美味しい、美味しい、と食べるのだが、それが奥さん――――奥さんではないが世の中の女性にとって一番困ることに気づいていない。だが、仕事で精根疲れ果てている哀れな男に対して、そんな些細なことで文句を言っては女が廃るというものだ。左霧のありきたりな反応を盗み見て、その微妙な違いを感じる。これを繰り返して今日という食卓が出来上がったのだ。なんと涙ぐましい努力だろうか。苦節十数年、今では立派な囲い女――――もとい、愛人としての地位を確立できたことを誇りに思う華恋であった。

 

「ん! 美味しいこのたけのこご飯! 美味しいよ華恋!」

「そうでしょう、そうでしょうとも。さぁたぁんと召し上がれ、豚のように食い散らかして下さいませ」

 

 ちなみに今回は八〇点と言うところだろうか。今度はもう少し出汁の時間を長くして見ようと思案する華恋。もはやプロの領域に達していると言ってもいい。

 

「お に い さ ま ず る い !」

「ああ、桜子! いくら君が愛しいからと言ってご飯粒を僕の顔にかけるのはいただけないな」

「桜様、はしたのうございます。はい、チーズ」

 

 今日も元気に夕餉をいただく三人。桜子は相変わらず行儀が悪い意味で神がかっている。そろそろ躾なくては後々恥をかくのは桜子自身だということが分からない大人二人。男は桜子の米粒を綺麗に取り、一人はどこから出したのか、デジタルカメラでパパラッチ状態。恥ずかしげもなくポーズを決めるピカピカの一年生。おもしろきは良きことではあるが、決して関わりあいになりたくない団らん。

 

「それで、さっきから桜子は一体何に怒っているんだい?」

 桜子はその問いに頬を膨らませて訴えている。聞かなくても分かるでしょ? お兄様は私の事は何でも知っているんだから! さぁ私の言いたいことを当ててちょうだい!――――もちろん全て左霧の脳内妄想である。

 

「左霧様、桜子様は夕方から左霧様が付きっきりで雪子様に魔術をお教えしていることに拗ねてらっしゃるのです。そうですよね桜子様?」

「う~~~~! そうだけど! どうして言っちゃうの華恋!」

「そ、そんな、私はただ、桜子様のためにと思って」

「嫌い!」

「左霧様、今までありがとうございました。私は長い旅に出ようと思います」

「庭だね? 庭に行くんだよね? その木は桜子が生まれた時に植えた大切な桜なんだから変なことしないで」

 

 旅に出ると言いつつ庭の木に縄をくくりつける華恋に、冷静にツッコミを入れる左霧。「二人共冷たいです……」といじけたように嘘泣きを始めた華恋。こうなるとかなりメンドくさいので先に桜子の対処に移る。

 

「ごめんね桜子。淋しい思いをさせちゃって」

「む~……」

 

 学校生活に支障があるのではないかと一瞬不安に思ったが、華恋の話だと放課後の様子を見た限りでは友達もでき、楽しそうにしているとのことだった。ということは単純に兄を取られて拗ねているのだろうか? そう思うと何とも可愛らしいものだ。こんなに元気で、美しく聡明な妹に、自分を思ってもらえるなんて……自分は果報者だ。頭の中は鳩ポッポ。兄バカもここに極まれり。

 

「よし、今度の休日はどこかに遊びに行こう!」

「……ぷん!」

「よし、休日は遊園地に行こう!」

「……ぷん!」

「よし、休日は隣町に行こう! 大きなショッピングモールが出来たらしいよ? 桜子の好きなもの何でも買ってあげる! ああでもお給料前だからあんまりお金のかかるものは……」

「じー……」

「ナンデモカッテアゲルヨ!」

 

 もはや涙目。今月はジリ貧で頑張るしかない。世の中の兄というものはここまで妹に甘いのか? だが、可愛いから仕方がない。可愛いは正義。

 

 それでも不満なのか。もごもごと華恋の下に寄り何やらひそひそ話に勤しむ桜子。それが終わるとコホンと華恋は咳をして、普段とは異なる声色で、

 

「おに~さまぁ~わたくしも魔法が使えるようになりたい! さくらこの一生のおねがい! ねぇいいでしょう~おに~さまぁ~」

「……それは、桜子の真似なの?」

 

 涼やかな声と共に左霧は否定と嫌悪を顕にしたため、何事もなかったかのように華恋は普段通りの声で再び説明した。クネクネと慣れもしない動きもあり芸も細かいが、残念ながらウケが良くなかった。妹のことになると途端に厳しくなる兄は結構うざいことが分かった。

 

「恐れながら桜子様……桜様には魔術は使えません」

「えー!? どーしてー!?」

「桜子様には、マナが存在しないからです」

「まなってなぁに?」

 

 実はこの会話はもう数え切れないほどしている。そのたび、駄々をこねる桜子を宥めすかせるのが華恋の役目になっている。質問内容も同じである。要は忘れているのだ。

 

「マナ、とは魔術師が生まれ持っている魔力貯蔵量のことです。エーテルと言われる物質を体内で吸収し、『魔術回路』へと吸収され……」

「わかんない!」

「つまり、桜子様では不可能なのです」

「がーん! そんなこと、認めたくない! 諦めなければきっとなんとかなるよ!」

「体育会系は結構ですが、不可能なのです」

「だって、おにー様はどうして使えるの!? ずるい! ずるいわ!」

 

 こうなると止まらない。兄が出来て自分が出来ないわけがない。幼いながらも傍にいる兄に対して劣等感に苛まれることがあるのだろうか? それともただ単純に不思議な力に憧れを抱いているのだろうか? はたまたこの家の血筋が成せる『力』を求める故になのか……兄の一番近くで、その力の一端を一番間近で見てきた少女の目には、一体どんな感情が渦巻いているのだろう? 忘却しているとはいえ、こう何回も同じ説明をさせるということは、よほど執着があることは間違いない。

 華恋が困ったような笑みを浮かべた。ここは自分の番だろうと、スカートの裾をキツく握り締め、ぶすくれた顔を俯かせる妹の下に、左霧はしゃがみこむ。そして絹のようになめらかな髪をゆっくりと撫で上げた。

 

「おにーさま……」

「桜子。桜子はどうして魔術が使いたいの?」

「おにーさまのお役に立ちたいからです! それに強くなりたいからです! 霧島の女は誰よりも気高く強い女子になりなさいと、霧音様がおっしゃっておりましたわ!」

 

 突然、その名前が出たことに驚いた。桜子が生まれてからあの家に行った覚えもない。ましてやあの人にあった覚えもない。一体桜子とどのような接点があったのだろう? 自分の知らないところで知らない会話が繰り広げられていたことに不安を覚えた。

 

「霧音様に? 華恋?」

 

 咄嗟に華恋の方へ顔を向けたが、苦い顔で首を横に振った。華恋すら把握してない。

 

「あのね、昨日ね、霧音様からお電話がありましたの。私が受話器を取ったの。そしたら霧音様というお名前の人でしたわ。『霧』の名前は私たちのどうほーなのですよね? その人がおっしゃったの。桜子、強くおなりなさいって」

 

 知らなかった。昨日は夕方遅くまで雪子と話し込み、集中していたため、電話の音に気がつかなかったのだ。迂闊だった。自分が気をつけていれば、あの人に接触させることはなかったのに。

 

 ――――本当に? そんなわけがない。華恋だっていたはずだ。戦慄が左霧の体に降りかかる。おそらくこうだ。『自分たちに聞こえない波長あるいは桜子に特定した波長の音を出す』術を使ったのだ。間接的に、容易く簡単に!

 おそろしい人だ。それは分かっていた。自分がどんな小細工を要いても、あの人が本気になれば自分はいつもな無力な子供なのだ。そんなことは分かっていた。分かっていたのだ。そう言い聞かせ、左霧は自らを落ち着かせた。

 

「とてもお優しそうな方でしたわ! おにーさま、あの方はどなたなの?」

「桜子……その人は、僕たちの――――」

 

 そこまで言い、左霧は躊躇した。その言い方ではあらぬ誤解を招いてしまいかねないからだ。

 

「その人は、霧島家で一番偉い人だよ」

「まぁ! わたくしってばそんな方とお話したのね! わたくしが挨拶したら笑ってらしたわ! どこかおかしなところはなかったかしら! 恥ずかしいわ!」

 

 凄いわ凄いわと騒ぐ桜子の姿を不安な表情で見つめる左霧。優しい? 笑っていた? 到底想像できない言葉が、左霧のその人の人物像を否定した。だって、自分はその人の笑った顔をも優しそうな声も聞いたことがないからだ。脳裏に掠めるのは、冷徹な瞳。淡々とした仕草。辛辣な言葉。

 あの人はきっと人じゃない、怪物だ。自分という自我が確立された時から、左霧はそう感じていた。

 それもそうだ、だってあの人は彼の――――いやそんなことはどうでもいい。それよりも桜子に接触を図ったことだ。それはつまり――――

 早すぎる。まだ小学生だ。この歳で、束縛されるのというのか? しきたりに。運命に。宿命に!!

 

「おにーさま? ……ゴメンなさい。わたくし……」

「……え?」

「左霧様、落ち着いてください。酷い顔です。せっかくの男前、が台無しですよ」

 

 華恋は『意地の悪い』冗談を言いからかったが、内心は彼女も穏やかではない。主人の命令は絶対だ。そして左霧も主人には絶対服従だ。そう当主、霧音様には絶対に逆らうことなど出来ないのだ。

 決断の時は、もう間近に迫っていた。否。迫っている。

 左霧の痛々しい表情に落ち込む桜子の頭に再び手を置いた。柔らかい肌。暖かい体温。艶やかな黒い髪。何もかもが『彼女』にそっくりだ。

 その頭部にある、呪われた宿命さえ、なければ。呪ったのは左霧。祝福を与えたのは彼女。何もかも、自分の血筋のせい……。

 

「華恋、頼みが、ある」

「はい、左霧様」

「君の仕事をしてくれ」

「私の仕事は、霧島家の家事全般でございます」

「本当の仕事は?」

 背を向けたまま、左霧は震えていた。その体を温めることが出来たなら、そう華恋は思った。だが、自分にその資格はない。自分はそれをしてはいけない。本来、自分は彼と過ごすことすら、罪にあたるのだ。

 華恋は胸の前に手を当て、その存在理由とも言える自分の生まれた意味を言葉にした。全てを受け入れた青年と、何も知らない純粋無垢な少女が並ぶ縁側に立って。

 

「私は、鬼を滅する者。桜子様を守る刀」

「……よろしくお願いします」

「左霧様……」

 

 振り返った主は穏やかな笑みを浮かべていた。なぜそんな笑顔を浮かべることが出来るのか。華恋には理解出来なかった。あまりにも理不尽過ぎる運命に、抗いもせず、彼はただ笑った。

 

「桜子、魔術は教えることは出来ないけど、霧音様が言っていた力は君に、君にしか使えない力は教えてあげられるよ」

「本当おにいさま!?」

「うん、僕じゃなくて華恋が、だけどね」

「え……」

 

 そこでションボリとまた顔を歪ませた妹。どうやら兄が教鞭を振るってくれると思っていたらしい。残念ながら自分にはそっち方面の技術はからっきしである。その代わりそっち方面に長けた華恋が先生となり師匠となり……桜子の姉であり母であり妹でもある彼女が、少女の運命の道連れとなる。

 

「こらこら……そんな顔をしちゃ、また華恋が首を吊っちゃうよ?」

「大丈夫です左霧様。私はそこまで精神的に弱い女ではございません。ちょっと抗鬱剤を多めに飲んでしまうくらいです」

「十分危ないんだけど……」

 

 メンヘラな女ほど危ないことはない。たまには華恋の話し相手になってあげようと決意した左霧だった。

 少し不満そうだったが、自分が強くなりたいという思いは本当だ。若干六歳の小さな少女は、その血筋からなのか力が欲しいという言葉に二言はない。

 

「華恋、よろしくね!」

「はい桜子様。ただ、この華恋、稽古となると少々……鬼とならせていただきますが」

「か、華恋? 怖いよ……?」

 

 華恋の後ろから般若の影が映った。妖しい笑みを浮かべる女中にたじろぐ桜子。その背中をポンポンと叩いて左霧は励ました。

 

「よろしくお願いします!」

「その心意気や結構。この華恋、粉骨砕身で桜子様の稽古を努めさせていただきます」

 

 ここに新たな師弟関係が誕生した。その見目麗しい立会いを、左霧は嬉しいような悲しいような思いで眺める。

 

「いっぱいお稽古して、わたくしもおにーさまを守ってあげる! だって大好きだもの!」

 

 泣きそうになった。泣いていないだろうか? 華恋に無言で問いかけた。彼女は無言で首を横に振った。顔を手で隠しながら。

 

「い、いつか」

「ん? なぁにおにーさま? よく聞こえないわ?」

「いつかきっと」

「おにーさまよく聞こえないったら!」

 

 もごもごと口を動かそうとするが震えて思うように言葉に出来ない。そんな兄に首を傾げながら興味を失ったのか華恋の方へと向かっていった。

 

「華恋ったらどうしたの? お腹でも痛いの? 痛いの痛いの飛んでいけー!」

「うっ……ううっ……ズビズビ……チーン あでぃがだぎじあばぜにございばずる!」

 

 しゃがみこんでしまった女中を摩りながら心配そうに眉を潜める妹。元気で優しく育った。自慢の妹。

 

「いつかきっと君が――――僕を殺してね」

 

 その言葉は、誰に聞こえるでもなく風に乗って消えた。暖かい気温と穏やかな昼過ぎ。季節は春。桜は散り、若葉の茂る新緑の季節へと移り変わろうとしていた。

 



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誓い

 セイレイとは高等種族である。セイレイカイに住むありとあらゆる形をした有機生命体。人類が生まれるはるか昔から存在する魔を操る種族。人は、セイレイの干渉なくしては生きていくことは出来ない。人間界に在住するセイレイもいて、日常的に人と協力し合いながら生きている。こういったセイレイは人間好きで――――正しくは人間から発生する活力、エネルギーを摂取して生きている。その代わり、セイレイは人の目に見えない力で何かと人の助力になることをしている。一概にはここで説明することは出来ないが、セイレイを見ることが出来る者、魔力を体内に持つ者たち――――魔術師は、その意味を知っている。

 

「セイレイ……ね。私は未だ見ることは出来ないけど、ちゃんと見ることが出来るのかしら?」

 

 雪子は自室のベットに寝転がりながら独りごちた。お風呂に入り、濡れた髪を痛めないように丁寧にタオルで乾かし、仕上げにドライヤーでブロー。明日の準備も終わり、あとは寝るだけなのだが。

 ――――時刻は夜の九時。こんな時間に寝る高校生などいるはずがない。昔の侍は夜八時に寝て、朝の三時に起きたらしい。だが、雪子はこう思う。きっと照明器具が充実していたらなら侍だって夜ふかしくらいするだろう。そんなことはどうでもいいが、雪子は夜が好きだ。まだまだ寝るなど有り得ない。自室の大きすぎるベットの上に埋もれながら何をしようか考えた。が、考えるまでもなかった。

 

「勉強、しなきゃね……」

 

 雪子は自宅で勉強したことなどない。お利口さんであると自分で豪語するくらい、雪子の学校での点数は高い。皆がなぜあれだけ勉強にあくせくするのか、昔から理解が出来なかった。

 そう、理解が出来なかった。だから、自分は周りから一歩離れた場所から物事を見るしかなかった。

 雪子ちゃんは頭がいいね。雪子さんはお利口さんね。雪子さんには敵わない。雪子さんは『私たち』とは違う。

 そして『私たち』と違った雪子は神聖化された。教師にも崇め奉られた。雪子! 雪子さん! 雪子様―!!

 

「バカタレ! アホー! ウンコマンーーーー!!」

「これ、雪子や。汚い言葉を使うでない。全く誰に似たんだか……」

 

 母だけは自分のことを見てくれた。血の繋がりのない私を引き取り、令嬢として育ててくれた母だけは。自分が、一人の人間だと認めてくれた。雪子がグレて、夜の帳の中に盗んだバイクで走り出さなかったのは全て雪江という理解者がいたおかげなのだ。

 小さな養母の胸にうずくまり、ありったけの暴言を吐いた。そこだけが自分の本音を言える場所。体は小さいはずなのに、その懐は広大な宇宙のような広さだった。嗜好品のパイプを吸いながら、小さな手でめごや、めごや(可愛い子)と撫でてくれた。

 

「あいつら皆何なんじゃ……私を何だと思ってるんじゃ!」

「ふむ……雪子はちょっと頭がいいだけなのにな。本当は甘えん坊のバカタレなのにな」

「バカタレじゃないもん!」

「クックック、そうだな雪子は普通の女の子だな」

「うん……そうだよ。私は普通の子。なのに……」

 

 その日、小学校で学力テストがあった。全国の学校で同時に行われ、勝手に名前が載る忌まわしいテストだ。そのテストで雪子は満点を叩き出した。しかもその日は少女漫画を貫徹して読破した後だった。にも関わらず開始から二〇分で全ての枠を埋め、おにぎり鉛筆を握り締めながら死んだように眠ったのだ。教師はその姿を熟考しているのだと判断。貫徹していることがバレ、雪江にお尻を叩かれたのはかなりのトラウマだ。

 

「お尻痛い……バカタレババァ(ボソッ)」

「やれやれ。飛んだ跳ねっ返り娘だな。まだ叩かれ足りないと見えた」

「そ、そんなことないもん! とにかく学校なんて嫌! もう行くたくない!」

 

 教師やクラスメイト目が突然変わった。常々から崇拝の念を抱かれていたことはあったのだが、ここ最近は何か恐ろしいものでも見るかのような、そう怪物でも見るような瞳をする者さえいる。子供だったこともあり、そのあたりの感情のコントロールが難しかった。自分はただ、普通に考え、普通に解答を埋めただけ、正しいことをしただけなのだ。

 

「学校は、楽しくない、か?」

「それは……」

 

 楽しくない、などと言えるわけがなかった。母が作り、母が管理し、母が治めるこの学園を、その娘が否定することなど、出来るわけがなかった。困ったような笑みを浮かべる雪江をこれ以上困らせることなど出来るわけがない。だって大好きだから。

 

「あの学園はな、雪子。いずれこの国の中枢に飲み込まれる運命を背負った子供が、最後に逃げ込むことの出来る場所。いわば楽園だ」

「楽園? 学園が?」

 

 楽園という言葉に、幼い雪子が連想したのは、楽しい場所。素敵な場所。笑顔の溢れる場所。残念ながら、雪子にはひとつも該当するものがなかった。

 

「そうだ。いずれ彼女たちは学園を卒業し、結婚する。お前にはまだ分からないかもしれないが、それは拒否することは出来ない」

「結婚? 結婚って好きな人が好き合ってするものではないの?」

「クスッ……そうだな、その通りだ。だが、そうならない場合もある。特に、高貴な者、優秀な遺伝子とやらを持つ人間は、な」

「よく分からない」

「そうだとも、雪子は普通のおこちゃまだからな」

「む……」

 雪江はさもおかしげに笑った。母は結婚をしていない。それは母の強さの現れだった。男が強い権力を持つ時代であっても、引かぬ、媚びぬ、省みぬ、は雪ノ宮家の当主たる雪江の合言葉のようだ。そんな母を、雪子は誰よりも尊敬している。

 

「雪子。お前は私の娘だ。どんな輝かしい栄光よりも、溢れんばかりの財宝よりも、たった一つの大切な命。私はお前を愛している」

「お母様……」

「だから、お前は何も心配しなくていい。言いたいやつには言わせておけばいい。どんなに愚かでも、賢くても、醜くても、美しくても、お前は私の娘だ」

 

 そっと小さな両手で抱きしめられた。母の温もりに、優しさに、大きさなど関係ない。血の繋がりない自分を、どうしてここまで愛してくれるのか。我侭な自分をどうして慰めてくれるのか。それは、雪江にしか分からない。だが、その思いは、確実に雪子の胸の奥まで行き届いていた。

 

「わかった。私、強くなる!」

「雪子……」

「強くなって、お母様みたいに男も従わせてやるわ! そして皆、私にひれ伏すの! ああ、なんて素敵な夢なのかしら!」

「ん? んん? ……まぁいいか。元気なら」

「オホホホホホホホホオホホホホホホホ!」

「クックックックックックック!」

「オホホホホホホホホホホホホホ! げほっげほ!」

「クックックックックックックッ! おぇ!」

 

 雪子はベッドで高笑いし、雪江はそんな我が子を褒め称えた。結果的に雪子はとても強くなった。精神的にも肉体的にも頑丈になった。この国に飲み込まれないこと。それが自分の宿命なのだと、言い聞かせながら。

 

「だってのに、だってのに!」

 

 魔道書を放り出し、深くベッドに沈み込んだ。何をそんなに苛立っているのか、それは明白だ。ひとえに、自分のせい。

 

「全く、召喚出来ない……」

 

 約、一ヶ月。雪子は霧島左霧の家に通い詰めた。昼間の気だるい授業を我慢し、疲れの残る放課後の秘密授業へと、毎日休まずに。であるのに、未だ、雪子は魔術師としてのスタート地点にすら立てないでいるのだ。

 

「大丈夫だよ雪子さん。焦らないで!」

 

 そう言っていたあの優男も、日にちが経つにつれ、遂に、

 

「才能、ないねっ!」

 

 と笑顔で突き放した。信じられない。私が? 才能がない? あらゆる技能で、溢れんばかりの神童ぶりを披露してきた私が? 目の前が真っ暗になった。

 雪ノ宮雪子は、魔術の才能がない。ないったらない。これっぽっちもない。

 ちなみに初回で悪魔を召喚出来たのは、あの『悪魔の書』のおかげで、あれ単体があればどんな人間でも簡単に悪魔を召喚出来るのだ。場所さえ選べれば。つまり雪子の才能は全く関係ない。

 

「ふふふふふふふふふふ……嘘よ、私が、嘘よ……」

 

 別に手を抜いていたわけでない。成り行きとはいえ、自分に魔術の才能が多少なりともあると言われたときは、嬉しかった。危険だと言われても興奮した。今回もぱぱっと天才ぶりを発揮してさっさと魔王になって、あの男の契約を解消してやるんだ。そう思っていた。

 

「努力、しろというの? この、私が?」

「うん。それも死ぬほど苦しくなるかもしれない」

 

 死ぬなどとは大げさな。自分を追い込むような言葉を使い、鍛えるつもりだろう。なかなか師匠らしいではないか。そう思っていた時期も雪子にはあった。ところがどっこい、この男にそんな芸当が出来るわけがないのだ。

「例えば?」

「毎日走り込み二十km。腕立て千回。腹筋五千回。滝行三時間」

「た」

「た?」

「滝行は、無理じゃない?」

「出来るよ。水を魔術で強化して、擬似的な滝行なら」

 この男が何を言っているのか分からない。分かりたくもない。あえて言うなら、二つの膨らんだ果実を揉みしだいてやりたい。

「た」

「た?」

「体育会系か!!!」

 

 そんなしょうもないツッコミしか雪子は言葉に出来なかった。あの男曰く、圧倒的に才能がなく、それを補うには『基礎体力』を強化するしかない。基礎体力、とはつまりスタミナ。どんなに優れた魔術師でも、スタミナがなくなれば、ただの人間。つまるところ、魔術師も人の子だということだ。

 

「はぁ、こんなはずじゃなかったのに……」

 

 雪子は華麗なる魔術師デビューを確信していた。そうなれるほどの自身が胸の内にあった。人の頂点に立つために自分は生まれてきたのだ。そうに違いない、絶対!! だというのに。

 

「大丈夫だよ雪子さん。君が立派な魔術師になるまで、僕が徹底的にサポートしてあげるから」

「はぁ、ありがとうございます。お手柔らかに」

「うん、明日から死ぬほどキツくなるけど、よろしくね!」

「はぁ、お手柔らかに」

「よろしくねっ!」

「お手柔らかに!!」

 

 ニッコリと満面の笑みを浮かべる師匠。その笑みは凶悪に見えたのは雪子だけではなかったはずだ。そう、明日から、自分には過酷な修行が待っているのだ。

 逃げたい。激しく逃げたい。どうして自分はこんなことで悩んでいるのか? だって魔術の勉強なんて、本を読んで呪文を唱えて炎がボッと燃えてわぁすごい! ってなるものだと思っていたのだ。今更ながら自分の頭の中がお花畑だったことに気が付いた。馬鹿雪子! しっかりなさいよ!

 

「魔術師って、皆こんなに頭がいいの? 信じられない……」

 

 魔道書はちんぷんかんぷん。男曰く、今はそんなに気にしなくていい。ざっと目を通して基本的な内容を理解できれば、だと。基本的な内容? どこにそんなことが書いてあるっていうのよ? クソ重い上に、びっしりと書かれた魔法文字。言葉は理解できるが、内容は理解できない。開始十分で雪子は焼却炉にぶち込んでやろうかと思った。

 

「ほう、なかなか面白い物を読んでいるな」

「……ひゃ! お母様! いつ入ってきたの!?」

「クックック、魔術師なら当然これくらい簡単だ」

「勝手に入ってこないでください! いくらお母様でも怒りますよ?」

 

 いきなり雪江が後ろからちょこんと顔を出し、雪子の肩に寄り添ってきた。いきなりの出現に苛立った声を思わず出してしまった。出してしまってあっと口に手を当てた。恥ずかしい。勝手に入ってきたことは確かに腹立たしいが、決してこんなにはしたない声を出すつもりではなかった。さっきまで、母のことを回想していたこともあり、少し落ち着かない。

 我が子を驚かそうと後ろから顔を出した雪江は、娘のそんな行動をじっと見ていた。

 

「ゴメンなさい、お母様。私、今自分がとってもちっぽけな人間だって気がついたのです」

「ほう……さしずめ、魔術の勉強につまずいてしまった、というところか?」

「はい、今日、才能がないとはっきり言われてしまったんです」

「そうか――減棒だな」

 

 何やら物騒なことを口にしていた。それは、おそらくあの男を恐怖に淵に叩き込む必殺の一撃だろう。だが、それを母にやらせてしまったら自分のプライドが許しさない。何よりあの男が哀れだ。三人を養う貧乏亭主。雪子にだって良心くらいはある。

 

「お、お待ちくださいお母様。私、これでいいんだと思います、これで」

 

 何かがわかったような気がした。この一ヶ月、自分にとってプラスになったことと言えば、自分に対する慢心が改善されたということだ。今まであらゆる面に秀でていた自分が、魔術に関わることでは、底辺にも等しい。屈辱。そう雪子は生まれて始めて屈辱という言葉を使えた。もちろんそんな思いなどしたくはなかった。だが、この世に生きている人たちは日々様々な屈辱に耐えて生きている。それを知ることが出来ただけでも雪子は成長したような気がした。逆にここで知ることができなかったら、自分は社会に出て大変な目にあっていただろうと思う。

 雪子は人の負の感情を知ることが出来た。そして気が付いた。自分は、自分から相手のことを理解しようとしたことなど一度もなかった。

 

「……何か、一皮むけたような顔だな」

「ええ、魔術はまだ……ですけど、なんとなく」

「そうか……ふむふむ、そうか」

 

 雪江は我が子の成長を顔をほころばせながら喜んだ。手元にある魔道書をパラパラとめくりながらも、その思考は娘の方へと向かっている。が、次の瞬間持っていた魔道書に目を僅かに見開きブツブツと独り言を囁いていた。

 

「……光? ……なんだこれは? ……聖者の血。 ……馬鹿な」

「お母様……?」

「あ、ああ。うむ、可愛い我が娘よ、よくぞ成長した。そうだな、霧島には報告も兼ねて明日学園長室に来いと言っておいてくれ……」

「? わかりました。お休みなさいお母様」

「ああ、お休み……」

 

 雪子は再び魔道書へとのめり込んだ。これは意地である。天才と言われた自分に与えられた試練。認めたくはないが、どうやら自分は『落ちこぼれ』という奴らしい。だからといって特にライバルがいるわけでもないし、気楽にやればいいと思うのだが、それは凡人の考えてあって、天才の自分の思考は違う。どんな分野でも、例え魔術などというふざけた分野であっても、自分は頂点にいなければ気がすまないのだ。

 天才でないならば、秀才になるまでよ。今までの自分という鎧を脱ぎ捨て、雪子はプライドと憧れの為に今日も努力をするのであった。その先にあるものが、一体どんな運命なのか、知るものはまだいない。そして雪子は自分の存在の意味すらも、この時はわかっていなかったのだ。

 

 

「光の術など、とっくに潰えたはずなのだが、な」

 

 強大過ぎた力は、滅びの運命を辿る。歴史を見てもその言葉の通りだ。魔術もまた然り。もちろん魔術に歴史などない。古文書に残された薄れた文字と口述により伝えられた言葉を代々その血筋の者に伝承することによって魔術師は成り立つ。名家と呼ばれた家柄の者たちはその封権的な制度を未だに保っているにはわけがある。魔術を、他家に漏らすことがないようにするためだ。魔術師として生まれた人間は、その地点で戦いの中に放り込まれる。どんなに幼くても、か弱くても、戦う。

 霧島左霧という男が――正しくは男であって男ではない。ややこしいのでここでは男とする。その男が学園に侵入してきた時は驚いた。霧島の手先だと疑いもした。雪ノ宮を叩き潰すことなど名家の『霧島』なら容易に出来るはずだ。そう思いもした。

 

「霧島家の嫡男――いや嫡女。ええいややこしいな本当に……まぁ本人が左霧と名乗っているからには男なのだろう。……ふん」

 

 血筋にすれば霧島の当主の座を継がなくてはならない者だ。にも関わらずそんな男がわざわざ学園に求人を出してきた。どう考えても異常な事態。一体何があった。

 普通に考えれば別に何の問題もない。性別不明(?)の若者が、教職を目指して就職活動をしていただけだ。たまたま縁があってマリアナ学園――雪江のアジトに潜り込んだだけのこと。

 調べたところによると、この男は現在本家とは別居状態にあり、他二名と暮らしながら生計を立てているらしい。妹と従者一名。つまり、本家には今、『霧島霧音』あのおぞましい『霧の女王』しかいないというわけだ。何とも間抜けな話だ。どんな理由があれ、自らの血縁に逃げられ、挙句、敵対関係にある雪ノ宮へと潜り込んでしまったというわけだ。最も、本人は特にそのことに関して気にしていない。雪江からその話題を出そうとも思わない。彼は純粋に教師になりたいという夢を追ってここまで来たのだ。そして雪江は魔術師を探していた。この『学園』を守るために。

 

「とはいえ、不安要素はかなりあるが……よもや光の魔術とは……霧ではないのか?」

 

 雪江はこの際、雪ノ宮に新たな力を導入するべく左霧――霧島家の魔術を盗んでやろうと思った。無論、無理強いをするつもりなどなかった。そんなことをすれば、バックにある霧島がどんな具合に攻めてくるか分からない。ただでさえ、今は敵の対処に困っている時期だというのに。

 だが、彼は一言二言で了承した。雪子を、雪江の娘を弟子にした。一緒に学園を守ってくれると約束した。他家であるにも関わらず、当主であるにも関わらずだ。実を言えば、左霧の処遇については困っている。雪ノ宮の教師たちは、全て『魔術師』だ。砂上を筆頭に学園に関わる全ての者は『雪ノ宮』の息がかかっている。となれば、左霧にも雪ノ宮に入ってもらうことは必然である。だが、他家の者を取り入れるなどということは先例がない。どうしたらいいか、頭を悩ませていた。

 

「……む? またか……雪子のやつ、余計な心配をしおってからに……」

 

 雪江は自らの部屋に置いてある全国的結婚情報誌『ゼ○シィ』をゴミ箱へと叩き入れた。どうゆうつもりか、最近になって雪子は急にこんなものをこそこそと置いては、母親の反応を盗み見ている。父親が欲しいのか、と聞けば別に、とか特に、など口を濁すばかり。ならこれは嫌がらせの類にしか感じられないのは、雪江の性格が曲がっているからではない。

 どうやら雪子は母を心配しているらしい。この年になっても自らの幸せを顧みない母親のことを生意気にも気を使って行動で示しているのだ。

 雪子は自分がいることで雪江は結婚できないと考えているらしい。コブ付きは敬遠されがち、というどこから聞いたのかくだらない与太話を鵜呑みにしているのだ。

 馬鹿なことだ。雪江は嘆息した。自分にとっては結婚など財産や権力を絡む、至極メンドくさい儀礼に過ぎない。必然的に雪ノ宮の婿なり逆玉ラッキーとなり、愚かにも雪江に利用され、傀儡となるのが関の山。簡単に想像できる。想像して呆れた、自分の腹黒さに。

 

「大体、私はもうすぐ五十過ぎだぞ、今さら結婚なぞ……」

 

 そこまでいい、雪江の頭に一つの案が思い浮かんだ。まるで今まで曇天だった天気が、快晴になったように、真っ直ぐに一つの道を照らし出した。

 天才だ。分かってはいたが、自分は天才だ。なぜこんないい案が出てこなかったのか不思議でならない。一人でに不気味な笑みを浮かべた雪江。その姿は、誰がどう見ても雪子と重なることを否めない。

 

「そうと決まれば、早い方がいいな……」

 

 ゴミ箱から嫌そうにゼ○シィを取り出し、雪江は読み耽る。その姿はまるで結婚を間近にした少女のよう――ではなく、おませな少女が自分サイズのウエディングドレスがないことに憤慨している可哀想な姿にしか見えなかった。

 

 

「――くしゅ!」

「風邪ですか左霧様?」

「うーん、僕風邪なんてひいたことないんだけどね」

「大事になさってくださいね――馬車馬のように働いてもらうんですから」

「酷いなぁ……くしゅ!」

「ん……ふゅ……にーしゃま……」

 

 恐ろしい計画が立てられていることも知らず、霧島家は今日も平和だった。兄の膝で幸せそうに眠る桜子とその傍で静かに縫い物をする女中。家族団らんのひと時は何にも代え難い。働き初めて、より一層わかる。何のために働くのか。それは人それぞれだが、大抵の者は家族のために、その身を粉にして働くのだろうと。

 

「あの女……失礼、雪子様の教育はいかがでしょうか?」

「う~ん……これからだね。でも間違いなく『原石』だよ」

「それは、磨けば光る、という例えでよろしいのでしょうか?」

「うん。だけど、どう磨くかによって石ころにもなったり金剛石にもなったりする」

「驚きました。まさか光の魔術をお教えするなんて」

「流石に、霧は、ね。おか、霧音様に怒られちゃうよ」

「左霧様……」

 

 自分が他家の者を弟子したと聞けば、あの人はどう思うだろうか。いや、おそらく耳に届いているかもしれない。だとすれば音沙汰ないのが不思議だ。いや、当然か。家出同然に家を飛び出し、連絡も寄越さない親不孝者など。厳格なあの人が切り捨てないはずがない。元々情など持ち合わせていないのだろう。左霧はあの人が恐ろしい。あの眼、あの存在そのものが。まるで年を取ることを知らない容姿。思い出しただけでも震え上がりそうになる。

 それと同時に、左霧は精一杯反発したくなる。全ての事柄に意味があるとすれば自分はなぜ存在し、あの人もまた、なぜ自分という存在を作ったのか。まるで謎だらけだ。

 精一杯の反抗。この成れの果てが家出。どうせ自分は消える運命だ。なら、一生のうちに好きなことをやろう。そう思いついたのが逃亡。あの時のあの人の驚いた顔が今でも忘れられない。いたずらをやらかした子供のようなに心が踊った。同時に深い罪悪感にも苛まれた。

 

「いずれ、本家から正式に連絡が来るかもしれない」

「その時は、この華恋も一緒に裁きを受ける次第でございます」

「クスッ大げさだなぁ」

 

 妹を連れて逃げたのは、ただあの人が大事に育てたものを奪ってやりたかっただけ。最初はそうだった。

 ……言ってしまえば、最初は妹が憎かった。明らかな差別があった。愛される妹。憎悪の対象である自分。外で遊び呆ける妹。一室に幽閉され日が暮れるまで勉学に励む自分。

 なぜここまで扱いが違うか。当然聞いたことがある。

 

「あなたが鬼子だからです」

 

 あの人はいつものしかめ面で答えた。思えばあの人はいつも一緒だった。どんな時も、自分を貶し、貶め、蔑んだ。褒められたことなど一度もない。あるのは灰色の日々。屈折した愛憎模様。いや、愛されたことなどなかったか。

 あの人は、いつか自分を殺すのだと言った。決定的な決別を決めたのはこの日。全てを切り捨てて唯一信頼出来る者と逃亡を決めた日。

 

「にーたま、どこへ行くの? あたくしもつれていって!」

「桜子。君はここにいるんだ」

「いや、にーたまと行くの! 行くったらいくの!」

 

 道理で愛されるわけだ。こんなに可愛らしくねだり。潤んだ瞳で泣き喚く。誰であれ、少女を愛してやまないだろう。なぜこうも違うのか。

「僕と一緒に、いて、くれるの?」

「はい、にーたま!」

「どう、して?」

「あのね、桜子ね。にーたまのこと大好きなの! だから一緒にいたいの! いい?」

 この日、左霧はようやく妹を愛そうと決めた。と同時にようやく自分の運命を決めた。

 それは決してあの人に定められ道を行くのではない。だが、その運命には従う。

 

 自分の生まれた意味など知りたくもない。知ったところで意味などない。この体に宿る者が誰であれ関係ない。自分は妹と行く。その道に破滅しかなくとも。握り締めた小さな手だけは離さない。

 

「――死が、分かつその日まで」

 暖かい体温を感じながら、『魔導兵』はその日『母性』を手に入れたのだ。

 



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邪魔者

「え~と、この古典の訳は教科書の二八ページの三行目に」

「違いますよ先生! もう黒板に書いてあるじゃないですか! 嫌だなぁ!」

「あんまり間違えると、その胸にある大きな果実、もぎ取っちゃいますよ?」

「ひっ! ご、ごめんね、皆」

 

 おっさんである。この教室の生徒たちは全ておっさんである。雪子は頬付をつきながら、相変わらずとんちんかんな国語の先生の授業を受けていた。セクハラまがいの脅しを受けて涙ながらに謝る教師。も、萌え――ません。相変わらず左霧はダメ教師でした。

 

「精神を集中させて! ダメ、それじゃあぜんっぜんダメ! 何考えてんの!? 今は魔術の時間だよ! はい、走ってきて! 腕立てー! 腹筋! 頑張れ、頑張れ! あの太陽に向かって(以下略)」

 

 放課後が憂鬱。雪子は悲鳴を上げている筋肉の苦痛に耐えながら意識を別の方へ移した。

 予想通り。というかやっぱり昨日はキツかった。魔術の訓練、とは名ばかりの筋力トレーニング。しかも桁外れの量。意味が分からない。この可憐でか弱い乙女を捕まえて、なんたる仕打ち。万死に値する。そんな雪子の怨念が成就するはずもなく日が暮れるまで左霧の叫び声は続いた。

 

「あ、有り得ない。あり得ないわよ。こんなの」

「すごいね雪子さん。まさかやりきるとは思わなかったよ」

 

 何がすごいって、自分はあの量をやりきったのだ。元々運動なんて体育以外でやったことなどない。もちろん体力測定は一位だったが、まさかここまで規格外だとは思わなかった。ひょっとして自分は才能があるのかもしれない――とこの時もまた雪子は思った。思ってしまったのだ。

 

「じゃあ明日はもっと強度を上げてみよう! ベンチプレスとか追加しようかな」

「ボ、ボディビルダーにでもなれってわけ!? ふざけんじゃなわよ! あぅ!」

 

 立ち上がり抗議しようとしたが、完全に体がガタガタで言うことを聞かない。冗談ではない。自分はオリンピック選手を目指しているわけじゃないのだ。魔術、さっさと魔術を教えてほしい。こんな訓練がいつまでも続くようじゃ自分は本当にガチムチのムッキムキになってしまう。そんな自分を想像して吐きそうになった。

 

「冗談だよ。だけどこれは毎日続けてもらうよ。雪子さんは頭で考えるより、行動ってタイプだからね」

「いえ、思いっきり頭脳タイプです。ガリ勉です」

 

 ダサい学園指定のジャージは汗でびっしょり。髪は汗が張り付いて気持ち悪い。こんな姿、他の学生に見られたら生きていけない。だけど残念ながら外から結界というものを張っているらしく周りからは何も見えない聞こえない。逆に悲鳴をあげても届かない。監獄の出来上がりだ。そう思うとより一層恐怖の中に叩き込まれ気分になる。

 

「桜子様、刀とは刃で切るのではありません。心で切るのです」

「心?」

「そうです。守りたい者、そして本当に倒したい相手を思い浮かべれば、刀は必ずあなたに答えてくれるでしょう」

「おにー様を思い浮かべればいいのね! 簡単だわ!」

「慢心はいけません。刀は心。明鏡止水、常に冷静に」

 

 何だか知らないが、隣でも修行が行われていた。無邪気に模擬刀を振りかざす少女は桜子、先生の妹だ。何でも、兄を守るために頑張る、と張り切っていたらしい。腕立て伏せをしながら、横で延々と自慢をされたから嫌でも思い出す。とんだシスコンだ。凄い先生であることに変わりはないが、色々残念過ぎて相殺。むしろ呆れるくらい。

 これからどうなるのだろう。行き先の見えない修行の日々と、早くも襲いかかる後悔の念を振り払いながら、今日も今日とて、日常に埋没する雪子だった。

 

 そんなことを考えていれば、あっと言う間にお昼休み。憂鬱はどんどん膨らむばかり。だが、お腹はなぜか絶好調。別に大食らいなわけではない。並だ並……のちょっと多いくらい。女の子だってお腹は空くのだ。大体女の用のお弁当箱というのは何故あんなに小さいのか。差別だ差別。だが雪子のお弁当箱は雪ノ宮家のシェフが用意してくれた専用の物。あくまでも女の子らしいサイズだと主張したい雪子だが、これはどう見ても男子に負けずとも劣らない。

 

「こんな大きなお弁当箱……絶対他の人の前で食べられない!」

 

 ごめんあそばせ! とでも言い捨てるかのように教室を颯爽と出ていく雪子。お昼休みも楽ではない。だったら量を減らせばいいのだが、お腹が空くので却下。しかも放課後はガチムチトレーニングが待っているのだ! こんなことを続けていれば本当に筋肉がついて取り返しのつかないことになるかもしれない。おぞましい!

 

「左霧先生……ちょっとお話したいことが」

「あ、はい。いいですよ」

「では、そこの空き教室に……」

 

 一人ポツンと空き教室で優雅な食事をしている折、何やら知人の声が聞こえた。しかもその声はだんだん迫ってくる。あろうことか、自分がいる教室まで近づいてきた。

「ぶっ……ま、まずい。もぐもぐ……」

 ありえない。こんな一人で寂しくぼっちで食事をしている可哀想な女、なんてレッテルを貼られるわけにはいかない。残念な美少女(本人談)である雪子はすぐさま弁当箱を包み込み、掃除用のロッカーへとダイブした。

 あえて言おう。雪子がお嬢様なのは見た目だけである。

 

「あれ、今、誰かの声が聞こえたような……」

「誰もいませんよ? 嫌だなぁ左霧先生」

「う~ん、そうみたいですね」

 

(! 師匠……左霧先生と生物の東野先生? こんなところで何を?)

 

 左霧は言わずもがな、生物の東野といえば、マリアン学園イケメン教師のNo.1に輝いている。実家は某大手電機メーカー社長、愛車はラン○ルギーニ、腕にきらめくロ○ックス。明らかな勝ち組だ。

 しかも本人はそんなことを鼻にかけることなく、生徒たちの育成に真摯に打ち込み、いつも静かに笑っている。いつも生物科にあるヘビやらトカゲやらと戯れている。そういう風に私も――なりたくない。ちょっと変わった先生なのだ。

 

(っていうか近い! 二人共近い!)

 

 誰もいない空き教室。教壇の前で教師ふたりは密談に耽る。東野は薄茶色の髪をかきあげ、左霧の耳元に囁くように何を喋っている。誰がどう見てもいけない場面。禁断の果実。ダメ、ゼッタイ!

 

(やっ、やばい鼻血出そうっ、じゃなかった。どうしようどうしよう!)

 

 左霧の顔はほんのり赤みを帯びていた。何照れてんの? 勘弁して欲しい。これじゃあ本当にホ……な感じではないか。

 いや、そもそもあの人は男なのだろうか? 自然と疑惑の念に苛まれた。世の中、いろいろな人がいる。体が女だとしても自分は男だと確固として信念を貫く『性同一性障害』その逆も然り。だから今まで左霧という者の正体を問わずにいたが、ここに来て急に気になってしまった。

 

「天……結界……何者……」

「あなた……のですか?」

「我々…………です。近々……かもしれません」

「分かりました。……僕も協力します」

 

(聞き取れない……! というより近い近い!)

 

 どんなに真剣は話をしていても、いけない場面であることに変わりはない。特に左霧が名簿を両手で握り締めながら、必死で囁きに耐えている姿が、はい、腐ってます。

 とはいえ、何やら怪しげな会話であることに変わりはない。このまま出て聞きただしてしまおうか、とも考えた。自分の持つ絶対権力なら教師さえ従えてしまえる。東野の所詮雪ノ宮財閥に身を投じた者だ。左霧なんてもってのほか。

 

「あああああああああああああああななななたたたち 何やってんの!」

 

 そこへ、我がクラスの主任である。砂上百合がやってきた。いや、最初から覗いていた。鼻血を出しながら。

 

「これは、砂上先生」

「東野君! まさかあなたがそんな人だとは! 新任教師にいけない遊びを教えて……何をしようっての!?」

「ええ!? 誤解ですよ! 僕は両生類にしか興味がありませんから」

 

 どっちにしたって変態だ。砂上が出てきたことによって登場するタイミングを外した雪子。正直さっさロッカーから出たい。埃が湿ったあの独特の匂いがキツくなってきたのだ。

 

「霧島先生もなんとか言ってくださいよ!」

「ボー……はっ! 僕はそういう関係を求めてませんからぁ!」

「ダメよ! ダメったらダメよ! あなたたち教師の自覚が足らないわ!」

 

 結論的に左霧が悪いと雪子は思う。そんなゆでダコのような真っ赤な顔で誤解されるようなことを言うから。ほら、東野先生なんて涙目だ。とりあえず砂上は鼻血を拭いたほうがいい。気持ちはわかるが、どう考えても教師にふさわしくないのは砂上がダントツ一位。

 三人は誤解を解き合いながら教室から出て行った。ようやく密室から開放された雪子。どっと疲れが押し寄せてきた。それと同時にどうしてコソコソしなくてはいけないのか疑問に思った。

 

「とりあえず……砂上先生は問題ありね」

 

 自分のかなりキていたにも関わらず、その感情も全て担任に押し付けてしまう雪子だった。

 

 

 

 

「ぜぇ、ぜぇ……お、終わったわよ」

 

 どうして自分はここまで体が動くのだろうか? 憎くてしょうがない。いや、動けることはいいことなのだ。しかしどれだけ動いても限界を感じられない。どんどんその先へ、その先へ、とついつい無理をしてしまうのだ。その結果、地面に這いつくばりながら、今日も元気に倒れ伏す。雪子は頑張り屋だ。

 

「…………」

「ちょっと先生? 聞いてるの? 左霧!」

「ひゃぁ!」

 

 縁側でボーッとしている師匠に大声で呼びかける。頬はどこか熱っぽく赤みを帯びていて、はっきり言って気持ち悪かった。

 

「ま、まさか東野先生のこと……」

「ととととととうの先生がどうかしたの!?」

 

 ……いや、もうなんかどうでもいい。好きにやってくれと、雪子は放置を決め込んだ。結局こういうことは本人たちの次第なのだ。例え師匠がホモ、サピエンスであれBL、系であれ私はついていく。そして魔術を習ってさっさと縁を切りたい。だって気持ち悪いから。

 

「それより、終わったんだけど」

「あ、うん。やっぱり身体能力はかなり高いね」

「ふふん。どんなもんよ。いい加減セイレイの一匹くらい召喚できてもいいんじゃないかしら?」

 

 高飛車な態度で雪子は左霧へと詰め寄った。一刻も早く魔術を習いたい。雪子の頭にはそれしかない。こんなのは陸上部の領分ではないか。自分は泥臭い青春を送りたいわけではない。

 

「――これまでの約一ヶ月間、雪子さんを見てきたけど」

「ええ」

「はっきり言って才能はない。魔術師って言うのは才能が八割方で努力が後の二割だと一般的によく言われるんだ」

「……っ」

 

 左霧は雪子の目を見つめながら言葉を放った。こんな風にはっきりと絶望的な言葉を口に出されたのは初めてだ。生まれて初めて。だけどこれが現実。どんなに逃避してもそれが結論。自分の身体能力が人より高くても、頭が良くても、関係ない。

 ――魔術師にとって、自分は当たり前の基準すら備わっていないのだ。

 

「そこで、もう一度はっきりと言っておくよ――」

「――私、諦めません。絶対に」

「雪子さん……」

「正直、私が何故魔術師になりたいかなんて理由、くだらなすぎて笑ってしまうかもしれにない。ただ、私はこのまま日常に埋没してしまうのが嫌。知らないことを知らないままにしてしまうのが嫌。――責任を押し付けたままでいるのが嫌なんです」

「雪子さん、何度も言うけど」

「黙ってください先生」

 

 うっと雪子の細く尖った目が突き刺さる。師匠として今日は少しキツく言おうかと偉そうなことを考えていたのだが、意志は固いようだ。左霧は弟子の真剣な思いに胸を打たれた。言葉ではない。その体全体で感じる強い心に、だ。

 

「私は、魔術師になる。これは決定事項です。ついでに魔王にもなります。だって世界征服、したいですから」

「ちょっとちょっと!」

「冗談です。とりあえず先生の契約だけは解いてみせます。その為には、魔術を習うのが、手っ取り早い気がするんです。っていうかそれでしか解決しない気がする」

 蠱惑的に雪子は笑った。なぜだろう、彼女なら全てを手に入れてしまうような気がした。才能もゼロ、見習いもいいところ。だが、左霧には、彼女が王座に座り、傲慢不遜に民を見下している姿が容易に想像できた。

 

「何ですかジット見つめて?」

「ううん……なかなか、似合っていると思って」

「? まあいいです。それよりも、どうして私を弟子にしたんですか?」

 

 それは確かに雪子にとって気になることである。どうやら霧島家というのは由緒正しい家柄らしく、左霧という男はその御曹司らしい。そんな男が雪ノ宮の土地に足を踏み入れ、こうしてその娘に教鞭を振るっている。傍から見ればおかしな話だ。本来、敵対関係にあるはず、だと母から聞いた。

 

「それは……」

「それは?」

 

 左霧の視線は、向こうで今日も模擬刀を振るっている幼い少女の方を見ていた。隣でハラハラしながら様子を見ている女中がかなり邪魔だが。身長と模擬刀のサイズが合わなくて不格好だ。だが、その姿は真剣そのもので、自分の訓練がなかったら応援したくもなる。

 

「あのね、雪子さん」

「はい? 何ですか?」

「あの、もし、もしね」

 

 まただ。またこれだ。ゴニョゴニョとはっきりとしない態度。これが何より尺に触るのだ。雪子はイライラしながらその言葉の後を耐えながら聞こうとした。こういう仕草をするから東野先生とアッー! な展開を想像してしまうのだ。私は何も悪くない。雪子は必死で誰かに言い訳した。

 

「おにー様―!! 桜子の方も見てくださいっ!」

「ちゃんと見ているよ桜子。辛くないかい?」

「ちーっとも辛くないわ! だって桜子はおにー様を守るんだもの! こんなことくらいでヘコたれたりしないわ!」

 

 額にうっすら汗をかきながら、桜子は兄の元へ寄ってきた。雪子との間に素早く潜り込み、まるで遮断するように。若干思うところはあったが、たかが小学生のやること。それも悪意がないのならば、仕方がない。雪子は微笑みながら我慢した。

 

「おにー様ったら下女の方ばかり見て……そんな女よりもわたくしの方が魅力的よね?」

「うふふふふふふふふふふふふふ、はぁ?」

 

 悪意がないなら。許してあげようと思った時が雪子にもあった。だが、自分は思いの他堪忍袋の緒が短いらしい。今日初めて知った大発見だ。ついでに下女などと吐き捨てされたのも初めてだ。クソガキ、許さない。

 

「いいですよぅ! その調子です桜子様ぁ!」

 

 こいつのせいか。さっきまでオロオロしながら桜子に剣術を教えていた華恋が大声ではしゃいでいた。どうやら雪子は霧島家から歓迎されていないらしい。

 

「こ、こら桜子! 雪子さんに失礼でしょ!」

「ううう……おにー様はわたくしとこの下女、どっちが大事なの!?」

「誰が下女よ! クソガキ!」

 

 桜子は間違いなく悪女になる。そう思えるほど、妹の本物としか思えない涙と潤んだ瞳。一体どこでこんな技を覚えたのか――

 

「いいですよ桜子様ぉ! 作戦通りです」

 

 どう考えても女中が教えたのだ。そろそろ家族会議をしようかな、と考え込む左霧。

 

一方、先程から酷い扱いを受ける雪子。何が気に入らないかって、自分の幼い頃とどうしても被るのだ。おそらく相当甘やかされて育ったのだろう。自分もそうだったから。自覚はある、だがそれを変える気はなかった。だって気持ちがいいから。

 だからといって自分が雑な扱いを受けることを許容しない。雑に扱っていいのは母と――今のところ師匠だけなのだ。

 

「桜子? 一応君にとってはお客様なんだから、君が失礼な扱いをしたら、霧島家の恥になるんだよ?」

「…………む~」

 

 さすがは先生だ、と雪子は感心した。いくらシスコンの疑いがあるとしても締めるところはしっかりしている。ここで妹の味方をしたらおそらく雪子は永遠に左霧をシスコン呼ばわりしているはずだった。今は『シスコンの疑い』があるだけだ。――残念ながら左霧は完全な『シスコン』なのだが!

 左霧に怒られ、どうやら今度は演技もなく瞳を潤ませている桜子。かなりの泣き虫だ。自分が正しいと疑わない自身。わがまま甘え放題。本当にそっくりだ。自嘲気味に笑みを浮かべ雪子はため息をつく。

 

「……いいわよ別に。私が毎日先生たちの時間を邪魔しているのは変わりないんだから」

「雪子さん……」

「む~!! おにー様ったらまたあの人の方を見てぇ!」

「それよりも先生、明日は休日ですけど」

「そっか……もう一週間経ったんだ。何だか早いねぇ」

「明日も来ていいですか?」

「もちろんだよ! 僕もそのつもりだからね」

 

 ニコニコと嬉しそうに意気込む左霧。どうやら弟子がやる気になってくれて嬉しいらしい。やると決めたら徹底的にやる。なにせ自分は何倍も努力が必要らしいのだ。大事な休日を生贄に捧げることに抵抗などない。どうせダラダラと過ごすくらいなら打ち込むことに集中したい。

 

「……おにー様……」

「? 桜子、どうしたの? そろそろ華恋が待ちくたびれているよ?」

 

 桜子はダラリと片手に持った模擬刀を下げ、俯いた。綺麗な黒髪が前かかり表情が読み取れない。白い肌は上気しているのかいつもより幾分か赤くなっているのがわかる。長年の経験から、左霧には危険信号を発しているのがわかった。

 

「桜子……?」

「――――――――――バカッ!!!! アホッ!!!! ウンコマンーーーー!!!!」

 

 大声で兄の罵倒を発し、ボロボロと涙を零す桜子。しかしその顔に悲愴というよりも怒りと悔しさが滲みでている。ギリギリと歯を食いしばり、鼻水もちょっとだけ……ちょっとだけ汚い。だけど可愛いから許せるのが世界の不思議。

「あっ! 桜子! 待って! どうしたの!?」

「……ウンコマンって流行ってるのかしら?」

 

 左霧と雪子はそれぞれ異なった反応を見せる。左霧は大慌て。妹に嫌われてしまったという史上最大の悲劇に見舞われ、必死で問いただす 

 雪子は正直どうでもいい。騒がしい子だな、とか、汚いわね、とかその程度の反応だ。だって、まるで自分の幻影を見ているようで現実逃避したいんだもの。

 

「さ、桜子様!? 桜子様がご乱心なされた!?」

 

 さっきから微妙な距離を保ちつつ桜子を応援していた華恋もオロオロするばかり。耐久性のなさすぎる家庭。

雪子は呆れ返ってしまった。全く、娘一人に情けない。私がガツンと言ってやろうかと意気込んだが、しかし家庭のことに首を突っ込むのもいかがなものか、と足踏みしてしまった。

それがいけなかった。

容赦などしなければよかったのだ。

 

 桜子はボロボロと流す涙も拭わずに睨みつけたのは――雪子。

 その目には敵意が爛々と映し出された。

 人の獲物を横取りするな。

 そんな思いを彷彿とさせる。

 見た目だけで判断するならば、端正な顔立ちの日本人形のような可愛らしい少女。

 だが、雪子は騙されない。

 ――こいつは、

 

「――――あばずれ女っ!! スカタン!! オタンチン!! あんたなんで来たんじゃ! 明日はおにー様と遊び約束だったのに! アホー!!!!」

「――あ!」

 

 そういえばそんな約束をしたような気がする。左霧は慌てて妹との会話を思い出した。

 途端に罪悪感に苛まれる。

 しかし、左霧とて子供ではない。優先事項くらいは決めてあるつもりだ。

 それで、兄と妹の違い。

 子供と大人の、大人の勝手な都合なのだ。

 

「――桜子。悪いけど、明日は用事があるんだ。遊園地は別の日に――」

「いやっ! どうしてこの女の言うことばかり聞くの!?」

「桜子っ! いい加減にしなさい! さっきから失礼だよ!? 雪子さん謝って!」

「いやっ! もういやっ! おにー様の嘘つき! 大ッ嫌い! あんたも嫌い! 華恋も嫌い!」

「……っ」

「……あっそ」

「私も!? 私もですか!?」

 

 遂に桜子は崩壊した。

 だがその姿を見せまいと、勢いよく家に飛び込み、自室へと篭ってしまった。

 左霧は胸の痛みに耐え、雪子は鋭い睨みを効かせ、華恋はとばっちりを喰らう。

 あとに残ったのは嵐が去ったような静けさだけ。

 それでも、一つだけ分かることがある。

 

「ごめんね、雪子さん。本当はとても優しくて子なんだ」

 

 左霧は雪子の顔を見ずに謝った。桜子が閉じこもってしまった部屋の先をジッと見つめたまま動かない。

 その表情には哀愁のようなそして耐え忍ぶような複雑な感情が渦巻いているように雪子には思えた。

 

「――別にいいですよ。私、お上品な子よりもそういう子の方が好みですから」

「――ありがとう」

 

 形だけの笑みを称え、左霧はお礼を口にした。 

 雪子にとっては他の家族の争いを見る、という貴重な体験だった。

 それと同時に自分が介入したことで、この家庭に僅かな動きを与えてしまったのではないかと危惧した。

 

「雪子さんにはね。桜子のお姉さんになって欲しいんだ」

「――はい?」

 

 唐突にそんなことを口にした左霧。

 相変わらずこの先生は意味が分からない。

 勘弁してほしい。

 心の底から雪子はそう願った。

 

「僕は、あの子の味方になることは出来ないから」

 

 永遠にね。

 

 爽やかな風。左霧の髪は舞い上がりヒラヒラと太陽の光を浴びて煌く。

 美しい。

 雪子はそんな言葉を思い浮かべた。

 儚げな、虚ろな、今にも消えてしまいそうな存在。

 

 左霧。霧島左霧。

 私の先生、師匠、魔術師。

 

 なぜ、あなたはそんな風に笑うの?

 まるで、

 まるで、

 女が泣いているみたいに、

 笑わないでちょうだい。

 



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精霊召喚! なにこいついらないんだけど

 

 

 早朝、男は庭に立っている。この寝坊助が珍しく休日に早起きをしたのだ。いつも出勤ギリギリに起き、髪を梳かし、顔を洗い、服を着替えてご飯を食べる、というシチュエーションを全力でこなすあの人が。

今日は優雅に庭に立っている。

一体何があったのだろう?

木々が草花が、ざわめいている。

まるでそこにいる者を拒むかのように、震えだす。

 

「…………」

 

男は僅かに指を動かした。その指から歪な形の『何か』が湧き出てくる。

 霧だ。霧が出てきたのだ。

 すると男の体はその霧に紛れ込むように姿を消した。

 男が指を動かした途端、早朝の朝日が薄れていく。

 辺り一面は不気味な霧に覆われた。

 やがて別世界となった庭には男の姿が浮かび上がる。

 その数、およそ百人。

 分身とでも言えばいいのか。

 いや違う。その一人一人に質量があり、意思がある。

 その場にいる者は、そう『見えて』しまう。

 幻影魔術――霧島家の奥義の一つだ。

 奥義、とはつまり必殺。必殺とは見破れないから必殺なのだ。

 そしてこの奥義を見たものは誰ひとり見破れなかった。

 決して生き残った者はいない。

 

 やがて霧が晴れる。太陽がまるで夢でも見ていたかのように世界を照らし出す。

 当然、別世界にあった霧島家の庭も光で満ちていた。

 男は一人で立っている。

 

「おはようございます、左霧様。今日は珍しくっ……うっ!」

 

 女中が起きてきた。恭しく、その頭を垂れて丁寧にお辞儀しようとした。

 しかし、口元を抑えたまま震えている。

 

「あ、あなた、様は……」

 

『男』は女中に一瞥もくれずに庭を見ていた。

 左霧が趣味で造園した庭を見ていた。

 花を慈しみ、実りを楽しむことが何よりも嬉しいらしい。

 興奮したように話をしていた。華恋にはよく分からなかった。

 

「ああ、なんて、なんて」

 

 何もなかった。そこにあったはずの物が何もかも消えていた。

 いや、ある。確かにあるのだ。

 腐敗した、残骸が。

 腐臭を放ち、まるで魔界に咲く奈落の花のように、歪で汚らわしい形をした残骸が。

 辺り一面を支配していた。

 

「左霧、様」

 

 華恋は主人の名前を呼ぶ。かすれてしまいよく届かない。もう一度叫ぶ。

 ゆっくりと振り返った。主の顔。いつも美しく、まるで陶磁器のように白い肌。肢体はほっそりとしていて等身大の人形のようだ。

 華恋は綺麗だね。

 主は時折そんなことを言った。華恋は薄く頬を赤らめて抗議する。

 自分がある程度の容姿を持っていることは認める。だから褒められるのもわかる。

 だけど、恥ずかしい。

 だって、主の方が断然に美しい顔をしているのだから。

 主に褒められると、まるで貶されているように聞こえるのだから。

 

「華恋」

 

 男の声が朝の空気に響く。

 女中の名前を呼んでいる。

 いつもより野太く、芯の通った重い声色だ。

 華恋は、はい、と答えた。自分でも答えたのかわからない。

 声が震えて上手く出せない。主から発せられている『邪気』にあてられて辛いのだ。

 一刻も早くこの場から去りたい。だが、それは出来ない。

 自分は、逃げてはいけない。

 

「華恋、すまない」

 

 男は謝った。何に? 誰に? 

 もちろん全てにだ。

 慈悲深い。尊い。

されど、凶悪。

 凶悪にして絶対悪。狂気。狂気、狂気。

 

「いいえ、庭は、また作ればようございます」

「悲しむな、あれが」

「事情を話せば分かってくれます」

「面倒だな」

「仕方のうございます」

 

 男はさも面倒そうに溜息をついた。

 仕方がない。仕方がない。

 呟きながら庭を見つめた。

 何を思うのか。何を感じるのか。

 そこにはもう、生命の息吹は感じられない。

 男が摘み取ったのだ。死神のように。

 

「――戻る」

「――お休みなさいませ」

 

 男は部屋へ戻っていた。まるで何もなかったかのように。

 しかし、そこにあるのは現実。腐敗した庭。花の残骸。生命の枯渇。

 

「なんと、哀れな……」

 

 誰もいないその庭で、華恋はそっと呟いた。

 宿命じゃ、宿命じゃ。

 まるで呪うかのように風が囁く。

 華恋は邪気を振り払う。

 汚染された空気をなぎ払う。 

 それが彼女の宿命。

 振り払い、なぎ払い、跡形もなく消し去る。

 朝日は、もうとっくに昇っていた。

 

 

 ――そして待ちに待った休日。

 霧島家の食卓は静けさを保っていた。いつもの賑やかな喧騒はない。

 食器の擦れる音だけがその静寂を破っている。

 男と女は黙々と栄養を摂取するだけ。

 そこにはいつものくだらないやり取りなど存在しない。

 

「……なんだが、珍しいですね。こんなに静かな朝食なんて」

「うん」

「あ、それ……少し白出汁を入れてみたのですが、いかがですか?」

「うん」

「左霧様、ご自分の髪を食べないでください」

「うん、おぇ」

 

 華恋は積極的に会話を求めた。だが、主である左霧は魂が抜け落ちたように沈んでいる。

 今朝、いつもどおりの時間にいつもどおり起きた左霧は、庭を見た。そして華恋に問いただしたのだ。

 全ては仕方がないこと。だけど、どうしても怒りを抑えきれない。

 ――自分に対して、怒りが抑えきれない。

 

「僕がもっとしっかりしていれば……!」

「左霧様、ご自分を責めないでください」

「けど!」

「被害は最小限です。何も問題はありません」

「あったさ……」

 

 自分が丹精込めて作った庭園は崩壊していた。

 左霧が見たときは既に『邪気』は華恋によって取り除かれ、辺りには荒れた土と草花の残骸。生きとし生きる全ての生命が枯れ落ちていた。

 また最初から。

 けれどそれはいい。また育てれば良いのだから。

 だが、

 

「もし、人間がその場にいたら……」

「霧島家は結界に守られています。問題はありません」

「華恋っ!」

「問題は、ないのです。左霧様」

 

 華恋は真っ直ぐに左霧を見た。

 痛ましいほどに自分を責め続ける主を見てはいられなかった。

 支えなれば。

 支えなければならない。自分が主を励まさなければ。華恋の心にあるのはただそれだけなのだ。

 

「ご飯を食べましょう、左霧様。今日も来るのでしょう? あの女狐が」

 

 さっきとはうって変わり、恨みがましい目で華恋は主を睨んだ。

 その素早さに思わず左霧は吹き出しそうなるが、こらえる。妹とは違い、左霧は食事の作法を徹底的に叩き込まれている。唯一自分に許しているのが、会話だ。

 食事は楽しむもの。そう決めているのだ。

 本家で食べた毒見をしたあとの冷めた飯。会話のない大所帯。あの時は、食事という時間が何よりも嫌いだった。

 だが今は違う。彼女――華恋のおかげで食事は楽しいことなのだと感じられた。

 

「……華恋ってば雪子さんにそんなこと言っちゃダメだよ?」

「いいえ、いくら左霧様の命令とはいえそれは聞けません! あの女狐は桜子様のガラス玉のような心を傷つけたのです! 万死! 万死に値します!」

 

 桜子は起きてない。休日でも規則正しい生活を怠らないはずなのに、今日は自室に篭ったままだ。

 多分、こんなのは初めてだ。

 今までも桜子がワガママを言ったり、理不尽な怒りをぶつけてきたことは何度もある。

 だが、左霧は全て受け止めてきた。そして従った。

 教育の仕方が分からない。躾のやり方が分からない。

 ただ、桜子の嫌われるのが怖かったのだ。

 第三者の介入により、その理想は呆気なく崩壊した。

 だが左霧はこう思う。

 

「これで、良かったんじゃ、ないかな」

「左霧様……」

 

 ふっと双眸を細め、左霧は呟いた。今の今まで、何かが足りなかった。

 愛情だけでは人は繋がれない。愛は甘すぎるから。それはとても危険で癖になる味だから。

 何か、決定的な衝撃を与えることが必要だったのだ。

 

「桜子は、愛されることに慣れている。それはあの子の魅力がそうさせるのかも知れないけれど、それだけじゃ、ダメなんだ」

「そう、ですか」

 

 華恋は諾々と左霧の言葉を呑んだ。主がそう、と決めたらそれに従うまで。しかし、それを認めてしまったら、何かが壊れてしまうかもしれない。それが華恋は怖かった。

 怖い。結局、大人になっても怖いものは怖い。自分の情けなさを華恋は心の中で嘲笑した。

 

「今、桜子は生まれて初めて傷ついているのかもしれない」

 

 誰にでも愛される体質、とでも言えば良いのだろうか。気がつけば桜子の周りに人が集まってくる。

 愛してやまない。守ってあげたい。一緒にいたい。大切にしたい。

 人が関係を作る過程を飛ばし、一気に距離を縮めてしまう。

 それは、ある意味とても恐ろしい能力かもしれない。

 

「まぁ……約束を守れなかった僕が悪いんだけどね」

「きっと、兄を取られたと思っているのでしょうね」

「嫌われちゃったね」

「いいえ、桜子様は左霧様を愛しておりますよ」

「そうかな?」

「はい。ただ、今は焦っているのだと思います。今までこのようなことはございませんでしたから」

 

 霧島家に客人が来ることなど滅多にない。それも毎日入り浸っている雪子に警戒していたのだろう。夕方は雪子に付きっきり。夜は仕事の資料作り。会話らしい会話もなくなった。そんな兄の変化を何よりも恐れていたのは桜子だったのかもしれない。

 

「桜子様は大丈夫です。ですから、左霧様はどうかご自分のことをお考えください」

「自分のこと、か」

「あのお方が仰ってました。――すまない、と」

「そう……」

 

 左霧はいつも想像してしまう。本来、祝福されて生まれてくるはずの赤子が世界から拒絶されるという恐怖。存在そのものを拒まれた化物。生まれた瞬間に『あなたは存在そのものが間違っている』と母に囁かれた胎児。愛はなく、情もなく、慈悲もなく、救済もない。

 ――それでも、

 

「生まれてきてよかった」

 

 そう言った。一人の男。

 男はやがて女に出会う。歪な形ではあったけれど、相思相愛だった。幸せだったと思う。よかったと思う。例え、仕組まれたことだったとしても、愛し、愛されていたのだ。

 左霧は守らなくてはならない。

 男の意志を、女の約束を、

 それだけは、守りぬく。その為の今。その為の力。その為の『私』という存在。

 

「桜子を、お願いね。華恋」

「お任せください。私の命に替えましても、桜子様を立派な女子にしてみせます」

 

 これは今までとは違う。これからは変わっていかなくてはならない。自分も、華恋も、桜子も。

 この閉鎖的な環境を逸脱し、羽ばたいていかなくてはならない。

 幸せだった。本当に幸せだった。僅かな時間だったけれど、本当に楽しかった。満ち足りた日々だ。これらからもそれは続いていく。だけど、ああ、それでも、

 ――――変わらなくてはならないものがあるのだ。

 

 

 

「お邪魔しま……って庭、どうしたんですか?」

「……ちょっと気分転換、かな」

 

 雪子が霧島家を訪れると、左霧が既に立っていた。目を瞑り、じっと直立している。

 整った顔立ち、細いくびれ、高い背丈。

 

 黙っていると本当に綺麗な人だ、と雪子ですら感じてしまう。

 だが、それは少し怖さを帯びている。完璧すぎて、怖い。

 完璧な人間などいない。どこかしこに不完全さが残ってこその人間だ。

 でも、先生は――

 何を考えているのだ。私は。雪子は途端に我にかえり今の考えを撤回する。

 先生はとても不完全ではないか。いや、不完全すぎるではないか。授業はド下手だし、すぐどもる。情けない声を出すこともあるし、男同士で……不潔だ。

 不潔不潔不潔よ。そんなのはダメ、絶対ダメよ!

 とにかく、先生は完璧じゃない。それだけは確かだ。

 

「……今日も、筋力トレーニングですか?」

 

 雪子は強制的に頭を切り替えた。どうやら自分は変態チックな傾向があるみたいだと自覚した。自覚したが、認めない。こんなことがバレるくらいなら私は自殺を選ぶだろうと断言したい。決して、腐ってなど、いないのだ!

 

「うん」

「そうですよね、今日も女の子なのに筋肉鍛えるんですよね。女性なのに上腕二頭筋鍛えるんですよね。レディなのに腹筋をシックスパックに割れるように頑張りたいと思います(泣)」

 

 いけない。全く切り替わってない。むしろやる気がなくなってきた。最近、体が軽くなったような気がしたのだが、むしろ体重は増えていた。急いで体脂肪で測ってみたが全然前と変わらない。具代的な数値は言えないが、人間味のある至って、普通の女子高校生の平均……のちょっと上くらいだ。あれだ、きっと胸が(Aカップだが)大きくなったからだ。

 そんな言い訳が出来ないくらい雪子の体重は増えていた。絶望。女性にとって体重は、命の次に大事なほど割合が大きい。雪子は崖っぷちに立たされたような気持ちになっただが、どうやら筋力が増えてきたらしいのだ。道理で見た目は普通なのにいきなり数値が上がる訳だ。ふむふむ……。

 これなら問題ない。気にしなくてもOK!

 んなわけあるか!

 ――だが文句は言えない。それ以上に自分は魔術を学びたい、という気持ちが強いからだ。 

 例え、女性らしさを捨てたとしても、叶えたい願いが、夢がある。熱意もここまでくれば大したものだ。――かなりショックだが。

 

「じゃあ今日はセイレイを召喚してみようか」

「はいはい、今から腕立てしますから、しっかり数えてくださいね?」

「いやいや、雪子さん。そんな虚ろの目で僕を見ないでよ……。それに、もう一度言うよ? 今日は、セイレイを召喚してみようか」

「――――! 本当ですか!? 一、ニ、三!」

 

 雪子は腕立て伏せをしながら大いに喜んだ。

 やっと一歩進んだ。自分の努力が認められたのだ。

 ――セイレイ。遂にこの時がやってきた。魔術師はセイレイと契約することでようやく見習いとして承認されるのだ。

 

「本当だよ。けど、前にあったことを忘れてはいけないよ。悪魔もセイレイだってことをね」

「あ……」

 

 雪子は悪魔が嫌いだ。どうしてだか、生理的に受け付けない。恐怖の対象であり、外敵であり、駆逐する相手、とでも言えばいいのだろうか。

 とにかく一言では表せない。あの時の自分の体たらくを思い出して、雪子は恥ずかしくなった。まるで強者が弱者を虐げるように、自分は蹂躙されるところだったから。

 

「大丈夫だよ。もうあんなことは起こらないから。それに僕もついているからね」

 

 師曰く、人間という存在は脆弱に作られているらしい。もちろんこの自然界において、人という生命体は高位に準ずるものだ。

 だが、それはこの世界のみの話。

 人間は、神によってこの世界を支配する権利を与えられた。この世界は人の楽園であり、神の遊び場だと。

 神――。

 神とは何だろうか?

 

「――わかってます」

 

 何にせよ、ようやくここまでたどり着くことが出来たのだ。

 正直怖い、という気持ちがないわけではない。

 しかしそれよりも尚、追いかけたい夢がある。

 夢があるということは素晴らしい。こんなにも日常がワクワクするのだ。

 まるで、雪ノ宮雪子という生命体は魔術師になるために生まれてきたのではないか、と言うくらいに今の雪子は胸の奥に迸る思いを抱えている。

 

「精霊は高等種族。人の上に立つ者だということを忘れないで。だけど対等な立場での契約だからね。つまり、自分が低く見られてもいけないんだ」

 

 左霧は、庭に何かを書き込んでいる。木の棒を使い幼い子供が落書きをしているみたいで滑稽だ。だが、これはれっきとした召喚用の魔法陣。自分の血で書くなどという恐ろしいことをしなくても出来るらしい。

 やがて書き終わると雪子を中心に立たせた。そこで雪子は呪文を唱え、出てきた精霊と契約を交わす。

 ちなみに出てくる精霊は魔術師の特性によって変わるらしい。つまり性格などによって優しい精霊や怖い精霊が出てくるのだ。

 一度召喚した精霊とは絶対に契約を結ばなくてはならない。拒絶したり失礼な態度をとればそれだけで精霊は見下されたと思うからだ。そんなことになれば精霊は二度と人に力を貸さない。つまり雪子は魔術師になることが出来なくなる。

 ここが、勝負どころだ。雪子は高鳴る心臓を必死で押さえつけ、深呼吸し厳かに呪文を口にした。

 

「我、汝と契を結ぶ者なり。精霊王の名の下に我が前へ御身を現したまえ」

 

 空気が変わった。何者かが囁きあっている。小さな者大きな者優しそうな者恐ろしい者、万物の生命が、雪子を見定めている。

 精霊たちだ。この世界には精霊が溢れているのだ。雪子の目の色彩が変わった。

 ――妖精眼。

魔術師のみが持ち得る魔術師たるものの証。その眼が一時的に雪子の瞳に宿ったのだ。

 

「黄金の瞳……!?」

 左霧は驚愕した。雪子の瞳の色は異常だ。非常に珍しい、希少種。今まで見たことのない金色の両眼。

 

「求めるは真理! 我は、真理の探求者なり! 我は求める! 我は望む! この世の全ての英知を!」

 

 雪子の体は震えている。恐怖と興奮とが混ざり合った複雑な感情。抗えぬ、魔術師の血。混沌と破壊を望む者たちの血筋が、雪子の本能を刺激する。

 

「力を求める者よ。お前は何故に我を望むのだ?」

 

 どこからともなく声が聞こえた。ゆっくりとした落ち着きのある、厳かな声色だ。

 雪子の前に、精霊が現れたのだ。

 しかし光に包まれていて、その姿までは分からない。が、かなりのプレッシャーを感じる。未熟な雪子でもそれくらいわかる。

 こいつは、やばいな、と。

 

 左霧は踏み出そうとした。これはあまりにも危険な精霊だ。下手をしたら殺されるかもしれない。自らの生徒を、弟子に手出しする者は許さない。自分の全力をもってしてもとめる覚悟だ。

 

「待って、先生。話をさせてちょうだい」

「……だけど」

「――大丈夫。私、強くなりたいの」

 

 雪子は振り向いて笑った。その顔に、もう恐怖の色は見られない。

 どうやら雪子は危険がないと判断したようだ。精霊の本質を悟ったのかもしれない。

 

「――ほう、我を前にして臆さずにいられるか、脆弱なる人間よ」

「――お生憎様。私は頂点に立つべき人間よ。この程度のことで怯えたりしないわ」

「その頂点に立つべき人間が、我に何の用だと聞いている」

「簡単よ。魔王になりたいの。そのためにはあなたの力が必要。それだけよ」

「魔王とな! 何を望む? お前には地位も名誉もあるではないか。これ以上、一体何を望むのだ?」

「言ったでしょう? この世の全てよ。私は、私が思うように世界を支配したいの。――ついでにそこにいる男の契約とやらを解除したいだけ。簡単でしょ?」

「ワハハハハハ! 馬鹿な小娘よ! それはただの我侭ではないか!!」

「うっさいわね! 我侭だっていいじゃない別に! それに他の誰かが魔王になるよりも私がなった方が絶対にいいわよ。地球に優しい世界にしてあげる! あ、あと精霊にも優しいわよ、多分ね」

 

 目の前にいるのが精霊とは思えないほど気さくに話しかける雪子。左霧はハラハラしながらそれを見ている。だが、どうやら精霊は雪子のことが気に入ったらしく、友好的だ。

 その精霊が雪子を見定めている。そろそろ決定の刻だ。

 

「雪子とやら。世界はな、思った以上に悲惨だぞ」

「あっそ。なら楽しくしてやるわ」

「全てを知ることは絶望しか待っていないぞ」

「知らないでいるよりもよっぽどマシよ。そのためなら、神にだって挑んでやる」

「神に挑む、か……世界征服が目的か?」

「世界征服なんて誰も言ってないわよ。ただ、世界を私の言うことに従ってもらうだけ」

「……それを世界征服というのだ」

 

 精霊にツッコまれた、と雪子はちょっとショックを受けた。自分の言っていることはおかしなことだろうか。世界が欲しい。全てを知りたい。その為の力が欲しい。

 それは、いけないことなの?

 

「面白い奴だ――よかろう」

「――え?」

「何を呆けている。さっさと契約をかわせ、お前の精霊になってやろう。黄金の瞳を持つ者よ」

 

 喉がカラカラだ。体が熱い。心を震わせる瞬間というものは総じてこんなものだ。雪子は今にも破裂しそうな思いに抗うように落ち着いた声色で再び言葉を綴る。

 

「汝の名を――」

「我が名はセーレム。しばらくは、楽しめそうだな」

「冗談。忙しくて逃げ出したくなるかもね」

 

 セーレムと名乗った精霊は、雪子と契約したことで、その姿を現した。

 光の粒子が弾け飛び、地面へと落ちていく。

 黒い立派な毛並みとピンと張ったしっぽが特徴的。

 気怠そうな真っ黒な瞳がジッと雪子の方を見つめている。

 

「なによ、ただの猫じゃない」

「失礼な奴だ。私はただの猫ではない。精霊の猫だ」

 

 猫が喋った。そしてクワっと小さくアクビをしてキョロキョロと辺りを見渡している。

 

「おい、何をしている、さっさとお前の住処に案内しろ」

「命令しないでちょうだい。あんた強いのよね?」

「食事はキャットフードではないぞ。ちゃんとした物を要求する」

「聞きないよ!」

「そう慌てるな、何事も焦っては事を仕損ずると言う」

 

 ゆったりとした仕草で黒猫は雪子の下へ寄ってきた。雪子の目はもう元の状態へ戻っている。黄金の妖精眼を持つ特別な少女を珍しそうに見つめていたが、やがて半眼になり、ブツブツと文句を言ってきた。

 

「魔力不足だ……猫の体しか維持出来ん。全く、これだから半人前は」

「は? それ、私に言っているの? ちょっと何この猫保健所にブチ込むわよ」

「そこのお嬢さん。私はお腹が減っている。何か食べるものを要求する」

「こんにちは、セーレム。ようこそ我が家へ。でも僕は男ですよ」

「だから聞きなさいよ! あんたの主は私だっての!」

 

 左霧と和やかに会話を楽しみ、セーレムは霧島家へ入っていった。

 どうやら一癖あるらしい精霊のようだ。召喚初日から上手くやっていけるか不安すぎる雪子だった。

 何にせよ、雪子は一応精霊召喚に成功した。これでようやく先生のような魔術を使いこなせるようになる、と期待に満ちた想像をしていた。

 そしてその想像は見事に打ち砕かれることになるのだった。

 

「雪子さんは筋トレ再開ね。僕はセーレムに食事を出すから」

「雪子よ、しっかり励めよ。私を使いこなすには経験値があと1万P足りないようだ」

 

 先生はやっぱり鬼コーチでした。

 クソ猫はとっても偉そう。あと意味が分からない。

 魔術師って大変なんだなぁと、呆然とした表情で再び腕立て伏せを再開した雪子。

 それはまるで囚人が強制労働を強いられているように、虚ろな姿なのだった。

 



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団らん

「桜子様、左霧様はお忙しいのです。どうかご理解くださいませ」

「……そんなの知らない。おにー様は約束を破ったの。約束を破ることは悪いことなのよ」

「左霧様は好きで桜子様との約束を破ったのではありません。桜子様もわかっているのではないですか?」

「知らない! わたくし、わからないわ! そんなこと!」

 桜子は自室に篭ったまま布団に潜りこんでいる。布団の幅が今の桜子の許容範囲だ。そんな少女のそばに寄り、必死に宥めている女中。母と子のような関係に少し似ている。いや、それにしては華恋が優しすぎるのかもしれない。なにせ、少女は尊い存在なのだから。自分の主であり、自分の存在そのものの証である。少女が生きてこそ、自分という存在が成り立つのだ。

 運命共同体、とでも言えばいいのか。とにかく、華恋にとって桜子は何に代えても守り抜きたい主なのだ。

 しかし、優しさは時にとてつもない猛毒となる。この頃、それがようやくわかってきた華恋は、今の状況が明らかに桜子の我侭なのだと理解している。ならば、どうすればよいのだろう。

 少女を叱る? 叱ったところで、少女は納得するのだろうか。

 少女に同意する? それは結局何も変わらないままだ。

 ならば、自分は自分のやり方で少女を解きほぐすしかないだろう。

 

「桜様。いい女、になりたくはありませんか?」

「……いい女? 華恋みたいに?」

「まぁ……桜子様、勿体なきお言葉でございます」

 

 華恋はうっすらと頬を赤く染めた。その表情は確かに誰が見ても見惚れてしまうほどの魅力を持っている。大和撫子、とは華恋のような女をいうのだろう。

 そんな華恋を羨ましそうにジッと見つめ、桜子は呟いた。

 

「わたくし、早く大人になりたいわ。そしたらきっとおにー様もわたくしのことを見てくれるもの」

「ふふふ……心配しなくとも、左霧様はいつも桜子様のことを見てくれていますよ?」

「そうかしら? でもいい女になれば、きっとおにー様も放っておかないわ。わたくしはいい女じゃないから……きっとおにー様はわたくしのことを飽きてしまったのだわ!」

 

 わっと顔を覆って、再びしゃくり声をあげた桜子の体を華恋はそっと包み込んだ。小さな体だ。自分の半分くらいしかない少女。大好きな少女。

 私の生きる意味。私の存在全て。

 あの人の、忘れ形見。

 左霧様の妹。

 敬愛すべき、あの御方のご子息……。

 

「桜子様――いい加減になさいませ」

 

 抱きしめた手に、僅かな力を入れた。少女はほんの少し苦しそうに呻いた。華奢で、儚くて、脆弱だ。人間の、女で、子供でもある未成熟な桜子の体は、華恋が力を込めるだけで、簡単に押しつぶされてしまうだろう。

 

「華恋……苦しいよ」

「その苦しみ以上の苦しみを、左霧様は味わっておられるのですよ?」

「おにー様が? どうして?」

「桜子様に嫌われてしまったからです」

「うそ! だっておにー様は怒っていたわ! わたくしおにー様に初めて怒られたのよ!」

 

 ああ、なんて無知で無垢で愚かな少女なのだろうか?

 恨めしい、妬ましい、しかしそれ以上に、愛おしい。

 あの人の愛を一身に受ける少女。

 それが自分であったなら、きっと私は溺れてしまうだろう。だからこそ、少女には分かってもらわなくてはならない。

 あなた様は、こんなにも祝福されて生まれてきたのだと。

 

「怒られることが、嫌なのですか?」

「嫌よ! だって胸がギュってなって苦しくなるわ。こんなこと初めて。嫌、苦しいの……」

「愛しているからこそ、大切だからこそ、左霧様は、桜子様をお叱りになったのです」

「愛しているから?」

「はい」

「本当に?」

「ええ」

「そう……」

 

 華恋は上手く説明することが出来なかった。自分自身は左霧に怒られたことなど一度もない。いつも笑顔で、何をしてもあの人は笑って許してくれた。君は家族なんだ、そんなに固くならなくていい。そう言ってくれたが、あの人が心底、家族と認識しているのはおそらく目の前の少女だけだろう。

 

「わたくし、おにー様に謝ってくるわ」

「よくご決断なされました。それこそ、いい女の鉄則でございます」

「おにー様は約束を破ったけど、でも許してあげるの!」

「それこそいい女の条件でございます。許すことは、決して簡単なことではございませんから……」

「華恋にも難しいことなの?」

「大人になると、尚更難しくなるものなのです」

 

 ふーん、と不思議そうに顔を傾けた桜子に華恋は優しく微笑んだ。本当のことだ。年を重ねるとそれだけ意固地になって、自分の考えを曲げることができない。

 いつまで経っても自分は子供のままだ。あの時も、あの時も、あの時も……。

 もう遥か昔のことだ。記憶は掠れて、靄がかかっている。

 それでも、覚えている。ビックリするくらいに。鮮明に。忘れることなど出来なかった。

 

「華恋。お前は華恋だ。華やかに恋と書いて、華恋」

「華恋……」

「俺は恋などすることは出来ないが、そのぶん、お前には幸せに生きて欲しい。華々しく、恋をしてほしい」

 

 嘘。あなたは恋をした。許されることではなかった。禁じられたことだった。 

 だけど、あなたを引き止めることなど出来なかった。

 そうして、あなたの血は、こうして……。

 

「ありがとう華恋! 大好きよ!」

「……はい。私も――」

 

 少女のように愛らしく、伝えられたなら。

 少女のように可憐に、伝えられたなら。

 

「私も――大好きです」

 

 あなたは私に振り向いてくれましたか?

 

「おにー様ぁ! どこにいるのーー!?」

 布団から桜子が飛び出していく。まるで殻を破った雛のようだ。これから待ち受ける苦しみや悲しみを知らない。喜びも怒りも知らない。

 絶望も。

 希望も。

 

「何を考えているのやら……私も。もう、千百二十歳だというのに……」

 

 それでも、私はあの頃恋をしていた。ありったけの激情を抱えて。押し殺して。

 そして今も。これからも。ずっと先まで。

 あなたを、愛し続けるでしょう。

 

 

「――――様……」

 

 華恋の声は誰かを訴えている。この想いは、自分の心の奥底にしまいこんだまま鍵をかけている。

 だが、それでも時々宝箱の中身を開けてみたいのだ。大事に閉まった心の欠片を。

 繋ぎ合わせて、みたいのだ。

 一人残った一室で、華恋はしばらく動けずにいた。きっと朝の出来事が後を引いているに違いない。

 

「本当に、見れば、見るほど……」

 

 似ているのだ。あの人は、彼に――――。

 

 

 

 

「この家は居心地がいい。少々狭いが、ふむ……暖かいな」

「ありがとうセーレム。そう言ってもらえると僕も嬉しいよ」

 

 黒猫と左霧は二人で雪子の修行を見物している。緑茶と和菓子を携えながら、ゆったりとした午後のひとときを過ごす。まるで世界が止まっているかのように左霧には感じられた。

何も変わることのない風景。

 いつもどおりの時間。

 妹がいないのが少し淋しいけれど。いや、かなり淋しいのだけれど。

 それでも、この時が一番好きだ。日々の忙しい毎日の中で見出す、穏やかな時間は、何にも替えがたいのだ。

 

「お前、左霧と言ったか? 随分と不思議な体だ」

「そうですか?」

 

 黒猫は丸いマリンブルーの瞳でじっと左霧を観察していた。猫とは言えど、精霊であるセーレムに値踏みされるのは少々照れる。そんなことなどお構いなしと言わんばかりに更に近寄り、セーレムは左霧のそばへ寄った。

 

「なるほどな、二重の、封印、か? 一体何を押さえ込んでいるのやら」

「さぁ……なんでしょうね」

「ふっ……とぼけおって。まぁいずれわかることだ。それよりも、あれは何をやっているのだ?」

 

 唯一、この静かな時間に溶け込むことのできない女いる。うんうん言いながらひたすらに腕立て伏せをこなしている若い女を、うるさそうにセーレムは睨んだ。

 

「腕立て伏せだよ」

「なぜ?」

「訓練だよ」

「訓練? これが? うむ、人間は実に非効率的なことをするのだな。この程度の責め苦で魔力が上がることなど全く有り得っぶぐ!?」

 

 セーレムが何かを言いかけると、さっと左霧は抱きかかえその口を塞いだ。そして苦しそうにもがくセーレムの耳にそっと呟いた。

 

「これでいいんだ」

「これでいい?」

「そう。セーレム、君はなぜ雪子さんと契約したの?」

「…………」

 

 一人と一匹は、汗を拭いながらスクワットをする雪子を見守っている。その目には熱く煮えたぎる情熱を抱えているように見える。

 欲望と野望、という言葉が似合っている。まさに魔術師にとして生まれてくるべき素材を持ち合わせているのだ。

 

「雪子の気概が気に入った。それに――――」

「あーーーーー!! もう無理、キツい、熱い、汗臭い! 私って不幸! 足がパンパンに腫れ上がっちゃった! 腕も引きつってる! 女子力なんて糞くらえよ!」

 

 泣き言を喚きながら、それでもひたすらに足を動かし、腕を動かし、その並外れた身体能力を酷使する。

 機械のように。人形のように。

 だが、人間らしい。感情が豊かな女だと、セーレムは思う。もちろんうるさい女とも思わざるを得ない。

 

「桁外れの、魔力量を持っている。私が契約した一番の理由だ。潜在能力も凄まじい」

「やっぱり、ね。そう思ったよ。雪子さんの魔力量に飛びつかない精霊はいない。悪い精霊に憑かれる可能性も、ある」

 

「なるほど、私を疑っているのか」

 

 セーレムはすっと美しい四本の足で立ち上がり、魔力の波動を左霧に向かって放つ。それは左霧にしかわからない、殺気。精霊に無礼を働いた左霧に対する怒り。気高く、高潔な血を侮辱した憤怒の念を感じ取れた。

 

「実に、不愉快だ」

「ごめんね。僕は教師だから、生徒の安全性に確信が持てなければ残念だけれど、君を始末しなければならない」

「出来ると思っているのか、貴様ごときに?」

「出来る、出来ない、じゃないんだ――――やらなければならないだよ」

 

 強い、波動を感じた。いや、魔力の波動ではない。実際、この目の前の人間の魔力量は対して比ではない。凡人よりも少し優秀なくらい、とでも言えばいいのか。

 だが、なんだろうか。

 セーレムには理解できそうにない。人間の『真似』をした何かは、強い意志も持っている。

それは決して崩すことの出来ない不屈の闘志。

 何を、そこまで――――。

 

「おにーさま! おーーーーーーにーーーーーさーーーーーまーーーーー!!」

「桜子……へぐっ!?」

 

 いきなり現れた小さな少女の、格闘家もさながらなタックルで一発ノックアウトされる左霧。少女に悪気はない。あったとしても笑って許してもらえるのだが。

 

「おにーさま、ゴメンなさい!」

「桜子……僕こそ、約束を破ってしまったごめんね。君を悲しませてしまった」

 

 少女を抱きしめて、その頬を自分の頬にくっつける。甘い香りがした。柔らかい感触がした。何もかも、守れる気がした。

 

「うん、許してあげるわ!」

「本当に?」

「本当よ、おにー様! ねぇ、桜子はいい女かしら?」

 

 しばらく妹の放った言葉に呆然とし、そして笑った。この策謀を思いついた女に感謝の念を表すとともに、妹の成長を心から祝福する。

 

 こうやって人間は成長していくのだ。傷つき、悩み、考えながら……。

 

「そういうことか……」

 

 セーレムにとっては取るに足らない出来事だ。なんてことはない。一人の人間が、一人の少女を守る、というどこにでもある物語。

 自分の守りたいものよりも、遥かに劣るではないか。

 ならば私とこの人間の違いはなんだろうか。

 私は、何を間違えたのか……。

 

「私は、取り戻したいのだ」

 

 黒猫は、双眸を左霧に向けて喋った。かつては強大な力を持ち、従う者もいた。

 だが、セーレムは敗れたのだ。

 

「その為には、力が必要だ」

 

 左霧は何を思ったのだろう。その黒猫の姿を見て、少し悲しそうな顔をした。しかし何も言わなかった。セーレムにはセーレムの、左霧には左霧の事情がある。その壁を通り抜けていいのは、きっと――――。

 

「先生、終わったわよ!」

「ご苦労さま。とりあえず今日はここまでにしておこう。さぁ上がって、お昼ご飯にしよう」

「私に庶民の食事をさせようってわけ?」

「いらないの?」

「……がっつりいただきます! ああもう! また筋肉が付いちゃうわよ!」

「雪子さんも許してあげるわ!」

「はぁ? 何言ってんのこの子? まぁいいわ、もうヘトヘトで文句言う気力もないわよ」

「情けない、ならばさっさとおウチに帰りなさい、女狐」

「あーうっさいうっさい! おじゃましまーすっと!」

 

 食事は楽しく。分け隔てなくいただく。そこには上下の関係もなく、種族の関係もない。

 お腹が空いたという、当然の機能が働くだけだ。

 だからこそ、食事はいい。

 だってこんなにも、楽しく、

 

「汚い! ちょっと先生! 妹の躾がなってないわよ!」

「よしよし桜子、こっちに顔を向けて」

「おにー様、桜子はいい女かしら?」

「とっても可愛らしいよ!」

「女中、私はキャットフードが嫌いなのだ、ねこまんまにしてくれ」

「微妙な注文をしてくれる猫ですね……」

 

 こんなにも笑顔をくれるのだから。

 



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聖母

平穏な日々。

 学園は楽しい。生徒は賑やかで、私も釣られて笑顔になってしまう。

 こんなに充実した毎日は初めて。生きているって心から感じられる。

 今日は色んな質問を投げかけられたの。相変わらず、私の国語はダメダメだけれど、生徒たちは笑って許してくれるの。だけど、今日の質問はちょっと戸惑った。こんな日も、あるんだなって思った。人の成長って、驚く程早いのね。桜子然り、生徒然り。

 

 今日ね、言われたの。

 先生、私たちは、何のために勉強をしているのかって。

 将来のため、未来のため、自分のため――――そんなありきたりの言葉が思いついた。

 だけどその生徒の瞳を見たとき、それは違うって思ったの。彼女はどうして勉強しなくてはならないのか、と訴えているのではない。その先の、もっと尊い何かに対して疑問を抱いていたのだ。

 例えば、そう。こんなことは、先生である私が決して口に出してはならないことだけれど。あなたは別よ。だって心に思っていることも全部筒抜けだものね。全く、困ったものだわ。

 帝国、というこの国の体制に対して、彼女は訴えかけていたのよ。そして、生徒たちが過ごすであろう最後の楽園で、彼女は未来に不安を覚えたの。自分はこの先、どうなってしまうのかということに。

 おかしな国よね。この国では一八歳になったら否応なしに女は男と結婚をしなくてはならないのよ? それも国が決めた相手と。百歩譲っても親が決めた相手と。時代錯誤も甚だしいわ。

 え? どうしてそんなにムキになるのかって? ええそうね。あなたもそうだったわね。あなたの場合は特に、ひどかったわね。

 自分の滅ぼした一家の娘と、結ばれたのよね。

 あの子のあなたを見る目は狂気に満ちていたわ。だってそうよね。目の前で父親が腐っていき、母親がだんだん白骨化していくんだものね。

 さぞ、怖かったでしょう。さぞ悔しかったでしょう。さぞ、悲しかったでしょう。さぞ、惨めだったでしょう。

 だけどね。不思議ね。本当に不思議。

 あの子は、あなたを愛してしまった!

 一体どうしてそうなったのか、本当にわからない。

 きっと私の知らないところで何かあったのでしょう。今更、根掘り葉掘り聞くことはしない。

 ――――分かっている。あまり油断するなということでしょう。

 ええ、そうね。私はあなたの身代わりで、あなたの体を使い、あなたの人生を送っているのよね。そんなことわかっているわ。何もせず、ただ殻に引きこもってしまったあなたの代わりに私が。

 え? 何でそんなに不機嫌なのかって?

 私の庭園、めちゃくちゃにしたでしょ。

 いいえ、怒ってません。仕方がないですからね。私の不注意だものね。また作り直しだけどね!

 ――――ゴメンなさい。本当はわかっているの。私が全部。悪いんだって。

 だけどあなたくらいになら本音で話してもバチは当たらないと思うの。

 男口調で話すことも嫌。

 スーツを着るのも嫌。

 男子トイレに入るもの嫌。

 教頭先生にセクハラを受けるもの嫌。

 女らしくしたい。

 可愛い服を着たい。

 お化粧をしてみたい。

 

それくらい、いいじゃない。

嫌な私。どんどんワガママになっていくの。

だけど、怖い。男の人って怖いのね。

この前、東野先生……生物科の先生に接近された時、足元がすくんで動けなかった。

顔が熟れたトマトのようだったって?

違います。この程度で恐怖を感じてしまった自分が恥ずかしかったの。決してそんな気はありません。

そういえば、私が誕生してから男の人と会うことってあなた以外ではなかったわよね。

不思議、どうしてあなたとは普通に話せるのかな?

 

兄妹だから? あなたと兄と思ったことなんて一度もないんだけど……。

本当は桜子からもお姉さまって呼ばれてみたいな。

だっておにー様はあなたじゃない。じゃあ、私は、何? 一体私の存在は何なのかしら?

 

 別に女でいても構わないって? それが許されるのなら、どんなに嬉しいか!

 

 だけどそれはダメなの。

 私はあの子の兄でいなくてはならないの。

 霧島に私の居場所はないの。

 霧音様の命令だから。

 あなたの――お母様よ。

 もう随分会ってないわよね。電話越しの声は昔よりも弱々しく聞こえたわ。

 心配? そうよね。実の母だものね。

 あなたを生み、

 そしてあなたを殺そうとした。

 イカれているわ。あなたも、あの人も。

 この親にしてこの子ありってことかな? あなたはあれを封じ込めるために自らの体を差し出した。霧音様はあなたを封じ込めるために私を作った。

 禁じられた秘宝で、私の心を作った。

 あなたは世界を滅ぼす者よ。誰がなんと言おうが、あなたは悪であり、この世に存在してはならない者。

 魔術師の抗争がまた始まりそうよ。

 弟子がね、随分やる気なの。

 可愛い子よ。私の生徒。ちょっと怒りっぽいけれど、素直で真面目なの。

 会ってみたいって? 言っておくけど、人の生徒にちょっかい出そうなんて考えてたら、いくらあなたでも殺すわよ。

 

 そろそろ朝よ。今日はね、会議があるの。忙しい忙しい。

 魔術師たちが動いているわ。愚かな人間たち。ひ弱で、脆弱で、欲深い。罪人たちが。

 そう、天王寺が策を練っているらしいの。どうやら魔術師として馬脚を現してきた雪ノ宮が目障りなのでしょうね。

 やらせないわ。やらせはしない。

 私は、守ってみせる。雪子さんを、仲間を、あの子を。

 せいぜい傍観しているがいいわ。高みの見物はさぞ気分がいいでしょうね。

 桜子を頼むって? ほんと、そればっかり! 

 ええ、もちろん。あの子は私の命に代えても守ってみせるわ。

 あなたを殺せる唯一の人材だものね。死にたがりの道化さん!

 あなたはあの子以外に興味なんてない。

 あなたは全てに飽きている。

 そんなに彼女が大事だった? あの子はあなたの瘴気に当たられて死んだの。

 あなたのせい。あなたのせいよ。全部あなたのせい。

 だけど、幸せそうな最後だった。きっと天使になれたわよね……。

 私は天使になんかなれやしないわ。人をたくさん殺した。あなたも人をたくさん殺した。

 あなたは奈落に落ち、私は地獄に落ちるでしょう。

 せいぜい楽しみましょう。この時を、この時間を、人の生活を。

 まぁあなたが表に出ることはあまりないでしょうけれど。

 とりあえずは、そう、魔王争奪戦と行きましょうか。

 ええ、私も演じてやるわ。

 光の魔術? そうね、私は光の魔術師。

 落ちた聖者。

 願わくは、世界に祝福を。神に――

 神に、裁きを。

精霊王に、死の断罪を。

 

 

 

「今日皆に集まってもらったのは他でもない。遂に奴らが仕掛けてきた。雪ノ宮の護衛……つまり学園の教師が二人重傷を負っている。おそらく後遺症も残るほどの傷だ。先週皆に伝えたと思うが、事態は悪化しつつある」

 

 ここは、学園の地下。会議室にしてはいささか大きすぎるその一室には、ほぼ全ての先生たちが集められている。

 ほぼ、といったのは、この会議室に席に座れる者たちは限られているからだ。

 保健医の竜胆(りんどう)涼子(りょうこ)。

 数学科の加賀(かが)英(ひで)孝(たか)。

 生物科の東野(とうの)時雨(しぐれ)。

 社会科の篠田加奈女

 そして英語科の砂上(すながみ)百合(ゆり)。

 全ての者の目は学園長に向けられている、と思いきや、全く別に人物を写していた。

 ある者は驚愕の目を、ある者はおかしそうに、ある者は興味なさげに、ある者はにこやかに、ある者は暗い瞳を、ある者は――悲しげに。その人間を見つめていた。

 

「紹介が遅れたな。既に皆は知っていると思うが、こいつは霧島の人間だ。霧島、という言葉に皆、様々な感情を抱いていると思うが」

 

「人殺し」

「鬼の一族」

「女系家族」

「絶世の美女、美男子がいるとか」

「親子でまぐわうってほんとかしら?」

 

 根も葉もない噂が飛び交う。それらは、この時代に孤立してきた霧島家に対する非難の言葉ばかりだ。

 仕方がない、と左霧は割り切っている。霧島はたくさんの人を殺し、成り上がってきた一族だからだ。今よりおよそ三百年前、魔術師が盛んに勢力を争っていた時代より一族の当主たる者の手によって潰してきた家系およそ千を超えると言われている。また、その手口は闇討ち、毒殺、魔術を使った卑怯極まりない手口がほとんどだ。プライドの高い魔術師たちから毛嫌いされるのは慣れていた。

 

「やめてください、先生方。霧島先生の紹介が終わっていません」

 

 教師たちの嫌な視線からかばうように砂上百合は言葉を発した。しかしその目はどこか悲しげだった。なぜあなたがここにいるの? そう問いかけているかのようだ。

 その視線を見通すように、左霧は前に立ち自らの正体を明かす。教務室で話していた職場の同僚たちではない。魔術師として。同じ人たちであるはずなのに、ここにいる者たちはそれぞれ裏の顔を持っているのだ。表は善良な教師としての仮面。裏では利益を貪り、己の欲望のままに突き進む魔術師の仮面。

 そして、『彼女も』また――――、

 

「霧島、右霧よ。私の性別は女。私は霧島左霧という男の体に宿る精霊。光の精霊よ」

 

―――――――――。

 空気が変わった。それまで嘲笑を浮かべていたものの顔が固まる。それほどまでに霧島右霧という者が放った言葉に衝撃を受けているのだ。

 言葉だけならば信じてもらえなかったかもしれない。だが、彼女から感じる桁外れな力の波動は、神聖にして犯すべからず、と思わず口に出してしまいそうな神々しさ。

 精霊そのものなのだ。

 

「精霊が、人の体に宿る?」

 

 竜胆涼子はそれまで不審げに見つめていた瞳を大きく開いた。当たり前だ。精霊は人間と契約を結び、主の持つ活力と引き換えに、魔力を提供するのだ。精霊と人間は対等な関係でなくてはならない。だが、精霊の持つ激しい気性やプライドは本来それを許さない。   よって、結果的に精霊は人間をいい餌として扱うようになるのだ。

 それが、一般的な自然界のルールとなる。精霊は、尊い存在なのだ、と。

 

「これは驚いた! 精霊が人間などの体を借りて現れるなんて! 霧島家は魔導兵の研究を続けていたのか?」

 

 加賀英孝の言葉に、一同は息を呑んだ。今の言葉は、決して口に出してはいけないワードだ。

 魔導兵――――精霊の力を人間に宿した者。精霊を捕獲、または屈服させ、その器を人間と交じり合わせる。幾度もの契によって、力を吸い尽くされた精霊は己の器が消滅し、その魂だけが残る。

 それは、精霊の本体。器はかりそめに過ぎない。

 これを『魔石』と呼ぶ。

 

 痛ましいことだ。気高い精霊を痛めつけ、その体を貪り尽くすことなど。決して許されることではない。

 その実験を行った者たちはいずれ天罰が下ることだろう。

 天が、公平ならば。

 

「勘違いしないで。私は別に人間に屈服したわけではないわ。それに、今でも人間という存在が嫌いだし、汚らわしいと思っているの」

 

 右霧は侮蔑の言葉と、嘲笑を教師一同へ向けて放った。冷たくも美しい表情だ。一体、これが昨日までの本人なのだろうか? まるで態度や仕草が違う。触れたら肢体ごと切断されてしまうのではないか、と思わせるほどに殺気を放っている。

 

「なら、なぜあなたはその嫌いな人間の体に宿っているの。光の妖精さん」

 

 起伏の感じられない声色で眼鏡を光らせたのは篠田加奈女だ。衝撃的な事実が露見したにも関わらず彼女は先程から一向にいつもの態度を崩さない。興味がないのだろうか。しかし、右霧に問いかけた以上は少なからず眼中には映ったということか。

 

「それは――――分からない」

 

「分からない? つまり、あなたは人に訳もわからず従っているというわけ? 精霊が、人間に? ありえないわそんなこと!」

 

「従っているわけではない。私は、私の意志で、彼の体に宿っているの。それは、私にしか出来ないことを成すため。彼の、そして世界の破滅を防ぐために」

 

 砂上百合が叫ぼうとも、精霊右霧は少しも動じない。冷徹な、鋭いう口調。あの笑顔が素敵な左霧先生などでは決してない。こんな顔を生徒たちが見たらどう思うだろうか。きっと嫌われるに違いない。今はそれが、それだけが、右霧の恐怖となっている。

 可愛い教え子たち、可愛い弟子。そして可愛い私の妹。それだけが、右霧の守るべき者たち。

 

「意味がわからない。君は一体なにを――――」

 

「東野、それ以上は聞くな。今はそんなことはどうでもよい。それよりも天王寺だ。奴らを殺す算段を考えろ」

 

 話は雪ノ宮学園長の一言で区切りがついた。そして殺す、という言葉を簡単に発した。

 学園長は静かに怒りを募らせている。自らの部下を二人、重傷に追いやった者たちを報復せねばならない。それは上に立つべき者のけじめであり、自らの感情を優先したわけではないのだ。

 目には目を、歯に歯を。

魔術には魔術を――――。

 教師が、聞いて呆れる。右霧は心の底で周りの人間たちを嘲ける。そして自らも、その同胞の一部に過ぎない、ということに反吐が出そうになる。

 やっていることは、ヤクザの縄張り抗争と対して変わりはない。

 違うところと言えば、圧倒的な火力と、頭の狂った者たちが大勢いることくらい。

 

「東野が伝えたとおり、皆で大規模結界を張る。何びと足りとも我々の学園に近寄らせるわけにはいかん。生徒たちの楽園を壊す者たちに容赦はするな」

「だけど、相手は天王寺ですよ? 規模が違いすぎる。本気で来られたら、太刀打ち出来るレベルではないわ」

 

 竜胆は保健医らしく保守的に発言した。こちらの魔術師が七人。相手の規模はおよそ一〇〇を超える勢力の差だ。まさか全員で襲ってくることなどありはしないが、それでも危険性を考えるならば当然の問題だろう。

 

「結界を張ったくらいで勝てるわけないでしょう? 守りに徹した地点で負けは目に見えてますよ」

「だったら何か方法はあるの?」

「それをこれから考えるんですよ」

「使えない男。理系男はこれだから」

 

 加賀が得意げに演説をかましたが、別段解決論が出たわけでもなく、砂上はいつものことだと溜息をついた。この男は、やれ数式は美しいやら関数は究極の真理やらと生徒たちに日常的に語りかけているようだが、生徒の通知簿には残念ながら反映しない。要は自分で発言したいだけなのだ。今回もこうやって偉そうに自分の意見を言いたいだけ。それを見据えたかのように篠田はぼそりと毒舌を吐く。

 

「むしろ学園に誘い込むのはどうですか? 敷地内に罠を仕掛けて一網打尽にできます」

 

 東野はここぞとばかりに口を開いた。極めの細かい端正な顔つきは、真剣そのものだ。社会人として初めての職場であることは左霧(右霧)と変わらない。そして、自分に流れる魔術師の血も、彼は受け入れている。

 

「それは絶対にダメよ、東野先生。生徒を危険な目に合わせることは一番やってはいけないことのはずです」

「学校は休校にして、その間に事を終わらせることも可能です」

「校舎の建て替えとか、適当に理由をつけて、か」

「おいおい、学園長である私がいるまで、随分と物騒な話をする。まぁ出来なくもないが……どうやら、もう一人の新人は、不満なようだぞ」

 

 雪江は喉をならし、先程から渋い顔を見せる右霧を見ている。どの意見も不満なようだ。根本的に間違っている。おそらく、雪ノ宮の魔術師は実戦経験が少ないのだ。どれも受け身な態勢を取り、攻めようとしない。

出方をうかがっている地点で負けだ。それはつまり情報で負けていることだから。

どれほどの人数が、今この町に滞在しているのか。どのような魔術を得意とするのか、弱点は何か……。

戦に必要な情報が、欠落しすぎている。

 

「霧島家の、次期当主として発言してもよろしいでしょうか?」

「構わん、言ってみろ」

「腑抜けはいらない。さっさと元の居場所に戻りなさい。命など、その禁断の力を手にした時に捨てたはずよ、目を覚ましなさい、雪ノ宮の魔術師たちよ」

 

 誰もが言い返せない。どの者も、この力を手にした時にそれを捨てる意思を持っていたはずだ。

 だが、彼らは人間なのだ。

 臆病で、弱くて、自分のことばかりしか考えられない。

 理屈ではなく、そういう風に作られているからだ。

 自分を大切にし、そして他の者を大切にし、力を合わせることのできる存在。

 

「攻める、とでも言うの? 一体どこに? いえ、そもそもどうやって?」

「場所は西区の天王寺領。ここは今手薄で攻めるにうってつけ。二人ほど割いてもらえれば、私が情報を持って帰るわ」

「なぜ、そんなことを知っている? まさか天王寺と繋がっているのではないだろうな?」

 

 砂上と加賀の質問に、右霧は首を振って答えた。なぜここまで天王寺の情報に詳しいのか疑われることは分かっていた。ただでさえ、他家の者がこの雪ノ宮の領地に土足で踏み込んでいるのだ。

 敵か味方か把握出来ない者の言葉など信用できるわけがない。

 

「天王寺――天王寺秀(しゅう)蓮(れん)が床に臥せっていることは知っている?」

「なっ!」

「まさか、あの天王寺の当主が?」

「爺だもの、そろそろ老衰してもおかしくない」

「だけど、帝国最強と謳われた魔術師が倒れたってことは」

「今、天王寺は内部抗争中ってこと……!」

 

 会議室は今までで一番ざわついている。形勢が逆転しつつある。今、天王寺は他の派閥が当主の座を巡っていざこざが起きている。おそらく雪ノ宮を襲った連中も、派閥の一部だろう。ということは、その派閥を潰したところで天王寺には何ら被害は出ない。むしろ潰してくれたことに感謝されることもありうるのだ。

 そうなるとますます怪しいのは、霧島右霧だ。ここまで、誰も知りうることの出来なかった天王寺内部の情報をペラペラと口にする魔導兵。

 霧島の、大量殺戮兵器はうっすらと赤い唇を尖らせて答えた。

 

「苦労したんだけどね。右目をえぐってやったわ。あと体もボロボロでしょうね、彼の瘴気に当てられちゃったから、もう長くない」

「……倒した、とでも言うの? あの無敗のご老体を!?」

「もう数年前の話よ。よっぽど知られたくなかったのね。わかったでしょう? 攻めるなら今よ」

 

 全ての者の見る目が変わった。まるで怪物か何かを見るような目。わかっていた。こうなることも。分かっていた、私は絶対、誰にもなれないということを。

 私たちは人になることは出来ないってことくらいは。

 

「――――それで、お前は味方なのか?」

 

 誰もが口を閉ざすなかで、雪江は疑問をぶつけた。

 そう、まず確認しておかなくてはならないことだ。一番初めに聞いておかなければならなかったこと。

 だけど誰もが彼女の言葉に言いくるめられ、聞くことに躊躇した。

 雪江もその一人だ。だが、自分は雪ノ宮の当主。霧島右霧がどれだけ恐ろしい人物だろうと、敵である以上は始末しなければならない。

 

「人間はよくそれにこだわる。敵か味方か。結局信じられるのは己のみだということに気がつかない」

「確かに人間は臆病だよ、右霧。だがね、君の考えは少し悲しい。それはきっと強者のみが口にすることが出来る言葉だ」

 

 悲しい、という言葉、そして雪江の悲しげな表情に右霧は怒りを感じた。まるで右霧を哀れんでいるようだ。

 冗談ではない。人間に同情されるなど。 

「私は、私の願いを叶えるためにこの場所にいるだけ」

「願い、とは?」

「私の大切な人を守る。それ以外は皆、敵。殺すだけよ」

「母性に狂った精霊……か。なんとも、不思議な存在だよ」

 

 母性、そんなもの、右霧は知らない。

 気が付いた時には彼を助けていた。目が覚めた時には彼と同化していた。

 それまでの記憶が一切ない。だから右霧という名前も、場所も、全てあの人が作った。

 唯一、右霧が得ることの出来た心。

 それが、母性だというのなら。

 きっと私はどこかで母親だったのかもしれない。

 大好きな人がいて、大切な子供がいて、暖かい場所があったのかもしれない。

 何も思い出せない。

 だけど胸が熱い。

 私は、今この人を守らなくてはならない。

 私は桜子を守らなくてはならない。

 私は生徒を守らなくてはならない。

 そのために、手を汚すことに、なんら躊躇はない。

 私は狂っているのかしら? 左霧。

 あなたを見つけた時に、私はもう狂っていたのかしら?

 ああ、でも心が満たされるの。

 誰かを守ることに、私は私を感じることができるの。

 

「まるで、聖母のようだ。だけど、君は……」

 

 右霧は手を前に当て祈るような仕草をした。それは天の民ですら恥じらうくらい美しい姿だった。 

 だが、東野時雨は違う見解だった。

 美しくそして気高い光の精霊は、どこか歪だ。

 その姿からはどこもおかしな風には見えない。

 しかしその奥。押し込められ、鬱屈した感情は膿のように溢れだそうとしている。

 いずれ、相まみえることになるであろう。

 そう、予感せずにはいられなかった。

 

 



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 休校、などという言葉を聞いたのは六月に入る初夏。うっすらと汗をかくほどの気温とジメジメした空気。雪子の大嫌いな季節がやってきた。

 大嫌いな季節、などと言ったが、雪子が嫌いな季節は夏、冬。暑くて、寒いのが嫌い。ようは自分が快適に過ごせる季節以外は嫌いな部類に入るという至極簡単な仕分けだ。

 誰しもが、これから訪れるであろう猛暑を潜り抜け、そして秋に肥え、冬に備える。

 そんな予行練習的な季節の到来。小学校の教科書には夏みかんの香りが素敵だ、と書かれていたことがあった。太陽に照りつけられ、酸味が和らいだ甘蜜柑は冬のそれよりも一層美味しく感じられる。

 大嫌いな季節を楽しく過ごすための秘訣は、とにかく贅沢をしまくることだと雪子は思っている。つまり、エアコン全開だったり、アイスを買いだめしたり、外にはなるべく出ないようにしたり……。

 だが、今年の夏は違う。今年の夏は何かが違う予感がする。具体的には自分にとって幸せな時間がごっそりと抜かれそうな、死の淵をさまようほどの出来事が起こるような気がする。灼熱の太陽に照らされながら腕立て伏せをひたすらさせられたり、マラソンを吐くほどやらされたり、海水浴と称して遠泳に出かけることもあり得る。先のことを予想すればするほど気が滅入る。

 そんな時に、拍子抜けするような事態になった。

 夏休みにしてはいささか長い休暇だ。それも入学してからおよそ二ヶ月ほどしか経っていない。にもかかわらず校舎の建て替えのために休校なのだとか。

 あの、新品同然の学園を、一体どのように建て替えるというのだろうか。また母がワガママを言って変な建造物でも作る気ではないだろうか。

 だが、雪江は生徒たちのことを何よりも大事にしている。自分のことは言うまでもない。そんな雪江がいきなり休校など許すわけない。よしんば許したとして、生徒たちの最後の楽園と称した生活を閉ざすことなどあるわけがない。

 何かあった、としか言い様がない。教師たちの様子がどうもおかしい。ここ何日か自習の時間が頻繁に行われ、嬉しいやら悲しいやら、やっぱり嬉しい時間が増えていた。

 

「雪子さんは、何かご存知ありません?」

「えっ? 私?」

 

 クラスメイトに話しかけられたことに思わず驚いてしまった雪子。それもそのはずだ。この万年不機嫌そうな顔をしているぼっち女に近寄ってこれる者など、よほどの猛者かうつけのどちらかだ。

 雪子だってそう思っている。だが、あえてそれを治そうとはしない。こうしていた方が楽なのだ。皆でがやがやすることはあまり好きではない。

 いや、違う。それだと一人が好きだという言い方になってしまう。決してそうではないし、孤高を気取っているわけでもない。

 ただ、自分が周囲にいると気を使ってしまうから。

 雪ノ宮という力は他の財閥や企業とは比べものにならないほど強力な効果を発揮するのだ。

 

「……ゴメンなさい。母とは最近話してないの。忙しそうで」

 

 本当のことだ。事実、雪江の帰りはかなり遅い。いつも夜中の十二時を過ぎたくらい帰ってきて、部屋に戻る。そして部屋の灯りは全く消えることがない。いつ眠っているのかすら把握できないほどに母親は多忙なのだ。

 

「そう……私ね、何か嫌な予感がするの。雪子さん」

「嫌な予感?」

「こんなことを言うと信じてくれないかもしれませんが、私、昔からよく胸騒ぎがすると悲しい事件が起こるの」

 

 女子生徒は悲しげに俯いた。雪子と同じくらいの身長に、透き通るような白い肌。顔の僅かなそばかすがとてもチャーミングだ。ショートボブに切られた茶色の髪は、どこかあどけない少女の姿を残している。

 

「えっと、ゴメンなさい、私、名前――」

「ううん気にしないで。私目立たないから……藤沢翔子と申します」

「藤沢さん、ね。覚えた。もう忘れないわ」

 

 何だか不思議なやりとりだった。目立たないと言いながら雪子という異質な存在に声をかけた少女。はにかむような笑顔がとても印象的だ。

 何だか夢を見ているような、不思議な夕方。女子生徒たちは初めての会話にも関わらず、気付けば小一時間は話し続けていた。

 

「私は信じるわ、藤沢さん。あなたに不思議な力があるってこと」

「雪子さんなら、そう言ってくれると思ったわ。よかった話しかけてみて……」

 

 ホッと胸を撫で下ろす翔子。そんな翔子に、自分も実は魔術師の卵で、今修行中なのだ、と伝えたら、この子はどう思うだろうか。

 きっと彼女も信じてくれるだろう。

 だが決して口には出来ない。それは禁じられた掟だからだ。

 魔術師は、その姿を明かすことを禁じられている。

 いつ、どこに、敵が潜んでいるか、わからないからだ。

 やがて辺りが暗くなりかけると、雪子たちは合わせたようにカバンを肩にかける。今日の修行は中止だった。左霧先生は教務室で他の教師たちと何やら一日中話しているようだ。今朝から全く教室に顔を出すこともなかった。担任の百合先生もだ。

 何かが、おかしい。そう言われてみれば自分も何かを予感していたのかもしれない。不意に雪子も言いようのない不安に襲われた。

 

「私、もう行かなきゃ」

 

 翔子は立ち尽くしていた雪子を置いて教室のドアを開いた。その間にまるで何か長い時間が過ぎたかのような錯覚に襲われた。さっきまでの暖かな雰囲気とは違う。お互いに何かを予感するように、時計の針は時間を刻む。

 

「藤沢さん、また会えるわよね?」

 

 何を言っているのか、と雪子は言葉を発してから愚かな質問をしたことを恥じる。クラスメイトなのだから当然明日も会えるはずだ。どうやら頭が緩みきっているらしい。早くも初夏の暑さにやられてしまったか、と落ち込んだ。

 

「きっと会えますよ。私たち、きっと」

「うん、休校、明けたら、またお話しましょうね」

「すぐに会えますわ、すぐに――」

 

 翔子がいなくなった瞬間、教室は夢から覚めたように暗くなった。

一人ポツンと佇んでいる雪子は、さっきあったことなどまるで思い出せない。

 

「やばい、疲れているんだ。今日は早く寝よ……」

 

 どうやら自分は教室にずっと一人でいたらしい。時刻は夜の七時を回っているどうせ今日も母の帰りは遅い。一人で食べるご飯は最悪にまずい。ならばどうすればいいだろう。

 帰り支度を手早く済ませた雪子は、結局帰宅することを取りやめ、再び椅子に座った。 

 

「そうだ、先生の家に行こう」

 

 タダ飯、などという言葉に、気高い雪ノ宮の娘が踊らされたわけではない。弟子なのだからそれなりの配慮はしてもらえるだろうという浅はかな考えがあるわけでは、決してない。

 淋しい、などということも決してないのだ――――。

 

※※※※※※※※※

 

「どうしてあなた様がここにいらっしゃるのでしょうか?」

「いいじゃない。別に、あ、私野菜大盛りで、ご飯は少なめでお願い。ちょっマヨネーズはダメ! ふとっ……いえ、ノンオイルのドレッシングこそ至高の食べ方よ!」

「雪子さん、好き嫌いはいけませんわ! お胸が大きくなりませんわよ!」

「胸っ! この糞ガキっ! あんたには後一〇年は早いわよ」

 

 何だか妙なことになったな、と冷めた目で来客のご飯を特盛に盛る華恋。どうやら帰っても一人だから仕方なくここに来てあげた、とのことだ。

 意味が全く分からないが、とりあえず淋しいということは分かった。飛んだ跳ねっ返り娘だ。主も妙な女を捕まえてきたと一人溜息をついた。

 

「そういえば、先生まだ帰ってこないの?」

「この頃はずっと深夜を回ってから帰宅なされるのです。まさか今流行りのブラック企業というやつでしょうか? 残業一四〇時間で、朝三時に出勤し、二四時間働き続けろと豪語されているのでしょうか?」

「聖職者がそんなわけないでしょ。ワ○ミじゃあるまいし」

 

 どうやら流行語にノミネートされるまでに至ったブラック企業という言葉。ハローワークですら把握出来ない恐怖の実態だ。そのため、最近では企業の離職率も掲示しなくてはならなくなった。

 だが、離職率など結局いくらでもでっち上げられるわけで、こういった社員を使い潰し、利益を貪る企業があとを絶たないのだ。

 幸い、雪ノ宮財閥は優れたリーダーに支えられて、満足な成果を挙げられている。利益上げることこそが、企業の常だが資本は人なのだと雪子の母は常々言葉にしていた。

 そんな母だが、自分だけは例外に置いている。

 私の体は疲れを知らないんだ、と自嘲気味に話していたことがあった。雪子が、日頃の感謝を込めてマッサージをしてあげようと提案した時のことだ。

 形だけでも取り繕って肩を揉んであげたのだが、なるほど、特に凝っている風には見られなかった。

 だが、娘に孝行されるのが気に入ったらしく、それから頻繁にマッサージ師に適任されたことは今でも後悔している。

 

「でも、このままだと過労死しちゃうかも」

「あっそこは別に心配しておりません。アリのように働いていただければ結構でございます」

「……じゃああんたの心配は一体何なのよ?」

「私が作ったご飯が余ってしまうことです。そして桜子様を心配させるなど、言語道断、万死に値する!!!!」

 

 いきなり金切り声を上げたかと思うとしゃもじを空高く掲げた華恋。

 やっぱりこの女、頭がおかしいな、と冷静に雪子は突っ込んだ。どうやらこの家族、主が体を壊すわけがないと確信しているようだ。

 

「可哀想な先生……」

「何をブツブツ言っているんですか? それよりも早くご飯を食べてとっととお帰り遊ばして下さいませ」

「はぁ? もちろんお風呂も入るわよ? あ、ついでに泊め……」

「しゃ~らっぷ!! お黙り小娘! どこの馬とも知れない女を、この華恋がこれ以上の慈悲をかけるとでもお思いですか?」

 

 雪ノ宮家のお嬢様だっての、と雪子は毒づこうとしたが、いささか分が悪い。残念ながら自分には先生の弟子というだけの関係しかなく、お世話になっている身だ。華恋の拙い英語は凄くムカつくが、ここは抑えて引こうと思った。

 思ったよりも、自分は遠慮がちなのだと、自己評価を改めようとした矢先、

 

「華恋、泊めてあげて?」

 

 ご飯粒を、わざとじゃないの? と疑うくらいに顔面に張り巡らした桜子が華恋に意見を出した。

 それは以前に雪子に対して敵意をむき出しにしていた桜子とは見る目を疑うくらいの成長ぶりだった。

 歳を取ると、人は頑固になり、他の意見に耳を傾けとしなくなるらしい。長年に培ってきた自らの経験を否定されることを恐れ、また傲慢になってしまうのだ。悲しいことだが、それは避けられぬことであって、簡単に意見を捻じ曲げてしまうような者に人はついていことはしない。そのあたりは、難しい判断だ。

 だが、子供は違う。子供は柔軟で、急に成長する。一体以前の糞ガキはどこにいったのか、と疑うくらいに桜子は無垢な瞳を雪子へと向けた。

 

「一人はとても淋しいことよ。一人でいると悲しいことばかり考えてしまうの。だから雪子さんを泊めてあげてもいいわよね華恋?」

「それは……桜子様の申し出とあれば」

「あ~……いいって別に。軽い冗談のつもりだったから、私、帰るわよ」

 

 思ってもみなかった助け舟に、内心驚きつつもこれ以上甘えるわけにはいかない。雪子はさっさと重い腰を上げて立ち去ろうとした。

 

「ダメよ! さぁ一緒にお風呂に入りましょう?」

「あっちょ、ちょっと……私、着替えなんて持ってきてないし」

「仕方ありませんから、私の着物を貸して差し上げます」

 

 桜子が雪子の袖を引っ張り風呂場へと導く。どうやら、この子に気に入られてしまったらしい雪子は子供の無邪気さに立ち往生してしまった。そんな桜子の扱いに慣れている華恋は、即座に対応し主の意志に従う。

 

「下着は、小さいかもしれませんね。ごめんなさいね」

「……感謝するわ。それと、あんたとはそんなに変わんないから安心してちょうだい」

 

 どんな時でも毒を吐く華恋を軽く退け、あれよあれよという間に、雪子は桜子と共に風呂場に連行されることになるのだった。

 

 ※※※

 

 

「ほら、じっとしてなさいよ。ったくいつまでもシャンプーハットなんか付けてんじゃないの」

「だって、怖いんですもの! 目にシャンプーが入ってしまったら地獄よりも苦しい痛みが待っているとおにー様が言っていたわ!」

「確かに痛いけど、そんなことにはならないから大丈夫よ。ほら、目をギュッと強く閉じてなさい」

 

 どうしてこんなことになっているのか。風呂場に着いた途端に勢いよく服を脱ぎ、生まれたての肌を晒した桜子に続く雪子。どこか人の家の浴場は落ち着かないような気がして警戒しながらドアを開いた。

 一言で言えば狭い。一般家庭の風呂場など見たことのない雪子にとっては狭すぎるのだ。

 雪子が知っているお風呂場は、ライオンの口から湯が流れ、浴場は大理石で出来た人が何百人も入れるほどの広さを持っていて、ミストルームとか植物とかとにかく不必要な物に溢れている場所なのだ。

 だがここは必要最低限の物しか置いてない。そして狭い。この距離感は必然的に人の距離を縮めてしまうのだった。

 

「髪は女の命なのよ。大切に洗ってちょうだい」

「知ってる、命令するな。うわぁ、細くて柔らかい……子供はいいわねぇ」

 

 雪子は不承不承という具合に桜子の要望を聞き、背中を流してあげることになった。その条件ということで、脱シャンプーハットを余儀なくされた桜子は目を精一杯強く閉じ、外敵を遮断する。確かにあれはとてつもなく苦しい痛みだ。雪子にも経験があるため、自分が言いというまで閉じていること旨を伝えた。

 

「わたくしは、早く大人になりたいわ」

「どーしてよ? 大人になると大変なのよ? 多分ね」

 

 雪子だってまだ大人とは言い難い年齢であるし、母の苦労を労うことは出来ても、それを支えてあげることは出来ない。そんな自分がもどかしいこともあるが、やがて訪れるであろう大人の階段を登ることに躊躇している、ということも否めない。

 いずれ働き、いずれ結婚して、いずれ家庭を持つ――――とても想像なんてつかない。未知の世界だ。そんな世界に、母や先生がいるのかと思うと素直に尊敬してしまう。

 つまり、自分はまだまだ子供でいたいのだ。

 

「だって、お胸がおっきくならないもの」

「……ガクッその程度の理由だと思ったわ」

「その程度などではありませんわ! 雪子さんにはわたくしの気持ちなどわかりません! お、おにー様のお胸の大きさを見てしまったわたくしの気持ちなんて!」

「わかるわよ! スーツを着ていても張り出さんばかりのあの大きな胸! 何度呪ったことか!!」

 

 雪子とて、この歳にしては平均的な、ごく平均的な大きさの胸を持つ少女だ。だが、あの人の物くらいに成長することは絶望的に近いだろう。それでいて、体は締まっていて、お尻も小さい。欠点という欠点が見つからないのだ。

「桜子、先生は男の人なのよね?」

「? おにー様はおにー様よ? 左霧おにー様」

「そうよね、男なのよね」

「おにー様よ。おねー様はいてはいけないの」

「え?」

「おかー様からの言いつけなの」

 

 何か、今おかしなことを言わなかっただろうか。

 だが、それを聞き返す暇もなく桜子は早くお湯をかけて欲しいとねだり、それに従った。

 本当に子供というのは面倒だな、と雪子は苦笑した。

 自分もこんな頃があったのだろうか。

 あったに違いない。

 何も、思い出せないわけなのだが。

 

 

「こらっそんなにひっつくな、狭いんだから!」

「やーよ、おにー様はいつもこうしてくれたもの!」

「私はあんたのおにー様じゃないっての!」

 

 風呂場が狭ければ、風呂桶も狭い。桜子の隅々まで面倒を見てあげて、ほっと一息ついたのも束の間。

 雪子の下準備が終わるまでひたすらに早く、早く、と叫び桜子の声にイライラしながら即効で髪を洗い、体を洗った。あとでトリートメントをしなくちゃ、とぶつくさ文句のひとつも言いたいわけだが、そんな暇はなかった。今度は二人で仲良く風呂桶に入ることになったのだ。

 

「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお」

「うるさい、しゃべるな」

「一〇〇数えないと上がってはいけないのよ」

「細かいわね……案外しっかり教育しているのかしら」

 

 とてもそうは思えないが、しかし普段から桜子の立ち振る舞いや仕草に関しては、正直上流階級の匂いが漂っている。それはおそらく生まれからくる、先祖代々の血のせいなのだろうか。そういえば、先生もどことなく気品が漂っていた気がする。

 それは決して自分にないものだ、と雪子はまじまじと桜子の赤くなった頬を見つめた。

 

「あんたたちってどうして三人で暮らしているの? 霧島家って本家があるのよね?」

 

 踏み込んでいいのかどうか悩んでいたが、こうやって裸の付き合いをしている以上は、多少のことは聞いてみたい。それが年端もない少女だということにいささかの罪悪感を覚えたが、意外にも少女はハキハキと答えるのだった。

 

「大きな家は、とても暗いところなのです」

「大きな家って本家のこと? 暗い?」

「はい、おかー様はおにー様にとても冷たいのです」

「…………」

「他の人もなのです。おにー様だけはいつも一人でご飯を食べて、部屋に閉じ込められて、可愛そうだったのです」

「先生が…………」

 

 

 どうやら、霧島家というのは察するに昔ながらの古いしきたりを重んずる一族なのだとか。そこで左霧という存在はいずれ当主に座につくことを確定されたにも関わらず、その仕打ちは酷いものだった。そんな生活に耐えることができずに、逃げてきたということらしい。

 

「わたくしは、おにー様について行きたかった。だっておにー様のことが大好きなんですもの。でも、私は子供だから……おにー様に迷惑ばかりかけてしまうの……」

 

 先日の件を思い出してしまったのだろうか。兄のことを思うがあまり辛辣な言葉を発してしまった自分を、桜子は恥じている。

 濡れたまつ毛からには、それとは違う湿った雫が滴っていた。

 

「迷惑なんて、かけちゃいなさいよ」

「えっ?」

「大人に迷惑をかけるのが、子供の仕事でしょ? 私なんてお母様の経営していた会社、一つまるごと潰してしまったことがあってね、て言ってもわかんないだろうけど」

 

 それは、桜子が中学に入りたての頃だった。母親は相変わらず多忙で、そんな毎日に拍車をかけるように様々な分野での進出を目指していた。

 雪子は友達もいないし、休日は漫画を読み、妄想に耽り、怪しげな笑みを浮かべる毎日に飽き飽きしていたのだ。

 そんな時、母がいつもパソコンにかじりつき何かを操作していたことがあった。ニヤリと笑ったかと思えば、悔しげな顔でモニターを叩き壊す母。

 好奇心をくすぐるには十分なおもちゃだったのだ。

 母が留守の時に、その事件は起きた。

 

「馬鹿者! お前のせいで、何百人の者たちに生活が路頭に迷うことになったのだぞ! 恥を知れ!」

 

 

母が行っていたのは会社経営に関する取引だった。新たな分野での進出を考えていた母が次に乗り出したのが化粧品関連の会社だ。この地域の人々は色白の者が多く、関東では雪国美人と言われているらしい。

オフィスの構え、取引先も決まった。

残るは取引先との詳細に関する連絡だけだったのだ。

 

「え~となになに? ○○日の○時に某ホテルでお会いしましょう?」

 

 ここだけを見れば、まぁデートの誘いかと疑いたくもなる。だが、これにはちゃんとした続きがあったのだ。しかし、雪子は憤慨した。自分に許可もなく母親と密約を交わすことなど、当時の雪子には看過できることではなかったのだ。

 結果から言えば、この取引はなくなった。メールボックスに送られた一通のメールを雪子がゴミ箱に叩き込んでしまったから。

 それは、取引先の社長と会うための、いわば最後の仕上げのようなものだったのだ。もちろんこんなことで取引がなくなることなど、有り得ないと思うかもしれない。

 しかし、約束を破る、という行為が、どれだけ会社の信頼を損ねるのか。

 子供だった雪子にはわかるはずがなかったのだ。

 

「ご、ゴメンなさい、お母様、ご、ゴメンなさい」

「雪子、今はそうやって謝ればお前は許してもらえる。私にかけた迷惑など、気にすることはない。だがな、お前がした選択肢が、時にどれほどの損害を被るのか、それだけは知っていて欲しい。上に立つ者に、失敗は許されないのだ。だからこそ私は会社を、この会社をたたむ……罪のない社員たちの路銀を少しでも稼ぐためにな……」

 

 雪子の涙を見た母は心を痛めた。だがこの時ばかりは甘い言葉はかけなかった。

 結局母は別の取引先と交渉して、契約を結ぶことに成功した。それはとてつもない努力の結晶で、もちろん母のカリスマ性もあったわけなのだが、

 とにかく、雪子は社長になどなりたくないなと思いました!

 

「色んな人に、迷惑かけて生きているのよ、私たちは」

「それは、肩身が狭いですね……」

「仕方ないわよ、だって仕事だものね」

「ですねっ!」

 

 変なところで馬が合うものだなと雪子は思った。この娘を見ていると、どうも自分と重ね合わせてしまう部分が多い。

 歳の割に大人びているところ。我侭なところ。誰かに迷惑をかけることを恐れてしまうところ。

 

「でもきっといつかおにー様のお役に立ってみせます!」

「私も社長かぁ……魔王って世界中の社長みたいなものかしら。椅子に座っているだけならいいのになぁ」

 

 未来を想像して笑っているところ。

 何にでもなれると信じていた。彼女たちは今、その最中にたっているのだ。

 

「明日から休みだけど、桜子は何するの?」

「修行です! 桜子に休みなし、です!」

「私も頑張るかなぁ……いい加減筋トレから解放してほしいなぁ」

 

 長い休暇が始まる。

 長い、長い休暇が。

 この休暇で、雪子は何を手に入れることが出来るのか。

 失うことの虚無感? 戦うことの意味? 

 少なくとも、彼女たちに僅かな救いがありますように。 

 そして決して立ち止まらない強さを胸に抱いて、

 雪子の、最初の戦争が始めろうとしていた。

 

 

 

「桜子様の体は、私が洗うはずでしたのに!」

「女中よ、そんなに嘆くな。それよりもこのねこまんまは少し味が薄い。醤油をかけてくれ」

「……なぜ、あなたもここに?」

「雪子の帰りが遅いからな、もぐっしかはなふきてはったんのら」

「はぁ、汚いので喋らないでください。むしろ消えてください」

 

 出番を失った華恋は、黒猫と茶の間でお茶を飲んでいる。雪子と桜子の談義に混ざることもできず、複雑な思いで彼女たちを見守っていたのだ。

 

「我々は支えるだけで良いのだ」

「……分かっております」

「そうかな? そうだな……」

 

 セーレムは食べ終わると縁側に近づき、曇った夜空を見上げてつぶやく。

 

「人が死ぬ、か」

「干渉はしないのでは?」

「ふむ。だが主を守るのが私の仕事だからな」

「どうやら、辛い思いをすることになりそうですね。彼女も――――あの方も」

「雪子は仕方がない。しかしお前の主はこのようなことではビクともしないだろう」

「それはどうでしょう。あの人は強そうでいて、脆いですから」

 

 華恋は未だに帰らない主を思う。

 幾千の刃を退け、

 幾万の命を奪いし者、

 やがてその心は穢れ、

 鬼に成り果てる。

 光の精霊、地上に現れし時、

 鬼、希う。

 

「俺を殺してくれ」

「あなたは一生死ぬことを許されない」

「俺は、死にたい」

「願いは届かない」

「死にたい」

 

 鬼は死を願う。

 叶わない願い。永遠を約束された傀儡。

 光の精霊、男を哀れに思う。

 

「あなたの代わりになりましょう」

「お前が代わりに」

「あなたの人生を歩みましょう」

「俺の人生を、お前に」

 

 それが、最初の契り。

 光の精霊が光を失った時。

 全ての時計が針を止めた。

 

「魔導兵の、誕生」

 

 深い深い森の中。

 女は静かに呟いた。

 悪鬼羅刹。

 阿修羅の化身。

 女は静かに笑っている。

 雨の日も、風の日も、夏の暑さにも負けず、冬に寒さにも負けず、いつも静かに笑っている。

 

 お気を付けください。左霧様

 お気を付けください。右霧様

 華恋は願うことしかできない。

 

 森にひっそり佇む狂気の一族、霧島家。

 その一族に囚われた光の精霊。

 

 何のために戦うか。

 誰のために戦うか。

 揺るぎなき信念を抱えて、

 ただ、愛のために、

 愛ゆえに、私は、

 

 

 ――――戦う。

 



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最強の証

 霧島家は呪われている、とは名のある魔術師たちの中では知らぬ者はいない。

 魔術師の中でも霧島家は異質であり異端であり異様である。

 では、その具体的な内容は何なのか、と聞かれた場合、答えられる者はゼロに等しい。呪われている、と噂する者たちが多数いるのに関わらずその噂の出処が分からない。

 不気味だ。実に不気味だ。

 しかし、火のないところに煙は立たぬ、と言う。その言葉通りならば、霧島家には一体どんな秘密が存在するのだろう? などと疑問に思った者たちは過去に何人もいた。

 戻らなかった。誰ひとりとして。

 深い森に覆われた霧の要塞。一歩踏み出せばそこからは霧島家の領域。敵の侵入を許さず永遠の回廊に閉じ込める。城に入ることも森から出ることもできず、その体は土へと還っていく。

 名を『幻燐城」』という。周囲の森――烏森の奥深くに佇む霧島家の根城だ。その場所では女系家族の霧島一族がひっそりと暮らしているのだ。

 現当主、霧島霧音。霧の女王の名で知らぬ者はいない。出会った者全てに死を与えることで魔術師の中で『絶対に戦ってはいけない者』に分類されている。

イザナミの生まれ変わりではないか、と噂されるくらいにその性格は冷血無慈悲で実の息子を実験動物のように扱った挙句に失敗作の烙印を押して長年城に幽閉していたらしい。

イザナミとはこの国の神で黄泉を司っている。死の国の女王……霧島霧音はその名にふさわしい存在なのだ。

 あの女と会ってはならぬ。

 その女の一族と会ってはならぬ。

 唯一、あの城から逃げ帰ってきた私が、この天王寺秀蓮が命ずる。

 あの一族に手を出すな。

 もし、万が一、万が一にも霧島一族と相見えることがあるのなら。

 逃げるのだ。

 このような言葉しか残せない私を許してくれ、瑠璃。

 天王寺の当主として、お前の父として、お前には何一つ残すことが出来なかった。

 私は霧島一族の恨みを買った。この右目から蝕む呪いの術は私の精神と体をボロボロに引き裂いていく。

 もう、お前の顔を見るとお前に触れることも叶わない。

 ああ、欲に目が眩んだ罰なのか。

 天王寺とは最強の魔術師ではなかったのか。

 それは俺のおごりだったのか。

 瑠璃、今まで淋しい思いをさせてすまなかった。

 こんなことを言うのはどうかと思ったのだが。

 私はお前を愛していた。これは本心だ、といってもお前は信じてくれるとは思えないが。

 優しい言葉も、暖かい心も、与えてやることが出来なかった。

 私は組織を束ねることに心身を捧げ、家族を省みることが出来なかった。

 母親に似た深い蒼色の髪。賢く、逞しい精神力。魔術の才能。

 全て、私とは正反対だ。今だから言えることだが、娘ながらお前に嫉妬したこともあった。

 母さんを支えてあげてくれ。あれは私の支えなど必要としなかったが、娘の言うことなら聞いてくれるだろう。

 若いお前を置いていくのは心残りだ。母さんを置いていくのは心残りだ。

 霧島。

苦悩も挫折も後悔も私は乗り越えてきた。全ての力を、力でねじ伏せてきた。

だが、勝てない。それでも勝てない相手がいるのだ。

魔術師として戦い続けたことに後悔など微塵もない。私の生涯は魔術に生まれ、魔術に死ぬ宿命だったのだから。

絶対的な悪、絶対的な負の感情。それらを超越した場所に、彼女たち一族は存在する。

瑠璃、お前の性格ならこの手紙を読んだとしても私の忠告など聞き入れないだろう。

今の天王寺は内部分裂しているはずだ。誰が天王寺をまとめるのか、そんなことばかりがお前の体を縛りつけているに違いない。 

 古臭くて意味のない習慣に従い、何かあればハイエナのように噛み付いてくる分家の者たちを黙らせるのは容易ではない。お前を当主の座に置くことなど、したくはない。

 それでも敢えて言わせてもらおう。

 天王寺瑠璃。お前を次期当主として襲名する。そして再び最強の名を手に入れよ。力を示せ、霧島を根絶やしにしてみせよ。我が無念を晴らしたまえ。

 愚かな父と嘆いているだろう。しかしそれでも魔術師としての血が抑えられない。実に無念だ。あんな、あんな小僧に一本取られるようなことがあるなど!

 ああ、しかしあの一族に手を出してはならない! あれは尊い存在で、美しく、可憐で、おそろしい女なのだ! 私は、

 私は、こころを奪われてしまったのだ。

 私は母さんを愛している。

 お前を愛している。

 しかし、愛してしまう。彼女をどうしても愛してしまうのだ。

 恐ろしい、彼女は恐ろしい。しかし、還りたい、私は還りたいのだ。

 彼女の下に還りたい。

 私は狂ってしまったか、それとも最初から狂っていたのか。

 いや、きっと彼女に会ってしまったから、霧島霧音に会ってしまったから。

 なんて罪深い女だろうか。なんて私は愚かだったのだろうか。

 私は知ってしまった。真実の愛を、情愛を、熱情を。

 狂おしいほどの劣情を……。

 このような者が存在していいわけがない。愛してしまう、愛してしまう、愛してしまう。

 母さん、瑠璃、すまない。

 それでも私は彼女を愛してしまった。

 この妄執と幻惑の快楽に溺れてしまった父をどうか許して欲しい。

 この思いを断ち切るためには、このような方法しかないのだ。私は天王寺の恥だ。

 許してくれ、許してくれ、許してくれ。

 最後まで、お前たちを愛している私でいさせてほしい。

 ああ、それでも私は、

 私は、

 彼女の下へ還りたい。

 天王寺秀蓮

 

 

 

 結局のところ、父は一体何が言いたかったのだろう。天王寺瑠璃は美麗な眉を潜め、首を傾げて考えている

 場所は北区。天王寺家が支配する中でも次期当主と名高い天王寺瑠璃が直轄する広大な土地。

 現在、この土地の占領が完了し屋敷を奪いその一室にて瑠璃は疲れを癒している最中だった。

 

 

「これは、浮気というやつではない? 翔子、どう思う?」

「なんとも……」

「私はそう思うのだけど」

「お嬢様の言葉こそ全てでございます」

「ううむ……」

 

 連日連夜戦い続けたためか、上手く頭が働いていない。窓越の椅子に座り、少し夜風に当たった。やがて頭が冴えるとそんなことはどうでもよくなってしまった。

 瑠璃にとって父親は越えるべき壁だった。愛していると大好きとか、その程度の、いや、愛していたし大好きだったのは確かなのだが、そんな言葉では片付けられないほど父は強大な存在だったのだ。

 今でもきっと父には勝てない。あと一〇年以上の修行が必要だろうか、と瑠璃は遠い目をしながら遠くの街を見渡した。百万ドルの夜景、には到底及ばないが、まぁなかなかの風景だな、と瑠璃は心を躍らせていた。騒がしくなく、それでいて寂れてもいない。人口も程々といったところだろうか。都会のようにゴミゴミとはしていない。瑠璃は中央区の本家からこちらの地域に移動したのだ。

 理由は簡単、避暑地の確保と権力の確保。今派閥争いで組織は分裂している天王寺をまとめあげなくてはならない。その為には誰が多くの土地を占領し広げるかが深く関わってくる。父の遺言に従うわけではないが、瑠璃は生まれた時から王者としての責務を果たすことを義務付けられていた。

 

「北区の九九パーセントは制圧が完了いたしました。ここから先は我々におませください」

 

 藤沢翔子は恭しく主である瑠璃へ頭を垂れた。それは学園で雪子と話した時とは様子が違う。学生服の上に黒いローブを羽織っている。そのローブには天王寺の家紋が刺繍で描かれている。瑠璃もまた同じくローブを羽織っている、がそのローブは先の抗争でボロボロになってしまった。

 

「随分、手こずってしまったわ。私もまだまだね」

「お嬢様は天賦の才をお持ちでございます。ですが謙虚たることは良いことでございます」

「お父様の言いつけだもの。それに、この程度で鼻を高くしていたらきっとお父様に笑われてしまうわ」

「瑠璃お嬢様、秀蓮様のことは……」

「いいの。お父様は戦って死んだの。魔術に生き、魔術に死んだ、それはきっと幸せなことだと思うの。さぞかし、無念だったでしょうけれど」

 

 秀蓮が右を失い帰ってきたのは数年前だ。まだ瑠璃が中等部に入る前だったか。どうやら魔術師同士の戦いに敗れ怪我を負ってしまったらしい。それも猛毒の、呪いを。

 秀蓮は本家から散々な仕打ちをうけ、それ以来自室で治療に専念した。それまでは家族に対しても冷たかった男は権力の失墜と共に心に僅かなゆとりができた。母はそれをよく思っていなかったがそれでも笑顔が増えたような気がした。瑠璃はもちろん嬉しかった。

 それから秀蓮は家族と過ごすことが多くなった。形ばかりとはいえ当主の座についているため、日中はあちこちを飛び回っていたが、それでも夜はいつも屋敷に戻ってきた。瑠璃に勉強を教えてくれた、魔術を教授してくれた。当主の心構えを教えてくれた。

 それからは毎日が幸せだった。それには限りがあることは分かっていた。けど幼い頃の寂しさを埋めるように秀蓮は瑠璃と一緒にいた。母と三人で旅行にも行った。冬は屋敷で三人だけの生活を送った。

 霧島一族は滅ぼすべき敵であることは間違いない。父の敵、ということもあるが同時に瑠璃の本能がそう叫ぶ。魔術師としての血が疼く。常に最強を求める力が。

 それでも、少なくとも、父の過ごせたこの数年は間接的にでもかの一族が関わっていることは間違いない。だからこそ自分は冷静でいられた。常に前を向いて歩き出せた。

 今、やることは当主としての責務を果たすことだけ。行く手を阻むものに鉄槌を下すことのみ。

 

「翔子、雪ノ宮はどう?」

「到底及びません、ご命令とあらばすぐに」

「あの、私の同い年の、ほら」

「雪子さんでしょうか? 全くの素人です。ですが、ええ、やはり」

 

 翔子は僅かに言葉を濁した。学園に侵入し、雪ノ宮雪子の動向を観察していた彼女にとっては雪子がどのような人物か大体のことは分かっている。

 素晴らしい才能を持ち、それでいて奢らず、常に自らの道を行く孤高の少女。

 王の証を持つ者。

 

「危険分子です、即刻殺すべきかと」

「……物騒なことを言うものではないわ、翔子」

「お嬢様、私の担任……先生の名はご存知でしょうか?」

「霧島、左霧。お父様の右目を奪った男よね?」

「はい、雪子さんは霧島左霧と接触し、魔術の教授を受けているようです」

「まぁ」

 

 瑠璃の耳に霧島家の者が雪ノ宮家の経営する学園に教職として赴任している旨は翔子の定期的な経過報告から聞いていた。

 美しい黒髪で明るく元気な『女性』なのだとか。生徒たちにも人気で毎日引っ張りだこのようにからかわれているらしい。

 なんて楽しそうなのだろう。瑠璃は魔術師の一族として生まれてきたことに後悔はないが、唯一心残りがあった。

 

「私も学校に通ってみたいわ」

「お嬢様…………」

 

 瑠璃は幼い頃から身内の者から英才教育を施されていた。家庭教師、と聞こえはいいが、実際に会う教師といえば自らを売り込みに来る困った連中ばかりだった。当然瑠璃の実力を見た途端に落胆して逃げてしまった者もいる。

 同い年の者といえば、藤沢翔子くらいしか傍にいない。しかも翔子は自分の側近であり、友人とは言い難い関係だ。一応かしこまらなくていい、と伝えてあるのだがそれは翔子にとって無茶苦茶な要望であったので却下された。

 

「雪ノ宮を攻め込んだあとは、学園を占領して私も入学しようかしら」

「お戯れを……ですが、お嬢様は働きすぎですから、休暇という形でしたら」

「ええそうね、決まり。ならば、やることはまだまだあるわ――――翔子」

「はっ」

 

 椅子から優雅に立ち上がり、蒼色の髪は月光に照らされて戦姫は舞う。その背後に何か恐ろしい存在が鼻息を荒くしながら瑠璃の項へ寄ってきた。

 瑠璃は『それ』を優しく撫で上げ、なだめる。瑠璃にしかできない。瑠璃以外の者が触れることは許されない。

 例えば、そう。

 

「死体の処分をお願い。これじゃ、歩きにくくって、それに臭うわ」

「御心のままに」

 

 満足げに頷き、瑠璃は血だらけの部屋を出て行った。黒いローブの後ろは真っ赤に汚れている。返り血を浴びてもなお、その少女は蒼く凛として輝いていた。

 

「お母様にどう説明したらいいか、はまた今度にして……とりあえずはサクっと雪ノ宮学園をいただきましょうか」

 

 天王寺の当主は闇夜に消えていく。百戦錬磨の父を踏み台にして、今敗北した父に代わり己が務めを果さん。

 北区から中央区、雪ノ宮領へは遠くない。

 結界の解除も分析済み。どれだけ大規模な結界を張ったとしても瑠璃の圧倒的な魔力の物量を当ててしまえば崩れてしまうだろう。

 他の派閥連中がちょっかいを出してしまったらしいが、まぁそれは追々片付けるべきことだ。いずれにせよ、火蓋はもう切られている。

 

「私は自分の実力に溺れたことはないけれど、この圧倒的な兵力にどう出る雪ノ宮? それに狂気の一族さん」

 

 瑠璃の周りには黒いローブの精鋭が集まっていた。

その数およそ数百人。

左霧たちが枠から外した数よりも上回っている。

最強とは何か。

それは有無をいわせない力。

全てを支配すること。

いいえ、違うわ。

奪うことよ。最強ならば、この世の頂点ならば、奪う権利があること。

 私に、その権利があるかどうか、試してみたい。

 魔王になる権利を。

 

 闇夜に吹かれ、一斉に舞い上がった。狂風は空を舞い漆黒の翼を持つ者は少女を乗せ怒りの咆哮あげた。天王寺の兵士たちは恐怖に怯え躊躇いながらもそのあとに続くのだった。

 

 雪ノ宮領の少し早い夏休みが始まった……。

 



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心の傷

 静かに、誰に知られることもなく、その戦いは始まった。

 最強と言われた天王寺とまだ僅かな規模しかない雪ノ宮との、殺し合いが。

 この絶望的な状況に唯一教師たちの光となっている人物がいた。

 それは文字通り光の精霊だ。霧島一族に捕らわれ、長年左霧という少年の体に封じ込まめられていた哀れな精霊。

 その精霊は、天王寺秀蓮と戦い、苦節の末にその右目を抉りとったのだとか。

 それが本当ならばこの戦い、僅かでも勝算の確率が上がると思うのはきっと百合だけではないはずだ。しかし、それ以上に目の前にいる者に対して警戒心を持ってしまう。同じ学園の後輩、という間柄ではもういられない。

 

「右霧先生」

「左霧でいいですよ、砂上先生。私は存在してはいけないのです。僕のままで……」

 

 いつもの花咲くような笑顔を百合に向けた。それは昨日向けた冷徹な笑みの匂いを感じさせない。どちらが本物なのか、どちらも本物なのだろうか。

 百合の内心は複雑極まる状態だった。

 だが一番に確認しておきたいことがあった。

 

「さ、左霧君は、年上の女性は好みなのかな!」

「好みだと思いますよ。彼、お母さん子ですから……砂上先生? 絶叫を上げてどうしたんですか?」

「ううん、絶叫マシーンに乗りたいなって」

「百合、緊張感をもってください、遊びに来たわけじゃないんですよ」

 

 そうか、こいつもいるのか、と百合は反対側で目を三角にしている東野を睨んだ。金持ちのボンボン、というわけではないこの男。ルックスも性格も、何もかもが最高クラスに近い勝ち組一直線を現在独走中。そんな男が左霧の提案である西区襲撃計画に立候補した。砂上百合、東野時雨、霧島左霧。左霧を筆頭に、比較的年齢の若いチームを編成したのは、やはり学園の守備をおろそかに出来ないためだ。いつ天王寺の牙が襲いかかるか分からない状態で、安易に兵力を割くのは好ましくない。なにせ、六人しか戦闘員がいないのだ。守備は実質三人、これだけでも非常に危険な賭けである。

 天王寺領は中央区を中心に四方八方に陣を構えている。しかし統率性がバラバラなこともあり、北区、西区、東区、南区を統括する者が異なるのだ。

 つまり、どこかの区に雪ノ宮を襲った連中がいる。その派閥連中の撃破が今回の任務だ。しかしどの派閥がどこに位置しているのかまでは分からない。よって左霧曰く、守り手の薄い西区で情報収拾という形を取ることになった。迅速な行動が必須となり尚且、天王寺内部の情報を調べなくてはならない。それが牽制へとつながる可能性もあるのだから。

 果たしてそんなに上手くいくのだろうか、という不安を掲げたまま百合は左霧を凝視した。その姿はいつもの通り、少し頼りなく優しげな後輩だった。一体あの時のあれはなんだったのだろうか。とにかく腹に一物を抱えていることは確かなのだが。

 

「左霧先生、そろそろ西区に入ります。俺から離れないでくださいね」

「え、あ、ありがとうございます」

「ちょっと時雨? 私は? 私?」

「百合は心配ないでしょう? それでも敢えて言えせていただくなら、あまり暴れないで下さいね。今回は隠密調査なんですから」

「だからあんたは気に入らないのよ!ったく、左霧先生これはセクハラよ、訴えましょ」

 

 百合と時雨は一言で言えば腐れ縁だ。同じ小学校で同じ中学で同じ高校、そして狙ったかのように同じ大学に在籍していたとなればもはや人の縁というものはこれほど忌まわしいものはない。実際、百合は彼のせいで万年次席という汚名を演じなければならなかった。そしてこの学園は優秀な人物であり同時に魔術師としての才能を持つ者のみしか就くことが出来ない。非常に不本意極まりないがどうやらこれから先もこの男の眩しさを拝まなくてはならない。

 

「あんたさ、あの車何? 金持ちの自慢ってやつ?」

「就職祝いで貰っただけです。俺は何でも構わなかったんですけど」

「就職祝いにラン○ルギーニ貰うの!? 私なんてプ○ダのバッグなのに!」

 

 二人共やっぱりお金持ちなんですね、と左霧は恨めしそうに口論を聞いていた。もちろん左霧も由緒正しいお家柄なのだが、いかんせん家出してきたわけで、いかんせん実家からの援助もないわけで、いかんせん財布の紐を女中に掴まれているわけで、

 とにかく、お金って怖い。家出して一番に知ったことだ。

 

「左霧先生、時雨、ここからは私の指示に従ってもらうわ。一応班長として、ね」

「分かりました」

「まぁ、危なくなったら俺がフォローしますよ」

「あんたは一言余計なのよ! いい加減にしないと車叩き壊すから」

 

 どうやら本当に時雨の車が気に食わないらしい。こんな敵地のど真ん中であるにも関わらず緊張感がないことには多少の不安が残るが、その危惧もすぐに杞憂だと判断した。

 

「……どうやら、お出ましってわけね、朱雀」

「俺も久しぶりなんでどうなるか分かりませんよ? 玄武」 

「……お願いします二人共、作戦通りに」

 

 百合と時雨は自らの精霊を呼び起こし、魔力の波動が二人を包む。左霧はここで一つの勘違いをしていた。彼らは戦いを知らない素人だと思っていたのだ。雪ノ宮は出来上がったばかりの組織であり、実戦経験のない者がいてもおかしくはない。そこへ来てこの二人がこの作戦に立候補してきた理由がようやくわかった。

 

「何者だ!?」

「ここは西区、天王寺家の領域である! 結界を潜り無断で侵入した罪を償う覚悟は出来ているのだろうな!?」

 

 どのみち結界を破壊して潜った地点で見つかることは分かっていた。隠密行動などと言ったが、要は自らの正体がバレなければ問題はない。つまり自分で名乗ったり堂々と名前の書いてある名札をかざさない限り、正体などいくらでも隠せるわけで、

 

「雪ノ宮学園、英語科担当二八歳独身! 好きなタイプは可愛い男の子! 嫌いなタイプは東野時雨! 以上!」

「ちょ、砂上先生!?」

「なんで嫌いなタイプだけ名指しなんですか……まぁ俺も苦手ですけどね」

 

 ハイヒールをカツンと鳴らし堂々と自らの名前を明かしたのはリーダーの百合だった。なんだか合コンみたいな自己紹介だったな、というツッコミは残念ながらない。

 今まで何かとおかしな人だな、とかちょっとやばいかも……なんて感想を抱きつつもその仕事に前向きで凛とした姿に僅かでも憧れを抱いていた印象は、ここへ来て一転した。

 

(ああ、この人アホの娘だったんだ……)

(やっぱり、百合にリーダーなんて務まるわけありませんよね)

 

 ものっすごい満面の笑みを浮かべてどうだ、と言わんばかりに腰に手を当てている百合を二人の教師は遠い目で見ていた。これで完全に隠密行動は失敗した。この数日間の話し合いは一体なんだったのだろうか。左霧は途端に家に帰りたくなった。これが社会の理不尽なのだろうか? これが世の中の摂理なのだろうか?

 

「仕方ありませんね、こうなったら、とことんやるだけです」

 

 先に切り替えたのは時雨だった。付き合いが長いだけ、このアホの娘の扱いには慣れているらしい。白い歯を光らせて左霧に小さく謝罪し、自らも百合の隣へと繰り出した。もうその姿は教師ではなく、魔術師の顔になっていた。

 

「ええっと……この前、魔術を使ったのっていつぐらいだっけ?」

「確か、学徒隊にいた時ですから、五年前くらいでしょうか?」

「そっかぁ……ど~りで体が鈍るわけだわね」

「お二人は、侵略戦争の経験者だったのですか!?」

「おっと、その話はまたあとよ、後輩君。まぁ先輩の姿を見てなさい」

「左霧先生、俺たちにも色々あるんですよ。あなたと同じで、ね」

 

 鬼気迫るような闘気が天王寺の魔術師たちを圧倒している。出来たばかりの組織? 簡単に叩き潰せる? 本当に、本当にそうなのか? そう疑いたくなるほどに、二人には隙がない。手を出したその時が最後になると錯覚してしまうほどに。

 

「雪ノ宮如きが、天王寺に歯向かうなど……」

「しかし、聞いた話と違うぞ!? 我々だけでも対処できると」

「ごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ、そら!」

 

 瞬間的に作り出した炎の弾丸が膨れ上がり百合の華奢な手の何倍もの大きさとなり浮かび上がった。

この短時間でここまでの規模の術式を描くことは並大抵の魔術師では不可能だ。

 

「なっ詠唱なしだと!?」

「早く術式を発動しろっ……が!」

 

 天王寺の魔術師は意表をつかれたことに慌て、戦闘体制に入ろうとした、がそれをさせなかったのが笑顔の悪魔、時雨だった。どのような魔術を使ったかは左霧には特定できなかったが、身体能力を極限まで上げ相手の懐に飛び込み、数発の掌底を放った。

 おそらく武術の心得があるのだろう。的確に人間の急所を定めた完璧な封じ込めだ。

 

「まぁさせませんよね、普通は」

「ちょっと時雨、邪魔しないでよ! 私の怒りはどこへぶつければいいわけ?」

「うーん……あそこ、とか?」

 

 時雨は困ったように指差した方向には侵入者を倒さんと躍起なっている魔術師たち数人。どうやらくだらない会話をしている最中に数が増えてしまったようだ。

 

「我が名に従い悪しき輩を滅ぼさん! くたばれ! 火炎陣!」

 

 一人の魔術師が遂に詠唱を終わらせて燃え盛る火炎の壁が三人を包んだ。百合の規模には及ばないが、それでも十分な威力はある。さすがは、天王寺の精鋭といったところだろか。

 だが、それを三人が喰らうことはなかった。光の粒が、全てを守るかのように三人の体に降りかかる。

 不思議な現象だ。今まであったはずの灼熱の壁は瞬間的になくなってしまった。まるで最初からなかったかのように。

 

「光の魔術……失われたはずなのに」

「神に最も近い力が故に、人はその力を奪われた」

「けど、精霊なら納得がいくわ」

「……そうですね。本当に、敵に回したくないですよ」

 

 光の術者は粒子を操る。まるで一つ一つが生きているかのように主の名に従いやがて大きな力と化す。本来、精霊だけでは成し得ない魔術という技を人間の器に入れることで可能にした、人工的な光の魔術師。

 それは、美しくも巨悪な兵器。神に抗う力。

 

「守りは任せてください、二人共」

 

 人間のように振る舞うのは、果たしてなぜなのか。どうしてそこまでして人間を守ろうとするのか。

 それは本人にも分からないと言っていた。

 

「それじゃ、一気に片付けましょうか」

「はいっ!」

「あんまり壊さないでくださいね、あと処理が大変なんですから」

「それは無理な相談っね!!」

 

 持て余していた強大な炎の弾は遂に百合の手から離れた。それは地面に触れたとたん大きな火柱となり、天高くそびえ立つ。周囲はまたもや灼熱の渦に巻き込まれた。いや、先ほどの規模ではない。朱雀の咆哮と共に、それは更に威力を増していく。

 

「ばっ化物! 化物だ――――!! 逃げろ! 退避! 退避――――!!」

「逃げんじゃねぇ! 同胞の報い受けてもらおうか!」

「百合、落ち着きなさい。いくら相手が天王寺だからって」

「うっせぇ! 私に指図すんな!」

 

 魔力の気に犯された百合は言動を荒くし、更に追い立てるかのように火柱を上げていく。

 本来、魔力は人に強い力を与える物。それは強力であれば強力であるほど、強靭な精神力でなくてはならず、

 

「……何も聞かないでください。私も、百合もどこか壊れている。今は百合の好きにさせてほしい」

「……わかっています。魔力を帯びた者たちは、皆その心に大きな穴があるのです」

「あなたも、ですか」

「……さぁ」

 

 察するところ、百合は天王寺に何かの恨みがあるのだろう。しかしそれを聞くことは許されない。相手のことを知る、ということは自らのことを話さなくてはならないから。

 人間は普通に生きて普通に生活し、普通に死ぬ。この魂の循環こそが本来、あるべき姿なのだ。普通の人間はそれに何の不満も持たない。

 彼らは皆、普通に生きることを許されなかった者たち。力を求めることしか出来なかった者たちの集まりだ。

 

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね」

 

 呪詛は死体の数だけ降り募る。地獄絵図、とはこういうことを言うのだろう。

 百合が立候補した理由は、天王寺に恨みがあるから。

 時雨は、そんな百合のことが心配で同行した、ということなのだろう。

 

「愚かな……」

「そうですね。何の意味もない。だけど百合の心には少しの平穏が訪れるのです」

「僕には分からないです」

「人と精霊は、決して交わることがない。それは体も、心も」

 

 時雨が放った言葉は、なぜか左霧の心に突き刺さった。その理由は分からない。だけどその刺は深く、深く突き刺さり、次第に苦しくなっていく。そして左霧は突発的な衝動に動かされ百合の下へと駆けていった。

 

「やっぱりあなたは精霊にはとても見せませんね」

 

 百合の肩を抱き、宥める姿は友情の輝きそのものだった。

 狂乱と殺戮だけしか得ることない魔術師の世界。

 それは少しだけ違うのかもしれない、と時雨は思う。

 その世界だからこそ、日常では感じることの出来ない人との絆をより一層感じ得ることが出来るのではないか。

 例えば、そう、人を理解したいと思うおかしな精霊なんかと仲良く出来たりも、する。

 



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言霊

 

「暇だわ……いざ休みとなると私ってば何もすることがないなんて」

「だからって何故私のところに来るのですか?」

「あんたに会いに来たんじゃないわよ、先生……はいないか、やっぱり」

「左霧様はお仕事です。なんでも、西区の方に出張だとかで」

「西区ねぇ…………お母様は学園には近寄るなっていうし、ほんと、何なんだか……」

「さぁ……お茶です、一応客人ですから。一杯だけですよ」

「こんな粗茶ごときで一々ケチくさいわよ、ってなにこれ美味しいじゃない」

「ただの粗茶です、霧島家の畑で採れた一番茶でございます」

 

 華恋の持ってきたお茶を堪能しつつ、雪子は怠惰な毎日を過ごしていた。魔術の練習に来ているのだが、先生は不在のままで一向に教えを乞うことができない。それでも教えられた魔道書の音読や呪文の反復練習、体の鍛錬は行っていた。自分が成長していることを実感できない毎日に焦燥感のようなものを感じつつある雪子。やはり一人では限界というものがあるのだと実感した。一人で何もかもやってきた雪子には今、先生という存在が必要不可欠だった。

 それは決して恋愛感情とか、そういった安っぽい(雪子は恋愛をそう考えている)言葉では例えられない。

 心の底で、雪子は左霧という存在を尊敬している。当然口が裂けても言えることではない。死んでも言わない。日記に誰にもばれないように書くくらいだ。

 とにかく、早く先生に会いたい、勉強したい、強くなりたい。押し付けがましい女と思われてもいい。

 早く、あの満面の笑顔が見たい。人を慈しむ、まるで聖母のような笑顔。困ったような笑顔、何でも笑顔で片付ける優しい人。

 雪子が心おきなく接することの出来る数少ない人物なのだ。

 

「何か、大きな事件でも起こらないかしら」

「また物騒な……雪子さん、言霊という言葉をご存知ですか?」

「知ってるわよ、言葉には魂が宿るってやつでしょ」

「その通りです。お気を付けください」

「はいはい、説教ならセーレムで間に合ってるわよ」

 

 華恋の言葉に雪子はうるさそうに耳を塞いだ。それを雪子の精霊であるセーレムは見逃さない。すかさず姑のように小言を発する。マリンブルーの瞳を厳しく尖らせて、しっぽをピンと伸ばしたまま、その可愛らしい姿に似合わず、荘厳な声が雪子を咎めた。

 

「雪子、女中の言葉を軽んじるな。お前はもう魔術師なのだぞ」

「出たわね、黒雲母。あんたも信じる口? 悪いけど、私は非科学的なことに関しては実証がない限りはくだらないと断言するわよ」

「誰が花崗岩か……魔術師は安易に忌み語を使ってはならん。お前の言霊には魔力が宿るのだぞ」

「言葉に、魔力が?」

 

 セーレムと雪子の漫才はともかく、どうやら雪子は自分が軽率なことをしているのだと気が付いた。魔力を体内に宿す者は、魔力を言葉に乗せてしまうことがある。その言葉の意味を理解し、そうなりたいという強い願望が強ければ強いほど言葉は具現化し、運命を捻じ曲げることがあるのだ。

 

「……お分かりいただけましたか? 雪子さん、魔術師とは人ならざる人、なのです。あなたは自分が危険な存在に近づいてることをお忘れなきように」

「わ、分かっているわよ! けどゴメンなさいでした!」

「素直なところが雪子の良いところだ」

 

 年齢不詳の二人にたしなめられ、少し居心地の悪い雪子。そんな雪子を若いな、と思いながら静かに見つめる黒猫。若いな、と思いながら私は永遠の一八歳だと信じて疑わないダントツ最年長の女中。

 そんな三人のやり取りを見計らったかのように先程まで小さな木刀で素振りを繰り返していた桜子が学校の体操着のまま全速力で近づいてきた。ちなみに体操着はブルマではないので過度な期待はしないでください。

 

「雪子さん! おはようございます! にー様は留守なのでお帰りください!」

「おはよう妹。笑顔でひどいこと言うわね」

 

 雪子に悪態をついているのとは裏腹に勢いよく抱きついてきた小さな体に思わずびっくりした。ビックリしたのはいきなりだったのと、その体は羽のように軽いことだ。この年の子というのはここまで体重がないのか、と関心して雪子は自分の体の肉を桜子にくっつけようとした。もちろんそんなことは出来ない。魔術師とは不便なものだと雪子は悔やんだ。

 

「それ、楽しい?」

「はい! ちっとも楽しくありません!」

「だよねーその気持ち死にたくなるほど分かるわ」

 木刀を地面に叩きつけて汗を撒き散らしている桜子からちょっと距離を置きつつ、雪子はその努力を賞賛した。なぜ素振りをしているかという理由については、桜子自身もよくわかっていない。ただ、先生の役に立ちたいと華恋に進言したら木刀を渡されてひたすら振れと言われたのだとか。どう見てもお仕置きにしかみえないが、桜子はその意に諾々と従っている。

 

「桜子様、今日の鍛錬は終わりましたか?」

「ええ、もちろんよ、華恋」

「嘘はいけません。あと千回残っているはずです。さぁお戻りを」

「う……華恋、数えてたの?」

「華恋は桜子様を常に見ておりますよ。例えどこで何をしていようとも私は決してあなた様の傍を離れません」

 

 華恋は厳しい声で桜子の嘘を見抜いた。と同時に我が子を見るかのような愛おしそうな目で恥ずかしげもなくそう言った。聞いている雪子ですら背中がもぞもぞしてしまう。

 一方の桜子にとってはどんな言葉でも嘘を見抜かれたという罪悪感があり、素直になれないようだ。ぶすくれたように頬を膨らませていたが、渋々と師匠の言うことを聞いた。

 

「……それが終わったらおやつにしましょう。今日は桜子様のお好きな羊羹をご用意しましたから」

「まぁ! すぐに終わらせてみせるわ! まるごと一本残しておいてね!」

「なかなか、渋いチョイスね……」

 

 どうやらこの一族は和を尊ぶ慣習があるらしく、食事も和食が中心で、家の作りも畳、襖といった具合にとことん和にこだわっている。

 これは案外、すごいことなのだ。この国はほとんど他国の風習に侵食されつつある。例えばクリスマスやバレンタインデーなど。これらは全て外国から伝わってきた文化で、もう完全に定着してしまっている。まぁクリスマスというのは本来教会にいってミサを行うという大切な儀式があるし、バレンタインデーはそもそも製菓会社の促進などにより情報操作されてしまったため、女性が男性にチョコを送るという習慣になってしまったのだ。

 そんなわけで、この情報が渦巻く混沌の世の中で、ここまで我が国を愛し、古きを尊ぶ者はおそらく限定されてくる。

 一つはこの国を愛する者。一つは古い考えにしか興味のない時代錯誤な者。一つは情報が届かない場所に住んでいる者。もしくはその全て。

 

 もっとも、雪子は和が嫌いではない。自分の家が洋式を重んじているためか、興味深い物が多い。なんといってもこの開けっぴろげな感覚が好きなのだ。昔の人は人の繋がりを大事にした。どんなものでも受け入れて茶を振舞い、談笑する。そんな昔の古き良き時代を彷彿とさせるこの空気に好感を持てる。人嫌いで有名な(?)雪子のような人物でも外面では悪態をついているが、華恋も桜子も受け入れてくれるのだ。

 

「それにしても、千回って……一体何本やらせてるのよっ!?」

 

 雪子は先ほど桜子が投げ捨てた木刀を拾い上げようとした、がその重量に思わず腰が抜けそうになった。両手でようやく持ち上げることができたが、それでも手が震えて一歩も動かせない。ヤバイ――そう思った瞬間桜子の小さな手がパッと雪子の手を支えた。

 一瞬目を疑ったが間違いなく桜子の小さな、小さな手だ。しかし明らかにケタ外れの力で雪子を支え、尚且その身を保っている。

 有り得ない。なぜなら比例しなのだ。先ほど羽のように軽かった桜子の体重と、この恐ろしいほどの怪力が。

 

「雪子さん、大丈夫ですか?」

「え、ええ、ありがと……」

「いえ、それでは私は鍛錬に戻ります。どうぞごゆっくり」

 

 腰が抜けそうなほど重かった木刀を無邪気に掲げ、桜子は離れた場所からひたすらに振るう。その姿は年端のいかない童女にしては、どこか達観したような雰囲気があった。

 

「何だか、随分と変わったわね、あの子」

「そうですか」

「大人っぽくなったっていうか」

「そうですか」

「まだ二ヶ月しか経っていないのに」

「そうですか」

「おかしいわよね、あの子」

「…………」

 

 この前までは兄がいなくて不満ばかり漏らし、自分に噛み付いてきた少女は、楽しくないと言いつつも木刀を振りかざし鍛錬を怠たることはなかった。それは雪子とて同じことだ。だが、人とはどうしても怠惰な生き物であり、したくないことを長く続けることの出来る人間など、ほんの一部に過ぎない。遊びことに熱心になるはずの少女は、雨の日も風の日も、文句こそ言うが、それでも言われたことはキチンとこなす。育てる側としてはこれほど楽なことはない。

 

「今まで甘えていた分の、反動ってやつ?」

「そうだったら、どんなにいいか」

「何? その煮えきれない返事? 気になるんだけど」

「雪子、人の家の事情に口を出すものではないぞ」

「そうだけど、あんたは気にならないのセーレム? あんたは知らないでしょうけど、あの子この前まで先生のべったりで文句言いたい放題で手もつけられなかったのよ?」

「子供とは、得てしてそんなものだ」

「何それ、あんた家族いるの?」

「ノーコメントだ」

 

 遠い目をしたセーレムにこれ以上問いただすわけにはいかなかった。この数日をセーレムと過ごしていたが、どうやらこの黒猫も苦労猫らしい。伊達に年を食ってるわけではなく、いつも冷静なのは、家族を持ち、苦労をしたことがあるためならば納得できる。どこか母に通じるものがあるのはそのためか、と一人雪子は感心した。

 

「雪子さん、桜子様をどう思いますか?」

「生意気なガキね。成長したら更に面倒になると思うわ」

「そうでしょうか。私は、桜子様はその逆だと思います。成長するごとに、桜子様は、その感情を閉ざしてしまう気がするのです」

「何それ、人である以上、感情はついてくるのよ。どんなに人間味のない奴でも、多少の感情は持っている。持っていない奴は、クズの証拠よ」

「そう――ですね。私が間違っておりました。どうか、末永く桜子様を見守ってくださいませ」

「? あんたも先生も人に面倒なのを押し付けないでよね」

 

 どうにもこの家族は桜子という少女を自分に押し付けようとする節がある。それは育児放棄というものではないだろうか。そうだったら許すわけにはいかないが、この前の溺愛っぷりを見ていればとてもそうは思えない。

 しかしその答えを安易に出すわけにはいかない。それはまるで運命を確定されたかのようで、嫌だった。なにか、そうなにかが、

 ――――いや、やめよう。先ほど言霊のことについて注意を受けたばかりだ。雪子は曖昧に言葉を濁し黙ることにした。

 

「――――――む」

「――――――やれやれ、物騒ですね」

 

 セーレムと華恋の空気が変わった。そのすぐあと、北の空が一瞬で黒く染まる。まるでその辺だけが太陽の恩恵を失ってしまったのではないかと疑うくらいに漆黒の闇に包まれた。

 

「何、あれ? ……人? 嫌な予感がする……」

「どうやら、穏やかではないようですね」

 

 華恋は空を強く睨みつけ、その動向を伺った。黒い塊は進路を変更せず、真っ直ぐに物凄い勢いでこちらへ向かってくる。

 やがてそれは霧島家に迫り、通り過ぎていった。

 

「――――クス」

「――――あ?」

 

 何か、笑い声が聞こえた気がして雪子は空を見上げた。だが、それはほんの一瞬で誰かまでは特定出来ない。

 馬鹿にされたわけではなく、何か子供のイタズラを許してくれる母のような笑い声だった。

 

「見逃して、くれましたか」

「いや、おそろくこちらに興味がなかったのだろう」

 

 何事もなかったかのように警戒心を解いた二人はホッとしたように再び縁側でくつろいでいた。先程まで、強い魔力の波動を感じたが、華恋も魔術師の類なのだろうか。だが今はそんなことよりもあの集団だ。

 

「あっちは、学園の方角じゃない!?」

「そうですね――――桜子様、今日の鍛錬はおしまいです。それとお外に出ることも禁止です」

「えー!? どーして!?」

「どうしても、です。さぁ羊羹を用意してあります。麦茶と一緒に召し上がってください」

 

 華恋は桜子を奥へ入れ、自らは縁側に立ったまま目を閉じ呪文を唱えているようだ。

 

「陰陽、身固、式神、我が意に従え」

「セーレム、今の何?」

「結界を張っているのだ」

「結界? この家は結界を張ってあったはずよ?」

「たった今、その結界は破壊されたのだ。先ほどの集団の長に、な」

「な!?」

 

 だからなのだろうか、華恋の目は以前と先ほど集団が通り過ぎた方向をキツく睨んだままだった。黙っていればそこから飛び出さんばかりの殺気を放っている。

 それは雪子とて同じだ。どうやら学園に何か用があるみたいだが、あそこには母がいる。そしてこの嫌な予感。不意に言霊のことを思い出し、雪子は背筋を凍らせた。

 

「大丈夫です、雪子さん。言霊はよほど強い魔力を帯びた者にしか扱えません」

「なら、いいけど」

「あの旗……黒い太陽を象った家紋、天王寺です」

「天王寺が、家になんの用って、決まっているか……」

 

 先生から教わっている。魔術師が自らの領土に侵入してきたのは戦いの証。この数日慌ただしかったのはそのためか。雪子は途端に先生と母に対する怒りが募る。なぜ、自分に相談してくれなかったのか、相談してさえくれれば、

 

「何もできませんよ、雪子さん」

「――――わかっているわよそのくらい!」

 

 何も出来ないとわかっていたからこそ、母と先生は相談しなかったのだ。悔しさで涙が溢れそうだ。この数日のんきに過ごしていた自分が情けない。非日常とは唐突に現れるのだ。それを今、雪子は肌で感じていた。

 

「我々にできることは、ただ主の帰りを待つのみです」

「私は、待っているだけの女なんて嫌よ」

「……お好きにどうぞ、私たちは人の世に関与することを禁止されているので」

「人の世に生きていながらそれを言う? 高みの見物とは随分なご身分だこと」

 

 華恋は目を閉じたまま動かない。どうやら本当に気にならないらしい。その態度は雪子を苛立たせたが、しかしそもそも華恋には直接関わることではない。筋違いであることを受け止めて、雪子は急ぎ学園へと向かっていった。セーレムは当然そのあとに続く、主を守る騎士のように威風堂々とその尻尾を立たせたまま。

 

「学園は任せろ女中。お前は、お前のすべきことをなせ」

「私に命令していいのは左霧様と桜子様だけです、がその言葉ありがたく思います」

 

 固く握り締めた拳は下ろしどころを失くしたまま空中をさまよう。

 自分は無力だ、という悔しさを噛み殺し、華恋はその場所を動かない。

 

「私は、私のやるべきことを」

 

 霧島家には一歩も近づかせない。そう言い聞かせ、先程から気配を消していた者共へ一瞥を下す。

 

「霧島家、秀蓮様の敵だ」

「許すべからず」

「滅ぼすべし」

 

 好き勝手を言う。一方的に襲いかかり、一方的に要求し、一方的に殺された愚か者に言うことなど何もない。あれは愉快な出来事だった。この数千年の出来事の中でも最高に滑稽な男の名前が出てきた。

 なるほど、だからか。華恋は口を釣り上げて下賤を見下す。

 

「この地へ、一歩でも踏み入れたものに容赦することなかれ」

 

 魔術師たちは動けない。その女一人を前にして何もすることができない。それは足がすくんで動けないわけではなく、その女が発する言葉に息を飲んでいるためだ。

 

「雪子さん、言霊とは、こう使うのです」

 

「まずい! か、かかれ!!」

 

 魔術師たちは力を合わせ強大な術式を唱え始めた。大規模魔術、この霧島家を焼き落とそうという魂胆か。

 策はいい。自分を前にして相手に出来ないと判断したこの隊の頭はいい目をしている。目的だけを遂行したその決断力も賞賛する。

 

「動くな」

 

「なっ、う、動けない!」

「言霊だと!? 馬鹿な! 瑠璃様以外でそんなことができる者がいるわけ」

 

 魔術師たちは恐怖に慄いた。

 これから起こるであろう出来事を予想し、その身を停止したまま涙を流し、鼻水をたれながしながら懇願する者もいる。

 全ては遅い。この地に侵入して来たその時から、彼らの運命は決まっていたのだ。

 自らの主が言霊を操っていた場面を思い出した。それはそう、裏切り者を処刑した夜。たった一言で主は命を刈り取ったのだ。

 

「死ね」

 

 女はそう切り捨てた。そう、こんな感じだったな、と走馬灯が駆け巡った。自らの体が崩壊していく苦痛を感じつつ、彼らは一瞬のうちに崩れ落ちた。

 その場には安らかに死のみが支配している。立っているのは華恋のみ。その華恋も悲しみに顔を歪ませて死者に祈りを捧げた。

 

「せめて、安らかに」

 

 皮肉だ。命を刈り取ったものが祈りを捧げるなど。だが、それが死者に対する礼儀だと大昔に誰かに教わった。

 その人は歩くごとに命を刈り取り全ての者に忌み嫌われた。

 だが、それでも人を愛し、そして安らかに死んだ。

 あの人の血を守ることが、華恋の役目。

 ならば、私は、

 

「私は鬼となりましょう」

 

 本当の鬼がどれほど凶悪か知っているからこそ、自分もそう言い聞かせ奮い立たせた。

 さぁ殺し合いの時間だ。

 周りは既に囲まれた。

 口を封じられれば自分の負け。

 だかそうはさせない。

 約束を守るために。

 愛した男との約束を守るために。

 それも母性故か、果たして――――。

 



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ワタシダケノモノ

まだ、彼だった頃。彼の中にいた私は表に出ることはほんとんどなかった。

 私は緊急時に発生する自動制御システムのようなものだ。

 左霧という男が危険な状態に陥った際にあらゆる手段で彼を守ることが私の役目だった。

 

「左霧様」

「咲夜、どうした?」

「今日は満月でございます。見てください、あんなにはっきりと」

「咲夜は月より団子だな。もうそんなに食べてしまったのか? 俺の分も取っておいてくれればよいものを」

「誰が花より団子ですって?」

「誰もそんなこと言ってないだろ……まぁそのとおりなのだが」

「左霧様、食事は、戦争でございます」

「意味がわからん……それよりも、その、なんだ」

「何ですか? 左霧、様」

「……お前、わざとやっているだろう?」

「クスクス……ゴメンなさい、左霧」

 

 こんな甘ったるい会話を日常的に聞く羽目になった私はとても災難だと思う。

 彼には許嫁がいた。それも飛びっきりの美人で、気立てもよく世が世ならお姫様という身分だったはずの女だった。

 どういう風に転がってしまったのかは分からないが、彼らは相思相愛だった。狂気の成れの果てか、それともそうなる運命だったのか。

 運命――――。

 

「お呼びでしょうか、咲夜様」

「右霧……よね? ゴメンなさい、声だけだととても判断できなくて」

 

 咲夜様は、黒髪を真っ直ぐに伸ばした日本人形のような人だった。

 失礼なことは承知だが、語彙の乏しい私にとってはそれが精一杯の表現の仕方だ。

 もはや現代に残る生きた文化遺産のように古風で、箱入りで、体の弱い、普通の人間だった。

 しかし、その心は、誰よりも気高く、誰よりも強靭で、生まれながらの品位を備えた者というのはこういう人を言うのだろうか、と初めはただ、驚いた。

 私は精霊だから人をどうしても低く見てしまいがちだが、咲夜様は別だった。あと一応左霧も、か。

 

 左霧という男は生まれながらにして化物だった。

 膂力強く、賢く、悪しき者。

 生まれながらの悪。

 世を乱世に陥れる存在。

 そんな言葉で囁かれ、彼は隔離されていた。

 彼の傍にいるだけで、彼の気にあてられた者は彼を愛してしまう。一生、彼を愛して、衰弱し、死んでいく。

 迷惑このうえない特性だ。彼の一族、霧島家は『淫魔』の血を受け継いだ魔術師で、更に彼には特別な能力があった。

 それは華恋が詳しいのだが、この淫魔の一族である霧島家は大昔に呪いを受け、男児を孕むことのできない体になってしまったのだとか。

 霧島家から生まれる男児は鬼子、西洋でいう『悪魔』と同列に扱われ、忌み嫌われている。そのため、臨月の際に男児と判断されればその場で命を断ち、その存在を闇に葬るのだ。

 ならば、なぜ霧島左霧という男が存在するのか。

 それには霧島霧音という女の企みを知ることが一番手っ取り早いが、それは無理な相談なわけで。

 これは推測なのだが、左霧の素体に問題があるのではないかと思う。

 ここまで敢えて詳しい話はしないでいたが、左霧は『心は男で体は女』

 性同一性障害だったことが原因なのではないかと私は思う。

 いや、体は女、というわけでもなく『両性(アンドロ)具有(ギュノス)』で、わかりやすくいえばどっちも出来ますってことだ。

 顔立ちと胸部と性器が女。性格と性器が男。

 それならばこの者は何者か。

 しきたりに則り、殺すべきなのか。

 紆余曲折あったが、彼の生命は誕生した。

 詳しいことは知らない。彼とあったのは魔導兵として契約した、彼が六歳の時からだからだ。華恋はその前から彼を知っている。

 強すぎる彼の力を抑えるのが私の仕事でそれが私の生きる意味だった。

 誰からも愛される力。 

 それは素敵なことだろうか。

 決して、そんなことはなかった。

 彼はそれと同時に抗えぬ殺戮衝動を抱えていた。

 霧音様はそれを大層嫌い、彼を離れへ幽閉した。だが、必要な時は彼の力を必要とした。戦争用の道具としてこれほど便利な物はないと思ったのか、それともこうすることでしか彼に安らぎを与えることが出来ないと判断したのか。

 長くなったが、その犠牲になった一族の一人娘が木ノ花家。

 『木ノ花咲夜』といった。

 代々、『癒し』と呼ばれる魔術を扱い、東北の血で細々と暮らしていたこの一族。争うこともなく、ただ人を助け、その日の糧を貰うような生活を営んでいたのだとか。

 

「私はお父様と二人きり、小さな家で暮らしていたの」

「それは、災難でございましたね」

「ええ、そうね。今でも霧音様と左霧をこの手で殺してやりたい」

 

 時々、咲夜様は私を呼び出して恨み言を吐いていた。それは私が決して告げ口などをせず、淡々と機械のように相槌を打っているだけの存在だったので、咲夜様も安心していたのでしょう。

 甲信越の深い山の森の中。そんな場所に連れ去られた哀れな姫君を、私は形だけ労わることにしていた。

 

「でもね、右霧。でもね、ダメなの」

「はい」

「私は、あの人が愛しいの」

「そうですか」

「あなたは、どうなの?」

「私……?」

「そう、あなたは彼をどう思っているの?」

 

 咲夜様は無垢で無知だ。左霧がどのような力を持っているか知らない。その力に既に囚われていることを知らない。

 自分が、九九番目の妾だということ、知らない。

 初恋をした少女のように頬を桃色に染め上げて、彼女ははしゃぐ。

 私はそれをどこか冷たい眼差しで見ていた。

 愚かな、女だと。

 

「私は、私ではありませんから」

「私ではない?」

「私は存在してはならない者。私は彼の契約精霊であると共に、彼を支える道具です。道具は意思を持ちませんから」

 

 そう言った私を咲夜は済んだ瞳で見つめていた。

 いや、燃えるような熱い眼差しで私を見ていた。私はそれに気づかないふりをした。怖かったから。何が怖いか、それもわからず、ただ怖かった。

 

 九九番目。そんな末端の女など、敷居を跨ぐことすら許されない。

 しかし咲夜様はその権利を得た。左霧の寵愛を手に入れたのだ。

 それはこの土地で勝っていくための力の証だ。その頂点に彼女は君臨することが出来たのだ。

 左霧の妾たちは屋敷にいるが、お互いの面識はない。自分だけが左霧の正室であると信じて疑わなかったため、争いは起こらなかった。

 いや、争いなど起こるはずがなかった。ただ、愛するという行為だけに囚われた者だから。嫉妬という感情すら持ち合わせていないのだろう。

 

「左霧、抱いてあげて。私たちの子よ」

「子……俺の、子?」

「そうよ、頑張ったんだから」

「…………そうか」

 

 泣いている。これは赤子だろうか。

 左霧の意識があるときは、私は基本的に眠っている。

 だけどこのとき、しっかりと聞こえた。

 生まれた。声、うぶ声。元気な赤ちゃん。

 ああ、

 あああ、

 ああああ、

 そうか、私は。

 

「この子をお願いね」

「何を言っているお前が産んだのだ」

「でも、無理みたい」

「俺も無理だ。お前がいなくては」

「困った人、まるで子供のようね」

 

 人から愛された男は、一人の女を愛した。そして一つの命が誕生した。

 出会い、愛し合い、命が生まれる。

 魂の循環。

 私には許されないこと。

 私には出来ないこと。

 私は孕めない。

 私は抱けない。

 

「右霧」

「はい」

「この人とこの子をお願いね」

「無理でございます」

「あなたまでそんなことを言うの」

 

 その言葉は咄嗟に出てしまった。普段の私なら決して出来ないなんて言わない。どんなことでもやってみせた。それが私の役目だったから。

 だけどこの時ばかりは、ダメだった。頭が熱くて、クラクラした。

 でも、赤子は泣く。途方もなく、泣き叫ぶ。

 

「あの人、大丈夫かしら」

「左霧は案外ヘタレですから」

「それは――――確かに。けど殺戮衝動の方が」

 

 あの男はいざという時に必ずヘマをやらかす。今だってそうだ。自分には無理だと言って逃げてしまった。肝心な時はいつも私だ。あの子が子供の頃から怒られるはいつも私だった。

 あの子は成長した。ずっと見ていたずっとずっとずっとずっとずっと見てきた。

 これからもずっと一緒だ。変わることはない普遍の事実。

 私は彼。彼は私。写鏡のような存在。離れては、ならない。

 

「私が守ります」

「右霧……」

「左霧もその子も、だから安心してお眠りください」

 

 咲夜様はあの日のように熱くユラユラと燃える炎のような瞳で私を見つめた。

 何を考えているのだろう。動機が激しい。悟られるな。そんなことばかり考えた。

 

「決して」

「はい」

「お願い、決して――――」

 

 わかっておりますとも。稚児はいずれ、父親を殺し、その屍の上に君臨するでしょう。

 それが霧島家の力の継承術。あの強大な鬼の力を引き継ぎ、そして霧島の繁栄を助けることでしょう。

 

「右霧、お願い、決して――――」

 

 ああ、なんて素敵な子。可愛い子。愛しい子。

 私の子。私だけの子。

 頬を摺り寄せて匂いを嗅ぐ。ああ、乳の匂いがする。太陽の匂いがする。

 

「決して――――」

 

 黙れ!!!!

 ただ、子を孕むことしか出来ない哀れな娘の分際で、私に逆らうか。

 全てを委ねよ。全てを受け入れよ。

 お前はもう、必要ないのだから――――。

 

 咲夜様は死んだ。さぞかし幸せな最後だったでしょう。愛する者の前でその生涯を閉じたのだから。

 だけどね。

 だけれどね。

 思い通りになんてさせない。

 私は変えてみせる。私はこれからこの子と生きるの。

 この子の兄という存在で、生きるの。

 本当は母になりたい。姉でもいい。

 だけどきっと霧音様が許さない。

 殺戮衝動を押さえ込むという肩書きで私はこれから表に出続ける。

 左霧として、ね。

 この子は私が産んだ。母は私。父は左霧。それでいいの。きっとそれがいいの!

 霧音様はきっとこの子を自分の子であると公表するでしょう。不愉快極まりないが、しかし逆らったところで何ができるわけでもない。

 そうしておけば、万事丸く収まるの。

 そして私たちは小さな家でひっそりと暮らす。この子を育て、やがてくる継承の儀まで。

 それが私のタイムリミット。その時までは幸せに暮らすの。

 

 以後、この子を妹として扱う。そう脳髄にインプットする。そうすることでこの計画をあらかじめなかったことにする。

 来るべきその日まで。この森から抜け出す、その日まで。

 あの子を冷たく扱うかもしれない。

 自分のことでいっぱいいっぱいになるかもしれない。

 ゴメンネ。許してね。

 だけど必ずここから抜け出してみせる。

 この人と、あの子を連れて。

 いいでしょ、それくらい。だってあなたは愛してもらったのだから。それでおしまい。はい終了。

 そんなに恐ろしそうな顔で見ないでちょうだい。私からすれば、あんたたちみんな泥棒猫のようなものなんだから。

 私は子供の頃から左霧を見てきたの。だから私が一番なの。残念でしたまた来てね。

 

 渡さないわ。絶対に。残された時間を、私は幸せに過ごすの。

 そのためだったらなんだってしてやる。

 だって私は光の精霊なんだから。

 神の使いなんだから。

 

 彼を愛していいのはこの私『霧島右霧』だけなのだから!!

 

 

 

 

 



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規格外

 罠だった。それに気がついたのは百合が落ち着きを取り戻した時だ。左霧と時雨に抑えられ叫び声を上げながら呪文(スペル)を唱える百合。

 灼熱の業火を司る『天王寺』の呪文、それは天王寺の縁者だということの証。時雨はそのことを知っていた。

 大財閥である東野家と魔術の総本山である天王寺。それに一体どんな縁があったのかは不明だが、とにかく彼らには傷がある。

 深い傷が。

 私と同じくらい。

 左霧は胸に秘めた熱望を抑えつつも、百合の肩を支える。

 人の心は弱い。

 それを補う力が魔術だと言うのなら、

 魔術師は、とても弱く儚い存在だ。

 

「西区は囮ってこと……?」

「はい、統率された動きと少数精鋭。おそらく、天王寺はほぼまとまりつつあるのです。ゴメンなさい、僕の情報は混乱を招いただけでした……」

 

 何をやっているのだろう。左霧は自らを殴り飛ばしたくなった。秀蓮という男を倒してから三年あまりが過ぎているのだ。いつまでも派閥同士のくだらない争いを起こしていたら天王寺といえど弱体化の一途を辿るに決まっている。

 しかし、彼らの力は衰えを知らない。今回は単純に砂上や東野が桁外れに強い魔力を秘めていたため、苦戦することはなかった。だが、明らかに精錬された魔術師が増えていることは確認できた。彼らは恐怖に怯えこそすれ、勇猛果敢に立ち向かってきた者も多かった。その場合、ひとり残らず塵芥に変わってしまったわけだが。

 おそらく、カリスマ性を備えたリーダーがいるに違いない。直感に頼ることは好きではないが、そう捉えざるを得ない状況のようだ。

 

「そんなに落ち込まないでください、左霧先生。こうやって西区を潰せただけでも、俺や――――百合は満足ですから」

 

 時雨はそう言って百合を一瞥した。一方の砂上はバツが悪そうに彼から視線を外し、黙ったままだ。仕方がない、というふうに時雨が肩をすくめる仕草をする。何だかお似合いの二人だと左霧は心の中で笑った。口に出そうものなら恐ろしいことになりそうだからだ。

 

「二人とも、ゴメンなさい。私、教師失格よね。こんな、感情に流されるような人間なんて……」

「百合先生は、立派な方だと思います。ですが、どんな事情があれ、集団行動を乱すことは決してやってはいけないことです。それは生徒ですら分かっていることです」

 

 後輩に説教され、小さくなる百合。それを時雨が小さく笑い、睨まれる。そんなことはおそらくわかっているのだろう。それを知っていても許せないこと、などいくらでもある。だからこそあまり強く言う必要ないと判断し、左霧はこの話題に区切りを付けた。

 これ以上おかしな行動をとるのなら、『見捨てる』という選択肢もある。だが、それは『霧島右霧』の判断であって、『左霧』の判断ではない。

 甘い男よ、あなたは。左霧は心の中で愚痴を吐いた。

 

「急いで戻りましょう。――嫌な予感がします」

「――どうやら、その方が良さそうですね……見てください、あれ」

「黒衣の集団……間違いない、天王寺だわ」

 

 北東の空が急に暗くなった、と思いきやそれが徐々に近づいてくる。まるで闇が押し寄せてくるような感覚に三人は戦慄を覚えた。

 

「西区に誘導させ、北区の本陣から襲いかかる……踊らされっぱなしですね」

「冗談言ってる暇はないわよ時雨! 学園が、私たちの生徒が!」

「休校中です、が部活動や委員会などで残っている生徒もいます。まさか、生徒に手を出すほど天王寺は落ちぶれているのですか?」

「こんな手を打ってくるほどの策士です。僕は十分有り得るかと」

 

 念のため、休校中で本当によかった。万が一に、と学園長の判断は正しかったのだ。だというのに自分はまんまと相手の罠にかかってしまったのだ。 

 甘かったのはどちらか。状況を見ていなかったのはどちらか。

 感情に流されていたのは、誰か。

 焦る気持ちを無理矢理押さえつけ、三人は来た道を走る。時雨の魔術によって体は驚く程軽い。それでもどれくらいの時間がかかるか分からない。

 お願い、無事でいて。

 左霧の、右霧としての思いが『奇跡』を起こすか。

 審判の時は、近い。

 

 ※※※

 

 

「翔子、状況を知らせて」

「はい、瑠璃様。現在学園敷地内を完全に包囲。生徒たちは全員一箇所に集めました。先生……魔術師の連中も全て制圧完了。残りは学園長のみです」

「霧島左霧は?」

「……捜索中です、がおそらく西区の調査へ向かったものかと」

「そう……その程度の人物ということ――いや――そう判断するには早計か」

 

 覇王、天王寺瑠璃は、その手についた血を振り払い前を見据えた。

 加賀英孝、竜胆涼子、篠田加奈女は既に絶命していた。

 それは大きな何かに食い潰され、または踏み潰されたかのように限界を留めていない。

 まるで勝負にならなかった。相対した瞬間に彼らは負けを悟った。対する瑠璃は、彼らに見向きもしなかった。

 うるさい虫を払うかのように軽々と命を弄ぶ。最もそれは瑠璃だけに留まらず、百合や時雨、左霧にも言えることだ。立場が違いだけ。敵か味方の死が変わっただけなのだ。

 魔術師は力こそ全てであり、それ以外の感情は邪魔になる。どこか聖人にも似た表情のまま瑠璃は今、学園長室の重い扉を前にしている。

 

「生徒たちはいかがいたしますか?」

「むやみな殺生は好かないわ。私たちの敵は魔術師のみよ。最も、脅しの材料にはなってもらうけど」

 

 この状況を瑠璃は何とも思っていない。策を弄して敵を倒すことは古来から伝わる戦術だ。もちろん正々堂々と戦うことも好きだが、簡単に落とすことができるならそれに越したことはない。それを卑怯と呼ぶ連中など蹴散らせばいいだけの話。

 父はそれを嫌ったが、だからこそ愚かだったのだ。瑠璃は愚かで大好きだった父のことを思い出し少し感傷に浸る。

 

「――――あら、これは……」

「侵入者です。私にお任せください」

「――――そう、殺さないでね。だけどやるからには徹底的に、ね」

「御心のままに」

 魔術探知――優秀な魔術師は自分の系列とは異なる魔力を感知すると即座に居場所を特定できる能力を持っている。瑠璃はこの区に来た時からずっと監視していた獲物が自ら巣に引っかかったことに歓喜した。

 翔子を一瞥し、瑠璃は扉を開ける。その様子を確認したあと、藤沢翔子は頭を上げて自らの額に浮かび上がった玉のような汗を拭い取る。

 あのお方は人を殺すことを何とも思わない。だからこそ、『彼女』が入ってきたとき、嬉々として自ら出向こうとした。翔子はさりげなくそれを阻止したのだ。

 

「雪子さん、まだ早いわ。まだ――――」

 

 先ほどの侵入者は、雪ノ宮雪子。今日の目的である『雪ノ宮雪江』の娘だ。

 母親がもう数分で殺されるであろうこの時に、一体無力なこの娘は何をしに来たというのか。

 来てはダメ、あなたまで殺されてしまうわ。翔子は焦燥に駆られながらも雪子の味方になることはない。翔子は天王寺の魔術師であり、瑠璃の右腕だ。この学園に侵入したのも、スムーズにことが済むよう下調べをするためだったのだ。

 もっとも、こんな面倒なことをしなくても瑠璃ならば簡単に占領できただろう。圧倒的な兵隊の差。加えて瑠璃のカリスマ性と実力。負ける要素が一つもない。

 いや、あった。しかしその異分子は現在ここを離れてしまっている。天王寺を知りすぎるが故に、間違った選択をしてしまったのだ。西区は既に瑠璃の派閥に組みしている。雪ノ宮を襲った連中も全て瑠璃の配下たちだ。天王寺はほぼ瑠璃に屈したと言っていい。例外的な連中もいるが、それも時間の問題だ。

 西区に向かったのも霧島左霧の判断だろう、と瑠璃は予想した。おそらく派閥争いで分裂した天王寺の中でもっとも勢力の弱い西区を狙い撃ちにし、情報を取り出そうとしたに違いない。

 

「甘いわ、先生。瑠璃様は全て存じていた」

 

 最初の襲撃からことは既に始まっていた。雪ノ宮を焚きつけて霧島左霧を離脱させる。彼と彼女は少々厄介だと瑠璃様は言っていた。天王寺の内部を知っている唯一の人物で、父を殺した怪物だと、霧島一族のことを嬉しそうに話していた。自らの父親を殺した人物にも関わらず賞賛していた点については今ひとつ理解に苦しんだが、瑠璃という覇王の考えることは所詮参謀役にしかならない翔子には理解出来るはずもなかった。

 

「戦いたい、けどそうも言ってられないわ。感情を優先する人間ほど愚かな者はいない」

 

 自分の感情を押し殺し、合理的に考えた結果、左霧を学園から離脱させることになった。おそらく西区に向かうだろうという瑠璃の予想も的中。

 西区は確かに天王寺領の中で一番小さな地域だ。もし、翔子が天王寺を手に入れようという野望を抱いた場合(ありえないが)まず落とすべき拠点という点でも左霧は間違った選択をしているわけではない。

 ただ、裏をかかれただけだ。相手が悪すぎた、というだけのことだ。

 わざと西区の警備を薄くし、その分の兵隊は全て北区から中央区まで充てられた。

 雪ノ宮にこれだけの兵隊を割いた理由は、雪ノ宮がそれほどの実力を持っている、ということではもちろんない。

 天王寺に喧嘩を売ればどうなるか、そういったプロパガンダが必要なのだ。天王寺瑠璃はここまでやる、だから黙って従え、という暗黙の了解が必要なのだ。

 翔子は早足で校門まで向かう。雪子をここに入らせてはいけない。天王寺の魔術師は容赦しない。魔術師に半人前などない。あるのは強いか、弱いかの二つだけ。

 弱肉強食だからこそ、守るべき者がいなくてはならないのだ。

 瑠璃は明らかに雪子を殺そうとしていた。あの聖人のようなお方は自らの邪魔をするものに容赦しない。そして味方するものに最大限の慈悲を与えるのだ。

 翔子は雪子を止めるためにそして瑠璃の命令に従うために雪子を倒さなければならない。

 出来るだろうか。いや、できる。あんな小娘一人、なんてことはない……。

 しかし、だが、自分は甘いのか?

 

「翔子、さん? あなた、どうしてここに?」

「――――雪子さん」

 

 時間は翔子に猶予すら与えなかった。

 学園で交わした会話。

 接点はそれしかない。

 自分に微笑みかけてくれた美しい少女。

 私とは大違いだな、と思った。

 自分は下賤な生まれで、こうやってスパイのような行為をしながら生きてきた。

 裏切りと血みどろの世界。

 どうしてこんな世界にあなたは入ってきたの?

 知らなかったら美しいままでいられたのに。

 

「気をつけろ雪子。魔術師だ」

「……翔子さん、あなたは、何?」

 

 精霊を連れている。黒い猫だ。猫の精霊なんて珍しくもない。だが人の言葉をしゃべれるなんて珍しい。

 どうでもいい。翔子は雪子の目を見据える。あれは怒りだ。憤怒だ。賢い子だ。自分を一目で敵とみなしたその判断、テストなら花丸をあげたい。

 

「言葉は無用よ、雪子さん。わかるでしょう?」

「お母様はどこ!? そこを通しなさい!」

「無駄よ。あなたでは瑠璃様に勝てない。そして、私にもね」

 

 烈火の炎が翔子の周りで渦巻いている。プロミネンス――太陽の周囲に吐出する紅炎をそう呼ぶ。それが翔子を中心に踊り始めた。翔子はそれを操る炎の怪人となり雪子を睨みつけた。

 

「どうあっても、戦うの?」

「あなたが、お母様を救いたいのであれば、ね」

「どうして学園を襲ったの!? どうして私たちを!」

「サンプル0を破壊するためよ。帝国からの勅使……命令でね」

「何を、言っているの?」

「雪子さん……いえ、ラストナンバー……あなたは自分のことを知らなすぎる。それは罪よ。無知は罪」

 

 雪子は怒りのあまりに恐怖を忘れていた。だが少し冷静に相手を見てみると、そこには炎をまとった怪人が笑みを浮かべながら自分を喰らおうとしている。

 恐怖――それを感じるのは当然だ。あの悪魔と相対したとき、雪子は何一つできず、怯えていた。

 今は助けてくれる先生は、いない。縋る者は何もない。

 また、私は逃げるの? お姫様のように守ってもらうの?

 

 ――――冗談ではない。

 

「光の加護はいつでも私とともある」

「――――光の、魔術?」

 

 翔子は僅かに躊躇した。目の前の少女がそこまで力を付けていたとは予想外だった。今、スペルを唱え、自分の知らない力を身にまとった相手に思わず見惚れてしまった。

 例えるなら、神話の女神、アルテミス。戦女神、ヴァルキリー。そんな単語がフツフツと浮かび上がる。

 黄金の女神、その杖を振りかざし、大地に実りを与えたもう――――。

 

「面白いわ、遊んであげる」

 

 自分を少しでも驚かせたお礼に一瞬で楽にしてやろうと、翔子は呪文を唱える。

 

「我、求めるは深紅の刃。全てを切り刻む熱風の剣と化せ! いでよ紅神剣!」

 

 翔子の前で踊る紅炎がその姿を変えた。

 ドロドロとしたマグマに変わり、やがてその中から赤く燃えたぎる剛剣が二本浮かび上がった。巨大な剣は空中に浮かびあがり、翔子を守る騎士となる。

 

「もう一度言うわ、雪子さん。おやめなさい。今ならばあなたを痛めつけなくて済むの」

「いやよ。ここで逃げたら、何も変わらないの。私は魔王になる女よ」

「残念です。腕の一本は、覚悟してください!」

 

 手を空高く振り上げ、翔子は双剣に命令を下す。

 遂に翔子は攻撃に移った。その深紅の剣は、まるでその血を求めるかのように暴れまわり、雪子へと向かっていく。

 

「光は常に私と共ある」

 

 地を走り、空を駆ける二つの剣。雪子にそれと戦う力も魔力もない。

 雪子にできるのは、先生に教わった一つの魔術だけ。

 

「守るための力」

 

 誰かを守ることなんて雪子には出来ない。だが、せめて自分の体くらいは自分で守りたい。

 半人前以下と言われてもいい。

 私は、私のできることをやりたい。

 

「雪子さん、これでおしまいよ!」

 

 赤く燃えたぎる二つの剣は、雪子へと振り下ろされた。

 勝利を確信した翔子。当たり前だ。勝って当然であり、負けることなどあってはならない。

 実力差は歴然。敗北の確率は零に等しい。誰がどうみてもそうなるに決まっている。ああ、そうよ、当たり前。どうして戦いを挑んだの、雪子さん? 馬鹿な子ね。ええ、本当に!

 なんだろう。これは、なんなのだろう。

 ざわざわと感じる嫌な予感は。

 手応え? そう手応えがない! 人が苦しむ時の悲鳴、舞い散る血しぶき、倒れふす肉塊。

 胸が痛い。動悸が激しい。私は勝ったはずだ。勝った。勝ったのだ。勝った――――。

 

「よし、初めて成功したわ。今度はこっちからいくわよ!」

 

 なぜ、声が聞こえる?

 

「先生ゴメンなさい! 約束破っちゃいます! 汝に神の怒りを与えん! 爆ぜろ光爆!」

 

 たった今、死んだはずの少女は、不敵な笑みを浮かべながら神に祈りを捧げていた。

 何とも信仰心のなさそうな少女なのに。

 どうして神様は彼女の言葉を聞くのだろう?

 というか、爆ぜろて……。

 翔子は色んな疑問が走馬灯のように浮かび上がった。

 しかしその光を見たとき、とても自分の魔力量では防ぎきれないことを悟った。

 一体なんなのかしら? 本当に。

 規格外すぎて、もう私には無理です、瑠璃様。

 薄れゆく景色の中で、翔子が見た最後の光景は慌てふためく雪子とそれを呆れながら見つめる黒い猫の姿だった。

 



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天上の祈り

「雪子、魔力の使いすぎだ。私はもう何もできないぞ」

「な、何ですって!? やっぱりあんたしょぼい精霊だったのね! チェンジよチェンジ!」

「失礼な! 私は精霊の中でも由緒正しいブリティッシュショートヘアだ! 貴族なのだぞ! 偉いのだぞ!」

「知らないわよそんなこと! ただの毛並みのいい猫じゃない!」

「毛並みこそ猫の誉れなのだ! これ以上の侮辱はいくら我が主とて許さぬぞ!」

 

 雪子は先ほどの戦いにより一気に魔力を消失した。いや、雪子自身にはまだ魔力と呼ばれる力は皆無だ。セーレムとの契約によりセーレムの持っている魔力を間借りすることで一時的に強大な魔力貯蔵量を維持することに成功したのだ。

 

「雪子、お前にはまだ自ら魔力を生成する力はない。そんな状態で戦いに挑むのは愚か者のすることだ」

「でも! だからってこのまま放っておけっての!? 学園にはお母様がいるのに!」

「落ち着け。私に考えがある」

 

 セーレムは雪子にある提案をした。精霊自体が持っている霊力(マナ)――――すなわち魔術師が持つ魔力の元素となる力をそのまま魔術へと転換させようというのだ。

 霊力と魔力に大きな違いはない。ただ人間が体内に宿している魔術回路に馴染むよう変換された力が魔力、というだけのことだ。

 しかしこれには大きな欠点がある。

 

「それじゃ、あなたは何も得をしないじゃない? 精霊は合理的な生き物なのでしょう?」

「ふっ……侮るな。お前の微々たる活力をもらったところで、なんの得にもならないからな」

 

 セーレムは挑発するようにニヤリと小さな口元を歪めて雪子を見た。

 ムカつく、その一言しか思いつかない雪子であったが、否定できない。

 弱さを知ってこその強さ。そんな言葉で自分を納得させ、セーレムの指示に素直に従うことにした。

 

「それに、活力ならもらっているさ」

「え? 何ですって?」

「いや、独り言だ」

 

 セーレムは雪子の強気で向う見ずな性格を危うく感じるとともに一種の好感持っている。

 自分が面倒を見てあげなくては、という保護欲のようなものを掻き立てられるのだ。

 そう、本人には口が裂けても言えないことだが、さながら娘と接しているような感覚だ。

 自分のような老衰した精霊には若者の元気な力が必要なのだ。それが活力として与えられなくても雪子の存在そのものがセーレムにとっては活力になりつつある。

 もちろん本人は絶対に言わないが。

 

 

「光の魔術とやらは燃費が悪いな。お前の先生はとんでもない魔術師だぞ」

「当たり前よ、この私の先生だもの」

 

 なぜそこで雪子が威張るのか甚だ疑問だが、そんな些細なことなどどうでもよくなるほどの事態が怒った。

 

「う……そう、あなたはそこまで……そう、そうなの……」

 

 翔子が立ち上がったのだ。灼熱の瞳をユラユラとたぎらせながら……目の前の相手をようやく外敵と見なしたのだ。戦うべき、滅ぼすべき相手だと。

 

「翔子さん、おやめなさい! もうあなたに戦う力はないはずよ!」

 

光の魔術は、決して人を殺める力ではない。魔力の根本的な部分を調和し、粒子へと還すことが目的だ。

つまり、戦意喪失。それを目的に構成された極めて珍しい術式なのだ。

 

「雪子さん、あなたは私の攻撃を無に還し、そして私の魔力を光へと還した」

 

 翔子は空を見上げた。魔術は神が与えた力。それを神に還す魔術。さながら、神の使いとでも言うべきか。

 だが――――。

 

「雪子さん、あなたは恐ろしい人よ。いえ、なってしまった。その力は魔術という存在そのものを否定する」

「否定……?」

「魔術は、神に抗うために神から与えられた力。あなたの信仰する神と、私――いえ私たちの信仰する神は違うのよ」

「私は別に神なんか信仰していないわよ。先生から教わったことを実践しているだけだわ」

「だとして、このことがわかってしまった以上、私を含めてこれから多くの魔術師からその命を狙われるでしょう」

 

 翔子は何やらおかしな模様の書いてある小瓶を取り出した。その蓋を取り中身を飲み干す。セーレムはその様子をジッと見つめていたがやがて苦々しく雪子へと訴えた。

 

「……雪子、まずい。一旦引くことを勧める」

「馬鹿言わないでよ! 早くお母様のところに行かなくちゃっ!」

「奴の魔力が戻った……霊薬(エリクサー)だ! この女、調合の心得も持っているのか!」

 

 霊薬(エリクサー)はその名の通り霊力を回復させる魔法の薬だ。その調合法は独自で、この時代に作ることのできる魔術師は少ない。翔子はその中の一人だということだ。

 完全に積んだ、セーレムは判断した。故に撤退を指示したのだ。なにせ、雪子の魔力は微々たるもので、要である自分の霊力も底を尽きているのだから。

 

「私がなぜ瑠璃様の右腕なのか……それは決して魔術師として優秀だからではないの」

「……くっ……あつっ」

 

 先ほどとは比べ物にならないほどの膨大な炎が校庭を支配し始めた。翔子は制圧作戦で既に消費していた魔力のまま雪子と対峙していたのだ。

つまり、これが翔子の真の力。

 再び現れた双剣。

 そして現れた炎の化身。

 

「おいでなさい、サラマンドラ。ええ、暴れていいの。もう、容赦はしないわ」

 

 翔子は抑えつけていた感情を顕にする。背後に控えている炎の怪物を操る巫女は笑いながら無力な少女を見下した。

 魔術師の本性が翔子を解き放つ。

 

「吼えろ、地獄の使者よ。全てを灰塵と化す死の雄叫びを上げよ!!」

「逃げろ、雪子!!」

 

 セーレムの叫び声が聞こえる。だが雪子はその場を一歩も動けなかった。

 立ちすくむことしか出来なかった。

「今度こそ終わりよ、さようなら――――紅炎(フレア)の踊り(ダンス)」

 

 精霊サラマンドラは双剣を手にした。炎の戦士は踊り狂うように雪子へと突進していく。

 叫び声が遠い。セーレムはまだ何かを叫んでいる。

 また私は何もできない女の娘。

 死の淵で雪子はただ、悔しかった。

 炎に焼かれていく肢体を見つめながら雪子は謝る。

 

「先生、ゴメンなさい。私……」

 

 母を思う。

 

「お母様、お母様……」

 

 この日、雪子は生まれて初めて死んだ。

 そして初めて魔術師としての敗北を知った。

 

 

※※※

 

「天王寺の魔女、一応理由を聞いておこうか。なぜ、私の学園を襲った?」

「帝国からの命令よ。サンプル0の破壊というね」

「帝国の犬に成り下がったというのか、天王寺は」

「うーん……その言い方はちょっと気に入らないわ、それ」

「グッ……グァァァァァ!!」

 

 既に学園長室では事が終わっていた。さすがは一国一城の当主である雪江。最強の魔術師である天王寺瑠璃を前にしても引けを取らない戦いであった。

 雪江の精霊である氷狼――フェンリルは果敢にも敵を恐れず力を発揮した。室内は氷漬けになっておりその激しさが窺える。

 しかし、適わなかった。

 たった一度の攻撃で雪江は精霊ごと粉砕された。

 

「じゃあ改めて聞くわね。この領地を私にくださいな。そうしたらあなたの大切な生徒たちは全員助けてあげる! あと、私を入学させてくださらない? 一度通ってみたかったの」

「…………断る。生徒たちは解放しろ。お前の編入は許可できん。さっさと消え去るがいい」

 

 唾を吐くように雪江はそう切り返す。

 瑠璃は別段怒ったふうでもなく、かと言って困ったふうでもなく、ジッと雪江から目を離さなかった。

 帝国の命令――――という言葉は本当だろう。雪江は自らの出生を知っている。自分が人間ではないことも。戦うための道具であることも。

 今更、過去を隠蔽しようとするところが、何ともこの国の腐敗した根幹を漂わせる。律儀に刺客を送ったところで別段害があるわけでもないのに。

 雪江はただ、娘と、生徒たちと過ごす一日一日を大切に過ごしていただけなのだ。

 

「あっ……あ~……あちゃ~」

 

 突然、瑠璃はひょうきんな声を上げ、わざとらしく悲しげな表情を作る。蒼色の髪が左右に動く。そのおかしな光景に雪江はとりあえず笑みを浮かべようとした。

 が、次の瞬間、それは急激に襲いかかってきた。足元からガラガラと崩れ去るような感覚。宝物をどこかに無くしてしまったような喪失感。

 雪江が、雪江を保つことのできる精神安定剤。

 

「え~……誠にお悔やみ申し上げます。あなたの大切な娘である雪ノ宮雪子さん? は先ほどお亡くなりになりました……もう翔子ったら殺すなとあれほど」

「……なんの冗談だ?」

 

 冗談でも言って欲しくないことがある。

 そんなことを想像するたびに、胸が締め付けられたような感覚に襲われるのだ。

 そんなことは有り得ない。あの子は今安全な場所に避難してあるのだ。

 賢いあの子は家でちゃんと留守番しているのだ。

 私の帰りを待って。最近反抗期なのがちょっと心配なのだが、ふてくされながらもお帰りと言って迎えてくれるのだ。

 

「……あ、そっか。あなたは持ってないのね。雪子ちゃんはね、さっき学園に来たのよ。あなたを心配してね」

「嘘をつくな! 貴様、なぜ我が娘の名を知っている!?」

「嘘じゃないわよ。しょうがないわね、今見せてあげるから」

 

 『ない』とは雪江に魔術感知の能力がないということだ。そのため、雪江はこの学園にどれほどの魔術師が潜伏しているか把握できていない。

 そして、自らの娘がこの死地に訪れていることも。

 

「ちちんぷいぷいー、それっと。はい、これがあなたの娘、でこれが私の右腕の翔子です、じゃん!」

 

 おかしな呪文を唱え映し出された光景。雪江は取り付かれたかのようにそれに魅入る。

 何か、黒い塊が炎の中にある。

 雪江はそれから目を逸らさずにいた。いや、逸らせずにいた。

 その塊を蹴り上げている狂った女がいる。

 ああ、この子は同じクラスの藤沢翔子じゃないか。雪子がクラスの子に話しかけてもらったとか喜んでいたなぁ。仲良くしてほしいな。

 思考がぼやける。血が足りないのだろうか。裸のまま全身を切り刻まれた痛みは、不思議とこの間だけは何も感じさせない。

 翔子が息を切らしながら黒い塊を蹴り上げる。

何をそんなに怒っているのだろうか。

いや、そもそもなぜこの子はここにいるのか? 右腕? つまり天王寺の手先だということか? これはいっぱい食わされた。内情が筒抜けではないか。

 

 ようやく塊は炎から取り上げられた。真っ黒で何も分からない。

 小さなビーズで出来たブレスレットが燃えずに残っている。

 ああ、あれは雪子が小さな時、祭りの縁日で買ってあげた品だ。

 馬鹿な子だ、あんなものをまだ……。雪ノ宮家の長女として恥ずかしい。

 愛しい子。我が子。我が

 がぁ?

 

 

「ひぃヒヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!? あ、あああああああああああ!? どう、どう、し、して!? せ、せつ、ゲホ! せつ、こ!?」

 

狂ったように悲鳴をあげた雪江に、瑠璃は少し驚いていた。先程まで脅しにも全く屈せず、一〇〇本の刃で肢体を切り刻まれても不敵に笑っていたあの女が。

 たった、たったひとり、我が子を失っただけで壊れてしまった!

 

「ぜつ、ぜつご~~~~~! あぎっ! ぜつご~~~~! どうじで!? どうじで!? ごんなごと!?」

 

 玩具を取り上げられた子供のように悲鳴を上げる雪江。

 泣き叫び、涙の雨を瞳から流す。オロオロとそこらじゅうを彷徨ったかと思うと再び光景に目を移し、叫ぶ。

 

「ころ、ころ、殺してやる!! 絶対、絶対だ!! ああああああああああああ!!!! お前たちは、絶対に、殺す!!!! 決定事項だ、ああ許さん!! あああああ!!!!」

 

「聞くに耐えないわね。人形がどうして子育てなんかに現を抜かすのかしら? まぁいいわ、よいしょっと」

 

 そして戦いはまた始まった。

 守るべき者を失った亡霊と、聖人との途方もない戦いが。

 勝算は目に見えていた。雪江は既に戦意を消失している。

 だが、体がそれを良しとしない。体の奥から沸き起こる訳のわからない熱情にうなされながら、抗いもせずそれに従う。

 なまじ体が丈夫なだけ、一発でとはいかないか。瑠璃は何だか哀れな気分に襲われる。

 

「クロちゃん、食べちゃって」

 

 漆黒の化物は瑠璃の背後で唸る。

 髪を逆立てながら怒り狂う雪江を前に鼻を鳴らしながら悠々と突進した。

 

「シネェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!!」

「愚かな人形。親子共々さようなら」

 

 吹雪が怪物を襲う。氷塊が怪物の肌をえぐる。徐々に怪物の体が氷漬けにされていく。

 

「ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」

 

 一喝で全てをなぎ払う。室内は轟々と灼熱の息と化し、フィールドは一変した。

 一秒だ。一秒で、瑠璃は雪江のテリトリーを犯した。

 雪江は悟った。何もかもを失ったのだと。

 何もなかった自分に、何かをくれた存在を。

 願いは届かない。

 だって自分は人形だから。

 神様は人の願いしか聞かない。

 だけど雪江は願う。

 刹那の中で、ただ願う。

 あの子を守ってください、と。

 

 最後の瞬間、瑠璃は顔を歪めた。

 その光景を見つめたまま。

 その表情を見つめたまま、雪江は瞳をゆっくり閉じた。

 

 



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二人三脚

 ――――心肺機能停止。

 ――――緊急のため魔術回路を切断します。これにより精霊からの霊力供給は停止し、損傷部分の修復に移ります。

 ――――ポーン。

 ――――ポーン。

 脊髄の損傷部分、修復まで残り八〇%、

 大脳部分、修復まで七〇%、

 腕、脚、胴体、その他主要箇所の修復、未定。

 魔導石の動力部分に損傷アリ。これにより、著しく修復機能の低下を予想。

 ――――ポーン。

 ――――ポーン。

 魔導兵一〇〇番に未知数の機能アリ。

 動脈あり、静動脈あり、血流あり? 脈拍数正常。

 魔導兵一〇〇番のシステムをアップロード。

 魔導兵一〇〇番に人としての機能を追加しました。

 これにより、修復に必要な要素を再検索……。

 ――――ポーン。

 ――――ポーン。

 検索終了。一件のデータを抽出。

 データ回覧……。

 魔導兵一〇〇番の修復に必要な要素は、『奇跡』です。

 『奇跡』を自動検索……検索できません。ロックされています。

 光の魔術で検索……一件のデータを抽出。

 精霊王から見放された神。

 神の代行者は奇跡を起こす。

 黒い光の精霊。

 ――――ポーン。

 ――――ポーン。

 負荷が多いため、システムを一時的にダウンします。

 ―――――。

 ―――――。

 

 

 ノイズが聞こえる。

 私はだぁれ?

 生まれた場所を私は知らない。

 私は、私を確固として確立することは不可能だ。

 立たされた場所はいつも出来上がった物ばかりに溢れ、私は何も作れない。

 

 それでもよかった。

 それでもいいと言ってくれた人がいたから。

 ――――お母様。

 ずっと守られていた私。

 血の繋がらない私を、まるで我が子のように、育ててくれた。

 子宮を痛めるのと同じくらいの愛情をくれた。

 それは時に恐ろしいと感じてしまうほどの絶対的な母性。

 

 

「雪子さん」

「……先生?」

「雪子さんは、諦めてしまうのかしら?」

「だって、もう」

「雪子さんの夢はなんだったのかしら?」

「私の、夢」

 

 先生が目の前に立っていた。黒いスーツを血だらけに汚したまま、先生はそこに立っていた。

 やっぱりキレイだ。先生はとても綺麗だ。私はとても敵わない。そう思えてしまう。

 女のように艶やかで、優しくて、

 でもどこか、冷たい。氷のような瞳で、私を見つめる。

 

「――――お前は」

「……あなたは誰?」

「霧島左霧……だ」

 

 その時、先生ではない誰かが私を見下ろしていた。

その瞳は、黒く沈み、全てに対して諦めてしまったかのような悲しい色をしていた。 

 なんとなくだが、この人の心は壊れてしまったのだと思う。胸が張り裂けそうな出来事があり、それに耐え切れなくなって心を閉ざしてしまったのだ。

 私はその時、その瞬間、なぜだか泣きそうになった。

 私ではない何かが、叫んでいるような、とにかく言葉にできない感情に支配され、溢れ出てきた。

「――――大丈夫よ」

 私は彼に言った。泣きそうになった自らの顔に笑顔を作った。虚空を見つめる黒い眼差しは、僅かに見開く。

 ああ、この人を守らなくてはならない。

 私の中で何かが弾けた。ずっと胸に刺さっていた刺がなくなったような、爽快な気持ち。

 それに従うように、私は彼を抱きしめた。

 ――――霧島左霧という男を。

「あなたは、私が守るわ。だから何も心配しないで」

「――俺は、俺にそんな資格はない」

「そんなことない、あなたはきっと生まれてきてよかったの」

「俺は、俺は人を殺した。たくさん。俺がいると皆が迷惑になる」

「私は大丈夫よ。私はあなたといても大丈夫、ね? そうでしょう?」

 なぜだろうか。子供をあやすように私は彼の髪を撫でた。かつて母にされたようにそっと、そっと。

 生まれた初めての、感情。私はそれに戸惑いつつも抗うことをしない。胸が熱くなる。また涙が溢れそうになる。

「彼はね、あなたといる時だけ力の衝動を抑えられるみたい」

 その空気を遮るように、女の声が聞こえた。

 私の腕からすり抜け、先生はいつもどおりの優しい瞳で私を見つめた。

 あのひどい作り物の笑顔で。

 あらゆる感情を押し込めた歪極まる最高の笑顔で。

 

「雪子さん。あなたを助けてあげる」

「先生、あの人は一体何ですか? 先生は何者ですか?」

「……今はあなたの命の方が大切よ」

「それが先生の本当の姿ですか?」

「雪子さん――――」

「あなたは、誰? 一体何が目的なの? あなたを最初見た時から思っていた。作り物の笑顔と時折見せる吐き気がするほどの悪意」

「…………」

「あの人は誰なんですか? 先生はどうしてあの人と同じ体にいるんですか? 私に近づいたのはなぜ? 私に優しくするのはなぜ?」

 

 私は倒れたまま、精霊右霧の仮面を徐々に剥がしていく。初めから、ずっと初めから思っていた。

 笑顔で教壇に立ち、生徒たちを愛し、花のように美しい霧島先生。勤勉で、実直で、誰も認めるであろう完璧超人。だけどどこか抜けているところもあり、愛嬌もある。

 だから私は思った。人見知りで、誰よりも人の感情に敏感な私は。

 ――――この人は危険だと。だから警戒した。距離を置き、様子を伺った。話しかけられても冷たくあしらった。

 だけど、あの夜。私を助けてくれた。悪魔に襲われ、怯えていた私をこの人は助けてくれた。自らの体を盾にして。

 

「先生として生徒を助けるのは当然のことだよ」

「なら、今のは何ですか?」

「今の?」

「その、吐き気がするほどの殺意です。あなたは助けると言いつつも私を殺そうとしています」

「何を言っているの雪子さん? 私はあなたを助けるためにやってきたのよ? 私の力ならあなたを助けることができるの。私の奇跡の力なら」

「あの人に会わせてください」

「そんなこと、言っている場合じゃ」

「先生は、私に魔術を教えたんじゃない。私は先生の魔術にかかっていたの」

 

 先生はさっきまで焦った『ふり』をしながら私を説得していたが、真実に辿りついた私をしばし見つめていた。

 そして、笑った。

 今度はあの作り物の笑顔ではなかった。正真正銘の笑い顔だ。

 まるでそれを待ちわびていたかのように嬉々としていた。

 

「小娘が、よくもまぁペラペラと……なーんにも考えずに私の言うとおりにしていれば良かったのに」

「あいにく頭はよく回るのよ。あんたは私の体に光の力を流し込んだ。大した訓練もせずに自分がもう魔術を使えた時は嬉しかった。でも使ってわかったわ。これはただ、与えられた餌だってことに」

「筋肉増やしたからって魔術が使えるなんてこと、あるわけないでしょ? それなのにあんたってば私の言うことホイホイ聞くんだから! 可愛いったらもう!」

「セーレムの霊力を借りなければ私は魔力を失い空の状態になるところだった」

「あら、まだその体には魔力が残っているの? 弱すぎてわからないわ」

「その状態で私に奇跡の力を使い、魔力を注ぐ」

「そうするとどうなるの?」

 

 先生はワクワクしながら私に聞いてきた。もうあの優しくて、ドジで、みんなの好きな先生ではない。

 人を人とも思わない。自らの善意を盾に取り、駒にして遊ぶ女王。

 そんなことは、最初から分かっていた。

 なんてただの強がり。ちょっと悔しいけど、先生のことはとても尊敬していた。例えどんな理由があろうとも自らを盾にして自分を守ってくれた存在なのだ。

 

「私という存在は消え、この体は先生のモノになる」

「大正解!!」

 

 笑った。何がそんなにおかしいのか狂ったように笑った。

 悔しい。さっきよりも泣きたい気分だ。

 裏切られた。いや、信用などしていなかったが。それでも裏切られた。

 

「あなたがいるとね、左霧がうるさいのよ。会わせろ、出せって」

 

 先生、だった人は私を睨みつけ脅すように前に出てきた。私は多少怯んだが、なんとか持ちこたえた。理由は一つ、この人は私を傷つけることはしないと思ったからだ。

 この人にとって私は器なのだ。自分がいずれ取り込むための器。

 

「あの女といい。あんたといい。ほんといい迷惑だわ。私は左霧がこんなにちっちゃい時から傍にいるの! なのにあの子ったら咲夜と結婚して子供まで作って!」

 

 プンスカプンスカと起こる先生、だった人の仕草を呆然と見ることしかできない私。だって何を言っているのかわからないからだ。

 ただ、一つだけわかる。こいつは嫉妬に狂った醜い女だということだ。

 

「咲夜はね、素敵な女だった。左霧の側室一〇〇人の中から選ばれた優秀な実験体。気高く、気品に満ちた最高の女そして――」

 

 顔を歪めてそいつは歯ぎしりをする。いい加減幻滅させないで欲しい。そう思いつつも私は耳を傾けてしまう。

 

「左霧の愛した女」

「――その人は、どうなったの?」

「死んだわ。私の器になる前に! ほんっとに人間って脆いわね! 実験動物の癖に私を顎で使って、せっかく魔力を流し込んでいたっていうのに! でもね、最高だった。あいつの死に顔! 自分は御産で弱ったのだと思っていたらしいけど」

「つまり、あなたが殺したの?」

「そうよ? 何か文句ある? だって邪魔なんだもの」

「そう」

 

 雪子は目の前の外道を真っ直ぐ射抜く。不思議と怒りは募らない。怒るべきは自分ではないということを知っているからだ。

 この事実を知るべき者に伝えなくてはならない。

 聞こえているのだろうか? 自らの妻を殺された哀れな男は?

 泣き寝入りを決め込んでいるのだろうか? 自らの無力さに打ちひしがれた悲惨な男は?

 もしそうならば――――。

 

「いつまでも、いじけてんじゃなわよ!!!!」

 

 大声を出した。元々私はお嬢様などではない。育ちの悪い孤児なのだ。

 それに今声を上げないでいつあげるのだ。

 男のくせに女に利用され、じっと隠れている仕様のない男など知ったことではない。

 だが、どうしてか、私はその男を助けたいのだ。どうしても、どうしても助けたいのだ。

 そもそも、私の命は大丈夫なのか? という大前提は置いといて。

 とにかく叫ぶ。

 

「あんたがしっかりしなくてどうするの!? 今のあんたを見て、奥さんが喜ぶと思ってんの!? 大体子供を放っておくとか最低! 意気地なし!」

 

 私は何を言っているの?

 何も関係ないじゃない。

 

「無駄よ、彼の心は壊れているの」

「うっさい黙れ負け犬」

「――貴様、人間の分際で」

「人間様の何が悪いってのよ? 霊長類最強の生き物よ? 文句ある? 私は左霧さんに話があるの。黙ってなさいよ、負け犬」

「このっ……え? 左霧、どうして? きゃっ」

 

 殴りかかろうとした下衆は寸前のところで動きを止めた。

 私には分かった。この人が左霧さんなのだと。私の言葉を聞いてくれていたのだと。

 

「知っている」

 

左霧さんは、私に焦点を合わせて答えた。その目は生気を感じられないが、赤い瞳が特徴的だった。

 

「だけど、俺は右霧がいなければ周りに迷惑をかけてしまうから」

「だから許したの? 大好きだった人を殺されて、いいように体を使われて?」

「……わからない。どうでもよかった。いや、逃げたかったのかもしれない。咲夜の死と授かった命のどちらからも」

 

 情けない男なのだろう。親になるという覚悟を持たないまま体を重ねてしまい、子供を作ってしまった。

 ただのできちゃった結婚じゃないか!

 

「あなたは迷惑って言うけど、それはどういうこと?」

「……俺は、淫魔の血を引く男だ。そして同時に鬼の血を引く者」

「で?」

 

 何のこっちゃという感じだ。淫魔ってサキュバスとかいうやつかしら? 鬼ってあの一本角とか二本角とかで鬼はー外!ってやつでOK?

 そんなこと言われてもへーとしか言えないんだけど。

 

「異性を惹きつけそして近づくだけで魔力のないものを殺す」

「…………それだけ?」

 

 私の至極当たり前の反応に、遂に左霧さんは興味を引いたらしい。

 残念ながら悪い方に。どうやらかなりご立腹のようだ。逆ギレっていうやつね。

 

「お前になにがわかる? 俺は色んな者を殺した。優しかった人、元気だった人、うるさかった人、親しかった人、強い人、弱い人。人である以上、あらゆる災厄が降りかかるのだ。俺がいるだけで! その人たちにどうやって顔向けしたらいい? こんな思いをするくらいなら俺は一生引きこもっている。咲夜も死んだ、もう思い残すことはない」

 

 ニート宣言をした左霧さん。でも安心したことがある。

 彼は純粋で、子供みたいで、とても優しい人だということだ。

 それは、そう。左霧先生に感じていた優しい部分。おそらく人格を乗っ取られていても根本的な部分では何ら変わりはないのだろう。

 

「でも、あなたの好きな人を殺したのは誰なの?」

「――右霧だ」

「あなたは、あなたが許せないと思ったことを他人がしたら許せるというわけ?」

「許せるわけがない。だが俺は右霧がいなければ体を維持できないのだ、同時に忌まわしい力を押さえ込むことも出来ない」

「あなたの事情はよくわからないけれど。私は別に右霧とかいう外道を殺せと言っているわけではないの」

「ならば、ならば、どうすればいいのだ? どうすればよかったのだろうか?」

 

 左霧さんの声は相変わらず平坦だった。おそらくむやみに声を荒げるなとでも躾けられていたのだろう。なんとなく、気品の高さを感じる。

 そんな左霧さんでも、わからないことを、私がわかるわけがない。

 クラスで一番でも、頭が良くても、世間に出れば何の役にも立たないじゃないか。

 教科書に書いてある言葉のどれを辿っても答えなど見つからない。

 だから私はこう答えた。

 

「一緒に生きましょう?」

「生きる?」

「そう。そして探しましょう? その外道の力を借りなくても生きていける方法を探しましょう? だからまず、立ちなさい」

 

 二四歳のいい大人に説教しちゃったわ。だって頑張ってほしいから。負けないで欲しいから。

 私の言葉に、諦めるなんて文字はないの。諦めたことなんてないから。

 努力をしたことも、あまりないんだけど。

 

「生きる」

「そう」

「俺は、生きる」

「ええ」

「あいつの分まで」

「うん」

「立ち、あがる」

「頑張れ」

「からの」

「からの?」

「よっこらしょ」

「ふん!」

「痛い、何をする」

「何座ってんのよ! せっかくいい話で終わるはずだったのに!」

 

 からのとか使っちゃったよ! 随分余裕があるじゃない。でも、明らかに今の場面に必要なかったわよね。イラっとしたもの。

 

「随分座りっぱなしだから足腰が弱ってしまった」

「ニートはみんなそういうのよ。ほら、さっさと立ちなさい。手、貸してあげるから」

 

 左霧さんの手を取り、私はゆっくりと引っ張り上げた。立ち上がった左霧さんは、なんだか男らしくてビックリした。人格が変わるだけでもここまで雰囲気が違うのか。

 ずっしりとした男性特有の重みを感じる。なるほど、これが男としばらく手を握ってしまっていることに気がつき慌ててその手を振り払った。

 

「雪子」

「な、なによ」

「この世界から出るぞ」

「あ、そうか、私死んだんだ……」

「いや、お前は死んでなどいない。俺たちは死なないからな」

 左霧さんは少し寂しげにそう言った。残念ながら意味がわからない。そう目配せをしたが彼はゆっくりと首を振った。

「今はその話は置いておこう。とりあえずここから出られるようになった」

「死んでなかったってのは嬉しいけど。どうやって出るの?」

「簡単だ」

 

 何をトチ狂ったのか左霧さんは私を片手で抱きかかえてそのまま空高く――空が存在するのかわからないが、とにかく上へと真っ直ぐ上がっていく。

 

「ちょっと! 勝手に触らないでよ!」

「大丈夫だ。性欲など湧きもしない体だから安心しろ――謝るから首から手をどけてくれ」

 

 次言ったら殺すからなお前。

 左霧さんはデリカシーにかける最低男でした!

 

 

 

 

 



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守るべき者

 かくして、男は再びその地に足を踏み出す。その体には罪を、その心には罰を刻みつけ、かつて崩れ落ちた崖の上を登ることを決意した。

 霧島左霧は自分の体を確認する。相変わらず女々しい姿だと自嘲した。この数年間、右霧に好き放題に使われていたこともあり、自分の体だというのにまるで別の器に魂が宿っているようだ。手を握り締め、その場で軽く肩を回す。目を瞬かせ、足を伸ばす。

 しばらくすると自分の周りに死体が広がっていることに気が付いた。小規模の衝突があったのだろう。魔術師と思わしき者たちの無残な姿から目をそらすこともなく、左霧は前を見据えた。

 

「う……はぁ、はぁ……あ」

「気がついたか? 派手にやられたようだな」

「あ、あなたは……」

「ここで会うのは初めてだな。俺が霧島左霧だ」

「私の夢に出てきた変態ね」

「変態ではない。それにあそこは夢の世界などではない、修復状態に入った魔導兵の仮眠室のようなものだ」

 

 左霧は、目の前に倒れている少女の横で腰を下ろす。複雑な思いが駆け巡ってきたが、まずはこの場所を把握することが目的だ。右霧は左霧が無理矢理閉じ込めた。心の裏側、つい先程まで左霧が引き篭っていた場所に引きずり込んだのだ。

 悪いことをしたと、左霧は思っている。右霧という精霊は決しては悪い奴ではないのだ。右霧を悪い精霊と断定するのならばその他の連中にだっていくらでも悪事を働く者がいるはずだ。

 だが、あの精霊は致命的な欠陥を持っていると母が言っていたことを思い出した。

 

「母性に取り憑かれた精霊」

 

 魔導兵は不思議な願いを持つ。一般的に女性型に作られた破壊兵器はその目的に沿ってあらゆる行動を起こすのだ。

 それが、『母性』。

 母が子供に対して思う保護欲。愛したいという願望。

 右霧は、ある一人の少女のために己の全てを捧げたのだ。と、同時にそれらを奪いとってしまった。

 いや、今はいい。左霧は己の不始末が招いた結果を振り返っていただけだ。

 それよりも、やることがあるはずだ。目の前の少女と共に。

 一歩を踏み出すこと。そう決めたではないか。

 

「私、死んだのよね?」

「そうだ。そして生き返った」

「やっぱり、え?」

「お前の体が自己修復を開始したからな」

「どういう、こと? 勝手に治ったの? 私の、体が?」

 

 ここで魔導兵について話すべきなのだろうか、と左霧は躊躇していた。おそらく、一人の娘として育ててきた母親にとって娘が本当のことを知ってしまうのは相当なショックだろう。

 母親から話すべきだ。そして、それから彼女は自分の生き方を決めるのだ。

 

「全てはお前の母親に聞くべきことだ。俺にとっては先輩にあたるのか。俺もいくつか聞きたいことがある」

「そう、そうね、お母様を助けなくちゃ」

 

 雪子はようやく体を起こし、体に力を入れた。どこを見ても傷一つない。あれだけ派手にやられたというのに。いつもの貧相な胸と、最近ちょっと筋肉のついちゃった感じの体。

 

「セーレム、どこにいるの?」

「……お前の中にいる。霊力が足らないから実体化も難しい状態だ」

 

 セーレムは雪子の中から声を発していた。精霊は人間の中に宿り、霊力を回復する。セーレムは先ほどの戦いで霊力を使いすぎたため戦うことは出来ない。

 そんな雪子の不安を察したかのように、左霧は一歩前に出た。

 

「ここからは、俺が道を切り開く」

「できるの? ずっとニートだったんでしょ?」

「これでも一つの縄張りを守ってきた次期当主だ」

「でも、ニートになっちゃったのよね?」

「……ニートでもやるときはやる」

 

 雪子の意地悪がカンに障ったのか、左霧はムキになって答えた。

 可愛い人だなと、雪子は内心思う。怖いはずなのに、嫌なはずなのに、そんな自分と向き合いながら必死に戦おうとしている。

 ――私を守ろうとしてくれている。

「雪子、戦いなら任せろ。心は脆くても体は丈夫なんだ」

「何も心配していないわ。心なら私がいくらでも活を入れてやるから」

 

 左霧は僅かに口元を緩ませた。それは本当にわかるかわからないかくらいの小さな変化。

 笑い方を忘れてしまったわけではないらしい。これからリハビリが必要になるが、左霧はどんな男なのかくらい想像がつく。

 笑顔の素敵な、優しい人なのだと。

 

「しぶといわね、雪子さんったら」

「翔子……」

「雪子、下がっていろ」

 

 左霧は雪子の前に立つ。背後を気にして戦うなど久方ぶりの戦いにしてハードルが高いが、えてして戦いとはそういうものなのだ。幾千の戦陣を切り抜けていた左霧だからこそ、今の状態を冷静に観察し、判断できる。

 

「あら、霧島先生、こんにちは。残念だけどここは通しませんよ」

「元よりそのつもりはない。押し通るまで」

「……なんだか雰囲気が違いますね。今は何だかとても魅力的ですよ」

「ならば、道を開けろ」

「残念ですが、私は瑠璃様に忠誠を誓った身ですので。例え心を奪われようともその血一滴残らず主に還すつもりです」

 

 交渉決裂。左霧の淫魔の力が僅かに翔子を揺れ動かしたが、魔力の強い者は耐性ができているため、効力は低い。

そしておそらく――――。

 

「殺してはダメよ、左霧さん」

「難しい注文だな」

「それでもよ。私は殺すことを認めない」

「あいわかった。お前の望む通りにしよう」

 

 あの、咲夜と同じように左霧の力を受け付けない少女。

  

『咲夜と瓜二つの魔導兵』

 

 心配そうに身守る、かつての妻の面影を追い求めていた。

 少女は一体何者なのか。

 俺は、一体何を手に入れたいのか。

 運命はどこにたどり着くのか。

 

「魔術、解放」

 

 一瞬にして霧が世界を包み込む。光を閉ざし、白の世界が全てを支配した。

 

「これが霧の魔術……」

「警告したはずだぞ。悪いが、手加減している暇はない」

「戯言を!」

 

 その世界を破壊するように精霊サラマンドラは躍り出た。愚かな敵を駆逐するために強大な紅炎は勢いよく左霧に降りかかる。

 しかし、左霧はその場を離れない。待ちかねるように待ちわびるように精霊と対面している。

 そして遂に衝突した。一人の魔術師が、強大な精霊と真っ向から衝突した。

 焼け付く肌。燃え盛る肢体。肉の焦げた匂いが辺りを充満する。

 

「左霧さん!!」

「大丈夫だ雪子。久しぶりの戦いなのだ。少し楽しませてくれ」

 

 雪子が見守る中、左霧は精霊との戦闘を開始してしまった。

 本来なら精霊の戦いは精霊で立ち向かおうのがセオリーだ。しかし、右霧は今閉じ込められている。ならば一人で戦うしかない。

 両手を使い、怪人の攻撃を押さえつけている。ありえない膂力。それだけでも人間離れした者なのだとひと目でわかる。

とはいえ、このまま精霊の相手をしているわけにはいかない。目的はこの精霊を使役する魔術師のみ。

 

「悪いが、付き合っている暇はない」

 

 そう言うと左霧の体は霧に覆われて姿を消す。辺りには更に深まる霧によってどこにいるかすら把握できない。

 

「どこにいる!? 姿を表せ!」

隠業。それこそが霧の魔術。

慌てる翔子をあざ笑うかのように霧は更に深く、深く、敵を包み込む。

 

「サラマンドラ!? 私を守りなさい! 早く!」

 翔子は標的を探しているサラマンドラに助けを求める。だが図体のでかいサラマンドラは鈍足だ。

「――――遅い」

 

 翔子の背後から目だけが見下ろしていた。そして次々に現れる左霧の体。霧散した一部がどんどん結合されていく。もはや勝敗は決した。

 左霧は翔子の白い首を掴み、ゆっくりと力を入れる。ギリギリと骨が軋む音を楽しみながら――。

 

「あ、がぁ、ぎぃ、たす、げ」

「鬼に助けを求めるのか? それは愚か者のすることだ」

 

 自然と笑みが溢れる。自分の存在を唯一確かめるために、左霧は衝動に従う。

 殺戮と死こそが、自分の象徴――――。

 

(ダメよ、左霧。その衝動に負けてはダメ。あなたは優しい人よ。私の大好きな旦那様)

 

 妻は俺を咎めた。その妻はもういない。ならば俺を押さえつける楔はもうない。

 力を込める。それだけで簡単に少女は死ぬ。牙を向けたのだ。当然の報いだ。

 戦いに情は必要ない。そう習ったし、俺もそう思う。

 だからもう――――。

 衝動に身を任せよう――そう左霧の脳が判断した瞬間、

 

「ダメだって言ったでしょう!? どうして人の言うことが聞けないの!? やっぱりニートってダメね! この社会不敵合者!」

 

 雪子は左霧の耳元で大きく声を荒げた。霧の深くなった世界で、左霧を探したのだ。それは簡単なことではない。見渡す限りが白の世界。常闇の、白の世界で異なるものを見つけ出すことなど出来るわけがない。

 その少女が、左霧に説教するために、危険を顧みず現れた。

 ああ、そうだ。俺は雪子と約束をしたではないか。どうして忘れてしまったのかという後悔の念が左霧を襲う。

 左霧は途端に力が出せなくなり、腕を下げた。それと同時に敵は大きく息を吸い込み、懸命に生きようと足掻く。もはや左霧にとっては何の興味もない。

 

「やっぱりダメ。あんたは私がいないと絶対ダメね」

「そんなことはない。敵は倒した」

「倒した、じゃない! 殺そうとしたでしょうがっ!」

「俺には殺戮衝動がある。どうにもできん」

「言い訳すんなっ! 約束も守れない人をどうやって信用すればいいのよ! ちょっとは人の気持ちも考えなさいよ!」

 

 左霧は呆然と泣き叫ぶ雪子を見つめていた。どうして少女は怒っているのだろう? そんな疑問も虚しく、自分に浴びせられる罵声をひたすらと受け入れていた。

 何よりも、どうして少女は泣いているのだろう? 

鼻水が若干汚いが、そんなに綺麗な顔を台無しにしてしまったのが自分ならばそれは本当に悪いことをしてしまった。

左霧はどうすることもできずオロオロするばかり。とりあえず理由を聞こうと傍に寄った。

 ――――ふわりと甘い香りがした。女性特有の甘い、ねっとりとした濃厚な香り。熱を持ったその香りは、おそらく雪子から発せられたのだろう。左霧は自分が抱きしめられていることに気がついたのはその後だった。

 

「なぜ泣く?」

「知らないわよ泣きたいからよ」

「なぜ抱きしめる」

「知らないわよそうしたいからよ」

「そうか」

「そうよ」

 

 左霧は為すがままにそれを受け入れた。不思議と抵抗はなかった。どうしても少女を引き離すことが出来ないのだ。

 

(左霧……)

 

 ――――決して重ねているわけではない。

 だとしても、この暖かさに。この感情に。このひと時を。

 どうして抗うことが出来ようか?

 

「私がいないとあなたはダメよ」

「そうだな」

「絶対に離れないわ」

「お前は俺の特性に惹かれているだけだ」

「自惚れないで。あなたを愛しているなんて一言も言ってない」

「ならばなぜ俺を抱きしめる?」

「あなたを守りたい。そう思ったからよ」

 

 心が、共鳴したような気がした。

 守りたい。

 それは魔導兵が起動するための魔法の合言葉。

 雪子はそれを無意識に理解した。

 きっと自分は一人の人間を守るために生まれてきたということを。

 もしかしたらそれは一人ではないかもしれない。だけど、そう。

 魔導兵は『母性』により強くなる。

 一体誰が考えたのだろうか。その心は人形のそれであることは間違いない。

 しかし、ああ、とても人間らしいではないか。

 人間よりも、人間らしいではないか。

 

「なら、俺もお前を守る」

「当然ね。さっさとお母様のところに連れて行きなさいよ」

「わかった」

「!? ちょっと、なにこれ!?」

 

 左霧はその腕で少女を抱き上げた。背中と足を支えたとても恥ずかしいであろう抱えかた。

 世間ではお姫様抱っこと呼ぶらしい。

 どうしてこんなことをしたのかと左霧に問えば、答えは至極簡単だ。

 

「年上は敬うものだ」

「はぁ? にーとの癖に何言ってんの? きゃぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 少女は少し生意気だったからだ。かつての妻と面影が似ていること以外は全くといっていいほど正反対の性格。

 つまり仕返しがしたかったのだ。

 

「今触った? お尻触ったわよね!? 死んでよもう! 最低!」

「さっき生きろといったばかりだが」

「それとこれとは話が別よ! なにこの恥ずかしい格好!? ああ……もういや、お嫁にいけない」

「安心しろ、世の中にはな、胸が小さくても尻がでかくてもうるさくても鼻水を人の服に付ける奴でももらってくれる人はいるものだ」

 

 お約束と言わんばかりに左霧は淡々と語った。腕の中に雪子を抱えたまま。

 だがそれは一応年配としての意見を学生である雪子伝えようとする純粋な気持ちだった。

 これほどに魅力的な女性に惹かれないわけがない。魔術だろうが特性だろうが、自分では敵わないほどのカリスマ性を少女は秘めているのだから。

 

 ということを伝えたかったのだが、

 

「死ね! 最低男! さっさと走れ! この、この!」

「何を怒っている? 顎に頭突きをかますな、二つに割れてしまう」

「……絶対にいい女になってみせるわ。ここまで侮辱されたのは初めてよ。見てなさいようふふふふふふふふふふふふふ」

 

 どうやら変な方向に話が進んでいき、尚且雪子がよからぬ方向にやる気を出してしまったようだ。

 行き交う魔術師たちを交わしながら、ヘンテコな二組は颯爽と死戦をくぐり抜けていく。騒がしく時に怒鳴り声を出す雪子なので、全く色気などない。

 しかしそんな二人を襲うことはしない。例えその後ろががら空きだったとしても、だ。

 ――――容赦しない。

 そんな覚悟が左霧から溢れ出ているからだ。

 そうとも知らず、おバカたちはひたすらに学園を駆け抜けた。

 左霧は今まで抱え込んでいた負の感情が知らず知らずになくなっていることに気が付いた。とても体が軽い。自然と踏む出す足が軽快になる。

 雪子は左霧を上から覗き込む。初めて守りたいと感じた人。それは一体どんな感情なのか知る由もない。ただ、この人を放っておけない。守れるのは私だけなのだという覚悟だけを携えて。

 

 例え、彼ら彼女らが人間ではなく、人形であったとしても。

そこに一体何の違いがあるのだろうか?

まるで出会うために生まれてきたお互いの存在を。

彼らはこの先確かめていく。

絶望の、その先へと。 

 

 

 

 



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天王寺

「瑠璃……」

 

 天王寺瑠璃――――現代に生きる最強の魔術師である少女の前で、今跪きながらも闘志を燃やし続けている者がいた。

 

「――もうおやめになってください。お義姉様」

 

 慈悲をかけられたのは砂上百合――瑠璃の義理の姉である。

 腹違いの姉妹――正しくは先妻をなくした秀蓮の後妻が瑠璃の母親なのだ。

 砂上とは母親方の性で、天王寺家を出て行った百合が母親方の本家に帰省したことによりそう名乗ることになった。

 天王寺というブランドを掲げればどんな者でも跪き、屈服するほどの権力を持つことが可能だ。しかし百合はその権利をまるごと溝に投げ捨てた。

しかも先妻の、長女である。本来天王寺を継ぐべき真の後継者は本来なら砂上百合なのだ。

 

「――――あなたこそ私の学園から出て行ってちょうだい、義妹」

 

百合の右目には黒い炎が燃え上がっている。代々天王寺の血筋である証、『黒炎』だ。

黒い太陽は天王寺の家紋。炎は紅く、蒼く、そして黒く燃え上がる度にその威力を増す。

つまり、黒炎とは全てを灰塵と化す最強の火。

今、互いの黒炎を右目に宿した義姉妹は相対し、そして無言のまま戦闘に入った。

元々話すことなどない。全ては終わったこと。言葉など幾万も語り尽くした。

――――そして、彼女らは決別したのだ。

 

「お義姉様、あなたが出て行ってから何年経ったとお思いですか?」

「さぁ……もう忘れてしまったわ」

 

 百合は当然覚えていた。忘れるわけがない、あの寒い冬の日だ。

 ――――あの、寒くて凍えて、己の中の太陽を忘れてしまった日……。

 

「お父様、母様が亡くなってから一年も経っておりません。なのにこれは一体なんの冗談ですか!?」

 

 目の前にいる女性は鋭い目つきで百合を見つめていた。一二歳の少女を見つめる眼ではない。敵を見る眼だ。愛する夫を横取りした女にしてはふてぶてしい輩だと、この瞬間に決して相容れない存在であると確信した。

 ―――どうでもいい。たかが妾の一人を気にしたところでこの好色漢の父を止めることなど出来やしないのだから。

 

「この部屋に入っていいのは、私と、あなたと、我が母である京香だけのはずです!」

「何度も同じことを言わせるな、百合。私は璃々を正式に後妻として認めたのだ。ならばそれ相応の部屋をあてがうのは必然」

 

 だが、この一線は触れてはいけないという暗黙のルールがあった。

 広大な屋敷の中でも『禁居』と呼ばれる天王寺家の直系だけが入れる、つまり家族団らんの一室だ。その一線だけは破るべからずと、決められていた。

 寛大だと思う。母、京香は父の浮気症を知っていたはずだ。であるのにそれを許していたのは母の寛大な心と、少なからず罪悪感を持っていた父の心ばかりの配慮なのだろう。

 この国では一夫多妻制が奨励されていた時代があった。巨大な組織となればなるほど古い仕来りに縛られることが多くなる。噂によると霧島家の男児が生まれた場合より強い遺伝子を残すためにかなりの女性が通い詰めるのだとか。

 いずれにせよ、反吐のでる事実であることに変わりはない。

 

「百合、お前はいずれ天王寺の当主として皆をまとめなくてはならない。その為には協力し合う仲間が必要だ。それは血が濃ければ濃いほどいい。血の繋がりはより強固な楔となる」

 

 百合は奥歯を噛み締めてどうにか耐えた。父の顔を殴りつけることなど許させることではない。

 方便だと、確信した。ならばなぜ父は母との間に自分以外の子を作らなかったのか。血の繋がりが強固であるはずなら、その言い分は明らかにおかしい。

 簡単な話だ。父は母を愛していなかった。いや違う、興味を失ったのか。 

 

「百合さん、私は秀蓮様を愛しておりました。ずっと昔から――ですがあなたのお母様、京香さんの家系は私なんかとは到底及ばないほど強大な家柄なのです。わかりますか? 私たちは別れなくてはならなかったのです。愛していたのに、別れなくてはならなかったのです」

 

 女は恍惚として瞳で秀蓮を見ていた。幼い百合はその瞳が妙に艶かしくて思わず目を逸してしまった。

 女だ。女の目。初めて見た。いやらしい女だ。

 何が別れなくてはならなかった、だ。散々逢引していたくせに。目の前が真っ赤に燃え上がった。右目の黒炎が奴を殺せと疼く。女は微かに怯えたが、父が前に立つと安心したように寄り添った、自らの腹を撫でながら――。

 え――――? グルグルと頭が回る。どういうこと? 百合はその一点を凝視する。璃々のお腹は僅かに膨れ上がっていた。

 ――まさか、そんな。

 

「百合、わかってくれるな? お前には支えが必要なのだ。この子はいずれお前の力になってくれる。なにせ、私と彼女の子なのだから……」

 

 グルグルグルグルグルグル……。その直後に百合は意識を失った。だが、璃々と呼ばれる淫売の瞳はギラギラと輝いていた。蒼色の髪の奥底ではそんな野望が渦巻いていたのだ。         お前の思い通りにはならないぞ、と。お前を王座から引きずり下ろしてやるぞ、と。

 

 それから、祝福された子供が生まれた。名を天王寺瑠璃と名付けた。容姿は淫売の義母に似て美しい顔立ちで蒼色の艶やかな髪。そして頭脳は父に似て明晰で魔術に対してもその実力を遺憾なく発揮した。

 義妹はとても可愛らしかった。百合のあとにくっついて離れない。仕事で離れようものなら泣いて喚いて大変だった。おそらく父や母よりも自分に懐いていただろう。自信はある。

 義母とは決して相容れなかった。食事以外の時を一緒に過ごすことなど有り得ない。表向きそんなことを口にすることはなかったが、お互い分かっていたのだろう。

 このまま過ごすのも悪くはないと思った。義妹を恨むことなどどうして出来ようか。悪いのは全て親であり、私たちには何の罪もないのだ。義妹をあやしながら穏やかな日々を送っていた。

 

「お義姉様! やめて! お母様をいじめないで!!」

 

 寒い冬だった。きっかけは単純。母の死があの淫売によって謀られたことだと知った時だ。

 璃々は瑠璃を決して天王寺の臣下で終わらせるつもりなどなかった。才能から見ても明らかに瑠璃は卓越している。対して義姉である百合は、実力こそまだ上だが、瑠璃の才能には到底及ばなかった。

 いずれは時間の問題。しかし、後継者はあらかじめ定められていた。もはや覆すことなど不可能。璃々は何度も進言した。娘こそが後継者にふさわしいと、あの子は天才だと。

 父にも威厳があったのだろう。当然それは聞き入れてもらえなかったようだ。歳を考えても瑠璃にはまだ無理な話であり、それを承諾した上で、璃々を後妻として認め、その瑠璃を天王寺の家系に入れたのだから。

 

 皆が寝静まった深夜だった。天王寺の侵略計画の筆頭に立たされている百合にとっては考えることが山のようにある。父はどうやら『烏の森』と呼ばれる地域を標的にしているらしく執拗に足を踏み入れていたようだ。頼りにされているのか、押し付けられているのかその判断は難しかったが、少なくとも必要とされていたことを嬉しく思ったものだ。

 

 ――――嫌な胸騒ぎがした。それは戦闘で危機に陥った際に感じる死の予感。絶対に安全であるはずの禁居からそのような気配を感じうるはずがない。そう油断していた。

 布団の中でジッと耳を潜める。足音が一つ、二つ、三つ、四つ、

 ―――五つ目の足音で誰がいるのか確信した。大した教養もないくせに仕草だけは一人前の憎らしい義母のものだった。

 百合は信じたかった。流石にそこまでは、と思いこんでいた。思いたかった。少なくとも同じ家に住み、共に志を同じくする者たちであることに変わりはないからだ。

 きっとこのまま通り過ぎてくれるだろう。何か別の用事があったに違いない。義妹の元に向かったのだ。

 

「――――殺りなさい」

 

 冷たく凍てついた心。されど体は焼け付くように熱い。熱くて死んでしまいそうだった。

 障子の破れる音と共に崩れ込んできた魔術師たち。布団をはねあげて百合はそれらを迎え撃った。

 もはや決定的だ。奴は闇討を仕掛けたのだ。娘を後継者の座に着かせるために。

 義母は内部で何やら謀を企んでいたようだ。百合を支持する大勢の者たちに対抗するために派閥を分裂させようとしていた。だがそんなことは上手くいくはずがなかった。淫売の娘と正妻の娘、どちらを大勢が支持するか。そんなことは目に見えていた。

 業を煮やした璃々は遂に決行したのだ。浅はかすぎて笑ってしまった。こうなると義妹の瑠璃は可哀想になってくる。

 

「覚悟は出来ていますか? お義母様」

「――こ、殺すのですか? この母を?」

「あなたを母、などと思ったことは一度もございません」

「わ、私が死ねば、秀蓮が黙ってはいませんよ?」

「天王寺の次期当主を闇討にした罪は重いですよ? それこそあなたの大事な娘にすら及ぶほどに、ね」

「あ、あなたは! あなたさえ、あなたさえいなければぁ!」

 黒炎は炎上し辺りを燃やす。その中で璃々は苦しそうにもがきながら懸命に生きようとする。一酸化炭素が僅か十秒ほどで充満するほどの威力だ。顔がいいだけの平凡な女に対処の仕様などあるはずがない。

 初めからこうすればよかった。何故しなかったのか。決まっている、義妹が悲しむからだ。父が悲しむからだ。

 あなたさえ、いなければ、だと?

 その言葉、そっくり返してやる。

死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。

 

「お母様をいじめないでぇ!」

 

 瑠璃はいつの間にか全身に大火傷を負った母親の傍にいた。ボロボロと涙を流し、顔を歪ませて必死で何かを守ろうとしていた。

 

どきなさい。その人はね、守る価値なんてないの。

 

「お義姉様やめて! 私が、私が、代わりになりますからぁ!」

 

 天才で秀才のお前が、いつも冷静なお前が、取り乱すほどの価値なんてないの。

 

「私の、お母様なのぉ! 死んじゃヤダァ!」

 

 分かっていた。全て、私の傲慢なのだと。

 あなたから見れば私は悪魔なのでしょうね。

 みてちょうだい。あの目、あの殺気! 今にも噛み付きそうな可愛い瑠璃!

 

「バイバイ、瑠璃」

 

 互いの黒炎を燃え上がらせたまま、姉妹は別れた。

 外は冷たい雨が降っていた。凍えそうなほど冷たい雨。だけど心は焼き付くほどに熱い。

 初めて、天王寺の力が呪わしいと思った。

 永遠の姉妹喧嘩の始まり、始まり。

 

 

「随分と、強くなったのね、瑠璃」

「あれから、七年ですわ、百合義姉様。あなたを支持する派閥を皆殺するまでこんなにかかってしまったけれど」

「そして、心をなくしたのね、可哀想な瑠璃」

「いいえ、そんなことはありません。私は当主たる者の務めを果たしているに過ぎません」

「今、あなたがやっていることは、かつて私があなたにやったことの延長線でしかないわ」

 

 瑠璃は、傍で目を閉じたまま動かない人形を一瞥した。

 雪ノ宮雪江――サンプル00と呼ばれる魔導兵だ。帝国はこのサンプルを回収することを天王寺に求めてきた。帝国の勅令は絶対、断ることなど不可能だ。特に天王寺は皇室と繋がりが強くより密接な関係ある。

 もちろんそれだけではない。その勅令を理由に天王寺の侵略計画を進めていこうと画策していたのも事実。そして今、ようやく作戦は終了しようとしていた。

 

「ここであなたが学園長を殺せば、あなたに恨みを持った誰かがあなたを殺しにくるわ。今の私のようにね」

「魔術師としての戦いに情など必要ないわ。これはルールに則った正式な勝負よ」

「その魔術師のルールっていうのはつまり、あんたが天王寺家で教えられたルールなの。つまりね、そんなルール初めから存在しない。あんたはただの人殺し、親殺し、鬼畜外道以外の何者でもないわ」

 

 今にも倒れそうな百合は、それでも義妹を諭すようにしっかりと言葉を綴った。瑠璃の表情は乏しい。昔は少なくとも自分に対して何かしらのアクションを起こしてくれた。

 いや、それも無理な話か。もう七年も前の話だ。父が殺されたこともおそらくは相当のショックだったに違いない。家族思いの優しい子なのだと、百合は知っていた。

 

「逃げたくせに」

「え?」

 

 突然、瑠璃は体を震わせて俯いた。聖人のような瞳がグラグラと揺らいだ。まるで長年の鬱憤を晴らすように瑠璃は内に秘めた魔力を辺りに叩きつける。

 

「逃げだした癖に! いつまでも姉みたいに接しないで! 私の心をかき乱さないで! あなたが逃げてから数年間! 私は常に当主としての品格を求められた! それがどんなに苦しいことだったかわかる!? あなたは私に全てを押し付けたの!」

「そ、それは、だって」

「お義母様がお姉さまを殺そうとしたから? だからあなたは私まで捨てたの? 私が憎かったの?」

「ち、違う、あなたが憎かったことなんて一度もない!」

「でも!!!! あなたは私を捨てた!! あの冬の寒い日に!!」

 

 百合は全身を魔力で叩きつけられた。自分の魔力はもはや枯渇している。時雨は既に百合の隣で倒れ伏している。出血が激しい。瑠璃の使役する精霊にやられたのだ。

 

「私はどうでもよかったの! あなたが母を嫌おうが、父がどこの誰と密会していようが! お義姉様が傍に居てくれれば! あの家族がそのままでいてくれるなら!」

 

 なんて勝手な言い分だろうか? だがそれは自分にも言えることだ。あの時、苦しかったのは自分だけだったのか? ギスギスした家の中、頼りにできるものは義姉以外に誰もいない。その義姉すらいなくなった家。

 瑠璃は一体どう過ごしていただろうか? どんなことをして過ごしていたのだろうか?

 あの日から天王寺家を捨てた百合は彼女のことを少しでも考えただろうか。

 例えば、あの日、この子を連れて逃げ出していたならば? 追っ手が来ようとも自分なら守れたはずだ。砂上ほど大きな家ならば匿うことも出来たはずだ。

 

「ごめ、ごめんね、ごめんね。瑠璃……」

 

 後悔の言葉は謝罪となって溢れてきた。それほどまでに義妹が自分の存在を頼りにしてくれていたとは思わなかった。いつも賢くて、言うことをはいはい、と素直に聞いてくれた義妹を、自分はどんなふうに思っていただろうか。

 

「私がね、雪ノ宮を滅ぼそうと決めた本当の理由はね、お義姉様なの」

 

 嬉しそうに瑠璃は笑った。華やか子だ。笑っただけでここまで自分と差が出るのか。容姿端麗頭脳明晰――だけどその心は深淵としていた、百合には分からなかった。

 

「お義姉様――――」

 

 瑠璃、ごめんね。百合はもはや言葉を発する力をなくした。それは己のことしか考えてこなかった数年間と後継者に仕立て上げられた可哀想な義妹を思う、せめてもの罪をこの命を持って償おうと決めたからだ。

 

「絶対に許さない」

 

 黒い竜が口を開けた。最初からその場で待機していた精霊は瑠璃の一声で姿を現した。圧倒的な存在に、時雨は動くこともできず、ただ出血箇所を抑えるのに手一杯だった。

 ただ、彼女たちは互いに苦しそうだった。お互いの歪さを確かめ合うように彼女たちは戦った。

 そして義姉はやられた。時雨にはわかる。百合は本気で戦ってなどいなかったことに。

 義妹が学園を攻めてくると知った時、彼女の目に宿ったのは決して憎しみなどではなかった。義妹と接する最後の機会だと覚悟を決めていた。だからこそ必死だった。だからこそ罠にはまった。

 義妹に声は届かなかった。最初から当主という重圧に負けてしまった瑠璃にとって百合は尊敬すると同時にどこまでも越えられない壁だったのだ。

 ならば、ここでおしまいにしてあげるのも救いなのではないだろうか。

 時雨とて、家柄の縛りを疎ましく思うこともある。

 竜が鼻息を荒くし百合の傍に寄る。瑠璃は震えながらその姿を見ている。

 なんだ、ただの少女じゃないかと時雨は笑った。あの圧倒的な魔力もあの悲しそうな顔を見れば一瞬で和らぐものだ。

 誰か、救ってやってくれ。

 神がもしもいるのなら、なぜ彼女たちのような弱い存在を貶める?

 魔術は、本当に人を幸せにすることが出来ないのか?

 少女たちはなぜ戦わなくてはならないのだろうか?

 魔術師とは、何なのだ?

 

 

「やれやれ、久しぶりに走ったら足がフラフラだ」

「ニートにしてはやるじゃないの」

「お前、体の癖に妙に重いぞ? 食い過ぎじゃないのか?」

「あんたんとこクソ精霊にひたすら筋力トレーニングさせられてたの! あと乙女に向かって重いとか言うな、ふん!」

「これで二〇回目頭突きだ。顎が割れてしまうとあれほど」

 

 突然ドアを突き破って切った――傍から見ればカップルにしか見えない二人組は、やっぱりカップルのように喧嘩をしながら入ってきた――お姫様抱っこで。

 

「――雪子、どうやら口論をしている暇はないらしい」

「あんた話を逸らし――!? お母様!!」

 

 雪子はすぐに左霧から離れ、母の元へ寄った。半裸の状態でまるで死んでいるように動かない母を抱きしめて泣いた。

 

「お母様、お母様! 私です、雪子です!」

「あ、せ、せつ、こ、い、いき、生きて……」

 

 雪江は安心したようにまた目を閉じた。どうやら命に別状はないらしい。普通なら死んでいてもおかしくない状態だ。自分に起こった不思議な現象を思い出し、雪子は改めて自分の身に起こった出来事に違和感を覚えた。

 

「あなたは――――?」

 

 蒼色の少女が男の名前を聞いた。分かっていた。自分と張り合う男はおそらくこの世界でこの男だけだろうと。

 未だに最強を名乗れない訳はすぐそこにあることに。

 

「霧島左霧。お前の父親の右目を奪った男だ――そしてお前を倒す男の名前だ。覚えておけ」

「フラフラな癖に、言うことは達者なのね」

「睡拳の構えだ。初心者にはわからんだろうがな」

「息が荒いけれど」

「武術の達人とは息継ぎからもう違うのだ。初心者にはわからんだろうがな」

 

 ――いえ、それはフラフラで息切れをしているだけです。時雨は目の前の男が武術の素人であることを確信した。

 

「あなたが父を殺しただなんて信じられないわ」

「殺してなどいない。あいつは母にちょっかいを出したからちょっと殴っちゃっただけだ」

「それでも死んだわ。あなたの呪いで」

「そうか。すまなかった。だが俺は死ぬわけにはいかんのだ」

 

 左霧はチラリと母を抱きしめて泣すがる雪子を見た。

 自らに生きろと言ってくれた少女。己がした過ちを全て受け入れ、それでも前に進めて激励してくれた少女。

 その少女を傷つけた悪い女。

 

「お尻ペンペンではすまんからな、小娘」

「鬼の首、討ち取ってあげるわ、変態男」

 

 再び戦闘は激化した。

時雨たちはただその様子を見ているしかなかった。

あの、天王寺瑠璃を相手に対等に戦っているのだ。

目の前の男は一体何者か?

あれが霧島左霧なのか?

 

「おにー様」

「桜子様、いかがなさいました?」

「おにー様がね、頑張っているの」

「そうですね、頑張っていると思いますよ」

 

 華恋は桜子の傍に控えていた。屋敷を襲った連中は全て撃破した。この屋敷に入った瞬間に勝敗は決まっていたのだ。

 

「頑張ってね、おとーさま」

「え?」

「ううん、何でもないわ」

 

 桜子はそれきり何も喋らなかった。だが、確かに言葉にした。

 おとーさま、と。

 

「戦っているのですか。左霧様」

 

 全てを失ったあの人は、傷つきながらも戦っているのだろうか。

 その先が、絶望だったとしても。

 

「ニートの癖に……」

 

 悪態をついて目に溜まった涙を華恋はひたすら拭った。

 

 

 



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 左霧にとって戦いとは最高の喜びである。それは左霧の意志によるものではもちろんなく、鬼として相手を葬ることに喜びを感じるのだ。

 いつもの自分ならその力を遺憾なく発揮し、華麗に敵を仕留めることが出来るのだ。

 言い訳がましいが、いつもの自分なら、だ。

 

「左霧さん! わかってるわよね!? 殺しちゃダメですよ!? ずっっっっっと見てるからね!!」

 

 雪子はもう泣き止んで、母に寄り添いながら左霧と瑠璃の戦いを見ていた。命に別状はないと判断したのだろう。

 まぁ魔導兵に死の概念は存在しない、という理屈は正しい。そのことを雪子に話すのは自分の役目ではない。

左霧が果たすべきは、目下――――。

 

「どうしたのですか? 霧の申し子、いえ、鬼子ですか? 足が止まっていますよ?」

「お前の精霊が暴れるせいで迂闊に動けんのだ。育て方が悪いぞ」

「クロちゃんは賢い子です。あなたこそ、精霊はどうしたのですか?」

「喧嘩中だ。なに、小娘一人俺だけで十分」

 

 強がりだけは一人前だなと、誰もが思っている。実際、左霧は瑠璃を相手に対等に戦っていた。霧の魔術で体を消しては、ひたすらに本体を狙う。正々堂々とは言い難いが、確かに精霊を駆使する者にとってこれほど戦いにくい相手はいない。

 が、しかしそれは小細工の効く相手だけなのだ。

 

「隠れんぼはもうおしまいですよ――蛇火」

「――――! しまった!」

 

 大規模の炎でたちまち霧を振り払い、瑠璃は標的を定めた。精霊を使役すると同時に瑠璃は自らも呪文を錬成する。並の魔力ではこうはいかない。才能と努力を同時に持ち合わせた瑠璃だからこそ出来る芸当なのだ。

 

「受けなさい――――黒花火」

 

 連続して唱えた呪文に隙はない。瑠璃にとって詠唱は無駄な時間だった。頭の中で詠唱し、それを発動と同時に終了させる。一流の魔術師はこれが出来なくては話にならない。

 

 黒い炎の弾丸が左霧を包み込む。絶体絶命。体力はもはや残されていない。

 自分はこれほどまで弱くなったのか、と認めたくない現実に直面した。

 否、諦めることは許されない! 左霧は決死の覚悟で必殺の呪文を口にする!

 

「深淵よりも尚暗き光届かぬ……忘れた」

「「忘れた!?」」

 

 瑠璃と雪子は同時に驚いた。その途端に爆発が左霧を襲い、男は満身創痍の状態で膝をつく。

 なんというか、何なのだろうかこの男は……。出てきたと思ったら何の役にも立たずに倒れてしまった。呪文もロクに唱えられないのに!

 

「ちょっと左霧さん!? さっきあんなに自身たっぷりだったじゃない!? どういうことよ!」

「違う。これを唱えれば間違いなく勝てるんだ。ただ、その、呪文を忘れた」

 

 ちょっと恥ずかしそうにもじもじする左霧さんを殴り飛ばしたい雪子だった。ダサい、ダサすぎる……やっぱりニートはどうやってもニートのままなのだろうか? なぜ自分はこの男を守ろうと思ったのか? 早くも男の威厳と疑惑を抱かれた左霧に名誉挽回の余地はあるのか? 

 

「やはり、こうしないとあなたは本気で戦えませんか?」

「――――瑠璃! やめなさい! 彼女は関係ないはずよ!?」

 

 瑠璃が標的に選んだのは左霧――――ではなくその向こう側にいる人物。そう、左霧が背後で守ろうとしていた女――――雪子だ。百合は掠れた声を張り上げて義妹を咎めるが、その声が届くことはなかった。

 先程からの戦闘で左霧が本気で戦っていないと見抜いたのだろう。ならば戦わざるを得ない状況にさせるまで、と標的を変えたのだ。体を強ばらせ、それでも雪子は圧倒的な敵の目を離さずに真っ直ぐ前を見る。これが、魔術師として生を受けた者との差なのか、と内心雪子は歯がゆく思う。

 策謀によって常に相手を弱体化させることが瑠璃の戦略なのだが、この時ばかりは違った。父を殺した時の実力で自分とぶつかって欲しい。そしてその先にどちらが生き残るのか、ただそれだけが彼女の希望だった。

 

「――――お前は、死にたいのか?」

「――――何を言っているのかしら?」

「お前はなぜ戦う? 魔術師だからか? 父の敵だからか? 天王寺だからか?」

「――――その全てよ」

「違うな、お前はただ不満なのだ。思い通りにならないことが多いから全てを壊したいのだ。それが不可能なら自分自身が破滅してしまいたい」

 

 左霧の言葉に瑠璃は答えられなかった。今まで考えたことがなかったからだ。自分が本当は何をしたくて何が欲しいのか。何が嫌で何がやりたくないのか。

 ――――そんなこと考える暇なんてなかった。

 ああ、そうか。私はただ、死にたかったのだ。この世界で生まれ、両の足で立った時から全てが確定されていた。天王寺という檻に縛られ、喜びも悲しみを抱くことなくただ母の言うことに従っていた日々。姉を、父を失った時でさえ瑠璃は己の成すべきことをやり遂げるため戦った。

 少し、疲れてしまったのかもしれない。だから義姉の居場所を突き止め、恨み言を吐きたかった。

 自分は生きている、だから早く助けてほしい。心の叫びをぶつけてたかった。

 いや、甘えたかった。ただ、あの頃感じていた義姉のぬくもりを忘れたくなかった。

 

「人は弱い、とうちの精霊がよく愚痴をこぼしていた。しかしそれ故に人は誰かと助け合うことが出来る。精霊は常に孤独だが、人はいつも一人ではない、と」

 自分の愛した女を殺めた精霊。その精霊をどう扱い、またどう向き合っていけばいいのか、左霧とて分からない。

 だが、生きようと決めたのならば、彼女の力もまた左霧には必要だ。あの精霊を許すことは今の左霧にはできない。

「私は、どうしたらいいのかしら」

「それはお前が決めることだ。お前はたくさん殺した。今更あとに引くこともできない」

「――――そうね、それ以外」

「だが、おそらくそれも無理な話だろう」

 

 不敵に微笑む左霧。既に満身創痍の体であるにも関わらず大した男だと瑠璃は関心を通り越して呆れてしまう。このまま殺すには惜しい男であることは確かだ。自分に歯向い、尚且生存している者など今までいた試しがない。

 侵略を決めた決断を覆すことなど出来はしない。天王寺を裏切ることなど今更できるわけがない。歪な関係だったとしても生を受けた時から瑠璃の体にはその匂いが染み付いて離れないから。

 

「瑠璃様!! で、伝令です!」

「翔子、生きていたの」

 

 自らの右腕が生存していたことに瑠璃は僅かな安らぎを抱いた。翔子は左霧を一瞥したあと、すぐに瑠璃へと向き直り慌てたように言葉を繋いだ。

 

「る、瑠璃様、今すぐにお逃げください!!」

「翔子、落ち着きなさい。これが終わればすぐに帰れるの。今回は予想以上に犠牲者を出してしまったわ。大丈夫、今度はきっと上手く」

「天王寺が――――天王寺が陥落しました」

 

 擦り切れた心を自ら鼓舞し、部下の前では平然と立つ。父に教わった教訓が自然とにじみ出る自分が、この時ばかりは憎かった。

 瑠璃は体からゆっくりと魔力を抜いた。

敗北、その言葉の意味すらわからない。

 自分が負けることなどあるはずがないなどと思ったことはない。戦いになればいつ死ぬか分からないのは最強の魔女である瑠璃も同じことだ。

 ただ、意味が分からなかった。今、ここで戦っている自分が生きているにも関わらず、天王寺が陥落した、などという言葉が紡がれたことに。

 

「翔子、私は生きているわ」

「恐れながら、瑠璃様。これ以上の戦いは不可能でございます。中央区の本拠地が突然襲撃されました! 敵は“霧島家”と名乗る魔術師の集団です!!」

 

 目の前の男を見る。不敵に笑っていた。この短時間で一体どんな策略を練ったのか。最初から本気で戦う気がなかったのはこういうことだったのか。

 瑠璃は失望した。どんな男かと見定めていたが、やはり期待はずれだったのだ。

 

「俺も一応次期当主だからな。悪いが部下を使わせてもらった。あとで母からお仕置きを食らってしまうが、まぁそれは置いておこう。観念しろ、天王寺瑠璃」

 

「……私が、家を盾に取られた程度で引くとでも?」

「ちょっと左霧さん!? 聞いてないですよ!? 卑怯者!」

 

 後ろから何やら野次らしきものが飛んできたが気にしない。それよりも目の前の少女が引かないことに対して内心焦っていた。これでダメなら覚悟を決めるしかない。

「瑠璃様……」

「翔子――――すぐに戻るわよ。今回は私の負けということにしておいてあげる」

 

 部下の瞳で心変わりをしたのか、果たしてその心は分からない。当主たる者、自らの独断のみで動くことなど問題外のことだ。しかし瑠璃は間違いなく戦いの先にある死という安らぎを求めていた。聖人のような表情は、未だにその未練を抱えたままだった。

 

「待って、瑠璃! 行かないで!」

「義姉様、さようなら。もう次に会う時は――――」

 

 その次に出るべき言葉が見つからない。いや、あるはずだ。これが決別の時だ。そう心に言い聞かせ、瑠璃は必死に言葉を紡ぐ。

 声が出せない。

 視界が滲む。

 あれ? これは確か……。

 

「ダメ、絶対に嫌よ! あなたをまた一人にするくらいならお姉ちゃん死んじゃうから! もう、嫌なの! あなたをそんな顔にさせたくないの! これ以上逃げたく、ないの……」

 

 百合は瑠璃の足に僻みついて離れなかった。義姉の言葉が気になり、瑠璃は自らの顔に触ってみた。

 その顔は濡れていた。あの日、忘れたはずの感情がグルグルと駆け巡ってきた。仕事に行く姉。帰ってくる姉。休日に遊んでくれた姉。一緒に寝てくれた姉。

 その姉が、目の前の傷だらけで汚らしい女となぜがダブって見えた。惨めであるはずの今の彼女を振りほどく力は、とうに消え失せていた。

 

「貴様! 瑠璃様の体に触れるな!」

「あぅ! いや、離して、瑠璃! 瑠璃!」

「あ……義姉、様……」

 

 部下に手を挙げられても尚、執行にその行く手を阻む百合の執着に、瑠璃は恐怖すら覚えた。だが、それは痛くない。決して痛くなどなかった。

 だから涙が止まらなかった。暖かすぎて、切なすぎて。

 

 その前に一人の男がまたしゃしゃり出て来る。その男はまた意味の分からない発言をかまし場を混乱させた。

「おい、誰が帰っていいなどといった? 俺は天王寺を乗っ取るためにお前の家を襲撃したのだぞ? ここでお前を倒さなくては何の意味をないではないか?」

 

 ポカン、と皆が男を見た。明らかにボロボロで誰が戦っても勝てる自身がある。その男はあろうことか、再び瑠璃に戦いを挑んできた。

 天王寺を滅ぼすなどという大それた発言をかましてしまった!

 

「なぜあなたは天王寺が欲しいの? 魔王になりたいから? 名誉のため?」

「そんなものは野心の塊である雪子にでもくれてやる。俺はお前が欲しい」

「なっ! 誰が野心の塊よ! ていうか左霧さん!? 何ですかそれ!?」

「クスッ……面白い男。いいでしょう。私が負けたら天王寺もそれから私も――――あなたのもの」

 

 瑠璃は僅かに頬を赤くしながら言った。今まで求婚をかけられた数は幾知れずとも、この瑠璃を前にして勝負を挑んできた男などいなかった。最強であるが故にその力を前にすれば誰もがひれ伏すしかなかった。

 雪子は意味が分からなかった。さきほどは真剣に自分を守ると言って誓い合った仲であるにも関わらずこの数分で壁に打ち付けられたような衝撃を受けた。

 

「左霧さん、あとでちょっと話がありますから」

「なんだ? どうしてそんなに怖い顔をしているんだ? 雪子、あまり顔にシワを寄せるとな、歳を取ってから大変なことに」

「うっさい! さっさと行け! この浮気者! 変態!」

 

 雪子の回し蹴りを喰らい、訳も分からず戦場に立った左霧。相変わらず体はフラフラだが、気持ちはスッキリしていた。

 なぜなら目的がはっきりしているからだ。

 自らの野心のために、勝たなくてはならない。いい女というのは力づくで手に入れて支配してこそ面白みがある。最も、左霧は出来た試しがない。根っからの尻に敷かれてしまうタイプの男だ。

 それに――――。

「瑠璃……瑠璃」

 

 姉妹の悲痛な叫びは聞きたくなくとも聞こえていた。左霧には関係のない話だ。よくある姉妹同士のいざこざだ。姉は妹を取り戻したいが、妹は背負う物があり、また姉の好意を受け入れられない。

 なら壊してやろう。生憎と左霧はその方面に関しては得意中の得意だ。

 やはり、家族は笑わなくては――――。

 それは冷たい家庭で育った自分の戒め故なのか、左霧は放っておくことが出来なかった。

 

「どんな奇跡を見せてくれるのかしらね? 今のあなたに一体何ができるの? 本当に私を手に入れることが出来るの?」

 

 瑠璃の挑発は何の意味もない。

 既に言葉を不要。そう悟ったのだ。

 かつて殺戮の限りを尽くした男は、今一度その力を体内に宿す。

 それは、平安より続く悪意の権化。

 鬼の生まれ変わりである左霧を支配しようと力。

 魔導兵ではないと制御しきれない古代兵器。

 

「神降ろし、願い奉る――――」

 

 それは決して使ってはならない禁呪。魔道書にも書かれていない。口伝のみで伝えられた呪われた魔術。

 

「宿れ――――悪鬼」

 

 霧の魔術は一番弱い。それは魔術師なら誰もが知りうる話だ。こそこそと隠れて敵を狙う卑しい魔術師たち。女系でありまた美貌を持つが故にいつも彼女たちは力で押さえつけられ、恥辱の限りを尽くされていた。

 あるところに、一人の男が森に迷い込んだ。それが霧島家の始まり。

 

「降参するなら今のうちだ。小娘」

「――――本当、嫌な男ね」

 

 瑠璃は魔術を使うことが出来なかった。いや、その暇を与えてもらえなかった。魔力で作った防護壁を無理矢理壊され、赤裸々になった喉元へ、そっと手を当てられた。

 この世には、理解出来ない現象が時として人を襲う。

 だが、瑠璃に与えられた現実は三つだけ。

 天王寺は滅びたこと。

 自分は負けたこと。

 この男は、いつか神を殺すだろうということだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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壊れた魔導兵

 雪子は、左霧たちの戦いに目を離せなかった。

 いや、離す暇がなかった。なぜなら勝負は一瞬の内についてしまったからだ。

 左霧が呪文を唱えた時、彼の頭に二本の禍々しい角が生えそれから――――。

 それから何が起こったのか分からなかった。瑠璃が目を見開き、防護壁を作った途端にそれを壁ごと突き破り彼女の前に接近した。

 この惨状を招いた人物を、彼は軽々とあしらった。さっきまでフラフラだったニートが。

 

「左霧さん……」

 

 雪子はその後ろ姿が別の者のような気がして近寄るのに躊躇した。母の体も心配だったが、あの男のことも、認めたくはないが確かに心配なのだ。

 

「私を、どうするつもり」

「戦争に負けた後の女がどういう扱いをされるか、聞いたことがあるか?」

 

 瑠璃は間近に迫った左霧の顔から目を逸した。

 もちろん知っているつもりだ。戦争で負けて一番悲惨な扱いを受けるのはいつも女だ。

 それが自分の身に降りかかることなど思っても見なかった。惨めな自分の成り行きを、瑠璃は自らあざ笑う。

 

「左霧先生、お願い、やめて……」

「俺はお前の知っている左霧ではない。故にお前の言うことなど聞く必要はないな」

 

 百合に見向きもせず、左霧は瑠璃の顔をぐっと近くに寄せ無理矢理視線を合わせようとする。無礼な扱いに慣れていない瑠璃はそれだけで顔が熱くなり思わず手を上げた、がそれも防がれ、腕を壁に押し付けられた。

 

「お、おやめなさい、あなたは一体なにを!?」

 

 右腕の翔子が叫び声を上げた。が、そこから一歩も動くことが出来ない。その男の闘気に押された足が立ち竦んでしまったのだ。当たり前だ、瑠璃とて恐怖で頭がおかしくなりそうだった。それを守っているのはただ誇りのみ。それも今にも壊れそうなプライドだ。

 

「お好きになさい。ただ、部下たちに手を上げないで」

「そんな口が叩けると思っているのか? お前の部下は散々学園を襲い、人を襲ったのだぞ?」

「それでも、私の部下だから。勝手なのは分かっているつもり、だけど、お願い、します」

 

 足が震えた。声が上ずっている。ああ、自分は小娘なのだと確信した。結局覚悟など出来ていなかった。死ぬ覚悟も、この男に純潔を取られる覚悟も。

 情けない。情けない。だけどそれでも嫌なものは嫌なのだ。自然と涙が出てきた。それは悔しくて情けなくてただただ自分の為だけに流す、勝手な涙。

 

 そんな彼女に左霧は言う。

 

「見てみろ。今から彼女の言葉を聞け。そしてそのあとにお前が何を思うのか。その言葉次第でお前の処遇を決めてやる」

「――――? 何を言って?」

「黙っていろ」

 

 左霧は瑠璃を睨みつけゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。

 自分の大先輩の、一生が終わるところに立ち会うことが出来た。

 ボロボロになりながらもただ娘を思い、娘の為だけに生きてきた彼女。

 

 ――――雪ノ宮雪江の一生が終わる瞬間に。

 

 

 

「雪子や……どこにいる?」

「お母様!? 私はここよ? 目が覚めたのね」

「ああ、私の可愛い娘だ。ああ、可愛い、どうしてこんなに愛しいのだろう」

「お母様ったらまたそんなことを言って……いつも私を困らせてばかり」

「くっくっく……お前こそいつも私を困らせてばかりだったぞ。特のほら、初等部に上がりたての時ベッドに世界地図を描いたお前の芸術的センスには頭を悩ませた」

「お、お母様!? 何ですかいきなり!?」

 

 雪江は自らの体を見つめた。なんと醜い体だろう。間接部分には人形のようにツギハギが施され、指の一本一本は今まで隠していたがネイルでもしなければ汚らしい乞食のようだ。

 ずいぶん長い時間を生きたものだ。思えば自分が作られたのはおよそ百年前になるのか。当時は戦時下の中で食物一つに困っていた時代だった。生きることが苦しくて、貧しくて、だが、それでも生きることをやめなかった人類の輝きが眩しかった時代。

 雪江は語る。静かに語る。これは未来へ向かう過去の亡霊からのメッセージ。

 雪江という存在を残すための切実なる願い。

 人類初の魔導兵から最後の魔導兵に託した最後の言葉だ。

 

「雪子、お前の、本当の親を殺したのは私だ」

「お母様……私の親はお母様よ? 悪い冗談はよしてください」

「お前の親はお前を人ならざる者へと変えた。よく聞け雪子、お前の親はお前を」

「やめてくださいお母様、どうしたのですか? そんなつまらない話、聞きたくないわ」

「――――魔導兵に変えたのだ」

 

 ――――魔導兵。それは人であって人ならざる者。死んだ人間の器に精霊を取り込み、霊力と魔力を同時に供給できるシステム。つまり精霊がいなくても魔導石と呼ばれる精霊の死骸を取り込むことで半永久的に魔力を作ることが出来る。魔術師たちの永遠の夢が叶えた愚かな兵器。

 

「私も左霧もそしてお前も人によって作られた傀儡だ。死んでいった幾万の精霊たちから作られた魔導石を媒介し、一度死んだ体をそれによって生かされている」

「死んだ、体?……」

 

 雪子は母の言葉が信じられなかった。今まで人として生きているつもりだった。だけどどこか自分が他の人と違うのではないか、という違和感は確かにあった。身体能力や天才的な頭脳。それらがもし人に作られた物だったとしたら? 

 それにそうだ。あの時、自分は死んだのだ。翔子に殺され、そして気がついたら生き返っていた。それはどう説明する? 人間ならまず有り得ない。死んだ人間が蘇ることなどあってはならない。目を逸らし続けた現実がグルグルと雪子を襲う。

 

「私は、人ではなかったの?」

「――――その通りだ。お前は人類最後の魔導兵。魔導兵一〇〇番。コードネーム:イヴァと呼ばれた奇跡の魔導兵」

 

 皮肉な話だ。人類の母であるはずの名前が、よりにもよって人ならざる者の名前に使われるとは。だが、雪子は何だかしっくりくるものがあった。ずっと違和感のあった事柄が一つ一つその枠を埋めていく。パズルのピースを合わせていく感覚。

 雪江はなおも語る。それは雪子に伝えなくてはならない自らの贖罪。どうしても言うことが出来なかった事実。まさにこの時だからこそ言わなくてはならない過去。

 

「お前の親は、父親は前代の帝。女中との間に誕生した――――王位継承権十番目の娘。お前は正真正銘のお姫様なのだよ」

 

 それは雪子の知られざる真実だった。

 

 

 

 今から数十年前、帝国では魔導兵の研究が盛んに行われていた。宮廷魔術師と呼ばれる帝国直轄の術者たちがこぞって集まり、最強の兵器を作るために日夜駆り出されていた。

 雪江はそのずっと前に作られた初代の魔導兵――――サンプル00などと呼ばれていた。当然研究を積み重ねていた魔術師たちは喉から手が出るほど欲しい玩具だった。雪江は帝国の申し出を再三にわたって断り続けた。だが、強気な姿勢を崩さない帝国に対して遂に承諾の旨を伝える。

 もちろんそんな気などさらさらない。上手く潜り込んで研究対象の魔導兵を全て破壊してやろうと考えた。

 守るべき者がなかった雪江はただの破壊神だった。戦争のために作られた兵器は対象がただ欲しかった。欲望のままに突き進むしか、なかった。

 

「お願い、この子だけは……」

 

 名もしれぬ女は、カプセルに入った娘を抱きしめながら泣いた。その女を無気力な目で雪江は見下ろした。愚かな女だ。何をそんなに必死になっているのだろう。自らの命の方が大切ではないのか? この世界に、自分以外に大切なものなどありはしない。女の言葉が理解できなかった。

 当然、雪江はその女を殺した。無力なただの人間の胸を大きく貫いた。

 既にカプセルに入った子供たちは九十八番目まで破壊した。中には化物のような顔した赤ん坊もいた。殺した。ただ、欲望の赴くままに。

 

「……アァー……マァマァ」

 

 九九番目のカプセルが音も立てずに開き、そして一〇〇番目のカプセルも同時に開いた。

 

 アァー……マァマァ。アァー…マァマァ。

 ――――マァマァ。

 

「――――可愛いですか?」

 一〇〇番目の赤ん坊から目を離さずにいた雪江に、声をかける女がいた。

 美しい女だった。歳は二十前半位だったか。薄紅色の着物を着て、カラカラと下駄を鳴らしながら九九番目の赤ん坊をそっと抱き寄せた。

 

「その赤子は、お前の子か?」

「ええ、そうです。私のただ一人の息子」

「なぜ、魔導兵に変えたのだ」

「愛しているから」

 

 その女はおそらく狂っていた。美しく微笑みを浮かべる女は、だけど狂気に満ちていた。その赤子は決して泣かなかった。この世に生まれたことを恨んでいるような、憎々しい目で母親を見つめていた。母親はそれでも息子をあやした。頬にキスをした。息子はそれでも母親を睨んでいた。

 

「あなたもわかるでしょう? 胸が熱くなってどうしようもない衝動に駆られる。愛して、愛して、愛してやまないこの抗いきれぬ母性! ああ、なんて、なんて愛おしい」

 

 雪江は女の熱に浮かされたかのように一〇〇番目の娘を抱いた。少女のような雪江には少しばかり不釣合いな格好ではあったがしっかりと両の手で抱きしめた。

 赤子は手を口に当てながら、マァマァ……アァーアァーとばかり言う。

 キョロキョロと何かを探し求めている。それが何か、雪江は何故かわかった。

 女の死体から白い液体が滲みでている。はち切れんばかりの苦しそうな胸からドクドクと母乳を吐き出していた。

 赤子はそれに向かうため雪江の体から抜け出そうとした。そして血だらけの母親の下へ寄り添い、そして乳を吸った。美味しそうに、吸っていたのだ。

 わっっと雪江は泣き出した。泣き出して赤子を抱き寄せて抱きしめた。赤子は嫌がり、遂には大声で泣いた。

 その大きな声! 私はここにいるよ! そう叫んでいるような気がした。

 その小さな手! 何かを掴むために必死で掲げた手は、虚空を舞いまた掴もうと手を上げる。

 

「愛してあげなさい。その人が愛せなかった分まで。それが、あなたの償いです――――私は、もうこの子を愛することは出来ないけれど」

 

 女はそう言うと、霧のように姿を消した。まるで最初からそこにいなかったかのように。だが、女の言った言葉を少なくとも雪江には届いていた。

 雪江という魔導平が母性を感じ、初めて愛を知った日だった。

 それからはただ、償いという名の幸せな日々。

 初めてハイハイ出来た日! 初めて両足で立ったあの日! 初めての食事! 初めての添い寝! 初めての躾! 初めてのお風呂! 初めての――――。

 だけど、だけど、雪江は苛まれた。自分がした過ちと、およそ人とは違う自分に育てられた人ならざる少女。

 もっと幸せな人生があったはずだ。敵の自分に育てられたなどと話せば、きっと自分は嫌われるだろう。怖かった。それだけが怖かった。何よりも、娘から拒絶されることが怖かった。

 娘、そう思っていたのは自分だけなのかもしれない。何よりも血の繋がりを求めていたのは雪江だった。殺人者の戯言だ。

 

「雪子、すまない。私はお前に母と呼ばれる資格など」

「――――許しません。絶対に」

「――――そうか。そうだな」

 

 雪子は『母』に怒る。

今までその事実を隠していたことに?

雪江が自らの母親を殺めてしまったことに?

 

 ――――否。

 

「どんなことがあっても、あなたが私のお母様であることに、変わりはないの。あなたが私の親を殺しても、あなたが人形であったとしても、血の繋がりなど関係ないと言ってくれたのは、あなた――――だから」

 

 ああ、だからこの少女は奇跡の魔導兵なのだ。

 雪江は今、この瞬間のために自分という存在が生まれたのではないかと思う。

 だってこんなにも幸せだから。こんなにも満ち足りているから。

 

「私を育ててくれて、ありがとう――――大好きなお母様」

「――――――――あ」

 

 名も知らぬ女中よ、すまない、と雪江は謝る。

 私が恨めしいだろう、呪わしいだろう。さぞ、憎いだろう。

 だが、一つ。

 たった一つ決めたことがある。

 私はどんなことがあってもこの子を渡す気はない。

 盗人であろうと、殺人者であろうと、人形であろうと。

 私はこの母性を狂っているとは思わない。

 娘に捧げてきたこの一六年間がその証明だ。

 地獄に落ちよう。喜んで地獄に落ちよう。

 しかし私は生まれ変わる、何度でもその輪廻の輪から巡り巡って、あの子の下に還ろう。

 

 

「おかあ、さま?」

「長く、生きすぎた」

「いや、嘘よ、だって、お母様は、魔導兵なのでしょう?」

「魔導兵は死なない、か。それでもな、雪子、死というものは平等に訪れるのだ」

 

 雪江はもう体全ての機能が停止していた。肢体全ての修復回路が絶縁状態だからだ。長いあいだ使い込まれた体は、魔導石の修復機能の負荷に耐えきれず自然と崩壊していく。

 つまり魔導兵は永遠の存在などではない。されど、魔導石がある限りその命は生き続ける故に不死身と呼ばれているのだ。

 ――――そして死、とは。

 

「私は旧式だからな。記憶容量が限界だ。魔導兵の死は、記憶の抹消ということだ」

「何を言っているの? お母様?」

「もう限界なのだ、私は。とっくの昔に。今まで騙し騙しやってきたが。百年となるとさすがの私も疲れたのだよ。お願いだ雪子、お前との思い出まで消されていくくらいなら、私は全てをリセットしたい」

「そんなこと――――出来るわけがない! お母様は忘れても、私はあなたをずっと覚えているの! 私は? 私はどうするの? お母様がいなくなって、私はどうして生きていけばいいのよ!?」

 

 雪子は何が何でも母親から離れまいと駄々をこねた。それは最後の抵抗であり、結末が分かっていても尚、その事実を否定したいからだ。いや、しなくてはならなかった。親子だから、親子だと思っているから。

 

「やれやれ困った子だ。いつもお前は私を困らせてばかり」

「そうよ、だってお母様の子だもの。私はこれからも」

「雪子、さらばだ」

「――――迷惑をかけるわ」

「雪子、愛している」

「お母様、お願い」

「雪子、どこにいる、もうお前の顔も見えない」

「一人にしないで」

「もう、何も聞こえない」

「おかあさ、お母様?」

 

 人形は死ぬときどんな風なのだろうか。ネジが動かなくなるその瞬間まで言葉を綴り続けた母。

 雪子は無言で母を抱きしめた。母の亡骸を抱きしめた。あの頃のぬくもりはもうない。これからももう感じられない。感じるのは己の鼓動のみ。

 

 ――――雪子、お前は今日から雪ノ宮雪子だ。

 ――――セツコ?

 ――――そうだ雪が降る時期に舞い降りた私の宝物だ。

 ――――宝物?

 ――――ああ、愛おしい、私の娘……。

 ――――オカアサン!

 

 

 お母様、誰よりも尊敬する我が母。私を育ててくださった何よりも愛すべきお人。

 私はもう泣きません。あなたがくれた強さがあるから。あなたが与えてくれた暖かさがあるから。

 あなたの心は私の胸にあるから。

 

「だから、今だけは泣かせてちょうだい?」

 

 雪子は大声で泣く。左霧は黙ったままそれを見守る。瑠璃も左霧に従いそれを見ていた。

 これが母の愛なのか。この巨大で押しつぶされそうな愛が、母の愛なのか。

 かくして、天王寺侵略戦争は一人の魔導兵を犠牲にして幕を閉じた。

 

「お母様―――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!」

 

 一人の少女の悲痛な叫び声を残したまま。

 一人の母親の愛に皆、恐るしかなかった。

 

 

 

 

 



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色んな仕事

「それでは盟約により、天王寺家は霧島の軍門に下ります」

「ああ、そうか」

 

 天王寺領――中央区。

 広大な屋敷は瑠璃には少々広すぎた。己の力量を見定めることの出来なかった報いなのだろう。今、彼女は全てを失った。

権力も、人望も、富も。

それでも彼女は、その中でかけがえのない何かを手に入れた。

 それを言葉にすることはとても難しいけれど、決して悪くはない結果だと瑠璃は思えるのだ。

 なぜなら――――。

 

「瑠璃、行きましょう」

「はい、義姉様」

 

 久しぶりに寄り添った姉の背中は大きかった。いや、背丈は大して変わりはない。だが、その後ろ姿は頼もしく思えた。なぜだろう、姉という響きだけで妹というのはここまで甘えたくなってしまうのか。瑠璃は姉の胸へ今すぐに飛び込みたい衝動に駆られたが、目の前の男がいる手前なんとか制御することができた。

 

「左霧先――左霧さん。義妹のしたことは決して許されることではありません。本来なら死をもって償うべきです。魔術師の世界に優しさはいらない。そんな風に私たちは習いました。ですが、左霧さん。私はそれでも言います――――義妹に指一本でも触れてみなさい。刺し違えてでもあなたを殺してみせる」

「――――そうか。それはまた、約束と違うことになったものだ」

「ええ、ですから私が代わりに」

「義姉様、自分のことは自分でカタをつけます。ですから私は左霧様の下へ嫁ぎます」

「いいえ、瑠璃。あなたはまだ若いわ。結婚なんてあと一〇年早い。私が嫁ぎます。絶対に」

「……何の話をしているのだ」

 

 感動の仲直りは何処へ。彼女たちはいつの間にか結婚談義へと話を移行し、再び喧嘩を始めてしまった。どちらが左霧と結婚するのかという勘違いから発生した取り返しのつかない事態。どうやら瑠璃は、左霧が戦闘時に話したことを『プロポーズ』と受け止めてしまったらしい。それを姉に話したら百合は目を充血させながら瑠璃を罵った。結婚は女の墓場だとか、独身貴族こそ勝者だとか。そのうえで何故か自分が結婚するなどと言い出すものだから瑠璃とて納得がいかない。

 

「妻は一人で結構なのです。父の姿を見てつくづく思いました。よって私だけで十分なのです」

「それには納得、でも結婚には断固反対。あなたにはまだ経験が足りないわ」

「何ですか経験って? 義姉様はあるのですか? その経験とやらが」

「ある――――と思う」

「どっちなんですか?」

「と、とにかくダメよ結婚なんて、お姉さん認めません」

 

 あーでもない。こーでもない。左霧を置いてけぼりで勝手に話を進めてしまう二人。似たもの同時であるが故に、憎しみ合い、慈しみ合う。彼女たちは今、数年間の空白を埋めるように言葉を尽くす。時間は沢山ある、ゆっくりでもいい。だが、それでも言葉で伝えたい。己の感情をぶつけ合いたい。大好きだから。

 

「左霧様は私と百合姉さん、どっちがよろしいの?」

「こら瑠璃! ああ聞きたくない! 行き遅れと今が旬の若い生娘! どちらがいいかなんて聞かなくても分かるわ!」

「今が旬の生娘だな」

「聞きたくないったら!」

 耳を抑えながら行き遅れの痛切な悲鳴が虚しく響き渡る。

「が、どっちもいらん。結婚など、一度で十分だからな」

 

 その言葉に二人は押し黙る。

それは左霧が一度婚姻を結んでいることへの嫉妬。

そして、それ以上踏み込むことの出来ないラインを引かれたような気がしたからだ。

 

「左霧様、私はこれからどうしたらいいのでしょうか。私はきっと人として壊れた生き物です。今でも人を殺すことに何のためらいもありません。でもそれは私に限ったことではないはずです。あなたも、そしてお義姉様も、同じではないでしょうか?」

「ああ、俺も雪子に言われなければ人を殺すことに何のためらいもない」

「私も、沢山殺したわ……」

 

 人を殺すこと。生命を奪うこと。それは罪なのだろか。いけないことなのだろうか。そんな判断すら出来ないほど、彼らは人とは違う教育を受けていた。

 魔術師として生まれた者たちの究極を目指すため。

 魔王――――それこそが魔術師の頂点だ。

 

「左霧様、あなたは何を目指すのですか?」

「目指すものか。強いて言うなら安息だな」

「安息?」

 

 これから様々な変化が起こるだろう。力の均衡が大きく傾いた。他の勢力が放っておくわけがない。近々大々的な集会が行われるはずだ。その集会でこれからの左霧たちの運命が決まる。

 当然、安息などあろうはずがない。それでも左霧は目指す。永遠の安息の地を。

 

「ついていきます。どこまでも」

「好きにしろ。が、学校には通えよ。若者は勉学が優先だ」

「学園……私が通ってもよろしいんですか?」

「当たり前だ。学園長が、新しい学園長が許可したのだ」

「彼女は、私を許してくれますか?」

「彼女の母親はお前のせいで動かなくなったわけではない。元々寿命だったのだ。古い魔導兵は記憶媒体が少ない。一〇〇年も動いたのだ。それだけでも驚嘆に値する」

「だとしても、死期を早めたのは私のせいです……」

 

 瑠璃の表情は変わらない。どんな時でも合理的な判断を下さなくてはならない彼女は、それと引き換えに表情をなくしてしまったのだ。

 だが、あの壮絶な母親の愛を見せられたからなのか。今、瑠璃の心には確かに芽生えつつある人間らしさが彼女の体を震わせていた。

 どんな言葉も、無意味だ。左霧は押し黙る。結果的にそうなってしまったのは事実であるし、慰めなどかえって傷つけるだけなのだ。

 

「甘えるなよ、天王寺瑠璃。雪子はそれでも前を見て進むと誓った。お前を許したから学園に通うことを許可したのだ。――――お前が奪っていった無数の魂も含めて」

「――――はい」

「そしてお前は俺の軍門に下ったのだ。ならば俺の言うことを聞け。そして考えろ。お前と雪子の違いを。魔術師の在り方が変わりつつあることを。胸を張って生きろ。誰かに虐げられたとしてもそれでも胸を張って生きろ。この霧島左霧の従者として」

「誓います。血の一滴から髪一本に至るまで、あなた様の御心のままに」

「――――いいだろう。ならば俺もお前を守ることを誓う。黙ってついてこい」

 

 瑠璃は生まれて初めての感覚に陥っていた。胸がドクンドクンと高鳴り。心なしか体温が熱くなってきている気がする。

 妖気に当てられてしまったのか。そういえば目の前の男は淫魔の血を引いているのだとどこかで聞いた気がした。それでも瑠璃はいいと思った。この気持ちが、作られたものであったとしても、決めたのは自らの意志なのだから。

 義姉はそんな瑠璃の胸中を察したのか、寂しさと同時に精一杯の喜びを現した。

 

「瑠璃! 初体験は痛いってよく言うけどあれ嘘だから! だから思いっきりヤっちゃいなよ!」

 

 義姉は指をいやらしく動かし、輪っかを作り、それをもう一本の指で貫いていた。もはやこの女に婚期は訪れることはないな、と密かに左霧は手を合わせた。とうの瑠璃はその意味が分かっていなかったのだが。

 

「義姉さん、東野さんと仲良くね」

「だーれがあんなヘタレと仲良くなんてするもんですか! 私を置いて勝手に倒れちゃって! 役立たずもいいところよ」

 

 本当は違う。時雨は百合が倒れたあとも必死で結界を張り、百合の体を守っていた。百合は瑠璃のことで頭がいっぱいだったので己がどんな状況なのか判断できていなかったのだ。哀れな時雨の努力に二人は気の毒そうに思う。そんな時雨は応急処置を施し、現在は病院で安静にしているらしい。

 おそらくこの女をもらってくれる男といえば、時雨ぐらいだろう。

 

「さぁて! そうと決まればさっさとゼ○シィ買いに行かなきゃね! 待ってろよ私のバージンロード! ついでに私たちもマイホーム!」

 

 本人はそれに気がつかない。人生とは得てしてそういうものだ。

 戦闘のダメージも綺麗さっぱりなくなった恐るべき回復力に驚く隙もないまま百合は天王寺を去っていった。姉妹二人で帰る場所を見つけるために。瑠璃は天王寺を去ることにした。母を置いて去ることは心苦しいが、それでも自らの帰るべき場所を見つけたのだ。姉といる大切な場所を。当然母は半狂乱になって瑠璃を咎めたが霧島家の次期当主が出てきてとなっては何も言えなかったようだ。瑠璃をお願いします、という端的な言葉で逃げるように引きこもってしまった。

人間としても魔術師としても中途半端な女だ、と左霧が愚痴を零していたのがおかしかった。

そんな姉の頼もしさに瑠璃は改めて感謝した。たまにしか見せないところが残念ではあるけれど。

 

「――――雪子さんは?」

「ああ――――雪子は」

 

 雪子はあの後、もう涙を見せなかった。母を抱き上げてその体にキスをした。

 さよならのキス。そのあとは笑顔でこちらに振り向いた。

 その笑顔を見るたびに、左霧は女を思い出し、いつかの声が響き渡る。

 どうしてだろう。様々な疑問が左霧を襲う。それを無理矢理に片付け、精一杯笑顔を作る雪子を迎えた。

 

「どうしたい?」

 

 左霧はまず聞いた。雪子という少女が、これからどうしたいか、またどの選択肢を選ぶかを聞いた。

 それは残酷な話だった。だが、左霧はそれを聞くべきだと判断した。

 

「雪子、仇討ちだ。その女を殺すべきだ」

 

 セーレムの声が雪子の頭に響いた。霊力を補給しとりあえず声を出せるまで回復したようだ。毛を逆立たせながら怒りを浮かべている黒猫の姿が容易に想像できた。

 

「ダメよ」

「なぜだ、その女が憎くないのか?」

「憎いわ」

「殺したくないのか?」

「殺したい、のかもしれない」

「なら」

「それでも私は――――受け入れるの」

 

 許さなくては、と少女は笑った。誰かが憎しみの連鎖を止めなくてはいけないのなら、私がその役目を受ける。そう少女は語った。

 左霧は知っている。少女がそんなに強くないことを。心が引きちぎられそうになっていることを。

 ――――誰よりも我侭なことを。

 なぜ、それが出来る? 

 何もかもが似ている。

 

(……許してあげて。ねぇ左霧、彼女を)

 

「でも、やっぱりちょっと無理みたい」

 

 雪子はそう言うと先程から呆然と立っている瑠璃へと近寄り、その頬を強く打った。瑠璃の珠のような頬が真っ赤に晴れ上がり痛々しいそうだ。だが、誰もがそれを受け入れた。瑠璃も当然受け入れた。そのうえで笑っている雪子の考えが理解出来なかっただけ。

 

「どうして、笑っているの?」

「笑いたいからよ」

「嘘」

「うっさいわね。私がそう言っているんだからそうなのよ」

 

 腕を組み、そっぽを向く雪子。その姿はいつもの通りだった。いつもの通りに振舞っていた。

 瑠璃は俯いて両手を握った。己のした罪の大きさが、どれほどのことなのかをその体が感じているらしい。自然と肩が震えた。

 

「ごめ――――ゴメンなさい」

「言葉だけで許せると思っているの?」

「――――思ってない。でも私は、どうしたらよいかわからないの。あなたはどうしたら許してくれるの?」

 

 先ほど、許さなくてはと健気に笑っていたというのに今は意地悪そうに笑っているのだからタチが悪い。まるで弱い者いじめをしているかのようだ。

最強の魔女である瑠璃は今、生まれたての小鹿のように震えていた。それをひとしきり面白そうにからかった雪子は、ただ一言語った。

 

「学園に通いなさい」

 

 それはどういう意味なのだろうか。結局彼女から許すという言葉を引き出すことは出来なかった。

ただ、学園に毎日通いなさい。あなたは一般常識を学ぶべき、とだけ。

 瑠璃の贖罪の日々が始まる。それは辛く長い道のりだろう。だが、彼女はチャンスを作ることができた。雪子はチャンスをくれたのだ。その意味の答えを見つけることが瑠璃のこれからの目標だ。

 

 

 

 

 雪子は烏の森を潜り、『幻燐城』を訪れた。中央区から南へ少し行った場所にある全てが木々で覆われた地域。この地を訪れる者は自殺者か殺人者かの二通りだ。何もない、ただ虫の鳴き声が聞こえるだけ。行く手には永遠の闇は広がっている。全ての生きとし生きる者たちが敵となる恐るべき自然の要塞

 

 ――――ただ、ある者たちを除いては。

 

 

「霧島家へようこそ、雪子さん」

 

 絶世の美女がそこにはいた。どれくらい歩いただろうか。気がつけば深くなった霧の中をひらすら歩いた。そしていつの間にか霧が晴れたと思ったらそこには大きな城があった。木材で作られた芝居劇で見るようなあの城だ。周りは堀で埋められておりそこには水が流れ、外敵を拒むように出来ている。その城の門で、一人の美女が笑みを浮かべていた。

 どこか、あの人に似ていると雪子は瞬間的に思った。

 

「霧島、霧音様ですか?」

「ええそう、私が霧島家当主、霧島霧音です。遠いところから遥々ようこそ」

「あの」

「わかっています。その人形を修理なさりたいのですね? どうぞ中へ」

 

 人形、と呼ぶその声に何のためらいもなかった。霧島霧音――――自らの息子を人形に変えた母親。そして魔導兵計画の第一人者であり現在もその研究を続けているとされている。

 

「私が来ることを分かっていたのですか?」

「まさか。息子から連絡があったのです。驚きましたでしょう? こんなところに住んでいるなんて」

「いえ、そんな」

 

 澄んだ声が森に響き渡る。まるで霧音の声を邪魔しないように虫は鳴き止み、木々は黙りこみ、風はピタリと止まった。

 細い目を僅かに開け、口を抑え上品に笑う。目の下の泣きボクロすらも彼女の美しさを際立たせた。

全ての者が魅了される女。

故に世界は彼女を森に閉じ込めた。

誰も、彼女に会えないように。

 

「このお守りを持って烏の森を潜れば母に会える」

「お母様は、生き返るの?」

「違う。生まれ変わるのだ」

 

 魔導兵は死なない。その説明を一通り受けた雪子に、左霧は一つの提案をした。

 この世で、唯一魔導兵を修理できる者の名前とその住所を。

 自らの母の名前を――――。

 

「記憶は全て消える。生まれたままの状態だ。右も左も分からない。お前の、雪子の母親はもういない」

 

 それは初めに告げた通りだった。永遠のお別れ。例えまた会えたとしても、その時の雪江は全く違う存在になっている。何もかもが新しい存在へと。

 でも、それでも雪子は知っているのだ。雪江の性格も、匂いも、仕草も、あれも、これも、全てを。それを知りながら、新しい雪江を受け入れていかなくてはならない。

 それは、永遠の苦しみではないだろうか? このまま会えない方が幸せなのではないか? そんな雪江と付き合っていけるのだろうか? 家族に、なれるのだろうか?

 

「――――行くわ、私」

「……そうか。話は通しておく、あとはお前次第だ」

 

 左霧はそう言うと母親と連絡を取るために霧島家の使いへ伝達を渡した。今時、電話一本でどうとでもなるというのに。だが、左霧が母、と呼ぶときの機械的な声色が怖くて何も聞けなかった。時々、左霧はそのような特徴がある。主に自らの過去に触れることを聞かれた場合、強くその色を現した。だから雪子も『今』は聞かないでおいた。

 

 

 

 

 修理は滞りなく終わる、らしい。実際にその目で見たわけではない。丸一日霧音は庵に入り、修理にかかっていた。その間、雪子は城を見学する許可を得た。霧音の工房と自らの部屋以外はどこでも行って構わないという破格の許しを得て。

 すれ違う人は皆女ばかりだった。小さな子供から年老いた老人まで全てが女だった。今天王寺に出払っている魔術師たちも皆女だけなのだとか。一体どういうことなのだろう。

 その意味を知るのにはそんなに時間がかからなかった。

 

 着物を着崩した女が森から帰ってきた。バッグはパンパンに膨らんで今にもはちきれそうだった。

 見たところ魔術師ではない。魔力を持つ者はどこか違う気がする、とは雪子の直感なのだが、この場合当たりだ。彼女は全うな人間であり、ごく普通の一般人だ。

 

「――――女のお客さん、は珍しいね。ここは一見様お断りなんだけど」

「あの、わ、私、左霧さんに」

「左霧、様の? へぇまたこんな小娘を手篭めにしてあの御方も好き者だねぇ」

 

 ケラケラと笑いながら女は寝不足気味の瞼を抑えながら涙を拭いた。香水と汗が混じった独特の匂いと大人の女が醸し出す色気が雪子をより緊張させた。

 

「あの御方の紹介なら大歓迎さ。我らが霧島の唯一にして最後の男児だからね。また霧音様に似て綺麗な顔してるんだわ! 小さい頃にてぇつけとけばよかったよ全く!」

 

 悔しそうにタバコを吹かす女の愚痴を、雪子はただはぁと相槌を打つしかなかった。その間にも次々に女たちが森から帰ってきた。疲れている者、元気な者、泣いている者、笑っている者、色んな人がいる。いずれも魔術師ではない。ならば、彼女たちは何をしているのだろうか。

 

「あの、あなたたちは魔術師ではないですよね?」

「あ? ああそうさ。私たちは魔力を持たないただの一般人。霧島家とは何の関係もない外部から来た連中ばかりだよ」

「じゃ、じゃあ、一体何をしているのですか?」

「何って。そりゃ仕事をしているに決まっているじゃないか?」

「仕事?」

「仕事だよ仕事! あんたの母ちゃんだってやってただろう仕事! 魔術師だろうがなんだろうが仕事しなきゃ飯を食えないからね! 私たちは、まぁ言うなれば表の役とでも言えばいいのかね?」

 

 まぁやっていることは裏の仕事だけどね、と女はまたケラケラと笑った。明るくて元気な人だと雪子は好感をもった。タバコの匂いは好きになれないが、姉さん気質で頼りがいのある性格のようだ。

 そういえば、母は魔術師という職業だけではなく経営者という役割も持っていた。いくつもの子会社を持ち、雪ノ宮グループの筆頭だったのだ。ということは必然的に自分にその役割が与えられるわけで……。

 そこで雪子は考えるのをやめた。先のことをあれこれ言っていても仕方がない。ひとまずは、そう雪江を目覚めさせることだ。

 

「どんなお仕事をされているんですか?」

 

 察するところ、水商売か何かだろうと雪子は推測した。学園の付近にはそう言った店はないが、南区は特に大御所と言われるくらい金の回りが良く、商売も繁盛しているらしい。

 

「なんだいあんた? 左霧様からそんなことも聞いていないのかい? ははーん、あの人ったら言いにくかったのかね。そりゃそうよねぇ~、こんな若い子に、ねぇ」

 

 何だか自分が小娘と思われていることに腹が立った。それくらい知っている。お酒を飲んで歌ってネクタイを頭につけて寿司を家族に渡す、あれだろう? それくらい分かっている。一見様お断りくらい知っている何回も入ったことがある! 私を誰だと思っているの? 

 この時、雪子は何も分かっていなかった。知らなくても良いことだ。大人の階段を登り初めて雪子にとっては、知る必要などまだなかった。

 

「娼館だよ、しかも高級娼婦。まぁ偉い人とか金回りのいい人間としかやらないっていう」

「しょうかん?」

「嘘だろ? 娼婦だよ娼婦! 男と寝て夜を過ごすの!」

「オトコトネテヨルヲスゴス?」

 

 女は腹を抱えて笑った。この時ばかりは雪子も怒れなかった。本当にわからなかった。そんな曖昧な表現でわかる者などいるわけがないだろう、と呆然とした。

 ――――はっきり言ってください! なんて言わなければよかった。

 

「セ○クスするんだよ! それで金もらうの! 一つ勉強になったねお嬢ちゃん!」

「――――――――セ」

 

 ただの小娘であることを認めた。

 世の中、色んな仕事があるのだなと思った。

 いつの間にか雪子は倒れてしまった。

 左霧さん、どういうことですか? 

 



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永久に願う 第一部 完

気がつけば雪子は屋敷の布団で眠っていた。予想の斜め上をいく答えに脳が処理を出来ずにいたのだ。

 恥ずかしい――――相手にとても失礼な行為だと思った。例えどんな仕事であれ、賃金を稼いでいる以上、誰も文句を言うことなど出来ない。そんな時代はとっくに過ぎたのだ。

 そうは思っていてもやはり抵抗がある。自分の体を、他人に触られて黙っていられるはずがない。

ましてや、セ、セ、セ……など。

 

「ごめんなさいね。柑奈が変なことを言ってしまって。気が強くていい子なのだけど」

「いえ、私の方こそ、ゴメンなさい! その、立派なお仕事、だと思います!」

「うふふ……いいのよ正直に言って。確かに私たちは己の肉体を売って商売をしているのです」

「その、辛く、ないんですか?」

「どうなのでしょう。私はただこの座敷に座って日々報告を聞いているだけですから……彼女たちの苦労の一片も知ることができないのです」

 

 霧音は憂いた目をそっと下に落とした。雪子が飛び起きた時に乱れた布団を丁寧に直しながら慈しむように彼女を見る。

 どことなく母親という言葉を連想させた。それもそうだろう、この人とて一児の母なのだから。それを感じさせることのない若々しさと少女のように浮かべう笑みが、そう思わせないだけだ。

 ――――さて、と霧音は語る。その目は先ほどの優しそうな瞳を感じさせない。雪子を対等な人間とみなし、商売相手として接するためだ。どんな相手にも金銭が含まれれば客とみなすのが霧音の定義であり、今回の依頼である『魔導兵』の修理に関する詳細を霧音の口から聞けるということだ。

 自然と雪子の体は強ばる。今だって本当にこれでよかったのか、わからないから。

 

「人形の修理についてですが――――」

 

 人形。分かっていても雪子にはそれを受け入れることが出来ない。それは自分の存在も人形だと肯定することと同じだからだ。例えそうだったとしても母と自分の生活が作り物だったとは思わない。自然と雪子は霧音の瞳を強く見つめてしまった。それは否定の意志だ。

 

「――――お母様の修理ですが――――実際に見てもらった方が早いでしょう」

 

 その意志を感じ取ることができたのか、霧音は言葉を直しその名前を呼ぶ。

 

「――――雪江、いらっしゃい」

「――――はーい!」

 

 小さな少女が奥から飛び出て来た。

無邪気な笑顔、バタバタと騒がしい足音。黒いドレスを雑に払い、櫛で解かされた黒髪が空を舞う。

 

 ――――ママ?

 

「――――――!」

 

 言葉が出なかった。少女は霧音の傍で雪子をジッと見たあと、彼女をそう呼んだ。

 雪江と雪子には今、なんの繋がりもない。記憶の楔を解き放たれた二人に残ったものは、感覚のみ。触れ合った感覚、抱きしめられた感覚。全てを忘れてしまっても、それだけは忘れない。

 

「――――――マーマ?」

「――――――雪江?」

「――――――マーマ?」

「――――――うん」

「――――――ママ! ママ!」

 

 それは衝動。走ってくる雪江を抱きしめて、頬とうなじにキスをした。くすぐったそうに笑う雪江の首筋から頭にかけるまで匂いを嗅いだ。太陽の匂いだ。雪江の匂いだ。大好きで大好きでどうしようもない雪江の。

 

「ママ! あのね! あのね! ただいま!」

「――――ああ、よかった」

 

 

 よかった。ようやくそう思えた。苦悩も、苦痛も、全てが杞憂だと思い知った。失っていい命なんてない。それが例え人形の命であったとしても。

 ――――私たちは、生きる。その足で、その手で、その心で。

 ――――何かを掴むために生まれてきたの。

 

「お母様を愛しているのですね?」

「当然です」

「だけど、もうあなたのお母様ではありません」

「わかっています」

「それでも、あなたは愛を」

「もっと愛します。狂おしいほどに愛します。私は、愛を知る。この命、尽きるまで永遠に永久に、この子を抱きしめ、そしてキスをする」

 

 

 母親になった。少女はこの瞬間に母親になったのだ。一人の女がその命の灯火を見つけた瞬間に感じる――――母性。

 されど霧音は思う。少女は若く、未熟だ。子供という者は残酷に自らの時を奪い取る。決して愛しいだけの存在ではない。覚悟だけなら誰でも出来る。衝動に従うだけなら誰でも愛する。

 ――――あの時の、わたくしのように。

 

(分かっているの!? 霧音! 掟を破って生まれた子供は『呪い』を受ける! その子は誰からも愛されることはないのよ!)

 

 

 ―――――分かっていると答えた。誰かに愛されることがないのなら、わたくしがその分だけ愛してあげるのだと。豪語した。

 ―――――その先は、目に見えていた。

 ―――――だから、求めた。

 ―――――誰にでも愛されることが幸せだというのなら。

 ―――――わたくしは、その母性こそがわたくしを狂わせたのだと。

 ―――――あの子を、

 ―――――我が子を、

 ―――――殺す、力を。

 ―――――わたくしの犯した罪と罰。

 ―――――わたくしの手で、終わらせなければ。

 

 

「それでは雪子さん、今回の依頼料なのですが」

「――――――はい。お金なら」

「私はお金には興味がありません。いいえ、違いますね。あなたに金銭を求めてはいません」

 

 ゾクリとした。妖艶な笑みを浮かべる霧音の奥底に眠る不気味な感情を読み取れない。雪江は母の下でそっとその手を差し伸べていた。迷わずに雪子はその手を握りしめた。小さくて暖かい手だ。途端に勇気が湧き出てきた。

 

「――――いい瞳ですね。黄金の、そう伝説の神の巫女のよう」

「――――雪ノ宮家、当主としてできる限りのことはさせたいただく所存です」

「そうですか、ならばわたくしと同盟を結んでいただけませんか?」

「ど、同盟!? そ、それは私としては願ってもないことですが」

「まぁよかった。わたくし、雪子さんと争いたくはありませんわ。だって私たち、もうお友達ではありませんか」

 

 意外な申し出に雪子はたじろいだ。いや、雪子としては今や天王寺すら凌ぐほどの組織である霧島家と同盟を結ぶことになるなど、恐れ多いとしか言い様がない。今の雪ノ宮は実質雪子一人が担っているようなものだ。雪江の代で仕えていた魔術師たちはほぼ壊滅。東野や砂上も戦闘ができるレベルではない。

 ましてや、魔術すらロクに使えない自分が当主などでは――――最弱もいいところだ。

 そこにきて霧音は同盟を申し出た。もちろん友達という言葉は冗談(だと思いたい)ではあるが、その目的は一体なんだろう? 

 霧島に同盟を結ぶメリットはない。逆に雪ノ宮にはある。

 この交渉、口を出す余地などない。

 

 

「女よ、何が目的だ?」

「あら、綺麗な黒猫さん。まるで雪子さんを守る騎士のよう」

「はぐらかすな。淫魔の女王。その奥底に押さえ込んだ野望、洗いざらい吐いてもらおうか」

「これは失礼、騎士殿。ですが野望などと大それたことは――――強いて言うなら、賭けているのです」

「賭け、だと?」

「はい。雪子さんが魔王になれるという一種の望みは、少なからず抱いております」

「貴様に何の利益があるのだ。魔王はなったものだけが願いを叶えることのできるシステムだ」

「魔導兵の宣伝です。魔導兵を使えば、魔王にすらたどり着ける。もう、人間が争うことのない世界……」

 

 霧音は少女だった。儚い夢を見る少女。壊れることのない世界で、その夢ばかりを追い続けている少女。

 今、やっとわかった。

 霧音は間違っていることを。

 争いのない世界などという実現不可能な望みを抱いていること。

 人間が争わなくていい世界=人形たちの戦争、だと?

 

「あなたは王位継承権第十番目。帝すらあなたに手を出すことは難しい。そんなあなたと同盟を結べるのです。それはこちらに大いに利がある」

 

 全てを知っている。見透かされている。

その奥底に秘めた邪な心。

 この人は、いけない。何かが、間違っている。

 それがわかっていても、今の雪子には何も言えなかった。

 霧音の醸し出す音色に、心を奪われてしまった。

 

「あなたが、あなたを取り戻したとき、私の味方となるのか敵となるのか」

 

 これが、当主か。道理で左霧が邂逅を渋るわけだと、と雪子は納得した。

 体が動かない。最後の最後で、見せつけられた。無言の威圧。

 思い上がるな、と。お前ごときが口を出すな、と。

 ただ、踊らされていろ、と。

 

「――――楽しみです」

 

 

 美しい女だった。誰もが彼女を愛するだろうと確信した。

だが、雪子は決意する。

自らが大成した暁には、この女をどうにかしなくてはならないと。

左霧のためにも、自分のためにも。

私はこの女を倒さなくてはならない、と。

母性を失った彼女のためにも――――。

 

 

 

(口惜しい、口惜しい、左霧、左霧、どうして……)

 

 

右霧は泣いている。いや、泣くフリをしている。人間は悲しいとき、涙を流すらしい。精霊である自分にはそんな機能はない。ただ、この抑えきれない感情を暴れさせるだけだ。

この監獄の中で。左霧の体の奥底で。彼のぬくもりの感じられない場所で――――。

 

(私は、ただ守りたいだけ、あの人をあの子を底知れぬ闇の力から)

 

 光の精霊として生まれた右霧にとって左霧は切っても切れない存在だった。彼が絶望の淵で生まれてからずっとその傍にいた。彼の殺戮衝動と魅了の力を押さえ込むために。

 今でもそれは続いている。彼は右霧がいなければ兵器として暴走してしまうだろう。男の魔導兵は『母性』を持たない。それはつまり、何かを守ることで存在意義を得る魔導兵がその存在意義を見いだせない――――出来損ないなのだ。

 それを助けてあげられるのは自分だけだと思っていた。そう言われたのだあの日あの時、自分を左霧の体に転生させたあの女――――霧音という女から。

 

 

「右霧、あなたは右霧と名乗りなさい。そして呪われし我が息子の光となりなさい。それがあなたの生まれた意味です」

 

 

 あの人の傍にいたい。あの人の子供を産みたい。何度となく願った。願いは右霧を動かし、そして途方もないほどの罪を犯した。

 右霧の願いはただ一つ。体が欲しい。

 あの人に愛される体が欲しい、ただそれだけだったのだ。

 なぜ自分は実体化できないのだろう。あの黒猫でさえ、猫の姿を保てているというのに。自分には体がない。生まれた時から左霧と同化していた。

 魔導兵とは精霊の魂を埋め込んだ人形?

 ならば、なぜあの女、雪子や雪江は平然と精霊を使役していたのだ?

 魔導兵は精霊の死骸を埋め込んだ魔導石とやらが命そのものなのだろう。ならばなぜ自分は生きている。左霧の体の中で、左霧を思い、患うことができる?

 分からない。分からないが、自分が特別な存在だということは昔からわかっていた。

 なぜなら、自分は魔術を否定し、魔術とは相反する存在だからだ。

 良くはわからない。だが、この力が左霧の身を幾度も助けたのは確かだ。

 ――――あの女、雪子も使えた。自分だけが使えると思っていた光の魔術を、未完成とはいえ、あの女も使えた。

 どういうことだ? 右霧、咲夜、雪子の三人の共通点とは……。

 

 分かることは、咲夜と雪子は同じ存在だということ。

 まるで生まれ変わったかのように瓜二つの少女。

 私の邪魔をするために転生したというの。

 そこまで左霧が好きだというの。桜子を守ろうというの。

 

 ――――面白い。この右霧に立ち向かう愚かな女どもよ。

 始めようではないか。光の精霊として私はお前たちを認めよう。

 左霧の傍にいるべきは誰が。

 桜子の愛すべきは誰か。

 

 私は光の精霊、精霊右霧。

 

 天使になるべき精霊である。

 

 

 

 

「ただいま」

 

 その声が玄関から響いた。待ちわびたかのように華恋は居間から飛び出した。数日間も帰らなかった主の顔は、とても勇ましかった。

 憑き物が落ちたか、ようやく見ることのできた数年前の彼。

 

「お帰りなさいませ、左霧様」

 

 堂々と声に出して言えた。今度こそ、本当に。自分は笑っているだろうか。そうでなくてはならない。主が帰ってきたのだ、泣き出すような少女ではもういられない。

 

「知らない間に綺麗になったな華恋。見違えたぞ」

「女は常に高みを目指すのです。左霧様何だかニートっぽくなりましたね」

「にーとだったからな」

「どうしてそんなに得意げなのですか?」

 

 呆れてしまった。やはり根本的には馬鹿な男なのだ。心配をかけたことを謝りもせず、ニートを豪語する。

 典型的な社会のゴミ!

 

 

「桜子様は眠っておられます」

「そうか、風呂に入る」

「桜子様は、ぐっっっっっっすり眠っておられます」

「そうか、飯にする」

「桜子様は」

「わかったわかった! 首を絞めるな、胸ぐらを掴むな! 行く! 行けばいいのだろう!」

 

 無言のプレッシャーと力攻めにより左霧は子供部屋に幽閉された。時刻は一一時過ぎ。子供なら眠っている時間だ。薄暗い部屋の中、輪郭が徐々に浮き出てきた。

 白い珠のような肌。『妻』のように綺麗な黒髪。無垢なる寝顔。

 それを見ても、左霧は何も思わなかった。例え、自分の『娘』であるとしても、何の感情も沸き起こることはない。

 

「ただいま戻ったぞ、我が娘よ」

 

 小さく、呟いた。意味などない。ただそうだと世間が言うから自分とこの娘は血の繋がりがあるのだろう。あの母と自分がそれと同じように。

 ――――あの母と同じように。娘を愛する感情は、ないのか。

 

「愛している、誰よりも」

 

 言葉だけ、そう伝えた。そうしなくてはならない。あの母とは違うと否定したいから。決して娘を魔導兵に変えることなどしない。

 

「お……とーさ」

「父、などと呼ばれる資格はない。俺はお前から逃げた。何もかも捨てて逃げ出した」

 

 夢を見ている娘の言葉をすら否定した。それでも娘は父を呼ぶ。そして涙を流す、会いたい、会いたい、と。

 ――――涙。

 魔導兵は、涙を流さない。

 

 つまり娘は人間なのだ。

 そして今まで疑問に思っていたこと。

 そう、雪子の、涙。

 

 

「――――馬鹿な。至ったのか、母は? 魔導兵の究極へ」

 

 

 人間になる。母はそう言っていた。魔導兵はいずれ人間へと変わる。その時、人はいなくなり、神々の束縛から解き放たれ、自分たちは抗おうことが出来るのだと。

 偽りの神を――――倒すのだと。

 俺を神に仕立て上げるのだと。

 

 

「――――狂っている。宗教だ。母は魔道に堕ちた」

 

 娘の頬に触れる。嫌そうにそれから逃げる娘。

 やはり、何の感情も沸き起こらない。

 

 それが魔導兵の在るべき姿。

 

(救ってあげるわ、左霧)

(黙れ)

(あなたを救えるのは私だけ)

(黙るがいい、愚かなる精霊よ)

(あなたは神になるの。そして私はその花嫁となるの。私を天国へ連れて行って、左霧)

(黙るがいい愚かなるシンデレラ。いつまでも俺が黙っていると思うなよ。貴様の正体を突き止め、そして必ず俺の体から消し去ってやる。その魂ごとな)

(私は天使になる。そしてあなたは神の座に就くの。この世界に私たちの居場所はどこにもないの。左霧、私はずっと一緒よ。絶対にあなたを裏切らない)

 

 煩わしいノイズを遮断するように左霧は右霧を閉じ込める。この数日間、ずっとこのような戯言を口にしている。

 爆弾のような存在だと左霧は認識を改めた。

 妻を殺し、雪子すら危機に陥れた。本来なら滅するべき存在だ。

 だが、この精霊がいなければ自分が生きていくことは出来ない。右霧は魂そのもので、己の力を抑えることのできる抑止力。

 それさえなければ――――。

 

「それでも、俺は――――」

 

 おそらく、殺すことなどできないだろう。どうしてだろうか。どんなに右霧が間違ったことをしたとしても決して彼女を恨むことなど出来ない。

 何かが引っかかる。精霊に霧の名前を付けたこと。右霧とは何なのか。

 

 

 妻の生き写しの少女を。

 決して愛さないと誓った少女を。

 それでも左霧は助けを求める。

 自らの運命に足を挫かれそうな時、生きることが辛くなったとき、

 いつも傍に居てくれた妻の姿を重ねてしまう。

 

「指輪は、どこにやったか」

 

 妻が死んだ日。

誓い合った時に購入した小さな金剛石の指輪。

当主にしては安上がりな品だ。それでも彼女は頬を赤らめて喜んだ。

もうなくしてから数年経ったなと、感慨にふけってしまった。

 

「――――咲耶、俺はどうしたら」

 

 お前を忘れることができるのだろうか。

 その日、左霧は娘の横になり風呂も入らずに寝入った。

 幸せな夢だった。娘と、妻と、三人で庭の桜の木を見ながら過ごす昼。

 幸せだと思えた。こんな日々がずっと続けばいいなと心底思えた。

 

 

「ただいま、左霧さん! 雪江、挨拶なさい」

「初めましてパーパ! 雪ノ宮雪江です!」

「誰がパーパだ! 雪子どういうことだ?」

「どうもこうも、パパはどこって言うから」

「俺を引き合いに出したのか? 浅はかすぎる」

「だって男の人の知り合いって左霧さんしかいないんだもの。それにこれ、霧音様にもらっちゃったし」

 

 もじもじしながら出した手には、小さな指輪がはまっていた。魔力を高める効果があると霧音に言われ、渡されたのではめたのだが、その後それは左霧たちの結婚指輪だと付け加えられた。そんな大それた品、受け取れないと霧音に返そうとしたのだが、まるでその指に付けるために作られたかのようにピッタリと離れない。結局そのままもって帰ってきてしまったのだ。

 頭を抱えた左霧の手にもう一つの指輪を渡す雪子。それは黙って付けろという無言の圧力だ。

 

「雪江が見ているのよ、早くつけて」

「馬鹿な! どうして俺がそんな茶番に付き合うなど」

「パーパ? 指輪!」

「……くっ! 俺は霧島家の次期当主で、これから過酷な運命に立ち向かう主人公なのだぞ!」

 

 訳のわからないことを口走る左霧の指に雪子は強引に指輪をはめた。二つの宝石は互いに太陽の光を浴びてキラキラと輝いた。

 

 

「左霧様、どういうことですか? 雪子さんがどうして指輪を付けているのですか? 私には愛人として何も送ってくださらないではありませんか?」

「久しぶりに会ったかと思えばなんだいきなり!? 訳がわからんぞ」

 華恋は病んだ女のように左霧を責め、

 

「左霧様、瑠璃は、瑠璃には指輪はないのですか? あんなに誓い合った仲だというのにあんまりです。瑠璃にも指輪を下さい。三〇カラットでいいですよ」

「瑠璃! いきなり現れるな! そして図々しいお願いをするな! 貴様は従者だとあれだけ言っているではないか!」

 

 瑠璃は空間転移などという高等魔術を使いこなし、左霧の肩にもたれかかる。

 

「あっ! おにー様! 帰ってらしたのね!」

「パーパ!! 大好き!」

「おにー様!? 誰よその子! 離れなさいよ!! あーん離れてー!」

 

桜子と雪江は出会った瞬間に喧嘩を始め、

 

 

「左霧さん。随分といいご身分で……それじゃあ、説明してもらいましょうか、ね!?」

「――――すいませんでした」

「で済むと思ってんの!? あんた学園が始まったら覚えてなさいよ! あ、ちゃんと働く気あるんでしょうね!? 私が学園長になった暁には馬車馬のように働いてもらうから覚悟なさいよ!」

「いや、俺は当分働く気など」

「あ!???」

「――――歴史が得意だ」

 

 よろしい、と満面の笑みで頷く雪子。後ろから阿弥陀如来の気配がしたが、おそらく気のせいなどではない。

 

 晴れやかな青空と暖かい太陽の下。

 残酷な運命など気にする必要は、どこにもない。

 今、この時は、全ての時間よ止まれ、と誰もが願う。

 

 永遠の時を生きるものも、贖罪の日々を生きるものも、新たな時間を生きるものも、運命を知らず生きるものも、過酷な運命を生きるものも、己の価値を知らぬ者も――――。

 

 時よ止まれ、汝は美しい。

 

 全ての者が、それを願う。

 



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幕間(とある者の呟き)

 夢を、見た気がした。

 私がまだ私であった頃の夢。

 私は、多分誰かを守りたかった。

 その子が誰なのかは分からない。

 ただ、私はその子を家族という意味で愛していた。

 ということは、私に家族がいたということになる。

 私はどこで生まれ、どこで育ち、どこで何をして来たのか分からない。

思い出せない。

 ただ、時々こうやって、夢を見る。

 そうすると私は涙が溢れそうになる。

 もちろん出ない。それはまやかしであり、そもそも私は涙を流さない。

 でも私は涙の意味を知っている。

それは悲しいときや辛い時に流すもの。絶望に打ちひしがれた時に止めど無く流れる感情の結晶。

嬉しい時、喜びに溢れたとき、幸福を噛み締めた時に流れる感情の結晶。

 人間は涙を流す。知恵を持ち、理性的であることを彼らは美しいと思っている。

 それでも人は涙を流すのだ。抑えきれぬ、抗えぬ、心の叫びを、伝えたから。

 ――――――ああ。

 私は人が羨ましい。妬ましい。

人であるならば、彼の元に寄り添える。人であるならば彼の心に近づける。

 私には心がある。でも、私は涙を流すことができない。

私の涙は何色だろうか? 澄み渡る蒼色。純白の白。情熱的な赤。

私だけを見て欲しい。私だけを感じて欲しい。私だけを、愛して欲しい。

分かっている。私は、その子と彼を重ね合わせているのである。

そして決定的に違うのは、私は彼を男として愛している。いや、愛してしまった。

叶わぬ恋。禁断の恋。許されぬ恋。

だというのなら。私のこの恋慕が叶わぬというのなら。

私は、彼を許さない。

だから私は彼を苦しめた。心を引き裂くほど、生きていられぬほどの衝撃を与えた。

彼は殻に閉じこもった。私を責めることもなく、自らの殻に閉じこもった。

それからは幸せだった。彼と喋ることはなかったが、彼を感じ、彼の家族になれたような気がした。

この数年間は、私にとって一番幸せな時期だった……。

 

 

どうしてなの? こんなに愛しているのに。どうして繰り返そうとするの? あなたはどうして誰かを感じようとするの?

 

どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして…………。

 

 

そう、死んでも尚、あなたは邪魔をするのね。

分かっているわ。正体があなただってことくらい。

殺してやりたい。

私に人を殺すことが出来たら。

でもそれでは私は天使になれない。いい子でなければ天使にはなれない。それだけは絶対にダメ。

醜い感情ばかりが支配する。私は自分が大嫌い。

彼に嫌われてしまった。当たり前だ、私はそれだけのことをしてしまった。彼女は私が殺したようなものだから……。

大嫌いだったけど、殺したかったけど、でもそんなつもりはなかった。なんてただの言い訳。今でも思い出す、彼女の死に際、燃えるような熱い瞳。

同じ、何もかもが同じだ。また私はどす黒い感情に支配されようとしている。

 

叶える、願い。その為に、私は天使になる。

多分、それが私に課せられた運命。精霊も、人も、運命の輪から逃れることはできない。

世界は確定している。あらかじめ定められた道筋を、世界は歩む。

それを変えられるものがいるというなら。

神、か。神に近い存在――――創世主。

早くしなければ。早く。

彼が堕ちる前に、彼が傀儡となる前に。

あの子の笑顔のためにも。

守る。

例え、どれだけの者に虐げられても、どれだけの者に嫌われても。

どれだけ、彼が私を恨んでいようとも。呪ったとしても。

私は、守りたい。

 

 オカアサン――。

 

 声が聞こえる。私を呼ぶ声が。

 守ることの出来なかった誰かが。私を呼ぶ。

 ―――――様、――――――様!

 

 華恋の声――――?

 

 

「俺は――――だ。初めまして、お姉さま」

 

 

 ――――衝撃的な出会い。輪廻の始まり。

私が大罪を犯し、彼が死んだ日。

 

 全ては、ここから始まったのだ――――。

 

 

 

 



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神になる男

 包丁がまな板を走る音が聞こえた。不眠症を患ってからかなりの月日が経つ。今日も嫌々ながらも早朝にその身を起こす。意志とは裏腹に、その体は健康そのもののようだ。

 その男は教師である。学園に赴任してから約半年が過ぎようとしていた。いや、正しくは夏に働き始めた、と言ったほうがいいのだろうか。

 彼は少々面倒な生き方をしている。ついこの間までは自らの殻に引きこもったまま時を止めていた。いわゆるニートというやつだったのだ。

 ただ、彼はニートでも生きていけた。それは金があるからとか、誰かが美味しいご飯を作ってくれるとか、身の世話をしてくれるとか、そんなレベルの問題ではない。(もちろんそれも含めて)

 

(おはよう左霧。今日はいい天気ね)

「朝から貴様の声を聞くと虫唾が走る。ただ、天気がいいことは良いことだ」

(今日は体育だものね)

「そうだ。女子学生が元気に走り回る姿を見ているのは微笑ましいな。教師になって本当によかった」

(あなたの目がいやらしいって最近会議であがっているのだけど)

「けしからん。俺はただ、最近の学生は発育がいいな、と」

(やっぱり、体育は私が受け持つべきね)

「いや、拒否する。メンドくさい仕事を頑張っているのだ。体育は俺にとって一種の清涼剤。断固反対だ」

 

 そう言うと、男は元気に立ち上がった。女のような顔立ちだ。目は細く、睫毛は長い。艶のある黒髪。豊かな胸とくびれた腰。正に、大和撫子とは彼のことを言うのだろう。残念なことに。

 

「き、貴様……また下着を変えたな! ぴ、ピンクは勘弁してくれ……」

(あら、好きにしろと言ったのはあなたよ。力を貸してあげる代わりに自由にしていいって)

「……ふん。そうでもしなければお前とは付き合ってなどいられないからな」

(分かっているじゃない。流石、前世からの恋人ね)

「虫唾が走る。せめて蒼色にしてくれ」

 

 自らの裸体に装着していた下着をそろりと脱ぎ、タンスから蒼色の薄い生地の下着をそろりと履いた。胸が崩れるのでもちろん上も装着。

 決して彼が変態だとか、特別な性癖だとか、女物の下着が大好きなのだとか、そんなことは決してない。

「やはり蒼色はいいな。男は海に憧れるものだからな」

 

 ――――決して変態などではない。女物の下着に慣れてしまうと、こんなふうに自然とそうちゃくできるようになる。男として、終わっている気もするが、そこは目を瞑ってやろうではないか。

 

(左霧)

「なんだ、今日は朝から騒々しいな。お前とは必要以上にコンタクトを取れたくないのだが」

 

 男は頭に鳴り響く声を鬱陶しそうに振り払った。そこには一切の容赦はない。昔から、としてこれからも、男はこの声の主と仲良くするつもりはない。

 ――――己の、宝物を奪ったから。

 

(今日も、頑張りましょうね)

「――――ふん」

 

 ただ、生きるためには、彼女が必要なだけ。

 運命共同体、などという大それた言葉はいらない。ただ、生きるためには、彼は彼女を、彼女は彼を、必要とする。それだけのことなのだ――――それだけの。

 今日も男は日向を進む。体を締め付ける薄い布生地の違和感には慣れない。締め付ける胸の抑えには多少慣れた。生理は三日前に止まった。

 男にとって、全ては当たり前のこと。月経も、初潮も、全て経験済み。

 霧島左霧は――――男女の体を併せ持っているのだ。

 

 

「おにーさま、行ってらっしゃいませ」

「左霧様、お気を付けて」

「――――ああ」

 

 女中と妹の見送りにも素っ気ない態度で接してしまう。決して悪気があるわけではない。頭の中は憂鬱な仕事内容でいっぱいいっぱいだからだ。

 魔術師だって金がなければ生きていけない。なんて世知辛い世の中か。今まで生きてきた中でこれほどまで、お金という存在の大切さを知ったのはつい最近のことだった。きっかけは、己の労働による賃金についての家族談義の時だった――――。

 

「左霧様、誠にお伝えづらいのですが」

「ならばいい。伝えづらいことを無理に話す必要はない。これでもお前のことは分かっているつもりだ。無理をするな」

「――――家計が火の車でございます」

「伝えなくていいって、言ったのだがな……」

 

 華恋の目は真っ直ぐに左霧を見抜いていた。これは冗談ではすまない事件なのだとそこから察することができる。左霧が生まれるその前から、おそらく母よりもずっと昔からこの霧島家に仕えて来た謎の女中。今は霧島家の家事全般を担っているが、その存在は左霧とて詳細は知らない。

 一つ分かることは、この女は容赦がない。主とはいえ、甲斐性がない奴であれば説教の一つや二つ――いや、下手をすれば鉄拳制裁とて厭わない。まるで彼女の前では左霧は子供に戻るしかないのだ。

 

「まぁ、左霧様も働き始めたということですし、その点については褒めて差し上げます。特に体育の時間はとても張り切ってらっしゃると右霧様から報告を受けております。――この変態」

「っく、右霧余計なこと……」

 

 華恋は汚物を見るような目で左霧を見下した。当主の貫禄などあったものではない。自らが失態を演じようならば、右霧がそれを随時華恋に報告し、左霧が説教を受ける。気の休まるところなどどこにもないわけだ。

 

「いい年をしてよくもまぁ、子供のようにはしゃいでらっしゃるそうですね。分かっているのですか? この職を失えば、この一家は路頭に迷うことになるのです。どんなにあなた様が偉大な存在であろうとも、この世は金で回っております。――変態であろうとも」

「変態って言うな! お前はそれが言いたいだけだろう?」

 

 言いにくいことをズバズバという。何だか華恋が楽しんでいるように見えるのは錯覚ではない。だが、左霧はこの感覚が嫌いではなかった。この女にすれば己は童子であり、手の平で転がされてもおかしくはない、とそんな風に思ってしまう。

 

「しっかりなさってください。桜子様も、もう小学性ですよ? 桜子様は左霧様を見てらっしゃいます。戸惑っていることでしょう。以前の左霧様とは雰囲気や感じ方が違う。それでもあなた様を兄と慕っておられるのです」

「分かっている、俺に似て賢い子だ。俺を父と知りながらもその言葉を口に出さないことが何よりの証拠だ」

「――――でしたら」

「俺に、父を名乗る権利などあるわけがない。育児放棄、いやそんなことすらどうでもよかった。ただ咲耶の死を嘆き、娘を託されたにも関わらず俺は殻に引きこもってしまったのだからな……」

 

 咲耶が残した忘れ形見。それが霧島桜子という少女だった。妻に似て活発で行動力のある性格。容姿は己に似ているかもしれない。

黒い髪、大きな赤い瞳、白い肌。

生えたばかりの鬼の角。

その姿を見る度に、自分が少女を汚してしまったのではないかという疑問に苛まれる。妻は他の誰かと結ばれ、幸せな家庭を築くことが出来たのではないかと。少女にも違う未来があったのではないか、と。

 

「あなた様がいなければ、桜子様はこの世に誕生しませんでした」

 

 華恋は全てわかっている。この男は軽薄そうに見えて、実は色んなことを抱え込んでしまう性格だということを。そのせいで、ひどく悩んでしまうことも。

 だから華恋は嘘偽りのない事実を口にする。もしかしたら、などという言葉は無意味であることを。

 

「愛してあげてください。それが、あなた様のこれからすべきことです」

「愛する、か。俺は愛情の注ぎかたなぞ分からん」

「簡単です。いいことをしたら褒めてあげる。悪いことをしたら怒ってあげる。――全力で」

「なるほど、それは、難しいな」

 

 親とは何か。家族とは何か。自らの幼少期を振り返ってみても、参考にするべきものは何もない。母からの愛情は一片も感じたことはなく、父に至っては不明、そもそも存在するのかすら分からない。

 こう思ってみると、結局自分は霧島家という生家を何も知らずに生きてきた。ただ、己は鬼の力を持ち、淫魔の力を持ち、神を討つ力を持たされたということだけ。

 

 

「おにー様? お返事は?」

「分かっている」

「分かっている、ではありません! わたくしが行ってらっしゃい、と申しているのですよ? しっかりなさってください!」

 

 不機嫌そうに兄を叱る妹。今でも信じられない、と左霧はマジマジと娘を見つめた。自らの肉体からこのような少女が生み出されたことが。あの時は、赤子だった少女がいつの間にか両の足で立ち、言葉を話し、感情をぶつけるようになるまで成長したことに。

 最も、朝飯をよくこぼすところは驚いた。そういえば、妻もあまり行儀が良くなかった。食事は楽しければ何も問題はない、と豪語していたくらいだ。本当によく似ている。

 

「あ、おにー様……」

「個人的には大人しい女が好みだが、自己主張できることは良いことだ。俺が悪かった。行ってきます」

 

 娘の頭を壊さないように優しく撫でた。少し驚いた少女は僅かに目を細めながらも、それを甘んじて受け入れた。

 これで機嫌が治るのなら、安いものだ。最近になってよくやく扱い方がわかってきた左霧はホッとため息をついた。とにかく、謝る。不満でも謝る。これをやれば娘は大抵大人しくなるのだ。

 

「今日の鍛錬が終わったらケーキが食べたいです!」

 

 もちろん、それだけでは収まらない日もある。一見大人びた雰囲気を持っているが、六つの子供であることは間違いない。我が子ながら欲深く、計算高いことに左霧は密かに将来を心配している。

 

「考えておこう。――――華恋、留守を頼んだぞ」

「承知しております。さぁ桜子様、いつまでもパジャマを着ていないで、制服に着替えましょうね――――そのパジャマは洗濯機に入れてくださいね。食べこぼしで悲惨なことになっておりますから」

 

 朝から頭の痛い会話を耳に入れつつ、左霧は仕事場に向かう。麗しき労働という名の地獄の時間が、始まった。

 

 

 

「この国は独自の文化営んでいる。例えば日本という空想の国を知っているか? そう、よく小説や映画にもなっているな。俺たちの国は、日本とよく似ている。日の丸の国旗も大昔は武士と呼ばれる者たちが闊歩していたことも」

 

「日本、という国は帝国主義なんですか?」

「違う。日本は、民主主義の国だ。戦力を持たず、平和的に物事を解決することに大義を求める――――まぁ一種の理想郷だな」

「その国では、誰が一番偉いのですか?」

「偉い、か。最高責任者という意味では内閣総理大臣という立場の人間だ。帝国でいうなら帝の宰相だな」

 

 例を上げて説明する。生徒が馴染みやすい話題を引っ張り込んで分かりやすく丁寧に。

 ベストセラーである『日の国』と呼ばれる小説は、その理想主義が故に検閲を喰らい今や出版禁止になってしまったが、それでもこの国の体制に不満を持つ若い子らは知っていた。

 

 

「その国は――――幸せなのですか?」

 

 

 流石に言葉が詰まった。生徒は純粋にそう聞いている。だからこちらも素直に答えるべきなのだ。幸せか、否か、の二択を。

 

「君は、幸せになりたいのか?」

 

 生徒は僅かに目を見開いた。他の者も、皆同じ目をしていた。

 左霧が授業を嫌う理由の一つがこれだ。楽しい話題など一つもない。歴史など紐解けば、国が作った我が国のための精神教育だ。これこそが正しい歴史、などこの世に一つもない。にも関わらず、生徒たちにそのことを教えることができない歯がゆさ――――。

 何にも勝る、生徒たちの不安げな瞳。何を頼って生きていけばいいのか、自分たちはこの先どうなるのか、その生に意味はあるのか?

 

 

「幸せになりたいわけではありません。ただ――――そんな国は有り得ない、そう思っても、私は自由になりたいのかもしれません」

「実に素晴らしい意見だ。ただ、それを口にすることはもうやめたほうがいい。非国民と疑われる可能性があるからな」

 実際、この学園にいる限りそのようなことはない。この学園は、生徒たちが最後の自由を手に入れるために作れた楽園。

 そう雪江が――――前の学園長が作り上げた政府非公認の学園。『雪ノ宮女学園』なのだ。

 

「自由など、自分で作るものですわ。坂崎さん」

「天王寺、さん」

 

 

 蒼色の髪が、風に揺られて彼女の頬を撫でた。ゆったりとした姿勢でそれを耳元にかけながら静かに少女は語る。

 

「自由による束縛、という言葉がございます。何をするにも自由、などという決まりが出来てしまっては何をどう決めたら良いのか、という悪循環に陥ってします。おそらく日本という国もそうならないように、ある一定の条件下でその自由とやらを謳っているのではないでしょうか」

 

 周りの空気が変わった。その少女は最近編入してきたばかりだった。しかし、誰もが彼女を知っていた。雑誌やインタビューでも取り上げられていた、あの天王寺グループの令嬢なのだ。その少女が、なぜかこの学園にいる。そんな事実を、周りの生徒はまだ受け止められずにいた。

 

「日本という国は、少々理想的過ぎますわ。民主主義などと大々的に打ち出してしまっては何をするにも民の言うことを聞かなくてはなりません」

「天王寺、それの何が悪いのだ? 民あってこその王ではないのか? それこそが国家の在り方ではないのか?」

「その通りでございます。ですが、民主主義とは優秀な王の下で行われるべき政治。民の言うことを聞くだけの王など愚の骨頂。ですから、滅びたではありませんか、日本は。信頼する民に裏切られて……」

 

 

 『日の国』の最終巻は出版禁止のはずだ。しかし天王寺ほどの者となると有害図書扱いのものまで回覧可能となるのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えている時間ではない。このまま一人の生徒に話を持っていかれては先生の威厳がなくなってしまう。

 挑戦的な目で見つめる少女を納得させるにはどうしたらいいか――――簡単なことだ。

 

「王が優秀であろうとも、国はいずれ滅びる。それは民がより優秀な王を求めている証拠ではないか。俺は日本という国が好きだ。例えばこの国は男女の差別がない。女性にも能力があれば高い地位を望むことができる。確かに日本は最後滅んだ、が、その意志が滅びたわけではない。最終巻で綴られたのは日本の意志を継いだ豊かで差別のない、戦争のない、まさに理想郷となった国ができたのだ」

「――――綺麗事です。所詮は小説の中のお話。現実は、帝国主義。圧倒的な物量こそが人を従わせるではないですか。そこに日本という国が太刀打ちできるのですか? 戦力を持たず、戦うことができるのですか?」

 

 小説の最後を知っているのは天王寺だけではない。左霧ほどマニアックな読書家になれば抑えるべきところなのだ。どうやって手に入れたのかはもちろん秘密だが。

 

「極論だな。その思想こそ、帝国の精神論を受けた者の意見だ。悪くはない。それこそが真に正しい、偽りのない帝国人の言いそうなことだ」

「――――何がおっしゃりたいのですか?」

 

 少し苛立った声で天王寺の令嬢は左霧を見る。その目は更に挑戦的な瞳をしていた。左霧の言葉がカンに触ったのだろう。つまり、そう言われることに対して不本意だということだ。

 

「いずれ帝国は滅びる。一人の者の手によってな。その時こそ、真の王とは誰なのか、分かる時が来るだろう」

 

 令嬢はマジマジと左霧の目を見ていたが、等々堪えきれなくなり吹き出して笑っていた。男の言ったことの意味が理解できたからだ。

 

「安心しろ生徒諸君! 君たちは解放されるぞ! 望まぬ結婚などしなくてよい! 未来は君たちのものだ! だから黙って俺の嫁になるがいい!」

 

 霧島左霧の発言は、その日会議にかけられた。様々な意味で彼は危険な状態にある。だが、生徒たちからの人気は依然として高いようだ。

 国語の時間と歴史の時間は生徒たちの楽しみになっていた。優しく丁寧に古文を教えていたかと思うと、歴史の時間ではこうやって生徒たちを口説こうとする。

 雪ノ宮学園で、今話題沸騰中の存在。

 その正体は、魔導兵と呼ばれる魔術師を超えた人工魔術師。

 

 この物語は、神を目指す男とそれを支えた魔術師たちのお話である。

 



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瑠璃

左霧さん、また会議であなたの話題が出ました。一体どれだけ私に迷惑をかければ満足していただけるのでしょう、か!」

「ぐっ、俺は、俺のやりたいようにやるだけだ! 誰にも邪魔はさせんぞ!」

「子供かあんたは!! 瑠璃もこの人を挑発しないでよ! 大体なによみんな嫁にするって!? ほんと意味わかんない!」

 

 夕餉の時間はかなりの大所帯となる。左霧の仕事が終わる頃には皆、修行を終え食卓を囲むように座る。少し大きめのちゃぶ台は五人の美女と一人の男が占拠することによりキツキツの状態だった。そんな状況下で怒鳴り声や誰かが自分の足を踏みつけて怒っているのだから溜まったものではない。

 

「左霧様が我が王にふさわしいかどうか判断するためでございます。だって魔術対決では九九戦九九勝0敗でしたから。疑ってしまうのも無理ありません」

「違う、初戦では俺の圧倒的な力のお前はひれ伏した。故に一勝したはずだ」

「と、こんな風に王の風上にも置けない小さな男ですから、ね」

「うるさい! というかなぜお前が家にいるのだ? 姉との暮らしはどうなった?」

「お姉さまは仕事が溜まっているそうです。どこかの誰かが変態的な行為をなさったそうで、変わりに事後処理を任されているそうですね」

「うむ、そうか。たくあん、食うか?」

 

 左霧はそっと瑠璃のお皿におかずを取ってあげた。まるで頭が上がらない。なぜだろうか? 

 違う、ここの女どもは皆、強気すぎる。左霧は戦慄を覚えた。華恋はまるで汚物を見るような目で主を見るし、瑠璃は授業で突っかかってくるわ、家に押しかけてくるわ、挙句どちらが主従なのかわからないような扱いを受けさせられてしまう。

 とんでもない女たちだ、左霧は癒しを求めるように隣に座る美しい黒髪の少女に縋った。

 

「雪子よ、俺のどこが悪いというのだ? 俺は常日頃から生徒たちのことを考え、安全面に配慮し、間違った物の見方を正している。具体的には体育の時間に望遠鏡で生徒たちの動向に異常がないか監視し、座学では身近に最いい男がいることを示唆する。俺のどこが悪いのか、一行以内で答えてくれ」

「死ね!」

「あがっ! 一行にすら満たない、だと?」

 

 雪ノ宮雪子はプリプリと文句を言いながら再び茶碗をすくい上げた。アホな男に構うほどの時間はない。彼女は今、学園の経営をしながら学生生活を過ごさなくてはならない状況下なのだ。多忙、などという言葉では収まりきらないほどの仕事量を、その天才的な頭脳と行動力で補っている。何よりも、彼女には守りたい者がいる。その為にこの道を選んだのだ。

 

「ママー? パパいじめないで」

「ち、違うわよ雪江。パパはね悪いことをしたの、だから叱っているのよ?」

 

 かつて自らの母だった少女は、もういない。そのことを悲しみ時間はもう終わった。今は一児の母として少女を我が子として見ることにした。

 まだ、未熟だけれど、精一杯の愛情を込めて。

 

「俺はお前のパパなどではない。どこをどうしたらそんな勘違いが出来るのだ?」

「っ! 左霧さん!」

 

 雪子は思い切り左霧を睨んだ。その迫力は左霧ですら思わず萎縮してしまうほどだ。大黒柱という肩書きの手前、なんとか踏みとどまったが、本当は桜子の後ろに隠れてしまいたかった。

 

「雪江を悲しませないでください!」

「……そもそも雪子が余計なことを吹き込んだからだぞ。ご近所さんからいらぬ誤解を受けてしまったではないか」

「私だって不本意ですけど、本当に不本意極まりないですけど、周りに男の人がいなかったからやむなく左霧さんがパパだと言ってしまったんです! 左霧さんは言えますか? 雪江がパパは? なんてつぶらな瞳で訴えてきたら本当のことを、あなたは言えますか?」

 

 左霧は雪江のつぶらな瞳とやらを見据えた。確かにあどけなさの残った幼子のような格好をしている。見た目が見た目なだけに普通の人なら保護欲とやらをそそられるのではないだろうか。

 

「俺はお前の父親などではない」

「……パパ? パパじゃないの?」

「!? この鬼畜! あなたって人は言ったそばから!」

 

 雪江は無垢な瞳で左霧をじっと見つめていた。雪子にはそれがひどく哀れに映っているのだろう。

 左霧の見解は違う。左霧は彼女を対等な者として、魔導兵として認識しているのだ。一旦記憶を新しくした魔導兵は赤子も同然だが、その成長段階は人間に比べて遥かに高い。おそらくあと四~五年もしたら、元の雪江に戻るくらいには脳が発達するだろうと予測している。

 今もそうだ。左霧と雪子の齟齬を見極めようとしている。どちらの言っていることが正しいのかを判断しているのだ。普通の子供なら戸惑い、衝撃を受ける事実でも魔導兵はそれを論理的に組み合わせ、答えを導き出す。

 

「左霧は、パパじゃないのね」

「その通りだ」

「でも、パパって呼んでいい?」

「……どうしてだ?」

「わかんない。でも、きっと、左霧はパパになるもの」

 

 どうやら、魔導兵も論理的に考えるには時間がかかるらしい。子供らしい回答だ。それくらいなら別に構わない。自分が本当のパパではないという事実を認めてくれたのなら僥倖だろう。

 

「別に構わな――――」

「絶対にダメです!!――あう!」

「……うるさい」

 

 桜子は先程から聞き耳を立てていたようだ。わが娘ながら声がでかい。行儀も悪い。迷惑この上ないので躾として頭を叩いてあげた。可愛いだろうがなんだろうが、容赦はしない。全ては生まれた時から平等なのである。

 

「左霧おにー様は私のおにー様なの!」

「パパは雪江のパパだもの!」

「むむむむ……この泥棒猫!」

「なによ! 正妻面しちゃって!」

 

 頭が痛い。なぜこんなくだらないことで頭を悩ませなくてはならないのか。最近の幼子は末恐ろしい。このままでは教育上よろしくないのではないか……と考えたところで左霧に何が出来るわけではない。諦めて食事にありつくことにした。

 

 

 

 教職というのはどうしてこんなに忙しいのだろう。今日は歴史の小テストがあり、受け持っているクラス分の用紙が机の上に盛り上がっていた。これを明日まで返さなくてはならない。時刻は九時過ぎ、絶望的だ。

 

「なになに? ブルボン朝第三代のフランス国王の名前? ルイ14世だったかな……なんでフビライ=ハンと書いてあるのだ……」

 

 生徒の解答欄には毎回驚かされる。真面目に解答してあるのかそれともふざけているのか……ふざけているのならいずれ矯正しなくてはならない。若い時からそう言ったメリハリがつけられなくなると大人になったとき、色々と苦労をするのは彼女たちなのだから。

 

「最も、あの子達に未来はあるのか」

 

 独り言のように左霧は呟いた。彼女たちは後三年したらどこかの家に嫁がなくてはならない。有数の名家ばかりが集められた雪ノ宮女学園の創設理由は、「優秀な遺伝子の思想統一」などという表に出ても恥ずかしくないような内容が含まれているのだ。

 

「母がいれば、泣いて喜びそうな被検体の山だな」

 

 

 自然と皮肉を口にしてしまう。自分の悪い癖だ。今更何の感情も持たないが、どうしてか身内のこととなると胸にこみ上げてくるものがある。

 特に、母親のこととなると――――激情を未だに抑えきれない。未熟であることを認めざるをない。

 

「左霧様――――」

「瑠璃か……もう夜も遅い。そろそろ帰ったらどうだ」

「そうします。ですが、一つ言っておかなければならないことが」

 

 

 ドア越しに瑠璃の声が聞こえた。咄嗟に考えていたことを中断する。従者に弱みを見せてはならない。それも瑠璃のように自分の価値を見定めるような賢い者は常日頃から己の行動を観察しているのだ。ここで貴重な戦力を失うことは避けたい。

 

「……入ってもよろしいでしょうか?」

「構わん」

「失礼します」

 普通の部屋の普通の男の部屋だ。何もない。あるのはベッドと机。照明器具と数冊の本くらいだ。

 何の変哲もない。それでも瑠璃は辺りをキョロキョロと見渡すようにゆっくりとこちらへ向かってきた。

 

「それで、何の用だ?」

「はい、ところで私、殿方の部屋に入ったのはこれが初めてです」

「ところで、ではない! さっさと要件を話せ!」

「つれないですね。あんなに私が欲しいとねだっていた癖に、自分の要求だけはする。会いにもこない。勝負も負ける。そんなことで私が言うことを聞くとでも?」

「……それは」

「王よ、私に命令したくば私の願いを聞いてください」

 

 そう言うとふわりと瑠璃は左霧の目の前まで寄り添ってきた。蒼色の髪が肩にかかり、女性特有の甘い香りが鼻腔をくすぐる。油断していると酔いしれてしまいそうだ。

 

「な、何だ、願いとは」

「接吻を」

「ぶっ……何を言って」

「大事なことです。あなたは私を従者として、妻として迎えてくれたのではないのですか? それでなかったらあの死闘は一体なんだったのですか?」

 

 本当に雪子と同い年なのだろうか? と疑いたくなるほど、彼女は魅力に満ちていた。艶っぽい瞳、上気した頬、豊満とは言い難いがそれなりに膨らんだ胸、くびれた腰。何よりも彼女の強さこそが、左霧の脳を刺激するのかもしれない。

 

「私は知っています。あなた様いつも本気を出さないことを、私は知っています、あなた様は慈悲深く、そしてお優しい――――ですがそれは同時に愚かでもある」

「俺は慈悲深くも優しくもない。俺は神になる男として当然の行いをしているだけだ」

「私は知っています。あなた様は自分を恐れていることを、何よりもあの子たちを失うことを」

 

 左霧は瑠璃の瞳をようやく見つめ返すことができた。彼女は左霧の首に手をかけていた。優しくもしっかりと力の入った具合で解こうとしても上手く解けない。振り払うこともできるが、何故か出来なかった。 

 それは瑠璃の純粋な訴えをようやく理解することが出来たからだ。

 

「……いらぬ心配をかけたな」

「妬ましいです。あなた様はいつも雪子さんのことばかり気にしてらっしゃいます」

「……そんなことはない」

「嘘。あの子に並々ならぬ想いがあるはずです。最も、あの子ではなく、あの子を通して他の誰かを見ているのかもしれませんね」

 

 女とは、恐ろしい生き物である。瑠璃の推察は的確だ。左霧は雪子という少女と出会ってからこの数ヶ月間、忘れようにも忘れることのできないある女の姿を追っていた。いや、意識せざるを得なかった。

 少女は妻に瓜二つだったからだ。死んだはずの妻がまるで現世に舞い戻ってきたかのように目の前に現れた。性格や仕草は別人だが、時折見せる笑い顔や泣き顔、それを見ると名前を間違えそうになる。

 だが、妻は死んだ。間違いなく。自らに宿る精霊の力によって。男と娘を残して。

 何よりも少女は自分と同じ魔導兵だ。魔術を追求した魔術師たちにより生み出された最強の兵器。神に抗う力。

 

「雪子さんが気になりますか?」

「気にならない、と言えば嘘になる。彼女は魔導兵としてはおかしな点が多すぎるからな」

「魔導兵、ですか。本当に実在したのですね。いえ、私こそがその力の驚異を知ることになった」

「魔導兵は神の仮初の器だ。その心は人間の感受性よりも遥かに劣る。必要最低限の感覚を持つだけに過ぎない」

「だけど、雪子さんは涙を流した」

「……ああ、俺ですらそんなことはなかった。俺は魔導兵の中でも比較的人間に近いポテンシャルを持っているらしい。例えば」

「精子を与えることができる」

「……そのとおりだ」

「素晴らしい機能ですね!」

 瑠璃はズバリと口にした。別になんということはないが、この女には羞恥心がないのだろうか。平静とした表情で口にしていい言葉ではないような気がする。なぜそんなに嬉しそうなのかは、怖いので聞かなかった。

 

「これは魔導兵の力を子々孫々へと繁栄できる画期的な発明だ。俺を作った研究者はそれを利用することで魔導兵の大量生産を実現可能にした」

「……それは、実現可能になったのですか?」

 

 どうやらおかしな方に話が進んでしまった。瑠璃は自分が聞いてはいけないことを聞いてしまったことにようやく気がつく。だが、好奇心を抑えることは出来なかった。再び詰め寄るように左霧に近寄る。

 

「――――失敗した。俺の精子を含んだ女は妻以外全員死んだよ」

「……そう、ですか」

「九九人だ」

「え?」

「九九人が生贄となった」

「…………」

「魔導兵の生産は不可能という結果になった。だが、雪子は俺以上に人に近い魔導兵だ。当然、その体は人のそれと同じだ。ありえない。魔導兵の研究は、俺を作りあげたあと頓挫したはずなのだ……」

 

 つまり、ヒトゲノムを持つ魔導兵は左霧一人のはずだ。それを作った研究者――――霧島霧音はそう言っていた。最も、それが嘘か誠かを定めることはできない。だが、嘘をつく理由もわからない。

 彼女は、一体何者なのだ? 考えれば考えるほど泥沼に浸かってしまう感覚。そしてつい都合のいい方向に考えてしまう。妻が、帰ってきたのではないか、と。

 

 

「左霧様、申し訳ありません」

「なんだ突然?」

「立ち聞いたことをしてしまいました。私はただ、雪子さんばかり気にしているのは懸想しているのだとばかり」

「バカな。相手は学生だぞ」

「学生では、あなたは振り向いてくれないのでしょうか?」

「いや……俺はもう、そういうことは」

 

 雪子は確かに妻に似ている。だが、別人なのだ。赤の他人。重ねてしまうこと事態それは雪子に対して失礼な行為だ。

 忘れよう、何もかも。何度もそう思った。でも暖かい記憶と染み付いた匂いはそれを許さない。永遠に左霧を回帰させる袋小路に閉じ込めてしまうのだ。

 

「私が忘れさせて差し上げます。私はあなたの従者なのです。お使いになってください、どんなことでも。肉便器にもなります」

「おい、それ以上真顔で言うな! お前は一応、帝国で最強の魔術師なのだぞ?」

「関係ありません。今は恋するフォーチェンクッキーですから」

「フォーチュン・クッキーだ」

「……横文字は苦手です」

 

 以前はテレビのない生活だったらしいが、左霧の家で食事を共にすることが多くなり、瑠璃はテレビの興味津々だ。桜子や雪江と取り合いになることもある。最強の魔術師が聞いて呆れる話だ。

 左霧はそっと瑠璃の髪を撫でた。親が子供にしてあげるように優しく、ゆっくりと。瑠璃は驚いていたが、やがて目を細めて受け入れた。

 

「桜子さんの気持ちがわかります」

「ほう? あのじゃじゃ馬の気持ちが、か?」

「ええ、左霧様に撫でられると何でも許してあげたくなってしまいますから」

「それは、言いことを聞いたな」

「もちろん冗談です。でも、とても気持ちいいです」

 

 自分の手はそんなにいい代物ではない。血塗られて意地汚い下衆の手だ。その手で何人もの罪なき者たちを殺してきた。それは瑠璃とて同じことだ。それを分かっていて敢えてそう口にしたのだろうか。

 二人はしばらくそのままの状態でいた。何だかうやむやにされたような瑠璃であったが、とりあえず今日のところは許してあげたようだ。

 最強の魔術師も、一人の男も前では甘えたくなるらしい。

 



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あなたの考え

「煌々たる天の光よ! 放て! 光爆!」

 

 目の前が光で真っ白になった。世にも珍しい光の魔術と呼ばれる力は、魔術師の天敵とも言える効果を発揮する。

 端的に言えば、術式の解除だ。どんな魔術師でも術式という、いわば魔術を形成するプログラムが存在する。基本的な術式から複雑な術式まで、魔術師の技量により術式は魔術となり様々な効果を発揮する。

 上級の魔術師なると、術式が複雑すぎて本人以外は大抵理解ができない。理解ができないと対応する術がない。だから魔術師は一つでも多くの言語を身につけなくてはならないのだ。

 

「雪子さんは、その過程をぶっ飛ばし、術式とは何たるかを理解しなくても術を解除できる力を持っているのです」

「ふふん。それってつまり最強ってことよね?」

「はい、おそらく魔術師にとっては一番戦いたくない相手かと」

「魔王になる日も近いわね! あう!」

「はい――――あと百年くらいしてから出直してください」

 

 瑠璃と雪子は霧島家で模擬戦を行っていた。ルールは簡単。致命的な一撃を与えられる状況になったら一本。単純明快だからこそ、己の力量を存分に発揮することができるのだ。

 

「ど、どうして勝てないのよ!」

「あなたごときに負けてしまっては天王寺――元当主として自害しなくてはなりませんから」

「く、悔しい! セーレム! あんたしっかり働いているんでしょうね!?」

「わ、私のせいにするな! そ、それよりも早くこの無礼な龍をどけてくれ!」

 

 結果は明瞭だった。いくら雪子が珍しい力の持ち主であったとしても、最強の名高い天王寺瑠璃には赤子の手を捻るようなものだ。アクビを押し殺しながら雪子の攻撃を躱し、術式を瞬間的に発動する。明らかに手を抜いている。だが、そこには一点の隙もない。少なくとも雪子にはそう見えるのだ

 

「あなたの精霊は大変よく働いています。隙あらば私の首元に噛み付かんばかりの霊力を感じました。最も、クロちゃん(黒龍)を怖がっていただけならば話は別ですが」

「こここここここわがってなどいない! あ、鼻息、生暖かい……」

 

 セーレムは瑠璃の精霊である黒龍に遊ばれていた。まるで小動物で遊ぶ肉食動物だ。完全に怯えきっているセーレムの姿を、黒龍のクロちゃんは純粋な瞳(充血した)で不思議そうに眺めていた。

 

「私にあってあなたにないもの、それが何かわかりますか?」

「む、胸の大きさ? あう!」

 

 瑠璃の脳天チョップを再び喰らい、涙目になる雪子。そんな状況でもどうやら瑠璃のスタイルが羨ましいらしい。

 

「教えを請う気がないのなら、もう何も教えませんが」

「嘘嘘! え~と今考える!」

 

 瑠璃にあって自分にないもの――――それを探すのは簡単だ。技術や能力の面で圧倒的な差をつけられているのだから。ふてくされて、ふざけたくもなる。

 先ほどの戦いでは一時的にとはいえ瑠璃の術式を解除した――ように見えたが、その次の術式、また次の術式と矢継ぎ早に技を出され、成すすべがなかった。雪子の魔術は単発、単発の魔力消費が大きすぎて連続で唱えることなど出来ない。

 ようやく人並みの魔力を血の滲むような努力で手に入れた。セーレムの霊力を借りずとも何とか術式の形成を可能にした。

 だが、それだけだ。自分はそれだけしか出来ない。瑠璃のように多彩な術を使うことも、それを使う魔力も、戦術も、何もかもが劣っている。

 当たり前だ。彼女は生まれた時から魔術師で、自分はこの数ヶ月でようやく魔術師という存在に近づけただけだ。それが分かっていても、悔しい。生来の負けず嫌いがそれを許さない。

 

「精霊と魔術師は一心同体――――あなたは、自分の精霊を使いこなせていないのです」

「……だって、こいつ勝手に動くんだもの。私の命令なんて聞かないわよ」

「……雪子はまだ未熟だ。私の言うことだけを聞いていればいい」

「はぁ? 何それ? それであんたの言葉を聞いていれば勝てたの?  実際、あんたあの黒いのに転がされているだけだったじゃない!」

「それは雪子の魔力供給が滞っていて力が出せないからだ!」

「なによ! 全部私のせいして! しょうがないでしょ!? 自分のことで精一杯なんだから!」

 

 

 実のところ、セーレムと雪子は毎日こんな感じだった。屋敷にいてもセーレムの小言に付き合わなくてはならない。それでなくても学園の経営や、学生生活、おまけに雪江の世話と既に雪子のキャパシティは限界に近い。ストレスくらい貯まる。

 

 

「はぁ……左霧様に言われた事とは言え、これでは先が思いやられます」

「……悪かったわね迷惑かけて! ところで左霧さんはどこにいるの?」

「さぁ……私が来た時にはもうお出かけになってましたから……」

「なんだ、せっかく雪江が会いたがってたのに」

「パパいないの?」

「うん、ゴメンね雪江」

 

 娘がもってきた水を一気に飲み干して雪子は縁側に座り込んだ。今日は休日のはずだ。学園の教師は部活動の顧問などもあり休日出勤は当然ある。だが、左霧には顧問を任せた覚えもないし、そんなことをしたらあのむっつりスケベはまた問題を起こしかねない。そんな危惧もあり、一応毎日定時に上がらせているのだ。

 

「そういえば、華恋も桜子もいない……って家の者が誰もいないじゃない」

「はい、ですから合鍵を使って入りました」

「は? 瑠璃、なんでそんなもの持ってるのよ!?」

「なぜって……私、左霧さんの妻ですから。正しくは後妻ですけど」

「それはあんたが言ってるだけでしょうが! 信じられない! まるで愛人みたいじゃない!」

「愛人ではありません、正妻です。まぁあの人の勝負に勝って、強制的に作らせただけですけど」

「左霧さん、情けなさすぎよ……」

 

 霧島左霧はあの戦い以来、力を使う機会はなくなった。仕事をしているだけマシだが、生活そのものはニートのそれと同じだ。少なくとも雪子にはそう映ってしまう。端的に言うとカッコ悪いのだ。仕事はダラダラやる、生徒にセクハラをする、会議に毎回名前が出る、仕事から帰るとテレビを見る、愛人を囲う(?)、お尻を掻く、茶の間で寝る、いびきをする、歯ぎしりをする!!

 おっさんなのだ。顔と体は見目麗しい乙女の姿で、その性格はおっさんそのものだった。加齢臭がしないだけまだマシというものだ。

 

「はぁ……もう、何なのよ……」

 なんとなく。なんとなく雪子は失望してしまった。こんなことを言っては左霧に失礼かもしれないが、もう少しマシな男だと思った。凛とした表情、その中にある不器用な優しさ、絶対的な力。少なくとも、あの時の左霧は雪子にはそう映っていた。

 ――――守ると、言ってくれたから。信じようと思えた。

 

「殿方とは難しい者ですね。この数ヶ月間、あの方と共にいましたが、何を考えているのかさっぱり……もうすぐ、帝国魔術総会が始まりますのに……」

「確か、情報の共有を目的とした国の魔術師たちが全員集まる会議よね?」

「そうです。ですがそれは表向きの理由。真の目的は帝国に忠義があるかどうかを確かめるだけの集まりです」

「なんか、めんどくさそうね……それ、私も行くんでしょ?」

「ええ、今まで雪江さんが参加していましたから、当然そうなるでしょうね。最も、私はもう関係ありませんけど」

 

 天王寺家は霧島に吸収された。それが今回の大きな議題になるだろう。今まで狼のように隙あらば噛み付かんばかりの連中からすれば、霧島家は獲物を横取りしたハイエナのような存在だ。瑠璃は計算高く、他の連中を牽制していた。最強の家系とはいえ、全てを敵に回してしまっては勝てるものも勝てない。外交的にも上手く退けていた。

 その天王寺が陥落したのだ。力の均衡が一気に崩れたといってもいい。

 

「今、霧島家は複雑な立場にいます。現当主、霧島霧音は総会に一度も出たことがありません。にも関わらず、帝国魔術師の地位を高めた。これは反逆分子とみなされても仕方がないのです」

「霧音さん……正直言って、あの人が一番厄介な気がする。何を考えているのかわからないから」

 

 雪子は霧音に会った時のことを思い出した。まるで自分を物か何かを見るような目で見つめ続けていた。少女のように笑い、女のように微笑む、絶世の美女。

 霧島左霧の母――――。

 

「雪子さんは運がいいです。霧島霧音に会うことのできる者は、本人のお眼鏡に適ったものだけなのです」

「正直、もう会いたくないけどね。それにしても霧島家ってこれから大変じゃない。左霧さんったらだらけてて大丈夫なのかしら?」

「人ごとではありませんよ、雪子さん。霧島左霧と最も近しい関係にあるのは雪ノ宮家なのですよ? 当然、あなたも左霧様と同じ目で周りから見られるのです」

「ま、待ってよ。私、何もしてないわよ? それに雪ノ宮は今、人材不足で」

「実に、潰しがいのある敵ですね」

「じょ、冗談じゃないわよ……どうしろってのよぉ!」

 

 一難去ってまた一難。言葉通りとは行かず、雪子には一難どころか十難も襲いかかってくる。いくら雪子が優れた頭脳を持っているとしても、限界だった。頭を抱えた雪子に、瑠璃はそっと手を差し伸べる。

 

「雪子さん、安心してください。私がいますから」

「瑠璃……あんた」

「罪滅ぼし、とはいきませんが私は、私に出来ることをやるつもりです」

 

 蒼色の魔女は静かに微笑んだ。味方には最大の恩恵を、敵には最大の災厄を。かつて自らの敵として対峙した炎の魔人はこんなにも頼もしい友となった。

 ――――許されざる咎を背負って。

「竜胆家、加賀家、篠田家は雪ノ宮から縁を切った。元々、お母様に仕えていたのだから当然といえば当然だけど」

「三家へ謝辞に出向いたのですが、事務的に話すだけでした」

「……大変だと思うけど、でもそれはあんたの罪よ。誰も見てなくても、私がずっと見てるから」

「雪子さん……ありがとう」

 

 お礼を言われるようなことではない。瑠璃はたくさんを殺しすぎた。この学園では三人の魔術師が犠牲になった。姉への嫉妬心と怒りだけが少女を突き動かしたのだ。

 普通の人間なら裁判を受け、相応の罰を与えられるはずだが、相手は魔術師。強いものが勝ち、弱い者が負ける世界だ。当然、勝者である瑠璃は、何の罪にもならない。

 

「人として生きるのは、大変なことですね」

「そうね。でも、大切なことよ」

 

 雪子はそれを嫌った。魔術師とて人と同じ命だ。失っていいわけがない。当たり前過ぎて誰も気がつかなかった事実。それを、彼女は瑠璃に教えてくれた。

 母親を、犠牲にして――――。

 

「瑠璃お姉ちゃんの魔術、かっこいいね!」

 

 無邪気に瑠璃へ近づく雪江。最初は戸惑った。自分が危害を加えたはずの者が何の躊躇いもなく近づいてきたことに。

 それは当たり前のことだ。少女は記憶を失っているのだから。そのことにホッとした瑠璃は、自分自身を殴りたくなった。罪は、決して消えないのだから……。

 

「あなたも、きっと使えるようになるわ」

「ホントにー? 私魔術なんて使えるのかなぁ?」

「使えますとも、私がちゃんと教えてあげるわ。あなたのお母さんも一緒にね」

「うげっ……と、当然よ。私は、魔王になる女だからね!」

「精進しろ、雪子。早く私を使いこなしてみろ」

「うるさいのよあんたは! そ~れさっさとクロちゃんのところに行っといで!」

「こ、こらやめんか! あ、息が、生暖かい……」

 

 うるさいセーレムをクロちゃんのところへ投げ飛ばし、雪子は再び瑠璃と対峙する。瑠璃は自分に出来ることを考えた。今まで自分のために生きてきた彼女は、今度は誰かのために生きることを決めた。

 二度と同じ過ちを犯さないために。

 今度は、誰かを守るために。

 最強の魔術師は、その力を使うのだ。

 

「あと、正妻の座を確実なものにしなくては、ね」

「瑠璃? 何か言った?」

「いいえ、雪子さんには絶対に負けません、と」

「ぐぐぐ……その鼻っ柱へし折ってくれる」

 

 当然、恋に関しては譲る気はないが。

 

 

 

「桜子よ。なぜ、俺たちがこんなところにいるか知っているか?」

「ショッピングのためです! おにーさま!」

「その通りだ! 普段うるさい女どもから解放され、俺は今、フリーダムな状態だ。もう誰にも邪魔をすることはできない!」

「何だか危険な香りがしますねおにーさま!」

「なに、なんのことはない。黙って俺について来い! まずは、そうナンパだ!!」

「おにーさま、桜子はお腹がすきました。朝から何も食べていません……」

「何だと!? そういえばそうだったな。仕方がない、腹が減っては戦はできぬと言うからな。まずは食事にする! いくぞ桜子!」

「はい、そのあとはお店を巡って買い物ですね! 今日は買って買って買いまくります!」

「そうだ、その意気だ! だが桜子よ、手加減してね……」

 

 一方の左霧たちが休日を満喫していることを、彼女たちは知るはずがない。

 華恋は子供二人を見ているような気がして軽く憂鬱な気分になった。

 

「左霧様、かなりストレスが溜まっていたのですね……はしゃぎすぎです」

 

 桜子の手を引っ張りながらあちこちへ飛び回る当主は、ただの童子だった。

 少なくとも、家に引きこもっているよりはマシか、と美しき女中は頬に手を当てて微笑んでいた。

 



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激動の予感

「おにー様、あれ、あれを見て! とても綺麗!」

「うむ。指輪か。確かに目を惹かれるのも分かるが、桜子にはまだ早いな」

「あー! また子供扱いした! 私だって立派なレディよ!」

「そうか、レディは大通りでそんな大きな声で叫ばないのだがな」

 

 桜子のパワーは有り余っているようだ。いきなり外出しようと、寝ぼけ眼の娘を引っ張って出かけた甲斐があった。走り回る桜子の後をぜぃぜぃと息を切らしながらついて回る左霧。若いというのは素晴らしいかな。

 

「左霧様、運動不足でございます。そんな死にそうな顔でいられては、周りの迷惑ですよ」

「大丈夫だ。俺はどんな顔でも周りを誘惑する力を持っているからな」

「改めて思いますけど、ほんと最悪な能力ですね。ですが、それも雪子さんといることで緩和されると聞きましたが」

「ああ、光と闇は混ざり合い調和する。咲耶のように光側の力を持つ彼女は俺の魔力を弱めるからな」

「天敵、ということですか」

「……ふん。あの程度を天敵と呼んでいては、この先数え切れんほどの天敵が現れるだろう。それに、雪子は俺の敵ではない」

「……お言葉ながら、雪子さんを味方と断定するのは早計かと」

 

 桜子はウィンドウ越しに宝石を眺めていた。色とりどりの石に目を奪われているのだろう。目が肥えているというか、高級志向なのは生まれつきなのだろうか。やっぱり将来が心配である。

 

「魔術師が手を取り合うなど危険すぎます。いつ背後から狙われるか分からないではないですか、それに二人も」

「その時はそれまでだろう。俺の見る目がなかっただけのことだ」

「危険因子は遠ざけるべきです」

「華恋、やめろ。今日はそんなことを話すために出かけたわけではないぞ」

「こういう時だからこそ、言わなくてはならないのです。普段、左霧様と密談できる機会など早々ありませんから、ね」

 

 華恋は半眼で主を睨んだ。そういえばそうか、と左霧は自らの生活を省みる。寝る時間を除けば、四六時中彼女たちと行動を共にしている。昼間は学園、夕方は鍛錬、夜は夕食を囲む。ここ最近、華恋と会話をする時間すらとれていなかったか。

 

「御身は霧島の次期当主たる器なのです。外交よりも今は地盤を磐石にする時かと」

「別に霧島家のことなど関係ない。瑠璃や雪子は俺の信頼出来る仲間だ。ただそれだけのことだ」

「……部下がほしいのであれば、神楽や皐月を呼べばいいではないですか」

「あんな面白くない奴らと一緒にいて何が楽しいのだ。母の私兵など関わりたくもない――――強いていうなら、村雨嬢なら一緒にいてもいい。あいつは面白いし気が合うからな。流石俺の――――」

 

 その時、強烈な殺気を感じた。探るまでもない。目の前の女中が豹変したように左霧を睨みつけていたのだ。冷静沈着な彼女にはふさわしくない怒気を纏った空気。

 それは、華恋にとって禁句にもふさわしい名前なのだ。

 

「あの子は、もう死んだのです」

「――――華恋、お前」

「あなた様はあの子ばかりを寵愛しておりましたね。あの方もそうでした。口惜しい、口惜しい、妖気を纏った下劣極まりないあんな女……」

「勝手に殺すな! 村雨は本家に残してきているだけだ。必要な時がくれば呼ぶだろう」

「その時は、きっと血の雨が降るでしょう。私とあの子、どちらがあなたにふさわしいか……楽しみです……ふふふふふふふふふふふふふふふ」

 

 村雨――村雨嬢は左霧の小さな頃からの付き人――――女中だ。育児放棄も等しい扱いを受けていた左霧の世話人として最初に宛てがわれたのが彼女だった。

 性格は元気爆発暴走少女、と言ったところだろうか。左霧を色んなところに連れ回しては泣かし、いじめ、ど突きまくるというサディスティックな美少女だった(左霧談)

 左霧は村雨が嫌いではなかった。暗い屋敷では彼女のハツラツとした笑顔が輝いていたような気がした。幼少期から常に反抗期だった左霧と一緒になって色んな悪さを企てる、悪友のような存在だったか。

 

「相変わらず仲が悪いな、お前たちは」

「もちろんです。私たちは互いに相容れない存在ですから。会えば殺し合う――それが運命です」

 

 屋敷にいた時から華恋と村雨の喧嘩は熾烈を極めるものだった。何人たりとも寄せ付けない刃のような闘気。全てを切り刻まんばかりの激しい死闘――――一ヶ月に一回は屋敷を半壊させるという傍迷惑な二人組だった。

 

「お前は桜子の女中だろう。何をそんなにムキになっているんだ」

「わかりませんか?」

「わからんな。お前も村雨も。根が深いのは確かだと思うが」

「そうですね。もう、深すぎて、私たちも忘れてしまいそうです」

 

 いっそう、忘れてしまってはどうか。そんなことを言ってみたがそれは無理だと、断言されてしまった。

 華恋と村雨は何を見てきたのだろうか。その両の目で、『人ならざるもの』として。この国の移り変わりを永遠と繰り返す日常を。

 左霧が彼女たちについて知っていることは、彼女たちが昔神に仕えていたという逸話くらいだ。それがどう転んで、霧島家に仕えるようになったのかはわからない。書物を漁れば、何かわかるかもしれないがめんどくさいので却下。

 

「昔のことは、もう、随分朧気になってしまいましたから」

 

 そう言いつつも華恋の瞳は何かを鮮明に映しているような気がした。華恋がこんな感じなので左霧も深くは聞かない。およそ、人知の知りえない場所に彼女たちは到達しているのだから。

 

 

「おにーさま! 華恋! 何をしているの!? 早く早く!」

 

 洋服の裾をヒラヒラとさせながら天真爛漫の少女は両手をいっぱいに広げて二人を急かす。その笑顔を見ると、何もかもがくだらないと思える。少なくともこの時間だけは少女の笑顔のために存在するのだから。

 

「これから、忙しくなる」

「はい」

「俺は侵略する、制圧する、撃破する。全ては安息のためにだ」

「承知しております」

「堕とすは帝都。狙うは皇。そのためならばどんな犠牲も払う」

「そして、神になるのですね」

「そうだ。悪魔の道は悪道から。天使の道は善導から。そして神への道は――――支配から」

「雪子さんは魔王になるとおっしゃっていますが」

「くれてやれ。魔王は人間界を支配する神の一人。あの娘がそこまでの力量に達しうるのならば、な」

 

 左霧の心はブレない。自らの野望――神への到達のためならば、修羅の道を突き進むまで。

 例え、百万の帝国魔術師に責められようが、迎え撃つ。あの日、彼女と約束した誓いがあるのだから。

 それは誰にも言うことのない。決して望んではいけない願いを叶えるために。彼はただそれを目指す。

 世界の法則を越えたその先にある神秘の奇跡。

 

「これよりは――――獣道。華恋、桜子を頼んだぞ」

「お任せを。全ては、安息なる日々のために」

 

 

 自然と口元に笑みを浮かべていた。襲いかかる敵の大群を想像し、彼は恍惚に浸っているのだ。既に、肉体は神へ昇華しつつある。その前兆とでも言うべきか。

 果たして、殺さずにいられるか。そんな綺麗事がまかり通るのだろうか。チラつく雪子の泣き顔がやけに鮮明に脳裏に焼きついている。

 

(甘くなったわね。左霧)

「違うな。俺は厳しくなったのだ。殺さずに帝都を掌握するのだからな」

(ふふふ、私がいるわ。あなたを守ってあげる)

「ふん……足でまといにはなるなよ」

(それはこっちのセリフ。いつまでも子供の御飯事に付き合っている場合じゃないわよ)

「おままごと……か。お前にはそう見えるのか?」

(殺し合いのない戦いなんて、いくら経験を積んでも無意味よ)

「お前は変わらないな、あの頃のままだ。ずっと昔からこれらもずっと」

(……何が言いたいの?)

「母はなぜ、お前に右霧と名づけたのだろう。それが不思議でならないのだ」

 

 左霧は頭に響く女の声に耳を傾けるのをやめた。脳裏に映し出した幼き頃の記憶。そこにいる女と、今左霧の体にいる精霊は似ても似かない。

 ――――やめよう、今更。何を考えているのか。最近、どうも思い出に浸ってしまう時間が多くなっている。妻のことにしろ、彼女のことにしろ……。

 失った時は取り戻せない。失った人は戻っては来ない。

 それが、世界のルールなのだから。

 いや、違うな。左霧は桜子と華恋の後ろから彼女たちを見る。次第に遠くなっていく背中。それに永遠に追いつけないような気がする。そんな錯覚を覚えた。

 間違ってはいない。いずれはそうなる。その時に、彼女たちは自分の味方なのか――果たして……。

 

 

 

 

 

 

 

「左霧さん、欠席するってホント!? 信じられないバカじゃないの何考えてんのよ!!」

「……うるさい。俺は誰の下にもならん」

「私はどうすればいいのよ! 一人で帝都まで行けっての!? か弱い乙女が、道中襲われる可能性もあるのに? 正気の沙汰じゃないわね」

「か、か弱い乙女は、俺を足蹴になどしない」

 

 結局、帰ってきた左霧は堂々と魔術総会の欠席を断言した。帝国に反旗を翻すことが目的であるならば他の魔術師と馴れ合うつもりなどない。もちろんそのあとに起こりうるであろう事態も想定済みだ。

 ――――戦争。帝国近衛魔術師、宮廷魔術師、国家魔術師……流石に国家魔術師までは出てこないと予測するがそれでも戦いは避けられないだろう。

 帝国近衛は、その名の通り帝に忠誠を誓う帝国軍人だ。普段は軍務に辺り、必要なら秘密警察のように民に混じって反乱分子を探し当てる犬共。

 宮廷魔術師は、いわゆる文官のような存在だ。新しい魔術を開発し、先端医療などに役立てたりと、その多様性は国家の宝とも言うべき者たちの集まり。ちなみに魔術師たちがなりたい職業ランキング一位に常に輝いている。

 国家魔術師……その名のとおり、国家の魔術師だ。その人物一人で国家が動くほどの権力を持つと言われている。基本的に一国に一人という原則に基づいて選ばれる、エリート中のエリート。なろうと思ってなれるような職業ではないので、ランク付けはできない。

 

「お前は雪ノ宮家の当主なんだぞ。行くか行かないはお前が判断しろ。それができないのなら当主などなるな」

「っ……! だ、誰のせいで行きづらくなっていると思ってんのよ! 左霧さんが反乱分子なんかなったら、私だって狙われちゃうのよ! ううん、私ならまだいいわよ! 雪江だって」

 

「知らん。襲いかかる火の粉すら振り払えないのなら魔術師などやめてしまえ。何のための鍛錬だ。この数ヶ月のお前の努力はその程度の覚悟だったのか?」

「どうして……どうしてそんなこと、言うの? 左霧さん……」

 

 雪子は両手を前で繋いだままテレビを見ている左霧を見下ろしていた。背後にいるため、その姿は特定出来ない。だが、声は上ずっている。それが分かれば十分だ。

 雪江が母親にしがみついて左霧を見つめていた。痛々しいほど潤んだ瞳で。

 

「左霧さん、あの時言ったことはウソだったの?」

「……何の話だ?」

 

 ポタリ、と畳に滴る音がした。瑠璃と華恋は黙ったまま、静かに目を閉じている。桜子は疲れらしくもう床についていた。

 ――――心を乱すな。

 ――――心を動かすな。

 冷静たれ。この先は、優しい世界などではない。卑劣な罠やおぞましい結果だって想像できる。そんな思いを、彼女にさせるのか?

 帝国に忠誠を誓うのなら、彼女の身柄は保証される。己との接触を断つことによって彼女は無関係と断定されるのだ。

 

「分かりました。私、総会に出ます」

「……そうか」

「もう、あなたになんか助けてもらおうなんて思いません」

「……そうか」

「っバカ!! 減棒にしてやる!!」

「それはやめて!?」

 

 思わず振り返って叫んでしまったが、そこにはもう雪子はいなかった。伸ばした手は空を切ったままプラプラと宙を舞う。テレビの雑音が妙にうるさくてテーブルを叩き割りたくなった。

 残念、ただのいい訳だ。また、まただ。それを彼女たちに悟られまいと必死に冷静を装う。

 

「――――瑠璃」

「はい、左霧様」

「――――頼んだ」

「……本当に、不器用な方」

「それが左霧様のいいところ、では全くありませんね」

「うるさい女共だ全く……」

 

 クスクスと笑う女たちはさておき。これで雪ノ宮家は総会に出席することになった。危険なことがあっても瑠璃が同伴しているため何とかなるだろう。仮にも最強の魔術師として君臨していた彼女がいるなら他の者も口出しなどしないはずだ――――とこんなに上手くいくわけがない。

 おそらく、瑠璃や雪子たちの関係を洗いざらい聞いてくるだろう。そして霧島との関係をつついてくる。

 総会で一番危険なのは帝国近衛魔術師だ。奴らは総会で集まった地方魔術師たちの粗を探して、更迭するのが仕事だ。おそらく、今回の最も大きな標的は間違いなく雪ノ宮家だろう。

 前皇帝を殺した者の娘――――そして王位継承権第十位という肩書き。

 一体、帝国はどこまで把握しているのか……。

 

 

「お任せ下さい、左霧様。この天王寺瑠璃がいる限り、必ずやよい報告を持ってきて差し上げますわ」

 

 こんな時、瑠璃がいてくれてよかった。彼女もやぶさかではないのだろう。他でもない雪子のためなのだから。

 その力、見せてもらうではないか。

 



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変化

「久しいな、我が愚かなる母よ」

「……愚かなる愚息、とでも返せば気が済みますか?」

「なに、ただの挨拶だ。商売は順調か?」

「あなたに聞かれるまでもありません。あなたこそ、何を企んでいるのですか? いきなり帰ってくるなど、どのような風の吹き回しなのやら」

「ほんの気まぐれだ。強いて言うなら、霧島領を拡大してやった手柄が欲しいところだ」

「なるほど、恩着せがましいところは父親に似たようですね」

「ハハハハハハ!! これは妙なことを言う。貴様の夫になる男など、鬼か悪魔しかいるまい。さしずめ、魑魅魍魎の類だろう!」

「鬼子の分際で、父親を愚弄するのですか? フフフフフフ……あなたの父親は……ああ、もう忘れてしまったわ。千を数えてからはもうどの男がどんな顔だったか、思い出せなくて。ごめんなさいね」

 

 悪びれもせずに、己を産んだらしい自称母親は頭を下げた。なるほど、久方ぶりに帰ってきてみれば、少し老けただろうか。歳をとらないのではないかと疑ったことも一時期はあったが、どうやら我が母は普通の人間らしい。長年の疑問が氷解のごとく溶けていったことに少しばかりの安息を得た。

 いつもの如く、母の部屋は趣味が悪い。初めて入室した者はまず間違いなくその部屋を「座敷牢」だと思い込んでしまうだろう。内側からは外側の様子が、外側からは内側の様子を覗くことが出来ない作りになっているらしい。部屋には御香が焚かれ、明かりは薄暗い提灯が赤々と灯っている。真っ白の襦袢を着崩した黒髪の化物が自分を見つめながら笑っている。何がそんなにおかしいのか、はたまた頭が狂っているだけなのか。

 帝国から――――この森から出ることを『禁止』されれば、おかしくもあるか。左霧はある意味でこの女に同情している。外に出れば害を与え、欲望を刺激してしまう『淫魔』の母親は帝国から厳しく行動を制限され、その存在を秘匿とされている。

 魔術師の中には霧音や左霧のように存在するだけで相手に何らかの影響を与えてしまう者が存在する。その理由は偏ったホルモンバランスのせいだと医学的に解明されている。ホルモンバランス――――心体の一部の何らかの欠損と引き換えに、異常な魔力保有量を持つことがある。これは障害児が一部の能力で天才的実力を発揮するケースに似ている。つまり、魔力の多い魔術師は、人間としての機能を欠落している者が多数を占めるのだ。

 

 霧音は感情が狂ってしまったのだ。嬉しい時に悲しみ、楽しい時に怒り、愛しい時に憎む。人間として、初めから狂っていた。と、思えば正気に戻る時がある。それがまた左霧を惑わせる。結局この女はどこで狂い、どこで正気に戻っているのか、検討がつかない。

 物心がついた時から、ずっとこの調子なのだ。息子と話すときだけ、母は狂ったように喜怒哀楽を変化させる。これを狂気と言わずになんと例えようか。

「左霧、どうしていなくなったの? 死んでくれなかったの? いなくなってしまえばいいのに」

「あいにく、貴様にもらった体が不死身なものでな。感謝している、殺したいほどに」

「そう、ありがとう。母はお前を何よりも大切に思っています。この手で殺してあげたいくらい」

 

 己の首に白い骨ばった手がするりと入ってきた。しかも本気で首を絞めてくるから立ちが悪い。仕方がないから振り払うように体を揺する。その拍子に母親の体が横に崩れた。咄嗟に支えようとしたがその手を母親が振り払う。ああ、少し痩せたなとこの時にやっと気が付いた。首も手も足も、母親の体全てが小さく見えた。あの日、見下ろされるだけだった子供時代の記憶が鮮明に映し出される。強大で、恐怖の対象だった女は、哀れな一人の小さな女に過ぎない。それがなんとなく哀れに思えた。

 

「帝国を潰す。目的は神になることだ。今、最も神に近い存在を倒すことで天界に行ける。そうだったな?」

「バカな子。闘神などなれるわけがない。あれはお前ごときが辿りつける場所にはないのよ」

「ならば、なぜ俺を魔導兵として作り上げたのだ? 魔導兵は神の寄り代。つまりお前は神を作りたかったのではないのか?」

「…………」

「だんまりか。いつもそうだな、都合の悪い時はいつもそれだ」

「左霧、体は大丈夫ですか?」

「……そうか。それが貴様の答えなのだな。いいだろう。例え貴様がどんな思いを抱えていようが俺は神になる。お前の作りあげた業深き人形の役割を果たすためにな」

 

 笑ってしまう。目の前の女は本当に魔導兵という神の人形を作り上げることが出来たのだろうか。自分と対しているのはただの知恵遅れではないのか。こんな馬鹿女に何の力があったのだろうか。侮蔑の篭った目で左霧は母親を見下ろした。当人は蝶でも探しているようにキョロキョロと辺りを探っている。意味がわからない、この部屋には布団と畳以外に何もないはずなのに――と次の瞬間、左霧は言い知れぬ恐怖に襲われた! 今まで感じたことのない背筋がゾッとするような生まれて初めての感触を味わったのだ。

 

「風邪には気をつけて……」

「っ!! 触るな!」

 

 ただ、手が顔に近づいただけだ。なんのことはない。殺意なら散々受けてきた。それならば怖くなど微塵もない。女と男、年、実力を考えても自分が有利な位置にいることに何ら変わりはないのだから。

 であるならば、今の感覚はなんだろう。感じたことのない気持ち悪さに吐き気すら覚えた。おぞましい、まさかこの霧島左霧にここまでの恐怖を味あわせることの出来る者がこの世にいたとは――――左霧は額に浮き出た冷や汗を拭い切れずにいた。霧音はまたキョトンとしたように目を下に移し、しきりに何かを探していた。心臓が脈打つ。動悸が激しい。一体今のは何なのだろう? 訳も分からず目の前の化物から逃げるように左霧はその場を離れるのだった……。

 

 

「……っ、はぁ、くそっ!」

 

 この年になって未だに超えられぬ壁。おそらく己を陥れることの出来る者は、あの女しかいないだろう。霧島左霧の永遠なる敵であり、最も憎悪すべき相手だ。

 長い廊下を早足で渡り歩く。勝手知ったるなんとやらだ。だが、久々だというのにこれといって懐かしさを感じることはなかった。当然だ、あの時とは何もかもが違うのだ。

 妻はいない。知っている女たちもほとんどいなくなった。それでも人口は増えているらしい。商売が繁盛している証拠だ。悔しいことに。

 

「これは……坊ちゃんではありませんか! いつお帰りで!?」

「神楽か。今さっきな」

「珍しい。坊ちゃんがいる……十年ぶり?」

「皐月は相変わらず適当か。六年だ」

 

 浴衣姿の二人組が目の前に現れた。一人は目の下に泣きボクロがあり、パッチリとした瞳が特徴的なハツラツとした女だ。ショートヘアーの髪を揺らしながら驚きを隠せないように大きく開けた口を手で押さえている。

 対するもう一人の女は眠そうな眼でこちらをジッと見つめている。おっとりとしていて正直何を考えているのか分からない。いや何も考えていないのか。櫛で梳かしただけの洒落っ気のない女だが素体がいいので十分魅力的だ。

 

「坊ちゃん! もう坊ちゃんったら! 坊ちゃんが天王寺領をいきなり占領するなんて言うから大変だったんだよ!?」

「そう。何日も働きすぎて死にそうだった。責任とって」

「ふん……普段暇なのだから、当然だ。これからもっと忙しくなるだろう。覚悟しておけ」

「坊ちゃんったら、帰ってきて早々不機嫌ですね……また霧音様ですか?」

 

 神楽は心配気に左霧の表情を伺った。久方ぶりであるはずなのに、長年の蓄積された経験からなのか。表情に出ないように気をつけていたつもりだが、彼女たちには容易く見破られてしまったようだ。

 

「いくら坊ちゃんの命令でも、権限は当主の霧音様にある。霧音様が許可しなければ私たちは動けない」

「…………」

 

 皐月は淡々とした口調で呟いた。何が言いたいかは予想がつく。あまり母親を嫌ってくれるなということだろう。

 霧音は当主として有能らしい。部下たちには的確な指示を与え、仕事の経営も順調なようだ。何も知らない者から見れば素晴らしい人物なのだろう。あの部屋に入室して良いのは、霧島家の血縁だけ――――つまり左霧と、今のところ桜子だけだ。

 

「あはは……皐月、坊ちゃんも分かっているんだよ。ほら、今日帰って来たこともその証拠でしょ?」

「いや、気まぐれだ。これから帝都に反逆するからな。一応許可を貰いに来た」

「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ! そんな話聞いていなっ」

「今言った。覚悟しておけ」

「……勝手すぎ。いい加減大人になって、坊ちゃん」

「決定事項だ。そもそも霧島家は総会にすら出席せず、帝国からの風向きが良くなかった。いい機会だ」

「それは霧音様が外に出ることが出来なかったからでしょう!? 坊ちゃんさえ出席なされていたら!」

「俺は帝国に屈服するようなクズではない。霧島家は魔術師の家系だ。魔術師は何のために存在する? 力を示すためだ。何のために魔力を使う? 圧倒的は支配のためだ」

 

 神楽と皐月は不満そうに左霧を睨む。所詮は母親の私兵だ。実力こそあるものの、その志は魔術を行使するものの生き方と遠く離れていた。長い間ぬるま湯に浸かっていた証拠だ。

 

「坊ちゃんは、魔王になりたいのですか?」

「それは違うと言っておこう。俺は闘神になる。魔王すらひれ伏すほどの存在になるのだ」

「どうして、坊ちゃんは闘神になりたいの?」

「……それは」

 

 魔王ですら叶えることの出来ない夢を叶えるためだ。

 

「坊ちゃん、坊ちゃんは何のために戦うの? 坊ちゃんは何が欲しいの?」

 

 守りたい者がいるから。全てが欲しいから。

 

「私たちは霧島家の魔術師だから。坊ちゃんにだって従うよ? でもね、今の坊ちゃんはやっぱり当主の資格はないと思うな。霧島家は変わろうとしているんだよ。霧音様は争いごとを最小限に抑えてようとしているの。もう、誰も傷つかなくていいようにね」

「バカな。あの女は人殺しの兵器を作るよう奴だぞ? 誰も傷つかなくていい? どの口でそんなことを」

「自分のこと、そんな風に言わないで! そんな風に言う坊ちゃんなんて嫌い!」

 

 突然皐月が叫びだした。普段大人しそうに装っているが、そのくせ一番情に熱いのは今の健在だったか。いずれにせよ、皐月を怒らせてしまったのは失態だった。決して間違ったことを口にしたわけではないとしても。

 

「坊ちゃん、どうしちゃったの? 何を焦っているの? 私を、私たちを使ってくれるのはいいの、でもね、坊ちゃんがやろうとしていることの後ろには何百人の命が犠牲になること、ちょっとは心の隅に置いておいて、ね?」

 

 神楽は皐月を落ち着かせながら左霧の前から去っていった。

 何百人――――それは霧島家の――――烏の森に捨てられた者たち、それを拾って育ててきた霧島家に従事する者たちの命のことだ。神楽や皐月も、孤児だった。魔力を持っているというだけで実の親から捨てられた哀れな娘。それを育てのが、霧音。

 自然と手に力が篭っていることに気がつき、呆れてしまった。一体、自分は何に怒りを向けているのか。

 

「母が、魔術を捨てようとしている、だと?」

 

 させない。させるわけにはいかない。己を作り上げたあの女が、魔術師の夢を作り上げた女が、逃げることなど、今更出来るわけがない。

 そう、俺はつまり、母親の業を証明させるために戦うのだ。俺が生まれたことによりどれだけの災厄が生まれ、どれだけの命が犠牲になるのか。

 なるほど、と左霧は納得してしまった。驚く程気持ちの良い清々しい気分だ。単純明快な結論に行き着いた。

 自分はただ、傷つけてしまいたいのだ、グチャグチャに。あの女の理想とやらを。

 

「助けて! お願い! 誰か!」

「逃げんじゃねぇ! ヘヘヘ、バカな奴だ。ここなら誰にも見つからねぇ! おい、ヤッちまえ!」

「いやぁ! お願い! 誰か助けてぇ!!」

 

 知らずに、森を彷徨っていた。頭がズキズキと疼く。気がつけば既に薄暗く、森は鬱蒼として、何人たりとも近づくことを許さないかのように見えた。

 女の悲鳴が聞こえたことで、咄嗟にその方向に体を動かす。近くまで来てみると、どうやら数人の男が寄って集って女に群がっているようだった。一人が馬乗りになり、女の衣服を破き、丸裸にしている。男は獣のように息を荒くし、周りの人間も同様にその情景に興奮を隠しきれないようだった。

 弱者を強者が虐げる。弱肉強食の世界。魔術師はその背景が色濃く映し出されている。実際、霧島家に乗っ取られた天王寺だって、少なからず許されている部分もあった。瑠璃もそれには目を瞑り、沈黙を決めていたはずだ。

 

 

「お前が悪いんだよ……俺から逃げるから……弱いくせに俺に逆らうから」

「お願い、許して……いや、こんなのいやぁ!」

 

 なるほど、男の言うことは間違ってはいない。女は男に対抗する術を持たないまま、こんなところまで逃げてきたらしい。浅はかな知恵と恐怖心、誰を縋ろうとする胸糞の悪い叫び声が何とも心地よい。このまま黙っていれば絶望の瞬間を垣間見ることができるかもしれない。

 だが、左霧は無意識のうちにノロノロと男たちの前に現れてしまった。

 

「おい、誰だお前!?」

 

 一人の男は驚きの声をあげた。しかしそれはやがて歓迎の声へと変わった。それはこの森では何があってもバレることはない、見つかることはない、という固定観念に縛られているからだ。

 

「おい、そいつも姦せ! スゲェ! 超美人だぜおい!」

「神様が俺たちにやれって言ってるんじゃねぇか!?」

 

 左霧は男達に小突かれて中心に立たせられた。女は怯えきっていて、何も言葉にすることができない。愚かなことに、少し安心したように頬を緩ませている。絶望を分かち合う仲間を見つけたとでも言いたいのだろうか。

 

「さぁて、お楽しみと行きますかね……」

 

 再び男は女を押さえつけた。女はもう抵抗することはない。何もかも受け入れたように諦めきっている。

 この女は母親と同じだ。理不尽も屈辱も受け入れ、ただ停滞した時を過ごすだけの愚かな母親と、そっくりだ。

 

「さぁお嬢さんも脱ぎ脱ぎしましょうね♪ すっげぇ胸! 弾力も半端ねぇ!」

 

(左霧! ぼぅっとしてないで! 嫌よこんなやつに好き放題されるなんて!)

 

 同化している精霊が不満を口にした。左霧としてはいくら体を触られようが何も感じることはない。犬がじゃれているような感覚でしかないのだから。

 

(ちょっと、聞いているの左霧!? 左霧ったら!)

「うるさい」

「あぁ!? 何だとてめぇ!? こらぁ!」

 

 頬を軽く叩かれた。それが妙におかしくてクツクツと笑ってしまった。非力でいて、そのくせ人を虐げることに快楽を見出した者。本気で悪者になることができない、中途半端な者たち。

 

「どっちがいい?」

「あぁ、何言ってんだてめぇ? もう一発喰らいてぇのか?」

「どっちがいいかと、聞いているのだ」

「お前とその女のどっちがいいかってことか? てめぇに決まってんだろ! こんなイイ女ヤれるなんて俺はついてるぜ!」

「そうか、欲張りな奴だ」

 

 左霧は馬乗りになっていた男からゆっくりと体を動かす。それを見て、無理矢理男は左霧を上から押さえつけようとするが、何故かビクともしない。有り得ない、こんな非力そうな女が自分を持ち上げていることに。

 

「ひ……な、なんだお前!? おい、早くこの女を抑えろ!!」

 

 男は叫ぶが、周りは何故か動くことが出来ない。目の前の女から異様な気配を感じ取っているのだ。

 近づけば、ただではすまない、と。

 

「お前の言っていることは間違っていない。その欲望のままに従う純粋さも、俺は好きだ」

「ひ……いてぇよ、た、助けてくれ……」

 

 ギチリと骨が軋む音がした。それを無視し、左霧は男の腕を更に九〇度回転させた。断末魔が森に反響する。もちろん誰も助けてなどくれない。ここは、烏の森なのだから。

 

「だが、一つだけ違っているぞ。――――俺は男だ」

 

 反対側の腕もへし折った。男は再び断末魔を上げ、涙と鼻水を垂れ流す。小便の匂いが辺りに充満した。

 

「おい、やべぇよあいつ!! に、逃げようぜ!」

「馬鹿、あんなイイ女放っておくのか!」

「お、俺は逃げる、勝手にやってくれ!」

 

 逃げようとした男の足が切断された。なぜなら、既に女は目の前に現れていたからだ。手を横になぎ払い、男を二度と立ち上がれぬ体へと変えてしまった。

 

「あ、あ、ああああああああああああああああああ! 足が、足がぁ!!」

「ば、化物だ! た、助けてくれ、な、ほんの出来心なんだよ! 命だけは許してくれ!」

 

 残ったものは許しを願った。既に逃走は諦めてしまったのだろうか。久方ぶりに鬼ごっこも悪くはないと思っていたのだが。左霧は村雨と命かけの鬼ごっこをした日を思い出す。あの時のスリルに比べれば遥かに劣っている。

 

「安心しろ、命は取らん。約束したからな」

 

 女との約束は守る。しかしそれはなんて残酷な約束だろう。

 

「ほんのちょっと、生きていくのに苦労する姿になってもらうだけだ」

 

 烏の森は静寂に包まれた。

 左霧は夜空を見上げる。腕は返り血で真っ赤だった。

 化物――――魔術を使わずともこんなことが出来るなど化物以外にあるまい。

 殺戮衝動を懸命に押さえつけ、頭に昇った血を抜くように深呼吸を繰り返した。

 

「――――っ――――っ」

 

 女は相変わらずすすり泣きを繰り返していた。左霧はゆっくりと近づき手を伸ばす。

 

「いや……殺さ、ないで」

「こらこら、何を言っている。お前を森から出してやろうという親切心だ。ここから北に行けば外に出られる。さっさと行け、俺は弱い奴が大嫌いだ」

 

 女は転がるようにその場から去っていく。さっきまで腰を抜かしていたのに調子のいい女だと呆れてしまう。

 

「ハハハ……こんなに優しげに話しかけているのに失礼な女だ。もう二度と助けてなどやらん」

(左霧、顔、よく見なさい)

「ハハハ……あ?」

 

 水たまりに映し出されたのは紅い双眸と邪悪な笑みを零している一人の化物だった。

 

「ハハハハハ……くそ、笑いが止まらん。なんだこれは」

(……神降ろしの影響よ。あなたは闘神に近づいているの。あの時の術を使えば、それだけあなたは神へと変わっていく……)

 

 自分が自分でなくなっていく。そんな感覚に戸惑いながらも左霧は前を見据える。例えそうだとしても何の影響もない。喜ばしいことではないか。

 

(左霧さん)

 

 だが、何故だが左霧はその力を使うことに躊躇してしまった。

(左霧さんは、私が守りますから)

 

 それは、何か取り返しのつかない大きな間違いを冒しているような気がしたからだった……。 

 



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すれ違いと優しさ

 それからしばらくして、雪子は霧島家から足を遠ざけていった。理由はおそらくあの日の出来事だろう。それでいいと思った。あの女は己の覚悟を鈍らせる。助けてもらったことは感謝しているが、それゆえに自分の傍に置いておくことは許されないことなのだ。

 自分の行く道に、彼女の安息はないのだから。

 

 そんな矢先、ついに帝都から勅令が出た。ありがたくないことに、予想通りの結果となった。左霧は赤紙で書かれて文字を流し読み、そのまま華恋に手渡した。

 

「坂上家、ですか。確か当主は左霧様と同い年でしたね」

「坂上和也、久しい名だ。子供の頃、よく遊びに来ていた」

「戦うのですか?」

「ああ、瑠璃の話だと、討伐の編成会議の際に率先的に手を挙げたらしい」

「まぁ……友情とは儚いものですね」

「そうだな。最も、あいつは俺ではなく――いやこれは野暮な話か」

 

 坂上は、天王寺と並ぶ古い旧家だ。非常に危険とされる雷の魔術を操り、その地位を確実なものとしてきた。雷は一度浴びれば、タダでは済まない。魔術の中でも扱いにくい部類に位置する。

 

「ここで、詰めてくるか」

「左霧様、今からでも遅くはないのでは?」

「華恋、お前まで戦争をやめろというのか?」

「いいえ、雪子さんと仲直りするなら、今しかないかと」

「……そんなことはどうでもいいだろう」

「どうでもよくありません。これから毎日左霧様の憂鬱そうな顔を見る私の身にもなってください。ただでさえ、おかしな顔をなさっているのですから」

「おい、読者が不安がるようなことを言うな。俺はかなりいい顔をしている、はずだ」

「結局はご想像にお任せるしかないんですよね」

「それは……遺憾なことにな――――何の話だ」

「え?」

「は?」

 

 なんというか、この女中と話をするといつも調子が狂う。天然なのかわざとやっているのか、判断しかねる。

 華恋といえど、流石に忘れようとしていた女の名前を挙げたことには多少の反感を感じた。この程度のことで一々苛立ちを感じてしまう自分もいかがなものかと思うが、そんな考えすらできないほど、今の左霧は様子がおかしい。

 

「華恋、黙れ。もうその話は終わったはずだ」

「あら、都合が悪いとすぐそうやってお怒りなるところ、誰かさんにそっくりですよ」

 

 華恋を鋭く見据えた。いつもなら流せるくだらない冗談も今日はどうしてか上手くいかない。理由は明確、それが冗談ですまない話だと左霧が意識しているからだ。華恋はそんな左霧の心境を見抜いている。

 

「誰かさん、だと? それはあの愚かな母親のことを言っているのか?」

「あら、左霧様ったら、私は誰かさんとしか言っていませんよ? まぁ当たりですけど」

 自然と怒気を含んだ声色になった。華恋はわざと挑発したように笑みを作りながら、冷たい眼差しを左霧にくれる。まるで、お前なぞ怖くも何ともないぞ、と言われているような気がしてそれが余計に腹立たしかった。

 

「ひどい瞳ですね。赤々として、今にも襲いかかってきそうな獣のようです」

「……お前が、望むのであればそのつもりだが?」

 

 

 互いにここまで不穏な空気を発したのは初めてかもしれない。それは自分の柔らかい部分に触れてくる華恋を拒絶したいという左霧のわがままが原因なのかもしれない。

 家族同然であるはずなのに、そうであるが故に話したくないことがある。近すぎる相手には、弱みを余計に見せたくない。左霧の心境としてはこんなところだろうか。

 本当に甘い。皐月や神楽に坊ちゃんと呼ばれているのはそのせいもある。

 自分は強い存在なのだと思い込む。思い込まなければ前に進めない。弱い部分は全て隠し通さなければならない。弱みに付け込まれたくないから。

 この人は強かがりで本当に弱い人なのだと、華恋は昔から知っている。だから華恋はこの人のなだめ方を分かっている。

 

「左霧様、さぁ」

 

 華恋は自分の膝を叩きながら主を呼んだ。それが何の意味なのか、悔しいが左霧にはわかってしまう。小さな頃、本当に弱く毎日のように泣いていた頃。華恋にそうやって慰めてもらったことを思い出してしまった。

 

「何の、まねだ?」

「あなたを大人しくさせるには、女の肌が一番だと言っていましたから」

「……咲耶か?」

「いいえ――――右霧様ですよ」

「……そうか」

 

 その名前は特別な意味を秘めている。胸に秘めた微かな記憶が揺れ動く。名前を聞くたびに自らを奮い立たせようとする小さな野望の火が燃え上がる。

 

「あなたを動かすのは、昔も今も、あの方なのですね」

「……おかしなことだろうか。俺は、あの人ともう一度会うために、世界を壊そうとしているのだ」

 

 吐き出したのは誰にも言ったことのない願いのカケラ。神になることは、あらゆる願いを叶えるということ。それはどんなにやってはいけない禁断の願いすら、可能に出来る力を秘めている。

 ――――ただ。

 

「……左霧様、それはルール違反です。そんなことを言ってもあなたは絶対に諦めないでしょうが、それは願いの範疇を超えるものです」

「できないのなら、俺は世界を壊すだけさ。神どもですら恐れを抱かせるほどの闘神になる。そう、それしかないのだ……」

 

 いつの間にか華恋の前に横たわるように左霧は目を閉じた。懐かしい記憶にしばらく浸るのも悪くはないと思ったからだ。華恋は昔と全然変わらない。体の柔らかな部分も、世話焼きで毒舌な部分も、『自分を通して誰かを見る眼差し』も全ての時が巻き戻ったような気持ちになる。

 でも、決定的に違うことがある。

膝の右には誰かがいた。

その人は、弱かった自分を守り続けてくれた。

本来、存在するべきはその人だった。

 

「私は、あなたの中にいる……ずっと、一緒。だから泣かないで」

 

 最後は嘘つきだった。次に目が覚めたら、自分の体は自分ではなかった。その人はもうどこにもいなかった。

 代わりに、一匹の精霊が自分の目の前に現れた。

「…………淋しい、怖い、苦しい、妬ましい、おぞましい」

 

 ありとあらゆる呪怨を口に出し、世界を呪おうとしていた。精霊に体はなかった。ユラユラと揺れ動く濁った光を放ち、彼女は左霧の下に寄ってきた。

 己とあの人が命をかけて作り出した、人工精霊。

 それがこんな気味の悪いものなのか。

 あの人は、こんな物のために。

 こんな奴のために……。

 

 

(左霧、私を作ってくれてありがとう)

「その声で、俺の名を呼ぶな。お前はただ、俺に従っていればいいんだ。俺に従い、そして朽ち果ててしまえば……」

(うん。ずっと一緒だから。ずっと離れないから)

 

 おめでたいやつだ。頭の中も花畑なのかもしれない。出会った時からずっとこんな調子だった。彼女は自分の名前すらない。生まれたばかりの赤子同然だったからだ。

 母親は彼女を右霧と名付けた。それが余計左霧が彼女を嫌う原因になったのかもしれない。

 いずれにせよ、この精霊は左霧の人生を滅茶苦茶にした。あの人を犠牲にし、妻を殺し、それでもなお、己と共に居続ける生き地獄のような日々を繰り返し続ける。

 その中で、雪子という少女は唯一左霧を癒してくれた、のかもしれない。

 咲耶という女に惚れ、ひと時の間だけ成すべきことを投げ出したことがあった。あの時の心地よさが舞い戻ってきたかのようだった。

 

「雪子……」

「あら、女の膝で他の女のことを考えているなんて、最低ですね」

「……さっき仲直りしろとボヤいていたのはどこのどいつだ」

「おや、する気になったのですか?」

「ふん……しないとずっとボヤかれそうな気がするからな。それに、心にわだかまりがあればこれからの戦いに支障をきたす」

「と、御託を並べておりますが雪子さんに会いたいだけなのでは」

「戦いに! 支障を! きたすから! さっさと会いにいってやるのだ仕方がなくな!」

 

 結局、華恋はからかいたかっただけなのかもしれない。それでも幾ばくか、心の枷を解いてくれたことに変わりはない。

 霧島家の全てを知り尽くした女、華恋。彼女ほど心強い仲間はいないと左霧は思っている。もちろん思っているだけで口に出すことはないのだが。

 

「私は、あなたがやりたいことをやればいいと思います。その先に何が待っていたとしても、ご自分の心と体を大切にしてくださるのであれば何も言うことはありません」

「言われなくても、そうする」

「それでは、一つだけ約束してくださいませんか?」

 

 左霧の髪を愛しげに撫でていた華恋は、不意に左霧の頭部を抱きしめ、瞳を潤ませながらたった一つの願いを口にした。

 

「神になっても、人であっても、私を置いていかないでください。もう、一人ぼっちは嫌なのです」

「――――ああ」

 

 曖昧に左霧は返事をした。それだけで華恋は心が満たされたのだろうか。それからはただ黙ったまま再び左霧の髪を撫で始めた。

 左霧は複雑だった。自分と共に生きることは、彼女の生き方に反するものだからだ。それでも彼女は自分についてきてくれるというのだろうか。それが叶うのであれば、そうありたいと願った。

 

 

 

 

 

 

「雪子さんはモテモテだったんですよ左霧様。皇帝から直々に言葉を賜ったんですから」

「べ、別にそんなんじゃ……」

「私の下に来てくれませんか? あなたならきっと素晴らしい魔術師になれると思います! なんてプロポーズじゃないですか」

「る、瑠璃! いい加減にしなさいよ。もう緊張して何が何だか分からなかったんだから」

「左霧様、どうしたんですか? そのようなところに立ったまま? どうぞ隣の席に」

「……私の屋敷なんだけど?」

 

 雪子は書類の山に埋もれた部屋で瑠璃と共にお茶を飲んでいる。

 二人と見目麗しい少女たちがティーカップを手にする仕草というのは、何とも絵になる光景だ。

 最も、今この場にいる男というのはそんな感性など欠片もない。

 楽しそうに笑い合っている子供たちを冷めた目で見るどこぞのサラリーマンのような気分なのかもしれない。俺も、あんな頃があったな、みたいな感じの。

 

「……総会は、滞りなく終わったのか?」

「左霧さんには関係ありません」

「関係ある」

「どうしてですか」

「どうしてもだ」

「ただお喋りして、お茶を飲んで、自分たちの情報を交換し合っただけです。そんなに気になるなら、行けばよかったじゃないですか」

 

 雪子は左霧に見向きもせずに、ただ淡々と書類に目を通している。その姿は立派なキャリアウーマンだ。室内ではメガネを着用しているらしく、時折ずり下がったメガネを何度も直しながら一枚一枚に印を押す。

 

「左霧様、坂上家の話は聞きましたか?」

「ああ、問題はない。本家とも連絡をとってある」

「まぁ、相手は坂上の坊ちゃんですから。そこまで固くなる必要もありませんか」

「……年上に向かって坊ちゃんなどと言うな。だが、その通りだ。あの程度の勢力、何の問題もなく叩き潰せる」

 

 瑠璃は涼やかな顔を崩さず、優雅に茶を嗜む。この少女と死闘を繰り広げた左霧なら分かる。

 瑠璃は帝国魔術師の中で最強である。自分の実力を過信するつもりはないが、左霧とて魔導兵というポテンシャルを最大限に活かしてもなお、勝つことが難しかった。遠距離からは溢れんばかりの魔術を繰り広げ、中距離からは黒龍と共に攻守兼ね備えた技を繰り出し、苦手とする接近戦に持ち込むことが出来ない。

 例え、接近戦になったとしても、彼女の防御壁を砕くことが出来なければ話にならない。

 防御壁を破ることは、魔術の質で勝つということ。

それは、左霧でも不可能なことだ。左霧は認めている。魔術師として彼女に勝つことは出来ないことを。

 だから左霧は神降ろしを使った。卑怯な方法で、彼女のプライドを地に落としたのだ。

 それと同時に、当主という責務からも、鬱屈した感情からも、間違った戦いの意味からも。

「左霧様、私をお使いください。坂上ごとき、瑠璃一人でひねり潰してやりましょう」

「……人が死ぬぞ。お前は雪子と約束したのではないのか。平穏な学園生活を送る、と」

「……それは……左霧様、まさか」

「学園に残れ。瑠璃がいなくとも俺一人で十分だ。精鋭もいる、何の心配もない」

「左霧様!! 何をおっしゃいます!? る、瑠璃は左霧様の妻ではないのですか!?」

「違うわ!」

「愛人ではないのですか!?」

「……違う、従者だ」

「……その論議はまた今度に。とにかく、納得いきません。私は魔術師です。確かに雪子さんと約束はしました。平穏な学園生活を送ることを。ですが、私はあなたの従者でもあるのです。あなたが戦うというのであれば、地獄でも天国でもついて行きます」

 

 瑠璃の目は真剣だった。

若々しく愚かしいくらいに澄んでいた。

それならば尚の事少女の目を濁らせることなど出来るはずがない。

左霧が瑠璃を従者にした理由は『別に』あるのだから。

言うことを聞く便利な従者など、最初から欲してなどいない。

自分の夢の礎にすることなど絶対にやってはならない。

 

「主の言うことが聞けんのか、瑠璃」

「……左霧様、どうされたのですか? それでは暴君です! 私は言うことを聞くだけの従者になるつもりなどありません!」

 

 その通りだ。本来、お前は俺の傍にいるべきではない。だが、誰かが傍で見守っていなければ、また同じ過ちを犯す可能性もある。

左霧は瑠璃の弱点を知っている。

寂しがり屋なところだ。

彼女は頂点に立っているが故に、孤独だ。

でもそれは瑠璃がそう思い込んでいるだけだ。少し視野を広げれば、そんなことはないと気がつくだろう。

 今は、左霧に依存しているだけ。要は、誰でもいいのだ。

 

「瑠璃、放っておきなよ。左霧さんがいいって言ってるんだし」

「雪子さん、でも」

「それよりさ、また魔術の特訓付き合ってよ。今度はセーレムを巨大化させるようなのがいいな」

「私は巨大化などしたくない!」

「……分かりました。付き合いましょう」

 

 セーレムがいきなり出てきたことをきっかけに、二人はどちらともなく立ち上がり、庭へと足を運んでいった。雪ノ宮家の庭は整備してあり、昼の陽気に誘われてとても気持ち良さそうだった。

 良さそうだったというのは、左霧はその方へ行くことはなく立ち去ったからだ。当たり前だ、これ以上話すことなどないわけだし、気持ちのいい話に花を咲かせていたわけでもないのだから。

 

「雪子――――その」

「左霧さん、気をつけてね。怪我、しないように」

「……ああ、俺に限ってそんなことはない」

「そう、ならいいの」

 

 それは喋るなという、拒絶だ。雪子は左霧の問いを遮り何も言うなとプレッシャーをかけた。

 自分ならまだしも、瑠璃をも傷つけた左霧に怒りを通り越して、呆れてしまったのだろう。

 どうしてだろうか。戦うことも、争うことも、全ては願いを叶えるためだと決めたはずなのに。

 一人の女に始終無視されたことが、ここまで堪えるなんて知らなかった。

 そういえば、妻に無視された時もこんなモヤモヤが左霧を襲ったのだったか。

 その時は、確か村雨に慰めてもらった。あの馬鹿女は時折大人びたように左霧に語りかける。実際、かなりの歳を食っているのだが。

 

「華恋に報告しなければ」

 

 その後、左霧は家に帰り、華恋にその話をした。

 華恋は何も言わず左霧を抱きしめた。

 自分の本当の気持ちを知ってくれる人がいるということは大切なことだと知った。

 

「おにー様が華恋に甘えてる!? いいなぁ! いいなぁ!」

「桜子、帰ってきたら手を洗ってうがいをしなさい。最近インフルエンザが流行っているからな。体調管理のできない者はクズだと教えたはずだがな」

 

「だが、断る! 突撃となりの昼ごはん!」

「ぐはぁ! 我が血縁ながら、恐ろしき女よ……」

「……ホントに、あなたの血縁は微笑ましいかぎりです」

 

 守るべき者がいるというだけで、力が湧いてきた。

 小さな体に乗っかられながら、左霧はしばしの休息を楽しむのであった。

 

 

 



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屈辱、忘れぬ

 男は歓喜した。

先の総会にて遂に念願の勅令が出されたことに対してだ。

願ってやまない、この日のために全てを捧げてきた男にとって、今日ほど食の進む日はない。現に、男は三枚目のステーキを右手のフォークで抑えながら食らいついている。

そして左手に持ったナイフには、男の殺したくてやまないある人物が映し出されていた。

写真は幼い頃の自分自身も写してある。ひ弱で、脆弱だった頃の自分を思い出すと虫唾が走るが、それでもこの頃の思い出が、何よりも自分という存在をこの世に生きながらえさせることできた唯一の宝物になった。なってしまった。

 

「左霧……霧島、左霧」

 

 忌まわしき名前を言葉に出す。幼少期から奴のことが大嫌いだった。その性格は傍若無人で常に色んな女と共にいた。

笑顔など見せたこともなく無愛想で無口。おまけに根暗ときた日には絶対に関わりたくないと思っていた。

あの人に出会うまでは。

 

「左霧、おいで」

「…………」

 

 一瞬で恋に堕ちた。

 男にとっての初恋。

 その少女は白いワンピースを着ていた。髪は大嫌いなあいつと同じ真っ黒な色。歳は男よりも少し年上でスラッとした綺麗な肢体が魅力的だった。

 きっと、今も生きていたら絶世の美女として名を広げていただろう。だが、男にとってそんなことは二の次だ。

 笑顔。

 彼女の笑顔が大好きだった。

 自分にだけ見せてくれるあの満面の笑顔が、大好きだった。

 

「和也君、偉いね。また学校でかけっこ、一番だったんだね」

「うん、おねーちゃんのために頑張ったんだよ」

「わぁ! そうなの! ありがとね! 和也君が左霧の友達でよかった……」

 

 少女は屈託のない笑みを浮かべて憎たらしい奴の名前を呼んだ。

 奴は屋敷からひょっこり出てきた。体は歳をとるごとに丸みを帯びてきて、まるで女のような姿になっていく。気持ち悪いと思った。死ねと思った。いなくなれと思った。だけど少女の手前そんなことは言えなかった。

 なぜなら。

 

「左霧……私の左霧」

 

 少女の笑み。

 少女の手

 少女のぬくもり。

 少女の全て。

 あの人の存在そのものは、

 奴のためにあったのだから。

 

「相変わらず気持ちの悪い体だな、左霧」

「和也……少し痩せたか」

「痩せもするさ……毎年功績をあげ、皇帝に嘆願しているというのに、いつも棄却された。あの日から毎年、毎年だ。ただ、ただ、そのために俺は生きてきた……」

 

 写真に突き刺さった男は、目の前に大人となって現れた。あの日と変わらない瞳。あの日と変わらない憎たらしい性格。

 大人になっても何も変わりはしない。

 坂上和也は、霧島左霧が大嫌いである。

 唯一、変わったとしたら。

 もう、少女がこの世にいないこと。

 あの日は戻ってこないこと。

 つまり、こいつを生かしておく必要がないことだ。

 

「やっと勅令が通った。俺は勝った。お前をこの世から殺す日を待ちわびていたんだ」

「殺したければいつでもかかってくればいい。わざわざ勅令を待っている辺り、お前らしいな」

「知ったような口を聞くな、障害野郎。社会からも魔術師からも爪弾きされた劣等人種の分際で」

「……そうやっていつも俺を蔑んでいたな、お前は」

「本当はあの人の前でお前をボコボコにしてやりたかった。俺の方がいいと、俺の方が君にふさわしいと、俺の方が愛される資格があるのだと」

 

(気持ち悪い……何あいつ)

 

 右霧は目の前の男を軽蔑した。

完全に自分に酔ったナルシストだった。

 何でこんな男に会いにいかければならなかったのか。

 それは至極簡単だ。王たるもの、宣戦布告せずして戦争はできん、という左霧のメンドくさい性格が災いしたためだ。

 右霧と左霧は体を共有した魔導兵。聞きたくなくても男の耳障りな演説が聞こえてくるのだ。

 左霧との会話が聞こえている、ということは左霧が魔術回路を開いている証拠だ。いつもは固く閉ざし決して己との会話を聴かせることなどしないはずなのに、どうして今日に限って――――。

 こんな遠路遥々、汽車を繋いで会いにいく程の価値などあったのか。

 

「結婚はしていないのか?」

「そんなくだらないことを聴きに来たのか? 相変わらず劣等種だな、お前は」

(左霧、あいつムカつく。殺そうよ)

「黙っていろ」

「何だと?」

「いや、こっちの話だ」

 

 基本的に精霊である右霧の声が他の者に届くことはない。周りにはいきなり暴言を吐いたおかしな男としか映らないのだ。

 和也はこちらを睨んでいたが、特に気にしたふうもなく再び蔑みの目で左霧を見下ろした。

 

「お前は結婚したんだってな。お前に似てさぞブサイクな女だったのだろう」

「俺にはもったいないくらいのいい女だった」

「確かに、メス犬にしてはなかなかのようだったな――――調教のしがいがあった」

 

 いつからこんなに歪んでしまったのだろうか。おそらく最初からそうだったのだろう。

 和也は左霧と二人きりの時は、しきりに暴力を振るった。流石に魔術を使うことまではしなかったが殴られ、蹴られの散々だった。これがまた、見た目では分からないところを執行に狙うからたまったものではない。今でも体の節々に和也からの暴力の痕跡が残っている。

 昔から、人をいたぶることに関して和也の右に出る者はいなかった。

 とんでもない下衆と知り合ってしまったことに左霧は溜息をつく。

 

「お前の女はな、俺を見て怯えていたな」

「そうなのか?」

「ああそうさ。おそらく俺の魔力にビビっちまったんだな。悪いことをした。お詫びに犯してやったよ」

「そういう冗談はあまり関心できんな」

「つまらない奴だ。咲耶、とか言ったか? 平凡な、ただの平凡な人間だったな」

「俺はそこがよかった。あいつの普通なところが何とも」

「――――黙れ」

 

 

 外はいつの間にか真っ暗だった。ゴロゴロと雷の轟く音が遠くから聞こえてくる。それが段々近づいてくるのは、おそらく聞き間違いではない。

 なぜなら、坂上和也本人が、電撃を纏っていたからだ。

 金色の髪を逆立たせ、怒りに体を震わせていた。既に食事の時間は終わり、食後の運動とでも言いたげな様子だ。

 

「今日は挨拶に来ただけなんだがな」

「黙れ黙れ黙れ!! さっきからお前の声が汚らしくて耳障りなんだよぉ! もう喋るんじゃねぇよクソ野郎が!」

 

 雷撃が左霧を襲った。咄嗟に身を翻し焦点から体を僅かに逸らす。

 狙っていた。殺しに来ていた。脅しではなく、確実に。

 冷静なやつだとは思っていなかった。

 思いを馳せはいつもいきなり襲われた。左霧に殺戮衝動があるように彼には破壊衝動があるようだ。

 実は共通点が多いことに左霧は好感を持っていた。だからずっと耐えてこられた。

 

 

 ――――例え、あの人が全て分かっていたとしても。

 左霧は、坂上和也を唯一の友達だと思っている。

 

 

「てめぇは……あの人に愛されるだけじゃ、足らなかったとでも言うのか?」

「満たされた。そして失い。それを補うように、俺は結婚した」

「許さねぇ、絶対にだ。俺は、お前を地獄に叩き落とす。そしてあの人に認めてもらうんだ」

「もういない者にか? どうやって?」

「黙れっつってんだろ! 天国でも見てるさ! 俺がお前に勝つところを! その勇姿をな!」

「現実的ではないな。俺はあの人に会いにいくぞ。闘神になってな」

 

 和也は開いた口が塞がらないかのようにしばし左霧を呆然と見ていた。

 長い年月は、彼の心を壊した。復讐心に駆られ、霧島左霧を殺すことだけに囚われて生きてきた。

 

「そうか……お前も」

 

 和也は初めて男に対して同情の感を示す。魔術を中断し、再びゆったりと席に腰を下ろした。

 

「帰れ。今日は土足で俺の城に上がったことを、許してやるよ」

「寛大な処置、感謝する。いずれ、相まみえよう、旧友よ」

 

 旧友という言葉に訂正を示したかったが、それすらも今はどうでもよかった。

 なぜなら男は今さっきまで憎たらしくて殺したかった男が急に可哀想になってきたからだ。哀れで、脆弱な、ただのさみしい男の姿だったからだ。

 

「闘神? 気でも狂れているとしか考えられん」

「……そうかもしれない。俺自身、俺の行動に意味があるのかすら分からない。だが、俺が生きる意味は、今も昔も変わることはない。俺は――――あの人に」

「――――言うな、左霧。それ以上の言葉をお前に言わせるわけにはいかない。お前はあの人を亡き者にした。お前はあの人を奪った。お前は――――人殺しなんだよ」

 

 和也は穏やかな口調で語る。それは幼い子供が駄々をこねているのを説得しているかのようだ。

 左霧は和也の言葉に何も言うことは出来なかった。和也の言葉は正しく、自分の言っていることは狂人の戯言なのかもしれない。自分の生は誰かの犠牲の上に成り立っていること。

例えそれが自分の意思とは関係のないところで起きていたとしても。

左霧の命は、かけがえのない一人の女性の命を使って生まれた物。

「お前なんて死ねばよかったんだ……どうしてあの人が死んで、お前何かが」

「何度も考えた。俺はなぜ生きているのか、どうして俺だけが取り残され、あの人がいなくなってしまったのか……」

「それで、答えは見つかったのか」

「分からない。だから俺は闘神になる。あの人の魂を再びこの世に呼び戻すために」

「――――――愚かな……それが、お前の贖罪になるとでも?」

「贖罪、か。そうだな、それが俺の罪だ。俺が生きていることそのものが、罪だ」

 

 長い時間の中で幾度も考えた。どうしたら自分の映し出す世界が色とりどりに輝くのか。

 キラキラと輝いていた時間を取り戻すことが出来るのか。

 逃げ出したこともあった。

 代わりに縋る者と過ごした時間があった。

 だが、その心の根底ではいつもあの人の笑顔が左霧を救ってくれていた。

 間違った望みなのかもしれない。

 人を、生き返らせることなど許されないことなのかもしれない。

 例え、そうだとしても。

 愚かな魔導兵には決して譲れぬ願いがあった。

 

「この国の頂点に立つ。それが闘神に、神になる条件だ。和也、俺に協力してくれ。お前だって会いたいだろう?」

「――――会いたいね」

「なら」

「――――左霧よ。何か、勘違いをしているようだが」

 

 和也の眼差しには怒りが篭っている。それは先ほどの憎しみを抱き、左霧を殺したいと願っていた時とは違う。

 完全なる、敵に対する義憤からくるものだった。

 

 

「俺は皇帝直属の帝国魔術師だ。俺はお前を処分しろと命令されている。この勅令が覆されることは決してない。決して、だ」

「だが、お前はその勅令がなくとも俺を殺したくて堪らないのだろう?」

「そうだな――――確かにそうだ。俺はお前を殺したい。それは私憤から来るもので、勅令とは一切関係がない」

「しかしお前は勅令が出されるまで俺を襲うことはなかった。隙などいくらでもあったはずだ」

「――――俺もな、あの人を手に入れるんだ」

「何?」

「俺だけの、あの人を作るんだよ。禁じられた方法で」

「貴様……まさか」

「おい、何キレてんだよ? 俺もお前も変わらねぇんだよやっていることは。ただ、お前のやっていることは実現不可能で、俺のやることは簡単なだけだ」

「それをさせるわけにはいかない。それだけは、決してだ」

 

 自然と怒気を孕んだ声を発してしまった。常に己を律することを崩さなかった左霧だが、その言葉に対してだけは耳を疑わずにはいられなかった。

 いや、そもそもそれこそ不可能なことだ。まさか『魔導兵』を作ることはもう不可能ではないのか。それこそ、一〇〇番目の雪子で打ち止めではなかったのか。

 その生産方法は母親しか知らない。その母親は精神を壊し、秘法は失われてしまったのではないのか……。

 

「何を吹き込まれた、和也?」

「おいおい、妙なことを言うんじゃねぇ。俺は皇帝に成功の報酬を貰う約束をしただけだ」

 

 妙な胸騒ぎがした。

自分の知らぬところで得体の知れぬ何かが急激に動き出している。

「俺の任務はお前をこの世から排除すること――――だと思っただろう?」

「…………こ、殺してやる……! 外道がっ!」

「さっきも言ったがそれは私憤だ。俺が皇帝に出された本当の命令は」

「言うな! 貴様、貴様――――!!」

 

 左霧は怒りで頭がおかしくなりそうだった。

 どうしてだ。どうしてこうなる。

自分の傍にいれば危険だから遠ざけた。

迷惑をかけるからわざと突き放した。

もう、失うものを見たくなかったからだ。

彼女たちが傍にいるだけで力が湧いてきた。

彼女たちの笑顔が左霧を闇から救いあげてくれた。

 

「弱くなったな、左霧」

「どうしてだ……どうして俺じゃない? お前の目的は俺じゃないのか……俺の命だったのではないのか!!!」

「お前の命なんざ、いつでも奪い取れる。俺はお前のその、苦しみにのたまう姿を永遠に見ていたい。だからお前の最も大切にしている物を壊してやりたいんだよ」

 

 和也は穏やかな笑顔で床に座り込んだ左霧を見下ろした。

 穏やかで、静かな、どす黒い悪意が今度こそ伝わってきた。

 

 見誤っていたのか、この男を。いや、違うと左霧は訂正した。

 見誤ったのではない。見損なったのだ。

 かつて少年だった頃よりも尚、この男は下衆に近い存在と化したのだ。

 権力を持ち、財力を持ち、今左霧の目の前に現れた男を、今度こそ倒すべき相手と認識した。

 和也は一枚の写真を左霧に見せた。

 そこには穏やかな表情で眠っている一人の少女。そのお腹の上でヨダレを垂らしながら眠りこけている可愛らしい小さな少女。

 

二人の人質が映し出されていた。

 

 

 

 

「交渉だ、左霧。さっさと屈服しろ。お前が魔導兵の研究に協力してくれるのであれば、彼女たちは解放しよう、と皇帝は仰っているが……俺は嫌だ。お前を殺し、その女を犯し、お前の娘を永遠の慰み物にしてやりたい」

 

 交渉の余地など一切なかった。左霧はゆっくりと立ち上がり呆然とした表情で前を見つめ続けた。光を失い、目には生気が篭っていない。

 

「本当に……弱くなったよお前は。作らなければ良かったんだよ。自分の弱みになるものなんざ」

 

 そうだ、作らなければよかった。

 こんな思いをするくらいなら。

 敗北を味わうくらいなら。

 自らの願いの邪魔にしかならない存在なら。

 いっそ切り捨てても――――。

 

(ダメよ、左霧)

(……なに?)

(諦めてはだめ。あなたは闘神になるのでしょう)

(そうだ……だからここであいつらを切り捨てる。それが神になる方法で)

(しっかりしなさい。あなたは神になるんでしょう? 人一人、救えなくて本当に神になんてなれるのかしら? あなたは本当にそれを望んでいるの?)

 

 驚いたことに。

 誰よりも憎むべき対象である精霊から説教を受けてしまった。

 その声は、そう、大切なあの人と同じ声で。皮肉なことに、その言葉もあの人が言いそうなことだった。

 

(――――さん)

(え?)

(お前に言われるまでもないと言ったのだ。わかったらさっさと引っ込んでいろ)

(もう、ツンデレなんだから、きゃ!)

 

 魔術回路を切断し、無理矢理音声を切った。今の会話が和也に聞かれることはない。

 左霧は再び体を折り、床に足をついた。

 そして雄叫びのような悲痛な声で下劣な笑みを浮かべる犬畜生に懇願したのだ!

 

「言うとおりにする! だから頼む、この子達を開放してくれ!」

 

 全力で頭を冷たい大理石にぶつけた。体を丸め、心を縛り上げ、目線は常に下を見るばかり。

 震え上がった。自分が土下座をしていることに。自分が今、底辺の存在になっていることに。

 

「嫌だ」

 

 殺してやる殺してやる殺してやる。

 屈辱で噛み締めた歯が砕けそうだ。

 耐えろ、霧島左霧。抑えろ、霧島左霧。

 

「――――と言いたいところだが、いいだろう。今回はお前の情けない面が見れただけで満足だ。人質を開放してやる、好きにしろ」

「ほ、本当か? ぐっ!」

 

 僅かに上がった頭を無理矢理上から押さえつけられた。和也の革靴が頭部をギリギリと圧迫し強烈な痛みが前後から襲いかかる。

 

「分かっているのか、左霧? お前は負けたのだ。つまり、霧島家は俺の物だ。今後は俺の言うとおりに動いてもらうぞ、それを約束しろ」

 

「――――ああ、約束する、だから彼女たちを」

「犬が俺に命令するんじゃねぇよ! 忠誠を誓え、俺に二度と逆らわないと」

 

 差し出されたのは汚らしい男の足だった。

 左霧は顔色を変えずにその靴にキスをした。傍から見れば見目麗しき美女が、男に頭を垂れているように見えるだろう。

 和也は十分に満足したらしく左霧を蹴り倒し、その姿を嘲笑った。

 

 

「今日は最高に気分がいい! 犬は大人しく自分の家に帰るがいい! だが、明日からお前の体は俺の物だと言うことを忘れるな。その心も何もかもだ!」

「――――はい」

 

 左霧は主人に対して深くお辞儀をし、和也の前から去っていった。

 その姿はまるで負け犬が逃げていく光景に、和也には見えた。

 

 忘れぬぞ、坂上和也

 この屈辱を。

 

 男の赤い瞳は、残念ながら後ろ姿を見送っている和也には見ることができない。

 

 左霧はこの日、敗北を噛み締めることになった。

 そしてここに誓った。

 必ず数日で己の前に引きずり出し、同じことをさせるのだと。

 その時は、倍返しだと。

 

 

 



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