人生の価値とは、所詮その程度の物。 (兎一号)
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学園文豪ストレイドッグス
桜の木の上には……


この小説には、自殺の表現があります。

自己判断で読んでください。


 春。

 

 それは出会いの季節。なんてロマンティックな言葉で飾りつけられる桃色の季節だ。則のきいた真新しい制服を着た新入生が心を躍らせ、少し不安な心持で各々の通学路を通ってこの学校に来る。

 

 今日も今日とて、やる事は変わらない。足のつかないその場所でブラブラと足を前後に動かして、忙しなく学生生活を満喫している彼らを観察する。何処に置き忘れてきたのか、靴を履いていない素足が今日も空気を掻き回していた。

 

 

「知っているかい?」

 

 一人の学生が新入生にそう話しかける。真剣な表情をする先輩の声に新入生は思わず息を飲む。

 

「この学校の中庭に大きな桜の木があるだろう?」

「はい、ありますね。」

「あの桜は呪われているんだ。放課後、あの桜に近付いて行けないよ。」

「何でですか?」

 

 出会ってそれ程時間は経っていないが、こんな真剣な表情をするような先輩では無い。だから、新入生はその意図を知りたかった。それは人の好奇心でもあった。分からない物は怖いし、知りたい。

 

「どんな呪いが掛かっているんですか?」

「どんな願いでも叶えてくれる。その代わり、死んでしまうんだ。その子の代わりに天国へ行かなければならなくなる。」

 

 新入生はパチパチと瞬きをした。そして首を傾げた。

 

「どんな願いも叶うんですか?」

「そうらしいよ。放課後、あの木の上には女の子が座っている。その女の子が話しかけて来るが、決して答えてはいけない。女の子はほんの些細な願い事も叶えようとしてしまうからね。」

「太宰さんは、その女の子に会った事は無いんですか?」

「残念ながらね。会えていたのなら、私はとっくの昔に自殺を成功させているだろうよ。」

 

 季節外れの怪談に新入生は恐々とした。

 

 散々脅された新入生は、その日からあの桜の樹に近づくことはしなかった。満開の桃色の花弁が舞い、地面を染め上げる中、新入生はそこから目を背け続けた。生徒会の担当教師に事実を確認しようとしたが、どうもこの手の話は眼鏡をかけた彼は取り合ってくれなかった。

 

「あれ?」

 

 新入生は偶々目に入った副校長の姿。すっかり花が散ってしまい、桃色から緑色へと木の色が変わったころの事だった。あれだけ過ごしやすかった日々はすっかり湿っぽくなり、毎日のように降る雨に飽き飽きしていた。

 

 空は相変わらず薄暗く、限界まで湿度を蓄えた空気は重苦しい。そんな日に新入生は噂の桜の樹の下に副校長がいるの見つけた。彼は楽しそうに桜の木を見上げていた。口が動いている事から何かと会話しているようだった。しかし、翠の葉が生い茂ったその木の上に人の姿を見ることは出来なかった。ただ、ちらりと見えた真っ白な足がとても印象的だった。

 

「中島、何をしている。次は移動教室だろう。遅れるぞ?」

「織田先生……。」

 

 織田作之助。彼は国語の教育実習生としてこの学園に訪れた大学生だ。新入生、中島敦が再びあの桜の樹に目を向けたため、織田作之助も視線を桜に向けた。

 

「何かあったのか?」

 

 そこには先程までいた副校長の姿はなかった。中島敦は太宰治に言われた言葉を思いだす。天国に行くべき少女の代わりに、死んでしまう。もしかしたら、副校長は連れていかれてしまったのかもしれない。

 

「おい、中島!」

 

 行き成り走り出した中島敦を織田作之助は呼ぶ。しかし、中島敦が振り返る事は無かった。近くの階段を駆け下り、躓きながらも一階に降りる。そしてそのままあの桜の樹の下に駆け込む。そして桜の木を見上げた。しかし、そこにはあの真っ白な足は無かった。そしてやはり副校長の姿も無かった。

 

「行き成りどうしたんだ、中島。」

 

 中島敦の奇行に心配そうに織田作之助は彼を覗き込む。青ざめた表情で中島敦は彼を見上げる。

 

「ど、どどどどうしましょう!森副校長先生が……。」

「副校長が、どうかしたのか?」

「ふ、副校長先生が……、し、しし死んでしまったかもしれません!」

 

 中島敦の行き成りの発言に織田作之助は驚いた。あまり表情が変わらない彼だが、これは驚いている表情だと分かってしまうほどに表情が変化していた。あまりの驚きに言葉に詰まる織田作之助をよそに中島敦はオロオロと色々な事を口走っていた。

 

「取り敢えず、落ち着け。どうしてそう思ったんだ?」

「だ、太宰さんが言ってたんです。この桜は呪われていて、願いが叶う代わりに死んでしまうって。さっきここに副校長先生がいて、誰かと話している風だったんです。目を離した隙に副校長先生が居なくなってしまっていて……。」

 

 矢継ぎ早に中島敦は語った。織田作之助はそうか、と言うと

 

「職員室で、副校長を呼び出す様に放送を掛けて貰う。」

 

 その言葉に中島敦はコクコクと頷いた。授業に遅れるからと中島敦は織田作之助に急かされ、教室へと戻った。教室に戻るとともに流れる校内放送。放課後、織田作之助によって副校長の安否を知らされるまで、中島敦は木が気でなかった。その日の授業の内容など一切頭の中に張らず、挙句の果てには英語の担当教師に宿題と言う名の罰則まで出される始末だ。

 

 いつも冷たい同級生の赤毛の子にも、散々迷惑をかけてしまった。仕舞には心配されてしまう始末だ。自身の不甲斐なさと、先輩の言葉を信じ切った自身の思慮の無さに落胆する。

 

「それは災難だったね。」

 

 なんて他人事のように言う太宰治に中島敦は少しだけむっとした表情で彼を見上げた。

 

「太宰さんのせいですからね。どうしてあの桜の木が呪われているなんて嘘ついたんですか? 僕はてっきり副校長先生が連れていかれてしまったと思って……。」

 

 迷惑をかけてしまった織田作之助に対し、申し訳なさでいっぱいの中島敦に太宰治は全く心の籠っていない謝罪が投げかけられる。

 

「御免御免、許してくれ給え。」

「もう、良いでけど。」

 

 生徒会室からもきちんと見える桜の樹。そちらに視線を向けるとまた真っ白な足が見えた。目を擦り、もう一度見るとそこには何もない。

 

「あれはね、最近聞いた噂に尾ひれを付けてみたんだ。」

「噂、ですか?」

「あぁ。願いが叶うと言うのは本当だが、死んでしまうと言うのは私が考えた。」

 

 あっけらかんと言う物だから怒る気力も無くしてしまう。がっくりと肩を落とした中島敦。

 

「まぁまぁ、英語の宿題とやらを手伝ってあげるから。」

 

 そんな口車に乗せられ、中島敦はノートを広げ英語の宿題を始めた。

 

 

 

「やぁ、久しぶりだね。」

 

 太宰治はすっかり新緑に染まってしまった桜の樹にそう投げかけた。

 

「えぇ、お久しぶりですね。」

 

 暫く入院していた太宰治は漸く退院してきた。

 

 桜の木の中から言葉が降って来る。すっかり辺りは暗くなり、恐らく校舎の中に残っているのは宿直の警備員と彼だけだろう。そんな中で夜の暗闇の中ではっきり見える真っ白な足が空気を掻き回す。

 

「貴方、新しい子に意地悪したでしょう。」

 

 今日の事を咎めるように彼女は言った。真っ白な肌に真っ白な髪。欧米人らしい顔つきに、青紫色の瞳が真っ直ぐに太宰治を見下ろす。ムスッとして大きく頬を膨らませている彼女の子供らしい表情に太宰治はニコニコと笑みを浮かべた。

 

「何の事だい?」

「あら、惚けたって無駄なんですからね。ほら、あの銀色の髪の子ですよ。確か、ナカジマ、でしたか? 今日、何だか凄く青ざめていて、可哀想だったんですから。」

「あぁ、その事かい? 織田作に小言を聞かされたし、安吾にも言われたよ。もう耳に胼胝が出来てしまった。」

「反省はしたのですか? ならば、私から何か言う事はありませんが……。」

 

 マリア・A・アンデルセン、と言う名の彼女はこの学校で知らない人間がいないほどの有名人だった。いや、彼女はもう人では無いから有名人と言うのは、些か間違いである。所謂、学園七不思議と言う物に数えられる彼女を時々探す人間が居る。実際、太宰治もその一人だった。元々、彼と仲の悪かった中原中也と言う生徒が、太宰治が隠した(無くしていた)大事なチョーカーの場所を絶対に見つけられないと思っていたのに、次の日にはそれを見つけていた事から彼にどうやって見つけたのかを聞きだしたのだ。そして中原ちゅやから彼女の事を聞きだしたのだ。そして太宰治も彼女の事を探し始めたのだ。

 

 そして昨年の3月。彼女を見つけた。もう30年以上も前、学園が定めていた旧制服のセーラー服を着ている彼女を見つけた。

 

「また、自殺に失敗してしまったよ。」

「そう、残念ですね。」

 

 太宰治は自殺をし、それが失敗する度に彼女にこうして報告に来ていた。彼女は決して太宰治に自殺をするなとは言わなかった。彼女が言うのは「次に期待しましょう」と言う言葉だけだった。

 

「君はどうやって死んだんだい? 私もその方法を試してみようかな。」

「残念ながら私は自殺をしたわけではありません。なので、貴方の力にはなれませんよ。」

 

 本当に申し訳ない表情を浮かべる物だから、何も言えなくなってしまう。

 

「自殺でないのなら、君は誰かに殺されたのかい?」

「はい、そうですよ。」

 

 太宰治は彼女に会ってから色々とこの学園の事について調べた。その中で出てきたのは、学園の女子生徒が34年前に行方不明になっている事だった。未だに居場所が分かっていない彼女。未成年という事で名前の出ていなかった彼女。新聞には、何らかの事件に巻き込まれた可能性があるなんて、書かれていた。

 

「君は犯人を恨んでいないのかい? 君には、これからたくさんの事を経験する権利があったはずなのに。」

「あの人を恨んではいません。」

「犯人とは知人だったのかい?」

「えぇ、とても優しい方でした。あれはそう、事故でした。あの人自身にきっと私を殺そうという気持ちはなかったと思います。あったとしても、私は彼を許してしまったでしょうね。」

 

 他人事のように答える彼女に太宰治は、あまり興味なさげに返事を返す。

 

「君は死んでしまったけれど、気分はどうだい?」

「特には、何も。だって、私は天国にも地獄にも行けなかったのですから。」

 

 今日はこの季節に珍しく晴れ晴れとした夜だ。空の上では風が強いのか、雲の流れがとても早い。月明かりが遮られこの世を照らす光が無くなる。

 

「この桜の樹で首を吊ったら、死ねるかな。」

「無理でしょうね。」

 

 彼女はクスクスと笑いながら、そう答えた。

 

「おや、無理なのかい?」

 

 太宰治は彼女にその理由を尋ねた。すると彼女は簡単な事だと言った。

 

「私が貴方を助けるからですよ。」

「私の願いは自殺することなのに、君はそれを叶えてはくれないのかい?」

「貴方の願いは十分に承知しています。しかし、死んでいたとしても私にも願いと言う物があるのです。」

 

 彼女の表情が少しだけ陰る。いつも笑みを浮かべていて太宰治と同じ様に自身を偽る事に長けている彼女。その表情さえ、実は作りものなのではないかといつも疑ってしまう。

 

「貴方が死んだところで、世界日常が壊れる事は無いでしょう。しかし、私は案外貴方とのお喋りをとても楽しみにしているのです。私に話しかけてくるなど、あの幼女趣味の副校長か、貴方くらいなものですから。」

 

「貴方がいなくなってしまうと、私の日常が壊れてしまう。だから、私の目が届く範囲で自殺なんかしようものならば、成功しませんよ。」

 

 なんて言う物だから太宰治は苦笑いを浮かべた。

 

「君は、君の人生に後悔はないのかい?」

「後悔、ですか?」

 

 そうですね、と彼女は空を見上げた。長い彼女の髪は風に揺れる。少し癖のある白い髪。

 

「あぁ、でも。そうですね。もし、もう一度地を歩く事を神が御許しになるのならば、私は……。」

「何だい?」

「いえ、やはりありませんね。私はここに居られるだけで十分です。」

 

 痛々しい笑顔を浮かべる彼女を太宰治は見上げる。

 

 生きたい彼女は明日を無くした。

 死にたい彼は昨日を手に入れる。

 

 それぞれの運命が逆だったならば、とそう願わずにはいられない。そんな世界だった。しかし、何時だって生まれた場所で生きて行くしかないのだ。

 

「何をしているんですか?」

「首吊りの準備だよ?」

 

 2mほどの高さの場所の枝に頑丈な縄を括り始めた太宰治に彼女は分かり切った事を問うた。どうせ失敗するのだ。その肌に無体な傷を作る事も無いだろうに。そう思いながら、彼女は太宰治を見ていた。一通り準備が出来たのだろう。太宰治は彼女を見上げる。

 

「お休み、マリア。」

「えぇ、お休みなさい。今度こそ、貴方に訪れる眠りが安らかな物である事を神に祈りましょう。」

 

 ガツンっと桜の木の枝が揺れる。徐々に首をしまっていく様子を彼女はじっと見ていた。

 

「嘘吐き。死にたいのならば、手段など選ばなければよいのに。死にたいのならば、そこらの人間を10人ほど殺せばよいのに。何もかもを面倒くさいと、怠惰であるだけではありませんか。私には、貴方の言葉全てが泣きごとに聞こえてしまいます。」

 

 ミシミシと鳴る木の枝。彼女は太宰治の頭を撫でる。

 バキンっと音を立てて、到頭桜の木の枝は折れてしまった。太宰治の体は地面に叩きつけられる。そしてその枝に座っていた彼女もまた地面に足を付ける。

 

「また、会いましょうね。」

 

 

 

 それから、彼女の姿を見た人間はいない。実在していた彼女は、すっかり七不思議にその身を落ち着かせた。

 

「あの、何か用ですか?」

 

 中島敦は教室の前で立っている見慣れない少女に話しかけた。自身は雑用係とはいえ生徒会の人間。困っている人がいるのならば、助けなければという素敵な思考からの行動だった。

 

「いえ、学校と言う場所に来るのは久方ぶりで……。緊張してしまっただけです。」

「そうなんですね。」

 

 幽霊のように真っ白な彼女を見て、5月の事を思い出した中島敦だったが流石に失礼だと思い笑みを浮かべる。彼女は扉に手を掛けて、中へ入って行く。廊下側の一番後ろの席、そこが彼女の席だ。二年前事故に会い、意識不明だった聞いていたが元気そうで良かった中島敦は思わず安堵する。

 

「あ、そうだ。自己紹介。」

「大丈夫ですよ、ナカジマ。貴方の事は知っています。」

「え、どうしてですか?」

「桜の木の上から何時も見ていましたから。」

 

 その言葉に中島敦は、血の気が引く音を聞いた。その様子を見て彼女はクスクスと笑うだけだった。

 

「幽体離脱と言うのも、楽しい物ですね。」

 

 なんて彼女は言った。中島敦は、気が遠くなるのを感じた。倒れた中島敦の視界の端には彼女の裸足の足が見えた。




お疲れまでした。

学園文豪ストレイドックスの設定をあまり知らないので分かっている人だけを出したのですが、いかがだったでしょうか?

国木田さんは生徒なんですか。
それとも先生なんでしょうか。

谷崎君とかも出したかったんですけどね……。

誰か教えて頂けませんかね?

初登場した太宰さんと織田作に敦君。
あれ、可笑しいな。
もう30話くらい書いたのに全然キャラ出てないなぁ……。



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第一章 彼は人間嫌いの厭世家だった。
第一話 私は、その森で老人と出会った。


4月27日 誤字訂正


とある作家が言った。

 

「全ての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない。」

 

 彼はいったいどんな一生を送ったのだろうか。もし、私の人生が彼の言葉の通り、童話に過ぎないのだとしたら。それはとても、不公平だと思う。

 その人生が終わるころには、きっと苦痛はないだろう。

 彼女はいつも神に祈っていた。教会の色とりどりな硝子を前にして、手を合わせた。

 

「生きる事は罪なのでしょうか? 望む事は罪なのでしょうか? 歴史よ、貴方の腕に抱かれた誰もが言うでしょう。貴方の愛はいらない。そんなものは愛とは呼ばない、と。」

 

 

 

 

 いつも仲間内から追い出されてしまう私は一人で遊んでいた。独りで遊ぶことしか無かった。いつものように同年代の子供達は私を見つければ雪玉を持って追いかけ回してくるのだ。彼らからなんとか逃げ切り、私は大きく息を吸い吐き出した。

 

 今日は一段と冷え込んだ。吐き出す息が白く、私はその白い粒が浮遊するのを楽しんだ。北欧の冬は寒さが厳しく防寒着が欠かせない。高くは無いが、安くは無い外套(コート)を羽織り、毛糸の手袋をして、雪が入らないような長いだけのブーツを履く。

 

 今日もいつもの様に一人で遊んでいた。昨日の夜降った新雪がいい具合に積もっていた。雪を掌で掬い上げ、ギュっギュっと押し固める。その後、雪の上にそれを置いて転がしていくのだ。森の中で鼻歌を歌いながら進んでいく。雪を踏みしめる音が楽しくて私は沢山音を鳴らす。

 この森は私が住んでいる村のすぐ横に広がっている森だ。村の西側に広がっており、山菜取りなどに活用されるけれど冬になれば雪が深く他の人間たちは滅多に入ってくることはない。

 

「ふぬぬぬ…!」

 

 いつもなら膝までの大きさで止めてしまう雪だるまの胴体部分も今日は気が付けば腰辺りまで大きく成っていた。うんともすんとも動かなくなった雪だるまの胴体部分を見詰めて溜息を付いた。

 

 そこでふと、私は辺りを見回した。此処はいつも自分が遊んでいる森の中だという事は確かなのだ。それに足跡だって残っているのだ。しかし、だいぶ奥まで来てしまった。それでも迷う事は無いだろう。足跡を確認して、私はもう一回雪を掬い上げた。

 

 それから一時間程たっただろうか。ようやく完成した雪だるまを私は誇らしげに眺めていた。私自身の身長よりやや大きい雪達磨。どうやって、頭を乗せたのかって?

 

 そんなものはやる気さえあれば何とかなるものだ。これで馬穴(バケツ)と人参があったのなら私は今すぐにでもこの雪達磨を完璧にしたものを。

 

 私は少し悔しそうに地面を蹴った。

 

 

 子供の心変わりはなんて早いものか。

 

 

 それから、人参は持って来られないけれども馬穴(バケツ)位ならばと思い、自身の家に一度帰ろうと思った。この辺りには私の足跡で埋め尽くされていた。そして私はその足跡を解きあかしていくと困った事が一つあった。右と左に足跡があるのだ。それも両方ここに向かって来ているのだから、私は首を傾げた。

 

 いくら考えてもちっとも理解できない私の頭は、到頭行って違えば戻ってくればいいと言う何とも考えのない行動を実行に移したのだった。私はこの時右側の足跡に向かって歩き始めた。足跡をたどり、そして私は辿り着いた。小さな小さな家だった。

 

 そう言えば、昔は私の村ももう少し大きくてここら辺まで家が建っていたのだったか。今となっては、住む人間がいなくなって誰も家の管理をしていないから木が生え、草が生い茂り幽霊屋敷みたいになっている家もある。

 

 私は目の前の掘っ建て小屋のような家に興味を持った。知識欲とは、人間が人間足る所以である。と、私は思っている。故に私は私の知識欲にとても素直に従った。こんな森の中にあるのにもかかわらず、きっちりと雪かきがされていて私が来た方向は別の方向に道が出来ている。私は家の周りをぐるっと一周して見た。人は住んでいるのだろうけれど、住むにはとても不便そうなこの家には一体どんな人間が住んでいるのだろうか。

 

「何をしている、小娘。」

 

 後ろから掛けられた声はとても渋い声だった。後ろに立っていたのは決して大きくない、小柄な老人だった。

 

「おじいさんが、ここに住んでるの?」

 

 私がそう尋ねてると老人は眉を顰めた。しかし、私が疑問に思うのは仕方がないと思った。この老人は見た目、とても高級そうな服を着ている。私の身体を切り売りしたってその服の全てを買いそろえるのは難しい、と思ってしまうほどその老人は滑らかな(シルク)の帽子に、とっても暖かそうな毛皮の外套(コート)を羽織っている。彼の履いている靴は傷一つない真っ黒な靴だった。

 

「質問を質問で返すな、みょうちくりん。」

「みょ、みょうちくりん…?」

 

 初めて聞く言葉だった。首を傾げた私を見下ろす老人は私を見てため息をついた。

 

「いいから答えろ。ここで、何をしていた?」

「ただ、こんなところに家があるなんて思ってなかったから。見ていただけ。」

 

 老人のから見下ろされる視線の鋭さは一向に変わりそうにない。老人は手にしていた杖で除雪された道を指した。

 

「帰れ、ちんちくりん。この道をまっすぐ行けば大きな道に繋がっている。」

「あ、ちょっと!…、もう。貴方だってちんちくりんのくせに!」

 

 私が老人の指す道のほうを見ると、老人は家の中に入ってしまった。私の言葉に少しイラッと来たのか老人はドンッとドアを一回叩いた。

 

「ひっ。」

 

 小さく悲鳴を漏らした私は大きなため息をついた。

 

 

 やはり、この髪の色がいけないのだろうか。誰でもいいからお喋りができると思ってたのに。

 

 

 自身の髪を一房手に取り、ため息をついた。そんな私の心情など老人が察してくれるはずもなく、閉ざされた扉があくことはなかった。仕方なく私はとぼとぼと家に帰った。

 

「twinkl,twinkl,little ster」

 

 囁くように私は音を紡いだ。数分歩けば老人の言う通り、道をまっすぐ行けばそこには見慣れた大きな道があった。

 

 

 どうして今まで気が付かなかったのだろうか。

 どうして今まで気に留めなかったのだろうか。

 

 

 私は、私が辿ってきた老人の足跡を見つめた。私の足より少し大きいだけの足跡。私は少し心を躍らせながら帰り道を歩いた。

 

 

 あぁ、こんなにワクワクしながら家に帰ったのは初めてではなかろうか。

 

 

 ただいま、と言っても誰かから返事が返ってくるわけではなかった。

 

 私は気が付けば一人だった。一人でこの村に住んでいた。昔は、男の人がいた気がするが今はもうここに来ることはない。きっと親戚か誰かだったのだと思う。私は彼がここに来なくなった事を非常に残念に思っていた。私はその男性の事を尊敬していたし、父親のように思っていた。あの男性が来なくなったのはいったい何年前だったか。もう、顔も声も思い出せない。それでも、あの男性が作ってくれた細底幼(シチュー)の味は覚えている。

 

 

 いや、そう思っていたいだけなのかもしれない。

 

 

 それでも、男性から教えてもらった細底幼(シチュー)だって焦がさないで作れるようになったのだ。牛乳(ミルク)はあまりに手に入らないから、そう簡単に作れる品物ではないのだが。それでも、今日は気分がいいから牛乳(ミルク)を買いに行こうか。なんなら、奮発して鶏肉(チキン)を買ってもいい。

 

 

 今日の私はそれ位上機嫌なんです。

 

 

 そう考えているとさらに心が躍った。ここらの子供たちは私に当たりが強いが大人たちは妙に私に優しかった。その理由を私は知らない。大人たちは私に話すことはないだろう。

 

「おぉ、見ない顔だね。新しい子かな?」

「まぁ、そんな所です。おじさん、鶏肉一つ下さいな。」

 

 何故かはわからない。わからないが、この村の大人たちは、私に会うたびに『見ない顔』と言う。毎日会っても大人は私の事を『見ない顔』と言うのだ。

 

 しかし、それはこの肉屋に限った事ではなく、ほかの店屋も私の事を知らない風に振る舞う。そういった意味では、子供より大人に陰湿ないじめに合っている気分だった。声音は優しげなのに、表情は笑みを浮かべているのに、どうして彼らは私にあんな事を言うのだろうか?

 

 わたしにはわからなかった。そんな事をするくらいならば、私にものを売らず餓死させた方がいいのではないのか。そんな丁寧に無駄な時間を私に費やすくらいならば、と私なら考える。大人の考えというのは違うものなのだろうか?

 

 肉屋のおじさまは笑顔で皮を剥いであった鳥を切り分け始めた。切り分けられた鶏肉(チキン)が量りに乗り、値段が計算される。お金を払うとおじさまはそれを袋に入れて私に手渡した。終始笑顔の彼を私はやはり『気持ち悪い』と思うのだった。

 

 

 しかし、それは仕方のないことだ。だって彼はそうしなければ生きていけないのだから。私のような、みょうちくりん?にも笑顔を振りまかなければならないのだから。そしてそんな彼に笑みを振りまく私もまた同じか。

 

 

 私の両手には最早抱えるのがやっとになってしまった紙袋が乗っていた。グラグラと不安定なそれを必死に倒れないように私は抱える。町の中心から少し離れた私の家に帰り、台所に食材を置く。そしてそこが焦げ付いた鍋を用意する。保存庫の中に放り投げてあった牛酪(バター)と小麦粉を取り出す。それを鍋の中に入れて私は少し思いとどまった。

 

 

 あの老人は一体今日は何を食べるのだろうか。生きているのだから、何かしら毎日食べているのだろうかけれど…。

 それとも、あの老人は生きてない?

 

 幽霊!?

 

 

 私は持っていた小麦粉を落としてしまった。衝撃で舞い上がった小麦粉に咳込みながら、私はその場から避難した。

 

 

「あぁあ…。」

 

 すっかり白くなってしまった服を見てため息をついた。

 

 

 勿体ない。

 

 

 そんなことを思ったところで片付けるしかないのだ。私は急いで玄関に戻り箒と塵取りを持ってきた。なかなか集まってくれないそれに苛立ちながら片づけていく。ある程度片づければあとは水拭きしなければとれないだろう。まったく、冬に水仕事は勘弁してほしいものだ。

 

 

 って、自分で勝手に仕事を増やしただけか。

 

 

「よし、気持ちを切り替えて!」

 

 ぱんっと、足をたたいて私は立ち上がった。

 

「あ…。」

 

 

 そういえば、服も小麦粉まみれだったのを忘れていた。まずは着替えからか。今日は何やら運がないみたいだ。

 

 

 適当な服に着替え、私は漸く料理に取り掛かった。段々と美味しそうな匂いが部屋に充満していく。私は笑みを浮かべながら細底幼(シチュー)を作る。台所は未だ私にとっては少し高すぎて台に乗りながらお玉で鍋をかきまわす。

 

 私は恐らく生きているであろう老人の事を考えていた。

 

 

 もし、彼が幽霊では無いのならきっと一人で食事をするのは寂しい筈だ。いや、あの年ならば奥さんもいるかもしれない。先立たれた、なんて事もあるかもしれないがそれでも、きっとこの美味しそうな匂いの細底幼(シチュー)があればきっと喜んでくれるはずだ。そうであれば、嬉しいと思う。先程、少し失礼な事を言ってしまったお詫びも兼ねて。

 

 

 出来上がった細底幼(シチュー)の鍋に蓋を占める。しっかりと蓋にロックをかけて私は防寒着を羽織る。鍋の蓋に上手い具合に麺包(パン)を乗せて私は大きな道を駆けた。昼間には振っていなかった雪がしんしんと降っていた。鍋の中身が冷めてしまわない様に、私は急いだ。

 

 

 どうしてそんなに急いでいたのか、

 どうしてそんなにあの老人に拘ったのか。

 

 

 私にはわからなかったが、それでも独りは寂しそうだと私は思った。

 

「はぁ、はぁ。」

 

 

 運動不足という事は無いと思うのだが、如何せん、雪道は歩くだけで体力を持って行かれる。それを駆け足で鍋を持ちここまで来て、転ばなかったのだから誉めて欲しいという物だ。

 

 

 私はドアを勢いよく叩いた。すると、中から鬱陶しそうな顔をした老人が出てきた。そして老人は私の姿を見て微かに眉を顰めた。

 

「何の用だ、つるペタ。」

「夕飯は食べた?おじいさんが一人で寂しく夕飯を食べている所を想像したら可愛そうになったから、一緒に食べてあげようと思って持ってきたの。」

 

 私は手に持っていた鍋を老人の前に掲げた。その拍子に上に乗っていた麺包(パン)が落ちてしまいそうになったので体にくっ付けて何とか地面に落とすまいと奮闘する。そんな私を呆れた様子で見降ろしていた老人が見かねて上に乗っていた麺包(パン)を持ってくれた。

 

「あ、ありがとう。おじいさん。ねぇ、一緒に食べましょう?」

 

 そう言うと、老人はもうこれ以上はどうにもならないのではないかと言うほど眉を寄せ、私を見下ろしていた。

 

「親はどうしている?まっしろしろすけ。」

 

 

 この老人は、一々人に対しての罵倒を挟まなければ会話が出来ないのだろうか。そんなんだから、こんな辺境に偏屈な老人が住むことになるのだ。

 

 

 私が不機嫌そうな表情を浮かべていると、老人は非常に愉快だと言った表情を浮かべた。

 

 

 この老人には恐らく奥さんなんて人はいないだろう。こんな人が誰かに好かれるわけがない。

 でも、それはやっぱり寂しい事だ。

 

 

「親はいないわ。昔、私に会いにきてくれた男の人がいたけれど、もう何年も会ってないし。今は心配をしてくれる牧師様がいらっしゃるだけ。」

「ほう、つまり一人で寂しく食事をするのは嫌だったのは、お前の方という事か?クソガキ。」

 

 ニヤニヤと言う表現が良く似合う表情を浮かべた老人はそれはそれは楽しそうだった。私は少し肩を落として老人を見上げた。

 

「否定は、出来ない。ダメ?」

 

 そう尋ねると老人はにやついた表情を崩し、眉をひそめた。少しの間、私を見つめドアを開けたまま家の中に入って行った。老人の行動の意図が読めず、家の中に入って行った老人をドアの向うから眺めた。

 

「早く入れ、このスカポンタン。温かい空気が逃げてしまうでは無いか。」

 

 老人の言葉に私は心を震わせた。少し猫背気味だった背筋がしゃきっと伸びた。

 

「うん!」

 

 家の中は思ったよりも狭かった。その理由は家の中に置かれた大量の紙束のせいに他ならない。細底幼(シチュー)をコンロの上に置き、温め直そうとすると、後ろからドサドサドサっと雪崩れる音がした。振り返れば案の定、机の上に乗っていた紙が雪崩れていた。

 

 いや、どちらかと言えば老人が雪崩れさせていた。たしかに机の上を片付けなければ食事は出来ないが、何もそんな避け方をする必要はないだろう。

 

 

 後で片付けるのを手伝おう。

 

 

 私はそう思いながら鍋をかき回すのだった。

 




はじめまして、兎一号です。

『人生の価値とは、所詮その程度の物。』第一章始まりました。

ここで、一つ言っておかなくてはいけないのが第一章には原作キャラは出てきません。

はい、非常に残念ながら…。

それでも良いという方はどうぞこれからもよろしくお願いします。


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第二話 利他的利己主義

4月27日 誤字訂正


 老人に会ってから一週間が過ぎた。私が誰かと出会ったからと言って村の人間の人生に何か影響がある訳では無いし、そんな事で影響が出ていたら人間の人生は他人に左右され過ぎる。今日も今日とて子供達からは色々な物を投げつけられる。冬はやはり雪玉が多い。ただ、これが春先や雨季の季節になると土になるから洗濯に苦労する。

 

 

 それに何を思ったか今日はスコップまで飛んできた。全く、私を殺すつもりか。

 

 

 子供達が私を疎む原因は良く分かっている。私が人とは違うからだ。私の髪は真っ白なのだ。夜に降り積もった新雪の様に、真っ白な髪だった。それに私の身体は白色人種の中でも色素が薄い。それこそ、私の体は真っ白なのだ。だからこそ、子供達は私に目を付けた。私もまだ十にも満たない年の少女。それに牧師様が仰られるには、私の発育は少し遅れているようだ。何も持たない、小柄な少女を虐めるのは年下の少年少女にも容易い事だった。村からその存在を良い物とされていない少女を蔑む事など…。

 

 

「まあまあだ。」

 

 テーブルをはさんで私の作った料理を食べながら擦れた声で老人は私に告げた。少し埃っぽいこの家の中で私は食事をこの老人と共に食べている。この老人は意外にも作法(マナー)などに厳しい。ここに来てからと言う物、私にもすっかり食事作法(テーブルマナー)が染みつき始めていた。

 

 

 しかし、こんな事をあの村の人間は知っているのだろうか。知っていたとしても実行しているだろうか。

 答えはNOだ。そんな無駄な時間を過ごす位ならば、彼らにはやらねばならない事があるだろう。あの村の人間は生きて行くのに精一杯だから。

 

 

 私は『まあまあだ。』と評価を受けた目玉焼きと薫豚(ハム)を食べながら、こんなものは焦がさなきゃだいたい美味しいのではないだろうか、なんて目の前の老人の評価を私は呑み込めずにいた。この老人が今までどんな物を食べてきたか分からないが、彼はそんなに美味しい物を食べてきたのだろうか。私は老人の事を知らないが、私は私の料理で満足だ。

 

「私は、固い方が好きだ。」

 

 私が不服そうな顔をしていたからだろうか。老人は態々私に自らの好みを話てくれた。老人が『まあまあ』だと言ったのは目玉焼きの固さだったらしい。

 

「分かった。今度からはしっかり火を通すね。」

「ふん、今日は随分とも分かりが良いではないか。貧乳。」

 

 

 第二次成長期を迎えていない幼女にそんな言葉を投げつけられたって、私にどうしろと言うのだろうか。

 

 

「自分の作った食事をまあまあじゃなくて、美味しいって言ってもらった方が嬉しいもの。そう思わない?」

「思わんな。人間相手に媚びを売り、諂う等死んでもしたくない。」

 

 この老人はとても人間嫌いだった。私でさえ、若干引いてしまうくらいに人間が嫌いだった。私が理由を尋ねても老人は適当に話をすり替えて答えてはくれなかった。それでもこの老人はどうしてか面倒見のいい人間だった。

 

 

 人嫌いの癖に、面倒見のいいこの老人は恐らく、拗らせに拗らせたツンデレと言う奴なのだ。老人のツンデレなんて何処に需要があるのだろうか。

 

「何だ、小童。」

「何でもない。」

 

 私からの視線がうるさかったのか、鬱陶しいという声音で私に尋ねてきた。私は何食わぬ顔で食事を再開すると、老人は気に入らないと言った表情をしながらも黙って食事を再開した。食器から一切の音を漏らさず、まるで一人で食事をしているようだった。それでも目の前の老人に用意した料理は着々と無くなって行く。その事が、私はいま一人では無いという事を思い知らしてくれていた。

 

 食事が終われば、私が食器を洗う。その間、老人はいつも机に向かっていた。何かを必死に書いていた。難しい顔で、私にとっては難しい文字を書いていた。自国の丁抹(デンマーク)語さえ読めない私には老人が何を書いているのか全く分からなかった。独逸(ドイツ)なのか、伊太利亜(イタリア)なのか。将又、英語なのか。

 

 

 あぁ、今度村の牧師様に頼んで文字を教えてもらおう。そうしたらきっと、彼の書いている物を読むことが出来る筈だ。

 

 

 食器を洗い終わり私は手持ち無沙汰になり、部屋の中を改めて見渡した。本と紙で埋もれてしまいそうなこの家は地震にあえば、私達は圧死する事だろう。それ程この家の壁には本と紙が詰まれていた。ふと、何かが聞こえた気がした。その音は老人方からして来ていた。老人が何かを書いている時、ブツブツと何かをつぶやいている。その呟きを聞こうとそっと近づくが、老人は背中に目でもついているのではないかと思うほど勢いよく振り返る。

 

「いいか、良い事を教えてやろう。俺が一番大嫌いな事は仕事だ。仕事をしている時間が一番大嫌いなのだ。だから、仕事の邪魔をするな。」

 

 私は大きく首を左右に振り、老人から数歩下がった。

 

 右を見れば老人が書いたであろう紙。左を見れば老人が集めたであろう書籍が積まれていた。私は一番上にあった紙を手に取った。そこには何やら文字の羅列が並んでいるだけで何が書いてあるのか分からなかった。

 

 私は小さく溜息を付いて、書籍を取った。何やら良く分からない記号の羅列。その書籍には、横真っ直ぐに五本線が引かれ、そしてそれを区切る様に縦線が所々に引かれている。縦線と縦線の間にはなにやら楕円形の物が沢山書かれていた。次のページにも、その次のページにも同じ物が掛かれていた。果たして、これが一体どんな言語を示しているのか、私には皆目見当もつかなかった。

 

 まず、線が五本引かれている意味が分からない。所々には五本線から外れる楕円まで存在している。この楕円の位置が文字の意味を表しているのだろうか。

 

「うぅ、にゃあああ!!」

 

 

 分からない。いくら考えても考えつかない。

 

 

 到底人とは思えない奇声を上げた私をギロリと睨みつけて来る老人に私は小さな声で謝った。私は手にしていた本を元の在った場所に戻し、ここにいても仕方がないと外に出た。

 

 私の後ろ姿を老人が見ていたなんて私は知らない。

 

 今日の空模様はあまり良くないようだ。私はこの森の中を探検することにした。この家がある事も知らなかったのだ。他にも知らない事があるかもしれない。昨日は雪が降らなかった。少し固くなった雪をザクザクと踏みしめながら私は歩いた。

 

 

 あぁ、そう言えば外套(コート)を羽織ったのは良いが、手袋をしてくるのは忘れてしまった。これでは雪達磨も作れない。

 

 

 ふと、今日村の女性たちが話していた事を思い出した。私は詳しい事は知らないが、外では戦争と言う物が起こっているらしい。何でも到頭こんな辺境の村にまで軍人としての招集をかけられた若者がいるとか。大人たちがこそこそと隠れ怖い怖いと話しているのを聞いた事がある。何で始まったのか、どことどこが戦っているのか、私は何も知らなかった。それでも大人たちが怖いと言っているのだから、怖い物なのだろう。忌避するべきものなのだろう。

 

 知らない物の事を考えても仕方がない。私の世界は未だこの村の中の事だけだった。気を紛らわせる為に私は大きく息を吸った。

 

「twincl,twincl,little ster。」

 

 私が知っている唯一の歌。と言ってもこの出だししか知らないのだけれど。

 

 一フレーズで終わってしまった歌に、少し不満を残しつつ素手で木を撫でる。ザラザラとした肌触りだ。切る空気の冷たさを感じながら私は上を見た。今日はそこまで寒くはないから樹氷は出来ていない。木々の枝から見える空。これがきっと晴れていたのならとても綺麗だっただろう。耳を澄ましても聞こえて来るのは私の足音だけ。

 

 

 この世界にいるのが私一人だと錯覚してしまいそうになる。

 

 

「あぁ、おしゃべりする相手が欲しいなぁ。もうこの際、人間じゃなくていい。何でもいいから私とお話してよ。」

 

 そんな下らないありふれた幸福を口にして私はまた歩き始めた。いや、この世にはきっと下らない幸福なんてものはないのだろう。幸福は当たり前だからこそ、良い物だ。

 

 

「湖…?」

 

 湖と言うよりは、池と言った方が正しいだろうか。どこか川と繋がっている様子は見受けられない。氷の張った池がこんな所にあったのか。正直言ってあのおじいさんの家もこの池も私はその存在を知らなかった。この村の外の森は知り尽くしたと思っていたのに。世の中、知っているつもりでも、どうも知らない事が多いらしい。

 

 ざくざく、と後ろから足音が聞こえてきた。後ろを振り向けばそこには若い男がいた。金色の髪に蒼い瞳のごく一般的な容姿の青年だった。青年は私の姿を見て驚いた表情を浮かべていた。私は青年の存在に驚き一歩後ろに下がった。

 

 「ぇ…?」

 

 パキッという音が私の足元から聞こえてきた。スローモーションのように景色が下がって行った。

 

 

 あぁ、なんて間抜けな事か。私が池だと思っていた場所はずっと広く、そして深かったようだ。

 

 

 その景色の中で青年は酷く焦った様子でこちらに来ているのが見えた。しかし、そんな景色はすぐさま水の中へと沈んでいった。そんなのは一瞬の出来事だった。私を襲ったのは息苦しさと体中を刺す痛みだった。私は水面に手を伸ばした。

 

 

―――痛い。

 

―――苦しい。

 

―――動けない。

 

―――あぁ、でも。綺麗。

 

 

 水中から見上げる空はとても綺麗だった。でもダメだ。このままだと私は死んでしまう。そんな綺麗な風景が揺れた。湖面から手が伸びて人が振ってきた。そして私の腕を掴み、勢いよく引き上げられた。風景は一変し、水中から地上に戻ってきた。

 

「げほ、げほ…。」

「大丈夫か!?」

 

 少し低めのその声は私を心配しているようだった。

 

「直ぐに体を温めないと。」

 

 その青年は私を抱え、走り出した。自分だって湖に飛び込んでびしょ濡れの癖に。自分だって寒いくせに。

 

 

―――いいか、お前が()()を叶えるために守るべき七つの教えを説いてやる。

 

 

 私の頭の中に深く、低い声が聞こえてきた。これは昔、一度だけ聞いた事がある。あの男が最後に私に説いた七つの教え。

 

 願い?私に願いなどあっただろうか。でも、あった気がする。そして、叶えたいと思っていた気がする。

 

 なら、何故私は忘れてしまったのだろうか。どこに、置いていて来てしまったのだろうか。

 

 

―――一つ、人は絶対に利他的にはなれない。利他的な奴ほど、仮面を被っている。

 

―――人間は所詮、動物だ。人が生物である以上、その行動理念は自身の遺伝子を後世に残す事。

 

―――お前と違い、人は本心から他人の幸福を望めない。

 

 

 私は小さく息を飲んだ。

 

「離して!!」

「って、おい!危ないから。暴れるなって、こら!!」

 

 私は必死にその青年から逃げようとした。両腕両足をバタバタと揺らし、抵抗した。そんな私を逃さない様にと私を抑え込もうとする。

 

 

 あぁ、やはり。この青年は私を捕まえるつもりなのだ。捕まえて、どうにかするつもりなのだ。

 

 

「あっ…!?」

 

 必死の抵抗で私は何とか青年の腕から抜けだした。私は辺りを見回した。

 

 

 ここはどこ?

 安全な所は何処?

 私は何処に逃げればいい?

 

 

「そんなに抱えられるのが気に入らなかったのか?」

 

 何処に逃げるかを考えていると青年は私の右腕を掴んだ。茶色の皮の手袋で掴まれている筈なのに、掴まれている事さえ分からなかった。痛みも、圧迫も感じなくなった私の腕。一体、この青年は私に何をしたのだろうか。

 

「お前、手切れてるじゃないか。手袋してねぇからだぞ。」

 

 その言葉の後、私の指先はぬるっとした感覚に襲われた。酷く熱い口内で私の指先を包み込む舌。血を吸われているのか指先に圧迫感を感じる。

 

「な…、な…。」

 

 私は一体何をされているのか分からなかった。それでも、私の中で何かが壊れた気がした。

 

「なに、してるの?」

 

 その言葉は一体、どちらに向けられていたのだろうか。逃げ出そうとしない私なのか、虐げようとしない彼なのか。

 

「何って、止血だよ。人の唾液には止血作用があんだよ。」

「どうして、私を助けたの?」

「どうして?溺れている少女がいたら助けるに決まってるだろう。人として、当たり前の事だ。」

 

 人として、当たり前。その言葉が深く私の胸を突き刺した。私はギュッと自分の服の裾を掴んだ。俯いた顔を上げる事が出来ない。

 

「何をしている?」

 

 この一週間、ずっと聞いてきた声が聞こえた。彼が近づいてくる足音はしなかった。いや、聞こえないほど目の前の青年に動揺させられていたのだろうか。俯いていた顔を少し上げると酷く眉を寄せた不機嫌そうな老人がそこに立っていた。

 

「何だ、濡れ鼠では無いか?」

「この子の知り合いですか?この子、湖に落ちたんです。直ぐに体を温めないと。」

「全く愚鈍な娘だ。」

 

 その青年が事を告げると老人は、一言呟き踵を返した。じっと老人の後ろ姿を見ていると、老人についてこない私に痺れを切らしたのか老人は振り返った。

 

「何をしている。行くぞ。それともそのまま凍死するつもりか?」

「私は、ここでは死ねない。」

「なら行くぞ、小娘。もう昼だ、昼飯をとっとと作れ。」

 

 私はパタパタと駆け足で老人の隣まで走った。そして私は青年の方を振り返った。彼は不本意だが私を助けてくれたのだ。彼があのままずぶ濡れなのは申し訳ない。私は老人の服の裾を引っ張った。

 

「何だ?」

「あの人、私を助けてくれた。」

 

 老人は私のその言葉で小さく溜息を付いた。

 

「来い、青年。コイツが昼飯を用意してくれるそうだ。」

 

 青年は少し驚いた表情を浮かべた。私と老人を一瞥した後、『ありがとうございます。』と何に対しての礼だか分からないが、爽やかに述べた。

 

 私達は風呂に押し込められ、体を温めた。その後、結局料理は老人が作った。ただ、老人は料理を作る際に二回食器を割り、三ヶ所火傷を負った。私はその風景を見て二度とこの老人に料理をさせてなる物か、と決意した。

 

 しかし、なぜだろう。そんなたどたどしいとさえ、思えてしまう老人の料理はとても美味しかった。

 

 そう言えば、老人が私を探したい意味は一体何だったのだろうか。

 

 無知な私には、何一つ考え付かなかった。

 

 しかし、私は思った。誰かに見つけてもらえるというのは、本当に幸福な事だ、と。

 

 




今は大体、原作16年前です。

いまだ戦争中です。


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第三話 やりたい事とやりたくない事

4月27日 誤字訂正


 私を助けてくれた青年の名は、アントニオと言うらしい。いや、本人から聞いたのだから『らしい』と言うのは失礼か。

 

 彼は村の近くに住む猟師の息子。そんな息子であるアントニオも将来猟師になるための訓練の一環として猟銃を背負い、森の中を時折歩いているという。そんな彼ら猟師でもあの池の存在を知らなかったのだから、私があの池の存在を知っているはずもなかった。

 

「今日も早いな。」

 

 金色の髪に、碧色の瞳。ごく一般的な容姿をした青年だった。年は今年で17歳。私とは10歳以上の差がある。そんな彼は私を妹のように可愛がった。と、彼の行動を言葉にしてみたが、私は妹と接している兄の姿を見た事が無いし、私自身に兄がいる訳では無いから。だから、彼が私に向けている感情は私の想像上の産物でしかない。

 

 そんな彼と私はあの日以来ずっとこの池で会っていた。会わなければいけない理由があったわけではない。ただ、私たちはその池で会い、話をし続けた。もし、これに名前を付けるのならば、密会となるのだろう。その言葉は何とも心躍る。彼は快活な性格から色々なこと話してくれた。学校でのこと、家の事。将来、猟師ではなく、動物の医者になりたいということ。

 

 本当にたくさんのことを、私は聞いた。私はまず、私のことを話すことはなかった。私は彼に自分を話せるだけの思いはなかったから。それだけの思い出は残っていない。それに男に男の話をしてもきっと楽しくない。

 

「やる事、ないし。」

 

 投げやりな私の言葉にアントニオは意外そうな表情を浮かべている。池のほとりに生えている木の隣に腰を掛けていた私はアントニオを見上げると、彼は微笑んで私を見下ろしている。今日、アントニオは猟銃を背負っていない。そして彼は右手を後ろに隠している。私は首を傾げた。

 

「なぁ、今日がどんな日か知ってるか?」

「今日は、何か特別な日なの?」

「つまり、知らないってことだな。」

 

 アントニオの言葉に私は縦に首を振った。

 

「それで、今日はどんな特別な日なの?」

 

 今日は特別だとは思えなかった。確かに今日は暖かい。昨日の寒さが嘘のように今日は暖かい。いつもは静かな森の中も今日はあちらこちらでドサッと、枝に積もった雪が落ちる音が聞こえてくる。

 

「今日は聖誕祭(クリスマス)だ。」

「くりすます?それの何が特別なの?」

「今日は神の子が生まれた日だ。それを皆でお祝いするんだ。」

 

 私はふうんと興味なさげな声で返事をした。その神の子という人はきっととても高潔な人だったのだろう。だってたくさんの人に誕生を祝ってもらえるのだ。それは、愛されている証拠で、幸福である証拠だ。

 

聖誕祭(クリスマス)にはサンタクロースっていう老人が子供のために贈り物(プレゼント)を持ってきてくれるんだぜ。」

「それは、そのサンタクロースっていう老人はたいそうなお金持ちなのね。この村の子供だけでも10人以上いるのに。」

 

 サンタクロースという老人が何を持ってくるのかは知らないが、それでもここに来るまでの交通費だけで一週間は生きられそうだ。そんな贅沢ができるほど、そのサンタクロースとかいう老人は稼いでいるのだろうか。それとも、サンタクロースは一年に一度の聖誕祭(クリスマス)の為に徹底した節制生活を送っているのかもしれない。いや、その老人がお金を持っていると考えるのは、早計かもしれない。金の出所は別だったりするかもしれない。その老人は委託されただけなのかもしれない。

 

「おい、何を考えているかわからないが、あまり夢のないことを考えるべきじゃないぞ。」

「本当に私の考えていること、分かってないの?」

「人間っていうのは、経験則から大体の事は想像がつくんだよ。」

 

 と、いうことは世の中の人間は一度でもこのサンタクロースという老人について考察したことがあるということなのだろうか。

 

「それで、今日がその聖誕祭(クリスマス)というものだったとして、だからどうしたの?」

 

 私がそうたずねれると、アントニオは言い辛そうに視線を彷徨わせながら言葉を探している風だった。

 

「いや、ほら。俺もサンタクロースの真似事をしてみたくなっただけだ。」

「村中の子供たちに贈り物(プレゼント)を配るつもりなの?」

「そうじゃなくて。ほら、お前今までサンタクロース来た事ねぇよね。」

「まぁ、その存在を今しがた知ったから。来ていたとしても何もしないで帰って行ったと思う。」

「よし、取り敢えず目を瞑れ。」

「なんで?」

 

 突然の言葉に私は首をかしげて尋ねた。そんな私の問いなど聞く耳を持たないといった様子でアントニオは『いいから。』と言って私を急かした。私は彼の言う通り目を瞑った。頭に少し重みを感じ、目を開こうとしたが彼の手によって覆われてしまった。その手はとても大きく、ごつごつと固い手だった。

 

「出来た。」

 

 そう言った彼は手を放した。頭を触ると、そこには髪以外の何かがあった。ペタペタ触り続けるが、それが何なのか私にはわからなかった。ただ、頭に布があるのが分かった。

 

「お前の髪は真っ白だから青がよく映える。赤もいいと思ったけど、やっぱりこっちだな。お前には血の色より空の色がよく似合う。」

 

 私にはアントニオの言っていることがわからなかった。私を見て、彼は視線を落とした。眉を寄せ地面をにらみつけていた。私は彼の表情の意味が分からなかった。

 

「どうしたの?」

 

 私の口から出たのは単純な疑問だった。私は今、アントニオが考えていることを知りたいと思った。知らなければならないと思った。

 

 

―――一つ、『拒絶』では無く、『理解』してやれ。人はいつでも理解者を欲する獣だ。

 

―――『拒絶』をファッションのように着飾る人間にはなるな。

 

―――人はいつでも話を聞いてほしい。自分を見て欲しい。そう言った欲望の塊だ。

 

―――だから、理解してやれ。理解出来るまで聞いてやれ。それだけで、救える奴は救える。

 

 

 あの男は私にそう言った。自分も理解者が欲しかった、と私にそう告げた。だが、理解者というのは本当にいるのだろうか。だって、私は私のことさえ分からないのに、私は誰かを理解することなど出来るようになるのだろうか。

 

「あぁ、いや。お前ともっと早く出会いたかったって…、思っただけだ。」

「もっと、早く?」

 

 彼が悩んでいるのは時間の問題なのだろうか。

 

「いや、何でもない。言っても仕方がないことだ。そうだ、お前あの爺さんとはどんな関係なんだ?家族、ではないんだろ?」

「この森で遊んでてたまたまあのおじいさんの家を見つけたの。それから、一緒に食事をする仲になった。別に仲良しってわけじゃないし。あぁ、でも、私あのおじいさんのこと好きだよ。意外に優しいの。今日はクライナーとブロンケーアいうものを作ってくれるんだって。手伝うって言ったんだけど…。ほら、この前のおじいさんの料理しているところ見たでしょう?あの年でケガをすると大変だから、って言ったら、首根っこつかんで私を追い出したのよ。」

 

 信じられる?と言うとアントニオは苦笑いを浮かべて頬を掻いた。

 

「それで、やることないし、だったんだな。」

 

 アントニオは今日、彼女のテンションが異常に低い理由がわかったと、苦笑いを浮かべた。

 

「それにしても、クライナーにブロンケーアか。爺さんの料理、見かけによらず料理美味かったな。」

「そうだね、やっぱり一人で生きてきたって言うのが大きいんだと思う。」

「あの人、奥さんとかいないのか?」

 

 言われてから気が付いた。ただ、口から出た何気ない言葉だった。何も知らないはずのあの老人の生きてきた道をどうこう言うのは良くなかったかもしれない。

 

「知らない。ただ、そう思っただけ。だって、おじいさん。優しいけど口が悪いんだもの。それに滅多にあの家から出てないみたいだから、そう言った出会いもなさそうだし。指輪してないし。」

 

 そうだな、とアントニオは私の言葉に頷いた。私は老人の奥さんがいたとしたらどんな人だろうと考えていた。彼の奥さんはきっととても温厚な、心の広い人でなければ務まらないだろう。それでいて、あのおじいさんの暴走を諫められる度量のある人じゃないとあの人とは付き合えないと思う。

 

「それにしても、お前はあの人に好かれてるんだな。」

 

 アントニオの言葉に私はそうだろうかと首を傾げた。あまり人と関わった事が無いからだろうか。他人に好かれるというのが良く分からない。

 

「そう見える?」

「あぁ、だってあの気難しそうなあの人が一か月近く一緒に誰かと過ごしてるんだろ?」

「ご飯の時だけだよ。それ以外は仕事しているからお話しないし。」

「あの人って何の仕事してるんだ?」

「うーん、なんだろう。何時も何か書いている。物書き、なのかな?」

 

 私は老人の仕事について考え始めた。いつも机に向かってペンを取っている。そのペンはとても高そうなペンで、紙もとても高級そうだった。いつもいつも何かを書き続けているあの老人の頭の中は一体何で出来ているのだろうか。

 

「ねぇ、話が戻るんだけど。」

「なんだ?」

「クライナーとブロンケーアって何?」

「焼き菓子だよ。クライナーって言うのが砂糖天麩羅(ドーナツ)の一種で、ブロンケーアって言うのは乾餅(ビスケット)の一種だ。どっちも美味しいぞ。」

「甘いの?」

「あぁ、甘くて美味しい。」

 

 甘くて、美味しい。甘いとは、贅沢な物が大抵甘いものだ。あの老人は甘い物を作れるという事はそれ程砂糖を買うお金があって、それはつまりあんな所に住んでいても沢山お金を持っているという証拠。それとも、サンタクロースと同じで徹底的に節制生活を送っているのだろうか。

 

 

―――はっ!?

 

 

「あのおじいさんが、サンタクロース…?」

「いや、何でそうなった?」

 

アントニオの反応からどうやら私の推察は間違っていたようだ。良い線だと思ったのだけれど。

 

「違うのか…。もし、おじいさんがサンタクロースだったら素敵だったのに。」

「あの爺さんに、素敵さを求めるのはどうかと思うぞ?まぁ、良いけどさ。さて、今日はもう帰ろうか。」

「もう帰るの?」

 

 立ちあがったアントニオに私は尋ねた。

 

聖誕祭(クリスマス)は色々と忙しくてな。動物捌くのを手伝わされたりするんだよ。」

「捌く…。」

「あ、えっと…。だってそのままだと食えないだろ。」

 

 私が小さな声で彼の言った事を復唱すると、それを聞いたアントニオは焦った様に私の言葉を食いついて来た。

 

「知ってるし、分かってる。そんな事、言われなくても。ただ…。」

「ただ…?」

「アントニオは辛くないの?」

「辛い?どうして?」

 

 立ちあがったまま私を見下ろして、彼は私の質問の意味が分からないと言った表情をしていた。私の方こそ、彼がどうして?と尋ねて来る意味が分からなかった。

 

「だって、アントニオは動物の医者になりたいんでしょ?動物を生かす仕事がしたいのに、動物をこれから殺さなきゃいけないんでしょう?それって辛くないの?」

「それは…。」

 

 アントニオは口をパクパクとした後、顔を俯かせた。しかし、私からは彼の表情が良く見えた。辛く苦しそうな表情を浮かべるアントニオ。なんて答えていいのか分からない。困った顔をしていた。

 

 

 きっと、私のせいなのだろう。私が、余計な事言ったのだ。

 それでも、私は頭が良くないから。聞かなければ理解できない。聞いても一度では理解できない。だから、理解出来るまで聞かなくてはならない。

 

 

「どんなに嫌な事でも、やらなきゃいけない時があるんだ。それが、社会で生きるって事だから。」

 

 社会で生きる、という事。私にはあまり理解できない事柄だった。私と言う社会から爪弾きされた人間には、そんな簡単な事さえ、理解するのは難しいという事なのだろう。

 

 でも、私にはただ言い訳にしか聞こえなかった。ただの都合の良い道理を用いただけにしか聞こえなかった。それは、理解したということになるのだろうか。それは、理解者という事なのだろうか。

 

 まず、理解者と言う物を理解していない私には無理な話しだった。

 

 

 私は、取り敢えず彼の答えに満足することにした。私が立ちあがるとアントニオは顔を上げた。

 

「私も帰るわ。おじいさんの手伝いをしなくてわね。嫌な事では無いけれど、手伝いはやった方が良い事だものね。」

 

 私が笑みを浮かべながら言うと彼は一層苦しそうな顔をした。

 

「アントニオ。」

「何だ?」

贈り物(プレゼント)、ありがとう。誰かから、何かを貰ったのは初めて。とても嬉しい。」

「あぁ、それは…。良かったよ。」

 

 私は手を振りながら、アントニオから離れて行く。後ろ向きに歩き、最後まで彼を見ている。彼は最後まで手を振ってくれた。彼の律儀な所を私はすごく好ましく思っている。

 

 私は雪に足を取らせそうになりながら、老人の家に向かった。家が近づけば近づくほど美味しそうな匂いが漂う。老人の家のドアを勢いよく開けるとそこには似合わないエプロンを付けた老人がいた。

 

「静かにしろ。」

「見て見て、アントニオがくれたの。」

 

 私はそう言って老人の元へ駆け寄った。オーブンの隣で本を読んでいた老人は本を閉じて私を見た。

 

「頭のこれなんて言うの?」

 

 私がそう尋ねると老人は私の頭の上に手を置いた。そして少し乱暴に私の頭を触った。

 

「これは…、アリスバンドだな。」

「アリスバンド?」

「不思議な国のアリスと言う物語を知っているか?」

 

 老人の言葉に私は大きく頷いた。何時だったか、あの男が読み聞かせてくれたのを覚えている。

 

「その主人公が髪を纏めるのにしている布の事をそう呼ぶ。」

「それじゃあ、私は今アリス?」

「そうだな。」

「それじゃあ、それじゃあ。私、兎を探してくる。そうしたら、木の根元に大きな穴が開いてるんでしょう!」

「兎を探すのは勝手だが、兎は大抵巣穴から出て来んぞ。探すなら冬でなく、春になってからにするんだな。」

 

 老人の言葉には私はがっくりと肩を落とした。

 

「それで、今日は帰って来るのが矢鱈とはやいが、何かあったか?」

「あのね、おじいさんのお手伝いをしようと思ったの。アントニオもお手伝いするって言ってたから。」

「いらん、そこらの本でも読んで大人しくしておけ。」

「私、文字読めないもん。」

「なら、教えてやる。」

 

 そう言って老人は適当な本を手に取った。それを机の上に置き、指でなぞりながらその本を読んでくれた。

 

 その声は少し掠れていて、その声は少し小さかった。

 

 

 でも、この時間は、とても幸福だと思った。

 




お疲れ様です。兎一号です。

調べていて知ったのは、カチューシャとは日本語で

ヘアバンドとか、アリスバンドとかと言うんですね。

この作品では、可愛さからアリスバンドと言う事にしました。


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第四話 誰かの不幸は誰かの幸福。

どうも、兎一号です。

お気に入り登録、ありがとうございます。


 その日、私が可笑しいと気付くのに時間はかからなかった。朝、目が覚めるとまずいつもと違ったのは、朝特有の骨身に堪えるような寒さが襲って来なかったという事だ。いつもなら、ベッドから出る事が嫌になるほどの寒さを今日は感じなかった。

 

 それからいつもの様に暖炉の火を起こした。その火の暖かさも何も感じなかった。私は家を飛び出した。

 

 別に必要な事では無い。ただ、子供達に追い掛け回される事は、少なくとも子供達の中では私と言う存在が認められてるということになる。ある意味で、私は依存しているのだと思う。

 

 しかし、どうだろうか。今日の子供達は私の横を素通りしていったのだ。

 

 私はそんな子供たちの後ろ姿を見詰めるしか出来なかった。名前も知らないあの子供達に、私は声をかけられなかった。何故か伸ばしてしまった手を私は下ろせずにいた。

 

 私は道の真ん中で、立ち呆けていた。こんなはずでは無かったと思った。いつもの様な日常が繰り広げられるはずだったのだ、と。私はいつまでも伸ばしていた手をそっと下ろした。目の前から男が歩いて来た。私に気付く様子は全くなく、仕方ないから私が道を譲った。

 

 こんな田舎の村だ。今は戦時中。車よりも一世紀前の馬車がまだ道路を走るような田舎の村だ。そんな村に今日という日に限って車が道路を通った。

 

 私の存在など運転手には見えていないように一切の減速なく、私の前に迫っていた。私はじっとそれを見つめていた。

 

「……!」

 

 誰かが私の名前を呼んだ気がした。しかし、車は私をすり抜けて走っていった。私の体に欠損はないし、着ている服にも何一つ傷は付いていなかった。体をペタペタと触ってみた。やはり、何も変わらなかった。

 

 私は恐ろしくなってその場から走り去った。そこでやはりおかしいと思った。誰一人、私にぶつかることなく私をすり抜けていった。衝撃は感じられず、圧迫感さえなかった。

 

 

 風を切って走っているのに体は寒さを感じない。それでも息は上がる。

 

 

 私は、家に帰った。でも、そこで可笑しいと気が付いた。私は、ドアを開けてない。ドアをすり抜けて、家の中に入った。私はどうやって家から出たのか、分からない。本当に気が動転していた。最早、正しい事なんて分からなかった。手を見詰めても、その手は透けている訳では無い。テーブルの上にあった老人から借りた本を掴もうとした。しかし、その手は空を掴んだ。

 

「なんで…。」

 

 口から出た言葉は疑問だった。そんな言葉は答えを持っている者にしか意味が無いというのに。

 

 思いっきり叩こうとした机。しかし、手はすり抜けて勢いそのままに振り下ろしただけになった手をじっと見つめるしかない。私は家から飛び出した。

 

 

 走って、走って、たどり着いたのはあの池だった。吐き出す息は白いのに、私はやはり寒さを感じない。

 

 

 私は着ていた外套(コート)を脱いだ。本当なら、氷点下を下回る今、普通の服だけで歩いれば寒くて寒くてたまらない筈なのにそんな辛さは一切感じない。

 

 履いていた靴を脱いだ。本当なら足が悴んで地面に立っている感覚さえなくなる筈なのに、私の足は確かに雪のじゃりじゃりとした感触をしっかりと感じ取っていた。

 

 やはり、この体は冷たさを感じることはなかった。膝から崩れ落ちて、私は雪の上に座った。そっと雪を掬い上げた。私の手に触れているのに、その体温で溶けることがない雪。その六角形の形を崩すことなく、私の手の上にあり続ける雪を、私は地面にたたきつけた。

 

 

 私はその日、とうとう世界から拒絶された。

 

 

 あぁ、誰か嘘だと言って。

 あぁ、誰か夢だと言って。

 

 

 とても心が苦しい。呼吸の仕方など忘れてしまったかのようだ。

 

 どうして?と、思考が一向に進まない。この状況を受け入れることを拒み続ける私の頭。頬を抓ってみると、どうしてかこればかりは痛かった。痛くて、痛くて、泣いてしまいそうだった。

 

 

―――人の中で独りで生きるよりは、独りの中で一人で生きた方が気が楽だ。

 

 

 私の中であの男がそう告げた。私はフラフラと歩き、水面を見詰めた。

 

 あぁ、こんなに苦しいのは、ここがきっと水の中なのだ。水の中で溺れているんだ。このままだと溺れ死んでしまう。早く、ここからでなければ。はやく、出なくては。

 

 

 私は素足で池の上に立った。私の体はすぐに水面を通過していった。昨日は気温が高めだったためか水面に張った氷は薄くなっていたらしい。

 

 あぁ、ほら。こちらの方が苦しくない。

 

 求めなければいけないはずの水面はだんだん遠ざかっていく。形式的に伸ばされた手はやはり何かをつかむ気力さえ残っていない。

 

 次第に沈んでいく私の体に重力という物理的現象は私を拒絶していないのだな、なんて見当はずれなことを考えていた。この前、池に落ちた時とは違い、今日は清々しいほどの晴天だった。キラキラと水面から降り注ぐ太陽の光がとても美しいと思った。

 

―――お前には、空の青が似合う。

 

 アントニオは私にそう言った。でも、私は、

 

 

 私は空のような青色が似合うと思った事は無い。

 私は水のような青色が似合うと思った事は無い。

 

 私に一番似合う色は白だと思っていた。自分が無い、個性が無い、白がお似合いだとそう思っていた。

 

 いや、それ白に失礼か。私はきっと空気のような透明がお似合いだ。

 

 

 私はただ、地に足をつけて歩き回ることしかできない人間でよかった。何一つ、特別なものなどいらなかった。

 

 あぁ、我らが父よ。

 

 私はもう、人間でいられないというのですか?

 私はもう、人ですらないというのですか?

 

 

 神よ、もしいらっしゃるのなら…。

 どうか、私の願いを聞いてください。

 私のことを疎むというのなら、貴方のその御心を尊重しましょう。

 私のことを認めないというのなら、貴方のその心情を察しましょう。

 

 もし、私の声が聞こえているのなら。

 まだ、私と言う物に振り分ける幸せが残っているのなら、その幸せを誰かに渡してください。

 

 その幸福で別の幸せでない誰かを幸せにしてあげてください。

 報われるべき努力に、どうかほんの少しでいいから。努力以上の幸福を齎して下さい。

 

 私はそれだけで幸せです。それだけで、私は幸福です。

 

 人は背負った不幸の分だけ、幸せになれる。

 

 だから、私の不幸せを、誰かの幸せに…。

 

 それこそが、私の幸せです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖誕祭(クリスマス)だった昨日とは違い、今日は穏やかな一日が始まると思っていた。昨日、牧師を訪ねてきた男のことなど、頭の片隅追いやられていた。

 

 しかし、穏やかで始まり穏やかで終わる筈だった日常は一人の青年が尋ねてきた事で一挙に崩れ去った。一人の青年が、一人の少女を抱えてきた。青年は血相を変え、牧師に詰め寄った。抱えられた少女を見るまでその存在が、頭の中からすっぽりと抜け落ちていたことに気が付いた。

 

「牧師様!もう、牧師様だけが頼りなのです!彼女は、此奴は、俺の腕の中にいますよね。俺は何も間違っていませんよね!?」

 

 救われたはずの少女より、救ったはずの青年の方が救ってくれと言わんばかりの形相で私に縋ってきた。この季節に海水浴に行ってきたようにアントニオの着る外套(コート)は水を吸ってグッショリしている。少女の方は、外套(コート)さえ羽織っておらず、靴もどこに置いてきたのか履いていない。

 

「えぇ、大丈夫。彼女は、あなたの腕の中にいますよ。アントニオ、治療は?」

「ちゃんとやりました。水も全部吐き出させたし、呼吸も落ち着いてる。大丈夫だと思います。」

「そうですか。さぁ、中に入りなさい。貴方も彼女も体を温めなければ風邪をひいてしまいます。」

 

 アントニオには軍人としての国からの招集命令が届いている。年が明ければ、彼は軍人としてこの村を離れなければならない。そんな中で風邪をひいてしまうわけにはいかない。彼らを自室に迎え入れ、そしてアントニオを暖炉の前まで誘導した。着ていた服を脱がし、彼に毛布を掛けてやる。

 

 さて、問題は彼女の方だ。10にも満たない少女とはいえ、女性は女性。神に仕えている身としては修道女(シスター)に頼むのがいいのだが、アントニオの様子から彼女は一般人には見つけてもらえない体質となったようだ。

 

 

 仕方がない。

 

 

 決心し、彼女の服を脱がせていく。彼女の体は新雪のように一切のくすみの無い白色の肌が顕わになっていく。

 

「此奴はどうして、誰にも見えなくなったんですか?」

 

 彼女の体をふいていた私に彼はそうたずねてきた。

 

「見えなくなったというのは、どういうことなのですか?」

「えっと、誰も、此奴のこと見えてない風だったんです。そりゃ、此奴のこと村の子供とかいじめてたみたいだけど…。今日は誰一人として、あいつに目を向けなかった。まるで、そこに何もいないみたいに。本当に見えてないみたいに。それに車が此奴を擦りぬけていったんです。」

「私には彼女の姿はきちんと見えていますからね。しかし、それは今日突然起こったこと、というならば何か原因があるはずです。昨日、聖誕祭(クリスマス)で彼女に何か変わった様子はありましたか?」

「いえ、特に…。俺にはわかりません。昨日は30分ほどしか一緒に居なかったから。」

 

 申し訳なさそうに俯いたアントニオを見て、もう一度彼女の方へ目を向けた。とりあえず、彼女の服は自分のを着せればよいか。

 

 

 全く、珍しくあの男が訪ねてきたかと思えばこれだ。本当に彼は狂っているのだろうな。

 

 

 聖誕祭(クリスマス)の日。珍しく訪ねてきた男は、珍しく『話がある』と言って一つの願いを語った。彼の人生の価値を語った。その価値は、その男にしか理解できないものだった。しかし、誰が止めようとあの男はこれを行っただろう。目の前の少女を不幸にしたことだろう。

 

「アントニオ、世の中には少なからず学問では到底証明不可能な現象が存在するんです。」

 

 牧師の言葉にアントニオは驚きの表情を隠せなかった。それから、彼はゆるゆると首を左右に振った。そして彼は立ち上がった。毛布をしっかりと掴んだまま、こちらに歩いてきた。

 

「牧師様は、此奴が、その学問では証明不可能な現象のせいで、こうなったと言いたいのですか?此奴は何一つ、悪いことをしていないのですよ?」

「アントニオ。これは天罰やらの類ではないのです。聖職者(私達)にだって、悪魔祓い(エクソシスト)にだって何もできやしない。」

 

 アントニオは言葉を失い、少女を見下ろした。牧師はまだ服を着せていない少女のために毛布を掛けた。少女の寝顔はあどけなく、決して苦痛に満ちてはいなかった。それでも、アントニオの言葉を思い出し牧師は彼女の苦痛を感じた。

 

「そんな…。治す方法とか、無いんですか?こいつ、折角助かったのに。」

「これは、例えるなら体質であり、個性です。彼女が彼女である以上、治る…、元に戻るということはないでしょう。絶対に。しかし、何か条件があるはずです。私と、貴方だけが彼女を見ることができる何かが。」

「それがわかれば、皆此奴を見れる…?」

「恐らくは。」

 

 牧師はそう言いながら、事実を言わなかった。牧師は知っていたのだ。彼女がどうして見えなくなったのかを。アントニオという青年は彼女が見えなくなった理由を絶対に納得しないとそう思っていたから。

 

 暖炉のチラチラと揺れる火に視線を向けた。牧師はあの男のことを思い出す。

 

 彼は彼女の不幸を望んだ。

 

 あの男の持論でいうならば、

 

 人は背負った不幸の分だけ、幸福になれる。だからこそ、人は不幸であるべきだ。最後に待っている幸福のために、人は生きればいい。なぜなら、人にとって幸福というのは死だけなのだから。

 

 だけれど、牧師は思う。そんなことはあの男の人生観でしかない。牧師が思うに、あの男は子供のころから成長していない。童心を忘れていない、と言ったら…。いや、それも全くフォローになっていないか。

 

 あの男は人に愛されなかったばかりに承認欲求がとても強い。あの男の人生は不幸で出来上がっている。だからこそ、あの持論を崩すことはないだろう。

 

 愛されたことのない男は、初めて自身だけを見る異能()を手に入れた。その女は決して男を愛することはなかったが、最初はそれでも良いと思っていた。思うことにしていた。しかし、男はそこで人間の欲深さを知った。

 

 牧師は男が殺した女を見たことがなかったが、それでもあの男の話を聞く限りその女の容姿は目の前の少女と酷似していた。白い髪も、青紫色の瞳も。

 

「此奴は、普通に出歩いて大丈夫なんですか?」

「と、言うと?」

「此奴、先天性なんとかって奴なんですよね。」

 

 彼が言いたいのは先天性色素欠乏症、アルビノなんて言ったりする。実際、彼女が父親と一緒に住んでいた時は、家から出た事が無かった。

 

「その事については、何ら問題はありません。彼女の病気の治療は済んでいます。」

「済んでいる?これって治る物なんですか?」

「治りませんよ、彼女の持病も治っている訳ではありません。誤魔化しているに過ぎない。」

「なら、どうして…。」

 

 アントニオの言葉に牧師は目を伏せた。そして彼女の父親が行った事を思い出した。

 

「アントニオ。幸福とは、不幸を背負って初めて手に入れられるものなのです。巷ではよく、幸福と不幸の量は同じだといいますが、それは当たり前の事なんです。不幸の量と同等の幸福を手に入れるのだから。」

「つまりどういう事なんですか?」

「彼女の持病を実質的に治すという幸福と誰にも認知されなくなる不幸。それが同じだけの重みなのか、私には分かりかねるのですが…。」

 

 牧師の言葉にアントニオは大きく目を見開いた。自身を包んでいた毛布を思わず落としてしまいそうになる。

 

「それは誰が…。いや、牧師様。彼女の父親は今どこに居るんですか?」

 

 アントニオの言葉は虚しく牧師の部屋の中に響いた。牧師は彼の言葉に答える事は無かった。

 

「此奴の両親は、何をしているんですか?」

 

 牧師は目を瞑り、ただ首を左右に振るだけだった。

 

「アントニオ。一つ覚えておくと良いでしょう。人一人の命を救うのに、それこそ人一人の命では足らない時もあるのですよ。」

 

 アントニオはその言葉に、今度こそ毛布を落とした。

 

「此奴は両親の事を何も覚えていないのは、どうしてですか?」

「アントニオ、あまり人の家庭事情に口を出すものではありませんよ。」

 

 その言葉にアントニオは口を閉ざした。

 

 しかし、アントニオは思った。これだけ彼女は、親に愛されていたのだと。

 

 それは、とても幸福で、とても不幸だ、と。

 




お疲れ様でした。

兎一号です。

書き溜めが少し増えてきたので、一日2話投稿をしてみました。

感想などお待ちしています。


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第五話 お告げと名付けられた亡霊

4月27日 誤字訂正


 3月30日。その日は聖金曜日と言う日だった。復活(イースター)祭の前の金曜日の事で、『受難日』『受苦日』なんて呼ばれたりする。私はあまり宗教と言う物に関わった事が無いので、こういう行事に参加した事が無いのだが、村中綺麗な装飾が施されていたのを見た。

 

 その日は、特に用事も無いので家でゆっくりするつもりだった。ベッドから出る事を物凄く怠く思い、グダグダとベッドに包まっていると呼び鈴が鳴った。私の家を知っているのは牧師と、アントニオくらいなものだ。私は、体に鞭をうってドアを開けた。冷たい空気が家の中に入り込んできているはずなのに、やはり寒いとは思えなかった。

 

 家の前にアントニオが立っていた。真新しい黒色の外套(コート)を着ていた。その下からは真っ白なシャツが見える。鍔のついた帽子を深く被っているアントニオは俯いている。その表情はとても暗く、いつもの彼からはとても想像が付かない、覇気の無い表情を浮かべていた。何か、嫌な事でもあったのだろうか。彼が私に家にわざわざ訪ねて来る理由が何かあっただろう。話があるのなら、あの池のほとりに来ればいい。それに、彼はどうしてこんな綺麗な恰好をして言うのだろうか。そんな事を考えていると、彼は私を捕らえた。彼の腕は少しきつく私はもぞもぞと動こうとするとさらにきつくなった。

 

「元気でやれよ。」

「そんな綺麗な服を着てお出かけ?」

「あぁ、良い服だろ?少し、用事が出来てな。」

 

 その言葉は何の脈絡も無く彼の口から出てきた。耳元で聞こえて来る彼の声は震えている気がした。

 

「いいなぁ。私もお出かけしたい。」

「あぁ、俺の用事が終わったら連れてってやる。何処行きたい?」

「何処でもいい。楽しい所が良いなぁ。遊園地とか、行ってみたい。」

「あぁ、連れてってやるよ。いい場所を知っている。メルヘンでいいならな。だからいい子で待ってるんだぞ?」

 

 今まで以上に優しく出会った中で一番丁寧に頭を撫でられた。この村では珍しい一人っ子のアントニオはこういう事に憧れでもあったのかもしれない。

 

「良い子で待ってるから、早く帰ってきてね。私、独りは嫌だから。」

「あぁ、お前を独りにしないよ。」

 

 その言葉を聞いて私は笑みを浮かべた。心に流れて来る彼の言葉に私はすごく安心したのだ。

 

「あ、ちょっと待ってて。」

 

 私は家の中に戻り、小さな箱の中をガサガサとあさった。そして彼女の手に収まるほどの小さな金属を持ってあれの元へ向かった。

 

「これ、ちゃんと返してね。」

 

 アントニオは手渡されたそれをまじまじと見つめた。

 

「これは、懐中時計か?」

「そう、誰の物か分からないんだけど、アントニオは時々時間にルーズだから。貸してあげる。」

「そんな高そうな物、持って行けない。」

 

 アントニオは私にそれを私に返そうとした。

 

「私は、この村から出ないから。だから、大丈夫。ずっとここで待ってる。」

 

 私がそう言うとアントニオはそれを服のポケットに仕舞い、私に別れを告げた。アントニオの寂しそうな声が、今も耳に残っている。彼の後ろ姿を私じっと見つめた。何か、声をかけてあげられれば良かったのだろうか。何か、伝えてあげられれば良かったのだろうか。

 

 

 きっと、お別れなのだろう。

 もう、会えないのだろう。

 

 

 何か、あげればよかった。繋ぎ止めておけばよかった。私が彼に縋って泣き喚けば、彼は困って行くのを止めただろうか。いや、これがきっと人間社会の『やりたくなくてもやらなきゃいけない事』なのだろう。私は彼の後を追って村の方へ歩いた。

 

 

 何と言えばいいのだろうか。何と伝えれば正解なのだろうか。

 

 

 『さよなら』と伝えるのは、間違いだろうか。もう会えないのか、それとも、会えるのか。私にはそんな事さえ、分からなかった。

 

 アントニオと他数人が軍用車両に乗り込もうとしていた。村の人間たち全員がその車に集まっていた。私にとっては人の間をすり抜けるなんて事は容易い事だった。私は大きく彼らに手を振った。私の手が誰に当たろうなんて関係ない。

 

「おかえりって、言わせてね!」

 

 誰の耳にも届かない私の声は、それでも届いて欲しい人には届くのだからそれで十分ではないだろうか。私には十分だ。

 

 彼は小さく手を振り返してくれた。私は上手く笑えていただろうか。そして急かされる様に車に乗って何処かへ行ってしまった。車を見送り、人々は疎らに日常へと帰って行った。それから見送った者達は戦場の噂を語り始める。

 

 私は老人の元へ向かった。きっと、あの老人もアントニオがいなくなった事を悲しむだろう。だって、彼とアントニオは良く話していた。

 

 今日はいつもの様に大きな道から脇道に入る方法では無く、森の中を真っ直ぐ突っ切ることにした。そちらの方が早いという事は無い。それでも私はその方を歩く事を選んだ。

 

 最近が温かったせいか、地面の真っ白だった雪はくすみ少しだけ土の色が付いている。

 

「おじいさん?」

 

 相変わらず高そうな外套(コート)を羽織った老人は、今日は珍しく家から出ていた。大通りの方から歩いて来ている老人。私が彼を呼んだことで、彼は前を向いた。

 

「あの青年は行ってしまったな。」

「うん、アントニオは行っちゃった。」

「お前、戦争を理解していないだろう。」

「戦争って何?」

 

 そう尋ねると老人は溜息を付いて、肩を落とした。

 

「おじいさんは行かないの?」

「こんな老い耄れ、盾にすら使えんだろうさ。」

「そうなの?」

「そうさ。」

 

 老人は自身が歩いてきた道の方を見た。私もその方を見たが、そこにはやはり老人の足跡が残るだけだった。踏み締められ、固くなったその部分だけがくっきりと分かる。

 

「アヌンツィアータ。」

 

 私はその言葉を聞いて酷く驚いた。

 

「私の名前、どうして知っているの?」

 

 老人は私の問いに答える事は無かった。誰にも言った事は無かった。誰にも告げた事は無かった。特に大した理由は無かったのだが、ただ私はその名前を誰にも告げた事は無かった。

 

 だからこそ、私の名前を知っているのは、私と私に名を付けたたった両親だけだと思っていた。

 

「でも…。」

「世の中には学問では説明のつかない現象が少なからず存在している。」

「おじいさん…、目、見えてない。」

「お前の幸福の為なら、視力など安い物だ。」

 

 何故、気が付かなかったのだろう。おじいさんはいつだって音に敏感だった。おじいさんの目はとても濁っていた。そして、私の幸福の為、とは一体どういう意味なのだろうか。彼は私に何をしたと言うのだろうか。

 

「でも、人は一挙に年を取らないわ。」

「言っただろう。世の中には学問では説明のつかない現象が存在すると。」

「一体何をしたの…?」

「人に与えられる幸不幸は調律がとれている。不幸を背負えば、それに見合った幸福を手に入れられる。」

「例えば、年齢をいっきに取ってしまうという不幸の代わりに、何かそれと同等な幸福を手に入れる…?」

 

 老人は一つ頷き、私の言葉を肯定した。

 

「例えば、目が見えなくなるという不幸の代わりに、それと同等な幸福を手に入れる…?」

 

 老人は一つ頷き、私の言葉を肯定した。

 

「私は……、私は、学問では説明のつかない現象なの?」

「そうだ、お前は現象だ。」

 

 老人は一つ頷き、私の言葉を肯定した。

 

 私は人では無かったらしい。

 

 言葉が出なかった。老人言っている事が本当だという保証は何処にもない。しかし、老人が嘘をついているとは思えない。思いたくないだけだったのかもしれない。

 

 私には老人の言葉を否定するだけの情報が無かった。

 

「簡単な事だ。お前は今年の夏、何をしていた?」

「今年の、夏…?」

 

 言われてみれば、何をしていたのだろうか。何一つ、思いだせない。私は頭を抱えずにいられなかった。

 

 あぁ、何故考えなかったのだろうか。言われてみれば確かに、私は今年の冬以外の記憶が無い。春や夏がどんな物だったか言われてみれば分からない。何一つ覚えていない。夏とはどういった物だっただろうか。

 

 春とは?

 秋とは?

 

 その季節の色が私は何一つ思いだせなかった。

 

「分からないか?何故わからないか、分かるか?」

 

 何故わからないか、なんてわかる筈が無い。何もわからないのだから。何も思い出せないのだから。思い出らしい思い出など、私の頭の中には残っていないのだから。今見えている景色と同じ様に私の中が真っ白になった。吐き出す息が震える。

 

 今までの痛みとか、苦しみとかが全て嘘のように感じてしまう。いや、嘘だったのかもしれない。そう感じていると思いこんでいただけかもしれない。

 

「お前はこの冬に、私が作ったからだ。」

 

 私は無意識に一歩後ろに下がった。この目の前の老人はなんて言った?

 

 今年の冬、私が作った?

 

 作ったって、作ったって、何…?

 

 

 あぁ、どうして。どうして、今日いなくなってしまったの?

 私、もう駄目そう。

 

 

 私は走ろうとした。しかし、それは老人によって阻まれてしまった。腕を掴まれ、私は彼から逃げる事は出来かった。

 

「どうして…。どうして、私は、人間には成れないの?」

「人はなろうとしてなれる物じゃない。輪廻転生とはそう言う物だ。生まれた命の形を偽ることは出来ない。お前はみにくいアヒルの、子だ。アヒルの中に混じったみにくいアヒルだ。」

 

 みにくいアヒルの子。その話は知っている。アヒルの中に白鳥の卵が混じってしまって、結局母親は白鳥を育てたけれど、でも駄目だった。白鳥は、やはり白鳥だった。アヒルの中には混じれなかった。それはそうだ。大きさも色も何もかもが違う。

 

「お前は、自身を決して人だと思うな。人ではない。人では無く、亡霊(ゴースト)のようなものだ。その浅慮な頭に叩き込むと良い。」

 

 心が壊れてしまいそうだった。いや、もう壊れていたのかもしれない。涙が溢れて出てきてどうしようもなく、この場所から逃げ出したかった。

 

 

 だけれど、逃げ出して何処に行く?

 私にはここしかないというのに。

 

 

 足に力が入らなくなり、ドサッと雪の上に座り込んだ。私はこれからどう生きて行けばいいのだろうか。そんな事だけが頭の中をグルグルと回っていた。

 

 いや、生きて行くというのは可笑しいのか。だって、亡霊(ゴースト)は生きてないのだから。

 

「私は、亡霊(ゴースト)なの?」

「お前は、亡霊(ゴースト)みたいなものだ。」

「みたいな…?」

「お前が覚えておくべき事は、たった一つだ。お前は亡霊(ゴースト)のようにこれから誰にも見つけてもらえず、誰にも愛されず生きて行け。」

 

 老人の言葉に私は乾いた笑みを浮かべました。

 

亡霊(ゴースト)なのに、生きるなんて可笑しい。」

「そうだな。では、亡霊(ゴースト)のように他人に不幸を振りまけばいい。それこそが、お前に与えられる唯一の幸福だ。」

 

 老人の言葉に私は瞳を閉じた。もう、頭が何かを考えることを放棄していた。

 

「お前にこれをやろう。何、ただのロザリオだ。肌身離さず持っていろ。」

 

 老人が私の手に無理矢理握らせたのは銀装飾のロザリオだった。

 

 亡霊(ゴースト)の私にこんなものを持たせて私に早く成仏してほしいのだろうか。

 

 私は空を見上げた。真っ青な空は私が今付けているアリスバンドと同じ色をしていた。

 

「お前は、空のような存在になれ。他人に干渉されず、気分で他人を振り回せばいい。」

 

 それでも、だからこそ。私は一つだけ老人の言葉に逆らってやろうと思った。他人の不幸が私の幸福になるのなら、私は私の不幸を願おう。そうしたらきっと、私の不幸で誰かが幸福になる筈だから。私はそれで良い。

 

 この時、私の中に信仰にも似た偏執の考えが私の中で出来上がった。

 私はこの考えを生涯変える事は無い。

 私は自らの不幸を願い、私は他人の幸福を願い続けた。

 

 亡霊(ゴースト)となった私は自らを不幸に貶め、他人の幸福を望み続けます。

 

 

 

 あぁ、神様。どうか、この私に天罰をお与えください。

 

 亡霊(ゴースト)と言う不詳の存在となった私にこの上ない苦痛をお与えください。

 私はそれに見事耐えて見せましょう。

 

 そんな試練も、どんな困難も私はこの世の全ての人間の為に耐えて見せましょう。

 

 あぁ、今日はなんて日だろうか。

 

 今日はイエス・キリストの受難と死を記念する日。

 

 神は私に同じ物をお与えになるというのだろうか。

 

 ならば、貴方様の期待に答えなければなりませんね。

 

 

 私は、アヌンツィアータ。

 

 神からのお告げと名付けられた亡霊(ゴースト)です。

 




お疲れ様です。

早く原作キャラ出したいなぁ、と思いながら書いてます。

第二章になりましたら、出てきますから。もう少しお付き合いください。


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第六話 生きていない事と死んでいる事の違い

4月27日 誤字訂正


 4月1日。父親、と呼んでいいのか分からないが、老人が死んだ。穏やかな寝顔でベッドの上から動かない彼を見て、私は

 

 

―――あぁ、これが死か。

 

 

 なんて他人行儀な事を考えていた。いや他人行儀なのだ。私はつい昨日、透明人間から完全な亡霊(ゴースト)となったのだ。怪物と言う生命体から、亡霊(ゴースト)と言う非生命体へとなってしまったのだから。最早、死んでしまった私には、死と言う物とは無縁となったのだ。

 

 老人の肌を触ってもその感触は人間の物で、本当に死んでいるのか私には判断が付けられなかった。ただ、やはり温かみと言う物を感じないのは、死んでいるという事なのだろうか。

 

 しかし、私は亡霊(ゴースト)だ。教会に入っても大丈夫なのだろうか。浄化されたりとかしないだろうか。そんな事を考えて教会の窓越しから中を覗いていると牧師と目が合ってしまった。急いで身を屈み隠れたが見つかった後で隠れても何の意味も無かった。

 

「何をしているのですか?」

「え、あっと…。おじいさんの事で、ちょっと。」

「おじいさんと言うのは村外れに住んでいる彼の事ですか?」

 

 私はこの牧師が老人の事を知っている事に少し驚いた。彼は周りの人間とは関わって生きていないと思っていたから。

 

「その老人の事、何だけど…。」

「何かあったのですか?」

「多分、死んだ。」

 

 曖昧な言葉だったが、それはとても冷たい言葉だった。その冷たささえ、私は感じる事が出来なかった。

 

 私の言葉に牧師は目を伏せた。そして数人の修道女(シスター)を連れて彼の家に向かって行ってしまった。一人教会の横に取り残された私は、彼らの後ろ姿をじっと見る事しかしなかった。何か出来るわけでもない私は教会のレンガを背に腰を下ろした。

 

 寒さが分からなくなったというのは少し便利だと私は思った。こう言う時、何処にいても何も感じることなく自由に居られるから。だけれど、自由とはありすぎると今度は困ってしまう物だ。暇を持て余すと言うのは何とも贅沢な事だろう。

 

 私は首から下がっているロザリオを弄り、空に掲げてみた。牧師、と言うのはプロテスタントの教職者の事だ。プロテスタントはロザリオを持たない。彼らはこう言った物を嫌うのだ。こう言ったものに違和感を感じるのだそうだ。

 

 だからこそ、彼らの城ともいえるこの教会にこれを持って立ち入るのは少し気が引けてしまう。

 

 数人の修道女(シスター)が慌ただしく、教会の中に入って行った。その後ろについて来た牧師は教会の横に座り込んでいる私を見てとても驚いた様子だった。

 

「何をしているのですか?こんな所で。冷えますよ。」

「私には、寒いなんてもう分らないですよ。」

 

 私の言葉に牧師は苦笑いを浮かべた。そして困った様に頭を掻いた。

 

「見ている私が寒いのですよ。春になったとはいえ、まだ雪が降る。それなのに、貴方はそんな薄手のワンピースで。しかも半袖。早くおいで。」

 

 牧師は私に手を伸ばした。私はその手を取ることは出来なかった。私は他人の手を取ると言う行為がとても罪深い事に思えて仕方がなかった。一度伸ばした手を私は引っ込めた。私は彼の手を借りずに立ちあがった。差し出した手を戻した牧師に多少申し訳なく思ったが、これでいいと思った。

 

「中で温かいミルクでも飲みましょう。アヌンツィアータ。」

「牧師様は、私の名前を知っているのですね。」

「えぇ、知っていますよ。これでも、貴方のお父様とは仲は良かったんですよ。」

「おじいさんと?」

「せめてお父さんと呼んであげて下さい。その方が彼も報われるでしょう。」

 

 教会の中に恐る恐る入った。特に私の身体には問題は何一つ起こらなかった。手などを見ても何も変わっていないように見えた。

 

「おじ…、お父さんは、どんな人だったの?」

「彼は、そうですね。気難しい人だった。でも、彼は誰よりも愛情深い人間でしたよ。」

 

 愛情深い。私に愛情と言う物が理解できていれば牧師の言っている事が理解できたのだろうか。私が少し首を傾げて牧師を見上げていると、牧師は少し困ったような笑みを浮かべ私の頭に手を置いた。

 

「そして何より、彼は何も信用していなかった。」

「何も?」

「えぇ、自分も、神も、何も信用していなかった。信用していないからこそ、彼は誰よりも愛情深かった。」

 

 信用していないから愛情が深くなるのだろうか。

 

「貴女は貴女らしく生きればいいんです。」

 

 私らしく生きればいい。最早、人間では無い私にその言葉はとても胸が痛かった。しかし、それは仕方のない事。この牧師は私とお父さんの会話を知らないのだから。知らないのに察しろと言うのは何とも自分勝手な話だ。

 

 彼の自室に案内された私は、何とも言えない不気味さを感じていた。教会の地下にあるという事も関係しているのだろうが少し湿気っぽいこの部屋は、蝋燭の光がチラチラと揺れ動いている。何より、暗いのだ。

 

 薄暗いと言うのはこれほどまでに人の心情を揺さぶる物だろうか。

 

 部屋の隅にある本棚には理路整然と沢山の本が並べられている。その本はどれも難しそうな本ばかりだ。最近、老人に文字の読み方を習っていたとはいえ、まだまだ幼児レベルの知識しかない私には難しい事だった。

 

「貴方はこれからどうするのですか、アヌンツィアータ。」

「どうするも、何もありませんよ。牧師様。私は唯、この世に生きる人の為に祈るだけです。」

 

 小さな礼拝堂のある村の中で一番大きな建物である教会の中で、私は父の冥福を祈った。何をしてくれたなんて記憶は殆どないけれど、それでも私と一緒に居てくれる彼に私は依存していたのだろう。

 

 一人の修道女(シスター)が牧師の部屋の中に入ってきた。本棚を見上げていた私の事など気付く様子も無く牧師の元へ向かう修道女(シスター)を私は横目で見ていた。

 

「彼の遺品は私が預かります。」

 

 修道女(シスター)にそう言っているのが聞こえた。牧師様が管理してくれるのなら何一つ心配はいらないだろう。お父さんの家には沢山の書類があったけれど、それを全部管理すると言うのは大変な事だ。いや、不要だと思う物は捨ててしまうのだろうか。それは少しだけ、寂しいと思った。あの家から紙の臭いがいつか消えてしまう時が来るのか、と思うと寂しさが募る。

 

 私の中にいるお父さんは、あの老人の姿をした人と、顔も覚えていない中年の男性だった。

 

 こう言うのは少し恥ずかしいが、私はお父さんの事をとても気に入っていた。誰かと食事をした記憶なんてないし、誰かと一緒に話をした記憶もほとんどない。そんな中で彼は私と言う存在と一緒に居てくれた。

 

 お母さんの事は何一つ、覚えていないのは何故なのだろうか。これはきっと、私は彼に造られた存在だからだろうか。元々、母親なんて存在はなかったのかもしれない。

 

 あぁ、そうか。私は望んでしまったんだ。お父さんとこれからずっと一緒に居たいという幸福を望んでしまったから神様は怒ってお父さんを死なせたんだ。

 

 私は壁に掲げられた大きな十字架を見詰めた。そこに掲げられているのは我らが父の子、イエス・キリスト。

 私もいずれは彼の様に十字架に縛られ刺殺されてしまうのだろうか。

 誰かに裏切られ、こうして他人の幸せの為に死んでしまうのだろうか。

 

 それとも、フランスの聖女のように神の声を聞き、戦いへと赴き祖国を勝利へと導くのだろうか。

 最後は仕える主に裏切られ、十字架に掲げられてしまうと言うのだろうか。

 

 こう考えてみると、なんと報われない事か。

 

 他人の為に生きると言うのは何と虚しい事か。

 

 それでも他人の為に死ぬという事は何と完美な事か。

 

 それでも構わないと、そう言って生きて死んだ彼らは本当に崇められるべき人格者なのだろう。

 

 彼らの死に様の価値は、高く評価されているのだろう。

 

 私が人間だという認識が抜けきらない為か、その事を少し怖いと感じてしまう。こんな事ではダメだ。

 

 どんな苦痛も耐えて私はこの世の人間の為に生きるのだから。私の行動はきっと誰かの幸福につながる。

 

 そう信じて私は初めて十字架の前で手を合わせた。私は、私の記憶に残っている父の言葉を思い出した。今年の冬の事以外、何もかもがあやふやな私の中でその言葉だけが確かに生き残っていた。

 

 

 老人は、私の父は言った。

 

 

 一つ、人は決して利他的にはなれない。利他的である者こそ、仮面を被っている。

 

「人が生物である以上、人は遺伝子を後世に残す為に生きている。」

 

 一つ、人の中で独りで生きるよりは、独りで一人で生きる方が気が楽だ。

 

「孤独とは、毒の一種のようなのだ。慣れれば、感覚が麻痺する。ただ、中毒性もある。故に一番恐ろしいのは毒が切れた時の禁断症状だ。」

 

 一つ、『拒絶』では無く、『理解』してやれ。人はいつでも理解者を欲する獣だ。

 

「私がそうだ。人はいつでも話を聞いてほしい。自分を見て欲しい。そう言った欲望の塊だ。だから、理解してやれ。理解出来るまで聞いてやれ。」

 

 一つ、生きる事自体に意味はないし、価値も無い。

 

「人は生まれてきた事に意味を見出し、人はその死に様に価値を求めればいい。生きる事はその間の過程に過ぎない。」

 

 一つ、お前にとっての幸福は死以外にありえない。

 

「死とはすべての柵からの解放を意味する。自らの体を押さえつける重力を失いし、自らの魂を閉じ込める体を失う。しかし、忘れるな。死とは、一度しかない。一度しかないから、恐ろしく尊いのだ。」

 

 一つ、亡霊(ゴースト)のように振舞え。

 

「人としての希望を持つな。お前は亡霊(ゴースト)だ。ただそこに存在するだけの物として、人を見るだけの存在としてそこにいると良い。」

 

 一つ、恋に溺れ、現実に苦悩し、愛に狂え。それが人のあるべき姿だ。

 

「その恋に溺れるが、しかし現実が足踏みをさせるだろう。その現実に苦しみ悩むが、しかし愛が見える景色を自分好みに歪ませるだろう。その愛は人を狂わせるが、しかし恋が人を現実に引き戻すだろう。」

 

 

 最後の言葉なんて、私にはもう必要のない言葉だ。

 

 それでも、そうしていれば私は少しか人間になれるだろうか?

 

 もし、私が彼のいう言葉を実行したならば私は本当に『みにくいアヒルの子』となる事だろう。

 

 亡霊(白鳥)であるのに、人間(アヒル)になろうとする滑稽な何かになり果てるのだろう。

 

 私の父がそう望むのなら私はあなたの言葉通りに存在し続けましょう。

 

 孤独な亡霊(ゴースト)は見える人間の理解者となり、人のように振舞いましょう。それが他人の幸福となるのなら。

 

 

「アヌンツィアータ。」

 

 思考の渦から私を引き戻したのは、最早この村の中で唯一私を見る事が出来る牧師の声だった。

 

「アヌンツィアータ。これからは私の付き人をしてみませんか?」

「付き人、ですか?」

「はい、そうです。貴女はこれから多くの人間の為に祈りを捧げると言いました。祈りを捧げるにもまずは作法などを学ばなけれなりません。」

 

 燭台を背に牧師は私にそう言葉をかけた。牧師の声は何処か厳しく『この道を歩みたくば、異論は認めない』と言っているようにも聞こえてきた。私は牧師の前に膝を付いた。

 

「宜しくお願いします。」

 

 牧師の前で手を合わせ、私は彼の提案を受け入れた。俯いている私には牧師がどんな表情で私を見下ろしていたかなどわかる筈も無かった。

 

 こうして愚かな一人の少女の人生は終わり、亡霊(ゴースト)の霊生(?)は始まった。

 

 自分が存在する事に何ら価値の無いと思っていた少女は、こう言った。

 

 

―――私の人生の価値など、所詮はこんな物。

 

―――私の人生は何一つ、価値のある物では無かった。

 

 と。

 




お疲れさまでした。

次で第一章は終わりです。


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終話 狂気に溺れる

「今日はどんな話をしてくれるのかしら?」

 

 決して大きくない部屋の中で机を挟んで男女が座っていた。女性は男性の持った厚い本を見て楽しそうに微笑みながら尋ねた。頬杖をついて、男の顔を見上げていた。男の方はムスッとした顔で、女を見下ろしていた。いや、この男の表情筋が壊れている事を女は知っていた。ムスッとしていてもこの男は自分と過ごすこの時間を大切にしている事を女は知っていた。

 

「みにくいアヒルの子。」

「みにくいアヒルの子?あらあら、それは何とも、可愛らしいお話を持って来てくれたのね。」

 

 男が手にしていたのはその顔に見合わない童謡だった。女は男が一体どんな気持ちでこの話を持ってきたのか分からなかった。だが、それを推し量ろうとしていた。

 

 男は生まれた時から特別だった。特別不幸だった。それこそ、この本の中に出て来る白鳥のように不運で不幸な男だった。女はそんな男を生まれた時から見てきた。

 

 女は男が発する声に耳を澄ませ、その言葉を頭の中でよく齟齬した。話を終え、男は本を閉じた。

 

「この話を聞いて、お前はどう思った。」

「どう?どうもこうも、良かったんじゃない?仲間のもとに帰れたのだから。本当の仲間に出会えたのだもの。それは幸せな事でしょう。」

 

 幸せ、か。と、男は女の言葉を復唱した。男は酷く詰まらないと言った表情で頬杖を付き、珈琲碗(コーヒーカップ)に口を付けた。男の表情に女は分からず首を傾げる。

 

「ならば、俺はお前と出会えたことは、幸せな事なのだろうな。」

 

 その言葉に女は何と返事を返そうか、思案していた。暫くその場は沈黙が支配した。男は目を瞑り、女は口を噤んだ。女が小さく息を吸った。その音で男は瞑っていた目を開いた。

 

「それは、どうかしらね。貴方の幸せも不幸せも、全て私が支配している。それは、幸せな事?」

 

 女の言葉に、男は少し呆けた。それから男は腹を抱えて笑った。その様子を見て女は面白くないと言った表情を浮かべた。頬を思いっきり膨らませ、男を見上げた。

 

「今日は随分と、笑わせてくれる。お前が、俺を支配している?バカを言うな。俺を支配しているのは俺だ。そしてお前を支配しているのは俺だ。だから、俺の幸せも不幸せも、俺が支配している。」

 

 その言葉を聞いた女はクスクスと笑みを浮かべ、男にぐっと近づいた。普段ならはしたないと怒られるのだが、今の男はそんな事は言わなかった。机に脚を乗せ、額をピッタリとくっ付け、男の頬を撫でた。

 

「だからこそ、お前の答えは気に喰わん。」

「ん?ちょっと。」

 

 男は立ち上がり女の顎を掴み、顔を上げさせた。男の目には女の顔が映っている。それはとても美しい女だった。その女の表情は発した言葉と違い、無表情だった。人形のような端正な顔立ちをした女は男の顔を見る。女は恐らく絶世の美女と言っても過言では無いだろう。一方で男は、決して綺麗な顔つきをしていなかった。

 

「お前は願いを言わん。心からの本心も言わん。俺は、お前の心が知りたい。」

 

 真剣な声で告げる男の声に女は少しふざけた様子で笑みを浮かべた。

 

「ふふふ、それは可笑しい。私に心などありはしない。私は貴方が異能で作り出したただのお喋り相手なのだから。思考できる頭があり、それを話す口がある。感情と言う物に対しての知識はあれど、理解は出来ない。」

「お前に感情を付与すると一体どんな風になるんだろうな?」

 

 男は女の頬を撫でて、ピッタリと額をくっ付けた。

 

「お勧めはしない。私は貴方の異能そのもの。異能に異能を付与することは、とても危険な事だわ。私は貴方を失うくらいなら、私を壊すわ。」

「それは困るな。お前が壊れれば、誰も俺を見つけられなくなる。」

「えぇ、困るでしょう。だから、ずっとここにいましょう。ずっと二人で。この場所で死ぬの。」

 

 女は男にピッタリとくっ付いた。女は男の体に手を這わせて撫で下ろした。

 

―――あぁ、でも。そうね。きっと白鳥は…。

 

 女が最後につぶやいた言葉を男は生涯、忘れなかった。忘れられなかった。

 

 男はその言葉にその女の愛を知った。自身の異能力で作り上げた人形でしかなく、その表情も思考も全てが作りものであるはずなのに。

 

 女の言葉には確かに女の愛があり、思いが詰まっていた。

 

「―――。」

 

 名を呼ばれた女はとても幸せそうに微笑んだ。

 

「なあに?ハンス。」

 

 名を呼ばれた男は少し気恥ずかしそうに微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハンスは夢を見ていた。それは遠い昔の懐かしい夢だった。今はもう会う事の出来ない女性との夢だった。異能で作り上げた人ならざる人の形を模した道具。

 

 昔、何処かの誰かが言っていた。道具に人の心など詰め込むべきでは無いと。人では無いが故にその心はあまりに純情で、浮き彫りになる自らの心に不純さを感じずにはいられなくなる。そうなれば、人はもうその心の虜となる。そしてその純情を穢したくてたまらなくなるという。そして、なにより人はその純情な心に報いてやることは出来ない、と。

 

「年は取りたくないものだ。」

 

 気怠い体を起し、ハンスは窓から外を眺めた。彼女を殺したのは丁度こんな綺麗な青空の日だった。異能であるが為に、彼女から血が噴き出す事は無かった。それでも、彼女の傷口から漏れだす青白い夥しい文字の羅列がハンスの目には今でも残っている。痛みなんて感じる事の出来ない彼女は刺さっている物に気を止めることなく、ハンスからの暴力を受け取った。そんな彼女の最後は、何も残さなかった。

 

 だからこそ、彼は思った。あんなに綺麗な彼女の中身が何も残らないのだから、人間は最後にとんでもない物を残していくのだろう。とても醜い物を残していくに決まっている。そしてそんな物が詰まった自分をハンスは誰より嫌った。

 

 いつもの様に子供がハンスの元を訪れる。真っ白な髪に青紫色の瞳を持った少女。最近は青いアリスバンドを付けて来る。不幸をその身に詰め込んだような少女だった。ドジで間抜けで平和ボケした少女が、今日もハンスの元を訪れた。もし、自分が昔人殺しをしたのだと告げると、目の前の少女は一体どんな反応をするのだろうか。そんなハンスの内心など知る由もなく、少女は微笑むのだった。台所に立って、今日の朝食を作る少女の姿を見てハンスは無意識に口から言葉がこぼれだした。

 

「お前は、幸せか?」

 

 突然と質問に少女は首を傾げた。

 

「人生は、辛くはないか?」

 

 その質問に少女はクスクスと笑みを浮かべた。全く馬鹿らしい質問だと言わんばかりに少女は笑い続けた。

 

「人生は、辛くはないわ。」

「人生は、憎くはないか?」

 

 少女は未だにクスクスと笑っていたが、ハンスの真剣な表情から笑うのを止め持っていた包丁を俎板の上に置いた。

 

「人生は、辛くも無いし、憎くも無いわ。」

「何故だ?お前には親はいない。心配してくれる人間はいない。その身は一切、幸せなど知らぬ身だろう。なのになぜ、世界を疎まない?世界を恨まない?」

「いいえ、それは間違いだよ。おじいさん。私は幸せを知ってるし、不幸せも知ってる。ただ、今の人生で不幸せが多いだけ。それに、こうやって誰かと会話できることも食事を取る事も、幸せでしょ?」

 

 少女の言葉をハンスは鼻で笑った。

 

「なんと安っぽい幸せだ。」

「安い物が、価値のない物じゃない。高い物が、価値のある物じゃない。需要と供給が一致して初めて物には価値があるのです。」

「最近知った事をひけらかすのは止めておいた方が良いぞ。浅慮なお前には、早すぎるというものだ。それにその言葉は使用用途を間違っている。」

 

 そう言うと少女は頬を大きく膨らませて老人を見上げていた。その仕草は―――にそっくりだと思った。何時までもそうしていても仕方ないと言った様子の少女は、諦めたかのように溜息を付いて肩を落とした。そしてまな板に向き直ると野菜を切り始めた。今日の朝はどうやら、三明治(サンドウィッチ)の様だ。

 

 野菜を切っている少女の手が止まった。

 

「そう言えば、おじいさんの名前ってなんていうの?」

 

 その問いは突然だった。ハンスは好奇心に塗れた少女の瞳をじっと見つめた。

 

「ハンスだ。娘、お前の名前は何という?」

 

 少女がここに来てもう2週間以上だったが、初めての自己紹介だった。少女は微笑みながら自身の名を告げた。

 

「さぁ、何だったかしら。」

 

 そして『そうか』と呟いた。それしか、ハンスには言えなかった。

 

 

 

 夜遅く、ハンスは一人、ある場所を目指していた。

 

 

 最後に外に出たのは何日ぶりだろうか。あの少女が尋ねてきたから、外出する理由が無くなった。

 

 

 久方ぶりの外出だった。ハンスはとある場所に向かっていた。ハンス自身に信仰心と言う物は一切なかったが、それでも良くしてもらっている恩がある。ハンスは近くの村の牧師の元へ向かった。礼拝堂のある小さな教会だった。そこにはハンスと付き合いの長い牧師がいる。礼拝堂のドアを開けるとそこには数人の信者が祈りを捧げていた。今は戦時中。親族の誰かでも、戦争に出ているのだろう。そんな事を勝手に想像し、ハンスは礼拝堂の奥へと入って行った。十字架を掲げた壁の横にある扉。その扉を開け、地下へと降りていった。そしてその地下には、複数の扉があった。奥から歩いて来たお目当ての男。

 

 生真面目な性格で、服装に一切の乱れはない。目当ての男は、ハンスの姿を見ると意外だ、と言った表情を浮かべ、それから彼は腕を組んでハンスを見た。

 

「これは、珍しい男が尋ねてきた。一体何があったのかな?」

 

 少しお道化た口調で話しかけて来るのは、彼がハンスに対して気を許している証拠だった。ハンスは正直この男の軽さが少し気に入らなかった。それに面倒だとも思っていた。年の差と言うのもあるのだろう。見た目の姿が70程になるハンスには、40歳程の目の前の牧師は些か若すぎた。

 

「少し、話がある。」

 

 ハンスの言葉に牧師は手に持っていた聖書を落としかけた。そんな場面を上にいる修道女(シスター)に見られた暁には酷く責められることだろう。しかし、ここは普段修道女(シスター)は忌避して通ろうとはしない。この道の奥には罪人の処刑に使われた部屋があり、殺された罪人はこの奥に仕舞われている。修道女(シスター)はこのご時世に幽霊など信じているのだろうか。

 

 

 全く信じられない。いや、それほど信仰心があるからこそ、彼女達は修道女(シスター)になれたのか。

 

 

「分かりました。」

 

 牧師は来た道を引き返し、奥の部屋へと向かって行った。一つの部屋の扉を開けた。黒魔術にでも手を出しているのではないかと思うような、禍々しい部屋。その中に、ハンスと牧師は入って行った。

 

「それで、人間嫌いの貴方がこんな街中に出てくるなんて…。明日、空爆が降ってこない事を祈るばかりですよ。」

「口の減らない奴だ。最後の願いを決めただけだ。」

 

 ハンスの言葉に牧師はヘラヘラとした表情を消した。

 

「聞きましょう。」

 

 ハンスの言葉に牧師は目を見開いた。何か言おうとしたが、それは言葉にはならなかった。空気だけが彼の口から漏れ出す。彼は一度口を閉じ、意を決しまた口を開いた。

 

「貴方は、あの子をどうするつもりなのですか?」

「簡単な事だ。単純な事だ。私はあの子の幸せを何より願っている。私は()()の願いが成就することを何よりも願っている。」

「あなたは本当に、このことが()()の願いだと思っているのですか?この事があの子を幸せにすると思っているのですか?」

 

 納得がいかないという牧師の言葉にハンスは鼻で笑った。

 

「なぁ、牧師よ。お前はみにくいアヒルの子、という童謡を知っているか?」

 

 ハンスの突然の問いに牧師は眉をひそめた。机に置かれた燭台の光がチラチラと揺れる。

 

「えぇ、知っていますよ。」

「なぁ、牧師よ。お前はみにくいアヒルが、幸せであったと思うか?」

 

「なぁ、牧師よ。自身の本当の姿を知った白鳥は幸せであったと思うか?」

 

 牧師は暫く黙って考えた。

 

「自身の本当の姿を知ることは大切なことです。何者であるのかを正しく理解する。だからこそ、人は前を向いて歩いていけるのです。」

 

 その言葉を聞いて老人は首を横に振った。

 

「なぁ、牧師よ。お前は腐っても牧師であったようだ。いやはや、お前達の信仰心は恐れ入る。いいか、本当の姿を知ることが幸せか?それをいつ、白鳥が望んだ?そんなどうでも良い物を、白鳥は欲したか?白鳥は、な。どんなに醜くてもかまわなかったんだ。白鳥は探していたんだよ。」

「白鳥は、何を探していたというのですか?」

 

 その言葉を聞いて、ハンスは口元に笑みを浮かべた。その笑みはとても穏やかで、牧師は目の前の老人にもそんな感情が残っているのだと不思議に思った。不思議に思い、そして彼女への愛の深さを知った。そして牧師はハンスの言葉に大きく目を見開いた。

 

「白鳥が何より欲したのは、本当の仲間ではない。白鳥が何より望んだのは、自身がアヒルであるという証拠だ。では、みにくいアヒルは、親の元を離れ、沢山の動物たちと会った。それは何故か分かるか?」

「…。」

「白鳥が出会ったどの生物とも自身姿が違えば、自身はただのみにくいだけだった、と。そう言う証明になるからだ。」

「しかし、みにくいアヒルの子は白鳥だった。」

 

 全く悲しい事だよ。と、ハンスは溜息を付きながら肘を付いた。

 

「貴方は、あの子をみにくいアヒルの子にでも仕立て上げるつもりですか?」

「仕立て上げるというのは間違いだよ、牧師。あの子はみにくいアヒルの、子。そうだろう。」

 

 ハンスの言葉に牧師は目を細めた。

 

「あの子は私の幸福を対価に生まれてきた、生命だ。」

「あの子は人間です。それは対価を支払った貴方が一番良く理解しているでしょう。あの子を彼女と重ねてみるのはやめなさい。これ以上あの子を孤独にするのはやめなさい。あの子の人生は、あの子の物です。」

 

 牧師の言葉にハンスは笑みを浮かべた。

 

「なぁ、牧師よ。恋と愛の違いを知っているか?」

「恋と、愛の違い…?恋とは、自己満足。愛とは、自己犠牲、でしょうか。」

「そうか、牧師。お前はそう考えるか。」

「なら、貴方はどう考えるのですか?」

 

―――恋と愛の違い?そんな物は簡単よ。

 

―――恋とは、溺れるもの。

―――愛とは、狂うもの。

 

「恋と愛の違いは、そこに狂気があるかないかだよ。」

 

「私は、とっくの昔に狂ってしまった。()()のへの愛に、私は狂ったのだ。」

 

 ハンスは彩られたあの頃のことを思い出し酔いしれていた。あの美しい自身の異能がこの世界に色を与えていたあの時代を。

 

()()は独りでいることを薬から毒にした。牧師よ、私は中毒患者だ。この禁断症状に耐えるのはとても堪える。」

 

 笑いながら話すハンスの言葉を牧師は黙って聞いた。牧師は、ハンスの言う彼女に会ったことはない。それでも、牧師は思った。

 

 これが、彼にとっての幸福であるのだろう、と。

 

「ハンス・クリスチャン・アンデルセン。貴方はこれで後悔はないのですね?」

「後悔などない。私は、白鳥を何よりも愛している。」

「そうですか。では、さようなら。」

「あぁ、さようならだ。」

 

 ハンスはそういうと、牧師の部屋から出て行った。

 




お疲れ様でした。
どうも兎一号です。
パッパッと進めましたが、これで第一章は終わりです。

原作より十六年前、戦時中という事で
当然戦争を経験していない兎一号には少し書き辛い時代でした。

戦時中はまだ続きますが、頑張ります。


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断章
破裂した体躯


 亡霊(ゴースト)としての生活は、今までの生活とあまり変わらなかった。違う点があるとすれば、食料を買う事が困難になった事くらいだろうか。そう言った点は牧師様が買って来てくれるからとても感謝している。

 

 私の今のお金事情は、とても緊迫していた。今までは何処からか送られてくるお金を使っていたのだが、その送ってくれていたお父さんが死んでしまった事で、私は最早餓死するのではないかと思っていた。しかし、実際は亡霊(ゴースト)はお腹が空くと言う生理現象が訪れる筈も無く、お金事情は緊迫しているというだけで生活していくのに全く問題はなかった。

 

 私は、たまに食事と言う物が懐かしくなれば料理をする程度に、食事自体の頻度が下がっていた。亡霊(ゴースト)ってコストパフォーマンス良すぎ、なんて思いながら私は過ごしていた。

 

 詰る所、生活に置いて何一つ苦労はしていないという事だ。人としていた頃より、考えなければならない事が減った。

 

 そんな私は教会の地下に住み着いていた。牧師は私に沢山の事を教えてくれた。

 

 語学、宗教学、教育学、その他諸々。信仰心の欠片も存在しなかった私にはしっかりとした信仰が芽生えていた。いや、信仰らしいものが芽生えていた。

 

「アヌンツィアータ。アントニオから手紙が来ていますよ。」

 

 彼が戦地へと赴いてから半年が経った。アントニオは月に一通、手紙を送ってきてくれる。その手紙には当たり障りのない事しか書いていないが、恐らくそう言った事を軍として求められているのだろう。

 

 アントニオは今、とある砦の警備に当たっているそうだ。そこは同盟国の国境に近く、多少の小競り合いが頻発しているようだけれど、今の所怪我をしている様子は見受けられない。怪我をしたと書けないだけかもしれない。ただ、それだけの事かもしれない。

 

 戦争と言う物を未だ正しく理解できているか分からない。それでもこうして手紙が送られてきているという事だけで私は少し安心してしまうのだった。

 

「あぁ、アヌンツィアータ。あくまでも噂の範疇を抜けないのですが、最近この近くで密偵がいるんじゃないかって話が聞こえてきます。まだあの森に通っている事は知っています。今は外出を控えると良いでしょう。貴女が普通の人間に見えないとはいえ、見える人間も少なからず存在しているのですから。」

「はい、分かりました。」

 

 彼が言う様に私はまだあの森の中にある池に通っていた。あそこに行けば、またあの時のように私を見つけてくれる人に会えるかもしれないと、そんな無駄な願望を抱いていた。

 

 密偵、か。つまり、スパイだ。他国の国民に成りすまして、その国の情報を自国に流すのが役目。そんな重要な役目の人が、こんな田舎に来るものだろうか。本当はもっと別な理由があるのではないだろうか。

 

 私は手に持っていた手紙を大切に鍵付きの箱の中に仕舞った。古めかしいが、この箱はとても気に入っていた。箱を机の中にしまい、教会の地下の部屋から出た。

 

 牧師様の話なら、あまり外出が出来なくなってしまう。ならば、今日を区切りにあの池に行くのをやめよう。あの池を訪れれば誰か私を見つけてくれる人が現れる気がしていた。気がしていただけで今まで会えた事は無いのだが。

 

 私は生まれて初めて春と言う物を経験して、今生まれて初めて夏と言う物を経験している。人が言うには今の時期は暑いらしい。確かにみんな冬と比べてとても薄着で出歩いている。そんな中で冬と変わらず真っ黒な服装で生活をしている牧師様や修道女(シスター)さん達には素直に尊敬する。

 

 森の中を歩いていると、私は昨日と違う部分を見つけた。冬の時とは違い、木々が生い茂り草が地面を覆っている。そんな森の中は一日一日、絶えず変わり続けているのだが、今日の変化はそう言う物では無かった。

 

 この森の中に入ってくる村の人間は猟師であるアントニオの父親しかいないはずだ。それなのに、今日は沢山の足跡が森の中に残っている。森の中に入ってきた人間の数は分からないけれど、多分5人以上いると思う。

 

 そしてそんな中、誰か怪我をしているみたいだ。木の幹に血を擦りつけたような跡が残っている。

 

 いや、もしかしたら密猟者と言う線も無い訳では無い。この血は動物の血かもしれない。確かに今は戦時中でタンパク質と言うのはとても貴重だそうだ。

 

 

 何だか、穏やかじゃないな。

 

 

 今までにもこんな事があったのだろうか。村の若者が兵士徴収で連れていかれた事で村の中は一層ピリピリしていた。戦争なんてものは、早く終わればいいのに。そうしたら、アントニオと遊園地に行くのだ。軍役は大抵二年だと聞いている。後一年半。こう考えると、案外彼が帰って来るのは、早いのではないだろうか。

 

「あぁ、もう来れないのならお父さんの家の掃除、してしまわないと。」

 

 どれ程来れないのか分からないから、埃一つないほど綺麗にしてしまおう。

 

 おう!と決意を表す様に空に向かって拳を掲げた。

 

 しかし、家のドアを開けた私の目に飛び込んできたのは思わず目を背けたくなるような光景だった。

 

 この家にあった書類は全て牧師様の所にあるから家の中はすっきりしているはずだった。だから、家を掃除すると言っても窓を拭いて掃き掃除をするだけだた。それだけで終わる筈だった。

 

「何、これ…?」

 

 家の中は夥しい血で汚れていた。その血は少し黒ずんでいる。家の中にある人間だった者は4人。どれもこれもまるで破裂した様な死に様だった。一体どんな業を背負えばこんな死に方をするのだろうか。

 

 私の鼻孔を刺激する濃い血の臭い。私は思わず口を抑えた。食事なんてしないから吐き出す物が無いのに、口の中が酸っぱく感じる。

 

 私に分かる事はたった一つ。彼らは殺されたんだ。少なくても自殺でこんな風な死に方にはならないのを理解していた。という事はこの惨劇を作り出した犯人がまだ近くにいるかもしれない。牧師様に知らせようか。

 

 

 でも、知らせて牧師様が殺されてしまったらどうしよう。

 

 

 こう言うのは隠しておきたいものだろう。もし、これを見つけてしまったのがアントニオのお父さんとかだったからきっと大変なことになっていたのだろう。村中大騒ぎだ。

 

 

 でも、私ではこの死体を片付けることは出来ない。

 

 

 ずずっと、何かが動く音がした。そちらの方へ視線を向けると若い幼さがまだ抜けきらない青年が倒れていた。年はきっとアントニオと同じくらいだ。真っ黒な髪の青年は虚ろな表情で床を見詰めていた。私はゆっくりと青年に近付いた。この青年はまだ生きているのだろうか。

 

 そっと少年の口元に手を近づけるとまだ呼吸をしているのが分かった。

 

 私は立ち上がり、急いで教会へと戻った。私の言葉が聞こえる牧師様の元へ早く行かなくては。あの家には包帯なんてものは無いし、私ではあの青年を助けれらない。最早、壁なんてものを考慮せず、真っ直ぐに私は教会を目指した。教会のドアを開けず、私は唯真っ直ぐに中に入った。そして祭壇の前に立っていた牧師様に飛びついた。牧師様は他の牧師様とお話していたけれど、そんな事を考慮している暇など何処にもなかった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 私が飛びついた事でふら付いた牧師様を心配して声をかけていら。

 

「えぇ、大丈夫です。少し、ふら付いただけで。」

「牧師様、大変なんです!お父さんの家で人が死んでするんです。その中に、まだ息のある人がいて、私ではどうすることも出来なくて!」

 

 牧師様には申し訳ないけれど、私は矢継ぎ早に状況を伝えた。牧師様の服を引っ張り彼を急かす様に彼を動かそうとした。

 

「えっと、すみません。少し外の空気を吸ってこようと思います。」

「えぇ、それが良いでしょう。」

 

 こう言う時、人間というのは面倒だと私は思う。急がなくてはいけないときでも相手の機嫌をとらなくてはいけないのだから。

 

 私に引っ張られ、多少ふら付きながらもあくまで歩くと言う姿勢を崩さない牧師様に多少イラつきを感じながら私は彼を引っ張った。

 

 牧師様が走り出したのは教会を出てすぐだった。6歳の少女では到底追い付けない程、彼は素早く走って行ってしまった。牧師様の姿は直ぐに見えなくなってしまった。

 

 大人と子供では体力の量も違う訳で、私は直ぐに息が上がり砂利道の上に倒れ込む様に膝を付いた。

 

「ま、待ってよ…。」

 

 なんて私の声を聞く人間がいる訳も無く、聞こえる筈の牧師様は遙彼方。もう姿も見えやしない。お父さんの家に向かう為の大通りに向かう途中で牧師様があの青年を抱えて走ってきているのが見えた。砂利道の上で立ち止まり、そして家に着く前に教会へととんぼ返りする羽目になった。

 

 

 これって、私は教会で待っていた方が良かったのではないだろうか。

 

 

 なんて事を思い、無駄に体力を使ってしまったと溜息を付かずにはいられなかった。しかし、牧師様はどうして裏口から入って行ったのだろうか。そりゃ、表から入れば信徒たちを驚かせてしまうけれど、それでも、一刻を争っているのだから。

 

 帰ってきた時には私はぐったりと机に倒れ込んだ。今はその行為をだらしないと叱るお父さんもいなし。牧師様も青年に付いている。私がいつも使っているベッドで寝ている。今日から何処で寝ようかな。多分、今座っている椅子に突っ伏して寝るのだろう。

 

「彼は、大丈夫ですか?」

「良くはないですね。至近距離で銃弾を受けたのでしょうね。幸いだったのは内臓にダメージが無く、この距離で撃たれたのに体を貫通していない。弾を取り出して、圧迫していれば何とかなるでしょう。」

 

 

 銃で撃たれた時の対処法ってそんなんでいいんですか?何かもっとしなければならないと思っていた。

 

 とてもきつく包帯を巻かれている。青年はピクリとも動かず、されるがままだ。包帯を巻き終わり、牧師は私の方を向いた。

 

「全く、この青年の血液型が分からなければ輸血も出来ない。」

 

 そんな愚痴を挟みながら青年の体に包帯が巻かれていく。

 

「私は仕事に戻ります。と言うよりは、あの家の事を憲兵に伝えねばなりません。あの家の中をあさられると思いますが、良いですね。」

「私の物は何一つありませんから。それに大切な物は全部こちらに持ってきましたから。」

「そうですか。それではこの青年の事を宜しくお願い得しますね。目が覚めても、ここにいる様に伝えて下さい。一週間は絶対安静だと。」

「はい、分かりました。」

 

 牧師様は部屋から出て行った。私は青年の方へ目を向けた。息苦しそうにゼイゼイと苦しそうな呼吸音が聞こえて来る。真っ黒な髪の青年はここらでは見ない特徴だ。髪が黒いのは大抵東側の人達だ。彼は東、つまりはバルト三国やロシアから来たという事だろうか。

 

 戦時中なのに、国境を越えて来るなんて無茶をする人なのだろうか。彼の所持品は特になく、パスポートや入国許可証などが無い事から、この青年は完全な不法入国者だ。そんな不法入国者を匿う事はきっと罪に問われてしまうのだろう。

 

 不躾だと分かっているのだが、青年の顔をじっと見つめた。やはり血を流し過ぎているせいか、唇は青白く、血色が悪い。何か血になる様なものが食べられればいいのだけれど、牧師様も言っていたけれど、輸血か。間違った血液を体内に入れてしまうと最悪死んでしまうと聞く。

 

 私は青年から離れ、椅子に座り聖書を取った。耐えしょうがないと自分でも思う。村の外の人間なんてアントニオを迎えに来たあの軍人たちくらいなものだ。村から一度も出た事のないから、これからもきっと村から出る事なんてないのだから。聞くだけ聞いてみたいと思うのだ。

 

 

 聞いた話だと、バルト三国には十字架の丘と言うその名の通り沢山の十字架が立った丘があるとか。

 聞いた話だと、ロシアには真っ赤な城壁のお城があるとか。

 

 この村にはない、特別な物の話を聞いてみたかった。

 

 こんな事を考えていたら当然聖書なんかには集中している筈も無く、全く頭に入ってこなかった。こんな時期だから旅行関連の雑誌なんてものも無く、お父さんの家の本に出て来る海外の街並みと牧師様が話してくれた海外での経験談位だ。

 

 牧師様は日本や中国といったアジアに行く事が多いらしい。今度、日本語でも習ってみようかな。なんて、真面に自国語の読み書きも出来ないうちは教えてくれそうにない。

 

 開いていた聖書を閉じて私は冷蔵庫を開けた。牧師様に迷惑をかけてしまったから何か昼食でも作ってあげよう。

 

 しかし、結局牧師様が帰ってきたのは夜遅くなってからだった。そして青年はその日、目を覚ます事は無かった。綺麗な眉を顰めながら、私のベッドで眠るばかりだった。その日私は牧師様の部屋のベッドを借りて寝る事となった。




お疲れ様です。

最近は空風が寒くて、寒くて…。

兎一号は、巣穴に籠っていたい…。


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薄幸な青年

Qooさん様、評価ありがとうございます。

とても励みになります。


 じぃっと青年の顔を覗き込んでいた。幸薄そうな青年の顔は、整っている。病弱そうで、腕なんてアントニオに掴まれただけでポッキリ折れてしまいそうだ。世の中こういう人間の事を美青年と言うのだろう。

 

 眉がピクリと動いて、青年はその紫色の瞳を顕わにした。私の瞳色よりも赤みのある紫色の瞳が真っ直ぐ私を見詰めている。どうせ私の事など見えていないのだから、と安心、と言うよりは油断をしていた。

 

「あの、ここは…?」

 

 青年の声は何処か幼さを残したけれど、少し低めの声だった。私はこの青年が牧師様に話しかけているのだと思った。勿論部屋の中に牧師様はいない。彼は今、上でミサを行っているはずだからだ。辺りを見渡しても彼が話しかけるような人間は見当たらない。

 

「あの、お嬢さん?」

 

 お嬢さんと言う言葉に、私のもう意味をなしていないと思っていた心臓がドキンッと揺れ動いた。私はゆっくりと彼の方を向いた。そして私は自分の事を指さした。

 

「貴女以外にいませんよ。」

 

 私の中の血液がさぁっと引いて行くのが分かった。私はバタバタと慌てながら椅子の後ろに隠れた。

 

「あの、お嬢さん。どうしたんですか?」

「貴方、私が見えるの?」

 

 私の声に青年は少し驚いた表情を浮かべた。私が眉を顰めながらその青年の事を見ていると居心地の悪さからか彼は起き上がろうとした。私は慌ててその青年に近づき肩を押して抑えた。

 

「ダメ、牧師様が絶対安静だって言ってた。少なくても一週間は動いちゃダメって。何か食べられる?お腹空いてない?」

「では、水をお願いできますか?」

「うん、わかった。」

 

 私はコップに水道を注ぎ、ストローをさした。水を飲むには彼は体を起さなければならない。コップをベッドの横の机に落ちて彼の背に手をまわした。少しでも青年の手助けになればと、必死に青年を起こそうとした。結局、幼女である私の力などたかが知れていて、青年は自力で起き上がった。

 

 

 というか、青年を起き上がらせて良かったのだろうか。

 

 

 手を貸してから首を傾げた。青年は自分でコップを手に取り、水を飲みほしていく。どうしてもこの青年のことを観察してしまう。この青年は目を離すとどこかへ行ってしまいそうだった。

 

「お兄さんの服は穴が開いてるから今直してるところ。その服は牧師様のだよ。」

「牧師様、ということはここは教会ですか?」

「うん、教会の地下にある部屋。診療所に連れて行ってあげられたらよかったんだけど…。」

 

 私はそこで言葉を切って上を見上げた。そんな私に怪訝な視線を向ける青年に視線を戻した。

 

「お兄さんの事、殺そうとしている人たちが村の中にいるみたい。」

「貴女は、能力者なんですか?」

 

 青年の口から出た言葉に私は首を傾げた。

 

「それって、学問では到底解決できない現象のこと?」

「えぇ、そんな風に言う人もいるかもしれませんね。それを扱う人のことです。」

「それじゃあ、私は違うわ。それはお父さんだもの。」

 

 私は青年の言葉に首を振って答えた。

 

「私はただの亡霊(ゴースト)。だから、お兄さんが私に話しかけてきたからとっても驚いたんだよ。」

亡霊(ゴースト)…?貴女は、死人だとても言うのですか?」

「うーん、細かい事は知らない。お父さんがそう言ってただけ。」

 

 私の言葉に青年は微かに眉をひそめた。

 

「貴方のご両親は?」

「お父さんは今年の冬に死んだ。お母さんは誰にも聞いたことないから知らない。」

「貴方は、いつ死んだんですか?」

 

 青年の言葉に私は腕を組んで首を傾げた。

 

「お父さんが言うには、私は去年の冬の始まりに作られたんだって。だから、私はお兄さんの言う能力者に作られた亡霊(ゴースト)だよ。」

「つまり貴女は、異能力そのものだと?」

 

 『たぶんね。』と、私は曖昧な答えを彼に告げた。そんな言葉しか私は言えなかった。私は私自身のことでさえ、他人からの口から出た言葉でしか知らないのだ。私のあいまいさ加減に呆れたのか、青年は少し考え込むようなしぐさを見せるだけだった。

 

「まだ寝てた方が良いんじゃない?お腹空いてたら牧師様に頼んでご飯持ってきてもらうよ。」

「いえ、大丈夫です。少し疲れました。」

 

 青年はそういうと起こしていた体を再び寝かせた。私は青年の顔をじっと見つめた。

 

「寝るの?」

「えぇ。」

「そっか。お休み、お兄さん。」

 

 紫色の瞳は瞼の裏に隠れてしまった。本当に疲れていたのか、それともここから出て行く事を諦めたのか。お兄さんは寝てしまった。小さな寝息が聞こえてくる。

 

 私はお兄さんが来ていたファーのついた暖かそうな外套(コート)を手に取った。

 

 牧師様が言うには、彼は態と銃に撃たれたそうだ。拳銃を至近距離で受けた後がこの外套(コート)には残っている。つまりは、服に銃を押し付けて撃つ事で付く焼け跡が彼の外套(コート)にはついている。

 

 牧師様はあの青年が自殺を試みたか、それともあの三人の内の誰か撃たれたのか。わからないが、この青年は事情が複雑だと言っていた。ここにこうやって匿っておくのが精いっぱいだといわれてしまった。

 

 この青年が生き残れるかは、この青年の生命力にかかっている、と。

 

 でもこの青年は悪運が強そうだから何とかなるでしょうという何の確証もない言葉を頂いた。

 

 

 私は裁縫箱から針と糸を取り出し、空いてしまった穴を閉じていった。穴は比較的小さいものの、その場所には血が少しにじんでいる。

 

 生地を折り返してなるべく跡が目立たないように縫っていく。裁縫は最近始めたばかりであまり得意ではないのだが、女性の嗜みというやつらしくしっかりと仕込まれている最中だった。

 

 しかし、男性に女性の嗜みを仕込まれるというのはどうなのだろうか。改めて牧師様の万能さ加減に驚いている私だった。

 

「ふぅ…。」

 

 針が刺さるということはないのだけれど、それでも精神的に痛いと思ってしまう。だからどうしても慎重になってしまう。下手に集中力を使い、少し疲れてしまった。上のことが一区切りついたのか、牧師様が部屋に入ってきた。

 

「青年の様子はどうですか?」

「一度目を覚ましましたが、水を飲んだ後疲れたといって寝てしまいました。」

 

 牧師の青みがかった緑色の瞳が青年の方を見た。

 

「彼は、自分のことを何か言っていましたか?」

「いいえ、私の事とここはどこかという質問はしましたが、お兄さん自身のことは何も聞いてません。牧師様がお兄さんは訳アリだと言っていたので聞かないほうがいいかなって思って。」

「少しは気にしなさい。彼が密偵だったらどうするつもりですか?」

 

 ポンッと頭に手を置かれた。私は多少押さえつけられている状態から必死に顔を上げて彼を見上げる。

 

「まだ聞こえますか?」

「うん、聞こえる。」

 

 亡霊(ゴースト)になってから、人の思っていることが聞こえるようになった。正確には、その人が今、一番叶えたい願いがなんとなくわかるようになった。どこの誰が思っているのかはわからないが、それでもたくさんの声が囁くように聞こえてくる。

 

 最初は自分と同じような亡霊(ゴースト)の声が聞こえているのかと思ったけれど、実際は生きている人間の願望だった。死んだ人間が早く仕事を終えたいとは思わないだろう。一体どれだけの距離の人間の願望が聞こえてきているかわからないけれど、これが結構うるさかったりする。

 

「そうですか。その中に不穏な事を考えているのはこの青年を殺そうとしている人だけですか?」

「たぶん、そうだと思います。結局、私に聞こえてくるのは、願望です。『祖国のために』の祖国がこの国を指しているかまでは分かりませんから。」

「そう、でしたね。」

 

 牧師は私の頭から手を除けた。そして私の机の上に置いてあった外套(コート)を見つめた。

 

「ふむ、上手くなりましたね。」

「本当ですか?でも、まだ時間がかかります。」

「早ければ良いという物でもないのですが。まぁ、いいでしょう。」

 

 外套(コート)を手に取って私の縫った場所を確認していく。

 

「一度洗ったんですけど、やっぱりそれ以上落ちなくて。」

「血というものは、そう言う物です。覚えておきなさい、アヌンツィアータ。血というものは洗っても落ちないものです。一度その身を血で汚してしまえば、もう二度とその赤は消えない。」

 

 それはすり抜けてしまう私にも同じことが言えるのだろうか。血なんてものが付着する余地のない私でも地に汚れたりするのだろうか。

 

 私がじっと自身の手を見つめているとその手に牧師は手を乗せた。

 

「普通に生きていれば、人を殺すなんてことにはなりませんよ。」

「牧師様。私は生きていませんよ。」

 

 そう言うと牧師様はいつも納得がいかないといった様子で眉を顰める。それから諦めたように息を吐き出して私から視線を逸らす。これが一連の流れだ。

 

「今日のお夕飯はここで?」

「いえ、上で食べます。彼には、そうですね。胃に優しいものを作るといいでしょう。」

「胃に優しい物…、御粥ですか?」

「えぇ、それがいいでしょう。」

「はい、承りました。」

 

 ビシッと敬礼をして私は食品庫の中にリンゴが残っているか確認をし始めた。胃に優しいと言うからきっとシナモンを使うのは良くないだろう。ミルクもあるし、作るのに問題はないだろう。

 

 牧師は上に戻って行った。一体何のために降りて来たのだろう。私は牧師の後ろ姿を見送ると私は材料の確認を始めた。林檎の皮をむき、おかゆを作り始めた。米を使った御粥もあるのだけれど、今は米を手に入れるのは難しい。お米の代わりに、リンゴで代用する事は多々ある。林檎をざく切りにして水と砂糖に本来ならバニラエッセンスを入れるのだが、今回はバニラエッセンスは入れないことにした。これを10分ほど煮詰め、これをマッシャーで触感が残る程度に潰す。後は冷蔵庫で冷やす。食べる時に牛乳と合わせると美味しいのだ。

 

 あまり冷たくしすぎるといけないと思い、今回は冷蔵庫に入れるのを止めた。鍋に蓋をして私は青年の方を見た。青年が目を覚ます気配はない。

 

 暫く暇になりそうだったので私はいつもの様に『Nattergalen』と言う本を手に取った。単行本サイズだが、ハードカバーの本だった。私はこの本がとても気に入っていた。本を読んでいる時は色々な物が聞こえずに済むのだ。本の中に集中して、本の中の住民になった気分だった。

 

 どれ程時間が経っただろうか。小さく溜息を付いて首を回す。集中すると周りの音が聞こえなくなるのは私の良くない所だった。時計に目を向ければ、牧師様が出て行ってから目を向ければ、青年の目は覚めていた。

 

「おはよう、お兄さん。気分はどう?」

「良くはありませんね。」

「そう、みたいだね。ご飯食べれそう?」

「えぇ、少し。」

 

 その言葉を聞いて私は直ぐに用意を始めた。冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、鍋の中に入れる。そしてそれをスープ皿に取り、青年の元へ持って行った。

 

 一人では食べられそうになかったので私が彼の口に運んでいった。むしゃむしゃと口を動かす青年の様子を伺いながら私は彼の口に料理を運んだ。

 

「お兄さんは、何処から来たの?」

 

 私は料理を口に運びながら尋ねてみた。青年は気だるそうにこちらに視線を向けた。

 

「気になりますか?」

「うん、気になる。特に夏なのにファーのついた外套(コート)来てて暑くないのかなって、すっごく気になってた。」

 

 持っていたスプーンを皿の上に置いてテーブルの上に置く。

 

「お兄さんは寒がり?今は寒くない?」

「えぇ、大丈夫ですよ。」

 

 私は笑みを浮かべ、青年を見下ろした。私は綺麗に食べられた皿の上を見詰めた。ご飯もきちんと食べれたし、後は傷が塞がるのを待つだけか。

 

「お兄さん、名前は?私は、アヌンツィアータ。」

「僕は、フェージャとお呼び下さい。」

「ふぇ、ふぇー…じゃ?言い辛い名前なんだね。お兄さんの名前。」

 

 舌を噛みそうになり長青年の名前を呼んだ。私の名前も大概だが、この青年の名前は特別言い辛い。

 

「上に、まだ人はいますか?」

「え、うん。二人か、三人か。それくらいはいる。」

「あぁ、それは。」

 

 私は失礼だがこの青年の精神を疑った。どうしてこんな状況で『好都合だ。』と言ったのか。自身を狙う人間が近くにいる事が好都合なんて私は死んでも言えないだろう。

 

「お兄さんは死にたがりなの?」

「いいえ、私にはやるべき事がありますから。」

「それって、『罪のない世界』を作るって事?」

 

 私がそう尋ねると青年は驚いた表情でこちらを見詰めてきた。

 

亡霊(ゴースト)にはそんな事も分かってしまうのですね。」

「?良く分からないけど、分かるよ。ずっと、聞こえて来るから。」

「聞こえて来る、ですか。」

 

 と、青年は訝し気に私の言葉を繰り返した。私は首を傾げて青年を見下ろした。青年が私に手を伸ばしてきた。その手は空を掴んだ。私の中をユラユラと揺れていた。

 

「本当に触れないんですね。でも、貴女は先程色々な物を触れていましたが…。」

「うん、練習したからね。それまでは沢山すり抜けて大変だった。」

 

 苦笑いを浮かべながら私は頭に手を置いた。青年は私の様子を少し眉を顰めた。

 

「まぁ、もう慣れたからいいんだけど。ほら、お兄さん。寝ないと。良くならないよ。」

 

 青年の体に毛布を掛け直した。私はお皿を持って席を立った。お兄さんは多くを語る事は無かった。寧ろ、私ばかりが話す少し可笑しな時間だった。それでも誰かに自分の話を聞いてもらえるという事はとても幸福だと思った。

 

 翌日、青年はいなくなっていた。

 そして、青年を殺そうと息巻いていた願いも聞こえなくなかった。




お疲れ様でした。

一番最初に出て来たのは、ロシア人の彼でした。


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第二章 彼は幼女趣味の危ないお医者様だった。
第一話 初旅行


 戦争は終結しました。と、言っても未だあちらこちらで煙っている部分はあり、本当の意味で戦争終結にはまだまだ時間が掛かりそうなのは否定できない。

 

 私は見慣れない景色の中、肺一杯に空気を吸いこんだ。いつものあの自然に囲まれた場所とは違い、そこはとても深呼吸するのに向いている土地とは言いがいた場所だった。

 

 私は晴天の空を見上げた。晴天、と言ってももう夕方。あと30分もすれば日は完全に沈み、夜の帳が下りるだろう。ここは私の生まれ育った丁抹(デンマーク)ではない。ここは日本。牧師の用事に荷物持ちとして連れてこられた私は、初めての外国に心を浮足立たせていた。丁抹(デンマーク)とは違い、そこはレンガ造りの建物では無く混凝土(コンクリート)作りの縦に長い建物が多いようだ。

 

 こう言う文化の違いと言う物は心が躍る。

 

「アヌンツィアータ、日本と言えど戦争をしてたことに変わりはありません。基本的に治安が良いとされていますが、それでも気を付けるに越したことはありません。」

「はい、牧師様。」

「特に貴女は、迷子になればほぼ確実に見つけてあげられませんからね。」

 

 一般人の目に留まらない私を見つけられるのは特別な人間だけ。そんな特別な人間がこの町にいくらいるかわからないが、私を探してくれるとは限らない。私を探してくれるとは思えない。だからこそ、私は大人しく宿屋で待っているしかないのだ。

 

 私は手に持っていた本をぎゅっと抱きしめた。

 

「それから、ここは外国です。この前のように人間を拾ってきても介抱することは出来ませんよ。」

 

 この前のように、というのは約一年半前のことだ。密偵がこの村の近くに潜んでいるかもしれないなんて噂が、村中に蔓延していたときの事だ。お父さんが住んでいたあの掘っ立て小屋のような場所で4人の人間が倒れてた。その中の一人が生きていた。その一人、青年を助けたのだ。介抱し、青年は何処かへ消えてしまったが、牧師様が言うには彼とは二度とかかわってはいけないそうだ。

 

 

 碌な事ならない。

 

 

 牧師様は苦虫を噛み潰したように表情を歪めて言った。あんなに嫌悪感を丸出しにした牧師様をみたのは初めてだったからとても驚いた。それと同時に人間というのはこういう裏と表を持っているのだな、と再確認した。

 

「他国には他国の事情があるんです。」

「はい、牧師様。」

 

 素直な私の言葉に満足したのか、牧師様は私の頭の上に手を置いて私の髪を撫でた。空港を出て、車に乗った私たち。私は窓ガラスに張り付いて、流れる景色に感動していた。

 

 飛行機というものに乗る時も同じように窓にべったりと張り付いて動こうとしない私の事を苦笑いをして牧師様は見つめていた。

 

 しかし、やはり車は飛行機に比べると感動が半減してしまう。目の前を次々と過ぎていく人や電柱に目が回ってしまうそうになるが、やはり広大な海を上から見下ろすというのは経験できないと思っていたから。

 

「お客さん、外国人の方だよね。旅行かい?」

「えぇ、そんな処です。」

「しかし、なんで横浜なんだい?」

「私は聖職者ですが、学者でもあるんですよ。ですから、大学での講義を頼まれましてね。」

 

 私は日本語が全く分からない。日本に来る前に牧師様が私に日本語を叩き込んでくれた。それでもそんなものは付け焼刃にもなっていない。英語のほうがまだ得意だ。だから、彼らの会話は何が何やらさっぱりだ。

 

 だからこそ、私はこの日本と言う地で迷子になると丁抹(デンマーク)に帰る事はほぼ不可能になってしまうのだ。私は他人の目に留まらないから飛行機代などは全くかからないのだが、それでも帰るのに何年掛かるかわからない。

 

 

 私は帰らなくてはいけないのだ。あの村でアントニオの帰りを待たなければならない。

 

 

 そんな私の心には一抹の不安があった。アントニオからの手紙が戦争終結後から途絶えているのだ。何事も後始末が大変というから、手紙を書く暇もないほど忙しいのかもしれない。それとも、私の事を忘れてしまったのだろうか。

 

 

 私は首を左右に大きく振り、その考えを振り払った。そんな事はあり得ない。これまではきちんと手紙が届いていたのだ。ただ、忙しいだけだ。

 

 

「はい、お客さん。ここだよ。」

 

 車は大きな建物の前で止まった。荷物持ちであるはずの私に荷物を持たせることはなく、宿屋の中に入っていく。私はその後ろを少し駆け足気味に牧師様の後を追った。日本人なのに、きちっとスーツを着た人たちがその建物の中にはいた。日本人は皆、着物という伝統服を着ているものだと思っていた。

 

 でも、そうだよね。私の村でさえ、伝統服を着ている人間はまずいない。最近はそういうのが普通になってきていたのだろう。

 

 部屋につくと、二つのベッドにまず目が行った。ベッドに向かって駆けていった。

 

「わーい。」

 

 ピョーン、と私はベッドに飛び込んだ。

 

「端ないですよ、アヌンツィアータ。」

「ご、ごめんなさい、牧師様。でも、こんなフカフカのベッドは初めてです。」

 

 言い訳だとわかっていてもこのフワフワとした感触の掛け布団を抱き締めずにはいられなかった。

 

 この布団のフカフカ魔力のせいだろうか。体が妙に重く、ベッドから体を起こすのがすごく億劫になってしまう。

 

 次第に瞳が重たく、目の前が暗くなっていく。私の頭の上にフワッと何かが乗った。ゆっくりとそれは頭の上で動く。

 

「お父、さん。」

 

 私の言葉に手は一瞬動揺を見せたが、それでも私の頭を撫で続けた。意識はゆっくりと闇の底に落ちて行った。

 

 

 

 寝てしまった少女の姿を見て牧師は小さくため息を吐き出した。もともと子供は嫌いではないし、お節介と言われれば何も言えない。実際、目の前の少女の父親が生きていた頃、少女の病状を聞きにたびに大層ウザがられた。

 

 そんな思い出さえ、彼と一緒にいた少女は覚えていない。

 

 牧師は着ていた修道服の第一ボタンを外した。そして椅子に腰掛けた。牧師は一人の男を待っていた。その男が信用出来るか、牧師には分からなかった。ただ、少女の父親、ハンス・クリスチャン・アンデルセンが手紙のやり取りをする珍しい人物だった。

 

 牧師は、聖職者としての顔も持ち合わせていたが、学者としての顔も持っていた。来日したのも学者としてだ。学者として日本に来ている牧師は態々アヌンツィアータを連れて来る理由はないのだ。それでもアヌンツィアータを連れて来たのはその男に会えば彼女の考え方が少しは変わると思ったからだった。

 

 牧師はアヌンツィアータの偏った思考を危惧していた。

 

 自己犠牲が義務だと思っている人間は、いつか恐ろしい事を平然とやってのけてしまう。彼女の父親が娘の為に身を犠牲にするのが親の務めだと思い、娘を呪ったように。こういうのはこの家族の血液に刻まれたものなのだろうと思いながら、娘である彼女には自由に生きてほしいと思っていた。白鳥が鳥かごに自身の体を押し込んでその狭さから自らを傷つけている。

 

 

 なんと傷ましいことだ。

 

 

 自身は亡霊(ゴースト)だから、決して死ぬことはない、と。

 

 こんな事をしていてはこの少女の体が壊れてしまう。彼女は、決して亡霊(ゴースト)ではないのだから。

 

 

 牧師は眉を顰め、一年半前の事を思い出していた。アヌンツィアータが拾ってきた青年。結局、名を名乗る事は無かったが、あれとは今後一生、もう二度と関わり合いたくない者だ。あれは、人間を破滅させるのが上手い人間だ。

 

 そんな思い出に浸っているとコンコンと、丁寧なノック音が牧師の耳に届いた。牧師はドアに近付き、覗き窓からノック音の犯人を見た。

 

 牧師は犯人を確認するとドアを開けた。

 

「はじめまして、N•F•S•グルントヴィです。」

「はじめまして、森鴎外です。」

 

 牧師、ニコライ・フレデリク・セブェリン・グルントヴィは目の前の男を見た。自身よりは一回りほど若い男。日本人にしては高身長で、医師をしていると聞いていたがそんな風には見えない。なんというか、冴えない感じがにじみ出ている。

 

 グルントヴィ牧師は目の前の医師、森鴎外と直接的な面識はなかった。面識があったのはアンデルセンの方だった。どこでどう知り合ったのかは知らないが、彼の家の物の整理を行っているとき、森鴎外からの手紙を見つけた。流れるように書かれた達筆な字を見たからこそ、その字を書いたのが目の前の彼だとは到底思えない、というのがグルントヴィ牧師の素直な感想だった。

 

 軽い握手を交わした後、グルントヴィ牧師は森鴎外を部屋の中に招き入れた。

 

「彼女が、アンデルセンの娘の…。ずいぶん大きくなりましたね。」

「えぇ、そうです。今年で10歳ですからね。」

 

 布団を抱き込んで寝ている少女を森鴎外にグルントヴィ牧師は紹介をした。穏やかに寝息を立てて寝ている少女をじっと見つめる森鴎外。グルントヴィ牧師は横目で見つめながら、備え付けの紅茶をいれた。

 

 戦時中に月一で手紙を送りあっている仲の人間がいるならば、自分ではなく森鴎外に自身の娘を預けてもいいのではないか、と。結局、最後は自分に娘を託したわけでが其処までの経緯がわからない。

 

「グルントヴィさんの事は、アンデルセンから聞いていますよ。」

 

 アンデルセンが自分のことを他人に話していたなんて驚きだ。彼とは仲がいいほうだと思っていたが、しかし他人に紹介されるほどだとは思っていなかった。それほど、彼は娘のために行動していたということだろうが…。

 

「私も森医師(せんせい)のことは、よく聞いていますよ。とても腕のいいお医者様だとか。」

「いえ、結局私は彼女の病気に何をしてあげられる訳でもなかったからね。」

「治療法も確立していない病です。アンデルセンはあなたに感謝していましたよ。戦時中に態々、イタリアから訪ねてきてくれた貴方に。」

 

 この医師は本当に何を考えていたのだろうか。そういった意味でこの医師にグルントヴィ牧師は不信感を抱いていた。

 

「私は明日からヨコハマの大学を回って講演会がありまして、その間彼女を預かってもらいたいんです。少女にはあまり興味のない内容でしょう。それに折角村から出てきたんです。普段感じられない物を感じてほしいんです。」

 

 視線を真っ白な髪の少女の方を見た。少女の服の下からはちらほらと包帯が見て取れる。

 

「彼女は、父親の、アンデルセンの言葉を信じています。わかってはいるんです。そうしていないと彼女は生きてはいけない。しかし、本当にそれが正しいとは思えないのです。」

「アンデルセンの手紙にあったが、しかし、本当に実行するとは…。」

 

 眉を顰めて意外だと言わんばかりの声で、森鴎外はつぶやいた。

 

「森医師(せんせい)は、異能力者だと伺っていますが。」

「え、えぇ。そうですよ。」

「良ければ、異能力のことを話してあげて下さい。残念ながら、私は異能力者ではないので。そう言った事は当人同士での方が理解が深まるでしょう。」

 

 残念ながら牧師は伊能力者ではない。そう言った特別な才能というものに恵まれた人間ではなかった。だけれど、アンデルセンの事を知っていると決して彼らの事を羨ましいとは思えなかった。

 

 

 普通の人間は特別を求め、特別な人間は普通を求める。

 

 

 自身が身を置いている宗教もその一種のようなものだ。神という特別な存在を求める。そして特別な神が人間を作り出したように。この世界ができた時から定められた摂理。

 

「明日、朝9時にこのホテルを出ます。それまでに来ていただければ彼女に貴女を紹介できます。流石に見知らぬ土地で見知らぬ男性に会うというのは普段人間と接触する機会のない彼女にはひどく精神的に疲れることでしょうから。」

「明日の9時ですね。わかりました。」

「すみません。病院の方も色々とあるでしょうが。」

「いえ、大丈夫ですよ。明日は定休日です。最近はここも大分を落ち着きを取り戻してきましたからね。」

 

 

―――落ち着きを取り戻してきた。

 

 

 日本も戦争の余波を受けた、とうい事か。

 

「そう言えば、牧師殿も気を付けて下さいね。日本にも非合法組織と言うもは存在します。巷ではポート・マフィアと言われています。」

「そうですか、日本にマフィアが…。」

 

 悲し事だ。明るい表の道路を外れれば途端に人殺しが横行するかもしれない、なんてそんな事を考えながらこの街を歩かなければならなくなってしまった事が、非常に残念だ。

 

 いや、もしかしたら自身は綺麗な所だけを見ていたのかもしれない。綺麗なところだけ、見ていたいのかもしれない。

 

 どこの国でも港町が荒れるのは仕方のない事なのだろうか。グルントヴィ牧師は締め切ったカーテンの向う側の景色を想像しながら、愁いた表情を浮かべた。

 

「では、また明日。」

「えぇ、また明日。」

 

 森鴎外は部屋から去って行った。グルントヴィ牧師は彼が一口も口を付けなかった紅茶を見て眉を顰めた。自分の分の紅茶を飲み干し、森鴎外のティーカップの中身を洗面台に流した。

 

 そして自身が明日行う講演の準備を始めた。




お疲れさまでした。

実際の森鴎外とアンデルセンは会った事はないし、手紙をやり取りもしていないです。

アンデルセンの『即興詩人』のドイツ語翻訳を日本語に翻訳したのが森鴎外です。

森鴎外は医者ですから、ドイツ語には堪能だったのでしょうね。


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第二話 白衣の男

お気に入り登録、ありがとうございます。

とても励みになります。


 朝、騒がしい音で目が覚めた。その音は相変わらず私にしか聞こえておらず、その騒がしさから耳をふさいだ。それでも聞こえてくるものは聞こえてくる訳で。わたしは諦めたようにため息を吐き出した。それからもぞもぞと布団から這い出て、私はユニットバスへと向かった。

 

 最近はこの体にも慣れてきて、触りたい時、触りたくない時、といった感じに触れる事を選べるようになった。亡霊(ゴースト)の私はポルターガイストに一歩ずつ近づいたというわけだ。体を洗うという行為でさえ、私には不必要な行為なのだが。牧師様は身嗜みにひどくこだわる人だから。私の体を流れていく水さえ、私にはもったいない物なのに、と。人間らしい事は一々心に響いて痛む。

 

 誰もが牧師様を生真面目だと評価するけれど、その生真面目を実行するのも大変だと思う。プロテスタントは徹底した禁欲主義だ。そう言うところがある意味で牧師様をそうさせているのかもしれない。彼は疲れないのだろうか。

 

 体を何にも触れられなくすると、身体についていた水滴は全て落ちていく。髪を乾かす手間がいらないと言うのは少し楽でいい。

 

 私はカーテンを開けた。騒がしく私の耳元で囁き続ける音が聞こえてくるけれど、それでもその声を一つ一つ受け入れていく。

 

 ロザリオを持って手を合わせる。そして朝日の前に膝をつく。

 

 

 あぁ、神よ。尊き我らの父よ。

 

 今日も誰かが泣いています。腹が空いたと泣いております。

 

 今日も誰かが嘆いています。誰にも愛されないと嘆いております。

 

 今日も誰かが悔やんでいます。失ってしまったものを思い悔やんでおります。

 

 どうか、神よ。彼らの苦痛を私の苦痛に。

 

 どうか、神よ。私の幸福を彼らの幸福に。

 

「あぁ、神よ。尊き我らが父よ、彼らを救い給え。」

 

 

 ピリッと左手に痛みが走る。左の5本の指先から血が流れだした。私は顔を顰めて右手で左腕を押さえる。じりじりと痛みが左腕に広がっていく。

 

「っ…、はぁ。」

 

 今日はいつもより聞こえてくる声が多いからだろうか。いつもより痛い。

 

 部屋の絨毯に額を擦り付けて必死に声をかみ殺した。力一杯掴んでしまったためか右手の爪が左腕に食い込んでいる。しかし、そんな痛みは痛みとして処理されない。それほど、今回の苦痛は私の神経を犯していた。ビリビリと這い上がってくる痛みに涙が浮かんでくる。

 

「アヌンツィアータ!?」

 

 その焦ったような声はどこか遠くの出来事のように聞こえた。

 

 

 

 

「目が覚めましたか?」

 

 心配そうに私を覗き込んでくる牧師様。その隣には見たことのない男が立っていた。白い丈の長い服を着ている東洋人らしい顔つきの男だ。

 

「鎮痛剤を打ったから少し体が怠いかもしれないけれど、どうだい?体は痛くないかい?」

 

 そう言われた時、体から確かに痛みが消えている事を感じた。

 

 

 はっきり言って、余計なことをしやがって。と目の前の男を怒鳴りつけたい気分だった。

 

 

 しかし、そんな事が出来るような体の調子ではなかった。左腕は思うように動かない。ちらりとその方を見れば、真っ白な包帯が手の先まで綺麗に巻かれている。

 

 

  私の前にいる男に目を向けた。一人の男とその奥には少女が一人見えた。。男のほうは30代前半、少女の方は10代前半。しかし、私は年の差的に親子に見えなくもない組み合わせの男女をひどく警戒していた。

 

 私は亡霊(ゴースト)となってから何故かは分からないが、人の願いが聞こえてくるようになった。それが一体どれ位の範囲から聞こえてきているのか分からないが、それでも慣れない内は耳を塞ぎたくなるほど、私の心をかき乱した。いや、今も搔き乱されている事に変わりはない。

 

 その特異な特技のせいで目の前の男性の願望も漏れなく聞こえてきていた。

 

 

 はっきり言おう。この男、絶対いつか犯罪を犯すと確信した。

 

 

 私に微笑みかけている裏でこの男は『私が欲しい』と思っているのだ。ここまで熱血的に求められたのは初めてだ。初めてだからこそ、この目の前の男の必死さが気持ち悪かった。

 

 あぁ、きっと私のこの力が欲しいんだ。

 

 そしてもう一人の少女、彼女からは何も漏れて来る事はなかった。それはつまりこの少女には願望がないということ。何一つ望まないなんて、そんな欲のない人間がいるわけがない。ましてやそれが自分と同年代の少女ならなおのこと。だからこそ、私は目の前の少女も男も信用できなかった。

 

「アヌンツィアータ、彼は森鴎外殿。君の父親の友人だ。」

「牧師様の友人ではないのですか?」

 

 だろうと思った。どう考えてもこの森鴎外と言う男は牧師様の友人にはなれなさそうだ。自分の父と友人と言われても、『はい、そうですか。』と素直に頷きたくない。

 

 ベッドから起き上がり私は森鴎外から少し距離とった。牧師様の後ろから私より60㎝近く身長の高い男性を見上げた。

 

 

 大体、日本人のくせに身長が高すぎる。日本人というのは小柄な人間が多いのではなかったのか?

 

 

「え、えぇ。そうですね。」

 

 牧師様の後ろから出てこようとしない私を不審に思った牧師様は森鴎外のほうを見た。にっこりと笑って森鴎外は手を振っている。

 

「アヌンツィアータ、デス。ヨロシク、オ…、ネガイ、シマス。」

 

 極力宜しくしたくないと思った。宜しくすると最後絡め取られそうな気がして仕方がなかった。彼と目を合わせない様に俯きがちに言った。

 

 

 あぁ、視線が痛い。

 あぁ、思考が痛い。

 

 

 この森鴎外と言う男に引っ付いているあの少女は自身の貞操の危機と言う物を感じていないのだろうか。

 

「あぁ、この子はエリスって言うんだ。可愛いだろう。」

 

 未だ、牧師様の後ろから出てこようとしない私に森鴎外はその少女を紹介した。しかし、これ以上牧師様を困らせるのは申し訳ない。私はじりじりと森鴎外と言う男に近付いて行った。

 

 未だ信用されていない事を残念の思ったのか苦笑いを浮かべる森鴎外を見上げた。大変なことを願うものより、何も願わない方が安全だと、私はエリスと呼ばれた少女後ろに隠れた。

 

「アヌンツィアータ、良い子にしているのですよ。」

「はい、牧師様。」

 

 良い子にしているので、早く帰ってきて下さい。私の精神が持つうちに。

 

 決して口には出さなかったが、そう祈った。なんなら、牧師様の講演会が中止になってもいいとも思った。それ程、私はこの森鴎外と言う男に対して不信感を抱かずにはいられなかった。

 

 牧師様がホテルを出て行ったのを見送った後、私と何を思っているのか分から無い少女と思っている事を口に出来ない男が残された。この三人の中で一番真面な人間は誰かと問われれば、人間では無いにしても真っ先に手を上げたくなる。

 

 急いで寝巻きから普段着に着替えて牧師様のお見送りをした。

 ホテルの前に立ち、私たちもこれから暇を潰すためにお出かけをするらしい。

 

「アヌンツィアータちゃん、これからどこ行こうか?」

 

 なんて尋ねて来る森鴎外。この男、意外にも語学が堪能の様で流暢な丁抹(デンマーク)語を話したのだ。

 

「何処って言われても…。私、外国は初めてだから。」

 

 牧師様について回る物だと思っていたから行きたい所なんて考えていなかった。私は唯、外国と言う地に立ったと言う事実だけで十分、幸福だと思っていたから。

 

「それじゃあ、取り敢えず街の中を見て回ろうか。何か興味のある物が見つかるかもしれないからね。」

 

 興味のある物、か。森鴎外の提案に何か言う理由も無く、私は素直に頷いた。宿屋を出て外に向かい、私達はヨコハマの街を歩いた。私のいた村とは違い、現代的で、車もよく通る。人にぶつかる心配も無く歩く私に森鴎外は手を差し出した。

 

「迷子になったら困るからね。」

 

 と言う言葉さえ、この男が言うととても胡散臭い。それは私が彼の願望を常に聞いてしまっているからだ。しかし、ここで断っても何かと面倒だと思った。次に変な要求をされる前に手を繋いでしまおうと思った。差し出された手の袖を私は掴んだ。手を握るのは嫌だった。そんな人間臭いことをしたくはなかった。誰かと一緒という時点で、私の心を蝕んでいるというのに。私の行動に森鴎外は少し驚いた表情を浮かべたが、それでもそんな私を受け入れた。

 

「アヌンツィアータの住んでる所はどんな所なの?」

「えっと、森に囲まれてて、こことは違って煉瓦造りの家ばかり。それに、住んでる人も100人もいないから本当に静かな村だよ。」

 

 私は辺りを見渡しながらエリスと言う少女の問いに答えた。

 

「ふぅん、本当に小さな村なのね。」

「えっと、エリスお姉さんはヨコハマ生まれなの?」

「うーん、まぁ、そんな所かしら。」

 

 私より身長が高いので一応お姉さんと呼んだが、実際彼女は幾つなのだろうか。気になって尋ねてみると、少し曖昧な返事が返ってきた。私ならこんな騒がしい街、長くいられる気がしない。昨日は疲れていたから直ぐに眠れたが、今日は眠れるだろうか。

 

「所で、アヌンツィアータちゃん。朝食は済ませたかい?」

「私、ご飯は食べないから。」

「それはまた、どうして?」

「どうしてって、私は亡霊(ゴースト)だもの。亡霊(ゴースト)は食事なんてしないでしょう?」

 

 と言うと、森鴎外は困った表情を浮かべた。

 

「お腹が空いたりとかは無いのかい?」

「ぜんぜん。食べれないって訳じゃないけど、でも、お金勿体ないから。たぶん1年くらいは食べてない。」

 

 そう言うと森鴎外は少し考え込む様に口元に手を当てた。私が首を傾げながら彼を見上げると私に微笑みかけた。私はその顔を見て、顔を背けた。私は繋いで方の手をぎゅっと握りしめた。

 

 

 誰かが私を見て、私に微笑みかける。

 

 

 それは、亡霊(ゴースト)となった私が手に入れてはいけない幸福だった。それはありきたりな日常的な、人間が手にすべき幸福だから。

 

「それで、リンタロウ。どこに行くの?」

「そうだね、アヌンツィアータちゃんにはヨコハマを楽しんでもらいたいからね。」

 

 

 リンタロウ?

 彼の名前は森鴎外だと聞いていた筈なのだが。

 聞き間違えただろうか。

 

 私は森鴎外の袖をくいっと引っ張った。それで歩いていた森鴎外は足を止めて、私の方を見る。

 

「何かな?」

「貴方はリンタロウなの?」

「あぁ、私の愛称みたいなものだよ。アヌンツィアータちゃんもそう呼んでくれていいんだよ。」

 

 さり気なく進められてしまった。私はまた彼から視線を背けた。その時、私と同じように誰かと手をつないで歩いている。親子だろうか。楽しそうに男を見上げる少年。

 

「それで、どこに行くの?」

「あぁ、お買い物に行こうか。」

 

 お買い物、という言葉にエリスは苦い表情を浮かべた。私は首をかしげて彼らの会話を聞いていた。

 

 大きなショッピングモールについてからは片っ端から洋服店を回った。森鴎外は次々と私に洋服を着せていった。赤い服、青い服、黄色い服…。どれもこれも私にはもったいない服だった。こんなきれいな洋服は私ではなく、着る服に困っているこの世の誰かに恵まれるべきだ。だって、私には必要のないものだから。私は成長することもなければ、元々着ていた服を汚す事も無い。

 

「楽しくないかい?」

 

 浮かない私の表情を見て、森鴎外は尋ねた。私を見上げる彼の視線から目を背けた。

 

「こんな服は、私ではなくもっと恵まれない人に与えられるべきだと思う。私には、過ぎたものだから。」

「君は女の子だろう。女の子は可愛くしているべきだよ。」

「私は亡霊(ゴースト)だよ。たまたま、恰好が女の子なだけかもしれない。」

 

 そういった私に森鴎外は納得がいかないといった表情を浮かべた。

 

「君はどうして、そんなに自分を否定するんだい?」

「否定はしてない。私は、事実を言ってるだけ。」

 

 いや、確かに私は私を否定している。拒絶している。でも、私を最初に拒絶したのは世界のほうだ。いらないのなら、いっその事、誰にも見えなくしてほしかった。

 

 中途半端な優しさはとても苦しい。

 

 目の前の男のように、気まぐれを私に振りまくのなら。

 

 いっその事、ここで彼にキスをして人魚姫のように泡になって消えてしまっても良い、とさえ思った。

 

「ねぇ、オウガイ。」

 

 私はそう言って彼の服の袖を引っ張った。

 

「何かな?」

「遊びましょう?オウガイが鬼。私が隠れるから。場所はこの建物の中ね。時間は、どうしようかな…。あの時計が12時になったらね。」

 

 

―――見付けてみせて。

 

 

 彼の耳元でそう囁いた。彼の驚いた顔が少しだけしてやったりと思った。そして私は床をすり抜けて落ちていった。

 

 

私はきっと森鴎外を試していた。本当に私を欲しいと思ってくれているのなら、私を必死で探してくれるはずだと。

 

 私は私を探してくれる人に飢えていた。私を見つけてくれる人に飢えていた。

 

 我ながらわがままだと思う。

 

 彼が、森鴎外が、私を欲しいと言うのなら私を上げてもいいと思ってしまう。

 

 

 一階まで下ると私は適当な場所へ足を向けた。




お疲れ様でした。

実際の森鴎外は、恐らくデンマーク語は話せないと思います。
わかりませんが…。

エリスと普通に会話していますが、一応、エリスもきちんとデンマーク語を話しています。

デンマーク語が話せる森鴎外の異能力だもの、デンマーク語くらい話せるよね!

と、言った感じで書いてます。


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第三話 我らが父の住まう場所

 私は人の事など気にしないで歩いた。誰にもぶつかる事など無いのだから。辺りを見渡しながら、歩いていた。子供が歩いていたら怒られそうな吹き抜けの手すりの上に登り、そこから空の色を見る。今日も良い青色だ。

 

 

 日本の空も綺麗だなぁって思いながら空を見上げる。

 

 

 必死に私を探している森鴎外の姿を見て私は上から見下ろしていた。どうしてそんなに私を必死に探しているのか、と思った。そして預けられた子供が突然いなくなったらそれは探すか、と思った。そして私はいっその事、このショッピングモールから出てしまおうとも思った。

 

 しかし、それは考えるだけで私の中の良心が痛んだ。全く馬鹿らしい事だった。

 

 

 心なんてものは、生きているからこそ価値のある物だと言うのに。

 

 

 私は手すりから降りて適当に歩き出した。なるべく彼に近付かない様に。なるべく彼を近づけない様に。

 

 しかし、これ程広いと待っている方が退屈だ。そして私はかくれんぼと言う遊びに対してある意味で反則をしていることになる。鬼がいつ来るかなんてドキドキ感は味わえない。ただ30代の男性を弄んでいるだけなのだ。

 

『ねぇ、あれ買って!』

 

 駄々をこねる子供の声が聞こえた。目を向ければ、何処にでもいる親子がそこにはいた。何かおもちゃを買って欲しいらしい。私は少年が指さしていたおもちゃを見た。何が楽しいのか分からないが、その少年はそれが欲しかったらしい。

 

 私は首から下がっているロザリオを持って祈った。

 

 彼の少年に幸福が訪れますように、と。彼の少年の願いが聞き届けられますように、と。ピリッと右手に痛みが走った。親指と人差し指から血が流れ出していた。血が流れ出したところで私の血を誰かが見て驚く訳でもないし、誰かが気付く訳でもない。少しだけピリピリとするが亡霊(ゴースト)となってから痛みに鈍感になった気がする。

 

 私は指先を咥えた。口の中に鉄の味が広がる。いつか、アントニオがやってくれたように。爪の隙間から流れ出す血を舐めていく。

 

『もう、仕方ないわね。これ一つだけよ。』

 

 と、到頭母親が折れた。子供の笑顔を見て私は笑みを浮かべた。良かった、と溜息を付いた。笑顔になった子供を見送って私は森鴎外が近づいている事に焦りを感じた。辺りを見渡して私は急いでエレベーターの中に入った。たまたまエレベーターが止まっていてよかった適当なボタンを押した。

 

 そして適当な階で止まった。私は辺りを見渡した。そこには森鴎外の姿はなかった。私は小さく溜息を付いた。それから、何処に隠れればばれないのかを考えた。

 

 

 これは女子トイレに入ってしまえば勝ち組なのではないだろうか。

 

 

 と、思ったがそれは私が楽しくないので止めた。彼の後ろを付いて歩く事が一番の正解なのだろうけれど、それは最早かくれんぼでは無い。ただの追っかけでは無いか。

 

 サービスカウンターの下で悶々と考えていると聞き覚えのある声が聞こえてきた。私を必死に探す森鴎外の声だ。ここで待っていても森鴎外は私を見つける事は出来ない。見つけてもらえない。

 

 見つからない事を楽しむゲームなのに、見つけられる事を望むなんて本末転倒だ。

 

「はぁ…。」

 

 と、思わず溜息を付かずにはいられなかった。こう気分を何というのだろうか。矛盾している。

 

 私はトボトボと歩き出した。周りの声なんてものを全て拒絶して、自分の存在を否定してほしかった。私は聞こえる声が遠のく方へと歩いていた。気が付けば、外に出ていた。屋上駐車場だ。

 

 朝はあんなに晴れていたのに、今は雨が降っていた。その一粒一粒は私の身体を濡らす事は無い。私をすり抜けていった。ゲリラ豪雨と言う奴だろうか。地面に叩きつけられる雨粒は丁抹(デンマーク)では到底味わえない勢いだった。

 

 

 尊き我らが父よ、どうか私の願いを聞いてください。

 

 今だけでいい。私に自然を感じさせてください。

 

 尊き我らが父よ、どうかお願いです。

 

 

 そう祈った。そして私の身体は突然の衝撃に思わず驚いてしまった。

 

 高い音を立てて雨水が地面に打ち付けられているのが聞こえた。

 低い音を立てて雷鳴が雲の中でとどろいているのが聞こえた。

 

 先程降り出したばかりなのだろうか。

 地上の方では、誰かの何処か楽しそうな悲鳴が微かに、どこか遠くから聞こえてきた。

 

 痛いほど私の身体に打ち付けられる雨水は私の身体を伝って地面に流れて行く。それは私が想像していたよりも冷たく、そして心地よい物だった。

 

 湿った空気を肺一杯に取り込んだ。この湿度で肺が腐ってしまうのではないか、なんて下らない事を考えながら、そんな事さえ私は楽しいと思えて仕方がなかった。

 

 あぁ、そうか。雨とはこう言う物だったのか。

 シャワーを浴びている時の感覚とは違う、濡れて行くという事がここまで気分が高揚するなんて知らなかった。

 

 額から流れ落ち頬を伝う雨水をペロリと舐める。普段飲んでいる水道水とは違う味がする事さえ、愛おしい。

 

 どうせ濡れてしまうのだから、と私は履いていた靴と靴下を脱いだ。靴下を靴の中に押し込めた。その靴を持って私はクルクルと回り出した。

 

 重力に従って落ちていく雨水を私の腕で弾いた。空を見上げれば、降ってくる雨水が顔に打ち付けられる。しかし、一瞬見える雨水に感動し、そんな事を気にする余裕などなかった。額に張り付いた前髪を搔きあげ、私は屋上でそう、踊っていたのだ。

 

 ここは何処かのダンスパーティーで使われるような綺麗な舞踏場では無かった。ただの屋上、しかも駐車場だ。それでも、私にはここが一番に思えた。今は、ここが一番だった。

 

 どこかの誰かと遊びをしていたなんて記憶の片隅にもなかった。今はただ、この世界でこの自然に酔いしれていたかった。心沸き立つ世界の一員であることがとても感動的で、とても幸福だった。

 

「あぁ、我が父よ。やはり、私は幸福です。」

 

 

 綺麗な装飾の施されたシャンデリアなんてなくても良い。

 完璧な赤色に染色されたカーペットなんてなくても良い。

 

 

「あぁ、我らが父よ。尊き我らが父よ。この世界は、なんて愛おしいのでしょうか。」

 

 空に向かってそう叫んだ。

 

 その時の私は少し、可笑しかった。恐らく、慣れない土地で、慣れない人間関係に経った数時間で心が摩耗していたのかもしれない。

 

 ここは4階建てのショッピングモールの屋上。地上よりも強い風が吹いていた。その風が叩きつける雨水の痛みが私と言う存在を私の中に刻みつけていた。

 

 

 私はもう痛みと言う物が伴わなければ、私と言う存在を確認出来なかった。

 

 

 私は屋上の手すりに手をかけた。そこで初めてヨコハマと言う土地を眺めた。郊外のショッピングモールの屋上駐車場から見ただけの景色をヨコハマと言うな、なんて言われてしまいそうだったけれど。それでも、私はその景色を心に焼き付けた。

 

 5つの大きな建物が建てられているこの街。人の多さに圧倒される。混凝土造りの建物に煉瓦造りの建物。新旧が混在した面白い、興味深い街。少し騒がしいのが難点だけれど、また来たいと思ってしまった。あの村も好きだけれど、この街は楽しい。沢山の願いで溢れた。

 

 だけれど、私は知っている。何もない日々こそが、何も起こらない日常こそが、幸福であるということを、私は知っている。忙しなく動き続ける()()こそが幸福。それ以上を望んではいけない。

 

 絶望とは、欲望の隣にあるのだから。

 

 私は到頭手すりに足をかけた。先程吹き抜けの場所でそうしていた様に、手すりの上に立った。

 

「あっ!」

 

 風の勢いに負け、私は再び屋上へと戻されてしまった。私は負けじと再び手すりに足をかける。ゆっくりと手を離し、身体を起き上がらせる。今度こそ成功したと思い、前を向いた。奥の方では雲の切れ間から太陽の光が漏れている。天使の梯子、と呼ばれるそれ。

 

「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。」

 

 創世記28章12節。

 

 あぁ、確かに彼がこの景色を天使が行き来していると表現した事に納得がいく。雲の隙間から零れだす薄い光の幕はその美しさに人の心をとらえて離さないのだろう。

 

 

 あぁ、あれを。あれを掴むことが出来れば、私は天国へ行く事が出来るのだろうか。

 

 

 この際、天国でなくともよかった。ただ、地上では無い何処かへ行けるのなら、私はそれでよかった。私はそれに手を伸ばした。決して手が届かない事など知っていた。分かっていても手を伸ばさずにはいられなかった。手を伸ばして、それを掴もうとした。

 

 私の身体を駆け抜けて行く風が切る事を止め、すっかり伸びきってしまった髪を靡かせる。暫く感じていなかった肌寒いという感覚が懐かしさを呼び覚ました。未だ、お父さんが遺骸となる前のこと。穏やかな日常の中で生きていたころの話。

 

 

 私は、あれ以上の幸福を望んだ事などなかったのに。

 

 

 私がまだ人間だと思っていた頃の事を、思いだした。

 

 あの時は、風が吹き抜けると言うのはこんなに心地の良い物だったと感じていただろうか。

 

 

 あの時の私は、なんと幸福で愚かだっただろうか。

 

 

『止めろ!!』

 

 突然の大声に私は驚いて振り返った。私はその声の正体に大きく目を見開いた。雨に濡れキラキラと光る金色の髪。しかし、瞳は飛行機から見た海のような青では無かった。

 

 分かっている。彼で無い事くらい。声の質からアントニオで無い事くらい、分かっていた。

 

 

 それでも、私は…。

 

 

 この出会いに感謝した。

 

 いつかの日のように私の身体はスローモーションのように落ちていく。

 

 

 あぁ、私はなんてひどい女のだろうか。

 

 

 自分の満足感の為だけに幼気な少年の心に傷を残す。こんなんだから私は亡霊(ゴースト)になってしまったのだろう。

 

 焦った表情がとても愛おしくてその顔をずっと見ていたいとさえ思った。必死に私に手を伸ばす少年は私の身体を掴むことなくすり抜けた。その様子に驚いた表情を浮かべながら、もう一度私を掴もうとしてくれるその少年の正義感に感銘を受けた。

 

 だからこそ、私は彼に掴まれる訳にはいかなかった。ただの亡霊(ゴースト)の悪戯に将来がある少年を巻き込む訳に行かなかった。私は心中がしたい訳では無い。私は心中をしたいとは思わない。

 

 

 死ぬ事が幸福と言うならば、それを一人占めしたいと思うでしょう?

 どうせ、他人とは分かち合えない幸福なのだから。

 

 

 少年の吠える様な叫び声が聞こえて来る。手すりの隙間から必死にこちらに手を伸ばしている。手が私にの腕に触れているのに、決して掴むことのできない絶望が少年を襲っている事だろう。

 

「ごめんなさい、ありがとう。」

 

 どうせ私の言葉など、あの少年には理解できないだろう。届いていないと思いながら、私はそう呟いた。私を救おうとしてくれた少年に私は心から感謝を述べた。これから落ちると言う感覚を味わう。私はそっと瞳を閉じた。

 

 

 水中の時とは打ち付けられた衝撃は違うのだろうな。

 

 

 と、必死な少年と違い、私には過去を懐かしむ余裕さえあった。しかし、グンッと重力に逆らう力が私には働いた。驚いた私が見上げるとそこには、フェンスを乗り越え私の左手に巻かれた包帯を掴んでいるエリスがいた。

 

 何より驚いたのはエリスが空中を飛んでいる事だった。いや、空中で立っているのだろうか。重要な事はそこでは無いのだが、そんな事を考える余裕さえないほど私の頭はこんがらがっていた。

 

 何回も瞬きを繰り返す私を見てエリスは呆れた様に溜息を吐き出した。それはそれはとても大きな溜息だった。

 

 エリスは私を屋上へと戻した。何が起こったか分からず屋上に座り込んでいた私に、先程の金髪の少年がこちらに近付いて来た。

 

『この、大馬鹿者!!』

 

 その声の大きさに私の身体は無意識に震える。そんなに大きな声でなくとも私は聞こえている。と、言うかこの少年に私が見えている事に驚いた。がっしりと肩を掴まれ、それからは怒涛の説教だった。おそらく説教をされているのだろうと思った。ただ、彼から発せられる日本語の殆どを私は聞き取る事が出来ず、首を傾げるしかなかった。

 

 

 何かを必死に伝えようとしている少年には申し訳ないが、どうか丁抹(デンマーク)語を習得してから出直してきてほしい。私には何を言っているのかさっぱりだ。

 

 

『聞いているのか!?』

 

 何かを訪ねているようだったが、私は首を傾げた。

 

『あぁ…、ごめんなさい。せめて英語を話してくれない?』

 

 なんて言ったって、私と同い年位の少年に伝わる訳も無かった。ただ、私が外国人だという事は伝わったらしい。それからはアワアワと何をどう話していいのかを考えているようだった。

 

 先程の勢いからの変貌ぶりに私はクスクスと笑みを浮かべた。私の様子を見て少年はまた怒りだしてしまった。そしてそこで私はこちらに近づいて来ている願望がある事に気が付いた。それはもうすごい勢いでこちらに近づいて来ていた。

 

 私は立ち上がり、出入り口の方を見詰めた。私はかくれんぼの最中だった。鬼が近づいてきたら隠れなくてはならない。しかし、それを許さなかったのは他でもないエリスだった。

 

 どうやらエリスと森鴎外はグルだったようだ。まぁ、だいたい予想はついていたのだけれど。

 

「エリスお姉さん?」

「ダメ、離さない。貴女は一度しっかり説教を受けるべきよ。」

 

 説教なんて、私は何一つ悪い事をしたなんて気はなかった。確かに幼気な少年の心を弄び、健気な中年間近の男性の心を弄んだが、それで説教を受けなければならないのだろうか。

 

 自動ドアが開き、こちらに来ている男性を私は見上げた。その男性の表情には、隠しきれていない怒気が溢れている。

 

 意外だった。目の前の男、森鴎外は感情を隠すのが上手だと思っていたから。表情を作るのが上手だと思っていたから。いや、これさえも作られた表情なのだろうか。

 

 所詮、私に聞こえて来るのはただの願望でしかないのだから。

 

 そして私の顔は正面から強制的に右を向かされたのだった。




お疲れ様でした。

ここ数週間は中間テストでとても忙しかった…。

それにしても、原作でこそ中年と言っている森鴎外ですが、12年前だと若々しいお姿で…。

久しぶりに原作の12巻を見直しましたが、良かったです…。


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第四話 悲鳴を上げる

 頬を打たれたのだと理解するのには少し時間が掛かった。何せ、初めての経験だったから。じくりと痛む左頬に思わず手を当てた。雨に濡れ体は冷え切っているはずなのに、その部分だけが熱を持った様だった。熱くて、熱くて…。どうしていいのかわかなかった。

 

 

 しかし、何故だろうか。痛いのだ。打たれたのは頬なのに、心臓がとても痛かった。

 

 

 必死に泣くまいと歯を噛み締めて俯いた。私の頬を打った森鴎外から何か言葉が降ってくる訳では無かった。

 

『少年、この子が悪かったね。』

『え、あ、いや…。俺は、結局何も…。』

『いや、君のお蔭でエリスちゃんが間に合った。』

 

 私に目を向けることなく森鴎外は少年と何かを話していた。私は膝を抱えた。どうやっても我慢しきれなかった涙が溢れて来るのだ。

 

『済まないね、少年。少年も早く親の所に戻ると良い。きっと心配しているよ。』

『でも…。』

『この子は、私の子では無いけれど私の友人の子でね。早くに親を亡くして、今日は私が面倒を見る筈だったのだけれど…。いや、ダメだね。少年、どうか私に親らしいことをさせてはくれないだろうか?』

 

 何を言われたのか知らないが少年の足音が離れて行くのが聞こえた。地面を睨みつけていた私の視界の端に綺麗な革靴が目に入った。視線を上げることなく俯き続ける私に森鴎外は私の肩に手を置いた。

 

「辛いのは分かるよ。でもね、あんな事をしても何の解決にもならないんだ。」

 

 諭すような声で森鴎外は私に言ってきた。何が分かる物か。私自身、目の前の男の人生を知っている訳では無い。私より何十年も長生きしているのだから色々な経験をしている事だろう。だけれど、だからと言って私の何が分かると言うのだろうか。

 

 何もわかる筈が無い。

 

「ねぇ、どうして…?」

「何がだい?」

 

 私は立ち上がった。そして空を見上げた。

 

「ねぇ、どうして?神様。中途半端な優しさなんかいらないよ。奪うなら全部持って行ってよ!私から、存在全てを奪ってよ。この魂ごと、全部、全部!持って行ってよ!私を消してよ。私を幸せにしてよ…。」

 

 光が溢れる雲の隙間に私は叫んだ。両手を強く握りしめ、空に向かって吠えた。

 

「特別なんて、要らないんだよ!醜くても良い、私をアヒルにしてよ。ねぇ、どうして?どうして、私は白鳥なの!この世界はとてもきれいだよ。でも、私にはこの世界は綺麗すぎるんだよ。純水じゃ、私には苦しくてたまらないよ。」

 

「純水の中じゃ、誰も生きられないんだよ。」

 

 呼吸に必要な酸素さえない純水の中では魚でさえ生き残れない。とっとと窒息死してしまいたいのに、亡霊(ゴースト)であるためにいつまでたってもこの世界から抜け出せない。

 

 お父さんは死を大切にしろといったけれど、死んだ私はどうやって死を大切にすればいいのだろうか。私の手から零れ落ちてしまったものを拾い直せば良いとでもいうのだろうか。

 

 いまだに降り続ける雨が私の体をすり抜けていく。もう先ほどのように寒さも、風の心地よさももうわからない。先ほどの事がまるで夢のようだった。

 

 

 辛い。辛いだけの世界だ。

 苦しい。苦しいだけの世界だ。

 

 

 酸素で溢れた世界に行きたいのに、世界で生きたいのに。異常性(塩基性)を持って生まれた私には、その世界はとても猛毒だった。私という存在の性質を変えてしまう、恐ろしい世界だった。

 

 上を向いて叫んでいた私は胸元を掴まれ、現実に引き戻された。私の目の前にいるのは気に入らないという表情をした男。

 

 目の前の男は私とは全く反対だった。性別から、生まれ持った色から何もかも反対だった。自分が悲観的で自虐的な性格をしている事は分かっている。きっと目の前の男は私の様な性格をしてはいないだろう。少なくと物事を悲観的に捉える様な思考をしてはいないと思う。

 

 そして、私のように神に縋る様な性格もしていないだろう。と言うよりは、神を信じているかどうかさえ怪しい。

 

「気に入らないね。私は君と話しているんだよ。神様なんて居るか居ないか分からない物なんかの話はしていないのだけれどね。」

 

 真っ直ぐ私を見上げている赤い瞳に私が映っている。

 

「君の目には、誰も映っていないね。」

 

 森鴎外の言っている意味が分からない。私の目には誰も映っていないとはどういう事なのだろうか。

 

「君は誰も見ていない。君が見ているのはいつも君だけだ。」

「分かるの?ついさっき、数時間前にあったばかりなのに。」

「あぁ、分かるさ。私は医者だからね。人の事は良く見ているつもりだよ。」

 

 それだけでは無いと思った。私だって人の事は良く見ているつもりだ。それ位しかやる事がなかっと言えばそうなのだけれど。それでも、村の人間の事をずっと見ていた。だからこそ、私は彼を警戒していた。彼の思考は普通の人間のそれでは無いと直ぐに分かったから。

 

「君の目に映るにはどうしたらいいのかな?」

「私の目に、あなたは移ってるよ?私は盲目じゃないもの。」

 

 そうじゃないよ。と、森鴎外は言う。彼の言いたいことはなんとなくわかっていた。それでも、私はそれに気が付かないふりをする。

 

 

 それに気付くと、私は…。

 

 

 私の頬をするりと撫でられる。

 

「何をそんなに悲しんでいるんだい?」

「私は何かを悲しんでいるの?」

「悲しいから泣いているのではないのかい?」

 

 私は自分の頬を撫でた。濡れているのは雨にあたっていたせいかもしれない。

 

亡霊(ゴースト)は泣かないわ。私、何も悲しくないもの。」

 

 ゆるゆると首を振って笑って見せた。私の顔を見て森鴎外は手を頭の上に乗せた。

 

「君は…。いや、何でもないよ。そんなことより靴はどこにやったんだい?」

「靴…?あぁ、多分落としちゃった。」

 

 後ろを振り返りながら私は下に落としてしまっただろう靴のことを思い出した。ペチャペチャと裸足で混凝土の上を歩く。手すりに手をかけて下を見下ろす。しかし、ここからでは下の様子はわからない。

 

「仕方ないね。それじゃあ、靴を買いに行こうか。服もこんなに濡らして風邪を引いてしまうよ?」

「大丈夫だよ。風邪なんて引いたことないもの。」

 

 そういうと森鴎外は少し困ったような笑みを浮かべる。でも、たしかに靴がないと牧師様に心配されてしまう。落としてしまった靴だった下にないかもしれない。

 

 ペタペタと私は自動ドアの方へ向かった。

 

「アヌンツィアータちゃん?」

「服、買ってくれるんだしょう?とびっきり可愛いのが良いです。よろしくお願いしますね、オウガイ。」

 

 女は誰でも女優だと言うけれど、それに釣られる男もどうかと思う。況してや、10歳の少女に釣られる30代の男なんて目も当てられない。

 

「あぁ、でも。赤は嫌。私は青が好きだから。」

「わかった青いお洋服だね。」

「そう言えば…。ごめんなさい、エリスお姉さん。エリスお姉さんのお洋服、濡れちゃった。」

「良いのよ、服くらい。何処かの誰かの血で濡れる位なら雨の方がマシよ。」

 

 なんて心を切り替えた。切り替えた、ということにした。私は柔らかくない絨毯の上を水を滴らせながら歩いていた。ぺったりと額に張り付いた前髪を弄りながら私は手すりの上を歩いていた。空に向かって叫んでから少しすっきりした感じがある。

 

「アヌンツィアータちゃんは神様を信じているのかい?」

 

 私は森鴎外のほうを見た。少し深めの赤い色をした真っ赤な瞳が私を見つめていた。

 

「えぇ、もちろん。」

「どうしてだい?」

「どうして…?」

「あぁ、神様がいるという証拠でもあるのかい?」

 

 証拠…。私は腕を組んで首をかしげた。そして誰にも言った事のなかった私の本心が口から出ていた。

 

「宗教って、妄想だよね。」

 

 私がそう言うと森鴎外は少し驚いた表情を浮かべた。こんな言葉を牧師様が聞いたらきっと卒倒してしまうと思う。でも、それが私の素直な感想だった。私はあの小さな礼拝堂で100人近い村人がミサの為に教会に訪れる。そこから聞こえて来る願望はまちまちだ。人によって願っている事が全く違う。

 

「宗教って一応共通の認識っていうか、聖書があるから誰もが同じ様に願っているように見えて、全然違う。家族の健康、来年の作物の豊作、誰かと結ばれたいだとか。全部自分勝手な願いばかり。結局全部その人の頭の中の世界。誰も、隣人なんか愛していない。」

 

 私はまた歩き出した。

 

「でも、そうだよね。皆が隣人を愛していたら、戦争なんて起こらないのよね。」

 

「だから、私に言えるのは私の中では神様はいるよって事かな?いてくれると嬉しいなぁ、って感じ。」

 

 曖昧な表現で私はそう告げた。実際私には本当に神様がいるかどうかなんてわからない。ただ、いてくれると私の気が楽だという事なのだ。いてくれれば、この世の全ての不条理をその神様とやらに押し付けられる。そう思っているから。

 

「オウガイは?いると思う、神様?」

「私は、信じてないかな。」

「うん、そうだね。オウガイはそんな感じ。日本人は基本的にあんまり宗教に拘っている感じしない。」

 

 辺り見回してもどうも日本人と言うのは拘らないイメージだった。興味が無いと言い換えてもいいかもしれない。彼らはそう言った事には疎いのかもしれない。

 

「と、言うより。オウガイは何かを信じるより、自分以外を信じていない感じがする。ねぇ、オウガイは私が欲しいの?いや、私が欲しいの?それとも私の力が欲しいの?」

 

 首を少し傾けて私は彼に尋ねた。彼は少し怪しげな笑みを浮かべながらこちらを見ている。

 

「どうして、そう思うんだい?」

「お父さんが言ってたわ。質問を質問で返すなって。」

「ふむ、そう言われてしまうと困ってしまうね。」

「困ってしまうの?大人なのに?」

 

 と、意地悪な言い方してみた。口元に笑みを浮かべた。

 

「あげても良いよ。私のこと。」

 

―――ただし…。

 

「私を人間にしてくれたらね。」

 

 人差し指を立てて私は笑って言った。私の発言に鴎外は首を傾げた。

 

「君を、人間に?」

「お父さんが言ってたの。恋に溺れ、現実に戸惑い、愛に狂えって。それが人間のあるべき姿だって。ねぇ、オウガイは恋愛をしたことはある?なさそうね。オウガイは恋愛下手そう。」

「言ってくれるね。私はこれでも君よりは長生きしてるんだよ。」

「長生きしていたら恋愛が上手?そんな訳ないじゃない。恋愛は、その人に溺れてもがき苦しみ、その苦しみに狂うことをいうのよ。オウガイは、本当にその人のために狂える?私には無理だと思うなぁ。」

 

 鴎外から聞こえてくる願望から鴎外の思考を読み解いていた。時間が止まったように周りの音が気にならなくなった。ただ、目の前の男から流れてくる願望にだけ耳を寄せる。

 

「オウガイは相手のためにこの命投げ出してもいいって思ったことある?」

「まるで君にはあるような言い方だね。」

「私はね、あるよ。というか、今もそう思ってる。」

「誰に対して?」

 

 森鴎外の問いに私は大きく両手を広げた。

 

「この世すべての人間に。」

 

「お父さんが言っていた。私にとっての幸福とは死しかないんだって。そして私の価値はその死に様で決まるの。だから考えたの。どんな風に死ねば、どんな風にこの世から消えれば私の生に価値があったと証明できるのだろうって。」

 

 我ながら器用だと思う。手すりの上でクルクルと回りながら、私はこの状況を楽しんでいた。

 

「それで、どんな結論に?」

「神様にお願いをするとね、私の体って傷つくの。きっと私がこの世からいなくれるのはこの方法だけなんだろうなって思ったの。だから、私は誰かの願いをかなえて消えることにした。誰かの願いが叶ってその人が笑顔になったのなら、私も嬉しいから。」

「君のそれは偽善だよ。君は君が死ぬために相手の幸福を利用しているだけだ。」

「そうね、その通りだと思う。」

 

 これは完全な善良な心の無駄遣い。心を擦り減らし、擦切らせて。

 

「君は狂っているんだね。」

「そう言う事になるね。」

 

 

 今日も誰かがどこかで悲鳴を上げている。耳を劈くような悲鳴がこの世界の何処かで上がっている。

 

 水で湿った服が別な液体で濡れていく。

 

 口から零れだす鮮血を服の袖口で拭う。

 

 左腕にまかれた包帯はその役目を果たせず、真っ赤に染まり始める。

 

 その瞬間、そのショッピングモールは地獄絵図と化した。

 

 誰もが普段手に入らないような幸福感を手に入れる。

 

 宝くじ、骨とう品、先ほどまでそこにはなかったクジ引き所。

 

 ありとあらゆるところで人が満ち足りた幸福感から狂気的な買い物に走っていた。買うつもりのなかったものを次々と籠の中に詰めて行く。

 

「君は知っているね。それが一体どんな能力を持っているのか。」

「私には特別な力なんてありはしない。持っていたのはお父さんの方。私は唯の亡霊(ゴースト)だよ。」

「そうやって目を背けていても何も解決しないよ。」

「何の事か、私には分からないわ。」

 

 誰もが神様に精神を支配されたその空間で、唯一正気を保った男が原因の少女を見上げていた。

 

 真っ白な髪は雨のせいでそのぺったりと張り付いている。綺麗な弧を描いている彼女の唇から漏れだす音が響く。着ている深い青のワンピースからは鮮血が滴り落ちる。青紫色の瞳には、しかし影は無く。そこから窺えるのは彼女がこの世界に絶望していないという事。

 

 絶望とは、欲望の隣に立っている。

 

 アヌンツィアータはこの世界に何一つ望んではいない。

 だからこそ、アヌンツィアータはこの世界に絶望などしていない。

 

 彼女は愛しているのだ。

 だからこそ、彼女は狂っている。

 

 愛とは、狂う事なのだから。




お疲れ様です。

今年ももうあと3日ですね。

一年とは早いですね。

平成もあと少しで終わってしまって…、少し寂しいと思ってしまいますね。


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第五話 子供の遊戯

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 地獄と化していたショッピングモールは、静けさを取り戻していた。というよりも、静かすぎる程だった。買い物をして疲れた客たちは皆疲れた表情を浮かべて帰って行った。

 

 きっと店員も帰りたいと思っているのだろうけれど、そこはやはり夜の11時までやると言っているのだからやらなくてはいけない。なにせ、客は一組、まだ残っているのだから。

 

 酷く濡れていた服は森鴎外によって新しい服、新しい靴へと変えられた。深い青のワンピースから、白のブラウスに淡い青のスカートへと変化していた。

 

「リンタロウ、遅いわね。」

 

 エリスは不機嫌そうな声で頬杖を付きながら言った。私達は今、フードコーナーの一角で森鴎外がクレープを買ってくるのを待っている。恐らく、先程の影響を受けたのは客だけでは無かった為、店員が何かミスでもしてしまっているのだろう。

 

 誰もいなくなった寂しいショッピングモールに幼女二人を残していなくなった保護者は未だに帰ってこない。

 

 四人用のテーブルに向かい合って座っている幼女二人。その二人の横には手荷物が置かれていた。白いテーブルの上には紙コップが置かれている。

 

「ねぇ、アヌンツィアータ。」

「なぁに、エリスお姉さん。」

「貴女、好きな人いるの?」

 

 私は持っていた紙コップを落としかけた。中にはまだ水が入っている。エリスの言葉を呑み込み理解するのに少し時間が掛かった。数回瞬きをした後、落ち着くために紙コップ内の水を飲み干した。

 

「好きって、恋愛対象って事だよね?なら、いないよ。」

「あら、つまんない人生ね。」

「私の人生は、10年とたたずに終わっているんだけど。それにエリスお姉さんだって私とそう変わらないでしょう。」

 

 それに年齢がそう変わらないのに、人生を謳歌していなかったみたいに言われるのは些か腹がたつ。

 

 

 私は少し面白くないと思い不機嫌そうな表情で言った。

 

 

「エリスお姉さんは、オウガイの事が好きなの?」

 

 エリスはバカな事言わないで、と苦々しく言った。その表情からそう言われるのは本当に嫌なのだと思った。

 

 

 年頃の女の子がお父さんと一緒にされるのは嫌、という感覚なのだろうか?

 

 

「エリスお姉さんとオウガイは親子なの?」

「いいえ、違うわ。」

「なら…、恋人?」

 

 と、尋ねるとダンっとテーブルを叩かれた。私は苦笑いを浮かべて謝った。そこまで嫌がるとは思っていなかった。

 

 

 親子ではないのなら一体どんな関係なのだろうか?

 

 

「なら、エリスお姉さんはどんな人と恋人になりたいの?」

「背が高くて、お金持ちで、教養があって、同い年。」

 

 あぁ、最初の三つは森鴎外が当てはまっているのに、最後の一言で彼が候補から外れてしまった。しかし、同い年の人に背が高いのと教養は兎も角、お金持ちは難しいだろう。もしお金持ちだったとして、それはきっと親のお金だ。

 

「同い年か…、オウガイには厳しい条件だね。」

 

 厳しいと言うよりは不可能な条件だ。少なくとも20歳近くは若返らなくてはいけない。それは物理的に無理だ。タイムマシンを使って二十年後のエリスとなら同い年だろう。森鴎外はタイムマシンを果たして開発できるだろうか。

 

「アヌンツィアータは、何かないの?恋人に求める条件。」

 

 私は頬に手を当てて考えた。暫く考えた後、優しい人と答えた。するとエリスはムスッとした顔で私を見た。

 

「優しいなんて、そんなのは恋人に求める条件じゃないの!それはショートケーキにイチゴを乗せるかとか、それと同じ!」

 

 私は勢いに負け、謝ってしまった。私はすっかり黙り込りこんで考えた。悶々と考えた結果、私は一つの答えにたどり着いた。

 

「……、料理。」

 

 小さな私の声はエリスに届く事は無かった。私はもう一度自分から言うのは何だか気恥ずかしくて再び黙った。居心地の悪さから私はもう何も入っていない紙コップで口元を隠した。気まずい空気をどうにかした方が良いのだろうけれど、コミュニケーション能力などかなぐり捨てた私にそれはとても難しくて。

 

「それで、料理が何なの?」

 

 何処か楽し気にこちらを見ているエリス。私は途端に気恥ずかしさが体中を駆け巡って行った。聞かれていないと思っていた言葉はしっかりと彼女の鼓膜を震わせていたらしい。

 

「えっと、料理を、その、一緒に作ってくれる人、が、いいなかなぁって…、思っただけ。」

「まぁ、今時料理スキルは大切よね。」

 

 言葉が途切れ途切れになり不自然であることは一目瞭然だった。そんな私の言葉をエリスは数回頷きながら聞いた。

 

「他にないの?」

「他に?」

 

 私は首を傾げながら、また思考に潜った。そういえば先ほどエリスは年齢の話をしていたと、思い出した。

 

「私は同い年より年上の方がいいかな?」

 

 頬を掻きながら私はそう答えた。どうして恋バナなんて事をしているのだろうか。10代になりたての少女が色気づいてなんて言われても仕方ない様な、そんな端たない会話だった。

 

「年上の方が良いの?どうして?」

「どうして、って言われても…。ただ、年の近い子って苦手なの。昔、雪玉とか投げられたから。年上の人って、ほら静かっていうか、落ち着いている人が多いでしょう。だから、同年代より年上のほうがいいかな。」

 

 私の言葉にエリスは信じられない、と言った。

 

 

 その信じられないは、私に雪玉を投げた子供たちに対してなのか、将又、私の年上がいいという発言からなのか。

 

 

 私はその様子に苦笑いを浮かべつつ、この状況をとても楽しんでいた。村では私の話し相手になってくれる年頃の子供はいない。私の話し相手は牧師様だけだ。そう言った事も年上が良いと言う事に関係しているのかもしれない。

 

「なら、どこまで?まさか50歳年上でもいいなんて言わないわよね?」

「そう、だね。流石にそこまで恋人が犯罪者扱いされて可哀想。せめて10歳くらいかな?」

「それってつまり50歳以上でも良いって事?」

 

 呆れた様にエリスは溜息を付きながら私を見ている。それから、何かを思いついた様に手をポンッと打った。

 

「保険金目当て?」

 

 エリスの予想外の言葉に私の口から素っ頓狂な声が漏れだした。変な声が出てしまって私は恥ずかしさから顔に熱が溜まる。思わず口に手を当ててから、私はエリスの誤解を解こうとした。

 

「ち、違う!そんな事、違う!」

 

 手を左右にブンブンと振って必死に否定した。焦りからかそんな言葉しか出て来なかった。そんな私を面白がってエリスはニヤニヤと笑みを浮かべていた。

 

「あら、随分と必死に否定するじゃない。」

 

 私は大きくを頬を膨らませた。そんな私の表情を見てエリスはクスクスと笑みを浮かべるだけだった。

 

「ごめんなさい、そんなに怒らないで?」

「別に、怒ってないもん。」

 

 

 頬を膨らませながら言うそのセリフにどれほどの説得力があったのだろうか?

 

 

 そしてやはり、そんな私を見てエリスはクスクスと笑みを浮かべるのだった。

 

「恋なんてした事無いし、それに亡霊(ゴースト)が恋なんて…。無理よ。相手に悪いわ。」

「そういう映画だってあったじゃない?なんだっけ?死んだ恋人が会いに来る外国の映画。」

「よくわからないけど…。私はもう亡霊(ゴースト)だよ。」

 

 教会の地下で過ごしている私の娯楽と言えば、本を読むことくらいだ。なので映像媒体の物のことはさっぱりわからないのだ。映画というもののことは知っている。なんでも馬鹿でかい布に映像を写すのだそうだ。音も大きく臨場感、と言うものを味わえるらしい。

 

「でも、リンタロウには人間にしてって言ってたでしょう?まさか、負ける気ないの?」

 

 頬杖をついて意外だと言いたげな表情で私を見上げる。負ける気の無い勝負を仕掛けた。元々勝負自体が苦手だ。けれどもやるならば勝てる勝負をしたいものだ。

 

「最初から勝負の行方が分かっている勝負は詰まらないわ。ただ、オウガイには勝つのが難しいだけ。」

「ふふ、リンタロウを甘く見ちゃダメだよ。どんな手を使ってでもきっと勝とうとするわ。男なんて、皆子供なんだから。」

「む、エリスお姉さんは私の味方してくれないの?」

 

 私がそう尋ねるとエリスは数回瞬きをしてどうしよかなっと言って悩む様なしぐさを見せた。わざとらしいその表情に私は目の前の少女がこの件で自分の味方になってくれることはないのだろうと察した。

 

 何も聞こえてこない少女との会話はとても楽しかった。思いもよらない言葉が飛び出して来たりもした。普段の人間はきっとこんな会話をしているのだろうと思った。何も聞こえてこない人間はその人間のちょっとした表情の変化、仕草でその人間の本質を見抜くのだそうだが、私もそう言った術を身に着けた方が良いと思った。

 

 

 私の特異な特技は万人に通用するものでは無いと知ったから。

 

 

「遅くなって、悪かったね。何だかみんな疲れているようでね。」

「リンタロウ、遅い!」

 

 不機嫌そうなエリスに情けない顔で森鴎外は眉を八の字にする。帰ってきた森鴎外はその顔のまま両手に二つ赤と白の包み紙に包まれたクレープを持っていた。片方をエリスに、もう片方を私に渡した。チョコレートで出来た白と黒の細い筒状の物、何かのマークを押しけて焼かれたビスケット。そして胃もたれしそうなほど甘そうな生クリームに、その甘さを抑えるための酸味として用いられたラズベリーとブルーベリーのシロップ。

 

 包み紙を少し破り、とても美味しいであろうクレープを口に含む。口の中の甘味を味わい、口から零れだすのは溜息だ。瞳を瞑り、この幸福を魂に刻み込んだ。

 

「美味しいわ。ねぇ、アヌンツィアータ。」

「うん、とっても美味しい。」

 

 私はコクコクと大きく頷き、もう一口クレープを食べた。

 

「それはよかったよ。」

 

 と、ニコニコと擬音語がふさわしい笑みを浮かべながら森鴎外がそう言った。荷物の載せていない椅子に座り、こちらを見詰めて来る。私は彼からの視線から逃れるように別の方を見た。

 

 しかし、どうしてだろうか。何処か感じる申し訳なさからクレープの味が濁った様に感じてしまう。

 

「エリスちゃんと随分仲良くなったんだね。」

 

 私の心の居た堪れなさを察したのか森鴎外は話しかけてきた。私は未だに彼とは視線を合わせられずにいた。どうも森鴎外と言う男は苦手だ。私は誰かの事は聞きたいが、誰かに聞かれたくない人間だ。しかし、きっとこの男はそれを分かっていながら聞いてくるはずだ。いち早く人を取り込むには人の弱みに付け込むのが手っ取り早い。

 

 彼のファジズムが昔言っていたらしい。人を説得する時は無防備な時に行うべき、と。亡霊(ゴースト)が人であるかどうかの議論はひとまず置いておくとしよう。言葉が通じ、尚且つその言葉に行動を変化しうる可能性があると言う事が大切だ。

 

 

 未だに心なんて下らない物を持っているであろう自分に嫌気がさしてしまう。

 

 

「そう、かな。そうだと、嬉しいって私は思うけど…。」

「あら、私達、もう友達でしょう?色恋事まで話したんだから。」

 

 エリスはクレープを食べながら、羨ましいだろう、と言いたげな表情で森鴎外を見ていた。

 

「おや、それは気になるね。」

「リンタロウには教えてあげない。女の子だけのお話に男は混ぜてあげないんだから。」

「そんな寂しい事言わないでよ。エリスちゃん。」

 

 こういう所を見ていると情けないと思わざる負えない。私は素直に彼と仲良くなれたらいいなと思うのに、どうして彼の願望はこうも率直なのだろうか。

 

「オウガイはクレープ買って来なかったの?」

「ん?私は良いんだよ。」

「美味しいよ?」

「なら、アヌンツィアータちゃんのを一口くれるかい?」

 

 知っていた。森鴎外がこう言うだろうと思っていた。私は食べかけのクレープを一瞥して彼に自分のクレープを差し出した。

 

「一口だけだよ?」

 

 なんてがめついことを言ってみたがこの年の子だからこそ、許されているような節がある。

 

 森鴎外は嬉しそうに私のクレープを受け取りそして一口口にした。私は視線を向ける先をなくし、とても幸せそうな表情を浮かべる彼を見ていた。

 

 一般男性は甘いものを好まない。それなのに態々私のクレープを食べて幸せそうにしている。この目の前の男はきっと良くない事を考えているに違いなかった。

 

「美味しい?」

「とっても美味しいよ。」

 

 ふーん、と気の無い返事を返して私はエリスの方を見た。エリスは幸せそうにクレープを食べていた。

 

「ありがとう、アヌンツィアータちゃん。」

「どうも…。」

 

 帰ってきたクレープにはやはり私より大きな口で齧った跡が付いていた。私はそんなことは気になりません、と言った様子でクレープに噛り付いた。

 

「アヌンツィアータのは、何味なの?」

「これは、ベリー系の味。ラズベリーとブルーベリー。エリスお姉さんのは?」

「チョコレート。ね、交換しましょう?」

 

 私はその申し出を快諾した。

 

「いいよ。でも、いいの?私は気にしないけどオウガイと間接キスするよ?」

 

 その言葉にエリスは一瞬動きを止めたが、やはり食べてみたかったらしい。私たちはクレープを交換した。チョコレートも程よい甘さで癖になりそうだ。

 

「日本に来る機会があればまた食べたい。」

「気に入ってくれて何よりだよ。」

 

 と、笑みを浮かべて話すこの男に実は貴方の願望、全部聞こえているの。というと森鴎外は一体どんな表情を浮かべるだろうか?

 

 他人に目論見など知られたくはないだろう。特に、彼のような人間は。思い通りに事が運ばなくなる。

 

 私が笑みを浮かべているのを見て森鴎外もまた何も知らずに笑みを浮かべるのであった。




お疲れ様でした。

実家に帰り、ゲームの誘惑に負けました。

すみません…。


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第六話 愛の痕跡

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 クタクタになる、という疲労が溜まった状態を身を以て感じている午後9時過ぎ。あれから街の雑貨屋などをより、森鴎外とエリスと3人で早めの夕食を終え、ホテルへと帰った。しかし、牧師様が帰って来られるのは夜遅く。

 

 

 流石は、牧師様。全く素晴らしい働きぶりである。

 

 

 

「牧師様、遅いわね。」

「会食というのもあるみたいだからね。仕方ないよ。」

 

 エリスと二人ベッドに腰掛けながら私達はそんな会話をしている。森鴎外はそんな私達を喜色満面を浮かべて見ている。

 

 私はエリスと話しながら森鴎外について考えてみた。今日一日いてわかった事といえば、彼はエリスにぞっこんらしい。エリスは可愛らしい少女だ。そんなエリスを喜ばせようと森鴎外は必死だった。

 

 そして彼には女の子を着飾りたいらしい。沢山の洋服をエリスに合わせてはどれもこれもいいと言う。親バカと言えばそうなのだろうけれど、それでも行き過ぎていると私は思う。

 

 

 親など、まともにいた事のない私の見解だけれど。

 

 

「今日は楽しかったかい?」

 

 私は少し複雑な心境で頷いた。楽しい、と言うのは一体どんな感情なのか。私にはその意味を知っていない。

 

「そうかい、それは良かったよ。」

 

 満足げな表情を浮かべている。

 

「そう言えば、アンデルセンは昔、君と妻と一緒に首都に行ったことを手紙に書いていたね。人が多くてイライラしたと書いてあったよ。彼女は彼を諫めるのは大変だったと。」

 

 懐かしむように、遠くを眺めるような視線で森鴎外は語った。私は彼の昔話を聞いていた。父の話を一通りし、満足したのだろうか。彼は話題を変えた。

 

「ところで、アヌンツィアータちゃん。君は父親が異能力者であった事は知っているね?」

「うん、知ってるよ。」

「それがどんな能力かは知っているのかい?」

 

 どんな能力、と尋ねられても困る。父親とその事については何も話していなかったから。

 

「いいえ、何も聞いてない。オウガイは何か知っているの?」

「私も詳しくはしないんだよ。何せ、アンデルセンは人に自分を知られることを極端に嫌う節があったからね。私と彼が友人になれたのも奇跡の様なものなんだよ。」

 

 男と男の友情は熱いと聞くが、我が父・ハンス・クリスチャン・アンデルセンと森鴎外。そのどちらも熱血的な友情を築ける様な人間ではないと私は感じていた。

 

 私が見た森鴎外は打算的で、アンデルセンは感情的な人間だった。こう聞くとわが父、アンデルセンはとても女性的な心を持っていた様に思える。それはつまり、男女内に出来上がる友情の様な形だったと言う事なのだろうか?

 

 ここでは、男女間の友情が芽生える事の有無は問わないでおこう。自分の父親と目の前の男のあれこれなど想像しただけで吐き気がする。私の父親は通常なら40歳ほどだったと言うが、私の知っている父親は老人の姿だ。

 

 私は溜息を付かずにはいられなかった。そして自身の想像力に始めて嫌気がさした。

 

「どうしたんだい? いきなり青い顔をして。どこか具合でも悪いのかい?」

 

 少し俯きがちな私を心配そうに森鴎外は尋ねてきた。

 

「大丈夫。多分、少し考え事をしていただけだから。」

「考え事かい?」

「そう、考え事。そうしたら、嫌な事想像しちゃっただけ。」

「何を考えていたんだい?」

 

 と、興味ありげに森鴎外は尋ねたくる。

 

「オウガイとお父さんはどうやってお友達になったのかな?って。」

「それがどうして嫌な想像に繋がったのか気になるところだけれど…。私とアンデルセンが出会ったのは共通の友人を通じて、だよ。君のお母さんだ。」

 

 私は始めて母親という存在を示された。

 

「私に、お母さんがいたの?」

 

 そういうと森鴎外は驚いた様に目を見開いてからとても面白い冗談を聞いたと言った風に笑い出した。

 

「それは、当然だよ。医学的にちゃんとそういう事になってる。私は産婦人科医ではないけれどそれ位はきちんと知っているよ。」

 

 私は疑わしい目で彼を見た。誰も私の母について話さないから。

 

「名前はジェニー。オペラ歌手をしていたんだ。彼女の声はとても評判が良かったんだよ?」

「オペラ?上からシャンデリアが落ちてくるの?」

「それは、オペラ座の怪人かな?まぁ、それだよ。」

 

 オペラを見たことがないため、あくまでも想像だ。劇場という場所で役を演じるのがオペラ。セリフではなく歌で感情を表現すると言った点が普通の劇とは違う。

 

「アンデルセンは元々オペラ作家をしていたからね。」

 

 森鴎外は私の知らない家族の事を沢山話し始めた。父と母は10歳以上の年の差があったとか、母は病気で声が出なくなったとか。一般的な欧米人らしい金色の髪に、青い瞳をしていたとか。

 

「そう言えば、最初はジェニーの事ではなく、ルチアの事を母親と勘違いしていたみたいだね。ジェニーはそれに酷くショックを受けていたのを覚えているよ。」

「ルチア?」

 

 新しく出てきた名前に私は首を傾げた。ルチアという名前を聞いて一番最初に思いつくのは、『シラクサのルチア』だ。私の生まれたデンマークでは勿論、北欧で崇拝されている数少ない聖人の一人だった。異教徒たちの迫害にあい、両目を抉り出されたが奇跡的に彼女は物を見ることができたという女性。

 

 

 とある作家が書いた、とある本で、難破にあった主人公の船に乗っていた乗組員が『尊きルチア、助け給え』と言うと、主人公たちは奇跡的にその生を救われた。そこで主人公は一人の少女に出会う。盲目の少女に。

 

 

「あぁ、アンデルセンは自身の異能力にそう名前をつけていた。君と同じ白い髪の女性だよ。盲目の女性だった。私のエリスと同じさ。」

「エリスと、同じ?エリスはオウガイの異能力なの?」

「うん、そうだよ。」

 

 私は隣座っているエリスに目を向けた。そして、彼女から願望が流れてこない事に納得がいった。彼女は最初から何かを望める様な存在ではなかった。ただ、年の近い少女がある意味で友達になれないと言うことがわかり、少し寂しいと思った。

 

 しかし、可笑しい。森鴎外の話が本当だったとして、私が冬に生まれたというのはどういう事なのだろうか?

 

「私は二年前の冬に生まれたんじゃないの?」

「それは、どうして?」

「お父さんがそう言ってたの。」

 

 森鴎外は難しい顔で考え始めた。エリスは隣で私たちの話を聞いているだけ。少しつまらなさそうだけれど、空気を読んでいるのか何も話さない。

 

「二年前の冬と言うと、丁度ジェニーが亡くなった頃だね。ルチアなら何か知っているのかもしれないけれど…。悪いね、力になってあげられそうにない。」

「ううん、いいの。私にはお父さんとお母さんとルチアっていう家族がいたって事がわかったから。」

 

 森鴎外の腕に巻かれた銀色の腕時計をちらりと盗み見るともう夜10時を回ろうとしていた。時間を知るとなおさら眠気が襲ってきた。我慢しきれなかった欠伸を手で隠した。そんな私の様子を見た森鴎外は何が面白いのか笑みを浮かべている。

 

「あぁ、もうこんな時間か。良い子は寝る時間だね。」

 

 なんてありきたりなセリフを言うものだから、私はクスクスと笑みを浮かべた。

 

「今日だけは、悪い子じゃダメ?」

 

 なんて悪戯心で小首を傾げながら尋ねてみた。基本、目の前の男は私のような幼い少女には弱い。

 

「駄目だよ。明日はグルントヴィ牧師について教会に行くそうじゃないか。寝坊をするとおいて行かれてしまうよ。」

「牧師様は置いていかないわ。叩き起こすだけよ。」

「それでも、朝からたたき起こされるのは嫌だろう?」

「いやではないけれど、牧師様に迷惑をかけるわけにはいかないかぁ…。」

 

 ベッドの上に置いてあった枕を抱えて顔を埋めた。

 

「オウガイは帰らないの?」

「ん?そうだね、牧師が帰ってくるまではここにいるよ。」

 

 私はふぅん、と生返事を返した。私はベッドから立ち上がった。そしてスーツケースの中から歯ブラシと歯磨き粉、そしてコップを取り出した。私はその足で洗面台に向かいシャカシャカと歯を磨き恥じえた。森鴎外たちのいる方から何やら話し声が聞こえたが、私はそれを気にすることなく歯を磨いた。口に水を含み、それを吐き出す。そしてベッドのある部屋に戻ると森鴎外は難しい表情を浮かべてベッドの脇のラジオに耳を傾けていた。

 

 私にはラジオから流れている声は音でしかなく、そこに何かの意味を見出す事が出来なかった。

 

「なんて言っているの?」

 

 私は先ほどの位置に座るとエリスに尋ねた。

 

「一か月前、集団殺人事件があったの。学校内で一年生、6歳児のクラスでそのクラスメイト全員が死んでいるのが見つかったそうなの。40人近いの子供たちがなくなったみたい。」

「それは、どうして…?」

「それは調査中みたいよ。事件が早く解決して欲しいわ。」

 

 40人という幼い命が絶たれたという。二人はとても悲しそうな顔をしていた。私はじっとラジオから流れている異国語の音に耳を傾けた。しかし、私の心が傾くことはなかった。

 

 

 

 

 ひどく疲れた体を引き摺りながら牧師は自身のホテルの部屋へと戻ってきた。しかし、表情からはそんな事を何一つ察せない。そういう風に悟らせない事にはいい加減慣れてしまった。心のうちを隠す事にはすっかり慣れてしまった。

 

「あぁ、お疲れのようですね。」

 

 だからこそ、目の前の医師の言葉はただの社交辞令だ。朝から夜まで働いた。疲れていない者などいない。ただ、それだけの事だ。

 

「これは、森医師(せんせい)。いえ、そのようなことはありません。とても充実した一日でした。彼女の様子はどうでしたか?」

 

 ホテルに帰ってきたニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィは人当たりのいい笑みを浮かべ、そう森鴎外に告げた。椅子に腰かけ、音を最小にしてテレビを見ていた森鴎外は帰ってきた牧師に笑みを浮かべた。牧師は彼の横を過ぎ、少し大きい目の真っ黒なダレスバッグをサイドテーブルの上に置き、そして彼らの方を向いた。ベッドの上には、二人抱きしめあって寝ている少女が二人いる。真っ白な髪を真っ白なシーツの上に散りばめて、もう一人の金色の髪の少女を抱きしめて眠っている。

 

「とてもいい子でしたよ。エリスちゃんともすぐに仲良くなっていましたし。」

「この子と話せる同年代の子は、滅多に会えませんからね。本当に私は貴方方と出会う機会を下さった神に感謝します。」

 

 その言葉を森鴎外は笑顔で受け取った。牧師だって理解している。目の前の男の中に神など存在していないことくらい。しかし、牧師にはその言葉しか口に出すことはできなかった。それが宗教に身を置くということだ。

 

「ん…。」

 

 アヌンツィアータに抱き着き、抱き着かれていたもう一人の少女、エリスという名の少女がうっすらと目を開けた。眠たそうに眼をこすり、少しだけ体を起こした。エリスの上に置かれていた腕が力なくシーツの上に落ちた。

 

「リンタロウ…?」

「あぁ、ごめんね、エリスちゃん。起こしてしまったかい? でも丁度良い。帰るよ、エリスちゃん。」

 

 エリスは眠たい目をこすり、少し呆けた瞳で森鴎外のほうを見た。

 

「えぇ、帰るの?」

「うん、帰るよ。」

 

 エリスはベッドの上で寝ているアヌンツィアータのほうを見た。よほど楽しい夢を見ているのか、その表情はとても楽しげで、とても幸せそうだった。小さな手で小さな頭を数回撫でた後、ベッドの上からエリスは体をどけた。

 

 牧師は部屋から出ていく二人を笑顔で見送ると、スヤスヤと可愛らしい寝息を立てている少女のほうを見た。エリスがいなくなったことで不自然に開いてしまったベッドの空間が少し寂しげだった。牧師はシーツをアヌンツィアータの肩まで掛けなおした。

 

「アンデルセン、貴方の娘はとても健やかに育っていますよ。」

 

 牧師は気難しい彼のことを思い出した。牧師にとってハンス・クリスチャン・アンデルセンという男は人生の分岐点を作り上げた男だった。彼がいなければ、牧師は知らず知らずのうちに罪を重ねていたことだろう。

 

 だからこそ、彼の忘れ形見である彼女をどうしても幸せにしてやりたいと思うのだ。しかし、自身が幸せだと感じるものと、他人の幸せとは全く別物だ。

 

 目の前の少女の現実が、亡霊(ゴースト)であるように。

 

 アンデルセンに残された現実が少女ただ一人であるように。

 

 少女の現実は歪んでいる。アンデルセンが言うには、その歪みを正すのは恋だという。しかし、牧師には目の前の少女が恋ができるとは思っていなかった。彼女にとって人間は愛すべき対象だ。決して恋で身を焦がす対象ではない。

 

「いつか、貴女自身を変えてくれる人間が現れればよいのですが。」

 

 牧師は何処かでその存在を彼女より8歳年上の青年にそれを期待していた。しかし、それは叶わない願いとなってしまった。牧師は未だに彼女に伝えていない真実に瞳を閉じて開きかけた口を無理矢理に閉じた。

 

 真っ暗になった視界の中で自身の夢を語り、そしてどこか諦めた様に下を向いた未だ幼さを残した表情の青年。自身の置かれている立場をしっかりと理解してしまった青年だった。

 

「戦争など…。本当に嫌になりますね。」

 

 人が死んでしまうのは当たり前だ。それでも空を見上げ、神の御許に行ってしまった人間にもう一度会いたいと思ってしまうのは、思ってしまうのは罪深い事なのだろうか。

 

 牧師はそっと瞳を開き、サイドテーブルに置かれた銀色のロザリオに目を向ける。真っ赤なコラールが十字架の中心に埋め込まれている。牧師自身、普段手にしないそれを手に取った。手に取ればわかる。思っていたよりもずっしりとした重みが感じられる。

 

 この十字架が鉄ではなく、銀で出来ていることがよくわかる。牧師はカトリックではない為、その性質について詳しく他の者と議論した事は無い。しかし、ロザリオを装飾している玉の数、位置にはそれぞれの意味があるという。

 

 牧師はロザリオを強く握った。

 

「ああ、イエズスよ、我らの罪を許し給え。我らを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、特に主の御憐れみをもっとも必要とする霊魂を天国に導き給え。」

 

 そう祈った後、自らの行動に嘲笑を浮かべた。そして心のうちで自らを『節操なしめ』と罵った後、ロザリオを元の場所に戻した。

 

 牧師は窓の外の景色に目を向けた。頼りない街灯が道路を照らしている。そこを走る車は疎らで、歩いている人間なんていない。牧師はカーテンを閉めて着替えをもってユニットバスへ向かった。




お疲れ様でした。

正月だぁ、と思っていたらもうすぐ2月だというのだから嫌になります。

兎一号自身がキリスト教徒では無いので、いつも色んなことを調べています。


この小説の中で何度か出てきたのですが、一応再確認という事で書いておきます。

プロテスタントのキリスト教徒は、ロザリオを持つ事はありません。理由は色々あるみたいです。

一つとして、ロザリオというのはネックレスではなく数珠です。ロザリオについている珠の個数は聖母崇拝の時に『アヴェ・マリア』と唱える回数を数える為にあります。

しかし、プロテスタントのキリスト教徒は聖母崇拝や聖人崇拝を拒否する宗派が多い為、ロザリオが必要なかった。という理由があるみたいです。


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第七話 夢現

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「っ!?」

 

 飛び起きる、というのは本当に飛び跳ねるように起きるのだと私は知った。

 

 嫌な夢だった。とてつもなく、嫌な夢だった。

 

 額に手を当てて、初めて自身の指先が恐ろしいほどに冷え切っているのが分かった。真冬なのではと思ってしまうほど、冷え切った指を首筋に当てる。酷く汗をかいて熱っぽい体。吐き出される息は震えていた。

 

 律儀に肩までかけてあった布団は私が起きた事で、足元まで下がっている。大きな窓の方へ視線を向けると外はまだ薄暗く、カーテンから漏れている光はとても淡い。隣では静かに寝息を立てている牧師様がいる。息を落ち着けるように数回深呼吸をした後、布団に体を沈めた。大きく吐き出した息の空虚な音は、私の心の中の鬱蒼とした思い気持ちと共に吐き出された。

 

 再び眠りに入ろうと思ったが、何故か眠気は襲って来ない。

 

 あれは本当に夢だったのだろうか。妙にリアルなんて言葉では収まり切らない。ただの現実の様だった。掴んでいた腕の感触も、鼓膜を震わせたあの音も、何もかもが夢と言う一言で片づけてはいけないような気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  私は現在、足が棒になると言うものを体験した。まるで私の足に筋肉があり、そこに乳酸が溜まっているような。まるで人間のようで私の機嫌は少し悪かった。

 

 それを顔に出さないように必死にこらえていた私の内心など知るよしもない牧師様は相変わらずの爽やかな笑顔で朝の挨拶をしていた。

 

「おはようございます、アヌンツィアータ。」

「おはようございます、牧師様。」

 

 相変わらず、私の左腕には仰々しく包帯が巻かれている。巻き直したのは私なのだけれど。

 

 牧師様の本日のご予定は、お昼まで講義があり、その後はヨコハマの修道院に行くらしい。

 

 昼間の講義は兎も角、午後の修道院には私を連れて行ってくれるそうだ。なので、今日は昨日とは違い森鴎外とどこかへお出かけはしない。

 

 と、言うか昨日以外彼に会う予定は無いらしい。次に会えるとするならば、それは帰りの空港だそうだ。

 

 生まれたての小鹿のように足がプルプルと小さく震える。着替えを済ませ、今日の予定にある大学へと向かう。

 

 すべてが日本語で話されいてる空間の中で私は静かに空を見上げた。今日は昨日と同じく、とてもよく晴れた日だった。よく晴れているのに日本はとても蒸し暑い。コンクリートの建物群の中でひときは異色な講堂と書かれたレンガの建物に牧師様は案内された。

 

 私は講堂内に沢山置かれた椅子の一つに腰かけた。多くの人たちが牧師様の話を聞こうと集まったらしい。

 

 こうしてさっぱりわからない日本語の講義は始まった。私はある意味でこの時のために持ってきたのではないだろうかと思ってしまう本を開いた。誰にも聞こえない音で、ぺらりと頁がめくられる。牧師様が一番見え辛い席に座っていた私の視線の先に影が差した。薄暗くなってしまった紙の文字。私は視線をあげ影の原因に目を向けた。そこには中年を少し過ぎたであろう男性が立っていた。

 

『済まないが、ここ良いかね。』

 

 その男性の視線は確かに私をとらえていた。しっかりと私という存在がその瞳の中にいる事が私にもよく見えた。指さされた私の隣の席に目を向けて、私は首を傾げた。

 

「ここに座りたいの?」

 

 私の言葉に男は数回瞬きをした後、今度は日本語ではなく英語で「ここ、良いかね?」と、尋ねてきた。私は彼の言葉を何とか聞き取り、小さく頷いた。それから、私は隣に誰かがいるという落ち着かない雰囲気の中本を読んだ。時々隣の男の動向を確認して、視線を本に戻す。

 

 ふと、私は顔を上げた。そんな事をしていると気がつけば講演は終わっていた。私は小さく溜息をついた。

 

「気を乱してしまったみたいじゃな。」

 

 彼は私が落ち着かないでいる事に対してそういった。私は視線を彷徨わせ、それから男の口元辺りを見た。決して目を合わせないように。

 

「隣に誰かいるのは慣れてない、だけ。」

 

 私の不出来な英語が男に伝わったかは分からない。日本語で何かを呟いた。

 

「お前さんは、この大学の生徒ではないな。」

「そうだよ、牧師様の付き人みたいなもの。そういう貴方もここの人じゃないよね。」

 

 講演が終わり、誰もが席を立ち自らのやるべきことのためにこの講堂を出ようとしている。そんな中、この男は未だに席を立とうとしない。居たたまれなくなった私は腰を上げた。本を大事に抱き抱え、男の前を通ってその場から逃走した。

 

 講堂の外の壁に腰を預け、私は空を見上げた。やはり、真っ青な空はとても美しい。何も感じることはなかったが、きっと歩く人たちはその肌に突き刺さる紫外線に熱を感じていることだろう。

 

 

 それが少し羨ましい。

 しかし、私にとってそれは()()()()

 

 

 私は疎らに出てくる人を横目で見送り、私は未だ出てこない牧師様を待った。前を向けば7階建て程のひときは大きな建物がある。その建物の玄関の自動ドアに映らない自分の姿に、心の中で安堵している自分がいた。講堂と書かれた青錆びた文字の横に、本来いる筈の存在が映し出される事は無い。

 

 手を天に翳しても決して太陽が眩しいとは思わない。しかし、私の足元には影が出来る事は無い。私自身がまるで透けているようだ。

 

―――ニャウ。

 

 普通の猫だった。白と黒と橙色の斑模様のその猫は私を見上げていた。私は猫と視線を合わせるように膝を折った。じっと猫を見降ろしていると猫は目を逸らし、別な方を向いた。

 

「お前から話しかけてきたのに、全く嫌ね。」

 

 猫の喉に手を当てて掻いてやると猫は喉を鳴らして喜んだ。余程気に入ったのか私の足に自分の頭を擦りつける。丁抹(デンマーク)にだって野良猫くらいいるのだが、何分あちらの猫は野性的だ。森の中で生きているからなのだろうか。あまり人に靡かない。

 

『猫、か。』

 

 聞きなれない日本語を話したのは先ほどの初老の男だった。私が彼を見上げていると彼もまたこちらを見降ろしていた。

 

「随分とお前に懐いているらしい。」

「そう、見える?」

 

 何故か、私の姿を見ることの出来る猫は初老の男から見ると懐いているらしい。懐いているというよりは自分を可愛がってくれる都合の良い人間を見つけたと言った方が良いだろう。あわよくば餌をくれそうな人間を見つけた。そんな物だろう。

 

「猫は好きか?」

「……、犬よりは好き。」

「犬は苦手か?」

「……、あの人懐っこさが苦手。それに、猫は気儘だから。私も気儘で居られる。」

 

 私の言葉に老人は私を見詰めた後、何を思ったのか大きく笑った。私はその老人の表情を見て、今とても面白くないと言った表情を浮かべている事だろう。

 

「お前は猫みたいな人間だな。」

 

 男との言葉に私は首を傾げた。未だ私の周りをウロウロしている猫に構いながら男の話を聞いた。

 

「猫、みたいな?」

「あぁ、気儘で、気まぐれで、何より対人関係が苦手と見える。」

 

 好きで対人関係が苦手なのでは無いと言おうかと思った。ただ、普通の人間と同じ生活をしていないからそう見えるだけなのだと。

 

「何だ、気を悪くしたか?」

「悪くは、してない。」

「悪いではないか。」

 

 私の周りをうろついていた猫は私の不機嫌な表情を察したのか私の気を引こうと鳴き始めた。その猫の目論見通り私の意識は離れつつあった猫に引き戻された。

 

「ん、ごめんね。私、ご飯は持ってないの。」

 

 物欲しそうになく猫に私はそう告げた。私は老人を見上げた。

 

「ん?あぁ、私も餌は持っていない。私の知っている男なら猫の餌くらい持っているのだがな。」

 

 

 猫の餌を持ち歩く位、猫が好きなのか。それともその餌で猫をつって闇魔術の生贄として捕まえるのだろうか。

 

 

 私は、私自身の妄想で顔を青くした。勝手な妄想で評価が地の底まで落ちていきそうなその男に多少申し訳なく思いながらも、極悪非道な表情を浮かべる妄想上の男を酷く嫌った。

 

 百面相する私を見て男は「どうした?」と尋ねてきた。私は「何でもない」と首を振った。何も知らないその男の事を自分の妄想で悪く思ってしまっているなんて伝えた所でどうしようもないだろう。私がその猫の餌を持ち歩いている男に会うまでは。

 

「三毛猫ですか。彼女がお世話になったようで。行きますよ、アヌンツィアータ。」

 

 と、今度は聞きなれた丁抹(デンマーク)語。顔を上げると牧師様が出て来られていた。

 

「私行くわ。じゃあね、おじさん。」

「あぁ、またな。」

 

 私は彼に会う予定はないのになぁ、と思いながら小さく男に手を振った。猫は何故か私の後ろに付いて来る。私は猫の頭を撫でた。

 

「ごめんね、お前を連れてはいけないの。良く生きるんだよ。」

 

 私はそう言って猫から駆け足で離れた。振り返ると猫はこちらの方をじっと見ている。少しの罪悪感を感じながら私はもう後ろは振り返るまいと必死に牧師様の服の裾を掴んで前を向いて歩いた。

 

「アヌンツィアータ、言ったでしょう。この国では、何も救えないのだと。」

「そんなはつもりは、無かったんです。」

 

 そう、呟くように告げてから私は自分の発言に後悔をした。それは何とも無責任な言葉だった。

 

「いえ、すみません。今のは忘れて下さい。」

「えぇ、そう言う事にしましょう。」

 

 罪悪感を感じながら私はタクシーに乗り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 日本では、キリスト教というものはあまり信仰されていないらしい。欧羅巴(ヨーロッパ)生まれの私からしたら驚きの事実である。そして何より日本には信仰の自由というものが保証されており、家は仏教なのにキリスト系の学校に通うことに何の蟠りもないのだそうだ。その話を聞いたとき、私はとてもではないが信じられなかった。

 

 欧羅巴(ヨーロッパ)では、プロテスタントとカトリックの確執は色濃く残っており、カトリックの家の子がプロテスタント系の学校に進めばそれはそれは、白い目で見られるのだ。

 

 そして何より日本の教会は、少なくとも私の住んでいる丁抹(デンマーク)の教会と比べて、規模が小さい。そして他宗教と混じり合った経験のある日本の教会は、どこか閉鎖的で歪に感じられてしまう。

 

 私が訪れている教会では礼拝が行われている。日本の教会にどこか慣れない私は教会裏の墓地に足を踏み入れた。日本では教会の裏に墓地があることは少ないのだそうだ。というか、まず無いとの事だ。大陸にある欧羅巴(ヨーロッパ)とは違い、日本は島国だ。国の領土は限られている。何より町中に教会を建てる事の多い日本では、町の中に墓があることは嫌だろう。

 

 

 まぁ、日本は基本的に土葬ではなく、火葬らしいからリビングデッドなんてものの心配はしなくていいところは魅力的だ。

 

 

 小さな石板に誰かの名前と生きた年月が書かれている。その石板の前には桃色の紙で包まれた白百合。石板の年月を見ると、その人はとても若くして亡くなっていた。いや、若いというよりは幼い、と言った方が正しい。

 

「貴女は、幸せね。こんなにも早く、魂が肉体から抜け出し神の御許へ行けたのだから。」

 

 いいなぁ、なんて言ってしまえたら私は幸せだったのかもしれない。しかし、私はその言葉を口にしなかった。出来なかった。

 

 教会が罪と定める七つの大罪。その大罪を生み出すのはいつも嫉妬が原因なのだ。だからこそ、嫉妬は一番重い罪だ。人はいつまでも原罪に捕らわれた罪人だ。

 

 我楽多で出来上がっているはずのこの世界からの離脱する事は、簡単なはずなのだ。それなのに未練があるのか知らないが、いつまでもここに立っている自分がとても恨めしい。

 

「あぁ、神よ。どうか、正しい生き方を教えてください。」

 

 しかし、こんな時だけ神は何もしてくれない。それは当然のことなのだ。神様というのは所詮、その人間の妄想ですかないのだ。その人間の知りえない答えなど最初から彼らは持っていない。

 

『――――…。』

 

 私は聞こえた幼い声のほうを見た。100㎝あるか無いかの小柄な少女が私を見上げていた。日本人らしい射干玉の髪を一つに結い白いリボンで飾っている。綺麗に切りそろえられている前髪を弄りながらこちらを見上げている。

 

 昨日会った父の友人を何処か彷彿とさせる鮮血のような真赤の瞳。しかし、その瞳の中には純情な興味心しか感じられなかった。あの男、森鴎外のような打算的な願望はどこにも感じられなかった。

 

 

 なんて、可哀想な願いだろうか

 

 

 

『―――、――――。』

 

 彼女の声は小さく、掠れている。まるで何年も話していないようだった。私の機嫌を伺うように視線を上げ下げしながら、何かを私に話しかけていた。

 

 風に揺れた木の葉の小さな音にさえかき消されてしまう彼女の声。私はポケットの中に手を入れた。すると昨日ホテルに置いてあった菓子の中にあった飴が一つ入っていた。絵柄かして恐らく葡萄味のそれを少女の方へ差し出した。

 

 少女は数回瞬きをした後、恐る恐る私の手の上にある飴を手に取った。包み紙に包まれたそれを空にかざしてみたりした後、嬉しそうにピョンピョンと飛び回った。

 

 年相応の反応を見て私は先ほどまでの荒んでいた心が少しだけ癒された。その少女は大切そうに飴を黒猫の形をした鞄の中にしまった。長袖の水兵さんの様なワンピースを着ちている少女。その生地を見て安物で無い事は見て取れた。

 

 年相応の行動から目の前の少女は私のことを見る事が出来ているらしい。私は目線を合わせるようにひざを折ると、少女は恥ずかしそうに黒猫のカバンで自身の顔を隠した。そしてこちらを伺うようにチラチラと顔を出しては引っ込める。

 

『貴方何処から来たの?』

 

 と、一縷の望み込めて英語で話しかけてみた。しかし、その望みはやはり叶う事無く少女は首を傾げた。私は小さくため息を吐き出すと、小さな体を大きくぴくりと揺らした。

 

 私は自身を指さした。

 

「アヌンツィアータ。」

『あ…?』

「ア、ヌ、ン、ツィ、ア、-、タ。」

『あ、ん、ち、あ、-、た…?』

 

 

 所々間違っている。どうしたものか、と私は口元に手を当てて少し考えた。

 

「アータ。」

『あーた?』

 

 アヌンツィアータは、お告げという意味の言葉だ。私の名前には愛称というものは存在しない。元々、名前に使われるような単語では無いからだ。

 

 私が頷けば、少女はとても嬉しそうに微笑んだ。

 

『アータ。』

 

 私が勝手に作った愛称で私のことを呼び続ける少女。愛称を呼ばれる度に頷けば、さらに嬉しそうにまた私の名前を呼ぶ。

 

 私は少女に指をさした。少女は不思議そうに首を傾げた。自身の方を指さして『アータ』と言った後、少女の方を指さした。

 

『まり。』

「マリ。」

 

 名前を呼べば少女はこの世の幸福がそこにあるといった表情をした。少女は人差し指を立てた。私はその意味を考えた。少女はうずうずと何かを待ちわびるように私の顔を見ている。

 

「マリ。」

 

 名前を呼んであげれば少女は嬉しそうに飛び跳ね、もう一回と人差し指を立てるのだった。そのあどけなさに私は笑みを浮かべた。




お疲れ様でした。

二月に入ると期末テストが私を襲います。

勉強しなければ、と思いながら

今日もパソコンに向かってしまいます。


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第八話 幼女は実に愛らしい

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「ちょっと、何処に行くの?」

 

 先ほど出会った少女は積極的な人間だった。いや、心を開いた人間に対してはパーソナルスペースが極端に狭くなるようだった。私の腕を引き、ずんずんと教会の外へと連れ出されてしまう。抵抗しようにも抵抗をとること自体に申し訳なさを感じてしまっていた。

 

 

 全く出会って数分のあの慎ましさはどこへ消えてしまったのだろうか。

 

 

 女の子は本当に楽し気に町の中を歩いている。周りにあるありとあらゆる物を新鮮な物としてみているような、そんなキラキラと輝かしていた。

 

 私はいつ、そんな純真さをなくしてしまっただろうか。

 

 女の子が私を連れてきたのは小さな公園だった。日本にあるものは何時も何処かこじんまりとしているものが多い。女の子は私から手を放すとブランコに座った。

 

「押せってことなのかしら。」

 

 女の子は私のほうを見て足をぶらぶらとさせた。私が背中を押してやると少しずつ高くなっているその景色に彼女はとても楽し気な声を上げて喜んでいた。

 

 私は自分に妹ができたような気分だった。私の周りにいたのはいつも年上で、私が面倒を見るという状況はなかった。だからこそ、人生初のその体験を私は知らず知らずのうちに楽しんでいた。

 

 ブランコに飽きれば、私のことを追いかけまわし始めた。私が後ろを向きながら、軽く逃げているとマリは楽しそうに私を追いかけてきた。偶に捕まってやれば、嬉しそうに私の腰に抱き着いてくるのだ。昨日の事があり、足が棒のようだった私の足に鞭を打ち、私はマリの鬼事に付き合った。

 

 私はこれがきっと楽しいと言う事なのだろうと、そんなことを思っていた。自然と上げる口角。運動による心拍数の増加。それに伴う酸素供給のための呼吸は浅く早くなる。

 

「これは、オウガイの事をとやかく言えないなぁ。」

 

 小さく呟いて目の前の幼い少女を見た。疲れてしまったのか肩で息をする少女は砂場を区切っている小さな混凝土(コンクリート)の段差に座った。その様子を見て私はあたりを見渡した。私にも少しお小遣いを貰っている。飲み物を買うお金くらいはある。私がどこかへ行こうとしているのを悟ったのだろう。少女は少しふら付き乍ら、私のもとへ駈け込んできた。

 

 言葉の通じない者同士。どうやって、ここで待っているようにと伝えるべきかと私は少し考えた。しかし、学のない私の頭ではその答えを導くことはできなかった。それでも、これ以上マリを疲れさせるのは申し訳なく思った。

 

 私は腰を下ろした。それから腰をポンッと叩くとマリは直ぐに私の後ろに回り込んだ。そして後ろから私に抱き着いた。締め付けられる首が多少苦しかったが、そんなことを気にしているよりはとっとと飲み物を買ってあげようと思っていた。

 

 適当に道を歩けば、自動販売機は直ぐに見つけた。丁抹(デンマーク)には、路上に置かれた自動販売機というものは滅多に存在しない。

 

 

 イライラした時に投げつけるようの皿を売る自動販売機はある。

 

 

 私は背中からマリを下ろし、右ポケットから小銭入れを取り出した。お金を入れるとボタンが光る。

 

 マリを見下ろすとマリは一つの飲み物を指差した。私がその飲み物を指さすと首を大きく縦に振った。マリは横で必死に飛び跳ね始めた。ギリギリ届かないそのボタン。私はマリの脇の下に手を入れた。彼女の体を持ち上げた。その浮遊感に少し驚いたようだが、マリは光っているボタンを押した。

 

 落ちてきたペットボトルを取り出すと私に差し出してきた。私はそれを受け取るとフタを開けてあげた。それを差し出せば嬉しそうにそれを手にした。

 

「そんなに飲んで大丈夫なの?」

 

 余程喉が渇いていたのか、勢いよく水を飲むマリに私は少し心配になった。私の視線に気がついたのかマリは私を見上げた。それから自分の持っている飲み物と交互に視線を行き来させる。そして私にその飲み物を差し出した。

 

 私が飲み物を受け取った。それからボトルのキャップを閉めると、どこか寂しげな表情をするのだから困ってしまった。マリにペットボトルを差し出すとゆるゆると首を横に振る。

 

 そろそろ教会に戻らなくては、と思い私はマリに手を差し出した。マリは私の手を取ると今度は別の方へ引っ張り出した。

 

「本当に、そろそろ帰してよ…。」

 

 

 足に鞭を打つのはもう辞めたいのだが……。

 

 

 こんな事になるのなら素直に礼拝にいればよかったと、そんな後悔をしながら私は引き摺られる様にマリの後をついて行く。

 

 元々街に近いところにあった教会だ。少し歩けば人通りの多い道に出た。表通りに人が多い分、道から外れるととても薄暗く思えてしまった。

 

「どこに行くの?」

 

 そう尋ねると返ってくるのは楽しそうな笑い声だけ。

 

 

 もしかして、マリは私が外国人だと気がついてない?

 

 

 そんなまさか、と思いながらも街の中をずんずんと進んでいく。

 

『あ!』

 

 一つの音をマリは発した。その視線の先にはおそらく先程会ったであろう三毛猫がいた。金色の目がこちらをじっと観察する様に見つめている。

 

 マリは私から手を離し、その猫を追いかけ始めた。裏路地を全速力で逃げる猫に、全速力で追いかける少女。私はやっと離された少しだけ湿っぽい手を服で拭いた。

 

 手が離されたのだから、教会へ帰ればいい。帰ればいいのだが、マリは盲目的に猫を追いかけている。このまま車にでも轢かれて死んだなんてニュースを明日知る事になると目覚めが悪い。

 

 

 少女の死は少女を安全な場所に誘導しなかった私の罪だ。

 

 

 私はマリを追いかけた。路地裏をスルスルと進んでいく猫を。小さい体を駆使してその猫の通った道を難なく進んでいくマリ。

 

 油臭い排気口が並ぶ店の裏を通り、マリが蹴っ飛ばしてしまったゴミ箱の中を元に戻した。それから慌てて彼女たちを追いかける。

 

 家の塀と塀の間を通るのに体を横に滑らせ、その先に待っていた少し開けた手入れなされていない庭の中を申し訳なく思いながら横切る。住宅街の路地に出た。

 

 家の塀を何ともなく歩く猫を追いかける。

 

 猫が路地の角を曲がるとそこには真っ赤な柱が組み合わさって出来た門があった。その部分だけ雰囲気が違う。先程の庭とは違う、手入れの行き届いた自然だ。

 

 一度足を止めて歩きながら辺りを見渡す。どこか教会と同じ様な雰囲気を感じた。石畳みの向こうには大きな木造の建物がある。少し床が高く作られているので、そこへ登るための混凝土(コンクリート)の階段がある。屋根からは太い縄が二本垂れ下がっている。

 

『あーた!』

 

 猫を捕まえたマリは嬉しそうに手を振っている。掴まれている猫は少し苦しそうに身動いでいる。私は息を吐き出して笑みを浮かべた。

 

「マリ。」

 

 彼女の名前を呼んで頭を撫でてやると猫の様に私の手に頭を押し付けるのだ。私は流石に疲れたので階段に腰を下ろした。それから一呼吸置くと私は私の置かれている状況に焦りを感じ始めた。

 

 

 そう言えば、ここは何処だ!?

 

 

 見知らぬ土地で異文化の建物の前で私は頭を抱えた。マリを追うのに必死になりすぎて道順をちゃんと覚えているか不安になった。どうやってここまで来た。

 

 油の臭いがすごい排気口のある道を抜けてその先の扉をよじ登り、暫くまっすぐ行くと廃墟の様な庭で庭を仕切る塀のような鉄格子を無理矢理通ってその後、色々な路地を曲がり、そしてここに辿り着いた。

 

 頭を抱える私のことなど気になっていないだろう。猫を掴み持ち上げ遊んでいる。

 

 すると、途端に頭を占めたのは『もう帰れない』なんて言う妄想だった。ありもしない自問自答が他人の声のように聞こえてくる。膝を抱え、私は地面を睨み付けた。

 

『あーた?――――。』

 

 猫を抱きかかえ、不思議そうに私を見下ろしている視線に私は少し眉を寄せる。結局、この少女が心配だと思い私が勝手についていったのだ。目の前の少女に何の罪もない。私は誤魔化すようにマリの頭を撫でてやった。それが嬉しかったのか、片手に猫を抱えたまま飛びついてきた。猫はやはり苦しそうに身動いだ。

 

 私は猫をマリの手からでしてやった。そしてそれを地面においてやった。

 

「もうお行き。長く付き合わせて悪かったわね。」

 

 しっしっと手で猫を払った。その意図は猫には伝わっているのだろうが、猫はその場所から離れようとはしなかった。私は大きくため息をついた。私は手すりに体を預けて小さくあくびをした。昨日の今日で疲労が溜まり過ぎている。

 

 

 一度座るともう二度と立ちたくなってしまう。

 

 

 お腹に抱き着いたマリは膝枕のように頭を私の太腿に預けた。さらさらと綺麗な射干玉色の髪を撫でた。腿から感じるような気分になる大人より少し温かい体温。

 

 久しぶりの人間の温かみはとても心地の良い温もりだった。

 

 

 

 

 

 

「ここから出てはいけません。」

 

 凛とした声が私に掛けられた。私と同じ真っ黒な髪に、真っ赤な瞳のお母さま。私はずっとお母様の言いつけを守って生きてきました。いえ、ごめんなさい。偶に、お母様のお仕事の好きにお外に出ていました。

 

 お父様はお母様を置いてどこかへ行ってしまったようです。なので、私のことをお母様はお一人で育ててくれました。

 

 外に出て公園と言う場所で子供達に会いました。同じ位の年の子は私をすぐに仲間に入れてくれました。それが嬉しいのと同時に、どうして私は皆と同じようになれないのだろうと思ってしまっていました。どうして私は学校に通えないのだろう、とそう思わずにはいられませんでした。ですが、それをお母様に尋ねることは出来ませんでした。してしまえば、お外に出ている事がばれてしまうかもしれませんから。

 

 それに、最近はいつも公園にいた彼女たちはどこかへ行ってしまっったのか出会えませんでした。何回目か外に出て私は凄く不思議な人に会いました。真っ白な髪に青紫色の瞳をした女の子でした。

 

 私よりも身長の高いお姉さん。

 

 腰のあたりまで伸びた真っ白な髪は太陽の光に当たって時々金の糸のように輝いて見えます。長い前髪を耳にかけ、青い布の髪飾りを付けたお姉さんでした。お姉さんの立っている場所は教会の墓地でした。鉄格子の向こうでお姉さんは何かを呟いていました。

 

 鉄格子を無理やり通ってお姉さんのところへ行ってみました。私と顔の形の違うお姉さんを見上げました。キラキラした青紫色の瞳で私を見るその目がとても綺麗で、途端に恥ずかしさが込み上げてきてしまいました。

 

 お姉さんの話す言葉は何を言っているのか分からず、私は困ってしまいました。お姉さんは自分をさしながら何かを言っていたが、さっぱろわからなかりませんでした。

 

『アータ。』

「あーた?」

 

 私がお姉さんの言葉を繰り返して言うとお姉さんは頷きました。それからお姉さんは私の名前を尋ねました。

 

「まり。」

『マリ。』

 

 私は久し振りに誰かに呼んで貰えた事がとてもとても嬉しいと思いました。。最近はお母様も私の名前を呼んでくれませんでした。私の名前を呼んでくれる子達もどこかへ行ってしまいました。私がもう一回とお願いするとアータお姉さんは私の名前を呼んでくれました。

 

 私の名前を呼んで、私と遊んでくれました。私の頭を撫でて、私の事を抱きしめてくれました。

 

 こんなに楽しいと思えた日はいつぶりでしょうか。だからこそ、お姉さんとお別れしなくてはいけないと思う事がとても辛いと思いました。家に帰りたくないと思ったのは、初めてでした。お姉さんも私と同じ気持ちだと嬉しいと思ったけれど、不安そうに神社の階段で足を抱えるお姉さんを見てそう思ってはくれていない事が分かってしまいました。

 

 

 それが、少しだけ寂しいと思いました。お姉さんを縛る関係を壊したいと思ってしまいました。

 

 

 お姉さんの膝の上に頭を乗せると優しい手が私の頭の上に乗るのです。プカプカと水の中にいるような感覚でした。しばらくその感覚に身を任せていると寝息が聞こえてきました。穏やかなその音に、私もだんだん眠くなってきてしまいました。

 

 もう二度と感じる事が無いかもしれない柔らかな腿の感触を頬で確かめながらゆっくりと意識を沈んでいきました。本日はとてもそう、人生最高の日でした。

 

 静かな日常は今までにも沢山ありました。滅多に外に出ない私には、静かな日常しか訪れませんでした。毎日お母様が持って来てくれる本を読むだけの生活です。ですから、それが私の知識の源でした。その中にはこの街の地図などもあり、私は道に迷う事など一度もありませんでした。

 

 絵や写真が私に見せてくれる景色はどれも新鮮なものでしたが、どれも平坦な物でした。凹凸の無いその絵はどこか重苦しさを感じずにはいられませんでした。家の座敷牢に押し込められた私と同じ。たった一枚の紙切れに押し込められ、何回も再利用される。

 

 

 再利用されていないだけましかと考えるのか、再利用する価値も無いと考えるのか。

 

 

 そんな事を考える思考回路など持ち合わせていなかった私には、目の前の女性に出会えたことが何よりも嬉しかったのです。私に会ってくれるお友達が新しく出来た事が嬉しかったのです。




お疲れ様でした。

活動報告に書きましたが、この第2章において兎一号は決定的な間違いを犯してしまいました。

終戦したのが何月なのか詳しくはわかりませんが、第2章の時期は十四年前の夏頃を設定しています。
はい、十()年前です。

乱歩さんと社長が出会ったのはいつですか?
はい、十()年前ですね。

はい、二年早いですね。

第六章のプロット作ってる時に気が付きました。
そんな先の話を作っている暇はありませんでした。

話が伸びるかも?
タイムマシンがあるのならこんな事を言っていた自分を殴りに行ってます。

本当にすみませんでした。
今後、このような事がないよう気をつけます。

感想、評価などお待ちしています。


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第九話 貴女を救えない話

 昔、人魚姫という物語を聞いた。薄暗い牧師様の部屋で父親であるハンスの部屋から持ってこられた本だ。文字の読めなかった私の牧師は私に読み聞かせた。私はあの物語を読まれた時、牧師に感想を尋ねられた。私はあの物語を『大嫌いだ』と答えた。実際、私はあの話は好きになれなかった。牧師は酷く驚いた様子だった。そしてその理由を尋ねてきた。

 

「何故、綺麗なお話じゃありませんか。」

「綺麗ではありません。何一つ、綺麗ではありません。」

「どこが、大嫌いなのですか?」

「だって、姫も王子もどうしようもない馬鹿です。特に人魚姫は救いようがありません。私には分かりません。絶対に叶わない願いに一体どんな意味があるのでしょう。」

 

 私の問いに牧師様は数回瞬きをした後、笑みを浮かべた。

 

「そう言う物なのです、人間というのは。叶わぬ願いに思いを馳せてしまう物なのです。」

 

 私は牧師様の言葉に首を傾げた。私の様子に牧師様は笑みを浮かべた。私はムスッとした顔をして頬杖をついた。牧師はすっかり冷めてしまった紅茶を入れなおすために立ち上がった。

 

 

 納得がいかないのだ。どうして牧師様は私の様子を見て笑みを浮かべたのだろうか。私は彼の後ろ姿を見つめながら考えていた。

 

 

「分かりません、叶わぬものを願うなど傲慢ではありせんか。」

「ひどい言い様ですね。」

「違いますか?」

「貴女が恋を知れば、考えが変わるかもしれませんよ。貴女は恋慕を抱くことも、恋慕を抱かれる事も知らない少女なのですから。」

 

 牧師の後ろ姿を見詰めながら私は溜息を付いた。それから私はポッと頭に浮かんだ問を牧師にぶつけてみた。

 

「牧師様は恋慕と言うのを抱いた事があるのですか?」

「それは、まぁ。私も人間ですからね。恋くらいはした事があります。」

「…、そうなのですか? 意外です。牧師様が肉欲などと言うものを抱かれる事があったなんて。」

「貴女にかかれば、願望は傲慢。恋慕の情は肉欲ですか…。いやはや、全く…。貴女は素晴らしい()()ですよ。」

 

 私は牧師様の言葉をあまり理解できなかった。彼の意図したい意味を理解出来なかった。それはその筈だ。私は一度だって人間らしく恋慕の情を抱いた事はないのだから。抱く機会などなかったのだから。

 

 私は恋をする前の人魚姫。

 

 人ではない異形の少女。私の足は魚のような鰭では無いけれど、足元を見れば影はない。

 

「どうぞ。」

「ありがとうございます、牧師様。」

 

 ユラユラと白く宙に舞う水の漂い。そこから沸き立つ淡い茶葉の香りに心を落ち着かせる。

 

 赤茶色の水面に私の姿が映ることはない。鏡にだって私が映ったことはない。自身の顔の形などとっくの昔に忘れてしまった。するりと顔をなでおろすが、その感触は人の物のようだ。顔のパーツはそれぞれきちんと人と同じ数だけある。

 

 

 あぁ、まるでドラキュラ伯爵のようだ。

 

 

 まるで、というよりは私は自分が血を吸わないだけの吸血鬼なのではないだろうか。そんな不安が心を占めていた。亡霊(ゴースト)だろうが、吸血鬼だろうが、結局人外。

 

 私が人魚姫という話が嫌いな理由ははっきりしているのだ。ただの同族嫌悪。

 

「はぁ…。」

「どうぞ。」

 

 思わず出てしまうため息。目の前に置かれたティーカップからは湯気が立ち上がっており、それを手に取り香しい匂いに少しだけ心が落ち着いた。これから味わうであろう柔らかな甘さを想像しながら口をつけた。

 

「っ…!?」

 

 目の前の牧師も自身の淹れた紅茶の味に酷く驚いているようだった。偶然ではあったけれど、あの紅茶の味のおかげで私は取るに足らない考えは吹っ飛んだ。この世に存在している時間はまだまだ短いものだが、初めてあんなに塩っ辛い紅茶を飲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと辺りは少し赤くなっていた。昼からどれ程寝ていたか分からないけれど随分と寝てしまっていたようだった。長すぎた昼寝は私の身体を酷く怠くした。そして何より、私の腿に頭を乗せている少女のせいで両腿の感覚が無い。そして最終的にエビぞりのようになって寝ていた為、腰が痛い。恐らく、ヘルニアと言う病の痛みと言うのはこんな感じなのだろうと思わざるを得なかった。

 

「いたたた…。」

 

 体を起すと木漏れ日が紅く染まり、切石を彩っていた。濃淡のある明るさで模様を作る。夏だからこそ、緑と赤のコントラストはとても綺麗だった。

 

 さて、私に残された問題はここからどうやって帰るかだ。足は痺れて動きそうにないし、身体はまるで死後硬直のようにガチガチだ。私はマリの体を揺らし、彼女を起こそうとした。しかし、その揺れさえも彼女には心地よい物となっているようだった。

 

 諦めた様に溜息を吐き出した。四本の柱で出来ている門から吹き抜ける風がマリの少し長い髪を揺らす。赤く澄み切った空に手を伸ばす。あの空にいつか迎え入れられるのだろうか。伸ばす手が虚空を掴むだけ。それに今は梯子が掛かってはいない。

 

 

 蜘蛛の糸も垂らされなければ、掴む事さえ出来やしないと言うのに。

 

 

 何も掴めなかった手はそのままマリの頭の上に乗った。その衝撃でマリは少しだけ体を揺らす。「んん…。」という可愛らしい声を零して眩しいがる猫のように蹲る。この可愛らしい少女は、未だに目を覚ましたくないようだ。そんなに夢の中に何かあると言うのだろうか。

 

 

 夢でも現実でもあの空には何も持って行けないと言うのに。

 

 

 そこまで考えると、少し頬が冷たいと感じた。一筋、頬をなぞりそのせいで渇きに餓える。

 

「あぁ…。どうして。どう、して…。」

 

 必要な水分を全て失っているような感覚だ。呼吸は困難を極め、吐き出す事も吸い込む事も辞めてしまった。マリの頭が混凝土(コンクリート)にぶつけてしまわない様にしっかりと支えた。そして太腿をすり抜けて彼女の頭を混凝土(コンクリート)の上に置いた。

 

 力を特に入れる訳でもなく、立ちあがることの出来た私の足。それもそうだろう。私は亡霊(ゴースト)なのだから。筋肉痛などある筈が無い。あれは、あの痛みはきっと私の夢だったのだ。夢が私に魅せたのだ。人として生きる事の素晴らしさを魅せようとしたのだ。

 

 そんなものに惑わされる訳にはいかない。私は()()なのだから。信じるものはたった一つ。信じてよいと言われたのは彼だけなのだから。

 

 誰かを探さなければならない。彼女をこのままこの場所に置いて置く事など出来やしない。私を見ることの出来る人間を探しだし、彼女のもとへ案内しなくては。この街の土地勘の無い私では、マリを家に送って行ってはあげられない。

 

 何より私はこの国の人間では無い。この国の人間であったとしても責任を持って私は彼女を育てる事は出来ない。一緒に居てあげる事は出来ない。私と彼女は別物だ。私は決して人間では無い。同じ種類では無い、私達は決して共にいられない。

 

「はやく、見つけないと。」

 

 早く誰かを見つけなければならない。そんな焦りが心の中に浮かび上がった。しかし、住宅街は閑散としていて車一台通りはしない。私はどうすればよいのか、と考えた。私を見ることの出来る人間は少ない。そしてその見ることの出来る人間を見分ける方法など私には見当もつかない。

 

 村の中で私を見て、会話できるのは牧師様だけ。

 

「牧師様、だけ…?」

 

 会話が出来るのは牧師様だけ。つまりは私が発した音を聞くことの出来る人間。視界での確認は死角などもあって今の状況には最適では無い。

 

 悲劇的な現場に人だかりが出来るのは、不謹慎にも人間の好奇心があるからだ。何か分からない物への興味。そして何より、原因の究明と自身の生命の安全を確保されているかの確認。それが無ければ、その場所にとどまろうとは思わない。

 

 私は息を命一杯吸い込んだ。そして今まで一度も出した事のない様な大きな声で叫んだのだ。悲劇的に、女性的に。色々な方向に叫び散らした。肩で大きく上下させ、視界が少し狭まったように感じる。酸欠と言う症状に似ている気がする。ふらりとよろめき地面に膝を付く。

 

「大丈夫? アヌンツィアータちゃん。」

 

 皮のブーツが視界の端に現れた。茶色のそれは昨日、同じ物を見た。そして何より、私の名前を知っている。昨日初めて聞いた声。ゆっくりと顔を上げ、私はその男の顔を見た。

 

「顔色が良くないね。酸欠かな? あんなに叫んでいたらそりゃ酸欠にでもなるよ。一体どうしたんだい?行き成りいなくなったって聞いたよ。グルントヴィ牧師が診療所に電話をしてきた時は驚いたよ。」

 

 告げられた言葉に渡しは心を大きく乱した。そして迷惑をかけると言う何一つ言い訳の余地のない失態だ。

 

「それは、申し訳ないと思っているの。来て、オウガイ。私だけではどうしようもないの。」

 

 弱弱しく森鴎外の服を掴み、彼の服を引っ張った。私の様子に首を傾げた森鴎外は私に引っ張られるままついてきた。

 

「一体どうしたと言うのだい?」

「女の子がね、私を連れだしたの。」

「お、女の子…。それは一体どれくらいの年のっ、痛い。痛いよ、アヌンツィアータちゃん!」

 

 森鴎外と言う男は、こう言う男だ。思わず手が出てしまった。と言うよりは足が出てしまった。ゲシゲシと森鴎外の足を蹴りつけたのだ。

 

「それにしても、アヌンツィアータちゃんも可愛らしい所があるじゃないか。嫉妬してくれるなんて、私は嬉しいよ。」

「嫉妬なんてしてない。嫉妬は七つの大罪よ。私はそんな物は持たない。」

 

 そう言うと森鴎外は肩を竦め、また歩き出した。

 

「持つさ。君の言い分を鑑みたとしても、君は人間だった。その名残が残っているものだよ。」

 

 森鴎外の言葉が私に突き刺さった。名残が残っている。では、それをどうやったら削ぎ落とせるだろうか。どうしたら、人を止め、人を完璧に辞める事が出来るのだろうか。未だ人間としての名残が残っているから、私は上に行けないのであろう。

 

「この先に女の子がいるの。私では女の子を家に帰してあげられない。貴方に預けるのはとて…、とても不安なのだけれど。」

「うん、言い直せてないね。そんなに信用無い?」

「女の子と言う単語に反応した男に信用も何もあったものじゃないわ。」

 

 腕を組んでムスッとした顔で自分を見詰める少女。どうして彼女がそんな表情を浮かべているのか。色々な想像をする事が出来るが、男はその中で一番自分に都合の悪い物と良い物を想像した。

 

 そのどちらもいずれ彼女の中に生まれる主義に反するものだろう。それに苦悩している少女の姿を想像する。人は決して人以外になれはしない。ましてや、物語に登場する聖人様のようになれる訳が無い。

 

「ここに女の子がいるの。」

 

 

―――殺したい。

―――死にたくない。

 

 相反した二つの願いが私の中に流れ込んできた。そして門の向こうで行われている真実に思わず一歩後ろに下がった。

 

 真っ赤な鮮血で穢れていく少女の体。階段の溝を辿り、重力に従う血はその場所を汚す。音一つしない市街地で、不祥がその地を染め上げる。私は思わずもう一歩下がってしまった。

 

『――、―――――――。』

 

 森鴎外はそう声をかけた。大きな血だまりは小さく波打つ。黒い髪の女性だった。マリと同じ黒い髪に赤い瞳を持った女性だった。女性の手には銃が握られていた。銃口には黒い筒のようなものがついている。恐らくサプレッサーというものだろう。だとして、どうして日本に住んでいる彼女がそんなものを持っているのだろうか。

 

 日本では外国と違い、一般人の重火器所持は禁じられているはずだ。だから彼女は一般人ではない。濃紺色のスーツを着た女性は、こちらにも銃を向けてきた。森鴎外とその女性は何かを話しているが、これならばもう少し独学で日本語を学んでおくべきだった。

 

 私が一歩前に出た。

 しかし、女性に反応はない。

 

 恐る恐るもう一歩前に出た。

 しかし、女性に反応はない。

 

 私はマリのほうへ駆け出した。女性が私を見えていない可能性にかけるしかなかった。女性から目を花さいないように横を通り抜ける。女性のスーツには今まで見たことがないバッジがあった。三枚の花弁が上下左右に飾られた綺麗なバッジだった。

 

「マリ!」

 

 名前を叫んでもやはり女性は反応を示さなかった。自身の服が血に濡れる事など何一つ気にしている余裕はなかった。銃で撃たれた人間を見るのは二度目だ。傷口から空気が入るのを防がなければならない。虚ろな目が宙を見つめる。

 

 

 私のせいなのだろうか。

 

―――今日が、夢だったならよかったのに。

 

 

 聞こえてきた願いに、私は胸を押さえた。違う、違う。抑えるべきは私の胸ではない。押さえるべきは彼女の傷口だ。

 

 グチュリという生々しい音とともに傷口を押さえ込む。横っ腹から溢れ出す血液は小娘一人に力では到底押さえる事などかなわない。鉄の匂いが辺りに充満する。

 

「いや、いやよ。」

 

 フェージャの時とは違う。どうしてこんなに悲しいのだろうか。どうしてこんなに苦しいのだろうか。瞳からあふれ出した涙が止まらない。父親の時の死はあれほど乾いたもののように見えたのに。ひどく冷めたものに見えたのに。

 

「お願い、死なないで。」

 

 どうして死なないでなんて願いが出てきたのだろうか。私は先ほど口に出していたではないか。

 

 死ぬ事は幸福だと。ならば、目の前の少女がこのまま死んでいくことは幸福なことではないのだろうか。わからない。どうしてこんなに迷ってしまうのか、分からない。

 

「普通に生きてみたい。」

 

 誰かが、そう言った。私の後ろで、誰かがそうつぶやいた。でも、そうだ。マリと最初に会った時、そう願っていた。

 

 私には普通はわからない。わからないけれど、そう願うのならば…。それで貴女が救われるというならば。

 

「貴女の願いを()()が叶えてあげる。」

 

 誰かがそう宣言した。




お疲れさまでした。

この前の件がいまだに心中に引っかかっている兎一号です。

思えば、第二章は波乱な章でした。あらすじを二、三度書き換えました。

第三章は残念ながら、オリキャラ主体で原作キャラはあまり出てきません。

仕方ないね、住んでるの外国だから。ヨコハマじゃないもん。


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終話 なくなった日

「おっはよう、調子はどう?」

 

 薄暗い森の中で女性は、男二人にそう声をかけた。血みどろな軍服を着た男二人は何やらご機嫌な女性の姿を見て眉をひそめた。

 

「あまりよくはないな。」

「君は調子がいいというよりは、機嫌がいいね。」

 

 ニコニコと笑みを浮かべながら「そう見える?」なんていうのだから二人はため息をついた。鬱蒼としていて今すぐにでも虫に噛まれてしまいそうな森の中で男二人はともかく、女の方は決して森の散策に適した服装をしていなかった。何せ、彼女はヒールの高いブーツ。それから、黒い修道服。瞑られた瞳。

 

「ふふ、そう見える?」

「何かあったのか?」

 

 早く聞けとうずうずしている彼女を見て苦笑いを浮かべながら茶色の髪の男が尋ねた。「よくぞ聞いてくれた。」と言い、女は誇らしげに腰に手を当てた。「ふふーん。」と得意げな表情を浮かべながら昨日のことを話した。

 

「じゃあ、アイツは異能力を使ったのか。」

「えぇ、それも見事に。今日一日を夢にする代わりに、私の一日を奪っても構わないと。流石は、彼の娘だわ。私のマリア様。まぁ、そういう訳で昨日の事は全て夢になったわ。歩いた道のりは全て無駄になった。」

 

 興奮気味に話す女は昨日のことを思い出してウットリとした表情を浮かべる。木に凭れ掛かっていた男二人はそんな女の様子を呆れながら見上げた。

 

「なぁ、ルチア。今日はどこ辺りまで歩くんだ?」

 

 金色の髪の男がそう尋ねると、ルチアは地図を取り出した。そして今いる場所を指さした。

 

「今いるのがトリール南西20キロの地点。明後日中にトリールの街に入って貴方達の服を買ってこられると良いのだけれど。町に入りさえすれば、連絡の取りようもある。」

「トリールは本当に小さな町だ。トリールまで行ければ、軍との連絡のつけようがある。」

「三日かけて20キロか。」

「あら、不満?」

 

 金髪の男はどこか悔しそうにつぶやいた。しかし、男は女性の言葉に首を横に振った。

 

「不満はない。俺たちがこんなに進みが遅いのは、俺たち二人がよりにもよって足を怪我したからだ。お前が俺達のために無理のルートを探してくれている事はわかっている。だからこそ、不甲斐ない。」

「お前達の為じゃない。私はお前を守れと願われてここにいる。」

「あぁ、帰ったら思いっきり甘やかしてやらなくちゃな。」

「期待せずに待ってるわ。」

 

 ルチアは地図を懐にしまい、それから立ち上がった。そしてその中で一番役立たずに手を伸ばした。何せ二人のうち一人、茶髪の男は両足を複雑骨折している。ひと昔ならば、戦争で逸れた馬を探してそれに乗せるなんて言う荒業だってとれたが、無駄に整備されたこの時代に騎馬兵は存在しない。全く、困った。もう一人の金髪の男は銃弾を右太腿に受けている。それでも約50㎞を歩いてきたのだ。

 

 

 バカみたいな話だ。あの城を抜け出す途中、彼らを助けなければ少なくとも金髪の男は銃弾を受けずに済んだというのに。

 

「いやぁ、女の子に背負われるなんて男の風上にも置けないな。」

「全くね、家の恥さらしも良い処だわ。」

「そこは、仕方ないとかそんな事無いとか言ってくれないかい?俺、物凄く傷ついた。」

 

 ルチアの背の上でウダウダと話をする男。しかし、男だって態とそんな話をしているわけじゃない。金髪の男とルチアが二人でいれば、そろって先ほどのマリア様の話しかしない。そしてそのうち、マリア様のためなら喜んで死にに行くとか言いそうなのだ。

 

「アントニオ、足の様子はどうだ?」

「大丈夫だよ、俺は撃たれただけだ。でもベルナルド、君は骨折だろう。暫くは絶対安静だ。」

「看護兵の言葉はきちんと聞かなくてはな。」

「あぁ、全くその通りだ。」

 

 

 聞いた時の衝撃で言うならば、銃で撃たれたほうが重傷だ。いや、本来ならば俺なんかよりもお前のほうが重症のはずだ。

 

 

 たった二年の付き合いだったが、二人の間には確実な絆が生まれていた。だからこそ、親友を酷く心配していた。少し間違えば、死んでしまいそうな正義感を持った親友。その命を何とか繋ぎ止めておきたいと、そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 酷く騒がしい音は相変わらず。人のたくさん集まるこの場所で私は酷く暗い顔をして立っていた。気が付けば、私は空港の中に立っていた。それも日本の空港ではない。丁抹(デンマーク)の空港だ。何か、ひどい夢を見ていた気分だ。吐き出しそうな空気を吐き出し、新しい空気を肺に取り込んだ。どうしてだろうか、あのホテルで目を覚ましてからの記憶が全くない。

 

 今日が何日だったか、記憶が曖昧だ。

 

「アヌンツィアータ、どうかしましたか?行きますよ。」

「牧師様、昨日の事…。」

「昨日? 昨日が、どうかしましたか?」

 

 何の突っかかりもなくそう尋ねてくる牧師様の様子を見て私は「なんでもない。」と首を横に振りました。牧師様に続いて歩き出そうとした時、私の服をクイッと引っ張る何かが現れた。

 

『約束、守ってね。』

 

 その声に後ろを振り向いた。そこにいたのは黒い髪に赤い瞳の少女。可愛らしい水兵さんのワンピースを着た少女だった。私のスカートを軽く引っ張り、私の意識をそちら側に引っ張ろうとしてた。私にはこの少女の事を何一つ知らなかった。

 

 私が彼女に対して何の約束をしたのか、覚えていない。それでも何かしらの約束をしたというのなら、守らなければならない。私は決して嘘をつかない。そう心に決めているから。

 

「アヌンツィアータ?」

「いえ、子供に服をつかまれただけです。今行きます、牧師様。」

 

 私の言葉に牧師様は首を傾げた。それもそのはずだ。私の服をつかむ子供など、まず現れることがないのだから。それこそ、私という存在を認識していなければ出来ない事だ。そんな人間が近くにいるのかと少しだけ視線を彷徨わせるが、そんな存在を見つける事は出来ない。

 

「牧師様、どうかしましたか?行きましょう。」

「えぇ、そうですね。」

 

 後ろを振り返れば、やはり視界の端に女の子がこちらを見上げているのが映る。しかし、その少女に微笑みかけてやれば彼女も微笑むのだ。少しだけ手を差し出せば、彼女もその手を取って私と一緒に歩き出した。




お疲れさまでした。

本日、二本目の投稿です。そして短いです。

自分で作ったキャラは愛を持って殺します。
オリジナル小説を書くとほぼ全員が死んでしまうという悩みを抱えています。

あぁ、どうして死んでしまうの?
殺している私が言うのもなんですが。


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断章ーⅡ
第二章までのオリジナルキャラクターについて まとめ


何となくまとめてみました。


 ・アヌンツィアータ・アンデルセン

 

○年齢…第一章時7~8歳、第二章時10歳

○誕生日…3月25日

○血液型…A型

○身長…第2章時、約123㎝

○体重…測定不能

○好きな食べ物…父親に教わったシチュー

○嫌いな食べ物…特になし

○好みのタイプ…特になし

○自分の思う長所と短所…長所は牧師に仕込まれた料理と裁縫。短所は普通の人間には見えない事。

 

異能力『』

 

 父親であるハンス・クリスチャン・アンデルセンから受け継いだ異能力。

 ―――と言う名で女性の姿をしていたが、ハンスによって一度殺されている。

 他人の願望が聞こえて来ることを酷く煩わしく思っている(最近は慣れてきた)

 神に祈る事でそれが叶えられる?

 何らかの代償が必要?

 

○容姿

 

 先天性色素欠乏症候群を患っており、白人ではあるが肌や髪が異様に白い。

 髪は光の加減で金色に見える。瞳の色は青紫色。

 前髪は耳に掛かるほど長く、後ろ髪は腰のあたりまで伸びている。

 青い布のアリスバンドを付けている。

 今は鏡に映る事が無いのでどんな顔をしているの忘れてしまった。

 

○備考

 

 本人は、自身の肌の色にコンプレックスを抱いている。

 自身は死人であり、早く地上からいなくなりたいと思っている。

 第一章前半では、村の子供達とは馴染めないでいた。

 第一章では、文字が読めなかった。

 父親に亡霊(ゴースト)であると言われた日から、ネジが一本抜けてしまったようだ。

 ()()を叶える為に七つの約束事を守っている。

 父親からもらったロザリオを肌身離さず持っている。

 また、牧師の影響からか非常に信仰深い。所謂、敬謙なる信徒。

 

 生まれてから7年間の記憶があやふやで、父親の言葉とも整合性が取れない。

 彼女が生まれてから七年間、何をしていたのか今の所不明。

 森鴎外の話だと普通に生活していた?

 

 犬よりは猫が好き。

 

 父親はハンス・クリスチャン・アンデルセン。

 母親はジェニー・リンド。

 

 森鴎外の話によれば父親はオペラ作家、母親はオペラ歌手の仕事をしていたらしい。

 母親は怪我か病か分からないが、言葉を話せなかった。

 ルチアと言う女性を昔、母親と思っていた事にショックを受けていたらしい。

 

 

○元ネタ

 ハンス・クリスチャン・アンデルセンの小説『即興詩人』に登場する人物、アヌンツィアータより。

 

 『即興詩人』では、アヌンツィアータは主人公であるアントニオと結ばれる事無く、病で心身共にボロボロになり死んでしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ

 

○年齢…第一章時41歳、第二章時43歳

○誕生日…9月8日

○血液型…不明

○身長…185㎝

○体重…76kg

○好きな食べ物…特になし

○嫌いな食べ物…特になし

○好みの異性…不明

 

異能力…本人曰く、無し

 

 生真面目な性格で、教育学、宗教学、音楽など多くの学問の研究を行っている。

 アジアの国を回った事があるらしい。

 語学が堪能で数か国語を話すことが出来る。

 料理、裁縫などをそつなくこなす凄い人。

 そつなくこなすが動揺するととんでもない失敗をする事がある。

 

 ハンスとは仲が良いと思っているが、向こうがそう思っているかは分からない。

 牧師曰く恋をした事はあるらしいが、どうやら失恋したようだ。

 

 

○元ネタ

 

 デンマークに実在した人物。

 

 

 

 

 

 アントニオ・

 

○年齢…第一章時17歳

○誕生日…7月1日

○身長…184cm

○体重…70㎏

○好きな食べ物…野菜料理

○嫌いな食べ物…肉料理

○好みの異性…不明

 

○容姿

 

 金色の髪に蒼い瞳。

 アヌンツィアータ曰く、ごく一般的な容姿の青年。

 

○備考

 

 アヌンツィアータ曰く、快活な性格をしている青年。

 猟師の家系だが、血を見るのが苦手。

 将来の夢は獣医になりたかったと告白している。

 第一章の最後の方で出兵。

 戦争終結した第二章では生存が確認されていなかった。

 第二章終話で、ベルナルド、ルチアと共に森の中で生存している事が判明。

 

○元ネタ

 

 ハンス・クリスチャン・アンデルセンの小説『即興詩人』の主人公。実際の彼は美青年らしい。

 

 

 

 

 

 ハンス・クリスチャン・アンデルセン

 

○年齢…第一章時43歳(見た目70歳前後)

○誕生日…4月2日

○身長…169cm

○体重…59㎏

○好きな物…休暇

○嫌いな物…仕事

○好みの異性…妻であるジェニーが13歳年下であることから年下好き?

 

○備考

 

 背は決して高くない。

 身につけているものは高価な物が多い。

 何らかの理由で第一章では失明し、年齢も30歳ほど老けている。

 アヌンツィアータへの渾名として『みょうちくりん』などさまざまな呼び方をしている。

 森鴎外とは文通をする仲。

 性格について女性的だと、アヌンツィアータに解析されている。

 人間嫌い。

 村外れの小屋に住んでいる。

 小屋の中には大量の本があったが、ハンスの死後ある程度は片付けられた。

 ドストエフスキーの一件で全て教会に寄付されたという事になっているが、実際は牧師の部屋に所狭しと本棚に並べられている。

 

 

○元ネタ

 

 デンマークに実在の人物より。

 

 

 

 

 マリ

 

○年齢…5、6歳ほど

○誕生日…不明

○身長…100㎝未満

○体重…不明

 

○容姿

 

 森鴎外を彷彿とさせる黒い髪に赤い目の幼女。

 髪は後ろで一つに結っており、白の布の髪飾りを付けている。

 水兵の様なワンピースを着ていて、黒猫の鞄を背負っている。

 

○備考

 

 母親の言いつけで普段は家の地下で生活している。

 父親と母親は離婚している?又は、死別している?

 時々抜け出して遊びに行っていたが、友達が来なくなった。

 

 

 

 

 

 

 ベルナルド

 

 第2章終話で登場した茶髪の男。

 少し女にはだらし無い印象を受ける。

 両足を複雑骨折中。

 

○元ネタ

 

 ハンス・クリスチャン・アンデルセンの小説『即興詩人』の登場人物。

 

 『即興詩人』では主人公アントニオの親友だが、仲違いしてしまう。

 

 

 

 ルチア

 

 第2章終話出てきた女性。

 アヌンツィアータであると思われる人物の事をマリア様と呼んでいた。

 修道服を着て、目を閉じている(おそらく、盲目)

 しかし、地図で自身たちのいる位置をしっかり把握しているなど目が見えているのでは無いか、と思われる部分もある。




もしかしたら、漏れている情報があるかもしれません。

出来るだけないようにしたつもりです。

この小説の為に森鴎外翻訳の即興詩人を買ってきましが、読めない。
理系の私にはさっぱり読めない…。
頑張ろう。


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第三章 彼は酷く強いが脆い人でした。
第一話 歓迎されない


 秋。新緑の木の葉が赤く、黄色く染め上げられ大地を彩る。水分は空気中に奪われ、カラカラになった枯葉が地面を埋め尽くしはじめたそんな日のことだった。いつも通りに起床し、修道服に着替える。別に修道女になった訳では無い。ただ修道服は肌を隠す事が出来るので最近は良くこの服を好んできている。三面鏡の前に腰を下ろした。髪を結い上げる。

 

 シニヨンと呼ばれる結い方で髪を結う。それからベールを被り、前髪を整える。顔も隠せたらよかったのだろうけれど、そこまでしてしまうと宗教が違って来てしまう。

 

 最近の私のやる事は牧師様が行っている作曲作業のお手伝いだ。私には、両親から受け継いだ音楽的な才能があるらしい。確かに、両親の職業は音楽関係だった。お父さんも元々はオペラ歌手を目指していたと、牧師様が教えて下さった。

 

 最近はピアノを習い始めました。しかし、私の手は未だ固く滑らかに動かない。その点、牧師様は相変わらずなんでも出来る人で。彼に才能があると言われても、あまり自信が持てない。

 

 それに、一人でにピアノがなっているという噂が修道女の間に広がっていると牧師様が言っていた。そのせいで怖いもの見たさに時々新人の修道女が地下に降りて探検しているらしい。私は今の所、その少女に出会った事が無いので、今の所は問題なく上に戻れているようだ。此処の地下は上の建物の以上に広いし、暗い。

 

 

 昔の人達は此処の地下を掘るのに一体どれだけ苦労したのだろうか。

 

 

 上のパイプオルガンも演奏してみたいのだが、それをすると本格的に幽霊騒ぎになるのでダメだ。

 

「ああ、でも…。お祭りで皆が出払っている時ならば…。」

 

 あと二週間もすればハロウィンだ。と、考えて絶対に誰か一人は教会の中に残っているだろうと思った。一つの音だけでも鳴らしてみたいものだ。私はそんな事を考えながら地下の廊下の奥にある部屋へと向かった。そこで牧師様は作曲活動をしている。

 

 切り石で出来たこの部屋の中には、大量の音楽に関する本が保管されている。そこの壁の一面にひっそりと置かれている黒いアップライトピアノ。鍵盤を保護しているふたを開ける。楽譜置き場に牧師様が作ってくれた練習用の楽譜を置き、椅子を引いて鍵盤に手を下ろす。

 

 全てが四分音符で構成された曲なんて決して呼べるような物では無い代物。それでも、そこから始めなければならない。

 

「貴方には才能がある。だから、努力なさい。」

 

 牧師様はそう言う。才能を生かすだけの努力は必要だ、と。

 

 と言っても、私は最近楽譜を読めるようになった。さて、本日から右手と左手が別々の動きをする事になるのだ。私は集中して楽譜を読んだ。たった10個の音しか書かれていない楽譜。それを指でなぞりながら、それを見ていた。

 

「クララ、こんな所で何をしているのですか?」

「ぼ、牧師様。いえ、別に人知れずピアノがなっていた事が気になっていたからそれを確認しに来たとか…、そんなんじゃありませんからね!」

「分かりました。そんなんなのですね。全く、また幽霊ですか?」

 

 牧師様と若い女、どちらかと言えば少女の声。私はゆっくりとピアノの蓋を閉めた。音を立ててしまわない様に、細心の注意を払った。

 

「本当に、先程まであのピアノがなっていたんです。鍵盤だってちゃんと動いていたんですから。」

「また、夢でも見てたんじゃないのですか?」

「違います!違います!!……、もう良いです。」

 

 そう言って少女は何処かに行ってしまったようだ。牧師様の小さな溜息が聞こえて来る。それから足音がして牧師様はこちらに来た。

 

「私…。」

「大丈夫ですよ。」

「でも、」

「大丈夫です。貴女は私の娘のようなものです。何の心配はいりません。」

「牧師様が、私の事をその様に思って下さっているからこそ…。私も、思うのです。」

「自分が、迷惑だとでも?」

 

 そう言われて私は視線を彷徨わせた。喉を震わせる空気はこの世に沢山あると言うのに、私の喉はすり抜けて外に溢れてしまっているようだった。彼は手を上にあげた。しかし、それは私の中をすり抜けて、私の中にある。

 

「貴女に触らせてください。それとも、私は信用なりませんか?」

「いえ…、すみません。牧師様は、私がまだ人間だった頃の事をご存じなのですよね…?」

「実を言うと、そこまで覚えていないのです。ハンスが亡くなった、あの冬から以前の事が朧げなのです。」

 

 牧師様の言葉に、私は驚きました。

 

「なのに、私の面倒を見てくれていたのですか?」

「私が毎日記していた日記には確かに貴女の事が書かれていたのです。覚えていたのは名前くらい。それ以外は、何故か忘れてしまっていました。」

 

 酷く申し訳なさそうに言う物だから、私まで申し訳なく思ってしまう。そんな事を聞く為では無かったのに。

 

「牧師様、そう言うときは嘘でもそう言った事は言うべきでは無いと思います。」

「ははは、すみません。嘘はつけない性質でして。」

「そんなんだから、教会から追い出されるんですよ。」

 

 牧師様は元々別の宗派に属していたが、折り合いが合わずこんな田舎の教会にやってきたのだ。それなりの地位は持っていたそうだ。

 

「耳がいたい話です。さて、アヌンツィアータ。貴女に触れるのは諦めましょう、今回は。」

「はぁ…。」

「貴女宛に手紙です。」

 

 手渡された手紙には私の名前などどこにもなく、あるのは牧師の名前だけ。私は確認の意味も込めて牧師の顔を見上げた。優しく微笑むだけの牧師に私は手紙の差出人を見た。

 

「これは、どうしましょうか。」

 

 私は一枚の手紙を震える手で持っていた。驚きのあまりドッキリを疑ったほどだ。しかし、いくら考えようが私にドッキリを仕掛ける人間が思い当たらないのだった。真っ白の封筒はとても滑らかな紙で出来ている。その事からこれがとても高い紙である事が直ぐにわかった。

 

「開けないのですか? 読まれない手紙程可哀想な物は無いですよ。」

「わかってはいるのですが…。」

 

 牧師様から受け取った手紙を先ほどから透かしたりと、色々な奇行をしていた私に到頭牧師様が声をかけてきた。不安げな表情でそれを見詰めている。

 

「貸しなさい。私が開けて差し上げましょう。その代り、きちんと読むのですよ。」

「…、はい。」

 

 力なく持っていたそれをするりと取り上げ、今時珍しい赤い封蝋を開ける。そこから若干青みがかった紙を取り出した。私はその手紙を見る事をとても戸惑っていた。差出人の名前は『アントニオ・ラスムセン』。戦争終結から音沙汰のなかった彼からだった。生きていた事はとても嬉しい。

 

 しかし、何故だろうか。心が騒めくのだ。生きていた事を素直に喜んでいないみたいで、私は私自身にひどく不愉快な感情を持っていた。

 

 差し出された手紙には、その手紙の紙をとても無駄にしているとしか思えない文章が書かれていた。

 

『後二週間ほどで帰る。

 

 連絡できなくて悪かった。』

 

 この二言だけ。これをどうしろというのだろうか。手紙をぐしゃりと握りしめ、私はどうしようもなく湧き上がる心を鎮めるために外に出た。牧師の横を通り過ぎる私に、彼は何も言わなかった。そして私はあの池へと走った。途中何度か気に根に突っかかり、転びそうになった。

 

「この、大馬鹿野郎!!」

 

 今まで一番大きな声で私はありったけの罵倒を込めて叫んだ。

 

「何が、連絡できなくて悪かった、だ。ふざけんなぁ!!」

 

 ゆらゆらと湖面を揺らす。高く上った太陽が光をありとあらゆる方向に散らばっている。それから、私は湖の方へ倒れた。顔の半分が水に埋まっていても全然苦しくない。

 

 私には今の自身の心情が分からない。これが何という感情なのか、全然わからないのだ。あきらめたように溜息を吐きだし、私は寝返りをうち空を見上げた。すると何を言うでもなく私を見下ろしている少女の顔が視界に映る。少女は不思議そうに私を見下ろしている。そして空を見上げた。そこに何もないのだとわかるとまた私を見下ろした。

 

 私は私の隣をぴちゃぴちゃと叩いた。少女は意図を察したのか私の隣に腰を下ろした。そして私と同じように水面に寝転がったのだ。日本から帰ってきた日から私の後ろについてい来る少女。『約束を守ってね。』としか言わない彼女は、私がどこにいてもついてくる。私が壁をすり抜ければ、彼女も壁をすり抜けてついてくる。

 

 彼女が私の妄想ではないだろうかということも考えたが、彼女自身特に何かするわけではないので放っておいている。彼女は私と同じように食事を必要としていないようだった。食べ物をせがんできた事も無い。あるのは約束を守れと言う事だけ。

 

「あのね、アントニオが戦争から帰ってくるの。そう、手紙に書いてあったわ。」

 

 彼女は首を傾げた。

 

「アントニオはね、私の…、そうね。お兄さんみたいな人よ。優しくて私に色々と教えてくれたの。お部屋にあったアリスバンドをくれたのも彼よ。」

 

 私は水に濡れ、すっかり読めなくなってしまった手紙を空に掲げた。少女の視線もその方を向く。

 

「でもね、どうしてだろう。心が落ち着かないの。嬉しいはずなのに…。酷く騒めいて、非常に不愉快だわ。」

 

 少女は訳が分からないといった表情で首を傾げた。その様子を横目で見て、私のこの今の気持ちを解読してくれる人間はいないのだろうか。

 

「これは、ため息が出てしまうわ。」

 

 暫くじっとして唸りながらジタバタと足を動かした。無数の水滴が飛び散り、それはまた水面に戻っていく。

 

「あぁ、アントニオが帰ってくるまでこんな気分で過ごさなければならないのかしら。嫌だわ、自分が自分じゃないみたい。」

 

 水の中から起き上がり、その水分を払う。バケツをひっくり返した時のような音が響く。湖から出て近くの木に体を預ける。大きく深呼吸を一つしてそれから、私は父親の家に向かった。

 

「今日はね、お父さんの家に案内してあげる。私のお父さんはもういないけれど、家は残っているからよく掃除するのに通っているの。家を維持するのはこの地上に残ったものの役目だからね。」

 

 少女の手を引いて私は、そう語った。極僅かな人の目に映らない亡霊(ゴースト)がそれ以外に見えない亡霊(ゴースト)を連れている。全く、訳が分からない。もしかしたら、私と彼女が同族だから見えているのかもしれない。

 

「ほら、あの小屋みたいな小さな家がそうだよ。」

 

 物凄く古い見た目だが、作りがしっかりしているからか以外に中は保温性に優れている。冬もある程度快適に過ごしていた。

 

「中はキッチンに、お風呂とトイレがある。でも、本当に狭いの。」

 

 そういいながら私は家に近づいた。そして家のドアを開けた。そこには何もないただの空間が存在していた。

 

「ここよ。収集癖でもあったのか知らないけれど、私の身長の倍くらいまで本が積まれていたのよ。地震が起こったら、絶対に下敷きになって死んじゃうわ。私達は、まぁ、当てはまらなくなってしまったけど。」

 

 何もないその家の中は私の声がよく響く。反響して耳に届く音。少し来ないうちに埃っぽくなるこの家。物がない分掃除は少しだけ大変だ。掃除する面積が単純に増える。

 

「貴方のお父さんってどんな人なの?」

 

 と、尋ねると首を傾げた。

 

「お母さんは?」

 

 彼女は首を横に振った。私は申し訳なさを感じて、「そう。」とだけ呟いた。少女は壁の染みをを指差した。

 

「あぁ、それはね。うちの家で喧嘩して死にかけた人の血痕。壁紙を張り替えないと取れないんだって。でも私、お金持ってないからそのまんま。」

 

 少女は次々に壁の染みを見つけては質問を繰り返した。私はそれに丁寧に答えた。

 

 そこで私は一つ気が付いた事があった。私の父親の持ち物の中にはとても古い書物が沢山あった。下手をすれば、触っただけで崩れてしまいそうな本だってあった。日に焼けすっかり紙が茶色くなってしまているものが殆どだった。

 

 なのに、この部屋の壁はたしかに日に焼けたいる。しかし、それは食器棚などがそこにあった事を知らせるものではあったが、その場所には明らかに本が積まれていたのだ。他の量の本はいきなり現れたのではないか、と私は思った。

 

 自身の内で考え事に没頭していると、私の服を少女が引っ張った。

 

 少女が指差したのは何か焦がしたような痕。

 

「それは、分からないわ。でも、お父さんは不器用な人だったから…。そうね、料理でも焦がしたのかも。」

 

 私は前に一度見た彼の料理をしている風景を思い出して笑みを浮かべた。

 

「不器用、と言うよりは料理の仕方を知らないみたいだったわ。包丁なんてしっかりと握りしめちゃって。」

 

 私は箒の柄をギュッと握りしめて、あの時の再現をして見せた。私が笑うと少女も無表情が少しだけ和らいだ。

 

「野菜を切ると言うよりは、刃で押しつぶすといった感じだった。ダンッダンッてまな板が可哀想だったわ。」

 

 一人の笑い声だけがその空間を震わせる。

 

「そう言えば、あの時もアントニオと一緒にお昼ご飯を食べたの。不器用で見た目はあんまりだったけど美味しかったのよ。本当、懐かしい味がしたわ。きっと昔に食べた事があったのね。」

 

 壁を撫でると手が少しだけ黒く煤ける。

 

「貴女にはそう言うのある?って言っても分からないか。お父さんの事もお母さんの事も曖昧みたいだし…。」

 

 私は手についた煤を払い、箒を手に取った。今日は一通り床を掃除したら壁を綺麗に拭こう。しかし、それは少し気が引けた。彼がここに住んでいたという確かな少女は最早壁の焦げ跡くらいしかないように思える。しかし、そうこうしているとこの部屋はいつまで経っても住民を獲得できない。

 

 それはとてもこの家にとって悪い事なのではないだろうか。

 

 感情も思考する頭も無い部屋にたいしてどうにもならない嫉妬をしている。

 

「あぁ、そっか。私は嫉妬しているのか。嫌だなぁ、自分が大嫌いになりそう。」

 

 生き残ってしまった私の友人。同じ亡霊(ゴースト)になれると思っていたのに。彼は結局、生きて帰って来る。それが、私にとって歓迎されない事実だった。




お疲れ様でした。

次回、アントニオ君が帰還。

感想などありましたらお待ちしています。


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第二話 英雄の帰還

映画が上映されて新規さんがいるかもしれないので言っておきます。

小説の説明にも書いてありますが、この小説は黒の時代又は原作に入るまで文豪ストレイドッグスのキャラクターがあまり出てこない事があります。
今回の章はそのあまり出てこない章です。


「本当なんです!」

 

 まるで私はやっていない、と痴漢と勘違いされた男が無実を主張する時の様な必死さで訴えるのは、クララと牧師に呼ばれていた少女。

 

「幽霊、ねぇ。確かにあの教会には地下に集団墓地はあるけれど…。ピアノの音なんて一度も聞いたことが無いわ。それに、地下の音なんて…。」

 

 顔に皺を作るほど長生きをしている目の前の修道女は、畑作業をしながら慌てた様子のクララに対して、どうしたものか、と頭を悩ましていた。

 

 最近、ミサで訪れた隣村の教会でクララ一人だけが聞いたピアノ音が原因だった。

 

「この前も聞こえたんです。それで」

「貴女、まさか教会の地下に行ったのではありませんよね?」

 

 まさかと思い修道女が尋ねれば、答えあぐねたクララを見て思わず頭を抱えてしまった。

 

「あぁ、全く。困った子ですね。牧師様(ファーザー)になんて謝罪をしましょうか。」

「…、すみません。」

 

 修道女は教会にいる訳では無い。修道女がいるのは修道院。教会に住んでいる訳では無い。隣の村の牧師様には大変良くしてもらっていて、修道女たちはミサやイベント時、手が開けば手伝いに行っている。前々回のミサの時、修道女見習いとして修道院に住んでいたクララは初めてその教会を訪れた。

 

 優しそうな顔立ちをした牧師。村より畑の面積の方が大きい、そんな農村の教会。戦争で人は更に少なくなった村。教会には、一人の主任牧師だけ。彼女達修道女はそこに併設されている学校で働いている。毎年数人しか生まれない子供ではあるが、それでも学校には通わせたいと思うのが親だ。

 

「来週、貴女はまた隣の村に行く予定でしたね。」

「はい…。」

「この事は、同行する修道女に話しておきます。これを機に、幽霊騒ぎはおやめなさい。」

「でも、本当に…。」

「貴女が嘘をつく様な子で無い事は知っています。だからと言って、教会の地下に無断で踏み入るなど言語道断です。」

「はい、すみません。」

 

 すっかり肩を落としてしまった少女。しかし、天真爛漫すぎるのも修道女としては困りものだ。今回の事が聞いて少しは落ち着きのある子となればいいのだが。そんな事を考えて修道女は農作業を再開した。クララもそれに続いて農作業に取り掛かる。もう直ぐで小麦を収穫できる。そうなれば、幽霊などと騒いでいられないほど忙しくなる。

 

 そんな事を考えて修道女はせっせと働く若い修道女見習いを一瞥した。

 

 

 

 

 

 

 

 一週間後、クララの隣には一緒に農作業をしていた修道女が立っていた。その前には、少し口元に皺が出来た牧師が立っていた。朝日がステンドグラスによって色付き、真っ白な教会の床を彩る。

 

「本当に申し訳ありません。」

 

 固い声で隣に立っていた修道女は牧師に告げる。

 

「いえ、良いのです。しかし、地下はとても複雑です。私も時々迷ってしまいそうになります。それに老朽化しています。もしかして、が無い訳ではありません。地下にはいかない方が良いでしょう。」

 

 深々と頭を下げる修道女に牧師は少し困った顔でそう答えた。

 

「さぁ、今日も子供達が待っています。行きましょうか。」

 

 はい、と力無い返事をするクララに「そんな顔をしていては子供達に心配されてしまいますよ。」と言い励ました。牧師の言葉にクララはやはり力無く返事をした。教会の中を通って、隣接された建物へ向かう。

 

 教室に辿り着けば、そこでは元気の良い子供達の声が聞こえてきた。

 

「おはようございます。さぁ、皆さん。席についてください。」

 

 ガタガタと子供達は木製の椅子を引いて席につく。クララはその中で6歳以下の子供達の面倒を見ていた。その中で一人の少女が絵を描いていた。その少女は木陰で本を読んでいる修道女、だと思われる物を描いていた。

 

「とっても上手だわ。この子は誰?」

「知らなぁい。時々、教会の裏の林の中に立ってるんだ。」

「知らない子なの?」

「うん、知らない子。」

 

 いつも後ろ姿だからどんな子なのかさっぱりわからないらしい。

 

「私のお姉ちゃんと同じくらいの大きさなの。」

「お姉ちゃんは、確か今年で13歳だったね。それ位で修道女となれるのかしら…。」

 

 修道女見習いであるクララの年齢は16歳。そして自分より幼い修道女も修道女見習いもいない。という事は別な修道院の修道女だろうか。しかし、この村の近くに修道院はクララのいる修道院ともう一つカトリックの男子修道院しかなかったはずだ。

 

「何処の子かしら。」

「クララお姉ちゃんも知らない?」

「えぇ、ちょっとわからないわ。瞳の色とか、見てないの?」

「見ていない。あ、でも、この前、クライムが見たって言ってた。」

 

 クライムとは、絵を描いた少女ルーシーの従兄だ。クライムは9歳、ルーシーは5歳と少しの年の差があるが兄妹の様に仲が良かった。おっとりとした顔立ちで二人ともどこか似ている。

 

「それで、クライムはなんて言ってたの?」

「あのね、おめめがバイオレット色なんだって。」

「バイオレット?それは珍しいわね。」

「うん、とっても綺麗だって言ってた。それから、肌がすっごく白いんだって。クライムは幽霊じゃないかって…。」

「幽霊…!」

 

 思わず大きな声を出してしまい、辺りを見回す。しかし、他の子供達は皆絵を描いていてこちらに気を向けていなかった。クララは小さくため息をつくと、ルーシーの描いた絵を見た。

 

「修道女の、幽霊…。」

「クララ、見て見て!」

 

 途中で別の子が絵を見せに来たことで会話はそこで途切れてしまった。

 

 それからお昼休憩に入り、ルーシーの言っていた教会の裏に足を運んだ。しかし、そこには綺麗な黄色や赤に葉を染めた広葉樹の姿しかなく、修道女の幽霊はいなかった。

 

「やっぱり、いないか。でも、クライムもルーシーも見てるなら何かがあるのよね。」

 

 林の中を少し散策しているとすっかりお昼の時間は経ち、急いで教会へと戻らなければならなくなった。まだ新しい皮の靴を汚さない様に気を付けながら教会に戻ると、村の中は少し雰囲気が変わっていた。何処か忙しなかった空気は抑えていた緊張を解かれたかのように、人々からあふれ出していた。

 

 悪い事では無い。寧ろ良い事があったのだ。村の面々の顔はとても歓喜に満ちていた。これ以上ない幸せの様に。村の中心にある噴水の周りには村中の大人たちが集まっている。その脇で大人たちの熱気に若干引き気味の子供達の元へとクララは向かった。

 

「何か、あったの?」

「戦争に行ってたお兄ちゃんが帰ってきたんだよ。」

 

 クライムがそう言った。

 

「お兄ちゃん?」

「そう、トニーお兄ちゃん。戦争に行ってたんだ。それでね、帰ってきたんだ。」

「それは、良かったですね。」

「うん。怪我が治ったらまた遊んでくれるかな?」

 

 村人にもみくちゃにされながらそれを仕方なく受け入れている金色の髪が見えた。

 

「アントニオ・ラスムセン。」

「牧師様…。少し、老けましたか?」

「そう思うのなら、貴方はそれほど長く村から離れていたということですよ。」

 

 牧師に呼ばれて、人の波から出て来たのはどこか頼りなさげな青年だった。服の上からはあまり軍人の様な迫力は受けなかった。

 

「あの、牧師様…。」

「…、私の部屋で待っています。部屋の場所は、覚えていますね。」

「はい…。あの、その。彼女にお礼を言いたいのです。俺が生きているのは彼女のおかげですから。」

「わかりました。私は先に戻っていますよ、アントニオ。」

 

 牧師が教会の方へ踵を返すと入れ替わりでアントニオ・ラスムセンという男に近づいたのは、白い髭を生やした男。

 

 彼がアントニオの父親だとクライムは教えてくれた。

 

「クララ、今日の授業はここまでだと修道女(シスター)にお伝えください。」

「は、はい。分かりました。」

 

 去り際に牧師がそう告げた。クララはアントニオという男を一瞥してから一緒に村に来た修道女に伝言を告げるために教室へと向かった。

 

「それじゃあ、皆。また今度ね。」

「ええ、クララ帰っちゃうの?」

「うん、でも週末のミサには来るから明後日にはまた会えるよ。」

 

 浮かない顔の子供達に囲まれながら、クララは困った表情を浮かべて白のブラウスを引っ張る子供達に手を焼いていた。戦争で少しの間押し込められていた子供らしさが、叱られることなく外に発散出来るこの状況に加え、いつも静かな大人達まで戦争からの帰還者の登場によってこれ以上ない程に浮かれている。その気に当てられたのか、いつも以上に子供達は元気がいい。

 

「おい、こら。女性の服をそんなに引っ張るもんじゃないぞ。」

「トニーお兄ちゃん。」

「俺の怪我が治ったら遊んでやるから、離してやれよ。」

「ちぇ。」

「またね、クララ!」

 

 アントニオの一声で子供達は何処かへ遊びに行った。クララはアントニオを見上げた。

 

「あの、ありがとうございます。」

「ん、いや。こっちこそ、悪かったな。皆浮き足立ってるみたいだ。見ない顔だな、アントニオだ。」

 

 ニカッと爽やかな笑みを浮かべてアントニオは手を差し出した。クララも人当たりのいい笑みを浮かべてその手に答えた。

 

「修道女見習いのクララよ。クララ・ヴェロニカ。最近、牧師様のお手伝いで隣の町から来てるの。今は学校の先生を手伝ってるわ。」

「それじゃあ、先生って呼ばなきゃな。」

 

 頬を掻くアントニオの視線がふとクララの後ろに向けられた。後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 

「それじゃあ、俺は行くから。またな。」

「え、はい。また…。」

 

 一瞬アントニオが見せた空漠な瞳。吸い込まれそうな青の奥の深い闇。クララはアントニオとの後ろ姿を見送った。

 

「戦争って大変なのね。」

 

 クララの言葉に答えるものはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 アントニオ・ラスムセンという男は、快活な性格の青年である。特に良い訳でもなく、悪いわけでもない。あまり特徴の無い顔立ちをした何処にでもいる普通の青年だった。

 

 ごく一般的な青年にも隠し事の一つや二つあるもので。問題だったのは、その隠し事がごく一般的のそれでは無いということだった。彼のベッドの下に隠している本はないし、戸棚の奥に隠しているユーロ札の入った茶封筒はない。

 

 その青年の隠し事、親にも言ったことのない隠し事。

 

 

 彼は戦争に行く前、人を殺してしまった事がある。

 

 

 彼の血液恐怖症とでも言おうか。血液に過剰に反応を見せるのは、そのトラウマからくるものだった。そんな彼が戦争を生きて帰ってくるなど、まず不可能だった。血を血で洗う争いの地でアントニオが生きて帰って来たのはたった一つ。彼はある意味で運が良かった。

 

 彼は聖人を味方につけることに成功したのだ。

 

「牧師様…。」

「はい、何でしょうか?」

 

 少し見ないうちにすっかり物が多くなった牧師の部屋の中でアントニオは椅子に深く項垂れた。

 

「戦場で、死を見ました。もう、二度と…。嫌だと思ったのに。それなのに、俺は、何も…。」

 

 額に組んだ手を当て深く祈りを捧げるように、彼は懺悔し始めた。薄暗い蝋燭の光だけが頼りのこの部屋の中で、女々しく涙を浮かべる男は先程、村人にもみくちゃにあっていた男とはとても同じとは思えなかった。

 

「アントニオ…、神は貴方の罪を赦すでしょう。」

「牧師様、許される事が苦痛なのです。未だ、鼻についてとれないんです。焼けこげる血肉の匂い…。一人であればとっくに気が狂ってしまいそうでした。」

「それは、貴方と帰還したもう一人の兵士の事ですか?」

「いい奴ですよ。あいつだって辛かっただろうに…。俺の事を気遣って…。」

 

 焦燥し、未だ自身の中に燻る火種をどうすることも出来ない目の前の青年。彼には遅すぎたのだ。人を殺すという行為に正当性を見出し、行うには遅すぎたし、若すぎた。

 

 人としての倫理観を教え込まれ、正義と道徳悪に苛まれている。

 

 牧師は膝をつき、そっとアントニオの肩に手を置いた。村人の前では見せなかった疲れきった顔で彼は牧師を見上げた。

 

「まずは、日常に慣れましょう。貴方が忘れてしまった日常です。昔のように、あの子と水辺でお話をしてみれば良い。」

「アイツは、血で穢れた俺なんかが…。」

「あの子は、貴方が生きている事を決して疑わなかった。誰もが何処かで諦めていたのに、あの子だけは貴方が生きている事を信じていた。だから、そんな風に言わないでください。手紙が来なくなって彼女は本当に貴方を心配していたのですよ。」

 

 アントニオ・ラスムセンは、戦場で聖人を味方につけた。それは目が見えない女の聖人だった。名をルチア。

 

 絵画などでは、よく抉り出した自身の二つの目玉を金色の皿の上に乗せている姿が描かれている。

 

 彼女は自身の瞳こそ持っていなかった、たしかに盲目だった。しかし、彼女は地図が読めたし、料理だって出来た。何処から捕まえてきたのか、猪だって捕まえて彼女は綺麗に捌いてみせた。

 

「私の知識は全て本の中の事。実際にやったのは初めて。」

 

 その言葉と彼女の行動は全く一致していなかった。戸惑いなく皮を剥ぎ血を抜く彼女に男二人は絶句した。

 

 女は度胸と言うが、ここまで度胸があると男としては中々ついていけないものがあると、心の中で思ってしまった。

 

 そんなどう表現していいのか分からない思い出に苦笑いを浮かべ、少しか気が楽になったアントニオはポツリポツリと話し始めた。

 

「俺は、あの場所で一人の異能力者に会いました。もう二度と、あんな奴に会いたくないと、そう思いましたよ。」




お疲れ様です。

映画、始まりましたね。

残念ながら、兎一号は映画を見に行くお金ないので皆さんどうか楽しんで…。

噂じゃ、森さんの年齢が分かったとか。
太宰さんと中也の出会いが分かったとか。
誰か教えてくれないかなぁ、めっちゃ気になる|ω・`)チラ

映画も気になるけど、特典の方が気になってたりする今日この頃。

あぁ、でも漫画は買います。
ヤングエースの今月号まだ買ってないけど、漫画と一緒に買います。


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第三話 終わりの始まり

3月13日 加筆修正 タグに捏造追加


 朝日が昇る前、起床する事がすっかりと日課になってしまった。少し肌寒い明朝。カーテンを開ければ、白む東の空が目に入る。この景色を見るのも700回を越そうとしている。

 

「おはよう。」

「あぁ…、おはよう。相変わらず早起きだな、アントニオ。」

「お前は相変わらず寝坊助だな、ベルナルド。」

 

 赤茶けた髪色の青年、ベルナルド。貴族生まれのこの青年がどうして戦争なんてものに関わっているのか。理由としては拍を付けるため、らしい。どうにも振り返らせたい女性がいてその人に勇気のある人が好きだといわれたから軍人になったとか。

 

 聞いた時は殴ってやろうかと思った。俺の友人の中には最前線に送られた奴もいる。そいつは俺なんかよりも真っ先に村に帰った。そういう時代だった。

 

 しかし、同室となってしまったからにはそうそう争い事を起こすわけにはいかない。暫くの付き合いになれば相手のことがよく分かってくる。ここに来た事情は決して真面目な物ではなかったが、ベルナルドは真面目に軍人をしている。訓練だって欠かさずに現れる。朝に弱いのだけはどうにかして欲しいが。

 

「しかし、眠いな。」

 

 大きな欠伸による空気の音を聞くのも今日が最後だ。

 

「今日が最後かもしないぞ。明日の朝には迎えの車が門の前の道路を埋め尽くす。」

「戦争も、漸く終わりか。国に帰ったら、やる事が多い。」

「そうだな、俺も遊園地に連れて行ってやらきゃいけない。」

 

 俺がそういうとベルナルドオがニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべる。

 

「お前がいっつも手紙を書いている麗しのお嬢様か?」

「アイツはお嬢様というよりは、お子様だ。まだ10歳だぞ?」

 

 最後にあったのは8歳の時だ。少女の成長期は少年のそれより早い。身長が伸びた白髪の少女の姿を想像した。靨を作り、俺を見上げるあの少女を。

 

「十分にお嬢様だろう。」

「アイツは俺のことを優しいお兄さんくらいにしか思ってないよ。」

 

 未だにベッドから出ようとしないベルナルドに対して呆れため息を吐き出した。軍服に着替え、帽子を被る。則のせいでパリッとしていた軍服はすっかりクタクタになってしまった。それだけで年月を感じさせる。

 

「大体、朝の朝礼の時間まで後3時間もあるだろう。お前、また婆さんの処か?お前、まさか幼女趣味と思わせての熟女趣味か?」

 

 彼が俺の事を幼女趣味と言うのは、アヌンツィアータの事があるからだ。懐中時計に挟まっていた写真が幼い頃のアイツであった為、その年の少女が好きなのだと、一時期勘違いをされたのだ。

 

 後は街の慰安所に行かなかったのも大きいのかもしれない。

 

「馬鹿野郎、そんな訳あるか。それから、今のフルヴィア先生に言うからな。」

「はぁ!?ちょっと待てって。あの婆さんの鬼畜眼鏡っぷり知ってるだろう!」

「今のも報告して解いてやる。ベルナルドはフルヴィアさんの鬼畜メガネっぷりが堪らなく好きのようだってな。」

 

 口角を引くつかせて、俺を見上げてくる表情はとても面白く声を出して笑ってしまった。

 

「と、いけない。これ以上五月蠅くすると怒られるな。最後の日くらい、自分で布団から出て来いよ。起こさないからな。」

「分かってるよ。あぁ、朝礼が終わった後婆さんになんて言われるか…。」

 

 ついに頭を抱えてしまった彼を見た後、俺は部屋から出た。この砦は元々何処かの国が王宮として使っていたものの再利用された。急拵えもいいところだが、前線の補給基地として使われているこの場所は多くの人員が配備されていた。まぁ、元は王宮なので砦にしては不必要な装飾が窓や壁に施されているのは、ご愛嬌という事で。石を切り出して作られた、窓の格子なんて今の時代、捜したところでありはしない。大抵は金属だ。

 

 これが戦争中でなければ完全に観光旅行だ。何処かの城を改造してホテルにしました、なんてどこぞの観光会社がやりそうなものだ。それをタダで宿泊しているのだから得した気分になる。それも特別にキツイ重労働がなければの話だが。

 

 靴底が擦り減った靴で廊下を歩く。部屋を出て廊下を右に行けば、食堂へとつながっている。その先に抜けてさらに行くと医務室につく。小競り合いがあるため、時々ここには人が大勢訪れたりするのだが、最近はめっきりここに訪れる人は少なくなった。これは良い事であるのと同時に、練習が出来ないという少し寂しい状況だった。

 

 少し重たい扉を開けると、その先には回転椅子に座った初老の女がいる。先ほどベルナルドが婆さんと称した女性だ。御年52歳、独身の女性、結婚はした事がないとの事。黒っぽい髪に、白髪が混じる。こげ茶色の瞳が入ってきた俺を見る。最近は忙しくないためか、その瞳には疲労の色が見られない。酷い時は疲労し切った眼をして隈を作っていた。

 

 石でできた部屋の中にはそことは不釣り合いな金属製の薬品棚が目に入る。後から運び込んだことがまる分かりだ。彼女が仮眠に使っているフカフカの赤いソファ。この国の地図が貼ってあった。

 

「おはようございます、フルヴィア先生。」

「今日は一段と早いねぇ…。あぁ、そうか。そういえば噂じゃあ、今日が最後だったかい?」

「はい、戦争が終わる事は嬉しいのですが…。先生のご教授を受けられなくなるのは、少し残念に思います。」

 

 パイプを銜え、ハンッと鼻で笑われてしまった。吐き出す煙の煙ったさに思わず顔をしかめた。

 

「私のような端くれにも数えられない医者擬きから何を学ぼうっていうのかね。物好きな青年だ。」

「そんな物好きに色々教えてくれる先生は、とても優しい方です。」

「お前の方が物好きさ。なんで私に習う?私は動物の医者で人間の医者じゃないっていうのにさ。」

「俺にとっては、教えていただけるだけで幸せです。」

 

 そういうと先生は大きなため息を吐き出した。そして彼女は立ち上がり、机の引き戸を開けた。そこには書類がびっしりと詰まっていた。

 

 先生はその中から一冊の本を取り出した。

 

「これでよかったら持っていきな。医療本、というよりは応急手当の仕方辞典みたいなもんだ。簡単なものしか書いていないし、異国語だ。読むのには苦労するだろうよ。私から送れるのはこんなものだ。」

 

 それはとても古びた本だった。硬い厚紙の表紙の角はボロボロで、金箔文字なんて剥げてほとんど読めやしない。それでも、色々な色で線を引かれた文字を見れば、この本からどれだけ学べることがあるのかと心が躍る。確かに、この本は英語でも丁抹(デンマーク)語でも書かれていない。独逸(ドイツ)か、仏蘭西(フランス)か、西班牙(スペイン)か。何処か知らないが、よく没収されなかったものだ。敵国の国の言葉ならば禁書となっていても不思議ではないのに。

 

「戦争は終わる。そいつの禁書登録もすぐに解ける。」

「あ、やっぱり禁書だったんですね。」

仏蘭西(フランス)の本だよ。だから、読む時は気をつけな。」

仏蘭西(フランス)って、思いっきり敵国じゃないですか。先生、もしかしてちゃっかり面倒事俺に押し付けましたか?」

「さて、何の事かい?まぁ、ベルナルドなら読めるさ。」

 

 この鬼畜眼鏡、と心の中で呟いた。

 

「というか、お前さん。ここに何しに来たんだい?小競り合いがなかったんだから怪我人なんかいない事は知ってただろう。」

 

 再び回転椅子に座った先生がそう尋ねてきた。

 

「いやぁ、もしかしたら夜襲警備の人が砦から落ちて怪我をした人とかいないかなぁっと。」

 

 頭の後ろに手をやって、少しお道化た様に言うとあきれた表情を先生は浮かべた。

 

「そんな馬鹿げた理由でここに来たのはアンタ位なもんだよ。全く、軍人が聞いて呆れる。」

 

 ここに来たばかりの時だ。暗がりの中砦の上を歩いていると先輩に声をかけられた。初めてという事でとても気が張っていたのだ。その声に思わず挙げてしまった奇声。その奇声に驚いて足を踏み外していしまった事は、全く墓場まで持っていきたい失態だった。

 

 あの時の事を思い出して羞恥心から俺の耳は真っ赤に染まっている事だろう。目の前の鬼畜眼鏡はそれはそれは楽しそうな笑い声をあげて俺を見ている。しまいには膝を叩いて笑い出す始末だ。

 

「それで、あの事故以来高いところが苦手になったって?足がすくむんだって?」

「話を振ったのは俺ですが、止めてください。」

 

 もうこの場所から逃げ出したという衝動を何とか抑え込んでこの羞恥心に耐えた。

 

「全く、お前さんは軍人には向かないねぇ。何処かの小さな村で医師をやってた方がよっぽどお前さんにはお似合いだよ。」

「俺だって、そう思ってますよ。」

「戦争が終わったら、村に帰るのかい?」

「はい、約束がありますから。」

 

 頬杖をついて先生はどこか羨ましそうにこちらを見ている。

 

「約束、か。そんな物で縛り付けたって、人は簡単に死んでしまう。最後の最後まで気を抜かない事だね。」

「嫌だなぁ、先生。そんな物騒なこと言うの止めてくださいよ。そういうのって言葉にするだけでなんか起こりそうなんですから。」

「協定が結ばれるまでは、戦争だ。協定が結ばれてから攻めてくる国だって無い訳じゃない。そんな楽観的な考えは医者なら持ち合わせない事だよ。常に最悪を考えな。」

 

 真剣な面持ちでいうものだから、緊張が体をかけた。先生は俺の不安げな表情を見て、ニヤリと笑みを浮かべた。その表情を見て俺は釣られた、と思った。

 

「先生!」

「まぁ、そうそう起こらない事だよ。明日、帰れるんだから。今日、ちゃんと生き残らなきゃだめだよ。」

「はい、わかってます。先生!」

「本当に、わかってるのかね。」

 

 俺はそれから先生に講義をしてもらった。元々獣医であった先生は人手が足りないという事でこの砦に派遣された。「人間の専門じゃないんだけどね」なんて軍上層部に直談判したそうなのだけれど、人間も動物の一種だとかそんな屁理屈を言われ、大人しくここで軍医をしているそうだ。しかし、それでも医者として過ごして来た彼女の言葉は知っていて為になるものだった。

 

 真剣な表情で先生の話をメモする。先生は元々独逸のアルザス=ロレーヌ地方の出身で、その言葉には微妙な仏蘭西(フランス)語の訛りがある。少しだけ聞きづらかった先生の言葉も慣れてしまえばなんてことない。先生の言葉を一言一句聞き逃さないようにメモを取る。こんな事を言ったら他の奴らに怒られるかもしれないが、俺はここに来てよかった。俺は運がいいと思った。

 

「おや、もうこんな時間かい。最後だからって少し気合を入れすぎたね。」

「あ、本当ですね。」

 

 外はすっかり明るくなっていた。地図の上に掛けてある時計は朝の7時少し前を指していた。

 

「あれ、先生。地図新しくしたんですか?」

「ん?あぁ、この前ロンドがビリビリに破いてね。」

「先生の方向音痴は相変わらず治らなかったみたいですね。」

 

 先生は面白くないと言った表情で俺の事を見上げていた。

 

「あんまり調子に乗るんじゃないよ、餓鬼。」

「はい、すみません。それじゃあ、俺行きます。また、朝礼の時に。」

 

 そう言って俺は医務室を出た。先生は昔話をあまりしたがらない。それも仕方ない事だ。アルヌス=ロレーヌ地方は豊かな鉄鋼資源があり、昔から仏蘭西と独逸でその領土を取り合っていた。ドイツ語の勉強をしていた次の日には仏蘭西語の勉強をさせられるなんて良くある話だと聞く。

 

「しかし、明日か。荷造りが大変だ。」

 

 誰にも見つからない様にこそこそと自身の部屋に戻る。起こさないと言ったはずなのに、再び眠りについてい同期の青年に飽きれた表情しかできない。持っていた本を他の本の間に挟んだ。金箔文字が剥げているお蔭で一見ただの古い本にしか見えない。

 

 俺はそれからもう一度ベルナルドを見た。

 

「おい、起きろ。」

 

 肩を揺らして彼を起こそうとした。

 

「後、一時間。」

「一時間後には、お前の生命は終了だぞ。遅刻すると隊長に下半身を縄で縛られて柱に逆さ吊りにされるぞ。その状態で腹筋1000回だ。」

「うぅ…。止めろぅ。」

「悪いが、お前を助けられる人間は一人もいない。」

「ああ!もう分かったよ、起きるよ!」

 

 勢いよく布団が蹴り上げられ、それから少し不機嫌そうに挟めた目が此方を見た。

 

「早く着替えろよ、酷い髪型だ。愛しのマドンナにそんな姿見られたら振られるぞ。」

「五月蝿い、アイツがこんなむさ苦しい所に来るかよ。だいたい、アイツは俺のマドンナじゃなねぇ。家が勝手に決めた事で…!」

「はいはい、わかったよ。ほら、怒られる前に支度しろ。お前の遅刻のせいで連帯責任を食らうのは御免だからな。」

 

 面倒臭いと言った表情を前面に押し出し、俺は部屋から出た。

 

「おはよう、ラスムセン一等兵。お前達は朝から騒がしいなぁ。」

「おはようございます、バレンタイン軍曹殿。すみません、やっぱり騒がしかったですか?」

「そりゃあな。お前達は良い目覚ましだよ。お前達のお陰で嫁の声で起きられるか自信が無くなってきたよ。」

「それは大変ですね、浮気を疑われてしまうかもしれません。」

 

 数人の軍人が行き来する中、俺達はそんな下らない話をする精神的余裕を持っていた。それはもう直ぐ戦争が終わるかもしれないと言う事が張り詰めていた精神を解放する物であったからだ。

 

「もうすぐ、帰れる。」

 

 俺は戦争に行く前、顔を歪めて見送ってくれた少女との約束を胸に抱き、前を向いた。




お疲れ様でした。

前回、お金無くて映画見に行かないと言っていたが、母からお金を借りて見に言ってきました。

入場特典もゲット出来、ウハウハです。


twitterにも書いたのですが、出したい人が出てこない。
四話、五話と書き終えているのですが、どうしてか出てこない。

私は早くあの人に会いたいのに!

と、言うわけで原作キャラは六話目以降に出てきます。
それまで暫し待たれよ。

そして安心してください。第四章は舞台が(ヨコハマ)です。
[原作キャラが出てくるとは言ってない]

()の部分は未定です。
つまり、そう言うこと。


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第四話 朧げな記憶

お気に入り登録ありがとうございます。
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3月24日:人数の修正


 ぐったりと表情で食堂の机に突っ伏している青年の姿を一瞥して、特に美味しいと思えない食事を口から胃の中へと押し込む。美味くない、美味くないと言いながらなんだかんだ二年間食べ続けた食事だ。毎日300人強の食事を三食作り続けた食堂の彼らの事を考えると頭が上がらない。

 

「ベルナルド、作業に早く食わないと間に合わなくなるぞ。」

「わかってるさ。俺だって、ここに二年いるんだ…。わかってる。でもなぁ、明日終戦っていう噂を信じて、どうして今日の訓練がいつもの3割増しになるんだよ!」

 

 握っていたフォークで大きく机を叩いたベルナルドに、上司である先輩たちが肩を叩いて行った。彼の隣に座った上等兵の独逸(ドイツ)人は思いっきり背中を叩く。それを鬱陶しそうに睨みつけながらどこか諦めた表情で最後には笑っていた。

 

「フルヴィア医師(せんせい)が言ってたぞ。和平交渉が終わったって侵略してくる国がないわけじゃないって。少なくとも、この地を離れて国の内側に行くまでは気が引けないってさ。」

 

 俺の言葉にベルナルドは眉を吊り上げた。

 

「はぁ、ふっざけんな。そんな事したら、普通に軍法会議もんだろう。下手すりゃ銃殺刑だ。」

「それでも、お国の為って言って戦争に出てくる奴はやるかもしれないだろう。俺には、わからんけどさ。」

「まぁ、俺もお前もここに来たのは国の為じゃないからな。」

 

 俺はただ招集されただけ。ベルナルドは自身の力を誇示したいだけ。ベルナルドはともかく、俺に至ってはここはあくまで同盟国だ。他国のために態々命を懸けてまで戦ってやろうなんて気はさらさらなかった。

 

 いつもより騒がしい食堂でいつもより騒がしい男を前にして食べるこの食事も今日が最後かもしれない。そんな事を思うとすっかり身に沁みついてしまったこの少し緊迫した日常が離れがたく思ってしまう。そこには、精神的な拘束がある意味で心地よいと勘違いしてしまっているのでは無いだろうか。そう、相手のいない吊り橋効果みたいなものである。

 

「でも、歴史上無いわけじゃないからな。ほら、アジアの東の日本っていう国は実際にソビエトにやられただろう。」

「あぁ、それで領土を取られて未だ問題なっているみたいですね。」

 

 上等兵は少し退屈そうな表情で話す。コーヒーをかき混ぜるための小さなプラスティックのスプーンで空中をかき混ぜながら彼は続けた。

 

「日本はまだ島国だから良いさ。俺たちは大陸の上でやってるんだ。侵入するにしたって俺たちのほうが断然簡単なんだよ。それに忘れちゃいけないのさ。昨日の敵は今日の友、その逆も然りってことをさ。実際、日本とソビエトは中立条約結んでたって話だぜ。」

 

 信じられるか?と言いたげな表情で彼は言った。

 

「隣が露西亜(ロシア)でなくて安心ですね。」

「全くだ。バルト三国あたりなんてのは気がぬけねぇだろうな。まぁ、そんなこんなで軍体長殿も今が一番気を張ってるのさ。だから、黙って訓練されてやれよ。俺は兎も角、お前らは職業軍人じゃないんだ。戦争が終わったらこんな体験二度とできねぇぜ。戦争で生きて帰れるってことがどれだけ幸運なことか、しっかりその胸に刻んどけ。」

 

 彼の言葉にいったいどれほどの実感がこもっているのかその時の俺には分からないかった。しかし、職業軍人として生きてきた彼にとってはそれが良く分かっているのだろう。彼だって20代後半と軍人にしては若い方だ。そんな人間から戦争の中で生きている事は偶然だなんて言葉が出る時代に少しばかり自身の生まれた年の運のなさに憐れみを感じた。

 

 彼が食事を終え、トレーを戻しに立ち上がりその姿が見えなくなったとき、同じに一等兵のレモンドが上等兵である彼のことを教えてくれた。同じ部屋で生活しているレモンドは彼の昔話を少しだけ聞いたことがあるそうだ。

 

「あの人はさ、前線に出たことがあるらしいんだよ。今でこそ、兵科は工兵だけどさ、昔は対戦車特技兵だったらしいんだよ。」

 

 対戦車特技兵というのは対戦車兵器を持った兵士のことだ。対戦車ミサイルやロケットランチャーを持って主に戦車を破壊する兵科のことだ。下手をすれば戦車の榴弾の餌食になりかねない。

 

「それであの人は生き残ったんだってさ。でも、一度だけ言ってたよ。足を無くしてベルリンの病院に運ばれたいって思ったって。」

 

 酷く恐ろしい体験でもしたのだろう。だからこそ彼はある意味で逃げてきたのだ。前線から逃亡した。だからこそ、彼は言ったのだ。戦争で生き残ることの有難さを。

 

「俺達はこれでも運のいい方、か。」

「やめだ、やめだ。折角終わるらしいのに、今更こんな暗い話をしなくても良いだろう。」

「楽しい話なんて何かあるのか?」

「街の女の子について!」

 

 その言葉に反応を見せたのは、俺たち三人の中で言い出したその奴しかいなかった。

 

「クソ、このリア充!」

「お前だって、充実してるだろう?毎日毎日いい汗かいてさ。」

「またその話かよ…。」

 

 そんな与太話をするのもこれが最後だ。召集を受けた軍人は故郷に帰れる。

 

 そんな一握りの人間が掴める幸せを幸せと感じるとなく過ごしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 看護兵である俺は、こんな所に用事はなかった。薄暗い地下。あまり掃除が行き届いていないが、床に埃が溜まっている事は無い。そこから沢山の人間が毎日ここに行き来しているのが分かる。

 

「全く、困ったよ。」

「あぁ、これは困るだろうな。」

 

 部屋の前の廊下に山積みになった木箱の蓋を少しだけ開け、そしてそれを元に戻した。正式に明日和平交渉が行われるとの連絡を受け取った俺達は引き揚げ作業の為、見回りの任についていない奴以外は荷物の整理に当てられた。何時もなら何やかんやで訓練か任務で手を休める暇はなかったから、部屋はあまり健康にいい状態とは言えない。

 

 少し埃っぽいこの武器庫の整理をしていると前線から引き上げられてきた大量の榴弾が運ばれて来た。これを見て本当に戦争の終わりを感じた。土の付いた木箱の中には迫撃砲の榴弾が込められている。清掃を命じられた同期と共にその山積みになった木箱を見上げていた。

 

「凄いな。」

「こんだけ作ってこんだけ余ったんなら軍としては、大赤字だろうな。」

 

 それでも作られただけでこれらで人を殺さなかったという事だ。俺は自身の手がいつの間にか赤く染まっているのではないだろうか。そんな下らない錯覚を起こしそうだった。

 

 

 昔の記憶。さほど昔ではない記憶。血を見ると思い出すのだ。手が真っ赤に染まったあの光景を。耳に残る雪が吹き荒ぶ風の音を。

 

 

「そう言えば、知ってるか?何かこの基地に女を連れ込んでる奴がいるらしいぜ。」

 

 榴弾を一つ一つ確認しているとその作業に飽きを感じ始めたのか、同期がそんな話を振ってきた。

 

「女性を?女性が好き好んでこんな所来るか?」

「俺もそう思ったんだけどさ。見た奴がいるんだよ。20代くらいの真っ白な髪の女。黒いゴシックを着た人形みたいな女だって。」

 

 真っ白な髪の女。一瞬浮かんだ少女の顔に眉を顰めて、それから彼女が20代と見間違われる筈が無いと首を振った。

 

「ゴシック?なんだ、そう言う趣味の奴でもいるのか?」

「そうとしか思えないよな。でもよ、見た奴はその女。月明かりに照らされるとスゥッと消えてったって。」

「オイオイ、ここの軍隊大丈夫か?到頭女が足りなくて幻覚見る奴までで出したか。」

 

 そうお道化て言うと相手も肩を竦めた。

 

「でも、それを少佐まで見たらしいんだよ。」

 

 真剣な表情で語る彼の事だから本当にその姿を見たのだろう。俺は記憶のどこかで見た事がある様な想像上の容姿を頭の奥に追いやった。

 

「少佐の話じゃ、少佐の体をすり抜けて何処かに行ったらしいぜ。一緒に居た大尉がその時の腰を抜かした少佐の事を矢鱈と話していたらしいからな。」

「それは、また…。あの人の女みたいな噂好きは困ったもんだ。」

「あの人は、女だろ。」

「あぁ……、そうだった。そうだったな。」

 

 こんな世界だから沢山の人間が集まって来る。嫌味な人間だっている。しかし、それだって仕方のない事だ。俺の様に血が苦手で前線じゃあ、何の役にも立たない人間もいる。

 

「お前、どうしてここにいるんだ?」

 

 突然の質問に首を傾げた。

 

「お前、近接戦闘(CQB)の訓練じゃあいつも成績一番だろう。こんな所に居るより、前線に出て武勲を立てたいと思うのが男ってもんじゃねえのか。」

「それは、お前が人を殺した事が無いから言えるんだよ。」

 

 ゴム弾の訓練での成績はいつもトップクラスにいた。それは今までの経験の差があるからだけなのだ。

 

 口から出た言葉に俺は自分で酷く驚いた。それでも、俺は無意識に続けた。口から出続ける言葉を俺に止める術はなかった。

 

「生温い液体が、心臓の鼓動に合わせて体から飛び出るんだよ。押さえても、どうしようもなくてさ…!」

 

 わなわなと震えて両手を見て、その手は真っ赤に染まっている。

 開ききった瞳孔はそこに無い何かを見つめていた。自分でもおかしい事は気がついていた。既視感とでも言うのだろうか。

 

 吹雪の中、真っ白な雪が赤く染まる。酷く吐き気のする程芳醇な香りが麻薬のように脳を刺激して良く無い方へと持っていこうとする。乾いた喉から出るのは意味のないうめき声。正常な判断など出来るはずもない。頬に何かが流れ、それが冬の寒さを助長された。

 

「おい!」

 

 強く掴まれた肩は痛いはずなので痛みをあまり感じなかった。酷く荒い息を整えるように深く深呼吸をする。

 

「悪かったな、嫌な事を思い出させたんだろう?」

「いや、大丈夫だ。」

 

 未だに震える手を強く握りしめた。

 

「人を殺したって言ったよな。それは、前線の話か?」

 

 俺は小さく首を振った。最初からここに配属された俺は前線と言うものを経験する事なく、戦争を終えようとしている。

 

「あれは、二年前の冬の日だ。その日は極夜が近づいていて、迂闊だった。アイツが外に出ているはずないと思い込んでたんだ。」

「いや、良い。話すな。」

 

 言わせたくないのではない。聞きたくないのだ。目の前の同期の男の顔を一瞥して手に持った拳銃を見つめた。

 

 

 もし、あの時持っていたのがこの銃ならば。

 

 

 なんて途方も無いことを考える。考えて考えた結果、時間の無駄だったと思い知らされるのだ。どうしてこんな大切なことを忘れてしまっていたのか。酷く心が荒んだ。

 

「おい、これ見ろよ。」

 

 俺の心の中の事など、彼には関係ない。少し浮き足立った声で俺に手招きをした。

 

「見ろよ、ワルサーP38だ。」

「第二次世界大戦だったか?随分な骨董品だ。」

「あぁ、でも状態もいい。うっわぁ、すげえ。」

 

 銃を取り出してその状態を確認する。

 

「でも、まぁ。こんだけ余ってるって事はあれは本当だったんだな。」

「ん?あぁ、威嚇射撃八発、発注投擲一発って奴か?戦時中に改良品が出来るほどだったからな。」

 

 ワルサーP38は第二次世界大戦中に独逸(ドイツ)軍で正式に採用された口径9mmの拳銃だった。ただ、その性能は良いとは言えず、終戦間際には『ワルサーP38だけは使うな。』と言われる始末だったそうだ。

 

 こう言う骨董品が出てくるのも、前線補給基地として使われているこの砦ならではなのかもしれない。弾倉を確認するときちんと八発入っているのだから驚きだ。

 

「こんな骨董品、とっとと鉄くずに戻して別な物に作り替えた方がよっぽど世間の為だな。」

「まぁ、でも。忘れ去られたままっていうのは、嫌だな。戦争が終わるから、こいつらの出番はないかもしれないけど。」

「弾薬は9mmだから使いまわしは出来るな。軍隊長に報告しておくか。」

 

 そういって同期は武器庫から出て行った。俺は暗いその部屋を見渡す。木箱の中に隠されているのは、何もあんな骨董品ばかりではなく、きちんと現代の実戦配備用に作られたスナイパーライフル(SR)アサルトライフル(AR)が保存されている。これらも数十年経てば、ワルサーP38の様に骨董品扱いされているかもしれないが。

 

 やがて戻ってきた動機は骨董品を工場に運び加工し直すことを伝えた。榴弾を地下に運び、骨董品約50丁を地上に運び出した。50代の隊長はその銃をとても懐かしがっていた。そしてやはりその銃が使えないということを言われた。この銃は明日の昼ごろに到着する貨物列車に乗せられ、ベルリンに運び込まれる予定になったそうだ。

 

「この箱を駅まで運んで、今日の作業は終了だ。悪いな、最後まで手伝わせて。」

「いいって。看護させてくれる兵士がいないからな。俺たちは暇で暇で仕様がない。フルヴィア医師(先生)だって朝から図書館に引きこもってる。」

 

 馬に引かせる荷台に荷物を載せる。ついでだと、駅に到着しているであろう食材を持って来いと頼まれた。駅からここまで中途半端に距離があり、歩いていくには少し億劫で、車で行くには近すぎる。だから、馬なのだ。

 

「このご時世、馬に乗ることになるなんてな。」

「優雅なもんでいいじゃねぇか。」

 

 少し荷馬車を走らせれば、駅に着く。その隣には大きな図書館が隣接されて居る。軍関係の書類は直接砦内に保管されて居る。この図書館はその時に移された遺物だ。

 

「ん?あれ、フルヴァア医師(先生)じゃないか?」

 

 図書館の前には大量の本を持ち出して居るフルヴァア医師(先生)がいた。荷馬車を図書館の前で一度止めた。

 

「そんなに大量の本、どうするんですか?」

「明日、使うんだよ。運ぶの手伝ってもらえるかい?」

「ええ、お安い御用ですよ。駅で荷を下ろしたら戻ってきますので待っていてください。」

「あぁ、頼んだよ。」

 

 駅に向かう途中、同期がこんな事を零した。

 

「明日なんて、何に使うんだ?」

 

 俺は、フルヴァア医師(せんせい)が何を考えていたのか分からないが、それでも彼女に感謝している。明日、起こった事がどんな事があったとしても。




お疲れ様でした。

文豪ストレイドッグスが好きな皆さんなら、
ワルサーP38って何のことか分かりますよね?

ちょっと無茶振り。

特徴的なあの形!
いやぁ、一人で興奮しているようでお恥ずかしい。

まぁ、私はリボルバーの方が好みなのですが……。
「いいセンスだ。」
と、あの渋い声が聞こえてきそうで。

八発威嚇射撃、投げてようやく一ヒットというポンコツ銃。
そう聞くとワルサーP38に愛着が少し湧きますね。
戦場で八発威嚇射撃なんてキレますけど。


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第五話 マリアとアントニオ

すみません。
我慢出来ずに続けて投稿しました。


 彼女に最初に会ったのは、夏の夜。マリア様が住んでいる、なんて昔母親が言っていた物だから酷く気になって家の前を散策していた時だった。

 

 家の窓は全て木で打ち付けられ、一切の光が入らないようになっている。そんな不自然を極めた平屋の家にマリア様は住んでいるらしい。

 

「ここか?」

「あぁ、そうだ。」

 

 若気の至りだった。幽霊屋敷と名高いその家を前に俺を含めて三人が立っていた。事前の調べで中で人が生活している事は分かっていた。そしてそれが誰なのかを突き止めようなんて話になったのだ。

 

 家の呼び鈴を鳴らした。するとすぐにドアが開いた。出てきたのは真っ白な髪に目を閉じた女性。時代錯誤も甚だしい黒いゴシックドレスを着た女だった。

 

「あの人のお友達、ではないわね。奥様の?まさか、何も聞いてないわ。だったら、マリア?あの子は外に出ない…。坊や達、何の用かしら?」

 

 ブツブツと無機質な表情で呟いた後、機械のような女は視線をこちらに向けた。

 

「マリアに会いに来たんだ。」

 

 彼がそう言うと不機嫌な表情を浮かべて、女は「帰りなさい。」とだけ告げて扉を閉めた。そんな風にあしらわれると人の探究心というのは火がつくものだ。

 

 次の日、性懲りも無くまた家の周りをグルグルと徘徊していた。しかし、何故かその女に見つかった。何故分かったのか分からないが、いきなり玄関のドアが開いたかと思うと箒を持った女性が俺たちを追いかけ回した。

 

 音を鳴らして空気を切る箒は竹で出来ていて、彼らは必死になって逃げ出した。

 

 そんな事が一週間も続けば、人は諦め始める。好奇心は猫をも殺すと言うように、女は到頭玄関先の氷を割る鶴嘴を振り回し始めた。流石に身の危険を感じた俺達は暫くその家に寄り付かなくなった。

 

 ある夏の日の事だった。彼は珍しく夜の森を歩いていた。夜の森であの女の小さい姿を見たと言う話を聞いたからだ。他の奴らはもう関わりたくないと首を縦に振らなかった為、彼だけがその森の中を歩いていた。

 

 確かにいた。真っ白な髪の少女だ。ぱちくりと一つ、瞬きをした。彼と目が合って少女は初めて人間を見た、と言ったような驚き方をしてパタパタと走りながら木の裏に隠れた。

 

 小さな手は木を掴み、ちょこんと顔を出す。そして顔を隠したり、出たりと忙しい少女だった。彼には目の前の少女がとてもではないがあの女と同じには見えなかった。

 

「なぁ。お前、誰だ?」

「だれ?あ、自己紹介!私は、マリア。マリア・アヌンツィアータ・アンデルセン!」

 

 初めて自己紹介をしたのだろうか。気の裏に隠れていた少女は楽しそうに笑みを浮かべながらそう言った。

 

 マリア・アヌンツィアータ・アンデルセン。アンデルセンは丁抹(デンマーク)では一般的な姓だ。しかし、彼は彼女の名前をとても珍しいと思った。マリアは兎も角、名前にアヌンツィアータと入れる事は無い。

 

 北欧では珍しいカトリックの家の子なのだろうか。

 

 カトリックは名前とは別に洗礼名と言う物がある。ちなみにプロテスタントには洗礼名は無く、生来の名前がそれにあたる。しかし、それでも可笑しいのだ。

 

「貴方は?」

「アントニオだ。アントニオ・ラスムセン。」

 

 アンデルセンがそうである様に、ラスムセンと言う名字もよくある物だった。

 

「アントニオ!わぁ、良い名前ね。マリアにアントニオ!ふふふ。自分の名前が良いかもって思ったのは初めてよ。」

「何でだ?」

「私の誕生日、3月25日なの。」

 

 彼女の言葉で彼はマリア・アヌンツィアータと言う名前が付けられた理由を知った。そして苦笑いを浮かべた。確かにそんな理由で名前を付けて欲しくはないなと心の中で思い、なんて慰めようかと頭の片隅で考えた。マリアは必死にこちらを見上げながら尋ねた。

 

「アントニオはこんな所で、こんな時間に何しているの?」

「ただの散歩だ。お前は?」

「マリア!」

 

 お前と言われたのが余程気に入らなかったのだろう。ぷくりと頬を膨らませて彼女はこちらを見上げている。そんな年相応の反応に笑みを浮かべて、目線を合わせるようにしゃがんだ。

 

「マリアは、何をしてるんだ?」

「マリアはね、かくれんぼだよ。」

「かくれんぼ?」

「そう。マリアはね、ルチアを探しているの。」

 

 ルチア。そんな名前の女はこの村にはいなかった。ならば、何かの動物でも買っているのだろうか。そんな事を考えて彼は自身の下らない思考を否定した。人間の遊びに付き合えるような動物は存在しない。犬だって出来て追いかけっこだ。かくれんぼなんて出来やしない。

 

「でもね、ルチアは隠れるの上手なの。マリアにはね、荷が重いんだよ。」

「難しい言葉知ってるんだな。」

 

 たどたどしい口調で言う彼女は年齢に見合わない言葉を呟いた。大きな月が空に浮かび上がり、風が音を立てて新緑の葉を揺らす。病的に白い目の前の少女が月明かりに照らされる。そんな少女は一瞬して体を傾けた。聞きなれた破裂音が彼女の腹部の皮膚をねじ切り空洞を作る。

 

 ドサっと音を立てて彼女の体は地面に崩れ落ちる。

 

 気が付けば、夏の景色は冬の景色に変わる。倒れた少女からあふれ出す血液。気が付けば自身が握っている猟銃。温かな血液は体から零れだし、そこから微かに湯気がたっている。持っていた銃からは自身がそれを撃った事を思い知れと言わんばかりに煙が一つ揺らめいている。嗅ぎなれてしまっていた硝煙の臭い。動物の体からあふれ出す血の臭い。嗅ぎなれていたはずの臭いが酷く、吐き気のするものへと変わった。

 

 そんな景色がふと暗くなった。人の手が彼の目を塞いだのだ。

 

「忘れるな。誰も彼もがこの事を忘れて。神がお前を赦してこの事を忘れてしまっても…。()()()()()()()()()。」

 

 怒気を含んだその声に彼は何処か安息を得た。許さる事は無い。その苦渋を舐め続ける事が罰を与えられなかった彼の償いだった。

 

 いや、償いになどなっていない事を彼は知った。

 

「俺はそんな事の為に一緒に居られるのは嫌だね。」

 

 先程、彼はその言葉を聞いた。場面はかわり、目の前には彼の隊長。先ほどの食堂だ。隊長は、不快だと言わんばかりの表情で彼を見下ろしている。

 

「何故ですか?私は彼女の全てを奪ったのです。家族も、時間も、何もかもを。」

 

 彼は訴えた。テーブルを叩き、立ち上がる。

 

「そう思うのなら、もう関わってやるな。お前は、その子に罰せられるのを望んでいるようだが…。10歳の少女にそんなことをさせるな。そんな幼い子に人殺しの罪を背負わせるつもりか。」

 

 彼はきっと酷い顔をしていた事だろう。上司の顔が酷く歪む。

 

「お前が銃を撃てない理由は分かった。間違いは誰にでもあるもんだ。だがな、それを隠す事は裏切りだ。お前は彼女に落胆してほしいようだが…。彼女はきっと貴女を赦すでしょうね。」

 

 上司はいつの間にかあの時の女になっていた。

 

「ルチア、か…?」

「ふふ、自己紹介をするのは初めてだったかしら。私はハンス・クリスチャン・アンデルセンの異能力よって作られた、異能力生命体、のような物。」

 

 優雅にふわりとスカートの端を掴み、お辞儀をする女。20代前半で黒い小さな帽子をちょこんと頭に乗せ、そこから垂れるレースがとじられた右目を隠す。マリアと同じ髪色のそれは長く、立っている食堂の床に広がる。170㎝あるかないかの身長の彼女はヒールを履いている為、さらに大きく見える。

 

「今はマリアが私を生かし続けている。」

 

 彼女は椅子を引いて彼の前に座った。二コリを笑みを浮かべる女は確かに昔箒を振り回していた女と同一人物だ。

 

「そして貴方を生かし続けている。」

「どういう、意味だ?」

「マリアはきちんと貴方に罰を与えているという話よ。まぁ、座りなさい。」

 

 彼女の言葉に彼は大人しく従った。彼女は何処から出したか分からない生クリームのたっぷり乗ったイチゴパフェにスプーンを刺し、それを掬い食べた。30センチ程あるグラスの中にはたっぷりの甘味が詰まっていて彼女はそれを食べる。

 

「貴方はマリアから生を奪った。これから生きる時間を奪った。そしてその事が、アンデルセンという家に悲劇を起こした。」

 

 マリアの母がどうして居なくなってしまったのか、マリアの父がどうしてあんなに年をとっていたのか。

 彼は泣きそうな顔で少女と同じ顔の女を見詰める。

 

「だから、マリアは貴女が不運なだけの事故で死んでしまわない様に私を貴方の中に埋め込んだ。私はね、お前が死んでしまわない様に守るのが役目んだよ。お前は死ねない。自殺なんてもってのほかだ。お前はお前自身の罪悪感に苛まれながらその一生を静かに終える。それが、お前に与えられた罰だよ。と、認識していればいいんじゃないかしら。」

「……。」

「神は赦すだけ。許さないのは人間だもの。貴方がどれ程望もうと私達には、貴方を裁く術を持ってないの。だから、勝手に背負って、勝手に傷つけ。」

 

 彼女はパクパクとパフェを食べながら軽い口調で話す。興味の無い事柄だと言わんばかりに、笑みを浮かべて何処か楽しげに話した。だけれど、彼は何処か感じていた。

 

「済まなかった。」

 

 そう言うと今度は彼女が眉を顰めて、苦しそうな顔をした。今となっては、全てを思いだした今となっては…。

 

「お前は、自己紹介を間違っているよ。」

「なら、何処が違うのか教えて欲しいわ。」

「《恋に溺れ、現実に苦悩し、愛に狂え》だったか?アンタは、()()なんかよりよっぽど、人間だ。」

 

 彼女は、空になったグラスの中にスプーンを放った。それから笑みを浮かべる。先程の様なものでは無い。ただ、何かを懐かしむ様な笑みだった。

 

「あの人は、物語の中を生きている人だった。あの人にとって現実は動かない絵画のように退屈だったのでしょうね。」

「俺は、そうは見えなかったけどな。俺があの人と話した時間はとても少ない物だ。でも、あの人は…。自分を愛さない代わりに、他人を深く愛していたと思うよ。」

「ムカつくわ。私よりあの人の事を理解しているとでも言いたいの?」

「まさか、俺みたいなのが完璧に他人を理解出来るわけがない。」

 

 誰もが他人の中に他人を作り、押し付け合っているこの世界。初対面で作り上げられた第一印象を完全に払拭することがまずないこの世界で、自分を知ることさえ難しいのだ。人はどんな時でも着飾り、見栄を張る物だから。

 

「俺は、生きる事を願われたんだな。」

「えぇ、貴方は生きて貴方の幸せを掴む事を願われた。貴方は?」

 

 彼女は見え無い瞳を開いて問いかけた。真っ暗な深淵がこちらを見詰めている。深淵を覗いていないのに、そちらから覗いてこられたらどう対処すればよいのだろうか。彼はそんな理不尽な状況に苦笑いを浮かべた。

 

「貴方には、何か願い事は無いの?」

「俺か?無いな。」

 

 彼は少し思案した後、首を横に降る。

 

「無いの?一つも?」

「あぁ、夢はある。でも、願いは無いな。」

 

 彼は立ち上がった。その顔はマリアと会っている時の様な楽しそうな、未来に希望を持っている表情だった。

 

「なぁ、俺は医者になりたい。それがどうしてか、すっかり忘れてた。最初は動物の死に際を見て、どうしようもなく怖くなったから。動物の医者になりたいのかと思った。でも、俺は人間の医者になりたかったんだ。」

 

 先天性色素欠乏症。あれは遺伝子の突然変異によって起こる物だ。決して、治る事無い病気。夜の世界しか生きられないその身を持って生まれた。そしてその病弱な生命を、彼は一度手に掛けた。

 

「それが、君の本当の幸せかい?良く考えると良い。それが幸せだと思わなければならないと、そう思って隣にいられる人間の気持ちを。ねぇ、アントニオ。本当に大切なのはね、その感情にしがみ付く事じゃない。その感情が自分にとってどれほど大切なのか、だよ。君は自由にしていい。そう願われたのだから。」

 

 ただ、そうだね。君達はもう、普通の関係を築けないんだろうね。

 

 小さく呟いたその言葉が心臓を撃ち抜かれたように、血液を凍りつかせる。殺された方と殺した方。殺された方はその事を忘れてしまっているが、殺した方はその事を酷く悔いている。もしかしたら、隊長の言った通りにもう会わない方が良いのかもしれない。

 

 肥大した自我が他人の為と言い、誠実心を怠惰が喰らい尽くす。

 

「生き辛い、世の中だ。」

 

 

 

 

 

 酷い夢を見た。否、酷くはない。ただ、穏やかでは無い夢だった。心労が溜まったような感覚だ。酷く疲れた体は起き上がることを拒絶する。

 

 寝汗でぐっしょりと濡れたシャツを掴む。吐き出す息は全てため息となり、約90%が真空で出来ている気体の中に混ざり合う。

 

「大丈夫か?」

 

 隣から聞こえてきた声に、俺はその方を向いた。珍しく朝から瞳をしっかりと開いたベルナルドがこちらを見ている。

 

「あぁ、何ともない。ただ、夢見が悪かっただけだ。」

「そうか、珍しく寝言言ってたぞ。」

「悪かったな、起こして。」

「いや、いい。恥ずかしい話、あんまり寝るような気分じゃなくてな。ずっと起きてたんだ。」

 

 そうか、と少し弱々しい声で返事を返した。

 

「お前、寝てろよ。今日は俺が起こしてやるよ。」

「それは、何とも頼りない。」

「お前なぁ…。」

「でも、大丈夫だよ。俺ももう寝れるような気分じゃない。」

 

 勢いをつけて起き上がり、白んだ空が窓から見えた。

 

「私は赦さない、か。」

「どうした?」

「何でもない。」

 

 着替えを持って脱衣所に入る。そして鏡に映る自分の顔をなぞる。ルチアは赦さないと言った。それもそうだろうと、アントニオは思った。ルチアはきっとハンス・クリスチャン・アンデルセンに恋して、愛して、現実を見ていたのだろう。

 

「全く、人間よりも人間らしい。そんで俺達は人間不合格、か。とんだお笑い種だ。」




お疲れ様でした。

24話目にして漸く主人公の本名発覚。
長い。長かった。でもこれで心置きなく、マリアと呼べます。

今回の話はキリスト教の知識がなくては少し理解しにくい場面があったのでその補足をします。

※今回から主人公の事をマリアと言います。

まず、マリアが自身の名前を好きでは無いと言っていた理由についてですが、誕生日の3月25日と言うのは聖母マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けた日です。

『マリア・アヌンツィアータ』と言うのは『お告げのマリア様』と言う意味があります。
これを分かりやすく日本人感覚で例えると

11月3日(文化の日)に生まれた女の子が文化(ふみか)と言う名前だったり、
2月3日(春分の日)に生まれた男の子が春分(はるわか)という名前だったり。

キラキラネームではありませんが、子供としてはもう少しなかったの?と言いたくなる感じですね。

マリアとアントニオの名前の関係についてです。

基本的に欧州、キリスト教徒の名付けと言うのは聖人の名前や聖書に出て来る人物の名前を付けるようです。
小説ですでに登場した(本名は名乗ってませんが)フョードル・ドストエフスキーのフョードルとは、ロシア正教会の聖人フョードル1世から取られていると思われます。

アントニオの名前の由来は、聖人パドヴァのアントニオで絵画では幼子のキリストを抱いた姿がしばしば描かれます。
キリストを生んだマリアとキリストを抱き上げているアントニオ。

二人の名前にはこんな背景があります。


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第六話 蓄積する残骸

一日投稿遅れて申し訳ありません。

3月27日 誤字修正


「急げ!」

 

 明朝、誰かがそう叫ぶ。前線から帰ってきた人間が大量に砦に押し寄せたのは終戦当日の夜明け前の事だった。昨夜、夜遅くに流れた終戦の宣言。和平協定が無事に終わった証拠だった。それを聞いて安堵する暇も無く働きっぱなしだ。時間外給を請求してもいいほど、誰もが砦の中を駆けずり回っていた。

 

 到着した貨物列車。列車の扉から漏れだす血を見て酷く気分が悪くなった。死臭を漂わせた列車の扉が開けられる。酷い傷を負った者を丁寧に列車から引き摺り下ろす。担架が足りない。この砦の看護兵だけでは手が回らない。元々補給基地のここは、他所からの怪我人を引き取るために出来ていない。しかし今は訓練兵とかそんな役割で人を分けている余裕がないほど、怪我人がこの基地に流れ込んできていた。幽鬼のような表情をした人が列車から降りて来る。

 

「しっかりマスクしとけよ。肺をやられるぞ。」

 

 上司の言葉がどこか蟲の羽ばたきのように聞こえる。人の呻き声によってかき消されそうだ。動けなさそうな兵士を抱え、馬車の荷台に乗せる。酷いやけどを負った人間もいれば、腕がもげてしまっている人間もいる。簡単な止血を施し、荷台が満杯になった事を確認すると馬に鞭を打つ。

 

「全く、寝不足にはきつい作業だ。」

「文句言うなよ、戦士に失礼だ。」

「分かってるよ。」

 

 ベルナルドが隣でブツブツと文句を言いながら馬の手綱を握る。マスクをしていてもやはり分かる血の臭い。直ぐに小高い丘の頂上に建てられた砦に着くとはいえ、振り返れば、紅い軌跡が続いている。本来ならば、荷台を消毒した方が良いのだろうが、そんな暇はない。血が付着した状態でまた次の人間を運び入れる為に、駅へと向かう。

 

「くぁあ……。」

 

 寝不足だと言うのには理由があった。昨日の夜からぽつぽつと前線から引き上げられてきた怪我人がこの補給基地に集められ始めた。中には助からない人間も当然いて、その人間の墓を手の空いている人間で掘っていたのである。50人以上の墓標が砦の中庭に出来上がっている。これから増えるであろう人間の為に大きな集団墓地を作る計画が早々に隊長たちの間で立案されていた。

 

 

 もし、ここに居るのが俺では無く、()()()だったなら……。

 

 

 そう考えて、溜息を吐き出した。彼女がこんな所に来る筈が無いのだ。救われたければ、救われる方の運も大事だという事だ。それにしても、だ。ここに居る看護兵だけでは、人手が足りていないのが現状だ。終戦という事もあり、監視の兵は最低限に街に物資を買いに行くなど本来の業務には含まれていない事をしていた。

 

 それも仕方のない事だ。自国の民を助けるためだ。この砦に居た殆どの人間が独逸(ドイツ)国民だ。律儀な彼らはとてもいい国民性だと思う。

 

「アントニオ!こっちを手伝いな!」

 

 再び駅まで怪我人を迎えに行こうとした時、出ずっぱりだったフルヴィア医師(せんせい)がそうか声をかけてきた。

 

「はい!」

「おい、お前。コイツの代わりに荷台に乗せるの手伝ってくれ。」

 

 俺の代わりに近くにいた兵士にベルナルドは声をかける。俺はそれを一瞥し、急かすフルヴィア医師(せんせい)の後を付いて歩いた。いつもは地図を持ち歩きながら、睨めっこしている彼女も今日はスタスタと迷う事無く歩いた。

 

 彼女が俺を連れてきたのは、医務室だった。だだっ広いだけだった医務室も今は用意されたベッドだけでは足りないほどの人間がその中にいた。しまいには、砦の兵士のマットレスを医務室に運んだり、使われていない兵士の寝室を医務室代わりに使いだす始末だ。医務室の奥で座り込んでいる男達の前に案内された。

 

「ここにいるのは、軽い奴らだ。今日一日止めたら明日の列車で帰ってもらう。手当はしてある。部屋に案内してやってくれ。」

 

 血や土で薄汚れた軍服を着た男達だった。軍服の端から見える真新しい包帯がとても痛々しい。しかし、彼らは怪我が軽いと言われるだけあってあるのは軽傷程度で銃創は見当たらない。それでも顔の半分を包帯で覆った人もいる。

 

「青白い顔してウロチョロされるとこっちが心配でたまんないよ。これ位の出血で倒れんじゃないよ。」

 

 ははは、と申し訳なさそうな顔で頭を掻く。こればかりは自分でどうにかなる物じゃない。

 

 

 これは傷だ。()()()()以前から抱え込んでしまった、どうしようもない傷だ。膿んでしまったそれはもう元には戻らない。

 

 

「見ての通り、病室は埋まっていてな。俺達が普段使っている寝室に案内する。悪いな。」

 

 人数を数え、少し多いな、と呟いた。30人の人間を二人15部屋に分けたとして…。そんな人数を管理する事はまずもって不可能だ。誰かの手を借りてせめて半分ずつにしてもらおう。そんな事を考えながら廊下を歩く。固い足音を廊下に響かせながら俺達は何も言わず、遠くで聞こえる人の悲鳴に心を塞いだ。

 

「取り敢えず、ベッドは二個ずつしかないから15組に分かれておいてくれ。あまりで歩くなよ。戦争が終わったとはいえ、生き残っている奴らはピリピリしてる。敵味方の区別が付いていないやつとかもいるからな。」

「錯乱状態にあるという事か?」

 

 今まで何も語らなかった彼らの中に一人が口を開いた。若く、しかし武勇を感じさせる気迫とも呼べる何かを微かに感じた。

 

「そう言う奴もいるな。ただ、ここで降ろされるって事は首都まで生き残れる見込みなしって烙印を押されたのと同じ事だ。」

 

 だから少し不思議だった。俺の後ろに立っている人間たちがどうしてここで降ろされたのか。彼らが首都に行けない理由でもあるのだろうか、と勘ぐってしまう。

 

「ここだ。」

 

 木で出来た扉。重厚な壁とは違い、その部分だけが取って付けた様に歪さを感じてしまう。

 

「この部屋から誰も使っていない。急ごしらえで掃除はしてあるが、まぁ、戦争していたんだ。多少の埃は大目に見てくれ。」

 

 扉を開け、彼らに部屋の中を見せた。彼らに部屋割りを決めておけと言ったが、後ろ手一切の会話が聞こえて来なかった。彼らがきちんと部屋を割り振っていない明白だった。

 

「中庭には、今は行かない方が良い。それから、そうだな。この通路を真っ直ぐ行くと食堂と手洗いがある。他に何か聞きたい事は?」

 

 そう言って俺は初めて真面に彼らの顔を見た。荒んでいない、真っ直ぐな瞳が俺を見ていた。その鼠色の虹彩は俺を敵のように見ているように思えた。

 

「いや、特に無い。」

 

 若いにしては渋みのある声だ。掠れていて疲労感が多少感じられる。

 

「他の人たちは?」

「大丈夫です。」

 

 身長の低い男が答えた。顔付きはとても幼く、少年の面影が残る。というよりは、少年だった。自分より幼い少年が戦争に行くなんて状況に嫌気がさした。酷く暗い目をした少年。戦争が彼の精神を蝕んでいるのが手に取るように分かった。

 

 

 前はもっと違っていたはずだ。

 

 

 そう、考えずにはいられなかった。

 

「そうか。昼になれば鐘がなる。」

「正午の鐘か?」

「あぁ、正午の鐘だ。忙しさにかまけて係りが遅れなければな。それじゃあ、俺は戻る。しっかり休んでくれ。ありがとう。」

 

 踵を返し、俺は医務室に戻ろうとした。

 

「何で!」

「おい、やめろ。」

「何で、お前が礼を言う!」

 

 どんっと、背中に衝撃が走った。勢いのまま数歩前に進んで、後ろを振り返った。赤毛の青年だ。先程の少年よりは年上なのだろうが、同じくらいの背丈しかない小柄な青年だった。整った顔立ちをしていたのだろう。今は顔の半分を火傷しているようだ。怪我自体は完治しているが、もしかすると失明しているかもしれない。

 

「こんな場所で、軟弱な奴が!何で生き残る!」

「俺は生き残ってないよ。」

「はぁ!?ふざけてんのか!」

「俺は生き残ってない。だから、生きて帰ってきてくれた事はとても嬉しいし、羨ましい。」

 

 俺を見上げる青年の表情が酷く歪む。まだ何か言い足りないだろう青年は口を開けて息を吸う。そして吐き出す前に別の男に止められる。

 

「悪いな、気を悪くしないでくれ。」

「いいさ、戦場はそう言う場所だ。()()()()()()()()。」

 

 今度こそ、俺はその場から立ち去った。後方から突き刺さる視線が、とてもむず痒い。廊下の角を曲がり、腿に付けられたホルスターから拳銃を取り出した。朝日が昇り始めた。廊下の奥まで長く俺の影が伸びているはずだった。しかし、俺の足元から伸びていなければならない。黒色の板は見当たらない。

 

 つまりそう言う事なのだ。

 

「何してんだ?」

「……ベルナルド、か。いや、流石の俺でも少し疲れたと思ってな。」

 

 前から歩いて来たのはズボンの裾を土で汚した同室の彼だった。首を傾げ、怪訝な表情を浮かべてからどこか納得した表情で「そうか」とベルナルドは言った。その言葉に俺は口元を緩める。手に持っていた拳銃をしまった。

 

「朝礼の時間だぜ?」

「おいおい、俺はもう行かなくてもいいだろう。」

「そう言う訳にもいかないだろう?ここに居る内は、あの人が国王様だ。」

 

 「そうだな」と返事をする。思わずこぼれてしまった笑みに、ベルナルドがしつこく反応してくる。それに飽きて突き放していると、今度は謝って来る。時間も時間だ。普段は走るなと言う暗黙の了解は無視されている。それに則り、俺達も人にぶつからない程度に走る羽目になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 忙しなく動く人を観察するように、鼠色の瞳がキョロキョロと動く。

 

「何してるんだ?」

「……、お前か。」

 

 廊下の片隅で腕を組みながら歩く人間を観察している男に話しかけた。彼らと別れた後、朝礼に参加。その後、何かを考える暇も無く動き回っていた。薬品を抱え、廊下に座り込んでいる怪我人の治療をする。震える手を叩きながら治療していると、男が目に入った。

 

「自己紹介がまだだったな。アントニオだ。アントニオ・ラスムセン。北欧の出身だ。」

「ここの出身では無いのだな。それにしては、流暢な独逸(ドイツ)語だ。」

「二年もここに居ればな、自国に帰ってきちんと話せるか心配になる位には慣れたよ。」

 

 はは、苦笑いを浮かべながら話す俺を男はじっと見つめる。

 

「先程、戦争を知っていると言っていたな。」

「ん? まぁ、言ったけど。そんな風には見えないって?」

「……、あぁ。とても、そんな風には見えない。」

 

 その言葉を聞いた俺はケタケタと笑った。そして「正しいよ」と言った。そんな俺を怪訝な表情で見る男。

 

「別に、そんな表情(かお)しなくてもいいだろうに。何が不思議だ? 人間だ。負ける事なんて沢山あるだろう。」

「今はまだ戦争中だ。そういう言葉は控えるべきだ。」

 

 その言葉を聞いて俺は数回瞬きをした。そしてあまり刺激するような言葉は控えるべきか、と一考する。

 

「そうだな。申し訳ない。」

「……、いや。」

 

 何か言いたそうな男は、その後の言葉をつづける事は無かった。言いたい事があれば言えばいいのに、と心の中で思ったが、俺もやはり口に出すこそは無かった。

 

「で?」

「ん?」

「アンタの名前だよ。俺は名乗ったのに、アンタの名前は聞いてない。」

 

 良いあぐねている男は、口を開いては閉じる。

 

「ジイド、だ。」

「ジイドか。それじゃあ、まだやる事あるから。しっかり休むんだぞ。」

 

 歩き出そうとして足を止めた。振り返るとアンドレはこちらを見ていた。

 

「正午に鐘が鳴るが、あまりすぐにはいかない方が良いと思うぞ。何時も人でごった返しているからな。少し遅くった方が良い。」

「わかった。」

 

 アンドレの後ろからあの青年が近づいて来ているのが見えたため、避難することにした。何せ、彼には目の敵にされているようだった。前に、会った事でもあっただろうか。そんな考え事をしながら歩き出す。歩いていた廊下から中庭を見下ろす。そこでは十数人がスコップ片手に穴を掘っている。大分深くなった穴の横には、無残に肉が、乱雑に置かれている。

 

 夏という事もあり、酷い臭いの中彼らは仕事をしていた。戦争が終わったとはいえ、燃料などは貴重品だ。遺体を焼いていやることも出来ない。5mほどの穴が掘れたのだろう。顔を歪めながらポイポイと穴の中に投げ入れて行く。

 

「何サボってんだい?」

「フルヴィア医師(せんせい)……。酷いなぁ、そんなんじゃありませんよ。どうしたんですか、その本。」

 

 彼女が抱えていたのは昨日、大量に資料室から運び出した本の一部だった。「持ちますよ」と言うと「当たり前だ」と返って来る。そして押し付けられたそれを抱え、二人で歩き出した。

 

「怪我人が多い。全く、ここの物資料だけでは足りなくなっている。」

 

 後ろから付いている居ている俺には彼女の表情が見えない。しかし、このままここに死体が集められれば疫病が流行る恐れがある。ただでさえ、皆慣れない事をして疲労している。この環境を長く続けて行く事は良い事では無い。どうにかして打開策を考えなくてはならない。

 

「下手をすれば……。」

 

 見込みのない人間を列車に押し込め、別の場所へと移送する事。又は、ここで殺す事を考えなければならない。戦争中だって大変だ。しかし、戦争が終わったからといって国力がすぐに戻ってくる訳じゃない。無くした国力が戻ってくるにはとても時間が掛かる。

 

「もう直ぐだね。」

「ん?何がですか?」

 

 フルヴィア医師(せんせい)が小さく呟いた。何も聞かずに歩いて来たが、ここは何処だろうか。

 

「悪いね。」

 

 パスっと極限まで抑えられた破裂音。込み上げて来る不快感が口から零れだす。そしてボタボタと本を床に落とした。撃たれたのが自分自身だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。そうは言っても時間が掛かりすぎな事は否定できない。本当ならば、ここで腿のホルスターから銃を抜き、彼女を打ち殺さなければならなかった。

 

 それが軍人としての役目であったはずだ。しかし、俺にはそんなことは出来なかった。

 

 全身が脱力し、膝を付いた。焼ける様に熱い腹部を無意識に抑える。ぬちゃりと温かなその液体を触り、その懐かしさに瞳を閉じた。床に体を打ち付ける。

 

 昔、一度この感覚を体験している。ゆっくりと落ちる意識の中で誰かの靴が見えた。昔と同じ、この角度で見る大きな靴。あの寒い北欧の地で救ってくれたあの人の足が見えた気がした。




お疲れ様でした。

漸く、原作のキャラを出せて兎一号は満足です。

小説でジイドが攻略したという砦。アニメの映像から似たような画像を世界のgoogle先生で探したのですが、インドって……。
まぁ、参考にはさせてもらいました。

弟や父に手伝ってもらい、ジイド達がどうやって40人vs600人を勝ち抜いたのか、色々と議論しました。その結果、偽物(ミミック)に異能力者が一人増えることになりました。

だいたい、キルレ平均15ってどんな化け物集団ですか。ゲームだってこんなの見た事ありませんよ。なので、砦の攻略方法を考えるのにはとても苦労しました。楽しかったけど。

感想などお待ちしています。


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第七話 破滅を、とデモン様が宣いまして

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 酷く気怠い体。瞳だけを開け、辺りを見渡した。冷たい床に倒れたままでフルヴィア医師(せんせい)に撃たれたから場所が移動していない事を確認した。

 

 しかし、どうして遺体を隠さなかったのだろう。

 

 まだ死んではいないから自分で遺体というのは些か気が引けるのだが、それを置いておくにしても今は誰も忙しいからと言って銃で撃たれた人間を廊下に放置しておくと言うのはどういう事なのだろうか。ゆっくりと体を起した。銃で撃たれた場所を触ると傷口はしっかりと塞がれていた。それでも床には赤い血液が円を描いている。

 

「ちっくしょう。」

 

 普段、誰も使わないこの廊下。使われない理由は単に地下へと続くだけのこの道を使う理由が無いのだ。地下へと向かうには別の道がある。ただ、こんな細くかび臭い道を態々通る事を好む人間はまずいない。ぬめる床に手を置いて体を起き上がらせる。口の中に違和感を感じ吐き出せば、銀色の弾芯が出てきた。口の中に残る金属の味に眉を顰めながら、階段の手すりに手を掛ける。

 

 窓から外の様子を伺う。積みあがっていた死体は多少少なくなっている。しかし、死体を埋めていた兵士たちの姿が見られない。しかし、スコップは地面に突き刺さっており、仕事の途中であった事が窺える。

 

 そして昼を知らせる鐘が鳴る。低く内臓を震わせるようなその音を聞いた。12回の鐘が鳴る。

 

「昼、か。」

 

 鐘が鳴り終わると同時に、爆発音が鳴り響いた。建物が揺れる。パラパラと降って来る埃が鬱陶しい。これほど大規模な爆発が如何して起ったのか。考えられるのは武器庫からの火災だ。誰かが火を放ったとしか思えない。

 

「終戦直後の怪我人に混じり込んできたのか?」

 

 ならば一番怪しいのはジイド達だ。しかし、そんな事を潜入していうる側がするだろうか。

 

「あぁ、くそ!」

 

 裏をかく、という事は相手の先入観を利用するものだ。つまり、これは考えるだけ無駄だ。一発で見抜けないのならば、これ程時間の無駄は無い。

 

 その時だった。背後から感じた背中を突き刺されるような視線。振り向けばそこには悪魔がいた。正確には、おそらく悪魔と呼ばれる様な得体の知れない何か、だ。体長180センチ以上の頭から角を生やした二足歩行の何か。

 

「こう言うホラーは苦手なんだがな。」

 

 素早くホルスターから銃を抜き、構える。相手が人では無いからだろうか。銃身が震える事はない。落ち着いた心でそれに銃を向ける。安全装置を解除し、ゆっくりと間合いを図る。

 

 頭から血を被った様なそれはじっとこちらを見つめている。ヒシヒシと伝わってくる殺気で胃が痛い。

 

「こう言う時はどうすればいい? 十字架にでも縛りつければいいのか?」

 

 そんなことを考えているともう一度砦が揺れた。

 

「たく、今度はどこが爆発したってんだ。」

 

 本部に連絡を入れるのにも、どうにかして目の前の異形を倒さなくてはならない。

 

「おい、どうして本部からの命令がない。」

 

 こんな爆発が起こっていれば、警鐘の一つでもなるはずだ。それが昼の鐘以降鳴ってはいない。

 

 最悪の事態が頭を過る。

 

 もし今の状況が自分で考えられる最悪の事態だとするのならば、どうやってここから逃走する。態々、他国の為に死んでやるつもりはない。ただ、大義名分は必要だ。

 

 そう例えば、砦を襲撃した奴らの情報などだ。通信施設が壊されているのなら尚の事、この言い訳は通る。

 

「ああああっ!」

「ギャアア!」

 

 いきなり声を上げてこちらに走ってきたそれを見て俺は思わず叫んだ。誰だってあんなのが近づいてきたら叫ぶに決まってる。そして俺の体はブランクがあろうとも長年の経験により、その異形の頭を的確に撃ち抜いた。

 

「ふっざけんな!こんちくしょう!」

 

 その場で膝をついて倒れてしまった異形を見る。荒い息を整える様に大きく深呼吸をする。しかし、不快な臭いのせいであまり深呼吸の意味を成さなかった。

 

「全く、何なんだ?」

 

 じっくりと倒れている異形を観察する。血を流す事は無い。ただ、ぐったりと倒れているだけだ。脈をはかる勇気も無く、取り敢えず銃でツンツンと突いてみる。反応は無い。

 

「はぁ。」

 

 一先ず、銃弾で倒すことができると言うのは有難い。これで不死です。なんてなった日には、地獄を見る羽目になる。

 

「CQ、CQ。こちら、Δ4。正体不明の生物と交戦。Over。」

 

 無線機を取られていなかったのは幸いだった。ここから通信施設は遠い。そして返ってくるのは電磁音だけ。周波数が合っていないなんて事はないはずだ。いくら終戦を迎えたからと言ってそんなへまはしない。

 

 本部の方から銃声が聞こえ始めていた。それは、あの異形がここ以外にもいる事が分かってしまった。

 

 一先ず、ここは仲間との合流を最優先にすべきだろう。戦うにしても、逃げるにしても一人よりは大勢の方がいいはずだ。その中に裏切り者がいなければの話だが。

 

 足音に気を配りながら、俺は食堂へと向かった。先ほどの異形が一体どうやって物を見ているのか知らないが、全てにおいて気をつけておいて損はないはずだ。

 

 先ほどの悪魔のせいで頭から抜けていたフルヴィア医師(せんせい)の事を思い出した。

 

「あの人の事は、後回しだ。結局俺には分からない。」

 

 今の武器は拳銃一丁、装弾数15発。先程1発撃ったので残り14発だ。弾倉は二つ。つまり残り弾数は44発。

 

「武器庫は潰されたと考えるべきか…。」

 

 となれば、どうにかしてこの44発で生き残らなければならない。

 

 俺が最初にやるべき事は何だろうか。生き残るためにやるべき事をしよう。廊下の角に辿り着いた。こっそりとその奥を覗けばそこには幽鬼のような表情で立っている異形の姿があった。人数と言う数え方なのかは定かではないが、取り敢えず一人だけのようだ。

 

「別の道を通るか……。」

 

 弾数が限られている以上、無駄な戦闘は避けたい。戻ってきた道を戻ることになった。ふと、窓の外が目に入った。此処は二階だ。飛び降りるには下の足場が少し悪いが出来ない高さでは無い。ただ、音で反応するのならばガラスを割った音で気付かれてしまうかもしれない。

 

「フィックス窓じゃなければなぁ。」

 

 装飾の為の窓。部屋の換気をする為に出来てはいない。表の扉が一度閉じればこの砦は密封状態だ。もしこれが感染爆発(パンデミック)の類ならば、これは不幸中の幸いだ。こちらから外に出なければ、外界に漏れ出す事は防げる。

 

 俺が今、この場でこの窓を壊さない限り。

 

「ダメだ。」

 

 出来なかった。それに窓ガラスを壊したとて、装飾で切り残されている石が邪魔だ。欧州の石は比較的に柔らかく直ぐに壊れるだろう。しかし、自身のバカみたいな正義感が邪魔をする。ならば、別の脱出方法を探す必要がある。

 

「この砦は元々王族が住む城だった。」

 

 いつか、誰かが言っていた。この砦には王族を逃がす為の隠し通路があると。そんな物を今から探してどうなると言うのだろうか。無かった時の絶望感と言ったらない。しかし、この砦に二年間住んでいるが知っている事はあまり多くない。

 

「フルヴィア医師(せんせい)の部屋からあの地図を借りて来るか。」

 

 新しくなっていた地図はこの砦全体が書き込んであった。少し冒険することになるが、そうしなければならない程今の状況は切羽詰まっている。あわよくば、この銃声の源へと行く事が出来れば。

 

 塞がったはずの傷口がじくじくと痛みだした気がした。傷があった場所を摩る。冷たくなった血が生々しい感触を呼び起こす。繊維が焦げて固くなった軍服。

 

 俺は急ぎ足で来た道を引き返し始めた。近くの階段を下り、一階に降りる。廊下を確認するとうろつく異形の姿は無い。その死体も見受けられない。という事は、あの異形は上から来ている可能性がある。若しくは、こちら側に来ていないだけなのか。

 

 俺は真っ直ぐな廊下を走った。呑気にしている暇はない。上から降りてきているのなら早く彼女の部屋に行くべきだ。こんな時ばかり訓練の成果が出ても嬉しくない物だ。もっと平和な時に、感じたいものだ。

 

 

 あぁ、無駄になって良かった、と。

 

 

 そう言って笑えたのなら幸せだろう。

 

 そんな事を考えながら廊下を走る。角では一度止まり、廊下の反対側を見る。二人組の男がいた。一人は矢鱈と突っかかってきた一人の青年。もう一人はその中にいた壮年の男だ。白髪混じりの男が持っているのは、アサルトライフル(AR)。その銃口には血が付着している。つまりあの異形ではなく、人を撃ったという証拠だ。

 

 彼らは何故、人を撃った?

 襲われたか、襲ったかの二択だ。

 

 何か会話をしている様だが、言葉は独逸(ドイツ)語ではない。この会話を聞くことが出来たのならば、今すぐでも確保するものを。しかし、彼らの背後を通り過ぎる位ならば隙を伺って捉える方がいい。ここで放置すれば背後から撃たれる危険性がある。

 

 

 血は苦手だ。だけれど、戦闘が嫌いと言うわけでない。

 

 

 大きく息を吸う。そして行動を開始する。

 

 まず、無力化するべきは壮年の男の方だ。彼の方が体つきがしっかりしている。長期戦は避けたい。距離は約10m。

 

 走った。背後からの急な足音に彼らはこちらを向いた。壮年の男はこちらに銃口を向ける。その銃口を左手で射線から外す。男は早々にアサルトライフルを諦める。元々、この距離で撃ち合うような武器ではない。これが近距離戦闘用の武器であったのなら、今頃体に穴が開いていたことだろう。

 

「ガブリエル!」

「っ!」

 

 壮年の男が叫ぶ。体勢が崩れた人間を倒すのは何の事は無い。右手を首の後ろに回し、首を下げさせる。そうしたら相手の足を持ち上げ、床に叩きつける。

 

 この時、一発くらい撃たれる覚悟はしていた。撃たれると思っていた。最悪、味方もろともというのもあった。しかし、彼が撃ってくる事は無かった。彼の方に目を向ける。

 

 しっかりと握られた拳銃。その射線はこちらを向いていない。はっきり言って運が良かった。それだけだ。もし、ここにいるのが彼では無かったらやはり撃たれていた事だろう。

 

 しかし、理由が分からない。彼がどうして撃たなかったのか。もしかしたら、仲間だったのかもしれない。それならば、申し訳ない事をした。

 

「くっそ!!」

 

 そう思うのに、行動はただ相手を排除しようとしている。言葉を聞くのは組み敷いてからでも遅くないと、そんな身勝手な軍人の思考になっていた。殴りかかろうとして来る青年の手を掴む。

 

「若いし、甘い。良いか?絶対にやけくそになるべきじゃない。まず、体からそんなに話して前足を置くべきじゃないな。」

 

 彼の膝の横に膝を合わせ、彼の足を前に払う。彼は前かがみになる。その首に腕をかけ、そして彼を後ろへと叩きつけた。

 

「がっ!」

「ほら、すぐ倒される。って、おい、大丈夫か?」

 

 どうやら強く叩きつけてしまったようだ。道場とは違い、床が固い事を考慮すべきだった。恐らく脳震盪を起こしてしまったのだろう。

 

 しかし、気絶してさせてしまったものは仕方がない。こんな状況だ。起こすしかないか。

 

「その前に。」

 

 俺は彼らの所持品を調べ始めた。彼らが持っていた拳銃。俺と同じ9mm弾の拳銃。ベレッタM92。

 

「イタリア社の拳銃。決まりだな。」

 

 縛る物を探さなければ。やはり彼らは敵だ。ならば、こんな事態になった原因を知らなければ。しかし、手持ちにはそんな物は無い。あるのは包帯くらいなものだ。これはダメだ。伸縮性に富んではいるけれど、布だからこそ簡単に引きちぎる事が出来る。

 

「手錠くらい持ってない物かな。」

 

 ここに潜入するには理由がある筈だ。軍上層部、と言っても悪いが中途半端な階級の人間しかいないが、目的がそれ位しか思い浮かばない。ならば、捉えた時の為に確保する為の何かを持っているはずだ。

 

 そう思い、俺は気絶している彼の上着を開けて、所持品を再び確認した。俺の手が止まった。そして俺は再び頭を抱える事となる。

 

「まじか……。」

 

 顔にやけどを負った彼は胸にきつくさらしを巻いていた。深々とため息をついた。それから崩れた上着を元に戻した。

 

 神は、私が犯した愚行をお許しになるだろうか。

 

 そして俺は今見たものを忘れるために、足早にその場を離れた。

 

「嫌だね、怨恨なんて。巻き込まれるだけ損だ。」

 

 なんて言っては見た物の、ほぼ確実に標的としてロックオンされる。縛る物が無いので彼らはここで放置することにした。追ってこられるのも厄介だが、あの化け物の相手もある為追ってくるにも時間が掛かるだろうと考えたからだ。

 

「全く、こんな事がただの人間に出来たら吃驚だ。」

 

 今の状況がただの夢で、未だにあの冷たい廊下で倒れているという状況ならば俺はどれほど良かったことか。そうであったならば、ただ一人との話し合いだけで解決している問題だからだ。しかし、未だにあるこの気怠さから考えると夢では無いようだ。付きたくも無い溜息を付き、俺は元々の目的であった医務室へと向かう。

 

 途中で目に入ったのは、砦の東側から上がる黒煙だった。あの辺りには通信施設がある。大きなアンテナが三つ設置されていたが、それらは綺麗に吹っ飛んでいた。そのせいで誰からの連絡も来ないのか、と納得した。弾薬庫に行けば弾薬の補充が出来る事が確認できた。

 

 したと同時に、この状況を外に伝える手段が無くなった事に落胆した。応援を呼べず、自分たちであの化け物を退治しなくてはならない。ましてや、さっきの戦闘であの化け物がこれ以上動かないのか分かっていない。弾薬が尽きるまで吐き出されるのだけは避けたい。

 

 そんな時間稼ぎをされるくらいならば、街など捨てて軍の施設と連絡を取った方がましだ。

 

 砦の中央の二階。この隣には先程呻き声を上げていた患者がいるはずだった。しかし、中から聞こえてくるのは何かが滴る音のみ。

 

 扉を開ければ、そこはただの地獄だった。腹の中から何かが出てきたように穴が開いた遺体がいくつも存在していた。失血死か、内臓の機能不全か。死因はどちらかだろう。遺体の前で手を合わせ、それから奥のドアを通って医務室に入る。

 

 何らかの戦闘があったのか、酷いありさまだった。倒れているフルヴィア医師(せんせい)を見た付けた時、少しだけ落胆した。医務室に張ってあった地図を剥がす。

 

 その後ろには、「デュランデ城」と書かれていた。




お疲れ様でした。

今回、出てきてくれませんでしたね、ジイドさん。
次回、絶対に出しますとは言えないから困ったものです。

それにしても、もう4月ですか。早いですね。
休みが終わって学校が始まりますが、週一投稿を乱さない様に頑張ります。

近接戦闘術(CQC)などは蛇さんの動画を見て参考にさせてもらっています。

そう言えば、昨日はあの奇術師さんの誕生日だったようで。
おめでとうございます。

皆さんは何か嘘を付きましたか?

エイプリルフールだったので何か番外編でも書こうと思ったのですが、何分気が付いたのが19時半と、遅すぎました。1000文字程書いて消してしまいました。

感想などお待ちしています。


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第八話 制圧完了

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「デュランデ城。」

 

 そんな城は聞いた事が無かった。此処の元々の城の名前もデュランデと言う物では無かったはずだ。散らかった診察台の上にある物を避けた。そしてそこに地図を広げた。中庭の構造まできっちりと書かれた古めかしい地図。多少の構造が変わってしまっているが、元々の城を改良して使っている。

 

 外に繋がっているような道が掛かれているようには見えない。しかし、ここに俺が来る事はフルヴィア医師(せんせい)にばれていたらしい。

 

「うわっ!」

 

 足が宙に浮いた。足より重い頭は重力に従い、床へと吸い込まれる様に落ちる。窓ガラスがけたたましい音を立てて床に散らばる。右太腿に何かが貫いた感触を覚え、頭を地面に打ち付けた。視界の端で捉えたのは、真っ黒な服を着たルチアだった。

 

「何なんだよ、くそ!」

「何って、狙撃よ。」

 

 身を屈めながら、ルチアはそう言った。夢の中とは違い、修道服を着た彼女は淡々と語る。少しつまらない様子で彼女はため息を吐く。彼女がここに居ると言うのが驚きだった。しかし、確かに女の目撃情報があった事を思い出し、彼女だったのかと納得した。

 

「狙撃って……。」

 

 どうやら敵は完全にこちらを殺しにきているらしい。

 

「あの悪魔は異能力によるものか?」

「まぁ、十中八九そうでしょうね。それか、相手はイギリスで敵が人の腹から悪魔を生み出す魔術でも完成させたか。後者は魔術結社と戦っているみたいで夢があっていいわね。」

 

 彼女は楽し気に語った。ニコニコと笑み浮かべてこれから催しでも始まるかのようだった。いや、催しはもう始まっていた。悪魔が徘徊すると言うアトラクションだ。兎も角、今は魔術より狙撃だ。撃ち抜かれてしまった足からはとめどなく溢れる血液。倒れた金属の棚から包帯を引き摺り出し、止血をする。

 

「貴方はこれからどうするつもりなの?」

「どうする?」

「そう、どうするの?」

 

 やれる事は沢山ある。敵の排除。味方への情報伝達。これが異能力者の調査。捕獲、或いは排除。

 

「この砦からの脱出を試みる。」

「それは敵前逃亡するということ?軍規違反では無いの?」

「俺は今日の午前を持って除隊命令が出てる。軍規からは離れた。」

 

 そんな屁理屈な、と言いたそうな目で彼女は俺を見た。その視線はとても居心地が悪かったが、それでも俺の意思は変わらなかった。俺はやれる事をしようとは思わなかった。

 

「俺には、約束がある。帰って遊園地に行かなきゃならない。」

「その為に、逃げるの?」

「俺は知ってる。命あっての物種だ。況してや、他国の為なんかに死んでやらん。もう二度と、だ。」

 

 俺はあの死者の国で生きると決めた。二度と訪れないチャンスをくれたあの国で。何かまだ言いたげではあったが、彼女はこれ以上何も言わなかった。

 

「そう。で、逃げ道の目処は立っているの?」

 

 地図は手に入ったが、特に目新しい発見はなかった。出口は正門と裏門。

 

「いや、全く無い。」

「そんなことだろうと思ったわ。」

 

 ルチアはそういうと腹這いのまま、この医務室から出ようとした。

 

「おい、どこに行く?」

 

 慌てて呼び止めると、ルチアは小さくため息を吐き出した。

 

「私が何も考えずにこの砦の中をうろちょろしていたと思っているの?」

 

 そう言われて、俺は数回瞬きをしてルチアを見つめた。それから、自身の不甲斐なさに眉をひそめる。

 

「申し訳ないな。」

「いいえ、楽しみだもの。遊園地。」

 

 遊園地に行く、と言ったが俺もだいぶん長い事行っていない。あの村にいると村の外に出るのが億劫になってしまう。そんな居心地の良すぎる村だった。

 

「で、どこに行くんだ?」

「資料庫。この砦を抜けられる通路がある。」

「知らなかったな。」

「今まで資料で埋め尽くされていたから。あそこ、もう少し整理した方が良いと思う。火災が起きたら大変だもの。」

 

 這いずりながら、医務室を後にする。狙撃失敗の連絡が他の兵士に伝わり、俺にとどめを刺しに来た兵士と鉢合わせなんてことは避けたい。

 

「それは感染爆発(パンデミック)の類の異能力だと思うか?」

「私の知識は全て本から得たもの。だから、詳しいことは分からない。」

「異能力自身なのにか?」

「指している指は自身が何を指しているのか知らない。それと同じことよ。」

 

 自分自身の事は案外、自分では分からないという事らしい。彼女の知識はあの家にあった本だけだ。況してや、異能力についてまだまだ分からない事が多い。遺伝子異常なのか、血統なのか。将又、宇宙人だ、なんて言う奴もいるかも知れない。

 

「腹から悪魔が出てきたという幻覚を見ているのか、貴方が言った様に感染してこうなったのか。または、何らかの要件を満たしたから悪魔が出てきたのか。それ以外には、今は思いつかないけれど……、考えるときりが無いわ。」

 

 幻覚、と言う事はあれはもしかしたら元仲間だった可能性だってある。お互いが敵に見えていれば仲間割れのように相手には見えていたのかもしれない。

 

 窓の外を警戒しながら俺達は廊下を進む。あちらこちらで未だに響いている銃声それでもその数はだんだん少なくなっているような気がする。あの悪魔の数が減ったのか、それとも元仲間の数が減ったのか。そのどちらか。

 

「人が減ってる。」

「悪魔の方は?」

「分からない。あれに願望があれば分かったけれど、何も聞こえてこない。」

 

 何かを伺う様に辺りを見回す彼女。やはり、彼女の耳には何も聞こえていないようだった。目を閉じている彼女は恐らく物の認識を耳に頼らなければならない。そして人の位置はその願望と言う物を聞いて判断しているのだろう。

 

「その願望って奴は何処まで聞こえてるんだ?」

「さぁ、分からないわ。ただ、そうね。もしかしたら裏側まで聞こえているかもしれない。」

 

 恐らく冗談だろうと思うが、もしそれが本当ならば五月蠅くてかなわないだろう。

 

 それにしても、どうやって駅の隣の資料館へ行こうか。馬車で移動していた道には障害物となるような物は無い。樹木さえなく、ただの整備された道だ。ましてや馬車なんかであの道を進もうものなら何の罪も無い馬が殺される。寧ろ、狙撃手はツナを握っている人間を的確に撃ち殺す事が出来るだろう。

 

「どうやって下に降りるつもりだ?狙撃の方向からいつも使っている道は使えない。それ以外でどうやってあの場所に行くんだ?」

「王様を逃がすのに王様を危険な目に合わせる訳ないでしょう。王の部屋として使われていた二階の司令室にそのまま地下へと通じる梯子があるの。そこを通って資料館に向かうわ。」

 

 指令室はこの砦の二階、中央に造られた豪勢な部屋だ。一度は言った事があったが、そこにいる人間は特別なのだとそう思い知らしめるために造られた様な部屋だった。階段の前で彼女は手で制した。どうやら、願望と言う奴が聞こえたらしい。

 

 良く耳をすませば、確かにカツンカツン、と金属音が聞こえる。少し軽い足音は階段を下り、そしてこちらに近付いて来た。足音は一つ。恐らくあの悪魔では無い。あの悪魔に身だしなみを気にして靴を履くと言う知能があればの話は別だが。

 

 彼女が飛び出した。慌てて、俺は壁から顔をのぞかせた。そこには少年の腹に飛び込んだ彼女と、その勢いに負け宙を舞っている少年が目に入った。ゴツン、と痛々しい音を立てて倒れ込んだ二人。

 

「お前な、行動するならサインをくれ。」

 

 彼女は人間では無い。軍人だから、一般人を守らなければならないなんて規則に縛られている訳でもない。それでも、彼女にはお世話になったのだ。その恩を返したいと思うのは当然だ。

 

「この子、私の事が見えてた。」

「まるでお前が見えているのが可笑しいみたいな言い方だな。お前の目撃情報は俺達の中にもあったぞ。」

「あれは、見せてたの。ただ、少し驚かしてあげようと思って。今回はそんなおふざけしてない。」

 

 綺麗な柳眉を顰めて、彼女はすっかり伸びてしまった少年を見下ろす。

 

「それで、お前が見える条件と言うのは何なんだ?」

「私の異能力の影響を受けているか、異能力者であるか。」

 

 つまり、この少年があの悪魔たちを出した元凶という事らしい。この少年を連れて軍本部へ行けば、と考えてその後の少年の人生を思った。彼が一体どんな思い入れがあって今回の事を事件を起こしたのか、さっぱり俺には予想が付かない。それでも、彼はこれから良い人生は生きられないだろう。

 

 

 ()()()()()()()()()()

 

 

 少年の上から退いて彼女は二階の様子を窺っている。俺は目が回っている少年を背負った。俺の様子を見て彼女は驚いた。そんな行動をとるとは思っていなかったと、その表情には書いてあった。

 

「その子を連れて行くの?」

「分からない。コイツがそれを望まないのなら途中で置いてく。」

「今、彼をここから連れて行く理由は何?」

 

 俺は酷く暗い目をしたあの少年を知っていた。昔、鏡の向うに同じ顔をした奴がいたのを知っている。

 

()()は誰かの為の道具じゃない。俺は救われた。だから、コイツにもチャンスを与えたい。そう会って欲しいって思った。」

 

 彼女は俺の顔をじっと見た。常に敵が背後を取っている状況がどれ程危険な事か、彼女なんかより自身が余程理解している。それでも、世界はそう在って欲しと言う願いを捨てきれなかった。

 

「俺の願い、聞いてくれるか?」

「その願いは私が叶えるような願いじゃない。だから、自分で叶えたらいい。」

「分かった。」

 

 少年を背負い、俺達は二階へと上がる。いつの間にか静かになっていたこの砦。今まで以上に慎重になりながら、指令室へと向かう。その間、何体もの悪魔の死骸が転がっていた。それと一緒に転がっている腹から穴が開いた死体。

 

「惨い物ね。」

 

 独り言の様に彼女は話しかけてきた。小声ではあったが彼女の視線は確かに俺の方に向けられていた。俺は彼女から目を逸らし、そしてその死体に目を向ける。

 

「そうだな。」

「その子供がこれだけの事をしでかしたのなら、当然罰を受けなくてはならない。」

「そうだな。」

 

 じっとこちらに向けられる表情は硬く、暗い。でも、誰かが言ってやらなきゃいけない。そう、教えてやらなきゃいけない。

 

「罰を受けるのは、己が犯した罪の重さを理解してからでないと意味が無い。」

 

 そう思わないか? 俺は振り返り尋ねた。

 

「だから、貴方がそれを教える、と?」

「俺はそれを教えるに相応しい。昔、同じ事をしていたんだ。俺にチャンスを与えてくれた人はもういない。あの人と同じことは出来なくても……、これは義務だ。救われたのなら、同じように誰かを救わなければならない。」

 

 彼女はじっと目の無い目で俺を見詰める。こちらを除く深淵はあの夢と同じようだった。

 

 

 俺は思う。人に救われるという事は、心を掬われるのと一緒だ。掬い取られたその部分は風通しが良く、酷く寒く感じてしまう。そして寒さを紛わせる為にその人間を心の一部としてしまう。持って行かれた空虚な部分はその人しか埋めてはくれないのだと、錯覚する。そして気が付けばその人間に巣食われるのだ。

 

 

 心が巣食われれば、当然その人間は変わる。勝手に変化する。何をするでもなく、変われる。

 

 階段を上っている途中で激しい銃撃の音が聞こえてきた。駆けあがり、その方向を確認する。そして何があったのか確認する前に、彼女はまた走って行ってしまった。叫ぶ事をしなかったが、心の中で「おい!」と叫んだ。仕方なく背負っていた少年をその場に置き、廊下の様子を伺う。

 

「下がれ!!」

 

 鋭く飛んだ命令に廊下に居た部下たちは困惑の表情を浮かべていた。30mほど離れた場所に居る敵の一人は確実に彼女が見えている。

 

 ジイドだ。その姿を目にした。そしてその奥に倒れているベルナルドがいた。俺も思わず飛び出した。ジイドは彼女に向かって銃を撃つが、その銃弾は彼女をすり抜けてこちらに飛んでいった。それに驚いたジイドは何発も彼女に打ち込むが、やはり彼女に銃弾は通じないようだった。

 

 彼女をすり抜けてこちらに飛んでくる銃弾を避けながら彼らの方へ駆ける。素早く一人を人質に取ると、彼に銃を突きつける。

 

「答えろ、何でこんな事をした?」

 

 ジイドは彼女に翻弄されいている。掴むことの出来ない彼女だが、彼女はジイドを掴む事が出来る。その予想が付いているのか、ジイドは彼女の手を避け続ける。

 

「なんで? これは戦争だ。勝つためだったらなんだってするだろう。」

「馬鹿野郎、戦争は昨日で終わったんだよ。お前達が通信施設を破壊なんてしなきゃ、これが証拠だって通信簿でも何でも見せてやれたものを!」

 

 彼らに周旋したと信じ込ませるだけの証拠が無い。恐らく、通信施設の破壊はその狙いもあったのだろう。彼らに余計な事を知られる前に、消し飛ばしてしまえばいいと。

 

 押し付ける銃口。怒りに任せて引き金を引いてしまいそうになる。しかし、その後の事を想像し、決して引き金を引かなかった。

 

「戦争が、終わった……?」

 

 その言葉に一番反応を見せたのはこちらの隙を伺い、銃口を向けていたジイドの仲間だった。

 

「如何して今日に限ってここに怪我人が大量に運ばれてきたと思ってる? 前線に居た奴らが一度に引き上げてきたからだ。近隣の街の病院だけでは見切れないから看護兵のいるここに運び込まれたんだ。」

 

 ジジッと無線が繋がる音が聞こえる。

 

『南、東、それぞれ制圧完了。』

『西も制圧完了です。』

 

 つまり、残るはこの場所だけということになる。

 

『北部、報告を。』

 

 しかし、男は報告を口に出来なかった。敵の言葉にこれだけ心が揺れ動くなんて、彼らの愛国心は一体どこにあるのだろうか。

 

「お前らのやった事は立派な戦争犯罪だ。この事が外に漏れれば、国はお前達を庇いきれない。お前たちは俺を殺せないし、彼女も殺せない。」

「ウェスタン!俺ごとコイツを撃て!敵の戯言に惑わされるな!」

 

 その時だ。何かが空気を切る音が聞こえた。

 

「アントニオ!」

 

 彼女は行き成り俺の名を叫んだ。それと同じ様にジイドも「伏せろ!」と命令を飛ばした。人質に取っていた男を彼女は押し退けて俺を押し倒そうとする。横の壁が不自然に湾曲し、そしてそこから徐々に鉄の塊が現れる。1秒が1分にも感じられたその中で俺は、最悪の一日だ、と今日と言う日を呪いに呪った。




お疲れ様でした。
先週は投稿出来なくてすみませんでした。

急きょ引越しすることになってしまいまして、その用意をしていたら全く進めませんでした。
はい、言い訳ですね。すみません。

後二週間もすれば、ゴールデンウィークですね。
皆さんは何処かに遊びに行きますか?

今回は比較的長い休みですからね。皆さん楽しんでください。


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第九話 非国民

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「げほ、げほ。」

 

 誇りに咳き込みながら、痛む全身を何とか奮い立たせ辺りを見渡した。榴弾を撃ち込まれた場所には綺麗な穴が開いている。幸運だったのが、この砦の壁が軟弱すぎたのか綺麗に突き抜けた事だった。それとも、前世代のこの砦だったためにこんな事になってしまったのか。しかし、それでも放物線を描いた榴弾は床を突き抜けたらしい。床には大きな穴が開いている。

 

 ともあれ嬉しい誤算、と言う奴だった。

 

 空いた穴から外を覗き込む。一面広がっている森。そこから子の榴弾を撃ってきた何かを確認することは出来ない。ただ、壁に空いた穴から考えるとこれは迫撃砲ではなく、戦車の榴弾だと思われる。

 

「ベルナルド!」

 

 気絶していたベルナルドは受け身を取る事が出来なかったようだ。曲がってはいけない方向に曲がった太腿。それを見て眉を顰める。宙に舞う埃など気にしないと彼に駆け寄った。彼の頬を叩いた。取りあえず起きてもらわなければ、足の骨を元に戻すことも出来ない。

 

「っ……、なんだ?」

「榴弾が飛んできたんだよ。運よく壁を突き抜けてたから助かった。次が飛んでくる前に、逃げるぞ。」

 

 俺が何か言う前にいつの間にか隣に立っていたルチアが、お姫様抱っこ(プリンセスホールド)と呼ばれる方法で彼を抱き上げた。

 

「誰だ、アンタ!?いや、ちょっと!下ろしてくれ。」

「行きましょう。あの少年を早く連れてきて。」

「分かった。」

「え、何?知り合いなの?どういう関係?」

 

 なんて場違いな事を聞いて来たベルナルドを放っておいて、俺は階段に放置してきた少年を探しに行った。多少の埃を被っていたが、彼は置いて来た場所に倒れていた。あれだけ音を立てたのに穏やかな表情で眠っている少年を見て、実は死んでいるのではないかと疑ってしまった。

 

 ちゃんと呼吸はしているし、脈もある。彼を抱き上げ、とっとと逃げようとした時だった。かちゃり、と音がした。聞きなれた音だ。一階の階段の方を見た。そこには外れてしまった右肩を抑えたジイドの姿があった。

 

「良かったよ、二階にいなかったから。無事だったんだな。」

 

 疑心に塗れた鼠色の瞳がこちらを見上げている。

 

「あぁ……。」

「銃を下ろしてもらえないか?」

 

 心にもない事を俺は言った。仲間なんて、居た事が無い。この砦の中にいた同僚も、別に特段思い入れがある訳じゃない。こちらを見上げている彼はやはり、銃を下ろしてくれそうにはない。

 

「さっきの榴弾、撃ってきたのは仏蘭西(フランス)の軍だ。」

 

 脈絡のない言葉だった。しかし、俺がどうしてこんな話をしだしたのか、ジイドには理解できている様子だった。俺の言葉に眉を顰め、睨みあげる。

 

「何故そう思う?」

「榴弾の撃ち込まれた方向を見たか?あの方向は仏蘭西(フランス)のある方角だ。独逸(ドイツ)が態々最近まで戦争していた国の方から砲弾を打ち込む理由は無いだろう。」

 

 ジイドは何も言わず、俺の話を唯聞いていた。少し心が揺れ動いているのか微かに銃身が揺れ始めていた。いや、ただ腕の痛みからなのかもしれない。

 

「況してや、俺たちの通信手段はお前達によって破壊された。万が一、軍が異変に気がついたとしてもいきなり自軍の補給基地に榴弾を撃ち込む様な事はしない。それで軍人が死亡でもしてみろ、否応無しに命令を出した無能は吊し上げられるだろうさ。」

 

 折角戦争が終わり、家族が帰ってくると喜んでいる国民が怒らことは目に見えている。そんな愚かな事をするほど無能ではないと信じたい。

 

「いい加減、受け入れろよ。お前達は、国に捨てられたんだよ。」

 

 その言葉が、ジイドを酷く苛立たせたらしい。乾いた音が鳴り響いた。右頬を掠め、真っ赤な鮮血が流れ出す。じくじくと地味な痛みを生み出したその傷をそっと触れる。

 

「何を絶望する事がある。兵士って言うのはそう言うもんだろう。国に尽くす事が役目だ。それが、自身にとって汚点になろうと……。報われない事のある職業だ。それでも、国の為と人生を投げ捨てられるのが戦争に出る軍人だ。」

 

 銃を向けられているから、動こうにも動けない。両手を上にあげ、背後からちくちくと刺さる殺気に溜息を付く。

 

「何故だ、何故こんなことになる!?乃公達は必死に国の為に尽くしてきた。その結果がこれか?乃公はこんな物が欲しかったわけではない。」

「軍はお前を認めていたのだろうさ。だからこそ、この任務を任せたんだろうな。使える武器が箱の奥に仕舞われ続かないように、有能な軍人もその限りではない。これが軍人にとって望外の喜びなんだよ。」

 

 皮肉な話だ。軍は彼の優秀さを、忠実さを最大限に評価した。その結果、今回の作戦に彼らが選ばれたのだろう。彼らならば、国の為に死んでくれると。だけれど、俺は目の前のジイドという男を見て、彼は軍人になるべきでなかったと思う。

 

「お前は、人間を殺す素質はあったんだろう。冷静で冷徹な、男だったのだろう。だがな、軍人にとって一番必要なのは盲目的な忠誠心だ。帰巣本能じゃない。」

「ならば、乃公に今、ここで!死ねというのか!?」

 

 彼の思っている事はもっともだと思う。小さな粒のような埃が舞い、窓から入って来る光の軌跡が見える。これが埃でなく、天使の梯子とかだったらただ綺麗だと思うだけなのに。

 

「それが、国が今後の平和の為に必要だと言ってんだ。さぁ、どうする?どのみち、逃げ道はないぞ。俺はお前を殺さないが、独逸(ドイツ)国民が、又は、仏蘭西(フランス)国民が、お前達を殺しにやってくる。」

 

「その前に、軍人らしくその手に持っている武器で俺を殺してみろよ。」

 

 焼け焦げるように疼く心。こんな事をあの村の中で話す事がないから、久方振りの衝動に恥ずかしげもなく饒舌になってしまう。

 

 それにしても、こんな虚しい物だっただろうか。お互いに戦う意味が見いだせなくなっている。国の為だとか、家族の為だとか。大義名分を得て人を殺してきた。なのに、最後の一人を殺せない。此処まで来ると互いに銃を向け会う事に意味を見いだせなくなってしまう。

 

 今がだらりと下げられた腕に内心安堵した。ここで銃を撃たれるのは勘弁してほしい。

 

「神は、我らを棄てたのか?」

「神を人を見限らない。何時だって離れて行くのは人間の方だ。信じていれば、神は必ず答えてくれる。」

 

 手を下ろして彼の方を向いた。酷く疲れているような表情をして項垂れている。

 

「何してる?お前は軍人なんだろ?なら、最後の敵を仕留めてみろよ。仕留めて、軍人らしく刑罰を受ければいい。国の為に敵を倒せよ。」

 

 しかし、彼の銃を持つ手は上がらなった。そこにいる男は、もはや軍人では無かった。敗残兵のような行き場の無い虚しさを抱え込んだ幽鬼の様だった。怒りが、憎しみが、悲しみが、彼の心を食いつぶそうとしていた。

 俺の言葉に彼が反応を示しはしなかった。ただ、疲れた表情で膝を付き、地面を見詰めている。俺は少年を一度地面に置き、彼の元へと歩く。そして彼の胸倉を掴んだ。不快だと言わんばかりの表情で彼は俺を見上げる。

 

「仲間は何処にいる?」

「……、何をするつもりだ?」

「逃げる。」

 

 俺の言葉にジイドは眉を顰めた。彼はもう軍人では無いが、それでも軍人の頃の意地のようなものが残っているのだろう。その判断をとても嫌がっている様に見えた。

 

「修道服の女を見ただろう?アイツが誰にも見つからないでこの砦を出る方法を知ってる。」

「逃げて、どうすると言うんだ。俺達に行くあてなどない。」

「なら、捕まるか?それも良いだろう。逃げず臆せず、堂々と国に帰り、そして国の不正を叫ぶと言うのも一つの手だ。庶民を味方につけ、それから軍を崩壊させるという方法もある。」

 

「まぁ、相手は戦車を持ってきているみたいだがな。交渉の余地が残っていれば良いな。」

 

 口を閉じ、何を答えるでもないジイド。俺は手を離した。そして少年を背負う。

 

「彼を、どうするつもりだ?」

「こちらの不手際で気絶させてしまったからな。ここに置いて行くわけにもいかないだろう。瓦礫に押しつぶされて圧死、なんて可哀想だろう。それに、やり直す機会を与えてもいいと思ったからな。」

「その少年は……。」

 

 ジイドが小さく呟いた。いつの間にか静かになったことの砦の中でそれでも掻き消えてしまいそうな声音で彼は言った。

 

「その少年は、軍に売られてきたのだ。」

「売られた? まあ、確かに有用な異能力だよな。人を殺して、二次被害まで出る。戦争を勝つのには良い買い物だっただろうさ。この少年の名は?」

「ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ。」

 

 ミドルネームにフォンがつくと言う事は彼は元々貴族だったらしい。しかし、貴族が息子を売るなど俺からしたら考えられない事だった。基本的に金に困っていない彼らが態々この少年を売る理由がわからない。

 

「ヨーゼフか……。OK、で?お前は結局どうすんだ?」

「神は、我々を救ってくださるだろうか?」

「やってみればいい。どちらにしろ、神は人事を尽くさない堕落した人間を救おうとはなさらないだろうさ。」

「そうか……、そうだろうな。」

 

 疲れきったその表情は先ほどとは違い、諦めがついたのが分かる。しかし、彼らの受けた裏切りに似た信用を今後一切忘れる事は出来ず、許すことは無いだろう。

 

「まぁ、良いさ。人間は許せない生き物だ。」

「何か言ったか?」

「いや、早く仲間を呼び戻せよ。俺たちもそんなに長く待っててやれない。」

 

 

 

 

 

 

 

「その後、爆発のせいで地下道の道が潰れていて、一緒になって掘り起こして。漸く日の光が見えたかと思ったら、戦車と遭遇するしで。出たのは、墺太利(オーストリア)だし。国境を越えて国に戻ったかと思ったら、軍の聴取に付き合わされて。」

 

 本当に大変でした。彼は少し疲れた表情で言った。しかし、彼は口元に笑みを浮かべていた。牧師は彼の言葉を頷きながら聞いていた。

 

「本当に、碌な目に合いませんでした。もう戦争はこりごりですね。」

「それはそれは、元職業軍人の言葉とは到底思えませんね。」

「昔の話です。」

 

 牧師が冗談交じりにそう言うと彼は苦笑いを浮かべた。チラチラと蝋燭の炎が揺らめき、彼の顔に陰りを作る。しかし、彼は昔の事を思い出して自身の変化に驚いていた。

 

「しかし、困りますよ。勝手に村人を増やされるのは。」

 

 話題を変えた牧師は、少し困った表情をしてそう告げた。牧師の声は決して怒ってはいない。それでもその声音は不満げであった。彼は素直に謝罪の言葉を口にした。その言葉を聞いて牧師は小さく溜息を付いた。

 

「彼の様子はどうですか?」

「何ら問題はありません。()()()ショックで未だ目を覚ましてはいませんが、いつもの事です。時期に目を覚ますでしょう。彼が眼を覚ます前に彼の親を決めねばなりません。」

 

 牧師は立ち上がり、部屋のドアを開けた。彼は牧師の後に続いて部屋を出た。教会の地下は煉瓦でしっかりと補強されている。しかし、ある程度奥へと行くと教会の地下とは名ばかりの殆ど整備されていない地下を続く。牧師と彼は固い靴底の音を響かせながら薄暗い土がむき出しになっている廊下の奥へと進んだ。そして辿り着いたのは重厚な金属でできた古めかしい扉。決して外から部外者が入ることの出来ない様になっているその扉を牧師たちはすり抜けていった。

 

「懐かしいですね。」

「そうなのですか?」

 

 牧師は彼の言葉に意外だと思った。牧師の言葉に、彼は小さく頷いた。牧師は彼の()()に立ち会ったが、彼はこの場所のことを覚えていられるような年齢ではなかった筈だ、と思う。

 

「記憶にはありませんが、それでも……。ここが自身の始まりだと、そう感じます。」

 

 牧師は改めて部屋の中を見渡した。白を基調として飾利られた植物の描かれた壁紙。床は先ほどまでの土とは打って変わって丁寧に木材を敷き詰められている。殺風景なその部屋は真ん中に天秤のついた大きなベッドが鎮座しているだけだった。

 

 白いレースを避けるとそこには幼い少年が眠っていた。

 

「彼の名を聞きましたか?」

「はい、ヨーゼフと言う名だそうです。ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ、と言うそうです。」

 

 話し声がうるさかったのか、綺麗な金髪(ブロンド)の少年は少しだけ眉を顰めた。少しだけ皺の出来た頬を緩め、愛おしそうに牧師は少年の頭を撫でた。

 

「この村の説明は本来、ハンスが行なっていたのですが……。アヌンツィアータにはまだその自覚がありませんからね。」

 

 牧師は全く困りました、とため息を吐き出す。

 

「仕方ないと思います。俺達の為に押し付けられた様なものです。本来、こんな事しなくて良いんですから。」

「それは、そうですね。しかし、貴方が彼女を殺めてしまった事を悔いているのは知っています。その事があったからこそ彼女はこの村に居られるのですよ。」

 

 この村は外界から孤立している。それを誤魔化すために隣の街とはある程度の交流を持っているが、この村がまだ正常であった頃の様な活発な交流はない。昔を知らない人間から見れば、薄気味悪い片田舎にしか見えないだろう。

 

 毎日、肉屋には猟師がとってきた何らかの肉が並ぶ。

 毎日、八百屋には農家が出荷した何らかの野菜が並ぶ。

 毎日、服屋が織った何らかの服が並ぶ。

 

 それだけ聞けば地産地消が出来ている田舎だ。ただ、その資源が一体どこから来ているのか、不明な点を除けば。

 猟師が幾ら動物を殺そうとも動物が減る事はない。

 農家が幾ら野菜を取ろうとも農地が痩せる事はない。

 

 この村は外界から孤立している。外との売買が殆ど存在しない。言ってしまえば、お金なんてあってない様なものだ。いつも村の中でグルグルと使い回される紙幣はクタクタ。財務省に回収されそうな代物ばかりだ。

 

「彼女が一度死んだからこそ、我々の仲間入りを果たせたのです。」

 

 この村にいる人間は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの異能力によりもう一度人生(チャンス)を与えられた人間の集まり。

 

 基本的には数十年前にこの村が盗賊に焼かれた。その時にハンス・クリスチャン・アンデルセンに()()された人達だ。しかし、その中には彼やヨーゼフの様な他所者もいる。

 

 マリアが元々この村から仲間外れにされていたのは、彼女が一度も失った事がなかったのが原因だった。生者はこの村では疎まれている存在だ。今、教会に来ている修道女(シスター)達とも表面的には仲良くしている様だが、村全体としては彼女達を受け入れる事はないだろう。

 

 ここは、そう言う場所だ。

 

「しかし、貴方の話を聞いてこの村の最大の問題がよく分かりました。」

 

 牧師は米神を抑えこれからの事を思案する。

 

「私達は彼女の異能力影響を受けているのですね。」

「元々、ハンスさんの異能力を受けて生きているわけですから。彼女が自身を幽霊だと思い続けている限り、我々にとって彼女は認識外の存在。俺や牧師様は、まあ。それに彼女は過去の事も忘れたいと思っている様です。」

「だから、我々の中から彼女の記憶が抜け落ちているのですね。」

 

 彼女が頑なに何を思い出したくないと思っているのか不明だが、その影響を村全体が受けている。

 

「まぁ、彼女の事は追々考えましょう。」

 

 そう言って牧師は目の前の少年に目を向けた。

 

「今夜、集会を開きましょう。まぁ、彼の親は決まった様なものです。」

「そうなんですか?」

「えぇ、リナリアとジョンが来年の6月に結婚を予定していますから。」

「それはまた、おめでたい。」

 

 死者ばかりが集まるこの村でも、色恋事が無いわけではない。ただ、そこから子供を授かる事は滅多にない。それはこの村の特性に関わる事だが。だからこそ、ヨーゼフの様な後から来た者を自身の子供として育てる事が多い。実際、彼自身も父親と血縁関係があるわけではない。それでも、良好な関係を保てている。

 

「形ばかりとはなりますが、ハンスが死んでから久方振りの新入りです。皆、張り切るでしょう。」

 

 ハンスが死んでから、村の人間達は仲間が増える事はもうないと思っていた。娘であるマリアには自身の置かれている立場に自覚がなく、何より姿を見せない。置かれている立場について、誰も彼女に伝える手段はないし、そもそも伝えようとさえ思っていないだろうが。

 

 成り行きではあったものの、その使命を果たしたマリアは恐らく彼らの中でハンスと同じ様な立場に上がりつつある。

 

 一度死を体験した彼らは酷く保守的な考えを持っている。今ある体勢を崩さないように必死なのだ。その結果、本来無関係であったマリアに異能力を引き継がせ、今まで同じ様な物を彼女に期待している。

 

 それは酷くエゴイズム的な集団心理だった。押し付けられる方の事など何も考えていない。仲間ならばそう思うべきである、という狂った集団心理の成れの果てを見ている様で彼は酷く気分が悪くなる。

 

「お前の望んだ普通がこの村にあると良いんだけどな。」

 

 彼は小さく呟いた。




お疲れ様でした。

まだ、ヤングエースを買いに行けていない兎一号です。

早くドス君と太宰さんの隣に澁彦を置きたいのですが、中々本屋に行く機会が無くて…

何故だ、セブン。
どうしてお前はヤングマガジンやヤングジャンプは売っているのにヤングエースは売ってないんだ。

ぐぬぬ……。


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第十話 仲間入り

 ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ一等兵の死亡を確認。
 墺太利(オーストリア)国境付近の山小屋の中で、頭部を撃ち抜かれた状態で発見。
 手には部隊で支給された銃が握られている事から、自殺と思われる。

 この事に伴って、当研究室に辞令を下す。

 死体は検死を行い、その死因を詳しく調べることとする。
 また日本で行っていた作戦の失敗・戦争の終了に伴い、HEL(ヘル)を用いた実験を地下に移す作業を至急始める事とする。
 作戦失敗に伴い得られなかった資料(サンプル)の代わりに、彼の死体を起用することとする。

 以上の事を速やかに行う事。


 酷く恐ろしい夢を見た。クラクラと酸素不足に悩まされるように思考が覚束ない。目が回り、視界が空転する。三半規管が犯され、吐き気がする。

 

 あまりの恐ろしさから、僕はベッドから飛び起きた。

 

「はぁ、はぁ……。ゲホッ。」

 

 込み上げてくる胃の中の物。しかし、口の中が酸っぱくなるだけで嘔吐物は無い。ふと、腕に眼を向けるとそこには透明な液体がポツリポツリと自身の体の中に流れ込んでいる。白のレースに遮られ、このベッドの外がどうなっているのかよく見えない。しかし、病院を彷彿とさせるような天井の白さ。ここが何処かの研究施設なのでは無いか、という推察が頭の中で出来上がった。

 

「逃げなきゃ。」

 

 あの恐ろしい光景から、自身はなんとか生き残ってしまったらしい。しかし、この状況はあまりに受け入れられないものだった。軍の研究施設で長らく過ごした事があるが、あんな人権のないようなところ、もう二度と居たいとは思えなかった。腕に刺さった点滴を引き抜き、僕は冷たい木材の床(フローリング)の上に足をつけた。

 

「あっ……!」

 

 立ち上がるだけの力が入らなかった。ぺたりと倒れ込んだ床は泣きたくなるほど冷たい。チラチラと揺れるロウソクの炎が、一つ消えた。それは風が前から吹いてきた為だっだ。

 

 床に伏せたままだった顔があげられない。カツカツた靴の音がする。

 

 逃げようとした事がバレたのかもしれない。

 どう言い訳をしようか。

 殴られるのは嫌だ。

 

 グルグルと掻き回される頭の中。訳もわからず涙が溢れてくる。

 

「たす、け……、て。」

 

 口から出た言葉に酷く後悔する。その言葉の先に待っている夢のような恐ろしい事を想像して、ガタガタと身体が震える。頭を抱え、これから来るであろう痛みに備える。布が擦れる音が頭の後ろから聞こえる。

 

「ならば、教えて。どうすれば、貴方の救いになれるのか。」

 

 頭の上から降ってきたのは、柔らかな少し幼い少女の声だった。頭に微かに感じる圧力。それは大切なものを愛でるような行ったり来たりする。頭を抱えて居た手が自然と力を失い床を這う。

 

 真っ黒な服の袖が目に入り、そこから出ている病的に白い手が僕の手の上になる。少しだけ大きなその手は木材の床(フローリング)のように冷たい。体温を奪われるように冷めていくが、その冷たさが少しだけ心地いいと思えた。

 

 僕はその白い手の持ち主を見るために寝返りを打った。そこにはこちらを真っ直ぐ見下ろす青の瞳を持った少女がいた。自分より少しばかり幼いその少女は僕を見て、えくぼを作り微笑んだ。

 

 真っ白なこの部屋に溶けてしまいそうな少女は相変わらず僕の頭に手を置いている。

 

「君は、誰?」

「ただの亡霊(ゴースト)です。」

 

 そう言われて僕は納得した。だから、こんなに白く冷たいのか、と。

 

「通りで……。」

 

 と、呟くと少女は面白いとクスクスと笑った。修道服を着ている少女は僕の気がすむまで頭を撫でてくれた。

 

「私はマリア。」

「マリア……。僕は、ヨーゼフ。」

 

 いい加減恥ずかしくなり、僕は起き上がった。しかし、視線は彼女よりも低い。僕は改めて自分の体を見た。すると何故だろう。背が縮んでいた。

 

「うぇ!?」

 

 驚きのあまり、変な声が出てしまった。彼女は僕の事を見てクスクスと笑う。そしてマリアは僕の頭をトントンと撫でる。

 

「ヨーゼフ。貴方はどれ程の事を覚えていますか?」

「覚えている?」

 

 そう言われて、僕はあの怖い夢を思いだした。ガタガタと震える体を抱えこんだ。

 

「その様子だと、死んだ時の記憶が残っているようですね。いや、良かった。」

 

 ニコニコと笑みを浮かべながら言う物だから、僕は眉を顰めて少女を見上げた。僕の表情を見ても彼女はただ笑みを浮かべているだけだった。

 

「そんな顔しないで下さい。私は貴方と違い、自分が死んだ事を忘れていたのです。その事を思い出すのに大分時間が掛かってしまいました。」

「死んだ、事。」

 

 体を突き抜けて体から熱が逃げて行くあの感触は嘘じゃなかった。

 

「僕は、死んだの?」

「はい、貴方は死にました。アントニオを覚えていますか?彼が貴女の死亡を確認しています。」

 

 アントニオ。確か、独逸(ドイツ)軍に所属していた金髪の男。ごく一般的な顔立ちの彼。殴り合いをした記憶は確かに残っていた。

 

「覚えて、います。あれは、夢じゃなかったんですね。」

「私は現場に居たわけでは無いので貴方がどのようにして死んでしまったのか知りませんが、貴方は確かに死にました。そして生き返った。神が貴方に更生の機会をお与えになったのです。」

「沢山、人を殺したのに……?」

「神は不平等です。しかし、神は全ての罪を御赦しになってくださいます。そして貴方はこれからそのご恩に報いなければなりません。」

 

 僕はマリアの口から紡がれる非現実的な言葉に、眉を顰めた。しかし、自分の意思で動く手を見詰める。握っては開き、体温がある事を確認する。選択肢はないとその時感じた。どう足掻いても僕は目の前の彼女が言う通り、神の恩に報いなければならないのだと。

 

「どうすれば、良いのですか?」

 

 僕の言葉にマリアは嬉しそうに笑みを浮かべた。そしてサイドテーブルに置いてあった真新しいシャツとズボンを手に取り、僕に渡した。

 

「一先ず、これに着替えて下さい。丁度今、上で集会を行っています。そこで貴方の事を皆に紹介しましょう。」

 

 集会、何について話し合っているのだろうか。彼女は僕が着替えやすいように背を向けた。僕は渡された服を着てみた。少し大きめに作られた服。中途半端な長さの裾をズボンの中に入れ、襟を立たせる。とても丁寧に織られたシャツだ。今時珍しい機織りで作られた服だった。

 

「着替え終わったよ。」

「では、行きましょうか。」

 

 そう言うと扉を開ける事無く、すり抜けた。僕は恐る恐るその扉に手を伸ばした。その扉は不思議な事に触った感触が無いのだ。空気のように掴む事が出来ない。

 

「そんなに珍しいですか?」

 

 顔だけが扉からすり抜けて見えている。珍しいか、と聞かれれば、こんな体験はした事が無いと答える。それ以上に僕自身が生き返った人間であると言うのが未だに信じられない。

 

「うん、珍しい、かな。」

「そうですか。私自身には壁と言うのが関係ないのであまり違和感が無いのですが。そうですね、人間だった貴方からしたらこの扉はすごく珍しい物なのでしょう。」

 

 一人で納得したように首を縦に振るマリア。彼女の言葉の意味があまり分からず、僕は首を傾げた。そうしているとマリアは僕の手を掴んだ。そして手を引っ張る。部屋を出るとそこは洞窟の様だった。壁に等間隔で開いた小さなくぼみに蝋燭がともされている。空気が重苦しく、あまり精神的に良い場所では無いと感じた。

 

「先程お伝えしましたが、この村に居る人たちは必ず一度亡くなっています。そして異能力によって願いは神の元へと届けられ、更生の機会を与えられた人間が集まって暮らしています。北欧神話には詳しいですか?」

「ケルト神話なら……。」

「北欧神話と言うのは始まりから世界の終わりまでの話なのですが。神オーディンが世界の終わり(ラグナロク)に向け、対抗する為に死んだ戦士の魂を集めるのです。」

「……、何かと戦うつもりなの?」

 

 僕の言葉に彼女は数回瞬きをした後、肩を震わせて笑った。お腹を抱えて、大きな声で笑った。掌で涙を拭いながら僕の方を見た。

 

「こんな笑ったのは久しぶりです。何かと戦争するつもりはありませんよ。私は争い事は嫌いですし、負けるのは尚更嫌です。ここはその勇士が集められる神々の館(ヴァルハラ)に似ている、と私が思っているだけです。まぁ、それは置いておいて。この村にはルールがあります。」

 

 一つ、敬謙な信者である事。

 

「以上。これだけは絶対守ってください。」

「それ以外にルールは無いの?」

「特には、敬謙な信者であるという事はある程度の縛りが生まれますからね。」

 

 しかし、何ともあやふやなルールだ。敬謙な信者であれ、なんて過激派と呼ばれる人たちだって自称信者だ。解釈によっては人を殺しても良いという事を言われている気分だ。

 

「基本的には、少し不便なだけの村です。電気は通っていますが、テレビの電波を受信するアンテナが無いのでテレビはありません。」

「え? 天気とか、どうしてるの?」

「基本的には教会に一個だけラジオがあるので、そこから。後は、一番外れに住んでいるコーナーさん宅が外の新聞を取ってくれているので、それをグルグルと家々で回しています。最後は教会の地下、つまりはここで保管されます。」

 

 ここはどうやら教会の地下だったらしい。あまりは言った事は無いけれど、確かに教会の地下らしい重々しい雰囲気を感じられる。土のせいで湿った空気が肺の中で渦巻いているような、あまりいい感じはしない。

 

「あの、集会って何を話し合っているの?」

「今、村を出ようとしている人がいるんですけど、その人を村から出すかどうか、についてですね。戦争の時は招集命令だったので国に変に疑われない為に戦争に行ったみたいですが、そうでは無く夢が出来たのでその夢を追いかける為に大学に行く事を希望しているのです。」

「それの何がいけないの?」

「外には危険が沢山あります。村の中が必ず安全とは言いませんが、それでも外に比べたら死ぬ要因が少ないのです。皆、彼が心配なのです。彼は同士ですから。」

 

 自分より背の高いマリアを見上げた。僕に対して笑みを浮かべていて、その彼についてどんな事を思っているのか分からなかった。

 

「マリアも反対なの?」

「私は賛成ですよ。死と言うのは何処にでも転がっている物です。それを恐れていては何も始まりません。それに夢と言うのは大変素晴らしい物ではありませんか。やりたい事はどんどんやるべきです。」

 

 ふふ、と楽しげな笑みを浮かべながら歩く彼女。僕は隣の彼女を見上げながら廊下を歩いた。廊下は土の地面から煉瓦造りへと変わり、穴の中にともされていた蝋燭はきちんとした燭台になった。少し奥に進むと上へと続く階段が現れた。そしてその向こうから誰かの話し声が聞こえて来る。階段を上り、僕達は地上へと出た。そこは礼拝堂のある小さな教会だった。

 

 視線が僕らに集まる。教会の長椅子に座っている村人たちが何かをこそこそと話す。しかし、マリアはそんな事に臆することなく、本来登っていけない一段高い場所へと足を運んだ。彼女に手招きを去れ、僕はいそいそと壇上に登った。

 

「こんばんは、皆さん。私は、マリア・A・アンデルセン。貴方方が定めた規則の中で、一応村長と呼ばれる立場にあります。」

 

 僕はそうだったのか、と彼女を見た。僕と同じくらいの歳の子が村長なんてするんだ、と驚きを隠せなかった。

 

「さて、まずは新しい私達の仲間を紹介しましょう。ヨーゼフ君です。この村について簡単な説明はしました。しかし、何分私はこの村で生まれ育った者。外との習慣の違いについて詳しくは知りません。なので、彼の保護者となるジョンとリナリアにこの村の規則の説明をお願いします。」

 

 彼女がそう告げると若い男女が立ち上がった。椅子に座っている他の村人はあまり若く無い人ばかりだった。子供も少ない。

 

「ヨーゼフ、彼らが貴方の保護者となります。彼らの言う事をよく聞いて、健やかな毎日を過ごしてください。」

 

 僕は改めて保護者となる人たちを見た。白人で髭の濃い赤茶けた髪の男と黒い髪の女。女の方はアジア系の血が入っているのかもしれない。

 

 彼女に背を押され、僕は彼らの前に出た。後ろのマリアを見るとただ微笑んでいるだけだった。僕は振んな面持ちで目の前の男女の前に出た。僕は彼らの隣に座らされた。

 

「いろいろ話したい事があるんだ。でも、少し待っててね。今日は重要な話があるんだ。」

「重要な、話。」

「うん、あの台に登っている子がいるだろう?彼が日本に行きたいと言っているんだ。」

 

 視線を向けた先には、金髪の彼・アントニオが立っていた。僕は彼を見ていると視線が合い、おもわず逸らしてしまった。僕は何だか申し訳ない様な気持ちになって隣に座っているジョンと言う男に話しかけた。

 

「日本、ですか?」

「うん、マリア様の御友人の方がお医者様でね。その方を頼りに日本に行くそうなんだが。」

 

 時代錯誤も甚だしいと感じた。村から出るのに、村人たちの了承が必要なのだと。それでも、そう言うきちんとした決まりごとがあるからこそ、この村はずっと明るみに出る事は無かったのだろう。死者が生き返る村なんて、きっと僕みたいに良いように搾取されるだけだ。

 

「今までにいなかったんですか?」

「外出はあったけど、彼みたいに長く外に出る事は無かったね。せめて二日か、三日……、最長は一週間かな。その程度さ。」

 

 僕は再びアントニオを見上げた。真剣な表情で村人たちを見下ろす彼と、見上げる彼ら。それぞれの表情はとても固い。僕はなれない場所で慣れない緊張感に僕は苛まれた。

 

 集会自体は直ぐに終わった。マリアが彼の行動に賛成したからだ。この村には医者がいない。それは他の場所から怪しまれる原因になりかねない、と。

 

 教会を出て、まず目に入ったのは噴水だった。綺麗な水が大きな皿から零れ落ちている。この村には街灯が無く、人がランタンを持ってそれぞれの家に帰る。薄暗い土の道をリナリアと言う女性が僕の手を引いて歩く。すっかり縮んでしまった僕の足は彼女について歩くので精一杯だ。それに気が付いたのか、彼女は時々僕の方を確認してくる。

 

 それに気が付いたジョンと言う男がランタンでこちらを照らす。

 

 この村は歪だ。

 普通じゃない。

 

 でも、どうせ誰もが普通じゃないのだから。気にするほどの事でもない、と思えてしまった。




お疲れ様でした。

と言う訳でミミックの自殺者・ヨーゼフ君仲間入りです。
ヨーゼフ君の異能力については番外編を作ろうと思います。
第四章は、第三章と違ってほのぼのするかな……?

ヨーゼフ君の楽しい北欧生活を書くか、アントニオの楽しいヨコハマ生活を書くか、迷っています。
第三章はマリアがあまり出て来なかったので、出したいなぁ、と思う一方でイン何とかさんみたいになるけどいいかなぁ、と思っている私がいます。

ヤングエースをようやく買い、小ちゃな中也を飾りました。
いやぁ、太宰さん(大人)の隣に置くと身長差が際立ってしまって。

16歳の時から伸びたんでしょうかね、身長。
ついでに言うと、将来マリアの身長は彼以上です。
欧米人平均の170センチほどの予定。


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終話 村のあり方

 小鳥のさえずりは可愛らしく、本来ならば水が流れているはずの噴水は水を落としているのか流れていない。家の中はあまり居心地が良くなく、こうして外でこの村の景色を眺めている。

 

 

 居心地が良くないと言うのは、決して親のせいでは無い。僕の精神的な物なのだ。

 

 

 僕はふと視線を小さな子供達の方へ向けた。噴水の横に設置された長椅子に腰かけている僕の事など目もくれず、子供達は走り回っている。そしてその子供達をじっと見詰めている亡霊(ゴースト)に目を向けた。真っ白な彼女は不自然に景色から浮遊しているように見えた。地面に付きそうなほど長く伸びた髪は何処か浮いている。小さな雪が乗った風が彼女の髪を靡かせる。髪が少し煩わしいのか、手で抑える。

 

 僕の視線に気付いたのか彼女はこちらを向いて、少し微笑んだ。小さくお辞儀をして彼女は何処かへ行ってしまった。

 

 この村に来てまだ一週間も経っていない。僕は一年半も寝ていたらしい。父親が言うには、少し長いが5年も寝ていた人もいるから気にする必要なはないそうだ。ここに居る人たちはみんなグルグルと命を使いまわしているそうだ。死んでしまっても、そう願えばここに新しい命として帰って来る。

 

 あちらこちらを走っている子供達も皆やり直した人たちらしい。だからこの村は人口が減らない。減った分と同じだけ増えるから。生まれ変わった子供は大抵3、4歳程度から始まる。受胎して子供を作った訳では無いから母親は母乳を出ない。そして僕も例にもれず同じくらいの年まで幼くなってしまった。

 

「よう。」

「あ……、こんにちは。」

 

 話しかけてきたのは、アントニオ・ラスムセンだった。彼の父親にも会ったけれど、髭の濃い無口な人だった。細い目は睨んでいるのではないかと思えてしまうほど、何を考えているか分からない人だった。彼の母親は病死されているそうで今は二人で暮らしている。ついでに言うとルーシーと言う少女が彼の母親だ。だからこそ、少しだけ不思議な気分になる。

 

 

 母親の遊び相手になると言うのはどんな気分なのだろうか。

 

 

「どうだ、この村は?」

 

 少しか慣れたか? と彼は僕の事を案じてくれた。僕は視線を逸らして、白い地面を見た。雪解けの季節になり湿り気の為に下のコンクリートの家が見えている。ザクザク、と足の取られるこの雪を小さく蹴っ飛ばす。

 

「まぁ、あんまり。」

「軍人だったんだから、集団生活になれているんじゃないか?」

「僕はずっと車上生活だったんだ。家の中にいると異能力が発動しちゃうかもしれないから。」

 

 彼は頭の後ろで腕を組んで、空を見上げた。薄い灰色が空を染め上げ、今にも雪が降ってきそうだ。しかし、冬の空と言うのは案外そう言う物で、青々とした空は滅多に拝めない。雪が良く振るこの場所ではそう言う物らしい。

 

「不安か?」

「え、と。まぁ、そうだね。まだ、異能力に枷を付けられたって聞いたけど実感が無いし。」

 

 僕はそう言って胸の真ん中に手を当てた。そこには刻まれた十字がある。僕たちは神に赦された聖母()()()とは違う。背負った原罪を償いながら生きて行かなければならない。

 

「そうらしいな。でも、安心していいと思うぞ。牧師様の異能力も勝手に発動したの、見た事無いからな。」

「牧師様も、異能力者なの?」

「まぁ、あの人はそれを否定しているけどな。この村の人間はあの人の異能力とマリアの異能力で成り立ってんだ」

 

 父親が話していた。この村は元々異能力の持主であったハンス・クリスチャン・アンデルセンが自身の異能力を隠す為に作った村なのだと。村を作るのにあたって自身に都合の良い人間を集めたのがこの村。確かに、命の恩人を救おうと言うのは人間として当たり前の心理だと僕も思った。でも、それを利用するなんてという事も思ってしまう。

 

「元々、あの人は俺達と同じ外の人間だったらしい。あの人を匿った結果、外の異能力集団といざこざが起きたらしいな。お蔭で村は一回消滅。村人の中じゃあ、まだ牧師様を許せていない人もいるらしいが……。まぁ、あの人は自身の過去と決着と付けた。終わった話だ。蒸し返すのは男らしくないだろう。」

「犯罪者、だったの?」

「いいや、良い人さ。ただの自身が何に加担しているのか知らない善良な信者だった。教会が行っていた実験が、世界の為になると本気で信じていた青い男だったのさ。」

 

 優しい笑顔を浮かべることの出来る人だと思った。その笑みは張り付いているのではなく、縫い付けられているような。あまりにも自然なのに、自然過ぎて気味が悪いと思ってしまうような。そんな、笑い方をする人だと思った。だから、僕はあの牧師様が少しだけ苦手なのだ。

 

「僕は、どうしたらいいんだろう。」

「大抵は親の職業を継ぐ。俺みたいに医者になりたい、なんて言って了承されるのは珍しいんだ。ジョンは機織りだから、お前は機織りになるんだろうな。」

 

 確かに村人達はマリアの言葉だったから了承したのだと思う。そうで無ければ、誰も受け入れなかった。マリアの方針は村人が自由に生きる事だった。でも、彼が医者になる事で本来彼が継ぐはずだった猟師を誰がやるのかと言う問題があった。結局あの場では決まる事は無かったけれど、どうやら有力視されているのは僕らしい。

 

「僕が君の後を継いだら、問題は無いのかな。」

 

 僕の言葉に彼は少しだけ唖然とした。少しだけ開いた口がとても間抜けだった。彼はじっと僕の方を見ていから乱雑に頭を撫でた。それから僕の頭を抱き着かえ頬擦りするものだから僕は必死になって逃げだそうと手を振った。

 

「何するんだよ!」

「ん?いや、意外に可愛らしいこと言うなと思ってな。」

「だからって、抱き付く事無いだろう!」

「ん、そうだな。いやぁ、昔の事を思い出すとどうもダメだね。引っ張られる。」

「引っ張られる?」

 

 彼の言葉に僕は首を傾げた。僕の様子を見て彼は笑みを浮かべた。そして転がってきた青色ゴムボールを小さな女の子に渡す。ニコニコと笑みを浮かべながら女の子が戻って行く。どうしてそんな笑っていられるのだろうか。

 

「親子、だったんでしょ?」

「ん? まぁな。」

「何か、無いの?」

「寂しいとか、か? 特にないな。此処の奴らって言うのはさ、腹を痛めて産んでもらったわけじゃない。食糧だって、服だって結局はマリアの異能力があるからこそ恵んでもらっている。だから、なんて言うのかな。」

 

 そう言って彼は頭を掻いた。それから言葉を探していた。

 

「あんまり思い入れが無いんだよ、今の自分に。自分の持っている物にさ。」

 

 彼の言葉に僕は再び遊んでいる子供達に目を向けた。子供の内は昔の事を忘れているそうだ。僕のように覚えている事を望むの滅多にいないらしい。それもそうだろう。今まで親子だったのに今度は兄妹として過ごす、という可能性もある。昔の関係を断ち切るの難しい。心のどこかでしこりを残す。だから、教育するのだ。この村はそう言う村だと、何もかも忘れさせた状態で。

 

「俺達はさ、ここに絶対帰ってこられるって言う安心感があるんだよ。それは外で暮らしている奴らには絶対手に入らない物だ。何時神様に奪われるか分からない不安を感じない。それがここに居るメリットだ。逆を言えば、その大切さを忘れちまうんだよな、普通はさ。」

 

 命がどれ程尊い物であったのか、この村ではおざなりになってしまうのだろう。誰も彼もがここに帰ってこられることが保障されているから。しかし、ここに居る人間は一度死んでしまった人間だ。その痛みを、絶望を知っている。

 

「バカみたいな話だけどさ、確かに俺達は今持っている物にあんまり興味はない。無くしちまった物にも興味が無い。でも、自分が無くなるのは怖いのさ。だから、自分だけは必死に守る。ここには利他主義は存在しない。元々ハンスさんの考え方だけどな。」

 

 一人は皆の為に。皆は一人の為に。なんて言葉が存在する。しかし、ここの人間は他人の為に何かを行っているという思考は存在しない。なのにこの村では争いが無いのは、彼らが敬謙な信者であるからだろう。誰もが『隣人を愛している』のだ。自身に向ける異常なほどの愛情を、この村の人間にも向けるからこそだろう。ただ、それが他人の為であるかどうかは別問題なのだが。

 

 本心から他人の為に行う事は決して出来やしない。それがハンス・クリスチャン・アンデルセンの考えだった。そして一度失った彼らには、他人を気遣っている暇はないのだ。

 

「俺達は他人に配慮している心的余裕はない。この村の方針を言うならば、被害者になる位なら加害者になれ、だ。」

 

 痛いのが嫌ならば、原因を排除しろ。それがこの村の方針。彼らには、痛みに耐え我慢する、なんて考えは一ミリも存在しない。

 この村はまだ外の異能力組織と争い事を起こした事は無いようだけれど、それでも誰かがここに攻めてきたのなら誰もこの村から出る事は出来なくなるのだろう。そして、下手をすれば有無を言わさずこの村の為の駒として吸収されるのかもしれない。

 

「恐ろしい村だな……。」

「そうか? 慣れればそうでもないんだけどな。」

「攻めて来たら、どうするの?」

「それはその時の俺達の考えに依存している。俺達が降伏を望めばその通りになる。お前は、どう思う?」

 

 僕はまた地面を見詰めた。それから小さく首を振った。わからない、と僕は呟いた。彼は小さく溜息を吐いた。ポンポンと頭を撫でられた。

 

「まぁ、でも考えておいた方が良い。どんなことでも、起こりえない事って言うのは滅多に無いんだから。」

 

 僕は俯いたまま、小さく頷いた。彼は今週の末には日本と言う国に旅立ってしまうそうだ。元々彼はあちら側とは話し合いが付いていたらしい。彼は少し足早に教会の方へと向かっていた。僕はそれ見送り、適当に街の中をぶらぶらと歩いた。俺を見掛ければ物珍しそうな視線の後に手を振って来る。僕はそれに小さくお辞儀をすると彼らは嬉しそうに笑みを浮かべる。

 

 その視線から逃げるように森の中入って行った。雪解けの季節。足場の良くない道をひたすらに歩いた。そして僕は大きな道の脇道を見つけた。この道については誰も何も言っていなかった。僕はその道を通った。砂利道は真っ直ぐと続き、道沿いには等間隔に木が植えられている。楓の樹はまだ葉を付けておらず、物寂しい雰囲気を醸し出している。しかし、きっとこれが秋になるとこの道を染める程の赤く色づいた葉で埋め尽くされるのだろう。

 

 その景色を想像して、僕は口元に笑みを零す。その景色を見るのが少しだけ楽しみに思えて仕方ないのだ。そしてその先に僕は小さな山小屋を見つけた。使われているようには見えない古びた小屋だった。外からでは誰が住んでいたのか分からない。

 

「そこにはね、私のお父さんが住んでいたの。」

 

 僕は突然の声に心臓がはねた。ドキドキと痛いほど脈打ち、血管が擦り切れるのではないかと言うほど激しく送り出される血液。僕は落ち着くために小さく溜息を付いた。どちらかと言えば深呼吸だ。

 

「ど、どうも。」

「えぇ、こんにちは。それにしてもこんな所で何をしているの?ここには何もないのに。」

「散歩を、してた。その、あまりこの村の地形を覚えてないから。」

 

 そうですか、とあまり興味の無い表情で返事が返ってきた。僕は途端に居心地が悪くなった。

 

「この奥に池があるのですが、行ってみますか?」

「池、ですか?」

「そう。もう少し寒い季節ならば、氷が張って上を渡れたのだけれど……。でも、大丈夫かしら。えぇ、きっと大丈夫ですから。行きましょう。」

 

 彼女は僕の手を掴んで引っ張った。道から外れた場所を彼女は何の不安も無くすいすいと進んでいく。この村で生まれ育っただけの事はある。歩き辛い道も難なく進んでいく。そして彼女は僕を池へと連れて行った。そこだけ不自然に切り開かれた場所。

 

 

 この池の水源は一体どこなのだろうか。

 

 

 何処からも水が流れ込んでいないこの場所は、自然に出来たとはとてもいいがたい場所だった。まるで測量でもされたのではないかと思えてしまうほど丸い円。吹く風は水のせいなのか先程よりも冷たく感じる。彼女はその池の中に何も言わずに入って行った。しかし、やはり亡霊と自称するだけあって彼女は湖の上に立っていた。

 

「貴方もやってみる?」

 

 この水面は実は氷なのではないか、と思うが波打っている岸を見るとやはり水面なのだと思う。こちらに手を伸ばす彼女。僕は恐る恐るその手を取った。そして勢い良く手を引かれ、池の上に立った。地面と同じ様なのだが、波打っている為か少し酔いそうになる。

 

 

 いつだっただろうか。

 昔、女中が読んでくれたアラジンと言う本の中の魔法絨毯はこんな風なのかもしれない。

 だってあれ、風に揺られて波打っているから。

 

 

 僕は必死に彼女の手を掴み、自身が立っている足元を見た。

 太陽が出ていないからだろうか。

 綺麗に光る事の無い、透き通った水面。魚などの生き物の影は一切見えない。そして僕たちの影も一切見えなかった。こうして見ると、僕が死んだのだ、と改めて思い知らされた気分になる。

 

「マリアは、寒くないの?」

「ん? 寒くありませんよ。亡霊(ゴースト)に寒さ何か分かる訳ないじゃないですか。」

 

 彼女は薄着だ。いくら雪解けの季節になろうとしているといってもまだまだ雪は降るし、日中でも氷点下を下回る時がある。それなのに彼女はいつも薄手の修道服を着ている。そう言われると、寒くてダウンジャケットにマフラーをしている僕が何だか情けなく思えてしまう。がっくりと肩を落としている僕を見て彼女は首を傾げる。

 

「貴方は生き返ったのだから、私のようになる訳ではないのですよ?」

「マリアも、生き返ったんじゃないの?」

 

 彼女は直ぐに答えなかった。そして彼女が池の中心に向かて歩くものだから、僕も歩いて行った。この池は思った以上に深いらしい。それに太陽が出ていないからだろうか。湖底が見えない。黒く恐ろしい。

 

「この下にはね、家があるの。」

「家……。」

「えぇ、前に二度落ちた時には気が付きませんでしたが。昔住んでいたらしいのです。下にはね、お父さんの日記がありました。」

「見に行ったの?」

「えぇ、私にはあまり酸素があるかどうかは関係ないから。で、見に行った。そうしたらね、家の中はそのまま。空気があったの。水がどうしてか侵入してこなくて中に合った本を全て読みました。そして知りました。私達は亡霊(ゴースト)である事を望まれているのだと。」

 

 彼女の言葉には願望は無く、ただ押し付けられた義務感からの言葉に聞こえた。僕は、そんな事無いと言いたかった。でも、ここに来たばかりの僕にはなんて声をかけてあげればいいのか分からなかった。

 

「僕は、君にとってそれが幸福ならそれでいいと思う。」

 

 僕の言葉に彼女は微笑んでありがとう、と言った。




お疲れ様でした。

原作の方はだんだん盛り上がってきましたね。
来月は単行本も出るので楽しみです。

それにしても、原作キャラのでなさ具合がヤバいですね。
私も焦れるくらいには出てない。主に探偵社の人。
第ニ章で先走ってしまったくらいですかね。

第四章は、ヨコハマになると思います。

では、また来週٩( 'ω' )و


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第四章 彼はその街に染まった人間だった。
第一話 待ち合わせ場所


どうも、兎一号です。

一日遅れてしまって申し訳ありません。




 心地よい春の風が吹き抜けた。すっかり忘れてしまっていたアスファルトの固さを思い出しながら、俺は始めて訪れた日本と言う国を楽しんでいた。

 

 戦争が終わって二年目の4月初旬。俺はヨコハマの大きな公園に咲く桜を見上げた。丁抹(デンマーク)にも桜が咲く公園があるが、日本より緯度の高いその場所は4月下旬にならないと咲く事は無い。村には桜の木が無いから、彼女にとって物珍しいのだろう。ただ、じっと見上げている彼女。しかし、ここにいてもどうしようもない。彼女には悪いが、先を急ぐとしよう。

 

「行こう、マリア。」

 

 すっかり定着したマリアと言う本名。何故彼女がマリアと呼ばれる事を嫌がったのか、俺は知らない。彼女がその事について話すことはなかった。いや、ただ聞かなかっただけなのかもしれない。俺達にとって恐ろしい事は、彼女がいなくなってしまう事だ。

 

 機嫌を損ねない様に、と。そんな事を考えている。

 

「これは地図だ。」

 

 大きな本の表紙には、日本列島が描かれている。そしてそのヨコハマのページに、バツ印が描かれている。

 

「今からここに向かう。俺達がいるのは、この公園だ。」

 

 地図の上を指でなぞる。それを彼女はじっと見つめる。真剣な表情で見つめる地図を彼女に渡した。

 

「案内してくれるか?」

「はい、分かりました。」

 

 地図をしばらく見つめた後、彼女は歩き出した。俺はそれにただついて行った。

 

 歩く彼女について行く。偶には観光も良いか、と横浜の街中を歩いた。小綺麗な服を着た人が町の中を歩いている。俺は本通りから外れた道に入った。金色の髪と言うのは何だかんだで、この国ではとても目立つ。外国人の人もいるらしいが、それでもやはり髪の黒い人が多い。だからこそ、少しだけ物珍しい物を見るように視線を向けてしまう。

 

「よう、兄ちゃん。」

 

 明らかに柄の悪い青年が話しかけてきた。日本語を習って半年。何とか日常会話が出来るようになった俺に一体何を聞こうと言うのか。スラム街のようなあまり治安の良くなさそうなその場所で話しかけてきた青年。小柄で痩せている。身長が190㎝程まで伸びてしまった俺は青年たちを見下ろした。

 

「こんな路地裏で何やってんだ?」

「ここは観光するにはちっとばかし、悪いところだぜ?」

 

 さて、ニヤニヤと笑みを浮かべながら彼らが何を言っているのかあまりわからないが、恐らくはここはお前のような奴のいる場所じゃない、と言われているのだろう。縄張り意識、のようなものなのか。日本にギャングがあるのか知らないが、恐らくはカラーギャングのようなものなのだろう。

 

 子供というのは、どうも目立つ事がしたくてダメだ。

 

「ゴメンナサイ。ワタシ、ニホンゴワカンナイ。」

 

 と、適当にあしらっておくことにした。向かってくるなら腕の一本追ってしまえばいい。そうしたら、この場は逃げられる。そんな事を考えていた。視線を感じた。振り返るとそこには一緒に日本に来ていたマリアが立っていた。彼女も牧師様の地獄のレッスンを何故か受けていたのだが、何故隠れているのか。彼女の姿は、彼女がそう望まない限り、誰にも見られないと言うのに。

 

「アァ、ソレジャア、オレイクネ。」

 

 会話につていはある程度申し分ないのだが、どうにも発音が上手くない。自己嫌悪をしていると、一人の男が向かって来ていた。それもそうだろう。行き成り後ろを向いて何処かに行こうとしているカモを放って置くなんてしないだろう。

 

 最近の若いのは勇気があるのだな、とそんな事を思う。それか無謀であるだけなのか。身長差が20㎝以上ある人間対して向かってくるんだもんな。向かってくる彼らの腕を掴み、捻じ伏せる。その時、パキッと少し重い音がした。心の中で申し訳ないと思いながら俺は彼らを宙に投げた。男達は体を地面に叩きつけられ、目を回していた。

 

「今どこに居るんだ?」

 

 俺は彼女に尋ねた。カツカツとブーツが音を立ててこちらに向かってくる。地図を開き、彼女はそれと睨めっこしながらこちらに向かってくる。そして俺の方を見て首を傾げる。

 

「多分、ここ?」

「……。」

 

 首を傾げて地図を指さす少女、俺はがっくりと肩を落とした。外と言う特殊な環境にさらされない彼女にとって地図と言う物でさえ目新しい物だった。だからこそ、彼女に地図を渡しモリオウガイという医者の元へ案内してもらっていたはずだったのだ。しかし、彼女にとって地図は物珍しい模様の描かれた紙でしかなかったようだ。

 

 

 もう少し地図について説明しておくべきだったか。

 

 

 何かに抉られた様なこの場所の中核に立っている俺達。小さく溜息を吐き出し、取り敢えずこの場所の上まで登ろうと思った。少なくともここでは無い、もう少し治安の良い場所の警察官に尋ねよう。ここに居る奴らは決して好意的には答えてくれないだろう。

 

 取り敢えず、空港にでも戻ろう。そこで道を聞こう。今度はもう一枚地図を貰って俺がマリアを連れて行こう。

 

「行こう。」

「何処に行くの?」

「一端戻ろう。俺達の居場所が分からないのは困るからな。」

「そうね、分かる場所まで戻りましょう。」

 

 彼女に何も言わずついて来た俺も問題だった。彼女のだけを責めることは出来ない。だが、少しかこの状況に危機感を持ってもらわなければ困る。

 

「これが地図だって教えたよな。」

「ええ、聞きました。」

「印だって付いてるだろ?」

「ええ、付いてますよ。でも、印が動かないんですもの。これ、どれ程の縮尺で書かれているのですか?」

 

 彼女の言葉に俺は膝をつきかけた。中途半端な知識が逆に俺たちを迷わせたようだ。

 

「その印は動かない。」

「え? でも、ヨーゼフが最近の地図は目的地まで案内をしてくれると言っていました。」

「その地図は動かないんだ。」

 

 最近の知識はもっぱら彼のよる物だった。元々外と交流する気の無い彼らにとっては、外の技術がどれ程進んでいるのかなんて興味の無い事柄なのだろう。それでも、マリアは外に魅かれるお年頃らしい。ヨーゼフから外の事をよく聞いていた。一度だけ飛行機で日本に訪れたらしいが、その時も外の景色にべったりだったと牧師様は語っていた。

 

 今回の事に牧師様もついて行く気だったようだけれど、予定が合わずお留守番だ。

 

 がっくりと肩を落とすマリアは地図を閉じて、俺にただついて来た。

 

「それにしても、ローエンを説得するのは大変でしたね。」

 

 ただ歩く事に飽きたのか、そう話題を振ってきた。ローエンと言うのは俺の父親の名前だ。熊を彷彿とさせるその容姿から子供達の間では、グリズリーと呼ばれている。

 

 

 本人は嫌がっているけれど。

 

 

 厳つい顔に髭の濃さ見相まってそう見えてしまうのだ。

 

 そのローエンは最後まで俺が日本に行くのを反対していた。彼が日本行きに反対していた理由はまあ想像できるのだが。それでも恐ろしいほど喧嘩をした。誰かとここまで向き合ったのは、初めてかもしれない。今回も、前回も。ただ、仲直りと言う物が出来たのか、納得させられたのか、と問われれば俺にはわからない。何故か、分からないのだ。そう言う経験が無いから。

 

「怒っているのですか?」

 

 何について、とはいなかった。ただ俺を見上げる青紫色の瞳に多少の罪悪感を感じながら、俺は首を横に振った。申し訳なさが残る。

 

「いや、怒ってないさ。本来、こう言うもんなんだろ、親子って。俺らにゃ、正しい親子関係なんて分からない。」

「そう、ですか…。」

「それにしても、案外日本も治安の悪い所なんだな。」

 

 先程の青年たちを見て俺はそう感想を告げた。俺の言葉に彼女もそうですね、と答えた。

 

「恐らく、牙を奪われる機会がなかったからじゃないでしょうか。」

 

 戦争に参加していたとはいえ、戦勝国となったこの国はやり直す機会を失った。振り返る暇を無くし、ただ歩き続けるしかなくなったのだ。過去の悲惨さなど、目もくれず。

 

「戦いの為に牙を研いだ。でも、それを披露する機会に恵まれなかった犬は高ぶった感情を抑える術を持ちえない。」

 

 最近、思う事がある。マリアの事についてだ。戦争に行く前の彼女は、人として生きていた。透明になっても彼女は人間への憧れを捨てる事は無かった。それがどうだろうか、帰ってきてから彼女は自分が亡霊(ゴースト)である事を受け入れ、人間への憧れは諦めになってしまったようにも見える。その事がどうしようもなく、申し訳なく思うのだ。

 

「犬は猫と違って群れる生き物ですからね。集まって、同調して。」

 

 俺にはその言葉にまだ憧れがある様に聞こえた。集まって、同調したいとそう願って欲しいと言う、身勝手な願望だったのかもしれない。

 

 表に戻ってきた。俺は改めて辺りを観察する。昼間ではあるが、平日という事もあるのだろうか。紳士服を中年の男性が良く目に着く。喫茶店(カフェテリア)には、若い女性が珈琲杯片手に何かを書き込んでいる。あれが日本の学生の姿なのだろうか。

 

 前回、俺は学生生活を謳歌する事は無かった。そんな余裕はなかったし、それが一番だとも思わなかった。今回だって目的はそれじゃない。楽しむ事についてそこまで興味が無いのだ。損な性格なのだろう。

 

「待ち合わせ場所は、確か大学病院だったか?」

「うん、そうだよ。学会? があるから、そこで待ち合わせって言ってた。」

「目印は相変わらず動かないか?」

 

 そう尋ねると少しムスッとした表情でこちらを見上げる。その様子に笑みを浮かべると、彼女は更に不機嫌になる。

 

「動きませんよ。」

 

 明らかに不機嫌な声音で返って来る返事。来た道をきちんと戻れば、あの桜の咲く公園へと戻ってきた。彼女はやはりそこがお気に入りの様だ。桃色の花をじっと見つめる。元の位置にさえ戻れば、迷う事は無い。

 

「マリア、地図を見せてくれ。」

「はい、どうぞ。」

 

 地図をさっと確認し、彼女を急かす。何時までも桜を見ていたそうな彼女だが、そう言っていられないのだ。森鴎外との約束の時間は大分迫っていた。途中の寄り道が何より長かったからだ。俺達は先ほど使わなかったバスを使い、その大学病院へと向かった。バスと言う物を始めて乗った彼女は大はしゃぎだ。誰にも見えず、誰にも聞こえないからこそ、彼女は踊る様にその小さな箱を満喫していた。一番後ろの席で、その様子を見ていた。

 

 戦争に行く前から切られていないだろう髪を靡かせて、彼女は笑っていた。

 

「楽しそうだなぁ。」

「ねぇ、アンタ! 人様の迷惑になるようなことしちゃダメだよ。」

 

 バス停でバスが一時停止し、乗り込んでくる乗客の一番最後。あろうことか、亡霊(ゴースト)に話しかけてしまった少女。正義感溢れる少女は迫り来る景色に先ほどまで没頭していたマリアに話しかけていた。

 

 俺はため息をついた。バスのフロントガラスにべったりと張り付いたマリアに話しかける少女。少し悪い事をした気になってしまう。奇異なものを見るような視線が彼女に送られている。仕方ないのだ。彼女は外に自身を見ることの出来る人間などいないように振舞う。

 

 

 滅多にいない訳だが。

 

 

 欧州の水兵を彷彿とさせる服を着ている彼女。あれは所謂セーラー服という奴なのだろう。日本では学校の制服として用いられる事があると牧師様が言っていた。膝丈まであるスカートをヒラヒラさせながら彼女はマリアの腕を掴もうと手を伸ばした。停車したままのバスの中、俺は彼女の手を引いた。

 

「え、ちょっと!」

 

 一番後ろの席に座っていた俺は、そのまま少女と一緒に着席する。

 

「何するんだい!」

「ダメデス。」

「何が、」

「カノジョハゴーストデス。ミンナ、ミエナイ。」

 

 恐らく正しいと思われる日本語で彼女に話した。そうすると彼女は少しだけ冷静になったらしい誰も彼もがこちらをチラチラと見るが、彼女の方を見る事は無い。そこに誰もいないように、皆がそう振舞っている。

 

「知り合い、なの?」

「シ……?」

「えっと、フレンド?」

 

 フレンド、その言葉について暫く考えた。そして日本語では無く、英語だという事が分かればその先は早かった。

 

「アア。」

 

 ただ、俺達の関係が友人であるかどうか、と聞かれれば違うと答えるだろう。でも、俺には彼女に友人以外に伝える言葉を知らない。伝えるつもりも無い。一期一会とは言うが、もう会う事が無いだろう人間に何かを伝える事も無いだろう。

 

 しかし、俺はきっと日本語が達者であったならこの少女に一言伝えただろう。

 

「運が無いな。」

 

 実際、このバスに乗り合わせた人間は運が無い。このバスは誰が何というと大学病院に向かう。どんな方法を用いられるかなんて、俺に知るすべはない。況してや、その状況を作り上げるだろう彼女だって分かっていないだろう。彼女の異能力はそう言う物では無いから。

 

 それにしても、マリアはもう少し貨幣の価値を知るべきだと思う。彼女にとって貨幣とは、外と同じ様に物を回すためのお遊びのような物なのだ。実際、あの村に貨幣がある意味は皆無に等しい。外で一度生きた経験のある俺達は良いが、あの村で生まれ育ったマリアにとっては外との価値観の違いを知らなすぎる。

 

 ズシンッとバスは大きく揺れる。バスの中央には、どうしてこのタイミングで落ちて来るのか、と言いたくなるような物が突き刺さっている。

 

 赤みが掛かった色に塗装されたH型の鉄骨が突き刺さり、疑似的なブレーキの役割を果たした。さて一体どれほどの高さから落ちてくれば、バスの天井と床を突き抜けて地面に刺さるのだろうか。そしていきなりかかった摩擦によって乗客の体宙に浮く。

 

 俺は咄嗟に隣に座っていた少女の手を掴み座席の下に隠れた。この後起きるであろうアトラクションに溜息を吐きたい気分だ。

 

 運転手の判断がいけなかった。運転手の後方で起こった事を確認する前に彼は咄嗟にブレーキとハンドルを切ったのだ。お蔭様で不安定な鉄骨を中心に慣性の法則が働いた。バスの中はミキサーの中身の様に色々な物が遠心力に引っ張られる。

 

 しかし、鉄骨がバスの重量を支えられる筈も無く4分の3回転で折れてしまった。そうなれば、回転力に身を任せバスは歩道に突っ込む。電柱をなぎ倒し、街路樹をへし折る。そして工事現場に突っ込んで、漸くバスは止まる。油の臭いが辺り漂う。

 

 横転したバスの中で体を起す。自分の腕の中にいる少女に目をむければ、目を回していた。()()()()()()()とはいえ、血生臭いこのバスの中から早く出たかった。それに横回転とたて回転が加わったアトラクションのせいで三半規管が役に立っていない。気絶こそしていない物の、俺も目が回っていた。

 

「大丈夫ですか? それにしても、凄かったですね!」

 

 

 こんな人がダラダラと血を流している状況で飛び跳ねていられるのはお前位だよ。

 

 

 口にこそ出さなかった物の、いい加減約束だった遊園地に連れて行ってやらなければと思う。

 

 そしてやはり彼女は、お金の価値と言う物を理解していない。バス一台に乗っていた乗客への補償金、電柱に街路樹、道路の補修費。その他諸々をこの事故を起こすきっかけとなった建設会社は支払わなければならなくなるだろう。総金額を考えただけで頭が痛くなる。事故で済ませられる程、被害者の感情は穏やかでは無いだろう。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 外から掛けられた声に俺はその方を見る。緑がかった作業服を着た人がこちらを見降ろしたいる。バスが止まった事で防衛態勢に入っていた人達が痛い、痛いと言い始める。女の甲高い泣き叫ぶ声に少女は目を覚ます。

 

 ただ、これで終わりでは無いだろう。大学病院に運ばれるほどの大怪我を恐らく負わされるのだろう。

 

「今、救急車呼んでるんで!」

 

 マリアはずっと、バスの後方を見ていた。まさか、と思った。しかし、それを確かめるより前に俺は少女の体を強く抱きしめた。背中に感じた激しい痛みを回避する為に、意識は底無しの沼に沈められた。

 

 炎の中にただ一人立っているマリアは羨ましそうに人間を見ていた。

 

 

 モリオウガイに頼もう。

 二度と待ち合わせ場所に病院を指定しないでほしい、と。

 命の保証があるとはいえ、こんな体験は懲り懲りだ。




お疲れ様でした。

まずは、UAが5000を突破してました。
ありがとうございます。

漸く、村人の一人がヨコハマに住む事になりました。

これで原作キャラと出会う確率がグンっとあがりました。
兎は嬉しい限りです。


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第二話 信用問題

お久しぶりです。
気が付けば一か月以上経っていたようで……。

すみません。


 足早に病院内を歩く男がいた。白衣を着た男は首からネームプレートを下げており、外部の人間であることを示していた。男が向かっているのは、つい先ほど緊急搬送された無傷の患者の部屋。その部屋には、現在男が最も警戒しなければならない青年が眠っている。

 

 警戒せねばならない理由を作ったのは、勿論青年の方で。初めて青年とやり取りをした日を思い起こす。あれは交渉と言うよりは脅しに近い物だった。戦術に置いて強かさに欠けるものだった。

 

 

 『最適解』と言う物を常に求め続ける彼は、私に言わせれば些か柔軟性に欠けるのだけれど。

 それ以上に縛られている私が何を言ったところで、説得力の欠片も無い。

 

 

 日本人にはあまり見られない、強引に物事をねじ込む。そう言った物だった。隣で聞いているだけだった私は決まりきった結末を聞く為だけに数時間電話をしている彼らを観察していた。あまり楽しくも無い思い出だ。

 

 穏やかで無い願望がこちらに近付いて来る。最も警戒すべき青年は未だ目を覚ます事は無い。事に及ぶのならば、早い方が良い。しかし、計画性の無い事をあの男がするだろうか。もし、そうしたと言うのならばこれ程面白い事は無い。他人の心を引っ掻きまわす事ほど面白い事は無いのだから。

 

 

 そう言う風に設定でもしてみようか。

 

 

 そこまで考えて、私は溜息を吐き出した。最近はどうも遊びに来る放浪者の彼の影響を受けすぎている気がしてならない。

 

 男は病室の中に入ってきた。一度、病室の中をぐるりと見渡した。西日が強く病室内に注がれ、それを遮る様に4つ並べられたベッドにはそれぞれカーテンで仕切られている。男は迷わず窓に近いベッドに歩み寄る。サイドテーブルにはチェス盤が広げられていた。それを一瞥するとその盤面はまだ試合中だと言うのがわかった。一つ足りないポーンは何処に置かれるのだろうか。男はそれを少し眺めた後、その奥に眠っている青年に目を向けた。穏やかな寝息を立てる青年を男は覗き込んだ。

 

―――カツン。

 

 軽い音が男の鼓膜を震わせた。先程のチェス盤に目を向けるとポーンが一つ増えている。そして別のポーンが盤からなくなる。男はナイトを手にし、それを動かした。

 

「チェックメイト。」

「ん、ん~~。」

 

 突如聞こえてきた唸り声。気が付けば、青年と男の間の丸椅子に座っている少女がいた。腕を組みながら必死に打開策を探している。

 

「ダメだよ。何処を動かしても私の勝ちだ。」

「あぁ、今回もダメですかぁ。」

「今回も……?」

 

 頬を膨らませてカタカタとポーンを左右に揺らした。それから彼女は駒を元の位置に戻し、また駒を動かし始めた。相手側の手順は森鴎外から見ても手慣れた人間の動きで経験者である事が分かる。一方の動きは全くの法則性は無く、何故そう動かしているのか分からなかった。

 

「アヌンツィアータ! 久しぶりね!」

 

 彼、森鴎外の後ろからひょっこり現れた可愛らしい少女。年をとる事の無いエリスは、勿論身長が伸びる事は無い。私より10センチ以上高かった身長はすっかり同じほどにまで縮んでいた。私は軽快にベッドから降り、彼女に抱き付いた。フローラルな香りに包まれる。

 

「エリスお姉さん!」

 

 真っ赤な可愛らしいワンピースを着たエリスは飛びついた勢いで少しよろけたが、すぐに体勢を立て直した。そして胸元に顔を埋めた私の頭を優しく撫でるのだ。

 

「それにしても、随分大きくなったね。」

「もう12歳ですもの。」

 

 昔はこんなに小さかったのに、なんて手で身長を表す。140㎝台に突入した私の身長は、まだまだ伸びる予定だ。

 

「彼が、電話の?」

「はい、アントニオ・ラスムセン。宜しくね、オウガイ。」

「勿論だよ。」

 

 にこやかに話す彼を私も笑みを浮かべながら観察した。そんな事をしているともう、昔のように純粋に彼に会う事の出来ていない自分に少しだけ悲しくなる。しかし、そんな事が何だと言うのだ。我を通す事しか知らない反抗期の子供では無いのだ。私は大人にならねばならない。

 

「もう少ししたら起きますから、ちょっと待っててくださいね。」

 

 私はエリスから離れ、椅子に座り直した。そしてテーブルに置いてある駒を弄る。

 

「そう言えば、アヌンツィアータちゃんはチェスが好きなのかい?」

「いいえ。」

 

 私は首を横に振って答えた。実際に私はこのチェスと言うボードゲームに何か特別な思い入れがある訳では無い。あるのは対抗心だ。心の中に溜まった恐ろしい嫉妬だ。

 

「根無し草のお兄さんが最近よく村に来るんですけどね。そのお兄さんがとってもチェス強いの。一回も勝てないんです。」

 

 だから、勝てるように練習してるの。

 

 面白くなさげな表情がキャビネットのガラスに映し出されていた。最初は自身が初心者だからと思っていたが、半年経っても一年経っても一向に勝てないのだ。あまりの勝てなさから私は彼との試合を記録し、まずはその試合に勝つことから始めたのだ。結末が分かっていればどう動かせば勝てるのか自然と分かるのでは、といった何とも安直な考えだ。

 

 困った事があるとするならば、指示してくれる人間が誰もいないという事だ。根無し草の彼は、文字通りいつも村にいる訳では無い。何をしにきているのか詳しくは知らないが、三日以上あの村に居た事が無い。

 

「そんなに強いのかい?」

「えぇ、チェスで生きて行けそうなくらいには。」

 

 私は根無し草のお兄さんの事を子供のように思えていた。中身では到底彼に敵う事は無いだろう。恐らく何をしても一生負け続ける。だからこそ、なのかもしれない。

 

 彼はとても我儘だ。

 そして彼は子供だ。

 

 自身の頭の中の夢を世界に押し付けられると思っている。彼にとって不幸だったことはそれを叶えられそうだと思えるほどの知能を持ち合わせてしまった事だろう。

 知能が先なのか、夢が先なのか。私には判断が付かない。しかし、私は好きにすればいいと思う。私にとってあの村以外はどうでも良い物なのだから。村に何も及ばないのであれば、何も言う事は無いだろう。

 

「本当に、可愛そうな人。」

 

 口の先から零れ落ちた言葉を拾い直すことは出来ない。不思議そうにこちらを見詰めてくる森鴎外の視線を気にしないでパタパタと足を動かした。

 

「バスの中にいた人達、全員無傷だそうだね。」

「そうみたいですね。それがどうかしたのですか?」

「あれは、君の仕業かい?」

「傷を治したのは私じゃありませんよ。」

 

 首を振る私を見て、森鴎外は当てが外れたと思ったらしい。一瞬、笑みを浮かべていた表情が動いた。

 

「そうなのかい?」

「えぇ、だって。治す理由がありませんもの。私は何もしていません。アントニオの怪我だって、私が治した訳では無いもの。」

 

 そうか、と呟くと彼は少し考え込んだ。ん、と小さい声が聞こえた。振り返れば、眩しそうに目を細めるアントニオがいた。壁に掛かっている時計を見れば、時間通りである。きっちりかっちり3時半。

 

「やぁ、おはよう。アントニオ君。」

 

 アントニオは彼の顔を見て、ヒクリと口角をあげた。

 

 

 

 

 

 

 彼が用意してくれた小さな集合住宅(アパートメント)の一室に私とアントニオはいた。家具は最低限の物が用意されており、私は寝具に腰かけていた。ザラザラと何かを吹きかけたような壁の感触を不思議に思い、触り続けた。

 

「はぁ。」

 

 気疲れからか、アントニオから漏れる溜息。台所(ダイニング)に立つ彼は風呂上がりで、暑いのか肩にタオルをかけているだけで上半身は何も着ていない。湿った前髪を掻き上げ、じっとコップに映る自身を見詰めている。そしてまた溜息を吐き出してぐっとコップの水を飲み干した。

 

「大丈夫?」

「あぁ、大丈夫だよ。心の準備が欲しかったけどね。」

 

 あれから刺々しい会話の応酬が続いた。部屋の中は殺伐とし、とても病院の中とは思えないほどお互いが気を許さずにいた。

 

「とても居心地が悪かったですね。」

 

 私の言葉に苦笑いを浮かべ、困った様に頬を掻いた。水の入ったコップを私の前にあるテーブルに置き、そして彼も隣に座った。私は水滴のついたコップを受け取り、冷たいであろう水を胃の中に流し込んだ。ふぅ、と溜息が口から漏れだした。

 

「明日の予定だが、本当に一人で大丈夫なのか?」

「勿論ですよ。ただ、マリがこちらに来る予定があるのでそれに合わせて少し見に行くだけですから。」

 

 マリ。黒い髪の少女。この世に生まれてから二度名字が変わっている。今は日本では有り触れた二文字、読みにして三文字の名字を持っている。

 私の異能力の影響を受けた事で牧師様が彼女の経歴を書き出した。そして分かった事は彼女と森鴎外には確かなかかわりがあるという事だった。今回の交渉のだしに使われた彼女。それに関して森鴎外の怒りを買ってしまったかもしれない。そしてその事に私が関わっている事など森鴎外には御見通しなのだろう。

 

 

 それでも彼が私を手放そうとしないのは私に利用価値があるからか、首を落とす機会を狙っているのか。

 

 

 どうも考えることが物騒になってしまったような気がする。ただの相手の好意とは考えられなくなっている。10代前半でこんな考え方を持ちたくはなかったものだ。

 

 目を閉じれば、考えてしまう。ただ彼に手を引かれて、楽しい時間を過ごせていたかもしれない別の未来を。何も知らず、何も考えず。ただただ、駆け寄って行こうとする。そんな安心を手に入れられたならばと、思ってしまう。

 

 

 訪れる未来が決まっているのだから、歩めないその先は想像しないと誓ったはずなのに。

 

 

「マリア?」

「何ですか?」

 

 眉を顰め、私を見下ろす彼に首を傾げる。

 

「いや、何でも無い。」

 

 そうですか、と小さく呟きベッドの上に乱雑に置かれた資料を見た。ペラペラと捲るそれには可愛らしい少女の笑顔が描かれていた。

 

「牧師様の異能力、か。」

「本当に便利な異能力ですよね。教会が牧師様に真実を伝えなかった理由が良く分かります。」

「便利と言うか……、いや。異能力とはそう言う物だよな。お前の、ハンスさんのもそうだが。」

 

 ボスッと彼は私の身体を抱きしめて、一緒にベッドの上に横になる。

 

「異能力ってのは、恐ろしいもんだ。」

 

 彼がぽつりと零した。私は蛍光灯に照らされた部屋の中をじっと見つめるだけで、返事を返す事は無かった。

 

「人生の選択肢の幅を大幅に狭くする。」

 

 ある一定の年齢を過ぎれば、誰もが前回を思い出す。あの村で結婚する夫婦がいても子供を作らない理由はそこにある。その前回に引っ張られるからだ。前回とは性別が異なる人も少なくない。だからこそ、元同性と結婚し、そう言った行為に映る事は滅多に無い。背徳感に悩まされるそうだ。

 

 そう言ったものを乗り越えなければ結婚はしても、子供は作らないのだ。ヨーゼフを息子として向かい入れた夫婦だって元の性別がそれぞれ一緒だったからこその話だ。それに彼女達にはまだ子供は出来ていない。

 

「前回の俺を殺したのは、銃だった。前回の私を殺したのは、戦争だった。」

 

 私、と彼は言った。私自身、前回の彼女と出会った事は無い。彼が生まれたのは、もう二十年近く前の話だ。私は生まれていない。だから、何があったのか知らない。その記録は破り捨てられている。

 

「私は、君が心配だよ。私達のエゴにつき合わせてしまった。君には君の未来があったはずなのに。」

「それなのに、謝らないのが貴方達の良い所だと思っていますよ。それに、心配はいりませんよ。流される事にしましたから。その為に、私はあの日……。」

 

 昔の事を忘れたんです、と言った私の言葉に彼女は私を抱き寄せた。女性らしさの欠片も無くなってしまった体でも、彼女はそっと慣れた様に私を抱きしめた。

 

 

 流石は二児の母親だ。こういう事には慣れていたのだろう。

 

 

 私は小さく切られた写真を資料の中から取り出した。丸く何かに収まるように切られたそれは笑みを浮かべ目を閉じた女性が映っている。何かに収まるように切り取られたそれがピッタリと収まる場所を私は知っている。

 

 くるりと寝返りを打ち、私は彼のポケットに入っている懐中時計を取り出した。カチッと音を立てて開いたそこには幼い私であろう赤子の写真が挟まっていた。そこに写真を押し当てれば、やはりピッタリと収まった。

 

「懐かしい。そんな写真残っていたのね?」

 

 口調が完全に前回に引っ張られている。戦争中に何か思いだしたようだけれど、それから彼はちょくちょく引っ張られているように感じる。

 

「本当に懐かしい。会った事は無かったけれど、彼女には感謝している。」

 

 私は思う。私の父は、あの村の人間は、私の時と同じ様に母を愛してなどいなかっただろう。彼らにとって、生者は妬ましい存在だ。

 ジェニー・リンドが選ばれた理由。彼女が喋る事が出来なかったからではないだろうか。彼女が喋れない。そして先天性色素欠乏症を患っている私は目が悪かった。日本では、白子(しらこ)と呼ばれるこの病気は視覚に様々な障害が現れる。私の場合は視力が弱かった。暗い中で過ごしていたから尚の事、目を使うという機会が失われていた。

 私は文字を習わなかった訳では無い。習っても見る事が出来なかったから、本が読めなかったのだ。あの村には高度な技術が用いられ、何かを作り出す事は無い。故に、コンタクトレンズは言わずもがな、眼鏡さえ存在しない。古びたルーペを使いまわしているような時代錯誤も甚だしい村だ。

 今は牧師様の異能力が補完しているからこそ何の問題も無く物が見えている。

 

 しかし、それも二年前の十一月の話。逝って帰ってきてからの話。

 

 喋れない母親と目が不自由な娘。母親は兎も角、娘の方は母親に対しての思い入れが少ない。現に私は母親を勘違いしていた。父の事は残りかすの様に残っていても、母の事は何一つ残っていなかった。彼らは私の中から外の人間の事を徹底的に排除しようとしたのだ。

 

 もし、昔の事を覚えていたとしても母の顔など、分からなかっただろう。だから、不思議なのだ。

 

 どうして母親の写真が残っているのか。

 まるで、大切にされていたみたいじゃないか。

 

 

 愛されていたなんて、愛されているなんて。

 とてもではないが……。

 

 信じたくないのだ。




お疲れ様でした。
来週投稿できるか分かりませんか、書き始めていはいます。

少しの間小説から離れていると戻ってきた時に、多少設定を忘れていてあれ?ってなりました。
人間って意外に忘れる生き物ですね。
困った、困った。

文ストの小説もチラチラと増えてきているようで、兎としては嬉しい限りです。
兎は雑食なので、選好みなく読みます。
楽しみ、楽しみ。



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第三話 貴女は誰かの忘れ物

お久しぶりです。
実はずっと前から書きあがっていたのですが、中々見直しが出来ずに気がつけば11月ですよ。
申し訳ない。


 一見何の変哲の無い建物。

 何処にでもある建設物。

 市民の憩いの場として当初は設けられたであろうこの場所は、最初からそのためになど作られてはいなかった。私が初めてこの場所を訪れたのは、ある一人の男と面会した時の事だ。その男と私との因縁は、私が母を亡くし、父親の伝手で東北のある医者の元へ預けれらたことから始まった。私はその地で二人の友人を作った。

 まぁ、その話はまた今度にしよう。そう、今回の事で迷惑をかけてしまった(じゃく)の事も。

 一般人を欺いて作られたこの建物の深部は、当然ながら許可された人間以外は入る事が出来ない。少し湿っぽい地下の最深部には、これから息が詰る様な退屈に押しつぶされる事が決定した男が俯いて座っていた。しかし、男は決して自身の運命に悲嘆していた訳ではない。私は目の前の男がそんな男は青年、いやまだ垢抜けない少年はそんな些細なことで悲嘆しないだろうと思った。ここには娯楽になる様なものは殆んどない。それでも、と彼女は考える。目の前の男にどんな娯楽を用意したところで満足しないのだから。無駄な金を掛ける必要はないだろう、と。

 

 その前には未だ十代に届かない少女が鉄格子を挟んで立っていた。

 

「それで、君は何をしに来たんだ?」

 

 その声は低く、とても男性らしい声だった。彼は社交辞令のようなニュアンスでその言葉を選んだわけだが、その言葉を受けた少女はその男の中に自身を歓迎好きなどさらさら無い事を理解していた。

 

「お友達に会いに来たの。」

 

 ぎゅっと抱きしめられた黒猫の縫ぐるみの首が閉まる。この言葉の中に果たしてどれ程の思いが込められているのだろうか。

 男は微かに地面を擦る微かな音に眉を顰めた。留置場に用意された椅子、一脚から聞こえて来る音。規則正しく一足の靴が地面を擦る。

 男がその方を見れば、自身と同じ色を持った少女がこちらを見ていた。ニコニコと笑みを浮かべ、足を前後に揺らしている。目の色は男に比べ青みがかっている。その容姿に溶け込みそうな白いワンピースを着た少女は彼が彼女を認識した事に満足したのか、椅子から飛び降りた。ペタペタと湿気過多な床を音を立てながら彼女は鉄格子をすり抜けていった。

 

「君のお友達は、随分と変わっている。あの少年といい、その子といい。」

「それって、自分も入っているの?」

「……、あぁ。そうだったな。私と君はオトモダチだった。」

 

 まるで忘れていたとでも言うような言葉に私少しムッとしかめっ面を浮かべた。男の方は当然少女の事をそこまで重要視していなかった。ただ、あの田舎町で出会った新しいおもちゃに手を出した。その結果がこれである。それならば、あの少年の方が友達といえるだろう。ただ、遊戯(ゲェム)に負ければ友達になるという約束をしてしまっただけの事。しかし、男は知らなかった。その約束には恐ろしいほどの強制力があっただけの事。

 

「そんなに不満があるのなら、異能力でも使えばいいじゃないか。」

「普通の人はお友達作るのに異能力は使わないでしょ。これ位、ちゃんとできないと人にはなれないよ。」

「友達なんて居なくとも、俺達は人だろう。」

「人間社会に馴染めないって話。貴方と違って私は外で生きて生きなきゃいけないの。」

「なら、君もここに居ればいいのに。」

 

 ニタニタと笑みを浮かべる男に少女は小さく溜息を付いた。彼の言葉に首を横に振り踵を返した。

 

「私はね、外で役に立ちたいの。」

 

 誰の、とは私は話さなかった。誰かは、忘れてしまったから。

 そう言って出て行った先を男はじっと見つめる。男は東北で起こしたとある事件を思い出す。そして彼女に掛けられた呪いを目の当たりにした。

 少女に話を聞けば、彼女はとある約束をしたらしい。その約束がどういった物だったのか想像は容易くついた。男は自身の隣に常に座り続けている先程の少女とうり二つの少女の方へ目を向けた。ずっと男の服の袖口を掴み、こちらを見上げている。目が合えば、約束を守れ、と口五月蠅い姑の様に話しかけて来るのだ。男は堪らず小さく溜息を吐き出した。

 

 少女はあれを祝福だと称したが、男はあれを呪いだと称した。定義付けられた道を通る事しかできない呪いだ、と。男から見れば、全て想像の出来る未来など詰まらないと思った。だから開放してやろう、と。彼にとっての暇つぶしでしかなかった。

 しかし、どうだろうか。あの少女は一瞬確かに死の縁に立った。三途の川に両足を突っ込んだ。それでも彼女は帰ってきた。連れ戻された。その時の記憶はないだろう。彼女は自身が一度死んだなどど思ってはいないだろう。

 男は確かに確認したのだ。生暖かい鮮血は床に温度を奪われ次第に冷たくなって行くその姿を。

 死ぬ事さえ咎められた罪人の様だ。男にとって彼女は生きる事を強要された実験動物だった。しかし、だからこそ。その生命の歪さが彼女を人では無い何かに仕立て上げた。

 

 パタパタと足音が響く。急いだ様子で戻ってきた彼女。

 

「また今度ね。」

 

 それだけを告げ、彼女は廊下を走って行った。真っ白な少女はこちらを一瞥をすると彼女も出て行った。

 

「全く、次は無いよ。」

 

 先程の少女の発言を簡単にひっくり返す男。皺一つないパリッと糊の効いたスーツに身を包み、整えられた髪。少女は青年を見上げ小さく溜息を付いた。

 

「無いって、夏休みにも来るもん。」

 

 ぷくっと頬を膨らませた彼女は、友達という言葉に何か特別な思い入れでもあるのだろうか。青年は困ったと頬を掻き、我儘なお姫様をどう諫めようか少々思案した。小学三年生になった茉莉は、良く口が回る。地下に続く廊下の途中で茉莉たちは足を止めた。目の前から歩いてくる少年に目を向けた。壮年の男に連れられた少年とすれ違う。ちらりとその少年を一瞥した。若い男は壮年の男に頭を下げる。その事からある程度の権力を持ったものなのだと理解した。

 

「それじゃあ、東北に帰ろうか。」

「その前にお願いがあるの。」

 

 真っ直ぐ紅い目が彼を見上げた。

 

「何だい?」

 

 青年は珍しいと思いながら、この一年間聞いた事の無かった『お願い』の内容を聞いてみた。

 

「私の昔のお家に行きたいの。」

「あぁ……。」

 

 彼女の言葉に青年はいいあぐねた。ぽりぽりと頬を掻いて彼女の家を思い出す。

 

「横浜にある君の実家は、もう取り壊されて新しい家が建ってしまっているんだ。だから、何もないよ。それに君は覚えていないんだろう。」

「別に家を見たい訳じゃないの。ただ……。」

 

 青年は頭の中に地図を広げた。彼女の家の近くの教会、そして公園。暫く思案してから今日くらいは、と考えた。

 東北の家では彼女に構ってやることは出来なかった。彼女が異能力者であるという事が分かった以上、目を離す訳にはいかなくなった。精神干渉系の異能力者は珍しい。珍しく、危険だ。今の所、異能力に対抗するものは異能力しかない、と言うのが一番な問題だった。

 

「あまり長くはいられないよ。」

「帰るのは明日なのに?」

「予定にはないからね。君は、完璧に管理されなければならない。その為の人に挨拶も行かなくてはいけないしね。やる事は意外とあるんだよ。引っ越しの準備もしなければならないからね。」

 

 君の異能力は、面倒な物だから。

 

 少女は自身の手を引く、青年を見上げた。医者である彼に妻は無く、知り合いが自身の事を押し付けられたらしい。当初本人も大分渋っていた。私の事を見て、彼は顔を顰めたのだ。今引かれている手だって、彼はきっと責任感から私の手を握っているだけで、その心の中にはきっと少しの慣れしかないのだろう。私も彼の家の住人に慣れる事は無かった。それでも、少し位人付き合いと言う物を学べたのは、とある少年のお蔭であったと心の中で感謝するのだ。

 

「それに、早く帰らなきゃ山田君に会えないよ。」

(じゃく)の名前を出せば私が言うことを聞くと思ってるでしょう!」

 

 少女は頭の中に一人の少年を思い起こした。同じ年の少しだけ内気な少年だ。裕福とは言い難い家の生まれ。少しだけ赤茶けたその瞳はいつも申し訳なさそうに垂れていた。

 

「でも、時間がないのなら早くいかないとね。ほら、佐藤先生! 行きましょう。」

 

 少女の軽い足音が廊下に響いた。片手だけで自身の自重を支えなければならない猫は振り回され、痛覚があったならば痛い、と悲鳴を上げていることだろう。佐藤先生、と呼ばれた青年はあきらめた表情を浮かべ、少女の後を追った。

 

 少女はそれから電車に乗り、横浜の駅に降りた。趣よりも現代感を感じる、都市の駅という言葉が似合う駅をきょろきょろと観察した。

 

 周りを気にしすぎたのだろう。誰かにぶつかり、少女は転んでしまった。見上げるとそこには少し筋肉質な背の高い外国人が立っていた。少女は怖くなり、謝る事もせずに佐藤に隠れた。

 

「Sorry。」

 

 と、佐藤は謝罪をすると外国人はポケットの中から棒のついた飴を取り出し、少女に渡した。それから二言三言何かを喋った後、何処かへ行ってしまった。

 

 迷子にならないようにと佐藤の手を握り、外へと向かう。東北の田舎町に暮らす彼女にとって昔住んでいた場所だったとしても、人の多さに少しだけ気おくれした。どこを見ても人と空に届きそうな灰色の建物ばかり。

 駅を出ればすぐにタクシーに乗り込んだ。そして聞き覚えのない住所。そこに向かって車は走り出した。流れる景色は次第にどこか見覚えのあるような気がするものへと変わっていく。色合いがどこか似ている家々の中にポツンと大きな白色の建物が存在する。

 大きな鐘の音が鳴り響く。どうやら結婚式が執り行われいたらしい。純白のドレスに身を包んだ女性が幸せそうに微笑んでいる。その邪魔にならないようにそっと横にすり抜けた。しかし、そこにはもう墓地はなかった。ただの整備された広めの草原だ。

 

「あれ?」

「どうしたの?」

「ここに、墓地があったはずなんだ……。」

 

 日は高く昇り、影が自身の真下に出来ている。大きめの石で舗装された道を通り、一本の木を囲む様に並べられた長椅子。その椅子に一人の男が座っている。桃色の花が咲いているのに、彼はマフラーをしている。少し暑そうだ。

 その隣は真っ黒な修道服を着た修道女が座っていた。幽霊のような青白い肌に、外国の人を思わせるはっきりした顔立ち。修道女はこちらに視線を向けるとにこりと微笑んだ。紫色の瞳を細め、こちらを見る彼女。睫毛が白く、ベールの下からちらりと覗く白髪は、光の加減か金色に見える。彼女は座っていた長椅子から立ち上がり、こちらに向かってきた。

 私は彼女が浮いているように見えた。存在が浮遊していて、透けているように見えた。彼女は細長い指で私の頬を撫でた。それから彼女はスゥッと消えてしまった。

 吹き込む風は二年経ち伸びた髪を揺らした。黒い猫をしっかりと抱きしめて、目の前の現実を受け止めた。佐藤先生が私の表情を少し覗き込むような視線を向けた。それから、困った様に頬を掻いた。

 

「さあ、行こうか。」

 

 ここに長居しても仕方がない、と思ったのだろうか。佐藤は彼女の手を引いた。しかし、彼女は動かなかった。彼女は出口とは別の方へ歩きだした。彼女はベンチの前に立ち止まった。木の裏側にいた男を見る。男は寝ていた。酷くぐったりとしており、目の下には酷い隈が見受けられる。男の手にはしわくちゃの紙が握られている。茉莉はその紙をぺラリと手に取った。

 

「あ、こら。人の物を勝手にとっちゃダメだよ!」

「……。」

 

 じっと、その紙に書かれた内容を読んだ。知らない文字、知らない文体。彼だけの世界の話。

 

 彼女はその文章の右下には、彼の物と思わしき名前が書かれていた。彼女にはその名前がまだ読めなかった。しかし、きっちりと記憶した。その文字の形を。紙を元の場所に戻し、彼女は教会の入口へと向かった。佐藤は寝ている男を一瞥し、それから急いで彼女の後を追った。彼女達がいなくなった後、男はパチリと目を開けその背をじっと見つめてからぐっと背伸びをした。

 

 

 

 

 

 

 公園は健在で、そこには数人の幼児が親とともに訪れていた。キャッキャッと騒ぐ子供は彼女達に目もくれず、公園内を走り回っている。その光景が少し懐かしく、羨ましいと彼女は感じた。遊具で遊ぶ事なく入り口でじっと子供達の様子を眺めていると、ボールが転がってきた。それを拾い上げ彼らの方に投げてやれば、母親の一人が頭を下げた。彼女はそれにつられ、小さく頭を下げた。

 

 満足したのか、彼女は佐藤の手を握った。佐藤は未だ名残惜しそうに公園を見つめる彼女の手を引き、その場から立ち去る。駅へと向かう途中、彼女はあの場所に辿り着いた。昔は、色々遠回りをしたようだ。立ち止まった私を佐藤は見下ろした。彼の手からするりと彼女の手はすり抜けた。そしてこの先にあるであろう神社へと階段を駆け上がった。黒さが目立つ鳥居をくぐり、石段を駆けあがった。後ろから彼の声が聞こえて来るが、今の彼女は気に止めなかった。階段を駆け上がるとそこには見覚えのある神社が建っていた。

 違いがあるするならば、あの時とは違い廃れているように見える。

 

「何か、お探しかい?」

 

 お嬢さん? と柔らかな声で彼女に尋ねたのはおじさん、と呼ぶには少し若い男。彼女はじっとその男を見上げる。

 

「そうそう、君の知り合いにこれを渡す様に頼まれたんだよ。」

 

 そう言って彼が私て来たのは可愛らしいカチューシャ。それを見ると頭の片隅で誰かの笑顔が掠めた。長く白い髪を靡かせて笑みを浮かべている少女。

 

 あぁ、忘れてしまった。

 あぁ、思いだせない。

 

「私の、知り合い? 私の名前も、知らないのに?」

「知っているよ。君のお母さんには、良くしてもらったからね。」

 

 彼女は改めて男を見上げた。若い男だ。真っ黒な髪色、真っ黒な瞳。顔は中の上。ただその面立ちからか、軟派な雰囲気がある。黒色のスーツを着ているのに、どうしてだか客引きの人に見えてしまう。ある意味で損な人だ。

 

「お母さんを知っているの?」

「あぁ、仲が良かったよ。昔の話だけどね。遠い昔の話だ。絶縁されてからは、会っていなかったんだけど。」

 

 木漏れ日の中から空を見上げた彼は視線を彼女の後ろへと向けた。それにつられて後ろを向けば、先程置いて来た佐藤が肩で息をしながら地面を見ている。

 

「あぁ、時間通りだ。御苦労様でした。」

 

 佐藤は顔を上げ、目の前の男を怪訝に見詰めた。

 

「矢田部さん、ですか?」

「えぇ、初めまして。矢田部達郎です。」

 

 どうぞよろしく、と言った男は口元だけに笑みを浮かべた。彼女は彼の名前を小さく呟いた。彼女の言葉を聞いて彼は人受けのよさそうな笑みを浮かべて見下ろしている。短く切りそろえられた彼の髪が揺れる。

 

 彼女、佐藤茉莉はこれから先程あった男と同じ様に異能特務科の監視下に入る事となる。

 

 佐藤は彼女を押し付けてきた父親の顔を思い返した。彼はこうなる事を予想していたのだろうか。彼女に対して思い入れなどありはしない。女性として、生きて行くには少し難しい性格の彼女には随分と使用人が手を焼いていた。だらしない彼女はこれから生きて行くのに苦労する事だろう。

 父親では無いが、少しだけ幼い彼女が心配でならなかった。




実は大学の編入試験を受けておりまして、その勉強で忙しかったんです!

すみません、言い訳です。

ただ、ヤングエース買っていないので今どんな展開になっているのか、わからないんですよ。
太宰さんは欧州の何処かの収容施設にいるようですが、何処なのか気になりますね。
ちょっとその収容施設使いたい。

一人、その施設に居れたい子がいるんですよね。
ダメだったら、その時考えます。
取り敢えず、四章頑張ります。
 




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