ゼノヴィアの学園生活 (阿修羅丸)
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隣の席の男子

「ご紹介に預かりました、ゼノヴィア・エグゼヴィアです。よろしくお願いします」

 

 そう言って、ゼノヴィアはクラスメートたちにペコリとお辞儀をした。

 

「また外人か……」

「日本語上手……」

「綺麗な人……」

 

 悪魔に転生した事で強化された聴覚が、生徒たちの呟きを聞き取る。挨拶はとりあえず上手くいったようだ。練習した甲斐があった。少女は小さく安堵の息を漏らした。

 

 その後、担任から指し示された空席へと向かう。背筋をピンと伸ばして颯爽と歩く姿に、男子も女子も見とれていた。

 

「ほらよ」

 

 席に到着すると、隣の席の男子生徒が手を伸ばし、椅子を引いてくれた。

 

「ありがとう」

 

 ゼノヴィアは礼を言って、椅子に座る。

 男子生徒は、無言で手を軽く上げるだけだった。

 

 

 一時間目の授業は国語だった。

 ゼノヴィアの学園生活は早速ピンチを迎えた。

 悪魔に転生した事で、言語のヒアリングは問題なくなった。

 しかし、読み書きはまた別の問題である。先生から教科書を読むように言われたものの、読めない漢字が出てきた。『憂鬱』という漢字だ。画数が多くて、ゼノヴィアにはもはや古代文字にも等しかった。

 

(まいったな……)

 

 ここは素直に、「わかりません」と言うべきだろうか? しかしすぐに音を上げるのも何だか悔しい。

 どうしたものかと思案にくれた時、隣の席からスッと手が伸びて、机の上に一枚の紙切れを置き、また引っ込んだ。

 

「――?」

 

 見ると、紙には『憂鬱』と書かれ、しかもローマ字で読み仮名が振られている。

 おかげでゼノヴィアは難関を乗り越えて、そのページを読み終える事が出来た。

 

 授業が終わると、ゼノヴィアは隣の席の少年に話しかけた。

 

「さっきはありがとう。助かったよ」

「いいって事よ」

「だが、よく私のわからないところがわかったね」

「何となくだ」

「そうか。何はともあれ、助かった。教えてくれてありがとう……えぇっと」

 

 名前を呼ぼうとしたが、まだ聞いてなかった事に気付く。

 

「ああ、佐久間隼人ってんだ。よろしくな」

「よろしく、隼人」

 

 ゼノヴィアは手を差し出して、友情の握手を求めた。

 隼人はそれに快く応じる。

 暖かい手だなと、ゼノヴィアは思った。

 

 

 四時間目は英語だ。

 佐久間隼人は先生に指されて、教科書の英文を翻訳する。

 ――が、途中で行き詰まった。

 

『fairy-tale』

 

 この単語の意味がわからなかった。

 

(妖精の尻尾って何だよ……)

 

 そのまま英文を訳すと、『時には妖精の尻尾を読むのも良いものだ』となる。意味不明だ。

 

(どーすっかな……)

 

 いっその事、「わかりません」と音を上げるか……そんな考えが頭をよぎった。

 しかし、ふと視界の端に、こちらをじっと見るゼノヴィアの顔が見えた。まるで赤ん坊のようにひたむきに視線を送っている。

 

「どうした? 降参か?」

「いえ、大丈夫です」

 

 教師の問いに、ついそう答えてしまったのは、女の子の前でカッコ悪いところを見せたくないという少年らしい幼い見栄からだった。

 

(とは言え、どーすんだコレ……)

 

 思いきってそのまま翻訳してしまおうかとすら思う。正解ならそれで良し、間違えても、笑いは取れるだろう……。

 半ばやけっぱちな気持ちでいると、隣からスッと白い手が伸びて、すぐに引っ込んだ。

 ゼノヴィアだ。

 何やら紙切れを彼の席に置いたらしい。

 

(……?)

 

 見れば、ノートの切れ端と思しきそれに、『おとぎばなし』と平仮名で書かれている。

 

「……時にはお伽噺を読むのも良いものだ。クワトロはカミーユにそう言ったら殴られた」

「よし、そこまで」

 

 教科書に目線を落としていた教師は、ゼノヴィアの助け船には気が付かず、今隼人が翻訳した英文の解説を始める。

 

 隼人がチラリと隣の席を見ると、ゼノヴィアは正面を向いて、教師の説明を一生懸命に聞いていた。

 隼人はつい、その真面目な横顔に見とれてしまった。

 

 

 英語の授業が終わって、昼休み。

 

「ほれ」

 

 席を立っていた隼人は、戻って来るなりゼノヴィアに缶コーヒーを差し出した。

 

「……?」

 

 しかし、頼んだ訳でもなければおごってもらう理由もない。ゼノヴィアはただ、首をかしげるだけだった。

 

「さっきのお礼だ」

「ああ……気にする事はない。私だって、国語の時に助けられたしね」

「いいから受け取れ。男に、一度出したもん引っ込めさせるな」

「ふむ、そう言うのならばいただこう」

 

 ゼノヴィアは缶コーヒーを受け取り、プルタブを開けて飲み始めた。

 隼人は自分の席に座り、ゼノヴィアが両手で缶を持ってお行儀よく飲む様を眺める。

 

「しかし何だな……英語ってのはややこしくていけねえ」

「ひらがな・カタカナ・漢字の三種類の文字を使用する日本語ほどではないと思うが……」

「でもよぉー、さっきのあれだって、『物語』と『尻尾』でどっちも『テール』って読むんだぞ? ややこしいだろ」

 

 ブッ!

 

 突如ゼノヴィアが吹き出した。

 軽く咳き込んだ少女は息を整える。

 

「……俺、なんか変な事言ったか?」

「ああ……読みは同じ『テール』でも、『尻尾』の方の綴りは『tail』だ。まったく違うよ」

「……そうだっけ?」

「そうさ。もしかして私が教えなかったら、『妖精の尻尾』とでも読むつもりだったのか?」

「……ノーコメント」

「おもしろい奴なんだな、君は」

「ほっとけ」

 

 隼人はプイッとそっぽを向く。

 その幼稚な態度が逆に可愛らしく見えて、ゼノヴィアは知らず口許を弛ませた。



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同級生の秘密

 昼休み。

 ゼノヴィアは一人で校内を散策していた。

 アーシアや一誠が案内を買って出たが、二人がなるべく一緒にいられるようにしたいという気遣いから、ゼノヴィアはそれを断ったのだ。自分の目で見て回った方が覚えるのも早いから、というのもある。

 

 しかしゼノヴィアは、早速その自分の判断を後悔する羽目になった。

 迷ったのだ。

 

(困ったな……)

 

 道を尋ねようにも、こういう時に限って、周囲には人っ子一人いない。

 さてどうしたものかと辺りを見渡すと、遠くに見覚えのある建物が見えた。

 二時間目の物理の時間に訪れた実習棟だ。そこから教室に戻る道ならばわかる。

 パタパタと小走りで向かうと、少女の耳に音楽が響いてきた。ハーモニカの音だ。

 

「――?」

 

 音楽室は実習棟とはまた別の校舎にある。いささか場違いな音に、ゼノヴィアは好奇心から、音をたどって実習棟の裏庭へと歩を進める。

 

 裏庭には古ぼけたベンチが一つあり、そこに男子生徒が一人座って、ハーモニカを吹いていた。

 

 のどかでありながら、どことなく寂しさや哀愁を感じさせるメロディを奏でているのは、ゼノヴィアの隣の席の佐久間隼人だった。

 それがわかって、ゼノヴィアは安心した。

 今朝もこの実習棟には彼が案内してくれたのだ。ぶっきらぼうなところはあるが、決して悪い人間ではない。道に迷ったと素直に打ち明ければ教室まで連れていってくれるだろう。そうでなくとも、同じクラスなのだから彼についていけば必然教室に戻れる。

 

(主よ、感謝いたします!)

 

 ゼノヴィアはこの幸運を、いつもの癖で神に祈ってしまった。

 

「ふぎゃっ!?」

 

 突然頭の中に走る、稲妻のような強烈な痛み。思わず年頃の乙女らしからぬ声を上げてしまう。

 

 ファファンッ!

 

 その声に驚いて、隼人のハーモニカもすっとんきょうな音を鳴らしてしまった。

 

「だ、誰ダッ!?」

 

 よもや人がいるなどとは思ってなかったので、誰何(すいか)の声も半ば裏返る。

 その声に応えるように、ゼノヴィアはフラフラと物陰から姿を現した。

 

「お、驚かせてすまない……」

「なんだ、ゼノヴィアか。大丈夫か?」

「あ、ああ……何ともない……全然平気だ」

「凄い説得力だな」

 

 おぼつかない足取りや若干青白くなっている顔を見て、隼人は言った。

 

「とりあえず、座れ。倒れても知らんぞ」

 

 自分の隣のスペースを手でポンポン叩き、着席をうながす。ゼノヴィアはおとなしくそれに従った。

 

 数秒ほどで、祈りのダメージは消えた。

 

「で、何やってんだ、こんなとこで」

「道に迷ったんだ。だけど実習棟から教室に戻る道ならわかるから、とりあえずここに来た。そうしたらハーモニカの音が聞こえてきたので、様子を見に行ったら君がいた」

「そういう事か」

「君こそ、何故こんな所で練習を?」

「部員でもねーのに音楽室使う訳にはいかんだろ。それに、ここなら誰も来ねえからな――さっきまでは」

「う、すまない」

 

 彼の練習を邪魔したのには変わりはない。ゼノヴィアはその点は素直に謝った。

 

「誰にも言うなよ」

 

 隼人はジロリとにらんでそう言った。

 

「ああ、わかってるさ……だが、条件がある。さっきの曲を、もう一度聞かせてもらえないか?」

「…………」

 

 ゼノヴィアの要求に、少年は唇を尖らせて不満をあらわにした……が、

 

「一回だけだぞ」

 

 と言って、演奏を始める。

 曲目は『ふるさと』。日本人には馴染みのある歌だが、讃美歌以外の音楽にはとんと馴染みのないゼノヴィアには、ハーモニカで奏でるメロディはとても新鮮で、聞いてて耳に心地好かった。

 演奏が終わると、ゼノヴィアは心からの拍手を送った。

 

「凄く上手じゃないか! 素晴らしいぞ隼人!」

「あー、あんがとさん」

 

ハーモニカをハンカチで拭き、ケースにしまう少年の頬には、かすかな赤みが差していた。

 

「それより時間ねえから、教室戻るぞ。ついてこい」

「うん」

 

 二人はベンチから立ち上がり、歩き出す。

 クラスメートの後ろをトコトコと歩きながら、ゼノヴィアはその背中に質問した。

 

「隼人、何故ハーモニカをやってるんだ」

「なんでもいーだろ」

「……そ、そうだな。すまない」

 

 突き放すような言い方に、ゼノヴィアはちょっと怯む。

 

「……あー、えーっと、ほら、アレだ……音楽スキル磨けば、女の子にモテるかなーって、そう思っただけだよ。そういう事にしとけ」

 

 ちょっと言い方がキツかったかな? と感じた隼人は、すぐにそう付け加える。

 

「そうか、わかった……隼人、私は君のハーモニカが気に入った。また聞かせてもらえるかな?」

「見世物じゃねぇんだけどなぁ……」

 

 隼人は黒髪をガシガシと掻きながらぼやく。

 

「でもまぁ、お前一人くらいならいいか」

 

 その一言に、ゼノヴィアはパッと笑顔を咲かせたのだった。

 



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教えて、お兄ちゃん

 国語の授業が終わり、隼人は次の授業の準備をしていた。

 そこへ、制服のシャツを横からクイクイと引っ張られる。ゼノヴィアだ。

 

「ん? どした?」

「教えてほしい漢字がある」

 

 彼女の机の上には、一枚の紙があった。さっきの国語の授業で配られた、小テストの答案だった。

 

「どれだ?」

 

 隼人は身を乗り出して、覗き込む。

 

「この『内臓』という字が間違ってるらしいのだが、どこが間違ってるのかわからないんだ」

 

 なるほど、彼女が指し示した解答欄には『内臓』という漢字が書かれてあり、その字の上から赤ペンで『×』が引かれてある。

 隼人は指先で、その解答欄の横の問題文をトントンと叩いて示した。

 

「間違ってないけど間違ってる。この問題文、『強力なモーターを○○した掃除機』ってあるだろ?」

「うん」

 

 ゼノヴィアはコクンと、幼い仕草でうなずいた。

 

「ここでナイゾウの漢字を使う場合は、“(つきへん)”はいらないんだよ。こっちの字を使う」

 

 隼人は説明して、『内蔵』という字を解答欄の横の余白に書き込んだ。

 

「“(つきへん)”は体の部位をあらわす字に使う部首で、胃袋とか腸とか肝臓とか、そっちのナイゾウに使う漢字だ」

 

 ――正確には、体の部位を表す部首は、『つきへん』ではなく『にくづき』である。しかし隼人とて、そこまで詳しい訳ではない。

 

「なるほど。書き間違いではなく、漢字のセレクト自体が間違っていたのか……!」

「そういうこった」

「ありがとう、隼人……あの、他にもわからない所があるのだが……」

「んー……昼休みにまとめて教えてやるよ。もうすぐ次の授業始まるから用意しろ」

「あ、うん」

 

 言われたゼノヴィアは腕時計を見て、休み時間が残り少ない事に気付き、答案用紙をしまった。

 

 

 昼休み。

 隼人は弁当を食べ終わると、椅子を引っ張ってゼノヴィアの横に座り込んだ。

 

 ゼノヴィアの質問は、主に漢字についてだ。

 チラリと点数を見やると、13点というかなり低い点数だ。彼女は日本語のヒアリングはほぼ完璧だが、読み書きがまだ不慣れなのだろう。文章問題の間違いも、それを考えれば仕方ない面がある。

 

 隼人はゼノヴィアの質問に、なるべく懇切丁寧に答えてやった。

 

「ありがとう隼人。おかげで、いろいろと理解できたよ。次の小テストでは、もっといい点が取れそうだ」

「そうか、頑張れよ」

 

 隼人はポンポンと彼女の頭を叩いて、励ましてやる。

 そして自分のその行為に、自分で内心驚いた。女子の髪に気安く触るというのは、彼の中ではちょっと有り得ない行動なのだ。

 

(まぁ、しょうがねえのかなぁ……)

 

 しかし、相手がゼノヴィアだと思えば、納得も出来た。

 休み時間にシャツをクイクイと引っ張った仕草を始め、転入初日のクールな印象とは裏腹に、彼女の挙動にはどこか幼さがある。

 そして、あれこれとひたむきに質問してくる様を見ていると、一人っ子の隼人ですら、妹に勉強を教える兄のような気分になってくるのだ。

 

 同い年の少女に対しておこがましいかも知れないが、守ってあげたいという気持ちにさせられる。

 

「また何かわからない事があったら、いつでも聞きな。俺でわかる事なら教えてやるよ」

「ありがとう、隼人」

 

 隼人は椅子を元に戻すと、トイレに行った。

 

 ゼノヴィアはその背中をじっと見送る。

 テストの内容について、ほぼ全ての問題についてあれこれと質問してしまった。なのに彼は、嫌な顔一つせず、「こんな事もわからないのか」と嘲りもせず、優しく、丁寧に教えてくれた。

 

(もしも私に兄がいたら、きっと彼のような男性なのだろうな……)

 

 同い年の少年に対してそのように思うのも、変な話かも知れない。

 しかし、教会で育てられた孤児だった彼女は、隣の席の同級生にそのような感傷を抱いてしまうのだった。



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買い食い

 今日の体育は、ドッジボールだった。

 女子たちの前で少しでも良いところを見せようと、男子たちは奮闘する。

 女子は女子で、そんな男子の様子が面白くて、わざとらしい声援を送ったりしている。

 そしてそれがからかい半分だとわかっていても、男子はやっぱり嬉しくて、ますます頑張るという奇妙な構図が出来上がっていた。

 

 その男子に負けず劣らず、ゼノヴィアも初めての球技に熱中した。

 

「フンッ!」

 

 彼女の渾身の一投が松田の背中に当たり、松田は脱落。女子からの割りと本気の称賛の声が、ゼノヴィアに降り注いだ。

 松田と同じチームの片瀬と村山まで喜ぶ始末だ。

 

「松田、仇は取ってやるからな!」

 

 親友(とも)に誓った一誠はボールを拾うと、ゼノヴィアに投げつける――そしてあっさりキャッチされた。

 

「ナイスパス」

 

 皮肉と共にお返しの投球。これで一誠も脱落し、女子のボルテージとゼノヴィア人気が更に高まっていく。

 ゼノヴィアは相手チームの内野を次々と撃破していくが、最後に残った一人がなかなか倒せなかった。

 その一人、佐久間隼人は、彼女や他の内野手が投げるボールをことごとくかわしていくのだ。まるで全身に目がついているかのようだった。

 

(おのれ……っ!)

 

 あまりにもかわされまくるのでちょっぴりムキになったゼノヴィアは、次の一投につい力が入ってしまった。

 隼人は飛んできた豪速球に、一瞬左へよける素振りを見せたが、何を思ったか体の位置を再び戻した。

 

 バコォンッ!

 

 物凄い音がして、ボールが隼人の顔面にめり込む。

 彼は鼻血を出して仰向けにぶっ倒れて、そのまま動かなくなった。

 

 

 隼人が目を覚ますと、天井の真っ白なタイルが目に入った。どうやら自分はベッドに寝かされているらしい。

 ムクリと身を起こして辺りを見回し、どうやら保健室にいるらしいと判断出来た。

 シャーッとカーテンが開いて、白衣を着た長髪の女性が現れる。校医の二条千秋だ。

 

「あら、目が覚めたのね。ちょうど良かったわ」

 

 彼女はそう言うと保健室の出入口の方を向く。

 

「あなたたち、いいわよ。入りなさい」

 

 その声の後、三人の女生徒が入室してきた。ゼノヴィアと、仲良しコンビの村山と片瀬だった。

 髪をツインテールにしているのが村山で、前髪をカチューシャで留めておでこを丸出しにしているのが片瀬だ。隼人とは一年生の時も同じクラスだった。

 

「佐久間くん、大丈夫?」

「どこか痛いとこない?」

 

 二人とも心配そうに話し掛けてきた。

 先程のドッジボール。二人は外野として隼人の真後ろにいた。そして、彼がよけられたはずのボールをわざとくらったように見えて、それは真後ろの自分たちをかばっての事だと思ったのだ。

 試合の勝敗よりも自分たちの安全を優先してくれたクラスメートが、心配でたまらなかったという訳だ。

 ゼノヴィアは、もはや言うまでもない。

 

「すまなかった、隼人。君に何度もボールをかわされて、ついムキになって力が入ってしまった……」

 

 素直に自分の非を詫びて、ペコリと頭を下げる。

 

「試合なんだから気にするな。よけられなかった俺が悪い」

「でもそれは、私たちをかばってくれたからでしょ?」

「よけたら私たちが怪我するかもって思ったから、わざと当たったのよね?」

「……考えすぎだ。背中に目がついてる訳でもねえのに、真後ろにいる奴の事なんてわかるか。右によけるか左によけるか、判断に迷っただけだ」

 

 隼人はそう答えたが、実際は村山と片瀬の言う通りだった。

 頭の中に、自分たちの位置関係を真上から映したような映像が浮かんだのだ。そして自分がボールをかわしたために、村山が代わりに直撃を受けて倒れる場面も。

 突然の事に驚く暇もなく、体が自動的にボールの軌道上に戻っていた。結果はご覧の通りである。

 

(まぁ、こいつ等に怪我がなくて良かったか……俺は男だから多少の怪我はむしろウェルカムだしな)

 

 隼人はそんな風に納得していた。

 

 幼少の頃から、あんな風に真上から見下ろすような映像が頭に浮かび、そのお陰で危機を回避出来た事が何度かあったのだ。

 

 ――しかし、それをこの三人にわざわざ言いふらす必要はない。だから適当な答えでごまかした。

 

「はい、制服」

 

 村山が、綺麗に畳まれた彼の制服を差し出した。

 

「こっちはあなたの荷物ね」

 

 片瀬が枕元に置いたのは、彼の鞄だ。

 

「もう掃除もホームルームも終わってしまったんだ。後は帰るだけさ。お詫びに、家まで送らせてくれないかい?」

「……いや、いらねえよ。部活はどうすんだ」

 

 村山と片瀬は剣道部、ゼノヴィアはオカルト研究部なるクラブに所属していたはずだ。記憶の糸を手繰り寄せて、隼人は尋ねる。

 

「私たちは休めないけど、ゼノヴィアさんは大丈夫なんだって」

「本当は私たちもついててあげたかったんだけど……ごめんね、佐久間くん」

 

 村山と片瀬はそう言って謝った。二人があまりにもかしこまるものだから、隼人の方が何だか申し訳ない気持ちになるくらいである。

 ゼノヴィアにも部活を休ませる羽目になって申し訳なく思ったが、だからと言って断るのもかえって失礼だと思い直し、彼女の好意を受け取る事にした。

 制服に着替え、保健室を出る。

 正門の辺りで、声を掛けられた。

 

「あら佐久間。どうやら無事に生き返ったみたいね」

 

 髪を二本の三つ編みにした眼鏡の女生徒。同じクラスの桐生だ。

 

「ああ、無事にな」

「災難だったわね。でもゼノヴィアっちテイクアウト出来て良かったじゃない。体張った甲斐があったわねぇ~」

「そんなんじゃねえよ」

「私からのささやかなお詫びさ」

 

 ゼノヴィアがそう補足した。

 

「ハイハイ、そういう事にしといてあげる。ゼノヴィアっちの罪悪感にかこつけて変な事するんじゃないわよ?」

「するか阿呆」

 

 隼人は言い捨てて、さっさと歩き出した。ゼノヴィアもトコトコと続く。

 しばらくの間、二人は無言で歩いていたが、ゼノヴィアが不意に話し掛けた。

 

「隼人」

「おう」

「私としては、今回の一件は本当にすまないと思っている。それで君の気がすむのなら、私は本当に()()()す」

 

 ベチンッ。

 

 彼女の言葉をさえぎるように、隼人のデコピンが炸裂した。

 

「体育の授業で頭打ってぶっ倒れるなんざ、割りとよくある事だ。今日はたまたま俺の番だったってだけだよ。そんなんでいちいち相手の言う事聞いてたら、身がもたねえぞ」

「だが……」

「まぁ、どうしてもって言うなら、そうさな……そこのコンビニで雪見だいふく買ってこい。それ一緒に食って、それでチャラだ」

 

 隼人はすぐ先にあるコンビニを指差して言うと、財布から小銭を出して渡す。

 

「……わかった」

 

 ゼノヴィアはパタパタと小走りでコンビニに駆け込んだ。

 少しして、小さなコンビニ袋を持って、戻ってくる。

 二人はそのコンビニとは道路を挟んで反対側にある公園に入り、そこのベンチに座った。

 隼人は雪見だいふくの一つを、パックに入っている楊枝で刺してからゼノヴィアに渡し、自分はもう一個を手掴みで食べた。

 ゼノヴィアは初めて食べる異国のアイスクリームに、目を丸くしていた。

 

「日本には、こんな美味しい物があったのか……!」

 

 割りと本気で、ワナワナと震えて感動している。

 その様が面白くて、そしてとても可愛らしくて、隼人はつい見入ってしまった。

 

(――後で、もう一個買ってやるか)

 

 そんな事を考えながら。

 



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焼き餅

 朝、佐久間隼人が教室に入ってくるなり、村山と片瀬の二人が駆け寄ってきた。

 

「おはよう佐久間くん」

「佐久間くん、大丈夫?」

 

 二人が心配そうに尋ねるのは、昨日――ドッジボールでの一件の翌日――彼が休んでいたからである。

 

「ああ、何ともねえよ」

 

 隼人はぶっきらぼうに答えた。

 

「母さんがうるさいから、病院で頭の検査受けただけだ。ただ、予約なしの飛び入りだったから、順番待ちで時間がかかったんだよ」

「そうだったんだ」

「本当に大丈夫?」

「何かあったら私たちに言ってね?」

「この前のお礼に、私たち二人でお世話してあげるからね?」

「……気持ちだけ受け取っとく。本当に何ともねーから」

 

 二人にそう言って、隼人は自分の席に着いた。

 

「おはよう、隼人」

 

 挨拶をするゼノヴィアの声音は、いつもより少し明るかった。彼女も、昨日一日姿を見せなかったクラスメートが心配だったのだ。

 

 それに、いつも自分にあれこれと優しくアドバイスしてくれる同級生がいないのは、何とも言えない物足りなさがあった。

 

「私も、昨日は心配したよ。何事もなかったようで何よりだ」

「おう、心配させてすまなかったな」

「こちらこそ、この前はすまなかったね。改めてよろしく」

「一日休んだくらいで大袈裟な……」

 

 苦笑しつつ、隼人は差し出されたゼノヴィアの白い手を取り、友情の握手を交わした。

 

 

 三時間目は移動教室だ。

 

「佐久間くん、一緒に行こう?」

 

 村山と片瀬の二人が、揃って声を掛ける。

 

「一人で行ける」

「でも、やっぱり心配だし……」

「一人じゃないとダメって訳でもないでしょ?」

「……わかったわかった、行ってやるよ。どうせ行き先も行くタイミングも同じなんだしな」

 

 二人が揃って、眉毛をハの字にして見つめてくるものだから、降参するしかなかった。

 

「私も一緒に行こう」

 

 そんな一幕を見たゼノヴィアが、反射的に言った。

 

「実は、まだ道筋がよくわからないんだ。誰かと一緒の方が助かる」

 

 自分で言って、何やら言い訳くさく感じる。しかし村山も片瀬も、異は唱えなかった。

 

「うん、いいよ」

「じゃあ、みんなで一緒に行こうね」

 

 ――マジかよ。

 

 文句があるのは隼人だけだ。女の子三人と一緒に、というのは悪い気分ではないが、正直言って周りの目線が気になる。

 しかしゼノヴィアだけ断るというのはおかしな事だし、だからと言って、一度OKした二人もまとめて拒むのも筋が通らない。

 

 やむなく隼人は、三人の女子に囲まれて教室を出る羽目になった。

 

「おっ、ハーレムか佐久間ー」

「体張った甲斐があったな、色男」

「エロい事すんなよー?」

 

 男子の名護、五代、響の三人が、口々に冷やかした。隼人は「うるせえよ」とだけ返して、教室を出た。

 

 廊下を歩きながらも、ゼノヴィアは落ち着かない気分だった。

 隼人の左右に村山と片瀬が並んでいる上に、心なしか距離が近い。

 ゼノヴィアは、片瀬の後ろに位置していた。

 そして前方の三人が、親しげにお喋りしている様を眺める。話題は、昨日隼人が病院で、具体的にどんな検査を受けたかだった。

 

「――君たちは、ずいぶん仲がいいんだな」

 

 そんな言葉が、口をついて出た。

 

「うん、片瀬とも佐久間くんとも、一年生の時から同じクラスだったから」

「村山とは、中学も同じだったの」

「なるほど」

 

 だからこの二人はいつも一緒なのか、と納得した。

 

(私とは、違うんだな……)

 

 教会から追放されて、知己のいない異国で暮らす事となった自分と、つい比べてしまう。

 妙な疎外感を、覚えてしまった。

 同時に、そんな自分に優しくしてくれる隼人の隣に並べないのが、自分のお気に入りの場所を取られたみたいで、ちょっぴり不満で、知らず知らず、ゼノヴィアは唇を尖らせてしまうのだった――。



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日直

 その日、ゼノヴィアは何となく――本当に何となく、いつもより早く目が覚めた。しかし二度寝するにはやや遅い。寝過ごして遅刻してしまうかも知れない。

 結局そのままベッドから下りて朝食を済ませ、いつもより早く登校する事にした。

 

 

 早く着いたせいか、学校はいつもより静かだ。

 その静かな廊下を歩き、教室に入ると、そこには佐久間隼人がいた。

 窓際に立ち、黒板消しを叩いて綺麗にしている。

 

「おはよう、隼人」

「ん? ――おう、おはよーさん。どうした、早いな」

「何だか早く目が覚めてしまってね。君こそ早いじゃないか」

「俺は今日、日直だ」

「ああ、それで……」

 

 と納得したところで、教室内を見渡す。自分たち二人以外、誰もいない。

 黒板の右下には今日の日付と日直の名前が書かれている。そこに目をやると、隼人ともう一人、女子の門矢(かどや)の名前があった。

 

「門矢はどうしたんだ? まだ来てないのか?」

「今日は来ねえよ。風邪引いたらしい」

「そうなのか……」

 

 ゼノヴィアは自分の席に鞄を置くと、黒板の下にあるバケツに気付いた。水をたたえたそのバケツの中には、雑巾も入っている。

 その水が綺麗なままなところを見ると、これから拭き掃除をするのだろう。

 

「手伝うよ」

 

 そう言って、バケツから一枚雑巾を取り、水で濡らして絞ってから、黒板を拭き始めた。

 

「おいおい、これくらい俺一人で充分だぞ」

「だが、一人でやらなくてはいけない訳でもないだろう?」

「いや、まぁ、そうだけど」

「日頃のお礼だ。手伝わせてくれ」

 

 ゼノヴィアにそう言われて、真っ直ぐに見つめられると、何となく断りづらくなってくる。

 やむなく隼人は、彼女の好意に甘える事にした。

 

 

 一日の授業が終わり、生徒たちは部活に向かう者と下校する者とに分かれて教室を出る。

 

「お前は部活、いいのか?」

 

 隼人は黒板の日付と日直の名前を明日のものに書き換えながら、窓際で黒板消しを掃除するゼノヴィアに尋ねる。

 

「うちは始まるのが遅いから大じょ――うわっ」

「どうした?」

 

 隼人が振り向くと、ゼノヴィアは窓に背を向け、片手で顔を――目元を押さえている。

 

「おい、ホントにどうした?」

「か、風が吹いて……粉が、目に……」

「こするな。洗った方がいい」

 

 隼人はゼノヴィアの手を引いて、女子トイレまで誘導してあげた。

 

「ほら、この先がトイレだ。洗面所の位置とかはわかるか?」

「ああ、大丈夫だ。ありがとう」

 

 ゼノヴィアは一人、用心深い足取りでトイレに入っていった。

 隼人は入り口の横の壁にもたれて、彼女が出てくるのを待つ。

 水で顔を洗う音がして――顔を拭いているのだろう――少しの間を置いてから、ゼノヴィアは出てきた。

 

「大丈夫か?」

「ああ、問題ない。ありがとう隼人」

「なら良かった。まったく、おどかしやがって」

 

 隼人は苦笑混じりにつぶやき、教室に戻る。ゼノヴィアもその後にトコトコと続いた。

 二人で室内を軽く片付けて、窓を閉める。

 あとは日誌を職員室にいる担任に渡すだけだ。ゼノヴィアがそれをやろうとすると、隼人に制止された。

 

「それは俺が持ってく。一応、俺が今日の日直だからな。俺が持っていかねーと、お前に仕事押し付けたみたいになるからな」

「私が自分から手伝うと言い出したんだ、私は気にしないよ」

「俺が気にするんだよ」

 

 そう言って、ゼノヴィアの手から日誌を抜き取った。

 そして鞄を持って教室を出る。ゼノヴィアも一緒に出た。

 ドアを施錠して職員室に向かう隼人の後を、ゼノヴィアはトコトコと着いていく。

 

「……何だよ」

「私なりのけじめさ。職員室まで同行するよ。それで今日の日直の手伝いは終わりだ」

「勝手にしろ」

 

 隼人は言い捨てて、職員室に向かう。

 途中の廊下の、中庭に面した窓が開いていた。

 不意にその窓から、強い風が吹き込む。

 そしてそれは、ちょうど窓の前を通過するゼノヴィアのスカートを大きくめくり上げた。

 

「でぇいっ!」

 

 奇声を上げてそのスカートを押さえたのは、ゼノヴィア本人ではなく、その隣を歩いていた隼人だった。

 両手でスカートの前後を素早く押さえ、被害を最小限にとどめる――と言いたいところであるが、廊下には二人以外の通行人はいないので、最初から被害はゼロである。

 

「どうしたんだ?」

 

 ゼノヴィアはキョトンとした顔で尋ねる。スカートがめくれるくらい、彼女にとっては大した事ではないのだ。

 

「どうしたじゃねえ! スカートくらい押さえろ! 危うくパンツ見えるところだったぞ!」

「私は構わないぞ。減るものでもなし」

「構えよ! 女の子だろ!」

「そ、そうなのか?」

「そうなんだよ!」

 

 いまいちゼノヴィアには理解出来なかった。

 しかし、彼が珍しく強い口調で言うのだから、そうするべきなのだろう。

 

「わかった。次からは気を付けるよ」

 

 素直にそう答える。

 

(ホントにわかったのか……?)

 

 あまりにも素直に答えるものだから、何となく不安になる隼人。

 しかし、ほんの一瞬だが、飾り気のない薄水色の下着が見えた事を、気まぐれ風に感謝もするのだった……。



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それぞれの朝

 佐久間隼人が朝食のトーストに、イチゴジャムとマーガリンを塗りたくっていた時の事だ。

 

「隼人、彼女でも出来たの?」

 

 向かいの席でコーヒー牛乳を飲みながら、母の千恵がそう尋ねた。

 

「え? いや、そんなハイカラなもんいないけど……?」

「あら、そう? でもその割りには、最近楽しそうじゃない?」

「別に」

 

 素っ気なく答えながら、隼人はトーストをモシャモシャと頬張る。

 

「本当に?」

「本当だよ、しつこいな」

 

 息子にジロリとにらまれて、しかし千恵は「あらあら」と朗らかに笑ってごまかすのみである。

 母親からの追求から逃れるように、隼人はさっさと朝食を済ませて登校した。

 

(最近楽しそう、か……)

 

 心当たりなら、ある。

 ゼノヴィアだ。

 事あるごとにあれこれと質問してくる彼女が、可愛くてたまらないのである。

 同じ部活の兵藤一誠や、同じ外国人転入生のアーシアではなく、自分を頼りにしてくれるのが、嬉しいのだ。

 授業を受けている時の、背筋をピンと伸ばした佇まいが凛々しくて、思わず見とれそうになる。

 それでいて、何かあればクイクイとシャツを引っ張る仕草が、幼くて愛らしい。

 そんな彼女と同じ教室で、同じ時間を過ごすのは、確かに楽しい。

 

「彼女、か……」

 

 そんなゼノヴィアが自分の彼女になってくれたら、どれほど素晴らしい事だろう。

 

「彼女、ね……」

 

 それを夢想して、つい口許が弛む隼人であった……。

 

 

 制服姿で、ゼノヴィアはマンションの前に立っていた。

 この十階建てのマンションはグレモリー家がオーナーを務めており、ゼノヴィアの住まいでもある。

 

「おはようございます、ゼノヴィアちゃん」

 

 そこへ姫島朱乃が迎えに来た。バスト103センチの戦略兵器が、夏服の内側からその存在感を誇示している。

 

「おはようございます、副部長」

 

 ゼノヴィアはペコリとお行儀よくお辞儀をした。

 そして二人は、並んで歩き出した。ゼノヴィアの送り迎えを、朱乃がやっているのである。

 

「ゼノヴィアちゃん、少しは学校にも慣れてきたかしら?」

「はい、おかげさまで。クラスにも頼りになる良い友人がいるので、何とかやっていけてます」

「あらあら、イッセーくん以外に、頼れる人が?」

「はい……と言うか、イッセーはどうも……やはり、私が元は敵対勢力だった事を気にしているのでしょうか?」

「イッセーくんに限って、そんな事はないと思いますけれど……何かあったのかしら」

「何かあったというか……彼はいつも私と目を合わせてくれなくて、目線が伏せがちで……」

「……あらあら、ウフフ」 

 

 朱乃は笑ってごまかした。

 サイズこそ自分には及ばないが、ゼノヴィアもまた、充分に発育が良いと言えるだろう。イッセーの目線が()()に引き寄せられるのも仕方ない。

 

「その件については、私からイッセーくんに言って聞かせておきますわ。ええ、しっかりみっちりキッパリと」

「は、はぁ……」

 

 何やら朱乃から怖いものを感じて、ゼノヴィアは曖昧な返事を返す。

 

「それで、その頼りになるお友達とは、どんな方なのかしら」

「はい、隣の席の男子生徒で、名前は佐久間隼人と言います。少々ぶっきらぼうなところはありますが、私の質問にはいつも優しく、わかりやすく答えてくれるんです。彼からすればきっと呆れてしまうような質問だってあるだろうに、怒ったり馬鹿にしたりもせず、親身になって教えてくれて……その、何というか……」

 

 そこでゼノヴィアは、ちょっと口ごもった。

 

「どうしたの?」

「その、同い年の男性をこんな風に言うのもおかしいのですが……もしも私に兄がいたら、きっとこんな感じだったのだろうなと……」

「あらあら、うふふ。本当に良いお友達のようですわね。安心しましたわ」

 

 朱乃は朗らかに笑った。

 それからもチョコチョコと、とりとめのないお喋りをしていると、学校が見えてきた。

 

「あっ」

 

 ゼノヴィアが不意に、小さな声を漏らす。

 視線の先には、佐久間隼人。

 

「では副部長、私はこれで失礼します」

 

 朱乃にお辞儀をしてから、パタパタと小走りでクラスメートへ駆け寄っていく。

 その後ろ姿が、朱乃にはご主人様の元へ駆け寄る子犬のように見えた。



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ラーメン

 新築マンションの最上階が、グレモリー家がゼノヴィアに与えた住まいだ。

 

 日曜日、彼女はそこのベランダで洗濯物を干し終えた後、部屋の掃除を始める。

 それが終わると、時計の針は11時半を過ぎていた。

 

(昼は、どうしたものかな……)

 

 冷蔵庫の中はまだまだいろんな食材がたっぷりと入っている。

 昨日リアスから『お小遣い』と称して当座の生活費をもらったばかりで、財布の中身もたっぷりとある。

 たまには贅沢もいいだろうと思い、ゼノヴィアは外食する事に決め、外に出た。

 

 駅前の商店街に入り、さてどの店で食事をしようかと物色していると、見覚えのある後ろ姿が人混みの先に見える。

 

「隼人」

 

 通行人の間を無駄のないフットワークで縫うように進み、声をかける。振り向いたのはやはり、クラスメートの佐久間隼人だった。上は背中に水面から跳ねる鯉の絵がプリントされた 薄紫のシャツ、下は紺色のジーパンというラフな格好である。

 制服姿しか知らないはずのゼノヴィアが私服姿でもすぐに識別できたのは、彼の歩く時の身のこなしや重心の位置を、戦士としてのくせでついうっかり記憶してしまったからだ。

 

「おう、ゼノヴィアか。買い物か?」

「これから昼食だ。君は?」

「俺も昼飯。母さんが友達と温泉旅行でいないんでな」

「そうか……私も同行していいだろうか? どの店にしたものか、なかなか判断がつかないんだ」

「んー? まぁいいけど……」

 

 その言葉に、ゼノヴィアは何となく嬉しくなった。

 

 

 隼人が向かったのは、ラーメン屋だ。暖簾には『来々軒(らいらいけん)』とある。

 

「らっしゃい――よう、隼人ちゃん。千恵ちゃんどうした?」

 

 パンチパーマの店主は来客に気付くと、気さくに声をかける。彼は隼人の母親とは高校時代からの友人で、隼人とも顔見知りなのだ。

 

「母さんは旅行で昨日から温泉行ってる」

 

 隼人はカウンター席に座りながら答えた。

 

「ほう、そうかい。いつものでいいかい?」

「うん」

「そっちの別嬪さんは?」

「えっと……同じ物を」

「はいよ」

 

 店主は威勢良く返事をして、奥の厨房に引っ込んだ。

 

 クイクイ。

 

 ゼノヴィアがいつものように、隼人のシャツの裾を引っ張る。

 

「隼人、ベッピン=サンとはどういう意味だ?」

「美人さんって意味だよ」

「なるほど……表現に差異はあるがみんな私の事をそう言う……日本での習慣なのか?」

「誰でもそう言うと思うぞ。実際お前は美人さんだからな」

「う、うむ……確かにそれなりにルックスはいい方だとは思っているが……だが、そういう賛辞は普通、男性が女性に対して行うものだろう? 私の場合、村山や片瀬からもよく言われるのだが……」

「だったら、女同士でも言うもんなんじゃねーの? 俺は男だから知らんが」

「うーむ、そういうものなのだろうか……」

 

 あの仲良しコンビの妙に熱い眼差しを思い出すと、どうにも釈然としないものを感じるゼノヴィアだった……。

 

「へい、お待ちどお」

 

 店主の声と共に、丼が二つ出される。大きな厚切りチャーシューを二枚乗せた味噌ラーメンだ。そのすぐ後に、小皿で三個入りの餃子も出される。

 このセットが、隼人の「いつものやつ」なのだ。

 

(これがジャパニーズ“らあめん”か……)

 

 そういえば食べるのは初めてだな、と思いつつ、ゼノヴィアはおっかなびっくり食べ始めた。箸を使うのも麺をすするのも初めてだ。しかし、なかなか美味い。

 夢中になって食べてると、すぐ隣で隼人と店主の会話が聞こえた。

 

「隼人ちゃんも隅に置けねえなぁ、そんな別嬪な彼女がいるなんてよ」

「そんなハイカラなもんじゃねーよ。学校の友達」

「ほう、しかし一緒にメシ食いに来るくらいだし、脈はあるんじゃねえか? なぁ、まだ付き合ってないんならちょうどいいし思いきって」

「アンタ、若い子からかってんじゃあないよ!」

 

 会話に割り込んだのは、出前から戻ってきた店主の女房だ。一喝されて、店主は縮こまり、厨房に逃げていく。

 女房は猫なで声で隼人に謝った。

 

「ごめんねぇ、隼人ちゃん。うちの人ったらその手の事になるとすぐ鼻息荒くしちゃって。そっちの別嬪さんも、気にしないでこれからもこの子と仲良くしてあげてね?」

「はぁ」

 

 突然会話を振られて、ゼノヴィアは曖昧な返事しか出来なかった。

 

 揃って丼と小皿を空にして、二人は勘定を済ませて店を出た。

 

「ありがとう隼人。日本のラーメンは初めて食べたが、なかなか美味しかった」

「そうか。そりゃ良かった」

「それで、その……もしまた機会があったら、連れて行ってもらえないだろうか?」

 

 さすがに厚かましいお願いだろうかと思いながら、ゼノヴィアは上目遣いに尋ねる。

 

「んー……機会があればな。また別の美味い店紹介してやるよ」

 

 隼人は素っ気ない口調でそう答える。

 

「ありがとう、隼人」

 

 ゼノヴィアはそれでも喜んだ。

 そんな彼女に、尻尾をブンブン振る子犬をイメージしてしまう隼人だった。

 



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恐怖! 呪いのハーモニカ

 休み時間。

 ゼノヴィアは女子たちとお喋りに興じていた。

 話題は昨夜テレビで放送されたホラー映画から始まり、そのまま怪談や都市伝説、果ては学校の七不思議へと移行する。

 

「──で、この学校にもあるのよ。七不思議」

 

 小柄な体つきの『左』という女子が、妙に目を輝かせて話し始める。

 

「音楽室のベートーベンとか美術室のモナリザとか定番なのがほとんどだけど、うちだけのものと言えば『呪いのハーモニカ』ね」

「……ハーモニカ?」

 

 ゼノヴィアはその単語に思わず反応した。

 

「そう! 昼休みや放課後に時々、どこからともなく風に乗って聞こえてくるハーモニカの音……それを聞いた人には三日以内に不幸な事が起きると言われてるの!」

「どーせ音楽部が練習してんでしょ?」

 

 と口を挟んだのは門矢だ。

 

「それが違うの。そもそも音楽部は今、ハーモニカなんて誰もやってないし、音楽室に誰もいなくても聞こえてくるし……主に実習棟の辺りから聞こえてくるらしいの」

「誰かが個人で、その辺りで練習してるんじゃない?」

 

 クラスでもトップクラスの巨乳である園咲が推理する。

 

「私もそう思って、ハーモニカが聞こえた時超特急で行ってみたんだけど、誰もいなかったの!」

「──それは、いつの話なの?」

 

 園咲と双璧をなす巨乳の天道が尋ねる。

 

「先月」

「で、あんた何か不幸があった訳?」

 

 と、門矢。

 

「身長が伸びなくなっちゃった」

「それは元からでしょーが」

「おっぱいも小さくなったし!」

「それも元から」

「うっさい! 門矢のバカアホ間抜け! ピンクのスイカー!」

「──落ち着け。大丈夫だ左。我々の年齢ならまだ成長期だから、可能性は充分にある」

 

 ゼノヴィアがそう言って小柄なクラスメートを慰める。

 

「ゼノヴィアさんありがと~! 私頑張る!」

 

 左はゼノヴィアの胸に飛び込み、その豊かな膨らみに頬擦りする。

 ちょっと感じてしまうゼノヴィアだった。

 

 

 昼休み。

 いつもの場所──実習棟の裏庭で、隼人はゼノヴィアにハーモニカを披露してやっていた。

 

 今日は『聖者の行進』という曲を、アレンジも含めて三度演奏する。同じ曲のはずなのに全く印象が違って感じられて、ゼノヴィアは感嘆した。

 だがその時、不意に休み時間でのお喋りの記憶が脳裏をよぎる。

 

 昼休みや放課後に時々、どこからともなく風に乗って聞こえてくるハーモニカ。

 主に実習棟の辺りから聞こえてくる。

 

「これかぁぁぁああああッッ!!」

 

 ゼノヴィアは思わず叫んだ。

『聞いた者は不幸になる』のくだりで、つまらない噂だと聞き流していたが、ようやく左の言っているのが隼人のハーモニカの事だと気付いたのだ。

 

「──ど、どうした? 何か究極奥義にでも目覚めたのか?」

「かくかくしかじか!」

「まるまるうまうまで、俺のハーモニカが怪談話になっちまってる、と……」

 

 言われて隼人は、ふと思い出した。先月、ここでハーモニカを吹いていたら人の来る気配がしたので、すぐに逃げたのだ。七不思議に組み込まれたのは、たぶんそのせいだろう。

 

「じゃあほとぼりが冷めるまで、しばらくはおとなしくしとくか……」

「何を言うんだ。悪い事をしてる訳でもないのに、君がこそこそする必要などどこにもないじゃないか」

「これ以上ギャラリー増えるのは勘弁願いたいんだよ」

「うーむ、そういう事か……よし、なら私にいい考えがある! ちょっと来てくれ!」

 

 ゼノヴィアはベンチから立ち上がり、隼人の手を引いて旧校舎に向かった。

 そして三階に上がり、廊下の一番奥の教室に入った。

 

「ここはオカルト研究部の施設として使ってるが、実際はほとんどの教室が手付かずのままなんだ。この部屋は特に涼しいから、ここで練習すればいい。部員のみんなはたいてい一階の部室にしか来ないから、バレる心配もない」

「ふーん、確かにひんやりしてて気持ちいいな……」

 

 窓から見える林が日光を遮るため、気温が上がりにくいのだろう。隼人はそう考えた。

 

「でも勝手に部外者連れ込んで、お前が怒られたりしないか?」

「大丈夫だ、部長も空いた部屋は好きに使っていいとおっしゃっていたからな」

「……そういう事なら、ありがたく使わせてもらうか。ありがとな、ゼノヴィア」

「どういたしまして」

 

 答えて軽く笑うゼノヴィア。しかし胸の内では、彼の役に立てた事、彼に感謝された事への喜びでいっぱいだった。



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チャリンコ

 朝。

 生徒たちも徐々に集まり出し、静かだった教室が、にぎやかになってくる。

 そんな中、ゼノヴィアは落ち着かない気持ちだった。

 しきりに隣の席をチラチラと見やる。

 ホームルームが始まるまで、あと10分。なのに、佐久間隼人が未だに姿を見せない。

 それだけで、ゼノヴィアは無性に落ち着かなくなってくるのだ。

 

(どうしたんだろう……?)

 

 何か用事がある訳ではない。

 しかし、隼人が自分の隣にいてくれるだけで、何となく今日という日を安心して過ごせる気がしてくるのだ。

 その隼人がいないというのは、ゼノヴィアにとっては何とも落ち着かない気持ちなのである。

 

(ちょっと、探してみるか……)

 

 思い立ったゼノヴィアは、廊下へと出た。

 廊下へと出たところで、その探し人と鉢合わせる。

 

「──おう、ゼノヴィア。おはよーさん」

「おはよう、隼人」

 

 友人の顔を見て、ゼノヴィアは安心して朝の挨拶を返した。

 そしてそこで、彼が額に汗をかいている事に気付く。

 

「どうしたんだ、隼人。汗だくじゃないか……具合でも悪いのか?」

「チャリンコ漕いで来たんで汗かいただけだよ」

 

 隼人は答え、教室に入り、席に着いた。

 そして鞄からタオルを取り出して、顔を拭く。

 ゼノヴィアもトコトコと後に続き、隣の自分の席に座った。

 

「隼人、“ちゃりんこ”とは何だ?」

「自転車の事だよ。寝坊して遅刻しそうになったんでな、それで今日はチャリ通だ」

「チャーリー2?」

「チャリ通だよ、チャ・リ・つ・う。チャリンコ通学、略してチャリ通」

「なるほど」

 

 また一つ、日本語を勉強したゼノヴィアであった。

 

「ちゃんと許可は取ってあるんだろうね?」

「当たり前だろ。闇乗りなんてアホな中学生のやる事だ」

 

 隼人は答えながら、タオルと入れ替わりに水筒を出した。直飲みタイプのそれは、中に冷えた麦茶が入ってる。それを三口飲んで、鞄に戻した。

 

「闇乗り……許可なしにチャリ通する事か?」

「正解」

「やっぱりか。……ふむ、それにしても、自転車か……今の時期なら走行風が気持ちいいだろうな」

「朝方はな。帰りは生温いだけだ。街の中を、涼しくなるくらいかっ飛ばす訳にはいかねーだろ」

「それもそうか。隼人、君の自転車を見てみたいな」

「あー、昼休みにな」

「ありがとう、隼人」

 

 ゼノヴィアは早くも、昼休みが待ち遠しくなってきた。

 

 

 昼休み。

 弁当を食べ終えたゼノヴィアは、隼人に連れられて駐輪場へ向かった。

 

 駐輪場は裏門のそばにある。

 アスファルトで舗装された広場に、鉄筋コンクリート製の大きなあずま屋があり、その中に生徒たちの乗ってきた自転車やバイクが並んでいた。

 

 隼人が乗ってきたのは、濃いブルーに彩られたクロスバイクだった。メーカーのロゴがゴールドで描かれており、ハンドル部分にはオプション品のバスケットが取り付けられている。

 

「おお……なかなかカッコいいな……!」

 

 そのカラーリングが、自分の相棒たる聖剣デュランダルを彷彿とさせて、ゼノヴィアは一目で気に入ってしまった。

 

「俺もそう思う」

 

 素っ気なく返す隼人だったが、中学時代から愛用している物を誉められて、悪い気はしない。

 

「……乗ってみるか?」

 

 キラキラと目を輝かせて、いろんな角度から自転車を眺めるゼノヴィアに、隼人は聞いてみた。

 

「い、いいのか?」

「駐輪場から出なけりゃあな」

 

 隼人は言いながら、U字型のロックを外して愛車を広場に出す。

 

「ありがとう、隼人!」

 

 ゼノヴィアは小さな子供のようにはしゃいで、自転車にまたがった。

 スカートが翻り、その下が見えそうになって、隼人が早速後悔したのはまた別の話である……。

 そんな事には全く気付かず、ゼノヴィアはペダルに足を乗せて、ぎこちなく漕ぎ始める。

 広場の中を、フラフラしながら危なっかしく走り回った。どうやら自転車は初めてらしい。

 後ろから支えてやろうかと思った隼人がゼノヴィアに近付いた瞬間、彼女はついにバランスを崩して転倒した!

 ──かに見えたが、間一髪隼人がゼノヴィアの身体を抱きかかえて、支える事に成功した。

 自分から見て向こう側に倒れそうになった少女を、かなり強引に抱き止める形となり、自転車だけがガシャンと音を立てて倒れる。

 

 隼人は動けなかった。

 決して狙った訳ではない。狙ったところで出来る事ではない。

 しかし、ああしかし……彼の両手は、ゼノヴィアの胸の豊満な膨らみを制服の上からガッチリと鷲掴みしてしまったのである……ッッ!! まさに運命のイタズラとしか言い様のないハプニングであった。

 

「……す、すまん……ッッ!!」

「──?」

 

 慌てて手を離し、震え声で謝罪する隼人に、しかしゼノヴィアは首を傾げた。

 

「何故君が謝るんだ?」

「いや、あの、その、む、胸、が、だな……その……」

「私を助けようとしたために起きたアクシデントだ。下心があった訳じゃないだろう? 私こそすまなかった。君の自転車を倒してしまって」

「いや、そいつはどうせあちこち結構ボロボロだから、今更傷の一つや二つは、むしろウェルカムだけど……」

「そうなのか……でも、何だか申し訳ないな……」

 

 ゼノヴィアは少し考えてから、隼人と向き合い、彼の手を取った。

 そして、何を思ったか、その手を自分の胸の膨らみに押し当てる。

 

「お、おい……」

「せめてものお詫びだ。男は、女の大きな胸が好きなのだろう?」

「いやいやいやいやいや! た、確かに好きだけど、これはまずい! スッゲーまずい!」

「何故だ? 私の胸は君の好みではないのか? それなりに自信はあるのだけどね。イッセーだって、毎日私の胸を物欲しそうに見ているぞ?」

 

 ゼノヴィアは隼人が慌てふためく理由がわからず、またもや首を傾げた。

 隼人は強引にゼノヴィアの胸から手を離す。

 

「アイツを基準に考えちゃあダメだ! さっきも言ったけど、こいつ結構ボロボロでちょっとぶっ倒れて傷が付いても大した事ねーんだよ! なのにおっぱい触らせてもらったりなんかしたら、むしろこっちがお詫びの貰いすぎになるだろ! さっきもうっかり触っちまったのに!」

「あれはアクシデントだ、気にしないでくれ」

「気にするわ! つーかお前も気にしろ! ……いいか、ゼノヴィア。今みたいなのは、本当に好きな人に──友達とかじゃあなくて、恋人とか旦那さんとか、そういう関係の相手にしてあげるもんだ。軽はずみにやったりなんかしたら、お前は誰にでも胸を触らせるはしたない女の子だと思われちまうぞ。だから気を付けろ!」

 

 隼人はゼノヴィアの両肩を掴み、強い口調で言った。

 

「ふむ……そういうものなのか……わかった。君がそう言うのなら、以後気を付けるよ」

「わかればいい」

 

 隼人は自転車を起こして元に止めてあった場所に戻す。

 

「ゼノヴィア。俺、トイレ行ってくるから、先に教室戻ってろ。道、わかるよな?」

「ああ、大丈夫だ。じゃあ隼人、また後で」

 

 ゼノヴィアはそう言うと、一人パタパタと教室へ戻っていった。

 隼人は近くのトイレに入ると、洗面所でたわしまで使って、念入りに手を洗った……これが私のせめてもの罪滅ぼしですと言わんばかりの勢いで……。



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ギャフン

 四時間目が終わり、昼休みになった。

 佐久間隼人が机の上で弁当を広げていると──、

 

 クイクイ。

 

 横からシャツを引っ張られる。ゼノヴィアだ。

 

「おう、どうした?」

「オセロを教えてくれ」

 

 ゼノヴィアはいつにない険しい表情で、そう言った。

 

「いや、教えるってほどのもんじゃねーよ。交互に駒を置いてって、挟んだ相手の駒を引っくり返すだけだ」

「それはわかってる。そうではなくて、ええっと、どう言えばいいかな……攻略法というか、必勝法というか……」

「ああ、そういう事か」

 

 隼人は理解して、しかし、ちょっと困った。

 

「でもなぁ……俺もオセロ名人って訳でもないし……でも、図書室にオセロの本があったから、後で借りに行こう。案内してやるよ」

「ありがとう、隼人」

 

 ゼノヴィアは安心したように笑った。

 

 

 教室を出た二人は、図書室へ移動する。

 ゼノヴィアは隼人の後ろを、トコトコと着いて行った。

 図書室に到着すると、隼人は一番奥の本棚に向かう。

 

「確かこの辺にあったんだよなぁ……」

 

 そう言いながら棚を調べていく。

 ゼノヴィアも一緒に探した。

 

「これじゃないか?」

 

 隼人が探している本棚の、その隣の本棚に、

 

『猿でもわかる! オセロ教室』

 

 というタイトルが書かれた本が入れられていた。

 オセロの教本はそれ一冊だけのようだ。

 

「おう、それだ。『猿でもわかる!』シリーズ。ホントに猿でもわかるんじゃないかってレベルでよくわかるんだよ、それ」

「そうなのか。よし、早速借りて行こう」

 

 ゼノヴィアは本を胸に抱き抱えて──図書室を出ていこうとしたところを、隼人に襟首を掴んで止められた。

 

「待て待て待て待て待て。本を借りるにはちゃんと手続きしなきゃダメなんだよ」

「むっ、そうだったのか……どうやればいいんだ?」

「一番最後のページにカードがあるから、そこにクラスと名前と借りた日付と、あと返す予定日も書くんだ」

「わかった」

 

 ゼノヴィアは教えられた通りに手続きして、今度こそ本を持ち出した。

 その後、昼休みの憩いの場所に使っている、旧校舎三階の空き教室へ移動する。

 

「しかしわざわざ本なんか借りなくても、門矢から教わればよくねえか?」

 

 熱心に本を読むゼノヴィアに、隼人はそう言った。

 休み時間に彼女が門矢にオセロ勝負を挑んでいるのを、何度か見ているのだ。

 

「その門矢に五連敗した挙げ句、『もっと弱い奴と戦いたい』とまで言われたんだ。出来るものか」

「そこは、『もっと強い奴と戦いたい』じゃね?」

「私より弱い奴がいたら是非会ってみたいという意味だ。門矢が自分でそう言った」

「…………あいつは自分の優位が確定した途端に調子に乗るからなぁ」

 

 思わず門矢にあきれてしまう隼人であった。

 

 

 翌日の昼休みも、ゼノヴィアはオセロの教本を読みふけっていた。

 隼人はその様子を、何とはなしに眺めていたが、ゼノヴィアの表情を見る限り、いまいち理解しきれない部分もあるようだと感じた。

 

「ゼノヴィア。実際にやってみた方が早くねえか?」

「だが、私はオセロセットを持ってない」

「アプリで出来るだろ。俺のスマホに入ってるから、ちょっとやってみろ」

 

 隼人はそう言うと、暇潰しのためにスマホにインストールしている、オセロのアプリを開いた。

 CPUとの対戦だけでなく、プレイヤー同士での対戦も可能だ。

 ゼノヴィアはスマホを受け取り、操作方法を教わってから、教本片手にプレイし始めた。

 昼休みが残り少なくなると、ゼノヴィアはアプリを閉じて、スマホを隼人に返す。

 

「ありがとう隼人。おかげで本の内容がだいぶ理解出来たよ」

「おう、そうか」

「明日も使わせてくれるだろうか? 私のスマホにも入っていれば、いつでも練習出来るのだが……」

「ちょっと待ってろ」

 

 隼人はスマホを操作して、アプリの一覧画面を開くと、ゼノヴィアに見せた。

 

「この『PLAYストア』ってアプリがたぶんお前のスマホにもあるはずだ。それを開いて検索すれば無料で遊べるアプリが出てくるから、それをダウンロードすればいい。俺もそうした」

「そうだったのか! ありがとう隼人。また一つ勉強になったよ!」

 

 ゼノヴィアは早速、自分のスマホを操作して、言われた通りにする。

 

「見てくれ隼人、同じアプリだ」

 

 アプリのインストールが終わると、わざわざ画面を見せてきた。

 

「フッフッフッ、見ていろ門矢め! これで特訓してオセロ名人になって、必ずギャフンと言わせてやる!」

 

 ──外人もそう言う台詞を使うのか。

 

 変なところで驚く隼人だった。

 

 それから一週間後。

 休み時間の教室に、門矢の

 

「ギャフン!」

 

 という、尻尾を踏んづけられた猫のような奇声が響き渡った……。



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一緒に帰ろう

 ホームルームが終わり、生徒たちは帰り支度を始める者と部活の準備をする者とに、自然と分かれる。

 佐久間隼人は鞄を肩に掛けて、椅子から立ち上がった。

 

 クイクイ。

 

 そこへ、制服の裾を引っ張られる。

 振り向くと、やはりゼノヴィアだった。

 

「おう、どうした?」

「今日は部活が休みなんだ。一緒に帰ろう」

「おう」

 

 そんな訳で、二人は一緒に教室を出た。

 ──出たは良いが、会話がなかった。

 

 そもそも隼人は、女の子とどんなお喋りをすればいいのか、さっぱりわからない。友達と話題にする漫画やゲームはいかにも男の子向けであり、外国からやって来た女の子が知ってるとは思えない。結果、ただの自分語りになるだろう。自分の好きな事をただ一方的に喋る自分の姿は、想像するだに痛々しい。

 

 ゼノヴィアの方から何か話し掛けてくる訳でもないので、必然二人は黙って肩を並べて歩くだけであった。

 そしてある地点まで来ると、家の方角が別々なので、そこで別れる事となる。

 

「じゃあ、また明日な」

「うん、また明日」

 

 二人はそんな挨拶をして、それぞれの自宅へと別れるのである。

 

 

 オカルト研究部は精力的には活動していないのか、そんな日が連日とまではいかないものの、数度あった。

 しかし隼人は、毎回上手い話題が思い付かず、結局ゼノヴィアと二人並んで黙々と歩くだけの時間を過ごした。

 その日もそのようにして、ゼノヴィアと一緒に帰る。

 相変わらず、会話はない。

 しかしその割りには、ゼノヴィアの方には不満はなさそうだ。チラリと横目で見る顔は、ニコニコしている。そして無言で隼人についてくるのである。

 ふとコンビニが目につき、隼人は足を止めた。

 

「隼人、どうしたんだ?」

「ちょっとお菓子買ってくるから待ってろ」

「うん」

 

 コクンと幼い仕草でうなずくゼノヴィアを老いて、隼人は店内に入り、洋菓子を買ってきた。大きな袋の中に数種類の洋菓子が詰め合わさった物だ。会計を済ませて外に出ると、当たり前だがゼノヴィアがチョコンと立って、彼を待っていた。

 

「行くぞ」

「うん」

 

 歩き出す隼人に、ゼノヴィアはトコトコとついていった。

 隼人は買った洋菓子を見せて、

 

「そこの公園で、一緒に食おう」

 

 と、提案した。

 コンビニの中にも食事が出来る場所はあったが、今日は程好いそよ風が吹いていて、涼しい。外で食べた方が気持ちもいいだろうと思った。

 

 公園の広場に設えられた東屋(あずまや)には、ベンチが二つ、背中合わせに置かれてある。その内の一つに、二人は並んで座り、洋菓子を食べ始めた。

 

「いろんな種類があるんだな」

「ああ。母さんが好きで、よく買ってくる」

 

 会話は、しかしそこで止まった。

 いまいち話が続かない。

 隼人が気まずそうにゼノヴィアの顔を見ると、彼女はとても美味しそうに、菓子を頬張っていた。

 

「……なぁ、ゼノヴィア」

「ん?」

「あー、その、なんだ……」

「うん」

「単刀直入に聞くが、俺と一緒にいて、楽しいか?」

「…………ふむ」

 

 問われてゼノヴィアは、口許の食べかすを指ですくい、ペロッと舐めてから、考え込んだ。

 

「楽しいというのとは、少し違うかも知れないな。落ち着くんだ」

「落ち着くのか」

「ああ。君は私のどんなくだらない質問にも、怒ったり嘲ったりもせず、優しく教えてくれる。自分にも答えがわからなかった時でも、投げ出したりせず一緒に答えを探してくれる。本当に頼もしく思ってるよ。

 だから、そんな君が私のそばにいてくれると、とても安心して落ち着けるんだ」

「……そんなもんか」

「ああ。しかし、何故そんなことを聞くんだ?」

 

 ゼノヴィアは子犬のように小首を傾げた。

 

「いや、最近一緒に帰ってるけどさ、本当に一緒に帰るだけで、何かお喋りする訳でもねぇーし……とは言え、女の子とどんな事話せばいいのかマジでわかんねぇーし……俺と一緒に帰ってもつまんねえんじゃねえかなって……」

「おかしな奴だな、君は。それなら誘ったりなんてする訳ないだろう」

 

 そう言って、ゼノヴィアはコロコロと笑った。

 隼人は言われて、それもそうだと納得する。「一緒に帰ろう」と持ちかけるのは、いつも彼女の方からだった。

 

「話題がないなら仕方ないさ。無理にお喋りする必要もない。このお菓子も、ご馳走してくれるのは嬉しいが、それを気にして無理して買ったのなら、無用な気遣いだ。

 私は、君と一緒にいるだけで気持ちが落ち着く。だから一緒にいたい。それだけの事だ。無理にもてなそうとしなくてもいいんだよ?」

「……そんなもんか」

「うん」

 

 ゼノヴィアはそう言うと、また菓子を食べ始めた。なんだかんだで、彼女が半分くらい平らげている。

 

 少しして、ゼノヴィアが隼人のシャツをクイクイと引っ張った。

 

「ん?」

「これ、一つしかないのだが……もらってもいいだろうか?」

 

 ゼノヴィアは、オレンジの小袋に入った二本入りのお菓子を見せた。

 他の洋菓子は各種三つずつ入っているが、その菓子だけは一つしか入ってなかった。

 

「ああ、いいぞ」

「ありがとう、隼人」

 

 そう言って袋を縦に裂いて開封しようとするゼノヴィアを、隼人は制した。

 

「待て待て待て、それじゃ中身が割れちまうぞ。そいつはこうやって開けるんだよ」

 

 袋の背にあるつまみの部分を掴んで、斜めに引っ張る。すると中身が壊れる事なく、綺麗に開いた。

 

「ほら」

「ありがとう、隼人……やっぱり君は、頼りになるな」

 

 ゼノヴィアはニコニコしながら、ロール状のランドグシャクッキーをパクッと食べた。

 

 そんな二人は、まるで仲の良い兄妹のようだった。



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図書室

 佐久間隼人が小用を足してトイレから戻ってくると、教室の中はほとんど無人だった。

 ゼノヴィアともう一人、染めた金髪をツインテールにした女子生徒──今日の日直である乾が、二人で窓を施錠している。しかし、彼女たち以外誰もいなかった。

 

「おい、なんで誰もいないんだ?」

「次の授業、戸田山先生が風邪引いて休んじゃったから、図書室で自習だってさ」

 

 隼人の問いに、乾が答えた。

 

「それでか。で、なんで加賀美じゃなくてゼノヴィアが一緒なんだ?」

 

 加賀美とは、乾共々今日の日直の男子である。

 

「あいつには先に行って図書室の鍵開けてもらってるとこ。ゼノヴィアさんは、単にアンタを待ってただけ」

「俺ェ?」

「君と一緒に行きたいだけさ。特に深い意味はない」

 

 ゼノヴィアがそう言った。

 

「アンタたち、ホント仲がいいよね~」

「友達だからね」

 

 乾の冷やかしを、言わんとする事を知ってか知らずか、冷静に受け流すゼノヴィア。

 隼人は小さく溜め息をついた。

 

「んじゃ、さっさと行くか」

「うん」

 

 出入口の施錠を乾に任せ、ゼノヴィアは隼人と一緒に教室を出た。

 図書室までの道のりはもう覚えているはずだが、親のあとをついていく小さな子供めいて、隼人の後ろをトコトコと歩く。まるで兄妹のようだった。

 

 

 図書室に入り、授業開始のチャイムが鳴る。

 クラスの担任である男性教諭の立花が出席を取り終えると、生徒たちは各々が自由に過ごし始めた。

 隼人は読む本を探して、本棚の間をうろつく。

 何故かゼノヴィアが、その後ろをトコトコとついてきた。

 隼人はとある本棚の前でピタリと止まり、陳列された本の背表紙を眺めた後、一冊抜き取った。

 

「何を読むんだ?」

「ハーロック・ショームズ」

「──?」

 

 隼人の返答に、ゼノヴィアは小首を傾げた。

 

「シャーロック・ホームズではないのか?」

「そりゃモデルになった人の名前だよ。確か、作者が通ってた大学の先生だったかな……その人の名前のイニシャルを入れ換えて出来たのが、名探偵ハーロック・ショームズって訳だ」

「なるほど──私も読んでみよう。どれから読むのがいいだろうか?」

 

 ゼノヴィアは十冊近く並ぶハーロック・ショームズシリーズの背表紙を見て、悩む。

 

「どれからでもいいよ。ここにあるのは短編集だけだからな」

「わかった」

 

 そう言って、隼人が本棚から抜き取った『ハーロック・ショームズの冒険』の隣にあった、『ハーロック・ショームズの事件簿』を取り出した。

 二人は一緒に、テーブルの並んだ読書コーナーまで戻り、隣り合って着席すると、本を読み始めた。

 

 その様子を別のテーブルから眺める者たちがいた。仲良しコンビの村山と片瀬だ。一冊の本を二人で一緒に読む振りをしながら、見守っている。

 時々、ゼノヴィアが隼人の制服をクイクイと引っ張った。

 その度に隼人は、ゼノヴィアが指し示す本のページを覗き込む。きっとわからない漢字の読み方を教えてあげているのだろう。

 その様子は、本当に兄妹のような仲の良さで、見ている二人の方が心和むほどであった。



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スパッツ

 放課後。

 ゼノヴィアは部活があるので、佐久間隼人に挨拶してから教室を出た。

 隼人も鞄を手に家路に就こうとするが、図書室から借りていた本を返さなくてはならないのを思い出し、先に図書室へと向かう。

 返却手続きを済ませた後、次は何を借りようかと本棚を物色するが、特にこれと言った物はない。

 読みたくなったらまたその時に借りればいいだろうと思い、結局何も借りずに図書室を出た。

 

 そして玄関へ向かう途中、一本の木の下に四人の女子生徒が集まっているのを見かけた。

 奇妙なのは、四人ともが木の上を見上げている事であった。

 見知らぬ女性に気安く声を掛けるのはどうかと思ったが、もしも困っているのならば手を貸してやるべきだろう。義を見て為さざるは勇なき也である。

 

「どうした? お化けでもいるのか?」

 

 近寄って声を掛けると、女子たちは弾かれたように一斉に振り返った。

 制服の襟章から、全員が一年生であるとわかった。

 

「あの、猫ちゃんが入り込んだみたいで……」

「追い払おうとしたんだけど、この木の上に逃げちゃって」

「それで、下りられなくなっちゃったみたいで」

「今、通りがかりの先輩に助けてもらってるところです」

 

 四人はそのように説明した。

 

「ふぅーん。なら、俺が手伝うような事はなさそうだな」

 

 と隼人が何気なく木を見上げると、その先輩らしき女子が、パンツ丸見えなのも構わずに木の枝に登っているところだった。

 飾り気のない水色のショーツで、動いたせいか尻に食い込んでいる。

 枝の先端にいる黒猫に手を伸ばしているその女子生徒は、部活へ向かったはずのゼノヴィアであった。

 

「何やってんだ、ゼノヴィア」

 

 隼人は顔を伏せながら、声を掛ける。

 

「やぁ隼人。見ての通り、野良猫のレスキューだ」

 

 ゼノヴィアは下を向いて相手に気付くと、そう答えた。

 そして豹のようなやけに慣れた動きで枝を伝い、その先にいる黒猫の、首根っこのたるんだ皮の部分を掴んだ。いわゆる猫掴みだ。

 その素早い手並みに驚いたのか、黒猫は暴れるような事もしない。

 ゼノヴィアは黒猫を掴み上げると、枝から飛び降りた。その際にスカートが派手にめくれて、下着が丸見えになった。

 

「そら行け、もう入ってきてはダメだぞ」

 

 ゼノヴィアは黒猫に語りかけてから離してやる。黒猫は我に返ったかのように、走り去って行った。

 一年生たちも異口同音にお礼を言って、下校する。

 彼女たちを手を振って見送るゼノヴィアの肩を、隼人は指先でトントンと叩いた。

 

「何だい?」

「お前、もっと人目を気にしろ」

「──?」

 

 何の事やらわからず、ゼノヴィアは小首を傾げた。

 

「さっき、パンツ丸見えだったぞ」

「仕方がないさ、木に登っていたのだからね。なりふり構っていては人助け──いや、猫助けか──とにかく、救助活動なんて出来ないよ」

「まぁ、そうなんだが……どうにもお前は、無防備すぎる。極論すれば、お前のパンツ見たさにつきまとう奴が出てくるかも知れないんだぞ」

「……そこがよくわからないな。何故男は女のパンツなんて見たがるんだ?」

「何でって……女の子のパンツなんて、めったに見れるもんじゃないし、見せてくれって頼んでも見れるもんじゃないからな」

「なるほど、希少価値というやつだね?」

「──まぁ、だいたいそんな感じだ」

 

 だんだん説明が面倒になり始めて、隼人はそういう事にした。

 

「で、なんで希少価値が発生するかというと、下着ってのは服の下に着るもんだ。それを見せようとしたら当然、上に着てる服を脱がなきゃならない。つまり下着を見せるってのは裸をさらすのと同じで、はしたない事なんだ。だから、軽々しく見せるのはよくないんだ──わかるか?」

「うん」

 

 ゼノヴィアは小さな子供のように、コクンとうなずいた。

 

「まぁ、今回はしょうがなかったけどよ、普段からもっと警戒した方がいいぞ」

「とは言え、うちのスカートは短いからね……」

「パンツの上に、もう一枚何か穿けばいいんだよ」

「なるほど、わかった」

 

 ゼノヴィアは小さな子供のように、コクンとうなずいた。

 余りにも素直にうなずくものだから、本当にわかったのだろうかと隼人は一瞬不安になった。

 

 今まで彼女の事を妹か何かのように思っていたが、その認識を改めなくてはいけないようだ。

 ゼノヴィアはどちらかと言えば『弟のような妹』と見るべきだろう。どうにもメンタルというか考え方というか、思考が男子寄りだ。

 その辺も考慮して接するべきだろうと、隼人は考えていた……。

 

 

 翌朝。

 登校してきた隼人を、ゼノヴィアが校門前で待ち構えていた。

 隼人の姿を見掛けるなり、子犬のようにトコトコと駆け寄る。

 朝の挨拶を交わした後、彼の手を引いて校舎の裏庭に連れていった。

 

「おい、どうした?」

「君に言われた通りにしてみた」

 

 そう言って、ゼノヴィアはいきなりスカートを大きくめくり上げる。その下には、サイドに白の二本線が入った紺色のスパッツが穿かれてあった。

 

「こんな感じでいいだろうか?」

「あ、ああ。それでいいよ、うん」

「そうか、良かった」

 

 ゼノヴィアは安心したように、ニッコリと笑った。

 

「いつもありがとう、隼人。何も知らない私に色々と教えてくれて……君にだったら、私のパンツをいくらでも見せてあげるよ」

「いらんわ阿呆。教室行くぞ」

「うん」

 

 歩き出す隼人の後を、ゼノヴィアはついていった。



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忘れ物

 ホームルームが終わり、佐久間隼人は帰り支度を始める。そこへ、彼の制服の裾をクイクイと引っ張る者がいた。

 そんな事をするのは一人だけだ。振り向くと、やはりゼノヴィアが隣の席から彼の制服の裾を引っ張っていた。

 

「おう、どうした?」

 

 隼人はいつものように、気さくに尋ねる。

 

「忘れ物をしたので、更衣室までついてきて欲しい」

「おう、いいぞ」

 

 隼人は快諾し、ゼノヴィアと二人で、まずは職員室に向かった。そして体育の担任である風見から更衣室の鍵を借りて、体育館に向かう。六時間目は体育で、体育館でバスケットボールをやっていたのだ。

 廊下を歩くゼノヴィアは、心なしかスカートを押さえてるように見えた。

 

「で、何忘れたんだ? スマホか?」

 

 隼人は何とはなしにそう聞いた。

 途端にゼノヴィアの白い頬に、かすかではあるが朱が吹いた。

 

「……パンツ」

「ん?」

 

 ゼノヴィアの声が小さかったので、聞き返す。

 

「……パンツを、忘れてしまった」

「ハァ?」

 

 思わず声が裏返る。

 

「着替えてる時に、ブルマと一緒に脱いで、ブルマごと忘れてしまったみたいなんだ」

「パンチラ防止用のスパッツはどうした」

「それも、たぶん更衣室だ」

「忘れすぎだろ……」

 

 普通気付くだろうと思った隼人だったが、自分もいつも制服のシャツやズボンのポケットに突っ込んでいるスマホを忘れてしまい、慌てて取りに戻った経験がある。普段からスカート穿きの女子なら、案外気付かないものなのかも知れないと思い直した。

 

 彼は知らないが、ゼノヴィアは何かしら不足している環境においては、その不足を補おうとあれこれ思考するが、満ち足りた環境になると途端に抜けてしまうのだ。彼女を古くから知る者ならば、「またか……」の一言で済ませている事だろう。

 

 体育館にはまだ人はいない。静まり返っている。

 更衣室の前まで来ると、隼人は足を止めた。

 

「待っててやるから、さっさと探してこい」

 

 そう言って、ゼノヴィアに鍵を差し出す。何せ女子更衣室である。おいそれと入る訳にはいかなかった。

 しかしゼノヴィアは受け取らず、眉を八の字にして、隼人の制服の裾を掴んだ。

 

「一緒に探してほしい……」

 

 心なしか、どこか舌足らずな喋り方だった。

 もう一方の手は依然スカートを押さえたままだ。下着がなくて落ち着かないのか、あるいは自分の失態に自分であきれてしまったのか、とにかくいつになく弱気になっている……。

 

「──わかったわかった」

 

 仕方なく、隼人はゼノヴィアと一緒に女子更衣室に入った。

 中は、左右と正面の壁にロッカーが並び、真ん中に長椅子が一つ置かれてある。

 軽く見渡したが、それらしき物は見当たらなかった。

 しかし、誰かが気付いて職員室に届けたのなら、風見も何か言ってくるはずだ。その彼が何も言わずに鍵を貸した以上、ゼノヴィアの恥ずかしい忘れ物はまだここにあるはずだ。

 ゼノヴィアは床に四つん這いになって、長椅子の下を覗き込む。

 隼人は慌てて、彼女に背を向けた。

 何せ今のゼノヴィアはノーパンである。あの短いスカートの下は、丸裸なのだ。探すのに夢中になっているせいか、もはやスカートを押さえようともしていない。彼女がほんの少し姿勢を変えただけでも、スカートがめくれてお尻やもっと大事な部分が丸出しになってしまいそうだった。

 

(一緒に探すふりして覗いちまうか?)

 

 ほんの一瞬だが、隼人の胸の内にそんな下心が湧いた。

 だがそれは、出来なかった。自分に無防備なまでの信頼を寄せてくれるゼノヴィアを裏切ってしまう。男として恥ずべき行為である。

 とはいえ、密室に二人きりで相手はノーパン。

 今の自分が置かれた状況を考えると、何やら変な気持ちになってしまうのも事実であった。

 

 ──その時である。

 

 隼人の視界が変わった。

 個室とも呼べないほど狭く、薄暗い空間。

 上と下に網棚が設置されたその中の、下の網棚の上に、丸まった紺色の布切れが置かれてある。

 

(何だこりゃ?)

 

 そう思う間もなく視界が再度切り替わり、荷物を抱えた女子生徒たちが体育館に続く渡り廊下に向かう風景が見えた。

 そして視界は、再び元の女子更衣室に戻る。

 

(……まずい)

 

 今の現象が何だったのかはさっぱりだが、それを抜きにしても、いずれ部活動で体育館を利用する生徒たちがやって来るのは確かなのだ。

 そんな当たり前の事を今更思い出した隼人は、ますます落ち着かなくなった。このままではあらぬ誤解を受けてしまう。

 なりふり構ってられず、隼人はロッカーを片っ端から開け始めた。最初に見た風景が、ロッカーの中のように思えたのだ。

 幸運にも、三つ目のロッカーを開けると、下の網棚に丸まった紺色の布切れが置かれてあった。

 横から彼の行動を見ていたゼノヴィアが手を伸ばし、それを掴んで広げる。

 

「あった! これだ隼人! 私のパンツとブルマだ!」

 

 ゼノヴィアは安堵の笑みを浮かべ、ブルマの中から飾り気のない水色のショーツを取り出して見せた。

 

「見せんでいい、見せんで。早く穿け」

 

 言いながら隼人はロッカーの中を調べ、上の網棚に彼女のスパッツが置かれているのを見付けた。

 手渡そうと振り向くと、ゼノヴィアはちょうど彼にお尻を向けて、足を通したショーツを上げているところだった。スカートがその拍子にめくれて、わずかながら真っ白なお尻がチラリと見えてしまう。

 隼人は全速力で顔を背けた、目まで閉じた。

 

「ほれ」

 

 そのままスパッツを差し出すと、ゼノヴィアはそれを受け取り、穿いた。

 

「ふぅ、何とか落ち着いた……ありがとう隼人。ロッカーに入ってると、よく気付いてくれたね」

「床に転がってないならそういう事だろ。大したこっちゃねーよ。それより、早く戻るぞ」

「うん」

 

 ゼノヴィアは幼い仕草でコクンとうなずき、更衣室を出る隼人の後ろをトコトコとついていった。

 

 職員室にはまだ風見がいたので、彼に鍵を手渡す。

 

「忘れ物は見付かったか? いったい何を忘れてたんだ?」

 

 風見は受け取りながら、何とはなしに尋ねる。

 

「パ」

「スマホを忘れてたそうです」

 

 馬鹿正直に答えようとするゼノヴィアを遮り、隼人が誤魔化す。

 

「そうか。今度からは気を付けるようにな」

「はい、こいつにもよく言って聞かせておきます」

 

 隼人はそう言うと、「失礼しましたー」と挨拶して、ゼノヴィアの手を引いて職員室を出た。

 

「隼人、私が忘れたのはスマホではなく」

「わかってるよ。わかってるけど馬鹿正直に答えなくていいんだよ」

「そうなのか? うん、わかった」

 

 ゼノヴィアは小首を傾げたものの、隼人がそう言うのならそうなのだろうと納得した。

 

 教室に戻るまで、二人は、自分たちが手を繋いでいる事にすら気付かなかった。



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水着

 クイクイ。

 

 放課後、佐久間隼人はシャツを引っ張られた。

 そんな事をする相手は決まっているので、そっちの方を向くと、やはりゼノヴィアだった。

 

「おう、どうした」

「日曜日は、何か予定はあるかい?」

「うんにゃ」

「なら、ちょっと買い物に付き合ってはもらえないだろうか?」

「何買うんだよ」

「水着」

「ならアーシアとでも行け。女の子同士の方がいいだろ」

「それがそうはいかないんだ」

 

 と言って、ゼノヴィアは以下の事情を説明する。

 

 彼女の所属するオカルト研究部の部長リアス・グレモリーと、生徒会長の支取蒼那は幼なじみである。

 その縁で、生徒会からオカルト研究部へプール掃除をしてほしいという要請があった。

 引き受けてくれたら一日だけそのプールを好きに使っていいとの事で、リアスは二つ返事で了承。

 女子部員たちにも、各々水着を持参するようにとの通達があった。

 

「それで、当日見せ合う予定なので、アーシアを誘う訳にはいかない。かと言って学校指定の水着では何だかこちらが距離を置いているようで気が引ける。だから、君に選んでほしいんだ」

「う~ん、でもなぁ……」

「お願いだ、隼人。君だけが頼りなんだ」

 

 ──君だけが頼りなんだ。

 

 ゼノヴィアのその一言が、隼人の中で何度も何度もリフレインされた。

 よく見るとゼノヴィアは眉毛を八の字に下げて、まるで捨てられた子犬のような気弱な顔だった。

 こんな彼女の頼みを無下に断るようでは、男が廃る。

 

「しゃぁーねぇな、頼られてやるよ」

「ありがとう、隼人」

 

 隼人の返答に、ゼノヴィアは安堵の笑みを浮かべた。

 

 

 ──という訳で日曜日。

 隼人は待ち合わせ場所の公園で、ゼノヴィアを待つ。

 

「隼人」

 

 呼び掛けられて振り向くと、ゼノヴィアがいた。

 水色のシャツと白いズボン。

 実に涼しげな服装だ。

 

「おう」

「来てくれてありがとう。さぁ行こう、店はこっちだ」

 

 ゼノヴィアは隼人の手を引いて、トコトコと歩き出す。

 心なしか足取りが軽かった。

 ゼノヴィアに連れられて隼人がやって来たのは、三階建ての服屋だった。看板にはアルファベットで店名が書いてあるが、隼人の英語力では読めなかった。

 

「ここの三階が、今は水着専用コーナーになっているらしい」

「豪勢だな」

 

 その水着専用コーナーに入ると、通路を挟んで右側が男性用、左側が女性用コーナーとなっている。

 ゼノヴィアは隼人の手を引いて、彼の気恥ずかしさになどとんと気付かずに、迷わずそちらへ向かった。

 

「さぁ、選んでくれ。君が選んでくれれば安心だ」

「……信頼されるのは嬉しいが、いくらなんでも他人に丸投げし過ぎだ」

 

 隼人は思わずたしなめるが、ゼノヴィアはただ子犬のように小首を傾げるだけだった。

 

「だが、私はどういう水着が良いのかわからないからね。隼人が選んでくれたものなら間違いはないだろう?」

「じゃあお前、俺がこういうの着ろって言ったら着るのか? 着ないだろ」

 

 隼人は親指で、手近なところに展示されてある水着を指し示した。

 いわゆるスリングショットと呼ばれる物で、大事な部分を隠すための布地はとても小さく、ほとんど紐と変わらない代物だった。

 ゼノヴィアはその水着を上から下まで眺めてから、

 

「こういうのが好きなのか? 私は構わないぞ」

「構えよ」

 

 あっさりと答えるゼノヴィアに、隼人は半分あきれてしまった。

 

「まぁいいや。そのプールの日には男子も──つーか、兵藤も来るんだよな」

「うん」

「なら、ビキニはアウトだ。断固NGだ」

「何故だい?」

「泳ぐとポロリと取れるらしいからな」

「なるほど」

 

 いつも自分の胸に話し掛けてくる一誠のだらしない顔を思い出し、ゼノヴィアは納得した。

 

「だから、まぁ……」

 

 隼人はちょっと辺りを見回してから、離れたところにある競泳水着のコーナーに向かう。

 

「着るならこういうのにしとけ」

「わかった。この中の、どれがいいだろう?」

「それこそ好きにしろよ。でも、あんまり白いのとか薄いのとかは選ぶなよ?」

「何故だい?」

「濡れると透けるそうだからな」

「なるほど」

 

 いつも自分の胸に話し掛けてくる一誠のだらしない顔を思い出し、ゼノヴィアは納得した。

 

「よし、では早速見繕うとしよう」

 

 そして、何故か隼人の手を引いて、女性用競泳水着コーナーに乗り込んでいく。

 

「これなんかどうだろう? 何だか凄く安全性が高そうだ」

 

 とゼノヴィアが指し示したのは、全身をガッチリと覆うタイプだった。

 

「オリンピックじゃねぇーんだから、もっと可愛いっぽいのにしろよ。たぶん他の連中もそんな感じのを持ってくるだろうからよ」

「うぅむ、難しいな……」

 

 それからゼノヴィアは、あれやこれやを取っ替え引っ替え見て回ったが、なかなか決まらない。

 隼人はだんだん、見ていられなくなってきた。

 

「決まらないなら、これにしろ」

 

 そう言って、緑色のラインが入った青い競泳水着の掛かったハンガーを手に取った。

 

「お前の髪の色と同じだから、何か統一感があっていいだろ」

「──うん、わかった。ありがとう隼人」

 

 ゼノヴィアは差し出された水着を、何故か嬉しそうに手に取った。

 

「じゃ、下で待ってるから、さっさと金払って来い」

「うん」

 

 ゼノヴィアが幼い仕草でコクンとうなずくと、隼人はさっさと階段を下りていった。

 取り残されたゼノヴィアはレジへ向かう途中で、ピタリと足を止めた。

 

 さっきのスリングショット水着が、そこにあった。

 

 ゼノヴィアはそれを少しの間眺めてから、何を思ったか展示されてあるそれと同じ物を手に取った──。



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感謝の気持ち

 日曜日。

 佐久間隼人はゼノヴィアが住むマンションを訪れていた。

 

「いつも世話になっているから、そのお礼がしたい」

 

 前日にゼノヴィアがそう言って、場所を示す地図を渡してくれたのだ。

 十階建てマンションの最上階。

 その一番奥がゼノヴィアの部屋だ。

 ゼノヴィアは隼人を迎え入れ、リビングに案内すると、コーヒーを出してから、「準備があるから」と言って隣の部屋(恐らく寝室)に引っ込んでしまった。

 コーヒーを静かにすすりながら、隼人は一人暮らしの女の子の家という未知の世界に、ちょっと落ち着かない気持ちだった。

 同時に、妙に殺風景なリビングにちょっと不安も感じていた。

 特に散らかってる訳でもないので、ちゃんと生活は出来ているのだろうが、必要最低限の物しか見当たらない。マンションの各部屋に標準で置かれてあるであろう物だけといった感じだ。

 

(まぁ、日本(こっち)に来てからまだ間がないだろうしな……)

 

 という事で、納得しておいた。

 

「お待たせ」

 

 不意に声がした。

 ゼノヴィアが戻って来たのだ。

 しかし、その格好を見て隼人は凍りついた。

 

 ゼノヴィアは、水着姿になっていたのだ。

 いわゆるスリングショットと呼ばれるタイプだ。

 その中でも特に布面積が小さく、ほとんどヒモと変わらない。かろうじて大事な部分をカバー出来ているが、ちょっと身動(みじろ)ぎするだけで見えてしまいそうな危うさをはらんでいる。

 

「……何だ、それ」

「水着だ」

「見ればわかる。そうじゃなくて、なんでそんな格好してんのかって聞いてんだよ」

「言っただろう。いつも世話になっているお礼だ」

 

 ゼノヴィアはそう言って、ソファに座る隼人の前までトコトコと移動した。

 

「男性は女性のセクシーな姿を見るのが好きなんだろう? 自分で言うのもなんだが、それなりに自信はある。楽しんでもらえると幸いだ」

 

 そして膝に手をついて、前屈みになり、隼人と目線を合わせた。

 

「君の好みのポーズとかあれば、遠慮せず言ってくれ。何なら写真を撮っても構わないぞ」

 

 ゼノヴィアは無邪気な笑顔で大胆な事を言う。

 胸の豊かな膨らみが両腕で圧迫されて、深い谷間を作り出していた。

 隼人は思わず、その魅惑の谷間に視線を吸い寄せられてしまい、すぐさまあらん限りの精神力で視線を逸らした。

 その様を見て、ゼノヴィアは小首を傾げる。

 

「どうしたんだ?」

「いや、何でもない」

 

 隼人は目線を逸らしたまま答える。

 ゼノヴィアは不安そうな顔になり、隼人の隣に座った。

 

「私の身体では不服か? それとも水着ではなく、別の格好の方が良かったか?」

 

 すがるような眼差しを向け、知らず知らず隼人のシャツの裾を掴んでしまう。

 その拍子に水着がずれて、胸の先端の桜色が半分見えてしまっているが、ゼノヴィアはまったく気付いていない。

 

「いや、そうじゃなくて、えーっと……」

 

 さて、どう言えば理解してもらえるだろうか。隼人は言い回しに迷って、言葉に詰まる。

 だが、不意にゼノヴィアの胸から半分ほど大事な部分が覗いているのに気付き、またも視線を逸らしつつ、ズレを直してやろうと、水着の肩ヒモ部分を指で摘まんだ。

 

「──なんだ、裸が見たかったのか」

 

 おお、何たる悲劇か。

 ゼノヴィアは少年のその行為の意味を勘違いしてしまった。そして水着を脱ごうと立ち上がってしまう。

 その拍子に、胸を隠していた部分が大きくずり下がってしまい、ゼノヴィアの左側の乳房が丸出しになってしまった。

 ゼノヴィアは恥ずかしがるどころか、まるでここが更衣室か脱衣場であるかのように、そのまま躊躇いもなく水着を脱ぎ捨ててしまう。

 隼人の目の前に、真っ白な裸身が惜しげもなく披露されるが、隼人は敢えて目を閉じた。

 後ろ髪を引かれる思いで目を閉じた。

 断腸の思いで目を閉じた。

 

 ゼノヴィアのこの行為は、あくまでも友情から来るものである。宿題を教えてもらったお礼に缶コーヒーとかアイスとかを奢るような、そんな感覚でやっているのだ。

 隼人を特別な相手として見ているのではない。

 単に、友達ならここまで、恋人ならここまで、というような関係性に応じた線引きが出来ていないだけなのだ。

 つまり、ここでゼノヴィアの裸体を観賞するのは、相手の無知につけこんで自分の欲求を満たそうとする邪悪な行いである。男のやるべき事ではない。

 

 故に佐久間隼人は、決死の思いで目を閉じた。

 しかしゼノヴィアにはそんな気持ちはわからないらしく、一糸まとわぬ姿で、隼人にすり寄った。

 

「どうしたんだ? やはり、私の身体では不服なのか? してほしい事やしたい事があるなら、遠慮せずはっきり言ってくれ。私は、隼人の言うことなら何でも聞く。私の身体に触りたいなら、好きな所を好きなだけ触ってくれて構わない」

 

 言いながら隼人の手を取り、自分の胸にあてがった。

 手のひら全体に伝わるモチモチとした柔らかさと程好い重さに、最早隼人の理性は崩壊寸前だった。

 自分の中で、何か危険なものが爆発してしまいそうな感覚を覚えた隼人は、グッと拳を握ると──、

 

「ぬがぁっ!」

 

 その拳を、自身の頬にめり込ませた。

 瞬間、隼人は意識を失い、ゼノヴィアの胸元に顔面ダイブしてしまった……。

 

 

 目を覚ますと、ベッドに寝かされていた。

 濡れたタオルが、折り畳まれて額に置かれてあった。

 

「やぁ、おはよう」

 

 ゼノヴィアが枕元に座っていた。

 もう裸でも水着でもなく、部屋着に着替えていた。

 

「あ、ああ……」

 

 隼人はあやふやな返事をしながら、起き上がった。

 

「大丈夫か? 気分はどうだ?」

 

 ゼノヴィアが心配そうに、顔を覗き込む。

 

「ああ、大丈夫。何ともない。驚かせて悪かったな、その、えーっと……」

 

 裸を見たくなかったなどと言えば傷つくかもしれないと思うと、隼人はまたも言葉に詰まる。

 そこへ、ゼノヴィアが抱きついてきた。

 

「お、おい……」

「すまなかった、隼人。君を困らせるつもりはなかったんだ。ただ、本当に心から、私は君に日頃のお礼がしたかった。君に喜んでほしかった。だけど私は、女の子らしい事など何も出来ない。だから、あんなやり方しか思い付かなかったんだ……君を困らせたかった訳でも、からかってやろうとした訳でもない。どうかそれだけは、わかってほしい」

「──わかってる。大丈夫だ、ちゃんとわかってる。ありがとうなゼノヴィア」

 

 隼人は優しく言って、背中をポンポンと叩いてやった。

 

「でもな、裸を見せたり身体を触らせたりとかは、恋人とか夫婦とか、もっと特別で深い関係の相手に対してやる事だ。いくら感謝の気持ちからでも、友達相手にならやり過ぎだ……ゼノヴィアが、俺の事をそれだけ信頼してくれて、心を許してくれてるってだけでも、俺は充分嬉しいよ」

「本当か?」

 

 ゼノヴィアは捨てられた子犬のような表情で、隼人が顔を見る。

 

「ああ」

「私を嫌ったりしないか?」

「しないしない」

「……ありがとう、隼人」

 

 安堵の笑みを浮かべて、ゼノヴィアはまたギューッと抱き付いた。

 隼人は小さな子供をあやすように、彼女の頭を撫でてやる。

 

「ところでゼノヴィア。ハーモニカ、聞きたくないか?」

 

 自分の突飛な行動で不安がらせてしまったお詫びの気持ちから、隼人はそう言った。

 

「うん、聞きたい」

 

 ゼノヴィアがコクンと幼い仕草でうなずく。隼人はリビングに移ると、ソファの隅に置いてあったボディバッグからハーモニカを取り出した。

 二人が隣り合って座ると、『ラヴァーズ・コンチェルト』が優しく流れ始めた……。



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『狂闘先生!』

 朝の教室。

 ホームルームが始まる前の自由な時間。

 同級生の名護という男子が、佐久間隼人の席に紙袋を持ってきた。

 

「ほれ、借りてた本。ありがとな佐久間」

「……ああ、それはいいけど、なんで酒屋の袋に入れてくるんだよ。俺が酒持ち込んだみたいじゃねえか」

「それしかなかったんだよ、悪い悪い。袋は返さなくていいぜ」

 

 名護は特に悪びれた風もなく、さっさと自分の席に戻っていった。

 そんなやり取りを隣の席から見ていたゼノヴィアが、隼人に問い掛ける。

 

「何が入ってるんだ?」

「漫画本」

 

 隼人は短く答えて、その漫画本入りの紙袋を、人目に付かないよう机の下に置いた。

 

 クイクイ。

 

 そこへ、ゼノヴィアが制服の裾を引っ張る。

 

「私も読みたい」

「昼休みにな」

「うん」

 

 ゼノヴィアは嬉しそうにうなずいた。

 

(女の子が読んで面白いものとも思えないけどな……)

 

 隼人は胸の内でつぶやく。

 しかしゼノヴィアは、何だかんだ感性が男の子に近いので、案外楽しめるかも知れないとも思った。

 

 

 昼休み。

 旧校舎の空き教室に二人は移動する。

 隼人は机の上に、紙袋の中身を置いた。

 全部で十冊ほどの単行本で、タイトルは『狂闘先生!』とある。表紙にはデフォルメの効いた絵柄で、学生たちがポーズを決めていた。その中心に、カバみたいな顔のスーツ姿の男性キャラがいた。

 このカバみたいな顔のキャラがどの単行本の表紙にも載っているので、彼が主人公なのだろうとゼノヴィアは推測した。

 

『狂闘先生!』は白川市朗が週刊少年チョンピョンで連載中のギャグ漫画であり、バトル漫画でもある。

 不良学校に教頭として就任した主人公の賀馬先生が、番長のみが着ることの出来る伝説の学ランに何故か選ばれてしまう……という出だしで、最初は教師なのに番長というシチュエーションが生み出すドタバタを描いたギャグ漫画だったが、やがてバトル物に路線変更し、賀馬先生が学ランを失った後改めて番長と認められる展開を経てから、急激に人気が上がり始めた。

 そのため、1巻だけ賀馬先生がスーツ姿ではなく学ランを着ている。

 

 ゼノヴィアは早速その1巻を手に取り、読み始めた。

 黙々とページをめくり、時々クスリと笑う。

 2巻以降に入ると、食い入るように読み始めた。

 昼休みが終わるまでに、ゼノヴィアは6巻までを読み終えた。

 隼人は単行本を紙袋に戻し、それを机の上に置きっぱなしにした。

 

「誰かに見られて酒だと勘違いされても困るし……お前、気に入ったみたいだしな。貸してやるから、部活が終わったらここに取りに来ればいいよ」

「いいのか?」

「返す時は別の袋に入れといてくれると助かる」

「ありがとう隼人!」

 

 ゼノヴィアは本当に『狂闘先生!』にハマったようだ。嬉しさの余り小さな子供のように、隼人に抱きつく。

 しかし彼女の肉体は小さな子供ではなく、年相応に発育しているのだ。豊かな胸の膨らみが、互いの着衣越しに隼人の胸板に押し付けられて、そのボリュームと柔らかさを無自覚にアピールしてくる。

 隼人は嬉しさ半分恥ずかしさ半分の苦笑いをしながら、彼女の頭を撫でてやった。

 

「いいってことよ、俺は全巻持ってるからな……ほら、教室戻るぞ」

「うん」

 

 ゼノヴィアは幼い仕草でコクンとうなずき、隼人と一緒に旧校舎を出た。

 

 新校舎へ向かう小道を歩いていると、ゼノヴィアが不意に隼人の腕にしがみついてくる。

 

「うおっ!? 何だ、どうした?」

「何となく」

「はあ?」

「君とこうしてくっつくと、何だか落ち着く……さっき、そんな感じがしたのだが……うん、やっぱりそうだ。君とこうして触れ合っていると、とても落ち着く」

「そ、そうか……」

 

 隼人は曖昧な返事しか返せなかった。

 ゼノヴィアが密着してくるものだから、彼女の豊満な胸の膨らみが、腕に押し当てられて、それどころではなかったのだ。

 もうずっと教室に着かなければいいのに……と、一瞬思ってしまった。

 しかしそういう訳にもいかない。新校舎が見えてくると、隼人はしがみつくゼノヴィアの腕を優しくほどいた。

 

「いいかゼノヴィア。前から言ってるけど、友達ならここまでとか、ここからは恋人同士とか、関係によって付き合いの仕方ってもんが変わって来るんだ。俺とお前は別に付き合ってる訳でも何でもないんだから、ベタベタするのは良くない。でないとお前が、大して仲良くない相手ともベタベタするような奴だと誤解されるからな。だから、こういうのはやらない方がいい」

 

 そう説教すると、ゼノヴィアは眉を八の字に下げて、不安そうにギュッと彼の制服の裾を掴んだ。

 

「迷惑だったか?」

「……まぁ、お前がそれだけ俺のことを好いてくれてるのは、嬉しいよ。でも今も言ったように、お前が変な誤解をされてしまうから、お前のためにも控えた方がいい」

「わかった、人前ではしないよ。でも、二人きりの時なら、構わないだろう?」

「……え~っと」

 

 隼人は迷った。女の子(ゼノヴィア)と密着出来る誘惑と、彼が持ち合わせている理性や倫理観が、せめぎ合っている。

 しかし、不安そうにこちらを見つめるゼノヴィアの顔を見ると、欲望や理性とは別のものが勝った。

 ゼノヴィアを悲しませたくない、喜ばせてあげたいという気持ちである。

 

「まぁ、誰も見てない時なら、好きにしろよ」

 

 思わずそう口走ってしまった。

 

「ありがとう、隼人!」

 

 ゼノヴィアはパッと笑顔になると、正面から思いきり抱きついて来た。

 再びその胸の柔らかさを感じ取れて、隼人は不覚にも口許が弛むのを押さえきれなかった。




『木曜日のフルット』超面白いです


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昼休み

「あれ? どうしたの佐久間くん」

「ゼノヴィアさんは?」

 

 昼休みに、村山と片瀬が声をかけてきた。いつもならゼノヴィアと二人で教室を出ていく隼人が、今日は一人で弁当を食べているのだ。

 

「アイツは部活のみんなと飯食う約束してるらしいから、そっちに行った」

 

 隼人はそう答えて、だし巻き玉子を頬張った。

 オカルト研究部の部長リアス・グレモリーの手料理をみんなで食べるらしく、ゼノヴィアは手ぶらで出て行った。校内屈指の人気を誇る上級生の手料理が振る舞われると知れれば、部外者の村山と片瀬はさぞや残念がるだろうと思い、そこまで詳しくは説明しなかった。

 

「ふーん、そうなんだ」

「じゃあ今日は私たちが一緒にいてあげるねー」

「じゃあって何だよ」

 

 隼人は片瀬に突っ込むが、二人は「いいからいいから」「気にしない気にしない」と受け流し、隣にあるゼノヴィアの机をくっつけた。

 隼人も隼人で、文句を言うほどの事でもないので黙認した。誰かと一緒にいたい訳ではないが、わざわざ追い払ってまで一人になりたい訳でもない。

 

「ところでさ、佐久間くんとゼノヴィアさんって、いっつもどこで何してるの?」

 

 隼人の隣に座った村山が問い掛ける。

 

「特にどことは決めてねえよ。特に何かしてる訳でもねえ」

「お喋りとかは?」

 

 と片瀬。彼女は村山の向かい側に座っている。

 

「する事はするが、特に珍しい話題って訳じゃねえ」

「本当に一緒にいるだけ?」

「まぁな」

 

 自分がハーモニカをやってる事は、何となく恥ずかしいので言わない隼人であった。

 

「ふーん、そっかー。それだけゼノヴィアさんは佐久間くんになついてるんだねー」

「何でそうなるんだよ」

「だって、特に何かする訳でもないのに一緒にいたがるって事は、そういう事でしょ?」

「そうよね、佐久間くんと一緒の方が落ち着くって事だし」

「佐久間くんはゼノヴィアさんのお兄ちゃんだもんねー」

「何でそうなるんだよ」

 

 同じ言葉を繰り返し、隼人はメインディッシュに残しておいた鶏の唐揚げを頬張った。

 

「だって色々教えてあげてるみたいじゃない」

「それに佐久間くんの後ろをトコトコついてって、本当に兄妹みたいだよ?」

 

 村山と片瀬はそれぞれ答えると、二人で顔を見合わせて「ねー?」と声を揃えた。

 

「佐久間くんだって、今日はゼノヴィアさんがいないから、ホントは寂しかったんじゃないの?」

「うんうん、何となーく寂しそうだったよねー」

「別に、寂しくなんてねーよ。どうせすぐに戻ってくるんだし」

「そんな事言って、ホントは寂しいんでしょー?」

「いつも一緒の相手がいないと落ち着かないよね」

「うんうん、私も片瀬がお休みの時とか、何か物足りない気持ちになるし」

「ホント? 私も村山がそばにいないと寂しいんだよねー」

「そうなの? 何か嬉しい……!」

「お前等、人が飯食ってる横で、しかも女同士でイチャついてんじゃねえ」

 

 隼人は声音に凄みを加えて言ったが、昨年も同じクラスだった気安さからか、二人はどこ吹く風である。

 その後もとりとめのないお喋りをして、時々隼人を二人でからかいつつ、食事を終えた村山と片瀬は、ゼノヴィアの机を元の位置に戻してから自分たちの席に戻っていった。

 隼人も食べ終わって空になった弁当箱をしまうと、席を立った。昼休みの残りの時間を、図書室で過ごそうと思ったのだ。

 しかし教室を出たところで、戻ってきたゼノヴィアと鉢合わせた。

 

「やぁ隼人、どこへ行くんだ?」

「図書室」

「私も行こう」

 

 ゼノヴィアは迷わずそう言って、隼人の後ろをトコトコとついていく。

 

(……妹っつーか、犬だな)

 

 クルンと丸まった尻尾をブンブン振りながら飼い主についてくる、小さな柴犬。そんなイメージが、ゼノヴィアの姿と重なる隼人であった。



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お宅訪問

 佐久間隼人とゼノヴィアは、二人肩を並べて、学校を出た。

 今日は部活が休みらしいゼノヴィアが、

 

「君の家に行ってみたい」

 

 と言い出したのである。

 道中特に何事もなく家に着いた時、敷地内に母の乗り回している軽自動車がないのを見て、隼人はちょっと安心した。息子が家にガールフレンドを連れてきたと知ったら、必要以上にはしゃいでしまうだろう。おそらく買い物に出掛けたのだろうから、2~3時間は戻ってくるまい。

 

 隼人は家に入ると、ゼノヴィアを一旦リビングに案内して、麦茶を入れてやった。

 

「ちょっと部屋片付けて来るから、ここで待ってろ」

「うん」

 

 ゼノヴィアはコクンとうなずいた。

 二階の自室に上がり、出しっぱなしの漫画本やゲーム機を片付け、部屋着に着替えた隼人は、ゼノヴィアを招き入れた。

 ゼノヴィアは物珍しそうにキョロキョロと室内を見渡す。

 壁際の本棚にはこの前読ませてもらった『狂闘先生!』を始め、いろんな漫画本や小説が陳列されていた。

 反対側の壁には戦闘機のポスターが貼られてある。

 ゼノヴィアの部屋に比べると物が多いが、散らかっている印象はない。麦茶を飲んでる間のわずかな時間でここまで片付けたとすれば、普段からそんなに散らかってはいないという事だ。そう考えて、ゼノヴィアは隼人に対してますます好ましい気持ちを抱いた。

 

 招き入れたは良いがどうしたらいいかわからない隼人は、とりあえずゲームを一緒にやる事にした。

 選んだゲームソフトは『ヌリオカートDX(デラックス)』。アクションゲーム『スーパーヌリオ』シリーズのキャラクターたちを操作するレースゲームだ。コース上のアイテムを取得してパワーアップしたり、他のキャラクターへの攻撃や妨害も出来る、かなり何でもあり(ヴァーリトゥード)なゲームである。

 ゼノヴィアに操作の仕方を教えて、早速やらせてみた。

 レースゲームどころかテレビゲーム自体初体験のゼノヴィアだったが、元々勘の良い娘なので、すぐに操作を覚えた。

 それで、今度は二人で対戦してみようという事になり、隼人は一度画面を最初のメニュー画面に戻す。

 そこでゼノヴィアの目に、ある項目が止まった。『オンライン対戦』と書かれた項目である。

 

「隼人、これは?」

 

 と指差して尋ねる。

 

「そのまんまだよ。インターネットで、同じゲームやってるプレイヤーと最大11人で競争するんだ」

「11人! 凄いな、ちょっとやってみたいぞ! ──あ、いや、やはりやめておこう」

「急にどうした」

「インターネットで、という事は、つまり隼人のアカウントで勝負するという事だろう? もしも負けたら、君の戦績がその分悪くなってしまう」

「気にするなよ、金を取られる訳でもないんだから」

「……うん。ありがとう隼人」

 

 ゼノヴィアは隼人の優しさに感激しつつ、オンライン対戦に挑戦する。

 対戦相手が集まり、レースが始まった。

 コースは大きな城の周りに張り巡らされたサーキットで、花畑あり、並木道あり、池ありののどかな風景だ。

 スタートダッシュで出遅れたゼノヴィアだったが、途中途中の加速アイテムを取る事に成功し、そのアイテムの効果で一気に上位にまで昇り詰めた。

 そして二週目に入ったところで、後方から飛んできた亀の甲羅の直撃を受けてスピン、その隙に後続に一気に追い抜かれて、あっという間に最下位となってしまう。

 何とか遅れを取り戻そうとしたものの、差はなかなか縮まらず、最下位のままで終わってしまった。

 

「……今日は巡り合わせが悪かったな」

 

 隼人の慰めの言葉は、割りと本音の言葉でもあった。経験者の隼人から見ても、今日の対戦相手は上級者揃いだった。この時間帯には滅多にお目にかかれないレベルの者たちばかりである。ゼノヴィアの運が悪かったとしか思えなかった。

 

「ほんの一度の失敗で、取り返しのつかない事態に陥る……まるで人生の縮図を見ているようだったよ──しかし」

「しかし?」

「私の前には誰もおらず、皆が私の後ろを走っていた。見ていた景色は一位と同じだ。ならば実質、私が一位だったも同然ではないか?

「皮肉とか嫌味とか抜きに、その発想はマジでなかったぞ……」

 

 ゼノヴィアのポジティブ思考に、割りと本気で尊敬の念を抱く隼人であった。

 

 

 気を取り直して、特訓と称してゼノヴィアは隼人と一対一で対戦する。

 

「うおおおおっ! 何人(なんぴと)たりとも私の前は走らせんッッ!!」

 

 前のめりになって叫ぶゼノヴィア。

 コース中盤の急カーブが連続するセクションに差し掛かると、ゼノヴィアが隼人の体に横からのし掛かってきた。

 かと思えば、すぐに離れた。

 またのし掛かってきた。

 カーブを曲がる度に、その方向に体が傾いてしまっているのだ。

 そしてその度に、彼女の胸に搭載された豊かな膨らみが、互いの着衣越しに隼人の腕に触れた。

 髪の匂いが隼人の鼻をくすぐった。

 しかしゼノヴィアは全く気付いていない。

 隼人一人が、すぐ隣にある女体を抱き締めたい衝動と戦い、悶々とした気持ちになっていた……。

 

 

 ひとしきりゲームを楽しんだ後、暗くなる前に──というよりは母が帰って来る前に──隼人はゼノヴィアを送ってやる事にした。

 

「今日はありがとう、隼人。楽しかった」

「そら良かった」

「また遊びに行ってもいいだろうか?」

「……時々ならな」

 

 毎日来てほしいくらいだが、自分の理性の堅固さにいささか自信が持てない隼人は、そう答えた。

 

「ありがとう隼人。君は本当に優しいんだな」

 

 ゼノヴィアは嬉しさの余り、隼人の腕にギュッとしがみついた。胸の膨らみが密着して、そのボリュームと柔らかさをダイレクトに伝えてくる。

 

「いいって事よ」

 

 クールを装う隼人の心の中で、理性と獣性の時間無制限一本勝負のゴングが鳴らされる。

 ゼノヴィアは自分を兄のように慕い、なつき、じゃれついているだけなのだ。歳の離れた兄姉に、小さな弟妹が抱きつくのと同じ感覚なのだ。

 そう自分に言い聞かせ、自分の中の獣を必死に抑え込む隼人であった。



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図書室 その2

 昼休み。

 佐久間隼人はゼノヴィアと机を向かい合わせにくっつけて、一緒に弁当を食べていた。

 窓の外ではシトシトと雨が降っている。旧校舎へ行くには傘を差す必要があるだろう。

 

「今日はどうするんだ?」

 

 ゼノヴィアが聞いてきた。

 

「こんな天気だしな。傘差して行くのもめんどくせえし、図書室でダラダラするよ」

「そうか。私も一緒に行ってもいいだろうか?」

「好きにしな」

 

 隼人はそう答えた。

 いつもゼノヴィアと一緒で、クラスメートに冷やかされるのは面白くないが、そんな事でゼノヴィアとの仲がこじれて疎遠になるのは、もっと面白くない。

 何より隼人自身、ゼノヴィアがそばにいてくれると彼女を独り占め出来てるようで気分が良い。

 そんな訳で、二人は弁当を食べ終わった後、肩を並べて図書室へと向かった。

 

 

 図書室に着くと、それぞれ本を選ぶ。

 ゼノヴィアは以前読んだハーロック・ショームズシリーズの続きを選んだ。

 隼人は別の棚で本を物色している。ゼノヴィアはその傍らにトコトコと歩み寄り、彼が本を選ぶのを無言で待っていた。

 隼人は一度彼女にチラリと視線を向けたが、すぐに本棚に視線を戻し、物色を続ける。

 少しして、一冊の本を選び、棚から取り出した。

 

「何を読むんだ?」

 

 というゼノヴィアの質問に、隼人は本の表紙を見せる。満月に照らされた森を描いた素朴な色使いの絵で、真ん中に赤い枠で囲まれて『山の怪奇談~その参~』とタイトルが表記されている。

 

「どういうストーリーなんだ?」

「まんまだよ。いろんな人が山の中で体験した不思議な話とか、いろんな土地に伝わる山に関する伝説やらまとめた本だ。一年の時に全部読んだけど、久しぶりに読んでみようかと思ってな」

「なるほど」

 

 そんな会話をしながら、二人は空いた席に隣り合って座り、読み始めた。

 

 

 ──少しして、隼人は視線を感じた。

 見ればゼノヴィアが身を寄せて、今自分が読んでいる本を覗き込んでいる。

 

「どうした?」

 

 声を掛けると、ゼノヴィアは驚いて小さく竦み上がった。

 

「ああ、すまない。君はどんな話が好きなんだろうかと気になってしまって……」

 

 と答えるゼノヴィアの頬は、かすかに赤らんでいた。

 

「読みたきゃまだ続きがあるから、棚から持ってこいよ。全部で十巻くらいあるし」

「う、うん、それはそうなのだが、その三巻の話も読みたくて……い、一緒に読むのは、駄目だろうか?」

「……まぁいいけどよ」

「ありがとう、隼人」

 

 ぶっきらぼうな返事にも、ゼノヴィアは朗らかに笑った。

 そして椅子を寄せて、隼人にピッタリとくっついて、一緒に読み始める。

 日本の山中で起きた不可思議なエピソードの数々が、よほどゼノヴィアの興味を引いたらしい。集中するあまり、頬と頬が触れ合うくらい隼人とくっついてしまった。

 少女の豊かな胸の膨らみが肩に乗っかり、髪の匂いが鼻孔をくすぐる。

 くすぐったのは香りだけでなく、髪の毛その物もだった。

 

 ぶぇっくし!

 

 隼人は咄嗟に顔を背けて、くしゃみをした。

 

「──あ、すまない隼人」

 

 くしゃみの原因が自分だと、ゼノヴィアはすぐに気付いたようだ。

 ポケットからティッシュを取り出して、隼人の鼻を拭いてやった。

 

 

 昼休みの終わりが近付くと、ゼノヴィアは『山の怪奇談』シリーズの四巻、隼人は五巻の貸し出し手続きをして、教室に戻る。

 

「隼人は怪談が好きなのかい?」

「それもあるけど、山絡みの話は特にな。なんか懐かしい感じがするんだよなぁー……やっぱり、いっぺん遭難した事があるから、変な愛着湧いちまってるのかもな」

「遭難とは穏やかではないね」

「小三の時に、田舎のじいちゃんとこの山で遊んでたら道に迷ったってだけの話だけどな……どうやって帰って来たのかも思い出せないくせに山に愛着湧くってのも、我ながら変な話だな」

「思い出せないのか?」

「昔の話だしなぁ……怪談じゃよくある事だ、さっきまで道に迷ってたのに、お化けに出会して無我夢中で逃げ回ってたら無事に戻れたってのはな。俺も、案外お化けに会ったのかも知れねぇが……だとしたら惜しい事したなー、サイン貰っときゃ良かったぜ」

「ふふっ、確かにそうだね。今度会った時に頼んでみたらどうだい?」

「そうするか──会えればの話だけどな」

 

 二人はそんな話をしながら、教室への廊下を仲良く歩いた。

 

 

(本当に、どーやって帰ったんだっけかな?)

 

 歩きながら、隼人は当時の事を思い出そうとする。

 だが、何故か思い出せないのだ。

 夏休みに母方の実家へお盆参りも兼ねて遊びに行き、近くの山で一人で遊び回っているうちに道に迷ったところまでは覚えている。

 だが、そこからはどうにも思い出せない。

 それどころか、その日以降から二学期の終わりまでの記憶が、丸々飛んでいる。

 

(……怖い何かに会ったような気がしない事もないんだけどなー……まさか、マジで山のお化けにでも出会したか? 天狗とか)

「──いや、まさかな」

 

 否定の言葉が、思わず口に出た。

 

「うん? どうかしたかい?」

「いや、何でもねえ」

 

 横を歩くゼノヴィアにそう答えて、隼人は苦笑した。



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封印解除

 満月が出ているが、鬱蒼と生い茂る木々に遮られて、月光が地上まで届かないため、辺りはとても暗かった。

 小学生くらいの男の子が一人、泣きながらその暗い夜の山中を歩いていた。

 夏休み、母の里帰りに同行した佐久間隼人は、近くの山で『探検』と称して一人で遊び回っているうちに、道に迷ったのだ。

 何度も木の根でつまずいて転んだせいか、あちこちに泥と葉っぱがくっついていた。

 ──ふと、少年の足が止まった。

 古びたお堂が一軒、ポツンと建っているのだ。

 暗い森の中でも、何故かはっきりと見えた。

 隼人はそのお堂の階段を上り、恐る恐る戸を開けてみた。

 中に入るなり、少年は驚き、竦み上がった。

 中には、天狗が一人、座って酒を飲んでいたのだ。

 まだ小学生とはいえ、立っている隼人が見上げてしまうほどの大きさだった。

 山伏姿で、赤ら顔の中心から伸びる鼻は、それだけで隼人の腕ほどありそうだ。近くに転がる一本歯の下駄は、隼人の椅子代わりに使えそうなほど大きい。

 

「何だ、貴様は」

 

 野太い誰何(すいか)の声が、銅鑼のように響いた。

 隼人は泣きそうになるのをこらえ、つっかえつっかえしながら名前と自分の住所(この場合は祖父母の住所となる)を告げ、道に迷った事を伝えた。

 

「お家に帰りたいです。このチョコレートあげるから、お家まで送ってください」

 

 半ズボンの尻ポケットに入れっぱなしで、体温と気温で溶けてフニャフニャになった板チョコを震える手で差し出し、お願いしてみる。

 

「何故俺が、そのような事をせねばならぬ。()ね」

 

 返ってきたのは、冷たい返事だった。

 少年の心に、改めて絶望が押し寄せて、隼人は大声で泣き出した。

 

「泣くな、うっとうしい!」

 

 怒声が雷鳴のように響き、その激烈な声色に、隼人はピタッと泣き止んでしまう。

 

「俺の力を写してやろう。それを使って、どこへなりと好きな所へ行け。二度と面見せるな」

 

 天狗は言うなり、懐から羽団扇を取り出し、それで隼人の顔を鼻っ柱を叩いた。

 少年は大きく後ろに吹っ飛び、お堂の外へと放り出されてしまう。

 起き上がった時、さっきまでいたお堂は消え去っていた。

 いったいどこへ消えたというのだろう?

 そんな疑問を浮かべながら辺りを見回していた隼人は、お堂の消失以外の変化に気付いた。

 さっきまで暗かった森の中が、とても明るい。飛んでくる蚊の動きすらはっきりと見て取れる。

 不意に視界が変わった。まるで高い空から見下ろしているみたいに、自分のいる場所やその周辺の景色が、俯瞰視点で見えた。

 自分の左手の方向に、民家が集まっているのが見える。祖父母が住む村だ。

 視界が元に戻ると、隼人は近くの木を見上げた。高さは、十メートル以上あるだろうか。

 軽く屈んでからジャンプすると、まるで空に吸い上げられるかのように軽々と、木のてっぺんにまで到達した。

 てっぺんの枝の上に立ち、辺りを見渡すと、村の灯りが遠くに見えた。目を凝らすと、母と祖父母が村の大人たちと一緒にいるのが、望遠鏡で眺めているかのようにはっきりと見て取れた。

 隼人は枝を蹴って、そちらの方角目指して跳んだ。

 猛烈な風が自分の体を運んでくれたように、少年には感じられた。

 そう思った次の瞬間、自分は母の前に立っていた。

 

 

 隼人は不意に目を覚まし、今自分が部屋のベッドで寝ているのだと認識した。枕元のスマホで確認すると、夜の二時だ。

 

「変な夢見ちまったな……」

 

 小さい頃の遭難の記憶だろう。それが、最近読んだ山の怪談の影響か、変な風に脚色されてしまったようだ。

 

「夢じゃないよ」

 

 男の子の声がした。

 見れば勉強机の椅子に、一人の少年が座っている。

 それは、小さい頃の隼人自身だった。

 

「僕はあの日、山の中で本当に天狗様に会ったんだよ。そして天狗様の神通力(じんずうりき)を丸々コピペされて、その力で家に帰れたんだ」

(──今、コピペって言った?)

 

 言った。

 

「でも、その力を調子に乗ってホイホイ使っちゃったせいで、みんなから怖がられたんだ。それでお母さんにまで怖がられるのは嫌だったから、僕は神通力を封印したんだよ。天眼通(てんげんつう)は便利だから残しといたけど──実際、役に立ったでしょ?」

 

 あれの事かと、隼人は納得した。

 時々不意に視界が切り替わるのは、天狗の神通力の一つ『天眼通』、俗に千里眼とも呼ばれる能力だったのだ。

 確かに役に立った。つい最近も体育のドッジボールで村山と片瀬を助けたり、ゼノヴィアの恥ずかしい忘れ物を見付けてやる事が出来た。

 

「ホントは大人になってから戻すつもりだったけど、近々必要になりそうだから、今戻しておくよ」

 

 小さい方の隼人は椅子から下りると、壁のクローゼットを開ける。

 そして中から、大きな(ひつ)*1を引きずり出した。ベッドほどの大きさがあり、高さは隼人の胸にまで届くだろう。小学生が一人で引きずり出せるものでもないし、クローゼットの中に隠せるような大きさでもなかった。

 

「これを開けたら封印が解けて、また天狗様の神通力を自由に使えるようになれるよ」

「……そもそも、お前は何なんだよ。俺自身忘れてた事を、なんで知ってるんだ」

「僕は君で、君は僕だよ。神通力と一緒に、それを手に入れた経緯とかその辺の記憶も封じちゃえば変な欲も出ないだろうと思って、あの時の記憶も封じといたんだ。僕はあの時の佐久間隼人さ」

「あの時の……山で迷ってた時の……?」

「違う違う。神通力で女の人のスカートめくったり、嫌いな奴の頭に小石を落としたり、友達の無くし物を見付けてやったりして良い気になってた時の僕だよ」

 

 小さい自分に言われて、隼人は思い出した。

 駒王町に帰ってから、自分は神通力でイタズラをして回っていたのだ。

 余りにもオカルトな現象ばかりなので、周りは隼人が犯人だと断言までは出来ないものの、それでも『コイツといると変な事が起こる』と認識して、避けるようになったのだ。

 このままだとお母さんにまで怖がられて避けられるかも──そんな危機感が、力の封印に踏み切らせたのだ。

 

「近々必要になりそうだって言ってたな。それはどういう意味なんだ。何か悪い事が起きるのか?」

「開ければわかるよ。じゃあね」

 

 小さい隼人は大きい隼人に手を振ると、そのままスゥーッと姿が透明になり、消えていった。

 隼人はしばし考え込んだ後、思いきって櫃の蓋に手を掛け、開いた。

 中には、山伏姿の自分が横たわっていた。今度は今の自分と同い年だ。

 そのもう一人の自分が、閉じていた目をパチッと開き、ギョロリと目線をやった。

 そしてゆっくりと手を伸ばしてくる。

 隼人がその手を握ると──。

 

 

「おはよう、隼人」

 

 翌朝。

 駒王学園の正門で隼人の後ろ姿を見付けたゼノヴィアは、いつものように子犬めいて小走りで駆け寄る。

 

「おうゼノヴィア。おはようさん」

 

 隼人は振り向くと、いつも通りに挨拶を返して──、

 

「ゼノヴィア。スカートめくれてるぞ」

 

 と言った。

 思わず下を見るゼノヴィアだったが、何ともなってない。

 

「後ろだ、後ろ」

「ああ……」

 

 背負っているバッグに引っ掛かって、確かに後ろ側がめくれている。パンチラ防止用にスパッツを穿いているとは言え、この状態で登校してきた自分に恥ずかしくなって、ゼノヴィアはかすかに頬を赤らめた。

 

「ありがとう隼人」

 

 教えてくれた事に礼を言いながら、めくれていたスカートを直す。

 

「いいって事よ。次からは気を付けな」

「うん」

 

 ゼノヴィアはコクンと幼い仕草でうなずき、隼人と並んで教室へ向かう。

 自分の正面にいた隼人に、何故後ろのスカートがめくれている事がわかったのか。

 それについては特に深く考えたりもせず、服装を注意してくれた友人の優しさを嬉しく思うだけであった。

*1
木製の大きな箱。長持とも



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遠い海から来た審問官

 よく晴れた日曜日の、午前十時を過ぎる頃。

 親子連れやカップルが行き交う広場に、ゼノヴィアはいた。

 辺りを何度もキョロキョロと見回している。

 そしてある方向を見て、パッと笑顔を咲かせた。

 

「隼人ーっ! こっちだーっ!」

 

 大きな声で呼び掛け、両手を頭の上でブンブン振る。

 そんな彼女の元へ、佐久間隼人はのんびりした足取りでやって来た。

 彼の方からの誘いで、今日はゼノヴィアに駒王町を案内してあげる約束なのだ。ゼノヴィアが上機嫌なのは、日曜日を隼人と一緒に過ごせるのが嬉しいからだった。

 二人は肩を並べて、広場を出る。

 駒王町は特に観光名所がある訳でもない。隼人が案内するのも、道の駅の中にある美味しいタコ焼き屋だったり、地方のニュース番組で紹介された事がある唐揚げ屋とかそんな程度だったが、それでもゼノヴィアにとってはとても楽しい時間だった。

 正午になると、公園の東屋で昼食を取る事にした。テーブルの上に、コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチを広げ、二人で食べる。

 パックのいなり寿司を平らげた隼人は、ペットボトルのお茶を一口飲んでから、腕時計で時刻を確認した。

 

「そろそろか」

 

 口の中で小さく呟く。

 悪魔に転生して強化された聴覚でそれを耳聡く聞き取ったゼノヴィアが、何の事かと聞こうとするよりも早く、隼人は中身が残ったままのペットボトルを、ゼノヴィアの頭越しに放り投げた。

 

 カッ!

 

 そんな音がして、ゼノヴィアが振り向くと、白いマントを羽織った金髪の男が、そこにいた。

 右手には、奇妙な剣を提げている。刀身がガラスのように透き通っているのだ。

 そして彼の足下には、その剣で切られたと思わしき、真っ二つにされたペットボトルが転がっていた。

 

「──カルロ?」

 

 ゼノヴィアはその男を知っていた。

 教会内の異端者や背教者を取り締まる『異端審問官』の一人であり、聖剣ガラティーンの使い手でもある。

 何故この男が日本の駒王町にいるのか?

 何故この男が自分の背後に、抜き身の聖剣を携えて忍び寄って来たのか?

 ──という疑問が頭に浮かぶより先に、ゼノヴィアの肉体が、迎撃行動に移っていた。

 右手を横にかざすと、その先の空間に紋様が浮かび上がり、その中から彼女の武器にして相棒たる聖剣デュランダルが顕現する。

 青い刀身に金色の刃を備えた大剣の柄を握ると、ゼノヴィアは金髪の剣士に得物を叩きつけた。

 カルロは咄嗟にガラティーンを頭上に掲げ、その一撃を受け止めるが、デュランダルの凄まじい衝撃で、両足が地面にめり込んだ。

 

「カルロ。異端審問官の貴様が、何故ここにいる」

「聞かずとも察しがつくと思うがな。それとも極東の島国で暮らすうちに、頭が鈍ったか? 背教者たる貴様を断罪し、デュランダルを回収するためだ!」

 

 カルロは答え、デュランダルの下から跳び退いた。

 透明な刀身を備えた聖剣が、真昼の太陽の光を浴びて白い光輝を放ちながら、ゼノヴィアに迫った。

 ゼノヴィアはデュランダルをガラティーンに叩きつける。そのままガラティーンの刃をガラス細工めいて打ち砕くつもりだったが、ガラティーンはデュランダルの超重量級の一撃を、軽々と受け止めた。

 

「追放された私を追って、はるばる日本までご苦労な事だな」

「近年、悪魔と密通するシスターが多くいるのでな。綱紀粛正のため、主より賜りし聖剣を悪魔の薄汚れた手で振るわせぬためにも、貴様には死んでもらう!」

「勝手な事を!」

 

 ゼノヴィアは吐き捨てるように言った。

 確かに自分は、教義において禁忌とも言える秘密を知ってしまったが、追放処分すると決めたのは教会である。後から刺客をよこすくらいなら、最初から異端審問に掛けて火炙りにするか、洗脳するなり記憶を封印するなりすれば良かったのだ。

 しかし、今目の前の異端審問官に、それ以上の文句を言う余裕はなかった。

 カルロはゼノヴィアの繰り出す破壊的な斬撃の嵐を、ガラティーンで軽々と受け止めているのだ。

 それどころか、一合ごとにカルロの攻撃は速く、鋭く、重くなっていく。

 破壊の騎士とも斬り姫とも渾名されたゼノヴィアが、少しずつ少しずつではあるが、太刀打ちで圧倒されつつあった。

 円卓の騎士の一角にして、午前から正午までの間は力が倍になるという不思議な能力を持つ、太陽の子ガウェイン。ガラティーンはそのガウェインの能力が反映され、太陽の光をその透明な刀身で吸収して活力に変え、所有者を強化する機能を得ているのだ。

 そして今は正午。最も日の高い時間帯である。

 同時に、悪魔に転生して悪魔の弱点も得てしまったゼノヴィアにとっては、最も力の出ない時間帯でもある。

 

(このままでは……)

 

 押し負けてしまう。

 ゼノヴィアの胸中に、不穏な予感が走る。

 その時、ゼノヴィアの背後で戦いを見守っていた隼人が、奇妙な仕草をした。

 両手の親指と小指を真っ直ぐ伸ばしたまま、人差し指・中指・薬指を絡ませるようにして手を合わせたのだ。

 

「オン・マユラギ・ランテイ・ソワカ」

 

 そして口の中で小さく、三度そう唱えた。

 すると、見る間に空が曇り、黒雲で公園の上空が覆われた。

 太陽の光が遮断された事で、ガラティーンの加護がカルロの身体から失われていく!

 

「なにっ!」

「もらったぁ!」

 

 突然の出来事に一瞬戦いを忘れたカルロの隙を突き、ゼノヴィアは渾身の力でデュランダルを振るった。

 カルロがその会心の一撃を、どうにかこうにかガラティーンで受け止めたのは、さすがと讃えるべきであろう。

 しかし真っ二つに斬割されるのを防げただけである。

 カルロは蹴り飛ばされたサッカーボールのように後方に大きく吹っ飛び、その先にある木の幹に叩きつけられた。

 

「くっ……こんな事が……!」

 

 カルロは呻きながら、フラフラと立ち上がる。

 そしてゼノヴィアの背後にいる、日本人の少年を睨んだ。

 突然の黒雲は、あの少年が呼んだのだろうか?

 だとすれば彼も悪魔で、その邪悪な力によるものか?

 それとも人間で、そういう神器(セイクリッド・ギア)の所有者なのか、はたまた異国に伝わる異教の魔法なのか?

 いずれにせよ、分が悪い。出直すべきだろう。

 そう判断したカルロは、懐から閃光弾を取り出して、地面に叩きつけた。

 凄まじい光が、爆発するような勢いで発生して、ゼノヴィアと隼人の目を眩ませる。

 カルロはその隙に、その場から逃げ出した。

 光が収まると、ゼノヴィアは敵がこの場から完全に姿を消したと知って、デュランダルを異空間に仕舞った。

 

「隼人、驚かせてしまってすま──」

 

 すまない、と言おうとして、言葉が途中で止まった。

 隼人が空に向かって団扇を扇ぐように右手を左右に振ると、上空の黒雲が千々に乱れて掻き散らされ、消えていったのだ。

 

「ん? ああ、気にするなよ。わかってたから」

 

 隼人はけろっとした顔でそう答える。

 

「わかっていた、とは?」

「見たからな。アイツが襲ってくる未来を」

「見た? 君は、予知能力者か何か、なのか?」

「その何かの方だよ」

「何かとは?」

「俺、天狗なんだ」

「テング!?」

 

 その言葉に、ゼノヴィアは目を見開いた。

 顔には驚きの色が浮かんでいる。

 少しして、ゼノヴィアは言った。

 

「──隼人、『テング』とは何だ?」

「そこからかー……」

 

 よく考えたら、確かに外国人のゼノヴィアが天狗の事など知るはずもなし。事情を説明する前に、まずそこから説明せねばなるまい。

 隼人はどう説明すべきか、頭の中でシミュレーションし始めた……。



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後始末

 場所をゼノヴィアのマンションに移し、彼女が入れてくれたコーヒーを飲みながら、隼人は天狗とはどういう存在なのかを、外国人のゼノヴィアにもわかるように説明し、自分がその力をコピペされるに至った経緯、そして一度は封印した力を解き放った理由を説明した。

 

「──で、さっきの奴からお前をかばって斬り殺される羽目になったのさ。だからそうなる前に力の封印を解いたんだ。結果はご覧の通り」

 

 努めて軽い口調で、締め括る。

 

「私を守るために……すまない。ありがとう隼人」

「違う違う、あくまでも自衛のためだよ。それに力の封印解いたからって、寿命が縮むとか何か不都合がある訳でもないしな」

「身を守るだけなら、そもそも今日私と会ったりなどしなければ良かったじゃないか……ガラティーンの加護を打ち消すために雨雲を呼んでくれたのは、明らかに私を助けるためだったんだろう?」

「あー、いや、だから、そのー……」

 

 隼人は返答に窮した。

 力の封印を解き、完全な天眼通(てんげんつう)を使えるようになってようやく見えたのだ。自分が異端審問官カルロに斬り殺された後、怒り狂ったゼノヴィアがカルロを斬殺、駒王町に潜伏している他の異端審問官も見つけ出して一戦交え、全員殺してしまう未来が。その結果、悪魔と天使の間に一触即発の不穏な空気が流れ、ゼノヴィアの立場も危うくなってしまう未来が。

 ゼノヴィアに()()()()人殺しをさせたくない一心で、隼人はカルロとの戦いに介入した。

 しかし、それを言ってしまっては、ゼノヴィアはますます隼人に対して『無関係な人間にそこまでさせてしまった』と罪悪感を抱いてしまうだろう。

 

「……そんなんじゃねーよ。本当に、自分の身を守るためだ。お前が気にする事じゃない」

 

 上手い説得の仕方が見付からず、強引にその一点張りで押し切るしかなかった。

 

「……さて、どうやら全員集まったようだな」

「────?」

 

 不意に窓の方を向いて呟いた隼人の言葉の意味がわからず、ゼノヴィアは小首を傾げる。

 

「ちょっと行って、アイツ等追い返して来るわ。ここで待ってろ」

「アイツ等とは、異端審問官の事か? カルロ以外にも来ているのか?」

「さっきの奴も入れて、全部で五人。教会で作戦会議してやがる」

「私も行こう」

「ここで待ってろ。すぐに戻るよ」

 

 隼人が言うや否や、窓を閉めきった室内にも関わらず、激しい突風が吹き荒れてゼノヴィアの身体を叩いた。ゼノヴィアは思わず目を閉じてしまう。

 目を開けると、隼人の姿は影も形も見えず、ゼノヴィアが思わず目を閉じてしまうほどの強風だったにも関わらず、リビング内に荒れた様子は全くなかった。

 

 

 駒王町の郊外にある古ぼけた教会。

 悪魔が管理するこの町に、敵対勢力の施設が何故あるかと言えば、管理する以前から建っていたからだ。

 では何故取り壊さないのかと言えば、天使や堕天使、またはその尖兵が町に潜入した際、教会はうってつけの拠点となるため、彼等は高確率でそこを利用する。だから教会を監視しておけばその動向も把握しやすくなるという寸法であった。

 カルロを始めとする異端審問官たちも、悪魔側のそういった思惑は承知の上で、それでも拠点として理想的であるが故に、その教会に潜伏していた。何せ力の弱い悪魔なら近付く事すら出来ない。よしんば侵入を許しても、教会内に満ちる聖なる力が悪魔の力を弱めてくれるのだ。

 今はカルロが、集まった仲間たちに先程の公園での一幕を報告したところである。

 

「黒雲を呼ぶ能力か……神器(セイクリッド・ギア)か、はたまたこの国に伝わる魔法か?」

 

 浅黒い肌をした、背の高い黒髪の男が呟くように言った。

 

「いずれにせよ、我々の務めを邪魔するというのなら、排除するまでだ」

「同感です。近年、シスターたちが悪魔と密通する事例が増えています。綱紀粛正のためにも、断固とした態度で臨まなくては」

 

 茶色い髪の男の言葉に、唯一の女性審問官が同意する。

 

「カルロ審問官を直接攻撃しなかったという事は、その少年の能力は援護向きの能力という事だろう。上手くゼノヴィアと分断して、各個撃破すれば良い」

 

 八の字髭を生やした男が提案した。

 

「戦わないだけで、戦えない訳じゃないんだけどな」

 

 頭上からの声に、異端審問官たち全員が天井を見上げた。

 そこには、日本人の少年が一人立っていた。何かに足を掛けてぶら下がっているのではなく、彼の周りだけ重力が反転しているかのように、天井に立っていた。

 

「貴様!」

 

 カルロが椅子に立て掛けていたガラティーンを抜き払う。

 その様子から、頭上の少年が例の邪魔者だと察した残りの審問官たちも、それぞれの得物を構えた。

 

「そういきり立つなよ。戦いに来た訳じゃない」

 

 隼人は言って、天井を蹴ってジャンプ、途中でクルリと一回転して、音もなく床の上に着地した。羽毛が舞い落ちるかのような、軽やかな動きだ。

 カルロが一歩前に出た。

 

「戦いに来た訳じゃないと言うのなら、何しに来たのだ、悪魔の手先め。貴様が邪魔立てしなければ、あの場で背教者を断罪し、聖剣を取り戻せたものを……!」

「感謝しろよ、人殺しになるのを防いでやったんだからな。ゼノヴィアは教義上の禁忌に触れたので追放、以後一切の干渉を禁ずる──そう決めたのはオタク等のボスだろ? その決定に逆らうのは良くないんじゃないか?」

「……何故、知っている?」

「見たし、聞いた」

 

 それも、天狗の神通力によって。しかし説明が面倒くさいので、そこまでは言わない。

 

「悪い事は言わないから、駅でお土産でも買ってさっさと国に帰りな。でないと、頑張って手に入れた異端審問官の地位を失う事になるぜ」

「ほざくな!」

 

 カルロが怒号を上げて斬りかかる。

 室内ではガラティーンの加護も得られないが、こんな小僧一人くらい、斬るのは容易い──そう思っていた。

 だがガラティーンの透明な刃は、むなしく空を切った。

 確かに間合いに捉えたはずの少年は、いつの間にか自分たちの後ろに回り込んでいた。

 

「アイツはああ言ってるけど、他の連中はどうだ? 上の決定に逆らって勝手にゼノヴィアを襲って、それがバレたら天使と悪魔の仲がますますこじれるし、アンタたちだって何かしら処分をくらうんだぜ? 今からでも回れ右して帰れば、『仲間内で旅行に行ってました』で済む」

「黙れ。悪魔の戯れ言に耳を貸す気はない」

 

 八の字髭の審問官が答え、他の者も態度で同意した。

 

「俺、悪魔じゃなくて天狗なんだけど……そういう事ならしょうがないな。たっぷりしぼられるこった」

 

 隼人は、異端審問官たちに向かって、サッと右手を振った。

 審問官たちの身体を、突風が叩く。

 

「……君たち、どこから入ってきたのだ?」

 

 次の瞬間、太い声がした。

 見渡して、自分たちが今どこにいるのかを知り、困惑以上に恐怖にも似た驚愕が、五人の全身を駆け抜けた。

 そこはカトリック教会の最高指導者たる教皇の執務室であった。

 問い掛けたのは、大きな老人だった。

 顔には無数のシワが刻まれているにも関わらず、その身体はヘビー級の格闘家やボディビルダーすら痩せて見えるほどの筋肉量を誇っているのが、着衣の上からでも見て取れる。

 

 ヴァスコ・ストラーダ。

 ゼノヴィアの先代に当たる、元デュランダル使い。

 その桁外れの強さ故に、悪魔や堕天使の間で『天界の暴挙』とまで言われた超戦士である。

 

「異端審問官ともあろう君たちが、ドアや窓も開けずに、抜き身を引っ提げて教皇様の執務室に乗り込むとは……もちろん、説明してもらえるだろうね?」

 

 ストラーダはこめかみに青筋を浮かべ、指をパキポキと鳴らし始め──たりは一切せず、落ち着いた物腰と声色で詰問する。

 しかし異端審問官たちは、最後の審判の日が自分たちにだけ前倒しでやって来たかのような、絶望と恐怖に満ちた顔になっていた……。



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本当の気持ち

「おーおー、可哀想なくらい縮こまってやがる。ま、自業自得だな」

 

 ゼノヴィアのマンションに戻ってきた隼人は、右手の指を丸めて作った筒を、望遠鏡のように覗き込んでいた。

 隣に座り、心配そうな視線を送るゼノヴィアに、指を広げた左手をかざす。

 

「指の間から覗いてみな。お前にも見えるはずだ」

 

 言われてゼノヴィアがそうすると、彼女の視界にも、ストラーダに懇々と説教される五人の異端審問官の姿が見えた。

 

「……彼等は何故、教皇様の執務室にいるんだ?」

「俺が飛ばした」

「それも、テングの能力なのか?」

「ああ。神足通(じんそくつう)って言ってな、自分や他人を、好きな所に一瞬で移動させるんだ」

 

 答えて、隼人は左手を下ろし、自分も天眼通(てんげんつう)で覗くのをやめた。

 

「あの調子なら隠し立ても出来ずに、本当の事を言うしかない。しらばっくれても偉い人の所に武器持って乗り込んだんだ、ただじゃ済まないだろうな。これでお前の身は安泰だ──あと、俺もな」

「…………」

 

 ゼノヴィアは、ギュッと隼人の服の裾を握った。

 

「ん? どした?」

「どうして、私のためにこんなにしてくれるんだ?」

「お前のためじゃない、俺のためだ。たまたまお前の得にもなっただけだよ」

「さっきも言ったじゃないか、それなら私と会ったりなどしなければ良かっただけの話だと。何故、私の得にもなるような行動をしたんだ?」

「んー……」

 

 隼人は少し考えて、言った。

 

「まぁ、何だ。困った時はお互い様だ」

 

 だがゼノヴィアは、うなだれた。

 

「私は、何もしてやれてない。いつも隼人に頼ってばかりだ」

「そりゃ日本での生活は、日本人の俺にアドバンテージあるしな」

「だが今日の事は、君には無関係だったのに、それでも君は助けてくれた……せめて、本当の事を話そうと思う……それが私なりの誠意だ」

 

 ゼノヴィアは立ち上がり、背中から悪魔の翼を広げた。

 

「隼人、実は私は」

「元は教会のエクソシストで、今は悪魔なんだろ?」

「……何故、知っている?」

「見たし、聞いた。天眼通って言ってな、遠くの物事や、相手の過去や未来を見通すことが出来るんだ。天耳通(てんにつう)はその音声バージョンっつーか聴覚バージョンっつーか、そんな感じだ。アイツ等の事を予知した後、悪いとは思ったけど、お前の過去も見させてもらった。事情がわからないと対策しようがないんでな」

「怖く、ないのか?」

「お前がか? 別に週一で人間の生き肝喰うとか、そんなんでもないのに?」

「私の過去を見たのなら、わかったはずだ。私は、人を斬った事がある……」

 

 ゼノヴィアは吐き出すように言った。

 袂を分かったかつてのパートナー紫藤イリナですら、その事実に最初は恐怖していたのだ。

 

「んー、過去を見たって言っても、直接見た訳じゃなくて、そういう内容の映画を見たって感じだからなぁ……こうして向かい合ってる今も、特にどうって訳じゃないんだよな。映画に例えると、『あぁこの女優さん、こういう演技も出来るんだな』って。そんな意味では驚きはしたけど」

「…………」

 

 ゼノヴィアは、胸が熱くなる思いだった。

 自分の過去を知ってなお、変わらず気さくに接してくれるこの少年が、眩しく見えた。

 離れたくない。

 ずっと一緒にいたい。

 もっと触れ合いたい。

 そんな衝動に突き動かされ、隼人の首に両腕を回して、思いきり抱きついた。

 互いの着衣越しに、豊かな胸の膨らみを押し付けられて、隼人は戸惑った。

 

「こ、こらゼノヴィア……何回も言っただろ、友達同士でここまでするのはダメだって」

「二人きりの時なら構わないとも言ったぞ。そして今は、二人きりだ……それに」

 

 ゼノヴィアは、両腕に更に力を込めて、密着してきた。

 

「私は──きっと──君の事が好きなんだ。友達としてではなく、男性として……君と一緒にいると落ち着くし、安心出来る。でも、君がいないと逆に不安になるし、落ち着かない。どこか物足りない気持ちになる。いつも君には、私の目の届くところにいてほしい。名前を呼んだら、すぐに返事をしてほしい。私の事をいつも見ていてほしい。私の名前を呼んでほしい。嫌われてるのには慣れてるが、君にだけは、何があろうと嫌われたくない……こんな気持ちになるのは、初めてなんだ」

 

 そう言うゼノヴィアの目尻に、涙の粒が浮かんでいた。

 

「隼人。友達のままではこういう事が出来ないと言うのなら、私は君の恋人になりたい……もっと君と触れ合いたい。私がそういう対象としては好みではないと言うのなら、どんな女が好きなのか教えてくれ。君の好む女に必ずなってみせる。君の言う事なら何でも聞く。だから、どうしたら私と恋人になってくれるか、教えてくれ」

「…………ッッ!!」

 

 隼人の中で、理性と獣性が戦っていた。

 ゼノヴィアがそう思ってるなら好都合。このまま彼女を抱き締めて、その肉体を思うがままにしたい。

 しかしその一方で、彼女は人付き合いにおける距離感がわかっておらず、異端審問官の件での感謝の気持ちも加わって、気持ちが高ぶり過ぎているだけでしかない。そんな彼女に欲望をぶつけるのは卑劣な行為ではないかとも思っている。

 じっとこちらを見つめる、捨てられた子犬のような顔。

 教室で見かける笑顔。

 何かあればクイクイとシャツの裾を引っ張る、幼い仕草。

 この前図らずも見てしまった、ゼノヴィアの真っ白な裸体。

 それらが脳裏を次々とよぎっていくうちに、隼人は自分の気持ちを正確に認識した。

 

 ああ、俺もゼノヴィアの事が好きなんだ。

 

 たまたま隣同士の席になっただけの自分に、無防備なまでの信頼を寄せてくれるゼノヴィアが、愛おしかったのだ。

 彼女を手離したくない。

 自分だけのものにしてしまいたい。

 隼人はそんな気持ちに従い、彼女を抱き締めて、ソファの上にゆっくりと押し倒した。

 

「ゼノヴィア」

「うん」

「俺も、お前が好きだ。今のまんまのお前が好きだ。だから、何もしなくていい、無理に自分を変えなくていい。今のお前のまんまで、俺と、恋人になってほしい」

「──うん」

 

 ゼノヴィアは、コクンとうなずいた。

 二人はしばし見つめ合い、どちらからともなく、恐る恐るといった風に顔を近付けていき、唇を重ね合わせ──、

 

 コツン。

 

 互いの前歯がぶつかり合った。

 結構強くぶつけてしまい、神経に響く痛みに、思わず離れてしまう。

 しかしそれでかえって気持ちが落ち着いた。

 二人は隣り合って座り直し、改めて口づけを交わした。



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デジャブ?

 佐久間隼人は家を出て住宅街を少し歩くと、辺りを見回した。

 誰もいない。

 天眼通(てんげんつう)でスキャンするが、物陰や家の中からこちらを見ている者もいない。

 それを確認すると、突如強風が巻き起こって、少年の姿が消えた。

 神足通(じんそくつう)で彼はゼノヴィアが住むマンションの正面にある公園へと飛んだ。そこでゼノヴィアが待っているのだ。噴水のそばのベンチに、彼女はチョコンと座っていた。

 

「オッス、ゼノヴィア」

「おはよう隼人」

 

 ゼノヴィアは昨日恋人同士となった少年に駆け寄り、飛び込むように抱き付いた。

 頬擦りして、スンスンと鼻を鳴らして匂いまで嗅ぐ。

 

(まるで犬だな)

 

 そう思う隼人だったが、黙っておく。

 しばらくゼノヴィアの好きにさせた後、腕を組んで学校へ向かう──否、腕を組むというより、ゼノヴィアが隼人の腕に抱き付いている、といった方が良いだろう。そして歩きながら、時々肩の辺りに鼻先を擦り付けて匂いを嗅いだりしている。

 柔らかな感触を腕に感じていた隼人だったが、

 

「いてっ」

 

 密着し過ぎたゼノヴィアに足を踏まれて、思わず声が漏れた。

 

「あっ、すまない隼人……」

「ああ、大した事じゃねえよ……でも、転ぶと危ないから、手ぇ繋ぐくらいにしておこうか」

「うん」

 

 ゼノヴィアはコクンとうなずくと、少し距離を取って、手を繋いだ。

 本当は思いっきり抱き付いて、密着して、彼の肉体の感触や体温、匂いを感じていたかったが、こうして手を繋ぐだけでも充分幸せな気持ちになれた。

 

 

 放課後。

 隼人とゼノヴィアの元に、兵藤一誠とアーシア・アルジェントがやって来た。

 

「うし、じゃあ行くか」

 

 二人が声を掛ける前に、隼人はそう言って立ち上がる。

 

「行くって、どこにだよ」

 

 と一誠が尋ねると、

 

「お前等の部室だよ……あー、わり、過程をすっ飛ばしちまったな。お前等の部長さんが、俺とゼノヴィアに聞きたい事があるから呼んでこいってお前等に言ったんだろ?」

「な、なんで知ってんだ?」

「見たからな。後で説明してやるから、とにかく案内してくれよ」

「あ、ああ……」

 

 一誠もアーシアもまったく納得出来てないが、とりあえずゼノヴィアと一緒に、彼をオカルト研究部の部室兼グレモリー眷属の拠点たる旧校舎へと案内した。

 

 隼人は神通力(じんずうりき)で、リアス・グレモリーが昨日の異端審問官の事で自分とゼノヴィアから事情を聞きたがっているのを知ったのである。

 本来なら案内も無用で、さっさと一人で乗り込んでさっさと話を済ませたいところだったが、あまり力を見せつけるのは良くないと思い、一誠たちが呼びに来るのを待っていたのだ。それでもうっかり『声を掛けられてから』という過程を飛ばして、結局二人に気味悪がられてしまったようで、隼人は己の迂闊さに軽くへこんだ。

 

 部室に入ると、リアスがソファに座って待っていた。その後ろに姫島朱乃が控えている。

 リアスは一誠とアーシアの二人を下がらせ、隼人とゼノヴィアに、ソファに座るよう促した。

 

「わざわざ呼び出したりしてごめんなさいね、佐久間隼人くん。私は三年のリアス・グレモリー。オカルト研究部の部長を務めてるわ」

「ども。ゼノヴィアがお世話になってます」

「それはお互い様ね。こちらこそいつもありがとう。これからも仲良くしてあげてちょうだい」

 

 そんな風に会話を始めながらも、リアスは少年の落ち着き様が不思議に思えた。

 駒王町内を巡回するグレモリー家のスタッフからの報告で異端審問官の侵入を知り、彼等が廃教会を根城にした事や、そのうちの一人がゼノヴィアと隼人の二人と接触した事がわかった。ところが、その一人が教会に逃げ帰ってから少しして、異端審問官たちは一斉に、文字通り消えてしまったのだ。ゼノヴィアと隼人を呼び出したのは、その事情聴取のためだった。

 一誠やアーシアから聞いたところでは、佐久間隼人はややぶっきらぼうなきらいはあるものの、あくまでも普通の少年のはずだ。昨日は怪しい外国人に襲われ、今日は面識のない上級生に呼び出されたのだから、もう少し不安そうな素振りを見せても良いはずだが……。

 異端審問官とゼノヴィアの戦いを目撃したスタッフからの報告では、戦闘中に公園の上空にのみ、不自然に黒雲が立ち込め、すぐに晴れたと言うが……、

 

(やっぱり、何かしらの力を隠し持っているのかしら……)

「ええ、そうです」

 

 隼人が、リアスの胸の内の声に答えるように呟いた。

 

「……そうって、何が?」

「隠してたってのとは違いますけど、ちょいとばかし不思議な力を持ってます……今、『何かしらの力を隠し持っているのかしら』って、言いませんでしたっけ?」

「言ってないぞ、隼人」

 

 隣に座るゼノヴィアからの指摘に、隼人は頭を抱えた。うっかり他心通(たしんつう)でリアスの心を読んでしまったようだ。あらかじめ予知していたとは言え、(極端な言い方だが)人間社会に潜伏する悪魔の巣窟へ呼び出され、不安になっていたのだろうか……或いは、真新しいノートを買うと特に勉強好きでなくとも授業がちょっぴり待ち遠しくなるように、封印を解いて再度手に入れた神通力を思うがままに奮いたいという欲求があったのか……。

 

「さ、佐久間くん、大丈夫?」

「さーせん、大丈夫です……ちょっと自分の馬鹿さ加減にあきれただけです」

「隼人。部長なら大丈夫だ。下手に隠そうする必要はない。君もその方が話しやすいだろう?」

 

 ゼノヴィアが恋人の肩に手を置いて、そう言う。

 それで隼人も、開き直る事にした。

 まずは昨日の異端審問官との一幕を話し、次にその際に奮った己の神通力について、それを得た経緯も含めて説明した。

 

「……天狗の神通力(じんずうりき)を、丸々コピペされた、ねぇ……コピペ……いや、コピペって……」

 

 リアスがぶつぶつと繰り返す。『複製(コピー)転写(ペースト)』の略称である事くらいはわかるし、隼人の話を信じるならば、確かにそうとしか表現しようがないのだが、それにしても……である。

 とにもかくにも、リアスは一度深呼吸をして気持ちを切り替えた。

 

「とりあえず、事情はわかったわ。ゼノヴィアのために頑張ってくれたのね……本当にありがとう佐久間くん。ところで」

「悪魔になれって話ならお断りしますよ」

 

 隼人の言葉に、リアスは一瞬フリーズした。

 

「寿命なら仙薬でどうにでもなるし、そもそも悪魔に転生すると悪魔の弱点も備わって、俺に限ればデメリットしかありませんので」

 

 そこでゼノヴィアが、物言いたげに隼人の制服の裾をギュッと握った。

 

「ごめんな、ゼノヴィア。でも俺まで悪魔になっちまったら、昨日みたいなのが悪魔特効の範囲攻撃とか仕掛けてきた時に対応出来ないからな」

 

 隼人はそう言ってゼノヴィアの頭をよしよしと撫でる。

 

「……なら、転生の話は置いておいて、うちに入部するのはどうかしら。ゼノヴィアと一緒の時間が増えるのは、あなたにとっても嬉しい事ではなくて?」

 

 二人のやり取りから何となくいろいろ察したリアスは、そう持ち掛けた。

 隼人はしばし考え込む──或いは、神通力で己の未来を透視しているのか──。

 そうして少しの間を置いてから、答えた。

 

「まぁそういう事なら、不束者ですが、よろしくお願いします(よっしゃっす)

 

 そして、ペコリと頭を下げた。

 

 

 朱乃はリアスの背後から、そんなやり取りをじっと見つめていた──否、視線は隼人にずっと釘付けだった。

 

(……この子、どこかで会ったかしら?)

 

 まったく物怖じしない、どこか超然とした佇まいに、覚えがある。

 母を失い一人彷徨っていた数年前、風に乗って現れて自分の窮地を救い、そしてまた風に乗って去っていった、あの不思議な男の子も似た雰囲気だった。足首から鴉の濡れ羽色の翼を生やした、あの『黒翼の王子様』も……。

 

(……気のせいね、きっと)

 

 幼い頃の記憶の中の、黒い翼の小さなヒーロー。

 目の前の、天狗の力を丸写しされたという少年。

 身にまとう超然とした雰囲気以外、両者がいまいち結び付かないため、朱乃はそう結論付けた。



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過去

 姫島朱乃が十歳の頃の事である。

 母を殺され、父を拒んで一人放浪生活を送っていた彼女は、T県のとある町にある廃寺に潜伏していたが、森の中で大叔父の率いる修験者の一団に捕まってしまった。

 力を封じる特殊な術を仕込んだ網で捕らえられ、修験者に取り囲まれた幼い少女に、大叔父が歩み寄り、敢えて感情を抑え込んだ冷たく乾いた声で言った。

 

「ようやく見つけたぞ、朱乃。此度はもう逃さぬ。姫島の汚点を今日こそは摘ませてもらう」

「それ、校長先生の話並みに長くなるやつ?」

 

 ──そう返したのは、朱乃ではなかった。

 一同が声のした方を見やれば、一本の大木の根本に、男の子が一人立っていた。歳は朱乃と同じか、やや下くらい。野球帽を被り、オレンジ色の無地のTシャツとジーパン、スニーカー。肩から透明なプラスチック製の虫籠を下げ、手には虫取網を持っている。

 

「…………何だ貴様。いつからそこにいた?」

「最初から」

 

 大叔父の問い掛けに、男の子は平然とした顔で答える。

 

(い、いたかしら……?)

 

 朱乃は放浪生活を通して勘も鋭くなっていたと、この時既に自覚していた。しかも追っ手やこの土地に棲む悪魔を警戒し、周囲に気を配ってもいた。なのに、この男の子に気付かないものだろうか? しかし言われてみれば視界の端にチラチラと、明らかに草花とは違う色合いが見えていたような……。

 

「……こんな所で、何をしている?」

「見りゃわかるだろ」

 

 大叔父の次の問いに、彼は手にした虫取網を小さく振り、肩に下げた虫籠をポンポン叩く。

 

「悪いけど続きはよそでやってくれる? あんまり騒ぐとクワガタが逃げちまうから」

「み、見られたからには生かしてはおけぬ! 悪く思うな!」

 

 修験者の一人が、男の子の胸元目掛けて錫杖を突き出した。鋭く尖った石突きは、男の子の背後の木の幹に突き刺さる──が、男の子はいなかった。

 

「思うに決まってるだろ」

 

 と声がするが、四方を見渡しても、どこにいるのか姿が見えない。しかし修験者はふと、仲間や標的である小娘の視線が自分に向けられているのに気付いた。正確には、自分の頭の上に。

 

「うおっ!?」

 

 不意に、頭がズシリと重くなった。何か重い物を乗せられたかのようだ。耐えきれずたたらを踏み、ついには転倒してしまう。

 倒れた修験者が見たのは、あの男の子。しかし足首の辺りから、黒い翼が生えていた。足首の外側の翼は1メートルくらいはありそうだが、内側の方はその半分の長さもない。その翼を広げて、空中に立っていた。

 男の子は繰り出された錫杖をいつの間にかかわしており、そしていつの間にか修験者の頭の上に立っていたのだ。しかし誰にも、その動きが見えなかった。気が付いたら頭の上に瞬間移動していたようにしか、見えなかった。更に奇異なのは、いくら子供とはいえ、自分の頭に人が乗っているのに、その修験者がその事に全く気付かない事だった。

 

「何者だ、小僧……人間ではないな?」

「人間だよ」

 

 大叔父の言葉にそう答えた後、男の子は奇妙な事を付け加えた。

 

「テングだけど」

「何を戯れ言を!」

 

 別の修験者が二人、同時に地を蹴って跳躍した。手にした錫杖で、一人は男の子の足を狙って横薙ぎの一撃を、もう一人は頭上からの打ち下ろし。

 縦と横から頭と足を狙った、同時二重攻撃!

 これもむなしく空を切った。

 男の子は──朱乃の傍らに立っていた。そして右手を広げて──団扇で扇ぐように──一振りすると、風が吹いた。強烈な突風が修験者の一団を吹き飛ばして一ヶ所に集めた。朱乃を捕らえていた網も吹き飛ばされ、修験者たちの上に覆い被さる。

 

「な、何だこれは!」

「おのれ小癪な!」

「ぬうう、力が、吸い取られて……!」

「おのれおのれおのれ!」

 

 修験者たちは網から抜け出ようともがくが、異形異類さえ絡め捕る特別製の網から、そう簡単に逃れられるはずもない。しかも謎の突風で一ヶ所に集められた、押しくら饅頭状態である。お互いの動きがお互いを邪魔してる有り様であった。

 男の子がもう一度右手を一振りすると、彼等の姿はパッと手品のように消えてしまった。

 

「まぁ、浅いから溺れたりはしないだろ」

 

 男の子はあらぬ方向を見て、何やら呟いた。視線の先には、森の木々を挟んで街道が走っている。

 

「…………あ、ありが、とう?」

 

 朱乃はおずおずと礼を言った。しかし、余りにも突然かつ未知の助っ人の登場に、そして自分とほとんど変わらない年齢の助っ人が、大叔父たちを苦もなく追い払ってしまったという現実に理解が追い付かず、半ば疑問形になってしまった。

 男の子はそんな朱乃に目もくれず、さっき自分が立っていた木の下に戻り、木の幹を改める。クワガタがどうのと言っていたので、それを探しているのだろう。しかし幹にはクワガタはおろか、他の虫もいない。

 

「あ、あなた、お名前は? 私、姫島朱乃っていうの」

 

 そんな彼の背中に問い掛けると、

 

「ヒコサンブゼンボー」

 

 そんな言葉が返ってきた。

 

「ど、どうしてこんな所にいたの?」

「クワガタ捕りに来たんだよ。ここにでっけぇーのがいるのが見えたから。お前等のせいで無駄足だったけどな……んー……」

 

 ここで男の子は奇妙な仕草をした。両手の指を丸めて筒を作り、それを双眼鏡のように自分の目に当てがったのだ。

 

「おっ、見っけ!」

 

 少ししてから、嬉しそうにそう言うと、彼の足首の黒い翼が大きく羽ばたき、凄まじい風が一瞬だけ巻き起こった。

 思わず目を閉じるほどの強風であったにも関わらず、地面の落ち葉は一枚も舞い上がる事はなく、朱乃の母親譲りの黒髪や穿いていたスカートも全くなびかない、奇妙な風。

 それが止むと、男の子の姿はどこにも見当たらなかった。

 

 

 それから数分ほどして、リアス・グレモリーが現れて朱乃の身柄を引き取った。

 森とは街道を挟んで反対側にある河の中に落ちていた大叔父たちとも話を付け、

 

・姫島の管轄領域に立ち入らない事。

・行動する時は常にリアスのそばにいる事。

 

 この二点のみを条件に、朱乃には手を出さないという約束を取り付けたのだった。



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感動(?)の再会

 昼休み。

 姫島朱乃は図書室にいた。

 

 数年前に危機を救ってくれた『黒い翼の王子様』と、新入部員佐久間隼人との間に感じた奇妙な既視感。

 あの小さなヒーローはあの時、大叔父の問いに『人間だよ』と答えた後、『テングだけど』とも言った。そして佐久間隼人は、天狗の神通力(じんずうりき)をコピペされたと言っていた。

 ひょっとして『テング』とは『天狗』の事なのではないか? あの少年が当時の隼人だとするなら、或いは隼人と同様に天狗の神通力をコピペされた人間だとするなら、彼の奇妙な返答にも納得がいく。

 しかし天狗が、そんなしょっちゅう人間に自分の力を写したりするものだろうか? もしもそんな事はなく、隼人が例外だったとするなら、やはり彼こそは黒翼の王子様という事になる……それを確かめたくて、朱乃は天狗の事を調べようと思ったのだ。

 しかしインターネットで調べても、わからない。収穫と言えるのは、九州に『英彦山豊前坊』なる天狗がいるらしい事くらいだ。あの男の子が名乗った『ヒコサンブゼンボー』とはこの事だろう。部室の蔵書は、西洋の黒魔術や悪魔伝承に関する物ばかりだった。それで一縷の望みを託して、図書室に足を運んだ次第である。だが、それも無駄足だった。日本の妖怪を紹介する、いわゆる『妖怪図鑑』的な本はあったが、天狗の習性に関して詳細に書かれた物はない。もっと大きな図書館に行けばわかるかも知れないが……、

 

(思いきって、本人に直接尋ねてみるべきかしら……)

 

 などと考えながら図書室を出ようとすると、出入口でその佐久間隼人と鉢合わせた。ゼノヴィアも一緒だ。隼人の腕に自分の両腕を絡めて、ピッタリと密着している。

 

「あらあら、ちょうど良かったわ。佐久間くん、あなたの事でちょっと聞きたい事があるの。お時間いただけるかしら?」

「ダメです」

 

 と答えたのは、ゼノヴィアだった。眉根を寄せて、ムスッとした顔で朱乃を睨んでいる。

 後輩の険のある態度に、しかし朱乃はコロコロと笑った。小さな女の子が自分のお兄ちゃんを取られるのを嫌がってるかのようで、むしろ愛らしいと感じたのだ。逆に隼人の方が、「即答すな」とツッコミを入れる始末である。

 

「副部長。ちょっと用意しますんで、待っててもらえますか?」

 

 隼人はそう言って、ゼノヴィアを伴い図書室に入る。二人が本棚の奥に消えた後、今度は隼人一人が出てきた。

 

「お待たせしました。で、話って何です?」

「……あらあら、ゼノヴィアちゃんはよろしいの?」

「ええ、アイツは俺と一緒ですから」

「……ん?」

 

 小首を傾げる朱乃に隼人は、

 

「分身の術です」

 

 と、事も無げに答えた。その様子が、あの時大叔父たちを翻弄した男の子と重なって見えて、朱乃はますます疑念を強める。

 場所を旧校舎の空き教室に変えて、朱乃は隼人と二人きりで向かい合った。

 

「佐久間くんは確か、天狗の神通力をコピ、写されたのでしたわね」

「ええ」

「もしやその天狗というのは、英彦山豊前坊とおっしゃるのではなくて?」

「ええ、そうです」

「やっぱり……!」

 

 思わず口に出た。

 

「副部長のお知り合いか何かで?」

「そう名乗った男の子に、危ないところを助けてもらった事がありますの……もう七、八年も前の事ですわ。佐久間くんはその頃、T県にいた事がございまして?」

「いえ、無いです」

「──え゙っ」

 

 意外な答えがあっさりと返ってきて、変な声が出た。

 

「で、でも、確かにあの時あの方はご自分を『ヒコサンブゼンボー』と名乗りましたわ! さっきも調べたけれど、天狗が神通力を人間にコピ、写したなんて話は全然無かったし、つまりそれは、そういう事はほとんどやらない珍しい行動という事で、なのにあの方があなたではなく、たまたまあなたと同じ経緯で同じ天狗から力を得ただけの他人だなんて、考えられないわっ!」

 

 朱乃は思わず隼人の両肩を掴み、詰め寄った。

 

「うーん……じゃあ確認しますんで、ちょっと副部長の過去を見させてもらえますか? 思い出してくれれば、それを俺が見ますんで」

「え、ええ……」

 

 そんな事も出来るのかと半ば驚きながら、朱乃は目を閉じて、当時の事をなるべく鮮明に思い浮かべた。すると、

 

「あ、ホントだ。俺がいる」

 

 という隼人の声が聞こえた。

 

「そーいやクワガタ捕りに、よその県まで飛んだ事あったっけか……さーせん、前にも話したと思うけど、つい最近まで神通力と一緒に記憶も封印してたんで、すっかり忘れてました」

「それじゃあ、やっぱりあなたが、あの時の黒い翼の王子様……!」

 

 今本人の口からハッキリと(そしてあっさりと)告げられた事で感極まった朱乃は、思わず隼人の体を強く抱き締めた。胸部に搭載された102cmKカップの戦略兵器が押し付けられる。隼人はその圧倒的、ひたすら圧倒的なボリュームと柔らかさ、何より細腕からは想像もつかない朱乃の腕力の強さに、思わず呻き声を漏らした。

 

「ちょ、苦し……ギブギブ!」

 

 ペシペシと朱乃の肩や背中をタップするが、朱乃は気付かない。

 

「あぁ、やっとお会い出来たのね、私の王子様……嬉しい……!」

 

 目尻に涙の粒を浮かべ、頬擦りまでしてくる。そして更に強く、情熱のままに抱擁を強め、体重を掛けてくる。

 

「──ひゃっ!?」

 

 が、不意に腕の中の感触が消えて、朱乃は前にたたらを踏んだ。

 

「アンタ、俺を殺す気か」

 

 神足通(じんそくつう)で朱乃の背後に瞬間移動した隼人が、ぼやいた。

 

「ご、ごめんなさい……私ったらつい……」

 

 朱乃は赤面して謝るが、すぐに隼人に歩み寄り、その両手を握る。

 

「命を助けていただいたのに、何年もお礼を言えないままで、気になっていたの……助けてくれて本当にありがとう、隼人くん……いえ、隼人さん……隼人様……! 私にしてほしい事があったら何でもおっしゃって……あなた様のご命令とあらば、どんな事だっていたしますわ……!」

 

 紫色の瞳を潤ませ、白い頬を上気させ、朱乃は濡れた声で言う。思わず変な気分になる隼人だったが、ゼノヴィアの顔が脳裏をよぎり、その気持ちを振り払った。

 

「感謝する気持ちはわかりますけど、何もそこまで言わんでも……それに俺、マジで助けたつもり無いですよ? クワガタ捕るのに邪魔だからよそでやってほしいって、マジで思ってたし……」

「あなた様にそのつもりが無かったとしても、私が命を助けられた事実には何の変わりもございませんわ。あなた様がおられなかったら、私は大叔父様に殺されて、リアスとも会えなかった……今の私があるのも全てあなた様のおかげなのです……あなた様には、朱乃を好きにする権利がございますわ……」

 

 熱に浮かされたように言いながら、朱乃は隼人の手を自身の胸に添えた。その上に自身の手を重ねて、後輩の手を胸に埋める。ゼノヴィアとは段違いのボリューム感と柔らかさが、隼人の掌中に伝わってきた。

 

「隼人様が望むのなら、朱乃はこの肉体だって喜んで捧げます……朱乃の目も耳も鼻も口も手も足も胸もお尻も、黒髪一筋にいたるまで全てが隼人様の所有物……何なりとご命令なさって……今この場であなた様に抱かれる事だって厭いませんわ……」

 

 その時、朱乃の視界が暗転した。後ろから誰かが、彼女の顔を手で撫でたのだ。

 急激な眠気が襲ってきた──と自覚する前に、朱乃は深い眠りに落ちていく。

 力なく倒れたその体を抱き止めたのは、もう一人の隼人だった。

 

「危ないところだったな」

「いろんな意味でな」

 

 朱乃に迫られていた方の隼人が、そう答えた。図書室でゼノヴィアと仲睦まじく読書に勤しんでいた方の自分に、他心通で救援を求めたのだ。それでもう一体分身を生み出し、神足通で飛ばしたのである。

 

「で、どーするよコレ……記憶封じるか?」

「副部長の中じゃあ大事な思い出っぽいし、それはちょっと可哀想だな……感動の再会でテンション上がり過ぎてラリっただけの可能性もあるし、もうしばらく様子を見よう」

「そうだな」

 

 二人の隼人はそう結論付けると、ガッシと腕を組んだ。かと思うと一つに溶け合って、一人の隼人になる。

 天眼通(てんげんつう)で未来を見るという選択肢もあるが、怖いから見たくないという気持ちがある。

 先程彼自身が言ったように、助けたつもりは本当にない。T県まで飛んだのもクワガタ捕りのためで、朱乃のためではない。天狗の神通力を得た事でよその県はおろか日本国内、果ては世界中のいたる所に、コンビニ感覚で行けるようになったのだ。隼人にしてみれば本当に大した事ではないのにああも情熱的に迫られるのは、ちょっとした恐怖である。

 とはいえ、ちょっとだけ変な気分になったのもまた確かである。男の(さが)の哀しさに、隼人は溜め息をついた。



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