HIGH SCHOOL FLEET -His Order has Priority- (オーバードライヴ/ドクタークレフ)
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クリキンディは旅立つ




人は化け物、世にない物はなし。
『西鶴諸国咄』序 井原西鶴







 

 

 

 母港からの出港用意が進む(ふね)には独特な高揚感が満ちている。

 

 船は海に出てこそ命を吹き込まれる。陸という鎖から解き放たれ、自由に走ってこそのふねだ。そして船乗りにとって船出とは、生き返る事である。

 

 船乗りにとってふねとは家であり、仕事場であり、人生を預ける場所だ。故に船乗りはいつの時代も船に帰り、海に還る。そこには老若男女貴賤無く、海は船乗りを平等に迎え入れ、平等に牙をむく。船が栄誉を受けるとき、その栄誉は平等に船乗りに降り注ぎ、船が水底に帰すとき、その死神は平等に船乗りの命を刈り取る。故に艦長は口にするのだ。

 

 

 

 ――――海の仲間は家族だ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめん! 遅くなった!」

 

 そう言って、艦長が制帽片手に艦橋に飛び込むと、タブレット端末を手にした副長の宗谷ましろが振り返った。彼女の横に立つ記録員の納沙幸子も艦長を見て微笑む。

 

「いえ、問題ありません。問題ありませんが、艦長の身だしなみが大問題です。なんで出航前から第一種冬服が着崩れてるんですか。今から長距離遠洋航海訓練だっていうのに」

「い、いや……少し焦ってて」

「まったく。これじゃ示しが付きませんよ」

 

 そう言ってましろはタブレットを幸子に返し、つかつかと艦長の方に歩み寄る。

 

「ほら、じっとしていてください」

「んっ……」

 

 ましろが艦長の制服に手を伸ばした。首元を戒めている黒染めのシルクのネクタイをまっすぐになるように整える。ネクタイピンで律儀に整えているのはいいのだが、ノットのところが歪んでいては格好が付かないだろう。

 

「せっかくの代表生徒用の特別制服なんですから、ちゃんと着てくださいよ、ミケ艦長。おろしたてなんでしょう、これ」

「にゃはは……ごめんね、しろちゃん」

 

 そう言ってはにかむ艦長――――岬明乃のツインテールの茶髪が揺れる。右肩に光る濃緑色の三つ編みのモールは彼女が率いた部隊が第一級警備活動部隊表彰を受けたことを示す飾緒だ。

 

「それにしても……似合ってないなぁスーツみたいな制服」

「うい……」

「そ、そう……? どこか変……?」

 

 にしし、と笑いながら明乃を茶化すのは水雷長の西崎芽依だ。砲術長の立石志摩も同意したので、慌てて明乃が自分の制服を見回すようにきょろきょろとする。

 

「まぁいつもはセーラー服だからな。開襟の第一種冬服は公式の場でしか着ないわけだし似合って無くても問題ないだろう」

「し、しろちゃんまで……!」

 

 そう言って不満げに頬を膨らませる明乃の制服は皆と異なり、黒のダブルのブレザーにワイシャツ、黒のネクタイという海上安全整備局員の冬服に準じた制服のデザインだ。これを着られるのは基本的に艦隊を率いる艦隊代表生徒か、学年主席のみ。その二人も正装の必要を認めるときのみという制限が入る。

 

「確かに、もか参謀の方が似合ってますよね、開襟制服」

 

 さらっとひどいことを言って目線を艦橋の壁の方に走らせた幸子。その壁の方には曖昧な笑みを浮かべつつも、かっちりと開襟制服を着こなす学年主席、知名もえかの姿があった。

 

「も、もかちゃーん……」

「こればっかりは慣れだから……。中学のときはブレザーだったから慣れてるし……」

 

 思いっきり落ち込む明乃をフォローしつつ、もえかが一歩前に出た。

 

「さて、ミケ艦長、気を取り直していきましょう。もう少しで出航ですから」

「うん……」

 

 どこかダウナーなままだが、明乃は手にしていた制帽を被り、深呼吸。

 

「晴風、出港用意! 総員、配置につけ!」

「出港よぉーい!」

 

 艦が一気に活気づく。それに背中を押されるようにして明乃の背筋が伸びていく。

 

「離岸用意はじめ、しゅうちゃん、まゆちゃん艦周囲の安全の目視確認をお願い」

「わかりました!」

「了解です!」

 

 航海見張り員の山下秀子と内田まゆみが元気に返事をする。出港用意を知らせるラッパが鳴り響いた。ラッパ手の万里小路楓の吹奏の腕は大分良くなったと言えるが、それでもどこか気が抜けそうになる。それでも緊張しがちな出港用意では余分な力を抜くのにはちょうどいいのかも知れない。

 

「機関室、マロンちゃん!」

《こちら機関室、いつでも回して大丈夫でい! 十分に缶も暖まった!》

「ありがとう、出港配置についておいて。リンちゃん、操舵手お願いね」

「はいっ! が、頑張ります!」

 

 明乃の声がどんどん晴風を生き返らせて行く。

 

「こうなってくると生き生きしてますね」

 

 幸子がもえかに耳打ちする。それを聞いて笑って小さく頷いたもえか。

 

「ミケちゃんは海が大好きだからね」

 

 そう言いながらもえかはわずかに目を細めた。その背中をまぶしく見ながら、右手を握りしめた。

 

 彼女を支え、艦隊を支えるのが、艦隊作戦参謀たる知名もえかの仕事だ。

 

「死なせるわけには、いかないもの」

「もかさん、なにか言いました?」

「ううん、頑張らなくっちゃねって」

 

 幸子にそう微笑んで、思いを奥にしまい込む。頭の奥でもたげた、二ヶ月も前の会話をもえかは振り払った。

 

 

 

 

 

 

     †

 

 

 

 

 

 

「森が燃えていました

 森の生きものたちは

 われ先にと

 逃げて

 いきました」

 

 そう諳んじながら、白い髪を揺らして何かを書き付ける女性の姿。大きな書斎のような空間の壁にはたくさんの本と無骨なファイルが並び、彼女が向き合うマホガニーの重い机には、濃紺のインクが納められたインク壺が鎮座していた。

 

「でもクリキンディという名の

 ハチドリだけは

 いったりきたり

 くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは

 火の上に落としていきます」

 

 デスクの上に置かれたネームプレートには『横須賀女子海洋学校校長 横須賀学徒艦隊運用管理責任者 禾生(かせい)翠巒(すいらん)』の文字が刻まれている。濃紺のインクが紙の上を滑る音が、彼女の歌うような言葉の合間を埋めていく。

 

「動物たちはそれを見て

 『そんなことをして

 いったい何になるんだ』

 といって笑います

 クリキンディは

 こう答えました」

 

「――――――ハチドリの一滴、お好きなんですか?」

 

 その言葉に遮られ、彼女は――――翠巒は目を紙から上げた。

 

「いや。大嫌いだよ。大嫌いだからこそ、自戒の念を込めて口ずさんでいる」

 

 万年筆にキャップをして、革製のペントレーに戻す翠巒。細い弦に支えられた眼鏡が元々精悍な顔立ちの彼女をさらに細く見せる。

 

「君には経験がないかな? 自らの能力を過信したり、正義の代理人を気取って断罪したりしてしまったことは?」

 

 上機嫌に翠巒はそう言って笑みをたたえてみせた。

 

「正義を気取り、人格者を気取り、相手の不義をいいことに裁判官を気取り、裁き、制裁を与え、相手を傷つけたことは?」

「圧力で校長を蹴落としてその椅子にふんぞり返っている人なら知っていますが」

「ふふん。手厳しいね。縁故雇用のブルーマーメイドと言われないためにも必要な処置だったと言ってほしいものだ」

 

 翠巒はそう言って肩を揺らした。

 

「しかしそうだな。それも私が私を嫌う理由の一つだ。君はものの本質が見えている」

「お褒めにあずかり恐縮ですが、嬉しくはないですね」

「それは残念、褒め損だな」

 

 そう言うと翠巒はデスクライトに手を伸ばし、ライトを消した。どうやら書き物は終わりにしたらしい。

 

「聖職者はいいことを述べた。ルカによる福音書第六章三七節から第三八節だ。『人を審くな、さらば汝らも審かるる事あらじ。人を罪に定むな、さらば、汝らも罪に定めらるる事あらじ。人を赦せ、さらば汝らも赦されん。人に與へよ、さらば汝らも與へられん』

 

 浪々と諳んじた翠巒は椅子をくるりと回した。背負っていた大きなガラス窓に向き合い、その向こうに広がる落ち着いた青の海を眺める。

 

「人は力を得たとき、義を得たとき、理由を得たとき、自らの理性を外す傾向がある。その気持ちは私もよく分る。安全圏から相手を蹂躙する優越感は一度知ってしまえば麻薬のように甘美だ」

「つまりあなたには、そのようなことがあったのですね」

「あったとも。何度もその欲に負け、相手を叩きのめし、不幸の奥底へと蹴り落としたとも。そして私は今もそんなことを続けている」

 

 目を細める。校長室の窓からは学生が操艦する為の艦、学生艦の山が見えていた。

 

「だからこそ、自らはそのあり方を恥じねばならない。もっともなところ、恥じたとしても許されることはないだろうし、そこで神に許しを請うほど清らかな心は持っていないがね」

「それでも、そんなことを続けるわけは?」

「正解が世界を変えるとは限らないからだ」

 

 翠巒は即答。

 

「世界を変えてきたのはいつだって誰かの独善だ。正確には『他者の共感により支持された独善』だ。誰かの独善のついでで世界は引っかき回され、何億もの人間を抹殺し、何千もの人間を救ってきた」

 

 翠巒の語り口調は淡々としているが、その裏にはなにか怒りのような激情が感じられた。

 

「クリキンディは勇敢だった。クリキンディは英雄だ。その精神は称えられるべきものだ。――――度し難いとは思わないかね。その独善をさも崇高そうに振りかざし、その責務を個人の責任の元に運用する。これほど理不尽な救済はない。そんなことが本当にできるのなら、世界は神話も宗教も必要としなかっただろう。神などいなくとも、人は救済されているはずだ」

「……そんなことを言っていた人がいましたね」

「そんなに北条君の事が懐かしいかい、知名もえか君」

 

 翠巒が椅子を半分だけ回し、デスクの前に立っていた知名もえかに微笑みかけた。

 

「懐かしいとは違いますが、印象深い人でした」

「あれで印象が薄いと言われたら北条君も救われまい。結果的にとはいえ海上安全整備局の変革を余儀なくさせた訳だからな」

「そろそろ止めにしませんか。禾生校長。もっと建設的な話ができるものと思っていましたが」

 

 もえかはそう言って腰に手を当てた。わずかにラフになった物腰に翠巒が笑う。

 

「それは学生たる君と教員たる私としてかね。それとも諜報機関の諜報員候補生たる君とロビイストたる私としてかね」

「どちらでも結構です。ただの雑談のためだけに校長室に呼び出したのだとしたら、さすがに怒りたいですが」

「つまらないね。まあいい。では本題に入ろう」

 

 そう言って翠巒は笑みを消した。

 

「岬明乃君についてだ。彼女は君から見て使い物になりそうかね?」

 

 翠巒の声は一気に凍てつく。普通の高校生ならそれに気圧されてもおかしくないが、もえはわずかに目を細めるだけに押さえた。

 

「含意が広すぎお答えできかねます」

「世界一周遠洋航海に際する学生艦隊旗艦の艦長として十分通用するかどうかという視点で答えたまえ」

 

 世界一周遠洋航海は二ヶ月ほど後に控えた、海洋学校の中でも最大規模の演習航海だ。アジア・中東・欧州・米州・豪州と西へ西へと突き進みつつ、世界各国のブルーマーメイド養成校などとの交流を深め、国際感覚と航海技術を深めるのが目的となる。学生艦が複数参加することになるのだが、その旗艦に晴風を据える算段が進んでいるらしい。

 

 もえかはその問いを鼻で笑った。

 

「それは彼女の成績が十分に示しているでしょうし、晴風の様子も含めてであれば、私よりも高峰教官に聞く方が早いのでは?」

「近しい年齢の子ども達のコミュニティの中でしか分らないこともあるだろう。知名君、君は今の晴風に対しては『近しい他人』のポジションを確立している。年単位で補修に時間のかかる武蔵から編入という形で晴風に作戦参謀として配置された君は、晴風のクルーであり、同時に部外者だ。だからこそ見える物があるだろう」

 

 翠巒は愉しそうにそう言って見せた。

 

「あらためて聞こう、岬君は艦長として使いものになるかね」

「そういう意味でしたら、少なくとも晴風において十二分に優秀な艦長だと言えるでしょう。ただ、最前線に突っ込んでいく航洋艦の艦長としては優秀ですが、大型旗艦における全体指揮は不慣れであることが予測されます」

「それは晴風が実戦を経て完成した一つの戦闘パッケージに由来する弱点かね?」

 

 RATt連続テロ事件と呼ばれる一連の事件から半年と少し。未だに世界はその騒動の尾を引いている。

 

 横須賀女子海洋学校学生艦行方不明事件、東舞鶴海洋学校教員艦壊滅事件、新橋商店街船破壊工作事件、アドミラル・シュペー蘭領インドネシア領海侵犯未遂事件、駿河湾沖航洋艦武蔵鎮圧作戦。その全てに立ち向かい最前線で戦い続けた存在が、航洋艦『晴風』であり、それを指揮した特務艦艇群司令柳昴三二等海上安全整備監と晴風航洋艦長岬明乃だった。

 

「晴風は現在強い結束力でクルー同士が協力し合う理想的な運用を可能としていますが、それは晴風でしか通用しないバランスで成り立っています。最前線で状況を切り開き、後続する本隊が突入する隙を作り出す、海軍駆逐艦としての身の振り方に近いと推察しています」

「なるほど興味深い。我が校が誇るトリックスターになったな」

 

 翠巒は至極愉しそう。それを見てもえかは嫌悪感を隠そうともせず続けた。

 

「トリックスターになるかどうかはわかりませんが。どういう状況でも単艦なら生き残れる。そういう艦でしょう」

「なるほど。では君が艦隊参謀として乗務したまえ。これならば不測の事態にも耐えられよう。主席たる君の頭脳と機転があれば、彼女一人押さえることもできよう」

「すなわち、既に不測の事態が発生しうることを把握しているということですか。また不可解な事を始めるつもりじゃないでしょうね」

 

 それを聞いた翠巒が笑った。

 

「何時だって不測の事態は起こりえる。無論それに対しての用意を複数進めて万全を期せるよう進めている。それが不可解かどうかは君のとらえ方次第だ」

「そこまでして岬艦長に指揮を執らせたがる理由は?」

「彼女には期待している。それ以上の意味が必要かね?」

 

 翠巒はそう言って話を畳みにかかる。

 

「反論が無ければ、同意したと捉える。君には艦隊付作戦参謀としての役割を期待する。もっとも、その役職が問われるのは各校との交流演習の時だけだと信じているがね」

「……ミケちゃんを、好き勝手にはさせない」

「そもそも好き勝手にできる程度の人材なら、勧誘自体をしていない。君もどうだい、我々金鵄友愛塾に興味は?」

「入るとも思ってないくせに」

「それは残念。退出してよろしい」

 

 知名もえかが敬礼。踵を返して去って行く。それを見届けた翠巒は笑って先ほどまで書き連ねていた紙を折りたたんでいく。

 

「さて、世界は変わっていくぞ、岬君、知名君。君はその先に何を見る。その艦で君たちは何を成す」

 

 折り紙の要領で何度も折り返しては広げを繰り返していく。

 

「正義なんて曖昧な物は存在しない。あるのは人のエゴだけだ。戦争を望むものはまずいない。いたとしても常に淘汰されてきた。人を滅ぼす危険思想として排斥されてきた。それでも戦争がなくならないのは、戦争を起こすことを目的として戦争が行なわれたことなどないからだ」

 

 元の紙から小さくなった分だけ立体的になったそれを眺め、翠巒は満足そうだ。対になる鋭角な三角形の形を整える。

 

「だが確かにそこに戦争は存在し、戦争に突き進めた意思が存在する。それを弾劾するのは簡単だが、弾劾するだけでは争いは止まらない。だから人は誤りだと知っていても力を求めた。相手を黙らせる力をもって、正義を押し広げた。それを善として推し進めたのだ」

 

 前から見てその三角形の確度が大体そろっていることを確かめる。

 

「必要悪だと言ってしまえば、そこで議論は終了だ。しかしながらそれで切り捨てられなかったからこそ、私も君たちも足掻いてきた。北条沙苗もそうだったはずだ。そういう意味では私達は近しい」

 

 できあがったそれを見て翠巒はどこか嬉しそうな表情をした。

 

「必要悪を求めることを弾圧だと糾弾することは正しい。それに抗い銃を取ることも正しい。それは確かに君たちを害する。しかしその君たちの行動は正義の名の下に叩きつぶされる。それこそ正義の味方や英雄と呼ばれるもの達の弾圧によって、だ。そしてそのもの達は口をそろえて、クリキンディと同じ事を言うのだろう」

 

 折り紙にしたその紙を人差し指と親指でつまみ、ドアに向けて狙いをつけた。

 

 

 

「――――『私は、わたしにできることをしているだけ』」

 

 

 

 その折り紙をすいと空中に押し出す。空気をつかみ、ゆっくりと前に飛び、空中を滑るとダークブラウンの絨毯に音も無く着地する。

 

 

 

「だから君は間違うのさ、英雄(クリキンディ)よ、岬明乃よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな翠巒の独白を扉越しに聞いて、もえかはわずかにため息をついた。

 

「……あの子は英雄なんかじゃない」

 

 それだけ呟いて、もえかは歩き出す。

 

 翠巒と話してわかった。間違いなくろくでもないことを企んでいる。そしてそれを押しつけられるのは、命の恩人であり、学友であり、親友である岬明乃だ。

 

「私が護らなきゃ。今度こそ、ミケちゃんを一人にしちゃいけない」

 

 背筋を伸ばす。歩幅を大きく取る。前を向く。

 

 進まなければならない。ここにはいられない。だから、ここではないどこかへと向かわなければならない。

 

 

「しっかりしてよ知名もえか。私がみんなを護るんだ」

 

 

 その二ヶ月後、晴風は世界一周長距離遠洋航海訓練に出発した。




お久しぶりの方はお久しぶりです。はじめましての方ははじめまして。

オーバードライヴ/キュムラスと申します。

作品のあらすじにも書きましたが前作『ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー』からの続き物です。いきなり校長先生が真雪校長ではなくものすごく胡散臭い婆さんになっているのはそのせいです。このあたりが気になる方はぜひ前作をお読みください(ダイレクトマーケティング)。

さて、原作にはないオリジナル展開で第二部開始です。最初から遠慮無くオリジナル設定やオリキャラを突っ込んでいくスタイルになってます。完全なオリジナルストーリーなので少し心配ですが、どうぞよろしくお願いします。

ミケちゃんともかちゃんが着ている制服が開襟になっているのは完全に私の趣味です。だってかっこいいじゃん! それにもかちゃん4月に着てたの夏服の詰め襟っぽいし。ということでアニメは南に舵を取るのが確定だったので夏服着用、今回は冬服で開襟という形にしました。

次回からいよいよ本編(?)、欧州編のスタートです。欧州ということでアニメでも大人気だったあの子達が登場する予定です。

次回 再会の喜びを噛みしめて
それではこれからどうぞよろしくお願いします。


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ネーレーイスの居場所
テティスは降り立つ


 

 空砲が撃ち鳴らされた。それを聞いて、彼女は声を張る。

 

「礼砲用意! 五秒間隔、二一発!」

「ういっ! 五秒間隔、二一発。空砲装填確認。用意よし」

「礼砲、撃ち方はじめ!」

「うちーかたー、はじめっ!」

 

 艦砲が盛大に艦隊の来訪を告げる。それを艦橋で間近に聞きながら、情報管理を行なっていた納沙幸子が笑った。

 

「とりあえずはこれで入港ですね。やっとです」

「そうだね。でもここからが大変そうだよ」

 

 そう言って艦長はわずかに笑った。

 

「役職付は大変ですね」

「だったら代わってくれる?」

「無理です。とくにこのドイツだと代わろうにも代われませんよ」

 

 そう言われ、岬明乃は苦笑いを浮かべた。

 

「まぁ、うん。でも、楽しみではあるかな。ミーちゃんやテアちゃんにも会えるし」

「ですねー。直接会うのは……えっと、8か月ぶり?」

 

 幸子がそう言うと操舵輪を握っていた知床鈴航海長が頬を緩めた。

 

「もうそんなになるんだねー。テレビチャットでよく話してるからそんな感じしないけど」

「だが、実際楽しみだ」

「じゃぁ、早く入港しようかな、しろちゃん」

 

 そう呼びかけられ、艦長の隣に建つ副長、宗谷ましろが頬を緩めた。

 

「礼砲交換終了後、水先案内人の派遣を信号旗掲揚で依頼する。艦内への受け入れ準備。それに先立ち後続艦各艦へライトガンを用いてその旨を通告」

「了解、ヴィルヘルムスハーフェン港への入港用意を継続、水先案内人の受け入れ用意を開始します」

 

 復唱をしたのは甲板を取り仕切る砲雷科副長兼水雷科長の西崎芽依だ。

 

 

 明乃はゆっくりと空を見上げた。日本よりも色素が薄いような、そんな青空に見えた。

 

 

 

 晴風は遠洋航海訓練の日程の折り返し地点となる、ドイツ国ヴィルヘルムスハーフェン港へ入港した。

 

 

 

 

     †

 

 

 

 

「ドイツ国へようこそ、ヴィルヘルムスハーフェン海洋学校を代表し敬意を表する。代表生徒のテア・クロイツェルだ」

「日本国横須賀女子海洋学校学徒艦隊旗艦晴風 航洋艦長、岬明乃です」

 

 敬礼を交わす。明乃よりも小柄なその生徒は銀色の髪をなびかせ、笑った。そこにはどこか営業用とも見えるような軽薄さが見えた。

 

「長旅お疲れだろう。ひとまず、お茶でも飲まんか。旧交を暖めたがっている人間が約一名いる」

「是非に。こちらもそれでそわそわしているのが何人かいますから」

 

 明乃がそう答えると、テアは明乃を導くようにして歩き出す。目の前に広がるのは朱絨毯。少数ながら礼装の儀仗兵がついている。訓練艦隊を迎えるにしてはあまりに豪勢だ。

 

「堅苦しいのは気に食わん。さっさと抜けるぞ」

 

 儀仗兵に聞こえないように小声でそう言ったテアに目だけで頷いて明乃が続く。レンガ造りの建物に足を踏み入れる。つば付の黒い制帽を左手に抱えてロビーを眺める明乃。

 

「歴史ある建物だね……」

「ヴィルヘルムスハーフェン港はドイツ海軍直轄の主要港の一つだ。この建物は海洋学校の他に幼年学校を併設しており、一部講堂を共用している。ドイツの海の伝統に触れ、未来の海を支える子ども達を育てて……」

 

 英語で紡がれるテアの淀みない解説を聞きながら前に進んでいくと、向こうから制服姿の女の子が二人飛び出してくる。テアの方を見て慌てて廊下の端に飛び退き、敬礼。

 

「……いる訳だが、完璧ではないようだ。申し訳ない」

 

 テアがドイツ語に切り替えてそういったのは女の子達にも聞かせるためだろう。明乃は子ども達に頭を下げる答礼を返しつつ、ドイツ語で返事をした。

 

「いえ、気にしていませんよ」

「寛大なお言葉、感謝する。岬艦長(カピテーン・ミサキ)

「カピテーン・ミサキ!? って、()()カピテーン・ミサキですか!?」

 

 透き通る綺麗な金髪を揺らして女の子の一人がそう言ってテアの方を見る。テアは小さくため息。

 

「客人を前にして()()とはなんだ。こちらは来港中の『晴風』からいらした岬明乃航洋艦長だ。失礼のないように」

「わっ、わっ……! お目にかかれて光栄であります! ようこそヴィルヘルムスハーフェンへ! えとえと……」

「タッツェ! それより先に敬礼!」

 

 金髪の子が隣の子に肘鉄を食らって慌てて敬礼。

 

「し、失礼しました! 申し訳ありません」

「タッツェちゃんっていうんだ。いいよいいよ。驚いちゃったんだよね」

 

 軽く涙目になっている子の前でしゃがみ込み、明乃は笑う。

 

「気にしてないし、ほら涙目にならなくていいんだよ」

 

 そう言って明乃はその子の水平帽越しに頭を撫で、立つ。それを見たテアが口元に笑みを浮かべ声をかける。

 

「我が校の生徒が失礼した」

「いいんです。それに、子どもは元気が一番ですから」

 

 明乃の声に軽く吹き出したテアに明乃が首を傾げる。

 

「あなたもまだ子どもだろう?」

「フロイライン・クロイツェルに比べれば、そうですね。貴女の方が年上です」

 

 笑顔でそんな会話をしていると、横の子どもがどんどん青ざめてくる。

 

「? どうしましたか?」

「い、いえ! なんでもありません!」

「お気になさらず! 岬卿!」

「み、岬卿?」

 

 ひっくり返った声のドイツ語でそう叫び返され、明乃は目を白黒させる。

 

「あまりいじめてくれるな、岬艦長。男爵とはいえ、あなたは武功で名を上げたドイツの一代貴族であり騎士だ。緊張するのもやむを得ん」

 

 そう言われて明乃は分ったような分らないような気分になった。そんな大それたことをしたつもりはなかったのだが。

 

「その無自覚さがやっかいだな。この滞在で嫌というほど身にしみそうだが……」

「クロイツェル代表……! 岬卿の前でそれは不敬では……」

 

 少女が耳打ちをするように手で口元を軽く隠しながら、テアにそう言うと、テアはわざとらしく考え込むような表情をした。

 

「ふむ……確かにこちらは平民の出自で、ただの代表生徒。たしかに私は岬卿に武功でも、身分でも劣っている。確かに不敬でした。伏して謝罪申し上げる、岬卿」

「不敬とかそんなの気にしなくてかまいません。フロイライン・クロイツェルは前から友達でしたし、私自身もなんで男爵に叙されたのか未だにわかりませんし……というよりですね、私をからかっているでしょう?」

「当然」

 

 しれっとそう返してきたテアに明乃は頬を膨らませる。

 

「さ、岬卿。奥へと行こうか。立ち話もなんですから」

「むぅ……」

 

 否応無しにそう言われ、テアの後ろを付いていく。子ども達はずっと敬礼で二人を見送る二人に手を振ってからついていく。連れて行かれた応接室には豪華絢爛なシャンデリアが下がり、重そうなローテーブルといかにもなアンティーク調の重厚なソファが鎮座していた。

 

「ここまで来れば大丈夫」

 

 テアが日本語に切り替えてそう言い振り返る。

 

「……久しぶり、テアちゃん」

「うん。久しくしてる。歓迎式典は夜だからそれまでは気を抜いてて大丈夫。改めてようこそドイツへ、明乃。驚いた、ドイツ語上手になったんだね」

 

 テア・クロイツェルはそう言って右手を差し出した。明乃が右手を重ねれば、テアが笑みを浮かべてみせる。

 

「ココちゃんとミカンちゃんと一緒に勉強中。時々ミーちゃんとビデオチャットもするから教わってる」

「だから少し古風なのか」

「なにかおかしかった?」

「フロイラインは今時使わない。フラウで十分。友人に『御嬢様』とは言わないだろう」

 

 テアがそう言いながら明乃にソファを勧める。思ったよりも柔らかいソファに半ば沈むように腰掛けて、明乃はテアに返事をする。

 

「なるほど……覚えとくね。ミーちゃんは?」

「今は残りの晴風クルーを案内しているはずだ。大丈夫」

「えっと……なら私だけなんで……」

 

 明乃の前にコーヒーを置いて、テアもその向かいに腰を落しながら答える。

 

「艦隊旗艦艦長を務める我が国の貴族様にはどうしてもこちらのブルーマーメイドや海軍の貴族様に挨拶してもらわなければならない。今晩の歓迎立食パーティーには当校校長や、所属の学生艦各艦長のみならず、ヴィルヘルムスハーフェンを母港にする海軍からも何人か出席予定だ」

「そんな……」

 

 明乃はそう言われ顔を青ざめさせるが、テアは何も言わずにコーヒーにこれでもかと砂糖を投入してかき混ぜていた。

 

「ど、ドイツ語そこまでできないんだけど……」

「さっきはできていた」

「そりゃちっちゃい子相手に簡単な話ならできるけど! お堅い挨拶とか歓談とか絶対無理っ!」

「ご冗談を、フロイライン」

「さっきフロイラインは使わないって言ったよね!?」

「礼儀の正しい貴族様には御嬢様がお似合いでしょう」

「もー!」

 

 そう言って両腕をぶんぶんと振って抗議する明乃。テアは涼しい顔でコーヒーを啜る。砂糖が足りなかったのかさらに投入。明乃はそれを見て軽く驚くが、いったん無視。

 

「テアちゃんひどいよ……お久しぶりなのに……」

「なんだか明乃までミーナみたいになってきたな、お久しぶりとか言ったらシロが見たら嘆くんじゃ無いか」

 

 そう言われて首を傾げる明乃。テアは肩をすくめた。

 

「意味が分らないならそれでいい。『南の海のテティス』岬明乃がこんなに少女然としていると聞いたら、世の中の人々が驚くぞ」

「ティ……なに?」

 

 明乃が聞き慣れない単語に首を傾げる。

 

「テティス、ギリシャ神話の海の女神の名だ。タブロイド紙がシュペー奪還の時の晴風をそう称えたのがきっかけで、貴族になった明乃にさらっとその名前が移った」

「はぁ……」

「なんでもかんでも二つ名をつけたがるのはこちらの文化だ。諦めてくれ」

 

 そんなことを言われても……と言いたくなるのは間違っているだろうか。そんなことを考えているとテアの言葉にもう一つ引っかかりがあったのを思い出す。

 

「と、いうよりなんで私がそんなに驚かれるの?」

 

 南の海で起こったアドミラル・シュペーの救出作戦に参加したのは確かだが、それでなぜここまで驚かれるのかの検討が付かない。

 

「なんだ、自覚してなかったのか」

「自覚って……なにを?」

「明乃がもらった勲四等ドイツ功労騎士十字章は、『騎士』の名の通り、ドイツ鉄血騎士団に名を連ねることになる。最年少記録を大幅に下回る一五歳での叙勲だ。話題にもなる」

「だからなんでそこまですごいのもらえたのかわからないんだって……」

「本当に? 一五歳の少女が戦争を未然に防ぎ、死者ゼロでアドミラル・シュペーの暴走事件を解決したどころか、その後不当に拘束され拷問まがいの尋問を受けた後、休むことなくすぐに前線に舞い戻り、正規のブルーマーメイドが悪戦苦闘する相手を鎮圧したのに?」

 

 そう言われて明乃は反論しようとするが、全部事実で反論材料がない。何も知らずにそれを聞けば、どんな作り話だと突っ込みたくもなってしまうだろう。

 

「それに明乃の写真は非公開だった。正体不明のまま、騎士団入りし、男爵の爵位をもらった一五歳の異国の少女……好奇心を刺激されたタブロイド紙の『岬明乃は何者だ予想大会』はとても愉快だっだ」

 

 そう言ってどこかいたずらっ子の笑みを浮かべるテア。

 

「ジャパニメーション万歳だったぞ。日本刀を腰にひっさげた黒髪おかっぱの和服の美少女岬明乃とか、ダイナマイトボディを光らせて戦うビキニアーマー岬明乃とかとんでもないものもあった。こんど図書館にでも行ってみるといい。あることないこと玉石混交の面白いものが見れる」

「もういい……聞きたくない……」

 

 明乃がどこか疲れ切ったようにそう言って耳を塞ぐ。軽く笑いながらテアはコーヒーカップを置いた。

 

「なら、歓談はこれくらいにして」

「疲れたよもう……」

 

 明乃の声を無視してテアは部屋の奥の棚をゴソゴソと漁っている。

 

「さらっと今晩の用意をしておこうか。立食パーティーで飛び出しそうな質問とそれに対する回答に使いそうなドイツ語一覧を用意した。覚えてくれ」

「ひっ!?」

 

 目の前にコピー用紙の山が取り出され、青ざめる。明乃にとっての地獄が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 明乃がドイツ語の羅列に青ざめている頃、納沙幸子は全力疾走でお目当ての人物に飛びついていた。

 

「ミーちゃん!」

「ココ!」

 

 なんの危なげもなく彼女を受け止め、くるりと回ってみせたヴィルヘルミーナはにかりと笑った。

 

「達者だったか! ココ!」

「もちろんです! やっと戻って参りましたよー!」

 

 感動の抱擁が繰り広げられているのをどこか遠巻きに眺めているのは晴風のクルー達だ。

 

「あー、はっちゃっけちゃってココちゃん」

 

 西崎芽依がそう言って頭の後ろに手を回した。猫耳パーカーが異国の風に揺れる。その後ろでどこか眠そうにじっと見ていたのは砲術長立石志摩である。

 

「でも、たのしそう」

「まぁねー。あれで不愉快だったら逆に大問題だよ」

「久々だからしかたない」

「シロ、なんじゃそのどこかめんどくさそうな顔は。ほれ、お手」

「私は犬か」

 

 ましろが青筋を立てながらそう返せば、後ろのほうから控えめな笑い声。

 

「ヴィルヘルミーナさんって通話よりも直接会った方が愉快な方なんですね」

「おぉ、直接会うのは初めてじゃな! 思ったよりも背が高いな。改めてよろしく、アドミラル・シュペー副長のヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルクじゃ」

 

 差し出された手をしっかりと握って、知名もえかはほほえみ返す。

 

「横須賀女子海洋学校学徒艦隊付作戦参謀、知名もえかです。ミケちゃんたちがお世話になってます」

「お世話になってるのはこちらの方じゃ。お昼休みのビデオチャットが楽しみでたまらん」

 

 そう言って満面の笑みで笑ってからヴィルヘルミーナはあたりを見回した。

 

「そういえばミカンたちが見えんようだが」

「伊良子さんたち主計科の面々ならまだ艦内ですよー。『どうしてもミーちゃん達に食べてもらいたい物があるんです』だそうで」

「おぉ、そうか……ってあなたはどちら様?」

 

 晴風のタラップから下りてきた大人の方を見てヴィルヘルミーナは首を傾げる。艦の人間で大人ということはおそらく教官かなにかだろうからとりあえず敬礼。ラッタルを下りてきた女性は鴉の羽のような黒いポニーテールを揺らしラフに答礼。

 

「どうも恐縮です。晴風乗務教導官 高峰青葉二等海上安全整備正です。以後お見知りおきを、フリーデブルク副長」

「ということは、お主が柳の後釜じゃな?」

「そういうことになりますねー」

「ミケの指示は大変じゃろう?」

「まぁ、いろんな意味で」

 

 青葉はそう言って肩をすくめる。灰色がちな目が細められ笑ったようだった。

 

「リーラー・タカミネ。この後は基地の簡単な旅行と宿舎への案内でいいんか?」

「お願いしますー。私は伊良子給養長達を待ってから追いかけますんで先に進んでてください」

「了解した。それでは残りの面々を連れて行こう」

 

 ヴィルヘルミーナが皆を連れて去って行くのを青葉は手を振りながら見送る。もえかと一瞬目が合った。それに微笑むことで答えてから、青葉は晴風へと戻る。

 

 濃いグレーの船体に臙脂色の識別線。艦番号Y467、陽炎型航洋直接教育艦『晴風』。海洋学校の生徒が直接操艦し、海上行動の基礎を叩き込むための練習船。

 

「それが実戦を経験し、英雄を乗せて世界を回るとは、どんな因果なんですかねぇ」

 

 青葉はそう嘯きながら上機嫌で艦内の通路を進む。目指すのは艦橋直下の教官執務室だ。

 

「……それで、こんな遠くまで出張させておいてなんでこのタイミングで呼集かけるんですか。せっかくの(おか)気分だったのにぃ、ひどい仕打ちですよ高峰分室長」

 

 部屋に入ったとたんに声が冷え切る。左耳に差したインカムに同じ名字の男と通話が飛び込んでいた。

 

『仕打ちと言うなよ青葉。状況が一筋縄でいかない事ぐらいわかりきったことだろう』

「それで、どうしてこのタイミングで連絡を入れてきたんです?」

『外務省の筋からの情報があってね。詳しくは禾生校長の方から連絡があるとは思うが、先にお前の耳に入れておきたい』

 

 通話の向こうはそう言ってきた。

 

「今後の航路に係わる事態ということですか?」

『正確には違う。直接影響が出るかどうかは分らないが、インフォメーションとして提供する』

「なんか鼻につく言い回しですね。私達は一蓮托生の同じ部隊の人間じゃないですか」

『そうだ。だからこうして話している』

 

 通話主はそう言って会話を進めた。青葉は聞く体勢に入って、次の言葉を待つ。

 

『セントルシアはわかるな?』

「カリブ海の英国連邦加盟国ですね。学徒艦隊は北アメリカ側を通過することになるので近寄らないと思いますが。そこでなにかありました?」

『クーデターが起こった』

 

 端的な答えに、青葉は吹き出しそうになった。

 

「日常茶飯事じゃないですか、このご時世。ニュースにならないだけでどこの地域も政変ばかりだ」

『不謹慎だぞ』

「これは失礼。でも、この航海において、障害になり得る可能性は比較的低いかと思いますが。確かセントルシアは軍隊を持っていなかったはずです。海洋戦力なんて小規模なブルーマーメイドがいるだけでしょう」

『だが、周辺列強が複雑すぎる。巻き込まれる可能性はゼロじゃない。だからこうしてインフォメーションを流している』

 

 心配性と切り捨てるのは容易い。だが、通話の向こうが言うことも間違いないのだ。だから、ため息に留める。

 

「要は『何があっても係わらせるな』と言うことですね」

『そうだ。そしてもう一点、セントルシアのエネルギー系商社カリビアン・エナジー・グループが日本側の取引先を万里小路重工から大日本技研に変えた』

 

 こっちが本命だ、と青葉は判断する。

 

「民間同士のやりとりですから口を挟めることではないとはいえ……このタイミングで乗り換えたと言うことは……」

『ほぼ間違いなく無く、ヘファイストス計画に賛同しての事だろう。大日本技研と言えば、金鵄友愛塾の息の掛かった企業だ。しばらくは様子見だとはいえ、日本も漁夫の利を狙ってODA増額等を狙う可能性もある。実際日本は対セントルシアODA支援額は世界トップだ』

「状況は分りました。とりあえずこちらでも情報を収集します」

『頼む』

 

 それだけで通話が切れた。青葉は一人ため息。

 

「あーあ、仕事が増えていく。しばらくミケちゃん関連はもえかちゃんに任せるとして、青葉はこちらを優先ですかねぇ」

 

 そんなことを言って青葉はデスクのPCを起動する。全てはこの航海に万全を期すために。

 

「さて、クソッタレな世界を飛び回る簡単なお仕事の始まり始まりっと」

 

 青葉の指が、キーを叩いた。




いよいよ始まりました、いきなり世界一周遠洋航海も折り返し突入の欧州編。いかがでしたでしょうか。

しばらくは動き的には穏やかな日々が続きそうです。前作では赤道祭ができなかったので、その分華やかにパーティーをしたい今日この頃です。


次回 造花の中に紛れる薔薇は
それでは次回もどうぞよろしくお願いします。


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クリュタイムネストラは微笑む

 

 

 

 

 ドイツ海軍の将校向け宿泊施設と言う名の官営高級ホテルに弦楽四重奏の優美な旋律が流れる。舞踏会でも開かれようかという雰囲気に、主賓である晴風クルー他、日本からの学徒艦隊の面々は緊張しきりである。

 

「そんなに緊張される必要はございませんわ。誕生日のお祝いの様な気楽な形でよろしいですよ」

「さらっとそう言い切れる万里小路さん本当に何者なの……?」

 

 内田まゆみがきょろきょろと周囲を見回してそういう。学生としての正装として、いつものセーラー服に、濃緑の部隊表彰飾緒をぶら下げ、RATt連続テロ事件解決の際に受賞した小綬のメダルを左胸に提げているのだが、いかにもドレスコード付きじゃないと入れないような雰囲気の場所にセーラー服ではどこか浮いてしまう気がするのだ。

 

「必要なのは心持ちです。気圧されずに参りましょう」

 

 万里小路はそう言って前にでる。さすがは万里小路重工のご令嬢というべきか、こういうところでも物怖じせずに前に出て行く。残りの晴風クルーは皆カチコチだが、威風堂々と前にでる万里小路とはぐれると本当に身動きが取れなくなりそうなのでゆっくりと会場に入る。

 

「うー、緊張する……」

「緊張しても、仕方ない」

 

 さらりとそう言って日置順子をなだめるのは砲術長の立石志摩だ

 

「そういうタマちゃんはこう……落ち着いてるよね」

「いやー、そうでもないよー?」

 

 笑いながら順子に耳打ちしたのは正装という事で泣く泣く猫耳パーカーを置いてきた水雷長西崎芽依だ。

 

「というと……?」

「見てればわかるよ」

 

 万里小路たちの後を小走りで追う志摩の様子を眺める二人。

 

「あ、こけた」

「と言うわけで、かなりいっぱいいっぱいなタマちゃんなのでした。タマー、大丈夫―?」

「うい……」

 

 見事にふわふわの赤絨毯に張り付いた志摩を助け起こしながら、芽依は笑う。

 

「メイちゃん緊張しないの……?」

 

 順子が聞けば芽依は笑う。

 

「緊張してるけど……あそこまでカチンコチンな艦長を見てるとねぇ……」

 

 そう言って芽依が親指で指さしたのは、演奏中の管弦楽団の隣、演台やらマイクスタンドやらが置かれた一角の側で椅子に座って目を回している岬明乃がいた。

 

「あー……今から挨拶でしたっけ……」

「そ。しかも挨拶したらドイツ海軍の貴族の人とかとご挨拶だってさ。明日は延期してたドイツ功労騎士十字章受勲式と、ドイツ鉄血騎士団への入団式典だって。もうとんでもないよねー」

「今心底艦長じゃ無くてよかったって思ってます……」

「こればっかりは同感かなー」

 

 さ、行こうか。といって順子言って歩き出す芽依。主賓が場の空気にのまれたまま、歓迎の立食パーティーが始まった。

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

 パーティー会場の端、ちょこんと置かれた飾りだらけの椅子に座って、ダブルの制服の左胸に下がった勲章の数に辟易としながら、岬明乃はバレないようにため息をついた。正装ということで略綬ではなく正式なメダルを提げる。小さいバッジも含めれば十いくつの装飾品がついたジャケットは重くて肩が凝り固まりそうだ。祝い事ということで真っ白の綿の手袋をはめている。

 

(教官はいつもこんな物を着てたんだ……)

 

 黒い制服を着て思い出すのは、たった半年前なのにもう遠くに感じてしまう背中だった。晴風が太平洋をさまよっている間、艦を率い続けた教官の背中。制帽に白手袋、腰に下げた拳銃にタブレット端末――――馬車馬の様に働き続けたその男はもう明乃の前にいない。おそらくもう顔を合わせることは無い。

 

「柳教官……」

 

 柳昴三 二等海上安全整備監。最前線で戦い続け、私を護って、海上安全整備局を去った、シロイルカ(ホワイトドルフィン)

 

 時々思い返しては、考え込んでしまう。彼なら、この状況をどう思っただろう。

 

「なーに辛気くさい顔しとるんじゃ。せっかくのパーティーじゃろう」

「ミーちゃん」

 

 差し出されたシャンパングラスを見て、顔を上げる。淡い金色のふつふつと泡立つグラス越しに綺麗な金の長髪が見える。

 

「これお酒?」

「残念じゃが、アルコールは入っとらん。アップルシードル、リンゴ酢の炭酸割りじゃ」

 

 それを聞いて安心して受け取る。

 

「ミーちゃん疲れないの?」

「疲れとる余裕なんぞあるかい」

 

 そう言って剛胆に笑うのは、通訳兼紹介役として明乃をサポートしてくれているヴィルヘルミーナだ。自分用に確保したらしいジンジャエールに口をつけながら、明乃の横に座る。

 

「でもまぁ、ミケはよぅやったよ。代表挨拶に、海軍のメーゼン=ボールゲン少将、ブルーマーメイドのアーデルハイト・フォン・トローター基地司令にホヴァルツヴィルケ造船のシュヴィッフル伯爵……軍や財界のお偉いさんのオンパレードじゃったからのう」

「本当に緊張したんだよ……?」

「じゃろうな、でもじきに慣れる」

 

 ヴィルヘルミーナの家柄も貴族社会に顔が利くらしく、今回はヴィルヘルミーナの紹介という形で引き合わせてもらっている。一年年上の彼女は幼少期からこれに触れてきたのかと思うと少し驚きだ。

 

「まぁ慣れてしまえば問題などのぅなるよ。だから気にしすぎんでええ」

「ミーちゃんはすごいね」

「どこがじゃろう?」

「改めて貴族様なんだなぁって」

「まぁのう。でも階級も地位も、海に出てしまえば屁の突っ張りにもならん。(おか)にいるとどうしてもこんなノイズばかり耳に入ってしかたない。儂にはここが窮屈でたまらん。まぁ飯がうまいから目をつむるがの」

 

 そういってパチンとウィンクをしてみせるヴィルヘルミーナ、吊られて明乃も笑う。

 

「それにしても、ミカンにはやられたよ」

「ミカンちゃん?」

 

 ミカンと言えば、晴風の胃袋を握る給養長、伊良子美甘のことだ。星の髪留めで髪をまとめ、てきぱきと30人分以上の料理をてきぱきと作っていく給養科を取り仕切る頼れる料理人である。

 

「歓迎の立食パーティーに料理持ち込みっていうのはさすがに想定外じゃった」

「手まり寿司と照り焼きチキン、あとシュニッツェルだっけ、おいしかったねー。ミーちゃんは食べた?」

「手作りの大量ザワークラウトと一緒にミカンが押しつけてきたからな」

「ミーちゃんに日本食の良さを分ってもらいたいっていうのと、前のときになんちゃってドイツ料理をしてから、いつか見返してやるんだからって燃えてたからね、ミカンちゃん」

「なるほど、だから鬼気迫る形相でやってきた訳か。組長殺しのカタキを取りに来たのかと思ったぞ」

「そもそも組長殺してないでしょミーちゃん……」

 

 そんな会話で笑っていると、いきなりパーティー会場がどよめいた。明乃が出所を探す。

 

「これはこれは……珍しい人が来たのう」

 

 ヴィルヘルミーナが驚いたようにそう言って席を立った。歩き出すわけではなく、その場で立ったのは座っていることが失礼に当たるような人なのだろう。

 

「あの人は?」

 

 ドイツ系の参加者が軒並み敬礼や、頭を垂れるのを見る限り、とんでもなく偉い人らしい。見えたのはブルーマーメイドの制服、黒を基調にしたダブルの制服に制帽を抱えている女性だった。アッシュグレーの綺麗な髪には軽くウェーブがかかっている。

 

「ドイツ=ヴァイマル・ブルーマーメイド即応機動警備艦隊司令長官のフローレンツィア・ゲルテ・フォン・ルックナー中将じゃ。ブルーマーメイドで現役唯一のプール・ル・メリット戦功勲章保持者じゃな」

「その勲章って……」

「ドイツ国内では最上位の勲章。保持者は最優先で敬礼を受けるぐらいすごい」

 

 明乃も席を立つ。ウェイターからアルコールを受け取り歓談しているルックナー中将を遠目に眺める。

 

「ルックナー中将は『歩く騎士道』と呼ばれる程に公正であらんとする方じゃ、そして数々の戦闘に参加しながら、味方の死者は10人にも満たないほど部下を生きて帰した方でもある」

「すごい人なんですね……」

「とんでもなくすごい方だ。すごい方……なんじゃが……」

「?」

 

 しどろもどろになっていくヴィルヘルミーナの話を聞きながら件の中将を見ていると、不意に目が合った。

 

「っ!」

 

 彼女が微笑んでこちらにやってくる。明乃とヴィルヘルミーナは慌てて敬礼。ルックナー中将は明乃たちの前まできて答礼。

 

「楽にして頂戴、ここでは先輩としての敬意だけで結構よ」

 

 そう言われ、直立不動の姿勢から、休めの姿勢に切り替える。中将に楽にしろと言われてだらけていられるほど、二人とも肝は据わっていない。

 

「たしか貴女は……」

「はっ! ご無沙汰しております! ヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルク学生です。予備少尉を拝命しております!」

「そうそう、ハンス・フリーデブルク大佐の娘さんでしたわね。お父上はお元気?」

「はっ! つつがなく過ごしております。本日は来ておりませんが、父に代わりまして……」

 

 ルックナー中将は真正面に視線を固定して返事をしていたヴィルヘルミーナの唇に触れ、その言葉を止めさせる。

 

「今は先輩としての敬意だけで結構よ、ヴィルヘルミーナ。私はここの卒業生、あなたはここの在校生。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「は、はい……」

 

 すらりと伸びた長身のルックナー中将のほっそりとした指がヴィルヘルミーナの頬を滑る。いきなり中将の顔が急接近し、上から覗き込まれる形になって焦るヴィルヘルミーナ。とっさに体を引こうとしたがいつの間にか中将の左手がヴィルヘルミーナの腰に回っており、逃げられない。

 

「ちゅ、中将……?」

「あぁ、失礼。親しき仲にも礼儀あり、だったわね」

「そ、それよりも是非ご紹介したい友人がいるのですが……」

 

 明乃の方をちらりと見るヴィルヘルミーナ。左目が高速でパチパチと瞬きを繰り返していた。そのリズムを見て明乃はぎこちない笑みを浮かべた。かなり早いがモールス信号だ。我遭難セリ(S・O・S)じゃないでしょと思うが話題を振られた以上仕方が無い。

 

「あら、あらあらあら……」

 

 明乃の方をみてヴィルヘルミーナを手放す。ヴィルヘルミーナはほっとした顔で明乃の方を掌で指し示した。

 

「こちらが、日本から来た……」

「まぁ、この子がアケノ・ミサキさん?」

 

 そういって顔の横でパチンと手を打って喜ぶルックナー中将。改めて見ると50代くらいだろうか、整った顔立ちをくしゃっと歪めて笑う姿はとても優しく見えた。

 

「は、初めてお目に掛かります。日本国横須賀女子海洋学校学徒艦隊旗艦晴風航洋艦長、岬明乃学生です」

「そんなにおどおどしなくて大丈夫よ。フローレンツィア・ゲルテ・フォン・ルックナーと申します。噂はかねがね、南太平洋の英雄さん」

「過分な評価をいただいております……」

 

 なんのためらいも無く懐に入ってくる感じにたじろぐ。顔がものすごく近い。ヴィルヘルミーナよりも長身なのもあって、もはや明乃に近づくというより、抱き込むに近い雰囲気だ。

 

「それにドイツ語もお上手ね。活躍ぶりからもっと荒々しい子を想像していたのだけど、おとなしくていい子じゃない。どこかの三流紙には辟易したでしょう」

「あの、えっと……お気遣いありがとうございます……?」

 

 その手つきに、その目線の動きにどこかぞわぞわする。制服の肩を撫ぜる手つきは優しく、衣擦れの感触がゆっくりと伝わってくる。それを眺めるルックナー中将の目はどこか艶っぽく、背筋になにか薄ら寒いものが舞い上がってきた。

 

「是非一度あなたと話してみたかったのよね……この後お時間あるかしら?」

「えっと……」

 

 明乃がちらりとヴィルヘルミーナを見ると、ヴィルヘルミーナは満面の笑みで答える。

 

「岬卿の公務は終わっておりますので」

「あ、じゃぁ少しお話しません?」

 

 ミーちゃんの鬼っ! と心の中で叫びながら、明乃は笑みを顔に貼り付けた。

 

「よ、よろこんで……!」

「まぁ、うれしい! ぜひ聞かせてくださいな。あなたの英雄譚」

 

 そのまま腰に手を回され、壁際のテラスの方に連行される明乃。周囲に目を走らせるが、中将の階級章をぶら下げた祖国の英雄に物申せる人材などいるはずも無く、遠巻きに眺めながら曖昧な笑みを向けてくる人しかいない。

 

 

 

 もしかしなくても、この人……、そういう趣味で有名な人?

 

 

 

「ミケ、強く生きるんじゃ……」

 

 日本語で流れ込んだ声に明乃は答えを確信する。しかしながら逃げるわけにもいかず、ただただテラスのほうに連れて行かれるだけだった。

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

「ミケ、強く生きるんじゃ……」

 

 岬明乃を身代わりにして追求を逃れたヴィルヘルミーナは一人胸をなで下ろしていた。中将相手に逆らうわけにもいかず、親同士の面識もあるルックナー中将を邪険にはできないのでどうするべきか悩んだが、なんとか切り抜けることができた。危ない危ない、もう少しで手籠めにされるところだった。

 

「アレさえなければ聖人君子なんじゃがなぁ、ルックナー中将は……」

 

 味方に死者を出さず、最小の戦力で最大の戦果を上げ続ける英雄『大西洋のセイレーン』フローレンツィア・ゲルテ・フォン・ルックナー中将。継戦能力を維持し続け、大西洋の治安を常に維持し続けるその手腕はドイツ=ヴァイマル・ブルーマーメイドの至宝と言われるほどに卓越したものだ。部下からの信頼も篤い、理想的な上官を絵に描いたような人物だと評される訳だが、いろんな意味で大食いなことでオチがつく。

 

「ミーナ」

「なんじゃ、テ……」

 

 ア、と振り返って声を掛けてきた敬愛すべき艦長に微笑みかけようとして、そのままの表情で凍り付く。満面の笑みにもかかわらず絶対零度の視線がヴィルヘルミーナに刺さっていたのだ。

 

「ルックナー中将の方がいいんだ……ふーん」

「テア……なにをおっしゃいます?」

 

 風も無いのにテアの銀髪がふわりと浮き上がったように見えた。

 

「ルックナー中将の趣味はテアも知っているだろう! 私が以前から親交があってだな……」

「言い訳無用」

 

 飛びつくテア、逃げるヴィルヘルミーナ。その二人の喧噪の間を、優雅な弦楽四重奏が埋めていく。

 

 パーティーは未だ幕を開けたばかりだった。

 

 

 

 




……はい、短い感じですが、パーティー開催です。

とんでもなく濃い方が登場しました。なんでこの作品は妙齢の女性ばかり増えていくのか分らないのですが、もう気にせず突っ込みます。

次回 まだまだ続くよ宴の夜は
ということで次回もどうぞよろしくお願いします。


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ケートーは嘯く

 

 

 

 冬に近づいたドイツは、少し肌寒かった。アルコールで火照った体なら気持ち良いのかもしれないが、未成年の岬明乃はソフトドリンクしか呑んでいないわけで、夜のそよ風が体温を奪っていく。それもあってか、明乃は目の前のフローレンツィア・ゲルテ・フォン・ルックナー中将をただじっと見るしかできなかった。

 

「そんなに身構えないで頂戴。別に貴女を盗って喰おうなってつもりはないわ」

「はあ……」

 

 軽く上気したルックナー中将の頬を窓越しのシャンデリアが仄明るく照らす。バルコニーの扉は開いているが、一歩外に出るだけで、音もかなり少なくなる。なぜかヴィルヘルミーナの声が賑やかだ。『儂が悪かった』とか『許してくれテア』とか聞こえ、どういう状況なのかとても気になるが、振り返って確認ができない。バルコニーに拵えられた石造りの手すりにルックナー中将は背中を預けた。左手に収まる白ワインのグラスが緩やかに揺れる。

 

「それで……なんでわざわざ外に……」

「この気温なら他の人もあまり来ないでしょうし、ずっと話し込むこともないでしょうからね。……一度貴女とは話してみたかったの」

 

 その言葉はさっきも聞いた。どうやら本当に話があるらしい。どんな話だろうと思案する。初対面だし、単純になにをしていたのかを知りたいのだろうか……、もしくは

 

「貴女……今、無理してないかしら」

 

 その言葉で頭の中が真っ白になった。いきなり背中に氷の塊を突っ込まれたような気分になる。

 

「……えっと、その」

「その反応は、当たりかしらね」

 

 当たってはほしくなかったんだけど、とルックナー中将はワイングラスを煽る。

 

「どうして……」

「一五歳になったばかりで、英雄なんて呼ばれて、そのプレッシャーが重くないわけないもの。小さな英雄さん?」

 

 ルックナー中将は笑った。それを半ば呆然と明乃は眺める。

 

「君はまだ幼い。そして幼くていい時期なんだけどねぇ。でも国も世界も待ってはくれないわけだ。一五歳、それも我が祖国になんの関わりもなかった少女を救国の英雄に仕立て上げ、あまつさえ功労騎士として男爵の位を授けるなど、祖国も落ちぶれてしまった。我が国の生徒すら他国に頼らねば守れないなんて」

 

 ルックナー中将は視線を外し、テラスの外を見る。海に向かうこのテラスからは、暗く沈んだ晴風が見えた。

 

「ルックナー中将は……重くないですか?」

「それは勲章がかい? それとも英雄としての責務がかい?」

 

 明乃の問いに問いで返したルックナー中将は明乃に手招きした。近くに寄ると、ルックナー中将は微笑んでみせた。

 

「勲章は重くない。これは過去の証明だからね。勲章はいつだって過去のものだから負担に思うことはないよ。だけどやっかいなことに勲章に期待する人が多いことが嫌になるけどね。まるで教皇の勅書みたいに思っている人間の多いことに本当に辟易する。そして我々人魚は勲章によって責務は変わらないということをわかってない人間の多さも理解しがたいよ」

 

 ルックナー中将は少しオーバーに肩をすくめてみせた。

 

「海に生き、海を守り、海を征く。海上の安全を守ることこそ、我々の責務であり、それを遂行することこそ我々の義務だ。それは水兵も将官もひよっこも英雄も関係なく平等に課せられた義務なんだよ。我々勲章持ちはその義務が表面上に現われやすいけどね。そこを勘違いしていないかい?」

 

 そう言われ、考え込む。できるだけいつも通りを意識していた。

 

「……勘違い、なんでしょうか」

 

 そう明乃が呟くと、ルックナー中将は辛抱強く続きを待った。

 

「RATt連続テロ事件が終わってから、周りの私を見る目が変わったんです。晴風のクルーはいつも通り接してくれますけど、他の船の人は『あの』晴風って言うし、私の事を『あの』晴風の艦長って言うんです。怖がられているような、頼られているような……そんな、変な目で見るんです」

 

 明乃の視線が落ちる。ヴィルヘルムスハーフェンの港は良港と言われるだけあって、桟橋に横付けされた晴風は揺れることなくぴたりと静止していた。

 

「中学の同級生に会っても、みんな呼び捨てだったのに、いつの間にかさん付けになってるし、地元に帰るとこの街の英雄みたいな言われ方をするし、なぜか市長さんから表彰されるし、いつの間にか名誉市民とか肩書きまでついてくるし……ちっちゃい子ぐらいしか、色眼鏡無しじゃ見てくれなくなって……」

「目先の利益に目がくらむ人には、君が金の成る木にしか見えないのだろうさ。捨て置いていんだよそんな人たちは。人の価値は勲章の数や札束の数ではないというのに、わかってない人が多いものだ」

 

 ルックナー中将はそう言ってわずかに残っていた白ワインを飲み干した。

 

「英雄っていうのは、理不尽で、孤独なものさ。そして英雄は、本人が望む望まぬ関係なく、否応無しに押しつけられるものだ。その英雄もただの人なんだっていうのを忘れがちだ。周りも、自分自身も、ね」

 

 そう言って空のグラスを静かに月明かりにかざした。ガラスの中を水滴がゆっくりと落ちていく。

 

「……少しばかり、昔話を聞いてくれるかい?」

 

 ルックナー中将は優しく微笑んで、明乃の方を見た。月の光のせいで、アッシュグレーの髪が銀色に光って見える。改めて綺麗な人だと思った。ゆっくりと頷く。

 

「私が艦隊の指揮をはじめて執ったのは、一八年前だったから君が生まれる前になるのか。地中海海上テロ防止作戦『オペレーション・アクティブ・エンデバー』に参加するフリゲート艦の艦長をしていてね。旗艦が原因不明の爆発により爆沈した結果、序列第二位になっていた私の艦が代行して指揮をとり帰還した。その帰還途中にたまたま戦果を上げてしまってね、そこから一気に祭り上げが始まった。私はラッキーだったから生き残り、たまたま作戦が的中した。それだけだったよ」

 

 それでも、周りは関係なかった。といってルックナー中将は肩をすくめた。

 

「私はブルーマーメイドであり、軍人だ」

「軍人……」

「あぁ、日本は海軍がないんだったね。我が国では非常時にブルーマーメイド艦船を海軍に組み込む都合上、軍人として扱われている。日本式の『ブルーマーメイドは戦争をしないから女性』という理想をとうの昔に捨ててしまった結果さ」

 

 そう言ってルックナー中将は袖の階級章を撫でた。

 

「それでも私にとってはいいことだった。わたしは我が国の公僕として、この血と命をかけて国民の盾になることを誓い、前線に立った。そこに海軍も人魚も関係ない。私は……誰かを守れる存在でいたい。自分でも誰かを救えると信じていたい。私の献身が、私の命が、決して無駄ではなかったと、私はここにいていい人間だと思っていたい。……それだけで私は戦い続け、勝ち続けたんだ。たくさんの人を犠牲にしながらね」

「でも中将は……たくさんの部下を生きて返したと……」

 

 それを聞いてうなずく中将。

 

「あぁ、部下の命だけは守ってきた。任務期間中に死なせてしまった部下は三人、戦闘での死者は一人だった。それはとても驚異的らしいが、私にはよく分らない。私はこの戦い方しか知らないが、その一人の部下を失ったときは、回復にしばらくの時間が必要だった。そのとき初めて、私は青年将校から大人の将校になれた気がする」

 

 ルックナー中将はそう言って自分の掌を覗き込んだ。

 

「昔の私を間違いだとは今の私も思わない。だけれども、それだけが正義ではない。国家の盾になるだけが私ではない。それでもそれを受け入れることは到底できなかった」

 

 握り込まれる拳。その手は歴戦の将校とは思えなかった。正装の白手袋の上からでもわかるほどほっそりとしていた指が、小さく震えていた。

 

「私が勝手に師と思っている人がいてね。その人は『失いたくないものを見つけて初めて少年は青年になり、失い絶望し、それを乗り越えて初めて青年は大人になる』って言っていた。……残酷だと思ったけど、私にとっては確かに真理(ジンテーゼ)だった。折れて初めて、私は大人になった気がした」

 

 ルックナー中将はそう言って明乃の方を見た。

 

「苦痛は少ない方がいい。だけど、それをちゃんと悲しめて、苦しめる人にならないと大人にはなれないんだ。君は私より早く大人になるかもしれないね」

 

 そう言ってルックナー中将は手の力をふっと抜き、ゆっくりと開いた。

 

「君の可能性は広い。まだそれを決める必要もない。君は自由でいいんだ。それを知っておきなさい。周りは君に英雄を見出すかもしれない。そしてそれに絶望するかもしれない。そして君は大人にむりやりさせられるかもしれない。でもはっきりと言えることは『英雄でも世界を救うことなんてできない』ってことだよ。だから何かが間違っても、全部を背負う必要は無い。忘れないでね」

 

 明乃はそれを黙って聞いていた。ルックナー中将は不意に声を上げて笑った。

 

「あーあ、辛気くさくなっちゃった。ごめんね、こんな話しちゃって。英雄にされちゃった者同士どこかシンパシーを感じちゃってさ」

「いえ、大丈夫です。……その人って、大切な人だったんですか?」

「その人……あぁ、死なせちゃった人か。薄情な事に、生きている間の顔をあまり覚えていないんだ。兵長でね。訓示の時ぐらいしか顔を合わせていなかった。二年前の西太平洋経済協力会議に出席した要人の護衛として同行していた。テロリストの攻撃の盾になって死んだらしい。遺影と名前は忘れまいと必死に頭に叩き込んだ。それだけだ」

 

 ルックナー中将は空のグラスを持ったままじっとしていた。

 

「……私は」

「うん?」

 

 明乃が口を開くと、ルックナー中将が明乃の方を見た。

 

「人を傷つけてしまったことがあります」

「そう」

「アドミラル・シュペーを助けるとき、私を護って教官は被弾しています。武蔵を止めた時にも、私を護って海に落ちました。今も杖が手放せないそうです」

「そうなんだ」

 

 明乃は必死に言葉を選ぶ。なんとなく、なんとなくだが、この人なら分ってくれるような気がした。

 

「教官はそれでもいいって言っています。後悔もしていないと言っています。そこまで背負う必要がないと言ってくれます。だけど私は、あの人の言葉を振り切ることができないんです」

「……本当に大切にされてきたのね、その教官に」

「え?」

 

 明乃はその言葉に視線を上げるとルックナー中将は明乃の頭に手を乗せた。

 

「大切にされて、大切にして。……あなた、その教官のこと大好きでしょ」

「へっ、えっ!?」

 

 一気に顔が茹だつのが自分でもわかる。慌てて飛び退いて距離を取った。ルックナー中将はどこか名残越しそう。

 

「そ、そんなことな……んて」

「顔をトマトにして何を言うんだかお嬢さん(フロイライン)

 

 あっけらかんと笑って見せた彼女は、空中に残された手をゆっくりと下ろして空を見上げた。満月がゆっくりと上っていくところだった。

 

「普通の好きかどうかは分らないし、その教官への好きはきっと上官として好ましいとか目標になるとか、そういう信頼なんだとは思うけど、その思いは大切だと思うよ。きっと教官(かのじょ)もあなたを大切にしてたのね」

「えっと……その教官、彼女じゃなくて……彼なんですけど……」

 

 そういった瞬間、ルックナー中将の目がきらりと輝いた。

 

「……ははーん、そういうこと。悪いこと言わないから、生徒を誑かす教員なんてクソ野郎には見切りをつけて捨て置きなさい」

「なんだかさっき言ったことを矛盾してませんかっ!?」

 

 明乃がその変わり身の早さに驚きそう声を上げると、アルコールの香りをふわりと香らせながらルックナー中将が至近距離に飛び込んできた。

 

「矛盾なんてしてないわ、艦長さん。あなたはまだ幼い。幼くていい時期にある人。そんな異性の子に近づかんとする男なんてろくなもんじゃないわ」

 

 そういってしだれかかる中将。明乃は確信する。

 

「あの、ルックナー中将……? もしかしなくても、酔ってませんか?」

「まっさかー、アルコールには強い方よ、ぬくぬくねーあなたの体温」

「え、ま……ちょっ!」

 

 ルックナー中将の冷えた手が首筋を走る。背筋が別の意味でぞわぞわする。

 

「オホン」

 

 咳払いの音。救いの神がきたかと弾かれるように振り返れば、セーラー服に身を包み、副官飾緒を提げた宗谷ましろが立っていた。

 

「うちの艦長に勝手に唾をつけられても困ります」

「しろちゃん!」

 

 力が弱まったのを見て、明乃がましろの後ろに飛び込む。ましろの肩越しに中将の方を見る明乃をみて、件のルックナー中将は笑みを浮かべた。

 

「あーあ、その様子を見るとそっちが本妻(フラウ)か」

お嬢さん(フラウ)とはなんですか、私は上官の姿が見当たらないので探しに来ただけですが」

 

 不信感丸出しでそういうましろ。相手のドイツ語にはつきあわず、英語でそういった。クスリと笑ってルックナー中将も英語に切り替える。

 

「艦長さん大丈夫よー、怖いことしないからー、戻っておいでー」

「あの……えっと」

「艦長は黙ってて大丈夫です」

「えー、副長君がいじめる。なら副長くん、中将の命令でそこをどきなさい」

「命令系統が異なるため承服できかねます」

「なら、治安維持のため致し方なくということで……」

「あーもう!」

 

 後半から額に浮かぶ青筋の数が増えてきたましろがついに声を荒げた。

 

「とりあえずですね、私の艦長をいじめるのはやめてくださいと言っているんです!」

 

 そう言うとルックナー中将が口笛を吹いた。

 

「マイ・キャプテンだって、想われてるねぇミサキ艦長」

「 だ か ら ! 」

 

 怒髪天を衝くという雰囲気でましろが詰め寄らんとしたタイミングで、その肩をぽんと叩かれた。そこに立っていたのは小柄な女性だった。真っ白な髪に深いしわ、丸い眼鏡を光らせてニコニコと笑うその女性はとても柔和な空気を纏っていた。ブルーマーメイドの制服に身を包んだ彼女の袖の階級線を確認した明乃とましろが慌てて飛び退いて敬礼。

 

「失礼いたしました! 大将閣下!」

「気にしないでおくれ、若い子達の場に迷い込んでしまっただけだからの。そしてルックナー、さすがにオイタが過ぎますよ。高血圧と過度な飲酒は体に毒です」

「貴女には言われたくないですー、連邦統合軍総監殿」

「総監っ!?」

 

 ましろが目をむく。連邦統合軍総監と言えばブルーマーメイドはおろかドイツ国防軍も含めた武力行動を行なう全ての組織を統括する役職だ。ということはかるく背を曲げて微笑むこの人の階級は大将ではなく。

 

「申し遅れましたね。ようこそドイツ国へ。私はディートリンデ・ヴェラースホフ上級大将。改めてドイツ国を代表し晴風ほか日本国横須賀女子海洋学校学徒艦隊の来航を歓迎申し上げます。そして同時にルックナー中将の痴態をお詫び申し上げます」

「痴態とは失礼ですよー、上級大将ぉ」

「ルックナー」

 

 名前を呼ぶだけで、酔っ払ったルックナー中将が黙り込む。

 

「楽にしておくれ。同じ七つの海を護ってきた仲間で、ここでは船乗りとしての敬意で十分。本当はこられるはずではなかったのが、いとまを得られたので、新しい騎士団の仲間の介添人としても一度顔を合わせたくて来ちゃったわ。はじめまして、岬明乃男爵。明日はよろしくね。私が国王に引き合わせることになるから」

「は、はいっ! よろしくお願いします!」

 

 明乃はそう言って頭を垂れる。

 

「あぁ、いい。顔を上げなさい。今日は元から挨拶だけのつもりで、これでおいとましますが……」

 

 そう言って明乃に顔を上げさせた上級大将は笑みを浮かべ、明乃の横を通り過ぎる直前に足を止めた。

 

「海軍にはお気をつけなさい。あなたの艦隊を利用して良からぬことを企てている気配がある」

 

 その一瞬だけ、目の色が変わっていた。明乃はそれに敬礼で答える。

 

「よろしい。では明日。ぜひゆっくりとお茶でもしながら打ち合わせをしましょう」

「はい、ありがとうございます」

 

 優雅に会釈をするようにして、上級大将はゆっくりと去って行く。明乃とましろがため息。

 

「さぁ、さすがに冷えてきたし、上級大将にも釘を刺されたからそろそろ中に入るかな」

 

 ルックナー中将もそう言って中に入っていく。ましろは未だ胡乱な目だ。

 

(海軍に気をつけろ、か……)

 

 明乃はその言葉を噛みしめ、もう一度だけ窓の外の晴風を眺め、中に戻った。

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

「ルックナー」

 

 名字を呼ばれ、ルックナー中将は上気した頬をもてあましたまま振り返る。上官にあたる人物が手招きして、パーティー会場から離脱するようだった。小走りでそこに合流するルックナー中将。

 

「なんでしょう、上級大将」

 

「若すぎる英雄は貴女にはどう写ったかしら?」

 

 そう言ったディートリンゲ・ヴェラースホフ上級大将の目は冷え込んでいた。

 

「すごくいいと思いますよ。使えます」

「それはどういう意味で?」

「とてもキュートだということです。小動物系で、抱きしめたら体温高そうですし、冷房効かせた部屋でしっぽりむふふといきたいものです」

「ルックナー」

 

 あんまりな答えに上級大将が頭を抱えた。暗にお前の趣味は聞いてないといいながら、手の隙間からルックナー中将を睨む。

 

「能力はまだなんとも、だけど精神は年相応ですね。周囲のサポート体制はありそうなので、ある程度は耐えられると思いますが……海軍に気をつけろ、でしたか?」

 

 それにはため息で返し、外に待たせていた、軍用車両に乗り込んでいく上級大将。ルックナー中将もそれに続き、白く色が乗る革張りの座席に体を預ける。

 

「どうもいけ好かない噂が流れてきたのよ」

「海軍から?」

「えぇ、セントルシアはわかるかしら」

 

 動き出した車の薄暗い窓越しにホテルの明かりを見ながら、上級大将は端的に問いかけた。

 

「確かごく最近、クーデターでぼろぼろになった国でしたか。それが晴風に関係すると?」

「与太話のレベルだと思って頂戴」

 

 それは暗に肯定する言葉だ。ルックナー中将はため息をつく。

 

「治安維持の出動要請にかこつけて晴風を投入し、わが国の貴重な貴族を危険にさらすわけにはということで武力介入を行なう算段ですか。セントルシアは英国連邦に加盟する国家ですし、わが国が係わると英国連邦を敵に回しかねませんが」

「そもそも晴風は日本の管轄で、晴風航洋艦長は日本の英雄よ。私達が口を出すことはできない以上、海軍の品のない冗談だと思いたいわね。……海軍の高官に次々と日本人が接触しているらしいとの情報も上がっているの」

 

 それを聞いてルックナー中将は背を座席に預けた。

 

「海軍が暴走して火種を抱え込むのも気にくわないですし、それが日本の差し金なら尚更というわけですか」

「形骸化しているドイツ鉄血騎士団への入団も気になるところだけれど、勲章を与えたから死地に飛び込めと言わんばかりの空気になっている。……ルックナー」

「はっ」

 

 上級大将が名前を呼ぶ。

 

「万が一の時は貴女に動いてもらうわ。大西洋の安寧を、我々が護らねばならない」

「そうせよとご命令ください。かくあれかしとご覧に入れましょう」

「心強いわ。貴女の趣味はともかくとして、その腕は期待しているもの」

「ご安心を、妙齢の女性には敬意しか感じませんから」

「……前言撤回して憲兵隊に突き出してあげようかしら」

 

 車は走る。そのテールランプは夜闇に溶けて消え去った。




……いかがでしたでしょうか。とりあえずここで新キャララッシュは終わりだとは思います。ゆっくりと舞台は大西洋へとシフトしていきます。

次回 招かれざる幸運 招かれた来客
それでは次回もどうぞよろしくお願いします。


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アレトゥーサへの伝言

 

 

 

「さすがは海軍さんのホテル、格が違う」

 

 そう言って唸るのは腕を組んで部屋を見回していた納沙幸子である。同室に割り当てられた等松美海が荷物を整理しながら笑う。

 

「ココちゃん、ホテルの格なんてわかるの?」

「ぜんぜんわからん」

「だと思った。でもなんていうか、ゴージャスなのはあるよね」

 

 美海はそう言ってホテル備え付けのバスローブに袖を通していた。今は歓迎の立食パーティーが終わって、久々の(おか)での休息に入れるタイミング。艦には当直で各科から一人ずつは残しているものの、残りの大多数は敷地内にある官営ホテルにそのまま宿泊となった。

 

「あー、ベッドふかふかー。疲れが吸い取られそー」

 

 美海がそう言ってベッドに倒れ込むとバフンという音と共にベッドの毛布が舞い上がる。

 

「シャワーしかないのは玉に瑕だけど、このベッドがあるならいいかー。シャワーは浴び放題だし」

「水の制限がないのはホント助かりますー。真水だとべたつかないから……」

「あの塩風呂も体が温まっていいんだけどねー」

 

 幸子もベッドに横になるとそのままの姿勢でタブレットをいじり始めた。

 

「まーた見てる。なんか面白い情報ありました?」

「なーんも、ドイツ語のニュースをかるくザッピングしてますけど、あるのは難民受け入れがどうこうとか、セントルシアの革命がどうこうとか、暗い話ばっかりですねぇ」

「ドイツも大変なんだねー。……日本も言えた事じゃないのかもだけど」

「日本は難民を受け入れる国じゃなくて、難民を産み出してきた国ですしね。ベクトルが違いますよ」

「……なんか私達、知的な会話してる?」

 

 美海の言いぐさに幸子がクスリと笑う。

 

「ならもっと続けます?」

「いや……いいわ。マッチについて語ってたほうがよほど生産的だわ」

「それはどうなんでしょう……」

 

 幸子が苦笑いを浮かべたタイミングでタブレットに通知が飛び込む。晴風クルーの連絡に使っているグループチャットの通知だ。音だけ聞いた美海が幸子の方を見る。

 

「誰から?」

「マロンちゃんですねー、『イケナイ階段上りたい人以外は来ないでください。そうじゃない人は1120号室集合っ! byレオ』だそうですよ」

「なにそのスパムメールみたいな文面」

 

 おそらく機関科の若狭麗緒が機関科長の柳原麻侖の端末を拝借し打ち込んだらしい。

 

「1120というと……」

「二つ隣ですね-。美海ちゃんはどうします? 行ってみます?」

「まぁ暇だしね……。くだらなかったら戻ってくればいいわけだし。ココちゃんは?」

「そういう感じならお邪魔してみますかねー。まだ眠くないですし」

 

 よいしょ、といいながらベッドから体を起こす幸子。とりあえず貴重品を携帯し、部屋の鍵を持つ。美海はバスローブからジャージに手早く着替える。

 

「さーて、何が出てくるのかしらね……少し楽しみだわ」

 

 美海と幸子がなんだかんだ言いつつも期待に胸を膨らませて部屋を出て行く。

 

 

 

――――そしてその三分後、ものの見事にその期待を破られることになる。

 

 

 

「良く来たココ、金を出せ」

「レオちゃんなんで開口一番に真顔でタカリに入っているんですか」

 

 部屋に入るとすでに四人用の部屋はかなりの人が駆けつけていた。麗緒をはじめとしておっとりとした雰囲気の伊勢桜良、赤い髪留めを揺らす広田空、どこかとぼけた笑みを浮かべる駿河瑠奈の機関科仲良し四人組の部屋のはずだが、アルコールでも入れたのかと疑いたいぐらいハイテンションな柳原麻侖、ポテトチップスをもりもり食べている航海員の勝田聡子、ナイトキャップまで被って完全に寝る体勢だったなとわかる宇田恵と部屋でダウジングでも始めようとしているのか針金をいじり倒している八木鶫の電信電測コンビ。晴風の水雷を握る松永理都子と姫路果代子のボーリングペア、最年少一三歳の天才医師の鏑木美波まで入れば部屋は既に一杯だった。

 

「それで、なんでいきなりタカリが入るんですか。お金なら皆さん持ってるはずです」

 

 幸子が部屋を見回してからそういえば聡子が大笑いだ。

 

「いや、ジンバブエドルまで持ってたココちゃんならユーロくらい持ってるかなって話だったぞな」

「なんでユーロの話に……艦内決済につかうクレジットカードがあればここでも使えるはずじゃ……」

 

 幸子の言うことは基本的に正しいはずだ。横須賀女子海洋学校の生徒は当然学生ではあるものの、同時に海上安全整備局を抱える国土交通省の特別職国家公務員として登録されている。それは晴風クルー全員が公務員としての給料をもらっていることを意味する。晴風艦内での現金の取り扱いが基本的にできないこともあり、全員の学生証にクレジットカード機能が付与されているため、それがあればキャッシュレスで買い物が可能なはずなのだ。

 

「今回ばかりは足をつけたくねぇ。と言うわけで現金が必要なわけだが、ココは持ってないのか、五ユーロでいいんだ」

 

 手をワキワキさせながら麻侖が近づいてくる。幸子は一歩下がりながら彼女の様子を眺める。

 

「それぐらいならありますけど……何に使うんですか……?」

 

 犯罪行為の片棒を担ぐ気はないですよ。といいながら財布をそれとなく遠ざける。

 

「別にそれでヤバい物を買おうとかそういうことじゃねぇ……じゃねぇよな?」

「何でそこで不安そうになるんですかマロンちゃん」

 

 後方の人員が頷くのを確認する麻侖に幸子はため息。

 

「あーもうまどろっこしい! 要はそこのテレビを見たいんだよ!」

「テレビ? テレビなら普通に……」

 

 美海がベッドのリモコンをつかみ、壁につり下げられた薄型テレビに向ける。あっという間にテレビがともり、トークショウのような番組が流れ始めた。

 

「だー! そういうことじゃなくてだな!」

 

 しびれを切らしたように麻侖がデスクからラミネートされた紙を手に取り、幸子の目の前に突きつけた。

 

「こ、これって……」

 

 改めて確認するまでもないが、ここは海軍の持っているホテル。ブルーマーメイドのみならず、海軍の人間も使う部屋だ。当然男性が宿泊することも考慮されている。当然、そういう軍属の若い殿方向けのサービスも存在するわけで。

 幸子に突きつけられた紙はやたらと暖色系の装飾がうるさい、そういうサービスの案内だった。

 

「有料の、成人向けチャンネル……!?」

 

 幸子たちが泊まっていた部屋にはたしかこの案内はなかった。おそらく未成年が宿泊することを考慮し、ホテル側が撤去したらしい。この部屋だけにあるのは、おそらく回収を忘れたかららしい。やたらとグラマラスな肌色のオンパレードに幸子の顔がみるみるうちに赤くなる。既に美海はゆでだこになってダウン済みだ。

 

「ま、まさか見るつもりですか……!?」

「こういうときぐらいしかタイミングないしなぁ……この一部だけ残っていたのはおそらく見ろという神様の思し召し……!」

「こういうときだけ都合のいい神様が出てきますねマロンちゃん」

 

 そういいつつゆっくりと距離をとる幸子。その距離をぐいぐいと詰めていく麻侖。

 

「さぁ、ビデオカードを買うためのお金を出しませぃ。皆で折半して返す」

 

 確かにこれを学生証のクレジットカード機能で購入する人はいないだろう。そんなことをすればあっという間に学校側に通知が行く。ホテルでアダルティな映像を見たため処分というのはさすがにあんまりだ。

 

「来いよベネット(ココット)、理性なんて捨ててかかってこい」

 

 後ろから副音声でそんなことを言う麗緒。ニヤニヤ顔でこう言われては幸子の芸人魂がうずいてしまい、自滅すると分っていても売り言葉に買い言葉をかけてしまう。

 

「……テメェなんざ怖くねぇ!」

 

 幸子、財布を召還。やんややんやの大歓声。

 

「ヤロォブクラッシャァァァァアアアアアアアアッ!」

 

 

 

 

 

「……で?」

「とても反省してます。はい。反省してますとも」

 

 絶対零度の視線で正座した当事者全員を見下ろす宗谷ましろ副長。あまりに盛り上がりが激しいので態々クレームを入れにいったところ、例の事件を見てしまったのだ。

 

「私達は今、ドイツに横須賀女子海洋学校の代表として寄港している身だ。日本の看板を背負っているに等しいことは重々承知しているはずだな?」

「はい……」

 

 きっちりとまとめたポニーテールを揺らし、凜とした面持ちで、副長としての口調で話すましろ。皆がそれに気圧されたように視線を落しているが、一番の理由は目を合わせると笑いそうになるからだ。

 

「(りっちゃん、あのネグリジェ、私物なのかな……)」

「(ぴんくのウサギさんって……ぴんくのウサギさんって……!)」

「松永、姫路、私語を許したつもりはないが?」

「「ごめんなさいっ!」」

 

 目を三角にしてそういうましろにあわてて背筋を伸ばす果代子と理都子。その時に思いっきりましろを真正面から見てしまい、慌てて笑いをこらえる。とてつもなくファンシーな雰囲気の丸っこいウサギのデフォルメキャラがあしらわれたゆったりデザインのワンピース。窮屈にはならない程度であるが腰のあたりがわずかに絞られているのがせめてもの女性らしさを醸し出さんとしている。それを凜々しく整った顔立ちが引き立てているのだが、すべて柄でぶちこわしである。それで凄まれても迫力に欠けるというのが実際のところだ。

 

「……そうかそうか、そんなにもっと怒られたいか」

 

 笑いをこらえる面々に青筋をいくつも浮かべながらましろがそういう。周りが慌てて止めに掛かる。

 

 晴風クルーの夜は長い。

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

「……ということがあった。盛り上がったけど、思ったより面白くなかったねということで意見の一致をみた」

《なんでそれを態々私に国際電話を掛けてまで報告してくるんだ》

 

 電話の向こうからため息が聞こえる。おそらく日本は朝七時ごろ、この時間なら電話に出るだろうと踏んで通話をかけるとすぐに繋がった。

 

「ひと月ぶりの電話、娘からの電話は嬉しくない? パパ上」

《パパ上はやめろ、美波》

「なら教官でいい?」

《教官じゃないっての》

「そう……だね、うん。そうだ」

 

 鏑木美波はそう言って少し笑う。電話の向こうの男は困り顔を浮かべているだろうか。

 

《……異性の元教え子が成人向けコンテンツ鑑賞パーティーで大盛り上がりなんて話を聞かされるこちらの身にもなってくれ頼むから。朝っぱらからテンションが下がる》

「でも他に話題もなくて」

《嘘つけ、フリーデブルグさんは元気にしてたのかとかいろいろあるだろ》

 

 最近の彼は少しフランクになった。彼がこの船にいたときにどれだけ自分を縛っていたのだろうと、美波は思う。

 

「日本はもう寒い?」

《もう12月だからな。太平洋側は乾燥がひどい。喉がやられそうだ》

「加湿器使ってる? あとちゃんとご飯は食べてる?」

《母親か君は。ちゃんと夜は加湿器入れて寝てるし、ご飯も三食しっかり食べてるよ。おかげで少し体重が増えた。君が戻る前に減量しなきゃな》

 

 そう言って笑った気配。その優しさに美波は少し胸の奥が痛くなる。携帯電話を握りしめたまま、ベッドに横になった。

 

《富良野の方は雪が降ったらしい。ビニールハウスの撤収はかなりぎりぎりになったが間に合ったとほっとしていたよ。あと週に一回は『美波ちゃんはどうしたんだ。次はいつ帰ってくる?』って電話が掛かってくる。メールの一本でも入れてやってくれると助かる》

 

 夏休みに教官の実家にお邪魔した時から、結構気に掛けてもらっている。それに笑みが浮かぶ。なんだかんだ言って恵まれている。

 

「わかった。写真も添付して送っとく。綺麗な朝焼けが見られたときのとっておきがある」

《そうしてくれ、仕事中に駆けてこられてもかなわん》

「仕事、大変?」

《苦労のない仕事はないと思うけどな》

 

 そう言って笑う電話の向こう。そういう答えを聞きたいわけではなかったが、きっと答えてくれないだろう。半年くらいこの問答を続けている。答えはきっと返ってこない。

 

「柳教官」

《もう教官じゃないんだが、どうした》

「お願いがある」

《言ってみろ。叶えられるかどうかは聞いてから考える》

 

 だからせめて、笑っていられるように、私がなんとかしないと。

 

「晴風の艦内風紀が心配。いい性教育用の教材が必要」

 

 電話の向こうで咳き込む音。無視して続ける。

 

「間違った性知識が広がりそう。ここらで締め直す必要がある。だからリストがほしい」

《今更その話に戻すか!? だからそれを俺に言うな俺に! 手配なら高峰教官がいるだろう! そっちに頼めっ! 俺が本屋で生徒向けの性教育の本を漁るとでも思ってるのかバカタレっ!》

「でも艦内医の責任として、感染症対策やそういうサポートをする義務がある」

《いくら腕がいいとはいえ、()()()()相談を一三歳にはしないだろ。性教育の講義を一三歳が実施するとか前代未聞すぎるぞ。それこそそういうのはそっちの教官勢に頼め》

 

 もうこの話やめやめ、と先に話を畳まれた。これで腹の探り合いのような空気は払拭できたからよしとしよう。

 

「でもよかった、元気そうで」

《そっちもだ。なにかあったら掛けてこい。できる限りのサポートはする》

「信じてる」

《おう》

 

 晴風にはいくつもの守護天使がついている、と美波は思う。電話の向こうの彼、柳昴三(こうぞう)もその一人だ。

 

「それじゃ、また」

《……美波》

 

 電話を切ろうとしたら、向こうの彼が真剣な声のトーンで呼びかけてきた。

 

《死ぬなよ》

「……言えないこと?」

 

 それに対する答えはない。でもこれが答えだ。

 

「それじゃ、今度こそ、また」

《あぁ、またな》

 

 電話が切れた。ため息を一つ。

 

「死ぬな、か……」

 

 天井に向けて手を伸ばし、間接照明の光をつかもうとする。

 

 

「死なないよ、教官。晴風は、死なない」

 

 

 光をつかむように拳を作り、美波は確かにそういった。

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

「愛娘との通話は終わりましたか?」

「出してくれ。あと愛娘ではない、ただの未成年後見人だ」

「ご冗談を」

「こんなに笑えないジョークがあるなら聞いてみたいものだよ」

 

 彼はスーツの襟元を正してそういった。右手でポケットにスマートフォンをしまい、左手で煙草をふり出して口にくわえた。

 

「それで、本屋には寄りますか? 教育参考書の品揃えが豊富な書店には心当たりがありますが」

「お前まで茶化すな平沼」

 

 運転手にそう言って煙草に火をつける。車の中は静かだ。その煙がゆるゆると窓の外に吸い出されていく。

 

「行き先は霞ヶ関でよろしいので?」

「内務大臣政務官直々の呼び出しだ。待たせるわけにもいくまいよ」

「ですね。動けるときに動いておかないと我々の首も切られかねません」

 

 運転手は軽くそう言って笑って見せた。彼は苦笑いだ。

 

「事態が動かない事を願うばかりだな」

「えぇ、ですが今のところは大丈夫でしょう。カリブの海はまだ遠いですから」

 

 彼は――――柳昴三は目を閉じる。

 

 

「ケイローン計画、ふざけた名前だよ、まったく」

 

 




……いかがでしたでしょうか。とりあえずごめんなさい。ホテルだとこういう話題あるよね、みたいな感じでした。そのときの晴風クルーたちの反応はご想像にお任せします。

さて、次回からいよいよ本格的に動き始めます。さーて、すでに風呂敷がかなり広がってるぞ……

次回 海と我が家族
それでは次回もどうぞよろしくお願いします。


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オーレイテュイアは寒心する

 

 

「つ、疲れた……」

「お帰りなさい、ミケちゃん大丈夫?」

「だいじょばない……」

 

 へろへろという擬音がぴったりな様子で、岬明乃が晴風に戻ってきたのは既に二三時をまわったタイミングだった。ずっと正装での行動を強いられていたこともあり、だいぶ振る舞いが板についてきた明乃だったが、大分参ってるようだった。黒の外套を腕にかけ、黒いトランクとなにやら長い箱を抱えてラッタルを上る彼女の姿を見て、舷側まで迎えに来た今日の当直担当士官の西崎芽依が苦笑いだ。

 

「ミカンちゃんたちがどら焼き焼いてたから、食堂にでも行こう?」

「どら焼きたべる……食べる……」

「だーめだこりゃ、死ぬほど疲れてる」

 

 芽依がトランクを半ば奪うようにして持った芽依はそのまま明乃の背中を押していく。

 

「それでどうだったのベルリンは」

「すごい人だったし、列車に乗りっぱなしでおしりが痛いし、ドイツの王様に会うとか緊張しっぱなしだし……」

「こういう時の肝っ玉は小さいよね、うちの艦長は」

 

 芽依に言いたい放題言われながら食堂まで連れてこられる。珍しく消灯されていないらしく、明かりがともっていた。

 

「はーい、艦長さんのお帰りだよっと」

 

 おかえりなさーい、と言う声が響く。食堂兼教室兼休憩室となっている部屋に入るとそこではトランプに興じる当直組、砲雷科から水測員の万里小路楓、航海科から航海管制員の片割れの山下秀子、機関科から応急員の和住媛萌、主計科から給養員の杵崎あかねがいた。別のテーブルでは律儀にセーラー服を着ている艦隊付作戦参謀の知名もえかがひらひらと手を振って挨拶をした。

 

「よう、おじゃましとるぞ」

「あれ、ミーちゃんなんで?」

「なんじゃい。おったらいかんのか」

 

 なぜか食堂でサンドイッチをつまんでいるヴィルヘルミーナが笑った。それにつられて明乃は笑う。

 

「艦長、ほっちゃん特製のどら焼きあるよー」

 

 ばば抜きに興じながら、媛萌がそう言ってお皿を差し出した。黒の外套を椅子にかけてそれを受け取った明乃は手近な椅子に座ってそれを頬張る。

 

「はい百円―」

「有料っ? そんなー」

 

 あかねの声に目をうるうるさせてみる明乃。それを見て冗談冗談と手を振って返すあかね。

 

「もー、作った人に許可とらずに商売しないでよ、あかね……あ、艦長おつかれー」

「今帰ったの? おつかれさまー」

「ほっちゃんにみかんちゃんもお疲れ様。……あれ? 当直だっけ?」

 

 明乃が粒あんのどらやきをちびちびと食べながら首を傾げると、美甘が笑って首を横に振った。

 

「ほっちゃんが当直だけど、艦長疲れて帰ってくるだろうしなーって給養員全員でどらやき作ってました。ホテル組の人には内緒ね?」

 

 いたずらっ子ぽく笑ったミカンちゃんに明乃も笑い返す。

 

「ベルリンは楽しかった?」

 

 会話に割り込んできたのはもえかだ。

 

「自由時間がほとんど無くてあんまり見て回れなかったし、お偉いさんだらけで疲れちゃった。もう大変。貴族の仲間入りの証でサーベルもらったけどこれ日本に持って帰ったとき大丈夫かな……」

「その大きな箱、中身サーベルなの?」

 

 いきなり目をきらきらさせて飛び込んでくるのは媛萌だ。カードぐらい片付けてよー、とあかねがぼやいているところを見るとどうやらばば抜きで最下位になったらしい。

 

「ヒメちゃんばば抜き終わったの?」

「みんなポーカーフェイス過ぎてつまんない」

「ヒメさんが顔に出すぎるのでしてー」

「万里小路さんこういうときだけ毒舌―」

 

 媛萌が頬を膨らましてそう言うが、既に興味は明乃の持っている段ボールの中だ。

 

「ね、開けてみていい?」

「まぁ、いいけど……」

 

 段ボールを明乃が開けると段ボールの中から革張りの細長いトランクのような物が出てくる。ドイツの国章入りのバックルを開けば、中から出てきたのは銀細工輝く細身の剣だった。

 

「すごー、ほんとにサーベルだ……初めて見た。と言うことはミケちゃん、アレやられたの? 肩に剣を乗せられて『ナイトに命ずる!』みないなやつ」

「い、一応……」

 

 爵位授与式なんて心臓ばくばくで覚えてないけど、とは言わないでおく。目の前でハイテンションになっている媛萌にはとりあえず盛り上がっておいてもらおう。

 

「舞踏会とかもあったんでしょ?」

 

 そう聞いてきたのは美甘だ。おいしい料理とか出たんだろうな、いいなーと言っているあたり、華より団子である。

 

「踊るので精一杯だったよ。ご飯もあんまり食べられないし、ドイツの人と踊るときはちょっと背伸びしないと身長差がひどくて、男の人も踊りづらそうだった」

「そ、そうなんだ……」

 

 どこか顔を赤くする美甘。ほまれも似たような顔で視線をずらす。ずらした先にいたもえかがどことなく黒いオーラを出しているのを見て慌てて視線を戻した。この艦長、隣でこんなオーラ出されて気づかないのかと思わなくもない。

 

「爵位授与式に、騎士団加盟式、ドイツ国防省への表敬訪問……二泊三日でもタイトだったよ。日本人が珍しいのか、いろんな人がやってくるし、いろんなおじさんとかお兄さんからドイツに住む気は無いのかとか何度も聞かれたし」

「ほんとにお疲れ様だったね……ミケちゃん」

「? もかちゃん?」

 

 がしっという擬音が似合う勢いで明乃の肩をつかむもえか

 

「帰ってくる場所は晴風だからね?」

「? うん」

 

 謎の念押しに明乃が首を傾げる。どこか不安そうな顔でもえかは肩に回した手を解いた。

 

「これでとりあえずはミケちゃんの怒濤の式典ラッシュはおしまい?」

「うん、やっとこれで『女男爵』とか『新男爵』とか呼ばれなくてよくなる」

 

 ホッとした顔でそう言った明乃。それにはもえかも嬉しそうだ。

 

「そうそう、なんか大きな旗もらったんだけど、これどこに仕舞おう。どこかの備品倉庫の一部借りとこうかなって思うんだけど」

 

 明乃がそう言ってトランクを漁るとサーベルに引き続き革のケースがまた出てくる。何個ケースが増えるんだと言いたくなるが、今度はドイツ国章の他に見たことのない紋章がついていた。

 

「これって……?」

「なんだか、私の紋章なんだって、これと同じ物が大聖堂に奉納されてるし、家に帰って飾るといいって渡されたんだけど……」

 

 そう言って広げられた旗は青地の旗だった。銀色の盾を海から飛び上がった姿勢の二匹のイルカが支える図案。銀の盾には錨や三つ叉の槍が描かれている。

 

「なんか……かっこいいね」

「ミケちゃんっぽい……」

「そ、そう……?」

 

 感心しきりの媛萌や美甘の声にどこか困惑しながら明乃がもえかの方を見る。もえかは小さく頷いた。

 

「ミケらしいしっかりとした紋章をもらっとるの」

 

 そう言って図案を後ろから覗き込んだのはヴィルヘルミーナだ。

 

「そうなの?」

「クラウンは七つの枝に真珠、ヘルメットは正面で鉄、盾を護るマントは波しぶきのように裂けた銀と青。これだけで戦闘に参加した経験のある男爵であることがわかる」

 

 正面向きのヘルメットは貴族の特権じゃからの、と言ったヴィルヘルミーナに周りは感心しきりだ。

 

「サポーターにイルカを使うのはかなり珍しいが、ブルーマーメイド関係者に多い図案じゃ。盾の図表に錨や三つ叉の矛が入っているのは海の英雄らしい紋章じゃな」

「まぁ確かに艦長に海の要素なかったら、うん、違和感あるわ」

 

 媛萌が腕を組んでそんなことを言って勝手に納得している。

 

 

「そういえばこれってなんて書いてあるの?」

 

 美甘がそう言って紋章の一番下を指さした。長い帯のような物にアルファベットが刻まれている。

 

「ここにはモットーを刻むんじゃ、たいていフランス語なんじゃが、……これ、ラテン語か?」

 

 ヴィルヘルミーナが顎に手を当てて悩む。どうやら彼女もラテン語までは網羅していないらしい。

 

「マーレ・エト・メイ・ファミリア」

「もかちゃん?」

 

 もえかがさらりと読んでみせたので、明乃達の視線が集まる。

 

「『海と我が家族(MARE ET MEI FAMILIA)』……すごく()()()よ」

「海と我が家族、か……」

「確かにミケちゃん何度も『海の仲間は家族だから!』って叫んでたよね」

 

 美甘にそう言われて顔を赤くする明乃。それを見て皆が微笑む。

 

「たしかに()()()のぅ。ミケ、旗はただの旗じゃ。気負わずにいけよ」

 

 ヴィルヘルミーナはそう言って明乃の肩を叩いた。

 

「そろそろお暇しよう。テアに怒られそうじゃ」

 

 そう言ってヴィルヘルミーナが出て行く。おやすみの挨拶を交わしてそれを見送ってからもえかが笑った。

 

「ヴィルヘルミーナさん、ミケちゃんがちゃんと帰ってくるか心配してたの」

「そうだったんだ、今度お礼言っておかないとなぁ……」

「そうした方がいいかもね」

「うん、そうする。そういえば、私がいない間、晴風は大丈夫だった?」

「大丈夫、マロンちゃんとかがホテルで暴走したけど大丈夫」

「なにがあったの……?」

 

 その問いにはだれもが曖昧な笑みを浮かべていた。後で情報通のココちゃんにでも聞いてみようと決めた明乃だが、一瞬もえかの表情が曇った。

 

「あとこの後の行程に変更が一つ入るかもしれない。ミケちゃんこの後時間大丈夫?」

「うん」

 

 明乃がそう言って立ち上がると、もえかが先導する形で部屋を出る。そのときに明乃が手を振ると、部屋の面々全員が手を振り返してくれた。

 

「危ない話?」

 

 もえかが連れ出すときは、それなりの事情があるときだと明乃は知っていた。もえかは一般のクルーにもかなりの情報をオープンにしている。明乃をわざわざ連れ出した段階で『不確定な情報』を『内密に知らせないと対処ができない可能性を含む』ということはほぼ確定だ。

 

「高峰教官が呼んでる」

「わかった」

 

 もえかの端的な説明に明乃は了解だけを返す。ここでは話せないと言うことらしい。そんなことを思っているとどこか胸の奥がちくりとする気がした。大親友とどこかビジネスライクなやりとりをしていることがさみしいのか。そんな考えを振り払う。そんな思いなど今はノイズだ。教官執務室に入れば、艦長としての対応を求められる。

 

「知名もえか、岬明乃両学生、入室します」

 

 教官執務室の扉をもえかが叩けば、すぐに「どうぞー」と間の抜けた答えが返ってきた。

 

「もえかさんいらっしゃい。そしておかえりなさい、明乃さん」

「ただいま戻りました、高峰教官」

「だから青葉でいいって言ってるじゃないですかー、明乃さん」

 

 鴉の羽のような黒い髪を揺らして高峰青葉が笑った。明乃は改めてこの部屋を見回して、入学当初からかなり様変わりしたと思う。前の持ち主はかなり整然と部屋を整えていたのに対し、今回の持ち主は資料を積み上げる癖があるらしい。大量の付箋がファイルからちらついていたり、棚のファイルも適当に差してあるだけに見えた。

 

「それで二人ともそろってきたって事はもえかさんから話は聞いてるわけですか?」

「いえ、話していません。私の主観が入ることを避けたいと思い、情報はクローズしてます」

「それぐらい話してもいいんですよ、もえかさん」

 

 全部ここで話すのもめんどくさいですし、と言って青葉は肩をすくめた。

 

「まあいいでしょう、話は二つあります。めんどくさい話と、とてつもなくめんどくさい話がありますがどっちから聞きます?」

「どっちにしてもめんどくさいんですね。では重要度の高い方から」

 

 明乃がそういえばケラケラと笑う青葉。

 

「いいですよ。それでは、とてつもなくめんどくさい方から。ドイツの出港の日程が変わりました。三日前倒しの明後日十二月十九日、ヒトマルマルマル時出港になりそうです。あわせてカリブ海方面での日英米独仏のブルーマーメイド養成校合同演習が中止になります」

「……それは英国側の要請ということですか」

 

 そう明乃が返せば、青葉は口笛を吹いた。

 

「さすが岬男爵、もしくはルックナー中将あたりから聞きました?」

 

 それには明乃は答えない。青葉も答えを求めていないらしく話を進める。

 

「正確にはイギリスとフランスが下りた形です。カリブ海の方の治安悪化が原因です。カリブ諸国に寄港する予定はないのでそこまで神経質になる必要はないのですがね」

「それで演習が中止されたのに、早く出港する理由はなんでしょう」

「本校の判断です。それ以上の質問が必要ですか? ……と言って棄却していいところですが、二人には話しておきましょう。セントルシアの情勢変化は知っていますね?」

「はい」

 

 明乃は即答。あれだけニュースで騒いでいれば、嫌でも耳にする。

 

「イギリス連邦からの離脱を掲げたカストリー公爵率いる自由党のクーデターが成功し、暫定政府が成立しているわけですが……、日本国政府はこの政権の賞味期限を、二ヶ月程度とみています。そこで本艦隊は、その賞味期限が切れる前にカリブ海を抜け、パナマ運河を通過して太平洋に出たい」

「そのために急ぐというわけですか?」

 

 明乃の質問に頷く青葉は人差し指をぴっと持ち上げて続ける。

 

「そうです。物わかりのいい生徒は大好きですよ。遅くなればおそらく、イギリス対フランスの泥沼の植民地の攻防に巻き込まれる」

「フランス……? イギリスはわかるんですが、なんでフランスが出てくるんです?」

「元々セントルシアはフランス語圏で、フランコフォニー国際機関にも所属する国です。昔からイギリス対フランスで領有権が争われていた地域で、今はイギリス連邦で落ち着いていただけに過ぎません」

「またそこで戦闘になる可能性があるんですか?」

 

 明乃からその問いがくることを予測していたかのように、青葉教官は笑った。

 

「戦闘が起こるものと本国は考えています。関係ない国の戦闘に巻き込まれて疲弊するわけにはいきません。ですからさっさと抜けてしまいたいわけです」

 

 青葉はそう言ってテーブルから手帳を取り上げ、ページを繰りながら続ける。

 

「艦隊代表生徒たる明乃さんの意見なら上に伝えてもぞんざいに扱われることもないでしょうし、どうします? この方針で大丈夫ですか?」

 

 そう言われ、逡巡。

 

「南アメリカ大陸を南に大きく迂回する手は?」

「手段としてはアリですが、日程と補給の都合が今からではつきませんね。後続艦の補給まで考えれば補給艦の同行が必須です。間宮がいればいいんですが。今回は同行してませんから」

「陸での手配は……今からだと難しいですか」

 

 その問いを発したのはもえかだ。それに首を横に振って答える青葉。

 

「というよりお金の問題です。お金さえあれば用意は容易い。だけれどもこの追加予算を横須賀に認めさせないとなりません。現金(キャッシュ)で払える額でもないですし」

「そして方針を決めなきゃいけない三日後までにそれは難しい、ですね?」

 

 貧乏艦隊はいやですね、と明乃に同意する青葉。

 

「わかりました。変更を承諾し、日程を早めカリブ海方面に向かいます」

「ではその方針で本校には連絡を入れておきます」

「それで、もう一つのめんどくさい話というのは?」

 

 明乃が話を振る。青葉は手帳のページに目を落した。

 

「ドイツ海軍幼年学校から打診がありました」

 

 青葉の声に明乃はわずかに眉を顰めた。脳裏に浮かんだのはディートリンデ・ヴェラースホフ上級大将の言葉だった。――――海軍にはお気をつけなさい。あなたの艦隊を利用して良からぬことを企てている気配がある。

 

「打診というのは?」

「本艦隊に一人便乗させたいとのことです。来年四月期から横須賀海洋中等教育校へ配置される交換留学生です。文字通りの渡りに船であったこと、そして本人の強い希望により本艦隊への同行を希望するとのことでした」

「……本人の強い希望によりってことは、晴風配置希望でしょうね」

 

 もえかが苦笑いでそう確認すれば青葉も笑った。

 

「聞くまでもないことでしょう。そして、クルーによるドイツ語でのコミュニケーション能力の意味から鑑みても晴風が一番適切……というよりは他の艦に押しつけられないっていうのが正直なところです。岬明乃艦長を筆頭に、宗谷ましろ副長、納沙幸子記録員、伊良子美甘給養長は日常会話程度のドイツ語能力を認めますし」

 

 航海研修をさせてやってほしいと言われたのもありますし、という青葉の一言が明乃たちに追い打ちをかけた。研修を受けさせると言うことは、相手に実際に艦の運用に係わらせると言うことである。英語でのやりとりがメインにはなるだろうが、向こうの母語であるドイツ語での指示が必要になる場合もあろう。万が一の際の安全を考えれば晴風で預かるのが一番無難であるし、明乃はクルーの練度には自信を持っている。うまくやれるだろうという確信があるが、他の艦となると把握し切れていない。

 

「……断る理由はない、ですね」

 

 明乃はそういって笑った。

 

「わかりました。晴風航洋艦長の権限をもって、その交換留学生の乗艦を許可します」

艦隊(スコードロン)管理担当(プロバイディング)教官(オフィサー)として晴風航洋艦長の判断を承認します。……それで、問題は」

「彼女の部屋……ですよね……」

 

 そこで肩を落すのはもえかだ。それにぽかんとした様子で首を傾げる明乃。

 

「現状、空きベッドに余裕がないんですよね。副長室の予備ベッドは私が占領してますし。医務室のベッドを占有させるわけにもいきませんし……」

「その子の専科は……っていっても、中学生じゃ決まってないですね」

「そういうことです」

 

 もえかと青葉の会話を聞きながら明乃は首を傾げながらなんでもないかのようにいった。

 

「艦長室に泊めようよ。あそこなら予備のベッドぐらい入るし」

 

 その提案にもえかと青葉の会話が止まる。

 

「……本気で言ってます?」

「ミケちゃん、よく考えよう? 艦長で代表生徒で、海に出たらまた激務だよ? 最低でも二ヶ月半は個室がなくなるよ?」

 

 二人の心配をよそに、明乃はあっけらかんと笑って見せた。

 

「大丈夫大丈夫、人の気配があった方がよく寝られるし」

 

 そう言われると言い返せなくなるもえか。RATt連続テロ事件の後から明乃は寝るときに誰かの部屋に押しかけることが増えたのは知っている。最近は減っていたようだが、それを切り札として出されると笑いたくても笑えない。

 

「まぁ、ミケちゃんがいいなら……いいけど……」

「ソファベッドみたいなやつになるので寝心地最悪でしょうが、致し方なしですか。セキュリティ上ヤバいのはとりあえず教官執務室に引き上げますから、そういう仕事が必要な時はここに来なさい」

「了解しました」

 

 明乃はそういって敬礼。もえかもそれに遅れて敬礼の姿勢を取れば、青葉はラフにそれに答えた。

 

「話はこれで終わりですが……明乃さん」

「なんですか?」

「カリブ海は火薬庫です。そこに突っ込むことをこの艦隊は強いられる。賢明な判断を期待します」

「わかってます」

「なら結構です。こちらもあなたたちをサポートします。晴風に沈まれると私も困りますから」

 

 その発言は教官としてのものなのか、それとも別の意図をもって言われたものなのか、明乃には判断がつかなかった。

 

「では、おやすみなさい。高峰教官」

「おやすみなさい、明乃さん。もえかさんもしっかり休んでくださいね」

「はい、失礼します」

 

 二人は退出。扉を閉めると明乃はふにゃりと笑った。

 

「さて、歓迎会の用意かな。ミカンちゃんに張り切ってもらわないと」

「ミケちゃん……」

「いろいろ一筋縄ではいかないみたいだけど。晴風なら越えられる」

 

 心配そうな顔をするもえかに向かって明乃はそう言い、笑みを消した。

 

「もかちゃんには話しておくね。ドイツの上級大将から海軍に気をつけるように言われたの。おそらくドイツ海軍は交換留学生の子と私を利用して晴風に首輪をはめようとしてくると思う」

「それが分ってたならなんで……」

「断る理由もないし、その子もきっと海が好きだと思うから。海の仲間は家族でしょ? だったら家族として迎えてあげなきゃ。ようこそ晴風へ! って言ってね」

 

 そう言って、明乃は前を向いた。

 

 

 

「大丈夫、なんとかなる。なんとかなると信じてる。晴風のみんななら、なんとかできる。だから力を貸して、もかちゃん」

 

 

 

 あぁ、またこの子は。ともえかは思う。

 

 

 

「――――わかった。一緒に頑張ろう、ミケちゃん」

 

 

 

 そして、また私はこの子を止められないのだ。

 

 

 

「さぁ、日程が短くなったから明日にはクルーを呼び戻さなきゃ」

 

 岬明乃は前に進む。その背中を守る、それが私の仕事だ。

 

「七つの海が晴風を待ってる、でしょ? ミケちゃん」

「うん!」

 

 

 夜中の晴風に明乃の明るい声が響く。夜の海に小さく雪がちらつき始めた。




……いかがでしたでしょうか。

少しずつ事態が動き始めました。そろそろ晴風の出港ですね。

本当にどこまで強くなっていくのこの子達……。

次回 いざ荒波砕ける海原へ。
それでは次回もどうぞよろしくお願いします。


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アムピトリーテーは踏み出す

 

 

 

「きょ、今日になっちゃった……!」

 

 二段ベッドの下段でそう言ってみる。窓の外からは柔らかな光。まだ冬の入り口だが、光は暖かに見えた。寝過ごしたかと時計を確認。〇六二四時、総員起こし六分前。ちょうどいい時間だ。体を起こして、自分のささやかな自慢である潮風に晒されても痛まない堅い金髪をなでつけ、整える。目が冴えてくる。どうやらここは夢ではないらしい。

 

「よしっ……!」

 

 今日はいよいよ出発の日。私は――――コンスタンツェは、日本に向けて旅に出る。

 

 

 

 

「コンスタンツェ・ヴァイデンフェラー学生」

 

 そう呼ばれ、慌てて背筋を伸ばした。かちっと正装に身を包んだ『大西洋の妖精』ことテア・クロイツェル代表生徒がドアを開けて待っていた。

 

「用意はできているか?」

「はいっ!」

 

 そういって学校指定の――正確には軍のお下がりの――リュックサックと教科書類を詰め込んだ革のトランクを持ち上げる。死ぬほど重い。でもこれが1年の交換留学の荷物なのだ。

 

「よろしい。では案内する」

「よろしくお願いします。クロイツェル代表生徒」

 

 荷物は重いが、心は躍る。黒いセーラー襟のついた白のジャケットに同じく白のプリーツスカート。正装用の水兵帽が歪んでないことを右手で確認しながらついていく。

 

「ヴァイデンフェラー」

「なんですか?」

「君は日本語ができるか」

「す、少しだけ……ですが」

 

 そう答えるとクロイツェル代表生徒は頷く。

 

「君がこれからお世話になる艦は日本の船だ。しっかり日本につくまでに日本語を覚えておきなさい。情報で取り残されれば命を失う」

「はい!」

「よろしい。……緊張するな。右手と右足が同時に出てるぞ」

 

 笑ってそういったクロイツェル代表生徒。慌てて自分の動きを直そうとしてつんのめる。

 

「緊張するなと言ってもするだろうが、晴風は規律が緩いことで有名だ」

「そ……そうなんですか?」

「晴風と係わったことのある私とフリーデブルグ副長の中での共通見解だ。我が副長は『ヘッペンハイムのシュタルケンブルク城やニュルンベルクのソーセージみたいだ』と言っていた」

「それってどういう……」

「私もわからん」

 

 クロイツェル代表生徒の声に今度はずっこけそうになる。

 

「しかしいい艦だ。有事の人材は平時に歪とはよく言ったものだと思う。しっかりとその技術を盗んでおくように」

「はい!」

「良い返事だ」

 

 テア・クロイツェル代表生徒はそういって足を止めた。すでに正面玄関の扉の前。この扉は滅多なことでは通れないはずの扉だ。

 

「今日はここの扉を使っていいと許可が出ている。さぁ――――気を引き締めろ、コンスタンツェ・ヴァイデンフェラー学生。ドイツ海軍幼年学校の模範たる行動を期待する」

「はっ!」

 

 扉が開く。日光に目が一瞬くらんだが、目が慣れると雲一つ無い空が見えた。目の前の桟橋に横付けされているのは、小型の駆逐艦。古ぼけたデザインと言えなくもないが、それだけの戦歴を重ねてきた艦だ。

 

 日本国横須賀女子海洋学校所属、陽炎型直接教導航洋艦『晴風』。初めての遠洋航海の二ヶ月半、乗り込むことになる艦だ。

 

 そのタラップの前に制服姿の女の子が立っている。黒いスラックスにジャケットが映える。腰に下がっているのはサーベルらしい。

 

「テアちゃん」

「お待たせした、明乃艦長」

 

 ずんずんとそっちに進んでいったクロイツェル代表生徒に慌ててついていくと、その女の子――といっても私より絶対年上だ――が笑った。

 

「あ! 初日に廊下で会った子だ。タッツェちゃんだっけ?」

「お、覚えてくださったんですか!」

 

 そのことに驚いて思わず声を上げてしまう。そのまま岬艦長の手をとりそうになって、慌てて敬礼。

 

「申し遅れました! 私はコンスタンツェ・ヴァイデンフェラー学生。ドイツ海軍幼年学校ヴィルヘルムスハーフェン校予科二年生であります! これから二ヶ月ほどお世話になります!」

 

 そういうと敬礼を返してくれる岬艦長。赤毛の髪が揺れる。活躍の猛々しさはまったくイメージできない丸めの顔立ち。

 

「改めまして、日本国横須賀女子海洋学校学徒艦隊旗艦晴風航洋艦長、岬明乃代表生徒です。よろしくね、タッツェちゃんって呼んでいい?」

「なんとでもお呼びください」

「そんな堅くならなくても……って言っても難しいよね。出港前で正装だしね」

 

 そう言って笑って見せる岬艦長。クロイツェル代表生徒の方を見て日本語で何かを話している。確かに情報で取り残されれば命を失うというのは正しいのだろう。

 

「あの……岬艦長」

 

 ドイツ語でそう問いかければ、岬艦長の顔がこちらを向く。クリッとした目がチャーミングだ。

 

「どうしたの?」

「えっと、その……」

「ヴァイデンフェラー学生はまだ十一歳だからかまってほしいんだろう」

「えっと、そういうわけではなく……」

「もー、テアちゃんそんなにからかわないの。かわいそうでしょ」

 

 クロイツェル代表生徒と岬艦長の茶化しあいが始まる。こっちが堅くなっているからだろう。そんな心遣いが嬉しい。

 

「タッツェ!」

 

 そんなことを思っていると岸壁の方から見覚えのある顔が見えてくる。何度も電話越しに話した声。

 

「パパ! ママ! ……あの、岬艦長、クロイツェル代表生徒……」

「行っておいで。しっかり挨拶しておいでね」

 

 岬艦長が優しい顔でそう言って、クロイツェル代表生徒も頷いてくれた。駆けていく。

 

「パパ……ママ……!」

「タッツェ、間に合って良かった。アウトバーンを飛ばしてきてよかった」

 

 パパがそう言って受け止めてくれた。後ろからママも抱きついてサンドイッチされる。

 

「大丈夫かい、タッツェ。頑張るんだよ。無理せず頑張るんだよ」

 

 そんな言葉が振ってきて、キスの雨が降る。直接会うのは半年ぶりぐらい。気の早いクリスマスプレゼントみたいだ。しばらく抱きしめられたりキスの雨が降ったりしている間に、いつの間にか岬艦長が近づいてきていた。

 

「パパ、ちょっと下ろして……」

 

 そう言って下ろしてもらい、岬艦長の方を見る。岬艦長は制帽を脇に抱え、頭を軽く下げた。

 

「あなたが、タッツェの艦長さん?」

「晴風艦長、岬明乃です」

 

 綺麗なドイツ語でそう言ってみせる。パパの目線が岬艦長の腰に下がったサーベルに向けられていたから、きっとパパは岬艦長がドイツ貴族であることがわかったのだろう。パパが背筋を伸ばして岬艦長に向き合う。

 

「コンスタンツェをよろしくお願いします。本当に自慢のいい子です。よく使ってやってください」

「承知しました。必ず、日本まで連れていきます」

 

 そう言う艦長の言葉は凜と澄んで、さっきのような緩んだ空気はもう無くなっていた。

 

「じゃぁ、タッツェちゃん。行こうか」

「――――はい!」

 

 タラップを上がる。艦に乗ってしまえばもうそこはドイツではない。門番をしていた生徒が敬礼。

 

「出港用意完了してます。あとは舫いを解けばいつでも」

 

 そう艦長にいったのは水兵帽を被った亜麻色の髪の女の人。

 

「ココちゃんありがとう。タラップ納め用意」

「タラップ納め用意」

 

 ココと呼ばれた人が何かを渡してタラップ格納のウィンチに手をかける。艦長に渡したのは小さなインカムらしい。それを左耳に掛けた岬艦長が口を開く。

 

「達する。出港用意。しろちゃんお願いね」

 

 艦が出るのだ。いよいよ航海へと出発なのだ。

 

「ご安航を祈る! 必ず、また!」

「うん! 必ず!」

 

 クロイツェル代表生徒が声を張った。明乃もそれに手を振りながらそう返した。

 

 舫い綱が解かれた。晴風と陸を繋ぐ物は無くなった。晴風が海に向けて動きだす。

 

「タッツェ! 元気でねー!」

 

 パパとママも手を振ってくれた。それに答えて大きく両手を振る。

 

「総員、帽振れ――――っ!」

 

 岬艦長の号令が掛かった。きっと他の場所でも舷側にでられる人は皆帽子を振っているのだろう。

 

 海に出る、目の前は北海。この艦は大西洋へ出て、カリブ海へ向かう。

 

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

 

「晴風は行ったんか」

「ミーナは来るものと思ってたのに」

 

 遠くに消えようとする晴風を何時までも見送りながらテア・クロイツェルはそういった。横に並んだのは制服姿のヴィルヘルミーナだ。

 

「なに、いつでも会える。今はインターネットが世界を繋いでいるからのぅ。すぐに会えるさ」

「それはそうだけど。直接会わないのには理由があったのか? ミーちゃんはいないのかなと明乃も心配してたぞ」

 

 半ば咎めるようにそういえば、ヴィルヘルミーナは困ったように笑った。

 

「それは悪いことをしたのぉ……でも、ミケには挨拶もしてあるし、必要な情報も渡してある。問題なんてない」

「ならいいけど……、こられなかった理由にはなってない」

「う……」

 

 ヴィルヘルミーナは言葉に詰り、観念したかのようにため息をついた。

 

「……実はルックナー中将から電話がかかってきとった」

「中将から? そんな親しかったのか?」

「まだそれを引きずるんかテア……。晴風についてじゃ」

「なにかあったのか?」

「まだ、なにもないといった感じじゃな」

「詳しく話せ」

 

 こういうときに熱くなるのはテア・クロイツェルも自覚する悪い癖だ。冷静沈着でなければならない。それでもあの晴風のことだ。どうも何かが引っかかる。

 

「ルックナー中将が幼年学校の校長を締め落したらしい」

「それ物理的に締め落してるだろう」

「儂は締め落したとしか聞いてないから真偽の程はわからん。じゃが、校長が自白し(ゲロっ)たことによると、交換留学生の早期派遣は海軍参謀部からの圧力があったことを認めたそうだ」

「海軍参謀部が予科組の生徒に圧力? 青田刈りではなさそうだな」

 

 テアがそういえばヴィルヘルミーナも頷く。

 

「儂も中将もそう考えとる。海軍参謀部はどうやらなんとしても晴風に生徒を乗せたかったらしい」

「そのことは晴風に?」

「ヴェラースホフ上級大将経由でミケに伝わっているそうだ……人魚と人の溝はいつまで経っても埋まらんのぉ」

 

 そんなことを言ってみせるヴィルヘルミーナ。

 

 ドイツには複数の海上治安維持組織が存在し、日本のような統一的、横断的な組織運用は行なわれていない。その中でも『最大手』と呼ばれるドイツ=ヴァイマル・ブルーマーメイドですら、都市インフラ・情報省の水上インフラセクションに過ぎない。禁止薬物の摘発は税関刑事庁が、武器密輸等については国防省の軍事保安委員会がというように、職掌する内容が複数の政府機関に分散している。治安維持組織でもいがみ合う中で、軍組織とにらみ合いながら、ドイツは海の平和を守ってきた。

 

「ヴェラースホフ上級大将が統合軍総監に就任できているだけでも奇跡的じゃ。まだ人魚に動く余地がある。……もっとも、動いたところで首締め合戦で自壊していくじゃろうが」

「それでも、私達は守らなきゃならない。海に生き、海を守り、海を征き、そして海を生かすのが私達人魚の存在意義であり、その安寧の上に我が国の発展を築くのが政府の義務だ。我々人魚がその礎にならないといけない。そのために私達はここにいる」

 

 その言いぐさに肩をすくめてヴィルヘルミーナが笑った。そしてその顔が引き締められた。

 

「テア、内密に頼む」

「なんだ?」

「アドミラル・シュペーに近々カリブ海方面に展開命令が下る。卒業前の実地研修が特例で前倒しされる形じゃ。配備先は即応機動警備艦隊。ルックナー中将の直属の遊撃隊として動くことが想定される」

 

 それを聞いてもテアは表情一つ変えなかった。

 

「わかった。用意を進めておく」

「自信の程は?」

「私達ももう十七だ。やれる」

 

 テアもヴィルヘルミーナも七月期で最終学年に入った。あと七ヶ月後には既に本物のブルーマーメイドとして最前線に立つことがほぼ確定している。予備少尉ではなく、本物の少尉として最前線に立つのだ。それが高々半年と少し前倒しされたぐらいでなんだと言うのだ。

 

 

 

「それに――――晴風にできて、私達ができないなど、口が裂けても言うものか」

 

 

 

 テア・クロイツェルの目が爛と輝いた。私達は人魚だ。その矜恃を持たずしてブルーマーメイドは務まらない。あの晴風に遅れをとるわけにはいかない。

 

「『現実いうもんはの、おのれが支配せんことにゃ、どうにもならんものよ』……違うかミーナ」

「……まったく、テアは強すぎてこっちがかなわんわい。枯れ木に山が潰される」

 

 ヴィルヘルミーナが笑った。

 

「さぁ、仕事の用意と行こうかテア。ルックナー中将が呼んでる」

「わかった」

 

 その数日後、テア・クロイツェル代表生徒率いるアドミラル・シュペーの実地研修の実施が正式に通達される。カリブの海に季節外れの嵐が訪れようとしていた。

 

 

 

 

    †

 

 

 

 

「岬君のことを『南の海のテティス』とはよく言ったものだ。図らずもこの状況をここまで的確に言い表すとは、三流タブロイド紙も侮れない」

 

 禾生翠巒は横須賀女子海洋学校の校長執務室の椅子に座りそういった。夜の執務室は静まりかえっていて、彼女の声は良く響いた。ガラスのチェス盤が乗るテーブルを見て翠巒は笑う。明度を落したタブレット端末が仄明るく光り、その笑みを彩った。

 

「ネーレウスとドーリスのたくさんの娘達、ネーレーイス。その中の一人テティスは全能神ゼウスや海神ポセイドーンが妻にと望むほどの女神だったが、父より優れた子を産むという予言により、地中海を股に掛け数々の冒険を繰り広げた船乗り達(アルゴナウタイ)の一人で小国の王、ペーレウスと結婚させられる」

 

 彼女はそう浪々と語り微笑んでみせた。手元の大ぶりなタブレット端末にはカリブ海の電子海図が示されていた。

 

「その宴席には全ての神が招かれた。ただ一人、不和の神エリスだけはその場に呼ばれなかった。それを妬んだエリスは『最も美しい女神に』と書かれた金色の果実を投げ込む。有名なトロイア戦争の幕開けだ」

 

 翠巒は初期配置のチェスボードから白の女王(クイーン)を取り上げた。

 

「宴席での贈り物はその宴席の主賓、すなわちテティスに捧げられるのが正しい。しかしながら勘違った三人の女神が醜くもそれを奪い合った。女神は何時の時代も浅ましいものよ。神の名を持ちながら人間程度の知能しか持ち合わせていないのだ」

 

 クイーンをタブレットの上にことりと置く。タブレットの表示が変わっていく。置かれたクイーンを中心にして海図が拡大され、そこに様々な情報が付与される。

 

「黄金の果実は知識を与え、力を与え、生命を与える神々の供物。故にそれは不和を生む、故に人は手を出してはならないとされてきた。しかしながらその神ですら、この浅はかな人間にすら推し量れる程度だとするならば、我々人間が手を出したところで、この最低な世界が煉獄に変わることもあるまい」

 

 海図の上のクイーンに一つのタブが付与される。Y467_Harekaze

 

「さぁ始めようじゃないか。黄金の果実は既に投げ入れられた。醜くも果実を不当に奪い合う不届き者たちに災いあれ。君たちが望んだ結末だ」

 

 クイーンの情報がどんどん羅列されていく。速力、航行方位、予定航路、予定寄港地……ここで得ることが可能な情報が付与されていく。そこに追加されたのはA.Misakiの文字列。

 

 

 

 

「英雄『岬明乃』、君の出番だ。地の塩 世の光として君の力を輝かせなさい」

 

 

 




……さて、出港だけで終わってしまったぞ。こんなはずではなかったんですが……。

はい、ロリ枠(ひどい枠だ)に追加でタッツェちゃんの登場です。彼女が乗り込んで、晴風はいよいよ海原へと進んでいきます。この先に待つのははてさて……

次回 歓迎の宴は盛大に
次回もどうぞよろしくお願いします。


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ハルモニアーは微笑む

 

 

 

「……と、いうわけで。今日から晴風のメンバーになるタッツェちゃんです!」

 

 出港のドタバタが一通り終わったタイミング、晴風の艦橋に明乃の声が響く。明乃は早々に開襟の正装からセーラー服に着替えていて、既に通常モードだ。

 

「えっと……はじめまして、私はKonstanze Weidenfellerです……よろしくお願いします」

「わぁ! 日本語喋れるんだよかったー!」

 

 そうハイテンションに言うのはネコミミらしいパーカーを制服の上から羽織った少女。そのテンションにビクッとするコンスタンツェを見て明乃がパンパンと手を叩いた。

 

「はいはい、驚かさないでメイちゃん。自己紹介が先だよ。タッツェちゃんが名乗ったんだからこっちも名乗らないと。じゃぁ指揮系統順で、私は済ませてあるから……もかちゃんお願い」

「承りました艦長さん」

 

 ドイツ語でそういってセーラー服の裾を揺らしてコンスタンツェの前にやってきたのは灰色がちの髪を揺らした優しげな顔をした少女。その人が視線を合わせるようにしゃがみ込んだのでかるく慌てるコンスタンツェ。

 

「学徒艦隊付作戦参謀、知名もえかです。艦の指揮には入らないけど艦隊司令部機能を担ってます。よろしくね」

 

 差し出された右手をおずおずと握るコンスタンツェ。そのままシェイクハンズをするもえかを見てどこか安心した表情を浮かべる明乃。

 

「それじゃ次しろちゃんレッツゴー。タッツェちゃんに訳す必要があれば私が横で通訳するから」

「通訳はいらん。私もドイツ語ぐらいできる。あと顔合わせの時ぐらいしろちゃんじゃなくて宗谷副長とだな……まぁいい」

 

 えー、と口パクで伝える明乃に不満げにぶすっとふくれてそう言うのは黒い髪を頭の後ろで結った少女。

 

「オホン……ヴァイデンフェラーさんの乗艦を心より歓迎する。晴風副長、宗谷ましろだ。なにか困ったら私のところに来るといい。力になる」

 

 ドイツ語でそう言うと周りからおー、と声がする。

 

「本当にドイツ語喋れてる……!」

 

 ショック! というオーバーリアクションをとったのは出港時にタラップ操作をしていた亜麻色の髪の少女だった。

 

「納沙書記、バカにするなよ」

「うわーん、副長が怒ったぁ!」

 

 そう言って抱きついたのは白にも見える銀髪を揺らす少女。

 

「ココ、暑苦しい」

「タマちゃん悪辣!? 権力には屈しないぞー!」

 

 その抗議にはどこ吹く風で銀髪少女がコンスタンツェの方に一歩出る。口から出たのは英語だった。

 

「第一分隊分隊長兼砲術科科長の立石志摩、よろしく」

「よ、よろしくお願いします!」

「普段はタマでいいよ、ねータマ?」

「うい……」

 

 志摩の肩に飛びつきながら英語で会話に割り込んだのはネコミミパーカーの少女である。

 

「ついでにあたしは第一分隊副分隊長、水雷長の西崎芽依。メイでいいよ」

 

 ニカリと笑ってみせれば、コンスタンツェもつられたように笑う。

 

「まったく、指揮系統順と言われていたのに割り込むな」

「えー、そんなに堅くしなくていいじゃん、しろちゃんさー」

「ヴァイデンフェラーさんが混乱する。順番を飛ばすな。ほら」

「ひゃいっ!」

 

 ましろに指さされ、舵輪を握っていたツインテールの少女が軽く飛び上がる。

 

「あの……第二分隊分隊長、航海長の知床鈴です。よろしくね、タッツェちゃん」

「はい、よろしくお願いします!」

 

 元気にそう言って頭をさげるコンスタンツェを見てはにかむ鈴。笑い合う姿を見て小さく微笑むのが一人。

 

「じゃぁ役職付だと私が最後ですねー。第四分隊副分隊長、記録員兼書記の納沙幸子です。ココって呼んでくださいねタッツェちゃん」

 

 ドイツ語でそういう納沙幸子にも頭を下げるコンスタンツェ。

 

「たくさんの人がドイツ語話せるんですね……」

「アドミラル・シュペーの副長さんが一時期乗ってたからね。今でも友達で、教えてもらってるの。艦橋配置じゃないけど、給養長の伊良子美甘ちゃんと、あとは……たしか第四分隊長の等松美海ちゃんもドイツ語できるはず。後で紹介するね」

 

 明乃の言葉に頷いてみせるコンスタンツェ。会話が大体止まったタイミングで幸子が手を上げた。

 

「それで艦長、航行中のタッツェちゃんの配置ですけど、どうしましょう?」

「とりあえずしばらくは艦橋配置でいこうかなと思ってる。タッツェちゃんはまだ専科決まってないし、慣れてきたら順繰りに各科回る感じでいいかなぁって」

「航海は大体二か月の予定ですから……二週間ずつぐらいでまわしながらいきますか。タッツェちゃん、日本語も英語もある程度話せるみたいですし、コミュニケーションも心配ないと思いますから」

「うん。だけど演習は艦橋配置でお願いね」

「わかってます。岬明乃卿のかっこいい姿見せないとですもんね!」

「そ、そうじゃないけど……」

 

 明乃がどこか困った笑みを浮かべてそういった。

 

「あと艦橋は、航海管制員の内田まゆみちゃんと、山下秀子ちゃん、航海科に行ったときにお世話になると思うから」

 

 明乃の声に合わせてまゆみが日焼けで褐色になった肌を輝かせて手を振ったり、秀子が糸目をさらに細くして微笑んだり。コンスタンツェは律儀に一人ひとりにお辞儀していた。

 

「それじゃぁ、艦の指揮を宗谷副長に預けます。私はタッツェちゃんの()()の案内をしてくるから」

「宗谷副長、艦の指揮を預かります。何かあったらインカムで差し戻しますから、インカム持っててくださいね」

「りょうかーい」

 

 明乃はそう答え、コンスタンツェの手を取った。

 

「ほら、いこっか」

「はいっ!」

 

 二人が出て行くのを見送ってからまゆみがくすりと笑った。

 

「艦長、なんというか最近艦長らしくなりましたよねー」

「無茶が暴発することもなくなったから安心していられるが、内田、おしゃべりの前に見張りをしっかりとだな」

「はぁい、副長殿―分ってますともー」

 

 それにはため息で返すましろ。それをどこか微笑ましげに見ながら幸子が会話に割り込んだ。

 

「でも、本当に艦長らしくなったというか……うまいこと公私混同してるというか……」

「指揮系統順で自己紹介とか言ってたけど最後はいっつもイケイケドンドンで独断専行の集合体になるもんね、晴風」

「ほんとそれでなんでうまく回るのか副長やってても未だに分らん」

 

 芽依の指摘に同意するましろ。この艦長を支えるのは大変だ、と言いつつもその顔はまんざらでもなさそう。

 

 横須賀女子海洋学校は将来のブルーマーメイド候補生が集う場所で、晴風クルーはすべからく皆ブルーマーメイドのタマゴだ。ブルーマーメイドが法執行機関である以上、そこには明確なルールと指揮系統が存在する。それを保障するのが階級制だ。晴風クルーはそれを肌で理解していた。

 

 階級はその人が背負うことができる責任の大小を示し、独断専行が許される度合いを意味する。平時はルールに従い行動し、一分一秒を争う非常事態においてその場に居合わせたものの中で最上位の階級を持つ人物の責任の下に行動する。そうすることで迅速な法執行と規律を守ってきたのだ。しかし今期の学徒艦隊では、岬明乃艦長の独断専行への切り替えタイミングが早すぎるのが目下の悩みである。

 

「ミケちゃんはホントに独断専行大好きだからなぁ……横で参謀が艦隊機動で取り舵が最適って言ってるのに、『もかちゃんごめん! 面舵二十度!』とか平気で言うもんね」

「ま、まぁミケちゃんの場合その直感と判断はかなりの確率で正しいし……でもまれに教官指示すら覆すのはちょっと……」

 

 苦笑いでそういったもえか。

 

「もかちゃんがついてるのも心強いんだと思いますし、チームワークバッチリですからカバーしてます! ね、もかちゃん?」

「そうね。ミケちゃんは……なんだかんだお父さん気質だから」

「あー」

 

 言い得て妙な言葉に皆が納得。

 

「見栄っ張りで頼られると無駄に張り切って空回りする感じ確かにそうかも……一発芸やってしらけるタイプ」

「メイちゃんの父親像かなりひどくないですか?」

「うい……」

「えー、世の中のパパさんみんなそうじゃないの?」

 

 そんな会話を乗せて晴風は進んでいく。水平線の向こうに陸地が消え、青い海が晴風を包んでいた。

 

 

 

 

     †

 

 

 

 

「はふぅ……」

「タッツェちゃんお疲れ様。ごめんねみんなフレンドリーすぎて、目が回ったでしょ?」

「歓迎してくれてるんだって……うれしかったです」

「そっか、私も嬉しいよ」

 

 日がとっぷり暮れた海の上、湯気がこもった浴室でコンスタンツェはため息をつく。その横で肩まで湯船に浸かった明乃の顔もとろけている。

 

「ありがとうございました……歓迎会まで開いてもらっちゃって」

「いいのいいの、式典とかが多くてみんな肩こってたからいい息抜きになったし、こっちがやりたかっただけだから。こういうパーティーは良くやってるの。誕生日とか、夏至の時もやったなぁ。赤道祭には『御神輿』まで出たし」

「オミコシ……?」

「うーん……なんて説明したらいいんだろう。……人が担いで動かせるポータブル教会? お祭りの時に出すの」

「そんな便利なものがあるんですね」

「神道のものだからクリスマスにはさすがに出さないけど、何かのタイミングでまた出すのもありかも……うん。タイミング見つけてみせてあげる」

 

 明乃の言葉にコンスタンツェは指を汲む。

 

「形は違えど、海を守る船乗り達が信仰をもつのは良いことです」

「タッツェちゃんは神様を信じてるんだね」

「はい! 父も母も熱心なクリスチャンですし、私もそうです」

「だから十字架のネックレスは外さないんだね」

 

 明乃がそう言って優しい視線をコンスタンツェの胸元に送った。年相応のほっそりとした首筋を彩るのは細いチェーンで首に下げられた金色の十字架だった。

 

「私が幼年学校に入学するときに、弟がお小遣いで買ってくれたんです。きっとそんなに高いものじゃないんですけど、弟にとっては大金だったはずです」

「良い弟さんだね」

「はい、自慢の弟です」

 

 優しい会話が緩やかに反響する浴室の中は、明乃とコンスタンツェの二人だけだ。ローテーションでいちばん最初になった航海科の時間なのだが、コンスタンツェが『たくさんの人と入るのはちょっと勇気がいります……! でも明乃さんが入れと言うのなら……!』と地獄行きを宣言されたような顔で言ったのでタイミングをずらしてもらったのだ。初日ということで浴槽の使い方レクチャーのために指名を受けた明乃が一緒に入っている。

 

「こうやってバスタブにつかるのは初めてです……」

「結構気持ちいいでしょ?」

「はい……」

「日本語だと『裸のお付き合い』とかいってね、コミュニケーションの場として『銭湯』……えっと、伝わらないか、えっと……そう、公衆浴場が重宝されてきたの。ごめんね、たぶんマロンちゃん、ほらあの元気な機関士長とかが一緒に入ろうって言ってくるけど断っていいから」

「コミュニケーション……ですか」

「制服を脱いでるから階級も意識しないでいいし、一人の人と一人の人で話せる場所なんだ。日本では大切でちょっと特別な場所なんだよ、お風呂って」

 

 明乃は手を組んで伸びをする。なだらかでなめらかな肌が水しぶきを上げて頭の上にすらりと伸びた。その顔が不意にコンスタンツェの方を向いた。

 

「ね、タッツェちゃん、タッツェちゃんはなんで海の仕事をしようと思ったの?」

 

 明乃がそう言うとコンスタンツェは少し顔を赤くした。

 

「……ちょっと恥ずかしいんですけど、いいですか?」

「大丈夫、笑ったりしないよ」

「……海がかっこいいな、って思ったんです。それだけです」

「……そっか、おんなじだ」

「え?」

「私もね、海が大好きだから、ブルーマーメイドになろうと思ったの。それだけだよ」

 

 明乃はそういってコンスタンツェの側に寄る。そのまま後ろから肌を重ねた。

 

「恥ずかしいことじゃないよ。タッツェちゃんがいたい場所がタッツェちゃんの居場所だもん。そこに良いも悪いもないよ」

「……でも、私は……落ちこぼれですから……」

「え? 落ちこぼれ? なんで? 優秀な子だってテアちゃんから聞いてるんだけど……」

 

 コンスタンツェの言葉を聞いて、明乃が驚いた顔をする。明乃はコンスタンツェを後ろから抱きしめたままの姿勢で、コンスタンツェからその表情は見えてないはずなのだが、コンスタンツェからはどこか刺されたような苦しそうな気配がした。

 

「……本当は私、ギムナジウムに行きたかったんです。でも学力レベルが足りないって言われて、推薦してもらえなくて……だから幼年学校に……」

「えっと、ドイツは十歳で進路と職業が決まっちゃうんだっけ……」

 

 明乃の言葉に、こくんと頷いてみせるコンスタンツェ。

 

 ドイツの場合、日本の小学校にあたる四年制の基礎学校卒業時に進路が決定される。優秀なものはギムナジウムへ、成績が一定の水準に満たないもので、音楽や芸術など秀でた特殊技能を示せなかったものは半ば強制的に職業訓練学校への進学が決まる。職業訓練学校から大学に進める人材は二パーセントにも満たない。そもそも職業訓練学校の場合、優秀な成績を収めギムナジウム等に編入される場合を除いて大学の受験資格が得られないため、将来の大きな方向性は十歳で決まってしまうのだ。

 

「パパもママもギムナジウムに行って、大学に行ってて、弟もギムナジウムに進めそうだって言ってて、私だけ行けなくて……いじけて逃げ出して、ずっと海を見てたんです。海の上をブルーマーメイドの船が走ってるのを見て、かっこいいなって。でも、ブルーマーメイドに進めるほどの頭もなくて」

「そんなことないよ」

「そんなことあるんです。ドイツのブルーマーメイドは全員が士官なんです。ギムナジウムに入れない人が踏み込んで良い世界じゃないんです。だから、水兵か漁師になるしか、道がなくて……でも、つらくて、怖くて、海まで怖くなりそうで、それが嫌で、逃げ出して……日本に行きたいと思ったのも、幼年学校が嫌だったからで……また逃げ出すんだなって……。たくさん友達もいて、お小遣いももらって、ひとりぼっちじゃないのに、そこが嫌だって思ってる自分が嫌で……」

 

 自分で自分の堰を叩き切ったコンスタンツェの言葉が止まらない。明乃はそれを黙って聞いていた。

 

「だから、嬉しかったんです。私がブルーマーメイドの船に乗れるかもしれないって言われて、しかもその船が晴風で、岬明乃艦長と一緒に航海できるかもって言われて、神様が用意してくれたチャンスなんだって、思ってるんです。二ヶ月だけ夢を叶えてくれるんだって、本当に嬉しくて。でもつらくて。怖くて……」

 

 泣きそうな声でそういったコンスタンツェの肩に明乃が顔を埋めた。

 

「……そっか、つらいこと聞いちゃったね。ごめん」

 

 明乃はそう言うと、コンスタンツェの華奢な体を少し強く抱きしめた。

 

「明乃さん……?」

 

 それには答えず、明乃は黙ってコンスタンツェを抱きしめつづけた。

 

 この子はきっと私だ。晴風に乗る前の、中学生の頃の、私だ。晴風の艦長になったころの私だ。

 

「……話してくれて、ありがとう。信じてくれて、ありがとうね」

「明乃さん?」

「まだ会って一日の私に話すのは、きっと勇気がいることだと思う。ほんとうにそれはすごい事だと思うんだ。私は話せなかった。ずっと、話せなかった」

 

 いっしょにブルーマーメイドになるという誓い、その誓いを反故にしないために明乃は全てを投げ捨ててここまできた。そのことを悔やんでなどいない。だが、その思いを伝えることができたのはごく最近だ。針の筵のような中学時代から逃げるように海洋学校に入って、晴風に信じてもらって、信じて、そこまできてやっと向き合う事ができた覚悟と感情だ。命を預ける間柄になる晴風クルーにも、話せるようになるまでにかなりの時間が掛かった。

その時間をコンスタンツェはたった一日で飛び越えた。

 

「私はにはね、タッツェちゃんの気持ちを『わかったよ』なんて言えない。きっとそれは私なんかじゃ届かないぐらいの気持ちだと思うんだ。だけど、タッツェちゃんのことをわかりたいって思うし、私もいっしょに頑張ることはできると思うんだ」

 

 この子の力になりたい。心から、そう思った。

 

「怖くて、つらいときがきっとある。その怖さとつらさを半分こしていこうよ」

 

 明乃はそう言って目を閉じた。

 

「海の仲間は家族だもん。タッツェちゃんも、晴風の仲間だもん。今日始まったばっかりだし、まだ二ヶ月もある。その間にたくさん思い出を作ろう。たくさんお話しよう。たくさん笑おう」

 

 スン、と鼻をすするような音。言葉は、届いているだろうか。

 

「大丈夫。なんとかなるよ。必ず、なんとかなる。私が味方になるから」

「……ありがとう、ございます」

 

 それを聞いた明乃が満面の笑みを浮かべた。

 

「どういたしまして、そして改めて、ようこそ晴風へ。タッツェちゃん」

 

 

 

 

     †

 

 

 

 

「……ミケちゃん」

 

 寂しげに笑って晴風のデッキに立つ知名もえか。晴風の機関の音が低く響くデッキから暗く沈む海を眺める。

 

「もえかさんの気持ちあててみせましょうか?」

「結構です。高峰教官」

 

 黒い闇に紛れるようにして立っていたのは黒いジャケットで闇夜に溶けようとしていた高峰青葉教官だ。

 

「そんなこと言わないでくださいよぅ。ミケちゃんだけ大人になったみたいで寂しいよぅ。あんなちびっ子じゃなくて私をかまってよぅ……で、あってます?」

「行方不明からの転落事故扱いでいいですか?」

「いいわけないじゃないですか。青葉は命が惜しいです」

 

 そう言ってもえかの隣に立ち、転落防止用のチェーンに体重を預ける青葉。それは半ば、やれるもんならやってみろという挑発でもあった。

 

「調子が狂いますか? バロット」

 

 生煮え卵(バロット)と呼ばれ、目を閉じるもえか。

 

「私についても情報開示ですか、教官殿」

「そろそろ明乃さんも感づいてるでしょう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、あの子はバカじゃない」

「そうでしょうとも。それでも黒に限りなく近いグレーにしておくのがベターでは?」

 

 そういえば青葉はため息。

 

「そうとも言ってられない雰囲気です。なのでグレーに限りなく近い黒に移行しようかと」

「セントルシア情勢が急変しましたか?」

「クーデター派の首謀者カストリー公爵の妻子の足跡を英国SISが見失いました。七時間と二五分前のことです」

「フランスが脱出させた?」

「手を引いてるのが誰かなのかは別として、誰かが脱出させた可能性は高いんじゃないですかねぇ。惨殺死体とかが上がるとやっかいですけど」

「まだこちらは北海なんですけど本当にカリブ海方面に進出するんですか?」

「えぇ。おそらくはするはめになるかと」

 

 そこまでノンストップで会話が進んだが、もえかが横を睨んで間が開いた。

 

「高峰教官、貴女は誰の味方なんです?」

「面白い質問ですね」

 

 青葉はそう笑った。口の端には軽薄な笑みが張り付いている。

 

「日本国の味方ですよ。決まっているじゃないですか。私は国家の端末であり、広告塔であり、刃であり、盾だ。法執行機関とはそういうものでしょう。貴女や私が白だと言っても、国が黒と言えば黒になる。それでも我々はその国の信奉者だ。違いますか?」

「その国が正しいなら、ですね」

「なら正しいと信じましょう。国家に対する正誤判定なんて、個人ではできないんですから」

 

 青葉はそう言って、ジャケットの裾をまさぐった。黒地に金の箔押し風のプリントがされた箱を取り出す。中身を咥え、マッチを片手で擦った。不安定に揺れる赤い炎が整った顔立ちを彩る。炎を振り消すと、マッチ軸をパキンと折り、腕を下ろす動作で海に投げ捨てた。

 

「ブルーマーメイドらしくないですよ」

「そうですかぁ? JPSは英国軍御用達でなじみ深いと思いますけど」

「ポイ捨て厳禁ですからね。海洋汚染のもとです」

「それは気をつけることとしましょう」

 

 もえかはそれには答えず、揺れる紫煙を見つつ、ため息。

 

「それでどうするんです」

「別に、なにも。今回、我々は元々蚊帳の外。オッズが良くても悪くても参加することはない。ただ」

「ただ?」

「テーブルに着いてしまえば話が変わってくる。そして今回に限ってはテーブルについてはいけないんです……そして、校長はテーブルに着かせる気満々だ」

「金鵄友愛塾が動きますか」

「内務省が対策に動いていますが後手に回っています。抑止が間に合いそうもありません。カウンターが精一杯でしょう。内務省の隠し子がカウンター用に『オペレーション・ファーストナイト』を用意中ですが、最後の手段です。いきなりドンパチなんて度胸、今の内務大臣にはありませんよ」

 

 内務省の隠し子とわざわざ伝えてきた。おそらく動いているのはあの人の部隊だ。

 

「初夜作戦とはネーミングセンス壊滅的ですね」

「ナイト違いですよもえかさん。第一騎士です。聖書ぐらい目を通しましょうよ。長いので『ケイローン』と呼んでるみたいですね。知りませんけど」

 

 そういって笑う青葉。空の月が顔を雲に隠そうとしていた。

 

「少なくとも経済産業省と内務省、そして我々インテリジェンス・コミュニティの人間は今回の金鵄友愛塾の行動を良く思っていない。いつぞやのヘスペリデス計画は北条沙苗の首を物理的に跳ね飛ばすことで責任を回避できるからこそ、どこも反論しなかった。今回は違う。すでにトカゲのしっぽは切り落としたんです。もう後がない。その状況で博打を始めた。由々しき事態です」

「内務省は味方とみていいですかね」

「今のところは。巨大官僚組織ですからね。一枚岩ではいられない。人間が管理できる限界は五〇人です。それ以上になれば、一枚岩の運用をすることなど土台無理なんですよ。我々もね」

「……そうならないことを、願うばかりですよ」

「青葉もですよぉ。蚊帳の外のうちに逃げ切りましょう」

 

 おどけて肩をすくめる青葉は煙草を口から離してそれを外に振り捨てる。

 

「携帯灰皿をお持ちください」

「では頃合いをみて買うことにしましょう。部屋からアルミ皿を持ち出すのは面倒ですから」

「とりあえずのところ、晴風は道草をせず走り抜ければいい、という形ですね」

「えぇ、脇目も振らずに、ね」

「わかりました。では、そのように」

 

 そう言って会話が途切れる。脱衣所の方から明るい声がする。きっと中での話も終わったのだろう。

 

「さぁ、仕事に戻りますか。英国気象庁から情報が入ってますよ。強い低気圧が発達中とのことです。今晩は穏やかですが、明後日あたり時化(しけ)るそうです」

「わかりました、青葉教官。無理はなさらず」

「あなたもです、もえかさん。風邪にお気をつけて」

 

 手をひらひらと振って青葉が去って行く。もえかは小さくため息。

 

「あ、もかちゃん」

 

 声が掛かって笑ってそっちをむく。室内着兼用のジャージに湯冷めをしないように羽織ったジャンパーを揺らし、明乃が笑い返してくる。その後ろについてくるのはコンスタンツェだ。髪をタオルで包んでいるせいか、印象がすこし変わる。

 

「どうしたの、なにかご用事?」

「用事ってほどでもないけど、ミケちゃんがちゃんとお姉ちゃんしてるかなって……」

「明乃さんがお姉さん、ですか……っ!?」

「あはは、タッツェちゃんみたいな良い子ならいつでも歓迎だよー」

 

 そう言って明乃が笑った。

 

「天候情報のノーティスがあがってる。明後日ぐらい時化るって」

「わかった、明日朝一で用意しよう。私のタブレットに情報共有しといてくれる?」

「もうしてる」

「さっすが参謀殿、仕事が早い」

「もう、ミケちゃんったら……」

 

 ひたひたと何かが近づいてくるような、嫌な空気を押し隠すように、もえかは背筋をそっと伸ばした。

 

 




……ミケちゃんがお姉ちゃんしてるところがみたい! という今回でした。お楽しみいただけましたでしょうか。

次回からいよいよ、晴風は大西洋へ。そしてカリブ海へと進みます。ミケちゃんやタッツェちゃんの未来はいかに……

ランキング入りありがとうございます。これからも頑張って参ります。

次回 嵐の夜に
これからもどうぞよろしくお願いします。


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ムネモシュネの追憶

一年以上お待たせしました。やっとのことで投稿です。
よろしくお願いします。


 

 

 海は大荒れになった。

 

「うう……」

「タッツェちゃん大丈夫?」

 

 一応ということで着せられた分厚い救命胴衣に胴を締められながら、コンスタンツェ・ヴァイデンフェラーは明乃の声になんとか頷いて答えた。頷いた動きでどこかぐらりと体の感覚が狂うのがわかる。

 

「こんなに荒れるの珍しいよねー、ほんと」

 

 そうのんきに言った西崎芽依が手を頭の上で組んで笑う。その横では山下秀子左舷管制員が海面を睨んでいる。

 

「後続艦のマーカーを確認。距離はしっかり取ってね」

「問題ないから大丈夫。しかもミケちゃん、それ私の仕事だよ?」

「にゃはは、ごめんもかちゃん」

 

 明乃はそう笑いながら右舷側で見張りについている。時は間もなく日没、それに合わせて艦橋の灯りは既に落とされていた。

 

「減速赤5点。谷がくるよ」

 

 明乃が前を見て指示を出した。速力変更のベルが一度鳴り、船体が軋むような音がした……少なくともコンスタンツェにはそう聞こえた。

 

 ドン! という音と共に、暗い船橋の前まで水しぶきが散ってきた。直後にまた船体がゆっくりと持ち上がっていく。

 

「増速黒5点。ようそろ」

「ようそろー……まったく、ひどい波ぞな。この波のせいで予定より南に向かう羽目になるとは……」

 

 舵輪を握っているのは勝田聡子である。特徴的な語尾はこの時でも健在である。

 

「仕方ないよ。五時方向から追い波とかぞっとしないし」

 

 艦隊としての進路を決めている知名もえかがそう言って肩を竦めた。ジャージの上から灰色の救命胴衣を締めた彼女は明乃が波を見ている右舷側を見つつ続ける。

 

「大西洋のど真ん中だから、陸地や暗礁は基本的に無視でいいから少し気が楽かな。続行する舞風ほかの学生艦がはぐれないかが心配かも」

「それよりも波の状況が悪すぎるぞな!」

 

 聡子がそういう間にも明乃が細かく指示を出す。今度は増速黒5点。

 

「明乃さん、こんなに速度上げて大丈夫なんですか……?」

 

 青い顔をしながらコンスタンツェがそう聞くと、明乃は海面から目を離さずに続ける。

 

「速度を落として波に追いつかれる方が怖いよ。波の方が早いと上から波を被るかもしれないし、そうじゃなくてもブローチングで横転とかありえるしね。――減速赤10点。下るよ」

 

 明乃の指示に合わせてスクリューの回転数が下がる。するすると近づいてくる波の谷。舳先がそれを押し避けて、また上りに転ずる。こんどは増速の指示。波の背に長時間とどまれるように速度を調整するのが追い波の時の鉄則だ。

 

「皆さん大丈夫ですか……?」

 

 そう言いながら階下の海図室からの内階段を使って上がってきたのは知床鈴航海長だ。

 

「助かったぞなー! リンちゃんじゃないとこの舵取りは厳しいぞなー!」

 

 半分泣きそうな顔でそういった聡子に鈴は「えぇっ!?」と驚いた表情。

 

「言うほどひどくないよ。ま、警戒は必要だけどさ」

 

 左舷側を見ながら芽依がそう言って笑う。

 

「波もひどいけど、艦長の指示が細くて……。推進系をこんなにガチャガチャしたの久々ぞな」

「そ、そんなにうるさかった……?」

 

 驚いた顔で振り向く明乃艦長。

 

「艦長前見て前!」

「ご、ごめん……!」

 

 直後に外が光った。稲光だ。明乃が目元を庇う。直後に音が聞こえた。かなり近い。半海里も離れていないだろう。

 

「っ! もかちゃん!」

「指示代行します! 増速黒5点!」

「黒5点ぞな!」

 

 明乃のすぐ横にもえかが走りこみ、波間を睨んだ。

 

「ごめん、雷直視しちゃった」

「大丈夫?」

「視界が戻るまでお願い」

 

 明乃は目元を覆ったままだ。その肩をもえかが支え、彼女が波間を睨む。どこか心配そうな顔で芽依が艦長を見ている。その中、唾を飲んでから鈴が聡子の隣に立った。

 

「サトちゃん、変わろう」

 

 それを聞いて聡子が頷く。もえかが視界を前に向けたまま、口を開く。

 

「操艦者の交代を許可します」

「ぞな! これより操艦を勝田航海員から航海長へ変更! 航海長操艦! 進路2-0-5、原速黒5点!」

「受け取りました航海長。進路2-0-5、原速黒5点」

 

 舵輪を受け取り。知床が視線を前に向ける。

 

「……よし、戻った。大丈夫。ごめん、もかちゃん、みんな」

「大丈夫?」

 

 もえかが心配そうな顔をして明乃を覗き込む。

 

「大丈夫! 雷一つで潰れるほど、晴風は弱く、ないっ!」

 

 にかっと笑ってVサインを出してみせる明乃。

 

「操艦交代したね。順次当直を交代。左舷見張りはしゅうちゃんからメイちゃんへ」

「はーい」

 

 秀子とハイタッチして芽依がポジションを変わる。

 

「右舷はこのまま私が見ます。休める人は休んでおいてね。タッツェちゃんも、ね」

「は、はい……」

 

 そう言われよろよろと、立ち上がる。右舷管制のシフトをほとんど明乃に代行してもらってしまった。

 

「嵐を抜けるまで予報だとあと4時間ちょっと、しばらく揺れるけど、気を張っていくよ! 越えられない嵐なんてないっ!」

 

 明乃は笑顔でそう言って前に向き直る。コンスタンツェにはその背中がとても大きく見えた。コンスタンツェの手をそっと取ったのは秀子だ。

 

「それじゃ降りるね。何かあったら呼んでね」

「そのときは伝声管で呼ぶね」

「はーい」

「おやすみぞな-」

 

 そんな会話が交わされて、急角度のラッタルを下る。海図室経由で降りる悪天候時に便利な艦内用のラッタルは無理矢理作り付けたものらしく、揺れる中だと降りるだけでも一苦労だ。海図室から第一甲板のレベルまで降りてきて秀子が大きく伸びをした。

 

「んー、やっぱり悪天候は大変だねー。タッツェちゃんもお疲れ様」

 

 そういって秀子は、コンスタンツェの救命胴衣を彼女からすっぽぬく。艦内にいるならばセーラー襟の裏に仕組まれた膨張式救命具で十分だ。

 

「皆さんすごいんですね……こんな時化た海初めてです……」

「遠洋航海だからできることだよ。陸に近かったらこんなの怖くてできないよ」

 

 秀子は細い目を更に細めて笑った。

 

「晴風のみなさんってこんな海にずっと出てるんですか?」

 

 聡子が笑って手を振った。

 

「そんなことないぞな。数えるぐらい……理由がないと突っ切らないし、大抵突っ切るときはひどい目に遭ってるぞな」

「今回はそんなことなさそうだけどね」

「しゅうちゃん死亡フラグたてるのは止めるぞな」

 

 死亡フラグとは、とコンスタンツェは聞きたくなったが、目の前の二人が楽しそうに話しているのを見ていて、聞くタイミングを逃した。

 

「まぁでも、新橋商店街船とかひどかったもんね……」

 

 秀子が苦笑い。それを聞いたコンスタンツェが顔をぱっと輝かせた。

 

「それってあれですよね! 晴風が沈没しゆく商業船から550名の乗員乗客を誰一人死なせずに助けきったっていう!」

「そ、そんな有名な話なの?」

「当然ですっ!」

 

 苦笑いの秀子に、コンスタンツェは両手を握り込み、一歩前に出てぐいと顔を近づけた。

 

「嵐の中に単騎飛び込んで、傾斜し沈みゆく大型船に危険を顧みずに接近し、晴風に要救助者を全員回収するも、晴風乗員が取り残され、沈降しゆく商店街船から奇跡の脱出を遂げる!」

「そ、そういういい方もできる……のかなぁ……」

「柳教官がミーナちゃんを海に投げ込んだりしてたけど、あれも奇跡に入る……ぞな?」

 

 現場を見てきた秀子も聡子も、その顔にはどこか苦笑いが浮かんでいた。目の前でキラキラした瞳を向けてくるコンスタンツェの夢を壊すのはいささか憚られたのだ。

 

「ま、まぁ……どっちにしても晴風は大丈夫ぞな。ミケちゃんとリンちゃんの悪天候時の鉄板タッグに、もかちゃん参謀、メイちゃんのゴールデンチームで艦橋は安泰。ゆっくり休んでればいいぞな」

「役職付を一番難しい夕闇から夜にかけて固め打ちだもんね」

「はわー。やっぱりすごいです」

 

 タッツェちゃんの感心した声に聡子が吹き出した。講義室(航海中は談話室にもなる)の扉を開けて中に入った。

 

「タッツェちゃんも大概。艦橋に出てまだ一週間経たないで、そこまで動ければ上等の上」

「え?」

「だって、ちゃんと右舷の監視したぞな。それでいいんだよ」

「でも後半は……」

「あれは艦長が過保護ぞな」

 

 ちゃんとできるからやらせてくださいって言っていいぞな、と聡子が笑って言った。

 

「ま、その過保護な艦長が頑張ってる間に、しっかりと休んでおくぞな。次はきっと副長がつくからかなり厳しいぞな」

「――――そんなに私は厳しいか」

「うえっ、副長っ!? いつからそこに!?」

「最初からだが? というより私が休んでいたところに皆が来たんだ」

 

 むすっとしたままそう言う宗谷ましろ。コンスタンツェが軽く頭を下げると、ましろは笑った。

 

「二ヶ月で船のことを学んで貰うには無駄な時間はないからな。多少は詰め込みになる」

「うわー。鍛える気満々ぞな」

 

 聡子はそう言って笑ってから、コンスタンツェの肩を叩いた。そのまま彼女は空いている椅子にどっかりと座り込む。

 

「艦橋は?」

「大丈夫そうだよ」

 

 秀子がそう言って小ぶりなおにぎりを口に運ぶ。大荒れと言うことで、調理室で汁物などの火気を使う調理を避けたのだ。臨時シフトに変更されていることもあり、艦内はどこかドタバタしている。

 

「ならいいんだが……ヴァイデンフェラーは食べないのか」

「ちょっと酔っちゃってて……」

「なら、食べ物の匂いはきついだろう。場所を変えた方が楽かもしれないぞ」

「そう……ですね」

 

 どこか不安そうにそういったコンスタンツェを見て、数瞬だけ黙り込んだましろがガタリと音を立てて立ち上がる。

 

「ヴァイデンフェラー、少しだけ付き合ってくれるか?」

「え? あ、はい……」

 

 コンスタンツェを連れてましろがでていく。秀子と聡子はそれをどこかぽかんとした表情で見送った。

 

「……副長、なんだかんだで優しいよね」

「ぞな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、これ」

「これって……レモネード?」

「日本だと『ラムネ』と呼ぶんだ」

 

 そう言ってましろは笑った。ましろともえかで共有している自室に招かれたコンスタンツェは、渡されたガラス瓶を見てきょとんとしている。二段ベッドの下段、人の身長の半分はあろうかというサイズのサメのぬいぐるみの隣に腰をおろし、淡い空色の瓶をしげしげと眺めた。

 

「乗り物酔いには甘い炭酸水が効くんだ。炭酸のおかげで胃がほどよく膨らむし、血糖値が上がる。お昼をあんまり食べてなかっただろう。食べ過ぎもダメだが、空腹は乗り物酔いを加速させるぞ」

 

 そう言ってましろは自分の分のラムネ瓶のガラス玉を押し込む。吹きこぼれそうになるのを慌てて口に含んで、どこか恥ずかしそうに笑うましろ。コンスタンツェの分もすでにラムネ玉は瓶の口から落とされていて、彼女もゆっくり口に含んだ。

 

「おいしい……」

「よかった。晴風にはラムネ製造機を積んでるから、ラムネだけは飲み放題だ。酔いそうな時には飲むといい」

 

 ましろがコンスタンツェの左隣に座った。

 

「……大丈夫?」

「はい……酔いも大分落ち着きました……」

「そっちじゃなくて」

 

 ましろは笑ってそういった。

 

「思い詰めてるだろう。ギリギリボール判定な答え方でごまかすあたり、艦長にそっくりだ」

「……そう、なんですか?」

 

 コンスタンツェがそういうとましろは頷いてそれに答えた。

 

「艦長はヴァイデンフェラーを早々に追い出しただろう? さっきから雷も鳴り始めたしな」

「えっと……追い出されたのはそうなんですけど……雷が鳴り始めたからというのは……?」

「艦長は雷が怖いんだ」

「……へ?」

 

 予想外の答えが返ってきたのか、コンスタンツェがフリーズした。

 

「嵐の時に艦橋から逃げ出そうとしたこともあった。そのときは目を回して泣きべそかいてたんだぞ」

「想像つかないです……」

「かっこつけなんだ。ヴァイデンフェラーがいるのに泣きべそはかけない」

 

 そう言えば、とコンスタンツェは思い出す。雷が鳴った直後、参謀役の知名もえかがすぐ横に立って、その肩を支えていなかったか。

 

「『わたしがしっかりしないと!』とか『越えられない嵐はないんだもん!』とか『みんながいるから大丈夫!』とか言ってなかったか?」

 

 その声真似があまりに似ていなくてコンスタンツェはくすくすと笑った。その様子を見て、ましろは優しい笑みを浮かべた。

 

「やっと笑ったね」

「そんなに怖い顔してました?」

「まわりが心配になるくらいには」

 

 ましろは、左手に持ったラムネを一口飲む。

 

「……ヴァイデンフェラーは晴風に乗ることを志願したんだったか」

「はい! ぜひ皆さんと一緒に航海してみたくて」

 

 瞳をキラキラさせてそう言うコンスタンツェ。その純粋な好意にたじろぎそうになったましろだったが、なんとかそれを心の奥底に隠した。

 

「乗ってみて驚いただろう。尾ひれがついて英雄視されていた部隊がこんなユルユルな艦だったなんて」

「でも、皆さん動きが速いというか、パッと決めてパッと動いているのが本当にすごいと思います。ミケ艦長なんて、あっという間に動いて、指示をドンドン出しながらみんなを引っ張っていて……」

「ヴァイデンフェラーにはそう見えるのか……少し新鮮だ」

「ましろ副長?」

 

 どこか心配そうな顔をしたコンスタンツェにましろは慌てて『すまない』と謝ってから言葉を続ける。

 

「艦長は……周りが言うほどしっかりした艦長じゃない。呪いを掛けられてしっかりしなきゃいけなくなったんだ」

「呪い……」

「あぁ、人を人魚にする呪い……とでも言うかな」

 

 ましろがラムネの瓶を覗いてそう言うのを、心配そうに見ながらコンスタンツェは黙っていた。

 

「ヴァイデンフェラーはアンデルセンの『人魚姫』を読んだことがあるか?」

「えっと……王子様のところにいきたくて人間になろうとする……」

 

 そういうと、ましろは頷いた。

 

「あれの逆パターンだ。人魚の王子様に憧れた普通の女の子が、水の中で息が続きもしないのに、王子様を追いかけて、全てを捨ててでも人魚になろうとしているような……」

「王子様がいたんですか?」

「王子様って言うには歳を取っていたけどな。柳昴三 二等海上安全整備監……軍隊方式だと少将になるのか。今の青葉教官になる前に晴風に乗艦していた教官だ。晴風を今の色に染め上げたのが彼だ」

 

 (he)という代名詞が出てきて、コンスタンツェは驚いた。

 

「ブルーマーメイドの船に男の教官ですか?」

「そのときは私も驚いた。でも……彼以外が教官だったら、晴風の誰も生き残れなかったかもしれない」

 

 天井を見上げるましろ。

 

「柳教官は今の艦長を武闘派にした感じだった。私達だろうが上層部だろうが、政治家だろうがなんだろうが、邪魔するものを経験と理屈で無理矢理押さえつけ、最短距離を最速で駆け抜け、最適解を提示した。指示の早さと的確さと艦長の比じゃない。彼以外が教官だったら、今の晴風はないし、艦長はあんなことにはなってない」

「そうなんですか……?」

「艦長は柳教官の見えない背中を追っている。ブルーマーメイドになるために、全てを切り捨てた」

 

 コンスタンツェの頭にぽんと手を乗せたましろ。

 

「そんな艦長にできた初めての後輩なんだ。かっこつけたくもなるのさ。でも、艦長は普通の女の子なんだ。普通に接してあげてくれ」

 

 そういうましろにくすりと笑って、コンスタンツェは彼女の手に触れる。

 

「副長さんはミケ艦長のことが大好きなんですね」

「なっ……!? なんで今の話でそうなる!」

「だって、ミケ艦長のことをよく知ってます。ずっと見てないとそんなこと言えません」

 

 指摘され顔がどんどん赤くなるましろ。

 

「副長としてつ、付き合っているだけだっ! 上官をからかえるくらいに回復したなら話はおしまいだ!」

「はいっ! 副長どの!」

 

 ベッドから半分飛び降りるようにして立ったコンスタンツェ。

 

「ラムネ、ありがとうございました。それでは、おやすみなさい!」

「おやすみっ!」

 

 最後は半分大声で叫ぶようにして敬礼を交わし、キビキビと部屋を出て行くコンスタンツェ。顔は終始笑っていた。

 

「まったく……」

 

 部屋に残ったましろは大きくため息をついた。

 

「大好き、か……。指摘されると恥ずかしいな」

 

 『大』がつくかどうかはわからないが、好意は自覚している。それでもこうごまかしてしまうのは、なぜだろう。

 

「……それに、アレに勝たないといけない上に、本丸が船に恋するお年頃で……一体どうしろと」

 

 調子の悪そうな後輩を気遣うだけのつもりだったが、当のましろが眠れなくなりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして数時間後、それでもしっかりと寝ておくんだったとましろは後悔するはめになった。

 

 大きな波が大分収まってきて、やっと微睡みはじめたタイミング

 

 晴風の無電が救難信号を捕らえ、警備救難行動準備態勢が敷かれたのだ。

 




……いかがでしたでしょうか。

こちらの更新は一年以上お待たせしました。申し訳ありません。

言い訳をさせて頂くと、仕事がひどかったり、昨年の豪雨災害対応でてんてこ舞いだったり、仕事が大変だったり、仕事が大変だったりして、いろいろと生活に支障をきたし、引越やら退職やらで対応していた結果、こんなことになりました。

今は転職活動しながらゆるりとできているので更新を再開いたします。

お待ち頂いた方、大変申し訳ありませんでした。これから更新していきますのでよろしくお願いします。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


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アストライオスは彷徨う

 

 

「遅くなった! ごめんっ! 変なことってなに?」

 

 岬明乃が艦橋に飛び込んだ。艦長室に居候しているコンスタンツェも一緒だ。舵輪を握っているのは一足先に艦橋に到着し操艦を内田まゆみから引き継いだ知床鈴航海長だ。艦橋には機関科を除く各科長、砲術長の立石志摩、水雷長の西崎芽依、主計長の等松美海に書記の納沙幸子が詰めていた。もえかもましろも間もなくくるはずだと幸子から連絡を受け、明乃は周囲に目を向ける。

 

「速力かなり落としたよね。もしかして艦隊のどこかに異常?」

 

 艦長を示す三本線の入ったヘルメットのあごひもを締めつつ、当直についていた納沙幸子に目線を送る明乃。幸子はタブレットに目を落とす。ましろもこのタイミングで到着。

 

「学徒艦隊は全艦無事を確認しています。舞風の右舷側のガラスが一枚割れた程度です。……12分前に極微弱な救難信号を受信しました」

「救難信号? データリンクで送られてきたってことだよね。他のブルーマーメイドに転送は?」

 

 明乃はそう言ってレーダー画面を見る。レーダーマーカーを確認近隣の艦船の位置をザッピングするが、他に船の反応はない。ピンチアウトで倍率を下げ、広域図に切り替える。

 

「えっと……、そうなんですけど、そうじゃないんです」

「どういうこと?」

 

 すごく言いにくそうに幸子が口を開く。

 

「国V経由で緊急データリンクを受信したんです」

「こんな海のど真ん中で!?」

 

 明乃が素っ頓狂な声を上げて、レーダー画面を操作する。今度は逆方向、ズームだ。

 国Vは国際超短波(V H F)通信を示すスラングであり、超短波は基本的に水平線の向こう側まで届かない。晴風は旧式の駆逐艦ベースであり、通信マストの背も高くないために通信可能範囲は晴天かつ穏やかな海でも精々30海里程度に収まる。

 

 そんな電波を用いて救難信号が飛んできた。

 

「艦隊各艦との位置関係を確認! 全艦通達、全周見張りを厳に、漂流物や小型船舶との接触に警戒! ココちゃん、各艦に異常な振動や衝撃が無かったか確認!」

「はいっ!」

 

 明乃の中で最悪の可能性が頭に浮かぶ。艦内通信に手を掛けた

 

「達する、晴風総員、警備救難行動準備態勢。繰り返す、警備救難行動準備態勢。スキッパー・内火艇展開用意。二五海里以内で救難信号が出ている可能性大! 光源、浮遊物、海面着色剤、なんでもいいからなにかあったらすぐに教えて!」

 

 明乃の顔がどんどん青ざめていく。

 

「タマちゃんごめん。マッチに見張り台に上がるように連絡してくれる?」

「うい!」

 

 志摩がOKサインを出してから艦橋を飛びだしていく。それを見送ってから芽依が神妙な顔で艦長の方を見た。

 

「やっぱり艦長も『轢いた』と思う?」

「……最悪の可能性から潰していこう。VHFで反応が極微弱……たぶんまだ距離があると思うけど、発信元が携帯型無線機(ハンディ機)で長時間使用している可能性もある」

 

 船乗りにとって、海上での衝突事故はもっとも考えたくない悪夢だ。晴風は小型艦といわれるが、それは『軍や法執行機関の外洋運用可能な艦船の中では』という前提が隠れている。プレジャーボートや木造の小型船舶と接触しても、晴風クラスならそれを押し潰しながら航行することも可能だ。

 

 明乃の頭の中を様々な可能性が駆け巡る。伝声管の一つに手をかけた。

 

「つぐちゃん。データの起こしを共有してもらっていい?」

『了解しました』

 

 すぐに全員の携帯が同時に音を立てた。チャットで入ったのは無線の電子情報の書き起こしだろう。それをすぐに見て目を細めたのはましろだ。

 

「アーバレストⅡ、これが船名だな」

「『石弓2号』……強そうな名前ですね。客船ではなさそうですが……」

 

 コンスタンツェがそう感想を述べるが、明乃は黙ってその情報を目で追った。

 

「緯度経度の情報はなし……か」

「多分イーパブじゃなくて、救命ボートとかに積まれてる小型のサブじゃないかな」

 

 芽依がそういう。大型船ならば積んでいるE-PIRB、非常時(Emergency)位置情報(Position Indicate)通報装置(Radio Beacon)ならば位置情報もまとめて送信される。それがないということは、誰かが通信機を国際VHFに会わせて手動で発報した可能性が高い。

 

「つぐちゃん、シーロンス・メーデーを宣言して。当該チャンネルを保護、他の通信に割り込ませないように」

『了解です。シーロンス・メーデーを宣言します』

 

 救難のための沈黙(シーロンス・メーデー)は他の艦船に対して、救難活動終了まで特定のチャンネルの占有を宣言すること――――すなわち救護能力のある船舶が救難活動を開始したことを意味する。

 

「これより本艦及び学徒艦隊は捜索救難(SAR)を……」

「――――ちょっと艦長さん、焦りすぎじゃないですかぁ?」

 

 そういいながら艦橋に顔を出したのは、高峰青葉教官だった。タブレットを片手にどこかひょうきんにパチンとウィンクを送る。その後ろからジャージ姿の知名もえかも苦笑いを浮かべながら現れる。

 

「そういうのは教官に指示を仰ぐのが先です。ま、捜索救難プロトコールの開始はすぐ許可しますし、大いに結構なんですが、もう少し落ち着きましょう。貴女の過去には触れませんが、同一視するのもまた危険です。もか参謀が私を起こしに来てくれたのは納沙さんが知ってますし、納沙さんも止めましょうね。独走が過ぎるのは晴風を危険にさらす」

 

 そういいながら青葉は舵輪のそばにあるコンソールにゆっくりと歩み寄る。

 

「大体の状況は把握してますし、艦長の指示も聞いていましたが、単純な遭難と決めつけるのは早いんじゃないですか? ここは英領バミューダの東南東380キロ、おあつらえ向きにバミューダトライアングルのすぐそば、何が起きても不思議じゃありません」

「ま、まさか亡霊によるものが……!」

「はいはい。亡霊ならまだいいんですけど、それよりもヤバいのは海賊ですかね」

 

 エキサイトしそうになった幸子に青葉は釘をさしつつ、画面を操作。呼び出したのはおそらくデータリンク形式の通信画面だ。それをタブレット端末と連携させる。

 

「アーバレストⅡで艦船登録データベースに検索を掛けました。3隻ヒットで現存は1隻です」

 

 青葉はそう言ってタブレットを放り投げる。慌ててキャッチした明乃が画面を覗く。

 

「英国船籍、ハンディマックスサイズのばら積み貨物船(バルクキャリア)です。積貨重量トン数(D.W.T)は4,200。こんな重量の貨物船にぶつかれば晴風の艦首がへし折れますから、晴風がアーバレストⅡを撃沈せしめた可能性は除外でいいでしょう。問題はこの船が2年前に海賊に襲われており、今の今まで行方不明になっていることでしてね」

「か、海賊……?」

 

 舵輪を握る知床鈴が既に涙目である。

 

「よくあるんですよ。船を中身ごと奪って、船名を書き換えてから闇ルートでパナマかどこかに船籍を移し替える手口。何食わぬ顔で別の船として悠々と港に出入りして、中身が空になったら船自体も鉄くず屋に売り払う。アーバレストⅡはたぶんその手口で2年間姿を消していた。救難信号を出しておけば、のこのこ出てきたお人好しの船に乗り移って船ごと乗っ取るなんてこともできるわけです」

 

 ね、簡単でしょ? と笑う青葉。

 

「相手はこんな大海原の態々国際VHFなんて怪しいものを使っている相手です。なにが飛び出すかわかりませんよ」

「それでも助けないことは許されません。救難信号が出ている以上、それを助けるのはブルーマーメイドの責務です」

「それはその通り。正義の味方の私達は大手を振って助けに行きましょう。ですが、それなりの対策が必要です」

 

 青葉はそう言ってポケットを漁る。

 

「救助要員は武装を携行させるように」

 

 ポケットから出てきたのは個人携行用武装保管庫の鍵だ。明乃は一度目を閉じ、静かに息を吐いてから、目を開ける。コンスタンツェは明乃の表情を見て、一瞬びくりと肩を揺らした。これまでの彼女から印象が変わったように見えた。

 明乃はその鍵を受け取ってから口を開く。

 

「これより本艦は捜索救難プロトコールを開始します。海上浮遊物への警戒を厳に。武装勢力による欺瞞信号の可能性も考慮し、威嚇射撃等に備え、架台へ機銃の設置を。対象船舶の救難等の対応については、私が直接指示を出します」

 

 それを聞いたましろが頭を抱えた。武装の話が出るとこれだ。明乃はまた飛びだしていく気だ。

 

艦隊運用管理(スコードロンプロバイディング)担当教官(オフィサー)として承認します。あと、艦橋での指示は私も手伝いますよ。さすがに生徒に犯人を狙撃しろとは言えませんから」

「青葉教官、狙撃できるんですか?」

 

 驚いたように明乃が言えば、指鉄砲を作ってみせる青葉。

 

「これでもバイアスロンで国体出場経験アリの実力者ですよ。さぁ、用意をして迎えに行きましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……学徒艦隊が?」

『はい、バミューダ諸島の沖合で英国船籍バルクキャリア、アーバレストⅡ号の救難信号を受信、捜索救難(SAR)プロトコールを開始したようです』

 

 部下からの報告を携帯電話で聞きながら、柳昴三は窓の外を流れるビル群を睨む。

 

『現地の天候は現在回復傾向、捜索救難には問題なく、現在晴風を中心に行動中とのことです』

「現地の高峰教官は?」

『救難信号の発信元が不審なため、個人武装の携行許可を出した、と』

「妥当なところだな。いいだろう、了解した。英国のブルーマーメイドにも通報を入れておけ。やつらにも情報を与えておいた方がいい。後々義務を怠ったと言われても面倒だ」

『はっ、了解いたしました』

 

 それだけ交わした後、通信が途切れた。

 

「……英国も質が落ちたな」

 

 そういった彼はそういって嘯いた後、別の番号をコール、通信回線を開く。

 

『……はい、JLnTグループ、保険デスク窓口です』

「そちらの会長につなげ。私が誰だかわかっているはずだ」

 

 英語で淡々と告げれば、お待ちくださいとだけ返して、電話口の受付嬢の声が消えた。

 

『……君からの連絡は悪い兆候ですね』

「ジェームズ・ボンドのお国が聞いて呆れる。どういうつもりだ」

(ヒーロー)のアクションはフィクションだ、ミスター』

 

 電話口の向こうの男が低い声でクツクツと笑った。

 

『それに007が必要ならハリウッドに聞いていただきたい』

「私の子ども達がアタリを引いたぞ」

 

 笑えもしないジョークを続ける男の話を切り捨て、柳は話を切り出した。

 

『……それはそれは。おめでとうございます』

「どうもありがとう。見事なイギリス人(ローストビーフ)だな、ミスターロイド。それで、どうする気だ」

『どうぞお好きに』

「それは有り難いね」

 

 そう言って柳は小さく笑みを浮かべた。顔だけでも笑っていなければ正気を保てそうになかった。

 

「さすが紳士の国、狐狩りは由緒正しい伝統というわけだ」

「レディーファーストも紳士の国の伝統ですよ。それに、今は狐狩りより鶏投げの方がブームでしてね。皆それに興じています」

 

 レディーファースト、目の端にここにいない女性の影がちらつく。

 

「なるほど、景気よく棍棒をフランス(おんどり)に投げつけるのは楽しそうだ。女王陛下の機嫌を損ねないことを願っているよ」

 

 電話口の向こうで男が笑った。

 

『我々は秘密情報局(MI6)ではありませんよ。我々はあくまで保険請負人(アンダーライター)であって、政府がどう動こうと、軍がどう動こうと関係がない。無論、海洋大国の片翼を担う親愛なる日本国ブルーマーメイドがどう動こうとも、です』

 

 諜報機関の隠れ蓑(ダミーカンパニー)がぬけぬけと、と思えども、柳は口に出さなかった。

 

「たしかにその通りだ、ミスターロイド。……あぁ、そうだ、ついでに聞いておきたいんだが」

『なんでしょう』

「新橋商店街船の海難保険、再保険の請負人はあなただったようですね」

『まったく、ひどいことになったものです。おかげで私は大損です』

「なるほど、……その財産を目減りさせないことを祈って、一つだけ情報を。……カリビアン・エナジー・グループがもっている海上油田の事故に関する保険契約書(スリップ)が飛び交っているかと思いますが、どうぞお気をつけて」

『どういう意味でしょう』

「保険の調査がしっかりしたものでない可能性があります」

『貴重な意見ですね。どうもありがとう』

 

 そうして通話が切れた。運転席の男の目とルームミラー越しに合う。

 

「泣き別れですか」

「金鵄に丸め込まれてるぞ。情報で出遅れている」

 

 黒い革の座席に背中を預けた柳。朝の通勤ラッシュがそろそろ終わろうかというタイミング、フロート都市を飛び石のように飛び抜ける首都高速の車窓は退屈だ。

 

「英国と日本で海洋国の覇権争いをしてきたわけです。戦っても痛み分けですよ」

「そのはずだったんだがな、どうやら英国に頷かせるなにかがあったらしいな。秘密情報局(SIS)がカストリー公を見失ったのもブラフだろう。おそらくわかってて情報を封鎖した」

「やはりアーバレストⅡ号に乗っているのはアレなんですか?」

「それ以外あるまい。……くそ、否応なく晴風が鉄火場に突っ込むぞ」

 

 頭を掻いた柳は携帯を取り出したが、すぐにしまった。

 

「英国は金鵄寄り、フランスはこちら寄り、……アメリカがどう出るか、か」

「ですね。ドイツ艦隊は元から金鵄側です。今の元帥とチャンネルがあるのが救いですが」

 

 運転主の声に柳はため息をついた。

 

「……アメリカとの戦争は勘弁願いたいがな」

「私もです。急ぎましょうか」

「頼む」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「万里小路さん、ごめんね、よろしくお願い」

「海賊かもしれないとのことですから、用心に用心を重ねますわ」

 

 いつもの制服の下にこれでもかと防弾板を着こんだ岬明乃がそう申し訳なさそうに言えば、同じような恰好をした万里小路楓が笑った気配がした。スキッパーのスロットルを握る明乃は、後部席に座る彼女のその顔をのぞき見ることができない。スポーツ用のサングラスのような情報統合表示装置(インフォメーション・イルミネータ)が目をおおっている。

 スキッパーがエンジンの音高らかに接近する。

 

「こちらはブルーマーメイドです! 大丈夫ですか!」

 

 明乃が拡声器を用いて見つかった救命ボートに接近する。

 

『晴風艦橋より、はれかぜ2号、高峰教官が狙撃できるようにいつでも待機しています。タマさんも機銃銃座で待機中です』

「あれ? タッツェちゃん? タッツェちゃんが無線担当?」

『ココさんが映像とか情報の解析に入っているのでお手伝いしてます』

「わかった。ありがとうね」

 

 スロットルを緩め、一度救命艇の周りを周回する。夜明け前、サーチライトで照らされた救命艇のオレンジの塗料が眩しい。

 

「全天候型の重力落下式の救命艇……」

「中に武装集団がいたら厄介ですね」

 

 万里小路の声を聞いて、明乃はうなずくに止めた。

 

「……いこうか」

「はい、艦長」

 

 入り口のそばにスキッパーを寄せる。

 

「万里小路さん、私がいく」

「でも、艦長……」

「大丈夫。万里小路さんもスキッパーを真っ直ぐ走らせる位はできるでしょ? このために私がこれを持ってるんだし」

 

 そういって腰の横を叩く明乃、腰のベルトに差したのは合成樹脂製のホルスター。中に入っているのは六連装の回転式拳銃だ。

 

「スキッパーの上で待機して」

「わかりました」

 

 明乃がそう言ってスキッパーから救命艇に乗り移る。

 

「大丈夫ですか! ブルーマーメイドです! 助けにきました!」

 

 英語で叫ぶようにそう言って、どんどんと救命艇の扉を叩く。

 

 耳を救命艇の壁に寄せようとして気がついた。救命艇にはあるはずのないものが入り口につけられている。

 

「……こちら明乃、救命艇外側に南京錠、扉が封鎖されてます」

「どういうこと……でしょうか?」

 

 万里小路が戸惑ったような声を上げた。救命艇は文字通り命がけの時に使われるものだ。いたずら防止ということで施錠する可能性はなきにしもあらずだが、海上に降りているということは、中に人がいるはずなのだ。外側から施錠されていることは通常ならあり得まい。

 

「……」

 

 明乃がホルスターから拳銃を取り出す。

 

「錠前を破壊してドアを開放します。総員警戒」

『こちら艦橋青葉、錠前の破壊のための発砲を許可します』

「許可確認しました、発砲します」

 

 明乃がドアを撃ち抜かないように、ドアの横から拳銃を向ける。ドアの前にスキッパーがいないことを確認、射線上の安全を確認し、引きがねにゆっくりと力を掛ける。

ドン、という大きな音と共に錠前が吹き飛んだ。間髪入れずに外開きのドアを引き開けた。

 

「わっ」

 

 中から小さな悲鳴が聞こえる。子どもの、声。

 ハッとして明乃はホルスターに拳銃を叩き込む。

 

「そのまま待機!」

 

 通信にそう残して中に飛び込んだ。中の様子を見て、息を呑む。

 様々な体液で饐えた湿度の高い空気の中、メイド服のような恰好をした女性の頭を抱く、小学生くらいの少年。もともとは仕立てが良かったであろう白い襟付きのシャツ、真冬だというのに、ベージュ色の半ズボンをサスペンダーで吊っている。短く切りそろえた金髪も薄汚れて見える。その怯えた蒼い目が明乃を見ていた。

 

「来るなっ!」

 

 その男の子の手にあったのは子どもにはあまりに大きい拳銃だった。

 

「大丈夫、なにもしないよ」

 

 笑ってから明乃は両手を上に上げる。

 

「誰だアンタは」

「ブルーマーメイドの岬明乃といいます。日本から航海中にこの救命艇を見つけたので助けに来ました。……シャワーも暖かい食事もベッドも用意してる。できればその女の人の手当もしたいんだけど、いいかな?」

 

 落ち着いてそう言う。インフォメーション・イルミネーター越しに、皆にも情報は共有されているはずだ。

 

「武器を持ってるか?」

「持ってるよ。左の腰のホルスターにピストルが一つ」

 

 そう言ってホルスターが見えるようにする。

 

「外そうか?」

「……」

「大丈夫、味方になるよ」

 

 男の子はそれを聞いても黙っていた。しばらくして、男の子が拳銃を下ろした。

 

「……変なことをしたらぶっ殺す」

「おっけー、じゃあ、ついてきて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まぁ、こうなりますか」

 

 青葉はそう言って狙撃銃にセーフティをかけて姿勢を解いた。

 

「シーロンス・メーデー収束を宣言。晴風以外の警備救難体制を解除。晴風は要救助者2名を収容、警戒はまだ解かないようにね。納沙さん、至急風呂の手配と医療室の用意」

「わかりました」

「やれやれですよ、とりあえず事後処理に入ります」

 

 青葉はそれだけ宣言して艦橋の外に出る。もえかの横を通るとき、わずかに口を開いた。

 

 

 

――――――最悪の展開ですよ。

 

 

 

 夜明けまではまだしばらく時間がかかりそうだった。

 

 

 




物の見事にインフルエンザの熱の間に原稿を一つ間違えて消し飛ばしてた作者です。あわてて書き直しました。

……いかがでしたでしょうか

さて、怪しいショタが来ました。晴風の命運はいかに。


次回から新章、カリブ編です。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。



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ウィツィロポチトリの誕生
ヤカテクトリの旅路


今回から新章開始となります。よろしくお願いします。


 

「えっと、これはどういうことなのかな?」

 

 明乃がなんとか作った笑みがどこか痙攣したようにピクリと歪んでいた。その後ろではましろが盛大に頭を抱えていた。脱衣所の熱気が漏れないようにと扉を閉めているが、既に室内はやかましい。

 

「文句はこのすっとこどっこいに言ってくれい」

 

 目の周りにアザを作った柳原麻侖がそう日本語で言ってぷいと横を向いた。その動きで彼女の明るい色合いの髪から水飛沫が散った。Tシャツと短パンを身につけているものの、それは物の見事に濡れて肌に張り付いている。

 

「このチビが無理矢理湯を張ったバスタブに僕を沈めて殺そうとしたんだ! あんな煮え湯に入ったら死んでしまう!」

 

 僕は被害者だ! と、どこかなまりのある英語で叫ぶのは先ほど救助した少年である。その彼は晴風搭載の災害対応備品セットの中から発掘された大人用のアルミ蒸着済み非常用ポンチョを頭から被っているせいで、お化けの仮装もかくやという風貌だ。彼の着ていた服は既に等松美海によって洗濯機に叩き込まれていることと、男の子向けの子ども服なんて晴風には積まれていなかったせいである。

 

「あー……なるほど」

 

 納得顔は明乃に付いて歩いているコンスタンツェ・ヴァイデンフェラーだ。前に機関長に連れられて熱い風呂に入った時の事を思い出し、それをふるふると頭を振って追い出している。

 

「風呂とはそういうもんでぃ! 江戸っ子の気概をバカにするんじゃねぇっ!」

「英語で話せよ! 女のくせに小さいおっぱい!」

「あ゛ぁ゛ん゛!? なんか罵倒されたのはわかるぞ! 喧嘩は買うのが心意気っ!」

「そこまで!」

 

 いきなり取っ組み合いの喧嘩になりかけたタイミングでましろの雷が落ちた。麻侖には容赦なく拳もついてきた。

 

「機関長は保護対象に、それも子ども相手にムキになるな。そして、少年も少しは口を慎みなさい」

 

 英語で諭したましろを、カッと睨む少年。

 

「お前、カストルノー准男爵に対して無礼だぞ」

「……それは失礼しました、()男爵殿」

 

 ましろはそう一礼するが、子どもにもわかるぐらいに形だけの礼をした後、明乃の方を横目で見る。

 

「それで、どうします? アケノ・フライフェルン・フォン・ミサキ・レーヴェンシュタイン」

「いっ!?」

 

 いきなりましろが明乃のヴァイマル・ドイツ貴族としての正式な名乗りで呼び始めて、呼ばれた明乃が素っ頓狂な声を上げる。

 

「こちらの初代ミサキ・レーベシュタイン卿アケノ()()を困らせるようであれば、いくら私が平民の身分とはいえ黙ってはいられません。そもそも海の上では貴族だろうと乞食だろうと関係ないんですよ」

 

 そういいながらしゃがみ込んで少年と視線を合わせるましろ。

 

「君の扱いはこの船の長であるアケノ男爵が決めることになります。それで、どうしますかキャプテン」

 

 明乃を見上げるましろの顔は真面目を決め込んでいるが、それなりに一緒に船を動かしてきた明乃には分かる。目元が笑っている。どこか試すような、期待するような目線。

 

(しろちゃん楽しんでるよね!?)

 

 あとでしろちゃんとしっかり話そうと決意しつつ、明乃は口を開いた。

 

「えっと……私達はとりあえずあなたの敵じゃないし、害を加える気は無いんだ。ちゃんと最寄りの港までつれていくし、必要なものは揃えられる限り揃える。なんちゃって貴族が乗ってる変な船に乗せられて大変だろうけど、数日間は一緒に船に乗ることになるだろうから、仲良くできるとうれしいな」

「……だ、そうだ」

 

 肩を竦めたましろが笑って少年の頭に触れた。

 

「そんなに無理して威張らなくても大丈夫だ、少年。君が何者であっても、何者でなくても、私達“晴風”は君を一人の尊厳ある人間として扱う。……機関長の非礼は晴風を代表してお詫びしよう」

「……なれなれしくするな」

 

 パシンとその手を払った少年。その行為すら笑って、謝るましろ。悪者扱いされた麻侖はどこか不満そうだが、なにも言わなかった。

 

「さて、一緒に漂流していた女性も心配ないようだし、暖かいものでも飲んで身体を温めてから少年も少し休むといい。日が昇って目が覚めてから君の話を聞かせてくれ。その頃には服も乾いているはずだ」

 

 ましろが少年の手を取ってゆっくりと連れ出す。どこかぽかんとして見送った明乃。

 

「しろちゃん、あんな振る舞いできるんだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーん、どうしようかな……」

 

 夜明け前、伊良湖美甘給養長は悩んでいた。朝食に特別メニューを追加しなければならなくなったのである。

 

 理由は当然、救助した少年と女性の食事の追加である。その二人は最寄りの港まで運ばなければならず、最寄りの港まで巡航速度で航海すると48時間以上かかる計算だ。それまでは半分お客様としてこの艦に乗ることになり、当然食事も提供する。

 

「せっかくだから美味しいって言ってもらわないとだけど……女性の人、メイドさんみたいだったし、男の子も貴族様らしいしなぁ……下手なものつくれないし……そもそも消化がいいものじゃないと胃が受け付けないかもしれないし……」

 

 身体の保温とあったかいものが入り用とのことで、慌ててわかめと油揚げのお味噌汁を作り提供したが、給養長として顆粒だしに甘んじたあたり不満が残る。アレがこの晴風の味だと思ってもらってはプライドが許さないのだ。

 

 名誉挽回、汚名返上のリベンジマッチの機会が1時間半後に控えた朝食である。乗組員の朝食については給養員の杵崎姉妹に預けてあるし、朝食はそもそも三人のうち二人が持ち回りで作るのが基本だから、人員的には余裕がある。

 

「……うーん」

「ミカンちゃん、悩み事?」

 

 杵崎ほまれがキュウリの浅漬けと梅干しを小皿に盛り付けながら笑う。

 

「ほっちゃん、風邪の時とか、体調悪いとき、いっつも何食べてた?」

「そうだねぇ……私はおうどんかなぁ。素うどんでもいいけど、長ネギを塩コショウとごま油で焼いて乗せるのが好き。だしメインで薄味に仕上げてつるつるって」

「あーそれもいいね。あっちゃんは?」

「うーんとねぇ」

 

 大量の白米を研いでいた杵崎あかねが一瞬手を止めた。

 

「梅かゆは母さんによくつくってもらったけど、クリームシチューが一番かなー」

「あかねはシチュー大好きだもんね」

 

 ほまれが漬物セットにラップをかける。そのタイミングで調理室の扉がノックされた。

 

「はーい」

「あの、ヴァイデンフェラー学生、入室します!」

 

 聞こえてきたどこかつっかえつっかえの日本語に、職員室じゃないんだから、と半分苦笑いでドアを開ける美甘。

 

「Hallo, Konstanze. Was ist denn los?」

 

 ドイツ語に切り替えて美甘が言えば、ドアの向こうで立っていたコンスタンツェがすこしホッとした様子で笑った。

 

「Guten Morgen, Mikan. Ich möchte diese Suppenschüsseln zurückgeben」

「Danke die Mühe! Ich werde sie erhalten.」

 

 ドイツ語でのやりとりに疑問符を浮かべるあかねとほまれ。振り返ってそれに気がついた美甘が笑う。

 

「お味噌汁の汁椀を返しにきてくれたんだって。ちゃんと空っぽになってる。よかったぁ」

「あ、うん……それより、ミカンちゃん本当にドイツ語上手になったよね……」

「あーそっか、ごめんごめん。Hi Tanze, let’s speak in English here. They’re not good speaker of German.」

 

 英語に切り替えて話し出す美甘、その切り替えの早さに驚いたのはあかねだ。給養長ってこんなに語学堪能だったっけ。

 

「Okay, I’m sorry Akane and Homare. I came to return that ……Suppenschüsseln? Suppenschüsseln……」

「‘Soup bowls’?」

「Yes, Soup bowls. Thank you, Mikan」

「No problem. And ‘Suppenschüsseln' are called ‘Owan’ or ‘Shiru-wan’ in Japanese. If you come to cooking team, maybe you’ll use them often.」

「なんだかミカンちゃんが遠いところに行っちゃった感じ……」

「うん……」

 

 ほまれの声に頷くあかね。なにやら英語で食器トークになっているらしい。杵崎姉妹は会話に加わるのを諦めて、手を動かすことにした。

 あとで謝っておこうと思いつつ、美甘は再度ドイツ語に切り替えてコンスタンツェに声をかける。

 

「ところでタッツェちゃんは体調悪いときよく食べたものとかある?」

「あ、ドイツ語でいいんですね。すいません、なんだか気をつかわせてしまって……」

「いいのいいの、気をつかうのは先輩の仕事なのです! だから気にしないで」

「ありがとうございます。……それで、体調……あ、助けた男の子の?」

「そうそう。今日の朝食なんだけど、あの子は和食より馴染みのある洋風の食事(ウェスタンスタイル)の方がいいかなって。でもあんまり洋食は作り慣れてないんだ」

 

 美甘は業務用冷蔵庫を開けて中身を改めて確認しながら続ける。

 

「それで、洋食ネイティブのタッツェちゃんの知恵を借りられないかなって思ったんだけど」

「でもフランス風の味はわからないから……あの子の口に合うかは……」

「あ、男の子フランス人なの?」

 

 冷蔵庫の奥を覗き込みながら、美甘が聞く。

 

「直接聞いたわけじゃないですけど英語はひどいフランスなまりだったので……」

「そーなんだ。まぁでもドイツ風料理の方が和風料理よりまだなじみ深いと思うから、是非教えてくれると助かるな」

「うーん……ドイツでは……というよりママはですけど、定番はコーラとアイスクリームです」

「うーん、身体が冷えるのはまずいかも」

「ですよね……」

 

 予想外の答えに面食らう。確かにアイスやラムネはストックがあるが、朝食にはナシだろう。

 

「あとは……チキンスープとか、トマトスープはお医者さんも勧めてます。パスタを入れることもあります」

「なるほど、スープなんだね、風邪の定番料理って。……あ、そういえば」

 

 隣の冷蔵庫を開けて、ガラス製の密閉容器を取り出す。

 

「それって……」

「昨日嵐で海が荒れなければ晩ご飯で使うはずだった晴風特製の自家製鶏ハム。これちょっと使っちゃおう。煮汁がブイヨン代わりになるし、人参と玉葱もあるし、ショートパスタは……」

 

 今度は棚をあさりだす美甘。

 

「うん、ペンネがあった。ナポリで買っておいて正解だったー。……バジルと、粉チーズもあるし……よし、チキンスープは作れる!」

 

 そういって笑う美甘。壁に掛けてあったエプロンを取り、パッと身につけ、三角巾で髪を手早くまとめる。

 

「タッツェちゃん、ホント助かったよ。ありがとう」

「私も手伝います! 料理はママのを手伝ってたので少しなら作れますよ」

「そう? じゃぁ、鶏ハムを小さく切ってもらうのお願いしようかな」

 

 美甘は笑いながら予備のエプロンと三角巾をタッツェに手渡す。朝ご飯まであと1時間20分。なんとか間に合いそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぁぁ……」

「眠いですか?」

「うん……」

 

 あくびをかみ殺す明乃に、ましろは笑いながら声をかけた。艦内の廊下はまもなく常夜灯から蛍光灯に切り替わるだろう。空はとっくに市民薄明を迎え、周囲を仄明るく照らし始めている頃合いだ。

 

「ほとんど……徹夜になっちゃったね」

「まぁ、出動態勢でしたからね。今からでも少し休んだ方がいいんじゃないですか?」

「それはしろちゃんもでしょ?」

 

 そう笑えば、ましろもかなり疲れた笑みを浮かべた。

 

「それにしてもあの子は准男爵さんか……すこし緊張するかも」

「男爵がなにを言ってるんですか……艦長の方が年上で階級的にも上ですよ」

「それはそうなんだけど……」

 

 半分よろけながらそういう明乃の肩をさらりと抱くましろ。

 

「ごめん」

「やっぱり少し寝た方がいいのでは?」

「……朝ご飯食べたら1時間だけ寝ようかな」

「もう午前中ずっと寝ててください。午後から交代しましょう」

「ごめん……」

「いいですから謝らないでください」

 

 ましろはついと顔を逸らした。いつもよりわずかに高い体温に心拍数が上がるなんて知られたら困る。

 

「あ、ミケちゃん。しろちゃんもお疲れ様」

 

 デッキに繋がる水蜜扉から姿を現したのは知名もえかだ。

 

「知名さん。おはようございます」

「あ、もかちゃんだ。おはよー」

「うん、おはよう」

 

 もえかは。眠そうな声を出す明乃がおかしかったのか、くすくすと笑いながらあいさつをする。

 

「さっき無電室に寄ってきたけど、とりあえず英領バミューダは寄港OKだって。ロイヤルマーメイドとの連係も多分大丈夫」

 

 それを聞いて頷いた明乃だったが、その内容を聞いて少し驚いた声を出す。

 

「もかちゃん休んでないの……? たしかマルハチマルマルから上番だよね」

「二時間も寝ればバッチリだよ」

「そんなんで保つんですか?」

 

 今度驚いたのはましろだ。笑みを深めるもえか。

 

「ショートスリーパーって言うのかな。元々眠る時間が短くても大丈夫な体質らしくて。その代わり徹夜はしんどいんだけど、ちょっとでも寝られれば結構大丈夫なんだ。それより、ごめんねしろちゃん、うちのミケが迷惑掛けて」

「えへへ……」

「えへへじゃないでしょ? そんな子に育てた覚えはありません」

「あん」

 

 ましろにしだれかかっていた明乃をべりっという音がしそうな雰囲気で引き剥がすもえか。

 

「いや、母親かあんたは」

 

 素で突っ込んだましろに、もえかはくすりと笑う。

 

「母親じゃないけど、お姉ちゃん代わりにはなれるかなーなんて。頼れる仲間はいるけど、甘えられる家族はいないでしょ?」

「うー、別に甘えたいわけじゃ……」

「そんな脱力状態で言われても説得力無いよミケちゃん」

 

 もえかを見上げるようにして唸る明乃の頭を撫でながらそう言うもえかだったが、いたずらっぽい笑みを浮かべると爆弾発言を放り込んだ。

 

「ほら、ちゃんとしっかりしないとしろちゃんのところにお婿にいけないよ」

「なんっ……!?」

 

 一瞬のうちにトマトになるましろ。明乃は既に半分寝ていて疑問に気がつけない。

 

「あはは、冗談です。冗談。それとも本気にしたいです?」

「ば、馬鹿にするのもいいかげんに……!」

「ごめんなさい。でも嬉しいんです。ミケちゃんも私以外に頼れる人がいるってすごいことなんですから」

 

 明乃の腕をとって自らの肩に回すもえか。

 

「私はミケちゃんをこのまま艦長室に寝かしに行くんで、副長は艦長の朝ご飯取っておいて貰えるようおねがいしていいですか?」

「あ、あぁ……わかった」

 

 やっぱりもえかはどこか苦手だと思いつつ、ましろは歩き出す。

 

「副長」

「……なんでしょう」

 

 明乃は完全に眠りに落ちた。それを気にしてか、もえかの声のトーンが落ちた。

 

「貴女は守れますか?」

「っ!?」

 

 目的語が省略された問い。それが意味するものは問わなくても分かるともえかは踏んだのだろう。名前を呼ばれて隣の姫に起きられれば困るのだ。

 

「……騎士を気取るつもりは無いが、守る」

「では、信頼して」

 

 ゆっくりと歩き出すもえか、極端に抑制された無声音が横を過ぎるときに聞こえた。

 

 

 

「トンビが飛び立ちましたよ」

 

 

 

 ましろはゆっくり言葉を選んだ。

 

「……朝食は油揚げの味噌汁じゃないだろうな」

 

 くすりと笑う気配。おそらく回答は間違っていない。

 

「食事、私の分も確保をお願いしていいですか?」

「わかった。食堂で食べるか?」

「えぇ、一緒に食べましょう」

 

 ましろは艦長ともえかから目線を戻し、歩き出す。

 

 このタイミング、明乃に聞かせられない話題。周りには人影がないにも関わらず、用心して声のトーンを落として聞かせてきた。それも用心をかさね、内容はぼかした文章。暗号などの取り決めはした覚えがない。それでももえかは『ましろなら通じる』と踏んだ。

 

 それを満たすような情報を、ましろは一つしか思いつかなかった。

 

 

 

(金鵄友愛塾が、動いた……!)

 

 

 

 ましろは急く足を意識的に押さえ込む。これは明乃には伝えたくない内容、もしくは明乃が聞いていたとしても、表向きは知らぬ存ぜぬを貫かねばならない内容だ。

 

(期待しているのは、宗谷家の力……だな。私個人の能力が必要なら別の言い方をする。だが表向きには動けない、か……よし)

 

 夜が明ける。否応なく、一日が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それは悪手だと思いますよ、バロット」

 

 ましろの急いた足音を水密扉越しに聞きながら、煙草を吹かしつつ高峰青葉はそう嘯いた。手にしたスマートフォンの向こうでは黙り込んでいた。

 

「あぁごめんなさいね。こちらの話です。……それで? 元教え子の様子を聞くなら私じゃなくて娘さんに掛ければいいでしょう。()先輩?」

 

 電話の向こうの声がギンと張る。

 

『貴様の先輩になったつもりもなければ、直属の上官だったこともないだろう。()()()()()()、それ以上の意味はない。あと美波は娘ではない』

「あら、人質にはならないってアピールですかぁ?」

『事実認識に齟齬があったから訂正しただけだが?』

 

 生徒の前では浮かべることの無い笑みを浮かべて、青葉が笑う。

 

経済産業省(わがしゃ)内務省(あなた)の味方ですよ。少なくとも私と上長はあなたとあなたが育てた晴風を高く評価している。だが、おたくの根回しが遅すぎる。まあ、国土交通省が古巣のあなたじゃあ、荷が勝ち過ぎるのは最初から織り込み済みですから、いいんですけどね。それに、感情も殺せず隣の便器を覗き込んで騒ぎ立てる男に期待はしていません」

『そりゃどうも。気楽に仕事ができて助かるよ』

 

 男の声は飄々としている。そうだ、それでいい。この男には働いて貰わなければならない。

 

「で、ケイローンの動きでしたっけ? 動かせそうですか?」

『外務省関係はな。……英国の怒りを買った在ロンドン大使館に出入りしている駐在武官が一人、ペルソナノングラータを叩き付けられそうだから、先んじて昨日処分人事で日本行きの船に突っ込まれた。他国の領土問題に首を突っ込んだそうだ』

「それは大変。ということは補欠を送ることになるわけですね」

『らしいな』

 

 ここまでくれば話は分かる。もえかの動きも見えてきた。

 

「さすが教官ですね、うまいこと生徒を転がしていらっしゃる」

『教官ならこんなひどいことはできないさ』

「まさか。……ブルーマーメイドは惜しい男を放出しましたね」

 

 心にもないものを、という向こうの声には笑って返事とした。青葉はちびた煙草を投げ捨てた。

 

「まぁ、経済産業省(うち)情報提供(運び屋)専門ですから」

『よく言う。そちらはNGOでキャンプ暮らしが似合いそうだが』

「そっちのまねごとはできませんし、そんなアウトドアな感じじゃないですよ」

『そうかい。……無駄話が過ぎたな』

「おや、通話料はそちら持ちでしたね。すいませんでした。それでは」

 

 返事も聞かずに通話を切る。青葉は明けた夜空を見上げる。休憩時間は終わりを告げようとしていた。

 

「NGOにキャンプ、あとは外務省……ねぇ……まぁ、なんとかなるでしょう」

 

 否応なく、一日が始まる。嵐は去り、波は嫌になるほど穏やかだった。




新章の始めくらい明るく終わろうと思ったのにダメだったよ……。

というわけで地域が変わってアメリカ文化圏となり、タイトルがメソアメリカ文化圏の単語に変わりました。変わったのそこかよと言われそうですが、しばらくはこのまま行きます。

ミカンちゃんたちが話しているドイツ語、間違ってたらごめんなさい……。



さて、どちらが正妻かをいがみ合いそうなもかちゃんとしろちゃんですが、共闘開始です。さぁ、立ち向かえ、大人達を打ち負かせてみせろ。


これからもどうぞよろしくお願いします。


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トラソルテオトルの慈愛

 

「ん……?」

「あ、おはようございます、明乃さん」

 

 コンスタンツェの声にゆっくりと目を開ける。

 

「あれ……? 艦長室……?」

「もえか参謀役とましろ副長が運んだみたいです。お昼になっても起きなかったら起こすようにと副長命令を受けました」

「えっと今は……」

「ひとひとさんふた、午前11時32分です」

 

 ゆっくりと身体を起こす。服装はジャージになっているということは、もえかとましろに着替えさせられたということだろう。廊下でもえかに会って挨拶したあたりから覚えていない。

 

「ごめんね……午前中付き合わせちゃったね」

「全然です。実は私も居眠りしちゃって、明乃さんより早く起きれたのは奇跡なんですから」

 

 コンスタンツェはそう言って頬を掻きつつ困り顔。その目の色がわずかに揺れていて、なにかを言おうとしているようにも見えた。

 

「タッツェちゃん?」

「あの……ごめんなさい。……明乃さんがうなされてるの……聞いちゃいました……」

「え? そんなにうなされてた?」

 

 こくんと頷いた少女に、今度は明乃が困り顔だ。

 

「ごめんね、心配掛けちゃったね」

「……カアサンってママのこと、ですよね……?」

「……うん、そうだよ。母さんのこと呼んでた?」

 

 もう一度こくんと頷いて答えるコンスタンツェ。

 

「とても、苦しそうでした……起こそうと思ったんですけど……」

「そっか。ごめんごめん」

 

 そして落ちた沈黙がどこか痛々しくで、コンスタンツェは耐えきれずに口を開いた。

 

「あの……明乃さんのお母様って……」

「うん……母さんと父さんはね、客船の事故……まぁ、事件だったかもしれないんだけど……沈没事故に巻き込まれちゃったんだ。私は助かったんだけどね。それっきり会えてない」

 

 そう言いながら明乃は乾いた笑みを浮かべた。

 

「……聞いてしまって、ごめんなさい」

「気にしないよ。大丈夫。晴風のみんなも知ってくれているし、本当はタッツェちゃんにも話をしとかないといけなかったよね。こっちこそごめん」

 

 そう言いつつ明乃はゆっくりコンスタンツェの頭に手を回す。

 

「……明乃さんは、苦しくないですか……?」

「そうだねぇ……大変だし、苦しくないって言ったら多分ウソになっちゃうけど、それも楽しめてるよ」

 

 高めの体温をしたコンスタンツェを抱きしめる。その髪はまだ潮風に焼かれて日が浅く、まださらさらとした手触りが残っていた。そのうちこの子も船乗りらしく、色素がさらに抜けた固い髪になっていくのだろう。そんなことを思いながら明乃は続ける。

 

「晴風はみんな優しくて、支えてくれるし、なにより楽しいから。晴風なら大丈夫って信じられるし、間違ったときには絶対に止めてくれるって思えるし。だから、絶対に乗り越えられるって思えるから。だから大丈夫なんだ。時間は掛かるかもしれないけど、きっとなんとかなる。きっと大丈夫」

 

 そう言いながら明乃は笑った。

 

「さて、そろそろ起きなきゃね。そろそろ事情聴取もしないとだし、ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬の横須賀は既に夕焼けを迎えようとしていた。

 

「あら?」

 

 公民館の茶話会から帰ろうとした宗谷真雪だったが、公民館の入り口のすぐ脇に見覚えのある車が止まっているのを見つけ、足を止める。暗い赤色のボディに黒く塗装した天井を持つミニ・クーパーだ。3ドア車でなかなか使いにくいだろうし、そもそも既に三台も車があるのに増やしてどうする気だと揉めたのを真雪はよく覚えている。その揉めた相手である次女の真冬は、クーパーの天井に肘を預けてスマートフォンを弄っていたが、真雪が出てきたのに気がついたのか、右手をひらひらと振って合図をする。

 

「よう」

「ふゆ、お仕事は?」

「今日は早く終わったんだ。それで、たまたまこの時間だったから帰るついでに迎えに来た。さらについでだから晩ご飯にあわせてビールとか買いに行こうぜ」

 

 ジーンズにグレーのピーコートを着こなす真冬が助手席のドアを開ける。

 

「こんなおばさんとドライブ?」

「母娘水入らずのドライブは嫌か?」

「まさか、喜んでご一緒するわ」

 

 おどけた様子で一礼する娘に笑いかけてから真雪は助手席に乗り込んだ。

 

「あれ、ふゆは運転中に電話が鳴るの、気になるタイプだったかしら?」

 

 彼女が携帯電話の電源を落としているのを見てそう言う真雪。

 

「この左目だと、音が頼りだからな」

 

 そう言いながら携帯電話をドリンクホルダーに差しこむ。センターコンソールに鎮座するシフトレバーがマニュアル仕様なのは真冬のこだわりだ。エンジンを掛け、発進。滑らかにクラッチ操作をし、ショックもなく動き出す。

 

「かなり急ぎの要件かしら?」

「……やっぱり母さんは騙せねぇか」

「ふゆが頼みもしないのに態々迎えに来るなんて初めてじゃないの。これでなにも無かったら明日は太陽が西から昇るわ」

「ひっでぇ言いよう」

「そう思われたくなかったら、もっと家族サービスしなさいな。しーちゃんもしろちゃんも寂しがるわよ。ふーお姉ちゃん?」

「その言葉そっくりそのまま返したいけど、母さんが校長を辞めたあとじゃあなぁ……」

 

 そう笑った真冬は車をゆっくりと走らせる。発進を急いだ割には速度が上がらない。この方向は市街地に向かうルートだ。

 なるほど、真冬が『買い物に行こう』と行ったのは監視に付いている公安職員にわざと聞かせたか。そう一人納得して笑った真雪は窓の外に目を向ける。そのタイミングで運転する真冬が口を開いた。

 

「真霜から母さんに連絡はあったか?」

「しーちゃんが在英大使館の駐在武官の補欠でベルギーからイギリスに叩き込まれたって話?」

「いきなり外交の最先端だ。全く無茶をさせるぜ、外務省と国交省の人事交流のはずだったのに、なんでいきなり駐在武官なんだろうな」

 

 助手席に座る真雪からは、真冬の視線をうかがい知ることができない。真冬の左目は去年の春に焼き潰され、今は黒い眼帯がそこを覆っているだけだ。それでもどこか呆れた口調の真冬はどこか厳しい目をしているに違いなかった。

 

「……本当にね」

 

 この会話は前座だ。真雪はそう理解した。シフトチェンジの振りをして、携帯電話を指し示した真冬。その動作を自然に行ってから、シフトアップ。これは外から監視されている事を警戒した動作だろう。

 

「いろいろ心配になるわ。みんな私の手の届かないところに行ってしまうんだもの」

「まぁ、何時までも親元から離れられないならそれはそれで心配だろうがな」

 

 自らの携帯電話の裏蓋を外し、バッテリーパックを取り外す真雪。旧式の携帯電話もこういうときには役立つ。勝手に盗聴器代わりに使われるのを物理的に防げる。

 それを確認した真冬が口を開いた。

 

「車内に盗聴器がないことは確認してある。走行中の窓ガラスに赤外線を当てたところで音声復元は無理だ。読唇術に長けたスタッフだけが気がかりだが、走行中に確認し続けるだけガッツがある監視網はおそらく張ってない」

「それを信じましょうか。……それで、ふゆが血相変えてここまで来るんだから相当なものよね?」

 

 そう言いつつ、夕焼けに染まり始めた横須賀の海上都市を見下ろす真雪。いつも通りの夕焼けの向こう、三ヶ月前にこの港を出た学徒艦隊は、今頃地球の裏側を航行中のはずだ。

 

賀須泥毘古(ナガスネヒコ)ハ健常タルカ」

 

 そう切り出した真冬に、真雪が押し黙る。

 

「母さんなら意味が分かるだろう?」

 

 真雪は肘を窓枠につき、その手で目元を覆った。

 

「……彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は今の日本、葦原(あしはらの)中国(なかつくに)を治めるため、水軍と共に日向国を発ち、大和を目指した。大和国の権力者であった賀須泥毘古(ナガスネヒコ)との決戦となる」

 

 真雪の声を継ぐ真冬。

 

「そうだ。賀須泥毘古(ナガスネヒコ)優勢で進む決戦の最中、空に暗雲が立ちこめ、(ひょう)の降る空から一羽の霊鳥が現れ、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の弓に降り立つと、その光をもって賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の軍勢を屈服させる。そして彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は大和国で初代天皇、すなわち神武天皇として即位した……古事記に描かれた神武東征(じんむとうせい)の顛末だな」

「その攻勢を支えた霊鳥が金鵄……つまりは、金鵄友愛塾の動きを把握してるのか、という問いかけね」

 

 車がシフトダウン、海上都市に向かう長い緩やかな下り坂をミニ・クーパーが下っていく。

 

「問題は、これが真霜姉ぇからじゃなくてしろから来たってことだ」

「ましろから?」

 

 そんなバカな、という言葉は飲み込んだ。

 

「しろは今、大西洋を横断中よ。そのしろが金鵄友愛塾の情報を求めた?」

 

 金鵄友愛塾は国会議員や官僚を中心とした勉強会を母体とする人格なき社団だ。その大きなバックボーンしても国土交通省外局扱いの学校等機関所属艦艇に直接的に影響を与え得なかったからこそ、横須賀女子海洋学校校長として塾生の禾生翠巒を送り込むという荒技で対応する必要があった。

 

「禾生校長の動きはこちらでも把握しているし、そもそも、大西洋横断中に緊急で情報が必要になることなんて……」

「あぁ、ないはずだ。それも母さんでもなくあたし宛で連絡をとってきた。しかも念には念を入れて使用回線を艦船電話(マリンサット)じゃなくて、ジスプロ経由にわざわざ変更して、だ」

「民間回線? それも米国系じゃないの……わざわざどうして……」

 

 低軌道衛星通信網(ジスプロシウム)と聞いて、一瞬考え込む。それは66個もの大量の衛星を低軌道に打ち上げ、それで地球上にくまなく通信網を提供するシステムであり、その衛星の数から原子番号66である『ジスプロシウム』にあやかって名前をつけられた通信網。それをわざわざ使う理由がわからない。

 

「表向きには載せられない通信ってこと……かしらね」

 

 日本船籍の艦船が洋上で通信を行う場合、船舶間で電波をリレーする船舶間情報通信(S2S-Telecom)、もしくは国際組織であるインマーツ機構――国際海洋衛星通信機構(InMarTS-Organization)が運用する洋上衛星通信(マリンサット)を使うことが通常だ。そんな中でましろはそのどちらでもない、アメリカの一企業が提供する低軌道衛星通信(ジスプロシウム)を使ってきた。回線接続には専用端末が必須であり、専用端末間の無線なら秘匿性が高い。

 

「待って、ましろにそんな高いモノ持たせた覚えないわよ」

「だろうな。それに晴風にジスプロ回線専用端末を正式に搭載したなんて話を聞いたことがない」

 

 パンクしそうな頭をなんとか回して状況を整理する。

 

「端末を持ち込めるのは……高峰青葉教官だけね」

「母さんは公安が晴風の行方を追い続けていることを、ミケにもしろにも伝えてただろう。そしてしろやミケに張り付いている担当者の一人が高峰1正だってことは予測が付いているはずだ」

「予測もなにも、木更津核廃棄物密輸事件の時に高峰教官の方がほのめかしてるわ……」

 

 真雪の頭の中で一つずつパズルのピースが音を立てて組み合わさっていく。

 

「表向きには動けない。でも表の人間に知らせる必要があった。米国の民間企業に通信内容を公開せよと日本が迫ったとしても、米国法に守られたジスプロシウムは、その請求をはね除けることができる。……裁判を起こすころには、通信内容は役目を終えているでしょうね」

 

 空の色は少しずつ暗く落ちていく。ミニ・クーパーの車内には真雪の声が響き続ける。

 

「それにこれで動きがバレていたとしても、証拠が押さえられない以上は、私たちも高峰教官も知らぬ存ぜぬを貫けるギリギリのラインというわけね……。だけれども、こちらからましろ宛に送信することはリスキー……と」

「公安にも動きをわざと筒抜けにさせたということは、公安を頼るという意思表示じゃないのか?」

「……そうね。その線で考えましょう。それに、神話を使って暗号化してくるのはましろらしくない。誰かが協力者としてましろについているのは間違い無いでしょうね。それが高峰教官……? いや、多分別にいる。高峰教官の動きは必ず金鵄友愛塾にバレているし動きを止められる。フリーハンドになる誰かがいるはず。金鵄友愛塾が動きを把握していない、もしくは把握していても止められない誰かが確実に存在する」

「まて……そうなると協力者は生徒で決め打ちじゃないのか?」

 

 慌てたようにそういう真冬。それとは対照的にひどく落ち着いた様子の真雪は、ゆっくりと続ける。

 

「可能性は高いでしょう。ましろやミケちゃんと話をしていても怪しまれないポジション……晴風乗艦の誰かで間違い無い。鏑木美波さんか知名もえかさんのどちらか……かしらね」

「……鏑木さんなら柳の旦那のバックアップ付き、知名さんの場合は……老松教官か」

「老松君がなにやら知名さんを気に掛けていたから、あり得るとしたらどちらかでしょう。もしくは老松教官から高峰教官に繋がっているか……」

「この仕事が嫌になってくるな。まだひよっこのあいつらを疑わなきゃいけないなんて」

 

 苦い顔でそういった真冬。その様子をみて真雪はわずかに笑みを浮かべた。

 

「辛かったら降りてもいいのよ。人魚なんてろくなもんじゃない」

「今更降りられねぇよ。それに、せっかく妹が頼ってくれたんだ。ここで降りるのは仁義に反する」

 

 憤慨したようにそういった真冬。

 

「……本当に、誰に似たのかしら」

「こう育てた自分を恨みなよ」

 

 そう返してから表情が厳しくなる真冬。

 

「今回のメッセージ、まず間違い無くましろからのSOSだ。金鵄友愛塾関連でナニカが発生した。それも、ましろやミケに直接関係するナニカだ。母さん」

 

 真雪を呼んで、真冬はわずかに言い淀んだ。

 

「なにか、なにか知らないか。情報が必要だ」

「……少しばかり悪い子になりましょうか、ふーちゃん」

「え?」

「高熱が出たことにしましょう。今から一日ぐらい行方をくらましましょう。次の角を左に曲がって高速に乗って」

 

 真雪はそう言って笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、艦長さん」

 

 高峰青葉は笑って言った。小さな会議が行える士官室で事情聴取の用意をしていた明乃が動きを止める。

 

「なんですか?」

「艦長さんは同席されるということですし、あなたの身を守るためにも一応警告しときます」

 

 青葉はそう言って制服のネクタイを正しながら続ける。

 

「今回の事情聴取はただの取り調べじゃありません。どちらかと言えば尋問に近いものになることを覚悟してください」

「……どういう意味でしょうか?」

「アーバレストⅡは行方不明になっていたバルクキャリアでした。そしてそこから放り出された少年と女性。外から鍵を閉められた状態でしたし、彼が持っていた拳銃の弾は2発だけでした」

 

 青葉はそう言いながらも表情はいつも通りだった。

 

「……高峰教官は何を言いたいんですか」

「おそらく彼らは口封じのために救命艇に押し込まれ、嵐の大西洋に放り出された可能性が一つ。もう一つ考えられる可能性として……あの海域にいた他の船に彼らを拾わせる必要があったかもしれません。どちらにしてもろくでもないですが、後者だった場合、我々もそれなりの覚悟をしなければならない。ですので、いろいろ聞き出します」

 

 青葉の目をじっと見た明乃は逡巡し、口を開いた。

 

「……そして、高峰教官は後者であることを確信している」

 

 それを聞いた青葉は笑みを深める。

 

「答えは『はい』です」

「どうしてですか?」

「その答え合わせをこれからするわけですからお楽しみに……と言いたいところですが、納得しないでしょう?」

 

 青葉は胸ポケットからなにやらメモ用紙を取り出した。

 

「英国バミューダの受け入れ体制を整える速度が速すぎるんですよ。……英国からの情報です。極秘扱い(ユア・アイズ・オンリー)でお願いします。とくに宗谷副長には知られないように」

 

 そう言ってからそのメモ用紙を明乃の方に見せた。決して触れさせず、そのまま読ませる。

 

「読み終わりましたか?」

「……はい。とんでもないことは理解しました」

 

 そのこたえを聞いてから満足そうに笑う青葉、携帯灰皿を取り出すと、その中にメモ用紙を差し込み、マッチをそこに突っ込んだ。薬品が燃える不快な臭いがわずかに鼻についた。

 

「よろしい。貴女がここで黙るべき理由も理解したはずですから、よほどのことが無い限り黙っていてください」

「ずっと黙っていられるかは保証できません」

「結構です。適当なところで私を止めて貰った方が向こうにも揺さぶりが効きます。グットコップ/バッドコップ方式ですね」

「……」

 

 明乃はそれには答えずに会議室の入り口のドアを見る。まもなく、もえかが二人を連れてくるはずだ。

 

「善意は人生に必須ですし、良心なき行動は何かを狂わせます。だからといって、善意が人を救うとは限らないのが悲しいところですね。時には悪までいかなくとも、善ではない何かが必要になります。それを人は『偽善』と名付けました。偽善を恐れてはいけません、岬明乃。貴女はここで、死んではいけない」

「……だとしても、私は」

 

 扉がノックされる。もえかが入ってくる。その後ろには元々の服に着替えた少年と女性が立っている。

 

 青葉が二人に笑いかける。

 

「ようこそ、日本国ブルーマーメイドの艦隊へ。おかけください。少しだけお話しましょう」

 

 扉が閉まった。

 

 




はいふりのゲームはスマートフォンのバージョン対応関係でダウンロードできなくてぴんち! です。

さて、やっと動き始めました真雪さん。なんとなくこの人が動き出すと安心感がありますね。

次回はいよいよ謎の少年とそのお連れのメイドさん回です。次回は気合い入れていきます。

これからもどうぞよろしくお願いします。


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テスカトリポカの亡霊

調子に乗りました()


 

 

 

 

「人魚を辞めて素直に隠居しろと言っておったのにこれか。歳を考えんか」

「あら、そんなに歳のつもりもありませんよ。少なくとも貴方より、歳だけは若いつもりですが」

「フン」

 

 真冬は混乱していた。なにがなんだかさっぱり分からない。やたらと高級そうな掛け軸や壷が置かれた板の間を背にあぐらをかく白髪交じりの髪をきっちりとオールバックに固めた男は一体全体何者だ。

 

 ここに至るまでの経緯も意味がわからない。母親であり先輩人魚である真雪にいきなり高速に乗るように言われ、真夜中まで公安車両と派手にカーチェイスをした果てに、ほうほうの体でたどり着いたのはまさかの日本海側、途中の道路標識には『金沢』やら『小松』やらが見えたので、おそらく石川県南部のどこかまでやってきた。『どこか』と曖昧なのは、ランドマークになりそうな物はおろか、地名を特定しうるものが無かったせいだ。少なくとも周囲は街灯すら存在しない真っ暗闇の林道のど真ん中まで追い込まれたことになる。

 真雪はそこにあったドイツ製の無人の高級車に()()()()、最初からカーナビの目的地に設定されていた旅館までたどり着いた。そこで女将に笑顔で手渡されたのは、いつ採寸したんだと背が寒くなるほど体に合う新品のスーツ。急かされながら着替えて旅館から出ると同時に黒塗りのハイヤーが目の前に止まり、名前を呼ばれたので警戒するが、母親は堂々と乗り込むので、真冬はついて行かざるを得なかった。

 ハイヤーが到着したのは市中を流れる川を見下ろすやたらと高級そうな料亭で、その小部屋の一つで不機嫌そうな表情を浮かべる三つ揃いのスーツを着こなす初老の男性の前に叩き出されて今に至る。この状況を理解しろと言う方がどうかしている。その混乱などどこ吹く風で笑う真雪は本当に何者だと不安になった。

 

「……なぁ、母さん」

「あぁ、紹介が遅れたわね。こちらはチヨダさん。去年のRATt連続テロ事件の時にご縁があってね。それからも色々教えてもらってるの。チヨダさん。この子が……」

「宗谷真冬一等海上安全整備正。紹介されんでも知っておる。宗谷家の次女で海上安全整備局所属艦艇『羅漢』航海長、『弁天』艦長を経て、現在は霞ヶ関の海上安全整備局本局の広報戦略部、電子広報係長。RATt連続テロ事件では第一特務艦艇群の副司令として尽力した」

「あら、お詳しい」

「公安を舐めるな、人魚」

 

 そのやりとりで真冬はなんとなくだが相手を察した。これが今ブルーマーメイドに張り付いている公安の()()だ。真雪が男をチヨダと呼んだということは、この男は警視庁特殊警備部第四課の人間ということになる。

 

(警視庁がブルーマーメイドを監視? なぜだ?)

 

 チヨダは基本的に極右団体や極左団体のうち、暴力的手段を講じる可能性がある団体を監視するために設置された部署のはずだ。それがなぜブルーマーメイドを監視しなければならないのかが、真冬にはわからなかった。

 

「それで、こんな真夜中にこんな果てまで呼び出すほど重要なものなんだろうな」

 

 そんな疑問など考慮してもらえるはずもなく、本題が切り出された。陰険漫才でも始まってくれれば少しは情報の整理ができたのだが、と思ってもしかたがない。先付けのヒラメの縁側のベッコウ漬けを口に運んでいた真雪が口を開いた。

 

「金鵄友愛塾が動いているそうですね」

「……またその話か」

「また、とは?」

 

 チヨダは嫌そうな顔をした。

 

「今日の午後、その話をしたばかりだ。元人魚は死に急ぎたがる遺伝子でも組み込まれているのか?」

「元……って、まさか!?」

「柳君も頑張ってるみたいね」

 

 さらりとそういった真雪に目を剥く真冬。

 

「……柳の旦那の事、母さんは知ってたのか」

「えぇ、内務省に鞍替えして、公安ユニットの一つについているというところまでは」

「正確には内務省の外局、逓信庁だ。資源電力開発部 調達課 電源燃油等輸送警備班。通称『マル電』。テロリズムの対象になりそうな発電所や電源用燃料、特に核燃料輸送の警備に係る支援を行うことを名目に設立している。……実体は逓信庁長官を飛び越えて内務省事務次官直轄のカチコミ専門部隊だがな」

 

 チヨダはそう言って笑った。それを聞いた真雪は一瞬考え込む。

 

 逓信庁は国内の電話や郵便を統轄する省庁だが、同時に電力事業を管轄する担当省庁となっている。内務省管轄の警察の外部に実力行使可能な部隊を保持しておきたいというのは内務省の意図として理解はできる。

 

「内務省の事務次官というと……今は宮原茜事務次官ですね」

「彼女は柳昴三をマル電の指揮官としてスカウトした張本人だ。ハト派というにはリアクションが大きいが、金鵄友愛塾の現状を看過できないというスタンスを貫いている」

「……今のところは味方と見ていいかしらね」

「事務次官や大臣が敵に回るときは私も平穏ではいられないがね」

 

 その言い草に真雪は笑みを浮かべる。警察庁と警視庁は内務省の外局にあたり、内務省がひっくり返ってしまえば、それには逆らいにくい状況が生まれるはずだ。

 

 チヨダがおちょこを煽った。

 

「良い具合に酒が回った。話したことは忘れてしまうかもしれないな」

「あら、それは大変ですわ」

 

 真雪が目を細めた。

 

「それで……金鵄友愛塾だな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 晴風の小会議室はもともと士官向けの食堂だったらしい。現在は科長級会議などに使われることが多いが、今日は臨時の取調室と化していた。

 窓際に半袖のシャツに膝丈のズボンをサスペンダーで吊った少年とメイド調の服装をした女性が座る。その正面には机は無く、入り口側には聞き取りを担当する教官と、艦長の岬明乃、艦隊参謀役の知名もえかが座る。部屋の外では万里小路楓が樫の木で作った長柄装備で人払いをする徹底ぶりだ。正直ここまでするか、と明乃は驚いていた。

 

「改めて名前をお伺いしてもいいですか?」

 

 高峰青葉はそう言いながら右手に持ったアルミ製らしいメタル色のボールペンをくるくると回した。離れた机ではタイピング速度をかわれて速記役を頼まれた八木鶫がスマートフォンを弄っている。

 

「わたくしはジョセフ様付の使用人を仰せつかっております、ルルー・シャスネと申します。こちらが、ジョセフ様でございます」

 

 そう答えたのはメイド服を着た女性だった。褐色の肌をした女性は赤みを帯びた鳶色の瞳を真っ直ぐ青葉に向けている。

 

「ルルーさんに、ジョセフさんですね。国籍は?」

 

 青葉はそう言いながら話を聞き続ける。手元に開いたノートはもはや飾りだ。

 

「ジョセフ様はフランス国籍です。フランス海外県、サンバルテルミーの生まれです。私はボリンケンの出身ですが、フランス国籍を取得しています」

「ボリンケン……あぁ、プエルトリコのサンフアンの事ですか、米国信託統治領の。ということは、母語はスペイン語ですね。ご機嫌いかが(テュード・ベン)?」

 

 ラフに挨拶する青葉。わざとらしく右手をひらひらと振る仕草にどこか戸惑った空気を滲ませるメイド服の女性――ルルーは曖昧に笑った。ウェーブがかかる黒い髪が綺麗に光る。

 

「それで、どこからどこまで行くつもりだったんですか?」

「サンバルテルミーからアメリカ経由でフランスまで行く予定だったのですが……」

「なるほど、途中で海賊に襲われた?」

 

 その言い草に明乃は引っかかりを覚えた。

 

「えぇ……貨物船にしばらく押し込められていたのですが……さらに救命ボートに押し込まれ……」

「なるほど。それは大変でしたね」

 

 トントン拍子に話が進む。まるで、台本を読んでいるようなスムーズさだ。

 

「……なるほど、色々事情がありそうです。拳銃が積んであったのは、海賊の慈悲、ということでしょうかね。一応自決の自由だけは残してくれたわけですね」

 

 そう言って笑う青葉。

 明乃はやっと違和感の正体に気がついた。その横では青葉は何度もペンをくるくると指の間を走らせつつ、笑顔で聞き取りを続ける。渡航先、亡命希望の有無。さまざまな情報が一気に飛び交い始める。

 

 これは、聞き取りではない。

 

 聞き取りといいつつ、青葉ばかりがしゃべっている。そしてそれにルルーが乗るという構図に無理矢理押し込んだ。

 

「……という筋書きで大丈夫ですか?」

「!」

 

 明乃の判断を裏付けるように、青葉がゆっくりと笑ってそういった。ルルーが目を細めて、青葉を睨んだ。

 

「そう怖い顔をしないでくださいよ。怖くてまともにしゃべれないじゃないですかルルーさん。……いえ、リュデヴィーヌ・コナールさんとお呼びしましょうか」

「え?」

 

 青葉の声にずっと黙っていた少年が疑問の声を上げた。直後、椅子が倒れる音。青葉に向けてメイド服が迫る。

 

「遅いんですよねぇ」

 

 青葉の右手にボールペンが収まった。握りこんだ拳から飛びだしたボールペンの柄が、女性の胸元に素早く突き込まれた。

 

「っ!」

 

 女性の詰まったようなうめき声が響くと同時、その女性の後頭部に青葉の左手が回った。女性の頭を抱き込むような姿勢だが、親指の付け根が容赦なく首の後ろにめり込んだ。そのままノートなどが衝撃で散乱した机に上半身を叩き付ける。青葉が盛大に後ろに蹴り飛ばした椅子が耳障りな音を立てた。

 

「1423、公務執行妨害で拘束。もえかさん、手錠」

 

 青葉はそう言いつつ乱雑に机を乗り越え、暴れる女性をもう一度床に叩き付ける。外で待機していた万里小路が飛び込んで来て絶句していた。

 

「クソっ! 何者だアンタ」

「先ほどまでのお行儀はどこにいったんですか? あなたの英語はフランス訛り、それにさっきのご機嫌いかが(テュード・ベン)はポルトガル語ですよ。偽の身分を騙るにしても、もう少し勉強しましょう」

 

 もえかから受け取った手錠を後ろ手にかけながら青葉は笑った。

 

「ですがまぁ、何者かと言われれば、日本の海洋警備隊(ブルーマーメイド)です。英国から貴女達のことは通達が出ていましたよ。セントルシアを出た怪しい貨物船が大西洋横断航路に乗った、確認したら報告されたし、とね。それに彼の名字は、すでに岬艦長達の前でうっかり彼自身がばらしてしまっています。これ以上続けると滑稽ですよ」

 

 組み伏せた姿勢のまま青葉は女を見下ろしていた。

 

「あぁジョセフさん、お連れ様に失礼しました。ですが、御自らの配下に置いている使用人の一人、ちゃんと手綱を握っていただけなければ困りますよ」

「貴様、ただの軍人じゃないな?」

 

 メイド服を着た女性が敵意をむき出しにしたまま青葉を見上げる。赤みを帯びたその目を見下ろして青葉は笑った。

 

「私は今、貴女のご主人様と話しています。飼い犬は素直に黙っているがよろしい。ここは人魚の(はらわた)の中だ。貴女の行動がご主人様の評価を押し下げる事になる。それを理解するように」

 

 青葉はその姿勢のまま顔を上げ、日本語に切り替え呼びかける。

 

「万里小路さん。今からこのメイドをそこに座らせますので後ろから監視を。怪しい行動をしたら合図をするように」

「わ、わかりました」

「これより先、被疑者が暴れた場合においては警棒等の武装の使用を許可します。いちいちお伺いはいりませんよ」

 

 そう言ってからメイド服の女性を立たせ、元いた席に座らせる。

 

「さて、私達にも時間はありません。英国のロイヤルブルーマーメイドが巡視艇をこちらに差し向けているそうです」

 

 ハッとしたような表情をした少年に青葉は笑いかける。

 

「さて、貴方がたは何者で、なぜ救命艇に押し込まれていたのか。カステルノー准男爵殿、改めて貴方の口からお聞かせください」

 

 少年はしばらく言い淀むような間を作った。

 

「……僕はジョセフ・フランソワ・ド・ラ・クロワ・ド・カステルノー。父は第十八代カストリー公爵でセントルシア暫定政権の大統領、ヴィクトール・ウジェーヌ・ガブリエル・ド・ラ・クロワ・ド・カストリー」

「セントルシア大統領の息子……!」

 

 明乃が息を呑む。

 

「英国には行けません。英国に行けば、僕たちは殺されてしまう。僕たちは、父に言われセントルシアを脱出してきました」

 

 少年が前を見据える。

 

「我々は日本、もしくはフランスへの亡命を希望します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「宇宙太陽光発電網開発計画『ヘファイストス計画』は現時点においてはおおむね成功していると言って良いだろう」

 

 チヨダはそう言いつつ、寒鰤の刺身を口に運んだ。

 

「金鵄友愛塾にとってもこの『ヘファイストス』は一大プロジェクトだ。メタンハイドレートなどを封じられた結果として、エネルギー自給率が一気に低下し、外交的な弱点にもなってきた。宇宙空間における太陽光発電は天候などに支配されることなく、日本全土に無尽蔵の電気エネルギーを供給しうるポテンシャルを秘めている」

 

 露骨に嫌な顔をした真冬にチヨダは笑みを浮かべてみせた。

 

「そう嫌そうな顔をするな。『ヘファイストス』は経産省と逓信庁が中心となって進める官民共同(PFI)事業*1、すなわち国の公共事業の一種だ。開発は大日本技研が中心になっており、技術的には十分に満足できるものになっているらしい。地上側の実験場として西ノ島新島に受光システムを設置して実験中。宇宙側の改善機であるヘファイストスⅡも先日打ち上がった」

「……それが、今のカリブ海に関わってくると?」

「まぁ落ち着いて話を聞きたまえ」

 

 真冬を見てそういうチヨダは笑みを貼り付けたままそういった。

 

「問題はコスト面らしくてな。特に大容量バッテリーの問題だ。リチウム、コバルトなどの希土類が相当数必要になる。特にリチウムがネックだそうだ。リチウムは海水から回収を検討していたようだが、市場価格の30倍ほどのコストのせいで断念せざるを得ない状況らしい。そこで金鵄友愛塾が目をつけたのが、カリブ海のヘクトライトだ」

「ヘクトライト?」

 

 真冬が聞いたことのない単語に首を傾げた。真雪も似たような反応だ。

 

「元々は化粧品用に採掘されていたもので、リチウムを多く含むことがわかって開発が進んでいる。リチウム価格はうなぎ上り、かつ欧州企業の寡占状態にある」

 

 リチウム関連産業のうち、日本にあるのは基本的に製造過程であり、原料は南アメリカ地域などからの輸入に頼り切っているのが実情だ。東京湾内に作られた試験リチウムプラントもまだ高コストであり、実験段階を出ていない。

 

「安価に大量に確保するには、占有できる鉱脈を得るのが手っ取り早い。そこにセントルシアでヘクトライト鉱脈が見つかり開発が始まった。日本の紐付き(タイド)ODA*2でな」

「……なるほど。その開発の請負元は?」

 

 そう問うのは真雪だ。

 

「日本側で請け負うのはボロジノ砿業株式会社、とっくに海に沈んだ沖大東島でリン採掘を行っていた歴史を持つ会社だな。現在は大日本技研も参加する大日ホールディングスの傘下にある。当然金鵄友愛塾にもコネクションがあるだろう。そして現地の関係企業としてカリビアン・エナジー・グループが関与している」

「その会社……確か、最近石油プラントなどの機械系を万里小路重工から大日本技研に鞍替えした……」

「そうだ。よく調べているな」

 

 チヨダはそう言って日本酒を一口飲んで続けた。

 

「セントルシアという国が置かれている状況は複雑だ。英連邦に所属する独立国家だが、言語的にはフランス語圏でフランコフォニー国際機関*3にも所属する。国民はほとんどアフリカ系でプランテーションのために連れてこられた奴隷を先祖に持つ歴史上、白人や教主国への反発が未だに根強い。親仏派のクーデターを恐れて英連邦はセントルシア軍を無理矢理解体した過去を持ち、英連邦に所属しながらも関係性は最悪だ。銃撃戦は日常茶飯事、治安も大変よろしくない」

「そのセントルシアが今、親仏派の暫定政権が立ち上がって英連邦と喧々しているってわけだけど、わざわざそんなところに金鵄友愛塾がこだわる訳はなにかしら? リチウムだけなら南米大陸に十分割り込む余地がある」

 

 真雪は話の中核を掴もうとしていた。彼女の問いかけにチヨダが笑った。

 

「劣悪な環境こそが必要だったんだよ。軍事的な空白地帯で発生した政変と機能しなくなった治安維持システム。英国はセントルシアの治安維持に責任を持つ。ここまで悪化すれば小規模だとしても軍隊を送ることになるだろう。想定されるのは暴徒化した市民相手の鎮圧作戦だ。この構図に真冬君は見覚えがないか?」

「……どういう意味だ」

「君は知っているはずだ。なにせ、君は8ヶ月ほど前に同じ状況に対処しているはずだ。君も直接乗り込んだはずだぞ」

 

 それを聞いてハッとした表情をしたのは真冬だった。

 

「アドミラル・シュペー蘭領インドネシア領海侵犯未遂事件……!」

「そうだ。RATtウィルス、いや、“アルジャーノン”と呼ぶべきかな。あそこまで劣悪な環境なら、電磁波による電磁波の被害もあまりない。ネズミだって巷にあふれているだろう。誰もそれに疑問を持たない。これほど理想的な実験場は他にない。不特定多数が入り乱れる状況における大規模制圧作戦への投入――――――『ヘスペリデス計画』とその産物であるRATtウィルスの正しい活用法だな。そして、RATtウィルス対処に於ける唯一のプロフェッショナルは今、大西洋の海の上にいるんだろう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヘファイストスの炉はアイギスの盾やアルテミスの矢など、様々な武具を生み出した。文字通りの神々の炉だった」

 

 禾生翠巒は一人、私室でそう呟く。手元にあるのは古ぼけた文庫本だ。壁一面にしつらえられた本棚を背に、ロッキングチェアに腰掛けた彼女は電気が落とされた薄暗いその部屋で数少ないプライベートな時間を過ごす。

 

「人間を憐れみその炉から火を盗んだプロメテウスは、人間にその火を分け与えた。人間は自然に打ち勝つ術を得、文化を得る。しかし、プロメテウスは主神ゼウスの怒りを買い、コーカサスの山に磔にされた。その後から人間は戦争という概念を得た。文化とは火の歴史であり、火の歴史は戦争の歴史だ」

 

 文庫の表紙をなぞりながら彼女は小さく笑った。

 

「先見の明を持つ『熟慮神』プロメテウスが我々人間にもたらした恩恵は計り知れない。たとえそれが血塗られた歴史の幕開けだとしても、人類はそれを歓迎せざるを得ない。それでたとえ我々が苛まれるとしても、だ。それを最善と信じ進む必要がある。我々はすでにその領域にある」

 

 文庫本はアポロドロースの『ギリシア神話』。ゆっくりと目を閉じる。

 

 

 

 

「征きなさい。オペレーション・プロメテウスが君を進化させる。願わくば、君が最後の英雄たらんことを」

 

 

 

*1
Private Financial Initiativeの略であり、公共施設等の建設、維持管理、運営等に民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用することにより、効率的かつ効果的に社会インフラを整備・運営する手法であり、対象事業における資金調達を公的主体ではなく民間側が担う

*2
発展途上国等に対する経済的発展および福祉向上を目的とした政府開発援助(ODA)のうち、技術提供を除いた物資およびサービスの調達先が援助提供国等に限定されるもののこと

*3
フランスを筆頭にしたフランス語話者を抱える国家の共同体のこと




……固有名詞を一気に登場させすぎた感満載ですが投稿です。

さて、やはり出てくるRATt事件。やっとはいふりっぽくなっていきます(?)。これでやっと物語を動かしていけそうです……! はいふりゲームのダウンロードができまして、これでやっと僚艦の時津風や天津風を出せます……!

なにはともあれ次回からもきな臭さマックスで参ります。これからもどうぞよろしくお願いします。


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テクシステカトルの離昇

 

「で、話ってなんだ?」

 

 宗谷ましろは、目の前で座っている鏑木美波医務長に胡乱な目を向けた。引き継ぎを終えてやっと部屋で休めるとあくびをかみ殺しながら廊下を歩いていたところ、美波にすれ違い様でタックルを喰らわされ、左脇腹を打撲。その治療を名目に医務室に引っ張り込まれたのだ

 

「どうしてもすぐ話がしたかった。治療名目なら()()()()だろう」

「いや、廊下でいきなりタックルは不自然すぎるだろう。人さらいか何かか」

「それで、だ」

「私の意見は無視か……」

 

 ついてない。と心の中で嘯きながら、ましろはため息。

 

「副長、宗谷元校長に連絡を取った?」

「……いいや」

 

 ましろは警戒態勢に入る。今朝たしかに連絡を取ったが、取った相手は宗谷真雪ではなく、宗谷真冬だ。通信はもえかから借りた端末を経由して送信しているし、もえかと相部屋になっている自室で作業をしたのだ。もえか以外に通信を知られるはずがない。

 

「……パパ、じゃなかった……柳教官から連絡があった。今さっき」

「柳教官から?」

 

 オウム返しにそう返してしまい、ちょっと間抜けだったかと思い反省するましろ。美波は私物らしいスマートフォンを取り出し何かを操作する。画面が明るい黄緑に光ったと言うことは、テキストメッセージをやりとりできるスマートフォン向けアプリケーションだ。

 

「パイン……柳教官が使うイメージないな」

「これまで使ってこなかった。普段はショートメッセージか電話だけ。パインなんて友だち登録を無理矢理させただけで、それからは放置だった」

 

 パインはスタンプ機能などもあり、晴風でも生徒全員が使っていることから、簡単な連絡などにも活用しているお馴染みの携帯アプリだ。木更津港核廃棄物密輸事件の時、岬明乃が統合型情報表示装置(インフォメーション・イルミネーター)をパインに直結し戦術リンクもどきを構築するという、海洋学校や海上安全整備局のセキュリティ担当者が卒倒確実な離れ業をして以来、万が一の際はこれも使おうとは話していた。

 

「なのに、こんなメッセージが来た。22分前」

 

 ましろは差し出されたスマートフォンを覗き込む。表示されているのはパインのチャット画面のようだ。

 

 

パパ上

美波ちゃん♡♡♡へ 元気?  

世界一周の間、パパは寂しくし 

ています(´・ω・`)

15:21

 

娘ではないけど、私にとっても 

ね、大切な人です。体は必ず 

大切にしてね。欧州はほんとう 

に寒かったでしょう(>_<) 

服等で体温をちゃんと調整して 

ください(^^)         

ちょっとさびしくて連絡をした 

よ。少しよんでくれるとパパも 

うれしいな(^_^)v 

15:21

 

既読

15:22

いきなりどうしたの?

 

 

 

 

「なんだこの絶妙なウザさ!? 自慢か!? 義父とこんなに仲いいんですって自慢か!?」

「ちがう」

 

 とっさにそう突っ込んだましろだが、きっと悪くないだろう。タックルされた先でこんなものを見せられて一体どう対応すればいいのだ。ハートマークに顔文字と、30を越えたおっさんが使っているとなんだか生理的嫌悪を催すもののオンパレードだ。これが元担任教官だと思うといろいろクるものがある。

 

「柳教官はこんなこと言わないし、顔文字なんて使わない。そもそも、柳教官は父さんともパパとも呼ばせてくれない」

 

 淡々と突っ込んだ美波。「よく見て」と言われるが、何を言いたいのか分からない。

 

「パインのメッセージは15字で自動的に改行になる。なのに14字でわざわざ手作業で改行している」

 

 画面をコツコツと叩いた美波。

 

「スマホに慣れていないだけじゃないのか」

「インフォメーション・イルミネーターもタブレットも使いこなすのに?」

 

 そう言われて一瞬考え込む。確かに柳はデジタル機器を使いこなしていた。その彼が自動改行に気がつかない可能性は低い。

 

「じゃあ、なんだ。わざとだっていうのか?」

「文字列がずれちゃいけない。頭文字だけを読んでみて」

 

 そう言われ、改めて画面を覗き込む。

 

「み、せ、ろ……? むねたにふくちよう……って、私を指名か!?」

「だから呼んだ。続きは改行がなくなって15字のままで続くから、ここで縦読みは終わり。多分ここから先が問題」

 

 

パパ上

ごめんごめん15:23

 

日本はなんだか忙しくて目が回り

そうです。パパは前の職場の上司

と飲んできました。美波ちゃんの

こと心配してましたよ。奢っても

らったのでおばあちゃんちの野菜

を今度送ろうと思います(*^▽^*)

15:23

 

おばあちゃんの農園はりんごの海

外輸出で苦戦してるようです。も

し、そっちで見かけたら連絡をく

ださいね(^_-)-☆

15:24

 

最近、お父さんの会社が忙しくて

なかなか大変です。体調管理には

気をつけますが、薬をしっかり飲

んでおくようにします。美波ちゃ

んも気をつけてね

15:25

 

あんまり長々と送ってもアレなの

でこれぐらいで。今はサテライト

もあるので、困ったら電話してね

15:25

 

それじゃぁ、また・・・15:25

 

 

 

 

 その下にはファンシーなキャラクターのスタンプが手を振っていた。アメリカで大人気のネズミのキャラクター、柳が使ってるイメージが全くない。文面的にはものすごく色々言いたいのだが、おそらくは暗号文だ。柳も恥を忍んで送ったに違いない。とりあえず飲み込む。

 

「……それで? 『前の職場の上司』は確かに私の母さんのことだと思うが……」

 

 ましろはそう言いながら手帳を取り出した。

 

「副長は、宗谷校長か柳教官に連絡をとった?」

「……金鵄友愛塾が動いてないか確認したくて、な」

 

 ここまでなら教えていいかと考えつつ、慎重にそう答える。殴り書きでそれを書き写す。顔文字も一応その通りに写しつつ、気になったところを聞いていく。

 

「『おばあちゃん』は誰のことだ?」

「多分北海道の柳教官の実家のおばあちゃん。農家をしてる。……でも、りんごなんて育ててない。海外輸出もしてない」

「なら林檎は暗喩か……りんご……りんごか。まったくわからん」

 

 ましろはりんごの絵を描きながらそんなことを言う。りんご、リンゴ、林檎、Apple……書き換えを行いながら考える。

 

「聖書だとアダムとイヴが食べた実がりんごって話だったか……あとは……?」

「りんごは昔から万能薬と言われていた。食物繊維が多く、胃腸の調子を整える。……りんごの意味はまだわからないけど、一つ確実なものがある」

 

 美波はそう言って、画面をもう一度見せた。

 

「これ、柳教官は『パパ』って名乗ってるのに、1カ所だけ『お父さん』って使ってる。お父さんの会社……これはおそらく鏑木製薬……今のエーイル製剤のことだと思う」

「鏑木製薬?」

「体調管理で薬の話題も出てるし、多分間違いは、ない。……鏑木製薬は金鵄友愛塾に協力していた」

「……まてまてまて!」

 

 ましろはその下のスタンプを見る。それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 

「RATtウィルス……!」

 

 たしかそれは、アメリカに提供する目的で作られたものではなかったか。

 

 RATtウィルス、製造元である鏑木製薬でつけられた開発コードは“アルジャーノン”。4月のRATt連続テロ事件を引き起こした直接的な元凶であり、目の前の鏑木美波の父親などが関与したものだ。

 

「アルジャーノンは米軍兵士の強化のための薬剤として開発されたと父さんから聞いている。……洗脳とその人員のネットワーク化のために必要な薬剤だった」

「だけど、アメリカには渡っていなかったはずだ。だって、それを運んでたはずの潜水艦は西ノ島新島で沈んだ。それが暴走したから、RATtウィルスが拡散した……。武蔵だけが狂うはずが、演習参加艦が皆狂った」

 

 ましろがそう言う。美波も頷いた。

 

「もしかしたら、一隻だけじゃなかったのかも」

「なら……もう一度、アレが起こるのか?」

 

 ましろが呆然としながら、顔を上げれば、美波はそれをじっと見ていた。

 

「学徒艦隊にはRATt抗体ワクチンのストックは十分に積まれている。一応艦隊の中にも感染者がいるため、追加接種の必要に備えて大量に積載してある」

「……させようとしているのは、RATt感染者の鎮圧作戦?」

「少なくとも、RATtウィルスが絡んだ何かが動いているはず」

 

 そう言ってから美波は俯いた。

 

「……まだ、続くんだ」

「美波さん……」

「大丈夫。RATtがらみなら、晴風ほど経験を積んだ部隊はない。なんとか、なる」

 

 それは言い聞かせているようで、ましろはそれを見ていられずに、わずかに目をそらした。

 

「そうだな。……ありがとう、何が動いているのかは理解できた」

 

 ましろは立ち上がる。こんどこそ、部屋に戻らねばならない。もえかに装弾できるのはもう少し先だろう。今はまだ取り調べの途中のはずだ。

 

「副長、気をつけて。何かが……動いてる」

「わかっている。……これ以上、晴風をどうこうされてたまるか」

 

 ましろはそう言って医務室を出て行った。医務室に残された彼女はスマートフォンを見る。そこには柳からのメッセージが残っていた。

 

「……」

 

 ゆっくりと文字を打ち込む。

 

 

パパ上

既読

15:32

心配かけてごめんね。ありがとう

晴風はみんな元気にやってます。

困ったことがあったら、色々頼る

かもしれないけど、そのときはよ

ろしくお願いします。

 

 

 

 

送信。間髪入れずに既読がついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……これでチャンネル成立か」

 

 眩しいスマートフォンから目を逸らし、柳はそういった。左耳に差したインカムはタブレット端末と同期している。

 

「これでいいんですね、宗谷先生」

『本当は鏑木さんを巻き込みたくはなかったけれど、これぐらいしかアクセス方法がなかったのよ』

 

 通話の向こうにいる宗谷真雪はどうやら車に乗っているらしい。走行ノイズが通話に混じっている。

 

『柳君』

「なんですか」

 

 杖を手にとり、立ち上がりつつ通話に返した。冷蔵庫まで進み、中から缶入りの炭酸水を取り出す。眠気を飛ばすにはこれが一番だった。

 

『総務省が用意するカウンター作戦……ケイローンと言ったかしら。それはどこまで有効かしら』

「あくまで対症療法です。英仏のいがみ合いは我々では止められません」

 

 アルミ缶を取り出し、片手でプルタブを開けると、柳は口に含んだ。

 

「それに総務省が口出しできるのはあくまで国内の問題です。海外展開となれば、外務省に頑張って貰うしかありません」

『……そのために、真霜をイギリスに送ったの?』

「外務省は事なかれ主義です。最悪の場合には、例のごとく宗谷派ごと切り捨てることで対応するつもりでしょう」

 

 通話の向こうは一度黙り込んだ。キッチンのアルミシンクに缶を置き、柳は壁に寄りかかった。

 

『……チャンネルだけは確保してあると、好意的に捉えましょうか。政府の方向性は分かりました。それで、あなたはどうするつもり?』

「私は東京から動けませんよ。この脚じゃ、盾の一つにもなれはしませんからね。オペレーションセンターで事務作業です」

『本音をおっしゃいなさいな、柳君』

 

 真雪の声がそう響いた。柳は黙り込む。

 

『マル電は元々核物質の輸送警備を主に対応する特殊部隊を源流に持っている。そのために、海外派遣の経験もあるはずよね。そして今回のヘファイストス計画は電力関連の問題よ。部隊を動かすお題目も揃っている……メインの部隊は、今どこに?』

 

 それを効いた柳が口の端をつり上げる。通話の向こうからはそれは見えまい。それでも、その沈黙の意味を向こうは噛みしめているに違いない。

 

『……セントルシア、かしらね』

「職務規定上答えられません。ご容赦ください」

 

 柳はそう言ってから天井を仰いだ。おそらくこれでは向こうも黙ってはいまい。

 

「ですが、貴女の味方ではありたいと思っていますし、私も部外者じゃない。共有したい情報が一つ」

『何かしら?』

「カリビアン・エナジー・グループという会社名に聞き覚えは?」

 

 その問いにはすぐに答えが返ってきた。

 

『チヨダさんから聞いたわ。セントルシアで石油や鉱山資源採掘をしている企業よね。大日本技研と連係をもった』

「えぇ、金鵄友愛塾とのコネクションが疑われているその企業です。そこの抱えてる保険が少々厄介な事情をはらみ始めました」

『保険……?』

「文字通りの保険です。ロイド海上保険組合」

 

 ロイドと言えば、海運業界では知らないものはいない保険組合だ。船で運ばれる物や海上で使われるものに対しての保険を扱う組合だ。

 

「カリビアン・エナジー・グループの油田や鉱山が対象の火災保険がロイドで取り扱われました。その保険請負人(アンダーライター)として、カストリー公爵の名前があがっています」

『セントルシアの大統領?』

 

 ロイドにおける保険請負人(アンダーライター)は、無限責任を負う個人で構成される。それはすなわち、保険をかけた物が失われた場合、アンダーライターは全財産をかけてその損失の全てを補填することが求められるということである。文字通り服のボタン一つまでも売り払ってその責任を果たすことを求められるシビアなものだ。

 

『これが金鵄友愛塾と大統領の息子を繋ぐライン……かしらね』

 

 彼は真雪のその言葉で、彼女がカステルノー准男爵の晴風搭乗を知っていることを理解する。チヨダはしっかりと情報を共有してくれたらしい。

 

「しかし、もっと大きな問題はこれの仲介をしたブローカーです。ロイド保険組合の重鎮、“ミスターロイド”こと、ジョンストン・ケズヴィック、表向きは保険斡旋会社JLnT会長。……裏の顔は英国対外情報局のエージェントです」

 

 それを聞いた真雪は考え込むような間をあけた。

 

『……イギリスはセントルシアに連邦から離脱されると困る。ここでフランス側に立った形で離脱されては、連邦内の各国に独立の嵐が吹き荒れることになるわね』

「金鵄友愛塾にとってはそれが狙いかもしれません」

 

 柳は煙草を取り出そうとして、その手を止める。

 

「今回晴風を取り巻く環境は一筋縄ではいきません。完全に他国の領土問題をフィールドに動いている上、金鵄友愛塾のアクションはあくまで民間領域内で推移しています。現時点において、日本政府に止める手立てはありません。……ですが、晴風が動き出せば話が別です」

 

 それを聞いた宗谷真雪の態度が硬化するのがわかった。

 

『……言っておくけれど、晴風に危害を与えるなら私も容赦はしないわよ』

「もう晴風はアタリを引いてしまった。我々にできる手段はただ一つ、晴風を無理矢理にでも危険域から引き剥がすことです」

 

 そう言って柳は時計を見た、時刻は午前二時。

 

第一騎士(ケイローン)作戦の発動条件を満たしてしまった、第一の封印は解かれてしまったんです」

『その言い回しはヨハネの黙示録かしらね』

 

 真雪はその言葉の意味を正確に理解しているらしい。

 

「第二の封印は戦争を封じたものでした。そこから戦争を始める権利を与えられる第二騎士が生まれ落ちる前に、黙示録を打ち止めねばならないのです」

 

 柳はそう言ってから、小さく笑う。

 

「晴風は戦線に並んではならない。その前にご退場願うしかない。そのために総務省、そして『マル電』は私を必要とした。岬明乃の戦い方は、私が一番知っていますからね」

 

 ふざけた作戦だと、柳は自嘲する。そして自らに課せられた作戦の内容も、運命を呪うには十分すぎるものだった。

 

『柳君……貴方まさか……』

「真雪さん、チヨダとの連係を密にしてください。カウンターは誰かが放たねばならない」

 

 そう言って通話を切った。

 

 

 

「さぁ、岬明乃。海上安全整備局員たれ、君に英雄性は必要無い」

 

 

 

 柳はそう言って虚空を見つめつづけた。

 

 

 

「私だ。ケイローンは予定通り進める。まもなく予定位置に付くだろう。子ども達が兵器にされる前に、止めるぞ。我々の手でだ」

 

 

 

 




……努力の方向音痴ってこういうことを言うんだと思います。

ということでハーメルン様の特殊タグのオンパレードでした。ライン風な感じになったでしょうか。見にくかったらごめんなさい。スタンプの画像は勘弁してください。のせたらしんでしまいます

ということで小難しい話がずっと続きましたが、次回は少しわかりやすくなりそうです。どこかのタイミングで設定を軽く整理するつもりですので……しばしお待ちを……


そんなこんなでこれからも続きます。これからもよろしくお願いします。

(ライン風の部分、コピペ等では表示されないようです。テキスト保存などされている方はご注意ください。また、テキストに一部誤りがあったため訂正しました何卒ご了承くだい)


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ショロトルの告解

「あ、つぐ戻ってきた、おかえりなさーい」

「ただいま……」

 

 八木鶫が指定の居室である第二兵員室に戻れば、同室の宇田慧がベッドで漫画を読んでいた。鶫は慧に返事をしつつ、そのまま二段ベッドの下段に向かう。髪を解いて、ジャージに着替えた方がいいのは分かっているけれど、めんどくさくなってしまった。ベッドに倒れ込めば、ぼふん、とベッドの毛布が出迎える。どっと疲労感が体を襲ってきた。その様子を見て心配になったのか、慧が上段から下を覗き込む。

 

「大丈夫?」

「だいじょばない……」

 

 そう言いながら手元のスマートフォンに充電ケーブルを差し込んだ鶫は仰向けにベッドに寝直す。覗き込む慧と目が合って、疲れた笑みを向けた。

 

「次ってパーゼロでしょ? 大丈夫?」

「しんどいけどなんとかする……」

 

 パーゼロ(ちょく)は8時から12時、そして20時から24時の間の四時間ずつ、指定された当直に就くシフトのことだ。現時刻は16時28分、三時間と少ししたら当直が始まるのである。通信については納沙幸子書記も補助に入るほか、なんなら教官のタブレットと通信端末に転送措置をかけられる。そのためシフトの変更や配置の転換も可能だが、鶫は当直に出るつもりらしい。

 

「でもなんとか乗り切ったよー……ぶい」

「お疲れ様。で、どうだったの?」

「青葉教官も、もかちゃん参謀も、ほんとにとんでもなかった……」

「えっと……万里小路さんが『なぎなたモード』になってたのは知ってるけど……大変だったの?」

 

 同室の万里小路楓はまだ戻っていない。彼女が私物として持ち込んでいる木製の薙刀も消えている。この部屋を共有している姫路果代子と松永理都子も現在当直中でいないため、部屋には二人しかいない状況だ。

 

「万里小路さんも大活躍だった……のかなあれ。でも来てくれて助かったよ。一般人の感覚持ってるのが私だけだったら絶対つらかった」

「え? 万里小路さんが一般人感覚?」

 

 万里小路楓は御嬢様だ。神戸にある万里小路重工のご令嬢のせいか、かなり感覚がずれているところがある。その彼女を一般人扱いするのは――本人には失礼極まりないが――相当である。

 

「一体なにがあったの?」

「えっとね、助けた男の子が英国連邦セントルシア大統領の息子なフランス人系の貴族様で、日本に亡命を希望した」

「……はい?」

 

 慧の目がテンになった。その反応を見て鶫も苦笑い。

 

「どゆこと?」

「私もわかんない」

 

 そう言いながら鶫は、先ほど青葉教官に転送した速記文をスマートフォンから呼び出した。

 

「えっと、セントルシアって国、わかる?」

「最近ニュースになってたかな、ぐらい」

 

 覗き込む姿勢が辛くなってきたのか慧が上から降りてきた。そのまま鶫のベッドに腰掛ける。

 

「カリブ海の島国で英連邦の加盟国なんだって。最近そこでクーデターがあったんだけど、その首謀者があの子のお父さんの……エイティーンス・デューク・オブ・カストリーだから、えっと、第十八代カストリー公爵……でいいのかな」

 

 携帯の画面に爪が当たるコツコツとした音が響く中、鶫は続ける。

 

「それで、セントルシアは英連邦から離脱するぞーってなってるらしいんだけど……いろいろ不安定で治安が悪化してる。身の危険を感じてあの子……ジョセフ君だけ国外に脱出するようにお父さんに言われて逃げる最中らしい……たぶん。聞き間違いがなけれな……じゃなくて、なければ」

「呂律が回ってないけど本当に大丈夫?」

 

 こくりと頷いて返事をしてから、鶫は続けた。

 

「それで途中で仲間割れ……というより騙されて殺されかけてたところを晴風が拾ったってことみたい。それで、イギリスに行けないって言ってる。この後寄港予定のバミューダ諸島は英国直轄領だから、ミケちゃん頭抱えてた」

「……それものすごくまずくない?」

「たぶん……もーいや。もかちゃん参謀めちゃくちゃ怖いし、青葉教官は絶対オーバーキルだし、ミケちゃん艦長は落ち着きすぎだし……ずっと胃が痛かった」

「何があったの? ただの聞き取りのはずだよね?」

 

 頷く鶫。それでもその顔は浮かない。

 

「もうめちゃくちゃだったよ。聞き取りの前から青葉教官は正体知ってたみたいだし。いろいろあって、助けた女の人が青葉教官に殴りかかったんだけど」

「待って、既にいろいろ端折り過ぎで頭が追いつかない」

 

 慧のツッコミに鶫は苦笑いだ。

 

「大丈夫。私もわかってないから。青葉教官はいつもの笑顔のまま女の人を殴って投げてノックダウン……。飛びかかった次の瞬間には女の人が机に突っ伏してて、本当に何があったのかわかんない感じ」

 

 慧はそれを聞いてもどういう状況だったのか想像できない。青葉教官は基本的に生徒に干渉しない人で、どこかつかみ所の無い印象がある。柳が教官だったときは艦橋や機関室などを駆けずり回っていたのに比べ、青葉は教官執務室でどっしり構えている事が多かった。そのせいか、よくよく考えて見ると、青葉の事をよく知らない。

 

「そんなに強いんだ……。狙撃銃を私物で持ち込んでたっていうのは聞いたけど……」

 

 慧が素直に感心している。その様子を見た鶫はやはり浮かない顔だ。

 

「なんか怖かったよ青葉教官……ずっと表情変わらないんだもん。……もかちゃんももかちゃんだよ。いつの間にか席立ってて、手錠をもって教官手伝ってるし、ミケちゃんはミケちゃんで、すぐに男の子のフォローに入ったり、情報の整理したりしてるし……。手際の良さが業者って感じだった」

 

 万里小路さんも困惑してたよ、と続けた鶫は盛大にため息をついた。万里小路楓は物腰こそ柔らかだが、晴風随一の武闘派として名をはせている。その彼女が反応できない速度で事態が進行したらしい。

 

「英語で話は進むけど……聞いたことのない単語もたくさんあってあんまり役に立ってないかも……」

 

 そう言った鶫の肩を、慧が労うように叩いた。

 

「……相変わらずぶっ飛んでるよね、晴風艦橋組」

「うん。なんであの状況でミケちゃん落ち着いてるの……」

 

 そんな事を言っていた鶫だが、枕の下からなにかを取り出す。L字に曲がった二本の鉄の棒だ。

 

「普通ってなんだか分からなくなってきた……」

「そこでダウジングで精神統一するのもかなり普通じゃないけどね」

 

 慧にそう突っ込まれるが鶫は黙殺。

 

「それで、その艦長さんたちは?」

「今、艦長会議の招集準備中だって」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もかちゃん」

「なぁに?」

 

 明乃に声をかけられ、知名もえかは返事をする。小会議室は二時間後に控えた艦隊参加艦の艦長を呼び集めての会議に向けたセッティング中だ。先ほどまでいた少年と女性は万里小路に連れられ退室し、青葉も本国との連絡のため出て行ったので、室内には二人しかいない。

 

「ジョセフ君たちのこと、どう思った?」

「嘘はついてないと思うよ。でも話せないことはまだある、かも」

 

 返ってきた答えに明乃も頷いた。明乃は机を会議用に並び替える手を止めて、そっと視線をもえかに向けた。

 

「私もそう思う」

「だからって見捨てるわけにはいかないもんね」

「うん」

 

 カステルノー卿ジョセフ准男爵とその使用人のルルー。晴風が拾った二人はそう名乗った。だが、その身分は隠しておきたいものだったらしい。

 

「脱出中に裏切られて、救命艇に押し込まれた。それは多分間違ってない。でも、まだきっとなにかがある」

 

 その理由はおそらくこれだ。もえかの声に明乃も頷いた。

 

「セントルシアの動乱についてなんて、情報を集めてなかったから結構ちんぷんかんぷんなんだけど……」

「しかたないよ。私も青葉教官がセントルシアなんて名前出すまで調べてなかったよ」

 

 もえかの言葉に首を傾げる明乃。

 

「青葉教官?」

「ドイツを出るときに青葉教官と執務室で話したの覚えてる?」

 

 もえかはそう言いながら椅子をセットしていく。明乃も頷いた。

 

「タッツェちゃんが晴風に乗るって決まったときだね」

「うん。そのときに学徒艦隊の出港日時を早めた。その理由がセントルシアのクーデターだったから、少し調べてたの」

 

 そう言って、もえかも手を止める。

 

「セントルシアはフランスとイギリスの間で揺れ続けてる土地で、今は英連邦加盟国……つまり、イギリスの同盟国なの。そこでフランス寄りの政策を掲げる暫定政権が立ち上がったのが2週間前、その暫定政権の大統領の息子さんがジョセフ君……。このままロイヤルブルーマーメイドに引き渡せば、あの子は政治的な交渉材料に使われる」

 

 もえかは窓の外を眺めるように視線を上げた。

 

「でも、殺されることはないはずなんだ。それでもあの子は明確に『イギリスに行けば殺される』って言った。……まだ私達に言えない、殺されるかもしれない理由が、たぶんある」

 

 もえかはそう言って、晴風の丸窓の向こうに広がる海を睨んだ。

 

「日本が亡命を受け入れるかどうかは別として、命を奪ってでもどうにかしないといけない何かがジョセフ君なら、戦闘になるかもしれない。国籍不明の海賊船……最悪の場合、ブルーマーメイドが来るかも」

「……できればそれは避けたいね。海賊ならともかく、ブルーマーメイドは学徒艦隊だけで勝てる相手じゃないから」

「うん。下手したら沈められるかも。……ジョセフ君のこと、艦隊の立場を考えるなら英国の要請があれば引き渡すのが『正解』だね。その場合でも晴風は最寄りの港で正規のブルーマーメイドに引き渡しただけだから波風も立たない」

 

 もえかの返事を聞いて、明乃は考える。

 

「……それでも、ジョセフ君をそのまま引き渡すのはしたくないかな」

「どうして?」

「うーん……多分ジョセフ君を救命艇に詰め込んだ理由って、ジョセフ君を行方不明で生死不明って状態にしたかったんだと思うんだけど……。それで得をするのって誰なんだろうって考えて……」

 

 明乃は難しい顔をしながら続ける。

 

「……多分、イギリスなんだと思う。フランスも信じられないってジョセフ君のお父さんに思わせたいなら……あ」

 

 明乃は自分で言っておいて驚いた顔をした。

 

「そうか……晴風がジョセフ君を保護して、第三国が亡命を受け入れたら、ジョセフ君はフランスからもイギリスからも離れられるんだ。……ジョセフ君にどちらも手を出せなくなる。それが狙いかも。だとしたら、ジョセフ君を守るなら上手くいきさえすれば一番これがいい」

「だから……日本の学徒艦隊がいることを知って救命艇に押し込んだ?」

「可能性は……あるね」

 

 明乃はそう言ってから頷いた。

 

「うん。もしそうなら本当に引き渡せないや。とりあえず青葉教官は本国に指示を仰ぐって言ってたからそれ次第だけど、このまま晴風で守れるなら守りたい」

「……それでロイヤルブルーマーメイドと戦闘になるかもしれなくても?」

「極力避ける方向でいきたいけど、それでジョセフ君が大変になるなら。うん、味方でいたい。……それにジョセフ君はイギリスには行けないって言ってるんだよ。できれば力になりたいよ」

 

 明乃はそう言って笑った。それを見たもえかもつられたように笑う。

 

「ミケちゃんらしいや」

 

 艦に波が当たる音がする。それを聞きながら、もえかはゆっくり口を開いた。

 

「……本当に、ミケちゃんなんだね」

「どうしたの?」

「ううん。変わらないなって。施設の時も、小学校出てからも、今も……本当にミケちゃんはミケちゃんだなって」

「そう……かな?」

「真っ直ぐで、しっかりしてて……変わらない。羨ましいくらい」

 

 そう言ってからもえかは一瞬悔やむような顔をした。

 

「ダメだな。強くなるって決めたのに……弱気になっちゃうな」

 

 もえかがポロリと零した。

 

「もかちゃん……」

「ごめん、忘れて」

 

 もえかはそう呟くように言ってから視線を落とした。

 

「……もかちゃん」

 

 明乃はゆっくり一歩、もえかに近づいた。

 

「もかちゃんも変わらないよ。頑張り屋で、優しいもかちゃんだよ」

「そうかな?」

「そうだよ!」

 

 そう力強く返すも、もえかの顔は晴れない。明乃は笑顔を浮かべてから、ゆっくりと口を開く。

 

「……私ね、もかちゃんが晴風に来てくれて本当に良かったって思ってるんだ」

 

 明乃はそっともえかの隣まで来て、机に体重を預けた。少しだけ行儀が悪いけれど、もえかの顔を見ながら話すには、こうするのが一番だった。

 

「晴風は……すごい艦だよ。でも、時々怖くなるんだ。いつか私の判断が晴風を沈めちゃうかもしれない。きっとなんとかなるってわかってるし、絶対なんとかするって思ってるけど、やっぱり決めるのはいつだって怖い」

 

 艦長としての明乃の弱音を聞くのは、もえかにとっては初めてだった。もえかはなぜか顔を上げることができなくて、自らの手元を見ていた。

 

「ココちゃんがいて、リンちゃんがいて、メイちゃんがいて、タマちゃんがいて、しろちゃんがいて……本当に恵まれてるっていうのはわかってる。でも、決めるときは震えるし、足が竦む。……その時にね、もかちゃんがポンって背中を押してくれる気がするんだ」

 

 もえかの手にそっと触れる明乃。その暖かさに、もえかは少しどきりとした。

 

「もかちゃんは私にとって、灯台みたいな人なんだよ」

 

 明乃はそう言って、微笑んだ。

 

「船は狂った羅針盤では進めない。だから灯台を見て行くべき方向を知るの。私にとっては、もかちゃんが灯台なんだ。そして私は晴風の灯台にならなきゃいけないし、もかちゃんが迷ったときには、もかちゃんの灯台になりたいと思ってる」

 

 もえかの手をそっと持ち上げる。それにつられるようにして、もえかの視線も上がった。目が合った明乃が笑う。

 

「もかちゃんはやっぱり、もかちゃんだよ。ハヤシライスが好きで、頭が良くて、いろんな人から頼られて、頑張り屋さんで、優しくて、でも少し見栄っ張りで、寂しがり屋で……ちょっとだけ不器用な、もかちゃんだよ」

 

 どこかいたずらっ子のような笑みを浮かべる明乃。

 

「大丈夫。もかちゃんは絶対、大丈夫! 間違っても悩んでも大丈夫。だってもかちゃん、武蔵の艦長なんだもん。その……武蔵の修理は今回の遠征に間に合わなかったけど……それでも艦長だもん」

 

 明乃がもえかを抱きしめた。

 

「だから大丈夫だよ。なんとかなるから」

 

 

 

 

 あぁ……この子は。

 

 

 

 

 もえかの心の中で、何かが崩れる音がした。

 

 

 

 この子は、やはりそう言って、先をゆくのだ。

 

 

 

 抱き返そうとして、もえかは腕を止めた。

 

「……」

 

 きっと、口にしてはいけないのだろう。だからこそ、耐えなければならない。

 

「ミケちゃん、多分傷つけることを言うから先に謝っておくね、ごめんなさい」

「もかちゃん……?」

 

 明乃の肩に頭を預ける。耳元に囁くなら、この位置が一番だ。

 

 

 

「明日、バミューダ諸島領海に入る前に襲撃があるわ」

「え?」

 

 

 

 明乃の呆けたような声が小さく漏れた。

 

 ここが分水嶺だ。彼女が無傷でいられる最終帰還可能地点(ポイント・オブ・ノーリターン)。そして、もえかと明乃がただの親友でいられる境界線だ。

 

「もかちゃん……何を……」

「手段はおそらく無人の魚雷艇かスキッパーを使った自爆特攻。飽和攻撃になる。艦隊を組んでいた場合……まず間違い無く、他の艦は対応できない。それをわかってやってくる。狙いは晴風だから多分晴風が艦隊から突出した時点で攻撃は止む。それでも、晴風が無事でいられる保証はない」

 

 理性が黙れと警鐘を鳴らし続けていた。明乃の体がこわばるのがわかっても止められない。

 

「たぶん、捕捉され続けてる。晴風だけ離脱するのも、もう無理だと思う。……明日、艦隊は崩壊する」

 

 もえかは笑った。明乃に顔を見られてないことを祈った。

 

「でもスキッパー1台なら、まだ逃げられるかもしれない」

 

 そういったところで、答えは聞くまでもない。彼女は艦長だ。もえか自身もきっと彼女と同じ答えを出すだろう。それでも、聞かない訳にはいかなかった。それがたとえ彼女を貶め、傷つけるものだとしても。

 

 

 

 ごめんね、ミケちゃん。最期まで友達でいたかった。

 

 

 

「――――逃げちゃおっか。二人で、さ」

 

 

 

 

 もう戻れない。たった今、分水嶺は通りすぎてしまったのだ。

 

 

 

 




……まさかここまで早く仕上がると思ってなかったのですが、半分勢いで投稿します。

いかがでしたでしょうか。

戦闘回が見えてきました、カウントダウン開始です。

これからもどうぞよろしくお願いします。


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シウコアトルの胎動

 

 

 

「おかえりなさい。もかちゃん参謀」

 

 教官執務室に足を踏み入れた知名もえかを待っていたのは、その部屋の主、高峰青葉だ。夕景は窓に小さく、シェードがかけられた灯りの下、タブレットにわざわざ有線接続したキーボードで文字を打っていた彼女は手を止め、にこりと微笑む。

 

「ミケちゃん艦長の様子はどうですか?」

「どう……とは?」

 

 もえかは聞き返しつつ部屋のベッドに腰掛ける。部屋の中は雑多だ。備え付けのペン立てがあるにも関わらず、広げられた私物のペントレーには万年筆やインク瓶がかろうじて乗っているものの、ボールペンや鉛筆などは机に散乱していた。机の上にはファイルの山ができ、青葉は器用に書類を引き抜きながら執務を行っている。

 

 この状況は、普通なら片付けの苦手な人扱いで終わるだろう。しかし、高峰青葉はその一つ一つの位置を把握しており、侵入者用のアラートとして活用していた。

 

「ミケちゃん艦長はちゃんと攻勢に耐えられそうですか?」

「さぁ……」

「つれない返事ですね」

「実際どうなるかは蓋を開けてみないとわかりませんから」

「そりゃあそうですね」

 

 青葉は笑って机に向きなおり、タイピングを再開。折りたたみ式の薄い機械式キーボードのカチカチとした軽い機械音が部屋に響く。

 

「ミケちゃんは艦隊機動戦を考えていそうです。おそらく機関銃の設置要請が来ると思います」

 

 その言葉に、キーボードの音が止まる。

 

「……バロット、君はもう少し利口な人間だと思っていましたよ」

 

 青葉はいつもよりゆっくりとそう言った。

 

「高峰さん、いいえ、サループ」

 

 彼女を示す名前を言い換えるもえか。青葉はそれを聞いてか、椅子の背もたれに腕をかけるようにして振り返った。

 

「我々にとっての最善は、晴風をはじめとする学徒艦隊がこの状況を切り抜けること、違いますか?」

「その通りです。ですがそれは誤った解決策(ミストアプローチ)でしょう。彼女に情報を伝える事にどれだけのリスクがあるのか、優秀な君がわからないはずがない。彼女、どこかの教官よろしくショットガン持ってスキッパーで飛び出しますよ。そのリスクを知って伝えたんでしょうね」

 

 夕焼けの中で彼女の瞳が細められた。口の端が歪んだ彼女はそう言いながらもどこか楽しそうだ。

 

「岬明乃という少女がどういう人材であるか、君が一番理解しているはずですよ。彼女が発揮し得る素質、そしてそれがこのタイミングで顕現した場合のリスク。君には説明したはずです」

 

 黒い髪を後ろで括った彼女の声はいつも通りだ。感情を殺しているわけでもない、演じているわけでもない。本当にフラットなのだろう。

 

「……煽動者(アジテーター)的素質、ですか」

「岬明乃に艦長の役割を説明させたことがありましたね。ほら、日本出港前に広報用のインタビューを受けた時のやつです」

 

 もえかはそう言われてわずかに記憶をたどる。確かにインタビューの予定が入っていたのが記憶にある。しかし、もえかはそこに同席しておらず、内容までは聞いていない。

 

「岬艦長は、艦長という役割を最初『みんなを《がんばれー!》と応援すること』と説明しようとしました。さすがにあんまりな説明なので、ましろさんがフォローを入れましたけどね。ですが、それは彼女の特性をよく示した説明だと言えます」

 

 青葉はそう言いつつ、ペントレーから一本の万年筆を取り上げる。

 

「岬明乃は晴風に、彼女の思考そのものをビルトインしてしまったんですよ。《がんばれー!》という応援(チアーアップ)によって、晴風をどう動かすべきかを皆に示した。彼女自身に自覚はないでしょうが、彼女の空間認識能力と人材把握能力は超人的です。相手の視線、相手の指先から能力の程度や思考を読み取り、相手の能力を引き出すための思考法を相手に授けることができる。短時間で烏合の衆を兵隊に変えるカリスマなんですよ、彼女は」

 

 くるくるとスクリュー式のキャップを回し、万年筆のペン先を引き出す青葉。ペン先はわずかに青いインクに染まっており、長く使っていることが分かる。

 

「そして彼女の助けで能力を発揮できたクルーは、自らの意思で岬明乃に従うことを選ぶ。それはある意味で正しく、ある意味で間違っています。純正のブルーブラックで満たすはずだったのに、先に岬明乃色のインクで満たすことになった。まぁRATt連続テロ事件を乗り切るには、そうするしか手が無かったでしょうから、それを責めてもどうにもなりませんがね」

 

 そういった青葉は万年筆をくるくると回す。金メッキされたペン先が夕日を反射し、もえかの目を射た。

 

「晴風クルーが演習で知名もえかの()()よりも岬明乃の()()を優先するほどに、岬明乃の命令は晴風にとっては重たい意味を持つ……岬明乃の行為を世間様は『洗脳』と呼びます」

 

 万年筆の先を、ティシューで拭いた青葉。そこに付いたインクの色は青では無く、臙脂色だった。

 

「インクは空にして洗浄することで更新するしかない。しかし、組織的には脅威であるはずの岬明乃色に染まった晴風は、確かに機能した。彼女を艦長から外す正当な理由は無くなってしまったわけです。最悪ですね」

 

 どこか楽しそうな青葉は言葉を続ける。赤熱した夕日が彼女に濃い影を落とした。

 

「彼女は誰かを切り捨てられません。一週間ほど前に乗り込んだタッツェちゃんだって、昨日知り合ったばかりのジョセフ君でさえ切り捨てられないでしょう。だから晴風は正解を選べない。否、岬明乃が選ばせない」

「そこまで言い切りますか」

 

 ムッとした様子でもえかがそう言えば、声を上げて青葉が笑う。

 

「その表現は正しくないんじゃないですか? 君の場合は『切り捨てなきゃいけない状況なのか?』の方が正しそうです」

 

 青葉は返事を待つが、もえかは答えなかった。

 

「君がそこに疑問を持つということは、君は既に岬明乃に犯されているということです。もっとも、君の場合は武蔵の影響も大きそうですが」

 

 そう言われてもえかは腑に落ちない表情を浮かべていた。

 

「どうしてここで武蔵がでてくるんですか」

「おや、気がついていませんでしたか。岬明乃と北条沙苗はとても良く似ている」

 

 もえかの頭にこびりついて消えない後ろ姿が浮かぶ。

 

「知識の差、経験の差こそあれども、彼女達の本質は『自らの思考や思想を、その言葉と行動により他者にインストールすること』にあります。彼女達一人だけなら恐れるに足りません。ですが、彼女達は人を感化し扇動し、物事を動かすだけの力を持つ。性質的には同質です」

 

 北条沙苗の笑い声が耳元で響いた気がした。もえかはそれを振りほどこうと一度息を吐く。

 

「それは北条沙苗が発揮したものであり、彼女を追う中で岬明乃が開花させた才能です。柳昴三が能力の方向性を上手くコントロールしたからこそ、晴風は崩壊せずに武蔵を追い詰めることができました」

 

 ごそごそと胸ポケットを漁る青葉、出てきたマッチの箱を揺らす。

 

「岬明乃が武蔵に乗らないよう宗谷元校長が工作してくれて正直なところ助かりました。岬明乃が北条沙苗に感化された姿なんて考えたらぞっとしません?」

 

 ケラケラと笑ってから青葉は煙草を取り出し火をつけた。

 

「なにはともあれ、晴風は既に岬明乃の王国と化した。絶対王政じゃなくて皆のボトムアップで成立したので尚更たちが悪い。臣民(クルー)は自らの意思で国王(かんちよう)に命を捧げかねない、そんな危険領域に踏み込もうとしている。ですがそれを岬明乃は望まないでしょう。ならばどうするか」

「最善策は晴風から岬明乃が自らの意思で降りる……ですね」

「おや、それが出てくるということは、もしかして提案しました?」

 

 紫煙を吐き出した青葉はそう問うが、答えは返ってこなかった。

 

「ですがそれは厳しいでしょう。岬明乃にとっては地獄の選択です。少なくとも、晴風に危機が迫っている今の状況では。……やっと共通認識の確認は終わりですね。それで、なんで彼女に()()が迫る事を伝えたんです?」

「……ミケちゃんが生き残って、艦長であり続けるためにはこれしかないでしょう?」

 

 もえかは笑う。

 

「ミケちゃんは、優しすぎる。そして貴女はそれを利用しようとしている。サループ、あなたは誰の味方なんですか?」

「はぁ? またそんな事を聞きますか? 何度聞いても答えは一緒です」

 

 青葉は灰皿をとる手を止め、演技臭く肩を竦めた。

 

「私は日本国の味方ですよ。岬明乃を見殺しにできないのは、こんな異国の海にわが国が守るべき未成年の死体を、ぷかりと浮かべるわけにはいかないからに過ぎませんし、この海で晴風が廃艦になろうと、岬明乃が廃人になろうと、私が知ったこっちゃありません。そこから先は医療福祉と障害年金の問題ですから、私は門外漢です。君も然り、私も然りです。我々の背後にある日本国と1億2000万人の国民の前では、ね」

 

 さらりと言いきってから、青葉は煙草の灰を落として咥えなおした。

 

「戦争を知らないままわが国は半世紀以上過ごしてきた。それがどれだけ血塗られたものであっても、どれだけ欺瞞に満ちたものであっても、それはわが国が勝ち取った平和でした。市民様にはその平和の中でうつつを抜かしてもらわなきゃならない。戦争はテレビ向こうにあればいい」

裏庭にはごめんだ(NIMBY)ということですか」

「えぇそういうことです。平和を守るのが我々の仕事であり、日本国ブルーマーメイドの仕事ですし、筋は通る」

 

 君もわかってるでしょ? と言って、深く煙を吐き出した青葉が浪々と続ける。

 

「だからカリブ海とかいう地球の裏側で戦争を吹っかけようとしているクソな日本人は止めるし、巻き込まれそうなわが国の未来ある若者は命だけでも護り抜く。若者の死は日本が宣戦布告するに足る理由となるからです……私が君達の味方である理由なんて、それ以上でもそれ以下でもありません」

 

 いつも通りの笑みのまま、すらすらと言葉を紡いでいく青葉。

 

「だから死者は出さない。犠牲が避けられないなら最小限にして、闇に葬る……それがわが国が1世紀にわたって堅持してきた国防のありかたであり、わが国の平和なんですよ」

「……そのために、ミケちゃんを切り捨てることになっても?」

「えぇ、もちろん。切り捨てられるのがミケちゃん艦長でも、もかちゃん参謀でも、晴風全てでも、高峰青葉教官でも判断は変わりません。()()()()()()()()()()日本国政府(われわれ)はそれを成す」

 

 知名もえかは瞳を閉じ、ゆっくりと口を開いた。

 

「だとしても、日本はまだ岬明乃を切り捨てられない。それが日本の国益を損なう状況にあるから」

「子守は苦手ですし、素人なんですけどね」

 

 おどけた答えは肯定だ。

 

 

 

 だとしたら、まだ、救いようがある。

 

 

 

「……ミケちゃんの居場所を奪わせなどしませんよ」

「ならどうします? そこまで啖呵を切るなら当然対応策があるんでしょう。聞かせてくださいよ、二兎を追い、二兎を捕らえる秘策を」

 

 知名もえかはゆっくりと目を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宗谷ましろが話があると呼び出された晴風の艦尾では、落水防止用の柵に寄りかかった岬明乃が待っていた。遠くに鳥が集まって海面近くを黒く染めている。それを見ながら彼女に近づけば、岬明乃が気がついた。

 

「しろちゃん……ごめんね、呼び出しちゃって。寝てたよね」

「大丈夫です。少し寝てかなりすっきりしましたから。……それで、どうしたんです?」

 

 落下防止柵のチェーンに体重を預けるようにして、ましろは横を見た。横の彼女はツインテールにまとめた明るい色合いの髪を潮風に揺らしながら、思い詰めたような表情をしていた。

 

「らしくないですね。艦長がしゅんとしてるなんて」

「そう……かな?」

「……なにかあったんですね、()()()()

 

 明乃はそれを聞いて、少し寂しそうに笑った。

 

「しろちゃんが私のこと名前で呼ぶの、久しぶりに聞いた気がする」

 

 明乃の視線は足下に落ちる。学校指定のローファー風の履き物がゆっくりと鋼鉄の足下を擦った。

 

「……もしも、もしもだよ」

 

 そう言ってから、言い淀んだ明乃の言葉を、ましろは辛抱強く待った。

 

「もしも、私が晴風を捨てて逃げたら、どうする?」

 

 そう問われ、宗谷ましろは目線からそっと岬明乃を外した。

 

「……そうですね。寂しくなります」

 

 晴風に寄せた波が音を立てる。海に白線を曳きながら走る鋼鉄の船は、静かなようで賑やかだ。

 

「でも、それだけです。晴風は強い艦ですから、あなたがいなくても航海は続きます。私個人としては、いてくれた方がうれしいですけどね。……もえか参謀と喧嘩でもしましたか?」

「……しろちゃんにはお見通しなんだね」

「伊達に副長をしてませんよ」

「そうだね。うん、しろちゃんが副長でよかった」

 

 明乃が笑った気配。ましろが視線を戻す。

 

「……何があったんです?」

 

 ましろの問いに、明乃は黙り込んでしまった。

 

「言いたくないなら、黙っててもいいですよ」

「ううん。言わなきゃいけないことだし、どっちにしても、今晩にはみんなにも話さなきゃいけないことだから」

「晴風全体に関わること、ですか?」

「どちらかといえば、艦隊全体かな」

 

 明乃はそう言ってから、迷うような間をあけた。

 

「明日、学徒艦隊に攻撃がある……かもしれない」

「……そうですか」

「驚かないの?」

「驚きましたよ。でももえか参謀と艦長のことです。確度は高いんでしょう? 驚いていても始まらないですから」

 

 ましろはそう言って笑った。自分でも笑えることに驚いた。

 

「多分、戦闘になる。海賊風の船団が急襲をかけてくるけど、おそらくはそれが本命じゃない。潜水艦にピケッティングされ続けてるっぽいし、本命はその次。海賊船に襲われた学徒艦隊を救援にくる英国ロイヤルブルーマーメイドと英国海軍の混成艦隊」

 

 もともと私達が合同演習でご一緒する予定だった艦隊だね。と明乃が言えば、ましろは頭を抱えた。

 

「……まさかとは思いますが、混成艦隊相手に正面突破とか言わないでしょうね」

「さすがの私でもしないよ。海軍が出てくる以上、変なことしたら、こっちの射程外から噴進魚雷で蜂の巣にされる。たぶん5分も立たずに壊滅する」

 

 冷静にそう言う明乃が頼もしいやら、苦しいやらで、ましろの顔に苦い笑みが浮かんでしまう。

 

「それに……ブルーマーメイド同士で撃ち合いたくない……あんなのはもうRATtの時だけで十分だよ」

 

 ましろの脳裏に鏑木美波との会話がフラッシュバックする。

 

 美波経由で伝えられた、宗谷真雪と真冬からの()()。RATtウィルスがまた動いている。その背後にいるはずの金鵄友愛塾が手ぐすね引いて晴風と艦長を飲み込もうとしている。

 

「艦長……」

 

 明乃の影が混じる表情を夕日が照らす。

 

「大丈夫。きっとなんとかなる。なんとかするんだ、私達がなんとかしないと、晴風が沈む」

 

 そういう彼女を、愛おしいと思うのは、きっと場違いで、失礼なことなのだろう。それでも、ましろはそう思ってしまった。彼女を守らねばならない。

 

「だから、突破口は一つだけ」

 

 明乃はそう言いながら、セーラー服の胸ポケットを押さえる。ましろは、明乃がそこに懐中時計をしまい込んでいることを知っていた。

 

「英国がやってくる前に、海賊船団を無力化するしかない。徹底的に叩いて、英国が入り込む隙を生まないぐらい完璧に無力化する。誰も死なせずに、切り抜ける。……しろちゃん、力を貸してほしい」

「私で良ければ、いくらでも」

 

 夕日が沈もうとしていた。岬明乃が艦内へと舞い戻る。 

 

 

 




青葉さんのセリフ長回しが楽しすぎました。色々とごめんなさい。

戦闘が近づいてきていますが、本当に口火を切れるのはもう少しだけ先になりそうです。

これからもどうぞよろしくお願いします。


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イツラコリウキの困惑

 

 

「やっほーつむぎ」

「あ、高橋さん。こんばんは」

 

 晴風の教室で見慣れた顔を見つけた『天津風』航洋艦長、高橋千華(ちか)は、声をかけつつその隣に腰掛けた。

 

「いきなりの全艦長呼び出しだけど……なんなのかしら」

「さぁ……」

 

 晴風から発光信号で艦長呼び出しがあったのがだいたい一時間前、艦隊は機関中立で足をとめた。今日は波も穏やかだが、どうも艦隊で問題発生らしい。

 

「はぁ、私の平穏が……」

「つむぎのとこに平穏はあんまりなさそうだけどね、晴風ほどじゃないけど、けっこう派手じゃない?」

「うぅ……それを言ったら天津風も似たような雰囲気ですし……」

 

 『時津風』航洋艦長、榊原つむぎは千華に言われ肩を落とす。

 

「高橋さんは意地悪です……」

「えー? そんなことないと思うけどなぁ」

 

 高い位置で二つに括った鳶色の髪を揺らした千華。つむぎはふくれ面だ。

 

「でも……」

「ん?」

「往き足を止めた晴天下とはいえ、夜間に緊急招集は本当に珍しいですよね」

「まぁこの夜じゃ衝突事故が怖いからしょうがないじゃない。晴風から迎えの短艇(カッター)を出してまでみんなを集めて艦長会議をするのはびっくりだけどさ」

 

 千華はそう言ってつむぎを見る。

 

「まぁ、どうせ昨日の夜の遭難者騒ぎでしょ」

「でも機関停止厳禁ってわざわざ伝えてきたのも気になりますし、中立のまま待機っていうのも……燃料も無限じゃないですし……」

「まぁ穏やかだけど外洋だし、機関立ち上げも楽じゃないからそのせいじゃない?」

 

 横須賀女子海洋学校の所属艦艇はいくら自動化されているとはいえ、旧式の艦が多い。蒸気タービン式の推進機構を積載した艦が多く、機関の立ち上げには、気穣、暖気暖管、試運転とステップを踏む必要がある。どれだけ急いで立ち上げても四時間はかかるのだ。

 岬明乃の晴風と千華の天津風だけは、航洋艦の新型機関実験缶として活用されたことから、高速航行用のガスタービンエンジンも搭載する蒸気/ガスタービン併用推進(COSAG)機関のため、7分程度でガスタービンを用いて動き出せるものの、低速での効率はすこぶる悪い。

 

「蒸気缶じゃなければ、機関止めて燃料節約とかできるんですけどねぇ……。それにブルーマーメイドの艦船、もう大和以外に蒸気缶を積んでるのって迎賓船の『橋立』ぐらいですよ」

「そんなこと言ったって海洋学校の予算が毎年カツカツなんだから仕方ないじゃない。東舞鶴(とうまい)が『あきづき型』を使えるのは納得いかないけど」

横須賀(うち)は毎年蒸気缶からディーゼルやガスタービンへの換装予算請求を出して却下され続けてるらしいですね……」

「ほんと意味わかんないわよ。ブルマーにも改インディペンデンス型がかなり配備された訳だし、そろそろブルマーのお古にありつけると思いたい。……で、なんの話だっけ?」 

「そんな蒸気缶に気をつかいながらここに集まってる理由です」

 

 つむぎが話題を戻す。

 

「やっぱりおかしいです。だって、普通なら最寄りの港に下ろして現地のブルーマーメイドに引き継いで終了だと思うんですけど」

「でも、昨日の遭難以外ないと思うけどなぁ。救命艇の出所が分かってないとは聞いてるし、口裏合わせじゃない?」

「そうだといいんですけど……」

「なに? つむぎ、気になることでもあるの?」

 

 不安げなつむぎをちらりと横目で見る千華。つむぎはキョロキョロと周りを見回してから、そっと千華に顔を寄せる。声が不用意に広がらないように手を口に添えて口を開く。

 

「晴風の右舷銃架台にエムツーが懸架されてるみたいなんです」

「……それ本当?」

 

 千華は耳を疑う。M2は十三ミリ機関銃の名称で配備されているブローニング12.7 mm M2重機関銃のことだ。つむぎは頷く。

 

「ラッタルを上る時にちょっとだけ見えただけだけど……たぶん」

 

 M2は自衛及び機雷除去に使用するために学徒艦隊各艦に配備されているものだが、普段は専用の保管庫(ガンロッカー)に保管されているはずだ。

 

「取り出すには教官が持っている鍵が必要なはずよね?」

 

 こくりと頷くつむぎ。

 

 M2重機関銃は訓練の際でも使用前に設置し、使用後に保管庫に戻す規定になっている。元々海洋学校所属艦には二十ミリ機関砲を常設していたのだが、RATtウィルス影響下の生徒が機関砲を操作し味方艦を誤射した事件を受け、平時は物理的に撤去できるM2重機関銃に換装された。砲雷科(だいいちぶんたい)が習熟訓練をしていたのは記憶に新しい。

 

「……なにかおかしいわね」

「たしかに嵐を避けるために予定より南に進路は取っていたので……商船航路からは外れていますけど……機雷原があるなんて話、聞いたことないので……驚いたんですけど」

「……あり得るのは、自衛のための緊急設置?」

「たぶん……緊急で艦長を集めたのも……」

 

 つむぎは周囲を見る。周囲もどこかそわそわした空気になっている。周囲に聞き耳を立ててもM2の話題などは出ていないということは気がついた人は少ないらしい。

 

「それに晴風のみんなもなんだか変です」

「どういうこと?」

「これまで晴風ってすごくほんわかしてたじゃないですか」

「そうね。あの艦長のユルさがでてたわね」

 

 その割にはスペックとんでもないけど、とは言わなかった。千華の気を知ってか知らずか、つむぎが頷く。

 

「そうなんですけど、なんだか今日乗ってみたら、なんだか緊張してるような……そんな空気がしませんか?」

「そう? まぁ、あの艦長のことだから少しぐらい緊張した方がブルーマーメイドらしくていいんじゃない?」

「ちょっと高橋さん……!」

 

 どこか焦ったようにそう言いながら目線で合図を送るつむぎだが、千華は気がつかない。

 

「いいじゃない、事実よ。それに代表生徒に抜擢ってことは、前回の期末試験で私だけじゃなくて()()宗谷ましろや()()知名もえかを差し置いて主席だったってことでしょ? ……負けたのは悔しいけど、ちゃんとそれなりの威厳は持って貰わないと」

「ふふっ、私には威厳はないもんね」

「まったくよ、少しはあなたも自覚が……って、ええぇ!?」

 

 真横にすっ飛んだ千華が机に腰をぶつけて撃沈。艦内教室の机は船の動揺に備え完全固定式である。どれだけ強く体当たりしようとも、体に机がめり込むだけだ。机に突っ伏して魂が漏れ出そうな雰囲気の千華に、代表生徒専用の開襟制服と制帽に身を包んだ岬明乃は苦笑いだ。

 

「えっと……大丈夫?」

「大丈夫に決まってるじゃない……というより、いつ来たの?」

「今さっき。艦長のユルさがどうこうのあたりかな」

 

 笑った明乃はそう言ってから一度ウィンク。

 

「あんた、思ったよりいい性格してるわね……」

「そう?」

 

 明乃は笑う。席を立つ。そのまま前に一歩出る。

 

「明乃さん、大丈――」

「つーちゃん」

 

 つむぎの声を遮って岬明乃が明るく声を出した。

 

「いきなりの呼び出しだったし、大変だったよね。ごめん」

「明乃さん……?」

「でも、許して。多分、これが()()()になるから」

「え?」

 

 そして明乃は正面の教壇に立つ。笑みを仕舞った。

 

「それでは、全艦長が揃ったので緊急艦長会議を始めます」

 

 教室がしんと静まった。

 

「本来なら司会や書記の選定を行うところですが、急を要するため、司会はこのまま私が、書記は晴風から納沙幸子書記に事前にお願いしています。知名艦隊付参謀は教官との打ち合わせのため欠席です」

 

 教室の最後尾で端末を広げていた納沙幸子がぺこりと一礼。天井に懸架されたプロジェクターが起動し、教室の電気が落とされた。

 

「おそらくみんな知っていると思うけど、晴風が今日の午前4時頃、救命艇で漂流中の民間人2名を保護しました。その情報の共有と、今後についての相談をしたくて集まってもらいました」

 

 明乃の後ろにある黒板に投影されているのは広域海図だ。バミューダ諸島からカリブ海の北側までを範囲に収めた地図であり、艦隊の位置が既にプロットされている。

 

「乗っていた民間人は母国の英連邦セントルシアから日本への亡命を希望、日本国はその検討のため、一時的に保護することを宣言しました。これにより、2名の民間人は検討の期間中、()()()()()()()()()()()()

 

 つむぎはそれに引っかかりを覚えた。『わが国』なんていい方、明乃さんらしくないじゃないか。

 

「英連邦セントルシアおよびイギリス本国は二名の引き渡しを要求していますが、日本はそれを拒否しました。これを受け横須賀女子海洋学校は本艦隊に対し、海上安全整備法第八十条に規定される《法執行艦艇としての臨時権限》の発動を指示、これより亡命希望者の保護を実施します」

「ちょっと待って」

 

 挙手をしつつ話に割り込んだのは千華だ。

 

「法執行艦艇としての臨時権限の発動ってことは……ブルーマーメイドとして民間人を守れってことよね」

 

 それに頷く明乃。

 

「うん、そうなるね」

「……つまり、イギリスのブルーマーメイド相手に銃を向け合えってこと?」

()()()()

 

 明乃はさらりとそういった。空気が凍り付く。

 

「直接ブルーマーメイドと撃ち合う事は無いとは思うけど……もう潜水艦が張り付いてるのと、外務省から謎の武装集団がバミューダ沖で集合して姿を消したって報告があった。……おそらく明日、その武装集団が襲撃に来る」

 

 プロジェクターが図を差し替えた。青い自艦隊の他に複数の赤い点が表示された。赤は敵性を示す色だ。

 

「明朝、艦隊は目的地を英国バミューダ諸島から米国マイアミへ変更し、転進します。それに前後する形で武装集団と接触した場合は、警告等を行い離れてもらいますが……最悪の場合、武力を持って排除することになります」

「……そのための、M2ですか」

 

 つむぎの小声に、明乃が困ったように笑った。

 

「そこまで危機的状況になるかはわからないけど、最悪の可能性も考えなきゃいけない。ブルーマーメイドとして、この海を守る。それが私達の艦に武装を積んでる意味だから」

 

 明乃はそう言って全体を見回した。

 

「みんなで切り抜けるために、みんなの力を貸して欲しい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『真霜姉ぇ!』

 

 寝ぼけ眼で電話を受けたとたんに耳をつんざいたその声に、宗谷真霜は頭を抱えた。

 

「真冬……時差を考えてよ頼むから……それに態々衛星電話でかけてきてどうしたの。見たことない番号だからだれかと思ったじゃない」

『悪いがそれどころじゃない。しろから連絡がなかったか?』

「ましろから?」

 

 在ロンドン日本大使館にへばりつくように作られた宿舎で、真霜はゆっくり体を起こした。

 

「ないけど……どうしたの?」

『晴風がセントルシアの大統領の息子を保護したのは聞いてるか?』

 

 声のトーンがぐっと下がった。そのただならぬ様子に真霜は戸惑う。真冬は日本で広報の担当をしているはずで、真冬が慌てている理由がわからない。

 

「……簡単な報告だけは。なにかあったの?」

英国(そっち)の引き渡し要請に対抗したのか知らんが、学徒艦隊に八十条権限が適用された』

「……あぁ。最っ悪ね」

 

 一気に眠気が吹き飛んだ。こんなモーニングコールがあってたまるか。スリーブにしていたパソコンにパスコードを叩き込み、始動。外務省のシステムにログオンする。

 

「よりにもよってイギリス相手に八十条発動は予想外だったわ……。身内とはいえ、国土交通省もやってくれるわね」

 

 海上安全整備法第八十条に規定される法執行艦艇としての臨時権限は、()()()()()()()()()()()、指定された局員が乗船した一般艦船を海上安全整備局所属艦艇とみなし、警備行動を許可するというものだ。横須賀女子海洋学校の教官は予備役とはいえ、海上安全整備局員として即時召集が可能であり、直接教育艦は有事の際には、優先的に安全整備局の艦隊に組み込めるよう整備されている。

 

「筋は通せる。……でも通せるならやってもいいって問題じゃないでしょうこれ」

 

 外務省通達を確認する。確かに亡命希望者の引き渡し拒否通告が出ている。

 

「強行臨検に備えた……にしては過激よね。仮にも他国籍のブルーマーメイド候補生が乗る艦船にそうそう乗り込めるものじゃないわ」

『武力衝突になる危険性もある動き……か』

 

 そういう真冬の声には焦りが滲んでいる。

 

『武力衝突になったら、真霜姉ぇが駐在武官として関わることになるんじゃないのか?』

「おあつらえ向きに英国連邦カリブ方面担当武官として配置(アサイン)されたわ。……こうなると明日にはまた双胴高速艇に叩き込まれてバミューダ行きでしょうね。地獄の42ノット巡航よ」

『それで、どうなんだ』

「どうって?」

『八十条権限で晴風が発砲したとして、その後の保護はどうするんだ』

 

 そう言われ、逡巡。答えは火を見るより明らかだ。

 

「無理ね。ロイヤルブルーマーメイドと交戦になったら学徒艦隊は壊滅するわ。それまでの時間で賭けでもする?」

『冗談言ってる場合じゃないだろっ! しろやミケの命が掛かってるんだぞ!』

「叫ばないでよ。最低の冗談だってのはわかってるわ」

 

 くそっ、と悪態をつく電話の向こうにいる妹の声を聞きながら、真霜も必死に頭を回す。

 

「どっちにしてもまだロンドンにいる私は間に合わない。あまりに遠すぎて噴進魚雷にでも括り付けられないと追いつけないわ」

『でも……でもなんとかならないのか……?』

「イギリスもバカじゃない。学徒艦隊の乗員が未成年であることは知ってるはずよ。だから他の手段はどうであれ、直接対決は避けるはず。でも晴風や他の艦がブルーマーメイドに発砲したら取り返しがつかない」

 

 そんな可能性を考えたくもなかった。そうなれば一気に日英開戦の危険が生じる。そんなことになれば干上がるのは日本だ。

 

『さっさと投降してもらうしか手がねぇな』

「そしたら民間人保護の名目が立たない。あくまで晴風艦上は日本国の法律が行使できる状況においておかないといけない」

『そのための八十条権限かよ。念を入れすぎだろ』

「海上安全整備局員として教員を指定して法執行要員扱いする……RATtの時ほどじゃないけど強引よね」

 

 真霜はそう言いながら暗い部屋を見回す。パソコンの灯りだけが煌々と輝き、周囲を仄明るく照らしている。

 

「私の合流は間に合わないだろうけど、それでもなんとかするしかない。英国政府の動向は逐一外務省に報告するわ。正直個人で対応するレベルを大きく超えている」

『それはそうだけどよ……!』

 

 そう言っても真冬は気が気ではない様子だ。

 

「真冬、あの子達を支える私達が取り乱したら状況が悪化するだけよ。落ち着きなさい」

『……真霜姉ぇ、なんでそんなに落ち着いていられるんだよ』

「なんでだろう。……どうしても、あの子達が死ぬようには思えないのよ。彼女達には守護天使がついてる」

『守護天使……?』

「安心しなさい、私はあの子達の味方よ。そして守護天使も。動向は追って連絡するわ。対応に入るから一度切るわね」

『ちょ、真霜姉……』

 

 通話を一方的に切り、ため息をつく。

 

「……頼みますよ。柳2監」

 

 

 

 




スマートフォンアプリ『ハイスクール・フリート 艦隊バトルでピンチ』より、つむぎちゃんと千華ちゃんの登場でした。つーちゃん可愛いです。ストーリーの第二章で色々とんでもないものが出そうで(こちらの展開的にも)ドキドキです。

さて、次回からいよいよ戦闘と相成りそうです。気合い入れていきますが、投稿が遅れた際はご了承ください。

これからもどうぞよろしくお願いします。


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