楽園爆破の犯人たちへ 序 (XP-79)
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英雄のかたち
1. 馬鹿な騎士がいたんだ


前を見ると神はぐるぐると螺旋状に渦巻きながら、多くの動物や、虫や、魚や、鳥を見ては、じっと眼を凝らしていた。沢山の眼球はこちらを見ているようで見ていないような、他人行儀な穏やかさに溢れていた。
 隣に座るロロがこちらを見て静かに促す。罪を告白した爽快感はその顔に見当たらなかった。

 俺はロロになんと言っていいのか分からなかった。何か言葉をかけるべきだったのだろうけれど言葉のかけようも無かった。
 言葉をかけられることをロロも望んでいないように思えた。
 しかし俺にはロロは誰よりも潔く度し難い程の馬鹿であり、愛を知らない憐れな男のように思えた。憐れまれることはロロが最も嫌うところであることを誰よりも知っていながら、そう思わずにはいられなかった。
 俺は少なくとも愛を知っている。その点において彼よりもずっと恵まれていた。
 俺はロロから目を逸らし、神に眼を向けたまま自分の話を始めた。





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身分証明書を門前で提示する。顔見知りの門番は片目で長方形のカードを見てすぐに門を開けた。

 年中花が咲き誇るアリエス宮は小さいながらも華やかに整えられている。

 初めてアリエス宮に来たときはその壮大な花畑に感嘆したが、流石に9年も経つと慣れる。花園の中心を真っすぐ伸びる道を歩く。

 ジェレミアは今年で9歳になるルルーシュの身を思った。

 庶民の母親を持つが故に宮廷内で軽んじられるルルーシュの有様は見ていて憐れみを通り越して腹立たしかった。

 唯一ヴィ家と親しい皇族であるシュナイゼルの庇護のおかげで今のところは暗殺されずに済んでいる。しかしルルーシュの身辺に味方と断言できる貴族はジェレミアとルーベン・アッシュフォードの二人だけであった。

 丁度道の半ばで何かがジェレミアの鼻先を掠めるように通過した。

 鳥にしてはあまりに速度があり、掴み処のない機械音を一定の音量で発している。反射的にジェレミアは体を地面に伏せ、片手で腰に下げてある拳銃を引き抜いた。

 ネジを高速で巻いているような機械音を追って眼を動かす。逆光のせいではっきりとした形状は分からなかったが、2枚の翼を持つ鳥のようなものが踊るように飛んでいた。

 かなりの速度が出ている。しかし目視で確認する限りサイズは燕より小さい。

 ジェレミアは皇居に迷い込んだ鳥かと思った。しかし反転や急上昇急降下を繰り返すその物体の軌道は航空ショーのように鮮やかであり生物としてありえない。

 ジェレミアの視線に気づいたのかそれは突如として垂直に上昇した。地上5階建てのアリエス宮より高く舞い上がり、突然動きを止めて空中に静止する。

 そのまま反転し真っすぐこちらへ、ジェレミアへと落ちてくる。

 凄まじい速度で墜落してくるそれから逃げるべきかと一瞬悩んだが、この宮でこんな真似をする人物は一人しか思いつかない。ジェレミアは苦笑して立ち上がりそれを迎えることにした。

 それは視認するのも困難な速度で落ちてきたが地上1.5m程の高さで急停止した。全くぶれることのない機動は重力を感じさせず、鳥というより虫に近い。

 ちょうど目の高さで空中に静止しているそれに手を伸ばすと、変声期も迎えていない幼い声が響いた。

「顔認識システムはそれなりに稼働。人工知能も速度精度共に良好。速度は最高で250km/h、連続稼働9時間。後の課題は軽量化だな」

「またおもちゃを作ったんですかルルーシュ様」

「プログラムだけな。機体を作ったのはロイドだ」

 零れんばかりに大きな瞳をした皇子はおかえりと言ってジェレミアの服の裾を掴んだ。

 

 最後に会ったのは士官学校の卒業報告の時だから2か月前になる。

 たった2か月とはいえこの時期の子供の成長速度は眼を見張る。そしてルルーシュの頭脳の成長速度は身体の成長より遙かに速く、生き急いでいるかのように驚異的だ。

 そして頭脳は日々凶悪に成長しているというのに容姿は子供らしい純朴さを讃えたまま美しく育っている。

 肌は陶磁器のように白く濡れたように黒々い髪は艶やかだ。少年期特有の少し高い声は耳に心地よく、中性的な柔らかい体躯は宗教画の天使に似て清廉である。

 そして皇族にしか発現しないロイヤルパープルは濃く深い。

 あと10年もすれば目も眩む程の美青年になるだろうという諸侯の噂は多少の贔屓目を引いても事実だろう。

「明日から初任務と聞いていたからこちらには来れないと思っていたよ」

「せめてお顔を拝見させて頂いてから任務に向かいたいと思い、お邪魔させて頂きました」

「お茶でも淹れようか」

 ルルーシュは空中に静止している丸っこい鳥のような機体に「第5ルートを周回。データ集積が最優先」と告げた。機体は「イエス、ユアハイネス」と機械音声で返答し上空へと舞い上がった。 

 二人でルルーシュの私室へと向かう。通り過ぎる使用人達は長身のジェレミアをその腰ほどまでしかない小さなルルーシュが先導して歩いている姿を見て微笑みながら頭を下げた。

 ゴットバルト家の次期当主がヴィ家の次期当主に何くれとなく世話を焼いている姿は大型犬と子猫がじゃれついているようで心を和ませる。

「あれは何なんです?」

「機体自体はただの小型KMFに過ぎない。優れているのは内部のソフト面の方だ」

「ソフト?」

「このまま開発が進めば高速演算処理装置を積んだ空飛ぶスパコンとも呼べるKMFが可能となる。4歳のころから5年かけて開発し続けた甲斐があった」

 ジェレミアやシュナイゼルがいない時ルルーシュはいつも勉強するか部屋に籠っているばかりだと使用人が零していることを思い出した。

 真面目なルルーシュのことだから勉強でもしているのだろうと思っていたが、事実はジェレミアの予想を大きく突破していたらしい。

 しかしKMFの開発にまで手を出していたとは流石に想像していなかった。最早9歳にしては頭がいいという言葉では収まり切らない。ネジが数本ぶっ飛んでいるレベルで空恐ろしく優秀過ぎる。

 そしてそのネジを緩めたのはほぼ間違いなくあの白い髪をしたマッドサイエンティストだ。ルルーシュへ楽し気にあることない事吹き込んでいる同級生が見えるようでジェレミアは顔を顰めた。

「友人は選んだ方がいいですよルルーシュ様」

「お前が誰のことを指してそう言っているのかなんとなく分かるがあいつは悪い奴じゃない」

 いい奴でもないけど、と付け加える。

「あいつは俺よりずっと年上なのにたまに俺より子供なんじゃないかと思える」

「全く。善悪より楽しいか楽しくないかで物事を判断してしまう奴ですから」

「大体の人間はそもそもそうだろう。でも大人はちゃんと言い訳を用意する。あいつは言い訳しない。だから子供なんだ」

 物事を斜に見て知ったかぶった口調で話すルルーシュもまだ十分子供、それも世間一般では生意気なガキに分類される。しかし口にはしなかった。

 子供であることを指摘されると年頃の子供らしくルルーシュは頬をリスのように膨らませて怒る。

 

 ともかくだ、とルルーシュは話を続けた。

「俺の味方をしてくれる貴族は少ないだろう?」

「ヴィ家の支援をして下さる方々は沢山いるではないですか」

「それはあくまでマリアンヌが戦場で得た成果だ。マリアンヌに心酔した者たちがヴィ家の支援をしているに過ぎない。彼女が退き、俺が当主になった途端切れてしまう縁だ。ああお前は別だぞ」

「当然です」

 ジェレミアの返答にルルーシュは小さく笑った。

「何も考えないで即答する癖はそろそろ直した方がいいんじゃないか?」

「ルルーシュ様に関することだけですから問題ありません」

「———本当にゴットバルト家は変人揃いだ。ブリタニアで最も浮き沈みが激しい一族だと言われるだけのことはある」

「忠誠心が強すぎる家系とおっしゃって下さい」

「それを世間では変人か馬鹿と呼ぶんだよ。大体の人間はもっと利口に振る舞う。もし俺がゴットバルトに生まれていたらとっくにアリエス宮に出入りするのは止めてシュナイゼルに取り入っていただろうな」

 理解できないと頭を振るルルーシュはやはり子供だった。

 

 人には簡単に捨てられないものがあり、それを持っているからこそマリアンヌは皇妃に上り詰めたのであり、ルルーシュからジェレミアは離れられないのだった。

 それをいつかはこの聡明な皇子も知るだろうが今それをこの幼過ぎる子供に理解させるのは無理難題だと悟りジェレミアは口を閉ざした。代わりに浮かんできた疑問を口にする。

「シュナイゼル殿下に?オデュッセウス殿下ではなく」

「そうだ。話が逸れたがつまりは人材の問題だ」

 アリエス宮の奥まで辿り着いた。金の取っ手が付いた重厚な扉を開ける。

 ルルーシュの私室はさっぱりとしていて余計な調度品は一つも置かれていない。皇族の私室としてはあまりに簡素だが、代わりに大量の本と液晶画面が壁を覆い尽くしていた。

 皇族の私室というよりもワーカーホリックのプログラマーの部屋と言われた方が納得できる内装は、少なくとも9歳の子供部屋には見えない。

 ソファに座るよう促されたものの流石に主人より先に座るのはと躊躇している隙に、ルルーシュはさっさと電気ポットに水を注いでお茶の準備をし始めた。

「ルルーシュ様、私が」

「俺は美味い紅茶が飲みたい。この宮で一番紅茶を美味く淹れられるのはメイドのアリーショアだが他の仕事をしている彼女を呼びつけるのは申しない。何より時間のロスだ。そしてお前より俺の方が紅茶を淹れるのは上手い」

「――――はい」

「ではお前はどうする?」

「カップの準備をします」

「うん」

「……あと紅茶の腕を磨きます」

「是非、そうしてくれ」

 他の宮で皇子に給仕をさせているなど知られれば懲罰は免れない。だがアリエス宮はルルーシュの支配下にある。

 合理主義の信者であるルルーシュにとって怠惰は罪、惰性は敵だ。この宮の中では血統より時間と利益の方が遙かに重い。

 すごすごと長身を折り曲げて品のいい紅茶のカップを2セット棚から出し、ついでに紅茶受けのクッキーも棚から出す。メイドの旅行土産のクッキーは皇族のお茶請けとしては貧相だが、皇妃からして庶民の食べ物に慣れ親しんでいるヴィ家では珍しくも無い。

 数枚毒見をして問題ないと判断してからカップと共にルルーシュへ差し出した。

 ポットの湯が沸騰するのを待ちながらルルーシュは淡々と話を続ける。

「先ほどの話だが、つまりは人材の問題だ」

「ルルーシュ様は人材確保のためにKMFの開発を進めているということですか?」

「正確に言えば違う。高い技術を持つ人間を集めるのが難しいというだけで人材確保は簡単だ」

 注いだ湯に花開くように茶葉が解けて深い紅色に湯が染まる。ルルーシュが二人分のカップに湯気の立つ紅茶を注ぎ終えたところを見計らいジェレミアは紅茶をテーブルに運んだ。

 ルルーシュは地面につかない足をぶらぶらと揺らしながらクッキーを頬張った。

「おいしい」

「それは良かったです」

 9歳の子供らしい笑みにジェレミアの顔も綻ぶ。 

 ルルーシュは陶器のカップに目を落として紅茶を口に含んだ。芳香が喉から鼻に抜けて、一息ついて顔を上げた。

「俺はオデュッセウス兄上よりシュナイゼル兄上の方が皇位継承権争いで有利だと考えている。能力の差もあるが何より特派の存在が大きい」

「最近シュナイゼル殿下が作り始めた技術機関ですか?」

「そうだ。近いうちに特派はブリタニアの中心機関となる」

 ジェレミアは名前だけは耳にしたことのあるシュナイゼル率いる技術部隊を思い浮かべた。

 いろいろな大学や企業から有能な人材を引っ張り込んで様々な技術開発を行っているという噂だが、未だ目立った成果は聞かない。

 そしてたとえ今後目立った成果を上げたとしても、ブリタニアは軍事政権の戦争主義国家だ。オデュッセウス派に歴戦の軍人達が数多く所属している以上、いくらシュナイゼル率いる特派が新たな戦車やレーダーを生み出そうともそう意味は無い。

 疑わし気なジェレミアの顔を見てルルーシュは微笑んだ。

「ジェレミア、技術は力だ。トランシルヴァニアの戦いを知っているだろう?特派はコロンブスの卵だ。何が生まれてくるか俺にも予測できん。だがあの兄上のことだ。少なくとも多くの優秀な人材を投入する価値があったと判断されるモノが生まれるだろう」

 ルルーシュの言葉が分からずジェレミアは首を捻った。

「新しい防衛システムなどですか?」

「その可能性もある。だがもっと…騎兵の時代に戦車を作り出すような何かだろう。おそらくシュナイゼルは特派によって、いずれオデュッセウスとの絶対的な数の差を覆す」

 もしかしたらルルーシュは特派の内情を知っているのではないかとジェレミアは思った。

 シュナイゼルはルルーシュを気に入っている。特派の開発内容について教えていても左程おかしくはない。

 いずれにせよジェレミアはルルーシュに揺るがぬ信頼を置いていた。だからルルーシュがそう言うのなら、いずれそうなるのだろうと信じた。

「当然ながら特派は俺の味方にはならん。あくまであれはシュナイゼルの玩具だ。ならば俺は俺で特派のような武器を作らねばならんが、俺の立場で多くの人材を集めるのは不可能に近い。だからこそKMFの高速演算処理が必要なのだ」

「KMFがルルーシュ様の武器……もとい人材不足を打破する切っ掛けになり得るとお考えなのですか」

「ああ。優秀な人材はそのほとんどが他の皇族に盗られる。であれば、優秀でなくともある程度戦えるようになればいい。戦場にあり的確な指示を下し、場合によっては全てのKMFの動きを命令する司令塔となるKMFがあればそれは可能となる。この新しいKMF操縦ソフトを俺はドルイドと名付けた」

 

 割とまともだ……!

 

 ルルーシュのネーミングセンスを知っているジェレミアは胸を撫でおろした。

 KMFに感情があるのかは分からないが、黒のブレインだのブラック・プログラムだの名付けられていたら気の毒過ぎる。

 ジェレミアは心底ルルーシュを信頼しているし敬愛もしている。しかしこういったセンスに関しての信頼度は皆無に等しかった。

 

 ルルーシュはジェレミアの様子に気づくことも無く空になったティーカップを置いた。

「だが開発は難航していてな。単純な移動ならまだしも実戦で使うためにはKMFに積めないほど巨大な演算機が必要になる」

「そもそもそんな機能を扱える人間がいるのでしょうか」

「―――人材の育成を待つしか無いな。時間はかかるがしょうがない。いずれにせよ今のままではとても実戦では使えないからソフトの縮小化を待つばかりだ」

 視線を下に落としてルルーシュは自身の小さな手足を見下ろした。

 同年代と比較してルルーシュの体格は劣っているわけではない。しかしその手足は未だ少女のように華奢だ。

 あと数年もすれば男らしい骨格へ成長し声も低くなると自分でも分かっているだろう。だが同年代の友人よりも10近く年上の兄弟達やジェレミアと接する機会の方が多いルルーシュは自分の幼い体躯に思うところもあるようだった。

「いずれルルーシュ様も戦場に出られることでしょう。それまでにはきっと完成なさいます」

「うん―――少なくともそれまでに自己判断能力をもっと高めとかないと。命令すれば敵のKMFにハッキングして自動で爆破させる位にまで育てたい」

 なんて凶悪な育成ゲームだ。

 さっきまでのしゅんと落ち込んでいた態度はどこかに消えてルルーシュはキラキラと眼を輝かせた。

「そういえばお前は明日からヨーロッパじゃないか。どこに行くんだ?」

「フランスの第8駐屯地です」

「最前線からはまあまあ遠いな。司令部か?」

「いえ、通信部隊です」

 通信部隊と聞きルルーシュは首を捻った。

 通信部隊も重要な部隊には違いない。しかし目の前の屈強な軍人が端末と電話を前に長身を屈めて机に座り、OLのように喋り続けている様子が想像できなかった。

「お前はKMF搭乗員を希望していたよな。機甲科で最低2か月は経験を積まないと搭乗資格が得られないんじゃなかったか?」

「そうなのですが―――」

 オデュッセウス派の貴族にKMF枠を取られたのだとは口が裂けても言えなかった。黙り込んだジェレミアに事情を察したのかルルーシュは小さく笑った。

「そうか。まあいずれにしてもいい経験だろう。まだ戦場を経験していない俺が言うのもなんだが、叩き上げと士官学校出身者では同じ尉官でも面構えが違うしな」

 何もかもを察しながらも何も言わないルルーシュの痛ましいほどの聡明さに、ジェレミアは何も言えずズボンの裾を握り締めた。

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 ジェレミアはヨーロッパ行きの軍用超大型長距離輸送機に乗り込んだ。総勢60名の新米士官達が初任務に喜んでいたのは最初の1時間にも満たなかった。

 KMFデヴァイサーや軍医など諸々含めて約70人を詰め込んだ輸送機の中は狭くて暑く、下水道のような臭いがする。

 そして断続的な横揺れに縦揺れ。

 脳汗に塗れた男たちの汚臭が肺に籠り、さらに熱で炙られた脳みそがシェイクされる。され続ける。

 8時間以上そんな空間に詰め込まれて、未だ十代の新米士官達は一人残らずグロッキー状態になった。

 ようやく輸送機がユーラシア大陸に到着すると先にKMFデヴァイサーや上官達は軽々と地面に降り立つ。彼らに追いすがるように新兵達はヒヨコのような拙い足取りで地面を這いつくばる様に歩く。

 ジェレミアもその他に漏れず、日本の卵を模したマスコットキャラのようだと思いながらなんとか立とうと震える足を叱咤していた。

「おうおうどうしたエリートさんよ。てめえらそんな足取りで兵士として戦場に行くつもりか?それともEUの糞ったれどもに手柄をプレゼントしに行くのか?」

「新兵の糞どもが粋がるんじゃねえ。士官だろうが何だろうが最初は何の役にも立たねえゴミ屑どもだ。俺らの邪魔はすんじゃねえぞ」

 通りすがる叩き上げの下士官から罵声を受けながらもジェレミアを含む新兵達は残り少ない体力を振り絞り、ブリタニア軍第1駐屯地へと向かう。

 だが第1駐屯地に到着するなり新兵達は各々の駐屯地へ今すぐ向かえと尻を蹴り飛ばされた。

 疲労で倒れた貴族出身の新米士官達を、叩き上げの上官達は手慣れた様子で容赦なく蹴り倒し、頭を叩き、駐屯地へ向かう軍用車両に放り込む。

 ジェレミアは格闘技を披露しようと手ぐすね引く上官を尻目に、よたよたしながらもなんとか一人で第8駐屯地行の巨大なトラックの荷台に乗り込んだ。

 移動もまだ終わっていないというのに既に疲労感が全身に纏わりついている。

 つい2日前に花が咲き乱れる皇宮で皇子と紅茶を飲んでいたということが信じられない程に無様な姿だ。

 

 ジェレミアが座った直後、背中に張り付くように華奢な男が倒れこんできた。

「吐きそう」

「そこで吐いたらお前の面で掃除してやるからな」

 とても軍人には見えない繊細な顔立ちをした学友に悪態を吐く。

 ロイドは素晴らしく優秀な頭脳を持ちながらも、身体能力はそこらの一般人にさえ遥かに劣る。戦場に到着する前に体力が尽きてしまったらしい。そのまま横たわって目を瞑った。

 

 舗装されていない道路をトラックはゴム毬のように跳ねながら走る。しかしロイドは豪胆なのか、もしくは限界まで疲労しているだけか一人微かな寝息を立てて熟睡し始めた。

「ロイドは大丈夫なのか?」

「飛行機で酔っただけだろ」

「そうか」

 隣に座り込んだ同僚はロイドの顔を覗き込んだ。

 まっすぐ通った鼻に色素の薄い髪と肌。優男な面持ちは貴族らしく上品な造形をしている。

「黙ってればこいつイケメンなのになあ」

 思わず漏れた言葉に皆はうんうんと頷いた。

 この学年の卒業生は1人残らずロイドの発明という名の破壊行為の被害を受けている。その結果学友達は優れたロイドの容色を危険物としか認識できていなかった。

 しかし憎たらしい口をきかずに黙って横たわるロイドの顔は確かに整っている。こうしていると由緒正しい貴族のようだ。実際そうなのだが。

「全くだ」

「知らなかった、こいつイケメンなのか」

「それどころか女にも見える」

「色が白いからな。華奢だし」

「こういう奴が戦場でオンナにされんだろうなぁ」

 女日照りが続く戦場では華奢で美しい男が性の捌け口になりやすいことは誰でも知っている。ロイドはその性格を除けば容姿、腕力ともに女として扱いやすい。

 

 とはいえジェレミアは数年に渡ってこの悪友の所業に振り回され続けている。ロイドが白い肌を泥まみれにして無防備に眠りこけていても、そのまま二度と目覚めるなと顔面を踏みつけたくなるだけだ。まかり間違っても性欲の対象にはなり得ない。

 だが普段ロイドと関わりのなかった学友には、こうして黙って寝こけている姿はただの華奢で美しい青年のようにしか見えないのだろう。

 

 少しの熱の混じった視線がロイドに向けられている。

 友人が、たとえ誰も本気で行為に及ぶ気が無かったとしてもそんな視線で見られるのは愉快な気分ではない。

 注意しようと口を開きかけたが、一足先に正気に戻った同期の友人の一人が声を上げた。

「おい皆気を確かに持て。俺はこいつにパソコンを破壊された挙句に部屋をドローンで荒らされたんだぞ。いくら見栄えが良くてもこいつの中身は変人だ。ジェレミアもこいつのせいでロリコンなのがバレたんじゃないか!」

「俺はロリコンじゃない!」

 声を荒げるが誰一人としてジェレミアに向けた冷たい視線を下げようとはしなかった。

 

 ジェレミアがロリコンだという根も葉もない噂は学生時代にロイドの手により学校全体に拡散されたものだった。

 ジェレミアが事態に気づいたときには時すでに遅かった。幼い妹がいる同級生達は額に汗をかきながらジェレミアを遠ざけ始め、一人の女性と長く続かないジェレミアの恋愛事情が噂に拍車をかけた。

 ロイド曰く、ジェレミアがヴィ家に肩入れしているのはルルーシュ皇子がジェレミアにとってドストライクの容貌であるからで、その特殊性癖を隠すために普段は同年代の女性と付き合っているのだった。しかし未だ無性と言ってもいい9歳の皇子とは全く違う肉感的な女性と付き合うことはジェレミアにとって苦痛でしかないために長続きしないのだと。

 その噂を聞いたときジェレミアは卒倒し、泡を吐いてぶっ倒れた。

 学友達は性癖がバレたことがショックでジェレミアが倒れたとSNSで拡散した。

 目を覚ました頃には噂は既に学校中に拡散しており、ジェレミアはロイドの抹殺を計画した。

 しかし計画を練っている途中でアスプルンド家がヴィ家の支援を始め、ルルーシュが次期アスプルンド家当主のロイドを気に入ってしまったがために暗殺計画は断念せざるを得なかったのだった。ロイド暗殺計画の企画書はゴッドバルト家の木の根元に泣く泣く埋めた。

 

「クラスのアイドルに告白されて即座に振ったくせに今さら何を……」

「俺の彼女は「ジェレミア君みたいなストイックで身分の高い男が好みなの」とか言って俺を振ったのに、そいつが実はロリコン糞野郎だったとか……」

「いや待て、ルルーシュ殿下は少年だ。だからこいつはロリコン糞野郎じゃなくて正しくはショタコン糞野郎だ」

「ショタコン辺境伯……」

 鬱々と呟く同僚達からの精神攻撃のせいでジェレミアはロイドの横に倒れ伏した。

 怒りと屈辱と諦念で微かに震えるジェレミアの肩を友人は優しく叩いて「あと10年は待つべきだと思うぞ」と忠告した。返答する元気も無くジェレミアは手を叩き落とした。

 

 ようやくトラックが第8駐屯地に到着した頃には空が暗くなりかけていた。駐屯地は元々繁華街であった場所に設置されており、商業用のビルを流用して基地を設営していた。

 ジェレミアはロイドと共に通信部へと向かった。申し訳なさげな顔をしながら司令部へと向かう友人達に手を振る。

「ほんとにお人よしですよねえ」

「何が」

「彼らのせいで機甲科に行けなかったんですよ?」

 ようやく顔色の戻ったロイドをジェレミアは鼻で笑った。

「俺はルルーシュ殿下がいずれ大成なさると信じている。あいつらは信じなかった。それだけだ」

 ロイドは呆れたとばかりに首を振った。

「僕もルルーシュ殿下は好きですよ。でもオデュッセウス殿下の前では個人がいくら能力があってもしょうがないでしょう」

「それはそうだが」

 ジェレミア自身ルルーシュに対する絶大なまでの信頼をどう説明していいのか分からなかった。

 年齢にしては不相応に聡明ではある。だがそれだけではない。何かしら名状しがたい人に強制的に畏怖を抱かせる何かがルルーシュにはあるとジェレミアは感じていた。

 身分や金といった俗物的な魅力ではなく、その人と同じものを見ることが生きる意味となるような絶対的な魅力だ。

 それを言葉で説明できるとは思えずジェレミアは口を閉じた。

 しかし内心で、ロイドはそのことにもう気づいているのではないかと思った。そうでなければ他の皇族の反感を買うリスクを冒してまでアリエス宮に出入りしてルルーシュの遊び相手をする筈が無いのだから。

 

 

 通信部の仕事はとにかく各部隊の連携を取りながら最新の情報を取り込み、送り出すことだった。その情報はより確実であり、より多く、より正確である程に良い。ジェレミアが仕事を始めてから最初の1時間で悟ったことだった。

 司令部が脳なら通信部は情報という血液を送り出す心臓だ。絶対に無くてはならない重要機関であり、さらに脳と違って休めない。

 ジェレミアは各部隊に指示を飛ばす大佐の後ろで次々に送られる報告に目を回しながらとにかくキーボードを叩いた。仕事の内容はとにかく記録を取り続けるという雑用だった。

 ロイドはジェレミアと同じく雑用をこなしながら面倒だの退屈だのと文句を言っていた。しかしジェレミアには仕事内容に特に不満は無かった。雑用ではあるが物品の流通や負傷兵の状態や数、それに対応する指揮官の命令など学ぶことは多い。

 ともあれ敵の動き、それに対処するこちらの動き、負傷者の数、戦死者の数。とにかく画面に叩き出して本国に報告し続ける。次々に前線から送られてくる負傷者を眼の端に見ながら大量の包帯や傷薬の配布を提示して医務官の配置を確認する。

 

 1週間が過ぎる頃にはジェレミアは第8駐屯地通信部の仕事に慣れ始めていた。慣れれば手際も良くなり、仕事が楽しくなる。

その日もこれまでの1週間と同じようにジェレミアは仕事をこなしていた。

「ジェレミア少尉、ロイド少尉、休憩だ。1300までの自由行動を許可する」

「はい」

「はーい」

 ジェレミアは長い間座り続けていた椅子を離れた。時計を見ると既に6時間が経過している。腰が痛くなる筈だ。

「終わったああああ」

「うるさいぞロイド」

「こーゆー地味な作業僕ダメ、ほんと」

「馬鹿声に出すな!」

 頭をひっぱたく。痛いと声が上がったが気にせず襟をひっつかんで引きずり歩いた。1週間でこの景色を見慣れた軍人達は苦笑した。

 

 通信部に所属してからもロイドの自由奔放な気質は加減を知らず発揮されている。ここ最近はロイドが失言をしてはジェレミアが頭を叩いたり足を踏んだりして躾けることが習慣化していた。

 痩躯とはいえ成人男性一人を引きずりながらもジェレミアの歩く速度は変わりない。

「貴様は上官の前で何を言っているんだ!」

「だってぇ本当のことでしょ?」

「だとしても時と場所を弁えろ。ここは学校じゃないんだぞ!罰則だけでは済まないことぐらい分かっているだろう!」

「んむ~」

 相も変わらず他者との協調性がゼロを通り越してマイナスに至っている。どうしてこんな男の友人をしているのか。自分の運の無さを一人嘆いた。

 

 戦場のど真ん中で休憩所などという洒落たものは無い。上官から教えられていた飲料水の配布場所までロイドを引きずって歩く。

「お前なあ、少しは発言の時と場所を考えろ。上官の耳に入ったら評価が下がるだろうが」

「評価って言ってもそもそも僕あんまり長くここにはいないからねえ」

「それは知っている。だが軍で役立たずの烙印を押されたら後々面倒になるだろう」

「ならないよ~」

「伯爵家の当主殿が碌に戦場で銃も使えんと知られれば周りが五月蝿いぞ」

「違う違う。僕この任務が終わったら特派に行くことになってるから」

「は?」

 ロイドの首元を思わず離す。宙に吊り下げられていたロイドの首はそのまま地面に落下して良い音を立てた。

 ロイドは悲鳴を上げてぶつけた頭を撫でさすった。

「ほんっとジェレミアって馬鹿力だよね!痛いよもう!」

「貴様が特派?いつ?」

「この任務が終わったらすぐにだよ!」

「貴族の規定軍奉仕期間は2年間だろう」

「特派は!軍機関!です!前線に出ないけどちゃんと軍機関なの!軍奉仕期間にもちゃんと入ってるの!」

 いたーい!と声を上げるロイドは、確かにシュナイゼルの目に留まっても可笑しくないほどに凄まじく頭が良い。

 

 ロイドは学生時代からKMFの新しいプログラムを開発しており何度も表彰を受けていた。科学者として将来を嘱望される正真正銘の天才児として名高い。

 しかし同時に理解不能な実験を行った挙句に寮を丸焼けにして停学を受けた問題児でもある。

 協調性はゼロ、他者への共感性はマイナス、ノブレスオブリージュを鼻で笑うクソガキ伯爵。

 そんなロイドを、ロイド以上に理解し難いシュナイゼル殿下がおもちゃ箱に詰め込んでいる様子が脳裏に浮かんだ。

 

「こんな奴を勧誘するか、シュナイゼル殿下……特派はコロンブスの卵というより点火済みダイナマイトか……」

「ちょっとジェレミア一言位謝ってよ!」

「先にお前が学生時代俺がロリコンだという嘘を周囲に言いふらしたことを謝れ」

「それは事実じゃん!」

 ようやく起き上がったロイドの頭を片手で鷲掴む。ロイドはくぐもった声で抗議らしきことを言ったがジェレミアは気にせずに少しずつ手に力を込めた。

「俺は、ロリコンじゃ、ない」

 頭蓋骨を軋ませるように力を込めながら一言一言叩き付けるように言うとロイドは唇を尖らせながら「はいはい、ごめーんね」と言い放った。

 苛立ちが増したが、これ以上このクソガキに何を言っても無駄だということは分かっていたために手を離した。

 締め付けられた頭を撫でさすりながらロイドは恨みがまし気にジェレミアを見上げる。

「ルルーシュ殿下もこんな暴力男のどこがいいんだか」

「難しい方だからな。それなりに気心が知れている者の方が傍に置きやすいんだろう」

「自覚が無い奴はこれだから・・・」

「首から上はいらんのか?」

 指を鳴らすとロイドは吹けもしない口笛を鳴らしながらそっぽを向いた。

 

 配給所はスーパーだった建物に物資を運んだだけの簡素な場所で、箱詰めにされた飲料水とチョコレートバーが並んでいた。この駐屯地はそれなりに物資に恵まれており身分証明書を提示すれば簡単に配給される。

 水とチョコレートバー片手に外へ出て来た道を辿って帰る。

「そういえばルルーシュ殿下って今何歳だっけ?」

「9歳になられる。お前も貴族だったら皇族の年齢ぐらい覚えておけよ」

「でも皇子や皇女の人数多すぎでしょ。シャルル殿下もそこまで頑張んなくてもさ」

「不敬だぞ」

「誰だって知ってることだよ。子供を作るのが義務とはいえ、あそこまで作っちゃったら子供を政治利用しようとしてるのがバレバレでしょ」

「―――」

「仕事ができる皇子は戦場、見目が良い皇女は結婚。分かりやす過ぎて面白みが無さすぎ。むしろシュナイゼル殿下の方が今は面白いよ。何考えてんだか全然わかんないから、あの人」

「……そうだな。俺もそう思う」

「へえ?」

 ロイドはジェレミアを見上げた。

「めっずらしい。忠義大好きジェレミア君がシャルル陛下を貶すだなんて」

「別に俺は貶してない」

「じゃあなんのつもりで言ったの」

「俺が同意したのはシュナイゼル殿下が何を考えているのか分からないという点だけだ」

「あらら、そうなの。ま、あの人の考えてること理解できる人なんていないよね」

「ああ。シュナイゼル殿下と同じように思考がぶっ飛んでいるお前が特派に入りたがるのも納得はできる」

 だが、とジェレミアは続けた。

 隣を歩くロイドを見据える。

「特派に入るというならなんでお前はヴィ家の支援をしているんだ。いくらシュナイゼル殿下がヴィ家の後援をしているとはいえ、エル家以外の皇族に味方するような素振りを見せたら機嫌を損ねるかもしれんぞ」

「面白いから」

 チョコレートバーを齧りながらあっけらかんとロイドは言った。

「ルルーシュ殿下は面白い方だよ。多分シュナイゼル殿下より面白い。しかもこれからさらに面白くなる予感がするんだ」

「お前は面白いという理由だけで自分と家の命運を決めるのか」

「僕にはそれが全てだから、いいんだよ、それで人生決めたって。誰かに文句を言われる筋合いなんてないし。ジェレミアだってルルーシュ殿下が好きだから全部賭けたんでしょ」 

「それは……」

 違う、とジェレミアは続けようとした。もしかしたらそうかもしれない、と続けようとしてのかもしれない。

 

 

 だが口を開く前に酷い耳鳴りがしてジェレミアは眉を顰めた。

 ヒュルルルという、打ち上げ花火を思わせる音がする。どこかで聞いたことがある音だった。その音につられて上空を見上げる。透明感のある青い空を真っ二つに割くように細い糸のような雲がたなびいていた。

 空気を震わせる音はそれほど大きくもなく誰も気にしていないようだったが、ジェレミアはどうにもその音が気にかかった。

 つい最近同じように空を見上げながらその音を聞いたことがある。

 そうだ、訓練中に聞いたのだ。誰よりも真面目だったジェレミアは、学生ながら戦闘機の飛行訓練にも積極的に参加していた。

 その音の正体に思い至りジェレミアはロイドの頭を掴んで地面に引き倒した。

「ちょ、何!」

「口を閉じろ!対地ミサイルだ!」

 ロイドが叫んだ瞬間に風船が破裂するような軽やかな音を立てて、配給所だった場所が吹き飛んだ。

 

 強烈な白と赤の発光に思わず目を向けると、ジェレミアにチョコレートバーを手渡してくれた軍人が手足を吹っ飛ばされ、竹とんぼのようにくるくると空中を回っていた。

 ひ、と声をひきつらせる。そうしている間にも数発のミサイルが発射されていた。

 ヒュルルル、ボン、ボン、と辺りが燃え上がる。怒号や悲鳴があちこちで聞こえた。

 ジェレミアは震える足を奮い立たせながら立ち上がりロイドを引きずり起こした。

「大丈夫か!?」

「あ、ああ、うん。け、怪我は無い。無いよ。大丈夫。それより早く逃げよう、ここじゃ丸見えだ」

 確かに。ジェレミアとロイドはコンクリートの道路のど真ん中にいた。

 一番近くの建物の影へと走る。幸い戦闘機は今のところ頭上には見えない。

 背中を建物の影にもたせ掛けて持っている物を確認する。ライフルに拳銃、救急キット、無線。そして飲料水とチョコレートバー。

「ロイド、無線で司令部に繋げられるか」

「今やってる」

 耳に黒い箱のような無線機を押し付けてロイドは額に汗をかいていた。暫くそのままの姿勢でいたが、すぐに悪態を吐いて無線を放り投げた。

「くそ、繋がらない!」

「ジャミングか?」

「多分。状況が全く分からない。どうしてレーダーは戦闘機の接近に気づかなかったんだろう。高高度からのミサイル投下でも気づく最新鋭が配備されてるのに」

「分からん。最新機種だとしか考えようがない。指示が無い以上逃げることも攻めることもできんな」

「攻める?相手は戦闘機なんだよ?」

「いや、そうとも限らん」

 ジェレミアは低空飛行を続ける航空機を目で追った。周囲を飛び回る戦闘機が蠅ならその航空機はスズメのようだった。腹の部分が大きく翼も一回り大きい。輸送機だろう。

 その腹の部分がぱかりと開く。

 そこからまるで子供が生まれてくるように、パラシュートを開いた人間が落ちてきた。

 ジェレミアは背中に背負ったライフルを即座に構えて発砲した。血を噴き出しながら一人が地面に落ちた。

「900mは離れてるよ、あれ」

 ほんと化け物だよね。ロイドはジェレミアを見ながら零した。

 ロイドの言葉に構わずジェレミアは射撃を続ける。乾いた音が手元で一つ響くとともに、小さな点のような人が地面に一つ落ちる。

 

 それはジェレミアにとり始めての殺人だった。

 思っていたよりそれは劇的ではなく、思考を止めるような力は無かった。本人が予想していた以上にジェレミアは冷静で軍人向けの気質をしていた。自分の大事なものと大事ではないものを区別する能力に、ジェレミアは生まれつき異様なまでに優れていた。

「降下猟兵だっ」

「撃ち落とせ!」

 気付いた他の生き残った兵士たちも発砲する。しかし降下猟兵は人間だけではなかった。

 ブリタニアが他国に軍事力で勝る最大の要因がのっそりと落ちてくる。敵として相手をするにはKMFはあまりに厄介な兵器だった。

 輸送機から産み落とされるKMFの機体に集中砲火を浴びせるもライフルでは多少の傷しかつかない。

 操り人形のように降下してくるKMFを前にロイドは悲鳴混じりの声を上げた。

「ジェレミア、逃げよう!」

「何をっ!?」

「KMF相手にライフルは無茶だ、それより逃げないと!」

「敵前逃亡はっ」

「戦えって命令されてないんだから逃げてもいいんだよ!この脳筋馬鹿!」

 ロイドに怒鳴りつけられて歯噛みしながらもジェレミアは逃げ出すロイドの後を追った。

 ジェレミア自身ライフルと拳銃しかない状況でKMFを相手に長時間戦い続けられるとは思っていなかった。だがこのまま奴らに次々と兵士を降ろし続けることを許せばどうなるか、想像できない程にジェレミアは馬鹿ではなかった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 いくつもの災いが折り重なっていたことに後から気づいた。

 この駐屯地は救護施設を兼ねていたために戦闘訓練をほとんど受けていない衛生兵の割合が多かったこと。

 前線から遠い地域であり気を抜いていた兵士が多かったこと。

 そしてここのトップであった大隊長殿が糞野郎で、KMFに乗って逃げ出してしまったこと。

 

 運が良かったことと言えばトップがいなくなったために敵前逃亡を責める輩がいなくなったことぐらいだろう。

 建物の影に逃げ込んで通信機にしがみ付いて得た情報はこのくらいだった。

 ジェレミアは時計を見た。最初の襲撃から2時間は経過していた。すっかりと冷静さを取り戻したロイドはジェレミアの影に隠れながら黙々と通信機を弄っていた。

「いや~ほんと運がない。そもそも僕は戦闘工兵部門への配属希望してたのにな~んで通信兵に配属されたんだか」

「貴族出身の士官を工兵なんぞにできるか。それも対人戦闘の成績がEだったような奴を」

「はいはい、ジェレミア卿はSでしたもんね」

 口を動かしながら手を動かすことができるのはこいつの数少ない長所である。 

 先ほどからロイドは空爆の衝撃で壊れた無線を弄っていた。ガガガだのピピピだのすでに無駄な音しかたてていないそれを、ロイドは執念深く修理しようと奮闘していた。

 上手く無線が直れば本部からの指示も通るかもしれない。今は絶対直せると断言したロイドの言葉を信じるしかなかった。

 

 目視で確認した限り、輸送機から降下したKMFの数はそれほど多くは無かった。30機ほどか。しかし第二陣が来ているかもしれず既に掃討されたと考えるには早計過ぎる。

 溜息が出る。敵がどこにいるかも味方がどこにいるかも分からず、どうにも動きにくい。さらにここの指揮を任されていた大佐がとんずらしたせいで指揮系統も分からない。どこに行けばいいのかも分からないのが現状だった。

 

 機械音を発するのを止めた無線にロイドは耳を近づけた。にやりと笑ってブイマークを作る。

「やっぱ僕って工兵向きだよね~」

「言われなくても分かっている。聞こえるか?」

「切れ切れには」

 無線を耳に当てたまま音量を最大にしてロイドは眉を顰めた。酷いノイズのためだろう。だがすぐに顔を明るくした。

「あ、もう大丈夫だ」

「はあ?」

「最前線からKMF部隊がこっちに戻って来るって。あとマリアンヌ様が今こっちに向かってる。EUフランス第8駐屯地所属兵はポイント9に集合。待機」

「ポイント9にて待機、了解。行くぞ」

「ラジャー」

 

 立ち上がって走る。ロイドも周囲を警戒しながらついてきた。

 ポイント9には同じく退避した兵がいた。ポイント9は本部より3km離れた元々商業地だった大通りの端で、古ぼけたスーパーの真ん前だ。

 スーパーの中には一面にシーツが広げられていて、その上に重症者や死体が一緒くたに並べられていた。無傷か軽症の兵は包帯片手にまだ生きている兵の治療をしたり、武器を持って周囲を警戒したりしている。

 包帯を慣れない手つきで負傷兵に巻きつけていた小太りな男がジェレミアとロイドを見つけて満面の笑みを浮かべた。ジェレミアとロイドの直属の上司の中尉だった。

「ゴットバルドにアスプルンド、生きていたか!」

包帯をしっかり巻いたことを確認した後に中尉はこちらに向かって来て肩をばんばん叩いた。

「さっきから運ばれるのが死体ばかりで気が滅入っていたんだ。お前達が無事でよかった」

「空爆が直撃しなかったのが幸いでした」

「ちょっと死ぬかと思いましたけどね~」

「傷はないか?」

「特にはありません」

 中尉はジェレミアとロイドを上から下まで眺めて負傷が無いことを確認した後に焦った口調で話した。

「すぐに衛生兵の補助に回ってくれ。人手が足りないそうなんだ。救急医学の授業は受けているだろう?」

「イエス、サー。場所は?」

「2Fに衛生兵がいるから彼らの指示に従ってくれ」

「イエス、サー」

 敬礼した後に2Fへと上がる階段へと向かった。中尉は腹を揺らしながら次の怪我人の方に走って行った。

 階段は店の奥にあり、床を埋め尽くす死体や怪我人を踏まずに辿り着くのは困難だった。しっかりと足元を見ながら小股で歩く。

 見下ろす顔の中には顔見知りの兵士が何人もいた。微かに身動きしている者もいれば、瞳孔を広げて舌をだらんと垂らしていたり、死斑で床に接している部分がどす黒く変色している者もいる。

 初めての戦争で緊張していたジェレミアに丁寧に仕事を教えてくれた軍曹もその中に混ざっていた。四肢が全部ちぎれた状態で床に転がされているのを見つけた瞬間に胃液が喉元までせり上がり両手で口元を抑えた。

 

 戦争がどういうものか分かっていると思っていた。しかし知り合いがこうも無残に死ぬことになるとは想像もしていなかった。士官学校でも訓練途中に重症を負う者がいたが、こんなに大勢が怪我を負うことも、ましてや死ぬこともなかった。

 だが当然のことだ。人殺しをしているのだから、こちらが殺されるのもまた当たり前のことだった。浅慮だ。運が悪くここに到着する前に敵兵に遭遇していたら、もし最初に空爆された配給所を出るのが遅かったら、こうなっていたのは自分だった。

 眼球の形が浮き出るほど見開かれた眼が恐ろしく、また不憫にも思えた。この人は運が悪かっただけだった。しゃがんで瞼を閉じた。死んでからまだそれほど経っていなかったのか瞼の硬直は始まっておらずあっさり閉じられた。よかった。何もいいことなんてないが。

 

 立ち上がったジェレミアの背後でロイドが間延びした声で話す。

「繊細ですねえ。軍人の家系とは思えません」

 ぶん殴ってやろうかと思ったが口調に呆れは感じられなかったので勘弁してやった。そんな余裕が無いという理由もあった。

 ロイドは顔色も変えず悠々と地面に転がる人を避けたり、歩きにくければ踏んだりしながら歩いていた。思わず眉を顰める。

「おい、踏むな」

「でも死体ですよ?」

「だからこそだ。お前の人間性を社会的な意味で改善するためでもある」

 ぷうと幼児のように膨れながらもロイドは死体を踏まないようにつま先立ちをした。

 

 ロイドは子供だというルルーシュの言葉は正しい。ロイドは虫の足を全部ちぎって楽しむ残酷な子供だ。

 情緒面の成長が著しく劣っているロイドをジェレミアは普段から少なからず心配していた。頭脳が規格外に優れているせいで理論立てて説明できないことを端から否定してしまう。

 アスプルンド家は数少ないヴィ家の味方だ。社会生活に馴染めず没落してもらっては困る。

 そして何より、ジェレミアはいつもあっけらかんとしているロイドが嫌いではなかった。

「よく説教するのに飽きませんねえ」

「性分だ」

「飽きてくれたら僕はすっごく助かるんですけどね~」

 胃液をなんとか押しとどめながら会話をするのはしんどい。口をつぐんで階段を上がった。

 

 2階も1階とは特に変わらない様子だったが生きている兵が多いように見えた。2階まで自力で歩いて上がれる者が大半だったからだろう。横たわる者だけでなく、椅子に座ったり壁にもたれかかったりする者もいる。

 思わず胸を撫で下ろした。1階と同じ有様であれば胃の中が空になるまで吐き続ける羽目になったかもしれない。

 白いヘルメットに赤十字という目立つ格好のおかげで衛生兵はすぐに分かる。中年の頑固そうな衛生兵を見つけて駆け寄って敬礼した。衛生兵も機敏な仕草で返礼する。

「第8駐屯地第3中隊通信部隊の者です。衛生兵の補助に回れとの指示を受けて参りました」

「第3中隊衛生部隊少尉です。あなた方に怪我はないんですね?」

「はい」

「よかった」

 ため息をついたその衛生兵は、顔に刻まれた皺が酷く深く見えた。

 

 

■  ■  ■ 

 

 

 とにかく物資を辺りから集めて来てくれと頼まれて、ジェレミアはロイドと周囲一帯の建物を探索することになった。

 話を聞くとどうやら補給ラインが潰されたらしい。2人では危ないから何人か同行させようと言われたが、手が空いている者は治療に回した方が良いと辞退した。

 士官学校出身の新米少尉ほど扱い辛いものは無いと自覚している。下士官や兵卒が同行することになればこの上なく気まずい。

 近くの民家や店を回ると、売り物だったらしき物品が少しながら出てきた。食料はほとんど無かったが包帯や塗り薬などはそれなりに見つかった。

 死体を見つけることもあった。ブリタニア兵だけではなく逃げ遅れた民間人やEU兵も多かった。

 ここは4ヶ月ほど前は最前線で、その時に死んだのだろう。腐敗が進み元々の大きさの2倍程まで膨張した酷い臭いのする死体が多かった。中には既に白骨化したものもあった。白骨化した死体には大抵がネコや犬、カラスや蛆に喰われた跡が見られた。

 

 最初は死体を見つけるたびに驚いていたが、しばらくしたら馴れた。酷い臭いもすぐに鼻が麻痺して感じなくなった。民家の玄関先に横たわっていた死体を平気でまたいで中に入った自分に気付いて愕然とした。

 だが愕然とする暇もなく、とにかく物資探してポイント9に運び、怪我人を見つけたら応援を要請して運ぶことを繰り返した。

 気鬱になる暇もない程に状況は切迫していた。何のためにEUまで来たのか、何のために誰のために何をしているのかも分からなくなりそうになりながら、ジェレミアは只管に帰ることだけを考えていた。

 

 帰る場所はまともに話したことも無い父や、プライドの高い母、それに腹違いの妹がいる家ではない。ルルーシュがいる場所だ。

 ルルーシュがいる場所こそが自分の居場所であり、ルルーシュの傍にいられればジェレミアは満足だった。

 だがルルーシュの傍にい続けるためには選任騎士にならなければならず、そのためには軍歴と地位が必要で、そのために自分はEUで経験を積んでいるのだった。そう思うとどんな試練でも耐えられそうな気がした。

 

 感情を削ぎ落とすように淡々と仕事をこなすジェレミアを横に、最初は飄々としていたロイドは3時間が経つ頃には顔を青くしていた。

 死体を見続けたことによる気鬱ではない。腐臭を散々に嗅ぎながら3時間も歩き回ったことによる体力の限界のサインだった。

 そのまま二人とも仕事を続けていたが衛生兵からロイドの顔色の悪さを見咎められ、しばらく休憩していてくださいとチョコレートを押し付けられた。

 衛生兵も絶え間なく送られてくる虫の息の重症者や死体に気が滅入っていたのだろう。泣きそうな顔をしていて逆らう気も起きなかった。

 

 施設の外に腰を下ろして二人で並んでチョコレートを齧る。口に広がる甘ったるい味はあまり好きではなかったが、脳が貪るようにエネルギーを補充しているのが分かる。

 初めて遭った空爆に初めて見た敵兵、初めての殺人、無残な民間人の死体に知り合いの死体。自分がとても疲れていることがようやく分かった。空爆に遭ってからまだ6時間も経っていないのが嘘のようだ。

 

 ロイドはずっと無言でチョコレートを齧っていたがぽつりと言葉を零した。

「マリアンヌ様まだ終わらないのかなぁ、もうほんと、さっさとどうにかして帰りたい。もう嫌だここ。ルルーシュ様も来るって言ってたけどそのせいで遅くなってんのかなあ」

 聞き逃せない名前が出てきて眉を顰めた。噂にしては少々性質が悪い。

「ルルーシュ様が来られる筈ないだろう。未だ9歳で軍務に携わっているわけでもないのに」

「でもさっき中尉がなんか言ってたもん。さっきマリアンヌ様が到着して、んでルルーシュ様もいるって」

「聞き間違いだろう」

「そうかなー」

 なんかあの人ならやりそうだと思うんだけどと呟いて、ロイドは耳に付けた無線を弄った。

 ポイント9で無傷だったものを借りたらしく定期的に入ってくる指示をそれで受けていた。

 また通信が入ったらしく周波数を合わせるためにくるくると調節ネジを回している。暫くして手を止めたロイドは無線を付けたまま首を傾げた。

「ジェレミア卿、代われって」

「誰からだ?」

「マリアンヌ様」

 ジェレミアも同じように首を傾げた。

 マリアンヌにはそれなりに長く仕えているが、わざわざ戦場で用もないのに話しかけるような方ではない。

 ロイドから無線を受け取り頭につけた。いつも通りのやや高くて年齢よりも若く聞こえる声が鮮明に聞き取れた。

『やっほージェレミア、ちょっとこっち来てくんない?』

「え、は?どちらにでしょうか」

 皇妃であればそれなりに挨拶をしてから会話をしなければならない。しかしマリアンヌはいつも本題を唐突に話す。唐突すぎて聞き返すことが毎度である。そして本能的に自分の喋りたいことだけを喋るために話の要点が分かりにくい。

 本人もそのことを自覚しているらしく、話の趣旨を問われたり聞き返されたりしても機嫌を悪くすることは無い。破天荒であるもののマリアンヌは理性的で寛容な女性だ。

『ポイント9Cから北にぃ……どのくらいだろ、多分30mくらい?そのくらいのとこ。あ、緑色の銀行の看板とポストが見えるとこ。できるだけ早くねー』

「イエスユアハイ」

 通信はジェレミアの返事を待たずに切れた。ジェレミアは混乱したまま無線をロイドに返した。

 

 なぜ呼ばれたのだろう。確かにヴィ家と懇意にしている身ではあるが、未だ新米少尉でしかないジェレミアが戦場で役立つことはほとんど無い。

 だとするとルルーシュ関連のことだろうか。しかし戦場で何を話すというのか。

 

 疑問に思うことは多々あったが、ともかく早く向かわなければと立ち上がった。マリアンヌに言われた場所には心当たりがある。ここら一帯の地理は頭に叩き込んでいるので向かうべき道どりもすぐに分かった。

「ロイド、中尉にマリアンヌ様に召喚されたと伝えておいてくれ。ポイント9Cbにいる」

「呼ばれたの?」

「ああ。あともう殲滅し終わったようだった」

「だろうね。戦闘中に連絡なんてして来ないだろうし。無線は持ってきなよ。指示が入るかも知れないから」

 どうしてこの配慮が学生時代にできなかったんだろう。ジェレミアは頷いて差し出された無線を手に取った。また手近に置いてあったライフルと拳銃を持ち、念のため予備の弾倉も確認して走った。

 

 

 走って30分でポイント9Cbについた。そこにはガニメデと、マリアンヌと、その足元に座り込んだルルーシュがいた。

 

 ルルーシュの様子は尋常ではなかった。仕立ての良いスーツは血まみれで、既に元々が何色であったのかもよく分からない程にどす黒い。艶のある黒髪は固まり始めた血液のせいでぐちゃぐちゃだった。死にかけの動物のように口を開いて粗く呼吸を繰り返し、両手で頬を掻きむしっている。

 何よりいつも寂しげに細めるか嬉しそうにぱちりと開いている眼が、ここまで大きく開くのかと驚くほどに見開かれていた。

 

 日に覆われ長い影を作り出しながら、ジェレミアはルルーシュが涙を流す姿を初めて見た。

 

 

 

 



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2. あのころは何も分かってなかったな

 

 

 ルルーシュは聡い子供だった。

 それは知的好奇心が旺盛だとか、子供にしては察しが良いという程度を超えて、ともすれば他者に薄ら寒い印象を与えかねない賢さだった。

 記憶力や直観力だけではなく、未来予知とも思えるような察しの良さに何より優れていた。

 それは自身の願望や常識を傍に置き、純粋な客観性を持って事態を俯瞰する技術が生まれながらに長けていたことによる。

 その察しの良さにより、ルルーシュは自分の立場の危うさや、自分の責務、罪の重さを既に9歳にして理解していた。

 そして自分が普通の子供と比較して聡いということにさえ気づいていた。気づいていながら表向きには何も分かっていない子供のふりをして、多くの危険を無知さと幼さから回避する術を知っていた。

 もはや痛々しいまでの賢さを理解しているのは、選任騎士候補のジェレミアだけだった。

 

 だがそれだけ聡い子供であったルルーシュも、目が覚めた光景をすぐに理解することはできなかった。

 目覚めたらそこは母の膝の上だった。それだけならまだ驚きはすれど混乱はしない。

 ルルーシュが横たわっている場所は非常に狭く、見回すと銀色の機材に四方を囲まれている。

 真上を見上げると、二児の母とは思えない薔薇のような美貌を誇るマリアンヌが自分を見下ろしていた。

「おはようルルーシュ」

 

 いつ見ても怖い程に美しい顔だと思う。女の持つ可愛らしさを極限までそぎ落とした、純粋な美しさだけを残した顔だ。掘りの深い顔は迫力があり、黒い瞳で見据えられると一歩後ろに下がりたくなる威圧感がある。

 艶然とした微笑みを向けられ、ルルーシュはそこに苦い毒を感じ取った。あまりに美しいものは等しく危険なものだとよく分かる顔立ちだと思った。

 

 起き上がって辺りを見ると細々とした計器が所狭しと並んでいる。KMFのコックピットだ。見覚えがある機体で、以前母に乗せてもらった母専用のKMF、ガニメデなのだと分かった。

 あの時はただ静かな駆動音を鳴らせていたガニメデは、今は唸り声を上げてカメラを真っ赤に光らせている。後部カメラには人だった残骸がぽつぽつと落ちている光景が映っていた。非現実的な光景に自分の頭から血の気が引く音を聞いた。

 喚きだしたい衝動を、子供ながらに持ち合わせたプライドの高さで押し殺し、できるだけ抑え込んだ声色で母に問い質した。

「ここはどこですか?」

「EUの第6駐屯地近くよ。ほら、ちゃんと外見ておきなさい。いつ何時も情報収集は大切よ」

 KMFの正面カメラ画像を見た。死屍累々が積まれていた。

 恐らくはEUの街中なのだと思う。右のカメラにはスーパーが見え、左カメラには植木が立ち並んだ大通りが見える。立ち並びだけなら普通の商店街だ。だがその様相は、日常生活を思い起こすことは不可能な程に荒廃していた。

 看板や壁、アスファルトの地面、電柱、全てに無数の弾痕が残っている。そして地面に落ちている軍服を着た死体。人形かと思うほどあちこちに無造作に落ちている。死斑も無く、数時間以内に死んだのだろう。見ているだけで硝煙と血の臭いを感じる。

 その中をまっすぐに行進するガニメデの足元。そしてその足元にはブリタニアの軍服を着た兵が直立不動で立っていた。

 ライフルの銃口を前と横に向けて、ブリタニア兵はKMFの陰に隠れて行進している。彼らもKMFも、足元に転がるEU兵の死体を無造作に踏みながら歩いていた。ガニメデが死体を踏むたびに後部カメラに真っ赤な血の池が映る。赤黒い血溜まりに白い骨と黄色い脂肪が水玉模様のように浮き出ていた。

 数歩進む度に、ガニメデは足にこびりついた血と千切れた内臓を振り払った。水を被った犬が体を震わせるような愛嬌のある仕草はかえって恐ろしかった。

「おぇ゛っ」

 吐き戻しそうになる口を両手で覆い、カメラを食い入るように見上げる。今すぐ視線を逸らせとルルーシュに命じる理性を好奇心が嬲り殺しにする。

 ルルーシュを膝に乗せたマリアンヌも、それに付き従う兵も日常茶飯事のように表情一つ変えず進軍を続ける。ガニメデは死体を踏み台にして黙々と進む。殉教者のような一団の行進は整然と押し進み、何もかもを飲み込んでいく。

 人の命さえ、道端に転がる石ころと同じように。

 ここは戦場の最前線。命の価値が世界で最も軽い場所。

 

 吐瀉物の生暖かい感触を手のひらに感じて涙目になりながら、ルルーシュは頭をぐるぐると巡らせた。

 なぜマリアンヌはこんなところに自分を連れてきたのだろう。軍務が課せられるには早すぎる9歳の皇子に戦場経験は必要ないだろうに。

 胃の内容物を全て吐き戻しそうになるのを抑えて声を絞り出した。

「お母様、何で私を、こんなところに」

「それはどういう意味かしら?」

 首を可愛らしく傾げるマリアンヌにルルーシュは声を荒げた。

 普段年齢に見合わぬ冷静さを誇るルルーシュだが、幼い精神は目の前の情景に耐えきれず軋み始めていた。

「未だ軍務に就いていない私を、こんなところに連れてきて!何の用だと聞いているんです!」

「ああそうね。そろそろルルーシュも軍務に就任するころかしらと思って連れてきたのよ。シュナイゼルも確か初任務は12歳だったから、早すぎるってことはないでしょう?」

「幼年の皇族に課せられた軍務は形式上のものでしょう!?」

「そんなぶっとんだ頭脳しておいて何が幼年よ。単純な頭脳だけならもう成人男性とそう変わりないわ。皇族だというなら義務を果たしなさい、ルルーシュ」

 何を言っているのだこの女は。

 目の前の、自分を生んだ女が生まれて初めて人とは違う異物のように見えた。

 まだ自分は9歳だ。そのことに焦れる気持ちはあるし、既に軍師として名を馳せているシュナイゼルに劣っていることへの苛立ちもある。だがそれは、いずれ来る戦場で返上して見せるという気持ちがあった上での感情だった。

 まだルルーシュは自分を子供だと認識していた。それは正しい自己認識だった。ルルーシュは自分が子供でないと粋がる幼稚さは持ち合わせておらず、大人と同じように働けると自信を持つ程に傲慢ではなかった。

 ルルーシュが言葉を失っている間に、突如画面に現れた数値を見てマリアンヌは唇を吊り上げて笑った。

「ここから第8駐屯地まで行くわよ。第6駐屯地あたりの兵はすでに掃討済みだけど第7周辺がひどいわね。第8はそもそも敵兵が少なかったおかげで被害はそれほどないらしいけど、トップがしっぽ巻いて逃げちゃったからやばいわねえ」

 言い終わると同時に、正面カメラに映るビルの陰から銃口と手だけが出てきた。手にはライフルを持っている。カメラがその人物を拡大する。ぴたりとこちらに銃口を向けていた。それが奇妙にゆっくり見えた。

「ひっ」

 カメラ越しとはいえ、銃口を初めて向けられた。自分の頭蓋に突き付けられている感覚がした。

 死ぬ。怖い。嫌だ。死にたくない。いろんな思いが脳髄を走る。叫びだしたくともそんな余裕さえ無い。コックピットがこんなに狭くなければ手足をめちゃくちゃに振り回しながら喚いたと思う。銃口はすぐに火を噴いた。

 前方から銃弾が装甲にぶち当たる音がけたたましく響く。これまで聞いたことがない類の音だった。怖かった。

 マリアンヌは心底楽しそうに笑い始めた。

「量産型ならともかくオーダーメイドのKMFの装甲がM16程度で傷つくわけがないでしょう?いちいち怯えていたら心臓がびっくりして止まっちゃうわよ、ルルーシュ」

 マリアンヌは血管が浮かび上がる程に両の手を湧き立たせ、KMFの操縦桿を握りしめた。閃光で一瞬画面が真っ白になって見えなくなった。次の瞬間には、ビルの端ごと吹き飛ばされた敵兵の上半身が、道路の真ん中まで吹き飛んでいた。

 

 それから30分、ガニメデはただ破壊の限りを尽くした。

 第7駐屯地は敵兵が多く、アサルトライフルだけでなくRPGや対戦車ミサイルを持った敵兵に囲まれたが、ガニメデにはほとんど傷がつかなかった。戦争ではなくマリアンヌによる一方的な虐殺であり蹂躙であった。

 ルルーシュは母の膝の上で丸まっていた。

 こうして安全な場所で安穏としている自身の身が情けない。

 EU兵を殺しているのはブリタニア兵で、正しくはクロヴィスの直轄だが、広義ではルルーシュの部下だ。だが自分は何も知らず、何も知ろうとしなかった。部下が大量に人を殺しているというのに。これはブリタニア皇族たる自分の責任の上であることなのに。

 

 生きているだけで責任がある。何かに対して。それは誰でもそうだ。

 何かを食べたり、飲んだり、行動したり、買ったりすることへの責任。それは生きることであったり、金を払うことであったり、職務を遂行したりすることで果たすことができる。ブリタニアの皇子として生きることに対して、自分は何らかの責任を果たさなければならない。

 だがそれは、いずれどこぞのエリアを治めることで果たせると思っていた。だが違う。断じて違う。

 そんなことをして根本的な責任を果たせたとは言えない。一体何人これまで死んで、自分は何人殺してきたのだろう。

 

「そろそろかしらね」

 随分と時間が経った気がする。しかし計器の一つに視線を向けると、まだ1時間も経っていなかった。体感的には既に数日間、この狭いガニメデに閉じ込められていたような気がした。

 KMFが停止したのは大きな道路のど真ん中だった。辺りにはブリタニア兵しかいない。マリアンヌはコックピットを開けた。視界が一気に広がった。硝煙の臭いが鼻を突いた。

 マリアンヌはルルーシュを抱えたまま飛び降りて地面に降ろした。長いこと地面に足をつけていなかったせいで力が入らず、すぐによろけて地面に座り込んだ。

 ここらは襲撃の被害に遭わなかったのかあまり死体が無い。ただ空襲があったのかコンクリートの大きな破片がそこかしこに落ちていた。

 もう立ち上がる気力が無いルルーシュは地面に這いつくばって、仁王立ちで立ち塞がるマリアンヌを見上げた。

 母は微笑みながらルルーシュを見下ろした。

「もう察してると思うけど、ここはEUのブリタニア第7駐屯地よ。約6時間前、ブリタニア第7駐屯地を中心にEUに存在するブリタニアの駐屯地が空爆されて応援要請が下ったの。それで私は平和に眠りこけてる貴方を担いでここまで飛んできたってわけ」

「———何故ラウンズではなくお母さんが出撃しなければならなかったのですか」

「みんな出払ってたのよ。同時多発的に他の駐屯地も襲撃されちゃって。計画的な爆撃だったみたいねえ。それでルルーシュ、どうして爆撃は成功しちゃったのかしら?どう思う?」

 はしゃぐマリアンヌを呆けた目で見上げながらルルーシュはゆるゆると口を開いた。

 脳みその半分が死んでいるようで全身が怠い。しかしそれと同時に、全身が痛いほど冷めていた。

「ここは最前線ではありません。前線からここまで発見されることなく飛行してくる爆撃機があるとは予想されていなかったのでしょう」

「そうね。でもブリタニアは空襲に対してレーダーも対空砲も準備していたわ。でも空襲は成功してしまった。それは何故?」

「……対空砲の自動追尾機能は起動していたんですか?」 

「起動していなかったのよねー、これが。それは何故?」

「レーダー誘導に不備がありましたか?」

「あったわ」

「いつから不備があったのですか?」

「いつからかしらね。でも配備した時にはちゃんと起動していたわよ」

「セキュリティに問題は」

「無かったわ。ハッキングの可能性はゼロ。もしあれをハッキングするような技術があったら、とっくにガニメデもハックされているでしょうね」

「スパイか裏切りでしょうか。自動追尾機能は本部から操作可能ですから、内部犯が協力者であれば同時多発的に爆撃のタイミングを計ることも可能でしょう。EUは本国から離れている戦場ですから、外部の人間が紛れ込みやすい下地もあります」

「正解よ」

 マリアンヌはベルトに挟んでいた銃をおもちゃでも渡すかのような動作でルルーシュへ放り投げた。

 受け止めると、思ったよりも軽い。女子供でも撃てる小型の拳銃だった。マリアンヌには似合わない。きっと自分に渡すために持ってきたんだろう。

 

 マリアンヌが手で合図すると、ブリタニア兵が1人の男を引きずってきた。散々に破れた軍服をなんとか被っているような、みすぼらしい男だ。埃と泥に塗れて薄汚れている。

 男は目の焦点が合っておらず、涎を口角から垂らし、既に正気の埒外のようだった。

「ブリタニア第7駐屯地第3部隊の部隊長。階級は大尉。この大尉一人の裏切りによって民間人含めて80人が死んだわ。こいつはどうするべきだと思う?」

「軍法会議で裁くべきでしょう」

 当然だ、とルルーシュは思う。緊急事態を除き、誰にだって裁判を受ける権利はある。

 

 人権は保護されなければならない。それは人のためでなく、自分のために。

 他者の人権を擁護するよう最大限の努力をすることは皇族にとって、後からの責任追及を避けるための最低限度の義務だ。

 

 しかしマリアンヌは不満げに眉根を顰めた。

「こいつのせいでたくさんの人が死んだのに、こいつだけのうのうと裁判なんて受けさせてあげるの?」

「どうせ銃殺刑になります。温情というわけではありません。それよりもこの事態の詳細を暴くべきです」

「むかつくほどの正論ねえ。じゃあこいつがジェレミアを殺していてもそう思う?」

 ルルーシュは目を剥いてマリアンヌを見た。マリアンヌは変わらず艶然と微笑んだ。

 本当なのか嘘なのか分からなかった。しかし脳裏にジェレミアの姿が浮かんで、脳の半分が沸騰した。

 

 ジェレミアは一昨日EUに送られた。そのことは本人から聞いている。

 どこに配属された?

 フランス第8駐屯地。襲撃された基地のひとつ。

 このたった6時間の間に死んだ可能性は十分ある。

 でも、まさか。まさかあいつに限って。

 

 勇名をはせるゴットバルト家嫡男らしく、騎士然とした微笑みを浮かべながらルルーシュの歩幅に合わせて歩く姿が思い浮かぶ。

 ジェレミア・ゴットバルトという人間は、家族以外で唯一自分を気にかけてくれる貴重な友人であり、部下であり、騎士候補だった。

 異様な速度で成長するルルーシュの頭脳に怯えず、庶民の出と嘲る事もなく、緩やかで温かい敬意と親愛を向けてくれる。

 畏れ多いという態度をとりながらも、ルルーシュの頭を撫でてくれる唯一の人だった。

 だがその手はすでに無いのか。

 

 視界が鈍く黒ずむ。

 急速に色を無くしていく視界の中で、みすぼらしい軍服を着た男だけが明瞭な輪郭を持ち、白黒の世界の中心に君臨している。その男を視界に映すだけで鈍くなっていた思考回路が動き出す。自分が何をしたいのかが分かっていく。バレッタのグリップを握りしめる。

  

 ルルーシュはこの瞬間、これまで生きてきた世界が崩落したことに気づいた。なんて生温い世界に自分は生きていたのだろうか。

 いやらしく唇を震わせながらマリアンヌは零れるように話し続けた。

「ねえ、どうなの?やっぱりこいつは軍事裁判にかけるべき?罪の大きさは一緒よ、何も変わらないわ。こいつが殺した80人の中の一人が自分の大事な人だったっていうだけで対応が変わるのはおかしいわよね?それは間違っています!罪の過多を計量するのに私情をまじえてはいけません!自分が巻き込まれていなくて、武力を持っていなかったら誰だってそう言えるし、それが正しいわ、ルルーシュ」

 マリアンヌの手がルルーシュのそれに重なる。マリアンヌの手は撃鉄を起こし、ルルーシュの手の平の上からセイフティーを押し込んだ。指先が引き金にかかった。

「裁判所では罪の過多を客観的に量るべきとされる。でも客観って何?自分の眼から見るものはすべて主観的なものよ。ならこの世に客観的なんてものは存在しないわ。あるのはあなたと私。私と私以外のもの。世界は主観で成り立っているの。私に関係ないものはどうでもいいけど、私に関係あるものは絶対に許せない。誰でも人間そうなのよ。客観なんてものは、自分にとってあんまり重要じゃないことっていう意味合い以上のものを含まないわ」

「ジェレミアは」

「さあ、どうでしょうね」

 マリアンヌはルルーシュの腕をつかんで立たせた。不思議と自然に立ち上がることができた。マリアンヌの手がなくなっても、手は痛いほど銃のグリップを握りしめていた。

 

 目の奥が痛い。脳の奥が沸騰する。血液が燃えている。

 自分の感情と、肉体と、理性が一つの塊となってここにある。視界はあまりに鮮やかで、肉体の感覚は研ぎ澄まされていた。

 ルルーシュはこの瞬間に自分の輪郭を悟った。肉体は感情の器であり、触手のように伸びる感覚は感情の支配圏にある。

 感情のために生きるのだ。感情のために肉体があり、理性がある。

 今、自分はここに生きている。

 

「そいつを解放しなさい」

 命令されたブリタニア兵は少し逡巡した後に男から離れた。男は地面に突っ伏した体勢のまま犬のように唸り、震える腕で上半身を起こした。途切れ途切れに聞こえる言葉は酷い吃音のせいであまり聞き取れなかったが、悪態ばかりをついていた。

 マリアンヌは自身が持っていた銃を男に投げた。銃は男の顔面にぶつかって地面に落ちた。慌てる兵をマリアンヌは押しとどめ、男が緩慢に銃を構えるのを見ていた。

「ねえルルーシュ、私はあなたに期待しているの。ナナリーに対してとは全く違う期待だけど、それも一つの大事な可能性だわ。私とシャルルが諦めてしまったものを、あなたはやり遂げてみせるんじゃないかなって思うの。人間はどうしたって主観的な生き物だから、他の人間を本当に理解することはできないけど、でもそれでも他者との理解に一つの結果を出せるんじゃないかって思うのよ。あのお兄様は絶対に認めようとはしないでしょうけどね」

 男と目があった。淀んだ目は小さな仕立ての良いスーツに身を包んだルルーシュを見て何を思ったのか、銃口を向けてきた。

 

 ルルーシュは引き金を引いた。弾は男の手首に命中し、手首が半分ちぎれた。銃が男の手から離れる。

 続けてもう一発発砲した。肩に当たった。血が吹き出る。男はのけぞって地面に倒れた。

 近寄ると、男は眼球だけを動かしてこちらを見た。陸にうち上げられた魚のようにぱくぱくと口を開閉しながら、同じ単語を何度も繰り返していた。聞き取りにくかったが、死にたくない、と言っていたように思う。

 発砲する。眉間に命中した。男は動かなくなった。

 地面に座り込んだ。手のひらが痛い。発砲の反動はほとんど無かったが、グリップを握り締め過ぎて筋肉が悲鳴を上げている。空気が冷たく感じられた。喉が乾燥して痛い。

 今ならなんでもできると思った。体が随分と軽い。空はこれまでよりもっと高くなり、地平線はどこまでも続いているような気がした。

 これが戦うということなのだろう。

 

 マリアンヌは拳銃を構えたまま動く様子のないルルーシュの肩を叩いた。

「さっき連絡したから、ジェレミアはあとちょっとでここに来るわよ」

 銃を取り落とした。手のひらの痛みがどこかに消えた。

 思わずマリアンヌを振り返る。マリアンヌは庭で紅茶を飲んでいるときと同じ、しかし今となっては毒草のように見える笑みを浮かべていた。

「生きているんですか?」

「一言もジェレミアは死んだなんて言ってないわよ?」

 飄々とマリアンヌは首を傾げた。

 この女狐と罵りたくなる衝動が煮えたぎった。しかしもっと膨大な感情がルルーシュに湧き上がった。

 生きている。

 ジェレミアはこの世界でまだ呼吸をしている。

 この命がどこまでも軽い戦場で、まだジェレミアは地面にしっかり足をつけて生きているのだ。

 

 脱力してぺたりと地面に座り込んだ。

 頭を殴りつけるような安堵に、いつの間にか止まっていた呼吸が再開した。瞼が熱い。

 呼吸が熱い。ああ、ああ。ルルーシュは意味にならない音を口から出した。

「よかったあぁ」

 しゃくりあげながら溢れる涙を拭う。

 鮮明になった視界の中心に、血をまき散らしながら地面に倒れた男が映った。

 

 そういえば自分はこの男を殺したのか。だが浮かんでくるべき憐れみは無く、大事な人が生きていた安堵感だけが胸を占めていた。

 そこいらに落ちるコンクリートの破片。死体。鉄の臭い。腐った肉の臭い。自分が殺した男の死体。

 先ほどまで身を苛んでいた吐き気はいつの間にか無くなっていた。

 

 

■ ■ ■

 

 

 空を見上げ、瞬きもしないルルーシュに駆け寄る。体中が血塗れで、いつも淡いバラ色をしている顔は蒼白だった。

「ルルーシュ様、ご無事で!?」

「ああ、無事だよジェレミア」

 唇の端だけで笑ったルルーシュは、しかしあまりに様子がおかしかった。いくら聡明でもルルーシュはまだ子供だ。虫に怖がり、屋根に上っては怯え、ビスマルク卿に叱られては涙目になったりした。

 だが目の前のルルーシュは子供には見えなかった。うっすらと細めた瞳は周囲を睥睨し、圧倒する迫力を漂わせている。全身から立ち上る気迫はシュナイゼルと似通っていた。

 だが初夏の風のようなシュナイゼルが纏う空気と、ルルーシュの雰囲気はまるで違う。ルルーシュが発する圧力は嵐のように重苦しく、近寄るだけで体が凍えた。

 ジェレミアは傍に立っていたマリアンヌに詰問した。

「マリアンヌ様、ルルーシュ殿下になにを、」

「ジェレミア、その子を第8駐屯地の司令官に任ずるわ。私は帰るから残党処理はその子にさせてね」

「は!?」

 この女は何を言っているんだろうか。

 ジェレミアは敬愛しているマリアンヌの正気を生まれて初めて疑った。

 マリアンヌは道路の真ん中に立ち塞がっていたガニメデに乗り込み、何事も無かったかのように立ち去ろうとした。

「お、お待ちくださいマリアンヌ様!まだ残党は残っておりますし、それに今回はあくまで奇襲です!この機に乗じてEU兵が前線を押し上げてこようとしてくるのは明白、第6,7駐屯地の司令は既に戦死しており、」

「その子なら大丈夫よ。もう平和馬鹿も治ったでしょ?ルルーシュ」

「ええ」

 ルルーシュはふらつきながらも立ち上がった。顔は真っ青だったが、見る限りで負傷は無い。

 しかし身体的な負傷以上に、こんな大量の死体を見て9歳の子供の精神が無事である筈が無い。そんな子供に人を殺す仕事をさせるとは、もはや虐待を超えた何か、悍ましい行為だ。

 一刻も早くアリエス宮に戻り、メンタルケアを受けさせるべきだとジェレミアの理性は訴えていた。だが一方で、あまりにも冷静に過ぎるルルーシュの態度に背筋が凍るような違和感を感じた。

 確かにルルーシュは人より聡い子供だ。しかしその性格は悪戯好きでひねくれているが、決して冷酷ではなく、むしろ優しい心遣いができる少年だった。

 少なくとも今の様に、酷薄な表情を浮かべて鼻で笑うようなことはできなかった。

「やってみせましょう。お母様は他の戦線の補助を」

「ルルーシュ様!?」

「ジェレミア、お前には私の補助を任ずる。状況の説明を」

「しかし!」

「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが命じる」

 うっすらと細められた瞳にジェレミアの体が止まった。いつものルルーシュのおふざけとは全く違う、薄ら寒い威圧感があった。一昨日まみえた、子供らしい顔つきをした悪戯好きの皇子はそこにはいなかった。

 そこにいたのは王様だった。その王様はジェレミアの顔を見上げ、大きな目を見開いてジェレミアを一心に見据えていた。

「ジェレミア、俺を信じてくれ」

 狡い、とジェレミアは思った。

 ジェレミアは目を伏せ、地面に跪いて首を垂れた。

「イエス、ユアハイネス」

 その返事にルルーシュは満足気に頷いた。

「よし、拠点に案内しろ」

「は、すぐに」

 去っていくガニメデに目もくれず、ルルーシュはジェレミアを伴って煙が立ち上る建物へと向かっていった。

 

 

 

 

 



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3. 初陣は最悪だった





「ジェレミア」

「は、」

「妙だ」

「と、言いますと」

「何故こんなに敵兵が少ないのだ」

 瓦礫を蹴飛ばしながらルルーシュは首を捻った。

「奇襲とはいえ敵兵はたった40名。KMFが配備されていない小基地ならともかく、ここはそれなりの人員が確保されている拠点地だぞ。結局すぐに殲滅されてしまった。だというのに第二陣は来ない」

「……確かに妙ですね」

「第二陣に人員を回す余裕が無いのか。しかしそれならば、なぜ貴重な人員を割いて第6から8拠点を狙ったんだ。ここは前線の少し後方で物資もそれなりにあるが、ここを潰しても大局には変化は無い。ただ………この拠点のすぐ後ろには第1駐屯地がある」

「しかしシュナイゼル殿下がおられる第1拠点は最優先で警護されております。むしろこの第6拠点が襲撃を受けたことにより、第1駐屯地はさらに警備を厚くしたとのこと。EU軍は近寄ることもできません」

 確かに第1駐屯地にはKMFが多数配置され、シュナイゼルの親衛隊が24時間警備を行っている要塞だ。

 襲撃はまず不可能と考えていい。

 

 自分ならどうする?

 

 EUは既に虫の息だ。だらだらと戦闘を長引かせているせいで土地は荒廃し、資金も尽きて来ている。ベテランの軍人達は消耗され尽くし、残っているのは若すぎる兵士か、前線に足を踏み入れることのない士官ばかり。

 

 そんな状況で逆転の一手を打つには、最高司令官を殺害するしかない。

 

 駐屯地の司令官をいくら殺しても意味は無い。いくらでも替えはある。

 シュナイゼルという天才がEUに居座っている限り、この戦争はブリタニアの主導で進み、ブリタニアが必ず勝つ。たった数年で広大なEUを瀕死になるまで叩きのめしたシュナイゼルは、EUにとって存在そのものが悪夢に等しい。

 

 もし自分がEUの兵士ならどうやってシュナイゼルを殺す? 

 ブリタニアの最大級の手厚い保護を受けているシュナイゼル。ミサイルも襲撃も、全て届く手前に察知されて撃ち落とされる。

 自分がテロリストならどうやってシュナイゼルを殺そうとするだろう。

 

 思い至った可能性に鼻を鳴らした。

 

「シュナイゼル兄上に通信を」

「司令部に通信がございます。すぐに手配致します」

「それとこの男についての情報をとにかく集めろ」

 端末から一人のブリタニア軍人の情報を取り出した。

「この男は?」

「EUと密通していた可能性が非常に高い奴だ。この男についての情報をとにかく集めろ」

「承知致しました。すぐに」

「この男は既に死亡しているから、関係者を集めて隔離しておけ」

「拠点の近くに簡易収容所があります。そちらに近しい関係にあった者達を隔離しておきます」

「30分以内に済ませろ」

「はっ」

 淀みない返事を受けて、ルルーシュは背をぴんと伸ばして先を見据えた。

 廃墟に淀んだ硝煙の臭いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 

 簡易司令本部に足を踏み入れるなり、ルルーシュは良く通る声を張り上げた。

「私はルルーシュ・ヴィ・ブリタニア、神聖ブリタニア帝国第11皇子である。今この時より私が第6、7、8駐屯地の指揮を執ることに決定した。これは皇帝陛下の命である!現在ここの指揮を執っているのは誰か!」

 腰ほどまでの背丈しかないルルーシュの命令に、その場にいた軍人達は疑問も無く首を垂れた。

 

 他国の軍人が見れば異様な光景であっただろうが、皇族が絶対であるブリタニアにとっては当然とも言える対応だった。

 皇族絶対主義。それが長年繁栄を続けてきたブリタニアを支える大きな支柱である。

 道理を理解していなくて当然の幼子であろうとも、皇族であるというだけで大きな権力と、それに比例する責任があった。

 

 ルルーシュの前に一人の男が膝をついて首を垂れた。

「畏れながら、私が現在6から8駐屯地の指揮を執らせて頂いております、第8駐屯地副司令官ノート・マクスウェルであります。階級は中佐であります。お目にかかることができ誠に光栄にございます、ルルーシュ殿下」

「そうか。司令官が軒並み行方不明となる中、迅速な対応大儀であった」

「勿体ないお言葉でございます」

「今この時を以て私が第6から8駐屯地の司令を務める。これは皇帝陛下の命である」

「御意にございます」

「ご苦労だった。顔を上げろ」

 最後に一度深く首を垂れたマクスウェルは機敏な仕草で立ち上がった。

 

 まだ中佐としては若く、30代中頃だろう。しかし髪には白髪が交じっており、よく日に焼けたゴリラのような顔をしていた。ルルーシュはどこかで見たことがあると思い、先日の皇帝陛下誕生記念パーティーで挨拶を交わした貴族であることに気づいた。

 確かクロヴィス一派に属する、子爵の階位を持つ男だ。

 元々は平民だったが、指揮能力や高い人望により実力で爵位を手に入れた経歴を持つ、生真面目な男だ。

 しかし生真面目過ぎる洒落の通じない性格と、巌のような厳つい外見のせいで、ロマン主義に傾倒するクロヴィスとはあまり反りが合っていないようだった。

 

 ルルーシュはその男を記憶に留めておくことにした。利用できる種はどこにでも落ちている。どれだけ拾い上げ、どれだけ有効に使うかで勝負が決まる。

 ルルーシュの敵はEUでも、ましてや中華連邦でもない。もっと身近な、気を抜けば殺されてしまうような近さにいるのだ。手駒は多い方がよかった。

 

「現在の状況について情報が欲しい。司令室に案内しろ」

「承知致しました。こちらへ」

「ジェレミア」

「はい」

「ついてこい。ああそう、俺の副官はこいつに任せることに決めた。俺に連絡が付かない間、伝達事項などあればこいつに伝えろ」

「承知致しました。ジェレミア卿、後ほど暗号化されている無線機をお渡しします。司令本部より連絡する際にはその無線機を使わせて頂きます」

「了解しました」

 最大級の礼を持ってルルーシュに尽くし、自分にさえも敬語で話す中佐を見て、ジェレミアは困惑を抱いた。

 選任騎士の地位は軍の階級の中で突出している。しかし皇族の選任騎士候補であると言外に示されただけで、こうも扱いが変わるとは思ってもみなかった。

 

 いつも無邪気で、遊び相手になったりもするルルーシュはやはり皇族で、皇族は軍隊では大将クラスの扱いを受ける。

 そして選任騎士の軍隊での階級は皇族の次に値する。

 

 ジェレミアは、自分はルルーシュの選任騎士になるのだろうと漠然と思っていた。それは思い上がりではなく、そもそもルルーシュのまともな騎士候補は自分しかいなかった。他は皇族にあやかりたいという馬鹿か能無しばかり。

 いずれ自分はルルーシュの騎士となり、その才覚でのし上がっていくルルーシュをいつまでも護っていくという未来図を描いていた。

 そして今、その未来がほんの少し手前に来た。ルルーシュは駐屯地の司令官という座に就いた。そして自分は、その補佐だ。

 

 目の前でルルーシュに頭を下げる、自分より遙かに上位の地位にあった中佐を見て思う。彼は今や言外に選任騎士候補であると宣言された自分より下だ。その姿を見てジェレミアは少なからず動揺した。

 

 たとえルルーシュの足を引っ張り、その才を食いつぶすゴミ虫のような存在でも、ルルーシュの傍にいれば勝手に浮き上がってしまう。ルルーシュの皇族という地位を初めて身近に感じ、ジェレミアは自分にルルーシュの騎士に相応しい能力があるのだろうかと自問しなければならなかった。

 ルルーシュも人間で、しかも子供だ。失敗もするだろう。そんな時自分はルルーシュを諫めながら全体を俯瞰し、政治状況を見定め、自分より軍歴が長い猛者達をまとめ上げなければならない。それが彼の人の騎士として最低限のラインだ。

 傍にいてその身を護るだけではだめなのだ。大将の補佐として有能でなければ。大軍を指揮する能力を有しながら、ルルーシュの思考についていける程に聡明でなければ、騎士である意味が無い。

 ジェレミアはルルーシュの騎士の座を他の誰にも譲る気は無かった。であれば、もはや後は努力と意地の問題だ。

 誰よりも優秀であり、誰よりもルルーシュの意向を理解しなければならない。ジェレミアの脳はひんやりと冷たくなり、同時に歓喜に沸き立った。それは何よりもジェレミアにとり幸せな仕事だった。

 

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 

 

 元々大佐が使っていた司令室から金目の物は全て盗まれていた。逃げ足の速い司令官は、敵前逃亡は銃殺刑だと気づく程度には頭が回る男だったらしい。

 だが皇族が来るということを伝令より聞いていたマクスウェルはすぐに部屋を片付けさせ、一見するとそれなりに豪華な部屋に見えるように整えさせていた。

 しかしルルーシュは部屋の調度品など見向きもせず、「狭すぎる」と言い放ち、30人以上が同時に端末を操作できるような、もっと広い部屋を用意するよう即座に命令した。

 

 部屋はあるにはあるが、襲撃後の混乱で荒れに荒れている部屋ばかり。

 内心で滝の汗をかきながら、マクスウェルはルルーシュの要望に沿った部屋に案内した。

 そこは端末が大量に配備されておりそこそこに広いが、激務をこなす下士官の仕事場であったため、書類に埋もれかかっている上に煙草臭い。

 部屋に通された直後、ルルーシュは顔を一瞬顰めた。マクスウェルは脳内で血の気が引く音を聞いた。

「も、申し訳ございませんルルーシュ殿下。すぐに掃除をさせますので暫く先ほどの部屋でお待ちを、」

「そんな時間は無い。ここでいい。しかし邪魔だな・・・」

 書類の束をどかしながらルルーシュは椅子に座った。白い指先に埃が付着したのを見て、何を言われるのかとマクスウェルは気が気でなかったが、ルルーシュは気にもせず淡々と自分の居場所を作っている。

 選任騎士候補である筈のジェレミアも、ルルーシュが埃に塗れ始めていることを気にもせずその前に大量の端末の画面を並べ始めた。

「マクスウェル中佐」

「は」

「司令部に所属していた人間を一人残らずここに集めろ。あと6から8番駐屯地の状況について、とにかく情報を集めるんだ」

「承知致しました」

 さて、とルルーシュは一斉に光り始めた端末を前に笑みを作った。

 碌な人脈も領地も持たないヴィ家の唯一の資産は能力だ。電子の世界において、ルルーシュは他のどの皇族より広大な人脈、領地を所有していた。

「ジェレミア。気を抜かずついてこいよ。遅れたら置いていく」

「イエス、ユアハイネス」

 いつものようにジェレミアは微笑んだ。

 KMFを自作すると言った時も、庶民の生活を見に行くと言った時も、射撃を習いたいを言った時も、ジェレミアは同じような顔で笑うのだった。

 ルルーシュに忠告することはあっても否定することはなかった。

 どこに行ってもジェレミアはついてきた。そしてこれからもついて来る。

 ルルーシュはその点においてジェレミアに絶大な信頼を置いていた。

 

 

 シュナイゼルへの通信が繋がるまでには時間がかかる。繁忙さにかけては皇帝を上回るシュナイゼルへ連絡を取るためには、兄弟であれ数時間は待たされるのが常であった。ルルーシュのような皇位継承権が低い皇子であれば尚更だ。

 その隙を利用してルルーシュは現状の把握に努めることに決めた。何しろ情報が足りない。

 端末の画面を5つ並べて読みながらルルーシュはマクスウェル中佐の報告を聞いている。報告の合間に質問をしながら、指先は視認も難しい速度でキーボードの上を踊っていた。

 

 司令部に所属していた士官から全てのE.U.駐屯地について一通り報告を聞き終わった後、ルルーシュは視線を画面に向けたまま指示を出し始めた。

 幼子特有の甘く高い声が部屋に朗々と響いた。

「ルーファウス少佐、戦場でKMF搭乗経験があり、今すぐに動ける者を少なくとも20名以上20分以内にここへ集めろ」

「イエス、ユアハイネス」

「デルマリア少佐、全てのKMFに対空砲を装備させろ。すぐにでも稼働できるよう調整しておけ」

「全てのKMFとなると2時間はかかりますが、」

「最新式から順に取り付けろ。ナイフなどの近距離戦闘武器は必要ない。軽微な損傷は放っておけ。少なくとも20機は1時間以内に済ませろ」

「イエスユアハイネス」

「リーインハート中佐、6から8駐屯地に配備されているレーダーと対空砲に欠陥があった」

「本当ですか!?」

「嘘を言ってどうする。既にシステム部分は直した。技術班に再確認を頼む。あと他のシステムに不備がないかチェックを」

「イ、イエス、ユアハイネス」

「マクスウェル中佐、前線に出ている部隊はあとどのくらいで戻る」

「あと40分で帰還致します」

「帰還次第エネルギーを充填させておけ。無傷、軽傷者はそのままKMF内で待機。指示を待てと伝えろ。中傷者以上はすぐに医務室・・・は空爆されたか。簡易医務室へ連れていけ」

「イエスユアハイネス」

「ジェレミア、シュナイゼル兄上との通信はまだか」

「あと3分程度で繋がります」

「よし」

 

 緊急事態だというのに思っていたより通信が繋がるのが早い。

 シュナイゼルがルルーシュを気に入っているとしても、戦場で私情を持ち出すような人ではない。そもそもあの人に私情はあるのだろうか。そもそも人なのだろうか、あの兄は。

 シュナイゼルについて考え始めると、人という生物の定義から生物学と哲学を交えて議論しなければならなくなるため、一端置いておく。

 ルルーシュは端末から現状を示す航空写真を眺めた。

 

 ブリタニアのE.U.侵攻の拠点が痘痕のようにイギリス州とポルトガル州に蔓延っている。

 フランス州との県境を横たわるように前線が帯を描いており、第1駐屯地はその後ろ、スペイン州のど真ん中に座り込んでいる。

 前線ではないが後衛拠点とも言い難い場所にある第1駐屯地は、前線に指示を出し易く、前線にいる部隊が大急ぎで撤退すれば3日で到着する場所にある。

 そして第1駐屯地の防壁となるように、第4から第10駐屯地が弧を描くように並んでいる。

 ここ数日でブリタニアは前線をさらに押し上げており、EUの首都であるパリを食い破らんと前へ、前へと進んでいる。

 

 この制圧戦はスペインを制圧した時点でE.U.の最高権力機関である四十人委員会と交渉を始め、イギリス州をブリタニアの領土として終了する予定だ。

 この目標が達成できなければシュナイゼルは大きくその地位と信頼を落とし、エル家の権勢は陰りを見えるようになるだろう。

 

 まあ、ルルーシュにはそんなことはどうでもいい。

 

 シュナイゼルが失敗するという想像は困難を極めたが、もしシュナイゼルがイギリス州の奪取に失敗したとしても、中華連邦と目糞鼻糞のレベルで腐りきっている四十人委員会がこれ以上の戦争を望むとは思えない。

 E.U.など、国民の権利を守るために戦争を止めて結果的に国民を見殺しにする、腐った衆愚政治の糞ったれどもの成れの果てだ。

 認めるのは癪だが、それなりに優秀な皇帝であるシャルルとその後継者であるシュナイゼルがいる限り、EUにはブリタニアに弄ばれる運命しかない。

 

 カリスマ性と軍事力と政治力を併せ持つ、どこの国籍にも所属しない正体不明の男が突如として現れてテロリストとして活動を始め、EUか中華連邦を中心とした巨大国家を造り上げるような、どう考えても起こり得ない奇跡が発露するか。

 もしくは突如としてシャルルとシュナイゼルが急死するか。

 いずれかの可能性しかEUがブリタニアに勝つ道は無い。

 

 しかしシャルルはブリタニアから一歩も出ず、居場所さえ正確には分からない。さらに傍には常にナイト・オブ・ワンが控えており暗殺はほぼ不可能。演説最中に興奮し過ぎて脳溢血になるよう祈る方が建設的だ。

 そしてシュナイゼルの方はエル家が常時鉄壁の防御を敷いている。

 

 エル家は、エル家における唯一の皇族であるシュナイゼルの身に僅かながらでも危険が迫ることを絶対に許しはしない。

 皇位継承権第2位を持つ不世出の鬼才、シュナイゼルが皇帝になり子供を作る前に死んでしまったら、今後エル家はクイーンマザーの生家どころか二度と日の目を見ることが出来ない可能性すらある。

 皇位継承権第1位のオデュッセウスが碌な軍務もこなしていないというのに、僅か19歳のシュナイゼルがEU攻略に大抜擢されたのも、シュナイゼル個人の能力だけではなくエル家の猛烈なプッシュによるものが大きい。

 

 これまで散々に権勢を揮ってきたエル家の敵は、両手足の指を足して3倍にしても足りない。シュナイゼルという旗頭が倒れた瞬間に、エル家の貴族たちは有象無象に引きずり降ろされて素っ裸でペンドラゴンから追放されることだろう。

 とにかくシュナイゼルには早く皇帝になり、子供を作り、その子供を次代の皇帝として、永遠なるエル家の栄光を保証してほしい。してくれなければ滅んでしまう。

 なんとかしてくれシュナイゼル。皇帝になってくれシュナイゼル。早く子供を作れシュナイゼル。皇帝として世界征服を成し遂げてくれシュナイゼル。

 

 僅か19歳の子供に背負わせるにはあまりに重い責務なんじゃなかろうか。

 ああ、お気の毒に兄上。

 他人事のように御年9歳のルルーシュは紅茶を啜った。

 しかし紅茶とはとても呼べない酷い味に思わず顔を顰めた。薫りもしなければ味もない。色のついた水のような何かのように思えた。何とか飲み込みはしたが、まだ水の方がマシだと思えるようなものだった。

 何故誰も文句を言わないのかと周りを見るとルルーシュ以外は水しか飲んでいない。

 手元の温かい紅茶に眼を落した。

 

 ジェレミアは周囲に聞かれないようルルーシュの耳元に口を寄せた。

「ルルーシュ様、大変申し訳ございませんが紅茶の味について今は我慢して下さい」

「分かっている。物資が滞っているんだろう?文句などないよ」

「————ここはアリエス宮ではございません。ルルーシュ様が気に食わないという顔をしただけで、紅茶を淹れた兵士一人の首が飛ぶこともあるのです」

 一瞬愕然となり、ルルーシュはジェレミアを見つめた。

 ジェレミアは微笑んでいた。戦場のど真ん中で皇族に諫言しているような顔ではなかった。ただ報告をしているだけのような自然な作り笑いだった。

 そうだ。シュナイゼルだけではない。自分も皇族なのだ。

 背負っているものは遙かに軽いかもしれないが、挙動一つで簡単に人を殺せる立場にある。

 だからいつだって自分は警戒されている。表情一つ、指の動かし方一つ。

「———うん」

 ルルーシュはカップを置き、不機嫌な顔をすぐに消した。

「軽率だった。今後も頼む」

「いえ」

 人に見られることを前提として作っている微笑みに、ジェレミアの貴族としての能力の高さが見て取れた。

 ルルーシュもジェレミアを見習い微笑んだ。

 

 皇族がそう言わなくとも、気を利かせたつもりで取り巻きが物を壊したり人を殺したりすることは嫌になる程によくあることだ。

 ルルーシュは目を伏せた。学ぶべきことはあまりに多い。

 

 

 

 

「通信繋がります!」

 合図と共に画面が光った。

 紫苑色の瞳をした、美しい男が画面に出てきた。涼やかな微笑みを浮かべているが、ルルーシュはどうしてもこの兄の容姿を好きになれない。ふわふわと地面から10cm浮いているようで、現実味を感じないのだ。

 ルルーシュはいつかあの綺麗な顔が二つに割れて、中から宇宙人が出てくるのではないかと予想している。

『やあルルーシュ、久しぶりだね』

「お久しぶりですシュナイゼル兄上。ご健勝のようで何よりです」

『ありがとう。君も元気そうでよかった』

 いつも優雅な所作を崩さない兄は、戦場でも変わらず優雅な様子だった。

 このままでは延々と挨拶を繰り返してしまいそうだ。苛立ちを隠すために一つ息を吐いた。

「兄上、話したいことはいくらでもあるのですが現状が現状です。ご無礼を承知で手短に提議させて頂きたい」

『いいよ。なんだい?』

 まるで誕生日の玩具を強請られたような口調で話した。

 ルルーシュは画面向こうのシュナイゼルを見据えて口を開いた。

 

「ブリタニアへの帰還は延期して下さい。爆撃されます」

 

 シュナイゼルは少し目を見開いて、すぐにまた同じような顔で微笑んだ。

『耳が早いねルルーシュは。どこから私の帰還について聞いたのかな?』

「予測したまでです」

 事実その通りなのでルルーシュは口を閉じた。

 微笑むシュナイゼルの頭の中で、ヴィ家に情報を売る可能性のある部下がリストアップされているのだろう。

 しかしそんなことはどうでもよかった。ただシュナイゼルに今死なれると困る。

『そうか。ルルーシュは頭がいいねえ』

「恐縮です」

『でも母の実家がうるさくてね。過保護で困るよ。ここは大丈夫だと言っているのに』

「兄上はエル家の至宝ですから。無理もない事です」

『至宝というのならこうして振り回さないで欲しいのだけれどね。それでルルーシュ、爆撃というのは?』

 先を促され目を細める。

 

 勝負はここからだ。ここで失敗すれば、シュナイゼルの意識がルルーシュに向くことはこの先一生無い。

 刃の切っ先のような薄い紫色の瞳に見据えられて、ルルーシュは艶然と笑みを浮かべた。

「先ほど資料をお送りしたように、第6から第8駐屯地が襲撃されたのは内部犯によるレーダーの誘導機能の破壊工作によるものでした。この実行犯は既にマリアンヌ皇妃殿下により処分されており、残念ながら情報を引き出すことはできませんでした。内部犯の経歴より協力者の可能性のある者たちをリストアップし、その内第6から第8駐屯地にいた者は既に隔離しております。しかし、」

『他の駐屯地はまだ手付かず。そして第1駐屯地にもいる、と』

「はい」

 顎に手をやり考えるシュナイゼルに、ルルーシュはできる限り淡々と聞こえるよう努めて声を抑えた。焦っている司令官程に見苦しいものは無い。

「もちろん第1駐屯地のセキュリティが他の駐屯地より優れていることは承知しております。しかしながら他の駐屯地で成功した奇襲を、シュナイゼル兄上が目と鼻の先にいる現状で実行しない理由がE.U.側にはございません。それも兄上が航空機に搭乗しているという格好の撃墜日和にもたもたとしているような連中ではないでしょう」

『———すぐに戦闘機に対しての防衛レーダーをチェックさせるよ。不備が無ければ、』

「申し訳ございませんが、既にこちらでチェックさせて頂きました」

 今度こそシュナイゼルは大きく目を開けて、驚いた顔をした。

 つい先日チェスでボロ負けしたルルーシュはほんの少し溜飲が下がった。

「誠に勝手なことをしてしまい申し訳ございません。しかし」

『ハッキングしたのか?』

 皇族にしてはロイヤルパープルの色が薄いと揶揄される瞳に睨まれる。

 表情は怒ってはいない。しかし氷の彫像のように厳しい。

「しました」

『いつ』

「先ほど。10分ほど前に」

 シュナイゼルは背後を振り返った。シュナイゼルの副官であるカノンは焦りながらも口を開いた。

『セキュリティに問題はありません。外部からアクセスされた履歴も無いです』

「セキュリティに問題があったのです。だから私が入れた」

 

 こちらの勝ちだ。

 シュナイゼルはルルーシュの敵ではない。しかしエル家はルルーシュの敵だ。ヴィ家はエル家に負けられない。ナナリーのためにも、ジェレミアのためにも、ヴィ家は擦り潰されるわけにはいかないのだ。

 

 これは戦争だ。

 

「兄上、ブリタニアへの帰還は思い留まって下さい。第6から第8駐屯地の迎撃を潰したE.U.空軍は私達の上空を通り、防衛レーダーを掻い潜ってそちらに向かいます。必ず。それも恐らくはあと2時間後に」

『——私がここを発つ予定時間か』

「そうです」

『分かった。では私は陸路でポルトガル州に逃げさせてもらおう』

 思い切りのよいシュナイゼルの決断に、カノンは弾かれたように立ち上がった。

 移動方法も行き先も変更となってしまった以上、物品や人員、ありとあらゆるものが全て変わる。あと2時間で間に合うかはぎりぎりだろう。

 組んだ両手を握り締める。ここでさらに突き詰める。

「こちらでもできるだけ時間は稼ぎます」

『時間を稼ぐ?』

「ええ。戦います」

『失礼だが、第6から第8駐屯地の戦力は微々たるものだろう?それに相手は航空機だ。KMFが主力の駐屯地では相手にはならない』

「あと2時間では安全地帯までの退避は困難でしょう」

 ルルーシュは端末を睨みつけた。お綺麗な男だ。しかし腹の中は間違いなくどす黒い。

 ここは戦わなくては死ぬ場所だ。まだここで生きているシュナイゼルは、これまで吐き気がするほど戦ってきたに違いない。それこそ自分では想像もできない程に。

 

「私は戦います。心配ご無用」

『そうか。分かった。ではまた』

 

 ふつりと切れた端末を押しやり、ルルーシュは立ち上がった。

「技術班の所へ行く、案内を!」

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 

 レーダーが小さく音を鳴らしながらその存在へ警告している。

 司令部の一部屋、生き残った士官達に囲まれて、ルルーシュは画面の上で見事な列を作っている戦闘機を示す赤い光を見下ろしていた。

 

 ルルーシュを中心に輪っかを描く20人以上の軍人達は、緊張と疲労で汗に塗れた顔を隠そうともせず、固唾を飲みながら画面を睨みつけている。

 その中で最も鼻息荒く画面を食い入るように見つめているのはロイドだった。

 この2時間でこの男は前代未聞の技術を実用してみせた。この世界にロイド以上の天才はそうはいないと痛い程に理解した2時間であった。

 

 高高度を飛んでいる筈の戦闘機は小さな赤い染みのように画面の上を進んでいる。そのすぐ前方に、青い点が待ち構えるように並んでいる。

 青い点はKMFだ。ブリタニア軍が誇る世界最高峰の陸上兵器は一糸乱れることなく陣形を作っている。

 その一番先頭に立つ一点。軽くタップすると、【Lord Gottwald, Call or Not】と出る。Callを押す。

「第1班隊長ジェレミア、聞こえるか」

『イエス、ユアハイネス』

 マイク越しの声に不安は無い。

 そしてルルーシュの権力でもって、これまでの自身の努力を蔑ろにするかのようにあっさりとKMFへの搭乗許可が出されたことへの不満も無かった。いや、もしかしたらあるかもしれない。

 だがジェレミアはそれを上手く隠していた。惑うことのない返事にルルーシュは力が満ちてくるのを感じた。

「よし、では各班所定の位置につけ」

『イエスユアハイネス!』

 今頃外は真っ暗だろう。

 上空から発見されることを恐れて、照明をつけることが許されなかったKMF搭乗者達は心細い思いをしているに違いない。

 さらにこれから狙撃するのは、上空5000m付近を飛行している視認できない戦闘機だ。

 だがそれでもいい。当たればよいのだ。当たれば。

 すでに仕込みはしてある。あとはロイドの技術と、狙撃者の気力と技量の問題だ。

 あと10分。

 ルルーシュはこの通信が繋がっている全てのKMFへの通話を入れた。

 皇族直々の鼓舞にはそれなりに士気高揚の効果がある。できることは全てやっておかなくてはならない。

 大きく息を吸い込む。小さな手に血管が浮き上がるほどマイクを握り締め、割れ響く歌のような声を上げた。

 

「諸君らよ、準備は整った!当初の予定通り、諸君らはこれから10分後に通過予定の戦闘機を対空砲で撃ち落とす!厳しい訓練を積んできた諸君らならできる。できない筈が無い!目標は諸君らの手元に必ず現れる!

 約束しよう、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの名において諸君らは勝利する!我がブリタニアへ泥を付けたEUを地面に叩き落したという栄誉と共に帰還することができる!

 我を信じよ!さすれば必ず勝利の栄光は頭上に輝かん!全班構え!」

 

 全40機のKMFが対空砲を宙に構える。世界最先端のレーダーが全てのKMF内でちかちかと瞬いている。

 拳を握り締める。画面を睨む。

 赤い点が近づいて来る。まるで散歩でもしているような優雅な速度で、子供が虫を踏みつぶすように、第6駐屯地の頭上を飛び越えようとしている。

「まだだ、まだまだ」

 一人ルルーシュは自分に言い聞かせた。

 高揚していることを自分でも自覚できた。

 これも戦場。部屋に満ちている興奮が渦となりルルーシュを中心として膨らんでいた。

 

 

 

 KMFに搭乗しているパイロット達の脳内で小さな皇族の鼓舞が反響するように響いていた。

 画面に表れている赤い点を見ながら、あの子供が予想した通りに物事が進んでいる事実へ冷や汗と共に引き攣るような笑みが浮かぶ。

 たとえ皇族でもまだ子供だと侮る気持ちがあったことは否定できない。しかし聞かされた作戦、そしてこの短時間でそれを可能にしてしまう才覚。そして圧倒的なカリスマ性と、ルルーシュには仰ぎ見るに相応しい威厳があった。

 彼が率いてくれるなら勝てるかもしれない。いや勝てる。勝てて当然だ。

 何故なら我らはブリタニア軍。それも現在は皇族直轄下の軍隊である。

 何がEU。衆愚政治の残り滓が。あんな無能で野蛮な輩が皇族を攻撃するなどあってはならないことだ。

 我々がシュナイゼル殿下をお守りするのだ。ルルーシュ殿下の指揮の下で。

 我々は尊い皇族のために戦う、ブリタニアの騎士なのだ!

 

「まさに、英雄の雛」

 戦場カメラマンとして軍に同行していたディートハルトは、部屋の片隅に佇みカメラを構えて小さな皇子を眺めた。

「面白いお方だ」

 焦点を幼い顔に絞る。まだ凛々しいというより可愛らしい顔だ。

 しかしおそらく近いうちに、この可愛い子供は化け物になる。

 あとたった数年しか保てないだろう皇子の可愛らしい容貌を、ディートハルトはじっくりとカメラで撮り続けた。

 

 赤い点滅が射程圏内に入った。

 マイクを握り締め、高らかに言い放つ。

「撃てぇえ!」

 号令と共に澄み切った夜風を砲弾が切り裂く。

 KMFであるからこそ射出可能な、200mm越えの巨大な砲弾が5000m上空へと一瞬で舞い上がった。

 第1駐屯地へと向かっていた戦闘機は着弾寸前に砲撃に気づき、散開しようとした。

 しかしその途中でコントロールを失う。

 まるでエネルギーが突如空になってしまったように、戦闘機はくるくると重力に負け地面に落下していく。

 パイロットも何が起こったのか理解していないだろう。当然だ。

 

 実戦で使用されるのは世界初。未だ理論上可能であるとしか思われていなかった、間違いなく世界最先端技術。開発したのはドイツのラクシャータ博士だが、ブリタニアにもラクシャータ博士に負けず劣らずの天才が一人いる。

 

 ロイド・アスプルンドだ。

 

「そう、命中などしなくてもいいのだよ!」

 きりもみ状態で落下していく戦闘機に向け、地上から銃弾の雨が放たれる。

 ほぼ全ての戦闘機が空中で爆散した。脱出したパイロットの白いパラシュートがひらひらとハンカチの様に揺らめく。

「この駐屯地にロイドがいるからこそ可能だった、ゲフィオンディスターバー搭載の対空砲!有効範囲は砲弾の半径30m!直撃しなかろうと意味はない!」

 赤い点は全て消え去り、青い点は全て点灯したままだった。

「ぜ、全機撃墜しました!」

 損失ゼロ。敵戦闘機は一機残らず撃墜。圧倒的な勝利だ。

 ゲフィオンディスターバーという反則技があっての情けない勝利とも言えるが、生き残った方が勝ちだ。詰めていた息が安堵とともに体から抜け出ていく。

 

 部屋に喝采が溢れる。士官達は汗だくの顔をしたまま互いに抱き合っていた。

ルルーシュも満足気に椅子にもたれかかった。

 

 勝った。天井を仰ぎ見る。

 

 これでシュナイゼルに大きな貸しができた。それに初陣でこの勝利なら今後の他の皇族への牽制にもなる。

 気付かないうちに緊張していたのか机にへばりつきそうになったが、山ほどに高いプライドのため耐えた。

 脱力した手をなんとか動かしてマイクを掴む。

「よくやった諸君。しかしもう一息だ。KMFは全機そのまま」

「それには及びませんよ、ルルーシュ殿下」

 喝采ばかりが響く部屋には似つかわしくない冷たい声だ。振り向くと、銃口が付きつけられていた。

 

 反射的にしゃがむ。数秒前まで眺めていた端末の画面に穴が開いた。

 ひ、と意味のない言葉が漏れる。血の気が引いた。

 何が起こった。

 撃たれたんだ。殺されかかった。なんで。分からない。

 喉奥で悲鳴が零れる。手足が震えていうことを聞かない。

 

 目の前で起こったことが信じられないのは、部屋にいた士官達もたった一人を除いて同様だった。

 マクスウェル中佐だけは弾かれたように男に飛び掛かり、銃弾を放った男を一瞬で地面に押さえつけた。

「っ、ルルーシュ殿下お逃げください!」

「どけぇええマクスウェルぅう!」

 男は四肢を振り回して暴れているが、体格の良いマクスウェルに背中から覆い被さられて立ち上がれないでいた。だが地面に腹ばいになりながらも滅茶苦茶に発砲し続けている。

 ようやく正気に戻った士官達が騒ぐ。怯えて部屋から逃げ出す者も、混乱のあまり叫ぶ者も、冷静に警備を呼ぶものも、動けないでいるルルーシュと男の間に壁となって立ち塞がる者もいた。

 手足が痺れて立ち上がれない。目の前でマクスウェルと男が格闘している様子もどこか現実味が無い。全てただの悪戯で、皆演技しているんじゃないかと思っている自分がいる。

 どうしようもなく甘ったれた自分が、これは夢だと駄々をこねている。

「ルルーシュ殿下、早く逃げて!」

 そう言った瞬間に、ルルーシュの壁となっていた男の胸に穴が開いて血液が噴水のように噴き出た。

 顔面に血を浴びて、ルルーシュはようやくこれが現実だと認識した。

 弾けるように立ち上がり、小さな体で士官達の体を縫うように逃げ出す。

 

 広い会議室を抜けて廊下に出る。警備兵が到着していたが、部屋の外でもあちこちで発砲音が鳴り響いていた。

 誰かがルルーシュを暗殺しようと、ここに居合わせた貴族出身の軍人達をけしかけたのだろう。

 戦場で皇族が死んだとしても、それは後から戦死といくらでも偽ることができる。目障りな皇族の子供を処分し、シュナイゼルを護ったという功績ができれば儲けもの。上手くいけばシュナイゼルの庇護に入ることができる。

 

 それが誰の意図なのかなど分かる訳も無い。 

 皇族のほぼ全員が敵だ。もちろん貴族もそうだ。

「ルルーシュ様、よかった。ご無事でしたか!」

 ルルーシュを見つけて近寄ってきた警備兵は、小さな皇族を視界に入れるなり銃口を向けた。

 即座に警備兵に向けて発砲した。警備兵の肩に穴が開く。神経に上手く当たったのか銃を取り落とした。悲鳴に背を向けて逃げ出す。

 ポケットから通信機を取り出して声を絞り出した。

「ジェレミア、ジェレミア!」

『どうされましたかルルーシュ殿下』

「司令部で反乱が起こったっ」

『なっ』

「EUじゃない、恐らくあれは他の皇族からの、」

 乾いた発砲音と共に手元の通信機が吹き飛んだ。

 振り返らず近くの部屋に逃げ込む。

 すぐに鍵をかけ、手近に並んでいた机をいくつかバリケード代わりに扉の近くへ押しやった。

 部屋の一面には羽目殺しの窓ガラスが並んでいる。拳銃をガラスに向けて構えて、引き金を引く。ガラスに蜘蛛の巣のようなひび割れが入った。

 最後の1発を撃ち、グリップで窓を叩き割る。子供一人なら這い出れそうな丸い穴から、澄み切った夜風が部屋に乱入する。 

 街灯の無い夜空は滑稽なまでに美しかった。降ってきそうな程に沢山の星が、地上で足掻く人間を馬鹿にするように瞬いていた。

 見下ろすと地面までそれなりの高さがある。ここは3階で、9歳の子供が飛び降りるのは無茶だ。

 しかし背後で扉の鍵が軋む音が聞こる。蹴破ろうとしているのか、打撃音が寸断なく部屋に響く。

 舌打ちする。逃げ場所は他にない。

 ルルーシュは机にかけられていたテーブルクロスを引っ掴み、机の脚に結び付けた。

 扉は既に破れかかっている。2枚目のテーブルクロスを繋げたところで鍵がぶち破られる音がした。

 

 自分の体重の軽さ、そしてテーブルクロスの強度と長さに祈る。窓枠からルルーシュは身を投げた。

 一瞬の宙に浮く感触の後、急激に落下していく。凍った空気が全身を切りつける。

 そして突如、強く握ったテーブルクロスから無理やりに引き離された。

 長さが足りなかったと気づく前に、重力という長い手に引きずられて体勢を崩した。衝撃に構えるより早く体が強烈な威力で叩きつけられて息が止まった。

「っ、はぁ、はぁっ、げほっ」

 呼吸を整えようと体を丸める。体に突き刺さる雑草が不快だった。しかしこの生い茂る雑草のおかげで首の骨が折れずに済んだのだろう。少なくともまだ手足の感覚はあった。

 疲労と恐怖で震える手足を押さえつけようと荒く呼吸を繰り返す。だが息が整う前に、切り裂くような発砲音と共に顔のすぐ横の地面に小さな穴が開いた。

 頭上を見ると、誰かがこちらに銃口を向けている。

「くそっ」

 立ち上がろうと足に力を込めたところで、全身を激痛が襲う。

 見下ろすと片足が青紫色に変色している。捻挫か、それとも折れてしまったのか。いずれにせよもう走れない。

 頭上からの発砲は止む気配は無かった。こうして呆然としている間にも数発の銃弾が地面を抉って雑草をまき散らしている。

 

 只管に寒かった。寒々しい空も、凍った地面も、鳴り響く冷たい発砲音も、遠雷のように鳴り響く喧騒も、何もかもがルルーシュを殺そうと追い詰めていた。

 地面に蹲って泣き出しそうになる。どうしてこんな目に遭わないといけないんだと言いたくなる。どうしようもなく甘ったれたルルーシュが、諦めて泣き出してしまおうよと自分に誘いをかけてくる。

 

 そうできれば楽だろう。こんな目に自分が遭っているのはブリタニアという国のシステムのせいで、自分は何も悪くない。

 無業の哀れな生き物に成り下がり、哀れっぽく泣きわめいて命乞いできるような人生はとても楽な筈だ。

 甘ったれたルルーシュが泣き叫ぶ。どうしてそうしないんだ。お前は馬鹿だ。

 馬鹿なプライドばかり大事にして。

 お母さん助けて、お父さん助けて、他の誰を殺してもいいから自分だけは助けて。可愛い顔を歪めて泣いて縋ればきっと許してくれるだろうに。

 そもそもこんな駐屯地の司令官にさえならなかったらこんなことにはならなかった。こんなの無理だとお母さんに泣きすがったらよかったのに。そうすれば僕もナナリーみたいに大事にしてくれるかもしれないのに。

 そうだ。ナナリーみたいに。

 ナナリーみたいに穏やかに日々を過ごして、ただ優しくされて、ただ愛されて、ただただそこで呼吸をして生きているだけで許される存在に!

 

 殺さないで、大事にして、優しくして!

 

 泣き喚く自分に、全身の血管が燃え上がった。

 ふざけるな。

 

 地面に爪を立てて土を握り締める。爪が割れて血が流れた。しかし痛くは無かった。

 泣きなんてしない。涙なんてものに意味はない。

 少女のように憐れっぽく泣いて助けを求めるなど、できるわけがない。それはルルーシュではない。

 俺はルルーシュだ。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアだ。

 俺は誰の助けも求めはしない。

 

 ルルーシュは震える手を動かし、這いずりながらできるだけ遠くへと離れた。こんな碌に灯りが無い夜に動く子供に狙いを定めるのは至難の業だ。

 できるだけ雑草の生い茂る、星明りの届きにくい場所へと這いずって移動する。砂利を掴んで動き回ったせいで全身に傷ができたが、興奮しているせいか痛くは無かった。

暫くすると銃弾が尽きたのか、頭上からの発砲は途絶えた。

 息を吐いてその場に倒れる。もう手には力が入らない。

 しかし安堵する間もなく、近づいて来る足音が聞こえた。足音は軍靴らしく重苦しい。

 味方か敵かは判別できなかった。敵であれば、もう逃げられない。

 数十mもの凍った地面を這いずり回り、ルルーシュの手足から感覚は無くなっていた。そして青紫色だった足は段々と熱を帯びて腫れ始めている。

「くそっ、くそっ、畜生っ」

 近づいて来る足音が聞こえる。武器は無い。逃げることもできない。

 どうすればいいのか分からなかった。今のルルーシュにできることは、脳内で殺さないでくれ、助けてくれとみっともなく喚く自分を殺しながら、間近に迫る死への恐怖に耐えることだった。

「な、ナナリー、ななりー、ジェレミア、じぇれみあ」

 ルルーシュはナナリーとジェレミアの名前を呼んだ。慕わしい人の名前を口にしないと耐えられそうになかった。

「じぇれみあ………おれの騎士のくせに、」

 近寄ってくる男の荒い息までもが聞こえる。黒い銃口が見える。

 撃鉄の音が奇妙な程に大きく聞こえた。

 ルルーシュは体を丸めて目を閉じた。

 

 コーネリア姉上、ユフィ、シュナイゼル兄上、ジェレミア、ナナリー。

 家族と呼んでいいのか分からないが、親しかった人たちを思い出す。その中でも一番に大事だった、誰からも愛される妹を、いつも浮かべている微笑みのままに思い出す。

 ナナリー、ナナリー、お前をもう俺は守れない。済まない。一人にしてしまう。

 頼むジェレミア、どうかナナリーを護ってくれ。ナナリーの騎士になってくれ。ナナリーだけは守らないと。ナナリーだけは————

 

 ぶるぶる震えながらその時を待った。しかし発砲音は聞こえてこなかった。

 代わりに地面に何かが倒れこむような音が聞こえた。

 びくりと体を震わせる。何が起こったのか。

 すぐに殺すつもりはないのか。なぶり殺しにでもするのか。それとも誘拐するつもりか。

 恐る恐る抱えていた腕をほどき、頭をもたげる。

 薄暗い中に血塗れの男が立っていた。星明りで顔が見えた。オレンジ色の瞳に特徴的な灰がかった碧の髪。ジェレミアだ。

 抜き放った剣は血濡れている。彼のすぐ前には、銃口をルルーシュに向けていた人間だったものが立っていた。それは首から上が無く、大量の血を切断面から噴出し続けていた。

「ルルーシュ殿下、お怪我は」

「ぅぉお遅い!」

 ルルーシュの叱責にジェレミアは肩を震わせた。その場に跪いて首を下げる。額からは大量の汗が滴っていた。

 

 息を切らせて汗だくになっているジェレミアに随分と理不尽だと分かっていた。

 だがそれでも、誰かに怒りと恐怖をぶつけずにはいられなかった。

 全身の擦り傷も足の痛みも感じられない程に怖かった。

 発砲音に人の足跡、擦れた呼吸の音。冷たい空気に土の匂い。脳の奥がちりちりする。ルルーシュの神経は限界に達していた。

「遅い、遅い!死ぬかと思った、死ぬかと思ったぞ、ジェレミアっ、」

「っ、はい、弁解のしようもこざいません」

 跪いたままのジェレミアに這いずって近づく。主君が地面を這っているという容認しがたい現状に、ジェレミアは戦場の興奮で赤く染まった顔を一瞬で青ざめさせた。

 凍り付いたジェレミアを気にせず、ルルーシュはジェレミアにしがみ付いた。軍服は埃臭く汗の臭いがして、とても愉快な感触とは言い難かったが、気にせず顔を擦りつけた。人の体温がこの上なく心地よかった。

 

 ジェレミアは突如胸元に飛びついてきたルルーシュを抱え直し、しっかりと抱きかかえた。

 手足からは血が流れ、足は恐らく折れている。両腕は肘から先があまりの寒さで青白く変色しており、そこに血と泥がべったりと付着していてただただ痛々しい。

 

 ルルーシュから真っ先に救命の連絡を受けたというのに、全く間に合わなかった。騎士として失格どころではない。この場で腹を割いて詫びてもなお足りない失態だ。

 自分が遅れたせいでルルーシュは死にかけた。まだルルーシュが生きているのは、彼が皇族ながらに自身で戦うことができる稀有な方だからだ。

 王は人を導くことが役目であり、戦うことなどしなくてよい筈なのに。

 何が騎士だ。自分は主君をまともに護れもしない、無能な役立たずでしかない。

 怖い思いをしただろう。失礼と知りながらルルーシュの背中を撫でた。恐怖のために涙を流せず、怒りとして吐露することしかできない不器用な主君が愛おしかった。 

「二度と遅れるな、お前は俺の騎士なんだからっ」

「イエス、ユアマジェスティ」

「絶対だからな、俺が呼んだらすぐに来い!次に遅れたらお前はクビだ!いいな!」

「イエス、ユアマジェスティ!」

 ジェレミアは高らかに叫んだ。

 

 

 

 

 

 



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4. まあ結局死んでなかった訳だが

 

「それで、騎士叙任式を開きたいと」

「ええ。私の年齢的に難しいことは理解していますが、役職的にはそろそろ正式な騎士を持ちたいところですので」

 

 シュナイゼルはルルーシュとチェス盤を介して話していた。

 庭で転げながら遊んでいるナナリーとユーフェミアのはしゃぎ声が辺りに響いている。コーネリアは兄弟と同じ机に座りながらも、妹たちが怪我をしないかとハラハラしながら見守っていた。

 白く長い指がゆったりと駒を進め、ルルーシュは舌打ちした。盤上を眺めながら眉間に皺を寄せる。

 

「確かに12歳で選任騎士を選ぶというのは、過去に事例がないことではないけれど珍しいね」

「しかし年齢はそう問題にすることも無いでしょう。ルルーシュは既に補佐が必要な公務に着任していますし、ジェレミア卿なら実力も家柄も申し分ない。今も実質的な専任騎士の任務は果たしているようなものです」

 

 珍しいルルーシュからのお願い事に頬を緩ませているコーネリアに、シュナイゼルは苦笑した。

 

「そうだね。彼ならずっとルルーシュを護ってくれそうだ」

 この3年間を共に駆け抜けた自身の騎士候補を思いながら、ルルーシュはキングを前に一つ進めた。

「はい、私もそう信じています」

 

 9歳の初陣でEUの奇襲からシュナイゼルの窮地を救い、さらにシュナイゼルがEUから一時的に退いた期間のブリタニアEU方面軍最高司令官代理として指揮を執ったことで、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの名は横並びの皇族から頭一つ飛びぬけた存在となった。

 さらにそれから3年の間、EUを中心に幾つもの戦線を経験し勝利を収め続けている。

 狭苦しい宮廷で排斥しようと蠢く輩は未だ無数に存在するが、ルルーシュが戦場で指揮を執ることを邪魔する者は最早存在しない。

 シュナイゼルがヴィ家の後押しをしていることから、表向きは、いずれ皇帝となったシュナイゼルの右腕としてブリタニアの繁栄を支える要となるだろうと手放しに称賛されている。

 

 裏ではさっさと死ねあの平民の皇族気取りが、と罵倒を浴びせられては嫌がらせを受け続けているが。

 

 飲み物に下剤を入れられたり、服に針を仕込まれたりする程度の嫌がらせならばまだ笑い飛ばせる。

 毒を盛られたり射殺されかかったり、本気で死にかけた笑えない事件は既に両手足の指で数え切れない。ジェレミアがいなければ数回は路上に死体を投げ捨てられて犬に食われていたことだろう。

 そしてルルーシュが死にかける度に肝を冷やしていたのは当の本人ではなくジェレミアだった。

 

「しかし彼もよくこの3年間ルルーシュに仕え続けたものだ。ここ最近は会うたびに死にそうな顔をしていたけれど、もう大丈夫なのかい?」

「はい。ハードワークを見るに見かねて、数日間は有休を取らせています」

「珍しく付いてきていないと思ったら、そういう訳か」

「流石にシュナイゼル兄上とコゥ姉上に暗殺されるとは思いませんから。良い機会なので、身体を休めることも仕事の内だということを知って貰おうかと」

「それはさぞ渋ったことだろうな」

 

 仕事が生き甲斐と断じることのできる忠義の騎士候補ジェレミアが、先日散々に有休消化を渋っていた光景を思い出しルルーシュは苦笑した。

 

 生真面目で責任感が文字通り死ぬほど強いジェレミアにとって、ルルーシュが定期的に死にかける現場に居合わせ続けたこの3年間は実にストレスフルだったことだろう。

 ルルーシュが暗殺されかかる度にジェレミアは自分が未熟であったため未然に危機を察知できなかったと自身を責める。客観的に見てジェレミアに全く責任が無くとも、彼は無言で自分を責める。責め続ける。そして全く弁明しない。

 果ての無い責任感と忠誠心には確かに感謝している。しかしそれ以上に時代錯誤にも程がある馬鹿な生き方だと呆れる方が先に立つ。

 ブリタニアの騎士は数百年に渡り存続している名誉職である。しかし現代においてはただの公務員だ。雇い主と雇用人の契約名に過ぎない。云わばビジネス。

 皇族としては最底辺であるルルーシュの、しかも正式な騎士ではなくただの騎士候補でしかないジェレミアに多大な責任などある筈も無い。

 しかしジェレミアの忠誠心はこちらの理解の範疇を超え、休暇や給料というものを飛び越えてその体を突き動かしている。

 あらゆる脅威からルルーシュを護るために、ジェレミアは愚直に努力を続けた。戦闘能力だけではなく、事務能力から言語能力に教養、礼儀作法とその努力の方向は多岐にわたる。

 皇族の選任騎士であれば、全て平均を凌駕する程に優れていて当然の項目ばかりではある。しかし秀才ではあっても天才ではないジェレミアにとって高い壁だったことだろう。

 だがジェレミアは一度も弱音を吐くことなく、己を甘やかすこともなく、ただ愚直に努力し続けている。

 一人の皇族として見ても、ジェレミアの主として見ても、馬鹿としか言いようのない程の献身を続けているジェレミアは確かに自身の選任騎士に相応しい男になった。

 

 

 数週間前から騎士叙任式のための根回しを始め、シュナイゼルとコーネリアが最後の2人となり、そして今許可は下りた。

 これでジェレミアは皇族の人生においてたった一人しか選ぶことのできない選任騎士に任命されることが決定したも同然だった。あとは式を待つばかりだ。

 

「しかしいいのかいルルーシュ」

「何がですか?」

 

 シュナイゼルはポーンを弄りながらなんとはなしに言い放った。

 

「彼は君に気があるらしいじゃないか。騎士となればほぼ毎日顔を合わせることになる。私は君の貞節が心配だよ」

「兄上ぇえ!?」

 

 コーネリアがカップを取り落とした。割れそうになったカップを隣で佇んでいたギルフォードがしっかりとキャッチした。

 

「何を馬鹿なことをルルーシュにおっしゃっているんですか!?」

「ロイドから聞いたんだが、彼はロリコンらしいじゃないか。ルルーシュ、君はまだロリータの範疇に入っているだろう。せめてあと3年ぐらい経ってからの方がいいんじゃないかな」

「もう一度言いますよ、何をおっしゃっているんですか!?」

 

 もう嫁に行ってもおかしくない年であるというのに、この姉は性に関する話題が出るだけで頬を少女のように赤らめる。

 コーネリアの隣に立つギルフォードを見やる。年に見合わない程にこの姉が初心なのは偏にこの過保護でヘタレな騎士のせいだ。ギルフォードはルルーシュの視線から気まずげに目を逸らした。

 

「その点についての心配は不要です。ジェレミアが私に仕えるようになってから付き合った女性はほぼ全員が同年代。しかも巨乳ばかりの。彼をロリコンと断定するにはあまりに情報が不足している」

「ルルーシュお前ロリコンの意味をどこで知った!?というか何故ジェレミア卿の女性遍歴を調べているんだ!」

「ナナリーが万が一ジェレミアのストライクゾーンに入っていたら危ないかと思ったまでです。いえ、ジェレミアを信じていないわけではないんです。ただ万が一のことを考えて調べたまでです」

「お前はジェレミア卿を信じているのかいないのかどちらなのだ!」

「信じていますよ。でもやっぱり心配でしょう!」

 

 ジェレミアがロリコンだという噂は根も葉もないものだと知ってはいる。

 知ってはいるが、あの可愛い可愛いナナリーがストライクゾーンでない男の方が有り得ない。あの理性的なジェレミアでも天使のようなナナリーを前にして理性が揺らがないという保証は無いのだ。

 もしジェレミアの理性がナナリーの未熟であるからこそ清廉な美貌に負け、幼い花を散らせてしまったら……同意の上ならばまだしも————いやまだ9歳のナナリーが同意したとしてもそれは犯罪だ。

 可哀そうなナナリー。そして憐れなりジェレミア。俺がジェレミアを騎士にしたばっかりに、ナナリーとジェレミア二人の人生を歪めてしまったっ。

 その時はジェレミアを殺して俺も死ぬ!

 

 

「ナナリーは大丈夫なんじゃないかな。彼はアリエス宮でも常にルルーシュの傍にいるらしいから。だから貞節を狙っているとしたらルルーシュの方だろう」

 

 一人悲壮な覚悟を固めているルルーシュを放ってシュナイゼルは淡々とチェスを進める。チェックメイトという言葉さえ今のルルーシュには届かなかった。

 

「ルルーシュは男なのだからそんな心配をする必要などないでしょう!それよりそんな話題をまだ幼いルルーシュの前で話さないで頂きたい!」

「何を言うんだいコーネリア」

 

 シュナイゼルは秀麗な容貌で微笑んだ。しかしその顔に慣れ切っているコーネリアには胡散臭い笑顔だとしか思えなかった。

 

「男だの女だの、些細な問題さ。そうだろうカノン」

「そうですね」

 

 傍に立つカノンが男性とは思えない程に柔和な笑顔を浮かべた。

 説得力のある一言にコーネリアは押し黙った。かける言葉も無いと言った方が正しいかもしれない。

 

 一通りの妄想を終え、ようやく現実に帰ってきたルルーシュは咳ばらいをし、ジェレミアのロリコン疑惑問題についての話題を押し流した。

 

「そういうわけで、近いうちに叙任式を開きますから。コゥ姉上とシュナイゼル兄上の日程に合わせますのでお暇な日を教えてください」

「私達の都合で決めていいのか?」

「父上は来ませんからね。兄上と姉上の都合が合う日なら大丈夫ですよ」

 

 こんな時ばかりはヴィ家の支援者が少ないことが有利になる。ヴィ家は皇族としてはありえない程にフットワークが軽い。

 

「そうか。では1か月後でいいかな」

「私もその日なら大丈夫だ。ユフィも連れて行こう」

「ありがとうございます」

 

 あまりに近い日程だが、数十人いる皇族の中でも末席も末席であるヴィ家の騎士叙任式に興味のある貴族はほとんどいない。皇帝も出席しないことが確定しており、皇族の正式な儀式とは思えない程に閑散とした会場となることだろう。

 しかしその分招待する者は気の知れた者ばかり。叙任式の後はホームパーティーでも開こうかとさえ思っている。

 

「私達以外の出席者は誰なんだい?」

「まず母上と、クロヴィス兄上、そしてルーベン・アッシュフォード伯爵とその令嬢ミレイ・アッシュフォード嬢、マクスウェル子爵夫妻、あとはアールストレイム侯爵とその令嬢アーニャ・アールストレイム嬢です」

「ミレイ・アッシュフォード……ルルーシュと同じ年だったかな」

「一つ年上です。まだ会ったことは無いのですが、とてもしっかりした素敵な方だとか」

 

 よい話し相手でもあるルーベンから聞く限り、気は強いが世話焼きなところもあるませた少女らしい。身内の贔屓目も入っているかもしれないが、親族以外に同世代の子供と会う機会のないルルーシュはミレイと会うのを楽しみにしていた。

 

 これで二人の出席も取り付けた。弱小であるヴィ家の騎士叙任式であれば、これだけ人数があれば滞りなく進む。

 庭に目をやるとナナリーとユフィは芝生の上をころころと転がっていた。チェス盤を見下ろすといつの間にかまた負けている。舌打ちをしたくなったが、あまりに天気が良く気分が良かったために溜息を吐くに留めた。

 久々の安穏とした心地よい空間だが、ここに留まる訳にはいかない。

 

「コゥ姉様もシュナイゼル兄上も、お時間取って頂きありがとうございました。失礼ながら私は中座させて頂きます」

「おや、仕事か」

「はい。先ほどEU方面軍最高司令官殿から少々無茶な仕事を振られてしまいまして……」

「ルルーシュならできると思ったまでのことだよ」

 

 ひらひらとEU方面軍最高司令官が手を振った。

 じとりと睨みつけるが、笑顔は全く崩れない。コーネリアはくすくすと笑った。

 

「そうか。厄介な上司を持つのは大変だな、ルルーシュ」

「労わり感謝致します姉上。また正式な招待状は後日お渡しいたします。お二方とも、仕事はお忙しいでしょうがご自愛下さいね」

 

 子供とは思えない程に凛と背筋を伸ばし、ルルーシュは花咲く庭園に背を向けた。

 

 

 

 コーネリアは花輪を作っているユフィとナナリーに視線を向け、ルルーシュも数年前まではああして遊んでいたと眼を細めた。

 

「————あの小さかったルルーシュが、騎士が持つことになるのですね」

「皇族は騎士を持ってこそ一人前と認められる。ルルーシュはとっくにそこらの有象無象より大人と言えるだろうが、これで正式に皇族となる————ようやくね」

 

 珍しくシュナイゼルが感嘆の声を零し、コーネリアは無理も無いと苦笑した。

 他の皇族も、本人でさえ気づいていないがシュナイゼルが兄弟の中で最も関心を抱いているのはルルーシュだ。何事にも興味関心の薄いシュナイゼルだが、ルルーシュが戦場で挙げる華やかな成果にだけは明らかに興味を示している。

 その興味は愛情や親愛などという暖かいものではない。言うなれば貴重な実験動物に向けるただの好奇心だ。

 しかしそれだけだとしてもこの兄にとっては小さな蝋燭のように揺らめく淡い人間味に他ならない。

 

 シュナイゼルという存在の異常性をコーネリアは察していた。

 紛れもないギフテッドであるシュナイゼルは残酷な存在だ。彼は神の手違いで間違って人間に生まれてしまった、もっと高次元の存在なのではないかとすら思う。

 彼は他者の理解も共感も必要とせず、私欲も無く驕りも無い。

 最早人間ではなく“知能”と呼称されるべき何かだ。

 常に合理的な行動を取る彼にとって感情などという非効率なものに振り回される凡愚な人間は、自分を含め、彼の周囲にとりつく絡繰り仕掛けの人形程度にしか見えていないのかもしれない。

 しかしルルーシュだけは別だ。たとえ庶民の出だと蔑まれようともルルーシュは傑出した天才であり、シュナイゼルに人間という存在の価値を認識させる可能性のある唯一存在だとコーネリアは確信している。

 

「ジェレミアがルルーシュの傍にいるとなれば、ルルーシュの仕事も楽になるでしょう。きっと兄上と遊ぶ時間も増えますよ」

 

 こんな簡単な言葉で柔らかに微笑む兄がこの時だけは可愛らしく見えた。

 

 

 

 

 

 

 ルルーシュが執務室に行くと、ジェレミアが鍛え上げられた体躯を小さく折り畳みながらこそこそと棚を整理していた。

 その腕には大事そうに仕事の資料を抱えている。服は普段から着こなしている礼服で、どう見てもただの仕事スタイル。

 せめて休日を楽しんでいる途中で忘れ物に気づいたと言い訳ができるよう私服で来いと思うも、皇居に立ち入る際に皇族以外は基本的に礼服縛りだ。この忠義馬鹿は皇居に私服で立ち入るなどという不敬な真似はできなかったのだろう。たとえ普段ルルーシュが寝間着で闊歩している場所であっても。

 ルルーシュの姿を視界に認めるや、ジェレミアは背中を震わせてその場で深く頭を下げた。

 

「………失礼致しております、ルルーシュ様」

「この部屋への入室は自由だと言っている。それは別にいい」

 

 だがな、と続ける。自分も相当仕事中毒である自覚があるがこの男も割と酷い。

 おねしょをした子供が母親に発見されたように、ジェレミアは仁王立ちのルルーシュを前に小さく背を丸めて項垂れていた。

 

「ジェレミア」

「はい、ルルーシュ様」

「俺は貴公に休養を命じた筈だが」

「———はい、ルルーシュ様の気遣いのおかげで十分休むことができました」

「まだ半休程度だろうがぁ!」

 

 机の上の書類を叩く。ちなみにこの書類が件のEU最高司令官から振られた無茶振りであり、机の上に巨大な山を形成していた。

 

「いい加減休めと言っただろう!隈が出来ているじゃないか!このままだと俺が労働基準局に訴えられるぞ!監査が入ったら言い逃れもできずに業務停止を食らいかねん!」

「大丈夫です、タイムカードはちゃんと通していませんから。あくまでこれはサービス出勤です!」

「ブラック企業ど真ん中じゃないか!完っ全にアウトだ!結局従業員から過労死を出して企業名がネットにアップされて後ろ指を差される王道パターンを着々と歩んでいるだろう!」

「過労死は立派な殉職ですから問題にはなりません!」

「大問題に決まっているだろうが馬鹿!」

 

 深々と下げられている碧色の頭を書類でスパンと叩く。良い音がした。

 

「今すぐ帰れ!そして寝ろ!2日後まで出勤は許さん!」

「し、しかし先ほどシュナイゼル殿下から、EUへの移植民の住居職業食料全ての手配を2日以内に済ませろという無茶振りがされたと伺いましたが」

「俺なら4時間で可能だ、お前の手などいらん!」

「……は、しかし」

「しつこいぞ。俺に何度同じことを言わせるつもりだ。俺は騎士であるお前からも信頼されていないと広める気か!」

 

 だからさっさと下がれ、しっしっ、と言い放つ。しかしジェレミアは目を見開いてその場に直立不動となった。

 目を瞬かせ、白昼夢でも見ていたかのようにきょとんと幼い表情を晒している。今年で21歳となり、この3年間の心労からか普段は年齢より老けて見える男だが、今この時は少年のようだった。

 

「今、なんと?」

「だから、お前がそんな状態でそこらをふらふらしていたら、俺は副官を過労死するまで使い潰さなければまともに仕事がこなせないと思われるかもしれないと、」

「いえ、そうではなく……厚かましくも、私があなたの騎士だと聞こえたようですが」

「そうだが」

 

 キョトンとしたままのジェレミアに、そういえば叙任式について全く言っていなかったことに今更ながらに気がついた。

 

 本来ならばまず「騎士になってくれませんか?」「はい喜んで」のプロポーズめいたやり取りをした後に皇帝の許可を貰い、次に賛成という名の支援をしてくれる貴族と皇族に挨拶に向かう。そこでより大勢の人間に騎士叙任式への参加を取り付ける。その後騎士叙任式を開き、皇帝の名の下に正式に騎士として任じ、貴族皇族の賛同を得て、ようやく晴れて騎士を持つことが出来る。

 この一連の流れを経なければジェレミアは正式な選任騎士とは認められず、身分や給料、さらに他の貴族皇族からの支援は得られず現状据え置きのままになってしまう。

 皇族の選任騎士と選任騎士“候補”では立場も給与も文字通り桁違いであり、1年の遅れが生涯年収に大きく関わる。

 そのため一刻も早くジェレミアを選任騎士すべく仕事の合間を縫って皇帝やマリアンヌに掛け合ったのだ。

 

 その結果、さっさと騎士叙任式をしなければという意識が先行しすぎてジェレミアへの告白がすっぽ抜けてしまった。

 

 しかしルルーシュとしても言い訳はある。

 他の皇族は普通数十人と選任騎士候補を持ち、数年間相性やら実力やらを確かめた上で選任騎士を選ぶ。皇族の一生涯につきたった一人の騎士を選ぶのだから厳選に厳選を重ねて当然だ。そのため並み居る選任騎士“候補”から選任騎士を選ぶのは一大イベントである。普通なら。

 しかしルルーシュの選任騎士候補はジェレミアただ一人だけだった。さらにこの数年間ずっとジェレミア一緒にいたため、なんとなくもう選任騎士になることが確定しているような気分になっていたのだ。

 

 やはりハードワークが続くと仕事にミスが増えて効率が悪いとぼやきながら、蝋人形の様に微動だにしないジェレミアを見上げる。

 

「ああそうだ。貴公を俺の選任騎士に任命する。1か月後に騎士叙任式を執り行うから日程を空けておけよ」

 

 下賜するための騎士服と剣を新調しなければ。オーダーメイドだから高いんだよなぁと思いながら書類を摘まむ。

 微動だにしていなかったジェレミアは突如としてぶるぶると震えてその場に崩れ落ちた。

 基本的には常識人だが、感動屋で奇行に走りやすいジェレミアの振舞いに動揺もせず淡々と見下ろした。

 

「どうしたジェレミア。進化か?進化するのか?」

 

 マナーモード状態で地面の上に四つん這いになっているジェレミアの姿に、日本で流行っているというポケットなモンスターのことを思い出した。

 進化するとしたらどんな姿になるんだろう。ヴァルトシュタイン卿のようなごつい髭のおっさんになったりしたらなんとなく嫌だ。かといってクロヴィスのようないかにも軽薄そうな外見も嫌だ。

 どこかにスイッチでもついていないかとジェレミアの背中を撫でてBボタンを探す。軍人らしく鍛えられた背筋を撫でまわしていると、ジェレミアは鼻を啜る音を立てながら顔を上げた。

 

「———る、るるーしゅさま」

「おい泣くな。なんで泣くんだ」

「わ、わだ、わたしのような未熟者が、あなた様の騎士になれるとは思っても」

「いやそこは思っておけよ。他に騎士候補がいない時点でほぼ確定だろう」

「し、しかし、私のような未熟者が、」

 

 私は未熟者で、未熟者だからと壊れたラジカセのように繰り返している。

 

 ジェレミアが自身の能力不足を気にしていることは前から知っていた。確かにナイトオブラウンズと比較するとジェレミアのKMF操縦技術が劣っていることは否めない。

 だがそれは問題ではないのだ。変なところで完璧主義な馬鹿な男だと思う。

 努力すればどうにかなりそうな問題に逡巡するなど時間の無駄にしかならないだろうに。

 

「確かにKMFの技術においては未熟者だろうな。ヴァルトシュタイン卿に手合わせを申し込んでは、毎回原型も残らないほどボッコボコにされているらしいじゃないか」

 

 ふぐぅ、とジェレミアは地面に崩れ落ちた。めそめそとすすり泣く音が情けない。

 とりあえず進化する様子は無くなったため、さわさわと手触りの良い碧の髪を撫でる。ナナリーのように柔らかくは無いが、指通りが良く芯のあるさらさらとした感触がした。

 

「おまけに口煩いし口ごたえするし、皇族を優先し過ぎてナンバーズを差別する傾向があるし思い込みは激しいし、声はでかいし暑苦しいし、仕事のオンオフが全くできないで平気で家に仕事を持って帰る馬鹿だ。そうだ、お前は馬鹿だ」

 

 容赦のないダメ出しと罵倒に泣き声がさらに大きくなった。敬愛するルルーシュからの忌憚ない評価という点がさらにジェレミアの心を抉ったのだろう。

ぽんぽんと頭を撫でる。

 

「だが対人格闘術ではアホみたいに強いし、指揮能力や政治能力は申し分無い。俺の補佐も十分務まる域に達している。それどころか、お前の血筋と身分を考えると、俺程度の皇族の選任騎士になるのはあまりにリスクが大きい賭けだ。俺の選任騎士を断り、ナイトオブラウンズに声がかかるのを待ちたいというなら、」

「それは絶対にありません!」

 

 オレンジ色の瞳を見開いてジェレミアが吠えた。

 

「私は恐れ多くもルルーシュ殿下にお仕えしている身です。それが何故、ナイトオブラウンズの座を望むのでしょうか。私は二君に仕える程、恥知らずな騎士ではございません!」

「そうだ。お前は必ずそう答える。そしてそう答えると私は確信することができる。だから山ほどの欠点を持ってるお前を俺は騎士にすることに決めたんだ」

 

 撫でていた手を離して立ち上がる。

 

 必ず自分の味方をすると確信できる人間は珍しい。それも策謀渦巻くこのブリタニアで、ここまで愚直な人間に出会える可能性は皆無に等しい。

 そしてその愚直な人間が、一切の澄み切った忠誠を誓ってくれる可能性など、考えるのも馬鹿らしい程だ。

 自分は運が良かった。

 

「立て」

 

 低い声で呟く。

 ジェレミアは瞬時に音も無く立ち上がり直立不動の姿勢でルルーシュの前にそびえ立った。

 唇を真一文字に引き結び、静かにルルーシュを見下ろす。命令を待つ大きな犬のように、燃え盛る炎のような色の瞳を真っすぐにルルーシュだけに向けていた。

 

「ジェレミア、私の騎士になる気があるか」

「—————私は未熟者です」

「知っている」

「不相応であると、存じております」

「ああ、だろうな。なにしろ私は有能だ」

「そうですとも。貴方様程に素晴らしい方を私は存じません。殿下はかのアーサー王よりも偉大な器をお持ちの方です」

 

 ふふんと腕を組んでジェレミアを見上げる。

 ジェレミアはその場に跪き、頭を深々と下げた。見慣れた執務室での恭しい態度は到って自然だった。

 

「それでも、私はルルーシュ様の騎士になりたい。いえ、なると決意します。貴方様に相応しい騎士に」

「うん。よし、ジェレミア、お前を俺の生涯唯一の騎士に任ずる。しっかり励めよ」

「———有難きお言葉。全身全霊でお受けいたします」

 

 窓ガラスから陽光が入る。碧の髪がちらちらと光を反射して光っていた。柔らかい日の光は暖かく、少し眩しい程だった。

 暗殺や戦争の生々しい鉄火の臭いを嗅ぎながら、自分たちは毎日を必死の形相で生きている。しかしこの一瞬に限っては穏やかだった。

 ルルーシュは、いつか自分が確固とした地位を手に入れることができれば、ナナリーやジェレミアと一緒にブリタニアでこんな穏やかな日々が送れるようになるのではないのかと夢想した。

 いつかシャルルが死んでシュナイゼルが政権を握れば、権力者は一斉に入れ替わる。その混乱の中ひっそりと引退して市井に紛れ込んで生きていく。

 隠れ住む家は大きくなくていい。3人で暮らしていければそれで充分。毎日食事を作って、掃除をして、仕事をして、生活を営む。

 銃を手に取ることも無ければ、人を殺すことも無く、殺されると怯えることも無い。

 

 その想像は恭しく掌を取って甲に口付けするジェレミアの前で飛散し、塵になって無くなった。

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 その日、シュナイゼルはシャルルが私的に動かしている研究機関について探っていた。

 

 その研究機関の存在を知っている者は少ない。ヴァルトシュタイン卿を含むシャルルの協力者以外で、その存在を知るのは自分しかいないだろうとシュナイゼルは確信していた。

 巧妙に隠されている研究機関は本部を数年ごとに移し替え、その悉くが滅多に人目のつかない特殊な環境に置かれている。シュナイゼルでさえこの研究機関を見つけたのは全くの偶然であり、これまでその存在に勘づくことさえなかった。

 

 

 

 シュナイゼルがその研究機関の存在に気づいたのは、ヨーロッパ戦線で指揮を執っていた時のことだった。

 戦線を押し上げようと奮闘していたシュナイゼルの元に、シャルルより最前線から10kmの地点にある村を攻撃するなという命が下された。何でも、シャルルの古い友人が住んでいるらしい。

 皇帝陛下の勅命とあり、シュナイゼルはその村を迂回して敵の注意を逸らす戦術を用いて勝利を収めた。

 そして戦争が一旦停戦となった時期を見計らい、すぐにその村について調べた。シャルルの古い友人云々という言葉ははなから信じていない。

 

 何故ならあのロールケーキバッハに友人などいる筈が無い。

 全財産賭けても断言できる。あの男に友達はいない。

 

 その村はヨーロッパの片田舎にあった。戦争の最中にもかかわらず、村は古き良き田園風景を保っており、人の出入りは少ない。大きな建築物は少し古びた教会1つしかなく、産業の中心は農業。過疎化が進んだよくある村だという印象を受ける。

 しかし村の周囲を調べさせている内に、その長閑な風景はただの表層でしかないことが発覚した。

 

 村の地下には巨大な研究機関がアリの巣のように蔓延っていた。数百人がそこで生活しながら、ブリタニアの庇護の下研究を行っていた。

 研究機関の名は、ギアス教団と言った。

 教団というからにはどこぞの宗教なのだろうと思い、同じような宗教派閥を調べたものの、一向にギアスという名は現れない。そもそもギアス教団には系統だった神話や聖書が無く、一般的な新興宗教で行われているような儀式や訓練も無いため、宗教団体とは言い難かった。

 ギアス教団で行われていたのは、最新式の研究設備を駆使しての研究のみ。ギアスだのコードだの。よく分からない異常な存在に寄り添うような研究がギアス教団では日々積み重ねられている。

 

 ギアス教団の概要を攫うように調べた後、面倒くさいことになったとシュナイゼルは頭を振った。

 あのロールバッハが宗教であれマッドな研究機関であれ、表沙汰になれば面倒な団体に入れあげているのだとすれば神聖ブリタニア帝国にとっては面倒な事態だ。

 ここ最近「政治はあぁぁ↓、瑣事であるぅぅうう↑」とふざけたことをぬかしてヒッキーだかストライキだか知らないがまともに公務を行おうとしない馬鹿だが、あれでも皇帝であり、権威の象徴である。

 それが人道に悖る団体に嵌っていると知られれば致命的な汚点としてブリタニアの名を汚すこととなる。

 もしそうであるならばあのギアス教団とやらをロールケーキの墓標にしてやらねばなるまい。

 

 今日はギアス教団の研究内容について調査する予定だった。

 厳重に張り巡らされているセキュリティに気づかれないように静かに入り込む。何十人かが同時にアクセスしている領域に小さな風となってシュナイゼルは情報を盗み見ていた。

 何百人ものデータが羅列されており、投与した薬剤やそれに対する反応。血液データやCT画像、脳波、さらにIQから精神分析まで事細かなデータが羅列してある。やはりというべきか人体実験のようだった。

 幼児から老人まで多彩な人種のデータが陳列してある。薬剤を投与したり解剖したり拷問したり。バリエーションに富んだ犯罪行為に眩暈がした。もしこの事実が発覚してしまうと揉み消しのために多大なる労力と金がつぎ込まれることだろう。

 目眩を感じながらもシュナイゼルは羅列するデータを流し見ていた。その最中見逃せない名前があり眼を止める。

 シュナイゼルは少し驚いて紫苑色の目を瞬いた。

 

 シュナイゼルの名前が膨大なデータの内の一つとして目の前にあったのだ。

 

 生まれてからこれまでの身長や体重の変動から、転んで擦りむいた傷までが詳細に記録されてある。

 それどころか戦場で不利な状況に陥った時の視線の動かし方、弟が生まれた瞬間の挙動、恋人とセックスしているときの血圧と心拍数までが克明に記載されている。

 生まれた瞬間のデータまでを遡る。長大なデータは目を通すだけでも相当な時間がかかった。

 一番最初の1枚目に目を通す。シュナイゼルは唇を釣り上げた。

 

【人工ギアス適正体プロトタイプ No.132 俗名:シュナイゼル・エル・ブリタニア———ギアス適正<0.01, ギアス発現不可能、失敗。ギアスキャンセラー適正<0.05、失敗】

 

【No.132:失敗作の経過観察はNo.73で施行可能であるため、No.132は後天的ギアス適正増加手術試験を行うことが決定】

 

【No.132:術後バイタルは変動なし。ギアス適正変動なし。手術失敗とみなす】

 

【No.132:術後知能指数上昇。他者との共感能力、及び情動に欠如が認められる。ギアス適正変動なし】

 

【No.132:術後10年経過するもギアス適正変動なし。術後フォロー中止とする】

 

 

 失敗の文字が何度も紙上で踊っている。

 一体自分の体に何をしたのやら。自分の頭を指で撫でさする。生後数か月目で行われた手術の痕跡はもう残っていないが、この脳にはなにがしかの手が加えられているらしい。

 他のデータを見やると見知った名前がいくつも羅列してあった。

 ギネヴィア、オデュッセウス、コーネリア、ユーフェミア、ルルーシュ、ナナリー。

 ルルーシュの名前を探る。先ほど見たばかりの幼くも整った顔がこちらを見据えている。その顔の横で小さな文字が佇んでいた。

 

 

【人工ギアス適正体プロトタイプ No.423 俗名:ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア———ギアス適正=1202、ギアス発現可能の可能性高いが『アーカーシャの剣』発動指数には至らず、失敗。ギアスキャンセラー適正<0.1、失敗】

 

【No.423:後天的ギアス適正増加手術後もギアス適正変動なし、手術失敗】

 

【No.423:術後知能指数上昇。またホルモン異常出現。男性体から女性体に変動する可能性あり】

 

【No.423:術後10年経過するもギアス適正変動なし。生殖器の男性体から女性体への完全な移行を確認。術後フォロー中止とする】

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 シュナイゼルからの嫌がらせとしか思えない仕事量がようやく終わったのは深夜を過ぎてからだった。

 結局今日もサービス残業をしたジェレミアに、明日は絶対に有休を取れと厳命しルルーシュは寝床についた。

 広々としたベッドに手足を広げて目を閉じる。

 

 やっと仕事が終わったから明日はナナリーと遊ぼう。流行りの映画を見るのも良いし、ままごとをするのもいい。

 でも騎士叙任式の準備もしないといけないか。騎士服のデザインを考えて注文しないと。 

 かっこいいデザインの服にしよう。沢山銀糸を使った、ナイトオブラウンズにも負けないぐらいのかっこいい服にしたい。ナイトメアのワンオフ機もロイドに頼んで開発して貰って。あとそれから、それから。

 

 散漫なことを考えながらうつらうつらと眠りに落ちた。 

 

 

 

 ようやく空が白み始めた頃、扉の外から聞こえてきた悲鳴がルルーシュを目覚めさせた。

 夢でも見たのかと暫くうとうととしていたが、再度鳴り響く悲鳴に血流が逆巻いて鼓動を鳴らした。扉の外から沢山の人の足音や怒号が聞こえる。

 ベッドから飛び降りて適当に身支度を整える。部屋を飛び出すルルーシュの姿を認めたメイドがその歩みを止めようとしたが、腕の間をすり抜けて走る。

 悲鳴を辿る様に追いかける。

 悲鳴はアリエス宮の中心を飾る階段の方から聞こえてきていた。

 人込みをかき分けるように階段に近寄る。階段の麓ではメイドが悲鳴を上げ、警備兵が叫んでいた。

 

 その中心でマリアンヌが死んでいた。

 

 階段の途中で倒れている姿は眠っているようにしか見えない。黒髪が赤い絨毯に広がり、綺麗だった。しかしドレスは一面が赤黒く変色しており、肌は蝋のように白い。

 

「嘘だ」

 

 ルルーシュは信じられなかった。

 マリアンヌが死ぬなんて。

 あの何もかもを見通すような恐ろしい女が死ぬなんてことがあるのか。

 マリアンヌの死体を前に呆然としたのは母の死という現実を許容できないのではなく、ただあの絶対的な強さを持った女傑が人並みに死ぬことができることへの驚きだった。

 たとえ銃弾を撃ち込まれても、首をはねられても、平気で生きていそうな化け物だと思っていた。

 しかし人は必ず死ぬ。たとえマリアンヌでも死ぬのだ。

 当然の真理だ。死なない人間なんてありえない。

 

 マリアンヌを囲む人々は皇帝に連絡をしたり、医療班を手配したりと忙しない。

 マリアンヌが死んだ以上ヴィ家の当主は自分なのだからその差配は自分がしなければならない。そう思い、現在周囲に指示を出している執事に声をかけようとした。

その瞬間唐突に気づいた。

 マリアンヌの腕の中にはナナリーがいた。

 顔は青白く、身じろぎ一つしない。最悪の想像が頭を過る。

 

「……ナナリー、嘘だっ」

 

 駆け寄ろうと身を捩ると、ようやく周囲はルルーシュの姿を認めたらしい。

 二つに割れた従業員の間を走る。階段を駆け下り、マリアンヌの腕の中で体を丸めているナナリーを揺り動かして、その手を握った。小さい手は冷たいが、死体程ではなかった。微かな体温を確かめる様に撫でさする。

 

「ナナリー、ナナリー」

「————お兄様?」

 

 瞬間ナナリーはルルーシュの手を潰さんばかりの力で握り返した。その力強さに嗚咽が漏れる程に安堵する。

 よかった。ナナリーは死んでいない。

 ナナリーは虚ろに瞳を見開いたまま、ルルーシュの声がした方へ頭を向けた。

 

「お兄様、どこにいるのですか?真っ暗で何も見えないのです」

「ナナリー、俺はここだよ」

「いえ、何も見えないのです。何も、」

 

 何も見えないのです。

 ナナリーの前で手を振る。

 ナナリーは何も見えないと繰り返し伝えた。

 

 

 

 



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5. 悲劇に酔っていたのだと、今なら思う

 母親が死んで、妹が盲目になった上歩行不可能な程の重傷を負ったから実の父親に見舞いに来て欲しいと言った。

 ルルーシュの要望はそれだけだった。しかしそれは間違っていた。

 そもそもあの男は見舞いに来て貰う程の価値ある人間では無かった。そのことにもっと早く気づかなかったことが失敗だった。

 

 

 王座の少し下。しかしオデュッセウスに次いで王座に近い席で、シュナイゼルはルルーシュを見下ろしていた。

「死んでおる、とは」

 また随分と理解不能な。シュナイゼルは小さく口の中で呟いた。

 

 酷い言い草だ。あの男こそ妄執のみに突き動かされた死体のようなものだ。

 唯一思想を共有できていたマリアンヌが死んでしまった以上、これから先あの男は幽鬼の様に地上を彷徨うしか無い。

 過ぎ去った栄光を眺めることしかできない老人と成り果てた様は憐れなのだろうが、権力と無駄に大きな声のせいでただ只管に迷惑だ。

 今後あの男の言う通り延々と戦域を広げてエリアを獲得し続けたところで、いつかは補給ラインが破綻する。

 世界征服を実現するより先にブリタニアが内部破綻する方が確実に早いだろう。 

 シャルル皇帝の器では全人類を平等に幸せにすることはできないことは明らかだ。

 しかし他に手段はあるかと問われれば、答えに窮してしまうが。

 

 それはともかく。檀上からルルーシュを見下ろす。

 ルルーシュは皇帝の威圧で膝を屈し、地面に這いつくばっていた。その姿には戦場で指揮を揮う時に見せた鬼気迫る迫力は微塵も無い。

 シャルルの言葉一つで売春宿へ売られたばかりの幼女のように項垂れる姿は、安っぽい悲劇のようで拍子抜けした。

 

 シャルルは死んでいると言っただけだ。

 その言葉には理屈も根拠も無い。親として、そして皇帝としての権力を振りかざした暴論でしかない。

 自分はルルーシュが死んでいるだなどと思わないし、これまでルルーシュに付き従って戦ってきた兵士達もそうだろう。特にあの騎士候補など、ルルーシュが侮辱されたとあれば相手が皇帝でも牙を剥く程にルルーシュに心酔している。

 医学的にも社会的にもまだ生きているルルーシュに、世界中でたった一人あの男だけが死んでいるなどと一方的に告げた。客観的に見ても、多数決的を取ったとしてもあの男の方が間違っており、ルルーシュは生きている。

 あんな皇帝の世迷い事にはいそうですねと本心から同意する奴などマリアンヌぐらいしかいなかった。そしてそのマリアンヌは死んだ。

 ただの父親程度に、存在を否定された程度のことで顔を蒼白にして涙を潤ませる必要性などルルーシュには無い。

 だというのにああして両足で立つことさえままならず這いつくばっているのは、ルルーシュがシャルルに負けたからだ。

 だから彼、いや彼女は敗北者として膝をつくことしかできない。

「————君はもっと強いと思っていたよ、ルルーシュ」

 実の親も兄弟も、全て薙ぎ倒して王道を行くような魔王になれるのではないかと思っていた。そうなったルルーシュはきっと面白かっただろう。

 

 しかし結局ルルーシュはその場から逃げ去り、シュナイゼルはルルーシュから興味を無くして皇帝の沙汰を待つべく玉座を見上げた。

 他人からのたった一言で敗北するような弱い人間に関わっている暇など、全人類を平等に幸福にしなければならないブリタニア宰相には無かったもので。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 マリアンヌのベッドで寝たいと言ったナナリーはいつもより大きなベッドに横たわっている。

 皇妃の部屋は皇族とは思えない程に簡素で、調度品は壁に飾られている銃剣ぐらいしかない。しかしベッドは最上級のもので、いつもより大きなベッドに体を沈み込ませたナナリーは楽しそうに微笑んでいた。

 王を迎える妃の寝具がどんな用途に使わているか知らない訳ではないが、ルルーシュはナナリーを止めなかった。これから先自由とは無縁の日々になることは自明であり、今この瞬間ナナリーが望んだことは全て叶えたかった。

「お兄様、日本はどんなところなのですか?」

「とても謙虚な人たちが住む国らしいよ、ナナリー。綺麗好きで、礼儀正しい人が多いんだとか。木造の古い建物も多く残っていると聞いたこともある」

「そうなのですか。楽しみですね、お兄様」

 ベッドの上で寝転ぶナナリーは幸せそうに微笑んでいる。ルルーシュは血の味がするほど唇を噛みしめた。

 

 いつも零れそうなほど大きく見開いていた瞳は、今は白い柔らかな瞼が覆い隠している。医師によると眼球にも神経にも医学的な問題は無く、精神的な要因による失明が最も高いとの診断だった。

 これまで蝶よ花よと可愛がられてきたナナリーにとって、銃声も血の臭いも耐え難い衝撃だったのだろう。それが実の母の血となれば尚更に違いない。

 長い睫毛に縁どられた三日月型の瞼を見やる。ナナリーの失明は痛ましいが、精神的なものであるというのならばナナリーは自分の意思で世界を見ることを止めたのだろう。

 直視するのも難しい現実があることをルルーシュは既に知っていた。 

「お兄様、ユフィ姉様やコゥ姉様も来て下さるの?」

「いや、彼女らは来ないよ。俺とナナリーだけで行くんだ」

「そうなのですか。二人だけでなんて、お母様に叱られないでしょうか」

 心配そうな顔で白いシーツを被ったナナリーは天使のように清廉だ。ルルーシュはその美しい姿を一分も歪めたくなくて、口を閉じるしかなかった。

 現実を受け止めるようになるまでには時間がかかる。今はこうして話もできるが、精神が不安定になるとナナリーは泣き叫び手あたり次第に物を投げて悲鳴を上げる。

 歩けないストレス、目が見えない不安、母親が目の前で死んでしまったことへの精神的ストレスがたった9歳の子供に耐えられる筈が無い。

「——————母上は叱らないよ。いってらっしゃいと言ってくれるさ」

「そうですね。お土産を買って帰ってあげないといけませんね」

 無邪気なナナリーを見ていると胸が内側から破裂するような痛みに苛まれる。痛くてたまらない。

 トランクを乱暴に閉める。容量限界まで詰め込んだトランクは軋みながら口を閉じた。

 お兄様、と首を傾げるナナリーになんと話しかければよいのか分からない。

 

 どうやってナナリーに告げればいいんだ。自分たちは日本に死にに行くんだと。開戦の引き金となるために、日本人に殺されるために行くんだと。

 もう自分たちに生きていて欲しいと思っている人間なんて、どこにもいないんだと。

 自分はいい。もういい。散々ヨーロッパで敵兵を殺してきた。それだけの罪は犯した。諦めはつく。

 でもどうしてナナリーが死なないといけないんだ。そして自分はどうやってそれをナナリーに伝えればいいんだ。

 そんな覚悟はできていなかった。

 

「ジェレミア卿も一緒に来て下さるのかしら」

「ジェレミアは来ない」

 ナナリーの呟きにトランクを殴る。金具が軋んだ。

「あいつは来させない。絶対に」

 何が何でもジェレミアは日本に連れて行ってはいけない。

 あの馬鹿は一言、付いてきて欲しいと頼めば付いて来るだろう。

 そのために士官学校を首席で卒業したという華々しい成果を捨てて、この3年間死に物狂いで得た戦歴を捨てて、ゴットバルト家次期当主の座を捨てて、ブリタニアの貴族という特権階級の座を捨てて、———家族を捨ててしまう。あいつにはまだ父親も母親も、妹もいる。

 でもあの馬鹿は自分がそう期待していると知れば、そうするだろう。

「……お兄様?」

 怯えたナナリーの顔が目に入り、ルルーシュは笑顔を作った。

 たとえ目が見えなくても、笑顔を作れば優しい声色になる。眼が見えない分聴力が鋭敏になったナナリーを騙すため、蕩けるような微笑みを維持しながらルルーシュはナナリーに毛布を被せた。

「大丈夫。旅行の支度が大変でイライラしているんだよ。でもナナリーの可愛い顔を見たら吹き飛んだ」

「そう、ですか。お兄様でもイライラすることがあるんですね」

「あるさ。シュナイゼル兄上にチェスで負けた時なんてすごくイライラする」

「でももう負けないんでしょう?」

「勿論。次は勝つ」

 柔らかいアッシュブロンドに指を絡める。ナナリーは真っ白いシーツから顔を出して微笑んだ。

「おやすみなさいお兄様」

「お休みナナリー。よい夢を」

 安らかに眠れるよう、額に小さくキスを落とした。

 こうして柔らかいベッドで寝れるのもあと数日だけだろう。

 

 

 トランクを引いてルルーシュはマリアンヌの部屋を出た。部屋を出たところでジェレミアが跪いていた。

 顔色が悪い。寝ていないのだろう。だがそれはルルーシュも同じだった。

 ルルーシュは残っていた膨大な仕事をジェレミアと二人で全て片付け、ジェレミアからシュナイゼルに報告させた。

 報告書には母親が死んで放心状態になったルルーシュに代わり、ジェレミア・ゴットバルトがほぼすべてを済ませたと記載しておいた。

 聡明なシュナイゼルであればあの紙1枚でルルーシュからの頼み事を察するに違いない。

「———婦女子の部屋の前で待機するのは、騎士としていかがなものかと思うがな」

「申し訳ございません」

 まあいいさ。もう見咎める者もいない。トランクを引きながら歩く。お持ちしますと言われたが断る。

 薄暗いアリエス宮には人気が無く、寒々しい。これまでは夜中であっても警備兵がいたものだが、もう警備する必要も無い皇族に構う貴族などこの馬鹿しかいない。

 メイドも皆解雇し新しい就職先を斡旋した。さらにめぼしい調度品は全て売り払って現金に換えてヨーロッパの隠し金庫に詰め込んだ。この数日はその作業で手一杯で、いつまでも周囲を飛び回るこの馬鹿な男に関わる暇が無かった。

 暇を作りたくなかったのだ。

 他者の心情や利益を無視して我儘を通そうとする感情がここまで悍ましいとは思わなかった。

「2日後、日本に向かうことになった」

「———承知致しました」

「何を承知したんだ」

 振り返る。自分よりも遥かに高い位置にある顔を見る。

 泣きそうに眉を震わせて病的に顔色を悪くした男を見て、不意に怒気が頂点に達した。既に沸点ギリギリだった怒りが、ナナリーの前だからと抑えていた怒りが、まるで自分を憐れむような男の視線に爆発した。

 腕を掴んで近くの部屋に引きずる。ナナリーに聞こえてはいけないという最低限の理性だった。

 部屋に連れ込み地面に倒す。ジェレミアは抵抗せず床に仰向けに横たわってルルーシュを見上げた。痛ましいものを見るようなその顔が憎かった。

「何を承知したんだ!何を!」

 髪をかきむしる。主がこんな無様な有様になってもまだ冷静なジェレミアが憎かった。

 

 全てが憎かった。何もかもが。皆死んでしまえと思った。

 

 マリアンヌが死んだ途端にヴィ家を捨てにかかった皇帝も、ヴィ家を助けようともしない兄弟達も、好機だとばかりに他の皇族に取り入ろうとする貴族達も、皆ぐちゃぐちゃに潰れて死んでしまえばいいんだ。

 目の前の男もそうだ。結局こいつもいなくなるんだ。それでいいんだ。そうした方がこの男は幸せだ。

 でも捨てられるのは嫌だった。感情が矛盾していた。

 悲しみと憎しみと怒りと焦りが混然となってルルーシュの中を荒れ狂っていた。その中心で甘ったれたルルーシュが叫ぶ。

 

 お願いだから捨てないで!大事にして!優しくして!殺さないで殺さないで殺さないで!

 

 死んでも口にできない言葉ばかりをぐるぐると喚き散らしている。

 いつものように労わりの籠った視線でルルーシュを見るジェレミアを見ていると、そんな言葉が口から漏れ出てしまいそうで、死んでしまいたくなる。

 

 ジェレミアの胸倉を掴む。ジェレミアは何も言わずに無様な醜態を晒す主の為すがままにされていた。

 オレンジ色の瞳を睨みつける。

「解雇だ!」

 破裂するように鳴り響くルルーシュの声に、ジェレミアはびくりと肩を震わせた。

「ルルーシュ様、それは」

「ヴィ家の当主、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの騎士候補でありながらマリアンヌ皇妃の暗殺を防げなかった失態は貴様の首程度では足りん程の罪過だ!しかし最早皇位継承権を持たない俺では正式に貴様を罰することが出来ん。この程度で済んで有難く思え!」

「ルルーシュ様お待ちください!私は!」

「貴様の処遇はシュナイゼル兄上に打診してやる。一兵卒からやり直すと良い、この役立たずが!」

 言い切った。口を開閉しながら、しかし何も言葉にしようとしないジェレミアから手を離して踵を返す。

 ジェレミアは寝転がったまま微動だにしなかった。呆けた顔のまま小さく、役立たず、と呟いた。

 

 トランクを引きずって部屋から出た。これでもう自分とナナリーの二人だけになる。

 これで良い。良いのだ。

 ルルーシュは元来た道を引き返してマリアンヌの部屋に戻った。やはり自分の部屋ではなくナナリーと一緒に寝よう。

 一人では寒い。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 夕暮れが気持ち悪い程に美しい。皇族とは思えない簡素な衣服に身を包んだルルーシュとナナリーは日本行きの飛行機の足元でタラップが下りるのを待っていた。

 見送りに来ていたのは兄弟達と、ノート・マクスウェル、ルーベン・アッシュフォード、そしてジェレミアだった。皇族の見送りにしてはあまりに人数が少ないが、皇帝の不興を買った兄妹となればこんなものだろう。むしろ盛大に見送られると腹立たしさが増すばかりだっただろうから、このくらい閑散としていた方が気が楽だと思った。

 飛行機の横に立ち並んだ彼らは一様に沈痛な顔を作っていた。

 ナナリーの車椅子のグリップを握り、ルルーシュは一人一人の顔を淡々と眺めた。仲の良かった者、悪かった者、喋ったことさえ殆ど無かった者もいる。

 シュナイゼルに視線を向ける。痛ましそうな顔をしたシュナイゼルは一度頷いた。その仕草でジェレミアの立場はシュナイゼルの下で守られると信じられた。

 

 シュナイゼルは合理的な思考回路しか持たない。特派に所属する騎士不足解消のためにも、ジェレミアを自身の配下に加える約束を違えることはないだろう。

 まず確実にジェレミアはシュナイゼル傘下の軍人、特派所属の騎士となる。成果を上げればシュナイゼルの選任騎士となることも夢ではない。シュナイゼルの選任騎士となれば、将来ナイトオブワンとなる可能性もある。

 

 そうなればブリタニア国内でも有数の権力者となる。下手な皇族より大きな権力と富を手に入れられる。

 それがジェレミアの幸せかは分からないが、少なくとも不幸ではないだろう。不幸であるより不幸でない方がいいに決まっている。リスクは避けるべきだ。

 だからこれが主君として、部下にできる最善の行動の筈だ。

 

 

 飛行機の腹の部分から鉄片が零れ落ちるようにゆっくりと下りる。ルルーシュはタラップの元へと車椅子を押した。

 喪服に身を包んだコーネリアが一歩歩み出た。

「ルルーシュ」

「コゥ姉上、なんでしょう」

「————恨むなよ、これも皇族の」

「恨みますよ」

 高い位置から見下しているコーネリアの瞳を見据えた。

 

 この女は何を甘いことをぬかしているのだろうか。

 

 敵国に売り払い死ぬように仕組んでおいて、一片の恨みも無く、これもブリタニアのためと喜んで自分たちが死ぬとでも思ったのだろうか。

 視線が合い、息を呑んで後ずさるコーネリアを冷ややかに睨みつける。マリアンヌが暗殺された日に警備担当であったコーネリアが責任を追及されずこうして安穏としているのも、ヴィ家を早々に見限り関係を絶ったためだ。

 

 その後ろに並ぶ数多くの兄妹たちも似たり寄ったり。顔は痛ましそうにしながら、その実自分たちに手を差し伸べた人物は一人としていない。

 表情を悲しく歪ませようと、心中では罪悪感を抱いていようと、何の意味も無い。

 行動に繋がらない感情などゴミ屑だ。そんなものは自分の振舞いを正当化する醜い言い訳以上の意味はない。存在する価値もない。

 コーネリアはユフィのためにヴィ家を切り捨て、自分を、ナナリーを見殺しにした。それが現実に起こった全てだ。

 だからルルーシュは絶対に許さない。

 皇帝のせいで、ブリタニアのせいでナナリーは死ぬかもしれない。

 だから皇帝もブリタニアも自分の敵だ。

 

 最早ただの敵でしかなくなった女を見上げ、ルルーシュは淡々と事実のみを告げた。

「死ぬまで恨みます。死んでもずっと、恨みます」

「————っ」

「ではこれで。さようなら、姉上」

「お姉さま、さようなら。お土産を買ってきますね。お母さまには内緒ですよ?」

 ふふ、と笑うナナリーを撫でる。

 コーネリアがどんな表情をしているか分からなかった。興味も無かった。

 

 タラップの下で車椅子を固定し、ナナリーを背負おうとしゃがんだ。しかしその前にジェレミアがナナリーを抱え上げた。

「止めろ、ジェレミア」

「しかし」

「————頼む、俺が背負いたいんだ」

 ジェレミアは泣きそうな顔をして、いや実際に泣きながらナナリーをルルーシュに背負わせた。

 膝が震える程に重い。まだ9歳のナナリーは屈強な軍人であるジェレミアにとっては軽々と両腕で抱え上げられる程度の重さだったのだろうが、12歳のルルーシュにとっては膝が震える程に重かった。

 小刻みに震えながらタラップを一つ一つ登っていく。背後からジェレミアが何度もしゃくりあげながら車椅子を抱えてタラップを登っている音が聞こえた。

 飛行機の椅子にナナリーを座らせる。ジェレミアがその隣に車椅子を置く。

「ありがとうジェレミア卿。助かった」

「いえ」

「今後もその忠義をブリタニアに捧げてくれるよう願っている」

「っ、いえ」

「ジェレミア」

 窘めるよう背中を叩いた。

 そうしなければそのままずっとここに立ち尽くしていそうな程に悲痛な顔をしていた。

「もう時間だ。降りろ、ジェレミア・ゴットバルト。貴公の役目は終わった」

 ジェレミアは項垂れ、首を振り、静かに飛行機から降りて行った。

 

 体をシートに沈める。小さな窓を覗き込むと、こちらを見上げるジェレミアに、項垂れたコーネリア、無表情のシュナイゼルが見下ろせた。鳴り響くエンジンの音と共に彼らの顔はすぐに遠ざかる。代わりに自室からよく眺めていた景色が視界いっぱいに広がった。

 整然としながらも騒々しいビル群に埋め尽くされたペンドラゴン。血管の様に国土を縦横無尽に走る道路には昼夜を問わず車が走り、様々な荷物や人を運んでいる。

 

 これぞブリタニア。光り輝く国。我がブリタニア。

 

 窓に顔を押し付けるも、光瞬く都市はぐんぐんと遠ざかり、やがて見えなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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騎士のかたち
6. 俺は弱くない


※ 性行為を示唆する表現があります。苦手な方は閲覧なさないようお願いします。

 

 

 長い階段を上りきると大きな日本家屋が見えた。瓦が屋根に乗せられ、縁側が横に貼り付いている。ブリタニア生まれブリタニア育ちの身にしてみれば、警備は大丈夫なのかと問いたくなる程に開放的な造りだ。

 

 階段を上りきった時点で既に体力を使い果たしていたが、手助けなど無い。汗だくになりながら震える両足を動かし、ナナリーを背負ったままその道を歩いた。

 道の左右をSPが守っているが、息を切らせて全身に汗をかいたルルーシュに視線を向ける者さえいない。

 荒く呼吸を繰り返しながら歩く。肌が日に焼けて痛い。汗のせいで視界も悪い。

汗で滑る両手でナナリーを何度か背負い直しながらもルルーシュは枢木家の前に立った。

「っ、はぁ、ナナリー、ついたよ」

「ありがとうございますお兄様。随分長い階段でしたが、大丈夫ですか?」

「大丈夫さナナリー。大したことないよ」

「そうですか。よかった」

 楽しそうに背中で笑う無邪気なナナリーに苦笑が滲む。

 

 無言でSPの一人が差し出した車椅子にナナリーを降ろす。軽くなった両手を振り回し、汗だくの顔をシャツで拭いた。日本の首相に会おうというのに無様な姿だ。

 しかし枢木ゲンブからすればブリタニアの皇族の身形など無様である程喜ばしいだろう。

 せめてと泥のついたズボンを払い髪を整える。

 息を整えた後に横開きの扉を開けると、豪華絢爛な玄関が現れた。

 

 陶磁器があちこちに置かれ、壁には絵画が何枚も吊り下がっている。床には細かい刺繍の施された絨毯が敷き詰められていて、視界一面の情報量が凄まじい。長くここにいると目が回りそうだ。

 それぞれの調度品のバランスや兼ね合いは全く考えず、とにかく豪勢さを最優先に考えた配置なのだろう。ブリタニアの華やかな皇宮に慣れているとはいえ、情報量で酔いそうになるほどの玄関は初めてだった。

 

 そのせいで絵画と壺に挟まれるように男性が1人立っていることに気づくまで時間を要した。

 男の容姿は平凡で、東京の歩行者天国を探せば3人か4人はいそうな顔をしている。この豪華絢爛な家の中にあっては気配が感じられない程に印象が薄い。こうして相まみえた瞬間でさえ、明日には忘れそうな顔だなと思う。

 冴えない顔立ちが、華やかな顔立ちに慣れているルルーシュにとっては逆に新鮮で、以前見たことがあると思い出された。枢木ゲンブの筆頭秘書だと記憶している。

 名前は確か、田中ハジメ。プロフィールを脳内で羅列する。

 田中は深々と頭を下げた。ルルーシュも日本式に深々とお辞儀した。

「いらっしゃいませルルーシュ殿下。ようこそ日本へお越し下さいました」

「ご歓待感謝致します田中さん。日本に来たのは初めてですが、とても美しい国ですね。水も緑もブリタニアより豊かで澄んでいるように見えます」

「……に、日本語がお上手なのですね」

 流暢な日本語を喋るルルーシュを田中は驚愕の顔で見下ろした。

「付け焼刃の勉強なので日本語の繊細なニュアンスはまだ理解できないことも多いです。しかし日常会話には困らない程度には学びました。言語の壁のせいで枢木首相、並びに日本人の皆さまのお手を煩わせる訳には参りませんから」

「それだけ喋ることができれば上出来ですよ。お話の通りルルーシュ殿下は聡明なのですね」

「いえ、私などまだまだです。ナナリーと共に日本で枢木首相の元より勉学に励むことが出来ればと思っております」

「———そうですか」

 田中は痛ましいものを見る目つきで車椅子に座り両目を閉じるナナリーとルルーシュを見やった。

 

 

 まずは中へと田中に案内され、ルルーシュはナナリーの車椅子を押して枢木邸の奥へと入る。

 外見は日本家屋だったが内装は和洋折衷で、ありとあらゆる文化が混在している。ただただ派手で権威を見せびらかすような内装は、この家の主である枢木の性格が乗り移っているようでげんなりとする。

 枢木は野心家で豪胆で頑固な男、と見せかけて、その実はただの臆病者だ。

 自身に自信が無いから相手に財力と権力を見せつけなければ、負けてしまいそうで怖いのだ。そのために他の物の力を借りて、権威を身に着けようと必死になる。古い絵画だったり、骨董品だったり、ブリタニアだったり。

 弱者を甚振り強者にへつらう、矜持の薄い男だ。でなければここまであからさまに人質を迎え入れて、さらに開戦の火蓋を切ることでブリタニアに恩を売ろうなどとは思いつくまい。

 

 両開きの扉の前で田中は止まった。

「枢木首相、ルルーシュ殿下とナナリー殿下がいらっしゃいました」

「入れ」

 威圧的な声にゆったりと背筋を伸ばす。

 開いた扉の向こうには深々と安楽椅子に腰かける中年男性がいた。

 容姿は特別優れているわけではない。かといって直視できない程の醜男でもない。腹部には脂肪がたっぷりと纏わりつき、肝臓が悪いのか眼球は黄色を帯びている。眼球の形が分かりそうなほどの金壺眼は部屋の明かりを反射して鈍く光っていた。

 枢木ゲンブは立ち上がりにこやかな笑みを浮かべた。ルルーシュも微笑み、深々と頭を下げる。

「ようこそいらっしゃいました、ルルーシュ殿下にナナリー殿下」

「この度はご歓待頂き誠にありがとうございます枢木首相」

「ありがとうございます、枢木首相」

「いやなに、異国間交流も大事ですからな。お若いお二人にはこの機会に是非日本の文化をよく学んでほしいものです」

 鷹揚に頷き枢木ゲンブはルルーシュとナナリーに椅子を勧めた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 相手の隙を伺いながら和やかに会話をする技術は会得済みだが、まだ慣れない日本語を駆使して日本と枢木首相を賛辞し続けるのは些か苦しい。

 数時間かけて枢木家の先祖から廊下に飾られていた悪趣味な壺まで、舌が引き攣る程に絶賛し尽くしたところでようやく満足した枢木ゲンブは、田中に命じてルルーシュとナナリーを2人の住居へと案内させた。

 

 田中は慣れた足取りで枢木家を歩く。枢木家に頻繁に出入りできる程には信頼されているのだろう。

 これからナナリーと共に暮らすだろう場所は本邸のすぐ隣にあった。

 

 そこに到着し、ルルーシュは溜息を吐いた。予想以上に枢木ゲンブは愚かだった。

 案内されたのは宿泊施設ではなくただの土蔵だった。物置にでも使用されていたのか、泥まみれで遠目から見てもあちこち崩れている。雨風をしのげるかどうかも危うい。電気も通っているか分からない。

 どうせ死ぬ皇子と皇女をどう扱っても問題ないとでも考えているのだろう。

 しかしもしブリタニアにこの仕打ちが知られれば、敗戦後に日本人が更に蔑まれる口実を与えることになると気づいているのだろうか。もしくは、自分がブリタニアに恩を売った後の日本には興味が無いのか。

 何れにせよ、一国の主とは思えない程に馬鹿だ。

「———お二人には今後、ここで暮らして頂きます」

「ええ。よい場所ですね。枢木首相には後ほどお礼に向かわせて頂きます」

 申し訳なさげな顔をする田中に微笑みかける。

 困惑した顔をしている田中を前に、ルルーシュは視線をナナリーに向けた。

「ナナリー、とても良い場所だよ。綺麗な建物だ」

「綺麗な建物……どんな外見なのでしょう」

「そうだね。壁はすごく真っ白だ。窓がたくさんついていて花柄の飾り窓になっているよ」

「そうなのですか。ユフィ姉さまの部屋のようなのですね」

「ああ。ユフィの部屋にそっくりだ。ちょっと狭いけど、俺とナナリー二人なら十分な広さだよ。案内して下さりありがとうございます田中さん」

「……いえ、っ」

 

 田中は歯を食いしばり、深々と頭を下げてその場を去った。

 

 もう警護もいない。ルルーシュとナナリー二人だけが薄汚れた土蔵の前に立ち尽くしている。

 爪が食い込む程手を握り締め、ルルーシュは首を振った。

「ナナリー、まず俺が入って様子を見てくるよ。ナナリーはここで待っていてくれるかな」

「いえ、私も一緒に、」

「もしかしたら車椅子が入れないくらいに物があるかもしれないからね。ちゃんと見てからじゃないと、車椅子がひっくり返ったりすると危ないだろう?」

「……そうですか。分かりました」

「ここから動かないように。ブリタニアへの悪感情を抱いている日本人もいるから。目の届かない所へは行かないで、」

 

 喋り終わる前に突如として土蔵の扉が勢いよく開いた。蹴り開けられた扉の向こうには一人の少年が仁王立ちで立ちはだかっていた。

「それはお前らブリタニアが悪いんだろう!」

 珍しい碧の眼に栗色の髪をした少年はルルーシュを睨みつけた。

「偉そうに!ここは俺の場所だったんだぞ!」

「君の?」

「そうだ!やっぱりブリタニア人って図々しいんだな。日本まで植民地にするつもりか!」

 少年は顔立ちこそ柔らかい作りをしていたが、表情と声色は明らかにルルーシュへ攻撃的だった。

 濃い肌色はアジア人だからというより、毎日太陽の下で活発に遊んでいるからなのだろう。しかし容姿は粗野ではなく、むしろアジア人独特の品があった。エメラルドを埋め込んだような美しい瞳の色に、その少年が枢木ゲンブの息子である枢木スザクだとすぐに分かった。

 そして容姿を裏切る品の無い言動から、生まれた瞬間から品格が求められるブリタニアの皇族とは違う、ただの凡俗な少年なのだとも察せられた。

 

 選挙で国の代表を決めるシステムを貶めるわけではない。しかし一般家庭から首相が輩出された場合、その子弟はただの一般人程度の教養しかないことになる。

 枢木家は日本の名門と聞いていたが、枢木スザクは出会った瞬間に「こいつは帝王学の何たるかも絶対に全く学んでいない」と確信できるほどに、全くの庶民だった。

 

 母親が庶民とはいえ、片手に満たない年齢から社交術を学ぶのが当然であったルルーシュからしてみれば、首相の嫡子の教養がこのレベルであるということは日本文化以上のカルチャーショックだった。

 これでは、たとえ幼年であっても貴族皇族には品格が求められるブリタニアでは侮られて当然だ。

 

 呆れるものの、相手は首相の息子であり礼儀は尽くさなければならない。さらにスザクは土蔵の前でふんぞり返っており微塵も動く気配が無い。

 ルルーシュは諦めて慣れつつある微笑みを浮かべた。

「枢木首相のご子息枢木スザク様ですね。この度は私共のためこの建物をお貸しいただき誠にありがとうございます」

「別に俺が貸すって決めた訳じゃない。父さんが勝手に、」

「それは失礼致しました。この建物は枢木スザク様が所有されていらっしゃるのですか。それでしたら、私共も枢木首相にこの建物を枢木スザク様にお返し下さるようお願いさせて頂きます」

「……は?」

「今回私達が日本へ留学することは事前に二国間で決められていたこと。その対応について枢木首相は全権をお持ちです。その枢木首相が我々に自身の家の一部を貸すと決められたのならば、それは日本の首相の威光を以て、そうならねばなりません」

 しかし、と続ける。

「元々この住居が枢木スザク様の持ち物であるというのならば、憲法第二十九条に定められているよう財産権が発生致します。公共の福祉に今回の件が適合するのかは判断致しかねますが、正当な補償が為されていないというのにスザク様からこの建物の所有権を取り上げる権利は私にはございません。スザク様が枢木首相へ陳情されたいとおっしゃるならば、当事者の一人として私も同行させて頂きます」

 

 要約すると、駄々をこねたことを父親にバラされたくなかったらさっさとそこをどけ、なのだが。

 

 枢木スザクは眉根を大きく顰めて声を張り上げた。

「そうやって理屈ばかりこねてブリタニアは卑怯なことばかりするんだな!」

「いえ、ただ私は枢木スザク様の要求を最大限尊重しようとしたまでです」

「嘘だ!」

「嘘ではございません。私が信じられないのならば、御父上に聞いてみて下さい」

 言葉にできない怒りが溜まっているのだろう、スザクはルルーシュを睨みつけながら怒りで震えていた。

「お前は嘘つきだ!どこに飾り窓があるっていうんだ!」

「っ止めろ!」

 頭に一瞬で血が上った。

 

 

 ルルーシュには皇子として相応しい誇り高さがあった。母親が庶民だと侮られても、日本人から劣悪な対応をされても微笑んで応対したのは偏にその誇り高さ故だった。礼儀正しく、優雅に、そして賢しく在ることがルルーシュの誇りだった。

 だからルルーシュは愚かだと思った人間はそもそも相手にしない。そのため、怒ることも無い。

 足元へ噛みついた蟻に本気で怒る象はいない。無視するか、踏み潰すかのどちらかだ。

 

 しかしナナリーに関してのことだけは、一瞬で怒りが沸点まで湧き上がる。

 誇りより大事な尊厳の全てがナナリーだ。せめて酷い生活であってもその心持だけは安らかに、せめてナナリーの純粋な精神だけはそのままで。

 そう思っていたというのに、スザクの一言はルルーシュの尊厳を傷つけた。

 ここまでの目に遭わせておきながら尊厳まで奪うのか。

 脳が真っ赤に染まる程の怒気がルルーシュを突き動かす。

 

 腕を振りかぶり、スザクに殴りかかった。しかし拳は宙を切り、腹部に鈍器がぶつかるような衝撃を受けて息を詰めた。

 視認もできない速度で躱され、腹を殴られたのだと気が付いたのは地面に這いつくばった後だった。

「どうだブリキ野郎め!日本人を舐めるな!」

 地べたに倒れたルルーシュの腹をスザクは蹴りつけた。ボールのようにルルーシュは地面を転がる。腸がせり上がって呼吸ができない。胃液が逆流して舌が焼ける。

 

 悔しい、悔しい。悔しい。悔しさで腹が煮える。

 ナナリーが傷つけられたと言うのに報復もままならない。

 自分とナナリーの尊厳を侮辱したこの少年が、高笑いしながら正論だと思い込んでいる暴論を振り翳しながら勝ち誇っているというのに立ち上がることもできない。

 腕力も権力もない自分は地べたに這いつくばり許しを請うことしかできない。そしてそれが現在の最適解だと理解していた。

 

 ルルーシュは一瞬躊躇した。ナナリーのためを思うなら、ナナリーをスザクが視界に入れる前に土に額を擦りつけて許しを請うべきだ。こんな暴力的な人間が足も動かず目も見えないナナリーに気づけば何をするか分からない。

 しかしルルーシュは誇り高かった。こんな野蛮人に頭を下げるなど死んでも出来るわけがない。

 腹部が千切れるような痛みと葛藤で、ルルーシュはスザクの足元に這いつくばったまま身動きが取れないでいた。

 

 

 ただ暴力に耐えていたルルーシュより先にナナリーが動いた。

 眼は見えなくとも、物音から兄が見知らぬ日本人から暴力を受けていることは察せられた。そして周囲に自分達以外の気配はない。

 生まれて初めて身近に感じる暴力は、全身が震える程に恐ろしかった。しかしもう自分達の味方はいないのだとナナリーは薄々察していた。

 

 長い長い階段を、兄が汗だくで自分を背負って登ってくれた。兄を誰も助けようとしなかった。だからもう、自分達は二人きりなのだろう。

 

 ナナリーは肘掛を握り締め、恐怖で震えながら声をだした。

「や、やめてください!!私にできることなら何でもしますから、どうかお兄様に暴力を振るわないでください!お願いします……お願いします!!」

 車椅子からずり落ちそうなほど勢いよく頭を下げたナナリーをスザクは視界に捉えた。ルルーシュは血の気が引いた。

 自分が躊躇したせいでナナリーが危険な目に遭っている。数秒前の自分を殺したくなった。誇りなんて自分の命より価値があるというだけで、ナナリーと比べればゴミ屑のようなものでしかないというのに。

 ルルーシュはスザクの足にすがりついた。

「お待ちください枢木スザク様!私の行動に妹は関係ございません!どうか、どうかご容赦を、どうか、」

 スザクはルルーシュを気にせずナナリーを見やる。さっき一瞬顔を見た時、両目を閉じているようだった。

 まさかと思いスザクは問いかけた。

「———お前、まさか目が見えないのか?」

「はい」

 ナナリーは閉ざされている両目がスザクによく見えるよう顔を上げた。幼い顔立ちをした少女は閉じた瞳で真っすぐにスザクを見上げている。

「だから、安心してください。私には何もできません。戦うことも、逃げることも」

 スザクは凛と顔を上げたまま恐怖で震えるナナリーを見やり、自身の足にすがりつくルルーシュを見下ろした。

「………じゃあ……」

 

 さっきの嘘は、妹のためだったのか。自身の秘密基地だった土蔵を見る。

 飾り窓どころかちゃんとした窓もない黒く汚れた土蔵。隣にそびえたつ自身の家を比べると汚く小さく、とても住めるような場所には思えない。

 

 

 スザクは正義感の強い子供だった。自分の正義は絶対なのだと心から信じていた。

 ブリタニア人は冷徹で、卑怯な奴らばっかりだ。だからブリタニアの皇子と皇女は、信じられないくらい我儘で、血も流れていない化け物みたいな奴らなんだ。友達も、学校の先生も、父親の仕事仲間もそうだと言っていた。だからスザクもそう信じた。

 だから土蔵を皇子と皇女が使うと聞いてて、正義感に動かされるままブリ鬼に正義の鉄槌を食らわしてやろうと待ち構えていたのだ。

 

 だがこれはどういうことだ。なんでこの二人はこんなに薄汚れた格好でいるんだ。どうして二人ともスザクに許しを請うているんだ。 

 

 改めて二人の子供を見る。ナナリーは柔らかくて長い栗色の髪をした可愛い女の子にしか見えない。学校にいれば噂になるぐらいに可愛い。手も足も細くて、折れてしまいそうなほどに儚い。

 

 そして地べたに這いつくばりながら妹をスザクから守ろうとするルルーシュは、同年代の子供とは思えないぐらいに綺麗だ。顔立ちは中性的で顔のパーツ一つ一つがいちいち美しい。髪は濡れた烏の羽のように青味を帯びていて艶やかしく、瞳は透明な菫色をしている。

 同級生どころかテレビで見る芸能人より遙かに、写真でしか知らない母親よりもずっと綺麗な人だ。

 こんなに綺麗なものをスザクは初めて見た。

 まるで女の子のように華奢なルルーシュの体躯は、スザクが蹴り飛ばした痛みに耐える様に土で汚れながら丸まっていた。

「っ、あ、」

 

 そういえば、確かに多くの人たちからブリタニアについての悪い話を聞いたが自身は何もブリタニアの被害に遭っていない。

 枢木の家は裕福で、戦争だの貿易だのと父親から愚痴は聞くものの食うに困る羽目になったことは無い。衣服や住むところに困ったこともない。勉強しろと口うるさく言われるが、剣道をやりたいと言ったら次の日には父の秘書が全て手続きを済ませて道場に通わせて貰えた。

 

 そもそも直接ブリタニア人に遭ったのもこれが初めてだ。

 

 そして初めて見たブリタニア人は、これまで見たどの人よりも、ただ只管に美しい。

 

 しかし自分が悪かったと気づきながらも、面と向かって謝ることが出来る程にスザクは大人ではなかった。

「ご、ごめんっ!」

 投げ捨てるように言い放ち、スザクは逃げ出した。地べたに這いつくばるルルーシュも、車椅子の上で恐怖に体を震わせるナナリーもそのままに、いつも全てが自分の思い通りになる家へと戻った。

 

 

 ルルーシュは野蛮人がいなくなったことに安堵し、立ち上がって体についた埃を払った。

「お兄様、大丈夫ですか?」

「勿論。平気だよナナリー」

「誰だったんですか?子供の声でしたけど……」

「多分、枢木スザク……枢木首相の子供だよ」

「まあ……そうなのですか」

 ナナリーは不安そうに眉を下げた。

 

 ここは枢木家の敷地内であり、勿論枢木スザクは非常に近い場所に住んでいる。これから遭遇することも多いだろう。その度に暴力を振るわれてはたとえ子供同士の喧嘩であっても死にかねない。

 

「大丈夫だよナナリー。今晩枢木首相に会うことになっているから、枢木スザクにはここに近寄らないよう言ってもらおう」

「そうですね。そうして下さいお兄様」

 微笑んだナナリーを頭を撫でる。お辞儀をしたせいで崩れた髪を直すと、ナナリーは笑みを深くした。

「それじゃあ中を見てくるから、ナナリーはそこにいるんだよ」

「分かりましたお兄様」

 扉を開けた土蔵の中から見える位置にナナリーが座る車椅子を置き、ルルーシュは薄汚い土蔵に入った。

 やることはいくらでもあった。掃除も、洗濯も、料理も、これからは自分でしないといけない。

 出来なければ死んでしまう。

 生き残らなければ。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 

「そうか。それは悪かったね」

「いえ。私共もスザク様に無断であの場所をお借りしたわけですから……しかしナナリーも怯えてしまいまして。どうしたものかと」

 

 贅を尽くした食事がテーブルに並んでいる。隣に座るナナリーの口元へ切った肉を運び、咀嚼が終われば次にスープを手に取る。小鳥のように食事をとるナナリーはとても可愛らしい。自分の食事はそっちのけでルルーシュはナナリーの介護をしていた。

 

「愚息はどうにも思慮が足りないところがあってね。申し訳ない、ナナリー皇女殿下」

「私は大丈夫です枢木首相。でもお兄様が怪我をされてしまって」

「そうだったのですか。それは大変申し訳ない」

「かすり傷ですから。平気ですよ」

 本当は酷く鬱血する程の傷なのだが、大ごとにすれば面倒になる。

 枢木ゲンブは申し訳なさそうに眉根を寄せ、スザクとは全く違う全体的に肉の薄いルルーシュの体躯を眺めた。

「ルルーシュ様はスザクと違い野山を駆け巡るような粗野な方ではありませんからな。どうか手当をさせて頂きたい」

「いえ、そんな」

「お兄様、そうされてはいかがでしょう」

 ナナリーは心配そうにルルーシュの顔を見上げた。

「スザクさんに殴られたとき酷い音がしました。ちゃんと診て貰うべきだと思います」

「———そうだな。じゃあそれまでの間、ここで待っててくれるか?」

「どうせですから今日はこちらに泊まられてはいかがでしょうか。部屋もすぐに用意させましょう」

 

 ぬけぬけと口を開くゲンブを冷ややかに見やる。何とも胡散臭い。

 ここに泊まれと言うのであれば、なぜあんなボロい土蔵に放り込んだというのか。

今更ブリタニアに遠慮をしているということもないだろう。思いつく理由は一つしかない。

 

 

 

 妻を亡くしてから恋人も愛人も持たない、愛妻家で厳格な首相というイメージが通っている枢木ゲンブだが、その性癖は褒められたものではない。

 若い女性が好みなのはほぼ全ての男性に共通しているのだろうが、枢木ゲンブはその対象年齢がいささか若すぎる。幼いと言っても良い。

 

 表沙汰になってはいないが、裏では色々とその性癖のせいで事件を起こしており、表沙汰になりかける度に揉み消して、権力と金で周囲を黙らせている。

 まさかとは思うが、まだ9歳のナナリーも、と疑ってしまう。

 しかし断るのも会話の流れからしておかしい。

 それにベッドどころかシーツさえないあんな土蔵にナナリーを寝かせるのは忍びない。

 

「—————突然お邪魔するなんて、ご迷惑ではありませんか?」

「いえいえ。無駄に広い家ですからね。使用人以外ではスザクと私しか住んでいませんから。部屋はいくらかあるのですよ」

 

 ならどうしてそちらの部屋に住まわせてくれないのだろう。

 嫌がらせにしては態度がおかしい。

 ナナリーの食事が終わり、ようやく自分の食事も終えたルルーシュを枢木ゲンブは急かすように立ち上がらせた。

「さあさあ、どうぞ。こちらへ」

 背中を押される。強引な様子はあまりに不自然だったが、自分より遙かに背丈が高く力も強い枢木ゲンブに逆らうことはできなかった。

 傷の手当だけしてもらってナナリーと同じ部屋で眠らせてもらえば大丈夫だろうか。

 シングルベッドでもいい。なんなら床でもいい。ナナリーと離れ離れになることが怖かった。

 もし枢木ゲンブが何もしなかったとしても、この家にはあの野蛮人の枢木スザクもいるのだ。もし自分が離れている間にあの野蛮人がナナリーになにかしたらと思うと心配で吐きそうだ。

「ナナリー、」

「ナナリー殿下はすぐにお部屋へお通ししますよ。ご心配なさらず」

「お兄様」

 心配そうな顔をするナナリーに、ルルーシュはできるだけ穏やな口調を作った。

「大丈夫だよナナリー。すぐに戻るから。いい子にしているんだよ」

「————はい、分かりました、お兄様」

 慣れない枢木邸では一人で身動きもままならないナナリーは、部屋から出ていく枢木ゲンブとルルーシュを見送ることしかできなかった。

 

 

 腕を取られ、ルルーシュは人形のように枢木ゲンブに運ばれた。

 この家の一番奥の部屋に引きずりこまれる。枢木ゲンブの私室らしかった。

 豪奢と言えば聞こえは良いが、調和のとれていない巨大なベッドと絵画、それに整然と並べられた賞状やトロフィーが何とも言えない気味の悪さを部屋全体に巻き散らかしている。

 枢木首相の妄執とでも呼べばよいのか。首相という肩書に相応しい才覚と実績があるのだと、自分自身に言い聞かせるような部屋にはいっそ憐れささえ感じた。

 実力の伴わない地位に就任することは周囲にとっても当人にとっても悲劇だ。

「全くスザクは困ったものです。こんな美しい方にそんなことをするなど」

「っ、いえ」

「では僭越ながら手当をさせて頂きますので、服を脱いでいただけますかな」

 頭の先から足の先まで、舐めるような視線で見られている。

 先ほどまで十人なみの容姿だと思っていた顔が酷く気持ち悪く歪んでいる。思わず鳥肌が立ち背後に後ずさった。しかし狭い部屋ではそう距離も取れない。

「湿布か塗り薬でもいただければ、自分で」

「脱いでいただけますかな?ルルーシュ殿下」

 

 瞳が腐った汚泥のような色をしている。

 枢木スザクの瞳はもっと綺麗で澄んでいた。ことここに至って、枢木スザクは母親似なのだろうとぼんやりと思った。

 震える指でシャツを脱ぎ、床に落とす。枢木ゲンブは上半身を剥き出しにしたルルーシュの紫色に変色した腹部を見やり、そしてその上へと視線を映して眼を見開いた。

 大股で近寄り、確かめるように両手でルルーシュの胸をまさぐる。行動の意味が分からない。ただただ気色が悪く身震いした。芋虫のように太い指が両胸に沈み、揉み解すように蠢く。

「っ、はは、」

「枢木首相、何を」

「あっははははは!なんだこれは!」

 まるでズダ袋のように軽々と持ち上られ、放り投げられた。投げられた先には大きなベッドがあった。

 ギシギシと軋むベッドの上で何度かバウンドする。枢木ゲンブはベッドに乗り上げルルーシュに覆い被さった。

「まさか女とは、貴様身代わりか?それともマリアンヌ皇妃が嘘をついていたのか?」

「嘘とはなんのことですか!?なんと無礼な!」

「貴様、女ではないか!何が皇子だ!」

 ぽかんと口を開ける。

 

 女。誰が?

 

 自分の体の下を見る。薄い胸に腹。あばらの浮いた肋骨。女らしさなど全くない。

 ルルーシュが思う女とはマリアンヌやコーネリアのような豊満な肉体を持つ、いかにも柔らかそうな体を持つ人々だ。

 こんな脂肪のついていない肉体のどこが女性だ。

 枢木ゲンブの頭がおかしいのだろうと判断し、ルルーシュは組み伏せられながらも身を捩った。

「何をおっしゃるのですか、枢木首相。私は男です。胸も無ければ柔らかくも無い」

「馬鹿だな、貴様は」

「は?」

 ゲンブはルルーシュのズボンを脱がせ、両足の間に体を捻じ込んだ。

「ここに穴が開いているのは女だけだ」

 ずるりと両足の間に指を這わせられる。

 そこを触られたのは初めてで、なんとも言えない違和感を感じた。

 自身の体と思えない感覚は、気持ち悪いという以前に膜を隔てたような現実味の無さだった。

 シーツの上で体を起こして自分の下半身を見下ろす。薄い腹についた臍の下、薄っすらと生えている陰毛。その下には豆粒のように小さい陰茎がある。その下をゲンブに弄られている。

 ゲンブは息を荒くしながらズボンの前を広げた。

「12歳か、そうか。いい年齢だ」

 大きく両足を広げられ、剥き出しになったゲンブの男根が腹に乗る。

「ひ、」

「この部屋は防音だ。いくらでも叫べばいい」

 自分の陰茎とは比べ物にならない大きさと色に身の毛がよだった。股間から臍まで届く程の大きさに、ピンク色でちんまりとした自分の陰茎が押し潰される。

「あ、」

 こわい。

 枢木ゲンブの指が自分の足に沈む。

 

 

 

 

 

 

 

 事が終わって、ルルーシュはベッドに倒れていた。あらぬところが痛い。シーツには赤黒い染みができている。

 枢木ゲンブはベッドに腰掛け煙草を吸っていた。

「この家に泊まりたい時には泊まれば良い。食事もベッドも容易しよう。お前の妹の分もな」

 無様に倒れている現状を許容できない。軋む体を動かす。

 髪を整え、シーツの上に座り込んだ。

 顔を両手で揉み解す。マリアンヌを思い出す。

 

 ルルーシュが思う限りで世界で最も美しい人はマリアンヌだ。あそこまで強くて美しい人はいない。あんな女になれば、きっとナナリーも自分自身も守れる。

 どうやって笑えばいいのだろう。脳裏でマリアンヌの笑みを思い浮かべた。

 口角を引き攣らないように上げて、目を細めて、しかし下品には見えないように口は閉じる。

 やや上向きにねだる様な角度で見上げて、甘い声で、しかし媚びない程に冷たい声で。

「えぇ。よろしくお願いいたします」

 振り向いた枢木ゲンブにルルーシュは艶然と笑みを浮かべた。その笑みは美女を見慣れた枢木ゲンブを放心させる程に美しかった。

 

 シーツを握り締める。

 泣く程のことじゃない。こんな奴に傷つけられるほど弱くなんてない。

 こんなことで泣くぐらいなら、俺は死んだ方がいい。

 

 

 

 

 

 

 



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7. 一般的な日本人というものが未だによく分からない

 日本に来てから1週間になる。予想以上にブリタニアに対しての日本人の敵意は強かった。

 罵倒されるのは当たり前。道を歩いていれば唾を吐きかけられ、ゴミを投げつけ、理不尽な理由で殴られるのも日常になっていた。

 隙を見せた方が悪いのだと言わんばかりに容赦の無い暴行を加える日本の市民は、その行動が善か悪かは置いておいて、正視に耐えられない程に醜い。何をしていようとも、自身が絶対の正義だと思い込んでいる人間程に悍ましいものはない。それはとどのつまり他人への容赦が無く、自分本位であるだけなのだから。

 そう考えると目の前の少年は以前に対面した時より随分とマシな容姿になった。

 

 

「ごめんなさい」

 土蔵の前で貢物として持ってきた大量の野菜や調味料を前にスザクは正座していた。

 その前にはルルーシュが仁王立ちで立ち塞がっている。

「は?申し訳ございませんスザク様。ブリタニア人は日本人と違ってあまり耳が良くないのです。もっと大きな声で言っていただかないと聞こえませんね」

「ごめんなさい!」

「ほう。腹を殴って地面に這いつくばらせた挙句蹴り飛ばしておいて、ごめんなさいの一言で済むと思っておられるとは。日本人はとても心優しい民族なのですね」

「ごめんなさい!反省しています!」

「言葉でごめんなさいと言うことはいくらでもできますよね。行動で誠意を見せて頂かないと。こちらも許したくとも建前がございますからね」

「じゃあどうすればいいんだよ!」

 うがーと頭をかくスザクをルルーシュは鼻で笑った。

変わらず口は悪いが、知性の無い野蛮人から短絡的な野蛮人ぐらいにはランクアップしてやってもよい。

 

 一度敵だと思った相手に謝罪するのは難しい。男であれば尚更だ。さらにスザクは名家の出身であり、自分の非を簡単に認めるような性格でないことは容易に分かる。

 しかしスザクは1週間かけて、相手がブリタニア人であろうと一方的な暴行を加えたことは悪いことだったと判断し、悪いことをしたのならば謝らなくてはいけないと考え、実際に謝罪にきた。その勇気と行動力は評価しなくてはならない。

 

 日本で1週間過ごすと、スザクのように「ブリタニア人だから」と暴力を揮う人間は少なくないことに嫌でも気づく。スザクは子供だ。それも自分のように社会に晒されていない、まっさらな子供でしかない。周囲の人間の影響を、大人では想像できない程に受けるのもしょうがないことだ。

 

 しかしスザクは考え、周囲の影響を跳ねのけてこうして謝罪に来た。

 ルルーシュはスザクに対しての怒りがやや鎮火するのを感じた。

 

「———許してほしければ、ここに毎日新聞を持って来て下さい」

「新聞?」

「そうです。あとラジオかテレビもあればいいですね」

「新聞はどうせ父さんが読んだら捨てちゃうし。ラジオなら使ってないのがあるけど」

「それでいいです」

 満足気にルルーシュは頷き、貢物として献上された野菜に果物、調味料を眺める。両腕に抱えられない程段ボールに詰め込まれた大量の野菜を、さてどうやって持って入ろうかと悩む。

 するとスザクがおずおずと口を開いた。

「あの、よかったら持とうか?」

「いえ大丈夫です」

「でも結構重いよ」

「この程度なら問題ないです」

 野菜が入った段ボールを両腕に抱える。そのまま両足で踏ん張る。

 段ボールは地面から3cmほど浮き、2秒後に落下した。そのままぷるぷると震える。筋肉が痛い。

「………やっぱり持とうか」

「煩い!」

「持つよ、ルルーシュ見るからに貧弱だもん」

 

 貧弱。

 面と向かって言われた言葉に衝撃を受けてルルーシュはそのまま地面に沈んだ。

 

「貧弱、貧弱だと……そりゃあビスマルクやジェレミアと比べれば筋力は無かったが、でもあれは大人と比べたからで、同年代と比べれは俺はそんなに貧弱ではない……筈だ。そうだこの野蛮人が規格外に逞しいだけで、俺は平均的な筈だ……」

「ちょ、野蛮人って何!?」

「聞き間違いでございます。お気になさらずスザク様。そしてそれを置いたらさっさとお帰りになって下さいませこんなところに入り浸ってはお父様も心配されますよさあさあさあ」

 軽々と持ち上げた段ボールを土蔵に運び入れたスザクは、急き立てられるようにルルーシュから外へと引っ張りだされそうになった。

「何だよ!せっかく野菜とか果物とか調味料とか持ってきたのに!」

「それは本当に感謝しております」

 これは本当だ。

 

 ゴミ捨て場からフライパンや鍋、それに食器やガスコンロを拾うことはできたが、肝心の調味料が無ければ食べられるものは作れない。

 多少の日本円を持ってきてはいるが、そもそもブリタニア人が日本人が営むスーパーで買い物をすること自体が困難を極める。店の入口に立った瞬間に金を盗られた挙句、石を投げつけられるのがオチだ。

 森で山菜を取って食べてはいるが、このまま味が無いものを延々と食べ続けるのは精神的にも良くない。さらに塩分や糖分が安定して摂取できないのは死活問題だ。

 スザクが台所からくすねた調味料は二人にとり貴重なものだった。

 

「お兄様、スザク様をあまり虐めないでください」

 スザクにも聞き取りやすいようナナリーはゆっくりと一単語ずつ分けて喋った。

 首を傾げるスザクが理解していないことを察してルルーシュが日本語に訳すと、突如としてスザクは得意げに胸を反らした。

「ほらナナリーもそう言ってるんだから!」

「ナナリーは優しいからそう言っているだけだ!スザク様は日本人らしく少しは謙虚になられてはいかがですか!?」

「だから謙虚に謝りに来たんじゃないか!」

「それは謙虚じゃない!当然の誠意だ!」

 喧嘩のようなやりとりをする二人をナナリーはくすくす笑いながら見ていた。

 

 これまで年上の貴族や兄弟に囲まれていたルルーシュが、こうして同年代の少年と対等に話しているところを見るのは初めてだった。それなりに仲良くしているのを見ると相性が悪いわけではないのだろう。

 初対面はとても怖かったスザクだが、こうして話してみると元気いっぱいな優しい人だ。

 

 やっぱりユフィ姉さまが言っていた通り、話し合えば人種に関係なく誰でも仲良くなれる。

 話し合う機会さえ作れば、戦争なんて起こらないのだ。

 

 ナナリーの仲裁でスザクを追い出すことを諦めたルルーシュは、段ボールから調味料だけを取り分けて料理するスペースに持って行く。

 着々と土蔵に物を増やしているルルーシュにスザクはむくれて頬を膨らませた。

「なんだよ。毎日枢木の家でご飯を食べればいいのに。父さんもそうしていいって言ってたし」

「あまり枢木家に面倒をおかけするわけにも参りません。できる限りは自活していきたいと思っているのです」

「別にご飯ぐらい面倒でもないよ」

「———気分の問題です。お気になさらず」

「……他に何かやることある?」

「いえ、大丈夫です」

「いいよ。暇だし。やるよ」

「それよりスザク様はお勉強なされた方が良いと思いますが。特にブリタニア語を」

「なんだよ」

「ナナリーと話がしたいのなら、努力するべきではないかと申し上げたまでです」

 日本語を流暢に話すルルーシュは、未だにナナリーとちゃんと話もできないスザクを鼻で笑った。

 

 日本はブリタニア語の教育が進んでいないと聞いていたが、スザクのブリタニア語能力は予想以上の有様だった。もしかしたらスザクが日本人の平均より馬鹿なだけかもしれないが、それにしても日常会話レベルでさえまともに喋れない有様は首相の子供とは思えない程に酷い。

 このままではスザクがブリタニア語を理解できるようになる前にナナリーが日本語をマスターする方が早いだろう。

 

「父さんみたいなこと言うなよ」

 段ボールに詰めた野菜を一つ一つ取り出す。

 足の速い野菜はすぐ裏の川に浸ける。塩漬けにできるものはすぐにしなければ、明日には腐ってしまうだろう。

 野菜を切って、塩をまぶして保存する。今日食べられるものだけはすぐに調理した。

「何作るの?」

「野菜スープです」

「肉は?」

「スザク様がお肉を買って来て下されば、お肉を入れた料理を作りましょう」

 オーブンどころかレンジもないここではレパートリーに限りがあるが、それでも成長期のナナリーにタンパク質は必要だ。3日に1度は枢木家の本邸に泊まっているため、その時にちゃんとした食事は摂取できているが、十分とは言えない。

 ここで肉が調達できればいいのだが、野生の獣を捕獲するには罠が必要になる。道具を作るにしても時間がかかる。スザクが買って持って来てくれるのならばそれが最も効率が良い。

「スザク様、明日私の代わりに買い物に行っては下さりませんか。もちろんお金はお支払いします」

「ルルーシュが行けばいいだろ」

「ブリタニア人が日本人の前に顔を出すと面倒事が起きるでしょう。ナナリーを一人にしておくのも心配ですし。お釣りは差し上げますから」

「いいけど……条件がある」

 スザクはルルーシュを睨みつけた。枢木スザクからの条件という言葉に野菜を切る手を止めて澄んだ翠眼を睨み返す。

 

 短絡的な子供だからと調子に乗って要望を言い過ぎたか。小出しに少しずつ要求していくべきだった。

 舌打ちをして立ち上がったスザクを見上げる。裏手で包丁を握り締めた。

 

 スザクは突き刺すようにルルーシュを指さした。

「その口調、止めろ!」

「———その口調とは?」

「その偉そうな喋り方!」

 胸を張って宣言したスザクに溜息を吐いた。

 これまで周囲にこんなタイプの人間はいなかったため調子が狂う。スザクの行動は理解不能なスザクマイルールに則っているせいで全く予測できない。

「……偉そうとは心外な。私はあくまで枢木ゲンブ様のご子息である枢木スザク様に敬意を表して敬語を使っているまででございます」

 慇懃無礼に頭を下げる。とりあえず馬鹿にされていることは理解したようでスザクはさらにむくれた。

「父さんは関係ないだろ!」

「私共は枢木ゲンブ様に保護されている立場ですので」

「じゃあ命令だ!敬語禁止!」

 ふんぞり返るスザクに、面倒くさい男だなと評価を下す。

 しかしこの程度で明日から買い出しに行ってくれるというのなら安いものだ。包丁を握り締めた手から力が抜けた。

「分かった、スザク」

「それでいいんだ!」

 偉そうな態度に、こいつは謝罪にやってきたのではないかと首を傾げた。

 

 

 

 

 

 夜になり、本邸でナナリーと食事をとる。スザク、ルルーシュ、ナナリー、そして枢木ゲンブと4人で食べる夕食は和気あいあいとまではいかないが、悪い雰囲気ではなかった。

 枢木ゲンブは滅多に口を開かないが、ぽつぽつと仕事の話をしたり、他愛ない質問を子供たちにすることもある。

 厳格な父の前ではスザクも大人しくなるようで、昼間のジャイアニズムは鳴りを潜め、できるだけ行儀よく食事をしようと姿勢を正して箸を使っている。

昼間のガキ大将ぶりを既に知っているルルーシュからしてみれば、頑張って食事の作法を守りつつ食事をする姿は父親に認めてもらおうと必死なのがあからさまで微笑ましい。

「ルルーシュとナナリーが来てから、父さんと食事をする回数が増えたんだ。これまでは仕事が忙しいからって一緒に食べられなくて」

 楽し気に話すスザクにルルーシュは笑みを返した。

 ゲンブは表情を変えずに黙って食事をするのみだったが、それでも会う回数自体が少ない父親とこうして会えるのはスザクにとり大切な機会なのだろう。

 

 食事が終わり、スザクと一緒に枢木家本邸の一室にナナリーを送る。

 スザクは小脇に絵本を挟みながら、既に慣れた手つきで車椅子を押した。

「お兄様。今日も枢木首相とお話ですか?」

「ああ。すまないなナナリー」

「いえ、私は大丈夫です。スザクさんが今日は日本の絵本を読んでくれるそうなので」

「……俺はブリタニア語の勉強ができるし、ナナリーは日本語の勉強ができるだろうから」

 でも、とブリタニア語と日本語の絵本を脇に抱えたスザクは気に入らないという目つきでルルーシュを見やった。

「そうむくれるなスザク。ブリタニアの動向が日本に大きな影響を与えていることは知っているだろう。俺はブリタニアの皇子として、首相と話があるんだ」

「でも父さんは俺に仕事の話なんてしてくれないのに…」

「お前はまだ子供だからな」

「ルルーシュは俺と同い年だろ!」

「俺は9歳から軍務に携わっていた。さらにブリタニアにいたころ付いていた家庭教師から大学卒業レベル以上の学力はあると認定されている。お前はまだ義務教育期間内。成績は中の下。以上」

 鼻で笑う。スザクはさらに顔をむくれさせた。

「ふん、いいさ!今日はナナリーとブリタニア語の勉強をするんだから!行くよナナリー」

「お願いしますスザクさん。お兄様、枢木首相に本日も泊めて下さったお礼をお伝えください」

「勿論伝えておくよナナリー。おやすみ」

「おやすみなさい、お兄様」

 ドアが閉まる。

ルルーシュは一度深呼吸をした後、バスルームに向かった。

 

 

 

 枢木邸内をふらふらとうろつく。事態の発覚を恐れたゲンブによって警備兵が退去されたため、ルルーシュを止める者はいない。

 首相の住居たる枢木邸には強い外部からアクセス制限が敷かれている。しかし枢木邸内であればシステム介入は容易だ。端末が設置されている適当な部屋に入り、起動させた。光る画面を前にキーボードを叩く。

 数分で到着したシステムの中心部にこっそりと入り込み、簡単な仕掛けを施した。本当に単純な仕掛けだ。

 使う時が来るとは限らないが、しかし保険はある方が良い。

 ルルーシュは端末から全ての証拠を抹消し、キーボードから扉まで全ての指紋を消して部屋を出た。

 

 そのままの足でシャワールームに向かい、熱いシャワーを浴びる。全身を洗い流して汚れを全て落とした。最後に肌が白く見えるよう冷水を浴びて、バスルームから出てよく水分を拭きとる。

 脱衣所の姿見の前に立つ。

 まだ未成熟な裸体を映して、網膜に擦り付けるように眺めた。恥などない。

 

 これは戦争だ。自分と枢木ゲンブの、1対1の戦争だ。であれば、結果が全ての筈だ。

 最後に勝つために手段は選ぶ必要が無い。選ぶ気も無い。

 

 どうすれば美しく見えるか。表情の変化、首の角度、腕の動かし方から歩き方までシュミレーションを繰り返す。

 目の前に立つ女とも少女とも少年とも言い難い外見の生物が、どうやったらもっと美しく見えるだろうか思考の全てを使って考える。

 そうやって考えていると体が物質のように思えてくる。つまり体は道具なのだ。拳銃と同じだ。

 より無駄なく賢く使った方が勝つ。

「よしっ」

 頬を両手で張り、気合を入れて枢木ゲンブの部屋に向かう。足取りはランウェイのように軽やかに。

 

 

 

 これで3回目になる。慣れたとは言えないが、コツは掴んできた。

 枢木家本邸の最も奥にある部屋はいつも薄暗い。扉をノックすると「入れ」と不機嫌そうな低い声がした。別に不機嫌な訳ではなく、この男は常時不機嫌そうな態度をしている。これでは部下も大変だろう。

 扉を開けて中に入る。

 部屋の中は本と煙草の匂いが籠っていて、あまり長居すると苔でも生えてきそうな程に古臭い。ゲンブはベッドに座っていた。手招きされて、薄いシャツとズボン一枚の恰好でその隣に腰を下ろす。上等なベッドは深く沈み込んだ。

「スザクがお前のことを友達だと言っていたな」

 隣に座った瞬間に肩を抱かれた。馴れ馴れしい態度は生理的な不快感を齎す。

 

 一度抱いた女は自分のものだと思っているのだろうか。いい年をして、閨の作法も知らないと見える。

 首相というからにはそれなりの政治的手腕はあるのだろうが、女性の扱いに関しては下手なのだろう。経験が無いため比較対象がおらず、評価は難しいが、少なくとも女が好む男ではない。女を所有物のように軽々と扱う態度はいっそ呆れかえる程傲慢に過ぎる。

 

 嘲笑みはそのままに、深々と頭を下げた。

「畏れ多いことにございます」

「お前を男だと思っているだろうに、随分と誑かしたものだ」

「私は今夜枢木ゲンブ様のためにここに来たと言うのに、随分な仰りようですね」

 悲しいです。ゲンブの膝に倒れこむ。

 単純なところは親子で似たらしい。殊勝な態度に気を良くしたゲンブは服を脱がせにかかった。シャツとズボンだけの服は簡単に脱げる。

 

 そのまま下着も脱がされ、裸になったルルーシュは白磁の肌を薄暗い照明に晒して枢木ゲンブをゆったりと見上げた。その仕草はとても子供のものではなく、熟練の娼婦のように艶めかしい。しかし小さな胸や骨ばった肢体は女と形容するにはあまりに幼い。

 

 大人でも子供でもなく、男でも女でもない。曖昧で、しかしとてつもなく美しい生き物が自分だけを視界に入れている感覚は圧倒的な征服感を枢木ゲンブに齎した。

 思わずルルーシュに手を伸ばそうとする枢木ゲンブの額に、ルルーシュは指を押し当てた。

 訝し気な顔をするゲンブにうっそりと微笑む。

「ゲンブ様、私、布団が欲しいんです」

「布団?」

「ええ。土蔵の床で寝るのは酷ですから」

「ならば毎晩ここで寝ればよかろう」

 額から汗を落としながら枢木ゲンブは縋るようにルルーシュの腕を取った。しかしするりと逃げ出しベッドの端に腰をかける。

「毎晩なんて、飽きてしまうでしょう。私も飽きるかもしれませんし」

 呆れたとばかりに視線をゲンブから逸らす。あらかさまに機嫌を損ねた様子にゲンブは焦った。

「飽きる?私に?そうなればお前も妹もどうなるかっ」

「飽きるものは飽きます。男が何をしようとも、女は飽きたらなんでも捨ててしまう冷たい生き物ですから」 

 

 すぐに女を脅かすような男は特に、ねえ?

 

 視野の端に入ったかと思えば、すぐに興味なさげに視線が逃げる。慌てる中年男をくすくすと笑いながらルルーシュはベッドから飛び降りて素っ裸のままステップを踏んだ。

 確固とした技術に裏打ちされたダンスの足取りでありながら、どことなくあどけない。

 何も着ておらず、観客など一人しかいない薄暗く狭い部屋の中にあって、しかしルルーシュはどこまでも優雅だった。

 音楽も無いというのに乱れることなくリズムを奏でるルルーシュを眺めていると、ゲンブは突如として不安に襲われた。

 

 この生き物はもしかしたら自分を見捨てるかもしれない。

 

 現状から考えると自分がルルーシュを見捨てることはできても、逆は絶対に不可能だと分かってはいる。

 自分に見捨てられては日本にこの子供の味方などいない。逃げ出しても捕まえるのは容易だ。

 子供がたった二人、それも一人は盲目で歩けない。車椅子を押しながら逃げ切ることなどできるわけがない。

 見つけ次第殺してしまえば、当初の予定通り自分は貴族としてブリタニアに迎え入れられる。そうなればブリタニアの一貴族として老後は安泰に過ごせる。

 

 その筈だ。しかし。

 

 男性パートと女性パートを交互に踊るルルーシュを眺める。ゆったりとした足さばきは水遊びに興じる子供のようだが、足先が舐めるように床を滑る様子は男を誘っているように見えた。

 たまに燃えるような熱い視線をこちらに向けて、しかし暫くすると熱は冷め、何ともなさげに逸れる。その視線の一つで年老い始めている体が若い頃のように沸騰したり、恐怖で死体のように冷えたりと落ち着かない。

 

 もしこの生き物が自分を見捨てたとして、気に掛ける価値も無いゴミ屑だと判断したとして、二度とその瞳に映らなくなってしまったらどうしよう。

 

 全身の血液が一気に流れ落ちる感覚がした。ルルーシュが躍るステップに合わせて床が鳴る音だけが鮮明に聞こえる。その想像は妻が死んだときよりも恐ろしかった。

 

 ルルーシュは腕に抱いただけで艶めかしく動き、交わらなくとも零した吐息一つで男を満足させてしまう。

 交わればつい先日まで処女だったとは思えない程に感じ入る。その情事は極上の娼婦にも負けない程に官能的。

 しかし手酷く抱いて女を叩き込んだというのに、澄んだ瞳に幼い体躯は処女だった時と同じく清廉なままで、組み敷けば天使を犯しているような背徳感が支配欲を齎す。

 あの子供を犯した情景を思い出す度に、体から活力が迸り生きる気力に満ちてくるのだから不思議だ。

 そうすると、更に欲が蠢いて来る。

 あの美しい生き物をどうしても自分のものにしたい。いや、あれは自分のモノでなくてはならない。

 

 ゲンブはある種の義務感に駆られていた。それは性欲や征服欲に塗れた、つまりは私欲だったのだが、しかし枢木ゲンブにとっては道理に叶った感覚だった。

 何故ならあの生き物はブリタニアから日本に送られた生贄であり、であればそれは自分の所有物であったのだ。それが他の男のモノになるなどあってはならないことだった。

 その欲が叶うのならば些細な願い事ぐらい叶えてやっても良い。

 そうだ。ブリタニアは戦争の切っ掛けにするために皇族を殺せと言ってきただけだ。ならばナナリーだけ殺しても問題は無い筈だ。

 

 ルルーシュは自分の妻にしてやろう。ブリタニアの皇族の夫になればエリアの総督ぐらいは任せて貰えるかもしれない。そうすれば首相の役職名が総督になるだけで、実質的に何も変わらない。日本国民も、ブリタニアの支配圏に入ることになったとしても実生活が何も変わらなければ反発は少ないだろう。

 反発が少なければ衛星エリアに格上げされるのも早い筈。そうすれば温和的な統治が可能になる。

 日本にとってもブリタニアにとっても、それが一番良い選択だ。

 そうだ。

 私は間違っていないんだ。

 

 ステップを緩やかに踏みながら、ルルーシュは弾むように喋り続けた。

「毛布も欲しいですね。柔らかくて手触りが良いものがいいです」

「分かった。送らせよう」

「それに服も欲しいです。こんな安物のシャツばかりでは、恥ずかしくて枢木首相の所に来られません」

「分かった。どんな服が欲しい?」

「ナナリーの分も欲しいです。あまりじゃらじゃらと飾りのついたものは好みじゃないので、シンプルなものが欲しいです」

「分かった。適当に見繕おう」

 だからそれを着て、ここに来なさい。

 命令形とは思えない程に情けない口調だった。

 ルルーシュは笑みを深くして、返事代わりに枢木ゲンブに腕を伸ばした。

 

 その瞬間から意識が遠のく。何も感じない。麻酔でもかけられたようだ。触られている感覚、舐められている感覚、噛まれている感覚はある。しかし現実と直結しない。空中に浮遊している自分が淡々と、ああレイプされているな、と判断している。

 しかし何も感じないからどうでもいい。

 俺は勝ったのだ。

 

 これで布団が貰える。体力のないナナリーがあんなシーツも無いような場所で過ごすのは無理だ。布団があれば体が冷えるのも防げる。

 衣服があれば感染症の罹患も防げる。衛生面はきちんとしておかないと夏場は怖い。手軽に抗菌薬も手に入れられないような現状では、免疫が弱いナナリーでは生死に関わる。

 次は医薬品でもねだろう。そう思いながら自分の体の上で憐れに蠢く肉の塊を眺めた。

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 次の日、スザクは約束通り肉を買ってきた。

 それもなぜか高いヒレ肉を。

 調理台(段ボール箱&カセットコンロ)の前で仁王立ちになる。レジ袋を脇に置いてスザクはしょんぼりと俯いていた。ナナリーは今朝家に運び込まれた布団の上に転がって手触りを楽しんでいる。

「俺は100g98円の豚バラを買ってこいと言った筈だが」

「————この前テレビでサイコロステーキってやってたんだけど」

「それで?」

「それが食べたくて、つい」

 顔面をグーで殴ろうとしたらひらりと躱された。無駄に身体能力だけは高い奴だ。

「ちっ、躱すなスザク」

「いやいきなり殴られたら普通避けるよ!」

「そうですよお兄様。せっかく買ってきてくれたのですから。まずは話し合いましょう?」

 枢木邸で絵本の読み聞かせをしている内にスザクと仲良くなったらしいナナリーは、じゃれているようにも見える兄とスザクにくすくすと笑っていた。

 ナナリーに懐かれ始めているスザクに苛立ちを増しながらも、ルルーシュは拳をおさめた。その代りに舌打ちを零す。

「全く。馬鹿かお前は」

「なんでだよ!」

「まずテレビで見たような店のサイコロステーキが豚肉な訳があるまい!ほぼ確実に牛肉だ!もし豚肉であったとしてもこんなスーパーで買えるような肉で作っている訳が無い!そしてソースはどうするんだ!グレイビーソースにするにしても赤ワインが無ければまず無理だ!何より!」

 ブロック肉を段ボール箱に叩き付ける。

「こんな量ではナナリーの分しか作れないだろうがぁあ!!」

 豚ヒレ肉 95g(398円/100g)

 ちんまりとした量が調理台の上に載っている。あ、とスザクは口を抑えた。

「しまった、とにかく高い肉を買えば諦めて料理してもらえるとしか考えてなくて量を忘れてた!」

「ほんっとうに自己中心的な糞ガキだなお前!ある意味大物だよ!将来的に人の頭を踏みつけて土でも食べさせそうな奴だよ!」

「………それって褒めてる?」

「貶してるんだよ野蛮人!」

 枢木ゲンブといい、どうして自分が出会う日本人は自分のことしか考えない馬鹿ばかりなのだろうか。

 日本人は謙虚で協調性がある人々だと聞いていたのに、日本に来てから出会った人間が軒並み個人主義過ぎる。例外は枢木ゲンブの秘書の田中ぐらいだ。

 

 そういえばここ数日、枢木邸で田中を見かける度に段々と横幅が狭まっているような気がする。最初会ったときはうまい棒くらいだったのに、最近はプリッツのようになってしまった。

 原因はまあ、明らかだが。

 

 

 ブリタニアの侵攻が現実味を帯び始めた今、日本首脳陣は緊張状態にある。

 だというのに首相は敵国の皇子(ロリ)をレイプするのに忙しいという始末。ゲンブのスケジュールを全て管理し、さらに身辺護衛の管理も行っている田中はゲンブがルルーシュに何をしているのか知っていてもおかしくは無い。

 何より最初を除いた2回、そして昨日の1回はルルーシュが枢木邸に泊まると言った瞬間に、田中は鬱々とした顔で警備兵を邸内から追い出していた。

 

 そろそろ田中の胃は破裂するのではなかろうか。

 

 

 一人分程度しかない肉を持ち上げ、パッケージを外して腐っていないことを確認する。夏の炎天下の中買ってきたのだろう。スザクは汗をかいていた。

 文句はあるが、買って来て貰っている立場でこれ以上言うのは止めよう。叱られた犬のように見上げてくるスザクに溜息をついた。

「全く、次から注意しろよ」

「うん。分かった!」

「枢木本邸ならワインぐらいあるだろ。適当に調理場からワインを取ってこい。調理用と書かれているやつだ」

「すぐに取ってくる!」

 駆け出したスザクの背中を見送り、料理を始める。

「ナナリー、ごめんな遅くなって。すぐに作るよ」

「いえ、いいのです。私も日本語の勉強になりますし」

 スザクとルルーシュの会話は日本語なため、ナナリーは二人の会話を聞きながら日本語を学んでいたようだった。日常会話程度の日本語なら理解できるようになってきているのも、こうしてルルーシュとスザクの会話を熱心に聞いているからだろう。

 肉が腐らないうちにと塩をまぶす。カセットコンロにフライパンを乗せて熱する。サラダ油を乗せて肉を焼く。

 十分焼けた肉を皿に乗せ、残った肉汁はそのままに置いておく。付け合わせのサラダとスープを作りながらスザクを待つ。

 

 数十分後、スザクは赤ワインを握り締めたまま土蔵に帰ってきた。

 むっつりとした顔の藤堂に猫のように引きずられながら。

 

 土蔵に姿を表した藤堂に、そういえば今日はスザクが合気道を習いに行く日だったと思い出す。

「これは、藤堂中佐ではないか」

 初対面の軍人に恭しくルルーシュは深々と日本式に頭を下げた。

 藤堂は初対面のブリタニアの皇子にあからさまな警戒を示しながらも、根が真面目なのだろう、律儀に礼を返した。

「お初にお目にかかる。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアだ」 

「———私のことを知っているのか」

「貴君は日本軍における実力者とブリタニアでも有名だ。名前ぐらいは知っているさ」

 

 勿論嘘だ。矮小な日本軍などブリタニアは歯牙にもかけていない。

 しかしルルーシュは個人的に日本軍を調べた際に藤堂を知り、注目していた。日本軍の将軍位にある者の中で枢木ゲンブの息がかかっていないと分かっており、さらにブリタニアとの戦争を明らかに忌避している佐官以上の将は藤堂ぐらいしかいない。

 ブリタニアと戦争すればほぼ間違いなく負けると察しており、徹底抗戦を掲げる枢木ゲンブを既に見限っている点は評価に値する。

 

「未だ戦場で何も成果を上げていない私に、過分な評価だな」

「日本を戦場にしたことのない手腕をブリタニアは高く評価しているんだよ」

 自嘲する笑みを覗き込む。

 日本人にしては彫りが深く、釣り上がった金壺眼が印象的な顔立ちはそれだけで圧迫感を与える。しかし黒い髪と瞳を備えた真面目そうな顔立ちは、ルルーシュに初めて日本人とまともに話したような感動を齎した。

 何しろスザクもゲンブも配色が日本人らしくない。枢木一族の特徴なのだろう。緑の瞳など北ヨーロッパに遠征した時にしか見たことが無く、初めて見た時はアジア人にも緑眼がいるのかと驚いた。

 田中は顔立ちが平凡過ぎて全く印象が無い。

 

 藤堂は腰に日本軍の証である軍刀を差してはいるが、恰好は私服なのだろうシャツにスラックスという簡素な出で立ちだった。

「藤堂中佐、本日は仕事なのか?」

「いや。今日は合気道の道場の師範として来ている。仕事なら軍服で来るさ」

「ではなぜ軍刀を」

「これは日本軍の証のようなものだ。個人にもよるが、平時から身に着けている者も多い」

「ほう」

 ブリタニアの剣とは違い、装飾を排除した機能美に溢れる日本刀を眺める。

 柄には日本軍の紋章が掘られており、確かに日本軍を象徴するものなのだろう。

「それにしても、スザクは何をしたのですか?」

「調理場でアルコールを飲もうとしていた」

「違います!ルルーシュが料理のために赤ワインが必要だと言ったから、取ってこようとしただけで、」

「蓋を開けて飲もうとしてなかったか?」

 藤堂に片手で持ち上げられながら、スザクはぷるぷると震えた。

 あのガキ大将なスザクが妙にしおらしい。藤堂を見ると、またかという目でスザクを見下ろしていた。妙にスザクを叱るのに慣れている様子だ。藤堂はスザクの合気道の師だというから、やんちゃなスザクに日頃から手を焼いているのだろう。

「……だって!」

「日本人の飲酒可能年齢は20歳だぞスザク。アウトだ」

「でも料理に入れるならどうせ食べることになるじゃん!」

「料理に使うとアルコールは飛ぶから問題ない。どうせ興味本位で飲もうとしたんだろうが、油断が過ぎる。大人しく叱られて来い」

 ひらひらと手を振る。

 

 同時に土蔵に高い声が鳴り響いた。

「全くですわ!私の夫となる予定の方が、随分と情けない真似をなさること!」

 入口に目を向けると、ナナリーと同年代だろう少女が仁王立ちになっていた。

 

 小柄だというのに両手を腰に当てた仁王立ちがよく似合う。くりくりとした大きな瞳に日本人形のような長い髪が逆光のせいで眩しい。そして現代では珍しい、淡い暖色で固められた和服を完璧に着こなしている。

 日本文化を勉強するために読んだ源氏物語の挿絵のような少女だ。完全無欠な紫の上より、聡明で誇り高い明石の君に近い。

 すぐに誰かは分かった。日本の姫、皇神楽耶だ。

 そしてその後ろにはキョウト六家の重鎮である桐原が立っていた。

 

 桐原は神楽耶の背後で影の様に立っている。穏やかそうでいて、しかし全く表情の読めない枯れ木のような顔立ちは地蔵を思わせた。

 桐原の姿を認めてルルーシュは眼を細めた。

 神楽耶はスザクの許嫁であるため枢木家に出入りするのも分かる。しかし桐原はルルーシュに会いに来たのだろう。

 

 できることなら戦争を回避したいという思惑のあるキョウト六家にとり、戦争の火種となり得るルルーシュとナナリーの扱いは厳重でなければならない。

 自分たちが来日した時からキョウト六家が枢木家を監視していることは察していたが、直に会いに来るとは思わなかった。

 

 深々と頭を下げる。

「神楽耶様に桐原公、このような所でお会いすることになるとは、」

「お初にお会いしますルルーシュ殿下。このような所にルルーシュ殿下を住まわせるなんてことに私は驚いていますわ。枢木ゲンブも愚かですこと」

 ふん、と神楽耶は鼻息も荒く土蔵を見回す。

 薄汚れた土蔵は、とても人が住めるような場所には見えない。まるで廃墟のようだ。古びたカセットコンロと所々欠けた食器、そして布団だけがここに人が住んでいることを証明していた。

「お兄様、誰か来ているのですか?」

 聞きなれない足音が3つも増えて不安になったナナリーが床を這いずってルルーシュに近寄る。

 ルルーシュはすぐにナナリーの手を握り、大丈夫だよと伝えた。

「日本の姫君の皇神楽耶様と、軍人の藤堂さん、それから……日本の貴族というのかな。キョウト六家の桐原という方が来られたんだよ」

「お初にお目にかかります、ナナリー殿下。お会いできて光栄ですわ」

 鈴が鳴るような声で神楽耶は恭しくナナリーに声をかけた。自分と同い年位だろう幼い声にナナリーは笑みを零した。

 ルルーシュから手を離し、その場にきちんと正座をする。

「初めまして、神楽耶様。ナナリー・ヴィ・ブリタニアと申します。こちらこそお会いできて光栄です」

 差し出したナナリーの手を神楽耶は微笑みながら握り返した。

 

 その隣でぶーたれているのはスザクだ。流暢なブリタニア語で会話する神楽耶とナナリーについていけていないらしい。

「………神楽耶ってブリタニア語喋れたんだ」

「喋れるに決まっているでしょう。私を誰だと思っているんです」

「悪戯好きなわがまま姫」

「張っ倒しますわよ」

 本当に許嫁なのだろうか。確か神楽耶はスザクの従妹でもあった筈だが。

随分と険悪な表情で神楽耶はスザクを睨んだ。

「全く、枢木家の跡取りだというのにこの体たらく…申し訳ございませんルルーシュ殿下。この馬鹿が何か無礼な真似を働きませんでしたか?」

 スザクの素行の悪さは周知の事実らしい。

 

 ちらと桐原と藤堂を見やる。桐原は小さく頷いた。

 藤堂は軍人らしく政治には関わらない。よく言えば忠誠心が強く、悪く言えば柔軟さが無い。込み入った話をするには少々頭が固すぎる。

「いえ、何も。初対面で罵られた挙句殴られて蹲ったところを蹴り飛ばされた位です」

 笑いながら返す。

 ルルーシュの言葉に神楽耶と藤堂、それに桐原は動きを止めた。

「……冗談ですわよね」

「いや、あの、ええと」

「おいスザク、本当か?」

「藤堂先生、ええと。あの………はい」

 3人ともが顔を引き攣らせながら挙動不審になっているスザクと、苦笑するルルーシュを交互に見やった。

 

 ルルーシュは服の上からでも分かる程に華奢な少年だった。少女と見紛うばかりの美貌に、細い手足は触るだけでも折れそうな程に儚い。

 ワンパクガキ大将なスザクの一撃で骨が折れなかったことが不思議な程だ。

 スザクの天才的な格闘センスを知っている藤堂はさらに頭が痛かった。無暗に暴力を振りかざすような教育をしていたとは。それも敵国の皇子に向かって。眩暈のあまりにその場で倒れそうになる。

 

「……スザク、お前は」

「馬鹿だ馬鹿だと思っていましたが、まさかここまで馬鹿とは」

「え、ちょ。待ってルルーシュ。ちゃんと謝ったでしょ!?どうして蒸し返すの!?」

「確かにお前はちゃんと謝った。だから俺はもう怒っていない。彼らには事実を伝えただけだ」

「少々失礼します、ルルーシュ殿下」

 再度ひょいとスザクを掴み上げた藤堂は頭を抱えながらスザクを外に連れ出した。

 

 スザクがいなくなった途端に神楽耶はその場で床に頭を擦り付けた。元々小柄な神楽耶が土下座をするとさらに小さく見える。よく見ると指先が微かに震えていた。

「大変、大変申し訳ございませんでしたルルーシュ殿下。まさか枢木の者がここまでお二人を蔑ろにするとは思ってもいませんでした。お怒りなのはごもっともです。しかしスザクについては子供の短慮が成したこと。どうか、どうかお許し下さいませ」

 

 土下座を続ける神楽耶を見下ろす。

 迷いなく敵国の皇子に頭を下げた器量は大したものだ。手触りの良さそうな黒髪がお世辞にも綺麗とは呼べない床に広がるのを見て、スザクより主君としての器は大きいかもしれないと判断を下す。

 その隣で桐原も深く頭を下げていた。

「……日本とブリタニアが敵対関係にあるにしろ、あまりに非礼な行為の数々。申し訳ございません」

「頭を上げてください神楽耶様、それに桐原公。私は怒ってはいません。ただ憂いているだけです」

 ルルーシュがそういっても中々頭を上げようとしない神楽耶に、ナナリーがそっと近寄った。

「確かに初めて会った時はスザクさんは怖かったですが、でもその後はとても優しくしてくれるんですよ。お野菜を持ってきたり、日本の絵本を読み聞かせてくれたり」

「ナナリー殿下、しかし……」

「よいのですよ、神楽耶様。先ほどあなたが仰ったように子供のしたことです。本人も反省しているようですし、これ以上蒸し返すつもりもありません。勿論本国に伝える気もありません」

 

 伝えたところで何があるわけでもないが。

 

 最早ブリタニアに見捨てられたルルーシュが日本でどう扱われていようと誰も気にしないだろう。寵妃だったマリアンヌに嫉妬していた者達が狂喜乱舞するぐらいだ。

 その事実を薄々知ってはいるのだろうが、やはり皇子の身分はそうそう軽挙に扱えるものでもない。神楽耶はまだ戸惑っている様子だった。

「そうですね。では神楽耶様はナナリーの遊び相手になってはくれませんか?」

「私が、ナナリー殿下の?」

「ええ。ナナリーは日本に来てから年の近い友達が少ないのです。お忙しいとは思いますが、よろしければ今日は一緒に遊んでくれませんか?」

「そうしましょう神楽耶様!私、日本の遊びについてもっと知りたいのです」

 屈託なく笑みを浮かべて神楽耶の手を取るナナリーに、神楽耶は少し戸惑いながらも笑みを浮かべた。

「畏れ多いですが、私で良ければ」

「ありがとうございます!では、お兄様も一緒に、」

「俺はいいよ。それより外のスザクを回収してあげてくれ」

「あんな馬鹿、放っておけばよろしいのです」

 神楽耶は未だ怒り心頭のようで、スザクの居る方向を睨みつける。

 

 確かに、あんな少年が自分の婚約者兼従妹だったらストレスで胃がねじ切れるだろう。むしろこれ以上の面倒事を起こす前に暗殺する。

 しかし枢木ゲンブが現在進行形でしていることを考えれば、もう謝ったことだし、スザクのしたことは笑って済ませられる範囲内に過ぎない。

 

「神楽耶様、私達はスザクとも仲良くしたいと思っているのです。どうか許して差し上げてください」

「……ルルーシュ殿下がそう言われるのでしたら……」

 むくれる神楽耶に微笑む。神楽耶の頬がぽっと薔薇色に染まった。

「え、あの、る、ルルーシュ殿下」

「神楽耶様」

「ああああの、は、はいっ」

「ナナリーをこれから車椅子に乗せますので、押して頂けますか?」

「…ああ、はい。分かりました」

 少し残念そうな神楽耶に首を傾げながら、ルルーシュはナナリーを抱き上げて車椅子に乗せた。

「バランスを崩さないよう、ゆっくり押してくださいね」

「よろしくお願いします」

「ええ、任せてください!」

 神楽耶は慣れない手つきながらもゆっくり車椅子を押し、明るい外へと押し出していった。

 

 ルルーシュは振り返り、桐原を見やった。佇む桐原は枯れかけた巨木のようだ。

「———お茶でもお淹れしましょうか、桐原公」

「いえ、お気遣いなく」

 その場に座り対面する。

 写真より桐原は老けて見えた。深々と刻まれた皺は間違いなく最近の心労によるものだろう。

 なにしろブリタニアとの戦争が近づいてきている。

 桐原はまっすぐにルルーシュの瞳を見やった。値踏みしている視線に口角を釣り上げる。

「まさか枢木がお二人にこのような扱いをしているとは」

「何をおっしゃいます。最初から知っていらしたのでしょう?」

「———ええ」

「私は枢木もキョウト六家も恨んでなどおりませんよ」

 ただ憐れなだけです。

 外で遊ぶナナリーと神楽耶、それにスザク、そして藤堂を見やる。ブリタニア人と日本人が混じって遊ぶ光景は微笑ましい。そしてこれから先数十年において滅多に見られない光景となるだろう。

 

 

 桐原は愛おしそうにナナリーを見守るルルーシュを見やった。甘さの残る顔立ちは子供らしく柔らかい曲線を描いている。確かに天使のように可愛らしい兄妹だ。

 

 しかしこれはただの子供ではない。ヨーロッパではシュナイゼルの補佐として、あの宰相にも劣らぬ采配をしてのけた優れた軍師なのだ。

 軍人ではないにしろ、桐原は世界有数のサクラダイト産出国である日本の政治家として、各国との戦争に関わったことがある。だからこそ分かる。ヨーロッパ戦線の司令官であったシュナイゼルはとんでもない化け物だ。そしてルルーシュも、あと数年もすれば化け物になるだろう。

 そんな化け物が自身の駒になる幸運が偶然転がってきたというのに、枢木ゲンブのせいで手出しができない。

 血管が千切れそうなほどに腹立たしいが、しかし手札が無い桐原には打つ手が無い。こうして粗末な家とも呼べない土蔵を訪れ、ブリタニアの皇子の心象悪化を防ぐために頭を下げる程度が精一杯だ。

 

 しかしそれさえ遅きに失したかもしれない。

 穏やかに微笑むルルーシュの体にいくつもの擦り傷がみられる。日本人から受けた暴行の跡だろう。

 国民のブリタニアへの悪感情は既に閾値を振り切れている。この兄妹はその捌け口となり、いずれ日本人に殺される。ブリタニアが用意したのはそんなストーリーだ。そしてその通りになっている。

 

 現状、日本はブリタニアという巨人の掌の上で転がっている小人でしかない。人材、物資、全てにおいて圧倒的な差がある日本は、せめて一致団結して物事に対処せねばならないというのに。

 枢木ゲンブという人間がそれを阻む。

 

 こんな子供に頼るわけにはいかないと知りながら、しかし桐原はルルーシュに問いかけた。

「……いつ頃になると思われますか」

「早くて2週間後。遅くても1か月以内には」

「———日本に勝ち目は」

「無いでしょう。KMFは無く、サクラダイト以外の資源はブリタニアが圧倒的に勝っている。さらにブリタニアにはシュナイゼルがいる」

「ルルーシュ殿下、日本で軍師をされませんか」

 これが本題だったのだろう。唐突な申し出にルルーシュは苦笑した。

 下手な冗談だ。

「誰が従うというのです、私に」

「誰か代役を立てて、ルルーシュ殿下の指示通りに動けば」

「確かにヨーロッパで戦場の指揮を執ったことはありますが、私はまだシュナイゼルより格下です。その程度の自覚ならありますよ」

 

 最後のチェスを今でも思い出せる。

 途中ジェレミアとナナリーの悲劇にトリップしたせいで記憶は曖昧だが、それでも自分は負けた。そして今勝負をしても勝てるとは言えない。

 客観的に自身とシュナイゼルを比較すると、自分が勝っているところは圧倒的に少ない。

 経験も判断能力もシュナイゼルの方が上。唯一勝てる点としては、絶対に負けない戦いしかしないシュナイゼルの行動は割合簡単に予測できるということぐらい。それも物量差が圧倒的である現状では意味を成さない。

 

 日本軍全てが忠実にルルーシュの指揮通りに動くというのならば話は別だが、どこの誰が敵国の皇子に従って命懸けで戦うというのか。代役を立てると言っても、表立って活動するその人物がルルーシュと同等の能力を有していなければまともに指揮など振るえない。

 そしてそんな器量のある人物は日本にいない。

 

 スザクに説教を続けている藤堂を見やる。そこそこに実力はあるのだろうが、あの男は軍人止まりだ。政治屋にはなれない。

 政治と軍事、両方を率いて迎え撃たなければブリタニアには勝てない。

 

 あのシュナイゼルには勝てない。

 

「では我々は成すすべも無く死んでいくのみと」

 桐原は自嘲の笑みを零した。

 恐らく日本の首脳陣はほとんどが桐原と同じような心持だろう。例外はブリタニアと密通しているゲンブぐらいか。

「いえ、機会ならばあります」

「貴公ならどうする?」

「戦争が始まり次第、すぐに負けてやるんです」

 

 思わずといった風に桐原はルルーシュを見やった。

 見開いた桐原の眼を睨む。

 

 枢木ゲンブはものの役にも立たない。神楽耶はそれなりに器量はあるのだろうが経験が無さ過ぎる。

 日本の実質的な主導者はこれから桐原になる。

 なればこそ、桐原は全ての悪名を背負う覚悟を決めなければならなかった。

「桐原公、負ける戦いなど長引かせる意味はございませんよ」

「臥薪嘗胆の日々を我々に送れと」

「ええ。生き延びるのです。一人でも多くの兵を、明日勝てると信じて耐えさせるのです」

「しかしブリタニアが日本を占領すれば最早勝ち目は無くなる」

「勝利とは戦争に勝つことでは無い。より多くの人々が生き残り、より多くの利益を得ることこそが日本の勝利になる。いずれ日本だけではなく他のエリアにも反乱の芽は育つ。そうなるまで待ち、そうなれば最早勝ちです」

 

 その領土のほとんどがエリアで成り立っているブリタニアは、全エリアが一挙に反乱を起こせば必ず負ける。

 問題は反乱を起こすエリアの規模だ。日本一つでは話にならない。

 中国やインドが日本の味方をするには時期尚早に過ぎる。もっと中国がブリタニアの脅威を感じるようになれば、積極的にブリタニアと事を構える態度を見せてくれるようになるのだろうが、まだ無理だ。

 

 今が“まだ”であるのならば、そうなるまで瀕死になりながらも生き延びるしかない。

 日本の道は細く頼りない。華々しく切腹する方が幾分か楽だろう。

 しかしそれを良しとするのならば桐原はルルーシュの元まで来たりはしない。

 頭を抑えながら桐原は声を絞り出した。

「———貴公はハンニバルにはなってくれんのか」

「12歳の子供に頼るなどと、老獪で知られる桐原公とは思えませんな」

「いつまでも子供であるわけではなかろう」

「そうですね。時が来れば。そしてそれまで生きていれば。その時はブリタニアに勝って見せましょう。ハンニバルのように負けはしません」

 にやりと笑う。

 桐原は深々と頭を下げた。

 

 

 



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8. 嬉しかったんだ。その言葉さえあれば生きていけると思った

 日本に来てから3週間が経った。

 

 薄暗い夕方ならブリタニア人とはバレないだろうと考えたのだが、甘かったらしい。

 普段は穏やかな商店街に、今は怒号が飛び交っている。喧嘩かと心配して身に来る者たちもいるが、囲まれているのがブリタニア人だと知ると迷惑そうな顔をして無視を決め込んだ。

 今の政情では、日本に住むブリタニア人に人権は無い。

 

 四方八方から視線や罵倒を受け、石を投げられながらもルルーシュは荷物をかばった。食料が尽きた今、これが無くては今日は枢木邸に泊まるしかなくなってしまう。それはなんとしても回避したい。

 しかし隙間なく周囲を囲む日本人達から逃げ出すのは困難だ。几帳面なまでに隙間を埋め尽くす野次馬達に舌打ちする。

「謝れブリ鬼!」

「お前のせいでどれだけの人が苦しんだと思ってるんだ!」

「死ねゴミ野郎!」

「道路に引きずり出せ!車に轢かせろ!」

 罵倒されながらもルルーシュは周囲を見回す。

 ここは枢木邸の近くにある商店街の一角である。時間は夕方をやや過ぎており、落ちかけている夕陽が人々の足元に長い影を作っている。行き交う人々は手に買い物袋を持ち、暗くなる前にと足を速めていた。

 しかし基本的に日本人はお祭り好きで、他者に迎合したがる。何やら人込みが騒いでいれば足を止めたくもなる。ルルーシュを囲む人込みはそうやって徐々に厚くなっていた。

 

 歩道に立つルルーシュを人々が取り囲む。段々と罵倒にも熱がこもり、地べたに這いつくばって荷物を抱えるルルーシュをどつく手も増えている。

 このままでは道路に押し出される。平日の夕方の交通量はそれなりに多い。車道に出れば子供のルルーシュなど一瞬で吹き飛ばされ、運が悪ければ死ぬ。

 罵倒を止める者は無く、段々と狂気じみた悲鳴に変わり始めてきていた。

 

 くそ、くそ!殺人だぞ!捕虜だって国際法ではもっと人権を尊重されている!

 教養も無ければ理性も無い野蛮人共め!

 

 ルルーシュは歯を食いしばり、今晩の安寧を諦めた。

 握り締めていた荷物を手近な人間に投げつける。周囲が少しひるんだ隙に逃げようとするも、すぐに手足を捕まえられ地べたに縫い付けられた。

「何逃げようとしてやがんだ!」

「くそ、こいつが投げたせいで怪我した、」

「大丈夫か?」

「やっぱりブリタニアは卑怯だ!」

「顔に投げつけるなんてなんて酷い!」

「子供でもブリタニア人だ!」

「卑怯な民族め!」

 

 客観的に見てどっちが卑怯かなんて明らかだろう馬鹿どもが!全員死ね!

 脳内でそう叫びながらも、ルルーシュはしかし歯を食いしばり口にはしなかった。

 

 

 ルルーシュは怒り狂いながらも耐えることができた。それはこの場から逃げ出すためだけではない。

 どうせ長くともあと1か月以内にこいつらはブリタニア軍に虐殺される。そう思うと、顔を醜く歪ませて罵倒してくる彼らに憐れみすら湧いてくる。

 ブリタニア軍は神聖ブリタニア帝国のためならばなんでもして当然と思い込んでいる、夥しい量の兵士を孕んだ集団だ。彼らは子供も大人も老人も差別なく、平等に悉く殺し尽くす。

 

 その時こそ彼らはブリタニアは卑怯で酷い民族だ、謝れ、と罵倒しながら石を投げる権利を持つだろう。

 だがその時に怒りのために声を上げて歯向かう勇気を持った人間がいるだろうか。

 

 皆無ではない。藤堂などはその一人だ。彼は日本が敗北すると理解していながらもブリタニアと戦う覚悟がある。

 だがこうして無力な子供に鬱憤を晴らす程度のことしかできない輩の中に、強者へと拳を振り上げ怒りの声を上げる英雄がいるようには思えない。

 所詮こいつらはその程度。相手にする価値も無い有象無象の何某かでしかない。そしてそういった連中の大半は戦争を生き残れない。

 

 暴徒達を憐れみながら鼻で嘲笑うと、集団はさらに殺気を増した。

「このガキ!」

 頭に血が上った一人がルルーシュの胸倉を掴み、腹を殴った。

 殴られた勢いのままルルーシュの体は車道へと吹き飛んだ。頬への衝撃と宙に体が浮く感触がない交ぜになって意識が一瞬飛ぶ。

 急に車道へ飛び出した子供に車のクラクションが鳴り響いた。

 は、と。殴った男の顔色から一瞬で血の気が引いた。男にルルーシュを殺す気は無かったのだろう。

 何しろ彼らは集団で集まらないと子供一人叩けない凡人だ。人を殺す覚悟も、殺される覚悟も無い、ただの愚鈍などこにでもいる人間だ。

 

 しかしルルーシュは暗殺に慣れ切っており、平穏とは遠い暮らしばかりしてきた。最近では殴られることにも慣れた。

 車が来るタイミング、殴られた場合の方向は既に予測していた。

 

 子供がいきなり車道に飛び出れば高確率でブレーキを踏む。かなり手前で減速した車の前でルルーシュは地面に落ちた。

 殴られた腹が焼けつくように痛い。しかし休む暇などなく、すぐに起き上がりそのまま車道の反対側へと逃げる。

 タイミングよく赤信号になり車の流れが止まる。車体の間を縫うように走りながら、先ほど遠目に見えたスザクが来るのを待った。

 

 学校帰りでランドセルを背負ったスザクは素晴らしいスピードで走ってくる。隣を走る車とほぼ同じくらい

 速い。速過ぎる。もういっそ車道を走れと言いたい。あいつは歩道を走るべきじゃない。純粋に周囲が危ない。

 

 逃げ出したルルーシュを追いかけようとした男に、スザクはモーターを搭載しているかのような速度を殺すことなく背後から強烈なタックルを食らわせた。

 ピンポイントで脇腹を抉られたのだろう。うめき声を発しながら男は道路へ向かって吹っ飛んだ。走るルルーシュの隣を、気絶した男は水面に投げられた石のように軽快にバウンドする。道路の反対側へと到達した男はガードレールにぶち当たって道路に落ち、ピクリとも動かなくなった。

 

 仕留めた男に眼もやらず、スザクは他の人たちからルルーシュを護ろうと立ちはだかる。

「お前らなにしてるんだ!」

「なんだこのガキ、」

「ルルーシュ早く逃げ、ってもう逃げてる!逃げ足だけは結構早いねルルーシュ!」

「だけは余計だ馬鹿スザク!」

 馬鹿って言うな!という反響を聞きながらとにかく逃げる。

 

 商店街を抜け、人通りの少ない道を選んで走る。体力が致命的に無いため物陰に隠れて休憩を挟みながら、只管に枢木家を目指す。あれだけの騒動が起こったのだから、逃げ出したルルーシュをさらに甚振ろうと探している野次馬がいないとも限らない。

 

 スザクのことはあまり心配していなかった。あの武術に関してだけは天才的な少年は、あれだけの人数に囲まれても無事に脱出できるだろう。

 むしろ『枢木首相の息子、傷害罪で逮捕。父子家庭で育ったが故の教育の歪か』という一面が明日の新聞に載る方を心配した。

 

 まあ手加減はするだろう………するよな?

 うん、素人相手に本気を出す程あいつは馬鹿じゃ……………馬鹿かもしれない。

 ………スザクはまだ少年法が適応される年齢の筈だ。うん。大丈夫。多分。多分。

 

 

 人目を避ける様に長い階段を上り、ようやく土蔵に辿り着いた。

 夕陽は既に落ちかけている。汗を垂らし、荒く呼吸を繰り返しながらようやく今の家である土蔵に到着した。

 しかし土蔵は、廃墟より無残な有様になっていた。

 

 土蔵は所々漆喰に亀裂が入っていたり板張りが抜けていたりもするが、枢木の敷地内にある建物がそう汚いわけもなく、周囲はきちんと掃き清められていた。

 しかし今では土蔵を中心とした地面にゴミが巻き散らかされている。乾かしていた洗濯物は泥水を被り、水が滴っていた。止めといわんばかりにスプレーで扉に『ブリ鬼は死ね』と乱雑な文字で描かれている。

 

 怯えるより先に、なんて語彙力の無い罵倒だと呆れが立つ。

 そしてとうとうここにブリタニア人が住んでいると知られたことに歯噛みした。面倒なことになった。

 

 森に行ったり、顔を隠しているとはいえ街中で買い物をしていたためにいつかは見つかると分かってはいた。

 しかし枢木の領地内だからそれほどの影響は受けないだろうと高を括っていていたが、この有様とは。これでは、これからここでまともに生活することなどできない。

 ここは裏手が森で、侵入しようと思えば簡単に入れてしまう。首相が住む本邸には厳しい警備が布かれているが、物置の土蔵はその範囲に無い。

 ルルーシュとナナリーを監視する人間は多いが、彼らは護衛でも警備でもない。

 

 あまりの有様にその場に立ち尽くしていたのは一瞬だった。

「……ナナリー、」

 スザクが学校に行っている間だったから、ナナリーは一人だけでここにいる。

 最悪の可能性が脳裏を過り、ルルーシュは土蔵の中に駆け込んだ。

 

 薄暗い部屋に埃臭いにおい。その中心にナナリーが座っていた。夢でも見ているようなぼんやりとした顔は泣き顔よりずっと恐ろしい。

 ルルーシュはナナリーに駆け寄った。

「ナナリー、ナナリー!」

「お兄様。どうされたのです?」

 ナナリーはブリタニアにいたころより明らかに痩せている。いつもほんのりとバラ色に染まっていた顔色はここ最近いつも青白い。

「ナナリー、大丈夫か!?」

「何かあったのですか?私は大丈夫ですが」

 小奇麗な服を着たナナリーはきょとんとした顔で首を傾げている。その様子は今朝家を出た時と大きな違いは無かった。

 

 ルルーシュは声を詰まらせ、言葉を飲み込んだ。

「……いや、物音がしたから。誰か来たのかと思ったんだよ」

「確かに先ほど扉の外に誰かが来ていたようですね。しかしこちらに入っては来なかったので、迷子の方かと思ったのですが」

「そうだね。そうだったんだろう」

 ブリタニアにいたころより細くなったナナリーを抱き締める。暖かい。いや、熱い。額に手をやると熱がある。

 ルルーシュは顔を顰めて頬に触れた。滑らかな肌が手に吸い付く。

「くすぐったいです」

「そうか。じゃあこうだ!」

 楽しそうなナナリーの体を擽った。きゃっきゃとナナリーは笑いながら身を捩る。

「もうお兄様、酷いです!」

 ぷんと頬を膨らませて怒る真似をするナナリーの頬をつつく。ぷにぷにだ。柔らかい。生きているという感触がして胸を撫で下ろす。

「ごめんねナナリー。暑いだろう。布を冷やしてくるよ」

「お願いします」

 細い四肢を抱えながらゆっくりと布団に寝かせた。随分と軽い。

 

 栄養はスザクが買い物に行ってくれた時と、枢木邸に泊まった時に摂取はできている。

 しかし慣れない異国で目が見えず歩けもしない日々は、ナナリーを精神的に追い詰めていた。食事が上手く食べられず、食べても吐いてしまう。体調はちょっとしたことで容易に崩れてしまい、今日のように熱が出ることも多い。

 隙間風が通る土蔵で寝泊まりしているという環境も、ナナリーの体調を崩す要因なのだろう。

 

 土蔵の裏手にある川に行き布を湿らせる。

 すぐにナナリーの所に戻り、額に冷たく湿った布を乗せた。

「体は大丈夫かい?」

「ちょっと熱いです」

「そうだね。熱があるようだし、今日は枢木の家に泊まらせてもらおうか」

「……お兄様、」

「何だい?」

「———枢木の家にずっと居させてもらうことはできないのでしょうか。お兄様は泊まる度に枢木首相とお話させて頂いているんでしょう?その時にお願いすることはできませんか」

 

 無垢な顔でナナリーはルルーシュを見上げる。

 瞳は開いていない筈なのに視線が突き刺さるような気がした。聡明なお兄様が、どうしてこれまでそうしなかったのか。問い詰められているような気がした。

 

 息が止まる。

 思わず片手で自分の口を抑えた。脳内で甘ったれたルルーシュが「嫌だ」と叫んでいた。

 

 もし自分しかここにいないかったら疾うに首でも吊っている程に、枢木家で過ごすのは嫌だった。

 あの枢木ゲンブに組み敷かれている度に、自分に残った数少ない誇りを剥がして売っているような、戻れない道筋を辿っているように思えた。

 今や粉々になってバラバラになりそうな自身を繋ぎ合わせて、ルルーシュは枢木ゲンブの前でマリアンヌを演じ続けている。

 まだルルーシュが発狂していないのは、自分がいないと死んでしまうナナリーという存在のためだ。

 

 拳を握り締める。ナナリーは悪くない。ナナリーは何も知らないんだ。だって何も言っていないんだから。

 自分が女の体を持っていることも、枢木ゲンブに凌辱されていることも。言える筈が無い。

 そんなことを言って、汚いと思われたらどうやって生きていけばいいんだ。もう自分にはナナリーしかいないのに。ナナリーを守ることしか生きている意味なんて無いのに。

 もうナナリーの他に誰もいないのに。

 

 掌を爪で抉る。

 微笑め。

 ナナリーのためだ。ナナリーのためなんだ。

 

 

 

「そうだね、図々しいかと思って遠慮していたんだけど、頼んでみようか。またこんなことがあったらいけないし」

「ええ。お兄様もお店に行って買い物をするなんて手間でしょう?枢木邸にはお手伝いさんもいらっしゃいますし、お兄様がそんなことをされなくても良いと思うのです」

 まだ皇女気分が抜けないナナリーの発言は無邪気だった。

 

 皇族は店に買い物に行くことはしない。買い物がしたければ使いを送るか、直接品物が見たければ店主に皇宮へ商品を持って来させるのが普通だ。

 自分たちもつい数週間前までそうして買い物をしていた。生まれてから12年間、贅沢な食事、衣服、寝具に調度品、全てに困らない生活を送った。

 しかしルルーシュはもうその過去を忘れ始めている。現実と向き合うために、華やかだった過去は捨て去らないと足取りが重くなる。

 

 あと最低でも2週間以内にはブリタニアが日本に侵攻してくる。その切っ掛けとなるために自分達は暗殺される予定になっている。それが今の現実だ。しかし死ぬつもりなんぞ更々無い。

 ブリタニアの思惑通り死んでやる程に、ルルーシュは物分かりが良い男でも女でもない。

 地べたを這い蹲って泥を食らいながらでも、ナナリーと共に生き延びる覚悟があった。

 死んでたまるか。あんな皇帝のせいで、あんな国のせいで、自分もナナリーも死んでたまるか。

 負けてたまるか。

 

 ————————でも。

 

「そうだねナナリー。これからちょっと掃除をしてくるよ。あと枢木首相に今日は泊まれないか聞いて来るから」

「はい。早く戻ってきてくださいね」

 ナナリーを布団に寝かせ、ルルーシュは微笑みを保ちながら外に出た。

 

 

 

 

 玄関から数歩先まで歩き、地べたに座り込む。歩く気力も無い。

 ゴミが散乱する家前。泥だらけの衣服。粗末な家。それがルルーシュの今の環境の全てだった。それが嫌なら体を売るしかない。場末にたむろする娼婦より無様な生き方をしている。

 誇りを全て売り払ってでも、生き延びたいのか。自問する。

 生き延びたい。それは間違い無い。

 

 でもそんな命に価値があるのかは分からない。

 だって誰一人として、今のルルーシュを肯定する人はいない。

 

 夕陽が海に落ちていく。ぼんやりと眺めた。

 邪魔なビルの群れが無いためか、ブリタニアで見た夕陽よりずっと美しい。日本という土地にあって、海面を照らす夕陽はどこか郷愁を感じさせる。

 こんなことをしている暇は無い。早く立ち上がらないと。しかし体が動こうとしなかった。

 

 ブリタニアにいた頃、大量の仕事のせいで疲れ切って倒れてしまうことがよくあった。しかし意識はしっかりしているというのに体を動かせないことは無かった。

 早く洗濯物をもう一回洗って、掃除をして。それから枢木ゲンブに、これからは枢木邸に住まわせて貰いたいと頼まなくてはいけない。

 そう分かっているというのに、手足が麻痺したように動かない。

 全速力で走ったせいで疲れているんだろう。少し休めば大丈夫だ。

 泣く程のことじゃない。殴られるのも罵倒されるのも、初めてのことじゃない。また立ち上がれる。

 何回だって、自分とナナリーが生きてさえいれば立ち上がれるはずだ。

 

 そうしていると足音が聞こえてきた。大人の足音だ。スザクじゃない。

 枢木ゲンブか、もしくは彼の伝令のため田中が来たのだろうか。スザクから事情を聴いて、今日は本邸に泊まれとでも言いにでも来たのかもしれない。

 もしくは一足早く暗殺者でも来たか。

 のろのろと頭を上げる。

 

 長い、長い影が伸びていた。

 重苦しい程に大きいスーツケースを転がしながら、その男はいつものようにルルーシュを視界に入れた瞬間、弾ける様に駆け出した。ぐんぐんと近づく男はあまりに見慣れた顔をしていた。

 動かせなかった筈の手足が動揺で強張る。

「嘘だ」

 

 有り得ない。これは夢だ。都合の良い、夢。

 しかし夢にしては殴られた腹は痛いままだった。

 とうとうルルーシュの元に辿り着いた男は、息も荒くルルーシュを見下ろす。深緑色の髪にオレンジ色の瞳と、視界に入るだけで騒々しい色彩をしていた。見慣れた軍服姿でなくともこの男を見間違える筈が無い。

 だが自分の眼が信じられない。

 

 地べたに座り込んでいるルルーシュに、男は眼を潤ませながら跪いて首を垂れた。

「————遅れてしまいました。申し訳ございませんルルーシュ様」

「………嘘だ」

「ルルーシュ様、」

「嘘だ!」

 無様に地面に座り込んだまま、ルルーシュは男から少しでも距離を取ろうと後ずさる。

「お前が来る筈なんて無い!お前がここに来ても何もいいことなんてないんだ!」

 動転のため声が裏返るルルーシュに、ジェレミアは涙を堪えるように顔を歪ませた。

 

 嘘だ。信じられない。理解できない。

 利益が無いどころではない。死ぬかもしれないのに。

 ついこの前まで同僚だった兵士達に裏切り者だと罵られて、無残に殺されるかもしれないのに。

 

 だが彼は現実にここにいた。

 ルルーシュにはとても理解できない選択を彼はしてしまった。言葉にできなかったルルーシュの期待に彼は応えた。

 ジェレミアはルルーシュに跪いた。薄汚れた土蔵の前で、ゴミの中蹲るルルーシュに、それでも迷いなく首を垂れた。

 地べたに這いつくばるルルーシュの手をそっと握る。

「—————いいことなら、あります。お、遅れてしまいました。また私は、あ、あな、あなたが酷い目に遭っている時に、遅れてしまった。騎士失格です。でも、」

 でも、でも。滂沱の涙を流しながらジェレミアはルルーシュの指を恭しく持ち上げた。

「あ、あなたが、あなたが生きていてくれて、よかった。本当に、よかったっ」

 

 生きていてくれて、よかった。

 

 指先から染みわたる様に、その言葉の意味をゆっくりとルルーシュは理解した。

 指先に滴る涙が痛い程に熱い。熱はじわじわと全身に伝わり、感覚が少しずつ鋭敏になっていった。瞼が震えた。喉が焼けるようだ。

 もう、なんと言っていいのか分からなかった。どんな言葉でさえ足りないと思った。そしてこの男はルルーシュからの謝意を求めてもいないことはよく分かっていた。

 

 きっと男は、ルルーシュの叱責を求めていた。ならばルルーシュは自身の誇りのため、男の求めに答えなければならなかった。息を吸い込む。

「遅い!馬鹿野郎!」

 ルルーシュの声は高らかに響いた。

 跪くジェレミアの元に崩れるように倒れ込む。

 抱き着いてわんわんと大声をあげて泣いた。強く抱き返される感触がした。

 

 

 嬉しかったんだ。

 その言葉だけでまだ生きていけると思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう思った次の瞬間、スザクの飛び蹴りがジェレミアの脇腹に直撃した。

「ルルーシュから離れろこの変態野郎!!!」

「ぐほぉあ!」

「じぇ、ジェレミアァア!!」

 綺麗に吹っ飛ぶジェレミア。スザクは蹴りが決まった瞬間ルルーシュを背後に庇い、ジェレミアに対してボクサーのようなファイティングポーズを取った。

「お前!ルルーシュは確かに貧弱だけど男だぞ!男!それを抱き締めるなんて、へ、変態だー!!」

「まてスザク、ブリタニアにはキス&ハグの習慣があるんだ!男同士でもハグするし、ほっぺにならもキスもする!それよりジェレミア、ジェレミア生きてるか!?」

「・・・・・る、るるーしゅさま、私はあなたが生きていて、そして幸せであってくれれば、それで・・・」

「ジェレミアアアアアア!!」

「チッ、僕の飛び蹴りを受けてまだ意識があるなんて・・・こいつ・・・」

「『こいつ・・・キリッ)』じゃない!お前はいい加減学べ!状況から判断した勝手な思い込みを無くす!初対面の人に暴力を揮わない!いい加減サルから人間になれ!」

「え、野蛮人じゃなかったの。まさかのランクダウン?」

「ジェレミアに暴力を揮った以上、貴様は野蛮人からアウストラロピテクスにランクダウンだ!おいジェレミア、しっかりしろ!おいそこのアウストラロピテクス、今すぐ水を持ってこい!」

「…ジェレミア、さん?」

 騒がしい外から、聞きなれた、しかし聞こえる筈の無い声を聞き取りナナリーは土蔵から顔を出していた。

 怯えながらも周囲の気配を察しようと顔を振っている。

「お兄様、今、ジェレミアさんの声が」

「ナナリー、そうだよ。ジェレミアが来たんだ」

「そうなのですか!」

 ぱあ、と一瞬で顔を明るくしたナナリーに、ルルーシュも胸が張り裂けそうなほど嬉しくなる。しかし当のジェレミアは気絶状態にある。

 ぱちぱちと鋭い線を描く頬を叩く。この男も随分と痩せた。

「おいジェレミア、しっかりしろ」

「る、るるーしゅ殿下、」

「ジェレミア、気をしっかり持て!おいスザク水を!」

「……チッ、分かった」

「ジェレミアさん、どうしたのですか!?まさかここに来るまでに暴行を受けて、」

「間違っていないが間違っているよナナリー。あとこいつはそこらの一般人に殴られてくたばるような奴じゃない。なんたって俺の騎士候補だからな!」

「………12歳の子供に蹴りで吹っ飛ばされる騎士……」

「ゴフゥッ」

「スザアアアアアアアク!!」

 

 

 渋りながらもスザクは水を持ってきた。

 意識が朦朧としていたジェレミアだが、水を飲んで落ち着けば10分程度で復活した。脇腹を痛がる様子も無い。サイボーグみたいな奴だ。

 

 聞けば、倒れたのはここ数日徹夜続きで日本に来る手続きを行っていたためだったらしい。

 ブリタニアと日本の間にまともな交通手段が無い現状で、ジェレミアはシュナイゼルに頼って偽のパスポートを用意し、一度中国を経由して密入国する方法を取った。

 パスポート作成のため1週間程かかり、抱えていた仕事を全て片付けて退役の手続きをし、さらにゴッドバルト家の家督を妹に譲り渡す算段を付けるためには3週間では時間が足りなかったのだろう。

 寝不足のせいで元々愛らしいとは呼べない容貌はさらに人相が悪くなっている。どこぞのメイトリックス大佐のような顔だ。

 

 初対面のブリタニア人(極悪人面)に警戒するスザクを宥めつつ、ジェレミアが来たことにはしゃぐナナリーと共に喜んだ。頼れる人間が3つ年上なだけの兄しかいないという状況は、ナナリーとり非常に心細かったのだろう。見知った大人であるジェレミアがやってきたことで、ここ最近では見られなかった穏やかな笑顔を見せた。

 

 しかし一度冷静に戻ると、喜びは長く続かない。

 

 

 枢木ゲンブの許可を得なければジェレミアはここで暮らせない。まず間違いなくブリタニアへ強制送還される。そして枢木ゲンブがルルーシュとジェレミアの同居を許す筈が無い。

 自分の所有物であるルルーシュが、自身より若く容姿の優れた男と一緒に暮らすなど、あの男には耐え難いに違いない。

 無理やりに許可を得るとしてもその代償は碌なものではないだろう。

 

 だがその代償を受け入れる覚悟はすぐに固まった。

 ジェレミアは権力も経歴も家柄も、全てを捨ててここに来たのだ。ここでルルーシュがジェレミアを放り出すなど死んでも許されないことだ。絶対に、何を要求されようとも一緒にいると心を決めた。

 今なら何でも耐えられるような気がしていた。

 

 夜にルルーシュはナナリーと、そしてジェレミアを伴って枢木邸の本邸を訪れた。

 

 



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9. あいつを怖いと思ったのはあれが初めてだった

 

 お粥を食べ終わったナナリーをジェレミアはベッドに寝かせた。

 タオルで包んだ氷枕を敷いて、柔らかな毛布を被せると楽しそうに転げる。その仕草はブリタニアにいた頃とあまり変わらない。

 ブリタニアにいたころより少し痩せたようだが、肉付きはそれほど落ちていない。熱もそれほど高くは無く、食事もちゃんと食べていた。解熱薬を飲めばすぐに治まるだろう。

 

 むしろルルーシュの方が病人のように痩せ枯れている。先ほど出された食事もほとんど食べていなかった。

 元々胃が小さいというものあるだろうが、意図的に食事を減らしているようにも見える程に少量しか口にしていない。

ストレスのせいかとも考えたが、地獄と称されたヨーロッパ戦線で鉄火に囲まれながら食事をしたこともあるルルーシュが、そうそう簡単にストレスにやられるとも思えなかった。

違和感を抱えながら、転げるナナリーに毛布をかけ直すルルーシュを見やる。

「気分は良いかい、ナナリー」

「はい。お兄様」

「よかった。熱が上がったりしたらちゃんと言うんだよ」

「分かりました」

「いい子だ」

 頭を撫でながらルルーシュはジェレミアの方へと視線を向けた。

「ジェレミア、今日はナナリーの護衛を頼む」

「承知しました。ルルーシュ様もこの部屋で休まれるのですか?」

 見る限り部屋にはベッドが一つしかない。

 護衛である自分は椅子にでも座って夜を明かせばよいが、ルルーシュが椅子に座って寝るなどあってはならない。

 かと言って熱のあるナナリーと同じベッドに寝かせるというのも些か躊躇われる。

「俺には別の部屋があるから」

「しかし安全を考えると同じ部屋で過ごした方が良いのではないでしょうか。日本には床に敷くフトンという寝具があると聞きます。フトンを借りてここでお休みいただくことはできませんか?」

「今日は首相と話があるんだ」

 ルルーシュは苦笑しながら首を振った。

「話が長い男でな。夜中に部屋に戻るとナナリーを起こすかもしれない。ああそうだ、お前の分の布団は後からここの使用人が運んでくる手筈になっている。お前も俺を待たずに休め」

「しかし」

「くどいぞ。気にするな。それよりゆっくり寝ろ。明日からはしっかり働いて貰うんだからな」

「————はい」

「よし。じゃあ行ってくる。お休みナナリー」

「おやすみなさいお兄様」

 ルルーシュは慣れた仕草でナナリーの額にキスを落とした。

 ひらひらと手を振って部屋を出るルルーシュを、言葉にできない不安感を抱きながらジェレミアは見送った。

 

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

「それで、あの男は?」

「私の騎士候補…もとい、従僕です」

 ベッドに横たわる。ゲンブはやはり、ジェレミアの存在が気に入らないようだった。

 食事に突如現れたブリタニアの男を、しかしルルーシュの部下と紹介されればそう簡単に放り出す訳にもいかなかったのだろう。

 狭量なところを見せたくないという男の矜持は、女の眼から見るとあまりに滑稽だ。さらにこうして二人きりになった途端にその不満を口にするのだから、狭量で気弱な性質をこの男はどうにも隠し切れない性質らしい。

 しかし確かにジェレミアは体格の良いゲンブよりさらに身長が高く、現役軍人の威圧感は隠しようも無い。さらに自分が虐げている少女を主君と掲げる男だ。

 これを機に復讐されるのかと怯えるのも無理は無い。

 しかしだからといって日本の首相ともあろう者がたかが一軍人に怯え、怯えたと言う事実への鬱憤を少女に性欲という形でぶつけるのはあまりにお粗末ではなかろうか。

 そしてそのお粗末な男から、今は何としても「是」の一言を引き出さなければならなかった。

 痛む全身に鞭を打ち、情事後の気怠い空間にあってルルーシュは饒舌だった。

「これまでは我慢していましたが、やはり細々としたことをやらせる下の者が欲しいのです」

「それならこちらから適当な人物を見繕うが」

「慣れた人間でないと安心できません。それにあの男はああ見えて辺境伯ですから、ゲンブ様のお役にも立つかと思って呼び寄せたのです」

「私の?」

「ええ。あれは私の言うことなら何でも聞きます。近い未来、ブリタニアの貴族になられたゲンブ様の強い味方となってくれるでしょう」

 汗でぬめるゲンブの顔を指で拭う。

 

 ブリタニアの貴族。なんとも愚かな欲だ。日本人の、それも領地も武力も無い男が海千山千のブリタニア社交界で生きて行けるわけが無い。

 口だけは達者な貴族たちから容姿の醜さ、教養の無さ、果てはアジア人であることまで散々にあげつらわれて馬鹿にされるに決まっている。

 最期には適当な罪を擦り付けられた挙句、既得権益を剥奪されて処分されるのが末路だろう。

 

 しかしこのおめでたい男にはそんな思考は存在しないらしい。

 ゲンブは顎に手をやり、一時思考した。

「そうか。あの男もブリタニアの貴族か」

「いくら枢木首相とはいえ、日本人に対して偏見の強いブリタニアの社交界に受け入れられるのは難しいかと。あの男は将来のゴットバルト家当主。下僕として従えておけば何かと使えるでしょう」

「しかし、お前がいるだろう?」

「私が?」

「そうだ」

 ルルーシュの腕を骨が軋む程に握り締める。締め付けられる痛みに、しかしルルーシュは表情を微塵も変えなかった。

 その気の強さにゲンブは苛立ち、しかし離れられない。

 この女が自分に平伏し、妻となればどれほどに幸福だろうか。

「お前が私の妻になれば私は皇族の縁故になる。たかが辺境伯一人、いてもいなくても変わらん」

「———私にあるのは血統だけです。部下もいなければ領地も無い。しかしゴットバルト家には領地と、長く続く歴史があります。私をゲンブ様の妻にしたとして、箔は付くでしょうが、しかし金が入るわけではありません」

「金」

「そうです。金です。ねえ、ゲンブ様。いいじゃないですか、従僕の一人くらい。面倒なことを押し付けるだけの男です。ここで伝手を作っておけば、ゲンブ様のお力になるやもしれないんですよ」

 ねだる口調のまま抱き着く。嘘は言っていない。

 

 ゴットバルト家には確かに歴史もあれば領地もある。辺境伯の名の通り領地は国境に近いド田舎にあるが、その分面積は広い。上流貴族とは呼べないものの中の上あたりには位置する、堂々たる名門貴族だ。

 ただしジェレミアは日本にやってくるのを機に家督を妹に譲り渡したそうだが、そんなことを告げる訳が無い。

 

「そうか。お前の言うことを聞く男か」

「ええ」

「しかし私の言うことを聞くとは限らんだろう?」

「あれは私のものです。ブリタニアの血にかけて、あれが私に逆らうことはありえません。私が枢木首相の妻になった暁には、あれはあなたのものでもあります。私の夫の言うことを聞かないような分からず屋ではありませんよ」

 揺れている瞳に、それなりに思案しているようだと判断する。

 あとはなし崩しにでも推し進めるか。

 

 ゲンブの手を取ろうとする。その瞬間扉が叩かれた。

 反射的に扉を振り向く。扉が場違いな程に陽気な音を立ててノックされていた。

 ゲンブを見上げると忌々し気に顔を顰めて扉を見やっている。ゲンブが仕組んだことではない。

 

 誰だ。枢木の関係者か。

 

 万が一にでもこの事態が発覚しないよう、ゲンブは事前に警備は遠ざけてある。警備はこの家の外にのみ配置され、監視カメラもこの部屋の周囲には存在しない。

 ならば突然の来訪か。しかし事前のアポイントメントも無しにとは考え難い。

「誰だ!」

 威圧するような、しかし震えている枢木ゲンブの声が部屋に響いた。

 しかしこの部屋は防音だ。聞こえる筈も無い。

 再度扉がノックされる。

 枢木ゲンブは震える手つきで服を着直しながら、大股で扉へと向かった。

 

 扉が開かれ、薄暗い室内に廊下の光が入る。細い線のような光が床に伸びた。

 姿が見えないようシーツを被る。隙間から長身の男の姿が見えて息を呑んだ。

「枢木首相、アポイントメントも無いと言うのに夜分に失礼致します。ジェレミア・ゴットバルトです」

「———何だ」

「こちらにルルーシュ様がいらっしゃると伺ったのですが」

「ここにはおらんっ」

 

 駄目だ、今は駄目だ。

 ナナリーから、枢木邸に来るたびにゲンブの部屋に籠っているとでも話を聞いたのだろう。それで心配してきたのだろうが。

 今は駄目だ。最悪だ。

 

「しかしナナリー様から、こちらにいらっしゃると」

「勘違いだ。他の場所にいるんだろう。この家は広い。子供が遊ぶ場所などいくらでもある」

「———そうですか。失礼致しました」

 

 この角度からはジェレミアの表情は見えないが、声色は不審感を帯びていた。

 しかし首相相手にそう食い下がるわけにもいかないと考えたのだろう。扉が閉まりそうになる。 

 少しシーツを持ち上げる。ゲンブを見下ろし眼を伏せる顔が見えた。

 

 ルルーシュを心配している様子を隠そうともしない横顔に引き攣るような痛みが走った。

 ジェレミアは枢木ゲンブに頭を下げて部屋に背中を向けようとしている。

 それでいい。気づくな。

 だが頭の中で、甘えたのルルーシュが眠りから覚めた。ずっと押し殺し続けていたそのルルーシュは、しくしくと哀れっぽく泣きながら呟く。

 

 嫌だ、行かないで。

 

 シーツを強く握りしめた。僅かに揺れたシーツが光を反射した。

 恐ろしい速度でジェレミアは振り返った。

 眼球の形が分かる程に見開かれた瞳が、真っすぐこちらを見ている。油断していたためにルルーシュはシーツを持ち上げたままだった。視線が合った。

「ひ、」

 やってしまった。血の気が一気に引いた。

 ジェレミアはまさか、と一度首を振り、騒ぐ枢木ゲンブを押しやって部屋に入った。

 そのままベッドへと向かう。

 シーツを掴み、勢いよく捲った。

 

 何一つ纏っていないルルーシュがシーツの上で自身を護るように丸まっている。衣服は床に乱雑に投げ捨てられており、下着などは引き千切られたようで原型が無い。

 先ほどまで何をしていたかなど一目瞭然だった。さらに素肌を晒してるルルーシュは、男性ではありえない体の丸みも、胸の膨らみも空気に晒していた。薄暗いとはいえ ベッドサイドには明かりがある。ルルーシュの性別は明らかだった。

 全て知られた。

 

 しかし呆然となるより先にすべきことがあった。

 

「止めろジェレミア!」

 ルルーシュの姿を認めた瞬間、ジェレミアは殺意の塊になった。人の形をしているだけの、何かもっと暴力的な存在だった。

 元々敵を殺すことに躊躇が無い男だ。ルルーシュの命令に従って殺気を治めるだけの理性が残っていることの方が不思議に思える程に、今のジェレミアは恐ろしかった。

 

 しかし殺気を治めてもその相貌はとても人のものではなかった。

 普段からあまり温和とは言えない顔立ちだが、感動屋な内面を反映してジェレミアはよく焦り、よく泣き、よく笑う。皇族貴族からルルーシュが理不尽な扱いをされれば怒ることもある。

 だがここまで怒っているのを見るのは初めてだった。表情は、全くの無表情だ。しかし恐ろしい。元々吊り目な眼球は瞼がめくれ上がり、琥珀色の瞳が薄暗がりの中で発光しているように見える。

 無表情な顔は、首を傾げながらルルーシュに許可を求めていた。

 ルルーシュは小さく首を振った。

 

 今この男が殺されては困るのだ。もしここで殺せば、ジェレミアがゲンブを殺したとすぐに分かる。そうなればジェレミアは問答無用で拘束され、共謀したとして自分と、そして最悪なパターンではナナリーさえも逮捕される。下手をすればそのまま国際テロの汚名を着せられて極刑行きだろう。

 ブリタニアが日本に侵攻を開始し、日本全土が混乱状態になるまではブリタニア人である自分達は大人しくするしかない。 

 

「な、何をするんだジェレミア。恥ずかしいじゃないか」

 ジェレミアの手からシーツを奪い返し、体を隠す。

「ほら枢木首相も驚いているだろう。全く、恋人同士の寝室に踏み込むなんて無作法な真似をするとは。申し訳ございません枢木首相。部下の躾がなっていなくて」

 

 ゲンブはベッドの脇で立ち尽くす男を見やった。

 ジェレミアは少し驚いて目を見開いてはいたが、到って柔和な顔をしていた。

 

 敵意の無い反応にゲンブはおやと少し驚いたようだった。そしてゲンブよりもルルーシュの方が驚いた。先ほどまでの顔と別人のような顔は、驚いてはいるものの殺意など全く感じ取れない。

 むしろ恋人同士の睦愛を間違って覗き見てしまったようないささかの罪悪感が混じっている。

「驚きました、ルルーシュ様は枢木首相と婚約なされていたのですね」

「正式にはまだだがな。これから順調にゲンブ様がブリタニアの貴族になって下さり、その時まだ私のことを思って下さればの話だ」

「そうですか。では日本とブリタニアのかけ橋になられるのですね。喜ばしい事です」

「そうなれればいいんだがなぁ」

 ルルーシュは微笑んで恥じらうように頬を染めた。

 ゲンブは温和な口調で話すジェレミアの様子を見やり、鼻を鳴らした。

「貴様、名前はなんと言った?」

「ジェレミア・ゴットバルトと申します」

「そうか。精々これの世話を焼いてやれ」

 これ、とルルーシュを指さす。

 ジェレミアは穏やかな顔のまま、「はい」と従順に応えた。

 

 そのままジェレミアは部屋を出た。その全身は微かに震えていた。噛みしめた唇から血が滴る。

 我慢の限界はとっくに振り切れていた。

 

 

■ ■ ■

 

 

 明け方にようやく解放され、書斎を出ると扉の前にジェレミアが立っていた。

 顔を見ると隈が酷い。一睡もしていないのは明白だった。しかし昨日スザクのドロップキックで意識を失いかけた時より全身に力が満ちているように見える。

 ここで一晩「この男を殺せ」と命令が下る瞬間を待っていたのか。

 防音仕様の部屋から音が聞こえる筈がないことを分かってはいたのだろうが、しかし待たずにはいられなかったのだろう。この男はそういう男だ。

 どう声をかけてよいのか分からず、俯き、そして見上げた。

「シャワーを浴びたい」

「承知致しました」

 いつもの通り、ジェレミアは即答し先を歩くルルーシュの後に従った。

 

 シャワーで忌々しい体液を洗い流し、タオルで水を拭う。棚からゲンブに強請った服を適当に選んで着る。

 ジェレミアは脱衣所に備えてあるドライヤーを手に取り、手慣れた手つきで鏡の前で椅子に座るルルーシュの髪を乾かした。

 粗方乾いたところで櫛を通す。女と知ったからか、以前より手つきが丁寧になったような気がした。

「おい」

「はい」

「何か質問はあるか」

「いくつか」

「今言え。どうせナナリーの前では話せないことだろう」

「よろしいのでしょうか」

「くどい」

「では……まず、これまでの私の行動がルルーシュ様を不快にさせておりましたか。そうであれば、どうか謝罪をさせて頂きたい」

 予想外の言葉に、頭の上で微笑んでいる男を見上げる。

「どういうことだ」

「私はルルーシュ様に使えるべき主君としての態度を取っておりました。しかしそれは女性に対してと考えると、適切な態度であったとは思えません」

「それは問題ない。あからさまに女扱いされるのは好かん。それに自分が女だと知ったのも日本に来てからだ」

「———そうですか。では、申し訳ございません」

「何故謝る」

「ずっと一緒にいましたから」

 髪を梳かし終え、ジェレミアは櫛を置いた。

「私は気づくべきでした」

「ふん。朴念仁のお前に、二次性徴前の子供が女か男かなどと気づける訳がないだろう」

「……それなりに彼女がいたりしたんですが」

「すぐに別れたんだろ。ロリコン疑惑のせいで」

「やめて下さい」

 あと、とジェレミアは話を続けた。

「ナナリー殿下はルルーシュ殿下の性別のことをご存知なのですか?」

「ナナリーは知らない。落ち着いてから説明しようと思っている」

「そうですか。それと、そもそもどうして性別を隠されていたのですか?」

「俺も知らん」

「———マリアンヌ様の悪戯、とか」

「いや、いくらなんでも……ないよな?」

 

 いくらあのぶっ飛んだ母親でも、女に生まれた子供を男と偽って育てることなどしない……と信じたい。

 そもそもそんなことをするメリットなど無い。男尊女卑がまかり通る国だったり、女に皇位継承権が無い国ならともかく、ブリタニアは名実ともに男女平等だ。当然、皇位継承権は女にも平等に存在する。

 それに公式の記録として男とされている以上、出産に立ち会った医師や看護師、その後養育を任された乳母や普段身の回りの世話をしていたメイド達も性別の偽装に関わっていることになる。そんな大掛かりな偽装工作が、少しでも隙を見せれば引きずりにかかる皇族貴族に発覚しない筈が無い。

 

「順当に考えると、俺は生まれた時に性分化疾患があって、戸籍上はとりあえず男にしておいた。けれど成長するにつれて女の方向に育った、とか」

「………まあ、順当ではありますが」

「うん。無理があるなあ」

 他と比較したことのないので断言するのは難しいが、おそらく自分の性器は一般的な少女とそう変わりは無い。少なくとも陰茎と見間違うようなものは全くない。

 生まれた時に男か女か判別し難かった、という形跡は無いのだ。

「だが他にそれらしい理由も無いんだ。後天的に女性になったとしか考え付かない。もしくはマリアンヌの大規模な嫌がらせか……」 

「こんな無意味で地味な嫌がらせはされない方でしょう。するなら派手に、戦場でぱーっとする方でした」

「確かにそうだ————まあ理由はここで考えてもしょうがあるまい。枢木ゲンブの了承は得た。お前さえよければ、明日からまた俺の下で働いて貰うぞジェレミア」

「イエス、ユアハイネス」

 迷いなく跪く。この男の忠誠に安堵するのも、呆れるのももう何度目だろう。

 

 その篤い忠誠はルルーシュの理解の程を遙かに超え、人類には理解不能な域に達している。ルルーシュが男から女になろうと、彼の忠誠は揺らがない。

 

「———俺が女でも、お前は俺に忠誠を誓うのか」

「はい」

「お前は馬鹿だ。嘘をついて裏切ったのと同然だろうに」   

「女性であろうとルルーシュ様の王の器に変わりはございません。そしてこれまで共に過ごした過去が変わる訳でもありません。であれば、私の忠誠が揺らぐ理由にもなり得ません」

 しかし、と続ける。

「お願いが一つあります」

「何だ。言え」

 珍しいと思った。

 碌に願い事など口にしない巌のような男だ。こうして真正面から願い事があると言われたのは、長い付き合いで初めてかもしれない。

 いつもルルーシュが無茶な我儘を言って、ジェレミアはずっと振り回されてきたのだから。

 

 ジェレミアはルルーシュの両手を取った。

「もうこの家に泊まるのは止めて下さい。私には————こんな装飾過多な屋敷に泊まるのは耐えられません。趣味が悪すぎます。ブリタニアから数日分の保存食を持ってきましたし、それで足りなければ私が買いに行きますから」

 見慣れたつむじを見下ろす。

 この政情下で、明らかにブリタニア人にしか見えないジェレミアが買い物に行くとどうなるか、この男が分からない訳が無い。その上で自分の我儘でもう枢木邸には泊まらず、必要なものがあれば自分で買いに行くと言っているのだ。

 

 シャワーで冷え切った体がほんのりと温かくなる。

 一人で戦わなくてはならないという重荷がすとんと落ちた。その安堵感は凄まじかった。

 今や二人で戦っているのだ。たとえ敵が何であっても、そうそう負けはしないと思えた。

 しかし顔には出さず、部下のお願い事を寛容にも聞いてやった上司という体で鷹揚に頷く。

「————しょうがないな、いいだろう」

「ありがとうございます」

 深々と下げられた頭の上で鼻を啜る。

 視界不良だ。しかし唇を噛みしめて耐えた。情けない真似を晒してなるものかという、半ば意地だった。

「っよし、行くぞ」

「はい」

「ああ、あと。枢木ゲンブにもう殺気は向けるなよ。面倒なことになるからな」

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………イエス、ユアハイネス」

「お前が俺の命令に即答しなかったのって何気に初めてじゃないか?」

「そうかもしれませんね」

 ジェレミアは微笑んだ。

 

 しかしこれは、怒気を間違ってもルルーシュに向けないよう自制するために、表情だけを取り繕っているのだろう。ジェレミアは怒っている。それもこれまでの長い付き合いの中で、ぶっちぎりの一番に。

 証拠に目は全く笑っていない。かっぴらいた眼は血走っており、額には血管が浮いている。

「お前……割と怒っているな」

「ええ」

 ジェレミアはにこりと微笑んだ。

 

「あの男の手足を切り落として、目を抉って、鼻と耳を削いで、内臓を引きずり出して、ペニスと睾丸を切り落として、肺に穴を開けて、口に自らの臓物を突っ込んでやりたいくらいには、怒っています」

 

「…………」

 淡々とした声は、明日の天気でも話しているような口調だった。

 ルルーシュは少し後ずさり、そうか、と返してナナリーを迎えに行くべく足を動かした。

 

 それ以上の言葉を聞く必要は無かった。

 何しろ言葉にできない程の憤怒を抱えていることは、煌々とした目つきから容易に察せられたので。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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10. 後悔ならある。やっぱり自分の手で殺したかった

 その日が来ることは既にルルーシュによって予測されていた。

 

 真夜中のことだった。夏のこととはいえ風は強く、空気は少し肌寒い。

 薄暗い土蔵にはまともな灯り一つなく、日本軍を示す軍刀を腰に佩いた兵士達は容易に取り囲むことができた。

 

 この作戦を拝命した分隊の分隊長は、子供2人と男1人がこの中にいると聞いていた。

 作戦では黒髪の姉の方は生かして確保し、茶髪の妹は処分。男は処分してもよいが、困難であれば放置しても良い。いずれにしても物音を立てず周囲に気づかれない内に終わらせること。

 日本軍総司令官である枢木ゲンブから渡された写真は3枚。整った顔立ちをしているが、普通のブリタニア人の姉妹2人。そして精悍な顔をしたブリタニアの男1人。

 

 男の写真に添付されていた軍歴を思い出し舌打ちする。ブリタニアが誇るナイトオブラウンズや、皇族の選任騎士と比較すれば格下なのだろうが、厄介な男だ。最前線経験者でありながら際立った怪我も無く生き残っている。貴族出身の士官とはいえ、全くの無能ではないらしい。夜戦や奇襲にも慣れているだろう。

 さらに今回の作戦は機密性が高く、拝命されたのは1分隊、計6人と割り当てられた人数も少ない。

 まあ2人の子供を護らなければならない男1人相手に、6人で夜に紛れて奇襲するのだからそう苦戦もしないだろうが。

 

 全ての班が所定通りの位置に音も無く配置したことを無線で確認した。

 古びた土蔵を見やる。土蔵は燃えにくい構造ではあるが、四方八方から火炎放射器を浴びせれば多少の耐火構造など意味も無い。ターゲットが住んでいる建物ごと丸焼けにしてやった方が確実である上に楽だと男は思っていた。

 しかしそういう訳にもいかないのだろう。首相直々に姉の方は生かして捕縛しろと命を受けている。理由は知らないが、一人はブリタニアの皇族を生かしておかなければならないらしい。

 そう命令されたなら、そうしなければならない。政治に軍隊は首を突っ込むべきではない。藤堂のようにこそこそと影で桐原と繋がっているような真似は、軍人として相応しくないのだ。

 

 自身のSMGを握り締める。握り慣れたグリップの感触に息を吐く。

 枢木首相直々に下された任務に失敗は許されない。ターゲットの幼いブリタニア人は娘と同い年だが、男に躊躇は無かった。

 口元に無線を当てて、視線は土蔵の汚れた扉から離さない。

「突入カウント、3, 2,」

 

 シュン

 

 絹が掠れるような音が聞こえて、なんだと首を振った。虫の羽音にしては鋭く一瞬の音だった。

 しかしその音は一瞬で終わり、耳を澄ましてももう聞こえない。

 やはり虫か何かか。気を取り直してカウントを続けようとする。

 

 次の瞬間横に立っていた兵士の首に穴が開いた。

 首から血が噴き出る。千切れた白い動脈が皮膚の下から厚紙のようにぺらぺらと捲れて見えていた。

 力を失い崩れる体を目の当たりにして、射撃元と思われる位置を振り向きSMGの銃口を向けながら後ずさる。撃たれた兵士は悲鳴を上げて地面をのたうちまわっていた。

 雑草が生い茂っているせいで視界はこの上なく不良。風に草が煽られて擦れた音をたてる。段々と力を失い死体と化していく兵士の横で、他の4人もSMGを茂みに向けた。

 

 視界不良とはいえ、未だ血を噴き出す死体の首に空いた穴は真っすぐな弾道を描いていた。粗方の方向は予測できる。

 落ち着け、落ち着け。土蔵にいたのは3人。9歳の子供1人、12歳の子供1人、軍人経験のある男1人。

 実質的な戦力は男1人だけだ。事前に兵の動きを察知して子供2人を違う場所に移し、1人ここで迎撃しているのか。

 ならば皇族の子供2人はどこだ。

 この男を捕縛して尋問するか。それともここで処分して子供2人をゆっくり探すか。隊長は一瞬思案し、否定した。

 男に向かって銃を乱射したとして、大事になれば作戦の意味が無くなる。

 それより一時でも早くこの場を離れて皇族の子供2人を捜索、発見し、離脱した方が良い。

「各班散開、皇族を探、」

 兵士達の背後から土蔵に隠れていたジェレミアが銃弾を撃ち込んだ。

 その場で3人が倒れる。残り1人と分隊長が土蔵を振り返り、ジェレミアの姿を見つけて銃口を向けた。しかしグリップを握り締める手が撃たれた。

 防弾手袋を着用しているとはいえ骨が砕けるような痛みが走る。銃弾の衝撃で手が解いてSMGを取り落とし、舌打ちしながら腰に手をやる。

「くそっ」

 拳銃を構えながら銃弾が放たれた方向を見やる。同時に首元に熱く焼けるような痛みが走った。草むらに向けていた眼球がゆっくりと上転する。瞼の裏の瞬く光の粒が手元に現れる。急速に回転する星屑に眼が回り、意識が遠のいていく。全身の感覚が遠ざかる。

 

 星屑が形を変える。仕事仲間、知人、上司、部下———友人、家族。

 家族。妻と幼い娘。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 地面は血を吸ったせいで赤黒く染まっている。色を変えた地面に墨を落としたように点々と横たわる死体の中、ジェレミアは一人立っていた。

 首元の動脈が千切れた死体から、日本軍のエンブレムの入った軍刀を抜き取る。星明りに翳すと、よく手入れされているのか曇り一つない。片刃の刀身には西洋剣にはない凄みがある。

 ジェレミアは茂みに向かって声をかけた。

「ルルーシュ様、終わりました」

 草を割りながらルルーシュはナナリーを背負ってジェレミアの方へと近づいた。

 しかし地べたに倒れる死体を見てすぐさまナナリーの鼻を覆った。

「お兄様、どうされたのですか?」

「なんでもないよナナリー。それよりここはもう危険だ」

「危険?」

「————ブリタニアが日本への侵略を開始する。戦争だ。ブリタニア人の俺たちは、日本人の敵になったんだよ」

「そんな……」

 ルルーシュは手慣れた動きでナナリーを隠してあった車椅子に乗せた。

 その隙にジェレミアは6つの死体を土蔵に運ぶ。それなりに体格の良い死体ばかりであったが、ジェレミアはひょいひょいと運び入れた。

 

 車椅子を押して、土蔵から少し離れているが目は届く位置にナナリーを運ぶ。

 あまり離れたくないが危険性を考えると今は土蔵から離れていた方が良い。

「お兄様、この臭いはどうしたのですか?」

「子供に悪戯されたみたいだね。何だろう。ペンキみたいなものが家に塗りたくられてるんだ」

「まあ。そうなのですか」

 ナナリーは気分が悪くなる程周囲に充満する鉄の臭いに顔を顰めて服で鼻を覆った。

「すぐにここから逃げるからね。ナナリー、すまない。暫く不便な思いをさせてしまう」

「いえ。私は大丈夫です。お兄様と、ジェレミアさんがいますから」

 ナナリーは気丈に微笑んだ。戦争と聞いても明るいナナリーの笑みにルルーシュも微笑み返す。

「じゃあこれから出ていくための準備をするから。ちょっと待っていてくれないかな」

「分かりました」

 車椅子から少し離れ、ルルーシュはあらかじめ用意していたトランクを手に取った。保存食に衣類、シーツ、ガスコンロや鍋など、これから過ごすだろう数日、下手をすれば数週間のサバイバル生活を過ごすために最低限のものを詰め込んである。

 死体を全て土蔵に運び入れたジェレミアは日本の軍刀を片手に持っていた。

「お見事でしたルルーシュ様」

 率直な賛辞に口角を吊り上げる。拳銃を握ったのは1か月振りだが、腕前はそう鈍っていなくてよかった。

「射撃はそれなりに練習していたからな」

「しかし一発目は外しましたね」

「……うん」

「今度練習しましょうか」

「………」

 こいつの教え方スパルタなんだよなあ。

 ぼんやりと思いながらルルーシュは話を逸らした。

「そういえばお前どうやってブリタニアから拳銃持ってきたんだ。それも2丁も」

「シュナイゼル殿下に頼みました」

 全く答えになっていない。しかし説得力があるのはどうしてだろう。

 ジェレミアの背後に美しい顔で微笑むUMA・The・シュナイゼルの姿が見えたような気がして、ルルーシュは寒気を感じ体をさすった。

「うん。それはまあいい。それよりこうなればブリタニアは早いぞ」

「そうでしょうね。ブリタニア皇族が殺されたと名目を手に入れて……2,3日といったところでしょうか」

「あの国であれば既に出撃している可能性も否定できんが。まあ、妥当なところでは5日以内といったところか」

 よし、とルルーシュはトランクを土蔵から持ち出した。

 

 この1か月近くを過ごした枢木家を見やる。これまでの人生で最も濃い1か月だった。

 ここで過ごすのもこの日が最後だろう。しかし湿っぽい感傷は欠片も湧いてこない。むしろ清々する。

 

 出来得ることなら本邸ごと爆発炎上して欲しいと思う程に忌々しい場所だ。是非ブリタニア軍には全力を以て枢木邸を空爆してほしい。勿論スザクが避難した後に。

 

 ————スザクはどうなるんだろう。

 

 ルルーシュは思い浮かんだ疑念を振り払った。馬鹿なことを考えるな。

 スザクは自分達と一緒にいる方が危ない。枢木家次期当主としてブリタニア軍に追われ、ブリタニア人と一緒にいるとして日本人から非難され。両方から標的にされるなど、あの頑丈な子供でも耐えられないに違いない。

 

 自分達と一緒にいなければ、キョウト六家の一つである枢木家の次期当主………いや、当主であるスザクは他の五家に保護される可能性が高い。そうなれば、たとえ戦争になったとしてもそう命の危険はない。

 

 細眼で枢木邸を見やる。スザクは生まれて初めての、友達と呼べる人だった。

「———じゃあな。スザク」

 小さく呟き、ルルーシュはジェレミアに向き直った。 

「今回の襲撃は何とかなったが、次はどうなるかは分からん。この先私達は暗殺の可能性に晒され続けることになる」

「そうでしょう」

「となれば逃げるしかない。だが今の状況では困難だ。ここには枢木ゲンブがいる。警備も厚い」

 両の手を骨が軋む程に握り締める。

 

 これは単に後からつけた理由だ。嘘ではないが本当の理由でもない。

 ただ自分がけじめをつけたいだけだ。出来得ることならなら自分の手で八つ裂きにしてやりたいが、現状では状況的にも腕力的にも不可能に近い。

 自身の復讐を部下に頼む程に醜い行為は無かろうが、最早手段を選ぶつもりは無い。

「よって混乱を起こす。ジェレミア、この邸の警備を一人で抜けられるか?」

「はっ」

 ジェレミアは不遜にも胸を反らして即答した。なんとも傲慢な言い草だ。

 しかしそのくらいでこの男は丁度いい。たった一人しかいない騎士が謙虚に「自分なんて」などと言うような態度では、こちらが困る。

「監視カメラは切っておいてやろう。ジェレミア・ゴットバルトに命じる。枢木ゲンブを殺してこい。30分以内だ」

 ジェレミアは満面の笑みを浮かべた。

 頬に大きく皺を寄せて口を歪に開いた、なんとも恐ろしい笑みだった。

「イエス、ユアハイネス!」

 

 

 

 

 

 ジェレミアが枢木邸に向かうと同時に、ルルーシュはジェレミアが日本に持ってきた端末で枢木邸の監視カメラを切り替えた。

 枢木邸に泊まっていた際に、外部から監視カメラの映像を切り替えられるよう細工を加えていた。その小さな細工をちょちょいとつつく。リアルタイムの映像から自然に誰も映っていない廊下と部屋の映像に切り替わり、現実の様に映し出され始めた。

「これでよし」

 あとはジェレミアの腕によるが、その点はあまり心配していない。

 

 ここ数日、枢木邸内の警備は減っている。最近枢木邸に泊まっていなかったルルーシュが、いつ何時「今日は枢木邸に泊まりたい」と言い出すか分からなかったため、枢木ゲンブ直々の命で減らされているのだ。

 今日はナナリーを暗殺するつもりだったのだろうから、ルルーシュが枢木邸に泊まりたいと言っていればゲンブにとってみれば好都合だっただろう。

 容易にルルーシュとナナリー、そしてジェレミアを引き離すことができ、ナナリーだけを殺せばよいのだから。

 

 しかしそうはならなかった。

 ルルーシュは6つの死体を孕んだ土蔵を見やる。

 

 悪い思い出が多いが、悪いばかりではなかった。しかし総体としてみればやはり怒りが何より勝る。

 ガスコンロを取り出して火を起こす。

 

 ブリタニアは何としても戦争を始めなければならない。戦争を起こすためならば、3つの筈の死体が6つだろうと、子供の死体でなく大人の死体だろうと、「皇族は日本人に殺された」という事実を現実として作り上げるだろう。

 あの国はいつだって勝つためには手段は問わない。

 認めるのは癪だが、その血は確かに今もルルーシュの中で脈々と息づいている。

 

 紙に火をうつして、よく乾いた土蔵の骨組みに内部から火をつける。数か所に火をつけた後、外からも火をつけた。

 小さな火は段々と燃え盛り、煌々と夜を照らした。

 

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 

 枢木スザクは今日こそ父と話すために廊下を歩いていた。

 あまり政治のことは分からない。でも父のせいで、日本がブリタニアと戦争しかけていることは分かる。

 戦争はしたくない。もし戦争になったら、ルルーシュとナナリーは日本の敵になってしまう。

 そうなったらもう、今までの様に3人———最近では保護者のブリタニア男(変態疑惑)を含めて4人———で過ごすことが出来なくなってしまう。

 それは嫌だった。ルルーシュはスザクのこれまでの人生で、一番の友達だった。

 ルルーシュはとっても綺麗で頭も良いのにどこか抜けている同い年の子供だ。

 気位が高く、スザクを野蛮人だのアウストラロピテクスだのと罵る癖に、一緒に遊ぼうと土蔵に行って無下に断られたことは無い。

 川に突き落としたり虫を投げたりして揶揄うと白い顔を真っ赤に膨らませて怒るが、頭を下げて謝ると案外簡単に許してくれる。これは多分ナナリーが自分を慕ってくれているからだろうけれど。

 

 そんな年相応に幼い所もあるが、時折ずっと遠くを見ているような、不思議なところがある。心のどこかがいつもひんやりと冷えていて、周囲全てを睥睨しているような感じがするのだ。

 よくは分からないけれど、あれが生粋の皇子様というやつなのだろう。

 

 ルルーシュ、そしてナナリーと一緒の今の幸福な生活を少しでも長引かせるために、戦争は止めないといけない。

 日本の首相は日本で一番偉い。だったらこれまで戦争をしようと考えていた父が、明日から戦争をしないと決めれば戦争にならないかもしれない。

 スザクはただ純真にそう思っていた。

 

 父はいつも書斎にいる。寝室も兼ねているそこは、しかし父の仕事場という印象の方が強い。

 スザクはあの部屋が苦手だった。絵が飾ってあって絨毯もきれいだけれど、薄暗く、どこか重苦しい雰囲気がある。それに書類に塗れたあの部屋は、自分より仕事が大事なのだろう父を直視するようで嫌だった。

 

 昔一度、学校の友達のように一緒に蝉取りに行ったり海に行ったりしたいと書斎にいる父にねだりに行ったことがある。

 意を決して扉を開けると、父は書類に埋もれるようになりながら一心不乱に仕事をしていた。

 その時は父に言葉をかけることはできず、そのまま扉を閉めて逃げるようにその場を去った。

 小さい子供のように駄々をこねて父を困らせることは、間違っていると思ったから。

 

 だが今日こそスザクは苦手な書斎に足を踏み入れようと決めていた。

 自分の頭で悪いと思ったことは、これは悪いことだと口にしないといけない。じゃないとただ傍観しているのと同じだ。

 戦争は悪い。だから父に戦争をしないで欲しいと言うんだ。

 

 背伸びをして書斎の扉に手をかけた。そのまま引く。

 扉の隙間からこれまで嗅いだことのない変な臭いがむわりと広がる。腐ったレバーのような嫌な臭いだ。

 思わず腕で鼻を覆う。何の臭いだろうと部屋を覗き込んだ。

「父さん?」

 いつも薄暗い部屋だが、今日は真っ暗だ。何も見えない。

 灯りを探して部屋に入る。

「父さん、どこ?」

 壁を沿って動くと指先に電灯のスイッチが当たった。

 そのまま押す。

 急に明るくなった部屋の中心に、人だったらしきものが鎮座していた。

 

 それが人だと、一目見た時スザクは気づかなかった。

 楕円形の巨大なボールのような形状をしている。そしてその隣にずっと小さい球体が一つ。それは頭だった。

 天井を仰ぎ見ているような眼窩に嵌っていた眼球は潰されており、耳も、鼻も削ぎ落されている。口だっただろう穴には暗赤色の物体がいっぱいになる程に詰め込まれており、そこから凝固しかけている血液がゆっくりと流れ落ちている。雪だるまを横に倒したように並ぶ二つの球体の横に、四肢が放射線状に行儀よく並べられていた。

 むせ返るような鉄の臭いと、健康によく食事をしていたことを示す腸の内容物の臭いが混ぜ合わさり部屋を満たしている。

「う、あ、」

 スザクはその場にへたり込んだ。

 これまでただ平穏な暮らしをしてきたスザクには、目の前の光景は許容範囲を大きく超えていた。

 

 どうしよう。どうしよう。父さんが。

 

 むせ返る臭いにその場で胃の中のものを全て吐いた。胃酸の鼻を突く臭いが汚物と血の臭いに混じる。呼吸するだけで喉が痛い。

 床に這いつくばると、父だったものの眼窩が目の前にあった。

 切り裂かれた眼球から粘調性の液体が流れていた。二つに割れた瞳から伸びる視線を遮る様に、床に日本刀が突き刺さっている。藤堂が見せてくれた日本刀と同じエンブレムが描かれていた。

「—————これ、は」

 藤堂は日本軍の兵士にだけ配られる軍刀だと言っていた。刃には酸化して赤黒く変色した血液が大量こびりついている。

 日本軍の兵士にだけ。

 日本の。

 

 父さんは戦争をしようとしていた。

 でもそんな人ばかりじゃないとルルーシュは言っていた。

 日本人でも戦争したくないと言っている人もいると。

 

 そうだ。ルルーシュは。

「————ルルーシュ、ナナリー」

 ルルーシュはブリタニアの皇子だ。ナナリーは皇女。

 戦争をしたくないと思っている人がいるとして、その人が父さんを殺したとして、ルルーシュはどんな目に遭わされるんだろう。

 無理やりブリタニアに帰されるんだろうか。そうしたら、もう会えないのかな。

 寂しい。

 でもそれなら、もう日本人に石を投げられたり殴られたりすることはなくなる。

 それならもう、会えないのはしょうがないのかもしれない。

 

 でも、でも。父さんをこんな風に殺した奴が、ルルーシュをちゃんとブリタニアに帰すんだろうか。

 分からない。

 

 なんにも分からないよ!俺はルルーシュみたいに頭が良くないんだから!

 

 スザクは立ち上がって、よろめきながら部屋の外へと出た。

 力が入らなかった足は段々と歩みを速め、そのまま走り出す。ぐんぐんとスピードを上げる。ルルーシュにこれからどうしたらいいのか聞きたかった。

 子供とは思えない速度で、スザクは土蔵へと走った。

 

 土蔵には火が付いていた。まだ小火程度だが、今日は風が強い。このままだとこの土蔵は燃え落ちるだろう。

「ルルーシュ!ナナリー!」

 迷いなく中に飛び込む。肌が焼けて熱い。熱いを通り越して痛い。

 しかしスザクは痛みなど感じなかった。まだルルーシュとナナリーがこの土蔵で寝ていたら、という焦りが全ての感覚を凌駕していた。

土蔵の中を見回す。床には大人の死体がいくつも転がっていて、ひ、と小さい悲鳴が漏れた。

 口を押えながら恐る恐る顔を覗き見る。一瞬のあの変態ブリタニア男かと思ったが、しかし顔を見ると全く違った。鼻の形も髪の色も明らかに日本人だ。

 

 もしかするとこいつらが父さんを殺したのか。

 そしてルルーシュも殺そうとしてここに来て、あのブリタニア男に返り討ちにされたのか。

 だとすると、ルルーシュとナナリーはもうここから逃げ出したのか。

 

 スザクは炎を吹き始めた土蔵から飛び出した。周囲には火事だと騒ぐ大人たちが集まっている。

 スザクを呼び止めようとした人もいたが、全て無視して走り出した。

 地面に残る二つの車輪の跡を追う。すぐに草むらに入っていったために車輪の跡は見えなくなったが、草の折れている方向や、木の枝が折れている位置からなんとなくどこに向かったのかは分かる。

 ルルーシュとナナリーを守らないと。

 

 スザクはただ一心にそう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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11. 今でも新発見のUMAとして雑誌に投稿すべきじゃないかと思ってる

 土蔵全体に火が燃え移る前にジェレミアは帰ってきた。

 30分ぎりぎりまで粘ってから帰ってきたところを見るに、相当楽しんできたらしい。見慣れたスーツから服装を替えて戻ってきたジェレミアは晴れ晴れとした顔をしていた。

「服は?」

「大丈夫です、燃やしました!証拠は残していません!」

 見ると土蔵を燃料に煌々と燃え盛る炎の中に、つい30分前に着ていた服が捨てられている。ブリタニアから持ってきていたスーツと手袋は質こそ良いがもう薄汚れていた。だが火の隙間から覗き見えた服の切れ端は、薄汚れているというレベルでない。どす黒い。

 何の汚れかは口にせず、ルルーシュは頷いた

「………うん。お疲れ」

「いえ、すっきりしました!」

 一仕事終えた土方のように近年稀にみるほど清々しい顔をしている。ジェレミアは怒らせたら怖い男だという情報を脳に刻んでおいた。これまではいくらルルーシュが無茶や我儘を言おうと大して怒りもしなかったために気づかなかった。

 これからはできるだけキレさせないようにしよう。ルルーシュは一人誓った。

「ちゃんと始末してきたか?」

「はい!」

「そうか。じゃあ行くぞ」

 背筋を伸ばすジェレミアを従わせて、ルルーシュは草むらで佇むナナリーの元へと戻った。

 何が起こっているのかもよく分かっていないナナリーは憔悴した顔をしていた。できることなら何の不安も無い安全な家で、温かいミルクを飲ませて柔らかいベッドで寝かせてやりたい。

 しかしそんな未来は寝て伏しているだけでは絶対にやって来ない。

 草むらをかき分けて歩くルルーシュの足音に気づいたナナリーは顔を上げた。

「ナナリー、すまないね待たせて」

「いいえ、大丈夫です。お兄様、もう戦争は始まってしまったのですか」

「あと数日と言ったところだろう。しかしそうなる前に逃げないと————ナナリー」

 ナナリーの髪を撫でる。滑らかだった髪はこの数日のせいで艶を無くし絡まっていた。指で優しく解して整える。

「これから辛い日々になるかもしれない。食べ物も、寝るところも不便になる」

「……はい」

 ナナリーは小さく拳を握った。痛みに耐えるような顔にルルーシュも胸が痛くなる。

 自分よりさらに体力が無く小さいナナリーには、土蔵での生活でさえ困難だった。今以上に過酷になるだろう生活にナナリーがどこまで耐えられるのか、ルルーシュも分からない。

 しかし戦争になるのならば、ナナリーには耐えてもらうしかない。

「でも俺とジェレミアはいつでもナナリーの味方だ。いいかい、何かあれば俺かジェレミアに言うんだ。体が痛いでも、熱があるでも、お腹が空いたでも。何でも言って欲しいんだ。いいね、ナナリー」

「—————ええ、分かりました。でもその代り、お兄様も何かあればちゃんと私に言ってくださいね」

「ああ、約束だ」

「約束です」

 ナナリーは唇だけで微笑み、少し目を伏せながら頷いた。

 

 よし、とルルーシュは現在の枢木邸の場所、そして地理を脳内に弾き出す。

 今後ブリタニアが攻めてくれば、同じように山に逃げる日本人は多くなる。そうなれば目鼻立ちからして明らかにアジア人ではない自分達は目立つ。見つかる可能性も高まるだろう。

 できるだけ他の人が通らず、ブリタニアが侵略を開始してから爆撃を受ける可能性の低いルートを考える。

 結果はすぐに出た。ブリタニアはまず間違いなく海から攻めてくる。航空母艦から戦闘機を放って制空権を奪取し、一気にKMFで陸上を蹂躙しにかかる可能性が高い。

 となれば人気のない参道を通って尾根伝いに海の反対側に出よう。空爆されると山火事になる可能性が高い。川の近くを通った方が良い。

「ジェレミア、荷物を持て。俺はナナリーの車椅子を押す」

 ルルーシュはそう言って車椅子のグリップを握った。ジェレミアは巨大なスーツケースに詰め込まれた荷物を抱える。

「よし、行こう」

 ルルーシュの号令で、3人は燃え上がる土蔵を後にした。

 

 入口までしか行ったことのない森は深く、柔らかい土のせいで足取りは重い。先を歩くジェレミアが邪魔な木の枝や石を横に避けてくれているが、それでも移動速度は速いとは言えない。

 朝日が昇る前に登山客や山菜取りの近隣住民なんかが来ない程度に奥深い場所まで行きたいのだが、慣れない山歩きはルルーシュの体力を奪っていく。滴る程の湿気と、汗のせいで服が肌に貼り付く不快感が相乗効果で体力をみるみる減らしていく。

 とはいえジェレミアにナナリーと自分をおぶらせて、さらに荷物を運ばせるような真似はできない。突発的な事態が起こった際に唯一の戦闘要員となるジェレミアの体力には余裕を持たせておきたい。

 自然と歩む速度は遅くなる。その分、できるだけ人が通らないルートを選びながら3人は足を進めた。

 

 それから4時間程度は歩いただろうか。牛歩のような速度ながらも、予想通り誰にも遭遇せずルルーシュは逃亡を続けた。ゆっくりと息を吐く。

 このままいけば朝陽が昇る前には川に到着するだろう。そこで一旦休憩して基地を作ればいい。

 ここから先には特に名所があるわけでもなく、人が寄り付くような場所ではない。ゲンブを殺してから知らず知らずの内に張っていた緊張の糸が緩む。

 

 しかし獣道をジェレミア先導のもと歩いている時、突如として突進する猛牛のような足音が静かな森に響き渡った。ルルーシュとジェレミアは体を強張らせた。

 即座にこれまで歩いてきた道を振り返る。柔らかな土で埋め尽くされている獣道には自分達の足跡さえ残っていない。見えるのは乱立する木々だけだ。しかし軽い足音は長い間人の踏み入れていない山の土に足を取られているような気配もなく、飛んでいるような軽快さで迫り寄ってくる。

 鼓動が耳元で鳴り響く。早すぎる。枢木の追手か。

「……ルルーシュ様、私の背後に」

 ジェレミアは一歩前に出てルルーシュとナナリーを背後に隠した。

 周囲を見るも今ルルーシュ達が歩いていたのは整備されていない獣道で、辺りには大人の腕程度の細い木がびっしりと生えているだけだ。隠れられそうな岩や太い木々などは無く、長い間人の手が加わらなかったために腐葉土のようになった土が地面を覆い尽くしているのみ。

「殺害を許可する。無茶はするなよ」

「イエス、ユアハイネス」

 ジェレミアはルルーシュを背後に庇って拳銃を構えた。しかしジェレミアがブリタニアから持ってきた弾数はそう多くない。敵数が多ければ素手で相手をしなければならなくなるかもしれない。

 そうなればいくらジェレミアとはいえ完全にルルーシュとナナリーを護りきることは困難だろう。ルルーシュは怯えるナナリーの前に立った。そのルルーシュの前にさらにジェレミアが立つ。

 足音が近づく。激しい勢いで迫りくる足音に震えながら耳を澄ませていたナナリーは、大人にしてはあまりに軽い足音に首を傾げた。

「あれ?お兄様、この足音は」

「聞き覚えがあるのかい、ナナリー」

「はい。土と草のせいではっきりとはしませんが、これは……スザクさんの足音です」

「は?」

 嘘だろう?

 ルルーシュはしかしその可能性を考えた。

 

 こちらの移動はそう速くなかった。またスザクはあんな性格だから、小さい頃からこの山で遊びまわっていた可能性は高い。ここらの森についての地理はルルーシュよりある筈だ。

 さらに父親が殺害された現場に遭遇したのであれば、土蔵に死体を捨てて逃亡したルルーシュによる父の殺害を疑って追跡してくる可能性も否定できない。

 追跡してきたとしてスザクはどんな行動をとる?

 通報するつもりか?いやスザクは携帯を持っていない。警備兵を連れているのなら追いつくまでにもっと時間がかかっている。ならば父を殺された復讐のために追ってきたのだろうか。

 いずれにせよ歓迎はできない。

「っ、ジェレミア、命令を変更!殺さず無力化しろ!」

「死ななければ良いのですか?」

「できる限り後遺症も残さない方法で、だ!」

「イエス、ユアハイネス」

 ジェレミアは拳銃を懐に仕舞い仕込みナイフを取り出した。無表情のまま行われた流れるような仕草にルルーシュは顔を引き攣らせた。

 普段のジェレミアはただの度が過ぎる程に真面目な気の良い青年だ。古き良きブリタニア人らしく紳士的で、大体の物事に対して勤厚に接している。

 しかし仕事中、殊にルルーシュに関する軍務中は話が別だ。

 ヨーロッパでもそうだったが、こいつは大事なものと大事でないものの差が酷い。そして大事なもののトップは『ルルーシュの安全』であり、二番目が『ルルーシュの命令』だ。ルルーシュの命とあらばジェレミアは生まれたての赤子でも顔色一つ変えずに殺す。

 知り合いである枢木スザクもその例外ではない。

 

 ジェレミアが戦闘態勢に入ってから数十秒後、スザクが木の隙間から姿を現した。汗だくになりながらこちらの姿を認め、一目散に駆け寄ってくる。

 ジェレミアはナイフを掌に隠して腰を深く落とした。

 喉が鳴る。いくらスザクの戦闘の才能が優れていたとしても、スザクは未だ人一人殺したことのないただの子供だ。ジェレミアが負けることはありえない。

 ルルーシュが心配しているのは別のことだった。そうだ。スザクは優れているのだ。もしジェレミアが手加減しきれなかったらどうなるのだろう。

 ルルーシュにとって一番大事なのはナナリーで、その次にジェレミアがいる。その優先順位だけは絶対に覆らない。だからジェレミアに「無傷でスザクを捕縛しろ」などとは言えなかった。もしその命令のせいでジェレミアが怪我をしてしまったら、それはこれまでのジェレミアの自分への献身を無下にすることになる。

 何よりジェレミアが自分のせいで傷つくのは嫌だった。

 ジェレミアが無傷でスザクを失神させることができればそれが一番良いが、しかしもしスザクが後遺症が残るような怪我をしてしまったら。

 首を振る。それは自分の責任だ。

 

 スザクが駆け寄ってくる。眉根が垂れ下がり、顔を泣き出しそうなほどに顰めている。スザクは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

「ルルーシュ!大丈夫!?死んでない!?」

 ジェレミアは何事も無かったかのように直立した。

 無表情のままルルーシュを見やる。ルルーシュは小さく首を振り、ジェレミアはナイフを袖の内へと静かに戻した。

「スザクお前、どうして来たんだ!」

「る、ルルーシュ」

 ルルーシュが声をかけるなり、スザクは親鳥を見つけた雛のようにおろおろと目を瞬かせながら全身を震わせた。酷く狼狽している。少なくともこちらを攻撃しようとする様子は無い。

 ルルーシュは『突如土蔵が日本軍に襲撃されたため止む無く逃げている』という体でスザクに近寄った。

「み、見に、行ったら、土蔵が燃えてて、死体があったから、不安になって…ナナリーは無事?」

「スザクさん、私は大丈夫です」

「はぁ、よかった」

 ルルーシュとナナリーの無事を確認してスザクは膝から崩れ落ちた。ルルーシュの4時間にわたる移動を1時間未満の時間で追いついたのだろう。スザクの全身は汗だくだった。

 しかし汗が噴き出る程走ったにも関わらず、その顔面は蒼白だ。寒さに打ち震えているように唇をぶるぶると戦慄かせ、言葉が纏まらないまま口を開いた。

「ルルーシュ、父さんが、父さんが」

「父さん?枢木首相か。どうしたんだ」

「父さんが、殺されたんだ。家で、ぐちゃぐちゃになってた」

 ナナリーは息を呑んだ。ジェレミアは痛ましいものを見るような顔でスザクを見やった。

 

 勿論ジェレミアが痛ましいと思ったのは枢木スザクにだけだ。

 ジェレミアはこれまでの人生で最も激しく呪わしい、全身の血液全てが沸騰するような怒りを30分で吐き出すべく枢木ゲンブを短い時間でできる限りぐちゃぐちゃにした。

 だが四肢を千切って、目を潰して、鼻と耳を削いで、腹から引きずり出した内臓を口に詰めても滾る怒りは欠片も治まらなかった。今でも思考の奥に怒りが澱となってこびりついている。きっとこの憤怒と自分は生涯付き合ってゆかなければならないのだろう。

 当然、自分のしたことに全く後悔は無い。

 しかしながらスザクにあの死体を見られたとなれば、思うところが無いわけでもない。12歳の子供が見るにはあまりにショッキングな絵だったという自覚はある。暫く夢に見てもおかしくない。

 全く後悔は無いが、せめて扉に鍵でもつけておけばよかった。

 

 一人静かに自省するジェレミアの横で、ルルーシュはスザクの背中を摩った。

「ぐちゃぐちゃ?」

「手と足が、無くて。眼とか、耳とかも———っ」

「スザクもういい。喋るな」

 思い出して吐気がぶり返したのか、スザクは地面に崩れ落ちて掌で口を覆った。顔色は白を通り越して青く変色している。新兵が初めて戦場で死体を見つけたような反応に自責の念が湧く。

 スザクは自分のせいで、普通の子供なら体験する筈も無い酸鼻を極めた場面に遭遇する羽目になったのだ。

「吐きたいんなら吐け。その方が楽になる」

「ゔ、おぇ、」

 もう何も吐くものが残っておらず、スザクは胃酸を地面にぶちまけた。

 そのまま落ち着くまで背中を撫でる。

 暫くしてようやくスザクは徐に顔を上げた。

「———ルルーシュ、」

「落ち着いたか?」

 未だに顔色は悪いままだったが、スザクは首を縦に振った。

「ルルーシュ、僕、どうしたらいいんだろう」

「————それは、」

「父さんを殺したの、多分、日本の人なんだ。死体の横に、日本軍の人だけが持ってる日本刀が刺さってたんだ。だから多分、そうなんだと思う」

「スザク、気持ちは分かる」

「っ、何が分かるってんだよ!」

 スザクはルルーシュに掴みかかった。

 ジェレミアが諫めようとしたが、ルルーシュが掌で制した。怒りの矛先をどこに向けたら良いのかも分からないぐらいスザクは混乱しているだけだ。

 本当はゲンブを殺したのは自分で、スザクの怒りは正当なものだ。しかしスザクがそのことに気づいていないというのならばルルーシュにとっては都合のいいことだった。

「父さんは日本の首相なのに、日本人に殺されたんだ!どうして!」

「枢木首相はブリタニアとの開戦を望んでいた。戦争をしたくないという人もいるだろう」

「でも、だったら!戦争したくないなら、人殺しだってしちゃだめじゃないか!」

「それは理想論だ。数万人が殺される事態になるくらいなら一人の人間を殺した方が良いという意見もある。それは間違いじゃない。しかし、」

「じゃあなんだよ!」

「正しくも無い。枢木首相が殺されようともう戦争は回避できない。俺たちが暗殺されかけた時点で、もう開戦することは決まっている」

 

 ルルーシュはスザクの瞳を真っすぐに見つめた。碧の瞳は大粒の涙を幾つも流している。

 スザクは心優しい純粋な子供だ。ちょっと視野狭窄なだけで、戦争も人殺しも厭う普通の子供でしかない。

 首相の子供などに生まれていなかったら、そして枢木首相があそこまで馬鹿でなければこんな目には遭わなかった。

 ————憐れなのだろう。しかしスザクには今子供らしく怒って混乱している余裕は許されない。

 

「ジェレミアのおかげで未遂にはなったが、日本軍によって暗殺が行われた。それだけでもブリタニアにとっては立派な開戦の理由になる。それどころか土蔵が燃えたことで俺たちが殺されたと思っていてもおかしくはない」

「だったらルルーシュは無事だってブリタニアに言えば、」

「そうすれば俺とナナリーは殺される。今度はブリタニアにな」

 スザクは言葉を失い、自嘲するルルーシュから手を離した。

 せせら笑うルルーシュはいつも一緒に遊んでいるルルーシュとは別人のようだった。ずば抜けて頭は良いのだけれど、ルルーシュは年相応に我儘も言うし頑固になったりもする。ジェレミアが来てからはさらにルルーシュの子供っぽさは顕著になった。

 しかし今のルルーシュは自分と同年代とはとても思えなかった。もっと年上の、冷たい人のように見えた。

「そもそも、俺とナナリーは戦争の原因となるために日本に来たんだ。日本人に殺されるために。それが生きていたとなればブリタニアにとっては不都合だ。ブリタニア軍と合流したらその瞬間に殺されて『日本人により殺された皇子と皇女の死体を奪還した』と本国に報告されるだろうよ」

 鼻で笑う。

 膨大なサクラダイトという資源のためなら、大量に存在する皇子皇女の内2人ぐらい捨てても問題はないとあの国は考えるだろう。

 だから自分たちはこれから3人で生きていくしかないのだ。ジェレミアとナナリー以外に、もうルルーシュが心から信じられる人間はいなかった。

「だからスザク、枢木邸に戻れ」

 項垂れるスザクにルルーシュはできる限り優しい声で諭した。

「枢木ゲンブが死んだ以上、枢木家の当主はお前だ。今戻れば開戦しても他のキョウト六家から保護を受けることができる」

「でも、」

「俺たちと一緒にいてもお前は何の役にも立たない。きっとお前も、嫌な思いをする。良いことは無いんだ」

 納得できずスザクは黙り、地面を見つめた。

 

 答えを出すまで待ってやりたいが、時間は許さない。

 ルルーシュはできる限り早く、遠くへと逃げて、ブリタニアが日本を襲撃するまでの間、追手から逃げ続けなければならないのだ。

 戦争さえ始まれば、日本は既に死んだ枢木ゲンブに構っている余裕は無くなり、生きている日本国民を守ることが最優先になる。死んだ枢木ゲンブのため、土蔵で焼死したと思われる皇族をわざわざ深い森を分け入って捜索する余裕があるのは、開戦までのほんの数日程度だ。その日数間だけ逃げ切ることができれば生き残れる確率は大幅に上昇する。

 黙るスザクに、ルルーシュは背を向けた。

 

 その瞬間ひゅるるるるるる、と、花火が打ち上げられるような陽気な音が周囲一帯に響き渡った。

 その音にはどこか聞き覚えがあった。

 なんだったっけと瞬間、思い悩む。

 その後ろでジェレミアは懐かしい思い出を瞬時に引っ張り出し、顔を青ざめさせた。

「は?」

「ルルーシュ様!」

 ジェレミアはルルーシュを地面に倒した。ナナリーも車椅子から降ろしてできるだけ頭を低い体勢にさせる。

「おい、まさか、この音」

「間違いありません!」

 

「対地ミサイルです!!」

 

 スザク以外の三人が身を伏せたのと同時に、花火を打ち上げるようなどーんという音が響いて地面が揺れた。木々が文句を言うように騒めく。

 揺れが収まったのを確認して直ぐに体を起こし、ルルーシュは大きな音に怯えて体を縮こませてるナナリーに近寄った。幸いこの場所は着弾点から離れていたようで、目に見えて怪我は無い。

 その後もミサイルの発射と着弾の音が景気良く鳴り続ける。その音はよく聞くと遠く、少なくとも半径300mには着弾していないように聞こえた。

 だとすると狙いは住宅街だろう。ルルーシュは立ち上がって走りだした。その後をジェレミアが追う。

 

 木々が鬱蒼と茂った森を走り抜けると、見通しの良い高台に出た。視界を邪魔する木々は無く、森の麓から街並み、その向こうに広がる海までが一つの視野に収まる。ルルーシュは日本の街を見下ろした。

 森の麓には住宅地が並んでいる。よく買い物をした住宅街に、殴り飛ばされた道路が網の目の様に張っている。その向こうには青々とした海が広がっている。

 見慣れた住宅地は、しかしその幾つかが爆風で吹き飛んでいた。燃えた木材が飛散したのだろう、赤い炎がぽつぽつと点在しており煙を空高く吐いている。

 煙を辿る様に空を見上げると蠅のように小さな戦闘機がぶんぶんと旋回していた。さらに海の向こうから黒い小さな点がいくつも迫り寄ってきている。

「航空母艦かっ」

 段々と大きくなっていく点から、さらに小さな点が飛び立っていく。それら全ては戦闘機だ。大型空母だろうあの航空母艦は戦闘機のみならず、内部にKMFを格納している。

 敵軍が対空戦を開始する前に制空権を奪取し、陸地はKMFで徹底的に蹂躙する。ブリタニアお得意の超速物量作戦だ。

 どこの軍隊かなど疑う余地も無い。

 

 ルルーシュは小さな拳を握り締めた。予想より早い。早すぎる。

 まだ自分達が暗殺されかかってから4時間だぞ!ブリタニア本国から全速力で飛ばしても到着している筈が無い!

 だとすると境界領域に既に潜ませていたのか。しかしどうやって。

 日本だってレーダーくらい装備しているだろうに、警備の目を掻い潜り、何隻もの航空母艦を潜ませるなんて不可能だ。

 

 しかし一つ分かっていることがある。

 

「…………あぁぁぁあああああにいいいいいうううううええええぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

 これは間違いなく、あのUMA・The・シュナイゼルの指揮だ。

 舌打ちする。一体どこまで読んでいたのか。そもそもゲンブを唆したのがシュナイゼルだったのか。いや、ジェレミアを日本に送り込んだところからその掌の上だったのか。

 いずれにせよ結果的にあのUMAのせいで、いやおかげで、………しかし感謝するのは気持ち悪くて嫌だ………とりあえずシュナイゼルによりルルーシュ達が日本軍の追手から逃げ隠れる日々は短縮された。

 しかし、しかしだ。

 拳を握り締める。

 これでスザクがキョウト六家に保護されることはほぼ不可能となった。

 

「くそ、くそっ」

 ルルーシュは振り返って叫んだ。

「スザク!」

「え、何?」

「一緒に逃げるぞ!」

「え、は?」

「この調子だと枢木家周辺はすぐにブリタニア軍に制圧される。そうなれば枢木家当主のお前は捕縛されて人質コースまっしぐらだ!さっさと逃げるぞ!ジェレミア!」

「はっ」

「車椅子はこの時を以て放棄する!お前はナナリーを背負え!ナナリー、ジェレミアから手を離すなよ!スザクはそこの荷物を持て!走るぞ!」

「イエス、ユアハイネス!」

「え、え?」

「その荷物には一週間分の食料が入っている。絶っ対に落とすな!お前が谷底に落ちても荷物だけは死守しろ!いいな!」

「ええと、うん」

「よし逃げるぞ!全速力だ!」

「………ええと、ルルーシュ」

「何だ!?」

「———ありがとう」

 おずおずと切り出した感謝の言葉にルルーシュは一瞬目を丸くし、目を伏せた。

 スザクの顔が見れない。瞼の裏にゲンブの死体が見えるようだった。

 呟くようにルルーシュは答えた。

「気にするな、友達だろう」

 

 一人身軽に走り出したルルーシュは、しかしすぐに体力切れを起こしてジェレミアに抱きかかえられて移動する羽目になった。

 子供二人を抱えた青年と、大量の食糧とサバイバル用品を抱えた少年は、驚異的な速度で奥深い森の中へと姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 街並みという風を遮るものが無いためか、秋口の寒さは例年より酷く感じられる。

 そこかしこで未だに煙を吐いて燃えている家があるというのに、おかしなことだとジェレミアは腕をさすった。

 

 ジェレミアは最前線が通過し、廃墟と化した住宅街で民家を漁っていた。

 もう天井も壁も無くなった家は、どこまでが玄関でどこからが居間だったかすら分からない。しかし奇跡的に残っていた服や靴のデザインから、おそらくは老夫婦でも住んでいたのだろうと推測された。

 家の中心で焼け焦げた2体の死体を前に日本式に両手を合わせる。スザクもそれに倣って隣で両手を合わせた。

 黙祷の後、よし、とジェレミアは声を出した。

「私は台所を探す。スザク、君はシーツや衣類を探してくれ」

「うん」

 スザクは素直にジェレミアが指示した方向に向かった。

 流石に1週間を超える逃亡生活で自分に対しての警戒心は薄らいだらしい。何よりそんな余裕が無くなったせいだろう。

 食料も、衣類も、燃料も、何もかもが足りない。

 

 森の中は水こそ手に入れられるが、他には何もない。そしてその水も衛生的とは言い難く、子供達にはできることなら煮沸消毒してから飲水してもらいたいが、ガスコンロの残り燃料は少ない。

 ジェレミアは台所だったと推察される位置に向かい、破裂していない水道管と繋がっている蛇口を探した。

 しかし奇跡的に残っていた蛇口を捻っても水の一滴も出なかった。ここら一体のインフラはブリタニアにより制圧されて供給が止められている可能性が高いというルルーシュの推測は合っているようだった。

 残念に思いながら焼け焦げた棚や食器棚を探す。運よく見つけた日持ちの良さそうな焼き菓子といくつかのパンを抱えてジェレミアはスザクを探しに向かった。

「スザク、何かあったか」

「布団と服があったけど、サイズが小さ、」

スザクは息を呑んだ。

 障子が燃え落ちている押入れを覗いた瞬間に、焼け焦げた小さな死体が落ちてきた。

 押入れに入って遊んでいたのだろう。スザクの腰あたりまでしかない小さな死体は両手で焦げたぬいぐるみを握り締めていた。

 スザクは悲鳴を上げながら死体を叩き落とした。ほとんど炭化していた死体は崩れて炭となり、焼け焦げた畳の上に散った。スザクは子供だったものが炭へと破壊される光景を目の当たりにして、震えながら地べたに倒れた。ジェレミアは目を細め、スザクを支えて起き上がらせた。

「————気をしっかり持て。慣れろ」

「な、慣れろって」

「自分が助かることを第一に考えるんだ。他のことは気にするな」

 ジェレミアは床に落ちていたベビーベッド用らしい布団と、幼児用の服を抱えた。森はブリタニア兵の目から自分達を護ってくれたが、寒さからは護ってくれない。防寒のための布はいくらあっても足りない。

「そろそろ次に行くぞ」

「………はい」

 スザクはのろのろと歩き出した。

 ジェレミアは昔の自分を思い出した。

 

 初陣のヨーロッパで散々な目に遭い、生まれて初めて死体を目にした。

 士官学校を卒業しており、少尉として軍隊訓練を受けていた自分でさえ酷く衝撃を受けた。こんなに幼いスザクであれば尚更だろう。

 それにこの戦場は、これまで経験した戦場の中でも殊更に酷い。

 

 家から出ると焦土と化した日本の大地が視界に広がる。

 焼けた家に、泣き叫ぶ子供達、路傍に落ちている焼けた死体。無数の蛆がたかっている死体に寄りすがる子供達。上空から戦闘機は無くなったが、死肉でたっぷりと肥え太った烏が旋回している。

 数少ない生き残りは無言のまま民家を粛々と略奪している。彼らの目に入らないよう、ジェレミアは拾った帽子を深く被って背を丸めた。

 それからいくつかの民家を漁り、見つけた食料やシーツを二人で抱えた。

 陽が落ちる前に戻らなければならない。

 

 足早に森へと戻りながら、スザクはぽつりと呟いた。

「……ジェレミアさん」

「なんだ」

 こうして名前で呼ばれるのは初めてかもしれない。

 散々に変態だのブリ鬼だのと呼んできたのに、いきなりさん付けとは。調子が狂う。

「人を殺したこと、あるの」

 ジェレミアは歩みを止めずに口を開いた。

「ある」

「どうして」

「生き残るためだ」

「—————」

 スザクは口を閉ざし、大きな背中を見上げた。

 

 ルルーシュを暗殺しようとした日本兵を殺したのはこの人だろう。あの貧弱なルルーシュが人を殺せるとは思えない。

 しかしスザクにはジェレミアが人を殺している様子が想像できなかった。

 この1週間、突然逃亡生活に子供が一人増えたことへ彼が不満そうな様子を見せたことは無かった。

 口が一つ増えたせいで食料の備蓄がみるみる減っていくというのに、ジェレミアは自分の食料を減らして子供3人に渡すことまでした。

 ジェレミアは4人の中でたった一人の大人として、一番多く働いている。それだけでなく、大人は子供よりもっとお腹が空くだろうに。ジェレミアは文句ひとつ言わなかった。

 だから認めたくは無いが、この男は優しい人なのだろう。見た目は怖いしブリタニア人だが、そのくらいのことは分かる。

 でもそんなに優しいこの人でさえ人を殺したのか。なんで。どうして。

「ジェレミアさんって、強いんだよな」

「まあ。そこそこには」

 そこらの一般兵に負けはしないという自負ならある。

 しかしナイトオブラウンズと比較すればはっきり言ってしまえば雑魚だろうという自己認識もあった。結果的にそこそこという評価に落ちる。

 ジェレミアの自己認識は貴族にしては珍しく自惚れておらず、しかし卑下する訳でも無く到って冷ややかなものだった。戦場に身を置いていると過剰な自信は浮足立たせて寿命を短くし、過度な卑下は栄達の機会を奪うと本能的に察することができるようになる。何よりルルーシュの選任騎士候補としてナイトオブラウンズと戦場を同じくすると、自身が彼らと比較し劣っていることなど言われずとも理解できた。

 

 スザクはジェレミアを見上げた。自分よりジェレミアはずっと身長は高くて筋肉がついている。ブリタニアでの彼の戦歴は知らずとも、藤堂と同じように強い軍人だということはなんとなく分かった。

「じゃあ殺さないで済ますことってできなかったのか」

「できない」

 はっきりとジェレミアは返した。

「たとえ後から殺さないで済んだと分かったとしても、その瞬間には命の危機を感じていた。ならば殺すのが正しい判断だ」

「っそんな目に遭っても、死にたくないものなの?」

「死にたくないな」

「どうして」

「死んではルルーシュ様を守れない」

 4人で隠れ住んでいる洞穴まであと少しだ。

 ジェレミアは荷物を抱え直しながら話し続けた。

「私は騎士だ。命の最期の一瞬まで、主君に捧げる義務がある」

「………騎士って、何?」

 見上げてくるスザクの眼をジェレミアは見下ろした。

 そう単純な質問をされると少し困る。

 

 騎士とは何か。この子供が知りたいのはブリタニアにおける騎士の既得権益やKMFの操縦資格のことではないのだろう。ジェレミア自身もそういった財産や権利が騎士に直接的に関わりがあるとは思えなかった。

 騎士という文化に慣れ親しみの無いこの日本人の子供にどう返答していいのか悩み、ジェレミアは迷いながらも徐に答えた。

「————主君に寄り添う者だと、私はそう思う」

「よりそう」

「騎士とは主君を助け、時に諫め、諭し、しかし絶対的に味方となる者だ。私はルルーシュ様の騎士として、そうそう簡単に死ぬわけにはいかない」

「………ふうん」

 よく分かっていなさそうな様子でスザクは目を瞬かせた。

 

 まあ、そうだろう。スザクはごくごく一般的な日本人の子供で、騎士という概念を理解するのは難しい。

 ルルーシュでさえ騎士を単なるビジネスライクな部下としか思っていなかった節がある。

 しかし騎士とは本来職業を指す言葉ではない。騎士とは生き方だ。そういう意味では日本のサムライやブシに近い概念なのかもしれない。

 

 スザクは首を傾げながら、じゃあと言葉を続けた。

「もしルルーシュが死んだらジェレミアさんはどうするの?」

「復讐する」

「え」

「復讐する」

 淡々とした口調の返答に絶句するスザクを前に、当然だとジェレミアは微笑んだ。

「ルルーシュ様は年齢的にみても私より先に死ぬということは無いだろう。もし私より先にルルーシュ様が死ぬと言うことは、私がルルーシュ様を護れなかったということだ。騎士として主君を護れなかったのならせめて復讐は成し遂げたい」

「———でも、そんなことをしてもルルーシュは喜ばないよ」

「分かっているさ」

 スザクの頭をぽんぽんと撫でた。

「もしルルーシュ様が殺されたら、私は私のために復讐するだろう。私がルルーシュ様にお仕えしているのも決してルルーシュ様のためだけじゃない。私がルルーシュ様にお仕えしたいと望んだからそうしているんだ。結局は私のためなんだよ」

 だから、とジェレミアはスザクの持つ荷物を取り上げた。

「ルルーシュ様が君と一緒に逃亡すると決めたのならば、それは私の望みでもある。スザク、君は子供なんだからそう遠慮することは無い」

「……」

「碌に食べ物も無いのに、君は働きすぎる。今日はもう休みなさい」

 ジェレミアは優しい。ブリタニア人だが信頼もできる。しかしどこか恐ろしい。

周囲にあまりいなかった性質の大人に、スザクは黙ってついていった。

 

 

■ ■ ■

 

 

 現在拠点としているのは森の中にある小さな山小屋だ。4人で入ると丁度良いぐらいの大きさの山小屋は、以前は近隣住民が倉庫として利用していたのだろう。のこぎりやザル、軍手などが放置されている。

ジェレミアは扉をリズムよく叩いた。

「———ジェレミアか」

「はい」

「よし、入れ」

 扉が内側から開かれる。薄汚い服を身に纏ったルルーシュが中から現れた。その顔色は悪い。食料不足に加えて、ナナリーの体調が悪いことがルルーシュの気鬱の一番の原因だった。

 奥へと入るとこの中で最も体力が無いナナリーがシーツの上に横たわっていた。

「おかえりなさい、ジェレミアさん、スザクさん」

「只今帰還致しました、ナナリー殿下」

「帰ったよナナリー」

 スザクは民家から奪った毛布を手にナナリーに真っ先に駆け寄った。床に毛布を敷いてその上に寝転ばせる。

 か弱い外見のナナリーが逃亡の日々で体調を崩してく様に憔悴しているのはルルーシュだけではない。これまで身の回りお姫様らしい女の子がいなかったスザクは、ナナリーを気にせずにはいられないようだった。

 

 ジェレミアは物資を床に置いてルルーシュと共に確認する。少ないが食料と衣服、それと毛布が1枚あった。詰めれば子供3人なら寝られるだろう。ルルーシュはほんの少し頬を緩めて労わる様にジェレミアの肩を叩いた。

「ご苦労」

「恐縮でございます」

 ルルーシュは水の入ったカップをジェレミアに出した。毛布の上で転げまわっているスザクにも渡す。

 

 ジェレミアは手渡されたカップに目を落した。川から汲んできたのだろうが、それにしては澄んでいる。残り少ないガスを使って煮沸消毒したのであればこれは貴重な水だ。生水を飲んでもそう体調を崩しはしない程度に頑丈である自分が飲むわけにはいかない。

「ルルーシュ様、私は」

「暇だったから濾過装置を作ったんだ。燃料もとうとう尽きてきたからな。煮沸消毒していないから大量には飲むなよ」

 そう言ったルルーシュの横で疲れ切っていたスザクは大量の水を一気に飲み干した。

「ルルーシュ、おかわり!」

「……まあ、スザクなら大丈夫か。ナナリーは気を付けろよ。体調が悪くなったらすぐに言うんだ」

「はいお兄様」

「ジェレミア、お前もな」

「軍隊の訓練で泥水まで飲みましたから。大丈夫ですよ」

 とりあえずスザクとジェレミアに心配はいらないようだ。ルルーシュはちびちびと水を飲んだ。

 

 その後それなりの食料がそれぞれに配分された。ジェレミアはその食料を子供達に分けようとしたが、ルルーシュから止められた。

「お前は大人なんだから、本来なら俺達より食べなきゃいけないんだ。それが俺達より食べないなんてどういうことだ。痩せるぞ」

「多少痩せても平気です」

「あのな、お前に栄養失調でぶっ倒れられたら困るのは俺たちなんだ。だからちゃんと食え。少なくとも俺たちと同じくらいは食べてくれ」

 ルルーシュの珍しい懇願にジェレミアは言葉を返すことができなかった。

 ルルーシュの言うことは最もだ。

 

 もし今ブリタニア軍に襲撃されたとして、まともに戦闘できるのはジェレミアとスザクぐらいだろう。

 しかしスザクはただの少年でしかない。それもどちらかというと心優しい部類に入る。襲い掛かられたからと言ってそうそう容易に“殺す”という判断は下せない。

 必要と判断すれば一切の抵抗なく人殺しができるのはこの場ではジェレミアとルルーシュしかいない。そして銃弾が残り少ない現状で、ルルーシュは戦闘要員とはなり得ない。

 子供達3人を、ルルーシュを護れるのは自分しかいないのだ。

 ジェレミアは数枚のクッキーと缶詰という、少ないながら貴重な食料をゆっくりと噛みしめた。

 

「よし、じゃあ寝るぞ」

「ええ。おやすみなさいお兄様」

「もう寝るの?」

「灯りに使えるガスは残っていない。無駄な体力も使わない方がいいだろう」

 そろそろ日も落ちるという時間になり、今日持ってきた毛布の上で子供3人は並んで寝転んだ。

 中心にナナリー、その左にルルーシュ、右にスザク。ジェレミアは拾ったシーツや衣服を子供達の上にかけた。自分は確保した衣服を何枚か重ねて着込み防寒着の代わりにして床に寝転ぶ。

 一時間もしない内に静かな寝息が立ち込めた。

 床に寝転んで横並びに寝顔をシーツからはみ出している子供たちを見やる。無防備な幼い顔立ちが団子のように並んでいる様子は心を和ませた。しかし三人とも薄汚れていて、一週間前よりずっと痩せた。

 シーツの中でルルーシュが蠢いた。起こしてしまったかとジェレミアが視線を背けようとするも、その前にルルーシュが目を開けた。

 暗闇の中で菫色の瞳は瞬いているようだった。小さな星が瞳の中に見えたような気がした。

 ルルーシュはシーツから手を出し、ジェレミアが着込んだ服の袖を引っ張った。

「お前も寝ろ」

「ええ、もう寝ます」

 微笑むと、ルルーシュはジェレミアの腕を引っ張った。

「寒いだろ。詰めればもう一人ぐらい入る」

「いえ、それは難しいのでは」

「ほらシーツに入れ」

 シーツをめくって手招いた。

 中々入ろうとしないジェレミアに、ルルーシュは苛立ったように床を叩く。

 しょうがなくおずおずとジェレミアはシーツに潜り込んだ。体の半分がシーツから出ているが、体の下に引いた毛布は暖かい。確かに床に寝るよりはマシだ。

 スザクとナナリーを起こさないようルルーシュはジェレミアの耳元で小さく呟いた。

「もうすぐ移植民が入ってくる。それまでの辛抱だ」

「ええ」

 もうここの地域はブリタニア軍によって殲滅され尽くしている。戦争自体はもう暫く続くだろうが、ここら辺りはすぐにでもブリタニアの占領地となってブリタニアからの移植民はすぐに増えるだろう。そうなればブリタニア人はそう珍しく無くなる。

 そしてそうなればブリタニアと日本の行き来は楽になる。死んだ皇族であるルルーシュとナナリーはともかく、ジェレミアならば問題なくブリタニアに帰還することができる。

「———なあ、ジェレミア。戦争が終われば」

 ジェレミアはルルーシュの言葉を遮る様に指を唇に押し当てた。

 長い付き合いだ。ルルーシュが何を言おうとしているのか何とはなしに予測できていた。そしてその言葉を言うことがどれだけルルーシュにとり苦痛であるのかも理解できるつもりだった。

「この国にとっては不幸なことでしょうが、もう少しでこの地域はブリタニアの占領地となります。移植民が急激に増えれば戸籍の管理も甘くなるでしょう。その中に混じって、3人で生きてゆきましょう」

 ルルーシュは喉をせり上がる感触に目を閉ざした。

 

 どうしてこの男はここまで尽くしてくれるんだろう。

 

 ルルーシュはどうしたってそのことが理解できなかった。明晰な筈の頭脳は空回りしてちゃんとした答えを出してくれない。自分がジェレミアのためにしたことなんて数える位で、それだって上司として当然のことばかりだった。

 父親だって、母親だって、兄妹だって、こんなに優しくしてくれた人はいなかった。なのにただの部下だったジェレミアがこうして傍にいる。何もできない無力な自分を護ってくれている。だからまだ自分は生きている。

 

 マリアンヌに初めて戦場に連れて行かされた時、世界はとっても理不尽だと知った。この世界は生きづらくてしょうがないようにできている。

 でも大事な人がいつも傍にいたから前を向いていられた。

 そして今もナナリーとジェレミアは傍にいる。こんな、何もできない無力な自分の傍に。

 

 自分はどうやって報いたらいいのだろう。ルルーシュはそう考え、自分でも突拍子も無いように思えることが口を突いた。

「なあ、ジェレミア」

「はい」

「叙任式、しないか」

 ジェレミアはぱちくりと目を開いた。

 しかしすぐに嬉しそうに微笑んだ。

「はい」

 ジェレミアはシーツからすぐに這い出た。

 今すぐにとは言っていなかったのに気が早いにも程がある。

 しかしルルーシュも別に嫌ではなかった。

 

 部屋の中ではスザクやナナリーを起こすかもしれないと2人は外に出た。

 空気は冷たいが凍える程ではない。住宅が全て焼け落ちたために星の光を邪魔する光が無くなり、星空が異様に綺麗に見えた。しかし遠くからは銃撃の音や悲鳴が聞こえてきて、ここは戦場であると否が応でも思い知らせてくれる。

 ルルーシュは目の前で地面で臣従礼を取るジェレミアを見下ろした。

 

 豪華絢爛な式は挙げてやれなかった。観客はいない。剣も礼服も無い。まるでままごとのような式だ。

 ラッパの代わりに銃声が鳴りやまず、拍手の代わりに悲鳴が響く。ブリタニアの皇族貴族がこの光景を見れば唖然とするか嘲笑するかのどちらかだろう。

 しかしこれで自分達には十分だった。自分がいて、ジェレミアがいる。叙任式に足りないものなど何も無い。

 そのことがようやく分かった。ジェレミアが自分の騎士になるために必要なものはとっくに揃っていたのだ。

 

 朗々とルルーシュは誓文を読み上げた。

「ジェレミア・ゴットバルト、汝ここに騎士の誓約をたて、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの騎士として戦うことを願うか」

「イエス、ユアマジェスティ」

 突如飛び出したマジェスティの呼称に驚くルルーシュに、ジェレミアは声を潜めて笑っているようだった。

 驚かされたことに対する微かな苛立ちと、そして喜びに口角を吊り上げてルルーシュは何事も無かったように続ける。

「汝、我欲を捨て、我、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの正義を貫く為の剣となり、盾となることを望むか」

「イエス、ユアマジェスティ」

 迷いなく返答し深々と首を垂れるジェレミアの肩にルルーシュは手を置いた。

「私、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは汝、ジェレミア・ゴットバルトを騎士として認める」

 

 その瞬間をジェレミアはどう表現して良いか分からなかった。手先が震えて涙が滴った。

 ルルーシュに認められた。これで自分はルルーシュの第一の騎士だ。

 権利も、金も、名誉も、そんなものは今やどうでもいいことだった。欲しくないとまでは言えない。しかしそれらがどれだけ容易に失われるのか多くの人は気づかない。もっとずっと確かで稀有なものをジェレミアは手に入れた。

 ルルーシュという人物を誰よりも見続けてきたジェレミアは、彼の存在の傍に寄り添い続ける権利を得たことを何よりも歓喜した。

 差し出された白い手に口付けを落として、ジェレミアは強く瞼を結んだ。

 

 

 



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12. お前の第一印象は”胡散臭いイケメン”だったな

 戦争は未だ続いている。しかしもう勝敗は決まったようなものだ。

 

 散々に破壊しつくされたこの街に復旧の目途は立っていない。今も爆撃で倒壊した建物の下には痛みに呻く人々が埋まっている。

 ルルーシュは海辺に立っていた。砂浜はお世辞にも美しいとは言えない。瓦礫があちこちに散乱しており、戦車の足跡のように腐乱死体がぽつぽつと落ちている。遠目には物々しいブリタニアの戦艦が見え、容易く敗北した日本の軟弱さを嘲笑うように周囲を睥睨していた。

 ルルーシュの隣にはスザク、そして少し後ろにはジェレミアとナナリーが佇んでいる。

 耳を欹てると崩壊した建物の下から救助を求める声が小さく聞こえた。この暑さでは脱水ですぐにも死んでしまうだろう。浮きそうになる体を諫めて目を閉じる。

 助ける余裕は無い。自分だけでなく、日本人でも救助を試みている人間は見当たらなかった。

 瓦礫の隙間を虫のように蠢く日本人達は皆、一心不乱に落ちている布や食料をかき集めている。誰かに分け与えるなど端から考えず背を丸めて逃げるように歩き去る人々ばかり。

 しょうがない。誰も彼もが自分のことで手一杯なのだから。自分に余裕が無ければ他人を助けることなんてできやしない。掌を握り締める。

 

 隣で海を眺めているスザクを見下ろす。まさか12歳とは思えないような精悍な顔は一心に未だ青く澄んだ海を見つめていた。

 

 背後で車が停まる音が聞こえる。ドアが開き、人が出てくる。こちらを見守っているようだった。

 スザクはルルーシュに視線を移した。

「———ルルーシュ、これで」

「ああ」

 ここでルルーシュとスザクとは別れることになる。

 

 ルルーシュはアッシュフォード家へ向かい、スザクはここでキョウト六家からの使者を待つ予定だ。

 キョウト六家と合流できれば枢木家最後の一人となったスザクは正式に枢木家の当主となる。そうなれば日本がエリアになった後もキョウト六家から保護を受けることができるだろう。

 しかし既に最前線が通り過ぎて廃墟と化したこの場所まで、キョウト六家がスザクを保護するためやって来ると断言はできなかった。

 またキョウト六家がスザクに使者を向けたとしても、待っている間にブリタニア兵に捕縛されないとは限らない。

 

 ルルーシュは懐から手紙を取り出した。古式ゆかしい形式の封筒は今や本家ブリタニアでもあまり見られない。手紙には古臭い風習に則り複雑な模様の刻印が押されており、ブリタニア人ならば一目で貴族か皇族からの正式な文書であることが分かる。

 スザクの掌に手紙を押し付けると、首を傾げながらスザクは指先で手紙をぴらぴらとはためかせた。

「これは?」

「ブリタニアで俺の部下だったノート・マクスウェル子爵への手紙だ。もしブリタニアに捕まる様なことがあればこれを見せろ」

「ふうん」

 スザクは手紙を裏に面にくるくると回しながら物珍し気に眺めた。その様子に一抹の不安を覚える。

「絶対に無くすなよ」

「分かった」

「いいか、絶対に無くすなよ!」

「分かったって」

「無くすな!折るな!汚すな!いいな!?」

「ああもう、分かったよ」

 スザクは唇を尖らせて手紙を懐に仕舞い込んだ。

 

 便箋状の手紙に押してある刻印はヴィ家の印璽により刻まれたものであり、皇族からの最重要事項を伝える手紙だということが一目で分かるようになっている。全てブルーブラックのインクで書き記した手紙の最後には“神聖ブリタニア帝国第11皇子 ヴィ家当主ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア”のサインを入れ、正式なヴィ家からノート・マクスウェルへの任命書という形を取った。

 内容は古式ゆかしいブリタニアの作法に則ったため無駄に長くなったが、簡潔に言うと枢木スザクを保護しろという内容に尽きる。

 あの真面目で一本気なノート・マクスウェルであれば、既にマクスウェル家がヴィ家の庇護から脱した今でもルルーシュの懇願とも言える内容の手紙を無下にはしないだろう。

 万が一キョウト六家に保護される前にブリタニア軍に捕縛されても、この手紙を見せればそう無下な扱いはされまい。

 

 ともあれ手紙を無くしたら全て意味が無くなってしまうのだが。

 ルルーシュは深く溜息を吐いた。

「お前みたいなアウストラロピテクスがちゃんとキョウト六家に合流できるんだろうか……」

「いつまで引っ張るのそのネタ?」

「お前が進化するまでかな」

「そろそろ人類にしてよ」

「じゃあ……ポメラニアンかな」

「ちょっと待って。何がどうなってポメラニアンが出てきたの?」

「だってお前って柴犬にしては毛がくるくるしてるから」

「なんで犬になったのか聞いてるんだけど」

「絶対小型犬だろう。ジャックラッセルテリアにしては毛が長いし、かといってシーズー程ではないし。やっぱりポメラニアンがしっくりくる」

「何だよ!そんなこと言うならルルーシュだって、あの、猫の、ええと、目が青くて、プライド高そうな、」

 ええと、と言いよどむスザクに背後で佇んでいたジェレミアがぼそっと呟いた。

「……シャム猫」

「そう、それ!多分!」

「……スザクはともかくジェレミア、お前俺のことをずっとシャム猫みたいだって思ってたな。そうだろう」

 自身より遙かに身長の高い筈のジェレミアをルルーシュは睨み上げた。引き攣る様にジェレミアは笑みを浮かべる。

「まさかそんな。恐れ多い」

「じゃあなんで即答したんだ!」

「確かにお兄様は動物に例えるとだと猫かもしれませんね。スザクさんはワンちゃんで、ジェレミアさんは何でしょう?」

 うふふ、と笑うナナリーに一瞬で毒気が抜かれたルルーシュは無礼な発言をした部下を舌打ち一つで許してやった。ジェレミアは高い身長を縮こめさせた。ジェレミアの頬を示指で刺すようにつつく。

「ナナリー、ジェレミアが動物ならゴリラだよ。学名ゴリラ・ゴリラ・ゴリラのどこまでもゴリラだ」

「……承知しました。ゴリラで結構です」

 ゴリラと呼ばれて胸を抑えるジェレミアの後ろで黒い車が待っている。

 苦笑が零れる。こうして4人でふざけられるのもこの時が最後だ。

 

「ルルーシュ殿下、そろそろ」

「分かっている」

 アッシュフォードからの迎えに手を振る。スザクはナナリーの手を握った。

「スザクさん、お元気で」

「ナナリー、君も」

 堅く握られた2組の手は、しかし暫くして解かれた。

 ジェレミアはスザクに日本式のお辞儀をしてナナリーの車椅子を迎えの車へと押した。ナナリーは未だスザクの体温が残る両手を祈るように握り締めた。

 ルルーシュはただ一人浜辺に立ち尽くしているスザクを見やった。

 同年代と比較すれば逞しいとはいえ、こうして見ると声変わりも来ていない幼げな子供だ。ちらちらと碧に瞬く大きな瞳と、形の良い小さな鼻はスザクをさらに幼く見せる。事実こんな所に一人で放置しておくなんてとても考えられない程にスザクは未熟だ。

 

 しかしルルーシュは余計な考えを振り払うように首を振るった。ナナリーとジェレミアを護るためにはアッシュフォードの庇護を受けなければならない。たとえスザクが友達であっても、優先順位は覆らない。いつまでもここに残る訳にはいかない。

 ルルーシュは薄汚れた服から埃を払い、出来得る限りで優しい微笑みを浮かべた。

「じゃあな」

「うん。またね」

 手を振ると、スザクも振り返す。その顔には多少の不安と熱を帯びた決意があった。

 父親の死と向き合い、戦場を彷徨い、しかしそれでもスザクは純真な瞳をしていた。

 危うい程に無垢なスザクの瞳に瞬間目を見張り、しかしルルーシュは振り払うように顔を背けてアッシュフォードの車へと踵を返した。

 

 

 

 

 黒塗りの車はルルーシュが乗り込むと同時に動き出し、瓦礫を器用に避けながら去って行った。

 スザクは黒塗りの車が見えなくなるまで見送った。車が見えなくなると周囲に動く物は無くなる。すすり泣く声と遠くの騒めきは耳を澄ませば聞こえるが、今ここにスザクを邪魔するものは何も無かった。

 スザクは一度深く息を吐き、青い海を眺めた。

 瓦礫が散乱する海辺の向こう、海岸にへばりつく虫のようにブリタニアの軍船が停泊している。この周辺の人々の噂によるとあの船は日本人を捕縛し、本国に連れ帰って労働力にしているらしい。そう聞くと黒い軍船はまるでおどろおどろしい奴隷船のように思えた。

 スザクはその港へと足を向けた。

 砂に足が取られる。腐臭が酷い。しかし足は止めない。

 

 スザクには父を殺した日本軍、もといキョウト六家に保護される気は無かった。確かにキョウト六家に向かえば、ルルーシュの言った通り身の安全だけは保障されるだろう。

 しかしその代わりにスザクの自由は無くなる。それでは自分の夢は叶わない。

 

 スザクは戦争の無い地球を夢見ていた。

 

 戦争は父親を殺して、沢山の人も殺した。自分もルルーシュもナナリーもジェレミアさんも苦しんだ。

 テレビや新聞越しでしか知らなかった戦争はとても嫌な臭いがする、得体の知れない気持ちの悪いものだった。どうにかしてあれは無くさないといけないとスザクは決意していた。

 しかしだからといってどうすればいいのか分からない。

 

 日本は父さんを殺して戦争を回避しようとした。でも結局沢山の人が死んだというなら、日本は間違っていたんだ。間違った手段のせいで戦争が起こったんだ。

 だから自分は正しい方法で戦争を止めなくちゃならない。

 

 日本が間違っていたのならブリタニアはどうなんだろう。ブリタニアのことが知りたい。

 どうしてブリタニアは戦争を起こしたんだろう。戦争をしなくちゃならないような理由があったんだろうか。沢山の日本人が死んだけど、ブリタニアの兵も死んだ。そうまでして戦わなくてはならない理由は何だったのか。

 スザクには分からなかった。だから知りたかった。ちゃんと知らないと何が悪くて、何が正しいかなんて分かりはしないのだから。

 初対面でブリタニア人だからとルルーシュを殴りつけた失敗は二度としない。

 

 だから僕は、ブリタニアへ行く。

 

 スザクは振り返ることは無かった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 アッシュフォードが簡易的に停留している家は、日本人から徴発したのだろう、それなりに大きな一軒家だった。運よく爆撃や襲撃から逃れた家には広い庭があり、西洋風の門には繊細な意匠が施されている。元々は富裕層の日本人が所有していたのだと推測された。

 運転手にエスコートされるまま中へと入る。玄関には趣味のよい調度品が嫌味に見えないよう配置されていて、ペンドラゴンにあるアッシュフォード本邸とどこか似た雰囲気がした。

 日本風に靴を脱いで家に上がり、ルルーシュとナナリー、ジェレミアは使用人に案内されるままに居間へと向かった。

 歩きながらルルーシュはどうやってアッシュフォードは自分とナナリーの居場所を知ったのかと首を捻っていた。

 

 アッシュフォードからの使者と遭遇したのはつい数時間前のことだ。ルルーシュが物資の調達のために廃墟となった市街にいたところを、まるで最初から居場所を知られていたようにアッシュフォード家の使用人が声をかけてきたのだ。

 勿論警戒したが使用人はアッシュフォード家のサインの入った正式な手紙を持っており、信用せざるを得なかった。手紙の内容は無駄に冗長な表現を略してかいつまむと、もしヴィ家の兄妹がまだ生きているのなら是非保護させて欲しいというものだった。

 いくら大量の移植民が急激に入るとはいえ、あのUMA兄上の管理の下では戸籍を偽装して作るにしてもいくらかの無茶が必要になる。自分達の保護をしたいというアッシュフォードの申し出は確かに有難かった。

 他の貴族ならともかく、長い間ヴィ家と懇意にしてきたルーベン・アッシュフォードがルルーシュをブリタニアに売るとも考え難いことがルルーシュの背を押した。

 

 居間は広く一面に絨毯が敷いてある。部屋の中央には柔らかそうなソファがテーブルを囲むように配置されており、一人の男がソファに座っていた。優雅に足を組み、細い指でティーカップに紅茶を注いでいる。

 一瞬アッシュフォードの親類かと思ったが、徐に持ち上げられた顔を直視するとそんな考えは吹き飛んだ。

 その男の顔を見てルルーシュとジェレミアは硬直した。

 

 整った顔立ちに短く切り揃えられた艶やかな黒い髪、そして菫色の瞳。黄金比を体現するような容姿は異性同性関わらずに惹きつける。気品ある微笑みはその男の美しさをさらに増していた。いや、本当に男なのだろうか。ティーカップを持つ指先は女のように細く、体つきは折れそうな程に華奢だ。

 年齢は18から20前半のようだが、重苦しい風格とシャルルにも劣らぬ迫力は男をもっと年上のように見せる。

 

 しかしルルーシュとジェレミアが驚いたのはその男の美貌にではなかった。

 その男はあまりにルルーシュと似ていた。

 

 少し似ているなどという生易しいものではない。全く同じ顔だ。頬のラインから眉の形まで全てが同じだ。それどころか微笑む仕草から、立ち上がる動作までが全く同じだった。

「———貴公は」

「初めまして、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。お初にお目にかかる」

 その男は優雅に礼をした。声はルルーシュより低い。変声期を終えたことを示す低く響く声色は確かに男のものだ。しかし声質はよく似ていた。

「私はロロ。ロロ・ランペルージという」

「……ランペルージ?」

 ランペルージはマリアンヌの旧姓だ。

 何者だ。睨みつける。

「貴様、」

「そう警戒しないで頂きたい。簡単に言えば、俺は貴公らの従兄にあたるものだ」

 従兄。

 つまりはマリアンヌの兄妹の子供だということか。

 しかしそんな存在がいるとルルーシュはマリアンヌから聞いたことが無かった。

 

 とはいえ。ルルーシュは眉を顰める。

 そもそもマリアンヌの出自について知っていることの方が少ないのだ。庶民の出であり実家との縁が薄いという程度の知識しか無く、あの女も人の子であるのならば兄弟がいる可能性は否定できなかった。

 人間不信の気さえある程に警戒心の高いルルーシュでさえ、もしかしたらと思ってしまう。それ程にロロはルルーシュに似ていた。それはつまりマリアンヌに似ているということでもあった。

 

「俺はあまりランペルージの本家とは付き合いが無くて、伯母のマリアンヌとも数回しか会ったことが無いんだ。貴公が知らなくても無理は無いさ」

「———そうか。そうだとしてもロロ、貴方は何故ここにいる。親類に会いに来るにしてもあまり良いタイミングとは思えないが」

 このままでは話が進まない。ルルーシュはロロに話を合わせることにした。

 

 従兄云々はともかく、この男が只者でないことは確かだ。ルルーシュが膝を屈したシャルルの威圧にも似た雰囲気をロロからも感じる。ルルーシュはロロからナナリーを隠すように立ちはだかった。

 あからさまな警戒に、しかしロロは気分を害する様子も無くにこやかに話を続けた。

「従妹たちが日本で死にかけていると聞いてアッシュフォードに救助を頼んだんだよ。俺はアッシュフォードについてきただけさ」

「ランペルージ家は庶民だろう。どうやってルーベンに掛け合った」

「この顔だからね」

 ロロは自身の頬を指先でつついた。

「直接ルーベン公爵に交渉したんだよ。勿論君達の従兄だとすぐに信じてくれた訳ではないけれど、いずれにしろルーベン公爵は君たちを助けに行くつもりだったらしい。俺は君達の居場所を推測して使いを送ったまでだよ」

 それはともあれ。ロロはルルーシュの肩を叩いた。

「ルーベン公爵はもう少しで到着する。それまで暫く体を休めると良い」

「いや、もう少し貴公の話を聞かせて頂きたい」

 ルルーシュの言葉をあっさりと無視してロロの視線はナナリーへと向いた。

「ナナリー、君も疲れただろう。一度布団に入って寝ると良い。食事もある」

「……あの、ロロ、さん?」

「ん?」

「あなた、あの、どこかお兄様に……似ているような」

 ロロはナナリーの言葉に緩く微笑み、愛おしそうにアッシュブラウンの髪を撫でた。

「っ、ナナリーに触るな!」

 ルルーシュが叫ぶと同時にロロの細腕をジェレミアが掴んだ。そのままナナリーから引き剥がす。

 自身より小柄なロロをジェレミアは真上から睨み据えた。

「ルルーシュ殿下の従兄であろうとも、ナナリー殿下とルルーシュ殿下への御無礼は許しません」

 敵愾心も露に見下すジェレミアにロロは苦笑し、ひらひらと掴まれていない方の手を振った。

「危害を加える気は無い。ただ過酷な生活だっただろうから休憩を取った方が良いと思っただけだよ。君もね」

 ロロはジェレミアの背を叩いた。ジェレミアはロロの腕を離してナナリーとルルーシュを背後に隠した。

 気にする様子も無くロロは部屋の外に待機していた使用人を呼び、そのままルルーシュ達をベッドのある部屋へと案内するよう指示を出した。

 

 ルルーシュはロロを全く信用していなかった。いきなりお前の従兄だと言われてすぐに信じる筈が無い。

 だが長期に渡る戦場での生活にナナリーが疲れ切っていることは確かであり、一刻でも早く柔らかなベッドで休ませてやりたいのも事実だった。

 胡乱な男の言う通りにすることへ不満を持ちながらも、ルルーシュはナナリー、そして車椅子を押すジェレミアと共に部屋から出て行った。

 

 

 

 ロロはその部屋に一人残った。

 ナナリー達が使用人に連れられて部屋を出るまで見送った後、ロロは私達の方を見て苦笑した。

「暇なんだな、諸君」

 呆れた口調を隠しもせずロロは芝居のように大げさな仕草で両手を広げた。

「少し失礼だったか?悪かったな。しかし事実だ。もっと時間は有用に使え。健康に生きていられる時間はそう長くは無い。あの魔女のように不老であれば話は別だが、諸君らの中に正真正銘の不老不死だという人間はいないだろう?」

 さて、話が逸れたが。ロロは子供に言い聞かせるように声音を低めた。

「俺はこの話の脇役。ただの狂言回しに過ぎない。俺がいてもいなくてもこの話の展開はそう変わらない。あのルルーシュは俺ではないしな。————期待はしないでくれ。俺はもう、自分の役目は終えた人間だ」

 長く息を吐き、ロロはそのまま興味を無くしたようにソファに座り込んだ。

 

 しかし突如目を見開いてソファから立ち上がった。

「大事なことを忘れていた」

 軽く咳ばらいをして、ロロはこちらを指さし声を張り上げた。

「コードギアス劇場版『叛道』が2018年2月10日に公開される予定だ。劇場版では10年前の俺の活躍を大画面、かつ圧倒的な濃度で楽しめる。勿論10年前には無かった新作シーンも追加されているぞ。さらに『興道』のBlu-ray & DVDが2018年2月23日に発売予定だ。諸君、どちらもよろしく頼むぞ!」

 指先で私達を指さしたままロロはいつものように高笑いを上げた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「いっないなあぁあー。もー、キャンセラー適合者がいなーい」

 椅子を揺らしてV.V.は頬を膨らませていた。

 目の前には端末の画面が置かれている。広々とした部屋に置かれているのは机と椅子と端末、そして机に置かれた湯気の立つ紅茶しかない。

 寒々しい部屋でV.V.は一人で端末を弄りながら、ギアスの血統を持つ世界中の人間のデータを流し見ていた。

 年齢に見合わない、しかし外見相応の高い声は部屋によく反響した。

「ギアス適合者=キャンセラー適合者じゃないところがめんどくさいんだよねー。ギアスの血統を持つ人間でもキャンセラー適合率は低いことが多いし。むしろこうして見るとキャンセラーの適合者は庶民の方が多いくらいだし。探すの大変だよー」

 V.V.は愚痴を零しながら机にぺたりと頬を張りつけた。

 あまりに長い金髪が地面に擦れて埃を吸っているが、本人に気にする様子は無い。幼気な子供のような挙動も相まってV.V.は悪戯を企む子供のようにしか見えなかった。

「ブリタニア全土の人間を調べるのは無茶だし、効率悪すぎ。もうデータの手に入る人間からちょっとずつ調べていくしかないのかなぁ」

 ぷらぷらと足を振りながら端末に入っているファイルを開く。何度も眺めた皇族のデータが最初に出てきた。

「ルルーシュ、ゴミ。シュナイゼル、問題外。ナナリー、ギアス適正はありえないレベルなんだけどキャンセラーはカス。ユーフェミア、ギアス適合は滅茶苦茶良いんだけどね。オデュッセウス…この人って役立つ場面とかあるの?」

 ブリタニアの皇族から、次にヨーロッパ、中国、アフリカ。それぞれの地域の王族や皇族、名だたる貴族を探して回る。しかしギアスキャンセラーを発動できる程に適正のある者はいない。

 しょうがないと庶民を探していく。先ほどより膨大な数のデータが目の前の画面に現れた。あまりの数にV.V.は眩暈がした。

「多いなあ。人間って数が増えすぎだよ。だから社会システムが面倒になって戦争が起きたりするんだよ。もっと減ればいいのに……ああ、だから戦争が起きるのか」

 V.V.は頬を膨らませながらデータを探って行く。

 流石に一般庶民で詳細なデータが揃っている人間は少ない。しかし就職の際に健康診断の提出が義務付けられている政府職員と、定期的な検査が職務に含まれる軍人のデータは圧倒的に詳密だった。

「とりあえず軍人からかな。ビスマルク、ダメ。キューエル……誰これ。影も幸も薄そう」

 データは長々と続いていく。読んでいる最中にも新たなデータが排出され、果てが見えない。

 

 やや飽きながらもV.V.は羅列されるデータを読み続けた。

「ダールトン、メガネ。ブラッドリー、なんかやられ役な臭いがするんだよねこの人。なんでだろ。ジェレミア、539。モニカ………………は?」

 V.V.は惰性的にスクロールを続けていた画面を戻した。

 ブリタニア軍人、いや、最近退役したらしく元軍人と表記されているジェレミアという男のデータを再度見やる。

 

【ジェレミア・ゴッドバルト:ID 01305-61461971/0:ギアス適正<0.1, ギアスキャンセラー適正=539】

 

「適正539………うーん」

 V.V.は体を前後に揺らした。適正539。発動するかしないか微妙なラインだ。

 

 ギアス適正は1000以上あれば問題なく発動するが、500前後では厳しいという研究結果がある。キャンセラー適正も同様と考えるとこの男がギアスキャンセラーを発動できるかは完全に運任せだ。

 計画の確実性を考えると1000以上の人材を探したい。しかし500を超える人材でさえこれが初だ。キャンセラー適正1000以上の人材に拘ると、アーカーシャの剣の完成に間に合わないかもしれない。

 

 V.V.はしばらく悩み、よし、と起き上がった。

「改造すれば多少は適正値が上乗せされるよね。うん。そうしよう。アーカーシャの剣を開発しながらこの男を探して、見つけ次第半殺しにして改造すればいいや。あんまり焦っても良い事ないしね」

 

 楽園は逃げないんだから。

 

 V.V.は無邪気な顔で紅茶を啜った。

 

 

 

 

 

序 劇終

 



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番外編
うん。粗末じゃなかった。


「Another?」の方のルルーシュが性別を自覚した話です。
もったいないのでこっちにも上げときます。

ジェレミアがかわいそ羨ましい目にあっています。



 ジェレミアが日本に到着してから数日後、日本人からの洗礼を受けた。

 

『死ねブリタニア人!』

『ブリ鬼野郎に生きる価値なし!』

『さっさと死ねロリコンブリタニア男!』

『美少年少女と一緒に暮らすとかうらやま・・・じゃない!呪われろ!』

『逮捕されろ!』

『通報しました!』

 

 

 

「……何ですかこのペイントは」

「嫌がらせだな。まあ気にするな」

 ルルーシュは慣れたもので、扉からはみ出さんばかりに大きく書かれた悪戯書きを視界にも入れずレジ袋を抱えて土蔵に入って行った。

 今日は特に問題なく買い物を行うことができた。何しろジェレミアときたら日本人の平均身長を遙かに上回る上背であり、シャツを着た上からでも分かる程に鍛え抜かれた体をしている。

 流石にこんな男に真正面から罵った挙句石を投げつける程の馬鹿、あるいは勇者はそうそういない。もしいればルルーシュも逆に感心するだろう。

 

 日本語を学びはしたものの未だ漢字やカタカナの読み書きは困難なジェレミアには扉に何が書かれているのか理解できていなかった。しかし乱れた文字から恐らく悪口雑言の類だろうということ位は察しが付く。

 このまま落書きを放っておいても良いのだろうかと暫く逡巡していたが、掃除をしてもまた書かれるだけだろうと諦めた。荷物を持ってルルーシュと共に土蔵に入る。

 古びた木造りの扉を潜り抜けて埃の匂いがする床に荷物を置くと奥に子供が二人床に寝そべっているのが見えた。一人はアッシュブラウンの波打つ髪を持つ可愛らしい少女であり、もう一人はアジア人にしては淡い髪色に緑眼という変わった色彩を持つ少年だ。二人は絵本を読んでいるようだった。

 いつの間に来たのだろう。枢木スザクは帰ってきたルルーシュの姿を認めて手を振った。

「おかえりルルーシュ」

「来ていたのか。学校はどうした」

「……ブリタニア男もいるんだね。何買ってきたの?」

「話を逸らすな」

 あからさまに顔を背けるスザクの頭をルルーシュが鷲掴みにした。

 細い指先にいくら力を入れても全く痛そうではない。むしろルルーシュの細い指が折れそうで見ているとハラハラする。

「まさかまたサボったとでも言うんじゃないんだろうな」

「だって」

「だってもでももない。小学校の時点で既に登校拒否とは、何様のつもりだ貴様は」

「スザク様」

「張り倒すぞ」

 そのまま二人で騒ぎ始めたが、拳を振り上げての喧嘩に発展する様子は無い。至って平和な子供同士の可愛らしい喧嘩を脇目に眺めながらジェレミアは購入した食品を片付けに向かった。

 騒ぐ子供たちを背後に黙々と片付けるも一向に騒ぎが収まる様子は無い。片付けが終わった後もまだ喧嘩を続けている子供二人に呆れながら振り返る。だが年長者としてそのまま放っていく訳にもいくまい。ジェレミアは2人の間に割って入った。

「はいはい。その辺にしてあげて下さいルルーシュ様」

「しかしジェレミア、こいつは馬鹿なのに学校に行かなかったらさらに馬鹿になってしまう。それが俺の責任だなんて耐えられない!」

「誰が馬鹿だよ!そしてなんでルルーシュの責任になるんだよ!」

「俺はこの土蔵の住居者だ。お前がここに入り浸っているせいで学校に行かないのならそれは俺の責任だろう!」

「何言ってるのかよく分からないよ!」

 再度争い始めた子供達の間でジェレミアはパンパンと手を叩く。

 

 何だろうこれは。

 ルルーシュはブリタニアにいた頃は非常に冷静沈着で、どれだけ喧嘩を売られようとも鼻で笑って相手にしていなかった。良い意味では大人びていたと言えるが、自身の感情を置き去りにしているような挙動はどこかシュナイゼルに似て演技のように見える時があった。

 それがこのスザクという少年の前では年相応の子供のように振る舞う。

 腕を組んで気に食わないという表情を隠そうともしないルルーシュに苦笑を漏らしながら、これは良い傾向なのだろうなとジェレミアは内心でスザクに感謝した。

 しかし今だに一度も自分の名前を読んでいないスザクに真正面から感謝の言葉など送る筈も無いが。

 

「お二方とも落ち着いてください。確かにコミュニティを学ぶためにも学校には行くべきでしょう。しかしスザクは首相の息子でしょう?なら別段問題無いのではないでしょうか」

「日本の首相は血統で決まるわけでは無い。首相の息子であれ学歴はその後の就職先にダイレクトに直結する。学校での成績は日本では非常に重要なものだ」

「でも家庭教師ぐらいつけているんでしょう?」

 当然といった調子で続いたジェレミアの言葉にルルーシュは溜息を吐き、スザクは首を傾げた。

 二人の反応がよく理解できずジェレミアもつられて首を傾げる。

「国のトップともあろう方が、まさか自分の子供の教育をそこらの一般市民と同列に行っているわけはないでしょう。先日も藤堂という日本軍の軍人が家庭教師に来ていたではないですか。それならば学校ぐらい」

「ジェレミア、そうじゃない」

 ルルーシュは憤然とした顔のままスザクを指さした。

「こいつには家庭教師はついていない。スザクは本当に、嘘偽りなく、そこらの一般市民と同じ教育を受けている」

 一言一言区切ったルルーシュの言葉にジェレミアはきょとんと目を見開いた。

 

 本気だろうか。

 

 冗談かと思い恐る恐るルルーシュを見るも、末期手遅れの患者を前にするように首を真横に振る。

「———本当ですか?」

「本当だ」

「では藤堂は」

「剣道と合気道を教えているらしいな」

「軍略や政治なんかは」

「全く」

「……え、本当に?」

「本当に」

 ジェレミアはスザクをどこかの星から落ちてきた異星人を見るような目つきで見下ろした。

「………大丈夫か、君は」

「大丈夫だよ!?」

「いやしかし、枢木家は日本の貴族でもあるんだろう?教養が……」

「そんなの無くても生きてはいける!」

 胸を張ってふんぞり返るスザクにジェレミアは黙って首を振った。

 まあそりゃあ生きてはいけるだろうが。

 

 根っからの貴族であるジェレミアは、政治経済も他言語も碌に習わない学校に貴族が通っており、さらに家庭教師も付けられていないということが理解できなかった。

 卒業してどうやって生きていくんだろう。そして一体どこに就職するのだろうか。

 

 いたたまれない視線に堪えられなくなったのか、スザクは突如として立ち上がった。

「よしルルーシュ!今日は川に遊びに行こう!」

「どうしてそうなる」

 真っ当な質問にスザクは声を大にして答えた。

「暑いから!暑いからそんなどうでもいいことを二人とも考えちゃうんだ!」

「いや俺にとってはどうでもいいことだが、お前にとってはどうでもよくないだろう?」

 ルルーシュの制止を、しかしスザクは聞きもしない。

 相変わらず予測不能なスザクルールである。

 

 よし行こう!とスザクはナナリーをさっさと車椅子に乗せて駆け出した。

 慌ててルルーシュとジェレミアもその後を追ったが、スザクは本気で走ればそこらの自転車など優に追い抜く速度とスタミナを誇る。

 すぐにスザクの速度についていけなくなったルルーシュをジェレミアは慣れた手つきで背中に背負った。背中にしがみ付くルルーシュの手足を感じながら、目の前の小さな点となったスザクを見据える。

「よし行けジェレミア!スザクに追いつけ!」

「イエス、ユアハイネス!」

 ブリタニアにいた頃では考えられない程に子供っぽい命令にジェレミアは苦笑しながらも、全く嫌では無かった。

 

 

■ ■ ■

 

 

 枢木家の程近くにある山には大きな川が流れている。流速はそれほど速くなく、上流に近いため飲水可能な程に水が澄んでおり夏場に泳ぐのには最適の場所だった。

 スザクが連れてきたのは小さな滝壺だった。澱みが無い程度に水の流れは緩やかで、泳ぐのには丁度良い。

 普段は近所の子供達の遊び場なのだろうが、平日の真昼間の今は見える限りで人はいない。

 

 初めて川に来たルルーシュはナナリーを車椅子から降ろして足を川につけてやった。

 苔で湿った岩に腰掛け、初めて自然の水に触れたナナリーは足をばたつかせて弾けるような笑みを零した。

「気持ちいいかい?」

「ええお兄様、とても気持ちいです!涼しいし、それに水の匂いがとても澄んでいて心地が良いです!」

 お兄様も、と言われてルルーシュも笑いながら靴を脱いでその隣に腰掛けた。

 今は真夏。外気温は体温に近く、湿度の高い日本の夏では体感温度はさらに上がる。川の冷たい水は確かに気持ちが良かった。足を滑る水をぱしゃぱしゃと蹴る。澄んだ水が水滴になって宙に散る。綺麗だ。

 森の中の空気は清く、埃臭い土蔵とはまるで違う。隣で楽しそうに笑うナナリーもいつもより笑顔が晴れやかだ。こうして外で遊ぶのもたまにはよいかもしれない。

 

 と思ったら、次の瞬間スザクに川に突き落とされた。

「ほわぁああ!?」

「お兄様?」

「ルルーシュ様!」

 流れは緩やかとはいえ、それなりに深い滝壺に服を着たままダイブしたとなれば笑いごとでは済まない。

 すぐさまジェレミアは水中へと飛び込んだ。

 

 水草のせいで曇る視界の中、空気の泡を吐きながら水に沈んでいくルルーシュを目の前にしてジェレミアの体温が一気に下がった。

 水底に吸い込まれてゆくルルーシュにすぐさま追いつき、服を掴んで陸上に引き上げる。

 川縁に魚のように引き上げられたルルーシュは咳き込みながら水を吐き出した。ジェレミアはその隣に上がって、水を吐こうと顔を真っ赤にするルルーシュの背中を摩る。

 幸いにもあまり水は飲んでいなかったらしい。岸にへばりついて顔に貼り付く髪をかき上げながらルルーシュはスザクを睨みつけた。

「すぅぅぅざぁぁああくうううううう!」

「ごめんごめん」

「貴様、きさ、ゴホッ」

「だ、大丈夫ですかルルーシュ様?」

 背中を丸めて咳を繰り返すルルーシュにおろおろとジェレミアは背中を摩り続けた。

「ああ、ゴホッ、水は、ゲホッ、そんなに、飲んでいない。でもなあ!おま、お前!」

「でも泳ぎの練習をするのはこれが一番なんだよ」

「何がだ!」

「服を着たままいきなり水に沈められて向こう岸まで泳ぐこと」

 ようやく咳の止まったルルーシュは呆気にとられた顔で平然と言い放ったスザクを見やった。

 あっけらかんとした顔は冗談を言っているようには見えない。

「……それは本気で言ってるのか?」

「当たり前だろ。僕だって藤堂さんに散々やられたよ。もっともっと流れの速いところで何度もいきなり突き落とされたんだから。でもおかげで泳ぎは得意になった!」

 得意げに胸を張るスザクにジェレミアは黙って頭を抱えた。

 

 確かにブリタニア軍には軍服を着て川を泳ぐという過酷な訓練があった。日本軍にも同じような訓練があるのだろう。しかし間違っても民間人に行ってはいけないし、ましてや子供にしてよい訓練法ではない。

 藤堂という男は何を血迷ったのかよりにもよって首相のご子息にその方法を実践したようだが。

 スザクという少年は規格外に身体能力が優れているからこそ何の問題も起きなかったようだが、ルルーシュは無理だ。比喩でもなんでもなく死んでしまう。

 

 しかしスザクは悪意の欠片も無い、純度100%の笑顔で再度ルルーシュを突き落とそうと待ち構えている。

「ルルーシュは泳ぎが苦手なんだろう?だったら今日は教えてあげようと思って!」

「いつお前みたいな人間魚雷レベルに泳げるようになりたいと言ったんだ!」

「でも沢山泳げると気持ちいいよ?」

「殆ど泳げない人間は平泳ぎ25mでも十分死を体感できるんだよ!」

 へぷしっ、とくしゃみをしたルルーシュの体をジェレミアは摩りながらスザクから庇った。

 夏場とはいえ川の水は冷たい。それに良くも悪くも森の中は陽の光が木で隠されて涼しく居心地が良く、水に濡れたルルーシュにとっては寒いくらいの気温だろう。

「とりあえず着替えましょう。風邪をひいてしまいます」

「でもどうせ泳ぐんなら着る必要ないんじゃない?」

「もう今日は泳がない!」

「じゃあなんで来たんだよ!」

「お前がナナリーを拉致して連れてきたからに決まってるだろうが!ジェレミア、着替えを持ってこい!」

「イエス、ユアハイネス」

 くしゃみをし始めた主君の華奢な姿は見ているだけでも寒々しい。このままでは風邪をひいてしまう。

 今ルルーシュ達が暮らしている土蔵はとても衛生的に良いとは言い難く、風邪で弱ってしまうと次々と感染症に罹患してしまうかもしれない。ただでさえルルーシュは未だ子供であり免疫力が高いとは言い難いのだ。

 ジェレミアは急いで土蔵へ戻った。

 

 土蔵から滝壺まではそう遠くない。走りながらジェレミアはあの悪戯好きな少年に頭が痛くなる思いだった。

 あの枢木スザクという子供は素直で性格も悪くはないのだろうが、行動が突飛過ぎる。日本人というのは周囲に合わせて空気を読むことが得意な民族ではなかっただろうか。それとも事前に仕入れた情報は嘘だったのだろうか。

 

 溜息を吐きながら適当な服と、ついでにタオルを4人分持って川へと戻った。

 ルルーシュは体を震わせながら川縁で丸まり、川ではしゃいでいるスザクとナナリーを見守っていた。

「ルルーシュ様、こちらでよろしいでしょうか」

「ああ」

 ルルーシュはちらとナナリーを見た。ナナリーはスザクと一緒に水に触れて遊んでいる。いくらスザクとはいえ流石にナナリーを水に突き落とすような馬鹿な真似はしないだろう。

 捕まえた魚をナナリーに触らせているスザクを見て、ルルーシュは草むらの中へと移動した。

 

 二人から見えない位置まで移動してバスタオルで粗方の水を拭う。濡れた服が纏わりついて気持ちが悪い。

「全く、災難だった」

「お疲れさまでした」

「お前もな。というかお前の方がびちょぬれじゃないか」

「私は大丈夫です」

「ほら」

 頭にタオルをかけられる。

「寒いだろう。しっかり拭け」

「はい」

「土蔵で着替えてくればよかったのに」

「一刻も早くと思いましたので。それに服を着て泳ぐことには慣れておりますから」

 ああ、とルルーシュはブリタニア軍の訓練メニューを思い出したようだった。

 

 選任騎士候補にはそこらの騎士とは違う訓練が課せられる。その中の一つに重い軍服(ブーツ含む)を着ての50m水泳×20本というものがあった。あの訓練と比較すれば小さな川に飛び込む程度のことはお遊びの範疇に入る。

 選任騎士候補訓練用のメニューとはいえいささか厳しすぎるような気がしていたが、作成者はナイトオブワンのビスマルクとマリアンヌであり、有象無象の選任騎士候補などに文句を言う権利などある筈も無い。

 

「……そう言えばそうだったな。よく訓練中に死なないものだ」

「ああいうのは慣れの問題ですから。ルルーシュ様も溺死を防げる程度に練習した方がよいかと」

「またいつかな」

 ルルーシュはにぱりと明るい笑みをこぼした。スザクは突飛な行動が多いが、ルルーシュはその言動を楽しんでいるらしい。

 そうだろう。ルルーシュはあまりにも頭が良い。

 容易に行動や心理が予測できない人間という存在はルルーシュにとり貴重なのだ。

 

 ルルーシュは濡れたシャツのボタンを外しながらジェレミアを見上げた。

「しかし教わるならお前がいいな」

「私はスパルタですよ?」

「知ってる。でも予告なしに川に突き落としはしないだろう?」

 濡れたシャツとズボンを脱ぎ、ルルーシュはん、と手を出した。

 しかしジェレミアは手に持った服を渡すことができなかった。

 

 ルルーシュの肢体を前に目を見開いて硬直し、慌てて目を背け、そして再度見つめる。

 

 何度か瞬きした後に再度騎士はルルーシュから目を背けた。

 微かにその頬は赤らんでいる。珍しい表情にルルーシュは首を傾げた。

「どうしたジェレミア」

「————ルルーシュ様」

「ん?」

「その、後でお話があります」

「何だ」

 思わず目が細まる。まさか今になってブリタニアに帰りたいとは言わないだろう。

 ジェレミアは裸になったルルーシュからあからさまに目を逸らしながら、「見張りをしておりますので、」と言い残してその場を離れた。

 

 

■ ■ ■

 

 川ではしゃいで遊んで疲れ切ったのだろう。その夜ナナリーは食事の後すぐに寝床についた。

 吐息は小さく、むずがる様子も無い。完全に寝入っていることを確認した後に布団をかけ直してやる。

 灯りは小さな豆電球のみしかない。薄暗い土蔵の中、ルルーシュはそれで、とジェレミアに向き直った。

 ジェレミアは常になく緊張しているようだった。

 ジェレミアの視線はルルーシュに向かい、時折離れてまた再度戻る。慣れない正座で土蔵の床にできるだけ小さくまとまろうと努力しているようだが、頻繁に足を崩すのでむしろ騒がしい。

 常から視界に入るだけで騒がしい男だが今日は一段と騒々しい。声を一言も出していないのに身振り手振りだけでよくもここまで五月蠅くできるものだとルルーシュは変に感動した。

「何だ。話したいこととは」

「————非常に言いにくい事なのですが」

 ジェレミアは唇を噛みしめながらルルーシュを見やった。

 

 柔らかな白い肌に中性的な美貌。滑らかな高い柔らかい声は男とも女ともつかない。しかし性別不詳な美しさも、十二歳という年齢を考えるとそれほど不思議ではない。

 だがこの男とも女ともつかない曖昧な美しさはあと数年と持たないだろう。

 

 ジェレミアは自身がそのことをルルーシュに告げるべきかこの数時間悩みに悩んだ。本来なら信頼できる年上の女性から告げるのがベストな、非常に繊細な事柄だ。

 いくら唯一の選任騎士候補とはいえ、ここ数年男だらけの軍隊に埋もれて生活してきた自分の口から告げるようなことではないことなど言われなくても分かっている。

 こんな無骨な男の口から十二歳の子供が性について話されるなど下手をすればトラウマものだ。トラウマになってしまったら、身の回りに信頼できる大人が自分しかいない状況で一体これからルルーシュは誰に相談すればいいのか。

 そもそも性別どころか生死がかかっている現状において、無理に今そのことを告げる必要性があるのだろうか。

 

 悩みに悩んだ。できればあと一週間は余裕が欲しかった。なぜあの時自分は「後で」などと言ったのだろうと死ぬほど後悔した。「あと数年ほど経過してルルーシュ様にある程度の自覚が出てきてから告げたいことがあります」と逃げ道を作りながら言えばよかった。

 

 しかしそうなるまで待ったとして、その間ルルーシュは一人で自身の性別と悩んでしまう可能性が出てくる。

 一人で悩んで一人で答えを出して結果的に深みに嵌って空回りする姿が目に浮かぶ。

 

 ルルーシュにとり一番良い道はどれだろうとジェレミアは悩んだ。

 悩んだ結果、今話す必要があるとジェレミアは判断した。

 

 ジェレミアはルルーシュから一心に向けられる視線を浴びながら、喉を鳴らした。

「ルルーシュ様、あなた様の身体は女性のものでございます」

「…………………はあ?」

 ぱかりと口を空け、ルルーシュはジェレミアの言葉を丸々1分間かけて反芻した。

 しかし意味が分からない。この騎士は頭がおかしくなってしまったのだろうか。

 ルルーシュはジェレミアの言った内容について吟味するより前にまずこの愚直な男の頭の造りを疑った。

「何を言っているんだお前。ついに頭がおかしくなったか」

「ついにって何ですか……しかしルルーシュ様、本当のことです」

 信じてくれないのは想定の範囲内だ。

 床に両手を付けて頭を擦り付ける。ルルーシュは疑り深いが誠意が伝わらない程に鈍いわけでは無い。

「本当なんです。信じてください」

 

 黙って頭を下げる男を見やりながら、ルルーシュは顎に手を当てて眉根を顰めた。

 この愚直過ぎる真面目な男が言うにしてはあまりに冗談がきつい。そもそもそんなことを言う意味もない。

 だがこの十二年間男として生きてきたというのに、突如女性だなどと言われても困る。

 それに、と自身の身体を見下ろす。

 服の上からでも分かる薄い胸。豊満どころか服の下では肋骨が浮いており、女らしさなど全くない。

 ルルーシュが思う女とはマリアンヌやコーネリアのような豊満な肉体を持つ、触れば指が沈むような柔らかい体を持つ人々だ。

 こんな脂肪のついていない肉体のどこが女性だ。

 

「————お前はそもそもどうして俺が女だと思ったんだ」

「いえその、先ほどその、」

「ああ、俺の素っ裸を見た時に」

「いえあのええはい」

 歯切れ悪く口調を誤魔化すジェレミアにイライラしながら床を指で叩く。

「それで俺が女だと?」

「———はい」

「あんな一瞬で分かる筈もなかろう!」

「いえ、しかし」

 床を叩く。土蔵に響く明らかに怒りの籠った破裂音にジェレミアは体を強張らせた。

「なんだ、はっきり言え!」

「っ、ルルーシュ様の体には男性にあるべきものがなくて、女性にあるべきものがあったのです!」 

「だからもっと明確に言えと言っている!」

 ジェレミアはブリタニアから保健体育の教科書を持って来なかったことを涙が出る程後悔した。

 

 そもそもジェレミアも混乱しているのだ。成人しているとはいえジェレミアも未だ二十一歳の若造でしかない。若輩であることをカバーするべくこれまで愚直に努力を続けてきたものの、その分同年代の貴族と比較し遊び慣れていない自覚がある。

 それがこうして主君と二人きりになり、性教育について話をしなければならないとなれば困惑しない訳が無い。

 

 つまり、ええと、と一人恥じらう少女のように顔を赤らめさせながらごにょごにょと呟くジェレミアに、ルルーシュは声を張り上げて問いかけた。

「つまりおっぱ「あー!」があってペニ「わー!」が無かったということか!そういうことか!」

「そ、そうですけど!そうですけど!でもそんな大声を出さなくてもいいじゃないですかー!」

「貴様が女のように恥じらうのだからしょうがなかろうが!」

 男らしく肘をついてルルーシュは舌打ちした。

 確かにそれはこれ以上ない証拠だろう。目に見えて分かる性別の判定方法ではある。

「だがな、もしお前にそう見えたとしてもおっ「あ゛ー!」やぺ「だー!」の大きさには個人差があるだろう?お前の見間違えということはないか?」

 ルルーシュが淡々と紡いだ正論に、ジェレミアは息を詰まらせて唇を真一文字にして押し黙った。

 確かに一瞬だがしっかり見えたルルーシュの裸体には正直に言って胸らしきものは全く無かったのだ。それはもう地平線の如く見事なまっ平だった。上半身だけを見るならば確かにルルーシュは少女とは言い難い。

 しかし、しかしだ。ジェレミアは拳を握り締めた。

 男性の象徴も無かったのだ。見間違えかとも思って思わず二度見してしまったが、確かに無かった。

「その、ですね」

「分かった」

 ルルーシュは膝を叩いた。目を細める。

 

 乙女のように恥じらうジェレミアとこのまま話していても埒が明かない。そもそも未だ十二歳の自分は外見だけでは男か女など分かる筈も無いのだから、こうして議論を続けることは時間の無駄だ。

 かと言ってジェレミアの言うことを無下にすることもできない。馬鹿なことをと一笑するのは容易いが、この生真面目な男がそんな馬鹿らしいことをするとは思えない。

 とあれば女性か男性か、明らかに判別できる方法でけじめをつけるのがベストだろう。

 男女の明らかな判別方法は単純明快。自分と他者を比較すれば良い。

 そしてこの場で他者は一人しかいない。

「お前のを見せろ」

「嫌です」

 ジェレミアは真顔のまま素晴らしい速度で首を横に振った。

 ルルーシュに仕え始めてから十年以上。初めてジェレミアがルルーシュの命令に対して即座に是以外の答えを返した瞬間だった。

 しかし初めての騎士の反抗をルルーシュは憤然としたまま許容しなかった。

「何故だ」

「いや、当たり前でしょう」

「他者と比較対象しなければ自身の評価などできまい」

「なんで私なんですか!?」

「他に誰がいるんだ!」

 もしここでナナリーと口にすればまず間違いなく自分はルルーシュに殺されるだろう。賢明なジェレミアは口をつぐんだ。

 しかし、となれば確かに選択肢など一択しかない。

 

 身の危険を感じて後ずさるジェレミアにルルーシュが近寄る。男性とも女性ともつかない、美を極めた一つの頂点とも言える顔が近くに迫りジェレミアを追い詰める。

 ジェレミアは顔を逸らして必死に逃れようと目を瞑った。

 ルルーシュが女性であるということを告げたことからどうしてこうなったのだ。

 というか何故ルルーシュはこんなにもアグレッシブなのか。もっと年ごろの少年らしく性に繊細であっても良いのではないだろうか。

 ちらとルルーシュを見やる。好奇心と疑心で輝く菫色の瞳は数々の戦場をその眼に焼きうつした後でも変わらず美しい。ずっと眺めていたいと思う程に、きらきらと輝いている。

 自身の汚物をこの澄んだ紫水晶に映すなどという愚を犯すことができる筈が無い。男同士であれば後には笑い話にでもできるだろうが、ルルーシュが女性であれば冗談では済まない。

 

 大体、想像するだけでも絵面が酷い。

 

 薄暗い物置のような場所で、十二歳の薄幸の美少女に二十一歳の筋骨隆々とした現役軍人が性器を晒して自身の性別を自覚させるなど、色々アウト過ぎる。

 もし見つかれば通報、即逮捕。そして処刑まで一週間足らずのスピード判決に違いない。

 ジェレミアが上着を頭に被って手錠をしている自分がニュースに出ている妄想を浮かべているなど露知らず、ルルーシュはジェレミアに乗り上げてズボンを引っ掴んで離れようとしない。

「いいから見せろ!それですぐに判明する!」

「判明したとしてもあまりに失うものが多すぎます!リスクとベネフィットをきちんと秤にかけて行動すべきでは!?」

「見せても減るもんじゃないだろ!さっさとパンツを下ろしてその粗末なモノを見せろと言っているんだ!」

「そまっ……!?そういう言葉を一体どこで覚えてくるんですか!ロイドか、ロイドだなあの野郎!!やっぱり抹殺しておけばよかったぁあ!!」

「喧しいぞ!いいからさっさと見せろと言っているんだ!それとも金を払うまで勿体ぶるつもりか!?」

「さっきから言ってることが風俗の出禁客みたいですよルルーシュ様!!」

 ぐいぐいと迫ってくるルルーシュを突き飛ばすのは簡単だが、そのせいでもし怪我をしてしまったらと考えると動けなくなる。

 しかしそもそも絶対的な力の差があるためにしっかりとズボンを掴んで引きずりあげているジェレミアの恥部を見るなどルルーシュには不可能だった。

 だが諦める気は無いのか、年ごろの少年少女としての恥じらいなど欠片も見せずルルーシュは躊躇なくジェレミアのズボンに両手をかけて力任せに引きずり下ろそうとする。

 ルルーシュの猛攻を防ぐためにジェレミアは身を捩って逃れようとした。突然動いたジェレミアの足にぶつかってルルーシュはよろめいて後ろに転げた。

 ジェレミアがあ、と思った時には遅く、ルルーシュは床に転がって頭を抱えていた。

「ルルーシュ様!?」

「っ、痛いっ」

「申し訳ございません!お怪我は、」

 怪我の具合を見ようと焦って体を浮かせたのがまずかった。

 受け身を取ったために床に転がっていた体勢からルルーシュは瞬時に起き上がって腰を落とし、ジェレミアの下に体を潜り込ませてズボンを全力で引きずり下ろした。

 

 時が止まった。

 

 ルルーシュの麗しい顔の前に自分の汚物がある。その光景はジェレミアに失神レベルの衝撃を齎した。失神しなかったのは偏に、この光景を一刻でも早くこの世から消し去るべきだという強い精神力によるものだった。

「っ、キャー!」

 ジェレミアは無体を受けている女性、にしては野太い悲鳴を上げながらズボンを即座にずり上げて無様に床に転げた。

 最悪だ。自分はルルーシュ様になんという失礼をしてしまったのか。まさか切腹では足りない程の無礼を働いてしまうとは。

 愚かなりジェレミア・ゴットバルド。ルルーシュ様の選任騎士候補でありながらまさかこのような失態を犯してしまうとは・・・っ

 

 ついさっきルルーシュが卑怯な手段でもって自分のズボンをずり下げたという記憶は、汚物 in front of ルルーシュという史上最悪の光景による衝撃でもってジェレミアの脳内から綺麗に抹消されていた。

 

 一人頭を抱えて悶絶しているジェレミアを横に、ルルーシュは呆然としていた。

 右手の指で自分のモノのサイズをつくる。左手の指でジェレミアのモノのサイズを、作ろうとしたが作れない。眉根を顰めて顎に手をやった。

 確かに自分にはあんなものは付いていない。

 いやしかしまだ自分は子供だから、これから大きくなるのではないか?

 だがこれがあれになるのか?本当に?二次性徴に差し掛かっているというのにサイズが大きくなっているようには全く見られないのだが。というかそもそも形がまったく違わないか?それともまじまじと見れば同じような形をしているのか?

 確認すべくルルーシュは自身のズボンを引きずり下ろした。

 十二年間付き合ってきた自分の身体だが、こうしてじっくり見るのは初めてかもしれない。

「っ、わー!ルルーシュ様、止めてください!」

「…………ない」

「だから言ったでしょう!だから言ったでしょう!?」

「ちょ、もう一回、」

「ダメです!そしてすぐにズボンを履いて下さい!」

「分かった。明日スザクに見せてもらう」

「それもダメです絶対ダメです!」

「じゃあどこで参考資料を見ればいいんだ!」

「分かりました、明日医学書を買ってきますから!それでいいでしょう!?それでいいですよね!?」

 ジェレミアの必死の説得の甲斐あって、ルルーシュは憮然としながらも頷きながらズボンをずり上げた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 次の日の朝。

 ジェレミアは起きて即座に最も近い場所にある書店へと向かい、人体解剖学書と泌尿器科、ついでに産婦人科の医学書を買い求めた。

 医学書だけあって中々に高額だったが、全財産かかっても購入する程の勢いだったジェレミアにはそもそも値段を見ている余裕が無かった。

 そのままスプリンターもかくやという速度で土蔵まで飛び帰り、起きたばかりのルルーシュに医学書を押し付ける。

 寝ぼけ眼を擦るルルーシュと一緒に医学書をめくる。元々好奇心が強いルルーシュに説明するにはジェレミアの拙い医学知識では足りず、買ってきた医学書をめくりながら二人で話し合った。

 

 

 昼頃になりナナリーはスザクと共に遊びに行った。珍しく妹にべったりでないルルーシュにスザクは疑念を抱いていたようだが、妙に真剣な顔でブリタニア男と分厚い本を囲む姿を見て「何か大事な政治の話なんだろうな」と察してナナリーと共に土蔵を出て行った。

 あのブリタニア男は軍人と言っていたし、これからどうするのかルルーシュと話し合う必要があるのだろう。ナナリーの前では話しにくいことだってあるかもしれない。

 

 スザクはルルーシュが心配しないようできるだけ土蔵に近い位置で、しかし二人の会話は聞こえないような場所でナナリーと一緒に絵本を読んだりおままごとをしながら、難しい運命にある兄妹のことを思った。

 

 

 

 

 しかし二人はスザクの気遣いに気づく余裕もなかった。

 時折ナナリーがスザクと遊んでいることを確認しながら、人体解剖書を何度も往復してうんうんと唸る。

 途中何度か「いやこれはホルマリン漬けにされた検体の写真だから。生きてる人間はまた違うんじゃないだろうか」と言ってズボンを下ろしたり下ろしてきたりするルルーシュを必死で止めながらジェレミアは医学書を読み進めた。

 

 ようやくルルーシュが納得したのは日が暮れてからだった。

 医学書が散らばる中央で、床に大の字に寝そべるルルーシュにジェレミアは無言で水を差しだした。

 一息で飲み込み、ルルーシュはぽつりと言葉を零した。

「……嘘だろう……」

「納得して頂けましたか」

「———した」

 一人呆然とするルルーシュの横でジェレミアは背を丸めた。

 

 かける言葉が見つからない。

 これまで生きてきた十二年間、自分は男だと思っていて、突如女だと知らされた。その衝動は想像を絶するだろう。

 

 ジェレミアは呆然としたままのルルーシュに頭を下げた。

「申し訳ございません」

「———何故謝る」

「ずっと一緒にいましたから」

 そうだ。ずっと一緒にいた。

 物資の供給が滞っていたヨーロッパ戦線では一緒のベッドで寝たことともあれば服を着せたこともある。だというのに全くもって気づかなかった。

 いくら幼く、洗濯板程の凹凸も無い胸部とはいえ気づかなかったのは自身の失態だった。

「私は気づくべきでした」

「朴念仁のお前が二次性徴前の子供が女か男かなどと気づく訳ないだろう」

「……それなりに彼女がいたりしたんですが」

「すぐに別れたんだろ。ロリコン疑惑のせいで」

「やめて下さい」

 憮然とした表情のまま、ルルーシュは息を吐いた。

「まあ、うん。しょうがないか」

「……悩んでもどうなるものでもないですから」

「そうだな。まあ女の方が便利なこともあるし。それに逃げ隠れるには皇子じゃない方が都合のいいこともあるだろうし」

 ルルーシュは必死に自分を説得しようとしているように見えた。

 受け入れるまでに時間はかかるだろうが、そう悲観しているようにも見えない。

 そもそも性別以前に自分と妹の生死が問われている状況でそう長く落ち込んでるわけにもいかないのだろう。いじましい程の図太さにジェレミアは感嘆した。

 

 最早用済みとなってしまった医学書をルルーシュは腹立ち混じりに放り投げた。床にぶつかって埃が舞い上がる。

 もう使い道も無いので近いうちに火を熾す時の火種にでも使われることになるのだろう。高かったのだが。

 

「それにしても、どうして性別が隠されていたのでしょうか」

「俺も知らん」

 放り投げられた医学書を拾い上げながら、ジェレミアは首を傾げた。

「———マリアンヌ様の悪戯、とか」

「いや、いくらなんでも……ないよな?」

 

 いくらあのぶっ飛んだ母親でも、女に生まれた子供を男と偽って育てることなどしない……と信じたい。

 そもそもそんなことをするメリットなど無い。男尊女卑がまかり通る国だったり、女に皇位継承権が無い国ならともかく、ブリタニアは名実ともに男女平等だ。当然、皇位継承権は女にも平等に存在する。

 それに公式の記録として男とされている以上、出産に立ち会った医師や看護師、その後養育を任された乳母や普段身の回りの世話をしていたメイド達も性別の偽装に関わっていることになる。そんな大掛かりな偽装工作が、少しでも隙を見せれば引きずりにかかる皇族貴族に発覚しない筈が無い。

 

「順当に考えると俺は生まれた時に性分化疾患があって、戸籍上はとりあえず男にしておいた。けれど成長するにつれて女の方向に育った、とか」

「………まあ、順当ではありますが」

「うん。無理があるなあ」

 他と比較したことのないので断言するのは難しいが、おそらく自分の性器は一般的な少女とそう変わりは無い。少なくとも陰茎と見間違うようなものは全くない。

 生まれた時に男か女か判別し難かった、という形跡は無いのだ。

「だが他にそれらしい理由も無いんだ。後天的に女性になったとしか考え付かない。もしくはマリアンヌの大規模な嫌がらせか……」 

「いくら何でもこんな無意味で地味な嫌がらせはされない方でしょう。するなら派手に、戦場でぱーっとする方でした」

「確かにそうだ————まあ理由はここで考えてもしょうがあるまい。お前さえよければ、明日からまた俺の下で働いて貰うぞジェレミア」

「イエス、ユアハイネス」

 迷いなく跪く。この男の忠誠に安堵するのも、呆れるのももう何度目だろう。

 

 その篤い忠誠はルルーシュの理解の程を遙かに超え、人類には理解不能な域に達している。その忠誠はルルーシュが男から女になろうと揺らがない。

 それどころか、もしかしたら汚名を着せられエリートコースから左遷されようと、サイボーグ化するほどの重傷を負わせられようと、全身の動きを強制的に止められ血の涙を流させられても揺らがないかもしれない。

 

「———俺が女でも、お前は俺に忠誠を誓うのか」

「はい」

「お前は馬鹿だ。嘘をついて裏切ったのと同然だろうに」   

「女性であろうとルルーシュ様の王の器に変わりはございません。そしてこれまで共に過ごした過去が変わる訳でもありません。であれば、私の忠誠が揺らぐ理由にもなり得ません」

 しかし、と続ける。

「お願いが一つあります」

「何だ。言え」

 珍しいと思った。

 碌に願い事など口にしない巌のような男だ。こうして真正面から願い事があると言われたのは、長い付き合いだが初めてかもしれない。

 いつもルルーシュが無茶な我儘を言って、ジェレミアはずっと振り回されてきたのだから。

 

 ジェレミアはルルーシュの両手を取った。

 

「もう二度と人のパンツを引きずり下ろしたり、人前で自分のパンツを下ろしたりしないで下さいね」

「誰がするか馬鹿!」

 

 全力でジェレミアの頭を叩いた。

 中身が詰まっている良い音がした。

 

 



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