ネコマジョ・カノジョ!【完結】 (イーベル)
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初めましてネコマジョ・カノジョ!

 異世界に行って魔法使いや勇者になる……なんて妄想がふと、アホらしくなってしまったのはいつからだっただろうか? 

 年末のスーパースター、サンタクロースがいないと知ってしまったときか。あるいは、妹によって発掘された『黒歴史ノート』を堂々と突き付けられたときだったか。それとも、高校の進路相談のときだっただろうか。

 どれが原因なのか真偽はもう分からない。今となってはすっかり思い出せないのだから。

 

 まあ、俺も仮面ライダーになりたいだとか、ウルトラマンに変身したいなんて思っていた。だがそんな幼少期の記憶なんてのは、年月が過ぎるにつれて、使い込んだ消しゴムの様にすり減って行ったし、その代りに親から延々と聞かされる勉強の話や、友人から垂れ流されるエロい話が黒い染みとして頭には磨り込まれてしまった。

 

 そんな薄汚れた消しゴムの様な日々によって現実を知った俺は、妥協すれば現実も結構面白い事を学んだ。妄想していたような事が実際に起きずとも、それらを模したフィクション群が提供される平和な現代社会では、雰囲気を味わう事で妥協し満足する事ができるのだ。

 

 それらによる、妥協によって自分なりに楽しい日々を過ごしていた俺は、惰性の果てに大学に進学し、一年が経ったある日のこと。

 雨の降る帰り道。

 俺は道路にズタボロの姿で横たわる黒猫を発見した。

 最初は車に引かれて死んでいる、いや、僅かながらに腹部が上下していて生きていることは確認できるが、今にも息絶えそうだったのは素人目にもはっきりとしていた。

 だが猫の視線はここから離れることを許さんばかりに、じっと見つめて離さない。

 

 自分で言うのもなんだが、頼まれると断れない性格(都合のいい時だけ利用されることもある)の俺は力強いその目に根負けして、猫を持っていたタオルでくるみ、大家さんに許可を貰って、アパートにて世話をし始めた。

 

 警戒心が高く、近寄らなかったそいつも、時間が経つにつれて、胡坐(あぐら)をかいている足に入って来たり、肌寒い朝には布団に潜り込むようになった。

 

 そんな猫に愛着を持ち始めた頃。怪我がほぼ回復し、もうこいつの為にもそろそろ野生に返した方が良いだろうと考えながら帰宅すると、奴が真の姿を現していたのだった。

 

「お帰りなさい、貴方。お風呂する? ごはんにする? それとも……ワ・タ・シ?」

 

 そんなフィクションに使い潰されたような台詞をぶち込んできた彼女は突っ込み所満載の格好だった。腰まで伸びた黒髪。裸エプロン。猫耳。そしてカラーコンタクトで変えているのか日本人らしからぬ金色の瞳で俺を上目で見つめている。

 

 文句なしの美人が突然現れた事に虚を突かれ、しばらく反応できずにいた俺はそこでハッとして猫耳女の首根っこを掴んで外に放り出した。

 

「えっと、ですね。どこのデリヘルなのかは知りませんけど、悪戯だと思うので帰って大丈夫です。それじゃ」

 

 そう言ってドアを閉めようとしたが、隙間から腕を突っ込まれて阻まれる。

 

「待って! 待って下さい!」

「待たない。不法侵入者に俺は容赦しない」

「不法じゃないです! ワタシ、貴方に拾われてここに来ました!」

「いや、そんな猫や犬みたいな感覚でそんな格好してる女拾わないから」

 

 早口でまくしたて、ドアノブを引く力を強くする。それも両手で思いっきりだ。だが猫耳女は腕一本でそれに抵抗して見せた。あの白い細腕のどこにこんな力が隠されているというのか不思議でならない。

 

「往生際が悪いなアンタ。悪戯だから帰れって言ってるだろう!」

「だから勘違いだって言ってるじゃないですか! ワタシはあなたに拾われて――いや、これじゃあ信じてくれないんだった。……なら仕方がない」

 

 そう言うと彼女はブツブツと何か(つぶや)き始めた。耳を澄まして聞いてみても、日本語でも英語でも無いその言語を理解することはできなかった。

 

 呟きが止むとドアの向こうから激しく発光する。そのあまりの眩しさにドアノブから両手を放して目を覆う。そして間を空けず、ガシャンと金属の音がした。

 

 一年間のアパートで暮らして耳に染みついているのドアの音。つまりあの猫耳女は諦めて帰ったのだろうか? 慌てて鍵を閉めて、確認のためにのぞき穴で外の様子を確認する。そこには誰もいる様子は無かった。

 

 息を大きく吐き出す。何も知らない人が家の中にいたと言うだけで気が気では無かったのだ。ドアに背中を預け、玄関だという事を気にせずに尻餅をついて座り込む。 

 未だにバクバクと激しい鼓動が収まらない身体を労いつつ、目線を下に移すとテシテシと肉球で俺の足を叩く黒猫が目に入った。

 この数ヵ月で俺の平穏の象徴にまで上り詰めたこいつの姿にホッとして、両手で抱き上げると、そのまま話しかけてしまう。

 

「お前は無事だったか。急に知らない奴が入って来てびっくりしたよな」

『きゅ、急に抱き上げないでください……くすぐったいです』

「え?」

『だから、くすぐったいですってば』

「う、うわあぁ!!」

 

 突然流調な日本語話し始めた黒猫に驚きを隠せず。俺は放り投げてしまった。すると黒猫は空中で煙を立てて変化、先程の女へと姿を変える。着地しそのまま俺を見下ろす様に立ち塞がった。

 腰に両手を当てて、上体を地面と平行になるまで下げている。エプロンの隙間から真っ白な二つの山がチラリと見えた。それを直視することができず視線を逸らす。

 

「いきなり投げ出すなんて酷いじゃないですか。いつもならゆっくり下してくれるのに」

「な、何が……? あんたはさっきの!? でも直前まではうちの猫だったはず……」

 

 猫を持っていた手と彼女を何度も見比べる。サイズ的にはかなり異なると言うのに、どうやってその姿を変化させたのか。全くもって見当も付かない。

 もし今のが手品だとして、道具も無しにできるとは考えにくい。入れ替わるには速度はともかくとして、一度布などで隠すのが一般的。無くてもできるのなら、そこらの手品師がショーで見せているはずだ。

 

 だったらあれは……何だ?

 

「驚きましたか? そうでしょう、そうでしょう! 何せこちらでは『魔法』は広まっていないようですからね」

 俺の疑問に対して猫耳女はそう明かした。すかさず俺は聞き返す。

「魔法だと?」

「ええ、何せワタシは魔女ですから。人型、猫、その他諸々、変化自在なのですよー」

 

 得意げに胸を張った。揺れてる、揺れてる。

 

「そんなバカな。魔女って……嘘付くの下手過ぎるだろ。魔女なんて物は現実に存在しない。本やゲーム、アニメの中の産物だ」

「嘘じゃないですよ、ホントの事ですから」

「……口だけじゃ信じられないな」

「そうですか、じゃあ何か言ってみて下さい。魔法で実現できる範囲の事なら実現させて見せましょう!」

「そんな事言って良いのか? 自分の首絞めてるぞ」

 

 とか言いながら俺はちょっと、期待していた。いつの日から居る訳が無いと諦めていたフィクションの中の存在。魔女そのものなのかもしれないのだ。心が躍らない訳が無い。

 

「ええ、構いませんよ。ワタシ、こう見えて優秀なので。それに、それで信じて貰えるのなら安いものです」

「そうか……」

 

 自信たっぷりに言われて少し悩む。フィクションを常日頃から読み漁っている俺だ、実現したい妄想は数多い。神話や民話、ライトノベルにしろ実現できないことは山ほどある。

 

 その中で俺はシンプルかつ、小さなころからひそかに夢見ていたある事象を提案してみることにした。

 

「なら、俺は――空を自由に飛びたい」

 

 空を飛ぶ。それは遥か昔から俺の夢であった。青いポッケを持つロボット(しか)り、ネバーランドの住人然り、俺の夢を揺さぶる者は多かった。

 例えこの猫耳女の今までが全部嘘だったとしても、これが実現できるのであれば、これまで疑っていた事を全て鵜呑みにして信じてしまうまである。

 

 そんな俺の頼みを猫耳女はポカンと口を開けて聞いていた。この非現実的な頼みに

『うっわぁ……こいつアホじゃん』とばかりにほくそ笑んでいるのだろうか? そうだと思うと少しイラッと来たので、急かすことにした。

 

「なんだよ。そんな顔して無理なのか? それとも、馬鹿にしているのか?」

「あ、ああ……すみません。あまりにも簡単なことだったので」

「なんだと?」

「簡単だと言ったんですよ。空を飛ぶなんて、基礎中の基礎。朝飯前ですっ!」

 

 猫耳女は敬礼のポーズを取りつつ、あっさりと言ってのけた。その真偽は分からないが、もし本当の事だと思うと期待は高まるばかりである。

 俺は猫耳女に人差し指を突き付け、

 

「よし、ならやってみろ。もし実現できたのなら、お前の不法侵入、今の訳分からない供述、全部鵜呑みにして信じよう」

 

 そう口にした。

 

「本当ですか? その言葉を待ってましたよ! では行きましょう、魔法による空の旅へ!」

 

 彼女は俺の手を無理やり部屋の中に引き込む。靴を脱がせろと言いたかった

が、そんな間もなく、ベランダに到達。そして、飛び降りた。

 

「うっそだろ――――!!」

 

 俺の部屋は三階。何気に高い。そんな所から何の心の準備も無く飛び降りるのだ。思わず叫ばざるを得ない。

 猫耳女はというと、先程と同じような謎の言語を呟いている。そして右人差し指を立て、指揮棒の様に振るった。

 するとパラシュートが開かれたかの様な勢いで減速。さらに逆方向へと引っ張られて、みるみる上空へと体が昇って行く。頬を撫でる風の勢いが凄まじく、目をまともに開いていられなかった。

 雲をぶち抜き、住んでいるアパートが爪の先ほどにまで小さくなったところで体は停止した。

 

「どうですか? これで信じてくれましたか?」

「……信じる、信じるよ。すげぇ……大学があんなに小さい」

 

 ここ周辺の地域で一番大きいと言うのに、それでもやっと認識できるぐらいの高さだった。ここまで高い所に来たのは初めてだ。飛行機でもここまで高い所は飛ばないだろう。

 

「それは良かったです」

 

 猫耳女はほっと息を付くと、握っていた俺の手を離してから言葉を続ける。

 

「それで、一つお願いがあってですね。良いですか?」

「なんだよ? こんなに貴重な体験をさせてくれたんだ。できる限りの事はする、いや、させてくれ」

 

 本心だった。子供の事からの野望であり、夢を想わぬ形で叶えてくれたのだ。ここで礼を出し渋っては男が廃る。

 猫耳女はそれを聞いてからゆっくりと話し出した。

 

「その、猫じゃ無くなっても……いや、元から猫じゃ無かったんですけど、これからも家に置いて頂けませんか? ワタシ、この『セカイ』に来てから行く当てが無くて……。拾って頂けたのはありがたかったんですが、いつまでも騙し続けるのもどうかと思いまして……」

 

 この理由で彼女が何となく悪い奴では無い事が分かる。利用したいだけならそのまま猫の姿でいればいいだけの話。

 それをわざわざ名乗り出す理由がはっきり言ってつかめないのが俺目線での現状だ。

 勿論この話は嘘かもしれないし、そうでなかったとしても彼女が何らかの打算をしているのは明確。

 だから厄介事に関わらないためにも、この願いを断ることは無難で、困難を避ける選択肢だという事は理解している。

 だけれど、この退屈した日々、繰り返される日常に一石を投じる大きなチャンスを逃すわけにはいかない。得体のしれない人物を家に住まわせるというリスクぐらいは背負ってやらないと。俺は決意を新たに彼女の顔を見返す。

 

「名前は?」

「名前ですか? ハイルです。ハイル・ミーツ・アルハンゲル」

「じゃあ、ハイル」

「は、はい!」

「俺は夏目(なつめ)夏目司(なつめつかさ)だ。今日からよろしく」

 

 そう言って彼女へと手を伸ばすと彼女は顔をかしげつつ、それを見つめていた。

 

「握手だよ握手」

「えっと、すいません。いまいち意味が分からないんですけど」

「これから一緒に住むんだろ?」

「え? いいんですか!?」

「ハイルがいいならな」

「もちろんです! それで、えっと……どうすればいいんですかその手。ワタシ、その……アクシュ? って知らないんですけど」

「珍しいな。俺は万国共通だと思っていたんだけど」

「すいません……」

「いや、攻めてる訳じゃ無いんだ。それに握手は難しい事じゃない。ただ相手の手を握り返せばいいだけ」

 

 再び手を差し出すと彼女は恐る恐る、俺の手を握った。すべすべでマシュマロのみたく白い肌はいつまでも触っていたいと思わせるほど魅力的。だが、変に執着すると後々禍根を残しそうだ。そう判断して、俺は頃合いを見てハイルの手を話した。

 

「じゃあ、よろしくお願いします。――ツカサ」

「ああ、よろしくな。ハイル」

 

 俺と彼女、ハイルの共同生活が始まる。ネコでありマジョ、略してネコマジョのカノジョと暮らす日常はどのようなものになるのか、俺は今から楽しみでならなかった。



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おはようネコマジョ・カノジョ!

 翌日。俺はいつも通り……という訳では無く、ダラダラとした朝を迎えていた。

 なぜかと言うと今日は講義担当の教授が出張だかで、休講になったのだ。

 カーテンの隙間から差し込む日差しを受けた(まぶた)(こす)ろうと、右手を上げようとする。

 だが、動かない。

 右腕にどんなに力を入れても、持ち上がることは無かった。まるで、金縛りにあったかのように。

 俺の体に何が起きているのかを把握するため、俺は瞼を無理やり持ち上げて、焦点の合っていない瞳で右腕のあたりへ視線を飛ばした。

 腕は布団の中にある。いつも通り、ごく普通に。

 しかし、そこには余計なものがくっついていた。黒髪猫耳の頭が、その持ち主の肢体が、絡みつくようにしてそこにあった。

 

 ハイル・ミーツ・アルハンゲル。

 

 猫であり魔女。日常にいた非日常、その象徴たる彼女は当たり前の様にそこにいた。

 首を曲げて隣を見ると昨日敷いてやった布団は手付かずのままだ。

 どうやら俺の気遣いは無駄に終わったらしい。

 彼女を見たことで感覚が鋭くなる。腕のビリビリとした痺れの中に柔らかい二つの果実の感触や、じんわりと広がる自分よりも高い体温が伝わってくる。

 その感触たちは心地よく、甘美なものだった。可能ならばずっと味わっていたいほどに。

 だが、それと同時に大きな羞恥心が浮き上がる。顔が熱を帯びたのを感じた。

 妹以外の女子とまともに話してこなかった俺がそれに耐えられるメンタルを持ち合わせている訳も無く、即座にその拘束からいち早く抜け出したい気持ちでもういっぱいだった。

 拘束されていない逆の手で彼女を引き離しにかかる。思いっきり力を込めて。だが――

 

「んぐっ! んぁ――――! はぁ、はぁ……うっそだろお前、どんな怪力だよ」

 

 微動だにしなかった。彼女を離したければ自分の腕を切り離せと言わんばかりの締め付け。逆に俺の肩がメシメシと悲鳴を上げた。

 そういえば、ハイルは俺に比べて力がかなり強いのだ。昨日も追い返そうとしてドアを両手で無理矢理閉めようとしてたが、彼女は細い腕一本で対抗して見せていた。

 その理由も彼女が魔女だからなのだろう。筋力量と力の大きさが比例するとは限らない。魔法で底上げできてしまうのだろうし。

 勝手にそう結論づけたところで俺は諦めてハイルが起きるのを待つことにした。無理な物は無理。相手が現代で証明されている物理法則が通用しない魔女ならば尚更だった。

 暇つぶしに天井のシミを数えつつ彼女の感触を味わっていると、いつもより早い心拍音が聞こえて来て、俺の恥ずかしさを煽った。

 

 ▼ ▼ ▼

 

「おはようございますツカサ。良い朝ですね」

 

 待つこと一時間。彼女は目を(こす)りながら大きく伸びをすると、俺へと挨拶をした。

 その姿は昨日とは異なっていて、俺のタンスからはぎとったワイシャツを身に纏っている。それに日光が差し込んでうっすらと素肌が透けて見えた。

 下着は、……付けていない。困ったことに。

 俺には刺激が強すぎるから、自分で隠すなり、深夜アニメみたく、謎の光で補正して欲しいものだが。現実はそんなに優しくない。ノーカットで放映中だ。

 そんな現実と規制直前の彼女から目を逸らしつつ、俺は口を開いた。

 

「何が良い朝ですね、だ。こっちは気が気がじゃなったぞ。布団敷いてやったのにどうしてそっちで寝なかった」

「ご迷惑でしたか?」

 

 首をかしげてそう聞くハイル。俺は首を縦に振った。

 

「ああ、いい迷惑だ。おかげ落ち着いて寝れやしない」

「……その割にはツカサからは質の良い魔力が出てましたけどね」

 

 少し詰らせてからハイルはそう口にした。

 魔力。よくゲームとかでは魔法を使う時に必要になるものだ。MPなんて呼ばれることもある。これも現実では存在しないものだ。それが俺から出ていた? ちょっと詳しく聞きたい。

 

「どういう事だ? 俺から魔力なんて物が出るのか?」

「出ますね」

 

 即答するハイル。

 

「魔力は人間が幸せな気分なると発生するのですよ。故にツカサ、あなたから魔力が出ていたという事はワタシに抱き着かれて幸せな気分になっていた、と言う事の証明でもあるのです」

 

 ハイルはビシッと人差し指を立ててそう断言する。

 それはあながち否定できない。確かに恥ずかしさはあったものの、美人な女性に抱き着かれているというシチュエーションは素晴らしいものだった。

 そう思っている事がその魔力とやらの存在で、ダダ漏れになっていると思うと彼女とはしばらくまともに顔を合わせられそうにない。

 重い腰を上げ、布団から立ち上がる。

 

「そう思いたければ勝手にしてくれ。俺は信じないからな」

「頑固ですねツカサは。そういう所も嫌いじゃないですけど」

 

 彼女の言葉に耳を傾けつつ、俺はさっきまで寝ころんでいた布団を畳んでいく。

 魔力が発生している、ねぇ。もしそれが本当ならば、ひょっとすると俺にも使えたりするのだろうか? 彼女が昨夜使っていたような魔法が。

 そう思った俺は、彼女に問いかける事にした。

 

「なあハイル」

「何でしょうツカサ」

「もし俺から魔力が出ているというのが本当だとすると、俺にも使えたりするのか? お前が使っていた様な魔法を」

「無理ですね」

 

 またしても即答。キッパリと切り捨てる。

 

「どうしてだ? 魔力と言う燃料があるなら使えてもおかしくないんじゃないのか?」

「うーん、何ででしょうね? 私自身には細かい原理は分かりませんが、私の知っている限りではそんな人いた事はありません。人間は魔力を生み出すけど、魔法が使えない。経験上、これは揺るがない事実です」

「そっか、残念だ」

 

 肩を落とす。現実はそんなに甘くないという事か。まあ、元から諦めていたことだし、そこまでショックは大きくないのが救いだった。

 

「そう気を落とさないでください。魔法が使えるようになったって、そこまで良いものではないですよ」

「何を言う、嬉しいだろう。そんな自ら奇跡をポンポンと起こせるってのは。毎日楽しく過ごせそうじゃないか」

「いいえ、そんな事はないですよ」

「……? どうしてだ」

 

 楽しくない訳が無いし、人間に憧れる理由もサッパリ分からない。人間になってしまったら特別では無くなってしまうじゃないか。それではただの人だ。

 まあ、ハイルは美人だから、ただの人には収まらないかもしれないが。

 

「マジョは人間の逆に魔力を生み出せないのですよ。それに魔力を使い切ったらこの世から消えてしまう。だから、人間から見捨てられたマジョは生きてはいけない」

 

 顔を伏せて暗いトーンでハイルはそう言った。

 どうやらこれは触れてはいけなかった話題だったらしい。魔女はただ楽しいだけでなく、恐怖を抱えながら生きている。その事を知らなかったとはいえ、彼女には酷い事をしてしまった。この話題にはこれからは触れない方がいい。

 これからの事は置いておいて、まずは今。謝っておくとしよう。

 

「その、なんだ……悪かったよ。楽しそうなんか言って。……軽率だった」

 

 そう言うとハイルはクスクスと笑った。指をさして小馬鹿にしたように。

 

「何で笑うんだよ」

「いえ、そこまで重く受け止められるとは思っていなかったもので。いいんですよ、別に。生まれて来た時からそうなんですから。慣れてます。だから、そんなに気に病まなくても結構です」

「そうは言ってもだな……」

 

 暗い雰囲気を振り払うように明るく振る舞う。

 その姿が俺には無理しているようにしか見えなくて、言葉を濁した。

 

「気を使ってくれるのは嬉しいですが、言っても、言わなくても結構です。どうしてもっていうのなら、ツカサ、アナタがして貰ったら嬉しい事を教えてください」

「俺がしてもらったら嬉しい事? これまたどうして? むしろさっきのお詫びに俺がお前に何かしてあげたいぐらいだってのに」

「さっきも言ったようにツカサ、アナタが幸せな気分になれば、私も魔力を補給できるのですよ。だから、ワタシの存在をより確かな物にするために協力して貰えませんか?」

 

 そう言ってハイルは魔法を使うために右人差し指を立てた。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 

 アナタを幸せにさせて下さい。なんて、プロポーズみたいな台詞の後彼女がしだしたことと言えば、掃除だった。

 俺は家事が好きじゃない。できない訳じゃ無いのだが、面倒なのだ。掃除とか洗濯とか必要最低限のでしかやりたくない。そんな事に(とか言っちゃいけないかもしれんが)時間を割くぐらいなら本を読んでいたいのだ。

 そんな俺を猫のときに見ていた彼女は、現在進行形で掃除を始めたのだが――

 

「いや、家具を宙に浮かせながら掃除するのは怖いから止めてくれませんかね!」

 

 そう、タンスやら冷蔵庫。更には電子レンジと言った重量級の家具たちがこのワンルームにふわふわと浮いていた。何かのアクシデントで魔法が解けてしまったらと思うと気が気では無かった。

 家具で押しつぶされるのは嫌なのだ。下手したら死んじゃうからな。

 

「え? どうしてですか? こっちの方がちゃんと、綺麗になりますよ」

「いや確かに、手がいろいろな所に届いて便利そうだけど、そう言う問題じゃなくてだな。まあ、取りあえず元に戻してくれ」

「はぁ、はい」

 

 彼女が右の人差し指を指揮棒の様に振るうと、宙に浮いていた家具がゆっくりと元の場所へと戻った。

 俺はホッと胸を撫で下ろす。

 

「魔法を使って掃除するのは止めて貰えないか?」

「どうしてです? 便利じゃないですか」

「いや、そういう訳じゃ無くてな」

「あ、さっきの魔力の話まだ気にしてますか? こんな程度じゃ対して減りませんから気にしなくていいですよ」

「そういう訳でも無くてな。えっと、なんて言えばいいんだろう……こう、お前の掃除に違和感があり過ぎて恐怖を感じた、というか」

「恐怖、ですか? ワタシ別に家具落としたりしないので安心して大丈夫ですよ。ワタシ、こう見えて優秀なので」

「ああ、いや、お前の問題じゃ無いんだ。俺の心の持ちようと言うかだな……」

 

 そう彼女の問題では無い。ただ単に、怖いと感じたから怖いのだ。

 

「……家の主にそう言われたら仕方ないですね。魔法を使うのは控えます。ここで無理矢理押し通してあなたの気分を損ねるのは、元々の目的から外れますからね」

 

 あざとく、ハイルはウィンクを決めてそう言った。黒い耳がピョコピョコ動く。……可愛いなおい。

 

「そうしてくれると助かる」

「でも、困りました」

「何がだ?」

「魔法を使わないでどのようにゴミを集めるのでしょうか?」

 

 首をかしげる彼女を横目に見つつ、俺は掃除機を手に取った。



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買い物に行こうネコマジョ・カノジョ!

 週末。今日は丸一日暇だ。バイトも無く、レポートも今週の分は片付いている。なので心置きなく休日を堪能できる素晴らしい日だった。

 窓から見える空は俺の心の様に(大げさ)晴れ晴れとしていて絶好の洗濯日和だった。部屋着と洗剤を洗濯機に入れて、ボタンを押して回す。

 機械音を立てつつ水が注ぎ込まれたのを確認すると、俺はタンスへと向かった。流石に春とはいえパンツ一丁のままなのは寒いのだ。

 

 タンスを開けて適当な衣服を見繕うとしていると、ある異変に気が付く。服が何着か消えているのだ。()りにも()って今日着ようとしていたものが姿を消している。

 間違って洗濯に出したか? 

 ――いや、部屋着を入れたときには中身は空っぽだった。

 じゃあどうしてここに無いんだ?

 

 一人で黙々と考えていると、トテトテと俺以外の足音が聞こえてきた。振り返るとそこには見覚えのある衣服たちを身に纏った彼女が立っていたのだった。

 

「どうかしましたかツカサ? そんな恰好でタンスの前に仁王立ちして」

 

 白と黒のストライプのシャツ。(かす)れた青のジーンズ。腰まである黒髪を()らしつつ、彼女は俺の横までやって来た。

 

「そんな格好でいると体調崩しますよ」

「いや……なんかいろいろと解決した」

「えっと、何がです?」

 

 悪びれる様子も無くハイルは首をかしげた。背後で黒い尻尾がゆらゆらと海藻の様に動く。

 

「お前なぁ……勝手に服着るなよ。減っててビックリしただろ?」

「あっ、すいません。お借りしてました。返しましょうか?」

 

 ハイルは首元のボタンを二、三個外して見せる。俺は視線を()らして両手を横に振った。

 

「いや、いやいやいや! 今ここで脱ごうとしなくていいから! 今日はもう、そのままでいいって!」

「ツカサ、別に遠慮しなくてもいいんですよ? ほら、今なら私の体温でいい感じに温かいです」

「尚更止めろ!」

 

 声を荒げて止めるとハイルは渋々(なんでだ)ボタンを元通りに付け直した。それを確認してから再び向き合う。

 

「ならツカサはどうしろって言うんですか?」

「どうしろって……そりゃあ普通の服着ろよ。自分の奴」

「それができたのならとっくにしてます。ワタシは着の身着のまま、いいえ、着の身着すら無い状態でこちらに来たのですから」

 

 そう言われてふと思い出す。そうか、こいつは元々は猫として拾ったのだから、服が無くて当たり前だ。彼女の行動にも納得がいく。

 だがしかし、このまま俺の服を着まわすのも精神衛生上よろしくない。俺の数少ない私服では一周するのはあっという間。次からは俺が『ハイルが着た服を着る』事になるのだ。

 ……考えるだけで顔が火を吹いたように熱くなるのを感じた。

 

 それを回避するためにはどうすべきか。考えるまでも無い。単純な話だ。無いものは買うしかない。

 

「ハイル」

「は、はい」

「支度してくれ。服、買いに行くぞ」

「え? どういう事ですか?」

「お前の服を買いに行く。いつまでも俺の服を着るのは嫌だろう?」

 

 そう聞くとハイルは首を横に振る。

 

「いえ、私は構いませんよ」

「何でだ」

「恥かしがっているツカサはなかなか面白いです」

「……よし、さっさと着替えるか」

「ヒドイ! 無視しないで下さいよー!」

 

 彼女の言葉を右から左へ受け流しつつ、俺は手早く着替えを済ませ、外に繰り出したのだった。

 

 ▼ ▼ ▼

 

「ツカサ、ツカサッ! すごいです。こんなに人間がいます! これから何があるんですか!?」

「はしゃぐなよハイル。見られてるから」

「あっ、すいません……」

 

 そう言うとハイルはリアクション押さえる。猫耳を隠すためにかぶせてやったマスケット帽の向きを直した。

 俺達が来たのは二駅先のショッピングモール。

 普段は全くと言って良い程ここには来ない。だが今回は女性の服を選ぶと言う事もあってより多くの種類が集まっているここをチョイスしたのだ。

 

「さて、どこから回ろうか。ハイルはどこか気になるところはあるか?」

「私はよく分からないのでツカサにお任せしますよ」

 

 エスカレーターの横にある地図を眺めつつ考える。俺が向かう可能性がある洋服店を挙げれるとすれば、比較的にお財布に優しい『ウニシロ』だが……。今回の目的は女性の服。となると違う店を選択しなければなるまい。

 となると……行くのはこのピンクに塗りたくられたエリア。女性服のコーナーだ。

 目を凝らすとマスの細かい所には読み方がよく分からないアルファベットの羅列が整列している。……なんか頭痛くなってきたな。

 

「じゃあまずはここから行こうか」

 

 俺は地図に指をさしてそう言った。ハイルは「はい」と返事をする。それを確認してから目的地に向かって歩き始める。

 

「そういえば、ハイルのいた所はあまり人が多くなかったのか?」

「そうですね。確かにここまでは居ませんでしたよ。私がいた国はこんなに高い建物はお城ぐらいです」

「城? 王様が住んでる?」

「ええ、そのお城です。私の国にもそれはそれは立派で、偉そうな格好をした王様がいてですね――」

 

 自分の国の王様に対して偉そうって……こいつは何様なだろう。

 話を聞き流しつつ、ふと思う。

 

 彼女はいったいどこから来たのだろうかと。

 

 あのときあの猫は、いや彼女はズタボロだった。血がアスファルトを濡らしていたのをよく覚えている。あの傷はもう跡形も残ってない。だが、代わりに疑問が残った。当時は車に引かれたものと思っていたけれど、彼女がそのような不覚を取るとは思えない。

 となるとあの傷は……

 

「か……聞いてますか、ツカサ?」

「ん? ……ああ悪い。聞いてなかった」

「もう、シャキッとしてくださいよ。いかにあのヒゲ野郎が腹立つか説明してるんですから」

 

 ハイルは腰に両手を当ててプクーっと頬を膨らませる。ああ……可愛いなこいつ。っていうか今ヒゲ野郎とか言った? まさかとは思うがそれさっきの王様じゃないよね? ……ますますこいつが何者なのか分からなくなってきた。王様にマウント取れるとか何者なんだ。

 まあそんな疑問はいったん脇に置いておこう。目的のコーナーに着いたことだし。

 

「いらっしゃいませ~」

「は、はい?」

 

 ほんわかとした雰囲気の女性店員がハイルに話しかけていた。少し不思議そうに返事を返す。

 

「お二人は今日、デートですか?」

「デート……? ツカサ、デートって?」

 

 無表情でハイルは首をかしげる。ひょっとしてデートが分からないのか? まあ、人間でない以上言語的に微妙な認識に祖語が生じて当然か。

 

「デートってのは、あれだ。男女で出かける事だ」

「成程、まさにこの状況という訳ですね。そいう事なら間違いありません。今日はデート、です」

 

 ハイルがそう言うと、店員さんは笑いがこらえきれなくなったのかクスクスと笑いを漏らした。

 しばらくするとハッとして、咳払いした店員さんは話を仕切り直す。

 

「今日は彼女さんの洋服選びですか?」

「まあ、そんな所です」

「ではこちらにどうぞ。彼女さんにお似合いの洋服をご用意しますよ」

 

 そう自信たっぷり言う店員さんの後に続いて俺達は店の中に入っていった。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 両手に買い物袋をぶら下げて歩く。隣の彼女は少ししかめっ面で、腑に落ちない表情である。なぜせっかくの買い物の後にそんな顔をしているのか。買い物中にも言っていたその理由をハイルは再び口にした。

 

「重そうですね、ツカサ。そこまで買わなくても私は『とんがり帽子に黒いローブにワンピース。それにブーツがあれば魔女としては十分』……そう言ったではありませんか」

「お前が良くても俺が困るんだよ。ハロウィン以外でそんな格好したら絶対浮くから止めてくれ」

 

 そう、ハイルは服を買いに行くと言って思い浮かべた物はそれら一式であったそうな。店に入ると困惑し、危うく逃げ出す所だったのだ。

 それを無理やりとどめて、店員さんと彼女に着せ替えを敢行したわけである。

 恥じらいながら渋々と着替える彼女はとても新鮮で、見ている側としては幸せだったと述べておく。思い出しただけで頬がほころぶ。

 

「ニヤニヤして……そんなに私の格好が面白かったですか?」

「いや、そういう訳じゃないんだ。可愛かった」

「そんな見え見えのお世辞を言われたって私は信じませんから」

「じゃあこの間言っていた魔力はどうだ? 幸せになると出るんだろう? かわいい女の子を見たから俺は幸せになっているはずだ」

「……知りませんっ!」

「痛ってぇ!」

 

 思わぬ刺激に俺はうずくまって蹴られた箇所を押さえる。

 選りにも選ってくるぶしを蹴ったのか……。からかった俺にも非はあるのだが、それでもくるぶしは止めて頂きたい。

 

「何も蹴る事はないだろ!」

「ツカサがいけないんですよ。私にあんなに恥かしい格好をさせるなんて……」

「何かと誤解を招きそうな言い方は止めろ」

「誤解ではありません。あんなにぴっちりと体にひっつく服は……その、体のラインが見えるじゃありませんか」

 

 そう言われて、俺は思い返す。

 店員さんに進められて足にぴっちりと張り付くズボンを履いた時、頬を真っ赤にしていた。どうやら彼女は体のラインが出るのを好まないらしい。

 思えば彼女が着ている服は俺の物だが、体格差でワンサイズ程大きく、体のラインは余分な生地で隠れていた。

 まあ、初めて会ったときは裸エプロンだったじゃないかと突っ込みたい所では合ったが、これ以上は置いておこう。何が出てくるのか分からない(やぶ)をつつきたくは無いのだ。

 俺は言いたい事を飲み込んで彼女に頭を下げる。

 

「それは悪かったよ」

「分かればいいのです」

 

 うんうんと(うなず)きながら歩を進めるハイル。すると彼女の眼に何か興味がある物が映ったようで、俺の袖を引っ張った。

 

「ツカサ、あれは何でしょう」

「ん? あれか?」

 

 ハイルが指を刺したのは屋台だった。大きな看板には大きくタイの絵が描かれている。たい焼きか。意識し始めるとほんのりと生地が焼ける匂いがした。

 

「たい焼き屋だな」

「たい焼き?」

「ああ、生地を(たい)っていう魚の形の焼くお菓子なんだ。中にあんことかカスタードとかが入ってる。買ってみるか?」

「良いのですか?」

 

 ハイルは目をキラキラと輝かして俺を見上げる。もし尻尾がズボンに仕舞われていなかったのなら、ピンッと垂直に立ったのかもしれない。

 

「いいよ。それでハイルがさっきの事を許してくれるって言うのなら――」

「許しますっ!」

 

 即決かよ。恐るべしたい焼きパワー。

 

「なら買ってくるからちょっと待っててくれ」

「はいっ」

 

 俺は屋台のおじさんに声をかけて、あんことクリームのたい焼きを二匹注文。現金を払って、代わりに店のロゴが入った袋二つ受け取った。

 そして待たせていた彼女のもとへと戻る。

 

「ほら、クリームとあんこどっちがいい?」

「じゃあ、あんこで」

 

 袋を開けてうっすらと生地にあんこの色がみえる方を彼女に手渡す。すると彼女はすぐに頭からかぶりついた。

 何度か噛んで飲み込むと、緩んだ頬に手を添える。

 

「美味しいです」

「そいつは良かった」

 

 見届けた俺も残った一匹を取り出して、尻尾からかぶりつく。口の中でゆっくりとカスタードがとろけた。久々に食べたけれど、中々旨い。

 彼女の方に視線を戻すと、既に彼女は食べ終えていた。親指で唇を撫でて、指先をペロリと舐める。

 そして目が合う。いや、違うな。見ているのは俺の目じゃない。手元のたい焼きか。試しに手元を動かしてみると、金色の瞳はそれに合わせて動いた。

 

「えっと……食べるか? 食べかけだけ――」

「食べます!」

 

 ひったくるようにして俺の手元からたい焼きをかっさらうと、無我夢中で口に入れた。それも、俺が食べていた尻尾から。こいつは間接キスだとか気にしたりしないのだろうか。逆にこっちが恥かしくなる。

 あっと言う間に食べきると、再び親指で口元を拭った。

 

「ここまで私の好みに合う食べ物には初めて出会いました」

「そ、そうか……」

「また来たいです!」

「わかった、わかったから! 俺の反応が薄いからって袖を引っ張るな! 伸びちゃうだろ!」

「約束ですよ!」

「はい、はい」

 

 たい焼きの魔力とは恐ろしい。魔女をも魅了する食物だとは思わなかった。なんて、下らない事を考えつつ、俺達は帰路についた。

 

 

 

 

 

 



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ようこそ先輩、そして修羅場。

 五月になった。五月と言えば思い浮かべるのは大型連休、ゴールデンウィークであろう。一部の例外を除き、国民が堂々と休みを享受できる日々である。

 俺もその例外では無く休日。学校には行かず、バイトに明け暮れていた。

 勤め先は本屋だ。品出しをしたり、レジを打ったりしている。

 今日は休日と言う事もあり、客足が伸びていた。おかげで手が休まることがなく、バーコードを読み取り金銭を受け渡し。そして隣の店員が商品を梱包し、渡すのを眺める。

 

 そんな事を数時間繰り返し続けて、客足がまばらになった頃。俺は店長に言われて控室に引き下がる。

 すると、一足先に休みに入っていた人物が目に入った。

 一足先に休憩を取っていたらしい彼女は、長机に頬杖をついて反対の手で本をめくっている。「お疲れ様です」と声をかけると、本に栞を挟み、俺へと視線を合わせた。

 

「ん? 夏目君も休憩かい?」

「ええ、本多先輩もですか?」

「まあ、そうだね。それと、僕の事は苗字じゃ無く、気軽に名前で、『詩央(しお)』と呼んでくれといったじゃないか。一緒のシフトになるのが久々過ぎて忘れてしまったかい?」

 

 指を組んで首を傾げた。首程までの髪が揺れる。眼鏡ごしに細めた目で俺を舐めるように見た。

 本多詩央(ほんだしお)

 一つ上の先輩。黒縁の眼鏡にスレンダーな体系、その冷淡な見た目の印象とは裏腹に飄々とした言い回しが特徴のバイトで一番の麗人だ。

 ついでに言うと俺はこの人が苦手だ。距離感が測れないというか、なんというか……そう、常に手玉に取られているような感じがする、とでも言えばいいのだろうか?

 一言で言えばヘビとカエル並みに相性が悪い。

 そんな事を考えていると彼女は「どうかしたのかい?」と俺に言葉を急かした。

 

「……詩央先輩」

「別に先輩って付けなくてもいい。僕と君の仲じゃないか」

「いや、ただの先輩後輩でしょう」

「釣れないね、君は。まあ及第点(きゅうだいてん)としよう。せっかくの休憩に立ち話も疲れるだろう、座ったらどうだい」

「じゃあ、失礼します」

 

 そんな所に合格を出されても困るが、言われた通りに彼女の対面のパイプ椅子に腰を下ろした。それを見て彼女は組んでいた指を解いて、再び頬杖を付く。

 

「こうして君と話すのは久しいね。前に話したのは三月だったか。僕を避けていたのかい?」

「いえそんな事は。今年度に入ってから忙しくなるのは見えていたので、シフト減らしたんですよ」

「へぇ、そうか。ちょっと安心したよ」

「安心って、何にですか」

「まあ、いろいろとね。君はまだ知らなくていい事さ」

「そう言われると余計に気になります」

 

 そう言うと、詩央先輩はわざとらしく『さて』と会話を区切った。

 

「そういえば夏目君、前に猫を拾ったと言っていたね。その後どうだい?」

「どうって……」

 

 そう言われて俺は猫、もとい、今は家で留守番をしているであろうハイルを思い浮かべる。

 彼女の事はまだ誰にも伝えていない。猫で魔女の女性と一緒に住んでいる、と言っても、とてもじゃないが信じて貰える気がしないからだ。

 なので詩央先輩には適当な事を伝える事にした。

 

「まあ、普通でしたよ。ついこの間まで」

「ついこの間まで、ってまるで今はそうじゃないみたいな言い方だね。何かあったのかい?」

「まあ、そうですね」

 

 何かがあり過ぎていっぱいいっぱいである。

 

「言いづらいが、亡くなったとかか?」

「いえ、そういう訳では無いんですよ」

「じゃあ、引き取り先が見つかって、もう家にはいないのか?」

 

 そう言われて考える。猫は居なくなったわけでは無い。だが、その姿はもう立派な人型である。なのでその様な言い方が一番近い気がした。

 なので先輩の言葉に相槌を打つ。

 

「そうか……。まあ、しっかりとした受け入れ先が見つかって良かったじゃないか」

「そうなんですけどね。どうも切り替えができなくて」

 

 実際の所、急に女性と暮らしだしたので、そこら辺がかなり(つら)い。

 彼女は日々、無防備にな姿で布団に入って来たり、風呂から出て来たり、着替えたりと、やりたい放題。性的な鬱憤(うっぷん)は溜まるばかりだった。

 発散しようにも彼女を同伴も無しに追い出すのはリスクが高すぎる。

 俺がそんな事を考えている間に目の前の先輩は何やら考えをまとめていたようで、顎に指を添えていた。そしてブツブツと何か呟くと、何か思いついたようで『良し』と拳を握った。

 

「今日は君の家に遊びに行く」

「いや、そんな急に意気揚々と宣言してどうしたんですか」

「夏目君は猫がいなくなって寂しい。ならこの僕が気晴らしに遊びに行くと言ってるんだ」

「どうしてそうなったのか理解ができない……」

「まあ、気にするな。私と君の仲じゃないか」

「そんなに肩をバシバシ叩かれても、このバイトで知り合って、一年しか経っていないという事実は変わりませんから、止めて貰えますか」

 

 俺の言葉を聞いて詩央先輩は手を止める。 

 真面目に痛かった。詩央先輩も意外と力が強い様だ。俺の周りの女性陣はどうしてこうもたくましいのだろうか。

 そんな事を考えていると詩央先輩は再び口を動かし始めた。

 

「ともかく、だ。行くったら行く。異論は認めないからな」

「いや、そんな事言ったって――」

「おっと、休憩もここまでらしい。僕は先に出てるぞ夏目君」

「え? ちょっと詩央先輩! まだ話終わってないんですけど!」

 

 ▼ ▼ ▼

 

「よし、じゃあ行こうか」

 

 夕方。バイトも終わり家へと脚を動かしていると、同じ時間で上がった詩央先輩はすぐさま声をかけてきた。両手を腰に当てて、何やら得意げな様子だ。

 彼女の大人っぽいビジュアルと子供っぽい仕草のギャップに俺は思わず悶えたくなる。

 だけれど、それはさて置き、困った事があった。

 このままだとハイルとかち合わせてしまう可能性が高い、と言う事だ。

 それの何がまずいのかと言えば、ハイルの存在が他者に知られてしまうという事である。それは避けなければならない。

 何故なら彼女は人では無い。それ故に、噂が広まればどのような厄介事が俺や彼女に降り注ぐのか想像も付かない。

 見世物にしたいと企む連中が出てくるかもしれないし、彼女を傷つけた何者かに居場所を知らせてしまうかもしれない。

 人の口に戸は立てられないと言うし、知っている人は少ない方が良いのだ。

 なので、なんとか詩央先輩を引き離すために言葉で揺さぶる事にした。

 

「本気で付いてくる気なんですね」

「何を言うのさ。僕はいつだって本気だよ」

「……俺の部屋汚いですよ」

「構わないよ。何だったら掃除を僕が手伝ってやらない事も無い」

 

 汚部屋アピールは効果無しか。なら次だ。

 

「一人暮らしの男性の家に連れ込まれるって、どんな気分ですか?」

「ふむ、そうだな……。実は少し期待している」

「……何を?」

「ナニをって? それはだな――」

「いや、もういいです」

 

 これも駄目か。女性の防衛意識に付け込む作戦だったが、詩央先輩にとって俺は襲い掛かる敵では無いらしい。せいぜい捕食対象。そういう認識の様だ。

 さらに次。

 

「実は俺、詩央先輩の事苦手なんですよね」

「僕は好きだぞ。だから気にしないでいい」

「いや、少しは気にして貰えませんかね……」

 

 唐突に苦手発言をする事でお茶を濁そうとしたのだが、またしても効果は無い。冗談と思っているようで高らかに笑い飛ばされた。

 あと、背中をバシバシ叩くなって、痛いから。

 

 そうこうしている間に俺が住んでいるアパートはもう目前へと迫っている。だがしかし、ハイルの存在を隠す術はまだ無い。

 家に固定電話でもあれば、連絡して猫にでも姿を変えて貰ったのだが、生憎、俺はスマホしか持ち合わせておらず、その策は取れそうにない。

 さて、どうするか。

 

「確か、あそこだったよな。夏目君の家は」

「ええ、三階の角部屋です」

 

 指を刺す詩央先輩に頷きつつ答える。

 マズイな本当に策が無い。万事休すか……。

 いや、諦めるな。ここで諦めれば更なる困難に巻き込まれる可能性があるんだ。最後まで思考を続けろ! 

 敷地に足を踏み入れ、階段を上がりながら頭を回転させ続ける。そして、三階までたどり着いたとき、ギリギリのタイミングで自然な誤魔化し方を思いついた。

 早速それを実行に移す。

 

「詩央先輩」

「何だい、夏目君」

「少し外で待ってて貰って良いですか? さっきも言った通り俺の部屋汚いんで、最低限掃除したいんですよ」

「別に気を使わなくてもいいのに」

「俺が気にするんです」

「まあ、君が気のすむようにしたらいいよ」

「そう言ってくれると助かります」

 

 そう言って先輩を部屋の前に待たせることに成功した。心の中で万歳三唱である。

 これは嘘だ。俺の部屋は最近ハイルが手の空いている時に掃除してくれているため言うほど汚い訳では無い。

 だが、この得られた時間にハイルには事情を説明し、何かに変化(へんげ)してもらうなり、隠れて貰うなりといろいろと策が取れる。これで詩央先輩対策は完璧だ。

 自分のひらめきが恐ろしくなる程の確信をもって、鍵を差し込み、開錠。ドアノブに手を置いた瞬間だった。予想外の出来事が起こった。

 ドアノブが勝手に回り、扉が開かれたのだ。

 そして彼女が姿を現す。

 

「おっかえりなさーい、ツカサ! 待ちくたびれましたよ~」

 

 屈託のない笑顔での出迎え。頭上には隠すべき二つの異物。猫耳がぴくぴくと動いていた。

 生憎と今の俺はこの間みたく、手元に帽子などは持ち合わせておらず、即座に隠せなかった。つまり後ろの詩央先輩にガッツリと見られてしまった事になる。

 恐る恐る後ろを振り返る。油の刺さっていないブリキの様にカクカクとゆっくり。そこには眉をぴくぴくと動かして、腕を組んでいる詩央先輩がいた。目付きも心なしか鋭くなっている。

 

「おっと、お客さんですか? ツカサ」

「ああ。この人は――」

「本多、本多詩央だ。夏目君のバイトで良くしてもらっている」

 

 俺の言葉を遮り詩央先輩はそう返す。そして間に入っていた俺を押しのけて、ハイルの正面に経った。

 

「君は?」

「ワタシはハイル。ハイル・ミーツ・アルハンゲル。ツカサの……えっと、何でしょう?」

 

 そう目線で訴えられても困るぞハイル。と言うか、先輩はあの動く耳が見えないのか? 作り物じゃない事は一目で看破できるはずだが、眼中に無いみたいだ。

 そんな疑問と格闘している俺を見てからハイルは言葉を続ける。

 

「まあ、『居候(いそうろう)』と言う事にしておきましょう」

「へぇ、こんな男子学生の所に居候とは珍しい」

「はい。自分でもそう思います」

 

 無言で見つめ合う二人。ぶつかり合う視線は火花を散らしているんではないかと思うほどに力強い。そのプレッシャーからか、一秒が数倍に引き伸ばされているかのように感じた。

 やがて二人とも視線を逸らし、振り返って俺を見る。

 

「ツカサ、話があります」

「夏目君、話がある」

 

 二人の言葉が重なる。また睨み合う。止めて……板挟みされるこっちの身にもなって! 胃がキリキリと痛みだしちゃうから!

 手を視線の間に入れて遮り、俺は仲裁する。

 

「取りあえず二人とも上がって、ここで話すのは近所迷惑になっちゃうから」

「……そうですね」

「……ああ、分かった」

 

 そう言うと二人は無言で部屋へと歩を進め、俺はその後を追って玄関で靴を脱いだ。リビングまで大した距離も無いのに、その足取りはかつて無い程重く感じた。



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ようこそ先輩、続修羅場。

「足音が多かったので妙だな~とは思っていたんですよ」

 

 キッチンで二人。お茶の用意をしつつ、ハイルはそう言った。

 その言葉に違和感を感じて俺は聞き返す。

 

「足音って聞こえるのか?」

「ええ。それはもうバッチリ。そろそろ帰って来る頃だと思っていたので耳を澄ましてました」

「澄ませてったって、魔法って訳じゃ無いのか」

「耳は良いんですよ。私……というか、私の家族は」

「へぇ」

 

 と言う事は小声で何か呟いたとしてもはっきりと聞き取れるわけか。まあ、人の様で猫に近い魔女だしおかしくは無いのか。

 だが、まあ無いとは思うが、ハイルの陰口は言わない方が良さそうだ。覚えておこう。

 それと気になる事がもう一つ。今ハイルは耳を隠してはいない。あの象徴的な猫耳は堂々と(さら)したままだ。にも拘わらず詩央先輩はそれを気にも留めていない。その違和感が気になって仕方が無かった。

 

「なあハイル」

「何でしょうツカサ」

「お前の耳、詩央先輩には――」

「はい。見せてないですね」

 

 キッパリとそう断言する。

 見せてない? 『見せる・見せない』というより、『見える・見えない』じゃないか? 情報を送信する側では無く、受け手側の問題だと思うのだが……。

 俺はそこを追及する。

 

「見せてない?」

「ええ、認識阻害ですね。魔法の一種ですよ。少し複雑で面倒なんですけどね」

「認識阻害って事は、詩央先輩にはお前の耳が認識できてないって事か」

「念のためにかけておいて正解でした」

 

 フフーンと得意げに腰に手を当てる。

 ハイルの存在が周囲にばれるリスクは俺だけでなく彼女も考えていただろうし、その対策もあった。つまり、俺の心配は杞憂に終わったのか。

 俺はふっ、と息を漏らした。

 

「流石だな」

「ワタシ、こう見えて優秀なので」

「そうだったな」

 

 そう言うと、やかんがピーっと音を立てた。俺は取っ手を持ってマグカップにお湯を注いだ。カップごとに異なる色へと染まっていくのを眺めつつ、俺はハイルに指示を出す。

 

「ハイル、棚に買って来たクッキーがあったろ? あれ出して、先に座っててくれ」

「了解でーす」

 

 そう返事をしてハイルは詩央先輩を待たせているリビングへと戻って行く。俺はトレーにマグカップを並べてその後を追った。

 リビングに戻ると詩央先輩が座布団の上に綺麗に正座をしていた。俺はトレーに乗せていたマグカップを各人(かくじん)の前に置く。詩央先輩には紅茶を、ハイルには緑茶を、俺にはコーヒーと言った具合にリクエスト通りの物を並べた。

 それを終えた後、俺は席につく。

 

「ありがとう、夏目君。お茶まで出して貰って」

「ティーバッグの安い奴なんで、そんな大したものじゃないですよ」

「それでも僕としては嬉しかったからね。言わないと、伝わらない事もあるだろう?」

 

 そう言って詩央先輩はマグカップを両手で持ってお茶を啜った。

 言わないと伝わらない事、ね。まあこの場合、伝えなくてもいい人に伝えるが正しかったのだろう。この言葉を聞いてハイルの目線が険しくなる。それを見て先輩は笑っているから、これはわざとだと俺は判断する。

 どうしてこうも出会ったばかりで対立できるのか、俺は不思議でならない。

 適当な所で止めないと話が進まなそうなので俺は彼女達に割って入った。

 

「まあ、その辺にして話を始めようか」

「そうですね、睨み合っていても仕方ありませんからね」

「そこは、僕も同意するよ。不本意ながら」

 

 また二人はバチバチと視線で火花を散らす。俺はそれを「まあまあ」となだめた。

 

「聞きたい事は山ほどあるけれど、まずは一つ。君が来たのはいつからだい? 去年に一度、ここには遊びに来たが、その時は君の気配は感じなかったからね」

 

 一つ目の質問。ハイルはそれに対して即座に返す。

 

「まあ、二週間ほど前ですかね。ここでちゃんと暮らし始めたのは」

「ふむ。と、言う事はそれよりかは前に知り合ってはいたのか」

「そうなりますかね」

「嘘ではないかい?」

 

 まあ『知り合ってはいた』と言うよりかは『擬態して生活していた』が正しいのだが、それは新たな誤解を招く。俺は詩央先輩の言葉に頷く。

 それを見てから詩央先輩は話を次に進める。

 

「端的に言って君たちの関係は何だい?」

「何って……」

 

 二つ目の質問を前にして俺はハイルに目線を送った。するとハイルは少し首をかしげてから、何故かそれをウィンクで返す。俺はそれに戸惑った。

 それを見かねてなのか先輩は言葉を付け加える。

 

「言いにくいのであれば、恋人かそうではないのかだけでも構わないが」

「そう言う事でしたら、俺とハイルはそうでは無いですね」

「ええ、ワタシは居候なので」

「ふーん……」

 

 先輩は目を細めてハイルを見つめる。まるで目利きをする鑑定家の如くじっとりと。そして目線をずらして今度は俺にスポットを当てて、では最後にと切り出す。

 

「どうして夏目君は彼女を家に置こうと思ったんだい?」

「どうって……放って置けなかったんですよ」

 

 道端で倒れていた猫の姿を思い返しつつ俺は続ける。

 

「あの時、俺はそのまま立ち去るという選択肢は頭に浮かばなかったんです。だから、彼女をここに連れてきた、それだけの事ですよ」

 

 そう言うとハイルは頬に両手を当てつつ俺を見つめ、詩央先輩はため息を吐いてやれやれと両手を広げた。

 

「君のそういう御人好(おひとよ)しな所、僕は嫌いじゃないが、どうも危うくて、見てる分には辛いよ。早めに直してくれるとこっちとしては気が楽だね」

「何を言いますか。それがツカサの良い所なんですから、別に直さなくてもいいんですよ」

「現に君に利用されているじゃないか……。まあいい。最低限の情報はこれで貰った」

 

 詩央先輩は袖を少しまくって、左腕の時計をチラリとみる。そしてこたつ机に両手で体重をかけて立ち上がった。履いているスカートが俺の眼前で揺れ、少しばかり俺の興奮を煽る。

 そのスカートを二度(はた)くと先輩は口を開く。

 

「じゃあ夏目君。そろそろ夕飯の支度をするよ」

「なっ……! 夕飯の支度って、アナタは帰って下さい! これからはワタシとツカサの時間です。ワタシにはまだ聞きたい事があるんですから!」

 

 思わぬ言葉にハイルはそう返す。だが詩央先輩は気にした様子も無く耳元をかき上げ、更に言葉を紡いだ。

 

「分かっているさ。僕もさっきまでそうだったからね。だけれど――それが何だって言うのさ」

 

 一方的で、身勝手なその言葉にハイルが息を呑む。

 詩央先輩はそれを見つつ続けた。

 

「君に僕が気を使う理由は全くない。好きなようにやらせてもらう」

「そんな事が勝手な事、許されると思ってるんですか? ツカサからも何か言ってください!」

「まあ、それもそうか。どうだい夏目君? 君は私が居るのは嫌かい?」

 

 机を挟みつつ、俺に詰め寄る二人。それに思わず俺は後ろへと下がりつつ言葉を返す。

 

「嫌って、そんな事は無いですけど、詩央先輩は帰らなくて大丈夫なんですか? 確か実家暮らしでしたよね」

「ああ、問題は無い。両親には遅くなると言ってあるからね。何だったら泊まって行ってもいい」

「何を言いますか! アナタは所詮他人でしょう! そんな急に……あ」

「おや、どうかしたかな? ひょっとして思い出したのかい。知り合って二週間。血縁でも恋人でもない間柄。そんな(もろ)い自分の立場を」

 

 ニヤリと影のある笑みを詩央先輩は浮かべる。それはハイルが認めた俺との関係、晒した設定を利用して、自分の方が俺の部屋(ここ)に相応しいと主張しているようだった。

 さらに先輩は言葉を続ける。

 

「そんな人間がここに泊まれるというのであれば、より付き合いの長い僕は泊まれて当然とも言える」

「うぐぐ……それは」

「まあ、泊まるのは大げさにしても手料理を振る舞うぐらいしても文句は無いはずだ。夏目君も嫌だとは言わなかったしね」

 

 ばっちりと俺にアイコンタクトを取った。

 料理を作ってくれるのは迷惑では無い。それどころか料理をそこまで楽しめない身からすればかなりありがたい。俺は詩央先輩の厚意に甘える事にした。

 

「じゃあ、詩央先輩お願いしてもいいですか?」

「ああ、任せておきたまえ」

「な、ちょっとツカサ! この女の好きにさせるんですか!?」

 

 控えめなボリュームの右胸に拳を当てる詩央先輩に対してハイルが突っかかった。

 俺はそれをなだめる為に口を動かす。

 

「別にいいじゃないか。俺としては料理は面倒だし、先輩の提案は素直にありがたい」

「確かにそうかもしれないですけど、もっとこう……無いんですか? 『自分のキッチンを荒らされたくない』みたいなこだわりは」

「いや、全然ないよ」

「そんな……」

 

 俺の言葉を聞いてハイルは両手を床に突っ伏してうなだれた。何もそこまで大げさに落ち込まなくてもいいだろうに。

 それに対して、詩央先輩は満足そうに声を出して笑うと、キッチンに向かって歩きながら語る。

 

「そう言う事だ。君は指をくわえて待っていたまえ」

「くっ……」

 

 ハイルは詩央先輩を見上げつつ歯を食いしばり、拳を握った。腕が震えていてかなりの力を込めている事が分かる。

 いや、だから何でそこまで対抗心を燃やせるの? 貴方たち初対面だよね?

 そんな事を思いつつ見ていると、ハイルは何かを思いついた様に顔を上げて詩央先輩の後ろ姿に向かって話しかけた。

 

「待ちなさい。アナタの好きには絶対にさせません」

「へぇ、面白い事を言うね。でもどうする気だい? 僕を無理やり追い出す気かな?」

 

 詩央先輩は振り返り、黒縁眼鏡を人差し指でクイッと上げてハイルに次の言葉を問う。

 それに対してハイルは立ち上がると彼女の目の前まで歩き宣言する。

 

「そんな事はしませんよ。ツカサもそんな事望まないでしょうから。だから――ワタシも作ります。夕飯を作って、ツカサを満足させて見せます!」

 

 こうして、我が家にてお料理対決の幕が上がった。

 状況が飲み込めていない俺はその様子を眺めつつ、ただ一人冷めたコーヒーを飲んだ。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 俺は箸を運んだり、横でご飯を炊いたりしながら彼女たちの様子を見ていた。だがその途中で、キッチンから追い出されてしまった。なんでも「あとはお楽しみ」とのことらしい。

 ハイルが料理をするのは見た事が無かったから少し不安もあった。だが、先輩もいたし任せても大丈夫だろうと判断してこたつ机に着く。

 そしてしばらく待つと、彼女達がお盆に料理を乗せてやって来た。

 

「やあ、待たせたね。夏目君」

「いえ、それほど待ってません。むしろ任せてしまって申し訳ないです」

「ハハハ、良いよ良いよ。僕としては料理は楽しい事だから」

「そう思えるのは羨ましいです」

「そうかい? そこまで夏目君が億劫なら、僕に毎日任せて貰ったって構わないよ」

「はいはい、そこまでです。料理が冷めてしまいますから」

 

 ハイルが二度手を叩いて会話を中断させた。詩央先輩は「そうだった」と頷いてテーブルに器を並べ始める。御飯と味噌汁。それにから揚げと卵焼き。どれも湯気を立てて美味しそうな匂いを漂わせている。

 

「おお、すっげぇ」

「こっちのお味噌汁とから揚げは僕が、そっちの卵焼きが彼女の作品だ」

「詩央先輩はともかく、ハイル、お前料理できたんだな」

「ええ、普段からツカサの姿を見てますから。一度見れば十分です。ささ、どうぞ食べて下さい」

 

 そう勧められて俺は箸を手に取った。もちろん『いただきます』と口にすることは忘れない。茶碗を片手に早速メインのから揚げへと手を伸ばした。

 パリッとした薄い衣を噛み切ると中からジュワッと肉汁が滲み出る。思わずご飯をかき込みたくなる衝動に狩られ手を動かす。

 

「おいしいかい?」

 

 詩央先輩の問いにしたいして、口に物が入っていたので頷くだけに留める。頬杖を突きながら俺を眺めていた詩央先輩は口角を少し上げた。

 

「それは良かった。僕に遠慮せずに食べてくれ」

「ツカサ! ワタシのも食べて下さいよ!」

「分かってるから落ち付いてくれよ。あまり急かさないでくれ」

 

 口の中身を空にした後、グイグイと俺に体を近づけるハイルをなだめる。そして俺はごく一般的な形をしたハイル作の卵焼きを口に入れた。

 味わいつつ何度か咀嚼(そしゃく)して飲み込んだそれは何というか、こう……普通過ぎて、可もなく不可も無くを地で行き過ぎて、言葉が出てこなかった。

 それにこの味付けはどこかで……。ああ成程、そう言う事か。

 悩んだ末にたどり着いた答えを口に出した。

 

「何か、俺が作ったのにそっくりな味だ……」

「そうでしょう、そうでしょう! 真似することに関してならこのワタシ、そこそこ自信があるのです!」

 

 ブイサインを付きつけつつハイルはそう言った。

 俺はその答えに世間一般の回答を返す。

 

「でも真似するならもっと旨い人がいるだろうから。そっちにした方が良い」

「そうですか? ワタシはツカサの料理、好きですよ」

「……ハイルが良いなら、好きにしたらいいけど」

「はい! そうしますね!」

 

 その後は三人で机を囲みながらご飯を食べ進めた。ハイルと詩央先輩の対立は相変わらずだったけれど、見ている側としては笑って済ませられる程度。

 一人暮らしも一年を超えて、当たり前の様に一人で雑な料理を口にし続けいたからか、このにぎやかな食卓はとても温かく、心地よかった。そう言って置こう。

 

 ▼ ▼ ▼

 

「詩央先輩、本当に送らなくてもいいんですか?」

「ああ、問題は無いとも。言ってなかったかな? 僕の家は意外と近いんだ」

「それは初耳ですね」

「そうだったか。なら今度は僕の家に招待しよう」

「ええ、そのうちお邪魔しますよ」

 

 詩央先輩はスニーカーを履き終えて、立ち上がる。振り返り、俺の後ろに経っていたハイルに向かって指を刺した。

 そして宣言。

 

「君がどういうつもりなのかは知らないが、僕は負けるつもりは毛頭無いからそのつもりで」

「ええ、望むところです。ワタシもあなたに負ける気なんてありませんから」

 

 少し睨み合った後、お互いを鼻で笑ってから視線を外す。詩央先輩はドアノブに手をかけると上半身だけで振り返った。

 

「じゃあ、夏目君また」

「ええ。また今度」

 

 彼女の短い挨拶にそう返すと先輩は満足そうにわたってこの場を後にした。

 

「何だか嵐のような人でしたね」

「ああ、そうだな。初めて会ったときからって訳では無かったけれど、詩央先輩には振り回されてばっかだ」

 

 俺は笑ってそう返すとハイルは『そうですか』と言った。俺は今日の出来事を思い出しながら言葉を続ける。

 

「でも、どうして今日はあんなに敵意むき出しだったんだ? 珍しいじゃないか」

「そう……ですかね?」

「ああ。ハイルはもっと人懐っこいイメージだった」

 

 俺がそう言うとハイルは顎に指を添えて少し考える仕草を見せて、それから口を開いた。

 

「もちろん、人に合わせて振る舞う事も出来ました。でも、今日は何だか負けたくなかったんですよ」

「何に?」

「何でしょうね? ワタシにも良く分かりません」

「そっか」

 

 それからハイルはだんまりを決め込んだ。ずっと話しているのではないかと思うほどにやかましい彼女にしては珍しいと言わざるを得なかった。

 一方俺は風呂を洗ってからお湯を張り、その待ち時間に布団を敷いていた。意味がないだろうけれど一応二つ。何故ならハイルは暑かろうと寒かろうと、俺の布団に入って来るからだ。

 だが翌朝。予想に反して、体重は掛かっておらず。横の布団から黒い耳が飛び出しているのが見える。

 どのような心境の変化があったのかは分からないが、俺としては心が楽だった。



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大いに悩め、ネコマジョ・カノジョ!

 あの女、ツカサからシオと呼ばれていた彼女が去り去った後。私達は入浴を済ませ、床に就いた。口を聞かずにいたワタシにツカサは『おやすみ』と言って電気を消す。

 普段ならここからツカサが寝静まったのを見計らって布団に潜り込むのだが、今日はどうにも実行する気にはなれなかった。

 何故なら、ワタシが口つぐんでいた原因。頭の中でぐるぐると回っていた問いがどうしても離れなかったからだ。

 

『何にワタシが負けたくないと思ったか』

 

 ツカサの口から放たれたこの問い。あの時は言葉を濁したが、答えは分かり切っている。あの女(シオ)に負けたくなかったのだ。

 では更に踏み込んで考える。

 

『何故、ワタシは負けたくないと思ったのか』

 

 それは直感。ワタシはあの女からは嫌な予感がしたから……で、片付けてしまってはこのモヤモヤとした気持ちに区切りはつかないだろう。

 もう少し具体的に、(なに)で負けたくなかったのかを考えるとハッキリするはずだ。

 それも時間をかけずに答えは出た。ワタシが負けたくないのは『ツカサとの仲を縮める事』だと断言できる。

 ワタシも、あの女もツカサとは微妙な距離間だ。

 ワタシは、知り合って二週間の居候と家主。

 あの女は、一年前からバイト先の先輩後輩。

 その距離間を何とかして縮めようとしているのはお互いの行動から分かる。ワタシは居候による共同生活。彼女は自宅まで料理を振る舞いに来ている。

 効果に関してはさておき、競合する相手であることは揺るぎない事実。目的に至るまでの障害はなぎ倒さなければならない。その手段は惜しまないつもりだ。

 だけれど――

 

『ワタシの目的とは何なのだろう?』

 

 新たに出て来た疑問。それに対してワタシは先程の様にスムーズに答えを出すことができなかった。

 頭に手を当て、耳を塞く。音が遠くなって集中しやすくなると思ったのだ。だがそれを十五分続けてもサッパリ、答えは出ない。

 

『ではワタシは目的も無くこんな事をしているのか?』

 

 頭によぎった自分への問い。それを布団の中で首を振り否定した。そんな事はないはずだ。意識的でないにせよ自分は何かしら目的を持っている。でなければ怪我が治ったら即座にここから姿を消しているはずなのだ。

 だからワタシは考えて考えて考えて……そしてようやく、仮の答えを出すことができた。

 

『恩返しするため』

 

 そう、これに尽きる。

 ワタシは彼に助けられた。この何が何だかよくわからないこの『セカイ』に放り出されたとき助けられた。

 ワタシの世話を全くの善意でしてくれたのだ。

 この借りは、返さなければならない。

 この感謝は、全身全霊で示さなければならない。

 だから彼との仲を縮め、より親密な関係になって、彼の満足の行くような事をしてあげたい。そう思うのだ。

 何だかこの結論にはまだ詰める所があるように思えるけれど、これ以上は泥沼にはまりそうだった。だからこれで納得しておく事にしよう。現実で出せる答えなんて、数式の様に常に一定ではないのだから。

 チラリと壁にかけてある時計を見た。時刻は三時ピッタリ。そろそろ寝なければ明日の行動に支障をきたしてしまう。

 布団を顔に被って、目を閉じると意識はゆっくりと落ちて行った。

 

 そうして迎えた朝。ワタシはゆっくりと体を起こしぼんやりとした視界が『セカイ』にピントを合わせるまで瞬きを繰り返す。

 その後隣を見ると、既にツカサの布団は(たた)まれていた。彼もう起きているらしい。耳を澄ませるとキッチンから物音が聞こえる。

 いつも通り挨拶をしに行こう。挨拶は()()()()大切な文化だ。彼に気持ち良く生活を送って貰うためにも欠かしてはならないだろう。

 彼に習って布団を畳み、脚をキッチンに向けて踏みだした。……がすぐに戻った。机の上で彼の『スマホ』と呼ばれている通信道具が音を立てて振動していたからだ。

 ワタシはそれを手に取って、ツカサがしていた様に光っている面をなぞってから耳に当てた。

 

『やあ、夏目君。調子はどうだい?』

「いえ、違います。私はハイルです。数時間ぶりですね」

『……どうして君が彼の電話に出るんだ』

「今ツカサは少し席をはずしてまして。変わりましょうか?」

 

 ワタシがそう言うと、少し間を空けてからシオさんは話し出す。

 

『何だか意外だ。てっきり僕は切られると思っていたよ』

「そんな事しませんよ。そんな事する理由はありませんから」

『あるだろう? 君と僕は恋敵なのだから』

 

 恋、敵……? 彼女が発した言葉にワタシは考えてしまう。意味が分からない。恋敵とは、同じ人に恋をしていて、その競争相手。と言う意味であるはずだ。

 ワタシはツカサに恋をしている訳では無い。だから、この言葉は相応しくないはずである。

 そう結論付けて言葉を返す。

 

「違いますよ。ワタシはあくまで居候です」

『本人の前じゃなくてもそれを貫き通すか、釣れないね』

「魚じゃないですからね」

『そう言う意味じゃないんだけどさ』

 

 まあいいよ。とシオさんは言葉を続ける。

 

『夏目君に変わってくれると助かるよ。少し話したい事があってね』

「話したい事は昨日のうちに終わったのではないのですか?」

『それはそれ。これはこれだよ。別のことを聞きたくてね』

「そうですか。じゃあ少し待っていて下さい」

 

 耳からスマホを話してキッチンに向かって歩く。扉を開けると流し台にいたツカサは、音に気が付いて振り返る。トーストを口にくわえて、片手にマグカップを持っていたが、ワタシを見てそれらを皿や流し台の上に置いた。

 ワタシは予定通り挨拶をする。

 

「おはようツカサ」

「おはようハイル。どうした? スマホなんか持って来て」

「電話です。ツカサを大好きなシオさんから」

「俺を大好きなって、んな事あるかよ……。まあ、持って来てくれてありがとう」

 

 もう少し戸惑うと思っていたのだけれど、ツカサは意外とあっさり手を差し出した。光ったままのスマホを引き渡す。

 そのままツカサは耳にスマホを当てると、『お電話変わりました。貴方が大好きな夏目司(なつめつかさ)です』と、流れのままに口にしたのだった。

 

 ☆ ☆ ☆

 

『な、ななにゃ、何を――キャッ』

 

 電話に出ると詩央先輩はかつてない程に取り乱していた。「ガンッ」という音と先輩の悲鳴から、スマホを落とした事を察する。

 足音がして再び先輩の声が聞こえ出す。

 

『すまない。取り乱した。いきなり何を言い出すんだ君は、からかうのはよしてくれ』

「普段は詩央先輩に手玉に取られっぱなしですからね。たまには仕返しをしたいと思ったんですよいかがでしたか?」

『正直な所狐につままれたような気分だよ。君にこういう茶目っ気があるとは思わなかった』

 

 それはさて置きと言葉を置いて先輩は話題を切り換えた。

 

『君に頼みたい事があってね』

「俺にですか? 詩央先輩みたいな人が珍しい。詩央先輩からしたら俺の助けなんて、猫の手以下でしょうに」

 

 思った通りに言葉を返す。詩央先輩は優秀だ。バイト先の同期に彼女と同じ高校の奴がいるのだが、聞けば、成績優秀、スポーツ万能の生徒会長で校内で知らない人はいなかったとか。

 そんな彼女に俺の助けがいるとは思えなかったのだ。

 

『そんな事無い。むしろ君じゃないとこんな事、頼めない。頼みたくないんだ』

 

 念を押す様に詩央先輩はそう言った。そこまで言われて悪い気はしない。年上の美人に頼られるってのは男としては嬉しい限りだ。

 それに、困っている人を放って置くのは性分ではない。

 そんな義務感を感じつつ、俺は彼女の頼みを聞くことにした。

 

「そこまで言うのでしたら俺は別にいいですけど」

『本当かい? 君がそう言ってくれて僕は嬉しいよ』

 

 俺の了承を受けて発した先輩の言葉は静かだったが、心なしか弾むようであった。

 そのトーンのまま先輩は言葉を続ける。

 

『では、急で申し訳ないけれど今日の予定は空いてるかな?』

「ええ、まあ。せいぜい本を読むぐらいだったので」

『そうか、なら大丈夫だね。良かった……本当は昨日の内に言うつもりだったんだけれど、いろいろあって言えなかったからね』

 

 確かに昨日はいろいろあったなぁ。ハイルが見つかるわ。そのまま先輩といがみ合うわで、てんやわんやだった。あの状況で何かを頼むとなると、ハイルが何かしてくるのは確実。そう思って先輩は今日に仕切り直したのだろう。

 そんな事を考えつつ先輩の言葉を続きを待った。

 

『実は先日、お客さんの一人に、その……交際を申し込まれてね。断ったんだ』

「はぁ、成程。で、理由が『既に恋人がいるから』ですか?」

『いや、察しが良すぎないか君!? 僕の頭を覗き見しているんじゃないかって思うよ!?』

「俺はその仮の彼氏役をして、その諦めきれていない男を納得させればいいんですね?」

『待って、ちょっと待ってくれ夏目君。話が進むのが早すぎるから。僕に落ち着く時間をくれ』

 

 先輩はそう言って間を空けた。スピーカー越しに深呼吸する音が聞こえた。何だかこう……あれだな。添い寝ボイスを聞いているような気分だった。

 ……考えていることが最低だな。先輩は真剣に話をしているのだから気持ちを切り替え無くては。

 

『そうだ。そう言う事なんだけれど、場所は駅前のショッピングモールでお願いしたいんだ。あそこは映画館もあって、いかにもって感じのデートスポットと言えるだろう?』

「まあ、演じるのであれば最適な場所ですね」

『時間は十二時。駅前のベンチで待ち合わせで頼めるかな?』 

「ええ、分かりました。では、また」

『ああ、また』

 

 耳からスマホを離して電話を切った。スマホをポケットに入れて流しに置いていたコーヒーを飲む。すっかりと冷めてしまった為か酸味が際立っていた。

 それを見て横に立っていたハイルが話しかけてくる。 

 

「それで、ツカサ。彼女は何の用事だったんですか?」

「ん? ああ、実は――」

 

 俺は詩央先輩に助けを求められて映画を見に行くことを簡潔に伝えた。するとハイルは納得のいかない様子で、眉をピクリと動かす。

 

「どうかしたか?」

「いえ。話は理解できました。でも本当に行くのですか?」

「ああ。だって断る理由がない。先輩が困っているのなら、力になってあげたいって思うのは当たり前だろ?」

「そう、ですよね……」

 

 ハイルはそう言って顔を逸らした。普段はなだらかに揺れている尻尾がだらりと下に垂れ下がっているのが見える。何か言いたい事を飲み込んでいるのだろうか。

 何だかモヤモヤする。思い切って聞いてしまった方がスッキリするのだろう。だが、彼女が言うべきでないと判断したのなら、それは掘り返すべきでは無い。俺はそう判断した。

 

 スマホを取り出して時計を見る。時刻は十時。待ち合わせの場所への移動時間も考慮して一時間後には出なくてはならない。俺は食べかけだったトーストを口に突っ込むと、身支度をするためにキッチンを出た。

 その後をハイルは追ってこなかった。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 適当な服に着替えを終え、玄関にてスニーカーのひもを結び直す。

 先日ハイルがある程度調理することができる事が判明したので、冷蔵庫の食材を自由に使って良いと許可を出した。これでハイルのご飯の心配をする事無く、先輩の手助けができる。

 立ち上がってドアノブに手をかけた。

 

「ちょっと、待って下さいツカサ!」

 

 足を止めて振り返るとハイルがリビングのドアを開けて飛び出して来た。忘れ物でもしたか……。何て考えつつ彼女の言葉を待つ。

 

「ワタシも、やっぱり私もついて行きます」

「えっと……どうして?」

「それは、良く分かりませんがあの女は信用できません。ツカサに何かあったら大変です」

「いや、それは無いだろう」

「ツカサに何かあってからでは遅いのです。ワタシにボディーガードをやらせて下さい!」

「そんなこと言ったってなぁ……」

 

 頬を爪でひっかきながら間を空けた。

 そしてハイルに言われた事を考える。まず先輩にそんな危険性があるとは思えない。一年近くバイトで一緒であり、これまでそんなに危ない雰囲気を出したことは無かった。せいぜいからかわれるぐらいでハイルの心配は全くの杞憂だと言ってもいい。

 しかしながらハイルをここまで言ったのにも係らず、このまま『大丈夫だから』と、この家に置いて行った場合、禍根を残す事になるのは確実だろう。いつまでかは分からないが、この生活を続けるうえで彼女との関係は良好な物を保って行きたい。

 何故なら魔女である彼女にはもっと俺を不思議な目に会わせて貰わなければならないからだ。

 そんな打算もあって俺は彼女の提案を呑む事にした。

 

「分かった。お前がそこまで言うのなら、詩央先輩には何かあるのかもしれないからな」

「ツカサ……ありがとうございます」

「ただし、条件がある。まず――」

 

 こうして開幕する詩央先輩との偽造デート。美人な先輩。ネコミミマジョ。そして俺によるこのイベントは予想以上にややこしい事になるのだが、この時の俺に知る術はまだ無かった。



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先輩と映画に行こう、ついでにネコマジョ・カノジョ!

 そうして俺は家を出て駅前のベンチ付近にたどり着いた。近くにあった自動販売機で緑茶を買って席に座る。

 

「詩央先輩は……まだ来てないみたいだな」

 

 周りを見渡しても彼女の姿を見つけることができなかった。女性は出かけるまでの支度に手間がかかるとは妹から常々聞かされる。それは彼女とて例外では無いのだろう。

 

『まったく、待ち合わせの十分前になってもまだ来ていないとは。あの女は何を考えているのやら』

 

 ハイルの声が頭の中に反響する。耳からではなく頭に直接響いているような、経験したことのない刺激。俺はすぐに両手で頭を抱えた。

 

『こいつ直接脳内に……』

『ええ、話しかけています』

 

 思わず脳裏に浮かんだ台詞をノータイムで返された。まさかこの台詞を現実で使う羽目になるとは思っていなかったのだが、流石は魔女、テレパシー程度はたやすいらしい。

 俺はそのまま口に出さずに脳内で会話を始める。

 

『テレパシーなんてできたのか』

『ええ、この程度なら簡単にできますよ』

『流石だな。こう見えて、優秀だもんな』

『ツカサ、台詞取らないで下さいよ』

『悪い悪い』

 

 形だけで謝りつつ俺は辺りを見渡す。しかしながら人目をそこそこ引くハイルの姿は見えない。どこにいるのだろう。

 俺は彼女にそのまま問いかける。

 

『なあハイルお前今どこにいるんだ?』

『どこって、すぐ近くですよ』

『本当か? 全然姿が見えないぞ』

「はい。だって、見せてませんから」

 

 ハイルは耳元で囁く。急な事だったので反射的に俺の肩が跳ねる。だがしかし、首を左右に振っても彼女を発見することができなかった。

 そして『見せていない』という言い回しで思い出す。つい先日詩央先輩に対して使っていた魔法。『認識阻害』の存在を。あの時は一部だけだったが、今回は全身に、そしてこの場にいる全員にかけているのだろう。誰もが彼女を視認することができないように。

 納得のいった俺は次の言葉を紡ぐ。

 

『成程、それも魔法か』

『ええ、対象が多いので少し魔力の消費は激しいですけど。これでツカサの条件はクリアしました』

『そうだな。確かに、姿を見せていない』

 

 俺がそう言うと、フフーンと彼女が得意げ声を出した。姿は見えなくても、胸を張っていそうだと言う事が分かる。

 俺は家を出るときハイルに条件を出した。ついさっき言ったように姿を見せない事である。条件に指定した理由としては、偽装の恋人を演じるうえで彼氏役が他の女を連れていた場合、見せられた側は納得できないだろう、と考慮したからだ。

 俺はてっきり離れて付けてくるのだろうと考えていたが、彼女の行動は俺の予想を大きく超えていた。もちろん良い意味で。俺からしてみれば想像で留まっていたファンタジーな事象が目の前で行われているのだからワクワクしない訳が無い。

 俺も魔法使いになれればいいのに、とか思わない訳ではないが、それでもそれが目の前で見えるだけで喜ばしい。ドラゴンボールで言うのなら、ヤムチャ的なポジションでも十分特別なのだから。

 そんな事を考えつつ数分待つと、改札から大きく手を振る詩央先輩が小走りで向かってきているのが見えた。それに合わせて俺も手を振り返す。

 

「待ったかい?」

「まあ、少しだけですよ」

「いや、君。そこは全然『待ってませんよ』とか僕に気を遣ってもいいじゃないか……」

 

 ムスっと頬を膨らませつつ彼女はそっぽを向いた。

 

「そういう、まどろっこしいの嫌いなんですよ。ああいうのは小説で十分です」

「相手が彼女でも?」

「ええ、勿論。嫌いな事を嫌いだって言えない人と付き合うのはしんどいですからね。でも、まあ……待った甲斐(かい)はありましたよ。その服、似合ってます」

 

 先輩の格好を頭のてっぺんからつま先まで見て、思うがままに口を動かした。もちろん世辞では無い。

 改めて彼女の格好を見れば一目瞭然だ。白のワンピースにそこから伸びる真珠の様に白い手足。それに黒のヒールが彼女の身長を引き上げていて、スレンダーな体型がより強調されている。モデルとして雑誌に出ていても不思議では無い。

 また、主観では無い証拠として『なんでお前が一緒にいるんだよ』と、周りの視線が次から次へと突き刺さっている。

 俺だって未だに彼女と疑似デートすることが不思議でならないのだから、そんな目で見るなと言いたいが、それは自粛(じしゅく)しておこう。

 しかしながら誤魔化さずに伝えた言葉を先輩は理解してないのか、それとも不服だったのか、さっきからだんまりを決め込んでいる。不安になって俺は彼女に声をかける。

 

「詩央先輩、どうかしましたか?」

「……なんでもない。行くよ、映画の時間もあるんだから」

 

 そう言って先輩は俺の右手を引いてカツカツとヒールの音を立てつつ映画館に向けて歩き出した。俺はされるがままについて行く。

 正直な所、不機嫌にさせてしまったのかと思った。だが先輩の耳が赤く染まっているのが後ろからも分かって、俺まで体が熱くなった。

 そんな俺の熱を冷ますかの様に、頭の中から声が響く。

 

『ツカサ、心拍数上がってます』

『え、なにそれ。心拍数とか分かるの』

『ええ勿論。毒を盛られるかもしれませんし、バイタルチェックは大事です』

『何警戒してんだよ、そんな事あるわけないだろ』

 

 あったとしたらめちゃめちゃ怖い。というかハイルは警戒度高すぎじゃないか? 今までどんな世界に生きて来たんだか……。

 気にはなったがここでは言及しないことにした。

 そう決めるとハイルが言葉を切り返して来た。

 

『今回はそういうわけではなさそうですから。『女性に手を繋がれて緊張している』って所でしょうか』

『…………』

 

 正解。その通りだ。快く彼氏役を買って出たが、これまで彼女の『か』の字すら感じさせたことのない俺にとって、手を繋ぐって行為そのものに緊張しない訳が無い。

 でも口には、いや、頭には出さない。決して。だって恥ずかしいしな。

 

『何か言ったらどうですかっ!』

 

 そんな言葉と同時に左腕が何かに包まれる。

 

「うあっ! ちょ!」

「ん? どうした夏目君。変な声出して?」

「ああ、いえ、何でもないです!」

 

 首を振ってそう伝えると先輩は「そうか」と言って再び前に視線を戻した。

 ほっと息を付くと俺は脳内で声を荒げる。

 

『ハイル! 急に何するんだよ!』

『別に、腕に抱き着いただけです』

『腕に、抱き着くって……』

 

 左腕に意識を寄せると、じんわりとした温もり、弾力。そして肩に彼女の吐息が当たっている事が感じられる。その感覚が鋭くなればなるほど、心拍数は素早くなっていく。自分がその鼓動を感じられるほどに。

 それに耐えるのがつらくなってきた所で、ハイルに向けて言葉を飛ばす。

 

『止めろよ。やたらめったらそう言う事するのは』

『何がいけないんですか?』

『お前は知らないのかもしれないけれど、そう言うのは好きな人とかにしかしないんだよ。……普通は』

 

 急にこういうことをされると、どうも距離感が測り切れない。どう接して良いのか分からなくなりそうだった。

 そんな俺の気持ちを蹴り飛ばす様にハイルは次の台詞を切り出す。

 

『じゃあ、ワタシ普通じゃないのでそう言う事で、受け入れて下さい』

『何でそうなるんだ。普通の振る舞いをしようとか思わないのか?』

『無いですよ。つまらないですし。それに、あの女だけにこういう事をさせるのは、なんというか……気に食わないです』

 

 気に食わないって言われてもなぁ。俺としては納得ができない言い方だ。でもあえてこういう言い方をしたからにはハイルにも事情があるのだろう。

 そんな事を考えていると先輩が二度強く俺の腕を引いた。

 

「夏目君。気分でも悪いのかい? さっきからここに在らずって感じだけれど」

「そんな事は……ない、ですよ」

 

 一瞬抱かれている左腕に視線を向けそうになったが、こらえてそう答える。

 

「本当かい? ならいいのだけど」

「心配かけてすいません」

「良いよ。今は『恋人』だからね。これぐらいは構わないさ」

 

 やけに一部を強調するその台詞に反応して、左腕がミシミシと締め付けられる。痛い。超痛い。彼女は俺を越える怪力の持ち主だという事を忘れてはならなかった。

 というか、事実を語っているだけだから、そこまでムキになるなって! 

 俺はギブアップの意思を伝えるために左手首を動かして、彼女の体をタップした。

 

『ひゃんっ! ど、どこを触ってるんですか!?』

『どこって、分かんねぇよ。見えないんだから。それよりも腕を離してくれよ、先輩にばれちゃうだろ!』

『何ですかその言い方! ワタシのあんなところを触って置いて……もう怒りました。こうしてやります!』

 

 そう言うと彼女は締め付ける力を更に強める。骨折れるって! 折れちゃうって! 偽装デートどころじゃ無くなるから! そう呼びかけるが、それを無視して締め付け続ける。

 俺がそんな風に悪銭苦闘していると目の前の先輩は不思議そうに首をかしげつつ言葉を投げかける。

 

「しかし、どうして君は親の敵が如く左腕を睨みつけているのかな?」

「いや、そんな事無いですよ」

「あるよ。僕の感がそう言っているから」

 

 恐るべし女の感。的中している。立ち止まると先輩は、左腕に手を伸ばす。

 それに対して俺は慌ててハイルに語り掛ける。

 

『ハイル、すぐ離れろ。このままだとばれる』 

『……』

『何か言ってくれよ!』

 

 何も行動を起こさないハイルに対し、先輩はの手は伸びていく。意識ぜずにも聞こえていた心臓の音がさらに早まって行く。そして俺の腕に触れる直前にもう駄目だと目を閉じた。

 

「うーん。なんとも無いね。気のせいだったかな」 

 

 目を開けると先輩の腕は確かに俺の腕に触れている。肩から指先にかけてなぞるようにして手の平を動かすが、そこにいるはずのハイルに触れていない。

 だがしかし、俺の腕は相変わらず締め付けられたまま。どういう事だ?

 疑問は湧いたが、取りあえずこれ以上怪しまれないように先輩に話を合わせる。

 

「で、でしょう? だから言ったじゃないですか」

「うーん、おかしいな。僕の感結構当たるんだけど」

 

 はい。当たってますよ先輩。ドンピシャ過ぎて逆に怖いです。

 

「まあ、いいや。行こうか」

「はい」

 

 頷くと先輩は再び手を取って歩き出す。俺はホッと息を付くと文句を言うために頭に台詞を浮かべる。

 

『ハイル!』

『何でしょう』

『ばれないようにしているならそう言ってくれ。精神的にしんどかったぞ』

『罰ですから当たり前です』

『お前なぁ……』

 

 確かに変な所に触れたのかもしれないが、流石にこの仕打ちは無いだろう。第一に勝手に抱き着いて来たお前にも非があるだろうに。

 映画前にこんなにもドキドキ・ハラハラしたのは生まれて初めてだった。

 そうして歩いているうちに映画館が見えて来て、先輩はそれを指差す。

 

「映画館見えてきたね」

「そうですね。ちなみに何を見るか決めてるんですか?」

「いや、全く。急だったからねぇ。まあ早く入って決めようか」

 

 先輩は再び俺の手を引いて、映画館へと急かす。先輩は満足げに笑っていたのが、妙に印象に残った。



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先輩と異変の片鱗。

「夏目君、何か見たかったものとかあるかな?」

「いえ、急だったので特に調べてもいませんでしたから」

「そうか。ではどうしたものかね……」

 

 先輩は顎に手を当てて、壁に並ぶポスターを眺める。映画館に来るのは、いや、そもそも映画を見るのも久しぶりだ。普段はバイトも兼ねる本屋か、食品を買うスーパーにしか出かけないし、家でも読書をしている事が多い。

 最後に来たのはいつだったけか。確か……妹とポケモンを見に来たときだったかな。あの頃はダウンロードで手に入る奴が欲しくてたまらなかったけ。

 そんな思い出に浸っていると先輩が俺の服の袖を二度引いた。

 

「一つ提案があるんだけれどいいかな?」

「はい、なんでしょう」

「僕たちは今日、恋人、を演じている訳だよね」

「そう、でしたね」

 

 正直な所忘れかけていたが俺達は恋人を演じている。先輩がフッた人間に諦めて貰うために依頼された訳だが、俺は思った。『そいつ滅茶苦茶危ない奴じゃね?』と。告白して振られて、諦めきれず(偽装だが)彼氏とのデートについてくるって……メンヘラ? それともヤンデレ? まあ、定義に関してはあいまいな記憶しかないので断言はしないが、どちらにしたって危ない奴だろう。

 そんな厄介ごとの処理に派遣された俺は爆弾処理班のような気分になって来た。恋愛、爆弾……これなんて『ときめきメモリアル』?

 まあいいや。くだらない事を考えている暇があるなら先輩の話をちゃんと聞こう。

 

「で、それがどうかしましたか?」

「ああ、あまり恋人、つまりはカップルらしく見えないようでは今回の目的は果たせない」

「まあ、そうなりますね」

「故に、カップルらしい仕草が見せやすい映画を選択したいんだ」

「良いと思いますよ。それで、何にするんですか?」

 

 そう聞くと先輩はビシッと一つのポスターを指差した。

 

「ホラー系の奴ですね」

「ああ、よくドラマや小説で見るだろう? あの彼氏の腕に抱き着いたりして怖がるシーン」

「比較的よく見るあれですね。確かに演じる側としてはやりやすいですかね」

「よし、なら決定だ。では、ここからは別行動といこうか」

「別行動? それはカップルっぽく見えないんじゃないですか?」

 

 さらりと出て来た先輩の言葉を疑問を持ち聞き返す。先輩は殆ど間を空けずに俺の問いに答えた。

 

「それはそれ、これはこれさ。時間の無駄になる事は好きじゃないんだ」

「好きじゃないって、そうは言っても見る側は納得するんですかね?」

「だから良いって。これは偽物のデートかもしれないけれど、本番だって僕はこの行動を取るさ。少しでも一緒に、のんびりと過ごす時間が増えるならね」

 

 先輩は周りに聞こえない様にボリュームを下げてそう言った。先輩がそこまで言うのであれば、俺が断る理由も無い。彼女の提案に頷く事にする。

 

「そうですか。先輩が良いなら俺はいいですけど」

「うん、物分かりの良い子は好きだよ。僕は」

「思い通りになる子が好き、の間違いなんじゃないですか?」

 

 両腕を前で組んで頷く先輩に俺はそう嫌味を言ってみる。特に意味があった訳では無い。だが、先輩の琴線に触れたようで、眉がピクリと動いた。

 

「心外だね。僕はそんなに酷い女に見えるかい?」

「冗談ですよ。冗談」

「その冗談で僕がどれだけ傷ついたか……」

 

 先輩は手の甲を口に添えて、オヨヨヨ……と弱々しく視線を逸らす。全然傷ついてなんかいない癖に、それっぽく見えるのが美女の強み。最初は良く騙されて、何回かジュース奢った事もあったなぁ。

 なんて、昔を思い返しつつ会話を続ける。

 

「はいはい。すみませんでしたよ」

「えー納得できなーい」

「そんな棒読みじゃ、説得力の欠片も無いですね」

「釣れないなぁ、君は。ちょっとはひっかかっても良いのに」

「一回やれば十分ですよ。あんなのは」

 

 ともかく、と脱線した話を元に戻す。

 

「先輩は何にします? 食べ物とか、飲み物とか」

「んー。僕はコーラだけでいいや」

「了解です。それじゃあ後で」

「んっ」

 

 先輩は俺に背中を向けてひらひらと手を振る。俺はそれを見てから先輩とは反対の列に脚を向けた。フードショップの最後尾に並ぶ。

 ただ並んでいるだけだと、とてつもなく暇だ。そこで中に来てから口を開いていない彼女に話かける事にした。

 

『なあ、ハイル』

『何でしょう?』

『いや、暇だったから話しかけただけ』

『ていのいい暇つぶし道具ですか私は!?』

 

 ったくもぉ……と呆れつつ、頬をかいた。……気がする。まあ見えないからな。俺は彼女に「悪かった」と一言入れた。

 

『ところでツカサ、今並んでいるのは何の列なのでしょう』

『これは、映画館に持ち込む食べ物とか飲み物を買う列だよ。ほらあそこの看板にいろいろ書いてあるだろう?』

 

 指差すと不自然に見えるので俺は視線を上にずらして彼女に場所を示す。その先にあるのはよくあるメニューリストの看板。写真がでかでかと表示されているものだった。

 

『ではツカサ、あのひときわ大きいバケツに入っている食べ物は何なのですか? さっきから持っている方をよく目にしますが?』

『ん? バケツ……ああ。ポップコーンの事か。映画館で食べるメジャーなお菓子だよ。塩とかキャラベルとかいろんな味付けがされている』

『ではでは! 「たい焼き味」なんて物もあったり……?』

『それは流石にないかな』

 

 どんだけたい焼きが気に入っているんだお前は。

 

『そうですか……それは残念です』

『そんな気を落とすなって。他の味も結構いけるぞ。俺が買うからちょっと食べてみるか?』

『では、少しだけ』

 

 それからしばらくすると俺の順番が回って来た。店員に向けてコーラ二つとポップコーンを注文する。味は俺が一番好きなキャラメルに決めた。

 トレーに置かれたそれらを受け取って、列から離れる。

 周りに見られていると空中にポップコーンが消えていく様に見えるのではないかと考えたけれど、その心配も杞憂だろう。ハイルは魔法を使っている。だから今の俺は、一人の男性に見えるはずだ。見る必要性なんて欠片も感じられないだろう。俺は安心して彼女に許可を出した。

 

『それじゃあ食べていいぞ』

『はい。頂きますね』

 

 キャラメルを纏ったポップコーンが独りでに宙に浮き。虚空へと姿を消す。もしハイルの存在を知らなかったら本当にホラー映画見たいだなこれ。

 

『甘くて、パリパリとしてて……たい焼きまでは行かずともこれは中々』

『そうか。まあ適当に食べててくれよ。先輩はまだ時間がかかりそう――』

「やあ、待たせたね」

 

 背後から肩をがっしりと掴まれた。振り返ると先輩が二枚のチケットを持っている。何というタイミング。まるでハイルが食べている所を見計らっていたかのような……。いや、まさかな。

 

「先輩、早かったですね。あんなに並んでいたのに」

「レジの人がこれまた見事な手さばきでね。僕も見習いたいと思うよ」

「そんなこと言って、いつも品出ししかしてないじゃないですか」

「はははっ、どうだったかな」

 

 先輩は口元に手の甲を添えて静かに笑った。これ絶対やらない奴だ。店長もなんか先輩には甘いしなぁ。期待しない方が良いだろう。

 まあそんな話をそこそこに、俺は先輩の方へと体を向けた。

 

「それで先輩、映画何時くらいになりました?」

「ああ、これからすぐのが取れたよ。あと……十分ぐらいかな? だからもう中に入ってもいいかも」

「そうですね。放送がかかると思うので、早めに移動しましょうか」

「うん。そうしよう」

 

 先輩は頷く。そしてしばらく待つと、放送が流れて俺達は移動。チケットに書かれた席に陣取った。俺は座る前に先輩のドリンクホルダーにコーラを差し込んだ。

 

「おっ、ありがとう。レシート見せてくれる?」

「はい。えっと……これですね。じゃあ先輩の方もレシート見せて下さいよ。チケット代渡すんで」

「んっ、了解」

 

 俺達は財布の中に入れていたレシートを取り出すと、それを交換してお互いに立て替えていた料金を渡しあった。料金の交換を終えた所で先輩は俺の持っていたポップコーンへと視線を移す。

 

「君はポップコーンを買ったんだ。好きなのかい?」

「まあ、ある程度は。映画館に来たらなんだかんだ言って毎回買ってますよ」

「そうか、まあ時間もある事だし、ここいらでカップルらしい事でもしてみようか」

「カップル……らしい事、ですか」

 

 今回の目的は先輩の恋人を演じる事だ。だけれどそれをなぜこのタイミングで言い出すのか、俺には理解ができない。だから先輩に向けて俺はその意味を問う事にした。

 

「どうして今なんですか。別に始まってからでもいいでしょう?」

「それだとちゃんと見えないじゃないか。今回の目的は演じて貰う事。そして相手に『僕達が恋人である』事を見せつけ、そう認識してもらう事なんだよ。だから、さっき言ったようなベタな事だけじゃなくて些細な事でもその様に振る舞うべきなのさ。要所要所でね」

 

 人差し指を立てて先輩はそう力説する。彼女の言い分も分からんでもない。それにこの問題は彼女の問題。彼女自身が出した方法、答えで解決すべきことだ。だから俺は彼女の提案に乗る事にした。

 まあ、憧れの先輩とカップルらしい事をしてみたいという願望が無い訳でも無いが、ここでは伏せておく。

 

「分かりましたよ。では、どうしますか? ここでできる事なんて限られてますけど」

「カップルらしいものの定番としては……そうだ。『はいあーん』なんてやったらそれらしく見えないだろうか?」

「確かに定番と言えば定番ですが、そう簡単に行きますかね?」

「別にいいのさ。まずは形から入る事も大切だよ。君のそのポップコーンを貸して貰おうか」

 

 手を差し出して、クイクイと指を動かす先輩。彼女に言われるがまま、俺は彼女にポップコーンが入ったバケツを手渡した。手を入れると先輩は一つを摘まんで俺の口元へと差し出す。

 

「はい。あーん」

「んっ」

 

 口の中にポップコーンが一つ放り込まれて、それを俺は咀嚼した。その俺を見て先輩は尋ねる。

 

「どうだい?」

「どうって、味が変わったりはしてないですよ」

「それは当たり前さ。でも、僕にしてもらえて嬉しかったりするのかなーって。聞いてみたかっただけ。それで? どう?」

「それは……その」

「遅い、時間切れ。ではもう一回。はい、口を開ける」

 

 再び先輩がポップコーンで口を塞ぐ。解答時間短すぎじゃない? なんて言葉を口にする間もなく、放り込まれたので仕方なく口を動かす。

 それを見て先輩は首を傾げつつ俺に答えを問う。

 

「どうだったかな?」

「まあ、その嬉しかったですよ」

「なら良かった。じゃあもう一回して上げる」

 

 先輩から再び差し出されるポップコーン。どちらでも結局未来は変わらないのかと言う間はまたしても無く、俺はポップコーンと共に飲み込む。

 そんなやり取りを数回繰り返していると劇場が暗くなった。そしてようやく先輩の弄りが止まる。

 

「おっと残念。どうやらここまでらしい、続きは後で、だね」

「そ、そうですか……」

 

 先輩がスクリーンに向かったので、それに習って俺も顔をそちらに向けた。そしてカラッカラに乾いた口を回復させるため、ホルダーに入れていた自分の分の飲み物を手に取る。だが、既にその中身が何故だか軽い。減っているというよりかは空になっているって感じだ。まさかとは思うが……。

 

『あ、すいませんツカサ。それ、頂きました。美味しかったですよ』

『ハイル……お前、この仕打ちはないだろう』

『デレデレしてるツカサがいけないのです』

『してないだろう!』

『いえ、してました~。絶対にしてましたっ! 普段より呼吸が荒かったです~』

『そんなニッチな方法で判別するなって!』

 

 俺がそんな会話をテレパシーでしている間に広告は終わり、映画が始まろうとしていた。なので俺は『この話は帰ってからにしよう』と声をかけて、スクリーンに集中した。

 

 ▼ ▼ ▼

 

「ふう、たまにはこういうのも悪くない」

「そうですね。思っていたよりかは楽しめました」

 

 先輩と映画館を出て、そんな話をしながら外に出た。すると突如として頭の中に声が響く。

 

『くっ……不覚を取りました。ツカサ、申し訳ありませんがワタシはお手洗いに行きます』

『まるで敵に攻撃を受けたみたいなトーンで言うなよ。コーラ飲み過ぎただけだろうに。まあ分かったから早く行ってこい』

『すいません。それと、その女と二人っきりになったら油断しないで下さいよ』

『だから問題ないって。先輩はお前が思っているほど酷い人じゃないぞ』

 

 俺はそう答えたがハイルから返事は帰って来ない。どうやらもう既に行った後らしかった。俺は再び先輩との会話に集中する。

 しかしながら先輩は何やら目つきを変えて俺の手を握った。

 

「ちょっ、先輩!?」

「早くこっちに来てくれるかな。()()()()()()()()()()()

 

 異質な言葉だった。『ようやく離れた』という言葉は彼女から、いやそれだけでなく人間からは出るはずも無いのだ。何故ならたった今、この場から離れたのはハイルであり、それは人間には認識しようが無い事だから。

 故に。

 ハイルの認識は正しかった。

 彼女はただ者では無い。

 今までその片鱗を見せていなかっただけだ。

 だけれど、彼女の力に逆らう事が何故かできない。女性のか細い腕にも関わらずだ。俺にできる事は頭の中で呼びかけるだけ。届くかどうか、分からない助けを。



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先輩の正体とネコマジョカノジョ!

 俺が先輩に連れられて来たのは公園だった。近くにあった時計によると時刻は三時半。しかし誰も人がいない。不自然に、故意的に作られたかのような状況。それがまた先輩の異質さを際立たせていた。

 

「このあたりまで来ればいいか」

 

 ヒールである事をものともせずに走って来た先輩が腰に手を当てて立ち止まる。急に走ったからか運動不足の体が悲鳴を上げている。呼吸も乱れて口が上手く動かない。

 そんな状況でも俺は精一杯の呼吸をしつつ、先輩に言葉を投げかける。

 

「急に……どうしたんですか、詩央先輩。そんなに慌てて。らしくないじゃないですか」

「そんな事ないよ。いつも通り。いたって普通の僕じゃないか。それより君こそらしくない。元バスケ少年なんだろう? 僕より先に息を切らしてどうする」

「何年前の話してるんですか。バスケやってたのは中学ぐらいまで。それからは高校大学と帰宅部です」

「そうだったかな。忘れてたよ」

 

 視線を逸らして先輩はそう言った。誤魔化しているあたり()()俺に危害を加える気はないらしい。いつになったらハイルがここに来るのかは分からない。なるべく時間を稼ぐとしよう。

 そのために先輩がこだわっている『普通』と言う言葉を言及することにした。

 

「普通、ね」

「何だい、その含みのある言い方は! まるで僕が普通じゃないみたいじゃないか」

「違うでしょう。普通の先輩だったら、こんな急に走り出したりしませんよ……」

 

 何かあったんですか? と問いかける。先輩は一度目を伏せて、再び俺の目を見た。

 

「そう、だね。ちょっと座って話をしようか」

 

 先輩は少し離れたベンチを指差した。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 話をする前に俺は近くの自販機で二つの缶コーヒーを購入。それを持って先輩の待つベンチへと向かった。買って来たうちの一つを彼女に向かって差し出す。

 

「はい。ブラックで良いんですよね」

「うん。悪いね」

「まあ、これぐらいはいいですよ」

 

 先輩はプルタブを起こして缶を開けて一口だけコーヒーを煽った。唇を親指で拭う。その動作が色っぽく感じて俺は見惚れてしまう。

 そんな様子の俺に首をかしげて先輩は自分の横を叩いた。

 

「どうしたの? 座りなよ」

「ああ、はい。失礼します」

 

 先輩が叩いた所よりも少し間を空けて俺は座った。先輩はそれが気に食わなかったのか俺の方へ間を詰める。

 

「ちょっ、と先輩。なんですか? 距離、近いんですけど」

「近くしたんだよ。いけない?」

「いけなくはない、ですけど……。ちょっと恥ずかしいんです」

「やっぱり純情だねー、君は。そんなんじゃ僕の彼氏役は務まらないよー。まあ、嘘だったんだけどさ」

 

 先輩はそう肩に何度か肘を当てて茶化してくる。嘘だったのか……。先輩が走り出した時点でこの(偽造)デートは疑っていたが、こうもあっさりとそれを明かしてくるとは思わなかった。

 

「そうですか」

「へぇ。僕はてっきり怒ると思っていたけれど」

「何となく気が付いていたので」

 

 まあ俺が、では無くハイルがだが。

 

「そっか、じゃあ話をしようか」

 

 先輩は缶コーヒーを包むように指を組んで、肘を太ももに乗せた。俺は「はい」と返事を返す。

 

「単刀直入に言うと僕は霊感が強いんだ」

「霊感? 幽霊が見えるとかそう言う感じの?」

「ああ、それそれ。霊と言うか、その波長が見えるって言った方が良いかな」

「成程、それで?」

「驚かないんだ?」

「まあ、最近こういうのにはなれましたから」

 

 主にハイルのおかげで、だけど。先輩は二度相槌を打って話を続ける。

 

「それで、最近君には何かが憑いて回っているのが見えてさ」

「何かが憑いてる?」

「分かりやすく言うと人魂みたいなのが肩の周りをグルグル回ってるのが見えたんだ」

 

 俺にそんなものは見絵もしなかったが、彼女の話を信じるのならばそんなものが肩に付いていたのか。何も知らなかった。今更ながら背中に冷汗が伝うのを感じる。

 

「それで気になってバイト中の数時間、それと今日のデートの間、僕は観察してみた。見れば見るほど違和感しかない」

「成程。それでこの間、詩央先輩は付いて来たんですね」

「そういう事。そしたら何やらとんでもない妖気(ようき)を纏った、女がいるじゃないか」

「ああ……成程」

 

 ハイルは霊感を持つ人にはとんでもない化け物に見えるらしい。先輩の話から察するに、ハイルの言う『魔力』はこちらの『妖気』と言う事なのだろう。

 魔女なのだから、それが一般人と比べてとんでもない量になっていたとしても、不思議では無い。俺は納得しつつ自分もコーヒーのプルタブを立てた。

 

「だから今日は君を連れ出したんだ。嘘を付いてでもあの女から引き離したかった。操られたりしているようなら、助けたかったから。でも結局それはついさっきまでできていなかったみたいだったけどね」

 

 風で(なび)く髪を抑えつつ、先輩は言った。黒縁眼鏡越しに見る目付きは鋭く細く、いつものおちゃらけた雰囲気とは一線を期している。

 あの先輩がどうしてここまでがらりと雰囲気を変えたのか俺は気になって仕方が無い。故に俺は尋ねる事にした。その理由を。

 

「それはありがたいです。だけど、先輩はどうしてそこまで動くんですか」

「そんなの決まってるさ。僕は――」

「そこまでです!」

 

 後ろから大声が先輩の言葉を遮る。

 振り返ると、黒髪に白のシャツ、それにジーンズ。見慣れた俺の私服を着こなすあいつが姿を見せていた。先輩はそれを見て目を細める。

 

「ふむ、邪魔が入ったね」

「邪魔とはなんですか邪魔とは!」

「違うのかい? 僕の告白を邪魔してきた癖に」

 

 え? 今何、告白って言ったのか? 先輩が? 俺に? そんなバカな。落ち着けよ。告白とは何も『愛の』とは限らない。秘密を暴露することも十分告白。先輩の事だ。俺をからかうためにそういう言い回しをしていても何ら不思議はない。

 

「何が告白ですか、こんな大々的に『人払いの結界』なんか張っちゃって! きっとツカサによからぬ事をしようとしていたに決まってます! 分かってるんですからね!」

「む、ばれてしまったか」

「ばれないと思っていたんですか。こんな結界、スライムを焼き払うより簡単に見つけられますー」

 

 焼き払うとはずいぶん物騒な。ネコマジョにとっての公用語なのだろうか? 

 それは置いておこう。話を聞く限り先輩は、結界とか張ってて迎撃態勢整えていたようだ。つまり先輩は俺に危害を加えようとしていた訳じゃ無く、ハイルを敵対視していたという事か。

 

「見かけによらず、そこまで間抜けでは無かったか」

「失礼な。ワタシ、こう見えて優秀なんですから」

「こう見えて、とは見た目が間抜けそうなのは自覚してたのか」

「うぐっ……」

 

 ああ、あの様子からして気にしてたみたいだな。見た目がドジっぽそうなの。今まであえて指摘してこなかったけれど、これからも地雷は踏み抜かない様にしないとな。

 

「そ、それはともかく、アナタ、ツカサに何をするつもりだったんですか!」

「さっきも言ったように告白さ。君が夏目君にとって危険な存在だと伝えたくてね」

「そんな事ありません! ワタシは、ツカサに恩返しするためにそばにいるんです!」

 

 先輩はその言葉を聞いてベンチから立ち上がって、俺の手に飲みかけの缶を預けるとハイルの方に歩いて行く。

 

「信じられないね。僕の結界を打ち破る強力な悪霊の言葉なんて!」

「悪霊!? 違います! ワタシはマジョです!」

「ハッ! 言う事に事欠いて魔女だって? チャンチャラおかしいね」

 

 さっきから霊感が強いとか霊が見えるとか言ってた先輩がそれを言っちゃうんだ。

 二人は顔をスレスレまで近づけて睨み合う。そして数秒の間の後、俺の方へとほぼ同時に顔を向けた。

 

『夏目君(ツカサ)からも何言って(下さい)!』

 

 言葉が被り、二人は再び睨み合う。

 俺は言う事に困り、頬をかく。そう言われたところでどうしようもない。俺は現状に不満も危機感も持ち合わせてはいない。

 彼女達とは決定的に価値観が異なるのだ。どちらかを排除しようだなんて、これっぽっちも考えちゃいない。

 俺は立ち上がりその間に立つ。

 

「まず、俺が言いたい事は二人にいがみ合って欲しい訳じゃないって事だ」

「そうは言ってもだね、夏目君。この女はいつ危害を加えるか分かったもんじゃない。これまでが大丈夫だったからと言って、これからもそうだとは限らないだろう?」

 

 先輩はそう言った。確かにそうだ。ハイルは人間からすればあり得ない力を持っている。それが何らかの原因で牙を剥くか分かったものではない。彼女がどういう人間であるかなんてこの一ヵ月にも満たない時間の中で測れる訳が無いのだから。

 でも俺は――

 

「確かにそうです。先輩の言う事は何ら間違っちゃいない。警戒するのは正しい。だけれど」

「だけれど?」

 

 先輩は俺の言葉を聞き返す。俺は持っているスチール缶を握りしめ、言葉を続けた。

 

「俺は疑うよりも信じたい。それが妄信的だとは分かっているけれど、そっちの方が気持ちがいい。それに性に合ってます」

「……それで騙されたとしても、君はそれに後悔は無いと?」

「言えます」

 

 先輩にそう断言する。目をじっと見つめて。すると彼女はゆっくりと目を閉じてからハイルと少し距離を取った。

 

「……そう言う君だから僕は気にかけてしまうんだろうな。分かった。君がそこまで言うのなら、今日はこれ以上言うまい、ここは退く」

 

 先輩はそう言って俺の方に歩いて来て手を差し出す。俺は自分の方では無い缶を返した。彼女は受け取って一口飲む。

 

「だけれど、いざって時の為に監視は続けさせてもらうよ。僕としては夏目君の様な、からかいがいのある人材を失うのは惜しいんだ」

「それはこっちの台詞です。少しでもおかしな行動を取ったら容赦はしませんからね!」

「ああ、望むところだよ」

 

 そう言うと先輩は背中を見せて、この場から立ち去ろうとする。しかし何かを思い出したかの様に、振り返った。

 

「夏目君」

「はい。なんでしょう?」

「今回は少し妙なデートになったけれど、今度はちゃんとした物にしてくれよ。僕は楽しみにしてるからさ」

 

 そう宣言すると「それじゃ」と手を振って来た道を戻って行った。

 彼女の姿が見えなくなると、ハイルが方へ寄って来て両肩を掴んで前後に揺する。

 

「大丈夫でしたかツカサ! 何か変な事されてませんか!?」

「されてないよ、そんな心配されることは。あまり揺さぶらないでくれ」

「ああ、すみません……」

 

 ハイルは弱々しくそう言うと、俺の肩を開放する。

 

「いや、いいけどさ。まあ、俺達も帰ろうぜ」

「ああ、はい」

 

 俺達は来た時の道を逆に戻り、最初の待ち合わせ場所を目指す。沈み始めた太陽が眩しくて、思わず目を細めながら。そして駅が見え始めた所でハイルは口を開いた。

 

「ツカサ」

「なんだ?」

「ワタシ、嬉しかったですよ。信じたいって言ってくれたこと」

「別に、普通だろ? 一緒に住んでるんだから。そんなにありがたがるもんじゃない」

 

 ハイルのその台詞に俺は思ったままに返す。だが横に立つ彼女はそれに対して「いいえ」と首を振る。

 

「それでも、嬉しいかったです。だから、どうしても言葉にしたかった。残念ながらツカサは()()()()()()()()()()()()

「芸当できるわけないだろうが、俺を何だと思ってやがる。……まあそう言う事ならその言葉、受け取っとく」

「はい。お願いします」

 

 そう言って微笑むハイルを横目で見つつ、俺はこの後の夕飯に何を作るか考えながら帰った。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 翌日。俺はバイトのシフトが午後から夜にかけてだったこともあり、ゆっくりと目覚めた。具体的に言えば十時ごろだ。

 そのとき既にハイルは目覚めていたようで、布団の中はもちろん、リビングにも居ない。となると彼女は今頃朝食でも作っているのだろうか? この間の一件で料理ができるのは分かったが、それでも一人でやらせるのは不安がある。だって、もともとネコだしな。となると俺も手伝わない訳には行かなかった。

 俺は布団を畳んで立ち上がりキッチンへ向かうだが、その途中、玄関にて彼女の姿を発見。誰かと話て……いや、言い争っているみたいだった。

 彼女と言い争いをするような人間なんて思い当たるのは一人しかいない。俺はため息をついてから足を進めた。

 

「起きて来たね、夏目君。おはよう」

「あ、おはようございます。ツカサ」

「おはよう。それと、何で先輩がここに居るんですか?」

 

 そう聞くと先輩は不思議そうに首をかしげた。

 

「ん? 昨日言ったじゃないか。監視は続けるって」

「いや、待って下さい詩央先輩。監視ってもっとコソコソとやる物では?」 

「もう正体ばれてるし『見てるぞ』ってこれ見よがしにやってる方が効果はあるさ」

「そうは言っても――」

「女性が既に一人いるんだ。増えたって大して変わらないだろう? そう言う事で、おっ邪魔しまーす」

 

 そう言いって先輩は軽やかなステップでハイルを突破し、リビングの中へと入って行った。ハイルで無理な物を俺にはどうする事もできず、ただ見送るしかない。

 その後ハイルは俺に問いかける。

 

「えっと、ツカサ。どう……します?」

「どうってなぁ……まあ、害は無いだろうから追い出さなくてもいいとは思う。後でバイトのときに一緒に連れてくよ」

「その方向性でお願いします」

 

 早口でそう言うハイルに俺は苦笑いで応え、リビングへと足を向ける。一人だった部屋が随分騒がしくなったもんだ、なんて思いながら。



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梅雨入りとネコマジョカノジョ!

「所でハイル君、少し聞きたい事があるんだけれど、いいかな?」

「……何でしょう」

 

 先輩の言葉に対して不服そうにハイルが返事をした。敵対関係と言える彼女達がこうして面と向かって話すのはかなり珍しい。監視の為、詩央先輩はかなりの頻度で俺の家を訪れているが、それでも彼女達の日常的な会話は俺を挟んでしか成立しなかった。

 だから俺はこの特殊な状況を壊さないよう、壁に背中を預け、本に目線を向けたまま彼女たちの会話に耳を傾ける。

 

「君はどのようにして妖気(ようき)を補充しているのかな?」

妖気(ようき)……何のことです?」

「ほら、君が身に纏っているそのオーラみたいなものだよ」

「ん? ……ああ、魔力の事ですか。ここでは妖気と呼ぶのですね」

「まあ、そこら辺は地域性かな。僕や両親はこう呼ぶし、君の住んでいた地域ではそう呼ぶのだろうね。まあ、それは置いておいてどうなんだい? 君の妖気、もとい魔力の補充方法は?」

「それはその、教えられないです」

「ふむ。その様子からして、やはり、恥ずかしいものなのかい?」

「そ、そんな事あるわけ、な、ないじゃないですか」

 

 ハイルはちゃぶ台に強く手を付いたのか、バンッと大きく音を立てた。それを詩央先輩は「まあまあ」と鎮める。

 

「勿論、タダでとは言わないよ。答えてくれるのなら……」

 

 先輩はガサガサと音を立て何かを机の上に置いた。ハイルがハッと息を呑む。

 

「これをいくつか差し上げようじゃないか」

「これを、ですか? 良いのでしょうか?」

「ああ、君が答えてくれるならね」

「ぐっ、しかしあれは……だが、しかし――」

 

 ハイルはクシャクシャと頭をかきまわしつつ、長考。俺が五ページ程読み進めた所で、「分かりました」と口にした。静かで落ち着いたトーン。普段の彼女からすると考えられない程の真剣さを感じ取れた。

 それほどにまで魔力の補充方法を教える事は危険なのだろうか? にも関わらずハイルをその気にさせる先輩が取り出したものは何なのか? 緊張感のあまり手汗が滲む。

 

「では、話して貰おうかな」

「はい。ワタシは今、ツカサから魔力を貰っています」

「へぇ、夏目君からね。どうやって?」

「あまり言いたくないのですが、その耳を貸して貰えませんか?」

「ん? 別に夏目君には隠す必要が無いだろう」

「それでも、改めて口に出すのは恥ずかしいです」

「……それもそうか」

 

 ボリュームが下がる。ちゃぶ台から少し離れた所にいる俺には彼女達が今、何を話しているのかさっぱり聞き取れない。

 だが目の前でナイショ話をされるのはなんというか、想像力を掻き立てられる。彼女の魔力補給方法として、俺の知っているものと言えば、ハイルが『添い寝をする事によって魔力を得ている』ことぐらいなものだ。

 だから彼女達が俺に声を届かせないようにしているのはそれ以外の『もっと恥ずかしい事』で魔力を得ているから、なんて考えてしまう。

 こういった妄想で自分の心をかき乱して、恥ずかしくなってしまうのは俺の性分だった。悪い癖、いや、自分にとって都合の悪い癖だが、どうにも止められない。こういった所が詩央先輩にからかわれてしまう原因なんだろうなぁ、とは思う。

 そんな事を考えているうちにハイルは打ち明け終わったようで、詩央先輩が「へぇ」と俺に聞こえるように声を漏らした。

 

「難儀だねぇ。呼吸で魔力は得られないのかい」

「できない事も無いですが、どうもこの『セカイ』の空気は魔力が薄くて」

「ふむ、それで十分に補充ができない訳か」

「そう言う事です」

「となると、やはり大気以上の魔力を生み出す夏目君はかなり特殊だな」

「やはり、とは?」

「僕は魔力が見えるから、人の心境の変化が可視化されている。それは君もそうなのかな?」

「ええ、まあ」

「君は出会った人間が夏目君や僕だったから、区別がつかないんだろうけど、夏目君がからかわれたときや、何かに浸っている時に溢れる魔力の量は他の人とは比べ物にならない程多いのさ」

「成程、だからツカサは特殊、と言った訳ですか」

「そう言う事だ。あと、量が多いおかげで魔力の揺らぎ良く見えるから、彼が今何を考えているか分かりやすかったりするのさ。例えば――」

 

 今は本じゃなくて、僕たちの会話に集中している……とかね。

 

 俺は慌ててちゃぶ台へ目線を移した。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 俺はキッチンに逃げるように移動しお茶を淹れてから戻った。ちゃぶ台に肘をついている先輩と、行儀よく正座をしているハイル。どちらもにやけながら戻った俺を見ている。

 自分の心境の変化が見られているという恥かしさに耐えつつ、俺はお茶を並べ、彼女達と同じ卓についた。

 それを見計らって詩央先輩は先程の交渉に使ったであろう、たい焼きを紙袋から取り出してハイルと俺にに手渡す。

 

「意識してみると面白いだろう?」

「ですね。今も大きく揺らいでました。ツカサ、動揺してましたね?」

「頼むから止めてくれ……」

 

 普段は対立しているのに、どうして俺を弄る時だけ息がぴったりになるのか。どうしてその仲の良さを維持できないのか。板挟みになるこちらの身にもなって欲しいものだ。

 だが動揺とは異なり俺の思っていることはそう簡単に伝わらず、ハイルは笑顔でたい焼きを頭からかじりつき、言葉を発する。

 

「ツカサの面白い所が知れたので、ワタシとしては表に出さなくても満足です。シオの事は知った事ではありませんが」

「まあ、僕は面白いから続けるに決まってるけどね」

「自重する気は無いんですね……」

「無い」

「断言しないで下さいよぉ」

 

 俺はため息をつきながらたい焼きを半分に割って、あんこが見える所からかじりつく。その光景に詩央先輩はたい焼きと口の間を手で遮り、待ったをかけた。

 

「なんですか詩央先輩」

「いや、君はたい焼きを真ん中から食べるのかい?」

「ええ。両手が空いてるときはこうしますね。だって真ん中が一番あんこが詰まってて美味しい所じゃないですか」

「そうかもしれないが、初めて見たよ」

「そうですか? 珍しいものでもないと思いますよ。『頭から行くか尻尾から行くか論争』に一番手っ取り早く決着を付けられる食べ方だと思いますね。ハイルはどう思う?」

 

 俺が先輩から目線を切り換えると、既に一匹食べ終えたハイルは右親指をペロッと舐めていた。そして俺の問いに答える。

 

「んーワタシは断然、頭からですかね」

「ハイル君は案外普通だね。どうしてかな?」

「どうせ()るなら一思いに……」

「訂正だ」

「たまにおっかないこと言うよなぁ。ハイル」

「え? えぇ……?」

 

 ノータイムでそう返した俺達に戸惑ったのか、ハイルはキョロキョロと首を動かしてみせた。同意してくれる様子がない事を察すると、詩央先輩に向かってビシッと指刺す。

 

「そう言うシオはどうなんですか? どうせろくでも無い食べ方をしているに決まっています!」

「失礼な意見だな、僕は尻尾からさ。生地だけの部分を最後に食べるのは嫌だからね」

「いや、建前は結構です。本当は下から食べてじわじわと痛めつけるのが趣味なんでしょう?」

「流石の僕でもそこまで歪んでないよ!」

 

 ああ、さっきまで仲良さげに見えたのに結局いつもの通りか。睨み合って闘志をぶつけ合っている。そんな事を頻繁にやっていたら疲れるだろうに。

 でもまあ、ここでいがみ合って嫌な空気になるのは家主として避けたい。俺は彼女達を止めるために視線の先に手を割り込ませた。

 

「まあまあ、そんな事を競い合わなくてもだろう? 魚からしたらどうせ食べられることには変わりないんだし、結局の所どちらも残酷だ」

「いや、ツカサ。それは……」

「うん、夏目君。君にだけは、千切って真ん中から食べる人には言われたくないかな」

 

 両者に目を伏せて否定される。どうやら美味しければいいってのは通用しないようだった。そんなこと言わずに一回やってみて欲しいんだけどなぁ。超旨いし。

 

 ▼ ▼ ▼

 

「おっと、すっかりと話に夢中になって夏目君にこれを渡すのを忘れる所だった」

 

 たい焼きをどこから食べるか議論が落ち着いた頃。詩央先輩は先程のたい焼きに続き、またしても紙袋を取り出した。先程とは異なり手の平サイズで、表面には筆で達筆な文字が書かれている。

 

狛使(こまと)神社? それって確かこの近くの神社でしたっけ」

「うん、正解だ。去年から引っ越して来たばかりだというのに覚えてくれているとは、嬉しい限りだよ」

「どうして嬉しいんですか?」

「狛使神社は私の家が代々経営しているからさ」

「確かに家が近いとは言ってましたが、徒歩五分とかからない所だとは思いませんでしたよ」

 

 どうりで頻繁に顔を出しに来るわけだ。

 

「ああ、だから夏目君。ぜひ君も僕の家にたくさん遊びに来てくれよ」

「そうですね。考えておきます」

「それは考えてないときの言い訳だろう? 日頃からこうしてお世話になっているし、どうしてもお返しがしたいんだ。頼むよ」

 

 隣の詩央先輩は床についていた俺の手に自分の手を重ねて、上目ずかいでこちらを見る。あざとかわいいな。あと「な?」って言いながらウィンクしないで。可愛さ五割増しになって首を縦に振りたくなるから。

 煩悩を捨てきれない俺に対して、ここまで静観を決め込んでいたハイルが咳払いで乱入する。

 

「シオ、話が進んでないじゃないですか。本題に入りなさい」

「えー、もうちょっとだけだからさー」

「ダメです」

「そこまで威圧的に言われちゃったら仕方ないか。分かった。本題に入るよ」

 

 詩央先輩は渋々俺から離れるとちゃぶ台に置いてあった紙袋の中から一つのミサンガを取り出した。それを見てハイルは目を細めている。

 

「かなりの魔力が発せられてますね。これを創った人は中々の使い手でしょう?」

「そうだね。これは父に手伝って貰ったから当たり前と言えば当たり前かな」

「え? 何そんなにすごいものなのか? そのミサンガ」

「ええ。ワタシがいた所なら金貨五枚で売れますね」

「悪い、ハイル。価値が分からない。分かりやすく言い直してくれ」

「そう、ですね。質素な家が二つは立ちます」

「全然そうは見えない……」

 

 見れば見るほど普通のミサンガ。こう言っては失礼だが、俺の目には小学生女子がはまって大量生産して、クラスに配ってるみたいな感じにしか見えなかった。

 その価値が見える二人は俺を置いて話を続ける。

 

「とは言え、これはどんな魔道具なのでしょう?」

「一言で言ってしまえば防犯ブザーだね」

「防犯ブザー?」

「ああ、これを千切ると僕の方に助けに来るようにメッセージが飛ぶんだ。僕がいないときでもいつだって助けが呼べるという訳さ」

「成程、便利ですね」

「だろう? もしハイル君に襲われたら逃げながらこれを千切ってくれ」

「だーかーら、ワタシはツカサを襲ったりなんかしませんってば!」

「そんなもの口ではどうとだって言えるからね。備えあれば患いなしって奴さ。ほら、夏目君、腕を出してくれよ」

「は、はい」

 

 先輩は反論するハイルを適当に受け流しつつ、俺の腕を取って左手首にミサンガを結んだ。家が二つ立つ防犯ブザーかぁ、重いし怖いな。「何が?」って、俺には価値が分からないのが怖い。興味が無い高級腕時計を付けているような気分だ。

 ミサンガをじっと見つめていると先輩は腰を上げて、バッグを肩に掛けた。

 

「渡したいものも渡せたし、僕はそろそろ失礼するよ」

「そうですか。梅雨ということもあって、これから雨が強くなるみたいですから、帰り道は気を付けて下さいね」

「おや、心配してくれるのかい? やっぱり夏目君は優しいな」

「大げさですよ」

 

 俺は笑って言葉を返しつつ、詩央先輩と共に玄関に移動。「じゃあ、また」と言う彼女に同じように返し、手を振って見送って、家の鍵を閉めた。

 リビングに戻るとハイルは正座したまま、親の敵の様に俺の右手に結ばれたミサンガを睨み付ける。その威圧感に押されて俺は思わす彼女に問いかけた。 

 

「ハイル、どうかしたか?」

「いえ、ただ……」

「ただ?」

「今は手持ちが無いので、どうしようもないですが、いつかツカサには城一つ建てられる()()の物を贈らせて頂きたいな、と」

「いや、変に対抗意識燃やさなくていいから」

 

 そんなもの送られた日には、この貧乏学生、どんな顔したらいいか分かんねぇよ。



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ネコマジョとカレー。

 俺は学校の帰りに直接バイトに来ていた。業務はいつもの様に本屋のレジ打ち。椅子に座って客を待っている。しかし、ゴールデンウィークも過ぎ、梅雨入りの影響もあってなのか客足も遠のいていた。故に中々に暇である。おかげ様であくびをかみ殺す事も業務に加わっていた。

 涙で滲む視界を親指で拭う。時々船を漕ぐ体に爪を立て眠気を誤魔化していると「ねぇ」と隣から肩を突かれる。

 

「また夜更かししてたでしょ?」

 

 馴れ馴れしい声を追って首を回すと、呆れたように半目で俺を見る金髪のサイドテールが視界に入る。彼女は制服である緑のエプロンを何度か結び直していた。

 

古野(この)か、遅刻ギリギリだな」

「間に合ったんだからいいでしょ」

 

 ムッと眉をひそめて彼女、古野葉胡(ようこ)はそう言った。相変わらず腰に両手を当てるポーズと上から目線が高圧的である。

 だが俺はその態度にイラついたりはしない。なんだかんだで彼女とは付き合いが長いし、あの態度は気を許している証拠なのだ……と思いたい。そうじゃ無きゃメンタルが持たないよ。

 

「それよりあんた、昨日は何時に寝たの?」

「二時。レポートが終わらなくてな」

「はぁ、馬鹿ね。そう言うのは常日頃からやっとくもんなの」

「お前は俺のオカンかよ」

「違う。あんたがだらしないから忠告してるだけ」

 

 全くもってその通りだ。俺が沈黙で彼女の言葉に応えると、彼女は隣のパイプ椅子に座った。脚を組んで太ももの上で手を重ねる。

 

「品出しは?」

「もう終わってた。前のシフトの奴らがやってたらしい。こんなに雨が降ってたら客も来なかっただろうし、暇だったんだろ」

「他の仕事は?」

「特には無い。あったとしても客が来てからだな」

「そっか。じゃあ、慌てて焦る必要は無かったんだ」

「結果的には、な。でもお前が遅れるなんて珍しいな。何かあったのか?」

 

 俺はが気になっていた。態度が荒いとは言っても彼女はオカン体質……もとい、しっかり者なのだ。これまで俺より先に来ていない日は思い出せない程に。

 古野は頬をかきながら、目線を逸らす。

 

「ううん。特に何かあった訳じゃ無くてさ。いつもよりちょっと化粧に凝ってたら時間を忘れちゃったの」

「化粧ねぇ。今日はそこまで気合入れなくて良かったんじゃないか? どうせ雨で客も来ないんだし」

「そんな事無い。普段から手を抜いてたら本番で失敗するに決まってるでしょ」

 

 否定できない。練習なくして確実な勝利は得られない物だ。それを俺はバスケットをやっていた時に学んでいる。妹も化粧に四苦八苦していた覚えもあるし、それっぽく見せるのには練度がいるのだろう。最も、俺は男だから全てを理解することはできないけれど。

 

「本番ね……」

「文句あるの?」

「いや、本番ってことはデートだろう? 相手はどんな奴なのかなって」

「あんたには関係ないでしょって言いたいけど、今はいないの」

 

 彼女はサイドテールの先を弄る。俺はこういった類の観察眼には自信が無いのだが、古野はモテそうに見える。綺麗な金髪。ダンスサークルに入っている影響なのか体はビシッと引き締まっている。これだけでも男子は放って置かなそうなものだったものだから、意外だった。

 

「誰か良い人いない? 紹介してよ」

「良い人って言ってもなぁ……」

 

 促されて俺の同姓の交友関係を思い浮かべる。ロボットがお友達の奴、ソーシャルゲーム廃人、酒が恋人……まともなのがいないな。少なくとも彼女の期待に応えられそうな人材は存在しない。

 

「悪い、力に慣れそうにない」

「そんなあっさりと断らないでよー。司の大学って実質男子校でしょ?」

「それは偏見だ。ちゃんと女子もいるって……少ないけど」

「やっぱりそうなんじゃん」

「それ以上言うな……これは理系の宿命なんだよ」

「宿命って、そんな大げさだね」

 

 古野は腹を抱えて肩を震わせる。そんな笑わせるような事を言った覚えはないが、ツボにはまったらしい。やがて笑いも収まって滲んだ涙を指で拭った。

 

「笑い過ぎだ、客来たらどうすんだよ」

「ゴメンゴメン、でも大丈夫だったからいいでしょ」

「結果オーライ、終わり良ければ全て良しを地で行くよなぁ、お前」

「まあね。駄目だったときは全力で挽回すればいいだけでしょ?」

 

 古野は座っていた椅子から立ち上がる。彼女の目線の先を追うと、入り口に傘を差した人影。俺も立ち上がって、入って来た所で二人で頭を下げた。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 俺と古野、それと店長で閉店後の支度を終えた。店長に挨拶して店を去る。アスファルトを強く叩いていた雨は上がって、雲の切れ目から月の光が僅かに差し込んでいた。靴が濡れないように水たまりを避けながら歩く。ヒンヤリとした空気が肌寒くて半袖のシャツから出た腕をさすった。

 

「待ってよ司、一緒に帰ろ」

 

 背後からした声に脚を止めて振り返る。制服のエプロンを外した古野が小走りで向かって来ていた。一歩ごとに金色のサイドテールが揺れる。俺の近くで停止すると揺れは収まった。息を乱すこと無く俺に語り掛ける。

 

「どうして先に行っちゃうかな」

「いや、支度遅かったから」

「そんなんだから彼女ができないんだよ」

「余計なお世話だ」

 

 そうかもねと彼女は笑う。チラリと白い八重歯が見えた。古野はこうやって誰にでも屈託もない笑顔を見せてる。だから本屋の男性陣や客にも人気があるんだろうなと思った。

 内容の無い会話を続けながら歩いていると、十字路に差し掛かった所で古野は空を指差す。

 

「見て見て、月出て来たよ!」

「なんか久々に見た気がするな」

「最近ずっと雨だったからね」

 

 表面の模様がくっきりと見える。太陽よりも弱く優しい光は心地いい。空から掴み取って自分の物にしたいと思うほどに綺麗な満月だった。

 

「私ね。月見るの好きなんだ」

「どうして? 綺麗だから?」

「それもそう。だけど、なんか体の中がゾワゾワして、気分が高まるって言うか……。うーん、ゴメン。やっぱり上手く言えないや」

 

 古野はヘヘヘと笑う。彼女の話を聞いて思い出す。満月の日は体調とかメンタルに影響を与えたりするって聞いたことがある。凶悪な事件とか起こりやすいんだとか。もしかしたら古野のテンションが上がるのもそのせいかもしれないと思った。

 古野は指を月から右側の道へ動かして示す。俺の家とは反対側の方向だった。

 

「じゃあ今日はここで。私の家、あっちだから」

「分かった、じゃあな。また今度」

「うん、また」

 

 古野は体を自分が指さした方向へ翻す。俺も帰路へと脚を向けた。だけど、すぐに脚を止めて振り返ってしまったのだ。横目に見えた物を確認したかった。俺は手を伸ばして彼女の肩に手をかける。

 

「古野、ちょっと待った」

「ん? どしたの?」

「いや、そのまま後ろを向いて貰って良いか? ゴミついてた気がするから」

「ほんと? 取って取って」

 

 彼女が背中を見せる。俺が注視するのは彼女のズボン。黒い生地でできているそれに違和感のある物がひっついていた気がしたからだ。

 だけどそこには何もなかった。確かに見えた()()()()()()が消え去っている。俺が見た物は幻だったのか? だが、しかし……。

 俺が思考の沼にはまっていると、古野は急かす様に「まだ?」と聞いて来た。これ以上見るのは不自然だと判断して背中を触って、ゴミを落としたふりをする。

 

「取れたよ」

「ありがとうね」

「いや、大したことじゃない」

 

 俺は手を振って彼女の言葉を否定する。本当に何もしてないから。顎に指を添えて俺は考える。さっき見えたのは何だったのか。気のせいで判断してしまっていい物だろうか。俺が答えを得ようともがいても、一向に解が出せなかった。

 

「どうしたの難しい顔しちゃって。もしかしてまだゴミついてるかな」

「いや、何でもないよ」

「そっか、ならいいけど。じゃあ今度こそ私は行くよ」

「ああ、またな」

 

 俺は彼女に軽く手を振って見送る。彼女の後ろ姿をしばらく眺めていたが、先程の様に尻尾は見ない。結局の所あれは俺の気のせいだったのだろうか。警戒のし過ぎだったのだろうか。

 ハイルや詩央先輩が特殊なだけで、本来であればあんな特殊事情は頻繁に発生しない。それは俺がこれまで送って来た人生で分かり切っている。ここ最近が異常だったのだ。だからきっと気のせいなのだろう。俺はそう決めつけることにした。

 俺は踵を返して、いつもの帰り道へ歩き出す。あれほど見事だった月は雲のカーテンで覆われて、代わりにチカチカと点滅する街灯が際立っていた。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 時間も時間だったからか誰ともすれ違う事はなかった。自宅までの階段を上がって鍵を開ける。奥から白いエプロンを身に着けたハイルが姿を現す。というかあのエプロン去年妹が来た時に置いていったやつだ。白い布地の端っこに「ともよ」と刺繍されている。いつになったら取りに来るんだろうな、あいつ。

 

「おかえりなさい司。遅くなると言ってたので夕飯作っておきましたよ。今夜はカレーです」

「ありがとうな。じゃあ冷めないうちに食べようか」

「はいっ、そうしましょう!」

 

 トテトテと小走りで玄関から部屋に戻る。スピードの割に足音が騒がしくない。足の裏に肉球でもついてんのかよ。もしかしたら某青い猫型ロボみたく数ミリ浮いてるのかもしれない。なんて言ったって魔女だし。

 そんな事を考えながら荷物を置いて手を洗う。スプーンと箸を二つずつ手に取ってちゃぶ台に並べた。ハイルがお盆にカレーとサラダを持って来る。対面になるように並べ、手を合わせた。

 

「頂きます」

「どうぞ召し上がって下さい」

 

 一人でいた時には口にしていなかった挨拶。ハイルが来てからはこういったことを気にするようになった気がする。マナーのなっていない人間だと思われたくないという意識はもちろんあった。だが、彼女は異国の人間でこういった事を知らないので、自分が模範にならなければ、と気を引き締めているのだろう。

 

「そういえば司、レポートどうなったんですか? 結構苦戦してましたけど」

 

 彼女は自作したカレーを一口食べてから問いかける。昨日は目の前で作業していた事もあって心配してくれていたのだろう。俺はドレッシングのビンを軽く振りながら答える。

 

「なんとかなったよ。心配かけたな」

「ホントですよ。しっかりと休息を取らないと後々付けが回ってきますから。これからはしっかり計画立てて進めて下さいね」

「そうだな、考えとく」

 

 定番のフレーズで言葉を濁す。正論過ぎて耳が痛かったのだ。そういえば古野にも言われたのを思い出した。古野、古野か……。話題としてさっきのあった事を話してみるか。ドレッシングをサラダにかけて蓋をした。

 

「そういえば今日、帰り道にちょっと変な物を見てな」

「変な物……どこでですか?」

 

 俺はハイルにバイトの同期と十字路で一緒に帰っていた事、別れ際に背中に尻尾が見えた事、再度確認した時には消え去っていた事を説明する。

 彼女は野菜を摘まみながら聞いていたが、途中から箸を置き膝の上に手を揃える。全てを聞き終えてからゆっくりと瞳を閉じてまた見開いた。

 

「司、それはどのような尻尾でしたか?」

「どのようなって、特長か?」

「ええ、ワタシの尻尾と比べてどうでした? 些細な事でもいいので」

 

 彼女は俺に真っ黒な尻尾を見せた。額に手を添えて、薄れ気味の記憶を辿る。

 

「ハイルのよりは短かった気がする。他は……あんまり思い出せない」

「情報が少ないですね、流石に特定はできませんか」

「特定? どういうことだ?」

 

 浮かんだ疑問をそのままぶつける。何? 尻尾クイズでもするの? 俺レッサーパンダぐらいしかわからないぞ。ハイルの言葉を待つ間、カレーをスプーンで(すく)って食べた。ピリッと辛くてスパイシー。いつもの市販のカレールーの味だった。

 

「マジョには同盟があるんですよ。敵かどうか、尻尾で種族を判断します」

 

 あながち間違えてなかったじゃん。尻尾クイズ。同盟があるって事はハイルだけじゃ無くいろんな魔女が日常に潜んでいるのか。想像するとなんかワクワクするな。

 

「でもそんな簡単に魔女が尻尾を見せるのか? ハイルだって認識阻害とかで隠してただろ」

「あれは認識を誤魔化しているだけ、なので限度があるんですよ」

「限度?」

「ええ。力が隠し切れないって場合、認識阻害をかけてても見えてしまいます。それに今夜は満月でしたよね?」

 

 (うなず)く。久しぶりの綺麗な満月だった。

 

「満月の恩恵を受ける種族なら、その幅によって力が滲み出る事もあるでしょう。そう言った者は警戒して対策をするのですけど」

「成程な。ちなみに月の恩恵を受ける種族って?」 

「ウサギ、キツネ、オオカミとか有名なのはこの辺りですかね。ちなみにワタシは夜になると力が増します」

「へぇ、力が増すとどうなるんだ?」

「分かりませんか?」

 

 ハイルはニッと口角を上げた。シャツの袖をまくって、露出した素肌を指先で撫でる。

 

「朝より肌がスッベスベ!」

「知らねぇよ!」



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対峙するネコマジョ。

「来ちゃいました」

 

 自動ドアが開閉する音。挨拶をしようとしたがその声で止めた。段ボール箱を抱えながら振り返れば案の定、予想通りの人物が立っている。ハイル・ミーツ・アルハンゲル。俺の同居人かつ猫かつ魔女。様々な属性を搭載した彼女がバイト先に降り立った。なんか腰に両手を当てて偉そうに胸を張っている。なんでここに来たのか、買った服じゃなくて俺の服を着ているのかとか、疑問に思った事はいくつかある。だが真っ先に言いたい事は一つだった。

 

「帰れ」

「いきなりそれは酷くないですか!」

「働いてる所を見られるのは好きじゃないんだよ。気が散る」

 

 知り合いがバイト先に来るのは嫌いだ。妙にからかったしするし、次に会ったときに話題に挙げられるのが嫌なのだ。休みの日まで仕事の話はしたくない。

 抱えていた段ボール箱を降ろして、中の本を空白の出来ている棚に差し込んでいく。

 

「そんな事言わないで下さいよ。ワタシはツカサのために来たんですよ」

「俺のために営業妨害か? そこまで仕事は嫌いじゃないぞ」

「いや、そうではなくて……」

 

 ハイルは俺の冗談をあっさりと否定する。きょろきょろと辺りを見渡して、他に誰もいない事を確認すると耳に口を近づけた。ハイルの長い黒髪が首元に触れてこそばゆい。

 

「例の尻尾女、今日もいるんですよね?」

「尻尾女って、古野の事か。いるけど……それがどうかしたのか?」

 

 彼女は今頃レジの前に立っているはずだ。サボっていなければの話だが。

 

「確かめに来たんですよ。味方かどうか」

「どういうことだ?」

「尻尾を確かめに来たのですよ。同盟相手なのかどうか」

 

 そう言えばそんな事を言っていたな。尻尾の種類で種族を判断し、同盟かどうか判断するとか。正直な所、古野に尻尾が生えていた様に見えたのは見間違えだと思っている。なぜなら古野はこの社会に馴染んでいるからだ。ハイルの様に所々にギャップを感じたりしない。どこまでも普通の女性、人間だ。だからハイルの行動は無意味にしか見えなかった。

 とはいえ、ハイルが古野を確認することで満足して帰るというのなら、この無意味な行為に付き合うのもやぶさかでは無い。

 

「あいつを見れば帰るのか?」

「ええ。逆に言えばこれだけは譲れません」

「妙にこだわるな。どうしてそこまで古野の事が気になるんだ」

 

 俺が話したこと、それも空目だったかもしれないことを気にするのか。それがひっかかった。この問いにハイルは耳打ちに使っていた手を俺の顎に添えてゆっくりと目線を本棚から彼女の顔へと切り換えさせる。黄金の瞳が俺を掴んで離さない。

 

「アナタを危険な目に会わせたくないからですよ。その可能性があるなら確実に潰したい。なにせワタシはツカサのボディーガードですから」

「ボディーガードってお前大げさだな。俺はそんな大層な人物じゃない」

「恩返しの一環なので気にしないで下さいよ」

 

 ともかく、とハイルはこの話題を切り上げる。俺から手を離し元の間合いに戻った。

 

「ワタシは尻尾女の正体を確かめなければならないのですよ」

「それでお前が満足して帰ってくれるって言うなら俺は構わない。だけど、お前どうやって確かめる気なんだよ」

「そんなの魔法で何とかするに決まっているじゃないですか」

 

 人差し指を立て、当たり前の様にそう言った。奇跡を可能にする彼女の魔法。今回はどのようなものを使うのか楽しみだった。

 

「どんな魔法を使うんだ?」

「いくつか方法はありますが、今回は穏便に行きます」

 

 穏便じゃない方法もあるのかと突っ込みたくなったが、ぐっとこらえて彼女の言葉を待った。

 

「解析魔法、相手がどのような状態なのかを見極める魔法ですね」

「解析ねぇ。いったいどのぐらいの事が分かるもんなんだ?」

「そうですね。試しにツカサに使ってみましょう」

 

 ハイルは目を閉じてからブツブツと解読不能の言語を呟く。そしてタクトの人差し指を振るった。瞼を開けると彼女の瞳がぼんやりと瞳を帯びている。

 

「夏目司。身長:一七七センチ、体重:七〇キロ。種族:人間、年齢:二〇歳。戦闘力:五」

「五? 五ってお前……弱くない?」

「人間は魔力をため込めませんから。妥当じゃないですかね」

「逆に言えば魔力をため込めれば戦闘力が跳ねあがるのか。ちなみにハイルはどれぐらいなんだ?」

「ワタシですか? 確か五〇〇ぐらいだったかと」

「桁違い過ぎる……」

 

 確かに俺は運動をしてないザ・インドア人間だ。しかし、ここまで女の子に差を付けられたら凹むなという方が無理だろう。膝に手を置いてうつむく俺に、話を戻しますよとハイルは言った。

 

「この状態であの尻尾女を見れば魔女なのか、人間なのか、それ以外か、はっきりするという訳ですよ。さあツカサ、あの女のところに案内してください!」

「分かったから声を抑えろ。本屋ってのは静かじゃ無きゃいけない場所なんだよ」

 

 今は客が居ないからそこまで気にしてはいない。だけど、お前が目の敵にしている古野に聞かれたらどう言い訳する気なんだよ。

 

「すいません、興奮してしまいました」

「分かればいいんだよ。じゃあ行くぞ」

 

 俺はハイルを先導しレジに向けて歩く。その途中、俺はふと思いとどまる。客でも何でもないハイルが古野を見つめるのは非常に不自然ではないだろうか。表向きの理由、建前を用意していなければならないんじゃないかと。そう思った俺は通りかかった雑誌コーナーで適当な物を手に取ってハイルに渡す。

 

「これは?」

「雑誌だよ。あいつ今レジにいるからな。客だったら相手をいくら見つめても不自然じゃないだろ」

「成程、一理ありますね。しかしツカサ、ワタシは財布を持って来てませんよ?」

「それぐらい俺が出してやるよ。ボディーガード代だと思ってくれ」

 

 ポケットの財布から千円札を取り出して、雑誌の上に置いた。

 

「ありがとうございます。では行ってきますね!」

 

 トットットとスニーカーで足音を奏でながら、俺を追い越す。歩いて後を追う。そしてコーナーからストレートに差し掛かった。レジと現在地が直線で結ばれる。古野とハイルが対立しているのが見えた。俺はそのままゆっくり歩みを進めて店員側のスペースに入る。

 黙々とビニール袋に雑誌を詰める古野、小銭を握りしめてうつむくハイル。この構図を見て何となく、手がかりが得られなかったのだろうなと察した。

 古野が商品を渡して頭を下げる。ハイルは袋を受け取ると、険しい目で俺を見た。その視線から逃れるために俺も頭を下げる。

 そしてハイルが自動ドアを通って外に出たあと、金髪サイドテールの古野はややテンションを上げて俺の肩を叩いた。

 

「ねえ見た? 今の人。綺麗だったよね~」

「ああ、そうだな。モデルか何かだったりして」

「かもね。でもさ、結構面白い買い物しててね。思わずタイトルを読み上げちゃったよ」

 

 別段、特に変わったものを渡した覚えはない。そこら辺にあった雑誌を適当に引き渡しただけだ。しかし、古野の口から出て来たタイトルは予想外の物であった。

 

「『週刊アソビニン六月号~肌色だらけ!一足先の水着特集っ!~』だってさ。同姓愛者なのかな?」

 

 ……帰ったらハイルに謝罪会見を開かなければならないらしい。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 つい先日と同じように閉店準備を終えて外に出る。今日は晴れていたから、水たまりはできていなかった。アスファルトからゆっくりと視線を上げていくと一つ、人影を発見する。街灯に照らされる彼女は腕を組んで待ち構えていた。

 

「待ちかねましたよ、ツカサ。ようやく閉店ですか。お疲れ様です」

 

 労いの言葉を笑顔で述べた。冷淡な笑顔で述べた。威圧感が半端では無い。外面は穏やかな海だが、シャチの背びれが見え隠れしている。俺は刺激しないようにゆっくりと距離を詰めた。

 

「待ってたのか、肌寒かっただろう? 帰って飯にしようぜ」

「誤魔化さないで下さいよ。これ、何だか分かっていたんでしょう?」

 

 ビニール袋を俺の前に掲げる。

 

「誤解だ。お前も見てただろう? 俺が適当に雑誌を取ったの」

「見てましたよ。でも、浅はかですねツカサ。アナタはワタシが何を買ったか分かっている。そうでなければ『誤解』なんて単語は出てこない。違いますか?」

「それも誤解だ。それは古野が言ってたから――」

「言い訳は結構。結果が全てです。ワタシがここの文字が読めないのをいいことに、こんな不埒な物を買わせるなんて」

 

 彼女は耳を露出する。可愛らしい猫耳を露出する。そして拳を握ってファイティングポーズをとった。スニーカーのつま先で二度地面を叩き、軽いフットワークを見せる。

 

「一発(はた)かなければ気がすみません」

「一発殴るの間違いだろ!?」

「歯、食いしばって下さいね」

「聞く耳持たねぇ!」

 

 ハイルがアスファルトを蹴って俺に急速に迫る。線路の上で迫る新幹線を見ているようだった。俺は彼女の忠告通りに歯を食いしばり、最低限身を守るため、頭を腕でガード。

 しかし、衝撃は思わぬところから発生した。腹だ。ノーガードの腹に打撃が加えられた。俺は尻餅をつく。荷重が腰全体にかかり続けている。瞼をゆっくりと持ち上げて彼女の姿を見た。

 

「タックルとか容赦ねぇな。俺が悪かったからどいてくれ……よ?」

 

 違和感。

 俺の腹部にいるのは明らかにハイルでは無い。よく見なくてもこんなにも明るいブロンドの髪なら誰だって確信できるだろう。

 

「物騒だなぁ……ネコって。お父さんが言ってた通りだ」

 

 今、俺の腰を抱えている人物は他でも無い。古野葉胡(このようこ)。彼女はまだ帰っていなかった。店のすぐそばでハイルと話していたのだから、ここに居る事は不思議では無い。

 だけど、問題はやはり違和感がある。

 ハイルではないことも勿論そうだが、彼女が彼女の持ってない、持つべきではない特徴が、付け加えられていたのだ。

 彼女には今、大きな耳が頭頂部から生えている。ハイルよりも短く太い尻尾が生えている。異形。人では無いナニカである。

 古野は俺の体から離れて、呆然と立ち尽くしていたハイルと対峙する。ハイルは古野の尻尾をチラリと見てから、顔を引き締めた。

 

「キツネ……成程。化かされてましたか」

「当然。『解析魔法』程度で『幻惑魔法』を見抜ける訳が無い」

「それしか取り柄が無いとも言えますけどね」

「器用貧乏の癖によく言う」

 

 どうやら先程の会合では古野の正体を見抜けていなかったようだ。片手を腰に当てて古野はため息をつく。

 

「あんたがどうやって()()()に来たのかは知らない。何をしようとしていたのか知りたくも無い。傍観していたかった。だけれど、私の大事なバイト仲間に手を出すってなら話は別」

 

 古野は漫画の忍者の様に印を組む。そして、俺の体に触れた。

 

「影分身の術」

 

 呟く。するとボンボンと煙を立て、俺と古野、この二名と瓜二つの分身が量産された。そして全ての俺を古野が抱えると、蜘蛛の子を散らすように動き出す。

 

「待ちなさい!」

 

 古野は地面を蹴って走り出す。俺はあっけに取られ彼女達に口を挟むことができなかった。

 



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キツネ対ネコ。

 古野(この)は忍者さながらに屋根の上をピョンピョン飛び回る。それも俺を抱えてだ。とてもじゃないが女子とは思えない。いや、人間ですらないのだろうからこの指摘は少しずれている。

大きな耳、先が白くふわふわとした尻尾。この間はしっかりと見えなかったけれど、学のない俺でも判別ができた。狐だ。狐の魔女。完璧に人間だと思うほどに、俺は化かされてしまっていた、らしい。そんな事に気が付かなかったから、ピーチ姫さながらに上手くさらわれてしまったのだろう。

というかこんな冷静に考えている場合では無い。危険が無かったことを伝えなければ。古野は俺を助け出したつもりなのだろうが、先のハイルとのやり取りは一種のコミュニケーション。お互いにある程度信頼しているが故のやり取りなのだ(と思いたい)。だからこの逃走劇に終止符を打つためにそれを伝えなければならない。

 

「……古野。離して貰えないか?」

「何言ってるの。命が惜しくないの?」

「そうだな、高い所から落とすのは勘弁して欲しい」

 

 俺の答えを聞いて古野は言葉を失う。だがそれも一瞬で、すぐに「そうじゃなくて」と仕切り直す。

 

「司とあのお姉さんがどんな関係かは知らない。でもネコとは関わらない方が良いよ。命が惜しいならね」

「命は惜しい。だけど、俺にはハイルがそんな危険な奴には見えないぞ」

「かもね。だけど、ネコの危険性を知らないからだよ。お父さんが言ってた。“ネコは万能の戦闘民族。個々によって対策が大きく異なる。初見ではまず逃げろ”ってね」

 

 確かにハイルは万能だ。いろいろな事を魔法でこなす。空を飛んだり、物を浮かして動かしたり、さらにはテレパシーとなんでもありだ。普段から「優秀ですから」と口にするのも決して『傲り』では無く、部族特有の『誇り』だったのだろう。

 だがまあ、それは置いておく。本題は別だ。

 

「敵だったらって話だろ。俺とハイルは違う。だから、逃げる必要はないんだよ」

「……私ほどじゃないにしてもネコだって幻惑魔法を使える。司の認識を変えている可能性や記憶を改ざんされているかもしれない」

 

 だとしても、と古野は言葉を区切る。

 

「司は何もされてないって言える?」

「……」

 

 無理だ。俺は普通の人間。ハイルや古野の様に魔法が使えるわけでも、詩央先輩の様に魔力が見れるわけでは無い。故に、ハイルが何もしていない事を証明できるはずもなかった。

 だが、俺の答えは決まっている。詩央先輩のときにも口にしていた。自分に言い聞かせるように口を動かす。

 

「何もしていないとは言い切れない。だけど、俺は決めた。信じるって決めたんだ。だから、あいつは何もしてない」

「駄目だ……。そんなに盲目的な姿勢を見たら、やっぱり、騙されてるって思っちゃうよ」

 

 古野の黒い眼が細まる。俺の腰に回された腕がより強く締まった。

 

「でも、今はそれでいいよ。どの道、あのお姉さんが消えればはっきりするから」

「消える……? どういうことだ!」

「そんなに声を荒げないでよ。暴れないでよ。落としちゃうかもしれないでしょ」

「いいから答えろ!」

「知らない訳じゃ無いでしょ? 魔女は魔力が無くなれば消滅する。魔法の効力も消える。司が騙されているかどうかが分かる。単純な話じゃないか」

 

 古野がかつて聞いていた魔女の消滅条件をちらつかせる。そうだ、ハイルは言っていた。魔女は自分で魔力を生み出せる訳じゃ無い。人間の幸せな気持ちよって魔力を補給するのだと。燃料は使うと無くなるのは道理。補給する手段を持たない今、時間が経てば彼女は――

 消滅する。

 それは駄目だ。それだけは駄目だ。俺はハイルとまだこの生活を続けたい。物語の様な時間を失いたくない。それを避けるために俺は今、何をすべきだ?

 決まってる。居場所を知らせる事だ。俺がどこにいるか分かれば、彼女は少ない魔力で俺を見つけられる。だけど、ハイルは携帯を持ってない。スマホのGPSで伝えることはできない。

なら考えろ。他に相手に居場所を瞬時に伝えられるような手段を。しかしそんな都合のいい手段が思い浮かぶはずも無い。時間だけが刻一刻と過ぎていく。焦りからなのか額に汗を左手で拭う。すると違和感のある感触が額に伝わった。思わず左手に目線をやる。

 ミサンガ。小学生が作ったみたいな安っぽい見た目のミサンガ。詩央(しお)先輩がくれた、家が二件ほど立つらしいプレゼント。

 これだ。今取れる最善の手段はこれしか無い。詩央先輩はこれが防犯ブザーだと言っていた。俺の危機を知らせてくれるのだと。可能性は低いが詩央先輩に伝わればハイルと情報共有する可能性だってある。そのわずかな可能性に賭けて、俺は右手の指を突っ込んで引っ張る。思ったより力を入れずともひもが千切れた。

 

「へぇ、見慣れているようで見慣れていない不思議な格好をしてるじゃないか、葉子君。君が今回の敵という訳かな?」

 

 即座に背後から女性の声。元居た場所から古野が飛び退く。元々居た場所に振り返る。空中に穴が開いていた。漫画のベタを貼り間違えたかのように不自然に真っ黒な穴。そこから頭が出てくる。重力に従って垂れる黒髪。黒縁の眼鏡。俺が危機を知らせた人物の顔だった。薄いピンク色のパジャマを身に纏って屋根の上に降り立つ。

 

「本多先輩!? どうしてここに?」

「それは決まってるだろう? 呼ばれたからさ」

 

 ウィンクをして俺を指差した。台詞自体はピンチに駆け付けたヒーローのようだが、格好がパジャマだからか締まって見えない。

 

「流石は僕の作ったミサンガ。夏目君がどこにいるのかを完璧に知らせてくれた。でもまあ、ここまで来たのは僕の力では無いのだけれど」

 

 詩央先輩はチラリとまだ塞がっていなかった穴を見た。すらりと伸びる脚が穴から出てくる。微妙にサイズの会ってないワイシャツ。腰まで伸びた髪。紛れもなく俺と暮らしている女性の特徴だった。全身が露わになると穴は消える。月明かりがぼんやりと彼女を照らした。

 

「お待たせしましたね、ツカサ。シオを探していたら遅くなってしまいました」

 

 彼女はにこやかに微笑む。そして人差し指を立ててタクトのように振るうと、宙へ体を浮かした。いつもより数倍鋭い眼光を放つ金の瞳が俺達を見下ろす。

 

「今、どうやってここに……」

「どうやって? シオに場所を確認。その後空間に穴を開けて、門を開いただけです。魔力消費が激しいのでやりたくは無かったんですけどね……」

「そんな芸当できる訳――」

「できますよ」

 

 ハイルが古野の言葉を遮る。そして、いつもの様に続けた。

 

「だってワタシ、こう見えて優秀ですから」

「くっ……」

 

 古野はぐっと歯を噛み締めて印を組むと、再び分身を作った。四方八方へとバラバラに逃げていく。

 

「無駄ですよ。さっきは不意を突かれて逃しましたが、今回は全て捉えている」

 指先にある雲だけに稲光が走った。

 

「軽く、感電死させてあげます」

 

 死んでる時点で軽くでは無いとは思うのだが、そんな突っ込みをする間も無い。ハイルが「行け」と呟く。優に四〇人はいる分身に稲妻が襲い掛かる。逃げ回る分身を蛇の様に動く稲妻が貫く。狐の大群の中で残ったのは一人。俺を抱えている本人だけだ。ハイルがふわふわと宙を舞って、俺たちの前へ着地した。

 

「嘘……」

「実力差ははっきりしたでしょう。大人しくツカサを差し出すのなら、命だけは保証しましょう」

「それは、駄目。ネコに司は渡せない」

 

 古野の腕の震えが伝わる。横目で見た目付きは鋭く、ぶれてはいない。目の前のハイルの臨戦態勢はとかれていない。詩央先輩は屋根の上に立ったまま。……古野の恐怖に気が付いているのは俺だけだった。

 

「……そうですか」

 

 ハイルが一歩間合いを詰めた。彼女は人差し指の先を立てている。見慣れてきた魔法を使う時の予備動作。遠い雲に青白い雷光が映る。古野の腕から伝わる振動がより強くなった。手が緩んだ。俺は古野の腕から抜け出してハイルの前に両手を広げて立ちふさがる。

 

「ストップだ、ハイル。これ以上はやる必要はない」

「なんの真似ですか、ツカサ。そこのキツネに化かされましたか?」

「違う。そんな事された覚えはない」

 

 俺は首を振って否定する。

 

「ならどうして邪魔をするんですか? そこにいるのはキツネなんですよ」

「キツネ……それだけか?」

「それだけで十分ですよ。キツネと我々は遥か昔から非同盟、敵同士です。何されるか分かったものではありません。だから早めに潰しておくのが吉なんですよ」

 

 何されるか分かったものでは無い。古野がハイルに対して話していた時にも口にしていた。お互いの実態を知らないで、虚像を見て話している。そんな様に俺は感じていた。

 

「ハイル。俺は魔女の世界がどのようになっているかは知らない。どんな同盟があるのか、ルールがあるのか、全くもってだ」

 

 だけれど、と区切りをつけて続ける。

 

「ここは人間の世界だ。お前はネコの魔女じゃ無く、家の居候だ。古野だってキツネの魔女じゃなくて、バイト仲間だ。二人とも大事な俺の友人なんだよ。争う姿は見たくない。だから、矛を収めてくれないか」

 

 ハイルはどうも納得していないようだったが、最終的には人差し指を立てるのを止めた。ゆっくりと背中を見せる。

 

「……分かりました。アナタが不本意なことはワタシもしたくありません。命拾いしましたね、キツネ」

 

 俺はその言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろす。振り返って後ろにいる古野を見る。彼女は気が抜けたのか膝を地面に付けていた。

 

「ハイルだって悪い奴じゃないんだ。それは今見た通り。古野だってそうだ。勘違いとは言っても今回、俺の為に動いてくれていた。だから二人に騙されてないって言える。信じているって言える。俺は、大丈夫だ」

 

 古野は信じられないと言いたげな顔だった。俺は彼女に向けて笑顔を見せてからハイルの後を追う。すると詩央先輩が目の前に来て、ハイルは彼女に語り掛けていた。

 

「今回はお世話になりました」

「利害が一致していたからね。君のときにも言ったけど、僕は夏目君を失うのは不本意なのさ。君が牙を剥けば、今度は彼女と組むかもしれないよ」

 

 詩央先輩は後ろの古野を指差した。

 

「それは、それで構いません。ワタシがアナタ達に負けるはずもありませんし、ツカサに牙を剥くことは万が一にも無いでしょう」

 

「かもね。そうある事を願うよ。争うのは好きじゃない」

「ワタシもです」

 

 頷くと先輩は俺に向き合う。

 

「こんばんは夏目君。今回、真っ先に僕を頼ってくれたことを嬉しく思うよ」

「先輩しか呼び方を知らなかっただけですけど、ありがとうございました。あのミサンガ、役に立ちました」

「それは良かった。またお父と作る事にするよ」

「使わない事を願いたいですけどね」

 

 頻繁に危険な目に会うのはゴメンだ。先輩は「違いない」と返事をして、俺の方へ歩いて隣に立つと、肩に手を置いた。

 

「ここは僕に任せて家に帰ると良い。葉胡君に話もあるし、証拠も消しておかないと厄介だ」

 

 先輩はチラリと地面を見る。ハイルの雷によってアスファルトが黒く焦げていた。確かにこれがそのまま残っていた怪しまれる。魔法の存在は可能な限り隠しておいた方が良い。

 

「すいません」

「いいよ。僕に利益があってしている事だからね。気にしなくてもいい」

 

 先輩は歩いて行く。俺は言葉に甘えて反対方向に歩みを進めた。先に歩いていたハイルの背中に追いつくため、やや足早にだ。目の前の彼女が十字路を右に曲がって、視界から姿を消す。俺はそれを追った。

 

 再び視界に映った彼女の足取りはなんだか危うかった。フラフラと左右に揺れておぼつかない。その姿はまるで木から落ちる木の葉の様だ。俺は慌てて彼女に駆け寄る。その結果、地面に崩れ落ちる直前、彼女を抱きかかえる事に成功した。

 だけれど、即座に違和感に気が付く。彼女の雪の様に白い肌が水の様に透き通っている。比喩では無い。()()()()()()()()()()()()()()()



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眠れない夜。

 ハイルの異変に気が付いた俺は彼女を担いで家へ帰った。距離的には電車やタクシー等の交通機関を使うのが無難ではあったが、彼女の異変を周囲に見られるリスクを考えると見送らざるを得なかったのだ。

 

 ある程度近くにいた古野(この)詩央(しお)先輩に頼る事も考えなくも無かった。だが、敵対関係と口にした相手だ。ハイルが意地を張って、見せなかった弱みを俺が簡単に晒してしまうのは、どうにも気が引ける。だから、俺の力だけで戻って来たのだった。

 

 ちゃぶ台をどかして布団を敷く。彼女を寝かして、掛布団をかけた。

 枕に乗っている頭はいつもの彼女のまま。だけれど、掛布団に隠してしまった彼女の指先や足元は窓ガラスの様に透けていた。

 

 この異変がなぜ起こっているのか、俺には分からない。ハイルが意識を取り戻すのを待つしかないのだ。焦ったって仕方がない。そう自分に言い聞かせた。

 取りあえず俺はキッチンに向かう。夕飯を済ませておくためだ。『腹が減っては軍は出来ぬ』と言うし、この異変に立ち向かうに当たって最大限に備えておきたい。まあ、大げさに言ったけれど、冷蔵庫にある適当なもので一品作って、残っていたご飯を温め直せば十分だろう。

 

 流し台の前に立つと既にいくつか皿が置かれていた。ラップ越しに料理が盛られているのが見える。きっとハイルが作ってくれたのだろう。皿には肉野菜炒め。鍋には味噌汁が入っていた。鍋を火にかけ、皿を電子レンジで温める。その間に茶碗にご飯をよそった。

 

 それらを終えて、立ったまま流し台で食事を摂り始める。ハイルが作った野菜炒めも味噌汁も有り体に言って美味しかった。俺が作るよりもおいしくできている。それは最近、彼女に食事を任せることが多くなっていたからなのだろう。

 

 俺は思っている以上に彼女に頼っている。こういった日常的な意味でも、非日常的な意味でも。依存していると言っても過言では無いかもしれない。何もかもされっぱなしだ。

 

 俺は彼女に何かしてあげているだろうか。……なかなか思いつかない。住む場所だって俺だけの力では無い(むしろ親の仕送りの力が大きい)。服だって、むしろ俺が同じ服を着られるのが嫌だからって理由で買った。食費は……バイト代で賄ってはいるけれど、それで買って来た食材は結局彼女が調理しているのだ。してあげれている、なんて言うのはおこがましい。たった今だって、俺は待つことしかできていないのだから。

 

 こうしてみると……自分がいかにちっぽけで、無力であるかを自覚させられる。ハイルが、俺にとって大きな存在であるかを証明してしまう。もし、彼女がいなくなったら、俺は以前のような毎日を楽しいと思えるのだろうか? 甚だ疑問であるが、答えを出すことはまだできそうになかった。

 

 食事を終えて、皿を洗う。スポンジを湿らせて、洗剤を少し付けた。その途中、水音に混じる足音を耳が捉えた。俺は振り返ってドア越しに彼女の影を見る。最後の一皿を水切り棚に立ててから手を拭いて、ドアを開けた。

 

「起きたか、調子はどうだ?」

「……良い、とは言えませんね」

 

 ハイルは額に手を添えながら答える。先程の異変は鳴りを潜めていた。彼女の指先はいつもの通りの肌色だ。異変はどうやら収まったらしい。

 しかし、情報共有はしておいた方が良いだろう。知らなかったでは済まさせないときもある。そう思った俺はハイルに先の異変について伝えると、彼女は「やっぱりですか」とため息をついた。

 

「魔力を使い過ぎたみたいですね。完璧に『魔力欠乏症』です」

「読んで字の如く、か。前にも言ってたな。魔力が無くなると消えてしまうって。その一歩手前って認識であってるか」

「そうですね。ツカサが見たのは消滅するワタシの末端でしょう」

「……思ったより落ち着いてるんだな。死ぬ一歩手前だったってのに」

「我々マジョにとっては日常茶飯事でしたからね」

 

 ハイルは自嘲気味に笑う。命にここまでドライな面を見せるのは現代ではなかなか無い。いや、あり得ないと言ってもいい。価値観が決定的に違う。ハイルが話していないのだから、話していないなりの理由があるのだろう。土足でそこに踏み入るような真似はどうしてもできなかった。

 

「そうか。じゃあ、何かして欲しいことはあるか?」

 

 そう聞くとハイルは照れくさそうに頬をかいて、小さな声で要望を切り出す。

 

「今日は、抱きしめて寝てくれませんか。こう、ギュッと」

 

 ハイルは目の前の(くう)を抱くような仕草を見せた。それを見て俺は彼女に問いかける。

 

「一応、聞くけどさ。なんで?」

「魔力が足りないんですよ。絶対的に。いつもみたいに布団に潜り込むだけだと、きっと足らないです」

「だから、もっとくっつけって事か?」

 

 ハイルは首を縦に振る。布団に入り込まれるのにようやく慣れて来たのに、息を付く間もなく次の段階へ上がらされるのか。もっと精神的な余裕を持たせて欲しいものだ。

 しかしながら、彼女も病人と言っても差し支えの無い状態。その治療を拒否するには気が引ける。俺は彼女の提案を受けることにした。

 

「わかった。今日だけな」

「今日だけじゃなくて、ある程度回復するまで、です」

「……分かったよ。風呂に入って来るから、それまで布団で待ってろ」

 

 ハイルをおぶって来たこともあって、俺は汗をかいていた。流石に年頃の女の子に汗ばんだ体を押し付けるのは気が引ける。

 

「あ、ツカサ。ついでにワタシも洗ってくれると……」

「それは流石に自分でやれ。先入ってていいから」

 

 本当に体調不良なんだろうか。そう疑問に思うほど、明るい声のトーンだった。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 俺はハイルの後に風呂に入った。寝る前に着替え、歯を磨き、髪を乾かす。それらを終えて、彼女の待つリビングへと足を運ぶ。ドアを開けると、ハイルは枕を抱えながら俺を見返す。

 

「待ちかねましたよ」

「そんなに待たした覚えはないんだけどな。俺が入っていた時間なんて十分ちょっとだろ」

「十分は長いですよ。『ヤッカーボール』なら一つクォーターが終わります」

「何だよ。その競技」

 

 少なくとも俺は聞いたことも無い。

 

「え? 知らないんですか! ヤッカーボール!」

「知らないよ。どんなルールなんだ? 聞けば思い出すかも」

「三種類のボールを投手が投げ、ボールを木の棒か脚で打ち返し、フェンスに備え付けてある籠に入れて、その得点を競うスポーツなんですよ」

 

 駄目だ。さっぱりわからん。

 

「……分かんねぇや。というかそんなごちゃごちゃしたスポーツ本当にあるのかよ。今適当に作ったんじゃねぇの?」

「聞き捨てなりませんね。馬鹿にしないでください。ワタシの国の国技ですよ!」

「国技なの!?」

 

 やっつけで適当に作ったみたいな名前だなとか思ってたのに。案外馬鹿にできない。

 ハイルは咳払いをして「ともかく」と話題を切り換える。

 

「早く寝ましょう。時間も遅いですし」

「そうだな……そう、しよう」

 

 改めてハイルの体を見る。俺はこれから彼女を抱く。勿論、性的な意味では無い。いや、抱き合って寝るのは十分に性的なのか? 考えるのはやめておこう。確実な解答など得られないのは分かっているから。

 まあともかく、俺は彼女を抱きしめて眠るのだ。心臓の鼓動が耳に付く。これだけ綺麗な、人形の様なという例えが似合う彼女を抱いて眠るのだから、この緊張感は付いて回って当然だと思えた。

 

「暗くしますね」

 

 ハイルは天井からぶら下がっているひもを引っ張って、光の色をオレンジに変える。そして布団の上に座って両手を広げて俺を見た。

 

「来て……頂けますか?」

 

 やばいな。エロい。さっきの『抱く』って絶対性的な意味だよ。確定しちゃっていいよ。だって台詞が色っぽいし、吐息混ざりだもの!

 そんな事が頭によぎって、なかなか布団へ足を踏み出すことができなかった。

 

「どうかしましたか?」

「いや、その……なんだ」

 

 今のハイルはエロいなって、考えてました。何て言えるはずも無く。俺は適当に言葉を濁す。その間にどうにか良い言い訳を考え、そのまま口を動かした。

 

「正面から抱き着くのは流石に、ハードルが高いというかだな……」

 

 あ、駄目だこれ。直球では無いにしろ、そういう目で見てましたと宣言しているようなものだ。不安になって恐る恐るハイルの顔を窺う。彼女は不思議そうに首をかしげていた。

 

「ワタシは構いませんよ。正面からで」

 

 良かったー。軽蔑の眼差しでは無い。安心して話を進められる。

 

「いや、俺が構うんだよ。視られているとどうも落ち着かない。せめて、後ろからにしてくれないか」

「そういう事なら大丈夫です。効果は変わらないでしょうし、ツカサがリラックスできないのではむしろ効果半減ですから」

 

 そう言ってハイルは俺に背中を向けてから横になった。

 

「これでいいですか?」

 

 俺は「ああ」と返事をして、布団に足を踏み入れ横になる。距離が近くなったからか緊張感が更に増した。手汗とかかいてないか心配だ。不安と手汗を誤魔化す為にズボンの太ももで手の平を擦った。

 

「ハイル。腕、回してもいいか」

「……はい」

 

 ハイルは消え入るような声で返事をした。俺は腰に左腕だけ回して密着する。一回り小さい彼女の体を包むような姿勢だ。背中や回した腕からじんわりと伝わる体温。それが彼女の存在が確かにここに在るのだと、証明してくれた気がした。

 

「こうしていると、ここに来たばかりの時を思い出しますね」

「来た時?」

「ワタシがネコの姿だった時ですよ。よく布団にお邪魔してました」

 

 思い返して見れば、そんな気がする。当時は三月中盤で夜はまだ肌寒かったからだと思っていたけれど、今の様に魔力を補填しに来ていたのかもしれない。何だか充電器みたいだな、俺。

 

「アナタの手がとても大きく感じたのを覚えてます」

「そりゃあ、人と猫じゃえらい違いだろう」

「それはそうなんですけど、もっと比喩的な意味でですよ。あの時、私を助けてくれた手はとても大きく感じました。今でも変わりはないみたいですけどね」

 

 彼女は回していた手を取って、そっと撫でる。急に触られたものだからびっくりして鳥肌がたった。

 

「ワタシはツカサの手が好きです。アナタの優しさがよく伝わってくる気がするから」

「……俺は言われるほど優しくは無いぞ」

 

 俺は自分本位な人間だ。ハイルを拾ったのは、見捨てたとき自分が嫌な気分になりたくないから。この場に置き続けているのは、自分が不思議な体験をしたいから。だからそんな過大評価をされると申し訳なくなる。

 

「良いんです。優しさなんて結局、他人が決める事ですから。他人に伝わるか、どうかですから。ワタシが優しいと思えば優しいんです」

「フフッ、なんだよそれ」

 

 思わす吹き出さずには居られなかった。自分勝手にも程がある。でもそのおかげでブルーな気持ちを一掃できた気がした。

 

「じゃあお前は優しいな。俺が勝手に決めとく」

 

 回していなかった右手で彼女の頭部をそっと撫でた。人間には無い頭頂部の猫耳の弾力。サラサラな髪をかき分ける心地いい感触を手の平で味わう。時折混じる吐息がまた愛おしくて、なかなか手を離すのが躊躇われたが、寝れなくなる前に折り合いをつけて離した。

 

「……止めちゃうんですか?」

「ずっとやってると寝れないからな」

「そうですか」

 

 あからさまに彼女は声色を濁らせる。そんなに嬉しかったのだろうか。俺にはよく分からないけれど、彼女にはなるべく笑っていてほしい。そう願って口を動かす。

 

「またやってやるから。今日は寝とけよ。仮にも病人なんだから」

「絶対、ですよ」

「ああ」

 

 しばらくの沈黙。お互いの息遣いだけが室内を支配する。会話で紛れていた心拍音が再び聞こえ出す。耳元にメトロノームを置かれているような気分だった。勘弁してほしい。

 

「じゃあ、おやすみなさい。ツカサ」

「ああ、おやすみ。ハイル」

 

 お互いに挨拶を交わして目を閉じた。瞼が光を遮断して、視界を黒く塗りつぶす。このまま俺の意識がゆっくりと落ちていく……。と思っていたのだが、残念ながら現実はそんなに上手くいかない。

 視覚を封じた分なのか、感触や聴覚、更には嗅覚が彼女の情報を絶え間なく伝えてくるのだ。身体が柔らかいとか、寝息が規則正しいとか、息を吸うたびにいい匂いが鼻腔に広がるとか……。何も考えないようにすればするほど、感覚が詳細になって行く。

 そんな状態で俺が眠れるはずも無く、意識を手放せたのはカーテンの隙間から日光が差し込んで来た後だった。

 予測できると思うので細かくは言わないが、次の日の講義はかなりの割合で船を漕いでいたとだけ伝えておこう。



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ネコマジョと手紙。

 事の発端は手紙だった。切手も貼っていなければ、宛先も郵便番号も書いていない。だが、理解のできない言語で二、三文程、何かが記述されていた。更に、封筒は古風な封蝋印(ふうろういん)で閉じられている。

 現代では年賀状ですら少なくなっているというのに、こんなに力の入った手紙は異質だ。少なくとも俺の瞳にはそう映った。

 

「どうしたんですか? ツカサ。朝から玄関先に立ち止まって」

「ん? ああ。郵便受けに入っててな。宛先らしきものは読めない言葉で書かれてて、訳が分からん。たぶん、送り間違いだと思うんだけど」

 

 背後から話しかけてきたハイルに茶封筒をひらひらと振って見せる。するとあっけにとられたように、ポカーンと口を開けていた。

 

「……どうした?」

「ツカサ、それをどこで手に入れたのですか?」

「さっきも言っただろ? 郵便受けだ。玄関にくっついている」

 

 意外にも食いついてくるハイルに、指で郵便受けを指差しながら答える。ハイルに手紙を手渡した。

 

「これ、ワタシ宛ですね」

「読めるのか?」

「ワタシの国の言葉ですからね。ワタシ宛である事と送り主が書いてあるだけ、みたいです」

 

 ハイルは裏表と確認を取ってからそう言った。長い黒髪に日系の肌色の彼女だが、以前に「人型、猫、その他諸々、変化自在」と言っていたし、今の彼女が本来の姿とは限らないのだ。

 こういうギャップを見せられると改めて、異国の存在だと認識させられる。もっとも、それが別に悪い事だとは思わないけれど。

 

「ここで確認するのもなんですし、リビングに戻りましょうよ」

「そうだな。俺はコーヒー淹れてくるけど、お前は麦茶でいいか?」

「はい。お願いします。ワタシは布団を畳んでおきますね」

 

 ハイルはトテトテと軽い足音を立ててリビングに向う。それを見届けてから俺はキッチンへ。ガラスのコップを二つ並べて冷蔵庫からアイスコーヒー、緑茶のポットを出して、それぞれに注いだ。七月に入った事もあって最近は特に暑い。冷たい方が比較的においしく飲める。体温に近い方が健康に良いだとか聞いたことはあるれど、そんな事を二〇歳で気にしたくはなかった。

 お盆に二つのコップを乗せて、リビングに持っていく。彼女は既に布団を畳み終え、ちゃぶ台と座布団を用意していた。コップを一つ彼女に手渡す。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 自分の分を置いて座布団に腰を下ろす。一口コーヒーを飲んでから中央に置かれた手紙を見た。封蝋印は崩れていない事からまだ未開封であることが分かる。

 

「見ないのか?」

「ツカサが来てからにしようと思ってまして」

 

 彼女は封筒に手をかけて、封を切った。出て来たのはまっさらな紙。そして、二つの束になっていた髪。黒髪と茶髪の二種類だった。

 

「髪?」

「一つはワタシの髪ですね。これで私の居場所を特定し、送ったようです」

「へぇ、面白いな。そういう方法なのか。それで、その紙は?」

「魔法紙ですね。破ると触れていた者に、映像として情報を伝えることができる。扱いは難しく、きちんと使うにはそれなりに技能がいるのですけど、送り主からして問題ないでしょう」

 

 ハイルは魔法紙の端を持つと、反対側を俺に差し出した。

 

「どうした、破らないのか?」

「言ったでしょう。破ると触れていた者に映像を見せると。二人で破れば、二人に情報が与えられます」

「……もし、俺に知られたくない話だったらどうするんだよ」

 

 俺の質問にハイルは微笑む。少し影のある笑みだった。

 

「一人で見たくないんですよ。彼女が手紙を送って来るなんて相当です。少なくとも吉報では無いでしょう。だから、そばにいて貰えませんか?」

 

 いつも自信満々で、胸を張る印象が強いハイル。そんな彼女にしては珍しく、しおらしい様子。それを見て俺は少しでも力になれるように、手を伸ばして魔法紙を掴んだ。画用紙のような感触だった。

 

「分かった。任せろ」

「ありがとうございます。では、いきますよ」

 

 せーの、の掛け声の後、二人がかりで紙を破った。視界が光に包まれて目を覆う。ゆっくりと目を開けたとき、世界は一変していた。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 燃えている。

 むき出しになっている地面が、そこから生えている草木が、点在する家々が。視界をどこに向けても炎が映る。空は煙が覆い、黒く染まっていた。

 どこだか分からない。俺にとっては未体験の場所だ。少しでも情報を得るために一歩進むと、地面では無いナニカを踏み閉めた感触があった。ゆっくりと足をどかしてその正体を確認する。

 

「これは……骨か」

 

 白くて細長く、そして硬い。煤を被っていてその全貌を確認することはできない。だが、何度か経験した親族の火葬場で見たモノと似ていた。

 よく見ると所々、地面から白い物が顔を出している。あれらもきっと同じ物なのだろう。ここで沢山の人が亡くなった証拠だった。

 

「ワタシが居たセカイの様ですね。見覚えがあります。……以前はここまで荒れていませんでしたが」

 

 隣に目をやるとハイルが立っている。冷静なように見えるけれど、拳を固く握っているのが見えた。まだこの手紙は始まったばかりだ。きっと、感情を抑え次の内容を待っているのだろう。

 

『やあ、久しぶりだね。アルハンゲル。元気だっただろうか。いや、元気になっただろうか、の方が正しいかな?』

 

 気怠そうで、気の抜けるような声が頭に響く。この感触はかつてハイルと映画館でテレパシーをしたときを思い出させる。

 

『まあいい。この手紙を受け取っている。つまりは生きている。そう仮定して、話を続けるよ。まずはワタシたちの現状について話そう』

 

 見上げていた空は見慣れた青色に戻り、足元の地面は消えた。俺達は空に投げ出されていたのだ。人口衛星とまでは行かなくても、ロープウェイぐらいの高度はあった。

 見下ろす陸地には所々に煙が上がっている箇所が確認できる。さらにその近辺には黒と灰色が混ざった場所も見えた。

 

『見ての通り我が国は酷いモノだ。敵戦力の進行が開始され、国の端が既に戦場になっている。それもあの王様の無茶振りで、戦力の拮抗が崩れたからだ』

 

 手紙の主が情報を補足する。王様……以前、ハイルが散々けなしていた人物だろう。ハイルだけの偏見かと思っていたが、この手紙の主まで言うとなると国民からの評判は決して良くないようだ。

 

『数多くの無茶振りの中で、特に影響が大きかったのがキミの脱落だ。知っての通り我が国の戦力はワタシとキミを含む四人の魔女に依存している。その一角の脱落は士気にも大きく影響した。このままでは我が国が制圧されるのも時間の問題だろう』

 

 以上がワタシからの現状報告だ。そう言って手紙の主は言葉を区切る。

 景色が再び変わった。今度は薄暗い室内。蝋燭(ろうそく)の明かりが椅子に足を組んで座る人物を照らしている。茶色の毛並み、薄く糸の様に開かれた瞳、そしてハイルよりも大きな耳。何となく、この手紙の主なのだろうと予想ができた。

 

『さて、本題に入ろう。キミは今、ワタシ達がいるセカイとは全く違う世界に投げ出されているはずだ』

 

 ハイルと俺とは様々な価値観、知識に齟齬がある。多数の経験から彼女の言葉は真実だと認識はできた。チラリと隣のハイルを見ると特に驚いた様子は無い。だから何となく分かっていた事なのだろう。再び視線を手紙の主に戻す。

 

『それはワタシが賭けに出た結果だ。キミが敵に打ち取られる直前に空間転移させた。トドメさえ刺されなければ、命さえあれば、何とかできるだろうと考えたからだ』

 

 ハイルを拾ったときを思い返す。血まみれでボロボロの姿。それは車に引かれたわけではなかった。戦場で打ち取られる直前であったのなら、合点が行った。

 納得する俺をよそに、手紙の主は話を纏め始めた。

 

『もしワタシの賭けが成功しているのであれば、キミに戻って来て欲しい。君に状況を打破する手伝いをして欲しい。一国民として。指揮官として。そしてなにより親友として、キミの帰還を願う』

 

 手紙のセカイに入って来た時の様に世界が光に包まれ始める。眩しさに押されて目を覆う。再び瞳を開けた時には、手紙から俺の世界に戻って来ていた。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 隣にいたハイルを見る。彼女は俯いていたけれど、俺の視線に感ずいたのか顔を上げた。

 

「……すいません、ツカサ。しばらく一人にしてもらって良いですか」

 

 ハイルは静かに切り出す。自分の肩に自国の命運がかかっている、なんて言われてしまったのだから。内容からして彼女に考える時間が必要なのは明白だろう。

 そう思った俺は「分かった」と返事をして立ち上がった。

 

「少し、外に出る。一時間ぐらいで戻ってくればいいか?」

「……迷惑をかけますね」

「いいよ。これぐらい。何か他にして欲しい事はあるか?」

 

 そう聞くとハイルは首を横に振った。

 俺はそれを確認して、鍵と財布ついでにスマホを持って外に出る。太陽がアスファルトをじりじりと焼いて、遠い場所には陽炎が見えた。

 何となく落ち着ける場所を探して足を動かしていると、俺はある場所にたどり着く。

 

狛使(こまと)神社』

 

 詩央先輩の実家。特に用事があったわけでは無い。だけれど時間を潰していくには丁度いい場所だった。

 俺は近くの自販機で冷えたジンジャエールを購入する。蓋を開けるとプシュッ、と空気が抜ける音がした。口を付けると黄金色で甘い液体が喉に通り抜けていく。炭酸の刺激を楽しみつつ、俺は年季の入ったベンチに座った。

 フッと息を吐いてから思考を巡らせる。俺も考えなければならない。勿論、ハイルとのこれからについてだ。

 手紙の内容によってハイルに与えられた選択肢は二つ。元に居た世界に戻るか、ここに留まるかだ。

 普通に考えれば、ハイルが取る選択肢は元に居た世界に戻る事だ。彼女が戻る事で多くの命が救われる。少なくとも手紙の主はそう言っていた。逆にここに居て得られるものなど、何も無い。強いて言えば俺と生活を続けられることぐらいだ。どっちが重要かなんて天秤にかけるまでも無く明白だ。

 だけれど、どちらを選んで欲しいかで言えば、断然後者だ。

 俺はこの不思議な日常を繰り返していたい。彼女ともっと長い時間を過ごしたい。そう、思ってしまう。……何も生まない事は分かっているのに。

 理性的に背中を押すのか。

 感情的に引き留めるのか。

 自分がどうするのか、悩んでも結果は出なかった。少し炭酸が抜けたジンジャエールを流し込んで、頭をかきむしる。

 

「俺がこんな状態でどうするんだよ」

 

 神社の大木に向けて呟く。

 理性的にも、感情的にもなれないようでは彼女の前でどのような態度を取っていいのか、分かりはしない。

 そんな優柔不断な自分に呆れ、天を仰ぐようにベンチに背中を預ける。木材のきしむ音が耳についた。

 

「おや? 約束通りに遊びに来てくれたのかと思いきや、お困りの様だね。夏目君」

 

 声がした。視線を上空から正面に移す。正面に立っていたのはここに来た時点で会う予感がしていた人物だった。

 短い黒髪に黒縁眼鏡。今日は家の手伝いなのか巫女服を着ている。赤い袴を揺らしながら、境内に敷き詰められた砂利の上を歩いてきた。

 

「……詩央先輩」

「やあ、夏目君。元気にしていたかな?」

「それなりには。詩央先輩は家の手伝いですか?」

 

 まあねと詩央先輩は答えて隣に座る。ペットボトルを挟んで拳二つ分ぐらいの距離感だった。

 

「それで、君は何に悩んでいるのかな?」

「理性か、感情。どっちを優先すべきか、ですかね」

「よく分からないな。もっと詳しく、僕に話してくれないかい?」

 

 詩央先輩は俺の顔を覗き込みつつ、問いかける。

 話すべきかどうか少し考えた。だけれど、このまま一人で悩んでいた所で答えが出ない事は目に見えている。だから、この問題を打破するための起爆剤が欲しさに、俺は彼女に話す事に決めた。

 



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相談と選択、最後の頼み。

 俺は詩央(しお)先輩に大まかに今回の出来事を伝え終えた。

彼女は聞き終えてふぅ、と息を付いた。組んでいた指を解いて、足をぶらつかせ始める。振り子時計のように掴み所のない彼女らしい仕草だった。

 

「それで君は答えが出ず悩んでいる、と」

 

 俺は頷く。それから彼女に求めていた物について、この悩みを打破するための起爆剤について聞くことにした。青い葉に覆われた境内の空を眺めながら口を動かす。

 

「先輩は、どうするべきだと思いますか?」

「ふむ、そうだね」

 

 口元に指を添えた。彼女が考えるときによくする行動。普段ならこれから数十分待つことになるのだけれど、今回はそこまで長く考え込むことは無かった。何故なら、予想に反して数秒で口を開いたからだ。

 

「僕には分からない、というのが本音かな?」

「そんな……。俺、真剣なんですよ」

「ははっ。そう残念そうな顔をしないでおくれよ」

 

 かわいいなぁ、君は。そう、付け加えるように言って笑う。男性なら分かるとは思うけれど、かわいいと言われるのはむず痒い。年齢差以上に子供に見られている気がする。彼女の取る距離感は、やはり、苦手だった。

 

「まあ、続きはあるんだけどね。聞くかい?」

「ぜひ!」

「元気良いね。じゃあ、少し話そうか。僕の考え方だから、あまり参考にならないだろうけど」

 

 枕詞にそう付けて詩央先輩は語り始める。唾を飲み込んで、彼女の言葉を待つ。

 

「僕が分からないと言ったのは、答えを出すべきでは無いと考えたからさ」

「……どういう事ですか?」

「だって、君が悩んでいることは君自身の事じゃない。ハイル君の事だ。彼女がこれから送る人生の事だ。僕に決められる訳じゃ無いし、君にだって決められる訳が無い。最終的に決めるのは、最終的に事態を終息させるのは、彼女自身だ。違うかい?」

 

 それは、確かにそうだ。詩央先輩の言うことにも一理ある。決めるのはハイルだ。俺が何を言おうと、それは変わらない。

 でも俺が無力な人間で、できる事なんて何もないんだ。そう言われたようで何だか悔しかった。言われた事は間違っていないから余計に。

 そんな感情を胸に秘めつつ、俺は彼女の話に耳を傾け続けた。

 

「だから君のすべきことは理性を優先することでも、感情を優先することでも無い。彼女の判断を応援することだ。僕だったら、そう思うよ」

 

 僕だったら、そこをやたらと強調して言う。

 彼女の言葉で俺がどう判断するのか。それも、俺が決めるべきことだと、考えているからなのだろう。いつも身勝手で、人を振り回す詩央先輩らしい。そういう所が苦手で、距離を置きたい理由だった。

 だけど、そのおかげで、改めて自分がどうしたかったのか思い出すことができた。俺は彼女を送り出したい訳でも、留めたい訳でも無い。

 ただ、彼女に貰った楽しい日々を、彼女も楽しめる日々として返したかった。

 だから二つの選択肢についてどうこう考える必要なんて無かったのだ。

 

「詩央先輩」

「何だい?」

「決めましたよ。俺は――ハイルの選択を待つ。これからの時間を一緒に悩んで、楽しむ。最後にお互い笑っていられるように」

 

 決意表明。自分の意思を、他ならぬ俺に言い聞かせるために。詩央先輩に口にする。

 彼女は聞き遂げると、僅かに口角を上げた。 

 俺は立ち上がって、(あいだ)にあったペットボトル開けた。残りのジンジャエールを飲み干す。温くて、刺激のない退屈な液体だった。

 

「君らしいね。他らなぬ君自身が決めたなら、僕はそれでいいと思うよ」

「はい。相談に乗ってくれて、ありがとうございました」

「いや、僕は何にもしてない。君が勝手に悩んで決めた事だ。何があっても責任を取るつもりも無いから、そこのところよろしく頼むよ」

 

 もと来た道に振り返る。さっきジンジャエールを買った自販機。その横に金属網のゴミ箱が見えた。大きく口を開けているそれは、かつて毎日の様に見ていたバスケットゴールを連想させる。

 思い付きでシュートフォームに入って、空のペットボトルを放った。太陽光を残っていた水滴がキラキラと反射しながら放物線を描く。リングに触れず底にあった他のボトルに衝突した。

 

「心配しなくていいですよ。だって、今なら何でも上手くいきそうな気がしますから」

「単純だね。君は」

「ええ、分かってます」

 

 たかだかゴミ捨てが上手くいっただけ。でも、さっきまで悩んでいたのが嘘みたいに、スッキリとした良い気分になったのだ。なんて単純で都合のいい人間なんだろうと思う。

 でも単純だからこそ、一度決めた道を駆け抜けられる。自分の唯一と言ってもいい長所なのだから、武器として存分に使おう。

 彼女がどちらを選ぼうと、最後まで笑っていられるように。

 

  ☆ 

 

 ドアが閉まり、鍵がかけられる。耳を澄ませて、彼の足音が遠ざかって行くのを聞いていた。彼が淹れてくれた麦茶を口に含む。ヒンヤリと冷えていた液体は火照った体を鎮めてくれた。

 

「ワタシは、帰れる」

 

 これまで帰れなかったのは、元に居たセカイへの道のりが分からなかったからだ。それも、ワタシの親友、モスキルが同封していた茶髪、つまりは彼女の髪を使えば解決する。

 懸念点だった怪我もツカサのおかげで元に戻った。後はついこの間、消耗しきった魔力を回復し切れば準備は終わる。やっと自分の居た場所に帰れる。待ち望んでいた瞬間を迎えられる。でも――

 

「まだ、帰りたくない」

 

 そう思ってしまう自分がいる。

いつだったか考えた、ツカサの近くに留まる理由を思い返す。

 恩返し。彼には全身全霊で返さなければならない恩があるのだから。以前考えたときはそう結論づけた。きっとまだそれが終わっていないと感じるから、ここに留まりたいと思ってしまうのかもしれない。

 そうだったら都合がいい。最善で最短の行動でワタシは帰る事ができるからだ。

 ワタシは恩返しに区切りをつける。ツカサはより幸せになる。最後に魔力を貰って、元のセカイへの門を開く。

取るべき行動は、悩む間もなく頭に浮かんだ。

 でも、そうじゃ無かった場合。留まりたいと思った理由が恩返しでは無かった場合。ワタシはとたんに、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。

 理由が分からなければ、解消する方法も分からない。当たり前のことだ。だからこの問いは一旦、頭の隅に追いやってしまう事にした。

 ふと時計に目をやるとツカサが出て行ってから三〇分ほど経っていることに気が付く。彼が帰って来るまでにはまだ時間がある。その間に、ワタシが最後にできる恩返しについて、考えることにした。

 

 ☆

 

「おかえりなさい、ツカサ」

「ああ、ただいま」

 

 家に帰ると、ハイルが玄関で出迎えてくれた。猫の頃から不思議と、玄関には来てくれている。やはり人間よりも耳が良いからなんだろう。

 この当たり前になって来た光景が見れるのも、あと少しだけ。そう思うと家に上がるのが惜しくなった。靴を脱ぐのを躊躇っている俺を見て彼女は不思議そうに首を傾げる。

 

「どうかしましたか?」

「……いや、ちょっとな」

 

 靴を脱いで家へ上がる。ちゃぶ台の上には手付かずのコーヒーが残っていた。手に持つと、コップに付いた水滴が手を濡らす。一口温くなったコーヒーを飲んでから、座布団に腰を下ろす。そして、立っているハイルを見て話しかける。

 

「「あの(さ)」」

 

 声が被った。ハイルが抑え気味に笑う。俺もそれに釣られて笑った。

 

「何だよ? お前からでいいぞ」

「じゃあ、失礼して」

 

 コホン、と可愛らしく咳払い。話を区切って、俺の対面に座る。

 

「ワタシは、帰る事にします」

「……そうか」

 

 半分予想で来ていた答え。当然だ。彼女が過ごして来た時間はあちらでの方が長いのだから。残念ではあった。けれど、彼女が選ぶべき答えであったことは『理性的』に考えたときに分かっている。だから仕方ないと割り切る事にした。

 

「いつ、帰るんだ?」

「なるべく早く帰ります。……向こうにはあまり残された時間も無いみたいですし」

「だろうな」

 

 頷く。彼女の国は戦時中。時間はかからない方が良い。こうして話している時間ですらもったいないんじゃないか。彼女がそう思っていてもおかしくは無い。

 

「それで、ツカサにお願いがあります。聞いてくれますか?」

「ああ、聞くよ。できる範囲で、だけどな」

「……良かった」

 

 ハイルは安堵したのかホッと息を付くと机に置いていた俺の手を取った。さっきまでコップを握っていた手。じっとりと湿っていたものだから、彼女の肌にも水滴が付く。手汗と勘違いされたら嫌だなぁ、とは思ったけれど、そんな事を気にする様子は毛ほども無かった。

 彼女と目が合う。じっと俺を見つめていた。なんだか、最初に会ったときを思い出す。懐かしい気分だった。

 ハイルは目を閉じて、二度大きく深呼吸をする。

 彼女が帰ると宣言している以上、これは最後の頼みになる。俺は何を言われようと、可能な限り実現して見せるつもりでいる。彼女に笑って貰えるように。

 

「最後にワタシと、逢引(あいびき)してくださいませんか?」

「へっ?」

 

 思わぬ願いに俺の思考は一瞬で白く染まった。



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また会う日まで。

 目の前にはどこにまでも広がる水平線。バスから降りると、生暖かい潮風が吹き付ける。ハイルの髪を揺らした。被っているマスケット帽を抑えつつ、これから行く施設を見つめた。

 

「以前に行ったショッピングモールという所も大規模でしたが、ここもなかなかですね。サイズこそ劣りますが、立地が素晴らしい」

「性質上、海に近い方が良いからな、水族館は。珍しくは無い」

「水生生物の展示館なんて、初めてなので楽しみです。ほらツカサ、早く行きましょう!」

 

 はしゃぎ気味のハイルは俺の手を引いた。別にそんなに急がなくても水族館は逃げないってのに。

 でも、初めて来たと考えればその態度も納得か。俺もきっと、幼い頃はハイルの様にはしゃいでいたはずだ。いや、今も心躍らされていた。今回の外出はなんだかんだで、初めてのデートという事になっているのだから。

 入場チケットを買う列に二人で並びつつ、昨日の事を思い返す。彼女の提案。『逢引をしよう』という願いについてだ。

 聞いた当初は呆然としてしまった俺ではあったが、その理由を聞いて納得した。彼女が異世界に帰るためにはまだ魔力が足りないこと。俺への恩返しの締めくくりをしたかったこと。

 その両者を満たす為、男性が喜ぶであろう『逢引』をして、魔力を貰って異世界への門を開く。これが、彼女が取りたいプランだ。

 幸いにも、俺の取りたかった方針と合致していた。

 だから俺は提案に乗って、昨晩のうちに二人で楽しめる場所を考え、この水族館に白羽の矢を立てたのだ。彼女の反応を見るからに、俺の選択は間違いでは無かった。そう確認できてホッと胸を撫で下ろす。

 窓口が直前まで近づいて来た所でハイルは俺の肩を小突いた。

 

「ツカサ、手を繋ぎましょう」

「手を? どうして」

「だって今日は、逢引をするために来たんですから。これぐらい……」

 

 ハイルは控えめな声で意見する。それが彼女のしたい事だというのならば、俺も付き合うべきだ。それが彼女ほどの美少女ともなれば、光栄だった。

 

「じゃあ、ほら」

「フフッ、ありがとうございます」

 

 彼女は笑って手を取った。俺より一回り小さく、細い指が俺の指に絡まる。恋人つなぎで結ばれた手は柔らかく、温かい。彼女がいつもより近くにいるのだと実感させてくれた。

 ドキドキと高まる心拍音を聞こえないふりして、俺は前に進んだ。受付を務めている職員にハイルは笑顔で話しかける。

 

「すいません、カップル割引があるって聞いたんですけど」

 

 あれ?

 

  ▼

 

「ククッ……。あの時のツカサの顔と言ったらもう」

「笑うなよ。緊張してた俺が馬鹿みたいじゃないか」

「まあまあ。賢い支払いができたんですから良しとして下さいよ」

「それは、そうだけどさ……」

 

 彼女の手の平の上で踊らされてしまったようで何だか納得がいかない。いや、敵わない事は分かっているけれども、少し期待した自分がいた。

 ハイルは歩きながら、繋いだままの手を何度か握り直す。

 

「でも、好きですよ」

「何が?」

「ナイショです」

 

 ハイルは人差し指を口元に当てて、言葉を笑って誤魔化す。こういう時のハイルは追及しても答えてくれない。俺はそれを知っていた。だから「そうか」と水に流して、チケットと一緒に貰ったパンフレットを片手で開く。

 

「どこに行こうか?」

「ワタシは見た事無いものばかりなので、ツカサにお任せしますよ」

「ん? そうか。じゃあ道なり行って、なるべく多く見れるようにしようか」

「はい。お願いしますね」

 

 彼女の言葉を聞き届けてから手を引いて、一番近いコーナーを目指した。入口近くの階段を下って、光の届かない世界へと足を踏み入れる。広場に出ると青白くライトアップされた水槽が数多く展示されていた。

 

「ここは?」

「深海魚のコーナーだな」

「だから暗いんですね。ところでツカサ、あのやたらと足の長い生き物は何ですか?」

 

 ハイルが近くの水槽に指を刺す。そこに注目してみると。赤みのかかったボティに細長い手足。旅行先での食べ放題でお馴染みの生物。

 

「カニだな。種類によるけど、大抵食べると旨い」

「お、大雑把ですね」

「そんな事無い。俺に細かい説明を求めるんだったら、展示されているプレートを見た方がよっぽど有意義だろ?」

「それは、そうかもしれませんけど……ワタシはツカサに話して欲しいです」

 

 あからさまに残念そうに彼女は話す。

 俺は本をよく読むがそこまで博識な訳では無い。むしろ本を読めば読む程、無知であることを自覚させられてしまう。だから説明を求められても困る、というか自信が無いのだ。

 しかしながら、それでも彼女が俺を、俺の知識を求めてくれてる。それならば彼女に喜んで貰えるように尽くそう。そう決めた。

 

「――これはこの間、聞いた話なんだけど」

「っ! はい!」

「このカニ、タカアシガニって言ってな」

 

 元気に返事をしたハイルに俺は知っている知識を語り始めた。本当かどうか変わらない話だけれど、彼女は真剣に聞いてくれる。

 楽しくて、ついつい長々と語ってしまう。コミュニケーションを取る上で、一方的に語る状態は良くない。これは自分の悪癖だったのに調子に乗って、意識を外してしまっていた。気が付いて一旦止めた。

 

「どうかしましたか?」

「いや、悪い。……話し過ぎた。気持ち悪かっただろ?」

「いいえ。そんなことありません。ワタシ、ツカサの話が好きです。もっと、早く気が付いていればもっと聞けたのに」

 

 彼女は俺の手を取って、次の場所へと手を引く。

 

「次の場所に行きましょう。ワタシ、まだツカサの話を聞きたいですから」

「ああ、分かった。行こう」

 

 手を引くハイルの背中を見つつ、俺は安堵していた。彼女との最後の思い出を悪い形にしたくは無かったからだ。でもこれも、結局彼女に助けられた結果。最後まで助けられっぱなしだった。

 それからも俺達は水族館を二人で歩く。新しい水槽を見つけては、聞いたことのある話をして、ハイルがそれを笑って聞いて、また次へ行く。

 俺はこの時間がどうしようもなく楽しかった。その合間に彼女の新しい魅力に気が付いて、どうしようもなく惹かれてしまう。

 送り出す、そう決めたのに、この時間が終わって欲しくない。そう思う自分が常に顔を出し続ける。それを見て見ぬふりをして見学を続けた。

 昼食を摂りながら談笑をして、また歩いて、最後に施設の隅、大型プールでイルカショーを見ることに決めた。一番前で見たいというハイルの要望に応え、少し早めに出向く。

 待ち時間もそこそこに、ビニールのカッパを購入し臨んだショー。お互いに目の前で行われるダイナミックな芸を見て盛り上がる。ショーの終盤で水を被った俺をハイルは声を抑えつつ笑った。自分は魔法で防げるからって、笑い過ぎだろう……。

 そして、イルカが手を振りながら俺達を見送る。ショーは閉幕した。俺達も恥ずかしげも無く手を振って、その場を後にする。

 時計に目をやった。閉館にはまだ余裕があるようだ。一周はしたけれど、もう何カ所かは回れそうだった。

 

「もう一回、見たい所とかあるか?」

「それは、山ほどありますけど大丈夫です」

「もったいぶらずに言えばいいだろ? 閉館までまだ時間はあるぞ」

 

 彼女は一度目を閉じて、しばらく間を空けてから俺の問いに答えた。

 

「やっぱり、大丈夫です。これ以上いると、帰りたく無くなってしまいそうですから」

 

 正直に言えば、忘れていたかった言葉を、本人から告げられる。

 そうだ、彼女は帰るのだ。元のセカイ、魔法と戦いの溢れるセカイに。それを妨げようとするのは無責任だろう。

 

「分かった、出ようか」

「……はい」

 

 入場門から外に出る。正面に見える空は、透き通る水に薄くオレンジの絵の具を混ぜたみたいな色をしていた。今見る日没はハイルの眼にもきっと、綺麗に映るだろう。根拠なんてないけれど、そう思った。

 

「なあ、ハイル」

「何でしょう」

「最後に、夕焼けを見ないか。近くの、浜辺から。水平線に沈む太陽は綺麗だと思うんだ」

「良いですね。今日という日を締めくくるのに、夕暮れは最適です。行きましょうか」

 

 ハイルはまた最初の様に手を取った。近くの階段からゆっくりと、下って行く。砂浜の上を歩いて、波に触れるか触れないかのところで立ち止まった。

 光源に近づいたからか、空はさっきより濃い褐色に染まる。太陽は水平線スレスレにまで迫っていた。

 

「……ワタシはここに来て良かった。アナタに出会えて、良かった」

 

 繋いでいた手に、力が加わる。彼女の決意の表れ。これが、彼女との最後の会話になりそうだと直感した。

 

「最初はこの世界に不満しか抱きませんでした。重く動かない体に、見下ろす人々、通り過ぎていく足並み。自分が世界に一人しか居なくなったみたいで、不安で心が押しつぶされそうでした」

 

 でも、と言葉を区切る。彼女の視線が夕焼けから俺へと映った。

 

「アナタはワタシを見つけてくれた。優しさを、注いでくれた。それにどれだけ救われた事か……」

「そんな事無い。俺は当たり前のことをしただけだ」

「でも、その当たり前はワタシにとっての特別でした。ありがとう、ございました」

 

 手が離れた。代わりに後頭部に回され、逆らえない程の力でぐっと頭が引き下げられる。一瞬、頭一つほど低い彼女の顔が近くに見えて、その直後に接触した。

 温かく、しっとりとしている。

 その感触がわずか数秒で頭に刻み込まれた。決して消えない様に。離れた彼女の瞳には涙が滲んでいるのが見えた。

 

「……さよならです。ツカサ」

 

 ハイルは沈みかけの太陽に手をかざす。空間に黒い穴が開いた。古野に襲われたときに使っていた魔法と同じ物なのだろう。

 今更、キスされたことにようやく気がついたのか、鼓動が激しくなる。ハイルへの気持ちが、理性で抑え込んでいた気持ちが、とめどなくあふれ出てくる。

 俺はこのままでいいのか?

 この気持ちを抑え込んだまま、残りの人生を送れるのか?

 似たような問いが次々と浮かぶ。

それは考えないようにしてきたことだった。自分がかっこよく、彼女を送り出せるよう決めた事だった。でも、堪えきれなかった。

 俺はそんな建前を投げ捨てて、彼女との距離を詰める。

 

「待てよハイル!」

 

 穴に入りかけていたハイルの体。さっきまで繋いでいた手を再び掴んで引き戻した。背後から腕を回して抱きしめる。これ以上遠くに行かないように。存在がここに在る事を確かめるために。

 

「お前は、一方的すぎるんだよ。最初に人型になったときも、恩返しをするって言い出したときも、そうだった。最後ぐらい、俺に言い返させてくれよ。……頼むから」

 

 声が震えていた。その原因が緊張なのか、別れから来る悲しみなのか、分からなかった。

 俺の頼みにハイルは「はい」と返事をする。この浜風に吹かれて消えてしまうんじゃないかと思うぐらい、小さな声だった。

 

「お前は、俺に特別な事をしてもらったって言ったな。でも、それは俺だってそうだ。お前から貰った物は、数えきれない。不思議な魔法に、ちょっとしたトラブル。何よりも、大きかったのはお前と過ごした日常だった。

 お前との食事。雑談。買い物。今日のデート。俺だけでは手に入らない時間だった。これまでの人生で一番と言っても過言では無い。

 だから、そんな日々を手放したくない。もっと一緒にいたい。そう、思ってたんだ」

 

 一度深く深呼吸をする。蓋をしてきた自分の気持ち。心のパンドラボックスに残った最後の一言を言うために。彼女は次の言葉を黙って待っていた。

 

「俺は、お前のことが好きだ。叶わない事は分かっているけれど、最後にこれだけは伝えたかったんだ」

 

 両腕に込めていた力を緩めてハイルを開放する。彼女の体温が離れていく。

 なんて自分勝手な告白だろう。ハイルの事なんか言えない程に一方的だ。

 彼女の気持ちを無視して、思いの丈をぶつけて……予定とは大幅に変わっている。これは自分だけが後悔しない行動だ。彼女に嫌われたって仕方の無い。

 自己嫌悪に陥りつつ彼女を見ると、さっきまで背中を見せていたが、今は俺を見ていた。

 

「ツカサは、ズルいです。そんな事、言われたら帰りたく……なくなっちゃうじゃないですか」

 

 チラリと見えていた涙が大粒へと変わり、彼女の頬を伝う。

 

「ワタシだって、ワタシだって……もっと、一緒に居たかった」

 

 その一言。そのたった一言だけで、俺の視界が滲む。

 

「ワタシだって、この日々を手放したくなんて、無かったです。でも、帰らなければなりません。でなければ……ワタシは母国を救えません」

「ああ、分かってる」

「だから、約束をしましょう。手を、出して貰えますか?」

 

 俺は言われた通りに右手を差し出す。広げた手の平には髪の束が置かれた。つい先日、ハイル宛に届いた彼女自身の髪。金糸で束ねられている。

 

「ツカサ、アナタにそれを託します。アナタがそれを持っていてくれれば、ワタシがここに居た証を残せる。いつか、道標になってくれるはずです」

「……道標?」

「ええ、だから大切に持っていてください。約束ですよ。いつかまた、会いに来ますから」

 

 ハイルは髪を持たせた手を両手で包み込むと、俺の眼を見て微笑む。

それに答えるため、俺は左手で目を擦って、視界をはっきりさせる。情けない顔を少しでも誤魔化すために口角を意識して上げた。

 

「ああ、約束だ。もうちょっとだけ大人らしく、カッコ良くなって、待ってるよ。もっと早く来ればよかったって、後悔させてやる」

「それは楽しみです」

 

 ハイルは笑う。曇りの無い彼女らしい、太陽のような笑み。それが収まると、彼女は俺に背を向けて、自分が開いた黒い穴に、向き合った。

 

「では、行きます」

「ああ、またな」

「はい、また、です」

 

 ハイルは足を踏み出す。一歩、また一歩と漆黒の穴へと進んでいく。彼女の体が入り切ると穴は空気に溶けて消える。その後ろにあったはずの夕焼けは、水平線に呑まれていた。

 

  ☆

 

 あれから、もう五年が経つ。

 俺は大学を卒業後、サラリーマンとして朝起きて、通勤電車に乗り、働いて、帰って寝る。そんな風に代わり映えの無い普通の毎日を送っていた。

 相変わらず住んでいる部屋は大学生の頃から変わっちゃいないし、家に帰っても一人だ。あの頃とは違って、寂しく食事を摂る。

これは独り身の社会人としてはよくある光景なのだと思う。凡人である自分もその例にはもれなかったのだ。

ただ唯一、他の人には無い特殊な事があるとすれば……。

 

「おっ、ようやく来たな」

 

 郵便受けに投げ込まれた封筒。その口は赤い封蝋印(ふうろういん)で閉じられている。裏にはお世辞にも上手とは言えないカタカナで『ハイル・ミーツ・アルハンゲル』と署名があった。

 これが俺の特別な事。彼女が落ち着いて来ているときにだけ送られてくる手紙。中身は決まって少量の彼女の黒髪と、白紙の紙。

 他の人間には意味の無いどころか、(たち)の悪い悪戯にも見えるだろう。でも俺にとっては大切な宝物である。

 彼女の姿を見るために勢い良く紙を破った。視界が光に包まれる。今回はどんな話をしてくれるのだろうか。俺はそれを楽しみに目を閉じた。

 

 

『ネコマジョ・カノジョ!』 完

 




これにて『ネコマジョ・カノジョ!』は完結です。
読者の皆様、最後まで読んで頂きありがとうございました!
感想評価等を下さると作者としては大変うれしいです。

あとがきは活動報告にて。


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