爆砲球団バルカンズ (李座空)
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プロローグ

球場は異様な雰囲気に包まれていた。それは当時、テレビの中継越しに試合を観ていた私にもはっきりと感じられた。観客はもはや声援を投げるのを止め、野次の方が上回っている。私はにわかにも信じがたかった。今、目の前で起こっている事実が。

 

(こんな筈が……ない。あいつが、こんなことを……)

 

祈るような気持ちで、私は自室のテレビ画面を今一度見つめた。中継映像は、ダイヤモンドの中心、マウンドに立つ一人の男を映し出している。目深に野球帽を被ったその男の表情は伺えなかった。もしかしたら、ポーカーフェイスを装おうとしていたのかもしれない。

今、球場内の罵詈雑言はすべて、この投手へと向けられていた。

 

この日……201×年7月某日、強豪球団であるカイザースの本拠地・収容人員五万を誇る猪狩ドームにて開催された、プロ野球オールスター・ゲーム。

失墜した現代野球界の人気を取り戻すべく、NPB(日本野球機構)がこのオールスターに多くの「起爆剤」を仕込んできたことは、前々からマスコミなどが取り沙汰していたために知っていた。

 

その起爆剤の第一は、プロ野球第三リーグが登場して以来初のオールスター・ゲームへの参加を果たしたという事実である。数年前に登場したばかりの第三リーグ「レ・リーグ」は、当初は既存のセ・パとの日程の兼ね合いや、いちプロリーグとしてのキャリアの浅さから、オールスターへの参加は見送られてきた。それが選手会や野球ファンらの強い要望によって、この年からいよいよ参入を実現させたのだ。これによりオールスターはセ・パ・レの三つ巴体制となり、三者の総当りにより三試合の開催が決定されることとなったのだ。

 

そしてもう一つは、この球史に残るであろう記念すべき一戦を、NPBが天皇を招致したうえでの「天覧試合」へと仕立てたことにある。

プロ野球史においては一九五九年、後楽園球場で読売ジャイアンツ対大阪タイガースのいわゆる「伝統の一戦」が天覧試合として催されたことが始祖である。当時の天覧試合が催されたその背景には、卑しい職業野球と揶揄されたところから始まったプロ野球が、日本を代表する人気プロスポーツとしての地位を得たことを示すという球界全体の意図があった。

 

かつての栄光を、再び現代野球で「天覧試合」として再現しようとしている。それも、プロ野球新時代の幕開けとなるこのセ・パ・レ・オールスターという舞台においてである。それこそが、NPBがこのオールスター・ゲームに威信を賭けた目的だった。

そのNPBの磐石の策は功を奏し、オールスター前からの前評判は上々。テレビや新聞、週刊誌などもこぞって関連特集を組み、一度失われていた野球人気は間違いなく再燃の揺らめきを灯しはじめていた。

……そのはずだった。

 

『これもボール、これで三者連続フォアボール!九回裏、二死ランナー無しに追い込んでの勝利目前から、とんでもない展開になってきました!これで二死満塁です!マウンドの投手、一体どうしたのか、ストライクが入りません!』

 

だが現実は実に皮肉なものだった。私がそのとき予感した事態は、確かな恐れへと変わる。

 

(なぜ、なぜこんなことを)

 

私は中継映像の向こうに、たった一人でマウンドに立つ男へと、悲痛に訴えた。男は私の心の叫びなど当然聞こえるはずもなく、次の瞬間にはセットポジションから一球を投じようとする。そのモーションが、ひどく狂ったものに見えた私はより一層戦慄した。

 

(なぜなんだ、答えてくれ――)

 

オールスター第一戦、九回裏、オール・レ・リーグの守備。二死満塁。カウント無し。試合開始より三時間半を経過した直後の出来事であった。マウンドに立つ男は、力一杯に、テレビの向こうで白球を投じた。

その一球が、運命の分かれ道となる。

その一球が、全ての悪夢の始まりを告げる。

放たれた白球はホームで身構えた捕手の遥か頭上高くに逸れていった。刹那、球場にアッという悲鳴に似た声が轟く。次の瞬間にはそれはけたたましい怒声へと総変わりした。テレビのスピーカーが音割れするほどに。

 

隙を見た三塁走者が疾走し、一直線にホームへ迫る。あわてて後逸球のフォローに向かった捕手のカバーに入ろうともせず、マウンドの男は呆然とその一部始終を突っ立ったまま見ているだけだった。あとに球場に残ったのは果てしない混乱・混迷の声、声、声。

 

『な……なんという、ことでしょう』

 

実況アナウンサーの声が、音割れしてやかましいテレビスピーカーからわずかに聞こえてくる。心なしか、目の前の出来事に絶句し言葉を失っている。

 

『痛恨のワイルドピッチ。ど、同点です。レ・リーグの勝利が消えましたが……あの投手は……まるで一枚噛んでいるかのようです、まるで……』

 

まるでそう、八百長だ。

アナウンサーは出来なかった。公のメディアの場でそう言い切り、マウンドの男を第一に告発する勇気がなかった。だから、言いよどんだのだ。

しかしアナウンサーにさえそう確信させる光景が、その時、悪夢のスタジアムで繰り広げられた。

 

九回裏二死ランナー無しという状況から、その男は三連続の四球を与えた末、暴投により同点を与えた。その間のストライク球は一球たりとも無し。疑いの余地などほぼ無かった。

 

プロ野球再興となるはずであった栄光の天覧オールスター。その場で起きた、未曾有の八百長劇は瞬く間に世間へと拡散していった。

もはや、何もかも手遅れだった。球界は崩壊へと向かい始める。プロ野球の星は地に堕ちた。

 

――私は、見ていることしか出来なかった。

私の最も愛した男性が……野球人として最も残酷な罪を犯す姿を。

それが、私の見たあの人の、最後の姿になる――。

 

そして私は翌年、荒廃したプロ野球の舞台へと登る。

未だ稀有な存在である「女性プロ野球」として――。

 

…………

 

1936年、日本職業野球連盟が発足。事実上のプロ野球元年である。それ以降、この国を代表するスポーツエンターテイメントとしてその存在感を確立させてきた。

 

1939年、日本職業野球連盟が日本野球連盟に改称。

 

1945年、第二次世界大戦により活動休止していた日本野球連盟の復活宣言。翌年からペナントレースが再開される。

 

1950年、プロ野球再編問題。日本野球連盟がセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂し、二十一世紀にまで続く二リーグ制の始まりである。そして日本野球機構(NPB)が誕生。

 

…………

 

芸術的なパフォーマンスとカリスマ性を持つ選手が幾多も現れ、彼らはいつの時代も観る者を魅了し、野球の世界に引き込んだ。

その発展は永遠に続くと思われた。

 

だが二十一世紀へと入り、歴史あるプロ野球界に暗雲が立ち込めだす。

発端は球界に混迷をもたらすある事件だった。

200×年、日本シリーズ選手失踪事件。事件の不審さと、失踪選手が事件直前に精神的に異常をきたしていたことが論争を呼ぶ。

 

この事件が与えた衝撃は大きく、プロ野球人気は大きな影を落とすこととなる。それに対応すべく、日本プロ野球機構はセ・リーグ、パ・リーグに続く第三のプロ野球リーグを発足させる。その名もレボリューション・リーグ(レ・リーグ)。このレ・リーグ誕生のニュースはいわば、がた落ちしたプロ野球人気を挽回するための日本プロ野球機構の差し金だった。

 

だがその数年後。

201×年、天覧試合八百長事件発生。レ・リーグ誕生より数年後に、一度は盛り返し始めたプロ野球人気を再び失墜に追いやった事件。事件が天覧試合という重大舞台で行われたという事実は、球界を一時は崩壊寸前にまで追いやったと言われている。

 

八百長事件のあった翌シーズン。それはプロ野球にとって、試練となる年だった。未だにマスコミや週刊誌による八百長追及が続いていたそんな年。私は混沌たる球界の、新リーグのとあるチーム――「バルカンズ」に入団した。

 

私の名は、六道聖。私がプロの世界で目の当たりにしたもの、それこそが球界のまぎれもない真の姿だった。入団間もないルーキーでしかない私から見ても、すぐにわかってしまう。球界は嵐が過ぎた後のような、広大に荒れ果てた姿……。そんな地から、再びプロ野球再生の歩みが始まる。

ただ、その歩みは幾つもの苦難を孕むものなのだが。

 

決して忘れることなどない。幼少期から十数年以上野球をしてきた私にとって、最も長い一年間のはじまりであった。そして、プロ野球の命運が動いたとも言える一年。

はじまりは、入団して間もない春季キャンプだ。『アイツ』との出会いからだった。

 

人の心の奥底には、意志を物理的なパワーへと変える力があるのか。ならばアイツの投げる球、それは人の雄叫びだ。そこに僅かな望みを託し、私はその日、初めてのプロのマスクを被った。

それが、闇に葬られた真実への第一歩だと信じて――。



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第1話 紅白戦とおもい球

この俺、伊坂環司(いさかかんじ)は超能力なんぞ信じねぇ。

 

世の中じゃあ、不思議な力だとか超常現象だとか呼ばれている類(たぐい)だ。

人間の潜在能力とか言って、目にも留まらぬ早さで運動したり、空を飛んだり、エネルギー?を打ち出したりする。そんなものはいわゆる手品師やら、ヘンテコな超能力者やらの本分だろう。それもちゃんとした『タネ』があるか、『インチキ』のどちらかで説明がつく。

所詮はフィクション。マンガや映画の中だけの世界。俺はそういうものは、好きになれなかった。

 

昔見た漫画に、変化球も、ろくな真っ直ぐも投げられないが、『球威はなくとも魂の篭った球で、いかなる強打者も必ず打たせて取る』なんて高校球児キャラクターがいた。

そいつは最終的には、それだけを武器に甲子園決勝まで上り詰めた。どんな打者も、そいつの球をまともに打てなかった。なぜならそいつの投じる球に篭められた“魂”。それを上回る“魂”を篭めたバットを振れる打者でなくては、まともな打球は飛ばせないからだと。

 

……馬鹿馬鹿しい話だ。

なにが魂だ。魂だけで打たれないなら苦労はねぇんだよ。

当時から本格的に投手として野球に打ち込んでいた俺は、それを見て鼻で笑った。野球人なら誰だってそうしたはずだ。

 

そんなもんが、いまや俺の天職となった“野球”に関わられちゃあ困るんだよ。

そう、困るんだ。だが……

あれはなんだ?

 

バットを握る俺の手に遺る、確かな感触。ジャストミートした。真芯で捉えた。俺は投手だが打撃は並の投手よりは自信がある。ましてやあんな甘く入ってきた球だ。野球人なら打ち砕くのはワケがない棒球だった。

しかし……ボールにバットをたたき付けた瞬間の、あの手応え。俺の腕はまだ痺れに似た震えが止まらない。

あの球はまるで……。

 

それは、春キャンプの第一回紅白戦での出来事だった。

 

 

 ● ● ● ● ●

 

 

爆砲球団バルカンズ

 

第1話

 紅白戦とおもい球

 

 

春の到来を告げる乾燥した晴天の下、ここ津々家バルカンズ春季キャンプ練習球場は、いままさに緊張がはりつめ沸騰状態にあった。2月の肌寒さなど、取るに足らないほどに。

 

グラウンドのダイヤモンドの中心に、黄土が盛り上がったマウンド。そこに立つ投手は汗をぐっと拭い、赤と白の二色に彩られた野球帽を被り直し本塁に向き直った。

 

(……焦ってやがるな)

三塁側ベンチにもたれ掛かりながらも、俺は直感的に悟った。同じ投手として、投手の事はよく分かる。

九回表。敵・紅チームの抵抗ともいえる連打。二アウトは取ったが勝利寸前まできて、気持ちが不安定になってるらしい。

 

(……降板させるか?)

一瞬迷う。俺が属している白チームの監督権は、俺に与えられている。代打・代走に投手・守備の交代も全て俺の意思通りに出来た。

だが、だからこそ少し確かめたいこともある。リードだって4点あるんだ。降板は見送ることにする。

そして、俺は張り詰めたグラウンドのバッターボックスに立つ打者に目を遣った。

 

(どう抵抗するか見せてもらうぜ……紅組の新人どもよ)

 

 

{津々家バルカンズ紅白戦}

紅チーム…0

白チーム…4

九回表紅チーム攻撃

二死二・三塁

 

 

この日、津々家バルカンズキャンプ場ではチーム内紅白戦が行なわれていた。

主にバルカンズの主戦力で構成された俺たち白チームは序盤から優位に試合を進め、六回までに四点を奪い、守備でも紅チームを無失点に抑えていた。

しかし、それが試合後半の七回に入ってから、状況は変わってきた。俺の指揮する白チームの優位が揺るぎだす。

 

流れが変わったきっかけは、俺に言わせりゃ『青臭い若手』ばかりが集まった紅チームを監督する、丸岡さんの采配がきっかけだった。

七回表に行われた紅チームの大々的な捕手・外野の守備変更。『あいつら』がお出ましになったわけだ。

この紅白戦が始まる前から聞いていた。今年のドラフトで入団が決まった『あいつら』のことは。そしてそいつらを丸岡さんはこう評していた。『バルカンズの最後の砦になる』と。

あの人にそれほどの言葉を言わしめるとは。ウチのチームの現行監督を務める丸岡さん、あの人の野球眼は確かだ。それなりに期待してもいいって事か。

 

(……みせてもらうぜ、その期待の新人とやらの実力をよ。このチャンスの場面を……活かせるか?)

 

俺はバッターボックスに立つ打者に目を遣る。それは俺だけじゃない。三塁側・一塁側の互いのベンチにいる皆がその打席に注目していた。

それもそのはず。なぜなら今のこのターニングポイントと言えるチャンスの打席に着くのは…“女”だからだ。

その名を“六道聖”と言ったか。日本プロ野球史上数人目の女性選手として、いま世間での注目も高い。今季ドラフト2位でウチに入った、“期待の新人組”の一人だ。ポジションは捕手。

 

はじめは女なんぞに、野手の中でも最も過酷で体力・知力を共に要する捕手が務まるかと思ったが、アイツが7回から捕手の守備についてからだ。以降、白チームの打線がピシャリと抑えられたのは。

なるほど、ベンチから見ているだけでは分からないが、さすがにプロに来るだけのキャッチャー・リードは出来るらしい。

だがバッティングはどうだ?男に比べ明らかにパワー不足の女に、プロの球を打てるんだろうな?それを今からの打席で見せてもらおうじゃないか。

そう思っていると、マウンドの投手がセットポジションから白球を投じた。

 

「ストライィーク!!!」

 

捕手のミットを揺らす撥音が響き、審判が甲高い声で判定する。

打者の六道はバットを構えたまま微動だにせず見送っていた。

投げる奴の動揺が球に伝わったのか、高めの甘いコースへのうわずった球だ。だが、球速は140はゆうに越えている。そのプロの球威を前に打ち返せるのか?

投手は2球目を投じた。また真っ直ぐだ。

 

「ストライクツー!!!」

 

低めを突く球だった。これも145キロは出ているストレートだろう。

これもまた六道は見送っていた。

 

二球連続の直球。ストライクの先行。少々先走り過ぎている。

が、相手は非力な女だ、プロの直球を打ち返すだけのパンチ力は恐らくねぇ。直球で押すのは間違いじゃねぇ。バットに当てられても内野ゴロだ。

恐らく3球目もストレートで仕留めるだろう。案の定、投手は続いての3球目。セットポジションから腕を思い切り振り抜いた。

直球。それも150近い全力だった。

 

(これで決まっ……)

 

――カァキアァンッ!!!!

真芯の快音。女のスイングは投球を捉え、球は前に打ち返されていた。ベンチの全員が思わず打球を目で追った。

打球は一遊間の頭上を飛び抜け、ライト前に落ちて転々とした。華麗なクリーンヒットだった。

その間に三塁ランナーは本塁に落とし込み、二塁ランナーは三塁を蹴る。

 

「ライトォ!バックホームだ!!」

 

俺はベンチから叫び指示を飛ばす。

ベンチの目の前の三塁ベースを、眼鏡を掛けた二塁ランナーが蹴って本塁へスパートしていく。速い、そのスパートが。

コイツも確か、今年入団の“期待の新人”のひとり、矢部。脚力が武器だったとか。畜生なるほど。足の速さなら一軍級だ。ホームへ爆走する眼鏡男を見て、俺はそう感じた。

やがて本塁で眼鏡男と捕手が交錯した。小さく砂煙が舞う。

 

「セーフ!!セーーーーーフ!!」

 

審判の甲高い声を聞いた俺は、心の中で小さく舌打ちをついた。

女の一打はライト前の2点タイムリーとなり、これで点数は4-2。俺達白チームにとっては点差を縮められたことになる。

見くびっていた。投手の球種の中では最も重く前に打ち返しにくいストレートを非力な女にクリーンヒットで返されるとは。

 

一塁ベースを踏み締めながら、六道は塁間走で振り乱した髪をくくり直す。その仕草に一瞬目が奪われる。

ぱっと見、とても強靭な体力を要するプロ野球選手には見えない。周りの男らより一回り小さな身体はタイトなユニフォームにより女特有の曲線めいたラインがくっきりしている。見目形の綺麗に整った天然の顔立ちだってかなりレベルは高いだろう。それは世間のスポーツニュースが騒ぐわけだ。

「撫子捕手」。最近見たスポーツ誌での六道を形容する言葉だ。なるほどあいつをよく表している……って。

 

(俺とあろう者がなに鼻の下伸ばしてやがるんだ)

 

「おい、お前ともあろう者が、なに鼻の下を伸ばしてるんだ?」

 

背後から声が飛んでくる。心中での図星に思わずうろたえながら俺は後ろに振り返る。このチームの長である男、丸岡さんだった。

 

「けど彼女にはいくら伊坂、お前でもなかなか手が出せないと思うな」

 

からからと笑みを浮かべながら、丸岡さんは俺の隣に座り込んだ。

 

「何ふざけたこと言ってんです」

 

「六道聖。彼女に打たれのを驚いたみたいだな」

 

確かにあれは打たれないと思った。しかしあの非力な腕で、現に打球は前に飛んだ。

 

「いかなる球も芯で捉えられれば打ち返される。彼女にはその、球をバットの真芯で捉えるという絶対の自信があったんだ」

 

「絶対の自信だって?」

 

「そう。さっき二塁から一気に本塁生還を決めた矢部が“脚力”ならば……彼女の武器は、“集中力”だ。力技では決してできない、華麗な巧打・巧守を決める力」

 

華麗。女にはちょうどいい言葉ってか。

丸岡さんがここまで“新人組”の奴らを推すゆえんが…わかってきたぜ。

隣のベンチ席にすっかり居座った丸岡さんは一つあくびを漏らしながら緊張の続くグラウンドを眺めていた。その表情には俺達白チームに対する余裕すらうかがえる。

 

そういやなんでアンタはここにいるんだ?

俺が白チームの指揮官ならば、この丸岡さんは紅チームの指揮官だ。そのアンタが、なんで紅チームベンチを離れてこっちのベンチに来ているんだ。俺はそう尋ねる。

 

「なあに、あいつらも子供じゃないんだ。自分らで自分のチームくらいまとめるだろう」

 

「けっ。本当に自由放任というか、適当な監督だよアンタは」

 

俺はため息まじりに呆れながら返答する。この人は昔とほんとに変わった。

現役時代のこの人は野球に対するストイックな性格で、順調な活躍を重ねていったものだった。そして若手だった俺はそのもとでプロ投手としてのなんたるかを仕込まれた。

その後、丸岡さんは引退。昨年のバルカンズ監督就任時にひさかたぶりに再会したかと思えば、この飄々とした性格の変貌ぶりに調子を狂わされたものだ。

 

「きっと上手くやるさね。それに伊坂お前、相手の心配してる余裕があるのか?」

 

「……どういうことです?」

 

余裕みせてるのはよっぽどアンタの方だろ。そう心の中で付け加える。

 

「見てみろ、次のウチのバッターも……打つぞ」

 

丸岡さんはそう言うとベンチに腰掛けたままグラウンドに向き直る。

今の場面は二死一塁。相変わらず俺の白組にとっちゃあとワンアウトの勝利目前の場面だ。もし相手に一発が放たれれば同点もありうるが。

 

「もう半分以上、俺のチームの勝ちだ。結局、あとワンアウトには変わりないじゃないですか」

 

「伊坂お前、誰がこの状況を見ろって言った?俺は今のバッターを見ろと言ったんだ」

 

丸岡さんはこちらを振り返らずグラウンドを見つめたまま言った。心なしか俺に戒めるかのような口調で。

俺もそれに応じ、慌てて打席に目を向ける。すると突然。

 

『うぉお打ってやる、逆境は俺のお得意なんだ、打ってやるぜうおおーーーー!!!!!!』

 

その打席に立つ男が、吠えていた。バットで素振りを何度もしながら声を荒げ叫びだす。自己暗示の言葉を、並べたてた。

 

「な、なんだぁアイツは?」

 

まるでスポ根漫画の中からやってきたかのような奴。

そしていかにも空回りしていそうな感じだ。どうやら紅チーム最後の打者は、あいつで決まりか。

 

「あいつがあの見た目通りだと思っているなら…痛い目見るぞ」

 

そんな事を考えていた俺に、この丸岡さんからの痛い一言。

そうか、確かあの打者も新人組の一人だったか…!名前は確か、猛田(たけだ)と言ったな。

だが…コイツは確か…少し打撃が出来るだけで、他はごくふつうな能力だったハズ…。その打撃も、この危機的状況を打破できるほどのインパクトはないハズだ!

こう言った俺に構うこともなく……丸岡さんは不敵に笑っていた。

 

「だが、猛田のその打撃力が爆発的に上昇する場面がある。お前は知らなかったか」

 

「な、なにい…あっまさか…まさか、それが…!!」

 

「それがちょうど、今のような逆境的場面だ」

 

ビハインドありの9回最後の攻撃、ツーアウトランナー有り……絶好のシチュエーションじゃないか。

俺が気付いた時にはもう手遅れだった。マウンドの投手はすでに第一球を投じていた。

 

『甘ぇえええぇえーーーーーっっっ!!!!!!!!!』

 

猛田は叫ぶとバットを思い切り一閃した。

勝利寸前の失点で、すっかり平常心をなくした投手の浮いた球に、そのバットはいとも簡単に叩き合わされた。

 

カァキャアアァァァン!!!

 

グラウンドの皆が固まった。いや、動けなかった。動くべき外野…左翼手も、なすすべなくその場で見送った。

レフト方向への打球は遥か空高く舞い上がり、勢いは全く弱まる事なくレフトスタンドをも飛び越え、球場外へと消えていった。

飛距離…150メートルオーバーの特大同点2ランだった。

球場に瞬く間にどよめきが起こる。

歓喜の色めく紅チームベンチ。ランナーの六道は何かを納得したように頷きながらベースを一周し、猛田は勝利の雄叫びを散らしながらベースをズカズカと踏破していった。

ホームインした二人を紅ベンチが歓喜で迎え、テンションは高く、全員が有頂天、そんな感じだった。

 

一方の俺の白チームは、茫然自失とし、グラウンドの守備陣も、ベンチ陣も、表情に影を落としている、そんな……感じだった。

その一部始終を俺は口をポカンと開けながら見ていた。見ていることしか出来なかった。

あっという間に、同点……。

矢部の足が、六道の巧打が、猛田の豪打が、一気に俺達白チームを危機に追い込んできた。

この試合をひっくり返さんとする、明確な危機感が迫っているのを、ここで俺は初めて気付いた。

紅チームは9回最後の崖っぷちで、這い上がってきやがったのだ。

 

「はっはっは油断したなぁ伊坂、あいつは空回りすべくして、振り回してるんじゃない。打ち砕くべくして、振り回してるんだ。その点では奴もまた天才なのさ」

 

唖然としている俺を横目にしながら、丸岡さんは愉快そうに言う。

 

「さあてと、これで振り出しだ」

 

誰へともなく呟く。しかしさっきまでの愉快そうな語勢ではない。

 

「この勢いで……ウチの紅チームが何をするか……見物だな」

 

強気な言葉に俺はハッとした。

そうだ、4点ビハインドからの一挙同点、間違いなくあちらさんに“流れ”は出来上がっちまってる。

 

野球の試合って奴は、“生きて”いる。

投手の乱調や、打者の起死回生の一打、ノーヒットノーラン・完全試合、満塁弾・サヨナラ弾・サイクルヒット、エラー・フィルダースチョイス、それらたった一つのプレーによる試合展開の激動……。

その気まぐれな意志ひとつで、普通なら有り得ないこともいとも簡単に引き起こすんだ。

 

ランナーが尽き、依然ツーアウトの今でも、まだ何をされるか分かったもんじゃねぇ!

まさにいま俺達白チームは、野球の神様とやらにそっぽを向かれてやがるんだ!

抗うしかねぇ。野球の神とやらに、今はな……!余計な小細工は一切無駄!何といっても、気まぐれなんだからな……!

 

「ピッチャー交代ッ、俺が出る!!」

 

俺はベンチから交代を叫び、グラブを手にした。これぞ白チームの監督権限。

とにかく第一に、あの4失点投手をそのまま投げさせるわけにはいかなかった。球はもう完全に浮ついていたからだ。

 

「おいおい、いくらお前といえど、肩も作ってないまま出るのか?」

 

「いらねぇですよ、もうとっくに熱くなってる!」

 

「熱く? いや、きっと焦ってるだけだ……それがお前の欠点だ伊坂」

 

「何だとッ」

 

敬語も忘れ、俺はその一言に対し睨み返していた。白ベンチにざわめきが起こる。

丸岡さんは息をふぅと吐き出すと、真剣な眼差しで口を開く。

 

「お前は昔から、自分に自信を持ちすぎだ。自信過剰。プロ気質ともいえるがな、それが物事の本質を見抜くことを時として阻む。さっきの新人達の力をお前が見抜けていれば、もうこの試合はお前達白チームの勝ちで終わっていただろう」

 

「ちっ」

 

言葉が終わると、俺は無言でグラブを手にはめ、ベンチを出た。

物事の本質。簡単に言ってくれるぜ。あんたが監督に就いてから何度聞かされたか。あんたのように簡単にできりゃ無理はないんだよ…。

 

「あぁ、そうだ。次の9回裏、俺の紅チームは最後の新人を使う」

 

俺がマウンドに歩き出そうとした時、丸岡さんがポツリと呟いた。

新人……新人組のことか。まだ隠していやがったのか。

 

「その新人は投手だ。伊坂、お前がこの9回表をしのいだら、裏のお前達の攻撃…その投手を、打ってみろ。サヨナラにしてみろ。それがお前にとっての名誉挽回のチャンスだ」

 

投手…新人組・切り札のリリーフってことか?それに名誉挽回…か。

 

……ちっ、丸岡さん。アンタは確かに野球人としてはかなりの人だ。俺自身、尊敬はしてる。

だが、アンタ俺をなめすぎだぜ、俺に火を付けちまった…。

 

「丸岡さんアンタ、調子に乗りすぎてるよ。たかが新人投手ごとき。めった打ちにのしてやるぜ」

 

俺は静かに言い返すと、マウンドへと登った。

交代の投手から球を受け取る。それを早く、捕手のグラブの中に叩き込みたくなった。俺の武器である、とびきりの豪速球を…。

 

そしてその9回表の守備が終わるまで俺はベンチを振り向きもせずただ投げ込んだ。あの人と目が合うと、調子が狂うような気がしたからだ。

肩の出来上がりが不十分で1本の被安打を浴びたが、その次を締め、いよいよ9回表を終えた。

 

この紅白戦、ルール上で延長は無しになっている。つまり紅チームの勝ちは奪ったわけだが、青臭い新人ばかりが集まる紅と、バルカンズ一軍メンツが集められた白とでは、戦力差的に考えて、紅は引き分けでも万々歳だろう。

しかし、引き分けなんぞさせねぇ……宣言通りにやらせてもらう。最後の新人とやらとな。

どんな奴がマウンドに登ってこようがしょせんは新人。プロとの力の差を見せてやる……。

 

そして9回裏が始まる。

 

 

{津々家バルカンズ紅白戦}

紅チーム…4

白チーム…4

9回裏 白チーム攻撃

無死ランナー無し

 

 

『紅チーム、選手の交代をお知らせします。ピッチャー……』

 

丸岡さんの宣言通り9回裏の初っ端で相手投手が変わった。最後の新人とやらが来るか。誰がだろうが関係はねぇ。

この回白チームの先頭は4番からの好打陣。下手な球を放れば一発でサヨナラもある。覚悟しろよ、新人クンよぉ。

そう思っていたその時だ、グラウンドに突如大声が響いた。紅組も白組の連中も、声がしたそちらに振り向く。

ライトファールスタンドにある球場の資材搬入口のところに、揺らめく一人の人影が見えた。俺達と同じバルカンズのユニフォームを着ている。

 

「遅れてすいませーーーん!!!紅白戦してるのは、ここですか!!??」

 

もう一度大声がする。叫んでいるのは、そいつだ。

いきなり何だあの野郎は?この大事なチーム紅白戦に遅れてくるとはいい度胸……というかあんなやつ、ウチのチームにいたか?

 

「おーーーい珮斗!!!こっちだこっち!!!」

 

「おい丸岡さんよ、何だアイツは?見たこともねぇ」

 

今度は丸岡さんの声がグラウンドに響く。俺はベンチを飛び出し、丸岡さんに問いただした。

 

「あいつの名は珮斗(はいと)。入団してから今まで一身上の都合があったから、今日からキャンプに合流する……最後の新人。そして今からあいつに投げてもらうわけさ」

 

丸岡さんは珮斗とやらをグラウンドに呼び寄せると皆に聞こえるように紹介しだした。

チームメイトらの間にざわめきが立つ。今日から合流するこいつの事など…誰も聞いちゃいなかったからだ。むろん俺も。

 

「えと、珮斗一發(はいといっぱ)です。ポジションはピッチャーです!今日からバルカンズの一員として頑張ります、よろしく!」

 

そして珮斗が重ね重ね挨拶をする。グラウンドによく響く朗らかな声。新人だけあって幼さが残る表情。

コイツがマウンドに立つってのか。俺達白組の前に立ちはだかるだと。

くっくっ、気に入らねえ。何も知らねぇこのガキんちょには悪いが、気に入らねえ。

 

「ノンキに自己紹介なんかしてんなよ。状況が分かってるか新人クンよぉ?」

 

新人の胸倉を掴み、吊り上げる。周囲が一気にザワつきだす。

隣の丸岡さんは黙ったままこちらを見ていた。

 

「マウンドに立ちな、監督から御指名だぜ。見せてもらおうじゃねえか、キャンプをすっぽかすだけある新人の実力とやらをよ!」

 

新人は目をしばたたかせ、驚きを隠せない様子だった。

さすがにビビってやがるんだろう。だがこれが洗礼ってもんだよ新人クンよ。恨むならハードル上げた丸岡さんを恨むんだな。

 

「……投げていいんですか?」

 

が、そいつの反応は、意外なものだった。俺は思わず、は、と聞き返した。

 

「キャンプに来たばかりで、投げさせてくれるんですか?よろしくお願いします!」

 

俺は気付かぬうちに胸倉を掴んだ手を離し、珮斗は澱みのない声でまた俺に礼をした。

その途端皆のざわめきが収まり、どっと吹き出す。丸岡さんも今にも吹き出しそうだった。

 

(この野郎ッ)

 

頭にカッと血が昇るのを感じた。今のは計算で言ったのか、天然なのか、どのみちコイツ…大馬鹿なんじゃねえか。

珮斗はガキみたいに目を輝かせながら、そう言ったのだ。その輝きがまた気に入らない、そう思い嫌悪した。

俺が口を挟もうとするのを止めるように、丸岡さんが話を一気に進める。

 

「ふふっ威勢がいいな、珮斗。決まりだな、マウンドに上がれ。捕手とのサイン合わせもしておけよ」

 

珮斗はまた「はい」と威勢のよい返事をすると、マウンドへ小走りで駆けていく。

周りにいた連中も各々の場に戻っていく。

プレーが間もなく再開する。

 

俺は大きく舌打ちすると、ベンチに舞い戻った。

今日のこのマウンド…トラウマにしてやるぜ、珮斗よ。期待の新人だか丸岡さんのお墨付きだか知らないが、プロの洗礼ってやつを受けてもらうぜ…!

 

ベンチからグラウンドを睨み据える。登板した珮斗と、捕手の六道が、マウンド上でちょうどサイン合わせを始めていた。

 

 

***

 

 

あぁ、いてて。

掴まれたユニフォームの胸元を正しながら、俺はグラブ片手にマウンドへと歩み寄っていった。

 

(厳しいとこなんだなプロって)

 

プロ入りが決まった時から、覚悟はしていた。どんなことがあろうと。だけどまさかいきなりこんな事になるとは。

だけど、これはむしろチャンスととらえるべきかな。新人の俺に投げさせてくれるんだから。こんなとびきりの場面で。

 

「おい、珮斗といったな」

 

物思いにひとりふけってると意識の外から声がする。透き通るような高く凛々しい声。女性の声だ。

振り向くと、捕手のプロテクターを着込んだ女性が立っていた。

あぁ、そうか。噂には聞いてたけど、この人も同期でバルカンズに入団した、六道…聖。

 

「時間がないから、サイン合わせを済ますぞ。お前、持ち球は……」

 

振り向きざま、視線がぶつかる。刹那、六道さんの表情が固まったような気がした。一瞬の不自然な沈黙が流れる。

 

「……えーと。持ち球は、ストレートと、フォークだ」

 

沈黙を破り、言葉を返す。

今の沈黙は何だったのかな?もしや、俺に一目惚れとか……まさかね。

 

「……!あ、ああ。ストレートとフォークか。って……お前、変化球は1つしかないのか?」

 

さも驚いた表情で六道さんは声を上げる。

 

「あぁ……フォークだけだけど」

 

「そ、そうか。余程フォークに自身があるんだな。わかった」

 

六道さんはそう言うと、ストレートはこれ、フォークはこれ、と指でサインを作り俺に示した。

それから軽く状況の説明を聞いた。

この試合のこと、紅チームと白チームのこと、ゲーム前半の失点のこと、ゲーム後半の俺が来る直前の9回表の攻撃のこと。

そして今の俺が登板した意義のこと。

それらを語る彼女はすっかり冷静になり、理知的であり、何よりたのもしく思えた。

 

「……というわけだ。たった3人、締めるだけでいい。結果としては引き分けに終わるが、それで私達紅チームの勝利と言える。とにかく今は、私のサインどおりに投げてくれ。だいたい向こうのナインへの有効な配球は組み立てている」

 

「あぁ、わかったよ!」

 

段々と実感が沸いて来た。久々に登るであろう、実戦のマウンドという舞台。それも初めてのプロ野球の世界…!

体内を熱いものが一瞬巡り、身震いがした。きっと武者震いだろう。こうなったら、やるしかないな。

 

「よーし、やるぞ!!」

 

「元気がいいな。まぁそれを空回りさせないように頼むぞ…珮斗」

 

そういって六道さんはキャッチャーポジションへと戻っていった。

 

(珮斗といったな。似ているな……アイツに。だがアイツはもう……いや、何を考えてるんだ。今は野球に集中しよう)

 

六道聖、彼女が去り際に小さく呟いた声を、珮斗が聞くことはなかった。

 

 

***

 

 

数球の練習投球の後、白チームの先頭打者がバッターボックスに入りプレイが再開する。

同点で迎えた9回裏、白チームの攻撃。バッターはクリーンナップの真ん中の4番から。

一発は絶対に与えられない場面。

 

(この打者は、この試合で2打点当てている。…調子はいい方だろう。ならば下手にストライクは取りにいけないな…)

 

六道は初球、高めに外すストレートをサインする。釣り球だ。

バッターもこの場面、とにかく塁に出てサヨナラのランナーになりたいところだ。下手に手を出し、打ち損じてくれるかもしれない。

 

マウンドの珮斗も、白球を左手の中で転がしながら大きく首を動かし頷く。

珮斗は左利きだった。

そして意を決したように大きく振りかぶると、右足を上げ、一気に左手を振り抜いた。

 

皆が珮斗の一投に目を注いだ。

 

(なんだ、これは…!?)

 

その一投に、捕手として球を受ける六道がいち早く反応し、そして…危機を察知していた。

高めボールに要求したはずの球は、馬鹿正直にストライク高めに飛び込んできて、球威も大してなくて、まさにバッターにはおあつらえ向きな球で…

 

(これは…打たれ――)

 

すぐ横で、鈍く空を切る音がした。フルスイングを、受けた――。

反射的に六道は立ち上がり、ボールを目で追っていた。

 

カキァアァァン!!

 

快音を残し、弾丸ライナーとなった打球が、センターの遥か彼方まで矢のように飛んでいく。

外野守備についていた新人の矢部が得意の足で落下点を追うが、それをも打球が飛び越える。

六道の脳裏に最悪の幕切れが過ぎった。

 

(は…入るなっ!)

 

打球は乾いた音を立てて外野最奥フェンスに直撃し…グラウンドへ跳ね返る。フェンスダイレクトヒット。

それとほぼ同時に、打者は到達した一塁を蹴る。

 

「あぁ、まずいでやんすよ!先頭打者にこれは失点の兆しでやんすよ!」

 

センターの矢部がぼやきを散らしながらボールを拾い上げると、ワンステップ踏んで中継のセカンド目掛け投げ返した。

セカンドのグラブに収まる頃には、すでにバッターランナーは二塁ベースを踏み締めてツーベースを確定させていた。

 

次第に、伊坂の白チームベンチがざわめきだした。ノーアウトで、サヨナラのランナーが二塁。白チームにとっては絶好のチャンスが出来上がり、紅チームは珮斗のたった1球で崖っぷちに立たされたことになるのだ。

 

「くそぉ、打たれたっ…!」

 

マウンド上の珮斗は二塁ランナーを見詰めながら、唇を噛み締めた。

 

「気にするな、まだ大丈夫だ」

 

後ろから声がする。六道がまたマウンドまで駆け寄ってきた。二度目のタイムだ。

 

「……次の5番を凌げば、あとは下位打線だ。送りバントに気をつけ、ランナーを進められなければ大丈夫。相手を恐れるな、落ち着いて投げろ」

 

「そうだね……わかった、踏ん張ってみるよ!」

 

珮斗は開き直ったように力強く返事をする。ピンチではあるが、どうやら心はまだ揺さ振られてはいないだろう。

が、それとは別に内心……非常に気掛かりな事がある。

 

(さっきの打たれた球。要求したコースを大きく外れた球……あれは失投だったのか?)

 

失投。投手がリリースの際に何らかのミスで、狙ったコースと思い切り外れたコースに球が放られてしまうことをいう。

……私のキャッチャーとしての経験上、失投は投手のフォームの乱れから生み出される。

その乱れは投手のスタミナ切れや精神状態のぐらつきから発生する。

 

……だが、珮斗がリリースする瞬間、フォームに崩れはなかったのだ。綺麗に投げていた。

そもそもアイツはまだマウンドに上がったばかり、精神面もまだ丈夫だと見える。……それが何故、あそこまで外れる球になったんだ?

キャッチャーポジションに小走りで戻りながら、六道は頭を捻り考えた。

が、その疑問の答えは、すぐさま六道に突き付けられることとなる。

 

直後の、5番打者との相対。

ここは、手堅く二塁ランナーを送ってくるだろうか。だとしたら、ボール球を出しながら様子を見るしかない。

珮斗にサインを送る。コースはアウトコースのボール球。これで相手打者の動きを見よう。

 

珮斗がセットポジションから振りかぶり、左腕を振るう。その瞬間、六道はまたも反射的に稲妻のような危険を察知した。

 

(――くっ、またか!)

 

身体を横に飛び出し、自分の要求よりも遥かに大きくすっぽ抜けた球を、辛うじてミットの中に収めた。

刹那の焦りを顕す、冷や汗が頬を伝う。

 

――危なかった……。

もし今のを後逸すれば、ランナーに三塁まで進まれていた。そうなれば、ノーアウトでサヨナラのランナー三塁……本当に最悪の場面になっているところだったのだ。

 

それに今の一球でハッキリした。またアイツ――珮斗は、特に違和感もない投球フォームで、あんなすっぽ抜ける球をよこしてきた。2球も連続でだ。

失投じゃないのなら、これはもう明らかだ。コイツはただ純粋に、制球力が無さすぎるだけなんじゃないか?それも、プロの投手として有り得ないくらいに……!

 

なら、この場面をコイツでどう乗り切る?変化球を使わせてみるか?確かフォークだけだったか。

次の投球に、フォークの指示を出す。珮斗ははっきりと頷き返し、それに答え球を投じた。……またも要求コースとは違ったが。

 

そしてそのフォークを…ミットに収める。微弱な手応え。

何なんだ一体……これは。

またも私は、動揺を隠せずにいた。

そのフォークはまるでフォークとは言えないような、たいしたキレも落差もない代物だった。唯一の変化球が……こんなものなのか。

 

駄目だ、これでは。捕手の立場で言わせてもらえば、こんな投手で抑え切るのは至難のワザだ……!

球速もなく、変化球もなく、制球力もない。こんな投手で――この場をどう乗り切れというんだ……?

言っては悪いが、あの珮斗というヤツは……プロの舞台には場違いな実力しか持ち合わせていない。一体どうしてこの場に紛れ込んできたんだ。

……それなのに……

 

ミットに受けたボールを見詰めながら、六道は神妙な面持ちだった。

 

 

***

 

 

一方、三塁ベンチに座り込んで9回裏のこれまでを見守っていた伊坂は複雑な思いだった。

 

丸岡さんが満を持して送り込んできた、あの“珮斗”とかいう青いヤツ。

どれくらい青いヤツなのかと思えば……ありゃ『真っ青』じゃねえか。

何なんだアイツの投球は?球威も制球もプロ最低レベル。いや、プロというのも馬鹿らしい。いくら弱小と言われてるウチでもあそこまでのヤツはいない。

同じ投手として分かる。アイツは……ヘボだ。

 

そんなヤツを、何で丸岡さんがバルカンズに連れて来たんだ?

去年のドラフトでウチが獲得した六道・猛田・矢部らの新人組は、あの人が自ら動いて引き入れさせたらしい。つまりあの珮斗も丸岡さんが選び出したことになる。

……どうしてあんなヤツを引き入れた?一体何を考えてやがる?珮斗はただのヘボなのか?

……それとも、アンタはヤツにまだ何かを隠してやがるのか?

今なお自分の隣のベンチに腰深く座り込む丸岡を見ながら、伊坂は思慮する。

丸岡はそんな伊坂には構わず、また一つ昼下がりのあくびを漏らした。

 

その時快音が鳴る。グラウンドにざわめきが立つ。

伊坂はとっさにグラウンドに向き直り、見た。自軍の5番打者の打球が、見事に三遊間を破りレフト前に転がる。そして二塁ランナーは三塁を蹴った。

 

なんだ、これでサヨナラじゃねえか。拍子抜けだ。

……と、伊坂が一瞬そう思うも、レフトからのバックホームを悟り、本塁突入を諦め二塁ランナーは三塁に戻る。その隙に二塁まで走るバッターランナー。

 

決着こそならなかったが、場面はノーアウト二・三塁となった。いよいよ白チーム最大の好機が出来上がる。そして紅チームは恐れていた最悪のシチュエーションが出来上がる。

 

もう勝ちも同然だ。変に詮索する必要なんざねぇ。あの投手は雑魚だ、これだけは確か……!こんな場面を作っちまうとは。実力にも運にも見放されてやがる……!

伊坂の中に、確信に近い自信が満ちてきた。そして、隣の丸岡に向け得意げに語り掛ける。

 

「アンタが推すぐらいだからどれほどの投手かと思えば。……笑わせてくれるぜ、こっから見てても分かりますよ。球威も制球もいいとこ無しだ、あの珮斗とか言うヤツは」

 

丸岡はグラウンドを向き、黙ったまま伊坂の声を聞いていた。

その様子に伊坂はより強気に出る。

 

「なんであんなのをアンタが連れて来たかはわかんねぇが、俺にもプライドがあるんだ。サヨナラにしてあっさり名誉挽回させてもらいますよ。それとも、あのヘボ投手にまだ奥の手でもあるってんなら話は別ですがね」

 

伊坂は言い放った。少し勝ち誇った気持ちだった。こんな形で丸岡の足をすくえるとは快心だ、と。

――さぁ、アンタはこういうときどういう返事をするんだ?

――苦し紛れの言葉でも吐くのか、はたまた開き直るのか。興味がある。

――さぁ、返事してくださいよ。

 

「……ほぉ、よく分かったな伊坂。もう本質が読めるようになったか?」

 

「……は?」

しかしまたしても、丸岡は伊坂の予想を裏切る。それは考えもしなかった返事だった。

 

「よく見抜いたなぁ。珮斗の“奥の手”のこと。誰にも話してないのに」

 

「なん…だと…?」

 

嘘だ、ハッタリだ。それこそ開き直りじゃねえか。青臭い新人が、サヨナラの危機になってなお、隠し手を持ってるだと?

ありえねえっ。そんな漫画みたいな話が現実にあるかよっ。ありえねえっ!!!

 

「へっ、そ、そんなもんがあるんなら見てやりますよ」

 

そう返すので伊坂は精一杯だった。苦し紛れな言葉を吐かされたのは彼の方だった。

 

 

***

 

 

グラウンド上・本塁のキャッチャーポジションにて。マスクを外し汗を拭う私、六道はいよいよ気が気でなかった。

ノーアウトでサヨナラのランナーに三塁まで進まれた。恐れていた最悪の展開なのだ。

 

(どうする。とにかくここはセオリー通り満塁策をとるしかないな。内野守備は前進にし、とにかく本塁フォースアウトが絶対だ。だが……)

 

マスクを被り直し、ちらとマウンドを見遣る。珮斗のいるマウンド。

珮斗もまた、額の汗を腕で拭い、目をしかめ歯を食いしばった。

 

あぁ、分かるさ。投手なら誰しも、こんな場面を作り出してしまったのを悔やむだろう。今の珮斗はその典型的な姿だ。

それと同時に……あいつ、動揺しているんじゃないか。

こんな実戦的な初舞台では当然と言えば当然かもしれない。だが私達はプロなんだ。そんな泣き事は、決して口にはしてはいけない。生き残るための力を常に誇示していかなくてはならないんだ。

そしてその舞台には、お前は恐らく出るのが早過ぎた。少なくともこの後の場面をお前の力量で乗り切るのは……至難だ。

次の六番打者を歩かせたら……丸岡監督に投手交代を頼むしかない。

はっきり言って……珮斗、お前がこのまま投げていては、間違いなく私達の紅チームは負ける。

 

珮斗を、次の打者を歩かせたら降板させる――。むろん本気だった。厳しいようでも、プロならそれがしかるべき選択なのだ。皆それも分かっている――。

 

プレイが再開し、ミットの影に右手の指でサインを作り、マウンドの珮斗に示す。『敬遠』のサイン。

マウンドの珮斗は、目をしばたたかせた。そしてそのサインに反意の目を向けてくる。

 

(何を驚いているんだ)

 

――この場面なら敬遠による満塁策が普通だ。そもそもこの六番打者を歩かせれば、後は七番以降の下位打線に回せるんだ。

――それとも勝負したいとでも言うのか……馬鹿な。言う通りに投げろ。

もう一度六道はサインを送る。指をはっきり見せ、強く敬遠を要求するように。

 

しばらくの間を置き珮斗は今度こそサインに頷いた。しかしその表情は険しかった。

顔には冷や汗が浮かんでいる。登板してまだものの10球と投げていないのに、かくような汗ではない。やはりこの危機的状況に動転している。

 

(ともかく勝負は満塁にしてからだ。内野を越させない配球、そして確実にコーナーに制球出来る投手に変えなくては)

 

……その時、既に私は珮斗が降板してからのことを考えだしていた。

何故なら『敬遠をしくじる投手などいない』そう思っていたから。当たり前のことだ。ただすっぽ抜けるボール球を投げればいいだけなのだから。

だが……あいつにそんな考えが通用すると思ったのがいけなかった。そして、とんでもない事が起きたのだ。

それは珮斗の、六番打者への最初のその一球であった。

あいつが腕を振り抜き、放たれた白球の軌道を追う。要求したのは敬遠――遥か外角高めに外す軌道だった。

異変に気付いたのは、そのほんの一刹那後だった。

 

(軌道が……違う)

 

こちらへ飛んでくる白球の向こうに、マウンド上、投球フォロースルーに入る珮斗の表情が映る。目を点にし『しまった』と言わんばかりのその表情。自身も気付いたのだ。やらかしてしまったことに。

コースを外角に外し損なっていた。ここへ来てまたも珮斗の制球乱れ。悪いことにボール球になればいいものが、ストライクゾーンに入ろうかと言う球に。

 

次の瞬間、バットが空を切りかかる音を聞いた。失投と睨むや否や打者は手を出してきたのだ。

 

駄目だ――。

たとえ打ち損じてくれても、この場面では――!

敗北の二文字が脳裏を掠めた。ノーアウトで三塁まで進まれていて、守備はまだ前進寄りにしていない!打者に深い当たりを出されれば……三塁ランナーは本塁まで到達し、その瞬間にサヨナラ……!

……負けるっ……!

いっそ敬遠させる前に、あいつを降板させていれば……!

六道は後悔した。自分の読みと判断の誤りを。そしてマウンドに立つ男の無力を心でひそかに呪ったのだ。

が、もう遅い。

――カキャンンンン!!!

打撃音がこだました。私の網膜にその光景が焼き付いた。

弾き返された球は一閃を描き、投球主である珮斗の横を凄まじい勢いで摺り抜ける。

痛烈なピッチャー返しだった。

 

二遊間を抜かれる。センター前の被安打だ、そしてその間に三塁ランナーが本塁に……

……負ける……

……負けた……

 

私は敗北を覚悟した。瞬時に、心の中に後悔の苦い味が染み渡っていった。

目の前がいっきに暗くなっていった。

 

…………

 

(まだ……)

(まだ、早いっ……!!!)

 

その時声が聞こえた。どこからともなく、心に直接話しかけてくるような声。

 

(この声、覚えがある――)

どこかで聞いたような懐かしい声だった。

電流がよぎるような心の衝撃を感じ、私は顔を上げる。

 

目の前のマウンドで、横を摺り抜けようとせん痛烈な打球に目掛けダイブする珮斗の姿が、目に飛び込んできた。

なんて打球反応だ――あの打球に反応するなんて。アイツ、ヤマを張っていたのか――。

その珮斗が伸ばした右手のグラブに、間一髪で打球が弾かれた。

 

(ダメだ、抜ける――)

 

その次の瞬間、珮斗は今度は身体を伸ばし、打球を胴に受けていた。

 

「させるか…ぐふ……っ!」

 

凄まじい速度の打球を胸にまともに受け、珮斗は息が詰まる痛みに襲われる。思わず喉から咳がほとばしった。そのままマウンド横に崩れ落ちる。

 

勢いを止められたボールは……横たわる珮斗のすぐ傍らに転がった。

その光景を見た三塁ランナーが、一瞬足を迷わせた。ホーム突入時、もし珮斗がすぐにでも起き上がり六道にボールを渡せば、突入失敗になる――三塁ランナーにはその場に止まるしかなかった。

その間に打ったバッターは一塁へ駆ける。が、珮斗はうずくまったままで、バッターはそのまま悠々と一塁ベースを踏むのだった。

 

一瞬の出来事だった。終わったかと思われた試合は、珮斗の打球反応により、同点で9回裏・無死満塁となってなおも続く。

 

「おい、しっかりしろ!大丈夫か?」

 

フィールドプレイが固まり、六道はすぐさまマウンドに走り寄り、胸を押さえている珮斗を気遣う。

 

「いてて……大丈夫……だよ」

 

「よくあの当たりを捕ってくれた……。ナイスファイトだ。だが……」

 

……ピンチの場面には変わりない。無死満塁。結局は四球を与えるのと変わりない状況になったのだが。

(この際だ……言いたくはないが、はっきり言うしかない)

 

「珮斗、お前にはここでマウンドを降りてもらうしかない。お前では、ここから抑えることは厳しい……悪いが私はそう判断した。打球を受けて痛めた身なら、尚更……」

 

ここまで口にして、私は珮斗が話を聞いていないことに気が付いた。さっきから胸を抑えたまま、口を小刻みに動かしこちらに聞こえない声で何かをつぶやいている。

 

「……ま……く…い」

「……負けたくない……」

 

その声がだんだん大きく、強くなる。

 

「俺、せっかくプロになったんだ……ここまで、苦しい思いをして、やっと、辿り着いたんだ」

 

「珮斗……」

 

やっと辿り着いた、か。それは私も同じ……。女というだけで野球の世界では様々な偏見・差別を受けてきた。これは私にしか分からない苦しみだがな。

理由はともあれ、こいつも……。

 

「だからここで、チャンスは棒に振れないんだ……六道さん、頼むよ。もう少し、投げさせてほしいんだ!」

 

珮斗は立ち上がり、熱い言葉を発する。目は強く光っているように見えた。

それは紛れも無い野球への想いがそうさせたのだろう。

それを否定するような事をこれ以上……さしもの私も言うことにはためらった。

 

――私は知っている、その野球への想いを否定されることの悲しさを。

『女性野球選手』という特殊な境遇が故に、私がプロの世界へ上り詰めるうえで通らなくてはならなかった関門――。

恐らくこれから先にもずっと忘れることはないであろう、昔の記憶。

 

『私は一生懸命頑張ったんだ。相手が男でも絶対に負けなかった。なのに、どうしてダメなんだ!?』

 

『野球が好きな気持ちは誰にも負けない!負けないんだ!私はただ野球がしたいんだ!』

 

『女……だからなのか?私が男なら、皆ともっと野球を続けていられたのか?』

 

『……ならどうして……私は女に生まれてきたんだ……どうして…………』

 

かつての言葉とともに、忌まわしい記憶が頭に蘇る。私の野球への想いを粉々に砕かれ、そして私自身を、奈落の底に突き落とした、かつての出来事。

思わず首を振り、ヘドロのような苦々しい思い出を拭い、我に返った。

 

「珮斗てめぇ、このぐらいで凹んでんなよ!」

「そうでやんすよ、まだ負けたわけじゃないでやんす!」

 

気が付くと外野から同じ新人の猛田、矢部が近寄ってきて、珮斗を激励する。

 

「やってくれたなぁ珮斗、だけどこのままアウト1つも取れずにやられるなよ!」

「そうだぜ、一泡吹かせてやんないと」

 

その二人だけじゃない、紅チームの守備陣がマウンドに集まり、叱咤激励を施す。

 

「あぁ、ありがとうみんな」

 

「よせやい、そういうのはこの場面を切り抜けて言いな」

「ここからでやんすよ!打たせて取るでやんす!」

「外野に来た球は、全部ホームで刺してやるぜ!」

 

いつしか自分たち紅チームの中心に、珮斗がいる。私はそんなふうに見えていた。

なんなんだ、コイツは……皆をひきつける能力を持ってるのか。

 

ふと、ベンチに目を向ける。紅チームを統率する丸岡監督に動きは見られない。ただこの光景をじっと見守っているのみだった。つまり続投しろと言うことか。

……不思議な監督だ。そしてその不思議な人が連れてきたというこの珮斗も……不思議なヤツ。

今日から突如紅白戦に参戦し、いきなりどうしようもない事態を引き起こしてるのに……なぜか皆を引き寄せている。

 

(そして珮斗は……いろんな意味でアイツによくにている。私の前から姿を消してしまった、“あの人”に……)

 

私はひとり頷き、心で決断した。

 

「わかった、何とかやってみよう……珮斗。守備の皆も、前進シフトで何としてもホームに球を送ってくれ。」

 

紅組ナインの男達は六道の一声に口々に賛同し、おう、と応えた。珮斗もまた、静かに大きく頷いた。

その時、その珮斗の目の奥に熱く燃えたぎる焔(ほむら)が宿ったのに気付いた者はいなかった。

 

 

***

 

 

{津々家バルカンズ紅白戦}

紅チーム…4

白チーム…4

9回裏 白チーム攻撃

無死ランナー満塁

 

 

紅チーム守備陣が散り、プレイが再開する。

身体にじりじりと伝わってくる緊迫感を、六道は感じ取っていた。それは恐らく、この試合に関わる他の者全ても同様に感じているはず。

この紅白戦の最大のターニングポイントを迎えているのだから、皆がそうなって当然だ。

 

六道はマスクを被り直すと打者と珮斗を見遣りながら思索を張り巡らせた。

何がなんでも、内野を越える当たりを打たれるわけにはいかない。かといって珮斗に奪三振を取らせるのも望めない……。

……低めのコースの球を詰まらせ、打たせて取るしかない。珮斗の制球力では、恐らくそれもままならないだろう、だが。

……今は、やるしかないんだ。無理であっても!

意を決して、珮斗へサインを送る。もう悩むことはない、そうするしかないのだ。インローへ直球のサイン。

 

珮斗は首を小さく上下し頷いた。

打席の打者が構え、投球を迎撃態勢に入る。

直後に珮斗がゆっくりとしたセットポジションから、両腕を振りかぶる。それを合図に内野守備シフトが一斉に前進する。

 

(なるようになれ。さぁ、来いっ……!)

六道はキャッチャーミットを突き出し、万端で構えの態勢に入った。

その時だった。

 

今まさにボールをリリースしようかという珮斗の目線が、六道の目線とぶつかった。

その彼方に見えたのだ。

珮斗の眼光の中に揺らめく熱い焔。強い力。

その一瞬で、六道は理解した。

珮斗という男の、野球というものへの情熱、熱意、思い……。それら全てが凝縮されたような眼差し。

 

そうか……あいつも同じなんだ。実力なんて、関係ない。あいつも野球が大好きなんだ。

ほんの一瞬であったが、そう感じ取ったのだ。

 

「おおおおおぉぉぉーーーーっっ!!!!!」

 

珮斗が叫び、腕を思いきり振りぬいた。その風切り音が轟き、鼓膜を確かに揺らした。そのリリースの瞬間、マウンドの空気が揺らめいた。

長年の捕手としての経験が培った六道の『第六感』が、はっきりと捉えた。今まで感じた事のない摩訶不思議な感覚を。

 

放たれたボールは真っ直ぐにこちらへ向かってくる。

だが……

コースが……甘い……!

普段以上の集中力でボールを追った六道は、すぐに球筋を察知した。

確かに今までより球威は一番出てはいる。だが、コースが真ん中寄り過ぎる!これでは……打たれる……!

そう思った時には、案の定、真横に立つ打者は足を踏み出し、スイングを始めていた。

バットの軌道はボールの球筋をはっきりと捉えていた。

 

(く、これまで、か――)

 

快音が轟いた、

かと思ったその瞬間……!

 

メコッ、バギッという擬音。

目と鼻の先でバットとボールが交錯する瞬間に、見たのだ。

珮斗から放られた白球が、木製のバットへと食い込み、そして…。

 

バキイイィィィン!!!!!!!!!!

 

ビスケットを割るように、バットを真っ二つに粉砕するのを。

驚愕、言葉が出ない。あの球に、こんな球威が?

 

「キャッチャー、上だぁ!!」

 

誰かが叫び、六道は我に返る。打球は弱々しく浮き上がり、私のほぼ真上のキャッチャーフライだった。

すぐさまマスクを取り、オーライの態勢を取り、落ちてくる打球をミットに収めた。

 

ずしり――。という感触。

フライした球をキャッチした瞬間、六道はそれに気付いた。ボールが、重い……。先程の不思議な感じが、また蘇る。

受けた左腕がじん、と痺れる。だが、どこか心地よいこの感触。

 

「アウトォーーーー!!」

 

大ピンチから、ようやく1アウトを取った。バッターは折れたバットを拾うと、首をかしげ引き下がる。

 

「いいぞ、珮斗ぉ!」

「あと2人でやんす!」

 

グラウンドでは、矢部、猛田を中心に紅の守備陣から歓声が巻き起こっていた。

 

残り、ツーアウト……。

しかしそれよりも、六道はもう一度、珮斗の球を、見てみたいという好奇心が渦巻いていた。

今の一球は、何だったんだ?珮斗のリリース時の不思議な感覚。バットをへし折った球……。もう一度、あれを見てみたい。

 

次の8番打者が、打席に入る。

六道はマスクを被り直し、珮斗にすぐ次のサインを送る。コースはアウトロー。

珮斗はコクリと頷いた。セットポジションから、腕を上げ、振り抜く。

 

ドクン。

(まただ、この感じ。例えるならまるで『一球入魂』)

 

その球に対し、打者がバットを振り出した。またも初球打ち。だがタイミングが早い。アウトの球に対する引っ張り打ちで、強引な強打を狙うつもりか。

 

メコッ、バギッ…!

その刹那、さっきと同じような音がしたかと思うと、ピタリとバットとボールが静止した。

いや、正確にはバットは振り抜かれなかったのだ、ボールにインパクトした瞬間、スイングの運動エネルギーを上回る、もっと強力なエネルギーに押し返されるように。

超集中下の意識でのほんの一瞬ではあったが、六道には確かにそう見えたのだ。

 

(何なんだ、これは……)

 

鈍い打ち損じる音がし、打球は一塁方向にふらっと力なく舞った。それは、本来打者が引っ張り打ちするはずの三塁方向とは全く反対だった。それは明らかに、バッターがボールに力負けした証だった。

 

(あいつの投球が、まるでバットを押し返したかのよう……まるで重い球だ……!球にノビもキレもないのに、気迫だけで……打者を打ち取ったとでもいうのか?

アイツがリリースの時に垣間見せた、眼光に宿る野球への強い『思い』。それがそのまま、あいつの投じる球に宿った……。

さっきのキャッチャーフライを受けた時に感じた、どこか心地よい感触の正体は、これだったんだ。

こんな事が有り得るのか……

ただの重い球じゃない、

これはまさに……

おも(思)い球だ……!)

 

「……ア、アウトォ!ツーアウト!!!」

 

8番打者はファーストフライに打ち取られ、マウンドの珮斗はグッと握りこぶしでガッツポーズをした。

 

「よおしっ……!」

 

これでツーアウト。無死満塁という絶体絶命のピンチから……いよいよ、あとワンアウトなのである。

 

 

***

 

 

「ちっくしょう、何をやってやがんだ!7、8番二人揃って打ち上げやがって……!地面に転がせば勝ちなんだ、浮かせてどうする!」

 

2アウトの宣告を聞いた伊坂は、三塁ベンチにて思わず声を荒くし怒鳴り込んでいた。

その真横に座っていた丸岡が、わざとらしくニヤニヤ顔をしながら伊坂をたしなめる。

 

「そう焦るな伊坂……それにな、7番も、8番打者もボールはちゃんと芯で捉えられてたんだぞ」

 

「だから何だってんですか……!」

 

スタンドからバットとハンドスプレーを取り出し、伊坂はまた声をあらげた。

次の9番打者は、彼なのだ。

 

「あの珮斗は……気迫が凄いんだ。球威はなくとも魂の篭った球で、どんな打者も打たせて取る!それが、俺があいつをウチに招き入れた理由さ」

 

――球威はなくとも魂の篭った球で、どんな打者も打たせて取る……だと?どこかで聞いたぜ……そ、それは……。

昔に見たくだらねぇ野球漫画と……同じじゃねえか。

ふ、ふ、ふざけんじゃねえ……。

 

「意味わからねえこと言ってんじゃねえ監督!アイツらにパワーがないだけだ!畜生、次で俺が決めてやる……!」

 

不機嫌をあらわにし、伊坂はズカズカとベンチから出ていった。

後にはやはりまずいムードのベンチが残される。

白チームメンバーは声をひそめ口々に話しているのだった。

 

「……ふ、すぐには直らない、か。まあ、あいつにも体感させるのが一番早い……」

 

そのベンチを尻目に、丸岡はぽつりとそうつぶやいた。

 

 

***

 

 

どいつもこいつも、俺をコケにしやがって……!あんな青臭ぇ新人なんぞに、負けるか!勝つのは俺達白チームだ……!

投手でありながら毎年2割6分を切らない俺のバッティングを味わうがいい!

なにが気迫だ、魂だ、野球はそんなに単純じゃねえ!俺がこの手で、引導を、渡してやるぜ、珮斗……!!

 

「きやがれぇ新人がぁ!」

 

バッターボックスに立った伊坂はマウンドに佇む珮斗にも怒鳴り声を飛ばした。

が、聞こえなかったかのように、珮斗は応じることなく佇んだまま。

9回裏二死満塁、一打サヨナラという紅白戦最大のこの場面、一番緊張するはずの投手・珮斗が立つマウンドは、静かなる空気を漂わせていた。

 

「聞こえてんのか……テメェ!!!」

 

激昂した伊坂は再び怒声を上げる。

 

「……聞こえてますよ……伊坂さん」

 

静かなる声がした。最初の挨拶の時のような明朗さは影を潜めた、落ち着き払った声だった。

 

「なに……!?」

 

「全力で……いきます!!!」

 

次の瞬間には珮斗も声を高らかにし、いよいよ腕を振りかぶった。そして渾身の勢いで、左腕を振り抜いた。

その時、伊坂にも見えた。リリースの瞬間、こちらを鋭く見つめる珮斗の眼光、その中に広がる、彼の全てを投影したかのような光景を。

 

(ちぃ、なめんな!俺を惑わせようたって、いくかよぉ……!コースも甘え、ただのヒョロ球じゃねえか!終わりだ、野郎がぁ!!!)

 

吸い込まれるようにど真ん中にやってくる白球に、伊坂は勢いたっぷりにバットを叩き合わせた。

 

(どうだ、新人。これが、プロの洗礼……)

 

  メコッ

 

(せ、洗れ…ぃ……)

 

  バギッ

   メコッ

 

(な、なんだ……このボールは……!?!?!?!)

 

  メコッ

   メコッ

  メコッ

   バギャ!

  ズギャ!!

   ボギィ!!!

 

(お、……重てぇぇぇーーーーッッッ!?!?!?!)

 

バキイイィィィン!!!!……………………

 

破砕音がグラウンドにこだまし、伊坂はその勢い余りバッターボックスの隣に横転した。

 

キャッチャーの六道はすぐさま立ち上がり、打球を目で追う。

が、見当たらない。バットとボールの激しい接触の瞬間、ボールはふっと消えた。

紅チームの守備陣も、白チームのランナーらも、同様に、ボールを見失い、その場に固まったかのように、動けずにいた。

グラウンドは、一気に静寂に包まれる。

 

「ここだよ……ボールは……ここだ!!」

 

その静寂を破る一声。

声の主は……マウンドに佇む珮斗だった。

その彼が頭上に高らかに伸ばした右手の、グラブの中に、白球が、スッポリと収まっていた。

最後の打者、伊坂の打ち返した球は、ピッチャーライナーとなり、珮斗の手元にウイニングボールとして舞い戻ったのだった。

 

「アウトー!!!ゲームセット!!!」

 

アンパイアがひと呼吸遅れて、最後の審判を下した。

 

「あいつ、やりやがった……無死満塁から抑えやがった……」

「やったでやんす、一軍揃いの白チームに……ひ、引き分けたでやんすよーー!!」

 

その瞬間、引き分けではあるが、紅チームメンバーに歓喜が沸き上がった。彼らはマウンドに駆け寄り、崖っぷちのヒーローにスキンシップを喰らわせるのだった。

 

「やったな、この野郎!見直したぜ」

と珮斗の背中をバシバシ叩くのは猛田。矢部や、他のメンバーも、それに習うのだった。

 

「痛い、痛い!あ、ありがとうみんな……あー、だから痛いってば!!」

 

皆につままれながらも珮斗は満足げな様子だった。先程までとは打って変わり表情はまるで少年のころのようにあどけなかった。

しばらくスキンシップから解放されることはないだろう。

 

(珮斗、そしておもい球……か。あれは一体何だったんだろう。なんにせよ不思議なヤツだ……)

 

六道はそんな珮斗の様子を、遠巻きから見つめていた。その目はどこか虚ろで遠くを見つめているようでもあった。

 

(――やっぱり、似てるな。『アイツ』に。……一体どこで何をしているんだろうか。お前はどこにいってしまったんだ?まだ……どこかで野球を続けているのか?)

 

「ふふっ、さっきから釘付けだなぁ。そんなに気になったかい。あの珮斗の事が」

 

不意をつく一言に、六道はびっくりして振り返った。自分達紅チームの指揮を採っていたバルカンズ監督・丸岡がそこに立っていた。

 

「そ、そんなんじゃない。ただ、不思議なヤツだ……と思った」

 

「不思議、か。君は気付いたみたいだな」

 

「あいつのあの球は……一体何なんだ。監督は、知っているのか?」

 

「ふふ、知らないさ俺も。それを知るのは、キャッチャーの君の役割だ、六道君」

 

意味深に微笑みを浮かべた丸岡だが、それだけいうと踵を返しベンチへと歩いていってしまった。去り際の彼の表情はどこか満足げであった。

 

「キャッチャーの役割……か」

 

高校球児のように、まだマウンド上ではしゃぐ珮斗達を見ながら、六道は誰へともなくつぶやくのだった。

陽が西に傾く空はこがね色に染められ、グラウンドにいるバルカンズ選手達を柔らかな憂愁で包んでいた。

 

(……こうして、この俺、珮斗のバルカンズでの初めての戦いは、幕を降ろした。

だけどそれは同時に、これから始まる、過酷な戦いの幕開けでもあったんだ)

 

 

***

 

 

200X年。

既存のプロ野球リーグ、『セ・リーグ』と『パ・リーグ』に加え、第三のプロ野球リーグが発足。

その名も『レボリューション・リーグ』。略して『レ・リーグ』。

そのレ・リーグのお荷物と言われた弱小球団、津々家バルカンズから、全てが始まろうとしていた。

 

そしていま、プロ野球界は暗黒時代を迎える。かつて球界を震撼させた、『二つの事件』……その影を引きずり、球界にはいつしか深い闇が付き纏うようになった。

 

珮斗、六道らの新人達は、まだ知らなかった。自分達のこれからの戦いは、その闇との対峙であることを。

そして彼らはその先に何を見るのか。

それは読者の貴方がページをめくり、読み解くことで、いずれ解るかもしれない……。

 

この物語は、珮斗たちバルカンズの、球界の闇の中を駆け抜ける物語である。

誰も知らない物語、その真実を、ここに著していこう。

 

 

 ● ● ● ● ●

 

 

爆砲球団バルカンズ

 

 第1話 おわり

  第2話につづく…



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第2話 珮斗の風

紅白戦から数週間。

春季キャンプは早くも終盤にさしかかり、珮斗ら新人はプロの過酷な練習に揉まれていた。

何より、珮斗は紅白戦での『おもい球』の噂が早くもチーム内で広がり、注目の的にされていたのだった。

だがその影で、珮斗に嫉妬の目を向ける者が一人、いた――。

 

人は誰しも己の名誉、地位、プライドを選好するのが本能的だ。だが目先の目的と目標とを区別できぬ者は、滅びゆくのである。

プロの世界は、未熟な珮斗に次なる試練を刻み込むか。

 

 

 ● ● ● ● ●

 

 

爆砲球団バルカンズ

 

第2話

 珮斗の風

 

 

カキィーーン!

もう何球目になるのであろうか。打ち砕く快音が、ここバルカンズ春季キャンプ練習グラウンドへと響き渡る。

 

「おいおい、これでもう被本塁打2本目じゃねえか……」

 

「点数にするともう0点切ってるでやんす……」

 

グラウンドの傍らで、タオルを肩に掛けドリンクボトルをくわえながら、打球の行方を猛田と矢部は見つめていた。宙を舞う打球は日光を浴び眩しく輝きながら、外野フェンスを越え、場外へと落ち込んでいく。

グラウンドの、マウンドに立ち尽くす投手――調整テストに臨む同期の珮斗は、汗をたらりと流した。

 

「く。くそ……!うりゃあああ!」

 

うろたえながらも、珮斗は左腕を振り抜く。ボールは浮いていた。

――カキィーーン!!

 

「あぁ、また打たれたでやんすね……」

 

今こうして珮斗が挑んでいる『調整テスト』は、春季キャンプ期間中定期的に、選手らの実力計測を目的に行われていた。珮斗ら投手のテストとは、持ち点10点から実際に打者を置いて10球投げ、いかに少ない被安打でくぐり抜けるかというものだった。

 

「珮斗、そこまでだ!お前の点は……マイナス7点!」

 

点数係の選手が叫び、珮斗の試験終了を告げた。

 

「……はぁ、ぜぇ、くそぉ、またマイナスかぁ」

 

息をつきながら、珮斗はテストのマウンドから降りる。そこにチームメイトらが駆け寄る。

 

「お疲れ、前のマイナス11よりましだな!」

「“思い球”はどしたんだぁ」

「もっと捕りやすいとこに打たせろよ」

 

チームメイトらはほとんどからかいに近い励ましを珮斗へと送る。

この調整テスト、珮斗の点数はチーム投手陣の中でも、ここまでずっとぶっちぎりで下位を独走していた。

 

「あぁ、もう!みんなしてからかってるだろ」

 

「ははっ、まぁ点数は良くなってんだからいいじゃん」

「それより“思い球”だよ」

「前の紅白戦から見てねーぜ、あれさえ使えば点数も上がるだろ?」

 

「そ、それは……」

 

取り囲むチームメイトらに言われ、珮斗は口篭もった。

 

 

***

 

 

……正直なところ、俺はまだよく分かってないんだ。自分の投げたっていう、『思い球』のこと。

前の紅白戦が終わったあと、捕手を務めてくれた六道さんが俺に言ってたっけ。

「その球をいつでも投げられるようになれ」って。

今になって思うと、あの時はかなり夢中だった。プロに入っていきなりの実戦、危機的な状況……。頭の中、真っ白になったな。

これまで野球をずっとしてきたけど、あんな球を俺が投げていたなんて初めて知った。だから、よく分からないんだよなぁ……。

俺は、あの紅白戦以来その『思い球』を投げていない。自分では分からないけど周りがそう言っている。

そのせいか、テストの点数は厳しいものだった。ただでさえ制球力がないぶん、ね。

チームリーダーの伊坂さんにも、その点数のことでかなりどやされる。紅白戦以来、何だかあの人には目の敵にされてるしなぁ……。

 

うん、やっぱもっと練習を濃くしなきゃだめだ……皆に追い付くために。

 

 

***

 

 

「……おーい、珮斗、ハイトォ!」

 

休憩しながら考え込んでいると、名前を呼ばれている。珮斗はふっと我に返った。

休憩所のベンチに座っていたところの眼前に、猛田の顔があった。

わっ、と驚きその場に後ろのめりになる。

 

「なに眉間に皺寄せて悩んでんだ、らしくねぇ」

 

そう言いつつバシバシと珮斗の肩を叩く。猛田は新人組の中ではムードメーカーだった。いつでもこの妙に高いテンションで誰にでも接している。そのノリには合わせやすくていいと珮斗は好意的に受け取っていた。

 

「なんでもないよ。それより何の用さ」

 

「片付け終わったら、先輩達が晩飯おごってくれるみたいでやんす。今日の調整テストがよかったみたいで、大盤振る舞いしてくれそうでやんすよ!」

 

猛田の代わりに口を挟んできたのは、同じく新人の矢部。

常にビン底眼鏡をかけ、どこか茶目っ気のある人柄の彼も、入団以降何だかんだでいつも行動を共にしているのだった。

 

「本当?じゃあ、早く片付けちゃおうか」

 

そういうや否や、珮斗の腹がぐぅと音を立てた。もうそんな時間である。

それを聞いた猛田と矢部がははっ、と笑った。

 

「おう、それじゃいっちょ早く片付けようぜ!」

 

猛田が威勢よく促し、珮斗は整備に取り掛かりグラウンドに出た。

――ひとまずは、食事にありつこう。腹が減っては戦は出来ぬ。珮斗はあっさりと頭を切り替え、整備用のトンボを掴むと、西日に黄色く染まったグラウンドを駆け出した。

 

……………

 

その珮斗の姿を、練習場のベンチから睨みつけるように眺めている男が一人いた。

あの紅白戦で、珮斗にラストバッターにされたバルカンズの現チームリーダー・伊坂である。

 

「あの野郎。またテストは最下位、か」

 

手元に持ったチーム全員の調整テスト結果表を目にしつつ、伊坂はぶっきらぼうに言う。

 

「わからん野郎め……前の紅白戦でのあの球は何だったんだ?でなきゃ、ここまで点数下がるか?」

 

(俺はまだはっきりと身に覚えている。あの『思い球』とやらを打った時の感触。例えるならナマリ球を叩いたような……重たい感触だ。確実にミートしたのにその圧力でバットは押し戻され、ピッチャーライナーに打ち取られた。あれは、マグレか何かの間違いだったのか……それとも……)

 

「……ホントに、分からないヤツだぜ」

 

伊坂は、誰へともなくそうぼやきを漏らした。

 

「えぇ、僕にもホントに分かりませんね」

 

が、それに思いも寄らぬ返事を返す声。

まさか――丸岡さんか?

伊坂は振り返ったが、そこにいたのは監督の丸岡ではなかった。自分よりも若い、バルカンズのユニフォームを着た男が仁王立ちしていた。

野球選手に申し分ない、整った体格。どこかプロ気質を感じさせる、精悍な顔立ち。

 

伊坂は思った。

「……誰だ?コイツ」と。そしてそれがそのまま口から出た。

 

「……誰だ?お前」

 

ズザー、と目の前の男がベンチの床を豪快に滑り転んだ。瞬く間に起き上がると、男はビックリしたように目を見開き迫ってきた。

 

「あ、あなたもですかっ……僕の名前は三澤!今年ドラフト1位でこのチームに入ったみ・さ・わです!以後っ、お見知りおきを!」

 

「お、おぉぅ……」

 

三澤の異様な剣幕に、思わず圧倒される伊坂。

(三澤……そういやそんなヤツいたっけ。ん、ドラフト1位だと?ということは、こいつも今年の『新人組』のひとりなのか……)

 

「僕にもわからないんですよ。どうして、ドラフト5位の珮斗君が、ドラフト1位の僕よりも目立ち、皆にちやほやされ……ゴホンッ、とにかく僕の見たところ彼にはまともな実力があるとは思えませんねそれになんといっても彼はやはりやっぱり思ったとおり――」

 

……は?

な、なんだコイツは……。

伊坂は思わず汗を垂らした。

いきなり目の前に現れた三澤とやらは、マシンガンの如く一方的にトークを繰り広げてきた。

しかも内容が珮斗への批評に始まり、唯我独尊、自画自賛。

いわゆるエリート、自分がかわいいってヤツか……。これまた変なヤツ……色んな意味で。コイツも丸岡さんが選んできたってのか……冗談だろ。

 

「……――というわけで、僕は珮斗君の紅白戦の活躍は99,9%マグレだと主張します。まぁ、そのマグレに打ち取られた、あなたもあなたですがね!チームリーダーの伊坂先輩」

 

「なにィ……」

 

コイツ、べらべらと好きに喋らせておけば。こんな事も言いやがるのか。

 

「おや失言でした、失礼!しかし、自分より格下の者に足を掬われるようではいけませんよ。プロは実力が全てです、僕の上司としてそれくらいは肝に命じて下さい、先輩」

 

三澤はそう言うと、ベンチから片付けの始まったグラウンドに出ていってしまった。後に残された伊坂は怒る気にもならず、ただただ呆気にとられる。

 

「ちっ、おっかしなヤツだな、珮斗といい……えと……アイツの名前何だった……ミハラだっけ」

 

……………

 

(見ていろよ、珮斗君。プロの世界じゃあ、実力がモノを言うんだ。君には直々に教えてやる、本当の実力者はマグレなんかには頼らないと。このドラフト1位の三澤がね……!僕が名実ともに新人組の中で一番だとしらしめてやろう)

 

夕暮れのグラウンドで後片付けに奔走しながら、自称エリート・三澤はある決心をしたのだった。

私欲にまみれた拳を、握り締めながら――。

 

 

***

 

 

陽も地平線に沈み、グラウンドはすっかり暗闇に包まれた頃。

後片付けは終わりかけていた。

昼間に選手らが汗を流したダイヤモンドはトンボの整地で整えられ、清められた。

 

「おい珮斗、これも片しといてくれよ」

 

「あぁ、そこに置いといて下さい。片付けておきますから」

 

球場の隅にあるホコリっぽい用具庫で、珮斗は最後の整理整頓をしながら、他のチームメイトらから道具を預かりそれも整理する。

新入りに課せられる、一種の雑用だった。

 

「おい、珮斗コレも」

「コレ頼む」

「アレもしといてくれ」

 

先輩にあたる選手らから指示や用具を押し付けられ、用具庫の中で珮斗はてんてこ舞い状態だった。

明滅を繰り返し、寿命が切れる寸前の電灯の灯った用具庫の外は、もう夜闇に満ちていた。

 

「ふぅ」

 

ようやく片付けが一段落したしたところで、珮斗はほっと息を吐いた。まだ2月だけあって、息が白い。どうりで肌寒いわけである。

外のグラウンドからは、すっかり人気は感じられない。珮斗だけが一番最後まで残っているようだ。

猛田達、もうメシに行ってしまったかな……と彼は少なからず落胆していた。

 

「はぁ」と再び息を吐く。今度は、ため息混じりだ。珮斗は用具類を一旦置くと、もの鬱げに俯く。

最近よく、周囲からはいいように扱われているように珮斗は感じていた。彼はドラフト順も低く、まだまだ実力も周囲にからかわれる程度しか無く、それはしようがない。プロの上下関係として当然のことでもあるからだ。

 

(……これから差を埋めていくしかない、か)

 

ふと、珮斗の脳裏に六道の言葉が思い返される。

『おもい球を、いつでも投げられるようになれ』と。

――『おもい球』か。もう一度、投げてみたい。それが、俺の武器になるのなら……。

――矢部君には走力、猛田には打撃力、六道さんには守備力という武器がある。やはり俺にも、何かが要るわけだ……。

 

手をこすり合わせ寒さを紛らわせながら、最後の点検に入る。一通り片付けは済み、問題はもうない、後はもう用具庫の鍵を締めれば終わりだ。

と思ったがその時。ざわっ、という気配を背後から感じる。無意識に肩がぶるっとした。

珮斗は振り返った。自分の背後にあるのは用具庫の入口、それをくぐった向こうには夜闇が横たわっている。

 

「気のせい……か?」

 

人の気配がしたような……気がした。が、振り返ったそこには誰もいない。気を取り直し、鍵を手に取り戸締まりをしようとした。

 

『クックック、こき使われてるなぁ。お前、それでいいのかな』

 

今度ははっきりと声がしたのだ。それは狭い用具庫の中を乱反射し、軽くエコーのように響き渡る声。

 

「だ、誰だ!?」

 

驚いた珮斗は、用具庫の中を見回す。どこから声が聞こえたのかはわからない。

――まだ、チームメイトが残っていたのか?それでもって、また俺をからかうつもりで言ってるのかっ?

 

ふと、先程見た用具庫の入口に目を向ける。その外の闇の中に、うっすら暗闇に紛れてうごめくシルエットが揺れ動いた。

人がいる。今の犯人は、アイツか!?

珮斗は弾かれたように、用具庫から飛び出した。

 

「おいっ待てっ!」

 

珮斗から逃げるように、シルエットは闇の中を駆けていく。全力で追い駆け、真っ暗な練習グラウンドを横切った。距離はそこそこ離れていて、しかも暗闇の中ではよく見えはしないが、シルエットは非常に縦に長く、非常に長身な人物を思わせた。

逃走者は方向を変え、球場のベンチに向け駆けていく。

それにしても速い。このままでは離されていく。珮斗は思った。

 

――バリイィン!!!

前方から突如音がした。ガラスが砕ける音だ。珮斗は驚き、音がしたところまで近寄った。

ベンチ横の報道室の窓が破られ、大きく刺々しい口を空けていた。

 

(窓を突き破って中に逃げ込んだっていうのか。なんでそこまでして……!)

珮斗もまた割れた窓をくぐり、報道室に入る。マイクや放送端末にガラス破片が散乱する暗い部屋には、人の気配はない。

――部屋の外かっ?

報道室の戸口を勢いよく開く。灰色のコンクリートが一面に張られた球場スタッフ専用区画の廊下に出た。左方の曲がり角へ目を向けると、ふっと消える黒い影。

 

「こっちかっ!」

 

珮斗も後を追い左の廊下を走り、曲がり角を曲がる。が、その角の先の廊下に、影はもう見えない。

 

「どこにいったんだ……隠れたのか?」

 

用心深く、球場廊下を進んでいく。廊下には扉がいくつかあるが、ほとんどは鍵がかかっていて身を隠せるわけがない。

 

(一体、どこに……)

そう思った次の瞬間、珮斗は思わず足を止めた。前方の廊下に見える扉から、光が漏れている。

誰かが、いる。

恐る恐るその扉の横に張り付く。扉には屋内投球練習場と記されている。

中からかすかに音……否、声がする。

 

『……ハズが……ないんだ。……あの珮斗……に……』

 

「!?」

 

はっきりと聞こえた。中にいる者が……珮斗の名を呼ぶのを。

――こそこそと、俺に何が言いたいんだよ!くそっ。

珮斗は意を決してそこの扉を開けた。

 

「おい、お前!」

 

「のわあぁあああぁぉっ!?」

 

ドアが開くと同時に、珮斗が中の練習場につっ立っていた男に怒鳴り込む。自身と同じ、バルカンズユニフォームを身につけた男は驚いたのか、飛び上がりながら珮斗を凝視した。

 

「お、お前……いや君は、珮斗君!」

 

相当驚いた様子のその男を見て、珮斗はやはりこいつか、と確信した。そして言葉を続ける。

 

「お前だろっ、さっきのは……何を考えてるんだよ、言いたい事があればはっきりと俺に言えよ!」

 

「……言いたいこと?ああ、そうとも!この僕は君に言いたい事があるんだ!」

 

目の前の男は、珮斗を威嚇するように口調を強める。

だが珮斗に突然疑問が降って湧いた。それは半ばお約束のようなものである。

 

(……ん?そういえば……こんなやつ、ウチのチームに居たっけ?もうチームに入って数週間だけど。なんか今初めて見たような)

 

「あー、その前に……あんた、誰だっけ?」

 

男はその場で豪快に滑り転がる。妙な奴だ。そして凄い勢いでまた立ち上がった。

 

「き、君に言われるとは心外だな……僕の名は三澤!君と同じで今季入団した三澤だ!なぜ同期の君が知らないっ!」

 

(同期……?猛田と矢部君、六道さんだけだと思ってたんだけど……)

珮斗は首を捻って考える。

 

「ぬぬ、いかにも存在自体知らないという顔だな!いい気になるなよ、少し皆にもてはやされているからといって……!」

 

「な、何が言いたいんだよ」

 

「はっきり言ってやろうとも!!ドラフト下位で実力もない君が、たった一度のマグレで皆にもてはやされてるのを見てると、僕は許せないのさ!!」

 

「な……マグレだとっ!」

 

珮斗は反抗するも、マグレという言葉にどきりとせざるを得なかった。間違いなく、以前の紅白戦のこと――『おもい球』のことを言っているのだ。

珮斗自身、自覚はしていた。あれは確かに偶然が生み出したものかもしれない。

 

(――だけど六道さんが言ってたように、あれは俺のれっきとした『武器』なんだ!)

 

「お前なっ……言っていいことと、悪い事があるんだぞっ!」

 

「マグレをマグレと言って何が悪いのだい!それともマグレではないと言いたいのかな!?」

 

「そっ、そうさ!当たり前だっ」

 

「ならば証明してもらおうじゃないか!……勝負だ」

 

「なに?」

 

「実際に僕が打者、君が投手と見立てての勝負だ!キャンプ中に何度もやった『テスト』を覚えているかな、あれをやろうというのさ」

 

突然の展開。

――勝負だって?

――コイツ、俺をここまで挑発しておいてのこの提案……最初から俺と勝負するつもりだったんだ。言動を見る限りでも、それだけ自信があるんだろう。

――不利な要素が強い……だけど、逃げられない。あそこまで言われて、マグレだなんて言われて、逃げられるかよ!

 

「……わかった、勝負してやるよ、ミハラ!」

 

「ぐぬっ、ミハラじゃない、三澤だ!」

 

腹を決めて、ミハラに対し珮斗は言い放った。

ミハラはムキな顔になり訂正してきたが、少しすると不敵な微笑を浮かべだした。 確かな自信と、私欲の浮かぶ表情を――。

 

「だけど、待てよ。キャッチャーがいないのに、どうやってテストをやるんだよ」

だが勝負の前に、珮斗は当然の疑問を投げ掛ける。捕手がいないのに、投手はどう投げろというのか。

 

「捕手なんていらないさ」

三澤は不敵な笑みを崩さないまま返答した。軽く腕を組み、自信を以て、今度は……こういったのだ。

 

「君の球は、一球たりとも逃さない。ボール球以外全て打ってやるよ……!だから、君には捕手など不要なのさ」

 

***

 

投球練習場のバッターボックスに三澤が立ち、マウンドを模して少し盛り上がった土の上に珮斗が立つ。

三澤は肌色のバットを構え、深く息を吸い込んだ。そしてバットをぐるぐると回し構えた。

 

「さあ、始めようか」

 

にっと白い歯を覗かせ、妙に自信満々の三澤。

――ほんとになんなんだよ、コイツはっ。ここまで人をばかにしやがって。俺にだって野球やっててプライドがあるんだ、やってやる!

――何より、今の一言。全球打ってやるだって?そんな事があってなるか!

珮斗は苛立ちを滲ませながら、手にした白球をぐっと握り締めた。

 

「なら、いくぞぉ!」

 

テスト内容は、10球投げていかに相手打者に打たれないか。逆に三澤にとっては、10球中にどれだけ打って安打を重ねられるか。

珮斗は手にしたグラブと白球を振りかぶり、思い切り左腕を走らせた。目標は、捕手不在の三澤のストライクゾーンに向けて。

 

「打たせるかっ」

その一念を乗せて、ストレートを放った。ボールは一文字を描いて三澤に迫った。

 

(ふん。こんな球!)

こんな球、今まで何度も……

(ありきたりな、球だッ……!)

三澤を、この僕をなめるなよ……!

 

(くそ、打たれた……のか?)

――打球の角度、勢いといい、あれならば長打コース。もしかしたらホームランもあったかもしれない。

――初球の真っ直ぐを、あんなにいとも簡単に打ち砕かれるなんて。

 

「これくらいで驚いているのなら、それはまだはやいよ、珮斗君」

呆気にとられる珮斗を見ながら三澤がいう。

 

「大学野球で火を噴いた僕の打撃は、まだまだこんなものじゃあない。この勝負のあと残り9球で、それを君にご覧いただこう……!」

 

三澤はほくそ笑んだ。再びバットを構えて仁王立ちする。

 

(コースが悪かったんだ。だから打たれた!制球を定めなくちゃ、打たれてしまう。捕手のリードがない今、自分で配球を練らなくては!先程は真ん中寄りの球になっていた。ならば今度はアウトコースに出す球を……!)

珮斗は策を練ると、強くねらいを定め、2球目を投じた。唯一の変化球である、フォークボール。

 

――カキャアッ!!

またも快音が響く。打球は珮斗の真横をあざ笑うかのように通過する。

間違いなく、実戦ならばヒット性のあたりだった。

 

「甘いね、ただ単にコースを突けば打ち取れると思っているのか。それにそんなレベルの変化球、僕は何年も前から見てきたよ!」

三澤が軽い嘲笑を浮かべながら言う。

 

「う、まだ勝負は始まったばかりだ!2球打たれただけ、どうなるかは分からな……」

 

「分かるさ。僕が君の球をすべて打って、完全な勝利を飾る。僕にはその自信がある。なぜなら」

三澤がバットの切っ先を向け、

「君が弱いからさ!」

そう言い放った。

 

胸の奥、心臓がぐんと鳴る。珮斗の拳が震えだし、自ずと固く握り締める。はっきり自身でもわかる、怒りだ。眼前の男の姿がぐらっと揺らめく。視界が溜飲で揺れるのだ。

 

(しかし……コイツは、ミハラは口だけじゃない!あの自信に見合う裏打ちが、恐らくある。どうすればいい、どうやって抑えれば、いいんだ)

 

「どうした、怖じ気づいたとは言わせないよ。お楽しみはこれからだからね」

 

「……怖じ気づいてなんかない!」

 

「なら続きだ……珮斗君!」

 

「く、言われなくとも、おりゃあ!!」

 

珮斗はみたび左腕を走らせた。しかし怒りと迷いを含ませた投球、そんなものが通用するはずがない。流れは三澤に傾いていた。

 

(僕の読み……計画通りだ。珮斗君は単純な奴だった。ここまで簡単に乗ってくれるとは。球威も変化も、体感してみると見た目よりも下回る。ワケはない、全て漏らさず打てる。打てるぞ!プロ入りするまでに、僕はもうこんな球は何万と見てきたのだ。

決まりだ、珮斗君、君は所詮そのレベルの野球人!大した力もなしに、出てしまった杭……!出る杭は、打たれるっ!君はそれにこらえる力すらないっ!ならば最初から、出る必要もないっ!打たれるなら、出てくるな!代わりには、この三澤がッ!)

 

――カキャアッ!!

三澤は強気一杯に、バットで射抜く。三度目の快音が、練習場に高らかに轟いた。

 

 

***

 

 

その頃。

 

「鍵が開いたままでやんす、中は電気がつきっぱなし……」

 

「珮斗のやつ、飯行くって約束だったのに、片付け途中でどこ行ったんだよ」

 

つい先程まで珮斗が作業をしていた用具庫に、二人の男がいた。矢部と猛田だ。

二人は灯りがついたまま、道具も中途半端に片付けられた用具庫の中を見回しながら、呟いていた。

 

「でもおかしいでやんす、あの至ってまじめな珮斗君が、片付けほっぽりだしてしまうなんて」

床に転がっていたボールを拾い上げながら矢部がいう。

 

「でもよぉ、晩飯にも来ねえんだぜ。どこに行ったんだよ」

確かに約束したはず、それを破るとも思えない――猛田は不審がった。それに用具庫の中途半端な様子が、得体の知れぬ不安を煽る。

 

「何かあったんでやんすかね、もしかして……おばけがでたとか!」

 

矢部が両手を垂らし幽霊の真似事をしながらいう。

――おまえの顔でそれをやられるとキツい、猛田はパンチした。矢部は身を翻して唾を呑む。

 

「何がお化けだよ……まさかな」

猛田は両手の平を返して呆れる仕草をとった。

 

「なにをしてる、お前たち」

 

と、その間に割ってはいる突然の声。

矢部も猛田も思わずびっくりし、肩を浮かせた。二人同時に入ってきた用具庫の入り口に振り返る。声の主は、六道だった。自分達と同期入団し女性プロ野球選手としてだけでなく、高い捕手能力でチーム内でも一目置かれている、六道聖である。

 

「な、六道かよっ」

 

「びっくりさせないでくれでやんす……それより六道さんこそこんな時間に……」

 

「む……悪かったな。私は自主トレしてたんだ、それよりこんな時間に用具庫で何してる?片付けはとっくに終わったはずだ。電気がついてて気になって来てみたんだが……」

 

「珮斗がいなくなっちまったんだ」

 

「夕食に行く約束してたのにでやんす。ここの片付け途中で、消えちゃったんでやんす」

 

「珮斗だって?」

 

――珮斗……『思い球』のあいつか……。

――そう言えば、今日の練習では会わなかった。ここ最近、「テスト」の結果が振るわないと聞くが。

 

「私も知らないな。今まで自主トレをしてたんだが、見かけたわけでもないし……」

首をかしげながら、六道は言った。

 

「六道さんも、知らないでやんすか」

 

「仕方ねぇ。とりあえず、ここを戸締まりしてから探すか」

 

猛田が用具庫の壁に掛けられた鍵を手に取る。傍らにある、用具庫の電灯のスイッチを消そうとする。

 

「しっ、静かに!」

 

その時だった、六道が言う。人差し指を立て、「しぃ」のジェスチャーをしながら。

 

「どっ、どうしたでやんす?」

「急に何だよ?」

矢部と猛田が言う。

 

「静かに、いま、聞こえなかったか?音が」

 

音だって?静寂の中、三人は耳を澄ましてみる。

 

…………

 

…………

 

カァン、と、何かが炸裂、叩かれるような……音がかすかにする。

否、この音……聞き覚えがある。……バットがボールを打つ音。

練習時間も終わり夕暮れも落ちた時間、ここ練習グラウンドにいるのは自分達ぐらいのもの。ほかの者は引き上げてしまった……ということは。

 

(……珮斗か!?)

三人はほぼ同時に同じ結論に至った。

 

「行ってみる」

「ちょ待てよ!」

真っ先に走り出したのは六道だった。用具庫を出て、猛田、矢部もそれを追う。

三人が夜のグラウンドをよぎり、ベンチ近くまできた。

 

「うわ、何でやんすかあれ!?」

 

矢部が声を上げる。ベンチ横の放送室の窓ガラスが、砕かれて穴をあけている。それを見つけたのだ。

 

「一体どうなってんだ!?」

 

「そこからはいるのは危ない。ともかく、ベンチから球場の廊下に行くぞ」

 

六道が冷静に制し、ベンチへと入っていく。

しかし、どういうことだ。窓が割られるなんて、普通じゃない。六道に緊張が走る。それは他の二人も同じであった。

 

「おうよ、そっちか!」

「男勝りでやんすねぇ……」

男二人が後につづく。

ベンチの扉を開き、コンクリート張りの廊下に出た。

左の廊下か右の廊下か、どっちだ。あの音はどっちの方からした?

 

その時。

カァン!!という快音。

先程よりもはっきりと、大きく聞こえた。近いようだ。

――左か!そちらの廊下へと、三人が駆ける。

 

「おいっ、あそこ!」

 

廊下を少し進むと、猛田が驚きの声を上げた。その指差した先には扉。投球練習場とプレートに書かれている。おまけに扉の下の隙間からは明かりが漏れているではないか。

ここだ、間違いなく。音の発生源は。三人は確信し、猛田が先に扉の取っ手に手を伸ばした。

 

 

***

 

 

「今ので8本目だ。ここまで全て一球たりとも打ちも漏らさずにね」

 

ボールが跳ね、投球練習場を転々とする。それを目で追いながら三澤が鼻高々としながら言う。

 

「どうだい!圧倒的な差を味わう気分は!」

 

ボールから目をそらし今度は18メートル45センチ離れたマウンド土に立ち尽くす珮斗に高飛車な目を向けた。珮斗は表情を苦渋で歪め、立ち尽くしているのみ。額には、嫌な汗が浮かんでいた。

 

――こんな……馬鹿な。ミハラのヤツに、ここまでホントにボール球以外を全てなぎはらわれた。全てヒット性の当たりでだ。口だけなんかじゃ、なかった。

ここまで10球中8本を打たれ、珮斗のテストとしての点は最低に割り込んだ。

三澤は公約通り、ここまで一球たりと逃さず打ちのめしたのだ。

――ミハラ……アイツ、ホントはトンデモない奴なんじゃないか。

 

「ふ、返事は無しかい。どうやら圧倒的な前には言葉もないようだね!」

三澤はバットをくるりと返し、再び余裕たっぷりに構えを取る。

待っているのだ、もはや完全に。珮斗の少ない球種とレパートリーの乏しい配球全てを把握し、ただ弾き返すのを。

 

「く……」

 

三澤のことばに、珮斗の視界が揺らぐ。ボールを握る左手が、グラブを着けた右手が、地面が、相対する三澤が、揺れる。突きつけられた現実を前に、力が奪われる。

 

(圧倒的……確かにそうかもしれない。投手力のない俺、少なくともプロとしては申し分ない打撃力を持つミハラ……。俺では厳しいというのかっ。ミハラにも、勝てないってのか)

 

――ガタン!!

その時だった。投球練習場の張り詰めた緊張を破るかのように鈍い音が響き、珮斗も三澤も思わず音に振り向いた。

入り口の扉が、開かれた音だ。

 

「あ!いたでやんす!」

「ああっ、珮斗ぉ、お前なにしてんだよこんな所で!?」

 

聞き慣れた声がした。

矢部、猛田の声が、沈黙の投球練習場にこだまする。

そしてその二人に続き……六道も。計三人が、投球練習場の扉を開けて入ってきたのだ。

 

「なんだ、君達は!今は大事な時なんだ、騒がないでくれないか」

打席から三澤が、入ってきた三人に向け声を上げて言う。いい調子で語っていたところに水を差されたため、苛立ちを露わにしている。

 

「何だよ偉そうに、誰だよお前は!」

猛田がそれに反応し言った。お決まりの文句である。それを聞いて三澤はわなわなと震えだした。

 

「だ、誰だ、だと?僕を知らないとは言わせまいぞ」

 

「し、知らねえよ!……矢部、知ってるか?」

 

「え、えーと……確か後藤くんだったでやんす?」

 

矢部の言葉で、打席の三澤が豪快に転んだ。そしてやはり起き上がりムキになる。

 

「何が後藤だ!僕の名は三澤だ、よーく覚え……

 

「そんな事はどうでもいい、お前たち時計を見てなかったのか?もう施設を完全施錠する時間だ、自主トレも以降の時間は認められてない。キャンプ中の規則だぞ」

まだ何か言いたげな三澤を制し、口を挟んできたのは六道だった。三澤と珮斗を戒めるような強い口調に、場がしんと静まる。

(きつーい性格でやんす……)

傍らにいた矢部は思った。

 

「ふん、何とでも言うがいいさ!だが、今は真剣勝負の場。それだけは邪魔させないよ。さぁ、あと2球、再開だ珮斗君……!」

 

三澤は口をつぐむと、打席で構えを取り直した。途端に人が変わったかのように冷静な様子になり、矢部達三人は息を呑んだ。

 

珮斗は汗を腕で拭い、再び左手にボールを握り直す。

皆が珮斗に向き直り、練習場マウンドに立つ彼を見ている。矢部君に猛田、六道まで。

――しかしまずいときに来たものだ。ミハラとの一騎打ち、10球中8球を安打にされた、厳しいこの状況で。

――三人はまだ知らないんだ、そのことを……。

珮斗は自分で自分が情けなくなり、思わず顔を俯ける。

 

「おい、珮斗!こんなヤツ、さっさと倒して飯に行こうぜ!」

「そうでやんす、腹ぺこでやんす、探したんでやんすよ」

猛田にそして、矢部が言う。

 

(ちがう、違うんだ。今まさに負けているのは俺なんだよ。ミハラは、口だけじゃないんだ。俺には勝てないんだ。俺にはロクな、力がないから……)

心が沈む珮斗。そんな時、猛田と矢部君の隣にいた六道とふと目があった。

ルビーのような、彼女の真紅の瞳は、内側をも見透かしてくるような……そんな気さえ珮斗は感じた。

――聞いたことがある。捕手は打者の心理を……人の心理を見抜くことが、重要だと。

――ならば、彼女だけは、俺の心理を探って、もうわかっているのかもしれない。今のこのテストの状況を。

そう思うと、やはり情けなくなってしまう。

 

「どうしたんだい、本当に怖じ気づいたか珮斗君!?」

 

三澤の声が不意に意識を呼び戻す。顔を上げると、眼前のバッターボックスで三澤がやきもきしている。少しの間、考え込んでしまっていたらしい。

――やはり、だめだ。

――無駄なことを考えたら、いけないんだ!さらに弱気になってしまう。俺は、いま、投げるしかない。

 

「ミハラぁ……!9球目、受けてみろっ!!」

 

珮斗は右足を上げ、腕を振りかぶらせ、右足を踏み出し、左腕をしならせ、ボールを投じた。

うおおおっ、と、リリースの瞬間に思わず気声が溢れる。

負けない、これ以上やられるわけには。そう思い、投じた球は、制球力の無さ故にまぐれとはいえ、アウトコース低めに直球となりぐんぐんと迫った。

いいコースだ、ストライクゾーンぎりぎり。大抵の打者は詰まらせる。これなら、どうだ。

そんな期待が浮かんだ、その直後。

 

――カァァァン!

乾いた快音。打球が練習場の壁を叩きながら跳ね回る。珮斗は一瞬、分からなかった。何が起きたのか。

三澤が腰を落とし、臨機応変なスウィングで、低めを華麗に捌いたのだ。間違いなく、ヒットの当たりだ。その瞬間を目に焼き付けられたのだ。

 

「ほお。今のはいいボールだ、皆に見られて尻に火でもついたかな。だけどそんな付け焼き刃は効かないよ!」

 

スウィングを終えた三澤は、勝ち誇ったように言った。

 

(あれを、打たれたのか。恐らくこの勝負の中の投球で、コース、球威共に最も引き出せた一球……それを、ああも簡単に)

 

これで10球中、9本の被安打。珮斗の腕が震えた。あと1球、次も打たれようものならば、三澤の宣言したとおりの完全敗北が決まる。

――駄目、なのか。俺ではやはり、勝てないのか?アイツの言うとおり、実力差がありすぎるのか……どうもできないっていうのか!

悔しかった。体中から、にじみ出てくるほどに。しかしそれ以上に……焦燥が、珮斗を飲み込んでいた。最悪の精神状態と言える。

 

「下を見るな!マウンドに立つ投手が、下を向いてはいけない!」

 

その時声が投げ掛けられる。思いもよらぬ、凛とした大きな声だった。

マウンドの傍らからの、六道の声だった。隣にいた猛田と矢部君も、驚いたのか、目を点にしている。

 

「投手はマウンドをまっとうし降りるまで……絶対に、前を見つづけるんだ。それが、投手のつとめなんだ」

 

「ろ、六道さん」

 

六道の言葉が、珮斗の心中に染みる。やはり彼女は分かっていた、珮斗の心理や今の一騎打ちを察した上で、状況を全て把握している。さもなくば、この言葉は出ない。

 

「静かにしてくれと、言ったはずだがね!これは真剣勝負だ。口出し、アドバイスも控えてもらいたいよ」

間に割ってはいるように、三澤の声が挟まれる。

六道は振り向いた。

 

「ミハラといったな、お前、この勝負を何のためにしている」

 

「わかりきったことを、このドラフト一位の三澤がッ、珮斗君を試そうというのさ」

 

(この男、打撃に関しては確からしい。それを、いまこうして珮斗相手に見せつけている。しかし、こんな真似は……あいつの私情を満たしているだけなんじゃないか)

 

「お前、野球は団体競技なんだ。その中でこんな亀裂を作るような真似は……」

 

「……何だって?」

 

「お前のしてることはチームの固まりに傷を付ける!」

 

「ふん、君に言われる筋合いはない!」

 

「なに?」

 

三澤は一層表情を険しくした。睨み付けるように六道に目を向けている。

練習場にこれまで以上に暗雲が立ちこめだした。

猛田と矢部は呆気にとられ口を挟む言葉が見当たらない。

珮斗もまた小さく盛ったマウンドに立ち尽くしながら、同じようなものだった。

やがて三澤が口を開く。

 

「調子に乗るなよ、僕からポジションを奪えたからといって……!」

バットの切っ先を今度は六道に向けながら、三澤は言った。

 

「おいおい今度はなんだ、六道、アイツと知り合いなのか?」と猛田。

「……いや……これが初対面だが……」と六道。

三澤はぴくりと眉をしかめた。

 

――ポジションを奪っただって。

――ということは……この男は私と同じポジション、捕手だというのか。

六道が瞬時に考える。

 

「お察しの通りさ……!」

それを見た三澤がふんと鼻を鳴らし言った。

 

「僕は大学時代に捕手として名を馳せた。だがプロ入りの時、僕は捕手としてではなく、なぜか外野手としてドラフトに呼ばれたんだ!ショックだった……だがそれだけじゃない、いざ蓋を開けてプロ入りしてみると、同じチームで同期で入った君が捕手をしているじゃないか!」

 

「仕方無いだろう、それがウチの首脳陣……丸岡監督の采配なんだ。お前が捕手でなく、外野手であったほうが大成できると……」

 

「違う!自分で考えたことがないのかい?君は単なる客寄せパンダに仕立て上げられているだけと!」

 

「!な……」

 

「君は女性選手という話題性だけでポジションを手にした、そうなんじゃないかと言ってるんだ!」

 

その一言で六道の表情が固まる。矢部、猛田、さらには珮斗までもが、言葉を失った。

 

「お前……今なんと」

やがて、六道が口を開く。その声色には憤り、そして「震え」があった。

彼女のこれまでの野球人生に泥を振りかけるようなその一言に、心底から怒りを覚え、そして同時に今までの自分をすべて否定するかのようなその一言に、彼女はおののいたのだ。

 

かつて六道が味わった、悲愴な記憶が蘇る。

――あの時も、こうだった。チームメイトだと、仲間だと、思っていたものたちに裏切られ……私はたった一人になった。女というだけの理由で野球を捨てざるをえなかった、あの時は……。

その時と、同じ悲壮な気持ちが首をもたげてくる。吐き気が、する……。

 

「プロ初の、野手選手。それも、捕手。……赤字続きらしいうちのチームの、客寄せにはまたとない宣伝だろうね!」

 

「おいてめえ、それ以上……!」

「や、やめるでやんすよ!」

心無い言葉を続ける三澤を、耐えかねた猛田と矢部がたしなめる。六道は俯いたまま、何も言い返そうとしない。

 

「そんな君に、ポジションを取られ……そんな僕の気持ちが分かるまい!だからこそ、僕がこのチームをっ、僕の力でっ、変えようというのさっ!プロの球界とはそうあるべきなんだ、結局実力がなければ往生できない。君らだってそれくらいわかるだろう!力あるものたちが、ポジション争いで競合され、全体のチームレベルを上げていく……それが、プロ球団としてのあるべき姿なんだよ!」

 

口早に三澤は言い切った。彼の本音と思想を、全て滲ませたその言葉の厚みの前には猛田も矢部もたじろいで言葉を返せず、練習場がしんとなった。

三澤はその様子を見渡し、ワザと聞こえるようにふんと鼻で笑ったのだった。

 

「取り消せよ……」

その沈黙を破る静かな一声。皆が驚き振り向いた。それを口にしたのはマウンドの珮斗だった。

 

「お前の言いたいことは、わかったよ。確かに実力がないと、プロではやってけないだろうな……。それがチーム全体にも影響するのも……お前の言うとおりだろうさ」

珮斗は目をキッと絞り、さらに続ける。

 

「だけど、だけどたった一つ……六道さんが、客寄せパンダだって……それを……取り消せっ……」

 

突如、肌に痺れが走ったように、鳥肌が立つのを三澤は感じた。

(なんだ、この感覚は)

いまの珮斗の言葉に……震えたというのか?この僕が。

 

「……き、君の指図など受けないよ!大した実力もない、君の指図など……」

 

「取り消せって言ってるんだよ!!」

 

ビリビリッ……

珮斗の語勢が強まる。三澤への怒りが増しているように。まるでその言葉自体に何か衝撃波みたいなものが含まれているように、三澤はまた肌が粟立つのを感じた。

彼だけではない、傍らにいた矢部、猛田、六道も、ただならぬこの雰囲気を察知していた。

 

(この雰囲気、あの時と、同じだ――)

六道は思った。

あの時とは、初めて珮斗の球を受けた紅白戦のこと。そう、例の「おもい球」をあいつが投じた時に感じた、不思議な感覚。それがいま、同じように。この投球練習場で、発せられているのだ。

 

「ふん!そんな口は、せいぜい僕を打ち取ってからきくことだ!テストはあと1球の勝負しかないがね!」

 

「ならその一球だっ。それを俺が打ち取ってみせる、そしたら今の言葉を取り消せ!」

 

「バカな、君の球などもう分かり切っているんだ!そんなハッタリで、動揺など誘っても無駄なのに!」

 

「ハッタリかどうかは……終わってから言えよ……!」

 

珮斗は左手に白球を握り直す。そしてそれを右手にはめたグラブの中でぐっと込めた。

空気が変わった。その空間にいる他の四人が、息を飲んだ。

 

(ハッタリだ。嘘だ。僕がそう断定してやる。あと一球も打ち砕いて。あんな球威のない玉、アドリブでもどうとでもなるんだ。さぁ、投げてみるがいいさ!)

三澤はバットを掲げ、スッと肘を引き、打席で構えた。彼も、本気だ。

 

「珮斗……」

六道が、心配そうに珮斗に目をやる。珮斗は真剣な表情を崩さないまま、目線だけを合わせ答える。

 

「六道さんは、仲間だ。同じ野球をする、仲間だろう。……だから、あんなことを言われて、俺も悔しいんだ、許すわけにはいかないんだっ」

 

「お、お前……」

 

言葉がそれ以上出なかった。

「仲間」――。私にとって、この言葉は重い。男性社会である野球という舞台に長年私は関わってきたわけだが、女性であるというだけで、その「仲間」と認めるのを拒まれることもあった。そのたびに私は何度も、何度も、野球を離れようとしたこともあった……。

 

『私は一生懸命頑張ったんだ。相手が男でも絶対に負けなかった。なのに、どうしてダメなんだ!?』

 

『野球が好きな気持ちは誰にも負けない!負けないんだ!私はただ野球がしたいんだ!』

 

『女……だからなのか?私が男なら、皆ともっと野球を続けていられたのか?』

 

『……ならどうして……私は女に生まれてきたんだ……どうして…………』

 

 

大学野球時代――。

私はあの時、野球を捨てかけた。悲しかった。自分のこれまでの努力全てが、否定され、居場所はなかった……。

だけど、そんなとき、私に手をさしのべてくれた人がいた。

 

『――野球がしたいんだろ!野球が好きなんだろ!ならどうして捨てた!』

 

『――女だから?そんなことで突っぱねるヤツがいたら、俺がガツンと言ってやる!この子は誰よりも野球が好きだって!』

 

いなくなってしまった、「あの人」の言葉……。今でもハッキリと覚えている。

それが私を変えた。今の私があるのはそのおかげなんだ。

珮斗……お前も同じように、私を認めてくれるのか。同じ野球をする仲間だと、思ってくれるのか。

ならば私にいまできるのは、一つ。お前を応援するしかない。見せてみろ、また、あの不思議な球を。今こそお前の持ち味を!

 

「頑張れ、珮斗」

六道は小さく、思いを込めてそう呟いた。

 

珮斗が両腕をかぶり上げ、ゆっくりとワインドアップの投球モーションに入る。腰を利き腕方向へひねり、右足を引き上げ、左腕を、後方へテイクバック――。

ゾクリ。

空が揺れる。珮斗から、普段は垣間見れない、「力」を感じる。

 

――やっぱり、同じだ。紅白戦の時と同じ。これはただの一振りじゃない。あの球が、来る。

刹那、傍らからそれをみていた六道は確信した。

 

「オオオオーーーーッ!!!!」

 

無意識のうちに珮斗は慟哭を上げ、それとほぼ同時に、引き上げた右足を踏み込み、左肩を強烈に振り抜いた。

 

ゴウゥゥンーー!!!

その見えない圧力が、その瞬間、打席で構える三澤を捉えた。

 

(な、なんだ!これは――!)

 

白球を捕捉する三澤の眼が、一瞬、大きく見開かれる。とてつもない、凄まじい、威圧的な感覚が、打ち寄せる。

白い海岸で一人たたずむところに、沖合の地平線の彼方から、大海嘯が訪れて来るかのように。

 

(あんな球、変哲も何も、在るわけがない、あんな球に僕が臆するわけがっ)

 

錯覚だ、幻覚か何かに惑わされているだけなんだ。僕としたことが、残り一球というところで、彼のハッタリに本当に引っかかりかけてしまったというのか。心が弱い僕め!三澤は自分に強く言い聞かせた。

三澤は腕に力を弾かせ、バットを思い切り振り抜いた。強振。

コース自体は、なんてことはない、球速もさほどないただの真っ直ぐ。僕の範疇だ。

打てる、打てる、打てる!

僕の勝ちだ!僕のっ!!

 

風が自分を掠めるように吹き抜け、バットを白球へとたたきあわせた。

 

カッキャーーーー

 

ーーーー

 

…………

 

(え)

 

(あれ)

 

三澤の視界の世界が止まった。

いや、違う。視界の中心に捉えた、自らが振り出したバットとミートされた白球が、まるで力が均衡したかのように、インパクトの瞬間にぶつかったまま、止まった。

 

いや、まて。力が均衡だって!?野球で打者が振り出したバットの運動エネルギーが、投手のボールの運動エネルギーに均衡だと!?

 

(なぜ、振り抜けない!な……なななななななななななななな……)

 

そ、そんなことありえるわけがない!この僕がそんな目に!なぜだ!なぜ重い、こんな平凡なボールがーーーーーーーーーーーー!!!!

 

メキッ、ビキッ……

 

ばばばばばかなーーーーーーーーーーーー!!!!

 

その瞬間、練習場に鈍い音が響いた。バットがおれる音。三澤の叩き出したバットは、まるでポッキーのように根元からざっくりと真っ二つにへし折れ宙を舞ったのだ。

ボールはというとバットを砕いた勢いそのまま、本来なら捕手がいるであろう辺りを転々としていた。バットの方とは対照的に、ボールの方は大した汚れもつかず、いたって“ぴんぴん”としているのだった。

 

「す、すっげぇ……」

「見た出やんすか。う、打ち取ったでやんすよ、あの思い球で!」

 

一部始終を見ていた猛田たちは、口をポカンと開きただ各々の感想を漏らした。

 

「やはり、今のは思い球だ……以前から嘘のように影を潜めていたあの球を、まさかこんな時にまた見せてくれるなんて」

六道が関心したように呟く。

 

「あぁ、あと一球に追い込まれての場面で、やりやがったぜ……」

 

「追い込まれて……そうか、そういうことか」

 

「ど、どういうことだ?説明しろよ六道!」

 

「珮斗がおもい球を今まであまり投げなかった理由だ。きっと……あれはいわゆる“ピンチの場面”にならないと出せないんだ」

 

「ど、どうしてでやんす?」

 

「分からない、だけど……ピンチの場面で気持ちが高ぶった時こそ、あいつはあの球を投げられる。前の紅白戦も、そうだった。私はそう思うんだ」

 

……本当は、それだけじゃない。今回に限っては、珮斗はミハラへの、怒りの思いもあった。それは……私を仲間と認めてくれる、珮斗の強い思いでもある……。その思いもあいまっての、この結果だ。

珮斗、本当にお前は不思議なヤツだ……。とんでもないヤツなのかもしれない。

 

「俺の勝ちだ……最後の一球だけはな、ミハラ!」

 

投球フォロースルーから体を起こし、珮斗がいう。

対するミハラは、バッターボックスに膝をついてうずくまり、ぶつぶつと何かを呟いたまま応じない。

 

「……認めろよ、ミハラ!」

珮斗が少しずつ三澤のいる方へ歩み寄りながらもう一度言った。

三澤が今度は反応し、俯いていた顔を上げる。目が血走っている。

 

「な、なぜだ、なぜこの僕が……まさか、今のが……“おもい球”だというのか……」

 

珮斗はハッとした。自身が今まで投げたくとも、投げられなかったそのボールの名を耳にして。

 

「さあ。俺にも……よく分からないよ。だけど、あんな事を言ったからお前は負けた、そう、思うよ」

珮斗は諭すように言った。

 

「な、なんだってぇぇ……!?調子にィ……!」

三澤が顔を険しくし、声を荒げようとした。

 

パチ、パチ、パチ、パチ

 

その時だ、投球練習場に、乾いた撥音が響いた。手をたたく音。拍手が起こったのだ。

練習場にいた五人は、場違いともとれるその拍手のする方向へと、思わず振り返った。

 

「いやぁ、いい勝負を見せてもらったよ、珮斗に……ミハラ。なぁ?伊坂」

 

珮斗らが入って来たのと別の投球練習場の入口から、バルカンズの長である監督の丸岡、さらに同チームリーダーの伊坂が現れたのだった。

先程から手を叩いているのは、丸岡の方であった。無駄に愉快そうに、パチパチと鳴らしている。まるで自分の子を褒める親バカな親のように。

お付きの伊坂はというと、ジト目で丸岡を睨んだまま、はぁ、と返事をするだけ。いかにも機嫌が悪そうな雰囲気をしている。

 

「か、監督に、伊坂さん!?」

「な、何でこんなとこにいるでやんす?」

驚く猛田と矢部。

 

「いやぁ、俺をなめてもらっちゃ困るなぁ。野球の匂いがしたところに、俺は現れるのさ。なにせ俺はスーパーマンだからな」

冗談混じりなのかそうでないのか、笑いを浮かべながら言った丸岡の言葉。

 

「球場の放送室の窓が割れる音が聞こえた、そんで俺と監督が来てみれば門限過ぎてこんなとこで勝手な事をしてるてめぇらを見つけた、だ」

それを訂正するように伊坂が矢継ぎ早に言葉を吐いた。

 

「う、もう少しくらい言わせてくれないかなぁ伊坂……」

 

丸岡がわざと困ったような顔をつくり伊坂にへつらう。

もう中年が、ガキみたいなまねすんなよ、伊坂は心の中でそう毒づいた。そして少し顔をしかめると黙った。

 

「いやはや、ある意味凄い勝負だったよ二人とも。まぁ、点数でいえばミハラの圧勝だがなぁ」

 

丸岡が言う。珮斗は思わずその場でガクッと身体を崩した。

 

「珮斗、お前はミハラを打ち取れた一球を覚えておくんだな。その一球が、大切だ」

 

「は……はい、監督」

 

丸岡の言葉に、珮斗はしゃんと応対する。丸岡の表情はまだおどけ気味だったものの、言葉には指揮官としての気遣いのようなものが含まれているように感じた。

 

今の一球を覚えろ、か。

さっきのは……自分でも分かった。皆が言う“おもい球”だ。確かに手応えがあった。投げ出す直前に、身体がブルッと、武者震いみたいな感じになって……。

だけど、あれを何時でも投げられるようになるなど、本当にできるのかな。六道さんが今いった通り、追い込まれた、ピンチの状況下でしか投げられないようなら……常に、そういう心理を保つことができれば、常に投げられるようになるのだろうか……。

 

「それから……ミハラ」

 

今度は丸岡はうなだれたままの三澤に声をかける。三澤は片膝をつき、下を向いて自分のへし折れたバットを見ながら、ぶつぶつと何か呟いていたが、やがて丸岡の声に気付き、顔を上げた。

なんですか、と、ぶっきらぼうに返事をする。

険しい表情である。最後の一球を打たれたことが、よほどこたえているようだった。

 

「お前もさすがだなぁ、相手が珮斗とはいえここまで高得点を出すとは、もう一軍級だよ。だが、唯一いただけない所があった。……先程の発言だ」

 

それを聞いた三澤は、いきなり立ち上がり、監督の丸岡に目を向けた。強い目線、負の力さえも混じった、目線だ。

その場にいた他の皆が、驚きその様子を見守る。

 

「よく言いますよ、監督……!そもそも彼女を捕手起用する采配をしたのはあなたでしょう!あなたが彼女を客寄せに仕立て上げた張本人なのではないですか」

 

「まだそんな事を……!」

珮斗が唇を噛む。

 

「そう思うか?」

丸岡は眉一つ動かさず返答する。

 

「そうとしか思えないんですよ、僕には!」

 

三澤がそう言い、しばしの沈黙が流れる。丸岡が、三澤の目を見ながらふぅと小さくため息を吐くと、再び喋り出した。

 

「お前はさっきこうも言ってたな、プロは実力が全てで力の有るものこそが起用され、活躍して然るべきだと。……俺も同じだ、いたって同じ考えなんだよ。まぁ、仮にもプロ野球の監督という職務に就いている以上は当然かもしれないがね」

 

「だったらなぜ!」

三澤が反論する。丸岡は微動だにせず言葉を続ける。

 

「俺は……常にチームをより良い方向に導くための采配をしているつもりだ。その結果の一つが、お前の外野手転向だった、それだけの話だ。君には捕手ではなく外野手のほうが、プロの舞台で力をより良く示すことができる。そう、俺は考えたからさ。まぁ、たかだか監督歴数年未満の俺の考えだがね」

 

丸岡は静かに戒めるように言う。そこにはプロの監督として、いち球団を統率する者としての一面が滲み出ているようであった。

 

「そ、そんな……ぬ、ぬぐぐ……」

 

丸岡の言葉を聞いた三澤は肩を震わしながらその場に膝をついた。

悔しいのだ。今まで完全に自分より野球能力の劣ると思っていた、女性である六道。それをチームの長の丸岡に否定され、あまつさえ自分の方が格下であると、ハッキリと宣言された。三澤にとって、この一言で受けた衝撃は計り知れない。

 

「さぁて、説教も済んだし引き上げるかぁ」

 

そんな様子の三澤をよそに、丸岡は今までの緊迫めいた様相は影を潜ませ、弛緩した物言いでこういった。

思わずその場の他勢は空気の落差に目眩がする。

 

「いやいや、済んじゃいないでしょうが!」

伊坂が口を挟んだ。投球練習場に入ってから今までずっと場を見ているだけだった彼は、虫の居所が悪そうな表情は変わっていない。

 

「てめえら、自分で分かってるだろうな」

 

「な、何がっすか?」

 

猛田がおどけたように反応する。伊坂の眉がピクリと動き、口元をちっ、と歪めると続けざまに言う。

 

「ここのキャンプ地の利用時間規約、てめえらは何にも頭に入ってねえのか、集団の規律を乱してえのか、おまけに放送席のガラスまで割りやがって」

 

チームリーダーの口調で矢継ぎ早に怒鳴り込む。一番発声源の近くにいた猛田は思わずよろめき、矢部、六道、珮斗も同じく。ミハラ……ではなく三澤までもが狐につままれたような顔をした。

唯一監督の丸岡だけがわざとらしく煙たがるような顔をした。

伊坂は光るものを手に出し、皆に見えるようにした。それは鋭利な形にかたどられたガラスの破片だった。

 

「窓をやったのは……てめえか、珮斗!?」

伊坂は真っ先にマウンドの珮斗へと視線を向けて言った。

 

「はぇ?!な、なんでそうなるんですか?!」

 

皆の視線が集まる。珮斗は激しく首を振る。

――どうしてそうなるんだよ、やっぱりまだ伊坂さんには目の敵にされてるな、ひどい。

――そもそも俺がこの練習場に来たのは、もとはと言えば用具倉庫に俺をからかいに来た奴を追うため。そいつが放送席のガラスを割ってまで逃げるから。そう、そこにいるミハラが……。

珮斗は顔を三澤の方へ向けた。三澤がそれに気付き。

 

「な、なぜ僕を見る?やっていないぞ僕は!この三澤が、器物損壊など!」

 

激しく否定した。珮斗との『勝負』に負けた副作用か、彼は取り乱し気味だった。

 

「嘘だろ。お前、用具倉庫に俺をからかいに来たじゃないか?それから逃げ出して」

 

「からかう?何の事かサッパリだ!僕がなんでわざわざ君ごときにそこまでする必要があるんだ」

 

珮斗が声をあげ、三澤も声を荒ぶらせる。いつしか二人は距離を詰めて言い合いを勃発させていた。

猛田達が制止しようとするも、止められない。そこに無理やり伊坂が割り込んだ。

 

「静かにしろ!ともかくてめえら二人がガラスの原因とみた。ちょっとこい、取り調べだ」

伊坂が珮斗のユニフォームの背をつかみ上げ、同様に三澤のユニフォームの胸ぐらをつかみ拘束した。

 

「わっ、ちょっと伊坂さん」

 

「なにをするんです!僕は、三澤は何もやっちゃいないぃ、ずっとここにいたんだ!自主練習をしていただけで……」

 

珮斗と三澤が抵抗する。が、伊坂にギッと睨み返され大人しくならざるをえなかった。

 

「やってない、僕はそんなことはっ!この三澤がっ……」

なおも三澤だけは真顔で呟き続けていた。

 

珮斗はその三澤の表情を真横でみて思う。なぜか嘘をついているように見えない。

なんで、ここまで真剣になるんだ。ミハラは本当にやってないっていうのか。

 

(そう言えばミハラはここに俺が入ってきた時に、練習場の電気もつけて隠れもせずに居たよな。逃走者の行動としては、不自然だ……)

 

珮斗はさらに脳内で記憶を回顧する。

用具倉庫で片付けをしていたときだ、『クックック、こき使われてるなぁ』こう声が聞こえた。自分をからかう者が倉庫から逃げ出し、グラウンドを走り追いかけた。暗闇の中でよくわからなかったがそいつはとても長身な影を引きながら、窓を破り……。

 

(……そうだ、今思い出した。そいつは長身だ。今横で抗うミハラは、どうみても俺とほぼ同じくらいの身長だろうか。……だとしたら、どういうことだ。用具倉庫に現れた奴とミハラは全く別の人物だっていうのか?)

 

そこまで考えが至ったその時だ、耳元に囁かれるように何かの声が聞こえてくる。伊坂さんとミハラが言い争っていて騒がしいなかで、ほんの小さな聞き逃しても不思議ではないような声だった。

 

『クックック、それでこそよ』

 

背筋が冷えるような、冷淡な声でそう聞こえたのだ。用具倉庫で聞いたのと同じ声質だと気付くのに時間は要らなかった。

伊坂に背をつかまれたまま、声がした方――練習場の、自分が入ってきた入口へ素早く目を向ける。

見えた。半開きのドアの隙間にギラギラと存在感を持った眼が覗かせている。珮斗達の様子を見て、眼で笑っているかのようだ。

 

(アイツだ、さっきのは、アイツだ!)

珮斗は伊坂の掴む手を身体を揺すって無理やり振りほどき、入口へ向け突っ込む。扉の向こう側の影が、サッとスライドするかのように消えた。

 

「待てよ!」

珮斗は扉を開けて廊下に躍り出た。

 

「おいこらてめえ何処行く!」

伊坂が声を張り上げた。その頃にはもう珮斗は練習場から出ていた。逃げる気か、と伊坂は舌を大きく鳴らす。

 

「いや、誰かがいたみたいだ」

伊坂を窘めるように言ったのは六道だった。

「珮斗はそれを追っていった、もしかしたら伊坂先輩の言う、窓を割った犯人は……」

 

「そいつかもしれない、ってことだね」

丸岡が言葉を継ぎ足した。

 

「ちぃ、どうなってんだ一体よ!」

 

伊坂は丸岡と六道を見渡すとさらに機嫌を悪くしたようだった。三澤を掴んでいた手をあっさりと離すと、珮斗を追うように走り出した。

 

「はは、世話が焼ける」

丸岡はその一部始終を見ながらわざと大きめの声で呟いた。

 

「楽観してる場合じゃない、監督。追わないと」

その丸岡に六道が冷静にダメ出しを繰り出し、練習場から出て行った。

お嬢はおキツイなぁ、と丸岡は頭をポリポリと掻きながらぼやいた。苦笑いも浮かべる。

 

「やれやれ、さぁお前たちも追うぞ」

 

丸岡は苦笑いを消すとポカンと口を開けたまま状況を見守っていた猛田、矢部、三澤達を促した。

 

 

***

 

 

前方の球場廊下を黒い影が駆けていく。珮斗は精一杯の走力でそれを追い掛けた。影はやはり長身で縦長だ、間違いない。自分をからかったのもガラスを割ったのもアイツに違いないと、珮斗はそう断定していた。

 

「待てよおっ!」

 

通路の角に消えた影に向かって、声帯を激しく搾って叫ぶ。もう練習場を出てからいくつめの曲がり角か、数えられない。珮斗も遅れて角を曲がる。階段があった。上のフロアへと続く上り階段だ。影は滑るようなスピードで、階段を上っていく。珮斗も二段飛ばしで階段をせっせと踏破していった。

階段を登りきると、一本しか通路がなかった。奥からは冷たい強風が絶え間なく吹き込んでくる。外に出るんだな、と気付いた。

通路を進むと目の前に広いグラウンドがひらけた。昼間に練習で汗を流したそこは夜闇により、敷き詰められた褐色土は夜の海面のように漆黒に染まっていた。

珮斗が立っているのは、球場のバックネット裏のスタンド中腹辺りだった。階段を上った末に行き着いたのはキャンプの球場の観客席入口だった。

 

「どこに行ったんだ……」

 

周囲にぎっしりと並ぶ応援席を見渡しながら、先程まで追いかけてきた影を探す。外に出られたのはまずい。またグラウンドの方に逃げられるし、はたまたスタンド内を逃げ回る事だって出来る。逃げ場はいくらでもあるからだ。

どうやって探せばいい。どちらを見渡しても影は見えない。この夜闇の中では、その闇自体に紛れることすらできてしまう。

 

「くそう。これじゃ」

 

早くも諦めが浮かびかけた珮斗。しかしそれとほぼ同時に。

 

『クックッ……』

 

笑い声が耳に入る。

珮斗はまた背筋を震わせた。そしてかぶり見た。バックスタンド上層にそいつはいた。スタンド中腹にいる珮斗を冷たく嘲笑い、見くだすような眼で上から見下ろしている。

身長は百九十……否、もしかしたら二メートルはあるだろうか。その長身でかつ筋肉質なその男の体躯は、暗闇の迷彩に紛れるかのように全身が黒色のコートに包まれている、それだけがわかった。

自信を漂わせ仁王立ちするその様には威圧的な風貌を感じる。男の肩より下まで異様に伸びた髪が冷風になびいた。

 

「誰だお前は?」

 

恐る恐る珮斗は口を開いた。影の男はまたクックッ、と微かに嘲笑を浮かべるとおもむろに口を開いた。

 

「たったひとりで追ってきてよかったのかな?」

低く厚い声。威圧感のある外見通りの声だった。

 

「え?」

 

影の男の言葉の意味が分からず、そう口にした瞬間だった。

スタンド上方の座席から、男の身体がひゅっ、と躍り出る。とっさに珮斗は危険を感じ回避しようとしたが遅かった。

影の男はジャンプした勢いそのままに珮斗を掠めた。ぶつかり合い、鈍い痛みが身体を走り、その場にあった観客席に身体をぶつけながら床へと倒される。

 

「ぐぐあっ!」

 

口から意図せぬ嗚咽が漏れた。

立ち上がろうとしたところを、影の男が背後から地に押さえつけるように体重を圧し掛けてきた。さらに左手首を男の大きな手がつかみ上げ、ねじり上げられる。身体が強張る。左手は利き腕でありプロとしての商売道具でもあるのだ。それがいま影の男の意のままにされている。

 

「だから言った、ひとりで追ってきてよかったのかな?このままお前の腕をへし折り、誰にも見つからずここを後にすることなど容易いのだ」

 

男の言葉はまったくその通りだった。憎らしいくらいに。

恐らくこの男の存在を明確に認識しているのは現時点で、球場内の人間の中でも珮斗しかいないのだ。猛田や三澤達も、伊坂や、丸岡もこの男の姿をハッキリ見てはいない。

そして当の珮斗も、男の顔さえ、暗闇の中での先程の一瞬ではハッキリと分かっていないのだ。

よって、後になってこの男の身元追跡をするのは至難に近い。男はそれを計算してやっているのでタチが悪い他無かった。

 

男は左腕をつかむ手の力を強めてくる。左腕に走り出した痛みに、俺は思わず我に返った。

 

「なんなら、口を封じてもいいのだからな」

 

男が冷淡に、嘲りを含んだ口調で言った。さらに左腕にかけられる力が強まる。身体に危険信号が、緊張が走り背筋が冷たくなる。やられる、そう覚悟をした。

が、その次の瞬間には身体を地べたに押さえつけていた負荷が消えて、左腕への絶妙な力加減の戒めも解かれていた。

珮斗は身体を捻り、床を転がり距離を取りながら起き上がった。

振り向くと男の顔が目に入った。距離が近いため、男の顔立ちが初めてよく窺えた。

眉目秀麗という言葉が似つかわしく、尚かつ全体的に引き締まった体躯により、どこか威圧のある顔立ち。男にしては切れ長な眼にはどこか冷たさがある。肩下まで伸びた髪は、蒼みがかった色をしていた。

男は、珮斗をわざと解放したのだ。何故だ。

 

「くくっ、そう怖い顔をするなよ。野蛮な事はあまり好まないのでね」

影の男が愛想良さげに手の平を広げながら笑った。愛想の良さなどは珮斗にとっては微塵も感じなかったが。

 

「な、何のつもりだよ……お前っ」

珮斗は戸惑いを覚えた。それを悟っているのか、影の男はまたあざ笑った。この状況でそんな態度の取れる心境が、珮斗にはとても理解できない。

 

「おーいどこにいやがる珮斗ぉ!!」

 

睨み合いが続いていたそのとき、耳に伊坂さんの声が入る。振り返ると、俺が先程出てきた観客席入口から、伊坂さん、猛田、六道、矢部、三澤、丸岡監督がぞろぞろとスタンドに現れた。

 

「潮時かな」

 

影の男は彼らを尻目に呟いた。言葉とは裏腹に余裕がありげな表情をしている。男はダンッ、と床を両脚で蹴り出すと、なんともスムースな動きで階段を駆け上がりもといたスタンドの上層まで舞い戻った。なんて機動力であろう。他の皆に顔をはっきり見られるのを恐れたのだろうか。

スタンドに現れた伊坂さんらも男の存在に気付いたようで口々に驚きの言葉をもらしていた。

 

「おいっなにもんだ!」

伊坂が真っ先に目上の位置に立つ影に向かって怒鳴る。

 

「これは大変な失礼をした。バルカンズの諸君」

男はいきなり左手を背に回し、右手を胸の前に当て、英国紳士よろしくなお辞儀をする。今までの俺への態度は何だったんだ、と珮斗は思った。

 

「私はただ、貴方がたのチームの視察にお邪魔しただけゆえ……」

男が前屈した体を起こしながらいう。

 

「な、なにをっ?意味がわかんねえんだよっ!」

伊坂がまた怒鳴った。

 

「要するに……スパイか」

六道がいう。そのスパイという単語に猛田らは驚いた。

 

「そんなのホントにいるのかよ!」

 

「ネタバレでやんすか!」

 

驚く猛田達の反応に気をよくしたのか、影の男はくくっと微笑した。冷たくなるような笑いだ、と珮斗は感じる。

 

「興味深いものを見せてもらった。思い球、と言ったかな、ククク……」

 

珮斗は影がそう喋りながらも、後ろへとじりじりと後退していくことに気が付いた。男が後ろへ移動している、つまり観客席の最上層へと、近づいていく。珮斗は、ハッと感づいた。

 

「待て!お前っ逃げるな!」

 

「そろそろ失礼させていただく、どうか無礼は許してくれたまえよ」

 

「待てって言ってるだろ!」

 

珮斗は弾かれたように階段を駆け上がり、男へと詰め寄った。そして男を取り押さえようと、両手を伸ばし漆黒のコートの上から鷲掴みにした。

手応えがない。のれんに腕を押したかのように、掴んだコートの中にいるべき男が消え、珮斗の手はただの服を掴んだ状態だった。

 

「そう慌てるなよ、兄弟」

 

声がして、珮斗は驚いてすぐ真上を見上げた。男が、スタンド最上層のフェンスの上に仁王立ちしていたのだ。

その時初めて男のコートの下に着ていた服装が目に入った。そいつは……珮斗達と同じように、野球のユニフォームを着ていたのだ。デザインはバルカンズとは違うもので、チームの同僚ではない。

だがこれで分かった。男も同じ、野球人。それも手練れの……!

 

「いずれお前の……くくっ、まあいい。またあおう」

 

男は何かを濁すようにそう言い残し、フェンスの後方へとダイブした。

 

「お、おいっ!?」

 

珮斗が驚愕しフェンスから外を覗き込む。ここから落ちたら球場外の地面まで数十メートルはあるのだ。

が、男の姿は見えなかった。球場外には真っ暗な森林が広がっているだけで、球場入口付近を照らす照明にも人っ子一人照らされていない。このキャンプ球場は日本の南方の山間にある球場である。近くには街並みはなく人里離れたところに位置しているのだ。男の気配は全く残すことなく消えてしまった。

 

――アイツは一体……何者なんだ?偵察だって言ったけど、本当にそれだけが目的だったのだろうか?

――それに最後、アイツは何を言おうとしたんだ……?

珮斗の心に奇妙な引っ掛かりが残る。疑念は底を尽きなかった。

 

「逃げやがった!くっそー、珮斗ォ!何ぼさっとしてやがったんだ。だいたいてめえはいつも……くどくど……」

「忍者なんてこの時代にいるんでやんすねえ……」

「どこのユニフォームか、よくは分からなかったな……」

伊坂らもフェンスまで近寄ってきて、珮斗に話を求めたりフェンスから男の行方を探すのだった。

 

「あの男は……本格的に動き出すということか……」

唯一監督の丸岡だけが、その場で立ち尽くしたままポツリと誰へともなくつぶやいた。今までになく彼は、神妙な表情を浮かべている。まるで男の存在に対し、何か思考を巡らせているかのように……。

 

 

***

 

 

真っ暗闇に包まれたグラウンドに吹く冬の風は、不穏な空気を漂わせていた。

その後は結局、窓の弁済は丸岡監督の立て替えで済まされることとなり後片付けはこの俺珮斗と、ミハラですることになった。

割れたガラス片をかき集めながらも俺はいまだ気になっていた。あの男は、一体何だったのだろうか?こういっては何だけど……レ・リーグでも最下位が板についてる俺達を偵察に来るなんて。本当に偵察のみが狙いなのだろうか?それとも他に何か……。

 

今の俺の疑念も、残りの春キャンプ期間での繁忙に追われ次第に薄れていくのだった。しかしながら、いずれこの不吉な予感が現実となる時がくる。今の俺達には知るよしもなかった。

 

冬が終わり、春が来る。そして、熱い戦いを呼び覚ますペナントレース開幕へと近付いていく……。

 

 

 ● ● ● ● ●

 

 

爆砲球団バルカンズ

 

 第2話 おわり

  第3話につづく…



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第3話 プロの舞台

新人組にとって慌ただしい春季キャンプはあっという間に過ぎていった。自らを高めるという間もなく、プロのやり方について行くだけで精一杯な時期とも言えた。

冷たい冬の風は次第に弱まり、日付は三月。例年この時期にはプロ野球オープン戦が始まる。誕生して間もないレ・リーグは既存のセ・パのリーグとの日程合わせの都合上でオープン戦の数は比較的少なく、それも同じレ・リーグ内球団同士の組み合わせのみとなっているのが現状だった。

そんな折、対キャットハンズとのオープン戦で新人組らは監督・丸岡の抜擢を受け出場機会を与えられた。これが彼らにとって、プロの初舞台となる。

だがその傍らで、球界を覆う暗雲が早くも立ち込めつつあった――。

 

 ● ● ● ● ●

 

爆砲球団バルカンズ

第3話 プロの舞台

 

バルカンズのホームグラウンドであるここ、山ノ手市民球場にはほぼ満員の集客を見せていた。この時期のオープン戦としては破格の集客であるし、そもそも下位のバルカンズの試合でこれほどの人だかりは今までにも例がほとんどなかった。

もともとは市営球場であったこの球場は数年前のバルカンズ誕生に合わせて内外ともに再整備がなされたが、もともと予算の乏しいバルカンズの親会社が行ったものゆえ焼石に水をやったようなものだった。そのため観客らが騒ぐたびに球場のあちこちから悲鳴に似た軋み音が聞こえてくるようであった。

時刻は十三時三十分。暖かな日差しを放つ太陽が南中を迎えてから、南西へと傾く頃である。

球場のグラウンドではキャットハンズの試合前の守備練習が行われ、野手らが肩慣らしに白球をグラブ伝いにリレーしていく。スタジアムのスピーカーからはBGMが鳴り響き、数多い観客らの気持ちもそれに併せて、試合開始に向けて高ぶっているようであった。

「準備は出来てんだろうな」

バルカンズが陣取った一塁側ベンチ前にて、チームリーダーの伊坂は屈伸運動をしながら言った。言った相手は、すぐ隣で捕手の防具を念入りに点検している六道だ。

伊坂はこの試合、調整で先発登板をする予定であった。そして六道は、初の実戦起用として打順七番で、スタメンのマスクを被ることとなっていた。

「うむ、問題はない」プロテクターを手際よく装着しながら六道が言った。

「そういやお前、俺の球を受けたことがなかったが」

「見たことはあるしデータも頭に入れている。問題はない」

「……ならいい。今回はお前のリードに任せるぜ。大恥かかねぇようにしな、観客もどうせほとんどがお前目当てだ」

「分かっている。伊坂先輩」

プロ野球界第三の女性選手である六道、彼女の初出場とあって、この試合はオープン戦ながらも世間から注目を浴びていた。満員近くの観客数の理由はそこにあった。報道関係者席のカメラ台数も、オープン戦のそれとは思えないものだった。三澤がかつて言っていた「客寄せ」そして「話題性」の効果としては確かだった。

伊坂の言葉が途切れると六道は目を閉じじっと地べたに座り込んだ。三澤に言われた言葉を思い出して神妙になったのか、はたまたただ集中をしているのか。どちらにせよ先程まで喋っていた伊坂にとっては少々手持ち無沙汰だった。

掛ける言葉を間違えたか、と伊坂は心中で少し後悔した。

時刻はプレイボール予定時刻の十四時の二十分前となりグラウンドではキャットハンズの守備練習が終了し、選手達が三塁側のベンチへとぞろぞろと引き上げていく。

その中で一人、バルカンズのベンチの方へとまっすぐ歩み寄ってくる者がいた。伊坂は気付いて顔を上げた。

女性だった。キャットハンズの黄色基調のユニフォームに身を包んでいる。見目形の整った顔立ちで、どこかいたずらっぽそうな目線を湛えながらまっすぐこちらを見つめてくる。水色がかった髪を首の後ろでテールにまとめている。男のものより一回り小さめなユニフォームがかたどる締まった身体の輪郭は女性の美しさを象徴している。

一見すると野球選手には見えないだろう、その点では六道も似たようなものだが。チアガールか何かが似合いそうだ。

この女性こそ女性プロ野球選手第二回号である橘みずきであった。キャットハンズの中継ぎエース投手である彼女は、同球団のマスコット的存在でもあり、デビュー当初から世間から注目を集めていた。

「久しぶりだね、聖」みずきはバルカンズベンチ前まで来て、瞑想する六道に話し掛けた。聖(ひじり)というのは六道の下の名のことである。六道がそう呼ばれるのを伊坂は初めて聞いた。

 



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