異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ (長串望)
しおりを挟む

序章
亡霊と幻想


 息苦しく重苦しく、締め付けられるような眠りから目覚めて、妛原(あけんばら) (うるう)は自分がひとりの暗殺者になっていることに気づいた。

 

 自分で言っていても意味が分からないけれど、今もって意味が分からないのだから仕方がない。

 ドイツ人作家の真似をしてみたところで文才のない私にはこのくらいが限度だ。いや、果たしてドイツ人だったか。カフカっていう名前はどうもドイツ人っぽくない。作品に興味はあっても作家にはあんまり興味がないので調べたことがなかった。たぶんオーストリア人かチェコ人だろう。

 

 まあ作家のことはこの際どうでもいい。

 

 大事なのは私がグレゴール・ザムザよろしく一夜にして変身を遂げていたことだった。幸いにして私は見るも(おぞ)ましい毒虫に変わっているということはなかったのだけれど、環境の変化という意味ではなかなかに大きなもののように思う。

 

 まず、恐らく私は部屋で眠りに落ちた。恐らくというのは、ベッドに入った記憶がないので、多分いつもの通りパソコンの画面を前にゲームプレイにいそしみ、そのまま寝落ちしてしまったと思われるからだ。

 

 いつもであれば騒々しいアラームに起こされ、何度かのスヌーズと戦いながら目を覚ますのだけれど、今朝はちかちかと差し込む日の光の眩しさに起こされ、寝坊したかと大慌てで体を起こしたところ、爽やかな朝の風と囀る小鳥、そしてマイナスイオン漂う木々と遭遇する羽目になったのだった。

 

 一夜にして我が家の壁が倒壊して外気にさらされる羽目になったとしても、都市部に住む身としては広がる緑自体が馴染み薄い。よしんば一夜にして我が家の壁が倒壊して外気にさらされた上に、これまた一夜にして侵略性外来植物が盛大にはびこったとしてもここまで繁茂(はんも)することはなかろうという森林っぷりである。

 

 こうなると家自体はこの際考えないものとして、私の体自体が一夜の内に運び出され森の中に放置されたものだろうかとも考えたのだけれど、そんなことにいったい何のメリットがあるというのだろうか。

 これが仮にコンクリート打ちっぱなしの薄暗い倉庫とかに閉じ込められていたなら、何がしかの違法取引に端っこの方が触れてしまったために拉致されて、コンクリート詰めにされるべく身柄を拘束されているのかもしれないと思えたのだけれど、しかし森だ。今日日(きょうび)徒歩圏内で探すことの方が難しいレベルのすがすがしい空気とマイナスイオンがあふれる森だ。心地よい鳥の(さえず)り付き。

 

 このあたりで段々とはっきり目が覚めてきて、何故の一言が頭の中を巡り続けたが当然答えなど出ようもない。

 

 とにかく何かわからないかと咄嗟に枕もとのタブレットに手を伸ばしたのは現代人としてはいたって普通の反応だとは思うけれど、もちろんそんなものはなかった。なにしろ枕もとどころか枕自体ないし、ベッドもなければコンセントもないしアダプタに接続されて充電していたタブレットもあるわけがない。身一つなのだ。

 

 何ならあるのか。寝巻か。寝巻しかないのか。量販店で一番安いからという理由で買ってきた青無地パジャマ女性用フリーサイズ(夏用)しかないのか。買ってきた後に自分が女性としてはいささか図体がでかいためにフリーサイズとは名ばかりの決してフリーではない制限から微妙にはみ出してしまいやや寸足らずの寝巻しかないのか。いくら夏とはいえそんな薄着で野外をうろつくのは肌寒いにもほどがある。

 しかも私は寝るときは下着をつけない派なのだ。身を守るものが布一枚しかないというのはあまりにも無防備だ。

 いや、下着一枚増えたところで暴漢相手には何の抵抗にもならないかもしれないけれど、あるとないとでは精神強度がだいぶ異なるのだ。

 そう考えるとビキニアーマーは物理防御力は紙に等しいかもしれないが、攻撃に徹する限りはある程度の安心が得られる心の防具なのかもしれない。絶対食い込んで痛いが。

 

 頭を抱えてしばしそんな現実逃避に興じ、とうとう仕方がないと覚悟を決めて我が身を見下ろし、そして私はさらなる困惑に陥った。

 

 ない。

 

 寝巻がないのである。

 いや、真っ裸ということではない。

 正確に言うと寝巻ではない、ということだ。

 スーツ姿で寝入ってしまったということでもなく。

 

 さすがの私も仕事から帰って着替えもせずにゲームに癒しを求めるほど疲れ切ってはいない。と思う。そう信じよう。信じる者は儲かる。その割に薄給だが。

 

 見下ろした私は奇妙な衣服を身にまとっていた。

 

 足元は見慣れない編み上げのブーツを履き、手もよくよく見てみれば手袋をつけ革の手甲のようなものを巻いている。髪に触れる感触に手をやってみれば、フード付きのマントのようなものを着込んでいるらしい。

 マントの下には動きやすそうな黒の上下を着込んでおり、腰のベルトにはポーチや用途不明の瓶やアクセサリーや、ちょっとぎょっとしたがナイフらしきものが下げられていた。

 

 勘違いしないでほしいのだけれど、これは全く私の趣味の服装という訳ではない。普段からこんな格好で街なんて歩いたら目立って仕方がない。普段の私はもっと地味で目立たない格好を心掛けているし、そもそも街なんて必要でもなければ出歩かない引きこもりなのだ。その必要さえ通販で済ませてしまいたいくらいだ。

 

 ともあれこの謎の格好に私はしばらく困惑した。

 

 マントに銀糸で刺繍された瀟洒(しょうしゃ)な模様やら、時代錯誤な感の否めない古めかしい衣装やら、腰の瓶に収められたやけにケミカルな色の液体やらに眉をひそめてなんだこのファンタジーグッズはと思い、そしてハタと気づいたのだった。

 

 ファンタジー。

 

 そう、それはまさしくファンタジーの世界のものだったのだ。

 

 立ち上がってよくよく調べてみれば、私の服装――というよりはこう言った方がいいか。私の《装備》は私が寝落ち寸前までプレイしていたMMORPGの使用キャラクターのものだったのだ。

 

 MMORPG、つまりマッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲームとは、インターネットを介して大規模にそして多人数のプレイヤーがリアルタイムで同時に参加するオンラインゲームの一種で、特にコンピューターRPG風のものだ。

 

 私は現実逃避と癒しと時間潰しを目的にそのうちの一つをプレイしていて、学生の頃からコツコツ地道にレベルを上げていまや立派な中毒者だった。ゲームの中ではレベルが上がったのに現実では人間としてレベルが下がってしまった気はするがそんなことはどうでもいい。

 

 ゲームにおけるキャラクターはディフォルメされていてここまでのリアリティはなかったけれど、しかし服装の特徴は確かにプレイしていたキャラクターである《暗殺者(アサシン)》のものと一致した。まあ正確にはその系統の最上位職だけれど、何にせよ毎日のように見ているのだから間違えようもない。

 

 問題はどうしてこんなコスプレをして見知らぬ森の中に寝かされていたのかということだ。コスプレにしてはえらくクォリティが高いけれど、作って作れないことはないのだろうと思う。私は作る気もないし作る技術もないけれど。

 

 とにかく服があるならある程度は安心だと、私は早速情報を集めようと歩き出した。

 

 まあ私の場合はそこまで頭が回っていなかったけれど、良い子のみんなは状況がわからない時に無暗に歩き出すのはお勧めしない。ただでさえ森の中というのは景色に特徴がなく地形を覚えづらいため、普通は半端な目印くらいではすぐに迷ってしまう。唯一の手掛かりである初期位置さえ喪失してしまえばもはや手掛かりは一切失われる。森歩きに半端に慣れているものほど陥りがちと聞くが、私などは都会生まれ都会育ちの悪い奴にも良い奴にも大体友達がいないコンクリートジャングルに育まれたもやしだ。この行動はあんまりにも無防備だといってよかった。記憶に関しては問題ないという確信があったとはいえ普通は怒られる。

 

 さて。

 

 あんまりにも無防備に無造作に適当に歩き出した私は、落ち着いたとは思っていてもやっぱりまだ冷静ではなかったようだ。本当に落ち着いていたならば、私はもっといろいろなことを考え、いろいろなことに気づき、そしていろいろな問いかけに至ったはずだったのだ。

 

 なぜ日の光が木々にさえぎられる薄暗い森の中で、こんなにもはっきりと物が見えるのか。階段を上るのさえ億劫な事務職が歩きなれない森をどうして疲れもなく歩き続けられるのか。嗅いだこともない川のにおいに気づき、自然とそちらに歩み始める感覚は何なのか。

 

 そして。

 

「……なんで………」

 

 私はようやく()()に至って初めて問いかけた。

 

「なんでこんなことが、できるんだろう……」

 

 私の前には、明らかに未確認生物である角の生えた巨大な猪が牙を剥いた状態で断頭され絶命していた。

 

 茂みから、彼あるいは彼女としては十分に不意を突いたつもりで仕掛けてきた奇襲を、私の奇妙な感覚の上でははるか以前から気付いていた獣の襲撃を、反射的に振るわれた私の手刀が一刀のもとに切り捨てたのだった。

 

 たぶん以前の私だったら目で見ることさえできないほど鋭く繰り出された手刀は、分厚く鍛えられた空手家の手がビール瓶の首を切るよりも容易く、それこそ宴会芸よろしくこの獣の首をぞふりと気軽に切り落としたのだった。

 

 いまだ自分が死んだことも理解できないままの頭部がくるくると宙を舞う間に、私は自然な動作で血を払い、断面から血が噴き出るより早く胴体を蹴り飛ばしてどかし、他にはいないかと視線と感覚を巡らせた。

 

 そしてどすんと重たげな音を立てて首が落ちてきてふと我に返り、返り血一つなく、しかし手にははっきりと血と脂のぬめりを感じる自分を見下ろし、あまりの()()()()()()()()に困惑した。

 

 目覚めてからこっち、ひたすらに困惑しっぱなしだった。

 驚きに叫べばよかったのだろうか。

 声を出して泣き叫べばよかったのだろうか。

 訳が分からないと喚き散らし、誰かに助けを求めればよかったのだろうか。

 これは夢なんだと必死に願って、安穏とした眠りに戻れることを祈って目をつぶればよかったのだろうか。

 

 しかし半端に冷静になった私の喉元で叫びは押し殺され、涙腺は遥か昔に使い方を忘れ、助けを求める相手など神様にだっていやしない。そして夢でないことはどうしようもなく五感を圧迫する刺激が教えてくれた。

 

 息苦しく重苦しく、締め付けられるような現実(リアル)から抜けて、私は自分がひとりの暗殺者になっている幻想(ファンタジー)に気づいたのだった。

 




用語解説

・異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ
 いかいてんしょうたん、と読む。

・妛原 閠(あけんばら うるう)
 26歳。女性。事務職。趣味はMMORPG。

・MMORPG
 Massively Multiplayer Online Role-Playing Game(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)の略。大規模多人数同時参加型オンラインRPGなどと訳される。

・ゲーム
 作中で閠がプレイしていたMMORPG。タイトルは「エンズビル・オンライン」。某MMORPGを参考にしている。

・《暗殺者》
 初期《職業》である《盗賊》から派生する上位《職業》及びその系統の総称。
 高い武器攻撃力、高い素早さによる連撃、高い器用さによるクリティカルで効果力をたたき出すトリッキーな《職業》。姿を隠したりする直接攻撃力にはかかわらない特殊な《技能》が多い。
 妛原閠は《盗賊(シーフ)》→《暗殺者(アサシン)》→《執行者(リキデイター)》→《死神(グリムリーパー)》と続く《暗殺者》系統の最上位職。詳細は後述するが産廃職。
『暗殺者と親しくするのはお勧めしない。自分が暗殺者だと公言してる奴なんて、まず長生きしないからな』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

亡霊と隠蓑

前回のあらすじ
26歳事務職の妛原閠は、ゲーム内のキャラクターの体で見知らぬ場所に目覚めた。
そしてついうっかり出会い頭の罪もない野生動物をキリステし、このファンタジー世界の無常を噛み締めるのだった。


 少しかじった程度の知識なのだけれど、神道には(けが)れの概念がある。不浄なもの、好ましからざるものを穢れとする。死や病、怪我も穢れだ。そしてこの穢れは伝染するものとされる。例えば昔の公家などは、出勤中に動物が死んでいるのを見かけて、穢れを祓うためにしばらく籠るということもあったようだ。私も出勤したくない時に使いたい言い訳だと思う。

 

 今まで私はこの穢れという概念をそういった文献上の言葉としてしか認識していなかったのだけれども、今回間近で死に立てほやほやの死体を目にするにあたって、穢れというものを体感した。

 

 恐ろしいとか、自分のしでかしたことに対する不安とか、そういったものよりも先に、暖かさを失っていく物言わぬ()()()に私が感じたのはただ一つだった。

 

 ()()()()()

 

 ただそれだけだった。

 

 直前まで生きていたものだった。もし彼或いは彼女が友好的で、のんびりと鼻先を出してきたりなどしたら、私はもしかしたらおっかなびっくり撫でてやって、そしてその暖かさや、硬くてちくちくする毛の感触にいちいち驚いたり笑ったりしていたかもしれない。洗っていない獣のにおいに顔をしかめたり、べろんちょと舐められて汚いなあと手を拭ったかもしれない。

 

 しかしそういった出会いは得られなかった。

 

 彼(ある)いは彼女は明確に私を襲うつもりでやってきて、そして私はその敵意に夢現のような心地で反射的にこれを殺戮していた。女としては背が高いとはいえ、どうしても細身な私は大した脅威にも見えなかったのだろう。或いは《暗殺者(アサシン)》系統はそう言った気配を隠蔽(いんぺい)する特徴があったのかもしれない。しかし、これでも私は、廃人でもなければまず到達できないとされる最上位職の最大レベルに到達している中毒者だ。戦闘は得意ではないし、キャラクター自体も素早さと隠れ身を重視して育てたものだけれど、それでも最大レベルのキャラクターの力強さ(ストレングス)はそこらの獣くらいはまるで脅威にもならぬものだったらしい。

 

 容易く首をはねられ、こうして横たわる()()()は、私にとってはもはや動物とさえ感じられなかった。たとえその毛皮がどんなに柔らかく心地よかったとしても絶対に触りたくなかった。生きている時にはまるで感じられなかったのに、それが死体となった途端に、死んでいるのだと頭が理解した途端に、私は不思議とそこに気持ち悪さと汚らしさを感じたのだった。

 

 虫もたかっていない、腐ってもいない、しかしどうしようもない気持ち悪さがそこにあった。

 

 当然、そんな惨状を作り上げた右手は、どうしようもなく汚れていると感じられた。

 

 あまりに素早い切断だったし、すぐに血を払ったから、一見汚れているようには見えない。しかし手袋越しにも血と脂のぬめりが感じられ、手袋越しだというのに得体の知れない何かがしみ込んでくるような気さえして、吐き気を覚えた。

 

 だくだくと流れ落ち、地に染み込み、そして大気に流れていく血の匂いが、拍車をかけた。

 

 私は吐き気をこらえて駆けだした。川の匂いがしたのは確かなのだ。川の匂いなど嗅いだことはないけれど、しかしもはや自分の感覚を疑う気にはなれない。薄暗い森の中を真昼のように見通し、苔や下生えで不安定な足元をものともせずに足音もさせず駆け抜ける身体能力。それを自然に扱える自分に、いったい何を疑えというのだ。

 

 水の流れる音が聞こえてすぐに、木々が開けて澄んだせせらぎに出た。

 

 私はもういてもたってもいられず、すぐに川辺にかがみこみ、ひやりと冷たい川水で丹念に手を洗った。革と思しき手袋はまるで水を通さず、そのくせひどく薄くて私に流れる水の感触のいちいちまで伝えてくれた。これも見た目通りの品と思うよりも、まったくのファンタジーな品だと思った方がよさそうだ。

 

「ファンタジー、ね」

 

 ありがちな異世界転生ものだとか異世界転移ものだと、物語の冒頭はもう少し運命的なものだと思うのだけれど、ずいぶんと血なまぐさく陰湿な始まりになってしまったものだ。

 

 異世界転生もので文化や価値観の相違に悩まされるのはよくある展開だが、それよりも以前にこんな洗礼を受ける羽目になるとは。

 

 手を洗い、水気を払って、拭くものもないので仕方なくコートの裾で拭い、私は川辺の大き目な石を選んで腰を下ろした。少し休んで頭を冷やさなければ、そう強く意識して体を休めようとすると、奇妙なことが起こった。

 

 うつむいて視線を下ろした先には、私の膝がある。何故だかその膝を透かして、椅子代わりに座っている石が見えるのだ。目の錯覚かと思って何度か目をまたたかせ、ごしごしとこすっても見たが、それでも変わらず半透明に透けてしまった足を通して向こう側が見える。どころかこすった腕自体も半透明で、見れば全身半透明に透けて向こうが見えるのだ。

 

 まさかショックのあまりいつの間にか死んで幽霊にでもなったのだろうか。まあ生きてる時も幽霊みたいないてもいなくても変わらないような人生は送ってきたけれど、そういうことでもないだろう。

 

 少なくとも座っている感触はあるし、相変わらず風の匂いや川のせせらぎも感じられる。ただ透けているだけなのだ。そのただ透けているのが問題なのだけれど。

 

 どういうことなのかと立ち上がってみると、不思議と今度は透けない。太陽に掌をかざしてみれば、ちゃんと掌の形に影が落ちてくる。うろうろと歩き回ってみるけれどやはり変調はない。

 

「疲れてるのかな……いや体は全然疲れていないっていうかむしろ肩凝りもないし眼精疲労もなければ眠気もないし過去数年ここまで健康だったことない気がするけど」

 

 しかし精神的には随分疲れた気がする。上司の朝令暮改や全く理解していない奴特有の中身のない無意味な指示とかも疲れるが、こうもわけのわからないことが続く疲れは久しぶりだ。

 

 再び腰を下ろしてため息を吐いてしばらくすると、またもや半透明になる。半透明になるが別にそれで変調があるわけでもないし、害がないならそれいいのかなという気もしてきた。ここまで出鱈目なことが続けて起きているのだし、これもファンタジーと思えばいい。ファンタジーに理屈を求めても……いやまて。

 

 そういえばこのファンタジーには理屈があるのだった。

 

 正確に言うと今の私の体のもとになっているだろうゲームには理屈があった。

 

 それに当てはめてみると、もしかしたらこれは無意識のうちに何かしらの《技能(スキル)》を使っているのかもしれなかった。

 

 ゲームの中では、いわゆる魔法などと同じように、《職業(ジョブ)》ごとにポイントを消費して特殊な攻撃や特殊な行動ができるようになる《技能(スキル)》というものがあった。

 

 私は今自分が使っているものが、《盗賊(シーフ)》から派生する《暗殺者(アサシン)》系統なら必ず覚えることになる《隠身(ハイディング)》という《技能(スキル)》だとあたりをつけた。

 

 これは使用すると一定時間ごとに《SP(スキルポイント)》と呼ばれるポイントを消費して、自分の姿を隠してしまう《技能(スキル)》だ。この《技能(スキル)》を使用している間は感知系のスキルを使われるか、たまたま攻撃が命中したり範囲系の魔法などでダメージを受けなければ解除されない。

 

 《技能(スキル)》には十段階のレベルが設定されていて、私はこれを最大に上げているため、一度に受けるダメージが最大《HP(ヒットポイント)》の一割を超えなければ解除されることがないし、座っている時は《SP(スキルポイント)》消費量が自然回復量より少ないので休憩時によく使っていたものだ。というより、この《技能(スキル)》を使用している間は移動ができないので、感覚の鈍い敵の目をくらませるか、隠れて休憩するくらいにしか使えないのだ。

 

 《暗殺者(アサシン)》系統と言えど、こんな初期《技能(スキル)》を最大まで鍛え上げるのは余程の物好きか、上位《技能(スキル)》取得のために仕方なくという場合が多い。私は前者だ。そもそも隠れられるというその一点だけで私は《暗殺者(アサシン)》を選んだのだから。

 

 例えば、《隠身(ハイディング)》の上位《技能(スキル)》である《隠蓑(クローキング)》を私は使ってみる。頭の中で強く意識すると、体は自然に動いた。ゲーム内の小さなエフェクトでしか見たことはなかったが、それと同じように私は外套(マント)を羽織るような動作をする。すると不可視の外套が私の体を覆い、先程と同じように体が半透明になる。

 

 この《隠蓑(クローキング)》は《隠身(ハイディング)》とは違い、このまま移動することができる。レベルが低いときは移動速度も制限されるが、これも最大レベルまで上げている私は何の支障もなく動ける。《SP(スキルポイント)》消費は自然回復量ととんとんで、無駄な戦闘を回避したいときや長距離を移動するときに便利だ。やはり感知系のスキルで看破されるし、範囲系の攻撃は受けてしまうが、もちろんこちらも一割くらいのダメージを受けなければ解除されない。ただし、移動はできるけれど攻撃したりスキルを使ったりすると解除されてしまう。

 

 さらに上位のステルス系《技能(スキル)》があと二つあるが、そちらは効果は確かに高いのだけれど《SP(スキルポイント)》消費量が自然回復量を上回るので、先行きの不安な今はやめておこう。万が一《SP(スキルポイント)》回復手段が自然回復以外になかった場合、貴重となるだろう回復薬を消費せざるを得ない状況は作りたくない。

 

 しばらくは危険の回避のためにも、《隠蓑(クローキング)》を常時展開して行動するべきだろう。野生動物くらいなら容易く倒せるのはわかったけれどあまり気分のいいものではないし、他に比較例がない以上あれは最低程度の危険とみておいた方がいい。ありがちな異世界転生展開と甘く見て俺つえーをしてしまうと後が怖い。

 

 それになにより常時《隠蓑(クローキング)》は私の普段のプレイスタイルなので落ち着くのだ。

 

 もともと戦闘したりなんだりが苦手な私が、なんだかんだで長くこのゲームを続けられたのは《隠蓑(クローキング)》のおかげだ。最初は人に勧められて始めたのだけれど、正直自分でプレイするより人のプレイを見ている方が好きだった。かといってプレイ動画はどうしても展開が限られてしまう。しかし《隠蓑(クローキング)》で移動して他のパーティーの後をつけたり、ダンジョンにもぐったりすれば、苦せずして人様のプレイが拝めるのだ。しかもパーティーを組んだりしなければ《隠蓑(クローキング)》中の私は誰にも認識されないので、面倒な絡みや勧誘などとも無縁でいられる。素敵すぎる。人間と会話したくなくてゲームに入れ込んでるのに何が悲しゅうて人間と絡まなければならないのか。MMOプレイする人間としては甚だしく間違っている気もするけれど、世の中にはそういう、人のこと見てるのは好きでも人に絡まれるのが煩わしい人間はいっぱいいるのだ。いるはずだ。きっといる。いると思う。いろ。

 

 ともあれ、だ。

 

 身体能力だけでなく《技能(スキル)》もゲーム準拠で使用できることが判明したのだ。これからの生活もゲーム時代を基準に考えていいかもしれない。つまり、できるだけ人と絡まず、ストーキングもとい人間観察をしながらのんびり暮らそうということだ。

 

 せっかく肩凝りも眼精疲労も腰痛も寝不足もレクサプロもない人生に生まれ変われたのだ。ただ生きていることを続けていただけの生活に未練はない。死んでいるのと変わりのない、幽霊みたいな生活だったのだ。だったら、開き直ってもいいじゃないか。悲観的で厭世的で無意味で無価値な人生を送ってきたのだ。楽観的で楽天的で無責任で無関係な人生を謳歌したっていいじゃないか。明日も生きていくことに失望しかなくてゲームに逃げ込んだ生活を送るより、明日がどうなるかわからないけど少なくとも逃げ込めた先のゲームもどきファンタジーで自由気ままにロハスロハススタイルで生きた方がいいに決まっている。

 

 私は決めた。

 いま決めた。

 誰にも見えない幽霊として生きていこう。

 幽霊だから、死んでいこうかな?

 朝はぐーぐー遅くまで寝て、気が向いたら起き出そう。

 昼はのんびり気が済むまであちこちうろつきまわろう。

 夜は誰もが寝静まった町中を、一人気持ちよく歩こう。

 満員の通勤電車も人間関係だってないんだ。

 会社も仕事も何にも考えなくっていいんだ。

 死んだり病気になったりはするかもだけど。

 

 ああ、決めた。

 

 私は決めたぞ。

 

 幽霊は幽霊らしく、生きている人間を草葉の陰から覗いて羨んで笑って弄って、そうしてのんびり暮らすのだ。

 

 妛原(あけんばら) (うるう)はこうして幽霊になったのだった。




用語解説

・力強さ(ストレングス)
 ゲーム内ステータスの一つ。その他のステータスも含め以下にまとめる。
 HP(ヒットポイント):キャラクターの体力を数字で表す。攻撃を受けたりした場合減り、ゼロになると死亡する。時間経過で徐々に回復する。
 SP(スキルポイント):《技能(スキル)》を使う際に消費される。足りない場合発動できない。時間経過で徐々に回復する。
 STR(ストレングス):力強さ。物理攻撃で与えるダメージに影響する。またアイテムの所持可能重量にもかかわる。
 VIT(バイタリティ):生命力、体力。防御力や身体系バッドステータスへの抵抗に影響する。
 DEX(デクステリティ):器用さ。命中率、クリティカルヒット率、回避率など確率のかかわる行動に対して影響する。
 AGI(アジリティー):敏捷さ。回避率や命中率、また攻撃速度や移動速度などに影響する。
 INT(インテリジェンス):かしこさ、知性。魔法の効果や精神系バッドステータスへの抵抗などに影響する。
 LUC(ラック):幸運。運の良さ。確率のかかわる行動に影響する他、アイテムのドロップ率などが向上する。

・《技能(スキル)》
 SPを消費して使用する特殊な行動。魔法や威力の高い攻撃などの他に、《職業》ごとに特色のある《技能》が存在する。一部のイベントやMobには特定の《技能》がなければ攻略が困難または全くできないものも存在する。

・《職業(ジョブ)》
 キャラクターを育てていく上でどのようなスタイルにするかを決定する要素。《職業》ごとに得意な事や使用できる《技能》が異なり、その《職業》でなければ利用できないプレイスタイルも多い。
 妛原閠はゲーム開始時点の真っ白な状態である《初心者(ノービス)》から、素早さが高く《窃盗(スティール)》などの《技能》を持つ《盗賊(シーフ)》を選択し、上位職である《暗殺者(アサシン)》、上位二次職である《執行者(リキデイター)》そして現状で最上位職である上位三次職《死神(グリムリーパー)》へと育て上げた。

・《隠身(ハイディング)》
 《盗賊》が覚えることのできる《技能》。使用すると姿を隠すことができるが、移動はできない。隠蔽看破魔法や、一部のMobには見破られて無効化される。ダメージを受けることでも解除される。
 レベルを上げていくことでSPの消費量は減るが、あまり使える《技能》でもないので育てるプレイヤーは稀。
『死体のように息を潜めろ。本当の死体になる前に』

・《隠蓑(クローキング)》
 《隠身》の上位スキル。《暗殺者》が《隠身》を一定レベルまで上げると取得可能。姿を隠したまま移動できる。ただし低レベルでは移動速度が遅く、実用に足るレベルまで上げるのは苦労する。また使用中に攻撃を仕掛けると自動で解除されてしまう。
『アレドの殺し屋は孤独なものだ。仕事の時も休みの時も、死んだ時さえ誰にも見つからないのだから』

・レクサプロ
 選択的セロトニン再取り込み阻害薬。一日一回夕食後に服用。副作用に口渇感、吐き気、眠気などがある。慣れるまでは胃薬を一緒に処方されることが多い。

・ロハスロハススタイル
 LOHAS(lifestyles of health and sustainability)、つまり健康で持続可能であることを重視する生活スタイル。閠の場合「健康と環境を志向するライフスタイル」と日本的に認識しており、スローライフ、健康、癒しなどを念頭に置いていると思われる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

亡霊と白百合

前回のあらすじ
半分現実逃避のやけっぱちで、セカンドライフを送るのだと気楽を装って正気を保とうとする閠。
耐え難い現実に向き合うコツは、直視することでも目をそらすことでもなく、半分だけ見て半分だけ目をそらすことだ。


 さてと。

 それでは。

 改めまして。

 

 私は新たな人生を幽霊としてのんびり過ごすというろくでもない決意をキメたのだったけれど、問題はここがどことも知れない森の中ということだった。

 

 先程から見る生き物と言えば、出会い頭に悪魔超人も真っ青のギロチンチョップでまさしく出会ったばかりの頭をすっぱり大切断してしまった角猪や、何やら雅な鳴き声を上げる鳥、それにせせらぎにちらほら見える魚くらいだ。

 

 小動物や魚なんかは見ていて癒されない訳でもないけれど、いくら何でも日がな一日眺めて過ごすというのも退屈だ。生産性がない生活を送る気ではいるけれど、そこまでなにもしないのは幽霊どころか死体と変わりない。

 

 川が流れているのだから、最悪川沿いに歩き続ければどこかに出るだろうけれど、必ずしもそのどこかが人里に近いとは限らない。

 

 そこまで考えて、最悪の想像に思い至った。

 

 あの角猪はゲームでは見たことがない獣だった。そのことから必ずしもすべてがゲーム通りではないとは思っていたけれど、そうなるともしかしたら人間そのものがいない世界に転生したという可能性もありうるのではないだろうか。人間というか、知的生命体全般。

 

 この体が必ずしも人体と同じようにできているとは思えないし、私が平然と呼吸して違和感なく体を動かせるからといって酸素濃度や重力値が地球と同じとは限らない。とはいえ少なくとも空の色や陽光の加減、水の状態や動植物から見て、この世界が恐らくハビタブルゾーン、生命居住可能領域であろうということは予想できる。

 

 この時点で天文学的レベルで希少な発達っぷりと言って過言ではないくらい、宇宙には生存に適した惑星が少ないと聞いたことがある。私たちの知らない生命形態に適した惑星はあるかもしれないけれど、少なくとも地球型の惑星でかつ地球のように生命が発達可能な惑星は驚くほど少ないだろう。

 

 その驚くほどレアな世界に来れたのはいいとして、そこで知的生命体が発生し、かつ文明を起こすレベルにまで発達しているという、二重の難易度の壁が立ちはだかる。まだ二足歩行を始めていないとかいうのでも十分好条件で、下手すると環境がそれを許さないために文明を起こすに十分な知性と能力を持った生命体が進化できないかもしれないのだ。

 

 どうして異世界転移した連中はどいつもこいつも楽天的に何とかなると思えるんだろうか。どう考えても奇跡の重ね掛けとしか思えないレアリティではないか。

 

 私とあのハーレム主人公たちと何が違うのか少し考え、そして気付いた。ヒロインである。

 

 ヒロインでなくてもいい、現地人である。

 

 異世界転生やら転移やらで大事なのは現地人との接触が割と早い段階で起こることだろう。全く何もわからない主人公に現地のことをいろいろ教えてくれ、その後キーパーソンとして行動を共にしてくれるヒロインとかそのあたりが大事なのだ。仮に現地人でなくても、頼れる仲間とか、そういうのでもいい。不可思議な状況を前に仲間がいるのは大事だものな。

 

 ご都合主義と言えばご都合主義なのだろうけれど、物語の展開的にも早いうちにそういった手合いと遭遇するのは必須と言えるだろう。話が進まなければ文字通りお話にならない。いつの世も物語はそのように始まるのだ。ボーイミーツガールとかボーイミーツボーイとかガールミーツガールとかヒューマンミーツモンスターとか、出会いは物語を加速させるのだ。

 

 翻って私は何だ。

 

 出会ったのってなんだ。

 

 猪だぞ猪。角付きの猪。しかも全力でこっちを殺しに来る鼻息の荒い角猪。オーエルミーツモンスター。挙句に出会い頭に首ちょんぱだよ。OLの所業じゃないよ。モンスターミーツモンスターだよ。どんな怪獣大戦争だ。

 

 殺してしまってるから話も進まないし直後に汚らしいからって手を洗い始めるド畜生だぞ私は。命の尊厳もへったくれもあったもんじゃない。初殺戮の直後で命に敬意払えるほど余裕ある民族じゃないんだよこっちは。

 

 しかしまったくどうしたらいいというんだ。

 

 考えてもみてほしい。仮に、仮にだけど、異世界転生ものの新作と期待して読み始めてみたら、いきなりアニメだったら黒塗り必至の殺戮かました挙句、三話目に突入してもひたすら一人語りを続けて現地人の一人も出てこない、しかも主人公が26歳元事務職現暗殺者とか誰が喜ぶというんだ。

 

 そのうえ露出の欠片もないガチ暗殺者スタイルで色気など微塵もない大女だ。

 

 さらには《技能(スキル)》で隠れているので第三者視点だとひたすら爽やかな朝の空気とマイナスイオン溢れる心地よいせせらぎの流れる森の映像しか流れないんだぞ。放送事故か。私だったら「しばらくお待ちください」とか「映像が乱れております」のテロップ流すわ。

 

 もしこのままさらに一話分、石に腰を掛けた透明人間を映し続けたらある意味伝説回だろうが、その間ひたすら独り言をしゃべり続ける声優が哀れで仕方がない。

 

 などとありもしないアニメ化を妄想して華麗に現実から逃げていたのだが、どうやらこの体の感覚は恐ろしくすぐれているらしく、気もそぞろだというのに耳ざとく物音を聞きつけた。

 

 その物音に耳を傾けると、私の体は私の思うよりも鋭く働いて、すぐにその物音が足音であることを悟った。それも二本足の足音だ。足音だけでなく金属の擦れる音もする。衣擦れの音も。それはつまり、金属を使い、服を着た、二本足の生き物、つまり高確率で人間かそれに近い形の知的生命体であろうと思われた。そのまま集中すれば足音の持ち主の体重や歩き方の癖と言った事までわかりそうだったけれど、あまりに情報量が多く、酔いそうになって止めた。もう少し慣らしが必要そうだ。

 

 私は改めて自分の《技能(スキル)》である《隠蓑(クローキング)》がしっかり発動し、自分の姿が隠れていることを確認した。……私からは半透明に見えるけれど、周りからは見えなくなっている、筈だ。川面に映らないし。

 

 この《技能(スキル)》を使っている限り目視は出来ないし、恐らくだけれど気配やにおいもかなり薄くなっている筈だ。感知《技能(スキル)》や一部の勘の良いモンスターにしか見つからないのだから、少なくとも設定上はそうなっている筈だ。

 

 仮に見つかったとしたらその感知《技能(スキル)》持ちや一部の勘のいい奴ということになるのでもうどうしようもない。諦めよう。幸い私の身体能力はゲーム時代のステータス情報を引き継いでいるようだから、まあたいていの雑魚なら先程の角猪のように素手で解体できるだろうし、そういう血なまぐさいことになる前に軽く走るだけで簡単に振り切れるだろう。

 

 話をしてみるという選択肢はない。

 

 私はそういう煩わしいのが嫌いなのだ。チャットとか文字での会話なら、考える時間もとれるし相手を人間と認識しづらいからまだ何とかなるが、生身の相手と向かい合って話すとか無理だ。きつい。職場ですら幽霊と陰口たたかれるレベルでひっそりと息をひそめて過ごし、最低限必要な会話でさえロボットと陰口たたかれるレベルで定型文を条件反射で返すような人間だ。初対面の、それも異文化どころか異文明の異世界人相手に朗らかなコミュニケーションとれるほど私はできた人間ではない。異世界転移で一番のチートはあいつらのコミュニケーション能力だと思う。こちとらコンビニ店員の「あたためますか?」にさえ手ぶりでしか答えられないんだぞ。

 

 自虐だか自慢だかわからない感じになってしまったけれど、とにかくそういう次第で、コミュニケーションを前提としないスタイルで行こう。

 

 大体人間と決まったわけでもなし、コミュニケーションが取れる相手かもわからないのだ。異世界チートで言葉が通じればいい方で、ゴブリンとかその手のMob(てき)かもしれないのだ。むしろそういう可能性の方が高いと覚悟しておいた方が人間じゃなかった時の精神的ダメージが少ないかもしれない。

 

 ゴブリンならまだましな方という考え方で行こう。あいつら小柄なくせに悪意がとんがってて男は殺して喰らって女は犯して喰らうとかいう、神が悪意と汚物をこねくり回して途中で飽きたのでそこらへんに放り出したら勝手に生まれてきた生き物みたいなダークな印象が強いが、幸い一匹二匹なら最弱レベルだ。それに今日日は善いゴブリンとか、萌え系のゴブリンとかも多い。より強靭なオークとかでないことを祈ろう。オークも最近は紳士的な描き方がされることが多いけれど、まあお国柄だろう。常に最悪を想定しておいた方がいい。現実はその一歩先を行くものだし。

 

 そのような警戒をしながら待ち受けた相手は、そんな私の悲観的な想像を鼻で笑うようにやってきた。

 

 下草を払いながら獣道を抜けて河原に抜けた姿は、最悪の想像よりずいぶん文明的だった。

 

 よく履き古された編み上げのブーツが、河原の丸石をきしぎしと踏みながら、足取りも軽く川へと向かう。

 

 小柄な体は、私の身長が180センチ超えてるから、それと比べて140かそこらといったところだろう。まだ成長期だろう肉より骨の目立つ細身で、布の服の上から胸や膝など部分部分を白っぽい革の鎧で守っている。腰には革の鞘に包まれた剣を帯びて、背中側には手斧のようなものが見えた。ベルトには他にもポーチや巾着など、すぐに使うことのできるように道具が吊るされているようだった。

 

 背には大人用と思しき少しばかり大きめの鞄を背負っており、小さなシャベルや水筒らしき革袋などが吊るされていた。

 

 川の水を汲もうというのだろう、かがみこんで水筒を沈めると、飾り紐で高めに結い上げた銀に近い白髪がきらきらと光った。顔立ちは西洋人のように鼻が高めで彫りが深く、零れんばかりの大きな瞳は翡翠のように煌めいている。まだどこか幼さの残る年頃で、性別の別れる際といった中性的な顔立ちの少女だった。十代半ば、いや前半くらいだろう。

 

 いかにもファンタジーでいうところの駆け出し冒険者といった風情は、ゴブリンの生態を観察するという生産性のかけらもない苦行を予想していた私には、かなりの好条件に思われた。

 

 旅慣れた熟練の冒険者の旅は見ていて安心できるだろうけれど、そこにはハプニングやスリルといったものが欠ける。この垢抜けない印象のある少女ならば、ほどほどに旅を続けながら適度にミスや挫折を経験して成長していく、そういったロマンあふれるストーリーが拝めるに違いない。

 

 水筒を満たし、軽く顔を洗い、しばし休んだのち川を渡って歩き始めるこの年若い冒険者見習いの後に続いて、私もファンタジー世界への旅に出るのだった。




用語解説

・ハビタブルゾーン
 生命居住可能領域。宇宙の中で生命が誕生するのに適していると考えられる環境。つまるところ地球と似た環境と考えて大体差し支えない。

・ハーレム主人公
 どうした訳か行く先々の重要人物が世界観における男女の階級差や年功序列などを考えると不自然に若い異性に偏っている上、その世界の価値観から考えるとあまり普通でない感性を持っているにもかかわらず、不可解なまでにキャラ被りの少ないアクの強い面子からやたらと好感を持たれて、しかも致命的な不和を招かないままなんだかんだもてはやされる主人公の類型。

・一番のチート
 異世界転生や異世界転移で最も驚異的なチート、コミュニケーション能力である。次いで異常なまでの幸運。オタクであったとか地味な人間であったとかもてなかったとか一部購買層に共感を誘うような設定でありながら、何故か異世界で初対面の相手とも自然なコミュニケーションを交わしつつがなくストーリーを進めるチートスキル。

・Mob
 語源は諸説あるが、基本的に敵のことを指している。

・ゴブリン、オーク
 どちらもファンタジーでは定番のモンスター。亜人として扱われることも。
 大抵は醜悪で邪悪とされるが、最近では人間よりよほど親しみやすかったり紳士的だったりする描かれ方をする作品も見受けられる。

・冒険者
 ファンタジー世界の花形。旅をしながら、またはどこかに拠点を持ち、モンスターを倒したり素材を集めたりお使いイベントをこなしたり世界を救ったりする何でも屋のようなもの。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合と角猪鍋

前回のあらすじ
人間観察は好きだけれど人付き合いは苦手という困ったちゃんな閠ちゃん(26歳事務職)。
年端もいかない幼気な少女を付け回して舐めるように観察することを決め、ストーキングの旅が始まった。


 百合(リリオ)という名前は、母が名付けてくれたものだと聞いています。他領から嫁いできた母が、故郷でも馴染みのあった花の名前を私につけてくれたのだそうです。私が幼いうちに母が亡くなってしまった後も、この名前と、いろいろなものに刺繍や彫り物として遺してくれた白百合の紋が、今でも優しかった母とのつながりを感じさせてくれます。

 

 母の生まれ育った土地は南の暖かな()()()で、寒さの厳しい当地に馴染むのは随分と大変だったと聞いていますが、それでも母は寒い冬が来る度に、暖炉の傍で私を暖かく抱きしめて、リリオがいてくれるから私は寒くないわと微笑んでくれました。

 

 故郷の花を思い起こさせることで少しでも母の寂しさを和らげられればと、冬の間私はいつも母の傍にいたように思います。まさか言葉通り、子供体温の私を抱っこして暖を取っていると知ったのは後になってからでしたけれど、まあ私も暖かかったのでこれは良い話なのです。

 

 十四歳になり成人を迎えた私が、雪解けとともに早々に旅に出ることに決めたのも、諸方を見て回ってよく学ぶようにという家の方針以上に、母の故郷を見てみたいという思いの強さもありました。母という暖房器具がなくなったので寒さに耐えかねるようになったという理由からではありません。いくらかそのような思いがないわけではないですけれど、母から寝物語に聞いた百合のお話であったり、また騎士道物語や旅のお話を聞くにつけ、私の中で旅への思いが強まっていったのでした。

 

 旅を始めて最初の内は、慣れないことも多く、もう帰ろうかと気弱になることもありました。しかし何度か野営を繰り返すうちに、私は焚火を朝まで持たせる術を学び、手早く野営の支度を整えることを覚え、味気のない保存食をおいしく食べる方法を会得していきました。夜の眠りをしっかりととれるようになると、昼間の活動は驚くほど活力に満ちたものになり、疲れを残さないように行動できれば、あれほど苦労ばかりだった旅路には見違えるほどたくさんの発見が転がっていました。

 

 私に旅の仕方を教えてくれた兄が言っていた意味がようやく分かりました。旅の楽しみは、楽しめるようにならなければわからないと。

 

 あれはこういうことだったのですね。自分に余裕が出てこなければ、見えないものがあります。辛い辛いと思っていたものの中には、見落としているものがたくさんあるのです。

 

 宿場町をいくつか経て、境の森に入った頃には、私は暖かな気候にも随分慣れてきました。()()を出るときに着込んでいた上着や外套はみんな鞄の底で、いまは軽装で過ごしています。これでも随分暑く感じるのですから、もっと南まで行った時が今から少し不安で、そして少し楽しみです。

 

 境の森は北方に連なる臥龍(がりゅう)山脈から、南は海の傍まで南北に長く広がる森で、多くの恵みをもたらすとともに、魔獣や野獣などの危険も多い地です。

 

 街道は北方にひとつ、南方に二つ通っていますが、どちらも木々の密度の薄い通りやすい場所に通されているので少しばかり遠回りで、なにより通行税がかかります。荷物の多い商人や郵便馬車、安全を求めるものは街道を利用するのですけれど、旅慣れたものや身軽なものは、森の中を進んで通ることが多いそうです。

 

 私は路銀も節約したいですし、遠回りして時間を取られるのも嫌でしたし、折角ですので旅の醍醐味として悪路を行くのもいいかもしれないと気軽に考えて森に立ち入ったのでした。兄ののんきな物言いから旅を学んだ私は、まだまだ旅の本当の厳しさというものを知らなかったのです。

 

 森の厳しさは、今まで街道を通ってきた私にはずいぶん堪えました。国許のように寒さに凍えることがないのはずいぶん助かりましたけれど、虫や獣も多く、足元は木の根や石ででこぼことして、下草にも随分と足を取られました。焚火をするにも開けた場所を探すのは大変で、野営の準備は大変な物でした。

 

 事前に宿場町で聞いたときは、一日もあれば抜けられるとのことでしたけれど、それは街道を使って抜けた時の数字でした。森の薄いところを通っている整備された街道でそれなのですから、旅人たちが通ってできた獣道同然の道を通っていくのでは、格段に険しいのは当然のことでした。

 

 その当然のことに気づいたのは、ろくに歩かないうちに疲れはじめ、何とか野営の準備を整えている間にとっぷりと日が暮れてしまった初日のことでした。木々が葉を生い茂らせる森の中では昼のうちから薄暗く、日が沈むのも早いのです。

 

 二日目には移動中から薪になりそうな枯れ枝を拾い集めていき、先人の遺した道を急ぎながら野営に適した候補地をきちんと確認し、早めに準備を整えましたけれど、それでも平地を歩いてきた時よりもずっと疲労がたまり、なかなか思うように進めませんでした。

 

 食事も手をかけるのが億劫(おっくう)で、沸かした湯に堅麺麭(ビスクヴィートィ)と干し肉を放り込み、適当な粥として味気なく終えました。それでもまだ火を通して物を食べようとできるだけマシな方かもしれません。強行軍の中、堅麺麭(ビスクヴィートィ)を唾液でほぐしながらかじり、干し肉を何分も口の中で噛み続けたという兄の話を思い出してぞっとしました。

 

 三日目の朝は気だるいものでした。それでも早いうちから目を覚まして荷物をまとめ、重たい足を動かして歩きます。途中で休憩は多めに入れましたけれど、進み続けることが大切です。一日休息に充ててしまえば回復するかもしれないと期待するのは止めた方がいいと、以前聞いたのです。というのは、休むことは大事でも、あまり休み過ぎると気持ちの方がなえてしまって、進む気力が保てないからだそうです。景色が変わらなければ心も切り替わりませんし、ずるずると休み続けてしまうかもしれません。だからほんの少しずつでも移動した方がいいのだそうです。

 

 この教えは私に幸運を導いてくれたように思います。

 

 というのも、昼になる前に私は開けた河原に出られたのでした。久しぶりに差し込む日差しに目を細め、ひやりと心地よい川水を水筒にくみ、私はここで少しの休息をとりました。

 

 背負い鞄を下ろすと、軽く背を伸ばし、革鎧を身に着けたままでもできる程度の軽い体操をして体をほぐし、小ぶりな岩を選んで腰を下ろして、せせらぎに耳を傾けてしばし休みました。

 

 欲を言えばここで野営して英気を養いたいところでしたが、まだ日も高く昇らない朝のうちです。気分が切り替わって元気なうちに距離を稼いでおきたいところです。

 

 ここにしがみついて離れたくないと思う気持ちを振り払い、私は鞄を背負いなおし、小川を越え、再び森の中へと挑みました。

 

 川向の森はいくらか歩きやすくなっていました。木々がいくらか疎らになって、下草も足を取るほどではありません。日差しも少しだけ多くはいるようで、まだ薄暗くはあるものの、ずっと歩きやすいです。

 

 ただ、木々が疎らということは、それだけ大型の動物が移動しやすいということでもあります。木肌に残る傷や、下草の具合から、うかつに獣の縄張りに入ってしまわないように気を付けながら、私は道を急ぎました。

 

 そしてしばらく歩いて、私は警戒していた通りに大型の獣と遭遇しました。

 正確には、その()()()と。

 

 道をふさぐように角猪(コルナプロ)の巨体が横たわり、いまにも襲い掛からんとするように牙をむき出しにした頭がそのすぐ横にずっしりと転がっているのです。角の長さは握り拳二つ分をゆうに超え、体高も私の背丈より高いですから、かなり長く生きた個体だったようです。

 

 角猪(コルナプロ)は魔獣ではありませんが、半端な矢を通さない丈夫な毛皮に力強い体を持ち、年経たものともなれば知恵も働き、生半な魔獣よりも手ごわい獣です。私では若い個体を、なんとか倒せるくらいでしょう。

 

 それを、こんなに大きく育った角猪(コルナプロ)を、恐らくは一太刀で倒してしまうというのは全く尋常の技ではありませんでした。そっと近づいて傷口を見てみましたが、鋭利な刃物で切り裂いたというよりは、引きちぎりでもしたかのような荒々しい傷口です。心臓が止まって血はすっかり止まっているようでしたが、それでもまだにじみ出ていますし、触れてみれば体温を残していますから、死んでそれほどは経っていないのでしょう。

 

 私は悩みました。

 

 人であれ魔獣であれ、年経た角猪(コルナプロ)をこれほど容易く屠ってしまえる存在がこの近くにいること。そしてその存在は、肉を採るでもなく、貴重な素材を採るでもなく、このようにただ放置しているということ。これは全く不思議なことでした。簡単に倒せるということは、素材にそれほど興味がなく、ただ立ちはだかったから邪魔ものとして退けた、ということなのでしょうか。それとも素材を採る準備がなく、いったん引き返したのでしょうか。わかりません。謎です。

 

 そしてまたもう一つのことで悩みました。

 

 それというのも、この角猪(コルナプロ)から素材や肉を取っていっても大丈夫だろうかということでした。

 

 角猪(コルナプロ)の角は年経るごとに太く長く成長するのですが、これは武器の材料にもなりますし、また薬の材料にもなり、これほど立派な物であればさぞ高値で売れるものと思われました。一太刀で首を落としただろうために毛皮に傷もなく、うまくはぎ取ればかなり大きな一枚皮が取れるのも魅力的です。結構な荷物にはなりますし、時間もとられることでしょうけれど、それに見合うだけのお金に変わるのは間違いありません。

 

 そしてなにより、お肉です。

 

 しっかりとした血抜きをしていませんけれど、まだほかほかと温かく新鮮な角猪(コルナプロ)です。近くに川もありますし、急いで処理すれば美味しく食べられるかもしれません。

 

 角猪(コルナプロ)の肉は独特の獣臭さはありますけれど、しっかりと血抜きをすれば野趣として楽しめますし、胡桃味噌(ヌクソ・パースト)でじっくり煮込んでやると、煮込んでやっただけ柔らかくなり、甘みのある胡桃味噌(ヌクソ・パースト)の味がしみ込んで、噛む度にジワリと溢れてくるのです。また分厚い脂が上質で、ぶりぶりとした強い歯応えと、噛み締めた時にじゅわりと染み出す脂は獣脂だというのに実にさっぱりとした後味で、舌に重いということがないのです。また、とても贅沢なことですけれど、角を削って振りかけるとぴりりとした刺激のある辛みが加わり、得も言われぬ風味となるのです。

 

 バラ肉が特に柔らかく胡桃味噌(ヌクソ・パースト)の鍋に合うと思いますけれど、腿肉や肩肉を塊肉のまま炙り焼き(ロスティータ)にするのもたまりません。時間も薪も必要ですけれど、それに見合った肉汁たっぷりのお肉が楽しめます。

 

 よく冬の狩りについていっては食べたものです。夏場の角猪(コルナプロ)は冬場のものに比べて痩せていますし、脂も少ないですけれど、これほど立派な個体です、まずいということはまあまずないでしょう。路銀の節約のためにもあまりいいお肉は食べられませんでしたし、ここらでおいしいお肉もとい良質な栄養源を確保して体力を回復させたいところです。

 

 しかしこれだけの巨体を川まで運んですべて一人で処理するのは本当に大変です。運ぶまでは力任せでどうにでもなりますけれど、その後は時間のかかる作業です。あまり時間を取りたくありません。それに解体してもすべてを持っていくだけの余裕もありません。

 

 それに一番怖いのは、この角猪(コルナプロ)を仕留めた何者かが戻ってきてしまうことです。肉も食べていませんし魔獣ではないでしょうけれど、人であったら人であったで、今度は盗人扱いされると困ります。これほどの手練れを相手に無事で済む自信はありません。

 

 危険だという理性的な判断と、お腹減ったお肉食べたいという本能的な欲求が天秤を激しく揺らしあいます。そして最終的に本能がおいしいお肉を食べれば元気が出てさっさとこの場から離れられるという希望をちらつかせ、理性が作業を最小限に済ませればそそくさと逃げられるだろうという妥協案を提示して見事和解し、私は解体用の小刀を取り出して今日のご飯分だけいただくことにしました。

 

 盗むのではありません。このまま腐らせてはもったいないですしえーとあと()()()を見かけて放置するのも哀れだけど余裕もないのでその身の一部を食べて供養としますという感じでよろしくお願いします。よし。

 

 私は早速腹のあたりの肉を小刀でできるだけ手早く切り取りました。角猪(コルナプロ)の毛皮はとても丈夫で、脂肪は分厚く、肉もみっちりと身が詰まっていて簡単な仕事ではありませんでしたけれど、お肉への執念と鍛えた腕力にものを言わせてなんとか今晩の分を確保しました。だいぶ荒々しい感じに抉り取った形ですが、まあ煮込めば食べられるでしょう。

 

 小刀を水筒の水で洗い、拭って鞘に納め、それから少し考えて、手斧を抜いて角も折り取って持っていくことにしました。こちらも頑丈で少し手間取りましたけれど、重量や大きさの割に値が張るので、換金用に是非とも持っていきたいのでした。

 

 素材を革袋に手早くしまい、私は片膝をついて指を内側に組み、境界の神プルプラにこの出会いと縁に感謝の祈りを捧げ、ついでに勝手にとっていきますけど許してねと許しも乞うておきました。

 

 そそくさとその場を後にし、十分な距離を稼いだあたりで、私は手早く野営の準備を始めました。途中で十分枯れ枝も拾えましたし、手頃な石もすぐに見つかったので(かまど)も組めました。これも神の思し召しでしょうか。まあ多分ご飯食べたさに私がいつも以上に頑張ったせいだと思いますけれど。

 

 私は竈に火を起こして鍋を置き、水を注いで適当な大きさに切った角猪(コルナプロ)の肉を放り込みました。水から炊いた方が、灰汁(あく)は出ますが柔らかくなるのです。私は沸くまでの間に少しあたりを歩いて、いくつか香草を集めました。干したものはいつも持ち歩いていますが、やはり生の方がよい香りがするものが多いですし、なにより地物の方が、この地で採れた肉とは合うことでしょう。

 

 香草を加えてしばし煮込み、その間に装備の手入れをします。小刀はいろいろな用途で使いますから欠かせませんし、剣もいざというとき使えないのでは困りますから毎日の手入れが大事です。また革鎧や革靴も、これは生き物と考えて手入れした方が長持ちしますし、よく体に馴染みます。本当ならば靴などは予備を用意して交代で休ませたいですけれど、旅装にそこまでの余裕はありませんでしたから、よく磨いて油を塗りこみ、破れや解れがないか改める程度です。連れがいるなら、鎧を外したり、服を脱いで汚れを拭ったりもできるのですが、さすがに一人旅ではそんな余裕もありません。軽く緩めるくらいが限度です。

 

 そうこうしているうちに肉もよく煮えてきましたので、乾燥野菜を加えてさらに煮込み、胡桃味噌(ヌクソ・パースト)を加えて味を調えます。欲を言えば角猪(コルナプロ)の角を加えたいところですが、これは換金予定なので諦めます。味が調い、少し火から離してゆっくりと味を染み込ませ、堅麺麭(ビスクヴィートィ)を細かく砕いてとろみをつけて、完成です。

 

 角猪(コルナプロ)のお肉はおいしいのですけれど、柔らかくなるまで煮込むとやはり時間がかかるのが難点ですね。途中で何度か薪の追加を拾いに行かなければなりませんでした。その価値は十分にありますけれど。

 

 連れがいれば椀に分けて食べますけれど、今は一人です。一人旅で、一人ご飯です。ちょっとお行儀が悪いですけれど、暖かなお鍋に直接匙を入れて食べることができる、この醍醐味はたまりません。洗い物も減らせますしこれは合理的なのです。

 

 ごろごろと大きめに切った角猪(コルナプロ)のお肉は、煮込み時間がやっぱりちょっと短かったので少し硬かったですけれど、ぎむぎむとした歯応えはお肉食べているなという満足感を与えてくれます。香草もうまい具合に香りをつけてくれて、角猪(コルナプロ)の角には負けますけれど、程よく香ばしいです。脂身は少しごりごりとしますけれど、しっかり力を込めて奥歯で噛むと、ぶりんぶりんと切れて、じゅわじゅわとたっぷりの脂が染み出ます。

 

 乾燥野菜もたっぷり煮汁を吸って膨らみ、じゃきざく、ほろほろと口の中で崩れてはほんのり甘く広がっていきます。お肉ばかりで少し重たくなった頃に心地よいです。胡桃味噌(ヌクソ・パースト)を解いた煮汁は溶かした堅麺麭(ビスクヴィートィ)でとろりととろみがついて、甘味と塩味の加減もちょうどよく、体が温まります。

 

 このまま全部食べてしまいたいですけれど、さすがにお腹いっぱいに満たしてしまっては、すぐには身動きもとれず苦しいばかりです。私は半分ほど頂いて、もう一沸かしさせた後、火からおろしてふたを閉め、厚手の毛布でくるみました。こうすると中に熱がこもって、じんわりと具材に熱を通してくれるのです。これで明日の朝はもっと柔らかくなってくれることでしょう。

 

 それを楽しみに、私は剣を抱いて外套にくるまり、具合のよさそうな木に背中を預けます。薪は多めに用意しましたし、朝までに二度か三度起きて火にくべてやればよさそうです。

 

 お腹の中と、焚火の火と、二つの暖かさに包まれて私は眠りに落ちました。




用語解説

臥龍(がりゅう)山脈
 大陸北東部に連なる険しい山々。巨大な龍が()したような形であるからとか、数多くの龍が人界に攻め入らんとして屠られ、そのむくろを臥して晒してきたからとか、諸説ある。

・宿場町
 街道沿いに一定の間隔を置いて作られた、馬や馬車を休めたり取り替えたり、給餌するための施設を宿場という。宿場町はその周りにできた町のこと。

・境の森
 大陸東部の森。辺境領と中央部を分けるように南北に長く広がる森。

・堅麺麭(ビスクヴィートィ)
 保存がきくように固く焼しめられたパン、ビスケットの類。非常に硬い。

・角猪(コルナプロ)
 森林地帯に広く生息する毛獣。額から金属質を含む角が生えており、年を経るごとに長く太く、そして強く育つ。森の傍では民家まで下りてきて畑を荒らしたりする害獣。食性は草食に近い雑食だが、縄張り内に踏み入ったものには獰猛に襲い掛かる。

・境界の神プルプラ
 山や川などの土地の境、また男や女、右や左など、あらゆる境界をつかさどる天津神。他の神と比べて著しく祈りや願いに答えやすいが、面白がって事態を悪化させることも多々ある。混沌の神、混乱の神とも。北東の辺境領に信者が多い。

・胡桃味噌(ヌクソ・パースト)
 胡桃を砕いて練り、塩などを加えて発酵させた食品・調味料。甘味とコクがあり、脂質も豊富で北国では重要なエネルギー源でもある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と不思議な果実

前回のあらすじ
少女リリオは慣れない一人旅で無謀にも馴染みのない森に挑んでしまう。
疲れた足を引きずる中、道中に転がるは無残な獣のむくろ。
あまりにも無造作な、そして圧倒的な殺戮の傷跡を前に少女は葛藤し、そして決める。
美味しくいただこう、と。
ストーカー犯罪宣言の次は、唐突に始まった飯レポ。
いったいこの物語はどこへ進もうというのだろうか。


 はっと目を覚ますと、すでに朝日が東の際に見え始めていました。焚火を見れば絶えることなく燃えていますから、覚えはないですけれど、なんとか心地よい眠りに抗って薪をくべることに成功したようです。

 

 朝食として昨夜の残りのお鍋を食べ終え、私は手早く片づけを終えました。昨日食べ過ぎたのでしょうか、それとも朝だから特にお腹が空いていたのでしょうか、思ったより量が少ないように感じました。まああのような幸運はそう続かないでしょうから次のお肉が今から恋しくてそんな思いにもなったのでしょう。

 

 鎧を絞め直し、靴紐を結び、鞄を背負って剣を帯び、私は再び森の中を歩き始めました。

 

 境の森は名前の通り、森を境界として東西を分断する南北に長い森です。そのため森の北と南では植生も、住まう動物の種類も異なってきます。中心に近いこの辺りは、角猪(コルナプロ)のように毛のある獣や、鹿雉(セルボファザーノ)のように羽のある獣、狼蜥蜴(ルポラセルト)のように鱗のある獣が入り混じると聞いています。もっと南にいくと鱗獣が増えてその体も大きくなり、一方で毛獣や羽獣は少なくなり、体も小さくなるそうです。北は逆に毛獣や羽獣が増え、その体もやはり大きくなると聞きます。

 

 他には全域を通して蟲獣も多く、特にかたい殻の中に良質な肉を持つ動きの遅い大甲虫(グランダ・スカラーボ)や、地上では目の利かない螻蛄猪(タルパプロ)などは狩人の良い獲物だそうです。

 昨日の角猪(コルナプロ)のように獰猛な獣も多くはあるようですけれど、魔力を使う魔獣の類はそれほど多くはなく、きちんと準備をして挑めばそれほどの危険はないそうです。

 

 まあ、私の場合は一人旅の上にきちんとした準備も覚悟もできていないうえで来てしまっているので、精一杯気を付けていかなければ本当に危なそうです。あののんきな兄が順調に旅を終えてけろっと帰ってきたので私にも簡単にできると思いましたけれど、あれでも兄は優秀で、それに連れもいましたからね。

 

 さて、四日目となる今日は、良質なお肉を頂いたこともあってか、かなり元気よく進めているように感じます。調子に乗って勢いをつけすぎると後半でばててしまうのは目に見えていますけれど、調子のよいうちに進んでおきたいのは確かです。もう森の半ばは過ぎているはずですので、この調子でいけば明日の夕方には森の際にたどり着き、明後日には森を出ることができそうです。

 

 食料は多めに持ってきていますけれど、森を抜けて次の宿場町までまだかかることを考えると、今日明日はなるべく狩りをして食料を節約したいところです。

 

 とはいえ、狩りも簡単な事ではありません。いくらか経験はあるとはいえ、ここは勝手もわからない他所の森で、その上、弓もないし、移動し続けなので罠を仕掛けることもできません。あ、いえ、野営するときにあたりに罠を仕掛けておけばよかったかもしれません。迂闊でした。今夜体力に余裕がありそうだったら試してみましょう。

 

 ともあれ、狩りです、狩り。

 

 弓がないのなら作ればいい、と言えればいいのですけれど、これが結構手間です。手持ちの道具とそのあたりで拾えそうなもので作ると、手間の割に実用性に乏しそうなものしか作れそうにありません。元々あまり弓が得意ではなかったので、そういう技術も磨いていないのです。

 

 では投石紐はどうでしょう。これは簡単な物であればすぐできます。適当な布を用意して石でも拾えばいいですから。問題は命中率が低いことです。慣れたものならば百発百中と行くのでしょうけれど、あいにくと私はさっぱりです。重さも形も整っていない石を当てる自信はありません。

 

 となると小刀か斧でも投げるか、となりますけれど、うーん、まあ、できなくはなさそうですけれど、小刀で致命傷を与える自信はありませんし、斧を遠くまで狙い通りに投げる自信もありません。

 

 打つ手なしですね。

 自分の使えなさに涙が出そうです。

 結構いろいろできるつもりでいたのですけれどさっぱりです。

 

 近くにさえいれば自慢の剣の腕を振るえるのですけれど、獲物となるような動物は警戒心も強いので、近寄らせてはくれないでしょう。もし近づける相手がいるとすれば、それは向こうからこちらに寄ってくる、つまり人間くらいは捕食対象としてバリバリ食べてしまえるような、強気で襲い掛かってくるような強い獣たちです。

 

 昨日の角猪(コルナプロ)のように大きなものだと、多分私一人では手に負えないですし、話に聞いていた猛獣たちも一筋縄ではいかなそうです。戦って勝てないなどとは決して言いませんけれど、余裕で勝てる、楽勝だなどとも言えません。お肉を得たいがために満身創痍になって森の中で動けなくなってしまってはたまったものではありません。

 

 ……諦めて木の実やキノコ、運が良ければ間抜けな小動物で我慢しましょう。

 

 私は歩きながら視線を巡らせ、木の実がなっていないか、また下生の陰にキノコが生えていないか、気にしながら進んでいきました。

 

 もちろん、馴染みのない森で、そうそう簡単に良いものばかりが見つかるわけではありませんけれど、初夏の森には生き物だけでなく恵みも満ち溢れているものです。ほとんど獣道のような細道を、下生をかき分けながら進んでいく中でも、私は道々いくつか実りを見つけては取っていくことができました。

 

 程よい日陰の木々を覗けば、私にも見分けられる食用のキノコがいくつか見つけられました。キノコの類は見分けるのが難しいので、慣れたものでもうっかり毒キノコと間違えることもあるのですけれど、このキノコは大丈夫です。万一毒キノコの方と間違えても、うっかり食べ慣れているので毒に耐性が付きましたから。

 

 美しい紫の花を咲かせる螺旋花(ヘリカ・フローロ)の傍では、蜜を求めてひらひらと美しく飛び交う玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)をいくらか捕まえることができました。あちらこちらへと飛び回っている時の玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)は少しの風でもひらりひらりと舞うので簡単には捕まえられませんが、蜜を吸っているところに布や袋をかぶせると比較的楽に捕まえられます。

 

 また運が良いことに、木のうろに兎百舌(レポロラニオ)の巣を見つけ、捕まえることができました。兎百舌は虫や蜥蜴など、自分より小さな動物は大抵何でも食べるのですけれど、お腹が空いていなくても動いていれば捕まえてしまい、巣の近くに集めるので見つけやすくはあります。しかしあごの力が強く歯が鋭いので、私のように丈夫な革の手袋でもしていないと大怪我をしかねません。

 

 なかなかの収穫に心も弾んだのか、予定よりもよく進めたように思います。

 

 足取りも軽く私は次の野営地を見つけ出し、手早く(かまど)を組んで鍋を構えました。せっかくいろいろ手に入ったので美味しくいただきましょう。

 

 水を張った鍋にまだ生きたままの玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)を沈め、蓋をして火にかけます。このとき蓋に重しとして石を置いておきます。玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)に蓋を落ち上げるほどの力はありませんけれど、それでも一時に飛び上がったら蓋がずれて、逃げられてしまうかもしれませんから。

 

 湯が沸くまでの間に、私は捕まえた時にしめて血抜きをしておいた兎百舌(レポロラニオ)をばらします。ふわふわと柔らかな羽をむしり、血のついていないところは袋にまとめておきます。この羽はとても暖かく防寒に優れますし、柔らかいので割れ物を包むにも良いのです。

 

 腹を裂いて内臓を取り出し、もったいないですけれど処理が大変なので、穴を掘って捨ててしまいます。内臓を取り出したら水筒の水で軽く洗い、骨を外していきます。腿と左右の身に分けたら、木の枝にさして竈の火で皮目を炙り、残った羽を焼いてしまいます。

 

 そうしている間に湯が沸いてくると、鍋からかちかちかんかんと、玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)が逃げようとしては蓋にぶつかる音が聞こえてきます。あまり激しいと殻が割れてしまうのですけれど、このくらいなら大丈夫そうです。

 

 すっかり音がしなくなったら、石をどけて蓋を取ります。すると途端に素晴らしい香りが立ち上りました。玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)の身は小さく、殻からいちいち取り出して食べるのは大変ですけれど、こうして火にかけるととても良い出汁が出るのでした。このままお吸い物にしてもいいくらいの良い出汁ですけれど、今日は兎百舌(レポロラニオ)が主役です。

 

 表面をあぶってうま味を逃がさないようにした肉を、食べやすい大きさに切り分けて鍋に放り込み、香草をいくつか、それにキノコを加えて煮込みます。今日は胡桃味噌(ヌクソ・パースト)は使わず、出汁のうまみとほんの少しの塩だけで調えます。

 

 程よく煮込んで日も暮れた頃に、いい具合にお腹も減って、いざ実食です。

 

 まずは出汁を一口。

 

 胡桃味噌(ヌクソ・パースト)のような濃厚な味わいではなく、しかししっかりとしたうま味が舌に感じられました。玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)の小さな身の中にギュッと詰まったうま味が、螺旋花(ヘリカ・フローロ)のどこか甘い香りとともに広がります。そしてまた兎百舌(レポロラニオ)の出汁もよいです。玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)だけでは、堅実ではあるけれど少し弱い。しかしそこにじわじわっと兎百舌(レポロラニオ)のもつさっぱりした脂と肉のうまみが加わり、深みが出ています。

 

 そっと取り上げた腿肉にかぶりついた時のこの感動を何と言い表したものでしょうか。ぴん、と張った皮を歯が食い破ると、その下のぎゅうと詰まった身が柔らかく、しかししっかりと歯を受け止めてくれます。それをえいやっと力を込めてかじると、顎に染みるようなうま味が込み上げてくるのです。

 

 兎百舌(レポロラニオ)だけではちょっとたんぱくな味わいですが、そこを玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)の出汁が支えてくれます。良く締まってぎむぎむとしたしっかりした歯ごたえは、ああ、ものを食べるってこういうことなんだなあという喜びを顎を通して伝えてくれます。またそうしてじっくりと噛み締めていくと、たんぱくにも感じられる身からはじんわり滋味があふれてくるのです。

 

 そしてキノコ。忘れたころにちょっと鍋の中から顔を出すこいつをすくって食べてみると、さっくりとした歯応えが、肉を噛むのに頑張っていた顎になんとも優しい。そしてまたほろほろ崩れながら中にたっぷりと染み込ませた出汁を溢れさせては、食欲を掻き立てるのでした。

 

 味があっさりとしているものですからついつい食べ過ぎてしまいそうになりましたが、ここは我慢、我慢の時です。残りは朝ごはんにしようと、昨夜と同じように布で巻いておき、さて寝る準備でもと思ったところで、私は不思議なものを発見したのでした。

 

 それはたぶん、鞄から毛布を取り出そうとちょっと顔を背けた瞬間のことでした。

 

 毛布を取り出してさあ寝やすそうな場所をと見まわして、私は竈の傍につい先ほどまではなかったはずのものを見つけたのです。

 

 それはなにやらつやつやと赤い、果実のようなものに見えました。

 

 そっと近づいて恐る恐る拾い上げてみると、へこんだ部分から飛び出ているヘタと言い、確かに何かの果実のようでしたけれど、このような果実は初めて見ました。大きさは大人の拳ほどはあるでしょうか。きれいな球状で、磨きでもかけたかのようにつやつやとした表面には傷らしい傷の一つもありません。貴族の果樹園の果物だって、こんなに綺麗な物はそうそうないでしょう。よほどに手間をかけなければいけないでしょうから。

 

 私はあたりを見回してみましたが、木の実のなるような木は見当たりません。ましてこんなに綺麗な木の実がどこかから転がってきたというのはとても不思議な話でした。

 

 森の魔物か、悪戯好きの妖精が、私をからかおうとしているのでしょうか。

 不安に思いながらすんすんとにおいをかいでみると、これがまた得も言われぬ甘い香りがするのです。

 

 このとき、罠を警戒して剣の柄をしっかりと握りしめた私を褒めてください。

 そして罠なら罠ですでに後手なのだから食べるだけ食べてしまおうという欲望に負けた私のことは忘れてください。

 何しろそれだけ魅力的な匂いだったのです。

 

 甘い匂いにつられて果実に歯を立てると、しゃくりと実に軽やかな歯ごたえとともに、あっさりと実が口の中に転がり込んできました。何という柔らかさでしょう。また、歯を立てた途端にあふれてくる果汁の何と豊かな事でしょう。ほとんど表面に絵の具でも塗っただけといったような薄い皮の内側には、罪深ささえ感じるほどに美しく真っ白な果実がのぞいていました。それがじわっとあふれてくる果汁に濡れているところなど、例え罠でも後悔はないというほど魅力的でした。

 

 私はもう夢中になってその不思議な果実にかじりつき、真ん中に残った種の、本当にぎりぎりのところまで丁寧に身を食べつくしてしまいました。

 

 ほう、と漏らしたため息さえ甘い香りで、これは夢か何かなのだろうかと思うほどでした。それは全く私の知る果実とは別物と言っていい味わいでした。驚くほど甘いのに、後味はあくまでもさっぱりとしていて、後を引くということがありませんでした。また程よい酸味が甘さの中にあって、そのおかげもあってついつい次の一口を、また次の一口をと急かされるようでした。

 

 私はしばらくの間余韻に浸ると、残った種を丁寧に包んで鞄に大事にしまいました。これは何としてもどこかで育てて、また食べたいものです。

 

 これも何かの思し召しと、指を組んで境界の神プルプラに祈りを捧げ、私は満たされた心地でゆっくりと寝入ったのでした。




用語解説

・鹿雉(セルボファザーノ)
 四足の鳥類。羽獣。雄は頭部から枝分かれした角を生やす。健脚で、深い森の中や崖なども軽やかに駆ける。お肉がおいしい。

・狼蜥蜴(ルポラセルト)
 四足の爬虫類。鱗獣。耳は大きく張り出し、鼻先が突き出ており、尾は細長い。群れで行動し、素早い動きで獲物を追い詰める。肉の処理がひと手間。

大甲虫(グランダ・スカラーボ)
 大型の節足動物。蟲獣。人間が乗れるくらい巨大なワラジムシを想像すると早い。甲は非常に頑丈だが、裏返すと簡単に解体できる。動きが遅く、肉が多いので、狩人にはよい獲物。

・螻蛄猪(タルパプロ)
 蟲獣。半地中棲。大きく発達した前肢と顎とで地面を掘り進む。が、割と浅いところを掘るのですぐにわかる。土中の虫やみみず、また木の根などを食べる。地上では目が見えず動きが遅いのでよく捕まる。

螺旋花(ヘリカ・フローロ)
 レナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプター図案のように、らせん状に花弁を広げる花。甘い蜜を蓄える。

玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)
 飛行性の二枚貝。ハリシジミ。主に花の蜜などを吸う。産卵や休息などは水中で行う。基本的にどの地方にも住むが、好んで吸う花の蜜などによって味わいの違う、地方色が出やすい食材。

・兎百舌(レポロラニオ)
 四足の鳥類。羽獣。ふわふわと柔らかい羽毛でおおわれており一見かわいいが、基本的に動物食で、自分より小さくて動くものなら何でも食べるし、自分より大きくても危機が迫ればかみついてくる。早贄の習性がある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 白百合と亡霊

前回のあらすじ
唐突に始まった飯レポに次ぐ飯レポ。
話が一切進まないまま飯の描写だけが積み上げられていくこの物語は何を目指しているのか。
腹ペコ娘の旅は続く。


 何か揺れるような感じがあって、すわ地揺れかと驚いて目が覚めた時には、朝日がもうすっかり顔を出していました。

 

 あの不思議な果実を食べてすっかり心も満たされお腹も満たされ、ぐっすりと寝入ってしまったようです。焚火の火が絶えていないあたり、ちゃんと夜中に薪を足してはいたのでしょうけれど、まったく覚えていません。無意識の内にできるようになったといえば凄いようにも感じますけれど、夢遊病のようで怖いです。

 

 なんにせよ、少しお寝坊してしまいました。私はあわてて荷物をまとめ、朝食を手早く済ませて後始末をし、昨夜鍋を煮込んでいる間に仕掛けておいた簡単な罠を確認しました。仕掛けないよりは、という気持ちで、期待はしていなかったのですけれど、運のいいことに鼠鴨(ソヴァジャラート)がかかっていました。この時期のものにしては大振りで、なかなか食いでがありそうです。その場で絞めて、今夜のおかずにすることにしました。

 

 そうして移動を再開したのですけれど、この日の移動は、なんだか少し妙でした。

 それというのも、不思議と体が軽いのでした。

 

 兄から聞いたところによれば、旅をしている時は体調が万全であることなど滅多にあるものではなく、そもそも旅自体が体に負担をかけるのだから、常にどこかしらに問題を抱えながら、誤魔化し誤魔化し進んでいくようなものだということでした。どうしても生きている限り疲れるしお腹も空くけれど、そこをなんとか自然に癒える度合いと疲れる度合いと収支が合うように、できれば癒える方が少し多いくらいにして、それで何とか旅というものは成立するそうです。

 

 だから私も旅の間は疲れるものだと思っていますし、その疲れた状態で剣を振るうことを昔から教えられてきました。万全な状態で戦えることなどまずないのですから、本当の本当に疲れた時にどれだけのことができるかということが肝要なのだと父も言っていました。

 

 そういうことですからこの日も私は気を付けながら進もうと思っていたのですけれど、なんだか不思議に体が軽いのでした。日を経るごとに重しを重ねていくようだった手足は、うららかな春の午後を散策するように軽やかですし、肩に食い込んで痛いばかりだった鞄も今日は程よい重さにさえ感じられます。息はまるで上がらず、じわりとにじむ汗も、昨日までのような辛さや疲れからくる嫌な汗では全くなく、程よい運動と初夏の陽気からくる心地よいものでした。

 

 よく眠ったおかげなのでしょうか、それともあの不思議な果実を食べて、久しぶりの甘味に心が満たされたからなのでしょうか。

 

 不思議で、妙ではありましたけれど、しかし足取りは軽く思っていたよりも随分と早く進めそうで、私は森の精霊の加護だろうかと無邪気に喜びました。調子が良いときほど油断して大怪我をするものだと父にはよくよく言われてはいましたけれど、母には優しげな微笑とともに、調子が良いときにしかできないこともあるのだから隙を見て攻めなさいとも教えられていましたので、間を取って程々に調子に乗りたいと思います。

 

 眠気も全くなく、目はさえて、活力に満ち満ちていますと、これまで以上に森のいろんなものに目が行き、流れる風を肌に感じ、また鼻に流れ込む匂いの数々に様々な違いがあることを知りました。ここ何日かですっかり見知ったと思っていた森の様子は、まったくの上っ面だけだったようで、こうして本当に体の調子が良いときにしかわからないようなささやかな違いが私を楽しませ、なお足取りを軽やかにしてくれるのでした。

 

 例えばただただ足を取って邪魔だと思っていた下生にも、背の高いもの、低いもの、花をつけるもの、葉の広いもの、細いもの、様々なものがありました。中には見知った香草の類も紛れていて、時々摘んでいくだけでも結構な量になりそうでした。

 

 足元にばかり気を取られていたいままでよりも余裕ができ、見上げれば木々の上にもまた暮らしがあることを知りました。枝を伝ってするすると向こうを行くのは猿猫(シミオリンコ)でしょうか。チッツー、ツッツーと高く歌う声が聞こえてくるのは、川熊蝉(アルセシカード)の求愛の歌でしょうか。枝や蔦に紛れて蛇の姿が見えたこともありますし、また逆に蛇かと身構えたら木の枝だったということもありました。

 

 ただ元気があるというだけでここまでの違いが出てくるものかと私はつくづく人間の体のつくりの妙に感心させられました。疲れやつらさは感覚を鈍らせ、体を重くします。そしてそれはきっと、余計な事を抱え込まないことで消費を減らそうという仕組みなのだとそう考えたのでした。なにしろ余裕のある今は、木々の葉の一枚一枚さえよく見えるほど感覚が広がり、自分でも少し不安に思うほど意識が散漫になりそうなのでした。

 

 しかしそうしてあちらこちらに意識を向ける余裕ができたことで、今日のご飯は豪華になりそうでした。というのも、今まではきっと気付かなかっただろう木苺(ルブーソ)を茂みの中に見つけられましたし、地面に膨らみを見つけてもしやと思い掘ってみると、素晴らしいことに白い松葉独活(アスパーゴ)を見つけることができました。また、小川に出たので手ぬぐいを絞り汗を拭ってさっぱりとしたついでに、葶藶(アクヴォクレーソ)をいくつか摘んできました。

 

 私がもう少し詳しければ、お金になりそうな薬草や、素材になりそうな類を見つけて集め、路銀の足しにもできたのでしょうけれど、簡単なものはいざ知らず、そこまで詳しくはありません。それに一人旅ですとやっぱり荷物には限界がありますので、角猪(コルナプロ)の角のように換金額の多いものはともかく、薬草のようにかさばるものは持っていけません。

 

 ご飯の材料は別腹というか別勘定なのでせっせと摘んでいきますけれど、これは結局私のお腹に入ってしまって荷物にはなりませんので構いませんったら構いません。亡くなった母もよく私に色々食べさせては、リリオのお腹は魔法のお腹ね、いつもたくさん食べてくれるから嬉しいわと優しく微笑んでくれたものです。貰ったはいいけれど多すぎて食べきれないし捨てるわけにもいかない貰い物の処理をさせられていたと知ったのは後になってからでしたけれど、お陰様で大抵のものを食べてもお腹を壊さない丈夫な子に育ちました。その割に背は伸びませんでしたけれど。

 

 さてさて、こうして順調すぎるほどに順調に進めるという実に妙な体験をしているのですけれど、この妙な旅路にはもう一つ妙なことが起きていました。

 

 私がそれに気づいたのは、さらさらと流れる小川で顔を拭い、水筒の水を補充し、葶藶(アクヴォクレーソ)をつみながら少しの休息をとっていた時のことでした。

 

 今日の晩御飯を思って鼻歌など歌いながらのんきに過ごしていたのですけれど、不意に気配を感じて、私は腰の剣に手を伸ばしました。

 鼻歌をゆっくりと止め、気配を殺してそっと振り向くと、木立の向こう側にまだ若く角の色の薄い鹿雉(セルボファザーノ)が若葉を食んでいるのを見つけました。背中から尾に近づくにつれて色を薄くしていく緑の羽は乱れもなく美しく整っており、目の周りの赤いコブは見事な発色で、傷や欠けもなく、若いながらに強く優れた雄であることを思わせました。

 鹿雉(セルボファザーノ)の肉はこりこりと筋の感じられる歯応えの強いもので、味は淡白ながら滋味深く、新鮮な肝臓などは猟師たちだけが食べられる御馳走と言っていいほどのお宝です。また角には薬効があり、年経たものは肉が固くなる代わりに、角の薬効はぐんと強くなると聞きます。

 

 私が驚いたのはこの鹿雉(セルボファザーノ)が実に美しいことや、縄張りに敏感なこの獣に気付かぬままこんなに近づけたことなど、ではありませんでした。

 

 美しい鹿雉(セルボファザーノ)よりもいくらか手前、木立の中にひっそりと混ざるようにその影は佇んでいました。

 

 はじめ私は、鹿雉(セルボファザーノ)に目を引かれていたので、その陰のことは木立が作り出す陰影の一つだと思っていました。しかし一度それが目に入ると、それはもう木立などではなくくっきりと私の目の中に移りこみました。

 

 それは人影、のように見えました。というのも、その人影は向こうの木立が透けて見えていたのです。夜の闇のような黒い外套を頭からすっぽりとかぶったその人影は、頭巾の下からわずかに目をのぞかせてこちらをじっと見つめているのでした。もしも目を閉じたら、衣擦れどころか呼吸の音すら聞こえないほどにまるで生きた気配の感じられない人影が、ただそこに佇んでじっとこちらを見つめている姿は、鹿雉(セルボファザーノ)のことがすっかり頭の中から消えてしまうほどの衝撃でした。

 

 私がごくりと息をのんでその不思議な人影を見つめていると、不意にばしばしと何かを打ち付けるような音がして、ケーン、と鋭い鳴き声が響きました。見れば、私の緊張に気配を察したらしい鹿雉(セルボファザーノ)が、片足を持ち上げて胴に足羽を打ち付ける母衣(ほろ)打ちをして、こちらを威嚇してきているではありませんか。

 

 鹿雉(セルボファザーノ)は狩猟の対象ではありますけれど、決して安全な相手ではありません。気づかれていない時ならまだしも、こうして真正面から相手取るには厳しい相手です。縄張り意識の強い鹿雉(セルボファザーノ)は、時に自分より大きな角猪(コルナプロ)にさえ角を振るうくらい気性が荒いのです。

 

 両前足を上げて本格的に母衣打ちを始める前に、私は目を背けないままそっと後ずさって距離を取り、静かに縄張りから出ていく意思を見せました。

 

 しばらく鹿雉(セルボファザーノ)はこちらを威嚇していましたけれど、私が十分に距離を取ると、角を大きく一つ振るって、また若葉を食み始めました。

 

 ほっと息をついて、掴んだままだった葶藶(アクヴォクレーソ)を革袋に押し込んでいると、視界の端にあの人影が佇んでいることに気づきました。私は迂闊に動かないように、野草を見繕っているふりをしながらその影に意識を向けました。

 

 影はひどく背が高く、まるで覗き込むようにしてこちらを見つめていました。相変わらずその人影は向こうの景色を透かしていて、どうやら私の目の錯覚や気のせいではなさそうでした。

 

 私が歩き出すと、その影もまた私の後をついてくるようでした。音もなく気配もなく、ただ、周りを見回すふりをしてちらりと目をやると、一定の距離を保ったままするするとついてくるのでした。

 

 しばらくの間、私はこの謎の人影に警戒しながら歩いていましたけれど、次の休憩の間までにこれと言って害もなく、さして問題もなさそうだったのであまり気にしないことにしました。父からはよく大雑把だとか呆れられたものですけれど、私は物事の切り替えが割と早いようです。気にしなくていいことを気にしていたら疲れますし、何もないなら何も気にしなくていいと思うのですけれど。

 

 そうして心の余裕が出てくると、私はのんびり景色を眺めるふりをしてこの人影を目の端で観察することができるようになりました。

 

 最初は何事かと思いましたけれど、何もしてこないのならばそれほど怖いものではありません。何もしてこないふりをして悪意をちらちらと隠している人間のほうが余程怖いです。その点、この影はただただ私を眺めているだけで、ともすれば動きのない私の休憩中はうろうろしたりあちこち眺めたりと余程面白いです。

 

 向こう側が透けて見えることや、まるで気配がしないこと、それにちらりと見えた目がなんだか物寂しそうに見えるような気がしないでもないことを思うと、これは噂に聞いた亡霊(ファントーモ)かもしれないと私は考えました。

 

 亡霊(ファントーモ)というのは死んだ人が未練を遺したり強い思いを遺したりすると、その魂だけがこの世に残って彷徨うというものなのです。

 

 生きている人を羨んで悪さをするという話も聞きますけれど、巷説に広く伝わるのは物悲しい悲恋のお話であったり、人情ものであったりします。そういったお話を思い出すと、この亡霊(ファントーモ)も何かしらの事情があったのだろうかとしんみりして、付いてきたいなら付いてくるがよかろうと、私はひそかな旅の道連れとしてそっと歓迎するのでした。

 




用語解説

鼠鴨(ソヴァジャラート)
 四足の羽獣。幅広の嘴をもち、水辺や湿地帯に棲む。雑食。動きが素早く、よく動くためよく食べる。皮下の脂はうま味にあふれ、美味。

猿猫(シミオリンコ)
 樹上生活をする毛獣。肉食を主とし、果実なども食べる。非常に身軽で、生涯木から降りないこともざら。

川熊蝉(アルセシカード)
 川辺に棲む蟲獣。成蟲は翡翠のように美しい翅をもち、装飾具にもされる。雄の鳴き声は求婚の歌であり、季語にもなっている。成蟲の胴は鳴き声を響かせるためのつくりで殆ど空洞になっており、実は少ない。幼蟲は土中で育ち、とろっとしたクリームのような身をしているが、やや土っぽい。

木苺(ルブーソ)
 鈴なりに甘酸っぱい実をつける植物の総称。またその実。ベリー類。

松葉独活(アスパーゴ)
 うろこ状の葉を持つ山菜。土中から顔を出す直前のものは日に当たっておらず色が白く、柔らかい。

葶藶(アクヴォクレーソ)
 水辺に生える山菜。独特の辛みを持つ。肉類などの付け合わせにされたり、おひたしなどにされる。

亡霊(ファントーモ)
 幽霊。亡霊。未練や強い思いを遺した魂がこの世を彷徨っているとされる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と森の旅路

前回のあらすじ
ストーキング・ゴーストの存在に気づいた少女リリオ。気付かれたことに気づいていない閠。
何もしてこないならいいかなと無防備な姿をさらすリリオ。それを付け回す閠。
すさまじい犯罪臭に本人たちだけが気付いていないのだった。


 森歩きなど一度もしたことがない私でも全く困ることのないこの体の身体能力は非常に助かった。

 

 というのも、私がストーキング対象もとい観察対象に決めたこの冒険者見習いみたいな少女は、見かけよりずいぶんと体力があったからだ。

 

 革鎧に傷もなく、鞄も新しいものに見えるし、それほど旅慣れているような感じではないのだけれども、足取りには迷いがないし、小さな体でずんずんと進んでいく。

 

 この少女が特に体力に秀でているのか、この世界での平均値が高いのかは比較対象がないのでわからないけれど、少なくとも元の世界の同じ年ごろの子供と比べればかなり身体能力が高そうだ。運動の必要性が少ない現代社会の子供と、あまり文明程度が高くなさそうな世界の子供だから当然と言えば当然だけれど、食糧事情から言えば現代社会の子供の方が発育もよさそうだし、単純に比べるのは難しい。

 

 ただ、私が信じられないくらいの怪力や素早さを発揮したように、この世界の住人も何かしらステータスに補正が入っている可能性は否めない。私一人が特殊と考えるより、この世界には魔法や魔力といった概念が存在していると考えた方が自然だ。私の存在的にも、よくあるこの手の物語のご都合主義的にも。

 

 少女は旅慣れていないからなのか、単にまじめだからなのか、非常に規則正しく足を進めていた。時計がないので体感でざっくり判断しているけれど、大体一時間かそこら歩いて、十分ちょっとくらい休憩というのを繰り返している。

 

 ただ、まじめなばかりではないというのは観察を始めてすぐにわかった。

 

 少女が進んでいった先から血の匂いがして、あ、そういえばと思いだした時には、少女が警戒したように足を止めた。

 

 そこは私が、あのでかい角猪を出会い頭にごっめーんとばかりに首を跳ね飛ばした現場だった。横たわった胴体はすでにすっかり弛緩し、血の流れもほとんど止まっているけれど、ほかほかと湯気が上がっていて、まだ温かそうだ。

 

 時間が経ったからか、私の心がいくらか落ち着いたからか、先程のように強烈な忌避感や汚らしさは感じない。やはりちょっと腰が引けるけれど、二度目でもあるし、まだ落ち着いてみることができる。

 

 少女はこの殺戮現場に、また恐らくはこの殺戮を引き起こした存在に警戒してかしばらくあたりをうかがっていた。こんな大きな猪を一発で仕留められるような存在は、どうやらこの世界の価値観でもあまり普通ではないようだ。まじめに警戒しているようで好感が持てる。そういう駆け出し冒険者みたいな感じいいね。

 と思っていたらおもむろにナイフを取り出して猪の死体に近づいた。なるほど、危険な存在は警戒しても、こうして素材の塊が落ちていたら回収はしておきたいだろう。私には価値がわからないけれど、毛皮は売れるだろうし、なにかこう、ファンタジー的素材があるのかもしれない。

 

 と思ってのぞき込んだら、かなり強引にお腹のあたりの肉だけ抉り取っていた。

 

 顔。顔つき。それ年頃の女の子がしていいような顔じゃないぞ。涎を隠せ。

 どうやら食欲ゆえの葛藤で、食欲ゆえの採取行動であったらしい。

 

 一応素材になりそうな角も回収していたのでそこら辺の勘定もできるようだけれど、危険を冒してでもまず考えたのが食欲というあたり不安だ。

 

 抉り取った肉と、折り取った角は、それぞれ別の革袋に納めていた。多分、素材を手に入れた時に入れるための革袋をいくつも持っているのだろう。小分けにしないと困るような素材もあるだろうしね。

 

 少女は荷物を整えると、その場に跪いて、手の指を内側に組む、なんかちょっと痛そうな手つきをして、囁くように()()()()()を唱えた。

 

 私がしっかり聞き取れたのならば、それはこんな具合だった。

 

「かけまくもかしこきさかえあわいのおほかみぷるぷらもろもろのおほみめぐみみえにしをたふとみゐやまひかしこみかしこみもまをす」

 

 多分これは、こんな風に直せる。

 

掛巻(かけまく)(かしこ)(さかえ)(あわい)大神(おほかみ)プルプラ、諸々(もろもろ)大御恵(おほみめぐみ)御縁(みえにし)(たふと)(ゐやま)(かしこ)(かしこ)みも(まを)す」

 

 ざっくり言えば、名前に出すのも恐れ多い境界の神様プルプラよ、いろんなお恵みとご縁を与えてくださってありがとうございます、という感じになると思う。

 

 もしも音が似てるだけで全然違うことを言っているのだとしたらともかく、この通りに言っているのだとすればどうやら異世界ものにありがちな自動翻訳機能はちゃんと働いているようだ。もし会話全てがこの調子だったら私がさらに現代語訳しなければならないという面倒くさいことになりそうだけれど、多分これは神様へのお祈りの定型文みたいな感じだろう。手慣れた感じだったしね。

 

 連れがいれば会話からもっといろいろわかるんだけど、何しろ一人だから何にも喋らないんだよね。

 

 少女はしばらく歩いて、少し開けた場所に出たところで、どうやら野営の準備を始めるようだった。まだ明るいとは思うけれど、人間が歩き続けられる時間は限られているし、薄暗い森の中で一人で野営の準備をするとなると時間もかかるだろう。

 

 少女は手慣れた様子で竈を組んで火をつけたのだけれど、ここで何やらファンタジーグッズが登場した。

 

 火打石でも使うのかと思っていたら、何か小さな箱のようなものを取り出して、竈の薪に近づけた。そして小さく蓋を開いたかと思うと、その隙間から小さな火が上がり、ぱちぱちと枯れ枝に燃えついたのだ。

 

 ライターのようにも見えるこの箱の中には、小さな蜥蜴のようなものが見えた。それが本物なのか作り物なのかまではわからなかったけれど、ガスやオイルを燃やしているわけではなさそうだ。

 

 少女は先程手に入れた猪肉を鍋で調理したり、装備の点検をしたりと、なんとも冒険者然としていて、いい。実にファンタジーな光景だ。しかもあんまりさりげなく使うから気付かなかったけれど、多分水筒も魔法の品だ。ナイフを洗ったり鍋に水を注いだりしていたのだけれど、どう考えても革袋のサイズと出てくる水の量が釣り合わない。先程水をくんでいたし無制限に汲めるわけではなさそうだけれど、かなり大量の水を収められるようだ。

 

 薪を拾ったりそこら辺の草をつんできたりうろちょろしながら少女は料理を続け、全てが終わった頃にはすっかり日が暮れていた。なるほど一人で旅をするというのは大変そうだ。私には無理だな。まずなにをしたらいいのかわからない。

 

 少女は鍋に直接匙を入れて猪肉を食べ始めたのだけれど、これがまた、とてつもなく美味しそうだった。

 

 鍋自体も美味しそうは美味しそうなのだけれど、なにより実に幸せそうにものを食べるのだった。それこそ神様にでも祈りだしそうな感謝を込めて一口一口を噛み締めている。俯いてため息ばかりの現代社会で見かけたら、ヤクでもやってんのかと思うレベルでにっこにこ笑いながら食べている。何か危ないものでも入ってるんじゃないだろうなこの鍋。

 

 やがて半分程食べ終えると、少女は鍋をもう一度沸かして、火からおろすと蓋を閉めて、厚手の布でくるんでしまった。どうするのかと思えばそのまま置いて、自分は毛布にくるまって寝る準備をしてしまう。

 何だろうと思ってしばらく考えてみたが、多分保温効果を高めているのだろう。スロー・クッカーと同じことだ。じっくりと熱を加えることで肉は柔らかくなる。それを朝ごはんにしようというのだろう。なるほど、考えている。

 

 木に背中を預けて寝入ってしまった少女を眺めて、さてどうしようかと私は悩んだ。

 

 私も眠ってしまおうかとも思ったけれど、なにしろ安物とはいえベッドに慣れた現代人だ。毛布もなしに地べたで寝れるほど丈夫ではない。いや、多分この体は岩の上だろうと何だろうと平気なんだろうけれど、気持ちとしては別だろう。

 

 それに何より眠気というものがまるでなかったのだ。

 

 興奮して目が冴えている、という感じではない。そもそも体調や精神状態がずっとフラットで落ち着いている。多分これは、ゲーム時代睡眠というものがバッドステータス以外で存在しなかったからではないだろうかと思う。一応宿屋というものもあったけれど費用対効果を考えたらアイテム使うか移動がてら自然回復させた方がよほどましだったし、私は使ったことがない。ゲームを基準としたこの体は眠りが必要ないのかもしれない。

 

 また、一日歩いたけれど疲労感もない。スタミナシステムはなかったからだろうか。見たり聞いたりの感覚はあるのに、そういった眠気や疲労などの一切がないというのは地に足がついていないようで落ち着かない。まるで幽霊だ。名乗ってはいるけれど、体感するとなんだか気持ち悪い。

 

 眠気が来ないとなると、夜は恐ろしく長かった。話し相手もいないのだ。

 

 ちょっとあたりをうろついてみたり、鍋の中身を拝借してみたりしたが、時間は全然過ぎない。なお、鍋は結構濃い味だった。味噌のようなものを入れていたけれど、炒ったナッツのような香ばしい感じがして、かなりコクがある。そして肉は、硬い。

 

 早く起きておくれよと頬をつついたり、焚火に薪をくべたりしてぼうっと過ごす夜は、はじめ全く落ち着かなかった。何もしていない時間というのは、いったいいつぶりだろうか。

 

 朝は六時に起きて、歯を磨いて顔を洗って化粧水はたいて手早く化粧を済ませて、着替えを済ませたらすぐ出勤だ。朝ご飯は通勤途中のコンビニでゼリータイプの補給食品を一気に絞って瞬間チャージ。会社に着いたらもくもくと仕事して、同僚がきゃいきゃい下らない会話してるのを聞き流しながらブロックタイプの栄養食品とミネラルウォーターでお昼ご飯。済んだらクソどうでもいい会議のチラ見されて終わりの資料をコピーして手作業でホチキスで止めて、上司のクソどうでもいい思い付きで訂正された資料をコピーしなおしてまたホチキスで止めて、結局会議で大して使われもしないまま回収してホチキス針を外して裏紙を再利用箱に放り込んで、給湯室で陰口大会の若い社員を尻目にテンプレート書類を仕上げて印刷して発送してとか言うメールでいいだろうという仕事を終わらせて、さあ定時で上がろうと思えばサービス残業のお時間だ。タイムカード切れってお前労働基準法違反だからな。十分もあれば終わるだろう仕事を、テンプレートと書式と要らん工程のせいで一時間以上に膨らまされて、さっさと終わらせて提出しようとしたら上司は本日早退につきまた明日ってお前これ今日じゃなくてよかっただろう。帰り道にコンビニに寄って栄養食品とミネラルウォーターを買って帰宅。パソコンを起動させてゲームのアップデート。その間にもそもそ晩御飯を済ませてレクサプロ飲んで、ああ、そろそろ眠剤切れるんだったでも次休みいつだっけ、ぼんやり考えながらゲームに没入して、切りが良ければベッドで寝て、悪けりゃ気付けば寝落ちしてる。それで、アラームに起こされてまた出勤。休日は診療所にいって毎度変わらずのお話をして、お薬貰って帰って一日寝る。

 

 そんな生活をずっと送っていたから、なんにもしない時間というものが落ち着かない。いわゆる世間の一般人はどういう毎日を送ってるんだろう。全然想像できない。なんでみんななんにもないのにウェーイって笑ってられるんだろう。脳器質の構造そのものが違うんじゃなかろうか。

 

 そんなことをしばらくの間考えていたけれど、くうくうと静かな寝息を聞きながら焚火の火を眺めていると、頭の中をかけずり巡っていた文字列はだんだんと減っていって、映像情報や曖昧な感覚にとってかわられ、それもやがてふわふわとした形容しがたい、色も形もないものになった。きっとそれが、()()()()するということなんだと思う。いま私は、()()()()しているのだ。

 

 ほとんど機械的に薪をくべているうちに朝日が差し始めたのだった。




用語解説

・ストーキング
 同一の対象に付きまといなどを反復して行うこと。犯罪行為。事案。

・異世界ものにありがちな自動翻訳機能
 何故か成り立ちもすべて異なる異世界で日本語が通じる現象。そのくせネット用語や俗語は通じなかったりする。言葉が通じない設定にすると転生して一から言葉を学びなおす場合はともかく、転移して身振り手振りでコミュニケーションをとらなければならないとどうしてもテンポが悪くなるので、「そのとき不思議なことが起こった」くらいの勢いで言葉が通じるパターンが多い。そしてそのまま全世界規模で言語が統一されていたりする。

・スロー・クッカー
 長時間決まった温度で調理する加熱器具。高い保温機能で長時間熱を保てるものの他、自動で温度調節するものなどがある。

・バッドステータス
 ゲーム用語。体がしびれて動かない麻痺や、一定時間ごとにダメージを受ける毒、行動不能になる睡眠や魔法の詠唱ができなくなる沈黙など、プレイヤーに不利なステータス異常。薬や魔法などで回復させなければ治らない場合や、時間経過で自動で治る場合がある。

・スタミナシステム
 ゲーム用語。攻撃したり、走り続けたすることに対して、個別に設定されたスタミナを消費するシステム。スタミナを使い切ると走ったりの行動ができなくなったり、疲労して動きが鈍くなったりする。

・ゼリータイプの補給食品
 忙しい社会人の味方と謳う、現代社会で手軽にお目にかかれるディストピア食品。あくまで補助するものであって食事はちゃんととった方が良い。これは主食ではない。

・ブロックタイプの栄養食品
 栄養管理が楽なカロリー数が計算しやすい例のアレ。これも主食ではない。ライプポイントも回復しない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊と白百合の歩み

前回のあらすじ
仕事してない時は何をしたらいいのかわからないという現代人の闇のような精神を持て余す閠。
その闇が少女を付け回すという事案を発生させてしまったのだろうか。
その闇が少女の寝顔を眺めて夜を過ごすという事案を発生させてしまったのだろうか。
闇は、あまりにも深い。


 さて、夜が明けると、少女は慌てて起き出して、手早く鍋の中身をかきこんで、あの大容量の水筒の水で洗い、荷物をまとめて旅を再開した。

 

 あの猪肉をたっぷりと食べたせいか、心なし足取りが軽そうだ。私にはいささか硬すぎる肉だったけれど、この娘は実に満足そうにぎゅむぎゅむと噛み締めていたし、気力も十分回復していることだろう。朝ご飯もしっかり摂ったことだし。

 

 一方の私だけれど、一晩寝ずに過ごしても、やはり眠気は訪れなかった。また昨夜鍋の中身を少しつついただけだけれども、空腹感も別に感じない。もともとそんなに空腹を感じないというか、食事への欲求があまりなかったけれど、本格的に何も感じない。腹が満ちているわけでもなく、空いているわけでもない。意識しないとお腹のことなどまるで意識にも上らないくらいだ。

 

 まあ、便利ではある。食事に煩わされるのは時間の無駄だ。ああ、いや、時間の使い方には困っているんだった。

 

 とはいえ、一晩ぼんやりするという私史上かなりショッキングな出来事があったためか、少し頭が切り替わったようにも思う。少女の後ろを歩いている時も、特に急かされるような気持ちも急かしたい気持ちも起こらないし、周囲の景色を眺めていろいろと発見をすることもあった。

 

 例えば何気なく通り過ぎていく木々なのだけれど、よくよく見ると葉の形や枝ぶりが、見たことのないものが多い。まあ私もそんなにいろいろ植物を見たことがあるわけではないけれど、以前図鑑でざっと見た感じとは明らかに違うものがちらほらとみられたりする。少なくとも私は自分の力ではい回る蔦とかは見たことがない。

 

 少女は採集をしながら歩いているようで、不意に屈みこんだと思ったら木に生えているキノコを採り始めたり、私には雑草にしか見えない草を摘んだりしていた。まあこのくらいなら山菜取りのおばあちゃんとかもしていそうだけれど、ぎょっと目を見張るようなものもあった。

 

 例えば、まっすぐ伸びた太い茎からひらひらと布状の花びらを螺旋状に広げた花が咲いていたのだけれど、その傍をひらひらと舞う蝶々に少女が目を付けた。少し大きめの革袋を取り出すと、花に止まって蜜を吸い始めた蝶々の上にえいやッとかぶせたのだ。虫取りなんて子供らしくていいなあ、私は一度たりともしたことないし虫なんか触りたくないけど、と微笑ましく見守っていたのだが、にこにこ笑顔で少女が袋を覗き込むと、なにやらかちゃかちゃと硬質な音がする。蝶々だよね。それ蝶々だよね本当に。不気味に思ってのぞき込むと、きらきらと美しい色取り取りのシジミがいた。

 

 何を言っているかわからないと思うけれど私もわからない。

 

 なんだこれと思っていると、そのうちの一つが隙をついて飛び出して、少女が慌てて袋の口を縛った。袋から抜け出したシジミが、薄く綺麗に輝く殻を羽ばたかせて飛んでいく。

 

 航空力学仕事しろ。

 

 おそらく何がしか未知の物理法則かファンタジー原理で飛んでいく飛行シジミを見送り、私は少女の笑みの理由を悟った。子供らしい昆虫採集の笑顔じゃない。いいおかずが手に入ったわっていう笑顔だ、これ。

 

 その後も少女は順調に食欲を満たすために行動していた。突然木のうろに手を突っ込んで小動物を引きずり出して首の骨を圧し折り始めた時は悲鳴が出るかと思った。まあ随分お喋りしてないからとっさに声も出ないけどね。

 

 獲物も豊富でご機嫌な少女は、やはり一時間歩いて十分休んでのペースを守って歩き続け、程よく開けた場所を野営地に選んだ。野営準備の光景も二度目となると慣れたけれど、どうしても慣れないこともあった。

 

 少女がおもむろにシャベルで地面に穴を掘り始めるのを見て、私はそそくさと背を向けて、少しの散歩に出た。昨日は何の穴だろうとしばらく観察して大変申し訳ないことをしてしまった。だってまさかトイレ用の穴だとは思わないじゃないか。でもまあ、そりゃそうだよね。生きてれば食べるし、食べれば出すものだ。健康です。私の方はこの世界に来てからこっち、全然そういう欲求がなかったのですっかり忘れていた。猪鍋をちょっと食べたからそのうち出るかもしれないけど、果たして体内が人間と同じかどうかは私にもわからない。

 

 少女は鍋に例の飛行シジミを放り込んで火にかけた。ああ、やっぱり食べるんだと思っていると、中からかんかん音がする。逃げ出そうとしてるんだろうなあ、あれ。酔っ払いエビみたいだ。

 

 その間に少女は道中捕まえた小動物をさばき始めた。えぐいなとは思うけれど、血抜きのために首を裂いた時も見て少し慣れたし、怖いもの見たさもあって眺めていると、解体以前にカルチャーショックがあった。

 

 兎っぽいと思っていたのだけれと、これ、鳥だ。

 

 兎と鳥を足して割ったような感じ。四つ足の鳥というか。羽毛がかなりふわふわの体毛になっているらしくて、少女がぶちぶち引き抜いていく羽は綿みたいでかなり柔らかそうだ。足先なんかは完全に鳥で、前足などは風切羽の名残のような羽が伸びている。

 

 羽をすっかり毟ってさばく段階に入ると、なんとなく鶏っぽくも感じる。

 

 手慣れた様子で解体して、皮目を火であぶっているのは、羽の根っこの部分を焼いているのかな。

 

 鍋から音がしなくなって、少女が蓋を開けると、ふわっと懐かしい香りがした。お吸い物の香りだ。何年も飲んでない。

 

 今日は味噌は使わずあっさり塩味にするようで、ビスケットのようなものも砕いて入れたりはせず、たまにスープに浸して柔らかくして食べていた。こっそりお相伴にあずかろうかなとも思ったけれど、ジビエだけあってやっぱり歯応えがありそうにぎゅむぎゅむ噛み締めているし、食べ盛り育ち盛りの子供から頑張って獲った食べ物をかすめ取るのも申し訳なく感じて遠慮しておいた。昨日はあんまり美味しそうに食べるからついつい手を出してしまったけれど、別にお腹が空くわけでもないし、幸せそうに食べている姿を見ていると、まあいいかなという気分にもなる。

 

 半分ほど平らげると、ちょっと物足りないという顔をしながら、昨日と同じように鍋を保温し始めるので、私はふと思いついて腰のポーチを探ってみた。

 

 暇な時間に少し調べてみてわかったのだけれど、このポーチ、ゲーム時代でいうインベントリになっているようなのだった。アイテムボックスとか言ったりもする、要するに取得したアイテムが保管される場所だ。小さな見た目だけれど、手を入れると中にどんなアイテムが入っているのかが思い浮かぶ。

 

 私のプレイしていた《エンズビル・オンライン》ではアイテムに重量が設定されていた。キャラクターの力強さ(ストレングス)や、装備に付与されている軽量化効果などから計算される所持重量限界があって、低レベルの内は装備も含めてどんなアイテムを持っていくかかなり厳選を迫られる。

 

 私の場合、力強さ(ストレングス)は全然育てていないけれど、それでも最大レベルだけあってかなり豊富なアイテムを所持している。

 

 私が取り出したのはその中の回復アイテムである《濃縮林檎》というものだ。普通の《林檎》は低レベルの内からも手に入る手軽な回復アイテムだけれど、《濃縮林檎》は高レベル帯の植物系モンスターからしか手に入らない、《HP(ヒットポイント)》と《SP(スキルポイント)》を大きく回復させてくれるアイテムだ。加工すれば《濃縮林檎ジュース》という重量が軽くて回復量も高いアイテムにできるけれど、面倒だったのでそのまま持っていたのだ。

 

 私はそれをそっと竈の傍に転がしておいた。ポーションなんかでも回復はするだろうけれど、突然薬瓶なんか転がってても怪しいし、第一お腹が満たされないだろう。その点果物なら森の中に落ちていてもおかしくはないし、食べれば満足もするだろう。

 

 ……私のアイテムをこの世界の人間が摂取した際にどんな効果が出るのかという人体実験も兼ねている、というのは包み隠さず言っておこう。私はなにも善意だけの人間ではないのだ。

 

 少女は《濃縮林檎》の存在に気づくと、あたりを見回して不思議そうに首を傾げた。まあ、確かにちょっと怪しかろう。近くにそれらしい実が生っている木はないからね。私だってそれくらいわかる。でも短い付き合いながらこの娘のことは少しわかった。

 

 少女はやはり、気にしながらも《濃縮林檎》を手に取り、半分くらい警戒心を置き去りにして、わずかの葛藤を済ませるやじゃくじゃくと美味しそうに食べ始めた。旅の中では甘いものはあまり手に入らないだろうし、ただの《林檎》よりも栄養価が高そうな《濃縮林檎》はさぞかし美味しかろう。

 

 瞬く間に平らげ、種を押し頂くようにしてしまいこみ、ついには神にまで祈り始める姿に笑い死にするかと思ったが、幸いこの程度では私の《HP(ヒットポイント)》は減りもしなかった。

 

 少女がぐっすりと眠りに落ちると、私はこの退屈な夜長をどう過ごすか思索にふけった。どうしてこんなことになったのかとか、この体は何なのかとか、この世界は何なのかとか、多分考えなければならないことはたくさんあるのだけれど、でもそれらは考えても意味のないことでもある。答えは私の中にはない。だから目先のことを考えた方が建設的だ。

 

 私は焚火に薪をくべ、少女の頬をつつき、あたりをうろつきまわり、ポーチの中身を改め、《技能(スキル)》の扱いがどう変わっているのかを確かめ、一人時間を潰した。

 

 少女が苦労して仕掛けた罠は、器用に餌だけ抜き取られてあまりにも哀れだったので、そこら辺をうろついていたカモノハシみたいな小動物を捕獲して罠にかかったように見せかけておいた。

 

 ついでに暇だから観察してみたけれど、カモノハシとしては嘴が短い。尾は長く、足はちょろちょろ動き回りやすそうな小さなものだ。前の世界ではペットなんて飼ったことがなかったし、動物に触れる機会などなくてちょっとおっかなびっくりだったのだけれど、この体は私の思うとおりに動いてくれて、うっかり握りつぶすということもなく繊細に捕まえられたのに驚いた。

 頭で気持ち悪い触りたくないと思いながらも、手の方では機械的に仕事をこなしてくれるのだ。しばらく弄っているうちに慣れてきたし、存外私も図太い方なのだろうか。そういえばレクサプロ飲んでないけどどうということもない。まだ薬の効果が残っているというよりは、この体は脳の構造も強くなっているのかもしれなかった。

 

 やはり全く眠気が来ないまま朝が来たけれど、朝日が出てきても少女に起きる気配がない。

 

 甘やかしたせいだろうかと思って揺さぶってやるとさすがに目を覚まし、寝坊したことに気づいたらしく大慌てで片づけを始めた。どれだけ急いでいても朝ご飯を幸せそうに食べるので、多分この娘と私の脳器質には相容れない違いが存在している気がする。

 

 罠に仕掛けておいたカモノハシもどきには喜んでもらえたようでよかったけれど、やっぱりその場でしめて血抜きするので笑顔が怖い。いや、この世界の常識的には普通の反応なんだろうけど。

 

 《濃縮林檎》の回復効果があったのだろう、少女の足取りは非常に軽かった。ステータスが見えないので《HP(ヒットポイント)》が回復したのか、回復したとして、ゲーム時代のように《HP(ヒットポイント)》最大量までしか回復しないのか、そのあたりのことはよくわからない。しかしこの元気な足取りが少女の本来の身体能力なのだとすれば、めげる様子はなかったもののやはり一人旅は疲れがたまるようだ。冒険者は大変だね。

 

 元気が出たおかげか非常にご機嫌で進んでいく少女の後を私もついていく。余裕があるからか、少女は道々食材になりそうなものを積極的に採取しているようだった。私は樹上をするする移動していく山猫みたいな生き物や、遠くから聞こえてくる鳥か何かの鳴き声、そういったものに目を取られていたので詳しくは見ていないけれど、地面からタケノコみたいな白アスパラみたいなものを掘り出したり、茂みに顔を突っ込んで木苺を摘んだりとやりたい放題やっているみたいだった。

 

 元気があるのはいいことだけれど、はしゃぎすぎて疲れても私は知らない。

 

 小川に差し掛かったところで、少女は機嫌がよさそうに鼻歌を歌いながら休憩を始めた。例のやたらと大容量の謎水筒に水を汲み、山菜のようなものを摘み、のんきに顔など洗っている。

 

 私は私で川辺の木に止まっている巨大な蝉に目を奪われていた。実に綺麗なエメラルド色の羽をしていて、チーチーツーツーと先程から聞こえていた鳥の鳴き声のような声で歌っている。蝉の鳴き声と言えばうるさいとばかり感じていたけれど、せせらぎとこの巨大蝉の歌声の取り合わせはなんだかとても涼しげで心地よい。

 

 そろそろ出発する頃合かなと振り向くと、少女が警戒したような顔つきでじっとこちらを見ている。いつの間にか《隠蓑(クローキング)》が解けていただろうかと慌てて確認するけれど、相変わらず体は半透明のままで、解除された様子はない。

 

 なんだろうと思ってあたりを見てみると、どうも私の体を透かして向こう側に、一頭の獣がいることに気づいた。

 

 角もあるし鹿っぽいのだけれど、口元には嘴があるし、足元も蹄はあるけれど鱗のある足で、今までにも見た四つ足の鳥の類らしい。非常に立派な体躯で、毛並みというか羽並みというか、鮮やかな色合いで美しい。

 

 ぼんやり見ていると、少女に気づいたらしい鹿鳥が、鋭く鳴いて威嚇し始めた。前足に生えた風切羽の名残のような飾り羽を体に打ち付け、角を向けてしきりに鳴いている。縄張り意識の強い獣のようだ。

 

 少女は、熊に遭った時の対処法のような感じで、目を背けないままゆっくりと後ずさって、十分に距離を取ってからその場を逃げ出した。私もそのあとについていく。ファンタジー世界の戦闘が見られるかもと思ったのだけれど、まあ十三、四の小柄な子供に鹿と戦えっていうのはちょっと厳しいだろう。

 

 少女はすぐに気を取り直したのか、のんびりとあちらこちらを眺めながら、元の調子で歩き始めたようだった。私も旅の連れが気落ちしたり警戒し通しでは落ち着かない。少し安堵して観察を続けるのだった。




用語解説

・《濃縮林檎》
 《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。高レベル帯の植物系Mobからドロップする。
 《HP(ヒットポイント)》を最大値の三割ほど回復させる。加工することで重量値が低く、五割回復の効果を持つ《濃縮林檎ジュース》が作成できる。
『年経た木々はついに歩き出す。獣達にとって遅すぎるその一歩は、気の長い古木達にとってはせっかち物の勇み足。豊かな実りは腰を据えなければ生み出せない。その前に根から腐り落ちなければの話だが。』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 亡霊とハクナ・マタタ

前回のあらすじ
ファンタジー世界の森を歩き、ファンタジー世界の生き物に驚き、それを喜んで食べる少女にまた驚き、順調に異世界観光を続ける閠。
少女の後を付け回し少女に餌付けするという事案を重ねながら、閠はどこへ進むのか。


 もしかしたら気付かれているのかもしれない。

 

 その思いが強くなったのは、少女が野営の準備を始める頃だった。その間のんきに後をつけてのんきにファンタジー世界を満喫していたのだから私も大概鈍いというか図太いというか。

 

 いつもの通りに少女が荷物を下ろし、おもむろに穴を掘りだしたので散歩にでも出ようかと思ったら、少女の方が何やら気づいたように振り向くので、つられて私も振り向いたけれど、特に何もない。何だろうと思って少女の方を見やると、なにやらしばらく悶絶していたかと思うと、猛然と穴を掘りだした。訳が分からない。

 

 少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味はないのでそそくさと散歩に出たのだけれど、うごうごとうごめくアケビのような果物が生っているのを観察している時にふと気づいたのである。もしかして、あれは見られていることに気づいて悶絶していたのではなかろうかと。

 

 確認するために戻ろうかとも思ったけれど、タイミングよく、或いは悪くスーパーおしょんしょんタイムに鉢合わせてはまずいし、もしこれがスーパーおしょんしょんタイムだけではなく、インペリアルビッグベンタイムだった場合には互いの精神的ダメージが計り知れないものになりかねないので、般若心経を心の中で唱えながら、ぱくりぱくりと開いたり閉じたりするアケビもどきを無心に眺めて時間をつぶし、十分に間を開けたと確信を持ってから更に五分ほど待って野営地に戻った。

 

 幸い今日も健康に手早く済んだらしく、澄ました顔でカモノハシもどきをさばいている。穴を掘っていた場所はかなり丁寧に埋め立てられていたけれど、それいつもはゴミ捨て場にもしてたよね。いま埋めていいの。

 

 かなり怪しく思いながら観察してみたけれど、少女の方はもう気持ちを切り替えたらしく、熱心に調理にいそしんでいてこちらに気をかける様子もない。

 

 今日は鍋にお湯を沸かして、白アスパラみたいのと野草をさっと茹でて、カモノハシもどきは炙り焼きにして食べるようだ。カモノハシもどきの脂がぽたぽたと火に落ちると何とも言えず香ばしい香りが漂って、お腹は空かないまでも口の中に涎が出てくるのを感じる。

 美味しそうだなんて思うのは何年ぶりだろう。食欲というものがここしばらくはすっかり脳神経から欠損していた。お腹は減るから補給はした。筋肉が疲れるからたんぱく質を摂ろうと思ってプロテインは飲んだ。足りない栄養素を思ってサプリメントを飲んだ。でも、思えば、食事というものをしてこなかったかもしれない。何かを食べたいとは、思わなかったかもしれない。

 

 少女はすっかりカモノハシもどきを焼き上げてしまうと、まな板代わりで皿代わりの革袋の上に山菜と一緒に並べて、例の味噌みたいなものを取り出した。

 

 また、何かの缶を大事そうに取り出して、乾いた葉のようなものを鍋の湯に落とした。

 少しすると葉が広がり、お湯が茶色に近い濃い赤色に染まる。それを金属のコップに注いで、ふうふうと冷ましながら飲んでいる。ふわりと漂う香りは爽やかで何かのハーブティーのようなものなのかもしれない。

 

 味噌みたいなものは、山菜につけて食べるために用意したらしい。

 白アスパラみたいのの先にちょっとつけて、はむりと食べては頬を綻ばせ、野草にぺたりとつけて頬張ってはむふむふと笑っている。

 

 お待ちかね、と言わんばかりの笑顔でカモノハシもどきの腿肉を取ってかぶりつき、その溢れる肉汁に指先を濡らしながら、実に幸せそうに食べる。脂でてかてかと光る唇がまた子供っぽくておかしい。兎鳥より身が少ないけれど、ジューシーそうでずっと美味しそうだ。

 

 そんな幸せそうな姿を見ていると、なんだかくらくらしてきた。血糖値が下がった感じだ。燃料切れを感じる。なんでだろう。いままでお腹なんて減らなかったのに。空腹という当たり前の生理現象は、しかし私にとっては体調不良と同義だ。エネルギー補給がうまくいっていない。でもこの体にそんな機能があったのならば、もっと早くこうなっているはずなのに。

 

 私は少し考えて、もしかしてと思いついた。

 

 ()()()()()()()()()()()()、だろうか。

 

 思えば、最初に《隠身(ハイディング)》が発動した時も、休もうと思ったときだった。いつもゲームで休憩して《HP(ヒットポイント)》と《SP(スキルポイント)》を回復させるために使っていた《技能(スキル)》だから、休もうという私の意志に反応して発動したのではないだろうか。《隠蓑(クローキング)》に関しては、私が使おうとそう意識したから、使えるようになったのではないだろうか。

 

 身体能力もそうだ。無意識に使っていた時より、ゲームのキャラクターの体だと意識してからの方が、よりそれらしく振舞うようになった。

 

 だとすれば、私が人の食事する様を見て、食べるということを思い出してしまったから、意識してしまったから、私の体はまっとうな人間のようにお腹が空いてものを食べたいと訴え始めたのではないだろうか。これは面倒な事だった。無補給でいられるならその方が便利だった。一度意識してしまえば、忘れることは難しい。

 

 頭がくらくらして、湯気を上げるお肉から目を離せずにいると、少女はいつものように半分程食べて、それから少し考えて、革袋で軽く包んで、ほんの少し私の方に押し遣って、黙って毛布にくるまって向こうを向いてしまった。

 

 これは、気づいているのだろうか。私の存在に気づいているのだろうか。わからない。怖い。私が見えているのだろうか。それで私の反応をうかがっているのだろうか。いやだ。怖い。わからない。

 

 しかし混乱と不安は、直近の生理的欲求にだんだんと押し負けていった。

 

 私は息を殺して近寄り、革袋を開いてまだ暖かいカモノハシもどきの腿肉を手に取った。

 

 恐る恐る匂いをかぎ、その香ばしい香りにまたくらりときて、私は小さく齧ってみた。すると、少し硬い感触とともにじわりとたっぷりの脂がこぼれてきて、私は慌ててこぼさないように手皿を作って、大きく齧りついた。

 

 その瞬間の感動と言ったら、まるで爆発だった。

 

 舌先から喉の奥まで、じゅわっとあふれ出た肉汁と脂が通り過ぎるだけで、私のさび付いた神経回路に許容限界以上の電気信号が津波のように駆け抜けていった。

 

 堪え切れずもう一口、また一口と重ねる度に、舌が、顎が、噛み締める歯さえも、言語に変換できない無数の信号を生み出しては流し込んできた。

 

 気づけば私はちゅうちゅうと残った骨をしゃぶって貪欲に味を求めていた。そんなみっともない様に気づいて慌てて骨を吐き出し、どうしようかと迷って、少女が重ねた骨にそっと重ねておいた。

 

 もうこうなると我慢はできそうになかった。白アスパラガスみたいなものにそっと味噌のようなものをつけて口にしてみると、しゃきくりゅと不思議な触感とともに甘みが口の中に広がった。味噌のように見えたものは、想像よりもずっと甘さの強いものだった。でもくどい甘さではない。ピーナッツバターのようでもある。

 野草も食べてみた。こちらは辛味が強いもののようだ。少しの苦味と、すっと広がる辛味、それに味噌みたいなもののコクと甘味が合わさって、口の中で鮮烈な香りとともに広がる。

 

 あまりの信号量の多さに、脳がピリピリするような心地さえ覚える。

 長らく使っていなかった部分が活発に活動して、熱さえ持っているような気がする。気づけば私はほろほろと涙をこぼしながら、少女の残した夕餉をあらかた食べつくしてしまった。過失というには、骨にこびりついた肉片まで丁寧にしゃぶりつくしてしまって言い訳のしようもない状態である。

 

 もうこうなれば毒を食らわば皿までの精神というか、居直り強盗のような心地でコップを拝借してお茶もいただいた。甘みの強いもので、軽い渋みが食後の口を程よく洗い流してくれる。

 

 ゆっくりとお茶を頂いて心を落ち着ける間に涙も止まり、暴走していた食欲も収まったので、はい、反省会である。

 

 やっちまったのは仕方ないけれどどうしたものだろうか。少女の朝ご飯になる予定の食事を平らげてしまった。こちらに気づいて寄越してくれたのだというのは私の勝手な希望的観測であって、寝ている時に蹴飛ばさないようによけただけかもしれないのだ。

 

 私は少し悩んで、ポーチから昨日の《濃縮林檎》を一つ、《SP(スキルポイント)》回復アイテムである《凝縮葡萄》を一房、それから最大《HP(ヒットポイント)》量を少しだけ増やしてくれる効果のある《コウジュベリー》を一房、代わりに置いておいた。

 

 焚火を挟んで向かい側に移動して腰を下ろすと、一応はやるだけやったという安堵感と、空腹が満たされた満足感と、そして焚火の暖かさにだろうか、今まで感じなかった眠気が瞼にのしかかり、気づけば私はかくりと視界が落ちたのを最後に、深い眠りに落ちていったのだった。

 

 眩しさにはっと目が覚めた時の私の慌てようがわかるだろうか。

 

 目が覚めた時には朝日が差し込んでおり、すでに少女は目を覚ましているようだった。私の置いておいた果物を、朝ご飯として実に幸せそうに食べている。

 

 うまく回らない寝起きの頭でしばらく観察していて思ったのだけれど、もしかしたらこの娘はそれなりに良いところの子供なのかもしれない。装備を新調してもらえているし、それに食事の仕方が汚くない。

 食べ方が綺麗だというのは、これは完全に教養だ。表情豊かに食べる様はお高く留まったところがまるでないのだけれど、食べ方自体は実に行儀が良い。

 

 早く多くの人間がいて、文化程度がわかる町などに出られるといいのだけれど。

 

 少女の食べっぷりを見て胃袋が文句を言い始めたので、私もポーチから《濃縮林檎》を取り出して食べることにした。

 

 しゃくりとした心地よい歯応えに、口当たりの良い甘酸っぱさ。成程これは少女が夢中になるわけだ。私は手早く食べ終えて、それから残った芯をどうしようかと迷って、結局少女のまとめたゴミに紛れさせた。どうせ埋めてしまえばわかるまい。

 

 ポーチの中のアイテム残数を思って、私はため息を吐いた。まだまだ余裕はあるとはいえ、この後の生活を思えば、現地での採取を考えなければ。

 

 前途は多難で、幸先は不安で、しかし。

 

「おいひぃ……!」

 

 何にも考えていなさそうな、幸せそうに《濃縮林檎》をかじる少女の姿に、私は深く考えるのを止めた。

 

 なんとかなるさ(ハクナ・マタタ)

 なんとかなるさ(ハクナ・マタタ)、だ。




用語解説

・少女の排泄する姿を眺めて興奮するような趣味
 現代社会ではあまり一般的ではないが一定の層が存在するらしい人間の業の深さを思わせる性癖。
 まだ軽い方らしい。

・スーパーおしょんしょんタイム
 腎臓において血液から老廃物や有害な代謝産物を濾過してつくられた尿は、腎盂から尿管の蠕動によって膀胱へ送られる。膀胱内に尿が充満すると尿意を生じ、尿は尿道を経て体外に排出される。これを排尿という。この排尿を直接的でなくかつ誰にでもわかるようにした表現。

・インペリアルビッグベンタイム
 消化し吸収した食物の残りを肛門より体外に排泄することを排便という。この排便を婉曲的にした表現。消化し吸収した食物の残りを大便と呼ぶが、この大便の大を英訳しビッグ、便をそのまま発音しベン、繋げてビッグベンとし、イギリスはロンドンに実在するウェストミンスター宮殿に付属する時計台の大時鐘の愛称ビッグ・ベンとかけ、大英帝国をイメージさせるインペリアルを冠している。グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国を不当に貶める意図は全くない。

・般若心経
 正式には般若波羅蜜多心経。
 大乗仏教における空性、般若思想に関して記述された経典。
 複数の宗派で広く用いられ、現代日本でも耳にしたことがある者が多いと思われる。
 素数と並んで雑念を払う目的で唱えられることが多いが、本来の用途ではない。

・《凝縮葡萄》
 《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。高レベル帯の植物系Mobからドロップする。
 《SP(スキルポイント)》を最大値の三割ほど回復させる。加工することで重量値が低く、五割回復の効果を持つ《凝縮葡萄ジュース》が作成できる。
『一房の葡萄。一粒の果実。これは私の血である。これは私の肉である。味わいたければもぎ取ればいい。できるものなら』

・《コウジュベリー》
 《エンズビル・オンライン》の回復アイテムの一つ。森林など一部地域で特定の木々などを調べると確率でドロップする。《HP(ヒットポイント)》の最大値を25ポイント増やす効果がある。低レベルの内は恩恵が大きいが、高レベルになるとあまり意味がない上、効果に回数制限がある。
『深き森の民が皆おどろくほど長生きなのは、この不思議な果実を常食しているからだという。この森で長生きすることが果たして幸せかどうかは私の知るところではないのだが』

・ハクナ・マタタ
 スワヒリ語でどうにかなる、くよくよするなの意。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合と亡霊の顔

前回のあらすじ
少女の寝顔をおかずに少女の朝ご飯を食べつくし涙する閠。
この地に警察などいない。


 亡霊(ファントーモ)と歩く森はなんだか不思議な感じでした。

 

 連れと言えば連れなのですけれど、亡霊(ファントーモ)はある程度の距離を取って付いてくるだけで、私が何かしている時はのぞき込んできたりしますけれど、それ以外は話しかけてくるわけでもありません。

 

 私の方も亡霊(ファントーモ)に話しかけることはありませんでしたし、見つめることもせず、時々気づかれないように様子を窺うだけでした。

 というのも、亡霊(ファントーモ)は私が気付いていることに気付いていないようで、だからこそ安心してついてきているという風情だったので、何しろそろそろ寂しさが募ってきた私としては、迂闊なことをしてこの奇妙な連れを逃がしたくなかったのでした。

 

 なんとなく距離感に慣れてきたような、まだ掴みかねているような、そのような具合のまま、私は今日の野営地を決めました。

 

 野営地を決めるときのコツは、火をおこしやすいように開けていること、危険な獣や植物の気配がないこと、またここのように旅人の通る道であれば、野営地として何度も使われているうちにそのあとが残りますから、それを目安にすると楽です。

 

 ゴミ捨て場兼用足しの穴を掘りながら、ふと私は気づきました。亡霊(ファントーモ)は、その、()()のでしょうか。つまり、人間生きていれば食べるわけで、食べればその、()()わけで、だから私もこうしてその()()()()()のために穴を掘っているわけで、でも命がない、体もない亡霊(ファントーモ)はどうなのでしょう。出ないのでしょうか。

 

 間抜けな好奇心からちらと様子を窺おうとして、そして私は全く突然に()()()()に思い至って、思わず勢いよく亡霊(ファントーモ)を振り向いてしまいました。

 

 亡霊(ファントーモ)はきょろきょろとあたりを眺めているようですけれど、しかし、いつもは私のあとをつけてきて、まるで観察でもしているようにじっと見つめてくるのです。そう、観察、観察されているのです、私は。それが生者を羨むが故の行動なのかどうかは定かではありませんけれど、問題はこのまま観察されたら、私は見られてしまうのです。その、なんです。この穴の()()()使()()()をご披露しなければならないわけです。

 

 いくら相手が亡霊(ファントーモ)であるとはいえ、さすがに用足しをまじまじと観察されて何とも思わないほど私も図太いわけではありません。しかし亡霊(ファントーモ)の見えない位置に移動しようとしたところでついてきてしまうでしょう。できるだけ隠そうとしたらのぞき込まれるかもしれません。さすがにのぞき込まれた状態で用を足せる神経はしていません。まだ現状のこの距離の方がましというものです。

 

 こうなれば覚悟を決める外ないと、決死の覚悟で穴を掘ったにもかかわらず、ちらっと様子を窺った時にはふらっとどこかへ姿を消していました。

 

 助かりました。助かりましたけど、何とも納得がいきません。見られたいわけではありませんけれど、なんだかこう、空回った感じがすごくします。

 

 なんだか気が抜けてしまった私は手早く用を済ませて、それからそそくさと穴を埋めました。いつもはゴミ捨て用の穴としても使っていますけれど、さすがにその、()()を見られたくなかったので。

 

 無性に疲れたような気持ちを引きずりながらも、せっかくいろいろ手に入ったのでご飯の支度を進めました。

 

 鴨鼠(ソヴァジャラート)の羽をむしり、頭を落として腹を裂き、内臓を取り出して水で洗い、軽く塩と香草を摺りこんで、皮がきちんと張るように木の枝を刺して竈の火であぶります。

 

 時期を見計らって沸かした鍋で松葉独活(アスパーゴ)葶藶(アクヴォクレーソ)をさっと湯がき、折角なので残った湯でとっておきの甘茶(ドルチョテオ)を煮出します。あの不思議な果実ほど甘いものではありませんけれど、暖炉の傍で温かな甘茶(ドルチョテオ)を飲むのはとても心地よい時間でした。

 

 ふわっと立ち上る爽やかな果実のような香りを楽しみ、私は久しぶりの甘茶(ドルチョテオ)に口をつけます。舌に広がる甘味と、そしてわずかな渋み。この渋みが子供の頃は少し苦手でしたけれど、しかし渋みがあるからこそ甘味が引き立ち、そしてまた味を平たんではなく立体的にしてくれるのです。

 

 私はまず松葉独活(アスパーゴ)胡桃味噌(ヌクソ・パースト)をつけてぱくりと穂先をかじりました。しゃき、くりゅ、と硬いような、柔らかいような、不思議な歯ごたえです。すっかり地上に出てきたものは緑色に染まってもう少し歯応えがはっきりしていて食い出もあるのですけれど、白い松葉独活(アスパーゴ)ははなんといっても、貴婦人の指先などというあだ名がつくほどのしっとりとした柔らかさとふわりとした甘み、それにわずかな苦みが何とも言えずたまりません。

 

 葶藶(アクヴォクレーソ)は辛味の強い山菜です。苦みもあってまさしく山菜といった風情で、肉のおともには何とも心強いさっぱりとした後味の葉物です。これをさっと茹でて、茹ですぎないというのが肝心です。生でも食べられるくらいアクのない山菜なのですけれど、しかしさっと茹でてやることで少し甘味が出て、それに歯応えがずっと良くなるのです。

 

 さて、いよいよ本命です。

 

 鴨鼠(ソヴァジャラート)は成獣でもそれほど大きくならない小動物で、身もそれほどたくさんはついていないのですけれど、何といってもたっぷり蓄えられた脂がおいしいのです。あぶっている時からすでに、ぽたぽたと火に落ちては香ばしい香りを上げて私の胃袋をいじめてきました。これはもう待てません。

 

 私は大きく口を開いて齧り付き、この罪深ささえ感じるほどのうまみに頬を綻ばせました。肉を噛み締めるとまず香ばしく焼き上げた分厚い脂がかりっ、ぎゅっと歯を受け止め、じゅわっとたっぷりの脂を吐き出してくるのです。それに気をよくしてさらに歯を突き立てると、今度はむしろさっくりとした歯応えの肉が受け止めてくれます。脂だけでは少しくどいし、肉だけでは物足りない。鴨鼠(ソヴァジャラート)はその二つが神の御業としか思えない釣り合いで同居しているのでした。

 

 森の恵みは数あれど、森で取れる肉で最もおいしいのは、まず鴨の類といっていいでしょう。

 

 私は半身を丸々平らげて、いつものように残りを朝ごはんにしようと考え、そして待てよと思いました。

 

 ちらとわずかに視線を向けると、そこにはこちらをただ黙って観察している亡霊(ファントーモ)の姿がありました。

 亡霊(ファントーモ)もご飯を食べるのでしょうか。生きていないのに、体がないのに、ものを食べるのでしょうか。

 

 少しの間考えて、私は残り物を革袋で軽く包み、そしてほんの少し亡霊(ファントーモ)の方に押し遣って、毛布にくるまってしまいました。

 

 亡霊(ファントーモ)がものを食べるかどうかはわかりません。でも仮にも旅の連れですし、食べられるなら一緒に食べた方がいいに決まっています。気になるようでずっと見つめていますし、折角なので食べてほしくもあります。朝ご飯がなくなるのは困りますけれど、まあまだ木苺(ルブーソ)はありますし、明日はこれで済ませてしまいましょう。

 

 なんだか気になって寝付けないまま、そっと目を開けてみると、亡霊(ファントーモ)が思いのほか近くにまで接近していて驚きましたが、なんとか息を殺して見守ります。

 

 亡霊(ファントーモ)は恐る恐るといったように鴨鼠(ソヴァジャラート)の肉を手に取り、頭巾に隠れてよく見えませんけれど、口元にもっていきました。どうやら亡霊(ファントーモ)もものを食べるようです。

 

 亡霊(ファントーモ)は一口食べるや驚いたように身を振るわせ、ものすごい勢いでもくもくと食べ続けました。しかし、がっつくような勢いではありましたけれど、不思議と下品な所がなく、もしかすると生前は良家の方だったのかもしれません。ちゅうちゅうと骨をしゃぶる様子はなんだか色っぽくさえあり、また残った骨をどうしようと困ったように視線を迷わせ、私の残した骨にそっと重ねる様子はかわいらしくもありました。

 

 続けて松葉独活(アスパーゴ)葶藶(アクヴォクレーソ)を私の真似をするように食べ、また残った鴨鼠(ソヴァジャラート)も丁寧に平らげ、ようやく人心地付いたように、亡霊(ファントーモ)は鍋の甘茶(ドルチョテオ)を湯飲みに移して、ふうふうと冷ましながら口にしました。

 

 そこで私はようやく、亡霊(ファントーモ)の横顔が、竈の火に照らされて見えるようになりました。

 

 それは初めて見るような異国の雰囲気を持った顔立ちでした。

 ほっそりとした顔は紙のように白く、小ぶりな鼻はどこか知的で、薄い唇は甘茶(ドルチョテオ)に暖められて赤く色づいていました。わずかに伏せられた目元はどこか寂しげで、泣き黒子が不思議に蠱惑的でした。そのような顔立ち以上に私を困惑させたのは、その頬を伝ってほろほろと流れ落ちる涙でした。

 

 なんだか隠されていた秘密を暴いてしまったような、見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感と不思議な高揚に私は動揺し、毛布の中できつく目を閉じて夢の中に逃げ込むほかにありませんでした。

 

 いつの間にか眠りに落ちていた私は、朝起きていくつかの不思議なものを見つけました。

 昨夜食べてしまった鴨鼠(ソヴァジャラート)のお返しとでもいうのでしょうか。見たことのない美しい果物がそこには並べられていたのでした。この前の果実と同じ赤いものもありましたから、あれもどうやら亡霊(ファントーモ)がくれたもののようでした。

 

 私がこの素敵な贈り物の贈り主を探して頭を巡らせたところで、もうひとつの不思議なものを見つけたのでした。

 

 すっかり火の絶えてしまった焚火を挟んで向かい側に、黒いものがうずくまっていたのです。

 

 息を殺して近づいてみると、それは確かに亡霊(ファントーモ)でした。それも、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠っていたのです。起こしてしまうかもしれないと思いながらも、私は彼女の頬にそっと指を伸ばしていました。

 

 氷のように冷たいかもしれない。もしかしたら触ることさえできないかもしれない。そんな不安と裏腹に、私の指先はほのかに温かな柔らかい感触に、確かに触れることができたのでした。

 

 私は不思議な感動とともにそうしてしばらくの間彼女の頬の暖かさを指先で味わっていました。

 

 彼女は亡霊(ファントーモ)かもしれないし、そうではないのかもしれない。

 でも確かにここにいて、霧や霞のように消えてしまうことなどないのだ。

 

 そのことがなんだか言いようのない安心感を私に与えてくれました。

 

 涙の後の残る頬をもう一度だけ撫でて、私は今日という一日をまた新たに始めるのでした。




用語解説

・甘茶(ドルチョテオ)
 甘みの強い植物性の花草茶。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と悪意

前回のあらすじ
指先にふれる柔らかな頬。泣きはらした目元。怯える子供のように丸くなって眠る姿。
リリオは考える。森を出た、その先のことを。


 そういえば手は洗っていたのだろうか。

 

 ふと思ったのはそんなことだった。

 

 つまり、その、なんだ。リトル・ジョンかビッグ・ベンかはわからないが、少女は昨日用を足してから調理に入ったわけだけれど、手は洗ったのだろうか。というか用足しした後どうしたのだろう。紙とかないだろう、絶対。拭いたのか。拭いていないのか。それが問題だ。

 

 深く考えると昨日のご飯が途端に妙な属性を付与されかねないので、私は考えるのを止めた。

 

 まあ、そもそもそんなことを考えてしまったのは、あれほどの醜態をさらしてしかもすっかり眠りこけてしまった大失態を犯しつつも、何とか気を取り直して平然を装い少女の後をつけている時だった。

 

 いつものように一時間歩いて十分休憩を繰り返しているうちに、ふと、その、()()()しまったからだ。なにをって、つまり、あれだよ。人間は食べたら出るようにできてるんだよ。人間は食べてから排出するまで十二時間から二十四時間くらいときいたことがある。以前の体はやや便秘気味だったけれど、この体が驚くほど健康なのは実感済みだ。

 

 幸い隠れられるような茂みはいくらでもあるし、少女と十分に距離を取ってから茂みで()()()()。着た覚えもない服をどうすればよいのかという問題は、ベルトを外して下ろせば済むパンツスタイルで何とかなった。下着はドロワーズとかズロースとか呼ばれるようなもののようで、真ん中がボタンで留められているだけだったので、すっかり脱いでしまわなくてもこれを開いて用を足すことができた。さあ()を済ませてすっきりして、そこで問題は冒頭に戻る。

 

 どうしよう。

 

 用を足したままの姿勢で私は悩んだ。

 

 手を洗う件については、もったいないがアイテムに液体系があるし、どうとでもなる。素材用の蒸留水とかあったはずだ。問題はもっと先に、何で拭けばいいのかということだった。さすがに気軽に使える懐紙のようなものはアイテムにはなかった。

 

 魔法職でなくても魔法が使える《巻物(スクロール)》は紙と言えばまあ、羊皮紙だし紙の一種だけれど、このようなことで使うにはあまりにももったいなさすぎる。第一うっかり拭いている時に発動してしまって大事な部分がバーニングしてしまったらどうすればいいのだ。ムダ毛処理とかそういうレベルではないぞ。

 

 もちろん拭かないなどという選択肢はない。いくら何でも不衛生すぎるし、気持ちが悪い。どうしたらいいのだろう。

 

 今まで読んできた異世界ものやファンタジーものを思い浮かべてみたけれど、私の読んできたものの中には中世風ファンタジーのトイレ事情について事細かに記してくれていたものはなかった。大体ファンタジーとか謳いながら魔法とか便利技術とか妙に発達して現代人でもそんなに不満を覚えないレベルで快適なんだよ結構な比率で。

 

 読んでる側もそんなフラストレーション溜まるようなもの読みたくないかもしれないけれど、こちとら貴重な《巻物(スクロール)》で一か八か拭いてみて大炎上(物理)するかどうかの瀬戸際なのだ。ただし魔法は尻から出るとかそういうレベルではない。

 

 くそっ、なんて時代だ。

 

 私の読書スタイルに問題があるわけではないはずだ。だってどこの誰がトイレ事情に詳しいかどうかを判断条件に加えるというのだ。私にそういう趣味はない。

 

 せめてゲーム内通貨が紙幣だったらもう使うあてもないし腐るほど持っているのだけれど、残念ながら金貨だ。本当に金かどうかは知らないけれど、見た目上金貨っぽく見えるコインだ。これで拭くのは無理がある。

 

 となれば、と凝視したのが茂みの葉っぱである。

 

 大きめの葉っぱもあるし、代用できなくはないのではないか、と思う。というかまあ、貴重で危険な《巻物(スクロール)》を使うべきかとか考える前に、まあ、思いついてはいた。いたのだけれど、さすがに勇気がいる。だってこれ栽培物でもない野生の葉っぱだ。雑菌だらけなのは間違いないし、そもそも何かしらの毒性を持っていてもおかしくはない。昨日は夢中で鳥みたいな鼠みたいなのを食べてしまったけれど、あれだって私の体には有毒だった可能性もあったのだ。幸いお腹は壊さなかったけれど、あれは一応現地人も食べていたし、そこまで不安はなかった。

 

 だがこの雑菌まみれの正体不明の葉っぱで脆弱な粘膜部分を拭くというのは恐ろしいものがあった。《巻物(スクロール)》で拭いて股間がうっかりエクスプロージョンというのも恐ろしいが、粘膜部分が未知の微生物に侵されて腫れ上がるのはもっと生々しい洒落にならない恐怖がある。この世界で病気になってしまった時に私に治す術があるのかというとちょっと自信がないのだ。私の持ち合わせている抗体など何の役にも立たないだろうし、白血球がタイマン挑んで勝てるかどうかもわからないのだ。いくらゲームキャラクターの体っぽい超人ボディになっているとしても、二十六歳事務職の不健康な生活で錆びついたリンパ腺をそこまで信頼して酷使したくない。

 

 しかし拭かないという選択肢はもっとない。

 誰が何と言おうとそこは譲れないポイントだ。

 

 泥水をすすって生き延びたとしても、股は拭く。尻も拭く。両方やらなきゃいけないのがつらいところだ。

 

 私はできるだけ綺麗そうで大ぶりな葉っぱを選んで一枚とり、虫などがついていないことを確認した後、ポーチから素材用の蒸留水の瓶を取り出して軽く洗い、覚悟を決めて一思いに拭いた。この悲壮な覚悟がわかるだろうか。会社のトイレの安物のトイレットペーパーがいかに素晴らしいものだったか思い知らされた私の気持ちがわかるだろうか。ざりざりして固い葉っぱで大事なプレイスを己が手で蹂躙せざるを得ないこの悲しみがわかるだろうか。

 

 わかってたまるか。こんな馬鹿馬鹿しい悲しみを背負う人間は一人でも少ない方がいい。

 

 私は事を済ませて手を洗い、服を整え、なんだかとてつもない疲労感を背負ったまま少女の背中を追った。

 

 幸い、さほど時間はかけていなかったのですぐに追いつくことはできた。もしこの体でなければ、気配を追いかけることも、森の不安定な道を歩き抜くこともできなかっただろう。そのあたりは身一つで放り出される典型的な転移者よりよほどましか。

 

 しかし、その私のように特殊な体でもないのに、少女の足取りは軽快だ。これが現地人が皆健脚なのか、それともこの少女がことさらに頑丈な鍛えられた人種なのか、そこらへんはわからないが、まあ観察対象が元気なのはいいことだ。なにしろ時折こちらを振り向いて距離を測る余裕さえある。本人はそれとなくしているつもりなのだろうけれど、疑いを持って見ればすぐにわかる程度だ。

 

 まあ、間違いなくこちらのことが見えている、と思っていいだろう。

 

 最初の内は見えなかったようだから、勘が鋭いとか何かしらのスキルを使ったという訳ではなさそうだ。だから多分、原因は私の方にある。

 

 空腹や眠気などが、私が強く意識するまで訪れなかったように、どうやらこの体は私の意識無意識に左右される不安定な存在だといっていい。というよりは、まだ確定しきっていないというべきか。一度覚えてしまった空腹感や眠気は消えないし、すでにこの体になってしまっているせいか、もとの脆弱な事務職の不健康な体をイメージしても元には戻らない。

 

 では私が何をイメージした結果、少女から認識されるようになったかと言えば、多分私が彼女を旅の連れとして認識してしまったせいだと思う。

 

 餌付けし、距離を縮め、私は近づきすぎた。

 画面の向こうの存在ではない、実体を持つ生き物に、私は意識を気持ちを傾け過ぎた。それがおそらく、ゲーム機能におけるパーティシステムを発動させてしまったのだと思う。

 

 ゲーム時代、プレイヤーは大抵役割の違う他の《職業(ジョブ)》のキャラクターと組んで行動した。前衛と後衛、武器攻撃職と魔法職というように。

 これらの面々がより効率的に団体行動できるシステムがパーティだ。同じパーティに所属するメンバーは獲得できる経験値が共有され、パーティ専用のチャットなどが使用できた。このパーティメンバーには、私の使う《隠蓑(クローキング)》などの隠れるスキルが無効化され、半透明のオブジェクトとして見えるようになっていた。恐らく今、少女はそのような状態なのだ。

 

 ゲームの頃であればパーティ画面を開いてパーティを解除すればそれですんだけれど、いまはそれがない。私の認識次第のようだ。だから私が彼女を旅の連れではないと認識すれば私の姿は見えなくなるのだろうけれど、いまさらそんな風に気持ちを持っていくのは難しい。

 

 森を抜け次第別れて、もっと別の、感情移入しないような相手を見つけた方がいいかもしれない。

 楽しげに歩く背中を追いかけて、私は重たいため息を吐く。

 

 ……重たい?

 

 何を気重く感じる必要があるというのだろうか。確かに新たな観察対象を見つけるのは面倒かもしれないけれど、人間とかかわることになるかもしれないのはもっと面倒だ。私はあくまでも傍観者でいたいのだ。舞台の傍の席は選ぶかもしれないけれど、舞台に上がって役者に声をかけようとは思わない。画面に向かってブラーヴォと拍手をしても、その向こうの相手と肩を組んで笑いあいたいとは思わない。私が直接かかわってしまったら、それは途端に現実を伴ったナマモノになる。悍ましい何かになり果てる。喜劇も悲劇も、人の美しさも醜さも、清らかさも汚らしさも、全も悪も白も黒も、全ては傍から見ているくらいでちょうどいい。

 

 当事者になるなんてのは、はなはだごめんだ。

 

 誰にともなくそんな言い訳をして、私は意識をちらせるように森の中の景色に視線を泳がせた。

 

 もとより森の中に踏み入ったことなどない都会育ちのもやしっ子だけれど、それでもこの森は、元の世界の森に比べて命に満ちているように思われた。見たこともないような不可思議な生き物がうろつきまわり、自力で動き回る奇妙な植物がうごめいていることだけではない。目には見えない何かの活力のようなもので満たされているような気がした。私のような奇天烈な存在を許容する世界なのだ。実際に何かの力が働いていてもおかしくはない。

 

 この少女にはそういう才能はなさそうに見えるけれど、魔法使いといった存在もいるのかもしれない。火をつけるときに使っていた道具や、容量の多い謎の革袋などの不思議製品もあるし、かなり身近な現象としてそのような物理法則ではない法則がはびこっているのかもしれない。

 

 そういった品々や人々を観察することができればきっと面白いだろう。街に出たら、誰か特定の人間につくのは止めて、しばらくそういった道具や街並みを観察することにしてもいい。

 

 ゲーム時代の頃も、私はそういった小道具や背景などを調べては、ひっそりと隠された設定やフレーバーを楽しんでいたものだ。私の持ち歩いている道具の中には、フレーバーテキストが気に入って手放せないものもあるし、今までに入手したアイテムはすべて読み込んで楽しませてもらった。

 

 例えば、回復アイテムである《濃縮林檎》にはこんなフレーバーテキストがついていた。

 

 ――年経た木々はついに歩き出す。獣達にとって遅すぎるその一歩は、気の長い古木達にとってはせっかち物の勇み足。豊かな実りは腰を据えなければ生み出せない。その前に根から腐り落ちなければの話だが。

 

 ゲーム内の効果やドロップモンスターの攻略などには何らかかわりないが、しかし数多くのアイテムにいちいちこういった文章が飾られていて、それを読み込むだけで私は物語の世界に深く没頭できたものだ。

 

 中にはイベントに深くかかわるものもあったし、複数のテキストを読み比べて初めて見えてくる設定やつながりもあった。時に矛盾するテキストや、互いに互いを真と主張するテキストもあり、それ故にこそ、人々が好き勝手に語る、古き時代のおとぎ話を思わせた。

 

 そうだ。本当は私はゲーム自体よりフレーバーテキストの方が好きだった。

 

 ゲームをプレイするよりフレーバーテキストを集める方が好きで、ゲームをプレイする人々を眺めるより、その人々の紡ぎ出す物語を読み解くのが好きだった。盃に注がれた余りにも濃い一献を飲み干すより、そこから漂う香りづけ(フレーバー)をそっと楽しむくらいが性に合った。この世界でもそうしよう。そのようにしよう。この世界の品々や人々に、丁寧なテキストはついていないことだろう。誰もこの世界をつまびらかにはしてくれないだろう。けれど、それ以上に確かな実存を持って、私に物語を与えてくれることだろう。

 

 やはり、この少女とは早めに別れた方がいい。

 生き物の紡ぐ物語はあまりに速くて、難解で、面倒だ。

 埃をかぶり錆びつきかけた、神さびた物語を捲るくらいが、私には具合がいい。

 一人で、静かに、穏やかに生きていきたい。

 

 そんな。

 そんなことを、ぼんやりと考えていただろうか。

 

「――危ない!」

 

 叫びとともに私を突き飛ばした小さな体が血飛沫とともに転げるまで、私は当たり前の悪意が当たり前に牙を剥いたことに、まるで気づきもしなかったのだった。

 

 知っていたはずだった。わかっていたはずだった。

 世界は悪意に満ちていて、身を縮めて生きなければ、たちまちのうちに頭からヴァリヴァリ食べられてしまうのだと。




用語解説

・《巻物(スクロール)
 消費することで一回だけ、または設定された数だけ登録された魔法を使用できるアイテム。魔法職でなくても魔法が使えるが、使い捨ての割に貴重で高価。

・パーティ
 特にゲームなどで、チームを組んで行動する一行。《エンズビル・オンライン》ではパーティを組むと経験値を分配したり専用のチャットが使用できたりの恩恵がある。

・悪意
 妛原閠にとって、世界は悪意に満ちていた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 森の悪意

前回のあらすじ
世界は悪意に満ちている。
そのことを忘れていた閠をあざ笑うように、森の悪意は少女リリオを襲うのだった。


 亡霊(ファントーモ)はあの夜のことを、またすっかり寝入ってしまったことを恥じているのでしょうか。

 

 私が不思議な果実を朝食にと食べている間、うずくまったまましばらく身もだえして、それからなんだか諦めたようにどこからか取り出した果実をしゃくしゃくと齧り始めました。

 

 昨夜は鴨鼠(ソヴァジャラート)の肉に泣くほど感動していたのですし、こんなにおいしい果実を食べているのならもっと美味しそうにしてもいいと思うのですけれど、亡霊(ファントーモ)は手早く食べてしまいました。両手で果実を持ってしゃくしゃくと食べる姿は鸚哥栗鼠(パパスシウロ)みたいでちょっとかわいかったですけれど。

 

 心なしちょっと距離が遠ざかった気はしますけれど、亡霊(ファントーモ)はちゃんと私の後をついてきてくれました。最初はなんだか不気味で、不思議で、落ち着かなかったものですけれど、今はついてきてくれないと逆に落ち着きません。

 

 あれです。野良犬が微妙に懐いてきた時の感じと一緒です。餌は食べてくれるのですけれど、手からは受け取ってくれませんし、ある程度の距離にも寄ってくれないのです。それがだんだんと距離を近づけていってくれた時は本当に胸の奥から愛らしさが込み上げてきたものです。まあ私の胸は薄いので奥まですぐそこなんですけれど。

 

 一度ふらっと姿を消しましたけれど、またすぐに戻ってきたので、ほっとしました。ちゃんと追いついてこれたことに、おりこうさんですねー、と思わず完全に犬相手の対応をしそうになって堪えた私の自制心を褒めてもらいたいです。

 

 何しろ私は犬が大好きなのです。

 犬と言っても街でお金持ちが買っているような愛玩犬ではなくて、牧場で羊たちを守っている牧羊犬のことです。

 

 私の実家の近くに牧場があって、よく遊びに行ってはそこの牧羊犬に構ってもらったものです。

 いまはさすがに体が大きくなって無理ですけれど、小さなころはよくそのふかふかの背中に乗せてもらって、羊たちが草を食みに上っていく急斜面の山肌をかけてもらったり、お勉強をさぼって抜け出したことに気付いた女中が探しに来た時には足を借りて逃げ回らせてもらいました。

 

 犬というものは全く賢く心優しい生き物で、牧畜の神ファウノが人々の為に生み出して遣わしたのではないかと言うほどで、ともすればお嬢より頭がいいんでねえかと女中に真顔で言われたくらいでした。頷けなくもありません。

 

 亡霊(ファントーモ)は気難しそうですしまだあまり懐いてはくれていないですけれど、賢そうですし、綺麗ですし、大柄な所や黒いところもあの牧羊犬とよく似ていました。まだ家から出てそんなに経っていませんけれど、なんだか無性に懐かしくなってきました。

 

 足速丸(ラピーダ)と名付けられたあの牧羊犬は、私の知る牧羊犬の中でも一等足が速く、二本の足でも時々絡ませて転んでいた幼い私を背負って、八本の足を実に滑らかに動かしてすいすいと険しい山肌を駆けてくれたものです。

 また子供ができた時には、飼い主以外には警戒して見せてくれない卵から生まれたばかりの赤ちゃんを見せてくれ、抱かせてくれもしました。そのことを自慢したら、出来の悪ぃ仔犬と思われてんだべさ、と冷たい目で見られてしまいました。可能性は大です。

 

 亡霊(ファントーモ)も気を許したら抱きしめさせてくれないでしょうか。さすがにあのもふもふの毛並みは味わえないかもしれませんが、寂しがり屋の私としてはそろそろ他人の温もりが恋しくなってきました。

 

 まあでも、もうすぐ森を出てしまいますし、それまでにそのくらいに距離を縮めるのは難しいでしょう。亡霊(ファントーモ)がどういうつもりで私の後をついてきているのかはわかりませんけれど、森の外まで一緒に来てくれる保証はありません。旅の道は出会いの道。そしてまた別れの道でもあります。旅をしていく以上、必ず誰かと出会い、そして別れていかなければなりません。寂しさもまた旅の土産と兄は言っていました。だから、仕方がないといえば仕方がないのです。

 

 それでも、私はなんだか、放っておけないなあ、とそう思うのでした。

 傷ついて、お腹を空かせて、それでも精一杯に自分を大きく見せながら、雨の中じっと黙って佇んでいる一頭の仔犬のように見えて仕方がないのでした。きっとそれは私の勝手な想像でしかなくて、亡霊(ファントーモ)は迷惑に思うかもしれません。

 

 けれど。

 それでも。

 だけれども。

 

 もしも勝手が許されるなら、私はそんな彼女にそっと傘を差してあげたい。暖かな布で包んで、柔らかい食べ物を与え、傷が癒えるまで隣にいてあげたい。

 昔から私はそうでした。命に責任を持てないのならば手を出してはならないと昔から言われ続けて、それでも堪え切れず野良犬や野良猫に手を指し伸ばし、何度も引っかかれたり噛みつかれたり、時には力及ばず死なせてしまったりしながら、それでもまだ諦め切れずに同じことを続けている、どうしようもないポンコツなのです。

 

 だから、きっと、なんとしても、なんて。

 そんなことを考えていたからでしょう。

 

 私は私なりの警戒や慎重さというものさえ、道に置き忘れてきてしまったようでした。

 木々の幹に刻まれた縄張りを示す爪痕にも気付かず、私は不用心にその領域に立ち入ってしまったのでした。

 

 最初に気づいたのは、()()()()()()でした。

 

 あまりの静けさに、私ははっとして足を止めました。獣の身じろぎ、鳥の鳴き声、虫のざわめき、木々の葉擦れ、そういった音がいつの間にか、恐ろしいほどの静けさの中に消えていたのでした。森の豊かな魔力さえも今は凪いだように静かで、自分の心臓の音さえはっきりと聞こえるほどの静寂が、私がすでに()()の爪の届く距離にいることを確信させました。

 

 木々の隙間を足音もさせずにのっそりと現れたのは、一頭の巨大な魔獣でした。

 

 四つ足の今でさえ私を見下ろす巨体なのです。立ち上がれば大の大人よりもはるかに巨大なのでしょう。しかしその大きさと裏腹に、この魔獣は全く足音をさせず、ぞっとするほど気配が希薄でした。濃密な魔力があたりの大気に干渉して、音を殺しているのです。

 

 艶のない暗色の羽毛とその下の分厚い筋肉は生半な矢を通さず、長い前脚に備わった太い爪はそこらの木など容易く圧し折れるほどと聞きます。見開かれたような丸い目はどんなに深い夜の闇も見通し、音を殺して獲物に近づき、逃げる間も与えずに食い殺す森の捕食者。

 

 熊木菟(ウルソストリゴ)

 

 出遭ったなら必ず逃げろ、その時お前がまだ死んでいなければ。森のことを教えてくれた猟師は私にそう言いました。熊木菟(ウルソストリゴ)とはそういう、素人が戦うなんてことを考えてはいけない類の生き物なのです。

 

 幸い、かなり距離がありますし、出会い頭でまだ向こうもこちらを窺っている段階です。初夏ともなれば雪解けの春先と違って飢えに困っているということもないはずです。私は目を合わせたまま、敵意がないことを示すようにゆっくりと後ずさり始めました。

 

 鹿雉(セルボファザーノ)のときはこれでなんとかなりましたけれど……駄目みたいです。

 

 熊木菟(ウルソストリゴ)はゆっくりと立ち上がり、おもむろに前足を振り上げて、大きく後ろに振りかぶりました。ただの獣であれば威嚇と思うかもしれません。しかし相手は魔獣なのです。それは私を獲物と見定めた、必殺の攻撃の動作でした。

 

 避けなければならない。どんな攻撃を仕掛けてくるかわからない以上、全力で避けなければならない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 私はその時、とっさに思ったのでした。

 

「――()()()()」と。

 

 私の背後には、木々を見上げて興味深そうに眺めている亡霊(ファントーモ)の姿がありました。まだ熊木菟(ウルソストリゴ)にまるで気づいていない、彼女の横顔が。

 

 私の体はもうとにかく勝手に動いて、その体を力いっぱいに突き飛ばしていました。

 呆気にとられたような彼女の顔によかったと安堵した瞬間、私の体は横合いから見えない何かに殴りつけられたように激しい衝撃に襲われ、めきべきぶちゅんと内側から致命的な音をいくつも響かせて、そして地面に叩きつけられたのでした。

 

 痛い、というよりももはや熱いと言った方がいいくらいでした。衝撃のあまり息が詰まり、身動き一つとれず、目の奥がちかちかと瞬きました。指先がすうっと冷たくなって、ぴりぴりとしびれて、それから飽和していた痛みがようやく感じられる程度までに落ち着いてきて、全身から悲鳴が上がりました。

 

 何とか顔を上げると、そこには尻もちをついたまま私を見下ろす亡霊(ファントーモ)の姿がありました。少し、私の血で汚してしまったようですけれど、彼女には怪我はないようです。

 

 よかった。

 

 私はほっとして一つ微笑んで、それから逃げるように伝えようとしたのですけれど、声を上げようとすれば体の内側で折れた骨がどこかに引っかかったのか、猛烈な苦しさとともに血を吐き出すことしかできませんでした。

 

 困ったな。せっかく助けられたのに。逃げて。あなただけでも。

 咳き込む私を見下ろしながら亡霊(ファントーモ)はゆっくり立ち上がり、それからゆっくりと熊木菟(ウルソストリゴ)に顔を向けたのでした。

 そっちじゃない、駄目、そう言いたいのに、私の体は動いてくれません。

 

 亡霊(ファントーモ)は軽く小首を傾げて、それから外套を軽く払って、乱暴なしぐさで頭をかきました。

 

 そして私は、初めて彼女の声を聞いたのでした。

 それは思っていたよりも少し低くて、思っていたよりも余程不機嫌そうで、そして思っていた通り、とてもきれいな声でした。

 

 

「本当に、どこの世界も、どいつもこいつも、どうしてこう――」

 

 

 久しぶりに感情が乱立して整理するのも大変だが、まあ大別して怒りと苛立ちと不満と、まあそこらへんだと思う。

 

 前の世界もこうだった。有象無象有形無形の悪意に満ちていた。

 呪いに満ち、痛みに満ち、満ち満ちていた。満ち溢れていた。

 溢れ出た悪意で、呪いで、痛みで、取り巻く全てまで汚染されていた。

 その悪意の中で生きていくことを当然のように要求された。

 あまりにもありふれた悪意こそが私にとっての世界だった。

 どいつもこいつも私の道を塞いで邪魔して汚して遮って、安穏の地は四畳半にも満たない画面の中だけだった。

 

 私はそれを受け入れてやった。生まれた時から満ち溢れていた悪意の海で、悪意を吸い、悪意を吐き、悪意を食み、悪意を吐き、悪意を見て、悪意を吐き、悪意を聞き、悪意を吐き、悪意に触れ、悪意を吐き、悪意の反吐に浸されて生きてきた。

 

 抗っても仕方がなかった。そうある世界で、そうでない生き方を探すなんて浪漫を求めるには、私はいささか小賢し過ぎて、どうしようもなく臆病だった。

 

 だから嬉しかった。そんな世界とおさらばできて本当に幸せだと思った。本当に本当に幸せだと思った。けれど、どうやら人間が行ける所は、人間が生ける所は、或いは命のある限り、どこもかしこもどいつもこいつも悪意というものに侵されているらしい。

 

 ならまた諦めるのかと言えば、そう簡単にいくほど私は諦めがよろしくないらしかった。最初から無いものを嘆くことはできない。けれど、与えられたと思ったものを、目の前で奪われたのなら、それは堪えようのない苦痛だった。

 

 私にとってこの世界は希望だった。この世界は夢だった。この世界は浪漫だった。すべてがうまくいくなんて思ってはいなかったけれど、それでも、きっと素晴らしいものが待っているのだとそう信じたかった。それが、それがこんなことになるというのならば、私は断固としてそれに抗わなければならなかった。

 

 それは怒りで、それは苛立ちで、それは不満で、それは悲しみで、それは驚きで、それは愛しみで、それは心配で、それは悔しみで、それは憎しみで、それは、それは、そう。

 

 ――ふざけるな、という叫びだった。

 

「ふざけるなよ熊もどき。トチ狂った顔しやがって、肥え太った程度で猛禽類が人間様に牙むいてるんじゃないぞ牙もない癖に」

 

 かつて私は悪意に抗う術を持ち合わせていなかった。身をかがめて透明な嵐が通り過ぎるのを怯えて待たなければならなかった。透明な幽霊になって隠れ潜まなければならなかった。

 

 でも今は違う。誰が与えてくれたか知らないけれど、今の私には規格外の体と、馴染みに馴染んだゲームの仕組みが備わっている。

 

 私は《隠蓑(クローキング)》を解除してフクロウ面の熊の前に姿を現し、挑発するように拳を振り上げてヘイトを集める。

 

 熊もどきは私に気づき、早速攻撃を開始する。大きく腕を振り上げてこちらに振るうと、私の体は勝手に反応して回避動作を取っている。ゲーム時代も回避判定は自動だった。範囲攻撃でもなければ私の体はいくらでも回避してくれるだろう。どうやら風の刃か何かを飛ばしているらしい攻撃を私の体はするするとよけながら接近していく。

 

 自慢でも何でもないどころか全くの自虐だが、私は運動神経が全くないので、自動で動いてくれるのはありがたい。

 

「全く。全くくそったれめ。私は戦闘なんて苦手なんだ」

 

 そして鈍いのは運動神経だけでなく、ゲーム内での戦闘も得意ではなかった。というか余り興味がなかったから戦闘技術を高める必要がなかった。ごり押しでやっているだけでも経験値は入るし、時間さえかければレベルは上がる。金さえかければ装備も手に入る。

 

 さて、私の《職業(ジョブ)》、《暗殺者(アサシン)》系統の最上位職である《死神(グリムリーパー)》は、極めて強力な能力を持っていたけれど、極めて強力過ぎる故にか、かなりの制限を受けた状態で実装された。初めの内は謳い文句に惹かれるものも多かったが、実体が知れていくうちに誰も選ばなくなった。はっきり言えば、《死神(グリムリーパー)》は産廃職だった。

 

 基本的に即死耐性を持ち合わせているボスキャラクター相手にも通用する《貫通即死》という特性を持った専用武器が《死神(グリムリーパー)》には用意されていた。これを使用すれば、場合によってはソロであっても強大なボスを瞬殺できる。その強力さ故、入手する難易度も最高クラスと言ってよく、そこまではまあ十分理解できる範囲だった。廃人レベルのプレイヤーにとってその程度の難易度はいつものことだ。

 

 問題はその武器を入手できたとして、肝心のその武器自体にかけられた制限だった。

 

 いま私がこの手に握っている――というよりは、そっと摘まんでいる一本の細い針こそが、《死神(グリムリーパー)》専用武器である《死出の一針》だ。その特殊効果は、例え即死耐性を持つボスキャラクターであろうと問答無用で即死させる《貫通即死》。

 

 ただしその効果は、『低確率で発生する会心の一撃(クリティカルヒット)が決まった際に低確率で発生する』というものだった。低確率×低確率。およそ発生を期待できない超低確率である。

 

 フレーバーテキストにはこうある。

 

 ――何者であれ死神の持つ一針を恐れぬ者はなかった。髪の毛の先程の、ほんの小さな一点を刺されれば、ただそれだけで偉大な王も道端の乞食も、分け隔てなくその命を散じるのだった。 

 

 もとより素早さ(アジリティ)器用さ(デクステリティ)を伸ばして、高速の連撃と会心の一撃(クリティカルヒット)の連打で敵を削るのが《暗殺者(アサシン)》系統だ。通常戦闘を挑んで、運が良ければ《貫通即死》が発動して時間を短縮できる、という程度に考えられればまだよかった。最上位職だけあって素の能力も高いのだ。

 

 だがここでさらに要らぬ制限がついていた。

 

 武器にはそれぞれ武器攻撃力が設定されている。高レベル上位職専用の武器ともなればレア度もさることながら強力な特性や高い攻撃力は当然のものだ。

 

 しかし、《死出の一針》はそうではなかった。

 

 見た目通りのただの針でしかないこの武器に設定された武器攻撃力は、僅かに〇・一。森で拾える最弱の武器《木の枝》の武器攻撃力三という記録を大幅に更新する最弱っぷりだった。

 これではいくら素早さ(アジリティ)に任せて連撃しようと、器用さ(デクステリティ)にまかせて会心の一撃《クリティカルヒット》を繰り返そうと、お話にならない。

 

 専用武器の特殊性を除けば、いくらかスキルが魅力的なものもあるものの、総合的には微妙な上位互換でしかない《死神(グリムリーパー)》は瞬く間に廃れた。もともと隠れ潜むスキルが豊富なこともあって、同じ《死神(グリムリーパー)》の私でさえ、サーバー内で三人くらいしか知らない。

 

 では私はこの凶暴な熊もどきに抗う術がないのか、というと実はそうではない。長々と語ったのは、私がそんな運営のくそったれな制限という悪意に負けずに打ち勝った、数少ない武勇譚のためだ。

 

 私は《死神(グリムリーパー)》の持つ隠れ潜む《技能(スキル)》がどうしても欲しかった。私の人様のプレイを眺めて悦に浸るという悪趣味なプレイスタイルを確立するためにはどうしても欲しかった。だから、戦える術を探した。

 

 その結果が、この体だ。

 

 私は軽々と熊もどきの攻撃をかわして、針の届く距離までを一息に詰める。たとえこの熊もどきの爪がどれだけ鋭かろうがどれだけ力強かろうが、そんなものは当たらなければ意味がない。そして蓋然性が介入する限り、私に攻撃が当たることはない。

 

 まともに戦闘をしようと思えば伸ばさざるを得ない力強さ(ストレングス)を完全に捨てて、私のステータスは素早さ(アジリティ)器用さ(デクステリティ)を重点的に、そして本来補正的なものである幸運値(ラック)を最大限まで極振りしている。装備も攻撃力など全く考えずに、全て幸運値(ラック)が最大限伸びるように組み合わせてある。

 攻撃力がまるで上がらない中、アイテムと回避率だけを頼りにごり押しで敵を倒して経験値と素材をかき集めて、途方もない時間と不毛なほどの労力をかけて、そしてようやくできたのがこの選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)が一柱。

 

 結果として、私の素の回避率は驚異の()()()()()()()()

 

 回避しようのない範囲攻撃や、拘束された状態や大多数から囲まれて逃げ場のない状態でもなければ、サイコロを十度振ろうが私には指先さえも届きはしない。奇跡を何度か重ねてようやく届くレベルだ。それでもPvPで何度か死んだ経験はあるが……。

 

 さて、そんな幸運値(ラック)極振りの私が運頼りの《死出の一針》を扱った場合どうなるか。

 

 答えは決まり切っている。

 

()()()()()()()()()()()

 

 熊もどきの胸元、かすかに光る一点に、私の摘まんだ針がそっと差し込まれる。空気にでも差し込んだようなあまりにも軽い手ごたえとともに、しかしあまりにも致命的な何かを貫いた感触が、私の手元に残った。

 

 その全身に満ちていた活力が瞬く間に抜け落ち、熊もどきの体がずるずると地に沈む。

 

 血も流さず、声も上げず、苦しむ間もなく、ただただ、殺す。

 戦闘でも何でもない、一方的な死亡宣告。それこそが、極まった廃《死神(グリムリーパー)》の至る所だ。

 

 すでに何もできない()()()に興味はない。

 

 私は足早に少女のもとに駆け戻り、ポーチから回復薬を取り出す。ゲームではHP(ヒットポイント)がわずかに一しかなくても回復したのだ。死んでさえいなければまだ間に合うはずだ。

 

 私は回復薬の瓶を少女の口に当てがったが、意識が朦朧としているのか、それだけの力がないのか、飲んでくれない。回復薬はフレーバーテキストによれば飲み薬であって、振りかけることではあまり効果が期待できそうにない。

 

 頭を掻きまわし、そして仕方がないと肚を括った。

 

「動けないのが悪いんだ。あとで恨むなよ」

 

 私は瓶の中身をあおり、少女の頤を持ち上げる。

 生憎と、他に方法は知らなかった。




用語解説

鸚哥栗鼠(パパスシウロ)
 小型の羽獣。素早く動き回り、主に樹上で生活する。木の実や種子などを好んで食べ、虫なども食べる。

・牧羊犬
 牧場などで羊を誘導したり、外敵から守ったりするために飼われている。主に八足で、卵生。

熊木菟(ウルソストリゴ)
 羽獣の魔獣。風の魔力に高い親和性を持つ。大気に干渉して周囲の音を殺し、巨体に見合わぬ静けさで行動する森の殺し屋。風の刃を飛ばす遠距離攻撃の他、大気の鎧をまとうなど非常に強力。肉は特殊な処理をしなければ、不味い。

・《死神(グリムリーパー)
 産廃職。特殊なスキルや《貫通即死》の専用装備以外は《暗殺者(アサシン)》系統の微妙な上位互換で、肝心な専用装備も普通に使おうと思うとまるで意味がない。尖り過ぎたステータスのものでもなければ使えないうえに、その尖り過ぎたステータスだと即死無効の無生物に対抗できない。
『アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパーっ!』

・《死出の一針》
 クリティカルヒット時に低確率で発動という超低確率でしか発動しないけれど、即死耐性持ちでも問答無用で殺す《貫通即死》という特性を付与された武器。しかしあまりにも武器攻撃力が低く、その取得難易度もあって産廃でしかない。
『何者であれ死神の持つ一針を恐れぬ者はなかった。髪の毛の先程の、ほんの小さな一点を刺されれば、ただそれだけで偉大な王も道端の乞食も、分け隔てなくその命を散じるのだった』

・極振り
 ステータスを一つ、または少数のみ極端に伸ばすことを言う。

・《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)
 《エンズビル・オンライン》において、極振りをはじめとした尖り過ぎた性能を鍛え上げた廃人諸君を畏敬と畏怖とドン引きを持って呼び習わすあだ名。またその面子の所属するギルド。キャラも狂っているしプレイヤーも狂っているともっぱらの噂。酔狂で大規模PvPに参戦した際に敵味方問わず盛大な犠牲者を出しているはた迷惑な面子。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 ゴースト・アンド・リリィ

前回のあらすじ
中二病を盛大にまき散らして大人げなく一方的な殺戮を終えた閠。
どう考えても他に幾らでも方法があったよねという突込みは受け付けていない。


 目が覚めて、最初に思ったのはお腹が空いたなということでした。

 

 横たわったままぼんやりとしていると、木漏れ日がちかちかと目に入って、わずかに残っていた夢の残滓を少しずつ流し去っていきました。

 

 どうして寝ているのだろうと回らない頭で考えて、今朝食べた不思議な果実のこと、亡霊(ファントーモ)のこと、森の景色などが順繰りに思い出されて行って、そして熊木菟(ウルソストリゴ)のことを思い出した途端、私はがばりと起き上がりました。

 

 そうでした。私は確か、熊木菟(ウルソストリゴ)の攻撃を受けたはずでした。

 

 見えない大槌、また或いは棘付きの鉄球、そしてまた或いは巨人の鉤爪で殴り抜かれたような衝撃が全身を襲い、体の中から致命的な音が聞こえたはずでした。しかし見下ろす体はいたって健康で、ぺたぺた触ってみても痛みを感じないどころか、骨が折れた様子もありません。飛龍革の鎧には私が吐き出したのであろう血がこびりついていましたけれど、私自身の肌には裂けたところの一つも見当たりません。

 

 口の中の血の味や、鎧に残る血の跡が、あれは夢などではなかったと確かに言っているにもかかわらず、私自身はまるで何事もなかったかのようにけろりとしているのですから、私が考えることを放棄してのそのそ起き上がったのは仕方のない話だと思います。もとより私はあまり頭の回転がよろしい方ではないのです。

 

 込み上げてくるものがあって、けほけほげほげほげーおえっほと咳き込むと、どろりとした赤黒い血の塊がびちゃりと落ちましたけれど、それは今しがた出血したというよりも、体の中にたまっていたものが吐き出されたという具合でした。

 

 また鼻がかさかさするので手鼻を切ると、乾燥して乾いた鼻血が飛び出ていきました。なんというか現実感に乏しいのでいまいち実感がわかないのですけれど、これってかなり大怪我してたのではないでしょうか、やっぱり。

 

 寝起きで普段以上に回らない頭を巡らせてみると、少し離れた木立に熊木菟(ウルソストリゴ)の姿が見えて思わず身構えましたけれど、糸の切れた操り人形のように転がる巨体からは生命の気配がまるで感じられず、冷静になって周囲を窺えば、濃密な魔力によって殺されていた音は元に戻り、森のざわめきが聞こえていました。

 

 いったい何があったというのでしょうか。

 

 見上げてみれば、森の木々が深いためはっきりとはわかりませんが、お日様の位置からしてもそれほど時間がたったようには思えません。それこそ、つい転寝(うたたね)をしてしまってはっと目が覚めたら何もかも終わってしまっていたような、そんな具合でした。

 

 夢。

 

 そういえば夢の中で、亡霊(ファントーモ)の姿を見たような気がしました。

 

 私ははっとして、慌ててあたりを見回しました。私は彼女を突き飛ばして助けようとしたのですけれど、あの後どうなったのでしょうか。

 

 幸い彼女の姿はすぐに見つかりました。

 少し離れた木陰に腰を下ろして、皮張りの本のようなものに目を落としていました。

 頭巾を下ろして長く豊かな黒髪を肩口に流し、時折顔にかかる髪を煩わしげにかきあげる姿は、ちらちらと光を落とす木漏れ日もあって、一幅の絵画か何かのように静かな調和を持っていました。

 

 その静かな調和に突進を仕掛けたところ、全力で回避されて木肌に顔面からご挨拶と相成りました。

 

「なんで避けるんですか!?」

「そりゃ避けるよ」

 

 頭突きで盛大に砕け散った木肌を頭を振るって払っていると、意外にも返事が返ってきました。

 見上げれば、呆れたように本を閉じ、外套の下にしまう亡霊(ファントーモ)の姿が確かにありました。確かにそこに佇んでいました。

 

 なんだかそのことがしみじみと胸の中に染み入ってきて、木に体を預けるようにずるずると脱力し、気づけばほろほろと涙がこぼれては止まらなくなっていました。

 

「……悪かったよ」

「ち、違うんです」

「何が」

「よ、よか、よかったなあって」

「はあ?」

「あ、安心したら、気が、抜けちゃって」

 

 もしも気を失った後、亡霊(ファントーモ)熊木菟(ウルソストリゴ)にやられてしまっていたら、たとえ今元気でも、きっとすごく後悔したことでしょう。彼女がこうして元気でいることに、たまらなくほっとしたのです。そういうことをつっかえつっかえ涙交じりに鼻水交じりに説明したところ、彼女は呆れたように困ったように顔をしかめて、それから手巾(てふき)を寄越してくれました。

 

 私は流れる涙を拭って目元を抑え、涙が収まってきたのでちーんと鼻をかみ、ようやく落ち着いてきました。手巾を返そうとするととても嫌そうな顔で「いらない。あげる」と言われてしまいました。肌触りもいいしとても良い品のようですけれど、いいのでしょうか。断固として固辞されたので仕方なく下服の隠しに押し込みます。

 

 さて。

 落ち着いたので再度腰のあたりを狙って組み付こうとしたのですけれど、やはりひらりとかわされました。

 

「なんで避けるんですか!?」

「今しがた自然破壊した威力でタックルなんぞされてたまるか」

「納得の理由!」

 

 うっかり実家のノリでじゃれついてしまいましたけれど、考えてみれば私は力に関しては結構恩恵が強いようなので、手加減なしに体当たりしては危なかったかもしれません。

 

 仕方がないので抱き着くのは諦めるとして、距離を取られた分ゆっくりと歩み寄って見上げてみます。亡霊(ファントーモ)も危険がなければそのくらいは許してくれるようで、じっと見降ろしてきます。

 

「あの、助けて、貰ったんですよね。良くは覚えていないんですけれど」

「…………まあ、そうなるかな」

 

 何故だか目をそらされながらそんな風に言われました。

 

 どうやったのかはわかりませんけれど、熊木菟(ウルソストリゴ)を倒したのも彼女でしょうし、致命傷を負っていた私をきれいさっぱり治してくれたのも、きっと彼女なのでしょう。

 

 私はどうしてなのかと尋ねました。

 

「どうしてって?」

「あなたにとって私は、森の中でたまたま出会った見ず知らずの旅人です。それなのに、どうして熊木菟(ウルソストリゴ)のような危険な魔獣に立ち向かったり、きっと貴重な霊薬などで癒してくれたのですか?」

 

 亡霊(ファントーモ)は困ったようにしばらく考えて、それから答える代わりに、私に問いかけました。

 

「じゃあ君は、どうして私を助けてくれたの?」

「え?」

「危ない、って。君は私を押しのけて助けてくれた。そうしなければ、避けれたんじゃないの」

 

 それは、そうでした。私一人なら、熊木菟(ウルソストリゴ)の初撃は避けられたことでしょう。その後の立ち回り次第ですけれど、逃げ切ることも、できなくはなかったとは思います。

 

 でもあの時は咄嗟のことですし、結局、私が何もしなくても、きっと亡霊(ファントーモ)は平気だったことでしょう。さっきの調子で熊木菟(ウルソストリゴ)の攻撃なんてひょいひょいとかわしてしまったことでしょう。

 

 そのように言うと、彼女は静かに首を振りました。

 

「私にとっては確かに大した相手じゃなかった。でも君にとってはそうじゃあなかった。君こそ、見ず知らずの私の為に、それもずっと後を付け回す怪しい相手の為に、命を懸けた。しようとしたことは同じかもしれないけど、かけた労力(リソース)は段違いだ」

 

 どうして、と静かに見下ろす亡霊(ファントーモ)に、私は少し考えました。考えましたけれど、うまく言葉にまとまりませんでした。本当にあの時は、体が勝手に動いたとしか言えないのです。

 咄嗟。そう、本当に咄嗟のことでした。私がもう少し弁がたつのでしたらきっとうまく説明できたのでしょうけれど、しかし私にはつっかえつっかえ拙い言葉を編む他ありませんでした。

 

「ええと、なんていうか、嫌だったんです」

「嫌?」

「あなたがあんなに身軽だとは知らなかったですし、それに、知っていたとしても、きっと同じことをしたと思います。あなたはどう思っていたかわかりませんけれど、私は、あなたのこと、少しの間だけですけれど、旅の仲間だと思っていました」

「旅の、仲間? 私が? 君の?」

「ええ、ええ、そうです。最初は妙な影がずっとついてくるものですから、なんだか不気味だなあ、不思議なあって思ってました。でも、私も寂しかったですし、一緒にいてくれるんだって思ったら、少し心強くなって、亡霊(ファントーモ)でもいいから、このまま一緒に来てくれないかなって、そう思い始めてて」

 

 それで、それで、と追い付かない言葉を手元でぐしゃぐしゃまとめて、私は何とか続けていきます。

 

「それで、嫌だったんです。熊木菟(ウルソストリゴ)が腕を振りかぶって、何か来るなってわかりました。それで、もし亡霊(ファントーモ)が怪我したら嫌だなって、そう思ったら、体が勝手に動いてたんです。理由なんかわからないですけど、でも、とにかく嫌だったんです。だから」

 

 ()()()()()、と理由も根拠もなく言い切れば、亡霊(ファントーモ)は少しの間顔をしかめて、それからゆっくりとため息を吐きました。

 

「君が馬鹿なのはわかった」

「ひどい!?」

「私が君を助けたのは、庇われておきながら何も返さないのでは筋が通らないから。君がこのまま死んでしまっては森を出る道がわからないから。君がいると食べられるものがわかるから。勝手がわからない状態で水先案内人がいるのは助かるから」

 

 私と違って、亡霊(ファントーモ)は淡々と端的に理由を指折り数えて、それから極めて不本意そうにため息を吐いて、頭巾を被り直しました。

 

「それからふざけるなって思ったからさ」

「え?

「嫌だっていうのに理由なんかいらないんだろう?」

 

 最後にそのように付け足して、亡霊(ファントーモ)は頭巾の下に顔を隠してしまいました。私は彼女のことをまだ全然知らないままでしたけれど、それでもこの瞬間、わかることがありました。それは彼女が存外に含羞の人で、自分の発言にはにかんでいるということでした。

 

 このわかりにくい仕草になんとも言えない愛らしさを感じていると、亡霊(ファントーモ)は私を追い立てるようにして言いました。

 

「ほら、早く進め。森を出る前に日が暮れてしまう」

 

 そうでした。私は慌てて荷物をしっかり背負い直して歩き始めましたけれど、しかし、足取りはどうにも重いものです。

 

 疲れは不思議とありません。痛みも全くありません。けれど、そうだ、もう森を出てしまうのかと思うと、進むのが途端に億劫(おっくう)になってくるのでした。それというのも、亡霊(ファントーモ)が森を出ることを目的としていることがわかったからでした。わかってしまったからでした。

 

 いままでも漠然と森を出るまでの付き合いだとは思っていました。しかしそれが確定してしまうと、私ははっきり決まってしまったお別れの時が無性に嫌になったのでした。もとより情に厚いことを長所でも短所でもあるとして言われてきた私です。その悪いところがはっきりと出てきて、ぐずぐずと足をとどめるのです。

 

 亡霊(ファントーモ)は何とも思わないのでしょうか。

 そりゃあまあ、旅の連れなんて私の方で勝手に思っていることです。でも一緒に旅をして、一緒のご飯を食べて、私は気を失っていたとはいえ一緒の危険を潜り抜けたのです。もう少し何か思うところはないのでしょうか。

 

 そのような気持ちですねたように振り向くと、亡霊(ファントーモ)はがりがりと乱雑に頭をかいて、それから私に合わせるように少し身をかがめて、言いました。

 

「私はね。人間が嫌いなんだ」

 

 お前が嫌いだと言われたような気持ちで、私は胸が痛むのを感じました。

 

「人間が嫌いで、人間と話すのも嫌いで、人間と関わるのが嫌いで、嫌いで、大嫌いで、大大嫌いで、大大大嫌いだ」

 

 さくりさくりと、言葉の刃が私の胸をうがちます。

 

「だから、私は自分自身も嫌いだ。嫌いで嫌いでたまらない。自分が人間であることを思い出させるからなおさら人間が嫌いでたまらない」

 

 俯きそうになる私の頭に、でも、とその声は不思議と柔らかく降ってきました。

 

「人間が紡ぐ物語が、時にひどく美しいことも知っている。悍ましいばかりの悲劇の中に、それでもなお輝くものがあることを、残念なことに私は知ってしまっている」

 

 酷く不本意そうにため息を吐いて、それから彼女の手がそっと私の頭に載せられました。

 

「君が()()であるならば、君が()()であるうちは、君の寂しさを埋めてやるのも、やぶさかではない」

 

 不意打ち、でした。

 

 きっと彼女にそんなつもりなどなかったのでしょう。

 

 けれど。

 それでも。

 だけれども。

 

 呆れたように困ったように、諭すように宥めるように、そっと柔らかく降ってきたその微笑みは、私の胸を確かに射貫いたのでした。

 

「きっと! きっと()()します! ()()なります!」

 

 現金な反応ではありましたけれど、しかし確かに私はやる気を取り戻し、そしてじゃあさっさと進めと蹴り飛ばされたのでした。

 

 このようにして、亡霊と白百合の旅は確かにここに始まったのでした。




用語解説

・恩恵
 生き物が自然に持ち合わせる魔力によって身体能力などに補正がかかること。達人と呼ばれる者たちはこの補正が極めて大きく、見た目通りとは言えない能力を持つことが少なくない。

・霊薬
 癒しの魔法を込めた薬品や、特殊な素材・製法で精錬された回復薬の類の総称。高価。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一章 冒険屋 
第一話 閠とリリオ


前回のあらすじ
ついにストーカー加害者とストーカー被害者が出会ってしまった。
一人旅で心細いストーカー被害者の心の弱みに付け込み趣味のストーキングを正当化する閠。
異世界の闇は、深い。


 リリオと名乗った少女との旅路は、多くの会話に彩られた。

 

 と言うとなんだか詩的で素敵かもしれないけれど、実際のところはひたすらに喋り捲るお喋りな小娘に適当な相槌を打ちながら、その時々で疑問に思ったことやこの世界の知識などをぽつりぽつりと質問し、それに対してまた驚くほど能弁にまくしたてられるというほぼほぼ一方的なコミュニケーションだった。

 

 もとより会話というものが苦手な私としては、不愛想で気の利いた返事もできないようなのを相手に楽しげにお喋りを続けられる人間というものがちょっと想像の外の存在だった。

 

 いまの会社に入社した時も、気さくそうな先輩にあれやこれやと話しかけてもらった挙句にそのすべてをはいかいいえかテンプレートで返し続けて、積み重ねてきた自信やら何やらをまとめて圧し折ってお帰り頂いたほどだ。

 

 もちろんその後職場の空気は悪化したし私の扱いも悪化したがそれがどうした。やろうと思えば笑顔で小粋な会話くらいできないではないが、エネルギーを消費しすぎるので常用すると死ぬ。私が。

 

 コミュ障というのは何も話しかけられるとあ、え、その、とか口ごもる連中のことだけを言うのではない。コミュニケーションそのものにエネルギーを多量に消費して疲れてしまうタイプも多いのだ。

 

 その点に関してこのリリオという少女はある意味楽だった。

 まず声が綺麗なうえ発音が明瞭なので聞いていて楽だし、常に楽しげなのでいちいち相手の機嫌を窺うという労力を考えなくていい。

 

 お喋りは時々要領を得ないこともあるしまるでまとまりがないこともしばしばだが、それもまあ愛嬌の範囲内で収まるし子供というのは得だ。

 私が聞き流しているのもわかった上で話しているのもいい。BGMだと思えばなかなか悪くない。私のぶっきらぼうな物言いや、恐らく常識知らずだろう質問にも真面目に返してくれるので助かる。

 おまけに私の言葉足らずも的確に拾ってくれる理解力があるのはかなりグッド。

 

 例えば私たちが最初に交わした会話はこれだ。

 

「これどうするの?」

「解体できれば素材は持っていきたいんですけど、どこが希少な部位なのかよくわからないんですよね」

 

 熊木菟(ウルソストリゴ)とかいう熊もどきの死体をどうするかと尋ねればこう返ってきた。

 

「持ってく?」

「うーん。担いでいけないこともないかもしれないですけど、さすがに大きすぎますからねえ。途中で腐りそうですし」

 

 じゃあ全部担いで持っていこうかと聞けばこう返ってきた。

 

「欲しいの?」

「うーん、まあお金にはなると思いますけど、担いで持ってく労力に見合うかは微妙ですよねえ。お肉は美味しくないらしいのでここで食べてくのもなんですし」

 

 そんな風に一問えば十返ってくるような会話の中で、私はふと気づいて死体をむんずと掴んでみた。

 

 出血や傷口などがあからさまには見えないせいか、角猪(コルナプロ)の時ほどそこまで汚らわしいとは思わない。さすがに担いで持ち上げるには私のボディではパワーが足りないようだが、引きずるくらいはできそうだ。

 

 羽の名残のような構造が残る前足を引っ張って、おもむろに腰のポーチに引っ張り込んでみる。

 

 ずるん、と爪が入り込むのでそのままずりずりと引きずり込んでみると、見る見るうちにポーチの中に前足が飲み込まれていく。そのまま胴体も引っ張り込んでいくと、どういう作りなのかポーチの入り口がその分広がりながら熊木菟(ウルソストリゴ)の巨体を引きずりこみ、そして結局丸々飲み込んでしまった。

 

 軽く歩き回ってみるが、特にひどい重たさは感じない。

 もともと普段使わないアイテムはほとんど《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》の倉庫番に預けていたので大分インベントリに空きがあったのもあるだろうけれど、或いはこの世界の物品には重量値が設定されていないのかもしれない。つまりゲームシステム的には重量値ゼロ或いはNull(なし)のアイテムと認識されるのかもしれない。まあこれだって私の認識一つで変わるかもしれないけれど。

 

 これで気兼ねなく出発できるだろうと振り向けば、何やら愕然とした顔でこちらを見てくる。ガン見してくる。女の子がそんな大口開けて驚くんじゃありません。はしたない。

 

「も、もしかしてそれ《自在蔵(ポスタープロ)》ですか!?」

「なにそれ」

 

 リリオの説明するところによれば、魔法の道具の一種で、小さい外見で大容量の空間を内包する道具のことらしい。四次元ポケットだね、つまりは。技術的に製造が難しくかなり高価らしく、熊木菟(ウルソストリゴ)ほどの巨体を丸々飲み込めるような《自在蔵(ポスタープロ)》となると見るのも稀らしい。

 

「水筒は?」

「え?」

「君の水筒」

「……もしかしてこれですか?」

 

 リリオが取り出した革袋は、何度か川の水を補給しては、どう考えても内容量以上の水を出していた水筒だ。これは《自在蔵(ポスタープロ)》ではないのだろうか。そう指摘すると、少女はおかしそうに笑った。

 

「これはただの水精晶(アクヴォクリステロ)入りの水筒ですよ」

 

 それは何かと首をかしげると、驚いたように見上げられる。

 

「何って、水の精霊が宿った結晶ですよ」

 

 さも当然のように言われるが、水の精霊と四次元ポケットとどちらが高度なファンタジーなのか私にはいまいち判別がつきかねた。

 

 リリオが言うには、この水精晶(アクヴォクリステロ)は、呼び水として綺麗な水を注いでやると、それに応えて水を生み出す機能があるらしい。そのほうが余程すごい機能だと思うのだけれど、小さなものなら川辺で拾える程度には有り触れているらしい。

 

 そうなると、着火に使っていた器具も、多分中には火精晶とかそういうのがはいっているのだろう。

 

 精霊入りの結晶とやらが川で拾える程度にはありふれているなら、もしかしたら文明程度はそんなに悲観するほど低くないのかもしれない。楽観視する程期待はできないけど。

 

 ともあれこのようにして、ほぼほぼ比率一対十のコミュニケーションを交えながら我々は森を抜け、久方ぶりに青空と対面して、歓声を上げたのだった。

 正確に言うと歓声を上げたのはリリオ一人で、私はやれやれとフードを被り直して日差しを避けたのだけれど。

 

 なにしろ朝日と競うように出社して、一日会社で過ごしたら夜更けに帰宅という、日光とはあまり仲のよろしくない生活をしてきたのだ。直射日光は眩し過ぎる。

 

 それでもまあ、頭上を何かにさえぎられ続けているという森の中の環境は知らず知らずのうちにストレスをため込んでいたらしく、開放感のある景色には何となく息が楽になったような心地はする。

 

 しかし本当に何もないな。森のすぐそばだからまあ民家とかは期待していなかったが、見渡す限り何もない野原だ。かろうじて通行者の存在がうかがえる、獣道といい勝負の踏み固められた細道があるにはあるが、だだっ広い野原を前にしてはあまりにも心細い代物だった。

 

 いまはまだ日が高いからいいけれど、日が暮れたらこんな何もない野原、何も見えないほど真っ暗になるんじゃなかろうか。

 月明りや星明りがあるだろうとはいえ、ひたすらどこまでも続いて見える闇また闇というのはぞっとしない話だ。うるさいとしか感じなかったネオンが懐かしくなるとはね。

 

 そんな私のげんなりした胸中など気にした風もなく、リリオは実に元気に歩き出してしまったので、仕方なく私もついていく。

 《隠蓑(クローキング)》が光を透過するおかげか余り日差しの暑さを感じないのは助かる話だが……いや待て。目が見えるということは可視光は目で反射しているはずで。そもそも光を全て透過していたらもっと寒いわけで。深く考えるとまた私の認識でこじれたことになりそうなので頭を一つ振って忘れることにする。

 

 そういうものだ、というざっくりとした大雑把な考え方をした方が安全ではあろう。何事もきっちりしていた方が落ち着くは落ち着くけれど、ある程度の遊びというかバッファがあった方が何かあった時に対応する幅が増える。

 

 なんてことをぼんやり考えていると、そう言えば、と先ゆく背中が振り向いた。

 

「私、リリオ、って言います!」

「ああ、そう」

「ああ、そう……じゃなくって!」

 

 この時初めて自己紹介をしてもらって素直な感想として二語も返したというのに怒られてしまった。なんだというのだ。この世界の常識などまるで知らない私にどんな反応を返せというのだ。その響きが可愛い名前なのか格好いい名前なのかそのあたりのことすらわからないんだが。

 

 などと考えていたら、

 

「あなたの名前です! いつまでも亡霊(ファントーモ)じゃ変です!」

 

 名を名乗られたら返すというのは、まあ一般常識と言えば一般常識であったか。別に私は亡霊(ファントーモ)呼ばわりでも一向に困らないのだけれど。生きているのに亡霊(ファントーモ)なんて変ですと言われてしまっても困るのだけれど。実際問題生きてても死んでるのと大差ないような生き方してきたわけで、全然変でも間違いでもないんだけれど。

 

 まあそれでも、名乗られたし、尋ねられたし、今後執拗に聞かれても面倒なだけで、名乗るくらいは安いものだ。

 

 はじめ、私はこの体の名前、つまりゲームで使っていたハンドル・ネームで名乗ろうと思った。エイシスというのがそれだった。

 心停止(エイシストール)の略だ。

 生きていても死んでいるのと変わらない、死んだところで生きている時と変わりない、なんにもならないしなににもなれない、フラットラインな私のハンドルネームとして選んだのがそれだった。

 

 しかし。

 

(うるう)

「ウルウ?」

妛原(あけんばら)、閠。閠が名前で、妛原が家名」

 

 ぽろりと名乗ったのは、現実での名前だった。

 

 名乗ることもなく、名乗る必要もなく、書類の片隅に署名するときにしか使われない、誰の意識にも上がらず誰の記憶にも残らない、両親すら亡くなってしまった今は本当の意味で何ともつながらない幽霊の名前。誰にも祝福されることのない名前で、私は名乗っていた。

 

「ウルウ、ですか。変わった響きです。でもとてもきれいな響き」

 

 それは、何の意味もない名前で、何の価値もない名前で、何の思い出もない名前で、何の執着もない名前で。

 

「よろしく、ウルウ。これから、幾久しく」

 

 それでも、それは私の名前だった。




用語解説

・《自在蔵(ポスタープロ)
空間操作魔術による魔術具。外見以上の空間を内部に作り上げ、収容能力を高められた品物。閠の場合は全く別のシステムによるもので、本来の《自在蔵(ポスタープロ)》は単に見た目のサイズが小さいだけで、重いものを入れればその分重くなるし、容量も普通はそこまではない。ネーミングはあの有名な漫画家小雨大豆先生の名作「九十九の満月」に登場する同様の効果を持つアイテム「自在倉」より。

水精晶(アクヴォクリステロ)
 水の精霊が宿った結晶、とされる。見た目は青く透き通った水晶のようなもので、呼び水を与えるとその大きさや品質に従って水を生み出す。川辺など水の精霊が活発な所でよく生成されるが、道具として使用できるサイズ、品質のものはちょっとレア。ものによって生み出す水の味や成分も異なるようで、こだわる人は産地にもこだわるとか。

・エイシス
心停止(エイシストール)という医学用語からとった、閠が《エンズビル・オンライン》で使用していたハンドルネーム。《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》の一員として認知されるようになってからは、PVP(プレイヤー対プレイヤーの対人戦)において気づいた時には即死させられているからという畏怖をもって呼ばれていた。なんにせよ中二病である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 旅の馬車

前回のあらすじ
十四話目にしてようやく名前を名乗りあった主人公ズ。
これから説明回がガンガン増えそうな気配に怯える作者だった。


 境の森には三つの街道が通っている。どれもほどほどに整備され、馬車が行き交うだけの道幅はある。整備費も兼ねた通行税は課されるが、それも主な使用者である商人たちにとってはさほどのものでもないし、多少値が張ろうともわざわざ深い森の中に踏み入るよりは余程安全だし、早い。

 

 男もそうして真ん中に当たる二の街道を通って渡ったが、他の商人たちと違うのは、そのまま街道を進んでいかず、森を出たところで道をそれ、森沿いに少し南へと下って行ったのだった。別にそちらに何があるという訳でもない。だが男は(あきな)いで境の森を渡るときは必ずこの道を使っていた。

 

 というのは、何もないとはいえ、そこにはいちおう細道があるのだった。人の足で踏み固められた、馬車で通るには少し細い道だったが、男の馬車を引く甲馬(テストゥドセヴァーロ)は若く壮健で、この程度は悪路とも思わずのしのし進む。

 

 細道にたどり着くと、男は手綱を引いて細道を歩かせ始めた。この道は別に、近道という訳ではない。むしろ少し遠回りになる。だが別に急ぐ旅でもない。男は息子に店を手渡してすでに引退し、こうして若い頃のように旅商人をしているのは、商い先の情報を足で稼ぐという建前で、実際は半ば趣味のようなものでしかない。力は強いが歩みは早くない甲馬(テストゥドセヴァーロ)を用いるのも、道理だ。

 

 男にとって生涯は旅だった。

 いつかどこかの町に定住し、自分の店を持ちたい。そんな夢を持って辛い旅商人を続けていたが、いざ店を構えるとなると途端に旅の空が恋しくてたまらなくなった。

 

 はじめこそ慣れない町暮らしに疲れているんだろうと笑っていたが、子供が独り立ちするころになると、また旅をしたいものだと再び思い始めた。

 息子が嫁を貰い、店を譲り渡して引退し、長らく助けてくれた妻が亡くなると、もういいかな、とそう思った。周りからは随分止められたが、旅暮らしが性だった。

 結局止められないとわかると、息子たちは馬車を用立て、送り出してくれた。いくつか仕事も頼まれ、商いの一環として送り出すのだと言われたが、それが建前であることはみんなわかっていた。

 

 いい息子を持った。それに、息子もいい嫁を貰ってくれた。

 

 男の趣味は旅をすること自体にもあったが、旅の中での出会いにもあった。町での暮らしも刺激はあるが、旅暮らしの刺激にはかなわない。街で顔を合わせるものは限られているが、旅の空には出会いが無数に転がっている。

 

 男がこの道を選ぶのも、それが理由だった。

 

 というのもこの道は、金がないとか、森を通り抜けられるだけの力量があるとか、森の中の素材を集めたいからとか、そういった理由で街道を使わずあえて森を抜ける旅人や冒険屋たちが使う道なのだった。こういった連中の話は、単調な日々を生きる町人よりも面白い。もちろん、ただで話を聞こうというのではない。森を抜けて疲れ切った旅人を馬車に載せてやり、ついでに害獣や野盗が出た時は、手を貸してもらう。その合間に、ちょっとばかり話を聞く。このような具合で、男はもう何年もこの道を使っていた。

 

 もちろん、いつもいつでも旅人が通るわけではない。寂しい旅路になるときもあるし、馬車に乗り切れない大所帯になるときもある。

 

 今回は、あたりだった。

 

 少し進んだあたりを、鞄を背負った小柄な人影が歩いている。珍しいことに、一人旅だ。いくら旅慣れていても、一人旅というのは、珍しい。それも年経た男ならこうして愛馬を頼りに旅をすることもあるが、成人したてそこそこの年若い娘が一人というのは、まず見ない。

 とはいえ、旅事情に首を突っ込むのは、野暮だ。

 

 男は馬車に気づいた娘が道の端に寄ったので、帽子を軽く上げて会釈した。

 

「おうい娘さん。森を通ってきなすったのかね」

「ええ、そうです。つい先ほどやっと出られたところで」

「それじゃあお疲れだろう。どうだね、狭い馬車だが乗ってくかね」

「え、いいんですか!?」

「いいとも、いいとも。幌があるから日除けにもなるし、楽にしなされ。儂も話し相手が欲しいしね。それにちょっと護衛の真似事もしてくれりゃ十分さ」

 

 訳を隠しても、いいことはない。男が素直にそう話すと、娘の方でも頷いて、話はついた。

 

 娘は馬車の後ろに回り込んで、幌付きの荷車に上がり込んで腰を下ろした。重たげな背負い鞄を下ろして、水筒の水をあおって、ぷはあと一息。見れば見るほど、とてもではないが森を抜けられるようには見えない、ほとんど子供のようななりだ。

 

「娘さん、ずいぶん若いねえ」

「この春、成人を迎えました」

「そりゃ本当に若い。よく森を抜けられたもんだ。大したもんだねえ」

 

 境の森の東側は、護りの川を隔てて辺境領とすぐ隣であるから、人々はみな創建で、恩恵も強い。そこからやってきたのだからこの娘も見た目より随分手練れなのだろう。

 

 男が感心したように頷くと、娘は照れたようにあどけない笑顔を見せた。

 

「いやあ、運が良かったんですよ。それに頼れる連れもいますから。ねえ、ウルウ」

 

 男がきょとんとして思わず振り向くと、娘が虚空に手を伸ばしている。

 

「ウルウがいなければ大変でしたからね。これもきっと境界の神プルプラの思し召しでしょう」

 

 もう、ウルウったら恥ずかしがり屋さんなんですからと虚空に話しかける娘の姿に、男は黙って前を向き直し、手綱を握った。

 

 かわいそうに。

 

 きっと森の中で仲間を失ったのだろう。大切な仲間の死を認められず、ああして心を壊してしまう者も時にはいるのだ。しかし、それがあのような年若い娘とは。神とはかくも残酷なことをなさるものか。

 

 男は名も知らぬ娘の仲間に黙祷を捧げ、とっておきの蜂蜜酒(メディトリンコ)を飲ませてやろうかと後ろの荷物入れに手を伸ばし、そして娘の隣にひょろりと長い体を縮めるように座り込んだ影に初めて気づいた。

 

 なんだこりゃあ、とぼんやり眺めると、そいつは頭巾の下から生気のうかがえない目でじっとりと見返してくるではないか。

 

 男は荷物入れの中から蜂蜜酒(メディトリンコ)の瓶を取り出して、黙って前を向いて手綱を取った。瓶の栓を抜き、ごくりと呷る。黄金色の酒精が流れ込み、爽やかな甘さと酒精の辛さ、それに香草のぴりりとした香りが広がった。

 

 かわいそうに。

 

 きっと森で死んだ仲間が亡霊(ファントーモ)幽鬼(デモーノ)になって憑いてきてしまったのだろう。もしくは旅で疲れてこの儂にも幻が見えるようになったのか。男はこの懊悩(おうのう)蜂蜜酒(メディトリンコ)でさっぱり洗い流した。いるものはいる。見えるものは見える。昨日のことは考えない。深く考えない方がいいこともある。念仏のように商売哲学を諳んじて、男は何の不審も見なかったということにした。

 

 後ろから聞こえてくるきゃいきゃいと楽しげな娘の話し声と、それに一切返すことのない、返したとしても枯れ木に風の通るような聞こえるとも聞こえないとも言えない囁き声を、男は熱心に女同士の姦しい会話という風に意識した。

 

 

             ‡             ‡

 

 

 宿場とやらまでどのくらいなのかと尋ねると、事前に聞いた話では二里くらいだと返ってきた。

 一里はどれくらいだと聞くと、半(とき)歩いたくらいですかねと返ってくる。

 

 では半刻とはどれくらいかと首を傾げれば、日が出て沈むまでが六刻なので、その十二分の一が半刻だという。どうやら不定時法を採用しているようだ。

 

 そうなると正確ではなくなるが、まあ大体半刻で一時間くらいとみて、二里ということは半刻が二回で一刻、つまり二時間くらいということになる。人間の歩く速度は大体時速四キロメートルかそこらと本で読んだことがあるから、一里というのはその位と考えていいだろう。

 まあそれもこの世界の一日が二十四時間と仮定した場合だが、体感ではもう少し長そうな気もする。とはいえ比べる方法がないので詳細はわからないが。

 

 まあざっくり二時間くらいと考えると、森の中での道行きを考えると一度休憩をはさんで宿場とやらに到着することになるだろうか。森の中はなんだかんだ見るものがあったのでそこまで飽きなかったが、こうも何もない野原を二時間も歩くというのは現代人にはいささか厳しいものがあった。情報過多時代に生きていた身としては、こうも情報が少ないとかえって落ち着かない。

 

 リリオの方は気にした様子もなく元気な足取りだし、私に話しかけてくる分にはいくらでも話題がありそうだが、あいにくこちらには話題もなければ受け答えのセンスもないし、それ以上にそんな若さについていけるだけのエネルギーもありはしない。

 

 以前は歩きスマホするだけの元気もなかったが、こうなってくると何か見るもの読むものが欲しい。町中をスマホ見ながら危なげに歩く若者たちをゾンビかよと笑っていたが、彼らは情報に飢えていたんだな。現代病だよ、あれは。

 

 仕方なしに、少し前を行くリリオの白いポニーテールが歩みに合わせてぴょこぴょこ動くのを眺めてみたが、別段面白くもない。おもむろにつかんでみたら面白い反応でもしてくれそうではあるが、さすがにそんな子供っぽいことをする気はない。する気力もない。こちとら人間性を捧げて会社に出勤していた生体由来ロボット(型落ち)なのだ。正直歩いているだけで刻一刻とエネルギーが漏れ出している気がする。

 

 そんなことを考えていると、後ろから何かどすどす言う重たい音と、車輪の音が聞こえる。

 

 振り向けば、馬車らしきものが近づいていた。リリオがちょっとどいて道を開けるので私もそうすると、御者席に座った気のよさそうな老人が、麦藁帽を軽く持ち上げてにこやかに挨拶してくる。

 

「おうい娘さん。森を通ってきなすったのかね」

「ええ、そうです。つい先ほどやっと出られたところで」

「それじゃあお疲れだろう。どうだね、狭い馬車だが乗ってくかね」

「え、いいんですか!?」

「いいとも、いいとも。幌があるから日除けにもなるし、楽にしなされ。儂も話し相手が欲しいしね。それにちょっと護衛の真似事もしてくれりゃ十分さ」

 

 普通の会話にちょっと感動した。

 すごいな。私には無理だ。どれだけ疲れていても、え、いいです、遠慮しますと答える気がする。まず話しかけられた時点で警戒心バリバリの目で見て怯ませる気がする。だって人間と話すとか疲れるし、あいつら何で怒って何で笑うかよくわかんないから怖いじゃないか。

 

 リリオが喜んで馬車らしきものの後ろに回ってよいしょと乗り込むので、よじ登るそのおしりを押し上げて手伝ってやり、私もひょいと乗り込む。

 

 馬車らしきものが動き出すと、ごとごととした揺れが直に尻に突き上げてくる。サスペンションとかついてないんだろうな。よく異世界転生ものとかで訳知り顔に馬車は尻が痛くなるとか乗ったこともないだろうに書いていたのはこういうことなんだなとなんとなく感心しながら揺れに身を任せる。

 

 リリオにとってもこの揺れは一般的な物らしく、鞄を下ろして水筒の水など飲みながら一息ついている。私の方は特に疲れも感じていないし喉も乾いていないから、まったく便利な体だ。

 

「娘さん、ずいぶん若いねえ」

「この春、成人を迎えました」

「そりゃ本当に若い。よく森を抜けられたもんだ。大したもんだねえ」

 

 リリオと老人の会話を聞いて、この世界の成人事情というものを何となく知った。リリオが、まあ西洋人顔でなんとなく幼いなということしかわからないが、十代前半あたりとみて間違いないだろう。その位で成人を迎えるというのは、文明程度が低くて平均寿命が短い時代ならありがちなんじゃなかろうか。もしくは早熟なのかもしれないが。

 

「いやあ、運が良かったんですよ。それに頼れる連れもいますから。ねえ、ウルウ」

 

 急に話しかけられてぎょっとした。

 

「ウルウがいなければ大変でしたからね。これもきっと境界の神プルプラの思し召しでしょう」

 

 やめろ馬鹿と小突くと、もう、ウルウったら恥ずかしがり屋さんなんですからなどと言われて頭痛がした。声を出し慣れていないので大声で怒鳴らずに済んだのは良かったと言えば良かった。

 

 私は背を折って顔を寄せ、久しぶり過ぎて咳をしてから、生返事などではなくまともに声を出した。

 

「私の姿は、いま君にしか見えてないってこと忘れてるんじゃないのか」

「あ、そうでした」

 

 あっけらかんとしたものである。そりゃあこの娘には私の姿は見えているのだが、見えているといっても半透明に透けて見えているらしいし、それがまともじゃないってことは馬鹿でもわかることだろう。

 

 ところがこの小娘は生半可な馬鹿ではなかった。

 

「ウルウが美人さんなので忘れてました」

「死ねばいいのに」

「何故にっ!?」

「馬鹿は死ななきゃ治らないらしいし」

「死んだらお話しできないですよう!」

「そりゃあ静かでいいや」

「ウルウのいけず!」

「誰が行かず後家だ」

「言ってないです言ってないですいったたたたたたたったったったやめっとめっあばばば」

 

 うるさいのでアイアンクローかましてやったら余計うるさい。

 

 これでも《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》内では力強さ(ストレングス)の数値はかなり低めの方だったのだが、それでも一応最大レベルともあって、平然と自然破壊をこなす石頭でもきしませることくらいはできるようだ。それでもこっちの指が疲れるくらいだから相当な石頭だが。

 

 適当な所で放してやれば、即座に涙目で何するんですかもうと唇を尖らせるくらいだから、実際大したダメージではないようだ。どんだけ硬いんだこいつ。

 

 まあ適当に遊んだところで、《隠蓑(クローキング)》を解除してやる。

 別にこいつがはしゃいで暴れて、イマジナリーフレンドとお喋りする可哀そうな子として憐れみを持って見られたところで私は痛くも痒くもないのだが、それで旅に支障が出ても面白くないし、私も気疲れしそうなので、姿を見せる必要があるときは仕方がないがプレイスタイルの封印も考えなければ。

 

 振り返った老人が私の姿にぎょっとして、頭を振りながら顔を背けてしまったが、まあ、いいや。老年性痴呆症か老眼か目の錯覚かその他諸々かのせいにしてもらおう。見てみれば酒も入ったようだし、アルコールのせいにしてもいい。というかこんな真昼間から飲むのか。飲酒運転して大丈夫か。ハラハラしてその背中を見守るが、この程度の飲酒では酔いはしないのか、見ている限りはピンシャンしている。

 

「何か面白いものでもありました?」

 

 君のおつむの悪さは面白いと言えば面白い、とはさすがに言わないが、先程から疑問に思っていたことは聞いておこう。

 

()()って普通なの?」

「あれ?」

 

 小首を傾げるリリオに、馬車()()()()()を牽く生き物を指さす。

 

()()()()が車を引くのって、こっちじゃ普通なの?」

「ああ、甲馬(テストゥドセヴァーロ)ですね。北の方では珍しいといえば珍しいですけど、力が強いので荷牽きとか、馬車とかにはよく使われてますよ」

 

 見たことないですかと言われても、見上げるような巨体のリクガメなんてものはさすがにお目にかかったことがない。

 意外と軽快にのっしのっしと歩いていく大亀は、まあ馬の早駆けとかと比べるとゆっくりはゆっくりなのだろうけれど、一歩一歩が大きく力強いから、人の足で歩くよりは随分早いだろうし、何より安定している。

 

 というか亀が牽いているのに馬車なのか。と首をかしげると、リリオの方も不思議そうに小首を傾げる。

 

「亀じゃなくて馬ですよ」

「……馬かー」

「馬ですねー」

 

 多分、異世界言語翻訳的には、騎乗できる動物の類は全部馬扱いされているんだろう。

 

 なんで異世界系では馬車を牽くのが爬虫類だったり鳥類だったり、素直に馬じゃないのが多いんだろうなあ。まあ異世界っていう雰囲気がすぐに出るからなんだろうけど、馬でさえ餌やら水やら糞やら大変なのに、爬虫類とか鳥類とかもっと面倒くさい気がするんだよなあ。もしくは絵になった時に、馬はある程度リアルじゃないと突っ込まれ放題なんだろうけど、最初から架空の生き物にしておけば多少変な所があっても突っ込まれづらいのかなあ。

 

 ぼんやりとそんなことを考えているうちに、宿場とやらが見えてくるのだった。




用語解説

甲馬(テストゥドセヴァーロ)
 甲羅を持った大型の馬。草食。大食漢ではあるがその分耐久力に耐え、長期間の活動に耐える。馬の中では鈍足の方ではあるが、それでも最大速力で走れば人間ではまず追いつけない。長距離の旅や、大荷物を牽く時などには重宝される。性格も穏やかで扱いやすい個体が多い。寿命も長く、年経た個体は賢く、長年の経験で御者を助けることも多い。

蜂蜜酒(メディトリンコ)
 蜂蜜を水で割り、発酵させた酒類。ここでは保存性、香りづけ、また薬効を高めるために種々の香草を加えたものを言い、栄養価も高いことから医師の飲み物、メディトリンコと呼ばれている。その効能と安価なことから民衆にも親しまれている。ただし寒冷な地域では蜂が少ない、またはいないため、北東部にあたる辺境領では高値で売れる。

幽鬼(デモーノ)
 亡霊(ファントーモ)と同じく、死んだ者が現れいでるものとされる。その中でも特に悪さをするもの、悪質なものを言う。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 亡霊と洗い物

前回のあらすじ
運よく馬車に乗せてもらい、宿場へとたどり着いた閠とリリオ。
一向に話は進まないがそもそもそういうお話ではないのでそのあたりは期待しないように。


 宿場というのは、まあそんなに大した規模のものでもなかった。

 

 私たちの通ってきた細い道が太い街道と合流し、そこから少し進んだ先にその宿場はあったのだけれど、ようは街道沿いに何軒か、木と石でできた建物が並んでいるといった程度のものだった。それでもまあ、暗くなってきたころに人家の明かりが見えるというのは何となくほっとするものではある。

 

 建物の種類は本当に少なく、いくらか立派に見えるのが問屋(とんや)という宿場の管理施設で、いくらかぼろいが大きさはあるのが木賃宿(きちんやど)。それより少し立派なのが旅籠(はたご)。いまはもう閉まっているけれど、簡単な商店と茶屋が一軒ずつ。

 

 それからこれは目を引いたのだが、厩舎には驚かされた。

 

 日本でいう江戸時代の宿場では疲れた馬を交換したりできるようになっていたそうだが、この世界の宿場でもそのようなシステムを取っているようで、下手をすると人間の使う木賃宿よりよほど立派な厩舎があった。

 あったのだが、どうも私の想像した厩舎とは違った。いや、想像してしかるべきだったとは思うのだが。

 

「………馬?」

「馬ですねえ」

 

 一応リリオに尋ねてみたけれど、この世界ではこれが常識らしい。

 

 甲馬(テストゥドセヴァーロ)とかいうのはこの辺りでは珍しいらしく替え馬はいなかったが、それ以外に珍妙な動物がゴロゴロといた。万国ビックリ動物ショーといった感じだ。

 でかい鳥やら蜥蜴やら虫やら、どれもこれも馬扱いらしい。端っこの方でどうやらまともな馬を見つけてほっとしてしまったくらいだ。これも馬に似ているだけで私の知っている馬ではないのかもしれないが、それを言ったらリリオだって見た目は人間だけれど根本的に霊長類とは構造が違うのかもしれない。

 

 馬車に載せてくれた老人は厩舎に馬を預けて、今晩は旅籠に泊まるという。明日の朝に出発するので、都合が良ければ乗っていくかねと言ってくれた。リリオが伺うように見上げてくるので好きにしろと頷くと、喜んでと翌日の護衛任務を受けていた。

 尻が痛くなるとは言え歩くよりは早い足が手に入るのはいいことだし、お喋りの好きなリリオとしては物知りな旅商人との会話は楽しいのだろう。

 

 旅籠に向かう老人と別れて、リリオはまっすぐに木賃宿へ向かった。

 

 旅籠と木賃宿と何が違うかと言えば、ありていに言ってグレードが違うらしい。

 

 まず旅籠の方が上等で、食事も出る。個室には鍵もかかるし、安全面でも上だ。一方で木賃宿は金のない旅人向けの宿で、食事は出ないが竈などは貸してもらえて自炊はできる。鍵のかかる部屋などはなく、場合によっては雑魚寝も普通だという。

 

 リリオはどうにも金持ちのようには見えなかったし、私もこの世界の金の持ち合わせはない。女二人旅でちょっと無防備すぎるのではないかとも思うが、リリオはあれで大荷物を背負って歩きまわってもけろりとしているくらい頑健だし、私も大概の相手に後れを取るような体ではないらしい。旅籠の食事も気にはなるが、ここは旅の主体であるリリオに合わせよう。

 

 勝手を借りてリリオがビスケットを砕いて干し肉と煮た簡単な粥のようなものを拵えてくれ、二人でもそもそと食べ終えるまではまあこんなものかと思っていた。森の中より食事のグレードが下がった気はするが、獲物が獲れた森の中と携行食しかないここでは食事の質も変わって当然だろう。もともとブロックタイプの栄養食品で食事を済ませていた私だ。温かいだけマシとも感じる。

 

 問題は、客が少ないから空いていると通された二人部屋であった。

 

 運が良かったですねと喜んでいるリリオに対して私はカルチャーショックに打ちのめされていた。

 

 そりゃあ、ホテルのスイートルームを想像するほど馬鹿ではない。ビジネスホテルの狭い一室でもまだ豪華だろうなとは思う。しかしこれはあんまりだった。

 

 鍵もかからないどころかしっかり閉まりもしないずさんな扉に、隙間風が堂々通り抜ける寸法のあっていない突き上げ窓。寝台は脚の着いたただの板切れに、使い古されてほとんど死にかけた()えた匂いのする寝藁。土足で出入りする文化圏だからなのか土埃にまみれた床。鼠か何かの糞。蜘蛛の巣。

 

 あ、だめだ、思考が考えるのを拒み始めた。

 

 これは安い木賃宿としては割と平均的な代物らしく、リリオは気にした様子もなく荷物を下ろし、寝台に腰を下ろし、じゃあ今日はもうやることもないですし寝ましょうかという。

 じゃあそうしようかというのは無理だった。私には無理だった。いくらメンタルがアンデッドに片足を踏み込んでいる私とはいえ、曲がりなりにも現代社会のやや陰りの見える先進国家で清潔な生活を送ってきた身としては、これは耐えられなかった。

 

「お湯」

「はい?」

「お湯借りてきて」

「え?」

「追加料金でお湯借りれるんでしょ。借りてきて」

 

 愛想の悪い木賃宿の主は、そのように説明していたはずだった。

 

「えーと、でもその、路銀にあまり余裕がですね」

「払う」

「え」

 

 私は腰のポーチに手を突っ込んでインベントリを開き、無造作にゲーム内通貨であったコインを何枚か取り出してリリオに握らせた。

 

「私の我儘だから、私が払う」

「いや、でも、こんな」

「この国の通貨じゃないから使えるかわからないけど、鋳つぶせば金としては売れるでしょ」

「き、金!?」

「それに」

 

 うろたえるリリオを無視して、私は喫緊の大問題を前にして、リリオの頭に顔を寄せた。それから肩口。胸元。やはりだ。

 

「くさい」

「え」

「一緒に旅する以上、君が臭いのは受け入れられない」

「は、はいっ!」

 

 自分でもぞっとするほど冷たい声で宣言すれば、リリオは大慌てで部屋を出ていった。

 

 私は鼻に残った匂いを吐き出すように大きく深呼吸する。

 酸化した皮脂の匂い。疲労がたまっているせいかアンモニア臭もする。汗臭さにこもったような腐敗臭。いろいろ混ざり合って悪臭の域だ。いままでは風の通る野外だったし、言うほど余裕があったわけでもないから気にはしなかったが、同じ部屋で距離も近くなればさすがに気になる。部屋自体の饐えた匂いも気に入らない。

 

 旅人としては仕方がないことなのだろうと頭では理解する。しかし生理的嫌悪はどうしようもないし、衛生的でないということはそれだけ病気などの危険も増える。

 

 私はマントを脱いで手甲や邪魔な装備を外してインベントリに突っ込み、ブラウスにパンツだけの身軽な服装になって袖をまくり上げ、代わりに使えそうな道具を見繕って引っ張り出す。適当な紐で髪を括り、さあ準備はできた。リリオが湯を沸かして戻ってくるまでそれなりにかかるだろう。となれば、じっとしていても腹立たしいだけだ。

 

「せめて、寝られるくらいの環境にはしないとな」

 

 掃除を、開始しよう。

 

 

 リリオがお湯の入ったたらいを抱えて戻ってきた時には、部屋はそれなりに見れる状況にはなっていた。本来一定距離に散らばったアイテムをいちいち拾い集めないでも一度に回収する効果のある《無精者の箒》で埃を払い、寝台のゴミ同然の寝藁とまとめて《麻袋》に放り込む。液体系のアイテムを回収するための容器である《ブリキバケツ》に《蒸留水》を惜しげなくぶち込み、売る予定で持っていた《布の服+28》を雑巾代わりにして磨き上げ、仕上げに《魔除けのポプリ》を何か所かに放り投げて匂いも対策。

 

 まあ及第点かなというあたりで帰ってきたリリオは、扉を押し開けるなり呆然と部屋の変わりようを見ていたが、綺麗になる分には構わないだろう。文句は言わせない。

 

 おずおずと入ってきてたらいを置くリリオ。お湯は、まあ、うん、少し熱いくらい。ちょうどいいだろう。

 

 何か言おうとするリリオを無視して、ドアをしっかりと閉めて、ナイフでくさびを打って開かないようにする。客も少ないし気にするほどではないだろうが、のぞかれてはかわいそうだ。

 

「あ、あの?」

「脱いで」

「あのー!?」

 

 面倒くさいので無理やり脱がそうかとも思ったが、革鎧の外し方なんて知らないし、この世界の服のつくりもよく知らない。

 

「綺麗にするから、早く、脱いで」

「いや別にそんなに言うほど」

「くさい」

「ぐへぇ」

「私は旅の連れが臭くて汚いなんて耐えられない。最低限衛生的でいてほしい」

「ふ、普通だと思うんですけど」

「君が()()であるならば、君が()()であるうちは、君の寂しさを埋めてやるのも、やぶさかではない」

「いいセリフをこんなところでっ!?」

 

 ええい面倒くさい。自分で脱ぐか無理やり剥かれるか選べと迫れば、少し迷った末に自発的に脱いでくれた。助かる。脱がせ方がわからないので破るほかになかった。まあこれでこの世界の鎧と服の脱ぎ方はわかったから次回からは無理やりでもいいだろう。

 

 キャミソールとズロースのような下着姿になったリリオは、小柄さも相まって完全にお子様だった。この格好で庭とか駆けまわっててもおかしくないレベルのお子様だった。どこがとは言わないがかわいそうなくらいお子様だった。今後の成長を祈ってやろう。

 

 ともあれ、恥じらうように目を伏せるリリオの乙女心を完全に無視してそのキャミソールとズロースもまとめてひん剥き、たらいに放り込む。《暗殺者(アサシン)》系統の素早さ(アジリティ)をなめるなよ。

 

「はわわー!?」

 

 ここまで愛らしさのない必死な「はわわ」は初めて聞いた。

 混乱して、ない胸を隠すリリオを無視して、まず髪留めをほどいて外すと、いやあ、これがまたひどい。ポニーテールにした跡がくっきりと髪に残っているのみならず、皮脂と埃によって髪がガッチガチに固まっていてぼさぼさだ。ほどいたせいでもわっと臭ってくる。手櫛で梳いてやったら形容しがたい何かが指に纏わりつきそうだ。

 

 シャンプーやらリンスやらがこの世界にあるとは思えないが、石鹸くらいはないだろうか。メソポタミア文明の頃にはすでに発見されてたし、古代ローマでは塩析も行われたたし、中世以前から生産は割と大規模に行われていたはずだ。この世界の文化程度はいまだによくわからないが、宿場などの制度などからしてもそれなりに安定して発達しているようだし、ファンタジー世界だから何もかも程度が低いなどという考え方は阿呆だろう。

 

 試しに石鹸は持っていないのかと聞いてみたところ、あるという。荷物をあさってみれば、木箱に納められた固形石鹸があった。一応きちんとした石鹸のようだ。

 あまり使用形跡がないので聞いてみたところ、極端に高いわけではないものの、路銀を節約したい中ではそうそう気楽にも使えなかったらしく、石鹸に金をかけるなら装備や食事に金をかけたかったという。それにまた、余り身ぎれいにしていると女の一人旅では目を付けられるかもしれないことを恐れた、とこれは納得できる理由もあった。

 

 しかしそれはそれ、これはこれだ。石鹸代ぐらいなら出してやる。女二人旅でしかもレベル上限にある私が一緒なら目をつけられたところで痛くもかゆくもない。

 

 私は問答無用で盛大に石鹸を泡立て、頭の先から足の先まで徹底的に磨き上げることにした。

 

 最初の内はあまりにも汚れがひどくて石鹸がなかなか泡立たず、湯が真っ黒に染まるほどだったが、二度ほど湯を貰い直して、何とかまともに泡立つようになった。その間にリリオも洗われるのに慣れてきたようで、目をつぶって心地よさそうに身を任せてくるようになった。たらいにぺったりと腰を下ろして大人しくしてくれるのは洗う側としては恥ずかしがって暴れられるよりありがたい。ありがたくはあるが、胸やら足の間やらまで洗われても気にしないのはどうなんだ君。この世界では成人とはいえやはり子供は子供なんだろうなあ。大型犬でも洗っているような気持ちで無心で黙々と洗ううちに、泡も真っ白、湯のにごりもほとんどなくなった。湯をかけてやれば見違えるほどきれいになった、と思う。

 

 しかしさて、ここまでやってはいおしまいでは片手落ちな気もする。

 

 この石鹸、確かに十分な洗浄力はあるのだけれど、もろにアルカリ性なのだ。皮膚が溶ける、というほど強いものではないが、髪が痛むのは間違いない。となれば酸性に傾けてやらなければならない。確かリンスももともとはクエン酸水溶液あたりだったか。

 

 私はインベントリを開いて《目覚まし檸檬(れもん)》を取り出してお湯にいくらか絞り出す。これは状態異常の一種である睡眠状態を治す回復アイテムなのだが、檸檬というからには柑橘系、酸性だろう。これをお湯に溶いて、丁寧に髪に馴染ませるようにくしけずってやる。

 

 一応効果はあったようで、ややきしきしとしていた髪質もしっとりと落ち着いたし、檸檬のさっぱりとした香りもきつすぎず、程よい香りづけになっている。たらいから出たリリオを《セコンド・タオル》で拭いてやり、替えの下着を身に着けている間に髪の水気を取ってやる。

 

 そうして改めて見下ろしてみれば、我ながら良い仕事だ、と胸を張れる仕上がりだった。元々白い肌は磨き上げたおかげかつやつやと輝いて見えるしこれはもう若さってすごいなと本気でへこみそうになるレベルだ。このつやつや皮脂のおかげなんだよな。若いうちはうっとうしく思える皮脂も、年取ってくると外部から補填してやらなきゃすーぐカサカサになるんだよ。いいよな。若さ。

 

 いまこうして水気を取ってやっている髪も、荒れていた時は単に白い髪としか思わなかったけれど、しっかりケアしてやると、象牙のような少しクリーム色がかった柔らかな白で、また透明感があるので平坦ではなく奥行がある。適当に束ねてタオルで丸めてやって、さあ仕上がりだ。

 

 いやー、いい仕事をした。そう満足感に浸っていると、がっしりと肩を掴まれた。

 

「うん?」

「綺麗になりました?」

「ああ、なったよ」

「じゃあ次はウルウの番です」

「………フムン?」

「ウルウだって森の中歩いてきたんだから汚れてるはずです!」

 

 いや、そうかなあ。

 

 何しろこの体はゲームキャラクターのものだ。走っても汗一つかかないような。そりゃ多少埃とかはついたかもしれないけど、そもそも新陳代謝するんだろうかこの体。食事もできて排泄もしたということはある程度人体に即した働きを、あ、だめだ、考えちゃダメな奴だこれ。

 

 しかし時すでに遅く、私の認識は私の体に作用し始めたようだった。やり切ったという満足感は、体を動かして上がった体温にこたえるように額に汗をかき始めていた。当然服の内側はもっとだろう。

 面倒な、と思っていると、リリオが肩を掴んだまま胸元に顔を突っ込んでくる。驚いている間に鼻先を服の合わせ目に突っ込んでくる。

 

「すー………」

「……おい?」

「くふー……」

「……おいってば?」

「ウルウの匂いがします!」

 

 盛大に平手を張った私は悪くないと思う。




用語解説

・宿場
 街道沿いに設置された駅逓事務を取り扱うための町場。
 馬の引継ぎをはじめ、郵便の取り扱い、宿泊施設、また簡単な商いなどを行う。

・《無精者の箒》
 ゲームアイテム。《エンズビル・オンライン》では敵を倒すと確率でアイテムをドロップするが、いちいちそれを拾い集めなければならなかった。このアイテムは使用することで一定範囲のアイテムを自動で回収してくれる便利なもので、同様のアイテムが多く存在した。
『いくらいい道具をやったところで、倉庫の肥やしになるばかり。部屋を綺麗にしたけりゃあ、まずは部屋の主を追い出すべきだな』

・《麻袋》
 ただの麻袋ではあるが一応ゲームアイテム。アイテムには同じ種類のものならばまとめることができる「スタック」という機能があるが、一部のアイテムにはこのスタック機能がなく、インベントリ内がごちゃつくという問題があった。この《麻袋》は内部に一定量のアイテムをまとめて放り込むことができ、インベントリ内の整理に役立った。とはいえ、度の麻袋に何を入れたか忘れるという更なる悲劇の引き金にもなったが。
『麻袋ほど簡素で、そして使い道の多い道具もそうはあるまい。取り敢えずはそいつの頭にかぶせて、馬に牽かせて市中を引きずり回せ』

・《ブリキバケツ》
 ゲームアイテム。アイテムには専用の容器がなければ回収できない液体系のアイテムが存在する。例えばジュースや薬品などは瓶がなければ持ち運びできない。この《ブリキバケツ》はその液体系アイテム大量に持ち運べてかつ安価ということでしばしば素材採集に使われた。
『寄ってらっしゃい見てらっしゃい。舶来仕込みのこのバケツ、丈夫なことはこの上ない! 何しろ溶岩だって汲めちまう! 持ってるあんたが耐えられればね!』

・《蒸留水》
 製薬や、一部アイテムと組み合わせて使用したりする清潔な水。これ自体には回復効果などは全くない。
『おお、このように透き通った美しい水が他にあろうか! まあ尤、水清いせいで魚が死んだのは予想外だったが』

・《布の服+28》
 装備品は鍛冶屋や特殊なアイテムで強化することで攻撃力や防御力を上げることができる。とはいえ元の性能が低ければいくら強化しても大したことはない。この《布の服+28》はまさしくそんな大したことがない存在の筆頭だろう。初期装備である《布の服》をなぜこんなレベルにまで強化したのかは不明である。
『なに、もっと安くしろだって? 馬鹿言うねえ、世の中布の服とヒノキの棒でドラゴンをぶちのめす猛者だっているんだぜ』

・《魔除けのポプリ》
 ゲームアイテム。使用することで一定時間低レベルのモンスターが寄ってこないようにする効果がある。
『魔女の作るポプリは評判がいい。何しろ文句が出たためしがない。効果がなかった時には、魔物に食われて帰ってこないからな』

・《目覚まし檸檬》
 ゲームアイテム。状態異常の一つである睡眠状態を解除できる回復アイテム。寝ている状態でどうやって食べるのか、寝ている相手にどうやって食べさせるのか、そのあたりは不明だが、深い眠りでも瞬時に目覚めるあたり相当酸っぱいらしい。
『最近眠くて仕方がないって? それじゃあこの檸檬を試してごらん。どんな眠気も一発で………ありゃま、気絶には効かねえんだよなあ』

・《セコンド・タオル》
 ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合と魔法の布団

前回のあらすじ
洗っていない犬の匂いがする(柔らかい表現)リリオを丸洗いし、その上平手打ちした閠。
事案である。


 昨夜は酷い目に遭いました。

 

 全裸にひん剥かれた挙句に全身をまさぐられて、最後は気持ちよくなってしまうなんて。

 

 いやーしかし久しぶりにさっぱりしました。旅してる間はそんな余裕なかったので気にしていませんでしたけれど、やっぱり体を清潔に保つのは大事です。これだけで体が軽くなった気さえします。替えの下着に着替えた時点でもう無敵になった気分です。

 

 あ、でもやっぱり駄目です。

 

 お陰様で自分の匂いに麻痺していた鼻も回復したらしく、もう服着れません。臭いです。ものすごく臭いです。具体的には汗と垢と血と脂と土とその他得体の知れない匂いがします。ぺっとりしてます。一度脱いだらもう駄目な奴でした。

 

 仕方がないのでウルウが身体を拭っている姿を下着姿でぼんやり眺めていましたが、ウルウはずるいです。私のこと丸洗いしたんですから私にもさせてくれればいいのに、不器用そうだから嫌だと拒否されました。心外です。こう見えても私、牧羊犬の仔犬のお風呂手伝ったこともあるんですよ。最終的に親犬にまとめて洗われてましたけど。はい。わかってます。諦めます。

 

 でもでもそれだけでなくずるいです。

 

 私は恩恵によって見た目より力があるとはいえ、鍛えている分やっぱり筋肉がついているんですよ。ちょっと力入れたらむきっとしますからね、これでも。だから胸に脂肪がいかないのは仕方がないんです。

 

 だというのに、ウルウときたら全然筋肉ないんです。むしろちょっと痩せ気味なくらいで、そのくせ私より胸はあるんです。ごつごつしてないで、でも張りはあって、そんな体なのに熊木菟(ウルソストリゴ)をあっさり倒してみたり、平然と持ち上げてみたり、世の中不平等です。さっき喰らった平手打ちなんか首が飛ぶかと思ったのに。

 

 さらにさらにずるいです。

 

 ふわっふわの毛巾で体を拭って、長い黒髪の水気を絞って、《自在蔵(ポスタープロ)》の中から着替えを取り出すと、下着もつけずに着こんでしまったのです。聞けば寝るときは下着はつけないという何とも言えない主張でしたけど、まあ百歩譲ってそれはいいとして、着替えがあるのはずるいです。

 

 私も持っているには持っていますけど一着だけですしそれにしたって似たような汚れ具合ですし、こんなに綺麗さっぱりになったのに改めて着るのは辛すぎます。残り湯で洗うことも考えましたけれど絶対明日の朝までには乾きません。

 

 こうなれば下着一丁で旅に出る覚悟を決めるべきでしょうか。初夏ですし風邪もひかないでしょうから、恥を覚悟しさえすれば。

 

 というようなことを言ってみたら、そんなことしたら私は絶対に姿を現さないし他人のふりをすると断固拒否されました。それでもお別れだとは言わないあたりウルウは優しいですけれど、でも困りました。

 

 私がうんうんうなっていると、ウルウはものすごく面倒くさそうな顔で《自在蔵(ポスタープロ)》をあさって、なんだかよくわからないものを取り出しました。

 

 しいて言うならば、ぬめぬめとしめった赤い生肉の塊でした。

 

 しかもこのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊は、ウルウの手の中でびくびくぐねぐねびちびち動いてます。

 できるだけ体から遠ざけるように手を精一杯伸ばしてこのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を持つウルウに、そのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊は何なのですかと聞いてみると、アカナメの舌だと言います。なるほど舌と言えば舌っぽいです。牛などの舌はこんな感じです。でもさすがに引っこ抜かれた状態でびくびくぐねぐねびちびちようごめくぬめぬめとしめった赤い生肉の塊にお目にかかるのは初めてです。

 

 ウルウがそのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を持つよりも余程嫌そうに私の服をつまむと、なんとおもむろにそのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊をおしつけるではありませんか。ぬちゃぐちゃぞりぞりれろぬろぐりぬちゃじゅるりじゅぞばばばぬるろろろとしめった音とともに、ウルウの手の中のぬめぬめとしめった赤い生肉の塊が私の装備の上で踊り狂うようにのたうち回り、嘗め回していきます。

 

 この名状しがたき悍ましい光景を目の当たりにして悲鳴を上げなかった私を褒めてもらいたいところですが、正直なところ声にならない声しか出てこないほどの衝撃にかたまっていただけでした。

 

 しばらくそうしてぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を私の装備に押し付けて全体を嘗め回させた後、いまだに元気よくびちびちぐねぐねびちびちとうごめくこのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊を《自在蔵(ポスタープロ)》にしまい込んで、何事もなかったかのようにウルウは装備一式を毛巾で拭って私に寄越しました。

 

 涎まみれにされたように思った私の装備はむしろ綺麗に磨き上げられ、よくよく丁寧に洗い上げられたように新品同然の状態で帰ってきました。恐る恐る鼻を近づけて匂いを嗅いでみましたが、想像していたようないやらしく悍ましい匂いもなく、革の匂いと布の匂いがするばかりでした。

 

「アカナメの舌は」

 

 呆然としている私に、ウルウは努めて何も考えないようにしているような遠い目で、あのぬめぬめとしめった赤い生肉の塊について説明してくれました。

 

「本来装備品の耐久値が下がったり、特定のモブから受ける状態異常である泥濘(でいねい)や汚損を回復するためのアイテム。簡単に言えば汚れを綺麗にしてくれる」

 

 意味はよく分かりませんでしたが便利そうではあります。

 

「なんで切り取った後も動いてるのか、舐めとった汚れがどこに行くのかは私も知らない」

 

 意味はよく分かりませんでしたがかなり怖そうなことを言っている気がします。

 

 とにかく汚れを綺麗にしてくれる道具で、私の装備もそのおかげで綺麗になったということがわかれば十分です。深く考えると着づらくなります。

 

「ところで、こんなに便利ならどうして体の汚れを取るのにつかわなかったんですか?」

「生理的に嫌」

 

 これ以上ない程説得力のある顔と言葉でした。私も幾ら節約になるとはいえ、あれで体中舐めまわされるのは御免被りたいです。

 

 それはそれとしてこれを着て寝るのは少し怖いものがあるなあとぼんやり思っていると、風邪をひくからとウルウがおそろいの寝巻を貸してくれました。恐ろしく着心地がいいです。こんばっとじゃーじというそうです。恐ろしく縫製もいいですし、きっと高価な物でしょう。

 

 えらく潔癖だったり、きっとウルウってかなりいいところの育ちなのでしょうね。私も実はいいところの育ちだったりするのですが、ウルウに関してはとても良い教育を受けていそうです。世間知らずっぽいですし、箱入りっぽいですし、手なんかすべすべで水仕事なんてしたことなさそうですし。

 

 肉体的ではなく精神的に疲れた気分で、じゃあもう寝ましょうかと言うと、まだだ、とウルウに止められます。今度は何でしょう。

 

「歯」

「は?」

「歯を磨かないと」

 

 うん。確かに歯磨きは大事です。

 ものの本にも、朝夕歯を磨けば虫歯にならないとも言いますし、歯磨きは大事です。でももう眠いですし疲れましたし今日はいいじゃないですかと言えば、またあの怖い顔でじっと見てきます。

 

「うう……わかりましたよう」

 

 私は諦めて鞄から歯刷子を取り出しました。細い柄の先に毛を植えたこの手の歯刷子が出てきたのはここ最近のことで、これも結構いい品物なんですけど、ウルウは特に気にした様子もありません。やはりいいところのお嬢さんで、この手の品は珍しくもないのでしょうか。と思っていたらウルウが取り出した歯刷子のほうが余程上等です。思わずうっわ金持ちと言いかねないくらい上等です。なんだか釈然としない思いで漫然と歯を磨いていると、ウルウに顎をがっしり掴まれました。

 

「うふぇぇええ!?」

「しっかり、磨きなさい」

 

 どうやら私のいい加減な磨きかたが気に食わなかったようです。

 

 顎をがっちりつかまれた上で口を大きく開けさせられ、一本一本丁寧に歯を磨かれます。なんだかかなり間抜けな絵面です。ウルウの真剣な目が注がれていますが、まったく嬉しくない注目です。

 さっき体を洗ってもらった時も思いましたけど、これはもはや人を見る目ではありません。出荷前の経済動物を検品する目つきです。明日には精肉屋さんの店頭に並ぶのねって顔です。

 

 しばらくそうして下の歯から上の歯まで徹底的に磨かれ、がらがらぺっとうがいまで見守られ、最終的になんかさっぱりした香りの香草を噛まされて匂いの確認までされて解放されました。ものすごくいい香りが自分の口からして意味不明です。おかしいです。なんなのでしょうこれは。

 

 さていよいよ寝るかと思って寝台に向かえば寝藁が捨てられています。板ですか。板で寝ろと。ちらっとウルウを見ると、ええ、ええ、もう驚きませんとも。《自在蔵(ポスタープロ)》から何やらずるずると引きずり出しているではないですか。

 

「………今度は何ですか?」

「布団」

「ふとん」

「………オフトゥン」

「発音ではなくて」

 

 どこの世界に木賃宿に高級羽毛布団と枕を持ち込む旅人がいるんでしょうかここにいました。はい。

 

 ほぼ板でしかない寝台に、ふわっふわの羽毛布団が敷かれているこの意味不明さに私の常識がいろいろ崩れていきます。試しに腰を下ろしてみれば、柔らかくしかししっかりと体を受け止めてくれる心地よさはもはや実家の布団より上等かもしれません。

 

「じゃあ、おやすみ」

 

 ウルウはそう言って反対の寝台に向かいますが、そちらにはお布団がありません。板だけです。そこに外套を敷いて横になろうとするウルウを慌てて止めます。

 

「眠いんだけど」

「私もですけど、そうじゃなくて、ウルウのお布団は?」

「ない」

「えっ」

「それは予備がない」

 

 じゃあ寝る、と即座に横になろうとするのを全力で止めます。

 

「なに」

「なにじゃなくて、それならウルウがあっちで寝てください」

「やだ」

「やだじゃなくて」

 

 余程眠いのでしょうか。ちょっと三人ばかり殺してきたような目つきの悪さです。

 

 あれはウルウのものなのだからウルウが使うべきですと言えば、子供の君を置いて自分だけ布団では寝れないといいます。

 これでも私は成人です。なり立てではありますけれど。そう言い張っても、ウルウは頑として首を縦に振りません。大人としての矜持のようなものなのかもしれませんが、眠そうなのも相まって、子供の駄々と大差ないようにさえ見えます。

 

 しばらく、やだ、と駄目です、の応酬を繰り返して、じゃあ一緒に寝ましょうと言えばやっぱり断られます。

 

「いいですか、ウルウ。ウルウがお布団で寝ないなら私も使いません」

「子供はちゃんと寝なさい」

「私をちゃんと寝させたいならウルウも妥協してください」

「むー……ん……」

「寝るだけ。寝るだけですから。なんにもしませんから」

「ぬー……」

「ほーら大丈夫ですよー。怖いくないですからねー」

「く、ふぁ……」

 

 眠気の限界がきているらしいウルウを適当に言いくるめて、隙をついて抱き上げてお布団に放り込みます。そうなるともうお布団の魔力には逆らえないらしく少しもぞもぞしたかと思うとすぐにすやすやと寝息を立て始めてしまいました。ちょろいものです。しかしそれにしたって私も眠気の限界です。

 

 私はウルウの細身な体に少し端に寄ってもらって、なんとか狭い隙間に体を潜り込ませました。一人分の寝台に二人で潜り込んでいるのですから恐ろしく狭いです。しかしそれでも、お布団の魔力は私にもすぐに浸透して、目の前の黒髪に顔をうずめるようにして、私も意識を手放したのでした。




用語解説

・ぬめぬめとしめった赤い生肉の塊
 正式名称《垢嘗(アカナメ)の舌》。ゲームアイテム。装備品の耐久値を回復させ、また一部の敵や環境から受ける状態異常である泥濘や汚損を回復させるアイテム。アカナメというモンスターからドロップする他、店売りもしている。回数制限はないが、使用後確率で消滅する。
『魚の水より出でて水を口にするように、この妖怪も穢れより出でて穢れを喰らうとさるる。穢れため込みし者はよく驚かさるる』

・こんばっとじゃーじ
 正式名称(コンバット・ジャージ)。《布の服》よりは良い品であるが、所詮は数売りの安い装備。ただしどこの店でも手に入り、加工がしやすく、装備の耐久を削る敵や環境のある地域では捨てることを前提に装備するプレイヤーも多い。
『動きやすく、丈夫で、そして安い。そんな頼れるこの一品だが、頼りすぎると気づいた時には死んでいる。大事なのは装備よりも技量だということだけは忘れぬように』

・うっわ金持ちと言いかねないくらい上等な歯ブラシ
 正式名称《妖精の歯ブラシ》。ゲームアイテム。装備した状態で敵を倒すと、ドロップアイテムのうち《歯》や《牙》に該当するアイテムが店舗での販売額よりも高額のお金に変換されて手に入る。
『おや、歯が抜けたのかい。それなら枕の下に敷いてみるといい。翌朝には妖精がコインに換えてくれるから……おや、だからって抜いちゃダメだったら!』

・なんかさっぱりした香りの香草
 正式名称(ヌプンケシキナ)。アイテム画像はミント系のハーブのように見える。これ自体は《SP(スキルポイント)》をほんの僅か回復させる効果があるが、基本的には上位アイテムの素材として使われる。
『北の端に目の覚めるような香りの草が生えていた。摘んで食んでみると爽やかな香りがするので、里の男たちはみな、長い狩りの時は眠気覚ましにこれを奥歯で噛んだという』

・オフトゥン
 正式名称《(ニオ)の沈み布団》。ゲームアイテム。使用すると状態異常の一つである睡眠状態を任意に引き起こすことができる。状態異常である不眠の解除や、一部地域において時間を経過させる効果、また入眠によってのみ侵入できる特殊な地域に渡る効果などが期待される。
『水鳥は本質的に水に潜る事よりも水に浮く事こそが生態の肝要である。しかして鳰の一字は水に入る事をこそその本質とする。命無き鳰鳥の羽毛は、横たわる者を瞬く間に眠りの底に沈めるだろう。目覚める術のない者にとって、それは死と何ら変わりない安らぎである』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊と野盗

前回のあらすじ
ついに同衾したリリオと閠。口の中に棒を突っ込んで滅茶苦茶にするなど、事案が相次ぐ。


 目覚めは最悪だった。

 

 夢も見ないほど深い眠りは、寝る前に何とかセットした《ウェストミンスターの目覚し時計》によって瞬時に解けた。覚醒は一瞬で、不快さもなくさっぱりとしたものだったが、その代わりにまどろみの心地よさもない味気ないものだった。便利と言えば便利ではあるが。

 

 外は朝日が顔を出したくらいだ。のっそりと起き上がろうとすれば、何やらえらく窮屈だった。

 

 《鳰の沈み布団》を捲ってみれば、私の腰のあたりにしがみついていぎたなく眠りこけているリリオの姿があった。

 人肌の温もりと自分の体ではない生き物の感触が不気味だった。

 寝起きの無防備な体に、また眠っている際の完全に無意識な体に、他人の手が触れていたのだと思うと気持ちが悪かった。それは私の人生において甚だしく経験に乏しい未知の感触だった。

 

 私はぞっとしたその不快感のままにリリオをベッドから蹴り落とし、ぷつぷつと粟立った肌を撫でさすりながら自分も寝台から降りた。

 《ウェストミンスターの目覚し時計》が奏でる心地よいチャイムを止めてインベントリにしまい込み、布団をはじめ昨日出しっぱなしにしていたアイテムを片付けていく。

 

 その間にリリオもむにゃむにゃ起き出してきたが、考えてみればこいつ、強制覚醒効果のある《目覚し時計》のチャイムを聞きながら寝入っていたのだから凄まじいものがあるな。この世界の住人には効きが悪いのか、それとも《沈み布団》を頭までかぶって音が届かなかったのか。まあ実験はおいおいしていこう。

 

 寝巻代わりにした《コンバット・ジャージ》を脱いで下着をつけ、装備を整え、髪を手櫛で梳いて整える。驚くべきはこの体の健康さよ。髪質がだいぶ良くなっていることだけでなく、肌質もよくなっている。

 最近水を弾かなくなってきたはずなのだが、昨夜は若い頃のように水も弾いたし、化粧水も保湿液もその他諸々もないというのに顔面の準備は完璧だ。前の世界でもこんな体質だったら朝の睡眠時間をもう少し稼げたのだが。

 

 私が準備を終える頃にはリリオもすっかり目覚めて、てきぱきと着替えて鎧を身に着け、剣を帯び、鞄の中身を確かめた。そして私に貸していた《コンバット・ジャージ》を返してきたが、これは貸したままにした。どうせ今後も貸すことになるだろうと思ったのもあるし、それに一度人が袖を通したものを受け取りたくなかった。期せずして同衾してしまった布団も不快は不快だが、あれは替えがない。

 

 綺麗さっぱり準備を整えて部屋を後にし、二人並んで井戸端で顔を洗い、歯を磨いた。井戸水はキリリと冷たくこれを顔に被るのは少し覚悟が必要だったが、しかしさっぱりとはした。衛生面は少し気になるが、この世界の水としてはかなり衛生的な方だと考えることにしよう。

 

 昨日無理やり歯を磨いてやったためか、リリオも真面目に歯を磨いている。いいことだ。口臭の予防にもなるので隣にいる私も不快でなくなるし、虫歯になった時対処しなくていいからな。もしかしたら私の持っている回復系のアイテムで虫歯が治るかもしれないがそんな無駄なことで実験したくない。

 

 さて、朝の準備も終わった。身だしなみも整えた。天気は明朗なれど風強し。空腹は程々。朝のお通じは先程済ませた。まあ、それなりによい一日の始まりと言っていいだろう。

 

 リリオは意気揚々と昨日の老商人との待ち合わせ場所に向かい、私はのんびりそのあとに続いた。別にことさらのんびりしているつもりはないが、小柄なリリオに合わせると、自然と私の歩みは遅くなる。リリオはちょこちょこと元気な足取りだが、そもそものコンパスが違うから仕方がない。

 

 例の亀もとい馬車の傍でパイプのようなものをふかしていた老商人は、すっかり身ぎれいになったリリオの姿に片眉を上げて、それから楽しげに笑った。

 

「やあやあ、見違えるようじゃあないか。こんな別嬪(べっぴん)さんなら、旅路も楽しみだ」

「やだなあ、もともとですよう」

「いやいや、昨日はまるで小鬼(オグレート)か何かだったわい」

「なんですとー!」

 

 私だったら浮浪者だったくらいは言いそうなので、この人はいい人なのだろう。いや、小鬼(オグレート)とやらがどの程度の扱いなのか知らないと何とも言えないのだけれど、ゴブリンみたいなものだろうか。

 

 ともあれ、私たちは昨日と同じく馬車の荷車に乗せてもらい、見た目ばかりはのそのそと、しかし思いの外に早い足取りの亀に牽かれて車上の人となった。

 

 どこへ向かうのかと聞けば、まずは次の宿場で軽く休憩を取り、それから宿場町で一泊し、翌日にはヴォーストという街に着くという。老商人はそこからさらに西へと進むそうだが、リリオの目的地はそのヴォーストであるという。

 

 どのような街なのかと聞くとリリオも詳しくは知らないという。遠縁の親戚にあたる人がいて、その人を頼りに行くのだそうだ。

 

 リリオより旅慣れした老商人はヴォーストの街についてもよく知っていて、道すがら様々に知っていることを教えてくれた。

 

「ヴォーストはまあ、エージゲじゃあ一等とは言わないがね、まあ二番目三番目には大きな街さ」

「えーじげ?」

「ここらのことさ。エージゲ子爵領だ」

 

 成程貴族制であるらしい。ご領主様に会うことなどないだろうし、住人の殆ども関りなどないだろうから、そんなに意識しないでもいい名前だ。

 

「大きめの川が街の中ほどを通っていてな、船を使った流通も多いし、水を多く使う工場だってあらあな。街の外には農村も多いし、牧場だってある」

 

 この世界の平均値を知らないので何とも言えないが、程々に発展していると思ってよさそうだ。子爵、というのが私の知っている公侯伯子男の分類に当てはまるのかどうかはからないが、まあ程々の貴族様の領地のそれなりに上位の街となれば、国全体としてみてもそんなに悪いものではなさそうだ。

 

「他所からの品が多いのもあるが、水がいいからだろうねえ、地場の酒が、うまい」

「おさけ!」

 

 食いついた。というか君、十四才だろう。この世界では成人なのかもしれないが、お酒飲んでいいのか。井戸水飲んだ限り水質が飲用に適していないということもないし、水代わりに酒飲むとかいう理屈が通じるのか。そもそも水精晶(アクヴォクリステロ)とかいう便利アイテムがあるんだから水代わりというのは有り得ないだろう。アニメ化できなくなったらどうする。

 

 そんな下らないことを考えている間も、リリオは老商人と楽しげに話している。

 酒もあるが、やはり食べ物の話に食いつくあたり、色気より食い気か。

 

「各地のもんも集まるから大抵のもんは手に入るし、近くに農村も牧場も、川だってあるからまず食材は新鮮だ。特に、名物の霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は、食べておかなきゃ損だね」

「おいしいんですか!?」

「うまいねえ。なかなか獲れないんだがね、大きい体で、食えるところも多いから、運が良けりゃあ少し高くつくけど晩のおかずにできらあね。まあ煮ても焼いてもうまい。何より揚げたのがまあ、うまい」

「揚げ物があるの?」

 

 思わず聞いてしまった。

 

「おう、あるともさ。亜麻仁(リンセーモ)油はここらでよく採れるし、辺境領からも入るしね」

 

 揚げ物。つまり食事にまでたっぷりと油を使えるとなるとこれは期待できた。

 古い時代は油と言えばもっぱら明かりのために使われることが多く、揚げ物にたっぷりと油を使うほどの余裕がないことも多かったと聞くが、考えてみればこの世界は水精晶(アクヴォクリステロ)などといったものがあるのだ、もっと便利な明かりがあってもおかしくはない。

 

 それに油の取れる植物をそのために育てているとなれば、きっと油を使った料理も発達しているに違いない。幅が増えれば、それだけ料理は複雑に発達する。いままでは食事と言えば単なる燃料補給だったが、何しろ傍に犯罪的にうまそうに飯を食べる小娘がいるのだ。乗っからねば、損だ。

 

 心持ち楽しみにしながら馬車に揺られ、昼頃には宿場につき、茶屋で軽く食事を摂った。

 気前のいいことに老商人が支払いを持ってくれ、私は程々に、リリオは遠慮なく何かの肉の串焼きを頂いた。

 なかなか大ぶりの肉で、歯ごたえもあるもので、私は何本か食べてもう十分だったが、リリオはまるで掃除機だった。肉の硬さなどまるで思わせずにぱくぱくと頬張っては飲み下す。最初は見ていて気持ちのいい食べっぷりだったが、皿に串が積み重なるとなるとさすがに見ているだけで胸焼けするほどだった。

 

 これには申し訳なくなって支払いを持とうとしたのだが、笑って許してくれた。若いうちはこのぐらい健啖な方がいいというのだから、きっとこの老商人も若い頃はさぞかし食べたのだろう。私は若い頃から食が細かったのでよくわからない話だ。食が細かったのにこんなに無駄に背が高くなったのだから、リリオもこの調子で食べたら二メートルくらいに育つんじゃないだろうか。

 

 しかし現実としてはこの娘は相変わらずちんまりとしていたし、その胸はかわいそうなほど平坦だった。

 

 昼を終えて再び車上の人となってしばらく、別に待ち望んでいたわけではないが、ファンタジー世界らしい事件は起こった。

 

 突然馬車が止まったので何事かと思えば、老商人が低い声でうめく。

 

「盗賊だ」

 

 やはり、いるものらしい。

 

 リリオが荷物の間を通って御者席から顔を出すので、私もそれを追って覗いてみると、確かにいかにも野盗ですと言った連中が五人ばかり道をふさいでいる。

 ぼろい布の服に、気休めみたいな胸当てや手甲をしていて、折れかけの剣や手斧、酷いのになるとナイフを棒っ切れに括りつけた即席の槍なんかかついでいる。

 

 ちらとすぐそばのちっこい頭を見下ろしたが、少し前まではこの娘も同じくらいの汚れ方だったあたり、まあ連中も平均的な汚れっぷりと言っていいだろう。つまりは洗っていない野犬同様だ。

 

 野盗が野盗らしくなにやら口上を述べているのを聞き流して、一応リリオに尋ねる。

 

「こういうときは、どうするものなの」

「そうですねえ。盗賊の人も、出会う人皆いちいち皆殺しにしてたら、商人が通らなくなって獲物はなくなるし、討伐隊も組まれるので、最初は話し合いです」

 

 成程。道理だ。

 

「定番なのは、まあ積み荷にもよりますけど、二割程度を通行料として払えば通してくれるっていうやつですね。そのくらいなら死ぬほどの痛手じゃないですし、場合によっては保険が下ります」

 

 保険あるのか、この世界。保険会社見かけたら入っておこうかな。

 

「でもその場合、商人は完全に降参してるってことですから、積み荷に女子供がいたら扱いはお察しです」

「つまり、私たちか」

「そういうことです」

 

 リリオを見る限り女と言っても見た目だけでは判断できない怪力はあるけれど、それでもやっぱり女となると飢えた男たちの獲物にはなるらしい。しかも今のリリオは綺麗に磨いてしまっているのでさぞかし美味しそうに見えることだろう。

 老商人も成人したての娘をそんな目に合わせるのは嫌だろうが、かといって逆らえば全員殺されるかもしれない。だからだろうか、ちらりとこちらを窺って、私たちに判断を任せてきている。

 

「リリオ。言った通り、私は君については行くけれど、旅の主は君だ」

「ええ」

「わかっているなら結構。それで、君の()()ではこういうときどうするんだい?」

 

 リリオは御者席から軽やかに飛び降りて、盗賊たちににこやかに笑いかけた。

 それが降参の態度なのか何なのか、盗賊どもが対応に迷う間に、リリオは気負う様子もなくスラリと腰の剣を抜いた。

 

「辺境では、美男にして帰してやるのが作法です」

 

 多分、ユーモアに富んだ言い回しなのだろう。つまるところ、見せしめに酷い目に合わせて叩き返す、というところかなあ、と思う。

 

 はたして学のなさそうな盗賊どもに機知(エスプリ)が理解できたかはともかく、剣を抜いたことで戦うことを選んだのだと理解したらしく、男たちは鼻で笑いながらリリオを囲もうとした。

 男が五人で女を囲むというのは、どう考えても多勢に無勢という気がするが、私の方は高みの見物のつもりで御者席に腰を落ち着けた。

 

「おい、おい、黒い娘さんよ」

「なんです」

「あんたは加勢せんのかね」

 

 お仲間だろうと責めるような目で見てくる老商人に、私は小首を傾げた。小娘を護衛に仕立てる人に言われたくはないが、しかしこの人もこの人にできるだけのことはしてくれたし、今もこうして案じてくれる善人であるし、責める気はない。確かに、仲間であり、若くもあり、手も空いている私が加勢しない方が責められてしかるべきだろう。

 

 しかし。

 

「私、戦うの苦手なんですよ」

「だからってお前さん、」

「それに」

 

 それに、だ。

 

 私は実のところリリオが戦うところを一度も見たことがないので、どの程度実力があるのか確かめたいと前々から思っていたのだ。あんまり弱いようでは、旅の主とするには少々頼りないからね。

 

 完全に腰を据えて見物する気の私に老商人はため息を吐いた。まあ心配する気はわかる。森を抜けてきたとはいえ、リリオは幼いと言っていい程に若い小娘で、ちびと言っていい程に小柄で、この世の酷さなど知らぬように爛漫だ。

 

 けれど私の胸には一切の心配はなかった。

 

 薄情な人間なのかもしれないけれど、冷たい人間なのかもしれないけれど、私の心はまるで動かない。

 

 ああ、でも、確かに不安と言えば不安だ。

 

「無事で済むかなあ」

 

 すっかり囲まれたリリオの姿は男たちの陰に隠れて見えづらい。

 

 折れかけの剣を持った男がいやらしい笑みを浮かべながら、鉈でも振るうように剣を振り上げ、そして悲鳴とともに血の匂いがあたりにただよった。

 

 老商人が目を見開き、私は溜息を吐く。

 

「程々にね、リリオ」

「ええ!」

 

 たった今男の腕を切り飛ばした剣を軽く一振りして血を払い、元気よく答えるリリオに私は溜息をもう一つ。この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれますというテロップが一足遅れで脳裏を流れる。せめて吐き気がしても堪えられるようにとあらかじめ口元に手をやって、私は男たちを嬉々として刈り取り始めるリリオの暴力を眺めた。

 

 心配などするはずもない。

 

 パーティメンバーとして認識したリリオのステータス情報を確認した限りでは、そのレベルは()()()

 特に力強さ(ストレングス)の値は中堅並だ。この世界の平均など知りはしないけれど、それでも十把一絡げ、農民からジョブチェンジしたばかりの野盗なんぞが敵う相手ではなさそうだった。

 




用語解説

・《ウェストミンスターの目覚し時計》
 睡眠状態を解除するアイテム。効果範囲内の全員に効果があり、また時刻を設定してアラーム代わりにも使用できた。
『リンゴンリンゴン、鐘が鳴る。寝ぼけ眼をこじ開けて、まどろむ空気を一払い、死体さえも目覚めだす』

小鬼(オグレート)
 小柄な魔獣。子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。

・ヴォースト
 エージゲ子爵領ヴォースト。辺境領を除けば帝国最東端の街。大きな川が街の真ん中を流れており、工場地区が存在する。正式にはヴォースト・デ・ドラーコ。臥龍山脈から続くやや低めの山々がせりだしてきており、これを竜の尾、ヴォースト・デ・ドラーコと呼ぶ。この山を見上げるようにふもとにできた街なので慣習的にヴォーストと呼ばれ、いまや正式名となっている。

・エージゲ子爵領
 エージゲ子爵の治める中領地。これといった特色のない田舎で、ここしばらくは大きな事件もなかったような土地柄。気候はやや寒冷だが、農地は多く収穫量は多い。

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)
 大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。

亜麻仁(リンセーモ)
 アマ科の一年草の種子からとれる油。

・この物語はグロテスクな表現、暴力的な描写が含まれます
 お楽しみください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 白百合と死神の慈悲

前回のあらすじ
野盗に囲まれたリリオ。傍観する閠。上がる悲鳴。血の匂い。
それはそれとして昼の串焼きがちょっと胃にもたれている閠だった。


 美味しいものを食べると人間は幸せになります。幸せになると人間は平和的な考え方をするようになります。なので暴力的なものの考え方をする人は美味しいものが食べられないかわいそうな人ということになります。

 

 昔、母も言っていました。人を憎まず、罪を憎みなさいと。()()()()()()()()悪いことをした人はとりあえず殴っておきなさいと。

 

 お昼に食べた串焼きの実に食いでのある味わいを思い出しながら、それはそれとして私は野盗が振り上げた剣をその腕ごと切り落としました。

 野盗たちがぎょっとした顔で腕を切り落とされた男に注目するので、その隙に一番面倒な手製の槍を持った男に踏み込み、構えられる前に槍に剣を打ち込んで、これを圧し折りながら男の体ごと切り伏せます。

 

 息を吸って。

 

 手斧の男が後ろから襲ってきますが、大声をあげながらなので助かります。剣を振り下ろした姿勢からそのまま屈んで地面に手をつき、後ろに蹴りを放てばちょうど顔面に入ったらしく倒れてくれました。

 男の体を足場にして得た勢いで前転しながら立ち上がって距離を取り、振り返りざま腰の手斧を引き抜いて小刀の男に投擲。

 結果を確認するより前に手斧の男に踏み込み、立ち上がる前に足の甲に剣を突き刺して動きを封じます。痛みに慣れていないものならこれで戦闘不能でしょう。

 

 息を吐いて。

 

 剣を引き抜きざま振り返れば、手斧は具合よく小刀の男の肩口に食い込んだらしく、悲鳴を上げて倒れています。こちらも痛みには慣れていないようで、すぐには反撃されないでしょう。

 

 息を吸って。

 

 残りの男は無手でした。さぞかし格闘に自信があるのかと思いきや、単に武器も手に入らなかっただけのようで、私が剣を向けるとその場にひれ伏して命乞いを始めてしまいました。まあ、体格も優れているわけではなさそうですし、気配もそう強いものではないので、さほど警戒はしないでよさそうです。

 

 息を吐きます。

 

 二呼吸の間に無力化できたようです。魔獣ならいざ知らず、大して鍛えてもいない野盗相手なら、私でもなんとかなるようです。よかったよかった。

 

「さて、どうしましょうか」

 

 手巾(てふき)で剣の血を拭って鞘に納めながら、私は馬車に乗せてくれたおじいさんに尋ねます。こういった場合、依頼者に処理の判断を任せるのが一番です。

 

 おじいさんは少し考えて、儂はどうでもいいんだがね、と横をちらりと見ました。横、つまりはウルウです。ここには三人いて、私はおじいさんに判断を求め、おじいさんは私たちの取り分を考えてくれて、そしてウルウは、ウルウはどうするのでしょう。

 

 ウルウは私たち二人の視線を受けてちょっと小首を傾げると、まるで体重がないようにするりと軽やかに飛び降りてきて、私の傍にやってきました。それから少し屈んで、私に聞こえるように訪ねてきました。

 

「私はこういう血腥(ちなまぐさ)いことに詳しくないんだけど、こういうときはどうするのが定番かな」

「そう、ですねえ。野盗は何しろ人を襲っているわけですし、領地にもよりますけれど、基本的にはその時点で処刑が決まってます」

「処刑」

「ええ。死刑になるか、それとも奴隷になるか。なので、ここで私たちが殺してしまっても問題はありませんし、しかるべき場所に突き出してもいいです。野盗は生死問わずで懸賞金が出ます。生きてる方が高いですけど、生かしたまま連れて行くのは危険も手間もあります」

「フムン」

「もっと消極的に、このまま放置しても問題はありません。逆恨みされてまた狙われるかもしれませんけど、それなりの手傷を負わせましたから復帰できるとも思えませんし、場合によってはこのままのたれ死ぬでしょうね」

「へえ」

 

 できるだけ淡々と説明してみましたけれど、多分ウルウが求めているのは()()()()()()じゃないんだろうなあ、とは薄々思います。

 私も、何しろ騎士道物語や英雄にあこがれて旅に出た口です。殺伐とした現実を憂えて、何か夢や希望がないかとも思います。まあ()()()()()()()()実際のところはこういった野盗は際限なく湧いてくるものだし、どうしようもないものだとも思います。

 

 でも。ウルウは、きっと違うのです。

 

 ウルウはきっと私の説明をちゃんと理解していて、現実的に対処法が他にないこともわかっていて、それでも、それでもなお、美しいものが見たいのです。美しいものがあることを、知っているから。

 

 私がここで現実的な対応をしたところで、ウルウはきっと気にしないでしょう。そのまま私の旅に付き合って、私の物語に付き合ってくれるでしょう。ウルウに言わせればそれが、他人の物語を傍観するというのが、ウルウの亡霊生活の暇つぶしなのです。それがいささかつまらない結末であろうと、きっと、決定的な終わりが来ない限りは、なんだかんだ義理堅いウルウは付き合ってくれるでしょう。

 

 だからこれは、私の方の我儘(わがまま)なのです。ウルウに美しいものを、美しい物語を、美しい私を見てほしいという、そういう我儘なのです。

 

「ウルウは」

「うん」

「ウルウは、どうしたいですか」

 

 ウルウはあのなんにも映っていないような、それでもその奥にきらきらしたものを捨てきれないでいる目でしばらく私を見つめて、それから、酷く()じるように呟きました。

 

「私はね。私は、ハッピーエンドが見たいんだ」

「はい」

「あと腐れのない、さっぱりとした、(かげ)りのない物語が見たい」

「はい」

「それは酷く馬鹿馬鹿しくて、到底叶わないような夢物語で、きっと何もかも無駄になるような徒労に過ぎないんだろうけれど」

「はい」

「君は、それを許してくれる?」

「私はきっと()()します。約束しましたから」

 

 ウルウは忌々しそうにぐしゃぐしゃと顔を隠して、それから、小さく、うん、と呟きました。

 

「私にはちょっと手が届きませんから、ウルウが手を貸してください。ウルウが私の物語を、完全無欠の()()()()()()()に仕立ててください」

「努力は、するよ」

 

 ウルウはしかめっ面で傷ついた男たちの体を引きずって集め、手斧を引き抜き、切り落とされた手首を拾ってきて、道の端に並べて横たわらせました。一人無傷の男は怯えたようにうずくまったまま、それでも何が起こるのかと恐ろしげに事態を見守っていました。

 

「これから、起こることは」

 

 それは誰に言い聞かせるつもりでもないような囁きでした。しかし誰もが息をのむ中で、臓腑(ぞうふ)にしみこむような声でした。

 

「ただの気まぐれで、ただの偶然で、きっと二度と起こりはしない」

 

 ウルウの手が腰の《自在蔵(ポスタープロ)》に伸び、一本の瓶を取り出しました。不可思議な模様の浮かんだ瓶は、怪しく色を変え続ける奇妙な液体を湛えていました。

 

「だから、期待はするな。次は、ない」

 

 ウルウの手が瓶の栓を抜き、その中身を横たわった男たち一人一人の口に丁寧に注いでいきました。咳き込みながら、むせながら、それでも飲み下した男たちは、熱に浮かされるようにびくりびくりと震え、それから、ほーっと深く息を吐き出し、そしてぐったりと脱力して意識を失ったようでした。

 

「なんてこった……!」

 

 おじいさんが茫然と呟きました。

 私も信じられない思いでした。しかし、私自身の身に起きたことはつまりこういうことだったのだという納得がありました。

 

 ウルウの与えた霊薬によって、切り裂かれた傷は塞がり、あざは消え、そして切断された手さえも繋がっているのでした。それはどんなに優れた傷薬でも有り得ない、本当に魔法のような癒しの力でした。あの一瓶の霊薬にいったいどれほどの金貨を積めばいいのでしょうか。

 

 ウルウはただ一人この奇跡を目撃してあえぐように見上げてくる男の傍に歩み寄り、無理やり引きずり起こすように立ち上がらせると、その手に一握りの輝きを持たせました。

 

「こ、ここ、こりゃあっ」

「換金できるかどうかは知らないが、そこまでは私の仕事じゃあない」

「き、きんっ、きんかっ」

「一人に三枚。十五枚。これだけあれば、大抵のことはできるだろうさ」

「はーっ、はーっ、はーっ……!」

「これはお前たちのものだ。好きにするといい。畑を買って、農民をやり直すのもいいだろうさ。街で商売を始めたっていい。パーっと使って手放すのも、いいだろう」

 

 けれど。

 ウルウの細い指が、ずるりと男の額を指さしました。

 

「お前達の死は、彼女の物語に下らない汚れをつけないために、()()退()()()()()だ。次は、ない」

 

 まるで抗えぬ魔力が宿るかのように、男は浅い呼吸を繰り返しながら、ウルウの指先にひれ伏しました。

 

「好きにしろ。好きに生きろ。好きに死ね」

 

 ウルウはひれ伏す男の傍に屈みこみ、呪詛のように囁きました。

 

「……できれば、善く生き、善く死んでくれ」

「ひゃ、ひゃひぃっ!」

 

 ウルウは外套を翻して立ち上がると、足早に馬車に戻ってするりと荷台に乗り込みました。そして呆然とする私たちにしびれを切らして、どすの利いた声で早く出せと命じました。私が慌てて荷台に乗り込むのと同時に、おじいさんが馬車を走らせます。

 

 目の前で起こった()()()()()()()()()()に混乱しながらも手綱を握るおじいさん。きっとこの後の生涯でこれ以上に不思議なことはそうそう起こらないでしょう。

 

 揺れる馬車の上、私だけがその不思議な出来事の事実を知っていました。

 

 膝を抱えるように座り込み、頭巾ですっかり顔を隠してしまったこの不器用な人は、耳まで真っ赤にして羞恥に耐える含羞(がんしゅう)の人だということを。




用語解説

・一本の瓶
 正式名称は《ポーション(小)》。《HP(ヒットポイント)》を少量回復させてくれる。高レベル帯になるとほとんど気休め以下の効果しか期待できないが、《空き瓶》と重量が同じなので、折角なので中身を詰めているプレイヤーも多い。
『危険な冒険に回復薬は欠かせない。一瓶飲めばあら不思議、疲れも痛みも飛んでいく。二十四時間戦えますか』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と宿場町

前回のあらすじ
リリオ、笑顔で切り刻む。
閠、中二病で突っ走る。
おじいさん、見なかったことにする。
の三本でお送りしました。


 生きているべきではないのではないかという希死念慮(きしねんりょ)は常々のものだったけれど、恥を理由とした自殺願望は或いは初めてだったかもしれない。

 

 大げさな言い方かもしれないが、まあ、つまるところ、私は中二病もいいところの振る舞いに恥ずかしさのあまり悶死しそうになっているのだった。

 

 こちらの慣習に頷けず待ったをかけたのはまあいい。

 郷に入りては郷に従えなんて言葉もあるが、三つ子の魂百までともいう。

 死とも暴力とも程々に縁遠い社会で生まれ育った私にとって、命の軽さが耐えきれなかったのだ。

 

 だから他人が怪我するのを見た時点でもう、うっ、となってたし、襲ってきた時は害獣としか見てなくて無力化した後は生きてる銭袋としか見ていない視線がこちらに向けられた時も勘弁してくれという気持ちでいっぱいだった。

 いっぱいいっぱいだった。

 この世界の人間がこの世界の人間の理屈でどうこうするのはまあ仕方がないことと目を(つむ)れたというか目を逸らしていたかったけど、こっちに判断を求められたら私としては本当にもうどうしろというのだという他にない。自分の価値観で判断するほかないではないか。

 

 まあ、そのあたりは仕方がない。納得できるように行動するうえで致し方のないことだった。

 

 問題は対処の仕方だ。

 

 もっとこう、あっさりどうにかできただろうに何であんな勿体ぶったというか芝居がかったというか、とにかく恥だ。恥の上塗りだ。恥コーティングだ。

 

 幸い私がこの恥の海に沈んでいるのを見かねてか、老商人は声をかけずに旅路をひた急いでくれたし、リリオの生暖かい視線が気になるは気になるがいつものうざったいくらいのおしゃべりも仕掛けてこないので助かるは助かる。もしも今話しかけられたら殺すぞしか言えない気がする。或いは無言のアイアンクロー。

 

 外界からの情報をシャットダウンして体育座りで心を閉鎖した結果なのか、老商人が急いでくれたおかげなのか、思ったよりも早く宿場町に着いたあたりで、私も気分を入れ替える。恥は恥だが、いつまでも抱えていられるものでもない。切り替えが大事だ。具体的には八つ当たりにリリオにアイアンクローをかましてすっきりした。

 

 それなりに驚かせるようなものを見せたとは思うのだけれど、さすがに長年旅商人をしていて人生経験があるだけに、老商人も気を取り直していたようだ。変わったものを見せてもらったお礼にと、茶屋で名物だという焼き菓子を奢ってもらった。パウンドケーキのようなもので、しっとりとした触感で、甘さは控えめだけれど変わった風味がしてなかなかおいしい。ここらで採れるハーブの類を練りこんでいるのだそうだ。甘みのあるお茶と一緒に頂いた。

 

 相変わらずリリオは健啖で、一切れでも結構腹にたまるこの焼き菓子を飲み物か何かのようにするすると平らげていく。どこに入るのか不思議に思っていると、甘いものは別腹だという。本当に胃袋が何個かあるんじゃなかろうなこいつ。妙な物でも入っているんじゃないだろうかと疑いたくなるような幸せそうな顔で次々と頬張っては飲み下していく。

 

 女がみんな甘いもの好きだというのは幻想だからな。

 私にとって甘いものはイコールでカロリーと糖分でしかなかった。いつも鞄にチョコレートと飴玉が入っていたが、あれは女子力とかではなく単に補給食だ。会社で泊まるときとか便利。ちまちま食べてると、満腹にはならないから眠くもならないし、糖分が切れないから頭も鈍くならない。あとはカフェインがあればいい。

 

 この焼き菓子はそういう意味でいえばいろいろ足りない。糖分とかカフェインとか。むしろお腹にたまって眠くなるのでよろしくない。しかし隣でこの世の幸せなど他にはないといった顔つきでもしゃもしゃ食べているのがいると、まあこういうものなのだろうなという寛容な気持ちで楽しめる。胸焼けしそうになるが。

 

 茶屋で一服して老商人と別れた後、リリオに予定を尋ねると困ったような顔で見上げられた。

 

「えーと、まずは宿を取ろうと思うんですけれど」

 

 言わんとすることは察した。

 昨日あれだけ大騒ぎしたのだから、木賃宿(きちんやど)に泊まるとは言い出しづらいのだろう。

 

 私も文句を言える立場ではないのだけれど、どうしたって生理的に無理だったのだ。そう考えるとどれだけブラックだろうとどれだけ苦痛だろうと現代社会は割と整備されていたのだなあ。コンクリート造りの地獄だ。衛生的ではあるけれど、精神衛生的にはよろしくない。

 

 リリオからしたらどんな箱入り娘のお嬢様育ちだよと思っても仕方がないだろう。

 実際、いくら底辺層とはいえ、ガス代や電気代を払えなくなったことはないし、というか職場にいる時間を考えると基本料金越えるほど使う時間家にいなかったし、野宿なんてしたこともなかったし、この世界から見たら確かに箱入りのお嬢様なのは確かだ。

 

 いままではリリオのやり方を重視しようと思っていたが、趣味のためについてきているのにわざわざ不快な思いなんてしたくない。

 

 なので、適当にゲーム通貨を握りしめて無造作に渡す。

 

旅籠(はたご)で」

「ハイヨロコンデー!」

 

 あんまりやり過ぎるとリリオがお金目当てで行動するようになってしまうので最低限しか渡す気はないが、それでも金で解決できることはしてしまった方が楽だ。

 

 この世界のお金に換金したらいくらくらいになるのかは知らないが、なにしろゲーム通貨には重量値が設定されていなかった。なので倉庫役にほとんど預けていたとはいえ、それなりの手持ちもある。しばらくは困らないだろう。

 

 旅籠は木賃宿と比べると随分清潔で、作りも立派だった。

 受付の人も随分愛想がいいし、従業員も多い。もちろん、リリオがきちんと支払いをしたからというのもあるだろうけれどね。

 

 案内された部屋はきちんと鍵もかかるし、隙間風もない。寝台もきしむことのないそれなりのものだし、まあ問答無用で最高品質の眠りを与えてくれる《(ニオ)の沈み布団》程ではないにしても、普通に横になって眠れる程度の清潔で質のよいものだ。

 掃除もきちんとされていて、好感が持てる。何より鍵のかけられる備え棚があって、荷物を置いておけるのがいい。木賃宿では盗まれた方が悪いくらいの管理だったからな。もちろんこっちだって盗まれる心配はあるだろうけれど、旅籠の方でそういった場合の補償もしてくれるようだ。

 

 まあ《自在蔵(ポスタープロ)》とやらよりよほど使い勝手のいいインベントリのある私には関係ないし、リリオもきちんと貴重品は自分で持ち歩く程度の警戒心はちゃんとあるけれど。

 その警戒心のためか、大荷物を見かねて私の《自在蔵(ポスタープロ)》にしまってあげようかと提案してあげた時も遠慮された。私が持ち逃げすることを心配している、というよりは、そんなあからさまに《自在蔵(ポスタープロ)》を持っていますよという振る舞いをして目を付けられることを警戒しているということらしいけれど。小さく見えても私より旅慣れた思考をしている。

 

 旅籠では木賃宿と違って食事もつくという話だけれど、夕食まではまだ時間がある。やることもないし昼寝でもしようかと思っていると、リリオが鎧を外して身軽な格好になり、貴重品をもってなにやらお出かけの準備を整えている。

 

 何かと尋ねれば、ふふんとない胸を張って、どや顔を決めてくる。

 

「喜んでください、ウルウ!」

「えい」

「この宿場町にばわははあががががやっだああばああああっ!」

 

 どや顔にちょっとイラっと来たのでアイアンクローを決めてやったが、相変わらず丈夫な奴だ。握りしめるこっちの指がつらい。

 

 適当な所で放り捨ててやると、しばらく悶絶したのち、再びどや顔を決めてくる。

 折れねえなこいつ。

 

「よ、喜んでください、ウルウ! なんとこの宿場町には風呂屋があるのです!」

 

 ほう。

 風呂屋ときた。

 

 この前の宿場は本当に街道沿いに何軒か建物があるといった具合だったが、この宿場町はそれに付随して商店や宿も何軒かあり、恐らく()()()()()()()と思われる奥まった宿屋もあったり、十分に町と呼べる規模だった。しかしそれにしても水や燃料などを大量に消費し、専用の施設を必要とする風呂屋があるとは。

 

 正直なところ、えーまことにござるかぁ?という半信半疑な気分ではあるが、しかし半分の期待はある。むしろ今までの経験から期待をかなり低く見積もっておくことで、実際に見た時の感動を増しておくという技術も身に着けているのだ。

 

 この際、風呂屋とは名ばかりのフィンランドよろしくサウナ風呂でも構わない。もちろん期待するところとしては最低限古代ローマのテルマエくらいいってほしいところだが、高望みはしない。町とはいっても宿場町。あくまでも交通の要所にちょっと人が集まってできた程度だ。そこまで大規模な施設は期待できない。混浴くらいは普通だろう。

 

 第一、元の世界においては湯を張って風呂に入ることなど滅多になかった。時間的余裕から言っても、水道代ガス代などから言っても、それはあまりにも非効率的だった。短時間のシャワーで全て済ませていた。それで十分だったし、それで満足していた。体を清潔に保つ以上の意味など求めるものではない。

 

 なのでいま私がそそくさと出かける準備を整え、コンパスの短いリリオの背中をせっつくようにして風呂屋とやらに向かうのは異世界文化に対する学術的興味からくる好奇心以上のものはないのだ。

 

 リリオが案内した風呂屋とやらは、石造りのなかなか立派な建物だった。長い煙突がいくつか伸びていて、そこからは例外なく白い煙が立っている。敷地面積はそれなりにあり、脱衣所などのスペースを考えても、結構な広さの浴場が期待できた。

 

 入口の戸をくぐって中に入ると、珍しく土間のようなものから靴を脱いで上がる仕様になっているようで、まず編み上げの靴を脱ぐ面倒くささから始まった。歩き続けの中では便利なのだが、履いたり脱いだりするのは、少し手間だ。

 

 靴を脱いであがると、向かって正面に受付があり、左右に通路が分かれていた。壁に何かが書かれているが、話し言葉と違って書き言葉は翻訳されていないようだ。微妙に使えないな自動翻訳。

 

 受付でリリオが靴を預け、二人分の料金を支払い、輪になった紐に通された小さなカギを二つ受け取った。別料金でタオルや石鹸も販売しているということだったけれど、手持ちもあるし遠慮しておいた。

 

 リリオが向かって右の通路に進み始める。ということは、多分だけれど壁の文字は「女湯」とでも書いてあったのだろう。となれば逆側は「男湯」か。混浴という線はないようで、少し安心だ。

 

 進んだ先は脱衣所のようで、駅のロッカーのように鍵付きの扉がついた棚が並んでいる。先程受け取った鍵はここの鍵のようだ。リリオが鍵に刻まれた番号の棚を探し、私はそのあとについていく。

 

「えーと、十三番と十四番だから、これとこれですね」

 

 なるほど。

 私は棚の戸に書かれた記号を見て、覚えた。となるとこれに並ぶ数字がそれぞれ十二番と十五番で、という風にざっとあたりを見て、数字の規則を覚える。アラビア数字と同じように十進法で書かれているようで、面倒がなくていい。十個覚えればいいわけだからな。これがローマ数字や漢数字と同じ仕組みだったら、桁が上がったりする度に覚える字が増えて面倒だ。

 

 手早く服を脱いで棚に放り込み、少し迷って、インベントリにつながるポーチは持っていくことにする。他と違ってこれは盗まれたら困る。と考えたところで、そもそもすべての荷物を放り込んでおけば盗まれることがないことに気付き、脱いだ服もインベントリに放り込んだ。

 リリオがこれに慣れるとよろしくないし、なにより人の脱いだ服をインベントリに放り込むというのもなんか生理的に嫌だったのでリリオの分はそのままにしておいた。

 

 服を脱いだリリオは、なんというか、子供だった。

 

 普段も幼いといえば幼いのだけれど、鎧をまとい剣を帯び、きりっとした顔なんかしていればそれなりに少女剣士といった風体なのだけれど、こうしてすっぽんぽんになってのんきな顔なんかしているのを見ると、完全にお子様だった。()()()とは言わないがお子様だった。いったい食べたものはどこに行くのだろうというくらいだった。

 

 石鹸と手ぬぐいを手に、さあ行きましょうと輝く笑みを浮かべるリリオと、その下のあまりにも貧相なスタイルに思わずほろりと来たが、まあ成長期だろうしきっと大きくなるさ。どこがとは言わないが。

 

 自分の髪をまとめるついでに髪をまとめてあげると、何が気に入ったのか、私も色っぽいですかなどと聞いてくるのが哀れで仕方がなかった。君にはちょっと早いよ。

 

 タオルを手についていき、引き戸を開けると途端に湯気がもわっと広がった。暖気が逃げるからという理由で素早く入って戸を閉め、改めて見渡してみると、想像していたよりも立派な作りだった。

 

 というより。

 

「銭湯だね、こりゃ」

 

 タイル張りの床に、さすがにシャワーや鏡はないが、桶や椅子の用意された洗い場。浴槽は大きなもので、こんこんと湯を湛えている。富士山の絵でも書いてあれば立派な銭湯だ。まあ私は銭湯というものにあまり行ったことがないというか行く気もなかったので詳しくはないが。

 

 しかしまあ、予想よりもかなり立派なものだ。ファンタジー警察が見たらいきり立つんじゃなかろうか。

 

「ふふん、どうです。立派な物でしょう」

 

 確かに立派だが何故君が自慢げなのか。

 

 ない胸を張るリリオを無視して、とりあえず洗い場でかけ湯して、汗や埃を落とす。とてとてと寄ってくるリリオにもお湯をかけてやる。シャワーがない代わりに、洗い場専用の湯が張ってあるのだな。なかなか興味深い作りだ。

 他の湯船のように床と同じ高さにあるのではなくて、少し高めの位置にしてある。それを囲むように椅子を並べてあって、足元には排水用らしい溝が見える。面白い作りだ。そして結構な技術力もうかがえる。

 

 てちてちと決して走らず、しかし機嫌の良さを隠しもしようのない速足のリリオの後についていき、ゆっくりと湯船に入る。

 

 うう、と思わず声が漏れる。

 

 しっかり湯船につかるなどどれくらいぶりだろう。この体は今のところ疲れなんかとは無縁なのだけれど、しかしどこか精神にこわばりが残っているのだろう、全身が温もりに包まれるという感覚が、心身ともに心地よい脱力をもたらしてくれた。

 

「………とはいえ」

 

 すっかり脱力できるかというと、そうでもなかったりする。

 

 溜池方式ではなく、お湯が次々供給され、排水されていくという実にぜいたくな作りだから我慢できているが、本当のところは公衆浴場というものは得意ではないのだ。断固拒否する、というほどではないが、しかし正直なところを言わせてもらえれば湯船につかれるという誘惑さえなければ遠慮したかったくらいだ。

 

 だって()()()()()

 

 いや、こういうこと言うのはあまりよろしくない気がするんだけど、正味な話、気持ち悪い。

 

 不特定多数の人間が、そう、なに触ったかもわかんないような不特定多数の人間が出たり入ったりしているお湯に自分もつかるのって相当気持ち悪い。

 なんでみんな平気なのか意味が分からなすぎる。

 私にしたって、これは半分くらいは欲望に負けた結果であって、もう半分くらいは義務感だよ。リリオが来たいっていうから義務感だよ。

 

 正直欲望が満たされた瞬間気持ち悪さが徐々にせりあがってきた感じ。

 

 リリオを丸洗いした時も、あまりにも汚れた状態に耐えきれなかったからであって、正直触ってる間ずっと気持ち悪かった。人間に触るのって正直辛いものがある。大型犬とでも思ってないと途中で心折れそうだった。

 

 これでもし貸し切りとかならまだ大丈夫なんだけど、それなりにお客さん入ってるわけよ。不特定多数どもが。みんなマナーができてるからちゃんとかけ湯もするし、旅人らしく結構汚れた人なんかちゃんと洗ってから湯船に入ってくれるからまだ我慢できてるけど、これでそんなマナー知ったことかってやつらがやってきたら、まあ、出るね。

 湯船から出るっていうか、私の胃の内容物が勢いよく出てくるね。虹色のきらきらで誤魔化せると思うなよ。

 

 まー、そのマナーのできたお客さんたちもね、フランクなわけよ。田舎者特有というか、旅人同士のシンパシーみたいなものがあるのか、ちょいちょいリリオに話しかけてくるし、リリオも楽しそうにおしゃべりするわけよ。そう言うの傍から見てる分には楽しいからいいんだよ。リリオは何しろ陰口とか言わないし基本的にすっきり爽やかな事しか言わないし、聞いていて胸が悪くなるような話題ってないしね。でもそれが私に向いてくると苦痛でしかない。こっちの世界の話題とかわからん、という以前に、話しかけられるのが苦痛。笑顔で対応もできるけど相当なエネルギーを使う。

 

 なのでどうするかというと早々に《隠身(ハイディング)》よ。《隠蓑(クローキング)》使って離れてしまおうかとも思ったけど、そうなるとリリオが面倒くさそうなので、その場で姿を消すにとどめることにした。お湯の中にぽっかりとエアポケットみたいに何もない空間ができたように見えるのではないかと思ったけれど、どうやらそういう不自然な事にはなっていないようで、無事隠れられた。

 

 リリオも私が半透明になったことで隠れたことに気付いたらしく、うっかり話しかけられるようなことはなかったけれど、たまにちらっと向けられる生暖かい視線がしんどい。

 

 なんとかそういった連中が離れてくれて、ようやく《隠身(ハイディング)》も解除できてほっとしたが、正直安らがない。だいぶ慣れてきたリリオでさえ大型犬と認識してるから耐えられているけど、まじめに湯船の心地よさと人間嫌いの辛さが天秤上でファイトし始めてる。辛さがやや優勢。

 

 気分を誤魔化すために、天井に視線を逃がしながら気になったことを尋ねてみた。

 

「こういう施設ってかなり維持費もかかると思うんだけど、採算とれるのかな」

「え? えーっと……」

 

 ああ、いや、うん、そうだよね。一旅人にはわかんないよね。まあ宿場町ってことは公的事業の側面もあるだろうからそっちからお金出てるのかもしんないけど。

 

「ああ、いや、こんなにたくさんのお湯沸かせるのは大変なんじゃないかなって」

「ああ、確かに。近くに川もないですし、水引くのも大変そうですよね」

「ふふふん。気になるでしょう。気になるでしょうとも」

 

 ファンタジー警察も気になるだろうことをぼんやり話していると、なにやら面倒くさそうな空気の人が近寄ってきた。具体的には顔に説明したいと書いてある類の人。

 

「いや、べつに」

「実はね」

 

 聞いちゃいねえ。

 湯船にするりと入り込んでリリオの隣に収まったのは、肉置きの立派な女性だった。太っているという訳ではないが、全体的にむっちりとしていて、隣にリリオを置くと、女性的魅力がもはや暴力と言っていいレベルだ。あまり旅人といった風情ではない。

 

「国の方針で宿場町が作られたときに、衛生向上のためにもこんな公衆浴場の設立も盛り込まれてね、公務員として神官が雇われているのよ」

「はー、神官さんが! じゃあここのお湯もその神官さんが?」

「ええ、ええ、その通り! 風呂の神マルメドゥーゾの神官が祈りを捧げることでお湯を生んでいるのよ!」

「こんなにたくさんのお湯を生むなんて、すごいですね!」

「ふふん、ふふふん、実はね、なんとね、ここだけのお話なんだけどね」

「どきどき、わくわく」

「この私こそ、その風呂の神マルメドゥーゾの神官なのよ!」

「きゃー、すごーい!」

 

 君らノリがいいな。

 

 神とやらの話が出てきて俄然ファンタジーっぽくなってきたと思うべきなのか、突然胡散臭くなってきたと思うべきなのか、あまりにも軽々しい神様の扱いに私は一人首をかしげるのだった。




用語解説

・名物だという焼き菓子
 トーイェ・ファリス。砂糖、卵、バター、小麦粉を等量ずつ使用し、地場で採れる爽やかな香りのハーブを練りこんで焼き上げた焼き菓子。以前は高価な菓子だったが、砂糖などが安価で出回るようになり、庶民の味としても親しまれている。この宿場町のものは砂糖を控えめにして、ハーブによる香りづけを重視したレシピのようだ。

・風呂屋
 以前は風呂と言えば大きな街や、貴族などの屋敷にしかなかったが、最近の政策で街道整備や宿場の設置などに伴い、衛生向上の目的もある公衆浴場が増えている。基本的な設計はその際にできた草案をもとにしており、どこも作りは似ている。

・風呂の神マルメドゥーゾ
 風呂の神、温泉の神、沐浴の神などとして知られる。この世界で最初に湧き出した温泉に入浴し、そこを終の棲家とした山椒魚人が陞神したとされる。この神を信仰する神官は、温泉を掘り当てる勘や、湯を沸かす術、鉱泉を生み出す術などを授かるという。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合と風呂の神官

前回のあらすじ
いろんな意味でドキドキの入浴回で、ウルウは真面目に吐き気を催したのだった。


 お風呂自体は喜んでくれたけれど人がいっぱいいる空間は苦手なウルウの扱いがまだ難しくて困ります。人間が嫌いって最初に言っていましたけれど、これ完全に人見知りじゃないでしょうか。人付き合いが苦手な人じゃないでしょうか。私に関してはそこそこ慣れてきてくれた感じがしますけれど、慣れれば慣れるほど扱いがぞんざいになるあたりも、これ完全に人間関係が嫌いな人ですよね。

 

 お喋りとか新しい出会いとか好きな私にはちょっとわからない感覚なのですけれど、ウルウみたいな人は話しかけられるのも嫌だしお喋りするのもすっごく疲れるっていう感じらしいです。

 

 私はどうしても人と接することが多くなりますから、ウルウが面倒くさくなって姿を隠してしまうのはまあ仕方がないとは思いますけれど、もしそれが原因でお別れになってしまったらつらいものがあります。

 私が原因でウルウが離れていってしまったらそれはそれで辛いものがありますけれど、人が多いから無理って言われたら余程きついものがあるじゃないですか。

 そうなってしまったらもうウルウがついていける相手って森の中に一人で住んでいる隠者とか、下手すると野良犬とかになるかもしれません。なんだかんだ潔癖症で要求水準の高いウルウが他所にいってやっていけるとは思えません。私が守ってあげないと。

 

 そんなことをぼんやり考えていると、なにやらえらくノリのいい女の人が会話に割り込んできました。

 

 バーノバーノと名乗ったこの女性はなんでも風呂の神マルメドゥーゾの神官だそうで、このお風呂屋さんのお湯はすべてこの人が沸かしているそうです。まだ三十歳かそこら辺くらいのお歳に見えるのに、なかなかのお点前です。体型的にもお肌の張り的にも。

 

 ふと視線の圧力を感じて横を見れば、ウルウがじっと見つめてきています。呆れとか面倒くさそうとかそういう色に交じって、訝しげな色が見て取れます。これはあれですね。箱入り娘さんらしいウルウが知らないものを見聞きした時に見せる「リリオ教えてくれるかな」っていう期待のまなざしですね。だいぶ好意的に翻訳しましたけど。多分実際のところは「何言ってるんだろうこいつら。関わり合いになりたくないけどこれ知らなかったらあとで困るやつかなあ」といったところだと思います。

 

「ウルウ」

「神官って何」

 

 息もぴったりですね。会話という意味ではこれ以上なく減点だと思いますけど。

 

「えーとですね。神様にお仕えする人たちのことで、信仰している神様に祈りを捧げたりして、代わりに神様の加護を得たり、神様の力を借りた術が使えるんです」

「神様っているんだ」

 

 なんか物凄いこと言われました。

 

 ウルウはどうも箱入りどころか外国の人なんじゃないかという位物知らずな所が多々見受けられましたけれど、さすがに神様の存在を疑う人は初めて見ました。聖王国の人なんかは一柱の神様だけを信仰していて他はぼろくそに言っているらしいですけれど、それでもその存在を前提とした敵対視であって、存在そのものを認識していないという人はまずいないと思います。

 

「いるわよー」

「風呂の神様とかいうのも」

「勿論いるわよー」

 

 寄りにも寄って神に仕える神官相手にそんな物言いするのはウルウぐらいだと思います。バーノバーノさんはとてもおおらかなようで笑って流していますが、人によってはぶん殴られてもおかしくないと思います。何を言い出すのかというはらはらと、あのウルウが他所の人とお話しできているという感動で、私もどうしたらよいかわかりません。

 

「神様というのを見たことがないからなあ」

「普通はまず見たことないものですよう」

「見たことないのに信じるの?」

「うえあ」

 

 そういわれると困ります。神様を見たことはなくても神様の奇跡やご加護はあるわけでして。

 

「それって壁に映った影を見て想像しているのと何が違うの」

「あうあうあ」

 

 ウルウの視線がつらいです。ウルウ自身には否定するつもりなんか欠片もない純粋に疑問だけを抱いて放り投げてくる質問が切り返しづらいです。だって言われてみるとそうだよなってなっちゃいますもん。私神学者でも何でもないのでそういうこと考えたことありませんし。

 

「ふふふ、どうやらお困りのようね!」

 

 あっ、普段だったら絶対面倒くさくて目を合わせたくない感じのノリですけどこういう時にはとても頼りになる感じがします。バーノバーノさんが豊かなお乳を大きく揺らして胸を張り、お姉さんに任せなさいと微笑みます。この人暇なんですね、きっと。でも私が説明するより本職の方に説明してもらった方が助かるのは事実です。

 

「バーノバーノさんの神様講座はっじまっるよー」

「わーぱちぱちー」

 

 しかもウルウの死んだ魚のような目にも堪えず平然と続ける凄まじい精神力の持ち主のようです。

 

「じゃあ一番最初のところから。昔々の大昔、まだこの世界が永遠の海と浅瀬だけだった頃のお話から」

 

 それは帝国に住むものなら、みな子供のころから聞かされるお話でした。

 

「そのころ世界は、海の神や空の神、またその眷属たる小神たちといった国津神たちが治めていて、山椒魚人(プラオ)たち最初の人々だけが暮らしていたの。そんな中、ある日、天津神たちが虚空天を旅してやってきて、ここに住まわせてほしいと頼んできたの。国津神たちは穏やかなばかりの日々に飽いていて、賑やかになることを喜んでこれを受け入れたわ。こうして天津神たちは自分の住処を整え、島を生み、陸を盛り、山を積んで木々を萌やし、そうして各々の従僕を地に放ったわ。これが私たちや隣人たちのご先祖様」

 

 とても大雑把な説明ですけれど、これが国作りの神話です。私たち隣人種はみなそれぞれの祖神(おやがみ)である天津神を信仰しています。人間はちょっと違うんですけど、そのあたりは複雑です。

 

「新しくできた島や陸や山や森にはそれぞれ新しい神々が生まれ、また地に満ちた人々の中でも神々の目に留まった者たちは高みに引き上げられて人神になっていったわ。今でも時々神々の目に留まって陞神(しょうじん)するものや、神々の祝福を受けた半神たちが見られるわね」

 

 ウルウはゆっくりかみ砕くように少しの間考えて、それから小首を傾げました。

 

「結局、『神』っていうのはなんなの?」

 

 バーノバーノさんはうーんと少し考えて、こうおっしゃいました。

 

「『()()()()()』よ」

「雑い」

 

 実際雑です。

 

「神っていうのは、なんにでも宿っているわ。大きな山にも宿るし、一陣の風にも宿るし、道端の石ころにも宿るし、私たちにも宿る。でも山そのものではないし、風そのものでもないし、石ころでもなければ私たちでもない。そこにあるけれどそこには見えない。天地(あめつち)の諸々の神様のことでもあるし、木石や鳥獣に宿る力のことでもあるし、私たちを生かす魂でもある。私たち人の力や知恵の及ばない常ならぬもので、尊く畏きもの。善も悪もない、私たちの既知の外にあるもの」

 

 つまりは、とバーノバーノさんは困ったように笑いました。

 

「『()()()()()』としか言いようのないものなのよ」

 

 私はなんだかいい加減というか曖昧だなあと思ったのですけれど、ウルウはなんだか納得したように小さく頷いて、「コシントウみたいな考え方だ」とまたウルウ一流のよくわからない理解をしていました。まあウルウが納得してくれればそれでいいのです。

 

「それでね。例えば私が信仰している風呂の神マルメドゥーゾの場合だと、祈りを捧げるものにお風呂や温泉にまつわる力を授けてくれるの。ここで私がお仕事しているみたいにね」

 

 バーノバーノさんの話ではここのお湯は循環式になっていて、流れたお湯は一度貯水槽に集められて、そこで法術による浄化を行って綺麗にするそうです。そこからさらに温め直し、浴槽へと流すという過程を経ているようですが、これだけの莫大な水量をひたすら浄化して温めてということを一日中繰り返せるというのは並大抵のことではありません。何人か交代要員がいるそうですけれど、それにしたって馬鹿馬鹿しい程の消費になるはずです。

 

 という説明を改めてウルウにしてみたところ、具体的な例を出したためか、このいかにもちゃらんぽらんそうで頭の軽そうなお姉さんも実はかなりの実力者なのだということを納得いただけたようです。

 

「人間ボイラーで人間ジョウスイキなわけだ」

「はい?」

「凄いってことだよ。いや全く凄い。大したもんだ」

 

 ものすごい棒読みでウルウが褒めます。これはあれですね。好奇心が満たされたのでそろそろ相手するのが面倒くさくなってきましたね。私くらいになるとそのあたりの機微も自然と察せられるというかいやでも思い知らされてきたわけですけれど、バーノバーノさんの方は慣れていないようで、いやそんな大したことないのよえへへへへぇと相好を崩しています。ちょろすぎます。

 

「実際のところはね、風呂の神の神官って、入浴することで祈りを捧げるわけよ。だからこうして湯船につかっているだけで祈り捧げてるみたいなものなの。その状態で法術使う訳だから、燃費もいいってわけね」

 

 聞いてみれば成程、そのような理屈があったようです。お風呂屋さんでの勤務となればそれだけでお風呂に接する機会も増えますし、そりゃあ法術の腕も磨かれるわけです。

 

「だから私も神官って言ってもね、勤め始めてから伸び始めた促成神官って訳なのよ」

 

 そういって照れ臭そうに笑うお姉さんでした。こうして公衆浴場が増える以前は風呂の神様ってそこまで信仰を集めてなかったわけで、神官もそんなにいなかったわけで、今みたいにしっかり仕事として認めてもらえて、能力の伸びを感じるっていうのは、かなり嬉しいものなのかもしれません。そして公衆浴場が増えて、使える神官も増えて、一般の人からの認知も増えると、その分神様の力も強くなります。そのうち一大風呂時代が訪れるかもしれませんね。

 

 ウルウが興味を失ってきていることが分かったのか、バーノバーノさんは少し膨れて、神様のことが分かったんだからもう少しありがたがってもいいと思うわとぼやきました。それが神官として神をないがしろにされて怒っているのか、すごい神官であるところの自分の扱いがぞんざいだから怒っているのかは定かではありませんけれど、大概面倒くさい人です。

 

 いい大人なのにとも思いますけれど、基本的に神官はより神の力に触れる、つまり既知外の神の感性に触れることの多い、能力の高いひとほどちょっとアレな所があります。人によっては言葉は通じるのに会話は通じません。

 

 バーノバーノさんはそのあたりまだ常識人ですけれど、気軽に法術を使う位にはちょっとアレな人のようです。

 

 指をくるくるっと回すと、さすがに自慢するだけあって祝詞(のりと)もなしに法術を使ったようで、湯面の一部がきらきらと黄金色に輝きはじめるではありませんか。一見ちゃらんぽらんで中身も大概残念なお姉さんと思っていましたが、技術は本物のようです。

 

「どうかしら? これが風呂の神マルメドゥーゾのお力を借りた浄化の法じゅ」

「えい」

「ちょまっ、ななな何してるのだめよ()()触っちゃ!」

「なに()()

 

 バーノバーノさんのうざったいもとい自慢気なセリフを遮るように、ウルウが突然虚空に手を伸ばし、何かを掴みます。私には何も見えないのですけれど、なにかびちびちと跳ねているようでウルウの手が左右に揺れます。

 

「あなた精霊が見えるの!? しかも触れるって!」

「精霊?」

「えーと、大雑把に言えば神様のすっごい弱い奴!」

「これがぁ?」

「それがよ! いま浄化の術に力を貸してくれてるありがたーいお風呂の精霊なんだから掴んじゃ駄目よ! ぽいしなさいぽい!」

「ぽいて」

 

 ウルウが呆れたように手を離すと、確かに湯面に何かが溶け込んだように思えましたけれど、やっぱり何も見えませんでした。

 

「ウルウ、ウルウ、なにが見えたのですか?」

「なんかこう……不細工なウーパールーパーみたいなの」

「うーぱー?」

「不細工って何よ! 可愛いじゃない!」

「なんかぬるっとした」

「そこがいいんじゃない!」

 

 よくわかりませんけれど、温厚そうなバーノバーノさんがぷんすこと怒るようなことをしれっとやってのけたようです。それにしても不細工やら可愛いやら、私も見てみたいです。ウルウが視線をあちこち向けるのでそのあたりにいるとは思うのですけれど、私にはさっぱり見えません。

 

「普通は見えないのよ。魔術師とか、神官とか、ちゃんと見える訓練した人じゃないと。ましてや触るだなんて」

 

 全く非常識な人ねとバーノバーノさんは言っていますが、私もそう思います。でも非常識でもいいので私も見てみたいですし触ってみたいです。むうと唇を尖らせると、ウルウはゆらゆらと見えない何かに視線を向けながら、どうでもよさそうに言いました。

 

「好かれてはいるみたいだけどね」

 

 私の肩のあたりを見ながら言いますけど、見えなければ意味がないのです!




用語解説

山椒魚人(プラオ)
 最初の人たちとも称される、この世界の最初の住人。海の神を崇め奉り、主に水辺や浅瀬に住まう隣人。肌が湿っていないと呼吸ができないが、水の精霊に愛されており、よほどの乾燥地帯でもなければ普通に移動できる。極めてマイペースで鈍感。好奇心旺盛でいろいろなことに興味を示すが、一方で空気は読めず機微にもうとい。

・国津神
 もともとこの世界に在った神々。海の神や空の神、またその眷属など。山椒魚人(プラオ)たちの用いる古い言葉でのみ名を呼ばれ、現在一般的に使われている公益共通語では表すことも発音することもできない古い神々。海の神は最も深い海の底の谷で微睡んでいるとされ、空の神は大洋の果てに聳える大雲の中心に住まうとも、その雲そのものであるとも言われている。

・天津神
 虚空天、つまり果てしなき空の果てからやってきたとされる神々。蕃神。海と浅瀬しかなかった世界に陸地をつくり、各々がもともと住んでいた土地の生き物を連れてきて住まわせたとされる。夢や神託を通して時折人々に声をかけるとされるが、その寝息でさえ人々を狂気に陥らせるとされる、既知外の存在である。

・隣人種
 隣人。人々。祈り持つ者たち。知恵ある者ども。言葉を交わし祈りを捧げ、時に争いながらも同じ世界に住まう様々な種族の人々のこと。一定以上の知性を持つことが条件であるとされる。

祖神(おやがみ)
 神々の中でもそれぞれの種族を連れてやってきた神のことを、その種族のものが指して敬う呼び方。この世界に住まうことを保証するおおもとの神。
・新しい神々
 山や森など、新しくできたものには新しく神が宿る。自然神の類。人格は無いか希薄ではあるが、祈りに応えて加護を与えることもある。

・人神
 隣人種たちのうち、神に目をかけられたり、その優れた才覚や行跡が信仰を集め、神の高みに至った者たち。武の神や芸術の神、鍛冶の神など幅広い神々がいる。元が人であるだけに祈りに対してよく応えてくれ、神託も心を病ませるようなことはあまりない。人から神になることを陞神という。

・半神
 神々の強い祝福を受けたり、人の身で強い信仰を集めたものが、現世にいながら神に近い力を得た生き物。現人神。祝福や信仰が途切れない限り不死であり、地上で奇跡を振るうとされる。

・法術
 神々の力を借りて奇跡を起こす術。精霊術。魔術より強力なものが多いが、信仰する神によって権能が違い制限が多く、また信仰の乏しい神の神官などでは、その神の信仰されている地域でしか法術が使えなかったり、特定の条件をそろえなくてはいけなかったりする。

・精霊
 神の内、とても低級なもの。万物に宿る力が形をとったもの。弱いものはただそうであるようにふるまうが、力の強いものはある程度の人格を持ち、低級神や小神と呼ばれたりする。

・好かれてはいる
 精霊に好かれるものは魔術や法術の才があるとされる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 亡霊と旅籠飯

・前回のあらすじ
風呂屋で風呂の神官を名乗る女性(裸)に神様講義を受けるリリオ(裸)と閠(裸)。
ブルーレイディスクでは湯けむりと謎の光が消えるとかなんとか。


 風呂屋で妙な女に絡まれて随分面倒な思いをしたが、しかしそれなりに為になる話は聞けた。

 どうにもこの世界には神様がいて、それも一神教のような形ではなく、神道のような多神教の神々らしい。

 

 細かな所はもう少しじっくり聞けば詳しくわかったかもしれないが、初対面の相手と裸の付き合いでじっくりと話を聞けるほど私のメンタルは強くないし、第一知ったところで得があるようにも思えない。

 見ればリリオもそれほど詳しくはないようだから、一般教養程度のところを浚えておけば問題はない。

 

 知る必要がある事であればそのうち嫌でも知るようになるだろうし、そうでないなら今あえて無理を押して知ろうというほど興味はない。

 

 いや、もともとフレーバーテキスト収集を趣味にしているようなところもあって、この世界の宗教観なんかにも興味は十分にあるのだけれど、残念ながら私の好奇心は見ず知らずの他人のもたらす言い知れない圧迫感に勝てるほど強いものではなかった。無念。

 

 それになにより、どうしようもない問題として、これ以上はのぼせそうだった。

 

 もともと長湯どころかシャワーで済ませていたような人種で、入浴自体に慣れていないせいか、頑強な肉体の割に早々にのぼせそうになっていたのだった。適当な所で話を切り上げ、湯から上がった時には少し足元がふらつき始めていた。

 

 それでも倒れてしまわない程度にはやはり頑丈なようで、なんとか洗い場までたどり着いて、無心に石鹸を泡立てて大型犬もといリリオを磨き上げている間に落ち着いてきた。

 

 さすがに昨夜あれだけ綺麗に磨いたおかげもあって、さほど汚れてもいない。

 いないが、わしゃわしゃとこすってやると犬よろしく喜ぶので、北海道で動物王国やっていた人よろしくよーしよしよしと全身磨き上げてやり、ざばーふとお湯で流してやる。

 調子に乗って泡立て過ぎたようで、何度か流してやらねばならなかった。

 

 私が自分の体を洗っていると何を調子に乗ったのかお背中流しますなどと言ってくるが、もちろん拒否だ。遠慮ではない。拒絶だ。

 無防備な背中を他人にさらすとか恐ろしいことできるか。ましてや触られるなど。

 私の悲壮なまでの断固たる拒否にリリオもさすがに折れてくれた。生暖かい視線がつらい。

 

 仕方がないので、ヘア・トリートメントとしてまた《目覚まし檸檬》を湯に絞って、髪をすいてやった。このくらいのことで機嫌が取れるのだから、まったくちょろい。

 

 温泉のお湯はすっかり流してしまうと効能が減るとかなんとか聞いたこともあるが、正直ピカピカに磨いた後にまたあの不特定多数が入る湯船に侵入したいとは思えず、そそくさと後にすることにした。

 

 かなり不審かつ非常に不愛想で不敬な奴であろうにもかかわらず、バーノバーノと名乗った神官は私たちに湯冷めしにくくなるという法術をかけてくれた。

 

 地味だが、しかしありがたい術ではある。

 

 ありがたくはあるのだが、どうやらリリオには見えないらしい、なにやらウーパールーパーみたいなものがにゅるりと肌をはい回っていったのは(おぞ)ましいとしか言いようがなかった。叫ばなかった私を褒めてほしい。

 

 だってウーパールーパーだぞ?

 

 あのなんか、ぬめぬめして、びらびらしたエラみたいのが飛び出てて、ぺとぺとしてて、顔が間抜けな、あのウーパールーパーだぞ?

 しかもサイズ的には私の腕よりでかい感じの。

 

 さっきは反射的にひっつかんでしまったが、正直近寄りたくない。首根っこひっつかんで全力で体から遠ざけたい。

 

 ともあれ、リリオはなんだかくすぐったいなどととぼけたことを言っているし、私は私でぬるぬるぺとぺとしているような気がする肌を必死でこするし、折角の風呂の余韻も台無しだ。

 いや、まあもともとそれほどでもなかったけど。

 

 着替えてからも何となくあのウーパールーパーもどきがはい回った後が気持ち悪くてごしごしこすりながら旅籠に戻ると、早速夕餉の支度を整えてくれた。

 木賃宿とは比べ物にならない料金を請求してくるだけあって、きちんとした料理のようだ。接待じゃない、自分のためのご飯としてこんなにしっかりした形でご飯を食べるのはいつぶりだろうか。

 

 本来ならコース料理として一品ずつ出してくれるようだけれど、旅でお疲れでしょうし気疲れしませんように一度にお出ししましょうかと言ってもらったので、そのようにしてもらった。

 

 それなりに格式もあるだろうとはいえ、何しろ旅人の多い宿場町の旅籠だ。

 実際旅で疲れて面倒なのは御免だという客もいるだろうし、たまの旅位少し奮発しようという低層民もいるだろうから、そういった対応に慣れているようだった。

 

 少し待って、一通り料理がテーブルに並べられると、御用があればお呼びくださいと言い残して給仕は部屋を去った。これもまた、いかにも旅人といったくたびれた様子の私たちを見て、気疲れしないように気を使ってくれたのだろう。

 

 リリオは見たところきちんとした家で教育を受けたらしいところが見えるが、私はそう言ったお上品な世界とは縁遠い一般庶民だ。アルカイックスマイルの給仕を気にせず美味しくご飯を頂けるほど慣れちゃあいない。

 

 ともあれ、さて、ご飯だ。

 森の中でリリオのサバイバル飯は食わせてもらったし、茶屋で軽食は取ったけど、こういったきちんとした料理というのはこの世界では初めてだ。

 

 食前酒には、発泡性の果実酒が供された。

 

 思いの外濁りのない綺麗なガラス瓶を手に取り手酌でやろうとしたらリリオに分捕られ、思いのほかに楚々とした手つきで注がれるのでありがたく頂戴し、私もお酌し返した。

 なんだかちょっとおかしくなって鼻先で笑うと、リリオもまたおかしそうに笑った。

 

 陶製のゴブレットになみなみと注がれた果実酒が、しゅわしゅわと泡を立てては甘い匂いを立ち昇らせている。

 

 リリオがゴブレットを軽く掲げて「とすとん!」と変な鳴き声を上げる。

 

 いや、違うか。楽しげなこれはきっと乾杯の音頭なのだろう。

 私も真似するように「とすとん」と返すと、リリオは満足そうに笑ってゴブレットをあおった。

 

 むせるでもなく美味そうに干すさまは、どう考えてもこいつ成人前から飲み慣れていやがりそうだったが、まあそのあたりは私がどうこう言うところでもない。

 

 私は特別酒に強いほうでもないのでちびちびやらせてもらったが、これがなかなか、うまい。

 

 味わいとしては林檎酒(シードル)に近い。

 酸味の強い林檎(リンゴ)を使っているようで一瞬きつく感じるが、しかしさっぱりとした飲みごたえで、すきっと切れもいい。炭酸と一緒に鼻に抜けていく芳香が鮮烈で、内からからすっきりとする。

 

 リリオによれば北方ではこの林檎のような果物が名産で、成人したての若者たちがまず親しむのがこの飲み口の軽い酒であるらしい。

 とはいえ、飲み口が軽いとは言っても酒は酒で、リリオのように手酌でかっぱかっぱとやるほど弱くはない、はずだ。

 

 食前酒で程よく胃が開いたところで、早速料理に手を付けていこう。

 

 カトラリーは立派な刃の着いたナイフと三本歯のフォーク、それにスプーンが一つずつで、前菜も肉もすべてこれでやれということらしいが、これも略式コースの気遣いだろう。フレンチなら外側から使えばいいが、こちらの世界のマナーは知らないので助かった。

 

 まずは前菜、らしいのを頂こう。

 

 まだ若い薄緑のアスパラらしいものをさっと湯引きして、チコリーのような白い葉野菜とともに色濃いオレンジ色のソースをかけたものだった。

 盛り付けこそ素朴なものだったが、色遣いがいい。目を引く。

 フォークの先にちょっとソースだけをつけて嘗めてみたが、ぴりり、と甘辛い。

 

 アスパラにソースを絡めて穂先をかじってみると、ぱきりぺき、と歯応えが心地よい。

 森で食べた白アスパラの柔らかくしっとりとした触感もよかったけれど、こちらの硬すぎず、しかししっかりとした小気味よい歯応えもよい。

 甘さでは劣るけれど、僅かな苦みと、ぎゅっと詰まったうま味がいい。

 

 そしてまた、この甘辛ソースがいい仕事をしている。平坦になりそうなところに、うまい具合にアクセントになってくる。

 辛い!というほど刺激的ではないが、うまいこと持ち上げてくれる。

 

 チコリーもまた、ソースとうまく絡む。

 これはちょっと苦味の強い葉野菜なのだけれど、今度はソースの甘味がうまいこと取り持ってくれる。しゃきさきとした歯応えもまた、いい。

 アスパラと言い、チコリーと言い、舌で食べる以上に、歯と歯茎で食べるといった具合だ。

 

 前菜でぐにぐに胃袋が刺激されたところで、じっくり構えてスープを頂こう。

 

 スープはいかにもどろりとした濃厚そうな黄色いポタージュ・リエだ。旅人向けの、いかにも腹にたまりそうな食べるスープといった貫禄だな。

 

 スプーンですくって口にしてみると、まず、熱い。恐ろしく熱い。

 とろみをつけているせいか、マグマもかくやと言わんばかりの熱さだ。

 ハフハフとなんとか必死に飲み下し、今度は落ち着いて、しっかりと息を吹きかけて冷まして、ゆっくり味わう。

 

 まずやってくるのは濃すぎるほどに甘いな、という猛烈な甘さのパンチだ。それもカボチャやイモといった、でんぷん質特有のどっしりした甘さだ。砂糖の甘さではない。むしろ甘さを引き立てるためにほんの少しの塩、恐らく調味はそれだけだ。液体状のカボチャ、いや、半固形状のカボチャと言っていい。

 

 しかしこの甘さが、どうにも、後を引く。

 くどいかくどくないかと言えば、ややくどい。

 ややくどいが、しかしギリギリ内角高めといったくどさ。

 アウトよりの、セーフ。

 ストライクとは言わないがしかし、ありだ。全然ありだ。

 どっしりしすぎて小食の私にはちょっと重いが、しかし健啖家ぞろいだろう旅人にとっては嬉しい一杯じゃなかろうか。

 

 付け合わせのパンにも手を伸ばしてみたが、これはどうにもな。

 というのも、いささか硬すぎる。日持ちするよう焼しめてある、というのもあるのだろうが、恐らく酵母が違うのだな。それに麦も違う。

 これは小麦というより、ライ麦や、雑穀に近い感じがある。少し酸味のある黒パンだ。

 

 これはちょっとな。

 うん。

 ちょっといただけない。

 こういう硬くてパサついたパンってのは、あんまり黄色人種には合わないんだ。西欧人は唾液量が多いからこういうのも平気で食べられるって聞くが、こっちはそうでもないんだ。

 

 むしっと力を入れて割いて、口の中に放り込んでもっちゃもっちゃと噛んでみるが、これがまた顎が疲れる。

 唾液がなかなかでないのでほぐれない。

 噛んでいるうちにライ麦だか雑穀だか特有の酸味が感じられてくるんだけど、それにしたってドバドバ唾液が出るほどじゃあない。

 

 これはなあ、これはちょっときついな。

 

 こらリリオ。食べないとは言ってないでしょうが。

 意地汚く伸ばしてくる手をはたいて落とし、さて肉料理だ。

 

 肉料理は、これがまた、ごつい。

 

 分厚いプレートにどんと分厚い肉がのっているのだけれど、これがほかほかと湯気を立てているっていうのは、全く視覚の暴力だ。

 肉も分厚けりゃ脂も分厚い。付け合わせの塩茹でした根菜もごろっとでかい。

 しかし決して皿をはみ出すようなことはないし、派手に見せようという風情でもない。

 この食い方が一番うまいからこうして出すのだという、実直さすら感じる。粗にして野だが卑ではないといった風情だ。

 

 こりゃごついナイフがいるわと思いながら力を込めて解体しようとフォークを刺すと、思いのほかに手ごたえが軽い。

 するりと歯が入る。

 おっ、と思いながらナイフの刃を立ててみると、これもまたぎちぎち言わせることなくするりるすりと刃が入る。

 肉だけでなく脂身までもとろりと切れる段に至れば、どうやら単に焼いただけではないなと唸らせられる。

 

 はてさて一体こいつは何者か。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合と旅籠飯

・前回のあらすじ
目には見えないウーパールーパーに全身を這い回られる悍ましい経験にも耐えきった姫騎士もといウルウ。
彼女を待ち受けていたのは満腹中枢を破壊せんと襲い掛かる旅籠飯であった。


 バーノバーノさんと別れてお風呂屋を出ましたけれど、湯冷めしない法術などというなんとも胡散臭い謳い文句の法術も効き目は確かなようで、夜も更けて少し肌寒い初夏の夜気の中を歩いても、ぽかぽかと温かく全く冷えません。便利です。

 

 ウルウが急かすのでちょっと速足で旅籠に戻ると、早速夕ご飯の支度をしてくれました。

 部屋のテーブルには敷き布が敷かれ、火精晶(ファヰロクリステロ)の行燈に火が灯され、久しぶりに豪勢な感じです。商人や貴族という風には見えない組み合わせのためか、、旅でお疲れでしょうし気疲れしませんように一度にお出ししましょうかと気を遣ってもらったので、そのようにしてくださいとお願いしました。

 

 一品一品出してもらうのも落ち着いて食事ができてよいのですけれど、そういうお上品な食べ方は家にいるときだけで十分です。せっかくの旅の宿なのですから、普段できないことをしなくては。

 

 給仕が次々に温かな料理を運び入れてくれ、支度が整ったところで、あとはいいからと目配せすると、用聞きのベルだけ残していってくれました。私は給仕され慣れていますけれど、不思議なことにウルウは育ちはよさそうなのに人に何かされるのに慣れていなさそうなんですよね。商人の出なのか、いやでもある程度いいところの商人なら給仕くらいはなあ、と少し考えたりしますけれど、まあ、でも、野暮ですよね、うん。

 

 さてさてさて。それはともあれご飯です。

 久方ぶりにきちんとしたご飯ですから楽しみです。

 

 ウルウが何でもないように手酌で酒を注ごうとするので、慌てて取り上げて注いであげます。

 なんかもうウルウの一人仕草がこなれ過ぎてていっそ哀れなくらいです。

 とっとっとっ、と酒杯に林檎酒(ポムヴィーノ)を注いであげると、ウルウもまた同じように私の酒杯に注いでくれます。ウルウがなんだかはにかんだように笑うので、私も照れ隠しするように笑って酒杯を掲げます。

 

乾杯(トストン)!」

「……とすとん」

 

 私が勢いをつけて小さく叫べば、ウルウもはにかむように小さく続いてくれました。本当に、もう、本当にウルウはずるいです。

 私はちびりちびりと味わうように楽しむウルウを尻目に、泡立つ林檎酒(ポムヴィーノ)を呷ります。強めの炭酸が喉を焼きますが、それでかえってすっきりしました。

 

 ウルウが興味深そうに酒杯を覗き込んでいるので、私は少し得意になって、このあたりで採れる林檎(ポーモ)や、それから作られるいろんな林檎酒(ポムヴィーノ)のことを説明しました。

 ウルウはなんだかんだ言ってそういったこまごまとしたことに興味を抱いてくれて、私のつたない説明にもいちいち耳を傾けてくれるのでした。

 

 そういえば、以前ウルウがくれた不思議な果実は、どこか林檎(ポーモ)に似ています。

 もちろん林檎(ポーモ)はあんなに甘くはありませんし、あんなに綺麗でもありませんけれど、もしかしたら近い品種なのかもしれませんね。あの不思議な果実でお酒を造ったらどれほど美味しいことでしょう。

 

 ウルウが実に綺麗な手つきで食器を扱うのは、なんだか納得は納得ですけれど、不思議は不思議ではあります。さほど慣れている感じではないのですけれど、危うげなく器用に食べていますし、若干礼儀に疎いところはあるようですけれど、少なくとも見苦しいようなことはない及第点ですし、うーん、謎です。

 

 謎と言えばこの前菜のタレも謎です。

 緑松葉独活(アスパーゴ)の素朴さにも、菊苦菜(チコリオ)の苦みにもうまく絡む甘辛いタレで、ちょっと見ない香辛料を使っていそうです。でもどこかで食べたような気もします。ここらへんで採れるのでしょうか。これが手に入るのだったら野営ももう少し楽しくなるのですが。

 まあ手に入らないことを嘆くより今美味しく食べられることを喜びましょうえへへ。

 

 汁物(スーポ)はどろりと濃厚なポタージョで、色といい香りと言い、これは南瓜(ククールボ)と芋の類、それに豆を何種類か裏ごししたもののようです。

 とても濃厚な味わいで、疲れた体とぺたんこのお腹にはとてもうれしい一品です。

 さらっと上品に仕上げた汁物(スーポ)ももちろん美味しいものですけれど、こういう素材そのものといった素朴な味わいの方が力強くて私は好きです。

 

 ウルウがちょっと顔をしかめたのは麺麭(パーノ)でした。

 小さな口でもそもそと食べづらそうにしています。汁物(スーポ)に浸したりしていますがどうにも硬いという顔をしています。

 もしかしたら柔らかく白い小麦の麺麭(トリティカ・パーノ)しか食べたことがないので、いくらか硬い黒麦の麺麭(セカル・パーノ)は食べ慣れていないのかもしれません。

 

 確かに黒麦の麺麭(セカル・パーノ)は、小麦の麺麭(トリティカ・パーノ)と比べるといささか味が落ちますし、柔らかさでいえば随分劣ります。けれど北の方では小麦より黒麦の方がよく取れるのでこの辺りではもっぱら黒麦の方が育てられていますし、私もどちらかというと黒麦の方が馴染みがあります。

 

 もしウルウが南の方の生まれであまり慣れていないというのなら、この硬さや独特の酸味に苦手を感じてしまうのも無理はありません。私はウルウが慣れない食事で辛い思いをしないようにとそっと手を伸ばして麺麭(パーノ)を食べてあげようとしましたが、真顔で手をはたき落されました。ちぇっ。

 

 ウルウの顔は素直じゃなさすぎると思います。

 美味しいと悪くないと好きじゃないの間が微妙過ぎます。

 

 まあよろしいです。ウルウがこうしてご飯をおいしく食べられているというのならばそれが一番です。

 昨日の木賃宿で堅麺麭粥(グリアージョ)を食べさせた時は、ものを食べる顔というより焚火に火をくべるような無関心さでしたからね。粥を食べているというより無を食べているというような概念的抽象的な顔でした。

 

 人間、美味しいものを食べている時が一番の幸せというものです。

 

 さあ!

 そして!

 いまこそ!

 

 その幸せの絶頂、この旅籠の名物のお出ましです!

 

 分厚いお皿にドンと鎮座ましましたるこちらのお肉。

 実は、あの角猪(コルナプロ)のお肉なのです。

 

 境の森の中で遭遇したあの角猪(コルナプロ)なんですけれど、確かに手ごわいは手ごわいですし、猛獣は猛獣なんですけれど、手練れの狩人にしてみると十分狩りの対象なんですよね。

 

 勿論、あの()()()のように立派に成長したものはなかなか一筋縄ではいかないのですけれど、若くてもう少し小振りなものは割とよく獲られて、このあたりに着くまでに程よく熟成して食べごろになるのです。

 

 森の中で食べた時は採れたてで、新鮮ではありましたけれど熟成はしていませんでした。お肉は腐りかけが一番おいしい、とまで言うのはやりすぎかもしれませんけれど、程よく熟成させた頃が確かにおいしいのです。

 

 この旅籠では、専属の狩人が獲った角猪(コルナプロ)をその場で解体、適切な形で保存して運搬し、その道のりの間で程よく熟成させ、さらに旅籠の氷室で適切な状態まで熟成を重ねさせ、最高の状態で提供してくれるのです。

 他で使う路銀を精一杯節約してでもこの旅籠に泊まるつもりだったのですけれど、それというのもこの名物を食べたいが一心だったのです。

 

 そして名物とまで(うた)えるのは、なにもお肉の熟成だけの問題ではありません。

 

 ウルウも驚いた顔をしていますが、これだけ分厚いお肉なのに、何ととても柔らかいのです。小刀がすっと通って皿にカチンと当たるほど、とてつもなく柔らかいのです。硬い臭い旨いで評判の角猪(コルナプロ)とはとても思えない柔らかさです。

 

 この柔らかさこそが名物《角猪(コルナプロ)の煮込み焼き》なのです。

 

 その秘訣は旅籠の料理人たちに口伝でのみ伝えられている秘密だとかで詳しいことはわからないのですけれど、表面を焼いて旨味を閉じ込めた後、匂い消しも兼ねた香辛料と何種類かの野菜、香草類とともにじっくりことこと、とろっとろに柔らかくなるまで特殊な鍋で煮込み、崩さないように再度表面を鉄板で焼いて、特製のタレをかけて提供してくれるという、とても手の込んだ一品です。

 

 まあ、これでも私、角猪(コルナプロ)は食べ慣れてますし、本当にこれでもって自分で言っちゃうくらいこれでもいいとこの育ちなので、割といいもの食べてきてるわけです。

 

 その私の舌をうならせたら大したもんで「うまかーッ!!」

 

 失敬。思わず魂の叫びが。

 ウルウも目を丸くして見てきますけれど、しかし仕方がありません。

 何しろ、美味しい。そりゃ舌もうなるどころか叫び出します。

 

 小刀がするりと入るほど柔らかいお肉を切り分けて口に含むと、繊維が口の中でほろほろとほどけていくほど柔らかいんです。そしてただほどけていくだけじゃないんです。ほどけながらとろっとろの肉汁がとろっとろとろっとろうへへへへ。幸せが口の中で溢れます。

 

 脂身なんかも驚くほど柔らかかくて、口の中でぷりっぷりぷるっぷるとした独特の食感で踊りながら、やがてフルフル溶けていくんです。大きく頬張ってぎゅむぎゅむっと噛み締めると、一瞬強い歯応えがあったっと思うと、ぶりゅんっとはじけて脂の強い味わいと、香辛料のぴりりとした辛味が来ます。

 

 そして柔らかいばかりではないんです。

 

 お肉をぎゅむっと噛み締めるとですね、繊維がほろほろと崩れていくんですけれど、その繊維一本一本は確かに力強いお肉のままなんです。それを奥歯でぎむぎむと噛み締めると、細い繊維の一本一本からまた滋味があふれてくるんです。

 

 何しろお肉の味も濃厚なら肉汁の味も濃厚ですから、これだけの大きさだと食べ切る前に飽きが来ちゃうんじゃないかって少し不安になるんですけれど、そこで活躍してくれるのが、皿に添えられた二種の香辛料と一瓶の液体なんです。

 

 まず一種類目の香辛料は、粗目に挽かれた灰色っぽい粒なんですけれど、これね、これ角猪(コルナプロ)の角なんです。これをぱらりっとかけまして、そして一口頂くと先程のまったりとした味わいに、ぴしゃんと走る刺激があります。胡椒(ピプロ)のような、山椒(ザントクシロ)のような、ピリッとしたしびれるような辛味が程よく引き締めてくれるのです。

 

 二種類目の香辛料はもっとシンプルで、黄色くねっとりとした練り辛子(ムースタード)です。こちらはもうシンプルに辛いのでつけすぎると大変なのですけれど、さっぱりと後を引かない辛さで、ともすれば重くくどく感じてくるお口を回復させてくれる心強い子です。

 私はたっぷりつけるのが好きですけれど、つけすぎたウルウは目を白黒させて林檎酒(ポムヴィーノ)を口にして、その酒精でちょっとくらっと来ていました。

 

 そして最後の一瓶ですけれど、これが一番シンプルで、一番身近で、そして一番効果がある、お酢です。それも葡萄(ヴィート)のお酢ではなく、このあたりで盛んな林檎(ポーモ)で作った林檎酢(ポムヴィナーグロ)なのです。

 実は角猪(コルナプロ)って、雑食ではあるんですけれど、野生の林檎(ポーモ)を好んで食べるんですよね。だからなのか林檎酒(ポムヴィーノ)のタレや林檎酢(ポムヴィナーグロ)ととても相性がいいんです。

 

 このお酢をちょっとかけてやるとあら不思議。さっぱりとした味わいに再び食欲がわいてくるじゃあありませんか。角猪(コルナプロ)の角、練り辛子(ムースタード)、そして林檎酢(ポムヴィナーグロ)、三度味を変えればどんなに分厚いお肉だってペロリと食べられますね。

 

 小食気味のウルウも、さすがにちょっと苦しそうではありますけれど見事完食して、脂でてかてかと光る唇をそっと拭っています。

 

「ブタノカクニっぽい」

 

 よくわかりませんが大変ご満悦のようで私も幸せです。

 

 美味しいお酒を頂いて、美味しいお肉を頂いて、そしてなんとこの後のお楽しみもあるのがお高い旅籠の素晴らしいところです。

 

 私が呼び鈴を振って給仕を呼ぶと、さすがに手慣れたもの、察しておりますよと言わんばかりの顔で手早く食卓を片付け、そして食後のお茶と、お菓子を持ってきてくれました。

 

 そう、お菓子!

 きっちりお金を取る旅籠だけあって、きっちりとったお金分だけきっちり最後までもてなしてくれるのです!

 

 街の宿でも食後のお菓子まで付くのは結構お高いところだけ。そこをしっかりともてなしてくれるこの旅籠は、実は旅してでも訪れたい宿として結構な人気だったりするのです。

 

 さて、お茶は林檎(ポーモ)の皮で煮出した林檎茶(ポムテーオ)で、さっぱりとした甘みと香りで少しくどくなった口の中を洗ってくれます。

 

 そして気になるお菓子は、こちらも名物《黄金林檎(オーラ・ポーモ)》!

 皮をむいた林檎(ポーモ)を蜜の中でじっくり煮込んだという贅沢な一品で、名前の通り黄金色にとろりと輝く柔肌はもう犯罪的な輝きです。貴族の食卓に並んでいてもおかしくないというか、私、実家でもこんな素晴らしいお菓子そうそう食べたことないんですけど。

 

 至高の存在に飾りなど要らぬと言わんばかりに、堂々と皿の上にただ一つ鎮座ましましたるこちらの《黄金林檎(オーラ・ポーモ)》に小刀の刃を通し、わくわくしながらえいやっと間二つに切ってみますと、何と内側からぽろぽろと零れ落ちてくるのは干し林檎(ポーモ)林檎酒(ポムヴィーノ)漬けでした。

 

 不思議なことに一度干すことで甘さと旨味が増し、それをお酒に漬けることで、甘味だけでなく酒精の辛さとが合わさって大人の味わいになっています。

 

 これらを絡めて、切り取った林檎(ポーモ)をぱくり。

 ほう。

 思わずため息が出るほどの幸せたっぷりの甘さです。

 それも甘いばかりではありません。

 林檎(ポーモ)を煮込む際に香草の類を一緒に入れているようで、単調になりがちな甘さに、辛味、渋み、また香りを加えて複雑で立体的な味わいを作り出しています。

 

 また歯応えが独特で堪りません。煮込んでいますから柔らかいは柔らかいのですけれど、崩れてしまうほどの柔らかさではなく、向こうが透けるんじゃないかというほどきれいな黄金色に均一に染まりながら、しゃくりしゃくりと確かに林檎(ポーモ)らしい小気味よい歯応えと酸味が残っていて、歯茎にキュンキュン来ます。

 

 そしてその合間合間に林檎茶(ポーモテーオ)の香り豊かな味わい。

 

 黄金郷(ウートピーオ)です。

 今この瞬間、ここに林檎の黄金郷(ポムトピーオ)が誕生しました。

 幸いと喜びに満ち溢れた、安らぎの世界がここに広がりました。

 

「リリオ」

「えへへぇ……」

「気持ち悪い」

「ぐへぇ」

 

 釘を刺されてしまいました。

 

「リリオ」

「はい」

「お腹一杯だし、ちょっと私には甘すぎるからあげる」

「………」

「リリオ?」

「神はここにいまし……!」

「気持ち悪い」

「ぐへぇ」

 

 




用語解説

火精晶(ファヰロクリステロ)
 火の精の宿る橙色や赤色の結晶。暖炉や火山付近などで見つかる。
 可燃物を与えると普通の火よりも長時間、または強く燃える。
 希少な光精晶(ルーモクリステロ)の代わりに民間では広く照明器具の燈心に用いられている。

林檎酒(ポムヴィーノ)
 林檎(ポーモ)と呼ばれる果物から作られた酒。発泡性のものが一般的。

林檎(ポーモ)
 赤い果皮に白い果実を持つ。酸味が強く、硬い。主に酒の原料にされるほか、加熱調理されたり、生食されたりする。森で採れるほか、北方では広く栽培もされている。

苦菊菜(チコリオ)
 笹の葉状の幅広い葉を持つ野菜。やや苦味がある。生でサラダとして食べるほか、軽く加熱したりする。

南瓜(ククールボ)
 分厚い果皮を持つ野菜。加熱すると柔らかくなり、甘味が強い。煮込むことが多いが、薄く切って焼いて食べることもある。料理のほか、甘味を利用して菓子の材料にもなる。

麺麭(パーノ)
 穀物の粉を水で練り、発酵させ、焼き上げたもの。つまりはパン。

小麦の麺麭(トリティカ・パーノ)
 いわゆる普通のパン。小麦の生育の悪い北方ではちょっとお高い。
 黒麦の麺麭(セカル・パーノ)に慣れた北方民にとってはやや物足りないようだ。

黒麦の麺麭(セカル・パーノ)
 ライ麦のような穀物をもとに作られたパン。黒っぽく、硬く、製粉も甘いが、栄養価はぼちぼち高い。

堅麺麭粥(グリアージョ)
 堅麺麭(ビスクヴィートィ)を砕いてふやかして作った粥。普通は旅している間もっぱらこれと干し肉と乾燥野菜のお世話になるため、旅人の最も馴染み深い食事ランキング一位にして二度と見たくない食事ランキングも上位。

・《角猪(コルナプロ)の煮込み焼き》
 ヴォースト直近の宿場町に店を構える旅籠《黄金の林檎亭》の名物料理。後述のデザートもあって、ここの料理を食べたいがために用もないのに宿場町まで訪れるお客さんもいるのだとか。宿泊客限定の料理で、レシピは門外不出。

胡椒(ピプロ)山椒(ザントクシロ)辛子(ムースタード)
 この世界にも胡椒や山椒、辛子といった香辛料が存在し、そしてそれなりに出回るくらいには廉価のようだ。

林檎酢(ポムヴィナーグロ)
 葡萄の取れる地域では葡萄酢が、米の取れる地域では米酢が盛んなように、林檎の栽培が盛んな北方では林檎酢が盛んなようだ。

林檎茶(ポムテーオ)
 いわゆるアップルティー。使う茶葉によって味わいが変わるが、《黄金の林檎亭》ではとろっと甘いデザートに合わせて渋めの茶葉を使っているようだ。

黄金林檎(オーラ・ポーモ)
 看板にも名を掲げる名物菓子。贅沢に林檎を丸々一つ使ったもので、こちらも門外不出のレシピ。貴族でもなかなか真似できないという。

黄金郷(ウートピーオ)林檎の黄金郷(ポムトピーオ)
 黄金郷、理想郷、天国。
 高品質の甘味が脳にもたらす幻覚。

・神はここにいまし
 神は応えない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と飛脚

・前回のゴスリリ

り ん ご お い し い 。


 食べ過ぎた。

 胸焼けする程ではないけれど、危うく寝過ごしかけてしまう位には食べ過ぎた。

 

 旅籠のベッドは、《(ニオ)の沈み布団》程ではないにしても、以前に使っていた安物のベッドよりよほど具合のいいもので、宿場町の旅籠程度でこんなにいいものなら街の宿などどんなものなのだろうと恐れ入ったが、この旅籠が特殊なのであって期待はしない方がいいと宥められた。

 リリオも私の反応がわかってきたようで悔しいやら嬉しいやら。

 

 《ウェストミンスターの目覚し時計》に起こされて、お腹がやや重い快適とは言えない目覚めを果たした後、私たちは部屋で朝食を頂いた。

 

 顔を洗って着替えを済ませると、ボーイがやってきて朝食の準備をいたしましょうかと聞くので、まだぐーすか寝ているリリオを尻目に、昨夜は食べ過ぎたので私には軽めのものをと頼んだ。するとボーイもまた眠りこけているリリオをちらと見て、かしこまりましたと下がっていった。

 あの察しの良いボーイなら、特別何か言わないでもリリオの分も気を利かせてくれることだろう。

 言葉を費やさなくていいというのは私のような人間にはうれしいことだ。

 

 リリオをベッドから引きずり出して《ウェストミンスターの目覚し時計》の角で殴りつけるとようやく起きたので、顔を洗わせて着替えさせ、のそのそとベッドメイクをしていると朝食が運ばれてきた。

 

 私用にはオートミールとドライ・フルーツで作った甘い牛乳粥のようなもので、それにポーモと呼ばれる、小振りでいびつな林檎が一つついた。

 

 ポーモは表面を拭って齧ってみると、驚くほど酸っぱい。品種改良があまり進んでいないのだろうけれど、さっぱりとした酸味で、目が覚める。それにこの酸味があるからこそ、昨夜のような糖分過多気味の調理をしてもさっぱりとした味わいだったのであろう。

 昨夜のあれは悔しかった。お腹がいっぱいでさえなかったらもう少し食べたかったのだが。

 

「………変な感じだ」

「何がですか?」

「いや、なんでもないよ」

 

 もう少し食べたかっただなんて、まるで人間みたいな考え方だ。

 

 私の朝食があっさりとしたものであるのに比べて、リリオの朝食は私の分の料金もしっかりとつぎ込みましたと言わんばかりの詰め込み具合だった。

 イギリスにフル・ブレックファストとか呼ばれる朝食形態があるのだが、まさしくあれだ。

 

 山盛りのマッシュ・ポテトのようなものに、豆の煮込み、分厚いベーコンのようなもの、私の知る卵より黄身の色みが濃い目玉焼き、太い腸詰、キノコのソテー、魚の開きのようなもの、山菜の浸し物のようなもの、ドライ・フルーツ、粥、ベリーのジャムらしきものがたっぷりと乗ったライ麦パンのトースト、ブラックプディングっぽいやけに黒い謎肉、用途不明のクリーム、そして私と一緒でポーモ。

 

 これ私の三食分どころか、二日分くらいあるんじゃなかろうか。

 やろうと思えば私これで一週間は生きられる自信がある、というかそれより少ない量で生きてきたかもしれない。

 

 まあ一日歩き通しと考えれば朝にたっぷりと栄養を取るのは合理的だし、この世界の旅人としては平均的な朝食なのかもしれないが、どう見ても小柄なリリオにこの量を用意するのはいくら何でも気が利いていないのではないかと思ったがそんなことはなかったぜ。

 

 見ているだけで胸焼けしそうな量のプレートを、ポーモをかじりながら眺めていると、子供が棒倒しで砂山を削り取っていくかのように端から次々と平らげられていく。

 見ていて気持ちのいい食べっぷりというべきか、見ていて気持ち悪くなるような食べっぷりというべきか、とにかく平然としてペロリと平らげていく。

 

 しかもフード・ファイターのように真顔で次から次へと詰め込んでいく、何というか汚らしさと不気味さを感じさせる食べ方ではなく、何か違法な薬物でも混入しているのではないかと思わせるレベルで幸せそうにもきゅもきゅと食べていくのだ。所作は綺麗だし、口からはみ出るような食べ方もしないので見苦しくはないのだが、咀嚼が速く休む暇もないのでとにかく早い。

 

「………」

「なんですかウルウ? やっぱり足りませんか?」

「いや……たっぷりお食べ」

「そりゃ食べますけど」

 

 これで太らないんだからこの世界は何かおかしいんじゃなかろうか。

 それともリリオが個人的におかしいんだろうか。

 養豚場の豚もといヒマワリの種を詰め込むハムスターでも眺めている気分でリリオを眺めながら朝食を済ませたが、その間中ずっと笑顔で食べ続けるのだからリリオは幸せな奴だ。好き嫌いとかないんだろうな。

 

 私もないが、多分私の好き嫌いがないと、リリオの好き嫌いがないというのは別物だ。

 

 私の場合、単に嫌いというほど食に興味を持ってこなかっただけで、リリオの場合は好きなものがたくさんあって、苦手なものでも美味しく食べる方法を考えることのできる好き嫌いのなさなのだ。

 別にそれがどうという訳ではないのだけれど、つくづく幸せな奴だなとぼんやり思うのだった。

 

 朝食を済ませて旅籠を後にした私たちは、老商人と合流する前に飛脚(クリエーロ)問屋とやらに寄った。

 リリオが手紙を送るといったのである。

 

 飛脚(クリエーロ)というのは、私の知る時代劇に出るような飛脚(ひきゃく)と同じようなものであるらしい。

 つまり、人間が走って手紙や軽い荷物を届ける郵便業だ。

 長距離なら馬の方が勿論早いが、短い距離なら経費も掛からず速度も期待できるし、一定間隔で宿場があるから引継ぎを繰り返すことでかなり早い情報伝達が期待できるシステムのようだ。

 

 問屋は民営ではなく公営のようで、建物も簡素ではあるがしっかりとした作りで、看板には風を図案化したものだろうか、つむじ風のような紋章が誇らしく掲げられている。

 

 中に入ってすぐの受付に、リリオは一通の手紙を差し出した。育ちもよさそうだから封蝋でもしてあるかと覗き込んでみたけれどさすがにそんなことはなく、紐でぐるぐると巻いて閉じてあるようだった。

 ただ意外だったのは、羊皮紙のような皮の紙ではなく、見たところ植物紙のように見えたことだ。製紙業がそれなりに発達しているようだ。

 

 私が覗き込むのに気づいたようで、リリオはちらと見上げてきた。

 

「ヴォーストにいる親戚に、もうすぐつきますよって手紙を送るんです。ここからなら飛脚(クリエーロ)の方が早くつきますし、そうすれば向こうでも出迎えに慌てることもないでしょうから」

 

 聞きたかったことは製紙業に関してなのだが、まあいいか。そう言った軽い用件にも気軽に使えるくらいには発達していると考えてよいようだし。

 そもそも飛脚(クリエーロ)という軽い荷物しか扱えない事業が大々的にやっていけているということは、手紙文化も広く浸透していると考えてよさそうだ。

 

 受付の眠たげな眼の女性は、慣れた手つきで手紙を受け取り、はかりにかけて重さを計り、それから届け先と、届ける時間を訪ねてきた。

 重さと届ける時間によって料金は変わるようで、今回のようにすぐに届けてくれという場合はやや割高、少し時間がかかってもいいようならまとめて運ぶのでやや割安。時間は気にしないという場合はもっとまとめて送れる郵便用の馬車などを使うようである。

 

 すぐにと伝えると、早速空いている飛脚(クリエーロ)が呼び出されて、ちょうど出る頃だからと手紙を受け取って、きっちり届けたるさかいなー、と気さくに微笑みかけてきたので、

 

 

 私は瞬時に《隠身(ハイディング)》していた。




用語解説

飛脚(クリエーロ)
 一般に知られているかどうかは作者はよく知らないのだが、多分知られている|飛脚とほぼほぼ同じ。
 馬などではなく、人が走って荷物を運ぶ。某運送会社のロゴマークに使用されているあれ。

・封蝋
 ふうろう。シーリングとも。手紙を閉じるのにつかわれるもので、溶けた蝋をたらし、紋章付きの金属片などを押し付けて差出人を示す。
 普通の蝋ではすぐに砕けてしまうので、柔らかく砕けにくいシーリングワックスが販売されている。
 作者も持っているが、筆不精の上クッソ面倒くさいので使う機会はない。

・きっちり届けたるさかいなー
 リリオたちがしゃべっている言語は交易共通語と呼ばれる帝国全土で使用されている言語だが、種族や地域によって訛りがある。
 特に辺境地域は別言語と呼ばれるレベルで訛りがきつく、リリオが敬語調なのは日本語に不慣れな外国人が敬語で話すのと一緒の理屈である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 白百合と竜の尾の街

・前回のゴスリリ
山盛りの朝食
リリオのお手紙
飛脚(クリエーロ)を相手にビビって隠れるウルウ、の三本でお送りしました。


 旅籠でたっぷりと朝食を頂いて、軽くなったお財布の分、いえ、それ以上の満足を覚えながらさっそく出発、の前に飛脚(クリエーロ)問屋に向かいます。

 

 ヴォーストの街にいるおじさんには、事前に向かいますよというお手紙を出してはいるのですけれど、大体の時期は伝えてあっても何しろ旅は不測の事態で溢れています。何月何日何時ごろにつきますよとはなかなか言えないものです。

 

 なので近くまで来たのでこうして改めてお手紙を出して先ぶれしておくのです。そうすればおじさんが用事で出かけていても事務所の人に話は通じますし、慌てて出迎えの準備をさせることもなく済むわけです。

 

 飛脚(クリエーロ)問屋は朝早いということもあって盛況でした。

 大抵の場合飛脚(クリエーロ)は朝の内から出発して少しでも距離を稼ぐので、朝が一番依頼が多いのです。

 勿論、この規模の宿場町ならある程度の人員はどの時間帯でも必ず常駐しているので、よっぽど繁忙期でもないと飛脚(クリエーロ)がいなくて手紙が出せない、ということはそうそうないのですけれど。

 

 少し並んで受付に手紙を出し、重量と時間に合わせた金額を支払い、気の良さそうな飛脚(クリエーロ)のお兄さんに手紙を預けます。

 

 飛脚(クリエーロ)は言ってみれば郵便専門の冒険屋で、足も速く、ある程度の自衛もできて、そして公務員なので信頼もおけます。

 ただの冒険屋に頼むときは失敗することや依頼をほっぽり出すことも考えて何通か別口で出しますけれど、飛脚(クリエーロ)にはそういった心配はまずありません。信用が命の商売ですからね。

 

 さて、お手紙も出しましたしさっそくおじいさんと合流しましょうか、と問屋を出ましたが、振り向けばウルウがまた半透明になっています。

 はいぢんぐとかくろぉきんぐとかいう、不思議な魔術で、一緒に旅をしている私には少し見えるけれど、他の人には全く見えなくなってしまうのです。

 

 やっていることはものすごい気がするのですけれど、それを人混みがつらいとかいろいろ面倒になってとかそういう理由で使うのでなんだかあんまりすごく感じません。

 

 しかし、ある程度混んでいたとはいえそこまで辛かったのでしょうか。

 

 不思議に思って見上げると、ウルウはたったかと軽快に走っていく飛脚(クリエーロ)のお兄さんの背をしばらく眺めて、それからゆっくり外套でも脱ぐようなしぐさをして術を解きました。

 

 そして少しの間悩むようにして眉間をさすって、私に小声で訪ねてきました。

 

「……()()()()()って普通なの?」

「ああいうの?」

「その……()()()()()()()っていうのは」

 

 ウルウの質問を少しの間咀嚼して、私は、ああ、と得心しました。

 またウルウの世間知らずが出たのです。

 

「もしかして、土蜘蛛(ロンガクルルロ)の人を見るのは初めてですか?」

「ろんが……なんだって?」

 

 土蜘蛛(ロンガクルルロ)、というのは隣人種のひとつで、山の神ウヌオクルロが従属種として連れてきた種族と言われています。

 氏族によって多少外観は変わりますけれど、四本の足と四本の腕、それに八つの目を持つ種族ですね。

 多くは鉱山などに住んで掘削と鍛冶を得意としていて、一部森に棲む氏族は狩りを得意としています。

 

 飛脚(クリエーロ)問屋に多く勤めているコンノケンという氏族は、もともとは南方に広く住んでいた氏族なんですけれど、足がとても速いことから飛脚(クリエーロ)業務で重宝されて、帝国全土に広まったという経緯があるそうです。

 

 人族に比べると確かに数は少ないですけれど、思わず姿を隠す勢いで驚くなんて、もしかしたらウルウは隣人種とほとんど縁がないような生活を送ってきたのでしょうか。

 帝国で生活している以上まずそんなことはないと思うのですけれど……謎です。

 

 まさか聖王国から密入国してきたとも思えませんし。謎です。

 でもまあ、気にするのも野暮ですよね。うん。

 

 コンノケンの人たちは大体気のいい人たちばかりですよと言っておきましたけれど、ウルウはまだ落ち着かないようです。

 私は子供のころから隣人の人たちとは身近に育ってきたのであまり違和感はないのですけれど、そんなに不思議なものでしょうか。

 

 ともあれ、私たちは旅を共にしてきた商人のおじいさんと合流して、また車上の人となりました。

 

 おじいさんは昨日のことを何にも聞いてきませんでした。そしてそのうえで、態度も変えないでくれました。

 私だけでなくウルウにも何でもないように話しかけ、素っ気ない対応にも鷹揚に笑ってくれます。胆の太い方です。

 

 幸い、道中で野盗に襲われるようなことはなく、馬車に揺られながら旅籠で包んでもらったお昼ご飯を頂くような余裕もあり、ずいぶん楽な旅をさせてもらいました。

 これが乗合馬車で行こうとすればもっと時間がかかったでしょうし、なによりお金がかかりました。

 

 大して仕事もしないで乗せてもらうのも悪いなと、やっぱりいくらか包もうと思ったのですけれど、やんわりと止められました。

 

「娘さんには野盗を追い払ってもらったさ。それに、一生ものの珍しいものも見せてもらった。こっちがお釣りを払いたいくらいさ」

 

 ひげをしごきながらにこにこと笑う姿は全くのんきな楽隠居といった具合で、あのような異常事態を笑って見過ごしてくれるというのです。年をとったらこのようになりたいと思うような、実に見事な貫禄です。

 まあその貫禄も、ウルウがでも悪いからと霊薬を一本取りだすと、頼むからやめてくれとすぐに大慌てで取り下げられましたけれど。

 

 そりゃあ売れば相当な金額にはなりそうですけれど、それ以上にとてつもない大騒ぎになりそうですから、商人としては売るよりもまずかかわりたくないというのが本音でしょう。

 

 そうして昼過ぎ頃に、私たちはヴォーストの街にたどり着きました。

 

 (ヴォース)(ト・デ・)(ドラーコ)

 

 それは恐ろしき竜たちの棲まう封印の地を覆い隠す臥龍(がりゅう)山脈、そこからするりと内陸へ伸びた峰美しき山々の連なりのことであり、そしてその(ふもと)に構えられた街の名前でもあります。

 竜の尾に寄り添うこの街は、武骨な石垣の城壁を白々と陽光にさらしながら、旅人たちの訪れを待ち構えているのでした。

 

 ヴォーストの街は東西南北の四つの門があり、その内の南北の門は街を貫く河川に合わせて作られた水門で、これは船が出入りするものでした。

 私たちをのせた馬車は東の門に並び、その堂々たる作りの城壁を見上げながら門をくぐるのでした。

 

「ようこそヴォースト・デ・ドラーコへ。用向きは?」

「商いで。荷はレーンで仕入れた亜麻仁(リンセーモ)油と飛龍革だ」

「確かに。通商手形は?」

「こいつだ」

「確かに」

 

 衛兵も手慣れていて、おじいさんの馬車の検問はすぐに済みました。

 

 私たちは馬車から降り、別口で検問を受けます。

 

「ようこそヴォースト・デ・ドラーコへ。用向きは?」

「成人の儀にて諸国漫遊の旅路にございます」

 

 衛兵はぴくりと眉を上げると、ウルウをちらと見ました。

 

「お連れは一人で。通行手形は?」

「こちらに」

「確かに」

 

 胸元から銅板の割符を出して見せれば衛兵は一つ頷き、それから少し顔を寄せて笑いかけてきました。

 

「兄君はお元気ですかな」

「ティグロをご存知ですか?」

「兄君の成人の頃にも私がここに仕えていました。お顔が似ていらっしゃる」

「兄妹ともどもお世話になります」

「ふっふっふ。兄君にお会いしたらお伝え願いたい。『東門のグレゴリオが金砕棒(かなさいぼう)構えて待っている』とね」

「あー……その節はご迷惑を?」

「ふっふっふ」

 

 どうも兄はここでそれなりのやんちゃをしでかしたようです。

 ちょっと怖い笑顔の衛兵に頭を下げて、ウルウと連れ立って門をくぐりました。

 

 門をくぐった先の街並みに、ウルウはちょっと息をのんだようでした。

 それは街並みの見事さと、そして人の多さにかもしれません。

 ヴォーストは辺境の街とはいえ、エージゲ領ではまず一等大きな街です。

 先の宿場町もそれなりに人の通りは多かったですけれど、ここはその人々が集まり、暮らしている街なのです。

 

 門の傍ということで旅人たちを待ち構えるように宿が並び、宿が並べば飯屋も並び、飯屋に続いて旅の道具に水や食料の商いにと、まず街の中で一等騒がしいのがこのあたりなのです。

 

「娘さん、娘さん」

「ああ、おじいさん」

「娘さん方はこの街に残るんだったね」

「ええ、ええ」

「わしは一泊するが、そのあとはもうすぐに次の街へ旅立つからね、ここでお別れという訳だ」

「随分お世話になりました」

「なあになに、こっちこそ随分楽しい旅だった。この年になっても旅商人は続けるものだ」

「ふふふ。ではこの後の旅もお達者で。旅の神ハルベクセーノのご加護を」

「娘さんもな。冒険の神ヴィヴァンタストノのご加護を」

 

 私たちはそれぞれの旅の無事を祈って別れました。

 

 するとウルウが、人込みで騒がしいからでしょう、少し屈んで私の耳元に尋ねました。

 

「今のは?」

「はい?」

「旅の神とか、冒険の神とか」

「ああ、まあ、旅の挨拶みたいなものですよ」

 

 旅の神ハルベクセーノは、風の神の眷属で、旅する者たちの守護神であり、旅を愛する神様です。一つ所に落ち着かない神様で、その神殿も基本的にはどこかに居を構えることのない移動し続けのものと聞いたことがあります。

 旅人や旅商人は慣習的にこの神の加護を祈って別れるのです。

 

 また冒険の神ヴィヴァンタストノは冒険屋の元祖である人神で、様々な冒険で神々を楽しませ、その功をもって陞神したとされています。非常に破天荒で型破りだったとされ、その加護もよくわからないところが多いのですけれど、冒険屋にとっては崇めておいて損のない神様です。

 

「冒険屋?」

「あれ、言ってなかったでしたっけ」

 

 小首を傾げるウルウに、私も小首を傾げます。

 

「私、冒険屋になりにこの街に来たんですよ」




用語解説

土蜘蛛(ロンガクルルロ)
 足の長い人の意味。
 隣人種の一種。
 山の神ウヌオクルロの従属種。
 四つ足四つ腕で、人間のような二つの目の他に、頭部に六つの宝石様の目、合わせて八つの目を持つ。
 人間によく似ているが、皮膚はやや硬く、卵胎生。
 氏族によって形態や生態は異なる。

・山の神ウヌオクルロ
 境界の神、火の神に次いで三番目にこの地に訪れた天津神。製鉄や鍛冶の神でもあり、山に住まう土蜘蛛(ロンガクルルロ)達は特に強くこの神の加護を受けている。
 不定形の泥でできた、決して開かれない一つ目の巨人とされるが、その詳細な姿は想起することさえ狂気を呼ぶ。

・コンノケン
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の氏族の一つ。遊牧民。足の速い家畜たちとともに平原を移動する氏族。
 非常に足が速く、弓を得意とする狩猟民族でもある。
 主に中南部の平原地帯に住んでいるが、帝国の宿場制度と飛脚(クリエーロ)制度が広まるにつれてその足の速さを徴用され安定した公務員として就職するものも多い。

・通称手形
 商人たちが関所や街門を通過するために使用する手形。領主の許可証という形だが、実際には各町村の役所・役場で発行される。

・通行手形
 商売を目的としない旅人の使用する手形。こちらも役所・役場で発行されるのが普通。

・成人の儀にて諸国漫遊の旅路
 貴族の子息・子女が成人すると、近隣の領地に旅に出すのが帝国の慣習である。
 これは目的のひとつに他領のやり方を見て学ぶことがあり、またひとつに他領の不正などを見つけこれを報告し健全化を図ることがある。
 その家によって、はっきりと世人の儀式であると明らかにして大々的に旅をするもの、立場を隠して一回の旅人として見て回るものなどがあり、リリオの場合はどちらかと言えば後者のようだ。

金砕棒(かなさいぼう)
 凶器。鬼の金棒をイメージするのが一番わかりやすいと思われる。

・旅の神ハルベクセーノ
 人神。初めて大陸を歩き回って制覇した天狗(ウルカ)が陞神したとされる。この神を信奉するものは旅の便宜を図られ、よい縁に恵まれるという。その代わり、ひとところにとどまると加護は遠のくという。

・冒険の神ヴィヴァンタストノ
 人神。後に冒険屋と呼ばれることになる人々の走り。冒険卿とも。貴族の身でありながらとにかく冒険を好み、陸地では臥龍山脈の登頂、極地の踏破、海に在っては眠れる海神の都の発見など伝説に事欠かない。この神を信奉するものは冒険において多大なる加護を得るも、ハプニングやトラブルに見舞われるという。

・冒険屋
 いわゆる何でも屋。下はドブさらいから上は竜退治まで、報酬次第で様々なことを請け負う便利屋。
 きっちりとした資格という訳ではなく、殺しはしないというポリシーを持つものや、ほとんど殺し屋まがいの裏家業ものまで幅広い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話 亡霊と冒険屋

・前回のあらすじ
ようやく街に入ったが入っただけで終わってしまった。
いったいこの物語は後何話かければ本筋らしきものを見出していくのだろうか。
そもそも本筋などというものがあるのだろうか。


 ヴォーストの街というのは、私が想像していたよりも随分と文明的な街並みだった。

 と言ってもまあ、高層ビルが立ち並ぶというほどではない。

 

 道には石畳が張られていて、馬車が通る車道と人間が歩く歩道が分かれている。建物は石材と木材が半々くらいに組み合わさっていて、多くは一階建てだけれど二階建てもよく見られ、恐らく重要な建物は三階建ても時々見られる。

 

 屋根の多くは色鮮やかな(かわら)()かれていたが、その艶やかさは釉薬(ゆうやく)瓦と思われる。積雪もあるという北方では、水の染みにくい釉薬瓦が向いているということだろう。またところどころ金属瓦も見られた。

 

 気になったのは道のところどころに設けられている金属製の蓋らしきもので、鍵で閉ざされているが、開けば地下へと降りられそうだった。単に地下室とも思えないそれは、或いは地下に水道の存在があるのではないかと思わせた。

 

 少し驚いたが、これはこの世界の文明を侮りすぎているかもしれない。思えばローマ水道などは二千年以上前に作られ、そして現代でも立派に機能している。愚かな者たちの手によって破壊されなければそれらの水道はもっと多く残っていただろうし、技術者が研鑽を続けていればより効率的な水道さえ作られていただろう。

 

 門を抜けてすぐは大通りになっていて、左右にはベッドや食事の絵の看板が掲げられた宿屋や食事やが並び、続いて雑貨屋や商店などが並んでいるようだった。そのどこも盛況で、店先で声を上げる売り子や呼び子、案内を買って出る案内人、店を吟味する商人や旅人達の声で満ち満ちていた。

 また辻々には門で見たような衛兵たちが暢気そうに立っており、馬車の行き交いを整理する者たちもいる。

 

 入り口であるから騒がしいというのは差し引いても、それでも地方の都市としてはこれはかなり人口の多い、また近代的な作りの街なのではないかと思われた。

 

 それはつまり、私がげんなりするほど気持ち悪くなるに十分な人込みということでもあったが。

 

 老商人と別れる際の挨拶が気になったので、うるさい中でも聞こえるように、またできるだけ人込みから意識を外せるようにとリリオに近寄り、今のはなんだったのかと尋ねてみた。

 

 そうしてリリオが語ったところは、また新規の神様の話だった。

 旅の神とか冒険の神とか、この世界には本当にいろいろ神様がいるようだ。この世界の神話体系も気になるし、それに基本的な挨拶にも使われるようだからそのうち確認してみないと、と思いながら、早速気になる点があったので重ねて尋ねてみる。

 

「冒険屋?」

「あれ、言ってなかったでしたっけ」

 

 少なくとも私には言っていないと思うし、近くで言っていたとしても興味がなくて聞いていなかった、と小首を傾げた私に、リリオも小首を傾げる。

 

「私、冒険屋になりにこの街に来たんですよ」

 

 ふふん、とちょっと誇らしげに言ってくるので、まあ道行く人々の邪魔にならないよう、歩きながらそれはどんなものなのかと尋ねてみた。

 

 曰く、冒険屋というものは浪漫である。などという下りはまるっと聞き流すことにして、リリオの夢と希望と浪漫と憧れを排して客観的な所だけを拾っていくと、どうもゲームやファンタジー小説にありがちな冒険者というものと大体同じようなものであるらしい。

 

 つまり、遺跡に潜ったり秘境に挑んだりして、財宝や獲物を手に入れる。また依頼を受けて護衛をしたり何がしかの難事を解決したり。はたまたドブさらいやら薬草摘みなどのこまごまとしたことをしたり。

 要するに、何でも屋だ。便利屋の類だ。それもどちらかというと荒事寄りの。

 

 ただ、ライト・ノベルでよくあるような、冒険者ギルドのようなものは存在しないようだった。しいて言うならばそれは冒険屋の組合であり、それにしても街単位や領地単位であり、その組合の長が時々より大きな冒険屋の寄り合いとして顔を合わせることがあるような、その程度のものであって、強力な組織という訳ではなさそうだった。

 

 まあ、これはリリオにしても現実を見た発言をしていたのだが、各地を歩き回って旅する冒険屋というのは基本的に根無し草で信用もないし、多くの場合安定した仕事と安定した整備の得られる地元で働くパターンが多いのだそうだ。

 

 これから向かうリリオの親戚とやらはその冒険屋の一人で、このヴォーストの街で事務所を構えているらしい。事務所なんて聞かされると、ファンタジー色溢れる冒険屋なんて言う仕事が途端に所帯じみた感じに聞こえてくる。

 

「おじさんは若い頃からそれはもう腕利きの冒険屋で、あちこちで大きな依頼を片付けてきたそうなんですよ。おじさんはあんまりそういうの吹聴したがらないんですけれど、母が良く語ってくれました」

 

 それおじさん的には若気の至りであんまり言いふらされたくない奴なんじゃなかろうか。

 

「いまはお歳のせい……いやまあ、まだそんな年っていうほどでもないとは思いますけれど、このヴォーストの街に腰を落ち着けて、パーティの方と自分の事務所を起てていらっしゃるそうです」

「それで、リリオはそのおじさんの事務所で冒険屋として働きたいわけだ」

「取り敢えずは、ですけれどね」

「取り敢えず」

「夢物語だってわかっていても、やっぱり世界中……とは言わないまでも、帝国のあちこちを冒険してみたいですから。それに、母の故郷である南の方にも行ってみたいんです」

 

 母親。

 リリオは時折母親の話をした。母から聞かされたという遠い地方の話。母に教えられた教訓のようなもの。母とともに過ごした故郷の話。そう言ったものを少しずつ、リリオは何となく語っていた。それだけリリオにとって母親の存在は大きく、そしてそれは今も変わらないのだろう。

 

 リリオの口ぶりから、その母親というものが今はもういないのではないかということを、空気の読めない私も何となくは察していた。けれど、リリオの口から母親のいない寂しさのようなものを感じたことはない。むしろ、リリオの語る母親はいつだって優しさと温かい記憶にあふれていた。寂しくない訳ではないのだろう。だがそれ以上に、思い出すたびに胸を暖かくさせるような思い出ばかりが、リリオの中には詰まっているのだろう。

 

 それは、とても幸せなことだと思う。

 

 母親のいない私にはよくわからない感覚だけれど。

 

 或いはリリオは、年上の私に母親の姿を重ねているのかもしれなかった。

 私はまだリリオみたいに大きな子供がいる年ではないけれど、リリオが母を亡くしたころはきっとまだ幼く、そのころの母親というのは、或いは私と同じくらいだったのかもしれない。

 

 だからと言って私がリリオにしてあげられることは何にもないし、何をしてあげたらいいのかまるでわかりはしないけれど、それでもまあ、この旅路についていくことくらいはできそうだった。

 人様の人生を、物語のアクセント程度にしかとらえられない私ではあるけれど、人様の悲しみや喜びを、読書の間にだけ感じる共感程度にしか思いやることのできない私ではあるけれど、それでもまあ、それは微睡みを助ける毛布くらいには、彼女の旅路の助けになるのではないだろうか。

 

 などと詩的なことを考えながらリリオの冒険屋語りを聞き流しているうちに、私たちはリリオの親戚が開いているという冒険屋事務所に辿り着いたのだった。

 

 剣、槌、弓、そしてナイフ。四つの武器が装飾された看板には、何やら屋号のようなものが刻まれていた。ちらとリリオに目をやれば、確かにここのようで、年相応に目を輝かせている様子が見えた。

 

「《メザーガ冒険屋事務所》! ここですよウルウ! ここです!」

「見えてるよ」

 

 私はその文字列を覚えながら、早くいけとリリオの背中を蹴りつけるのだった。




用語解説

・水道
ファンタジー警察が良く突っつくと同時に、それだけファンタジー小説でよく現れる存在。
現実では古代ローマ時代の水道など、技術の散逸さえなければ我々が考えるよりも水道技術というのは高度に発展していた。
そして何よりお手軽に地下ダンジョンが作れるので古代技術で作られた水道というのはいつの時代もファンタジー御用達なのだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話 冒険屋 メザーガ・ブランクハーラ

前回のあらすじ
街の見学をする前から人酔いし始めたウルウ。
これから冒険屋とやらの事務所に言って知らない人と顔を合わせなくてはいけないことにさっそく胃が痛み始めるのだった。


 今朝は目が覚めた時から嫌な予感がしていた。

 

 いやに寝汗をかいていたし、枕からは加齢臭がしていた。ついでに抜け毛も。

 寝台から立ち上がる身体はあちこちきしんで、立ち上がる時にはよっこらせと掛け声がいる。

 

 四十がらみとなりゃあ、まあ仕方ないところもある。

 何しろ冒険屋ってえのは体を使う商売だ。若いうちから無理をし続けりゃあ、年食ってくればあちこち()()も出てくる。

 

 もちろんまだまだ現役だという自負はあるが、それでも自分の足で稼ぐって年でもないっていう自覚はある。冒険屋を続けることと、若い頃と同じことをするってのは一緒じゃあない。若い頃には若い頃なりの、年食った今には今なりのやり方がある。

 

 まあ、いささか負け惜しみ臭いがね。

 

 とにかく、嫌な予感だ。

 

 朝飯にしようと思って堅麺麭(ビスクヴィートィ)を取り出したが、肝心の牛乳の配達がまだ来ていなかった。参った。

 俺の朝はいつも同じ。最寄りの雑貨屋で買い貯めた堅麺麭(ビスクヴィートィ)と配達の牛乳を鍋でといた山盛りの堅麺麭粥(グリアージョ)。それに箱で買った林檎(ポーモ)を一つ。

 仲間からもそんな不味いもんで喜ぶなんておかしいと常々言われているが、別に俺もうまいうまいと思っているわけじゃあない。ただ、こいつでないと、どうにも調子が出ない。旅してた頃から変わりない。

 

 顔を洗い、ひげをそり、剃刀で頬を浅く切る。研いだばっかりだったんだが、手元が狂ったかね。鏡もそろそろ、研ぎに出さんと行かんか。それとも帝都で流行りだとかいう、薄鏡を買うべきかね。いや、馬鹿な。そんなものを買う金なんざありはしない。

 

 結局、頬に軟膏を塗り、駆け出しのクナーボが出勤してきてから、ようやく牛乳が届いた。

 

 案の定クナーボの奴は、そんなんじゃ元気が出ませんよとかなんとか言って、俺の手から鍋を奪い取り、鼻歌交じりに俺の朝飯を作りはじめる。

 

 干し林檎を入れた、甘めの堅麺麭粥(グリアージョ)。食べやすい大きさに小奇麗に切り分けた林檎(ポーモ)。それに薄く切った燻製肉(ラルド)に卵を落として焼いたオーヴォ・クン・ラルド。

 

 参った。

 

 何がまずいと言って、悔しいほどうまいのがまずい。俺が調子を出しやすい堅麺麭粥(グリアージョ)に、ちょいと手を加えて、うまいこと仕上げちまう。胃袋、掴まれてんな。使ってる道具も、調味料も、変わりはしないはずなんだが。

 

 洗い物もあるんでさっさと食べちゃってくださいねと出された皿をもそもそと片付けている間も、どうにも尻のあたりがそわそわと落ち着かなかった。

 

 朝飯を食い終わり、依頼の手紙を仕分けているうちに、他の連中も出勤してくる。岩のように武骨な巨漢のウールソ。今日も飾り羽の手入れに余念のない伊達男のパフィスト。いつの間にかいていつの間にかくつろいでいるガルディスト。ナージャはどうせ昼過ぎまで起きてこん。それに……それに、おい、そいつは誰だ?

 

 一番最後にやってきたのは、飛脚(クリエーロ)の男だった。初夏とはいえまだ涼しい頃に、太腿もあらわに薄着でやってきて、それでいて今の今まで走りとおしだったってえのに息の乱れも見せない気風のいい土蜘蛛(ロンガクルルロ)だった。

 

「お届けもんでっせ。メザーガさんちうのは?」

「俺だ」

「お手紙でっせ」

「悪いな。とっといてくれ」

 

 手紙を受け取り銅貨を握らせれば、毎度、と颯爽とかけ出ていく。慌ただしさを感じさせない、するりと滑らかな走りだ。コンノケンってのはどいつも格好がいい。ただ落ち着いて座ってるのが得意じゃないから、観賞用には向かないがな。

 

 さて、嫌な予感を膨らませながら手紙の表書きを見れば、なんてこった、予感は的中だ。

 仕分け済みの依頼表の上に無造作に置いて、椅子に掛けっぱなしだった上着を羽織り、匿ってくれそうな店を思い浮かべる。だが折りの悪いことに、どこも()()がたまっている。

 

「どうしたんです?」

「どうもしない。どうもしないが、ちょっと都合が悪いんで出かけてくる」

「なんだなんだ……おいおい、お嬢ちゃんからじゃねえか」

「ははあ、さてはまた口約束で面倒ごとを抱え込んだと見える」

「我らが所長殿は調子に乗りやすいですからなあ」

「やかましい!」

 

 こういう時に限って俺の靴ひもは解けているし、肌着のぼたんはずれてるし、上着の袖はなかなか通らねえし、事務所は片付いていなくて出入りがしづらい。何いつものことだって? そりゃあいつのいつもだ。少なくとも今日はこうであっちゃあいけなかったんだ。くそったれめ。

 

 落ち着け。

 

 俺はゆっくり呼吸をしながら上着を椅子に掛け直し、靴ひもを結び直し、ぼたんを直し、床に置きっぱなしの小物を箱にしまい込み、なんか気になり始めたんで箒を手に取って床を掃き、そうなると放っておけないんで机の上を整理し、放置していた書類の仕分けをし、どの依頼をいつ片付けるか表に組み直し、組合費の滞納を謝罪する手紙を書き上げ、暇してる冒険屋どもを依頼に走らせ、クナーボの淹れた豆茶(カーフォ)を飲んでようやく一息ついたころに、正午の鐘が鳴った。

 

「おう、もう昼か」

「お昼ご飯どうしましょうねえ」

「昼……もう昼だと……?」

「そうですよ。最近滞納多いですから、ちょっと節約ご飯にしないとですねえ」

「馬鹿野郎もう昼じゃねえか!」

「ええ? だから昼ですって」

「こうしちゃおれん! 俺は逃げるぞ!」

「ああ、ついに逃げるって認めるんですね」

「そういうあれじゃねえ! つまりこれは、なんだ、明日への前進だ!」

「またわけわかんないことを」

 

 とにかく、俺は改めて上着を羽織り、片付いた事務所から飛び出そうとして、そして、そして扉に付けた小さな鐘が鳴った。なったと同時に安普請の薄い扉が壁に叩きつけられるような勢いで開かれ、輝かんばかりの笑顔が覗き込んだ。

 

「お久しぶりですおじさん! 冒険屋になりに来ました!」

 

 向こう三件両隣まで聞こえそうな大声で、遠縁の親戚が襲来したのだった。

 

 どうして俺はこの事務所に裏口を取り付けなかったのか。そりゃまあ、改築費用がかかるからしばらく保留しようってことだった。もともと集合住宅を居抜きした二階建ての手狭なとこだ。一等安かったから買い取ったが、それで初期費用は殆ど吹っ飛んだ。どうしようもなかった。

 

 だが窓くらいは大きなものをつけるべきだった。そうしたら逃げ出せたのに。

 

 だがいまさらそんなことを考えても仕方がない。

 

 俺は深くため息を吐いて諦め、どっかりと椅子に腰を下ろした。

 

「まさか本気で俺の事務所に来やがるとはな」

「冒険屋になるなら応援してくれるとおっしゃったじゃあないですか」

「そりゃ言ったがね」

 

 言ったが、そりゃあくまで社交辞令だ。

 

 どこの冒険屋が、貴族子女が成人の儀代わりに冒険屋になりたいなんて言われて二つ返事で頷くと思う。

 成人の儀の護衛なんて依頼は掃いて捨てるほどある。拍付けやら度胸試しやらの為に冒険屋の真似事もないわけじゃあない。

 

 だが、()()()()()()()()()()()なんてのはそうそういない。

 

 俺を見りゃあわかる通り、冒険屋なんてのはやくざな商売だ。

 たとえ当主になる当てが実質皆無な次男坊三男坊だって、度胸試しはともかく本当に冒険屋になるかって言われたらそりゃあ最後の手段だろう。

 小さな村の一つや二つ貰って郷士として代官やれりゃ十分だろうし、それがだめだったら元手にいくらかもらって商人でもやりゃあいい。

 なんなら当主の補佐なんて仕事もないわけじゃない。

 

 そりゃあ、夢はないだろう。退屈な仕事かもしれねえ。

 

 だが、喜んで冒険屋やるかっていやあ、そいつは馬鹿の発想だろう。

 

 ところがこいつは、俺の従姉弟の娘のこいつは、馬鹿だ。馬鹿の極みだ。

 なにしろ喜んで冒険屋になりたいって宣言してる大馬鹿者だ。

 それもただの馬鹿じゃあねえ。

 夢やら希望やら浪漫やら、そういうものを詰め込んだ物語に憧れを馳せて、しかして冒険屋っていうやくざな仕事の悲しくなるほどくそったれな現実もよくよく俺から聞き知った上で、その上で、だ、なおかつ冒険屋をやりたいなんてぬかし続けられる極めつけの馬鹿だ。

 

 俺も冒険屋なんざやっている馬鹿だが、それでもいいとこのお嬢さんを冒険屋なんざにしてやるほど大馬鹿じゃあない。

 

 こいつの親父さんからも手紙は来ている。そちらで対応してほしいと。

 だがそいつはあくまでもあしらえというだけの話で、すでに成人したこいつを、親父さんも俺も強制することはできねえ。

 

 俺はそもそも部外者で、親父さんも親父さんで何しろ武辺の集まり辺境領の人間だから、自分の力でどうにかできるってんなら止めることはできねえ。辺境領では力こそが正しさだ。

 

 親父さんが止めらんねえなら俺が止めなきゃならねえが、冒険屋ってのはやるやらねえは本人の自由だ。資格なんざない。俺が止めようが誰が止めようが、そうしたらそうしたでこいつは勝手に冒険屋になるだろう。そしてどっかでおっ()ぬ。

 

 そうなったら、俺にゃあ責任なんざねえ、とは言えねえし、何より後味が悪すぎる。

 

「仕方ねえ。仕方ねえなあくそったれめ」

「じゃあ!」

 

 きらきら光る眼をしやがって。

 冒険屋に夢を見る奴はみんなそんな目だ。そしてしまいにゃ、くすんだ眼をして銅貨集めに必死になって、酒場で日がな一日飲んだくれるようになる。

 

 そうなる前に、諦めさせるのが大人の仕事だ。

 

「冒険屋になるってからにゃあ、それなりの腕を見せてもらわにゃあならねえ。お前だけじゃねえ。そっちの連れもだ」

「私か」

「関係ねえって顔すんなよ。手紙にゃちゃんと書いてある。こいつと、そのお目付け、二人の面倒見てやれってな」

「……へえ」

「……えへへえ」

 

 さあて、腕を見るとはいえ、どうしたもんか。

 ちみっこい()()しているとはいえ、こいつも辺境出だ。辺境の連中はどいつもこいつも気が触れていやがる。これでもなまじっかの冒険屋どもより腕っぷしはいいだろう。

 となると半端な相手じゃ諦めさせるにゃ物足りねえ。

 

「よし。じゃあ乙種害獣……いや、魔獣の駆除が入所試験だ。腕っぷし見せてもらおうか」

「うぇあ、乙種ですか!?」

 

 目を白黒させるリリオと違って、ひょろ長い嬢ちゃんは驚いた様子も見せねえ。見た感じどうにも生気に薄いが、こいつも辺境の出なら油断はならねえな。

 付け足しとくか。

 

「二人分で二匹だ」

「倍ドンですかぁ!?」

 

 うるせえ奴だな。

 

 そしてもう一人は……相変わらず動じやがらねえ。

 さてさて、こいつで諦めてくれると助かるんだがね。




用語解説

・メザーガ・ブランクハーラ
 人間族。リリオの母親の従姉弟にあたる。四十がらみの冒険屋。
 ヴォーストの街で冒険屋事務所を経営している。

・クナーボ
 人間族。メザーガ冒険屋事務所に所属する駆け出しの冒険屋。

燻製肉(ラルド)
 いわゆるベーコン。特に何と指定しない場合は豚の肉を用いたものを指す。

・オーヴォ・クン・ラルド
 いわゆるベーコン・エッグ。

・ウールソ
 人間族。メザーガの冒険やパーティの一員で事務所に所属する冒険屋。
 槌を武器とする武僧。

・パフィスト
 天狗(ウルカ)。飾り羽も鮮やかな伊達男だが、腕は一流の弓遣い。事務所に所属する冒険屋。

・ガルディスト
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の野伏。パーティのムードメーカーであり、罠や仕掛けに通じる職人。また目利きも利く。

・ナージャ
 メザーガ冒険屋事務所の居候。

豆茶(カーフォ)
 南方で採られる木の実の種を焙煎し、粉に挽いて湯に溶いて濾した飲料。焙煎や抽出の仕方などで味や香りが変わり、こだわるものはうるさい。
 北方では栽培できず、また輸入品もあまり出回らずそれなりに高価。
 メザーガは故郷のつてで安く仕入れているようだ。

・正午の鐘
 大きな街ともなると機械仕掛けの時計が置かれていることもあるが、人々はもっぱら街の中心にある鐘楼が鳴らす鐘の音で時刻を知る。街は大抵この鐘の音の聞こえる範囲をその領域としている。

・乙種害獣
 甲・乙・丙・丁と四段階に分けた内、上から二つ目の危険度の害獣のこと。
 普通の冒険屋がソロで挑んでぎりぎり勝ちをもぎ取れる限度がこのあたり。普通はパーティで挑む。

・乙種魔獣
 危険度分類のうち、特に魔獣を強調しているのは、魔術を使う魔獣の方が一般的に手ごわいから。同じ危険度でも魔獣の方が気が抜けない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話 白百合と冒険屋事務所

前回のあらすじ
メザーガおじさんは苦労性。


 勢いよくお邪魔したメザーガおじさんの事務所では、おじさんとクナーボの二人が待っていてくれました。やはりお手紙を出しておいてよかったです。

 

 おじさんは四十台の渋いおじさまで、私が母から受け継いだ白い髪に、翡翠の瞳、それに私が母から受け継がなかった褐色の肌の南部人です。もう現場にはあまり出ていないとのことでしたけれど、それでも立ち居振る舞いには隙が見られませんでしたし、私とウルウを鋭く品定めする目つきも甘くはありません。

 

 いらっしゃいと手を振って、お茶の準備をしてくれているクナーボは、私より少し若くてまだ成人はしていませんが、少し前からおじさんの事務所で冒険屋見習いをしているという子です。もっぱら会計や家事や事務仕事ばかりしていて冒険屋になれるか不安と以前手紙でこぼしていました。

 

 ウルウは知らない人相手にさっそく人見知りを発揮したようで、私の後ろにぴったりくっついて、黙して語らずを貫こうとしています。私が事前にお願いしていなかったらきっと姿を消していたに違いありません。

 

 おじさんは深いため息を吐いてどっかりと腰を下ろすと、私をじろりとねめつけました。

 

「まさか本気で俺の事務所に来やがるとはな」

「冒険屋になるなら応援してくれるとおっしゃったじゃあないですか」

「そりゃ言ったがね」

 

 まあ、そりゃあ社交辞令でしょうけれど、言質は取ってあるんですから無効じゃあないです。父からも許可はもぎ取ってあります。

 

 もちろん、父やおじさんが私を冒険屋にしたがらないのもわかります。

 

 物語や歌の中の冒険屋がどれだけ格好良く、夢や希望や浪漫にあふれていたとしても、現実として冒険屋というものはお金次第でドブさらいから害獣駆除まで請け負う体のいい便利屋です。苦労ばかりで栄誉なんてまずないでしょうし、自己満足だけでやっていくには過酷でしょう。

 

 わかっています。

 

 お前はわかっていないんだって言われるくらい何度も説明されて、それでも私はわかっています。

 冒険屋にでもならなければ、私はきっとどこにも行けないんだって。

 

 それはもう何度も何度も話し合われたことで、そしていまだに解決していない問題なのでした。

 私は冒険屋になりたい。父は娘をそんなやくざな仕事に付けたくない。おじさんは面倒ごとに巻き込まれたくない。

 それはどうしたって折り合わない問題で、となればどれだけ我を通せるかというのが辺境のやり方です。

 

「仕方ねえ。仕方ねえなあくそったれめ」

「じゃあ!」

 

 辺境人の頑固さをよくよくわかっているおじさんはため息交じりにそう言いましたが、それは決して安易に認めるということではありませんでした。

 

「冒険屋になるってからにゃあ、それなりの腕を見せてもらわにゃあならねえ。お前だけじゃねえ。そっちの連れもだ」

「私か」

「関係ねえって顔すんなよ。手紙にゃちゃんと書いてある。こいつと、そのお目付け、二人の面倒見てやれってな」

「……へえ」

「……えへへえ」

 

 ウルウにじろりと見下ろされましたが、笑って誤魔化します。誤魔化し切れてませんけど。

 

 ともあれ、腕っぷしですか。

 ふふん。私おつむの具合はあんまりよろしくないですけれど、腕っぷしには少なからず自信があります。

 

「よし。じゃあ乙種害獣……いや、魔獣の駆除が入所試験だ。腕っぷし見せてもらおうか」

「うぇあ、乙種ですか!?」

 

 とはいえさすがに乙種はちょっと難しいかもしれません。

 

「二人分で二匹だ」

「倍ドンですかぁ!?」

 

 しかも二匹。

 一度に倒せという訳ではないんでしょうけれど、それなりに準備がいる相手が二回というのは結構厳しいです。

 ウルウがとんとんと肩をたたくので、いつものあれかと思って軽く振り向き、渋い顔で豆茶をすすっているおじさんを待たせないよう手早く説明します。

 

 乙種というのは、害獣の危険度を甲・乙・丙・丁の四段階に分けた内の上から二つ目で、まあ熟練の狩人でも一人で倒すのは難しいあたりです。

 手ごわい角猪(コルナプロ)だって、若いものだと精々丙種で、森で見かけた年経た個体だってぎりぎり乙種に入るあたりです。

 

 それが魔獣となると危険度はもう少し上がります。何しろ魔術を使うものですから、ものには寄りますけれど相性次第では一段階ほど上に見なくてはいけません。

 

 例えば、そうですね、森で出くわしてしまった熊木菟(ウルソストリゴ)なんかは若い個体でも立派な乙種です。本来ならパーティで当たらないと危険な生き物で、それを一人でどうにかしてしまえるウルウは本当にどうかしてます。見てないから何とも言えないんですけれど。

 

 それにしても乙種の魔獣ですか。熊木菟(ウルソストリゴ)を相手にしろというような話ですからこれは結構厳しいのではと思わず頭を抱えていると、またとんとんと肩をたたかれます。

 

 今度は何だろうと振り向くと、凄まじく面倒くさそうにしたウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》を叩きます。

 

「持ち込みじゃダメかな」

「……あー!」

 

 そう言えばウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》に突っ込んだままの熊木菟(ウルソストリゴ)の死体を忘れていました。下手すると腐ってるかもしれません。でもまあ、虫が入っていなければ多少熟成してるくらいで済むかなあ。

 

「なんだなんだ、うるせえな」

「えっと、あのですね、一匹なら来る途中に狩ってきました」

「……あ?」

「あー、いえ、私っていうかそのウルウが」

 

 私が説明しようとするのを遮って、ウルウが一歩前に出ます。

 

熊木菟(ウルソストリゴ)ってのは乙種なんでしょう?」

「あ? ああ、まあ、そうだが。そこら辺の店で素材買ってきたってすぐにわか」

「これ」

 

 ずるぅり。

 

 相変わらず不思議というか不気味というか、ほとんど容量なんてなさそうなウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》から、いろんな物理法則を無視したように熊木菟(ウルソストリゴ)の腕が引き抜かれ、頭が出てきて、胴体がはみ出て、それから足までが引き抜かれ、丸々一頭分が事務所の床にごろりと転がされました。

 

 何しろ見上げるような巨体ですから、雑然とした事務所内がさらに圧迫されて相当狭く感じます。

 

「……ああ?」

 

 ぽかん、と顎が落ちそうなほど口を開いて、ぽろり、と目が落ちそうなほど目を見開いて愕然とするおじさん。クナーボもぎょっとした様子で危うくポットを落としかけています。その気持ち、よーくわかります。でもそのうち慣れます。だってウルウですもの。

 

「確認して」

「あ?」

「確認」

「お、おう」

 

 ウルウに促されて、おじさんは恐る恐る熊木菟(ウルソストリゴ)の死体に近づいていきました。確かに、傷口も見当たらず乱れたところもない死体は、よくできた剥製か眠っているだけのようにも見え、もしかしたら動くかもと私でも思ってしまうほどです。

 

 それでもちゃんと死んでいることはすぐにわかったらしく、おじさんは最初は呆れたように、そしてやがて驚いたように真剣な目つきで死体の検分を始めました。クナーボも初めて見るのでしょう巨大な魔獣の姿に身を乗り出しています。

 

 なおウルウは今ので大分精神力を消費したようで、再び私の後ろに隠れました。

 

 しばらくの間おじさんは熊木菟(ウルソストリゴ)の死体を苦労してひっくり返したり、舌の色を見たりしていましたが、やがて頭を振りながら立ち上がりました。

 

「…………見たとこ傷口もねえ。骨を折ってる様子もねえ。かといって変色もねえし毒でもなさそうだ」

 

 おじさんがじろりとウルウを睨みます。

 ウルウが視線を逸らします。頑張ってウルウ!

 

「自然死だった、とも思えねえが、どうやった?」

「…………」

「おい?」

「私はまだここの所属じゃない」

「あ?」

「企業秘密」

 

 極めて不愛想で不遜な、実際のところは人と話すのが苦痛過ぎて言葉を練るのがしんどいウルウの、酷く端的でざっくり切り捨てるような言葉に、おじさんはしかし気を悪くするどころか満足したようでした。

 

「ほう、ほう、ほう、そりゃあそうだ。そうだな。リリオはともかくお前さんはまだ使えそうだ」

 

 しかし、とおじさんは改めて死体を見下ろしました。

 

「いったいまたどんな魔法を使ったのやら……」

「……不満なら」

「なに?」

「不満なら、試す?」

 

 多分「お疑いのことでしょうし、何か腕試しのようなことでもして見せましょうか」という程度の発言だったのでしょうが、持ち前の目つきの悪さと言葉足らずのせいで脅しにしか聞こえません。

 おじさんも両手を軽く上げて降参の姿勢です。

 

「いや、いや、いい、十分だ。こんなバケモン、《自在蔵(ポスタープロ)》か? そんな上等なもんに突っ込んで歩いてきたってだけで十分だ」

「じゃあ」

「まあ、一匹分はこれでいいだろう」

 

 やりました。

 実質的には何も解決していない気もしますけれど、少なくとも負担は半分に減ったのだと前向きに考えた方が気持ちも前向きにいられます。

 

「ところでこいつはどうする?」

「え?」

「これだけ鮮度がいいし、何より傷一つない熊木菟(ウルソストリゴ)なんざそうそう出回るもんじゃねえ。自分で売り先探してもいいが、うちで組合通してさばいた方が高値で売れると思うぜ?」

 

 それは熊木菟(ウルソストリゴ)を倒したウルウに向けての言葉でしたけれど、ウルウは全く何のためらいもなく私に視線を寄越して答えを求めてきます。

 

「リリオ」

「え、えーとですね。私たちじゃ初めての街でうまく売れないと思いますし、お任せした方がいいかと」

「それで」

「えーと、じゃあ、おじさん、その方向でお願いします」

「通訳がねーと喋れねーのか!」

 

 ようやく気付いていただけたようです。

 

 厳密に言えばそこらの商人も真っ青の喋り方とかできるんですけれど、ウルウの負担が大きいし私も聞いててかわいそうですし、何よりあんまり格好のいいウルウを広めると大変なことになりそうなのでやめていただきたいところです。

 

 ともあれ、熊木菟(ウルソストリゴ)の売買というすっかり忘れていた臨時収入もあり、私たちは早速次の魔獣討伐の準備に出かけるのでした。




用語解説

・これだけ鮮度がいい
 熊木菟(ウルソストリゴ)の死体はすでに何日か経っているが、実のところ《自在蔵(ポスタープロ)》とは違い、インベントリに突っ込んだものは時間が経過しないようだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話 亡霊とお買い物

前回のあらすじ
メザーガの無茶ぶりにそれもう見たとばかりの塩対応をするウルウ。
残る試練は後一体。ここにきて妙な展開の速さであった。


 冒険屋になりたいというリリオについて冒険屋事務所とやらに顔を出してみたが、どうもすんなり冒険屋になれるというものではないらしい。というかいろいろ聞き捨てならないことを聞いたような気もする。

 気もするけれど、言及すると面倒くさいので聞かなかったことにする。

 

 世の中気にしたところで面倒ごとにしかならないということが多すぎる。会社でもそうだった。どう考えてもその方が効率化するのにマシンパワーに頼ると途端に努力が足りないとか誠意がどうのとかでマンパワーに頼ろうとするんだよ。じゃあ給料寄越せよ。

 

 ああ、いや、そんなダークサイドとはお別れしたんだった。

 深く考えるな、私よ。

 

 ともあれ、だ。

 

 入所試験として乙種魔獣討伐二体分とやらを課されたわけだけれど、幸い、チュートリアルイベントじみた戦闘で獲得したドロップアイテムもとい死体が役に立った。いやあ、すっかり忘れていた。

 インベントリに突っ込んだものはどうも腐ったりはしないようなので助かったが、もしこれがまともに時間経過するシステムだったら、何しろ初夏の陽気だ、今頃インベントリを開ける度にやばい匂いがしていただろう。

 

 この死体はメザーガが売ってくれるということだったので、ついでにリリオが採取してきた角猪(コルナプロ)の角も一緒に売ってもらうことにした。こんな立派な角どうしたんだと疑わしげに見られたが、黙秘しておいた。あれは魔獣じゃないらしいし話しても得にならない。

 

 問題はもう一体をどうするかという話だ。

 

 まだ正規の所属ではないからと我々は事務所を辞して、宿を求めた。何をするにしてもまず拠点は大事だ。

 宿探しに関してはメザーガの紹介があったのですぐに解決した。

 《踊る宝石箱亭》という行きつけの酒場がくっついた宿だそうで、訪ねてみると早くつけを払うよう伝えてくれと頼まれてしまった。大丈夫か冒険屋事務所。

 

 冒険屋の行きつけというだけで不安ではあったのだが、幸いメザーガのセンスは確かなようで、鍵を渡された二人部屋は、やや狭く感じるがきちんとした寝台が二つあり、火精晶(ファヰロクリステロ)とやらの灯りもおいてあった。ただ、盗難に関しては自己責任と告げられたので、気を付けておこう。

 

 財布と貴重品、それに武器だけをもって買い物に出かけるリリオについて私も出かける。

 

 そろそろ私も《隠蓑(クローキング)》で隠れていたいのだけれど、リリオに寂しいからと言われて断念した。一応私にも人の心はある。疲れたら放り捨てる程度の軽いものだが。

 

 リリオの後ろについて歩いていく街並みは、やはり盛況だった。日もまだ高く正午を少し過ぎたくらいで、人々は最も活発な頃だろう。

 荷物をたくさん積んだ馬車も道を行きかい、喧騒が絶えない。

 

 私の知っている街というものはこういうものではなかった。

 私の知っている街というものは、みなどこかへ急いでいた。俯き、或いは小さな端末を覗き込みながら、そそくさと乗り物へ、建物へ、どこかへと急いでいた。

 私の知っている街というものはつまり、駅と、会社と、時折生活必需品を買いに行く深夜営業のスーパーマーケットだった。

 

 真昼の日差しは、私にとって異世界の明るさだった。

 

 人込みは気持ちの悪くなりそうなほど目まぐるしく、しかしそのどれもが全くそれぞれの都合でそれぞれの人生を生きていた。かつて見知っていた街並みが整然と整えられた変りばえのしない本棚だというのならば、ヴォーストの街並みは床にまで本を積み上げた乱雑な古本屋だった。痛むとわかっていながらそうでもしないと本を詰め込めない、そんな物語の海だった。

 

 目が回りそうな私は、はぐれないようにと、そしてまた倒れないようにとリリオの肩に手を置いた。そうするとリリオがそっと手を重ねてくれた。そのささやかな気遣いが私を勇気づけ、そしてまたふわふわと惑いそうな私の足取りを、古びたアンカーのようにしっかりとつなぎとめてくれた。

 

 リリオはいくつかの店舗を巡って、時に交渉し、時に諦めながら、堅麺麭(ビスクヴィートィ)や乾燥野菜などの保存食を仕入れ、また何瓶かの酒を買い求めた。聞けば、水精晶(アクヴォクリスタロ)もいつもいつでも頼れるとは限らず、保存のきく酒を持っておくのは大事だという。

 

 私は重いものだけと思って酒を受け取り、インベントリに放り込んだ。全部持ってやってもよかったし、なんなら生鮮物を買い込んでやってもよかった。しかしそれはリリオの物語ではない。

 

 騒々しい商店街を少し離れて、いくらか上等な店構えの店が並ぶ通りに出た。

 看板を出している店もあれば、一見お断りのようにひっそりとした店もあった。

 

 リリオが戸を叩いたのは一件の静かな店だった。

 掲げられた看板には、鉱石のようなものが描かれている。

 

 ごめんくださいと立ち入った店からは、不思議な香りがした。きしきしと硬質な、石の匂いだった。

 

 なんの店かと小さく尋ねれば、精霊晶(フェオクリステロ)の店だという。それは水精晶(アクヴォクリステロ)火精晶(ファヰロクリステロ)といった結晶のことであるらしかった。

 

 火精晶(ファヰロクリステロ)のランタンで照らされた店内は、圧倒されるほどたくさんの精霊晶(フェオクリステロ)で埋まっていた。

 壁はすべて棚になっていて、そこにはほとんど整理など考えていないのではと思わせるほど雑多に、しかし奇妙な配置の妙で美しさすら覚えさせるように、多種多様な輝きが陳列されていた。

 

 リリオがカウンターにあった呼び鈴を鳴らすと、奥から顔を出したのはひび割れた岩のように顔中をしわで覆われた年寄りだった。こうなるともう男なのか女なのかすらわからない。

 

「メザーガの紹介できました」

「なんだ、坊主の娘っ子かい」

「親戚です」

「つけでも払いに来たか」

「ここでもですか……」

 

 リリオは呆れながらも、小物入れから革袋と小さな箱を取り出した。

 

「そろそろ擦り減ってきたので、交換をお願いしたいんですが」

水精晶(アクヴォクリステロ)火精晶(ファヰロクリステロ)か」

 

 なるほど、それはあの不思議なほど水の湧き出る水筒と、火をつけるために使った道具のようだった。

 

「石の好みはあるかね」

水精晶(アクヴォクリステロ)は、雪解けかせせらぎがあれば。火精晶(ファヰロクリステロ)は長持ち重視で」

「雪解けは今年はちょっと仕入れが少ないな。せせらぎなら銅貨で済むよ」

「どうせ小粒でしょう?」

「安物買いをしないのはいいことだ。そうさね、同じ質なら値段はそんなにかわりゃしない」

「じゃあ雪解けで」

「よし来た。火精晶(ファヰロクリステロ)は火山出のいいのが入ってるがね」

「山火事起こそうってわけじゃないんですから」

「だから売れねえんだよなあ。種火用だろ、熾火の奴でいいかな」

「じゃあそれで」

「擦り減ったのはどうするね」

「買取お願いできます?」

「ふーむむ……水精晶(アクヴォクリステロ)は、まあそうさね、これくらいだ。でも火精晶(ファヰロクリステロ)はこりゃ擦り減りすぎたな」

「屑にもなりません?」

「粉に挽きゃあなあ……でも二束三文だね。燃料にした方がいいよ」

「じゃあ水精晶(アクヴォクリステロ)だけ買取で」

「よしきた、じゃあ合わせてこんなもんで」

「もう一声」

「年寄りに鳴かせるない」

「年寄りならつけのことくらいは忘れても」

「馬鹿言うねえこちとら数は忘れねえんだ」

「まだまだお若い」

「うまいこと言わせやがって、じゃあこんなもんだ」

「いい買い物させてもらいました」

「メザーガにはきっちり伝えといておくれよ」

「ええ、ええ、よしなに」

 

 何やら私にはよくわからない会話だったが、いい買い物だったようだ。いまの私には何しろ相場どころか硬貨の換算すらおぼつかない。棚の表示を見ながら、どれが水精晶(アクヴォクリステロ)、どれが火精晶(ファヰロクリステロ)と字を覚えるくらいが関の山だ。

 

「ウルウも水精晶(アクヴォクリステロ)くらいは持っておきますか?」

 

 買い物を済ませたリリオに聞かれたが、さてどうしようか。ファンタジー用品は気になると言えば気になるし、この世界の基準で言えば潔癖症な私は割と水を必要とする。持っていて損はなかろう。

 

「どんなのがあるんです?」

「おたくは初めてかい」

「ええ」

「そうさねえ、今言った雪解けなんかはピンと冷たい。せせらぎは味が柔らかいけど、ま、ばらつきもあるな。海の石なんてのは塩っ辛いばかりで安いけど飲めやしない。硬水軟水も区別があるが、ま、冒険屋は大して気にもしやがらねえ」

「冷たい水があるなら、温かいお湯の石もあるんですか?」

「温泉で採れる奴はそうさね。うちでもちょっとは扱ってる」

 

 なるほど。水精晶(アクヴォクリステロ)というのは水のある場所で結晶化する。そしてその結晶が生み出す水は、生まれた場所の水の性質や味に準ずるわけだ。

 

「お前さんに好みの水があるんなら、ちょいと時間を貰えば石にできるがね」

精霊晶(フェオクリステロ)って作れるんですか?」

水精晶(アクヴォクリステロ)は割と楽だあな」

「楽じゃないですよ。この人が専門家だからですよ」

「私はプロの仕事は尊敬することにしている」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。お望みの水があるかね」

 

 言われて、私は試しにインベントリから一本の瓶を取り出した。

 

「では、これで」

「ほう……こいつはいい瓶だ。歪みもねえ。くもりもねえ。気泡もねえ。表面の装飾も、こりゃあ、切れ込みで模様入れてんのか、胆が据わってやがる。職人技だ。中身は……なんだいこりゃ?」

「なんです?」

「水だよ」

「水ったってお前さん、こりゃまた随分妙な水だねえ。こんなに色気のない水は、アタシも初めてだ」

「蒸留水ですよ」

「ははあん、なるほどこいつが。錬金術師どもが使うのは知ってたが、アタシのとこに持ち込んだのはお前さんが初めてだ」

 

 蒸留水というものの知識はあるようだ。専門外の分野についても知識があるというのは、職人として信頼できる要素の一つだ。研究熱心な職人は腕が錆びづらい。

 

「しかしこんなのでいいのかい。味気ないだろう」

「綺麗な水が欲しいんですよ」

「そりゃ綺麗だろうがね」

「いくらになります」

「変わった注文だからねえ、なにしろ。少し色付けてもらわねえと」

「できませんか」

「あんだって?」

「なにしろ雪解けやらせせらぎやらと違って、何の癖もない水ですからねえ、蒸留水というものは。だから比較的簡単なんじゃないかと素人考えで思ったんですがね」

「素人考えだねえ」

「そうでしょうねえ。まあ面白みのない水だ。私も無理してほしいわけじゃあないんで」

「面白くないとは言わねえさ」

「面白いですか」

「白いか白くねえかでいやあ、まあ白いさね」

「そりゃあ良かった。ところでこの瓶なんですがねえ、綺麗は綺麗だが何しろ割れ物だから、運ぶのに難儀していましてね。どこかで手放そうと思っているんだが、安いものでもなし、物のわかるひとに差し上げたいところでしてね」

「嫌な奴だねえ。おたく嫌な奴だねえ」

「今ならもう一本あるんですがね」

「わーったわーった。いくらか負けてやるよ」

「リリオ」

「はいはい、じゃあ私の分と合わせてお勘定ってことで」

「嫌な奴らだねえ、まったく。老い先短い年寄りをいじめてくれちまって」

「なあに、死ぬまで生きますよ」

「そりゃそうだ」

 

 蒸留水を二本預け、私たちは店を出た。

 しゃべりすぎて、どうにも疲れた。




用語解説

精霊晶(フェオクリステロ)
 水精晶(アクヴォクリスタロ)火精晶(ファヰロクリステロ)など、精霊の宿った結晶の販売を専門とする店。大きな街には必ずある。その性質上精霊の扱いにたけた魔術師が経営している。

・錬金術師
 原始的な科学者であり、同時に魔術を可視化・数値化して扱うことを学ぶ人たち。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話 白百合と《踊る宝石箱亭》

前回のあらすじ
異世界っぽいお店でファンタジーっぽいお買い物をするウルウとリリオ。
しかし MP が たりない!


 細々としたお買い物を済ませて、私たちはいったん宿に戻りました。

 正確に言うと、宿の部屋に荷物を置いて、それから改めて《踊る宝石箱亭》の酒場に訪れました。

 

「……酒場」

「違います。違いますからそんな目で見ないでください」

 

 別に昼間っから飲んだくれようというわけではありません。そう言うお客さんもちらほらいるようですけれど。

 

「えっとですね、冒険屋っていうのは、おじさんみたいに事務所を開いている人の他にも、個人やパーティ単位でやっている人たちも多いんです」

 

 というより、事務所を開くのはある程度お金を貯めて、そして年をとって一線を退いた人たちで、ほとんどの冒険屋は事務所なんか起こせません。既に開いている事務所に所属して、そこで仕事を貰っている人が多いですね。

 

「それで、そういう事務所に所属している人たちだけでなく、自分で直接依頼を取ってくる人たちも多いんです」

 

 そういう人たちはどこで仕事を探すかというと、それが《踊る宝石箱亭》のような酒場なんです。

 酒場っていうのはお酒を飲んで楽しむところなわけですけれど、どうしてもそういうところでは喧嘩や騒ぎがつきものです。なので用心棒を雇うことが多いんですけれど、冒険屋相手では生半な用心棒だと返り討ちにあってしまいます。

 

 なので、おじさんのように事務所が贔屓にするということで目を光らせる代わりに、酒場側でも事務所に便宜を図るというのが昔からの慣習だそうです。その便宜の一つというものが、冒険屋への仕事の斡旋です。

 

 仕事がないと冒険屋というものは穀潰し以外の何物でもなくて、お金がなければすさむ一方、そこにお酒が入れば大荒れに荒れる一方ということで、それなら仕事を与えて程々にガスを抜いてもらおうと、これも治安維持の一つの在り方なわけですね。

 

 それに酒場というものはもともと人が集まるところでもありますから、自然と話は集まりやすいんです。だから冒険屋と酒場の関係が始まった頃には、自然発生的に仕事斡旋所としての面も生まれてきたわけですね。

 

「おじさんのところで仕事を貰うってのは、まだ所属していない以上できないですから、こうして酒場でお仕事を探そうってわけです」

「成程」

「それに、ここならおじさんも目が届きますから、変な依頼はないだろうっていう安心もあるんでしょうね」

 

 だから紹介してくれたのでしょう。大雑把に見えて目端の利く人なんです。そうじゃないと冒険屋は長生きできないってことでもありますけど。

 

 さて、まだ昼間ということで酒杯を磨きながら暇そうにしている男性が、《踊る宝石箱亭》の店主、ジュヴェーロ氏です。

 

「おや、買い物は済ませたのかい」

「ええ、やっぱり街は品揃えがいいですね」

「お眼鏡に叶ったなら良かったよ。ところで酒かい? 飯かい?」

「お仕事を」

「よし来た。どんな無理難題を吹っ掛けられたって?」

 

 茶目っ気たっぷりに笑いながら、ジュヴェーロさんはカウンターに手をついて乗り出しました。

 

「乙種の魔獣を一体。面子は私たち二人で」

「そいつぁ無茶だなあ。でもま、辺境から来たんだって? なあに竜より弱いのしかいないよ、安心おし」

 

 ジュヴェーロさんは手慣れた様子で棚から紙束を取り出して、バラバラと捲り始めました。

 

「乙種、乙種ねえ、君たち得物は?」

「私は剣、斧、小刀……まあ大体の長物は」

「私は戦うのは苦手なんだ」

「おーいおいおい、まあいいか。技術は知らんが恩恵は強いようだしね」

「恩恵?」

 

 小首を傾げるウルウにいつもの説明です。

 

「魔力で身体能力が高まっていることですよ。人を見る仕事が長いと、そういうのわかるらしいです」

「ま、見かけも大事だけど見かけだけじゃないからね。リリオ君は見かけ以上に強いね。乙種も確かに行けなくはない。そっちの、えーと、ウルウ君だったかな。君はえらく強いねえ。でも漠然としかわからない。そう言う恩恵なのかな?」

 

 気さくに会話しながらもジュヴェーロさんはよどみなく手を動かして、何枚かの依頼表を仕分けていきます。

 

「君たち山遊びと川遊びはどっちが好き? 森は駄目だな。ちょっと遠い」

「私は、うーん、川ですかね。ウルウは?」

「君に任せる」

「じゃ川だ。川の魔獣はちょっと面倒くさいがね。君たち泳げる?」

「一応泳げます」

「程々には」

「まあ泳げたって川に引きずり込まれたら大抵死ぬけどねはっはっは」

 

 物凄く陽気に物凄く物騒なことを言われた気がします。でも実際問題、川で暮らしてる魔獣に陸の生き物が挑んだって泳ぎで勝てるわけないですもんね。

 

「川、川、川ねえ。魚獲る系は多いんだけど……お、魚。そう言えば魚がいたな」

 

 しばらく依頼表を捲って、やがて一枚の依頼表が引き抜かれ、私たちの前に差し出されました。

 

「乙種魔獣、川、二人がかりでどうにかなりそうなの。装備次第だけどこれならいけるんじゃないかな」

「お、おおおお! こ、これは!」

 

 差し出された依頼表に踊る文字に、私は思わず興奮で飛び上がりそうでした。というか実際飛び上がって、危うくウルウの顎に激突しそうになって、問答無用で押さえつけられました。

 

「なに」

「これですよ、これ! ほら!」

「……なに?」

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の捕獲ですよ!!」

「………『煮ても焼いてもうまい。何より揚げたのがまあ、うまい』」

「そう、それです!」

 

 道中一緒になった旅商人のおじいさんに教えてもらった名物のお魚です。えらくごっつい名前だなーとは思っていましたが、どうも魔獣だったようですね。そりゃあなかなか獲れない訳です。

 

「山からの雪解け水もぬるくなってきたし、街中の川底の霹靂猫魚(トンドルシルウロ)が目覚めだしてきていてね。たまに被害が出るから間引いてほしいってさ。専門でやってる冒険屋もいるけど、危険だからあんまりこの依頼人気なくてね」

「やります! 是非とも!」

「ついでに言うと私は霹靂猫魚(トンドルシルウロ)料理のプロだ」

「卸します! ここに卸します!」

「よし来た。報酬は出来高制。討伐数で基本給。調理できないほどだったら廃棄だけど、傷が少なけりゃ卸した数だけ加算。まあまず無理だけど生きて捕まえられたら特別報酬。質問は?」

「お料理代は!?」

「ご馳走しちゃう」

「行ってきます!」

「まあまあお待ちなさいな」

 

 早速川の水を干上がらせてもと駆けだしそうになりましたが、勇み足はきちんと止めていただけました。

 

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は間抜け面だけど、あれでも乙種の魔獣だからね。きちんとした倒し方を覚えていった方がいい。それに船と道具もいるな。鮮度よく持って帰るなら冷やすための氷精晶(グラシクリステロ)もいるかな」

 

 とん、とん、とん、とカウンターに倒し方のメモや船の許可証、タモや棹、氷精晶(グラシクリステロ)などが並べられていきます。

 

「捕獲セット、今なら安くしとくよ」

「買ったー!」

 

 後ろでウルウの呆れたようなため息が聞こえましたけれど、世の中には欲望と勢いに乗らなければならない時もあるのです。きっと。




用語解説

・竜
 生物種としては文句なしに最強の位置にいるナマモノ。臥龍山脈の向こう側に生息しており、時折その切れ目を抜けて辺境にやってくる。

氷精晶(グラシクリステロ)
 雪山や雪原などで見つかる雪の精霊の結晶。魔力を通すと冷気を放ち、氷よりも溶けにくく、保冷剤として流通している。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八話 亡霊と霹靂猫魚

前回のあらすじ
餌につられたリリオ。呆れるウルウ。約束された飯テロの序曲である。


 すっかり頭に血が上ってのぼせ上ったリリオを宥め、さすがにこれからじゃあ時間が遅くなるからと、一晩宿で休んで明朝早くから仕事に取り掛かることにした。

 

 宿の食事は、あの《黄金の林檎亭》の料理と比べればもちろん劣るは劣るけれど、それでも十分立派な食事と言えた。

 

 街を貫く川で獲れるという魚に衣をつけて揚げたものに、山盛りのフライド・ポテト。それに酢をかけて食べる。

 いわゆる悪名高いフィッシュ・アンド・チップスではないかとちょっと気後れしたが、食べてみるとなるほどこれがなかなかうまい。

 

 揚げ油をケチらずきれいなものを使っているようで妙な匂いもしないし、衣はビールではなく林檎酒(ポムヴィーノ)を混ぜ込んでいるようで、ほんのり甘酸っぱい感じがする。かけ回すお酢も林檎酢(ポムヴィナーグロ)で、見た目よりもずっとさっぱりと食べられる。

 

 フライド・ポテトは見た通りの物かと思ったが、芋が違うようだ。もう少しねっとりとした食感で、どちらかというと山芋の類に近いのだろうか。これはこれで面白い食感だし、美味しいが、何しろ量が多かったので、半分ばかりリリオの皿に分けてやると、喜んで平らげてしまった。本当にどこに入るのやら。

 

 湯を借りて体を洗い、歯を磨き、着替えが済んでも、リリオはまだ興奮冷めやらぬようだった。

 

「遠足前の小学生みたいだ」

「エンソク?」

「はしゃぎすぎて疲れるよって」

「仕方ないじゃないですか! すごく楽しみにしてたんですから!」

 

 リリオに言わせれば旅の楽しみの半分以上は、その土地の食べ物を楽しむことにあるのだという。私なんかは腹が満ちればとりあえず満足ではあるけれど、それでも最近はリリオに引きずられてそういう楽しみに染められてきているので、わからないでもない。

 

 最近と言ってもほんの数日であることを考えると、私という存在はそれほど簡単に染められてしまうほど空っぽだったわけだが。

 

 ベッドの上でごろごろ寝転がりながらえへえへと奇声を上げているリリオを尻目に、私は何となく窓から夜空を見上げてみた。

 思えば最初は森の中で、森を出ても暗くなる前に宿に入って眠りについてしまったから、夜空をきちんと見るのはこの世界では初めてだ。

 

 だから、今の今まで、こんなことにも気づかなかった。

 

「……月だ」

「あ、本当ですね。今日は綺麗な満月です」

 

 異世界の空にも、月があった。

 見知らぬ星座が並ぶ、ビロードのような夜空の真ん中に、月が、あった。

 

 私は異世界に来たということを、深く考えないようにしてきた。しかしここまであからさまだと、この世界について、また恐らくは私をこの世界に連れてきたであろう何者かの存在について、考えざるを得ない。

 

 百歩譲って、異世界の夜空にも月があるとしよう。恐ろしく確率は低いだろうが、天体に衛星が存在するのは珍しいことではない。

 

 けれど、たとえ千歩、万歩譲ったところで。

 

「……コピペってわけじゃないんだろうけど」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 寸分たがわず元の世界と同じ顔で見下ろしてくる満月から目を逸らし、私はベッドに潜り込んだ。

 考えなければいけないことだし、気になることでもある。

 

 しかし取り敢えずのところ、目下の問題として、私は早く寝なければならないのだ。

 明日の朝確実に寝坊するリリオを起こすために。

 

 

 

 そうして翌朝、案の定寝坊したリリオを叩き起こして、私は日が出たばかりの早朝に川辺に佇んでいるのだった。

 

「うう、眠いです……」

「馬鹿」

「いまのちょっとドキッとするのでもう一回お願いします」

「死ねばいいのに」

「あふんっ」

 

 などという下らない掛け合いをしているうちに、貸し出される船の持ち主で、漁業組合の人だというおじさんが来た。冒険屋の仕事ではあるけれど、漁業組合の仕事場であるし、漁場で変な事されて荒らされても困るので、その見張りがてら来ているらしい。

 

「おー、別嬪さんが二人も来てくれたねぇありがたいねえ! 大したお構いもできねんだけどよ、今日のとこはよろしく頼んまあ!」

 

 まあ見張りと言っても気のいいおじさんで、実際のところは川に不慣れな冒険屋へのヘルプみたいなものらしい。

 

「んだばよ、早速船出すから、乗ってくれや。大体出てくるあたりはわかるから、そのあたりで棹突っ込んで底浚えば、その内引っかかるからよ」

 

 大雑把な説明だが、そのあたりの作業はリリオに任せる気なので私は知ったことではない。今回も私は見物を決め込むつもりだ。

 ただ一応、何かあった時の為に、ゆっくり漕ぎだされた船の上で霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とやらの話には耳を傾けておいた。

 

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)ってのはよぉ、まー名前の通り猫魚(シルウロ)の仲間なんだけんどよ」

「しるうろ?」

「ひげのあるお魚です」

「ほんでまあ、これまた名前通りに()()()()を放つんでよ、あぶねえんだなあ」

「あぶねえんですか」

「まあ、まんずあぶねえなあ。水の上まではまあ、あんまり飛ばしてこねえんだけどよ、うっかり水におっこっちまったら、まあまんず助からねえな」

 

 喋り方がのんびりしているからどうにも危機感がわかないのだが、どうやらこの霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とやらはデンキナマズの化物らしい。

 ナマズの類は猫のようにひげが生えているので英語ではキャットフィッシュとかいうのだが、間抜け面の割にデンキナマズという生き物は人死にを出すレベルで危険な生き物だ。何しろ名前の通り発達した発電器官から電気を発生させて感電死させるという例が結構ある。

 自分自身も感電しているらしいが、そこは絶縁体になっている脂肪組織のおかげで耐えているそうだ。

 

 おまけに繊細な電気の使い方もして、周囲の様子を電場で探ることもできるという器用さだ。

 

 そんな生き物が魔獣とかいうモンスターとして存在しているのだから、これは油断ならない。

 

 よく見かけるのは六十センチくらいのものらしいが、今回駆除してほしいのは二メートルくらいはある良く育ったものらしいので、これは危険かもしれない。デンキナマズは大きくても一メートルちょっとで、二メートルもいくとより強力なデンキウナギレベルのサイズだ。

 発電器官は当然体が大きくなればなっただけ増えるし、この生き物は魔獣とかいう魔術を使う生き物らしいので、より強力な電気を使うかもしれない。

 

 思えば、水の中がホームという面倒くささ込みでとはいえ、あのリリオを一撃で沈めた熊木菟(ウルソストリゴ)と同ランク帯のモンスターだ。あんまり甘く見ると私はともかくリリオはまずいかもしれない。

 

 私はインベントリをあさって一本の棒を取り出して、おもむろにリリオのベルトに差し込んだ。まあ一応これで装備品ってことにはなるだろう。

 

「な、なんですかこれ?」

「……おまもり」

「いま説明面倒くさくなったでしょう!?」

 

 その通りだ。

 だがまあ、リリオも私の奇行には慣れたようで、ちょっと位置を直しただけでそのままにしてくれた。

 

 あの棒、正確には杖は、《フランクリン・ロッド》という装備品で、装備している間、雷属性の攻撃を減衰し、また確率で反射してくれるという耐電装備だ。私が装備すれば幸運値(ラック)の関係で確実に反射できるが、リリオの場合どうだろう。まあ運はいい方だと思うが。

 

 一応私の方も耐電装備として、《雷の日と金曜日は》というアクセサリー装備を身に着ける。レコード・ディスク型のこれは雷属性の攻撃を受けた時低確率でダメージ分体力を回復してくれるというもので、普通なら気休め程度の装備だ。お察しの通り私が装備すれば確実に体力回復するえげつない効果に早変わりだが。

 

 さて、一応の準備を整えたあたりで、船頭のおじさんもそれらしい地点に辿り着いたようだ。

 

「よーし、ここらへんだあな。まあ一、二尾もやれりゃあいいかねえ」

「根こそぎにしてやります!」

「私を当てにするな」

「担げるだけ行きます!」

「魚臭くなりそうだな……」

 

 非常にやる気満々のリリオは、川底まで届くという長い長い竿を危なげなく操り、勢いよく川面につきこんだ。そのつきこんだ棹がつきこんだ時と同じくらいの勢いで、はじき返されるように飛び上がる。

 

「いやまあ……ようにっていうか、はじき返されたんだろうけど」

 

 次の瞬間には、船は下から突き上げるような波に押されて大きく揺れ、一瞬視界が激しい光に覆われた。

 

 そして多分、轟音がした。

 多分というのは、その音があまりにも強すぎて、ほとんど耳鳴りのようなものになり果ててしまったからだった。

 

 まるでスタングレネードのような強烈な光と轟音に、リリオの体は完全にすくんでしまっていた。咄嗟に私が腰のベルトをひっつかんでいなければ落っこちていたかもしれない。つくづく刺激に鈍いこの体にいまは感謝だな。

 

 同じくすくんでいた船頭のおじさんは、しかしやはり慣れがあるのだろう、思いのほかに早く立ち直り、素早く船を操って下がり始めた。

 

「ありゃあ主だあ。引きが強いな嬢ちゃん!」

 

 主、ね。

 成程主という位のことはある。

 

 なにしろすでに水の中に引き返そうとしている尾の部分だけで一メートルは越えている。全体ではとても二メートルどころではないだろう。

 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》である《生体感知(バイタル・センサー)》で水中を探ってみた結果、ざっくり五メートルはありそうだ。

 

 確かデンキナマズの最大サイズが百二十二センチで二十キログラムぐらい。大体まあ体長が四倍くらいとすると、二乗三乗の法則にしたがえば体積つまり(イコールではないけど)体重は千二百八十キログラム、一・三トンくらいかな。

 トンとかいう単位が出てくると途端に重たく感じるけど、カバよりは軽いな。馬だって大きいのだったら一トンくらい行くらしいし。でかいマグロで700キロ弱ぐらい。

 

 まあどれだけ前向きに考えても、そいつと戦うってことを考えたら何の救いにもならないけど。

 

 敵さんの方はどうやら完全に戦闘態勢に入ったようで、船の周りをぐるぐる泳ぎ始めた。時々バチバチと光が上がり、川面が泡立つのは、発電時の熱が水を沸騰させているのだろう。どんなジュール熱だ。

 正確に距離を取っているのを見る限り、電場で周囲を探っているっていうのは本当らしいな。

 

 さてどうするか。




用語解説

・月
 この世界にも月があるようだ。それも全く同じ大きさ、同じ模様に見える。これはいったい何を意味するのだろうか。

・《フランクリン・ロッド》
 金属製の杖の形をした装備品。ゲームアイテム。装備していると雷属性のダメージを三割ほど減衰し、また二割程度の確率で敵に反射して返す効果がある。
『彼のお方の加護を受けし雷避けの杖なれば、雷神とても忽ち退散せしめよう。…………原理は今ひとつわかっとらんのだがね』

・《雷の日と金曜日は》
 ゲームアイテム。レコード・ディスク型のアクセサリ。装備していると雷属性の攻撃を受けた時に五パーセントの確率でダメージ分体力を回復してくれる。気休め程度ではあるが店売りの商品なので序盤は買う人も多い。
『雷の日と花の金曜日は、さあ気分を上げていきましょう!』

・スタングレネード
 強烈な光と音を発してショック症状に陥らせ、行動を封じる道具。

・《生体感知(バイタル・センサー)
 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》。隠れた生物や、障害物で見えない向こう側の生物の存在を探り当てることができる。無生物系の敵には通用しないのが難点。
『生命を嗅ぎ取る嗅覚こそが彼の奥義だった。それ故にゴーレムに撲殺されたのだが』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話 白百合と乙種魔獣

前回のあらすじ
ナマズ退治だと思ったらガチでモンスターだった件。


 川底に棹を突きおろし、それが勢いよく弾き返され、次の瞬間に感じたのは目の前が真っ白になるような光と、強い耳鳴りでした。それはまるで見えない槌で頭を殴りつけたかのように強烈で、私は頭の中身まで光と音に流されてしまったかのように、その場に棒立ちになってしまいました。

 

 それでも何とか気を取り直せたのは、腰帯ががっしりとつかまれて、なんとか倒れずに済んだおかげでした。

 耳は聞こえず、目も見えず、ただ真っ白な闇の中で、その感触だけが私の意識をつなぎとめてくれました。

 

 ほんの十数秒。

 しかしそれは致命的な十数秒でした。

 

 私が思い出したように呼吸を再開し、かすむ視界の中でなんとか棹を握り直した時には、目の前に聳えるように巨大な影がこちらを見下ろしていました。

 

 ぼんやりとした視界の中でもはっきりとわかる巨体。間抜けだとか愛らしいだとかいった前評判とは裏腹に、冷酷さすら感じさせるのっぺりとした顔つき。

 ぬらりとした()()()の表面を青白い()()()()が絶え間なく流れ、その接する水面は沸き立つように泡立っていました。

 いんいんと不可思議な耳鳴りに似た音が大気を震わせ、よどんだ眼ではなく、何か奇妙な力でもってこちらを()()いるというのが肌で感じられました。

 

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)

 

 それはただの食材と侮るには、あまりにも凶悪な暴力でした。

 

 神威の権限、()()()()を操る魔獣を前に、しかし私の体はまだすくんだまま、指先は震えるようにしか動きません。いえ、たとえ動けたとして、それが何になったでしょう。目の前で高まっていく圧力を相手に、私に何ができるでしょう。

 

 絶望的な無力感を胸に、私が思ったのはとてつもない恐怖でした。

 私が食い意地に任せて軽率な行動をとったがために、私の物語に付き合ってくれるたった一人の大切なお友達を巻き添えにしてしまうことが、どうしようもなく恐ろしかったのでした。

 

 せめて、せめてウルウだけでも。

 

 そう歯を食いしばった私の体を、ふわりと柔らかな外套が覆いました。

 ぐっと体を抱きすくめられ、ふわふわとした柔らかな何かが、胸元に押し付けられます。

 

「――――」

 

 まだ耳鳴りのする中、それは確かには聞き取れませんでした。

 しかしそれは、とても落ち着いた、優しいウルウの声でした。

 

 次の瞬間、高まり切った圧力が解き放たれ、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の額から青白い雷光が私たちめがけて降り注ぎ、そして全身をずたずたに引き裂く激痛と灼熱とが襲ってきませんでした。

 

 おや。

 

 襲ってきませんでした。

 

 むしろ、驚きで目を見張る私の目の前で、何か不思議な膜にでも弾かれたように雷光は反転し、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)のひげ面に叩き返されたのでした。

 ()()()()を操る霹靂猫魚(トンドルシルウロ)に、自分の放った雷光はさほどの痛手でもないようで、青白い()()()()はその体表を流れて川面に逃げてしまいましたけれど、さすがに驚いたのかその巨体が大きくのけぞり、音を立てて水の中に隠れました。

 

「大丈夫かー嬢ちゃんたちぃ!」

 

 漁師のおじさんの叫びで、ようやく耳が慣れてきたことに気付きました。

 

「目は覚めた?」

 

 耳元でウルウの声がします。

 私は平坦なその声に血の気が下がるのを感じました。

 

 きっとウルウはただ、私が最初の轟音の衝撃から立ち直れたのかということを尋ねただけだったのでしょう。でも私には、食い気に踊らされて寝ぼけていたのだという風に指摘されたように思えました。こうしてウルウに守られていなければ、きっと私は黒焦げになっていたでしょう。

 

 私は馬鹿だ。

 

「だ、いじょうぶですっ!」

 

 私が恐れをこらえて叫ぶと、ウルウはゆっくりと離れて、それから先程私の胸元に当てていた、白くてふわふわとしたものを腰帯に括りつけてくれました。

 

「私も少し甘く見ていた。君の腕試しだし、手は出さないけれど、対策は必要だ」

 

 ウルウはゆっくり私を眺めて、それから言いました。

 

「六割くらいは大丈夫。残りの四割は神頼み」

「うぇ?」

「お守りのこと」

 

 どうやら先程の鉄の棒と、白いふわふわのことらしいです。もしかしたら霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の雷光を弾き返してくれたのはこれなのでしょうか。

 

「過保護もよくないから、死なない程度のことはもう助けない」

 

 う。優しいばかりでもありません。

 でも、助けられてばかりでは私も駄目になってしまいます。ウルウが全部やってくれたらそれはウルウの物語です。私は、私の物語をウルウに見てもらいたいのです。

 それにメザーガおじさんも、全部ウルウの手柄では私の冒険屋見習いを認めてくれないことでしょう。

 

 私は棹を握り直し、覚悟を決めました。

 

 事前に聞いた霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の倒し方は、棹で何度も叩いて刺激して()()()()を出させ、疲労してもう出せなくなってからとどめを刺すというものでした。

 しかしあれほど大きく強大な個体が相手ではこの手段は使えないでしょう。

 

 持久力で争うには相手が悪すぎますし、ウルウのお守りを頼りにするのは危険な賭けです。

 

 となれば、短期決戦で決めなければいけません。

 一撃で急所を貫き、仕留める。これです。

 あの巨体、それにぬめる()()()を通して貫くには、船の上では足場が悪すぎます。なにか仕掛けが必要そうです。

 

 私は少し考え、そして船の周りをゆっくりとめぐりながら隙を窺う霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の影を追いました。泳ぐだけで渦が生まれ、船はもう逃げられそうにありません。

 棹でつついたところであの巨体は身じろぎもしないでしょうし、それで変に刺激して船ごとひっくり返されてはたまったものではありません。

 

 いま船が襲われないのは、恐らく今まで一度も防がれたことのない雷光を弾き返されて、相手が警戒しているからなのです。それでも最も自信のある攻撃である以上、奴は再度雷光をお見舞いしてくるでしょう。長年にわたって外敵を屠り続けてきた矜持のためにも、小細工を押しつぶしてやろうと怒りをたぎらせているはずなのです。

 

 奴が顔を出し、そしてあの雷光を放つ瞬間を狙うしかありません。

 

 ばちばち、ぐつぐつ、青白い雷光が川面を焼き、水を煮えたぎらせ、漁師のおじさんは怯えて縮こまります。しかし私にはわかります。これは威嚇にすぎません。どうだ怯えろと、そのように大声で怒鳴りつける示威行為なのです。

 私が心折れてしまうのを待つように、焦れるようにぐるぐるとめぐっているのです。

 

 ウルウもそれがわかっているのでしょう。揺れる中でもゆったりと腰かけて、眠たげな眼で水面を眺めて落ち着いています。

 

 私もそんなウルウの姿を見てすっかり心を落ち着けて、棹を構えて時期を計ります。

 なにしろ奴の()()()()で川の水は煮えたぎり、そうすれば奴自身も煮え湯の中を泳ぐようなもの。()()()()を放ち続けることで疲れも来るでしょうし、煮え湯の中を泳ぎ続ければいずれ必ず耐え切れなくなります。

 

 すぐだ。もうすぐだ。

 

 互いに焦れるような、しかし後で思ってみればおどろくほど短いつばぜり合いのような時間が過ぎて、ぐわり、と水面が持ち上がりました。

 

 来た!

 

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)のぬめる()()()が川面を割って聳え、そのよどんだ瞳が怒りをにじませてこちらを睥睨(へいげい)します。

 ばちばちと先程よりもはるかに激しく全身を()()()()が走り、そして額のあたりに集まっていきます。

 

 雷神もかくやというその異様に思わず息をのみかけますが、しかしどれだけ威力が上がろうが、それはもう先ほど見た技です。

 辺境の武辺に、同じ技は二度通用しないということを教えてやりましょう。

 

 雷光が青白く輝き、そして奴が首をわずかに後ろにもたげた瞬間、私は手に持った棹を奴に向けて放りました。

 奴が反射的にため込んだ()()()()を放つと、それは私たちではなく棹に向けて流れ、そして棹を焼き焦がしながらその端の浸かった川面へとまっすぐに流れていきました。

 

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は魔術でもって()()()()をあやつりますが、その()()()()というものは、水が高きから低きに流れるように、流れやすい方へと流れる性質があります。

 

 神殿や時計塔のように高い建物ばかりに()()()()が落ちるように、高いものへと落ちやすいですし、落ちた()()()()は金属や水など、流れやすいものを選んで流れていきます。

 

 私はおつむの回転の遅い方ではありますけれど、辺境育ちは学がないと思われるのは心外です。

 

 雷光を外し、ため込んだ()()()()をすっかり吐きつくし、再度川へ潜ろうとする霹靂猫魚(トンドルシルウロ)ですが、その動きは鈍いです。

 雷光を放った直後、自分自身もしびれて硬直することは先程確認済みです。

 

 私は不安定な足場を蹴って飛び上がり、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を目指します。

 勿論、こんな足場ではどれだけ強く蹴っても大した距離は得られません。

 

 しかし、ここで役に立つのが私の装備です。

 飛竜革の靴に加護を祈れば、私の足元で風精が集まり、見えない足場を作ってくれます。それを踏みつけ、もう一跳び、その先でさらにもう一跳び。

 

 空の階段を駆け上り、鈍く固まった霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の頭上へと飛び上がり、ずらりと引き抜く腰の愛剣。

 大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻から削り出した頑丈な切っ先を下に向け、最後の一蹴りで真下に向けて強く飛び出せば、私の体重そのものが勢いに乗せて力となる。

 

 狙い過たず一突きに、やわな()()()を鋭く割いて、硬い頭蓋も何のその、顎の下まで突き抜けて、確かに私の剣は霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を貫いたのでした。

 

 しかし敵もさるものひっかくもの、最後の悪あがきにと全身をぶるうんぶるうんと震わせて、じばじばじばばと青白い雷光が全身を駆け巡ります。

 お守りのおかげかいくらかは弾かれ、しかしそのいくらかは確かに私の体を駆け抜け、全身が思うのとはまるで別物のように震え、かたまり、剣から指を離すことさえできません。

 

 ようし、こうなれば根競べです。

 私は()()()()に震えながら握りしめた剣をぐいりとひねって奴の頭の中をかき回し、奴は悶えながらも私の体に()()()()を見舞い、そして。

 

 そして、私の意識はぷつりと途絶えたのでした。




用語解説

・はだえ
 皮膚のこと。

・ふわふわとした柔らかな何か
 ゲームアイテム。正式名称《三日月兎の後ろ足》。幸運値(ラック)を飛躍的に高めるレア装備。この装備を入手するためにまずこの装備が必要だというジョークが生まれるほどの低確率でしかドロップしない。
『何しろこいつはとんでもない幸運のお守りさ。前の持ち主は後ろ足を切り取られたみたいだが』

・飛竜革の靴
 風精を操って空を飛ぶ飛竜の革は、うまくなめせば風のせいとの親和性が非常に高くなる。これで作られた靴は、空を踏んで歩くことさえできるという。

大具足裾払(アルマアラネオ)
 辺境の森林地帯などに棲む巨大な甲殻生物。裾払の仲間としてはかなり鈍重そうな外見ではあるが、その甲殻は極めて強靭な割に恐ろしく軽く、裾払特有の機敏な身のこなしに強固な外角が相まって、下手な竜程度なら捕食する程に強大な生き物である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十話 亡霊と後始末

前回のあらすじ
霹靂猫魚(トンドルシルウロ)との決死の死闘を繰り広げ、ついに気絶するリリオ。
そしてそれを甲子園観戦くらいの興味のなさで見守るウルウであった。


 リリオって割と無鉄砲なところあるよなあ。

 

 いまさらながらにそんなことを思いながら見上げる先では、巨大なナマズの頭に剣を突き刺し、感電して痙攣しながらもしがみついているリリオの姿があった。

 《フランクリン・ロッド》と、ついさっき渡したばかりの《三日月兎の後ろ足》の相乗効果でそこそこ弾き返しているとはいえ、四割は喰らっている癖に戦意が衰えないのは驚異的なバーサーカーっぷりだ。

 

 感電というかなり恐ろしい光景を目の当たりにしても私がそれなりに平然としているのは、口の端から泡を吹きつつ、少女がしていい顔からかけ離れた形相で奮闘しているリリオが面白いからではなく、単純にパーティ・メンバーとして彼女のステータスが見えるからだ。

 

 ステータスの内の一つ、《HP(ヒットポイント)》が見える私には、見た目はどうあれ実際のところどれだけ()()()のかというのが数字でわかる。

 水に落ちた上で喰らったらどうかわからないが、少なくともああして乾いた状態であれば一発当たり五パーセントも減らないし、全体《HP(ヒットポイント)》からするとまだ半分もいってない。

 

 もともと生命力(バイタリティ)があほほど高いのでそれほど心配はしていなかったが、知性(インテリジェンス)が低いわりに魔法ダメージが少ないのは、この世界ではダメージ計算の数式が違うためなのかもしれない。そのためか予想よりもかなり余裕がある。

 

 とはいえ。

 

「あ、落ちる」

 

 さすがに気絶(スタン)までは免れないか。

 脳をかき回されてようやく絶命したナマズだが、それと同時に張り詰めていたリリオも気絶したらしく、ぐらりと倒れていく巨体とともに、剣を握りしめたままのリリオも一緒に落下していく。

 

 さすがに水に落ちられると回収が面倒くさいので、移動《技能(スキル)》である《縮地(ステッピング)》で一息に飛び移り、リリオごと剣を引き抜き船に放り投げる。

 船頭が大慌てで受け止めるのを尻目に、大ナマズの顎を蹴り上げて船の上まで蹴り飛ばす。反動で自分の体が落ちる前に再度《縮地(ステッピング)》で船へと戻る。

 

「おおおおお落ちてくっぞぉ!」

 

 あとは実にいいリアクションをしてくれる常識人の横でインベントリを広げ、落ちてくる大ナマズを頭から収納して、はいおしまい。

 さすがに五メートルもある巨体がぬるぬる入っていくのは見ていて面白い光景ではあったが、生臭くなりやしないかと不安ではある。そして相変わらずこの世界のものには重量設定がないのか、問題なく全身が入り切る。設定甘いんじゃないのか神様とは思うけれど、便利なので文句は言わない。

 

 目を白黒させる船頭があまりにも哀れだったので、できるだけ優しい微笑みを心掛けて、そっと肩を叩いてやる。

 

「あなたは何も見なかった」

「ひぇ、いンや、でもよ」

「あなたは、何も、見なかった」

「……へ、へぇ」

 

 落ち着いてもらえたようだ。

 やはりパニックの時は落ち着いて話しかけるのが一番だ。

 

 船上に転がされたリリオの様子を確認してみるが、あちこち焼け焦げて皮膚も裂けたところがあり、白目剥いて泡吹いていたり、これ死んでるんじゃないかという位かなり酷い有様だが、ステータス上では《HP(ヒットポイント)》残り三割以上残しており、致命傷には程遠い。

 起きてから回復薬を飲ませても十分間に合うだろう。

 

 ……この見かけでこれくらいのダメージということは、もしかして熊木菟(ウルソストリゴ)に襲われた時も存外平気だったんじゃなかろうか。

 そう思いたるとあの時薬を飲ませる際に行った行為が途端に気恥ずかしくなってきたが、あの時はそんなことに頭が回らなかったのだ、仕方がない。事故みたいなものだ。

 

 ともあれ、だ。

 一応はこれで試験は合格したと言っていいだろう。

 あんまり小さいものだったら乙種未満として認められなかっただろうが、このサイズは乙種とかいうのに十分見合うと思う。見合わなかったらこの世界の基準値おかしい。

 

 仮に私が、この最大レベルの私がタイマン勝負を挑んだとしても、環境もあって耐電装備込みでもそこそこ苦労させられただろうし、もし耐電装備なしでやりあえと言われたら遠距離からちまちま削るくらいしかやりようがない。日が暮れるわ。

 

 そう考えると、耐電装備に幸運値(ラック)爆上げした状態とはいえ、一人でとどめ刺したリリオはすごいな。私のステータス任せとは違って、戦闘に関する考え方や技術の違いなんだろうか。最後は気絶してしまったとはいえしっかり倒し切っているし、私に頼ろうとしなかったあたりも頑張っている。

 

 よし。

 

 私は船頭にお願いして、指示通りに船を動かしてもらった。

 《生体感知(バイタル・センサー)》を使えばある程度以上の大きさの魚影を探ることなど容易いし、耐電装備を整えた私にかかれば程々の大きさのデンキナマズなど大した敵ではない。というか電気を喰らえば回復するという装備なのだから負けようがない。棹でつついて顔を出したところを、ちょっと気持ち悪いがひっつかんで首を折れば終わる。哺乳類に比べればまだ抵抗感はない。

 

 ああ、いや、まて、生きている方が高いんだっけ。私はどっちでもいいが、冒険屋はあまり儲からないようだし、ちょっと稼いであげた方がいいか。それに鮮度がいい方が美味しいだろうし。

 

 となると何がいいかな。

 

 私はしばらくインベントリに納めた装備を見直し、生け捕り特化に組み立てることにした。一匹くらいは自分でも調べてみたいし、こいつを飯の種にしている冒険屋の迷惑にならない程度に荒稼ぎさせてもらおう。

 

 結局最終的には、電気攻撃を喰らった時の為に《雷の日と金曜日は》を装備し、確実に手元まで来るように《火照命(ホデリノミコト)の海幸》という釣り竿を使って吊り上げ、手元まで来たところで《アルティメット・テイザー》という気絶(スタン)属性特化の武器で意識を奪い、その状態でインベントリに放り込んだ。

 

 このやり方は実に効率的で、途中までは呆然と眺めていた船頭が、あまりの効率の良さに「悪魔の所業」「霹靂猫魚(トンドルシルウロ)があわれ」「もはや作業」とこちらの良心をちくちくつつくようなことを言い始めたので、程々のところで切り上げた。

 

 実際のところは途中で作業ゲーが中毒化して予定より獲り過ぎたのでやめたのだが。

 

 そのようにして結構長時間楽しんだもとい作業していたのだが、リリオは一向に目を覚ます気配がない。

 もしかして死んだかと思って確認してみたら、気絶から睡眠状態に移行していたので《ウェストミンスターの目覚し時計》でぶん殴って叩き起こし、あれからどうなったとか(ヌシ)はどうなったとか騒がしいリリオを引きずって《踊る宝石箱亭》まで戻ることにした。

 

 運動してお腹が減ったので、そろそろ昼飯にしたかったのだ。




用語解説

・《縮地(ステッピング)
 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》の一つ。短距離ワープの類で、一定距離内であれば瞬間的に移動することができる。ただし、中間地点に障害物がある場合は不可能。連続使用で高速移動もできるが、迂闊にダンジョン内で高速移動していると、制御しきれずに敵の群れに突っ込んだ挙句《SP(スキルポイント)》が切れるという冗談にもならない展開もありうる。
『東にぴかっと 西にぴかっと 天下を自由自在に 千里の山々を駆け抜けて 暗殺者は行く』

・《火照命(ホデリノミコト)の海幸》
 ゲームアイテム。水際などの特定の地形で使用することで魚介などの特殊なアイテムを確率で入手できる。使用する場所によって釣れるものが異なり、ひたすら釣りアイテムをコレクションするアングラーと呼ばれるプレイヤーも多かった。時にははずれを引くこともあるが、閠の幸運値で使うとレアアイテムしか出てこないという逆の弊害が発生する。
『おかしな話だろう。私はただ釣り針を返せと言っただけなんだ。誠意を見せろと。そりゃ怒りすぎたかもしれないが、ここまでするか?』

・《アルティメット・テイザー》
 ゲームアイテム。装備品。攻撃力は低いが、高確率で相手を気絶(スタン)状態にできる特殊な装備。思いっきり世界観に反したような、露骨にスタンガンにしか見えないヴィジュアルだが、設定上一応魔法の道具らしい。
『アルティメット・テイザー・ボール! 超エキサイティングなこのゲームがついにはじまりアッ! やめろ! 司会にテイザーを使うんじゃアッやめアッアッアッ』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一話 白百合と揚げ猫魚

前回のあらすじ
悪魔の所業。


 私が目を覚ました時、というか目を覚まさせられた時、全ては終わった後でした。

 

 漁師のおじさんは「おれぁ何も見てねえ」を繰り返すばかりですし、ウルウは説明が面倒くさいのか「君が勝ったよ」しか教えてくれないし、なんだか消化不良です。

 一応とどめを刺してから気絶したのは確からしいのですが、ほとんど相打ちだったような気もします。

 

 船から降りて自分の足で歩こうとすると、膝ががくがくと大笑いで、あちこちしびれるし痛いしで、かなりの怪我を負っていることにようやく気付きました。戦闘後の高揚でいまのいままで麻痺していたみたいですけれど、さすがに無理して動くにも限界があるみたいです。

 

「ちょ、っと、待ってくださいね。すぐ、すぐ行きますから」

 

 ぎぎぎぎぎ、ときしむ音さえ立てそうな体を何とか動かそうとすると、ウルウにがっしりと顎を抑えられました。そして口の中に何やら硬くて細いものを突きこまれ、ドロッとした液体を流し込まれ、苦いそれを思わず飲み下してしまいます。

 この私が口に入れるもので何かを不味いって思うの相当珍しいですから、これは相当な不味さです。

 

「ん、ぐっ、ふぅっ、けほ、えほ、な、なんですこれ?」

「疲れた。眠い。お腹減った」

 

 それは説明ではないです。

 物凄く面倒くさそうに私の背中をせっつくウルウに、まあ気を失って迷惑かけましたしと歩き出そうとすると、何と身体が軽いじゃありませんか。

 

 ぎょっとして見下ろしていれば、皮膚の裂けたところも治っていますし、気だるさやしびれた感じもありません。鎧の焼け焦げなんかはそのままですけれど……。

 

 ちらっとウルウの方を見れば、そこには見たことのある瓶をしまっている姿が。

 

「今の、もしかして、あの野盗たちに使ってた……」

「そう」

 

 そう、じゃありません。

 あんな貴重そうな霊薬を一体何本持っているのでしょうウルウは。

 

 いえ、深く考えるのはやめましょう。怖いですし。それにウルウが私のために使ってくれたということを喜びましょう。それが例えお腹減って疲れて眠いので早く宿に戻りたいがためだとしても。

 

 私は急かされるままに《踊る宝石箱亭》に戻り、暇そうに包丁を研いでいるジュヴェーロさんのもとへと向かいました。

 時刻はちょうど昼頃。ご飯時です。

 

「おや、お帰り。収穫はどうだい?」

「大物でしたよー」

 

 私がお願いするまでもなく、ウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》からぬるりと(ヌシ)を引きずり出すと、昼食を摂りに来ていた冒険屋たちから、そのとてつもない巨体と、そしてそれを収めるとてつもない収容力の《自在蔵(ポスタープロ)》とに驚嘆の声が上がりました。

 私としてはちょっと自慢気な気持ちではありますけれど、視線を集めたウルウはとてつもなく面倒くさそうです。

 

 ジュヴェーロ氏も驚きの顔で、床に転がされた(ヌシ)を検めます。

 

「こいつはまたとんでもない大物だ! いやぁ、これは間違いなく乙種だね」

「でしょう!」

「でも傷口が荒いし、全身が大分焼け焦げてるから、素材の価格はちょっと落ちるな」

「あう」

「あと大きすぎると大味になって美味しくない」

「ぐへぇ」

 

 あれだけ頑張ったのにそれはあんまりでした。

 がっかりしていると、ウルウが一歩前に出ました。

 

「私のも買い取って欲しいんですが」

「そう言えばウルウもあの後獲ってたんですってね」

「ほほう。いいとも。状態が良ければ買い取るよ」

「状態が良い奴は全部買い取ってくれます?」

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は素材もとれるし飯にもなるしね、相場で買い取るよ」

「言質は取った」

「へ?」

 

 ウルウがにっこりと笑います。

 その営業用の爽やかさがかえって私にその先を予想させました。

 

()()()()

「……なんだって?」

「傷なし。生け捕り。サイズは肥えた成魚ばかりで三十八匹。願いましては?」

 

 ウルウがあくどい笑顔で《自在蔵(ポスタープロ)》から手妻のように次々に取り出しましたるは、まるで川からそのまま飛び出たような傷もない霹靂猫魚(トンドルシルウロ)たち。

 一抱えもあるようなそれが十を超えたあたりで、さしものジュヴェーロさんも顔を引きつらせて止めました。

 

「待て待て待て」

「言質は取った。状態が良い奴は全部買い取ってくれるんだそうで」

「い、言った……言ったが……」

「証人もいますね。おたくの常連が」

 

 面白がった冒険屋たちがそうだそうだと声を上げます。

 

「ええい、わかったわかったわーかりましたよ!」

「『報酬は出来高制。討伐数で基本給。調理できないほどだったら廃棄だけど、傷が少なけりゃ卸した数だけ加算。まあまず無理だけど生きて捕まえられたら特別報酬』。だったかな」

「特別報酬もね! 忘れてくれりゃいいのに!」

「『お料理代は』?」

「ご馳走するよ!」

 

 ウルウは満足げににっこり微笑んで、それから疲れたようにため息一つ、またいつもの三白眼で私をちろりと見ました。

 

「満足かい?」

「うぇ!? え、ええ、もちろん大満足です!」

「よかった」

 

 頑張ったねと私の頭を撫でて、ウルウは再度ジュヴェーロさんに向き直りました。

 

「さて、残りはどこへ?」

「氷室にしまおう。さばくにも時間がかかるし、仕込みもいる。料理は夜でいいかな?」

「リリオ」

「え、はい、大丈夫です!」

「じゃあ、お昼に軽く何か作ってください。この子も私もくたびれた」

「夜が入るように軽めにしとくよ」

「お願いします」

 

 麺麭(パーノ)乾酪(フロマージョ)の簡素な昼食を済ませると、ウルウは「疲れたから寝る」と言いおいて部屋まで戻ってしまいました。でも多分あれって、今のを見た冒険屋から絡まれるのが面倒くさいから引きこもったっていうのが正しいですよね、きっと。

 

 さて、ではそんな面倒くさい状況に取り残された私としましては。

 

「ジュヴェーロさん! 仕込み手伝いますよー!」

「おお、助かるよ!」

 

 お手伝いの名目で厨房に逃げ込むのでした。

 

 

 

 さて、夕刻の鐘が鳴って、そろそろ晩御飯時です。

 

 大量の霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を腐る前に売りさばくため、今晩は急遽大安売りとして昼から宣伝していました。

 おかげさまで普段来ないようなお客さんまで詰めかけて、酒場は満席、追加のテーブルまで借りてきて、店の外にまで席を広げる始末です。

 

 なお、安売りと言っても、実は普段が技術料と希少価値でふんだくってるんだけどねとは内緒のお話。

 

 私は流れで、ウルウは結局罪悪感やらなんやらで、給仕として働くことにしました。お給金は出ませんけれど、営業が終わった後には一番いい霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を使った、特別メニューをふるまってくれるとのことです。

 

 ウルウは、「それって当初の契約通りなだけでは」とずっとぼやいていましたけれど、給仕用にと貸し出してくれた衣装が可愛いので私としては満足です。旅をしているとなかなかかわいい衣装って持てませんしね。

 

 それにウルウはこういう機会でもないときっとこういう格好してくれません。ものすごく恥ずかしそうに「犯罪だろこれ」とぼやいています。確かに犯罪者が出かねませんね。

 

 私たちはひっきりなしに訪れるお客さんたちの注文を取り、揚げ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とお酒を渡して回り、代金をポケット一杯に受け取ってはカウンターに戻って、そしてまた新たな揚げ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)とお酒を受け取って、と店内を駆け巡りました。

 

 そういえば意外だったのは、いえ、意外でもないんでしょうか、ウルウがお金の勘定ができなかったのは驚きました。

 一般によく使われる三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)、商人などが使う額の大きな七角貨(セパン)九角貨(ナウアン)、それにとても大きな取引などで初めて使われる金貨、それらを教えるとウルウは興味深そうに硬貨を見比べました。

 

 この一番価値の大きい金貨を、まあ帝国のものではないようなんですけれど、しれっと渡してしまうあたりウルウの金銭感覚がおかしいということは前々から感じていましたが、そもそもお金の単位すらわかっていなかったというのは驚きです。

 

 そして教えれば一回で覚えて、すぐに()()で計算できるようになるのにはもっと驚きました。それなりに慣れた私でも指を使って計算するのに、ウルウは何も見ずに私よりはるかに早く計算してしまいます。

 

 一度商人らしいお客さんが、誤魔化しているんじゃないかと算盤(アバーコ)を持ち出しましたけれど、ウルウの方がより速く正確に計算するものですから、すっかり驚いていました。

 それで何組もの商人が面白がって算盤(アバーコ)で、または暗算で勝負を挑み、それを酔客がまた面白がってどちらが勝つか賭け出すという騒ぎにもなりましたが、なんとウルウが全勝してしまいました。

 

 こんなに騒ぎになってしまってお店は大丈夫なんだろうかと不安になりましたけれど、よく見たら胴元はジュヴェーロさんでした。ここで一儲けして赤字分を取り戻すとおっしゃっていました。

 

 まったく!

 

 私はもちろんウルウに賭けましたけどね!

 

 そのようにして騒がしい夜は過ぎ、ようやく全てのお客さんが帰った後、私たちはくたくたの(てい)でそれぞれ椅子に座りこんでいました。

 長く、苦しい戦いでした……。

 もしかしたら(ヌシ)との闘いより疲れたかもしれません。

 

「明日はお休みにしちゃうから、片づけは明日にして、まかないにしよう」

 

 ジュヴェーロさんが疲れのにじんだ、しかしたっぷり儲けた商人の顔でそういうので、私も、そしてウルウも顔を上げました。

 

「まあまかないといっても、お客にも出してない飛び切りのメニューだ。楽しみにしていいよ」

 

 私たちが現金にもきびきびとカウンター席に着くと、ジュヴェーロさんはにんまり笑いながら、たっぷりの揚げ油を沸かした鍋に、衣をつけた切り身を泳がせ始めました。

 

 正直なところ、その時の私は「なあんだ」と思ってしまいました。

 というのも、この一晩でもう一生分の揚げ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は見たものと感じるほどで、食べる前から飽きてしまうくらいだったのです。

 

 しかしここで目を見張ったのがウルウでした。

 

「これは……」

「わかるかい?」

 

 ジュヴェーロ氏は黄金色にからりと揚がった切り身を竹笊の上に上げると、上にぱらりと軽く塩を振って、すぐに私たちに寄越してきました。

 

「まずは塩だけでやってごらん」

 

 ウルウが遠慮なく口にするので、私も負けじと手を付け、そして実に、実に驚きました。

 

 大きく頬張ると、さくりとあまりにも軽やかな歯ごたえとともに衣が崩れ、火傷する程に熱い白身がほろほろと崩れてきます。この白身というのが全く驚くほど味わい深く、淡白ではあるのですが、ほんのわずかにかけられた塩が、その旨味を十全に引き出してくるのです。

 またその身の汁気たっぷりなことに驚かされました。揚げ過ぎた揚げ物というものは大抵ぱさぱさしているものですし、かといって揚げ方が弱ければ生のままです。これは、その生から火が通るギリギリのところを見極めて、いえ、余熱ですっと火が通るところを見計らって油から取り上げられているのでした。

 

 揚げたての揚げ物というものがここまで美味であるということを私は初めて知りました。

 それも、目の前で上げて、一分と経たないうちにすぐに食べてしまえる、このカウンター席でしか食べられないまさしく特別メニューです。

 

「さ、お次はこいつにつけて食べてごらん」

 

 さっと揚げられた揚げ猫魚(シルウロ)と一緒に、今度は小鉢に何か褐色の澄んだ液体が渡されました。

 これもまたウルウが手慣れた様子でさっとつけて食べるので、私も半ばほどまで浸して食べてみました。

 

 汁気のせいでしょうか、先程のさくりと崩れるような感じではなく、じゃくりと少し重たい歯応えで、しかしそれがまた歯に嬉しい感触でした。

 

魚醤(フィシャ・サウコ)猫魚(シルウオ)の出汁で割ったものさ」

 

 またこの不思議な液体の味が繊細で、不思議な香りがするのですが、魚のうまみがたっぷりと凝縮されており、塩だけを振って食べた時よりも強い塩気が、あっさりとした白身をうまく持ち上げて、気づけばじゃくじゃくっと食べ進めてしまうのでした。

 

 ああ! 早く次を揚げて! そう願わずにはいられません。

 

「いい食べっぷりだ。じゃあこいつはどうかな」

 

 竹笊にざっと置かれたのは、今度は衣に緑色が散っていました。

 

紫蘇(ペリロ)の葉を刻んで衣に混ぜ込んだんだ」

 

 これには軽く塩を振って食べてみると、ふわりと爽やかな紫蘇(ペリロ)の香りが広がり、脂っこくなってきた口の中を爽やかにしてくれました。それでいて、たっぷり詰まった魚のうまみはまるで損なわれるということがなくて、むしろ、かえってそのさっぱりとした香りとともに口の中にあふれてくるようでさえあります。

 

 私が無意識に左手をテーブルの上に彷徨わせると、ジュヴェーロさんがにやりと笑いました。

 

「わかってるとも。こいつだろう?」

 

 そいつです!

 

 ジュヴェーロさんがにやっと笑って寄越してくれたのは、酒杯にたっぷり満たされた麦酒(エーロ)でした。

 ごくごくごくっ、と音を立てて飲み下すと、さっぱりとした苦味と複雑な香り、それにフルーティーな甘みとコクとが、のど越しもよく流れ込んできます。

 

 そしてそこに揚げたての猫魚(シルウロ)

 じゃくりじゃくりと頬張り、そしてまた麦酒(エーロ)!

 この単純で、しかしだからこそ飽きがこない黄金の連鎖たるや、もう無限に食べられると言っていい程です。

 小食のウルウもこの連鎖を楽しんでいるようで、ゆっくりではありますがその手は止まりません。

 

 そして程よく腹の膨れてきたころ合いで、まるで悪戯でもたくらむような楽しげな顔で、ジュヴェーロさんは本当の特別料理を出してくれたのでした。

 

「さー、さすがにこいつは食べたことないんじゃないかな?」

「え!?」

 

 皿に美しく盛られて出されたのは、なんと薄くそぎ切りにされた生の猫魚(シルウロ)でした。うっすらと紅色を透かす透明感のある白い身は確かにとても美しいものですが、しかし、でも。

 

「な、生で食べるんですか?」

「サシミといってね、西の連中から聞いた食べ方なんだが、なかなかオツだよ」

「で、でもお腹壊しません?」

「普通は壊す」

「さ、さすがに怖いですよう」

「実はね、これは本当の本当にうちだけの秘密にしてあるんだけど、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)ってのは体中に()()()()が走っているだろう。だから腹を壊す虫がつかないのさ。もちろん、生け捕りじゃないといけないけどね」

 

 なるほど、確かにあの強烈な()()()()は腹下しの虫など寄せ付けないことでしょう。

 しかし頭でわかっているのと実際に試すのとはわけが違います。

 

 私が少し怖気づいていると、ウルウは平然と皿に手をかけました。

 

「ジュヴェーロさん、魚醤(フィシャ・サウコ)とやらを少しもらえる?」

「お、ウルウ君はわかるかい」

「川魚は初めてです」

 

 先程の出汁で割ったものよりももっと濃くて、そして匂いの強い魚醤(フィシャ・サウコ)を小皿に次いで渡されたウルウは、粋というんでしょうかねえ、一切れ猫魚(シルウロ)の身をとると、さっとつけて素早く口に運び、そして目を見開きました。

 

「ほへははひへへは」

「へ?」

「リリオ君も食べればわかるよ」

 

 そう勧められれば逃げてもいられないと、私は意を決してウルウと同じように一切れ口にしてみました。

 すると何ということでしょう。火を通した時とはまるで違った甘い味わいが魚醤(フィシャ・サウコ)の塩気によってちょうどよく引き立てられて口の中でとろけあばばばばばばばっ。

 

「ひゃ、ひゃんへふはほへ!?」

「死んですぐの霹靂猫魚(トンドルシルウロ)はまだ雷精が残っててね。生だとそいつが抜けきらずに、独特のしびれを喰らわすのさ」

 

 何というものを食べさせてくれるのでしょう!

 私はエールで口の中を洗い、そして気づけば文句を言う前にもう一口を頬張ってあばばばば。

 

「こいつは後を引くだろう!」

 

 確かに全くその通りです。口の中がしびれるこの、味というのでなし香りというのでなし、かといって食感というのでなし、第四の不思議な感覚が、味わいに不思議な立体感をもたらすのでした。

 

 ジュヴェーロさんも揚げながら食べ、飲み、そして生きのいい身をさばき、その夜は三人で飲み明かしたのでした。




用語解説

・氷室
 ある程度大きな飲食店では、一部屋丸まるを氷精晶(グラシクリステロ)で冷やした氷室を持っていることが多い。

乾酪(フロマージョ)
 動物の乳を原料として、発酵させたり柑橘類の果汁を加えて酸乳化した後に、加熱したり酵素を加えたりしてなんやかんやあって固めた乳製品。いわゆるチーズ。

・夕刻の鐘
 正午の鐘と同じように、夕方の六時ごろに鳴らされる鐘。基本的にどの業界も、長くてもこの時間で仕事は終わる。というのもこの後は暗くなる一方なので灯りがもったいないのだ。

・お金
 帝国の通貨は三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)七角貨(セパン)九角貨(ナウアン)、そして金貨の五種類存在する。一〇〇三角貨(トリアン)で一五角貨(クヴィナン)。一〇五角貨(クヴィナン)で一七角貨(セパン)。四七角貨(セパン)で一九角貨(ナウアン)
 つまり一九角貨(ナウアン)=四七角貨(セパン)=四十五角貨(クヴィナン)=四千三角貨(トリアン)
 金貨は主に恩賞や贈答用で、その重量や芸術性で価値が決まる。
 どうせ大して出てこない設定なので覚えてもこれと言って得はない。

・指を使って計算
 頭が悪そうに聞こえるが、リリオが使っているのは商人の用いる運指。
ひとつは、親指に一、人差し指に二、中指に四、薬指に八、小指に十六という風に数字を割り振ることで、片手で三十一まで数えることのできるもの。両手を遣えば六十二まで数えられる。
 やってみるとわかるが、こんな指攣りそうなものを滑らかにできるだけの器用さは結構なものだ。実用性はともかくとして。
もう一つは、我々の世界ではインド式指算として知られるもので、両手を使って15×15まで計算できる。

算盤(アバーコ)
 いわゆる算盤。竹製や木製、護身用に総金属製などがある。一つの芯に十顆ずつの珠のものもあれば、天一顆地四顆のよく見られるもの、また硬貨の換算に便利なように珠の数を調整したものなど、様々なものが出回っているようだ。

魚醤(フィシャ・サウコ)
 魚醤。魚を塩とともに漬け込み発酵させ、そこから染み出た液体を濾したもの。独特の香りまたは強い匂いを持つが、濃厚な魚のうまみが凝縮されている。塩分濃度は醤油より高い。

紫蘇(ペリロ)
 爽やかな香りのする野草で、緑色のものや、鮮やかな紫色のものなどがある。

麦酒(エーロ)
 上面発酵の麦酒。いわゆるエール。地方や蔵元によって味が異なる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二話 亡霊と冒険屋見習い

前回のあらすじ
あ ば ば ば ば ば ば ば っ 。


 飲み過ぎた。

 

 酔っぱらっていて意識が揺れまくっていたせいか記憶があいまいだけれど、どうにかこうにか《目覚し時計》はセットしたようで時間には目覚められた。

 しかし、気分は最悪だ。アルコール耐性もつけてくれよと思ったがそうなると酔いたいとき酔えないで困るのか。不便だ。

 

 二日酔いで痛む頭を抱えながら身を起こすと、景色が違う。

 何故だと思ってみれば、これは私のベッドではない。部屋の反対側だ。

 

 いやな予感というか確信がして布団をはいでみれば、中途半端に服を脱ぎ散らかしたリリオが腰のあたりに抱き着いて涎をたらしていた。

 反射的に蹴り落として、生理的嫌悪感からくる鳥肌をさすりつつ、自分の有様を確認してみた。

 

 一応、酔っぱらいながらも着替え位はしたようで、下着はつけていないし寝巻代わりの《コンバット・ジャージ》にも着替えているが、うまくジッパーが閉じられなかったのか前は開いているし、かなりだらしがない格好だ。頭に触ってみれば寝ぐせも酷い。

 

 最悪の目覚めだ。

 

 取り敢えず酩酊状態を回復する《ノアの酔い覚まし》という水薬を一口飲んでみると、幸い効果があったようで頭痛も吐き気も晴れた。酔っぱらった時点で飲んでおけばよかったものをと思うが、酔っぱらった時点で思考能力などお察しだ。仕方あるまい。

 

 しかし、この二日酔いという最悪の目覚めはあったが、昨夜の食事は素晴らしいものだった。まさか異世界で天ぷらと刺身が食えるとは思わなかった。勿論、いくらか違うところはあったし、醤油ではなく少し匂いのきつい魚醤であったが、私の中にもわずかばかり存在していたらしいホームシック的な郷愁の念も晴れたというものだ。

 

 刺身を食べた時のあのしびれる感じは驚いたが、ワサビがなくて少し物足りないなと思っていた口にはちょっとうれしい驚きだった。フグの胆ってのはあんな感じなのだろうか。いや、まさかあそこまで直接的物理的にしびれるというのではないだろうけれど。

 

 さて、寝癖を直し、汲み置きの水で顔を洗って歯を磨き、普段の装備に着替えて、これでいつも通りだ。

 

 ベッドから蹴り落とされても暢気に眠りこけているリリオを《目覚し時計》の角で殴って起こし、先に行っていると言い残して階下に降りる。

 

 するとまあ、悲惨なものだった。

 こぼした酒や食べ物、また吐瀉物で床は汚れ、転がっている椅子などもあり、飲み過ぎたらしい泊り客が何組か青ざめた顔でテーブルに突っ伏し、その間をやや緩慢な動きでジュヴェーロさんが掃除していた。

 

「ああ、ウルウ君か。おはよう。すまないが朝飯は昨日の残りで我慢しておくれ」

「構いませんよ」

 

 昨夜揚げた猫魚(シルウオ)の残りをいくらか頂いて食べてみたが、こいつは冷めてもなかなか食える味だった。衣はしけっているが、身の方はなんだかもちもちとしていて、なかなか食いでがある。林檎酢(ポムヴィナーグロ)をかけるとちょっときついが、軽く塩を振って食べるとちょうどいい。

 

 手早く食べ終えて、私は少し考えていったん引っ込み、これなら汚れてもよかろうと昨夜の給仕服に着替え直して、片づけの手伝いに参加した。昨日は随分美味しいものを食べさせてもらったし、これも給料分だ。年甲斐もなく足を出した格好は恥ずかしいものがあるが、酔っ払いに尻を触られそうになっては自動回避が発動しまくってブレイクダンスじみたことさえしたのだ。もう、慣れた。

 

 ジュヴェーロさんに感謝されながら掃除をし、半分ほど片付いたあたりでリリオもおりてきた。リリオは最初から手伝う気だったようで給仕服を着こんでいて、先程までの寝ぼけぶりなどどこへやら、そして二日酔いなどまるでないらしく元気溌剌に掃除に参加した。こいつの高生命力(バイタリティ)は肝臓までカバーしているのか。

 

 私と、そしてえらく元気なリリオの活躍によって掃除は手早く終わり、ジュヴェーロさんは昼から営業を再開することを宣言した。眠そうではあるが、宿屋というものは基本的に年中無休だ。一応昼には雇われの給仕も来るらしいので、それで何とかしのぐそうだ。

 

「さて、それじゃあ報酬と依頼票だ」

 

 ジュヴェーロさんは、私にはまだ虫食いのようにしか読めない依頼票にさらさらとサインをして依頼の完遂を認めてくれ、写しにも同じようにサインをして寄越してくれた。

 

「さて、報酬だけど、ウルウ君の活躍もあって結構な額になってね。どうしようか。手形にするかい? というかしておくれ」

「うーん。とりあえずの手持ちに二十五角貨(クヴィナン)下さいな。残りは手形で」

「助かるよ」

 

 そう言えばこの国、帝国だったかでは、貨幣がきちんと統一されているようだ。これは何気に凄いことだと思う。貨幣というものは担保となる金なり銀なりの価値が安定していて初めて通用する。貨幣がきっちり統一されて、その価値の変動が少ないということは、採掘量が安定している、というよりは国家としての信用がしっかりしていることだと思う。

 

 しかも手形、この場合約束手形になるのかな、そういうものが存在しているということは商取引がかなり洗練されているということだ。専門じゃないからよくわからないが、少なくとも金銭のやり取りを現金以外の方法でできるというのはかなり近代的だろう。

 

 さて、昨夜見せてもらった硬貨は小さいものから順に三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)七角貨(セパン)九角貨(ナウアン)といった。

 名前の通りそれぞれやや丸みを帯びた三角形、五角形、七角形、九角形の硬貨で、どれも大きさは似たようなものだ。

 

 三角貨(トリアン)は銅貨で、支払いで見かけるのはもっぱらこれだ。大振りの串焼きなんかは十三角貨(トリアン)くらいかな。焼き鳥位の小さい奴なら五三角貨(トリアン)くらい。

 

 百三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)になる。これは鉄製かな。少し大きい額の支払いなんかで見かける。一度に食べる量の多いリリオは結構これを使うことが多い。

 

 十五角貨(クヴィナン)七角貨(セパン)になって、これは銀貨だ。さすがのリリオも一度の食事でこれを出すことはない。以前に泊まった《黄金の林檎亭》での支払いで見かけたきりだ。

 

 この七角貨(セパン)四枚分が九角貨(ナウアン)で、これも銀貨だけど、多分含有量が高い。一応リリオも持っていたは持っていたけれど、本当にもしもの時のためのもので、個人で使うことはまずないという。商人なんかが大きな取引で使うもののようだ。

 

 結構計算が面倒くさいが、たいていの場合三角貨(トリアン)五角貨(クヴィナン)しか出回らないから、これに換算すればいい。昨夜は暗算で計算してたら絡まれたので反論したら、何故だかいつの間にか計算合戦になってしまって辟易したが、しかしあれも考えたら悪いことをしてしまった。

 

 なんか算盤みたいなの使って必死で計算しているところ悪かったが、私、途中から暗算なんかしてないんだよね。単品の値段は固定だから、それかけることの幾つかっていうのは、客の数からいって限られてくるから、その組み合わせを覚えれば、あとは計算しないでも当てはめてしまえばすぐに数字出るんだよね。

 単純な数の計算ならもっと簡単で、九九を覚えてるかどうかというのと同じレベルで、二十かける二十くらいの計算までなら昔暇つぶしに覚えたから。

 

 私、計算力はそこそこだけど、記憶力だけはいいんだ。

 

 さて、その上の金貨となるとこれはもう普通は流通しなくて、恩賞や贈答用であったり、銀行や貴族が箔付けにもっていたりというものらしい。

 

 何も考えずにゲーム内通貨の金貨をばらまいた気がするけど、そりゃああの野盗も、リリオも困るわけだ。換金しようにもそうそうできまい。

 

 なので、ウルウの稼ぎですからと渡された手形はそのままリリオに渡した。散々渋られたのだが、私の方も散々渋った挙句に、苦肉の策としてパーティの資金だからというとにこにこ笑顔で納めてくれた。ちょろい。

 

 なお、手形をちらっと見た感じちょっと金額がおかしかったので心の底からジュヴェーロ氏には申し訳ない。そりゃ即金で払えないわ。二メートル弱の奴一匹で八百三角貨(トリアン)かよ。ぼろ儲けし過ぎた。必死こいて囲んで棒で殴って疲れさせたところを捕まえて、傷だなんだで値引かれている地元冒険屋に申し訳なさすぎる。

 

 あまりの申し訳なさに、ウルウもある程度は持っていてくださいと寄越された五角貨(クヴィナン)をさっそくジュヴェーロ氏に渡して、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)獲りの冒険屋が来たら激励代わりに一杯飲ませてやってくださいと言ってしまった。

 

 そのようにして私たちは初めての魔獣討伐を終え、あまりにも早すぎる試験終了のお知らせを叩き付けにメザーガ冒険屋事務所へと向かうのであった。

 

 

 

 メザーガという男は、野ネズミのように勘のいい男らしい。

 

 私たちが、というよりはリリオが事務所の戸を勢いよく開いた時、メザーガはちょうど上着を羽織ろうとしていたところだった。つまり、前回と同じだ。いま思うに、あの時も恐らく逃げ出そうとしていたのだろう。

 私としては面倒ごとを回避しようというその姿勢には大変共感が持てるのだが、リリオの物語がこれ以上進展しないとそれは観客としては退屈極まりないので諦めていただこう。

 

 さて、苦汁をリッター単位で飲み下したような顔で椅子に座り直すメザーガに、リリオは意気揚々と完遂済みの依頼票をもって、さあどうだと冒険譚を語り始めた。冒険者にしろ冒険屋にしろ、武勇譚を語りたがるというのはファンタジーものの定番らしい。

 

 その間私はというと、クナーボと名乗った町娘風の少女に椅子をすすめられ、淹れたての珈琲っぽい飲み物を頂いた。結構大人びた顔立ちだが、成人するのは来年とのことで、西欧人の顔立ちはわからないというか、この世界の生育具合がわからないというか。

 

 このクナーボという少女は冒険屋というものに対して実に愛らしくいたいけな憧れと理想を抱いているようで、それというのもリリオと同じように親戚筋であるらしいメザーガの冒険譚を聞いて育ったもので、それに強く憧れているらしいのだった。

 

 いまは前線を退いているとはいえメザーガの若い頃の武勇はそれはもうすさまじいもので、いや、今だって若者に活躍の場を譲っているだけで腕は全く衰えていない、確かに少しだらしないし金勘定もいい加減だし事務処理だって自分が片付けている部分は多いが、まあ人間としていささかの難点はあるけれどそれを差し引いても冒険屋としてこれほど立派な人はそうはいないと、聞いているこちらの背中がむずかゆくなるような話を聞かせてくれるわけだ。

 

 向こうでその当のメザーガが虚ろな目で天井を見つめているのは、はたしてリリオの話を聞き流しているのかクナーボの話を聞き流しているのか、どちらにしろ哀れな中年だ。

 

 ともあれ、私が一杯の珈琲をのんびり飲み終える頃にはクナーボのメザーガ語りもリリオの武勇伝も落ち着き、疲れ果てたようなメザーガが「もういい」とどちらにともなく告げて、場を整えた。

 

「わかったわかった。依頼票も確かに本物だし、話の内容も嘘はなさそうだ。三十八匹も生け捕りにしたなんざ嘘であって欲しいが、ジュヴェーロがほら話の為に手形切るわけがないからな」

「じゃあ!」

「いいだろう、うちの事務所で冒険屋見習いとして雇ってやる。即戦力もいいとこだが、うちのやり方に馴染むまではまあ、見習いってことでな」

 

 そう聞いたときのリリオの喜びようと言ったら全く、年相応の子供らしいものだった。と言えばかわいらしいが、勢いよく飛びあがって私に抱き着いてきて自動回避を発動させやがった挙句、抱き着いた椅子を締め上げて破壊するという暴挙に出るほどだった。

 

「……言っておくが、備品を壊したら依頼料から天引きだ」

「ぐへぇ」

 

 砕けちった椅子の破片を涙目で組み上げようとする様は、あほな大型犬のようでかわいらしいというよりは、うっかり力加減を間違えて飼い犬をバラバラにしてしまったサイコパスみたいなちょっとぞっとする光景ではある。普段は力加減間違えない癖に私に突進するときだけやたらと破壊力高いの、壊れにくいおもちゃとでも思ってんじゃないだろうなこいつ。

 

「一応空き部屋があるから、二人で使うといい。ベッドが一つに、ソファが一つあるから、交代で使うなり新しく買うなりは好きにしてくれ。家具の新調は自由だが、備品を勝手に売るのはやめろ。倉庫があるから邪魔なのはそっちに移せ。消耗品は自費で賄うこと。飯は付かねえ。要するに屋根だけ貸してやるってことだ」

「わかった」

「わかりました」

「依頼に関しては俺が適正を鑑みて割り振るが、お前らの都合もあるからな、物にもよるが断っても構わん。依頼料から一割を仲介料として抜くが、これは組合の決めた割合で、俺には好き勝手にはできん。高くも、安くもな。あとは何があったか……」

「他所で依頼を受けた時ですよ、おじさん」

「そいつだ。お前たちが自分の足で仕事探して他所で受けてくる分には一向にかまわねえ。ただしその場合うちからの支援はねえし、あんまし他所に迷惑かけるならペナルティもある」

「例えば?」

「罰金、奉仕活動、除籍、まあそのあたりだな」

「大丈夫ですよー、ねえウルウ」

「私はね」

「ウルウ?」

「それから、ほっつきまわるのは自由だが、連絡が取れねえのは困る。長く留守にするときは必ず一報しろ」

「報連相だね」

「あ? なんだって?」

「報告、連絡、相談」

「おお、その通りだ。その三つは大事だ。頼むぜ」

「ええ、勿論ですよ! ね、ウルウ?」

「私はね」

「ウルウ?」

 

 大まかな所はそのような具合らしい。

 私たちは早速部屋を見せてもらったが、どうやら長らく誰も使っていなかったようで、最低限の備品はあるが、逆に言えばベッドとソファくらいしかなく、埃も積もっている。

 

 私たちは適材適所を合言葉に役割分担することにした。

 つまり、リリオは宿まで走って部屋を引き払い、その帰り道でよさ気な家具を見繕う。私は部屋の掃除を済ませ、物置とやらで何か使えるものがないか探す。

 

 冒険屋見習いとしての最初の仕事は、まずこのようなことから始まったのだった。




用語解説

・《ノアの酔い覚まし》
 ゲームアイテム。状態異常の一つである酩酊を回復させる水薬。他の薬品と比べてかなり小さな瓶として描かれているあたり、少量でも効果は抜群、つまり味は相当まずそうではある。
『今年の抱負:酔って脱いでも孫を呪わない』

・記憶力だけはいい
 相当なレベルで。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 冒険屋

前回のあらすじ
無事試験を終了し、あっけなく冒険屋見習いになったリリオとウルウ。
見習いということで依頼料をいくらかピンハネされる未来をまだ知らないのだった。


 私が《踊る宝石箱亭》の部屋を引き払い、荷物を背負った帰り道で細々とした買い物を済ませて、事務所に戻ってくると、なんということでしょう、あの殺風景で何も物のなかった部屋は、殺風景で何も物のないままでした。

 

「おかえり」

 

 実に満足げなウルウですけれど、上着も脱いで動きやすそうな格好で、髪も後ろで括ったりしてうなじが眩しいですけれど、ですけれどもー、どう見ても部屋は殺風景で何も物のないままです。

 

 いえ、きれいに掃除されていますし、よく見れば寝台も増えていますけれど、それ以外何も増えていません。お手伝いしてくれたのでしょうクナーボが隣でひきつったような苦笑いを浮かべているのもわかります。

 

「ただいま戻りました、ウルウ。それでは」

「それでは?」

「模様替えを始めます」

 

 たっぷり十秒ほど小首を傾げて、ウルウはげんなりしたような面倒くさそうな顔をしました。

 

「他に何か要る?」

「まずウルウの感性を直す必要がありそうです」

 

 ウルウが早々にやる気をなくしたのを尻目に、私は物置を確かめて、書き物机があったのでそれを一台持ち込み、道中買ってきたかわいらしい行燈を設置。

 

 壁紙は今からではどうしようもないですのでまた後日として、床も裸じゃ寂しいですね。物置で埃をかぶっていたじゅうたんを、表に出て盛大にはたいて綺麗にして、床に敷いてやれば、足元も暖かいだけでなく、暖色の色合いが目にも優しいですね。

 

 箪笥に、化粧台も物置から引っ張ってきて、姿見はなかったので今度買ってきましょうか。

 ウルウはひそかに読書家さんみたいですけれど、本棚はさすがになかったので今度見繕いましょう。

 

 物置をあさっているうちに、素敵な一輪挿しの花瓶も見つけましたので、壁にかけて、とりあえず匂い消しの花や香草を束ねて飾り、装飾と消臭を兼ねてみます。

 

 テーブルは大きいものだと邪魔になりますから、小さいものを一台。それに折り畳みのできる椅子を二脚。これでお茶くらいはできるでしょう。

 

 あとは水差しやらなんやらとこまごまとしたものを適当な場所におさめて、まあこんなものでしょうか。

 

「いいですか、ウルウ。部屋を整えるというのはこういうことです」

「………なんか」

「なんです?」

「なんか生活感があって落ち着かない」

「生活するんですよ?」

 

 ウルウは何を言っているんでしょうか。

 

 こここそが我が最後の領地と言わんばかりに、自分の寝台の上で膝を抱えて座るウルウは、大津波で世界が流されてしまって最後に残った孤島に取り残された水鳥のように心細そうです。

 

「ウルウの前のお部屋はどうな感じだったんですか?」

「あー……ベッドがあって」

「ベッドがあって」

「…………ベッドがあったよ」

「それは聞きました」

「あと、ご飯食べる、チャブダイ」

「チャブダイ?」

「ちっちゃいテーブルみたいの」

「ちっちゃいテーブル」

「以上」

「異常です」

 

 ベッドとテーブルしかないってどこの牢獄なんでしょうか。

 

「ウルウ、ウルウ。ウルウはそれが当たり前で、もしかしたらこういうのは落ち着かないかもしれません」

「うん」

「即答しないでくださいよ。でもですね、これからは私たち、二人で冒険屋なんです」

「君が勝手に決めたんだけど」

「うぐぅ、で、でもウルウも断らなかったですし」

「うにゅぅ」

「私もウルウのやり方は尊重します。だからウルウも、私のやり方にちょっと慣れてくれると嬉しいです」

「むーん」

「……かぶりつきで主演女優の演技を見ると思って」

「私ちょくちょくそういう言い回しするけど、本気でそう思ってるわけじゃないからね? あくまでたとえであって、そういう言い方すれば私が従う訳じゃないからね?」

 

 ウルウって時々妙に早口で饒舌になりますよね。

 

 ともあれ。

 

「まだ見習いですけれど、冒険屋、なりましたね」

「……冒険屋、ね」

 

 面倒臭そうで、胡散臭そうで、でもそこには確かに小さな高揚が見て取れたのは、私の目の錯覚ばかりではないと信じています。

 

 

 

 

 冒険屋なんて面倒臭くて胡散臭いものに、ついに私もなってしまった、というかならされてしまったというか。いやはや、この前まで生きているのか死んでいるのかも定かではなかった事務職が、やくざな仕事に就くことになるなんて人生わからないものだ。

 

 しかしいろいろショックではあるな。

 冒険屋になったということではなくて、私のセンスがいろいろ否定されたことに関して。

 

 どうやら私の考える文化的で最低限度の生活というものは、福祉なんて概念があるかどうかすら怪しいこの異世界においてすら、有り得ないと一蹴されるレベルで低すぎる水準だったようだ。

 

 だって以前の私の部屋って本当にベッドと卓袱台しかなかったし。他は説明に困ったから言わなかったけど、ノートパソコンと、専門書の詰まった本棚。あとほとんど空だった冷蔵庫か。洗濯は週に一度コインランドリーでまとめてやってた。三点ユニットバスもあったけど、これだけは異世界より高水準かな。冬場はなかなかお湯が出ないし、温度調節が難しいけど。

 

 薄い壁は防音効果も断熱効果もなくて、同じような生き物が同じような時間にひっそりとした物音を立てる、孤独ではないが触れ合うこともない安心感付き。

 最寄り駅まで徒歩三十分。同じような生き物が同じような時間に世を忍ぶようにひっそりと出勤していく、孤独ではないが触れ合うこともない安心感込み。

 これでなんとお家賃五万円ぽっきり。やったね。

 

 やったね……。

 

 ともあれ、他に何か要るのか私にはちょっとわからない。

 

 ほとんど家にいる時間ないのに何で物が要るのか理解できない。家にいたとしてもやる事なんて寝るか専門書読むかパソコンに向かってネトゲしてるかだし、何が要るというのか。

 

 でもこの世界の人間にとって文化的で最低限度の生活というのは、週に一度は観劇に行ったりとかそういうレベルの話らしい。何人だよお前ら。異世界人だよ。二重の意味で。

 

 まあ、しかし、これもまた一つの。冒険か。

 嬉々として部屋の模様替えをするリリオと、それを楽しそうに手伝うクナーボを眺めながら、私はごろりとベッドに横たわる。

 冒険屋、冒険屋ね。人生に飽いた幽霊の転職先としてはまあ、悪くないかもしれない。

 

 冒険屋事務所。

 それが私の新しい職場だ。




用語解説

・用語解説
 与太話のこと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章 鉄砲百合
第一話 白百合と冒険屋稼業


前回のあらすじ
冒険屋見習いとして事務所に所属することになったリリオとウルウ。
旅はまだ始まったばかりだ。


 メザーガ冒険屋事務所に冒険屋見習いとして所属するようになってから早一月がたちました。季節はもうすっかり夏といった感じで、氷菓が恋しくなる頃合です。

 

 私とウルウはすでに何度も依頼をこなし、もうかなりベテランの冒険屋としての風格を見せつけているような気がします。例えばそう、ドブさらいとか、店番とか、迷子のペット探しとか、迷子のおじいちゃん探しとか。

 

「なんか違いませんかこれ!?」

「何をいまさら」

 

 そりゃあ、冒険屋が華々しい仕事ばかりではないというのは知っています。むしろ地味で誰もやりたがらないような仕事ばかりだというのも。

 

 でもそれにしたってこういう仕事ばかり回ってくるというのはおかしくはないでしょうか。事務所の先輩冒険屋たちは魔獣や害獣の駆除なんかも請け負っているというのに、私たちはいつまでたってもドブさらいや店番や迷子のペット探しや迷子のおじいちゃん探しです。

 

 そりゃあそういうのも大事なお仕事ではあるでしょうけれど、でもそういうのは大概依頼料も安いし、さらに見習いということで、授業料という形で事務所にいくらか天引きされてるんですよこっちは。

 

「おちんぎん欲しいんですよこっちは!」

「やめろ」

 

 即戦力という言葉はどこに行ったのでしょう。

 ぐぬぬ。

 

 休日を頂いたけれど遊ぶお金もないので、《こんばっと・じゃーじ》を着てベッドの上でごろごろと悶えていましたが、ウルウは別に気にもしていないようで、同じようにベッドに寝そべったまま何やら分厚い本を読んでいます。

 

「ウルウは不満に思わないんですか?」

「『こういう事は、きっと誰かがどうにかしてくれると誰もが無責任に思ってやがる。当事者でさえ誰かどうにかしてくれと願うばっかりだ。その誰かが冒険屋なんだ。その誰かが俺達なんだ。何せ俺達は、誰が言うでもないのに冒険したいなんて酔狂なんだからよ』」

「そうは言いますけどねえ」

 

 ウルウがちらとこちらを見て(そら)んじて見せたのは、おじさんことメザーガの語る冒険屋論でした。はやく冒険したいと願うクナーボも同じ文句で誤魔化されていますけれど、私は誤魔化されません。それなら先輩方がそういう私たちもしたくないドブさらいとか店番とか迷子のペット探しとか迷子のおじいちゃん探しとかすればいいのに。

 

 そもそもウルウに不満がないのは、もっぱら後ろをついてくるだけでほとんどの仕事を私がしているからなのではないでしょうか。いくらウルウ贔屓の私としても、さすがにちょっとは不満も溜まってきます。

 私がぷんすこしていると、ウルウはのっそりと体を起こして、面倒くさそうに私を見ました。

 

「第一、そんなに稼がなくてもお金はまだいっぱいあるじゃない」

 

 それは、まあ、そうです。遊ぶお金もないとは言いましたけれど、実際のところ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)狩りで頂いた報酬はまだかなり余っていますし、ウルウから預かった金貨も換金は済んでいないものの相当な額になりそうです。

 

 しかしあれらは今後のためにも取っておきたい大事な軍資金です。

 

 それに本音を言えばおちんぎんよりやっぱり冒険したいのです。

 

「私からすれば大分冒険してるんだけど」

「そうですか?」

「ペット探しとか」

「あー」

 

 そういえば、ウルウは迷子のペットにかなり物珍しがっていました。

 先日請けたのはお金持ちの商人の娘さんが、ペットの犬が迷子になってしまったので探してきてほしいとの依頼だったのですけれど、ウルウは犬を見たことがなかったのか、「これが犬?」と首をかしげていました。

 

 まあこういう愛玩犬というものは、私の愛する牧羊犬とは違ってちょっと頭の足りない子ですからね、ウルウが困惑するのもおかしくありません。

 この件で探したのは、八つ足のふわふわとした毛長種の犬だったのですけれど、人懐っこく誰にでものしかかって甘えるので、下町で可愛がられているところを発見しました。

 

 ウルウは犬に慣れていないのか最初は思いっきり怖がっていましたが、ふわふわとした毛並みにのしかかられてその毛並みを堪能しているうちに、「あーむり、これはむり」と毛の中に沈んでいきました。あれは貴重な光景でしたね。

 

 でも私にはあまり物珍しくもないので、そろそろ飽いてきました。依頼報酬のついでに感謝のしるしとして氷菓をご馳走してもらえたのは嬉しかったですけれど。

 

 私たちがそのようにのんべんだらりとしていると、ノックの音がして、クナーボが顔を出しました。

 

「あ、お二人ともいらっしゃいますね。おじさんがお呼びですよ」

 

 はて、なんでしょうか。

 

 私たちが着替えて寮から事務所に向かうと、おじさん、じゃなかった、メザーガがデスクで書類を仕分けているところでした。

 

「おう、来たか。調子はどうだ」

「相変わらずですよ。そろそろ錆びちゃいそうです」

「だろうと思ってな」

 

 おじさんは苦笑いを浮かべながら、書類を繰る手を止めました。

 

「ようやく先方の都合がついてな」

「先方?」

「お前、この前の霹靂猫魚(トンドルシルウロ)で随分やられただろう」

 

 まあ、そうです。私自身のダメージは全然残らなかったのですが、さすがに焼けて焦げ付いた鎧なんかはそのままだったのです。使用するのに問題はありませんが、やはり見栄えはよろしくないです。

 

「耐久性も不安だし、何しろ見すぼらしいと客も不安がるんでな、修理を頼んでいたんだ。それがようやく都合がついたのさ」

 

 なんと、そのようなことを考えていたようです。

 というかそういうことを全然思いつかなかった私はポンコツなのでしょうけれど。

 

「ついでに新調できるものがあれば見てもらうといい。俺のなじみの店だ。頑固だが、腕はいい」

 

 そういってメザーガが放ってきた紙片を受け取れば、簡単な地図と、店の屋号が書いてありました。裏書にはメザーガのサインも。

 

 その地図を頼りにやってきたお店というのが、鍛冶屋街にある一軒の鍛冶屋でした。

 

「―――――」

「え!? なんですって!?」

 

 何かぼそぼそと言っていたウルウは、首を振って耳を押さえました。言いたいことはわかります。

 

 街を貫く川の西側にある鍛冶屋街は、利便から言って川の傍に張り付く形で伸びているのですが、なにしろともすれば川向いからも聞こえる騒がしさです。槌を打つ音、何かを削る音、職人たちの怒号、そういったものが入り混じってかなりの喧騒です。

 

 もともと声の小さなウルウの言葉はまるで聞こえません。

 

 でも不思議なことに、こういうところは少しもすれば慣れてしまって、互いの言葉をうまく拾えるようになってくるのです。

 

 私たちは少しの間、耳を慣らすために、そして物珍しさから鍛冶屋街を歩き回り、そうして程よい頃合を見計らって目的の鍛冶屋に入りました。

 

 看板には()鉄床(かなどこ)の絵。《鍛冶屋カサドコ》というのがその店の名前でした。




用語解説

・おちんぎん
 誰もが欲しがる魅力のあいつ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊と鍛冶屋

前回のあらすじ
ドブさらいに店番、迷い犬に迷いおじいちゃんの捜索に疲れた人生に迷うリリオ。
耳が壊れそうなほどやかましい鍛冶屋街を抜けて、鍛冶屋へと訪れた二人であった。


 予想はしていたことだが、冒険屋稼業というのはまあ地味なものだった。

 

 名前こそ派手なものだが、事務所まで出して安定した仕事を受注するためには、便利屋と名乗った方がいいような細々とした仕事を受けていくほかにないだろう。もちろん、害獣の駆除といったいわゆる冒険屋らしい仕事というのも多いだろうが、それはきちんと信頼と実績のあるベテランが請けるべき仕事で、少なくとも私たちのようなペーペーが請ける仕事ではない。

 

 実力はあるのに、とリリオはぼやいているが、なにしろエクセルや計算能力のように数字で出せるようなものではない。こいつはこれこれこういう仕事をこなしたんですよという実績を積み重ねていかなければ、顧客の信頼は得られないだろう。私たちにはそれが圧倒的に足りない。

 

 それに、リリオには悪いが私にはどの仕事も新鮮だった。

 

 例えばドブさらい。運河から延びる水路や、下水道に詰まりそうになっているドブをさらうのだが、これがなかなか面白い。そりゃあドブだから汚いし臭いのだが、水路のつくりや下水道など、立ち入ることのできる範囲だけだが、興味深い作りをしている。管理人などに聞いてみても、とても古いもので詳しいことはわからないという。これは古代文明とか古代遺跡とかそういうファンタジーの匂いがするではないか。

 

 また店番。大抵雑貨屋のかみさんが産気づいたとか、老店主がぎっくり腰やったとか、また酒場で人手が足りないか給仕をとか、そういった事情から任されるのだが、様々な種類の店の裏側がのぞけてちょっと楽しい。見たことのない商品に触れることもあるし、そういった商品の値札などを見て字も覚えられる。

 

 迷子のペット探しは、これはかなり驚かされた。犬を探してほしいという依頼なのだが、似姿を描いた紙を寄越されてみてみれば、絵が下手なのかどうもモップにしか見えない。実際に探しに行ってみれば、見つけたのは何と毛むくじゃらの大蜘蛛である。それも本当に犬ほどのサイズのある蜘蛛で、見た瞬間悪寒が走るレベルだった。

 しかしこれは随分人懐っこいうえに、ふわふわの毛むくじゃらのせいで思ったほど蜘蛛らしくはなく、八つ足の犬と言えば確かに犬だった。むしろ慣れてくると愛らしくさえあって、私はふわふわの毛並みにおぼれかけてしまったほどである。

 

 犬というのはみな八つ足なのかと聞いてみれば、四つ足もたまにいると聞いたので、どうもちゃんとした犬もいるにはいるようだが、少数のようだ。

 では猫も八つ足なのかと聞けば、怪訝そうに猫は四つ足に決まっていると返されてこちらが首を傾げた。

 

「八つ足の猫なんて気持ち悪いじゃないですか」

「ああ、うん……?」

「まあ可愛いは可愛いですけど、私は断然犬派ですね」

「猫っていうのは、いわゆる猫でいいんだよね?」

「はあ、まあそうですけど?」

 

 きちんと聞けば、私の知る猫と一緒だった。絵もかいてみたが、相違ない。

 

「まあ猫はどこにでもいますよ。飼ってたり、野良だったり。ウルタールを通ってどこにでも住み着きますからね」

「どこだって?」

「ウルタールです」

 

 よくわからない話だったが、まあ猫はもともとよくわからない生き物だ。そういうものなのだろう。

 

 ある日、メザーガに呼び出されて話を聞いてみれば、いままでいわゆる冒険的な仕事を寄越さなかったのは、実績がないのもあるが、見すぼらしさにあったらしい。この前の戦闘で随分鎧が傷ついたから、確かにこのなりの冒険屋にたいそうな仕事は頼めない。

 私の方は無傷だが、こちらはこちらであまり強そうな外見ではないから、依頼もしづらかろう。

 

 メザーガのなじみだという《鍛冶屋カサドコ》とやらに出向いてみれば、待ち構えていたのは四つ腕に四つ足の、土蜘蛛(ロンガクルルロ)とかいう種族の女だった。

 

 どっかりと腰を下ろして、ぷかぷかパイプをふかしながら新聞らしき真美束を覗き込んでいる姿は、まあ四十から五十くらいといった年頃で、前に見たコンノケンという氏族の男よりもがっしりとした体つきで、立てば背丈もそれなりにありそうだった。

 腕も前後で作りが違い、前の腕は少し細めで指が長く器用そうで、後ろの腕はかなり太く、力仕事に向いていそうだった。

 

 それとなくリリオを見れば、小さく頷いて教えてくれた。

「彼女はテララネオという氏族ですね。土蜘蛛(ロンガクルルロ)と言えばテララネオという位、代表的な氏族です。鍛冶が得意で、山の神の加護を強く受けています」

「ついでに別嬪で腕自慢だよ」

 

 リリオの説明を受けていると、そのテララネオという氏族の女性は、がさがさと新聞をたたんで、私たちをじろりと見やった。

 

「なんだいなんだい細っこいのにちんまいのが入り口でこそこそと」

「すみません。メザーガの紹介で来ました」

「誰だって? メザーガ? ああ、そういやそんな話だったね。さあさお入り」

 

 カサドコと名乗った彼女は、非常に繊細な彫り物のなされたテーブルを乱雑に引きずって出してきて、これまた優美な彫り物のなされた椅子を適当に放り出して勧めてきた。

 

 座り心地も素晴らしい椅子に腰かけると、少しして奥から小柄な土蜘蛛(ロンガクルルロ)の青年が、柔らかな微笑みとともに豆茶(カーフォ)を出してくれた。

 

「ん、うまい」

 

 一口飲んでみれば、豆がいいのか焙煎がいいのか、それとも淹れ方がいいのか、こう言っては悪いがクナーボの淹れたものより、好みだ。

 

「そうだろうそうだろう。うちの(さい)は鍛冶はそんなだが、家事に関しちゃ他所様に自慢できる腕前でね」

 

 ちらとリリオを見れば、一つ頷いて。

 

土蜘蛛(ロンガクルルロ)は基本的に女性の方が体格もよく力も優れて、男性は小柄で器用な方が多いんです。人族とは逆に男性が妻として家の事を仕切ることが多いですね」

 

 なるほど。種族でそういう点も異なるわけだ。八つ足に八つ目と言い、土蜘蛛(ロンガクルルロ)というのは蜘蛛に似た種族であるらしい。

 

「それでなんだっけ。鎧を見てほしいんだったね」

「そうです。革鎧なんですが」

「なあに、うちは金物より革の方が扱いが多いんだ。冒険屋は、革鎧を好むからね」

 

 聞けば、騎士は金の鎧を、冒険屋は革の鎧を好むという。というのも、人間を相手にするより魔獣や害獣を相手にする事の多い冒険屋にとっては、防御力より敏捷性が大事であるから、動きやすく軽い革鎧の方が人気であるという。

 

 それに魔獣の素材を多く手にする冒険屋は、下手な金属鎧より優れた革鎧を着こむことも多いという。

 

 リリオが袋に入れて持ってきた鎧を渡すと、カサドコは片眉をぐいっと持ち上げて、感心したように鎧を検めた。

 

「ほーうほうほう、こいつは飛龍革じゃないか。それも白。珍しいねえ。ちんまいの、あんた辺境出かい?」

「ええ、成人の儀でこちらへ」

「そりゃあ、こんなにいい鎧を着れるわけだ」

「直せますか?」

「舐めるんじゃないよ、と言いたいとこだが、ずいぶん焼けちまってるねえ。なにとやりあったんだい?」

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の主と取っ組み合いになりまして」

「大きく出たねえ……いや、まてよ。そういやあ、ずいぶんデカい霹靂猫魚(トンドルシルウロ)が先月売りに出てたね」

「多分それです」

「はー、そいつはまた、そりゃあこんなにもなるよ」

 

 カサドコはしばらく頷きながら細い方の手で鎧を丁寧に調べて、それから顎をさすりながら唸った。

 

「随分いい仕立てだ。いい鎧だね。術の強化もある。下手に弄れないねえ」

「せめて見た目だけでもなんとかなるといいんですけれど」

「うーん……これなら、そうだねえ、表を少し削って、安く出回った質のいい霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の素材があるから、幾らか張り加えて強化したらどうだろうかね。そりゃあ飛竜の革と比べたらいくらか強度は落ちるけど、でも霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の革はしなやかだし、雷精にも水精にもよく耐える。滑りもいいから、下手な刃なら表面ではじけるだろう」

「それでお願いします」

 

 リリオは深く考えていない風にそう答えたが、これは単にモノを考えていないというのでなく、職人への信頼と、紹介したメザーガへの信頼からのものだろう。リリオは直観的に行動するきらいがあるが、それは往々にしてよい方へと導いていく。

 

「活きのいい霹靂猫魚(トンドルシルウロ)があったら、いい鎧になりますか」

「そりゃ、採れたての方が、加工の時間はかかるとはいえ、鎧に合わせて加工できるからね、そのほうがいいさね。これから獲ってくるってのかい?」

「いえ、手持ちが」

「ほう、《自在蔵(ポスタープロ)》か……お、こいつはまだ生きてるのか! すごいもんだねえ!」

 

 私はせっかくなので、以前獲っておいた霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の最後の一匹を取り出して渡した。あの時、実は四十匹とっていた。三十八匹は卸して、一匹は教わりながら自分でさばいてみた。そしてこれが最後の一匹だ。

 

「こいつはサシミが美味いんだ。丸まる寄越してくれるなら、安くするよ」

「構いません」

「よしきた。おーいイナオ! 今晩は猫魚(シルウロ)だ!」

「お酒を買っておくね」

「うん、うん。そうだ、それにレドの奴がいま手が空いてただろう」

「革細工の?」

「そうそう、そいつ。そいつも晩飯に誘おう。あいつはサシミが好きだからな、鎧の細工を、手伝ってもらおう」

「じゃあお酒も、いっぱい買っておこう」

「うん、うん、頼んだよ」

 

 カサドコは実に嬉しそうに霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を受け取って、イナオという妻の青年の渡してほくほく顔だ。

 

「よーしよしよし、私は機嫌がいいんだ。剣はどうだい? 見てやるよ」

「剣は大丈夫だと思いますけど、どうでしょう」

「こいつはなんだ? ふーむむ……蟲の甲か? 随分硬い。だがしなやかだ」

大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻から削り出しました」

「へーえ! こいつがねえ! あたしも見るのは初めてだ。聖硬銀より硬いってのは本当かい?」

「聖硬銀の剣で切りかかって折れたという話は聞きます」

「さすがにこいつはアタシも歯が立たない。でも柄が少し緩んでるね、こっちは直してやれるよ」

「お願いします」

 

 どうやらリリオの装備ってのは、私が思っていたよりもすごいものばかりらしい。

 この世界のアイテムの価値は判断できないところが多いので、この世界の住人の基準がわかる機会っていうのは大事にしていきたい。

 

「あんたはどうするね?」

「フムン」

 

 私の装備も聞かれたが、どうしたものだろう。ぶっちゃけ使う機会が全然ないので痛みようがないんだよね。

 

「……新しい武器が欲しいんだけど」

「どんな武器だい」

「手加減が楽な……うっかり殺してしまわないようなやつ」

 

 カサドコは私のつたない説明にまゆを上げ、そしてリリオを見やった。

 

「えーと、ウルウは恩恵が強いんですけど、あんまり喧嘩慣れしてないので、加減が苦手なんです」

「成程ね。いまは何を使ってるんだい?」

 

 何をと言われても困った。主武装があれだからなあ。

 一応取り出して渡してみると、妙な顔をされた。

 

「……何の冗談だい?」

「それが、私の武器」

「武器ったって……縫い針かなんじゃないのかいこれ」

 

 《死出の一針》。指先でつまむのが精いっぱいの小さな一針。それが私の主武装だ。

 普通に刺したところで精々血が出るくらいのこれは、しかし私が使えば、相手が生きている限りほぼほぼ確実に殺すことのできる、強力な即死効果の付与された武器である。

 

「これじゃあ殺すことはできるけど、手加減ができない」

「…………恐ろしい馬鹿なのかい? 恐ろしいサイコパスなのかい?」

「恐ろしい手練れではあるんです」

「はー……」

 

 カサドコは下手な冗談でも聞いたような顔で掌の上で《針》を転がし、そいしてうっかり落として慌てて取り上げようとして、動きを止めた。リリオもそれを凝視した。私もちょっと驚いた。

 鉄床に抵抗なくすとんと根元まで刺さった針を見れば誰だってそうなると思う。

 持ち手に膨らみがなければ多分貫通してどこまでも落ちていったと思う、これ。

 

「……冗談じゃないみたいだね」

「この通り私はいつも真面目だ」

「悪い冗談みたいな顔しやがって」

 

 カサドコはまるで抵抗なく鉄床から《針》を引き抜いて、それから奇妙なメガネのようなものを取り出してかけると、まじまじと観察し始めた。

 

「あれなに?」

「鑑定用の眼鏡ですね。装備に付与された術式や加護を読み取るようにできているそうです」

 

 便利なものだ。私も欲しいと呟いてみたら、目が飛び出るような値段を告げられた。ちょっと手が届かない。ゲーム内通貨を換金すれば買えるだろうけど。

 

「……なんだいこりゃ。なんだいこりゃあ」

「どうしたんですか?」

「こんなのは初めてだね。表示が読み取れないんだ」

 

 じろじろと《針》を眺める姿をぼんやりと見ながら、私は何となくその理由を察した。多分、()()()で書いてあるんだろう。しかしそれを言ってもいいことはない。

 

「そろそろ返してもらっても?」

「あ? あ、ああ、そうだね、うん。わたしにはどうにもできんね、こりゃ」

 

 《死出の一針》を返してもらってすぐにしまいこむ。なくしやすそうで怖いんだよねこれ。

 

 他に使えそうな武器はどんなのがあるかと聞かれたけど、武器なんて使ったことがないので、素手と答えてみたら、リリオが何度もうなずいていた。「よく頭蓋骨をつぶされそうになります」などという。私が全力でアイアンクローかましてもびくともしない石頭が何を言いやがる。

 

「それじゃあたしにゃどうしようもないよ。拳鍔(けんがく)でもいるかい?」

 

 何かと思って見せてもらったら、メリケンサックだった。リリオへの突込み用に買おうかと思ったが、全力で首を振られたのでやめておいた。

 

 結局、リリオの装備だけ直してもらうことにして、その間の代用として数打ちの剣を一振り借りて、我々は店を後にしたのだった。




用語解説

・猫
 ねこはいます。

・ウルタール
 ウルサール、ウルサーなどとも。遠い地。歩いて渡れぬ隣。夢野の川の向こう。猫たちのやってくるところ。

・テララネオ
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)と言えば人が想像する、代表的な種族。山に住まうものが多く、鉱山業と鍛冶を得意とする。種族的に山の神の加護を賜っており、ほぼ完全な暗視、窒息しない、鉱石の匂いを感じるなどの種族特性を持つ。
 細工の得意な小さめの「掴み手」と頑丈で力の強い「掘り手」に腕が明確に分かれており、足腰ががっしりとしている。
 酒を好み、仕事以外にはやや大雑把。

・聖硬銀
 正確には銀ではない。古代王国時代に作られた特殊な金属で、非常に頑丈。現代では再現できていない。

・鑑定用の眼鏡
 魔道具。品物にかけられた魔術や呪いを読み解くもの。専門家でないと表示の意味は正確にはわからない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 白百合と鉄砲百合

前回のあらすじ
鍛冶屋に鎧と剣を預けたリリオ。
内緒と言っていたサシミの秘密が鍛冶屋にもばれている件。


 カサドコさんに装備を預けて数日間。これはとても長い数日間でした。

 何しろ楽しみで楽しみで。ウルウはこの手の感覚に全く理解がないのですが、装備を新調した時というのは胸がわくわくしてたまらなくなるものなのです。

 

 なので、私はその日になるや否や、ウルウ曰く「犬のように」駆けだしてお店に向かったのでした。

 

 相変わらず騒がしい鍛冶屋街の喧騒に耳を慣らし、《鍛冶屋カサドコ》の戸をくぐると、カサドコさんが待っていましたとばかりに仕上がった鎧を置いて待っていました。

 

「よう、よう、よう、待たせたね」

「待ちました!」

「待たせただけの仕上がりにはなったよ」

 

 鎧を渡す前に、カサドコさんは一人の男性を紹介してくれました。人族の男性で、腰の曲がったかなりのお年寄りですが、指先はとても繊細に動き、目元も力強く光っています。

 

「レド爺さんだ。革細工の店を出してて、あたしもよく世話になる」

「初めましてお嬢さん。レドだ。あんたの鎧の術式を刺させてもらったよ」

 

 なんでもカサドコさんは、革をなめしたり鎧の形に仕上げたりということは得意だそうですが、術式などの絡む細かい刺繍はいつもレドさんに依頼しているとのことでした。年は離れたお二人でしたが、お互いの技術に対して信頼があるようで、仕上がりはしっかりと調和がとれています。

 

 お二人が仕上げたという鎧は、大まかなデザインは以前のものをそのまま踏襲しているようでしたけれど、ところどころに霹靂猫魚(トンドルシルウロ)のものと思われる革が鋭く黒いラインを描いており、より鋭角な印象を与えるようになっていました。

 いままでの白一色の革鎧が、美しくはあるもののどこか曖昧な色彩だったことに比べて、輪郭がはっきりとして、地に足の着いたような印象があります。

 

「飛竜革の強度を落とさないように、霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の皮革は織り上げて靭性を高める方向で仕上げてある。衝撃に対してしなやかに受け止めるようになっているはずだ」

「術式に関しては、何しろ鎧自体の強度はこれ以上ないからね、耐性を上げる方向で仕上げてみた。雷精と水精にたいして親和性と耐性がかなり上がっておる。風精との親和性も全く落ちていないと確信しておるよ」

 

 これは素晴らしいことでした。

 いままでは風精に対する親和性が高かったのですけれど、他に関しては強度に頼るばかりでした。しかし、珍しい雷精はともかく水精に対する親和性と耐性が増したのはありがたいことです。

 

「水精に対する親和性ということはもしかして」

「空踏みのことだろう。あんたの練習次第だが、うまく合わせれれば水踏みもできるようになるだろうね」

「楽しみです!」

「さすがに水中呼吸の術式まではつけとらんから、おぼれないようにだけ気をつけてな」

「はい!」

 

 空踏み、つまり風を蹴って走る技は、何しろ相手が軽い風なのでもって数歩くらいでしたけれど、重たい水ならあるいは川を渡るくらいはできるようになるかもしれません。楽しみです。

 

「剣に関しては、刀身に関しちゃ我々でも手におえんかったが、柄巻きに霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の雷繊を織り込んだ皮革を使い、放電の術式を刺しておいたよ」

「ほうでん?」

「雷を出すってことさ」

「おお!」

 

 つまりそれは、剣に魔力を流し込めば霹靂猫魚(トンドルシルウロ)のように雷を放てるということでしょう。

 

「まあお嬢さんの魔力次第だが、刀身にまとわせるくらいは簡単だろう。鉄の武器を使う相手には厄介な武器に仕上がったと思うよ」

「ありがとうございます!」

 

 これは人相手だけでなく、魔獣や害獣相手にも素晴らしい効果を上げることでしょう。なにしろ雷を受けたことのあるものはそうそういないでしょうから。また、雷を受けると放心してしまうことは身をもって体験しましたから、余り傷つけずに素材を得るにも役立つことでしょう。

 

「早速身に着けてみようじゃないか」

「ええ、ええ、すぐにでも!」

 

 早速私は、カサドコさんに手伝ってもらって鎧を着こみました。そしてその都度、鎧の各所に付け足された改良部分を説明してもらい、着心地に違和感はないか、どこか擦れるようなところは無いかを確かめてもらいました。

 

 いくらかの調整を済ませて、剣を腰に帯びると、なんだか自分が立派な一人の冒険屋になったような気分で誇らしくなります。

 

「どうですウルウ! 似合いますか!?」

「え? ああ、うん、いいんじゃないかな」

「興味!」

「ないね」

「もう!」

 

 面白いものを触らせてもらったし、とずいぶん安くしてもらったお代を支払い、私たちは事務所へと足取り軽く向かいました。正確には足取りが軽いのは私だけで、ウルウはいつも通りですけれど。

 

「うう、早く試し切りしたいです」

「そのセリフすっごく危ない気がする」

「辻斬りなんかしませんよう」

「そう祈るよ」

 

 ルンルン気分で事務所までたどり着き、そして私は思わず回れ右してしまいそうになりました。

 

「どうした」

「え? えーと、なんでしょう」

 

 何かはわかりませんが物凄く嫌な予感がします。

 こういう時の私の勘はよく当たるのですけれど、しかし嫌な予感がするからという理由で避けようにも、目的地がここなので避けようがありません。

 

 私はしばらくうんうんと唸って、それでもどうしようもないものはどうしようもないので、しかたなく事務所のドアを恐る恐る開けました。

 

「ただいまもどりま」

「おっぜうさまっ!!!」

 

 いやな予感、的中です。

 

 甲高い叫び声が事務所の中から襲い掛かり、咄嗟にしめそうになったドアががっしりと押さえつけられ、私は室内に引きずり込まれました。

 

「よーうやっく見つけただよおぜうさま! いったいひとりでどーこまでほっつきまわりよっとですか!」

 

 私が逃げられないように首根っこを掴み上げて、見慣れた姿が耳元で怒鳴りつけてきます。

 

「もう成人だっちうのにいい年してなーに子供みてな真似さしてっだ! おらァもうさんざっぱらあっちゃこっちゃ探し回ったんだど! ほだら一人でこげなとこまで! はーもう御屋形様になんてお詫びしたもんか!」

「せ、せからしかぁ! 耳元で叫ばんといてん!」

「はんかくしゃあ真似すっかい、怒られるんだべさ!」

「おらァ一人でんでぇじょぶだって何度も言っとうが! 国さ(けえ)れ!」

「おぜうさま残して(けえ)るわけにいかんべや! (けえ)るなら一緒だべさ!」

「だ、誰が(けえ)るかいまだなんもしとらんべさ! やっとこさ冒険屋さなったんだど!」

 

 ぎゃいぎゃいと怒鳴りあっている後ろでウルウが目を白黒とさせていることにも気づかず、私たちはしばらくそうして取っ組み合いを演じたのでした。




用語解説

・革細工の店
 普通、鍛冶屋はすべての作業を一人で行うことはない。研ぎは研ぎ師に、柄は柄師にと仕事が分担されている。

・空踏み/水踏み
 それぞれ空気を踏んで歩く技と、水を踏んで歩く技。達人は空を一里は走ることができるというし、伝説には海を渡ったものもいるという。

・水中呼吸の術式
 水精の加護を得れば、水中で呼吸が可能になる。そう言った魔道具もあるし、自前で術をかけられる魔術師もいる。

・おっぜうさまっ!!!
 訳:お嬢様!!!

・よーうやっく見つけただよおぜうさま! いったいひとりでどーこまでほっつきまわりよっとですか!
 訳:ようやく見つけましたよお嬢様! いったい一人でどこまで行っていたんですか!

・「もう成人だっちうのにいい年してなーに子供みてな真似さしてっだ! おらァもうさんざっぱらあっちゃこっちゃ探し回ったんだど! ほだら一人でこげなとこまで! はーもう御屋形様になんてお詫びしたもんか!」
「せ、せからしかぁ! 耳元で叫ばんといてん!」
「はんかくしゃあ真似すっかい、怒られるんだべさ!」
「おらァ一人でんでぇじょぶだって何度も言っとうが! 国さ帰れ!」
「おぜうさま残して帰るわけにいかんべや! 帰るなら一緒だべさ!」
「だ、誰が帰るかいまだなんもしとらんべさ! やっとこさ冒険屋さなったんだど!」

訳:「もう成人だというのにいい年して何を子供みたいな真似をしているのですか! わたくしはもうずいぶんあちこち探しまわったんですよ! そうしたら一人でこんなところまで! ああもう御屋形様に何とお詫び申し上げたものか!」
「う、うるさいなあ! 耳元で叫ばないで!」
「ばかげた真似をするから、怒られるんですよ!」
「私は一人でも大丈夫だって何度も言ってるでしょ! 国に帰って!」
「お嬢様を残して帰るわけにいかないでしょう! 帰るなら一緒ですよ!」
「だ、誰が帰るもんですか、いまだなにもできてないのに! やっと冒険屋になったのよ!」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊と鉄砲百合

・前回のあらすじ
日本語でおk。


 事務所の扉を開けるや否や、ものすごい勢いでリリオが引きずり込まれ、そして意味不明の怒声が響いてきた。

 

「よーうやっく見つけただよおぜうさま! いったいひとりでどーこまでほっつきまわりよっとですか! もう成人だっちうのにいい年してなーに子供みてな真似さしてっだ! おらァもうさんざっぱらあっちゃこっちゃ探し回ったんだど! ほだら一人でこげなとこまで! はーもう御屋形様になんてお詫びしたもんか!」

「せ、せからしかぁ! 耳元で叫ばんといてん!」

「はんかくしゃあ真似すっかい、怒られるんだべさ!」

「おらァ一人でんでぇじょぶだって何度も言っとうが! 国さ(けえ)れ!」

「おぜうさま残して(けえ)るわけにいかんべや! (けえ)るなら一緒だべさ!」

「だ、誰が(けえ)るかいまだなんもしとらんべさ! やっとこさ冒険屋さなったんだど!」

 

 …………何語?

 

 私がぽかんとして眺めていると、クナーボがそっと手を引いて、騒ぎから離れた椅子をすすめてくれた。

 そこではげんなりとした様子のメザーガが苦々しげに豆茶(カーフォ)をすすっているところだった。

 

「おう、早かったな。できればもう少し遅くて良かったんだが」

「……なにあれ」

「俺が聞きてえ。お前、あいつのお目付け役じゃなかったのか」

「そう名乗った覚えはないし、リリオもそう言ったことはない」

「そんなわきゃあ……いや待て」

「あんたが勝手にそう言っただけ」

「くそっ、はめられた!」

 

 別にはめた覚えはない。私もリリオも、メザーガが勝手に勘違いしたのを訂正しなかっただけだ。

 

 まあ、多分だけど、事前にリリオかその親御さんが送っていた手紙には、リリオともう一人、国許からお目付け役をつけて送る、という感じになっていたんだろう。

 それが何かしらの理由で……まあこのやかましさから察するに、リリオがお目付け役をうっとうしく感じて旅の途中で撒いたのだろう。本来一人でのこのこ来ればばれるはずだったけれど、運よくか運悪くか私が合流して人数が合致してしまったため、メザーガは誤解したのだ。

 

 誰が悪いといえばまあリリオが悪いんだろうけれど、別に嘘はついていない。訂正もしなかっただけで。

 

 クナーボの淹れてくれた豆茶(カーフォ)をすすりながら待つことしばし、飲み終える頃にようやく怒鳴りあいが終わった。

 

 リリオをとっ捕まえて怒鳴っていた、同じくらい小柄な女性は、いまさら過ぎる感はあるが身だしなみを整えて私たちに向き直った。

 

「ん、んん、こほん。失礼いたしました。わたくし、ドラコバーネ家付きの三等武装女中、トルンペートと申します」

 

 武装女中。

 新しいワードが出てきたが、頼りの辞書が今は向こうでとっつかまっていて翻訳できない。メザーガは期待できない。クナーボをちらりと見ると、少し考えた後、ああ、と頷いてくれた。

 

「武装女中っていうのは、歴史が長いので省きますけれど、戦闘技能を修めた女中(メイド)です。主人の護衛や身の回りの世話などを一手に行う上級の傍仕えですね。特に辺境の武装女中は専門の養育機関で育てられて、飛竜の紋章が入ったエプロンの武装女中は精鋭と有名です」

 

 成程。役に立つ子だなクナーボは。それに比べて肝心な時に役立たないリリオときたら。

 

 私は改めてトルンペートと名乗った武装女中とやらを眺めてみた。

 

 服装はいわゆるメイドさんといった感じではある。深い紺色のエプロンドレスに、頑丈そうな編み上げのブーツ。ただしエプロンは革製で、多分これ、飛竜の革とかいう上等な品なのだろう。胸元には確かに飛龍らしき紋章がある。

 腰帯にはリリオと同じように剣とナイフを帯び、背中側には斧が一丁。道具入れもついていたりと、野外活動を念頭に置いた装備だ。手元の手袋も絹製などではなく革製で、決してただのお仕着せではない、よくよく使い古した感がある。

 飴色の髪はシニョンにカバーをかぶせた髪型で、気の強そうな釣り目と相まってこまっしゃくれた感じがある。

 

 それに。

 

「強そうだ」

「主人の身の守りを務める以上、最低限の武技は身に着けております故」

 

 恩恵とやらの影響か圧も感じるし、私にはいまだによくわからないが、少なくとも身のこなしは隙がなく優雅だ。私のいい加減な身のこなしよりかなり洗練されている。

 

「今までお嬢様を保護頂いたようで誠にありがとう存じます。これよりはこのわたくし、トルンペートが本来の業務としてお嬢様をお守りいたします故、これまでご迷惑をおかけしましたこと、平にご容赦いただければ幸いです」

「ちょ、トルンペート!」

 

 深々と頭を下げるチビメイドに、私は顎を撫でる。

 

 へえ。

 なるほど。

 そういうこと。

 

 慇懃無礼というのはこういうことだな。

 言葉ばかり繕ってはいるが、私に対してかなり敵対的な空気を感じる。被害妄想と現実逃避すれすれを歩いてきたブラック企業患者をなめるなよ。こちとら敵意に敏感なんだ。

 

「つまり、怪しいよそ者はとっとと失せろってことかな」

「そのようなことは」

「私は君が道草食っている間、リリオの面倒を見ていたんだ。いまさら外野の出る幕じゃあないよ」

「……はあ」

 

 トルンペートは苛立たしげに額を叩きながら、敵意を隠しもせずにこちらをねめつけた。

 

「これだから平民は。人が下手に出ればこの始末。それで? いくら欲しいんです?」

「……なんだって?」

「だから、金が欲しいんでしょう? いくら欲しいんで」

「リリオ、君、御貴族様だったのか」

「あれ、言ってなかったでしたっけ」

「ちょっとー!?」

 

 うるさいな。挑発はどうでもいいが、リリオが貴族だったというのは驚きだ。

 いやまあ、育ちがいいんだろうなあとは思ってたけど、まさか貴族だとは。

 

「一応まあ、貴族の家の長女やってます。上に兄が一人」

「貴族の子女がなんでこんなとこで冒険屋なんてやってるのさ」

「こんなとこで悪かったな」

「いえまあ、成人の儀というのがありまして」

 

 リリオが説明するところによれば、この世界の貴族の子供というのは、成人の頃になると、家を出て旅をして回り、見聞を広めることを慣習としているらしい。一つには世間のことを知って領地経営に役立てるため。また一つには他所の領地の不正などがないかを見張る相互監視のため。

 

 ふつうはお隣さんに物見遊山程度に出かけるものらしいけれど、武人の多い辺境の人たちは武者修行も兼ねているのだそうだ。

 

 リリオはどうせ家を継ぐこともないし、そのまま冒険屋として旅に出たいらしく、こうして親戚のメザーガを頼ってきたということだったらしい。

 

「君もいろいろあるんだねえ」

「私だって頭空っぽなわけじゃないんですよ」

「いや、頭は空っぽだよ」

「もうウルウったら」

「ふふふ」

「あはは」

「人さ放っぽっていちゃこらしてんでねーべや!!!!」

 

 怒られた。

 だって相手するの面倒臭いんだもん。

 

「ともかく! お嬢様のお目付けはわたくしの仕事! あなたはお役御免です!」

「いいんじゃないの」

「えっ」

「えっ」

「だって私保護者じゃないし」

「う、ウルウ!?」

「よ、予想外ですが、それでしたら結構です。ではあとはわたくしが」

「私はリリオのパーティメンバーだしね」

「ウルウ!」

「リリオ」

「あはは」

「ふふふ」

「だからいちゃこらしてんでねーべや!!!!!」

 

 怒られた。

 だってからかうと面白いんだもんこの瞬間湯沸かし器。

 

 とにかく、別に私はこのチビがリリオの護衛につこうがお目付けにつこうが構わない。人が一人増えるだけで、むしろ私がひっそりと観察できる時間が増えるだけ楽でいい。リリオにしてもお喋りする相手が増えた方が楽しいだろう。

 

 と述べたら、呆れられた。

 

「ど、こ、の、お目付け役がっ、不審な余所者を主人の傍に置くものですかっ!? あなたはただの、邪魔もの、お邪魔虫、けだものっ!」

「けだものではないんじゃないかなあ」

「いかにも胡散臭いそんななりをしておいて!」

「それは否定できない」

「とにかく、わたくしはあなたがお嬢様の傍にあるにふさわしいとは認めませんからね!」

 

 別にこのチビに認められる必要はないのだけれど、とリリオをちらと見たが、どうにもリリオには命令権がなさそうだった。一応立場としてはこのメイドの方が下なんだろうけれど、多分お目付け役の命令はリリオの上、つまりリリオの親から出ているのだ。

 だからリリオが何と言おうとも、この娘を説得しなければ私の同行は認められない訳だ。

 

 認められなかったところで私の同行を防ぐ手立てがあるとは思えないが、それも《隠蓑(クローキング)》あればこその話だ。表立って顔を出してついていけないと旅の楽しみがいくらか減る。それは私の素敵なゴースト・ライフの妨げとなる。

 

 となれば。

 

「どうすれば認めてくれるかな」

「認めません」

「どうすれば認めてくれるかな」

「認めませんってば」

「どうすれば認めてくれるかな」

「認めないといっているでしょう!」

「どうすれば認めてくれるかな」

「だから!」

「どうすれば認めてくれるかな」

「うーがー!」

 

 必殺、イエスというまで終わらない無限ループ。なお私の場合、何しろ《隠蓑(クローキング)》でどこまでもついていけるので、やろうと思えば枕元に立って質問を繰り返すこともできるので心を圧し折るには最適だね。

 

 ともあれ、実際にそれをする前に、メザーガが待ったをかけてくれた。

 

「おいお嬢ちゃん」

「トルンペートでございます」

「そうかい()()()()()。あんたがリリオのお目付け役になるってことは、リリオの冒険屋パーティに入るってことでいいな」

「トルンペートですわ。そうですね、勿論、お嬢様の傍で働く以上、そうなりますわね」

「じゃあ試験な、()()()()()

「は?」

「リリオにも受けさせたし、ウルウも通過した。あんただけ何もなしってわけにはいかんだろう、()()()()()

「…………わかりました。いいでしょう」

 

 トルンペートは苛立たしげに額を叩きながらメザーガを()めつけた。

 

「それから、私の名前は、トルンペートですわ」

「試験に通過したらな、()()()()()

 

 忌々しげに舌打ちしてしまうあたり、()()武装女中なんだろうなあ。

 

 ともあれ、トルンペートは私たちと同じように乙種魔獣の討伐を言い渡され、リリオと同じように目を剥き、そして私たちがそれぞれ単独でやってのけたことを告げられて、渋々了承した。

 

「とはいえ、そこの馬の骨が乙種の魔獣を倒したという証拠はありませんわ! 私が同行する前で仕留めなければ、お嬢様の傍にあることは認められません!」

「いいよ」

「えっ」

「それくらいでいいなら楽なもんだ。三十八匹もとらなくていいんでしょ?」

「さんじゅ、え?」

「トルンペート、ウルウは一人で霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を三十八匹生け捕りにしてます」

「は、はあっ!? ちょ、ちょっとま」

「辺境の武装女中に二言があるとはね」

「そっだたこだねえ! ……ん、んん、こほん。わかりました、いいでしょう」

 

 辺境の人間はちょろい。

 その実証例が一人増えたのだった。




用語解説

・何語
辺境領は多種族が多地方から集まって住み着いた経緯があり、様々な方言や他では忘れられた言い回しなどがごちゃ混ぜに混在しており、他領の人間には理解しづらい。それどころか同じ辺境の人間もなんとなくで通じているところがある。

・ドラコバーネ家
 辺境の貴族の家。リリオの実家。

・武装女中
 その歴史は長く、辺境領が帝国に編入した頃に誕生したとされる。
 もとは、ただでさえ強い武人の国として怖れられた辺境の者が、帝国の人間を恐れさせぬように騎士の代わりに女中に剣を持たせて護衛として連れたことが由来とされる。
 現在ではある程度の貴族家では護衛として、また側近として腕の立つ武装女中を雇うことが多い。
 辺境には武装女中の養成施設があり、ここの出の女中は非常に高評価である。
 施設出の女中は一等から三等まで分かれており、一等ともなれば家中のことを取り仕切り、主人の仕事の手伝いまでこなせるパーフェクト・メイドである。

 なお武装女中のネーミングは、あの今野隼史先生の同人作品である「シュレディンガ・フォークス」に登場する同名の職業を拝借した。先生の作品は他にも「絶体絶命英雄」などがありどちらも大変読みごたえがありおすすめだ。

・人さ放っぽっていちゃこらしてんでねーべや!!!!
 訳:人を放っておいてイチャコラしてないでください!!!!

・だからいちゃこらしてんでねーべや!!!!!
 訳:だからいちゃこらしてないでください!!!!!

・そっだたこだねえ!
 訳:そんなことはありません!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 鉄砲百合と鉄砲魚

前回のあらすじ
リリオを追ってやってきた武装女中、その名はトルンペート。
彼女はウルウに敵意を向けるようだったが、そのちょろさはリリオとどっこいであった。


 お初にお目にかかります。わたくし、ドラコバーネ家にお仕えする三等武装女中のトルンペートと申します。この度は恐れ多くもリリオお嬢様のお目付け役に選ばれたはずなのですが、はっずっなっのっでっすっが! どうしてまああの子はいつまでたってもやんちゃ癖が抜けないのでしょう。いつも追いかける身にもなって欲しいものです。

 

 旅を始めたころはまあよかったのです。

 

 何しろリリオ様も旅に不慣れ。私が旅のイロハを教えて差し上げて、慣れない旅路につかれるお体を毎夜もみほぐして差し上げ、不都合のないように何もかもそろえて差し上げたというのに、森に差し掛かった宿で寝ている間に、まさか眠り薬を盛られた上に縛り上げられた挙句逃げだされるとは、このトルンペート一生の不覚です。

 

 慌てて追いかけたものの、街道を行けども行けども姿は見えず、宿場町でもお姿を見かけない。ついにはヴォーストの街についてもまだ来ていないという。どこかですれ違ったかと慌てて駆け戻ってみたものの、今度は森の中を突っ切っていったという情報を得てしまいました。

 

 もしかすると森の中で一人で泣いていらっしゃるのではないか、泣いているならまだしも野生に返ってもののけの姫にでもなられているのではないかと大慌てで森の中を捜索すること長らく、ようやくお嬢様のものらしき野営の跡を発見したものの時すでに遅し。

 どうやらすでに森を抜けた後らしいということが遅まきながらに分かっただけでした。

 

 そして一月もかかってようやく見つけたのがこのヴォーストの街ということで全く恥ずかしい限りでございます。

 

 思えば目的地はわかっているのですから待ち構えていたほうが余程効率的でした。あのリリオお嬢様が森を抜ける程度でさほど苦労されるはずもなかったのですから。

 

 ともあれなんとか発見したと思えば、今度は妙なコブまで付いていらっしゃって、まあ。

 

 親切な方が保護してくださったというのであれば、わたくしもまあ素直に感謝いたしますし、自身の至らなさもありますからお詫びも致しますけれど、しかしこれが相手のウルウとおっしゃる方、何と申しますか、その、率直に申し上げて、不審者、そう、不審者でございました。

 

 全身黒尽くめで、室内でもいつも頭巾をすっぽりかぶっていらして、亡霊(ファントーモ)のように気配も音もなく、目つきも悪くて人と目を合わせようともなさいませんし、まあ、何と申しますか後ろめたいことでもあるのかと申し上げたいくらいでございまして。

 

 人は見かけによらぬものと申しますし、わたくしももちろん外見ばかりで怪しいとは申し上げたくありません。もしウルウとおっしゃる方が他に何事もなければわたくしもお礼申し上げてお詫び申し上げて、丁寧に対応させていただいたのですが、何しろこの方、その、怖い。

 

 怖い。

 

 この一言でございまして。

 

 お嬢様が平然と、むしろ親しげに微笑んでいらっしゃるのがまるで理解できないほどに、まるで竜種を前に素っ裸で放り出されたような、そんな、生きた心地もしませんでしたとも、ええ。

 

 まるで人の形をした闇が佇んでいるよう。

 いえいえ、死そのものが歩いているよう。

 

 それこそ冗談ではなく、瞬きの間に私など道端の石ころをどけるように命を摘み取られてしまうのではないか、そのように思われるほど、この方の内面に秘められた力というものは凄まじいものでした。

 

 これは或いは、わたくしも同様の人間であるからそう感じるかもしれませんでした。つまり、あまり明るくない手法で主の敵を殺めてきた、暗殺者としての感性が、同類の気配を敏感に感じ取ったものかもしれませんでした。

 

 とにかく、この方の人となりをどうにか見定めなくてはなるまい、そう思い定めて、わたくしはこの方と行動を共にすることにいたしました。

 

 さて、お嬢様をお支えするべくお嬢様とともに冒険屋の真似事などしてみるにあたり、雇用主たるメザーガ冒険屋事務所の主であるメザーガ氏より提示された条件は、これがまた驚きの「乙種魔獣の討伐」なる無茶ぶりでした。

 武装女中たるものその程度は、と申し上げたいところではありますけれど、何分わたくしも未熟な三等女中。それももっぱら暗殺の腕を磨いてきたものでございますから、真正面から魔獣を狩るというのはいささか、いえ勿論無理とは申しません。恐れ多くもドラコバーネ家にお仕えする武装女中に、その程度できらいでかと申し上げなくては叱られてしまいます。

 

 わたくしはメザーガ氏に今依頼のある乙種の魔獣についてお聞きし、いくつか挙げていただいたものの内から具合の良さそうなものを選び、早速その討伐に向かうことにいたしました。

 

 具合の良さそうなもの。つまりわたくしでも十全に仕留めうるものであり、かつ十分に手ごわい相手。そしてまた、ウルウ氏の人となりを見定めるに都合のい相手。これは一つしか見当たりませんでした。

 

 ところ変わりまして、ヴォーストの街を出ることしばし。北の水門より出でて川沿いを進むことおよそ半刻。森の中に半ば入り込み、深く渓谷となったあたりまでやってまいりました。

 このあたりまで参りますと、夏の陽気も木陰と水の流れとで随分涼しく感じて楽でございますね。

 

 しかしこの快適な環境こそが、問題の魔獣の住処なのです。

 

「お嬢様。これはわたくしの試験であり、そしてまたウルウ氏の試験でもありますので、お近くで眺める分には問題ございませんけれど、手はお出しになられぬよう」

「ぷーくすくす、トルンペートが標準語喋ってるのとても面白いです」

「お・ぜ・う・さ・まっ!」

「いたたたたたたた」

 

 頬をつねって差し上げれば相変わらずのもちもち肌で、健康そうで何よりでございます。

 

 さて、こうしてわざわざ口に出して差し上げれば、お嬢様も気にされて川辺にいらしてくださることでしょう。

 

 お嬢様の影が川辺に差し掛かったとたん、

 

「うひゃうっ!?」

「リリオ?」

 

 水中から勢いよく噴出された水鉄砲が、お嬢様の胸当を強く打ち、のけぞらせます。それなりの威力でしたけれど、転ばずに耐えきったのはさすがの()()でございますねえ。

 

「いまのがこの川の乙種魔獣……正確には乙種になる前の若い個体である鉄砲魚(サジタリフィーソ)でございます」

「乙種に、なる前?」

 

 首を傾げられるウルウ氏に、私は頷きます。

 

「ご覧のように鉄砲魚(サジタリフィーソ)は、川面に影が映りますと、自分たちを狩りに来た動物、主に熊木菟(ウルソストリゴ)などと判断し、あのように水鉄砲で撃退を試みます。若いものでもあのように、人を突き飛ばす程度の威力はありますので、熊木菟(ウルソストリゴ)も驚いて怯みます」

 

 それでもまあ、怯ませるのが精一杯ですから、腹をすかせた熊木菟(ウルソストリゴ)には食べられてしまうのですけれど、そうした弱肉強食の厳しい世界を生き抜いた個体は、より強力に育っていきます。

 

「ある程度生き延びて、今度は熊木菟(ウルソストリゴ)をきっちり撃退できるレベルにまでなりますと、これは特に射星魚(ステロファリロ)と呼ばれるようになりまして、威力が段違いになります」

「段違いって言うと?」

「左様ですねえ」

 

 私は腰の《自在蔵(ポスタープロ)》から鉄兜を取り出し、川面に放りました。

 

 それはくるくると回りながら川面に影を落とし――そして無数の水鉄砲に射貫かれました。

 

「なっ、今の、鉄ですよね!?」

「左様にございます。成熟しました射星魚(ステロファリロ)は、星を落とすものの異名の通り、極めて正確で極めて強力な水鉄砲を操りまして、天敵の熊木菟(ウルソストリゴ)の丈夫な体表を撃ち抜くほどでございます」

 

 鉄兜は空中でさらに何度か射貫かれ、ずたずたの鉄板となり果てて川に落下しました。

 

「そして、魔獣となるほどでございますからそれなりに知恵も回りまして」

「物凄く嫌な予感しかしないんですけど!?」

「はい。川辺に敵がいると悟ると、こちらから近づかなくとも積極的に狙撃してまいります。ですので漁師や猟師の方が困るので討伐依頼が出るのですね」

「冷静に言ってる場合ですかぁっ!」

 

 叫ぶお嬢様の声に反応してか、川面からいくつもの魚の顔が浮かびます。こちらをにらむ大小の鉄砲魚(サジタリフィーソ)たち。

 厄介なのは、あのすべてが危険な射星魚(ステロファリロ)()()()()ということです。

 

 ほとんどは精々拳で殴る程度の威力しかない若い鉄砲魚(サジタリフィーソ)で、その中にほんの一握り、本当に危険な水鉄砲を放つ射星魚(ステロファリロ)が紛れ込んでいるのです。

 そしてその威力は、喰らってみなければわからない。

 

「あれの中から目的の奴だけ仕留めて逃げろってわけだ」

「その通りでございます」

 

 私一人ならば造作もないこと。

 ウルウ氏はどうでしょうか。

 

 そしてまた、完全に足手まといになるお嬢様は。

 

 さあ、見せていただきましょうか。




用語解説

鉄砲魚(サジタリフィーソ)
 魚の魔獣。口中から勢いよく水を吐き出して攻撃してくる。水中からでもかなり正確な狙撃をしてくる上、その威力は最低でも殴りつけるほどの威力があり、侮れない。
 もっぱら水中の水草や小動物を食べているのでどうしてこのような能力が発達したのかは不明だが、捕食しようと襲ってくる熊木菟(ウルソストリゴ)などの水の外の外敵を追い払うためではないかと考えられている。

射星魚(ステロファリロ)
 鉄砲魚(サジタリフィーソ)の中でも特に長く生き、一メートルを超えるサイズに育ったものは、水鉄砲の威力も格段に上昇し、特に星を落とすものの異名で呼ばれるようになる。行動は同じものの、その水鉄砲の威力は金属製の装備すら容易に貫くためしばしば死者を出すため、討伐依頼が定期的に出されている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 白百合と鉄砲魚

前回のあらすじ
ウルウの本性を探ろうと鉄砲魚(サジタリフィーソ)の群れをけしかけるトルンペートであったが、やり方が荒いのは辺境のならいなのだろうか。


 トルンペートに連れられて向かった渓谷で、私たちを襲ったのは鉄砲魚(サジタリフィーソ)の群れでした。

 先程一発喰らった感じはごつんと殴られたくらいのものでしたけれど、これが良く育った射星魚(ステロファリロ)となると、鉄の装備さえ貫くほどの水鉄砲となるようで、そうなると勿論受けるわけにはいきません。

 

 とはいえ。

 

「わひゃ、うひゃ、ひぇっ」

「おっと。よっ。ほっ」

 

 次々に放たれる水鉄砲のどれが受けても大丈夫なもので、どれが喰らったらまずいものか見た目では全く分かりませんから、とにかく全部避けるほかありません。

 ウルウなんかはいつも通りあの気持ち悪いくらいぬるぬるした動きで平然と避けますし、トルンペートも武装女中だけあってするすると危なげなく避けてしまいます。

 その中で私一人だけ必死で避けてるの、なんかすごく納得いきません。

 

「あのさあ」

「なんでございましょう」

「君のお目付け相手、そろそろダウンしそうなんだけど」

「左様でございますねえ」

「お目付けで、護衛なんじゃないの?」

「これで少しは懲りていただけたらなあ、と」

「感心しないやり方だね」

「左様ですか」

 

 暢気に話してないでくださいよ、と突っ込もうとしたところで、気が緩んだのか一発貰って体勢が崩れました。

 幸いこの一発は威力が低いものだったようですけれど、それでもすっかり体は崩れ、立て直すのに精いっぱいで次を避ける自信はありません。

 

 今度こそ穴あき乾酪(フロマージョ)になってしまうのか、と体をこわばらせた瞬間、ふわりと柔らかな腕の中にからめとられ、ぐるんと視界がひっくり返りました。

 

「気持ちはわかるけど、感心しないよ。気持ちは痛いほどわかるけど」

「わたくしも不満なやり方ではございますが、気持ちを察していただいてうれしゅうございます」

「せめてもう少しいたわって!」

 

 麦袋でも担ぐようにウルウの肩に担がれた私は、さかさまの視界で文句を言ってみましたが、気にも留めてもらえません。どうもこの二人、あまり仲がよさそうには見えないのに、妙な所で意気投合してしまったようです。そんなに私、迷惑かけてましたでしょうか。

 

 しかし、こうしてウルウに担がれる形でウルウの動きを体験してみると、改めてその出鱈目具合がわかります。

 

 トルンペートの動きはまだわかります。するりするりと避けていますが、その動きはきちんとした予測と、的確な脚運びによって成し遂げられています。

 ところがウルウときたら、ほとんど適当で場当たりとしか思えないのに、水鉄砲が飛んで来るや否や足を上げたり背を曲げたり屈んでみたり飛び上がってみたり、曲芸じみた動きでぬるぬるかわします。

 

 おかげで担ぎ上げられた私はその予想不能の滅茶苦茶な動きに翻弄され、朝ご飯が徐々に込み上げてくる始末です。

 

「う、ウルウ、はやく、はやくしてください、このままでは乙女のピンチです!」

「いまさら何を」

「真顔で!」

 

 私たちがそんな掛け合いをしている間に、トルンペートは細縄のついた投げナイフを手にとるや、ひゅうと一閃、川面に投げ込み瞬く間に一匹の大きな鉄砲魚(サジタリフィーソ)を仕留めてしまいました。一抱えもありそうな巨体と言い、まず間違いなくあれなるが乙種魔獣の射星魚(ステロファリロ)でしょう。ひょうと釣り上げてしまう様は釣り人裸足で、釣竿いらずな便利な技です。

 数いる中から正確に標的を絞り込み、そしてまた水中の相手に的確に投げナイフを投擲する技量の何と見事な事でしょう。

 

「ウルウ、うるうもなんかこう、手早くお願いします!」

「ごめん、どれかわかんない」

「そげな!」

 

 思わずお国言葉が出るほどショックです。でも責めるに責められません。私にだってまるでわかりませんもの。というか、水中で移動し続ける似たような的を相手に見当をつけられたトルンペートがすごすぎます。

 

 しかし、しかしそれでもなるべく急いでもらわなければそろそろ本当にピンチなのです。

 具体的には喉元まで来ています。

 もはや叫ぶだけで逆流性食道炎待ったなしと思われる状態で、危険です。

 

 これまでか、と覚悟を決めかけたところで、ウルウが私をそっと下ろしてくれました。

 

「わかんない、ので、ごり押してくる」

 

 そう残して、ウルウはまっすぐ川へと走りだします。

 すでに仕留め終えたトルンペートは川辺から離れ、私はここで残され、そうなると鉄砲魚(サジタリフィーソ)たちの攻撃はすべてウルウに向いてしまいます。

 そしてウルウは、私が後ろにいる限り決してよけたりはしないでしょう。

 

 ウルウは、そういう人なのです。

 

「あぶない!」

 

 叫びは、そしてむなしく響いたのでした。

 

 ええ。

 

 あまりにもむなしく響きました。

 

「え? ごめん、なんて?」

 

 無数に襲い掛かる水鉄砲を平然と平手で打ち落としながらウルウが振り返ります。振り返ってるくせに平然と水鉄砲を打ち落とし続けます。足元がどんどん濡れていきますけど、本人は平然としてます。けろっとしてます。

 

「ごめん、よく聞き取れなかった。急ぎ?」

「あ、いえ、なんでもないです。続けてどうぞ」

「うん? うん、わかった」

 

 あんぐりと口を開けているトルンペートを尻目に、そうですよねえ、ウルウってそういう人ですよねえ、と思わず遠い目になりながら、私はその頼もし過ぎる背中を見守ります。

 心配するには、私はちょっと頼りなさ過ぎました。

 

 ぺしぺしと――実際に響く音としてはばちんべちんばんばちぃんぱぁんといったかなり重たい音を響かせつつ水鉄砲を弾きながらウルウは川辺までのんびり歩いていき、そして小首を傾げて少しの間考えていました。

 

 それからおもむろに《自在蔵(ポスタープロ)》に手を入れ――つまりその間、片手で水鉄砲の嵐をさばきながらごそごそとあさり、なにやら拳大の青い塊を取り出すと、ぽいと無造作に川に放り投げました。

 

 そして数秒後。

 

 水面がぐわりと大きく持ち上がったかと思うと、激しい轟音とともに水柱を上げ、川が爆発しました。

 

「なっ、あっ!?」

 

 激しい音を立てて水が川面に打ち付けられ、そしてにわか雨のようにしずくが降り注ぎました。それと一緒に、魚たちも。

 

「禁止されるわけだなあ、ハッパリョウ」

 

 大惨事を引き起こした当の本人はと言えば暢気なもので、もろにかぶることになった水に嫌そうな顔をしながら外套を搾り、水面にぷかぷか浮かんだ魚を拾い集め始めてしまいました。

 

「……………」

「えーっと……認めます? ウルウのこと」

「ウルウ様がどうというより、()()を受け入れているお嬢様の懐の深さに動揺しております」

 

 私もちょっとそう思います。

 

 ところでトルンペート、なんか袋とか持ってませんか。

 いまのショックでちょっと込み上げてしまって、あ、だめだまにあわな




用語解説

・乙女のピンチ
 ゲロ。

・拳大の青い塊
 ゲームアイテム。正式名称《青い大きなボム》。水中の敵に対して大ダメージを与える外、ランダムで複数の釣りアイテムを入手可能。ただし一定確率で自身にもダメージが及ぶ。
『あたいったらほんとバカ……』

・ハッパリョウ
 発破漁。ダイナマイト漁などとも。作中行われたように、水中にば爆発物を放り込み、その爆発の衝撃で魚を気絶ないし死亡せしめ大量に収獲する。生態系の破壊などが理由で大抵の国で違法行為に指定されている。

・あ、だめだまにあわな
 ただいま映像が乱れております。次話までお待ちください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と鉄砲魚

前回のあらすじ
映像が乱れておりました。深くお詫びいたします。


 貰いゲロはしなかった。

 

 何の話かと言えば乙女のピンチを通り越して乙女塊大決壊を果たしてしまったリリオの話だけれど、まあこの話は誰も得しないから水に流してしまおう。ちょうど川のすぐそばだったから後処理も楽だったし。

 

 後処理が楽ではなかったのは、事務所に帰ってからだった。

 

 《青い大きなボム》で大量ゲットした鉄砲魚(サジタリフィーソ)射星魚(ステロファリロ)、そしてその他の雑魚を回収して事務所に帰ってきたら、まず呆れられ、次に怒られた。

 

「誰が自然破壊しろと言った誰が!」

「するなとは言われていない」

「世の中はネガティブリスト制じゃねえんだよぉ!」

 

 半分泣きが入ったガチのお説教を喰らってしまった。

 まあ自分でもさすがにやり過ぎたとは思ったので反省はしている。二度はやらない。しかし後悔もしていない。あれはあれで貴重な実験だった。

 

 自分は関係ないといった顔で余裕かましていたトルンペートだったが、お説教の矛先が自分にも向いて焦っていた。

 

「わたくしはきちんと依頼を達成いたしました! 試験は合格でしょう!」

「お前らは仮とはいえパーティだ。パーティメンバーの暴走を止められない奴を合格にできるわけねえだろ」

「でしたらこのトンチキをクビにすればいいではないですか!」

「そうしてえのはやまやまだが」

「やまやまなんだ」

「実力は申し分ないし、なにより組合規則で、このくらいのことじゃクビにできねえんだ」

 

 組合にも一応労働者を守る規則はあるらしい。助かった。

 前の会社の労働組合は何の役にも立たない組合費だけ持っていく組織だったからな。そしてその組合費は飲み会費になるわけだ。おかしいよな。参加者は毎回飲み会費だしてた気がするんだけどな。

 

「とにかく、試験は不合格だ。とはいえ原因が原因だから、次の奴もすぐに見繕ってやる」

 

 一応依頼は達成という形にしてくれたが、依頼料はすべて天引きになった。生態系の破壊っぷりがひどいので、依頼者や関係者に頭を下げなければならないらしい。

 メザーガは黙っていれば渋いオジサマだが、へつらいの笑みばかりうまくなっていくようでなんだか申し訳ない。だからと言ってできることはないので早々に退散するが。

 

「まったく、あなたのせいでひどい目に遭いましたわ」

「ほんとだよリリオ」

「私ですか!?」

「うーがー! あんたよあんた! ん、んっ、あなたですわ!」

 

 からかうとほんとにすぐ反応するなこいつは。

 ともあれ、一応は仕事も終わった。

 

「リリオ、お腹は」

「出しちゃいましたけど、まだ大丈夫です」

「じゃあ先に行こうか」

「ええ」

「え、どちらに行かれますの?」

 

 首をかしげるチビに、私は黙って先を歩きだす。

 ちょっとー! とうるさいチビを、リリオがのんびり引き連れていく。

 

「お風呂ですよお風呂」

「お風呂?」

「ウルウは綺麗好きでして、お仕事の後は必ず入りますし、お仕事なくても一日一回必ず入ります」

「君らが不衛生なんだ」

「よくお金が持ちますわね……」

「冒険屋ってのは小金持ちでね」

「ウルウが稼ぎすぎなんですよ……そのくせお金使わないし」

「君は食費に消え過ぎだ」

 

 今どきはある程度の街にはどこも必ず風呂屋があって、例の風呂の神官とやらが公務員として勤めているらしい。風呂の神官、食っていくのに困らなそうでいいよな。交代制とはいえ仕事中はずっと入浴していないといけないそうだから、のぼせそうで怖いけど。

 

 すっかり顔なじみといった具合で受付であいさつを交わし、鍵を受け取って脱衣所へ。

 ふふん。コミュ障の私と言えど顔なじみ相手にはきちんと喋れるのさ。

 

「ウルウ、いつも決まったあいさつしかしませんよね」

「うっさい」

 

 手早く服を脱いでいくのも、肌をさらすのも、一か月もすればもう慣れた。

 以前はこの時点で結構気がめいっていたのだが、人間慣れれば慣れるし、開き直れば開き直るものだ。

 

 人の視線はやっぱり気になるし、こそこそしてしまうけれど、それはもうどうしようもない性だ。

 

 洗い場でいつものように、お願いしますとふてぶてしくもねだってくるリリオにお湯をぶっかけ、最近は収入もあるので気兼ねなく使えるようになってきた石鹸を泡立ててわしゃわしゃと洗い出す。

 

「……いつもそのように?」

「大型犬洗ってるものと思えば慣れてきた」

「一応その方私の主なんですけれど」

「洗う?」

「……お任せしますわ」

 

 トルンペートはできた娘で、放っておいてもきちんと体を洗えるようだった。よかった。さすがにこんなでかい子供二人も相手にできるほど私はよくできたお母さんではないのだ。そんな年でもないし。でも考えてみたらリリオが十四歳ということは、私とは一回り違うのか。十二歳差という数字がなんだか地味にダメージだ。

 

 リリオを洗い終えて、私も体を洗い始めると、今度はリリオが後ろに回って、私の髪を洗い始める。

 最初は本当に心の底から嫌悪感がひどくてやめてくれと土下座しそうな勢いだったけれど、家を離れて寂しさもあるだろうと我慢しているうちに、身体はまだ本気で嫌だが、髪くらいは任せられるようになった。

 手つきが丁寧で邪魔にならないというのもあるかもしれない。

 

 それに、無駄に伸ばしてたけど、自分で洗うと面倒くさいんだよね、髪って。

 そのうちバッサリ切ってしまおうかと思っているのだが、リリオがもったいないというので控えている。髪には魔力が宿るという話もあるし、もしかしたら役に立つ日が来るかもしれない。そう言って集め続けた紙袋とか包装紙とかは二度と使わないままだったが。

 

 髪を洗い終えて、今度はお手製の柑橘汁を髪に刷り込んでペーハー調整をする。《目覚まし檸檬》は在庫の不安もあるので、市場で買ってきた酸っぱい柑橘を使ったものだが、効果は悪くない。

 トルンペートが不思議そうに見てくるので使わせてみたが、髪がつやつやとすると驚いて詳しく聞いてきたので、なかなか好評のようだ。

 とはいえ、多分ある程度お金がある人はもう少し手の込んだものを使っていると思われるし、事実トルンペートもこんなに手軽な方法があるなんて、などと言っていたので、売り出すにはちょっとしょぼい手法だ。

 

 泡を流して、足先からゆっくりと入浴すると、じんわりと熱がしみ込んできて、たまらない。

 不特定多数が入浴していると思うと以前は鳥肌物の気色悪さだったが、泥水でさえ飲用可能にするという浄化の法術が常に湯を浄化していると聞いて、いくらかましな気分になった。

 少なくとも他の客を意識しないようにすればゆっくり楽しめる程度には。

 或いは私も異世界の作法に慣れて、図太くなってきたのか。

 

「いいですか、トルンペート。ウルウはとんでもなく潔癖症なのであんまりべたべたしてはいけませんよ。吐きそうな顔しますから」

「お嬢様は大分べたべたなさっているようですが……」

「ここまで来るのに私がどれだけ頑張ったと思ってるんですか!」

「……なんでそんな面倒くさい方とパーティを」

「…………成り行きって怖いですよねえ」

「お嬢様のその『考えてなかった』みたいなおつむの軽さの方が怖いですとも」

「あれれー? 私お嬢様なんですけどー?」

「はいはい」

 

 この二人はなんだかんだ仲がよさそうだ。

 多分幼馴染なんだろうな。ある程度の貴族家に入ってるメイドさんって、いくらか落ちる家の子女がやっていることがあるって聞いたし、多分トルンペートもそうなんだろう。田舎貴族の娘さん同士で、昔から仲が良かったとか。

 

 トルンペートの方が少しお姉さんのようだけれど、仕事もあってかきちんと敬語も使ってわきまえたようなのが、リリオと比べてやはりいくらか大人びている。わきまえた上できちんとからかいを入れたりする当たりの器用さも含めて。

 

「そういえば、トルンペートは綺麗だったよね」

「何ですその失敗した口説き文句みたいなのは」

「いや、事務所であった時、小奇麗にしてたでしょ。リリオなんかは洗ってない犬みたいな匂いしてたのに」

「腐った玉ねぎみたいな?」

「そうそれそれ」

「本人の前でそこまで言いますかあなたたち」

 

 お風呂で体を清めたことで思い出したのだが、旅をして森を出た後のリリオはあんなに汚かったのに、トルンペートは実にこざっぱりとしていたし、においもなかった。お嬢様に会う前ということで一応入浴を済ませていたんだろうかと思って尋ねてみたのだが、予想外の答えが返ってきた。

 

「それは浄化の術ですわね」

「なんだって?」

「武装女中のたしなみとして、最低限身体を綺麗にする浄化の術くらいは覚えていますの。お嬢様だって一緒に旅をしている間はそんなひどいことに」

「教えて」

「は?」

「その術、教えて」

 

 私にとっては死活問題となる術だったので土下座も辞さない思いで頼み込んでみたのだが、習得には結構時間がかかるし、なにより教えを授けられるほどの身ではないからと断られてしまった。これは意地悪からではなく、ちゃんとした人から教わらないと変な癖がついてしまうからだそうだ。

 

「わたくしもそこまでお願いされると心苦しいんですけれど、学び舎でも半端な知識で教えてはならないと戒められていますの」

 

 もっともな話だった。

 

 仕方がないので、今後行動するうえでいくら払えば浄化の術をかけてくれるかの交渉をしたところ、ものの見事にドン引きされた上、かなりの割安で応じてくれた。本当はただでいいといってくれたのだが、術を使うのには魔力を消費するらしいので、結構な頻度で頼むだろう私としては対価は支払う所存である。

 

 さて、風呂上りにさらに感動したのだが、武装女中というものは実に細かな所まで気が利くようだった。

 

 というのも、今まではタオルで水気を拭ってあとは自然乾燥か、金を払って火精晶(ファヰロクリステロ)風精晶(ヴェントクリステロ)を組み合わせたドライヤー的なものを借りていたのだが、このチビ、実に便利なことにそれと同じことを術でできるらしい。

 

「お嬢様に髪を痛ませるわけにはいきませんもの。さあさ、こちらへ」

 

 こちらも有料でお願いしたらドン引きされた上でやってもらえた。お前たち異世界人にはわかるまい。文明の利器に散々甘やかされた生き物の渇望がな。

 

 さて。

 事務所に戻って厨房を借り、採れたての鉄砲魚(サジタリフィーソ)射星魚(ステロファリロ)をいくらかさばいて食べることにしたのだが、ここでも武装女中大活躍である。

 私もほどほどに包丁は使えるし、リリオも料理はできる方だが、三等とは言え女中は女中、我々に手出しはさせぬとばかりの手際でてきぱきと料理を仕上げてしまうのである。

 

 魚出汁(ポワソン)で炊いた、香草を効かせた塩味の煮物と、甘辛いたれを絡めた焼き物、それに我々二人なら適当に済ませてしまいそうなところをおしゃれに盛り付けたサラダと、女子力の高さを見せつけてくる。しかも給仕までしてくれる。

 

「…………」

「いかがです? これが三等武装女中の実力ですわ」

「こりゃあリリオも逃げ出すよ」

「なんでさ!?」

 

 美味しいし、気も利くし、至れり尽くせりなんだけど、リリオがしたかった旅ってそういうのじゃないんだよね、きっと。

 

「リリオの苦労もリリオの頑張りも、全部全部君が肩代わりしちゃったら、別にリリオが旅に出る必要ないじゃない」

「なっ」

「そして君である必要もない。二等なり一等なり、もっと上等の人で完璧なお守りをすればいい。三等である君が旅のお目付けを任された理由は、君自身の成長も目的なんじゃないの」

 

 適当な事を言ってみたが、黙って目をつぶって煮物の出汁を味わっているリリオは、否定はしなかった。

 

 トルンペートはしばらくの間、何かを考えこむようにしていた。

 

 私はいくらか気まずくなった食卓で、西京焼きが食べたいなとほんのり思うのだった。




用語解説

・ネガティブリスト制
 リストに並べたことをしてはいけない、という制度。並べていないんだからやってもいいよねと言うことでは本来ないはず。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 鉄砲百合と鉄砲瓜

前回のあらすじ
自然破壊、ダメ、ゼッタイ。


 まだ事務所に所属はしていないという理由で、あの不審極まる女性とお嬢様を一つ部屋に休ませて、わたくしはなくなく宿をとる羽目になったのですけれど、今日こそ、今日こそは汚名を返上するときです。

 

 朝早くメザーガ冒険屋事務所を訪れた私は、待ち構えたように、実際待ち構えていたのでしょう、依頼票を手にしたメザーガ氏に出迎えられました。

 

「おう、早いな」

「おはようございます」

「あとの二人はまだだが、こんどはこいつだ」

「これは……」

「一応ぎりぎり乙種だ。そんでもって、多少なら多めにやっても睨まれん。むしろ多少焼き払ってもいいくらいだ」

「しかし……これは、それこそ火を放てば済んでしまうものでは?」

「果実が高く売れる。そこも評価に含めたい」

「フムン」

 

 わたくしは依頼票をしばらく上から下まで何度か読み、問題がないことを確認して押し頂きました。

 確かにこれならばあの非常識な女のやり口でも問題ないでしょうし、果実を得ようと思えば繊細さが必要とされます。実力を――もう十二分に見せては貰いましたけれど、常識的な範囲での実力を見せてもらうには都合がよいでしょう。

 

 クナーボさんに淹れていただいた豆茶(カーフォ)を楽しんでいる間にお二人もやってきましたので、豆茶(カーフォ)を頂きながら依頼の乙種魔獣について、また現場での動きについて軽く話し合い、早速向かうことにいたしました。

 

「乙種魔獣って言っても、結構幅広いものなんだね」

 

 人で賑わう朝の街を、墨を一滴ぽたりと垂らしたようにぞろりと黒いウルウ氏が、その見た目の不気味さとは裏腹に暢気な声でそんなことをつぶやきます。

 

「まあすべての生き物が同じように分類できるわけではないですからねえ。今回のも、魔獣というより、魔木と言った方がいいでしょうし」

「そうだねえ」

 

 そのウルウ氏と平然と会話できるお嬢様がわたくしには少々理解しかねます。

 まるで普通の人間のようにしゃべり、普通の人間のように笑い、普通の人間のように呼吸するこの生き物が、本当に人間なのか、いまだにわたくしには確信が持てないでいるほどだというのに。

 

 朝の開門時間に当たる頃合で人ごみにもまれ、嫌そうな顔をしているのだって、それが人嫌いのせいだとは聞きますけれど、果たしてどうなのやら。

 

 監視する気持ちで少し後ろから眺めていたわたくしは、その時、彼女自身ではなく、彼女に降りかかる不幸に気付きました。気づいてしまいました。

 もし気付いていなかったら後で笑い物にもできたでしょうけれど、気づいてしまった以上、それを放置することはできませんでした。

 

 ウルウ氏の腰にぶつかって、そのまま走り去ろうとした子供をすぐに追いかけ、その首根っこをひっつかみ押し倒します。暴れようとするその背中を膝で踏み、呼吸を奪い押さえつけます。

 

「おい!?」

 

 わたくしの突然の行動に驚かれたのでしょう、ウルウ氏は慌てて駆け付け、そしてお嬢様は何となくお察しなのでしょう、頭を抱えるような顔です。

 

 わたくしは押さえつけた小汚いなりの少年の手から革袋を取り上げ、ウルウ氏に投げつけます。

 

「ん、これは」

「あなた様のお財布でしょう」

 

 この少年は、掏摸(スリ)でした。

 それも魔がさしたというものではなく、その手際の良さから、恐らく常習犯。

 町が大きくなれば、光り輝く場所も増える一方で、陰に沈む場所も増えるものです。

 

 ウルウ氏はしばらく財布と少年とを眺めていましたが、おもむろに口を開きました。

 

「リリオ」

「はい。掏摸はふつうは被害者と犯人の間で始末をつけます。殴って済ませるような案件ですね。衛兵に引き渡してもいいです。その場合軽くて罰金。常習犯などは、指を切るなどの処罰があります」

「この子の場合は」

「恐らく常習犯ですから、指を切られるかと」

 

 あまり世間の物事を知らないというウルウ氏は、度々こうしてお嬢様にものを尋ね、そして時には判断をゆだね、時には自分で判断をされます。

 このときは後者だったようです。

 

「トルンペート、その子を放して」

「しかし」

「放して」

 

 少年はすっかり観念したようでしたけれど、私は用心しながらこの子の上から離れ、立ち上がらせました。

 ウルウ氏は静かに子供に近づき、目線を合わせるように屈みこみ、そして。

 

「トルンペート、()()()()()()()()()()()()()()()()()

「………………()()()

「私が上げたものをこの子がどうしようと自由だし、罪に問われることもない。そうだなリリオ」

「ええ、ええ、そうですよウルウ。仕方ないですねえ」

 

 お嬢様は苦笑いしていましたし、少年は何が起こったのかわからないという顔ですし、わたくしはときたら、すっかりあきれ果てていましたし。

 

「何を言っているんですの? この子は確かにあなたの腰から」

「目の錯覚だ」

「この三等武装女中トルンペートがそのくらいのことがわからないとでも?」

 

 別に、このとき掏摸の少年を見逃すことに特に問題はなかったのです。それはちっぽけな罪でしたし、被害者が()()()というのならば()()()ということにしてもよかったのです。

 しかしわたくしはこのとき、なんだか無性に腹が立ったのでした。

 

 わたくしが何とかしてこいつの本性を暴いてやろうと思っている時に、何でもないように偽善めいた行いをするこの女に、無性に腹が立っていたのでした。

 

「……やれやれ。()()()()指でも折るところだけど、そういうの柄じゃないし」

「何をおっしゃっていますの?」

「何でもないよ。そうだね、じゃあ、こうしよう」

 

 ウルウ氏はゆっくりと立ち上がって、私に向き直りました。

 

「もしも私が君から財布を掏りとれて、そして君が気付かなかったら、君の目は節穴で、この子の掏摸も勘違いだったと、()()()()()()にしよう」

 

 かちん、ときました。

 どこまで人を馬鹿にするのかと頭に来ました。

 

 簡単に感情を爆発させてしまうのが自分の悪い癖だと前々から思っていましたし、人からも言われてきました。それが三等である理由だということもわかってはいました。しかしそれでも抑えきれないのが、わたくしがわたくしである所以でした。

 

「いいでしょう! できるものならやっ」

「じゃあ君は行っていいよ」

 

 わたくしが啖呵を切ろうとするのを遮って、ウルウ氏は少年を逃がしてしまいます。

 

「ちょ、なにを」

「何をって……()()()()()()()()()()

 

 ためらいがちに逃げる少年を見送るウルウ氏の手には、見覚えのある巾着袋が握られていました。

 慌てて腰を見やれば、そこに先程まで確かにあったお財布が、忽然と消えているではありませんか。

 

()()()()()()()()()()()()()

()()()()()()()()

 

 ぽいと無造作に放り投げられた財布は、確かにわたくしのものでした。

 

「フムン、()()()()()はこういう風に処理されるわけだ」

 

 呆然とする私を気にした風もなく、ウルウ氏はさっさと門へと向かってしまいます。

 

「ほら、早く行きましょう、トルンペート。鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の美味しい実がまっていますよ」

 

 一人取り残されそうになって慌てて追いかけながら、私はいまだに自分がいつ掏り取られたのか全く分からないままなのでした。




用語解説

・スティール
 ゲーム内《技能(スキル)》。正式名称は《掏摸(スティール)》。確率で対象からアイテムを盗み取る《技能(スキル)》。この《技能(スキル)》でのみ手に入るアイテムも存在する。
 この《技能(スキル)》はダメージを与えないため、気づかれない限り反撃されないまま幾らでも盗めるというバグがあった。

鉄砲瓜(エクスプロディククモ)
 次回に登場。詳しくはそちらで。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 白百合と鉄砲瓜

前回のあらすじ
波紋使いは登場しなかった。


 門を抜けて向かったのは森の中でした。

 

 森というものはどこだって、人里からほんの少しも離れていないところであっても、異界と言っていい程に常識の違う世界です。

 

 私たちが今回討伐、というより駆除を依頼された魔木鉄砲瓜(エクスプロディククモ)が群生するあたりも、すっかり異界、或いは魔界と言っていい有様でした。

 

「……あれが鉄砲瓜(エクスプロディククモ)?」

「そうです」

「森の中が、あそこだけぽっかり開けちゃってるね」

鉄砲瓜(エクスプロディククモ)は非常に侵襲的な植物でして、周囲の植物を駆逐してあのように群生域を広げてしまうのだそうです。だから早めに駆除しないといけないんですよ」

 

 私とウルウは声を潜めて、実際に目にした鉄砲瓜(エクスプロディククモ)とやらについて語りました。

 というのも、声を大にすると危険だからです。

 

「どの程度危険なのか、実際に見ていただきます」

 

 トルンペートが地面から小石を取り上げて、少し離れた木立に向けて放り投げました。

 実に見事な投擲で木の幹に命中した小石が音を立て、そして次の瞬間には青々と茂った鉄砲瓜(エクスプロディククモ)畑から次々に破裂音がして、小石の当たった木の幹に何かが突き刺さりました。

 そして、突き刺さったなにかは次々とめり込んでいき、それなりの太さのある木をものの十数秒でめきめきと圧し折って倒してしまいます。

 そして木の倒れたその音にも反応して次々に何かが発射され、倒木をずたずたに引き裂いてしまいました。

 

「……なにあれ」

「あれが鉄砲瓜(エクスプロディククモ)が乙種扱いされるゆえんですね」

 

 私たちは一度少し離れて、改めて作戦会議に移りました。

 

「トルンペート、お願いします」

「はい、お嬢様」

 

 トルンペートが木の枝を手に取り、地面にかりかりと鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の図解を書き記していきます。

 

鉄砲瓜(エクスプロディククモ)はこのように、頂点に一つから二つの瓜状の実をつける魔木です。この実は非常にみずみずしく甘いのですけれど、問題は先程の攻撃です」

「攻撃」

「正確には、種ですわね」

 

 トルンペートが地面に螺旋状の絵をかきます。

 

鉄砲瓜(エクスプロディククモ)は近くで起きた大き目の振動に反応して、実の先端から正確に種を射出いたします。そして種は命中すると、この螺旋状の部分が伸びることでより深く目標に食い込み、先ほど見たように木の幹でもしっかり食い込んで根付きます。場合によっては倒壊させて更なる振動を起こして他の個体から種を射出させます」

 

 木の幹に簡単に突き刺さるということは、人間の体などは簡単に射抜かれてしまうでしょう。

 

「このようにして周囲の植物を駆逐してしまう他、甘い匂いにつられてやってきた動物に種を打ち込み、驚いて逃げた先で発芽して苗床にして成長して生息域を広げるなど、かなり危険な植物です」

射星魚(ステロファリロ)より危険度低いって聞いたけど嘘だよねこれ」

「いえ、本当です。駆除するだけなら火を放てば終わりますので」

 

 これは本当です。延焼の危険はありますけれど、鉄砲瓜(エクスプロディククモ)が広がってしまう危険よりはよほどましなので、見つけたら焼いてしまうことが推奨されているほどです。

 

「しかし、この実なのですが、これがかなり希少です。味が美味しいだけでなく、貴重な薬剤の素材にもなるので、かなり高値で取引されます」

「そうは言っても……どうやって採るのさ、あんなの」

「これだけの規模ですので時間はかかりますけれど、どこか一か所で音を立てて種を射出させ、向こうが種切れになったところを採取する、と言うのが基本ですね」

「割と簡単そう」

「実際には種切れと見えて時間差で射出してくることもありますし、種を射出してしまった実は傷ついて傷みやすくなりますし、素材としての価値はかなり低くなります」

「なおさらどうしろと」

 

 トルンペートも少し困ったように小首を傾げます。

 

「そっと近づいて、そっと採ります」

「そっと近づいて、そっと採る」

「仕方がないでしょう。それ以外ないのです。一定以上の振動でなければ反応いたしませんから、できるだけ静かに近づいて、できるだけ刺激せずに切り取る。切り取ってしまえば種は射出しませんから、あとはそっと帰ってくる。これが事前に調べた採取法ですわ」

 

 理屈としてはまあ、これ以上ないくらい正論ではあります。

 

 問題としては。

 

「うっかり採取中に音を立てたら、包囲射撃を喰らう訳ですよねそれ」

「おまけに周りの実は全部台無しになる」

「だから厄介なんですわ」

 

 しかも喰らって倒れたら追い打ちまで喰らう訳ですから、死ねと言っているようなものの気がします。

 

「まず私そんなの無理なんですけど」

「……お嬢様が一番安全なのでは?」

「え?」

「え?」

「え?」

 

 数秒、三人でお見合いしてしまいました。

 

「そういえば鉄砲魚(サジタリフィーソ)の時も使用されませんでしたけれど、飛竜鎧の矢避けの加護はどうなさいました?」

「……えっ?」

「え?」

「え?」

 

 数秒、三人でお見合いしてしまいました。

 

「矢避けの加護ですわ! 飛竜の革鎧は風精の助けを借りて、飛んでくる物体を弾く加護がありますでしょう!」

「あ、あー、そう、それですね。知ってます」

 

 名前だけは。

 

「まさか一度も使ってないんですの!?」

「いやー、使う機会が」

熊木菟(ウルソストリゴ)のとき使えばよかったんじゃないの」

熊木菟(ウルソストリゴ)空爪(からづめ)なんて矢避けの加護で無効化できるじゃないの! まさか使わなかったんじゃないでしょうねあんた!」

「使ってないです……」

「真正面から喰らって重傷だった」

「うーがー!」

 

 トルンペートが言葉を乱す勢いで怒りだしてしまいました。

 だってそんなの聞いてな……あー、いや、鎧貰った時に聞いたかもしれないですけど、舞い上がり過ぎて聞いてなかったかもしれません。

 

「とにかく、風精に魔力食わせるだけで発動するお手軽の加護なんですから、それを使えば種なんかくらいはしないんですから!」

「はい、二度としません」

「しろっつってんのよ!」

 

 怒られました。

 

 しかしこうしてみると私の鎧、と言うか武装ってかなり優秀なものなんですね。辺境では割と普通なのであんまり意識してませんでしたけど、ヴォーストでここまで加護の着いた武装って見たことないです。

 

 さて、お説教も済んだあたりで作戦が決まりました。

 

 まず、畑の規模が大きすぎるので、ある程度は素材を犠牲にして数を減らす。

 その後、危険の低い程度まで刈ってしまったら、何本かから実を綺麗にとる。

 そして最後は刈り取ったすべてを一か所にまとめて焼き払い、種を処分する。

 

 この三段階と決まりました。

 

「じゃあ、リリオ、頑張って」

「頑張ってくださいお嬢様」

「これ完全に折檻ですよね!?」

 

 どう考えても罰としか思えない、第一段階の担当、リリオです。

 これから畑に飛び込みます。




用語解説

鉄砲瓜(エクスプロディククモ)
 ウリ科の乙種魔木。頂点に一つか二つの実をつける。大きめの振動に反応して実の先端を素早く向け、その際に細胞壁が壊れることで液体魔力とメタ・エチルアルコールが混合・反応し、水分を一瞬で昇華させて螺旋状の種を高速で打ち出す。種は命中後螺旋を開いていき、対象内部に深くめり込み根付く。流れ弾や、動物に根付いたものが遠方まで届き、そこで繁殖し始めるなど、極めて侵襲性の高い植物で、見かけ次第駆除が推奨される。
 その身は非常に甘く美味な上、貴重な薬品の素材ともなるため、高値で取引される。

・矢避けの加護
 風精の宿った装備などに付与される加護。高速、または敵意をもって飛来する飛翔物に干渉し、その軌道を逸らすことで装備者を守る。飛竜の革は極めて高い親和性を持つため、矢避けの加護も強力である。使用さえすれば。

・加護
 精霊や神霊の力を借りて奇跡を起こす力を宿していること。主に装備に、たまに人に宿る。発動には魔力が必須で、魔力を食わせてやらないと宝の持ち腐れ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と鉄砲瓜

前回のあらすじ
一番リリオ、地雷原に飛び込みます。


 固定砲台の群れこと鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の畑で、私とトルンペートはおやつ代わりの乾パンをかじりながら、作戦第一段階担当こと被害担当者リリオの頑張りを眺めていた。

 

「いいですよお嬢様ー。その調子で突っ切ってくださーい」

「あわわわわわわわッ! 死ぬッ! これ死にますッて!」

「大丈夫ですよー、お嬢様の魔力量なら加護が尽きる前に片付きますからー」

「加護が尽きる前に心が死にますッ!」

 

 振動に反応して銃弾みたいな種を射出してくる鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の畑をいま、リリオが全力で踏み入って突っ走っている。

 当然踏み行った先で次々に種が射出されていくのだけれど、リリオの鎧に付与されている矢避けの加護とやらのおかげで、種はリリオに当たる直前で見えない膜にでもふれたようにそれていき、地面や明後日の方向に飛んでいく。

 

 まあ、当たらないとわかっていても次々と炸裂音とともにとげとげした凶悪な種が飛んでくるのは心臓にわるかろう。とはいえリリオにしかできないことなので私にはこうしておやつ食べながら応援することしかできない。

 

「うる、ウルウッ! あとでおぼえっ、あッ、ちょまっ、あばばばばばばッ!」

 

 どうやらすっころんだらしく、激しく前転しながら鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の群れに突っ込むリリオ。それでも矢避けの加護は効いているらしく種は外れるのだが、きれいにリリオの体を僅かに外して地面に種が刺さるので、ちょうど事故現場とか殺人現場の地面に白線が引かれるみたいに、人型にあとが残っていて笑える。

 

 そんなアクシデントが何回かあったものの、リリオは無事に畑の中を走り回り、鉄砲瓜(エクスプロディククモ)畑をいくつかの区画に切り分けることに成功した。ちょうど一つの区画で音を立てても、隣の区画からの攻撃は来ない程度だ。

 もちろん、あんまり大きな音を立てたらわからないが。

 

 ぐったりと倒れこんだリリオに、種を射出してしおれてしまった瓜の実を与えてやると、倒れたままもそもそと食べるが、あまり美味しそうではない。

 甘いは甘いようだが、射出するのに水分をすっかり吐き出してしまう上、炸裂する成分が実全体に広がってしまって、なんだか渋みとえぐみがあるらしい。

 

 さて、ここから先は私とトルンペートの仕事だ。

 

 トルンペートは実に洗練された仕事ぶりだった。庭師の仕事も武装女中には叩き込まれるのかもしれない。剪定鋏のようなものを手に、するりするりと体重を感じさせない足さばきで鉄砲瓜(エクスプロディククモ)に近づき、静かに丁寧に、しかし確実に一つずつ瓜の実を回収していく。

 緊張はしているようだが、その手つきはまるで怯えを感じさせず、確信をもって仕事しているようだった。

 

 見事なもんだなあと思って眺めていたら睨まれたので、私も仕事を開始する。

 

 とはいえ私の方は緊張することもない。

 何しろ《隠蓑(クローキング)》を使ってしまうと、物音もカットされる。なので接近しても種を撃たれる心配がない。そして仮に撃たれたとしても、私の回避率は素で百八十二パーセント。幸運値(ラック)重視の装備とスキル編成にしてしまえばさらにその率は上がる。

 ゲームの仕様上囲まれると回避率は駄々下がりするし、範囲攻撃は避けられないけれど、少なくとも単発の植物の種位なら避けられない訳もない。

 

 必然レベルで避けられない、例えば押さえつけられた状態で殴られるとか、完全に体勢が崩れた状態で攻撃を喰らうとかはどうしようもないけれど、鉄砲瓜(エクスプロディククモ)畑程度の相手ならば、多分のんびり真ん中を歩いても傷一つつけられることはない。

 

 なので気楽にぷちぷちと実をもいでいると、何やら視線を感じる。ふりむけばトルンペートが目を剥いてこちらを見ている。そう言えば一応パーティとして認識しているから、《隠蓑(クローキング)》を使っている私が半透明に見えるのか。あとで説明してあげないといけないな。

 

 見えると言えばパーティ認定しているならステータスが見えるなと思って、トルンペートのステータスを覗いてみて、今度はこっちが目を剥いた。

 

 以前リリオの数値を見た時はレベル三十八だった。その後の戦闘とかで三十九に上がっていたけど。

 他の人間は数値は見えないまでもそこまで強いようにも感じられず、辺境の人間が特に強いものだと思っていたが、トルンペートの数値を見れば、なんとレベル五十二。

 力強さ(ストレングス)はリリオの方が上だが、素早さ(アジリティ)器用さ(デクステリティ)はかなり高い。

 

 三等武装女中でレベル五十二。二等とか一等はどういうレベルなのだ。戦闘を専門にしている騎士とかはどうなるのだ。

 レベルが十違えば相手にならないといわれるくらいだからまだまだ私のところには届かないけれど、しかし私にはプレイヤースキルがない。へたすればこのくらいの相手にもぼこぼこにされかねない。

 

 異世界チートするにはちょっと油断できないレベルがゴロゴロいるらしい。少なくとも、辺境には。最近調子に乗っていたかもしれないと私は気を引き締め、せっせと瓜集めに精を出すのだった。

 

 結果として、うっかりくしゃみしてしまったり、つまずいてぶつかってしまったりなどで何回かの暴発はあったものの、私たちは無事、結構な量の鉄砲瓜(エクスプロディククモ)を収穫できた。数えてみたところ私の方だけで二十個。トルンペートは二十四個。

 品質や熟れ具合にもよるけれど一個で七角貨(セパン)は下らないということだから、単純計算で四十四七角貨(セパン)、つまり四百四十五角貨(クヴィナン)だ。それなりの店で夕食をとって五角貨(クヴィナン)くらいだから三食食べても半年くらいは持つ。ぼろ儲けだ。

 これはトルンペートに言わせれば快挙と言える量だ。

 

 私たちは折角なので、その場で一つずつ食べてしまうことにした。何しろこれだけあるのだ、食べないで済ませるというのは冒険屋のやり方ではない、とリリオが主張したのである。食い意地が張っているとは思ったが、なるほど冒険屋の流儀と言えば確かにそうだ。たとえこれが一人一個ずつしか手に入らなかったとしても、冒険屋なら余程金に困っていなければ食べてしまうだろう。

 

 瓜の仲間と言うからメロンのようなものを想像していたのだが、まずそのようなものと思って間違いはない。サイズはまあ拳を四つか五つ重ねたくらいで、青々とした緑の表面はつるりとしている。

 分厚く丈夫な皮にナイフの刃を立ててみると、ぶつりぶつりと厚手の革のような皮が割れていき、半ばほどまで切り込みを入れたところで指を入れて左右に割ってみると、ばりばりと裂けてみずみずしい身が姿を見せる。

 

 中身は鮮やかなオレンジ色で、指先がたっぷりと濡れるほどに水気があふれている。そしてまた、その甘い匂いと言うのが凄まじく濃厚だった。

 

 種を射出するときの匂いも大概甘いのだが、あれは少し、焦げ臭い。

 しかし種を射出する前は、その炸裂する成分が化学反応だか魔術反応だかを起こしていないようで、とにかくただ甘い香りがする。煮詰めたような甘い香りだ。

 

 リリオはかぶりつき、私とトルンペートはスプーンで頂いた。

 

 スプーンは驚くほど柔らかい果実にするりと突き刺さり、その柔らかさたるやまるで寒天か何かのようだった。フルフルと柔らかいそれを口に放り込むと、猛烈に甘い。猛烈に甘いのだが、それがするりと溶けていく。甘さも溶けていくし、果実も溶けていく。

 気づけばするんと喉の奥に消え去ってしまって、舌の上にはあの猛烈な甘さはなく、ただ甘い香りだけがふわりと残っている。

 

 こらえきれずまた一匙、もう一匙とやっているうちに、あっという間に皮の白いところまでスプーンで削っている始末で、これは成程高値で売れるわけだった。

 

 私は一つで満足してしまったが、女子二人は物足りなそうだったので、四十一個では三人で割るには中途半端だということで、残り二つ減らしてしまうのはどうだろうかと提案したところ、極めて合理的だという理性的判断のもとにもう二つが彼女たちの胃袋に納められ、私たちは無事三十九個の鉄砲瓜(エクスプロディククモ)をインベントリに納めたのだった。

 

 最後の一仕事とばかりに、私たちは気だるい満足感に足を重たく感じながらも、延焼を防ぐために下生えを刈り取り、種を集めてひとところに集め、着火してその全てを焼き払った。

 鉄砲瓜(エクスプロディククモ)畑がすっかり燃えてしまうまで、またきちんと鎮火して燃え広がることのないように監視している間に、三十九では切りが悪いという極めて合理的な数学的判断のもとに九つが二人の胃袋に消え、私たちは無事に仕事を終えたのだった。




用語解説

・極めて合理的だという理性的判断/極めて合理的な数学的判断
 物は言いよう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 鉄砲百合の葛藤

前回のあらすじ
お い ひ い !


 わたくしは迷っていました。

 鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の食べ過ぎのことに関してではなく、ウルウ氏のことに関してでした。

 

 ウルウ氏は今回の鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の採取に際しても、また奇妙な技を見せました。

 私からはその姿は亡霊(ファントーモ)のように半透明に透けているように見えたのですけれど、お嬢様に言わせればあれは仲間であるからそう見えるだけで、そうでないものには全く消えてしまったように見える術なのだそうでした。

 

 姿も見えず、音も聞こえず、それは何とも恐ろしい術でした。

 もしもそのような術を心悪しきものが使えば、盗むも殺すも自由自在でしょう。盗まれたものは盗まれた後も、殺されたものは自分が死ぬ瞬間まで、相手のことに何一つ気づかぬままでしょう。

 

 恐ろしい。

 

 わたくしは恐ろしい。

 

 何が恐ろしいといって、お嬢様の言う通りならば、その恐ろしい術の使い手であるウルウ氏は、わたくしのことを仲間と認めているということなのです。

 それはあまりにも恐ろしいことでした。

 そのような強大な力の持ち主が、あまりにも無警戒に、あまりにも無防備に、心を開いてしまっているのではないだろうかと。

 

 もちろん、あれが偽装と言う可能性はあるでしょう。あえて心を許しているように見せかけているのかもしれません。そのようにしてわたくしの油断を誘っているのかもしれません。

 

 しかしその一方で、甘い甘い鉄砲瓜(エクスプロディククモ)を口にして目を丸くし、ほんのりと目元を柔らかく細めて、匙を舐るように味わう子供のような様は、あれは、あれも果たして演技だったのでしょうか。

 

 掏摸の子供を見逃し、甘い果実に口元を綻ばせ、腹を満たして眠たげなお嬢様をからかっているこの姿は、全て、全て、演技なのでしょうか。偽物なのでしょうか。

 

 わたくしにはわかりません。

 

 そうなれば、不器用なわたくしにはもはや一つしか手段は思いつきませんでした。

 

「……()()?」

「ええ、左様にございます。今、このとき、この場所で、()()を申し込みます」

 

 鉄砲瓜(エクスプロディククモ)畑での採取を終え、帰り道の河原で、わたくしはウルウ氏に決闘を申し込みました。

 

 リリオお嬢様は目を丸くし、ウルウ氏も困惑した様子です。

 そうでしょう。わたくしだって、滅茶苦茶な事を言っていると思います。

 しかし、わたくしは不器用な人間です。心と頭が違う判断をしようとするのならば、体で決める外にやりようを知らないのです。

 

 拳で語り合えば分かり合えるなどと、そんな下らないことは申しません。

 

 けれど、はっきりと目に見える形で決着をつけなければ、わたくしは自分の中の迷いをどうにも止められないのです。ウルウ氏を受け入れるにしろ、拒むにしろ、わたくしには何かしら決定的な理由が必要でした。そして決闘は、それを決めるに一番適当な方法に思われました。

 

 何しろ、わたくしは戦うことでしか自分を証明することのできない人間でしたから。

 

「わたくしが勝てば、ウルウ様には今この時をもってお別れいただきます。ウルウ様がお勝ちになれば、わたくしは折れて諦めます」

 

 二択。

 二つに一つ。

 白か、黒か。

 

 そうして決めてしまわなければ、何も決めることのできない、不器用な人間でした。

 

「…………君を、倒せってこと」

「左様にございます」

「わたし、は、」

「いざ! 尋常に!」

 

 ウルウ氏の言葉を遮り、わたくしは袖口から取り出した投げナイフを左右一つずつ合わせて二つ、軌道を合わせて投げつけます。重なり合うように、僅かの時を置いて放たれるナイフはわたくしの十八番。一本目をかわしても、二本目がその陰に隠れて襲う。

 奇襲に奇襲を重ねる必殺の二撃!

 

「おっ、わっ!」

 

 しかし、それを容易く避けられる。

 わたくしからすれば武の刻まれた様子などまるで見られない動きで、しかしたやすく、ぬるりぬるりと避けてしまう。これだ。このわけのわからなさだ。

 

 わたくしはすかさずエプロン裏に仕込んだナイフを左右に四本ずつ、合わせて八本をつかみ取り、抜きざまに投げ放ちます。僅かずつに時をずらして襲うナイフは、しかしこれは囮。

 《自在蔵(ポスタープロ)》から取り出したるは落とし刀。刃に重心を寄せて作られた小型の刃の群れは、宙に投げれば必ず刃を下にして落ちていく、刃の雨。とはいえこれもかわされるだろうことは想定の内。

 踵を打ち鳴らし爪先に仕込んだナイフを飛び出させ、二連の回転蹴りで遠心力をのせて、左右のナイフを襲わせる。今までとは威力も速さも全く異なる鋭い二撃。これが本命。

 

 速度の違う三種の刃をほとんど同時に重ね、前方と上方、二方向から襲う刃の牢獄。

 三等とは言え、こと投擲においてわたくしは負けというものを知りません。

 

 だと、言うのに。

 だというのに、この悪寒は、確信にも似たこの予感は―――!

 

()()()()、じゃない」

 

 刃の嵐の通り過ぎた後、そこには服の端さえ破れることなく、涼しげに佇む影一つ。

 

 水面に石を投げるように、影を靴底で踏みつけるように、まるで手応えなく、まるで意味を感じない。

 

「今ので勝負あったってことにしてもらえないかな」

 

 平然と、平静と、まるで何事もなかったかのように、まるで何事もなかったのだろう、この女はまっすぐ()()()に歩み寄る。あたしの矜持(プライド)をずたずたに引きちぎり、あたしの心を恐怖で埋め尽くし、その上でなお、()()()()()()()()()()()()()、歩み寄ってくる。

 

 それが癪だった。

 それが腹立たしかった。

 まるで自分ばかりが必死で、空回りしているみたいで、馬鹿みたいだった。

 

 あたしは自分の中で冷たい歯車がかみ合うのを感じた。

 すぐ目の前まで歩み寄ったこの女に、せめて一泡吹かせたかった。

 だからわずかに、ほんのわずかに立ち位置をずらして、ナイフを抜きざま投げ放つ。

 

 今度は避けられない。

 その確信があった。

 あまりにも汚い確信があった。

 何故なら。

 

「っ、りり、おっ」

 

 お前の後ろにはリリオがいるから。

 信用できないといいながら、信頼できないといいながら、確信にも似た心地で、私はこの女が避けないことを知っていた。

 その矛盾にきしむ歯車の音を聞きながら、私は追撃のナイフを手に取り、そして。

 

 そして。

 

「なん、でっ、そんな顔してんのよ……!」

 

 あたしには、投げられない。

 頬に一筋の、かすり傷程度でしかない小さな傷を受けて、それで、その程度のことで、子供みたいに怯えた目をしている相手に、あたしは振り上げたナイフを放てない。放てやしない。

 

「い、たい。痛いんだ。痛いよ」

「当たり前じゃない。痛いことしてんのよ。痛くしてんのよ。だから、いまさら、そんな顔すんな! そんな! そんな……()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 こいつは、この女は、初めての痛みに恐れおののきながら、それでも、それ以上に、その痛みを人に向けることを恐れていた。手に持った何かの道具をとり落として、もう一歩もあたしに歩み寄れない。歩み寄ったら、傷つけてしまうから。

 

「あたしだって! あたしだって! あたしだって!」

 

 地団太を踏み、子供のように叫ぶ自分が滑稽だった。

 

「あたしだって信じたいわよ! 子供みたいに笑う顔を信じたい! 子供を助ける顔を信じたい! でも! あんたは! あんたは!」

 

 滑稽で、滑稽で、涙さえ出てくる。

 

「あんたみたいなの、怖いに決まってるじゃない……」

 

 竜種のように強大な力を秘めた生き物が、人間と同じような顔で笑って傍にいて、心穏やかにいられるものか。それがどんなに優しくたって、どんなに怯えていたって、弱い人間には、耐えられない。信じられない。

 

 けど。

 

「でも、リリオが、それでもリリオが、あんたを慕ってるなら、あたしは信じたい……」

 

 信じて、見たかった。

 夢物語を信じてみたかった。

 ばけものと友達になる、リリオの夢物語を、信じてあげたかった。

 リリオを信じてあげたかった。

 なにより。

 なにより泣きそうなばけものを信じてあげたかった。

 

 膝をつく私の肩を、柔らかいものがそっと包んだ。

 

「……信じて、なんて、言えないけど。でも、誓うよ。もしも私が君を裏切ったら、私はきっと心の臓を取り出して死んでしまおう。だから、だから」

 

 あたしは。

 あたしは、頷いた。

 

 泣かないで、とそういう女の声が、今にも泣きだしそうなほどの怯えて震えていたものだから。




用語解説

・夢物語
 ばけものが愛されることを願うのは間違っているだろうか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 白百合の煩悶/亡霊の不安

前回のあらすじ
信じるということ。


 私は馬鹿です。

 私は嫌な奴です。

 私は、駄目な奴です。

 

 ようやくウルウとの冒険屋稼業が様になってきて、そんな折にトルンペートが現れて、私、邪魔だなって、そう思っちゃったんです。また邪魔をするんだって、そんな風に、思っちゃったんです。

 

 本当は私、トルンペートのこと、大好きで、お姉ちゃんみたいに、大好きで、なのに、だからかな、思っちゃったんです。簡単に、思っちゃったんです。

 トルンペートはまた私のことを邪魔するんだからって。

 

 そんなわけないんです。そんなことが、あるわけないんです。

 私が旅に出るって言って、一番心配してくれて、一番お小言を言ってくれたのはトルンペートでした。

 私が子供のころから、いつだって傍にいて、私の面倒を見てくれたのはトルンペートでした。

 旅は大変だって、面倒くさいことばっかりだって、わかっていたのにお父様に頼み込んでついてきてくれたのはトルンペートでした。

 

 いつも、いつだって、私のことを一番に考えてくれる大事なお姉さんだったのに、私は、そんなことも忘れていたのでした。

 

 私は馬鹿です。

 私は嫌な奴です。

 私は、駄目な奴です。

 

 トルンペートはウルウの腕の中で長いことしゃくりあげるように泣いて、ウルウもまた震えるように泣いて、私は一人ただ馬鹿みたいにその光景を眺めていました。

 きっと二人を泣かせてしまったのは、私のせいで、私のためで、だというのに、なんだか私には、その光景が不思議ときれいなものに思えて、二人が泣き止むまで、ずうっと馬鹿みたいに、馬鹿そのものみたいに、ぼんやりと眺めていることしかできなかったのでした。

 

 泣き止んだ二人は、帰り道でぽつりぽつりと言葉を交わしているようでした。

 ゆっくりと歩いていく二人の少し後ろを私はとぼとぼとついていきました。

 

 夕刻近くに閉門間近の門をくぐって、事務所に辿り着くころには、二人とも目元を赤くはらして、それでもピンシャンとしているように見えましたけれど、やっぱり言葉少なで、互いに目を合わせようともしませんでした。

 

 私は二人を無理やりに寮室に放り込むと、疲れているからきちんと休むことと言いつけて、一人メザーガに依頼の完遂報告を済ませ、クナーボに寮の二人はそっとしておくよう伝え、それから事務所の隅のソファを借りて休むことにしました。

 

 久しぶりの一人ぼっちの夜に、私はなかなか寝付けないのでした。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

 リリオに寮室に放り込まれてしばらく、トルンペートと私はだんまりを決め込んで、ベッドの上に座り込んで、余所余所しく目も合わせなかった。

 

 というのも、あんまり恥ずかし過ぎた。

 私たちは寄りにも寄ってリリオの前で、あんなに馬鹿馬鹿しい理由で、つまるところ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という理由でけんかして、その上大泣きするという、あまりにもこっぱずかしい青春劇を一幕演じてきたところだったのだ。

 

 劇ならば幕が下りればそれであとはカーテンコールで何もかもうやむやだけれど、現実はそうはいかない。私たちはこの()()()()()()()をどうにかしなけりゃあならなかった。

 

 とはいえ、何しろ私たちは選り抜きの意地っ張りで頑固者でそれから青春ビギナーだった。立場の変わらない()()と喧嘩して、それから仲直りするっていう経験が全然なかった。だから私たちはお互いにじりじりと焦れるような心地で、相手が何か言ってくれたらいいのになって思ってたに違いなかった。

 

 変化があったのは、窓の外ですっかり日が暮れて、寝る時間が近づいてきてしまった時のことだった。

 私はじりじりと焦れながらも、ああ、もうこんな時間だから、といつもの習慣通り歯ブラシを取り出して、水差しの水をコップに注いで、桶を用意して、歯を磨き始めたんだ。

 

「……ぷっ」

「んぐっ」

 

 そうしたらこいつ、()()()()()()

 

 むっとして睨んでやると、トルンペートはなんだか棘の取れたような顔でひとしきりくすくす笑って、それから言うのだった。

 

「ごめん、ごめん、違うの。ただね、リリオがあんたのこと潔癖症だって言ってたのを思い出して。あたしがこんなに悩んでるのに、なんだか難しそうな顔して歯を磨きだすんだもの。なんだか馬鹿らしくなっちゃって」

 

 そういわれると私も馬鹿らしくなって、歯ブラシを咥えたまま、唇の隙間から()()()と笑いが漏れた。

 そうするとあとはもうなし崩しだった。

 私たちは二人してしばらくくすくす笑って、それから同じベッドに人一人分開けて隣り合って座って、並んで歯を磨き始めた。それがまたなんだかおかしくて少し笑った。

 

 歯を磨き終えて、寝巻に着替えると、トルンペートは慇懃無礼なあの口調をすっかり止めてしまって、ちょっと蓮っ葉なものの言い方で、いろんなことを語り始めた。

 

 辺境で幼い頃のリリオの気まぐれで拾われたこと。野良犬なりに恩返ししようと思ったこと。気づけば自分の方が面倒を見るようになっていたこと。御屋形様から認められてうれしくて泣いてしまったこと。武装女中になってリリオを守ると決めたこと。リリオの旅についていったら寝ている間に簀巻きにされて置いていかれたこと。必死で追いかけて何度も空回りしたこと。

 

 そして、私に()()()こと。

 

「最初はね、()()()かとおもった」

()()()()って言っていいよ」

「それも思った。でも最初はね、全然気配がないのに、いつの間にかリリオの傍にいるし、じっと見ていたら、なんだかどこまでも落っこちちゃいそうなくらい闇が深くて、とにかく怖かったの」

「いまは、怖くない?」

()()()

 

 私がちらっと横を見ると、トルンペートもちらっと私を見て、心配するなと言うように、私たちの間のおしり一個分のスペースを優しく叩いた。

 

「勿論怖いわ。飛竜と一対一で戦えって言われた方がまだ怖くないかもしれない。でもねえ、でもあんただもの」

 

 そのスペースを優しくなでて、トルンペートは言うのだった。

 

「すっごく怖い()()()だけど、でもそれが、パジャマ着て、おっかなびっくり覗き込んでるんですもの。おかしくって仕方がないわ」

「そんなこと言ってると食べちゃうぞ」

「きゃー、食べないでくださーい」

 

 私たちは二人して笑った。

 なんだか今日はとても笑う日だった。不安や緊張が解消されると、リラックスして笑いやすくなると聞いた。そうなると、私はトルンペートの存在にずっと不安を感じて、緊張して、つまるところ怖がっていたのかもしれない。

 

 そのことを伝えてみると、トルンペートは不思議そうに眼を見開いて、それからおかしそうに笑った。

 

「あんたみたいに強いのでも、あたし相手に怖がるのね」

「君というか、君にリリオをとられるんじゃないかって思ったんじゃないかな」

「リリオを?」

「リリオには言わないけどね。私は、この世界で一人ぼっちなんだ。どこから来たのか、どうやってきたのか、なんできたのか、よくわからない。本当はずっと不安だった。いままで住んでいたところは辛いことばっかりだったけど、でも地に足がついていた。こっちに来てからは、私はわからないことばかりだ。リリオはそんな私を助けてくれた。私が勝手に助けられているだけかもしれないけど、でも、リリオは私がどっちに進んだらいいのか、どうしたらいいのか、それを教えてくれる気がする。そんなリリオをとられてしまうかもって思ったら、私は怖かったよ。なんだかんだ言って私はぽっと出だからね。幼馴染には勝てないだろうし……なんで笑うのさ」

「あんたって時々やけに早口でたくさん喋るって聞いてたから」

「リリオめ」

「そんなことを楽しそうに教えてくれるくらい、あの子はあなたのことが大好きよ」

「そうかな」

「そうよ。あの子があんなに楽しそうに話すのは……えーと、まあご飯とか牧羊犬とかいろいろあるけど、でもどれもみんなあの子の宝物よ」

「私はベッドに積み重なったぬいぐるみの一つってわけだ」

「あら、そんなかわいらしいのがお好み?」

「一般論ではね」

 

 私とトルンペートは随分気兼ねなくいろいろお喋りしたように思う。

 そりゃあリリオとだっていろいろお喋りすることはあるけれど、リリオに話せることと、トルンペートに話せることは違った。同じように、トルンペートに話せることは、リリオに話せることと違うのだから。

 

 不安と緊張の解消された私たちは、二人きりの夜長をたくさんのおしゃべりで埋めた。それはいわゆるガールズトークなのかもしれない。そんな年ではないけれど、と言うと、大して変わらないじゃないと言われたので、年を告げるとおおいに驚かれた。

 

「少し年上なくらいかと思ってた」

「そんなに子供っぽいかな」

「若々しいっていうのよ。世の奥様方が羨ましがるわ」

「トルンペートも?」

「私はまだぴちぴちだもの」

「いまはね」

「言ったわね」

 

 そうして私たちは眠くなるまでお喋りを続け、気づけば一つのベッドに寝入っていた。間に綺麗に人一人分のスペースがあって、それは私の心の距離であると同時に、トルンペートの気遣いの距離であって、それがなんだか無性にくすぐったくて、また面映ゆかった。

 

 なお、眠そうな顔でやってきたリリオはそれを見るやたいそう憤慨したが、しかたあるまい。リリオがベッドに潜り込むと必ず抱き着いてくるし、そうなると私は気持ち悪くなって蹴りだしてしまうのだから。

 

 




用語解説

・きゃー、食べないでくださーい
 食ベチャ駄目ダヨ、ウルウ。

・若々しい
 東洋人は若く見られる、ということだけでなく、ウルウの肉体が最適な状態で保たれている事も理由の一つではあると思われる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 鉄砲百合

前回のあらすじ
青春ビギナーどもの青春ごっこ。


 あたしの名前はトルンペート。家名はない。生まれも覚えていない。親の顔も覚えていないから、ともすれば木の股からでもころりとまろび出てきたのかもしれない。

 

 小さすぎて何も覚えていないような時分に、あたしはろくでもない連中に拾われて、ろくでもない育ち方をしてきた。

 ろくでもない連中は金は持っていたし、身なりもよかったけれど、中身はどうにもろくでもなかった。だからあたしも身なりはそこそこに整えられて、食事もそこそこにもらえて、そして中身はいっぱしのろくでなしに育った。

 

 ろくでなしどもがあたしに教え込んだのは一つだけだった。

 

 人の殺し方だ。

 

 スプーンの握り方を覚えるよりも先にあたしはナイフの握り方を覚え、丁寧なあいさつを覚えるよりも先に殺しの指示への従い方を覚え、ろくでなしどもの顔を覚えるよりも先に殺しの対象の顔を覚えこまされた。

 

 殺し屋と言うほど立派なものではなかった。刺客と名乗れるほど鋭くもなかった。

 あたしは使い捨ての一石だった。

 ただ一つの方法だけを覚えこまされ、その一つを確実に遂行するようにと育てられた、使い捨ての殺人装置だった。

 

 あたしは鉄砲玉だった。

 やれ、という炸薬一つで、ぴょんと飛び出てナイフで突き殺す、それがあたしの仕事だった。

 

 ろくでもない連中は金も持っていたし、身なりもよかったけれど、中身はどうにもろくでもなかったし、何より頭が悪かった。

 

 その時のあたしはただただ寒いとしか思っていなかったけれど、今となって思えばなんて愚かな連中だったんだろう。

 よりにもよって辺境貴族の家族の命を狙うなんてのは、学のないあたしでも今はどれだけ馬鹿な事なのかよくわかる。

 

 それは真っ当な思い付きではなかったし、真っ当な考え方ではなかったし、真っ当な作戦ではなかったし、その上、真っ当でない怒りと憎しみとそれから生まれた復讐であった。恐ろしく馬鹿げていて、しかし、それでもどうしようもない程の恨みだった。

 

 辺境貴族は、帝国貴族の中でも特殊な立ち位置だ。

 帝国の、隣人達の脅威である竜どもを臥龍山脈の向こう側に食い止めるために、極寒の極東で戦い続けるもののふの一族たち。

 竜殺しの血を引く辺境伯率いる辺境貴族は、そろいもそろって頭のタガが外れた生粋の武人たちだ。

 彼らが今も極東に住むことを受容し続けているから、臥竜山脈からあの化物たちはあふれ出してこないし、帝国の民はその脅威を忘れることができる。

 

 そう、忘れてしまうものだ。見えない脅威なんて。語られない物語なんて。

 

 中央に顔を出すこともなく、ただただ支援金の名目で多額の金品をむさぼる田舎貴族。それは全く呆れるほどに真実からほど遠い妬み紛いの評価だったけれど、真実そう信じている連中だっていた。

 そう言うやつらに限って、情に厚く、義に厚く、正義を信じ、真実を信じ、そして目が曇っている。

 

 そこに政治屋貴族や盆暗どもが後押しすれば、辺境の田舎貴族なんて瞬く間に押し遣られて()()()()()()()

 

 理性的に事実を追求しようと辺境に赴き、その人外魔境の過酷な環境に死にかけるくらいはまあいい方で、なまじ辺境の冬に耐えきってしまった連中など、親切な辺境貴族に前線を見せられて、竜に食われかける(という錯覚をするほどビビったんでしょうけど)経験からトラウマを抱えて帰ったりもする。

 

 哀れなほどの阿呆どもと言うのはもう少し救いようがなくて、まあつまりあたしの養い親たちのことだけれど、そういうやつらは辺境の事実なんてどうでもよくて、欲しいのは辺境からたまに流れてくる、飛竜や強力な魔獣の素材だった。

 

 最初に選択したのが()()だったのがこの極めつけの阿呆どもの愚かな所で、愚かにもこいつらは辺境に子飼いの冒険屋を放って、貴族の子供を誘拐して脅迫の材料にしようとした。

 

 結果はどうなったかと言えば、哀れなものだったらしいわ。

 

 辺境貴族は脅しに屈しない、というより、脅すこと自体叶わなかった。

 何しろ子飼いの冒険屋たちは見事返り討ちに遭って、一人ずつ順番に、()()()便()()()()()()()()()()()らしいもの。かわいそうなことに、一人なんて帰った時にまだ生きていたらしいわ。

 

 それで諦めればよかったのに、子飼いの冒険屋の一人がよりにもよって実の息子だったとかで、馬鹿な事よね、あたしが拾われることになった。

 何の生産性もない、何の正当性もない、ただただやりきれないものをどうにかしたいという、どうしようもない復讐のために、あたしと言う鉄砲玉が鋳造された。

 まあ、逆恨みも恨みは恨み。その弾丸は、自分で言うのもなんだけど、それなりに優秀だったと思うわ。

 

 だって、あたしには他に何もなかった。

 ナイフと殺しと対象の顔。あたしにあるのはそれだけだった。

 他には本当に何にもなかった。

 

 あたしは殆どぼろきれの防寒具を着せられて辺境領に放り投げられ、言われたとおりの道をたどって、言われたとおりの場所を通りがかった馬車に取り付いて、言われたとおりの顔の娘にナイフを突き出して、言われた通りでなく全身の骨を圧し折られて死にかけた。

 

 ちょっと、いえ、ちょっとどころではなく大事な部分がすっぽ抜けているけど、でも仕方ない。

 それは一瞬だったもの。

 

 あたしは言われたとおりに目じりを下げて口角を上げ、言われたとおりにナイフを心臓に突き出した、はず。けど気づけばあたしは馬車の床に転がって、自分の全身の骨がくしゃくしゃになっているのを知った。というより、全身が自分の命を早々に諦めて、痛みも熱も麻痺してただただ冷たくなっていくのを感じてた。

 

 あたしはなんにもわからなかった。ただ、言われたとおりにできなかったので鞭を喰らうのだろうかとぼんやり思いながら、殺しの対象の顔を見上げた。

 

 そいつは不思議な顔をしていたわ。

 あたしの知らない顔をしていた。

 いままで見たことのない顔を。

 

 いまでこそ知っている。

 あれは、リリオは、笑っていたわ。

 きらきらとした笑顔で、飛び切りの冒険に笑っていたわ。

 

お父様(おやっどん)冒険が飛び込(おもしろかもん)んできたわ(われからきたべ)!」

 

 その時のあたしには意味の分からない言葉でリリオは笑って、それから多分「欲しい」と強請(ねだ)ったんだと思う。

 何しろ興奮した子供の言葉だし、訛りがひどかったし、そもそもあたしはまともに言葉もしゃべれなかったし、第一死にかけててそれどころじゃなかったし、ともかくそれを最後にあたしは気を失った。

 

 目が覚めてからは、とにかくリリオに振り回される毎日だったわ。

 こちとら死にかけて、それを無理に骨をつないで怪しい手段で治された直後だってのに、冬の辺境領をあちこち連れまわされてまた死にかけて、それをまた怪しい手段で治されてまた連れまわされて、春になるまでに何度死にかけたか覚えていないくらいだわ。

 

 それでも、野良犬が言葉を覚えて、一丁前のマナーを覚えて、女中として育て上げられる頃には、あたしはすっかりリリオの世話役になってたわ。最初はあたしの方が犬みたいに洗われてたのに、気付けばあたしの方が犬と一緒に泥んこになってるあの子を追いかけている始末。

 

 もしかしたらあの時死んでた方が楽だったんじゃないかってね、そんな風に思う位だった。あの時ぐちゃぐちゃになって死んでしまっていた方が、すっきり片付いたんじゃないかって思う位だった。

 

 そんな風に思う位あたしの毎日は滅茶苦茶でハチャメチャで、そして充実してた。

 

 名無しの野良犬だったあたしに、自分の名前の由来となった花の仲間だからって、鉄砲百合(トルンペート)って名前を何日も考えてつけてくれた時の気持ち、わかる?

 春になるまで名無しで通してやがった癖に急に名前つけるもんだからもう思わず泣きそうになったわよ。

 

 嘘。

 ほんとは泣いたわ。それはもう盛大に。あの子がおろおろするくらいにね。

 だってあたし、名前で呼ばれるのって初めてだったんだもの。自分でも驚くくらいに、胸の中がいっぱいになって、ちっちゃなそれはすぐにあふれ出ちゃって、ぼろぼろ泣いたわ。

 あたしの名前はトルンペートよって、会う人ごとに名乗ってリリオが止めるくらいだった。

 

 あの子が成長していくにつれて、どんどんお転婆になるにしたがって、あたしもこの子を守らなきゃって、武装女中になることを決めた。

 何しろもともと命を狙ってた鉄砲玉なんだからいろんな人に白い目で見られたけど、でも、御屋形様が、リリオのお父様があたしが武装女中になることを認めてくれた。

 

「拾ったらちゃんと世話を見るようにいつも言うのだがね。いつも最後に面倒を見るのは私なんだ」

 

 って言ってたわね。

 最後にお目見えした時も相変わらず胃が痛そうな顔をなさっていたから少し心配ね。当たり障りのない報告書を送ることにしましょ。

 

 そんな風にね、あたしの中はリリオでいっぱいなの。

 もともと空っぽだったところに、リリオが踏み込んできて、ちっちゃなあたしの庭のあちこちに、ちっちゃな足跡で無遠慮に踏みつけまわって、泥だらけの足をあたしに拭かせるのよ。

 

 だから本当は、他の誰にもリリオの傍にいてほしくない。

 あたしにはリリオしかいないんだから、リリオの傍に誰も置きたくなんてない。

 

 でもあたしは残念なことに、主の成長を願うよき武装女中なのだ。三等だけどね。

 

 だからあたしは、主が真っ当に成長するために、少々の刺激を受け入れなければならないということを前向きに検討することを善処しなければならないということを持ち帰って……ああ、まあ、いいわよ、もう。うん。

 

 リリオが人間として、ちゃんとした人間として成長するために、多分、あの()()()は必要なんだと思う。

 ウルウが人間として生きていくために、リリオが必要であるように。

 

 あの二人はたぶん、そうあるべくして出会ったんだ、なんていうと、運命論者みたいだけれど、でも割れ鍋に綴じ蓋というか、膨寄居虫(シュヴェリパグロ)虎口貝(モルディコンクロ)というか、二人でようやく一人前なのよ、きっと。

 

 いえ、二人でも一人前にちょっと足りないわね。だから、あたしがそれをちょっと支えてあげるくらいで、ちょうどいい。そういうことに、してしまおう。

 

 あたしはクナーボが描いてくれた、あたしたちのパーティの紋章(エンブレモ)の下書きを手に、早速パーティメンバーとのお茶会(かいぎ)を開くことにした。

 

 紋章(エンブレモ)には三本の百合が描かれている。上から背の高いクロユリ、奔放なシラユリ、そして一番下で華やかに土台を飾るテッポウユリ。

 

 あたしの名前はトルンペート。家名はない。生まれも覚えていない。親の顔も覚えていないから、ともすれば木の股からでもころりとまろび出てきたのかもしれない。

 

 そして今は、冒険屋をしている。




用語解説

膨寄居虫(シュヴェリパグロ)
 海棲の甲殻類。腹部は柔らかい袋状になっているのだが、魔力と生体内生成炸薬に満ちており、この魔力と炸薬によって鋏から衝撃波を打ち出すことで獲物を狩る超攻撃的な生き物。ただしその生態のせいで常に膨張し続けており、放っておくと自爆する。そのためこれを共生先である虎口貝(モルディコンクロ)に咥えさせて、魔力を抑え込み、炸薬を食べさせ、適度に放散している。

虎口貝(モルディコンクロ)
 非常に大食いの二枚貝だが、動きが遅くその死因の大半は餓死。たいていの場合膨寄居虫(シュヴェリパグロ)に腹部に食いつき、その魔力と炸薬成分を養分として頂戴する代わりに、柔らかい腹部を保護し、また自爆を防いでいる。なお膨寄居虫(シュヴェリパグロ)が老いて養分が足りなくなるか、自身が成長して消費量が増えると共生先である個体をヴァリヴァリと食べてしまうため、なかなか緊張感がある関係ではある。

お茶会(かいぎ)
 女の子には砂糖とスパイス、それに素敵なものが必要なのだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章 地下水道
第一話 亡霊と《三輪百合》


前回のあらすじ
武装女中トルンペートに振り回されてすったもんだの挙句仲良くなったウルウ。
女三人組となると何かと面倒がありそうだが果たしてどうなるのだろうか。
私も知らない。


 本来のリリオの旅の連れであった武装女中トルンペートが私たちのパーティに合流して、三人パーティとして冒険屋を始めてから、一月ほどが経った。

 短い夏も盛りといった具合で、そしてまたこれからつるべ落としのようにすとんと訪れる秋を思わせる頃合でもある。

 

 この一月の間に、私はこの世界のことを様々に学んだ。

 まず一つとして、普段使うような文字は大体覚えた。これは積極的に本などを気にかけるようにしたことだけでなく、私の計算能力が高いことを伝え聞いたらしいメザーガに事務仕事の手伝いを頼まれたことで、一気に語彙が増えたこともある。

 

 最初は私がまるで文字を知らないのでメザーガも諦めそうだったが、私が一度読めば覚えると言い張って続けさせてもらい、そして実際にそうしたために、今ではメザーガよりも処理が速く重宝されている。クナーボには仕事をとられたと少し膨れられたが。

 

 字を読めるようになると、知識はかなり早く増えるようになった。というのもこの世界では製紙技術が十分に発達しているだけでなく、製本技術もかなりのもので、本が多数出版されていたのだ。それも革張りの高いものではなく、紙の表紙の安いものが出回っているので、値段としても手に取りやすいものばかりだ。

 

 私はメザーガの手伝いで小金を稼いでは本を買い集め、先日リリオに怒られてついに本棚を買った。一度読んだら覚えてしまうので売り飛ばしてもよかったのだが、こう、やっぱり本は買ったら持っておきたいじゃないか。多分二度と読まないにしても、時折触れて、紙のページをめくることもあるだろう。

 リリオには何を言っているんだこいつとでもいうような、宇宙猫みたいな顔をされたが。

 

 さて、増えた知識の中には、意外ともいえるし、ある意味予想していたともいえる事柄も多かった。

 

 その一つが、暦だ。

 

 この世界の一年はおよそ三百六十五日であるらしい。四年に一度閏年(スーペルジャーロ)があり、その年だけは一日増えて三百六十六日になる。一年は十二か月に分かれ、それぞれおよそ三十日前後。一日は二十四時間で、帝都などでは機械時計でこれがきっちりとはかられる。

 

 お察しの通り、地球時間と同じだ。

 

 私はこれを、()()()()()()()()()()()()だと思っている。

 私をこの世界に運び、何かを望んでいる神様が、処理が面倒くさいからと、設定をそのまま流用したからだと思っている。

 どこから流用したか? 決まっている。

 

 神話によれば、多くの神々は虚空天を超えてやってきたという。そして多くの変革があった。その時の変革の一つが暦なのだろう。

 

 まあ、どうでもいいことだ。

 世界からすれば大事な事なのかもしれないが、私という個人にはこれと言って関係のない話に過ぎない。むしろ、あまり深く考えると余計な面倒に首を突込みかねない。

 

 たとえ私が神々のゲームに気まぐれで放りこまれたコマの一つに過ぎなかろうと、それは気にしなければ何の意味もないことだ。大事なのは自分のペースで自分の人生を送ること。

 これだね。

 以前の私は会社の都合に合わせていたし、そうしなければと思っていたけれど、すっぱり自由になってみると、心療内科の言うことももっともだと思える。

 

 いまでも何かしなければ、仕事しなければと思うときは大いにあるのだけれど、そういった焦燥感はリリオやトルンペートたちとの交流で少しずつ落ち着いてきている。時折イラつくこともあるけれど、むしろ彼女たちからすれば私の方がせかせかし過ぎなのだ。

 私はこれをアニマルセラピーと同様の癒しとみている。

 

 このアニマルセラピーの集まりは、違った、冒険屋パーティは、今のところそれなりの業績を重ねてきていた。

 何しろ結成時からすでにそれぞれピンで乙種魔獣を屠るなんて規格外のスタートを迎えている女三人だ。

 後から吐かせたがやはり冒険屋業界でも少々無理のある試験だったらしく、リリオを諦めさせたいがゆえの試験内容だったそうだ。

 

 しかし結果的にそんな無理難題を乗り越えてしまった我々は業界でもそれなりに目につく新人になってしまったようだ。

 私としてはごく大人しくドブさらいや迷い犬探しや迷いおじいちゃん探しや乙種魔獣狩りなどに精を出しているつもりなのだが、新人の活躍はいつも鼻につくという方々がいらっしゃるのはどの業界でも同じようだった。

 

 リリオとトルンペートが冒険屋としては小柄で、女性と言うのも悪かっただろう。

 こういう言い方は性差別的であまり好きではないのだけれど、しかし体力勝負であるところの冒険屋稼業としては機能的に劣る方であるのは間違いないはずの組み合わせであり、そのくせ大男顔負けの依頼をこなしてきているとなれば嘘つけてめえと思わずにいられないという気持ちはわからないでもない。

 

 特に大人しくドブさらいや迷い犬探しや迷いおじいちゃん探しや乙種魔獣狩りなどに精を出している女三人組に業績で負けているらしい大男どもにとっては、そういうものらしい。

 

 なぜそんな大男どもの気持ちがわかるかと言えば、経験だ。

 何しろ数が違う。

 

 何の数かと言えば。

 

「おーやおやおや、《三輪百合(トリ・リリオイ)》のお嬢ちゃん方じゃねえかい」

「今日も乙種魔獣を狩ってきたってのかい」

 

 絡んでくるヤンキーもとい冒険屋どもの数だ。

 

 本日の屑は、仕事帰りに茶屋で氷菓などたしなんでいるところに、このクソ暑いのに勤勉なことに、自分の半分くらいしか体積ないんじゃないかという女の子にわざわざ絡んでくるろくでなし二人だ。首に下げたドッグ・タグみたいな小さなエンブレムを目ざとく見つけてくるあたりもいやらしい。

 

「女の色香で乙種魔獣を倒したってのはほんとかい」

「そんな薄っぺらい体でかい。へっ、股でも開いたってか?」

「乙種魔獣ってのは悪食だな、へっへっへ」

 

 ちなみに私のことはガン無視だ。正確に言うと《隠蓑(クローキング)》で隠れているので気付いていない。姿を現していると絡まれる確率が減るので、こういう連中の屑っぷりがよくよくわかるというものだ。

 

 私が姿を現して凄みを利かせれば、さすがにたっぱもあるし、目つきも悪いし、何よりレベル九十九の威圧感でもあるのか早々に退散してくれる場合が多いのだが、この暑いのに《隠蓑(クローキング)》解除したくないし、せっかくトルンペートが来てくれて姿を隠していても問題なくなったのに、こんなクソみたいな問題のせいでいちいち世間と相手していたくない。

 

 それに、なにより。

 

「いま、なんち()た?」

「あ? あんだって? 田舎訛りはわかんね()()()()()()()()()()()()()!?」

()()()()()()()() ああ、失礼。ベンジョコオロギにもわかるように言い換えてあげるわ。誰が絶壁まな板大平原ですって?」

「だ、だれもそんな()()()()()()()()()()()()()!?」

 

 いい加減暑さと面倒くささで憂さの溜まっている二人のお邪魔はしたくない。

 

「辺境訛りがお気に召したようですから、辺境流でお相手しましょう」

「そうね」

「ああが、あががが」

 

 高速のローキックで膝を砕かれた二人組が、怯えのこもった視線で見上げているが、私は無関係だ。知らない。わからない。正直辺境組のやり方って血腥すぎて直視すると怖すぎる。

 

「伊達男にして帰してやるわ」

 

 これは辺境の方言で、見せしめに顔面をつぶして送り返してやるという意味である。

 

 うん?

 うちのパーティ名だって?

 

 なんだっけ。

 《虎が二頭(ドゥ・ティグロイ)》とかじゃない?

 

「《三輪百合(トリ・リリオイ)》!」

 

 ああ、そうそう、それ。

 ……それ、私も入ってるの? ああ、そう、そうなのね。

 

 特に悪党でもないけれど運と日ごろの行いが悪かった野郎どもの耳障りな悲鳴と湿った殴打音を聞き流しながら、私は世界平和に思いをはせる。

 

 ああ、氷菓の冷たさが、染みる。




用語解説

・首に下げたドッグ・タグみたいな小さなエンブレム
 冒険屋はみな、所属する事務所やパーティを示す金属片を首に下げている。
 これは自分の所属を明らかにすることで各種機関に融通をきかせてもらうことのできる外、顔面が潰れて死ぬようなことがあっても誰かわかるようになっている。
 
・「いま、なんち言た?」
訳「いま、なんて言った?」

・ベンジョコオロギ
 辺境方言でカマドウマのこと。この場合、相手をむしけら呼ばわりしている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 白百合と氷菓

・前回のあらすじ
気さくなお兄さんたちを伊達男にしてやった。


 夏です。

 辺境では、そしてこの北部でも、夏は短いものです。しかしその暑さが全く涼しいものであるかと言うと話は別で、南部の人にはそうであるかもしれませんが、私たち北の人間には暑いという他にありません。

 

 ウルウなどは実にしれっとして汗の一つも流しませんが、これが南の生まれであることの証左なのか、単に鈍感なのか、はたまたくろぉきんぐなる術のおかげなのかはさっぱりわかりませんが、多分術のおかげではないかとにらんでいます。

 その証拠にウルウの外套の中にお邪魔させてもらうとひんやりします。

 

 あまりにも心地よいのでトルンペートと二人で左右から潜り込んだら思いっきり振り払われました。

 減るものではないしいいじゃないですかと何度か挑戦しましたが、しまいには蹴り飛ばされました。

 

 曰く、「はずかしいから、やだ」とのこと。

 

 もう、ウルウったら可愛いことを言います。

 

 あ、いえ、子供みたいで恥ずかしいので嫌だという意味なのは承知していますのでその冷たい視線はやめてください癖になりそう。

 

 ともあれ、夏とは熱いものです。

 今日も今日とて迷い犬をスムーズに回収したのち、私たちは行きつけの店で氷菓を頂くことにしました。

 そして今日も今日とて下らない妨害に遭ってしまいました。

 

 行きつけのお店は冒険屋たちがよく利用する少し荒っぽいお店なのですが、冒険屋が集まると、私たちはちょっと目立つのです。

 

 というのも、デビューからして乙種魔獣退治に始まり、ポンポンとそれなりに乙種を片付けてきてしまった私たちは、しかしその見た目はと言うと年若い女、それも小柄な女たちであり、おまけに綺麗好きのウルウのせいかおかげかいつも身ぎれいにしているので、とてもそんな荒事が得意には見えないのです。

 

 冒険屋というものは、見栄も大事な看板の一つです。何しろそれで仕事の入りも違います。

 そういう面倒を避けるために事務所と言う傘の下に入っているのですが、多少の小競り合い程度自分でどうにかできなければその傘も笑われてしまうというもの。

 ままならないものです。

 

 一人我関せずと、実際姿を消しているので関係することもなく氷菓をつついているウルウを尻目に手早くたたんでしまって、私たちも氷菓を頼んで早速いただくことにしました。

 

 さすがに荒事に慣れた冒険屋たちを商売相手にしているお店だけあって、動揺もなくあんたたちやるねえとちょっとサービスしてもらえるくらいでした。でも程々にね、とくぎを刺された上で。

 

 さて、氷菓というものは昨今様々に種類が増えてきました。

 

 例えばウルウが今つついているのは、木の椀に盛られた氷水(ラスペカ)で、これは果汁を糖と煮詰めたものを香料などと混ぜながら凍らせたもので、しっとりとした雪葩(ソルベート)と比べるとまだ氷の粒が荒く、しゃくしゃくと食感が楽しいものです。

 

 トルンペートが、器の形に焼かれた焼き菓子である威化(ヴァフレート)の上に盛られたのを少しずつ舐めているのは、これは雪糕(グラシアージョ)と言って、果汁ではなく乳を糖などと混ぜながら凍らせたものです。

 果汁や香料などと混ぜることもありますが、トルンペートは()雪糕(グラシアージョ)を好みます。

 

 そして私が頂いているのが、大きな木の皿にこれでもかと盛り付けられた、大盛りの削氷(ソメログラシオ)です。これは氷水(ラスペカ)に似ていますが、大きく冷やし固めた氷の塊を削ったもので、これにたっぷりの蜜や果汁をかけていただくというものです。しゃくしゃくとした氷の食感や、溶けかけたひんやりした果汁、それらが一体となってたまらなくあたまいたい。

 

 そうです、頭が痛くなるのでした、氷菓は。ウルウの言うところのあいすくりん頭痛とかいうので、冷たいものを急いで食べると頭痛を引き起こしてしまうのです。これはいくら鍛えても耐えられないもので、冒険屋の猛者たちが、店先に並べられた日傘付きの席でそろって頭を押さえているのはなんだか滑稽な光景です。

 この頭痛もまた、夏の醍醐味と言えるでしょう。

 

 氷菓は安くはありませんが、真面目に仕事をしている冒険屋なら、仕事帰りに井戸水で冷やした林檎酒(ポムヴィーノ)にするか麦酒(エーロ)にするか、それとも氷菓にするかと選べる程度のものではあります。

 

 私たちは勤勉な冒険屋ですし、何しろ乙種魔獣退治と称してかなり乱獲してしまったのでちょっとした小金持ちなのです。

 大っぴらにすることでもありませんが、氷菓を頂いた後、《踊る宝石箱亭》で一杯ひっかけるくらいはわけのないことです。えへへ。

 

 今日もそのようにして氷菓を食べ終え、夕飯をどうしようかと相談している頃合に、今回の面倒ごとはふらっとやってきました。

 

「やあ、やってるかい」

 

 それはひょろりとやせ型の土蜘蛛(ロンガクルルロ)で、場を和ませる健康的な笑顔の素敵なおじさんでした。

 

「あれ、ガルディストさん」

「や」

 

 軽く手を上げるこの冒険屋は、メザーガのパーティメンバーで、事務所の一員である野伏(のぶせ)のガルディストさんでした。実に気さくな方で、気の荒い冒険屋たちの間でもうまく場を取り持つ才能の持ち主で、そしていくらか気の抜けない油断のならない人でもありました。

 

「いい仕事を持ってきたんだが、どうだい? 最近退屈してると思ってな」

 

 私は思わず左右を見てしまいました。

 

 トルンペートはおすまし顔で雪糕(グラシアージョ)をなめながら我関せずと私に任せているようです。では逆ではとウルウを見れば、こちらは面倒くさそうに目を伏せています。駄目です。どちらも頼りになりません。

 

 これはどうも面倒ごとの匂いがするな、と私は心を決めました。

 

「いえ、申し訳ないですけど、」

「これから飯だろ? 奢るよ」

「是非お聞きします」

 

 左右から、ため息が聞こえた気がしました。




用語解説

・氷菓
 氷精晶(グラシクリステロ)や氷室を活用して作った冷たいお菓子の総称で、夏場は特に好んで食べられる。

氷水(ラスペカ)
 果汁を糖と煮詰めたものを香料などと混ぜながら凍らせたもの。しゃくしゃくしゃりしゃりと大きめの氷の粒が楽しい。グラニテ。

雪葩(ソルベート)
 氷水(ラスペカ)と同様の製法だが、氷水(ラスペカ)と比べて氷の粒が細かく、しっとりとした味わい。ソルベ。シャーベット。

威化(ヴァフレート)
 焼き菓子の一種。小麦粉、卵、砂糖などを混ぜ合わせて薄く焼いたもの。ここでは器の形に焼き上げているようだ。

雪糕(グラシアージョ)
 乳、糖、香料などを混ぜ合わせ、空気を入れながら攪拌してクリーム状にして凍らせた氷菓。アイスクリーム。

削氷(ソメログラシオ)
 氷の塊を細かく削って盛り付け、シロップなどをかけて食べる氷菓。かき氷。夏の定番。

・あいすくりん頭痛。
 アイスクリーム頭痛。冷たいものを勢いよく食べることで発生する頭痛。ある意味、夏の醍醐味。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と土蜘蛛野伏

前回のあらすじ
女子三人で氷菓を楽しんでいたらやってきたおっさん。
女子に仕事を持ってきたうえご飯を奢ってくれるという光景は非常にいかがわしい。


 リリオの手前はっきりと口にすることはないけれど、あたしの中で冒険屋っていうのは基本的に信用ならない連中のことね。個人個人で見ればそりゃあいい人も悪い人もいるけれど、商売として見た場合、冒険屋ってのは常に他者との競争で、騙し合いで、蹴落とし合いよ。

 

 同じ事務所の人間だからって、これは変わらない。

 そりゃあ勿論害意や悪意はないかもしれないけれど、うまいことこちらを持ち上げて、うまーく利用しようっていうのは見えている。素直な信頼関係からくるものばかりではないんだと思う。

 

 だからあたしは奢ってくれるとかそういう台詞は基本的に面倒ごとの序曲だとしか思っていないけれど、今日ばかりは同情だ。

 

 なにしろガルディストさんはしょっぱなから間違えてたんだから。

 ことリリオに対して何か頼みたいなら、正面から頭を下げてお願いするのが一番楽なんだもの。

 いくら面倒ごとでも、リリオは誠実なお願いを断ることはしないし、できない。

 

 そこを小細工を弄しようとするから、こんな目に遭う。

 

「えーと、それでだな」

「あ、お姉さん、これお代わりお願いします。あと林檎酒(ポムヴィーノ)も」

「仕事の話なんだが」

「あ、このもも肉の炙りも! 三皿分くらい!」

「なんだが、ねー」

「あ、私も林檎酒(ポムヴィーノ)

林檎酒(ポムヴィーノ)もう一杯お願いしまーす!」

 

 さすがにウルウも姿を現して席に着いたけれど、そりゃあ好きに注文してくれなんて言ったらこうなるわよ。

 八人掛けのテーブルに四人でかけて、それでテーブルの上が皿でいっぱい。料理は途切れることがない。

 リリオ見た目以上によく食べるし、ウルウはともかく、私も食べるもの。辺境育ちはよく食べるのよ。

 

 しまいには降参だと両手を上げて自分も料理を楽しみ始めるガルディストさんは、そのあたりわかっていなかったとはいえ、切り替えのいい方よね。

 

 そうして席が盛り上がると、周囲もその熱気にあおられて、一皿二皿、一杯二杯と注文が増えるし、そうしてくると酔いが回って腹も満ちて、チップもついついはずんじゃう。そうすると店の方でも嬉しくなってサービスが良くなってくるから、ますます客も盛り上がる。

 これね。これこそいい雰囲気の店ってやつよ。

 

 しばらくそうして早めの夕飯を楽しんで、お腹もいっぱいになったし気分もよくなったし、そろそろ帰ろうかとなって、さすがにガルディストさんが止めた。

 

「待て待て待て、さすがに帰さんぞー、ここまで飲み食いしやがって」

「えー」

「えーじゃない。遠慮を知れって年じゃないが、どこに入るんだ全く」

「胃袋です」

「二つ位あるんじゃなかろうな」

「二つで済むかしら」

「四つ位ありそう」

「もー!」

「牛さんだ」

 

 ガルディストさんは気分を盛り上げたままに話を誘導するのも得意で、あたしたちは気づけば椅子に腰をしっかり下ろして、林檎酒(ポムヴィーノ)片手に仕事の話を聞いていた。

 

「ま、仕事って言ってもいつものドブさらいの延長さ」

「とてつもない延長な気がする」

「そこまでじゃあないさ。そこまでじゃ」

「じゃあどこまでです?」

「ちょっと地下水道まで」

 

 ガルディストさんのにやっとした笑みに、あたしたちはちょっと黙りこんで目を見合わせた。

 ウルウは何のことかわからないっていつもの顔で。あたしは面倒ごとの匂いがするって顔で。それから、リリオは、うん、まあ、わかってた。()()()()してた。

 

「地下水道! 潜るんですか!」

「ああ、ちょっとな。未開通の通路が発見されたんで、ちょいと何組か御呼ばれしててな」

「うひゃあ! 浪漫です!」

「過去の文献によれば、それなりのお宝はありそうだ。それに、そう、」

穴守(あなもり)!」

「そいつだ」

「うひゃあ! 冒険です!」

「リリオちゃんなら喜んでくれると思ったぜ」

「もちろん!」

 

 いやなやつね全く。リリオが頷いたら残りの二人もついてくるってわかってるんだから。

 ウルウは何にもわかってないから仕方ないんでしょうけど、それにしたって地下水道だなんて。

 

「ところで」

 

 ウルウが小首を傾げる。

 

「他の面子は?」

「なんだって?」

「何組か呼ばれてるんでしょう。水道の管理局か、冒険屋組合に」

「ウルウちゃんは目ざといねえ」

「リリオが楽しそうで何よりだけど、隠し事があるなら私は乗らない」

「待て待て待て、隠し事ってわけじゃない。単に俺も詳しく知らないだけだ」

「知らない?」

「事務所あてに依頼が届いたのさ。他の事務所がどこかってのまではわかるが、パーティまでは現地で会わないとわからない」

「杜撰だなあ」

「どうせパーティごとで動くからな」

「で、どっち?」

「何がだい?」

「管理局? 組合?」

「目ざといねえ」

「お陰様で」

「管理局だよ。監督官は付かないが、入り口で待ち構えてるだろうな」

「欲しいのはリリオじゃなくて私?」

「袋をくれるんなら構わないけど」

「駄目。リリオと私はセットだ」

「高くつくかい?」

「掘り出し物次第。捌き方は信頼するよ」

「助かる」

「商談成立ってことで」

「よし乾杯(トースト)だ」

 

 トストン、トストン! 少しずれながらあたしたちは乾杯の音頭を上げて、酒杯を干した。会話の内容はよくわからなかったけど、ウルウはあれで頭が回るから、ガルディストさんが説明しなかったことを目ざとく聞き出したんだろう。後で詳しく聞いてみようかしら。

 

 まあ、それは、ともかくとして。

 

「それじゃあ菓子(デセールト)ですね!」

「まだ食うのか!?」

「高い勉強料だったね」

「ええい、もってけ泥棒!」

「よし来た! お姉さん端から持ってきて!」

「少しは遠慮を知れ! おっさんも給料大して変わんねえんだぞ!」

 

 やっぱりこの時期は、氷菓が一番よね。




用語解説

・地下水道
 大きめの街には大概存在する、地下に作られた水道。またそれに関連する水道施設。
 多くは古代王国時代に作られた遺跡を流用しており、不明な点も多いため、冒険屋が定期的に潜って調査している。

・穴守
 古代王国時代の遺跡に存在する守護者の総称。機械仕掛けの兵器であったり、人工的に調整された魔獣であったりする。

・水道の管理局
 水道の利用や整備を取り扱う組合。知的労働者や技術者が多く、荒事はあまり得意ではない。冒険屋に相当する自前の荒事部門を作ると冒険屋組合の権益を侵害してしまうので、冒険屋を雇って調査を依頼している。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊と冒険前夜

前回のあらすじ
薄給のおっさんから毟れるだけ毟った女子三人。
いよいよ冒険屋らしい仕事が舞い込んできたが……。


 ガルディストというのは土蜘蛛(ロンガクルルロ)地潜(テララネオ)とかいう氏族の男だった。この種族は女性より男性の方が小柄で、彼もご多分に漏れず小柄な方だったが、それは同族の女性と比べればということであって、やややせ型であることを除けばそこらの男と大差はなかった。

 むしろ、その筋肉のつくりは針金でもより合わせたようで、鋭い。

 また軽薄そうな第一印象とは裏腹に、堅実さと知性がまなざしに伺える。

 

 彼はメザーガのパーティの野伏(のぶせ)だ。

 野伏とは何かと聞いてみたら、リリオが説明するところによれば、宝箱を開けたり、罠を解除したりが得意な手先の器用な奴のことで、遺跡の探索にはまず欠かせないという。つまりゲームでいえば《盗賊(シーフ)》にあたる《職業(ジョブ)》だろう。

 盗賊って言うと、やっぱり聞こえが悪いし、野伏っていうのには、まあ、そこまで悪い印象は沸かない。

 

 そんなことを言う私は《盗賊(シーフ)》上がりの《暗殺者(アサシン)》上がりの死神(グリムリーパー)なわけで、まあ、よっぽどだな。

 

 まあ、なんにせよ油断のならない男だというのが私の印象だった。

 

 今回の面倒ごともとい仕事を持ち込んできた時だってそうだった。

 

 どこからの依頼か、誰とやることになるのか、そういうことを、聞くまで答えようとしないってのは、ちょっとフェアじゃないだろう。

 まあ、そのくらいには私たちのことを警戒しているともいえるし、試しているともいえるのかもしれないけど。

 

 他所のパーティについて知らないというのは、半分嘘だろう。事務所を知ってれば、どんな連中が選ばれるだろうかってのは予想がつくはずだ。地下水道なんて限定された場所なら特にね。

 でも濁したのは、なんだろうか、大したことがない連中だからか、それとも面倒な奴がいるからか。

 

 依頼がどこからってのも大事だ。

 

 私も最近本で知ったことだけど、冒険屋組合ってのは少し特殊で、危険な事や、そうなるだろう見込みが大きいことに対しては、他の組合の領分を犯して、頭ごなしに指示を出す権利が街に認められているらしい。

 そりゃそうだ。一等危険に慣れている奴らが、危険に対して権利を持つのは正しい。

 

 ただこれは、逆に言えばそういう見込みが少ないか、確認できない時は、指をくわえているしかできないってことでもある。

 

 今回の依頼は水道の管理局から。

 これは難しい。危険がない、ってわけじゃない。何しろ未踏の場所なのだから、危険はあるかもしれない。ありそうだ。でも確証はないから、冒険屋組合は首を突っ込めない。

 そうなると、冒険の上り、つまり道中見つけたお宝なんかは水道のものだからって理屈で、局の監視員にはねられるのは間違いない。その癖、仮に危険な魔獣なんかが出てもそれも仕事の内だからって私たちは対処しなくてはならない。

 

 《三輪百合(トリ・リリオイ)》が、正確には()が呼ばれたのはそれが理由だ。

 《三輪百合(トリ・リリオイ)》は力量においてはすでに実証済みで、そして私は大容量の《自在蔵(ポスタープロ)》持ちということになっている。

 監督官も《自在蔵(ポスタープロ)》の中身まで改めることなんてできやしない。だから、つまり、そういうことだ。いくらか()()()()()って話なんだろうね。

 

 という予想を後で話してみたら、リリオは感心し、トルンペートは呆れた。

 

「あんたいっつもそんな面倒なこと考えてるの?」

「考えてない奴はこうなる」

「え?」

「あたしももっと考えるようにするわ」

「え?」

「そうしておくれ」

 

 リリオは素晴らしいリーダーだ。パーティメンバーの絆をまた一つ強めてくれた。

 

 ともあれ、地下水道だ。

 私からすると水道ってのはただの水道でしかないんだけど、この世界ではどうにもそうではないらしい。

 

 というのも、簡単な――それでもローマ水道レベルのものなら、一から作ることも難しくはない程度の技術力はあるらしい。

 しかし、ある程度の大きな都市は、基本的にかつて存在した古代王国の残した非常にハイテクな水道に頼っているらしい。そしてこれがまた戦争やらなんやらで地図や操作手順が紛失していることが多いらしく、一応動くけど細かいことはわからない、というレベルらしい。

 

 なのでいまだに冒険屋たちが潜っては長い間の内に住み着いた魔獣を退治するだけでなく、もともとの機構として存在する獣避けや侵入者避けのトラップを解除し、全容の不明な遺跡をちまちまと攻略しているというのが実情らしい。

 

 わーお。足元にダンジョンがあるわけだ。

 

 今回の依頼は、そんな地下ダンジョンに未探検の通路が見つかったから一寸行って調べて来いよというものらしい。

 

 試しに依頼料を聞いてみたらこれがなかなか悪くない。

 悪く無さすぎて不安になったので一応相場について確認してみたら、リリオが意気揚々と穴守(あなもり)なるものについて語ってくれた。

 

 なんでも地下水道をはじめ古代遺跡には、侵入者を排除するための機械仕掛けの守護者や強力な魔獣が置かれている場合が多いらしく、ライフラインの一つである地下水道とはいえ、古代遺跡であるからにはそういうのが出てくる可能性は高いらしい。

 

 そりゃ依頼料も弾むわ。

 

 というか危険があるなら冒険屋組合呼んで来いよと思ったのだが、そこは穴守がいるとは限らないとか確率だけなら低い方だとか職権の侵害だとか、まあいろいろ面倒臭い政治があるらしい。

 冒険屋組合だけ割を食っているように見えるけれど、冒険屋組合がいるから水道局は自前の地下水道掃除屋を育成できないとかそういう部分もあるらしい。

 

 面倒臭い。

 なんでファンタジー世界でそんな政治を聞かにゃならんのだ。

 

 ともあれ、だ。

 いままで精々ファンタジー飯に舌鼓を打つ程度だったのだ。

 ある意味、ようやくファンタジーらしい冒険をする時が来たようだ。

 リリオが。

 

 私? 私はもちろん三歩位後ろで見てるよ。

 

 私たちはそのようにして依頼を受けることを決めて、何かと詳しいリリオの意見を程々に参考にしながら必要な物を買いそろえて、私のインベントリに放り込んだ。

 何しろこの世界の物品は重量設定がゼロなのかnullなのか、幾ら入れても制限に引っかからないうえ、中に入れると時間の進みが止まるようなので、こういう時に非常にお役立ちなのだ。

 腐るかもしれない生鮮食品も、使わないかもしれないアイテムも、まとめてポイだ。

 

 以前はできるだけリリオが一人でできるようにとあまり手を貸さないようにしていたけれど、トルンペートも合流し、私もなし崩しについていくほかないとなると、荷物持ちくらいは致し方ないという妥協だ。

 第一荷物で動けなくなってゲームオーバーなんてのは見ていても面白くない。

 リアリティより面白さ優先のライトユーザーなのだ、私は。

 まあ、なんにせよ私が手を貸すのは最小限、これは譲れない。

 

 さて、依頼の日を翌日に控えて、私たちは事務所の寮で軽く作戦というか、行動指針を立てて、歯を磨いて休むことにした。

 

 当初二人部屋だったこの部屋に三人分のベッドを詰め込むのは無理があった。かといってもう一部屋頼もうとしたら家賃をちらつかされた。別に払ってもいいのだけれど、節約を心掛けていかないと後が怖い。

 ソファを使って三交代制にするとか、一つのベッドを二人で使うとか、いろいろなすったもんだがあった挙句、リリオが疲れた目で閃いてくれた。

 

「三次元的にはまだ空間があります」

 

 と。

 

 最初は何をトチ狂ったのかと思ったがわけはない。

 要するにベッドを置くスペースがないならベッドを重ねてしまおうという、つまり二段ベッドの発想だった。

 

 私たちは試行錯誤してDIYを果たし、多少いびつで不安定ながらもまあ私が寝るわけじゃないしいいかなという完成度でもって二段ベッドを作り上げ、この上段をリリオが、下段をトルンペートが使うことになった。

 

 お嬢様の上に寝るなどとても恐れ多いなどと持ち上げられて意気揚々と二段ベッドの上段に喜んでいたリリオだが、まあ、トルンペートはわかってるよなあ。二段ベッドって下の方が便利なんだよね。ベッド下に物置けるし、出入りも楽だし。

 会社の仮眠室が二段ベッドで、しばらくの間半ば住み着いたことあるからよく知ってる。

 

 そんな経緯で積み上げられた二段ベッドに入ってからもしばらくの間、リリオは遠足前の子供のように眠れないらしく何度も寝返りを打っていた。トルンペートは寝るのも仕事の内と言わんばかりにすぐに寝息を立て始めた。

 

 私はというと、私も実は少し興奮して寝付けなかった。

 何しろ初めての冒険らしい冒険だ。何しろ初めてのダンジョンだ。

 

 《ウィンチェスターの目覚し時計》を二度チェックしてから、私は冴える目を無理やり押さえつけて眠りについたのだった。




用語解説

・野伏
 ゲームでいう《盗賊(シーフ)》に相当する職業。罠や扉、宝箱の解除・開錠を得意とする他、手先が器用な職業。閠も《盗賊(シーフ)》時代に獲得したスキルで似たようなことはできるが、経験が違うため恐らく劣る。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と地下水道

前回のあらすじ
初めての冒険らしい冒険、そう、ダンジョンに興奮して眠れない閠。
いびきが二人分に増えたのが理由ではないはずだ。


 依頼当日。

 やっぱりお寝坊してしまいましたが、トルンペートに起こしてもらって事なきを得ました。ところで私トルンペートの一応主に当たるはずなんですけど、二段ベッドの上段から引きずり落とされるのはどうなんでしょう。

 

 ともあれ、今日は待ちに待った冒険日和です。

 

 地下水道の入り口は街中に整備用の潜孔として存在していますが、あれはあくまでも人一人通れる程度のもの。もっと大掛かりな点検整備や立ち入りの為に、水道局の建物の中から階段を下りて地下へと進むことができます。

 

 というのは今日初めて知ったのですけれど。

 

 水道局の人は思ったよりも友好的で、なんだかのんびりしたお爺さんでした。私があちこち物珍しそうに見ていると、親切にいろいろ教えてくれるのでした。

 

 地下水道の入り口に集まった冒険屋パーティは全部で三つで、そろいの制服を着た業者さんのような四人組が一番最初にすでに来ていて、私たちが二番手、そして時間ギリギリに最後の一組が五人でやってきました。

 

「《潜り者(ホムトルオ)》の皆さんはいつも通りとして、他の方々は初めましてですね。パーティ単位での活動になりますが、一応自己紹介していただきましょうか」

 

 水道局のおじいさんに促されて、到着順に軽く自己紹介をしていくことになりました。

 

「ホムトルオ事務所の《潜り者(ホムトルオ)》だ。私はリーダーのクロアカ。魔術師だ。メンバーは水の神官のトリトーノ、野伏のベリタ、同じく野伏のボッカ。水道局の依頼を主に請け負っている、まあ、地下水道専門のパーティだな」

 

 《潜り者(ホムトルオ)》は揃いの制服に体格も似通った、みな人族の男性で、聞けば水道局の専属に近い冒険屋だそうです。水道局は自前の冒険屋を持てませんけれど、馴染みの冒険屋はあるというわけですね。その方が効率的ですし。

 彼らは一番慣れているようですし、落ち着いた余裕のようなものが感じられました。

 

「メザーガ冒険屋事務所は、《一の盾(ウヌ・シィルド)》からは俺、野伏のガルディストが臨時のリーダーとして、新人の《三輪百合(トリ・リリオイ)》の三人を率いる。リリオは剣士だが、まあ近接は大体できる。トルンペートは投擲が得意だ。ウルウは野伏よりだが、詳しくは企業秘密」

 

 二番手の私たちは《三輪百合(トリ・リリオイ)》の三人にメザーガのパーティのガルディストさん。野伏のガルディストさんは地下水道の依頼は何度も受けたことがあるようですけれど、私たち三人は新人でもあり始めての地下水道ということもあり、あまり気負わずに頑張ってくださいと応援されてしまいました。

 

 最後にやってきたパーティは男女の入り混じったパーティでした。

 

「遅れてすまん。鉄血冒険屋事務所の《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》だ。俺はリーダーのラリー。剣士だ。魔術師のニーヴンに、野伏のトム。それに武僧のフィンリィ。地下水道は何度か挑んだことがある。ニーヴンは水中呼吸の術を使えるから、必要なら言ってくれ」

 

 ラリーは人族の男性で、ニーヴンは女性、トムとフィンリィはそれぞれ土蜘蛛(ロンガクルルロ)の男女でした。

 こうしてみると、他種族の入り混じる北部でも、パーティ内の種族は精々二種族で、それもパーティ内でやや距離があるように感じられます。パーティ全員種族が違うメザーガのパーティの特殊性がよくわかります。

 特に天狗(ウルカ)土蜘蛛(ロンガクルルロ)が同じパーティ内で仲良くしているのはなかなか見ません。

 

 私たちは水道局の監督官でもあるというおじいさんの案内で、地下水道へと降りていきました。

 階段を降り、分厚い鉄の扉を開くと、水道特有の濃い水の匂いと、苔や生物由来のやや不快なにおいがしますが、思ったより臭くはありません。

 

「意外に思うかもしれませんがね、地下の方が浄水機構が働いているから、上層のドブなんかよりもきれいなんですよ。ただ、水路には魔獣が棲んでいる場合もありますから、おぼれた時は病気より襲われる方に気をつけて」

 

 水路沿いの通路を歩きながら、監督官さんがそう教えてくれます。

 その水路にもきちんと鉄柵が張られていて、そうそう落ちることもなさそうです。というのも、この辺りはすっかり探索も済んで、魔獣も駆逐され、整備の手が行き届いているからだそうでした。

 

「昔は柵も錆びてたり、破れてたりしてましてねえ、水路から急に魔獣が飛び出してきたりもありました。《潜り者(ホムトルオ)》さんところがねぇ、昔から協力してくださって、それでずいぶん綺麗になったものですよ」

 

 そういわれて《潜り者(ホムトルオ)》の面子もどこか誇らしげです。

 

 そうしてしばらく整備された通路を進み、いくつかの扉を抜けたところで、監督官さんが重たげな鉄の扉の前に立ちました。

 

「この扉が、つい最近ようやく開け方の判明したものです。仕掛けは簡単なからくりだったんですが、鍵が紛失していまして、合鍵の作成に随分手間取りました」

 

 そう言って取り出されたのは鍵というよりは短剣くらいのサイズのでこぼことした金属塊で、これを鍵穴に差し込んで、取り付けられたハンドルを使ってぎりぎりと回すと、どこからかがちがちと重たげな金属音が響き、鉄扉がゆっくりと壁に埋まるように開いていきます。

 

「先遣隊が入り口付近の安全は確認していますが、通路が分岐していて、その先はまだ未調査です。調査報告書の出来と発見物次第で基本給から値上げしていきます。地図は買い取りします。なお、地下水道内の物品は水道局の管轄ですので、えー、ここで、この出入り口でですね、回収させていただきますので、皆さん程々に」

 

 ちらとガルディストさんを見やると、にやっと笑って耳打ちされました。

 

「ばれない程度は見逃してやるからあんまりせこい真似はするなよってさ」

「なるほど」

 

 私が頷いていると、《潜り者(ホムトルオ)》のメンバーが装備を点検し、そして監督官さんの前に並びました。何だろうとみていると、監督官さんが杖と、そして謎の巾着袋を取り出しました。

 

「《潜り者(ホムトルオ)》の皆さんはいつものことですけれど、はい、水の神官である私が水中呼吸、水上歩行、水精への耐性、暗視など補助法術をおかけできます。神殿との兼ね合いで有料となりますが、この先でのお怪我や事故は危険手当込みでお給料以内のことですので、はい、まあ、お財布とお相談されてください」

 

 ちゃっかりしてるぅ……。

 

 さて、一応確認しておきましょう。

 

「私、鎧に水上歩行と耐性ついてます」

「俺は種族柄暗視持ちだな。水上歩行はないが泳ぎはできる」

「あたしは夜目は利くわ。水上歩行はできないけど、少しなら空踏みができるから、それでなんとかなるかしら」

「暗視の法術使わせてもらうなら火精晶(ファヰロクリステロ)のランタンの方が安いですかね」

「片手塞がるが、まあ暗視持ち多いしいいだろ。ウルウ、お前さんは?」

「……私はどれも大丈夫」

「よし、企業秘密は俺にはなしだ。ここでのことはメザーガにも漏らさねえ」

「……暗視効果のある道具を持ってるから、リリオとトルンペートに暗視はつけられる」

「マジかよ。いやまて、俺は何にも聞かねえ。とりあえずそいつを貸してやってくれ」

「わかった」

 

 そのようにして私たちは支援は遠慮したのですが、意外にも水中呼吸の術が使えるといっていた《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》のメンバーは全員支援を受けるようでした。

 

「連中、ダンジョン慣れしてるな」

「そうなんですか?」

「術は魔力を使う。つまりリソースを削るんだ。金で解決できるならここで支援してもらった方が生還率は上がる」

 

 成程。お金をケチる事ばかり考えてもダメなわけです。支出と収入、最終的な計算結果を想像できないようではよい冒険屋にはなれないというわけですね。

 

「では、皆さんが突入したのち、安全のため一度扉は閉めます。時間までは開きません。緊急で脱出したい場合は、これから教える符丁で扉を叩いてください」

 

 こんこんここんと扉を叩いて、優しそうな監督官さんはにっこりと笑って私たちを奥へといざないました。

 

 私はちらりとウルウを見ます。

 

「あれって」

「うん、あの符丁で叩かれたら、危険が近いから絶対に開けないっていうやつだよね」

「ですよねー」

 

 そんな私たちの背後で、重たい音とともに扉が閉まるのでした。




用語解説

・《潜り者(ホムトルオ)
 地下水道の調査を専門にしているホムトルオ冒険屋事務所の筆頭パーティ。この事務所はほかにも数パーティ抱えており、大体同じような編成で、常時どれか一つは地下水道に潜っている。
 戦闘は得意ではないが、いまだに怪我が理由の脱退者を出していない非常に優れたベテランたちである。
 ただし、地下水道以外での活動では途端に脆くなることだろう。

・《一の盾(ウヌ・シィルド)
 メザーガ冒険屋事務所筆頭パーティ。元々メザーガが組んでいたパーティで、事務所結成以降は殆どこのパーティで行動することはない。全員がかなりの実力者であるだけでなく、メンバー全員が他種族であるにもかかわらず連携力にも優れた非常に優秀なパーティであった。

・《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)
 鉄血冒険屋事務所所属の中堅パーティ。鉄血冒険屋事務所は荒事を得意とするものがおおく、メンバーも戦闘を得意とするものを中心に、サポートが少数置かれる編成。
 能力主義ではあるものの、そのために種族間の連携が苦手な面はあり、二種族混成の《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》は実はかなり連携が得意な方。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と地下水道

前回のあらすじ
一気に登場人物が増えたがどうせ絡むことはないので覚えることはない。


 はじめての地下遺跡ってことで、警戒してたのは確かよ。誰にだって初めてのことはあるし、それはどれだけ警戒してもし過ぎるってことはない。初めてだからは理由にならないっていうのをあたしはよくよく知っている。

 

 でもだからこそ、あたしが脱力してしまいそうになったのは仕方がないと思う。

 

 通路は一定間隔で置かれている、古から輝き続ける輝精晶(ブリロクリステロ)の小さな非常灯によって、完全な闇からは脱していたけれど、それでも人の目で見通すにはあまりにも深い暗闇だった。

 あたしも暗殺者として訓練を受けてきたことがあるから、夜目は利く。利くけれど、これだけ暗いと、咄嗟の時には危ないかもしれない。

 

 そんなあたしの緊張はウルウによって打ち砕かれた。

 

「はい」

「なにこれ」

「知性の眼鏡」

「なにそれ」

「ウルウのいつものお役立ちアイテムです」

「いつものお役立ちアイテム」

 

 ウルウに手渡されたのは眼鏡だった。あたしでも眼鏡くらいは知っている。高級品だけれど、貴族には資本力を見せつけるために使用人に眼鏡をかけさせるものもいるくらいだし、そうでなくてもそれなりにかけてる人はいるくらいには流通してる。

 

 でもそういうことじゃなくて。

 

「あたし、目は悪くないんだけど」

「これは闇を見通す眼鏡」

「なにそれ」

「リリオ」

「えーとですね、かければわかると思います」

 

 揃いも揃って説明を面倒臭がりやがって。

 

 仕方なく、あたしは眼鏡を受け取ってみる。

 

 知性の眼鏡とかいったか。仰々しい名前だけあって、普通に見かけるものより立派だ、というか、デザインが素敵だ。不思議な素材の赤く透き通った縁で、どこか柔らかな印象がある。

 以前見かけたことがある鼻にかけるものではなくて、最近流行している、つるを耳にかけるもののようだけれど、実際にかけてみると、これが思いの外に柔らかく負担を減らしてくれ、顔に異物をつけているはずなのにまるで違和感がない。

 この、鼻の部分にそっと当たる部品がまた気が利いている。そのままレンズが当たるととにかく鼻が痛いし、ばねで挟むものはお察しの通りだ。しかしこれはそんな無理を鼻にかけることがない。

 

 レンズの磨きもまた恐ろしく精度がいい。歪みもまるで感じないし、空気のように澄んでいて視界を邪魔するということがない。試しにあたりを見回してみると、壁のレンガの継ぎ目さえ綺麗に見えるほどで……。

 

 レンガの、継ぎ目?

 

「……見える」

「知性の眼鏡は状態異常:暗闇に対してインテリジェンス依存で対抗する装備。暗視効果にもなる」

「えーっと、つまり?」

「……頭がいいほど暗視効果が強まる」

 

 なるほど。同じ眼鏡をかけたウルウも、これと同じように周囲が明るく見えているのだろう。

 赤縁眼鏡がウルウの顔の真ん中に来ると、結構印象が変わる。泣きボクロのすぐそばを赤い縁が通るのだけれど、それが妙に色っぽく、なおかつ知的という矛盾しているようないないような変な感じだ。

 あれだ。清楚系の色っぽいお姉さん教師。何言ってるんだあたしは。

 

 ……はっ。

 待てよ、頭がいいほど、ということは。

 

 あたしが慌ててウルウを見ると、ウルウも気づいたようではっとリリオを見た。

 

「二人とも後でお説教ですからね」

 

 あ、よかった。ちゃんと見えてるみたいだ。

 

「便利な道具みたいだが、あんまり言いふらすなよ、面倒だから」

 

 そんないつもの茶番を眺めながら、呆れたようにガルディストさんがぼやくのだった。

 

 こうして暗い通路もきれいに見通せるようになったあたしたちは、完全な暗視効果を持つガルディストさんを先頭に、野伏の技能に似たようなものを持っているというウルウが珍しくその次に並び、ついでリリオ、最後にあたしという順番で進んだ。

 

 パーティとしては、慣れている《潜り者(ホムトルオ)》が先頭で、あたしたちの後ろを《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》のメンバーが歩いている。

 

 別に文句を言うつもりはないけれど、自分の後ろを誰かが歩いているっていうのは実はあんまり落ち着かない。

 あたしが従者として少し後ろを歩くように教育されてきたのもあるし、無防備な背後を人にさらすのが好きじゃないってのもある。

 ウルウが姿を消して後ろにくっついているのも、本当は最初の内は結構怖かった。怖かったけれど、ことあるごとにあたしの背後にでっかい体を隠そうとするのがなんだかだんだん馬鹿みたいに思えてきて、もう慣れてしまった。

 そう考えると、今ウルウがあたしの前にいるってのも、落ち着かない原因の一つではあるかもしれない。

 

 しばらく歩いていくと、先遣隊が見つけたという分岐路にぶつかった。

 一つはそのまままっすぐ進む道。一つは橋を渡って左手の水路の向こう側に進む道。そして一つは通路を右に折れていく道。

 

 あたしたちは一度集まって相談することにした。

 

「さて、どうしたものか」

「地下水道に詳しい《潜り者(ホムトルオ)》の意見を聞きてえな」

 

 ガルディストさんが促すと、《潜り者(ホムトルオ)》のリーダーであるクロアカさんが顎を撫でた。

 

「そうだな……一番危険なのは橋を渡った先だな」

「フムン?」

「橋の途中で襲われる可能性が高い。それに、橋をまたぐと区画が変わることがおおいんだ。区画の変わり目は守護者が出やすい」

「成程」

「右手の道は、どこかの部屋や施設に出る可能性が高い。ただの通路かもしれんが……専門的知識を持っていた方がいいだろうな」

「まっすぐ行く道は?」

「一番何もないだろうな。逆に言えば、また分岐路にぶつかりやすいともいえる」

 

 あたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》が余計な口を挟まずに聞いている前で、ベテランの冒険者たちは危険とお宝を天秤にかけて相談という名のつばぜり合いを繰り広げているようだった。

 

「俺としては、何らかの施設を見つけた時の為に、専門的知識の豊富な《潜り者(ホムトルオ)》が右手を請け負いたい」

「待て待て待て、むしろ手慣れたあんたらには左の橋の先を調べてもらいたいもんだな。俺達もベテランとはいえ、地下水道の敵に慣れてるわけじゃあない」

「むしろ鉄血さんにゃあ武力じゃ一番期待してるんだがね、俺ぁ」

「《一の盾(ウヌ・シィルド)》の冒険譚を知らねえ奴がヴォーストにいると思ってんのか?」

「おっと藪蛇藪蛇。でも今日は新人連れてるかんな」

「知ってるぜ《三輪百合(トリ・リリオイ)》。先日もうちの若いのが世話になったからな」

「おいリリオなにしたこの馬鹿ッ」

「トルンペートですよう」

「二人がかりだった」

「お前もせめて止めろ!」

「やだよ怖い」

「説得力!」

「もうやばそうなの全部こいつらでいいんじゃないか」

「《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》としては全面的に賛成だ」

「メザーガ冒険屋事務所は反対なんですけどぉ!?」

「二対一だ」

「滅びろ民主主義!」

 

 結局、主にあたしたちのせいで、一番危険そうな橋をあたしたちが、専門的知識が必要とされそうな右の道を《潜り者(ホムトルオ)》が、そして一番無難そうな道を《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》が担当することになったようだった。

 

「お前たち今後は少しは大人しくしなさい」

「はーいお父さん」

「こんなでけえ子供(ガキ)がいてたまるか!」

「いつも心に童心を抱いていたい」

「捨てろ! 今すぐ捨てろ!」

 

 ちぇっ、ガルディストさんは女の子の扱いがわかってないんだから。

 ともあれこれ以上ガルディストさんの胃袋を痛めつけても仕方がない。

 はーいわかりましたー反省してまーすと侘びの言葉を告げて、あたしたちは先に進むことにした。

 

 いかにも崩れ落ちそうな錆びついた鉄の橋は、リリオの喜びそうな冒険の匂いが、確かにしてくるのだった。




用語解説

輝精晶(ブリロクリステロ)
 光精晶(ルーモクリステロ)とも。非常に希少な光の精霊の結晶。古代王国の遺跡には、どういった手法で集めたのかこの結晶が多くみられる。

・《知性の眼鏡》
 かしこさ(インテリジェンス)の数値の高低で効果の度合いが変わるゲームアイテム。
 かしこさ(インテリジェンス)が一定以上の高さだと状態異常:暗闇を百パーセント防ぎ、また暗視の効果を得る。かしこさ(インテリジェンス)が低ければその効果も下がる。
 ファッション用のアイテムとしても用いられた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と水底より迫るもの

前回のあらすじ
民主主義に敗北したガルディスト。
結婚もしてないのに何でこんな年頃の女の子たちの面倒を見なければならないのか。


 ()()はもうずいぶん長いこと、この暖かい闇に包まれた水底を棲み処としていた。

 

 かつてこの水場には多くの生き物が生息していた。

 凶暴なものもいれば、狡猾なものもいた。味わい深いもの、味の薄いものも。そうだ、そうだ、そうだ。確かに多くの生き物がはびこり、そして今やそれらはみな()()の腹の中に納まったのだった。

 

 それは自分の生まれた時のことを記憶してはいなかった。記憶する必要もなかった。容量の限られた脳細胞に記憶するまでもなく、()()の全身の細胞が、その奥に書き込まれた設計図が、そしてその設計図にさらに書き込まれた命令が、()()に生きる意味を与えていた。

 

 生きる意味!

 何と素晴らしいことだろう。

 ()()は微睡みの中で幸福に満たされていた。

 

 この世界にどれだけの生物が生きていて、この世界にどれだけの思惑が巡っていて、この世界にどれだけの尊きものが在るのか、そんなことはどうでもいい。それらの内の果たしてどれだけが、生きる意味というものを明確に持っているだろうか。

 

 生きる意味を持たないものなど、そんなものは数えるにも値しない有象無象に過ぎない。

 

 ()()にはあった。

 確かにあった。

 生きる意味。

 存在する意味。

 かくあれという意味!

 ああ、その何と素晴らしいことか!

 

 かんかんと甲高い音に、()()はまどろみからゆっくりと目を覚まし、そして幸福に身を揺らした。そう、その音は幸福の合図だった。

 ()()の生きる意味を果たすものがやってきたのだから。

 

 ()()はゆっくりと浮上を始めた。

 さあ、はじめよう。さあ、使命を果たそう。

 

 この地に許可なく侵入する全ての愚かなるものを食べつくそう。

 それが、それこそが生きる意味だった。存在する意味だった。

 

 うっかり許可の意味を曖昧にしたまま命令文を打ち込んでしまったために自分自身も食われてしまった創造主の与えてくれた生きる意味を果たすために、()()は侵入者を食い殺すべく身を起こすのだった。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

 錆びつき、鉄柵さえもとうに崩れ落ちた橋を渡りながら、すでに嫌な予感がしていた。

 こんなあからさまに敵が出ますよという雰囲気で何も感じなかったらゲーマーとは言えないし、ゲーマーどころかゲームプレイ傍観者でしかない私でさえそのくらいは感じる

 

 橋の半ばほど、つまりは水路のド真ん中あたりまで来たところで、振動が感じられた。

 私が感じ取るとのほぼ同時にガルディストが鋭く私たちに静止の合図を送り、周囲に鋭く視線を巡らせた。

 リリオが黙って雷精剣を抜き、トルンペートがワイヤー付きの()()()を取り出す。

 

 戦闘準備が整うのを待っていたわけでもないだろうけれど、私たち全員の意識が振動のもと、つまり足元に集まるのと同時に、()()()は激しく音を立てて、飛び上がってきた。

 

 ガルディストが一番早くリリオの首根っこを掴んで前に飛び出し、次いで私がトルンペートと同時に飛び、最後に()()()が大口を開けて老朽化した鉄橋をウェハースか何かのようにばりばりと食い破って真っ二つにしてしまった。

 もしも飛びだすのがあと一秒遅ければ、私たちの誰かがウェハースのようにばりばりと食い破られていたことだろう。

 

 ずらりと並んだ牙の一本一本が私の手のひらくらいはあり、そんな牙が何十本も並んだ大口は私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》が並んで歩ける程度の橋を一口に飲み込めるほどの大きさだ。

 鮮やかな黄色い体表はざらりとした鱗に覆われ、いっそつるんとした胴体は先細りの一本の筒のようで、かろうじて名残のような手足がひれのようにくっついていた。

 

 ざばーふと着水し、ぐるりと旋回しながら私たちを見上げるのは、なんというか、しいて言うならば。

 

「……バナナ?」

「ワニじゃない?」

「じゃあバナナワニですね」

「言ってる場合か!」

 

 そう、しいて言うならばあまりにも巨大なバナナにワニの口が切れ込みのように入った、そんな化け物だった。

 多分この世界特有の呼び方があるんだろうが、とりあえずここではバナナワニと呼称することにしよう。

 

 とにかく、私たちはひとまず逃げることにした。とはいえ元居た方向に逃げるにはこのバナナワニの真上で橋の裂け目を大ジャンプしなければいけない。そんな無防備な隙を見逃してはくれないだろう。

 

 私たちは行く手に何が待ち構えているかもわからない鉄橋をひた走り、そして背後からはバナナワニが何度もとびかかり、私たちが一瞬前まで走っていた鉄橋をばりばりと破壊していく。これ帰りどうしよう。

 

「これでお腹いっぱいになってくれませんかねえ」

「きみ、煎餅ごときでお腹満たされる?」

「まさか!」

「じゃあ期待はできそうにないなあ」

「私あれと同じ扱いですかぁ!?」

 

 私一人ならば《縮地(ステッピング)》を連発すれば逃げるのはたやすいし、そもそも隠れてしまえば済むのだけれど、さすがにこの人数は同時に運べないし、隠せない。

 まだ先は長いとはいえスタミナ切れはしないだろうけれど、転んだりのアクシデントは想定できる。

 となると、何がしかの時間稼ぎはいるだろう。

 

「……仕方ないなあ」

「うわ、ウルウが何かやるつもりよ!」

「ろくでもない手段に決まってます!」

「君たちね、後で覚えてなさいよ」

「おいおいおい、なにするつもりだ!?」

「時間稼ぎ、かな」

 

 別に倒してしまっても、なんて死亡フラグを立てるつもりはない。

 だが、古来からこういう大型モンスター相手には古典的な攻撃手段というものが在るのだ。

 

 私はインベントリに手を突っ込み、目的のものをずるりと引っ張り出した。

 

「耳と目をふさいで口を開けろ! 足は止めるな!」

 

 悲鳴にも似た文句を叫びながらも実行してくれるパーティに感謝しつつ、私はブツをバナナワニめがけて放り投げた。

 

「そーれお食べ」

 

 大食いの大型モンスター相手の古典的攻撃手段。

 つまり、爆発物を食わせるのだった。




用語解説

・設計図にさらに書き込まれた命令
 DNAに直接刻まれたナノレベルの微小な魔術式。現代では再現不可能な古代王国時代のテクノロジー。

・バナナワニ
 この世界特有の呼び名があるのだろうが、語感を優先してあえてこの呼び名とした。
 ショウガワニ目バショウワニ科バショウワニ属バナナワニ変異種。
 鮮やかな黄色の鱗を持つ水棲の鱗獣。雑食。主に淡水に棲むが、海水にも適応する。
 四肢は退化して名残が小さくヒレのように存在するが、ほとんど目立たない。
 通常のバナナワニ種は大きくなっても精々三十センチメートル程度だが、この変異種は三倍体で、数メートルに及ぶサイズにまで巨大化している。
 脱皮すると一時的に真っ白で柔らかくなるが、一晩程度で元の強靭な黄色い鱗に変化する。

・ブツ
 ゲーム内アイテム。正式名称は《ソング・オブ・ローズ》。接触信管付きの爆弾で、敵または障害物に命中すると大爆発を引き起こす。安全圏でも拾えるガラクタアイテムから製造でき、作り方を記述したアイテムさえ持っていれば《職業(ジョブ)》や《技能(スキル)》に関係なく作れるため、よくプレイヤーが売りに出している。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合とバナナワニ

前回のあらすじ
ほら、あーん。この爆弾をお食べ。


 背後から襲ってくるバナナワニよりも、耳を塞いでも聞こえてくる轟音と目を塞いでも瞼越しに感じる閃光に震えが止まらない今日この頃皆様いかがお過ごしでしょうか、リリオです。

 

 足を止めるなという言葉に従って走り続けた結果、ものの見事に橋を渡り切りそのまま顔面から壁に衝突したりもしたけど私は元気です。

 

 さて、なんとかふらつく頭を立て直して振り返ったところ、大きく口を開けてのけぞるバナナワニと、その口からもうもうと立ち上る炎と煙が見えました。

 そして一仕事終えてやったぜみたいないい顔で額の汗を拭うウルウ。日頃、鬱憤でもたまってたんでしょうか。

 

「………なにやったんだ?」

「お腹が減っているようなのでご馳走してやった」

「何を?」

「刺激物」

「よーし、お前とは会話が通じねえ」

「知ってる」

 

 ガルディストさんとウルウがそんなことを話している間に、何とか私の目の奥のちかちかは晴れてきました。

 大方、またウルウが鉄砲魚(サジタリフィーソ)の時みたいな謎の爆発物を使用したのでしょう。炭鉱なんかで岩盤砕くのに使う爆発魔術みたいです。

 

「いやー、しかし助かりましたね。さすがにあんな爆発喰らったら」

「ばっか、リリオバーカ!」

「え、な、なんです!?」

「やったか、って言ったらやってないんだよ!」

「何のことです!?」

 

 フラグとかなんとかいうものの話をウルウがぼやくと同時に、バナナワニの体がぐらりと傾き――そして、確かにこちらをにらんだのでした。

 

「あ、理解しました。心じゃなく、目で」

「オーケイ、じゃあ胃袋爆発しても平気な化け物を倒すとしようか」

 

 まあ、そもそも鉄食べても平気な胃袋だったわけですが。

 

 ともあれ、私たちはそれぞれ得物を構え、ガルディストさんはそんな私たちの背後に退散しました。

 

「ちょっと!?」

「馬鹿言え、俺は野伏だぞ。いくらなんでもあんなのと正面からやれるかってんだ」

「監督責任ー!」

「骨は拾ってやる」

 

 ざばん、と大きく水を打ち、バナナワニがその巨体を鉄橋の上に乗りあげました。

 そして手足のない体をのそりのそりとゆっくり揺らしながら、しかし確実にこちらへと迫ってきています。

 

 こうしてみると、バナナワニはワニというよりは全くバナナでした。頭と尾は気持ち上に反り返り、のっそのっそと動くさまはバナナではないとしても、ワニというよりオットセイです。ただしサイズは私たち全員を丸のみにしてもおかしくないくらいで、バナナワニとしか呼べない脅威です。

 

 その黄色い鱗は全くの無傷で、艶やかなさまはいっそ高貴でさえあります。らんらんと輝く瞳は怒りと憎しみと空腹とに燃え上がり、ぎちぎちと音を立てて巨大な牙が打ち鳴らされています。美しさと凶暴さが居合わせる様はまさしく貫禄と言っていいでしょう。

 

 しかし、どうやって攻めたものでしょうか、これは。

 何しろこちらは壁際の通路という狭い足場しかなく、敵は広い水路全てがその足場なのです。

 

 私は水上歩行が使えるとはいえ、常に魔力を消費しますし、なにより水に潜る敵相手に立ち回れるほど経験豊富というわけにはいきません。

 

 では今の内に駆け寄って切りつけるか。

 それを否定する材料は、たった今トルンペートが投げた投げナイフです。

 やわな鎧くらいは貫通するトルンペートのナイフが、鱗に弾かれて呆気なく落ちていきます。

 

「……駄目ねこりゃ。あたしはお手上げだわ」

 

 そうなると私の刃も果たして刺さるかどうか。

 悩んでいる間にもバナナワニはのっそのっそと……遅っ! 着実だけど遅っ! 水中と違い陸上ではかなりのろまです。

 時間はあるとはいえ、しかし、うーん。

 

 悩む私を後ろからそっと抱きしめるものが在りました。柔らかな外套が私を包み込み、安心させてくれます。

 

「諦めるかい、リリオ」

「え」

「あれは、ずいぶん相性が悪い。仕方がない。面倒だけど、私がやってもいいよ」

 

 それはあまりにも呆気ない一言でした。気負うでもなく、背伸びするでもなく、ただただ当たり前のように、ウルウはあれをどうにかできるとそう言っているのでした。ウルウがそういう以上、それは確実なのでしょう。私にどうしようもないことを、なんとかしてきてくれたように、今回もどうにかしてくれるのでしょう。

 

 それは、とても魅力的な提案でした。

 

「ウルウなら、あれをどうにかできるんですか?」

「容易いね」

「ウルウなら、私たちみんなを助けられるんですか?」

「勿論だよ」

「ウルウなら」

 

 私はごくりとつばを飲み込んで、それから大きく息を吸い、大きく息を吐き、また大きく息を吸い、また大きく息を吐いて、そしてもう一度息を吸いました。

 

「ウルウなら、人に任せてそれで良しとしますか」

 

 ウルウはゆっくりと目を瞬かせ、それからゆっくりと私を抱きすくめる腕を外しました。

 

「君が()()であるうちは、私は君を応援しよう」

「きっと()()あります」

 

 ゆるりと私から離れて、壁に背を預けるウルウを尻目に、私は改めて剣を握りました。

 

 バナナワニはいよいよ橋を渡り切ります。

 そうなればもう逃げ場は―――まあいっぱいありますけど、そういうことではありません。心構えが、違うのです。ここで倒す。それが肝要です。

 

「トルンペート、時間稼ぎを」

「どれくらい?」

「三十秒――いえ、一分」

「高くつくわよ」

雪糕(グラシアージョ)を奢ります」

「とびっきりのを頼むわよ!」

 

 トルンペートが飛び出し、私は剣に魔力を預けます。

 ウルウが、私の背中を見ているのです。

 格好悪いことは、できません。




用語解説

・やったか、って言ったらやってないんだよ!
 いわゆるひとつの生存フラグ。

・私がやってもいいよ
 ぶっちゃけた話、相手が生物であるならば、その生命活動を停止させるだけならウルウにとっては朝飯前である。それ以外は致命的に不器用だが。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と金城鉄壁

前回のあらすじ
強固な鱗に凶悪な牙、いまだかつてない強敵バナナワニを前に、リリオは覚悟を決めるのだった。
……バナナワニってお前。


 ウルウが何か言ったらしく、リリオが変にやる気を出してしまって困る。

 どうせウルウならあのくらいの奴一人で倒せるだろうし、さっさとやってもらいたいのに。あたしはなにしろ無理なものは無理だし矜持より効率の方が大事な人間だから、こういうのは無駄としか思えない。

 それでもやらせるからにはどうにかなるという見通しなんだろうけれど、人間は一仕事終えてそこまでってんじゃなくて、その後があることをよくよく考えてほしい。

 

 ここでこいつを全身全霊で倒したって、そのあともあたしたちは調査を続けないといけないし、何なら帰るまでが遠足だ。どうせ陸上じゃ遅いみたいだから、通路を走って逃げればいいし、水路を追いかけてきたらその都度撒けばいい。

 

 真面目に真正面からぶつかる相手じゃあないのだ。

 

「トルンペート、時間稼ぎを」

「どれくらい?」

「三十秒――いえ、一分」

「高くつくわよ」

雪糕(グラシアージョ)を奢ります」

「とびっきりのを頼むわよ!」

 

 だから、そう、これは仕方なくなのだ。

 頼られれば答えざるを得ない、武装女中の性がそうさせる、仕方のない衝動なのだ。

 主に頼られて、嬉しいと全身の細胞が沸き立つ喜びなのだから。

 

 とはいえ、いまや目の前まで迫ったこの化け物相手に、どうしたも、の、――

 

「おわっ!」

 

 ぞりん、と空を削るようにして、凶悪なあぎとが先程まであたしがいた場所をかみちぎる。そしてそれをかわせば即座に次の噛みつき。

 移動速度は遅いけど、噛み付いてくる速度はとてもこの巨体とは思えない。

 噛みつきの速度をそのまま突進に流用して、ヴァリヴァリと容易く壁をかみ砕き、通路を破壊しながら暴れまわるバナナワニ。

 

 ちゃっかり逃げている野伏と亡霊(ファントーモ)はこの際放っておくとして、なるほどこれは時間稼ぎが必要だわね。

 

 あたしはエプロンからナイフを抜き取る。

 とはいえ、まともな投擲が鱗を抜けないのは実証済み。

 となれば狙いやすいのは。

 

「刺激物がお気に召さないんなら、これならどうよ!」

 

 大口開けて噛みつきにかかるその一瞬を狙って、喉の奥めがけて投擲すれば、確かに刺さる。

 刺さるけど、

 

「ぐぎぃいいぎぎゃぎゃぎゃああああああッ!」

「怒るわよね、そりゃ!」

 

 大したダメージでもなく、むしろ怒りの炎に油を注いで、バリバリベキベキムシャムシャゴクンとナイフを飲み込み、あたしめがけて噛みついてくる。

 いやもう、これは噛みついてくるなんて軽いものじゃない。空間を削り取ろうとするような勢いだ。なまじ手足がないだけに、全身のひねりを噛み付きに回してくるから、一撃一撃がとにかく速くて、重い。

 避けたはずがしびれるほどの強烈な衝撃が、牙と牙を打ち鳴らす轟音に秘められている。

 

 そして危険なのは牙だけじゃあない。その牙を繰り出す全身のひねりが、ついでとばかりに通路を破壊しながら突き進んでくる。まるで陸地を泳いでるようだ。跳ね飛ばされれば、あの瓦礫のように私など粉々だろう。

 

 飛竜と向き合うような恐怖に、じっとりとした汗がにじんでくる。

 たかが一分が、まるで無限にも思えてくる。

 

 けれど、飛竜と向き合うほどじゃあないって安堵が、あたしの心臓をドクンドクンと一定に保ってくれる。

 そうだ。こんなものはなんともない。辺境を襲う飛竜はもっと恐ろしい。そんな飛竜を()()()としか思ってない辺境の連中より怖くない。そんな辺境の連中の一人である、リリオなんかより全然怖くない!

 

 そうだ、そのリリオが後ろにいるんだ。そのリリオがこいつを倒してやるっていうんだ。そのリリオが、あたしに頼むっていうんだ。

 

 ならあたしにとって、無限とはたかが六十秒だ。

 

 そしてその無限は、今、――終わる。

 

「トルンペート!」

「はい!」

 

 合図とともにあたしはわき目もふらずに逃げ出す。

 何から?

 

 決まっている。

 リリオのもたらす、決定的な破滅からだ。

 

 逃げ出す一瞬に見えたリリオは、輝いていた。

 格好良くて輝いて見えるってんじゃない。たとえ知性の眼鏡がなくたって、闇の中でバチバチと光り輝いていた。

 

 有り余る魔力を貪り食って、雷精がリリオの全身を踊り狂って喜び悶えている。

 刀身は赤熱し、白熱し、そしてそれを通り過ぎて青白い光にしか見えない。

 光り輝くリリオの全身は、見る者の目を灼くいかずちの化身だ。

 

 視界の端で確かに何かが光り、あたしはウルウの言葉を思い出して、咄嗟に()()していた。

 つまり、目玉が飛び出ないように目を閉じ、鼓膜がつぶれないように耳を閉じて、衝撃で内臓が破れないように口を開け、巻き込まれないよう必死で逃げ出していた。

 

 瞬間、何もかもが吹き飛んでしまった。

 

 ような気がした。




用語解説

・青白い光
 ファンタジーでよく見るなんかすごい強そうな光。
 色温度で考えると一万ケルビン程度だろうか。タングステンの沸点が五八二八ケルビンだから、えーと、とにかくすごい熱い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と反省会

前回のあらすじ
リリオ、輝く。
トルンペート、気絶する。
その他、外野。
以上三本でお送りしました。


 トルンペートに時間稼ぎを頼んでリリオが何をしていたかと言えば、私からするとじっとしていたとしか見えなかった。まあ、いわゆる()()だったんだろうな。

 

 最初の十秒程度で、剣が光り始めた。次の十秒ではっきりと雷精らしい蛇のようなものがまとわりつくのが見えた。そして刀身が電気による熱量で赤熱し、瞬く間に白熱し、青白く輝きを放ち始める。三十秒もたつ頃にはリリオの全身が雷をまとっているような状態だ。

 

 通常であれば余りの電量に全身が黒焦げになっているだろうが、これは装備のおかげなのか、それとも魔力というものの働きなのか、リリオ自身はいたって平然と、むしろ雷のおかげで意識が明瞭にでもなっているのか、いっそ透徹とした視線をバナナワニに向けている。

 

「トルンペート!」

「はい!」

 

 そしてトルンペートが離れるや否や、入れ替わりとばかりにリリオはバナナワニの巨体に突っ込んだ。暗闇の生活に慣れて目があまり良くなかったらしいバナナワニもさすがにこの閃光をまとった突進には気付いたようだったが、時すでに遅しだ。

 

 リリオは剣を振り上げ、そして、振り下ろした、のだと思う。

 

 何しろその瞬間、視界の全てを焼き尽くすような閃光とともに、轟音と衝撃波が地下水道の低い天井を揺らしながら響き渡り、何もかもが真っ白に弾け飛んだからだった。

 落雷の瞬間というものは、或いはあのようなものなのかもしれない。

 

 さしもの私の無駄に頑丈な体もこの衝撃にはたたらを踏み、耳はきぃんと耳鳴りの果てに麻痺し、目は真っ白に焼き付いた。衝撃で水路に落っこちなかったのがせめてもの救いだろう。

 

 さて、ではこの一・二一ジゴワットの直撃を受けたバナナワニと、そしてごく至近距離でぶちかましたリリオはどうなったのだろうか。

 もちろんこれはすぐには確認できなかった。何しろ私がこのありさまだったのだから、後から聞けば、無防備に喰らってしまったガルディストなどは右耳の鼓膜が破れて気絶し、私が一瞬教えただけの耐衝撃体勢をとったトルンペートもあまりのショックにしばらくスタン。

 

 なので、ことの顛末はリリオ本人が語ったところによると、おおむねこのようなものであったという。

 

 魔力を食わせに食わせた雷精のこもった剣で切りつけた瞬間、リリオ自身もまるで落雷でもあったかのような相当な衝撃を感じてはいたのだという。しかしリリオの魔力で育った雷精はリリオを傷つけることはなく、ただリリオから際限なく魔力を奪いながら刀身から抜け出していき、あれほど硬かったバナナワニの鱗をぞふりぞふりと切り裂いてしまったのだという。

 

 それこそ、リリオの言葉を借りるなら、

 

「よく焼いたナイフでやわなケーキに刃を通したような」

 

 そのような呆気なさだったという。

 

 これはまあ例え通り、大電量によって加熱された刀身がヒートソード化してバナナワニの細胞を焼き切ってしまったのだろう。或いは刀身に纏わりついた大電量の雷そのものが溶かすように焼き切ったのか、そのあたりは私にはわからないところだが。

 

 ただまあ、私が何とか復活して確認した時にもまだじゅくじゅくぶつぶつと沸騰していた傷口の断面を思うに、相当の熱量で焼き切ったことは間違いないことだった。

 

 切断面はそのように見るも悍ましい始末だったが、刃筋そのものは実に綺麗なもので、マグロの兜割か何かのように、バナナワニはその脳天を綺麗に左右に切り裂かれて絶命していた。多分。

 多分というのは、私が駆けつけてみた時には、まだ死後直後だったからか、それとも電流によって筋肉が痙攣していたのか、全身がびくびくと震えていたからだが。

 

 このような敵味方問わずの大惨事を引き起こした首謀者ことリリオはその時どうしていたかというと、雷のダメージそのものはまるでなかったようなのだが、すっかり魔力を引き抜かれて、その上まだ残っていた雷精がちまちま魔力をむさぼるので回復が追い付かず、欠乏状態でぐったりと気絶していた。

 この雷精は私が摘まんで放り捨てたので何とかその後は回復したが、一人であったらそのまま吸われ続けて衰弱死していたかもしれないというから恐ろしい話だ。

 精霊をつまんで捨てるあんたの方が怖いわとはトルンペートの談だが。

 

 まあ、このようにゆっくりと話をまとめられるのはすべてが片付いて落ち着いた後の話であって、私、トルンペートと順に回復し、リリオを介抱し、ガルディストを起こして、互いに話を突き合わせてみるまで、とにかく混乱の真っただ中だった。

 

 話をまとめて、バナナワニが完全に死亡していることを確認し、手持ちの回復薬を耳に注いで血を流したガルディストは、それから私たちを床に正座させて説教をした。

 

 まず私だった。

 

「中途半端に煽るんじゃない」

「私のせい?」

「お前が何か言ったからリリオが張り切ったんだろう」

「まあ、自覚はある」

「たらしめ」

「なんだって?」

「とにかく、煽るにしてももう少し加減を覚えさせろ。お前さん、保護者だろう」

「保護者じゃないんだけど」

「少しは責任感を持てということだ」

「それは、うん、わかる。すまない」

「俺にじゃないだろ」

「リリオ、ごめん」

「え、あ、いえ」

 

 それからトルンペートだった。

 

「主を信頼するのはいいが、暴走することもあるんだってことはわかっていただろう」

「……はい」

「主に無茶させてちゃ話にならん。それで自分まで気絶してたんじゃどうしようもない」

「……はい」

「時にゃあ殴ってでも止めにゃあならんこともある。仲間ならな」

「……はい」

「まあ、お前さんはわかってるからな。これくらいでいい」

「はい」

 

 そしてリリオ。

 

「俺がメザーガだったらお前を簀巻きにして辺境に送り返してる」

「ぐへぇ」

「いきなりの思い付きであんなことをしやがって。狭いところでやるから余計被害がでかかった。事前に想像しなかったか?」

「しませんでした。すみません」

「今回は生きてたからすまんで済むが、死んでたら謝りようもない」

「はい……」

「だが俺はお前の親戚でも何でもない。アドバイスもしなかったからな。お前さんは仲間から叱られろ」

「はひぃ……」

 

 そして最後はガルディスト自身だった。

 

「俺の監督不行き届きだ、すまん。この通りだ」

 

 地面に頭をつけて、ガルディストは謝罪した。

 

「実際、俺一人だったらどうとでもできたし、野伏とは言え、対処はできた。だがお前さん方の活躍の場を奪うのもと甘く見た。俺がもう少し早くリリオの暴走に気付けばよかった。だがまさかあれほどだったとはな。辺境人と聞いていたのだからもっと注意のしようがあった。侘びのしようもない」

 

 私たちは四人それぞれに反省し、痛み分けとした。早めの反省会は、それからこまごまとしたことを話し合い、終えた。

 

「それで、こいつをどうするかだな」

 

 問題はバナナワニの死体だった。

 橋の半ばまで至ったところで反応してきたこともあり、他の生き物の気配が全くないことからも、これがこのあたりの守護者である魔獣なのは間違いないだろうという。

 一部であれ全身であれ、持ち帰れば討伐を認められ高額の賃金値上げが見込めるだろう。

 

 しかし。

 

「橋が壊れちまったからなあ。持ち帰る云々以前に、どうやって帰る」

 

 他の橋を探すという手もあるが、あるかどうかもわからないものを探して彷徨うのは、あまり良策とは言えなかった。

 とはいえこれに関しては簡単で、一応私とリリオは水上歩行ができるので、一人につき一人ずつ背負うなり抱き上げるなりすれば橋の崩れた地点までは戻れるだろう、ということで帰り方は決まった。何しろこのバナナワニが近辺の魔獣やらも食い尽くしたようで、他の外敵の危険は全くなさそうだったのだ。

 

 ではバナナワニの死体はどうするかというところだ。

 私のインベントリはこれくらいわけなく入ることをガルディストも知っているが、問題はそこではない。

 

「丸々渡せば相当な高額報酬が入るだろうが、古代遺跡の守護魔獣だ。さばき方によっちゃ他所の方が高く売れるぞ」

「素材も魅力的ですね。飛竜並みに硬いんじゃないですか、この鱗」

 

 そう、どうさばくかということだった。

 

 私たちはしばらく相談し、やはり一部を売却用と装備用に拝借し、残りの大部分を水道局に届け出ることにした。

 というのも、この割合が逆だと、では残りの死体の大部分はどこに行ったのかとなってさすがに黙ってはくれないだろうということで、局の見逃してくれる部分だけで我慢しようということだった。

 

 ではあとはこの取り分をどこまで大きく分捕れるかというところなのだが、そこで疲れ切ったリリオから案が出た。案というか、欲求が。

 

「おなか、すきました」

 

 焼かれて甘い香りを漂わせるバナナワニの肉に、ごくりと喉が鳴るのを感じた。




用語解説

・一・二一ジゴワット
 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に登場するタイムマシン「デロリアン」が必要とする電力量。落雷のエネルギーで賄った。
 実際にはギガワットの誤りだったようであるが、日本ではあえてジゴワットの形でオマージュされることが多い。

・水上歩行
 ウルウが使用できる水上歩行の術は、《薄氷(うすらひ)渡り》という《技能(スキル)》。これは一時的に体重をなくすスキルで、水上を歩行可能にするだけでなく、使用中所持重量限界を緩和できる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合と焼きバナナワニ

前回のあらすじ
お願い、死なないでバナナワニ!
あんたが今ここで倒れたら、古代人との約束はどうなっちゃうの?
出番はまだ残ってる。ここを耐えれば、美味しくいただけるんだから!

前回、「バナナワニ死す」。デュエルセットダウン!


「おなか、すきました」

 

 大量の魔力を消費したせいでしょうか、とてもとてもお腹が空きました。近くから香ばしくて甘い匂いがしてくるのを感じるととてもではないですが耐えられそうにありません。

 

 私のつぶやきに反応して、ガルディストさんがフムンと顎をさすります。

 

「……食っちまったことにするか」

「別に構わないけど……」

「なんだよ」

「いまのリリオに食べさせて、素材、残るかな」

「……神に祈れ、給料が欲しけりゃな」

 

 そういうことになりました。

 

 私たちはまずバナナワニの解体から始めました。

 脳天から首のあたりまで真っ二つに切り裂かれているのですが、この辺りは肉をはぎ取るのが難しそうです。美味しいは美味しいのかもしれませんが、今は量が欲しいです。牙や皮、骨などの素材を採って、後は舌を切り取ることにしました。ワニタンです。

 

 首を落としたあたりで私が力尽きると、ウルウが私の剣を借りて作業を続けてくれました。

 血抜きしてないのであまり美味しくないかもと思っていると、ウルウは心臓のあたりに刃を突き立て、魔力を断続的に流し始めました。

 

「魔力を流すのってこんな感じ?」

「そうそう。あんた精霊が見えるんだから、お前らに餌やるぞーって気持ちでやれば自然にできるはず」

「あー……あ、できてるっぽい」

 

 雷精が断続的に強くなる、その波に合わせるようにして、水路に向けられた傷口からどくどくと勢いよく血が流れていきます。

 

「おお? どうなってるんだこりゃ」

「筋肉って電気……雷精で動くんだよ。だから心臓を無理やり動かして血を抜いてる」

「ほー、お前さん妙な事を知ってるな」

「まあこっちだと電気ってあんまり実感ないか」

 

 そうして血抜きを済ませると、ガルディストさんの指示にしたがって、トルンペートとウルウが協力して皮をはがし、腹を裂いて内臓を抜き、水精晶(アクヴォクリステロ)の水で中を洗い、捌いていきます。

 

「ふーむ、見た目はバナナだが、中身はワニだな。捌き方は覚えておいて損はないぞ」

「疲れるからリリオに任せるよ」

「まったく……まあ基本はどんな生き物も似たようなもんだ。鱗獣は鱗獣、羽獣は羽獣、毛獣は毛獣、甲獣は甲獣、一種類覚えりゃ後も似たようなもんだ」

 

 バナナワニの身は、鮮やかな黄色の体表に比べて驚くほど白いもので、つやつやと血に濡れて桃色にぬめる様はなんだか鶏肉のようです。

 

「そうそう、そこの骨を外して開いてやれ。骨に沿って刃を入れりゃいいんだ。よーしいいぞ」

「軟骨食べられるかな」

「煮込まにゃならんから今日は諦めろ」

「ガルディストさん、焚火できました」

「よし、できるだけ大きめに、盛大にやれ。証拠を残していこう」

「薪は私もちなんだけど」

「どうせたんまり持ってるんだろ」

「暇さえありゃ拾ってたからねえ」

 

 やがて切り分けられて串に刺された肉が火にかけられると、何とも言えぬ不思議に甘い香りが漂いました。

 

「フーム、こいつは不思議な匂いだな。果物みてぇだ」

「もしかして見た目だけじゃないのかな、バナナワニ」

「かも、しれん。お前、焼きバナナ食ったことあるか。揚げバナナでもいいが」

「ない」

「青い奴を使うんだがな、こう、とろっとしててな、生で食うとあんまり甘くないのが、火を通すと途端に甘くなって、たまらねぇんだなあ」

「糖分が多いってことは、あんまり焼くと焦げるかしら」

「肉に糖分が多いってこともねえだろう、とは言い切れねえのが魔獣の不思議だよなあ」

 

 なんだか話を聞いているだけでお腹が背中とくっつきそうです。

 

 トルンペートがひたすら切り分け、ウルウが串にさし、ガルディストさんが焼き加減を見ては広げた革風呂敷の上に並べていきます。ある程度の数が焼けたところで、さて、どうしようかとなったようです。

 

「勢いのまま焼いちまったが、これ、食って大丈夫な奴か?」

「いい匂いはする」

「でも毒キノコも美味しそうなやつあるわよ」

「毒持ちは大抵内臓だが、肉にないとも言い切れんしなあ」

「よし、じゃあ一番耐性のありそうな私が毒見を」

「それなら辺境でさんざんリリオの毒キノコ鍋に付き合わされたあたしが」

「まあまあ待て待て、ここは年長者の俺が責任をもってだな」

「何でもいいから早く食べさせてくださいよう!」

「どうぞどうぞ」

 

 なんだかはめられた気もしますけれど、暖かそうな串焼きを前に堪えられるはずもありません。

 私は早速串を一つ手に取りました。大振りに切り分けられた肉は白っぽく、軽く塩を振っただけです。その塩にしたって今回は大して持ち込んでないので、ほんのちょっとです。

 

 でも、お肉です。

 

 私は意を決してかぶりつきました。

 その時の衝撃がわかるでしょうか。

 

 まずこの一口。

 

 バナナワニのお肉の食感は、なんといいますか、鶏肉のようであって、鶏肉でなし。牛肉のようなところもあるのですが、でもやっぱり鶏肉のよう。ざっくりとした歯応えながらも、噛み締めるとスポンジのようにじゅわじゅわっと肉汁が染み出てきます。

 

 二口目。

 

 この肉汁が曲者で、まるで煮詰めた果汁のようにねっとりと濃厚な甘みがあるのです。いえ、いえ、甘いだけではありません。確かにお肉の味なのです。牛肉のようにしっかりとした肉のうまみがあるのですが、しかし牛のような臭みがありません。むしろそこは鶏肉のようにごくあっさりとしていて、どこかバナナのような甘い香りがふわりと漂います。

 

 三口目。

 

 これは危険ですね。とても危険です。とろっとした甘味に、肉のうまみ、そして僅かの塩が引き立て役となって、これらを何倍にも盛り上げてくれるのです。少し焦げ目のついたところなどは、焦がした砂糖のように香ばしいものがあり、あふれる肉汁と溢れる唾液が混然となり、瞬く間に喉の奥に落とし込んでしまいます。

 

 四串目。

 

 四口目ではありません。気づけば両手に串をもって四串目突入です。うーむむ、これは危険です、これは私が何としても一人で処理しないとあー駄目です皆さん食べちゃ駄目ですあー困ります困ります皆さんあーこれは危険です!

 

 気づけば私たちは焼いた分だけではとても満足できず、追加を切り分けては串にさしてということさえ面倒臭くなって、最終的には大振りな肉の塊を剣に突き刺してそのまま火であぶっては表面を削って食べるという、専業剣士に聞かれたら怒られそうな食べ方に突入してしまいました。

 なお私は責任をもって剣を支えて火に当てながらくるくる回す役を任じられ、その代わりに口を開くと肉を放り込まれるという最高の労働環境を得たのでした。

 

 この焼き方は串焼きとは違い、焼け方と部位の違いが一口ごとに味わえる面白いものでした。

 

 さらにこのとき、ウルウが素晴らしいことに気付いてくれました。

 

「私、盾を一枚持ってるんだけど、これを鉄板代わりに焼いたら駄目かな」

「名案ごつ」

「天才現る」

「はよ、はよ!」

 

 あとで聞いたら目玉が飛び出るような値段が付きそうな魔法の盾を即席の竈に乗せて焼き、程よいところでバナナワニの甘味のある脂を敷き、私たちは次々に肉を焼いていきました。

 この盾は全金属製で、やや丸く湾曲しており、私たちは安定のためにもくぼみを下にして焼いたのですが、この丸みの部分に肉の脂が美味いこと溜まっていき、これは堪えられんと乾燥野菜を加えてみたところ脂を吸って最高のアクセントが完成しました。

 さらにここに砂糖、魚醤(フィシャ・サウコ)、酒などを加えて肉を煮るとも焼くともいえぬ中で加熱して食べるととろとろとたまらぬ味わいとなり、これはバナナワニ鍋として私たちの間で長く語り継がれることになりました。

 

 ウルウ曰くのスキヤキというやつだそうです。

 

 




用語解説

・名案ごつ
 辺境人は基本的に感覚で動くというか、はっきり言うと脳筋が多く、ちょっと提案するとすぐに天才扱いされる。

・目玉が飛び出るような値段が付きそうな魔法の盾
 ゲーム内アイテム。正式名称《逃げ水の水鏡》。一見普通の鉄盾だが、装備すると相対した相手に自動で幻影を見せ、回避率を上げることができる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と共犯者

前回のあらすじ
哀れ解体され美味しくいただかれることになったバナナワニ。
飯レポにかけるこの情熱は何なのか。


 あたしたちは、すっかり油断していた。

 警戒というものが頭の中からすっぽ抜けていた。

 それは致命的な甘さだった。

 

 鉄橋を破壊する轟音。それに続く爆発音。そして水道内を駆け巡ったあの落雷のような閃光と音。そしていまや焼かれ続けて甘く香ばしい匂いを漂わせ続けるバナナワニの肉。

 

 これだけのことをしておいて、それが何者の注意もひかないなんて、そんなことはあるわけがなかったのよ。

 

「ウルウ、あんたよくそんな棒っ切れで食べられるわよね」

「私はハシが一番使い慣れてるからなあ」

「確かに、使い慣れると便利そうですよね、それ」

「西の連中にそんな文化があったなあ」

「そろそろ西のご飯も食べてみたい」

「あたし南のも気になるわ。リリオのお母さんの故郷」

「メザーガのくにだな。バナナなんかもあっちのだ」

「甘いもの多いんですか?」

「甘いもんも多いが、香辛料が多くてな、刺激的で辛いもんも多い」

「カレーだな」

「カレー?」

「嫌いな奴がまずいない一つの究極形」

「ウルウがそこまで言うなんて……!」

 

 そんな下らない事を話しながらバナナワニ鍋をつついていると、かんかんかんと鉄橋を踏んで駆け寄る音が聞こえたのだった。

 はっとして身構えたけれど、時すでに遅しだったわ。

 

「おーいお前ら! なんかわからんが大丈、夫……か……?」

「物凄くいい匂いがするわ」

「人が心配して駆け戻ってみれば……!」

 

 それは《潜り者(ホムトルオ)》と《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》の面子だったわ。

 あの続く轟音にさすがに何か問題があったらしいと察して水上歩行の術を使って駆けつけてくれたみたい。そのことに関しては、思ってたよりも義理堅い連中なのねって感心したけど、さてそんな義理堅い連中をすっかり忘れて美味しいご飯を楽しんでいる私たちはというと、はっきり言って酷いものだった。

 

 ウルウは我関せずとちゃっかり姿を消したし、リリオは「どーもー」と気の抜けた一言を投げた後はひたすら肉を食べ、ガルディストさんは今更ながらにしまったと頭を抱えていた。すっかり忘れてたみたい。

 あたし? あたしは追加の肉を切り始めたわ。

 

 お詫びと、共犯者のお出迎えの為に。

 

 盾をそんなことに使うなんてと怒ったのは専業剣士である《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》のリーダー、ラリーだけで、他の面子はおおむね感心しているようだった。そのラリーにしても最初の怒りが収まれば成程使いようだなと納得するので、彼もやっぱり冒険屋だった。

 

 燃料切れ甚だしいリリオをそのままに、ガルディストさんはあたしに鍋奉行を任せて他のパーティへの説明に回った。

 

「つまり、守護者をあんたらだけでやっちまったのか! 無茶したもんだな」

「若いのに軽くぶつからせて、後は逃げるつもりだったんだがな、俺が思ってたより根性のある連中だよ、まったく」

「ありゃすげえ切れ味だな。技かね、いや、剣か? あの轟音か?」

「すまんが企業秘密ってことで」

「いや! いや! そりゃそうだ!」

「ただまあ、それで力尽きちまってな、仕方なしにこうして燃料補給ってとこだ」

「ただの燃料補給にしては、素材はきっちり剥いでいるようだな」

「わかった、わかった、あんたらの分も仕分けるよ」

「そりゃ素材の話か? それとも……」

「仕方ねえなあ、肉もだよ、この人数にゃあ鍋が小さぇからどうすっかな」

「俺の盾も使おう」

「いいのか?」

「使えるもの使うのが冒険屋だろ? さすがに驚いたが……」

「よしきた、《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》にはサービスするぜ」

「待て待て、《潜り者(ホムトルオ)》を侮るなよ」

「よし来た、なにが出る」

「打ち上げにと思って氷精晶(グラシクリステロ)で冷えた林檎酒(ポムヴィーノ)を持ち込んでるんだが、どうだね」

「ヒュー! あんたが大将だ!」

「よーし鍋将軍のお通りだ! へっへっへ、重たい荷物はお預かりしやすぜ」

「よきにはからえ」

「へへー!」

 

 そのようにしてあたしたちは二つのパーティを共犯者に巻き込んだ。

 

 ラリーの円盾から装具をはいで追加の竈で暖め、あたしたちは編み出したばかりのスキヤキなるタレの調合をつまびらかに明らかにして、追加の肉を焼き始めた。

 このスキヤキはみんなに大いに受けて、バナナワニ鍋だけでなく、牛や豚、鳥といったほかの肉でもできるんじゃないかと大いに盛り上がった。

 スキヤキの提案者であるであるウルウが鷹揚に頷いてその通りであると宣言すると、早速それぞれにどんな組み合わせが良いかと議論が始まって、これは少しもしない内に、ヴォーストの街の酒場で大いに流行るだろうってことが想像できたわね。

 

 ただ、ウルウはやっぱり罪深い奴だったわ。

 葱やキノコの類を入れることを提案するだけじゃなくて、こいつ、焼きあがった肉を溶き卵で絡めて食べると歯が抜けるほどうまいとか言い出しちゃったのよ。

 思い出すように目を細めて、あのとろりとした溶き卵に、とろっとろに仕上がった肉を絡ませると何とも色っぽくて、それをちゅるんはぐはぐっと口に含んだ時の味わいと言ったらもう罪深いというほかないなんて言い出したら、誰だって生唾飲み込むわよ。

 

 それで、どうして俺たちは卵を持ってこなかったんだって苦悩する野郎どもに、悪党顔負けの顔で《自在蔵(ポスタープロ)》から卵をチラ見せする姿と言ったら悪代官もいいところね。

 ありふれた卵一個が十三角貨(トリアン)なんて暴利にも食いつかざるを得ないわよ。

 さらに取り皿に盃にフォークにと便利アイテムを並べて売り出すさまはもはや悪魔の所業だし、勿論あたしたちはそろって声を大にして悪魔に魂を売ったのだった。

 

 さすがの超大型魔獣であるバナナワニのみっちり詰まった肉も、四人パーティが三つ、十二人の冒険屋の胃袋を前にすると恐ろしい勢いで減っていった。勿論全滅する程ではなかったにせよ、水道局に何と説明しようかという有様にガルディストさんが顎をさすっていると、おもむろに《潜り者(ホムトルオ)》のクロアカが席を外して、そして帰ってきた時には何と監督官がついてきていた。

 

 監督官は優しげな顔にすっかり困惑と呆れとをにじませて、狼狽するあたしたちを「バカモン」と叱りつけたのだった。

 

「こういう時は抱き込む相手が決まってるでしょう!」

 

 そういうことだった。

 

 あたしたちは大いに食べ、飲み、そして監督官の前で堂々と素材の分け前を相談し、そして調査した分の地形や施設などについて話し合った。

 リーダーたちが真面目に話している間、他の面子はもちろん鍋をつつく手を止めなかったし、酒と肉とで生まれた親しみを下地に大いに盛り上がったわ。

 

「私、南の方でバナナワニ見かけたことあるわよ」

「ほんと、フィンリィ?」

「もっと小さい奴だけどね。雑食で、大きい奴でも一尺くらいかしら」

「ああ、あれか。あれはもっとあっさりした味だったな」

「養殖したらでかくならんかな」

「なるかもしれんな。北部じゃ寒いから難しいかもしれんが」

「もしかしたら寒いから大型化したのかもしれない」

「うん? どういうことだ?」

「私が以前住んでたところでは、ベルクマン・アレンの法則って言ってたんだけど、ほら、熊とかは寒い土地ほど大きくて、暖かい南行くにつれて小型化するんだ」

「成程、確かにそうね。南で見かけた動物って、みんな小さいのよ。でも耳が大きくてかわいかったわ」

「そうそう、それがアレンの法則。熱を逃がすために末端が大きくなるんだ」

「じゃあ寒い方の奴がずんぐりしてるのはその逆ってことか」

「そうそう、熱を逃がさないように」

「はー、なるほどなあ。そうなると甘いのもその流れかもしれん」

「うん? どういうこと?」

「寒いと脂をため込むだろう。バナナワニの甘味はこの脂身ではないかとにらんでるんだ」

「ははあん、なるほど。ため込んだ糖分は冬場の貴重なエネルギーなわけだ」

「その糖分と脂肪分で冬眠するのかもしれんな」

「あとは、三倍体なのかなあ」

「お、今度は何だい」

「バナナの場合、突然変異で種無しの可食部分が多い奴だね。種がないんだけど、株分けで増やせる。魚だと、確か卵をぬるま湯につけると、繁殖できない代わりに大型化する奴」

「ワニだとどうなんだ?」

「ワニ、ワニの三倍体はわからないけど、爬虫類には確か三倍体の奴いたなあ。単為生殖で卵産むやつ」

「そのタンイセイショクってのはなんだい?」

「この場合、雌だけで、雄がいなくても刺激があると卵を産むんだ。遺伝子が同じだから病気に弱いかもだけど」

「イデンシ?」

「生き物の設計図みたいなものでね、」

 

 酒が回ったウルウは、よく喋る。たまに何言っているのかわからない時もあるけど、こうなるといつもより人づきあいが良くなるし、隠れたりもしない。多分相手が誰だかよくわかんなくなってるんじゃないかと思う。なのでそういう時はリリオが必ず隣について、ウルウが変なことしないように見張ってるわね。

 あたしたちには何言ってるかわかんないんだけど、学者肌であるらしいクロアカとは話が合うようで、なんだかよくわからない話で盛り上がってる。

 

 最終的にあれだけ巨大だったバナナワニは三分の一くらいになってしまい、革は一部を水道局に渡して、あとは仲良く三等分。牙に関しては実際に倒したあたしたちの優先権が認められて、他のパーティがそれぞれ一人一本ずつ、水道局に数本、残りを全部あたしたちが頂戴することになった。

 骨格に関しては、これは揉めたわね。

 

「是非骨格標本にして局の広間に飾りたい」

「バナナワニの骨は甘味料になると聞く。売るべきだ」

「武器防具にするにゃあちょっと細かすぎるんだよなあ」

「出汁が取れるのでは?」

「出汁……」

「出汁かぁ……」

「骨格標本は出汁ガラでも事足りるのでは」

「名案ごつ」

 

 骨格標本として寄贈することになった。

 

 そして話がひと段落したところでリリオがふと呟いた。

 

「しばらく餌も食べてないみたいで綺麗でしたし、内臓も美味しいんじゃ」

 

 二次会はもつ鍋になった。




用語解説

・鍋奉行
 鍋に関する一切合切を取り仕切る《職業(ジョブ)》。
 好きでやってる人と割り切ってやっている人で温度が違う。

・鍋将軍
 鍋を囲む面子で最も権力ある人。一番良いところをつつくだけで仕事はしない。

・卵一個が十三角貨(トリアン)
 ヴォーストにおいては新鮮な卵が身近で手に入り、一個一三角貨(トリアン)かそれ以下で売買される。
 およそ十倍かそれ以上の高レートである。

・一尺
 ここではおよそ三十センチメートル程度。

・ベルクマン・アレンの法則
 本来は、類似する二つの法則であるベルクマンの法則とアレンの法則をつなげて呼ぶ呼称。
 ベルクマンの法則とは、簡単に言えば寒冷な土地ほど動物は大型化し、逆に温暖な土地では小型化する法則。これは二乗三乗の法則から言っても、大型化した方が体表面積当たりの体積量が増えるので熱量の放散が防げるためであろうとされる。
 アレンの法則とは、寒冷地の動物は末端部分、つまり耳などが小さくなり、逆に温暖地では大きくなる法則。これは寒冷地では表面積を減らして熱放散を抑え、温暖地では逆に表面積を増やして熱放散を助けるためとされる。

・三倍体
 ごく簡単に言うと、通常二組の染色体をもつところ(二倍体)、三組持つ(三倍体)生き物。
 植物では珍しくない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 地下水道

前回のあらすじ
まさかの二連続飯レポであった。


 あれから結局、私たちはもつ鍋に舌鼓を打って締めとし、さしたる冒険という冒険も他にすることもなく解散と相成った。

 もちろん、バナナワニと戦っただけで終わった――守護者討伐というのはそれだけで十分な功績らしいけれど――私たちと違って、通路をまっすぐ進んでいった《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》は今後の探索に役立つ地図の製作を、右手に進んでいった《潜り者(ホムトルオ)》は水道施設の操作説明書の一部を発見するなど、それなりに成果を残しているのだけれど。

 

 しかし、実際問題あんまり活躍の場のなかった私としては、活躍せずに人の活躍を眺めるのが目的であるとはいえ、報酬の多さにちょっともらい過ぎではないかなと思わないでもない。

 

 まず金銭的報酬だけれど、基本給に上乗せする形として守護者バナナワニの討伐報酬が追加されたのだけれど、どう見てもこれが基本給より高い。

 本当にいいのかと確認してみたが、あれは本来であれば乙種より上の甲種魔獣、つまり冒険屋がパーティで組んで勝てるぎりぎりのレベルで、本来であれば複数パーティで挑むべき相手だったとかで、相場的にも正当な報酬であるらしい。

 

 さらにその他に、納品したバナナワニの素材の分も色を付けてもらえた。脳天を真っ二つという非常にシンプルな一撃で仕留め、その後の解体も丁寧で素材に傷が少なかったかららしいのだが、バナナワニ鍋の分の支払いも込みではないかとにらんでいる。

 

 製造の目途が立っていない《ソング・オブ・ローズ》の消費は無視できなくはあるが、まああれは私の主力武器の一つだけあってまだまだ在庫がある。一撃で仕留められなかった当たり威力にやや不安は残るが、まあ水属性の相手には効きが悪いのはもともとだし、仕方ない。

 

 それよりも気になるのは、リリオのあの一撃だ。

 

 リリオの剣が霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の素材で強化され、雷精をまとえるようになったのは知っていた。しかし、私はてっきりスタンガン程度の威力だろうと思っていたのだが、今日のあれはどう控えめに見ても落雷クラスの一撃だ。

 魔力がすっからかんになったとリリオは言っていたが、果たして落雷を引き起こすレベルの魔力とはどれほどのものなのだろう。

 

 仮にあれを普通の落雷一発分とした場合、電圧にして二百万ボルトから十億ボルト、電流は一千アンペアから五十万アンペアまで考えられる。直撃すればあのバナナワニよろしく即死だし、例え避けても発生する凶悪なジュール熱と衝撃波、そして破壊物の破片などが問答無用で相手を殺す、まさしく必殺技だ。

 

 人間相手に使うには過剰すぎるし、化け物相手に使ってもあの通りのオーバーキルだ。

 

 溜めに時間がかかるとはいえ、あの技は危険すぎる。電気というものへの知識不足もあるのだろう。

 せめてスタンガン程度の使い方ができるように、雷精の扱い方を教え込んだ方がいいかもしれない。少なくとも、電気というものに関する知識は、私に勝るものはこの世界ではまだそうそういないことだろうし。

 

 なんだか一気に面倒な仕事が増えたかもしれない。飲み過ぎてふらつく頭を抱えて、私は寮に辿り着くなりベッドに倒れこんだのだった。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

 地下水道での冒険は、想像以上の大冒険でした。

 もっとこう、精々丙種の魔獣がうろついているくらいのを想像していたのですけれど、どうもそれらはすべてあのバナナワニが食べつくしてしまったようで、あの付近にはもう他に生き物が全然いないようでした。

 

 そんな中で的確に守護者の領域に立ち入ってしまったのはまた運が悪かったというか、誰も大怪我をすることなく倒せて運が良かったというか。

 

 もし仮にほかのパーティが遭遇していたら、こううまくは行かず、何とか逃げ切るか、それとも死者を出していただろうとは地下水道に慣れた《潜り者(ホムトルオ)》のクロアカさんの言です。

 

 確かに、私も()()がうまくいかなかったら死んでいたかもしれません。いえ、後でウルウにも怒られましたけれど、うまくいっていても死んでいたかもしれないとんでもない技だったようです。

 幸い雷精は私の体を焼くようなことはありませんでしたけれど、目前で発生した衝撃波や、破壊した床材などの破片が直撃していたら、今頃穴だらけになってずたずたになっていたかもしれません。

 私自身の発していた魔力の分厚い保護と、飛竜革の鎧の矢避けの加護がなければただでは済まなかったことでしょう。

 

 そしてまた、他の皆さんが離れていたからよかったものの、もしもう少しでも近ければ私は自分の手でパーティの仲間を焼き殺していたかもしれません。そうでなくても、狭い空間であんな爆発を起こしたのですから、ガルディストさんは鼓膜を破るような羽目になってしまいました。

 

 何とも反省の大きい冒険でした。

 

 しかし、それに見合った報酬もありました。

 沢山のおちんぎん、も魅力的ではありますが、なんと、食べ終えた後のバナナワニの骨格標本が水道局のロビーに守護者討伐記念として飾られることになったのです。しかもその台座には、討伐者である私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の紋章と、名前が刻まれることになったのです!

 

 これは非常に名誉なことです。

 冒険屋として一花咲かせた気持ちです。

 

 まあ、トルンペートはそもそも冒険屋に憧れないですし、ウルウに至っては目立ちたいくないのにと苦り顔です。

 ガルディストさんは今更この程度の名誉は束で持っている《一の盾(ウヌ・シィルド)》のメンバーですから、本当に心から喜べるのは私だけというのが少し寂しいですね。

 

 ともあれ、私たちは無事初めての地下遺跡冒険を無事に達成し、そして寝台に倒れこんだのでした。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

 とにかく疲れたってのが感想ね。

 まあ、あたしが何をしたかっていえば、走って、跳んで、投げて、気絶して、あとはお肉切って串に刺して焼いて鍋の様子見てただけなんだけど。

 冒険しにいったっていうより、一狩りしてご飯食べてきたって感じね。

 辺境だといつもの奴、って具合。

 

 それにしてもあのバナナワニは強敵だったわ。甲種魔獣ってのも納得。水上に上がってきてくれたから何とかなったけど、あいつの本領を発揮できる水中に引き込まれたら、あたしたちは全滅してたでしょうね。

 環境もあるだろうけど、あれは確かに飛竜と同じくらいにやばい奴だったわ。

 

 その飛竜と同じくらいにやばい奴を一刀両断したリリオも大概やばいけど。

 

 そもそも辺境の人間だって、一人で飛竜と戦ったりしないわよ、普通。

 罠にかけたり、強力な弓や魔術を使ったり、法術で弱らせたり、とにかくいろいろして地面に引きずり落として、それでようやく倒すの。

 

 そりゃあバナナワニは飛ばないし、動きもそこそこ遅かったけれど、それでもあんな強靭な生き物を一発で仕留めるなんてのは、辺境でも……まあ、珍しい方ではあるわね。いないって言えないのが怖いところだわ、本当に。

 

 あたしだって、辺境生まれではないにしても辺境育ち。鱗貫きの技くらいは身に着けてるのに、それさえ弾く強靭な生き物だった。それを、あんな落雷みたいな一撃で仕留めるなんて、ほんと、危なっかしいったらないわ。

 

 ウルウも叱りつけてたけど、あれは本当に危なかった。

 リリオは昔からそういうところがある。思いつめたらこう、まっすぐなのよ。それができると思えば、試さずにはいられない。

 ウルウには早いとこ矯正してもらわないとね。ウルウ自身の矯正もしないとだけど。

 

 ああ、それにしても、疲れたわ。

 さしもの武装女中も、あれだけ動き回って、その上食べ盛りの冒険屋たちのご飯の給餌なんて。あ、誤字じゃないわよ。あれはもう給仕じゃないわ。給餌よ。餌やり。

 

 あたしたち三人は、寮に辿り着くなり、いつものお風呂もすっぽかして、もう矢も楯もなく寝台に崩れ落ちたのだった。

 

 目覚めたウルウが不機嫌そうにあたしたちを浴場に引っ立てるのは、また別のお話。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

 いやまったく、末恐ろしいガキどもだ。

 俺が頼まれたのは、ちょいと冒険らしい仕事をやらせてやって、憂さ晴らしでもさせてやれって、その程度だったんだが、いやはや剣呑剣呑。まさかあんな目に合うとはな。

 

 しかしまあ、冒険屋ってのは冒険と惹かれあうところがある。

 かつて俺たちがメザーガ、お前に連れられて散々な目に遭ってきたように、あの嬢ちゃんたちもそうなのかもしれん。いや、或いはもっと強烈に、運命とやらに振り回されるのかもな。

 

 報告はそんなとこだ。

 俺にゃこれ以上は無理だ。嫌だ。お断りだ。

 そりゃお前らみたいなアクの強い連中の調整役やってきたがな、俺ゃああくまで野伏なんだよ。あんなじゃじゃ馬扱いきれるか。

 

 ほら、パフィストあたり最近暇してただろう。

 今度はあいつにでもやらせてくんな。

 

 くぁ、あ、あ。

 ああ、くそ、眠ぃ。さすがに歳かね、あの程度で疲れるなんざ。

 朝まで寝るから、もう今日は呼ぶなよメザーガ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章 異界考察
第一話 亡霊とヴォーストの街・上


前回のあらすじ
地下水道での冒険を終え、主にバナナワニ鍋で絆を深めた一行。
しかし消費は大きく、つかの間の休息に浸るのであった。


 普通の冒険屋というものは、大きめの依頼を片付けたらしばらく休むものらしい。

 それは体を休めるための調整期間でもあり、装備を整えるための準備期間でもあり、そして他の冒険屋に仕事を譲ってやる心遣いの期間でもあるらしい。

 

 まあ最後に関しては酒場で飲んだくれている姿を見る限りお前らの営業努力だろうとか思わないでもないけれど、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》も、地下水道での仕事を終えて、少しの間休暇をとることになった。

 

 バナナワニのスキヤキで胃もたれしたから、とちょくちょくからかわれるが、もっぱらリリオの調整のためだった。

 バナナワニを倒すために雷精に魔力をこれでもかと食わせてやったリリオは盛大に疲労し、あちこちの感覚が狂い、ホルモンバランスとかも崩れていそうな様子だった。

 無理やりに休ませてご飯を食べさせたらあっという間に回復しやがったが、それでも念のためまだ休ませてある。

 

 お世話をしているトルンペートは口ではあれこれ言うが、実に満ち足りた様子だ。あれが仕えるものの幸福というやつなのだろうか。

 リリオもこういう時には実に尽くされ慣れている様子で、一応貴族は貴族なのだなと妙に感心したものだった。

 なお私は巻き添えになりそうだったので逃げた。

 私はああいうの背中がかゆくなるから無理。

 

 さて、リリオの調整その二、というかリリオの装備の調整が休暇の主な原因だった。

 雷精をこれでもかと肥え太らせた剣はそれはもう負荷も大きかったようで、持ち込んだ先である鍛冶屋カサドコでは「雷雲でも切ってきたのかい」と呆れられた。

 

「どれだけ魔力を食わせればこんなバカみたいな焦げ付き方するんだい。霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の皮革が耐えきれずに爆ぜちまってるじゃないか。それに刀身も刀身だ。大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻が歪むなんてのは聞いたことがないよ全く」

「直せそうですか?」

「できらいでか! と言いたいとこだけど、何しろ素材が素材だからね、ちょいと時間も金もかかるよ。つききりだとして、まあ、半月も見ておきな」

「半月! そんなに!」

「あんたにゃちょうどいい休みさね。少しは大人しくしな、《三輪百合(トリ・リリオイ)》の暴れん坊チビめ」

「トルンペート……」

「あんたよりは大きいわよ」

「胸は同じくらいだだだだだだ」

「お代はいくら負けられる?」

「あんたは遠慮しないねえ。そうさね。まず霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の活きのいい皮革が要る。持ち込みならずいぶん安くするよ」

「刺身なら?」

「あたしの気力も奮うね」

「結構。毎度あり」

「あんたも営業以外で愛嬌があればねえ……」

「売れもしない愛嬌は要らない」

「あ、私買います!」

「君は私に借りが多すぎるだろう」

「ぐへぇ」

 

 リリオは不満そうであったが、数打ちの代剣を借りて取り敢えず腰に吊るし、見た目ばかりは何とか形になった。とはいえ、雑に扱っても刃こぼれ一つしなかったあの剣と同じ感覚で普通の剣を使えばすぐさま折れてしまいそうだから、リリオにはじっとしていてもらいたいものだ。

 

 さて、休暇中のリリオに、それにつきっきりのトルンペートと来て、久しぶりに一人の時間を得た私は、ちょっと出てくると言いおいて、事務所を後にした。

 かつては一人でいる時間の方が長かったのに、困ったことにリリオと出会ってから滅多に一人の時間というものが取れなかったのだ。健全な精神活動を取り戻すにしても、頭の中を整理するにしても、一人になって調整する時間が必要だ。

 

 私は《隠蓑(クローキング)》で姿を隠し、ぶらりとヴォーストの街を歩き始めた。

 

 このヴォーストの街というものは、辺境からさほど遠くもない堂々たる田舎の街と自称してはいるが、それでもなかなか立派な街であることは間違いなかった。

 街はぐるりと立派な街壁で囲まれ、その街壁には何か所も塔が立っており、きっと見張りがついているのだろう。

 さすがに上にまで登ったことはないので詳しくはないが、長らく使われていないとはいえバリスタや投石機といった兵器も準備されているというから、護りはこの世界基準では万全と言っていいだろう。

 どちらかというと平和な中央より、辺境に近いこのあたりの方が防備には気を遣っていると聞く。

 

 街壁に囲まれた内部は、南北に走る運河と東西に走る大路で、地図で見れば大きな十字に切り分けられているように見える。運河と大路はそれぞれ水門と街門とで内外と隔てられており、これ以外に街と出入りする出入口はない。

 だから陸路では街門が、水路では水門が、いつも人のやってくる朝方は非常に込み合うし、そこから連なる大路も運河もかなりの交通量だ。

 

 私たちがやってきた東街門から続く東大路に宿をはじめとして店が連なっていたように、西大路もおおむね同じ作りになっている。

 この出入り口付近というものは外からの人間が多く訪れる、ということは新しい話題や商売も多くやってくるということで、ただの宿屋だけでなく、《踊る宝石箱亭》のような冒険屋御用達の酒場件宿屋もこのあたりに多く居を構えている。

 

 この宿屋街の先はちょっとした広場になっており、毎日朝から市が立つ。

 市というのは固定の店ではなく、露店や出店、また地面に布を敷いて品物を並べただけのような店の類が立ち並ぶ市場で、広場の入り口近くに聳える商工会で許可をとった店が認可の下りた商品を扱うものだ。

 大路を通って運ばれてきた荷物は大体がここで卸され、売買される。

 新鮮な野菜や卵、また生きたままの家畜などの他、遠方から取り寄せられた品々が玉石混交で並び、うまくいけば掘り出し物が見つかることもあるという。

 

 まあ、私は人混みが苦手だから、ここに立ち入るのは人が減る昼過ぎ以降だけれど。

 

 この広場を過ぎて大路をもう少し進むと、少し落ち着いた店々が並ぶ商店街に続く。

 これらはみな、旅人が必要とする薬や携帯食などの消耗品を扱う店というよりは、地元の人々が利用する精肉店や薬屋、雑貨店など、地域密着型の店舗だ。

 以前リリオとともに訪れた精霊晶(フェオクリステロ)の店などもこの一角にあるし、メザーガの冒険屋事務所もこのあたりにある。

 

 私のなじみの店である本屋も東商店街にあり、ちょくちょく足を運んでいる。

 壁がすべて本棚で、カウンターの奥に垣間見える店主の生活の場にさえ本があふれて見える素敵な空間で、しかもそのすべてが丁寧に整理されているという最高の本屋だ。

 さらに店主がその本をすべて把握しており、これこれこういう本が欲しいと言えばすぐに対応してくれるという本屋の鑑でさえある。

 本好きにとってはこれ以上ない本屋では無かろうか。

 そりゃあ私だって行きつけになる。

 

 まあ、私は本を買うとき以外は《隠蓑(クローキング)》を解除しないから、店主からしたら毎回いきなり現れて大量に買ってそしてまた消える謎の客でしかないだろうけれど。

 

 東商店街に書籍を扱う店はこの一軒だが、西商店街にも書店があるというから、その内足を延ばしてみたいものだ。そのうち。

 

 この商店街を抜けると、運河に面した大広場に出る。この広場は港のようなもので、突き出したいくつもの桟橋には商船や艀、そして水馬車とやらが常に隙間を埋めるようにして出入りしている。

 陸路よりも大量の物資を運べる船が集まる場所であるから、ここで卸される荷物というのは大路を通って運ばれる品物よりもずっと多い。その品物の多くがこの大広場の市で捌かれて、いくらかは市に運ばれ、いくらかは店に直接卸され、そしてまたいくらかは個人が買い取っていく。

 やってきたと思ったらまた別の船に乗せられて再び旅に出ていく荷もあるし、運河から別れる細かな水路を使ってここからさらに小分けにされて運ばれていく荷もある。

 

 ヴェネツィア程ではないのだけれど、運河のたっぷりとした水量を誇るヴォーストでは水路がかなり活用されている。さすがに街壁付近までは届かないけれど、運河付近は路地と同じように水路が流れており、これを先程もいった水馬車なんかが通って荷を運んだり人を運んだりする。

 

 この水馬車というのが、まあ自動翻訳の適当な訳なのだろうけれど、まあ簡単に言ってしまえば水生生物に曳かせた船だ。陸上の馬車と同じく、船を曳いてくれるものはみんな水馬扱いらしく、これをいちいち説明するのは非常に紙幅を食う。

 

 なので私が見て気になったものだけ挙げていくと、巨大なタツノオトシゴのような頭に馬のような体をした生き物とか、巨大なゲンゴロウみたいな虫に曳かせていたりとか、巨大な二枚貝に水を吐かせて船を押させているものとか、オウオウと鳴くアシカみたいな生き物が数頭で曳いているものとか、人が人力で棹とか使っているやつとか、あ、いや、最後は違うか。

 まあとにかく、ファンタジー世界観に慣れていないと頭がおかしくなったんだなと思うような光景だ。

 

 そういった感覚をなんとかすみに放り投げてしまえば、一部の水馬車は水陸両用だったり、スロープのような登り口を使って水路と陸路をうまく切り替えていて、なにげに進歩的ではあると感心できる。

 でもたまにざばーふと登ってきたのが人間みたいな二本足の生えた魚類だったりするのでSAN値が削られるのは勘弁してほしい。

 

 おぞまし、違った、不思議な大広場を運河沿いに歩いていくと、上流、つまり北の方では漁場の桟橋と漁船が並んでいる。

 以前リリオを丸焦げにした霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の小さいものをはじめとして、この運河には結構水産資源があるようで、漁船が網を張ったり、釣り竿を下ろしたり、また素潜りして漁をしたり、結構にぎやかだ。

 とはいえ大抵はまだ日も出るかどうかという朝早いうちから漁をして、水門の開くころには大分落ち着いているそうだ。

 商船や艀の邪魔になるし、逆に言えば商船や艀の往来で魚が逃げるからということでもあるらしい。

 

 なので私が起き出して散歩する頃合となると漁はもう下火になって、大半の魚は水揚げされて市場に回っている。

 じゃあこの辺りはもう面白みがないのかというとそうでもなくて、実は運河上流沿いには、漁師たちがとってきた魚を直接卸されている店が並んでいるので、新鮮な魚介が食えるのだ。

 この時間も船を出している漁船というのはつまり、自分ちで食べる分とか、こういうお店がお昼に足りなくなって追加注文する分をとっているんだね。

 

 なんとかいう白身魚と貝類の煮込みを遅めの朝食、まあブランチ代わりにさっと頂いたけれど、なるほどこれが、うまい。

 味付けはシンプルに塩だけなのだけれど、大鍋で豪快に煮込んだ魚介の出汁がたっぷりと出ており、このスープだけでたまらなく胃に染みる。

 

 魚の方はちょっと煮込み過ぎて崩れているが、そのおかげで骨周りの肉がほろりほろりと崩れてうまいことはがれてくれるので、柔らかく淡白な身にじわりと詰まったうま味が残さず食べられる。

 この、骨ごとぶつ切りにして煮込むというのが美味い出汁の出る秘訣だという。

 

 貝は過熱し過ぎると身が縮むというけれど、勿論そんなこと気にしちゃいない豪快さ。

 ハマグリみたいな大振りな貝殻に比べて確かに小さいは小さいけれど、元が大きいから気にならない。むしろ殻から外しやすくていい。

 これを噛むと、縮んだ分確かに硬い。硬いが、うまい。魚の方がちょっと頼りないくらい柔らかい分、この貝の硬さがむしろいい歯応えだ。ぎゅむぎゅむして、顎に気持ちがいい。

 貝殻が驚くほど青いので最初は食えるものなのかと驚いたけれど、見た目の華やかさとは裏腹にどっしりと地に足のついた味わいだ。

 

 などと言ってみたけれど、聞いてみればこの貝は瑠璃蛤(ラズル・メレトリコ)といって、あの森の中で遭遇した飛行性二枚貝である玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)の仲間であるという。全然地に足がついていない類だった。

 

 あまり綺麗なのでアクセサリーにでもできるのではないかと思ったのだが、気のいいおばちゃんによれば、結構獲れるので希少価値が低いらしい。なので子供が好きな子に贈るのに獲ったり、砕いてタイルや顔料に混ぜ込んだりするのに使うそうだ。

 

 私は記念に一つ、きれいに洗って拭い、インベントリに納めたのだった。




用語解説

・商工会
 商人たちの組合。ヴォーストの街で商売をするからにはここで認可をとらなければ正当なものとは認められない。しかし認可を得れば、商工会が定めた値段や会費などの制限がかかる代わりに、ヴォーストの街全ての商人がその商売を承認したという後ろ盾が得られる。
 主に既得権益の保護や、市場の荒れを阻止したりがお仕事。

・水馬車
 水生生物に曳かせた船のこと。あくまで車なのは、中には水陸両用で陸上を走ることができるものもあるためだと思われる。

・巨大なタツノオトシゴのような頭に馬のような体をした生き物
 水蹄馬(アクヴォチェバーロ)。魔獣。四つ足の馬のような体格をしたタツノオトシゴといった外見をしており、その蹄は地を走ることも水を蹴ることもでき、水馬の代表。野生のものは獰猛で人間も襲うが、飼育下ではその勇猛さが頼られる。
 馬力があり、重い荷物などを曳くことが多い。

・巨大なゲンゴロウみたいな虫
 大龍虱(グランダ・チビストロ)。蟲獣。非常に賢く、人にも懐く。年経たものは藻が張り付いてしっぽのように見えることもある。あまり重たいものは引けないが、小回りが利き、狭い水路などで役立つ。

・巨大な二枚貝
 噴水扇(フォンティペクテーノ)。巨大なホタテガイのような二枚貝。下側の殻の表面がワックス様の分泌液で覆われ、出水管から勢いよく水を吹き出すことで水上を滑走するように移動する。
 この貝は簡単な合図程度なら覚えることができ、船の後部に括りつけ、軽く叩いて合図をして水を吐きださせ、その勢いで移動するという特殊な水馬車が存在する。
 あまり重い船は押せないが、とにかく勢いがあり速いので、急ぎの渡し船などに活用される。

・オウオウと鳴くアシカみたいな生き物
 川驢(リヴェルレオノ)。淡水域に棲む毛獣。ここに登場するものは特に北川驢(リヴェルレオノ)とされるもので、やや大型。水蹄馬(アクヴォチェバーロ)ほどではないがある程度は自衛ができ、複数頭で曳かせても喧嘩しないため、重い荷物も運べる。

・人間みたいな二本足の生えた魚類
 暴れ魴鮄(プランチ・グルナルド)。人外魔境呼ばわりされることもある辺境~北部にかけてでも珍しいタイプの水棲魔獣。いかにも魚といった図体にいきなりすらりと二本足が生えており、しかもかなり健脚。胸鰭の進化したものであるらしいのだが、陸上でも呼吸できることと言い、どうしてこんな進化をしたのかは全くの謎である。
 暴れ、とつくように獰猛な面もあり、普段のったりしている癖に、外敵とみるや素早いヤクザキックで動かなくなるまで蹴りつける。

・なんとかいう白身魚
 閠は覚えてはいるが興味は持っていないものの、正しくは竜尾鱒(ヴォースト・トルート)(トルート)の中でもヴォースト川に棲む種。淡水域で生涯を終える。最大で一メートル越えすることもあるがもっぱら食べられるのは三十センチから六十センチ程度のもの。
 やや淡白ながら、ヴォーストでは親しまれる食味である。

瑠璃蛤(ラズル・メレトリコ)
 玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)より大型の飛行性二枚貝。主に淡水の影響のある内湾に生息しているが、川沿いに遡上していき分布することもある。ヴォーストは船の往来も多いため、それにつられてやってきて固着化したのではないかとされる。
 その貝殻は鮮やかな瑠璃色を示し、顔料の素材や、砕いてタイルやモザイク画に使用されたりする。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊とヴォーストの街・中

前回のあらすじ
リリオから解放され、ヴォーストの街をうろつくウルウ。
寂しがるかと思いきや一人飯に舌鼓を打つ当たり根っからの孤独飯である。


 小腹を満たして、今度は逆方向、運河沿いに南下していくと、漁場は姿を消し、代わってかんかんがんがんごうごうごんごんとやかましい音がするようになり、匂いや、川の色も一変する。

 

 鍛冶屋街だ。

 

 メザーガに紹介された鍛冶屋カサドコの看板もこの鍛冶屋街に掲げられている。

 鍛冶というものは火を使う薪を使う、そしてそれだけでなく水を使う。製鉄にはたくさんの水が必要だ。だから川沿いに鍛冶屋が並ぶ。そうして鍛冶屋が並ぶと水が汚れる。なので漁場が減る。上流に鍛冶屋ができると下流全てが汚れるので、下流にかたまる。そのように住み分けができている。

 

 進捗伺いも兼ねてカサドコに顔を出し、土産と素材売りを兼ねて霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を渡してみると、大いに歓迎された。

 私などは無傷でいくらでも捕まえることのできる相手でしかないのだけれど、耐電装備はこの世界には少ないようで、本来はなかなか高値らしい。

 

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を安定して捕まえるのに、まず霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の革で作った鎧が必要なんだからさ、そりゃ難しいさ」

「囲んで棒で叩いて弱らせるって聞いたけど」

「それが安全だけどね、でも叩けばその分傷つくし、弱ればその分価値も落ちる。ましてサシミなんざねえ」

 

 カサドコは霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の刺身を何よりの好物とする地潜(テララネオ)の女性だ。長身な方である私よりも背が高いし、がっしりとしていて、気風がいい。

 人間嫌いを標榜する私ではあるけれど、仕事と酒と刺身、それに妻のイナオのことくらいしか興味がないこの土蜘蛛(ロンガクルルロ)は割と嫌いではなかった。勿論好きというほどではないのだけれど、私のことをこれっぽっちも気にかけない人種というのは割とありがたい。

 

 旦那と比べて穏やかでにこにこと控えめなイナオは私に豆茶(カーフォ)を、旦那には酒を一献注いで奥に下がった。実はイナオもそこそこ気に入っている。あのいかにもおしとやかでございという態度が、実のところ面倒臭いので世の中に積極的に関わらないようにしているというスタンスであるというのが端々にうかがえるからだ。

 すっごくよくわかる、うん。

 それに豆茶(カーフォ)が美味いというのは、これは才能だ。

 

 真昼間から注がれた酒を飲み干し、また手酌でじゃぶじゃぶやっているカサドコだが、土蜘蛛(ロンガクルルロ)というのは基本的に酒に強い、というより水代わりに飲むらしい。その癖、実は豆茶(カーフォ)であっさり酔うという話だから分からない。

 ん、待てよ。そうなるとこれは人族流に言えば客に酒を出しているのではなかろうか、と思わず黒い水面を見つめてしまった。

 

「進捗どうですか」

「あんだって?」

「剣の修理の進み具合はどうかなって」

「まだまだだね。いまは霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の皮をなめして処理してるとこ。レドのじいさんに見せたら、年甲斐もなくはしゃいじまってね、ありゃ前よりもっと強烈なのができそうだ」

「刀身は?」

「あれな。あれが難しい。大具足裾払(アルマアラネオ)ってのはまあ、裾払(アラネオ)の仲間なんだが、とにかく硬い甲殻で有名でね。まず切り出すのに聖硬銀か、同じ甲殻で削るしかない。そう、削り出しなんだよ、基本。これが歪んじまったから直すなんてのは、ハ、どうしたもんかね」

 

 カサドコは渋い顔で酒を煽り、骨煎餅をかじった。これは霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の骨をよくよくあぶって塩を振ったものだそうで、それだけ言うと安っぽく感じるが、素材が素材なだけに相当高価らしい。まあ、私が卸した奴だからあほほど安いんだろうけど。

 

「熱に強い、酸にも強い、折れず欠けず曲がりもしないってのが大具足裾払(アルマアラネオ)なんだけどねえ」

「もしかしてあれってすごい剣だったの?」

「まあ、辺境から出てくることが滅多にないからそんなに知られちゃいないけどね。あれ一振りで帝都に屋敷が買えてもおかしくないよ」

「ごめん、基準がわかんない」

「ま、とにかく凄いのさ」

 

 すごいらしい。

 私も骨煎餅をかじってみたがこれがなかなか面白い。

 かじると塩気と、香ばしさ、それからぴりりと来るものがある。辛さじゃなく、痺れだ。山椒なんかの痺れじゃなく、電気の痺れがピリッと舌先に来る。

 

「なにこれ」

「面白いだろ。霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は背中側の筋肉に雷を生む肉がついてる。で、皮はこれを内側から外側に通すけど、逆は弾く。それで自分は感電しないんだがね、なんと骨の内側、骨髄には強い雷が流れてるみたいなんだよ。

 学者の何とかが言うにはね、この雷が駆け巡るおかげで霹靂猫魚(トンドルシルウロ)は巨体の割に非常に頭の回転が速くて、強いだけでなく細かな雷の制御ができるんだそうだ」

 

 うーん。脊髄と骨髄とごっちゃになってる感じはする。しかし電流と神経系の関係に触れているあたり解剖学がそこそこ進んでいる感じはする。

 

「以前は皮と分厚い脂肪で自分が感電しないようにしているってのが主流だったんだけどね、どうも雷精を操って自分の筋肉を震わせて、巨体の割に機敏な動きをさせているんじゃないかって研究があってね。水中での移動速度が同じような体系の猫魚(シルウロ)とは比べ物にならないってんで調べたやつがいてさ、帝都の奴なんだが、これを流用して着た奴の運動能力を高める強化鎧(フォト・アルマージョ)ってーのをこさえた鍛冶屋だか錬金術師だかがいて、なかなか面白そうなんだよ。そいつが言うには生き物ってのはみんなよわーいいかずちで動いてるそうで、それをうまいこと調整できりゃあ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)がやってるみたいな自分の強化が手軽にできるんじゃないかって、なんつったかな、二人組の奴らなんだけど、」

 

 この程度の酒では全然酔わないという話だから、多分話に興が乗っているんだろうけれど、まあよく喋る。相手のことをまったく気にしていないお喋りだけれど、実は私はこういう人種はそんなに嫌いではない。話は通じないけど仕事はできる。話は通じないけど。イナオがいい感じにマネジメントしてくれると助かる。

 

 しかし、聞き流してはいるけれど、これは生態電流についての話だろうか。で、それを操ることで装着者を強化するある種のパワードスーツ。動力が外力じゃないから限度はありそうだけど、反射速度を高めたりということに利用しているっぽい、のかな。

 思ったよりも発想や技術が進んでるなあ、異世界。

 

「そう言えば」

「先月の《帝学月報》に載ってたんだけど、どこやったか、」

「電気で歪んだんなら電気で直せるんじゃないの」

「ユベルとかいったか、あん? なんだって?」

「いや、熱にも酸にも強くて外圧にも強い素材が雷で歪んだんなら、雷でもっかい歪めれば直せるんじゃないの」

 

 思い付きで適当な事を言ってみたのだが、カサドコは一本の手で顎をさすって、もう一本の手で酒を煽り、それから分厚い本を別の一本の手で引きずり出し、また一本の手で眼鏡を取り出し、四本の腕をフル稼働しながらぶつぶつと考え始めたようだった。

 

大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻がはぎ取った後も加工のノリが悪いのは生体反応が消えていないからと聞いたことがあるな。つまり甲殻は甲殻でまだ生きてるわけだ。金属質であるともいえるし生物質であるとも言える。下手な竜も喰らう超生物なら死の概念そのものが違うのかもしれないねえ。この甲殻は単なる外骨格じゃなく、大具足裾払(アルマアラネオ)の用いる魔術の回路基板でもあるという記述があるし、剥ぎ取って加工した後もまだある種の生物であると言えるのかもしれない。イナオ、酒。いや、雷精だけが原因じゃないのかもしれない。魔術回路基板であるということは生体電流による影響だけじゃなく魔力による構造変化が基本となっていると考えりゃああの剛性での柔軟な動きも納得できる。莫大な熱量によって溶け歪んだって感じなかったし、リリオの奴のやばすぎるなっていう躊躇いが刀身にもろに出たのかね。魔力と雷精によって一時的に回路基板と接続されて一つの生物として認識されたのか? いや、ここは」

 

 あ、これ駄目な奴だ。

 がりがりと書き物まで始めたカサドコを尻目に、骨煎餅をもう一つ頂いて、イナオに挨拶しておさらばすることにした。

 

「お邪魔しました」

「あれで半日は静かだからありがとうございます」

「君も大概だなあ」

「あれの妻ですよ僕は」

「ごもっとも」

 

 鍛冶屋街を後にして、運河沿いを仕事場にしている渡し舟に小銭を寄越すと、暇そうにキセルをふかしていた船頭はよし来たと手綱を牽き、早速水馬車を走らせ始めた。

 船を曳く生き物は泳ぎ犬(パーデロ・プーデロ)と呼ばれる犬、八つ足ではなく四つ足の哺乳類としての犬で、ふわふわとした毛足の長い大型犬たちだった。

 栗毛と黒毛の二頭曳きで、愛らしい外見もあって人気であるらしい、とは船頭の自慢だが、意味不明のファンタジー生物と比べてなるほど確かに素直に愛らしい。

 

 わふわふと可愛らしい犬たちに曳かれる船に揺られながら景色を楽しんでみたが、この運河、なかなかに広い。向こう側が見えないというほどではないが、泳いで渡るにはいささか岸が遠い。

 この川に橋を架けると、下に船を通す都合もあって相当大掛かりにならざるを得なかったようで、それなりに広い街の中にあって、運河にかかる橋は三本しかない。

 その代わりというか、大小さまざまな渡し舟がこうして往来を支えているらしい。

 

 のんびりとした水上の旅を楽しみ、降り際に犬たちにとチップを渡してやり、私はうんと一つ伸びをした。

 何人か乗れる船に一人きりだったし、座席もクッションが敷いてあって悪くはなかったのだけれど、やはり船は、少し窮屈だ。

 揺れは大丈夫なのだけれど、何かあっても降りるに降りれない環境がそう感じさせるのか、視界は広いけれど心は窮屈という妙に疲れる思いだった。

 自分の意思でどうにもできないというのは、少し、疲れる。

 

 川向い、つまり西地区は、東地区と似た部分も多いけれど、違う部分も多い。今日はそこを見物する予定だ。

 

 早速の違いその一は、同じ下流沿いにありながら、西地区は鍛冶屋街ではなく、同じく水を多用し、そして水質を汚しがちな連中の集まるところだということだ。

 時折ケミカルな色の煙が上がったり、ケミカルな色の爆発が起きたり、ケミカルな人種の叫び声が聞こえたりする、実に怪しい地域。

 

 人はここを錬金術師街と呼ぶ。

 

 ……と、その前に。

 私は大型の鳥が引く小型の辻馬車に小銭を払って、商店街に向かった。

 軽めのブランチでは、そろそろ燃料切れだったのだ。




用語解説

裾払(アラネオ)
 主に森林地帯に住まう甲殻生物。長らく蟲獣と思われていたが、むしろ蟹などの仲間であることが近年発覚した。前後のわかりづらい胴体から四本から八本の細長い足をはやした生物で、食性や生態なども様々。主に長い足を払うようにして外敵を追い払うため裾払いの名がある。

強化鎧(フォト・アルマージョ)
 外部動力でアシストするパワードスーツではなく、着込んだものの筋肉に微細な電流で刺激を与えて反射速度やいわゆる火事場の馬鹿力を発揮させる鎧。実験段階である。

・《帝学月報》
 学術雑誌。主に帝都の帝都大学をはじめとした学術機関にまとめられた学術記事を月に一度発行している。なお北部は準辺境扱いで、一か月二か月遅れは当たり前。

泳ぎ犬(パーデロ・プーデロ)
ふわふわとした毛足の長い四つ足の大型犬。泳ぎが非常に得意で、どちらかと言えば陸上を走るより泳ぐ方が得意なくらい。さほど勇敢ではないが小器用で賢く、おぼれた人間を救助する能力に秀でているとされる。というか他の水馬がその能力に欠けすぎているのかもしれないが。

・大型の鳥
 走り鈍足(ラピーダ・ドードー)。ずんぐりむっくりした体つきの飛べない鳥。非常にのろまそうな外見なのだが、最高時速八十キロメートルはたたき出す俊足の鳥。体力もあり、荷牽きや馬車によく使われる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 亡霊とヴォーストの街・下

前回のあらすじ
技術屋の面倒臭さに触れて何となくほんわかとした閠であったが、結局面倒臭いのは面倒くさいのでさっさと後にするのであった。


 取り敢えず腹が空いていたので、さっと出してくれて美味い飯屋と頼んで辻馬車に乗せられていった先は、なかなか当たりだった。

 商店街の表通りからちょっと路地を抜けた先のこじんまりとした小料理屋で、辻馬車屋達がよく利用する、知る人ぞ知る名店だという。

 

 屋号は《銀のドアノブ亭》。少しくすんでいるが洒落た装飾のドアノブが粋だ。

 

 店内はカウンター席が五席にテーブルが二つと小作りで、店主が一人で切り盛りできる程度ということらしかった。

 

 私がカウンター席に着くと、よく冷えた水に酸い柑橘を軽く絞った檸檬水のようなものが出され、なににしましょうかと渋い声が聞いてくる。

 少し考えて、とにかく腹が減っているのでさっと出せるものをと頼むと、少ししてさっそく一皿出てくる。

 

「運河獲れのアラ煮です」

 

 見れば深皿の中では魚の()()や、ぶつ切りになった骨身、内臓のようなものがちらほら、それに根菜の類が見える。深い琥珀色の煮汁だが、味付けは塩のようだった。

 漁師街で食べた魚介の漁師風煮込みと似ているが、食べてみればなるほど、ずっと洗練されている。香草の類が使われているようなのだが、これが嫌味にならない程度の本当にあっさりとした利かせ具合で、魚の嫌な感じを綺麗に取り除いているのに、香り自体は全然邪魔にならない。

 骨についた身もほろりと崩れる、崩れるけれど、身はしっかりと形を保っている。しかし口に含むと、やはりほろほろ崩れる。

 

 根菜がまた、憎い。

 魚のうまみをたっぷりと吸い込んでいる大根のような根菜と、人参のような根菜。大根は実に素直な味わいで、旨味をたっぷり吸いこんで、そのままに口の中で溢れさせてくる。人参はこれがまた驚くほど甘い。魚のうまみを確かにのせて、しかしそれに相乗してふわりと甘さを広げてくる。

 

 あしらいの香草をかじってみると、ぴりりとする。このぴりりが、ふわっと広がったアラ煮のうまみを、しゅうと引き締めてくれる。逃がしはしない、しかし絞めつけもしない。塩梅、というやつだ。

 

 そうして味わっていると、ぱちぱちと油のはねる音がする。見ればたっぷりの脂が満たされた鍋の中で、黄金色に何かが躍っている。

 揚げ物だ。

 

 私がアラ煮を平らげるのとほとんど同時に、さっとその揚げ物の皿が出される。

 

跳ね鮒(ダンツィ・カラーソ)の刻み揚げです」

 

 皿の上では細引きのパン粉をつけて黄金色に挙げられた楕円形の揚げ物が三つ並び、後はあしらいに葉物がそっと添えられているだけで、潔い。またこの金色と緑とが織りなす鮮烈な色合いの中、揚げ物にさっとかけられた琥珀色のソースが全体を引き締めてくれている。

 

 跳ね鮒(ダンツィ・カラーソ)とは何かと聞けば、運河で獲れる魚の一つで、水面まで出てきては、踊るように跳ねるので跳ね鮒(ダンツィ・カラーソ)と呼ぶそうだった。

 

 では刻み揚げとは何かというのは、食べて確かめてみることにした。

 

 ナイフの刃を入れる、このザクリとした感触がまずたまらない。思えばパン粉を使った料理は、この異世界に来てから初めてかもしれない。見慣れた粗目のものではなく、細引きではあるのだが、それでもフライはフライだ。

 あえて断面をよく見ずに、ソースのかかっていない部分をかじってみると、思いの外にふわりとした触感が口の中で踊る。ザクリ、とした衣の中に、ふわっとした身が詰まっている。ただの魚の身としては、これはあんまり柔い。

 

 何かとみてみればなるほど、これはある種のメンチカツなのだ。

 白身を魚を少し粗目に叩いたひき肉を、香草などと一緒に丸めて、衣をつけて揚げたものなのだ。この粗目というのが肝心で、すっかりすり身にしてしまっては、ふわっとするより、むしろつなぎで硬くなってぶりんぶりんとしてしまうか、あるいはもっと柔くなってしまう。

 あえて少し粗目に叩くことで、身と身の離れが良くなって、口の中でほろりふわっと崩れる。崩れるけれど、確かに歯応えがある。

 

 そしてまた香草の使い方が、やはり、うまい。

 臭み消しという役目だけでなく、全体がぼけてしまいがちな白身の淡白な所に、味ではなく香りで引き締めにかかっている。

 では味が弱いかというと、そんなこともない。下味がしっかりしているのはもちろんだが、この上にかかったソースがいい。

 とろみがかったこのソースは、じわじわと衣にしみこんで歯応えを変えて楽しませてくれるだけでなく、ピリッとした僅かな辛味と、そして爽やかな酸味を与えてくれる。

 

 久しぶりのフライに舌鼓を打って、気づけば一皿平らげていた。

 

「もう一皿、何かおつくりしましょうか」

 

 そういわれて少し考えるけれど、さてどうしたものか。

 満腹だ、というほどではない。しかし心地よい満たされ方だ。正しく腹八分なのだろうか。

 酒でも入れていたら、まったくこれ以上満ち足りることはないだろうなという程度に適切な量だ。

 

 そう答える前に、もう顔色で答えはわかっていたのだろう、小さなカップに、濃いめの豆茶(カーフォ)がそっと淹れられていた。

 くっと口に含んでみれば、爽やかな苦みが口の中の脂を綺麗に洗い流してくれた。

 

 《銀のドアノブ亭》を後にした私は、腹ごなしにぶらりと歩いていくことにした。

 あの辻馬車屋もいい店を教えてくれた。味は良いし、心遣いも良い、腹の具合も良い、そして驚くほど、安い。やっていけるのかと思ったが、食材自体はみな安いものらしい。技術料をもっととればよいのにと言ってみたが、金気は包丁を錆びさせますので、とストイックな事を返されてしまった。

 

 ぶらりぶらりと最初は錬金術師街に向かおうとも思ったのだが、思えば特に用事もないし、第一折角美味しいもので満たされた後にあのケミカルな光景を見るのもよろしくないなと思い直し、私はのんびり北に向かった。

 

 ヴォーストの街の北西部には、一角丸まる神殿だけが立ち並ぶ神殿街があることを思い出したのだった。

 この世界は多神教らしく、そしてまた神様が実在する世界らしく、どこでも大きめの街には必ず、主要な神様を祀った神殿が立ち並ぶ神殿街があるそうで、一度見に行こうと思っていたのだ。

 

 鍛冶屋街や錬金術師街が、それでも何となくほかの建物と緩やかに繋がっていたのに比べると、神殿街ははっきりと、ここからここまで神域ですよと言わんばかりに他と区別されていた。

 

 神殿はみな似たような作りをしていたけれど、掲げるシンボルがみな違って、人々は目的の神様の神殿がどこなのか間違えることなく行き来しているようだった。

 私は神様のことなど全く知らないので、どのシンボルがどの神様を示すのか全く分からず最初は困ったが、神殿街入ってすぐの神殿を尋ねてみたところ、シンボルを、また神殿の配置を書き連ねた小さな地図を一部頂けた。料金、違った、御布施は一部五十三角貨(トリアン)

 ぼったじゃなかろうかとも思ったが、宗教関係でケチをつけても仕方がない。観光気分で行こう。

 

 なおその神殿は何を祀っているかと言えば、商売の神様だった。

 

 神殿はみな似たような作りとは言ったけれど、やはり信者の数に従ってそのサイズに違いはあって、例えばこの世界の最初の神様である海の神は、そのくせ主要な信者がほとんど内陸にいないので小さかったり、土蜘蛛(ロンガクルルロ)の祖神である山の神ウヌオクルロの神殿は、鍛冶屋街に土蜘蛛(ロンガクルルロ)がたくさんいるだけあってそこそこ大きい。

 

 以前話を聞いた風呂の神マルメドゥーゾの神殿はまあぼちぼちといった大きさだが、その内改築するかもということだった。風呂は私にとって欠かせないものだからと思ってお参りしてみたが、中の作りはもろに公衆浴場だった。

 うん。入浴が礼拝と同じようなものって言ってたしな、あのバーノバーノとかいう神官。

 入口付近では石鹸とか盥とか入浴セットを売ってたし、私の中の神殿観が崩れそうだ。

 

 ひとつひとつ見て回ってみたが、どれも作りは似ているが中身はそれぞれの神様に由来する特色にあふれていて、下手な観光地よりも見甲斐がある。

 

 一通り見て回り、観光がてらいくらか気になったものを購入した。

そして私は最後に目的の神殿に辿り着き、礼拝堂らしきところの長椅子にどっかりと腰を下ろした。面白いは面白いし楽しいは楽しいが、人の多いところは、やはり疲れる。《隠蓑(クローキング)》で隠れていても、()()ということは変えられないのだ。

 

 一つ溜息をついて、私は礼拝堂の奥に掲げられた三日月形のシンボルを見つめる。

 多分、ここであっているはずなのだ。

 だから、私はここを考えを整理するための場所だと決めたのだった。

 

「境界の神プルプラ。シンボルは月。()()()()()()()()()()()()。多分、あんたが答えだと思うんだけど」




用語解説

・《銀のドアノブ亭》
 初老の男性が経営しているこじんまりとした小料理屋。
 安い素材を確かな腕前で調理して安価で提供してくれる、はやい、やすい、うまいと三拍子そろった店。
 表通りから離れているため、まさに知る人ぞ知る名店である。

跳ね鮒(ダンツィ・カラーソ)
 運河で獲れる魚の一つ。水上に跳ね上がる習性をもつ。その理由は水上の虫を食べるためだとか、より高く飛べるものが優秀な雄だという雌へのアピールだとか、体表についた寄生虫や汚れを取るためだとか言われているが正確な所はわかっていない。

・境界の神プルプラ
 ꣣膦껥薃뛣肂鏣膮諦袯裣膮닣莼ꃣ莞맣芿볣肂诣膤ꛦ떷韣膋ꫣ膋ꏣ膟雧閌ꯧꖞ藣芒볣膳蓣膛ꛩ膊꿧覈鋤붜諣肁諣节諣芓꟣膄诣肂


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 妛原閠の異界事情

前回のあらすじ
街をぶらつき、小腹を満たし、異世界観光などしているかと思いきや、おもむろに確信めいたことを呟くウルウ。
そういうのってもっと話が盛り上がった頃にする奴じゃないの?


 さてと。

 それでは。

 改めまして。

 

 総集編ってわけじゃあないけど、ちょっと私自身のことを整理してみようか。

 何しろこの世界に飛ばされてきてからこっち、ろくな説明もないままに流れに流されてやってきたせいで、私自身なあなあで済ませてしまっていることが多いからね。

 

 私の名前は妛原(あけんばら) (うるう)。二十六歳。元事務職。現《暗殺者(アサシン)》、というか冒険屋。

 こっちの世界ではもっぱらウルウと名前だけで名乗っている。

 この世界、というよりはこの国でも苗字というものは一般的なものらしいのだけれど、同名の人がいるときとか、書類に名前を書く時とか、余程きちんとした名乗りをするときとかくらいしか使わないようだ。

 まあそう言った理由以上に、どうもアケンバラという発音は、こちらの人には母音過多の言いづらい名前らしいので面倒くさくて控えているのだが。

 以前リリオが挑戦した結果は、アクンバーとかになったくらいだ。ちょっと格好いいじゃないか、ウルウ・アクンバー。

 

 さて、私の冒険の始まりは、ある朝目が覚めると森の中で倒れていたという、前置きなしの異世界生活開始だった。しかもただ異世界に飛んだというだけでなく、いつもプレイしていたゲームのキャラクターとよく似た身体と能力になった上でだ。

 これで単に元の事務職の体で異世界に飛ばされていたとか、素直にゲームの中に飛ばされたとかだとわかりやすかったんだけど、まあ前者の場合森の中であっという間に死んでいただろうし、後者の場合なんで半分現実逃避のゲーム内で現実と向き合わなければならないのかという絶望と戦わなければならなかったわけだが。

 

 異世界転移とか異世界転生ものでよくある、状況説明も兼ねた神様とか超存在とかの会話シーンは生憎と私の記憶に残っていないので、多分そんなものはなかったか、私の意識が曖昧だったかなのだろう。

 何故そう言い切れるかというと、今まで言っていなかったことではあるが、私のささやかなチート能力のおかげだ。

 

 さんざんチートやらハーレムやら異世界テンプレの主人公をおちょくってきた私だが、実のところ私も十分にチート性能を持ち合わせている。ゲームでのレベル最高位にあるこの体のことではなく、素の私の能力としてだ。

 

 私は見聞きしたものを忘れることがない、いわゆる完全記憶能力者である。

 生まれた時から、多分死ぬ時まで、私の記憶は薄れるということがない。まあ寝てるときとか酔っぱらってるときとかみたいに意識が明瞭でないときは当然記憶も明瞭ではないけれど。

 この能力があるから、私は初見の森の中でも道に迷うことを恐れなくて済んだし、瞬間的でしかなかった角猪(コルナプロ)殺害シーンで吐きそうになるほど脳内に映像が固着されたし、スキル・ウィンドウでいちいち《技能(スキル)》を確認せずとも使えるし、インベントリの内部も全部覚えてるし、クソ面倒臭い異世界通貨の計算も即座に覚えられたし、異世界の読み書きも簡単なものだった。ごめん、簡単までは言い過ぎだった。覚えられるのと使いこなせるのは別だ。

 

 この記憶力で助かったことは大いにあるとはいえ、それで幸福になったことは微塵もないのであまり素敵な能力だとは思えないのだが、それでも忘れっぽい周囲の人間を見る限り便利な能力なのだなあとは思う。忘れっぽい周囲の人間に苛立つのでやっぱり不便かもしれないが。

 

 あ、でもフレーバーテキストを覚えていられるのは素直に感謝だ。気に入ったものはインベントリに入れてたけど、限度があるからな。

 

 さて、そんな完全記憶能力者の私でも、異世界に飛んできたその瞬間のことを覚えていない。これはたぶん、二つの可能性がある。

 ひとつは私が寝落ちしている間に飛ばされたから。寝ている間の夢は覚えていても、寝ている間の現実は認識できないからね。

 もうひとつは私をこの世界に飛ばした奴が原因。異世界間を通行できる奴が人間風情の能力を凌駕できないとも思えないし、超存在を認識した私が発狂を阻止するために意識をシャットアウトした可能性もある。

 

 ざっくり言えば今の私は、「名前:ウルウ。種族:異世界人。年齢:二十六歳。職業:冒険屋。特技:完全記憶。性格:人見知り」みたいな感じだ。

 それ以上はまあどうでもいいだろう。私にとっても、私を観ている奴にとっても。

 

 そんなウルウこと私は、森の中で旅をする少女リリオと出会い、まあ、なんやかんやあって旅を共にすることにした。

 リリオはどうやらここよりずっと北の方にある、帝国の北東の果て、辺境領というところからやってきた貴族のお嬢さんらしい。

 

 見た目は少年と少女の境界もあいまいな小柄な体に、象牙のようなクリーム色を帯びた白い髪、日焼けすると赤くなるような北国由来の白い肌、鎧も白い皮革と白尽くめだけれど、目ばかりは転げ落ちそうに大きな翡翠みたいな緑色。

 本当に、見た目だけなら儚げと言ってもいいくらい作りがいいのに、何しろうるさいしゼンマイ仕掛けのおもちゃのようにバイタリティにあふれるし、欠食児童じみてよく食べるせいで色気も何もあったもんじゃない。

 この世界の基準で成人したばかり、つまり十四歳ということだから、もう少し落ち着きを持てというべきか、年齢通りの活発さというべきか難しい頃合だ。

 

 なんで貴族のお嬢さんが洗っていない犬の匂いがするような有様で旅をしていたかと言えば、従者であるトルンペートを撒いて一人で旅していたから――これは悪臭の理由か。

 旅自体の理由は、貴族の子供はみんな、成人すると同時に、自分とこの領地とか、近くの他領を旅して見て回り、見聞を広めるという成人式の風習があるからだそうだ。

 

 もっとも、リリオみたいにガチで旅するのは辺境領のやり方らしくて、普通の帝国貴族の家では、修学旅行みたいな感じで馬車に従者に案内にと至れり尽くせりらしいけど。

 それに、リリオの場合は別に家を継ぐこともまずないだろうから、そのまま冒険屋になりたいらしく、修行がてらあえて大変な旅路を選んだところはあるみたい。

 

 冒険屋というのは、まあ、テンプレートなファンタジーものでいうところの冒険者と同じようなものだ。でもテンプレートな冒険者ギルドみたいな世界規模の組織はなくて、地方地方で中小企業めいた事務所があって、それぞれがゆるーく組合という形でつながっているような、そんな感じだ。

 

 さて、お次はメザーガかな。

 

 メザーガ・ブランクハーラ。冒険屋。年齢は知らないけど、多分四十台の中年だ。

 リリオの母親の従姉弟に当たる人らしくて、母親譲りだというリリオの白髪とよく似た髪に、母親からは譲られなかったという褐色の肌のエキゾチックな容姿で、南方出身だとか。

 このことからリリオの母親も白髪で褐色の肌の人だったと想像できるけれど、あまり詳しくは聞いたことがない。

 

 面倒臭がりなところとか、その癖面倒を抱え込んでしまう苦労性な所とか、なんだかんだ面倒見が良いところとか、思わず同情してしまいそうになる彼が、私たちが所属している冒険屋事務所の所長だ。

 

 ウールソ、ガルディスト、パフィストというメンバーと共に組んだパーティでかなり有名だったらしいのだけれど、最近はもっぱら事務仕事で目と腰が痛いと言っているおじさんだ。

 事務所でお手伝いしているクナーボという少女に言わせれば今でも腕は全然衰えていないということだけれど、本人は冗談めかして膝を矢で射られちまってなとか言って働く気を見せない。

 

 そんな事務所に所属するようになってすぐに現れたのが、三等武装女中のトルンペートという少女だ。

 彼女はリリオの実家であるというドラコバーネ家からお目付け役としてつけられていたのにものの見事に道中撒かれてしまったかわいそうな子だ。

 

 年頃はリリオより少し上くらいだから、まあ十六くらいかなあ。孤児である本人も正確な所は知らないらしい。

 リリオと同じか少し大きいくらいの小柄な体型ながら、レベル三十九のリリオよりも強いレベル五十二とかいう破格の高性能メイドさんだ。それなのに胸はリリオと同じくらいのかわいそうな子だ。

 

 なんでも彼女は武装女中というこのファンタジー世界特有の《職業(ジョブ)》らしく、メイドさんらしいエプロンドレスなんか着ているものの、そのエプロンは飛竜とかいう強力なモンスターの革だし、あちこちにナイフを仕込んでたり斧なんか腰に吊ってたりブーツの底に鉄板仕込んでたり、ちょっと私の知ってるメイドさんではない。

 

 装備だけでなく実力も折り紙付きで、単にレベルが高いだけでなく、実戦能力は私に初めて傷をつけたくらいの代物だ。性能頼りの私なんかが真正面から組み合うと、多分経験差からボコられる可能性がある。これで三等とかいうのだから、辺境人はおそらく、頭がおかしい。

 

 まあ最初こそ我こそは正当なるお目付け役とばかり私に食って掛かったトルンペートだけれど、夕暮れの河原で殴りあうこと(柔らかな表現)で仲直りし、今ではリリオと三人で《三輪百合(トリ・リリオイ)》という冒険屋パーティを組んでいる。

 

 その新進気鋭の女性パーティも、先日地下水道で大暴れした結果、装備の消耗が限界を超えてしまい現在休暇中、というあたりで現状の整理はこんなものだろうか。

 

 そんな風になんだかんだ異世界生活を満喫していた私が、本当に何も考えずに異世界を堪能していたかというと、別にそういう訳では無かったりする。

 そりゃまあ、元の世界に未練があるかというと実のところ全然なかったりはするのだけれど、原因不明でやってきたというのは、またどんな理由で元の世界に戻ってしまうのかわからないということでもあるし、いくらか落ち着かなかった。

 だから単純な知的好奇心以外に、研究目的でもいろんな書籍をあさってみたのだけれども。

 

「どうも、この異世界に飛ばされてきたのは私だけじゃないみたいなんだよね」

 

 人気のない礼拝堂に、独り言が響いた。




用語解説

・完全記憶能力
 超記憶症候群などとも呼ばれる。
 ウルウの場合、文字や会話などの言語情報は完全に記憶しており、また目と耳で見聞きした情報に関してはまず忘れることがない。嗅覚情報がそれに次ぎ、味覚はやや劣り、触覚はそこそこ忘れることもある。
 ただ、覚えていられるだけであって使いこなせるのとは別の話で、要は引き出しの容量が人と比べて多い程度だとウルウは考えている。キーワードを与えられればそれに付随する記憶は欠損なしで引き出せるが、思い出す切っ掛けもないことは普段出てこない。
 生まれた時から、と言っているが、実際ウルウの場合は幼児期健忘の影響がほぼない。

・礼拝堂
 祈りを捧げるための部屋。実は我々が想像するようないわゆる礼拝堂が存在する神殿は少ない。
 というのも、例えば風呂の神の神殿であれば浴場がそれであるし、鍛冶の神であれば鍛冶場、水の神であれば水場など、それぞれの神ごとに祈りの形は違うからだ。
 プルプラの神殿にいわゆる礼拝堂が存在するのは、ありとあらゆる境界、つまり万物の間を取り持つ神であるプルプラにはそう言った祈りの形さえも曖昧であること、そしてプルプラ本神の趣味であるという。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 妛原閠の異界考察

前回のあらすじ
総集編には早すぎるんじゃなかろうか。


「どうも、この異世界に飛ばされてきたのは私だけじゃないみたいなんだよね」

 

 より厳密に言うと、私だけじゃ()()()()というべきかな。

 

 最初に違和感を覚えたのは、ここが自分の住んでいた世界ではないのではないかと考えさせられた森の中でのこと。

 角猪(コルナプロ)鹿雉(セルボファザーノ)螺旋花(ヘリカ・フローロ)玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)、そういったどう考えてもここが元の世界ではないと断言できる不思議生物たち――()()()()、それ以外の見覚えのある生き物たちにこそ私は首をかしげたのだった。

 

 私は完全記憶能力を持っている、というのは言ったと思うが、具体的にこれがどういうものかと言えば、図鑑を読めばその内容はすべて覚えているし、子供のころ遠足で歩いた道端の草や花の一つ一つまで覚えているということである。

 

 何なら私はタンポポの花弁がいくつあるか、それぞれの個体ごとに記憶を参照して数えることだってできる。いや、そんな面倒なことはしないけどさ。

 

 何が言いたいかと言えば、そんな私の記憶の中にある植物が、つまり元の世界で確かに存在していた植物たちがこの世界にも存在しているということそれ自体が私に違和感を覚えさせたのである。

 もちろんそれらは完璧に同じというわけでは無かった。シダや針葉樹林、キノコやつる草、それらはこの世界の自然環境に適応していた。

 しかしそれでも松葉独活(アスパーゴ)はどう見ても白アスパラだったし、葶藶(アクヴォクレーソ)はクレソンだった。林檎(ポーモ)は品種改良が途上であるか、または途中で別の方向に舵を切ったリンゴそのものだった。

 

 それに極めつけは、()()だ。

 

 リリオに遭遇した瞬間、私は幸運に感謝する以上に困惑した。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 収斂進化という言葉がある。

 例えばモグラとショウケラの手の形が、同じく土を掘るという目的に適応した結果似たような形に進化したり、イルカと鮫が哺乳類と魚類という違いがありながら似たようなシルエットに落ち着いたり、つまりは環境に適応した結果、違う種の生き物であっても似たような形に落ち着くという進化の一つの形だ。

 

 私は異世界にあってそれを想定していた。例えば肌の色が違う、指の数が違う、つまりゴブリンやオーク程度のことは誤差の範囲内だと。

 それが実際に遭遇した相手は何だっただろうか。どんぴしゃりの人間()()()()だ。

 その後の観察でも、体を洗ってやる際の触診でも、私はリリオが人間そのものの構造であることを確認している。

 

 もっと元の世界とそっくりな世界であれば、並行世界の一つとして考えることもできた。しかしこの世界はあまりにも元の世界とかけ離れている。生態系も、物理と言っていいのかわからないが精霊や魔法、神霊をはじめとする法則も、隣人種というかけ離れた生き物たちも、何もかも。

 それなのに人間という種族は人間という種族のままだし、見知った植物や動物たちが平然と存在する。

 ヴォーストの街に辿り着いて、その造りを眺めて、私の疑問はより大きくなった。

 

 他種族が共存し、様々に異なる要素がある世界にしては、この世界の文明圏はあまりにも中世欧州に近いのではないか、と。

 

 あまりにも都合の良すぎる作りに対する仮説は、こうだった。

 私がこの世界に飛ばされてきたように、人類や動植物もまた、この世界に飛ばされてきたのではないか、と。そして、何者かの手によって()()されているのではないかと。

 

 この仮説は、この世界の神話とも噛み合った。

 

 風呂の神官バーノバーノが語り、そして私があとから書籍で確かめた神話にはこうある。

 

 この世界はもともと、永遠の海と浅瀬があるだけの、国津神たちが治める山椒魚人(プラオ)と海棲生物だけの世界だった。

 そんな中、ある日、天津神たちが虚空天を旅してやってきて、ここに住まわせてほしいと頼みこんだ。国津神たちは穏やかなばかりの日々に飽いていて、賑やかになることを喜んでこれを受け入れた。

 

 はじめに境界の神プルプラが、天津神たちを招くため虚空天に橋を架けた。

 

 プルプラに招かれて最初に橋を渡ってきたのは、火の神ヴィトラアルトゥロ。しかしヴィトラアルトゥロにとって海の世界は寒すぎた。この神は深き海の底、海底の更に下、太古の火の傍に潜り込んで暖をとった。巨大な神が潜り込んだ分、海底は大きく持ち上がって海の上に陸ができた。

 

 次にやってきたのは山の神ウヌオクルロだった。この神は盛り上がった陸地の数々を整え、繋げ、大陸と島々を作り、積み上げた山々の一つに腰を落ち着けた。またこの神が拵えた火山がひとつ、寒がりなヴィトラアルトゥロに与えられた。

 

 その次にやってきたのは森の神クレスカンタ・フンゴ。この神は海の上に生まれた陸地に身を沈め、種をまき、森を生んだ。この神と森たちが大きく息を吐くと、世界に濃い大気と木々が満ちた。今でも巨大な森の下にはこの神の四肢が埋まっているという。

 

 その後に風の神エテルナユヌーロが眷属を引き連れて舞い降り、気の向くままに旅をした。いまもこの神は空を巡り続け、どこにあるとも知れない。

 

 文明の神ケッタコッタは人族を率いて文明を築いたが、そのもたらす火が多くを焼いたため、従僕である人族の多くはそのひざ元を離れ、いまは極北で僅かな従僕の守りのもと、永き眠りについている。

 

 こうして数多くの天津神たちが来たり降り、各々の従僕を地に放ち、増やし、満たした。

 

 神話によればこの従僕というのが人間を始めとした隣人種達の祖先であるという。

 つまり、ほとんど全ての隣人種は、この世界で順当に進化してきた生き物ではなく、他所の世界から連れてこられたのだという。仮に虚空天というものを宇宙と訳すのならば、他の星系から連れてこられた生き物たちだともいえるだろう。

 

 そう、この世界に連れてこられたのは私が最初ではないのだ。この世界の黎明の頃に大規模な移殖があり、そして恐らくは、文化や、品々、そう言ったこまごまとした形でいまもその移殖は続いているのだ。

 

 そして決定的に私にこの世界と元の世界とのつながりを感じさせたのは、この世界の()()だった。

 自動翻訳で提供される言葉ではない。この世界の人々が使っている言葉であり、文字だ。

 

 私がいとも簡単にこの世界の文字を覚えられた理由は、単に記憶能力のためではない。

 この世界の文字に()()()があったからだ。

 

 かつて種族ごとに違う言葉を用いていたこの世界は、文明の神ケッタコッタの専横を打倒するために、それまでいがみ合っていた隣人種達を一つにつなげる必要があった。

 そしてその際に、神話によれば一柱の神が立ち上がり、ひとつなぎの言葉である交易共通語(リンガフランカ)を与えたとされる。

 

 三十二文字から成る()()()()()()()によって組み上げられる交易共通語(リンガフランカ)を与えた神の名は、こう伝えられている。

 

 言葉の神()()()()()()と。

 

 それは一八八〇年代に考案された、人工言語である。




用語解説

・境界の神プルプラ
 顔のない神。千の姿を持つもの。神々の主犯。八百万の愉快犯。
 非常に多芸な神で、また面白きを何よりも優先するという気質から、神話ではトリックスターのような役割を負うことが多い。何かあったら裏にプルプラがいることにしてしまえというくらい、神話に名前が登場する。
 縁結びの神としても崇められる他、他種族を結び付けた言葉の神はプルプラが姿を変えたものであるなど他の神々とのつながりが議論されることもある。
 過酷な環境と敵対的な魔獣などのために死亡率が高い辺境では、性別に関係なく子孫を残せるよう、プルプラの力で同性同士での子作りや男性の出産などが良く行われている。

・火の神ヴィトラアルトゥロ
 ガラスの巨人。灼熱の国より降り来たった神。プルプラに騙された犠牲者その一。
 遊びに誘われてやってきたら、彼からしたら極寒の惑星だった上、マントルに放り込まれて強制的にテラフォーミングに従事させられた。現在も寒すぎるので、ウヌオクルロが用意してくれた火山に引きこもっている。
 鉱石生命種囀石(バビルストノ)の祖神。
 火の神である他、宝石や鉱石など、土中に算出する鉱物類の神ともされる。

・山の神ウヌオクルロ
 プルプラの犠牲者その二。
 遊びに誘われてやってきたらベータ版以前の状態で、マップ製作からやらされる羽目になった苦労人。
 拗ねたヴィトラアルトゥロを何とか地表近くまで掘り起こして、引きこもれる家を用意してあげた。
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の祖神。また蟲獣達を連れてきたとされる。
 しばらく働く気はないようで、山々のどれかに腰を落ち着けているという。

・森の神クレスカンタ・フンゴ
 犠牲者その三だが、本神はまるで気にしていない。
 好き勝手やっていいという契約で、ウヌオクルロが耕した大地に降り来たり、植物相を広げてテラフォーミングをおおむね完成させた。
 不定形の虹色に蠢く粘菌とされ、人の踏み入れることのできない大樹海の奥地で眠りこけているという。
 森に住まう隣人種湿埃(フンゴリンゴ)の祖神。

・風の神エテルナユヌーロ
 大体仕上がった頃にやってきた神。翼の生えた若者の姿をしているとも、金色の風そのものであるともされる。
 非常に気ままで気まぐれで我が道を行くタイプで、空気が読めない。厄介ごとは大抵こいつが持ってくるか、拡大させるか。
 面白いことを優先するという気質はプルプラと同様であるが、尻拭いは一切しない。
 それでも疎まれないのは自分一人ではなくみんなで楽しもうという憎めないスタンスのおかげか。ただし相手の都合は考えない。
 天狗(ウルカ)の祖神であり、羽獣たちを連れてきたとされる。

・文明の神ケッタコッタ
 無数に分岐する体毛を全身に生やした、捻じれ狂った長大な筒のような姿をしているとされる。
 テラフォーミングを終えた後の世界の内、他の神から人気のなかったただの平地に腰を下ろし、従属種である人族を住まわせた。
 庇護する人族に文明を与え、善く導き、その勢力を拡大させた、というと善き神のように聞こえるが、その実態はいわば和マンチ。
 他の神々との盟約に反しない範囲で肩入れしまくって支配圏を広げ、ついにほかの神々の怒りを買い、それまで各神各種族毎に勢力を広げていた形を、人族VS他種族の構図に持ち込まれた。
 この戦争の際に、今まで割を食っていた被差別層の人族も離脱し、あちこちガタが来たところを連合軍にぼろくそにされた。
 敗北の代償として人族に注いだ有り余る加護を他の神々に簒奪され、その影響で現代の隣人種はみな人族と似通っているという。
 戦争後は極北の地にふて寝しており、追従者である僅かな人族たちが聖王国としてその寝床を守っている。

・言葉の神エスペラント
 人族の被差別層から立ち上がった人神であるとも、境界の神プルプラの権現のひとつであるともされる。
 それまで違う言葉、違う文化をもって相争っていた隣人種達に共通の言葉を与え、争うだけでなく分かり合う道を与えたとされる。

・エスペラント語
 一八八七年にユダヤ系ポーランド人ルドヴィコ・ラザーロ・ザメンホフとその協力者が国際語として考案・整備した人工言語、つまり自然発生的に生まれた言語ではなく、言語として作られた言語。
 「エスペラント」とはこの人工言語で「希望する人」を意味する。
 言葉の神エスペラントが登場した時代はこの言語の発明よりももっと以前のはずなのだが、どちらが先なのかは不明である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 妛原閠の神前談話・上

前回のあらすじ
妛原閠は考察する。この世界の真実を。


 つまり人類は滅亡する!

 な、なんだってー!

 

 という話ではなかったな。

 

 まあ実際のところ、だからどうしたという話でしかないんだよね、これ。

 よくある異世界テンプレに突っ込みいれてみましたみたいな無粋な話でしかない。

 強いていうならば、私がこの世界に来たのは、特に意味なんてない神様の気まぐれか、軽いテコ入れ程度でしかないという、それだけのお話に過ぎない。

 

 だからまあ、期待はしていなかったのだけれど。

 

「迷える子羊よ──焼き方はレアですか、ミディアムですか?」

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 不自然なほど人気のない礼拝堂で状況整理することしばし。

 一区切りついた実にタイミングの良いあたりで、その声は響いた。

 

「迷える子羊って言い回し、こっちにはなかった気がするけど」

「あら、そうでしたっけ。でもまあ、羊も人も大差ありませんわ」

 

 ()()はこの世界ではそれなりに見かける、柔らかな布を用いた神官服を身にまとった女性だった。恐らく女性だった。

 年の頃はよくわからない。若いと言えば幼さの残る少女のようにも見えるし、年経ていると言えば老獪な魔女のようにも思える。

 豊かな髪は鮮やかな金にも見えたし、艶やかな黒にも見えたし、年経た白髪にも見えた。角度により時間により色合いを変える何色とも形容しがたい深い色の瞳ははじめてお目にかかる。

 完全記憶能力者であるこの私ですら顔の形をうまく認識できないのに、笑っているということばかりは伝わる感情の読めないにこやかな微笑みは、人間としてこれ以上ない完璧さゆえにかえって非人間的ですらあった。

 

「まあ、それはそれとして、ようこそ()()へ、()()()()()

 

 瑞々しく若々しく、がらがらと涸れ果てた、或いはそのどちらとも言えない声に、極めて正確な発音で名乗ってもいない名前を呼ばれて、私は警戒が無意味であることを悟った。

 人間相手にはそうそう負ける気はしない。魔獣とやら相手にも今のところ負けなしだ。

 

 しかし、宇宙的恐怖を前にして私にできることなどありはしまい。

 これはもう目星など振るのは手遅れだな。時すでに時間切れ。楽しい楽しいSAN値チェックの時間だ。

 

「それで、なんでしたかしら。答え合わせがお望みかしら?」

「何の?」

「全ての」

 

 思わずため息が出る。ご親切な事だと思うべきか、それとも余程暇なのかと思うべきか。

 

「一応確認しておくけれど、あなたが、掛巻(かけまく)(かしこ)(さかへ)(あわひ)大神(おほかみ)でいいのかな」

「そんなに仰々しく他人行儀に呼ばれると悲しいわ」

「……プルプラ様」

「プルプラちゃんでもいいわよ」

 

 どこまでも軽薄な態度は友好的ととってもいいのかもしれない。

 それにつられて傾き過ぎて、深淵に落っこちるのははなはだごめんだが。

 

 ああ、なるほど。

 覗き込んだ深淵が見返してきているというのは、或いはこのような感覚なのかもしれない。

 

 やれやれ。少なくとも、これで相手が恐れ多くも神の名を名乗る狂人か、その恐れ多き神そのものであるかという最悪の二択に絞れた。どちらにしろこちらの正気度ががりがり削れそうだが。

 

「じゃあプルプラちゃん」

「あら、本当にそうお呼びになるのね」

「お願いだから私の心臓をこれ以上痛めつけないでやってくださいな」

「仕方ない子ね」

 

 ころころと笑う相手に頭痛がして目をつむりたくなるが、そうするともはや相手がどこに立っているのかすらわからなくなる恐怖に、それすらできない。

 こうしてしかと見つめていてさえ、相手が本当にそこにあるのか、それとも全てまやかしに過ぎないのか、確信が持てない。立っているのか。座っているのか。歩いているのか。近いのか、遠いのか。何もかもがうまく認識できない。

 

「これだけ参拝客が少ないから、暇潰しに私を招いたんですかね」

「それもある――と言いたいけれど、参拝客がいないわけではありませんわ。単にすこし()()()()いるから見えないだけ」

「そうまでしてくれたのは、説明責任を果たそうと?」

「責任? 私に()()()()()があるとでも?」

 

 まあ、ありはしないだろうさ。神様と人との間には、それだけの較差がある。

 それでも。

 

「責任はなくても、好意と暇はおありかな、と」

「賢い子は好きよ。でも賢過ぎる子は困るわ」

 

 程よく愚かなくらいがちょうどよい、と神は笑う。

 

「でもそうね、あなたが忘れてしまっているから、かわいそうに思って」

「忘れる? 私が?」

「ああ、そうね、そうだったわ。あなたは忘れることのない娘。だから、そう、これは最初から覚えることのできなかった出来事」

「覚えることが、できなかった?」

 

 私は生まれてからすべての出来事を覚えている。嫌なことも、苦しいことも、忘れたいことも。

 そんな私が覚えていることのできないものなど限られている。深い酩酊。深い睡眠。そして。

 

「誰しも死んでいる間のことは覚えていられないわ」

 

 脳がその役目を果たせない時。

 

 神の言葉に私は思い出す。脳ではなく魂に刻まれた物語を思い出す。

 

 ああ、そうだ。そうだった。

 あのとき私は、妛原閠は確かにその生涯を終えたのだった。

 

 ぐるり、と視点が裏返る。

 鮮烈な記憶に圧迫されて、意識が暗転する。

 あの日、あの時、あの瞬間が、私という存在を塗りつぶすように思い出されていく。

 

 

 

 

 ああ、そうだ、あれは、

 

 

 

 

 




用語解説

・プルプラちゃん
 境界の神プルプラは、他の神と比較するまでもなく対人露出が多い神であるとされる。
 それというのも他の神と違って決まった姿を持たないため、何かあったらこの神のせいにするパターンが多いのもあるし、実際にあまりにも気軽にホイホイ現れたりするからでもある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 妛原閠の神前談話・中

前回のあらすじ
出てきちゃった神様に困惑する閠。
そして閠はあの日のことを思い出すのだった。


 がたんがたんと、終電に揺られていた。

 がたんがたん、がたんがたん。

 どこまでも続く規則的な音色。レールの上を走る音色。

 変わることがないというのは不幸なのだろうか。或いは幸福なのだろうか。

 人生にレールを敷いてくれる誰かがいるのならば、ともすればこれほどの充足はないように思う。

 

 しかし現実としては、敷かれたレールなるものは言葉の上ですらあまりにも頼りない幻想にすぎない。飴細工で敷かれたレールの上を走り抜けるには、この世は苦みと不条理に満ち過ぎている。

 未来の予想がついても、未来の約束は誰もしてくれはしない。

 

 それでも。

 

 それでもそのレールから外れることは、それ以上におそろしい。

 

 最後に日付前に帰れたのはいつだったのか考えて、あまりにも不毛な記憶の羅列に頭を振った。正確な答えを出したいわけじゃない。出したところで意味などない。それで何が変わるというわけでもない。

 

 車窓から眺める景色は、眺めるともなく見つめる景色は、見つめるともなくただ網膜を流れていく景色は、ああ、今夜も変わりはしない。

 記憶を探ればきっと些細な違いが山と見つかる間違い探しができることだろうけれど、間違いだらけの日々で間違いを探すことを楽しめるほど私は人生というものが好きではなかった。

 

 何のために生きているのだろうという不毛な問いかけを、今日も私は鼻先で散らす。惰性で流されるように生きている人間に、そんな哲学的な問いかけは荷が勝ちすぎる。

 哲学を愛するには私の人生は空虚過ぎた。意味を求めるには儚過ぎた。四十二という答えに逃げることさえ、私には億劫だった。

 

 馴染みの車窓から目を離せば、予約席よろしくいつもの席に、似通った顔立ちが並んでいる。

 私でなくても細かな顔のつくりさえ覚えてしまいそうなほどの常連たちは、しかし目を逸らせばそれだけで印象の全てを曖昧にしてしまうほどに淡い。

 

 個性というものを、人間性というものを、薄っぺらに均されて、どこかで見たラベルを張られて、毎日大量出荷されていく人間ブロイラー。

 

 近づいてみれば確かに違うもののはずなのに、少し離れてしまえばモザイク画のそのひとかけらに過ぎないように、白波の一つ一つが違っても結局は水面の中に埋もれていくように、無限小と無限大とは無限大に繰り返し、やがては意味を消失していく。

 

 私たちは歯車というピクトグラムに過ぎない。

 どれだけ擦り減っても、どれだけ錆びついても、壊れて交換されるまで見向きもされない。壊れて交換されれば、それこそ思い出されもしない。

 

 私たちは挨拶を交わさない。

 私たちは視線を合わせない。

 私たちは同じ時間に同じ空間を共有しながら、どこまでも相容れない亡者たちだ。

 死に切ることもできず、生きていることもできない、触れれば存在の意味を問わずにはいられない力ない亡者たちだ。

 

 いつもの駅に辿り着き、いつものアナウンスを聞き流し、いつもの挙動で私は電車を降りる。

 普段と違う駅で降りてみようとか、このまま終着駅まで逃げてしまおうとか、そんなことさえ考えることができない、機械仕掛けの方がまだユーモアのある反射的な挙動。

 

 ぎこちなく手足を動かして、私の体は私の意思の通りに歩いていく。

 或いは機械的な私の行動を後追いするように私の心が行動を追認する。

 私の意思というものは私の肉体的反応と有意な価値的差異を持たないように思う。

 いっそ、機械になれたらいいのに。

 物思わぬ機械になれたらいいのに。

 ああ、でも今日日は随分人工知能も発達しているから、人間が逃げる先などないのかもしれない。

 

 栞糸を辿るようにコンビニエンスストアに辿り着き、経路案内に従うように棚の間を歩み、最適化された行動が最適化された品々を掴み、レジに並べる。

 愛想の死んだ店員が表情なく品々を読み上げる、その平坦な対応に安堵する。

 微笑みは要らない。

 さざなみが立てば、心は()()に荒れる。

 

 もう歩きたくないといつだって思っているのに、私の足取りは変わることなく家までたどり着いてしまう。

 鍵を取り出し、開錠し、帰宅し、靴を脱ぎ、そして死んでしまえたらいいのに、私は何事もなく施錠し、チェーンをかけ、ただいまの声もなければお帰りの声もない、どこまでも平坦で心無い闇に安堵する。

 その平坦さこそが私の心休まる我が家だった。

 

 スーツを脱ぎ、下着とブラウスを洗濯カゴに放り込み、そろそろ一週間分たまりそうなそれに、コインランドリーに行かねばならないことを思い出す。洗濯機を買ったほうが経済的だっただろうか。計算するには私の脳の処理能力は消耗し過ぎていた。

 

 なにとはなしに見つめた洗面台の姿見に映るくたびれた姿に、そろそろ買い替え時かと思い至って、思い至ってしまって、呆然と佇む。くもり気味の姿見に映るのは、取り替え不能な部品だった。

 

 ぎくりと背筋を伝う肌寒さに限られた時間というものを思い出し、私は裸の体を浴室に放り込む。

 

 随分使用した覚えのない浴槽がぽっかりと空虚に口を開ける横で、私は熱めのシャワーを浴びる。

 冷え切った体に熱が吹き込まれていく。

 冷え性気味の指先に熱がともっていく。

 それなのに肝心の内側はいつだってフラットなままだ。

 ああ、そうだ、浴槽を使用しない理由を思い出した。

 沈んで死んでしまわないようにだった。

 

 バスタオルで体を拭っている間に、どんどん私は冷えていく。

 体温は下がらない。

 でも私は冷えていく。

 いや、元から温度などないに等しいのだから、それは錯覚に過ぎないのだろうか。

 ドライヤーの騒々しい音が耳元でがなり立てても、私の心はまるで波立たない。

 頭の中をかき乱すような騒音が、いっそ本当に脳みそをシェイクして崩してしまえばいいのに。

 

 残念なことに何事もなく、私は寝巻に着替えて呼吸する。

 呼吸する。

 呼吸する。

 呼吸の仕方を忘れないように。

 錆びついたゼンマイを回すように、ぎしぎしと肺胞を膨らませる。

 

 コンビニで購入したゼリータイプの補助食品とブロックタイプの栄養食品、気休めのサプリメント、それに水道水。

 今日も豪華なディナータイムだ。

 五分とかからない合理的食事。

 使いもしないキッチンのシンクの前で立ったまま済ませて、ごみを袋にまとめて捨てる。

 乾いたシンクに落ちた水滴が、行く当てもなく溜まっている。

 

 ゲームにしか使わないPCを起動させ、けばけばしいアイコンをダブルクリック。

 《エンズビル・オンライン》が立ち上がる。

 ああ、でもメンテ明けか。

 アップデートが始まる。

 見つめればその分時間がかかるように思われる画面を、しかし他にすることもなく私は漫然と見つめる。

 私の人生はいつアップデートされるのだろうか。

 不具合がいくつも見つかるんです。

 なのにサポートセンターが見当たらない。

 ログアウトしようにも、接続を切ることが私にはできない。

 

 心療内科は環境を変えなければだめだという。

 私に環境を変える力がない以上、その環境から抜け出すほかにないのだけれども、私には抜け出した後の未来が見えない。

 辞めればいいと気軽に言われても、その先を保証するものは何もない。

 何もない。

 何もない。

 何もない。

 でもそれは今と何が変わらないのだろう。

 このまま擦り減っていくのと、何もない未来に切り替えるのと。

 

 そう思いながら私は運命のレールを切り替えることができない。

 乗り換える路線が見えていても、踏み出すことができない。

 ただ身を縮こまらせて、透明な嵐が過ぎ去るのを待っている。

 そんな日は来ないと知っていながら。

 

 漫然と生きている。

 ただただ生きている。

 それは死んでいることと何が違うのだろうか。

 死んでいないだけ。生きているけど、生きているだけ。

 何を見ても何も見えない。何を聞いても何も聞こえない。

 透明な地雷原を前に、一歩も進めないでいる。

 自縄自縛の籠の中で、ああ今日もまたって嘆いている。

 

 それは。そんなのは。そんな生き方は。

 

 幽霊と何が違うんだろう。

 

 苦しい。

 息ができない。

 呼吸の仕方が思い出せない。

 呼吸をしろと体が叫ぶ。

 もういいんだって心がぼやく。

 苦しい。

 ああ。

 苦しい。

 生きていたくないと思っていても、死にたくないって感じてる。

 目の奥がちかちかして、苦しさが込み上げてくる。

 

 呼吸を。

 呼吸をしろ。

 でも呼吸の仕方を思い出せない。

 息苦しくて、生き苦しくて、それならもうって、体の方が嫌がっている。

 生き辛くて、逝き辛くて、それならもうって、心の方も嫌がっている。

 

 それなら、もう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それなら、もう、わたしは、




用語解説

・運命のレール
 そうあるべき道筋。存在しないレール。
 列車の乗り換えには多大な犠牲が伴う。

・透明な嵐
 同調圧力。平均化しようとする力。普通であるということ。

・透明な地雷原
 目に見えないにもかかわらず、その存在を容認することを強いられる圧力。
 普通であるということ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 妛原閠の神前談話・下

前回のあらすじ

 呼 吸   を  。


()()()()()()()

 

 声に、私は我を取り戻す。

 勢い良く息を吸い込もうとして、或いは吐き出そうとして、そのどちらとも取れず混乱したまま何度か咳き込んで、私はようやく正しい呼吸を取り戻した。

 

「思い出したかしら」

「……ッ、は、あッ……はー……くー……ふー……死ぬ間際は、ね」

「あの後あなたは実際に死にましたわ。不健康な食生活と短い睡眠時間、ホルモンバランスの乱れその他諸々からくる……まあ、ざっくり言えば心臓発作が死因ということになるのかしら」

「まだ若いと思ってたんだけど」

「あら、死は老いも若きも等しく襲いますわ。あなたの場合不摂生が原因だけれど」

「社会に殺されたってことにしよう」

「生かされてもいたでしょうに」

「生かさず殺さずに失敗したなら、やっぱり殺されたんだよ」

 

 どうやら私は異世界転移ではなく、異世界転生組だったようだ。一回死んでるんだな。そりゃすっきりしてるわ。

 

「それで」

「それで?」

「死んでる間に、テンプレな異世界転生会話でもあったってわけかな」

「そうですわね。一応許可は取ったわ」

「許可」

「未練がないなら使わせてもらってもいいかしらって」

「よくそれで私はオーケー出したね」

「そしたら『たすけて』っていうものだから」

「それ多分許可出したんじゃなくて苦しんでただけでは」

「結果は同じですわ」

 

 まあ、神様相手に拒否などできまいよ。

 こうしてただ微笑んで佇んでいる姿を前にするだけで、正直吐き気が止まらないレベルの圧迫感を感じているからね。吐いたら殺されるかもって思うから吐かないだけで、すでに喉の奥がすっぱい。

 

 はー。しかし、まあ、本当に、そんな軽いノリで私は生まれ変わらされたようだな。

 

「まあ、未練がないのは確かだから、いいはいいんだけれど」

「いいんですのね」

「まあ、うん、そうかな」

 

 退職届も出してないし引継ぎも終えてないけど、今となってしまうと、なんだかもう、知ったことかと言いたいくらいだ。私が苦しかった時に助けてくれなかった連中がどうなろうと知ったことじゃない。なんてすっきり思えるかというとそうでもないのだけれど、正直しこりみたいなものもあるのだけれど、それでも。

 

「死んじゃった、んだもんなあ」

 

 幽霊みたいなものだ、なんて粋がってはいたけれど、本当に死んでしまったのだとなると、なんだか何もかもどうでもいい、とまではいかないけれど、考えるのが馬鹿らしいという位には思う。

 

 他に未練なんて思い当たるところはない。

 母は私を生んですぐに亡くなってしまったし、父も少し前に亡くなってしまった。父は他に身寄りもなかったし、母方の祖父母はまだ存命だけれど、そちらとも縁は切ってしまっている。

 

 しいて言うならば《エンズビル・オンライン》でちょくちょく絡みのあった《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》のメンバーに一言残しておきたかったけれど、まああのギルドも最近ログイン率が低下していたから、そこまで未練もない。

 

 ない、んだけれど。

 

「本当に私、なんにもなかったんだなあ」

 

 私という仮定された有機交流電燈の一つの青い照明は、結局のところ、あらゆる透明な幽霊たちと因果交流を結ぶこともなく、或いは結んだとしても表に出ないまま、ひかりが遺ることもなくその電燈自体も失われてしまって、今こうしてこんなところにあるのだなあ。

 

 涙が出るような悲しさがあったわけではない。心が張り裂けそうな辛さがあったわけでもない。

 ただどうしようもなくやるせないものがあって、それはつかみどころのない靄のように私の胸の中で漂っていて、温度のないそれを私は扱いかねていた。

 或いはそれをこそ未練とでも呼ぶのかもしれなかったけれど、いまやそれはどうすることもできないのだった。

 

「わたし、は」

「ええ」

「私は、必要とされてこの世界に来たの?」

「あなたは何と答えてほしいのかしら」

 

 神様の微笑みはどこまでも優しい。私が求めるのならばきっと、プルプラはどんな言葉でも与えてくれることだろう。

 だって、きっとこの神様にとって、私の存在などどうでもいいことなのだろうから。

 

「神様ってのは残酷だね」

「こんなにも優しくして差し上げてますのに」

「だからだよ」

 

 でも私にとってはその平坦さと冷淡さこそ心地よい。

 神ならぬこの身にはわからない理由が、きっとあるのだろう。それはこの世界にイベントを引き起こす一石なのかもしれないし、どうでもいい番外編のモブキャラクターとしての抜擢なのかもしれないし、或いは本当に意味なんてないただの気まぐれなのかもしれない。

 けれど神々のお遊びにしか過ぎないという、そのどこまでもどうでもいいという突き放した距離感こそが、好きに生きていいのだという免罪符のように思えてならなかった。

 

 好きに生きていい。それはどこまでも恐ろしい透明な嵐の中へ放り出されることでもあり、かつての私が何よりも怖れた籠の外の世界に他ならない。

 或いはこの神は、それに怯えておっかなびっくり歩む私を見て愉しんでいるのかもしれない。

 しかし今の私には幸いにも、かつての私にはないものがある。

 

「本人に言う気はないけれど」

「あら、なにかしら?」

「リリオに会わせてくれたことを感謝しています。それが神の思し召しならね」

「それが神々のはかりごとの一環だとしても?」

「あなたに悪意があるとしても、そうと知るまでは私にとって天祐だ」

「あなたは今を生きるのね。未来には興味がないのかしら」

「私にあるのは過去と今だけ。未来はリリオに任せるよ」

「随分と重きを他人に預けるのね」

「死者に未来はない。幽霊は幽霊らしく、生者の後をふらつくのがちょうどいいもの」

 

 果たしてその答えに神が満足したかどうかは定かではない。

 けれどプルプラはその平坦な笑みを最後まで変えることはなかった。

 

「あなたたちの紡ぐ物語に幸多からんことを」

 

 その言葉を最後に、恐らく、()()がずれた。

 あの謎多き神の姿は消え、代わりに訪れたのは礼拝堂を行き来する人々のさわめきだ。

 

 何度か瞬きを繰り返し、周囲を見回してみれば、あれだけ人気のなかった礼拝堂はいつの間にか多くの人たちが出入りしている。

 いや、プルプラの言葉通りならば、むしろ最初からこうであって、私だけが少しずれたところにいたのだろう。それが正常に戻っただけの話なのだ。

 

「…………私、神様と話しちゃったんだな」

 

 見てもいないもの、なんて風呂の神官との会話で言ったけれど、見たからには、信じる信じないどころの騒ぎではない。とはいえ、誰に言ったところでこんな経験信じてもらえないだろうけれど。

 

 プルプラの神殿を出て空を仰いでみた。

 随分長いこと話していたように思うけれどしかし日の傾きからして、ほんの数分も経っていないようにも思える。

 相変わらず布教に熱心な神官たちと、それをあしらう信者たちの声で神殿街は賑やかなものだし、人々はみな生気に満ち溢れて誰も死んだ目で歩いたりはしない。

 

 そして私も多分、もう死んだ目などしていないのではないかと思う。

 相変わらず未来なんてものは見えないし、生きている意味も分かりはしない。

 けれど少なくとも、私は神様からお墨付きをもらったのだ。神々からすればお前の人生に意味なんてないのだと。この世界は何でも受け入れるし、なんでも突き放す。それはとてもとても残酷で、優しいことだ。

 

 私は大きく息を吸い、大きく息を吐き、また大きく息を吸い、また大きく息を吐き、それからもう一度大きく息を吸い、もう一度大きく息を吐いた。

 

 大丈夫。私は今日も呼吸をしてる。

 この世界の片隅で、ちっぽけな塵芥に過ぎないかもしれないけど、でも、確かに生きて、息してる。

 胸を張って誇れるようなものは、何一つ持ち合わせていないかもしれない。

 

 けれど。

 それでも。

 だけれども。

 

 私は今日も、生きている。




用語解説

・私は今日も、生きている。
 死者と嘯きながらも、その心臓は確かに動いている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 白百合と亡霊のいない日・上

前回のあらすじ
私は今日も、生きている。


 地下水道での一件で剣を駄目にしてしまい、またもや代剣で過ごす日々が始まってしまいました。鎧も結構汚れてしまったので預けてしまい、かなり心もとない状態です。

 街中で剣を抜くようなことってまずないので大差ないと思うかもしれませんが、いざというときに頼りになる愛剣が腰にあるかどうかというのは、安心感一つとってもかなりの違いがあります。

 

 それにいつもと違う剣だと、重さが違うので重心の取り方に気を遣います。

 こうしてみると普通の金属の剣というものは、結構重いんですよ。

 大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻というものは、その名前こそ実に強そうですけれど、いえ実際に強い生き物ですし強い素材なんですけれど、金属と比べると格段に軽いんですよね。

 だからいつもの調子で歩こうとすると、金属の重みだけそちらに体が傾いてしまいかねません。

 

 金属より軽くて、金属より強くて、金属より手入れが楽というお手軽装備過ぎです。正直なところ甘やかされ過ぎてきたなと感じるほどに、大具足裾払(アルマアラネオ)の剣というものは優秀でした。

 唯一劣るところと言えば、重さが足りないので純粋に技と腕力がないと押し負ける所ですけれど、私は何分小柄で体重も軽いので、剣に振り回されないというのは助かります。

 

 剣が違うということの他に、鎧のあるなしというのも大きな不安要素です。

 革鎧と言えど鎧は鎧で、身につければ窮屈な所もありますし、重たいこともあります。しかしその窮屈さと重たさが、慣れてしまうと安心感につながります。

 その馴染みの窮屈さと重さから解放されてしまうと、それこそ裸にでもなってしまったような不安にさいなまされてしまいます。

 

 それに何しろ、私の鎧は飛竜の革でできた鎧です。それも希少な白い個体の革を使ってできたもので、強度もさることながら風精との親和性はまず市場に出る装備としてこれ以上はないもの、らしいです。トルンペートに聞いたところでは。

 

 飛竜革の鎧って辺境じゃわりと有り触れているのであまり気にしたことなかったんですけれど、これ北部でも結構希少で、帝国中央部とか南部の方とかになると金を積んでも買えない超高級品らしいです。驚きです。消耗品だと思ってました。

 

 まあでも、よく考えたら、それこそ騎兵の突撃槍とか振りかぶった三日月斧(バルディッシュ)の直撃でも喰らわないと致命傷いかないのって、持ってない側からしたら反則モノかもしれません。

 

 しかもこれ素の強度の話で、風精の護りも込みで考えると、矢避けの加護で遠距離攻撃利かないし、近接攻撃も風で威力落ちるし、普通の武器で相手しろっていうのちょっと無理がありますよね。

 

 そんな装備が消耗品扱いで、ちょくちょく壊しては怪我人出してる辺境人ってもしかして頭おかしいのではとトルンペートに相談してみたら、何を今更みたいな顔されました。

 竜というのは、それが最下等の飛竜であっても普通の人間では対処できない天災のようなものであって、それを相手にしようなんて考えて実践して現代まで脈々と受け継いでるというのはもはや正気の沙汰じゃないとのことです。

 

「まあでも、実際のところ飛竜鎧もそこまで万能じゃないわよ」

「かなり上等な物みたいですけど」

「上等は上等なんだけど、例えばあたしが着てもあんたが着た時ほど丈夫じゃないの」

「フムン?」

 

 どういうことかというと、飛竜の革だけでなく、魔獣の革というものは、装着者の魔力を食ってその真価を発揮するようで、魔力が全然ないものが飛竜鎧を着たところで、矢避けの加護は殆ど発動もできず、革の強度自体も目に見えるほど弱体化するそうです。それでも並の金属鎧並みではあるようですけれど。

 

「辺境人が強いのは、飛竜鎧だけじゃなくて、本人たちの素の能力が高いからよ。過酷な環境で、凶悪な外敵と、本当に長いこと戦い続けて磨かれてきた血筋なんだもの。魔力の濃度も質も量も、中央の連中なんかとはくらべものにもならないわ」

 

 トルンペートは少し寂しそうに笑いました。

 

「あたしも随分鍛えて、三等武装女中にまではなったわ。でも、技を磨いても、血が届かない。貴族の血は青い血だっていうけれど、辺境貴族の血は本当に格が違うのよ」

 

 それこそ、種族が違う位に。

 そう笑うトルンペートとの間には、なんだか見えない壁があるようでした。

 私は今までトルンペートに一度も喧嘩で勝ったことがありませんでした。

 でもそれは、力任せに暴れるだけの私を、トルンペートが全力の技で必死に抑え込んでくれていたからだったのかもしれません。

 

「だから正直、ヴォーストの街くらいだったら、あんたは何にも装備していないくらいでちょうどいいんじゃないかしら」

「そんなもの、でしょうか」

「そんなもの、よ」

 

 すこしは慣れた方がいいわよ、と見送られて、私からすれば頼りないことこの上ない装備でひとり街に出てみましたが、うーん、落ち着きません。

 

 ウルウには「私がアイアンクローかまして平然としてる頭蓋骨を破壊できる方法あるの?」とか言われますし、トルンペートには「御館様が心配してるのはあんたが怪我することじゃなくてあんたが怪我させることの方だと思う」とか真顔で言われますけれど、私こう見えても成人したてのか弱い女の子なんですけれどー。

 

 ぶー。

 

 まあでも、冒険屋やっていく以上、いつもいつでも同じ装備でいられるという保証はありませんし、平服でも問題なく依頼をこなせるくらいにならなければなりませんし、ここは不安を抑えて慣れていきましょう。

 

 メザーガだってパッと見、いかにも町人といった着こなしですけど、たとえ無手のところに全力で切りかかっても軽くいなされそうですし。

 というか、装備が十全でもいまだにメザーガに勝てる所を想像できないんですけどあの人なんなんですかね。

 

 トルンペートはまあ、取っ組み合いに持ち込めば力では勝っているのでごり押せそうですけど、そこまで近づかせてくれないのがつらいところですよね。あの女中服で平然と私のこといなすのずるくないですか。あんなにかわいい服なのに!

 

 ウルウに関してはもう、どうやったら勝てるのかいまいちわかりません。というかまず勝負になりません。一対一だとまず攻撃が当たりませんし、トルンペートと二人がかりで挑んだ時も、私とトルンペートがぶつかりそうだったからとかいう理由で一発当てられたくらいで、後はかすりもしません。

 しかもこれ、ウルウも鍛錬したいとかいうことで、酒杯に注いだ林檎酒(ポムヴィーノ)を一滴でもこぼしたら負けとかいう約束でやった上です。

 

 あれ。

 おかしいな。

 私辺境人頭おかしくないかとか思ってましたけど、私この中で最弱じゃないですか。

 装備込みでこれですよ。

 装備なしのいまの私ってなんなんですか。

 

 ちょっと自信なくなってきました。

 装備の頼りなさもあってもうぽっきり折れそうです。

 

 こうなったらもうやけ食いでもするしか……。

 

「おーやおやおや、《三輪百合(トリ・リリオイ)》のお嬢ちゃんじゃねえかい」

「今日は一人じゃねえか、ハブられたのかい、ええ?」

 

 おっと野良犬もとい冒険屋に絡まれました。

 これは境界の神プルプラの自信を取り戻せという思し召しですね。

 

 私は朗らかな気持ちでこぶしを握るのでした。




用語解説

・希少な白い個体
 飛竜は通常、橙色から赤色の体色をしているが、稀に白色個体が誕生する。
 白色個体は通常個体に比べて貧弱であるが、成竜になるまで成長することには、通常個体と比べて精霊との親和性が極めて高くなる傾向にある。これは弱い体を保護するために魔力や精霊の扱いに長けてくるからであると推測されている。
 このため、白色個体の皮革は強度ではやや劣るもののしなやかであり、魔力さえ注げば風精の護りによって通常個体の皮革以上の防御力を獲得する。
 当然、いくら辺境でも白色個体の皮革は消耗品扱いはできない。

三日月斧(バルディッシュ)
 非常に長大な斧の一種ともいえるし、ポールウェポンの一種ともいえる。
 構造的にはまさかりを縦に引き伸ばしたような形で、柄に対し三分の一ほどもある斧のような刃が取り付けられたもの。
 人間を両断できる破壊力があるとされる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合と亡霊のいない日・下

前回のあらすじ
野良犬が現れた。

ニア たたかう
   チェスト
   伊達男にする


「待て待て待て待て! 狂犬かお前は!」

「さすがに俺っちたちもそこまで馬鹿じゃねえって!」

 

 憂さ晴らしもとい降りかかる火の粉を払おうとしましたが、どうもそうではなかったようです。

 よくよく見ればつい先日伊達男にして帰して差し上げた冒険屋のお二人です。

 あの後神官に癒しの術でもかけてもらったのか無事復帰したようです。

 お顔を走る傷がそこはかとなく歴戦を思わせて男前ですね。

 

「あれだけしておいてしれっとしてる辺り辺境人が頭おかしいってのはマジだな」

「言い返せないんでそういうのやめてもらえますか」

「自覚があるならなおヤベえな」

 

 ぶー垂れる私に、長身の人族男性と小太りの人族男性の二人組の冒険屋は、首に下げた冒険屋証を見せながら自己紹介してくれました。

 

「さすがにあそこまでやられて力量がわからねえじゃねえよ。俺は鉄血冒険屋事務所のサーロ」

「同じく、俺っちはスケーロ。二人組のパーティで双剣(パロ・スパード)っていやぁちっとは聞こえた名だぜ」

「はあ、全然存じ上げません」

「だろうなあ」

「まあ嬢ちゃんは知らねえだろうさ」

 

 知らなくて当然という物言いにちょっとムッとすると、サーロと名乗った背の高い方の男性が手を振りました。

 

「いやいや、馬鹿にしてるんじゃねえよ。俺たちゃもっぱら賭博場で用心棒やってるからな。縄張りが違ぇんだから、そりゃ知らねえだろってことさ」

「でもお二人は私たちのことをご存知でしたよね」

「お嬢ちゃん、お前さんもうちょい自分たちの目立ちようを知った方がいいぜ」

 

 今度ははっきり鼻で笑われましたが、これには私もぐうの音も出ません。確かに私たちは、《三輪百合(トリ・リリオイ)》は、自分たちの評価というものをあまり気にしたことがなかったのです。事務所に所属しているという安心感からか、自分たちのパーティの評価というものを、すこしないがしろにし過ぎていたかもしれません。

 

「まあ、こう暑くちゃたまらねえ、氷菓でもつつきながら話そうや」

「私はお話しすることないんですけれど」

「そういけずなこと言うない。この前の詫びだと思ってよ」

 

 まあ、そう言われれば仕方がありません。決して氷菓につられてホイホイついていったわけではありません。

 

「誘った俺が言うのもなんだが、警戒心てもんがねえのか、お嬢ちゃん」

「その時はその時かな、と」

「辺境人てなあ胆が据わってやがるぜ」

 

 私たちは馴染みの氷菓屋の一席に腰を下ろして、削氷(ソメログラシオ)を注文しました。

 サーロさんは林檎(ポーモ)の蜜をかけたものを、スケーロさんは甘い煮豆をかけたものを、私はさっぱりとした柑橘の蜜をかけたものをそれぞれつつき、それぞれに頭痛に苦しめられました。

 

「それでなんでしたっけ。仕返しに来られたというわけじゃなさそうですけど」

「馬鹿言うねえ。不意打ち喰らったってんでもなし、てめえで仕掛けた喧嘩にてめえで負けたんだから、そりゃてめえの落ち度だろうがよ」

「鉄血の冒険屋にそんな根暗はいやしねえさ」

 

 フムン。

 あいすくりん頭痛にこめかみを抑えながらではありましたけれど、なかなかさっぱりとした気性の方々のようです。

 でもそうなるとますますわかりません。

 いったいどんな御用だというのでしょうか。

 

「まあ用っつうほどの用でもねえんだけどよ、たまたま見かけたんで、一つにゃこの前の詫びだよ、詫び」

「忠告のつもりで下らねえ喧嘩売っちまったからな。それで返り討ちってんだから世話ねえや」

「それにほらよ、お嬢ちゃん、この前地下水道に潜ったって言うじゃねえか」

「潜りましたねえ。楽しかったです」

「楽しかったと来るか。胆が太ぇや。そんで、そんときうちの若ぇのが世話になったって聞いてな」

「若ぇの……ああ、《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》の方々ですね」

「おう、詳しくは聞いてねえが、ずいぶん勉強させて貰ったって聞いてよ、その礼も兼ねてな」

 

 勉強……?

 正直バナナワニを一緒に鍋にして食べた以外の記憶がないのですけれど、さすがにそれを言ったらまずい気がします。いくら私でも地下水道で冒険した記憶が鍋以外ないというのがまずいというのはわかります。

 

「なんでもとんでもねえ大物を一刀両断したとか、まあいくらか盛ってるんだろうけどよ、えらい腕前だって感心してたぜ」

「あー、いえ、ハハハハ、それほどでもないですよぉ」

 

 あー、そっちか、そっちですよね、そりゃ。

 正直なところ雷精に魔力を与えまくって、途中で止められなくなって、あ、これやばいってなって、とにかく解放しなきゃってバナナワニに叩きつけただけなんですよね。当てられただけで褒めてあげたいくらいの酷い一撃でした。

 

「水道局に展示してあったあの骨、嬢ちゃんが叩っ切ったんだろ? すげえよなあ、分厚い頭蓋骨が真っ二つだったぜ」

「ああ、ありゃあ凄かったなあ。事務所の連中と冷やかしがてら見に行ったんだけどよ、はー、まあたまげたわ」

「俺たち双剣(パロ・スパード)はまず人間相手にしかしねえけどよ、それでも猛者集いの鉄血の連中が揃って唸る技前だったぜ。あれほどの大物、大将が地竜を狩ったとかいう与太話くらいしか聞いたことねえや」

「なにしろ、ありゃ一太刀だ。ありゃあ見事だった」

 

 褒め殺しです。

 褒め殺されています私。

 結構偶然と装備頼りだったので、褒められれば褒められるほど居心地が悪いです。

 しゃくじゃくと削氷(ソメログラシオ)を頂きながら、冷たさからくるものとは別の寒ささえ感じるような気がします。

 かといってここで謙遜したり否定したりするのも、《甘き鉄(チョコラーダフェーロ)》の方々を卑下するようで申し訳ないというかなんというか。

 

 むーん。

 

 あいすくりん頭痛にもあって眉根を寄せて唸っていると、お二人は匙を置いてじっとこちらに向き直りました。

 なんだろうと思って私も匙を置こうと思いましたけれどでも溶けるのももったいないしどうしようかな。

 

「いや、食いながらでいいぜ。ついでと思って聞いてくれりゃあいいんだ」

「はあ、では遠慮なく」

 

 しゃくりじゃくりと削氷(ソメログラシオ)をすくっては頬張るこの冷たさと甘さと、そして口の中でしゃらしゃらと溶けていく不思議な食感というものは全く夏の醍醐味です。

 

「単刀直入に言やあ、お嬢ちゃん、鉄血(うち)に来ねえか」

 

 またこの柑橘の蜜というのが、甘すぎず良いですね。あんまり甘すぎる蜜をかけると氷を食べているのか蜜を飲んでいるのかわからなくなる時がありますが、この爽やかな甘さはあくまでも氷に乗っかる形でうまく絡まってくれます。

 

「鉄血冒険屋事務所は力が売りの事務所だ。面子も腕自慢がそろってる。そりゃあ、最初は嬢ちゃんみたいな若い女じゃ舐められるかもしれねえが、鉄血は強さを重んじる。ちょいとひねってやりゃすぐに認められるさ」

 

 いえ、甘いものがだめというわけじゃないんです。むしろ甘ったるいのも大歓迎なんですけれど、暑気払いにはこのさっぱりとした感じが、ちょうどよいという話で。

 やはりどんなものでも、食べる時期や食べる状況でその美味しさというものは左右されると思うんですね。そして私の好みでいえば、今日このときこの場所では、やはりこのさっぱりとした味わいが良いということで。

 

「ついでと思ってとは言ったが、まったく聞かないでいいとは言ってねえんだが!?」

「き、聞いてますよぉ」

「じゃあ言ってみろい!」

「お代わりしていいって話でしたっけ」

「二杯でも三杯でもいいから少しは聞け!」

 

 怒られました。

 

 お代わりに、今度はスケーロさんが食べてた煮豆の奴を頼んでみましたが、これは成程、面白い味わいです。この煮豆が実に甘いんですけれど、そのどっしりした甘さが、氷のさらりとしたところにうまく絡んでくるんですね。冷えた煮豆を食べているのでもなし、甘い氷を食べているのでもなし、それらが同時に口の中に訪れるというのが、あ、はい、すみません。聞いてます。

 

 サーロさんが言うには、どうも私のことを引き抜きに来たというのが本当のところだったようです。

 

「いやまあ、運が良ければって程度なんだがな」

「事務所の間で話通してるわけでもねえ、まあ雑談程度って思ってくんな」

 

 引き抜きというのはよく聞く話ですけれど、これはあまり礼に適った話ではありません。事務所に所属する冒険屋を、その事務所を通さずに引き抜こうとするのは、事務所をないがしろにするようなもので、あまり褒められたものではありません。

 なのでお二人のお話も正式なものではなく、もしよかったら話を通すよという、そういう前段階でのお話ですね。

 

 はー、しかし驚きました。

 話には聞いていましたが、まさか私が引き抜きにあうとは。

 

「私のことを評価してくださるのは嬉しいんですけれど、お断りします」

「一応聞いとくが、何が気に食わねえ。何しろ大将があんたの一太刀に惚れ込んでるんだ。多少は融通利くぜ? お仲間も一緒がいいってんなら大歓迎だ」

「やっぱりうちって汗臭いイメージなのか? そんなことないぞ。そりゃ姐さんなんかはちょっとツンとするが」

「やめてやれスケーロ」

「鉄血さんのことに詳しいわけでもないですし、気に食わないってわけじゃないんです」

 

 そりゃあ、噂くらいは知ってます。

 害獣・魔獣退治を積極的に行っている実力者ぞろいの事務所で、ヴォーストの市場に卸される魔獣素材の結構な割合が鉄血冒険屋事務所のものであるとか。

 そう言った事務所ですから、きっと私が所属したら、いまみたいにドブさらいや迷子のおじいちゃん探しをしなくても、毎日のように冒険に浸れるかもしれません。それこそ、私が当初望んでいたように。

 

「でも、私はメザーガを頼って故郷を出てきて、メザーガもそんな私を受け入れてくれました。恩義があります。他所に移るにしても、独り立ちするにしても、まず恩に報いてからでなければ」

「恩義、か。いや、そりゃあそうだ。仁義の通らねえ奴を引き抜いたって続きやしねえし、仁義を通そうってやつを無理に引き抜くもんでもねえ」

「没義道なこと言っちまったな」

「いえ」

 

 それに。

 

 私は溶けた削氷(ソメログラシオ)のしゃらしゃらとしたところを飲み干しながら、脳裏に一人の姿を思い浮かべます。

 きっと彼女は、私がどこへ移ろうとついてきてくれるものと思います。それは自惚れではなく、単に彼女の行動指針として、そうなるだろうという予想にすぎませんけれど。約束を重んじる彼女が、私が()()あろうとしている内はきっと離れていくことはないだろうという姑息な考えですけれど。

 

 きっと、そんな彼女が望む世界は、鉄血冒険屋事務所では見ることができないと思うのです。

 いろんなものを、いろんなことを、この世界には数えきれないほどに美しいものがあるのだと、彼女に見せてあげたい。

 

 こんな時でも私はウルウのことばかりなのだなとなんだかおかしくなって、私は照れ隠しにもう一杯、削氷(ソメログラシオ)を頼むのでした。

 

「まだ食うのか!?」




用語解説

双剣(パロ・スパード)
 鉄血冒険屋事務所に所属する、サーロとスケーロの二人組のパーティ。
 名の通り剣の扱いになれており、もっぱら賭博場での用心棒の仕事についている。
 人間相手の加減は鉄血事務所でも随一で、単に剣術の腕前だけで言えば事務所一、二を争う。

・地竜
 空を飛ぶことはできないが、飛竜以上に体表が頑丈過ぎてまともに攻撃が通らない非常にタフな竜種。
 硬い、重い、遅いと三拍子そろっており、さらに外界に対してかなり鈍いので、下手をすると攻撃しても気づかれないでスルーされることさえある。
 問題は、一度進路を決めるとどこまでもまっすぐ進むため、進路上の障害物は城壁だろうと街だろうと何もかも破壊して進むことで、歩く災害と言っていい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 鉄砲百合と洗濯日和・上

前回のあらすじ
鉄血事務所の女性冒険屋はちょっと臭うらしい。


 ウルウがふらっと姿を消して、不安げな顔してうろうろしていたリリオを放り出して、さて、残されたあたしは何をするかというと、女中ってのは暇じゃないのだ。

 いまのあたしは冒険屋パーティの一人であって、リリオもあくまでも対等の相手だという風に扱ってくるけれど、それとこれとは別というか、あたし以外に生活能力のある人間がいないのだ、このパーティには。

 

 ウルウは教えれば大抵のことはそつなくこなすし、何しろ綺麗好きだから放置していても掃除や洗濯などもしてくれるのだけれど、何分感覚と意識とが死んでるので、最低限しかやらない。

 もしかしたらこいつどっかの牢獄で懲役でも喰らってその生活が当たり前になってるんじゃなかろうかという位、最低限度で満足しちゃう。

 リリオを綺麗に丸洗いしてくれたくらいだし、本人も毎日お風呂に入る相当な綺麗好きではあるんだけど、服の替えは最低限、部屋に置いてある私物は本だけ、それで不満というものを覚えたりしない、とまあ、やっぱりこいつ囚人生活で満足しそうな気がする。

 

 リリオはどうかというと、これは、もう、駄目ね。

 そりゃ、あちこち散らかしっぱなしで汚いってわけじゃない。物はきちんとしまうし、服も畳むし、ベッドメイクだってする。でも、そのどれもが中途半端なのだ。

 多少ずれててもよれてても気にしないし、洗濯物は大分たまるまで気にしない。しわだらけの服着て外に出ようとするときもあってあたしとしては気が気じゃない。

 

 甘やかしすぎたかしらって思うけど、でもあたしだって好きで甘やかしてるわけじゃない。ごめん。嘘ついた。好きで甘やかしてるわ。

 いやだってわかるでしょ?

 主人に仕える喜びというものを私は骨の髄まで刻み込まれているのだ。あー、つまり、その、なんていうのか、駄目な妹の面倒を見るこの優越感よ。わかる?

 

 あんまりダメ過ぎたらしかるけど、でも、着替えを手伝ったり、お風呂のお世話したり、ご飯の給仕したり、そういうのがあたしを満たしてくれるの。いくらか駄目なくらいがちょうどいいのよ。

 その点リリオって理想的な主ではあるわね。程々に駄目で、程々にできて。ウルウはその点ちょっと面倒の見甲斐がないわね。放っておいてもどうにかなるもの。

 

 まあ、いいわ。

 あたしはリリオを外に放り出した後、早速溜まった洗濯物を盥に放り込んで、縄に洗濯ばさみと洗濯の準備を整えた。

 

 メザーガ冒険屋事務所の建物は、もともと二階建ての集合住宅だったらしいわね。

 一階の、もともと大家が住んでた一番立派な部屋が、いわゆる事務所の執務室。メザーガが仕事してるとこでもあるし、お客さんが直接やってくる応接室も兼ねてるわ。

 一階には他に三部屋あって、一つはメザーガの部屋。一つはクナーボの部屋。そして一つは物置。

 二階には六部屋あって、あたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の部屋もここのひとつ。ちょっと狭いけど、ベッドを縦に二段並べるって荒業で何とか誤魔化してるわ。

 

 それから、一階の執務室とは反対側に食堂も兼ねた広間があって、奥に厨房。この厨房に勝手口があって、そこから中庭というか、洗濯場を兼ねた水場があるわね。

 水場よ水場。住まいの裏手に水場があるってのは素晴らしいわ。

 住宅街とかでも、精々一町かもう少しごとに井戸とか、公衆水場があるくらいのところを、ここは裏手に水道を引いているっていう贅沢さ。

 

 よくこんな好条件のところを買えたわよね。

 

 あたしは大盥を蛇口の下にもっていって、早速水栓をひねる。

 たったこれだけで水が出るっていうこのお手軽さがどれだけ便利な物かは、まあ言葉にするまでもないわね。

 圧力がどうとか気密がどうのとかウルウが変な顔してみてたけど、さしものあの唐変木でもこの水道の素晴らしさには感動したんでしょうね。

 まあ私にはどんな理屈で動いているのかはさっぱりだけど。

 

 しっかし、これがお屋敷にもあればねえ。

 

 辺境領って、水関係が貧弱なのよね、ここと比べると。

 もちろん、お屋敷の中に井戸が三つもあるし、水精晶(アクヴォクリスタロ)の貯えだってたっぷりある。水で困る事なんてそうそうない、って言いたいけど……でも、水道は引けないのよ。

 この水道管っていうやつをね、以前辺境領でも敷設できないかって色々試してみたみたいなんだけど、そりゃあ、土蜘蛛(ロンガクルルロ)の技術者たちの手にかかれば引くだけなら簡単だったわ。

 

 でも使えなかった。

 

 だって冬場、凍るんだもん。

 

 ヴォーストのある北部も大概寒いけど、辺境はその比じゃないわ。川も湖もみんな凍っちゃうし、井戸から汲んだ水だって、ただ汲み置きにしてたら水瓶の中で凍り付いちゃう。

 

 北部の水道管も、凍り付かないようにあっためる術式が彫ってあるらしいんだけど、それでも全然だめだったみたい。

 辺境の冬に耐える水道を引こうとしたら、それこそ雪溶かして使うほうが余程安上がりになるってくらい高くつくみたいで、御館様も諦めてたわね。

 

 この便利さに慣れちゃったら、辺境に帰った時が怖いわ、ほんと。

 

 そんなことを考えているうちに大盥に水も満ちて、あたしは洗濯物を選り分けながら盥に放り込み、靴と靴下を脱いで裾をまくる。そう言えば靴下、そろそろ冬に向けて厚手のものも用意しないと。

 

 くみたてでヒヤッと冷たい水に足を踏み入れ、あたしは踏み洗いを始める。

 中央の貴族様なんかには、主の着る衣服を踏んで洗うとは何事かって怒る人もいるみたいだけど、辺境ではまずそんなことは言わない。そりゃ手洗いした方がいいものもあるけど、労力と時間の無駄だって言われる。

 

 洗濯って言うのは、大きな水槽とか盥にみんなの分を放り込んで、女中たちみんなで交代しながら歌いながら踏み洗いするのが辺境のやり方だ。

 なんで交代しながらかって言うと霜焼けにならないためで、なんで歌いながらかって言うと調子をとって互いの足を踏まないようにするためと、声の調子で疲れた奴がすぐにわかるからよ。

 

 うちの事務所の場合、基本的にパーティごとで洗濯する。たまたま鉢合わせしたら一緒にすることもあるけど、基本的には洗濯もご飯もパーティ単位。

 これはメザーガの方針で、遠出した時、いつも他の連中に任せていたから洗濯の一つもできないってんじゃ話にならない、っていう理由らしい。

 これはパーティ内でも言えるから、《三輪百合(トリ・リリオイ)》はできる限り当番制にしている。あたしとしてはみんなのお世話を見たい、見させてほしいっていう位なんだけど、これ以上リリオがだめになったらどうするのってウルウにたしなめられたから仕方ない。

 

 さて、冷たい水にも足が馴染んできて、あたしは鼻歌を歌って調子をとりながら、ちゃぷちゃぷじゃぶじゃぶと洗濯物を踏んでいく。このとき大事なのは、汚れを取ろう取ろうと躍起になって、あんまり強く踏みしめちゃいけないってことだ。草原を気楽に散歩するくらいの調子でいい。

 それから、疲れても足を上げるのを止めないことだ。高く上げる必要はないけど、でも足元でちゃぷちゃぷやるだけじゃあ汚れは落ちない。

 

 石鹸は要らないのかって、前にウルウに言われたけど、そうね、ウルウやリリオは石鹸を使った方がいい。でもあたしはこれでも飛竜紋を許された辺境の三等女中。石鹸なんて要らないわ。

 

 あたしは足捌きで水精を呼び、手拍子で誘い、魔力を餌に気を引き付ける。

 

「【さあさあんたら寄っといで。茶渋に汚れに食べ残し、みんな余さず持っていけ。綺麗になったあかつきにゃ、駄賃の一つもやるからね】」

 

 力ある言葉で呼びかければ、盥の中の水に水精がこもって踊り出す。

 あたしが洗濯ものに足を下ろせば、ちゃぷちゃぷじゃぶじゃぶ、水が震えて染みついた汚れを落としだす。

 鼻歌歌って調子をとれば、水精も合わせて踊り出す。手拍子打てば弾みもする。踊るように足踏めば、すぐにも汚れが落ちていく。

 

 洗濯物がたくさんあるときはさすがにあたし一人じゃ魔力が持たないけど、パーティの分くらいなら、あたしの浄化の術でもきれいになるわ。

 

 リリオくらい魔力があって、精霊に好かれてるなら、幾らだってできるんだろうけど、あの子はちょっと不器用だから、こう言う術は不得手みたい。

 ウルウは精霊が見えるみたいだけど、ほら、あの娘頭でっかちじゃない。感性が死んでるから、精霊を触れても精霊と言葉を交わすのが苦手みたい。

 この間も、あたしが洗濯してるのを見て、水精をつまみ上げたりして見ながら、結局頭かかえて理屈がわからないってぼやいてたわね。

 なんでもウルウに言わせたら水精っていうのは魚みたいな外見で、洗濯物にどくたーふぃっしゅが群がってるみたい、らしいわ。相変わらずウルウの言うことはよくわかんないけど。

 

 あらかた汚れが落ちたら、今度は絞りながら水精に呼び掛けて、水の抜けをよくする。

 ただ手で絞るだけよりも、こうすると乾きが早いの。それに、手でぎゅうぎゅうと絞るより、しわが付きにくいわ。

 

 でもすっかり抜いてしまわないで、きちんと物干し台に縄を広げて、一つ一つ丁寧に干す。そうした方が洗濯物は綺麗に乾くし、変なにおいもしないのよね。

 ウルウは何て言ったかしら。お日様にあてるとサッキンがどうのとか。でもそうね、お日様の匂いがするってのは素晴らしいことだわ。

 雪続きの辺境領じゃあ、どうしても屋内で干すしかない日が続くから、魔術で洗濯ものを乾かす乾かし番がいたくらいだもの。

 

 そうして同じように何度か繰り返して、シーツまできっちり干し終えて、あたしはうんと一つ伸びをする。

 今日は全くいい洗濯日和だ。

 物干しに美しく並ぶ洗濯物の何と心地よいことか。

 我ながら素晴らしい仕事ぶりだわ。

 

 これはもうついでにお布団も洗濯してしまおうと思ってしまう位にあたしはこの洗濯の快感に酔っていたわ。ウルウやリリオには理解できないって顔されるんでしょうけど、こう、あれよ、軽い掃除をするつもりが、思ったよりきれいになってなんだか楽しくなって、ついつい普段やらないところまで掃除し始めるみたいな、あれよ。

 

 ともあれ、あたしは気づけば妙に高揚した気分のまま三人のベッドから布団をはいで、洗濯をし、水を吸ってクソ重くなったこれらを事務所の屋上まで運ぶという重労働をこなしてしまっていた。

 

 いまはそうして屋根に布団を干して、なにやっているんだろうと眩しい青空に目を細めているところだった。

 

「…………いや、綺麗になるんだからいいことなんだけどさ」

 

 いいことなんだけど、洗濯してる時のあたしはもう、誰が見ても怪しさ満点の笑顔だったと思う。疲れているんだろうか。

 しかし疲れていても横になるお布団はこうして干してしまっているのだ。迂闊。

 

 それにしてもこうして並べてみると、ウルウの布団の豪華さがよくわかる。

 装飾自体は派手なものではないけれど、触った感じ絹か何かでできているような滑らかな手触りだし、中身は羽毛なんだろうか、恐ろしくフカフカで、沈み込んだらそのまま意識を刈り取られそうな危険を感じる。

 

 こんな布団で寝ておきながら毎朝決まった時間にすっきり目覚められるというのは、もはや病気なのではないだろうかと少し心配になるくらいだ。

 

 ともあれ、あらかた掃除を終えてしまったから、後はどうしようか。

 あたしは屋根の上からぼんやりと街並みを眺めて、そしてふと感じた小腹の減りに、晩御飯の支度を思い出したのだった。

 

 そうだ、晩のご飯の買い出しに行かなけりゃ。

 

 




用語解説

・浄化の術
 実は浄化の術と一口に言っても、多種多様なやり方がある。
 今回の洗濯の時は水精に汚れを取らせているが、旅の最中には風の精霊も併用して、着たまま洗濯ということもできる。
 風呂の神官たちが風呂の水を浄化しているのは水精だけでなく神の力を借りているもので、その汚れがどこに行くのかはよくわかっていない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と洗濯日和・下

前回のあらすじ
洗濯するだけで一話を使うという贅沢こそ、ゴスリリの良いところであり悪いところである。


 処分しなければいけない材料や、今日の市場に上がるものを想像し、晩御飯の献立を組み上げながら、あたしは外出の準備を終えて、市へと向かう。

 ほどなくして辿り着いた市は、朝ほど騒々しくはないけれど、何しろ昼時だ。きっとウルウなら顔をしかめて嫌がる人ごみだ。リリオはこういう喧騒が好きだし、あたしも活気のある方が、ないよりはずっといい。

 

 客寄せの声や値切りの声を聞き流し、店先に並ぶ品々を眺めて、あたしは晩の献立と、そして今まさに感じているコバラヘリーをどうにかしなきゃと頭をひねった。

 

 松葉独活(アスパーゴ)はもう旬を過ぎて、育ち過ぎて硬くなったのが安くで並んでいる。悪くない。悪くないけど、でもなあ。

 

 キノコの類を見比べてみるけど、やっぱり旬にはちょっと早い。でも、もうすぐ訪れる短い秋には、キノコをたっぷり煮込んだ煮込み物(ストゥファージョ)もいいかもしれない。

 見れば橙色も鮮やかな杏茸(カンタレロ)が出ていたので、油漬けや干したりする分も考えて少し多めに買っておく。この杏茸(カンタレロ)というのは色もさることながら香りの方も、不思議と杏子(アブリコート)のような香りがして、まずなんにでも合うけど、特にお肉と炒めるのが美味しいかしら。

 

 それから、石茸(シュトノフンゴ)ももう出始めていて、これはちょっと悩んだわ。

 石みたいに硬く身のしまったこのキノコは、味はまあまあとして香りがもうたまらないのよね。ただ、やっぱりちょっとお高くて、そんなに気軽には使えないわね。もう少し待って値が下がるのを待った方がいいかしら。

 

 そうして暫くうろついているうちに、今日の献立を決める一品が目に入ったの。

 それはいけすの中でがちゃがちゃと鋏を揺らす、大きな躄蟹(ざりがに)だったわ。

 そう、夏と言えば躄蟹の季節よ。川でも取れるし、辺境でも湖なんかで採れたものをよく食べたもの。

 それにいけすを覗いてみたら、ただの躄蟹じゃなかったわ。

 殻の色も青々と鮮やかな、七甲躄蟹(セプコロラカンクーロ)だったのよ。

 

 七甲躄蟹(セプコロラカンクーロ)っていうのは躄蟹(ザリガニ)の中でも大型のものなんだけれど、生きている時は紫から青色の殻をしていて、お湯で茹でると緑色に変わって、それから黄色、そして段々橙色に、もっと高温の油で揚げると鮮やかな赤色に変わるっていう面白い生き物で、御祝い事の時に、七匹をそれぞれ七種類の温度で色づけて、その殻を並べて飾りにしたりもするのよ。

 

 見た目が華やかなだけでなく、味もまず、間違いない美味しさね。

 大きいから大味なんじゃないかって言うとそんなことはなくて、むしろ下手な海老や蟹なんかよりもずっと味が濃くて、茹で躄蟹(カンクーロ)を並べるだけで、みんなもう無言で殻をむき続けることになること間違いなしね。

 

 ああ、それに酒蒸しなんかもいいわね。以前貰った西の方の、なんていったかしら、(リーゾ)とかいう穀物で作ったお酒で魚を蒸してみたら本当においしくて、きっと、七甲躄蟹(セプコロラカンクーロ)も美味しく仕上がるに違いないわ。

 

 ああ、それに揚げ物も忘れちゃいけないわね!

 殻が丈夫なのは躄蟹の類は一緒だけど、でも高温の油でカラッと揚げると、この殻もばりばり歯応えよく食べられるのよ。特に頭の部分は、とろっとした濃い味わいの味噌が詰まってるから、これを殻ごとバリバリやって、そしてお酒をちょいと……んー、たまんないわね!

 

 大きめの革袋に水と一緒に三匹……いえ、六匹詰めてもらって、がちゃつくこいつを《自在蔵(ポスタープロ)》に放り込む。ちょっと容量が危ないかも。こういう時ウルウがいると、あいつの《自在蔵(ポスタープロ)》容量がとんでもないから助かるんだけど。

 

 さって、晩のご飯はこいつに決まったから、あとはどこかで昼ご飯をさっと済ませたいところね。あんまりたっぷり食べると動けなくなっちゃうから、小腹を満たすくらいでいいのよ。

 あー、辺境基準で。そこは嘘つかないわ。

 

 市を歩いて、串焼きや汁物、団子や揚げ物といった飯屋の屋台を覗いてみるけど、こういう時に限ってあたしのお腹はなかなか食べたいものを見つけてくれない。贅沢だとは思うけど、でも選択肢が多いってことは悩んでいいってことなのよ。むしろ悩まなきゃ損よ。

 

 なんて思いながら吟味しているうちに、屋台も少なくなって、あたしはいよいよ焦り始めた。ここからまた引き返して屋台を探し直すっていうのもなんだか()()()()()()し、かといってこのまま進んで仕方なしに適当な屋台で食べるってのは、妥協するみたいで気に食わない。

 でもいいところが見つからなきゃ、市を抜けて商店街の飯屋で腰を落ち着けてがっつり食べることになっちゃう。そうしたら、満足するのは確かでも、お腹が満たされて動く気にならなくなってしまう。それはちょっと、粋じゃないわね。

 

 さてどうしたもんかとあたしは腕を組んだ。

 お腹の方は早くしてくれと騒ぐけど、焦ったっていいことはない。落ち着かなきゃ。あたしはただお腹が減ってるだけなんだから。

 

 さっきの躄蟹(カンクーロ)売り、茹で躄蟹(カンクーロ)も売ってたからいっそあれをお昼にしちゃうのも、いやでも夜の楽しみが、そんなことを考えながら歩いて、そしてあたしは自分の敏感さを恨んだ。

 もっと考えに没頭出来ていたら気付かずに済んだのにと恨んだ。

 

 でもまあ、仕方がないか。気づいちゃったものは仕方がない。

 あたしはいかにもといった強面の男に路地裏へと引きずられていく子供を見つけてしまい、その後をつけたのだった。

 こういう事に半端にかかわるのは良くないことだとは思う。ただそれでも最低限何かしらしようと思ったのは、その問題の子供が、以前ウルウが放免してやった掏摸の子供だったからだった。

 一度面倒を見たなら最後まで面倒を見るべきだというのが、あたしのやり方だった。何しろリリオがいろんな生き物を拾ってきては結局御館様が面倒を見る羽目になるという悲惨な光景を何度も見てきたのだ。あたし自身のことも含めて。

 

 もしこれが、またも掏摸を働いて露見し、被害者にぶん殴られているとかそう言った光景であれば、やり過ぎないように程々のところで止めてやるつもりだった。もしかしたらあの強面は親御さんで、しつけでもしようというのならそれは部外者があんまり口を出すべきことでもないとは考えていた。

 でも、どうやらそのどちらでもないみたいだった。

 

「おいステーロぉ。おかしいんじゃあねえかァ、おい」

「…………」

「おかしいんじゃねえかっつってんだろうがよォ!」

「…………ッ」

「先月も今月も、まるで上りを持って来やしねえ。どこに溜め込んでやがる!」

「や、やめたんでさ」

「あア!?」

「掏摸は、掏摸はもう、やめたんでさ、あにさん、許してつかあさい」

 

 これにはあたしもちょっと目を丸くした。

 強面も目を丸くしてたけど、あたしはその比じゃないだろう。

 そりゃ、ウルウが目こぼししてやって、財布もくれてやって、でもそれで改心するなら世の中もっときれいになっているもんでしょ。普通はそれで反省なんてしない。悪事がばれた奴は、次はもっとうまくやるようにってこずるくなるものよ。

 掏摸の常習犯が、すっぱり掏摸やめるってのは、これは生半な事じゃないわ。

 

「やめたァ? お前が掏摸やめたって?」

「へ、へえ」

「馬鹿言うんじゃねえ、お前、ステーロよ、お前、それでどうやって稼ぐってんだ」

「い、市の屋台の、皿集めやら、ごみ捨てやらで」

「それで何の足しになるってえんだ、エ!?」

 

 屋台で客に渡してる取り皿や串なんかは、安いは安いけどただじゃあない。けど客もいちいち返しに来るのは面倒だから、捨てちゃうことも多い。

 そこを浮浪児や乞食なんかが回収して、店に返しに行くと、それと引き換えに小銭をくれる。串やら小皿やらなんてささやかなものだけれど、でもそのおかげで道端にゴミがあふれることもないし、浮浪児が生きていく目もできる。

 でもそれはそれだけのことで、これだけ育った子供が生きていく上で、確かに足しにはならないでしょうね。悪党の元締めに上がりを渡さなけりゃいけないってんならなおさら。

 

「ステーロよォ。みなしごのおめえを拾ってやったのは誰だ、エ?」

「こ、コブロの親父さんです」

「ステーロよォ。なんにもできねえおめえに掏摸を仕込んでやったなぁ、誰だ、エ?」

「は、ハブオのあにさんです」

「それをよ、それをよォ! えェ!? 恩義も忘れてトチ狂いやがって! てめえにいくらかかったと思ってやがんだ! てめえにゃまだまだ稼いでもらわにゃ元が取れねえんだよ!」

「ゆ、許してつかあさい! 許してつかあさい!」

「やかましい!」

 

 躊躇なく子供に拳を振るうハブオとかいう男は、しかしこういう事にて慣れているらしく、呼吸を整えて、いやらしく笑った。

 

「ステーロ、ステーロ。俺もお前が憎くって言ってるわけじゃあねえんだ。わかるだろ?」

「へ、へえ……」

「第一、掏摸しかできねえお前に他でどうやって稼ぐってんだ。金が要る。だろ?」

「う、うぐ……」

「それに……弟分たちがいるだろう」

「!?」

「まだちみっこくて、ろくに芸もねえ連中だけどよぉ……兄貴分のおめえの稼ぎが悪いってんなら、なあ?」

「や、やめてくれ! チビ達に手を出すのだきゃあ……!」

「ならわかるだろうがよォ! あア!?」

「ひっ……!」

「おめえの掏摸は親父も随分褒めて下すってるんだ……あんまりがっかりさせてくれんなよ、え?」

「う、うう……」

 

 なんだかなあ。

 なんだかこういうの、芝居でよく見るわよねえ。

 孤児に芸を仕込んで悪事をさせて、恩義をかさに金を搾って、子供を人質に脅して縛って、はー、まあここまでお約束通りな悪党ってのもまず見ないわね。

 

 これで放っておけっていうのは、まあ、ウルウじゃないけど、ちょいと後味が悪い。

 

「ねえ、ちょっとあんた」

「あア!? なんだてめけふっ」

「あんたじゃないわよ」

 

 ハブオとかいう三下の首を握って血の筋を止めてやり、数秒で意識を手放した無駄にでかい体を蹴り飛ばし、あたしは呆然と見上げる小僧を見下ろす。

 

「あー……」

 

 見下ろして、どうしようか考える。

 助けてやろうとは思うけれど、あたしはウルウじゃないから、助けるにも理由が要るんだ。

 

「あ、あの……?」

「あんたさ、屋台の皿拾いしてるんなら、屋台詳しい?」

「へ?」

「屋台よ屋台」

「へ、へえ、そりゃ、まあ」

「あんた、どこが一等美味しそうだと思う?」

「は、はあ?」

「あたしいま小腹が減って死にそうなんだけど、どれか決めかねて死ぬとこだったの。もしいいところを教えてくれるんなら」

 

 どれだけ下らないものでも、形ばかりのものでも、そう、まあ、理由ってのがいるのよ。

 

「あんたの悩みも一つ、解決してあげるわよ」




用語解説

杏茸(カンタレロ)
 オレンジ色をした茸。名前の通り杏のような香りがする。肉と一緒に炒めると美味しい。

杏子(アブリコート)
 恐らくアンズとほぼほぼ同じ果物であろう。

石茸(シュトノフンゴ)
 いわゆるポルチーニ茸とかセップ茸とか呼ばれるキノコの仲間だろう。
 非常に硬く締まった身をしており、独特の芳香を放つ。

七甲躄蟹(セプコロラカンクーロ)
 躄蟹の一種で、生きている時は紫色から青色、加熱する温度が上がるにつれて緑、黄、橙、赤と変色していく特性があるが、これは殻に起こる純粋な熱化学反応であって、内側の味に影響はない。

(リーゾ)
 西方では、この穀物を粉に挽かずそのまま煮炊きして食べる外、酒などの材料にもするという。
 イネ科のコメだと思われるが、どの程度品種改良が進んでいるのかは北部では知られていない。

・はんかくさい
 北部~辺境の方言で、「みっともない」を意味する。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 異界考察

前回のあらすじ
結局トルンペートも人のことは言えないのであった。


 結局あれから、この世界のこととか、神様のこととか、私自身のこととか、ぼんやりと考えるともなしに考えながら散歩して、帰ってきたころにはすっかり日が暮れていた。

 

「ただいま」

「あ、おかえりなさい」

「トルンペートは?」

「張り切ってご飯作ってます」

「そう」

 

 私のあげた《コンバット・ジャージ》をきてベッドでごろごろしているリリオに声をかけて、私もベッドに腰を下ろす。

 

「……うん?」

 

 いつもふかふかの《鳰の沈み布団》だけれど、今日はなんだかいつもよりふかふかする気がする。

 

「あ、トルンペートがお布団干してくれてたみたいですよ」

「ああ、今日、晴れてたからか」

 

 ありがたいことだ。綺麗好きとは言っても布団を干すのはなかなか面倒で、前の世界でも万年床になりかけていたようなものだ。

 今度当番の時は私が干してあげようか。

 

「はー、ウルウ、ウルウ、凄いですよ」

「なにが」

 

 二段ベッドの上の段で、新聞らしきものを読んでいたリリオが、記事を読みあげる。

 

「『日刊ヴォースト』の号外なんですけど、なんでも孤児を使って掏摸をさせていた盗賊団の元締めが、幹部連中と一緒に簀巻きにされて、衛兵の詰所の前に放り出されていたっていうんですよ」

「ほーん」

「なんか罪状を事細かに書いた紙が、他の悪事の証拠と一緒に縛り付けられてたみたいで、今捜査でてんやわんやみたいです」

「そう言えば帰ってくるとき、なんか騒がしかった気がする」

 

 いつもより衛兵が多くいるなあとは思ったけど、ちょっと考え事にどっぷりつかっていたからあまり意識していなかった。

 

「しかもその元締めっていうのが、盗賊改方を任ぜられた百人隊長だったみたいで、衛兵の腐敗じゃないかって叩かれまくってるみたいですね」

「いろいろ知らない単語が出てきた」

 

 聞けば、そもそも衛兵というものは警察機構としても機能しており、五人で一班、十人で一組、百人で一隊とざっくり括られているそうだ。

 百人隊長というのは文字通り下に百人の部下を抱える士官のようなもので、担当する役職の範囲内で兵を動かす権限を持っているそうだ。

 で、盗賊改方というのはその役職の中でも盗賊の類を扱う役職で、本来なら掏摸や強盗、空き巣などそう言った犯罪者を相手にするところなのだが、今回とっつかまった盗賊の元締めとかいうのがその盗賊改方本人だったらしい。

 おぬしも悪よのう、とかやってるタイプだったんだろうか。

 

 自動翻訳がクッソ適当なのか、和用語と洋用語が入り混じってて混乱するが、まあざっくりわかっておけばいいだろう。

 

「しかし、下に百人も部下がいるのにそんなあっさり捕まるんだね」

「まあ、別に百人全員相手にするわけじゃないですし、全員悪事の片棒担いでたわけじゃないでしょうしねえ」

 

 まあ、そりゃそうか。

 本人と幹部数名だっけ。くつろいでいるところを襲われたなら護衛とかもいたんだろうけど、それでも十名ちょっとかな。

 百人隊長とは言え、「長たるもの従える部下百人より弱いわけがない」とかいう竜騎将理論はさしものファンタジー世界でも持ってこないだろうし、そのくらいなら私でもできそうだな。

 というか《隠蓑(クローキング)》使えば楽勝か。

 

「ウルウを基準にしたら大概のことは楽勝だと思うんですけど」

「衛兵の十数人くらいならリリオでもどうにかなるんじゃないの」

「あのですね、一応衛兵って、訓練された兵士であってですね」

「辺境人より?」

「ゴリラと人間で腕相撲して負けるわけないでしょう!」

「やーいゴリラ」

「むがー!」

 

 まあ実際のところ、街で見かける衛兵は確かに普通の町人なんかは軽く押さえつけられるくらいには強そうだ。でもリリオが真正面から組み合ったらまず負ける要素はない。で、何人でかかろうとも、一度に攻撃できるのは数人くらいだから、結局一対一を繰り返すだけと大して変わらず、阿呆かと思うほどのスタミナの持ち主であるリリオは止められまい。

 

 トルンペートだともっと簡単だと思う。レベルもあるけど、トルンペートって《暗殺者(アサシン)》よりの技能職だから、忍び込んで黙らせて気絶させて、っていう風にスニーキングミッションするだけで終わると思う。私が《技能(スキル)》でやっていることを、純粋に技術だけでやるからね、あの娘。

 

 まあそんなのは私が見たことのある衛兵基準に考えているからであって、実際にはピンキリだと思うけど。

 

「ご飯できたわよー」

「あ、はーい」

「今日は何かな」

七甲躄蟹(セプコロラカンクーロ)の酒蒸しと丸揚げ」

「なにそれ」

「まず見てみなさいよ」

 

 トルンペートの声にいそいそと食堂に向かうリリオの後に続きながら、私は少し考える。

 

 今日一日この世界のことを考えた。元の世界のことを考えた。私自身のことを考えた。

 でも結局のところ、じゃあこの世界って何だろう、私にとってなんなんだろうって考えた時、その答えは()()だと思う。

 

 それは言葉にしづらくて、形にしづらくて、説明しづらいものだけれど、でもきっと、()()だと思う。()()なんだと思う。

 

 私にとって、()()こそが異世界の物語なんだと、そんな風に思うのだった。




用語解説

・『日刊ヴォースト』
 ヴォーストの街で刊行されている新聞。
 毎朝一部発行されるほか、号外などを出す。
 この新聞が活版印刷によるものなのか魔術的によるものなのかは作者もまだ決めていないゾ。

・衛兵
 スタァァァァップ!とやるお仕事と思ってまず間違いない。
 外壁に勤めるもの、門に勤めるもの、市内を警邏するものなど、所属が異なるが、街中で見かける衛兵的なものは大体衛兵。
 一応公務員。

・百人隊長
 ざっくり百人程度を率いる上級兵士、或いは士官。
 盗賊改方、火付改方、門衛方、見廻方、街壁方など役職を与えられ、その職分において兵を動かす権限を持つ。

・盗賊改方
 衛兵の内、特に盗賊や強盗といった犯罪者を相手にする部署。またその長官である百人隊長。

・竜騎将理論
 部下を率いるものがその部下たちより弱いわけがなかろうという滅茶苦茶な理論。だが格好いい。

・ゴリラ
 この世界にもゴリラがいるらしい。
 正確にはゴリーロと呼ばれるが、ここでは煩雑さを避けるために馴染みある名としてゴリラと表記した。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五章 ファントム・ペイン
第一話 亡霊と天狗弓士


前回のあらすじ
自分なりに異世界での生活に折り合いをつけ始めたウルウ。
一方、何やら大ごとを起こしながらも黙っているトルンペートであった。


 リリオの装備がすっかり直り、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》がベテランのペットトリマーの風格さえ見せ始めたころ、風はいくらか冷たさを帯び、短い夏は終わり秋が訪れようとしていた。

 手慣れた老人介護士の風格さえ見せはじめた私たちは、相変わらず地味でスリルのない仕事をだらだらとこなしては、体が錆びつきそうだとぼやくリリオと鍛錬して(あそんで)やる日々を送っていた。

 

 そんなプロ清掃人張りにどぶさらいに慣れた私たちに舞い込んだ依頼は、いかにも秋らしいものであった。

 

「キノコ狩り、ですか?」

「そうです。君たちも暇してるんじゃないかと思いまして、遠出がてらいつもやらない依頼をやってみるのもいいんじゃないかと思いましてね」

 

 朗らかに笑いながらそんな提案を持ってきたのは、メザーガ冒険屋事務所の先輩である、パフィストという天狗(ウルカ)の男性だった。

 

 天狗(ウルカ)というのは、土蜘蛛(ロンガクルルロ)が人と蜘蛛の合いの子だとすれば、鳥と人との中間のような種族だった。

 

 にっこりと芸能人張りに綺麗な歯を見せるように笑うのだが、よく見ればあれは歯ではなく、ひとつながりの嘴が歯のような形をとっているものであるらしい。

 

 最初は派手な袖だと思っていた羽飾りは、あれは腕から生えている本当の羽であり、熊木菟(ウルソストリゴ)などの羽獣に見られる風切羽の名残のようなものであるらしい。

 手先はそれこそ鳥の足のように鱗に覆われ、五本の指は人のように器用に動くが、爪は鋭くいくらか恐ろしくもある。というか羽があってかつ五本指ということは、実際には六本とか七本とかもっと指が多い生態だったんだろうか。

 

 同じく鱗に覆われた足元も特徴的で、木の枝などを掴みやすいようにか前に三趾、人間でいう踵側に二趾の指があり、この指を使いやすいようにするためか、洒落た靴には靴底というものが存在せず、歩く時にはかちゃりかちゃりと鋭い爪が音を立てる。

 

 土蜘蛛(ロンガクルルロ)と比べるとまだ人間に近いシルエットではあるけれど、顔つき、特に目元がかなり特徴的で、少し違和感がある。というのも彼ら天狗(ウルカ)は虹彩がやや大きめで白目の部分が少なく、普通の人間と同じようなつもりで目を合わせるとすこしぎょっとする。

 また、よく見ると瞬きの時の挙動が面白い。瞼を閉じると、それに合わせてその奥にもう一枚、透明な瞼があって、それが縦ではなく横方向にスライドするのだ。これはおそらく鳥類が持つ瞬膜と呼ばれるものだろう。

 

 ああ、もちろん、いくら私でも不躾に真正面からまじまじと観察なんかしたりしない。《隠蓑(クローキング)》で隠れてるときにたまたま見かけた際、ちょっと気になって観察しただけだ。

 それも十分失礼な気もするけど。

 

 このパフィストという天狗(ウルカ)は、髪や飾り羽こそ落ち着いた灰色だったが、自分の整った顔を自覚しているし、服装も気を遣えば振る舞いも洗練された伊達男だった。《一の盾(ウヌ・シィルド)》の面子がよく言えば質実、悪く言えば粗野な所もある中で、一人だけ小奇麗なので印象に残っていた。

 

「生まれの氏族が質素を旨としていたからでしょうかねえ、反動で着飾るのが楽しくって」

 

 本人もそう語る通り、パフィストはこの事務所で一番の洒落ものだ。

 

 とはいえ、天狗(ウルカ)全体でみると、パフィストの生まれ氏族である森賢(イヒトヨ)が特別物静かで質素なだけであって、他の氏族は大体、着飾ることや、歌い踊ることを好む賑やかな種族らしい。

 ただ、種族を通してある一点だけは共通しているらしい。

 

「なんというか、基本的に上から目線なんですよね、天狗(ウルカ)って。僕みたいな森を抜けて里で暮らしてる里天狗(ウルカ)はそう言うの嫌いで抜けてきたっていうのが多いですねえ」

 

 神話に残るレベルで、天狗(ウルカ)というのは高慢であるらしい。

 あらかたテラフォーミングが整ってからやってきた種族である彼らは、全ての支度を他の連中が済ませたということで、他の種族を自分たちが心地よく暮らすために働いた露払いとでも思っているところがあるらしい。

 年寄り連中ほどそういう意識が強いらしく、若者たちはそこまでではないにしても、やはり高慢なところがあるそうだ。

 

「そう言うのが嫌だから抜けてきたとはいえ、僕もそういうところがないとは言えませんしね」

 

 自覚があるだけマシだとは思うが、しかし無自覚に慇懃無礼なこと言ったり、自分は違うんですよアピールがあるのは確かだと思う。短い付き合いだが、その程度のことが感じられるくらいには私も成長したのだ。

 

 で、なんだっけ。

 

「そろそろ季節ですもんねえ。()()でもよく行ってましたし、悪くないですね」

「あんた毒キノコでも平気で食べるからこっちは気が気じゃないわよ」

「慣れますよ」

「普通は慣れないわよ」

 

 ああ、そうそう、キノコ狩りだったか。

 

「でもこの時期は食用キノコ狩り、毒キノコ狩り、害獣駆除の依頼が結構出るから、森は混むって聞きましたけど」

 

 キノコの時期ともなればジビエの時期でもあるし、狩人ももちろん仕事の時期だろうけれど、手広く仕事する冒険屋たちが張り切るのも確かだろう。あんまり他のパーティとはち合うようなことが多いと、獲物も取り合いになるし、面倒が起きそうで嫌だな。

 

「ご安心を。天狗(ウルカ)の知り合いから穴場を聞いていまして、そこは他の冒険屋たちにも知られていないから邪魔はされないそうですよ」

「その分害獣も多いんじゃ?」

「その方が楽しめるかと」

 

 リリオがにっこりと微笑み、トルンペートが頭を抱えた。

 私としては多少の害獣程度はどうにでもなるけど、リリオの血の気が多いのは困ったものだ。

 

 とはいえ。

 

「リリオもたまには運動しないと、錆びつくだろうし」

「ウルウが賛成してくれるなんて!」

「たまには格好いい所見せてもらわないと、最近だらけてるし」

「ぐへえ」

「では皆さん参加ということでよろしいですね。詳細は後でまとめますので、出かける準備だけお願いします」

 

 パフィストは丁寧な口調でそう微笑んで、足取りも美しく去っていった。

 私はキノコ狩りやら害獣狩りの作法を知らないので、準備はリリオとトルンペートに任せるとして、のんびりインベントリの内部を整理することにした。

 

 ああいう胡散臭い男の言うことは、信用しないことにしているんだ。




用語解説

天狗(ウルカ)
 隣人種の一つ。風の神エテルナユーロの従属種。
 翼は名残が腕に残るだけだが、風精との親和性が非常に高く、その力を借りて空を飛ぶことができる。
 人間によく似ているが、鳥のような特徴を持つ。卵生。
 氏族によって形態や生態は異なる。
 共通して高慢である。

森賢(イヒトヨ)
 天狗(ウルカ)の氏族の一つ。フクロウのような特徴を持つ氏族で、天狗(ウルカ)の中では例外的に物静かで質素。哲学を好み、学のないものを見下す傾向にある。
 種族特性としてほぼ完全な暗視を持ち、また熊木菟(ウルソストリゴ)のように周囲の音を殺すことができる。

・里天狗(ウルカ)
 このような言い方は里土蜘蛛(ロンガクルルロ)など他の隣人種にも見られるが、つまり山や森など元々の住処を離れて、人族の作る街を棲み処とするものを特にさしていう言葉。
 元々の住処での生活が肌に合わなかった変わり者であったり、特別社交的であったりする。
 ただ、若者は割と他の種族との交流が盛んなので、最近はあまり珍しくもない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 鉄砲百合と迷わずの森

前回のあらすじ
胡散臭い男パフィストに誘われ、キノコ狩りに参加することになった《三輪百合(トリ・リリオイ)》。
すでにして怪しい。


 キノコ狩りに必要なものとして用意したのは、背負い籠に、手袋、あとはリリオが毒キノコを食べた時のために毒消しと吐き薬。そのくらいのものだった。

 なにしろあたしもリリオも元々、森や山での活動を前提にした装備だ。それにいまさら改めて装備を揃えようったって、新しいものは早々すぐには体に馴染まない。

 ウルウに関してはもう、何も考えないことにしたわ。こいつが無理な環境というものを考えるのは時間の無駄よ。

 

 さて。

 野外でも相変わらず洒落た着こなしのパフィストさんの案内で、朝早いうちからあたしたちはヴォーストの街を出て、竜尾山のふもとに広がる森を目指した。と言っても、あたしたちが目指すのは、以前鉄砲魚(サジタリフィーソ)鉄砲瓜(エクスプロディククモ)を相手にしたあたりじゃない。

 

 森と一口に言っても、それはさまざまに分かれるわ。

 街を出てすぐの、農民たちが薪を拾ったり木を伐ったりする、疎らなあたり。

 狩人たちが獲物を追いかけて潜る、獣たちの住む森。

 冒険屋たちが挑む深い深い森の奥。

 

 私たちが連れられて行ったのは、その深い深い森の奥の中でも、人の立ち入った痕跡が少ない未踏の森だった。

 

「…………あの、パフィストさん。これ大丈夫な奴ですか?」

「え? 僕ら割とこういうところばっかりだったんですけど……」

「《一の盾(ウヌ・シィルド)》が怖れられるわけですよそりゃ」

「なに、心配することはありませんよ。なにしろこの森の名は『迷わずの森』ですからね」

「それは安心です」

 

 リリオとパフィストさんが暢気に話している後に続いて、あたしたちも踏み均されていない森をゆっくりと進んでいく。

 成程、人の手が全然入っていないだけあって、森の幸がゴロゴロと見当たるわね。少し歩いただけであちらこちらに茸が生えているのが見える。

 

 まあ、見える、けども。

 

「リリオ、あんた基準で採るんじゃないわよ」

「えー。慣れれば大丈夫ですって」

「人間はそういう風にできてないわよ」

 

 リリオって毒キノコに昔から慣らされ過ぎて感覚がマヒしてるとこあるのよね。 取り敢えず口に入れるっていう赤ん坊みたいなやり方なのよ。よく今まで生きてこれたわよね。

 まあ、おかげで普通のキノコと毒キノコの見分け方に関してはこれ以上信用できる奴はいないわね。だってどっちかわかんないときは齧って判断できるんだもの、こいつ。

 

「あ、これ毒です」

「ぺっしなさいぺっ!」

 

 だからといって安心できるわけでは決してないけど。

 

 あたしたちはパフィストさんの先導で森を進み、リリオの嗅覚でキノコを見分け、あたしと二人で手分けして採取した。その間ウルウが何もしないかというとそういうことはなくて、ウルウはウルウでひっそりとついてきながら、周囲の気配を探って危険がないかどうか見張ってくれてる。

 リリオはともかく、あたしも気配には敏感な方だけど、ウルウは物陰にいてもまるで見えているかのように正確に気配を掴む。生き物である限りは文字通り見えるだなんてうそぶいていたけれど、姿を消したりするあの怪しげなまじないの類なのかもしれない。

 

 ウルウはそうして気配を探ってくれるけれど、でも対処はしてくれない。獣が近くにいたりすれば教えてくれるけれど、それを追い払ったり倒したりはリリオかあたしに任せる。ウルウのよくわからないいつものこだわりだ。でも、リリオの成長を思えばその方がいいのかもしれない。

 ウルウが何でもかんでも対処して守ってあげていたんじゃ、リリオもあたしも本当に錆びついちゃう。

 

 ああ、でも、そうして倒した獲物はきっちり《自在蔵(ポスタープロ)》にしまってくれるから、甘いのか甘くないのか。

 

 ある程度森の奥まで来ると、頭上からの日の光はほとんど入ってこなくなって、まるで洞窟にでも潜ったように暗くなる。森賢(イヒトヨ)のパフィストさんは種族柄暗視持ちで平気みたいだけど、リリオはそろそろ見えなくなってきたし、あたしもすこしつらい。

 これ以上暗くなる前とまずいなと思っていると、ウルウがまた例のあの眼鏡を取り出してきた。なんて言ったっけ。

 

「これは闇を見通す眼鏡。君が内なる闇に抗おうとする限り、」

「知性の眼鏡だっけ」

「……君が内なる闇に抗おうとする限り、力を貸してくれるだろう」

「あ、最後までやるんだ」

 

 ともあれ、あたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は揃いの赤渕眼鏡をかけて、無事暗視を得た。

 

「…………ふーむ、こうしてみると、眼鏡というものも装飾具として見直すべきかもしれませんね」

 

 なにやらパフィストさんは感心したようにそんなことを言うけれど、でも、眼鏡も高いから難しいかもしれない。あ、いや、高いのはレンズだから、ただの硝子板だったらそこまで高くならないのかしら。

 

「伊達眼鏡だね」

「ダテメガネ?」

「目が悪くない人が、ファッション目的でかける眼鏡。度が入ってないんだ」

 

 ウルウのいたところでは割と普通だったらしい。こっちでも売れるかもしれない、とは思うけれど、生憎と硝子職人に伝手はない。まあ、そういう商売はガラでもないし、いいんだけど。

 

 そんな風にお喋りしながら作業できたのは最初の内だけで、奥に行くにつれてウルウが不機嫌そうというか、黙りこくることが多くなった。いつも黙っていると言えばそうなんだけれど、しょっちゅう首を傾げたり、周囲を見回すことが多くなって、落ち着きがない。

 

「ウルウ、どうしました?」

「…………わからない」

「わからない?」

「《ばいたるせんさあ》に反応があるのに、姿が見えない。気配はあるけど、実体がない」

 

 何のことかしら。

 あたしは小首を傾げてあたりを見回してみるけど、これといって目立つ気配はない。

 

「……?」

 

 いや、違う。気配はある。でも、それはどこかにあるという明確な物じゃない。霧か何かのように、あたり一面に気配が漂ってる。徐々に気配が濃くなっていったから、気づかなかっただけだ。まるで人ごみのように気配に満ちているのに、音もしなければ息遣いもない。影の一つも見えやしない。

 

 あたしが警戒してナイフを抜くころには、リリオはすでに臨戦態勢だった。ウルウの言葉に敏感に反応して、そして何よりリリオ自身の直観が危険を訴えたんだ。

 

「ああ、大丈夫ですよ」

 

 その中で一人、パフィストさんだけが伊達男ぶりを崩しもせず、暢気ともいえる朗らかな微笑みを浮かべている。けぶるような霧の向こうで、笑顔が、霧? 霧なんていつの間に、ああ、でも、確かに霧が、霧が出てる。足元にたまるように、濃い霧が、どんどん、ひろがって、

 

「ええ、大丈夫。死にはしませんよ。多分ね」

 

 めのまえが、くらく、なっ

 

「この森は迷わずの森。どんな阿呆でも迷わずに逃げ出す森なんですよ」

 

 あ

 

 

 




用語解説

・《迷わずの森》
 どんな阿呆でも迷わずに逃げ出す森、略して迷わずの森。
 甘き声(ドルチャ・コンソーロ)と呼ばれる魔獣が巣食う。
 死亡率が高く、冒険屋もまず近づかない危険地域である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 亡霊と五里霧中

前回のあらすじ
パフィストにはめられ、危機に陥る《三輪百合(トリ・リリオイ)》。
これはいったい……?


 やられた。

 

 そう思った時にはすでに手遅れだった。

 いや、もっと前、《生体感知(バイタル・センサー)》を使用した視界が薄い生命反応で靄のように阻害され始めたころにはもう手遅れだったのだろう。

 

 邪魔にしかならない《生体感知(バイタル・センサー)》を切った今も、すでに森には濃い靄のようなものが漂い、穏やかなだけの森から姿を変え始めている。

 まずいな。というのは、私の完全記憶でも、常に動き続ける靄の中で正確に景色を記憶するのは困難だということだ。視界を妨げられていては、こんな能力はさして役に立たない。

 《生体感知(バイタル・センサー)》で木々の形を捉えて地形を推し量ろうにも、この靄自体が生命反応を発しているせいでどうあがいても視界が遮られてしまう。

 

 私はこの能力に関して説明したことはないから、副次効果というか、たまたま私に不利な状況に持ち込まれてしまったのだろうが、まったく、高幸運値(ラック)もこういう時は役に立たないな。

 

 私は《四式防毒面》という、毒ガスや瘴気などの環境効果を無効化するガスマスクのようなアイテムを念のために装備することにした。見た目が露骨に怪しくなるが、生体反応のある靄なんて怪し過ぎて対策しないと不安で仕方がない。

 

 さらに《隠蓑(クローキング)》を使用して姿を隠し、私はまず真っ先にパフィストの姿を探した。

 リリオは大抵の事では死なない生命力(バイタリティ)があるし、毒や麻痺にも耐性があるから、少しの間は大丈夫だ。トルンペートは少し不安だが、彼女は賢い。自分である程度は対処できるだろう。

 問題は、今回の件を仕込んだであろうパフィストの身柄だ。

 何が目的かはわからないけど、ろくでもないことに違いない。

 

 視界は遮られてしまったけれど、幸いこの体は他の感覚にも優れている。

 気配を辿ればすぐにやつの所在など、

 

「簡単に見つけられるとか、考えてません?」

 

 背後からの声に、ぎくりと身体が硬直する。

 反射的に体を見下ろすが、《隠蓑(クローキング)》は確かに働いている。パーティとしては認識していない奴に、私の姿が見えるわけがない。

 

「本当に姿が見えなくなるんですね。驚きだ。でも、あなたが気配で周囲を探れるように、僕ができないとどうして思ったんです」

 

 まずい、と思う間もなく、するりと絡みついた腕が私の首筋を圧迫する。

 

「見えなくったってわかるものですよ。風の動き、気配の在り方、『ない』という存在感。元々の能力の高さを過信して、人を甘く見過ぎましたね」

 

 振り払おうと暴れるが、巧みな体さばきで全ていなされる。いくら力強さ(ストレングス)は鍛えていないとはいえ、レベル九十九のプレイヤーの腕力を平然と抑え込むその技量には舌を巻く。しかも見えていないにもかかわらずだ。

 

「何か、顔につけていますね。これで防いでいるのか。ガルディストから妙な魔道具を持っているとは聞いていましたけど、おかげでこちらも対策できましたよっと」

 

 《四式防毒面》をむしり取られ、湿った外気が直接肺に入り込む。奇妙な冷たさに、ぞわりと背筋が震える。

 ただの空気ではない。あの奇妙な靄が、鼻を、口を通して私の中に入り込んでくる。

 

「安心してください。死にはしませんよ。多分ですけど」

 

 ぎりぎりと締め上げられ、血管が圧迫され、意識が遠のいていく。

 苦しくなり、あえいだ瞬間に腕を離され、思わず胸いっぱいに息を吸い込み、そしてそれが致命打だった。

 

 瞼の裏の闇が七色に染まり、私の意識はぐるりと暗転した。

 

 

 

 目が覚めた時、すでにパフィストの姿はなかった。

 

 慌てて立ち上がると、ぐらりと視界が揺れる。気持ちが悪い。吐き気がする。

 まるでひどく酔った時のように、頭の中が揺れに揺れて落ち着かない。

 

 周囲を見回してみれば、相変わらず靄が立ち込め、視界を遮る。

 痛む頭を押さえて気配を探ってみるが、パフィストの気配だけでなく、リリオとトルンペートの気配もない。ここにはもういないのか、それとも気配を隠しているのか。

 そもそも気配って何だと苛立ちとともに毒づくが、そのようにしか形容の出来ないものだから私には他に説明のしようがない。

 

 奪われた《四式防毒面》を探すが、見当たらない。さすがに回収されたか。

 もともと《暗殺者(アサシン)》系統は毒への耐性が高いが、それでも常にこの靄にさらされていて大丈夫かどうかは自身が持てない。

 いや、すでに大丈夫じゃないのか。

 わからない。

 この頭痛は締め上げられたせいか、それともこの靄のせいか。

 わからない。

 わからない。

 わからない。

 

「くそ……リリオを……探さないと……」

 

 そうだ。

 探さなければならない。

 探さなければならない、けど。

 

「どう、やって……」

 

 森の中で一人取り残されて、私は途方に暮れる外になかった。




用語解説

・《四式防毒面》
 ゲームアイテム。ガスマスクのような外見をした装備。
 これを装備すると、そのエリアに侵入すると影響を受ける毒ガス、睡眠ガス、笑気ガス、瘴気といった環境効果を無効化できる。装備枠を一つ使ってしまうが、環境効果を無効化できるスキルは少なく、これらの環境効果のあるエリアは難易度が高い。
『この防毒面は開発までに多くの犠牲者を出した。もう少し早く鼠での実験に思い至ればよかったんだがなあ』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合と白兎

前回のあらすじ
甘く見ていたパフィストに完全に無力化され、一人取り残されたウルウ。
いったいこの森は何なのか。


 パフィストさんに連れられてやってきた《迷わずの森》は、暖かく日の差す穏やかな森でした。

 柔らかく花々は咲き誇り、楽しげに鳥たちが歌い、爽やかに風が通り抜け、或いは楽園というものはこういうものなのかと思わせる具合でした。

 

 問題はみんなとはぐれて絶賛私一人でそんな森の中を彷徨っているという現状ですけれど。

 

「うーん。困りました。迷わずじゃないんですかここ。迷いまくってるんですけれど」

 

 何しろどちらから来たかさえ分かりませんから、どちらに進んだものかもわかりません。

 取り敢えずどこかに進めばどこかには辿り着くだろうという思いで歩き続けていますけれど、今のところどこにも辿り着いていないので、どこにもむかえないままです。

 

 森を歩くのは慣れていますしさほど苦でもないのですけれど、はぐれてしまったというのが困ります。パフィストさんがいれば道案内してもらえたでしょうし、トルンペートがいれば何かアドバイスをくれたに違いありませんでしたし、ウルウがいればきっと心の支えになったことでしょう。

 

 しかし現状、私の傍には誰一人としていないまま、独り言を言ったり鼻歌を歌いながら歩くばかりでちょっと気が滅入ります。

 何が怖いって一人で森を突破してしまうのが怖いですよね。熟練冒険屋のパフィストさんも、昔から私を探し慣れているトルンペートも、なんだかんだ私を見つけてくれるウルウも、放っておいても私のことを見つけてくれそうな気はしますけれど、逆に私は他の誰であっても見つける自信がありません。そういうの得意じゃないんですよね。

 

 最悪、道々の木々を根こそぎ切り倒しながら進んでいけば自然破壊に気付いてみんなが駆けつけてくれるかもしれないということに気付きましたけれど、さすがの私もいきなりそんな破壊活動にいそしんだりはしません。いよいよというときの手段として取っておきましょう。

 

 獣避けも兼ねて鼻歌を歌いながら進んでいくと、不意に白い影が私の行く先にまろび出ました。

 

「……うさぎさん?」

 

 それは確かに白い兎でした。少なくともそのように見えました。

 ふわふわと柔らかそうな毛に、丸っこい体つき。ひょろりと長いお耳。まず兎とみて間違いないでしょう。

 愛らしい姿に私は思わず頬がほころぶのを感じました。

 

 そう言えばそろそろ小腹が空いてきました。

 丸っこい姿に私は思わず頬がほころぶのを感じました。

 

 愛でてよし。食べてよし。兎というものは素晴らしい生き物です。

 取り敢えず愛でてから食べようと私が兎に近寄ると、兎はその分ぴょんこぴょんこと跳ねては遠ざかってしまいます。

 むむ、と私が立ち止まると、兎も立ち止まって私を見上げます。

 

 ぴゅーぴゅーと下手な口笛など吹いてよそ見をしてから、おもむろにとびかかってみても、兎は平気でぴょいんと跳ねて避けてしまいます。

 

「………おちょくってます?」

 

 もちろん言葉が通じるわけもなく、兎は口元をもぐもぐさせながら見上げてくるばかりです。しかしなんだかその平然とした態度が私を小ばかにしているようにも思えて、ちょっとムッとします。

 こうなれば私も負けていられません。

 

 私は追いかけ、兎は逃げ出し、森の中の追いかけっこが始まりました。

 

 私は何しろ体力には自信がありますし、どれだけ走り回っても疲れたりしないという自負があります。それに足だって私の方が長いですし、何より兎と違ってこちらは知恵ある人族なのです。

 すぐにも捕まえて見せましょう。

 そう思っていたころがありました。

 

 しかし実際のところはどうだったかというと、ぴょんぴょんと足元を跳ねまわる兎に私の手はかすりもせず、捕まえようと前かがみになっては足元を潜り抜けられ、あえなく転倒。木々の間をすり抜けていく兎に対して、私はあちこち体をぶつけてすぐにすり傷だらけになってしまいました。

 

 考えてみれば私、まともに狩りに成功した試しがありませんでした。

 巣穴を狙って兎百舌(レポロラニオ)を捕まえたり、罠を張って鼠鴨(ソヴァジャラート)を捕まえたりはできましたけれど、野生動物を追いかけて捕まえたこと、ありません。

 こっちに向かってくる害獣なんかは倒せばそれで済みますけど、こちらから逃げていく相手を捕まえるのはこれほど難しいことなのですね。

 精々玻璃蜆(ヴィトラ・コルビコロ)を捕まえるのが私の限度だったようなのです。

 

「むーがー!」

 

 しかしここで諦めるなど辺境武人(あずまもののふ)の恥です。いえ、辺境でなくても多分これ恥ですけど。兎におちょくられる冒険屋って。

 ともあれ、ここでなんとしても捕まえて汚名を返上したいところです。

 

 私は何しろ不器用ですから、こうなれば根競べです。兎相手に根競べというのも情けない話ですけれど、私の取り柄と言えば疲れ知らずの体力くらいのものです。兎の体はあんなに小さいことですし、体力勝負で負けるということはまずないでしょう。

 

 私は当初の仲間と合流するという目的もすっかり忘れて、そうして兎との追いかけっこに没頭していくのでした。

 そう、何もかも忘れて。

 忘れてしまって。

 

 




用語解説

辺境武人(あずまもののふ)
 勇者(クラーガ)とも。辺境では勇気あるものが尊ばれ、力あるものが正しい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 鉄砲百合と凍てついた森

前回のあらすじ
一体リリオはどこにいるというのか。
前後の脈絡がぶった切られた森の中を彷徨うのだった。


 寒い。

 とにかく寒かった。

 

 ふらつく頭を押さえて、リリオとウルウの姿を探して森の中を歩き始めてしばらく、あたしは早くも遭難し始めていた。

 慣れない森だからどうとか、そういうことじゃない。

 三等とはいえ辺境の武装女中がその程度のことで迷ったりは許されないわ。

 でもほんと、そういうことじゃないの。

 

 雪。

 雪が、降ってきたのよ。

 

 なんだか肌寒いなと思っていたら、気づけば雪がちらつき始め、そんな馬鹿なと思っているうちにやがては吹雪きはじめ、いまや視界は真っ白に凍り付き、木々の陰で休むことさえ困難な始末だ。

 

 秋だからキノコ狩りに行こうってことじゃなかったの?

 これじゃあまるで冬よ。それも、北部の優しい冬じゃない。辺境の人を殺すためにあるような冬よ。

 

 おかしい。

 何がって、何もかもがおかしい。

 

 パフィストの奴は何て言ってたっけ。

 ここは迷わずの森、どんな阿呆でも迷わず逃げる森、だっけ?

 

 こんな出鱈目な森なら、確かにどんな阿呆だって逃げることでしょうよ。

 辺境の鋭い冬に、北部の連中が立ち向かえるとは思えないし。

 

 いくらあたしが武装女中で、もしもの時のために備えを欠かしていないとはいえ、さすがに秋の内から冬の装備を《自在蔵(ポスタープロ)》にしまい込んでおく、なんてことはしていない。

 備えは大事だ。でも無駄に備えておくことはまるで意味がない。いや、今回は備えておけば意味があったんでしょうけど、誰がキノコ狩りの最中の吹雪に襲われるなんて思うのよ。

 

 ああ、もう、くそっ。

 

 とにかく、こうなっちゃったらうろつきまわっても仕方がない。

 体力を消耗する一方だ。

 

 どこか、雪風の来ないところで休まないと。

 と言ってもそんなところ、見渡す限りありはしない。

 ないならどうするか。

 

「はー……まさか北部で雪洞(イグロ)作る羽目になるなんて」

 

 《自在蔵(ポスタープロ)》から、用足し用の穴を掘ったり、敵の頭をかち割ったりするために、冒険屋ならみんな一本は持っている円匙《ショベリロ》を取り出して、雪を集めて積み上げ始める。

 もっとしっかり固まった雪だと、切り出して煉瓦のようにできるけど、いくら瞬く間に積もったドカ雪とはいえ、これは柔らかい雪だ。ぎゅうぎゅうと押し固めてやらなければ使い物にならない。

 

 私は無心に雪を積んでは押し固めて小山を作り、横穴を掘って内部を掘り広げた。息が詰まらないように天井に空気穴をあけ、足元の雪をなるべく地表が出るまで掘って、毛布を敷く。布や着替えを壁紙のように壁に貼りあてていく。これで寒気も少しはましになるはずだ。

 

 即席とはいえ、一人でやったにしては立派な出来の雪洞(イグロ)じゃあなあかろうかとは思う。

 しかし雪洞(イグロ)を作って満足しているわけにもいかない。

 確かに雪洞(イグロ)の中は外より断然温かいが、それは比べてみればの話だ。

 運動して汗をかいた体は、冷たい外気にどんどん熱を奪われてしまう。

 

 あたしは《自在蔵(ポスタープロ)》の中身をあさってとにかく着込めるものはすべて着込んで、簡易の竈を作って火を起こした。

 雪洞(イグロ)は雪でできているが、少しの焚火じゃ溶け落ちたりはしない。一晩くらいは平気で持つ。辺境では冬の野宿と言えばもっぱら雪洞(イグロ)だった。ひと冬の間、誰かが作ってそのまま残していった雪洞(イグロ)を借りることもあったし、自分たちの作った雪洞(イグロ)も同じように誰かに使われることはよくあることだった。

 

 もっとも、こんなに急な季節の変化に見舞われるなんてのは、さすがの辺境でもありはしなかった。厳しい冬になれた辺境だからこそ、しっかりとした準備をしてから挑むものだった。何しろ、準備をしても、それでもなお冬に負ける人々が多いくらいなのだ。

 

 荷物をあさって小鍋を火にかけて雪を溶かし、暖かいものをこさえることにした。

 身体の内から温めてやらなければいけないし、精のつくものを食べて元気を出さなけりゃいけない。

 

 こういう危機の時にケチってはいけないと、あたしはとっておきの出汁節(スタンゴ・ブイヨーノ)を取り出して、ナイフで削って鍋に放り込んで、ひと煮立ちさせる。そうするだけでたちまちふわっと力強い香りが立ち上る。

 なんでもうすーくうすく、鉋で削るようにしてやるのがいいらしいけど、あたしは少し厚めに削ってやって、煮込むようにしてやる方が好きだ。

 

 これは実はリリオにもまだ食べさせたことのないものだったりする。

 なにしろなんかこう、お肉を茹でたり脂を取り除いたり干したりカビをはやしたり、あたしにはよくわかんないんだけどとにかく面倒なことをたくさんして、からっからに乾いた木の棒みたいに乾燥させるっていう手の込んだものだ。

 それも上等な鹿雉(セルボファザーノ)の腿肉の傷のないところを選んで何か月もかけて作った特級の鹿節(スタンゴ・セルボ)だ。

 

 かなりお高かったけれど、前に試してみた時も驚くほど手早く、そして澄んだ旨味が煮出せる上に、からっからに乾いているから随分日持ちして旅にも向く。

 もう少しあたし一人で楽しんで、もとい調理法を試してからお披露目する予定なのだ。

 

 さて、素晴らしい出汁が出たら、道中採ってきたきのこと、砕いた堅麺麭(ビスクヴィートィ)、それに干し肉を放り込む。後は塩を少しに、これもとっておきの猪醤(アプロ・サウコ)をちょろっと。出汁がいいから、余計なものを入れなくってもそれだけでいい。

 

 ウルウなんかは堅麺麭粥(グリアージョ)を食べる度になんとも言えない顔をして、(リーゾ)の粥が食べたいって言うんだけど、でも(リーゾ)は北部にはあんまり出回らないし、それにそもそもあんまり美味しいとも思えない。

 いつも死んだ目をしてるウルウが、(リーゾ)が古いからだとか炊き方がどうのとか珍しく熱弁をふるっていたので、ちょっと気になってはいるんだけど、何分、西の料理には詳しくない。

 

 リリオも美味しいのなら食べてみたいらしいから、そのうちメザーガの伝手でいい(リーゾ)が手に入らないものかと思っているけれど、などと考えているうちにいい具合に仕上がったので、鍋を火からおろして、なべ底を雪にあてて少し冷まし、抱え込むようにしてふうふうと鍋から直接掬う。

 すこし行儀が悪いが、熱は少しでも無駄にしたくない。

 

 はふはふとアツアツの堅麺麭粥(グリアージョ)を食べ終え、まだ()()()小鍋を抱えたまま、あたしはさてどうしたものかと、竈の火を眺めた。

 

 腹も満ちてあったかくて、こうなると寝たくなるのが人間というものだけど、雪の中で寝るのは少々危険だ。

 火も焚いているし、もこもこに着太りしているし、雪洞(イグロ)ってのは一晩休むくらいは大丈夫なように備えができてようやく雪洞(イグロ)と呼んでいいのだ。

 

 それでもあたしは、一人きりで寝る気にはなれなかった。

 人間は眠っている時ほど体が冷える。体が冷え切れば血が凍え、血が凍えちゃうと臓腑が固まり、そうしてやがて死に至る。  

 それで、死ぬとどうなるかって言うのは、あたしは知らない。

 冥府の神のもとで安らかな眠りに就くとかなんとか神官は言うけれど、それが本当かどうか試した奴はそうそういない。

 

 でも、死ぬ手前ってのはよく知っている。

 余所者のあたしが辺境で育って、暗殺者だったあたしがリリオの世話役になるってのは、それはもう簡単な事じゃなかった。

 鍛錬で死にかけ、しごきで死にかけ、冬の寒さに死にかけ、魔獣たちと戦って死にかけ、リリオにじゃれつかれて死にかけ、とにかくあたしは死の寸前まであまりにお手軽に追い込まれた。

 

 死ぬってのは、とても()()んだ。

 

 放っておかれたらそのまま本当に死んじゃう。誰かが熱を分けてやらなけりゃ、人は簡単に死んじゃう。

 あたしはその都度誰かが熱を分けてくれたから、今もこうして生きている。

 でもいつもいつでも都合よく熱を分けてくれる誰かがいるわけじゃないし、いつもいつまでも甘やかして熱を分けてくれる日々が続くわけじゃない。

 

 いつか見捨てられたら、あたしは分けてもらえる熱もなく、今度こそ本当におっ死ぬ。

 そうだ。

 死ぬってのは、とてもとても寒いんだ。

 見捨てられたら、見限られたら、あたしは寒い寒い冬の中に一人置き去りにされて、きっと凍えて死んじゃうんだ。

 

 だからあたしは、一人じゃ目を閉じられない。

 雪の壁一枚隔てた先でごうごうと笑う吹雪が恐ろしい。

 

 ひとりぼっちが、こわいんだ。




用語解説

雪洞(イグロ)
 いわゆるかまくら。イヌイットのイグルーのようなものから、雪を積み上げて掘るかまくらのようなものまで。辺境では冬場によくつくられる。

円匙(ショベリロ)
 いわゆるシャベル、スコップの類。日本ではシャベルとスコップの違いは土地によって違うが、円匙(ショベリロ)は大型のものも小型のものも含んだ総称。
 塹壕で一番人を殺した武器でもあるとかなんとか。

出汁節(スタンゴ・ブイヨーノ)
 鰹節など、硬い棒状に加工された、出汁をとるための食品の総称。
 西部発祥の食品。

鹿節(スタンゴ・セルボ)
 もともと魚類を加工して作られていた出汁節(スタンゴ・ブイヨーノ)を、鹿肉を加工して作ったもの。ここでは特に鹿雉(セルボファザーノ)のもの。
 時間もかかり数も出回らないため高級ではあるが、日持ちするし嵩張らないし手軽だし人も殴り殺せるしで冒険屋の間でひそかにはやり始めている。

猪醤(アプロ・サウコ)
 肉醤(ヴィアンド・サウコ)の一種で、ここでは角猪(コルナプロ)を用いた調味料。
 肉、肝臓、心臓をすりおろしたものを塩漬けにして、発酵・熟成をさせたもの。酵素によってたんぱく質がアミノ酸に分解され、力強い旨味を醸し出す。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 亡霊と思い出の地層

前回のあらすじ
あまりにも唐突に吹雪の森に迷い込んだトルンペート。
果たしてこれは現実なのだろうか。


 森は驚くほど平穏だった。

 靄は相変わらず濃く、先は見通せず、後ろも見通せず、右も左もわからなきゃ、時折上下の区別もつきがたい。

 

 まっすぐ歩いているつもりでも、木々に邪魔され足場に狂い、いまやどこをどう歩いているかなんてとっくの昔に分からなくなっていた。

 歩いてきた歩数と角度のいちいちを覚えている私にとってみれば、それをさかのぼれば元の道に戻れるという理屈はある。あるけれど、今日ばかりは確信が持てなかった。何しろこんな靄の中で、自分の記憶力を試したことはない。

 

 変りばえのしない景色。

 変りばえのしない歩み。

 こうも変わりばえがないと、不安以上に頭がしびれてくるような退屈さえあった。

 

 もうどれだけ歩いたことか、それさえも判然としないけれど、いまだにパフィストの姿は見つからず、リリオとトルンペートの気配も見当たらない。

 何度か私らしくもなく大きく声を張って二人を呼んでみたが、帰ってくるのはむなしいやまびこめいた残響ばかりだ。

 私が大声を出すなんてかなりレアなイベントだというのに、全く。

 

 ひたすらに単調な景色と単調な歩みは、どんどんと思考を鈍麻させ、半分眠っているような心地で、何度か足を止めて本当に眠りこけそうになるほどだった。

 そんな場合ではないとその都度頬を張って歩き続けたけれど、正直なところこうして歩き続けている行為にそれほど意味があるのか、実際疑問だ。

 

 もしかしたら自分は二人からひたすらに離れる方向へと、森の奥へ奥へと一人歩き続けているのではないか。そんな不安がないではなかった。パフィストにはめられて同じところをぐるぐると回っているだけなのではないか。そんな迷いがないではなかった。

 

 しかし靄の中をぼんやりとする頭で歩いていると、不安も迷いもどんどん靄の中に零れていって、ただひたすらに眠い、退屈だという実際的な思考ばかりが巡るようだった。

 

 こうしてひたすらに歩いているというのは、意味もなく地面を掘り返しては、また埋め戻すという拷問だか懲罰のようだなと感じられた。ドストエフスキーだったか。もっとも私はロシア文学があまり肌に合わず、この懲罰が示唆された本も読んだことはない。

 

 私にとり、映画『惑星ソラリス』を半分眠りかけながら見て以来、ロシア関係の創作物はある種の拷問のようなイメージを伴って忌避してきているのだ。例外はフィギュアスケートくらいだが、それ自体もさほど興味はない。思えば『ソラリス』もこの靄のごとく理解不能な退屈に満ちていたように思う。

 

 もちろんこれは私の勝手な、それもたった一つの創作物の影響によるイメージに過ぎないのだが、あえてそれを乗り越えて『地下室の手記』に手を出すほどの意欲は終電と仲の良い人間には存在しないし、あまつさえ『苦痛を愛せよ』などとどうして言えようか。

 

 しかしそれにしても私はなぜ『ソラリス』を途中で切り上げなかったのだろうか。冒頭ですでに眠気が走るような映画を私が愛していたようには思えないが、いや、そもそも観劇趣味も映画趣味もあまつさえSF趣味もなかった私がどうして、この『芸術作品』に三時間近くを捧げようと思ったのだったか。

 

 疑問に思うまでもなく、私の脳は記憶に紐づけられた記憶を、思い出という地層の中からすぐさま掘り当てていた。

 

 あれは私が中学校に上がったばかりの春のことだった。

 いくらか小賢しい知性を獲得していたように思われる私は、なにということはない有り触れた日曜日に、珍しく父に誘われて、時折異音のする古いビデオ・デッキに、パッケージも日焼けした古びたレンタルのビデオ・テープを差し込んだのだった。

 

 そんなものを体感したことはないとはいえ、人生において貴重とされる短い青春のおよそ三時間近くを拘束するこの映画に感じたのはひたすらに退屈と無理解であり、小賢しい中学生にとってはいささか難解にすぎる代物だった。正直なところこの年になって思い返してみてもいまいち感性にピンとこない。

 

 父も私の退屈を察してはくれたようで、途中何度も観るのを止めても良いと言ってはくれたが、子供じみた意地と、そして父がこの映画から何を汲み取らんとしているのかを理解したいというささやかな願望から結局夢現に三時間近くを費やし、そして収穫はゼロだった。むしろNullだった。

 

 きっかり秤で量ったような、実際計量器とタイマーを駆使した、私でさえ毎回ほとんど同じ味がすると太鼓判を押せる紅茶を淹れながら、父はこのように説明してくれた。

 

「原作家と監督が喧嘩別れしたと聞きまして、どれくらい内容に差異があるのか確認してみようと思いまして」

 

 原作を読んでいなかった私は素直にどうだったのか尋ねた。今後も原作を読む気はないし、ネタバレを気にする道理もなかった。

 父は分度器で測ったように正確な角度で小首を傾げ、それからこう言った。

 

「有意な差異は見受けられませんでした」

 

 と。

 

 父は私以上に不器用で、私以上に人間が苦手で、私以上に社会に馴染めない人だった。

 私は人間が嫌いだが、父は人間が理解できなかった。

 私は人を愛することが苦手だったが、父は人を愛するようにはできていなかった。

 そのような機能をどこか破損して生まれてきたように思えた。

 

 父がどれくらい不器用かと言えば、男で一人で育て上げてくれた私という存在がこんなろくでなしになり果ててしまったということがこれ以上ない証明だとは思うけれど、しかし反面教師としてもよい教材になってくれたのは確かだ。

 

 例えば、あれは私が小学校三年生の頃だ。

 小学生とはいえ何しろ完全記憶能力者の上に小賢しいガキだった私は、あれやこれやと興味を持っては、父にあれはなにこれはなに、あれはどうしてこれはどうしてと質問攻めにしていたように思う。

 

 そういった質問攻めに対しても、父は不器用だった。

 

「おとうさん、どうしてそらはあおいの?」

「光には波長の違いというものがありましてね」

「おとうさん、こどもはどうやってできるの?」

「人間を含む哺乳類は基本的に」

「おとうさん、どうしてうちにはおかあさんがいないの」

「閠さんを出産した後、体力が回復せず衰弱死してしまいました」

 

 子供に対してレイリー散乱やら交尾行動を図説付きで説明するのはともかく、「お母さんはお前を生んだから死んだんだよ」みたいな説明をする親がどこにいるというのか。

 しかもフォローも最悪だった。

 

「おかあさんは、わたしのせいでしんじゃったの?」

「出産を選んだのは(こよみ)さんですし、危険だとわかっていて止めなかったのは僕ですから、みんなのせいですね」

 

 というかフォローになってない。

 言い方を選べ。

 しかも真顔。

 

 思えば、というか強いて思い返そうとしない限り、父が表情を変える所を私は見たことがなかった。表情筋が死滅しているんではないかというくらい無表情だった。

 閠さんの情操教育に悪いかもしれませんので、とよりにもよって本人の前で説明しながら、当人曰く笑顔の練習とやらをしたときがその数少ない表情を変えた光景であったが、直後に私が泣き出したので結局有耶無耶になってしまった。

 いや、悪いとは思うがあれは泣く。

 不気味の谷現象というか、頭部を寄生獣に取って代わられた人がテレビ映像を参考に笑顔作ってるみたいというか、感情の伴わない完璧な笑顔というものに、子供心にひたすらに不気味な矛盾を感じたのだろう。

 

 お陰様で私は周囲の人間の表情と感情の食い違いというものに早期の内から気付いてしまう羽目になり、大人を信用できない全く嫌なガキに育ったと思う。かといって子供が信用できるかと言えば、自分の感情さえろくすっぽ制御できない子供のほうが余程信用できないのは確かだったが。あいつら秒単位で態度変えるからな。

 

 いやまったく、私の人生は不信と疑心とに彩られているような気さえする。

 

 思い出を掘り起こしていけば、その記念すべき最初の一度は、それはすなわち私の記憶が始まるころだった。

 つまり、私が生まれ、母が死んだ、その頃のことだった。

 

 




用語解説

・父
 閠の父親の事。
 妛原 軅飛(たかとぶ)。享年五十二歳。

・母
 閠の母親の事。
 妛原 (こよみ)。旧姓悪原(あくはら)。享年二十九歳。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 白百合と不思議の森

前回のあらすじ
閠もまたひとり、奇妙な森の中を彷徨っていた。
そして変わりばえしない景色の中、徐々に記憶の地層を掘り進んでいくのだった。


 白兎を追いかけて走るうちに、私はどうやらどんどん森の深みへと踏み込んでしまったようでした。

 木々は辺境のものによく似た針葉樹林が増え始め、聞こえる鳥の声に馴染み深い故郷のものが混じり始め、気づけばそこは懐かしき我が庭、家の裏の森とよく似た光景となっていました。

 

 北部にもこのような森があるのかとなんだか懐かしさに浸りながら、それでも手足は容赦なく兎を追いかけているのですが、一向に追いつきません。

 

 もうほとんど全力疾走と言っていいほどに走っているというのに、勢いを増せば増すほど、兎もまた足を速めて駆け抜けていくように感じられます。

 いくらなんでもこの兎はおかしいのではないでしょうか。

 鈍い鈍いと言われる私でもさすがにそう感じ始めてきました。

 

 この程度であれば私はいくら走っても疲れたりはしません。

 しかし、いつまでたっても全然距離の縮まらないことに、また森の景色のどこまでも続くことに、体よりも先に心の方が参ってきました。

 しまいにはもう、頭で考えて走るというより、目の前に兎がいるから反射で体が動いているというような、そんな始末でした。

 

 もう諦めてしまおうか、そう足を緩めようとする度に、兎はちらりとこちらを振り向いて、小馬鹿にするようにくるりと回って踊ります。

 それでまたむっとして我武者羅に追いかけるのですが、それが何度も続くと、体はともかく心がへとへとになってきます。

 これで森の景色がもっとはっきりと変わってくれるのならいいのですが、じれったくなる程、あたりの光景は変わらないままです。いつの間にか変わっているのに、それがいつなのか気付けない。ふと顔を向けると確かに変わっているのに、意識がそれるともうただの緑色にしか見えない。

 

 兎は相変わらず私の前を走り、私は相変わらず全力で走り続け、景色はまるで変わりばえもせず、これではまるでその場にとどまるために走り続けているようではないですか!

 

 しかしそのような不満と祈りが通じたのでしょうか、やがて森は劇的に姿を変え始めました。

 

 木々はまばらになり始め、足元は踏み固められたように固くなり、透明な日差しが木漏れ日となって降り注ぎ、肌寒い秋の空気に豆茶(カーフォ)のかぐわしい香りが……豆茶(カーフォ)

 

 私は思わず立ち止まって、周囲をぐるりと見まわしました。

 気づけばあれだけうっそうと茂っていた森は、よく人の通いなれたように踏み固められた林に取って代わられ、木々とキノコと落ち葉の匂いに満ちていた空気は、豆茶(カーフォ)の香りを漂わせ始めています。

 

 これは。

 これでは、まるで。

 

 兎はちらりと振り向いて、林の向こうへと誘います。

 

 私はなんだか恐ろしいような、或いは期待するような、そんな不思議なドキドキを感じながら、ゆっくりと林の奥へと足を向けていました。

 

 ここは、この林は、辺境の、くにの、実家の裏手の森によく似ていました。

 肌寒い秋の空気も、きらきらと目に眩しい木漏れ日も、そして辺境では手に入りづらい、しかし私にとっては馴染み深い豆茶(カーフォ)の香りも、全てがすべて、何もかもが何もかも、私の懐かしさという懐かしさをみんな引き出してくるようでした。

 

 辺境は一年の半分は雪に覆われ、残りの半分も、雪解けの短い春と、涼しい夏、それにわずかな秋の間だけ、人々はほっと一息つけるのでした。

 南部からやってきた母にとっては、夏ですら辺境は寒いのねと言うくらいに、この土地は人が生きるのにはつらい場所でした。

 

 そんな母にとって、暖かな南部を思わせる故郷の味が、かぐわしい豆茶(カーフォ)でした。

 よく晴れた天気の良い午後、母はよく裏手の林に席を設けて、豆茶(カーフォ)を淹れては私を膝の上で抱きしめて、故郷の話や、英雄譚、また冒険屋たちのお話を聞かせてくれたものでした。

 

 幼い私にとって、豆茶(カーフォ)というものは、なんだか悪夢のように黒くて、地獄のように熱くて、泥沼のように濁って、毒のように苦いものでしかありませんでした。たっぷりの砂糖と乳を入れて、それでようやく飲めるような代物でした。

 

 でも、それでも、そのかぐわしい香りは、その香りだけは、幼心にも心地よいものと感じられました。

 だってその香りは、豆茶(カーフォ)の香りは、母の香りだったのですから。

 

 兎を追って林を抜けると、不意に日の光が差し込んで、私は目を細めました。

 いえ、あるいはその光景に眩しさのようなものを感じ、身構えてしまったのかもしれません。

 

「あら、リリオ」

 

 その声は。

 

「寒いでしょう、こっちへいらっしゃいな」

 

 その姿は。

 

「一緒に豆茶(カーフォ)、飲みましょう?」

 

 その笑顔は。

 

「甘いお菓子も持ってきたの」

 

 もこもこと分厚く着ぶくれて、それでもなお寒そうに豆茶(カーフォ)茶碗を両手で抱いて、穏やかに笑う姿がそこにはありました。

 象牙のように艶やかな白い髪。柔らかな褐色の肌。零れるような翡翠の瞳。

 

 それは確かに。

 

「……母様(かあさま)

 

 それは確かに母の姿でした。

 四年前に亡くなった、母の姿でした。




用語解説

・母様
 リリオが幼い頃に亡くなったという母親なのだろうか。
 この森は、奇妙だ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 鉄砲百合と氷の底

前回のあらすじ
森の中、亡くなったはずの母親と遭遇するリリオ。
いよいよもってこの森はまともではない。


 暖かい。

 ここは、暖かい。

 

 雪洞(イグロ)の中で、あたしは眠気と戦う。

 焚火の火は暖かく、お腹はすっかり満たされて、そして、そして。

 

「大丈夫ですか、トルンペート」

 

 そして、ここにはリリオがいる。

 あたしと同じようにもこもこに着ぶくれたリリオが、あたしの隣で身を寄せ合って、体温を共有している。

 

「大丈夫よ」

「眠いでしょう? 私が火の番をしますから、眠ってしまってもいいんですよ」

「大丈夫よ」

 

 本当は今すぐにでも、鉛のように重くなった瞼を閉じて、何もかも放り出してぐっすりと眠ってしまいたい。柔らかなぬくもりに包まれて、考えることさえ放棄して、ひと時の安らぎに身を任せたい。

 

 でも駄目。

 駄目なのよ。

 私は眠っちゃいけない。

 

「いいんですよ、トルンペート。もう大丈夫です」

 

 リリオの声が優しく響く。

 ああ、なんて頼もしく育ってくれたんだろう。

 ずっとあたしがお姉ちゃんをやっていたのに、リリオはいつの間にかこんなに大きくなった。

 背は低いままだけど。

 

 でも駄目だ。

 駄目なんだって。

 私は眠るわけにはいかない。

 

「外は寒い寒い吹雪です。いまはゆっくり休みましょう」

 

 瞼が落ちそうになる。

 意識が落ちそうになる。

 夢の中へ落ちそうになる。

 

 ぱちりぱちりと暖炉の薪が爆ぜる音がする。

 石壁に囲まれて吹雪の音は遠く遠く、並ぶ壁掛け絨毯に織られた竜殺しの英雄たちが力強くあたしたちを見下ろしている。

 漂う甘酸っぱい香りは、リリオが暖炉の火で焼いている林檎(ポーモ)の匂いだろうか。

 

 あたしの肩を抱いたリリオの指先が、とんとんと心地よい調子で叩く。

 すぐそばのリリオの鼻先で、優しい旋律が口遊まれる。

 

 それは、ああ、子守歌だ。

 懐かしい、子守歌だ。

 奥方様がリリオに教え、リリオがあたしに伝え、あたしがリリオに歌ってあげた子守歌が、こうした今あたしのもとに返ってきている。

 

「いいんですよ、トルンペート。眠ってしまっていいんです。ここでは誰もあなたを独りにしない」

 

 暖かな暖炉の傍。

 ぎぃきいと揺れる安楽椅子に腰を落ち着けた御館様。

 暖炉に放った林檎の焼き加減を眺めるティグロ様。

 リリオが拾って結局御館様が面倒を見ることになったプラテーノが、暖炉の傍のぬくもった床にうずくまって離れようとしない。

 

 そして、そしてあたしはもこもこに着ぶくれて、リリオの大きな腕に抱かれて、あたしは、あたしは。

 

 

 

 あたし、は、 

 

 

 

 

「――――ッガァッ!!」

 

 

 あたしは、眠っちゃいけない。

 腕に突き刺したナイフの痛みが、鉛のような眠気を押しのけて、あたしを覚醒させる。

 まだだ、まだ足りない。

 

 リリオの体を押しのけて、あたしは幼かったころのあたしの体を突き刺す。

 これは、こんなのはあたしの体じゃあない。

 今のあたしはリリオよりちょっとばかし大きくて、胸の大きさは変わらないかもしれないけど、でも背伸びすりゃあいつのつむじを眺められるようになって、そうだ、そうだ、こんな暖炉のあったかい部屋なんてなかった。御館様は仕事で忙しくていつも疲れていたし、ティグロ様はひとところに落ち着かなかった。

 リリオだってそうだ。あの子がこんなにおとなしいわけがない。

 あたしの体をバラバラにしながら、あの子は吹雪の丘で遊ぶような子だった。

 

 びりびりと夢を引き裂いて、あたしはあたしの体を取り戻す。

 ちょっとばかりリリオを見下ろせて、相変わらず胸はぺたんこで、それでも、それでも、あの頃よりずっと強くなったあたし自身を。

 

「トルンペート、無理しなくていいんですよ」

 

 リリオの声があたしの棘を柔らかく溶かす。

 

「トルンペート、君はよくやってくれている」

 

 御館様の声があたしのナイフを鈍らにする。

 

「トルンペート、いもうとのことを頼んだよ」

 

 ティグロ様の声があたしの瞼を重たくする。

 

 暖かな暖炉の火が、暖かな皆の声が、あたしのおそれや不安をとろかしていく。

 それはとてもとても心地よくて、それはとてもとても優しくて、そして、

 

「ふ、ざける、な……ッ!」

 

 そして、これ以上なく腹が立つ。

 

 あたしはナイフを振り上げて、眠りかけた心臓に振り下ろす。

 冷たいナイフが、とろけた心臓をきりりと冷やして凍らせる。

 そうだ、あたしの心臓はトロトロ弱火でくすぶったりしない。

 氷のように冷たくて、そうして、雪崩のように激しいものだ。

 

 そうだ!

 

 突き刺した傷口からあふれるのは、あたしの血、あたしの命、そしてあたしの怒りだ。

 

 人形のように育てられ、女中として鍛え直され、それでもなおずっと心臓の中にあったのはこの激しさだ。

 あたしは弾けるようにできている。あたしは跳ぶようにできている。

 

 あたしの名はトルンペート。鉄砲百合のトルンペート。

 

「まやかし風情が、あたしの名を呼ぶんじゃあない!!」

 

 




用語解説

・プラテーノ
 白金を意味する交易共通語(リンガフランカ)
 リリオは幼少のころから様々な生き物を拾っては、最終的に父親が面倒を見る羽目になるということを繰り返している。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 亡霊と痛みの沼

前回のあらすじ
これはまやかしだと看破したトルンペート。
でもそうとわかってても自分の心臓ぶっ刺すのはどうなの。


 私が生まれた日は、雪の降る寒い日だったらしい。

 さしもの私も、生まれたての赤ん坊のころからお天気事情を把握していたわけじゃあない。目に映るものはみんな歪んで見えたし、ひたすらに白い病床のシーツの色ばかりが、目に残っている。

 

 生まれたばかりの赤ん坊は、その時から途切れなく始まるビデオテープの録画を開始していたけど、でもその内容を理解して飲み込めるようになったのは、もっとずっと後になってからだった。

 その頃の私というものは全く大人げなく情緒もない頭の中身が空っぽの自動機械のような有様だったから、受け取った刺激に対してとれる反応と言えば泣くか笑うか喃語にもならないうめき声を上げるくらいのものだった。

 

 だからその時のことに対する印象というものは、私がある程度ものを考える頭というものを獲得して、思い返すという情緒あふれる行動をするようになり、そして、まあ、思春期の脳で理解して思い出に蓋をした類のものだった。

 

 それはとにかく不快な音だった。後になって何と言っているかというのはわかったけれど、その時の私にとってそれはただただ耳障りで不快な音でしかなかった。

 激しく、吐き捨てるような、悪意のこもった声だった。

 そしてそれは私に向けられていた。

 

 生まれたばかりの私の生を否定するような声は、私の母の母、つまり私の祖母の声だった。

 その時の私には、それはただただ不快な音としか感じられなかった。耳障りで、不快で、悪意のこもった声。

 ただそれでも、言葉の意味が分からなくても、その激しい悪意が自分に向いているということだけはよくよくわかった。

 私にとっての人生とは、このようにして始まったのだった。

 

 私が生まれて、母はすぐに亡くなり、天涯孤独だった父は親戚の助けもなく、本当に男手一人で私を育ててくれた。

 父は不器用で、人間を理解できない人間未満だったけれど、それでも私は何一つ不自由というものを感じることもなく育てたように思う。少なくとも、事前に情報を集められ、対策が立てられる範囲において、父の養育は一般的な家庭よりも余程スムーズだったように思う。

 ただひとつ、私たちの間には愛情がうまく通わなかった事を除けば。

 

 父はいつも他人行儀な敬語で話し、私のことをさん付けで呼んだ。

 それは私のことを他人扱いしていたからではなく、他に話し方を知らない不器用さからだった。

 誠実な人ではあったと思う。

 恐ろしく不器用で、恐ろしく無理解ではあったけれど、私を常に一人の人間として扱い、対等な立場で向き合おうとしてくれていたように思う。

 

 母親がいないということを不思議に思いはしても、寂しさを覚えたことはなかった。

 最初からないものを寂しく思うことはない、という以上に、私が日々に程々に充足していたからだった。

 父は私に何もかもを与えてくれるほど甘やかしではなかったけれど、合理的な要求に対しては誠実な対応をしてくれる人だった。

 

 私が学校での会話についていけないと漫画雑誌の購入を強請ると、父はどの雑誌かを確認するだけして、すぐに書店で定期購読の契約を結んだ。それも二部。私の分と、父の分と。

 会話についていくためだけに少女漫画雑誌に目を通す私と、娘の会話を理解するために少女漫画雑誌を分析する父と、私たちはどちらもあまり真っ当に漫画を楽しんではいなかったかもしれないが、しかしそれが私たち親子の会話の形だった。

 

 私が好奇心に駆られて質問を繰り返すのと同じくらい、父は私に問いかけを投げつけた。

 

「閠さんは何が好きですか」

「閠さんはこの漫画のどこが好きですか」

「閠さんは学校で困ったことはありませんか」

「閠さんは今週号の『いちご2%』で学校内で不純異性交遊に及ぼうとした男子学生をどう思いますか」

 

 夕食時に交わされる会話は、まるで面接か、ともすれば医師の問診だった。

 父は事細かに私を理解しようとしてくれた。欠片ほども理解できないなりに、父は私の情報を蓄積し、分析し、合理的な統計を導き出そうとしていた。私という人間を数字で置き換えて、数式で読み取れるようにとしていた。

 

 父は人を愛することが苦手な人だった。

 致命的に人を愛することができない人だった。

 愛するということがちっとも理解できない人だった。

 

 私にとって父は私を養育するアンドロイドであり、父にとって私は養育義務のある子供に過ぎなかったと思う。

 私は父の期待に応えようとするというよりも、どうすることが父の期待というものに副うことなのか考えながら過ごすことの方が多かった。何しろ父は期待というものをしなかった。

 

 進路について学校で希望調査がなされた時も、私は白紙のプリントを前にまるで何も思いつかなかった。自分が何をしたいのか、何になりたいのか、まるで思いつかなかった。自分が何者かになる光景を想像できなかった。

 父に相談してみれば、私たちは親子そろってフリーズするしかなかった。私は何も思いつかなかったし、父にとって他人の進路の希望など数式で答えを出せるものではなかった。

 

 それでも父は誠実だった。

 同年代の子供たちが望む職種や、私に適性があると思われる職種をリストアップし、それぞれのメリット・デメリットについてを解説してくれた。それは子供の夢を応援する父の姿ではなかったかもしれないが、道に迷った子供に道の歩き方を教えようとしてくれる背中ではあった。

 

 結局それで私が華々しく夢を抱いて駆け始めたかというとそんなことはなく、私の進路希望は福祉がしっかりとして安定した給料と休暇があり、という要するに公務員になることを目指した進学であった。ブロイラーで出荷される鶏のように、判で捺したような個性のないものだった。

 

 中学、高校、そして大学へと進学し、良い成績をとることはさほど難しいことではなかった。暗記科目において私は他に引けを取るということがなかったし、応用においても人並み外れて劣るということはなかった。

 ただ、受験生の誰もが羨むような能力を、私は持て余していた。私はその能力を生かして向上するということがなかった。私にはいまだに、なにになりたいという夢の一つも見つからなかった。

 

 結局公務員試験に落ちて、勤め人として会社に勤めるようになってからのことは、いままでにも散々ぼやいてきたとおりだ。

 会社はブラックもいいところ。体制は旧態依然、錆びついた上に数が足りない歯車で何とか回しているような状態で、そしてそれがその頃の企業の平均値だった。

 

 会社に入って一人暮らしを始めるようになってからも、父の問診は変わらなかった。

 月に一度ほど顔を合わせて、食事を共にし、そして父は相変わらずの平坦さで問いかけた。

 

「変わりはありませんか」

「困ったことはありませんか」

「何か必要なものはありませんか」

 

 私はその都度、特に、何も、大丈夫ですとお決まりの文句を返してきた。

 私と父の会話は、台本を読むかのようにテンプレートそのままだった。

 

 結局父は、私が入社して数年目に、癌が発覚してそのまま驚くほどすんなりとなくなってしまうまで、お決まりの質問を変えなかった。

 今日明日が峠ですと言われて、初めて有休をとって見舞いに行った病室で、父は見違えるほどやせ細った体で、しかしやっぱり相変わらずの平坦さで、同じ問いかけをした。

 

「変わりはありませんか」

「困ったことはありませんか」

「何か必要なものはありませんか」

 

 特に、何も、大丈夫です。

 素っ気ない返答に父は不思議と満足げに一つ頷いて、それから、それきりだった。

 その晩父は眠るように亡くなった。

 

 渋る上司に忌引きを申請して、父が生前の内からまとめてくれた手引きに従って喪主を務めたが、父は天涯孤独の身で、葬儀に訪れてくれた人の殆どは仕事の関係者ばかりで、私は全く顔も知らないような人ばかりだった。通夜まで付き合ってくれるほど親しい付き合いの人たちはいなかった。

 寂しい人生だった、と思うべきなのだろうか。それとも、無駄のない人生だった、とそう思うべきなのだろうか。

 

 通夜に付き合ってくれたのは、母方の祖父母だけだった。

 とはいえ、形だけでも故人を偲んでくれたのは祖父だけで、祖母はひたすらに私にすり寄るばかりだった。

 

 軅飛(たかとぶ)さんがなくなって心細いことだろう、身よりもなしじゃあ不安だろう、これからは私たちが一緒にいてあげる、そんな優しげな言葉に、祖父は険しい顔でもう止めろと諫めたが、祖母は執拗にすり寄ってきた。

 一人娘だった私の母の暦がなくなり、祖父母にはもう頼れる先がないのだ。老後の面倒を見てくれる労働力が欲しいのだ。正確に言うと祖父母ではなく、祖母には、だが。

 

 私は祖母に向き直って、それから、あの日の言葉を繰り返した。

 

「『何が閠だい!』」

「へ、へっ?」

「『こんな子産まなけりゃ、あんたがこんな目に遭うこともなかったじゃないの! この子はあんたの命を吸って生まれたんだ!』」

「な、なにを」

「『何が、何が閠だい! 余りもんの閠だよ! 生まれてくるべきじゃなかった! この子は、生まれてくるべきじゃなかったんだ!』」

 

 私の生を否定する言葉。

 それが、祖母が私に投げかけた最初の言葉だということを、私はよくよく覚えていた。

 

「おまえ、そんなことを言ったのか! 暦に、この子に!」

「ち、ちがう、あたしゃ何にも知らないよ!」

 

 もめ始める祖父母に、私はもう興味を失っていた。

 祖母の言葉も間違ってはいないなとただぼんやり思っていた。

 

 私は母の命を吸って生まれてきて、そして誰のためにもならない余り物として、今こうして取り残されているのだった。




用語解説

・いちご2%
 少女漫画。合成甘味料と香料でできたような甘ったるい学園生活は、しかし常に二パーセントの本音を秘めている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合とこの傷の在処

前回のあらすじ
沼にはまり込むように痛みを思い出していく閠。
それは閠自身、痛むことを認識できずにいた傷なのかもしれない。


 肌寒い秋の森でのお茶会は、それでもどこか暖かなものでした。

 熱い豆茶(カーフォ)に、甘い焼き菓子、そして何よりも、もこもこに着ぶくれた母の姿。

 

 私たちは向かい合って豆茶(カーフォ)をすすり、焼き菓子を頬張り、それから随分たくさんのことを話した気がしました。

 

 例えば母が亡くなった後のこと。

 父がどれだけ嘆いたか。兄がどれだけ寂しがったか。私がどれだけ泣き喚いたか。

 まあ主に私が泣き喚いて大暴れしたせいで父が嘆き兄は寂しがる暇もなかったそうですけれど、まあそれくらい私は悲しかったのです。

 

 例えば兄が成人し旅に出たこと。

 旅の物語を伝え聞いては、母から聞かされた冒険譚を思い出しました。

 あのいい加減な兄の事ですから話を盛ったり削ったりは当然のようにしていたのでしょうけれど、それでも華々しい冒険の話が、また地味で苦しい旅の話が、母を亡くして一人で過ごすことの多かった私にとってどれだけ救いとなったことでしょう。

 

 例えばトルンペートを拾ったこと。

 妹分ができたと思ったのにあっという間にすくすく育ってお姉さんぶって、実際私も姉のように甘えては迷惑をかけました。

 トルンペートが遊んでくれなければ、きっと私は今でも母の死を引きずって、ろくでもない駄目な奴に育っていたことでしょう。

 

 例えば長い冬を何度も超えて、その度に私も強く大きく成長したこと。

 キノコ狩りに出かけては毒キノコでお腹を下し、魔獣狩りについていけば魔獣と取っ組み合って怪我をしたり、飛竜狩りを見学に行けばうっかり捕まってあわや空から落とされる羽目に陥ったり、たくさんの危機と経験を乗り越えて、私は小さなリリオの頃とは比べ物にならないくらい大きく育ちました。

 

 そして私も成人し、旅に出て、ウルウと出会い、冒険屋になったこと。

 ウルウと出逢ってからの生活は、本当に語っても語っても語りつくせないほどでした。

 森の中で亡霊(ファントーモ)と出会い、亡霊かと思いきやきちんと生きた人であったこと。常識知らずで世間知らずで、潔癖で大金持ちで、恐ろしく強いのにとても弱い人で、笑うととてもかわいいのに滅多に笑ってくれないことだとか、本当にたくさんのことを私は話しました。

 

 母はそのひとつひとつを微笑んで聞いてくれました。

 私のまとまりのない、拙い物語りを、ただただ優しく頷きながら聞いてくれました。

 

「そう、そうなのね」

「リリオは頑張ったわね」

「大変だったわね」

 

 そんな何でもないような相槌が、なんだか胸の深いところまで届いて、強張った古傷を柔らかく癒してくれるようでさえありました。

 

 熱い豆茶(カーフォ)。甘い焼き菓子。優しい母様。

 どこまでも心地よい空間は、離れがたく、いつまでもいつまでも続けばいいのにと、そう願わずにはいられないほどでした。

 

「母様」

「なあに、リリオ」

「母様はもうどこにもいきませんか」

「ええ、勿論」

「もうリリオを独りにはしませんか」

「ええ、勿論」

「ずっと私と一緒にいてくれますか」

「ええ、勿論」

 

 私はその言葉に、柔らかく棘を溶かしてくれる言葉に、そっと豆茶(カーフォ)を飲み干しました。

 目じりに浮かんだ涙を拭い、ゆっくりと立ち上がります。

 

「ありがとうございました」

「……ずっとここにいていいのよ、リリオ」

「本当の母様だったら、そんなこと言いますか?」

「…………」

 

 そう。

 本当の母様はもうどこにもいない。

 母様は亡くなった。

 あの日、私たちの目の前で、飛竜に食われて亡くなった。

 

「もう一度母様の姿を見れて、とても嬉しかったです。でも、もう行かなきゃ」

「行かないでもいいのよ。ここでゆっくり休んでいっていいの」

「皆が待ってます」

「ほかのみんなも休んでいるわ。安らぎ、眠り、休んでいっていいの」

「人は、時には休むことも必要かもしれません」

 

 でも。

 

 私は胸を押さえます。

 そこに確かにあるはずの古傷が、かすれてしまったように感じるその軽さを、押さえます。

 

「時には休むことも大事です。癒さなければならない傷もあります」

 

 でも。

 

「でも、これは私の痛みです。私だけの痛みです。あなたになんか、譲ってはやれない」

 

 母様は死んだ。もういない。

 その死は、その痛みは、私の胸に大きな傷を残していった。

 でもその痛みは私のものだ。

 他の誰でもない私だけのものだ。

 

 その痛みを癒してくれるのは、優しさかもしれない。

 でも身勝手な優しさは、ただただうっとうしいだけです。

 

「私は母の命を失いました。今度はその死さえも奪うというのならば、私はあなたを許しはしない」

 

 しゃん、と剣を引き抜けば、優しい森はたちまち姿を変える。

 

 燃え盛る木々。横殴りの吹雪。血と炎で染まる雪原。

 のしかかるような巨大な影。

 飛竜の息遣い。

 幼い私の悲鳴。

 

 それはあの日の光景。

 母を失ったあの日の光景。

 

「こんな苦しみを抱えていたっていいことはないわ」

 

 母の似姿が優しくもろ手を広げる。

 

「さあ、リリオ。あなたの痛みを私にちょうだい?」

「この、痛みは」

 

 湧き上がる恐れを、痛みを、私は飲み下す。

 忘れるのではない、消してしまうのでもない、我がものとしてそれは受け入れなければならない。

 

「この痛みは、他の誰でもない、私の、私だけの痛みだッ!」

 

 振り下ろした一閃が、懐かしき似姿を斬り伏せた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 鉄砲百合と凍える痕

前回のあらすじ
まやかしの母の姿に心を慰められながら、それでも、その痛みは自分のものだと叫ぶリリオ。
鋭い一閃が、母を斬る。


「まやかし風情が、あたしの名を呼ぶんじゃあない!!」

 

 暖かな暖炉は崩れ去り、いまや火を吐くのはあたしの心臓だ。

 激しく苛烈に、肌を焦がす怒りの炎だ。

 石壁は崩れ、吹雪が再びあたしを襲う。あたしから何もかもを奪おうと襲い掛かる。

 だがそんなものはもう怖くない。

 あたしの中の炎が、そんなものは焼き尽くすから。

 

「いいえトルンペート。無理なんかしなくていいんです」

「そうだトルンペート。お前の帰るべき家はここにある」

「お休みトルンペート。今はただ安らかにお休みなさい」

 

 リリオの、御館様の、ティグロ様の、声を、真似するんじゃあない。

 みんなはそんなこと言いはしない。

 そんなものはまやかしの優しさに過ぎない。

 

 あたしの中の傷を、痛みを、柔らかく溶かして奪い取るやつがいる。

 でもそれは、その痛みはあたしのものだ。あたしだけのものだ。

 

 捨てられるかもしれない、見限られるかもしれない、リリオを失ってしまうかもしれない、帰るべき場所を失ってしまうかもしれない、それは確かに例えようのない恐怖だ。

 

 でもそれは、それを恐れるということは、ただあたしに意味もなくつけられた傷痕じゃない。

 失うことを恐れるその気持ちは、あたしが受け取ったものがそれだけ大きいということだ。

 

 あたしにはなにもなかった。

 あたしにはなんにもなかった。

 

 親もなけりゃ名前もなかった。

 意味もなけりゃ意地もなかった。

 あたしにあったのは叩きこまれた殺しの技だけ。

 

 あたしにはなにもなかった。

 あたしにはなんにもなかった。

 

 殺し屋と言うほど立派なものではなかった。刺客と名乗れるほど鋭くもなかった。

 あたしは使い捨ての一石だった。

 ただ一つの方法だけを覚えこまされ、その一つを確実に遂行するようにと育てられた、使い捨ての殺人装置だった。

 

 あたしにはなにもなかった。

 あたしにはなんにもなかった。

 

 あたしは鉄砲玉だった。

 やれ、という炸薬一つで、ぴょんと飛び出てナイフで突き殺す、それがあたしの仕事だった。

 

 あたしにはなにもなかった。

 あたしにはなんにもなかった。

 

 それに失敗した後、本当に何にもなくなったあたしを、リリオは拾い上げてくれた。

 御館様があたしの面倒を見てくれて、女中頭があたしを育て上げてくれた。

 

 なにもなかったあたしに、なんにもなかったあたしに、名前をくれた、生き方をくれた、生きる意味をくれた。

 何もなかった空っぽのあたしに、零れ出るほど何もかもを詰め込んでくれた。

 

 あたしは捨てられるのが怖い。

 あたしは失うのが怖い。

 

 でもその痛みは、あたしだけのものだ。

 

 みんなが詰め込んでくれた沢山の宝物が、あたしにとってかけがえのないものだから、これ以上ないほど大事なものだから、そう、だからこそ感じる恐れなんだ。

 

 ならばこの恐れだって、この痛みだって、あたしのものだ。あたしだけのものだ。

 他の誰にも、渡しはしない。

 

「お前はあたしの痛みを柔らかく奪う。ああ、きっとそいつは優しいことよ。でもね、お呼びじゃないのよ、このトルンペート様は。あんたみたいなやつはお呼びじゃない。あたしの痛みはあたしのもの。あたしの恐れはあたしだけのもの。お前にやるものなんか、少しだってありはしないわ!」

 

 あたしの心臓からあふれ出す炎が、まやかしの部屋を焼き尽くす。

 あたしの振るう銀のナイフが、いつわりの部屋を引き裂いていく。

 

 さあ目を覚ませトルンペート!

 

 焼き尽くす炎に飛び込めば、視界は真っ白に染め上げられて、そして、

 

 

 

「かっ、はっ……!」

 

 

 

 呼吸を取り戻す。

 

 がばりと起き上がれば、そこはさっきと変わらない森の中。

 そばにはリリオとウルウが仲良く転がっている。

 あたしはどこにも行ってなどいなかった。

 最初から一歩も進まず、ここで眠りに落ちて夢の中を彷徨っていたんだ。

 

 勢い良く立ち上がろうとすれば、視界がふらつき、込み上げる吐き気にうずくまる。

 酷く酒に酔った時のような、理不尽な気持ち悪さだった。

 

「おや、起きたてで無理はなさらない方がいいですよ」

 

 慇懃無礼な声に顔を上げれば、そこにはのんびりと切り株に腰を下ろしたパフィストの姿があった。

 

「あんた……いったい、なにを……」

「一つの試験ですよ、これも」

「し、けん……?」

 

 パフィストの奴は至極どうでもよさそうにあたしたちを見下ろして、薄く笑った。

 

「この《迷わずの森》は《甘き声(ドルチャ・コンソーロ)》という夢魔の住処なんですよ。キノコの仲間らしいんですけどね、この魔獣の胞子を吸うと、人は優しい夢の中で柔らかく溶かされます。人は苦痛からは逃げようとするものですけれど、柔らかい慰めからはなかなか抜け出せないもので、そうこうするうちにすっかり心を溶かされて廃人になり、そのまま苗床になるという始末です」

 

 成程。先程まで見ていた夢はその《甘き声(ドルチャ・コンソーロ)》とやらの仕業らしい。

 あたしはこうして抜け出せたけど、二人はまだ夢の中だ。早く起こさなければと手を伸ばすけれど、パフィストに止められる。

 

「おっと、無理に起こすのはやめた方がいいですよ。いまお二人は心の柔らかい部分を啄まれているところです。無理矢理起こすと、深い傷が残りますよ」

「この……そもそもあんたのせいでしょうが……っ!」

「それが何か?」

「なっ……!」

「言ったでしょう、試験ですよ、試験。冒険屋としてやっていくなら、これくらいのことでつまづいたんじゃあやっていけない」

 

 そう、かもしれない。

 そうかもしれないけど。

 

「あんたのやり口は、好きにはなれないわね」

「悲しいですねえ」

 

 頭のふらつきは落ち着いてきたけれど、体力を使い果たしてしまったかのように、体に力が入らない。

 夢の中での消耗は、体にも響くということだろうか。

 

 まるで死んだように静かに寝入る二人の寝顔を、あたしはそっと見守ることしかできなかった。




用語解説

甘き声(ドルチャ・コンソーロ)
 乙種魔獣。夢魔。キノコの一種で、地中に広く菌床を広げる。子実体は普通のキノコと変わりない地味なものだが、周囲の水分に混ぜ込んで靄のようにして胞子を放ち、吸い込んだものを深い眠りに落とす。
 夢の中で甘き声(ドルチャ・コンソーロ)はその者の抱える心の傷を掘り出し、その痛みを吸い取って心を癒す。
 程々であれば治療にもなるが、人はやがて苦痛から解放されることで心をぐずぐずに溶かされ、最終的には廃人となり、その肉体は苗床となる。
 


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 亡霊とその痛みの名

前回のあらすじ
まやかしを見破り、甘き声(ドルチャ・コンソーロ)のもたらす夢から目覚めたトルンペート。
残る二人の安否は……。


 眠い。

 とても、眠い。

 

 まるで深い泥の底にでも沈んでしまったかのように、体が重く、頭が重く、心が重い。

 

 思えば私はいつもそうだった。

 いつだって重たい体を引きずって、重たい頭を巡らせて、重たい心で生きてきた。

 

 でも今日は、駄目だ。もう、駄目だ。

 

 立ち上がるだけの気力がない。瞼を開く気力がない。指一本だって、動きはしない。

 

 もういいじゃないかと、声が言う。

 もういいじゃないか、こんなにも頑張ったんだから。

 

 もう休もうよと、声が言う

 もう休もうよ、こんなにも疲れたんだから。

 

 そうかもしれない。

 そうなのかもしれない。

 

 私は頑張って、私は疲れて、もう立ち上がることもできない。瞼も開かない。指一本だって、動きはしない。

 誰にも褒められず、誰にも認められず、何者にもなれないまま、流されるように生きてきた。

 

 私はただ褒められたかった。認められたかった。

 誠実さなんて要らなかった。嘘でもよかった。

 私は生きていてもいいんだって、ただそう言ってほしかった。

 そう言ってほしかっただけなんだ。

 誰かに。誰でもいいから、誰かに。

 

 だから、もう、いい。

 もう、疲れた。

 

 もう、後は沼に沈むように、ゆっくりと休みたい。

 沈みたい。

 死んでしまいたい。

 

「……ああ」

 

 なのに。

 なのにどうしてだろうか。

 

 私は立ち上がらない体を引きずって、重たい瞼を持ち上げて、鉛のような手足を動かして、それでもこの沼から抜け出そうともがいている。

 

 もういいじゃないかと、声が言う。

 もういいじゃないか、こんなにも頑張ったんだから。

 

 もう休もうよと、声が言う

 もう休もうよ、こんなにも疲れたんだから。

 

 そうかもしれない。

 そうなのかもしれない。

 

 そう思うのに、けれど、私はそれでも進むのを止められない。

 体が重くて、頭が重くて、心が重くて、それでも、それでも、それでも。

 

 どこに向かったって、どこに行ったって、きっと何にもありゃしないし、きっと何にも報われない。

 そんなことわかってる。いままでだってそうだった。

 何者にもなれなかった私が、いまさらどこへ行ったって、いったい何になるって言うんだ。

 

 もういいじゃないかと、声が言う。

 もういいじゃないか、こんなにも頑張ったんだから。

 

 もう休もうよと、声が言う

 もう休もうよ、こんなにも疲れたんだから。

 

 そうかもしれない。

 そうなのかもしれない。

 

 だから、だけど、私は言ってやる。

 

「うるっさい!」

 

 頭の中にこびりつくような声どもに、苛立ちとともに吐き捨てる。

 

 うるさい、うるさい、うるさい。

 わかっている。

 何にもならない。何にもなれない。何も生み出せず、何も創れない。

 私はきっとそういうやつだ。紛い物を積み上げてできた紛い物の人形だ。

 

 でも、それでも、信じたいなと思うものができたんだ。

 信じてもいいかなって、そう思えるものができたんだ。

 

 私みたいな亡者には、眩しくって仕方がないけれど、それでも、その行く先を見てみたいなって、その目がどんな景色を見るのか、一緒に見てみたいなって、そう思える人ができたんだ。

 

 それはきっと易しいことじゃあない。

 私は何度も挫折して、何度も傷ついて、何度ももう嫌だってこぼすことだろう。

 

 でもそれは、これからのことだ。

 

 どっぷりと腰までつかった、タールみたいな過去の事じゃない。

 前を見て、前に歩いて、自分の目で見てみなけりゃ始まらない、これからの事なんだ。

 

 それに、そう。

 私がどれだけくすぶってても、もう嫌だってうずくまっても、きっと許してくれはしないんだ。

 

 真っ暗なタールのような世界に、ばりばりと鋭い刃が斬りこんでくる。

 やかましくも騒々しく、雷を伴った剣が優しい闇を切り開いていく。

 

 そうだ、君は、そういうやつだ。

 私が放っておいてほしいって言っても、首根っこ掴んで齧り付きの最前席に座らせてくるんだ。

 

 これから私は、今までにない程の痛みと苦しみにさいなまされることだろう。

 もう嫌だ、勘弁してくれって、どれだけ叫んでも許してくれない、嵐のような現実に放り込まれることだろう。

 

 でも。

 

 でもいまは、不思議とその痛みが心地よい。

 

 何故ならその嵐は、まず真っ先に私の名を呼ぶからだ。

 

「ウルウ!」

 

 だから、そうだね、私もたまには応えよう。

 

「リリオ!」

 

 それが私の痛みの名だ。




用語解説

・痛みの名
 自分を変え得るものは、時に痛みを伴う。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 ファントム・ペイン

前回のあらすじ
閠が見た痛みの形、そして希望の形は、雷を伴う剣の形をしていた。


「父は不器用な人だったよ。人を愛することができなくて。人の真似をすることができなくて。人であることを何とか苦労してこなしているような、そういう人だった」

 

 目を覚まして、ぼんやりした頭でぽつりぽつりと語ったのは、父のことだった。

 

「私は最期まで、父のことがよくわからなかった」

 

 父はいつも変わらない質問を繰り返した。

 

「変わりはありませんか」

「困ったことはありませんか」

「何か必要なものはありませんか」

 

 そして私が返すのはいつも同じ。

 特に、何も、大丈夫です。

 

 自分が死ぬとわかっていただろう、あの最後の夜でさえも、父の問いかけは変わらなかった。

 あの質問は、いったい何だったんだろうか。

 

 リリオは少しの間考えて、そしてこう答えた。

 

「安心したんじゃないでしょうか」

「安心?」

「ウルウのお父様は、きっと、娘のウルウのことも、理解できなかったんだと思います。だからいつも聞いていたんです。言葉にして、ウルウのことを理解しようと」

「私のことを?」

「ええ。だから本当に、きっと文字通りのことを尋ねていたんですよ」

 

 文字通りの、こと。

 

「変わりはありませんか」

「困ったことはありませんか」

「何か必要なものはありませんか」

 

 ああ、そうだ。

 意味なんて、決まっているじゃあないか。

 ()()()()だ。

 そのままに決まっている。

 変りはないか、困ったことはないか、必要なものはないか、ただそれだけのことを、尋ねていたに過ぎないじゃあないか。

 娘を案じる、父の問いかけに、深い意味なんてあるものか。

 

「だから、大丈夫だよって答えたウルウに、安心したんですよ。もう自分がいなくなっても大丈夫だって」

 

 そんな、そんなことはなかった。

 ただ他に応える言葉を持たなかっただけで、私は全然大丈夫じゃなかった。

 私は父のことを理解できなくて、父も私のことを理解できなくて、それでも父は私の父で、私は父の娘だった。

 

 私たちは愛の形を知らなかった。互いの愛を理解できなかった。

 けれど。

 それでも。

 それが愛だったというのならば、私たちは確かに愛し合っていたのだと思う。

 

 あの問いかけは、そのまま娘を案じる問いかけだった。

 それは、きっと父なりの愛してるだった。

 私はいつも同じ答えを返していた。父を不安がらせないようにと、大丈夫だと。

 それは、きっと私なりの愛してるだった。

 

「私、不安だったんだ。私は要らない子だったんじゃないかって。母を殺して生まれてきたんじゃないかって」

「ウルウ、それは、」

「ずっと思い出さないようにしてた。でも、違ったんだ。母は、母は確かにこう言ってたんだ」

 

 

 この子の名前は閠よ。

 閏年の閠。

 足りない一日を補って、一年を綺麗に回してくれる。

 きっとこの子は、人のことを思い遣れる子に育つわ。

 (わたし)はここで終わるけど、でもそれは閠に任せてお休みするだけ。

 軅飛(たかとぶ)君のことをよろしくね、閠。

 

「私は、ずっとその言葉から目を逸らしてた。余り物の閠って、そう言われた方が納得できたから」

 

 でも、それでも、思うのだ。

 母が望んだように、私は父の閠になれただろうかと。

 

「……さあ、それはわかりません」

 

 でも、リリオは優しくなんてない。

 

「それはウルウの痛みですよ」

 

 ああ、そうだ。

 その通りだ。

 

 それは私がこの先、ずっと抱えていかなくてはならない、そして私以外の誰にも譲ってあげられない、私だけの痛みだ。この見えない痛みこそが、私が確かに受け取った愛なのだ。

 

 この痛みが、私なんだ。

 

 

 

 

 

 

「いい話っぽいところ申し訳ないんですけど、そろそろこの猛犬どうにかしてもらえませんかね」

「それはパフィストさんの痛みということで」

「参ったなあ」

「がるるるるる!」

 

 余韻は台無しだけど、元凶であるパフィストは現在怒り狂ったトルンペートに追いかけられて、ナイフの雨をかわし続けているところだ。

 さすがに私たち駆け出しとは違い凄腕の冒険屋だけあって歯牙にもかけていないが、まあ、殴り飛ばしたい気持ちは同じだし、しばらくはああして遊んでもらおう。

 

 ……いや、気持ちだけじゃなんだし、折角だから私も殴りに行こうか。

 

「いや、さすがに二対一はどうかと」

「じゃあ三対一で」

「うへぇ」

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

 とまあ、ことの顛末はそのような次第でしたよ。

 

 え? やりすぎ?

 やだなあ、僕らだって同じ経験積んでるじゃないですか。

 遅かれ早かれ経験することなら、早いうちの方がいいですよ。

 

 それに、結局合格させたいんですか? それとも失格させたいんですか?

 

 僕はどちらでもいいんですけれど、あなたはそうもいかないでしょう。

 煮え切らない態度は自分の首を絞めますよ、メザーガ。

 

 やあ、怖い怖い、僕に当たらないでくださいよ。

 

 ウールソの試験は真っ当な形になるでしょうし、そうなるといよいよ時間はないですよ、メザーガ。

 

 ああ、いたた、まさか二発も喰らうとは思いませんでしたよ。

 顔は止めてくれって言ったんですけどね。

 約束通り、しばらくは有給貰いますからね。




用語解説

・ファントム・ペイン
 幻肢痛。失ったはずの手足に痛みを感じる症状の事。
 ここでは失ったものを痛みという形で抱え続けていくことを指している。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六章 秋の日のヸオロン
第一話 亡霊とリベンジ・ザ・キノコハント


前回のあらすじ
痛みの形、痛みの名。
それぞれの痛みを受け入れ、あるいは乗り越え、《三輪百合(トリ・リリオイ)》は見事キノコ狩りに失敗するのだった。


「キノコ狩りしましょう」

「懲りてないの?」

「あれはキノコに狩られかけた奴じゃないですか! 今度はもうちょっとこう、安全な奴ですよ!」

 

 この世界における安全という言葉の基準に関していろいろと確認が足りていない気がするのだけれど、多分リリオ基準の安全は私から言わせれば「大いに疑問の余地あり」だな。

 

「で、今度は何? 二本足で歩くキノコ?」

「さすがに湿埃(フンゴリンゴ)の人は食べないですよ」

「なんて?」

 

 久しぶりにニューワードが出てきたので小首を傾げれば、さすがに察し良くリリオも説明してくれる。

 

湿埃(フンゴリンゴ)というのは隣人種の一つです。といっても、森の奥深くに住んでいるので、あんまり人族と生息圏が重ならないんですけれど」

「里湿埃(フンゴリンゴ)ってのはいないの?」

「うーん、聞いたことないですね。というか、湿埃(フンゴリンゴ)って個人という概念が乏しいんですよ」

 

 詳しく聞いてみると、どうもこの湿埃(フンゴリンゴ)という隣人種は、キノコや菌類の仲間であるらしい。というか人型のキノコと言っていいらしい。厳密には地中や木々に根を張った菌糸がその本体で、人型の部分は子実体、つまりキノコにあたり、要するに遠隔操作のお人形であるようだ。

 隣人種とは言っても他の隣人たちと比べてかなり価値観や精神構造が異なるらしく、森の中で行き倒れた旅人の死体なんかに寄生して苗床にしたり、そのまま遠隔操作の人形のガワとして使ったり、忌み嫌われるようなことを悪意なくやったりするらしい。

 

 とはいえ、別に敵対的ということはなく、生きている隣人種に攻撃を加えたり価値観を押し付けたりということもなく、単に死生観や価値観がどうしても違い過ぎるということらしい。

 

 それで、個人という概念が乏しいという部分だが、これはなかなか面白かった。

 湿埃(フンゴリンゴ)の本体は地中の菌糸だといったが、この群体は菌糸が繋がっている限り全て同じ個体であり、そこから生み出される子実体もまた同じ群体の意識を反映しているものであるらしい。なので同じ群体から生み出される湿埃(フンゴリンゴ)の人形たちは等しく「私たち」であって、「私」という個体感覚で行動することはないそうだ。

 

 うーん。

 人形とか子実体とかいう言い方をするから分かりづらいのかな。

 言ってみればこの子実体は、人の形をしているけれどあくまで本体から切り離された手足なのだ。手足がそれぞれに意識を持つことはない。まあその場その場で状況判断する程度の意識はあるんだろうけれど、それは自我ではない。あくまでも本体に遠隔操作される手足なのだ。

 

 で、この湿埃(フンゴリンゴ)の群体は基本的に地域ごとに一つずつしかないようで、というか広すぎる範囲を侵食しているのであんまり近いと競合してしまうようで、「他の湿埃(フンゴリンゴ)の群体」と遭遇することが稀過ぎて、いまいち人付き合いというものがわかっていない節があるらしい。

 

「あ、でも、これは経験次第ということでもあって、人族と昔から付き合いがあって人慣れしている群体もあるそうですよ」

「人慣れ」

「これなんか有名ですよ」

 

 と言って渡されたのは何の変哲もない紙切れである。

 

「それ作ってるの、中央部の湿埃(フンゴリンゴ)らしいですよ」

「……紙を? なんで?」

「それ菌糸で作ってあるらしいです」

「…………!?」

 

 やけにきれいな紙だと以前から思っていたが、植物紙どころかキノコ紙であったらしい。

 

「え。それってつまり、血肉を削って作ってるようなもんじゃないの?」

「というよりは、伸びすぎた爪とか髪とかを切って再利用してるような感覚らしいですね」

 

 そんなものなのか。

 こうして改めてみても、とてもキノコがキノコから作っている紙とは思えない。コピー用紙ほど、とは言わないけれど、非常に品質の高い紙だ。どこかで大規模に紙漉き、下手すると工場でもおっ立てているのかと思っていたが、まさか菌類産の紙だとは驚きである。

 

「何気に湿埃(フンゴリンゴ)の作る紙って、水に濡れても破れにくいし、変質もしないし、火にも燃えにくいと羊皮紙より便利な所も多いんですよね」

「え? それが? そんな高品質の紙がこんな安価で出回ってるの?」

湿埃(フンゴリンゴ)からするとお風呂入って垢落とすのと同じ感覚らしいですから」

「馬鹿なの?」

 

 紙というのがどれほど偉大な発明なのか理解していないにもほどがあるのではなかろうか。人族も人族でこの偉大な発明を安易に受け入れ過ぎだろう。

 あ、そう言えばこいつら紙の方が先に大量に入ってきたせいか、いまだに活版印刷も発明できてないから有効活用できずに持て余してやがるのか。そりゃ塵紙が安値で店頭に並ぶわ。助かるけど。助かるけど!

 本が全部手書きによる筆写か、魔法による転写しかないんだよなこの世界。魔法による転写ってすごそうだけど、術者頼りだから大量生産に向かないんだよな。いや、まあ活版印刷とかに比べてって話ではあって、これでも筆写より恐ろしく速いは速いんだけど。

 

 あーでも中央から入ってきた本とか、たまに印刷っぽいのがあったりするから、一部では活版印刷機とか出回り始めてるのかな。もっと活用しろよ文明の灯だぞ馬鹿野郎。

 これだけ優秀な紙が八割近く塵紙にしか使われてないって文明に対する叛逆だとすら思えるね。

 

湿埃(フンゴリンゴ)すごいな……ホントすごいな……」

「ウルウがここまで素直に感動してるの久しぶりに見ました」

「もう森に足向けて眠れないな……」

「え?」

湿埃(フンゴリンゴ)すごいなって話」

「はあ」

 

 自動翻訳が便利過ぎてたまに忘れるけど、たまに慣用句とか通じないことがあるんだよな。慣用句くらいならまあ説明すればいいから困らないんだけど、ジョークなんかが通じない時は困る。

 私からジョーク言うときってあんまりないからそっちはいいんだけど、向こうから異世界ジョークかまされても、下手すると私の方がジョークだと気づかずにスルーする場合さえあるからな。

 

 幸いにして、今のところ慣用句とかことわざとかをこれ見よがしに使ってくるキャラ付けの奴とは遭遇してないから助かるけど、もし今後そういうやつと遭遇したら私はどうすればいいんだ。慣用句辞典とか買わないといけないのか。そんな面倒くさいキャラ付けの奴と会話するとか、それだけで日が暮れそうだ。

 

「で、なんだっけ。湿埃(フンゴリンゴ)って食べられるかって話だっけ」

「いい出汁は出そうですけど……っていくら何でも猟奇的過ぎますよ!」

「ああ、そうなんだ」

 

 人に似た形してても小鬼(オグレート)とか豚鬼(オルコ)とかは普通に害獣として始末するのに、人と根本的に価値観の違う群体生物は隣人扱いするっていう感覚がいまだによくわからない。

 交易共通語(リンガフランカ)を与えられることで隣人という枠組みができたらしいから、言葉通じない奴はぶっ殺していいという風に神様が決めた、と判断しているのかもしれないが、どこの鬼島津だこいつら。

 もし自動翻訳が働いてなかったら、私リリオに殺されてても文句言えなかったんじゃなかろうか。そこまでひどくなくても、頭のいい愛玩動物くらいの扱い受けてたかもしれん。いまの私がリリオを半ばそういう目で見ているように。

 

「キノコ狩りですよキノコ狩り! パフィストさんのせいで前回はあんまり楽しめませんでしたから、折角の秋の味覚を楽しみたいんですよう」

「あんまりとか言えるあたりほんとリリオって図太いよね」

 

 いまだにパフィストのクソにさん付けしてるあたりもそうだ。

 あれだけ一方的に上から目線で試験とかなんとか言われて、一発ぶん殴っただけで以前と同じ付き合いができるリリオの神経は見習い……たくないな、別に。うん。トルンペートとか露骨に毛嫌いしてるし、私も積極的にお喋りしたい相手ではない。

 パフィストの嫌な所は、あれが悪意からやったことじゃなくて、純粋に冒険屋の先輩として試しただけというその一点だよな。そりゃ天狗(ウルカ)が嫌われるわけだわ。

 

「しかし、キノコ狩りねえ」

「山菜狩りとか、害獣狩りとか込みでもいいですけど」

「なんらのお得感も感じない」

「いまなら可愛いリリオちゃんがついてきますよ!」

「いつもついてるでしょ」

 

 さて、ともあれ暇なのは確かだ。

 季節はめっきり秋となり、冒険屋は秋の収獲依頼でこぞって山へ消えたが、街中のドブさらいや迷子のおじいちゃん探しといった依頼には、農閑期で暇になった農民たちによる季節冒険屋たちがわんさと集まってきている。臨時冒険屋たちの需要にたいして、依頼の供給は少ないといった具合だ。

 

「良いですなあ、キノコ狩り。この時期のヴォーストはやはり山の幸が、旨い」

「あ、やっぱりそうですか?」

「うむ、うむ。拙僧も依頼がないときはよく山に籠って山の幸を楽しんだもの。良いものですぞ」

「今のヴォーストでおいしいものというと何ですか?」

「そうですなあ。定番と言えば定番ではありますが、角猪(コルナプロ)など脂がのって食い頃かと」

角猪(コルナプロ)……! 夏にも食べましたけど、やっぱり秋ですよねえ!」

「うむ、うむ。脂の乗りが違いますからなあ。それに餌が違う。団栗(グラーノ)の類を好んで食う猪肉は、味が別物と言っていいですな」

「ふわぁ……ウルウ、ウルウ! やはり秋と言えば山の幸ですよ!」

「あっさり乗せられてやがる」

 

 しれっと乙女の会話に入り込んできたのは、私よりも頭一つは大きい熊の獣人(ナワル)ウールソであった。幅などは私二人分くらいはありそうな巨漢であるくせに、気配も立ち居振る舞いも静かで、それこそ最初にすれ違った時は熊木菟(ウルソストリゴ)が人に化けたのかと思うほどだった。

 

「まあ、まあ、そう仰るな。嫌なことは面白きこととまとめてしまった方が飲み下しやすいもの」

「というと……あんたもやっぱり?」

「僧職の身と言えど、何しろ雇われでもありますからなあ。所長殿のご依頼とあらば致し方なし」

 

 試験の時間であった。




用語解説

湿埃(フンゴリンゴ)(Fungo-Ringo)
 森の神クレスカンタ・フンゴの従属種。巨大な群体を成す菌類。
 地中や動植物に菌糸を伸ばし繁殖する。
 子実体として人間や動物の形をまねた人形を作って、本体から分離させて隣人種との交流に用いている。元来はより遠くへと胞子を運んで繁殖するための行動だったと思われるが、文明の神ケッタコッタから人族の因子を取り込んで以降は、かなり繊細な操作と他種族への理解が生まれている。
 群体ごとにかなり文化が異なり、人族と親しいものもあれば、いまだにぼんやりと思考らしい思考をしていない群体もある。

・キノコ紙
 帝国中央部に生息する湿埃(フンゴリンゴ)の一群体は、極めて珍しいことに人族と里を同じくする里湿埃(フンゴリンゴ)である。この一群はかなり以前から人族との交流があったようで、人族の価値観をかなりのレベルで理解しており、一方でこの里の人族も湿埃(フンゴリンゴ)の文化に対して高い理解を示している。
 例えばこの里の人族は埋葬を全て湿埃(フンゴリンゴ)の群体に埋め込むという形で行っており、若く傷の少ない死体などはそのまま人形の素体として使われることもあるという。
 この里では古くから川辺まで侵食してしまった菌糸が水に流されるという事例があったのだが、この菌糸を回収して糸車で紡いで織物にしてみたところ好評。このことから菌糸織物や菌糸紙などが発展し、近代では帝国内の紙の需要の七割近くはこの菌糸紙であるという調査報告がある。
 性質としては、水濡れしても破れにくく変質も少なく、また火にかけても燃えづらいという特色がある。
 実はまだ生きていて、湿埃(フンゴリンゴ)間でだけ理解できる言語を用い、密かに帝国の内情を傍聴している、などという噂があるそうだ。

・転写魔法
 水属性の魔法。紙に書かれたインクに魔力を通して形状を記憶し、インクツボの中のインクにこの記憶を転写。別の紙にこのインクを魔法で走らせて、記憶通りの形に並べる、というのが大雑把な理論。
 術者の技術次第だが、熟練の術者だと日産十冊とか二十冊とか平気でやる上に、筆写と比べて誤字脱字等もかなり少ないため、まだそこまで書籍に需要がないこの世界では活版印刷の必要性が乏しいようだ。
 それでも帝都などを始めとして印刷技術の開発は行われているようではある。

・・豚鬼(オルコ)(Orko)
 緑色の肌をした蛮族。魔獣。動くものは基本的に襲って食べるし、動かないものも齧って試してから食べる非文明種。
 人族以上の体力、腕力と、コツメカワウソ以上の優れた知能を誇る。
 角猪(コルナプロ)を家畜として利用することが知られている他、略奪した金属器を使用する事例が報告されている。

団栗(グラーノ)(Glano)
 ブナやカシなどの木の実の総称。いわゆるドングリ。
 我々が良く知る大人しいドングリの他、爆裂種や歩行種、金属質の殻に覆われたものなども存在する。

獣人(ナワル)(nahual)
 文明の神ケッタコッタを裏切りその庇護を失った人族が、獣の神アハウ=アハウ(Ahau=ahau)に助けを乞い、その従属種となった種族とされる。
 人族に獣や鳥、昆虫の特徴を帯びた姿をしており、これはその特徴のもととなる動物の魂が影の精霊トナルとして宿っているからだという。
 トナルは生まれた時に決定され、これは両親がどのようなトナルを宿しているかに関係なく決まる。そのため、熊の獣人(ナワル)と猫の獣人(ナワル)からカマキリの獣人(ナワル)が生まれるということも起こりうる。とはいえ、基本的には接触することの多い同じトナルを宿して生まれてくることが多い。
 どの程度獣の特徴が表出するかは個人個人で違うが、訓練によって表出部分を隠したり、また逆に獣の力を大きく引き出すこともできるとされる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 白百合はここをキャンプ地とする

前回のあらすじ
懲りずにキノコ狩りに挑戦しようとするリリオ。
それに便乗して試験を持ち掛けてくるウールソ。
なんだこれ、と思わずにいられない閠であった。


「今度は妙な魔獣は出ないだろうね」

「そう言うと思いましてな。場所の選定はトルンペート殿にお任せし申した」

「任されたわ」

「なら安心だ」

「そして今なら可愛いリリオちゃんもついてきます」

「なら心配だ」

「なーにをー!?」

 

 さて、善は急げと準備を整える必要もなく、我々は早速山へやってきました。何しろ前回ろくにキノコ狩りする前に全員意識を刈り取られるという状況に陥ったため、道具はほとんどそのまま残っていたからです。ならばあとは食い気だけ、もとい勇気だけです。

 

 さすがに二度目となると私たちも警戒していたのですけれど、ウールソさんは至って鷹揚で、場所決めに関しても私たちの選定にこれと言って口を出すこともなく、精々ここはこれこれこういうものが採れますなだとか、この辺りは鹿雉(セルボファザーノ)を見かけることがありますなだとかそういう助言を頂けたくらいです。

 私は山慣れしていますし、トルンペートも養成所でみっちりしごかれただけあって基本は抑えていますけれど、やはり地元の人ならではの知識や経験は大事です。

 最終的にはウールソさんに角猪(コルナプロ)のよく見かけられる辺りを教えてもらって、その中から選定するという形をとりました。

 

 私たちはもうすっかり慣れた足取りで山に踏み込み、息の合った連携で見事にぐいぐい進み、目的地へたどり着きました。いろいろはしょったのは私が道を間違えかけたり、好奇心に駆られたウルウが行方不明になりかけたりしたあたりですのでお気になさらず。

 

 さて、目的地となるのは、川から少し離れた開けた地点でした。

 私たちはここに野営を張り、拠点とするつもりなのでした。

 

 旅の最中でしたら、野営地というものはもう少し日が傾いてから決めるものですけれど、今日はどっしり腰を据えて狩りをし、採取を行い、腹を満たすのが目的ですから、先に野営地を決めてしまうのが良いのです。

 

 野営地として開けているというのは大事ですけれど、川から少し離れているというのも大事です。

 川からあまり離れていると水に不便しますけれど、あまり近すぎるとこの季節は冷え込んで仕方がありません。このあたりの塩梅は難しいものですけれど、なにしろここは辺境近くとしては都会にあたるヴォーストのお膝元。すでにたくさんの冒険屋や狩人たちが利用した形跡がある安心安全の野営地です。

 

「変な魔獣も出ないでしょうしね」

「いやあ、その節はパフィスト殿がご迷惑を」

 

 ちょっとした毒を吐いてしまいましたが、ウールソさんは鷹揚です。というかもはやパフィストさんの悪行三昧に関してはお手上げのようです。いや、あれで本人は全く悪意も悪気もないどころか良いことをしたと思っているくらいらしいですから、そりゃあお手上げにもなるでしょうけれど。

 

 さて、私たちは早速手分けしてここを立派な野営地とするべく準備を始めました。

 

 まず、ウールソさんは監督役として口は出すけれど手は出さないということで休んでいただきます。これはパフィストさんという悪い前例があるのでトルンペートが警戒したのもありますけれど、ウールソさん自身がお手並みを拝見したいとのんびりおっしゃったからで、これはちょっと緊張します。

 何しろベテランの冒険屋と比べられた時に自分たちの手際がどんなものかというといささか自信がありません。ましてやそのベテランの冒険屋にじっくり眺められながらとなると、緊張します。

 

 トルンペートも少し視線は気になるようですけれど、それでもさすがは教育を受けた武装女中。見ていてほれぼれする程の所作であっという間に竈を組み上げ、道々拾ってきた枯れ枝で焚火を組み、早速火をつけています。今日の夕食は角猪(コルナプロ)鍋にすることが決まっていますので、いくらか大きめに竈は組まれていますね。

 

 焚火というものは野営でまず一番大切と言っていいでしょう。何がなくても火は大事です。獣避けにもなりますし、何より暖を取るというのは人間の体にとって不可欠です。いまは秋なので勿論ですけれど、夏であっても夜というものは冷えるもので、寝入っている時の人の体というものは思っている以上に冷たくなるもので、ここに焚火の暖があるとなしとでは大いに変わってきます。

 まして冬場ともなれば、大真面目に命にかかわります。

 

 さて、こちらは人の視線など全く気にしていないかのようで、その実全てから目を逸らして心の平衡を保っているウルウですけれど、《自在蔵(ポスタープロ)》をごそごそとあさって何か取り出し、取り出し……ました。はい。取り出しましたけれど。

 

 えーと。

 

「ウルウ、それは」

「テント」

「テント」

「えーと、天幕」

「いや、わかりますけれど」

 

 そりゃあ見ればわかりますけれど、でもまさか組み上げた状態の天幕をそのまま《自在蔵(ポスタープロ)》から引きずり出すとか誰が思うでしょうか。それも二張り。

 慣れない仕草で、それでもしっかりとした手順で杭を打って固定していくウルウの背中はなんだか初々しくて愛らしいものですけれど、それはそれとして相変わらず出鱈目なウルウにちょっと呆れもします。

 

「いやはや、話には聞いておりましたが、これは豪快ですなあ」

 

 ウールソさんもこれには苦笑い。

 そり上げた頭をつるりと撫で上げながら眺めておられます。

 

 天幕は、ウルウの不思議道具なのでしょうか。つやつやと奇妙な光沢がありながら、しっとりとした暗色で悪目立ちするということがありません。触ってみても、布のようで布でなし、革のようで革でなし、なんだか不思議な手触りです。

 

「これは《宵闇のテント》」

 

 あっ、はじまりました。ウルウのいつもの詩吟です。詩吟っぽい独り言です。いや、ちゃんと聞いてますけれど。

 

「夜の闇に溶け込むこのテントは、魔物の目から逃れ、ささやかな憩いの時を旅人に与えるだろう」

 

 なるほど。つまり気配を遮断して、魔獣や害獣に気づかれにくくする効果があるようです。

 

「そして快眠+3」

「快眠+3」

 

 よくわかりませんがぐっすり眠れそうなのは確かです。

 

「組み分けどうしましょうか」

「……うーん。図体の大きさ的に、大きいのと小さいので分けようか」

「いや、拙僧も僧職の身なれど男でありますからな、御三方で使っていただいて」

「いや、さすがにそういう不公平は良くない」

「でも無理に同衾するというのも、ウルウの言っていたせくしゃるはらすめんとなのでは?」

「で、あるよねえ」

「これだけ大きい天幕ですし、小さいの二人と大きいの一人なら何とか入るんじゃ?」

「まあパーティ用だしなあ、もともと」

 

 すこし相談して、結局一張りをウールソさんに使ってもらい、もう一張りを私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》で使うことにしました。

 

「見張りは立てなくていいの?」

「この辺りは人の往来も多い故、魔獣も盗賊もまず出ませんからなあ」

角猪(コルナプロ)は?」

「少し歩いて狩りに行く必要がありますな」

「では早速! 早速狩りに行きましょう!」

「血の気が多いなあ」

「食い気の方では?」

「違いない」

「なーにをー!?」

 

 でもまあ、間違いでもありませんので反論もできません。血の気も食い気も十二分でありますから。

 食い気。そういえば狩りが成功することを前提で考えていましたが、失敗した時のことも考えて罠でもかけておきましょう。鼠の類でも捕れればもうけものです。

 

「ほう、罠をおかけになりますか」

「やらぬよりはという具合ですけれど。以前、鼠鴨(ソヴァジャラート)が罠にかかって随分美味しい思いをしました。ね、ウルウ」

鼠鴨(ソヴァジャラート)……ああ、あれか。あれは美味しかった」

「ほう、鼠鴨(ソヴァジャラート)が罠に。それは僥倖ですなあ」

 

 あとでにこにこ顔のウールソさんが教えてくれました。

 鼠鴨(ソヴァジャラート)は賢い生き物で、まず罠にはかからないのだと。

 

「きっとどなたかが幸運を仕込んでくだすったのでしょうなあ」

 

 私はなんだか恥ずかしくなると同時に、きっとその幸運を仕込んでくれただろう背中に何とも言えず嬉しくなるのでした。




用語解説

・《宵闇のテント》
 ゲームアイテム。敵に見つかっていない状態で使用することで、一つにつき一パーティまで、《HP(ヒットポイント)》と《SP(スキルポイント)》を最大値まで回復させる。
 また快眠+3の効果があり、これは毒や睡眠などのステータス以上の内、中度までのものを回復させる効果がある。
『夜の帳を縫い上げて、張り巡らせる天幕一張り。夜が明けるまではその護りの裡よ』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と作麼生説破

前回のあらすじ
キャンプ地を決めて野営地を整える一行。
ふとしたことで過去の悪行を暴かれる閠であった。


 リリオが意気揚々と狩りに出かけ、お守りは任せてと言わんばかりにやれやれ顔のウルウがそれについていき、さて、あたしはどうしようかと考えた。

 あの二人に任せておけば、まあ角猪(コルナプロ)くらいは手に入ることだろう。そこのあたりは心配していない。心配するとしたら一頭どころか二頭も三頭も、それどころか鹿雉(セルボファザーノ)なんかまで獲ってきてしまうことだけれど、まあさすがにそこまで阿呆ではないだろう。と信じたい。信じさせてお願い。

 

 まあいささか不安ではあるけど、問題はそこじゃなくて、副材料だ。いくらなんでも肉だけの鍋なんてのはちょっと武装女中として認めがたい。リリオだけなら嬉々としてそういうこともやりそうだし、ウルウもなんだかんだで面倒臭がりなところがあるから文句言わなそうだけど、このあたしがいる限りそんな不精鍋は許さない。

 

 とはいえ、折角山の幸を楽しもうということで、余計な材料は持ってきていない。野菜の類をちょっと持ってきた方が良かったかもしれないが、勢いというのは怖いものだ。どうせウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》は底なしなんだから、常備菜を放り込んどいてもいいんじゃないかしら。

 

 ま、ないものはないもので嘆いても仕方がないわね。

 

 ないならあるものを使う。

 というわけで、早速キノコやらでも採りましょうか。

 まあ火の番もあるし、そんなに離れるわけにもいかないけれど、幸いこの野営地は今季まだ使用されていないらしく、来るときも近くにちらほらと美味しそうな秋の実りが見え隠れしていた。ちょっと歩くだけで私たち四人が食べるには十分な量が取れることでしょ。

 

 そう思い立って、キノコ取り用の背負い籠を背負ったところで、のっそりとウールソさんが立ち上がった。

 

「キノコ取りですな。拙僧もただ飯ぐらいでは格好がつかぬ故、御助力致そう」

「それは助かるけど……試験はいいのかしら?」

「まさかキノコ取りやら猪狩りやらで合格印は捺せませんなあ」

 

 鷹揚に笑うウールソさんだけど、はあ、まあ、この人もこの人で食えない人であるのは確かだ。もとより神官ってのはどこか普通の人とは感性が違うものだしね。

 

 ともあれ、人手が多いに越したことはないもの、あたしはウールソさんにも籠を渡して、早速秋の幸を採りに出かけた。

 にしても、あたしやリリオにとっちゃ背負い籠だけど、ウールソさんが持つと完全に手提げ籠ね。背負ったら壊れるわよ、これ。

 

 あたしは辺境の武装女中として、山中での生存訓練も受けている。その中には毒キノコの見分け方や、毒蛇の見分け方や、毒舌芸人とただの毒舌野郎の見分け方をはじめとして様々な毒の見分け方の他、そもそもどんなところにどんな山の幸が眠っているかということもよくよく教わっていた。

 だからあたしは、初めての山や森の中でも、ある程度どんなものがどこで採れるのか、見当をつけられる。実際、この山でもあたしは手早く籠の中を満たしつつあった。

 

 でも、

 

「……ウールソさん冒険屋じゃなくてキノコ取りの人なんじゃないの」

「これも冒険屋の技の一つですなあ」

 

 そう嘯くウールソさんの籠はすでにいっぱいになっていて、そしてその中のどれもが一級品の品ばかりだ。

 

「キノコ取りは試験じゃないんでしょう? せっかくだからコツの一つも教えてくれないかしら」

「積極的なことは大事ですな。加点一」

「加点制!?」

「だったら面白かったでしょうなあ」

 

 そり上げた頭をつるりと撫で上げながら、ウールソさんはフムンと一つうなった。

 

「そうですな。トルンペート殿の探し方は実に理に適っております。かといって教科書通りでもなし、初めての山でも、きちんと山の理というものを見ておられる」

 

 そうだ。山にはその山の理というものがある。

 どんな木でも、どこに生えても同じように伸びるというわけじゃあない。キノコもそうだ。どんな木の陰にも同じように生えるわけじゃない。山菜もそう。それらはみんな育ちやすい環境というものがあって、それは木の角度や、山の湿り気、そういった要素のたった一つが違っても随分と様変わりしてしまう。

 あたしはそういった山の理を見る。こういった山であればどんな風に木は育つのか。こんな気候であればどんなキノコが多いのか。これこれの植生ならこんな山菜があるはずだ。

 そういった理屈にのっとってあたしは動いている。

 

 でも、そんなことを気にした風もなく動くウールソさんは、はっきりとあたし以上に優れたキノコ採りだ。数が多く取れるばかりではなく、そのどれもが良く肥えたいい品ばかりだ。

 じっとその挙動を見守ってみても、あたしには何が違うのかまるでわからない。

 

「しかし、そう、その見ているというのが良くないのでしょうなあ」

「見るのが、よくない?」

「左様。拙僧をご覧あれ」

 

 ウールソさんはそう言って、おもむろに目を閉じてしまった。

 そうして暫くの間じっと佇んでいたかと思うと、不意に歩き出して、近くの木の傍から丸々肥えたキノコを一房手に取っているじゃない。

 まるで手品だ。じっと見ていたにもかかわらず、あたしにはそれがどんな理屈なのかわかりゃしない。

 だって、目をつむっているのよ?

 何も見えないでどうやって探すっていうの?

 

「わかりましたかな」

「ぜんっぜんわかんない」

「でしょうなあ」

 

 鷹揚に頷くウールソさんに、けれどあたしは腹を立てたりしない。これは馬鹿にされてるんじゃあない。冒険屋が、胸襟を開いて自分の技を教えてくれているのだ。

 しかしわからない。どうして見えもしないものがわかるのか。

 わからないなら……。

 

「左様、それが正しい」

 

 まず、真似をしてみるのが近道だ。

 あたしは自分でも目をつむってあたりを探ってみる。こう見えてあたしは暗殺者としての訓練も受けてきた。目が見えずとも人の気配くらい簡単に察せられる。ウールソさんの気配は酷く薄いけど、それでもとらえきれない訳じゃない。

 風の動きを感じ、気配を肌で受けて、そうして周囲を探れば、森の中であってもあたしは目をつむって歩き回れる。そんなことはわかっている。でもそんなことじゃあないんだ。足りないものがあるんだ。

 目をぎゅうとつむって肌に感じる気配を辿り、耳に聞こえる音に気を配り、そして、ふわりと鼻に漂う香りを感じた。

 

 はっとして手を伸ばした先には、ウールソさんの手があった。

 正確には、ウールソさんが握った石茸(シュトノフンゴ)が。そのかぐわしい香りが、確かにあたしの手の中にあった。

 

「……匂い?」

「それが入り口、でありますな」

 

 ウールソさんはスンと鼻を鳴らして辺りを見回した。

 

「目で見て、頭で思って、それで理は描けるやもしれませんな。しかし山の理は人の理の通りにあらず、ましてや理外れも往々にあると来る。理を踏まえて、その上で己の手で、肌で、鼻で、感じ取らねば見えてこないものもありますぞ」

 

 さっとウールソさんが指さした先、あたしの足元には、気づかない内に踏みつけにしていたキノコがあった。

 さっとあたしの頬に血が上ったのは羞恥からだった。我知り顔で無造作に歩いて、自分の足元にさえ気づかずにいた無頓着をあたしは羞じたのだった。

 

「羞じるならば上出来。トルンペート殿はよくよく精進なさるでしょうな」

「あ……ありがとうございます」

 

 あたしは自然と頭を下げていた。それはあたしが女中頭や先生に頭を下げたように、全く頭が上がらない思いからだった。

 

「うむ、うむ。さて、ま、火の番もありますしな、後は手早く済ませてしまいましょうぞ」

 

 あたしは覚えたばかりの事を試すように、鼻を使い、肌を使い、それで大いに間違えながら、大いに正していき、そしてついに籠を満たして野営地に戻ってきた。

 

「やあ、やあ、大量ですな。これは夕餉が楽しみだ」

「今日は、ありがとうございました」

「なんの、なんの」

 

 ウールソさんはどっかりと腰をおろし、あたしも腰を下ろして少し休んだ。

 火の勢いは衰えていなかった。

 

「ところで、試験の事を聞かれましたな」

「え、ああ、そう、そうだったわ。結局試験って言うのは、」

作麼生(そもさん)!」

 

 一喝するような声に、あたしの背筋がびくりとはねた。

 それはたしか神官たちが禅問答をするときに用いる掛け声だった。いかに、とか、どうだ、とか、そのような意味合いの問いかけの掛け声だ。

 

「お尋ねし申す。トルンペート殿は何ゆえに冒険屋を目指されるのか。作麼生」

 

 確か返す言葉はこうだ。

 

「せ、説破(せっぱ)。あたしは別に冒険屋を目指してるわけじゃないわ。ただ、リリオが冒険屋を目指しているから、それを支えたいってだけよ」

「成程成程。ではリリオ殿が今のようにメザーガ殿の膝元にあるだけでなく、本当の冒険屋として旅立つ日が来たあかつきには、トルンペート殿はいかがなされるか。作麼生」

 

 本当の冒険屋?

 旅立つ日?

 考えてこなかったわけじゃない。

 でも、本当に向き合おうとはしてこなかった問いかけだった。

 

「……説破。あたしは、あたしはリリオがそうしたいと思う道を支えてあげたい。それが冒険屋だっていうなら、あたしはそれを支えるだけ」

「それがリリオ殿の幸福ではなかったとしてもか」

 

 幸福?

 リリオの幸福ってなんだ?

 やりたいことをやるってのは幸福じゃないのか?

 でも、そうだ、やりたいことだけやって、その後はどうなんだ。結末はどうなんだ。

 あたしはその時、その結末に責任を持てるのか。その結末を支えたのは自分なのだと胸を張れるのか。

 

「…………せ、っぱ。リリオの幸福は、あたしが決めることじゃない。リリオの幸福は、リリオが決めることよ。あたしが、リリオが進もうとする道を遮る道理にはならないわ」

「ふむ、ふむ。よろしかろう。ではもう一つお尋ね申す」

 

 じっと注がれる視線はどこまでも平坦だ。熱くもなく、冷たくもない。正確に推し量るような視線が、恐ろしく重たい。

 

「何ゆえにトルンペート殿はリリオ殿を支えたいと思うのか」

「それは、それはあたしがリリオに救われたから、」

「そうではない」

 

 重たい言の葉が、重たい言の刃が、あたしの未熟な答えを切り捨てる。

 

「何ゆえに、おぬしは、リリオ殿を支えたいとそう思うのか」

 

 どうして?

 どうしてだ。

 あたしは救われた。

 あたしはリリオに救われた。

 でもそれは答えじゃない。入り口に過ぎない。

 あたしはリリオに救われた。だからリリオに返したい。

 返して、その後は何だというのだ。返すとは何なのだ。あたしは。

 

 あたしは。

 

「作麼生」

「せ……せっ、ぱ……」

 

 あたしは。

 

「説破」

 

 あたしは。

 

()()()()()()()()()()

「ほう」

「あたしはリリオを支えたいから支えるし、支えたいから支えるのよ! なんか文句ある!」

「良い」

「えっ」

「いまはそれでよろしかろう。うむ。若いというものはいいものですな」

「は」

「結構結構」

 

 あたしはこの寒いのに、顔まで熱くなるのを感じるのだった。




用語解説

・作麼生/説破
 禅問答で用いられる掛け声。作麼生は「いかに?」「どうだい?」など問いかけに用いられる掛け声で、説破は論破と同様、相手を言い負かすという意味で、回答する際に用いられた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊と無敵超人

前回のあらすじ
ウールソのしつこい質問に顔を赤らめるトルンペート。
事案だ。


「あてはあるの?」

「勘です!」

 

 そんな素晴らしくくそったれな会話を経て、私はリリオに気配の読み方というものを教えることになった。

 リリオには野生の直観めいた勘所の良さがあるにはあるが、これが常にうまいこと働いてくれるという保証はない。もう少し正確性の高い感知能力が必要だ。

 

 とはいえ、私自身、人に教えられるほど気配というものについて詳しいわけではなかった。

 というか、気配ってなんだよというレベルではある。

 この体になってから非常に敏感になって、目をつむっていても人がどこにいるか察せられるようにはなったけれど、それは恐らく物音や、空気の流れといったものを感じ取り、それらの諸情報を脳が総合的に判断して気配という形でとらえているのだと思われる。

 なので実際のところ私は感覚的にこれが気配というものなんだろうなあと漠然ととらえているのであって、人様に教えようにも、リリオの言う通り勘ですとしか言いようがない。

 

 なので、ここは私にできる形でリリオに新しい索敵方法を教えてあげようと思う。

 

「リリオ、剣を抜いて」

「剣ですか?」

 

 するりと抜かれた剣は、素人目に見ても美しいものだ。大具足裾払(アルマアラネオ)とかいう巨大な甲殻類の殻から削り出したとかいう刀身は透き通るような不思議な光沢を帯びていて、それにあとから付け足された霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の皮革の柄巻きが、ピリピリと走るような電流を帯びさせて、危険な美しさを感じさせる。

 私が目を付けたのはこの電気だ。

 

「リリオ、ここに雷精がいる」

「うーん……やっぱり見えません」

「見えなくていい。いる」

「はい。いるんですね」

 

 私の目には、この刀身に、青白い蛇のようなものがまとわりついているのが見える。これが雷精だ。しかしこれはちょっと大きすぎる。

 

「魔力を絞って」

「えっと」

「……餌を減らす要領」

「こう……ですかね」

「そう、いい感じ。もう少し、絞っていい……そう、そう」

 

 精霊は魔力を喰らって力を発揮する。リリオの革鎧が帯びる風精や、この雷精もそうだ。

 単に威力を高めるだけなら魔力をバカバカ食わせるだけでいい。でも今欲しいのは、弱くて、しかし敏感な力だ。

 

「そのくらいで抑えて」

「ちょっ、と、息苦しいです」

「慣れて」

 

 刀身にそっと手を伸ばしてみる。雷精はとても細くなり、刀身をシュルシュルと泳ぐように這い回っている。それがインインと耳鳴りのような音を立てている。

 

「聞こえる?」

「なんか耳が変な感じです」

「その感じ」

 

 私がリリオに覚えさせたいのは、電場の感覚だ。まずはこれを覚えさせる。

 雷精の宿るこの剣には電場が発生する。試しに方位磁針を近づけて確認したから間違いない。精霊とかいうとんでも法則の世界においても物理法則は並行して働いている。

 

「目をつぶって」

「はい……んっ、なんですかこれ」

「今、刀身に手を近づけたり離したりしてる。わかる?」

「なんか……ぞわぞわしたり、落ち着いたりしてます」

「その感覚」

 

 厳密な物理法則を覚えさせる必要はない。大事なのはそうなるという意志だ。意志の力に魔力は従い、魔力の流れに精霊は従う。そして精霊が動けば、自然法則もそれに続く。

 

 私はしばらくリリオに目をつぶらせたまま、周囲の様子を探らせた。

 この辺りはリリオの直観の鋭さと素直さが役に立つ。非常に、というよりは異常なまでに呑み込みがいい。以前風呂の神官に精霊に愛されているなどと言われていたが、なるほどこれはむしろ精霊の方から積極的に干渉しているのかもしれない。

 

「えーと、三時の方向、屈んでます」

「じゃあ次……ここ」

「六時の方向、立ってます」

「いい具合」

 

 さらに調子に乗ってレーダーの理屈をぼんやり聞かせるともなく聞かせてみたところ、こいつ、実践で成功させやがった。

 

「こう放って……返ってきたのを受け止める。木霊と同じですね」

「自分で説明しておいてなんだけどできるとは思ってなかった」

「えー」

「とにかく、君の剣はこれで立派なアンテナになった」

「あんてな?」

「あー……すごいやつ」

「やった!」

 

 すごいあほな奴なんだけど、しかしやってることは紛れもなくすごいことなんだよなあ。

 教え始めてまだ三十分も経っていないのだが、すでに電探をマスターしつつある。さっきからずっと目をつむったままだけれど、下生えに足をとられることもなく、すいすいと山道を進んでいる。いまはまだ剣をアンテナ代わりにして持っていなければ使えないようだが、その内、腰に帯びた状態でも問題なく使いこなしそうだ。

 

(と、いうより……)

 

 これはむしろ私の想像する以上の精度に仕上がっているかもしれない。

 じっと精霊の流れを見ているのだが、雷精がゆあんゆあんと体の同心円状に薄く広がっているのと同時に、鎧の風精もまたこれを補助するように薄く広がっている。恐らく魔力をそのように広げているので、つられて一緒に広がってしまっているのだろうけれど、これが想定外にいい結果になっている。雷精のもたらす探知結果と、風精のもたらす探知結果が、複合的にとらえられてより正確な探知結果を感じ取っているのだろう。

 

 私ならばその処理だけで頭がパンクしてしまいそうだが、リリオのいい意味でなんとなくざっくりととらえる感覚が、これをうまく情報として処理しているのだ。

 

「その内、波紋レーダーとか使いこなせそうだな、こいつ」

「波紋?」

「波紋遣い、いそうなのが怖いよなファンタジー」

「よくわかりませんが、今の私無敵感凄いですよね!」

「確かに、そればかりは手放しでほめられる」

 

 何しろ今の私、《隠蓑(クローキング)》してるのに居場所バレバレだからね。

 存在していることは隠せない、か。パフィストにも言われたけど、触れられれば居場所がわかるように、今のリリオは電探越しに私に触れているようなものなのだ。これは正直かなり恐ろしい技を教えてしまったなという気持ちだ。

 

 しかし、恐ろしいなと思うと同時に、面白いなという気持ちもある。これだけ飲み込みがいいなら、私のいい加減な教えでもいろいろと面白い技を覚えてくれそうだ。

 

「よーし、つぎ電磁防壁いこうか」

「でんじぼうへき?」

「バリアだよバリア」

「ウルウのテンションがえらく高いです」

「ある種のロマンだからねこれは」

「つまり…………格好いいんですね!」

「そう、格好いいんだ!」

 

 私が次に教え込んだのは、いま周囲に張らせている電界を防御に応用する方法だ。電磁的な攻撃とか光学兵器みたいな重量の軽い攻撃に対する防御壁らしいけど、私もよく知らないし、詳しく説明する必要はないだろう。こうもとんとん拍子に覚えてくれると私も理解したのだ。

 

 魔法というのは要するに想像力と気合なのだ。

 

 正確には、このようにしてくれという意図と、魔力の出力の問題だ。

 意図に関しては、リリオの素直さは一つの武器だ。私のざっくりとした説明を何となくで受け止めて、何となーくでそのまま出力してくれる。勿論リリオなりの理解があるんだろうけれど、馬鹿だ馬鹿だとは思いつつもなんだかんだいいとこのお嬢さんだけあって頭は悪くないんだ。

 そして魔力の出力に関しては底なしと言っていいくらい疲れない。

 私の魔力容量とやらも結構あるらしいけれど、トルンペートに聞いたところ、辺境人の中でも一部の貴族は特に、底なしと言っていいほどの化け物じみた魔力を誇るらしい。リリオもその一人だ。

 比較対象があまりないのでよくはわからないが、竜種と同じくらいというのが字面の格好良さだけでないならば、それは相当なエネルギー保有量であるはずだ。

 

「この電磁防壁って言うのは要するに雷精で作った盾のようなものかな」

「盾、ですか?」

「違う違う、一か所に集めちゃうと爆ぜちゃうだろ。回転させるんだ。最初は手元に集めてみようか」

「うーん?」

「えーと、そうだ、指で円を描くようにして見て、その円状に雷精を走らせてみるんだ」

「こうですね!」

「そうそう、いいぞー、いい感じだ。もうちょっと雷精を強くして」

 

 私の目にははっきりと、青白い蛇の姿をした雷精が、リリオの手の前で丸い盾状に広がっているのが見える。

 

「じゃあ小石投げてみるよ」

「どんとこいです!」

「よーしじゃあ…………死ねェッ!」

「死ねぇ!?」

 

 ちょっと本気度を高めるために強めに投げてみたが、見事に弾き返してくれた。

 自分でやっといてなんだけど、弾けるもんなんだなあ。本当は弾けないのかもしれないが、さすが魔法だ。

 

「じゃあ次は全身にやってみようか」

「うえ、ぜ、ぜんしん回るんですか?」

「あー、違う。えっと……雷精をさ、自分を中心に球を作るみたいに回転させてみるんだ」

「きゅ、球ですか?」

「うー、あー……あ、繭! 虫が繭作るみたいな感じで!」

「あー……なんとなくわかりました」

「何となくで一発でやれる当たり君ってホント秀才殺しだよね」

 

 ゆあんゆあんと耳鳴りのような音を立てながら、リリオの周囲を巡る雷精。でも範囲が広くなったせいかちょっと薄く見える。

 試しに小石を投げてみたが、ちょっと反発は受けるものの通過してしまった。

 

「うーん……これなら矢避けの加護の方がましだなあ」

 

 魔力消費が多くて、意識も割かなくてはいけない分、むしろ劣化か。

 

「でも……」

「でも?」

「でも、これ格好いいですよね!」

「そうなんだよ。格好いいんだよ」

 

 何しろ私は、《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》などという阿呆の集まりに所属していた浪漫狂い。いまこういう馬鹿をしないでいつ馬鹿をするというのか。

 

「出力上げて……あとは、こう……粒子的なイメージかな」

「りゅうし?」

「粒っていうか……ただの水の流れより、そこに砂利が混じってた方が痛いじゃない」

「あー……雷精を粒みたい尖らせて混じらせたら、その砂利みたいに働いてくれるかもってことですね」

「そうそう、そんな感じ」

 

 二人して地面にがりがりと図を描いたりしながら試行錯誤した結果、出力×回転速度×尖ったイメージの三つによって格段にバリアの硬度は上がった。

 具体的に言うと私のジャブとか弾ける程度には仕上がった。

 ジャブというとしょぼく感じるかもしれないが、一応私はレベル九十九の《暗殺者(アサシン)》だ。正確にはその最上級職の《死神(グリムリーパー)》だけど、とにかくそのレベル九十九のパンチを防げるってこれ、大抵の攻撃防げるんじゃないか。

 

「これと矢避けの加護併用したらさ」

「はい」

「遠近どっちも効かなくない?」

「ですね」

 

 長距離からの攻撃は風精が逸らしてロスなく回避。近距離攻撃は電磁防壁で数発なら防げる。

 

「無敵じゃない?」

「無敵ですね」

 

 思わず無言でサムズアップしてしまった。

 なんて素敵性能だ。

 今のところかなり意識を持ってかれるので発動まで時間かかるし防御に専念してないとすぐ解けちゃうし、だから移動さえもすり足とかじゃないとできないけど、しかし一応の完成だ。素晴らしい。

 

「技名……」

「なに?」

「技名とか、決めちゃってもいいのでは……?」

「いい。間違いなくいい」

 

 私たちはそれから更にしばらくの間、地面に何度か技名案を書いては消し、そしてようやく決定したのがこれだった。

 

「『超電磁バリアー改』……」

「『超電磁バリアー改』……だな」

「この『改』がいいですよね。一度も改修してませんけど、すごく強そうな感じがします」

「『超』もいいよね。ちょっと安易かなって思ったけど、素直にパワーを感じる」

「すごい『すごみ』を感じます。今までにない何か熱い『すごみ』を」

「叫ぶ? 叫んじゃう?」

「技名叫びます? これ叫んでも怒られません?」

「怒らない怒らない。いまリリオ最高に格好いい」

「よし……行きます!」

「いいよ!」

「『超…電磁、バリアー……改』!!!」

 

 ぴしゃーん、と激しい音とともに展開されたバリアは突撃してきた角猪(コルナプロ)を見事弾き返していた。

 

「……えっ」

「……えっ」

「ぶもぉおおおおおおおおッ!!」

 

 そこには、必殺の突撃を弾き返されて激怒する角猪(コルナプロ)(大)がいたのだった。




用語解説

・格好いい
 すべてに優先される理由。

・無敵
 小学生くらいの年齢の子供が良く陥る謎の万能感。
 大学生くらいの年齢でも、深夜に公園で鬼ごっことかするとこのような高揚感が得られるが、代償として激しい筋肉痛や、おまわりさんに怒られるなどの弊害がある。

・『超電磁バリアー改』
 中身のない名前ほど不思議と心弾むのはなぜだろうか。
 きっとそこにロマンが詰まっているからなのだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と超電磁ブレード

前回のあらすじ
ウルウの胡散臭い教えにしたがい新技を身に付けていくリリオ。
事案だ。


「やばい、熱中し過ぎて近づいてるのに気づかなかった!」

「あれだけ騒いでたらそりゃ怒りますよね!」

「ぶぅもぉおおおおおおおおッ!!!」

 

 ウルウが珍しく盛り上がりに盛り上がってしまったので気付けば私もついつい盛り上がりに盛り上がってしまった結果がこれです。

 以前境の森で見かけた個体よりは小型ですけれど、それでも十分に育った立派な角猪(コルナプロ)が、すでに至近距離でこちらをにらみつけています。

 

「ウルウ! 離れて――ますね、知ってました!」

「うん」

 

 すでにくろぉきんぐで姿を消して、木の上に早々に退避してました。

 別に構いませんけど、ウルウあのくらいの角猪(コルナプロ)だったら素手で断頭できますよね。境の森のアレ、ウルウの仕業ですよね。

 まあでも、私にどうにかできる相手で、ウルウの手を煩わせるなんてもってのほか。

 ウルウにはいつだって格好いい私だけを見てほしいものです。

 

 まあ、問題は。

 

「ウルウ、格好いいですかこれ!」

「すごい格好いい!」

「でもこれ攻撃できないんですけど!」

「知ってた!」

「ウルウ!?」

 

 この『超電磁バリアー改』、見た目は恐ろしく格好いいですし防御性能も言うことないなのですけれど、問題は私自身は全然動けないうえに、このバリアーの内側から出られないので攻撃のしようがないってことなんですよね。

 あと何発か連続で攻撃貰ったら、私の方の集中が持たず雷精がばらけてバリアーも解けてしまいます。

 その前に、その前に何か……。

 

「その前に何か格好いい攻撃方法ないですか!?」

「まだその『格好いい』思考できるのはすごいと思う」

 

 私がなんとか角猪(コルナプロ)の突撃をバリアーで受け止めている間に、ウルウはうんうんと頭をひねって考えてくれます。おそらく、かなり見た目が格好いいやつを……!

 

「リリオ、ちょっと考えたんだけど」

「何でしょう!?」

「考えてみたらそれ、私たちの晩御飯になるわけだよね」

「そうですね!」

「あんまり格好良さにこだわると、素材としての価値が落ちるのでは……?」

「はうあっ!?」

 

 そうでした。

 今元気にこちらに体当たりかましてくる角猪(コルナプロ)は今夜のご飯になる予定なのでした。格好良さで言ったら抜群に格好良い、バナナワニを切り伏せた一撃みたいのをぶちかましてしまったら、折角の食べる部分が蒸発してしまいかねません。

 

 しかし。

 しかしです。

 

「こ、ここまでやって……ここまで格好いい感じでやって、地味に仕留めるのはなんか納得いきません!」

「わかる」

 

 たった一言でしたが、そこには深い深い理解の色がありました。いうなればそれは、ウルウ曰くのところの『わかりみ』というやつだったのでしょうか。

 

「わかった。派手めなエフェクトでかつ地味にダメージを与えられる技を伝授しよう」

「なんかよくわかりませんがよろしくお願いします!」

「ではまず準備のためにバリアーを解くんだ」

「はい!」

 

 私は早速バリアーを解き、突撃してきた角猪(コルナプロ)を横跳びに回避しました。

 バリアーがない今、直撃を喰らえば危険です。しかしバリアーに意識を割かなくていい分、避けるだけなら正直楽勝です。ぶっちゃけバリアーなしの方が楽に戦える気もします。しかしそれを言ってはいけないのです。なぜならあれは格好いい技だから。

 

「まず、刀身に雷精を集めるんだ」

「はい!」

「あ、そんなに集めなくていい。この前のみたいに大量には要らない」

「えっ、あ、はい」

 

 ちょっとがっかりすると、叱られました。

 

「馬鹿。何でもかんでも大きかったり多かったりするのがえらいわけじゃない」

「す、すみません!」

「少ないコストでスマートに片付ける。これもまた格好いい」

「な、なんかわかりませんけど格好いい響きです!」

 

 私は程々に雷精を刀身に集めます。

 

「ではその少ない雷精にだけ魔力を食わせるんだ」

「うえっ?」

「雷精を増やしちゃいけない。あくまで魔力だけ増やすんだ」

 

 これにはちょっと困りました。私が魔力を増やせば、それにつられて自然と雷精は寄ってきてしまうのです。なので増やしたり減らしたりは簡単でも、一部にだけ魔力を与えたりというのは、精霊の見えない私にはちょっと難しいです。

 

「えーと、そうだな。あの、あれ。水鉄砲。水鉄砲あるじゃない」

「あります、ねえっ!」

 

 角猪(コルナプロ)の突進を剣の腹でいなすようにしてかわし、私はウルウの言葉に耳を傾けます。

 

「水鉄砲は水の量を増やしても、勢いがなかったら威力が出ないでしょう」

「はい!」

「逆に、水の量が少なくても、勢いがあれば威力が出る。ね?」

「はい!」

「雷精が水で、君の魔力が勢いだ。君の魔力で勢いよく雷精を飛ばすイメージだ」

「ん、んんんん……?」

「お、迷いがいい具合に働いたな」

 

 魔力を手元に集める。でも雷精には呼ばない。一部の雷精にだけ上げる。水鉄砲。

 私の頭の中でぐるぐるとめぐる言葉の羅列。ぐるぐると迷う思考につられるように、刀身を私の魔力が渦巻きます。私の魔力がぐるぐる渦巻き、剣の中にたまっていきます。そうすると、刀身に纏わりついた雷精の()()()()()()が、ぐるぐる渦巻く魔力にくっついて巡り始めます。

 

「いいぞいいぞ。その調子だ。十分にため込んだなら後は―― 一撃だ」

 

 ぱり、と刀身に青白い電が爆ぜました。感覚としてわかります、これ以上雷精を呼んじゃいけない。呼ばなくていい。これで十分なんだ。水鉄砲の感覚。ぐうと水を押すあの感覚。魔力を刀身に押し込めていく。雷精を逃がさず刀身に張り付ける。そうすれば雷精は膨れて、膨らんでぱりぱりと爆ぜはじめる。

 

「わかりました。これが、この感覚が、水鉄砲の感覚……」

 

 刀身にぴりりと張り詰めた感覚が生まれます。これ以上は雷精が爆ぜてしまう。爆ぜるのは、ぶつけてからだ。

 

「ぶぅううもぉぉおおおおおおッ!!」

 

 角猪(コルナプロ)がその金属質の角をこちらに向けて、刺し殺さんと突進を決めてくる。

 勢いは十分。だから私は踏み込むだけでいい。ただの一刀、すれ違うように一撃決めるだけでいい。

 

 ただの――、一撃。

 

「『超…電磁、ブレーェエエエエエエドッ』!!!」

 

 交差する瞬間、角猪(コルナプロ)の角に正確に刀身が吸い込まれ、そして直撃の瞬間、溜めに溜め込んだ()()()が、私の魔力が、雷精を解き放ちます。

 それは瞬間の輝きでした。青白い閃光がぎらりと空を切り、切り刻み、破壊する。

 そして光よりも刹那遅れて、破裂するような轟音が、耳をつんざく。

 

 どど、どど、と角猪(コルナプロ)はたたらを踏むようにそのまま数歩突き進み、そしてそのままぐらりと倒れこむや、どうと音を立てて地に伏しました。

 

 私自身いまの交錯で相応の気力と体力を消耗したようで、思わず膝をつきそうになりましたが、なんとかこらえて、角猪(コルナプロ)のむくろを確かめに向かいます。

 

 反動でぴりぴりとする私が辿り着いたころには、ウルウが倒れ伏した角猪(コルナプロ)を検分しているところでした。

 角猪(コルナプロ)の立派な角は、私の一撃によって根元から叩ききられていましたが、体には傷一つついていません。わずかに額のあたりに焼けたような跡が残りますが、それだって致命傷とは思えないほど軽いものです。

 

「し……仕留めた、んですか?」

「いや、生きてるよ」

「えっ!?」

 

 私がぎょっとして剣を構え直すのも気にせず、ウルウは角猪(コルナプロ)の瞼をめくったり、首筋に手を当てたりしています。

 

「うん、生きてる生きてる。よくやった」

「え……ええ?」

「『超電磁ブレード』だったっけ。本来ならスタンブレードとでも呼ぶべき技だけど」

「すたん、なんですって?」

「ようするにこれはさ、()()()()()()なのさ」

「きぜ、つ……?」

 

 ウルウは一通り角猪(コルナプロ)の状態を確認すると、いつものようにあのとんでも容量の《自在蔵(ポスタープロ)》にずるりと引きずり込んでしまいました。相変わらず不気味な光景です。

 

「雷精ってのはとにかくおっかないイメージがあるけどね、私のいたとこじゃもうちょっと安全な使い方があってね。いやまあ、安全でもないか、スタンガンは。とにかく、いろんな使い方ができる力なんだよ」

 

 ぽかんとしている私の額を小突いて、ウルウは言いました。

 

「剣を振るうばかりってのもいいけど、使い方を覚えると、存外いろんなことができるものだよ」

 

 今日だけで索敵と盾と剣と三種類もの使い方を覚えたのですから、それは非常に頷ける話ではありましたけれど。

 

「最初に説明してくださいよぉ……」

 

 私はなんだかすっかり疲れてしまったのでした。




用語解説

・わかりみ
 わかりみが深い。

・『超電磁ブレード』
 リリオは咄嗟だったので同じような名前を付けてしまったが、フィーリングが大事だ。強そうというフィーリングが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合とわくわく解体ショー(グロ注意)

前回のあらすじ
新必殺技をもって見事角猪(コルナプロ)を仕留めたリリオ。
老師もといウルウの教えが活きた瞬間であった。

ともあれ、今回はややグロ注意なので気を付けよう。


 思ったより早かったというべきか、リリオにしては遅かったというべきか、ちょっと判断に迷う時間がたって、二人が帰ってきた。ウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》は本当に底なしだから手ぶらなのは別に驚きはしなかったけれど、リリオの髪がぼさぼさになって、あちこち薄汚れているのには驚いた。

 

「なに? 苦戦したの?」

「苦戦したというか、何というか……」

「ごめん。私がちょっと遊び過ぎた」

「リリオじゃなくて?」

「今日は私」

 

 リリオが油断したり失敗したり遊んだりというのはよくあるけれど、ウルウが遊んだというのはちょっと意外だった。そもそも戦闘とかにはあんまりかかわらないって言うのもあるけど、生真面目なところがあるのよね、ウルウって。

 だからまあ、呆れたは呆れたけど、ちょっと嬉しかったは嬉しかったわよね。

 あとでどんな風に遊んでいたのかを聞いてすっかり呆れたけどね。

 なによ『超電磁バリアー改』とかって………。

 

 あたしも呼びなさいよ!

 そりゃあたしにはできないかもしれないけど、あたしだって必殺技の一つや二つ欲しいわよ!

 

 あたしは辺境の武装女中とはいえやっぱり三等だからね、リリオみたいに上等な武器を下賜いただいたってわけでもなし、やっぱりそう言うの、憧れるわよ。大具足裾払(アルマアラネオ)の武具なんて贅沢は言わないけど、飛竜の牙の小刀一揃いとか、それくらいは欲しいわよねえ。

 まあ、あたしがあんまり上等な武具を手に入れたって、リリオ程魔力があるわけでなし器用貧乏な使い方になるでしょうけどね。

 

 …………ウルウならあんまり魔力使わないで便利な使い方ができる魔道具とか持ってないかしら。

 それ貰って強くなって嬉しいかって言われたら複雑なとこだけど。

 

 ま、いいわ。

 

 ウルウが相変わらず気持ち悪い具合に《自在蔵(ポスタープロ)》からずるうりと大きな角猪(コルナプロ)を一頭引きずり出した。角は折られているけど……これ、まだ生きてるわね。全く、本当にどんな手品遣ったらこんな風に無傷で気絶させられるのかしら。

 

「ほおう、ほう。これは成程、見事な御手前ですなあ」

「あなたでも難しいかな」

「拙僧を試しておられるのかな」

 

 ニッ、とウールソさんが笑うけど……成程、《一の盾(ウヌ・シィルド)》の一員であるわけだ。空気が重くなるような圧力さえ感じる。

 とはいえそれも一瞬。すぐにその空気も霧散する。

 

「そうですな。いかなる手段を用いられたかは存じませぬが……やってやれぬことはないことですな」

 

 はっはっはっと鷹揚に笑うウールソさんだけど、下手したら一喝するだけで角猪(コルナプロ)くらいなら気絶させられる、と言われても信じられそうだ。

 《一の盾(ウヌ・シィルド)》の面子とはこれで三度にわたって行動を共にすることになるけれど、ガルディストさんの時も、あのパフィストのクソの時も、そしてウールソさんにしても、まるで底が見えない、とまでは言いたくないけれど、それでもまず敵う気がしない。まるで女中頭達のようだ。

 

「さって、早速解体しましょうか」

 

 さ。頭を切り替えよう。

 秋も深まってきて随分冷えるから、痛む心配はあんまりないけど、目を覚ます前に仕留めてしまった方がいい。

 

 私たちはこの角猪(コルナプロ)を力を合わせて担いで川辺まで運び、首筋を切り裂いて息の根を止め、川に沈めて冷やした。血抜きの意味もあるけど、冷やすことの方が大事だ。

 よく血が臭うというけれど、あれは実際には血が腐るのが早いからだ。傷口から毒が入り、その毒は血に乗って体に運ばれる。だからまず血が腐り、次に内臓が腐り、そして肉が腐る。

 これを防ぐために血を抜くし、腐るのを遅らせるために冷やす。

 凍りそうに冷たい川の水なら、文句はないわ。

 

 血抜きの間に、傍で火を起こして、小鍋に水を沸かしておく。

 猪ってのは総じて脂が多いから、どんなによく研いだ刀でもすぐに切れ味が鈍くなるのよ。そう言うときはお湯につけてやって脂をとるの。

 

 さて、すっかり血が抜けたら、狩猟刀でお腹を開いていく。

 

 あ、わかってると思うけど、素手でやっちゃ駄目よ? あたしみたいにちゃんと革の手袋をしてやること。それに革の前掛けもないとえらく汚れるわよ。

 …………武装女中の前掛けって、防具の意味の他にこういう事も意図してるのかしら。

 

 まず喉元から尻まで、お腹の表面の、皮と脂肪だけを切っていく。ここで調子に乗って深く切ると内臓まで切り開いちゃってお腹の内側で中身が漏れるから、皮の下の膜を切らないように気を付ける。

 

 こいつは雄みたいだから、ブツも切り取る。珍味と言えば珍味なんだけど、全体からしたら小っちゃい割に、格段美味しいというわけでもなし、あたしたち乙女にはあんまり人気がない。別にまずいってわけじゃないんだけど、聞こえが悪いじゃない。

 あ、でも白子は美味しい。獲れたてじゃないと危ないけど、生で食べるとなかなか乙だ。すこし臭みというか、独特の匂いがあるけど、口の中でねっとりととろける味わいはなかなか他に見ない。

 まあこちらもウルウが嫌そうな顔をするので、今回は無理してまで食べることはない。最近慣れてきたとはいえ、リリオよりある意味お嬢様育ちなのよね、ウルウって。

 

 お次は鉈の出番だ。胸骨に沿って肋骨を断っていき、胸元まで()()()()()やる。そして骨盤も割って、左右に広げる。肛門のあたりを切り開いて、()()を縛って中身が漏れないようにしてやる。

 ここまで来ると後は割と楽だ。胸から腹の膜を切り開いてやり、手を突っ込んでノドスジを掴んでやり、お尻の方へと引っ張ってやれば、ずるりと全体が抜ける。ってウルウに説明したら無理って顔されたけど、まあ二、三回やればコツがつかめるわよ。大きすぎて一度に全体が辛いときは、胃とはらわた、肝臓、肺って具合に三段階に抜くと楽かしらね。

 

 まあ楽って言っても、これだけ大きいとさすがに苦労するわ。交易貫でまあ、二百キログラムいくかいかないかくらいはあるのかしら。あたし五人分とまでは言わないけど、四人分くらいはあるわね。……詳しい数字は秘密だけど。

 力自慢のリリオが手伝ってくれるから楽だけど、あたし一人だったらもっと時間かかるわよ。というか無理よ。リリオ一人でも無理かも。力があっても体重差がね。ウルウは上背もあるけど、勝手がわからないしおっかなびっくりだからかえって邪魔だし。

 

 ぼろりと零れ出るように外れた内臓は美味しいは美味しいけど、処理が面倒だから、今日のところはもったいないけど捨てちゃう。いやほんと、面倒くさいのよ。汚物抜いて、綺麗に洗って、内側こそいで。水の神官とかがいてくれたら浄化の術であっという間なんだけど、あたしみたいな半端な魔術使いじゃあ、ちょっとそこまでは無理ね。

 

 それにウルウが気持ち悪そうな顔してるし。

 なんだかんだ繊細よね、ウルウって。以前話にだけ聞いた、ほとんど無傷で殺す技って、要するに血を見たりするのが苦手だからなのかしら。だからって針一本で殺すっていうのも大概だと思うけど。

 

 さて、ちょっと休憩したら今度は皮剥ぎ。

 猪の類は脂が美味しいから、この分厚い脂の層をできるだけ肉の側に残しつつ、皮を剥いでいくわ。足のところに切れ目を入れて、次はお腹側に切れ目を入れて、それから胸元から鼻先にかけて切れ目を入れて、あとは少しずつ刃を入れて剥いでいく。リリオはこういう作業あんまり得意じゃないから、替えの小刀をお湯で洗って用意してもらうわ。

 私の方が得意って言っても、まあ猪の脂ってのは皮としっかりくっついてるから、簡単にはいかないわね。鹿とかなら、それこそリリオ曰く「靴下でも脱がすように」くるくると剥げるんだけどね。人間ならもうちょっと――ごほん。

 

 でも、手早くやらないと、これだけ大きい猪だとどれくらいかかることかしら。

 そう思っていたら、さすがに慣れてきたのか、ウルウが手伝いに入ってくれた。

 

「どうやるの?」

「こう、こう、こうやって」

「こんな感じ、かな」

「そうそう。リリオより呑みこみいいわ」

「ぐへぇ」

 

 ウルウはぎこちないように見えるけど、手先の器用さは抜群ね。おまけに見た目と裏腹に握力が万力みたいにあるから、脂で滑る皮もがっしり掴んですいすい剥いでいく。教えたあたしより速いんじゃないかしら。

 何度かリリオの洗ってくれた小刀に交換しながら、あたしたちは綺麗な一枚皮をはぎ終えたわ。

 

 脂の分厚い猪って、皮をはぐと真っ白なのよね。背中はたてがみの跡が残ってるけど、他はすっかり蝋で包んでるみたい。

 

 まあこんなに早く剥げるのは、ウルウの手際が思ったよりいいせいね。普通なら何時間かかかるわよ。疲れてきたのか途中から何人かいるように見えたし。

 

「実際分身したんだよ」

 

 真顔で言われたけど、ウルウなら本当にやりそうで怖い。

 

 さて、すっかり皮を剥いだら、いわゆる「お肉」の形まで解体していく。ここからはリリオの方が適役ね。

 

「リリオ」

「はいはい。主遣いが荒いんですから」

 

 しゃらんと軽やかな音を立てて剣が抜かれ、川原に寝かせられた角猪(コルナプロ)の体にためらいなく振り下ろされる。普段は器用さなんてまるでないように見えるリリオだけど、こと剣技に関しては目を見張るようなところがある。多少雑に扱っても欠けることさえない大具足裾払(アルマアラネオ)の剣だっていうのもあるんだろうけれど……。

 

「ほう……実に滑らかな」

 

 ウールソさんも感心したように顎をさする。

 

 頭をするりと断ち落とし、返す刃で角猪(コルナプロ)の分厚い脂の層も、丈夫な背骨も、まるで溶けたバターのようにするりと縦半分に両断しながら、でも寝かせた河原の石には傷一つない。

 ある程度腕の立つ辺境の剣士なら同じようなことはできるけど、リリオの恐ろしいところは、失敗するはずなどないという絶対的な確信よね。自分の技を信じることは誰でもする。でも確信することは誰にでもできることじゃあないわ。

 それが危うくもあるし、鋭くもある。剃刀の刃のような、そんな。

 

 リリオは剣の脂を拭って、狩猟刀に持ち替える。

 

「とりあえず、今日食べる分だけ残して、あとは《自在蔵(ポスタープロ)》にしまっておきましょうか」

「私の《自在蔵(ポスタープロ)》なんだけど」

「まあまあ」

 

 足を外すときは、骨の形を確認しながら刃を入れ、関節を外して、切り落とす。

 胴、前肩、股の三つのブロックに分け、骨を外して、肉を小分けにして、はー、またこの作業だけでも一仕事ね。またウルウがなんか増えてたから早く済んだけど。

 

「…………ウルウ殿は、シノビの術を身に着けておられる?」

「西方の魔術でしたっけ。あたしたちもわかりません。あれはああいう生き物だと思ってるので」

「ああいう生き物」

「はい」

「はあ」

 

 私たちは売れそうな綺麗な部分を手分けしてまとめて《自在蔵(ポスタープロ)》にしまい込み、それから骨をどうしようかと相談しました。

 

「これだけ綺麗だったら標本用に売れないかしら」

「背骨断っちゃってますし。厳しいですよねえ」

「煮込んで出汁とる?」

「骨から出汁とるのって相当時間かかるのよ」

撒餌(まきえ)にしますかな」

「撒餌?」

 

 ウールソさんの提案にあたしたちは小首を傾げた。

 

「《一の盾(ウヌ・シィルド)》として活動していたころは、角猪(コルナプロ)などの害獣の骨や肉を餌に、上位の魔獣などを誘き寄せては討伐していたものです」

「例えば?」

「そうですなあ、熊木菟(ウルソストリゴ)などがよく釣れましたな」

「よく狩ってたんですか?」

「素材がよく売れますしな。それに、美味い」

 

 これにはあたしもリリオも顔を見合わせた。

 というのも、熊木菟(ウルソストリゴ)の肉は独特の獣臭がきつくてまずいと言うのがもっぱらの噂だからです。

 

「美味しいんですか?」

「美味いですとも。とはいえ、食い方は秘伝ですが」

「むーん」

「何しろ拙僧は、山椒魚人(プラオ)から学んだ熊鍋の腕で《一の盾(ウヌ・シィルド)》に招かれましたからな」

「えっ」

「クソ忌々しいことにあのメザーガという男は拙僧をしこたま転がした挙句鍋が美味いという理由だけでパーティに引き入れましてな」

「そりゃ怒るわ」

 

 温厚なウールソさんでも思い出し怒りするものらしい。




用語解説

・交易貫
 もともと帝国では、長さや重さといった単位をそれぞれの国や種族毎の単位で扱っていた。
 交易貫とは交易尺などとともに近年帝都で制定された単位であり、公的事業においてはこの単位を使用することが法で定められており、また交易尺貫法を用いるものが優遇される方針にある。
 交易貫はグラムと呼ばれ単位を基準に、キログラム、トンなどと呼ばれる単位が用いられる。

・シノビの術
 忍術、ニンポなど。西方の小国で編み出されたとされる独特の魔術。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と釣り道楽

前回のあらすじ
ライトノベルでじっくり猪の解体をやらかすというお得なお話でした。
真似するときはちゃんとした人に師事しようね。


 わくわく動物ランド(屠殺編)を私は何とか乗り越えた。つまり、その、なんだ、乙女塊を吐き出さずに済んだ。いやー、動物の解体シーンって初めて見たけど、慣れるまでかなりきついものがあった。

 慣れると、なんかもう、心が麻痺するっていうか、麻痺させないと心が折れるというか。辛い現実と向き合うときに大切なのは、それと向き合う力ではない、向き合い方だ。直視することがつらいものであれば、半分だけ見るのだ。半分だけ見て、半分は目を逸らす。

 

 よし、大丈夫。

 

 後半なんかはもう、《影分身(シャドウ・アルター)》を使って積極的に解体作業に参加して、さっさと切り上げようとしてたくらいだからな。

 これは本来攻撃《技能(スキル)》で、複数の分身を現出させ、敵単体に超高速の連続攻撃を繰り出すものだが、プルプラも気を利かせてくれたのか、元の形より融通が利くようで、単純な指令ならば従ってくれる分身を生み出すスキルとして活用できた。

 

 そうして解体の終わった猪肉を選別し、今日の夕餉に使わない分は、小分けにしてインベントリにしまう。後で売りに出してもいいし、私のインベントリの内部は時間が進まないようだから、今後の非常食として取っておいてもいい。

 

 さて、トルンペートの浄化の術でざっと血糊を落としてもらい、私は川辺の岩に腰かけて一息ついた。この体はかなりのスタミナを誇るけれど、慣れない作業には結構気疲れもする。それになんだかんだグロかったし。

 

 リリオとトルンペートは、肉をじっくり煮込むとかでさっそく鍋に向かった。猪肉は煮込めば煮込むほど柔らかくなるそうだ。確かに、境の森で食べた時は煮込みが足りなくてごりごりして結構硬かったもんな。

 

 そうなるとわたしはどうしたものか。

 肉の扱いとか知らないし、ちょっとグロッキーな気分だし、後お腹減ったし。

 

 ……なんだか不思議な気分だ。

 最近とみにこういう気分が増えた。

 お腹が減っただってさ。

 この私が、晩御飯を楽しみにしているんだとさ。

 

 以前はゼリータイプの補給食品とブロックタイプの栄養食品、それにサプリメントで満足していたこの私が、毎日今日のご飯は何だろうって気にして、晩御飯まだかなってそわそわして。

 

「……変なの」

 

 それで、その気分が、なんだか悪くないなって、そう思うんだ。

 

 リリオはいつも美味しそうにご飯を食べる。好き嫌いもなく何でも食べる。甘いときは甘いって顔がほころぶし、苦いときは苦いって眉根が寄るし、酸っぱいときは酸っぱいって唇を尖らせて、本当に表情豊かに食べるんだ。

 

 トルンペートはお澄ましな猫みたいにご飯を食べる。食べ方もきれいだし、食べ終えたお皿もきれいで、好き嫌いなんて子供っぽいこと言いませんよっておすまし顔。でも本当は酸っぱいものが苦手で、酢漬けとか酢の物とか、いつもリリオの分を多くとり分けて、自分はちょっぴりしか食べないのを知っている。

 

 私は、私はどうなのかな。

 私は出されたものはきっちり食べる。でも好き嫌いはまだよくわからない。甘いものは甘いし、苦いものは苦いし、酸っぱいものは酸っぱい。でもそのどれも、食べられることに違いはない。違いはないけど、じゃあどんなものが好きなのかってなるとよくわからない。

 私が美味しく食べられるものは、二人が美味しそうに食べて、ウルウもどうぞって渡してくれるものだ。私が美味しそうだって思うものは、二人ならきっと美味しいねって言うだろうと思うものだ。

 

 こうなると二人から離れてしまったら私は美味しいものが食べられなくなるんじゃないかと少し不安になるが、いまのところ二人から離れる予定はないので少し安心だ。

 

 なんてことを考えていたら、さすがにお腹がぐうぐう鳴った。

 何しろもうすっかり昼時だ。

 一日三食しっかり摂る健康的な生活を送るように身体改造されてしまった私は一食でも抜くと餓死するのだ。

 

 どうしよう。二人に何か催促しようか。それともインベントリの携行食でも食べようかな。

 

 などと考えていると、何かがポチャリと水に落ちる音がした。

 

「うん?」

「如何ですかな」

「……釣り?」

「暇潰しにも悪くないものですぞ」

 

 巨漢の武装が、ひょろりと細長い竹の釣竿を構えて、釣り糸を川に垂らしている姿は、何となく直接素手で鮭でも獲ってろよと言いたくなるような違和感だった。一応熊の獣人(ナワル)だったなこの人。特徴と言える特徴が、毛におおわれた耳とおっそろしい顔くらいしかないのでいまいち獣人(ナワル)っぽくないが。

 

「私にも、できるものかな」

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)を釣りに釣ったと聞き及んでおりますが」

「あれは、魔法の釣竿だったから」

「ほう、拙僧にも使わせていただけますかな」

「うー、ん……交換で」

「では」

 

 この世界の人間に能動的に道具を使わせるのはちょっと怖いものがある。例えばよく二人に貸している《コンバット・ジャージ》や《知性の眼鏡》は、言っても受動的な効果のあるものだ。

 魔法の釣竿……《火照命(ホデリノミコト)の海幸》は能動的な道具だ。この利便性をパーティ外の人間に経験させるのはすこし、まだ、不安要素が大きい。

 

 しかしこれもある種の実験だ。

 《一の盾(ウヌ・シィルド)》とか言う冒険屋パーティは決して狭くはないヴォーストの街でも知らぬ者のいない凄腕パーティであったらしい。魔法の道具にも慣れていることだろう。ここで反応を見ておくことで、魔法の道具の平均値を推測しておきたい。

 ウールソであれば人格的にも信頼はおけそうだし、返してくれずに争いになるということも避けられそうだ。

 

 というのはまあ建前で、実際のところはそこまで深く考えず、普通の釣りというのもやってみたかっただけだ。

 

「餌は付けられますか」

「餌?」

「そこらの虫でよろしかろう」

「……虫」

「虫は苦手でしたかな」

「いや、いい。慣れる」

「ではこちらで」

「うひゃう……これ。さ、刺せばいいのかな」

「左様、左様」

「う、ひゃぁ……」

「竿は、こう、しならせて、ひょい、と置くように」

「……こう」

「すこしぎこちないですが、そのような具合ですな」

 

 私がそんな風におっかなびっくり釣り糸を垂らしている間に、ウールソはすでに三尾も釣っていた。

 

「ほおう、ほう。これはまた、見事な竿ですなあ。針先まで意識の通るようでさえある」

「こっちは全然釣れないんだけど」

「釣りとはまあ、もともとそんなに釣れるものではないですからなあ」

「何という自己矛盾」

 

 まあはじめてまだ全然経っていないというのはわかる。わかるけど、なにしろ私が触ったことのある釣り竿というものは《火照命(ホデリノミコト)の海幸》だけで、釣りをした経験というのも霹靂猫魚《トンドルシルウロ》だけだ。

 だから私には釣りというもの自体が全然わからない。

 ひょいひょいと釣果を重ねるウールソは楽しそうだが、あれが釣れるから楽しいのか、釣りそのものを楽しんでいるのか、それさえわからない。

 

 ぼんやりと糸を垂らして、ぼんやりと水面を眺めていると、無駄な時間なんじゃないかと、少し焦れるくらいだ。

 

「釣れない、ねえ」

「まあ、元来、冷えてきたころは釣れないものですからな」

「そういうもの?」

「魚も寒くなれば動きが鈍くなるものでしてな」

「じゃあ、釣れないんじゃ」

「コツがありましてなあ」

 

「……ウルウがめっちゃ喋ってます」

「下手すると一日で二言とか三言しか喋らない日もあるのに」

 

「君たち、後でお話ししようか」

「ぐへぇ」

「ぐへぇ」

 

 昼食は、シンプルに焼き魚となった。




用語解説

・乙女塊
 苦くてすっぱくてスパイシーで主に朝食などからできているもの。

|()()()()()()()()()()()()()()影分身(シャドウ・アルター)》》
 ゲーム内《技能(スキル)》。《暗殺者(アサシン)》系統が覚える。
 単体敵に対して、複数の分身体を生み出し、高速の連続攻撃を見舞う物理属性の《技能(スキル)》。
 攻撃回数がとにかく多いので、クリティカルが連発すると恐ろしいダメージ寮になる。
『お前が己で、お前も俺で、お前も俺なのか、そうするとお前も俺だな、じゃあお前は誰だ、俺か。それで、そう。俺は、誰だ?』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合と作麼生説破

前回のあらすじ
人間らしい空腹感や、なかなか釣れず焦れるウルウなどがお楽しみいただける回でした。
嘘は言っていない。


 いやあ、美味しかったですねえ、お昼ご飯。

 たまにはこういう、手の込んでない塩焼きみたいなのもいいものですね。

 と言うか最近手の込んだものばかり食べてたような気がします。トルンペートのご飯は美味しいので文句はないんですけれど、近頃野営とか野外での食事少ないので、冒険屋として大丈夫かなと少し不安です。

 都市型の冒険屋としては間違ってないんでしょうけれど、旅型の冒険屋を目指す私としてはちょっと問題です。

 

 まあそれはそれとしてご馳走様でした。ウールソさんが大量に釣ってくれたおかげで夕餉まで持ちそうです。

 

「私も釣ったんだけど」

「普通の釣竿でよく釣れましたよね」

「一匹だけだけど」

「私はああいう風にじっとしてるの落ち着かないので」

「リリオ殿は毛針の方がよろしいかもしれませんなあ」

 

 さて、そんな風にお昼ご飯を終えて小休止に入った私たちですが、トルンペートは勤勉なことで、薪が足りないかもしれないので取ってくると席を立ち、ウルウも釣りで体が強張ったから歩いてくるとそれについていきました。

 じゃあ私もと立ち上がろうとすると、あんたは鍋見ときなさいと火の番を命ぜられてしまいました。うにゅう。でも美味しいご飯のためには仕方がありません。

 

 火は強すぎず、弱すぎず、コトコトとじっくり煮込みます。水が減れば足してやり、肉の具合を竹串で刺して確かめます。

 角猪(コルナプロ)の肉は、普通の猪の肉よりも大分かたいです。しかし本当にじっくり焚いてやると、これが恐ろしくとろっとろに柔らかくなってくれるのです。《黄金の林檎亭》の角猪(コルナプロ)が懐かしいですねえ。

 今日のお鍋はあれほどまでに手の込んだことはしませんが、それでも美味しいお鍋になる予定です。

 

 私がそうしてそわそわと火の番をしていると、ウールソさんがのっそりと鍋を挟んで向かい側に腰を下ろしました。

 

「すこし、お話してもよろしいかな」

「え? ええ、はい、構いません」

「では作麼生(ソモサン)

 

 んん、聞いたことあります。

 神官の使う掛け声ですね。

 

説破(セッパ)!」

「うむ、うむ。ではお尋ねし申すが、何故にリリオ殿は冒険屋を目指されるのか。作麼生」

「ん、説破。もともとは母に憧れてでした」

「メザーガ殿の従姉弟であらせられるという」

「そう、その人です。母はもともと南部で冒険屋をやっていたそうです。それが依頼で辺境までやってきて、父との大恋愛の末に結婚したのだとか」

「その母君に憧れて」

「ええ。長い冬の間、母はよく私を抱き上げて、冒険屋だった頃のお話や、また旅の間に見聞きした様々な冒険や旅のお話を聞かせてくれました。それが幼心に染みわたっていったんでしょうねえ。今や私もすっかり冒険屋馬鹿です」

「それが他人を巻き添えにしての事であってもですかな」

「え?」

「実際、リリオ殿は仕事で仕えているトルンペート殿を巻き添えにし、道中出会っただけのウルウ殿もその旅の巻き添えにしようとしておられる。リリオ殿の旅は他人を巻き添えにしても良いというほどのものでありますかな」

 

 作麼生、と低い声が胸に響きます。

 

 巻き添え。

 今までそのような考え方をしたことはありませんでした。

 私にとって旅というものはずっと待ち望んでいたものでした。辛くて、しんどくて、もう疲れたって思うときは何度もありました。でもやめたいと思ったことはありませんでした。

 私にとって冒険屋とは夢であり、憧れであり、それ以上に地に足のついた現実でした。

 私にとって冒険屋を目指すことは当然の事であり、冒険屋として生きていくことは他に選ぶものなどない確たる進路だと思ってきました。

 

 しかし私についてきてくれる二人はどうでしょう。

 

 トルンペートはもともと私のお目付け役として付いてきてくれたものです。

 私はトルンペートの事を姉として慕い、トルンペートも私を妹としてかわいがってくれます。

 しかし厳然たる事実としてトルンペートはドラコバーネ家に仕える武装女中であり、それはつまり当主である父に仕えるということであります。

 私の冒険屋稼業に付き合ってくれるのは、父から与えられたお目付け役の任を全うするためであり、本当はいっしょに辺境に帰って欲しいとそう思っているのかもしれません。

 

 ウルウはどうでしょうか。

 ウルウの旅の目的を、本当のところ、私は知りません。

 ウルウはきっと一人でも何でもできて、一人でもこの世界を歩き回れることでしょう。

 それでも私についてきてくれるのは、私がウルウの知らない世界の案内役としてちょうどよいという、ただそれだけの事です。ウルウは言いました。美しいものを見たいと。君が()()であるならば、()()であるうちはいっしょにいてもいいと。

 ウルウが案内役を必要としている以上に、私が望んで旅についてきてもらっているのでした。

 

 私の旅は、二人を巻き添えにしてもいと思えるほどのものなのでしょうか。

 

 なんて。

 答えは決まっています。

 

「説破! 二人がついてきてくれるのは嬉しいことです。でも私は二人に無理強いしたことはありません。二人がついてきてくれるのは二人の事情や二人の意志からであって、私なんかの巻き添えではありません。私が旅を続ける上で一緒にいてくれたらどんなにか心強いことかと思います。でも、もしも二人が望まないのであれば、私は一人でも旅を続けるでしょう」

 

 それはきっとどこまでも寂しくて、心折れるほどにつらい別れでしょう。

 けれど、それでも、だけれども、私は冒険屋になると心に決めたのでした。

 だってそこには、きっと美しいものがあるのだと、そう信じられたから。

 

「ふむ、ふむ。成程。左様ですか」

 

 ウールソさんはじっとわたしを見つめて、それから熊のように恐ろしい目を細めました。

 

「では、御父上やメザーガ殿はどうか」

「父や、メザーガですか?」

「御父上はもちろん、メザーガ殿もリリオ殿のご家族と言ってよい。この二人はどちらも、リリオ殿が冒険屋になることをよしとされていない」

「それは……そうですけれど」

「メザーガ殿は単に危険であるからこれをよしとしておられない。成程、これはリリオ殿も承服しかねるものでしょう。しかし一方で御父上はどうか」

「父が、何か?」

「聞けばリリオ殿は辺境の出。辺境と言えば臥竜山脈より沸きいずる悪竜どもを押しとどめるもののふたちの土地」

「その通りです」

 

 それは誇らしく、気高く、名誉なことだと思います。

 

「御父上からすれば、リリオ殿がその辺境から旅立つということは、悪竜どもを切る刃が一本足りなくなるということではあるまいか」

「む、ん……それは」

「作麼生」

 

 これもまた、考えていない事でした。

 父の偉大さや、兄の優秀さ、また頼れる人々に任せっきりで、では自分が欠けた後はどうなるのかということを考えてはいませんでした。

 私はまだまだ未熟な身です。それでも、大具足裾払(アルマアラネオ)の剣を一振り託された剣士が一人、護りの柵から抜け出るということはどれだけの損失でしょうか。

 父は私にそのようなことは言いませんでした。

 言わずとも理解してくれているとそう思っていたのでしょうか。

 いえ、あるいはそれは無言の後押しだったのかもしれません。表立って応援することはできない。しかし娘の夢のためならば情けないことなど言えぬと、そういう覚悟の上での後押しだったのかもしれません。

 

 そういった今まで考えてもいなかったことを思うに至っても、しかし不思議と私の中の覚悟はこれっぽっちも変わることがありませんでした。

 一人で、あるいはトルンペートと二人で旅をしている時であったら、この武僧の問いかけに詰まり、故郷へと帰る道も考えたかもしれません。竜たちと戦う日々を選んだかもしれません。

 

 しかし、今の私にはそれでも冒険屋として旅に出たい、もう一つの理由ができていたのでした。

 

「説破。それでも私は旅に出ます」

「フムン」

「だって……ウルウに格好いい所見せたいですもん」

「は、ははははは、は。成程。成程」

 

 ウールソさんは高らかに笑って、膝を打ちました。

 

「成程。同じ情でも、家族の情ではこの情には勝てませんなあ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と今更だけど

前回のあらすじ
ウールソの怪しい質問攻め再び。
元気いっぱいに応えるリリオだったが。


 薪が足りなくなりそうだからと柴刈りに出かけたら、何故だかウルウもついてきた。ぼんやりしていることが多いから何時間でもそうしてられるって勘違いしやすいけど、なんだかんだこいつ暇潰しにうろちょろしてるのよね。

 いまだってあたしの柴刈りを手伝っているわけじゃなくて、山の中の変わった動植物を観察に来ましたって風情で、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、気づいたらすぐそばに戻ってきているっていうのを繰り返してる。

 

 あたしにはいったい何が楽しいのか全く分からないけど、まるで生まれたての赤ん坊みたいに、こいつは何にでも興味を示す。なんでも口に入れたりしないだけましだけど、危険なものでも気にせず手を出すから怖い。

 

「トルンペート」

「なによ」

「これ何」

「危ないからポイしなさい」

「はーい」

 

 冗談じゃなく、こういう会話が結構頻繁にある。

 つい今しがたも爆裂(エクスプロディ)団栗(グラーノ)を拾って持ってきて、危うく胆が潰れるかと思ったわ。幸いすぐに放り捨ててくれたから、遠くで炸裂してくれたけど。握りしめたままだったら指が吹っ飛んでたかもしれない……って自分で言っておきながら、こいつがそういう怪我を負うところがちょっと想像できない。

 

 こういうのは、あれよね、あたしだけ黒焦げになって、こいつはしれっとして「危ない危ない」とか言ってそう。

 

 しばらくしてくればウルウも危険というものをある程度認識してくれたようで、何か見つけた時は触らずにあたしに聞いてくれるようになった。

 あたしからすればどうしてこんなものを珍しがるんだろうというくらいあり触れたものから、山に慣れたあたしでも珍しく思うような貴重なものまで、ウルウは分け隔てなく見つけては聞きに来る。

 そして一度聞いたものはしっかり覚えて、二度と聞きに来るということがない。

 

 ちょっと面白くなって、よく似た外見の団栗(グラーノ)を何種類か並べて当てさせてみたら、リリオでも苦労しそうなところを平気で即答して見せた。

 一度見たものは忘れないって以前言っているのを聞き流したことがあったけど、もしかしたら本当なのかもしれなかった。

 

 ……となると、以前トランプ遊びで勝負した時にやたらと勝率が高かったのも、場に出た札を全部覚えてたからじゃないでしょうね。帝都から最近流れてきた遊びだから、やり方を熟知してるあたし以外は公平だって思ってたけど、ウルウに関しては別みたいね。

 あー、というか、リリオだけ勝率が低かったのも、うなずけるわね。

 神経衰弱はもう二度と賭けありではやらない方がいいわ、これは。秘蔵の一本取られちゃったし。

 

 それにしても、それだけ記憶力がいいウルウがあれこれ気になって歩き回るというのは、これって不思議だ。

 だってそうだろう。

 山の中のものは、まあ、ウルウが箱入り娘で外に出たことがなかったと言うことなら、物珍しがって仕方がない。

 でもウルウが小首を傾げるものは、むしろ街中の方が多いくらいだ。店先に並ぶ品々で首を傾げないものの方が少ないし、最近あたしにも隠す気がなくなったのか、あれこれ尋ねる内容はごくごく当たり前の事ばかりだ。

 街にも降りたことのない余程のお嬢様っていうには、ウルウはどうも洗練されていない。良くてもお金持ちの市民、町民だ。そうしてそういう層にしては、ウルウの能力はずば抜けて優れ過ぎている。

 

「あんたってさ」

「なに」

「何者なの?」

 

 何となく投げかけた問いかけに、ウルウはしばらく咀嚼するようにじっと考え込んでいた。

 

「何者なんだろう」

「あたしが聞いてんのよ」

「人間、ではないのかも」

「意外でもないかも」

「えっ」

「えっ」

 

 別に今更ウルウが人間じゃなかったところで、意外でも何でもない。

 辺境にはそれこそ人間やめてるのがごろごろいるし、近場でいえばメザーガを始めとして《一の盾(ウヌ・シィルド)》の面子は大概人間やめてる。

 でもそういうことじゃなくて、種族として、人族でもなければ、あたしの知ってる隣人種でもないんじゃないかって言うのは、別に意外でも何でもない。

 

「じゃあなんだと思ってたのさ」

「そういう生き物だと思ってた」

「そういう生き物」

「種族:ウルウ、みたいな」

「あー」

 

 本人も納得するところらしい。

 

「まあ、なんでも、亡霊らしいよ、私は」

亡霊(ファントーモ)?」

「一度死んでるんだって。それでまあ、今の私は亡霊みたいなものなのさ」

「よくわかんない」

「私も」

 

 でも神様がそう言っていたからと言うのには少し驚いたが、でもまあ、ウルウはちょっと神がかったところがあるというか、浮世離れしたところがあるというか、神様に愛されていそうなちょっと儚いところがある。

 

「早死にしないでよね」

「詩人は早死にするっていうよ」

「あんた詩人じゃないでしょ」

「でもよく笑われてる」

「……あー。あれは詩なの?」

「地元じゃポエットって扱いだったよ」

「ポエット」

「ポエット」

 

 それはなんだか笑える響きだった。

 

 心地よく空気もほぐれて、程よく薪も集まって、私は折角なのでいろいろと、聞いてみたかったことを尋ねてみることにした。こいつと二人きりと言うのは、なんだかんだ珍しいし。

 

「あのさ」

「なあに」

「なんでリリオなの?」

「なんでって……なんで?」

「なんでっていうか……正直リリオってついていきたいって思える感じじゃないと思うんだけど」

「あー」

 

 あたしみたいに面倒を見るのが幸せみたいなそういう風に調教された生き物でもないと、あっこいつ面倒くせえ、ってなるんじゃないかと思う。

 リリオ自身面倒は見る方だし、ウルウもなんだかんだ面倒見はいい方ではあるかもしれないけど、あんまり人付き合い好きそうじゃない、と言うよりはっきり苦手そうだから、べたべたしがちなリリオの相手は辛いと思うのだけれど。

 

「リリオと会った時の話ってしたっけ」

「えっと……熊木菟(ウルソストリゴ)相手に矢避けの加護使わないでぼっこぼこにされたって話だっけ」

「それそれ」

 

 あの時は単に阿呆かと思ったくらいだけど、普通に考えてリリオが熊木菟(ウルソストリゴ)の空爪くらい避けられない訳ないのよね。余程老獪な個体ならともかく、あれって予備動作もあるし、辺境の剣士で避けられないのって恥って言うくらいだし。

 

「あれさ、私のこと助けてくれたんだよね」

「はあ?」

「わたしぼんやりしてて熊木菟(ウルソストリゴ)に気付かなくってさ、そしたら、リリオに突き飛ばされて、助けてもらったんだ」

「余計なお世話じゃない?」

「私のこと知ってたらそうかもしれない」

 

 まあ、そうか。

 いまでこそ、こいつ背後から酒瓶で殴りつけても平気で避けるってことあたしたちは知ってるけど、そうと知らなければただのひょろ長い嬢ちゃんに過ぎない。

 

「まあ、私のこと知ってても同じことしたと思うけど」

「あー、そういうとこあるわよね」

「だからかなあ」

「なにがよ」

「なんでって話」

「なんでって……あー、なんでリリオっていう話?」

「そう、それ」

「なにそれ。白馬の王子様に助けられてドキッとしちゃったやつ?」

「目の前でさっきまで笑顔だった子が血まみれになってきりもみ回転してドキッとしちゃったやつ」

「おうふ」

「放っておいたら死ぬんじゃないかとは思ったよね」

「わかるわ」

「わかりみ」

「わかりみ?」

「わかりみが深い」

「あー……わかりみ、深いわね」

 

 二人してなんだかしみじみと深いねー、深い深いと意味の分からない相槌を打ち合ってしまった。

 

「でもさ、しばらく付き合って嫌になったりしてない?」

「別にしてない」

「ほんとに?」

「……ちょっとだけ」

「やっぱり」

「距離感がさ」

「あー」

「距離感が、近い」

「あの子べたべただもんね」

「懐かれて嫌なわけじゃないんだけど」

「うん」

「慣れてないから、気持ち悪くなる」

「ごめん、それはわかんない」

「うん」

「いやー」

「なんていうかこう、生き物にあんまり触ったことないから」

「まさかの動物扱い」

「壊しそうで怖い」

「サイコパスなの?」

「後たまに壊されそうで怖い」

「あの子真面目に人の骨圧し折ったことあるからね」

「そっちの方が気になるんだけど」

 

 気付けば、いい時間になっていた。




用語解説

爆裂(エクスプロディ)団栗(グラーノ)(Eksprodi glano)
 爆裂(エクスプロディ)(クヴェルコ)(Eksprodi kverco)の殻斗果、つまりドングリ。
 春から夏にかけて気温が高くなると、内部のメタ・エチルアルコールが封入された火精と反応して爆発し、種子を周囲にぶちまける。爆発自体は小規模だが、子供などが手に握ることで温度上昇、炸裂し、指などを吹き飛ばす事例がある。
 また、植物でありながら火精を扱う珍しい魔木として研究もされている。
 なお、この身自体は渋みが強く、流水で数日あく抜き・火精抜きをしなければ食べられない。

・トランプ遊び
 近年、帝都から発信された札遊び。
 四種各十三枚の五十二枚、つまりスートと呼ばれる四種類のマークと、一から一〇の数字札とジャック、クイーン、キングと称される字札の組み合わせ五十二枚と、ジョーカーと称される絵札一枚ないし二枚からなる遊び札。
 ポーカー、七並べ、神経衰弱などの厳密に規定された遊び方とともに発信されており、課税対象であることからも、かなり計画的につくられた遊戯ではないかと噂されている。
 誰かがすでに出来上がったものを持ち込んだようでさえある。ね。

・神様に愛されていそう
 我々の世界でも、神に愛されているというのは早逝すること、つまり早死にすることに対して言われる形容だ。
 ただこの世界では、神に愛されるというのはしばしば半神などとして召し上げられたり、既知外の紙の精神に触れて気が触れたりなど、大いにろくでもない場合が多いが。

・背後から酒瓶で殴りつけても平気で避ける
 ウルウの回避能力はゲーム時代の「攻撃に対する回避判定は計算で自動的に算出される」ことからくる自動的な物であり、それが攻撃または危険と判定されれば、見えていまいと気づいてなかろうと反射的に発動する。
 それはともかく、背後から酒瓶で殴りつける経験があるというのはどういうことなのか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と作麼生説破

前回のあらすじ
マックで駄弁る女子高生のような会話を繰り広げるウルウとトルンペート。
あの口下手なウルウが……快挙です。


 トルンペートとの雑談はなかなかいい収穫だった。

 私とリリオ、リリオとトルンペートっていう組み合わせは結構あるんだけど、私とトルンペートの二人きりっていう組み合わせは、実のところあんまりなかったからね。それこそ、一番初めの頃の、二人で仲直りした時くらいじゃなかろうか。

 

 別に仲が悪いってわけじゃない。

 多分、単純に付き合いやすさで言ったら、私はリリオよりトルンペートとの方がやりやすいはずだ。

 でも実際のところは、リリオは何かと黙り込みがちな私の面倒を見ようとするし、トルンペートはそのリリオの面倒を見るのが好きでたまらないマゾヒストだし、そうなると私は別に何もしなくても満たされてしまうのでこれと言って仲が進展しなかっただけだ。

 

 だから今日、これと言った目的もなく、中身もない、本当に雑談のための雑談と言った会話ができたのはちょっと嬉しい。私にもちゃんと会話ができるのだという自信が持てた。心療内科の先生に話したらおめでとうと言われる快挙じゃなかろうか。

 思えばあの人も今となっては懐かしいな。当時は正直薬だけくれという気分だったが、まともに会話をしていたのはあの人くらいだったように思う。

 

 さて、山と担いだわけでもなくインベントリに薪を突っ込んで帰ってきた私たちは、早速夕飯の猪鍋の準備に取り掛かった。

 正確にはリリオとトルンペートが。

 私に任せると彼女たち曰くの「四角四面の味」がするらしいから、私は食べるの専門で行こう。

 

 とはいえ、さてどうするかな。

 二人がいろいろ準備しているのを見るのはそれはそれで楽しいけれど、でも人が仕事しているのに自分がぼうっとしているのは何とも手持無沙汰感がひどい。

 リリオたちは私のことをワーカーホリック扱いするけれど、私からすればこの状況で平気でいられるのは人として感性がおかしいと思う。まあ育ちの違いかもしれないけど。

 

 またどこかふらついてこようかなと思っていると、隣にどっかりと岩が座り込んだ。

 違った。巨漢の武僧、ウールソだ。

 つるりとそり上げた頭に、一方でごわりと豊かな顎髭。それに熊のものであるらしい獣の耳に、いかつい顔。成程、(ウールソ)の名を持つだけあるなと思わせる。

 

「少しお話をしてもよろしいかな」

「面接の時間かな」

「はて?」

「実技試験の後に口頭面接ってのは初めての流れかな」

「ウルウ殿は慣れておられるのかな」

「職種は違っても、ね。これでも二十六だし」

 

 今日一番驚かれた。

 

「ウルウ殿は長命種であられるか」

「響きから想像はつくけど、多分違うと思う」

「これは試験とは関係ありませぬが、実際のところウルウ殿は、ふむ、何と申したものかな」

「何者かって?」

「端的に申せば」

「そうだね。亡霊なのさ」

「亡霊」

「一度死んで、いまだって生きているようなものかよくわかりもしない。亡霊だよ」

「フムン」

「それこそトルンペートあたりが言ってたんじゃないかな。種族:ウルウだよ」

「成程」

 

 さて、まあ会話は温まった、とみていいんだろうか。いまだに空気の温度はよくわからない。

 

「本題は何かな」

「そうですなあ。まずは何からお聞きしたものか」

 

 ウールソはしばらく顎髭を撫でながら考え込んでいるようだった。

 こうして近くで男性の顔を見る機会と言うのはあまりなかったけれど、なかなか渋い顔立ちだな。《一の盾(ウヌ・シィルド)》の中では一番年食ってそうだけど、渋みもあり、落ち着きもあり、安心感があるな。怖いけど。

 

「では、そうですな。なぜリリオ殿なのかお聞きしてもよろしいか」

「なぜリリオかって?」

「左様。ウルウ殿があえてリリオ殿にこだわるのはなにゆえか。作麼生(いかがか)

「ふふふ」

「む?」

「いや、さっきの質問と言い、トルンペートに聞かれたばっかりだ」

「ほう」

「だから今度はもう少し突っ込んだ答えをするとするならば」

 

 私は少し小首を傾げて、言葉をまとめた。

 

説破(そうだね)。私がリリオに命を助けられたから、かな」

「ほほう」

 

 私はトルンペートにも話した、リリオに助けられた時の話を繰り返した。

 

「助けられた、それだけでリリオ殿についていくと?」

「厳密には違うかな。助けられたんじゃない。助けられてるんだ。いまも」

「いまも?」

「私は正直な所、人間というものを信用していない」

 

 いくらか改善されてきたとはいえ、私にとって人間というものは次の瞬間には薄汚れたエゴをさらす生き物でしかない。なぜならそういう生き物だからだ。これは根本的な性質であって、私自身にもそういうところがあり、改善のしようはない。

 だから私は人間が好きじゃあない。

 これはリリオであっても変わらない。リリオは素直であるからそう言った薄暗い面が見えづらいところはあるけれど、エゴの生き物であることに変わりはない。

 エゴの生き物を止めるにはどうしたらいいか。解脱して仏になるか、あるいは死ぬほかない。

 

「でもねえ、そんな人間であっても、時々まだ生きていてもいいかなと、そう思わせてくれる綺麗なものを見せてくれる時がある」

「それがリリオ殿であると?」

「そう。だからリリオがそういうものを見せてくれる限り、私はついていくよ」

「ふむん」

 

 ウールソはまじまじと私を眺めて、つるりと頭を撫で上げた。

 

「では冒険屋になりたいというわけでは、別にない」

「そう言ったことは一度もない。ただ、単にリリオについていくのに便利だからそうしているだけだよ」

「ではリリオ殿が冒険屋を止めるとしても、ついて行かれると」

「リリオがそんなことを?」

「さて」

 

 まあ、リリオがそういうことをほのめかす程度でもいうとは思えないけれど。

 というか、何となくどういうことを言ったのかわかるけど。

 

「どうせリリオはやめないって言ってるんでしょ」

「おわかりか」

「何なら理由も当ててあげる」

「では」

「『ウルウに格好悪い所見せられない』とかなんとか、でしょ」

「よくおわかりだ」

「そりゃね」

 

 そりゃあそうだ。

 いつもそんなことばかり言っているような気がするし、それに、なにより。

 

「私もリリオの格好いいところばかり見ていたいからね」

 

 武僧ウールソは目を丸くしてまじまじと私を眺め、それから、少し離れたところの二人が顔を上げるような大きな声で笑い始めた。

 

「はっはっはっはっは! 成程左様か」

「何がおかしいのさ」

「いやいや、いや。すっかり惚気られてしまいましたなあ」

 

 私は今更ながらに赤面した。




用語解説

・長命種
 この世界の種族はみなその種族毎の寿命を持っているが、その中でも特に、何百年、あるいは千年といった長い時を生きる種族の事を特にいう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合と角猪鍋・改め

前回のあらすじ
ついにウルウにも向けられたウールソの毒牙。
しかしなんと惚気返すことで撃退するウルウだった。


 角猪(コルナプロ)鍋!

 何と美しい響きでしょうか。

 個人的に帝国美麗ワード百選に乗せたいくらいです。

 粗にして野なれど卑にあらずと言う具合でしょうか。

 

 以前、境の森で作った時は何しろ準備も材料も足りませんでしたから、地物の香草の類と乾燥野菜くらいしか入れるものがありませんでしたが、今日は何しろこの角猪(コルナプロ)鍋を食べるためだけに来たと言っても過言ではありません。

 

 早速頼りのトルンペート先生をお呼びしましょう!

 

「結局人頼りなんじゃない……ま、いいわ。はじめていきましょ」

 

 まず最初に、キノコの選別と処理からですね。

 キノコの数はたくさんありまして、中には毒キノコと食用キノコの見た目がそっくりというものもよくあります。

 こういうのを区別するには、まず齧ってみて舌が痺れたら、

 

「そういう蛮族式判断方法はやめなさい」

 

 怒られました。

 

「毒キノコかそうじゃないかは、特徴をしっかり覚えておくことが大事ね。それで、毒キノコの可能性があるものは全部弾いちゃった方が安全よ。区別があいまいだなーってものは全部弾く。これ大事」

「つまり私なら食べるかもなって思ったものはやめた方がいいんですね」

「よくわかってるわね蛮族」

「むがー!」

 

 とはいえ、毒キノコは本当に危険ですからね。

 この私であっても二、三日動けなくなることもざらなので、気を付けなければなりません。

 

「ざらって言えるくらい毒キノコ食ってんのよねあんた」

「毒キノコ博士とお呼びください!」

「なんで死なないのかしら」

「博士にもわかりません……」

 

 さて、本日採れたキノコを並べていきましょう。

 

 まずは石茸(シュトノフンゴ)

 いきなりいいやつ来ました。

 名前の通り石のように固く良く締まったキノコなんですけれど、香りがいいんですねえ。とはいえ、香りの表現って難しいですね。甘いようでもあり、香ばしいようでもあり、新鮮な土の匂いのようでもあり。

 

 さて、お次は、これは黒喇叭茸(ニグラ・トルンペート)ですね。トルンペートの名前をとった鉄砲百合(トルンペート・リリオ)と同じ、楽器の小號(トルンペート)が名前の由来ですね。黒くて細長い変わったキノコで、こりゅこりゅくにゅくにゅした歯ごたえで、乳酪(ブテーロ)のような香りが楽しめます。

 

 ウルウはちょっと味見して、ヨウフウキクラゲとかいってましたっけ。

 

 作茸(シャンピニョーノ)はどこでもよく採れるキノコですね。白いのだったり茶色のだったり。丸っこく可愛らしいキノコですね。大きく育ったものは肉厚で食いでがありますけれど、大体すでに猪だったり熊だったりに食べられてますので、ちっちゃいので諦めましょう。

 ほんとどこにでも生えててどこでも採れるキノコで、煮物にはとりあえず放り込んどけというくらい出汁が取れます。煮てよし、焼いてよし、白の若いものなら生でも食べられます。

 

 牡蠣茸(オストロ・フンゴ)は名前の通り、牡蠣(オストロ)みたいな平らな形に広がるキノコなんですね。もうちょっと暖かい地方のキノコと思ってましたけど、このあたりでも採れるんですね。ふふふ。私は食べ物に関しては結構詳しいんですよ。

 なんでも味や香りは特に癖もなく、なんにでも合うそうですね。

 

 一夜茸(インコ・チャーポ)はこれ、ちょっと難しいキノコですね。白から灰色がかった色合いをしていて、細長い卵のような形をしていますね。墨汁(インコ)という名前がついているのはこのキノコ変わった特性のためで、熟した一夜茸(インコ・チャーポ)は一晩のうちに黒っぽい墨汁(インコ)みたいに溶けてしまうんです。なので採った後ほったらかしておくとえらいことになります。

 あ、でもですね、難しいって言うのはそこじゃないんですよ。

 このキノコですね、お肉の脂ととても合うんですけれど、その癖、お酒との相性が最悪なんですよ。最悪。一緒にお酒飲むとですね、恐ろしいほど悪酔いする挙句、一週間くらいは体に残るのでその間飲酒が危険なわけですよ。堪ったものではありません。美味しいんですけれど。

 

 反対多数で今日はやめておきました。

 ウルウだけは食べてみたいとのことで、一人分乳酪(ブテーロ)炒めを作ってあげることに。

 ……ちょ、ちょっとだけなら……いえいえ、ちょっとと侮ると後が……ぐぬぬ……。

 

 気を取り直していきましょう。

 

 ごろっと太い軸に平たい傘、これは杏鮑菇(エリンゴ)ですね。これは牡蠣茸(オストロ・フンゴ)の仲間……仲間でしたっけか。うん。仲間だった気がします。軸がごっつく大きくてですね、かなり食べ応えのあるキノコです。他は美味しいということ以外よく知りません。

 正直私、食用キノコより毒キノコの方が詳しいくらいですからね。

 

 最後は……お、こいつは変わり種が来ましたね。滑子(フォリオート)です。これはもう見た目から凄まじいですからね。表面をぬるっとしたぬめりが覆っていて、初見だとこれどう見ても毒キノコですもん。思わず二度見してもこれは毒キノコ判定待ったなしですよ。

 ところがどっこい、美味しいんですよ、これ、

 小さいやつなんかね、つるつるっ、とぅるとぅるって感じの食感が面白くてですね。成長した奴なんかは今度はそれにシャキシャキとした歯応えが加わって、ま、なんです、たまらんって感じですよ。

 胡桃味噌(ヌクソ・パースト)の汁にこれがとぅるんっては言ってた日には、まず大地に感謝ですね。

 

 あとは毒キノコなんで嬉々として紹介したいんですけど、食べられないのでまた今度ですね。

 

 処理は、まあ大体、石突の硬いとことって埃を払ってやればいいです。

 あ、キノコの類は水で洗っちゃだめですよ。

 食感や味、風味が落ちます。でもどうしても気になるときは、濡れ布巾などで軽く拭うとよいでしょう。

 

 あとはこれらと香草を胡桃味噌(ヌクソ・パースト)で煮込めば出来上がり、と言うところですが、何やらトルンペートが怪しげなものを取り出しました。

 なんていうか……小汚い茶色をした棒みたいな。

 それを……ナイフで削って……鍋に入れたー!?

 え、それ食べ物なんですか!?

 鍋で煮立てて、え、飲んでみろって、ただの木の枝削って入れた奴じゃないですか美味ーっ!

 

「え、なんですかこれなんですかこれー!?」

「ふふふ、こう言う時の為に手に入れたとっておきの鹿節(スタンゴ・セルボ)よ!」

 

 鹿節(スタンゴ・セルボ)

 噂には聞いていましたが、まさかたったのこれだけでこんな出汁が採れるなんてすごい木の棒です。

 

鹿節(スタンゴ・セルボ)だっつってんでしょ。それにしても夢の中で味見た時とはなんか違うわね。結局は夢の中ってことか……」

「え、何言ってるんですか怖っ……」

「引かない引かない」

 

 なんだかトルンペートが妙なことを言い出し始めましたけれど、確かに鹿節(スタンゴ・セルボ)の出汁たるや物凄いものがあります。普通出汁と言うと脂の匂いや癖と言った雑味も一緒に出てしまうものですが、この鹿節(スタンゴ・セルボ)はとことんまで旨味だけを絞り出したような澄んだ味わいです。

 これを鍋に使うというのですから、単純に旨味ばかりが足される美しい数式!

 これは私的帝国美麗数式百選に加えたいくらいの完璧な数式です。

 

 いえ、もはやこうなると足し算ではすみません。掛け算です。

 

 鹿節(スタンゴ・セルボ)の出汁×角猪(コルナプロ)の出汁×美味しいキノコたち=百万力です。

 

 これは私的帝国力技数式百選に加えたいくらいの完璧な数式です。

 

 こうして私たちの角猪(コルナプロ)鍋が完成したのでした。

 もうちょっとだけ続くんですよ。




用語解説

黒喇叭茸(ニグラ・トルンペート)(Nigra trumpeto)
 トランペットのような形をした黒いキノコ。バターで炒めると美味しい。

乳酪(ブテーロ)(Butero)
 いわゆるバター。
 どうでもいいが果たしてこの世界の乳製品はちゃんと牛からとられているのだろうか。
 牛と言う名前のなんか謎の生物だったりするのだろうか。謎だ。

作茸(シャンピニョーノ)(ŝampinjono)
 いわゆるマッシュルーム。どこでも採れるキノコの中のキノコと言ってよい。

牡蠣茸(オストロ・フンゴ)(Ostro fungo)
 オイスター・マッシュルーム。いわゆるヒラタケ。以前はこれをしめじとして販売していることもあったが今はどうなんだろう。

一夜茸(インコ・チャーポ)(Inko ĉapo)
 ヒトヨタケ。コプリーヌとも。
 徐々に黒く変色しはじめ、インクのような液状に溶けてしまう。
 現地語のインコ・チャーポは英名のインクキャップからとった。

杏鮑菇(エリンゴ)(Eryngo)
 いわゆるエリンギ。エリンギと言う名前はイタリアや南フランスなどを中心に生えるキノコで、エリンギウムというセリ科の植物が枯れたところに生えるからエリンギと呼ばれるようになったようです。
 どうして北部のこんなクソ寒いあたりに生えているのかは謎だが、筆者が好きなキノコだからだと言わんばかりである。

滑子(フォリオート)(folioto)
 いわゆるなめこ。天然物は言うほどぬめっていないが、雨などで湿度が上がるとどえりゃあぬめる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と帰ってきた角猪鍋

前回のあらすじ
角猪(コルナプロ)鍋と謳いながらもほとんどキノコの解説で終わった。
ゴスリリは割とそういう回が多いので気長に楽しもう。


 さて、そろそろ欠食児童どもの腹の音がうるさいからざっくりといろいろはしょって、角猪(コルナプロ)鍋が仕上がったわ。細かい工程が気になる子は、いつかこう、リリオの旅を冒険譚とか旅行記として出版するときにレシピでもつけるからそれを読みなさい。保証はしないけど。

 

 さて、大きめの鍋にたっぷりと仕上がった角猪(コルナプロ)鍋だけど、これ足りるかちょっと不安になってきたわね。

 

 なにしろ身の丈はウルウよりも頭一つは大きくて、幅と言ったら二人分はありそうなウールソさんはまずたっぷり食べることは間違いないでしょ。冒険屋ってのは他所のパーティのご飯でも基本的に遠慮なんかする生き物じゃないもの。

 この前の地下水道の時だってそうだったでしょ。割と良識人だった《潜り者(ホムトルオ)》だって遠慮なんか欠片もしなかったし、その冒険屋との付き合いの長い水道局の人だって微塵も遠慮せず林檎酒(ポムヴィーノ)かっ喰らってたじゃない。仕事中なのに。

 

 神官だし、あの実にできた人っぽい雰囲気といい、ウールソさんに限ってそんなことないって言いたい気持ちはよくわかるけど、あの人あれで自前のどんぶり持ってきてるから。リリオのよりでかいわよあれ。

 

 そのリリオはもう、安定してるわ。あの小さな体にどれだけ入るのかってほどに、本当によく食べるのよね。食べた端から全部消化して魔力にでも変換しているって言われても信じるわ、あたし。

 常に何か食べる印象があるってよく言われるリリオだけど、実際間違ってないと思うわ。多分食べてないと死ぬのよ。ネズミと一緒で。 

 

 あたしも辺境出だからさ、それはまあ食べるわよ。生粋の辺境人ほどじゃなくても、食べるわ。何しろ辺境って言うのは、生きるだけで体力使う土地だから、竜どもと戦うとかそれ以前に、自然の驚異と戦うために命を削らなきゃいけない。その削った命はご飯食べて満たさなきゃならない。何事もまずご飯なのよ。

 だから美味しくて腹にたまるご飯作れる子はモテるし、逆にまずい飯作るやつは私刑にあってもおかしくない。

 別にあたしがモテるって自慢じゃないわよ。モテるって言っても限度あるもの。やっぱり人間こう、ないよりはあるほうがいいっていうか、平らなより山の方がいいっていうか、要するに見る目がないやつが多いのよ。

 

 さて、残るウルウはって言うと、まるで小鳥みたいよね。図体の割に。

 いやまあ、普通に食べるのよ。ちょっと小食かなとは思うけど、それでも最近は食べ切れないってことはなくなったし、ちゃんとご飯食べられるようになってきたのよ。それでも一般人と言うか、普通の町民くらい。冒険屋ならもうちょっと食べてもいいのよ。体力勝負なんだからね。

 でも最初の頃はねえ、それこそ食べるってことにあんまり興味持ってなかったから心配してたのよねえ。無理して食べ過ぎて、あとで隠れて吐いてるってこともあったし。

 

 なんてこと言ってたら本当に鍋がすっからかんになっちゃうからあたしも食べないとね。

 

 まず汁を一口。この汁がね、美味しいのよ。

 

 角猪(コルナプロ)の肉からあふれ出したどっしりとした旨味を、鹿節(スタンゴ・セルボ)の力強い旨味が余さず支えてくれる。支えてくれるだけじゃなくて上乗せして純粋に持ち上げてくれる。そして脂の甘味がもたらす確かな心強さ。

 胡桃味噌(ヌクソ・パースト)の甘味と塩気がそこに立体的な輪郭をくれるってわけよ。

 

 キノコってのは、煮込んじゃったらどれも似たり寄ったりのもんって思ってる人いるじゃない。まあ半分くらいは当たってるわ。食感とか似たような感じになるし。でもね、その香りはたっぷりと汁にとけこんで、そして鍋全体に膨らみを与えてくれる。胡桃味噌(ヌクソ・パースト)が大地だとすればキノコの香りは空なのよ。

 理解(わか)る?

 あたしには理解(わか)んないわよ。酔っ払い(リリオ)の戯言なんだから。

 

 のたのたなんやからあれこれ喋ってたら鍋がなくなるでしょ。

 解説はあとよ。食べるのが先。

 理解(わか)る?

 あたしには理解(わか)る。

 だから食べる。

 

 そして食べたら解説どころじゃないの。

 わかるかしら?

 わかるわよね?

 

 だから、いつだって正しいご飯の後には正しくこう続くのよ。

 

「ごちそうさまでした!」

 

 それで終わり。

 ね?

 

 

 

 さて、ご飯が済んで、後片付けが済めば、あとは、そう、乙女なら身を清めないとね、というのが《三輪百合(トリ・リリオイ)》のやり方だ。と言うより、ほとんどウルウのやり方よね。

 お風呂に入れない野外活動中も、ウルウは絶対に水浴びを欠かさなかった。どうしても水浴びできない時でも、布を濡らして体を拭いていた。

 

 夏の間はそれでよかったかもしれないけど、さすがにこれから冬になっていくんだし、川で水浴びするのも限度があるんじゃないの。

 とあたしが言ったらこの女、わざわざそのためだけに倍以上値段がする温泉の水精晶(アクヴォクリスタロ)を箱で購入してきやがったのよ。理解(わか)る? ああ、もう、これもいい加減面倒ね。そうよ、全然わかんない……といいたいところだけど。

 

「うあぁ……気持ちいいですねえ……」

「ああ……もう……駄目になるぅ……」

 

 いやはや、さすがのあたしもダメになるわよ。

 

 ウルウが取り出したのは、巨大な金属の筒だった。筒は両側が同じく金属の蓋で覆われていて、何かの容器みたいだった。

 ウルウはこの蓋の片方を綺麗に切り取って、川原に組んだ竈の火にかけて中にたっぷりの温泉水を注いだ。

 炊き出しの大鍋みたいねって思っていると、ウルウは温度を見ながら中底に木の()()()を敷いた。

 

 それからこう言ったの。

 

()()()()

 

 ってね。

 

 それ以来あたしたちは野外活動の時だって欠かさずにお風呂に入っている。

 一度に入れるのは、精々一度に一人か二人。リリオとあたしでちょっときついかなってくらい。以前リリオが無理に三人で入ろうとしたときは、三人そろってのぼせそうになったわね。

 

「…………」

「さすがの《一の盾(ウヌ・シィルド)》でもやらない?」

「風呂の神官でもいれば別ですが、これは、また、《三輪百合(トリ・リリオイ)》には驚かされ通しですなあ」

 

 うん、おかしいってことはあたしもわかってる。

 わかってるし、これを常識にしちゃうと今後困りそうだってのも理解してるけど、それと()()気持ちが良くてとろけそうだってのは話が別だ。

 いまを……今を、生きる。それが大事よね。やっぱり。

 

 せっかくなのでウールソさんにもお湯のおすそ分けをすることにした。

 のだけれど、さすがに殿方だし、何しろ体が大きい。

 

「いや、拙僧は最後でよろしい。湯も溢れてしまうでしょうし男の後では嫌でしょう」

 

 潔癖症のウルウはともかくあたしたちはそこまで言わないけど、でもまあ、先に入らせてくれるならその方がうれしい。

 

 というわけで、燃料と時間の節約のため、第一陣はあたしとリリオ、第二陣がのぼせやすいウルウ、第三陣がウールソさんということになった。

 

 あたしたちが入浴している間、ウールソさんは周囲の見回りを軽くしてくると場を外してくれた。なのであたしたちは互いに火の番をしながら遠慮気兼ねなく体を洗い、入浴し、さっぱりと汗を流した。

 

 ウルウが早めにお湯から上がって、あたしが魔術で乾かしてあげて、ウルウ特製の檸檬水で髪を整えていると、ウールソさんが野営地から、たっぷりの蜂蜜を溶かした生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)を淹れてきてくれた。

 自分が最後であるし、長湯はしないから火の面倒は気にしないでよい、とのことだったので、あたしたちはありがたくこの甘くて刺激的なお茶を楽しみながら、湯冷めしないように焚火の火にあたった。

 

 男の人がそうなのか彼が特別そうなのかはあたしたちはみんな知らなかったけれど、確かに長湯せずウールソさんは早々と湯から上がった。

 そしてざっと洗った風呂窯を担いで運んできてくれたので、あたしたちは何の気兼ねもなく就寝することができた。 

 

 まあ気兼ねなく、と言うのは明日の準備に関してはと言うことであって、実際天幕に入ってからは少し問題だった。

 天幕は二張りあって、一張りはウールソさんに使ってもらって、もう一張りはあたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の三人で使うことになっていた。

 さすがにパーティ用とウルウが言うだけあって広く、大きなウルウとちっちゃなあたしたち二人なら随分広く使える大きさだった。

 

 それでも、実際に中に入って、ウルウがこんな時でも例のふわっふわの羽毛布団を敷いて、川の字になってさあ寝ましょうとなると、落ち着かないのが出た。

 

 一人は左端のリリオ。なんだか楽しいですねと遠足気分のこのちびっこはそわそわしてまるで寝そうな気配がない。お腹いっぱい食べてお風呂も入ってあったまって、寝る準備は万端整っているっていうのに。

 

 で、人のことが言えない二人目が右端のあたし。もっともあたしがそわそわしてるのは主に不安からだ。そりゃ、三人で一緒に寝るっていうこの非日常感はちょっとわくわくするわ。訂正。三割くらいはわくわくするわ。でも七割くらいは怖い意味でドキドキしてる。

 

 その原因は間に挟まれて顔色の悪いウルウ。さすがにあたしだって、寝てる間に隣で吐かれたらいやだもの。

 

「ウルウ、あんた大丈夫?」

「……大丈夫」

「ほんとに?」

「…………本当はあんまりだいじょばない」

 

 あんまり、というか、かなり大丈夫じゃない顔色だ。

 でも、とウルウは強がるように唇の橋をひくひくと持ち上げる。それで笑っているつもりなんだから大概だ。

 

「すこしは、慣れないとね。私も《三輪百合(トリ・リリオイ)》なんだから、我儘ばかり言ってもいられない。ただ、慣れていないだけなんだ。人の体温に触れるのが」

 

 それは多分余り正しい物言いではないのだろうけれど、でも、それでも、あたしたちはパーティとして、仲間の頑張りを無下にすることはできなかった。

 

「わかったわよ。無理だと思ったらすぐ言いなさいよ」

「……うん」

「では早速寝ましょう!」

 

 寝ましょうと言いながらもウルウに抱き着くリリオ。

 あからさまに顔が引きつって強張るウルウ。あ、鳥肌立ってる。

 

「リリオ!」

「だ、大丈夫。ただ」

「ただ?」

「ご飯一杯食べたから、押されるとアンコが出るかも」

 

 リリオの手は、目に見えて緩んだのだった。

 




用語解説

・巨大な金属の筒
 正確には巨大な金属の缶。ゲーム内アイテム。正式名称《ドラム缶(輸送用)》。
 同じくゲーム内アイテム《ブリキバケツ》と同様、液体系のアイテムを回収、持ち運ぶためのアイテム。バケツよりもはるかに容量がある上、同量の液体系アイテムをバケツに汲んだ時と比べて重量値に明確な差異が出る、つまりお得。商人や素材狙いのプレイヤーなど、同じ素材を大量に必要とする場合に用いられた。
 なお(輸送用)とあることからわかるように、《ドラム缶(戦闘用)》も別にある。
『便利なもんだぜドラム缶てのはよ。ふたを開けりゃ風呂釜にもなるし、縦に割りゃバーベキューもできる。叩いてみれば楽器にもなる。こりゃすげえぜ! え? 輸送? なにを?』

生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)
 生姜のすりおろしや絞り汁ををお湯やお茶に溶かしこんだもの。砂糖を加えたりする。
 この日のものは、甘茶(ドルチョテオ)に生姜を摩り下ろして入れ、蜂蜜を加えたものだった。
 体が温まる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 秋の日のヸオロン

前回のあらすじ
お な べ お い ひ い !
お ふ ろ し や わ へ !

ねる。


 生き物の体温に慣れていないというのは本当だった。

 

 などと言い訳じみたことを考えたのは、夜中にふと目が覚めたからだった。

 

 夜闇の中でも見通す目に映ったのは、両側から私に抱き着いてすやすやと眠っているちびっこどもだった。道理で重苦しいし寝苦しいわけだ。でも、鳥肌は出ていない。

 

 私は起こさないように丁寧にこの二匹のけだものたちを体から引きはがし、そっと布団をかけ直してやった。

 そうして覗き込んでみた顔の何と無防備で無警戒な事か。

 私も眠っている時はこのような顔なのだろうか。いいや、きっと苦虫でもかみつぶしたようなしかめ面に違いない。

 

 まったく、あどけない、と言うのはこういう寝顔を言うのだろうか。

 

 起きている間は絶え間なく表情をくるくると変えるリリオの顔は、すとんと眠りに落ちてしまった今はまるで本当にどこかの貴族のお姫様のようだ。実際にそうであるらしいけれど、話に聞いただけで、私はそんなお姫様なリリオに、寝顔以外でお目にかかったことがない。

 

 リリオがきちんと洗練されたお姫様のようにふるまう姿は、ちょっと見てみたいような、見てみたくないような、複雑な気持ちだ。笑ってしまうかもしれないし、そしてきっと、不安になるからだ。

 たとえお姫様のようにふるまっても、リリオの本質はきっと変わりやしないだろう。

 でもきっとだ。

 それは、きっとだ。

 必ずってことじゃない。

 たとえそれが見かけの上の事であっても、変わるということはなんだか恐ろしく思えた。

 

 私はおもむろにリリオの頬に手を伸ばし、その餅のように柔らかな子供の頬をつねってみた。夢の中でも何かにつままれたのか、むうむうと眉を寄せる、その子供っぽい表情に、私はほうとため息を吐く。

 それは多分、安堵の為に。

 

 反対側に向き直れば、トルンペートがおすまし顔も放り出して、すやすやと安らかに寝入っていた。

 いつも勝気そうにツンと尖った眉尻も目尻も、いまは柔らかに落ち着いている。

 起きている時はシニョンにまとめた髪も、いまは安全な野営地だからか解いているのだけれど、それがふわふわと波打って、なんだかこちらもお姫様のようだ。

 

 お姫様二人に挟まれているっていうのは結構な贅沢なのかもしれないけれど、私はやっぱり少し怖くなって、眉尻をぐりぐりと押してみた。そうすると、ちょっといつもの不機嫌そうなおすまし顔の猫みたいな、ツンとした感じが鼻先に出てくる。

 また、安堵。

 

 いつもの姿が垣間見えることへの、安堵。

 そうだ。

 私にとって変化とはある種の恐怖だった。

 

 生き物の体温に慣れていないというのは本当だった。

 

 父は私と触れあうということが得意ではなかった。

 いや、違う。記憶を誤魔化すな。忘れられない癖に。

 

 そうだ。父はよく私に触れた。

 頭をなで、肩を撫で、背中を撫で、抱きしめて担ぎ上げて、体温を共有してくれた。

 父は愛するということがよくわかっていない人だった。

 父は愛というものが理解できていない人だった。

 けれど父は、とてもとても原始的な部分で、きっと爬虫類の脳みそで、私とつながりを持とうとしてくれた。

 体温の共有は、決して理解し合えない私たち父娘にとって、それでも分かり合えるものだった。

 

 私が生き物の体温を拒むようになったのは、そんな父が亡くなってからだった。

 最後に遭った時、父の体はすでに大分体温の低い状態であった。

 私は、ああ、そうだ。私はあの日、自分でも不思議なほどに、珍しく父の手を長く長く握っていた。

 頭ではわかっていたからだ。父の死が迫っていることを。

 翌日触れた手は、私の移した体温などまるでなかったかのように、冷たいものだった。

 

 あの変化が。

 あの致命的な変化が。

 あの致死的な変化が。

 私に変化というものへの怯えを、生き物の体温への恐れを生んだのは、今思えば確かな事のように思う。

 

 いま握っている手の温度が、翌日には冷え切ってしまっているかもしれない。

 いま話している相手の声が、翌日にはもう聞けなくなっているかもしれない。

 

 そう思うと、私は人とのつながりを持つことにさえ病的な恐れを持つようになっていた、のかもしれない。

 

 すべては今になって、それこそ後になって、後づけながらにこじつけてみた話だ。

 

 父の体温など関係なく、私は生き物の生暖かさが嫌いだったのかもしれない。

 単に私と言う個人が人とのつながりを保つことが面倒だったのかもしれない。

 

 けれど、こうして穏やかに眠る二人と、それに挟まれて横たわる自分と言う光景を俯瞰してみた時、私は確かに幸福というものを感じるのだった。そしてそれを失うことへの形容しがたい恐怖を。それは言い訳のしようがない事実だった。

 

 今日、ウールソに尋ねられた質問が反芻され、思い出された。

 私はリリオの見せてくれる世界を見たいと思った。リリオの見ている世界が見たいと思った。

 でもそれは本当に私が見たいものなんだろうか。

 本当に私が見たいものって何なんだろう。

 リリオの背中を見て歩いていても、きっと私はある程度の満足を得られるだろう。

 そうして満足の中に緩やかな諦めを得て、最後には鈍い痛みと別れを得られるだろう。

 胸を裂く痛みとともに別れるより、それは苦痛の少ない人生だろう。

 でもそれは私の人生なのだろうか。

 私は一幕の劇を観ているつもりだった。

 異世界という舞台で演じられる、リリオと言う女優の演じる劇を。

 でも、気づけばその劇にはトルンペートが加わり、いつの間にか私自身も、観客席から駆け上って混じりこんでしまった。

 一度死んでしまった自分が、いったい何になれるというのだろうか。

 一晩眠ればかき消えてしまう、夢のような存在に過ぎないというのに。

 ああ、でも、劇作家はこういっていた。人は夢と同じものでできていると。

 異世界(このよ)が夢で包まれているのなら、私もそこにいていいのだろうか。

 リリオの背中だけを見ていたい。

 でもリリオの背中だけを見ていてもいいのだろうか。

 自分の目で物を見なくてはならない。

 でも彼女と離れたくない。彼女たちと別れたくない。

 

 隙間風もない魔法のテントなのに、耳に届く秋の風がひどく寒く感じられた。

 酷く切なく、寂しく感じられた。

 

 わたしはゆっくりと布団に体を横たえる。

 せめて夢の中でくらい、うっとうしい考えから逃れたかった。

 

 

 

             ‡             ‡

 

 

 

「……寝てる」

「……寝てますね」

 

 私たちが起き出したころ、珍しいことにウルウがまだ目を覚ましていませんでした。

 いつもなら誰よりも早く起き出しているというのに。

 私たちはなんだか物珍しくってついついウルウの寝顔を覗き込んでしまいました。

 

 三つ編みに編んでいた髪は緩く波打っていて、そこに沈み込む寝顔は、いつも頭巾に隠れているから分かりませんでしたけれど、驚くほど白くて艶やかです。

 起きている時は不機嫌そうか、それともぼんやりとしているか、どちらにせよ余り表情を作らない顔はいま、なんだかとても幸せそうにうっすらと微笑んでいるようでした。

 

「こうしてると……ね?」

「そうです、ねえ」

 

 私たちは顔を見合わせてそっと笑いました。

 貴族の娘の私が言うことでも、その侍女のトルンペートが言うことでもないのかもしれませんけれど。

 

 こうしていると、まるでお姫様みたいでした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話
100話記念ショートショート


 母が亡くなったという報せを聞いたのは、私が十歳になったある冬のことでした。

 季節外れのはぐれ飛竜が、吹雪の向こうから不意に顔を出して、母を一口に食べてしまったのだと、そのように聞かされました。飛竜はそのまま飛び去ってしまい、いまもまだ見つかっていないのだと。

 

 沈痛な顔をした侍女頭から報告を聞いたときに、私の胸に去来したのはあまりにも呆気ないなという、空虚な思いでした。言葉を飾ることもせず、取り繕うこともせず、まっすぐに、ただただ簡潔に知らされた内容に、幼い私はただ、そう、そうなのねと頷くことしかできませんでした。

 

 母が死んだ。

 そのことが、うまく噛み砕けませんでした。ただただ頭から丸のみに飲み下してしまって、後からじんわりと理解されていくような、そのような心地でした。

 

 人が死ぬということは、辺境ではあり触れているというほどではないにしても、決して縁遠い話ではありませんでした。春に知り合ったものが、次の春には見かけなくなっていることも、少なからず経験していました。幼心にさえそうだったのですから、きっと実際にはもっとたくさんの人たちが次の春を迎えることなく、冬に負けていったのでしょう。

 

 どうして、とか。

 なぜ、とか。

 

 そう言った言葉はでてきませんでした。

 ただ、もう二度と母には会えぬのだという、その思いばかりがぐるぐるとお腹の中で巡っては消えていき、そして最後にはただぽつんと、母は死んだのだという一言だけが、小骨のように喉元に刺さっていました。

 

 そうでした。

 思えば私は母の死に涙一筋もこぼすことがありませんでした。

 ただ勘違いしないでほしいのは、それが私が悲しまなかったということではなく、悲しむよりも前にただただ呆然としてしまって、涙を流す機会を逃してしまったという方が正しいように思われました。

 

 それに何より、わたしよりも父の嘆き悲しむ姿が印象的でした。

 私がうまく母の死を噛み砕けないでいる間に、死というものに慣れた父は母の死を受け入れ、同時に受け入れ切れず、噛み砕き、なお噛み砕ききれず、飲み下し、その上で臓腑を焼くように焦がれているのでした。

 父は冬の氷のようにかたくなな人でした。でもそれは情が薄いからではありませんでした。胸の中の炉の灯を絶やさぬように、ぎゅっと唇を締め上げて、一人薪をくべるような人でした。

 

 父は私たちに涙を一筋も見せませんでした。泣き言もの一つも漏らしませんでした。

 それでも私たち兄妹は、父の嘆き悲しむ背中を見ていました。父は一言も、ほんの一言も、語る言葉を持ちませんでした。ただ黙りこくって、()()が過ぎ去るのを待って耐えているようでした。それは私たちが見る父の初めての弱音だったのかもしれませんでした。嗚咽にならない嗚咽だったのかもしれませんでした。

 

 珍しく良く晴れた日、私は母が消えたという空を仰いでいました。

 夜空はどこまでも広く、広く、青黒く広がっていました。そしてそこには宝石をちりばめたような星々や、神々がのぞく覗き穴のようにぽっかりと白々とした月が輝いていました。

 

 人は死ぬと星になるのだと、人族の古い言い伝えにあるそうです。或いは、空の星々こそ、冥府の神のあやす死者たちの寝床なのだとも。

 もしそうだとするならば、母の星はいったいどれなのでしょうか。死んだ母は、あの星空のどこにいるのでしょうか。数えても数えきれない星々の中でそれを探すのは、とてつもない徒労のように思えました。

 

 かあさま。

 

 ぽつりとつぶやいた言葉に呼応するように、きらりと星が瞬きました。それはしゅるしゅると尾を引いて、鮮やかに輝きながら南の空へと飛び去っていきました。

 

 流れ星が消える前に三度願い事を言えたら、その願いが叶う。そんなことを信じる年ではありませんでした。

 しかし私は確かに、その星に運命を見たのでした。

 あの星の落ちた先に、きっと私の運命があるのだと、幼心に私は確信したのでした。

 

 いまでもそんな子供じみた運命を信じているのかと言われれば、そうだとも言えますし、そうではないとも言えます。おとぎ話を素直に信じるほど子供ではなくなりましたけれど、けれど、私は確かにこうしていま星を手にしているのですから。

 

 私の星。星空から零れ落ちた時の歯車。

 あなたはいつだって私の胸に、希望を与えてくれるのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七章 旅立ちの日
第一話 大人の都合


前回のあらすじ
妙な寂しさを覚えたりもしたけど私は元気です。


 その日は良く晴れた日だった。

 時折木枯らしが冷たく身を切るが、日差しはまだ強く、秋としてはまずまず歩きやすい天気と言えた。

 夏の頃と比べればはっきりと人通りは減っていたが、それでもなおヴォーストの街はいまだ活気というものを忘れずにいるようだった。

 耳を澄ませばよく乾いた空気にのって、商店の客呼びの声まで、聞こえてきそうであった。

 

 そんな良く晴れた爽やかな秋の日に、メザーガ冒険屋事務所のささやかな執務室にむさくるしい男どもが集っていた。

 応接用のソファに腰かけたのは土蜘蛛(ロンガクルルロ)のガルディストと天狗(ウルカ)のパフィスト。巨体を座らせる椅子がないので壁に背中を預けているのが獣人(ナワル)のウールソ。

 その立場を最低限は主張するようないくらか造りの良い机にどっかりと肘をついているのが、所長のメザーガである。

 

 知る人が見ればそれだけで身構えるような、かつては大いに名を知られた冒険屋パーティ《一の盾(ウヌ・シィルド)》の錚々たる面子が一堂に会する光景は、他所ではまず見られるものではない。

 

「あ、豆茶(カーフォ)が入りましたよ」

 

 そこに可憐な町娘風に装った、しかし実質的にはこの事務所の事務仕事の半分を預かり、メザーガの薫陶を受ける冒険屋見習いであるところのクナーボが、それぞれに豆茶(カーフォ)の湯飲みを渡して回った。

 

「さて、何のことで呼ばれたかわからないってやつはいないと思うが」

 

 酷く面倒くさそうに、メザーガは机の上の書類を指先でぱらりと捲った。

 

「《三輪百合(トリ・リリオイ)》の二次試験に関してだが、ずいぶんとまあ甘い採点だな。え?」

 

 じろり、とねめつける視線はしかし鋭さよりもかえって機嫌の悪い子供のような、そんな不貞腐れた色が見えた。この男にはそうした、年相応でない部分が大いにあった。

 

「まず、地下水道で対応能力を試すとか言ってたガルディスト」

「あいよ、所長さんよ」

「まず、まあ、お前さんはよくやってくれた。さすがに目端が利いてる。報告書も隙がない。連中に十分な対応能力があり、向上心も旺盛だということはわかった。それにいざというときの爆発力もな」

「確かにまだ未熟だとは思うがね。それを差し引いても成長性は確かなものだと踏んだぜ」

「そういう分析は、わかる。確かにお前さんの報告書を読む限りは実に納得がいく」

 

 だが、とメザーガは報告書を机に叩きつけた。

 

「後半のスキヤキとかいうのは何だ」

「うまそうだろ」

「うまそう過ぎてこちとら夜食作る羽目になったわ! 後半丸々使って味だの歯応えだの酒との相性だの散々書きまくりやがって! 嫌がらせか!」

「半分は」

「こんのっ歯に衣着せねえーなーもー!」

「クナーボにも作り方は教えてやったろ」

「おかげで太る!」

 

 冒険屋というものは基本、食事が資本である。つまり、飯で体を作る。

 運動量が多い現役のうちはそれでいいが、メザーガのように現役を退き、もっぱら事務仕事に精を出すようになってからも、食習慣が変わらないとどうなるか。

 太る。太るのだ。

 

 いまのところは現役時代に蓄えた筋肉がもたらす基礎代謝と、クナーボに稽古をつけてやるついでに軽い運動をしているおかげで醜く肥え太るということはない。しかし、確実に摘まめるところが摘まめるようになり始めてはいるのだった。

 

「ぼ、ぼく、余計なお世話だったでしょうか……」

「あー……んー、ぐ、む、ま、まあうまいものはうまいから構わん。次!」

 

 涙目のクナーボから目を逸らし、メザーガは次の報告書を手に取る。

 

「こいつはつい先だっての事だから記憶にも新しいが。パフィスト」

「はい」

「俺が依頼したのは『見習い冒険屋どもの適性試験』だったと思うんだが」

「その通りですね」

 

 にこにこと変わらぬ笑顔で平然と返してくるあたり、こいつサイコパスなんじゃなかろうかと常々思うメザーガであったが、しかしそういうやつですからで流すわけにもいかない。

 

「報告書には、甘き声(ドルチャ・コンソーロ)の群生地に誘い込んで、精神攻撃を受けさせたとあるが」

「それが何か」

 

 メザーガは思わず天を仰いだ。

 と言ってもそこにあるのは年季の入った天井だけだが。

 

 ああ、少し埃が見える。クナーボじゃ手が届かんからそのうち掃除してやらんとな。

 

 そんな現実逃避も一瞬。メザーガは思考を切り替えた。

 

「死んだらどうするつもりだった」

「その時はその時では?」

 

 これだ。

 メザーガは溜息とともに豆茶(カーフォ)に口をつけた。

 芳醇な香りが、優しくさえ感じる。

 

「他所のパーティにおんなじことやってたら訴えられてもおかしくないからな、これ。いや、同じ事務所内であってもだ、褒められたやり方じゃあねえな、こいつは」

「僕らだって同じような経験積んでますし、遅かれ早かれ、ですよ。それに若い頃の方が心に柔軟性がありますから、早めの方がむしろ良かったんじゃないですかね」

 

 ぐへえ。

 思わず嫌なため息が漏れる。

 これが単なる言い訳の類であれば、メザーガも拳を握ったことだろう。

 二、三発殴りつけて、頭を冷やさせたことだろう。

 

 だがパフィストと言う男は、森賢(イヒトヨ)という連中は、基本的にこれなのだ。

 この発言は言い訳どころか、心底()()()()()()()と思っての発言なのだ。

 悪意も悪気もありはしない。

 親切にも試練を課してやったのだ、こいつからすれば。

 

天狗(ウルカ)どもの考え方は、何年付き合ってもわからん」

「僕としてもどうしてそんなに分かり合えないのか不思議ですよ」

「お前の方からは歩み寄ってるつもりなんだろーなー」

「ええ、歩み寄りが大事ですとも」

 

 はっきりと嫌味とわかる口調で言ってやっても、これだ。

 とはいえ、悪気も悪意もないし、普通にしている分には付き合いもいいし話も分かる、それこそ典型的な里天狗(ウルカ)でさえあるのだ。

 全く隣人関係というものは難しい。

 人間関係の調整のうまいガルディストがいなければとっくのとうにこのパーティは解散していたようにさえ思われた。

 

「まあ、いい。もう、いい」

「そうですか?」

「そうですよー」

 

 これ以上この森の賢者と話していてもいいことなどない。

 若い頃はよくぶつかり合ったような気がするが、年をとってからのメザーガは、いい意味でも、悪い意味でも、落ち着いた、落ち着いてしまったような気がする。

 大人になるということなのかもしれないし、不自由になったということなのかもしれなかった。

 

「さて、最後はウールソか」

「で、あるな」

「お前さんはお得意のソモサン・セッパか」

「これでも僧職の身でありますからなあ」

 

 ウールソと言う男は、難しいところがあった。

 獣の神の神官というものは誰も気性の荒いものばかりであり、その中でウールソ程自制の利いた神官というものをメザーガは他に知らなかった。

 武者修行の一環として森に陣取り、旅人や冒険屋相手に誰かれ構わず喧嘩を吹っ掛けていたものだが、それでさえ相手の了解を得てからと言う実に紳士的なものだった。

 旅の仲間を求めていたメザーガはその噂を聞きつけて彼の方から勝負を挑み、死闘の末にその信頼を勝ち取り、その後の長い旅路を共にする友となった。

 まあ、このあたりに関する諸々は両者の間で理解が異なる部分もあるが。

 

「言っちゃ悪いがお前さんが一番甘々じゃないか」

「左様ですかな」

 

 僧職を自称するだけあって、ウールソの説法はガルディストとは別の形で人の嫌な所を突く時がある。それこそパフィストの悪意ないくちばしのような鋭ささえある。

 

 とはいえ報告書にまとめられた内容はどうにも、「深く考えていませんがこれからも頑張ります、まる」といった具合にしかメザーガには汲み取れなかった。

 

「まあお前さんにはお前さんに見えるもんがあったんだろうが……物になりそうか?」

「まだ若い、というのは確かですな。未熟と言える。しかし可能性というものは大いに見られるでしょうな」

 

 と言うよりも、とウールソは顎髭を撫でつけた。

 

「拙僧としては、メザーガ殿、おぬしの方に、彼女らに冒険屋を続けてほしくない、そういう故があるように思われますがなあ」

「…………ま、坊主に嘘は吐けねえわな」

 

 メザーガはがしがしと頭をかいて、そして素直にそう認めた。

 実際のところ、こうしてわざわざ試験など課すのも、全てはメザーガの都合だ。正確に言うならば、娘を旅にやりたくない辺境の一貴族と、親戚をわざわざ危険な職につけたくないメザーガの都合だ。

 

 リリオの父親であるドラコバーネ郷の思惑は知ったことではないが、メザーガとしては従姉弟の娘であるリリオを旅に出したくはないという強い気持ちがある。旅の末にあの娘が出会うであろう真実を思うと、誰が旅を後押しなどできようか。

 

 しかしそれは大人の勝手な都合だ。

 若者には若者の都合があり、若者には若者の未来がある。

 かつて若者であったメザーガが、自分の都合で旅を始め、自分の都合で腰を落ち着けたように。

 

「だが、ま、それとこれとは別問題だ」

 

 勝手だろうとなんだろうと、若者に若者の都合があるように、大人には大人の都合がある。

 

「俺は俺の都合で動く。そうしたいがために冒険屋なんざになったんだからな」

 

 

 

「こういうのを大人になり切れなかった子供と言うんでしょうなあ」

「ああはなりたくないものですね」

「俺もさすがにああはなりたくねえなあ」

「お前らね」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 子供の都合

前回のあらすじ
おっさんにはおっさんの都合がある。


 その日は良く晴れた日だった。

 時折木枯らしが冷たく身を切るけど、日差しはまだ強く、秋としてはまずまず歩きやすい天気と言えた。

 夏の頃と比べればはっきりと人通りは減っていたが、それでもなおヴォーストの街はいまだ活気というものを忘れずにいるようだった。

 耳を澄ませばよく乾いた空気にのって、商店の客呼びの声まで、聞こえてきそうであった。

 

 そんな良く晴れた爽やかな秋の日に、メザーガ冒険屋事務所のささやかな執務室に私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は集められていた。

 応接用のソファに私たちは腰を下ろしていたけれど、たかだか冒険屋事務所の、執務室兼応接室においてあるようなソファにしては、なかなか座り心地が良かった。

 そしてその立場を最低限は主張するようないくらか造りの良い机にどっかりと肘をついているのが、所長のメザーガだった。貫禄があるというには少々若いし、かといって若者と呼ぶにはいささかダンディすぎる。

 

 知る人が見ればそれだけで身構えるような、かつては大いに名を知られた冒険屋パーティ《一の盾(ウヌ・シィルド)》のリーダーであったらしいけれど、正直いろんな意味で全くの余所者に過ぎない私からすると、下っ腹が出てくることに対して恐怖を覚え始めている中年としか思えない。

 

「あ、豆茶(カーフォ)が入りましたよ」

 

 そこに可憐な町娘風に装った、しかし実質的にはこの事務所の事務仕事の半分を預かっている労働基準法違反のクナーボが、それぞれに豆茶(カーフォ)のカップを渡して回ってくれた。

 

「さて、今日お前たちに集まってもらった理由だが」

 

 絶対に笑ってはいけない冒険屋事務所とかだろうか。

 そんな風にのんびり構えていたのだが、どうもこの胃がねじ切れそうなほどに面倒臭そうな顔をしているおっさんはそれどころではなさそうだった。

 

「はっきり言って、俺はお前たちが冒険屋をやっていくことに正直反対だ」

「えー、まだそう言うの蒸し返すんですかー」

「もうそのやり取り終わった」

「あたしお昼ご飯の支度あるんですけど」

「おっまえらほんっともう、ほんと、年頃の娘たちってのはよーもー」

 

 私はもう年ごろと言うにはちょっとトウが立っているのだけれど、それでもまあ女三人寄れば姦しいと言う。甲高い女三人の声でなじられればさすがにおじさんとしては辛いものがあるだろう。

 

「あのな、おっさんはな、お前らの安全を思ってだな」

「乙種魔獣を平らげる乙女に身の安全もあったもんじゃないと思う」

「いや、それそれとして乙女として心配はしてほしいんですけど」

「安全もいいですけどおちんぎん上がりません?」

「もーやだこいつらー、なに? おっさん虐めて楽しい?」

 

 正直ちょっと楽しい。

 まあでもこれ以上遊んでも時間を食うだけだ、大人しく聞こう。

 

「ともかくだ。俺も、リリオの親父さんも、お前たちに危険な冒険屋稼業なんて続けてほしくない。だがお前らはやりたい。そこで折衷案だ」

「せっちゅうあん?」

「いいとこどりってとこかな」

「要するにだ。お前たちは冒険したい。俺達は危険な事をしてほしくない。これを両立できればいいわけだ」

 

 そんな無茶な、とは思うけど、まあ何となく持っていく先は読めた。

 私はどうでもいいけど、リリオが反発しそうなやつ。

 

「つまり、お前たちはこのまま冒険屋を続ける。俺の膝元で。これなら心配症のおっさんどももいくらかは安心できる。そうだろ?」

「まあ、そう、ですねえ」

「そう、俺達も妥協してるんだ。わかってくれるだろ、リリオ」

「う、ええ、それ、は、まあ」

 

 押されてる。こんなぐだっぐだの交渉で押されてる。

 《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一番の弱点って、交渉得意なのがいないってことだよね。

 基本脳筋なんだよ、このトリオ。私も含めて。

 

「そんで、俺達が妥協するのと同じくらい、お前達にも妥協してほしい」

「う、ううん、妥当な気もします」

「妥当なんだよ。な?」

「うええ……は、はい……?」

「うん。妥当だ。それでお前たちに妥協してほしいという点だけどな」

 

 メザーガは少し冷めてきた豆茶(カーフォ)を口にして唇を湿らせると、ことのほか明るい様子で妥協案とやらを提示してきた。

 

「なあに、難しいこたぁねえ! ただちょっと、旅に出るのはやめてもらおうって」

「嫌です」

「話なんだけどよぉ……まあ、わかってたとはいえ、傷つくぜ、おっさんも」

「嫌なものは嫌です」

 

 そう、脳筋なんだよねえ、うちの面子。そもそも難しい話聞いてないんだもん。

 

 まあ、話の流れは読めていた。

 要するに、危険は危険でもまだ、《一の盾(ウヌ・シィルド)》のおひざ元であるヴォースト付近での冒険屋稼業ならまだ安心できる。だから近場での冒険で満足してもらって、旅に出るのは諦めてもらおう。とそういう話だったんだろうけれど、何しろリリオの大目的が旅に出ておふくろさんの故郷まで行くことだ。冒険が小目的でしかない以上、これは成立しないよ、もともと。

 

 まあメザーガもわかっていたんだろうけれど、それでも恐ろしく面倒くさそうにため息を吐いている。

 

「なあ、リリオ。俺もそれなりに冒険屋をやってきて、それこそ酸いも甘いも体験してきた。お前さんなら乗り越えられるかもしれねえとは思うが、それでもあえて挑んでほしいとはとてもじゃねえが思わねえ。親心みてえなもんだ。心配してるんだ。わかってくれ」

「わかります。でも嫌です」

「ちょっとでいいんだ。大人になってくれ」

「私はもう成人です。ずいぶん待ちました。あと何年待てばいいんです」

「……そういうことじゃあねえんだ。諦めてくれ」

「い、や、で、す」

「…………」

 

 メザーガは深くため息を吐いて、シガーケースから煙草を取り出し、それから思い出したように苛立たしげにそれをしまい、代わりに棒付きの飴を取り出して咥え、がりがりと齧った。

 

「ああああああああもうよぉおおおおお、おっさんの方が嫌だっつってんだよぉぉぉおおお」

 

 という心の叫びが聞こえてきそうなほどの顔面芸ではあるが、あまり長いこと見ていたくなるような顔面でもない。リリオと一緒で大人しくしていれば割といい顔面だと思うのだが、南部人の血統は表情を大人しくさせるということを遺伝的に放棄しているのだろうか。

 

 飴をすっかりかみ砕き、棒自体もこれ以上ない程に噛み潰し、ゴミ箱にぽいと放り投げてから、落ち着きを取り戻したメザーガはダンディに豆茶(カーフォ)をすすった。

 

「そうか。わかった」

「わかっていただけましたか!」

「馬鹿犬は多少痛い目を見てもらわねえと躾にならねえってのがわかった」

 

 こんなことはしたくないとか、こんなことは言いたくないとかいうやつの大半は、したくて言いたくてたまらない連中だが、少なくともメザーガは心底したくもなければ言いたくもないという大人であるようだった。何しろ面倒だからだ、と言うのが透けて見える。

 

「最終試験を受けてもらう。それを合格できなけりゃ、荷物をまとめて辺境に帰ってもらうぜ」

「試験って言いますけど、それって最初に来た時にうけましたよね?」

「ありゃ見習いとしての試験だ。いまのお前は冒険屋見習い。馴染むまでは見習いっつったろ」

「大分馴染んだと思うんですけど」

「それを見定める試験だ」

 

 メザーガは改めて棒付きの飴を取り出すと、今度は噛み砕かずに、かちかちと歯で軽く噛みながら、手元の書類をぺらぺらと捲った。

 

「うちの古株どもの試験によりゃ、お前たちはまずまず優秀と言っていい。見習いとしちゃな」

「パフィストのクソのあれを試験扱いするのはどうかと」

「うちのクソがその節は御迷惑をおかけした」

 

 その点に関してはメザーガもクソ扱いは同意するらしい。

 

「ただ、やりようはクソだが、試験難易度的にはあれ位は目安だったと思ってくれていい」

 

 そして人格とは別に仕事はきちんと評価するのがメザーガと言う男らしい。

 

「クソだが」

 

 人格はやっぱりクソ扱いらしい。

 

「それで、だ。見習い卒業の最終試験としては一番わかりやすいものを持ってきた」

「わかりやすいものっていうと」

「そうだ。腕っぷしを見せてもらう」

「乙種魔獣じゃダメなんですか?」

「ありゃちょっと採点甘くしたところもあるし、魔獣ってのは事前に準備しとけばそれほどの相手でもねえからな」

 

 まあ、言うほどの難易度ではなかったかなと感じていた。でもあれは何の準備も知識もなく当たっていれば相当な被害だったはずで、段取りが大事なのはどの業界でも同じことらしい。

 

「段取りが冒険屋の仕事の殆どだと言っていいが、かといって仕上げが杜撰じゃ話にならねえ。地力の部分がどんだけ育っているか、そいつを見せてもらうために、うちの冒険屋連中と当たってもらう」

「フムン。まさか《一の盾(ウヌ・シィルド)》を真っ向から打ち崩せとか言わないですよね」

「さすがに手加減はしてやる。形式は一対一。実力差を埋めるためにある程度条件付けはするが、基本的には単純な殴り合いだと思ってくれていい」

 

 リリオはそれで納得しているが、脳筋トリオの頭のいい方担当としてはもうちょっと情報を集めておきたい。トルンペートをちらりと見やれば、彼女も同じようだった。

 

「それで、メザーガさん。試合はどこで行うのかしら?」

「知り合いの石屋が持ってる採石場跡を訓練所として借りてる。そこを使うつもりだ」

「天候は関係なし?」

「と言いたいところだが、おっさんも年なんでな、こんな寒い秋に雨に濡れながら観戦なんぞしたくねえ。雨天中止だ」

「試合のカードは?」

「当日までの秘密、と言いてえところだが、まああんまり不利にすると可哀そうだからな、教えておいてやる」

 

 勿体ぶるでもなく、メザーガは手元のメモ紙にさらさらと対戦表を書いて寄越してくれた。

 もっとも、その気軽さとは裏腹に、中身は私たちを大いに困惑させるものだったが。

 

 第一戦目 トルンペート・オルフォ 対 クナーボ・チャスィスト

 第二戦目 ウルウ・アクンバー 対 ナージャ・ユー

 第三戦目 リリオ・ドラコバーネ 対 メザーガ・ブランクハーラ

 

「私の苗字結局アクンバー扱いなのか……」

「そこ!?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と少年弓士

前回のあらすじ
子供には子供の都合があるというお話だったような気がする。


 そしてあくる日、件の採石場跡地とやらにあたしたちは集まった。

 まあ集まったと言っても、当事者である対戦者六名と、審判役兼怪我人の治療者役であるであるウールソさんの合わせて七名だけだったけど。

 

 採石場跡地と言うのは、本当に何もないところだった。

 足元は砂利で埋められていて、そのほかは、本当に、何もない。少なくとも普通に立ち回る限り、障害物もなければ視線を遮るようなものは何もない。

 

「あらかた石は取りつくしちまって、かといって街からも離れてるし、畑にするにゃ砂利が邪魔だし、何に使えるって土地でもなくてな。冒険屋組合で金を出し合って、鍛錬所代わりに使わせてもらってる。今日はうちの貸し切りだがな」

 

 道理で人の姿がないわけだ。

 といっても、全くないわけじゃない。

 採石場跡地の敷地より外には、何人か隠れ潜んで、こちらを観察しているのがわかる。

 そりゃ、新進気鋭の《三輪百合(トリ・リリオイ)》と、いまは引退しているとはいえ大いに名を馳せた《一の盾(ウヌ・シィルド)》のリーダーが、試合形式とはいえ剣を交えるとなれば、その剣の秘密を探ろうと少なからぬ連中が()を忍ばせることだろう。

 

 メザーガさんもそれはわかっているようで、ちらと視線をやったきり、大して気にした風もない。

 それが余裕のためなのか、いつもの面倒臭がりの不精のためなのかはわからないけれど、少なくとも今の一瞥で、気にするまでもないと察してしまったのだろう。

 

 さて、もっと気にするべきはあたしの対戦相手か。

 あたしは仕込んだナイフを確かめながら、ちらりと向こうの陣営の一等小さな人物を見やる。

 

 クナーボ・チャスィスト。

 家名は初めて聞いたけど、事務所では随分お世話になっている娘だ。

 何しろ事務所の事務仕事の半分は彼女が片付けているし、手すきには暖かいものどうぞといつも美味しい豆茶(カーフォ)を淹れてくれる。これで成人を控えた十三歳なのだから全く頭が上がらない。

 

 口でこそ冒険屋見習いとは言っているけど、何しろまだ未成年だし、実際に冒険屋として仕事しているところは見たことがない。あたしの中では完全に冒険屋事務所の受付嬢と言った感じだ。

 

 今日も相変わらずの町娘風の格好で、動きやすいようにか少し短めの丈にしているけれど、それだって程度の差というくらいでしかない。

 かろうじて冒険屋っぽく見せているのは腰の帯に差した左右二本の狩猟刀に、両手に帯びた革製の弓掛(ゆがけ)。それから遊牧民の使うようなごく短い弓が一張り。

 矢筒は見えないけれど、恐らく腰帯に帯びた小物入れのどれかが《自在蔵(ポスタープロ)》なのだろう。

 

 一つ一つを見ていけばよく手入れのされた仕事道具であることがうかがえるけれど、それを帯びているのが成人前の頬も柔らかな子供となると、なんだか子供の遊びのようにも見えてしまう。

 

「えっと……今日はよろしく、クナーボ」

「はい、こちらこそよろしくお願いします!」

 

 礼儀も正しく、笑顔も爽やかで、うん、理想的な子供だ。逆に言えば子供でしかない。

 裏もなければ表もない。あどけない子供だ。悪意も敵意も殺意も、まるで馴染みのない紅顔のお子様でしかない。

 

「メザーガさん、本当にその……大丈夫なの?」

「気持ちは痛いほどわかる」

 

 あ、わかるんだ。

 よかった。

 

「だが例えばだ。お前さん、森の中で見た目のかわいい魔獣に遭遇したとして、見た目がかわいいからって油断するか」

 

 まあ、それは、しない。

 どんな見かけであろうと、そこにどんな危険が潜んでいるかわかったものではない。

 それがどんなに小さな毒であっても、場合によっては死に至らしめることさえある。

 

 フムン。

 

 確かに、あたしはクナーボの見かけにばかり気をとられていた。

 事前に知っている、事務所の受付さんみたいな、そういう姿にばかり気をとられていた。

 そうだ。たとえ見かけがどうであれ、少なくともこうして装備を整えて対峙している以上、あれは立派な対戦相手と思わなければならない。

 

「か、かわいいって思ってくれてるんですね!」

「たとえな。たとえ話」

「もっと、もーっと可愛くなりますから!」

「勘弁してくれ……」

 

 それとは別になんかこうイラっと来て殺意が芽生えそうにもなるけれど、大丈夫、これはちゃんとした戦意のはずだ。

 

「それで、遠間が得意なもの同士を当てたんだもの。的当でもするのかしら」

「まあ、的当と言やぁ、的当だな」

 

 メザーガは砂利の上にざりざりと二本、かなりの間を挟んで線を引いた。

 剣士が向き合って戦うにはいささか遠すぎる開始線、だけど。

 

「互いの体を的にして的当してもらう。体のどこかに一発でも当てれば終わり。単純でいいだろう」

 

 あたしたちにとってはちょうどよい線というわけだ。

 

「この線は開始線?」

「そうだ。別に開始以降は、そこから近づこうが遠のこうが自由だ。棒立ちで撃ち合ったんじゃ見てても面白くねえしな」

「見世物じゃないんだけど」

「見世物程度にゃ楽しませてくれるといいんだがな」

 

 どっかと折り畳みの椅子に腰を下ろすメザーガさん。

 まったく、三等とは言え辺境の武装女中にとんだ言いざまだ。

 

「そうだ、トルンペート」

「なにかしら?」

「お前さん方が、試験に合格した暁にゃ一端の冒険屋として認められるように、こっちの陣営にも特別報酬がついてる」

「まあ、妥当……なのかしら」

「クナーボ、お前は、そうだな。勝てたら、成人前だが、冒険屋見習いとして仕事を任せてやる」

「本当ですか! 『人はみんな心に剣を握りしめて人生と言う冒険を生きてるんだよ』とかいうお為ごかしじゃないですよね!」

「悪かったよ! その節は悪かったからほじくり返すない!」

 

 ことあるごとにいちゃくつなあこいつら。

 なんだかリリオたちが恋しくなってそっちを見たら、そっちはそっちですっかり観戦気分でおやつ持参で手を振ってきてたりして、なんか気が抜けてきた。

 

「ええい、もういいだろ! おら、線につけ、開始線に!」

 

 クナーボが嬉々として、そしてあたしがなんだか面倒臭い気分一杯で開始線につくと、メザーガさんは疲れたようにウールソさんに軽く手を振った。

 

「では、僭越ながら拙僧が審判として試合開始の合図をさせていただく」

 

 巨体がのっそりと動くと、それだけで視線がそちらにつられてしまいそうだ。

 気をとられないように、あたしは対峙するクナーボの一挙手一投足に目を配る。

 あたしが両手の指を広げて、どこからでもナイフを抜けるように構えているように、クナーボもまた弓を緩く構えて、腰の《自在蔵(ポスタープロ)》のあたりにそっと片手を置いている。

 どうやら完全など素人ってわけじゃなさそうだ。むしろ、それなりにやるとみていた方がいいだろう。

 警戒し過ぎは良くないが、まるで警戒しないのは阿呆のやることだ。

 

「いざ、尋常に……勝負!」

 

 ウールソさんの号砲のような試合開始の声に、あたしは反射的に袖口に仕込んだナイフを左右一本ずつ引き抜いている。

 そうしてそいつをためらうことなく、僅かに時間をずらして、しかし軌道は重ねるように投げつけている。

 時をずらして、軌道を重ねて、ナイフの陰に隠れるナイフはあたしの十八番。一本目をかわしても、二本目がその陰に隠れて襲う。

 奇襲に奇襲を重ねる必殺の二撃!

 

 なんてのはさ、もうウルウの時で懲りたわ。

 

 一度かわされたものを改良せずに使い続けるなんてのは、二流三流のやることじゃない。

 だからあたしは自分の油断を殺すために、重ねてもう一組をすでに投げつけている。

 そうして緩んだわずかなスキを殺すために、さらにもう一組を重ねて投擲。

 

 重ねて三組、六本の刃がクナーボめがけてはしる。

 大人げないと言うならば言え。

 武装女中としては非力なあたしが生き延びるには、常に必中必殺を心掛けなければならない。

 

 奇襲に奇襲、更に奇襲を重ねた必殺の六連撃!

 

 かわせるものなら――かわされた。

 

「は?」

「おっととととと」

 

 すととととととん。

 

 間の抜けた声とともに、およそ信じられない速度で立て続けにつがえられた六矢が、あたしのナイフを正確に射止めて地に転がした。

 

「話には聞いてましたけど、すごい抜き打ちですね! でも速さなら、ぼくも自信があるんですよ!」

 

 あたしに唖然とする間も与えず、クナーボの手元に矢が引き抜かれる。

 数えて六本。お返しと言わんばかりに、立て続けにつがえられた矢があたしを襲う。

 

「お、ま、あわっ――!?」

 

 一本、二本、三本、四本、五本、六本、続けて襲い来る矢に刃を投じてかわすこと六度、それで一息つきかけた瞬間、あたしはその呼吸を無理やり殺して七刃目を投擲する。

 反撃のためではなく、あたしの真似をするように、六矢目に隠れて飛来した七矢目を防御するために。

 

「なっ、ば、なに、を……!」

「うーん、やっぱり付け焼刃じゃすぐに対処されちゃいますね」

 

 何を、言っているのか。

 あたしが、このあたしが血のにじむような思いで身に着けた技を、こいつは付け焼刃でやってのけたというのか。

 

「試合に夢中でそれどころじゃないだろうが、言っておくぜ」

 

 メザーガが棒付きの飴をかじりながら言う。

 

「そいつは俺が直々に稽古をつけてやっている見習いで、それから、格好悪い話だが、見習い前にすでに俺の膝を射抜いた麒麟児だ」




用語解説

・クナーボ・チャスィスト
 人族。西部人。遊牧民の出。十三歳。
 弓と騎乗を得意とする。
 何気にスキルと呼んでいいだけの騎乗技能を持ち合わせているのは事務所ではクナーボだけだったりする。
 メザーガ冒険屋事務所では一番弱いが、そもそも基準点がおかしい。
 鶏及び類似品の肉、乳、卵に食品アレルギー反応を示す。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 クナーボ・チャスィスト

前回のあらすじ
子供の相手かと思いきやそこは冒険屋事務所。
受付嬢が戦えないと何故思ったのか。


「そいつは俺が直々に稽古をつけてやっている見習いで、それから、格好悪い話だが、見習い前にすでに俺の膝を射抜いた麒麟児だ」

 

 クナーボが俺のもとにやってきたのは、まだあいつが十になるかならないかの頃だった。

 俺は冒険屋事務所を開いてすぐの頃で、親戚どもからの支援を当てに、方々に顔を出しちゃ挨拶巡りをしている時分だった。

 

 クナーボは西方の遊牧民の子供だった。遠縁にあたるチャスィスト家の末っ子で、当時はまだ自分の弓を持ったばかりだった。

 西方の遊牧民ってのはなかなか気難しい連中で、親戚とはいえ遠縁にあたる俺にゃいくらか厳しい目もあった。それでも縁があるってんで優しくしてもらった方だってのは驚きだったがね。

 

 俺は二季ほど連中の遊牧に付き合い、その間に何度か魔獣との戦いを経て信頼を勝ち取り、それから危うく嫁を取らされそうにもなって焦ったものだ。いい年とはいえ、まだ人生の墓場に行く気にはなれなかった。

 勘弁してくれと言う俺に、じゃあ嫁の代わりに、従者とでも思って面倒を見てくれないかと寄越されたのがクナーボだった。

 

 クナーボはその当時でも器用なものでで、大概のことはできた。

 麺麭(パーノ)も作れる、刺繍もできる、読み書きだって達者なものだったし、算盤(アバーコ)も弾けた。楽器もできりゃ、弓も引ける。

 そんだけの優良物件で、しかしクナーボは部族にはついていけないとしてすでに見捨てられかけていた。

 

 それというのも、クナーボは鳥の肉が食えなかったんだ。

 

 チャスィストの部族は、伝統的に騎馬として大嘴鶏(ココチェヴァーロ)を用いていた。

 知ってるか? なんつーか、こう、でけえ鶏だよ。空は飛べねえが、ぶっとい足でどこまでも走る。

 日に一度卵を産み、子のために乳を流す。多くの肉が取れ、その肉は滋味深い。

 骨は軽いが丈夫で、矢じりや棍棒、様々な道具になった。

 羽毛は軽くて暖かく、飾り羽は勇者や部族の長達だけが使うことを許された。

 

 とにかく、チャスィストの部族じゃあ、まず大嘴鶏(ココチェヴァーロ)と関わらずにはいられなかった。

 

 ところがクナーボは、この大嘴鶏(ココチェヴァーロ)の肉が食えなかった。

 好き嫌いじゃあない。

 そういう体質だったんだ。

 どういう理屈でそうなるのかは知らんが、世の中にゃあたまに、他の連中が普通に食えるものでも、体の方が過剰に反応しちまって、熱が出たり発疹がでたり、最悪死に至る、そんな連中がいるそうだ。

 俺の親戚にも、他に、蕎麦(ファゴピロ)が食えない奴がいた。

 海老(サリコーコ)の類がだめで、茹で汁どころか、その茹でた煙を浴びるだけでも駄目だってやつもいたよ。

 

 クナーボはそこまでひどい方じゃなかった。羽に触れても大丈夫だし、道具の数々も扱えた。

 ただ、肉を食えば吐いたし、乳を飲めば熱を出し、卵を食えば発疹が出た。

 一昔前なら呪いだなんだと呪い師が出たかもしれないが、馬鹿言え、いまのご時世だ、連中もそういう体質なんだってのはわかってた。しかしわかってるからって、連中の様式じゃそれはとてもじゃないがやっていけなかった。

 

 実際、俺は初めてクナーボにあった時、まだ六歳か七歳くらいかと思っていた。それくらい小さかった。滋養が足りなかったんだ。肉が食えないとなりゃ、小さな子供にゃあまりにも滋養が足りなかった。乳さえ飲めないんだ。

 

 援助はしてやるから、クナーボの面倒を見てやってくれないか。

 そう言われたとき、俺はもう半分以上はそのつもりでいたね。

 俺は篤志家じゃあないが、それでも人でなしってわけでもなかった。

 

 だが俺の旅は、つまり冒険屋の旅だ。それも男一人で旅してたんだ。

 命の保障はできない。まして病弱な子供となりゃあ、面倒を見切る自信はない。

 

「せめて腕が立つってんなら別だが」

 

 そう渋る俺に、石にかじりつくような気持ちでくらいついてきたのがクナーボだった。

 

 三日の間、あいつは俺の傍で隙を窺った。

 起きている時も、寝ている時も、飯を食っている時も、クソをひる時も、あいつは俺がすっかり油断するまで待ちに待ち、そうしてついに俺に一矢報いた。

 文字通りの一矢だ。

 

 俺が唯一気を抜く瞬間、朝飯に堅麺麭粥(グリアージョ)がないことにげんなりするその瞬間を狙って、十歳の子供が、実質七歳くらいしかないような子供が、弓を引いたのさ。

 冒険屋の鍛えられた体を、しっかりとした装備の上から射抜けるほどの弓は、大人用の弓でもそうはない。

 

 だがクナーボはやった!

 

 何かの道具か、おもちゃにしか見えないように偽装して、あいつは俺に常に弓を突き付けていたのさ。

 まさかそれが弓だとはだれも思いもしなかった。

 あいつはその弓を足で押し、弦を両手で引き、全身で矢をつがえて、俺の膝を射抜いたのさ!

 

 チャスィストの部族の連中が騒然とする中で、俺はこいつを自分の弟子にすることをその場で決めた。

 あいつは自分が出来損ないで役立たずだと沈み切っていた。だが俺について行くという活路が見えた途端、あいつは自分にできる全てをかけて、そこに縋りついた。みっともねえかもしれん。やり口があまりにもひどかったかもしれん。

 だがあいつは生きるという一心に、全てをかけた。

 

 俺はその心意気を買った。

 

「やるじゃないか小僧。良い腕だ。約束通りお前を連れて行ってやる」

 

 俺はその日のうちにクナーボを連れていく契約を正式にかわし、その代わりに支援と、一頭の大嘴鶏(ココチェヴァーロ)を騎馬として譲り受けた。

 

「それから、そう、その前に。朝飯を済ませていいか?」

 

 

 

 あれ以来、俺はクナーボを徹底的に鍛えぬいた。

 

 まず最初は飯だった。何をするにもまず飯を食わせて体を作らにゃならんかった。

 それでもごらんのとおり、あいつは年の割に小さな器に収まっちまった。もっとも、本人があれを武器として使えている以上、あれはあいつにとってふさわしい体つきなんだろうな。

 短弓を使う以上、大きい体よりは小回りの利く体の方がいいのかもしれん。

 

 俺は次にあいつの得意とするところを見つけ出すために、俺のスキを突かせることにした。最初の時と一緒だ。どんな手を使ってもいいから、俺に攻撃を当てる。当てたらご褒美だ。

 最初のうちはまるで成果がなかったが、やがて弓に辿り着くと、あいつは途端に伸びた。いまのところご褒美はやらずに済んでいるが、それでもあわやと思う瞬間は、増えた。

 

 俺が装備を整えてやると、クナーボは砂漠の砂が水を吸うようによく覚え、そしてよく伸びた。いまじゃあ弓を使った腕じゃあ、俺よりもパフィストに近いと言っていい。

 

 いやまったく。執念があるとはいえ、まだ成人前のガキに弓で負けるなんて恥ずかしくて言えたもんじゃないが、しかし、あれは本物だよ。

 あいつがいるから俺は安心して引退して、事務所の所長なんてやっていられる。

 

 あれで嫁にしてくれなんてトチ狂ったことさえ言わなけりゃあ、いい男になりそうなんだが。




用語解説

大嘴鶏(ココチェバーロ)
 極端な話、巨大な鶏。
 草食よりの雑食で、大きなくちばしは時に肉食獣相手にも勇猛に振るわれる。主に蹴りの方が強烈だが。
 肉を食用とするのは勿論、騎獣として広く使われているほか、日に一度卵を産み、また子のために乳も出す。遊牧民にとってなくてはならない家畜である。
 一応騎乗用と食畜用とで品種が異なるのだが、初見の異邦人にはいまいちわかりづらい。

蕎麦(ファゴピロ)
 いわゆるソバ。寒く、乾燥した地帯でも生育する。北部でも多く育てている。
 西方では所謂麺類としての傍として食べられることもあるが、帝国の一般としては蕎麦粥やガレットなどのような形で食されているようだ。

海老(サリコーコ)
 いわゆるエビの類。巨大なものや小さなもの、鎧に出来るほど頑丈だったりなどの特殊な性質をもつものもあるが、おおむね我々の知るエビっぽいものは大体海老(サリコーコ)と言っていい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 鉄砲百合の意地

前回のあらすじ
男の娘だったクナーボ。
色々な意味で甘く見てはいけないようだ。


 あたしが投げるナイフのことごとくが、正確無比な矢に射貫かれては落ちていく。

 いや、矢をつがえて、構えて、射るという工程を考えれば、投げるという一工程のあたしよりも、実際的なその速度は遥かに上回ることになる。

 あたしは恐ろしい勢いで矢が襲ってくるのを、かろうじてナイフで抑え込んでいるにすぎないのかもしれない。

 

 ナイフを投げる。矢に防がれる。

 矢が襲ってくる。ナイフで弾く。

 

 もはやどちらが先でどちらが後なのかわかったもんじゃない。

 

 投げる、防ぐ、襲う、弾く。一連のやり取りが、一瞬のうちに幾度も繰り返される。

 そしてそのどれか一つでも外せば、致命打があたしの体に間違いなく突き刺さったことだろう。

 クナーボの小さな体は短所などではなかった。

 小さな手は恐ろしく滑らかに、矢をつがえ、構え、射る。その一連の流れは殆ど一工程と思わせるほどに小さく折りたたまれており、その折りたたまれたものが解放された瞬間、あたしの目の前には二重三重に矢が迫っている。短い手は、つまり回転が速いということだ。

 これは一朝一夕の技ではなかった。

 

 恐ろしく強い素材で作られた短弓は、どれだけ酷使されても揺るぐことなく正確な矢を放ち続けてくる。

 軽くしなやかな矢は、あたしの曲芸じみた投擲に合わせるように、平然と曲射を射かけてくる。

 町娘風に見えたあの衣装は、そのどれか一つをとっても、クナーボの射をまったく邪魔しないように計算されていた。

 

 そしてまた小さな体というものが、あたしからしてみれば厄介だった。

 向こうからしても同じことだろうけれど、的が小さければ中てるのにはそれだけ気を遣う。

 だけど向こうとこちらじゃ違うところもある。距離だ。距離が敵だ。

 あたしが腕の力だけで、工夫したって腰の力を入れて投げてようやく届かせるところを、クナーボの弓はたやすく届かせる。いやらしい距離だ。メザーガ・ブランクハーラ、とんだ狸だ。

 

 あたしが距離を詰めようとすれば、それだけクナーボの矢は厳しくなる。

 あたしが無理をして詰めようとすれば、クナーボはほんの少し後ろに引くだけで事が済む。

 クナーボがほんの一歩後ろに引いたその一足を、あたしはとんでもない労力で回復しなけりゃならない。

 これは全く公平ではなかった。

 

 つまり、まったく、いつもの事だった。

 

 あたしは諦める。

 あたしはこの勝負を諦める。

 

 投擲勝負は向こうの勝ちだ。

 

「なら、やり方を、変えるまで……!」

 

 三十二合目の矢とナイフの打ち合いを終えて、あたしは腰の狩猟刀を抜く。

 鉈よりは細いが、ナイフよりは大きい。

 取り回しのしやすい大きさで、あたしの手によくなじむ。

 

 それを片手に、あたしは一歩を踏み出す。

 瞬間、あたしの目の前には、すでにそこに置かれていたように矢が射掛けられる。

 恐ろしいほどに正確な精密射撃。

 恐ろしいほどに正確な未来予測。

 

 ()()()()()、あたしはそれをかわすことができる。

 

 首を僅かに傾げて一矢を避け、続く二矢を足さばき一つでかいくぐる。三矢が行く手を阻むなら狩猟刀で矢じりを狩り落とし、四矢が刀を射落とさんとするならば真っ向から迎え撃つ。

 

「な、あ、そん、な……っ!」

 

 五矢が頭を狙えば噛み砕き、六矢が胸を狙うなら掴み取る。七矢が八矢が九矢が十矢が、行く手を阻むならこれを一振りで切り捨てる。

 

「そんな、そんな……っ!」

 

 避けられるものは避ける。避けられなければ掴み取る。掴み取れなければ切り捨てる。切り捨てられなけりゃあとは中てられるだけだけど、生憎とあたしはそんなことは許さない。

 一歩踏み込めば一矢が、十歩踏み込めば十矢が襲い掛かるというのならば、なあに、たいしたことはない。彼我の距離はたかだか数十歩。ならばたかだか数十矢をかわす程度、辺境の武装女中にできない訳がない。

 

 いや。やらいでか。

 

「そんな、馬鹿みたいなことが……っ!」

 

 そりゃ、そうだ。

 射られた矢を、射られた後に避けるなんてのは、生半な事じゃ成し遂げられない。それを数十も繰り返すとなれば、それはもはや神業の域だ。

 この身がいまだ神の域に届かないとなれば、なればこそ、これこそ人の業。

 

「あら、寂しいこと言わないでよ」

 

 すでに三十二合も打ち合ったのだ。互いの癖など、とうに読めたことだろうに。

 

「まさか、まさかまさか……っ!」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あたしは三十二合をかけてあたしの癖を覚えこませた。あたしの間違った癖を覚えこませた。そうしてその間に、あいつの癖を覚えた。あいつの正しい癖を覚えた。

 正確無比な精密射撃。

 正確無比な未来予測。

 そこにあらかじめ嘘を覚えこませておいたならば、あとは決まっている。

 

「嘘は暗殺者の領域よ……っ!」

 

 矢はもう中らない。中る場所にあたしはいない。

 矢の影を踏み、矢の影を潜り、矢の影を跳び、あたしと言う鉄砲玉は数十歩を駆け抜ける。

 

「そんな、馬鹿みたいな話が……っ!」

「そんな馬鹿みたいのが、冒険屋って言うんでしょうが!」

 

 するりと薙いだ狩猟刀の刃が、咄嗟に受けた弓の弦を断つ。

 ばつんと弾ける音がして、クナーボの膝が落ちた。

 

「さて……まだ続けるかしら?」

 

 

 

「ま、ひとまずは一勝目、おめでとうさん」

「一戦目から随分はめられた気がするわ」

「仕方ねえだろう。うちにゃお前さん方と組ませるのにちょうどいいのがそうそういないんでな」

 

 だからと言って、なんて言い訳するのは、冒険屋としても、武装女中としても格好悪いかしら。何せ苦戦した理由と言えば、事前に話したかわいい見た目の魔獣だから油断したってのと同じような話だもの。

 ま、油断してもきちんと勝ちをとってくるのがこのトルンペート様だけどね。

 

「トルンペート大人げなっ」

「子供いじめて喜んでますよあの人」

「あんたらね」

 

 傍から見てても凄まじかっただろうクナーボの矢は、正直もう一度相手したいとは思えない類のものだ。開始早々にあたしの油断が抜けて、そして相手にこちらの誘導にうまく乗ってくれる素直さがあったから拾えた勝ちであって、同じことをもう一度やっても勝てる自信はない。

 まあその時はその時ではまた別の勝ち方を探すだけだけれど。

 

「うぇああああ、負けちゃいましたおじさぁん!」

「泣くな泣くな、いや、泣いてもいいが鼻水つけんな」

「じゃあお嫁さんにしてください」

「開き直り早っ! しねえっつってんだろ!」

「じゃあお婿さんでもいいですからぁ!」

「この年で婿なんぞ取れるか!」

 

「あっちはあっちで勝っても負けても楽しそうでいいわね、全く」

「というか、クナーボってその、男の子だったんだ」

「あれ、言ってなかったでしたっけ」

「言われてないわよ」

「まあ別に大差ないじゃないですか」

「そうかしら?」

「………え、ていうか男の子がお嫁さんになるのってスルーして良い奴?」

「辺境じゃよくあることですよ。北部でも普通かと」

「帝国全土でいえば少ないかもしれないけど、女性同士の恋物語とか男性同士の恋の劇とか、一時期流行ったものねえ」

「ええ……じゃあクナーボが言ってるお婿さんにってのもありなの?」

「あー……メザーガがお嫁ですかあ……」

「そこはまあ、個人の幸福と言うやつじゃない?」

「見てる側としては?」

「それはそれでありかな、と」

「そうそう」

「私はもうちょっとこの世界に慣れないといけないみたいだ……」




・婿
 帝国では法律において、結婚する両者の性別を定めた条文はない。
 またいかなる種族間の結婚もこれを否定する条文はない。
 極論、法律には書いていないから木の股と結婚しようが両者の同意さえあれば問題はない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 亡霊と猛犬注意

前回のあらすじ
メザーガは言った。「膝を射抜かれてな」。


「次のナージャってさ、前に一瞬遭遇した人で間違いない?」

「クナーボに聞いた限りではあれで間違いないらしいですよ」

「なによ、知ってるの? あたし見たことないんだけど」

「うーん、大体昼過ぎまで寝てて、起きてるときはほっつきまわってるらしいです」

 

 ナージャ・ユー。

 

 その人物と出会ったのは、というより、正確な言い方をするのならば()()したのは、トルンペートがやってくるよりも以前、私たちが、ドブさらいとか、店番とか、迷子のペット探しとか、迷子のおじいちゃん探しとかに精を出していたころの事だった。

 

 その日はたまたま依頼が早めに終わって、暑いからもう休もうかと事務所に戻ってきたのだった。

 そして逆に、向こうは暑いから氷菓でも食ってくると外出しようとした、その矢先だった。

 

 私たちは事務所の軒先でたまたま顔を合わせたのだがその時のショックはなかなかのものだった。

 なにしろ、

 

「……でかっ」

「藪から棒だな」

 

 そのナージャとかいう女は、180センチメートルはある私がちょっと見上げなければならない大女だったのだ。

 事務所の扉をちょいと屈むようにして出てきたその女は、視覚的暴力と言っていいパワフルさだった。

 

 まず身長がでかい。私よりでかい。その癖、太いということがない。いや、太いは太いのだが、それは引き締まった筋肉の太さであり、さながらギリシア彫刻のように均整の取れた美しい筋肉だった。モデルのようにスラリと全身の均整がとれており、そしてそのうえに乗っかっている顔が、いい。

 

 顔面偏差値とか、顔面の暴力とか、そういった乱暴なワードが似合うイケメンであった。女性相手に言っていいのかよくわからないワードではあるが。しかしとにかく顔が良かった。

 とはいえこれは私の感性によるものかもしれない。

 というのも、豊かな黒髪を長く垂らしたこの女は、何かとバタ臭い帝国人の中で、珍しく()()()()()()()()()をしていたからだった。

 

 私は、と言うか私とリリオはその時の出会いを決して忘れはしないだろう。

 何しろ、軽い挨拶と自己紹介を交わした後、この女は実に軽い調子で、

 

「そういえば熊木菟(ウルソストリゴ)を無傷で倒したらしいな。私とも()()()

 

 とにこやかな笑顔で言い放つや、腰の太刀を抜きざま私に切りかかってきやがったのだった。

 幸いにも自動回避が発動して初太刀をよけられたのだが、続けて二閃、三閃と白刃がきらめき、その度に私は一歩一歩追い詰められ、その内、速さとか技ではなく術理で追い込まれて回避不能に追い込まれるところだった。

 

 その時は何とかぎりぎり回避しているうちに飼い主もといクナーボが騒ぎを聞きつけて叱りつけてくれたから助かったが、もしあのまま続いていたら私は今頃本当に幽霊になっていたかもしれない。

 その後徹底してステルスを心掛け面会を積極的に拒絶しているが、たまに獣じみた嗅覚でこちらの《隠蓑(クローキング)》を貫通してくる恐ろしい手練れだ。

 

「あの頭もイカレてるけど、技前も大概イカレてる凄腕の大女ですね」

「端的過ぎる説明ありがとう」

 

 とにかく、どうやらその頭もイカレてるけど、技前も大概イカレてる凄腕の大女と私はやりあわなければならないらしい。

 

「まあウルウなら何とかするでしょ」

「頑張ってくださいね、ウルウ!」

 

 この無条件な信頼が、つらい。

 実際問題大抵の相手ならばどうとでもなる私なのだけれど、では大抵の相手以上はどうかと言えば、経験が少ないので何とも言えないが、恐らくぼろ負けする。

 何しろ私は格闘技の経験どころか喧嘩すらしたことがないひょろ長いだけのもやしっ子なのだ。いくらゲーム内キャラクターの体を得てアダマンチウム性のストロングパワフルボディとなったからといって、それを操るのはこの私なのだ。アダマンチウム性のストロングパワフルもやしになったに過ぎない。

 

 弱いやつにはとことん強く、強いやつにはとことん弱い、そういう言う女なんだよ私は。

 

「ほらほら、観念して早く準備してくださいな」

「往生際悪いわね。向こうも待ってるわよ」

「だから嫌なんだよ」

 

 ずるずると引きずられて即席の土俵に立たされると、大女がにこやかに笑いかけてくる。

 実に爽やかなスマイルで、こう言うのだけ見ていればとてもいい人そうに見える。

 

「やあ、やっときたな。待ちくたびれてこっちから行こうかと思ってた頃だ」

「勘弁してくれ……」

「はっはっは、元気がないぞ? 筋トレしてるか?」

「してないよ」

「なんと、筋肉が泣くぞ!?」

「心の方が先に泣いてんだよぉ!」

 

 物凄く嫌だった。

 このネアカと向き合うのが。

 なんかこう、自分の薄暗いところが浮き彫りになりそうだって言うのもあるけど、体育会系っぽくて好きじゃないんだよね。

 

「まあ、なんだ。初対面ではろくに挨拶できなかったな。ウルウ、アクンバーだったかな?」

「妛原閠だよ」

「ほう、何とも耳に馴染みよいな。西方の出か?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「ふむ、そうか。私も名前をなかなかうまく発音してもらえなくてな。こちらではナージャなどと呼ばれているが、本名は長門と言う。長門ゆ()だ。よろしく頼む」

「ああ、そう。よろしく」

 

 やはり西方の文化圏は、日本と言うか、アジア系の文化圏らしい。

 この女は日本人とするにはいささかガタイが良すぎるが。

 

「私は西方にはいったことがないけど、みんな、あー、あなたみたいな?」

「まさか! 私などは小さいほうさ! ……冗談だ冗談。存外貴様は表情豊かなのだな」

 

 よかった。こんなのがゴロゴロいたら異世界など滅びてしまえという気持ちが高まってしまうところだった。なにしろ一人いるだけでもこんなにも面倒なのだから、まったく。

 

「さて、じゃれ合いはともかくだ。メザーガ! 勝敗はどうする?」

「そうさな。お前に本気で暴れられても面倒だ。一発ても相手に入れられたら終わりでいいだろ」

「フムン、何とも面白みに欠けることだな」

「言ってろ。そいつに一発でも入れるってのは、俺でも()()だぜ?」

「ほほう、ほほう。そいつは楽しみだ。そう言えば先だっても初太刀をかわされたのはいつぶりだったか」

「そうだろうそうだろう。何しろそいつは化物だからな。一発入れたら奢ってやる」

「言ったな! やろうやろう、よしやろう!」

 

 おーいおいおいおいなに煽ってくれてんだおっさん。

 私が面倒くさがっているのをいいことに好き勝手なこと言いやがる。

 えらくやる気になってしまった向こうに比べて、私のやる気は急降下だ。もうマイナスだ。そもそも最初からやる気なんてないんだからな。

 チーム脳筋のメンバーとはいえ、私はこういう脳筋極まる戦って決めようぜ的なイベント好きじゃないんだよ。漫画かよ。強いやつが正義だみたいな前時代的なのどうかと思うよ私は。口があって耳があるんだからさ、話し合いで物事解決すべきだと思うね、私は。そこを腕力でどうにかしようって言うのはもうゴリラかよって。いやゴリラでももっと建設的だよきっと。あいつら森の賢者らしいし。もっとさー、人間として獣に負けてちゃいけないと思うんだよね。ラブ・アンド・ピースだよ。シェケナベイべしようぜ皆。

 

「おらおら、観念してさっさと位置につけ」

「……あーい」

 

 って言えたらな! って言えたらな! 言えたら苦労しねえんだよ!

 くっそう、どうして私はいつもそうなんだ。主張すべき時に主張できないで何が自己主張だというんだ。

 

「よし、もういいか!? やろう! さあやろう!」

 

 くそう。おのれ脳筋め。恐るべき脳筋め。

 

「わかったよ。やろうか」

「よし、ウールソ合図だ!」

「やれやれ、審判扱いの荒い。では、いざ尋常に……勝負!」

 

 号砲のごとき開始の声と同時に、私の脳天に刃が振り下ろされたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 ナージャ・ユー

前回のあらすじ
ゴリラ現る。


 あれが何者なのかっていう質問をぼくに放り投げるのはいささかお門違いではあると思うんですけれど、それでもまあ、根本的な説明責任者の所在が永久に不明である以上、飼い主と言うべきか拾い主と言うべきか、とにかくあの()()()()()()を現世に引きずり出してしまったぼくにお鉢が回ってくるのはもうどうしようもないことなんでしょうね。

 

 ()()

 

 正直な所そう呼ぶほかに正しい分類方法の見当たらないナマモノであるところのナージャを見つけたのは、たしかにぼくだったのですから。

 

 ナージャを発見したのは東部の古い遺跡でした。

 ぼくは、と言うか正確には、おじさんとぼくはようやく軌道に乗り始めた事務所を維持させるために必要不可欠なもの、つまり徳と現金を積むために方々で塩漬けになった依頼を片付けて回っている最中でした。勿論《一の盾(ウヌ・シィルド)》の他の面子もそうで、あの頃ぼくたちは、帝国に広く足を伸ばしては小金を稼いでせっせと事務所の資金としてため込んでいたのでした。

 

 普通の冒険屋ならパーティで組んで仕事した方が効率が良かったのでしょうが、それはそれ、何しろ《一の盾(ウヌ・シィルド)》と言うのはいろんな意味で規格外のパーティでしたから、よほどの依頼でなければ過剰戦力になってしまう以上、分散してそれぞれが気ままにやった方が効率的というものでした。

 もちろんそれが、いわゆる普通の冒険屋が聞いたら卒倒しそうなことだってのはわかってますけど。

 

 さて、そのときぼくとおじさんが潜った遺跡は、なんて言ったかな、ちょっと記憶が曖昧ですけれど、まあ大戦時からずっとそのまま放置されているような、用途も目的も知れない遺跡の一つで、いままで何にもなかったし、突っつかないで済むならそのまま放置しておいてもいいんじゃないかなと、そのような理由で放り出されていた代物でした。

 

 しかし、えてしてそういう遺跡には魔物や盗賊が棲みつくものです。生半可な物であれば対処できるかもしれませんが、今は静かなものでも将来的には果たしてどうなることやら分かったものではありません。急にそう言う手合いがわっと湧いて出てきたとして、平和に慣れた東部の皆様がこれにきちんと対処できるものでしょうか、いえいえ侮るわけではなく専門家として純粋に危機意識を持っているだけの事でして。それにこれは魔獣や盗賊であればまだよいなと言う話でして、ええ、ええ、古い遺跡に竜種が棲みついたなんて言うお話は、全くおとぎ話でも何でもなく、今でもたまに聞くようなものですから、そうなるとさすがに対処は難しいのではないでしょうかと愚考する次第でありまして。いえ、いえ、いえ、私どもも急ぐ旅でなし、お手伝いできればこれ以上の喜びはありません、と申し上げたいところなのですが何しろ御覧のとおり一介の冒険屋ともなると路銀も寂しく長逗留というわけにも参りませんで、いえいえいえ、そんな催促など、ただまあ同じ代金でどんな冒険屋がこんな塩漬け依頼にわざわざ食いつくかと言うのははなはだ疑問ではありますけれど、ああ、いえいえ、とんでもございません、また再びこの地に来ることがありましたら、そのときは皆さまがご無事であると嬉しいなと言うそれだけでして、ええ、ええ、はい。

 

 そのような具合で地元の方とお喋りなんかしましてね、はい、ほどほどの前金を懐にほくほく顔で遺跡に潜ったんですけれど、これがまあ、あまり、よろしくない。よろしくないというより、はっきり、悪い。

 

 と言うのも、遺跡の機能の方は半分方死んでしまっていて何の遺跡だったのやらさっぱりわからなかったのですけれど、穴守がですね、ええ、ええ、守護者なんて言ったりもしますけれど、その穴守がですね、健在、全くの健在だったんですよ、これが。

 

 と言うより修復中だったんでしょうねえ。からくり仕掛けの穴守だったんですけれど、長い間をかけて自分で自分を修理していたようでして、完全に修理が終わる前に見つけられて運が良かったというべきなのか、目を覚ます程度に修理が終わってから見つけてしまって運が悪かったというべきなのか、まあとにかくうっかりその穴守と遭遇してしまいまして。

 

 いくらおじさんが凄腕の冒険屋とは言え、大戦時代のからくり仕掛けの穴守を、準備もなしに相手するのはさすがに厳しい――あ、いえ、はい、そうですね、はい、えーと、面倒、そう、面倒くさいということでして、一旦相手の様子を見るために、あちこち逃げま――走り回って、遺跡の調査をしながら何かいい手立てはないかと探してみたんですよね。

 

 逃げ込んだ先は広い部屋でした。最初ぼくたちは、そこをお墓なのかと思いました。

 というのも、金属製の棺のようなものがいくつも並んでいたからなんです。人が一人は入れるくらいの大きさと言い、それがずらりと並んだ光景と言い、地下墳墓のようだなと感じたものでした。

 そのほとんどは空でしたけれど、何か金目の物――もとい役に立つものでもないかと探しているうちに、ぼくたちは一つの棺がまだ稼働していることに気付きました。

 棺が稼働しているなんて変な言い回しですけれど、それは、その機械仕掛けの棺は確かに、しずかに唸るような音を立てて生きていたんです。

 

 棺を開けてみようと言い出したのはぼくでした。おじさんのもとで冒険屋として勉強していくうちに古代遺跡の操作方法も少しは齧っていましたから、簡単な操作くらいはできる自信がありました。

 何か役に立つものが入っていれば、その一心でした。そのくらいぼくたちは追い詰められていたんです。

 勿論、中からまた別の穴守が出てくるかもしれませんでした。何の役にも立たない代物が出てくるかもしれませんでした。

 

 一か八か。

 ぼくがなんとか棺を開けることに成功するとの、穴守がその部屋を発見するのは同時でした。

 

 穴守が扉を破壊して巨体を部屋にねじ込ませようとしている最中、ひんやりとした冷気に満ちた棺から、そいつはゆっくりと体を起こしたのでした。

 

「くぁ、あ、ふあ、あふ、く、ふ……んーむ。寝すぎた感じがあるな」

 

 そんな暢気なことを呟きながらのっそりと棺から起き上がったのが、そう、彼女でした。

 

 棺から身軽に飛び降りたのはすらりと背の高い女でした。

 すっと鼻筋の通った力強くも美しい顔立ちで、均整の取れた体つきはしかし、女性的な嫋やかさと言うよりは、その張りのある皮膚の下の縄のような筋肉を思わせました。

 黒々と長い髪はしっとりと濡れたようで、うっとうしげに払われる様さえも一幅の絵画のようでした。

 戦の女神というものが実在したならば、あるいはそのような姿をとったかもしれない、そう思わせられるほどでした。

 

「うん? なんだ。どこだここ。まさか呑み過ぎて倒れたのか?」

 

 その極めて残念な言動と、惜しげもなく全裸をさらして尻をかくという極めて残念な行動さえなければ。

 

 すっかり呆然として誰何する余裕もなく、ただただ見上げるばかりのぼくを一瞥して、穴守を警戒して剣を構えるおじさんを一瞥して、それからぼりぼりと頭をかいて、それでそいつはすっかり得心したようでした。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その後の大惨事をあえてぼくから申し上げるのは控えさせていただきますけれど、まあ、しいて言うならば、あれは、戦闘でも何でもありませんでした。一方的な虐殺と言っていいでしょうね。機械相手にそう言っていいのかわかりませんが、何しろからくり仕掛けの穴守が恐怖におびえて逃げ惑うという様を見ることができたのは、ぼくたちくらいのものでしょう。

 

 あれから色々調べはしましたけれど、何しろ古い、それも情報も残っていないような遺跡でしたし、本人にもとんと記憶が残っていないということで、結局ナージャが何者なのかと言うのはぼくたちにもよくわかっていません。

 

 ただ、恐らくはあの遺跡の、あの棺の中でずっと眠っていた古代人で、それもただもののではない古代人であるということだけが、何となくわかっているにすぎないのです。




用語解説

・塩漬け依頼
 冒険屋に託される依頼の中には、期限を明確に示さないものもある。
 そういったものの中で、特にかなり年季の入った古いものを漬物に例えて塩漬け依頼と呼ぶ風習がある。

・ナージャ・ユー
 本名長門ゆ()。古代人(?)。西方出身であるような発言があるが、詳細は不明。
 真面目にやり合うとメザーガでも手古摺る、というより場合によっては歯が立たない可能性もあり、ただの人族というには些かオーバースペックのようだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊の奥の手

前回のあらすじ
化け物だと思ったら化け物だった。


 号砲のごとき開始の声と同時に、私の脳天に刃が振り下ろされた。

 即座に自動回避が発動し、私の体は紙一重でこれをよけている。

 しかしほっとするのもつかの間、相当の重さがあるだろう太刀を平然と振るって、二閃、三閃と続けざまの刃が私を襲う。

 

 これが単に力任せに振るわれているだけならば、例え何時間であろうとも私は自動回避のままによけ続けられただろう。しかし、このナージャと言う女、見かけや言動とは異なり、その実力の大きな部分は腕力でも素早さでもなく、技術だ。

 私が避ける先にすでに刃は向き始めているし、それを避ければすでにその先に刃が置かれている。私が下がれば詰め、私が懐に潜り込もうとすれば下がり、私がどたばたと騒がしく動き回っている間もすり足を乱すことなくするすると自由自在に間合いを詰めてくる。

 

 いまのところは私の素早さ(アジリティ)幸運(ラック)のおかげで回避は成功し続けているが、すでにして私の回避の傾向が見抜かれつつある。もはや詰将棋に入りかけている。

 それでもまだなんとかじり貧をギリギリのところで伸ばし伸ばしにできているのは、自動回避だけでなく《縮地(ステッピング)》や《影分身(シャドウ・アルター)》などを利用して相手をかく乱しているためだ。

 

 かく乱。

 

 そう、これは真っ当な回避手段じゃあない。

 ド素人にすぎない私がやみくもに《技能(スキル)》を使うことで、卓越した兵法者であるところの長門の勘所に混乱を与え、短い余生を延ばし延ばしにしているに過ぎない。

 いわゆる「素人は何をやるかわからないから怖い」と言うことにすぎず、所詮素人は素人であるから、押し込まれれば長くはない。

 

「ナージャの剣をあれだけ長く避け続ける奴は初めてだな」

「まず初太刀が避けられませんもんね、大概」

「折りたたんだような手元から一瞬で伸びてくるあれは、俺でもちと厳しい」

「メザーガでも厳しいんですか!?」

「勝てないとは言わねえが、正直、まじめに相手するなら鍛え直したいところだ」

 

 そんなやつを中堅に持ってくるなよ。

 こちとら格闘技どころか喧嘩もしたことがないド素人だぞ。ド素人・オブ・ジ・イヤーだぞ。

 かろうじて身体能力と妙な回避能力があるから持っているだけで、そろそろなます切りにされそうで怖いっていうかなんでこいつら真剣で平然と試合できるんだよ怖すぎるだろ。

 一発当てりゃ終わりっていうけど、こんなので斬られたら私なんか一発で死んでしまうわ。回避性能に極振りされた《暗殺者(アサシン)》の耐久力は濡れた障子紙程度しかないんだぞ。

 

「いやー、それにしてもウルウも余裕ですね。顔色一つ変えずにひらりひらり」

「無駄に洗練された無駄のない無駄な動きって感じね」

「あれおちょくってるんですかね」

「おちょくってなきゃあんな無駄な動きしないでしょ」

 

 すみませんこれが本気で全力です。

 何しろ太刀筋も頑張れば見えるは見えるんだけど、何故そう言う風に動くのか全く理解できないから、自動回避で体が避けてくれた後に、ああ、そうなるんだと感心しているくらいだ。あれだけ長大な刀を振り回しているのに、実に小回りが利いてまるで手品みたいだ。

 まあ感心するほど余裕があるかって言うと、半分以上は現実逃避だが。

 何しろ大真面目に向き合うと恐怖と緊張で体が強張るので、大丈夫大丈夫と念仏唱えながら自動回避に身を任せるのが一番安全なのだ。

 

 えらい人も言っていた。

 激流に身を任せどうかしているぜと。

 

 ん? 間違ったかな。

 

 まあいい。同化していようがどうかしていようが大差はない。

 

「ふふふ、やるではないか! こうもこの長門が翻弄されるとはな!」

「……」

「涼しげな顔をする! やはりこうでなければ!」

 

 ごめんなさい、表情作る余裕ないっていうかなんか言ったら吐きそうなんで勘弁してください。

 なんだかノリノリでハイテンションに剣を振り回す大女と向き合うって相当な肝っ玉が必要だと思う。

 ただでさえ私、自分より高身長な相手と出会う機会ってそうそうないから、その相手が涎でもたらさんばかりに楽しそうに刃物を振るってくるのってちょっとしたどころではない恐怖だ。

 クレイジーに刃物ならばまだ納得いくけれど、見た限りこの女実に理性的だからな。理性的に狂ってやがる。基本となる常識とかそのあたりが食い違いまくっている気がする。

 誰かどうにかしてくれよこのバーサーカー。

 

 などと言っている内にもどんどん押され始め、自動回避も余裕がなくなってくる。

 というか、これは、この女の回転速度が速まってきているのか?

 これでまだ本気じゃないのかよ。異世界いい加減にしろよ。

 

 ギラギラとした目つきで、もはや軽口も叩かず、私をなます切りにすることだけを考えて刃物を振るってくる女がいるんです助けて。

 しかし残念ながら衛兵はここにはいないし、いたところでこんなクレイジーなモンスター手に負えないだろう。私が全力で回避に専念してどうにか避けていられる猛攻に対処できる衛兵ってなんだよ。お前が世界を救ってくれよってレベルだよそんなの。

 

 しかし、さて、どうしたものかな。

 実は一発喰らって終わりにしようというのはできなくもない。

 

 《幻影・空蝉(クイック・リムーブ)》と言う《技能(スキル)》がある。

 これは事前にかけておくことで一度だけ、相手から致命打を受けた瞬間にその場に身代わり人形を生み出してダメージを回避し、自身は短距離転移で少し離れた位置に移動するというものだ。忍者物でよく言う変わり身の術とか空蝉の術とか、そんな感じだ。

 

 これなら私は痛くないし、かつ直後に参ったと宣言すればこれこそ奥の手なのだった、もう打つ手はないと言い訳できるだろう。そしてコストパフォーマンスもいい。

 

 ただ、一つ問題がある。

 

「ウルウー! 頑張ってくださーい!」

 

 思いっきり応援してきているリリオに申し訳が立たないという点である。

 格好悪いところを見せるのも正直楽しくはないし、そもそもの前提として私が負けた場合リリオの冒険屋試験がどうなるのか聞いていないのだ。多分私だけ失格でリリオはリリオの試験次第なんだろうけれど、そうすると今後の活動がちょっと不便になるし、つづくリリオの試験が私のせいで不調気味になってしまうとかそんなことになると申し訳ないどころでは済まない。

 

 まあ、いろいろ言いはしたけれど、結局のところ何が問題かと言えば。

 

(格好悪いのは嫌だなあ)

 

 この一点に尽きた。

 

 私にも矜持(プライド)というものがある。ささやかなものではあるし、いざというときはかなぐり捨てる覚悟ではあるけれど、それにしたって、まさかこんなクソみたいな場所で捨て去れるほど軽いものでもない。

 

 徐々に自動回避が追い付かなくなってきて、私自身の感覚と直観と《技能(スキル)》大盤振る舞いで何とかかわし続けてきているけれど、そろそろそれにも飽きてきた。

 

「メザーガ」

「おう、なんだ」

「一発入れればいいんだったよね」

「おう、そうだ」

 

 一発だけなら、まあ、なんとかやれないことはあるまい。

 ここで、「別にあれを倒してしまっても構わんのだろう」などとフラグを立てるつもりはない。こんな公式チートみたいな相手に少しでも見栄を張る気はない。格好悪いところは見せたくないが、かといって虚勢を張れる相手でもない。

 

「なら一発は―― 一発だ」

 

「チェストォォォオ!」

 

 号砲のごとき奇声と同時に、私の脳天に刃が振り下ろされた。

 

 ずるり、と。




用語解説

・《幻影・空蝉(クイック・リムーブ)
 ゲーム内《技能(スキル)》。事前にかけておくことで、致命的なダメージを受けた際に一度だけ身代わり人形を召還し、ダメージを肩代わりしてもらえる。人形はそのダメージで破損し、自身は極近くの安全地帯に転移する。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 白百合と魔法剣士

前回のあらすじ
ウルウ、まっぷたつに。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

「…………合図は?」

「む、お、おお、そこまで! ウルウ殿の勝利!」

 

 ウールソさんの困惑したような声が聞けたのはいい収穫でした……ではありません!

 

「あ、あの、ウルウ?」

「勝ったよ」

「え、あ、はい」

「うん」

 

 何やら満足そうなウルウですけれど、さっき脳天にはっきり太刀が食い込んでませんでした?

 と言うか真っ二つにされてませんでした?

 次の瞬間には逆にナージャがぶっ倒れてしまっていて、なにがなんだかわからなかったのですけれど。

 

「切り札は隠しておくもの」

「アッハイ」

 

 一応切り札ではあったみたいです。

 

「…………おいリリオ」

「なんですか?」

「うちのナージャと交換しないか?」

「不良在庫押し付けないでくださいよ」

「ちっ」

 

 ともあれ、一応勝ったということでいいのでしょう。

 納得いきませんが。

 

 私がうんうんと頭をひねっていると、トルンペートに優しく肩を叩かれました。

 

「ああいう生き物じゃない」

「アッハイ、そうですね」

 

 実にもっともな発言なのですけれど、私よりも付き合いの短いトルンペートに言われると何か釈然としません。なんだかトルンペートとウルウって妙に仲良くなりすぎてません? 私もそこに混ぜるべきです。そうすべき。

 

 などと《三輪百合(トリ・リリオイ)》でわちゃわちゃしていると、メザーガが面倒くさそうに声をかけてきます。

 

「一応今日の大一番なんだが、自覚あるか?」

「はっ、そうでした、私の出番でした!」

「思い出したらとっとと線につけ。面倒くせえ。さっさと終わらせようぜ」

 

 メザーガは愛用のものであるらしい聖硬銀の剣を片手に、あとはいつも通りの服装です。鎧ですらありません。執務室で仕事している時と大差ありません。ちょっと上着を一枚上に着ただけです。

 もう本当に形だけで、適当に終わらせて帰りたいという心が透けて見えるどころかあからさまです。

 

 ただひとつ、そこに私にとって不本意なところがあるとすれば、それは適当に終わらせるというのが、「適当に私をノして片付ける」という意味であるということです。

 

「いくら見習い冒険屋とはいえ、この身は辺境の剣士。あまりなめてかかってもらっては」

「そういうのいいから」

「むーがー!」

 

 しかも軽く流されます。

 完全にお子様扱いです。

 私これでも、結構強い方なんですよ!

 そりゃあ最近、なんか回りが強すぎてどうにも目立ってませんけど。

 

「試合形式は簡単だ。戦闘不能か、参ったと言わせるか、どっちかだ。あー、あとは審判が止めに入るかだな。いいな、ウールソ」

「承知し申した」

「武器破壊は戦闘不能に入りますか?」

「お前自分の武器が武器だからって調子乗りやがって……まあいい、これでも聖硬銀だ。壊せりゃそれでしまいにしてやる」

 

 言質は取りました。

 とはいえ、聖硬銀は使い手の実力がもろに出る金属です。

 大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻相手に真っ二つに折れたという記録もありますけれど、メザーガほどの実力者相手にそれを期待するのは難しいでしょう。場合によってはこちらの剣が断ち切られかねません。

 

「あとは……そうだな、いくらか枷をつけてやる」

「枷?」

「そうだ、ひとつは、魔法は使わないでやる。俺は魔法剣士だが、お前は確か魔法は不得手だっただろう。強化や防御はともかく、攻撃に魔法は使わないでやる」

「む、うーん、ありがとうございます」

 

 ちょっと悔しいですけれど、熟練の魔法剣士というものは、今の私では全く歯の立たない相手でしょう。剣も魔法もと言ういいとこどりの魔法剣士はどちらも中途半端になってしまいそうな印象がありますけれど、ある程度以上腕の立つ魔法剣士は、そのどちらも並の相手よりも優れた腕前にまでなると聞きます。

 

「それからもう一つ」

 

 ただ、もう一つは本当にむかっ腹に来ました。

 

「俺はここから一歩も動かねえ」

「……はい?」

「言った通りだ。攻めるも退くも、俺はここから一歩も動かん。逆に言えば、一歩でも俺を動かせたら、お前の勝ちにしてやる」

 

 これは大いになめられていると言っていいでしょう。いかに優れた剣士と言えど、一歩も動かずに相手をするというのは無理があります。どんなに優秀でも、剣と言うのは腕だけでどうこうできるものではありません。腕は肩につながり、肩は胴に、胴は腰に、そして腰は脚につながり、足は大地を捉えて力を伝達させます。

 つまり、足を動かさずに戦うということはその実力の十分の一も出せないということなのです。

 

「やーいばーか」

「……下らん挑発だな」

「いい加減つけ払えってジュヴェーロさんから毎回言われて辛いんですけどー」

「そのうちだ! そのうち払う!」

「最近下っ腹が」

「てめえまだ試合開始前だってこと忘れんなよ」

「あいすみません」

 

 さすがにメザーガもいい大人です。この程度の挑発では、試合開始前であっても動く気はないようです。

 ウルウだったらもうちょっと無神経に人の心の柔らかいところを抉るようなこと言いそうな気もしますけど、さしもの私もあれは真似できません。だってあれ、悪意とかあるわけじゃないですもん。

 むしろ悪意があって人を罵倒しようとすると、途端にウルウの言語能力は低下します。

 

「お前の寝耳にアツアツのチーズフォンデュを流し込んでやろうか」とか。

 

 やっぱりあれですかね、友達いなくて口喧嘩のレパートリーがおっと悲しくなってきたのでやめましょう。

 

「わかりました。まず一歩、動かして見せますとも!」

「おうおう、おっさんがくたびれない内に頼むぜ」

「むーがー!」

 

 ともあれ。規則を設けてくれるというのならば、その規則内で精々暴れさせてもらうとしましょう。

 

「両者見合って……いざ尋常に、勝負!」

 

 号砲のような合図の声とともに、私は早速剣に魔力を込めはじめます。

 ただの強化ではなく、雷精と風精にたらふく魔力を食わせてやります。

 

「ぬ……さすがに魔力だけは馬鹿みてえにありやがる」

 

 そう、そのバカみたいな魔力を、以前のバナナワニの時と同じように、しかし以前とは違って剣を破損させない程度に溜め込んでいきます。

 あの時はとにかく威力ばかりを重視していましたけれど、今は違います。人間相手にあの威力は過剰――と言うにはメザーガはいささか人間を辞めているところがありますけれど、でも、ウルウに教わったのです。

 つまり、「少ないコストでスマートに片付ける」、これです。

 

 ウルウは私が同じ失敗を繰り返さないように、かつ格好いい必殺技を扱えるようにいろいろと教えてくれました。

 まず、雷精というものは、非常に効率が悪いということを教わりました。光ったり、音を立てたりする分、力の多くを消費してしまっているのです。空気中に力をばらまいてしまっているから、あのように騒がしくピカピカとするのです。要は威嚇と一緒です。

 

 真の必殺技に威嚇はいりません。必要な威力を必要な場所にだけ叩き込む。これです。

 

 でも雷精というものは放っておいても空気中に流れてしまうもの。これを抑え込もうとすれば魔力を盛大に消費しなければなりません。と、困っている私にウルウは教えてくれました。

 道を作ればいいんだよ、と。

 

 その答えが風精でした。

 まず、風精を竜巻のように回転させて、空気の薄い道を相手までとの間に作り上げます。この道はどうせ一瞬で吹き飛びますから、そこまで丈夫なものである必要はありません。雷精が通りやすい道、それを思い浮かべるのです。

 

 道ができれば、あとはそこに溜めこんだ雷精を吐き出すだけ。

 ただその雷精は、生半じゃあない!

 

「突き穿て――――『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』!!!」

 

 目の前が真っ白になるほどの閃光。

 耳が破裂するのではないかと言う轟音。

 

 地上から放たれた()()()()が、風の道を通って一直線にメザーガを焼き尽くしませんでした。

 

 はい。

 

 焼き尽くしませんでした。

 

 あ、この流れ見たことある。

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の時の逆です。

 

 一直線にメザーガを襲った雷光はしかし、メザーガが無造作に剣を振るうと同時に、その矛先を天へと翻してそのまま空へと駆け上っていってしまいました。

 

 呆然と空を見上げる私に、メザーガが感心したように顎を撫でます。

 

「『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』、か。面白い技だ。霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の雷閃に似ているが、あれより鋭い。恐らくだが、風精で道を作りやがったな。以前地下水道で見せたとかいう技より随分洗練されてる。大方入れ知恵があったんだろうが……種が割れりゃ俺にも真似はできる。少なくとも、筋道を変えるくらいはな」

 

 余りにも簡単に言うメザーガでしたが、そう簡単にできれば私も苦労はしなかったんですけれど。

 私があの技を身につけるまでにいったいどれだけ苦労したと思っているんでしょう。

 文字通り身を焦がしながら身に着けたあの苦労の日々はいったい何だったというのでしょうか。実質まあ、二、三日くらいですけれど。やはり即製の技ではこんなものなのでしょうか。




用語解説

・『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』(Fulmobati dentego)
 敵との間に風精で軽い真空状態の道を作り、そこに貯め込んだ魔力をたらふく食わせた電撃を流し込んで遠距離の相手に当てるという技。
 電力、電量、電圧によって細かく威力の調整が可能である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 メザーガ・ブランクハーラ

前回のあらすじ
お披露目したばかりの新技をあっさり防がれたリリオ。
果たしてこのおっさんを突破するすべはあるのか。


 メザーガ・ブランクハーラと言う男は、何とも説明しにくい男ではありますなあ。

 

 生まれは南部の海辺の地と聞いておりますな。そうそう、リリオ殿の御母堂もそちらの生まれだとか。

 幼い頃より好奇心旺盛で、あちらこちらへとふらつく放浪癖があったそうで。リリオ殿の御母堂が冒険屋として旅に出るようになってからは、それに憧れて自分もと冒険屋を目指すようになり、反対を押し切って成人すると同時に一人旅に出たようですなあ。

 

 それからのことはクナーボ殿の方が詳しかろうが、うむ、あれは、駄目だな。すっかり試合に夢中ですな。それにクナーボ殿に語らせると、どうも、うむ、長い。

 

 拙僧がメザーガ殿と旅を共にするようになったのは、ふむ、あれは、そう、拙僧が某所山中にて武者修行と称して来る人行く人構わずに旅人に野試合を申し込んでおった頃の事ですな。

 

 何しろ生まれつきこうして体も大きく、法力にも恵まれていた拙僧は、里を出て以来全くの負けなしで、いささか鼻が高くなっておりましてな。俺が汗水流して強者を探すというのも面倒だ、かかってくるものはみな相手にしてやろうと、こう、居丈高な物でしてな。

 いやはや、今思い出しても、恥ずかしい。

 世の中というものを知らず、高みというものを知らず、深みというものを知らず、ただただ若さのあまりの所業ですなあ。

 

 山に籠ってどのくらいになるか、まあ里ではすっかり山中の怪人として噂になって、野試合に応じてくれる手合いも随分と減った頃合でありましたかなあ。

 腹も減ったから飯の支度でもするかと火を起こした頃に、あの男は現れました。

 

 ()()はまあ、冒険屋といえどもその見習いと言った風体でした。

 数打ちの剣を腰に帯びて、中古の軽鎧を身にまとい、不精髭をまだらに伸ばしたその男は、拙僧が方丈と定めた草庵に顔を出すなり、こう申しました。

 

「腹が減った」

 

 見れば頬はこけて、いかにも空腹でやつれた具合で、これには猛々しくも荒れていた拙僧と言えど哀れに思って、よし、よし、何かの縁であるから火に当たりそうらえ、いま雉でも兎でも狩ってきてやるからとそう申し上げましたところ、いや、獲物は得たのだが鍋がない、とそう言うではありませんか。

 

 不思議に思って草庵を出て表を見やれば、なんと拙僧ほどもあろう首なしの熊木菟(ウルソストリゴ)が転がっているではありませんか。

 これに驚いて棒立ちしていると、男の続けて曰く、

 

「俺には肉があって、御坊には鍋があるな」

 

 とのたまう。

 成程、一対一、等価でありますな。

 

 しかし拙僧は何ともこの縁が惜しくなり、少し考えてこう申し上げた。

 

「成程、肉があり、鍋があり、しかして拙僧には味噌もある」

「俺には手持ちがもうない」

「鍋を食い終えたら、手合わせ願いたい」

「一番うまいところを所望する」

「なに? いや、よい、よい。承った」

 

 熊木菟(ウルソストリゴ)の肉はまずいと世に言うが、なに、これは処理がまずい。

 血抜きはしてあったので、拙僧は手早く熊木菟(ウルソストリゴ)をばらして、良いところだけを取り、処理を施して、胡桃味噌(ヌクソ・パースト)で鍋とした。残りは裏手に撒いて、獣避けとした。熊木菟(ウルソストリゴ)は強者故、その匂いは獣避けになりますれば故。

 

 男は余程飢えていたと見え、拙僧と同じほどに鍋の肉を食い、また酒を飲み、ようやく人心地付いて、それから鷹揚に頷いて、言った。

 

「いや、馳走になった。支払いを済ませよう」

 

 よしきたと拙僧は頷いて、表に出た。腹はいくらか重かったが、それでどうにかなるような鍛え方はしておらなんだ。

 

 もはや待ちきれぬと拙僧が拳を振るうと、ぬるりと妙な動きでかわされる。蹴りをばけこめばひらりと避けられる。拙僧が面白くなって次から次へとしかけても、そのことごとくがひらひらとまるで蝶でも相手にしているかのようにかわされる。まるで拙僧一人、虚空に向けて練武でも披露しているようであった。

 

 一連をすっかりかわされて拙僧が一息つくと、男はこう申した。

 

「十分か」

 

 それで拙僧はまだまだと、今度は法術を用いて体を強め、拳を固め、先にも増す勢いで躍りかかった。するとさしもの男もようよう剣を抜いて拙僧の拳を受ける。受けるのだが、まるで鋼を打っているような心地ではない。まるで真綿でも殴りつけているかのように、拙僧の拳はやわやわと受け止められ、流されてしまう。

 これは奇怪と思い遠間から蹴りこめば、ひょいと()()()のように身をひるがえしては、なんと拙僧の足先に飛び乗るではないか。

 

 そしてまたこう申した。

 

「十分か」

 

 拙僧がまだまだといよいよ殺意を持って挑むと、そこから先は全くあしらわれるばかりでござった。拙僧が殴り掛かればひょうと懐に潜り込まれ、膝を突き出せばくるりと股下をくぐられ、寄せてなるものかと蹴りつければ剣で受け流されかえって拙僧が勢いを崩され地にまみれる始末であった。

 

 そうして拙僧が地に転がる度に、男は「十分か」と問い、拙僧もまだまだとこれに応えて、転がされ続けること半刻にも及んだろうか。

 いよいよ拙僧も疲れ果てて参ったと一言漏らして倒れこむと、男も疲労困憊の体で座り込み、酒を呷った。

 

「やれやれ、高い鍋だった。だが高すぎるほどじゃあない」

 

 それを聞いて拙僧はもう、心の底からすっかり参ったと負けを認め申した。

 何しろ拙僧がぐったりと倒れ伏してもう指一本も動かせんというときに、この男は腹が減ったと鍋の余りをつつきに行く始末でしたからな。

 

 明けて翌朝、鍋の底まで綺麗にさらった男は、無精ひげを綺麗にあたって、拙僧にこう申した。

 

「手持ちはもうないが御坊の鍋は惜しい。随時支払いはするから旅に付き合う気はないか」

 

 かような次第で拙僧は《一の盾(ウヌ・シィルド)》の最初の一員となり、そうして今もまだあの男に鍋を食わせ続けておるのですなあ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合の咆哮

前回のあらすじ
おっさんは昔からおっさんだということしかわからなかった。


 必殺の予定であった『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』をあっさりとかわされてしまい、では、と私が頼ったのはやはり地力での勝負でした。鍛え続けた剣の腕でした。

 

 とはいえ。

 

「せいっ!」

「はいよ」

「とりゃっ!」

「あい」

「ふんぬっ!」

「よっと」

「でええりゃあああああああああッ!」

「うるせっ」

 

 全力で切りかかっているのに、片手で防がれ続けていると、さすがに自信が圧し折れてきます。束のようにあった自信が束で圧し折られて行きます。何本束ねようが無駄だと言わんばかりです。

 

 しかもこれ事前の宣言通り、一歩も動かないどころか、足の裏を地面にぺったりとくっつけて一度たりとも離さないまま、私の連撃を全て受け流してます。

 

「まだ強化魔法さえ使ってないんだからよぉ、もうちょっと頑張ってほしいとこだなっと」

「あなたこそ人間やめ過ぎじゃありません!?」

 

 腕力勝負に持ち込めればとつばぜり合いを仕掛けようとするのですが、そのすべてがことごとく、真綿でも切りつけているようなぐんにゃりした奇妙な感触とともに綺麗に受け流されてしまいます。

 わかります?

 棒立ちした相手の前で棒振り回して、しまいにはその勢いで一人で転んだりしている私がどれほど間抜けか。

 

「ば、馬鹿な……どう考えても理屈に合わないでしょう……」

「辺境者に理屈がどうのこうの言われるのははなはだ納得いかねえ」

「幾ら辺境者でももうちょっと道理が…………」

「言い切れないんならやめろ」

 

 まあ確かに辺境の剣士は結構人間やめてますし、考えてみればこれくらいのことはできるのかもしれません。

 

 しかしこんなにも手ごたえがないとなると、何か手段が要りそうです。

 真正面から殴り合って駄目ならば、

 

「『搦手を考えた方がいいかもしれません』、か?」

「んぐっ!?」

「顔に出やすい、表に出やすい、鎌にかけられやすい、救いようがねえな」

「う、うるさいですよ!」

「第一よぉ」

 

 メザーガは至極面倒くさそうにため息を吐きます。

 もはや構えてすらいません。両手をだらんと下げて棒立ちです。隙のない構え方とかそういうことですらなく、完全に脱力です。やる気なしです。そしてそのやる気なしの棒立ちですら、今の私には突破する道が見えません。

 

「真っ向勝負しかできねえ奴が搦手考えたとこで、付け焼刃にすらならねえだろうが。真っ向勝負しかできねえ奴が真っ向勝負でさえ負けちまったら、そりゃあ、もう、終わりだろ」

「う、ぐぐぐ、ぐ、ま、まだ、まだ負けてません!」

「そうだな。まだ負けてないな。で、その『まだ』はいつまで続くんだ?」

「ぐぐぐう」

 

 ざくりざくりと、棒立ちのままのメザーガの言葉の刃がわたしに刺さります。刺さり続けます。

 

「俺は別段、あとどれだけだってここで立ち続けられるぜ。勝ちが見えてるからな。だがお前はどうだ。リリオ。お前はどうだ。お前に見えているのはただただ敗北だけじゃあないのか」

「ち、が」

「俺から打ち込まない以上、お前の敗北の形は降参だけだ。好きなだけやりゃあいい。だがそれでも、お前に勝利の形は見えているのか? 俺には見えている。お前が降参する姿が見えている。もう無理だと膝をつく姿が見えている。だがお前に見えているのは何だ。敵わないという未来だけじゃないのか。いくら打ち込んでも、いくら斬りかかっても、ことごとくを完封されて、膝をつく未来じゃないのか」

 

 違う。

 そう言いたくて、しかし言えませんでした。

 なぜならば確かに、それは私の思い描く未来そのものでしたから。

 

「そりゃ、僅かな希望を信じるのは大事かもな。何十、何百、何千、何万、何億回と切りかかれば、もしかしたらそのうちの一回くらいは、九億九千九百九十九万九千九百九十九分の一くらいは、俺に届くかもしれねえな」

「そ、そ、うで」

「その僅かな希望にすがって、お前は九億九千九百九十九万九千九百九十九回を振るえるのか? たった一回の僅かな希望に、お前はすがれるのか? それが正しいのか?」

「あ、ぐ」

 

 剣を持つ手が揺らぎそうになりました。

 言葉で言えば、それはただそれだけのことかもしれません。

 しかし実際に剣を持ち、挑もうとしている身としては、それはあまりにも遠く、儚い希望でした。

 

 そのような気持ちで我武者羅に切りかかっても、打ち込んでも、メザーガにはまるで届きません。むしろ、先程までは確かに届きそうだと感じた一撃さえも、どこまでも遠く遠く感じてしまいます。

 

 そこに立っているだけの男が、たった一人の男が、しかし今やどこまでも高い塔のようにも思え、どこまでも分厚い壁のようにも思え、そして、それは。

 

 それはどこまでも強大な()()のようにも思えました。

 

「そうだ。そうだったはずだろう。竜と向き合うということ。竜と向き合うという恐怖。竜と向き合うという覚悟。あまりにも強大で、あまりにも無責任で、考えることさえ放棄したくなるほどに絶望的な相手」

 

 壁が。物言う壁が。塔が。竜が。物を、言う。

 

「いいさ、諦めちまいな。お前はそこまでだったんだと、お前の見せられる景色はここまでだと、そう諦めちまいな!」

 

 ぎらり、と振りかぶられた剣に、しかし私は反応できませんでした。

 恐怖が、あまりにも絶大な恐怖が、私の体を縛っていました。

 

 そしてそれ以上の恐怖が、私を突き動かしていたのでした。

 

「う、ぁああああああああああッ!!」

 

 それは、ここで終わればもう彼女とともに歩むことはできないのだという、そういう言う絶望でした。

 

 反射的に切り上げた剣は、ただ緩く握られていた聖硬銀の剣を弾き飛ばし、そして、それが地に落ちる音を聞いて初めて、私は目の前の人の顔をまじまじと見つめたのでした。

 

「やれやれ。武器がなくなっちまったんなら仕方ねえ。参ったよ。降参だ」

 

 その人はどこまでも皮肉気で、面倒臭がりで、物臭で、いつもつけをため込んで辛気臭くて、それで、そして、それから、そう。

 

 その人は私のおじさんでした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 合格祝い

前回のあらすじ
ただ一刀、されど一刀。


 リリオの試験がどう運んでどのように落ち着いたのか、はたから見ていた私たちには、ちょっとわかりづらかった。

 けれど、短いやり取りの間に、メザーガはリリオに問いかけ、そしてリリオは確かにメザーガに答えたのだった。多分、そういうことだったのだと思う。

 

「よーし、じゃあ総評と行くか」

 

 ぐったりと疲れ切ったリリオに肩を貸そうにも身長差がありすぎてどうしようもなかったので後ろから抱っこするように抱えていると、メザーガが気だるげにそんなことを言い始めた。

 

「まず、トルンペートとクナーボな」

 

 メザーガは二人の試合をざっとおさらいし、この手は良かった、ここはもう少し改善の余地があったなどと、意外にもしっかり試合を見ていたらしいコメントを残していた。トルンペートもうなずいたりしているあたり、的外れということもないようだ。

 クナーボ? クナーボは結局メザーガの言うことなら何でも頷くからあてにならない。

 

「トルンペートの戦法はなかなかしっかりしていたな。最初こそ動揺していたようだが、その動揺の殺し方もうまい。ただ全体的にちょいと走り気味なところがある。防御がおろそかだな。見たとこ個人技は十分な技量があるが、仲間と連携しての行動はちと疑問が残る。そんなところだな」

「むーん」

「不服か?」

「いえ、為になったわ」

「そうか。よし。クナーボは随分上達した。背面打ちや左右の切り替えもスムーズで、初見の相手ならまず翻弄できるだろう。ただやはり、射撃に手いっぱいで考えが回らないところがあるな。咄嗟の判断力ももうすこしといったところだ」

「うにゅう」

「まあこの調子なら成人後は見習いとして雇ってもいいだろう」

「本当ですか!」

「慣例となっちまった乙種魔獣討伐出来たらな」

「そんなぁ……」

「大丈夫ですよ。意外と簡単ですって」

「そうそう、下準備すれば簡単よ」

「この先輩たちあてにならないからね」

 

 続いて私とナージャに関してだったけれど、ここはあっさり流された。

 というのも、熟練のメザーガをもってしても「理解しかねる」とのお墨付きを頂けたからだった。

 

「ナージャがわけわかんねえのはもう今更何も言わんが、ウルウ、お前は本当にわからん」

「ごめん、私にもわからない」

「なんなんだろうなお前は。最後のは何だ。何をしたらああなる」

「それは秘密」

「お前は秘密の事もそうでないことも全く分からん」

 

 結論、奇々怪々で済まされてしまった。

 

「おお、閠! 殺したと思ったんだが!」

「あれ本気だったのか」

「うむ、仕留めたと思ったのだがな。何やら妙な術でも使われたようだな」

「私は弱くて臆病なんでね」

「はっはっは! 面白いやつだ。またやろう」

「断固お断りします」

「はっはっは!」

 

 リリオは、散々だった。

 

「打ち込みが甘い。日頃適当に振ってるんじゃないだろうな。剣筋が立ってないぞ。もっと自分の手足の延長と思えるようになるくらいは棒振りに励め。それくらいしかできないんだから。あんな格好いい技を一人で開発しやがっておじさんにも教えろください。全くとんでもないガキだな」

 

 などなどじっくりみっちりくどくどとお説教された上で、なにやら封筒を渡されていた。

 

「なにそれ?」

「……父からみたいです」

 

 私の腕の中で、リリオは気だるげに封筒を開いて、それから目を瞬かせた。

 

「竜殺しの課程は一応の修了とみなす。励むように」

「……それだけ?」

「それだけです。……ふふふ、それだけです」

 

 リリオはおかしそうに笑って封筒をしまった。多分、それは、私にはわからない笑いどころで、そしてリリオにだけわかればいい笑いどころなのだと思う。

 

「まあ、俺からいわせりゃまだまだだが、それでもあれだけ俺から殺意浴びせられて立ち上がれるんだ。まあ、悔しいが認める他ねえだろうな」

「メザーガって本場の人にも竜扱いされるくらいなんだ」

「ばっか言えおめえ、竜殺しの連中が竜より弱いわけねえだろ」

 

 辺境の人間の強さに関して、これ以上ない位納得のいく説明があった気がする。

 そうなるとリリオも将来、メザーガくらいは倒せるくらいに強く育つのだろうか。そうなると私的にはちょっと怖い。私はまだメザーガを倒せる自信はないのだ。

 

「よっし。じゃあ終わったら、あれだ。あれだな」

「なにさあれって」

「決まってるだろ」

 

 一仕事終えたと言わんばかりに一つ伸びをして、メザーガは笑った。

 

「飯だよ」

 

 

 

 事務所に手用意の進んでいた熊木菟(ウルソストリゴ)の鍋は、なるほど秘伝というだけあって格別なうまさだった。

 まず熊の類の肉は殺してすぐに適切な処理をしなければ不味いという。これは朝早いうちににウールソ直々に仕留めたものを処理して寝かせたものだという。私たちが試験うける朝に、審判引き受けてるくせにそんなさらっと熊仕留めてこれるのかよ。

 

 熊木菟(ウルソストリゴ)の脂は分厚いがさらりとしていてよく解け、甘味があった。これが肉の濃厚なうまみとともに汁に溶け出し、野菜にしみこんで、たまらない。

 味付けには味噌を用いていたが、これはいつもの胡桃味噌(ヌクソ・パースト)だけでなくいくつかの味噌を合わせた合わせ味噌のようで、独特の風味がしたが、この風味が美味いこと獣臭さを消してくれていた。

 

 野菜はとにかくたっぷりと入れられていたが、これは何しろ肉のうまみがしみ込むので、放っておけばあっという間に食べられてしまうので、最初からたっぷり入れないとすぐに悲惨なことになるからだという。事実、そうだった。

 珍しく辛味がして何かと思えば、唐辛子のようなものが入っている。やはり辛味を出すもので、また臭み消しにも良いという。程よく体が温まり、良い。

 

 また軽い酸味もあって何かと思えば、汁の赤色は味噌や唐辛子だけでなく、トマトのような野菜の赤身もあるのだという。これは南部から入ってきたもので、交易共通語(リンガフランカ)でも同じくトマトと呼ぶようだったが、これが固くなりがちな熊肉をやわらかく仕上げるコツだという。また酒をたっぷり用いるのも肉をやわらかくする要素だという。

 

 トマトで柔らかくなる、ということはたんぱく質分解酵素だな。と私は察しをつけた。パイナップルなど、果物にはたんぱく質を分解する成分を含むものがある。いくつか知っている範囲で、またこの世界でも見かけたものを紹介すると感謝された。

 

 旅先でも熊木菟(ウルソストリゴ)を食べたいと思って処理の仕方を尋ねてみたが、ウールソは決して首を縦に振らなかった。教わった山椒魚人(プラオ)とは、自分一人の頭の中に納めること、という条件で、互いに秘伝の味を教え合ったのだという。

 これは山椒魚人(プラオ)というのも、ぜひとも見つけなければならない。

 

 昼から私たちは酒を開け、鍋をむさぼり、大いに飲み食いした。

 

「しかし、全員合格したからよかったものの、失格してたらこの鍋の準備どうするつもりだったの?」

「なに、そのときは残念でした会さ」

「どちらにしろメザーガは一人得をするわけだ」

「馬鹿言え葬式みたいな空気で酒が飲めるか」

「じゃあ美味しく酒が飲めた分は路銀でも貰おうか」

「ばっか言え。だがまあ、そうだな。うまい酒はいいもんだ。いくらか、俺の使う商人どもを紹介してやる」

 

 宴会は夜まで続いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 旅立ちの日

前回のあらすじ
く ま な べ お い ひ い


 試験及び宴会を終えて一週間ほど。

 私たちは綺麗に片付いた部屋を前に一息ついた。

 

 来た時よりも綺麗にして帰る。そんな教育を受けたせいか、思いの外に大真面目に掃除してしまった。

 

「忘れ物はないかな」

「結構適当に《自在蔵(ポスタープロ)》に放り込んじゃったから、あとで整理しないとね」

「私のなんだけどね」

「いいじゃない。あんたは《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一人なんだから」

「その分返ってくるものがあってもいいと思うんだけど」

「美少女二人に挟まれてるんだから役得じゃない」

「引率の保護者の気分だよ」

 

 私たちは今日、この事務所を旅立つことになった。

 実質数か月しかいなかったわけだけれど、まあ、なんだか名残しくはある。

 私にだってそんな感情くらいはある。いやだって、これから安定した宿もなく、安定した食事も期待できない旅暮らしとなることを思うと、ねえ。

 

 そう、旅立ちだ。

 私たちはメザーガ冒険屋事務所を、そしてヴォーストの街をきょう、旅立つ。

 

「俺としちゃあよ、いい稼ぎ頭のお前たちを手放すのはちょっとばかりおしいんだがな」

「危険だからうんぬんより、そっちの方が大きいんじゃないの?」

「ばっか言え。ちょっとだけだ。ちょーっとだけ、な」

「随分大きなちょっとだ」

「その理屈で言えば、お前さんは()()()()ばかり舌が回るようになったんじゃねえか?」

「むぐ」

 

 全く、口の減らない男だ。

 

 それはそれとして、まあ、確かに、私も()()()()ばかり舌が回るようになったのは、否定できまい。この異世界にやってきてもう数か月。そう、数か月だ。それだけの時間があれば、錆びついた舌も良く良く脂で肥えて回りはじめるという訳さ。

 

 幽霊が、自分が死んだことにも気づかずうろついて、そうして自分がまだ生きてすらいないことに気づいて、生者に惹かれて生き物の真似をし始めるには、まあ十分な時間だ。

 そういう意味でも、いい旅立ちの日と言えばそうなのかもしれない。

 私がこの世界で生まれ直って、きちんと自覚を持って、流されるままでなく、自分の意志として生きていく、その旅立ちの。

 

「ウルウ、どうしました?」

「いや、ガラにもなく感傷に浸ってただけ」

 

 まあ、格好良さそうな事を云った所で、リリオの後をついて回るストーキング生活にかわりはないんだけど。

 

 思い返せば最初は妙な具合だった。

 

 目が覚めたと思ったら見たこともない森の中で、おまけにこんなみょうちくりんな、ゲーム内のキャラクターの体だった。元の体に未練がないというか、どうも死因が心臓発作だった辺り、どっちみち長くは持たなかったみたいだけど、それでもいきなりこんなハイカラな格好ってのはびっくりしたよ。

 

 ゲーム内の《技能(スキル)》も使えるってわかって、これで今度こそ幽霊として生きて行こうなんて後ろ向きなんだか前向きなんだかわかんない決心を決めたけれど……そうして出逢ったのがリリオだった。

 最初はなんだか食い意地が張っているし、ちょっと頼りないし、森を出たら他の憑りつき先でも探した方がいいんじゃないかなって結構本気で思ってたんだけど、なんだかな。

 私って、結構チョロい奴なのかもしれないな。

 何だかんだ絆されて、何だかんだ放っておけなくなって、それで、姿を見せて、顔を合わせて、私はリリオと出逢った。

 

 思えばあれが私の旅の始まりだった。

 

 冒険屋になるんだってはしゃぐリリオの後をついて、保護者みたいな気分で見守って、気付けば隣に居るのが当たり前のようになって、隣に居ない事がとても不安に思う様になって、ああ、そうさ、そうだよ。本人には決して言ってはやらないけれど、私にとってリリオはなくてはならない人になっていた。

 異世界でたった一人迷子になっていた私にとって、リリオは希望の光だった。

 

 もとの世界でも生きる意味なんてとうに見失って、毎日を過ごすだけが精一杯の亡者になって、生きる事に迷って、死に切る事にも迷って、迷って、迷って、迷うことにさえもう疲れていた私に、一筋差し込んだ光がリリオだった。

 

 ああ、そうさ!

 それは曙光。朝の光。夜の帳を引き裂いて、亡者の目をも覚ます鮮烈な光!

 私にとってはリリオがそれだった!

 

 リリオとの旅は毎日が新鮮だった。新鮮! そう、干乾びて腐り欠けた節々に、爽やかな風が通って新しく命を吹き込むように、リリオとの旅は私を亡者から少しずつ生き返らせてくれた。リリオは私を生き返らせてくれた。生きていてもいいのだと、私に進むべき道を与えてくれた。

 

 リリオが歩む道の先で、私はまた、トルンペートに出逢った。

 リリオが朝の光、煌めく風なのだとすれば、トルンペートは柔らかく私を支えてくれる大地であり、そしてまた眠ることを許してくれる夜の闇だった。私が生きてくれるのをリリオが許してくれたように、私が疲れて死ぬことを許してくれたのはトルンペートだった。

 

 ただひたすらに眩いリリオに、そっとひさしを作って影を与えてくれるのがトルンペートだった。

 リリオの導いてくれる光まばゆい道を歩く事が時に辛くとも、トルンペートがいざなってくれる薄暗い影の道が私を憩わせてくれた。リリオが私の骨に沁みる程に輝きを向けてくれることに対して、トルンペートは私がはだえの下に押し隠したい事を尊び護ってくれた。

 

 この二人と共にあることがどれだけ私の心を励まし、また癒してくれたか。ただの亡霊に過ぎなかった私に、どれだけの命を吹き込んでくれたことか。

 私は今もまだ、強い光にかすみ、柔らかな闇に沈む、そんなかそけき影に過ぎない。

 自分だけの力では生きていくことも歩み出すことも出来ない、儚い亡者に過ぎない。

 

 もはや二人は離れ難く、分ち難き間柄だった。

 友と呼ぶこともまだ弱いと感じる程に、痛烈に私は二人に依存していた。

 二人を失うことがあればきっと私も同じようにして死んでしまうだろうと、そう思う程にそれは強烈な依存だった。思うだけで悲しみ、考えるだけで嘆き、来るべきその時に構えるだけで立ち上がる事さえ出来なくなりそうなほどの絶望!

 この感情を一体何と呼べばいいのか!

 

 呼ばなくていいんだよ!!!

 ポエットにも程があるだろ!!!

 

 朝日に目を細めながらなんか気付けばポエムを詠み始めていた自分自身が怖い!

 鳥肌立ちそうなレベルで怖い!

 何これ、ゲームだったらムービー流れたりする特殊演出なの?

 怖っ。異世界怖っ。

 何よりさらっとポエム詠んじゃえる自分のマインドが怖い。

 純国産の死人が詠んじゃっていいポエムじゃないよこれ。

 

 えーっと、なんだっけ。

 公認ストーカーになって、その後だよ。

 なんだ。うん。

 えー、いまや公認ストーカーになって、ストーカーどころかお仲間に入れられちゃってるけど、まあ、うん、そういうのもいいだろう。生きていくっていうことは、関わっていくっていうことなんだろうし。

 

 そう、その位ざっくばらんでいいんだよ。

 

 あー恥ずかし。恥ずかし乙女。

 

 私が一人で悶絶しているのを見て、周囲も生暖かい目で見てくれている。

 違うんだ。これはあれだ。朝日が目に差し込んで死にかけてるだけなんだ。それはそれで恥ずかしいなオイ。

 

「ウルウって時々一人でなんか楽しそうですよね」

「わかる」

「わかりみって奴ですね」

「それね。わかりみ深いわ」

「深いですねー」

「わかんな! どっかいけ!」

 

 なんだか全然締まらないし、ホント切りが悪いし、でも多分、人生っていうのはこういうろくでもない事の連続なんだろう。リリオたちを見ているとそう思う。

 節目節目ってのは無理にそうしなければぜんっぜん締まらないし、切りが悪いし、碌でもないし、でもそういうのを繰り返しながら、私達は成長して、人生なんてもんをやっていくんだろう。

 

 だから、こういうときは、簡単な挨拶で締めるくらいでいいと思う。

 

「じゃあ、メザーガ」

「おう、じゃあな」

「いってきます!」

「いってこい!」

 

 いってきます。

 

 それが私の、私達の旅の始まりなのだ。




用語解説

・いってきます
 いってらっしゃい


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八章 旅の始まり
第一話 亡霊と船旅


前回のあらすじ

青空を背景にポエムを垂れ流したウルウであった。


 ヴォーストの町を出て、とはいっても、何も暢気に歩きで出てきたわけじゃない。馬車でもない。

 なにしろヴォーストの町は立派な運河が突き抜ける河の町だ。

 私たちはメザーガの遠縁の親戚にあたるという商人の船に乗せてもらい、まず東部の町を目指すことになった。

 

 次の町であるランタネーヨまで、歩きなら十日と少し。馬車でも六日程。しかし船旅ならば二日もあればついてしまうのだからこれは全く驚きの速度だった。そりゃあ、歩きや馬車と違って途中で足を止めなくていいし、川の下るままに流されていくのだから、速いか。

 

 それに面白い職業もあった。風遣いという。

 多くの船に乗り込んでいる魔法使いで、彼らは風を操って船を押して、普通よりも早く進ませることができるのだ。といっても、風の精霊はあまり扱いの荒い人には懐かないし、そもそも気まぐれで言うことなんか聞きやしないし、調子のよいときにちょっと後押しができるという程度のようだけれど。

 彼らのおかげで、船は行きも帰りも大体順調であると言っていい。

 

 ただ、船の旅が早いとはいえ、陸の旅と同じで賊も出た。川賊だ。小さめの船に乗りつけた連中で、鉤縄で乗り込んできては白兵戦を仕掛けるという厄介な連中だという。

 多くの場合には荷の一割程度をよこし、多少の乱暴を許す形で、通行をしているらしいが、勿論自衛のために冒険屋を雇っている船もいる。

 ただ、冒険屋を雇った場合、危険に自ら顔を突っ込んだということで保険屋が保険金を出し渋るので、どちらがましかというと難しいところのようだった。

 

 この日の川賊は、まあ運が悪い方だったと言っていいだろう。鉤縄で乗り込んで来て早々に、《メザーガ冒険屋事務所》の誇る猛犬二匹とご対面することになったのだから。

 私? 私はそう言う乱暴なことは専門ではないし、風の通るところでぐったりと倒れ伏して、乙女塊を虹色大噴出しないようにこらえていたから知ったことではない。

 

 なんでも後から話に聞いたところ、賊どもはまるで相手にならず、リリオにぺいぺいと船の外に放り投げられて、投げナイフがもったいないというトルンペートにもぽーいぽーいと放り投げられて、慌てて船に泳ぎ着く羽目になったようだった。

 

 さすがに賊と言えども、そこまで赤子の手をひねる用にあしらわれては力量が大いに分かったようで、その後は実にスムーズな旅路で幸いである。何しろ私は立って歩くことさえ困難なレベルで船酔いにさいなまされていたのであるから。

 

 小舟に乗っているときはそういうものだと思っていたからか大丈夫だったが、普通に地面に立っているつもりになる規模の船だと、どうにも揺れと認識とがズレてよろしくない。

 

 そもそも人間というものは平地に立って生きている種族なのだからこんな揺れに揺れる環境に適応するようにはできていないのだ。

 

 平気な顔をしているリリオやトルンペートの方がおかしい。

 

「いやあ、慣れてしまえばこのくらいは」

「武装女中ならこのくらいは耐えられないと」

 

 辺境はまこと人外の地でござりまするなあ。

 

 などと茶化して思う余裕があったかというとまるでなく、最終的には船室で横になって、たらいに向けてえれえれと乙女塊を生み出す羽目になったのである。

 

 まあそんなトラブルもありはしたけれど、一度出すものを出してしまうといくらか楽になった。

 

「噂の《三輪百合(トリ・リリオイ)》にも苦手なものがあるんですなあ」

 

 船べりで川面を眺めながら魂の抜けたような状態で過ごしているところに、のんびりと声をかけてきたのは船主で商会の長であるオンチョさんだった。メザーガの遠縁の親戚にあたるという人である。遠縁とはいえ親戚であるからか、何となく目の形など似ているような気もするし、親戚とはいえ遠縁ではあるからか、あんなずぼらな感じはしない。

 

「私は《三輪百合(トリ・リリオイ)》でも特別虚弱なんですよ」

「しかし保護者のようでもいらっしゃる」

「幸い、素直な子たちで助かってますよ、まだ」

 

 まあ保護者である以上に保護されている部分も多いし、助ける以上に助けられている部分が多いから、こんなのは口先ばかりで、私が一番この三人組の中で役立たずなのは確かだが。

 

「メザーガからあなた方のことを頼まれた時は驚きましたよ。何しろ新進気鋭の冒険屋たちだ」

「聞いて驚き、見て笑いましたか」

「すこしね。まさか乙種魔獣を朝食代わりにバリバリやっていると噂の《三輪百合(トリ・リリオイ)》がこんなに可憐な乙女たちだとは」

「待って待って」

 

 どうも妙な噂がついているようだった。この世界、根拠というものもなしに噂話が駆け回るから本当に手におえない。いやまあ、前の世界でだって噂話というものは何の根拠もなしに駆け回っていたものだが。

 

「最初は名ばかりの看板娘たちで、今度のことも興行か何かなのかなんて思っていましたが」

「随分あけすけにおっしゃる」

「先の賊相手の大立ち回りを見てまだそんなことを考えていられるほど間抜けではありませんからね」

 

 もっともである。

 

 リリオたちは実に簡単に賊たちを放り投げて行ってしまったが、成人男性をただ放り投げるだけでもそれは相当な膂力が必要だし、刃物を持って襲い掛かってくる相手にそれをかますのは相当な胆力が必要だし、すべてこなしてけろりとしているには相当な体力が必要となる。

 

「まあ、こんなところでお話しするのもなんです。お茶でもいかがですか。船酔いによくきくものがありますよ」

「是非」




用語解説

・風遣い
風の魔法を専門的に扱う魔術師。
また魔術師というほど魔術に精通していないが、風を操れる人々の総称。

・オンチョ(onĉjo)
メザーガの親戚にあたる人物。
本拠地はバージョ。ヴォースト運河流域全体を商売圏としている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 白百合と船上のお茶会

前回のあらすじ

ウルウ、乙女塊を大噴出する。
川賊? ああ、いたっけ。


 船室とはいえ、船長のものだけあって立派な一室でした。気にしようと思えばやや手狭な造りではありましたけれど、陸にあっても十分に客人をもてなせるだけの見事な造りです。

 生憎とウルウはそれを楽しむだけの余裕というものは全くないようで、いつもはするりと伸びた背中をぐにゃんぐにゃんとまげてどう見ても不調です。先ほども、乙女塊を惜しげもなくたらいにぶちまけていたところです。

 

「お二方は全く船酔いはなされないようですね」

「そうですねえ。昔から動物の背中でよく揺られていたせいでしょうか」

「主にそのお守りをしていたせいかしら」

「ぐへえ」

「お二人は仲がおよろしい」

 

 オンチョさんはのんびりと穏やかそうに笑って、給仕にお茶とお茶菓子を用意させてくれました。

 

 このお茶というものが面白くて、普段飲む甘茶(ドルチャテオ)とは違って、実にさっぱりとした味わいのお茶で、僅かに後味に残る渋みが全体を引き締めてくれているように思います。

 

「西方でつくっているお茶らしいんですよ。最近は東部などで試しているらしいですなあ」

「なるほど、西方の。ほら、ウルウ」

「ん…………おいしい」

「よかった」

 

 ウルウが実際どこから来たどんな人なのかいまだに良くはわかっていませんけれど、それでも味わいや文化などで、西方由来のものを好むことが多いのはわかっていました。接触自体を拒んでいるナージャさえも、顔はいいんだよ顔は、と念仏のように言っていました。

 

 私たちがこの澄んだ緑色のお茶の香りを楽しんでいるうちに、さっとトルンペートが焼き菓子を取って口にしました。食い意地がはっているわけではなく、何らかの飲食物が出された時、主より先に食べて毒見するように習慣づけられているのだとトルンペートは以前語っていました。その割においしそうにほおばりますけれど。

 

「うん、あら、美味しいわね。変わった食感で」

「それも西方由来のものです。(リーゾ)の粉を団子にして、薄く延ばして焼き上げたものです」

「おせんべいだ」

「おお、よくご存じで。西方ではセンベというそうですな」

 

 ばりばりと小気味よい音はなかなかほかのお菓子で聞ける音ではありません。

 

 私も試しに食べてみましたが、これが面白い食感です。少し硬いかなと思うくらいなのですが、それがバリバリと簡単に割れてしまって、口の中でこちこちとぶつかり合いながらほぐれていくのです。味付けは単純に塩だけのようなのですけれど、(リーゾ)といいましたか、これ自体の甘みがじっくりと口の中で溶け合って、舌にもお腹にもうれしいおやつです。

 

 ウルウもいくらか元気になったようでよかったです。髪を結う気力もなくて、本当に亡霊(ファントーモ)みたいでしたからね、今朝は。

 

「オンチョさんは西方のものまで扱っているんですね」

「ふふふ、私ひとりの力ではとてもとても。実はメザーガの助けがあってのことなんですよ」

「メザーガの?」

 

 オンチョさんは少し遠い目をしながら、メザーガとの思い出話をしてくれました。

 

「あれはまだメザーガが地元を拠点にしていた頃のことでした。当時南部の港町に住んでいた彼は、近場でいろいろに冒険をこなしながらも、自前の足がないことでなかなか自由に遠くへ行けないことに困っていました。一方で私は、父に商会の支店を一つ任されて一年以内に大きな成果を出せなければ見限られる、と焦っていました」

 

 商売を持ちかけたのはメザーガでした、とオンチョさんは語りました。

 

「遠縁の親戚にあたるメザーガはどうにか格安で馬車でも手に入らないかと私の支店を訪れましたが、私の方でもそんな余裕はどこにもありませんでした。いっそどこかへ逃げ出せたらとそう思っているほどでした。それを聞いてメザーガは、じゃあちょっと逃げ出そうぜとそう言ったのでした。

 つまりどういうことかというと、彼は貸しがあるという漁師とふっと海に出て、そしてほとんど傷のない船を一隻手に入れてきたのです。勿論魔法なんかじゃありませんよ。なんと、海賊船を一隻拿捕してきたんです」

 

 それを川船に改装して使ったそうですが、いやはや、我がおじながら無茶苦茶な事をします。

 

「彼は懸賞金代わりにその海賊船をもらい受けて私に寄越すや、東部は何もないらしいから、売りつけるなら何でも売れるぞとそう馬鹿のように言ったのでした。勿論、東部だからと言って何でもかんでも売れるわけではありません。それに当時は風遣いが少なく、川をさかのぼるのは難しく、誰だって思いつきながらも諦めていたのです」

 

 ところがそれを全部解決してしまったのがメザーガだそうです。

 

「優秀な風遣いである天狗(ウルカ)のパフィストさんが風を操って下さり、船は稼働するようになりました。目利きの利くガルディストさんの助けを借りて、品物を選ぶことができるようになりました。慣れぬ川旅も博識なウールソさんのおかげで助かりました。しかも《一の盾(ウヌ・シィルド)》は私が定められた一年の間を、専属の冒険屋として護衛も務めてくれたのです」

「あ、もしかして」

「ええ、ええ、これがかの《一の盾(ウヌ・シィルド)》の伝説の一つ、川賊荒らしの真相ですよ」

 

 《一の盾(ウヌ・シィルド)》がわかりし頃、川に潜む賊たちに業を煮やして、川を上ったり下りたり繰り返しながら賊から金品を巻き上げたといううわさが残っていますけれど、まさか実話だったとは。

 

「私はその一年の間になんとか引き継ぎの準備を整え、自らの目利きの力を鍛え、そして川沿いの人々と私自身の真心をもって接して関係を築き上げ、今のように立派な商会を立ち上げるまでになったのです」

 

 ですからこれはほんの恩返しのようなものなのですよとオンチョさんはのんびり微笑まれたのでした。




用語解説

・西方茶
緑色をした藩発酵茶。チャの葉を使う、いわゆる我々のよく知る御茶である。
東部で栽培して試しているところ。

・センベ
(リーゾ)の粉を団子にして、薄く延ばして焼き上げたもの。
いわゆる煎餅。南部・東部では(リーゾ)の栽培も試している。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と船と猫

前回のあらすじ

西方のお茶とお菓子をもらってすこし回復したウルウ。
メザーガの武勇伝の一つを聞かされるのだった。


 南部名物の豆茶(カーフォ)なんかが遠い北部でも飲めるのは、オンチョさんが特別に販路を敷いて輸送しているからだそうだった。あたしたちが何の気なしに事務所で飲んでたのって、やっぱり普通じゃなかったのね。カサドコさんとこみたいにメザーガの知り合いのところにはおすそ分けしてるみたいだけど、普通のお店で見たこと全然なかったもの。

 

 これからは自前で豆茶(カーフォ)を飲むときは、結構懐を考えながらにしなけりゃいけなさそうだった。金銭感覚が狂ったウルウなんかは気にしないだろうけれど、冒険屋なんて商売は、お金が出ていくときはあっという間なんだから、気をつけなくちゃいけない。リリオもそこのところはわかっているはずだけれど、それ以上に冒険屋の粋っていうのを大事にしてるから、何かと金遣い荒いのよね。

 

 あたしたちは何かと退屈になりがちな船旅をそれぞれに過ごすことにした。

 

 ウルウは船室に戻って寝ると言い残したけれど、あれ大丈夫かしら。大分気分は良くなっていたみたいだけど、まさかウルウにあんな弱点があるなんて思いもしなかったわね。背中さすってるときは思わずこいつも人間だったのかなんて思っちゃったもの。

 まあ、あの調子なら大丈夫でしょう。あの子、具合悪いときに誰かがそばにいるとかえって落ち着かないタイプだから、一人にしておいてあげた方がいいでしょうし。

 

 リリオはオンチョさんにメザーガの話をねだっていた。あれでもリリオはメザーガを尊敬しているのだ。憧れていると言っていい。リリオは冒険屋たちにそう言った感情を抱いているから、冒険屋の話となればそれこそ何刻でも聴いていられることだろう、

 あたしは御免被る。

 そりゃ、聞いていて面白いものかもしれないし、ためにもなるかもしれないけれど、でも飽きないってわけじゃない。あたしは元来座って人の話を聞いているなんて言う柄じゃあないのだ。体を動かしていたり、誰かの世話を見ているときが一番満ち足りている。

 

 さって、じゃああたしはどうしようか。

 これにはあたしも困った。船旅じゃあ、あたしは誰の面倒を見ることもできないのだった。ウルウはあれだし、リリオもあれだし、あたしは一人だ。まあ、別段寂しい一人ぼっちってわけじゃあない。ただ単に暇な一人ぼっちだ。

 

 しかしこの暇というのがなかなか手に負えないものだった。

 寂しければリリオのところにでも戻ればいいのだけれど、暇だからというのでは、あたしの矜持が許さない。自分の暇つぶしに主や、ましてや体調不良で寝込んでいる仲間を付き合わせるなんてできやしない。ましてや、相手がそれを平然と許してくれるとなったら、なおさらだ。

 

 私がぼんやりしていると、つい、と猫が歩いて行った。

 白い毛並みの、ちょっとつんと澄ました猫だ。

 

 話には聞いていたことだったけれど、船では良く猫を飼っているらしかった。鼠を捕るためでもあるし、鈍い人間が感じ取れない些細な危機を感じ取るためでもあるし、そしてまた旅の無聊を慰めるためでもあるという。

 

 あたしがじっと見つめていると、猫の方でも気づいて、こちらをじっと見つめてきた。あたしが敵意はないんだよという風に目を伏せて見せると、向こうもついっと顔をそらして、それから思い出したようにあたしの足元をすれ違って、ふわりと尻尾で膝を撫でていった。

 

 あたしは何となく構ってもらったような気分になって、猫の後をするりと追いかけた。猫は一度ちらと振り向いて、その後は気にしないで、お決まりの散歩道を歩き始めたようだった。

 

 あたしが狭い狭いと思っていた船は、猫にとってはどこまでも広がる世界のようだった。船尾から船首までとっとこ歩いたかと思うと、猫は縄をつたって帆まで行ってしまうし、あたしがそれについていった頃には、見張り台で見張りの人に撫でられている。

 

「やあ、こんちは」

「こんにちは」

「猫について歩く人はいるけど、こんなところまでは珍しいな」

「いなくはないのね」

「落ちないように、気を付けて」

 

 するすると曲芸みたいに綱渡りをしていく猫の後を、あたしも曲芸を心がけて綱渡りしていく。このくらいのことはさほど難しいことでもないから、見張り台から小さな拍手が響くと、ちょっと恥ずかしいくらいだ。猫は上機嫌で散歩道を案内してくれるし、あたしも構ってもらえて楽しい。

 

 猫はそうしてまた船尾までたどり着くとひょいと甲板に降りて、それからあたしの足元にぐりぐりと体を擦りつけてから、ぴょんとはねてどこかへ行ってしまった。どこへっていうのはわからないけど、何をっていうのはわかる。きっと昼寝だ。猫は寝るのも仕事なのだ。

 

 また一人になったあたしが船長室を覗くと、リリオはまだオンチョさんに冒険譚を聞いている頃だった。あたしがもう一杯お茶をもらって、センベをバリバリかじっている頃には、南部でバナナワニが大量発生して、しばらく揚げバナナワニばかり食べていた話だとか、川賊に一対一の決闘を挑まれて、揺れる小舟の上で曲芸もかくやという戦いが行われたことだとか、そういう話をしていた。

 

 お茶もいただいて、センベもお土産にくるんでもらって、船室に戻ってみると、ウルウはまだ青白い顔をしていたけれど、もう粗相の後はきれいに掃除して、部屋の中も何かの花の香りがしていた。相変わらず奇麗好きな事だ。

 あたしがお土産のセンベを渡すと、ウルウは力なく笑いながら、あたしの耳元をくすぐるように撫でた。

 

「出てったと思ったらふらっと戻ってきたり。お土産持ってきたり。君はまるで猫だね」




用語解説

・猫
四足歩行のネコ科の哺乳類。
普通イエネコを言う。伸びる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊とランタネーヨの町

前回のあらすじ

ねこはいました。


 船が辿り着いた運河の町ランタネーヨは、東部らしい町だという触れ込みだった。つまり、穏やかで、これと言って特色もなく、大抵のものは手に入るけれど、とがったものもまたない、そんなありふれた町というのが東部らしい東部の町だとのことだった。

 東部全般としての特産は蜂蜜で、長らく平和であったことから音楽と芸術が盛んであるという。

 

 確かに町並みは美しく、ガラス窓なども、北部よりきれいな出来で、立派だ。

 

 ただし他には何もなかった。

 

 軽く見て回ってみたが、ランタネーヨにあるものでヴォーストにないものは数えるほどしかなかったが、ヴォーストにあってランタネーヨにないものは、これはもう数えるのが馬鹿らしくなるほどだった。

 

「水と空気の奇麗な所だね」

「ウルウ、それは褒めてるの、貶してるの?」

「公式見解だよ」

「まあ東部は昔から平和ですからねえ」

 

 何かとがった部分があるというのは、何かしら欠けた部分があるということだ。

 東部は特別優れたものはないかもしれないが、しかし劣ったものもまたなかった。

 

 昔からこういうらしい。あの世というのはきっと東部のようなところだと。何もかもが満ち足りていて、しかし生きているという励みだけがない。

 

 まあさすがにこれは言い過ぎだと思うけれど、実は出稼ぎにでる若者が一番多いのも東部ではあるらしい。冒険屋も、聞けば東部出身が多い。やはり若者にとっては刺激が足りないのだろう。一方で、年を取ったら住みたい町というのも、東部に多い。牧歌的で、時間の流れがゆっくりとしていて、暑すぎもせず寒すぎもしない。

 

「私なんかはこういう町でずっと同じ仕事してても苦じゃないんだけど」

「本当にウルウはどういう生き方してきたんでしょうねえ」

「普通だと思うんだけどなあ」

「ちょっと普通に関する定義がずれてる気がします」

 

 私としては将来が保証されているというのはそれだけで価値のあることだと思う。それに好きな音楽や美術品でもついてくれば、これ以上のものってそうそうないのではないだろうか。

 

「ウルウって時々ほんとにリリオ以上に貴族っぽいこと言うわよね」

「なんですとー!」

「リリオって時々ほんとに子供以上に子供っぽい反応するわよね」

「あれっ、比較対象!?」

 

 まあ私の場合、その好きななんちゃらって部分がいまやリリオの冒険屋活動を観察することになっているので、致し方なくこうして冒険屋などしているわけだけれど。勿論トルンペートのご飯もね。

 

 ああ、こんな風に普通に旅行記みたいなこと言っていると勘違いされそうだから言っておくが、私はいまも相変わらず《隠蓑(クローキング)》で姿を隠しっぱなしの旅だ。勿論、オンチョさんの前とか、必要な時は姿を現しているけれど、それ以外は私はいないものとして扱ってもらっている。その方が気楽だ。

 

 リリオとトルンペートも慣れたもので、私があんまり会話に参加しなくても気にしないし、会話に入りそうだったら気を利かせて話しかけてくれるし、本当に私はいい旅仲間を得たものだ。トルンペートには真顔で介護なんじゃとか言われたけど、知ったことか。

 心療内科の先生も言っていた。偶には子供のように泣きわめいて発散することで心の衛生を保つ人もいると。私も子供のように自分の望むことを欲しているだけだ。私は要介護者なのだ。あんまりこういう発言すると怒られるからこれ以上は言わないが、しかしそれにしたって私はもう少し心の傷を癒すべく面倒見てもらっていいはずだ。

 

 そう考えると東部っていうのは穏やかで、大概のものは満たされて、療養には向いているかもしれない。毎日ちょっと日向を散歩したりしてさ、それで午後には自分でフレーバーテキストみたいな調子で散文をかいたりして見て、それで夜は軽めのご飯を食べて早めに眠るんだ。翌朝すっきりと目を覚ますためにね。

 

「ウルウ、おばあちゃんみたいなこと言ってます」

「うっさい」

「でも実際若者らしくはないわよね。もっとはつらつと生きましょうよ」

「はつらつねえ」

 

 元気ハツラツなんてのはもうごめんだ。

 二十四時間頑張れるわけがない。ファイトの気合は二発も三発も出せるものではないのだ。

 

「むしろ君たちは毎日毎日よくもまあそんなに気忙しげに生きていられるよね。もっとのんびり行こうよ」

「うわあ。東部の空気にすっかり緩んでしまってますよこれ」

「北部でもいうほどせわしい毎日送ってたわけでもないのにねえ」

 

 そう言えばそうだった。

 私、別に北部でも忙しい生活はしてなかったな。むしろ健康のために散歩してます程度の勢いでリリオたちの後ろについていっただけで、肝心の討伐依頼とか手を貸したこと全然ないな。貸すまでもなく大体瞬殺だし、貸す時ってインベントリに荷物しまったり、インベントリから荷物出す時だけじゃないか。

 あとは氷菓食べたり、ご飯食べたり、最近だとちょっと慣れてきたからリリオやトルンペートと一緒のベッドで寝てみたり、そう言うことくらいだ。

 

「うわ、私何もしてないな」

「今更」

「マジか。私完全にヒモじゃないか」

「ヒモ?」

「ウルウのことよ」

「トルンペート、君もうちょっと私の繊細な心をいたわろうよ」

「目に見えないものは対応外よ」

「だからいまだに三等なんだよ」

「なんですとー!」

「あ、氷菓買っていきましょう」

「自由か」

 

 茶屋でリリオが買い食いする時も、姿を消したままの私は自分の分を気にしなくていい。どうせ山と積んで食べるので、それをいくつか貰えばいい。山盛りの格子餅(ヴァフロ)、つまりワッフルに、雪糕(グラシアージョ)。お茶も、二人の分をちょっとずつ貰えばそれで十分だ。

 

「ヒモが嫌なら、寄生虫?」

「もっと嫌なんだけど」

「じゃあ扶養家族ですね!」

「私、娘?」

「お嫁さんでも可! むしろどんとこいです!」

「リリオは甲斐性がなあ」

「ぐへえ」

「じゃああたしは?」

「ダメになりそう」

「褒めてるのそれ?」

「褒めてはいる」

 

 東部は何もないけれど、女三人寄ればどこでも十分姦しいようだった。




用語解説
・ランタネーヨ(La Lanternejo)
 東部の運河町。運河に面して発展しており、特に目立つものはないが欠けたものもない、東部らしい東部の街。
 夏には慰霊として川に提灯を流す祭りがあり、そのためにランタンの町、ランタネーヨの名前が付けられている。

格子餅(ヴァフロ)
 格子状の型で焼き上げた焼き菓子。ワッフル。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と牧場

前回のあらすじ

なんにもない、いいまちだった。


「ところで宿はどうするの」

「そう言えばなんか当てがあるんですって?」

「ふふん、実はそうなのです」

 

 ふわふわカリカリの格子餅(ヴァフロ)雪糕(グラシアージョ)を食べながら、私たちは今夜の宿についての話題に及びました。

 船でやってくる旅人用に港周りにも宿はあるのですけれど、今日はそれらを素通りして買い食いなんかしちゃったわけなんです。普通でしたら時間が過ぎれば過ぎるほど宿はお客さんでいっぱいになってしまって、今頃もうよほどあれな宿しか残っていないという状況なんですけれど、そこはご安心。すでに手配済みなのです。

 

「オンチョさんとお話しているときに、この町にもメザーガの親戚筋がいるということがわかりまして」

「ということはリリオの親戚筋でもあるわけね」

「どこにでも湧いてくるなあ」

「言い方!? でもまあ、本当にあちこちにいらっしゃいますけれど。ともあれ、今日はその親戚筋さんのところに泊まろうという訳でして」

「へえ、どこの宿」

「郊外の牧場です」

「宿ですらなかった」

 

 旅先の宿というのもそれはそれで冒険屋っぽくていいのですけれど、旅先の牧場というのもなんだかさらに旅情緒あふれて冒険屋っぽいじゃありませんか。

 

「いや、普通に宿がいいけど」

「牧場って」

 

 と思っていたのは私だけのようですけれど、これは体験していないからですよ、きっと。私も体験したことないですけれど。まあそれに第一、いまさら宿を探したところでろくな宿が見つかるとは思えないですしね。

 

「まあ、そうなると仕方ないということかなあ」

「リリオに任せるとこういう時困るわね」

 

 消極的賛成二票を得まして、無事全会賛成で議決です。

 

 私たちは早速街門を出て、メザーガの親戚筋であるという牧場を目指しました。

 

 

 

「やあ、どうもどうも、いらっしゃい。よくもまあ、本当に、なんというか、奇特な方々で」

「すみません、奇特なのはこいつだけです」

「どうも、奇特な冒険屋です」

「こいつ懲りないな」

「元気は良さそうで何より」

 

 牧場主はランツォさんという方で、奥さんと、娘さんが二人、それにまだ小さな息子さんが一人の五人家族で牧場を経営されているようでした。

 

「夕食までまだあるし、手伝ってもらうことも特にないから、牧場を見て回ってみるといいよ。あたしらにゃあ見慣れたものだけど、初めての人にゃあ面白いかもしれないよ」

 

 とおっしゃるので、お言葉に甘えて牧場見学をさせていただくことにしました。

 とはいえ、私もトルンペートも辺境ではよく牧場に遊びに行っていたので、慣れたものです。正確にはいろいろほっぽって遊びに行く私を追いかけてトルンペートが来てくれたわけですけれど。

 

 このメンツの中ではウルウだけが牧場初体験ということなので、私たち二人が案内がてらウルウにいろんなことを教えてあげることにしました。どの牧場も造りは基本的に同じですから、迷うということはありません。

 

 まずはいつも雪糕(グラシアージョ)やらなんやらでお世話になる、お乳を出してくれる家畜である牛さんを見に行きましょう。何しろ大きいですから迫力もあります。

 牛を飼う牧舎は基本的に半地下になっていて、牛たちが眩しがらないよう最低限の明かりだけがともされています。私たちがのぞいた時は、牛さんたちはお休みの時間のようで、明かりはすっかり消されていました。私たちはウルウの貸してくれる闇を見通す眼鏡をかけてこっそりとお邪魔しました。

 

「ひゃっ」

「うふふ、驚きましたか」

「なに……え? なにこれ」

「牛さんです」

「なんて」

「牛さんです」

「私の知ってる牛さんではない……」

 

 やっぱり初めて見ると驚きますよね、牛さん。

 外見はそうですね、しいて言うならば大きくて縦長なお芋がゴロンと転がっているような感じです。短い毛はたいてい黒か茶色で、珍しいもので白色ですかね。手足は短くて太くて、穴を掘るのに適した円匙(ショベリロ)のような大きな爪が特徴です。怪我しないように丸く切りそろえられてますけどね。

 目はほとんど退化していて、毛の中にうずくまるように小さなものが見えるか見えないか。髭の生えた鼻先が時折もごもごと動いています。

 

「これはモグラでは」

「牛さんですよ?」

「いや、どう見ても」

「牛さんだってば」

「トルンペートまで」

 

 ウルウは時々よくわからないことを言います。

 

 この盲目の牛さんたちは非常に濃厚で栄養たっぷりのお乳を出してくれますけれど、何しろ牧舎が真っ暗でなければなかなか元気にお乳を出してくれないので、管理が難しい生き物ではありますね。

 西部では大嘴鶏(ココチェヴァーロ)からお乳を搾っているらしいですけれど、今度行ってみたら味わってみたいものです。

 

 さて、暗い牧舎から出て目をしぱしぱさせて、今度は牧草地に向かってみましょう。今の時間帯なら羊たちが草を食んでいるかもしれません。

 なんだか疲れたようなウルウを連れて行くと、ちょうど羊たちが、ふわふわの毛を揺らしながらもっしもっしと草を食んでいるところでした。

 

「つかぬことを聞くけれど」

「はい」

「もしやあれが羊?」

「その通りです」

「トカゲじゃん……毛の生えたオオトカゲじゃん……」

「ウルウってホントよくわかんないこと言うわよね」

「おのれ異世界」

 

 羊たちは幅の広いお口でもっしもっして元気に草を食んでいます。お食事中にあんまり構うと棘のついた尻尾で思いっきりぶん殴られますけれど、ちょっとなでるくらいなら大丈夫です。鱗の隙間からするすると生えてはもこもこと貯えられるこの羊毛は非常に暖かく、北部でも防寒用によく売れる代物です。

 なんでも羊自身の防寒用と、そしてもともとは外敵の攻撃に対する防御のためのようですけれど、品種改良が進んだ今では非常にきめ細かくやわらかな毛が取れるようになっています。

 

 そして羊たちと言えば。

 

「ああ、うん、あれは知ってる。犬だ」

「そうです、牧羊犬です」

「思ってたよりでかい」

「牧羊犬ですから」

 

 ここでもやはり八つ脚の牧羊犬を飼っているようでした。子供を乗せて走るくらいは訳のない大きさで、多分、今の私でも装備を外せば乗るくらいはできるはずです。

 ウルウは背が高いですしさすがに乗るのは無理そうでしたけれど、逆に牧羊犬にのしかかられてそのふわっふわの毛に挟み込まれて、恐れとも歓喜ともつかぬ表情のまま沈んでいきました。

 

 黒いし細長いし仲間だと思われてるんじゃないかというのが最近の私の持論です。

 

「そんなことより助けて!」

「顔がそうは言ってないわよ」

「あふん」




用語解説

・ランツォ(Lanco)
 ランタネーヨ郊外の牧場主。
 牛や羊、鶏を育てている。

・盲目の牛
 しいて言うならば巨大なモグラ。
 完全に家畜化されており、現状では自分の寝心地の良い形に土を掘るくらいしかせず、自分で餌を摂ることもできない。
 濃い乳を出す。
 これとは別に普通のいわゆる牛もいるようだ。

・羊
 鱗の隙間から、鱗から更に変化した長いふわふわの体毛をはやす四つ足の爬虫類。
 とげのついた尻尾を持ち、外敵に対してある程度自衛ができるが、基本的に憶病で、積極的な戦闘はしない。
 いわゆる普通の羊もいるようではある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と牧場宿

前回のあらすじ

何事もなく牧場見学を終えた。いいね。


 ウルウが牧場見学を楽しみ、あたしたちは百面相するウルウを眺めて楽しみ、ゆったりと日が暮れて夕食に御呼ばれすることになった。

 

 品は簡単なもので、たっぷりの乳を使った羊の煮込みに、少し硬い麺麭(パーノ)と、そして乾酪(フロマージョ)だった。

 簡単とはいえこれは牧場の食事としてはとても立派なもので、客人としてもてなしてくれることがよくよくわかった。

 

 まず炙った麺麭(パーノ)の上にたっぷりと溶かした乾酪(フロマージョ)をかけまわしてくれるのだけれど、これが、残酷だったわ。どうして麺麭(パーノ)の面積には限界があるのか、どうしてとろけた乾酪(フロマージョ)が積み上げられる高さには限界があるのか、そう思わずにはいられなかったわね。

 

 ざくりとした炙り麺麭(パーノ)の食感に、とろとろととろけた熱々の乾酪(フロマージョ)の不思議な食感。どこまでも伸びるんじゃないかと思いながら乾酪(フロマージョ)()()()()()()()()を楽しむってのは、これは、はっきり言って犯罪的だった。

 あんまりどこまでも伸びるもんだから、途中で切ってやらなければいけないんだけど、これがまたもったいないなという気持ちにさせられる。

 

 そして羊の煮込み。これが驚くほどおいしかった。煮汁に搾りたての乳に小麦粉でとろみをつけた乳煮込みなのだけれど、さっぱりとしてちょっと物足りないところのある羊肉に、コクのある乳がよくよくしみ込んで味わいに深みを与えてくれている。そして羊の骨からとったという出汁がまた、いい。

 それに単調になりがちな所にうまく香草が使われていて、たっぷり食べてもまるで飽きが来ない。

 

 これは、いうなれば食べる乳ね。栄養もたっぷりで、体も温まって、そして美味しい。

 

 これにはリリオも大いに喜んだし、そしてまた、普段小食なウルウもちょっぴり多めに食べていたように思う。特に乾酪(フロマージョ)をたっぷりかけまわした麺麭(パーノ)がお気に召したようだった。

 

「昔アニメでこんな感じの見た」

「あにめ?」

「とっても美味しいってこと」

 

 最初こそしぶしぶではあったけれど、牧場ご飯も美味しいし、これは、あたりだったかもしれない。

 

 たっぷりとご馳走になって、後片付けを済ませて、あたしたちは物置を掃除したという一室を借り受けた。

 

「リリオちゃんが喜びそうだから、牧舎に寝藁積んでもいいんだけど」

 

 とランツォさんが言うや否やリリオが飛び上がって喜びそうになったので、強引に押さえつけてありがたく物置を一晩借りることにした。さすがにそこまで付き合ってやる気は、ない。

 

 ベッドは一つだけだったけれど、あたしたちはその上にウルウの魔法の羽布団を敷いて、三人で潜り込むことにもうためらいはなかった。ウルウはまだ深呼吸してから潜り込むけれど、それでも一人だけ別のところで寝ると言い張ることは、もうなくなった。

 

 三人でベッドに入って、明かりも消してしまって、さああとは寝るだけとなってからが、あたしたち三人の夜だった。つまり、こうして寝る準備がすっかり整ってから、不思議と話題が出てくるのだった。

 

「そういえば、ランツォさんもそうだけど、メザーガって親戚多すぎじゃあないかしら」

「多分、この先も何かしら関係者と遭遇する気がします」

「便利と言えば便利だけど、不思議ではあるね」

 

 一応の血縁であるところのリリオに聞いてみれば、

 

「私も本当かどうかは知らないんですけれど、メザーガからはこう聞いています」

 

 このように前置きして、リリオは語り出した。

 

 メザーガの出身であるブランクハーラ家は、南部でも有名な冒険屋の一族であるらしい。メザーガの父親も、祖父も、大祖父も、数える限り八代前から冒険屋をやっているような、生粋の冒険屋の血統であるらしい。

 どうせきっと誰かがどうにかしてくれると思っているようなことを、どうにかしてやる誰かというのが彼らだった。誰が言うでもないのに剣を取り、誰が言うでもないのに旅立ち、誰が言うのでもないのに冒険なんてし始める、そう言う一族だった。そう言う酔狂だった。

 二束三文で命を懸ける、そういう生え抜きに酔狂の一族だった。

 

 そういう、常に命をすれすれのところに置いているような連中が、南部から帝国中あっちこっちに冒険しに出かけていった結果どうなったか。帝国中あちらこちらで命を懸けたすったもんだを繰り返し、そのたびに情熱的な恋物語を演じに演じ、当代に至ってはどこまで本当かわからない家系図なんてものさえ出来上がるほどに、帝国中に血と流血をばらまいたらしい。

 

 そのせいで恨みも買いに買っているらしいけれど、何しろブランクハーラっていうのは冒険屋の大家だ。メザーガたち《一の盾(ウヌ・シィルド)》が、その名前を出しただけで恐れられるように、うかつに手を出していいものではないっていうのが、世の冒険屋の共通認識らしい。

 

 もっとも、ブランクハーラのいわゆる分家筋の人たちからしてみれば厄介でしかない話で、普段はブランクハーラの名前も出しはしないそうだけれど。

 

 それでもたまにそう言う血筋から白い髪の子供が生まれると、たいてい生まれ育った土地に満足できず、冒険屋として旅立っていくというのだから、これはもう呪いと言っていいほどに強い血統ね。

 

 今では白い髪と言えば冒険狂いの代名詞というほどで、なるほどリリオが冒険屋として辺境から飛び出てきたのも納得だわ。

 

「辺境人とブランクハーラの合いの子なんて、なんの悪夢だってメザーガにも言われました」

「まあ、聞いた限り劇薬としか思えない取り合わせよねえ」

「そう言えばリリオのお母さんもそのブランクハーラなんだったっけ」

 

 そう、リリオのお母様も、冒険屋だった。あたしはそれほど深い付き合いがあったわけじゃないから詳しくは知らないけれど、それでも、強い冒険屋ではあったのだ、あの人は。




用語解説

・ブランクハーラ
 記録に残るだけで八代前から冒険屋をやっている生粋の酔狂血統。
 帝国各地で暴れまわっており、その血縁が広く散らばっているとされる。
 特に白い髪の子供はブランクハーラの血が濃いとされ、冒険屋として旅に出ることが多いという。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と白髪妃

前回のあらすじ

アルプスの家で食べそうなご飯を頂いた。
そしてブランクハーラの逸話を聞くのだった。


 ブランクハーラ家とかいう、八代続けて冒険屋なんかやっているという恐ろしい血統が明らかになったわけだけれど、ついでに言うとそこに辺境人とかいうサイヤ人みたいな血筋が入っている劇薬毒物な組み合わせってことも明らかになったわけだけれど、まあそれで私の知っているリリオが別人になるというわけでもない。

 

 まあ、リリオがどうしてこんなに小さな体でもあそこまで強いのか、そしてまたどうしてそこまで冒険屋にあこがれるのかという理由は何となくわかったような気もする。

 

「リリオのお母さんも確か、冒険屋なんだったよね」

「そうですね、もともと母は冒険屋として、依頼を請けて辺境にやってきたんでした」

 

 何事も力がなければ解決できない辺境人が、外部の冒険屋に依頼することは、そんなに多くない。大抵のことは内部で解決してしまえるからだ。

 その辺境人が依頼することと言えば決まっている。

 

「…………海産物?」

「そうなんですよ。辺境って、海と面してないんですよね」

 

 湖などはあるらしいけれど、やはり、海のものとは違う。

 内陸地である辺境にとって、一番の贅沢というものは、やはり海産物であるらしい。

 力がすべてである辺境でも、やはり権力というものも一つの力であるらしく、当時まだ当主として日の浅かったリリオのお父さんは、箔付のためにも、就任祝いとして南部の海産物を用いたパーティを開こうとしたらしい。

 

 海産物、それもできれば生の状態で、という難しい依頼を請けたのが、当時南部で冒険屋をしていたリリオのお母さん、マテンステロさんだったそうだ。

 干物など加工品ならばという冒険屋は多くいたけれど、生で持っていけると宣言できたのはマテンステロさんだけだったという。

 

 それというのも、彼女が優秀な魔法の使い手で、海産物を上手に凍らせてほとんど生と変わりない状態で保存することができたというのが一つ。そしてもう一つは、従姉弟のメザーガという弟分がいたことだった。

 当時まだ開拓したばかりであった南部からヴォーストまでの運河便を用いて、ご自分で風を操ってとにかく急がせ、特急便で海産物を届けに行ったらしい。

 

 そしてヴォーストから辺境まで自前の馬車で駆け抜けて、見事にリリオのお父さんの就任パーティを成功に導いたことが出会いのきっかけだったそうだ。

 

 リリオのお父さんも、正直あまり期待していなかったところに、予想以上の成果をもってやってきた冒険屋にいたく感激し、ぜひとも当家の専属にとお願いするほどだったらしい。

 

 しかしブランクハーラ家の人というのは奔放なようで、ひとところに縛られるのを嫌って、マテンステロさんはこう条件をつけたんだそうだ。

 

「私は自分より弱い人の言いなりになるつもりはないわ。私に一太刀でも浴びせられたら考えます」

 

 なんだかイメージしてたよりずいぶん過激な発言をする人だけれど、宣言に従って一太刀浴びせることに成功したお父さんのプロポーズを受けて、ついにマテンステロさんは膝を折って結婚することに決めたらしい。

 これだけ聞くとあっさりとしたロマンスだけど、実際にはなんと一年間も毎日挑んで、ようやく勝ち取った勝利だったらしい。お父さん余程情熱家だったみたいだし、付き合ってあげたマテンステロさんもまんざらではなかったのかもしれないね。

 

「母は寒いのが本当に苦手で、冬の間ははぐれ飛竜でも出ない限り暖炉の傍から動こうとしない人でしたから、夏も涼しい辺境に一年も滞在して挑戦を受けたっていうのは、つまりそう言うことだったんじゃないでしょうかねえ」

 

 そんな情熱家な夫婦の間に生まれたのが、リリオとそのお兄さんであるティグロだという。ティグロは二歳違いで、今は十六歳だとか。

 

「兄は髪も白くありませんし、どちらかというと父親似ですね。当主にも兄の方が向いているのは確かです」

 

 さて、そんなお母さんが亡くなったのが、リリオが十歳の冬だったそうだ。

 

「実際には、私は母の死に目には会えていないんです」

 

 その冬、季節外れのはぐれ飛竜が出たのだという。飛竜にも季節ってあるんだね。まあ、どんな生き物でも冬は嫌いか。

 まあ、その季節外れの飛竜が出たと聞いて、真っ先に剣を取ったのがマテンステロさんだったという。

 

「母はいつも暖炉の前で凍えているような、大人しい人でしたけれど、飛竜が出たとなるや誰よりも早く駆け付ける、勇敢な人でした」

 

 しかし、それがいけなかった。

 勇敢さは時に無謀とも似ている。

 マテンステロさんは僅かな隙をつかれ、飛竜に一呑みにされてしまったのだという。お父さんや兵士たちもすぐに飛竜を倒してマテンステロさんを助け出そうとしたらしいのだけれど、飛竜はすぐに飛び立ってしまって、結局その行方は知れないそうだ。

 

「じゃあ、リリオはその時以来」

「そうですね。母がなくなってしまってからは、トルンペートと父と兄と動物多数だけが私の心の支えでした」

「思ったより多いな心の支え」

「数も大事ですけど、質も大事です」

「リリオはお母さんっこだったからねえ」

 

 今もまだ少し寂しくはあるそうだった。

 けれど、たくさんの人に慰められ、いまはもう悲しくはないと。

 

 そのように告げるリリオの横顔を、私は誇りに思う。




用語解説

・マテンステロ(Matenstelo)
 リリオの母親。南部の冒険屋一族ブランクハーラの生まれ。
 冒険屋としては非常に優秀で、魔法も使え、近接戦闘もでき、飛竜とも渡り合えた。
 辺境人でないものが辺境人と同等以上に戦える、という数少ない例外存在である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合と父の話

前回のあらすじ

リリオの母親マテンステロと、その顛末。


 母の話をし終えて、ではお父さんはどうだったのと尋ねてきたのは、ウルウでした。

 ウルウも早くにお母さんを亡くして、お父さんも何年か前に亡くなっているのだそうでした。

 

 私の父は、厳しい人でした。厳しくて、不器用で、そしてとても優しい人でした。

 立場というものがある人でしたし、甘い顔ばかりしているわけにもいかない、辺境の辛さというものがありました。それでも情に深くて、義理に堅くて、母の死を一番悲しんだのは、きっと父だったと思います。

 

 父は母を愛していました。いえ、いまでもずっと、母を愛しているのでしょう。後妻をもうけることもなく、妾を作ることもなく、ただ時折、とても悲しそうな顔で、母によく似た私の髪をなでるのでした。

 

「おつむの良さも似てくれればよかったんだけどなあ、と」

「それ違うところ悲しんでるよね。リリオの馬鹿さ加減に呆れてるだけだよね」

 

 まあ、私の奔放さを手放しで喜んでくれる人ではありませんでしたし、よくできた兄と比較されることも少なくはなかったように思います。

 私は何というか、いろいろと加減の利かない子供で、母の良い所と父の良い所を悪い意味で受け継ぎ過ぎたようで、一日中遊びまわって、それでようやく疲れ果てて眠りにつき、目覚めればまた元気いっぱいで遊びまわるという、子育てお父さんには大変申し訳なくなるほど元気だったと思います。でも仕方ないんです。私も遊び盛りだったんです。

 

「まあ、さすがに奥様が亡くなってからは少しは大人しくなったけどね」

「まあ少しはこたえましたからねえ」

 

 でもなんだかんだ、父は私のありようを尊重してくれたように思います。

 私がトルンペートを拾った時も、父はすっかり呆れたように、それでもトルンペートの治療を指示し、私付きの侍女としての教育を進めてくれたのでした。

 

「そう言えばあの時は痛かったでしょう。ごめんなさい」

「さらっとそういうことを言える辺り、あんたってどこか壊れてる気がするわ」

 

 謝ったのになぜかけなされている気がします。

 まあ、確かにあの時はちょっとやり過ぎました。突然飛び出てきたので驚いて、魔力の制御がきかずもうすこしでばらばらにしてしまうところでした。あの当時は人間とおもちゃの区別があんまりついていませんでしたから、危ない所でした。

 今はもちろんそんなことしません。人間は壊せば死んじゃうってちゃんとわかってますからね。

 

 まあそれでもトルンペートは無事に治療が施され、私の侍女として私に付き合ってくれるようになったのですから、素晴らしい出会いでした。

 拾った私が面倒を見るはずだったのが、いつの間にか私の方が面倒を見られていたのはなんだか釈然としませんけれど、でもこういう関係が心地よいので仕方ないのです。

 

 父は私が拾ってきたものをいつだって、きちんと面倒見てくれる素晴らしい父です。

 

「つまり全部放り投げてるってことだよね」

「よくまああれだけ面倒見れるなって感心するくらい、手配のうまい方よ」

「言ってもペットでしょ?」

「まあ、愛玩動物って言える範囲……かもしれないわ。ギリ」

 

 そんなにギリギリでしょうか。

 兎や犬、猫、猪、虎、狼。そんなものですよ、精々。さすがに飛竜は飼ってとは言いませんでした。私えらい。

 

「結局全部放り投げたんでしょ」

「適切な部門に管理を委託しただけです」

「こういうときだけ頭よさそうなこと言いやがって」

 

 まあでも、お父様も愛玩動物と付き合いを深めていくうちに、母との離別の悲しみを少しでも忘れられるのではないかという、そういう娘の幼いながらの思いやりというものですよ。

 

「主に拾ってきたのは奥様が亡くなる前なんだけど」

「計画的犯行でした」

「嘘を言え」

 

 それにしても、父によくなついていたプラテーノはいまはどうしていることでしょうか。母が亡くなった後は、ずっと父のそばにいてくれたプラテーノ。いい子でした。なぜか私には懐いてくれませんでしたけれど。

 

「プラテーノ?」

「狼よ。大型のやつ。森で暴れてたのを、リリオがぶん殴って『拾って』きたの」

「そりゃ恐れはしても懐きはしないよね」

 

 あれっ。おかしいな。大体の動物はそんな感じで出会ってきずなを深めてきたつもりなんですけれど。

 

「加減を知らないリリオがぶん殴って生きていられる動物ってなに」

「基本魔獣。『拾って』これなかったのも結構いるわ」

「こわっ」

「あたしも世話してたけど、御屋形様がしっかり手綱握ってなかったら、あたしなんて今頃丸のみにされてたわよ」

「ペットの話だよね?」

「愛玩はしてたわ。一方的だったけど」

 

 あれれ。なんか私の扱いがひどい気がします。でもいいんです。私は彼らのことを愛していますし、彼らも私のことを畏敬してくれています。それで充分です。ふーんだ。

 

「子供みたいにすねてるけど」

「子供だもの」

「子供じゃありませーん、成人でーす」

「じゃあ大人らしくしてようか」

「はーい」

 

 あれれれ、うまくあしらわれた気がします。むーん。ぷんすこ

 




用語解説

・プラテーノ
 リリオのペット。身の丈二メートルほどの巨大な狼。
 辺境では普通の獣であってもみな大きく、魔獣のように魔力を持つという。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と田舎町

前回のあらすじ

リリオの父の話。
そしておいてこられたペットの数々のお話。


 誰が最初に寝入ったかも分からない、夢の入り混じった眠りを経て、あたしたちは牧場での目覚めを経験した。つまり、朝の早い羊たちと、鶏の鳴き声を。

 

「朝から騒がしいやつらね……」

 

 とはいえ、冒険屋というものは一度目が覚めてしまえばすんなりと起きれてしまうものだ。あたしはするりとベッドから抜け出して、朝の準備を整えた。

 

「一番冒険屋やる気のないあたしが一番冒険屋らしいっていうのもしゃくだけど」

 

 同じくらいやる気のないウルウがのっそりと起きだしてきて、それでもてきぱきと身支度を整え始め、一番やる気があるはずのリリオが、ひっくり返った蛙のようにのたのたと起き出して、あたしに手伝われながら身支度をする。

 何か間違っているような気もするけれど、まあ、世の中そんなものよね。

 

 牧場のご一家に別れを告げて、あたしたちは早朝のランタネーヨを観光し始めた。早朝と言っても、人の起きている時間だ。早すぎるってことはない。

 

 ランタネーヨの町は、言ってみれば小規模なヴォーストの町だった。町の横を運河が通っていて、というよりは、運河に沿うように町ができていて、それを外壁がかこっている。だからヴォーストを半分にしたような印象だ。

 港があって、市があって、商店街があって、うん、まあ、ヴォーストの町と何一つ変わるところはない。どんな街にだってあるようなものは、きちんとこのランタネーヨの町にもあった。ただし逆に、ランタネーヨにあって他の町にないものというと、少し探すのに苦労する。

 そう言う典型的な東部の町並みだった。

 

「それにしてもどうして角灯の町(ランタネーヨ)なのかしら」

 

 それが不思議だった。

 街中を見て回っても、そりゃ少しはあるけれど、別に角灯や提灯が目立つわけじゃあない。工芸品として出回っているわけでもない。何か逸話でもあるのだろうかとあたしとウルウが小首をかしげていると、リリオがふふんと鼻を鳴らした。

 

「実はですね」

 

 ほーら始まった。

 どうせオンチョさんあたりから聞きかじったことを言い始めるに違いないわ。

 でもあたしはできた三等武装女中だから、主が自信満々に伝え聞いた話を披露しているときに茶々を入れたりはしない。

 ウルウが胡乱げな目で見降ろしているのをなだめてあげるくらいよ。

 

「なんでも毎年夏になると盛大なお祭りをするらしいんですけれど、そのお祭りの時に、ヴォースト川に提灯を流すんだそうですよ。たくさんの提灯がぼんやり光りながら川を流れていく風景は幻想的で実に見事なものだそうですよ」

「提灯? 沈んじゃわないの?」

「ちゃんと小さな船に乗せてあげるんだそうです。まあだから沈んだりはしないんですけれど、下流の方でごみ問題で騒がれるので、最近は途中で網張って回収してるらしいですけど」

「情緒がないわねえ」

 

 まあでも、想像してみると結構華やかそうなお祭りだ。

 いつやるのか聞いてみたところ、夏も盛りの頃の話のようで、さすがにあたしたちも一年近く待つってわけにはいかなかった。

 

「しかし、またなんで提灯なんか流すのかしら」

「もともとは慰霊のためらしいですよ」

「慰霊」

「大昔の戦争では、このあたりも戦場になったそうです。それで、戦い終わった戦士たちが、亡くなった人々が無事冥府の神のもとに辿り着けるようにって、提灯の明かりに託して川に流したのが始まりだそうです」

 

 ふーん。

 なんだかそう言われるとしんみりしてしまう。

 昨晩もリリオのお母様のこととか、そう言うの話してたからかしら、なんだか余計に胸にきちゃうわね。

 

「……灯籠流し、か」

「ウルウの故郷にも似たようなお祭りがあったんですか?」

「私の住んでた辺りではやらなかったけどね。でも、死者の魂を弔って同じような事をする行事は聞いたことがあるよ。お盆って言って、ちょうど同じように夏の頃にやるんだ」

 

 ところ変わっても変わらないものもあるのかもしれないわね。誰だって、故人は悼むものだし、死者は弔うものだわ。

 

「そうだ、あたしたちもやりましょうよ」

「え?」

「ランタネーヨの、なんだったかしら、灯籠流し?」

「勝手にやっちゃっていいんですかね」

「いいわよいいわよ少しくらい。リリオのお母さんのためにも」

「……じゃあ、私も」

「ウルウ?」

「父の死に向き合えたのは、こっちに来てからだからね」

 

 あたしたちは早速雑貨店で、提灯や小舟を求めた。

 すこしお祭りを過ぎてしまったけれど、あたしたちが旅人でついたばかりなのだというと、お店の人はそれならと、町の人たちが使うような一式を用意してくれた。

 

 リリオはお母様の分をひとつ。ウルウはご両親の分で一つずつ。あたしはどうしようかと迷って、結局一つ流すことにした。思えばあたしはリリオと出会って一度死んで生まれ変わったようなものだ。だからその自分を、ここで流していこうと思うのだった。

 

 本当なら夜まで待たなければならないのだけれど、あたしたちはせっかちな旅路で、今日にはもう町を出る予定だった。だから昼間に提灯を流すっていうちょっと間の抜けた光景だった。

 あたしが想像していた幻想的な風景とはまるで違って、のぺーっとのんびり提灯が川を流れていくだけの、これと言って面白みもない風景だ。まあ、言っても昼間で提灯の明かりが見えやしないし、たった四つじゃこんなものだろう。

 

「ほらいけトルンペート号、リリオを追い抜け」

「そういうんじゃないでしょこれ」

「それならお母様ー! 狙うは一位ですよー!」

「あ、こらっ、負けるんじゃないわよ!」

「意外とうちの両親頑張るなあ」

「ああっお母様違います逆走してますどこに流れていくんですかー!?」

 

 結局、さぱさぱとしたあたしの過去が真っ先に見えなくなり、次にウルウの両親が仲良く去っていき、そして奥様は迷走した挙句気付いたら消えていた。

 こうして、あたしたちの灯籠流しは賑やかに終わったのだった。




用語解説

・解説のない平和な回だった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と旅商人

前回のあらすじ

少し遅めの灯籠流しを楽しむ三人であった。



 三人だけの灯籠流しを朝のうちから済ませてしまい、計画性も何もあったもんじゃないなりに楽しめた。まあもとより私たちの旅に計画性なんてものがあった試しはないけれど。

 

 オンチョさんに別れと感謝を告げるために、オンチョさんがランタネーヨに持っているという商社支部に向かっていたところ、私はふと見覚えのある姿を見かけた。何しろ完全記憶能力持ちのこの私が見覚えがあるなどというのだから、それは見間違いなどではない。

 

「リリオ」

「なんです? ん? んー……? あれっ」

 

 私がリリオの肩をつついて視線を促すと、それでようやくリリオも気づいたようだった。

 そうしてリリオがあっと声を上げるのと同時に、向こうもリリオの間抜け面に気付いたようだった。商人というものは、人の顔を覚えるのも得意なものだからね。

 

 私たちが歩いている先から、のっそりのっそりと重たげな体を揺らして荷を引く大亀、もとい甲馬(テストドチェヴァーロ)の手綱をひいてやってきたのは、以前境の森を出た私たちを、ヴォーストまで馬車に乗せていってくれた老商人だった。

 

「おや、まあ、娘さん方じゃあないか。別嬪さんがまた一人増えて、」

「えへへぇ」

「かしましそうでなによりだ」

「もー」

 

 老商人も変わらず壮健のようで、たくさんの荷を積んだ馬車の御者席から、よいこらしょと降りてくる様は、年の割にやはりがっしりとした体つきを感じさせた。

 

「いや、いや、まさかこんなところで会うとはね。ヴォーストはもう、いいのかね」

「ええ、やっぱり冒険屋ですから、旅に出たくなりまして」

「旅がらすの気持ちはよくわかるよ。これからどこへ?」

「次はムジコへ。それからレモ。南部に入ってはバージョから海路でハヴェノに向かおうと思います」

「河を下った方がバージョまでは速いってのは野暮かね」

「やはり、旅路も楽しみたいですから」

「若いってのはいいことだ。わしはすれ違いで、これからまたヴォーストまで上って、それから辺境まで蜂蜜酒(メディトリンコ)を売りに行くのさ」

 

 北部や辺境では、寒いために蜂がめったにいない。それで蜂蜜酒(メディトリンコ)が良く売れるらしかった。また蜂蜜自体も売れるから、東部の一番の商売相手は北部と辺境と言っていい。とはいえ今日日は、砂糖大根から砂糖を取るようになってきているから、甘いものの筆頭の座からは引きずりおろされているそうだ。

 それでも蜂蜜特有の味わいというものがあるから、やっぱり人気は途絶えないようではあるけれど。

 

「南部では何が売れますかね」

「楓の蜜は変わらず売れるね。あれは風味がいいから」

「土産にいくらかは持ってきてます」

「東部から持っていくとなると、やはり山の幸がいいねえ。茸の干したのなんかはよく売れるよ」

「トルンペートの狙いが当たりだね」

「たんまり採ってきたもの」

氷精晶(グラシクリスタロ)なんかも売れるけど、寒くなってくる時期だからねえ、値下がりするよ」

精霊晶(フェオクリステロ)はやっぱり専門家に任せた方がいいですねえ」

「目利きもいるし、何より数がないと売り物にゃあならないからねえ」

 

 北部や辺境の雪山からとれる氷精晶(グラシクリスタロ)は暑い南部ではよく売れるそうだ。生物を扱う漁港でもよく使うから、あればあっただけ売れると言っていいらしい。ただやっぱり寒くなってくる時期には需要が減るらしいから、素人がいくらか持っていったところで、二束三文ではねられるのがおちだそうだ。

 

 その点、私たちが山で大量に採っては干しておいた茸の類は、やはりいい値で売れるらしい。生の方が希少価値は高いけれど、干した方が味わいも深くなるし、干している間の管理にも手間がかかるから、勿論干し茸の方が高い。

 特に私たちは、ただでさえお高い石茸(シュトノ・フンゴ)のいい所を選んで干しておいたのを私のインベントリにしまい込んでいるのだ。これがいくらで売れるか考えるだけでほくほく顔にもなるというものだ。放っておけば食べてしまうリリオを押しとどめるのには苦労したけれど。

 

「ヴォーストで売れそうなものは何かあったかい?」

「うーん、そうですねえ。今年は楓の蜜の出があんまりよくなかったみたいですから、蜂蜜を増やしても大丈夫だと思いますよ」

「フムン、そうかい。まだ少し空きがあるから、増やしてみようかね」

「あとは雪解け水が少なかったですから、水精晶(アクヴォクリスタロ)なんかは売れるとは思いますけれど」

精霊晶(フェオクリステロ)はねえ」

「ですよねえ」

 

 長く商売を続けていても、精霊晶(フェオクリステロ)の目利きというものはやはり難しいものであるらしい。まず精霊が見えないと話にならないし、石自体の質もわからないといけない。長年の経験がものをいう、専門家のお仕事なのだ。

 私も精霊が見えるけれど、それでわかるのはほんのちょっとした質の違いくらいで、あまり具体的なことまでわかるわけじゃあない。同じ値段でちょっといいのを買えるくらいだ。

 

 私は多分、魔法系統の《技能(スキル)》を持っているからすこし精霊が見えるのであって、もっと魔法に特化した《職業(ジョブ)》、例えば《魔術師(キャスター)》なんかだったらもっと具体的な所までよくよくわかることだろう。

 同じ《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》だったペイパームーンというプレイヤーは、《魔術師(キャスター)》である上に、魔法に特化した種族であるハイエルフであったから、この世界に来たらさぞかし賑やかな精霊の群れを目撃するだろう。

 

 私たちはしばしそうして歓談してから、至極あっさりと別れた。

 久しぶりの出会いに盛り上がるのとは別に、私たちは旅人であるから、それぞれに旅の都合があり、それぞれの旅路があるのだった。

 

 また会えたならそのときもよろしく。

 それが旅がらすの挨拶だった。




用語解説

・《魔術師(キャスター)
 ゲーム内の《職業(ジョブ)》のひとつ。
 物理攻撃は得意ではないが、多種多様な属性をもつ魔法攻撃を得意とする他、特殊な効果の魔法を覚えるなど、使用者のプレイヤースキルが試される非常に幅広い選択肢を持つ《職業(ジョブ)》。

・ペイパームーン
 ギルド《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》に所属するひとり。
 《魔術師(キャスター)》のハイエルフで、《楯騎士(シールダー)》の獣人(ナワル)と組んで行動していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合と旅のはなむけ

前回のあらすじ

奇遇な所で奇遇な出会い。
久しい出会いに語らい、そしてまた別れるのだった。


 旅の神と冒険の神にそれぞれの幸運を祈って旅商人のおじいさんと再びわかれ、私たちはまたもう一つの別れの為にオンチョさんの商社の支店を訪れました。

 川港そばの大きな支店は街の規模に比べて立派なもので、成程オンチョさんの商社のたくましさが伺えました。河船でやってきたオンチョさんはここで品を下ろし、また品を積み、支店の監査を済ませ、と忙しくしておられました。

 

「おや、おや、いらっしゃいませ。狭いところですが、どうぞ」

 

 客の前で忙しなさを見せないようにしながらも、オンチョさんのもとには必ず誰かがやってきては報告をし、また返事を受けて、足取りも素早く往来が繰り返されているのでした。

 

「お忙しそうですね」

「おかげさまで商売繁盛といったところで。私としてはもう少しゆっくりできる程度でいいんですけれどねえ」

 

 そんな風に語りながらも、オンチョさんの顔にはやりがいというものが浮かんでいるのでした。

 

 忙しい中に席を作っていただいて、船の中でも頂いた西方の緑のお茶とセンベを頂きながら、私たちは船旅の感謝を告げました。

 

「いえいえ、とんでもない。なんでしたらバージョまでお連れしてもよろしいんですけれど」

「高い船賃を負けてもらうのも申し訳ないですし、陸の旅を楽しみたくもありますから」

「リリオさんは本当に冒険屋でいらっしゃる」

「お恥ずかしい」

 

 あとはまあ、これ以上船旅を続けると、ウルウが慣れる前に乙女塊大洪水の挙句に憤死しかねないので、致し方ないという事情もあります。そのあたりはオンチョさんもお察しのようで、ちらりと乙女の恥じらう顔を見やったきり苦笑いです。

 

「この後の旅程はもうお決まりですか」

「はい。次はムジコへ。ムジコの次はレモへ。南部へ入ってはバージョ、バージョから海路でハヴェノへ向かおうと思います」

「成程、成程。ハヴェノ周りは少し前まで海賊騒ぎもありましたが、今から向かえばもう落ち着いている頃でしょうかねえ」

「フムン、海賊ですか」

「いままでもちょこちょこいたんですけれどね、どうにもなかなか手強いのがいたそうで、なんとかいう高名な冒険屋を雇って退治したそうです」

「聞きましたかウルウ、浪漫ですねえ、私たちもいずれそんな風に御呼ばれしたいですねえ」

「御呼ばれって、お茶会じゃないんだから」

「ふふふ、なんでも恐ろしい魔女で、杖の一振りで海賊船を海ごと凍らせてしまったとか」

「そりゃまた恐ろしい」

「ウルウならできるんじゃないですか?」

「その根拠のない期待やめてもらえるかなあ」

 

 ウルウならできそうな気がするんですけどね。

 まあでも、確かにウルウの管轄外というか、専門外という感じはします。もう少しごり押しというか、ありもので適当に済ませる感じがありますもんね、ウルウって。

 

「私をなんだと思ってるんだ、君は」

「私のウルウです」

「どういう一言なんだ、それは」

「頼りにしてますよってことですよ」

「そりゃどうも」

 

 一方でトルンペートはもう少しすんなりと片づけそうな気がします。

 乱戦中にするっと海賊船に侵入して、敵の親分にナイフを突きつけて降参を進めるような、そういった切れ者って感じの絵面が良く似合います。

 

「まあ、確かに正面切っては無理でも、そういう方向ならできるかしら」

「海賊船の相手したことあるの?」

「こちとら辺境育ちよ、あるわけないじゃない」

「その割には自信満々だね」

「こちとら辺境育ちよ」

「納得の一言だ」

 

 まあそれを言ったらウルウもするっと忍び込んで、っていうのは普通にできそうですよね。気づいたら侵入していて、いくら攻撃してもぬるぬるかわされて、最終的に分身に囲まれて片手間に制圧されそうな感じです。

 

「本当に人をなんだと」

「でもできるんでしょ」

「多分できるけど」

「できるんじゃない」

「でーきーるーけーどー」

 

 私たちのやり取りをくすくすと笑って、オンチョさんはでは、とこう切り出しました。

 

「ではリリオさんならどうなさいますか」

 

 フムン。

 これには少し困りましたけれど、でもまあ実際私にできることってあまりないので、精々二択くらいでしょうか。

 

「まず一つは、直接敵船に乗り込んで正面から正々堂々と切った張ったを繰り広げます。剣の届く範囲にさえ入り込めれば、あとは陸上と一緒のことです。揺れようがよろけようが、切れば一緒です」

「ほう、これは剛毅だ。また一つは?」

「また一つは、船外から船ごと切り捨てます」

 

 これにはさしものオンチョさんもぽかんとなさいました。

 

「船ごと、切る、とおっしゃる」

「竜が切れて船が切れぬという道理はないでしょう」

「成程、これは、ははあ、剛毅だ」

 

 オンチョさんはからからと笑って、それから何度か成程成程とうなずきました。

 

「メザーガが目にかけるわけだ」

「メザーガが?」

「実はメザーガから預かりものがありましてね。あなた方にお渡しするようにと」

 

 預かりものというのは、厩舎にあった。




用語解説

・辺境育ち
 ある種の免罪符。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と大熊犬

前回のあらすじ

もしも海賊と出会ったら:《三輪百合(トリ・リリオイ)》編。


 オンチョさんに連れられて伺った厩舎に待ち構えていたのは、三人用としては実に立派な幌付きの馬車だった。

 《メザーガ冒険屋事務所》の所章である《一の盾(ウヌ・シィルド)》の紋章と、あたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の紋章が並べて描かれた立派なもので、中身は中古かもしれなかったけれど、新品同様に磨かれたものだった。

 

 リリオと争うように幌の中を覗いてみると、旅に必要と思われるものはおおよそそろっていると言わんばかりの充実具合だった。暖を取ったり煮炊きができるように、鋳鉄の焜炉が据え付けられていて、煙突が飛び出るための換気口もついていた。

 椅子もあれば、折り畳みの簡素な寝台もあって、物入れもあって、それでいてあたしたちが後から何かを詰め込めるようにまだ余裕があるようにしつらえてあった。

 

「これはまるでキャンピングカーだねえ」

 

 覗き込んだウルウは、まあちょっとばかし縦に長いから窮屈かもしれないけれど、それでもチビが二人とノッポが一人の女三人で寝起きするには十分すぎるほどの代物だった。

 

「こんなに立派なもの頂いて、大丈夫なんですか?」

 

 そりゃあ、貰えるものは何でももらうのが冒険屋だけれど、さすがにこれほど立派なものとなると気後れもする。恐る恐る訪ねてみると、オンチョさんは陽気に笑ってこう言った。

 

「なに、お代はもう頂いているんですよ。なんでも積立金があったそうで」

「積立金?」

 

 聞けば、なんでもあたしたちが冒険屋として魔獣を倒したり倒したり倒したりして稼いだ依頼料の結構な額がハネられており、それを積立金と称してこの馬車を購入していたらしい。そりゃあ、いずれ旅に出るのは確かだったんだから、積立金と言ってもいいのかもしれないけれど、しかしそれにしても試験に受からなかったらどうするつもりだったんだろう。

 メザーガなりの信頼と考えるべきか、そのときは黙っているつもりだったのか、悩むところだ。

 

 なお、ピンハネされていることにはウルウだけは気付いていた、というよりは、契約書に「将来のための積立金」なる項目が書いてあったということをしれっと言われた。

 そんなわけはない、いくらあたしでもそんな馬鹿みたいな見落としはしない、と言い張ったところ、なんとこの女、後生大事に取っておいているらしい契約書の写しを取り出して、見せてくれた。

 

 その()()を。

 

「なっ、なっ、なっ」

「契約書はちゃんと読まないと」

「詐欺じゃないの!?」

「帝国法上、いまのところ詐欺罪には当たらないらしいよ」

「むがー!」

 

 じゃあなんで何も言わなかったのかと思ってたらこの女、すました顔でこんな風に言うのだ。

 

「君の契約は君個人が結んだもので私の知ったことじゃなかったし」

「うぐ」

「リリオの契約も、ちゃんと注意はしてあげたけど、普通に見落としたからスルーした」

「ぐへえ」

「で、私の場合は特にお金に困ってなかったし、いざとなれば事務所辞めれば取り戻せたし」

 

 あたし達がぐったりとしているのを楽しそうに眺めて、オンチョさんはあらためて、こほんと一つ空咳を打った。

 

「そして、もう一つ」

「もう一つ?」

「車があっても、牽く馬がなければ困るでしょう」

「おお、もしかして!」

「こちら、当商会自慢の一品、東部の数少ない名産でもある、大熊犬(ティタノ・ドーゴ)にございます!」

「おおー!!」

 

 リリオがそれこそしっぽでもふりそうな勢いで喜ぶわけだった。

 

 そこにのっそりと立っていたのは、一頭の非常に大きな四つ足の犬だった。名前の通り、巨人の飼う犬のようだ。犬というより、ほとんど熊の域に近いわね、これ。体高があたしたちとほとんど同じくらいあるもの。

 犬を馬として車を引かせることはあるけれど、これだけの幌馬車を一頭で牽くには、なるほど、これくらい大きな犬でないと馬としては成り立たないわね。

 

 もふもふと長い毛はあたしの髪とよく似た飴色で、あたしとリリオが二人で乗っかったらそのまま毛に隠れてしまいそうでさえある。

 

 巨大な割に、というか、巨大だからこそというべきか、大人しく、賢い目をしていて、早速きゃんきゃんとうるさいリリオを前にしても吠えたりすることがない。背の高いウルウがぬるりと上からのぞき込んでも、怯えたりしない。うん。いい子だわ。

 

「ボイちゃんにしましょう!」

「うん、何が」

「この子の名前です!」

「なんでボイちゃんなの?」

「犬はボイと鳴くものです!」

「そうかなあ……」

 

 ウルウは釈然としないようだったし、あたしもそんな名前はどうかと思ったけれど、かといって他に妙案があるわけでもなく、結局成り行きでこの馬の名前はボイということになった。

 

「今年で三歳の雌です。食性は雑食。御覧の通り非常に賢く、簡単な指示を理解します。また丙種魔獣相手に十分に戦えるという記録もありますな」

「よく食べそうね」

「よく食べます。しかし、ま、なんでも食べますし、困ったら自分で狩ってきますので、生き物の多い地帯であればそこまで困らないでしょうな。あまり水は飲みませんが、食べ物から摂取しているようです」

「糞は?」

「一日に二、三回といったところでしょうな。健康であれば乾いたごろりとした糞をします。馬車にそれ用の塵取りがありますので、回収すれば乾燥させて燃料にもなります」

「西方の遊牧民みたいですね」

「燃料もなかなか馬鹿になりませんからな」

 

 あたしたちはそうしてしばらくこのボイと名付けた大熊犬(ティタノ・ドーゴ)の説明を聞き、それから親交を深めるために匂いを覚えさせ、その毛並みをたっぷり楽しんだ。

 

 そして、出発の時が来た。




用語解説

大熊犬(ティタノ・ドーゴ)
 大型の四つ足の犬。犬というより熊のようなサイズである。
 性格は賢く大人しく、食性は雑食。
 北から南まで様々な環境に対応でき、戦闘能力も高い。
 丙種魔獣相手に十分に戦え、乙種相手でも相性による。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 旅の始まり

前回のあらすじ

巨大な犬が仲間に加わった!
果たしてどちらが賢いだろう。


 チベタン・マスティフって知ってる?

 超大型犬なんだけど、あれをもう()()()()でかくした感じだよね、大熊犬(ティタノ・ドーゴ)ってのは。熊と犬の合いの子っていうか、熊がやや勝ってる感じ。

 

 私は何しろ無駄に背が高いから、小型犬とか見下ろすと、躾けのなってない犬だとよくキャンキャン吠えられてね。かといって大型犬ってそのキャンキャン吠える小型犬にかみつかれたりするもんだからなかなか近所の人散歩のタイミング合わなくて、っていうかそもそも犬の散歩させてる早朝とか深夜に出退勤してる私は何だったんだろうな。

 

 何の話だっけ。ああ、そうそう、犬。これだけ大型だとさあ、やっぱり私くらいの身長でもそんなに怯えないでくれるみたいで、むしろ私の方がこれ大丈夫な奴かなってビビるくらいのサイズだったんだけど、屈んで手を出してみたらふんすふんす匂い嗅いで覚えてくれて、おまけにお手までしてくれて、本当にこいつはいいやつだよ。

 そのくらいのことで気持ちが傾くくらいに私はちょろいやつなんだよ。

 

 最初この世界に来た当時だったらまず無理だったろうね、この接触。

 まず怖いし。

 でかいし。

 あとなんか衛生的にって気になってただろうし。

 最近なんかもうそこまで潔癖ではなくなってきた自覚がある。朝起きて胸元にリリオのよだれが垂れてた時はさすがにぶん殴ったけど、犬とか触る分には気にしなくなってきた。

 あ、手は洗うけどね、ご飯食べる前とか。

 

 しかしこの、ボイと名付けた犬は本当に賢い子だった。馬車と馬具でつなげるときも自分からつなげやすいような体勢とってくれるし、走る速さを指定したら律義に守るんだけど、障害物とか変わったものがあったら足を緩めて注意喚起してくれるし、御者が多少あれでもきちんと街道に沿って走ってくれるし、便利すぎる。

 

 下手するとリリオより賢いんじゃないかしらんと思ってしまったくらいだ。

 

 そのリリオは今、御者席で酸っぱい林檎(ポーモ)を齧りながら、暢気に鼻歌なんて歌いながらどこか私の知らない旅路の果てを見ている。こういう時のリリオの横顔は、少したくましいなって最近は思う。やんちゃ少年だったのがわんぱく小僧になったというか、あれ、上がったのか下がったのか。まあいいか。

 

「次はなんていう町に行くんだっけ」

「次はムジコという町ですね。ランタネーヨと同じプラート男爵領で、音楽で有名な町らしいですよ」

「音楽ねえ」

「ウルウは音楽、あんまり興味ありません?」

「こっちに来てから、酒場で吟遊詩人が歌ってるのくらいしか聞いてないからなあ」

「ちゃんとした音楽家っていうのは素晴らしいものですよ」

「まあ、期待しないで待ってるけどね」

 

 もともと音楽なんて、《エンズビル・オンライン》のBGMくらいしかまともに聴いたことがない。いや、あれだってあくまでも背景に流している音楽に過ぎないんだから、真面目に聴いていたわけではないよな。思えば私が生きていたあの町は、音楽には満ちていたかもしれないけれど、音楽を聴こう、楽しもうという精神には欠けていたのかもしれない。

 

「その次はレモの町です」

「聞かない名前だね」

「ウルウはみんな聞いたことないでしょうに。レモの町は東部でもまあそれなりの規模ですけれど、なんとあの放浪伯の領地の一つですね」

「放浪伯……ああ、あの、旅してないと死ぬ人だったね」

「言い方!? でもまあその人ですね。名産は蜂蜜酒(メディトリンコ)で、最近は癒しの聖女様が現れたとかで、長患いの人々が集まっているそうですよ」

「またなんか胡散臭いねえ」

「まあ多少は盛っているでしょうからね。それでも、医療がよく発達しているという噂は聞こえますよ」

 

 盛っていると言えば、まあ、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》も結構噂話の内容は盛られているからなあ。

 前に聞いた時は、なんだっけ、乙種魔獣を主食にしてる身の丈六尺を超える大女たちだっけ。私はまあ六尺、一八〇センチメートルは超えてるし、乙種魔獣を主な稼ぎとはしているけど、うん、あれ、そんなに違わないのか。

 

「もともとレモの町は温泉でも有名だそうで、これから冷えてくる時期は、ゆっくり温泉につかって休むというのもいいかもしれませんね」

「温泉……温泉かあ。いいね」

「たまにはウルウの即席温泉じゃない温泉にも入りたいものね」

「あれも高いんだよ」

「必要経費なんでしょ」

「まあね」

 

 私が野外伯をするときに必ず使用しているお風呂セット。あれに使っている温泉の水精晶(アクヴォクリスタロ)は、普通の水精晶(アクヴォクリスタロ)の倍以上の値段がする。それを肩まで浸かれるくらいたっぷり使うっていうのは、正気の冒険屋が行うべきではない沙汰であるのは私も重々承知の上だ。

 

 でもなにしろ私たちは魔獣狩りで意外と結構儲けているし、私個人で言えば、まだゲーム内通貨を一枚も両替していないのだ。リリオもビビッて両替してないのでいくらくらいになるのかわからないという不安はあるけれど、金は金だろう。多分。

 

「その次がようやくバージョですね。南部の港町です」

「港町かあ。ヴォーストも港ではあったけど、海の港は初めてだね」

「海はいいですよお。海水浴の時期ではないですけれど、ちょうど脂の乗ったのが獲れるころ合いですかね」

「リリオはいつでも食べ盛りだねえ」

「今から楽しみですよぉ! なんでもカヴィアーロとかいう、(サルモ)の卵を塩漬けにしたものがおいしいらしいですよ!」

「魚の卵なんておいしいの?」

「トルンペートは海の幸がわかってないんですよ!」

「あんただってはじめてでしょうに」

 

 まあ、多分カヴィアーロというのはイクラのことだろう。私が食べたことがあるのは甘口の醤油漬けだからちょっと違う感じになるだろうけれど、楽しみだ。

 

「そしてその次が、ハヴェノです!」

「リリオのお母さんの実家があるんだっけ」

「そうです! 私も初めてですけれど、メザーガには覚悟していけと言われてます」

「実家とは思えない物言い」

「いやまあ、なにしろ八代も冒険屋やってるような酔狂な一族ですし」

「これ以上ない冷静な物言い」

「自分が冒険屋やっているのであれですけど、正直子供に勧めようとは思いませんもんね」

「自分に子供ができると思ってる辺り現実が見えてないんじゃない?」

「なんですとー!?」

 

 車輪は巡り、くるくる回り、旅して次はムジコへと。




用語解説

・何事もなく次回へ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九章 静かの音色
第一話 白百合と陰気な町


前回のあらすじ

川を下り、陸の旅へと移った三人。
果たしてどんな旅が待っているのだろうか。


 プラート男爵領にあるムジコの町は、昔から多くの音楽家を輩出してきた音楽の町として有名です。東部はもともと他に何もない分、芸術は非常に洗練された土地柄なのですけれど、その中でもとくに音楽に秀でた町ということで期待していました。

 

 いましたけれど。

 

「陰気だね」

「陰気ね」

「陰気ですねえ」

 

 異口同音に思わずそう口にしてしまうほどに、ムジコの町は薄暗く疲れ果てた空気が漂っていました。ボイちゃんの牽く馬車に揺られて町に入っては見ましたけれど、いつもならやかましいくらいの喧騒に迎えられるはずが、立ち並ぶ宿も店もまるで軒並み葬儀の準備でも進めているかのように陰気です。

 空は抜けるように青く、お日様も心地よい良い陽気だと言うのに、なんだか灰色の靄でもかかったように町全体がそのような調子なのでした。

 

 そんな調子ですから、勿論音楽などひとっつも聞こえてきはしません。

 以前旅雑誌で読んだ限りでは、吟遊詩人たちが辻々で歌いあい、どの家からも楽器の音が絶えることはないなんて、まあ盛ってはいるんでしょうけれど、少なくとも音楽が絶えることのない町だというのは確かなはずでした。

 

「その雑誌、いつの?」

「まあ古いは古いですけれど、そんな何年も前のってことはないですよ」

 

 東部で書かれたものが北部まで届けられるくらいですから、必ずしも最新ということはないでしょうけれど、それでもこんなに極端な変化がそんなに短時間で起こるとはなかなか考えづらいものです。

 しかし実際には御覧の通りの有様で、道行く人々はみな俯いて人生の楽しみなど何一つないという風情ですし、そもそも出歩いている人々も少ないです。

 

 私たちと同じように外からやってきた商人たちもいますけれど、みな町の空気に困惑し、動揺しているようでした。

 

「こういう時は、とりあえず冒険屋組合の支部に顔を出してみましょう」

「そんなのあるの?」

「小さな町とか村だとないですけど、ある程度大きめの町ならあるはずですよ」

 

 道行く人を捕まえてなんとか道を尋ねて、亡者のうめきのようにもごもごとした返答をどうにか聞き取り、向かった先の冒険屋組合もまた陰気でした。

 

「《ムジコ冒険屋組合》……ここで間違いないはずですね」

「どこもこんな感じなの?」

「うーん。ヴォーストの組合館はもっと盛況でしたけれどねえ」

 

 首を傾げながら入ってみますと、成程内装はヴォーストに負けず劣らず、むしろ芸術的美観から言えば実際見事なもので、北部や辺境の質素を旨とする人間からするとちょっとした貴族の館のようですらあります。

 

 しかし、不思議なもので、どんなにすぐれた内装でもそこにいる人間次第ということなのでしょうか、誰も寄り付かないがらんとした室内にはきらびやかさとは裏腹の陰気な空気が満ちていて、たった一人受付で待ち構えている受付嬢も背中がすっかり曲がっています。

 

「あのう」

「…………」

「あのう?」

「…………はっ、もしやお客さんですか」

「でなければなんだと?」

「てっきり暇すぎて幻覚が見え始めたのかと」

 

 受付嬢はそんな風に言って、ぎちぎちと曲がった背中を伸ばして、にっこりと微笑んで見せました。

 

「ようこそ《ムジコ冒険屋組合》へ。ご用向きをお伺いいたします」

 

 ただまあ、目の下にはくっきりと隈ができ、唇もカサカサに乾燥したその笑顔は、不気味というほかにありませんでしたけれど。

 

「ええと、私たちは北部からやってきた冒険屋なんですけれど」

「北部から。それはまたはるばるよくおこしに」

「音楽で有名な町だと聞いて楽しみにしていたんですけれど、その」

 

 みなまで言うなとばかりに受付嬢はそっと手で制しました。

 

「わかります。つまり、こう仰るのでしょう。喋る死体どもがうごめいている、と」

「その自虐ネタ、エッジがきつくない?」

「我が冒険屋組合がここまで暇なのも、つまるところ住人一同あの調子で生気が枯れ果て、依頼しに来るだけの元気もないからなのです。多分組合所属の事務所も似たような感じでしょうね」

 

 受付嬢が語るには、これは入り口ばかり陰気なのでなく、町全体にわたって陰気であり、目に見えない部分まですべからく陰気なのだということでした。

 

「私も正直なところ仕事なのでここに座っていますが、今も帰って寝たい気持ちでいっぱいです」

「その割によく喋る」

「口から先に生まれたとよく言われていた私がこの程度ですので、街の皆さんはお察しですよ」

 

 かなり重症みたいですねえ。

 

 詳しく話を聞いてみたところ、このような次第でした。

 

 なんでも原因と思しきは、しばらく前から夜な夜な不思議な音色が流れてくるようになったそうです。

 

 最初のうちは、まあどこかの音楽家が寝るのも忘れて演奏に夢中になっているのだろうと、よくあることと誰もが思っていたのだそうです。

 そう言うことがよくあるくらい、音楽に満ち溢れた町だったのですね。

 

 ところがそれが毎晩続く。

 毎晩毎晩、夜になるとどこからともなく鳴り響き始め、そして夜が明けるとともにどこへやらと掻き消えてしまう。

 どうにも奇妙な事ですけれど、その音色の見事なこともあって、街の住人は不思議に思いながらもそっとその響きに耳を傾けていたそうです。悠長な方々ですね。

 

 しかしどうにもその不思議な音色が続くたびに、人々はだんだんと生気を奪われたかのように力が抜けていってしまい、気づけば今ではあのように、歩くのさえも億劫だ、呼吸するのも面倒くさいと言わんばかりに枯れ果ててしまったようです。

 

 もう少し早い段階で冒険屋が何組か原因の調査に乗り出したようでしたけれど、その冒険屋たちさえも音色の魔力に生気を奪われてしまって、結局原因の究明には辿り着かなかったのだそうでした。

 そして今では出がらしのようになった冒険屋たちは満足に働くこともできず、そもそも住人達も冒険屋に依頼を出すだけの元気もなく、町全体憂鬱状態の陰気な町になり果ててしまったのだそうでした。

 

 それだけ話し終えるのにも随分と体力を使ったようで、受付台に突っ伏したまま受付嬢はもごもごと続けました。

 

「そんなわけで、いまこの町は観光どころか滞在するにも向かないので、商人たちもみんなほとんど素通りという訳ですよ」

 

 これは、そう、つまり、そういうことです。

 

 冒険の匂いがしますよ、これは。




用語解説

・ムジコ(Muziko)
 プラート男爵領にある音楽の町。
 男爵の援助もあって音楽が非常に推奨されており、住民のほとんどは楽器を扱える。

・冒険屋組合の支部
 冒険屋の事務所をまとめる冒険屋組合は、ある程度大きな町には必ず支部を置いている。
 その支部では冒険屋口座の扱いや、町から集められた依頼の仲介などが行われている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊と手抜き飯

前回のあらすじ

動く死体がうごめく街、ムジコであった。


 町に入った時から嫌な予感はしていた。

 いや、誰も彼もが陰気にうつむいた町に入って何の予感もしないやつがいたら、そいつは底抜けの能天気か、そんな日もあるよねと言う余程他人への思いやりに満ちた奴だと思うが。そして生憎と私はそのどちらでもない。

 

 町並み自体はまあ、ランタネーヨと同じようなものだ。あれよりいくらか規模が大きく、あれよりいくらか優美で、そしてあれよりかなり陰気だった。

 

 天気も良く、気持ちの良い風も吹いているのに、どうしようもなく拭い去れない陰気さは、数少ない通行人たちの醸し出しているものなのだろう。ここまでくるともはや状態のいい廃墟なのだが、かろうじてそれを陰気な町に押しとどめているのがその通行人たちの存在なのだ。

 

 どちらがましかというのは私の口からは言いかねるが。

 

 馬車を牽くボイも、この陰気さを不気味に感じているのか落ち着かない様子で、何度か撫でてやって、それでようやくいやいやながらもこの街を歩きだしてくれたくらいだった。

 

 リリオの提案でやってきた冒険屋組合とやらもまあ酷いありさまだった。

 

 私はヴォーストの冒険屋組合の建物を見てはいないのだけれど、それでも機能重視で簡素な所の多かった北部の建物と比べて、この冒険屋組合とやらの建物は立派なものだった。

 

 雪が積もらないこともあるのだろうが、飾り窓に飾り煉瓦に飾りなんちゃらと、飾りと名のつかないものはないんじゃないかというくらい装飾に富んでいて、そしてそれが下品ではない範囲できれいに収まっているのは見事としかいうほかにない。

 

 ヨーロッパ旅行に行ったら、いまでもこのような建物があるのではないかと思わせる優美さだ。

 

 ところが中に入ったら何ということか、人っ子一人いない、気配もない、閑散とした広間がお待ちかねだ。何しろこの私が《生体感知(バイタル・センサー)》を使ってもようやく奥のカウンターに受付嬢が一人いるのを確認できただけで、恐らくほかの人員はみな奥に引っ込んでいるのだろう。そして外来客はゼロだ。

 

 リリオに聞いてもさすがにここまで閑散としているのは見たことがないというから、異常事態だ。

 

 亡霊(ファントーモ)呼ばわりされることもある私が言うのもなんだけれど、受付嬢のやつれ具合は私よりもよほど亡霊(ファントーモ)めいていて、それがなんとかにっこり笑う様はもう職人根性としか言えない。

 

 ここにきて私の嫌な予感はいまさら言うまでもなく高まってきていたのだけれど、とどめはリリオの笑顔だった。

 

 奇妙なメロディに生気を奪われているのだという不思議な話を聞かされて、この娘は笑ったのである。

 にかっと実に爽やかに、元気づけるように笑ったのである。

 

 あ、ダメだこれは。

 

 そう思った瞬間にはリリオは胸を叩いていた。

 

「まーっかせなさい! 私たちがその異変、解決して見せます!」

「また始まった」

「その『私たち』に私も入ってるの?」

「私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》はいつも一つです!」

「たまにはソロで活動してもいいんだよ」

「寂しいこと言わないでくださいよう!」

 

 まあ、しかしリーダーが言い切ってしまったからには仕方がない。

 冒険屋組合の受付嬢も、全く期待していないというか、そもそも何かに期待するだけの元気もないようなはかない笑顔で頑張ってくださいねと応援してくださったので、これはもう仕方がない。

 

 仕方がない。

 ああ、なんて嫌な言葉だろうか。

 

 ともあれ、私たちはやる気いっぱいのリリオを連れて馬車に戻り、宿を探すことにした。

 何をするにせよ、しないにせよ、拠点は大事だ。

 

 幸い宿はがら空きで、割と良い宿を、それも割安で取れたのは良いことだった。路銀には限りがあるしね。私が言えたことじゃないけど。

 

 ボイを厩舎に繋いで、ふわふわの毛をブラッシングしてやり、たっぷりの餌をやって、いざ私たちの食事となって、問題は発覚した。つまり、私にとっての大問題が。

 

 宿の食堂で金を払って昼食を頼んだところ、出て来たのはパンとチーズだった。

 昼食としてはちょっと簡素すぎるんじゃないかっていうレベルではない。

 そもそも切り分けてすらいない。

 スープくらいつけてくれてもいいんじゃないかと思ったら、竈に火も入っていない。

 

 やつれた顔の主が、のそのそと運んできて、ぼそぼそと聞き取りづらい声で言うのである。

 

「つらいんで、お好きなだけご自分でどうぞ」

 

 これにはさしものリリオでさえ呆然としたくらいである。

 

 一応腹も減っているし、金も払っているし、頂くはいただいたが、これがひどいものだった。

 チーズはチーズだ。これは安定している。東部は気候も安定していてチーズ作りが盛んだというが、成程おいしいものだ。だがチーズ以上のものではない。これは商品名:チーズであって、食事ではない。断じてない。

 

 そしてパンだが、これがもう、ひどい。いったいいつのものなのやら、カビこそ生えていないが、恐ろしく硬い。それを鋸みたいなパン切包丁でぎこぎこと切り分けて食うのだが、恐ろしく硬い。煎餅みたいなぱりぱりとした硬さではない。ぎちぎちと粘り気のある硬さなのである。

 仮にスープがあれば浸して食うという戦法も使えただろうが、これは、もう、どうしようもない。

 

 リリオはそれでも挑戦したが、いつものようにおいしそうという顔ではなかった。

 

 仕方がないので代金分ということで厨房を借りて、トルンペートが常備野菜と干し肉でスープを作ってくれて、これに浸して食った。食ったというか、消費した。

 

 これは夕食も期待できないと判断して、トルンペートは急ぎ食材を買いに出かけ、リリオは固いパンの塊をそれでも意地汚く削っては齧って消費し、私はそれを眺めながら決意した。

 

 何としてもこのくそったれな異変を解決し、せめてまともな食事を一食でもこの町で摂ることを。




用語解説

・くそったれな異変
 つまり、ウルウ個人として面白くない異変である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と不思議な音色

前回のあらすじ

珍しく奮起するウルウ。
ご飯は、大事だった。


 全くひどい食事だったわ。

 麺麭(パーノ)乾酪(フロマージョ)

 朝食ならまだしも、昼食にこれだけ! それもひどく硬くなった、いつのものとも知れない!

 

 普通の宿だったら怒鳴りつけてやるところだったけれど、なにしろどうにもこの町はいま、普通じゃない。宿の主人も寝ぼけた朝顔のようにぐんにゃりしちゃってまあ、とてもじゃないけど言ってどうにかなるというものでもなさそうだった。

 

 あたしが夕食の食材を買いに出かけた市もまあ酷いものだった。

 市に品を出すのは外からやってくる村人たちが主だから、それなりに活気はあるんだけど、肝心の消費者である町の住人たちが、まるで購入意欲もないまま惰性と生きるためだけに買っていくものだから、自然と売れ筋も決まっていて、なんだか市というより配給所みたいなことになっているわね。

 

 だからあたしみたいのが顔を出してあれこれ言いながら物を買うと、大喜びであたしの値切りにも応じてくれて、ようやくまともな商売ができたって言うのよ。

 これにはさすがに面倒くさがっていたあたしも、どうにかしてやらなきゃなって思うわよ。

 

 ウルウも宿の食事にすっかりご不満で、異変の早期解決にやる気を出していたみたいだし、変な形だけれど、これでようやく《三輪百合(トリ・リリオイ)》の意思も統一されたわけだ。

 

 あたしがちょっと多すぎるかなというくらいに買い出しを済ませて、宿に戻ってきたころには、そろそろ日が暮れそうだった。

 そしてあたしが宿の主の分も、そして代金を払って食材を渡してまで頼み込んできたので他の客の分も夕食の支度を済ませたころに、その不思議な音色は響き始めた。

 

 それは鉄琴のような、いいえ、もっと繊細で、ささやかな……そう、自鳴琴のような音色だった。反復し、同じ旋律を何度も繰り返す、あの美しい工芸品の音色だった。

 

 その旋律は、この音楽の町に来て、そしてそれ以前を含めても、初めて耳にする本物の音楽だった。ただそっと耳を傾けて、それだけのことを思っていたくなるような、そんな旋律だった。

 けれど、その音色に耳を傾け、心を傾け始めると、途端に体から力が抜け、心から何かが奪われるようなそんな心地に陥る。

 ぐらりと傾きそうな体をとっさに支えてあたりを見れば、宿の客たちもみな恐ろしく疲れたような顔つきで、ずっしりと宿の椅子にしがみついてようやく体を支えている。

 リリオでさえ、ぐらつく体をなんとかこらえて、食堂机に手をついている始末だ。

 

「……成程」

 

 そんな中で、一人平然とたたずんでいるのが、ウルウだった。

 ウルウは脱力しきった宿の客たちを改めて、一人何か頷いているのである。

 どうしてウルウだけが大丈夫なのだろうか。

 ウルウとあたしたちの違いは何だろうか。

 

 そして私は気付いたのである。

 

「そうか……もともとやる気が全然ないから……っ!」

「さりげなく辛辣だな、もう」

 

 ウルウは普段から着こんでいる頭巾付きの外套をひらひらと揺らした。

 

「《やみくろ》。この装備は衰弱をはじめとした状態異常を無効化する」

「……?」

「つまり、このメロディは()()()()()()だってことさ」

 

 相変わらず訳の分からないことを言って、ウルウはリリオの耳元に触れ、次にあたしの耳元に触れた。いや、違う、耳に何かを詰めたんだ。片耳には布切れを、そしてもう片耳には、柔らかい何かを。

 すると不思議なことに、途端にあたしの体は元の軽さを取り戻し、心もふわりと浮き上がった。

 リリオもそのようで、不思議そうにこ首を傾げた。

 

 音色はまだ耳栓越しにかすかに聞こえてきているのに、その効果はすっかり取り払われてしまったかのようだった。

 

 ウルウが何かを説明しているようだけど、耳栓でよく聞こえないよって身振りで示すと、少し考えて、それからもう一度口を開いた。

 

「《寝耳塞ぎ》。音属性攻撃に耐性を与える。ただの耳栓よりは、多分効果があるはず」

「あれ。急に聞こえるようになった」

「パーティチャットをオンにした。……えっと、魔法の、念話みたいなもの」

「成程」

 

 いつものよくわからない隠し芸らしい。

 聞けば、パーティ内でだけ使える念話のようで、慣れれば口を開かなくても使えるので、秘密の会話には便利そうだ。

 どうして今まで使わなかったのかと聞けば、ウルウは少し困ったように笑った。

 

「そんなに使う機会がなかったし、それに、耳元でささやかれるみたいで、」

「くすぐったい?」

「うるさい」

 

 要するに、リリオと試した時に散々やかましかったから、というのが理由らしい。

 

 ともあれ、これであたしたちの間での意思の疎通は問題なくなったし、音色による妨害も受けなくなった。妨害というか、呪いというか、まあなにがしかだ。

 

 あたしたちはさっそく宿を飛び出して、この異変を解決するべく、音色の出元を探し始めた。

 美味しいごはんと、気持ちの良い旅と、それから冒険屋としての矜持の為に。

 

 町は夕日の名残りをわずかに残しながら夜闇に包まれていき、音色は一層冴え渡り始めるのだった。




用語解説

・自鳴琴
 オルゴールのこと。ミュージックボックス。
 帝国、特に芸術の優れた東部では、細工物の技術が意外にもかなり発展している。
 手のひらに乗るサイズのオルゴールくらいは結構出回っていたりする。

・《やみくろ》
 ゲーム内アイテム。死神(グリムリーパー)専用装備。フード付きのマント。
 ボスMob「グリムリーパー」が低確率でドロップする。
 このMobは即死攻撃以外ダメージを受けない上にHPゲージが三つある、つまり三回即死攻撃を成功させないといけないという特殊なつくりで、倒すのには苦労する。
 衰弱、汚泥、汚損、即死を無効化する。
 また死神(グリムリーパー)専用《技能(スキル)》を開放するのに必要な装備の一つ。
『闇とともにあれ』

・《寝耳塞ぎ》
 ゲーム内アイテム。音属性の攻撃、状態異常に対する耐性を高める装備。
 店売りのほか、一部のMobから確率でドロップする。
 装備するとゲーム内のBGMやSEがくぐもって聞こえるようになるという特性もある。
 お使いのPCは正常です。
『寝耳に水たあ言いますが、その耳をふさいじまったら世の中何にも聞こえやしない。寝るのが一番てことですな』

・パーティチャット
 ゲーム内システム。パーティメンバーの間でのみ使用できるチャット機能。
 この世界ではパーティメンバーの間でのみ使用できる、音声を必要としない、念話のような形で再現されているようだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合と奇妙な音色

前回のあらすじ
謎のメロディに膝を折りかける二人。
しかしウルウのいつもの便利な奴で解決してしまうのだった。


 夜の街を、私たちは三人でまとまって駆け抜けました。

 私たち三人はそれぞれに足の速さも違いますし、広い町中を探すのであれば三人でばらけて走り回った方が効率は良かったでしょう。

 しかし、念話でつながっているとはいえ、この異変の中で行動を別にすることは危険に思われ、私たちは一塊になって警戒を強めることにしました。

 

 私たちは最初、単純に音色の強くなる方向を探せばよいと考えていました。先頭を行くウルウもまたそのように考えて走り始めたようでしたけれど、何度か首を傾げながら走り回って、そして広場に出たところで、立ち止まってしまいました。

 

「どうしました?」

「変だ」

「変?」

「音の出所がつかめない。町のあっちこっちに反響してるみたいだ」

 

 耳栓越しでよく聞こえないとはいえ、確かに、右を向いても左を向いても、そのどちらからも音が聞こえるような不思議なことになっています。

 

「町の造り自体が音が響きやすくなってるんでしょうか」

「音楽の町だっていうから、そうなのかもね」

「もしくは、魔法の音色だからって言うのも、あるかも」

 

 人々の生気を奪い取ってしまう不思議な音色です。そういうことがあってもおかしくはありません。

 とはいえ、近くまで行ってみればさすがに変化は出るものでしょう。

 

 私たちは宿を起点にして、まず一つずつ辻をつぶしていくことにしました。

 ウルウがこういうことが得意で、手早く地図を描きながら辻を改めていきましたが、いかんせんムジコも決して小さい村などではありません。ヴォーストよりはいくらか小さい町ですが、それでも立派な町です。町の四半分を改めるよりも先に朝日が昇ってきて、音色もかき消えてしまいました。

 

 私たちがもそもそと耳栓を取りながら宿に帰る道中、ウルウがぼそりとつぶやきました。

 

「まあ、改めたところも、本当に音源じゃなかったかどうかはわからないしな」

 

 そうなのです。

 一応それらしきものがないかどうかは確認しましたけれど、何しろ走りながらでしたし、具体的にどのようなものが音を出しているのかわからないままですし、実際のところ、今日調べたところが本当に何にもなかったのかどうかは全く分からないのです。

 

 なんだかそう思い知らされると途端にすさまじい疲労がやってきました。しらみつぶし戦法は良くありませんね。

 

 私たちが宿に辿り着くと、夕食を何とか済ませたもののそのまま寝台にまでたどり着けなかったらしい客たちが、食堂でぐったりと卓にもたれて寝入っていました。

 

 私たちは彼らを起こさないように食器を片付けてやり、残り物を温めて朝食にしました。

 

「……ひもじい」

 

 ウルウがまたもやぼそりとつぶやきます。

 実際にひもじいわけではないのです。しかし、しかし心がひもじいのです。

 いい宿に泊まっておきながら、自分たちの作った夕食の残りを温めて食べなければいけない、そんな疲れ果てた早朝に、そう思わずにはいられないのです。

 

 ウルウだけではありません。私もです。私もひもじいです。どうして音楽の町に来て音楽と戦って、それもろくな戦果も出せないままにこうして疲れ果てなければならないのでしょうか。

 私も体力には自信があります。少しのことではへこたれない胆力もあります。

 しかし、こうまで手ごたえがないと、さすがにへこむものがあります。

 

 トルンペートもいつものすました様子を崩してやさぐれた具合です。

 

「いや、自分の作ったもの食べてひもじいひもじい言われたら誰だってそうなるでしょ」

「ごめんなさい」

 

 ともあれ、何とか対策を考えなければなりません。

 私たちはゆっくりと朝食を済ませ、それから今日の作戦を練ることにしました。

 

「音色で探す作戦は失敗したね」

「しらみつぶしも現実的じゃありませんね」

「となるとやっぱり、原因が何かって言うのを考えないといけないわね」

 

 何事も急に起こったりするものではありません。異変には必ず前兆があるはずです。

 まずはそれを調べて、あてを見つけなければなりません。

 

 とはいえ。

 

「夜に自鳴琴が鳴り出すのにどんな理由があるってのよ」

「さっぱりですよねえ」

 

 こればっかりは座って考えてもどうしようもありません。

 町の人に話を聞いてみないとわからないことでしょう。果たして町の人に聞いて、答えてもらえるかどうかはわかりませんけれど。

 

「まあ、こうなったら仕方がないわ。腰を据えていきましょう」

「具体的には」

「まずは、また夜に備えてご飯の支度しておかなきゃね」

「今夜は早めに食べてから出ようか」

「昨夜はお腹ぺこぺこで走り回りましたもんねえ」

 

 健全な冒険は健全な食事から。

 トルンペートは重たげに肩を回しながら買い出しに出かけ、私は食器の片づけをはじめ、そしてウルウは、ちらほらと起き始めた商人や旅人たちに聞き取りを行っているようでした。

 あんなにおしゃべりが苦手だったウルウが自分から積極的にお話に行くなんて、私、感激です。

 

「君に任せたら日が暮れる」

「アッハイ」




用語解説

・ひもじい
空腹であること。また精神的に満たされないことをこの場合言っている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊と亡者宿

前回のあらすじ
音の出所を探して走り回るも、結局徒労となる三人。
どうしたものか。


 気の抜けたゾンビ映画みたいって言ったら大体伝わるだろうか。

 

 私ゾンビ映画あんまり見ないから多分そうなんだろうなって想像で物言ってるんだけど、予算低めの、青空の下で特殊メイクもいい加減なおっさんたちがうーあー言ってのそのそ動いてるやつが私のイメージしてる「気の抜けたゾンビ映画」だ。

 

 何の話って言って、宿の中の状況のことね。

 

 食堂のテーブルに突っ伏していた商人やら旅人たちもようやく朝日に照らされて起き出してきたんだけれど、これがまた一晩ですっかりやつれちゃってまあ。

 それでも、毎晩聞かされている住人よりよほどましなようで、徹夜明けに朝日がつらいよといったような状況なんだと思う。知らないかもしれないけれど、普通の人は徹夜って辛いんだ。普通じゃないことだからね。

 

 私も徹夜明けだけれど、何しろこのボディは優秀で、一徹二徹くらいだとびくともしない。まあ体はそうであっても心の方はそんなに持たないから、睡眠って言うのは大事だけれども。

 

 これだから嫌なんだこの町は、とぼやいている商人のおじさんがいたので、いくらかは訳知りなのかもと思って早速インタビューの時間だ。

 

「ちょっとよろしいですか」

「あ? ああ、冒険屋の娘さんか。昨夜はご馳走になったよ。ありがとう」

「作ったのは連れなので。ところであなたは、この町には慣れてらっしゃる?」

「まあ、慣れている言えば、慣れてるかな。ここ何年かはずっと利用してるよ。最近はこんな有様だが」

 

 ビンゴ。以前の町の様子を知っている人だ。

 何かヒントがあるかもしれない。なんていうと、アドベンチャー・パートみたいだな。

 

「何しろ付き合いもあるし、愛着もあるし、販路もあるし、こうなっちまってもなかなか迂回するってわけにもいかなくてね」

「こうなる以前は、普通の町だったんですか」

「勿論。いや、普通の町よりもずっと賑やかだったよ。町の住人はみんな楽器ができるんじゃないかな。朝から晩まで、どこかで誰かが演奏していて、やかましいくらいでね。静かなのは葬式のある時くらいだったよ。まあ、いまとなっちゃあ、あのやかましさが懐かしいもんだけど」

 

 さすがに葬式のときに静かなのはどこの人でも同じか。いや、私が知らないだけで、お葬式を賑やかにやる文化もあるんだろうけれど、生憎と私はそこら辺の文化史は専門じゃないので調べたことがない。面白そうなんだけどね。

 

「原因は何か心当たりあります?」

「原因ねえ。それこそ俺は旅商人だからね、いくらなじみとはいえ、そこまでこの町のことに詳しいわけじゃないんだ」

「じゃあはっきりわかるような何かがあったわけじゃあなさそうですね」

「多分ね。そのあたりは町の人間に聞いた方がいいだろうな。まあ、町の人間で、答えられるような連中がまだ残っているんなら」

「……よくそれで商売になりますね」

「まあ、町の連中も随分陰気になったけど、それでも死ぬまではいかないんだよ。生きている以上腹が減るし、腹がへりゃあ飯も食わなけりゃやっていけない。いくら面倒でも、腹は減るんだなあ」

「じゃあお腹が減らなくなるってことはないわけですね」

「そりゃあ、そうだろう」

 

 そうでもない。

 どこに線があるのかわからないけど、人間ある線を超えると、お腹が減らなくなる。減らなくなるというか、空腹感を感じなくなる。私の場合習慣で口に物を入れていたけれど、あれは別にお腹が空いて食べていたわけじゃあないしね。

 億劫になって動くことも減ると、消費カロリーが減って本当にお腹が減らなくなるというのも聞く。メンタルの面がやられてくるといよいよもって腹が減らなくなる。

 

 でもこの異変では疲れはするけれど、メンタルがやられるわけではなさそうだ。体の疲れにつられて気疲れもするけれど、心が疲れるから体が疲れてくるというパターンではない訳だね。

 まさしく生気、バイタリティを吸われている状況なわけだ。

 

 試しにと思って、私はインベントリから林檎(ポーモ)、ではない、ゲーム内アイテムの《濃縮林檎》を取り出して渡してみる。

 

「話して喉が渇くでしょう。おひとつどうです」

「おお。悪いね。疲れたところに甘いものはありがたい。いただこう」

 

 実際甘いものに飢えていたようで、商人はすぐにぺろりと平らげてしまった。

 そして変化は劇的だった。

 

「お? おお!? なんだ、本当に疲れが取れたぞ!」

「お気に召したなら結構です」

 

 そろそろ営業スマイルが疲れてきたから私もいただこう。

 この《濃縮林檎》は少ないながらも《HP(ヒットポイント)》を回復する効果がある。これで回復するということは、精神ではなく純粋に体力の疲労ということだ。まあ体が疲労すれば心も疲労するものだけど、それはつまり、心がすっかり疲れ切ってしまう前であれば、体を癒してあげれば心も回復するということでもある。

 

 まあ、心まですっかり疲れていそうなこの町の住人にはまた別の処方が必要だろうが、アイテムが効くというのを確認できただけでも幸いだ。

 

「うーむ、この町に林檎(ポーモ)を売りに来るといいかもしれんなあ」

「ところで、いつごろからこの異変が起きるようになったかはご存知ですか?」

「うん? そうだな……一年程前くらいからだったと思うよ。少なくとも、それ以前にはあんな音色は聞こえなかったはずだ」

「成程。成程」

 

 私は商人に礼を言って、席を離れた。

 十分な情報が取れたと思うし、それに、さすがに会話するのに疲れた。

 

 さて、まとめるとこんな感じか。

 

 昨夜の調査では、夕暮れとともにメロディが始まり、朝日が差し込むと同時に掻き消えた。

 つまり完全に夜というには、少し時間がずれているのかな

 

 それから商人から聞き出したことは、一年前に何かなかったのかを、町の住人に確認してみるといいということ。必要であれば回復アイテムを処方すればいいだろう。

 

 といったところだろうか。

 まあ、これでやってみる他にないだろう。




用語解説

・気の抜けたゾンビ映画
 作者もあまりゾンビ映画は得意ではないので、その時点からしてイメージでものを言っている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と亡者街

前回のあらすじ
ゾンビに回復アイテムを食わせると回復することが分かった。
そしてアドベンチャー・パートは終了だ。


 相変わらず生ぬるい活気しかない市で品を買いそろえて、あたしが宿まで戻ってくると、さすがに起き出したらしい商人たちがのそのそと出発の支度を整えているところだった。

 

「もう出ていくんですか?」

「何しろこの町じゃ大した商売にならないからね。馴染みの店におろしたら、あとはさっさと出ていくのがいいのさ」

 

 ということで、彼らはここ最近は一晩だけ泊まって、もうすぐに出て行ってしまうらしかった。

 まあ、あたしだって、売り上げがあるにしろないにしろ、あまり長居したいとは思えない町である。

 

 あたしは商人たちを見送って、それからまた今朝の開門で別の商人がちらほらとやってくるのを眺めながら、ああ、次の犠牲者かと何となく思ってしまった。

 

 犠牲者、犠牲者ね。

 そう言えば、この異変で人々は疲れ切っているけれど、人が死んだとかそう言う話は聞かない。

 単にあたしが聞いていないだけかもしれないけれど、しかし今日も少ないながら人出はあるし、煮炊きの煙はちゃんと上がるし、人々は静かながらも日々の生活を営んでいる。

 

 あたしは元のこの町を知らないけれど、もしも噂通りに朝から晩まで騒がしい町だったならば、もしかするとこの静かな環境を得たいがために、人々の生気を奪ってしまったのかもしれない。うるさい、だまれ、しずかにしろ、と、あの音色はそう言っているのかもしれなかった。

 

 それは突飛な発想ではあったけれど、しかし、厳かで静けさすら感じさせるあの音色を思い出すに、それは言うほど的外れな考え方ではないのかもしれなかった。

 

 あたしは買ってきた食材を厨房に持ち込み、早速今日の仕込みを終えてしまって、それからパーティ会議に臨んだ。

 

「さて、今日はどうしましょうか」

「昨夜みたいに我武者羅ってのはね」

「とりあえず、二人ともこれ食べて」

 

 つやつやと奇麗な、林檎(ポーモ)に似ているけれどそれよりももっとずっと甘い果実をウルウがくれたので、あたしたちは喜んでこれを頂いた。甘いものを食べると、それだけで頭の働きが良くなる気がする。徹夜で疲れたところに、ありがたい。

 

「さっき聞き込みしてるときに商人のおじさんにも試したけど、私の持っている品は、音色の衰弱を打ち消せるかもしれない」

「いつもの便利なやつね」

「数に限りがあるからやたらめったら使う訳にはいかないけど、聞き込みでここぞというときに活躍するかもしれない」

 

 成程、それはいい情報だった。

 一瞬、人体実験されたのではとも思ったけど、まあ毒ではないしいいだろう。

 

「他には何か聞き出せた?」

「異変は一年前くらいから起きているらしい」

「一年……長いのか短いのか、微妙な所ね」

「詳しくは町の人に聞いた方がいいとは言われたけど、誰に聞いたものか」

「それに何を聞くのかも大事ですよね。一年前に何が起こったのかって言っても、いろいろありますし」

「何が原因か、さっぱりわかっていないものねえ」

 

 原因がわからなければ、物を尋ねようがない。

 何かはっきりとわかりやすい理由があればいいのだけれど、何しろ音楽の町で音楽の異変が起きているというのは、湖で起こったひとつだけ向きの違う波を見つけて来いというようなものだ。

 

 極端な話、もしかすると、どこかの家で朝食の目玉焼きを焦がしたことが理由で異変が起こったりしたのかもしれないのだ。

 

 まあさすがにそこまで極端ではないだろうけれど、ある程度あたりをつけて行かないとどうしようもないのは確かだ。

 

「何か、何かねえ」

「ある程度目だったこと、変わったことだとは思うんですけれど」

「地震、雷、火事、親父……」

「それよ」

「え、なにが?」

 

 ウルウがぼんやりと呟いた言葉に、まああたしはピーンとひらめいちゃったわけよ。何しろこのトルンペートって言うのは頭も良くて器量も良い三等武装女中なのだ。

 

「何か目立った事件があったなら、必ず役場に記録が残ってるはずよ」

 

 あたしたちは早速連れだって町役場に向かい、たった一人なんとか最後の牙城を護っている受付に話を聞いてみることにした。

 

「たーんとお飲み」

「うっ、げっほごっほぐふっ……あれ、なんだか肩が……それにかすんでいた目も……」

 

 人参型のガラス瓶からどろりとした橙色の液体を飲ませたところ、亡者その五くらいだった役場の職員が、目に見えて元気になった。目の下の隈もとれ、肌には張りが出て、背筋もピンと伸びて、視線が定まった。余りの激変ぶりに何かやばい薬物だったのではないかと恐れおののくほどだった。

 

「どうです?」

「まったりとして、それでいてくどくない甘さが、すっきりとした後味とともに」

「味じゃなくて」

「は、そうでした。不思議です。さっきまであんなに疲れていたのに、今はもう全力で走り回れそうです」

 

 やっぱりやばい薬なのかもしれなかった。

 でもまあ、話が聞けるようになったのならそれでいい。

 

 あたしたちは早速、一年程前に何か変わったことがなかったかということを調べてもらった。

 

「変わったこと、ですか……うーん。一年位前………地震もなかったですし、嵐もなかったですし、火事はまあ、ボヤくらいならありましたけどね。特段変わったことというのも……」

 

 まあ早々うまくはいかないかなと思った頃に、ああ、と職員は手を打った。

 

「そう言えば去年の今頃でしたねえ。落雷に撃たれて亡くなった方がいらっしゃいましたよ。珍しいので記録に残っています」

「落雷に撃たれるって、相当運が悪いわね」

「ああいえ、妙な実験してたみたいで、そのせいじゃないかなという噂が」

「妙な実験?」

 

 首を傾げると、職員は困ったように笑った。

 

「ええ。錬金術師だったんですよ、その人」




用語解説

・人参型のガラス瓶からどろりとした橙色の液体
 ゲーム内アイテム。正式名称《特濃人参ジュース》。
 同じくアイテム《特濃人参》を加工すると出来上がる。
 飲むと衰弱、毒などの状態異常を回復するうえに《HP(ヒットポイント)》も大きく回復する。
『このとろみはいったいどこから出てきたんだ……?』

・錬金術師
 魔術師と錬金術師の区別はこの世界では曖昧なようだ。
 もっぱら自分自身を主体として魔法を行使するのが魔術師で、道具や機械を使って、薬や道具の形で魔法を行使するのが錬金術師と言われる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 白百合と錬金術師の館

前回のあらすじ
いかにもやばい液体を飲ませたところペラペラしゃべるようになってくれたぜ。


 町役場でお話を伺った後、私たちは早速、一年前の落雷で亡くなったという錬金術師の館を訪れました。

 

 館は、いろいろ実験をするからでしょうか、町の中心から外れた郊外にぽつんと立っていて、どこか寂しげではありましたけれど、お庭も広いですし、造りも立派なもので、北部でしたらちょっとした貴族の別荘として普通にありそうな具合です。

 

 こういう感じの言い回し繰り返していると、本当に北部って簡素なんだなって思われるかもしれませんけれど、仕方ないんです。北部も辺境も、雪が恐ろしく降り積もるので、装飾が多いとその部分が雪害で壊れて、どんどん損傷が侵食して家一軒つぶれれるくらいは訳ないんです。

 

 ぶっちゃけ辺境の実家も、毎年冬が来るたびにどこかしら彫刻やら装飾やらがやられるので、そのたびに修繕してもらってるくらいです。代々受け継いでるものじゃなかったら、もっとのっぺりした壁にでもしてやるからなって、毎年父がぼやいているくらいです。

 

 どのくらい積もるか想像できます?

 正面玄関は死守するとしても、裏口なんかは完全に埋まって、下手すると二階とか三階から出入りするのが普通です。

 

 なので、勿論最低限の装飾というか見栄えはありますけれど、東部のようにあまり細かい装飾ができないというだけなんです。

 北部や辺境の建物もきちんとした造りをしていますし、見れば感心するような装飾もあるんです。ただ、東部が優美すぎるというだけで。

 

 何しろ東部って平和な時代が長いので、戦争で壊されたものとかも少なくて、古い時代の装飾が残っているって言うのも大きいですよね。

 

 何の話でしたっけ。

 

 そうそう、錬金術師の館です。

 

「……見た感じ、そこまでエキセントリックではないな」

「えきせん?」

「突飛な造りではないね」

 

 そうですね。

 妙な実験をしていたとかいうのでなんかこう、もっととげとげしていたり、もっとまがまがしかったり、妙な機械が積んであったりとかそう言うのを想像していたのですけれど、全然そう言う感じではありません。

 ヴォーストの錬金術師街なんかまさにそんな感じでしたね。河に毒々しい色の液体垂れ流してるような、そんな感じの。

 

 でもこの館はそんなことがなくて、むしろ庭木なんかもよく手入れされていて、小綺麗な感じです。

 

 実際、東部らしい造りというか、美的景観にこだわった実に立派な館で、年を取ったら東部に住みたいという人の気持ち、よくわかるなあ、とそう思わせるような具合です。

 

「……住所、間違えてないですよね」

「いや、他にないしなあ。ほら、門扉にも売り出し中の看板ついてる」

「本当ですね」

 

 これだけ立派な建物なのですぐに買い手もつきそうなものですけれど、やはり郊外というのがネックですね。馬車とか持ってないときついですもん。それに錬金術の実験で汚れたり改造されたりしてる部分を修繕して、とかそこらへんも込みで考えると結構お高そうですし。

 つまり実際貴族か、結構なお金持ちの商人とかでもないとなかなか手を付けられない物件になっちゃうわけですかね。

 

 それに、仮に錬金術師が亡くなってすぐに異変が起き始めたとしたら、その後ほどなくして街の人々はそれどころではなくなっていたことでしょうし、買い手がつかなくても無理はありません。

 

「まあ考えていても仕方がありません。とりあえず、日が出ているうちに下見してしまいましょう」

「待って」

 

 私が早速門扉に手をかけると、ウルウが珍しく鋭く私を制しました。

 もしやウルウ独特の鋭敏な感覚を持って何かしらの危険を察知したのでしょうか。

 

 私が振り向くと、ウルウはもっともらしく頷いて、こう言ったのでした。

 

「一応ここ売家だし、勝手に入ったら不法侵入にならない?」

「……あー」

 

 成程、もっともです。

 実にもっともなんですけれど、この期に及んでそれ言う?みたいな感じではあります。

 

「考えてもみようよ。ただでさえ亡くなった人の家に侵入しようっていうだけで祟られそうな雰囲気あるところに、不動産屋からもいちゃもんつけられたらたまったものじゃないじゃない。そこらへんは万全に下準備してからでも遅くないと思う」

「あたしもウルウに賛成。それに、もしかしたら昼間に入っても何も出ないかもしれないし、夜になってからでもいいんじゃない?」

 

 うーん、トルンペートにまで言われると、さすがに私も折れざるを得ません。ちょっと突っ走りすぎたかなと言われれば、そうかもしれませんし。

 

 私がしぶしぶ了承すると、慰めるようにウルウが頭をなでてくれました。

 

「まあ、そんなに急がなくても、多分ここで間違いないよ」

「どうしてわかるんですか?」

「ここが東の端だから」

 

 そう残して早速不動産屋にむかう背中を追いかけながら、私は少し考えました。

 

 東の端にある館……そしてはっと気づきました。

 そうです、ここは東の端なのでした。

 町で一番先に夜が訪れ、一番先に夜が明ける立地。

 町の西が夕暮れでも、まず真っ先に夜闇に包まれ、そして朝日が最初に差し込む場所なのでした。

 それは、不思議な音色が聞こえ始め、そして消える時間と同じなのでした。




用語解説

・不法侵入
 誤解されることも多いが、ファンタジー・イコール無法ではない。
 帝国は帝王を頂いてはいるが、列記とした法治国家である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊と不動産屋

前回のあらすじ
住人がいないとはいえ人の持ち家に勝手に侵入しようとする三人組。
事案だ。


「ああ、ブラウノさんですね」

 

 町役場の時と同じく《特濃人参ジュース》を飲ませて回復させた不動産屋は、錬金術師と聞いてすぐにその名前を思い出してくれた。

 

「エメット・ブラウノさん、いや、博士か。博士、とか、ブラウノ博士って呼ばないと返事しない偏屈な人でしてね」

 

 奇麗に整頓されたファイルを取り出して、ぱらぱらとめくると、不動産屋は屋敷の見取り図を取り出してくれた。

 

「実際、帝都大学で博士号とった偉い人らしいんですけれどね、あたしらからすれば妙な実験ばかりしてる人って印象でしたねえ」

 

 私は見取り図を覚え終えると、そのままリリオとトルンペートに渡して、会話に集中することにした。

 《気さくな会話》というのは私の《技能(スキル)》の中でもかなり《SP(スキルポイント)》を消費する方なのだ。ゲーム風に言えば。

 

「錬金術師ということでしたけれど……」

「まあ、あたしらにとっちゃ錬金術師も魔術師も区別がつかないんですけどね、そう、錬金術を専門にしてるとかで、よく庭先に妙な機械やらいろいろ出して、妙な実験してましたねえ」

「妙な実験というのは……具体的には?」

「学者じゃないんで詳しいことはわかりませんけどね、なんだか変な色の煙が出てたり、爆発したりなんてのはしょっちゅうでしたよ。あの日もねえ、嵐だって言うのに庭先に妙な箱引きずり出して、鉄棒なんておったてるから、そりゃ雷も落ちますよ」

「鉄棒?」

「ええ、ええ、もう片付けちまいましたけど、こう、金属の箱にね、まっすぐ鉄の棒が突き立ってたんですよ。突き立ててる最中に雷が落ちたんですかねえ、それで感電死」

 

 実験とやらのよくはわからないが、もしかするとそれは落雷を捉えようとしたのかもしれなかった。避雷針ならぬ誘雷針で雷をとらえ、落雷の電気そのものか、そのエネルギーを得て、何かしらの実験に用いようとしたのかもしれない。

 さすがに専門外どころか、その実験とやらを見ていない私には判断しかねるが。

 

「遺体の発見はどなたが?」

「あたしです。何しろいい年でしたし、いつも妙な実験やってて危ないですから、あたしも気にかけてましてね。それで、嵐のあった日も爆発音なんかしてましたから、気になって翌朝見に行ったら、ひどい火傷負って倒れてるのを見つけまして。慌てて医者呼びましたけどね、そのときにはもうお陀仏でしたよ」

 

 私はこの世界の葬儀に関しては詳しくはないのだが、どの町や村にも必ず、他の神殿はなくても冥府の神の神殿やお社があり、そこで神官が弔うのだという。

 

 ブラウノ博士の遺体もそのように、冥府の神の神殿へと運ばれ、無縁仏としてささやかながらも葬儀が行われ、荼毘に付されたのち墓地に埋葬されたのだという。思いっきり仏教用語というか元の世界の慣習に基づいて言ってしまったけど、つまり縁者も身寄りもない孤独な遺体として、火葬されて埋葬されたということだ。

 

 一応火葬なんだな、この世界。衛生的ではあるだろうけれど、なんだか意外だ。

 勝手な想像だけど普通に土葬で、アンデッドとか出ると思ってた。考えてみれば今までそう言う依頼受けたことないし、もともとアンデッドなんてない世界観なのか、それともアンデッドになるから火葬するのか。

 

 まあいい。

 そう言うアンデッド観は、実際にアンデッドが出そうな依頼とか受けた時に考えることにしよう。私ゾンビ映画あんまり見ないし得意でもないから、できれば遠慮したいが。

 

「えー、その、妙な事をお伺いしますが、その後ブラウノ博士の亡霊(ファントーモ)が出たりとかは」

「しっかりと葬儀も行われましたしね、そんなことはありませんよ」

 

 一応聞いておいたけど、そういうものなんだ。やはりアンデッド対策としての一面もあるのかな。

 

「その後、館に妙な点などは?」

「そりゃもう、何しろ錬金術の実験やらなんやらで妙な器具やら素材やらがたくさん転がってましたよ。まあ、荒らすのも申し訳ないし、何しろ錬金術の道具なんてものは勝手がわからないもんで、買い手がついた時に処分するなり活用するなりしてもらおうと思って、そのままにしていますがね」

「すると……館にはお入りになられた?」

「そりゃあなた、入らなけりゃ改められないでしょう」

「その後も手入れを?」

「いやあ、何しろ葬儀だの掃除だのどたばたが済んだはいいけれど、その後、例の奇妙な音色が響きはじめたでしょう、あたしどももすっかり生気を抜かれちまって、とてもじゃないけどそんなそんな」

 

 フムン。

 これはちょっと妙な話だった。

 私たちは館の内部にまでは侵入していないので細かいことはわからないのだけれど、しかし、その後誰も出入りしていないとするならば、いったい誰が庭木の手入れをしていたのだろうか。また一年間も放置されていて、あれだけ優美な外観を維持できるものだろうか。

 

「その不思議な音色と、館については、関連付けて考えはしなかったと」

「いま言われりゃあ、時期も重なるし、怪しいかもと思いますがね、何しろ美しい音色だったもんだから、怪しむ前に聞きほれちまいましてね」

 

 それで気づけば、気にかけるどころではない衰弱状態に陥ったわけだ。

 

 これは、もしかするとこの不動産屋が特別抜けているという訳ではないのかもしれない。

 私だってこうして状況が符合しなければ無縁仏と謎のメロディに関連を持たせようとは思わない。

 

 ただ、この町の住人に関して言うならば、殊更、というべきかもしれない。

 

「こうしてひどい目にあわされてもねえ、それでも、ああ、いい音色だなと思うもんですよ」

 

 なにしろ、ちょっと感性が、音楽に偏り過ぎている。




用語解説

・エメット・ブラウノ(Emmetto L. Browno)
 帝都大学で魔力を他のエネルギーに、他のエネルギーを魔力に変換する論文で博士号を取った錬金術師。
 魔力炉の改良などで名を上げたが、年齢と、そして気ままに実験したいということで東部に移り住んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と謎の館

前回のあらすじ
不動産屋で話を聞いた三人。
錬金術師の館だったというが。


 あたしたちは、もしかしたら音色の正体と何か関係があるかもしれないと説得して不動産屋さんに許可を取り、それから今度は早めに夕食を取ってから、改めて夕時に館へとやってきた。

 

 昼間はただ優美だった館は、いざ夜のとばりに包まれ始めると、不思議な、淡い燐光に包まれたようだった。館の照明が次々に灯され、そしてあの音色が響き始める。厳かで、静けさすら感じさせる、あの自鳴琴の音色が。

 

「間違いないみたいね」

「というよりここまで異変たっぷりなのに今まで気づかなかった町の人もどうかと」

「郊外だし、住人も変人だったみたいだしねえ」

 

 あたしたちは例の耳栓のおかげで、音色の影響を受けはしなかった。

 しかしこの先は、音色だけでなくどんな脅威があるとも知れない。

 

 リリオは腰の剣を確かめ、あたしも仕込んだナイフを改めた。

 ウルウだけは、まあ、いつも通りぬぼーっと突っ立ってるだけだけど、こいつをどうこうしようという方が難しいし、いまさら何を言おうとも思わない。

 第一ウルウがどうにかしようと動いた時は、つまり大体が対象を爆破するか破壊するか、もしくは即死させるかという物騒な手段しか持ち合わせていないのだ。

 

 それならいっそ大人しく見物してくれていた方がずいぶん助かる。

 

 あたしたちは門扉をくぐり、よく手入れのなされた庭を進み、そして美しい装飾のなされた正面玄関に辿り着いた。玄関先はチリ一つなくきれいに掃き清められていて、それがかえって館の奇妙さを浮き立たせていた。誰も出入りしていないはずの館なのに、いったい誰が。

 

 あたしはらしくもなく乾いた唇を舌先で舐め、リリオも腰の剣に手をかけたままだ。

 

 不動産屋さんから鍵を借り受けたウルウはのっそりと扉まで進み――そしておもむろに、鍵を開けなかった。

 

 開けなかった。

 

 代わりにウルウはほっそりとした指先を伸ばして、獅子の顔を模した叩き金を丁寧に叩いたのだった。

 

「ちょっと、何してんの?」

「いや、一応礼儀かなって。ノッカー叩くの」

「住人もいないのに何を、」

 

 がちゃり。

 

 と音を立てて扉が開かれたのはそのときだった。

 あたしたちがとっさに身構える先で、扉は油切れの嫌な音もなくしずしずと開かれ、美しく整えられた玄関広間に通されたのだった。

 

「……迂闊なことはしない方がよさそうだ」

「あんたが言う?」

 

 ウルウは神妙そうにうなずいて、無造作に玄関広間に踏み入った。あまりにも無警戒すぎるだろう挙動だけれど、しかし、あたしたち三人の中で最も危険に対して対応力があるのはウルウであるのは間違いなく、この無造作な身のこなしでさえも大抵の危険は実際回避しうるのだ。

 

 まあ、本人は本当に至って無造作で無警戒なんだろうけれど。

 

 ウルウって臆病なくせに結構顔突っ込みたがるというか、危険だとわかっていても近くで見たがる悪癖があるわよね。リリオに言わせれば、()()()()()()()()()がウルウの定位置ってことなんだけど。

 

 あたしたちが玄関広間に足を踏み入れると、背後でゆっくりと扉が閉ざされた。

 閉じ込められたか、とも思ったけれど、鍵も開いたままだし、扉が閉まった以外は、魔獣が飛び出してきたり、亡霊(ファントーモ)が現れたりと言うこともなく、至って平穏なものである。

 

 しかし変化はすぐに訪れた。

 奥の間へと続く照明が音もなくともされ、その先の扉ががちゃりと開いたのだ。

 

「どうします?」

「あてもないし、言ってみる?」

「まあ罠だって言うなら、今更だしね」

 

 あたしたちは慎重に辺りを見回しながら問題の部屋に踏み入り、そして絶句した。

 

「……なにこれ」

「……なんでしょうこれ」

「お茶とお茶菓子」

「そういうことじゃなくて」

 

 でも、まあ、端的に言うならそう言うことだった。

 

 扉の先はこじゃれた応接室になっていて、よくよく磨かれた卓には、いま入れたばかりのように湯気を立てる甘茶(ドルチャテオ)の湯飲みが人数分、それに焼き菓子が皿に盛られて置かれているのだった。

 

「いい香りだ。いい茶葉を使ってるね。淹れ方もいい」

「あんたはいつだって暢気ね」

 

 甘茶(ドルチャテオ)の香りをそう評するウルウに呆れながら、あたしたちは慎重に室内を見回した。

 いったいどんな仕掛けかはわからない。しかし、何者かが潜んでいるのは確かなのだ。

 あたしたちを先回りし、扉を開け閉めし、明かりをともし、そして今度はこのように茶と茶菓子まで用意して見せた。

 いったい何のつもりかはわからないけど、でも怪しいのは確かだ。

 

 リリオが意を決して剣を抜き、そしてあたしもナイフを構えた。

 

 その瞬間、館はあたしたちに牙をむいたのだった。




用語解説

・語るまでもねえ
 わかるな?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合と館の謎

前回のあらすじ

いざ錬金術師の館に挑む三人。
中では奇妙なことがおこり始めて。


 誰もいないのに開け閉めされる扉。自然にともる明かり。

 そして今度は、私たちを待ち構えるかのように用意されていたお茶とお茶菓子。

 

 なんだかわかりませんが、とにかく何かしらの怪しい事態が起きている。

 

 そう悟った瞬間、私は剣を抜いていました。トルンペートもまたナイフを構えています。

 何がどこから来るのかわからないけれど、とにかく警戒を、と思った次の瞬間、ごうと恐ろしいほどの突風が吹いたかと思うと、私たちの軽い体はいともたやすく吹き飛ばされ、部屋からはじき出されてしまいました。

 

 これは抗おうとしても全くかなわないほどの猛風で、私たちは瞬く間に転がされ、突き飛ばされ、気づけば玄関扉から追い出され、そして目の前で扉がばたんとしまったのでした。

 

「あいたたた……」

「とんでもない風だったわね……リリオ、ウルウ、大丈夫?」

「私は大丈夫です。ウルウ? ウルウは?」

「あれ、ウルウ?」

 

 私たちは慌ててあたりを見回しましたが、そこにはあのウルウのひょろりと細長い影はどこにも見つけられませんでした。

 

 まさか、と私たちは顔を見合わせました。

 そう、そうに違いありませんでした。ウルウはたった一人、あの怪しい部屋に閉じ込められてしまったに違いないのでした。

 

「ウルウがどうにかされるとも思えないけど、分断されたのはまずいわね。すぐに戻りましょう」

「ええ!」

 

 しかし、私たちが急いで玄関扉にとりつくと、先ほどはあんなにすんなり開いたというのに、今度はまるでぴったりと溶接してしまったかのように扉はかたくなに閉ざされたままなのです。

 

「鍵! ああ、鍵はウルウが持ってるんだった!」

「閉じ込め案件は二階からの侵入と相場が決まってますけど……」

 

 とはいえ、そんな悠長なことも言っていられません。

 今この瞬間にも、ウルウがどうなっているのか知れたものではないのです。

 

 私は早速腰だめに構えて、勢いよく扉の取っ手のあたりを狙って蹴りつけました。大抵の扉ならばこれで壊せるのですけれど、余程頑丈なのか、私が軽すぎるのか、びくともしません。

 何度か勢いをつけて蹴りつけてもまるで巨木に体当たりしているような手ごたえのなさで、しまいにはトルンペートと二人がかりで飛び掛かっても、かえってこちらがはじき返されてしまう始末でした。

 

「しかたありません。剣をこのような使い方はしたくありませんけれど……」

「あんたこの前まき割に使ってたわよね」

「この際仕方がありません、切り開きましょう!」

 

 私は剣を握りしめ、全体重をかけて切りかかりました。

 大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻から研ぎだされたこの剣は、生中な鋼よりもはるかに粘り気があり、そして鋭い刃です。

 これで切りかかって平然としていられる扉などここにありました。

 

 まさかのまさか、ありました。

 

 まるで鋼鉄の塊でも殴りぬけたかのように衝撃が帰ってきて、私は余りのことに手をしびれさせて、思わず剣を取り落とすところでした。

 

「なっ、ばっ、リリオが切れないですって!? 怪力くらいしか能がないのに!?」

「後で覚えていてくださいよトルンペートぉ……!」

 

 しかし今はそれどころではありません。

 今この瞬間にも、ウルウがどうなっているのか知れたものではないのです。

 結構時間が経ってますけれど、まだ無事だといいのですが。

 

 私はもうこうなれば最終手段しかないと、剣を握りしめて雷精を集め始めました。

 

「ちょっ、あんたっ」

「もうこうなったら手加減抜きです!」

 

 刀身に雷精が集い、ぱりぱりと空中に放電が走り始めます。暴れたがり屋な雷精をうまく刀身にまとめて、その間に風精で扉までの間に道を作ります。この二つを精妙に操るだけのことに、私がどれだけの苦労をしたか。

 メザーガにはあっけなく弾かれてしまいましたが、あれはほとんど竜の粋にある人の業です。

 

 たかが扉、私の一閃でねじ伏せて見せます。

 

 私は剣を振りかざし、為にため込んだ雷精を一斉に放ちました。

 

「突き穿て――――『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』!!!」

 

 目の前が真っ白になるほどの閃光。

 耳が破裂するのではないかと言う轟音。

 

 地上から放たれた()()()()が、風の道を通って一直線に扉を、そして館を焼き尽くしませんでした。

 

 はい。

 

 焼き尽くしませんでした。

 

 あ、この流れ見たことある。

 メザーガの時と同じやつです。

 

 激しい光が去ったあと、呆然と見つめるその先では、衝撃でびりびりと揺さぶられながら、それでもいまだに焦げ跡程度が残るばかりで至って健在の玄関扉が堂々と立ちふさがっているのでした。

 

「……そげな……」

 

 余りのことにふらっと膝をついてしまった私たちの前で、不意に扉ががちゃりと開かれました。

 

「なにやってるのさ、騒がしい」

 

 そうしてひょっこりと顔を出したのは、暢気な顔をしたウルウでした。




用語解説

・「……そげな……」
意訳「……そんな……」


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と館の謎解き

前回のあらすじ

リリオの全力前回の攻撃が館を破壊しなかったのだった。


 さて、上等な甘茶(ドルチャテオ)とお茶菓子が用意された応接室で、どうしたものかと私が小首を傾げている横で、何やらものすごい轟音がしたかと思えば、リリオとトルンペートの姿が消えていた。

 何事かと思って応接室から出てみれば、これまたものすごい勢いで閉ざされる玄関扉。これはどうも、二人は放り出されたらしかった。

 

 いったん応接室に戻って、柔らかそうなソファに腰を下ろして少し考えてみる。

 どうして二人は放り出され、そして自分だけこうして平気でいるのか、ということだ。

 

 別に二人が心配ではないという訳ではないのだけれど、あれであの二人は乙種の魔獣だろうと平然と片付けてしまうベテランの冒険屋だ。条件次第だけれど、甲種の魔獣だって相手どれる。そこまで不安がらなくても、自分でどうにかすることだろう。

 

 それよりも問題は、なぜ三人まとめてではなくて、私と、そしてあの二人という分け方をされたのかだ。

 単に軽いか重いかなどという下らない仕分け方ではないはずだ。

 

 では他にはなんだろうか。

 私は甘茶(ドルチャテオ)の豊かな香りを楽しみながら考えてみた。

 

 性別。これはみんな一緒だ。お風呂に入るときにや着替えの時に確認もしている。

 いや、別にそこまで詳しく確認したのはリリオの生態調査をした最初の時くらいだけれど、少なくとも私だけ違うってことはないだろう。

 

 では年齢。

 私だけ二十六歳と少し年が離れているが、これはどうなんだろう。

 そもそもこのボディはこの世界に来てから初めて境界の神プルプラによって生み出されたものだから、肉体年齢的にはまだ一歳にもなっていないのかもしれない。

 なんにせよ私だけ年が離れているというのは同じだけれど、果たして年齢を理由に区別する理由があるのかどうかは不明だ。

 

 人種なんてどうだろう。肉体構成要素のいちいちが胡散臭い私はともかく、二人は辺境育ち、おっと、トルンペートは生まれは辺境ではなかったな。となると厳密には人種は違うのかもしれない。そもそものリリオ自体南部人と辺境人のハーフだし、取り上げるほどのことではないか。

 

 いっそ、私の自動回避があれを攻撃とみなしてかわしてくれたとかいうのはどうだろう。二人はそんな便利な機能付いていないから攻撃を受けて吹き飛ばされたというのは。まあそれだといくらなんでも私が何も感じなさ過ぎているし、これはないだろう。

 

 さて、さて、さて。

 冗長な考え事はここら辺にしておくとして、まじめに考えれば()()なるのだろうか。

 クッキーらしい焼き菓子をさくりとやりながら、私は思考をまとめる。

 

 ただ突っ立っていただけの私が除外され、武器を手に取った二人がクリティカルに狙われたこと。

 いまこうして暢気にお茶とお茶菓子を頂いていても異変が起きないこと。

 そもそももっと以前にノッカーを打ち鳴らしてドアを開けてもらえたこと。

 

 そして確信は、お茶を飲み干した時に得られた。ビンゴ。

 

 あとはそれを二人に伝えてやるだけでいいだろう。

 私は騒がしくなってきた外の物音に眉を顰め、そっと席を立った。

 

 そうして私は自分の脚で玄関まで向かい、物音が止んだすきを見計らって、ドアを開けてやった。

 

「なにやってるのさ、騒がしい」

 

 その先では丁度何やら大技でもぶちかまして弾き返されでもしたのか、呆然と膝をついている二人の姿があった。この手のイベントは正しい手順が必要だとはいえ、まさかリリオの本気の攻撃を弾き返したんじゃなかろうな、この玄関扉。

 

 だとすると並の魔獣よりもよほど気合が入っている。

 当たりさえすれば竜種でも丸焦げにして見せるとリリオが言い張るくらいのものだから、まあ多少盛っているだろうとはいえ、相当な威力だったはずだ。

 

「う、ウルウ!? 大丈夫なんですか!?」

「そりゃあもちろん」

「もちろんって」

「君たちこそ大丈夫? 攻撃はされなかったと思うけど……多分」

 

 もしかしたら一定以上攻撃仕掛けたら反撃を返してくるタイプだったかもしれないし、ちょっと危なかったかもしれないな。すくなくとも、いくら我慢強くても、破壊されるまで我慢するってことは、なさそうだし。

 

 玄関を出て二人の手を引いて立たせてあげると、背後でドアが閉まった。

 振出しに戻る、だ。

 ただし今度はちゃんとした攻略法を携えて、の振出しだけれど。

 

「攻略法? どういうことよ」

「君たち蛮族スタイルの脳筋ガールズは思いもよらないかもしれないけれど」

「流れるように罵倒された気がします」

「この手のイベントにはきちんとした手順をまもるという簡単な攻略法があってね」

「きちんとした、手順?」

 

 そう、手順だ。

 

「招かれざる客だ。せめてマナーは守ろう」




用語解説

・蛮族スタイルの脳筋ガールズ
 つまり冒険屋の基本スタンスである。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と館のもてなし

前回のあらすじ

あれだけてこずった館からひょっこり出てくるウルウ。
彼女の言うマナーとはいったい。


 手順、そう言われて、あたしたちは、ウルウのするようにしてみることにした。

 まず、リリオが少し背伸びをして、打ち金を鳴らすと、先ほどまであんなにもかたくなに閉ざされていた扉が、いともたやすくあっけなく開いてしまった。

 

「うそぉ……」

「言っただろう、一応礼儀じゃないかって」

 

 そりゃあ、打ち金があったら打ち金を鳴らして来訪を告げるのは当たり前と言えば当たり前だ。でもまさか、そんな簡単なことで開くようになるとは思わないじゃない。それも、あんな乱暴に追い出されて、しかも仲間が一人だけ取り残されているような、そんな状況で。

 

「先に乱暴を働いたのは君たちだろう」

「あたしたちが?」

 

 再度応接室を訪れて、緊張に視線を泳がせるあたしたちに、ウルウは笑った。

 

「招かれもしない客が、家内で武器なんか抜いたら、賊と思われても仕方がないだろう」

「そりゃあ、普通は、そうかもしれないけど」

「じゃあ、普通だったらこの光景をどう見る?」

 

 そう言われて、あたしは卓に改めて並べられた湯気を立てる甘茶(ドルチャテオ)と焼き菓子を見やった。

 

 これは、つまり、()()()()()()なのだろうか。

 

「あたしたちを()()()()()()()ってわけ?」

「その通り。安心して。毒見は済ませてあるから」

 

 ウルウは勝手知ったると言わんばかりに長椅子に腰を下ろして、甘茶(ドルチャテオ)を楽しみ始めた。

 こいつ、さてはあたしたちが苦労している間、こうして優雅に過ごしていやがったのだろう。

 

 そう思うと途端になんだか馬鹿らしくなって、あたしも、リリオも長椅子に腰を下ろしてお茶とお茶菓子を楽しむことにした。

 

 ウルウが上機嫌になるだけあって、甘茶(ドルチャテオ)は上等なものだった。

 まず茶葉がいい。きっと客人用と蓋に書かれているようなとっておきの茶葉を、しっかりと蒸らして入れた上質な甘茶(ドルチャテオ)だ。

 どうやったらこんな短時間で出せるのか、ぜひとも教えを請いたいくらいだけれど、多分それも館の不思議の一つなんだろう。

 

 リリオが美味しそうにほおばる焼き菓子も、実際見事なものだった。たっぷりの乳酪(ブテーロ)を混ぜ込んだらしい生地はさっくりとして軽やかな歯ごたえで、そしてまた重すぎない甘さがついつい後を引くのだった。

 

 あたしたちが焼き菓子を楽しみ、そしてお茶を飲み終えると、再び扉が開き、行く先を示すかのように明かりがともった。

 

「さあ、突然の客人をもてなして、次は何かな」

 

 何やらウルウは楽しそうで結構だ。なんだかんだこういうことを楽しむのはリリオよりもウルウだ。あたしはそれについていくので精いっぱいよ、全く。

 

 さらに奥の部屋の扉が開き、あたしたちは楽しげなウルウの後に続いて足を踏み入れた。

 

「ここは……書斎、でしょうか」

 

 リリオが言う通り、そこは書斎のように思えた。入って正面に飴色に年を経た書き物机が鎮座しており、部屋の左右の壁は立派な本棚になっていた。これだけの棚に詰め込まれた本というのは、物にもよるけれど、ひと財産だろう。

 ざっと背表紙を目で追ってみたけれど、みな難しそうな学問の本のようで、私には中身までは察せられなかった。

 

 あたしたちが書き物机に近づいてみると、そこにはてのひらに乗るような小さな自鳴琴が歌っていた。

 銀細工の箱に、木陰で遊ぶ少女の図案が彫り込まれた、見事な一品だった。

 そしてその音色は、この町に来てから付きまとうようになった、あの厳かで、静けさすら感じさせるような音色だったのだ。

 

「この自鳴琴が、異変の原因っていうこと?」

「恐らくね」

 

 あたしにはこの本当に小さな自鳴琴が、町全体を襲うような大それた異変の原因とはとても思えなかった。しかし実際に不思議な音色はいまもこの自鳴琴が奏で続けており、それらは無関係なのだとはとても言えなかった。

 

「なんだか……なんだか、寂しそうですね」

「そうね……ずっと、ひとりで、ひとりっぽっちで、こうして歌っていたのね」

 

 ウルウは名残を惜しむように、そっと自鳴琴の蓋に手をかけて、ぱたりと閉じた。

 それきり音色は夜の町から消え去って、そうして二度と町の人々を悩ませることはなかった。

 

 一晩明けて、あたしたちはあの不動産屋さんに、自鳴琴を持ち込んで事の顛末を話してみた。他の誰も知らないままで終わるよりは、せめて館の主を弔ってくれたこの人にくらい、知っておいてもらいたかったのだ。

 

 不思議なこともあるもんですなあ、と不動産屋さんはしみじみと自鳴琴を眺めて、それからこう言ったのでした。

 

「もしかしたら自鳴琴というより、館の幽霊の仕業だったのかもしれませんなあ」

「館の、幽霊?」

「死んでいるわけじゃないから、幽霊というのも変ですがね。長く大事にされたものには魂が宿ることがあるんだそうで、そう言う家や館なんてのが、たまにあたしらの業界で聞かれるんですなあ」

 

 不動産屋さんはどこかいつくしむように自鳴琴を撫でて、思いやるように言葉を紡いだ。それはまさしく、主を失った館への思いやりのようだった。

 

「何しろ館の主人は、ひとりっぽっちで亡くなっちまって、弔いもあたしと神官だけの寂しいもんでした。その間、町の連中は何にも知らずに賑やかに騒いでいたんですから、館の方でも怒っちまったのかもしれませんな。弔いの間くらいは、静かにしろってね」

 

 それはいつぞやあたしが思い浮かべた、うるさい、だまれ、しずかにしろ、と言っているかのようだという想像の通りだった。

 あたしたちがようやく、形ばかりでも館の主に敬意を払ったことで、館は満足したのかもしれなかった。

 

 これは、そんな、奇妙な話だった。




用語解説

・館の幽霊
 付喪神のようなものだろうか、この世界でも、長く使われた道具に魂が宿るという考え方があるようだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 静かの音色

前回のあらすじ

ようやくムジコの町の異変は落ち着いた。
奇妙な余韻を残して。


 町の人々はあれからすぐに元気を取り戻し始め、私たちが滞在していた短い間にももう賑やかな楽器の音色が響き始めていましたけれど、何しろ私たちも路銀を節約したい旅道中ですから、すっかり回復した賑やかな姿を拝見する前に、早々と出立することになりました。

 

 まあその時点でも十分に賑やかでしたし、なにより、あの厳かで、静けさすら思わせる音色を芯まで味わってしまった身としては、ただ賑やかなばかりの音楽というのはどこか上滑りして聞こえるものでした。

 

 そうして旅立った私たちは、ボイちゃんの牽く馬車に揺られて、東部のひなびた街道を、のんびりとことこと進んでいるところでした。

 

「なんだか不思議な体験だったね」

 

 膝に乗せた自鳴琴の奏でる音色を夢現に聞きながら、ぼんやり呟くのはウルウでした。

 

 結局あの自鳴琴はあれ以降、開いてもただ美しい音色を響かせるばかりで、あの町の人々を衰弱させたような魔性の音色は失ってしまっているようでした。

 折角なので墓前に供えようとも思ったのですけれど、不動産屋に是非持って行ってくれと渡されたのでした。

 

「結局旅人が来るまで何にも解決しなかった町のことなんか、そいつもすっかり愛想が尽きたことでしょうよ。旅の空にでも連れて行って、気晴らしをさせてやってくださいな」

 

 とは不動産屋の言葉でしたけれど、まあウルウもお気に入りのようですし、依頼料代わりと思って受け取っておくことにしましょう。

 

「結局あれはどういう異変だったっていうことになるのかしら」

「不動産屋のいう通りじゃないですか? 館の幽霊というか」

「付喪神ってやつかなあ」

「そのなんちゃらですよ、きっと」

「いやそういうことじゃなくて」

 

 トルンペートはボイちゃんの手綱を取りながら、なんとなく納得のいっていない様子で首を傾げるのでした。

 

「あの町のほとんどの人にとってはさ、結局なんでかわからないままはじまって、それでまた、結局なんでかわからないまま終わった異変ってことになるじゃない」

「まあ、そうなりますねえ」

「別に吹聴して回ったわけでもないしね」

「そこよね。そこがひっかかるのよ、あたし」

 

 確かに消化不良と言えば消化不良と言えるかもしれません。

 あの館は主人の死を悼むものがないことを悲しみ、毎夜ああして嘆きの歌を歌っていたのかもしれません。ところが、町の人は結局そのことを理解しないままいつまでもただ無気力に衰弱していって、そして、異変が解決した今も、結局そのことを理解しないままいつまでもただ無責任に楽しんでいくことでしょう。

 

 それはなんだかこう、むしゃくしゃするというか、もやもやするというか、すっきりしないものが残るのは確かでした。

 

「でもさあ、館も何も、町中の全員が主人の死を悼めとまでは思っていなかったんじゃないの」

「そうかしら」

「うるさい、だまれ、しずかにしろ、って、そんな具合で町中の人から生気を奪ったかもしれないけどさ、それは、確かにとてもとても強い思いなのかもしれないけどさ、でも、ただ、誰かにもういいんだよって言ってほしかったっていう、ただそれだけの話だったんじゃないかなあ」

「もう、いいんだよ?」

「館ってさ、結局住む人がいないと館としてはやっていけないじゃない。どれだけ愛した主人でも、やがて次の人が住んで新たな主人になっていく。だから、言い方はなんだけど、主人の死は乗り越えなきゃいけなかったんだよ、館にとっても」

「ふーむ」

「それでも悲しくて、やるせなくて、ああして毎晩泣いてしまうくらいで、でもいつかは切り換えなきゃいけなくて、そのきっかけを待ってたんじゃないかな」

「それがあたしたちだったって?」

「まあ、私たちじゃなくてもさ、誰でもよかったんだろうけど」

「うーん」

「納得した?」

「したような、してないような」

「まあ、旅をしていればそう言う葛藤も結構あるでしょうから、今後慣れていくでしょう」

「またリリオは知ったようなことを言う」

「旅の話はたくさん聞きましたから」

「耳年増ー」

「やーい耳年増ー」

「なんですとー!?」

 

 馬車はのんびりゆっくり、次の町へ。

 

「次はなんていう町だっけ」

「レモです。放浪伯領の小さめの町ですね」

「レモねえ。パッとしない名前」

「名前で判断するものでもないでしょ」

「まあそうだけど」

「レモは医療が進んでいて、特に温泉を利用した湯治なんか有名なんですよ」

「医療はともかく、温泉は楽しみだね」

 

 ウルウがよっこいせと体を起こして、するりと御者席から外をのぞきました。

 

「そんなに急いだってまだまだつかないわよ」

「旅は眠くなるねえ」

「全く、そんなこと言って、御者変わる?」

「居眠りしちゃいそうだ。遠慮しとく」

 

 とん、ぴん、しゃらり、風に揺られて自鳴琴、歌うはのんびり眠たげな歌。

 大きなあくびが、ひい、ふう、みい。




用語解説
   は
   ない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十章 温泉街なんですけど!?
第一話 鉄砲百合とレモの町


前回のあらすじ

音楽の絶えた音楽の町の異変を解決した三人。
次は温泉の町レモへ。


 東部の代わり映えのしない街道を進んで、それでも何度か盗賊や魔獣を退け、まあ何事もなくとは言わないまでもそこそこ平和な旅路の末に、あたしたちはようやくレモの町へとたどり着いた。東部は宿場もよく整備されていて、宿に困ることもない程度の道のりを、およそ三日くらいのものだ。

 

 レモの町に到着したのは、閉門ぎりぎりの夕刻だった。

 もう並んでいる列もまばらで間に合ったけれど、もう少し遅かったら、街を前に野宿する羽目になるところだった。

 

「ちょっとのんびりしすぎたわね」

「まあ間に合ったしいいとしましょう」

 

 門で冒険屋章を見せれば、安い通行税と共に、あたしたちはようやくレモの客となった。

 馬車での移動ってのは揺られているだけだから楽なもんじゃないかと思うかもしれないが、そんなことはない。存外これが疲れるものなのだ。まして見るものも特にない東部のひなびた街道ともなれば、いくら整備が良くなされていて進みやすい道とはいえ、すっかり疲れてしまった。

 

 これはもう宿を取ってすぐに休んでしまいたい。

 と思うのだけれど、なかなか具合の良い宿がない。

 

 門を入ってすぐの良い宿はみなすでに客で埋まっていて、賑わいの減る辺りの宿というのはどうにもうまくない。

 

 何もあたしたちがぜいたくを言っているわけではない。

 そりゃあ、女三人の旅だし、できればある程度安心のできる宿というものを求めたいのは確かだけれど、そこらの男よりもよほどに旅慣れて腕っぷしの優れた三人組だから、いざとなれば木賃宿でも気にはしない。舌の肥えたウルウ以外。

 

 問題はあたしたちのもう一頭の旅の連れであるボイと、そしてそれのひく幌馬車だった。

 小ぶりとはいえ立派な幌馬車だし、ボイもそこらの馬と変わりない立派な体格だ。

 きちんとした厩舎があって、馬車も留められるような宿でないと、あたしたちも安心して泊まることができない。

 

「とは言いたいんだけれど……」

「なかなかないですもんねえ」

 

 普段は朝から町に入って、商人たちが使うような宿を求めるのだけれど、生憎と今日はもうどこもいっぱいだった。こうなってしまうと町の反対側にあるもう一つの門まで行って宿を求めてみる他にないけれど、それにしたってたぶん似たようなことになっていることだろう。

 

 それに、それまでにすっかり日が暮れてしまうことは間違いない。

 レモの町はひなびた田舎町とはいえ、それでも、ヴォースト程ではないとはいえ立派な町で、規模だけで言えばムジコなんかと変わらないのだ。

 

「どうしましょうかね。こうなったら、冒険屋組合に宿借りましょうか?」

「冒険屋組合ってそう言うこともしてるの?」

「冒険屋の相互互助組織ですからねえ。ただ、割高ですし、部屋も期待はできませんし、勿論ご飯も出ません」

「むーん。でもこの際やむを得ないのかなあ」

 

 ウルウが不満そうにぼやき、リリオもあまり組合に借りを作りたくないと唇を尖らせ、そしてあたしはと言えば、現実的にどうするのが一番よさそうかを吟味していた。

 

 いい宿が埋まっている以上適当な木賃宿を借りるというのが一番安上がり。でも寝心地は最悪でご飯も出ないし、ボイは自衛できるとしても、幌馬車が心配だ。

 

 そこらの空き地に馬車を止めて野宿するってのは安いどころか金がかからない。でも気の利かない衛兵に金を握らせると割高かも。それに寝心地はあんまりありがたくない。

 

 冒険屋の組合ってのは止まったことがないけれど、まあでも木賃宿よりはよほどいい部屋が借りられることだろう。食事は出ないとはいえ、まあ厨房を借りるくらいはさせてもらえるだろうし、上等な木賃宿と思えばいい。それに組合の建物は立派なものだし、ボイも幌馬車も安全だろう。

 組合に借りを作ることになるとはいえ、あたしたちはこの町を出れば次はもう南部へと旅立つ予定だ。そもそも組合員で借りなんか作るほかないんだから、そこまで気にするのもばからしい。

 

「仕方ない。組合に行きましょ」

「はーい」

「うん」

 

 うだうだいうばかりで結論を出す気のない二人にそう言いつけて、あたしは早速馬車を組合の建物が集まる広場へと向かわせ、そして何やら騒動に気付くのだった。

 馬車のいく先から逃げ出す人々、悲鳴、怒鳴り声。そして少し行った先では、馬車が通れないくらいの人だかりができて、何かを囲んでいるようだった。

 

 強盗でも出たのだろうか。それが人質でも取っているとか。

 まさか街中で魔獣が出るって言うのも、まあヴォーストでは下水道からたまにあふれてくるのがあったりしたけど、そうそうないだろう。

 

 なんにせよ、騒ぎが起きているって言うのは、つまり、冒険屋の仕事だ。

 

「リリオ、ウルウ」

「はいはい」

「なんでしょうね、一体」

 

 あたしは二人に声をかけて、確認をお願いした。

 そうして二人が馬車から降りて確認したところによれば、聞きなれない名前が飛び出してくるのだった。

 

「茨の魔物が出た、ですか?」




用語解説

・レモの街(Lemo)
 帝国東部の小さな町の一つ。放浪伯の所有する領地の一つ。
 養蜂が盛んで、蜂蜜酒(メディトリンコ)が名産の一つ。
 また、地味だが温泉も湧いており、湯治客が絶えない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊と茨の魔物

前回のあらすじ

ひなびた田舎町レモへと到着した一向。
何事もなく退屈な町になりそうだと思いきや、何やら騒ぎが。


「茨の魔物が出た、ですか?」

 

 遠巻きにしている住人から話を聞けば、なんでも茨の魔物とやらが出て、それをみんなで逃がさないように囲んでいるとのことだった。

 

 茨の魔物とは何かと聞けば、近頃レモの町を騒がしている奇妙な魔獣で、ひとに憑りついては悪さをさせ、やがて育ち切ると宿主から離れて種をまき、またひとに憑りつくのだという。

 その繰り返しで増えていくので、もし前兆が見られたらすぐに確認し、また正体を現したら決して逃がさず倒してしまわなければならないという。

 

 成程。それはなかなか聞かない魔獣である。

 そしてまた、住人たちが逃げ惑うだけでなく、きちんと当事者として向かい合い、この魔獣をどうにかしようと対処しているのも他では見ない光景だった。大概の場合、冒険屋や衛兵に任せてしまうものだ。

 

 そういうと、話を聞いていた若者は照れ臭そうに鼻をこすっていった。

 

「へへっ、そんな情けない真似したら聖女様に申し訳が立たねえや」

 

 聖女様というのは何かと聞けば、いや、聞くのはやめた。どうも目つきが実にキラキラと輝いていて、話始めたらとてもではないが短くは済まなさそうだったからである。

 

 ただその聖女様が来ているのかと聞けば、丁度少し離れたところにいて、今もすぐに人が走って呼びに行き、それに応えて駆けつけようとしてくれているはずだが、どうしたって人の脚であるし、混んでいるから、いましばらくかかるということであった。

 

「ウルウ」

「好きにしなよ」

 

 これを聞いて頷いたのがリリオである。

 まあ、わかり切っていた。すぐにでも聖女様とやらが来て解決してくれるならリリオも手を出しはしなかっただろうが、すぐとはいかず、今現在困っているというのなら、手を貸すのもやぶさかではないというか、手を貸したがるのがリリオというやつなのだ。

 

 とはいえ、ここからでは私はともかくリリオは様子も見えない。

 

「肩車してあげよっか」

「魅力的ですけれど、また今度」

 

 私たちは人込みをかき分け、輪の中心へと向かっていった。

 するとその茨の魔物とやらが見えてくるのだが、成程奇妙な魔物である。

 

 人混みがある程度距離を取って輪になっているその中心では、ぐったりと少年が倒れこんでいる。この少年の背中のあたりからずるずると墨のように黒い茨が伸びては幾何学的模様を描き、ふらりふらりと周囲を威嚇するように伸び縮みしているのである。

 

 それに向けて、周囲の人たちが、桶や、ひしゃくなどで水をかけている。

 

「あれは何を?」

「温泉の水をかけてるんですよ。癒しの力が、茨の魔物に効くんです」

 

 近くの人に聞いてみたが、なるほど、致命的とは思えないが、茨はその温泉の水とやらを嫌がって避けるようである。

 

「人に憑りつくと聞きましたけど、これだけ人が集まっていたら、他の人に憑りついてしまうんじゃ?」

「なんでも心をしっかり構えていると、茨の魔物も取り付けないみたいで、こうしてこっちが強気だと、暴れて怖がらせるしかないみたいなんですよ。とはいえ、近寄れば本当に危ないですから、衛兵や聖女様を待つほかにはないんですけれど」

 

 成程。こうして逃がさないようにはできるけれど、退治するところまでは、普通の人には難しいわけだ。

 

 私が少し背伸びして遠くまで改めてみたけれど、いまだに応援は来そうにない。憑りつかれている少年の衰弱も酷そうだし、ここはひとつ、早めに片付けた方がいいだろう。

 

「リリオ」

「ええ」

 

 リリオが一歩踏み出して剣を抜いた。

 

「おい」

「おい、なにをしている」

「冒険屋です! 義によって助太刀いたします!」

「冒険屋」

「冒険屋だ!」

「気をつけろ、手強いぞ!」

 

 東部は事件が少ないから冒険屋が少ない。いても、より事件の多いよそへと出稼ぎに出てしまう。

 だから冒険屋に対する期待というものは微妙な所があったが、それでもリリオの剣を構える姿の隙のないこと、また小柄ななりに真剣な顔つきに、周囲も茶化したり、無理に止めるということはない。

 

 とはいえリリオは細かい制御が難しいところがあるからな。

 私が手伝ってやった方が確実だろう。

 

 私は《隠蓑(クローキング)》で姿を隠して一足に茨の魔物へ踏み込み、少年の背中から生えた根元をひっつかみ、これを勢いよく引きずりぬいた。私の存在に気付けなかった茨の魔物はさすがにこの突然の暴挙に対応できなかったらしく、ぐるんと内側に丸まりながら放り投げられる。

 

 どこへ?

 決まっている。

 

「はあっ!」

 

 雷精を集めた剣を振りかざした、リリオに向けてだ。

 

 茨の魔物は最後のあがきと言うようにリリオに向けて茨をばらりと吐き出したが、時すでに遅し、白熱した刀身がこの魔物を真っ二つに切り裂き、次いで横なぎの一閃がさらに十字に切り込み、ばらけかけた茨にとどめとばかりに目もくらむような放電が投じられ、これを黒焦げに焼き尽くしたのであった。

 

 さしもの茨の魔物もこの連続技には耐えられなかったようで、ばらばらに崩れては煙のようにかき消えていく。

 一泊遅れてわっと沸き上がった歓声から考えるに、どうやらこれでとどめをさせたものとみて、よいだろう。

 私は《隠蓑(クローキング)》を解いてリリオのそばに戻ってやった。もみくちゃにされたら、この小さな勇者はあっという間に人込みに埋もれてしまうだろうから。




用語解説

・茨の魔物
 異界からやってきたとされる魔獣。
 形而下においては黒い茨のような姿で認識される。
 人の心に取り付いて毒を育て、凶行に走らせて毒をまき散らし、繁殖するとされる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 白百合と宿交渉

前回のあらすじ

茨の魔物なる魔獣を討ち取った二人。
街の人には歓迎されたようだ。


 取りつかれていた少年が介抱され、人の輪が徐々に解かれ始め、そして二度目の私の胴上げが終わったころ、ようやく応援らしき衛兵たちがやってきました。

 完全武装の重鎧の歩兵で、なるほどこれならあの鋭い茨の相手ができるという訳でした。こんなものを着こんで走ってきてこの時間ですから、全速力でやってきてくれたのは確かでしょう。

 

「茨の魔物が出たというが、まことか!」

 

 それも事実確認をすっ飛ばして直接応援に来てくれたということですから、これは、レモの町がどれだけ本気で茨の魔物退治に精を出しているかわかるというものです。

 

 町の人たちが次々とそれぞれにがなり立てる報告を、重武装の衛兵は何とか聞き分けて、そして私たちの方へと目を向けました。

 

「あなたがたが、茨の魔物を退治してくれたという冒険屋か」

「ええ、勝手とは思いましたが」

「とんでもない、実に見事な手並みでけが人もなかったということで、大変助かり申した」

 

 これには私も、ウルウもきょとんとしました。

 たいていの町で衛兵というものは冒険屋と張り合うところがあって、むしろ問題ごとを起こす冒険屋の相手も多いもので、所によっては目の敵にしているところさえあるくらいです。

 それがこのように素直に頭を下げて感謝の言葉を公然と伝え、そしてそれが全く演技でなく誠意から来るものということがはっきりと伝わってくるのでした。

 

 これは東部でも珍しいほどに、すがすがしいほどに清廉とした衛兵です。

 それもこれは彼一人のことではなく、応援として駆け付けた五名の重装歩兵たち全員が同じような気持ちであるということでした。これにはまったく、驚かされます。

 

 ましてこのようなことをおっしゃるものだから、さすがの私も大いに驚きました。

 

「茨の魔物にはまったく困らされているのです。旅のお方に助けられて例もなしではレモの町の名が廃ります。ご領主様も是非とも歓待をと仰ることでしょう。ぜひ、ご領主様のお屋敷まで」

「いやいやいやいや!」

 

 大慌て手首を振る私に、ウルウが腰を曲げて耳元で尋ねてきました。

 

「ご領主様って、放浪伯のこと?」

「ばっ、そんなわけないですよ! 放浪伯の領地はみんな代官がかわりに治めているんです。レモの町は」

「レモの町は郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォ・ハリアエート様がお治めです」

郷士(ヒダールゴ)?」

「貴族に特別取り立てられた一代貴族です」

「それならリリオも貴族じゃない」

「領地持ちの郷士(ヒダールゴ)と貴族の娘とじゃ全然訳が違うんですよ!」

 

 このあたり、ウルウはあまりピンとこないようですけれど、まあ貴族社会というものは奇々怪々ですからね。

 

 私も貴族の娘ではありますけれど、兄が健在で当主になる見込みはありませんし、嫁婿に行くにしろ嫁婿を貰うにしろ結婚はすっかり父に諦められてしまっていて、私は貴族と言っても先のない貴族なのです。極端な話、貴族とつながりのある平民と言って何ら差し支えありません。父には権力がありますけれど、私にはおねだりするくらいしかできないのです。

 

 一方で郷士(ヒダールゴ)というのは豪商や豪農といった平民から貴族に取り立てられた一代貴族で、貴族と平民の間にあるとも言われます。基本的にはいくつかの領地を持つ領主が、村々や町に代官としておくのがこの郷士(ヒダールゴ)です。

 一代貴族とはいえもっぱら一族が代替わりするたびに叙任されていて、古い一族など下手な新入り貴族より歴史があったりします。

 

 同じ一代貴族でも騎士という身分がありますが、こちらは領地を持たないか、主人の領地を一部与えられて、武力を提供する関係となっていますね。

 

「お偉いさんというわけだ」

「そのお偉いさんにただの旅人が歓待されるなんてとてもとても恐れ多い話なんですよ!」

「なんとなくわかった」

「よかった」

「でもそれを断るのってもっと失礼じゃない?」

「うぐぐ」

 

 そう言われると困りますが、しかしこれはこの衛兵が言っているだけで公式なお誘いではありません。まだ大丈夫なはずです。

 

「恐れ多いというのでしたら郷士(ヒダールゴ)も無理強いはなさらないでしょう。ただ、義理堅い方ですので必ずお礼をと申し上げることでしょう。お泊り先など、差し支えなければ」

 

 そう言われて、私たちは困って顔を見合わせました。

 

「いえ、それが」

 

 つい先ほど辿り着いたところで、まだ宿が取れていない、どこかいい宿でもないかと探しているところなのですと正直に打ち明けると、衛兵はなるほどとうなずいて、それならばとこう提案してくれました。

 

「湯治宿ですが、立派な宿を一つ知っております。ささやかではありますが、そちらの宿の支払いを持つということでお礼にかえさせていただくのはいかがでしょう」

「本当ですか!」

「なにしろ小さな町ですので、ひなびた温泉宿ですが、飯もうまいし、温泉もよく効きます」

「ありがたい、ぜひ!」

 

 喜んで私たちが受け入れると、衛兵はにっこりと笑ってこう付け足した。

 

「それにいまは、聖女様もいらっしゃいますよ」




用語解説

郷士(ヒダールゴ)(hidalgo)
 貴族階級と平民の間にある身分。
 主に貴族が不在地主である領地で、代官として領地を治める家。
 一代貴族であるが、通常は長男が次の郷士(ヒダールゴ)として叙任される。

・ジェトランツォ・ハリアエート(Ĵetlanco Haliaeto)
 レモの街の代官として代々郷士に叙任されてきたハリアエート家の現当主。
 五十を超えていい加減代替わりを考えねばならない年だが、長男がせめて一度でいいから父に土をつけるまではと代替わりを渋っている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 鉄砲百合とレモの聖女

前回のあらすじ

衛兵からも感謝され、困惑する一行。
温泉宿を提供すると提案されてホイホイついていくのだった。


 何がどうなって話がまとまったのか、衛兵さんが温泉宿まで案内してくれるというので、あたしはボイの手綱を取って、その後をついていくところだった。

 

「で、結局聖女様ってのは何者なんです? 来なかったんでしょう?」

 

 応援に来てくれたのは衛兵だけだった様なので、聖女様とやらの姿は見れていないのだ。ウルウたちも、面倒くさそうだったから、とりあえず長そうになる話は放っておいて事態の解決を急いだとのことだったし。

 

 衛兵さんはあたしのぶしつけな質問にも笑顔を絶やさず、こう説明してくれた。

 

「毎度聖女様に頼っていては聖女様がカローシなさってしまいますから、小さなものは私たちだけで対応しているんですよ」

「カローシ?」

「働き過ぎて死ぬことだそうです」

 

 馬鹿馬鹿しい、そんな死に方があってたまるかとも思ったけれど、辺境で働いていたときは、割とそう言う時もあった。忙しいだけでなく、寒さが厳しかったから、何年かに一度は凍死する下男とかもいたし、凍傷もありとあった。

 奴隷かよと思っていたけれど、あれをもう少し厳しくするとそのカローシってやつになるわけだ。

 

「聖女様は癒しの力に長けた方でして、茨の魔物が出始めたころに、この町に訪れてくださったんです」

「癒しの力? 神官ってことですか?」

「いえ、聖女様はどの神の神官でもないようで、どちらかと言えば、魔術師に近いのでしょうね」

 

 魔術師で癒しの力を使うものはそんなに多くないと聞く。

 なんでも癒しの術というものは、簡単な擦り傷や切り傷ならともかく、大きなけがとなるとどんどん工程が複雑になってしまうそうだ。なので魔術師ではその工程をうまく組み上げられなくて難しい。

 神の力を借りる神官はそこを問答無用で組み上げるので、癒しの術だけで言えば神官に旗が上がるのだ。

 

 それを、神官よりも頼りにされている魔術師の癒しというのは、相当なものなのだろう。

 

「ご領主様の覚えもめでたく、町で施療所を開いているほか、レモの町の各所にある施療所や湯治宿にも往診に出かけてくださって、何とここしばらくレモの町では病死したものの数が半分以下に減っているのですよ」

 

 それはすごい話だった。実際に数字が出るほど効果が出ているということもだし、小さいとはいえ一人で町中を行脚しては癒しの術を惜しげもなく使っているという話がまたすごかった。それは聖女と言われるわけだし、それはカローシを心配されるわけだ。

 

「いや実際、聖女様の癒しの術は見事なものですよ。私の腕なんですがね、ご覧になってわかりますか」

 

 そう言えって衛兵さんはあたしたちに左腕を見せてくれたけれど、よくわからない。鎧に包まれているし、それ以外は特に変わったこともない。

 

「実はこの腕、以前茨の魔物に斬り落とされましてね。肘から下を落とされて、義手にでもするかと悩んでいたところ、見事にぴたりとつないでくれたんです」

 

 これにはあたしやリリオだけでなく、普段は表情を変えないウルウまで驚いたようだった。

 そりゃあ、そうだ。いったん切り落とされてしまった腕をつなぎなおすなんて、帝都の医者であっても難しいことだろう。まして、見てもまるで違和感を覚えないくらい自然に動かせる状態にまで持っていくなんて。

 

「それに癒しの力ばかりでなく、戦いの技も持っておられて」

「戦うの!?」

「人相手ではありませんけれどね。いざ茨の魔物が出ると、あの方は真っ先に駆けつけて、そして神よりたまわったという神剣で真っ二つにしてしまわれる。その苛烈な様は実に恐ろしいのですが、それだけ民草を思われているのでしょうなあ」

 

 癒しの術にたけていて、それで戦いまでできるなんて言うのは、とんだ規格外だ。まあ、茨の魔物は癒しの力に弱いということだったから、もしかしたらその癒しの力を剣にまとわせて切り付けているのかもしれない。そうすれば茨の魔物もたやすく切り裂けるのかもしれない。

 

「そんなすごい人がいるなら、あたしたち余計な真似しちゃったかしら」

「いえいえ、とんでもない。聖女様はお一人しかおられませんし、普段からよく働かれるお方で、私たちもどうしたらあの方を休ませられるかいつも考えているほどですよ。ですから今回の件は助かりました。私たちも随分慣れてきましたが、それでも毎回必ず誰かは怪我をして、聖女様のお手を煩わせてしまいます」

 

 それなら、よかったのだが。

 

 それにしても慣れてきたというが、いつもはどのように退治しているのだろうか。

 気になって尋ねてみると、こうだった。

 

「食客の騎士様がおられるときは、弓で遠間から仕留めることもできるのですが、我々では取りつかれたものまで傷つけかねません。ですから、この硬い鎧で茨を抑え込み、剣でひたすら切りつけるという泥臭いやり方です」

「冒険屋を頼ろうとは?」

「お恥ずかしながら、レモの町の冒険屋はみな我々衛兵と大差なく、また数も少ない。即時で対応ができんのです」

 

 成程。

 いつもあたしたちを基準に考えているから冒険屋と言えばあの程度あっさり倒してしまえるような印象だけれど、あたしたちって、実は結構強い部類なのだった。乙種魔獣を一人で倒せる冒険屋というのは実際多くないのだ。

 それに、今回だってウルウがあっさり茨を被害者から引きずり出せたからあんなに簡単に終わったけれど、仮にあたしとリリオだったらああもうまくはいかなかっただろう。それこそ同じような泥仕合になりかねない。

 

 そのような話をしているうちに、硫黄の匂いが強くなり、あたしたちは郊外の温泉宿に辿り着いたのだった。




用語解説

・カローシ
最近レモの町を中心にはやり始めた言葉で、働き過ぎて死ぬことを言う。
茨の魔物に憑りつかれた経営者などが従業員を手ひどく扱ってカローシに追い込むこともあるという。

・聖女
 神官ではなく、どちらかと言えば魔術師のように魔術で癒しを与えるという女性。
 茨の魔物を追って旅をしていたところレモの町に辿り着き、この魔物を根絶するため、また人々の傷を癒すために、日々働いているという。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊と温泉宿

前回のあらすじ

温泉宿までの道すがら、聖女様とやらの話を聞く三人。
どうやらどえりゃあすごい人のようだが。


 私たちが宿に向かう間に、領主屋敷まで走っていった遣いが、急ぎ感謝の書状を届けてくれた。

 領主は気の利く人のようで、ぜひとも直接会って感謝の言葉を述べたいがそれでは旅の疲れもとれないだろうから、温泉宿では最高のサービスをさせるので是非ともゆっくり休んでレモの町を楽しんでいってほしいという言葉が、たかが旅人に対するものとは思われぬほどに丁寧に書き連ねてあった。

 

 これほど誠実な人物であるから一介の衛兵にも慕われているわけだし、また街の様子も実にさっぱりとしているのだなと何となく思わせられる。

 この世界で為政者というものと、間接的にも触れたのはこれが初めてだったけれど、思いのほかにいい人のようである。

 

 辿り着いた温泉宿は、木造建築のひなびた温泉宿で、感動するぐらいにイメージ通りの「ひなびた温泉宿」だった。このまま殺人事件が起きて美人女将が解決してしまいそうな勢いさえある。いや、それはひなびているのか? まあいいか。私のイメージなどいつもいい加減だ。

 

 妙な想像して本当に殺人事件なんか起こった場合、このファンタジー世界で推理できるほど私の頭はよろしくないんだ。ぶっちゃけ《隠蓑(クローキング)》で誰からも気づかれないように行動できる上に超身体能力があるし、いざとなれば《影分身(シャドウ・アルター)》で分身残してアリバイ造りもできるし、ミステリ殺し過ぎるんだよな。

 

 その上での不可能犯罪を構築するって言うのがファンタジー・ミステリ業界の腕の見せ所なんだろうけれど、なんで私がそんなものを構築したり推理せにゃならんのだ。

 妙な想像はいい加減にやめよう。

 私は推理小説は推理しないで読むタイプなんだ。

 

 さて、衛兵が事情を説明して宿を取ってくれ、私たちは下にも置かない対応を受けた。

 ご領主様のお達しという以上に、この温泉宿の人たちも聖女様のことをよくよく知っていて、その聖女様の仕事を肩代わりしてくれたということに多大な感謝を示してくれているようだった。

 

「いやあ、何しろ聖女様、崇められるのが苦手みたいで、自分で下々の仕事も率先してなさるもんで、こっちはいつ倒れるんじゃないかとひやひやしていまして」

 

 とんだワーカホリックだ。

 なんだか途端に聖女様とやらに親しみを感じ始めた。

 

「まあ、しかし偶然とはいえお客様方はいい宿を引き当てましたよ。当温泉は旅でやられやすい腰痛肩こりその他筋肉の疲れに効くほか美容にもよく、しかも風呂の神官が常駐していて癒しの力が高められているんですよ」

「ほほう」

「しかも今なら聖女様が癒しの力を注いで下さって、その効能たるや収まるところを知らない高まりぶり!」

 

 なんか裏付けのない健康食品のうたい文句のようではあったが、しかしこの世界では神官の力だのなんだのが現実的に作用することはすでに体感済みだ。ただでさえ心地よさの約束された温泉にそれだけバフを積み上げたら、下手したら私など成仏するかもしれない。

 

 気を強く持っていこう。

 

 部屋まで案内してもらって、私はふと気づいて案内してくれた女中さんに聞いてみた。

 

「ところで、聖女様が働いているっていうけど、お会いできるのかな」

 

 これには女中さんは困ったように笑った。

 

「そうおっしゃるお客さん結構いらっしゃるんですけれど、聖女様、あまり目立つことがお好きでない方でして」

「あー」

「一応私ども女中に紛れて仕事はなさってるんですけど、絶対に聖女と呼ばないで欲しいとも言われてますし、そういう扱い受けたら来づらくなるからやめてくれとおっしゃられていまして」

「いえ、いいです。わかりました」

 

 女中は申し訳なさそうだけれど、むしろかなり親近感が増した。

 わかる。

 すごくわかる。

 

 私だって仮に同じ立場だったら。働かずにはいられないけどでも目立つのは嫌だという相当なジレンマに悩まされることだろう。

 願わくは彼女があんまり持ち上げられず、ほどほどな対人関係を築けますように。

 対人関係がクソな環境は、労働環境が地獄であるというのと同義だからな。

 

「もし聖女様にお会いになって、それとお分かりになっても、聖女様聖女様と持ち上げずに、見なかったふりをして普通の女中として扱って、そっとしておいてあげてください。あんまり緊張が続くと吐いちゃうこともありますので」

「わかりました。必ず」

 

 なんて親近感のわく女性だろう。

 もはや信仰の対象というより庭先に住み着いた小狸とかみたいな扱いだ。というか吐いちゃうってなんだ。聖女様大丈夫か、いろんな意味で。

 

 女中さんが去って、私たちは荷物を片付け、動きやすい格好に着替えて、それから、どうしようかと相談した。

 

「先に温泉入ります? お腹に物入れた状態で温泉入ると疲れますし」

「とはいえ、さすがに今日は疲れたわよあたし。今温泉入ったら寝る気がする」

「じゃあ、先にご飯だ」

 

 温泉飯を早速お願いすることにした。




用語解説

・バフ
 ゲーム用語。対象者に都合のいいステータス上昇効果、状態異常耐性などを付与する魔法、特技、アイテム、その他。
 逆に都合の悪いステータス変動を引き起こすものをデバフという。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 白百合と温泉飯

前回のあらすじ

温泉宿に辿り着いた三人。
風呂に入るか、飯にするか。というわけで今回は飯レポ回。


 食事をお願いすると、食前酒の代わりになぜか白湯が出てきました。

 

「これは」

「当温泉のお湯でございます」

「ほほう」

「当温泉のお湯は飲用でも効果がありまして、お腹を整える効果があるんですよ」

 

 なるほど、飲泉というやつか、とウルウが言いました。

 ウルウも温泉には詳しくはないようでしたけれど、それでも聞いたところによればなんでも世の中には温泉に浸かるだけでなく温泉のお湯を飲むという文化があるらしく、そしてこれが実際に効果を持つものもあるということでした

 

 私などは「まさかー」ととても信じられないものでしたけれど、実際に飲み干してみて、お腹がぽかぽかとして、そしてくるくるとお腹が減ってくるのを感じるとこの効果を実感しました。

 

「リリオ、それは空腹時にただのお湯飲んでも発生する効果だからね」

 

 あれれ。

 まあいいです。要は気持ちの問題です。

 

 私たちはそれぞれに飲泉を楽しみ、それから並べられた料理に手を付けることにしました。

 

 料理は源泉の蒸気を利用した蒸し物料理というもので、これは山の温泉などを活用する土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちの料理なのだということでした。当初は自然に沸いている高温の源泉で野菜や肉を煮ることから始まったらしく、今では蒸し物文化が大いに発達したのだそうです。

 

 この温泉宿では料理人に土蜘蛛(ロンガクルルロ)を招いており、そう言った山の温泉仕込みの土蜘蛛(ロンガクルルロ)料理がいつでも楽しめるということでした。

 

 さて、殻のままの卵があったのでゆで卵かなと割ってみようとすると、ウルウに皿に開けるようにと不思議な事を言われました。

 言われるままに殻を割ってみると、とるん、となんと半熟の卵が柔らかな姿を見せてくれるではありませんか。

 

「温泉卵っていうやつだね」

 

 なんでも温泉のお湯の中でも、湧くほどではない熱さのお湯につけておくと、卵の黄身の方が先に固まってきて、そして全く固まり切るということはなく、このような不思議にとろとろと半熟卵になるそうでした。

 

 岩塩をかけて召し上がれとは言われましたけれど、ウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》から魚醤(フィシャ・サウツォ)を取り出したので、私たちもお相伴にあずかることにしました。塩気と風味がたまりません。なんでも鹿節(スタンゴ・セルボ)などで取った出汁で割ったものだともっとおいしいとのことでした。あと(リーゾ)

 

 蒸した葉野菜を布いた上には蒸した根菜や芋が、そしてまた一羽を丸々蒸しあげた蒸し鶏に、きれいに切り分けられた蒸し豚が並べられ、これに塩味のたれ、辛口のたれ、また甘口のたれが添えられていました。

 蒸し野菜も蒸し鶏もしっかりとした味はついていて、そのままでも美味しくいただけましたが、このたれというのがまたうまい具合に味を引き立ててくれました。

 

 私は舐めてみるとそれだけで涙が出そうな辛口のものを好み、ウルウは香草や柑橘で香りをつけた塩味のたれが気に入ったようでした。トルンペートはどろっとした味噌のような甘口のたれを好み、こればかりを食べていました。そして三人ともが時折魚醤(フィシャ・サウツォ)や他のたれを交えて、全く飽きの来ない味わいでした。

 

「蒸し物料理ってあんまり食べたことないですけど、美味しいですねえ」

「水をたっぷり使うからかしら。辺境は言うほど水が多いわけでもないし」

「雪降るのに?」

「雪降るからよ」

 

 ウルウはよくわかっていないようでしたけれど、雪が降れば外の井戸は使えなくなりますし、下手すると井戸水も汲み置いていると凍ります。雪を解かせばいいというのは素人考えで、断熱効果に優れたこの氷を解かすには相当な燃料が必要なのでした。トルンペートの受け売りですけど。

 

 私は異文化に関しては体当たりが基本で不勉強なのですけれど、成程辺境の冬って蒸し物には向かなそうな気候ですよね。

 

 このほかに私が気に入ったものに、蒸し麺麭(パーノ)がありました。

 普通私たちが麺麭(パーノ)と呼んで食べるのは、発酵させるにしろさせないにしろ焼き窯で焼き上げたものです。この蒸し麺麭(パーノ)というものは貴族の娘である私にしても、その侍女でいろいろと調理法にも詳しいトルンペートにしても初めてのようで、そのもっちもっちとした食感には感動しました。

 

 またこの蒸し麺麭(パーノ)の素朴な甘さが、うまいこと蒸し物料理たちをふっくらと受け止めてくれるのでした。

 

「リリオ、リリオ」

「ふぁんふぇふ?」

「ちゃんと飲み込んでから返事しなさい」

「なんです?」

「こう、蒸しパンにこうやって切れ込みいれるじゃない」

「ふむふむ」

「で、こうやって肉と野菜とたれをはさむ」

「おお」

「おいしい」

「おおー!」

 

 美味しいものは究極的には「おいしい」の一言しか言えなくなるものですけれど、これがまた、たまらなく美味しかったです。そして自分の手で組み立てるという楽しさが、また私を驚かせてくれました。

 食事と言えば自分で作り終えた後に食べるか、完成した状態で提供されて食べるのが普通ですから、こうして食べながら組み立て、組み立てながら食べるというのは、成程普段の食事と違って面白いものです。

 まして貴族の娘としての教育を受け、何かとトルンペートをはじめとした侍女に世話を見てもらっている私にとって、これは新鮮な楽しみでした。

 

「魚介の蒸し物もおいしいんだけどね」

「魚を蒸すんですか?」

「魚とか、エビとか、貝とか」

「おおー」

「酒蒸しにするのもいいよね」

「いいわねえ。いつだったか、七甲躄蟹(セプコロラカンクーロ)の酒蒸ししたじゃない」

「あれ美味しかったですねえ」

 

 女中に聞けば、川海老や魚の蒸し物も朝食の献立にはあるから、楽しみにしてほしいと太鼓判を押されたのでした。




用語解説

・飲泉
 温泉を飲むこと。またそれによって病気の回復などの効能を得ようとする行為。
 温泉の性質や採取環境などによっては下痢を起こしたりする場合もあるので、安全が確認されている飲泉用のお湯を飲むことをお勧めする。

土蜘蛛(ロンガクルルロ)料理
 と言っても、土蜘蛛(ロンガクルルロ)も多くの氏族を抱え、多くの地方に住んでいるので一口には言えない。
 ここでは山に住む地潜(テララネオ)たちが、温泉を利用した加熱処理を基本とする蒸し物料理が提供されている。
 特に火山地帯に住む者たちは浸かる、飲む、調理に使う、鍛冶に使うと生活のほとんどに温泉がかかわることもあるという。

・温泉卵
 温泉のお湯で加熱したゆで卵。
 特に全体が半熟であるものを言うが、温泉で加熱したものであれば固ゆでであろうと温泉卵ではある。

・蒸し麺麭(パーノ)
 ここでいう蒸し麺麭(パーノ)は、いわゆるチーズ蒸しパンなどの菓子パン系のものではなく、中華料理などで供される饅頭(マントウ)花巻(ファーチェン)のような形である。
 焼き窯と言えば鍛冶や陶磁器に用いていた地潜(テララネオ)は、貴重な焼き窯を食事の為に一つ潰すことを好まなかったのであろう、彼らが麺麭(パーノ)といったらこの蒸し麺麭(パーノ)を指す。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 鉄砲百合と癒しの温泉

前回のあらすじ

温泉宿自慢の蒸し物料理をたっぷり楽しんだ《三輪百合(トリ・リリオイ)》。
飯がすんだら、お風呂回。


 さて。

 お腹がいっぱいになってもうだいぶ横になりたい気持ちにはなってきたけれど、でも温泉だ。温泉に行かなければならない。主人であるリリオが元気に向かうのだから、侍女である私もそれについていかなければならない。というのは建前で実際のところ、折角ただで入れる温泉を逃してはもったいないというのが本音だ。この際リリオはどうでもいい。いや、どうでもよくはないけど。

 

 たっぷり、とは言っても私たち二人よりは少なめに食事を楽しんだウルウは、満腹でお風呂に入るとろくなことがないとはぼやきながらも、準備万端であるあたり誰より楽しみにしている可能性があった。なにしろ温泉の水精晶(アクヴォクリスタロ)を箱買いして毎日入っているような女だ。相当な風呂好きであることは間違いない。

 

 この宿でも売っていたので箱で購入しているのを見かけたし。

 

 それが本物の温泉となれば、ウルウがこれを拒む理由など何一つないだろう。

 

 あたしたちは女中の案内で温泉に向かった。

 脱衣所は簡素なもので、ちゃちな鍵をかけられる棚が並んでいて、あたしたちは三人で横並びに棚に衣服をしまい込んだ。鍵はヒモが通されていて、首にかけられた。

 

 ひなびた湯治所という印象だったのでそこまで期待はしていなかったのだが、なかなかどうして、浴場は立派なものだった。足元はタイル張りで、湯舟は自然の岩をうまく生かして囲われており、これがまるで野外の露天風呂のような野趣あふれるおもむきだった。

 湯気が抜けるように天井近くには外気とりの窓がついていて、そこからもうもうと立ち上る湯気が抜けていっていた。

 

 湯はどこかから樋で流されているらしく、そして流れ出た湯はそのままあふれ、床下に流れ込んで、近くの川なりどこかへと流れていく仕組みのようだった。

 

 浴場はほどほどに人入りがあり、さっそくウルウは嫌そうな顔をしたけれど、それでも帰るとは言いださないあたり随分成長したように思われた。話に聞いていたところ、初期のウルウは姿を消す魔法を使ってまで風呂屋に通ったというから大概だ。

 

 洗い場はどこの風呂屋でも同じような造りで、あたしたちは持ち込んだ石鹸で体を洗い、さっぱりと泡を流し、手ぬぐいで髪をまとめて、早速温泉に浸かることにした。

 

 温泉はうまい具合にお湯の温度を操作しているらしく、恐ろしく熱くて長々と入っていられないようなもの、ほどほどに熱くて心地よいもの、ぬるめで長く入っていられるもの、また冷やされた冷泉などがあった。

 

 リリオが最初戯れに恐ろしく熱いものに浸かろうとしてみたが、足先だけで降参した。ウルウは浸かるところまで行ったが、一分ほどで無理だと出てきた。あたしはそんな二人を眺めてから指先を浸して、無理は止めておこうと決めた。

 

 結局三人で使ったのは、ほどほどに熱いものである。これは普段はいる風呂屋と同じくらいで、心地よい。隣のぬる湯は、少し物足りない。あちらは本当に、湯治客がじっくりと浸かるためのものであるらしかった。

 

 ほどほどの熱さの湯には旅人が何人か、それに風呂の神官が浸かっていて、どの風呂の神官もそうであるようにのんびりと心地よさげな表情で、そしてまたその(しし)置きも豊かだった。

 

 こうして見るに、数ある神々の神官の中でも、風呂の神官ほど現世利益にあやかっている連中はいないように思われた。こうして風呂に浸かっているだけで、いやまあ法術などを行使し続けているとは聞くけど、少なくとも心地よい環境にいるだけで祈りにもなり、金も貰えて、法術の技術もバリバリ磨かれていくのだ。おまけに体つきも、いい。

 

 法術だの魔術だのは実戦の中で身につくことが多いので、癒しの術は街中の神官より怪我をすることの多い冒険屋の神官の方が伸びるとは聞くが、風呂の神官に関して言えば何しろ常時癒しの術を使っているのだから、これは伸びない訳がない。うらやましいことである。

 

 しかも、あっ、酒、お酒まで飲み始めてる!

 桶に酒瓶とグラス浮かべて、にこにこ笑顔で晩酌してやがる。あれで仕事なのだからうらやましい限りだ。

 

「あれのぼせないのかな」

「風呂の神官はかなり早いうちから『風呂でのぼせない』加護を受けるそうですよ」

「地味にうらやましい……」

 

 ウルウはお風呂好きだけど、結構のぼせやすいところがあるからね。

 いまも色の薄い肌が早速ほてって色づき始めている。

 単に色白さで言ったら北国育ちのあたしたちの方が白いんだけれど、なんだかこう、ウルウの色白さは妙な色気があるわよね。ちょっと不健康そうというか病的というか、危うさがあって、それが不思議と魅力的なのだ。

 

 それに、と並んで湯につかっている()()を比べてみる。

 リリオはまあ未来に期待すべしだし、あたしはまあ、リリオ程絶望的ではない。

 しかしウルウの場合、細いくせに、浮くのだ。やや浮くのだ。この女、持っていやがるのだ。

 夜寝るときに抱き着くとよくわかるけれど、細い割に、というか細いからこそ浮き立つのか、柔らかなものをお持ちなのだ。普段は着やせするから気づきにくいけど、ご立派なのだ。

 

 ぼんやりとそんな豊かさやうなじのあたりを眺めていると、一方で、と比べられる自分達の肉体の貧弱さがどうしようもなくどうしようもなく感じられるのだった。

 

「トルンペート、トルンペート」

「なあに?」

「ウルウの体つきって本当に、その、そそりますよね」

 

 こうはなるまいと思った瞬間だった。

 

 ……まあ、あたしもそう思うけど。




用語解説

・どの風呂の神官もそうであるように
 バーノバーノといい、風呂の神官は妙にスタイルがいいものが多いようだ。
 温泉の癒しの効果が、彼女らの体をよくよく発達させてくれているのかもしれない。
 男性の神官も大体高身長で贅肉も少なく、健康であることが多い。
 その上、現在は帝国の方針で職場が増える一方だし、給料も安定しているし、実はモテる。
 モテるのだが、仕事と祈祷の関係上拘束時間が長いため、偉くなるほど結婚率は低下する。

・『風呂でのぼせない』加護
 神官たちはその信仰する神によってさまざまな加護を受ける。
 ただ、加護を受けるということはそれだけ神の、つまり既知外の知性に近づくということで、上級神官程話が通じなくなってくる。
 例えば帝都の風呂の神殿の司祭は半神クラスの神官であり、『入浴している限り不死身』などの強力な加護を持つが、その精神は「常時茹だっている」と言われる程に会話が通じないし、一年三六五日休むことなく入浴しているのでそもそも一般人と同じ生活が不可能である。

ブツ()()
 おバスト。
 暴れまわることの多い冒険屋にとって胸はそこまで大きいと困るのであるが、かといって無いのは無いで寂しいというのが女心の難しいところ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊と湯上り事情

前回のあらすじ

温泉の効能を全身でたっぷりと味わった三人。
豊かさと、心地よさと、ほんの少しの切なさと。


 たっぷり長々と温泉を楽しみ、少しのぼせ気味の私たちは、ほかほか湯上りを楽しんでいた。

 具体的には、体をふいて着替えを終えて、休憩所の長椅子に腰を下ろして、女中さんが淹れてくれてよく冷えた甘茶(ドルチャテオ)を頂いていた。

 

 この甘茶(ドルチャテオ)って言うのは、冷やしてもなかなかにおいしいものだね。今日頂いているのは味わいとしてはハーブティーの類というか、以前貰ったハスカップ茶に似ているというか、甘酸っぱい感じなんだよね。

 でも甘茶(ドルチャテオ)って一言にいっても実はいろいろあって、ベリーのものだったり、ハーブのものだったり、要するに甘いお茶はみんな甘茶(ドルチャテオ)なんだよね。

 

 歴史的には、西方から(テオ)が入ってきたんだけど、それは最初紅茶みたいな形だったのかな。でも栽培の難しさで育てられなかったり、発酵の難しさで断念したり、渋みとかがあんまり好まれなかったりとかでそこまではやらなかったみたい。

 でも貴族を中心に喫茶の文化自体は広まって、自分達でもどうにかできないかなーって色々試した結果が、今の甘茶(ドルチャテオ)っていう文化みたいだね。

 

 だから地方をまたぐと同じ甘茶(ドルチャテオ)でも全然味わいが違ったりする。これはなかなか面白いね。

 

 今でも少ないながら(テオ)の文化はあるらしいけど、南部で輸入品を飲んだり、貴族が本当に趣味で飲んでたりするくらい。で、南部自体は、珈琲と同系統であるらしい豆茶(カーフォ)が流行ってるから、まあ結局一部貴族しかやってない飲み物だよね。

 

 そんなわけで、以前オンチョさんに貰った西方の緑茶みたいな茶葉は本当にうれしかったりする。

 甘茶(ドルチャテオ)もおいしいんだけど、やっぱり緑茶ってなじみ深いからね。美味しいとか美味しくないとかいう以前に、ほっとする。

 

 まあお茶を飲むとホッとするっていうやつは本当のお茶を飲んだことがないらしいんだけど。

 

「心臓にアドレナリンをぶち込んだような気がする、だっけ」

「死んじゃいますって」

「ですよねえ」

 

 女中さんに突っ込まれてしまった。

 

 しかし甘茶(ドルチャテオ)甘茶(ドルチャテオ)かあ。美味しいんだけど、風呂上りに甘茶(ドルチャテオ)頂いても、こう、いまいちピンとこない。そりゃ、湯上りに冷たいもの飲むと湯冷めしにくいとは聞いたことあるけど、でもお茶じゃないんだよ欲しいのは。

 

「牛乳……」

「え?」

「湯上りに冷やした牛乳飲むと、なぜかおいしいんだよね」

「またウルウが変なこと言い始めました」

 

 まあこっちの世界には乳を冷やして飲むという文化自体があまりないからな。貯蔵の為に冷蔵こそするけど、別に冷たい牛乳をありがたがって飲む文化はない。温めて飲む方が多い。

 

 リリオが呆れるなか、しかし意外にもこれに応えてくれたのは女中さんだった。

 

「わかります。美味しいですよね」

「おっ、わかります?」

「皆さんなかなかわかってくれないんですけどねえ……美味しいですよね。湯上りの牛乳」

「ああ、久しぶりに飲みたくなってきた……」

 

 ごくりと喉を鳴らすと、内緒ですよと女中さんは番台に入っていき、そしてグラスにひんやりと冷えた牛乳を注いで人数分持ってきてくれた。自分用にこっそりと氷精晶(グラシクリスタロ)入りの箱で冷やしているらしい。

 しかも真っ白な色合いではない。

 

「もしやこれは……」

「イチゴ牛乳です」

「イチゴ牛乳……!」

 

 あの、いまではイチゴ入り乳飲料とかイチゴラテとか呼ばなければならなくなったあの!

 実際何が入っているのかよくわからなかったフルーツ牛乳より、味がはっきりわかってこっちの方が好きだったな。

 

 私はありがたやありがたやと手を合わせて、腰に手を当ててこれを一気に頂いた。

 やはり湯上り牛乳を頂く時の正しい作法と言えば、これだろう。

 

「ぷはー!」

「いい飲みっぷりですねー」

「美味しかった。ありがとう」

「いえいえ」

 

 そんな私たちのやり取りをみて、トルンペートがおもむろにグラスをあおった。

 

「……成程?」

 

 そんな、そりゃあ美味しいけどそこまでか、みたいな顔されましても。

 

 続いてリリオもあおる。

 

「あー……美味しいは美味しいです」

 

 うん、それな。

 

 まあ、実際問題として湯上りに飲もうが他の時間に飲もうが牛乳の味が変わるわけではない。

 ではなぜこれが流行ったかと言えば、そもそも冷蔵庫が各家庭にない時代にはやったんだよね。

 昔、冷蔵庫がまだ普及していない頃、繁盛していた銭湯には必ずと言っていいほど冷蔵庫が置いてあったそうな。家に冷蔵庫がなければ、牛乳を飲む機会なんて朝の配達の一本くらいのもの。それがいつも言っている銭湯に登場したらどうなるか。

 このコラボレーションが人気となり、そしてそのまま惰性でその感覚だけが引き継がれていった結果が湯上りに牛乳という組み合わせであって、別にこれで味が変わるわけではなく、大いに気分的な問題なのだ。

 

 ああ、でも、美味しかった。

 前世でも数回しかやったことないけど、刷り込みってすごいなあ。




用語解説

甘茶(ドルチャテオ)
 甘めの花草茶。というのが大まかな所で、実際には地方によって大いに異なる。
 東部では甘めのベリー系のお茶のことを甘茶(ドルチャテオ)と呼んで一般的にたしなんでいるようだ。

・ハスカップ
 多分読者のかなりの人が知らないだろう北海道産の果物。ベリー系。
 生のままの保存が難しいので、もっぱら加工品として流通している。
 味はブルーベリーっぽいというか、なんというか、ハスカップ味である。
 北海道土産に買っていってもなにそれと言われる可能性の高いフレーバーである。

・心臓にアドレナリンをぶち込んだような気がする
 けだし名言だね。

・いまではイチゴ入り乳飲料とかイチゴラテとか呼ばなければならなくなった
 西暦二〇〇〇年に雪印集団食中毒事件が発生して以来、「飲用乳の表示に関する公正競争規約」により、乳一〇〇パーセントのものでなければ「牛乳」という名称がつかえなくなったのである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 白百合と按摩

前回のあらすじ

湯上りのイチゴ牛乳を楽しんだ三人。
異世界人にはわかりづらい楽しみだった。


 さて、お風呂も終えて、部屋に戻ってきましたけれど、まだ寝るには少し早いですね。まあたまには早めにぐっすり寝入ってしまうのもいいですけれど、折角ただで泊まられている宿ですし、何かもったいないかもしれません。

 

 三人でトランプ遊びでもしようかとも思いましたけど、最近、というか最初からずっと私って勝率かなり低いんですよね。楽しいは楽しいんですけど、一度見たものを忘れないウルウと、たまにいかさま仕掛けてくるトルンペート相手だと、私って顔に出やすいし馬鹿正直すぎるみたいなんですよね。

 それでも楽しいは楽しいんですけれど、折角温泉宿に来てやるのがトランプ遊びで、しかも掛け金巻き上げられるって言うのはどうも。

 

 などとぼんやり考えていると、ウルウがふと部屋の中に置かれていたチラシに気付きました。

 

「フムン」

「どうしました」

「按摩やってるって」

「按摩……フムン」

 

 按摩と言えば、按摩師に疲れた身体のコリを揉みほぐしてもらうというあの按摩でしょうか。

 思えば私たちも旅に出てからゆっくり休むということをしていませんでしたし、折角の温泉宿ですし、いい機会と思って徹底的に骨休めするのも良いかもしれません。

 

 そう思って女中さんに頼んでみると、しばらくしてやってきたのは先ほど休憩所で牛乳をふるまってくれた女中さんでした。

 

「おや」

「あれ、先ほどのお客さん」

「按摩師さんじゃないんですか?」

「今日はお休みでして。私はユヅルと申します。あ、でも按摩はちゃんとしますから、安心してくださいね」

 

 まあ、そういう日もあるでしょう。

 私はちょっとがっかりした思いで、寝台に体を横たえました。

 

「じゃあまずうつぶせでお願いしますねー」

 

 女中さん、ユヅルさんはまだ少女と言ってもいいくらい若い娘さんで、そうですね、精々私と同い年かそこらといったところ、成人したぐらいかなといった感じです。言っちゃあなんですけれど、下働きならともかくこういう仕事に出てくるのは私はどうかと思いますね。

 腕も見るからに細いし、指なんかもまあ水仕事も大してしたことがないようなつやつやしたものですし、私のこりにこった体をもみほぐすなんて無理でしょうよと、そう思っていました。

 

 そう……そう思っていたころが私にもありました。

 

「あふ……っ……くぅ………あー……いい、そこ、そこ……」

「はーい。痛かったら言ってくださいねー」

「あー……い……」

 

 開始数分で私はぐでんぐでんと寝台の上でもみほぐされ、柔らかなこと章魚(ポルポ)のごとしみたいにぐんにゃりさせられてしまいました。なんとも恐るべき指先です。

 決して力が強い訳ではなく、むしろ弱いくらいかなと思うくらいなんですけれど、その指先がぐいぐいと私の体を遠慮なくもみほぐすたびに、筋肉の芯にまで届くような心地よい快感が走るのでした。

 

 時間にして四半刻もしないうちに私の全身のコリというコリはもみほぐされ、自分でも知らなかった疲労はすべて押し出され、後に残ったのはしびれるような快感に打ちのめされてぐんにゃり転がる情けない身体だけでした。

 

「はい終わりです。いやー、それにしてもすごいですね。こんなに鍛えられているなんて」

「あー……わかりますー?」

「いろんな人揉んできましたけれど、一番揉みごたえありましたね」

 

 それはまた、うれしいような、なんというか。

 私は小柄ですし、魔力の恩恵に頼っている部分も大きいですけれど、それでももともとの体もきちんと鍛えていますからね。

 

 続いてトルンペートが犠牲に、もとい按摩を受けましたけれど、これは見ていて面白いものでした。

 いつもはつんとしたおすまし顔が、柔らかくもみほぐされるたびにどんどんとろけていって、最後にはもうあられもない顔をさらしていましたね。嫁にいけなくなるような顔です。

 

「トルンペートさんもすごいですねえ。針金みたいにこっちこちです」

「あっ、あー……んっ、あたしは、御世話役だから、ね、んっ……このくらい……あっ」

「じゃあその疲れももみほぐしていきましょうねー」

「あっ、らめ、らめえええええ……っ」

 

 人間の体ってあんなにぐんにゃり曲がるものなんですねえ。トルンペートのもともとの柔軟さもあるんでしょうけれど、ユヅルさんも容赦ありませんね。むしろ面白がってやってるんじゃないかというくらいぐにゃんぐにゃんと揉んで曲げて伸ばしてます。

 私もあんな、もちでもこねるかのようにもみほぐされていたのかと思うとなかなか恐ろしい光景です。

 

 そうして借りてきた猫どころかすっかり快楽の海に溺れてしまったトルンペートの次は、いよいよウルウです。

 触られるの嫌がるかなと思ったら以外にも普通の顔で寝台に横になるので不思議そうに眺めたら、

 

「この人はちゃんと仕事で触る人だから」

 

 つまり耐えられるということなんでしょうけれど、よくわからない理屈です。

 

 ウルウの体を揉み始めてすぐに、今度もまたユヅルさんは驚きました。

 

「う、ウルウさんあなた……!」

「んー……」

「全然こってないですね! ここまでこってない人初めてです!」

「あ、やっぱり?」

 

 ああ、うん、もしかしたらと思ってました。ウルウって時々化け物じみてますもんね。

 

「でも一応揉み解していきますねー」

「んっ……あっ………ふゥん……いっ……………ゃ」

 

 ウルウが揉まれている間、私たちはトランプを取り出して神経衰弱で勝負することにしました。

 間が持たないという以上に、魔が差しそうな声が響き渡るからでした。




用語解説

・按摩
 マッサージと同じように、押したり揉んだり叩いたりして身体活動を活性化させる技術だが、マッサージと按摩は厳密には違う。
 ざっくりいうと、按摩は心臓に近い方から指先へ、マッサージは指先から心臓の近くへ、となる。
 いろいろ細かい違いがあるので興味がわいた人は調べてみよう。
 なおユヅルがやっているのはなんちゃって按摩ッサージであり、ざっくり教わったものを経験と勘に基づいてアレンジしているので、よい子は真似しないように。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 鉄砲百合と茨の魔物

前回のあらすじ

怪しげな按摩ッサージで全身をぐにゃんぐにゃんにさせられた三人であった。


 神経衰弱でほどほどにリリオから巻き上げながら、あたしはウルウの色っぽい声に惑わされないように、またちょっと気になっていたので、女中のユヅルさんに尋ねてみることにした。

 

「ところでユヅルさんは茨の魔物って知ってる?」

「あ、はい、知ってますよ」

「あれって何なの?」

「何っていうと……何なんでしょうねえ」

 

 困ったように応えられて、ああ、違う違うとあたしは頭を振った。質問が悪かった。

 揉み解しがあまりにも気持ちよくて、まだ頭がぼんやりしているのかもしれない。

 

「そうじゃなくて、どういう魔獣なのかなって」

「ああ、そういうことですね」

 

 寝台の上でもちでもこねるかのようにウルウの体をもみほぐしては、その度に声を上げさせつつ、ユヅルさんは答えてくれた。

 

「茨の魔物って言うのは、異界からやってきた魔獣なんですよ」

「異界から」

「どこか、本当に遠いどこかからやってきた魔獣なんです」

「ふうん」

「それで、茨の魔物は、人の心に憑りつくんです。弱っている人、油断している人、そして心の毒が多い人に」

 

 そうして人に憑りついた茨の魔物は、人の心の毒を吸い上げていくという。そうすると人の心はなくなった分の毒を満たすように、心の毒を過剰に生産する。だから突然気性が荒くなったり、悪事に手を染めたり、急変するのだという。

 

 そうしてひとの心をすっかり吸い尽くしてしまって、もう新しく心の毒を生み出せなくなると、茨の魔物は成熟して、種を作り、あたりにばらまいてまた新しく人の心に憑りついて、殖えていくのだそうだ。

 

「心の毒を奪って増える魔獣ねえ」

「毒なら、別に取られちゃってもいいんじゃないですか?」

 

 確かにそうだ。毒を吸って増えてくれるなら、魔獣どころかとんだ益獣ではないだろうか。

 

 しかし、ユヅルさんはウルウの体をぐんにゃりと曲げながら首を振った。

 

「心の毒は、なくてはならないんです。例えば誰かを妬む気持ちは心の毒ですけれど、それで相手を乗り越えてやろう、努力しよう、っていう気持ちとも表裏一体なんです。誰かを驚かしてやろうっていう些細な気持ちも心の毒なら、日々を生きていくうえで受けていく些細な刺激もみんな心の毒なんです。心は、毒を受けて、それに抗うために、成長していくんです。毒を受けて、毒を抱えて、それでも頑張って生きていくのが、心というものなんです」

 

 成程、それはわかる話だった。

 あたしだって、もし人生が何にもつらいことなんて幸福な事ばかりだったら、つまらなくて死んでしまうかもしれない。こなくそって思うから、前に進んでいけるのかもしれない。あたしの人生は碌なもんじゃなかったし、あたしの育ちは絶対に幸福なものなんかではなかったけれど、それを乗り越えてやろうという気概が、あたしをここまで成長させてくれたように思う。

 

「すっかり心の毒を吸い取られて、茨の魔物が去ってしまったら、その人の心にはなんの毒も残っていません。一滴も残りません」

「そうなったら?」

「そうなったら、死んでしまいます」

「死ぬ」

「息苦しいということさえ毒と思えないから、呼吸もしなくなりますし、心臓だって働くのをやめてしまいますし、何より、考えることもできなくなってしまうんです。そうして、衰弱して、死んでしまう」

 

 それは、何度も何度もそんな死にざまを見てきたとでも言うように、重い決意の秘められた声だった。

 

「だから、茨の魔物は退治しなければならないんです。絶対に」

 

 実際のところ、この温泉宿などでも、茨の魔物退治のために協力しているらしい。

 

「温泉が?」

「神官さんが神様の癒しの力を込めた温泉水って、茨の魔物は嫌がるんです。あんまり茨の魔物が小さい段階だと効かないんですけど、ある程度大きくなったころにこの癒しの力のこもった温泉に浸かったり、飲んだりすると、茨の魔物は嫌がって飛び出してくるんです」

 

 そう言う時の為に、温泉宿にはどこも衛兵が詰めているらしい。

 

「それで、癒しの力を込めた温泉水を瓶に詰めて、人の多い商店街や衛兵の詰所とかに配ってるんです。大きめのお店なんかは、温泉水を買って、従業員に毎週飲ませたりしてるみたいですよ」

 

 これをユヅルさんは防疫だといった。病を防ぐのと一緒だと。

 このやり方をするようになってから、かなりの数の茨の魔物を退治できているらしいけれど、それでも全くなくなるというにはまだ遠いようである。

 

「難しい話ですけれど、人の心には毒がないと生きていけませんけれど、人の心に毒がある限り、茨の魔物もまた住み着く場所には困らないですからね」

 

 いつか根絶できるときがくればいいのですけれど、と実にしみじみといい話のように言ってくれるのだけど、その下でウルウが見たこともないとろけ顔でぐんにゃりしてるので半分くらいしか頭に入らなかった。




用語解説

・心の毒
 ストレス。また、それに抗おうとする心の力。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と異郷の少女

前回のあらすじ

茨の魔物と心の毒について語ってもらった。
そしてウルウはとけた。


 このユヅルという少女に私が何も思わなかったわけではなかった。

 いや、別に全身をこってり揉み解されてさんざっぱらアヘ顔をさらされたことを恨んでいるわけではない。かなり気持ちよかった。また立ち寄ることがあればぜひにもお願いしたいくらいだった。

 

 そうではなく、ユヅルというどう考えても帝国標準から外れた名前と、いわゆる西方人めいた顔立ちについてである。

 たまに西方から来た人とか、西方人を先祖に持つ人とか本当にいるからあまり気にしたことはなかったのだけれど、というか気にするだけ疲れるのでやめていたのだけれども、このユヅルという少女はどうにもすこし違った。

 

 まず一つに、休憩所で牛乳をご馳走してもらったことである。

 リリオやトルンペートの反応からもわかる通り、湯上りの牛乳というものは、普通においしいは美味しいけれど、そこに格別の価値を見出すのは文化的な理由というものでしかない。彼女自身も周りから理解されにくいと言っているように、風呂上りに牛乳というものはこの世界では異質な文化なのだ。

 

 そしてまた彼女は()()()()()といった。

 これは普段の自動翻訳からするとおかしかった。本来であれば(フラーゴ)牛乳と聞こえるはずだったのだ。まあこれに関しては、バナナワニみたいに訳されたり訳されなかったりすることがあるので結構自動翻訳がいい加減なのかなと思うが……少なくとも、物の名前及び横文字は基本的に現地語で発音されることが多い自動翻訳さんにしては怪しい。怪しませようとしてるのかもしれないが、プルプラあたりが。

 

 まあイチゴ牛乳は半分冗談としても、それがきっかけで気付いたことがある。

 彼女自身の()()だ。

 

 私は読唇術などできないが、それでも今発されている音声と唇の動きとに関連性がなければ、そのくらいは見ていれば気付く。つまり、唇の動きと、実際の発音とが違うということだ。

 彼女にはその違いがなかった。

 

 本来であれば、例えばリリオ当たりなんかでは唇の動きと聞こえてくる音が全く違うにもかかわらず、彼女はそのままの日本語の唇の動きで日本語を私に聞かせていたのである。私が日本語のつもりで話して、しかし周囲には交易共通語(リンガフランカ)として聞こえるのと同じようにだ。

 

 他はこじつけとしても、これは致命的だった。少なくとも神がかった何かがかかわっているのは確実なのだから。

 

 とはいえ、私は彼女が同じ転生者なのかどうかいまいち確信が持てなかった。

 というのも、同じプレイヤーだとすれば、あまりにもその気配に力強さを感じないのである。

 

 私もリリオとトルンペートと一緒にそれなりに長くやってきた。魔獣や害獣、盗賊なんかともやりあってきた。この前は長門とかいう化け物と一戦やらされた。

 そういう経験から、相手がどれくらいの力量なのか、大体であれば察することができるようになってきていた。

 

 そう言う点で言うと、この少女はちょっと弱すぎるのである。

 魔力量はかなり感じるし、成程決して弱くはないのだろうけれど、すくなくともプルプラがゲームの駒として選ぶほどに強いか、そこのところがわからない。

 もし弱くてもゲームの駒として成り立つならば、私にあえてゲーム内のキャラクターの体を作って渡すこともなかっただろう。

 

 合理的に考えれば、この少女は少なくとも同じ理屈による転生者ではないことはわかる。

 だが合理的という言葉と、あの境界の神とが、私の中で結びつかないのも事実だ。少なくとも人の死後をもてあそんでゲームの駒にするような奴が合理的であるはずがない。あったとして、それは私の知る合理とは全く理屈の異なるものに合致した合理だ。

 

 按摩を終えてもらい、淹れてもらった甘茶(ドルチャテオ)を楽しみながら私は少女を眺めた。

 

 では、仮に神が合理的で一貫的だとして、この少女は転生者ではないのだろうか。

 それもまた疑問だった。いくらなんでもたまたま日本語の発音で唇を動かす人間がこの世界にいるとは思えない。

 

 では全く別の理由で転生してきたのだろうか、とふと私は思った。

 彼女自身茨の魔物を差してこう言った。異界からやってきた魔獣だと。

 彼女はそれを追ってやってきたのではないだろうか。退治し、殲滅するために。

 

「ふふっ」

「?」

「なんでもないよ」

 

 そこまで考えて、私は追及をやめた。

 馬鹿馬鹿しい。

 そう言うのがありなら何でもありだ。

 前提条件である神の手札と内情を知らない以上、いくら考えても答えなどでない。

 

 第一彼女が転生者だったとしてどうするというのだ。

 私にはどうこうすることはできないのだ。

 私自身が自分のことをどうこうできないというのだから。

 

 だから私はささやかな事を尋ねてみた。

 

「君、故郷はどこ?」

「遠くです。ちょっとすぐには帰れないくらいに」

「帰りたい?」

「帰りたい……かもしれません。でも今は、帰れないかな」

「そう」

 

 それだけ聞いて私は満足した。

 彼女の言葉には、悩みも迷いもあった。

 しかし、答えるだけの力が、彼女にはあったのだから。




用語解説

・ユヅル
詳しくは↓
https://ncode.syosetu.com/n2878es/


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 白百合と異郷の少女

前回のあらすじ

彼女は()()なのだろうか。
それは悩むだけ無駄な事なのかもしれない。
だからただ、彼女のこの後に幸あらんことを祈ろう。


 按摩を済ませたユヅルさんにお茶を淹れてもらって、そうして次の仕事があるからと去っていった背中を見送って、私は改めてウルウを眺めてみました。

 

 ウルウはもう先ほどまでの霰もない姿などどこ吹く風、ちょっとつやつやつしながらも落ち着いた様子で甘茶(ドルチャテオ)を楽しんでいますけれど、私は先ほどのウルウの様子が少しおかしかったことに気付いていました。

 

 普段は私たち三人でいるときでもだんまりでいることが多いウルウが、珍しく人にものを、それも至極個人的な事を尋ねたのには、驚かされました。

 

「君、故郷はどこ?」

「遠くです。ちょっとすぐには帰れないくらいに」

「帰りたい?」

「帰りたい……かもしれません。でも今は、帰れないかな」

「そう」

 

 私にはそのやり取りの意味は分かりませんでしたけれど、しかし、その短いやり取りで、ウルウが何かを考えることをやめ、満足したことには気づきました。

 

 思えば、あの少女、ユヅルさんは、ウルウと同じように西方寄りの顔立ちをしていました。そしてまた名前の不思議な響きも、西方のものと思えるかもしれません。

 けれど彼女の交易共通語(リンガフランカ)は実になめらかで訛りもなく、それこそウルウのようにきれいな発音でした。

 ウルウのように。

 

 そこでハタと気付きました。

 

 もしかするとあの少女は、ウルウと同郷だったのかもしれませんでした。

 はっきりとはわからないまでも、ウルウはそれを察してあんな質問をしたのかもしれませんでした。

 

 思えばいまだに私はウルウの生まれも育ちも知りません。

 境の森で出会った時が私にとってウルウの始まりの時であり、そして今こうしてここにいるのがウルウのもっとも新しい姿です。それ以前のウルウのことを、私は本当に何も知らないのでした。

 

 いままでも気にならなかったわけではありませんでした。しかし、ウルウが何も語らないこと、冒険屋として旅人として、あまり詳しく詮索するのは野暮だということ、そしてまた私自身踏み込み切れない何かがウルウとの間にはあって、そのこともあって、私は今まで何も聞けずにいました。

 

 だからでしょうか。私はついつい気になって、ウルウの隣にまで椅子を運んで、そっと訪ねていました。

 

「ねえウルウ」

「なあに」

「あの……」

 

 私は何度かそうして、言葉を出そうとしても出せず、うまく言い出せないまま、もごもごとして、それでも、ウルウがしっかりとこちらを見て、言葉を待っているのを見て、えいやっと勇気を振り絞って尋ねてみました。

 

「さっきの、ユヅルという娘ですけれど」

「うん」

「もしかして、その」

「うん」

「ウルウと、同郷の方だったのですか?」

 

 ウルウは片眼をあげてじっとわたしを見つめ、それからゆっくりと、曖昧な笑みを浮かべました。

 

「さあ」

「さあって」

「本当に分からないんだ。もしかしたらそうなのかもしれないと思ったけれど、そうでないような気もする。確認しようとも思ったけれど、野暮かなと思ってね」

 

 その言葉にはまったく嘘というものはなさそうでした。あっさりと言い切ってしまうくらいには、ウルウにとっては大したことではなかったのかもしれませんでした。

 私がなんだか肩透かしのような気分でいると、ウルウはくすくす笑いました。

 

「でも、驚いたよ。そんなこと聞きたがるなんて」

「そんなことって」

「君がユヅルのことだけど、って言ったときね」

「はい」

「私が珍しく他の娘に構うから嫉妬でもしたのかと思ってね」

「は……はあっ!?」

 

 ぽかんと呆れる私に、ウルウはくすくすと笑って、トルンペートもまた寝台の上でくすくす笑いました。からかわれたのです。

 

「もう、ウルウ、もうっ」

「ごめん、ごめん。でも、嫉妬はしてくれなかったのかな」

「そんなのしませ……すこしはしたかもですけど!」

「うふふ」

「ふふふ」

「もう、ふたりとも!」

 

 私がすっかり拗ねてしまうと、ウルウはまだ笑いながら、それでも優しく頭をなでてくれました。

 

「ごめん、ごめん」

「ふーんだ」

「でもねえ、本当に意外だったんだよ、そんなことを聞きたがるなんて、本当に」

「そんなことって」

「私の故郷のこととか、あの娘が同郷かなんて」

「私だって、そのくらい、気にしたりしますよ」

「全然気にしてないのかと思ってた」

「聞くのも野暮かと思って、それなのに」

「ごめんって。でもねえ、本当に、私にとっては大したことじゃないんだよ」

 

 ウルウの手が優しく頭をなで、頬を撫で、肩を撫で、気づけば腕の中ですっかりあやされて、これではまるで子供みたいだなんてぶーたれていると、ウルウは困ったように笑いました。

 

「私の故郷のこととか、昔のこととかは、少し、説明しづらいけれど、でも、大したことじゃあないんだよ」

「むう」

「もし私の故郷とか、昔のこととか、そういうのを聞いたとして、私たちの関係がいまさら変わるのかな」

「えっ」

「変わってしまうのだとしたら、私は少し、悲しい」

「か、変わりません! 全然変わりません!」

「ふふ、うふふ」

「くふふふ」

「もう、ふたりとも!」

 

 かしましくもそうして、世はふけるのでした。

 私たちは、そうですね、こんな具合で、いいのかもしれません。




用語解説

・曖昧な笑み
 ウルウ特有の、そしてまたユヅルも浮かべていた笑み。
 転生者を見分けるいい特徴かもしれない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 温泉街なんですけど!?

前回のあらすじ

ウルウの過去。
それは気になるような、気にしても野暮なような。
そして気にしてもしょうがないことなのかもしれなかった。


 温泉に浸かってゆっくり茹だり、按摩を受けて全身を揉み解されて、そうして暖かなベッドに丸まって、いつの間にやら夢の中にもぐりこんで、そして、そうして、朝が来た。

 

 やはり朝になって最初に目覚めるのはあたしだった。

 しかし、今朝の目覚めは素晴らしいものだった。全身の疲れという疲れが、気づいていたものも気づいていなかったものも、残さずにきれいさっぱり洗い流され、磨き上げられたばかりの新品のように調子のよい身体は、朝日が差し込むやぱっちりと目を覚ましたのだった。

 

 しかし完璧な朝にも瑕はあった。

 昨夜はそれぞれの寝台で寝たはずなのに、結局朝になってみれば、一つの寝台で絡まりあうように寝ていたのだった。せっかく広々と寝台がつかえるのに、これじゃあ意味がない。

 

 あたしは呆れたようにウルウの腕の中から抜け出し、しがみついたリリオを引きはがし、窓の外から差し込む朝日に目を細めた。

 

 振り向けば、そんな朝日にじわりじわりと眠りの国を追い出されつつある二人が、それでもまだ抵抗を続ける気のようで、もぞもぞとお互いを盾にしようともみ合っているところだった。

 

 全く、仕方のない連中だ。

 あたしはなんだかおかしくなってその姿をしばらく眺めた後、卓の上のチラシの裏に、走り書きの書置きを残した。

 なにというわけではない。せっかくの温泉宿なのだから、朝風呂を楽しもうというのだ。

 

 早朝の宿は、まだ日が出たばかりということもあって人は少なく、時折すれ違う女中が、お早いですねえと笑顔を返してくれるくらいだった。そりゃあ、そうか。私も侍女だし、女中たちと目覚める時間が同じようなものでも、仕方ないのかもしれない。

 旅暮らしだし、もう少し生活が乱れてもおかしくはないのだと思うのだけれど、三等武装女中としてしっかり刻み込まれた教育は、なかなか抜けきらないようだった。いや、抜けても困るんだけどさ。

 

 早朝の浴場には朝の早い老人が一人、二人、それに昨夜とは違う交代要員らしい風呂の神官が浸かっているだけで、静かでいいものだった。

 

 あたしは少し考えて恐ろしく熱い浴槽に体を沈めてみて、そして百数える前に諦めて出てしまった。

 やはり、無理は良くない。

 

 冷泉で体を冷やした後、程よい暑さの湯に足先からゆっくりと浸かっていく、このピリピリと血管が開いていくような感覚がたまらない。腰ほどまで使って、少しこらえて、それからゆっくりと肩まで体を沈めていく。冷泉で冷やされた体に、お湯の温かさがじんわりとしみ込んできて、心地よい。

 

 昨夜のように人が多くて、三人でおしゃべりしながら浸かるような、賑やかなお風呂もいいものだけれど、時にはひとりの時間も必要だ、なんてウルウのようなことを考えてみる。

 しかしこうして実際に一人で過ごしてみると、確かにそのようなものかもしれないとも感じる。

 

 そりゃあ、あたしは頭の底まで洗脳教育を受けたといっていい、立派な三等武装女中だ。でも完璧な武装女中というものは休まなくていい生き物のことではない。自分をきちんと使える状態にいつでも持っていける女中のことを言うのだ。

 

 こうして一人で過ごす時間は、時計のぜんまいをまく仕事と似ている。

 館にあった立派な柱時計は、許されたものしか触ることができなくて、あたしはそれを眺めていることしか許されなかったけれど、あれは静かで、厳かで、そしてこれ以上ない緻密な仕事だった。

 ぜんまいを差し込み、ぎりぎり、ぎりぎり、と程よく巻き上げ、磨き上げられた柱時計を見上げて、ふん、と鼻先で笑う女中の顔には、確かな満足があったものだ。

 

 ああして時計という繊細な道具は、決められた仕事を完ぺきにこなせるような状態に仕上げられ、そうして実際、一分一秒と間違うことなく、毎日正しい仕事をしていたものだ。

 

 人間の体は機械よりいくらか丈夫だけれど、それでも繊細なものだ。

 あたしは自分という道具をいつでも万全の状態で使えるようにこうして調整してあげなければならない。

 

 などと気取っていたら、

 

「あ、トルンペート発見」

「あっ、いました!」

 

 などと馬鹿二人に発見されてしまった。

 

「もう、置いていくなんてひどいですよ。起こしてくれてよかったのに」

「嘘だ。私が起きてもまだ眠いって散々ごねたくせに」

「それは言わないお約束ですよう」

「ああもううるさいわね、他のお客さんの迷惑にならないようにね」

「はーい」

「はーい」

 

 

 まあ、結局のところいくら格好つけたって、冒険屋リリオの侍女である三等女中トルンペートには、こういう落ちがお似合いだ。

 

 つまり、あたしは今日も万全だってこと。

 そういうことなのだ。




用語解説

・柱時計
 東部では懐中時計がすでにある程度作られ、帝都人などがちらほらと持ち歩いていたりもするが、一般的に時計と言えば大きな柱時計のことである。
 それも一般的と言っても、貴族や金持ち、また組合の館などにあるくらいだ。
 製造はほとんど東部の職人によるもので、何もないとさげすまれながらも、大体進んだものは東部から生まれる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一章 夜明けの海は
第一話 白百合と河口の町


前回のあらすじ

温泉の町レモを骨の髄まで楽しんだ《三輪百合(トリ・リリオイ)》。
次なる町は、港町バージョ。


 チェマーロ伯爵領バージョの町は、河によって東西に分かれた、河口に面する海辺の町です。河口を中心にして丁度三角形に広がる町並みは、規模としてはおよそヴォーストと同じくらい。賑わいはもしかしたらバージョのほうが上かもしれません。

 

 街門が東西のそれぞれに一つずつ存在し、それとは別に水門が北に一つ、合わせて三つの門で守られており、私たちはこのうちの東の門から入門しました。交易の町だけあって入り口辺りも非常に賑やかで、宿も充実し、ボイちゃんと幌場所を預かってくれる宿も無事に見つけることができました。

 

 馬車持ちは旅の道中は便利ですけれど、泊まるのに少し不便するのが困りものです。とはいえ歩いたり、乗合馬車で旅なんてすればもっと面倒ですから、やはりボイちゃんには感謝ですけれど。私が感謝の気持ちでワッシャワッシャと撫でてあげると、いつもボイちゃんは目をつむって気持ちよさそうにしてくれます。

 

「悟ってる……」

「大人だわ……」

 

 外野がなんか言ってますけど。

 

 その後、背の高いウルウが丁寧にブラッシングしてあげて、たっぷりのご飯も上げて、それからあたしたちも宿の部屋で腰を下ろして一息つきました。

 

「ようやく南部、それも海辺までたどり着きましたねー」

「宿場でも魚の干物なんかが良く出回ってたね」

「南部では魚の方が安いんでしょうねえ」

 

 さて、私たちはこれからどうしようかと相談しました。まだ日も高いですし、できることはたくさんあります。

 

「私は南部入りも果たしましたし、それに船舶の護衛依頼付き旅券でもないか、冒険屋組合に顔を出してこようと思いますけれど」

「うーん……私は少し眠いし、人混みがだるいから宿で留守番してるよ」

「じゃあ、あたしは散歩がてら何かお昼ご飯でも買ってくるわ」

「なにか変わったものがあるといいですねえ」

「ゲテモノばっかりじゃないといいけど」

 

 そのように決めて、私たち三人は分かれて行動を始めました。

 いつもなんだかんだ三人でわちゃわちゃ行動していることが多いので、一人の時間もたまにはいいものです。

 

 バージョの冒険屋組合は面白い立地にありました。

 というのもなんと、東街と西街をつなぐ大きな橋の上にその建物があったのです。

 

 この橋は実に大きく、下を河船がくぐれるようになっているだけでなく、その上も、馬車が何台かすれ違えるほど広く、そのうえでいくつもの建物が並んでいるのでした。

 これは川の上の街と言っていい具合でした。

 

 冒険屋組合はちょうど橋の真ん中あたりにある一番立派な建物で、これは東西のどちらから緊急の知らせがあってもすぐに受け取れるよう、また東西のどちらに特別肩入れするということがないように、大昔に決められた立地ということでした。

 

「ようこそ《バージョ冒険屋組合》へ!」

 

 受付であいさつを済ませて、さっそく私はハヴェノへと向かう船の旅券と、そしてそれ丁度良い護衛や輸送の依頼がないかどうかを尋ねました。船旅は何しろやることが少なくて拘束時間が長いので、お仕事を入れておかないとお金を消費してしまうばかりなのです。

 

 組合の方でもそのような尋ねはよくあることのようで、ここしばらくのハヴェノ行きの船の予定と、そしていくつかの具合のよさそうな依頼を示してくれました。

 

「一番早いのですと、風の具合にもよりますけれど、明日の朝出るプロテーゾ社の輸送船に便乗するのがよさそうですね。海賊相手の護衛依頼が出てます。武装して甲板の上を歩くのがもっぱらの仕事で、ほとんど海賊は出ないそうですから、安全ですよ」

「ほとんど出ないのに雇うんですか?」

「出る時もありますし、そして保険屋嫌いなんです、社長が。最近払い渋りがあったみたいで」

「ははあん」

 

 そう言うことでしたら、都合のよさそうな依頼です。こういう時、ちゃんとしたパーティなら一度相談するのがよいのですけれど、我がパーティ《三輪百合(トリ・リリオイ)》はそこのところ私一人で決定しても特に問題がありません。というか私が決めないと誰も決めません。

 

 ウルウは端から私の冒険を眺めているのが趣味という趣味人ですし、トルンペートは口ではいろいろ言いますけれど、最終的な決定はもっぱら私に求めることが多いです。

 そして二人とも私の勘を妙に信頼しているので、たまにちょっとこの人たち大丈夫だろうかとヒヤッとしたりします。まあ私自身も私の勘を疑ったことあんまりないですけど。

 

「それにしても、この時期に北部からはるばる南部までいらっしゃるなんて、何か御用でも?」

 

 と小首を傾げたのは受付嬢でした。

 普通南部の観光と言えば夏です。夏は人口が増えると言われるくらい、夏場の南部は大人気の観光地でもあります。

 

 ところが今は秋も下ってそろそろ冬。辺境ならもう雪が降って積もり始めている頃です。海で泳ぐ馬鹿はまずいませんし、南部特有の心地よい日差しも味わえません。魚は冬場が脂がのって美味しいですけれど、そこまで通な事を言う人はそうそういません。

 

 私は亡くなった母の実家を訪ねてみたいのだとそう答えました。

 

 すると受付嬢は申し訳ないことを聞いたという風に縮こまりました。

 

「まあ、そのお年でお母さんをなくされて……それはそれは」

 

 ブランクハーラさんというお家なのですけれどとそう答えてみました。

 

 すると受付嬢は恐ろしいことを聞いたという風に縮こまりました。

 

「エッ、ブランクハーラというと……あのブランクハーラですか?」

「他にどのブランクハーラがあるのか知りませんけれど、冒険屋のブランクハーラです」

「ひゃああ」

 

 悲鳴とも何とも言えない声を漏らして、受付嬢はマジマジと私の頭からつま先までを眺めました。

 

「白髪のブランクハーラって、いわゆるホンモノじゃないですか」

 

 なぜか恐縮され、握手を求められ、そして母の名を尋ねられました。

 

「マテンステロと言います」

「ひぇえええ……暴風マテンステロの、娘さん!」

 

 大いに畏れられ、そして再度握手を求められ、いつの間にか話が広がったのか、周囲の他の職員にも握手を求められました。これは敬意の上からというよりは、珍獣を見かけてちょっと触ってみたというそう言う勢いでした。

 

「すげえ、俺直系のブランクハーラに触っちまった」

「ご利益ありそうだな」

「魔獣も恐れて逃げ出さぁ」

「嵐除けになりそうだ」

 

 母よ、あなたは何をして回ったのでしょうか。

 穏やかな母の微笑みが思い出の中でひび割れるのを感じるのでした。




用語解説

・チェマーロ伯爵領(ĉemaro)
 南部貴族チェマーロ伯爵の治める領地。
 バージョの外に内陸に二つの町を持つ。
 伯爵が直接治めるのはバージョである。

・バージョ(barĝo)
 河口に広がる港町。
 河口を中心に三角形に広がり、川で東西に分断されている。
 その東西を結ぶ橋は巨大で、その上に各組合の館や、商店などが立ち並ぶほどである。
 漁港として有名で、特に新鮮な海鮮を食わせる店が雑誌によく載る。

・プロテーゾ社
 ハヴェノに本拠地を置く海運商社。
 護衛船なども持っており、帝都とのパイプも太く、ハヴェノでも一、二を争う大企業である。

・いわゆるホンモノ
 いわゆるホンモノ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊と荷物整理

前回のあらすじ

河口の町バージョへとたどり着いた《三輪百合(トリ・リリオイ)》。
リリオは組合で珍獣扱いされるのだった。


 ああ、眠い眠い。

 朝早いのもあるし、道中が暇すぎた。今更ちょっとした魔獣が出たり、盗賊が出たりしたくらいじゃあ、《三輪百合(トリ・リリオイ)》の道をふさぐにはしょぼすぎるんだよな。何しろニューメンバーのボイがまず強いから、あれにほえられると弱い魔獣なんか逃げるし、あれに呻られると大抵の盗賊は逃げるし、要するに冒険がなさすぎるんだよ。

 

 旅路が安全なのは世間一般的にはいいことなのかもしれないけど、そもそも人様の冒険をポップコーン片手に眺めて楽しもうというのが私の旅のスタイルというか目的であるので、女優が二人そろって馬車から降りもしないで片付くオート戦闘とか退屈で仕方ないんだよね。

 

 まあ降りたところでこの二人の足止めできる障害ってそうそうないんだけど。

 最初会ったころからレベル高かったけど、その頃から比べても随分レベル上がってるからね、この二人。

 ヴォーストを出た時点で七十代半ばくらい。これってこの世界でも結構高レベル帯のはずだ。

 メザーガみたいな規格外がすぐそばにいたからそこまで目立たなかったけど。

 

 そう、メザーガのせいだよね、大概。

 私がたわむれにと思って稽古というか、鬼ごっこしてあげたりしたのも鍛錬になってたんだろうけれど、暇してんだろとばかりに次から次に高難度の魔獣をけしかけたメザーガのせいだよね、ここまで急成長したの。しかもあれ本人自覚ないんだよ。

 ブランクハーラさんちの教育方法、ナチュラルにえげつない。

 

 それでも死なないというかうまい具合に成長するあたりを見当つけるスキルは、メザーガが教育上手な証拠だよな。ものぐさなくせにあれで面倒見いいし、事務所のほかの冒険屋も優秀だったし。まああんまり話したことないけど。

 

 さて、そんな風に暇な毎日が続いたせいで、私の体はすっかり錆付きつつあるし、忘れることのない灰色の脳細胞もぼんやりしつつある。そういえば脳細胞って生きている間はピンク色っぽいんだっけ。それに原語からするとこの訳し方って、ああ、まあ、どうでもいいやそんなことは。

 

 とにかく、暇で暇で仕方がないということだ。

 

 こういうときは、掃除や整理などをすると心の整理もできてよい。というか掃除や整理ができる精神状態を保つことが大事だ。メンタルがやられてくるとまずそう言うことができなくなってくる。

 

 せっかくなので私は、この際だからインベントリの中身をこの世界向けに整理整頓しておくことにした。全て覚えているとはいえ、実際にこの世界で手に取ったことのないものも多い。この暇な時間を利用してチェックしてみるのもいいだろう。

 

 私はベッドの上にインベントリの中身を少しずつ広げてみることにした。

 

 まず、《濃縮林檎》。これは《HP(ヒットポイント)》回復アイテムで、ただの《林檎》よりも回復量が高い。これを素材とした《濃縮林檎ジュース》は回復量も高く重量も比較的軽かったが、そもそも私って攻撃食らったら死ぬというか、回復が間に合わないくらいの紙装甲の上、《HP(ヒットポイント)》自体も貧弱だったので、回復アイテムってそこまで回復量必要としてなかったんだよね。

 

 似たようなのが、《SP(スキルポイント)》回復アイテムである《凝縮葡萄》。そこまでスキル使わない私のスキル構成だとやっぱり高効率の回復アイテムってあんまり使わないので、フレーバーテキストが気に入って所持していた。あと、狩場で手に入りやすかったのもある。

 

 それから面白いのが《コウジュベリー》。見た目はクランベリーみたいな感じ。食べると甘酸っぱい。《HP(ヒットポイント)》の最大値を少量増やす効果があったけど、回数が限定されていて、必要数だけ取ったらあとは売りに出すというのが普通なので、店売りで手に入れたっていう人の方が多いんじゃないかな。

 木とかのオブジェクトを調べると確率でドロップするんだけど、他の低確率ドロップアイテム狙いで調べまくってるといつの間にか懐に入ってるんだよね。

 

 これらは境の森の中で、リリオのご飯を分けてもらった代わりにそっと食べさせてみたアイテムだ。初の人体実験ともいう。食べた翌日かなり好調そうだったから、回復効果はこの世界でも立派に働くということが分かった。

 

 そしてもしかしたらだけど、熊木菟(ウルソストリゴ)の攻撃を無防備で受けておきながら何とか瀕死で済んだのは、コウジュベリーで《HP(ヒットポイント)》の最大値が増えていたからかもしれない。そう考えると、なかなか侮れない。

 ので、実は回数限界までひそかにおやつ代わりに二人には食べさせてある。持っててよかった。

 

 《巻物(スクロール)》の類は結構種類がある。

 尻拭くために使おうか迷ったやつだけど、まあ使わなくよかった。これは《魔術師(キャスター)》なんかが覚える《技能(スキル)》を、他の《職業(ジョブ)》が利用できるようになる便利なアイテムだ。

 また、《魔術師(キャスター)》自身が、《SP(スキルポイント)》切れの時に咄嗟の手段として持っていることもある。

 

 《SP(スキルポイント)》の消費もなく、必要な前提《技能(スキル)》もなく、誰でも扱えるのがいい。ただ、ドロップは相当確率が渋いし、店売りは相当高いし、自作するのも相当手間と金がかかる。

 

 私は生物相手には無類の殺傷力を誇るけれど、自分自身の素の攻撃力が低すぎて、物理攻撃無効の相手と無生物相手には、まともに相手できないので、この手の攻撃用属性アイテムをいくつも用意している。

 

 《魔術師(キャスター)》のギルド仲間が生産できたので、せっせと素材を集めて作ってもらったものだ。いくら貢いだかちょっと悲しくなるほどだ。

 

 今日もベッドの上に勝手に敷いているのが、何気に使用率が一番高いアイテム、《(ニオ)の沈み布団》だ。これは状態異常である睡眠を任意で引き起こすことができるという面白いアイテムだ。

 不眠という行動が鈍る状態異常を解消することもできるし、特定の場所でこれを使うことで夢の世界に侵入できるなんていう面白いダンジョンもあった。

 

 今はもっぱら、私の睡眠障害解消のために使用している。

 もしかしたら睡眠障害はもう治っているのではないかという疑いもあるんだけど、なにしろこれは単に効果があるというだけでなく、非常に寝心地がいいので、もう普通のお布団では耐えられないのだった。朝になると二人が潜り込んでいるくらいだ。

 

 いろいろ並べてみたが、こういったアイテムはゲーム内の効果をしっかり再現するように作られており、私自身、ちょっと驚くくらいだ。いやまあ私が用意したわけじゃないんだから驚くよな、そりゃ。

 

 ただ、プルプラが特に考えずに()()()()再現したという疑いがあって、一部はよく考えずに使うには危険すぎるんじゃないかと思われるアイテムもあって、困る。

 

 その筆頭が私の主武器にして、こっちの世界では緊急時以外使うまいと決めている《死出の一針》だ。これは刺した相手を極々低確率で、どんな生物であれ生きている限り即死させる効果がある。ただし、幸運値(ラック)極振りの私が使った場合、その確率は絶対とそこまで差異がない。相手の幸運値(ラック)も絡むから本当に絶対とは言えないが。

 

 どのくらいやばいかと言えば、戯れに木に刺したら、木が死んだ。目に見えて瞬間的に枯死したわけではないけれど、その時点で生命活動が停止して、それ以上成長も維持もなされることなく立ち枯れて腐っていくことが判明した。《生体感知(バイタル・センサー)》で見てぞっとしたもんな。

 

 そういえばこの《生体感知(バイタル・センサー)》でよくよく凝らしてみると、大気中の微生物の生気なども見える。最初はかなり気持ち悪かったが、もっと気持ち悪いのはこれを《死出の一針》で撫でた時だ。どうなるかはわかるだろう。まさか殺菌効果まであるとは私も思わなかったよ。しかも()()に対してまで効果があるとは。

 

 持ち歩くだけで危ないので、普段はインベントリにしまい込んでいる。

 

 あとは何があったかな。

 

「ちょっと、あんまり散らかさないでよ!」

 

 などと思っていたら、帰ってきたトルンペートに叱られてしまった。狭い部屋でアイテム広げてたらそりゃそうなるか。私はそそくさとアイテムをしまって、そして相変わらず気持ち悪い収納力だと不本意な呆れ方をされるのだった。




用語解説

・灰色の脳細胞
 アガサ・クリスティの著作に登場する名探偵エルキュール・ポワロの口癖「私の灰色の小さな脳細胞 (little grey cells) が活動を始めた」より。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と海辺街

前回のあらすじ

久しぶりにゲーム内アイテムを整理してみるウルウ。
そのうちアイテム図鑑とかが必要になるかもしれない。


 宿で二人と別れて、あたしは早速バージョの町を散歩することにした。

 散歩と言っても、買い出しも兼ねているから、街門を抜けてそのまままっすぐ進んで市の方へと出る。

 

 市は実に賑やかなものだった。

 河に二つに割られ、東西で荷物も人間も二分しているはずなのに、とてもそうは思えないほどの賑わいで、これはヴォーストよりもずっと賑やかかそうだった。つまり、辺境から出てきて、一番都会的であるヴォーストから旅立ってきたあたしにとって、人生で最も賑やかな市だったと言っていい。

 

 市には本当に様々なものが並んだ。

 近隣の村々が運んでくる、野菜や、苗、家畜、薪、変わったところでは石材や木材、土、煉瓦、また河や海を通ってやってくる遠隔地の品々に、香辛料、それに、新鮮な魚介。

 つい楽しくなって見て回ると、全く見たことのない、鮮やかな色合いをした魚や、一抱えもありそうな二枚貝、もしかしたらウルウより大きいんじゃないかというくらい大きな怪魚、なんだか何者かもわからずどうやって食べるのかもわからない奇々怪々な生き物などが並んでいて、大いにあたしを驚かせた。

 

 季節は秋頃で、道行く人々はからっ風に備えるように厚着をしていたけれど、正直、辺境から出てきた身としては、このくらいではまだ寒いとは思わない。むしろまだまだ暖かいなと思ってしまう自分の感性に、少し苦笑いしてしまう。

 この土地では、そんな自分の感性の方がおかしいのだ。ずいぶん遠くまで来たものだ。

 

 きっちりと武装女中の制服に身を包んでいるけれど、それでも道行く人々には寒そうだと思われるらしくて、安くしておくよという言葉に負けて、つい襟巻など買ってしまった。地味だけど、肌触りが良くて、悪目立ちしないし落ち着いたデザインだ。なんでも北部からの輸入品だというから、成程暖かいはずである。

 

 あたしは辺境から来たのよと言うと、そいつは負けたよと笑って更にもう少し値引いてくれた。さすがに悪いので、リリオとウルウの分も買って、あたしたちは良い取引を交わした。

 

 あたしはそのように、これという目的もなくしばらくの間市を歩いて、面白そうなものを見かけては冷やかし、胡散臭いものにはケチをつけ、久しぶりの買い物を楽しんだ。

 

「へえ、辺境からの輸入品、ね」

「そうだよー、飛竜革の品がこんなに安く手に入るのはここだけだよー」

「あらまあ、本当に安い。よく採算取れるわね」

「特別な販路があってね。お客さんにも内緒」

「ところで、あたしの前掛け飛竜革製なのよ」

「げっ」

「ついでに言うと、この紋章何かわかんない?」

「うげげ、まさか辺境の武装女中!?」

「丁度新しい財布が欲しいと思ってたのよ」

「……他のお客さんには内緒ね」

「よしきた、安くしてよ」

「もってけドロボー!」

 

 勿論、こういうことをしていると、からまれることもある。

 

「おう、嬢ちゃん、いちゃもんつけてんじゃねえぞ!」

「あらまあ、この紋章が目に入らぬか、ってやつね」

「武装女中がなんだ! たかが女中なんぞおばっ」

「たかがね。吐いた言葉は取り消せないわよ」

「ちょっまっいぎぶっ!」

 

 ただまあ、乙種魔獣をおやつ代わりにしているとかなんとか言われている《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一輪が、その程度でどうにかなると思われているとしたら心外だ。

 辺境を出たばかりのあたしならさすがにちょっと身構えたかもしれないけど、何しろリリオに付き合って乙種魔獣を毎日のように相手させられて、時々は甲種魔獣なんてものまで相手にしていたのだ。そこらのちょっと腕っぷしに自信がある程度の男なんて目ではない。

 

「まあ……もう少し弁が立ったら無用な争いは避けられたわねってことは謝っておくわ」

 

 勿論あたしだって反省くらいはする。

 たいていの場合は手を出した後に反省するのだけど、まあ、反省ってそう言うものでしょ。いつだって後から悔いるから後悔だし、ふりかえって省みるから反省なのだ。

 

「で、いくら負けてくれるのかしら」

「も、もってけドロボー!」

 

 それとこれとは別だけれど。

 

 このようにして遊び惚けて、ようやく昼飯を買って帰ることを思い出したあたしは、屋台で適当なものを見繕った。

 

「これなあに?」

「何お嬢ちゃん、こいつを見たことがないのかい。そりゃ人生損してるよ」

「そんなに」

「こいつは(サルモ)の燻製さ。燻製と言ってもかっちこっちにしちまうわけじゃあない低めの温度でじっくり燻製にしたもんで、火は通っているけど、生みたいに柔らかいのさ」

「へえ! 食べて大丈夫なの?」

「煙で燻してあるからね。ちょっと切り分けてあげるから、味見てくかい」

「いただくわ!」

 

 そうして端の方を、細長いナイフでするりと薄切りに切り分けてもらって食べてみたのだが、成程これは面白いものだった。魚と言えば焼いたり煮たり、またたまに蒸したりしたことしかなかったけれど、こうして燻製にしてみると、また違った味わいが楽しめた。

 

 塩漬けにした後、低い温度で燻製にしているということだったけれど、この塩気がきつすぎず、うまい具合に魚の甘みというものを引き出しているのだった。生っぽくてちょっと驚くけれど、でも大丈夫だという。

 煙をたくのに香りのよい木を使っているらしいけれど、これも香木というほどいやらしくない、余計な所がない。

 

 あたしはこの燻製鮭(フミタ・サルモ)をすっかり気に入って、これをお昼にすることに決めた。

 

 屋台のお兄さんはあたしがこれくらい欲しいと伝えるとちょっとびっくりしたけれど、いっぱい食べるのはいいことだと笑って、少し時間はかかったけれど、その全てを、薄切りのパンに挟んでサンドヴィーチョにしてくれた。

 そしてまた飽きないようにと、いくつかには酸味の強い柔らかな乾酪(フロマージョ)をぬりつけ、いくつかには風蝶(カポロ)という酢漬けの香辛料を散らしてくれた。これがいい具合に味を引き締めてくれるのだという。

 

 あたしはこの包みを大事に抱えて、早足に宿に戻るのだった。




用語解説

燻製鮭(フミタ・サルモ)
 いわゆるスモークサーモン。
 しっかり塩漬けにした鮭を、塩抜きして乾燥させたのち、二〇度前後で時間をかけて冷燻にしたもの。
 欧米では一般的に火を通したものを言うが、作者が個人的にこっちの方が美味しいのでこうした。

・サンドヴィーチョ
 サンドウィッチ。

・酸味の強い柔らかな乾酪(フロマージョ)
 クリームチーズ。帝都の乳製品加工業者が知人からアドバイスを受けて製造、広まったとされる。

風蝶(カポロ)
 ケーパー。つぼみを酢漬けにして用いることが多い。
 独特の香味と苦みがあり、ソースの香辛料として用いたり、魚料理に付け合わせたりする。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合と次の旅程

前回のあらすじ

市を散歩して無事(?)昼食を手に入れたトルンペートであった。


 さて、組合でプロテーゾ社の依頼と旅券を手に入れた私は、意気揚々とボイちゃんの背に乗って宿に戻ってきました。ボイちゃんは賢い子なので、私があれは何だろう、ちょっと寄り道しようかななどと考えると、手綱を無視して宿までまっすぐ向かってくれるので、私も迷子になどならず無事帰ってこれました。

 まあ一人でも迷子になったことってないですけど。

 

 宿の部屋に戻ると、丁度トルンペートが卓にたっぷりとサンドヴィーチョを並べてくれているところでした。

 

「うわ見てるだけで胃もたれしそう」

 

 とはいつものウルウの言ですけれど、私、胃もたれって経験したことないんですよね。胸焼けも。

 サンドヴィーチョはどれも燻製鮭(フミタ・サルモ)なる、生みたいだけど生じゃないちょっと生っぽい塩漬け燻製鮭が具材として挟んでありましたけれど、他の具材や味付けに何種類かあって、からしを塗ったものや、柔らかく酸味の強い乾酪(フロマージョ)を塗ったもの、また酢漬けの風蝶(カポロ)を散らしたものなどがありました。

 もともとの燻製鮭(フミタ・サルモ)自体のうまみが良いこともありますし、またこの気の利いた種類の多さもあって、全く飽きというものが来ませんでした。

 

「君ら本当によく食べるよね」

「あたしらからしたらウルウが食べなさすぎなのよ」

「ですよねえ」

「リリオは食べ過ぎだと思うけど」

「燃費が悪いんです」

 

 実際、昔から私は食べる量が多かったものです。魔力の発散を押さえるのがあまり得意ではなかった幼いころは本当に食べないと餓死すると思うくらいお腹が減りましたし、魔力の制御ができるようになってからも魔力をため込むのだと言わんばかりに食べましたし、いまも口寂しいなと思っている時間が長いです。

 

 仕方ないんですよう。辺境貴族はそういう風にできてるんです。私ばっかり言われますけど、兄のティグロだってお父様だって恐ろしく食べますからね。まあ一等食べるのは私ですけど。

 

「辺境がクッソ寒いのって辺境貴族が空気中の魔力食べてるからじゃないの」

「あながち一笑にふせないのがつらい所ね」

「もー!」

 

 ともあれ、私たちはこの素敵なサンドヴィーチョをぺろりとおいしく平らげたのでした。

 

「本当にどこに入るんだ君たちは」

 

 ウルウは呆れますけど、ウルウはもうちょっとお腹に詰め込んでもいいと思うんですけどね。

 

「はー、しかし、この(サルモ)は美味しいですね。橙色の身も美しいですし」

「辺境にはなかったの?」

「辺境は海に通じてませんからね。面してはいるんですけど、断崖絶壁です」

「成程」

「いやあ、南部に来てよかったですねえ」

「でもこの燻製鮭(フミタ・サルモ)、お店で聞いたら北部のやり方らしいわよ」

「えっ」

「南部でも(サルモ)が捕れるから真似したんですって」

「はー、そうなんですねえ」

 

 そう言えばそれなりに北部にいたとはいえ、ヴォーストは内陸地でした。

 一応北部にも港町はあるんですよね。なんとなく北部っていうだけで寒そうですけど、夏は暑いですし、海水浴なんかできたのかもしれません。

 

 お腹が満ちたら、旅程の確認です。

 

「旅券は取れたの?」

「丁度良く、明日の朝出る輸送船があるそうです。護衛依頼もあったので、一緒に取ってきました」

「輸送船ねえ。客室には期待できないかな」

「まあ船は、客船と言えど客室は小さくなりますから、どっちにしろ仕方なかったですよ」

「どっちにしろあたしたちには、ニオのなんちゃらがあるからぐっすり寝れるわよ」

「私のね、私の」

 

 護衛って言うけどさ、と小首を傾げたのはウルウでした。

 

「海賊相手の護衛って、どうすればいいの」

「基本的な仕事は、武装した状態で甲板をうろつくことらしいです」

「なにそれ」

「こっちは手強いぞーって見せつけて、威嚇して、襲うのを諦めさせるんです」

「成程」

「プロテーゾ社の船は大きいですし、実績もありますから、まあほとんど襲われることはないらしいですね」

「襲われたとしたら、私たちどうやって戦うの?」

「うーん、船を接近させて、乗り込まれるか、こっちから乗り込むかして、直接の切りあいというのが話に聞く形ですけどね」

「基本は川船と同じってわけね」

「そうですね」

「大砲は?」

「はい?」

「大砲とかはないの?」

「あー、高いですし、積んでる船はちょっとだけですね。過剰火力ですし」

「じゃあ海賊側も持ってない訳だ」

「勿論!」

 

 とはいえ、最近大砲を積んだ海賊が出回ってやんちゃをしていたという話も聞きましたけれど、まあ所詮は海賊、腕利きの冒険屋がさっさと退治してしまったそうです。

 

「冒険屋が?」

「ええ、なんでも《魔法の盾(マギア・シィルド)》という二人組の冒険屋で、このひとりが凄腕の魔術師なんだそうですよ」

「そう言えば魔術師ってあったことないねえ」

「習得が大変ですからね。この冒険屋は何でも海ごと船を氷漬けにしたとかなんとか」

「まっさかー。さすがに盛り過ぎでしょ」

「わかりませんよ。なんでも地竜を朝飯代わりに平らげたとかいう噂ですから」

「それこそまさかよねえ」

 

 まあでも、何しろそんな噂になるような事件があってからまだそれほど経っていないそうですから、海賊どもも大人しいことでしょう。

 と安心させるように言うと、ウルウはげんなりとした顔で言いました。

 

「つまり、船酔いをごまかす暇つぶしもないわけだ」




用語解説

・《魔法の盾(マギア・シィルド)
 西部の二人組の冒険屋。とんがり帽子の魔女と大鎧の戦士であるらしい。
 地竜退治という凄まじいデビューから始まり、山を吹き飛ばしたり平原を氷漬けにしたり海賊を海ごと凍らせたり、かなり凄腕であるらしい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊と港町

前回のあらすじ

昼食を済ませ、旅程を確認する三人。
凄腕の冒険屋の噂話をするが、まさかそんな奴らいるわけないだろう。


 トルンペートは先ほど少し歩いてきたし、リリオも組合まで行ってきたけれど、三人とも海辺の町は初めてということで、改めて観光して回ってみることにした。

 

 いやあ、生前も私海辺の町にはいったことがなくて、むしろ海自体直接見たことないし、というか旅行自体行ったことが、ああ、まあ、修学旅行くらいしかないな、うん。そんなわけで、私らしくもなくちょっと楽しみでは、ある。

 

 宿屋街を抜けて、市のある広場に出るころには、風はすっかり潮の匂いをさせていた。なんだかすてき、っていうよりも純粋になんかこう、違和感が強いというか、背筋がぞわぞわするというか、市に並ぶ魚介のせいもあるんだろうけれど生臭いっていうか、ぶっちゃけ心地よくはないよね。

 むしろやや不快より。

 

 まあしばらく歩き回っていればなれるんだろうけれど、私が鼻をこする様を見て、トルンペートなんかは、「初めての家で渋い顔してる猫みたい」などと言ってきた。自分の方がよほどお澄ましの猫面してるくせに。

 

 バージョの町は、ヴォーストと比べると同じくらいか、むしろやや大きいくらいの町だった。河口に寄り添うように広がっていった三角形の町で、東街と西街、二つの三角形が川を挟んで大きな三角形を形作っている形だった。

 

 私たちはいまその三角形の片側、東街の方の市を見て回っているのだった。

 

 同じ港町ということでヴォーストとは似ている点も多かったけれど、でも、行きかう人々はもっと荒々しく、もっと豪快で、いわゆる海の男という感じだった。

 

「あっ、武装女中の姐さん、さっきはどうも」

「ひぃ、わ、わかった、あんたには負けたよ」

「くわばわくわばら……」

 

 一部妙にトルンペートに恐れをなす手合いもいたけれど、まあ大方妙にふっかけたとか、妙な品物売りつけようとしたとか、値段以下のものを並べていたとか、いちゃもんつけたとか、まあいくらでも理由は思いつけど、それで返り討ちにあったかなんかしたんだろう。おすまし顔して結構やんちゃだからね、この娘。

 

 先ほど買ったのだという揃いの襟巻をまいてみたが、これがなかなか質がいい。私の体は大分寒暖差にも強くなったようだけれど、でもこういう防寒具が一つあるのとないとでは、体の上でも心の上でも感じる温度が違うというものだ。

 

 リリオも襟巻に、というかお揃いであるということを純粋に喜んでいるようで、どうやら購入したらしい店のお兄さんが軽く手を振って挨拶してくれた。北部であれ東部であれ南部であれ、みんな結構気さくなのが前世との違いだね。

 

 ヴォーストの町では北部ならではの品の外は、東部の蜂蜜や蜂蜜酒(メディトリンコ)、帝都の流行の品、また辺境からいくらか流れてくる飛竜革の装備などが多く出回っていたけれど、バージョは漁港として有名なようで、市の全体にわたって魚介を売る店が多く見られた。

 

 魚はみな赤々とした血の色を見せるえらをひっくり返されて見せつけられていた。つまりこれは、えらが悪くなっていない、つまり新鮮であることをアピールしているらしい。私からするとちょっとぎょっとする光景だけれど、道を行く人々はあら新鮮ねえ、なんて素直に言っている。

 

 私は見たことのある魚の姿と名前を精密に思い返せるので前世のものと比較できるのだけれど、まあ都会生まれ都会育ちのもやしっこの見たことのある魚介類なんてたかが知れてるね。多分これはあれこれの仲間なんだろうなとか、おおこれはまさしく前世で見た、とかいう風になるのはほんの一部だけで、ほとんどは私も見たことがないものばかりだった。

 

 例えばこれは間違いなくマグロの仲間なんだよなという巨大なサイズの魚が捌かれながら量り売りされているという、見世物と商売が一緒になった店があったのだけれど、マグロにしては胸鰭がやけにでかい。でかいというか長いというか。その、なんというか。

 

「……あれなに?」

「ああ、飛魚(フルグフィーショ)ですね。ずいぶん大きい」

 

 それは空飛ぶ魚、つまりトビウオという意味の言葉だった。

 

「なんでもものすごい勢いで泳いで、水面に飛び上がって、そのまま十メートルくらいは飛ぶらしいですね。たまに船にぶち当たって事故を起こしたりするそうです」

「なんつう危険な生き物だ……」

「まあ普通の船は大概魚除けがしてありますから、余程運が悪くないとそう言うのには当たりませんよ」

 

 そういう問題でもないとは思うが。というかどうやって捕まえたんだろうそんなもの。

 

「味はいいらしいです」

「まあ君にとって大事なのはそこだよね」

 

 見た感じは赤身と言いマグロっぽいから、多分そう言う味がするんだろうなとは思う。前世では絶滅を心配されてたけど、こっちではどうだろうな。こんなたくましい生き物早々大量には捕まらないとは思うけど。

 

「しっかしこんなに魚であふれかえってるけど、消費しきれるのかな」

「実はこの市に出てる分だけでなく、もっと魚が捕れてるんですよ」

「そんなに」

氷精晶(グラシクリスタロ)と氷の魔法を使った特別誂えの冷蔵車があって、それで帝都や各地に特急便で運んだりしているそうですよ」

「北部じゃ見たことないね」

「さすがに遠いですし、相当高くつきますからね。冷蔵車も、それを牽く特急の馬も」

「貴族かお金持ち専用ってわけだ」

 

 そんなわけで、港町にいる間はたっぷりと海の幸を楽しみたいところである。北部では魚介と言えば川魚とか、干し魚とかだったからな。




用語解説

飛魚(フルグフィーショ)
 泳ぐ勢いそのままに水上に飛び出して滑空する魚類の総称。
 ここで登場するのは暖かな外洋で回遊する大型のもの。大体二メートル前後のものが多い。
 時速八十キロ程度で海上二メートルほどを滑空する。
 飛距離は十メートル前後が多いが、最大で二百メートルほど飛んだという記録もある。
 風精との親和性が高いとされるが、何故飛ぶのかは謎である。

・魚除け
 海の神、また水精の加護の一つ。魚の無意識に働きかけて船を回避するように仕向けるという。
 そのため最初から敵意満々で向かってくる場合は効き目が薄い。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と海の幸

前回のあらすじ

異世界の魚介にさすがにドン引きするウルウ。
しかし今後も似たような出会いばかりだろう。


 さっきもちょっと散歩がてら見て回ったけれど、やっぱりじっくり見て回ると新しい発見も多い。それに荷物持ちことウルウがいると後を考えずに物を買えるのでいい。

 

 なにせこいつの《自在蔵(ポスタープロ)》は鮮度そのままで持ち運びできるとか言う、もはや《自在蔵(ポスタープロ)》ではないなんか別物のすごいやつなので、頼りがいがあるのだ。すごいやつなのだ。惚れちゃうわね。

 などということを矢次はやに言って聞かせたところ、「よせやい」とそっぽを向いてしまったけれど、しばらく荷物持ちに何の不満も言わないようになったので、実際ウルウはちょろい。

 

 しばらく海の幸というか海の脅威というか、ウルウのいうところの「怪奇! 海からやってきた神秘!」みたいなのを見て回っているうちに、さすがに早々驚かなくなってきた。

 

 例えば亀の手とかいう、それこそ本当に亀から手をもぎ取ってきたような生き物があった。これは海岸などに張り付いて生きている生き物で、かたい殻の中に柔らかい身が詰まっていて、煮るとよい出汁が出て、くにゅくにゅこりこりとした食感が楽しめるということだ。

 実際軽く茹でたものを味見させてもらったが、殻の外見とは裏腹に中身はつるんとした白っぽい奇麗な身で、食べてみると成程味わい深かった。

 

 しかしまあよくぞあんなものを食べようと思ったものだ。岸壁から三十センチは伸びていて、近づくと鋭い爪で襲い掛かってくるような生き物を。

 

 また面白いのは(カプクセーノ)海鞘(アシディオ)という生き物だった。ウルウの住んでいたところではもっと小さくホヤと呼ばれていたらしいこれは、名前の通り寝台においてある枕のように一抱えもありそうな大きさで、濃い橙色のつやつやとした、前も後ろもないような生き物だった。

 

 これを切り開くと濃い潮の香りのする内臓がぼろりとあふれてきて、これはもっぱら塩漬けにしたり、磯腸詰なる魚介の腸詰に使われたりする。ただ、足が速いので気を付けなければいけないという。

 身の方は、これは広げると卓いっぱいに広がり、これを切り分けて、湯がいたり、酢で和えたり、焼き物にしたり、揚げ物にしたり、また塩辛や干物にしたりもするという。

 

「サシミにしてもおいしいよ」

「サシミ?」

「あ、トルンペートはサシミまだでしたね」

「そう言えば霹靂猫魚(トンドルシルウロ)はトルンペートが来る前に食べ飽きちゃったもんな」

「なによ、なんなのよ」

「生ですよ」

「えっ」

「切り分けたのを生でいただくんです」

「バッカじゃないの?」

 

 またあたしをからかっているんだと思って怒ってみたが、どうも店の人もそうだというし、本気で言っているらしい。

 

「海の魚介は新鮮なものであれば生で食べられるよ」

「本気で言ってるの?」

「私は結構好きだよ」

「本気で言ってるのね」

 

 まさかのウルウまで推してくる。これはどうにも、本気の本気らしい。

 

「折角ですし、ここはトルンペートにもサシミいってもらいましょうか」

 

 理解できないで困惑しているうちに、リリオが店の人に言って、何種類かの魚と、そして(カプクセーノ)海鞘(アシディオ)をサシミにしてもらった。

 味は、塩か魚醤(フィシャ・サウツォ)があると言われたので、ウルウのおかげで慣れてきた魚醤(フィシャ・サウツォ)で試してみることにした。

 

 さあ、いよいよもって逃げ場がなくなった。

 リリオが面白がって見ているっていうことは、危険な事ではないんだっていうのはわかる。この娘は人の危険を面白がるような娘ではない。あたしが未知に恐怖しているのを、ちょっとからかっているだけなのだ。

 

 ウルウはあたしが気味悪がっているのを見て、ハシとかいう例の二本の棒で器用にサシミをつまんで、先に一口やってくれた。

 

「うん。美味しい。鮮度がいいし、脂ものってる」

「ああ、ウルウ、ずるい!」

「お手本だよ」

 

 そこまでされて逃げたのでは武装女中の名が廃る。

 あたしは意を決して、最近慣れてきたハシでサシミに取り組んだ。

 

 まずは一番普通のお肉っぽい、赤身の魚だ。いや、生肉だって食べはしないけど、でも、一番安全かなって思う。魚醤(フィシャ・サウツォ)を軽くつけてこれをにらみつけ、思い切ってえいやっと口に放り込んでみる。

 

 すると、甘いのである。

 魚醤(フィシャ・サウツォ)は塩気が効いているのに、むしろそれが引き立てるように、赤身の魚の甘さを引き立てるのである。成程、ウルウの言う通り脂が良く乗っているのだけれど、肉の油とは違って、実にさっぱりとしている。

 

「それはさっきの飛魚(フルグフィーショ)だね」

 

 私はきょとんとして皿を見つめた。

 そうすると途端に、盛りつけられたサシミが宝石のように輝いて見え始めたのだった。

 




用語解説

・亀の手
 石灰質の殻をもつ岩礁海岸の固着動物、つまり海岸の岩とかに張り付いている生き物。
 帝国の亀の手は全長三十センチくらいで積極的に攻撃を仕掛けてくるものが普通のようだ。

(カプクセーノ)海鞘(アシディオ)
 名前の通り、枕ほどの大きさもあるホヤ。
 ではホヤとは何者かと言われると、ホヤはホヤだとしか言いようがない奇怪な生き物である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 白百合と海の幸

前回のあらすじ

初のサシミに挑戦するトルンペート。
そのお味は。


 トルンペートは次に、つやつやと白っぽく透明なサシミに挑戦するようでした。

 表面がつるつるしているのですけれど、貫通しない程度に表面に切れ込みがいくつもいれてあって、つかみにくいということがないみたいでした。またこの切れ目は、つるつるとした身に魚醤(フィシャ・サウツォ)をうまく絡める働きもしてくれているようです。

 

 トルンペートはこれをちょっと見つめて口に放り込むと、その不思議なサシミに驚いたように眉を上げました。これはさっきの飛魚(フルグフィーショ)とは全く違ったサシミですね。

 

 私もいただいてみましたけれど、きゅむきゅむっとした不思議な食感で、トロリととろけるようなのだけれど、脂っけは全くない、面白い味わいでした。

 

「イカだね」

「イカ?」

「これ」

 

 そういってウルウが示したのは、なんと烏賊(セピオ)でした!

 海の怪物と忌み嫌われる、あの烏賊(セピオ)だったのでした!

 

 これには私も大いに驚きました。

 

「あれ、お客さんは烏賊(セピオ)いける人? 南部でも見た目で嫌う人多くてね」

「これをね、細く麺みたいに切ってね、出汁で割った魚醤(フィシャ・サウツォ)とか、生姜(ジンギブル)を卸して混ぜた魚醤(フィシャ・サウツォ)なんかで食べると、うまい」

「ほほう、それはやってみないとね」

 

 トルンペートがこうして用意された細切りの《セピオ》を食べてにんまり笑うもので、私も耐え切れず新しく一皿注文しました。

 

 店の人が手早く用意してくれたのを一口やってみると、これがまた、同じ烏賊(セピオ)の切り方が変わっただけだというのに、先ほどとは全くうまさの質が変わってしまいました。つるるん、と口の中に入り込んで、もにゅもにゅ、くにゅくにゅと口の中で踊ると、烏賊(セピオ)の甘さがぐっと引き立つのでした。

 

 そして最後に挑むのは例の(カプクセーノ)海鞘(アシディオ)でした。

 これも、烏賊(セピオ)とは別の方向でものすごい見た目ですから、トルンペートだけでなく私もちょっとひるみましたけれど、切り分けられた姿はむしろなんだか細工物のようですらありました。これも、分厚い身を切り分けて、表面に切れ目を入れて食べやすいようにしてあるようでした。

 

「西方の人に学んだやり方でね。彼らは火の扱いより、包丁の扱い方がずっと得意でね」

 

 店の人が振るうあの細長い包丁は、西方由来の包丁のようでした。

 

「ホヤは潮の香りが強いからな……魚醤(フィシャ・サウツォ)よりこっちがいいかも」

 

 そういってウルウが取り出したのは、先ほど一人で姿を消したと思ったら、ほくほく顔で買ってきた黒い液体でした。同じ黒い液体なので魚醤(フィシャ・サウツォ)かと思っていましたが、こちらを皿に注ぐと、どうにも具合が違います。

 魚醤(フィシャ・サウツォ)の味わいと言ってもいいですけれど、しかし臭みとも言える、あの独特の香りがなく、代わりにふっくらと柔らかな香りがするのでした。

 

「これは?」

「おお、醤油(ソイ・サウツォ)だね。こだわるねえ、お客さん」

 

 これは、魚醤(フィシャ・サウツォ)が魚で造るように、猪醤(アプロ・サウツォ)が猪から作るように、豆から作るたれのようでした。

 ウルウはずっとこれを探していたのだとにっこり笑顔でしたけれど、お値段を聞いてこちらは目が飛び出るかと思いました。成程ウルウの資産なら十分に買えるでしょうけれど、でも。

 

「どれくらい買ったんですか」

「一樽」

 

 ずつうが、いたい。

 

 まあ買える範囲なら何も言いませんし、普段ものを買ったりしないウルウの数少ない趣味なので言いっこなしですけれど、それにしたって衝動買いの桁が違います。

 

 まあ、とにかく、その醤油(ソイ・サウツォ)の出番です。

 

 トルンペートが舌鼓を打つだけでなく小躍りしそうな勢いなので私ももう気になってたまらないんです。

 

 海鞘(アシディオ)の身を軽く醤油(ソイ・サウツォ)につけて、ひょいと口に放り込むと、これがまた鮮烈でした。内陸暮らしでは一生味わえないような強烈で濃厚な潮の香りが口の中いっぱいに広がり、そしてそこにふわりと優しい甘さが広がるのでした。

 歯ごたえは烏賊(セピオ)よりも強めで、ぎゅむぎゅむとしっかりした歯ごたえがたまりません。

 

 二人で一皿では何となく物足りなくなって、結局私たちはもう一皿頼んで、サシミを楽しむことにしたのでした。

 

「度胸は試せた?」

「試せた試せた。次は舌と胃袋を試す番よ」

「よく食べるねえ」

 

 そう言いながら、ウルウも新しく仕入れた調味料の出番だとばかり、お相伴にあずかるのでした。




用語解説

烏賊(セピオ)
 白い体に十本の足と、我々が想像するイカと同じようである。
 ただ油断ならないのがこの世界、船を襲うサイズのイカが普通に存在していたり、レーザー光を発するホタルイカが泳いでいたりするので、注意である。

醤油(ソイ・サウツォ)
 大豆から作った調味料。いわゆる醤油である。
 余談だが、幕末には遠いオランダまで醤油が輸出されていたという話がある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊と輸入品街

前回のあらすじ

サシミで度胸試しを終えたトルンペート。
さあ、あとは胃袋試しだと言わんばかりに食べ始めるリリオであった。


「一樽ゥ!? あんた毎回加減ってものを知らないの!?」

「腐らないしいいじゃない」

「そういうことじゃなくって!」

「次またいつ手に入るかわからないし、ね?」

「ああ、もう……好きにしなさい」

 

 好きにするとも。

 思えば前世では好きなものを買うという衝動買いすらしなかったから、買い物下手なのは理解している。というか衝動すらわかなかったからな。あれ欲しいとかじゃないんだよ。あれ切らしてたよな、なんだよ、買い物の基本は。大体買い物なんて深夜のコンビニで済むようなものしか買わなかったし。

 

 だからその反動なんですなどという気はないけれど、しかし、物を買うって言うのは、自分のものにするって言うのは、結構楽しいことなのだ。買った後のことなどいちいち考えていられるか。いまその瞬間なんだよ大事なのは。

 

「そういうとこある意味冒険屋らしいと言えばらしいわよね」

 

 まあ宵越しの金は持たないとまでは言わない。

 この醤油(ソイ・サウツォ)一樽だって結局、腐らない劣化もしないインベントリがあるからこそ購入しようと思っただけで、将来的に消費する予定のものだから無駄な買い物などではない。

 

 あとはカレー粉でも手に入れば言うことはない。カレー粉さえあればそこからカレーだって作れる。(リーゾ)も買ったし、あとは適当な野菜と肉でもあれば、完璧だ。隠し味に醤油(ソイ・サウツォ)を入れてやってもいい。

 暇つぶしにレシピ本読んだ完全記憶能力者をなめるなよ。少なくともレシピ通りのことはできる、程度には料理できるんだからな私は。それ以上はお察しだが、少なくともそれ以下になるようなことはないのだ。

 

 しかし、カレー粉は難しい。カレー粉はどうしても手に入れる自信がない。あの配合を、私は知らないのだ。一から始めるカレー的な、スパイスの調合から始めるような本を読んでおけば、そして少なくとも一回でも試していれば、私は完璧に再現する自信がある。

 しかしないのだ。そんなあほなことする余裕があるとは思えないと、当時の私はその本をそっと棚に戻したのだ。馬鹿め。何という愚か者だ。

 

 市の輸入品の並ぶあたりを見回してみれば、山と積まれた香辛料の類が発見できる。少々お高くはあるけれど、私の溜めに溜めた資産があれば十分に買えるし、そもそも今後使う予定もないのだから使ってしまって問題ない金だ。

 

 でも、どうしても知らないものは思い出せないのだ。

 カレー粉がどんな容器に入っていたのかは覚えている。そこに書かれた内容物も覚えている。

 でも、しかし、そもそもその表記自体が明瞭ではないのだ!

 ターメリック、コリアンダー、クミン、フェネグリーク、こしょう、赤唐辛子、ちんぴ、香辛料……()()()! そこだよ、聞きたいのは! 三十数種類のスパイスとハーブの詳しいところ!

 あと焙煎方法やら熟成方法やらも!

 

 そりゃ企業秘密だろうけど!

 

 勘所で香辛料を適当に集めて、鼻と記憶を頼りに調合すれば、それらしい、カレー粉っぽいものはできるかもしれない。しかしそれはカレー粉っぽいものであってカレー粉ではないのだ。

 

 これは私の記憶の数少ない敗北かもしれない。いくらなんでも、何の資料もなく、記憶のみから味と香りをこの場で再現するのは、私には、無理だ。

 

「……………」

「わー、いろいろありますね。あ、これは知ってます。胡椒(ピプロ)

「粉に挽かれちゃうともうわかんないわよね、元が」

「トルンペート、何か買います?」

「うーん、知ってるのは買いたくなるけど、新しい香辛料って使い道よくわかんないから困るのよね」

「うわぁ、これどぎつく赤いですねえ。唐辛子(カプシコ)ですって」

 

 見れば山と積まれた粉唐辛子である。横に見本として置かれた元の形も、私の知っている唐辛子と一緒だ。

 

「それは買っても大丈夫。辛いのが好きなら」

「ちょっと舐めさせてもらっても? ありがと―――うっわうわ!」

 

 トルンペートが少し舐めて目を白黒させた。

 そしてリリオが真似してものすごい顔をする。

 

「うわー、なにこれ、熱いっていうか、初めての辛さだわ」

「南部はこういうのよく出回ってるよー。辛いの苦手な人は気を付けてね」

「そうなのね、ありがとう」

 

 とはいえ、トルンペートはこの辛さを気に入ったようで、粉のものを一袋と、丸のままのものを一袋買った。リリオも辛いものは好きなはずだが、舌が痛くなるようなこの辛さは初体験で驚いているようだった。

 

 この世界でも色々食べてきたけれど、帝国では香辛料と言えば野山で取れる香草とかの類のことなんだよね。だからこういう強烈な、前世で言うところのいわゆる香辛料の代表である胡椒や唐辛子っていうのは、かなり刺激的に感じられることだろう。

 

 私は唐辛子得意かっていうと、どうだったのかよくわからない。というのも、胃が荒れてたから味覚云々以前に食べるとお腹下してたからあんまり刺激物取らなかったんだよね。珈琲さえちょっと控えてたくらいだし。

 

 しかし、それにしてもカレー粉欲しかったなあ。




用語解説

唐辛子(カプシコ)
 いわゆる真っ赤なトウガラシ。西大陸から輸入されるほか、南部で育ててもいるらしい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と港市

前回のあらすじ

香辛料をめぐって煩悶するウルウ。
完全記憶能力の敗北である。


 三人で市を見て回って、度胸試しでサシミとやらを食べて、香辛料を見て回って、あたしたちは全くこの見慣れない様相の市に飽きるということがなかった。

 

 例えばもう驚くことはないと思っていた魚介の類には、まだまだ驚かされた。細長い笹穂のような形の魚や、まるで円盤みたいに丸い魚、顔が片方に寄ってしまったような奇妙な魚、そして今でもちょっと丸のままの姿だと敬遠してしまう烏賊(セピオ)章魚(ポルポ)

 

 そのいくらかは、妙に物知りなウルウが、これは何々だ、これは何かの仲間じゃないかな、これは見たことがあるけど名前を知らない、と教えてくれることもあったけれど、時々その知識も外れることはあったし、ほとんどはお手上げだと言わんばかりだった。

 

 実際、海の生き物というものは限りというものを知らないようで、昔から漁をしている漁師たちでも、いまだにこれは何者なのだろうかと首を傾げるような生き物が捕れることもざらではないという。そう言う珍しい生き物を狙って港近くに居を構えている学者たちもいるそうで、いい小金稼ぎになるそうだった。

 

 沖に船を出すと、油断のならないもので、たいてい一つや二つは妙なことが起きるらしかった。例えば時折、人が捕れるときがあるという。海水浴を楽しんでいて沖に流されたもの、船が難破して遭難していたもの、海賊船から突き落とされたもの、様々だ。

 そう言うものは拾い上げて助けてやるのだそうだけれど、海賊らしきものは見捨ててやろうかと思う時もあるそうだった。

 

「たまに見慣れた顔が流れてる時もある」

「同じ漁師ってこと?」

「そう言う時もあるが、何度も漂流してるやつがいるんだよ」

 

 そんな奇特な奴がいるのかと思って聞けば、私たちが乗る予定の輸送船を持っているプロテーゾ社の社長が、勇猛なことで危なそうな船には必ず乗り込んで自分で指揮を執り、結果として船から落ちて漂流することがしばしばあるらしい。

 

 大丈夫なのかその人とは思ったけど、どうも海の神の加護で、少なくとも海を漂流していて死ぬことはないとかいう便利人間のようだった。そりゃあ無茶もするか。

 

「あたしたちが乗る船には乗ってるのかしら」

「普通の輸送船みたいですし、本拠地のハヴェノで忙しくしてるみたいですから、乗ってないと思いますよ」

「そりゃあよかったような、残念なような」

 

 良くも悪くも目立つ人である様なので、あったら挨拶でもしてみたいものだ。

 

 買取もしている店では、北部でたんまりと採った干し茸がいい値で売れた。とくに石茸(シュトノフンゴ)は香りも良く、南部では非常に高値になるということで、たっぷり儲けさせてもらった。

 もっぱらとろりとした煮汁にして麺と絡めて食うのが店の主の好きな食い方のようであった。また店の主だけでなく、南部は全体に麺類が好きなようで、北部に比べると麺を食べる機会が多いようだった。

 

 また麺の形だけでなく、南部小麦の粗く挽いた粉を卵や水、塩と練って、貝殻のような形や、筆のような形、蝶のような形や、平たい布のような形など、様々な形に成型して茹でたり煮込んだりして食べるのだという。

 

練り物(パスタージョ)と一言に言っても、何しろ基本的な形だけでも何十種類もあるし、細かいところまで比べて行ったら、南部全体で何百種類もあるよ。それに和えるたれや煮汁、また食い方なんかも加えて行ったら、帝都大学にそれを調べて本にまとめている学者がいるくらいさ」

 

 何と恐ろしいことに、その何十種類、何百種類という練り物(パスタージョ)を専門に扱っている店もあって、しかも市に並べてあるのは乾燥させたもののうちでもさらに壊れづらいものばかりで、商店街にある店舗では、更に数多くの種類が並べられて、注文通りの形に店で成型したりもするらしい。

 

「この学者が実にしっかりした人でね、南部生まれだからってのもあるんだろうけれど、練り物(パスタージョ)愛が素晴らしいんだ。形も全部図柄で説明していてね、うちでもお客さんから注文された時に便利なんで、愛用してるよ。市井の店で愛読されてる学術書なんて、まあこれくらいだろうね」

 

 いつも一冊持ち歩いているんだという本は大判で、しかもかなり分厚いもので、店主はこれを専用の入れ物を手作りして腰に下げているのだった。

 

 読ませてもらうとかなり面白い本で、確かに学者特有の小難しい言葉遣いや分類なんかも書いてあるのだけれど、読む人を飽きさせることのない南部人特有の明るい調子で、ちょくちょく小粋な冗談をはさんでくる。時には一面丸々練り物(パスタージョ)にまつわる冗句が書き連ねてあったり、一章丸々練り物(パスタージョ)の関わる逸話を紹介していたりした。ほとんど本の厚みはこれらの部分にあるんじゃなかろうか。

 

 また実際実用的でもあって、麺の形状を図柄で描き連ねてあるのだけれど、この図柄は本文での小難しい分類とはすっかり切り離されて、純粋に形状が似通った順に並べてあるので、探す側としてはこれ以上ありがたいことはないだろう。

 

「学術書なんてまあ、大概の町じゃあ一冊二冊あればいいくらいだけど、バージョの練り物(パスタージョ)屋には必ず置いてあるし、本屋にだって必ず置いてある。勝手に置いてある家だって少なくないんだから、これほど売れ行きのいい学術書ってのは他に知らないね」

 

 店主が饒舌に語る言葉は全く頷かざるを得ない具合だった。

 そしてその調子で根切交渉までするする進め()()()()()、気づけばたっぷりの練り物(パスタージョ)を買わされていたのだから、全く南部人というものは油断がならない。

 

「フムン。これは確かに立派な本だね。あとで見かけたら、買っていこう」

「やあ、お母さん、食べ盛りの娘さんを二人もつれて大変だね」

「こんなでかい娘が二人もいてたまるか!」

 

 南部ではウルウも思わず突っ込みが飛び出るようだった。




用語解説

章魚(ポルポ)
 いわゆるタコ。 
 ただし油断ならないのがこの異世界、硬い鱗に覆われたタコや、毒液で狙撃してくるタコなどもいるというからびっくりだ。

練り物(パスタージョ)
 小麦粉を卵や水、塩と練って、麺にしたり、貝殻状に成型したりと加工したもの。パスタ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合とお月様

前回のあらすじ

ノリのいい南部人にパスタについて語られ、ついつい買わされてしまうトルンペート。
油断ならない。
今回はタイトル通りのお話なので注意。


 さあて、たっぷり見て回って、たっぷり食べて回って、たっぷり買って回って、すっかりくたびれて宿まで戻ってきました。ああ、疲れた。いい気持ちです。こういう心地よい疲れというものは、なかなか得難いものです。

 

 私たちはウルウに荷物持ちを任せてついつい買い過ぎてしまった品物を取り出して並べ、あまり反省していない反省会を早々に終わらせて、これらを整理しました。すぐに使うもの、そうでないもの、一つにまとめられるもの、小分けにした方がいいもの。

 

 結局ウルウの便利な《自在蔵(ポスタープロ)》に放り込んでしまうのですけれど、一度並べて目で見て覚えた方が私も取り出しやすいとウルウが言うので、買い物の後はいつもこのようにしています。

 

 いつもでしたら無駄な買い物などにウルウが一言いうのが定番ですけれど、今日は何も言いません。そりゃあそうでしょう。自分でも、醤油(ソイ・サウツォ)一樽だけでなくあれこれと買いこんでしまったのですから、文句を言えるはずもありません。というか単位量当たりでは一番多いのでは。

 

 さて、整理が終わればさすがに横になって休憩です。お買い物は楽しいものですけれど、疲れるものですからね。トルンペートもさすがに情報量が多すぎる市だったようで、ムニムニとこめかみを揉みながらベッドに倒れます。

 

 ウルウがちょっと席を外しましたけれど、まあ、ウルウも人間です。花を摘みに行くことくらいいちいち何も言いません。そんな野暮な。

 

 野暮とは思いましたけれど、ちょっと気になってしまいました。

 

「ウルウもするんですね」

「何急に言い始めてんのよ」

「いやだって、しないって言われたら信じられそうな気がしません?」

「そりゃあ……しないわけじゃないけど。でもウルウだって人間よ?」

「たまに疑っちゃいますけど」

「まあそりゃ……でもあたしより付き合い長いんだし、厠に行くとこなんていくらでも見てるでしょ」

「実際厠で何してるかなんてわからないじゃないですか」

「なにあんた……()()()()?」

「………………」

「こわっ」

「いや、そう言う訳じゃなくてですね、ほら、森の中の話したじゃないですか」

「あー」

「あの時私の方は隠してたわけでもないですし、見られてた可能性が無きにしも非ずでしてね」

「いや、さすがにすぐに気づいてどっか行くでしょ」

「わからないじゃないですか」

「なにあんた、仲間のこと疑ってるの」

「そういうわけじゃないですけど……」

「……まあ、あたしもちょっとどうなんだろうって思ってたし、疑問に思うのは否定しないわ」

「トルンペートもですか」

「いや、あたしの場合はほら、ウルウって、毎月普通よねって」

「毎月って……あー」

 

 私が下のことを気にしていたように、トルンペートが気になっていたのは月のものについてだったようです。

 

「あの顔は絶対重いでしょ」

「顔て」

「あんたはおっそろしく軽いっての知ってるわよ」

「お風呂入っても全然平気なくらいですしねえ」

「羨ましい」

「トルンペートだって割と短いじゃないですか」

「短いけど、やっぱり普段通りってわけにはいかないわよ」

「確かにちょっとつんつんしますもんね」

「自分じゃ抑えてるつもりなんだけどねえ」

「痛いんですか?」

「だるいのよ。痛いのはそこまでじゃないんだけど。あと屈んだりしたときに漏れる感じが嫌」

 

 思い出すのもいやという風に顔をゆがめて、そしてトルンペートは言いました。

 

「ウルウの場合、ちらっともそんな気配見せないじゃない」

「お風呂入らない日もないですしねえ」

「でも着替えの時、あいつが月帯締めてるの見たことある?」

「ないですねえ」

 

 まあいつもじっくり見てるわけじゃないですけど。

 

 私たちは月のものが来ると、下着の下に月帯という帯を締めて、内側に月布という血を吸うための布を詰めます。多いと何度も変えないといけませんけれど、幸い私はかなり軽いですし、トルンペートも一日一、二度替えるくらいです。

 

 ところがウルウがこの月帯を締めているのを見たことがないのでした。

 

「自称二十六歳だし、少なくともあたしたちよりは年上じゃない。来てないってことはないと思うんだけど」

「普段から物静かで、ことあるごとにしかめっ面してるような気難し屋さんですから、判断しづらいですよね」

「……洗濯、洗濯してない」

「え?」

「ほら、月帯にしろ月布にしろ、洗濯しないといけないじゃない。このパーティの洗濯もっぱらあたしがやらせてもらってるけど、ウルウの月布洗濯したことない」

「血が付くものですし、自分で洗濯してるんじゃ?」

「わざわざ人目忍んで?」

「ほらぁ……あれで恥ずかしがり屋さんですし」

「あー……そう言われると、そうかも」

「もういっそ、月のものとかないんじゃないですか」

「そんな人間いるの?」

「だってウルウ、半分妖精枠じゃないですか」

「妖精枠」

「おとぎ話から出てきましたって言われても信じられるくらい時々純粋じゃないですか」

「あー……否定できないこのもどかしい感じ」

「何言ってるの君たち」

「あ、ウルウ」

「おかえりー」

 

 極めて怪訝そうな顔つきで帰ってきたウルウに、これこれ、この顔つきですよねなどと言えばさらに不可解という顔をされてしまいました。

 

「なに。私の話してたの?」

「あー、なんていうか」

「ウルウって月のものどうしてるんだろうって話してました」

「直!」

「え、あ」

「止めて恥ずかしそうな顔をしないで犯罪者みたいな気分になる!」

「うわぁ……うわぁ……」

「そしてそこの犯罪者みたいな顔止めろ!」

 

 ウルウはちょっと恥ずかしそうに顔を俯かせた後、それから決意を定めたように言いました。

 

「こ、こっちでどうするのか知らなくて……下着に布詰めて胡麻化してた」

「汚れた布とか下着は?」

「不衛生だし、焼いて捨てた」

「思考が金持ち」

「洗って使いまわしましょうよ」

「だって、こう、だって、ねえ」

「どうしよう、リリオよりお嬢様よこいつ」

「はなはだしく不本意ですけど同意です」

 

 結局私たちはこの初心者に月帯と月布の説明をしてやり、今度一緒に買いに行くことにしたのでした。幸いにもこの船旅に合わせて来ている面子は一人もいなかったようで、助かりました。船の上ではどうしようもありませんからね。

 

「というか、なんでそんな話に」

「いや、リリオがウルウのしているところが見てみたいって」

「トルンペート言葉を選んでっ!」




用語解説

・厠
 トイレのこと。

・月帯/月布
 整理の時に局部に巻く帯と、そこに詰める吸い取り布。
 基本的には洗って再利用するが、布屋などで端切れを使い捨て価格で売っていることもある。
 帝国では、素材の違いこそあれ、平民でも貴族でもこれらを用いている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊とカヴィアーロ

前回のあらすじ

リリオが犯罪者のような顔つきでウルウを凝視する回でした。
事案だ。


 さて、休憩して、ちょっとした講義も受けて、私たちはいい時間になったので夕食を頂くことにした。

 宿の食堂は海の町らしい荒くれや商人たちでいっぱいで、実に大賑わいだった。

 

 リリオたちはこういうのを私が苦手だと思っているけれど、それは半分正解で、半分間違いだ。自分が混じるのは苦手だけれど、人々がにぎやかにしているのは、最近それなりに楽しめるようになってきた。一つの光景として、他所から見る分にはね。

 

 ああ、勿論、あんまりみっともなかったり、汚らしかったりするのはだめだけど。

 

 私たちはちょうど空いていたテーブルに席を取り、女中に宿の料金に含まれている夕食を頼んだ。この宿は宿泊客限定で、とっておきのメニューを出しているのだ。リリオもそれがお目当てでこの宿を選んだってわけ。

 私もさっき用を足すついでに、いろいろ聞いておいた。

 

 少しして、水で薄めた葡萄酒(ヴィーノ)と、薄切りのパンがバケットに。そして小鉢にたっぷりと、橙色につやつやと輝く()()()がテーブルに置かれた。その他に、クリームチーズに、スモークサーモン、ピクルスなども並んだ。

 

 そう、イクラだ。鮭の卵の、あのイクラ。

 南部ではこの新鮮なイクラの塩漬けをカヴィアーロと呼んでいて、見目もよく味も良く、ご馳走として供されるのだった。

 成程これは食べる宝石という輝きである。

 

 リリオは早速大喜びで、薄切りにパンに、えっそんなに、というくらいたっぷりのイクラを盛り付けてパクリとやった。トルンペートが毒見よりも先に食べられて、というよりやっぱりおいしいものを目の前にしてか、同じように、そこまで、というくらいたっぷりとイクラを盛り付けた薄切りパンをパクリとやる。

 

 その笑顔たるや、料金分以上の満足というところだろう。

 

「ウルウは食べないんですか?」

「私は別のをお願いしていてね」

「別の?」

 

 リリオが小首を傾げると、女中が私の前の小鉢を置いた。

 

「こんな感じでよかったかしら?」

「ええ、完璧。ありがとう」

 

 それは、丼だった。

 そっと敷き詰めた(リーゾ)の飯に、たっぷりのイクラをかけまわしたイクラ丼だった。

 

 私は匙を取り、それを早速頂いた。

 

 口の中で咀嚼し、その瞬間、イクラの甘みと塩気とが爆発するように襲い掛かってくる。ぷちぷちと食感も楽しい歯ごたえののちに、うまみにあふれた甘みと塩気が、口の中にざあっとあふれ出してくるのだった。そしてそのあふれ出したうまみを受け止めるのは、飯だ。白飯だ。記憶のものよりも少しばかり香りに乏しいが、それでも確かに米の飯が、イクラのうまみをたっぷり吸いこんで、舌の上で踊るのだった。

 

「なっ、なー! 一人で何を美味しそうなもの食べてるんですか!?」

「イクラは君も食べてるじゃない」

「カヴィアーロじゃなくて、その、なんです、そのなんか白いやつ!?」

「これ……もしかして、(リーゾ)?」

「そうだよ」

 

 少し間をおいて、サプラーイズ、女中が二人の分も持ってきてくれた。

 実はさっき用を足すついでに、買っておいた(リーゾ)を渡してお願いしておいたのだ。

 

「どうせ私ひとりじゃ食べ切れないしね」

 

 これにはリリオも大喜びで早速匙を入れ、そしてそのうまみの協奏曲に身もだえするのだった。薄切りパンにクリームチーズやスモークサーモンと一緒にいただくのもとても美味しいのだけれど、私の舌にはこっちの方が慣れている。

 それに暖かい飯に冷たいイクラという温度差の刺激もあるし、丼という一種の野趣ある料理がリリオに似合うんじゃないかとも思ったのだった。

 美味しそうにほおばる姿は、それだけでサプライズの甲斐があった。

 

 トルンペートはもう少し慎重だった。

 この(リーゾ)というなじみのない相手をそっと匙ですくって、口の中でもぐもぐと味を見る。

 

「んー……なんかもっちゃもっちゃしてて……味もない……ないわけじゃない……やや甘い感じもするけど……自己主張少ない感じ……そんなに美味しいかしら」

 

 だろうね、という感じだ。

 

 正直よほどの米好きでもないと、習慣だからとか馴染みがあるからとかで米を愛好している人のほうが多いだろう。パン食なんかが増えた今、むしろ米はそこまで好きじゃないという層も増えていると聞く。

 しかし米のいい所は懐が深い所だ。いやまあパンだって懐は深いんだろうけど、あえて言うならばって感じだ。

 

「フムン……ははぁん……なるほどね……この物足りなさがかえって、カヴィアーロのうまみを引き立ててくれるというわけね」

 

 飯とイクラとを一緒に味わってみて、トルンペートもなるほどとうなずいてくれた。リリオ程ではないにしても、美味しくいただいてくれているようでよかった。私はお米に慣れているからお米好きだけど、必ずしも万人に受けるとは言えないしね、米の飯って。

 多分トルンペートはリゾットとかピラフとかの形にした方が好きだと思う。

 

 まあ、私の趣味はここまでだ。

 

「はーい、カヴィアーロのクレム・スパゲートだよー」

「サシミの盛り合わせだよー」

飛魚(フルグフィーショ)の焼き物だよー」

「きゃー!」

「待ってましたー!」

 

 食べ盛りの二人の為に、追加料金を払っているのだから。




用語解説

葡萄酒(ヴィーノ)
 ブドウから作られるお酒。いわゆるワイン。蜂蜜酒(メディトリンコ)より少し高い。

・イクラ
 鮭の熟した卵を一粒ごと小分けにしたもの。塩漬けやしょうゆ漬けにして食べる。
 帝国ではカヴィアーロと呼ばれ、もっぱら港町でのみ消費されてしまう高級品扱い。
 
・カヴィアーロのクレム・スパゲート
 要するにイクラのクリーム・スパゲッティだ。
 スモークサーモンとバジルを散らして見た目も良く、宝石のような見た目を崩して食べ進めていくのは罪深い味がする。
 もちもちとした南部小麦の柔らかく腰のある食感と、イクラのぷちぷちと弾ける食感が組み合わさり、一口食べればもう逃げられない。
 宿でもおすすめの一品だ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と宿の夜

前回のあらすじ

イクラをはじめとした海鮮料理に舌鼓を打つ三人だった。
食べ過ぎ、注意。


 あんなに美味しいのだから(リーゾ)をいっぱい買っていくべきだと宣言するリリオに、あたしはため息をついた。まあそりゃあ確かに美味しかったかもしれないけれど、あれだって元が美味しいカヴィアーロがあったからだ。(リーゾ)自体がそこまで特別においしいとはあたしには思われなかった。

 

「トルンペートにはあのゴハンの良さがわからないんです!」

「はいはいわかんないわよ。それに、聞いたけど(リーゾ)ってあの状態までたくのに結構かかるらしいじゃない。鍋占領するし、時間かかるし、旅暮らしのあたしたちにはあんまり現実的じゃないわよ」

「干し(リーゾ)だったらそこまでかかりませんから!」

「それだって安くはないわよ。堅麺麭(ビスクヴィートィ)だってまだ一杯あるんだし、あたし別に(リーゾ)そんなに好きじゃないし」

「雑炊とか煮込みにしてもおいしいはずですからぁ!」

「それこそ堅麺麭(ビスクヴィートィ)で十分よ」

 

 それに、とあたしは指先を突きつけて黙らせてやる。

 

「結局旅先でまた美味しいもの見つけてはそればっかり食べるんだから、そのたびに買ってたらきりがないわよ」

「う、うぐう」

 

 胸に覚えがありすぎるのか、さすがにリリオも黙ってくれた。渋々ではあるけれど。

 

 ま、あたしだって鬼じゃあない。

 ちゃんとウルウが自分用にって買い込んでいるのは知っている。

 一袋か二袋か、もしかしたら一樽か知らないけど、とにかく隠し持っているのは知っているのだ。一番の料理上手があたしである以上、いつまでも隠し持つことができるとは思わない方がいい。結局あたしに寄越して調理させることになるのだ。

 

 ともあれ、あたしたちはすっかりお腹もいっぱいで、明日も早いことだから早めに休むことにした。

 ベッドは二つに、ソファが一つあったけど、結局あたしたちは一つのベッドにもぐりこんだ。つまり、ウルウのベッドに。

 

「もう隠しもしなくなったよね、君ら」

「この布団が気持ち良すぎるのが悪いのよ」

 

 ニオのなんちゃら布団とかいう、ウルウがいつでもどんな時でも寝るときに使う布団は、恐ろしく柔らかく、心地よい眠りを与えてくれるのだった。そこに三人も潜り込むのだから、暖かさでもいうことはない。

 

 あたしたちは枕元の明かりを消して、それから暗闇の中で明日のこと、また船を乗ってゆく先のハヴェノのことを話した。

 

「船は二日ほどでハヴェノにつくそうです。風次第ですけど」

「二日もまた揺られるのか……」

「沖に出れば揺れはそんなに、って言いますけどねえ」

「ご飯も期待できないって聞くけど、どうなのかしら」

「二日くらいの旅程なら、それなりに鮮度のいいものが期待できそうだけど」

「海経験者いないものねえ、あたしたち」

「二日ねえ……魔法とか神官でどうにかならないの?」

「風遣いが乗ってますけど、そこまで旅程の短縮はできないでしょうねえ」

「風の神の神官とかいるのかな」

「もっぱら天狗(ウルカ)だと聞きますね。眷属神の旅の神は信奉者多いですけど」

「旅の神の神殿って移動式らしいわよ」

「こだわるねえ」

「明日は朝一で船が出るそうですから、夜明け頃に起き出した方がいいですね」

「心配なのはリリオだけど……目覚まし用意しとく?」

「なんだっけ、あの、柱時計の小さいやつみたいなのでしょ」

「そうそう」

「リリオが心配だし用意しときましょ」

「あのですねえ」

「起きなくて、角で殴ってようやく起きたの私は忘れてない」

「その節はどうも」

 

 あの時計は全く不思議な時計だった。リリオの頭をぶん殴っても壊れないし、実に正確に時を刻み続ける。そして事前に合わせた時間になると、リンゴンリンゴン小さな鐘を鳴らすのだけれど、この音を聞くとどんなにまどろみが恋しくてもすっと目が覚めるのだった。

 

 多分これもウルウの便利道具の一つで、大学の錬金術師にでも見つかったらえらいことになるんだろうなあとは思うけれど、まあ便利なので言わないでおく。

 

「ハヴェノだっけ」

「うん?」

「次の、リリオのお母さんの故郷」

「ですです。ハヴェノは大きい街ですよ。領主も代官じゃなくて、ハヴェノ伯爵が直々に治めてます」

「伯爵ってどのくらい偉いの?」

「そうですねえ……皇帝の親族が臣下として扱われるときとか、公爵と呼ばれます」

「フムン」

「次いで偉いのが侯爵ですね。普通の貴族としては一番偉いです。もっぱら帝都近くの領地持ちや、領地を持たない宮中貴族だったりしますね」

「その次が伯爵よ。基本的には各地の大きな領地を治めてるのがこの伯爵。もとは大戦のころに武功を上げた各地の豪族なんかだったはずね。下手な侯爵なんかより領地が大きいから、どっちが偉いって言うのは実は難しいんだけど」

「成程」

「次いで子爵、男爵は、上の爵位の貴族や皇族に叙爵された身分で、影響力は領地次第ですね。大きい領地の男爵もいますし、領地が小さくても土地が良い場合もあります」

「その下に騎士や郷士(ヒダールゴ)がいるわけです。あとは、上位の爵位持ちの貴族の嫡子が一つ下の爵位を名乗ったりですかね」

「伯爵さんちの子爵さんという具合だ」

「そんな感じです」

「放浪伯とか辺境伯っていうのは?」

「これはもう別枠ですね。伯とは言いますけれど、そのお役目や特殊性もあって、侯爵に準じるとも言えますし、場合によっては公爵でもないがしろにはできません」

「そんな感じかしら。わかった?」

「ざっくりとは」

 

 まあ、ハヴェノを納めているのが結構なお偉いさんで、その偉さに見合うくらい立派な町だということが分かればいいか。

 あたしたちはお勉強をしているうちにだんだんと眠気に誘われて、そうしてすっかり眠りにつくのだった。




用語解説

・爵位
 帝国では、皇帝が頂点にあり、その下に貴族たちが仕えている。
 貴族は基本的に公・侯・伯・子・男の順に五つに別れている。

 公爵は皇族が臣籍降下で領地を与えられたときに与えられる爵位。滅多にいない。

 侯爵は主に古代の戦争の際に功績のあったもののうち、身内であった者たち。
 中央に領地を持っていたり、領地を持たない宮中貴族であったりする。
 皇帝の助言機関である元老院のメンバーも、多くは侯爵である。

 伯爵は主に古代の戦争の際に功績のあったもののうち、外様であった者たち。
 多くは中央より外に領地を持っているが、宮中貴族もいる。
 元老院に参加しているものも多い。影響力次第では侯爵以上のものもある。

 子爵、男爵は各差こそあれど団子といった印象。上位貴族の家臣たちなどが取り立てられた貴族である。
 影響力は領地次第。自分の領地を持っているというより、大貴族の領地を任されているという、寄親、寄子といった関係が強い。

 その下に郷士(ヒダールゴ)や騎士といった一代貴族がいるが、この扱いは領地ごとに異なる。

 放浪伯、辺境伯など特別に呼ばれる身分は、伯とは付くが実際には特別な役割を背負った貴族で、完全に別枠。
 非常勤ながら元老院に席を持ち、発言権は極めて大きい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 夜明けの海は

前回のあらすじ

宿の夜でお勉強。
興味ない人は飛ばしてもよかったんだぜ。


 翌朝、私はリンゴンリンゴンとやかましい時計の音に起こされることもなく、しびれを切らした二人に時計の角でぶん殴られてようやく起きました。

 私の石頭を何度もぶん殴っておきながら全然壊れる様子もないこの時計、ただものではありません。

 

 私はトルンペートに手伝ってもらって身だしなみを整え、装備を整え、そして心構えを整えました。

 いよいよです。まだあと二日の旅程が残っていますけれど、いよいよ私は母の故郷に辿り着こうとしているのでした。

 

「ハヴェノについてからの予定は?」

「ハヴェノについてからは、そうですねえ。飛脚(クリエーロ)に手紙を持たせて先触れをしておいて、組合に顔を出して挨拶をして、それから見物でもしながらぶらりと向かいましょうか。途中でご飯を食べていってもいいかもしれません」

「宿はどうするの?」

「メザーガに紹介状を書いてもらっていますから、部屋は母の実家で借りられるはずです」

 

 私たちは宿を引き払い、まだ薄暗い路地を港へ向かいはじめました。

 町壁の向こうから、朝日が夜のとばりに切れ目を入れるように、そしてゆっくりと開いていくように、差し込んできていました。

 

「メザーガは実の両親を早くに亡くしていて、従姉弟の両親を、つまり私の祖父母を父母のように慕っていたとのことです。祖父母もメザーガが素直に慕ってくれるので、実の子供同然にかわいがったとのことですよ」

「生粋の冒険屋家族が、実の子供同然にかわいがったっていうのはさ」

「止めましょうよウルウ。あんまり想像するといい話が笑い話になりかねないわ」

「笑えるぐらいだといいんだけど」

「人の母の実家をなんだと思ってるんですかあなたたち」

「人外魔境」

「魔人の住処」

「言い返せないのがつらい所ですけれど、想像でものを言うのはやめましょう」

 

 船で二日離れたこのバージョの町の冒険屋組合でも散々に言われたくらいです。

 本拠地であるハヴェノについたらいったいどのような扱いを受けているのでしょう、ブランクハーラ家。

 

 私たちは港近くで、早速朝早くから店を出している屋台を見つけて、さっと朝食を摂っていくことにしました。

 

 (リーゾ)の粉を練って作ったという麺を、たっぷりの汁に浸して食べるフォーという料理はなかなか美味しいものでした。この麺がいわゆる麺のように紐状ではなく、平たいのも面白いところで、また米粉のどこかざっくりとした歯ごたえは小麦の麺とはまた違った食感で楽しいものです。

 牛こつからとったという出汁はきれいに澄んでいましたがどっしりとしたコクがあり、中に浮かんでいた骨付きの肉は、とろけるように口の中でほぐれるのでした。

 

 トルンペートは蝦多士(サリコーコ・トースト)という揚げ物を頼んで食べたようでした。これは薄く切った麺麭(パーノ)にエビなどのすり身を挟み込んでたっぷりの油で揚げた料理のようでした。

 一口貰うと、ざっくりとした歯ごたえの揚げ麺麭(パーノ)の中から、ほわっと湯気とともにふわふわのすり身が現れ、これがぷりんぷりんと心地よい歯ごたえとともに、口の中で熱々のまま暴れるのでした。

 

 また、エビのすり身だけでなく、魚のすり身や、豚肉を用いたものもあるようで、トルンペートははふはふと火傷しないように気を付けながらも、揚げたてを美味しくいただいているのでした。

 

 ウルウはやっぱり小食で、揚げ甘蕉(バナーノ)を一袋買って、それをちまちま食べているところでした。

 これは以前退治したバナナワニをずっと小さくしたような果物を、丁度良い大きさに切って油で揚げたもののようでした。

 

 一口貰うと、ふわふわもちもちとした衣からは想像できないほど柔らかくとろっとろにとろけた実が口の中に流れ込み、そしてこの身の甘さと言ったらもう、そこらのお菓子よりもずっと甘いくらいなのでした。かといってくどすぎるということもなく、後を引く甘さです。

 

 ウルウは私が美味しい美味しいと喜ぶと、少し考えて、こう尋ねました。

 

「リリオ、以前退治した魔獣を覚えてる?」

「バナナワニですね」

「これは?」

「揚げ甘蕉(バナーノ)ですね」

 

 ご褒美と言わんばかりにもう一つ口に放り込まれました。

 

 ウルウ自身は納得いかない様子で首を傾げています。

 

「なんで今回は甘蕉(バナーノ)なんだ? プルプラのいたずらなのか? なんでバナナじゃないんだ」

 

 まあ、ウルウにはウルウの悩み事があるのでしょう。わたしにはわからないことみたいなので、そっとしておきます。

 そういえば南部には、あれよりは小さいけれどバナナワニが出ると聞きます。この甘蕉(バナーノ)と同じように揚げたバナナワニもおいしいそうですけれど、海辺の生き物ではないのかバージョでは見かけませんでした。

 いつか食べてみたいものですね。

 

 私たちは手早く朝食を済ませて、目的の船に乗り込みました。

 そして乗り込んで早々に義手に義足に眼帯に三角帽と、いかにも海賊という風貌の人物と遭遇して思わず抜剣しかけました。

 

「待て待て。社長のプロテーゾだ」

「えっ、ハヴェノで忙しくしてるんじゃ」

「忙しいから息抜きしているんだ。海賊騒ぎ以来、帝都から五月蠅く連絡が来てな」

 

 海賊もといプロテーゾさんは、そのいかにも悪役な恰好とは裏腹に、実に紳士的に私たちを甲板に案内してくれました。

 

「ここが君たちのもっぱらの仕事場だ。暇だったら、邪魔にならん程度なら訓練していてもいいし、舷側に寝椅子でも持ってきて昼寝しててもいい。ただし賊が現れたり、魔獣が出たら、働きぶりは見させてもらうぞ」

 

 まだ出航まで時間はあるし、船室で休んでいてもいいと言われましたけれど、私たちは朝日に照らされてキラキラと光る海の様子に心を奪われ、もうしばらくここで海を見せてもらうことにした。

 

「すぐに飽きると思うがね」

「すぐに飽きるから、今のうちに新鮮な心地をたっぷり味わっておくんですよ」

「成程……君はいい旅人になる」

 

 プロテーゾさんがあちこちに指示を出しながら姿を消して、私たちは改めて海を眺めました。

 

「奇麗なもんだねえ」

「それに潮の匂いも、すごいですねえ」

「どこまで続いているのかしら」

「どこかの陸地まで」

「ウルウは浪漫がないわね」

 

 この先に、ハヴェノが、母の実家が待っているのでした。

 メザーガは言いました。覚悟して行くようにと。

 それがどんな意味を持っているのかはわかりません。

 

 でも、私はもう一人ではありません。

 ウルウと、トルンペートと、三人でなら、きっとどこまでも行けることでしょう。

 

 夜明けの海に、私たちは新たな冒険を予感するのでした。

 

「あっ、ごめん、そろそろきつい」

「船酔い早っ!」




用語解説

・フォー
 米粉を練って作った平らな麺。またそれを用いた料理。
 我々の世界ではベトナムあたりでよく食べられる。

蝦多士(サリコーコ・トースト)
 食パンでエビのすり身を包んであげたもので、我々の世界ではハトシなどと呼ばれ、東南アジアや長崎などで食べられる。
 
甘蕉(バナーノ)
 バナナ。なぜこれは現地語に翻訳され、バナナワニは翻訳されないのか。謎である。
 木に成るように見えるが、実は木ではなく分類としては草にあたる。

・プロテーゾ(Protezo)
 ハヴェノでも一、二を争う大きな海運商社の社長。
 見た目はどう見ても海賊の親分でしかない。
 海の神の熱心な信者で、いくつかの加護を得ている。
 義肢はすべて高価な魔法道具である。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二章 ブランクハーラ
第一話 亡霊と入港


前回のあらすじ

船に乗り込み、ハヴェノへ向かう一行。
待ち受けるものは何だろうか。


 丸々二日ほど船に揺られて、三日目の早朝に我々を乗せた輸送船はハヴェノの港に着いた。

 二日もあればさすがに船酔いも大分落ち着き、普通に食事をとって、甲板をうろつきまわれる程度には回復した。とはいえやはり、船旅なんてろくでもないという気持ちは変わらないけれど。

 

 道中は特に何事もなく、と言いたいところだけれど、一度海賊がやってきた。

 なんでも少し前まで、海賊まで獲物にする貪欲な海賊が出ていて海賊稼業は下火だったらしいのだが、その問題の強い海賊が沈められたので、ようやく仕事ができるとばかり意気揚々と出てきたらしかった。

 

 護衛船もないのでこの輸送船は格好の獲物に見えたんだろうけれど、プロテーゾとかいうどう見てもお前が海賊の親分だろうという見た目の社長は抜け目のない男で、この輸送船はなんでも海賊退治の時に使った武装商船らしかった。

 

 海賊船が寄ってきて、舷側をぶつけるようにして縄や網をかけてくるや否や、船の側面がばらりと開いて、ずらりと並んだ大砲がお出ましだ。

 

 なんでも火薬で鉄球を飛ばすようないわゆる大砲ではなく、最新鋭の魔導砲だとかで、担当する魔術師の魔力を炸薬代わりに、圧縮した空気の塊に爆発の術式を重ねてずどんと打ち込む仕組みであるらしい。これが命中すると、接触した部分を圧縮空気の塊がまず破壊し、次いでこれが勢いよく爆ぜることで内側からずたずたに引き裂くらしい。

 

 爆発と空気、これほど相性のいいものがあるだろうか、という具合だ。

 

 この大砲は一門につき一人魔術師をつけなければならない高コストのもののようだったが、魔力さえ扱えれば術師の腕はある程度まで融通が利き、また火薬や砲弾を持ち運ぶ必要がないので省スペースらしい。

 

 海賊船は接舷するなりこの砲撃を食らって船をずたずたに引き裂かれ、なにくそとこちらの船に乗り込んで白兵戦を仕掛けてきた連中も、暇をもて余していた冒険屋たちにぼろくそに痛めつけられるという見ていて可哀そうになるほど一方的な戦いだった。

 

 まあ、そこまで一方的になったのは我々《三輪百合(トリ・リリオイ)》、というかそのうち虎二頭のせいだけど。

 

 普通の冒険屋だけだったらもう少し被害が出たかもしれないんだけど、リリオが抜剣するなり、やあやあ我こそはって具合に《三輪百合(トリ・リリオイ)》の名乗りを上げたら、どうやら南部でもそこそこ話題になっていたみたいで海賊たちが怯んだ。

 

 それに乗っかって他の冒険屋たちが次々に名乗りを上げるとなんだかそれだけで強そうに見えるものだから、海賊たちはさらに怯んだ。

 

 そこにリリオが剣を振りかぶって、トルンペートが腰の鉈を抜いて襲い掛かったものだから、海賊たちは逃げようとするやら反撃しようとするやらで崩れに崩れ、そこに他の冒険屋たちも襲い掛かって、いやあ、気迫って言うのは大事だね、あっという間に平らげてしまったのだった。

 

 驚いたのは社長のプロテーゾで、この人物は右手と左足をそれぞれ簡単な義肢に換え、また左目も眼帯をまいているというのに、真っ先に自分で剣を取って海賊たちに躍りかかったのだった。

 後で聞いてみたところによれば、自分が真っ先に行動しなければ誰もついてこないという商売上の哲学によるものであるらしい。社員からはもう少し大人しくしてほしいと思われているようだが、それでもついてきているものが多いのだから、立派な男ではある。

 

 そのようにして海賊たちは瞬く間に押し返され、それどころか逆に冒険屋たちは海賊船に乗り込んでいき、海賊たちを一人残らず切り捨て、あるいは生け捕りにしてしまったのだった。

 捕まった海賊たちは縄を打たれて船倉に放り込まれ、海賊船は輸送船に曳航されて港まで運ばれ、懸賞金は冒険屋一同で山分けということになった。これは受け取りに時間がかかるので、プロテーゾが大体このくらいだという分に少し色を付けて分けてくれたので、文句は出なかった。

 

「いや、いや、いや、まさかあの《三輪百合(トリ・リリオイ)》が我が船に乗っていたとはな」

「どんな噂を?」

「毎朝、乙種魔獣を山盛りにして食べていると聞いたな」

「食べちゃいないけど、あながち間違ってもないのが厄介だな」

「なに、冒険屋の噂などそう言うものだ。少し前に乗せた冒険屋も、朝飯代わりに地竜を平らげているという噂だったよ」

「リリオならいけるんじゃない?」

「地竜はどうですかねえ……飛竜より硬いそうですし」

「飛竜は行けるの?」

「いまなら行けそうです」

「剛毅な連中だ」

 

 プロテーゾは小さいながらに一等多く海賊を生け捕りにして見せたリリオに感心したようだった。

 そして私もひそかに感心していた。

 リリオにしても、トルンペートにしても、私が見ている前だと悪党を切っても殺したりはしないのである。見ていないところというのがそうそうないので、つまり、いつだってこの二人は、盗賊だろうと海賊だろうと決して殺しはしないのである。

 

 これに関してはプロテーゾも関心はしながらも、苦言は呈した。

 

「生かしておいてもろくな連中じゃあない。甘いんじゃあないかね」

「甘いかもしれませんが、でも、そうできるんですから、そうします」

「なまじ実力があるから文句も言えんな。英雄気取りかね」

「気取れるものなら、気取った方が格好いいでしょう」

「負けた。君たちは気持ちのいい冒険屋だな」

 

 気分もよさそうに冒険屋たちに酒をふるまうプロテーゾの陰で、私は一人恥じらっていた。別に強制したことはないが、わざわざ危険で面倒な生け捕りをこの二人がしているのは、自分のためであるということが今回の件でよくわかったからである。

 

 なので一言、

 

「格好良かったよ」

 

 と言ってやると、二人は驚いて、それからにんまり笑って私を見るものだから、黙って叩いておいた。

 

 船が港についてからは、騒々しかった。

 船員たちは荷を下ろしていき、また腕っぷしたちが海賊の捕虜たちを連れ出していき、冒険屋たちもおりていった。

 

「プロテーゾ社長」

「なんだね」

「海賊どもはどうなります?」

「そうだな。衛兵たちに取り調べを受けて、罪の重い者は死罪になる。絞首刑だな。罪の軽いものでも、苦役につかされて働かされる。刑期は決して短くない」

 

 プロテーゾはじろりと私たちを見つめた。

 それに対して答えるのは私ではないなと譲ると、リリオは胸を張って答えた。

 

「同じ死ぬのでも、正しい裁きを受けて死ぬ方がよいでしょう」

「青臭いな。だが、嫌いではない」

 

 私たちは男臭い笑みを浮かべるプロテーゾに別れを告げて、久しぶりの大地に足をつけた。

 

「……あれで」

「なあに」

「あれで、よかったんでしょうか?」

 

 連れられて行く海賊たちを眺めながらリリオは呟いた。

 

「さあね。でも……考えるのをやめるのは、あまり格好良くないかな」

「ウルウは厳しいですね」

「そうかもしれない」

 

 私たちは港の飛脚(クリエーロ)屋に寄ってブランクハーラ家に先触れの手紙を出し、ゆっくりとハヴェノの町を歩き始めるのだった。




用語解説

・魔導砲
 火薬の代わりに魔力で爆発を起こして砲弾を打ち出す大砲、または魔法そのものを打ち出す大砲。
 ここでは最新式の、指向性の衝撃を打ち出す魔導空気砲とでもいうべきものを搭載している。
 魔力さえ続けば弾数に制限はないものの、威力は操作する魔術師次第である。
 とはいえ、普通の木造船であれば穴をあけるくらいはたやすい威力なのだが。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 白百合と冒険屋組合

前回のあらすじ

海賊どもを生け捕りにし、ハヴェノへ入港する一行。
もう少し静かにこれないものか。


 さて、ようやくハヴェノの町について、硬くて揺れない大地に足をつけて、ウルウは満足げです。結局一日目は甲板から海へと乙女塊を投棄するだけで過ごし、二日目も寝椅子を舷側に運んでぐったりとしていて、海賊が出てきた時もいつものまじないで姿を消して高みの見物決め込んでましたからね。

 まあ具合が悪い状態で戦って怪我でもされたらその方が困りますので、青白い顔でも無事なのが一番です。

 

 ハヴェノの町は港を中心に放射線状に広がった町で、その規模はヴォーストよりも大きなものです。海を通じて隣国ファシャや諸島連合との貿易が盛んで、帝国一の港町と言っても過言ではありません。

 これより西の海は岸壁が連なり、またさらに西に進もうとすると大叢海が阻みにかかるので、帝国で最も西端にある港町と言ってもいいでしょう。

 

「大叢海?」

「大陸を東西に分ける草原地帯です。身の丈ほどもある草むらがずっと広がっていて、とてもじゃないけど歩いては渡れないんです」

「成程、大きな(くさむら)の海だ」

天狗(ウルカ)たちの国があるんですけれど、排他的で、そもそも通行ができないので、私たちはちょっと旅できそうにないですね」

 

 行ってはみたいんですけれど、渡れないものはどうしようもありません。

 天狗(ウルカ)たちが操る風船に乗せてもらえればいけるかもしれませんけれど、他の種族に対して非常に高慢で排他的なので、まあ、行ってもあまり楽しめそうにありません。行ったところですべての造りが空を飛べる天狗(ウルカ)用に誂えてあるので、人族の私たちではとても過ごせそうにありません。

 

「ぐぬぬ、ちょっと悔しいです」

「ま、先に帝国全土を旅してからだね」

「それもそうですね。帝国も広いですし」

 

 故郷の辺境を含めても、北部、東部、南部と旅をしてきました。あとは西部と帝都のある中央を巡れば全土達成と言ってもいいのですけれど、まだまだ行ったことのない土地、行ったことのない町があるわけですから、それをおざなりにはできません。

 せめて雑誌に載るような主要都市は押さえておきたいところですね。

 

 私たちは予定通り、ハヴェノの冒険屋組合を目指しました。組合の類は大体どこの町でも大きな広場に面して連なっており、私たちもすぐにそれと見つけることができました。

 造りはどこも似通っていますけれど、やはり南部づくりというか、風通しがよく、涼しげな造りです。

 

「そう言えば、三人そろって冒険屋組合に来るのって初めてじゃありません?」

「ムジコで行ったけど、あの時はねえ」

「そう言われるとなんだか物珍しい気がしてきたわ」

 

 私たちが扉を押し開いて入ると、冒険屋は数あれど、女だけの、それも成人を迎えたばかりのような小柄な少女が率いる面子と言うのは珍しいようで、やっぱり視線が集まります。まあ、私が一人で来るときよりはましですけれど。

 集まる視線にウルウは早速姿を隠したがっていましたけれど、お世話になるかもしれませんからとちゃんと姿を現してもらっています。

 

 早速受付で挨拶すると、冒険者証を二度見され、顔を三度くらい見られました。

 

「《メザーガ冒険屋事務所》というと、あのメザーガの?」

「ちょっと他に知らないんですけど、そのメザーガのです」

 

 まあメザーガもハヴェノ出身ですから、大分《一の盾(ウヌ・シィルド)》の名前の売れている今、驚かれても仕方がありません。

 担当してくれた受付嬢だけでなく、他の職員や、ともすると全然関係ないたまたま居合わせただけの冒険屋もざわざわとこちらを見ています。

 さすがですメザーガ。

 

「しかも、《三輪百合(トリ・リリオイ)》!?」

「《三輪百合(トリ・リリオイ)》だと……!」

「噂の《三輪百合(トリ・リリオイ)》か……俺はもっと熊みたいな女どもだと思ってたぜ」

「しっ、噂じゃ気に食わない冒険屋相手に街中で抜剣したらしいぜ……迂闊な事を言うな」

「乙種魔獣を毎日のように狩っては飯にしてるって噂の《三輪百合(トリ・リリオイ)》か……」

「辺境からやってきた地獄の狩人たちがなんでハヴェノに……」

「訪れた町々に盗賊どもの血で紋章を刻んでいるらしいぜ……」

 

 と思ったら《三輪百合(トリ・リリオイ)》の噂も大概でした。

 名乗った途端この始末です。

 いったいどんな悪鬼羅刹ですか。

 

 しかしまあ、この大人しい姿を見れば噂話が所詮噂話に過ぎないということをわかってくれることでしょう。

 

「俺ぁ聞いたことあるぜ、野獣だって腹が満ちてりゃあ暴れねえんだ」

 

 あっくそ、そう言う理解のされ方ですか。

 まあいいです。これからの行いで見返すほかにないですね。

 

「ええと、《三輪百合(トリ・リリオイ)》の、リリオさん、トルンペートさん、ウルウさんですね。南部へは観光で?」

 

 そんなわけないでしょうと一瞬思いますけれど、まあ冒険屋が純粋に観光に来ることだってありますよね、そりゃ。まあできれば観光であってくれ、余計な騒ぎは持ってこないでくれという空気をビシバシ感じますけれど。

 

「えー、まあ、観光と言えば観光ですね。母の実家を訪ねて」

「お母様のご実家へ、それはまあ……お母様の………」

 

 不意に受付嬢は私を、というよりは私の頭をじっくり眺めました。

 

「その、白い髪………もしやとは思いますけれど、まさかとは思いますけれど、その」

「ええ……ブランクハーラです」

 

 何となく察して答えれ見ると、悲鳴とも歓声ともつかない声が組合中に響きました。

 

「そうか、あんたブランクハーラか!」

「ブランクハーラってのは辺境まで手が伸びてるのか!」

「いやあ、顔を見せたらきっとマルーソとメルクーロが喜ぶよ!」

「ブランクハーラと聞けば化け物っぷりにも納得だぜ!」

「白髪のブランクハーラ! 生粋の冒険屋だ!」

「マテンステロも喜ぶだろうぜ!」

 

 えーと、おおむね好意的に受け止められている、と言っていいのでしょうか。

 私たちは余りの熱気に圧倒されて、しばらく揉みくちゃにされるのでした。

 




用語解説

・ファシャ(華夏)
 大叢海をはさんだ向こう側、西大陸のほとんどを支配下に置く西の帝国ことファシャ国。
 ざっくりと言えば中国のような国家であるらしいが、帝国のように広範であるため、一概には言えない。
 現在は帝国との仲は極めて良好であり、大叢海さえなければ気軽に握手したいと言わせるほど。

・大叢海
 広い大陸のうち、帝国と西方国家を分断する巨大な草原。
 人の身の丈ほどもある草ぐさが生い茂る草むらの海。空を飛べる天狗(ウルカ)でもないとまともに往来すらできないおかの海である。
 このとにかく広い草むらを迂回するためだけに、南部では海運業が発展しているといってもいい。

天狗(ウルカ)たちの国
 遊牧国家アクシピトロ。
 大叢海を住処とする天狗(ウルカ)たちの遊牧国家。王を頂点に、いくつかの大部族からなる。
 その構成人数は帝国とは比べ物にならないほど小さいが、他種族が生息不可能な大叢海を住処とすること、またその機動力をもってかなりの広範囲を攻撃範囲内に置けることなど、決して油断できない大勢力である。

・マルーソ/メルクーロ(Maruso/Merkuro)
 リリオの祖父と祖母にあたる人物。
 当代のブランクハーラ当主とその妻。両名ともに現役の冒険屋である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合とブランクハーラ

前回のあらすじ

冒険屋組合を尋ねる三人。
出迎えるのは喝采の声だった。


 港町ハヴェノの冒険屋組合で、あたしたちは、というか主にリリオが注目されて、随分な大騒ぎになってしまった。

 あたしたちはむくつけき―― 一部たおやかな冒険屋に囲まれて、冒険屋の大家ブランクハーラがどれだけハヴェノの町に貢献してきたかを語って聞かせられたのだった。

 

「なんといっても八代も続けて冒険屋やってるから、ハヴェノに住んでいてブランクハーラを知らねえってやつはまずいねえ」

「船乗りたちも、ハヴェノに寄る連中はみんなブランクハーラの勇名を聞いているもんさ」

「どんな手強い船を襲ってきた海賊だって、もしも船にブランクハーラの旗が上がっていたら、真っ青になって元の港まで逃げ出しちまうくらいさ」

 

 なので今ではどの船も厄除け代わりにブランクハーラの紋章に似せた旗を掲げるそうで、それは海賊除けの効果があるんだかないんだかさっぱりだった。というか、厄除けやらなんやらと言うのはそれはもはや神殿の仕事だろうと思わないでもない。

 

 どんなものなのかと紋章を見せてもらったが、扇状に八本の線が描かれた簡素なものだった。これは何代か前のブランクハーラが怒りのあまりに髪の毛を逆立てて海賊どもを皆殺しにした時の姿を図案化したものだそうで、ハヴェノではどんなに暢気なものでも、この紋章を見たら大慌てで逃げ出すか死を覚悟するらしい。

 

「まあ身に覚えがないやつはそんな必要ないんだが、何しろ恐ろしさの代名詞だからな」

 

 だからそれはおとぎ話の粋なのではないかと思うのだけど、しかし実際の話らしかった。

 

「まあ、そんなわけだからどんなに恐れ知らずの海賊であっても、ブランクハーラとはやりあおうとはしねえ。先だっての海賊騒ぎだって、もう少し巷をにぎやかすようになっていたら、きっとマルーソが鼻歌交じりに片付けちまったはずさ」

 

 マルーソと言うのは当代のブランクハーラの当主で、そしてリリオのおじいさまにあたるらしかった。

 

「海賊なんて序の口よ。俺ぁ子供(ガキ)のころから寝物語に聞かされたもんよ。お前さん烏賊(セピオ)を知ってるか。知ってるか、そうか、そうか。あれのな、あれの何倍も、何十倍も、何百倍もでけえ、それこそ船みたいにでけえのが、むかしハヴェノの海を荒らしまわってた」

大王烏賊(ギガンタセピオ)だ!」

「そうとも、海の悪魔よ、大悪魔よ! 今でもたまに出るが、それよりもずいぶん大きくて凶暴な奴が、商船も漁船も海賊船も、区別なしにとって食っちまってたのさ。それで困ってた時に、何代目かのブランクハーラが立ち上がって、一人舟をこぎ出した。それで誰もが帰ってこねえと思ってた」

「だが!」

「そうだ! だが帰ってきた! とんでもなくばかでけえ大王烏賊(ギガンタセピオ)を引っ張って、ブランクハーラの大将、泳いで帰ってきたのさ! それでなんて言ったと思う!」

「なんて言ったんです?」

「『こいつ食えるかな?』だとよ!」

 

 どっと場がわいた。

 どうやらブランクハーラの大王烏賊(ギガンタセピオ)退治は、子供の寝物語だけでなく、ハヴェノの冒険屋たちの間でも人気の冒険譚らしかったわね。

 

「まあ食っちまったんだか捨てちまったんだか、なにしろ烏賊(セピオ)ってのは後に残る骨もねえから、誰も知りゃあしねえんだがな」

「当時小さな子供(ガキ)だったってぇ爺様によりゃあ、何とも言えねえ臭みがあって食えたもんじゃなかったって話だが、まあボケかけてるから、本当か嘘か誰も知らねえ」

 

 じゃあ信じないものもいるのかと尋ねてみれば、どっと場がわいた。冗談だと思われたらしいわね。

 

「まさか! たかが烏賊(セピオ)の一杯や二杯、今更信じないやつがいるもんか! なあみんな!」

「おうともよ! お嬢ちゃん方、そら、天井を見上げてごらん、上だよ、上!」

 

 言われて見上げてみれば、何かの骨が一揃い飾ってある。巨大な頭蓋骨が扁平に伸び、それに連なって胴体が、またその胴体からひれのような手が伸びていて、そして魚のように幅広な尾がするりと広がっているのだった。これはおよそ見たことのない骨格だった。

 これは頭の先から尾の先まで、広い組合の広間をいっぱいに占める、三十メートルはあるほど巨大な生き物の骨だった。

 

「こいつはまだファシャとの交易が盛んでなかった頃のものさ。ファシャとの間にこいつが住み着いてたんで、さしものハヴェノの猛者たちも指をくわえて見てるしかなかったんだ」

「これはいったい?」

「はぐれ海竜さ!」

「海竜!」

 

 聞けば空に飛竜があり、地に地竜があるように、海には海竜がいるのだという。

 

「海竜はもっと南の海に住んでるもんだが、流されてきたのかこの巨大な奴が一匹、ファシャとの間に棲み付いちまった。交易ができねえのはもとより、何しろ沖に出ると目を付けられるから、漁師どもはみんな干上がるか命がけで挑むか、選ばされる毎日だった」

「そこをまたブランクハーラのお出ましだ! 当時の弓の名手が、鋼の大弓を引っ提げて海に出てよ、海竜の生み出す大渦も、襲い掛かる鋭い牙もなんのその、銛みてえにでけぇ矢を一発ひょうと射かけて、見事海竜を仕留めちまったのさ!」

「魚除け、海竜除けが発達してまずはぐれが現れなくなった今でもよ、毎年夏には海竜を模した船を沖に出して、矢で射かける祭りがあるのさ」

 

 そうしてしばらく、あたしたちはブランクハーラの物語をたっぷりと聞かされたのだった。




用語解説

大王烏賊(ギガンタセピオ)
 船ほどもある巨大なイカ。実際に船を襲って破壊してしまうこともある魔獣である。
 目撃例はあまり多くないが、実在する魔獣。アンモニア臭がきつくあまりおいしくないらしい。

・海竜
 海に生息する竜種。海は広いので他にも竜種はいるのかもしれないが、帝国が確認しているのはこの種だけである。
 巨大になればなるほど大人しくなる性質があり、五十メートルほどもある個体がゆっくりと船と並走したという伝説もある。
 詳細は不明だが群れをつくる性質があるらしく、ここで語られる個体は、群れからはぐれてしまったために気が立っていたのではないかとも言われる。

・海竜除け
 海の神、また水精の加護。魚除けとは全く別の波長であるらしく、漁の邪魔にはならない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊と静かな味わい

前回のあらすじ

ブランクハーラの伝説を聞かされる三人。
それは本当に人間なのか?


 ちょっと寄るつもりが、随分と拘束されてしまった。

 ブランクハーラと言うのは、どうも地元でも大層人気のある冒険屋であるらしい。まあ実態がどうのというより、半分以上伝説やらおとぎ話みたいのを聞かされた感じだけど、それでもまあ、実力のある冒険屋だというのは分かった。

 

 メザーガがまだハヴェノにいた時の話も聞けたし、リリオの祖父母にあたるマルーソさんとメルクーロさんが若いころ随分と武勇伝を作ったという話も聞けた。

 そして『暴風』マテンステロの話も。

 

「……リリオのお母さん、大人しいイメージだったんだけど」

「私もです。でも考えてみれば夏場は良く歩き回ってましたし、飛竜退治とかしてますし」

「辺境貴族と本気で切り結んで一年間勝ち越してたんだから、まあ妥当と言えば妥当よね」

 

 話にはリリオのお母さんのマテンステロさんの話も出てきたのだけれど、これがまた武勇伝も武勇伝だった。

 

 海竜殺しの伝説にあこがれて沖に出たけど、海竜どころか大王烏賊(ギガンタセピオ)の一杯も出ないので、腹を立てて海賊船を三枚におろしたとか、酒に酔った勢いで素手で岩を切って見せたとか、切りかかってきた相手の剣を()()真っ二つに斬って見せたとか、魔獣の狩り過ぎでかえって組合から生態系保護の名目で叱られたりとか、やりたい放題である。

 

 しかも盛りに盛られた話かと思ったら、七割くらいは物証と証言者があるという。

 

「リリオがでたらめなのってお母さんのせいもあるんじゃないの」

「うう……なんだか恥ずかしいやらなんやら」

「メザーガが覚悟しろって言ってたの、奥様の印象が崩れるからってことだったのかしら」

 

 かもしれなかった。

 

 当初私が抱いていた深窓の麗人みたいな印象はすっかり打ち砕かれ、リリオをおっきくして、ストッパー役のいない感じのイメージになってしまった。

 笑いながら海賊と切り結んでる感じの。

 

「うう、もうお腹いっぱいってくらい聞かされました」

「そしてその分普通にお腹が減ってきたね」

「もともとその予定でしたけど、どこかで食べていきましょうか」

 

 どこかでお昼ご飯を食べようとなった時、きちんとした店を選ぶより、市を歩いて露店のご飯を探すのは冒険屋の醍醐味だ。いや、別に冒険屋のお決まりってわけじゃないんだろうけれど、リリオの旅ではそう言うパターンが多い。

 お店は入ってみないとわからないけど、露店は目で見て、鼻で嗅いで、肌で感じた店を選べるのがいいところだね。

 

 少し歩いていろんな店をのぞいているうちに、うひゃあ、とリリオが変な悲鳴を上げた。

 見ればいけすの中にタコが泳いでいて、それを手早くさばいて刺身で食わせているようだった。

 新鮮なタコの刺身は、うまい。

 

「イカは平気だったじゃない」

「あれはまあ、慣れましたけど、でも章魚(ポルポ)ってもっとぐんにゃりしてて、とても食べられそうな感じじゃないじゃないですか」

「似たようなもんだと思うけどなあ」

「全然違いますよう!」

「トルンペートは?」

「うーん、似たようなもんって言われると、そうかもなって思うけど、でも気持ち悪いのは気持ち悪いわ」

 

 フムン。

 私はちょっと懐かしいので頂くことにした。

 

 店の人はいけすからタコを取り出して足を切り取ると、残りをまたいけすに戻した。放っておくとまた生えてくるそうだけれど、さすがに再利用できるほどではないという。残った頭は、店の人が茹でて食べるそうだ。

 

 これも西方から仕入れたという、柳葉包丁のように見える鋭い包丁で、ピクリピクリとまだうごめくタコの足がするりするりと引かれていく。この柔らかい身を奇麗に引くには、包丁の鋭さと腕の良さと、どちらもなければいけないと以前聞いたことがある。

 

 奇麗に皿に盛りつけられたタコの身は、うっすら透き通って向こうが見えるくらい新鮮で、つやつやとした表面はまるで宝石のようだ。

 

 これをちょいと醤油(ソイ・サウツォ)につけて、ぱくりと頂く。まず口に感じるのは醤油(ソイ・サウツォ)の塩気と香りなのだけれど、すぐにタコの身がぴたりと舌に張り付くのを感じる。このくにゅりくにゅりとした不思議な歯ごたえを歯でたっぷりと味わっているうちに、だんだんと淡い、タコ自体の甘みとうまみがにじみ出てくる。

 

 そう、タコ自体はこの濃い見た目に反して、実にさっぱりとした味わいなのだ。もっぱら歯ごたえで食っていると言っていい。しかしでは無味なのかというと、そうでもない。説明しがたい曖昧なうまみが、ついつい後を引いてもう一枚、また一枚と私に刺身を口に運ばせるのである。

 

 お薬飲むようになってからお酒は控えていたけど、しかし酒が懐かしくなる。成人したての頃さ、居酒屋で刺し盛なんか頼んで、冷酒をキュッとやる、なんて我ながら渋い飲み方してみてさ。

 独りでな。

 悪かったな、一緒に飲みに行く友達がいなくて。

 

 会社の飲み会なんかは正直味とか気にできるほど楽しめなかったから、あのころが懐かしいものだ。

 

 などと私がたっぷりと味わい深い沈黙を楽しんでいると、リリオとトルンペートも一皿ずつ注文し始めた。

 

「生きてる姿はあれだけど、サシミは奇麗よね」

「ウルウがずるいです。そんなに美味しそうに食べられたら我慢できません」

「我慢なんて最初からしてないでしょ」

 

 二人もタコの刺身を口にしたけれど、最初のうちはよくわからないという風に小首を傾げていた。

 しかし私の真似をするようにくにゅくにゅと歯ごたえを楽しんでいるうちに、その玄妙不可思議な味わいがわかってきたようで、次を、また次をとタコをほおばるのだった。

 

「あー……ウルウみたいな味がします」

「どういう味だよ」

「静かな味がします」

 

 私はそう言う味わいらしかった。




用語解説

・『暴風』
 リリオの母、マテンステロ・ブランクハーラの二つ名。
 その奔放な振る舞いと圧倒的な実力、そして積み重なった犠牲者からこう呼ばれるとか。
 大概でたらめではあるが、《三輪百合(トリ・リリオイ)》も似たような逸話は残し始めているあたり人のことは言えない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と賑やかな味わい

前回のあらすじ

タコの静かな味わいを楽しむ三人。
でもこれだけじゃちょっと物足りないかも。


 章魚(ポルポ)のサシミ、というのは、なんだか不思議な味わいでした。

 

 何しろ見た目が強烈ですから、きっと味わいも強烈なんだろうと思っていたのですけれど、サシミにされた身はむしろ朝方の初雪のようにまっさらで、口にしてみた時の味わいは、烏賊(セピオ)よりももっとかすかで曖昧で、ともすればすっと通り過ぎてしまいそうな静かな味わいでした。

 

 最初は何だろう、味がしないなと思うくらいなのですけれど、くにゅりくにゅりと何とも言えぬ不思議な歯ごたえを楽しんでいるうちに、じんわりとその味が口全体にしみわたってくるのでした。

 

 成程これは面白い味わいでした。

 三人並んで黙ってくにゅりくにゅりと章魚(ポルポ)をほおばっている姿ははたから見たら全くおかしいものかもしれませんけれど、しかし真剣に向き合って初めて感じ取れる味わいなのでした。

 

 私たちは結局食べ終えるまで無言でそうしてくにゅりくにゅりと静かな味わいを楽しみ、そして一息ついたのでした。

 

「ふう……美味しかったですけれど、ちょっと疲れました」

「今までにない味わいだったわね」

 

 確かに素晴らしい味わいと言っていいのですけれど、慣れない私たちには難しい味わいでした。

 ここはひとつ、頭を使わないで味わえるような単純なものはないかなと鼻を巡らせたところで、香ばしい香りに気付きました。

 

 何かな何かなとこの魅力的な香りに顔を向けると、そこでは何ということしょう、豪快にも烏賊(セピオ)が丸々一匹網の上で焼かれているではありませんか。

 正確には中身を抜かれて、切れ目を入れられた胴体とひとつながりになった足を焼いているようでしたけれど、これがまた恐ろしく香ばしい良い匂いをさせているのでした。

 

「イカ焼きかあ」

 

 ウルウがのぞき込んだ先で、烏賊(セピオ)の足が炙られてくるんと先を丸めます。

 

「お客さん、食べてくかい?」

「是非!」

 

 私が頷くと、店の人が小さな壺を取り上げて、中のたれを刷毛で塗りつけました。そうして裏返すと、何ということでしょう、先ほどまでよりもはるかに良い香りが広がるではありませんか。これは、なんでしょうか、醤油(ソイ・サウツォ)と、砂糖と、()()()()()()()()()()です!

 

 表裏としっかり焼かれた烏賊(セピオ)が、食べやすいように輪切りにされて皿に盛られ、私に差し出されました。代金を支払い、早速私はウルウ直伝のハシをつけました。

 

 こんがりと焼きあげられた烏賊(セピオ)は、生の時とはまるで違う味わいでした。生の時はピンと張りがありながらもくにゅりくにゅりとした柔らかな食感でしたけれど、焼かれた時はふっくらとした、しかし確かな歯ごたえが出て、力を込めて噛むと、ぷっつりと噛み切れるのでした。

 

 トロリととろけるようだった甘味は、焼かれることによってぎゅうっとしまって、うまみとして昇華したように思えました。そしてこのうまみが、表面に塗りつけられたたれの香ばしい香りと相まって、食べているのにお腹がすくというすさまじい破壊力を醸し出すのでした。

 

「イカそのものの形だけど大丈夫みたいだね」

「これだけ犯罪的な香りがしてたら我慢できませんよ!」

「そりゃ結構」

 

 ウルウとトルンペートも一皿ずつ注文し、この素晴らしい料理に舌鼓を打つのでした。

 単純ですけれど、しかし隣人史に残して然るべき画期的な発明と言っていいでしょう。

 もしも烏賊(セピオ)を最初に見るのがこの烏賊(セピオ)焼きの姿であったなら、生の姿を見ても気持ちが悪いなどと思うことはなく、純粋に美味しそうと思えたことでしょう。

 

 また、ウルウが提案してくれて、バージョで購入した唐辛子(カプシコ)の粉を少しかけて食べてみると、これがまたたまらない組み合わせとなりました。ピリッとした辛さが香ばしさの中にうまく絡んで、ついつい後を引く仕上がりです。

 

「こう、丸のままのイカの姿を見るとね、イカ飯を思い出す」

 

 いつものようにウルウが静かに語るので、なんですそれと尋ねてみれば、こういうことでした。

 

「イカの中身を抜いてさ、米を詰めるんだよ。他の具材を一緒に詰めてもいい。ゲソとかね。それを、醤油(ソイ・サウツォ)と出汁で炊くんだよ。そうするとイカのうまみが米にしみこんでさ。それをこう、輪切りにすると、もちもちに炊きあげられたご飯がみっちり詰まってさ……うん、どうしたの?」

「そんな話されたらお腹すくじゃないですか!!」

 

 ただでさえイカ焼きの香ばしい香りで食べているのにお腹がすくという悪循環に陥っていたところです。これは一杯や二杯イカ焼きを食べたところで足りません。

 

 しかも寄りにも寄って(リーゾ)を使うとかいう時間のかかる料理の話をするなんて、ああ、生殺しです。

 

 ウルウは困ったように眉を下げて、それから、近くの店をちらっと見て、こう提案しました。

 

「新しいイカの食べ方を教えるんで、ちょっと場所貸してくれません?」

 

 乗りのいい南部の人たちは、よし来たと協力してくれました。

 

 ウルウは外套を脱いで動きやすい格好になって、それから近隣の店にも声をかけて、材料を調達しました。小麦粉に、卵に、硬くなった麺麭(パーノ)に、そして烏賊(セピオ)

 

 ウルウはつたない手つきながらも、店の人のやるのを見ていたのでしょう、正確に烏賊(セピオ)の中身を抜いて、内臓を取り外し、皮をはぎ、胴体を輪切りにし、ゲソの吸盤を取り外しました。そして全体に軽く塩を振り、下味をつけているようです。

 

 それから全体に粉をまぶし、溶き卵をつけ、そして硬くなった麺麭(パーノ)を卸し金で卸したものを全体にまとわせました。

 そして近くの屋台で使っていた揚げ油におもむろに投入したのでした。

 

「ほほう、烏賊(セピオ)麺麭粉揚げ(コトレート)か!」

「面白いことを考えるな」

烏賊(セピオ)でできるならほかでもできるんじゃないか?」

 

 露店の人たちが面白そうに眺める先で、手早く奇麗なキツネ色に揚げられた烏賊(セピオ)が取り上げられ、まるで積み上げられた黄金のように輝くのでした。

 

 店の人たちが真似するように新しく作り始めるのを尻目に、私の手元にその黄金の輪が差し出されました。

 

「はい。イカリングフライ」

「いかりんぐ……?」

()()()()()

 

 早速私はこの黄金色の輪にかじりつきました。食感は焼いたものと似ていますが、しかしもっと水分があってぷりんぷりんとしています。そしてぎゅっと圧縮されたようなうまみが、揚げ油の良い香りとともに口の中にいっぱいに広がるのでした。

 また麺麭粉揚げ(コトレート)といいましたか、衣のざっくりかりかりとした歯ごたえがまたたまりません。烏賊(セピオ)自体の柔らかくプリッとした歯ごたえと、衣のざくざくかりかりとが口の中でまじりあい、これは、そう、たまらなく、

 

「お酒が欲しくなります!」

「そう言うと思って」

 

 私の空いた手に、さっと麦酒(エーロ)の満たされた酒杯が差し出されました。

 

「お昼だから、一杯だけね」

 

 神が降臨なされたような心地でした。




用語解説

麺麭粉揚げ(コトレート)
 カツレツ。フライ。
 パン粉をまぶしてたっぷりの油で揚げる揚げ物。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と記憶の味

前回のあらすじ

お腹を空かせてしまった償いにとイカリングフライをふるまうウルウ。
まさかの飯レポ二連続であった。


 章魚(ポルポ)のサシミの静かな味わいを楽しみ、烏賊(セピオ)焼きの香ばしい味わいを楽しみ、そしてウルウが振るまってくれた()()()()()()()()の賑やかな味わいを楽しみ、あたしたちはすっかり満足して、市を後にした。

 

 新しい調理方法を教わった店の人たちからはまた何か思いついたらよろしくと手を振られたけど、そうそう思いつくものでもない。

 

 麺麭粉揚げ(コトレート)だって、牛肉をもっと少ない油で揚げ焼するようなやり方はすでにあったわけだし、()()()()()()()()だって、誰かが思いつこうとすれば思いついていただろう。

 

 数日もしないうちに、市には肉や魚、また野菜を使った麺麭粉揚げ(コトレート)の露店が並ぶに違いない。

 

 結局は、ちょっとした気づきやひらめきの問題なのだ。

 

 でもその気付きやひらめきが、分厚い壁となっているのよ。

 

「ウルウって」

「なあに?」

「料理が得意っていう訳じゃあないのよね」

「まあ、見たままを覚えられるから、人の仕事をそのまま真似ることはできるけど、それでも練習したわけじゃないから、ぎこちなくはなるね。頭で理解してるわけじゃないから、やり方はわかっても、理屈はわからない」

「真似は出来ても、応用はできないって?」

「そうだね。もともと私にはそう言う才能は欠けていると思うよ」

 

 嫌味でもなんでもなく、ウルウは本心からそう思っているようだった。

 だとすれば、先ほどぱっとやって見せたことも、こいつにとっては物まねにすぎず、新しい発見などでは全くないわけだった。

 

「その割には、随分と料理の知識が豊富みたいね」

「豊富?」

「いまさっきの()()()()()()()()にしてもそうだし、(リーゾ)を使った料理についてもそうだし、醤油(ソイ・サウツォ)や、香辛料についても詳しいみたいだし」

 

 あたしが探るように尋ねると、しかしウルウは全く気にした風もなく、というより気付いた様子もなく、ただ困ったように笑うのだった。

 

「豊富ってことはないよ。ただ、そうだね、私の住んでいたところが、食文化の豊かな所だったんだろうね。あの頃は気付かなかったけど、でも、身の回りにはたくさんのものがあふれていたように思うよ」

 

 ()()()()()()()()をはふはふと齧りながら、ウルウはどこか遠い所を眺めるようにして、そんなことを言った。それは故郷を思っているのかもしれなかった。

 けれどその先の故郷というところを、あたしは全く想像できずにいた。

 

「他人事みたいに言うわね」

「他人事なのかもしれない」

「えっ?」

「あそこには私の居場所がなかった。あったのかもしれないけど、私には見つけ切ることができなかった。その前に疲れ果ててしまった。支えとなるものを、うまく掴めなかった」

 

 それは豊かだったという故郷の話からすれば、あまりにも静かな独白だった。

 

「私は確かにたくさんのものを見てきた。たくさんのものを聞いてきた。たくさんの豊かな文化に触れて、たくさんの人々の思いに接した。でも私は感じなかった。たくさんのものを見て、聞いて、触れて、接して、そこに何も感じなかったんだ。感じようとしなかった。感じることができなかった。もう少しで感じ取れたかもしれないものを、わたしは諦めてきた。だってそれは余りにも困難に思えたから」

 

 食べることに夢中のリリオをちらと見やって、ウルウはそこに何かを見たようだった。何かを聞いたようだった。何かに触れたようだった。何かに接したようだった。何かを、感じたようだった。

 尊いものを見るように、ウルウは目を細めた。

 

「未練がないと言えば、嘘になる。今になってもしかしたらと思うものは、みんな思い出の向こう側だ。あの頃ああしていれば、何かが変わっていたのかもしれないと、最近になって特にそう感じることが増えたよ。私がもう少し強ければ、私がもう少ししなやかだったら、私がもう少し、人を思いやることができたら」

 

 湿り気を帯びたまなざしがあたしをそっと見つめて、瞬いた。

 

「でもそうじゃなかった。そうじゃあなかったんだ。そうじゃなかったことを悔いる気持ちもあるけれど、でも、そうじゃなかったから今私はここにいるんだと思えば、少し、楽になる。君たちといる日々が、たまらなく満ち足りているから」

 

 ざくりと揚げ物を齧って、それから、それまでの湿り気はみななかったかのように、ウルウはいたずらっぽく笑った。

 

「君は私の故郷のことが気になるのかな。それとも私のことが気になるのかな」

「それは……」

 

 考えるまでもなかった。

 私は無用な詮索を捨てて、素直な気持ちに向き直ることにした。

 

「ウルウのことが気になるわ。でも今はそれ以上に『豊かな食文化』とやらが気になるかしら」

「結構。君のレシピが増えるなら、私も願ったり叶ったりだ」




用語解説

・豊かな食文化
 普段気にかけることはあまりないかもしれないが、我々は本当に驚くほど豊かな文化を垂れ流すように享受している。
 何か一つの分野であっても、のぞき込むだけであっても、そこには驚くほど深い穴が広がっている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と冒険屋の家

前回のあらすじ

豊かな味わい。豊かな食文化。
しかしそれは感じることができなければどこまでも薄っぺらなものに過ぎない。


 市の露店で思いのほかがっつりと昼食を摂ってしまい、腹ごなしにのんびり歩いていこうかと向かった先の住所は、かなりの郊外だった。郊外というかもう完全に街門から抜けて、町から離れていた。

 

 腹ごなしという目的をすっかり超えて無心に歩いて行った先には、ちょっとした貴族のお屋敷のような立派な建物があった。私は貴族の屋敷というものを実際には見たことがないのだけれど、トルンペートに言わせれば一般的な貴族の屋敷より簡素で、武骨で、質実剛健とした造りであるということだった。

 

 問題は屋敷より、屋敷の裏に広がる森であり、山だった。聞けばあれら全てがブランクハーラ家の持ち土地であるという。

 

「貴族じゃあないんだよね」

「多分爵位持ってないだけで、地元有力者ではあるんでしょうね」

 

 まあ仮に過去で戦争か何かで武功を立てたとして、爵位なんか授けられそうになっても断りそうではある。何しろ、生粋の冒険屋といううたい文句だ。帝国の役に立つことはしてやるかもしれないけれど、帝国の機構に組み込まれるのは良しとしないと言い張ったとしても納得できる。

 

 そしてこれは後から聞いたところ、ほぼほぼ同じようなことが過去にあったらしかった。

 

 簡単な獣除けの柵に設けられた門扉を抜けてさらにてくてく歩き、扉に取り付けられた恐らく海竜を模したノッカーを叩いてしばらく待つと、誰何の声とともに扉が開かれた。

 

「はあい、どなたかしら」

 

 顔を出したのはいかにも品のよさそうな小柄な老婦人で、おっとりとした顔立ちで、のんびりとした声をしている。

 失礼だが、なんだか意外だなと思うくらいに普通のおばあちゃんである。服装も品はあるけれど別段高価そうでもないし、田舎のおばあちゃんといった感じ。

 

 その目はまず一番背の高い私をあらあらと眺め、次いでそれより小柄なリリオとトルンペートあらあらと眺めて、少し考えてもしかして、と手を打った。

 

「マテンステロの娘が来るという話だったけれど」

「はい。私がリリオです。こちらは連れのウルウとトルンペート」

「あらあら、飛脚(クリエーロ)が手紙を持ってきてね、まだかしらまだかしらって待っていたのよ」

 

 おばあさんは、たぶん彼女がメルクーロなのだろう、あかぎれの目立つ働き者の手でリリオの頬を撫でた。

 

「思ってたよりり小さいわねえ。ちゃんと食べてる?」

「ええ、人一倍」

「元気は一杯ね。それにほかの二人も、元気そう」

 

 同じようにしてメルクーロさんはトルンペートと、少し背伸びして私の頬もそっと撫でた。それは何気ない所作だったけれど、そのわずかな間に何かを調べられたことが察して取れた。手のひらに僅かな魔力を感じ取ったのだ。

 私は魔術師ではないけれど、けれど、《暗殺者(アサシン)》としての勘なのか、そのような細かなことにこそむしろ気が付くのだった。

 

 とはいえそれは悪意のあるものではなくて、むしろ私たちが悪意あるものではないか調べているようであり、またどのくらい()()()のかを平和的に改めたといった具合で、不快になるようなことでもなかった。

 

 あらあらとメルクーロさんは楽しそうに微笑んで、それから家の奥に声をかけた。それは決して大きな声ではなかったが、よく通る声だった。

 

「マルーソ! マルーソ! 孫が到着したわよー!」

 

 するとどたんばたんと騒がしくもの音がして、すぐにもガタイのいい老人が勢いよく戸を押し開けるようにして顔を出した。上背もあり、顔にはしわより傷が目立ち、簡素な服装は荒くれの漁師を思わせた。

 しかしその顔には満面の笑みが浮かんでいた。そしてその笑みもまた、好々爺といった大人しい印象ではなく、近所の悪ガキのような活力にあふれたものだった。

 

「よくきたわしの孫!」

 

 張りのある声でマルーソさんはそう叫び、順繰りに私たちを眺めた。そして小首を傾げたかと思いきや、ものすごい勢いで私たち三人をまとめて腕の中に抱きすくめてしまった。

 

「どれかわからんがみなよか娘じゃ! みなわしの孫じゃ!」

 

 実に豪快な爺さんである。

 リリオもトルンペートも全く驚いて、目を白黒させている。

 

 そして、落ち着いているようで一番驚いたのは、この私だ。

 私が大人しく腕の中に抱きすくめられてしまった、その事実に私は石になってしまうかと思うほど驚いて硬直していた。

 

 だってそれはつまり、()()()()()()()()()()()()、ということなのである。

 敵意がなかったからかもしれないがあの勢いである。私は目で見て、避けようと考えたのだ。普段ならそれだけで自動回避が発動して、私は回避に成功するはずなのだ。

 

 ところが気づけば私は腕の中に抱きすくめられて、よか孫じゃ可愛い孫じゃと頭を撫でられているのである。

 

 つまりこの爺さん、幸運値(ラック)器用さ(デクスタリティ)素早さ(アジリティ)かその組み合わせか、とにかく私の素の回避率百八十二パーセントを突破するとかいう荒業をいともたやすくこなしているのである。

 

 マルーソ・ブランクハーラ。それはもしかしたらレベル九十九の私を圧倒するかもしれない、ものすごい爺さんなのだった。




用語解説

・マルーソ・ブランクハーラ
 今年で六十歳になる、ブランクハーラの現当主。
 総白髪だが、これは加齢ではなくもともとの白髪。
 弓の名手で、海中の魚を射って捕まえることができる。

・メルクーロ・ブランクハーラ
 今年で六十三歳の姉さん女房。入り嫁。
 白髪交じりの赤毛で、目元にはそばかす。
 マルーソの体格が良く、メルクーロが細身なため目立たないが、実は若干彼女のほうが背が高い。
 熟練の魔術師で、マテンステロの魔術の師である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合と暴風

前回のあらすじ

恐ろしいお爺ちゃんに遭遇したウルウ。
相当の腕前のようだ。


 玄関先で三人まとめてもみくちゃにされた後、私たちは広々とした居間に通されました。

 南部づくりの風通しの良い造りで、突き抜けからはすぐ外の森の様子がうかがえるようになっていました。

 

 私たちは籐細工も鮮やかな椅子を勧められ、香りの良い豆茶(カーフォ)を淹れていただき、ほっと一息、歩いてきた疲れを吐き出しました。

 

「マルーソがごめんなさいね。この人ったら、手紙が来てからずっと騒がしくて」

「孫に喜んで何が悪いがか」

「いえいえ、歓迎してもらってありがとうございます」

 

 結局マルーソさんは、呆れたメルクーロさんが叩いて正気に戻らせて引きはがすまで、私たち三人をがっしりと腕の中で閉じ込めてわっしゃわっしゃと頭を撫でたのでした。

 二人が、私が普段ボイに嫌がられているというのを、なんとなく納得しました。ものすごい勢いでしたから。

 

 マルーソさん、

 

「おじいちゃんでえい」

「は、あ」

「みんなおじいちゃんでえいきに」

「じゃあよろしくおじいちゃん」

「よろしくねおじいちゃん」

「適応はやっ」

 

 まさかのウルウとトルンペートの方が先に順応しましたけれど、そう、おじいちゃん、おじいちゃんはもともと肌の色が褐色のところによくよく日焼けしていて、真っ白で雪のような髪とは裏腹に、全身もう真っ黒と言っていいほど健康的に焼けていました。

 

 そしてまたその全身と言うのが非常に大きくて、珍しいことに長身で何かと人を見下ろしてくるウルウと同じくらい大きいのでした。幅は細身のウルウからしたら二人分か、三人分あるかもしれません。まして小柄な私やトルンペートなど、子供と大人どころではありません。

 

 これがただ大きいというだけでなく、骨も太い、筋肉も太いとしっかりと鍛え上げられた肉体で、顔中に刻まれたしわがなければとてもお爺ちゃんなどと言う年には見えません。

 聞けば今もまだ本当に現役で、週に一度は組合に顔を出して依頼を探すのだそうですけれど、あまり面白いものがなくて暇をしていたそうです。

 

 そりゃあ冒険家の大家ブランクハーラの当主に見合った依頼はそうそうないことでしょう。

 

 見た目も豪快なら笑い声もがっはっはと豪快なおじいちゃんに比べて、メルクーロさん、おばあちゃんはいかにもほっそりとして柔らかい印象なのですけれど、その柔らかさの中にてこでも動かない芯がぴんと通っていて、おじいちゃんと並べてもまるで陰るところがないのでした。

 

 また、細身ですし、私たちに豆茶(カーフォ)をふるまってくれたり、お茶菓子を用意してくれたりと動き回ってくれているのでしっかりとはわかりませんけれど、もしかすると、お爺ちゃんより背が高いのかもしれませんでした。

 柔らかなあたりとは裏腹に、するりと背が伸びていて、動きもきびきびとしていますし、こちらも年齢通りとは思えないのでした。

 

「まあ、私は魔法使いですからねえ、何かと魔法に頼れるけれど、この人そういうからっきしだから、頼るものが体しかなくて、毎日毎日鍛錬ばかりで暑苦しいったらないわ」

「お前も旦那が格好いい方がえいじゃろ」

「毎朝惚れ直すわ」

 

 そしていまでも良い仲のようです。

 

 豆茶(カーフォ)ですっかり落ち着いて、私たちは改めて自己紹介をすることにしました。

 

「私がお手紙を差し上げたマテンステロの娘のリリオです」

「おお、おお、よか名じゃ。それに鍛え方もえい。恩恵がよくよく伸びゆう」

 

 先ほど抱きしめられたときにそこまで把握されていたようです。実に無造作でしたけれど、そのくらいは造作もないということなのでしょう。

 

「こちらは三等武装女中のトルンペート。私の旅に付き合ってくれています」

「リリオとは幼馴染みたいなものです。御世話役もしてますので、旅の間のお世話はお任せください、おじいちゃん」

「うむ、うむ、よか娘じゃ。リリオを押さえるにはちっくと不安じゃが、その分頭が回りそうじゃ」

 

 トルンペートにとってみれば主の娘の祖父という難しい相手ですけれど、ブランクハーラ家は貴族でもないただの冒険屋ですし、お爺ちゃんも堅苦しいのは嫌いそうです。ですから、トルンペートもにやっと悪戯っぽい笑顔で、そのように軽めの挨拶をしてくれました。

 

「そしてこちらが私の嫁のあいたっ」

「冒険屋仲間のウルウです。お孫さんの面倒見二号です」

「……おまんはなんぞ変わった娘じゃの。よくわからん。よっくわからんが、リリオんこつ頼む」

「……頼まれました」

 

 おじいちゃんにもウルウはよくわからないようですけれど、それでも信頼してもらえたようで、にかっと笑ってもらえました。

 実際問題何かあった時に一番身元が怪しいのってウルウですし、信頼されやすい人柄でもないですし、よかったです。

 

「それんしても静かですまんの。おまんの叔父やら叔母やらもおるんやが、みないつまで経っても落ち着きちうもんがなかでの」

「まあブランクハーラの血筋なのかしらねえ、みんなあちこちにに出ていっちゃって」

 

 聞けば、お二人には全部で五人のお子さんがいるそうでした。

 長男ユピテロは気まぐれで商船に乗ってお隣のファシャまで。

 長女は私の母のマテンステロ。

 次女はその双子のヴェスペルステロで、こちらは本好きで帝都大学へ。

 次男はサトゥルノ。のんびり屋で東部で農業を。

 三男のウラノは冒険屋で、今はどこを旅しているか知れたものではないという。

 

 見事なまでに全員出払っているあたり、成程冒険屋の血筋と感じなくもないですね。

 

「いやー、しかし丁度えい頃に来てくれたの。あれはまっこと落ち着きのない娘やき」

「そうねえ。放っておいたらまたどこへ行くやら」

 

 はて、何の話かと思っていると、突き抜けからするりと長身の女性が上がり込んできて、そして、

 

「え」

「あら」

 

 そして、目があいました。

 

「おう、早かったの」

「あら、おかえりなさい」

「リリオたち今日だったのねー。丁度森で鹿雉(セルボファザーノ)取れたのよ」

「おう、それはえいのう! あとでさばいちゃるき、晩は楽しみにしとうせ」

「え、あ、え、あの、え?」

「どうしたのリリオ」

 

 ウルウが小首を傾げますけれど、私はそれどころではありません。

 

「お母様」

「へ?」

「お母様?」

「あっ!」

「お母様!?」

「あらなあに、母の顔を忘れたの?」

 

 そう、それは紛れもなく私の母、マテンステロ・ブランクハーラその人なのでした。

 




用語解説

・五人のお子さん
 長男ユピテロ(Jupitero)三十八歳。遊び人。
 長女マテンステロ(Matenstelo)三十七歳。冒険屋。
 次女ヴェスペルステロ(Vesperstelo)三十七歳。図書館司書。
 次男はサトゥルノ(Saturno)三十五歳。農家・研究家。
 三男のウラノ(Urano)三十二歳。冒険屋。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と暴風

前回のあらすじ

マテンステロさんじゅうななさい現る。


 その瞬間のあたしの気持ちを端的に表すと、こうだった。

 

 ()()()()()()

 

 この一言に尽きるように思う。

 

 風通しの良いように、壁の一部を取っ払って直接外に出られるようになっているとかいう、辺境では絶対に考えられないような南部造りの居間の一席に、いま、忘れようはずもない姿が何一つ気負うところなく自然に腰掛けるのを、あたしは呆然と見送るほかなかった。

 

 鮮やかな褐色の肌に、流れるような白い髪。寝ているんだか起きているんだかわからないような柔らかな目元に、ほころぶように笑う口元。

 

「久しぶりねえ、リリオ。それにそっちのはリリオにくっついてたちっちゃい娘だったかしら。それにまあ随分とおっきなお友達を連れてきたわね。それともあなたが小さいだけかしら」

 

 そして淑女然とした見た目からは想像もできないほど暢気な軽口。

 

 何一つ変わらないその姿に、思わずあたしが椅子から飛び降りて膝をつきそうになるのを、奥様は面倒くさそうに制した。

 

「やめてよ、辺境の館でもあるまいし、実家でまで堅苦しいのはいやよ」

「し、しかし奥様」

「その奥様もだーめ。マテンちゃんでいいわよ」

「そ、それはその、お、お許しを」

「もう、仕方ないわねえ」

 

 あたしが椅子の上でかちんこちんに固まっている横で、ようやく石化の解けたリリオが勢いよく立ち上がった。

 

「お、お、お、お母様!?」

「そうよ。なにもそんなに驚かなくていいじゃない。親の顔と同じくらい見た顔でしょ。親なんだし」

「そういうことではなくて、そういうことではなくて、そういうことでは、なく、て!!!」

 

 ぱあん、と音を立てて空気が震え、あたしはびくりと背筋が弾むのを感じた。

 成人する頃にはすっかり鳴りを潜めていた、リリオの癇癪が爆発したのだ。それは感情が抑えきれなくなるということだけではない、莫大な魔力が一時に爆ぜるという、物理的に影響をもたらす癇癪なのだ。

 

 目の色を変えて――文字通り、あふれ出しそうな魔力で色味を変えつつある目で奥様を見据えて、それで、それから、リリオは言葉が出ないようだった。混乱と、困惑と、そして訳の分からなさに対するいら立ちが、リリオの頭の中をいっぱいにして、あふれかえりそうにさせているのだった。

 

 ちりちりと空気が震える。

 あ、これはまずい。

 本格的に爆発する前に抑えないと。

 

 あたしが腰の鉈に手を伸ばすより早く、するりと横合いから腕が伸びて、蜘蛛のように細長いそれがリリオをからめとってしまった。からめとって、抱きすくめて、それから頭をなでて、椅子に座らせた。リリオはまだ殺気立った獣のように毛先をピリピリと震わせていたけれど、それでも、再び立ち上がることはなかった。

 

 いや違う、立ち上がれないのだ。

 ウルウの抱きすくめる手が器用にリリオの急所を押さえて、その力をうまく振るわさせず、半ば技巧で、半ば力づくで抑え込んでいるのだった。

 

 あたしが力づくで意識を失わせようとしたことに比べれば、それははるかに優しく、そして難しいやり方ではあった。

 

 あたしが困惑し、そしてリリオに対する怯えをこらえ、なんとかその握りこぶしを撫でさすってやって、それでようやくこの()()()()は深く息を吐いたのだった。

 

「亡くなったと聞いていたけれど」

 

 リリオを抱きすくめたまま、平坦な声で尋ねたのはウルウだった。

 それは純粋に疑問から来る問いかけだった。

 

 そうだ。

 ウルウはリリオと違って奥様に対する情などない。

 私と違って女中としての畏敬や、その生還に対する困惑などない。

 

 ただ聞いていた話と事実が食い違っているという、それだけなのだった。

 その落ち着きこそが、いま吹き飛びそうなリリオには大事だった。

 

「やあねえ。御覧の通り生きてるわよ」

「はぐれ飛竜に食われたとか」

「食われてないわ。食いつかれたけど」

 

 普通、それは死んだと言っていいと思う。

 とはいえ、辺境貴族ではないとはいえ、ブランクハーラという存在は、同じくらい普通ではないのだった。

 

「いやあ、はぐれが出たっていうからいい暇つぶしになると思って出かけたんだけど、思いのほか吹雪いててね。急に目の前に出てくるから驚いたわ。でも向こうも同じように驚いたんでしょうね。ぐわーって噛みついてきたから、突然で剣を抜く暇もなくて、仕方なく手で押さえたのよ」

「手で、なんて?」

「噛みついてくるじゃない?」

「うん」

「それをこう、両手を広げて、上あごと下あごを押さえつけてやったの」

 

 もしかして馬鹿なのでは。

 思わずそう思いかけたけれど、しかし馬鹿は馬鹿だけど本当ならすごい馬鹿だ。

 

 人を丸のみにしてしまい、岩をかみ砕くような怪物の噛みつきを、素手で、抑え込んだというのだった。

 

 ウルウはちょっと考えて、それから今まさに抑え込んでいるリリオをちらっと見やって、頷いた。あたしはその意味を少し考えて、ああ、と悟った。まあ、リリオなら似たようなことをやりかねないと思ったのだろう。信頼というか、何というか。

 

「それで押さえ込んで、寒いし相撲でも取って暖を取るのもいいかと思ったんだけど、そこで私、ぴーんと閃いちゃったの」

「一応聞いておこうかな」

「飛竜って空飛べるじゃない。こいつに乗っていったらあったかい南部までひとっとびじゃないかしらって思って」

「思って」

「飛竜乗りは見たことあるから、真似して飛んで帰ってきました、まる」

「馬鹿なの?」

「不思議とよく言われるわ」

 

 なんと、飛竜に食われて行方不明になったのではなく、捕まえた飛竜に乗って南部まで飛んできたという、どこのおとぎ話だという話を聞かされてしまった。

 ウルウではないけど、馬鹿なのかと思ってしまうあたしは悪くないと思う。

 

 飛竜だ。

 はぐれ飛竜は餌が少ない時期にうろついてるから痩せてはいるけれど、それでも、飛竜だ。

 冬場で動きが鈍っているとはいえ、飛竜だ。

 それを押さえ込んで、あまつさえ乗ろうなんてのは、正気の沙汰ではない。

 

 確かに飛竜乗りというものは辺境に存在する。飛竜と戦うために、同じ戦力があった方が効率がいいという乱暴な理屈で、大昔から続けられている伝統ある職業だ。

 でもそれだって野生の飛竜を捕まえているわけじゃあない。

 卵から孵して、人に馴らせた飛竜だから、初めて人は乗れる。そしてそれだって、品種改良を何度も重ねて人に懐きやすいものを選別していった結果だと聞く。

 

 それを、それを。

 

 ああ。

 

 馬鹿だ。

 馬鹿の総大将がいる。

 

 くらりときたあたしを放って、ウルウは問答を続ける。

 

「その飛竜は?」

「躾けて、裏の山で飼ってるわ。キューちゃんって言うの。キュウキュウ鳴くから」

「成程、リリオの母親だ」

 

 そしてあたしは考えるのをやめた。




用語解説

・癇癪
 膨大な魔力を持つものは、感情の制御が効かなくなると魔力を暴走させることがある。
 その暴走の仕方は魔力の性質によるが、ドラコバーネ家の場合は「炸裂」の性質を持つ。
 この暴走はマイナスの感情だけでなくプラスの感情でも引き起こされ、魔力の制御が効かない子供が間引かれるということも昔はよくあった。
 トルンペートが出合い頭に全身の骨を破砕させられたのも、驚いたリリオの魔力が炸裂したため。
 そう言うことがないよう、側仕えの武装女中は人間を的確に気絶させる術を学んでいる。

・飛竜乗り
 騎乗用に飼育された飛竜に乗って空を飛ぶことを専門とした職業。ドラゴンライダー。
 主に飛竜の迎撃にあたり、また辺境領から出ることは滅多にないが、竜車と呼ばれる車を運んだりする。

・キューちゃん
 野生種の飛竜。成体メス。
 体長は三メートル。全長(尾まで含めた長さ)五メートルほど。翼開長六メートル。
 体色は炎赤色。天気のいい日には翼を広げて日光浴している姿が見られる。
 ハヴェノ伯爵には一応許可はとっているが、伯爵の胃には穴が開いた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と暴風

前回のあらすじ

馬鹿の総大将が現れた!


 癇癪を起しそうになったリリオを押さえつけて宥めてはみたが、いやはや、そこらの魔獣なんか簡単に屠れるわけだ。リリオを押さえつけるのは生半な事ではなかった。

 

 私の《暗殺者(アサシン)》としての勘がリリオの急所を正確に押さえつけてくれたからよかったけれど、そうでなければ実のところ、リリオを押さえつけるって言うのはそろそろ私にはきついのだ。

 つまり、最近のリリオは成長も芳しく、明確に数値上で、力強さ(ストレングス)が私を超えているのだった。

 

 おまけに数値上ではよくわからないところである魔力とやらの出力は尋常でなく、《SP(スキルポイント)》のゲージは私のものをとっくのとうに上回っている。

 この世界での魔術師の事情はよく知らないが、ギルド《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》で付き合いのあった《魔術師(キャスター)》の数値をすでに超えているのだから、もはやどっちがチートだか分かったものではない。

 

 その魔力がそのまま膂力にプラスされるだけならまだなんとかなるが、無意識のうちに魔法として形成されて、周囲の空気を震わせたり弾けさせたりするのには参った。空気だけならうるさいとか、豆茶(カーフォ)がこぼれるとかで済むけど、私の体の方にまで地味にダメージが通ってくるのが怖い。

 

 当人も押さえ込もうとしているようだし、骨に響くほどのダメージではないのでなんとなかっているが、普段自動回避で痛みというものを知らない私にとって、この痛みというものが地味につらいのだ。本当は今すぐに離してしまいたいくらい痛い。

 

 おまけに、これが消耗してどんどん弱くなっていくならばともかく、こいつ、さっきから《SP(スキルポイント)》のゲージが減らないのである。量が多すぎて減っているように見えないということではなく、使用した端から回復しているのである。

 

 この世界風に言えば、魔力を常に生産し続けている状態になるのだろうか。

 成程トルンペートが辺境貴族は特別だという訳である。

 

 痛みをごまかすために、なぜか生きていてそしてケロッとした顔を出してきたリリオの母親であるというマテンステロとの会話を試みているが、正直馬鹿なのではという疑問が先ほどから浮かんでは消えてならない。

 

 頭が悪いという意味ではない。

 発想が尋常ではないし、やることなすこと尋常ではないという意味での、馬鹿だ。

 

 聞けば飛竜相手に素手で相撲を取っただの、思い付きでそれにまたがって南部まで飛んで来ただの、まず普通の人間が思いつかない、思いつこうともしないことを平然と成し遂げているあたり、事前にリリオから聞いていた印象がガラガラと崩れていくばかりである。

 

「なんでですか」

 

 ふと、腕の中でまだ空気をぱちぱち言わせているリリオが、それでも大分落ち着いてきたらしく、呟くように尋ねた。

 

「なんでってなにが?」

「どうして、何も言わずに、逃げ出すみたいに、行ってしまったんですか?」

 

 噛み締めるような、食いしばるような、そんな問いかけだった。そうでもしなければ、叫び出してしまいそうな激情がいま、リリオの中で荒れ狂っているのだった。

 

「家が嫌になってしまったんですか? 私が嫌いになってしまったんですか? それとも、それとも、」

「そんなことないわ」

 

 癇癪をなだめるわけでもなく、しかし、マテンステロはしっかりと娘と向き合って、そしてまっすぐに言葉を吐いた。それはリリオの誠実であろうとする姿勢によく似ていた。

 

「あの家の居心地は悪くなかったわ。冬は寒いし、海の幸は食べられないけど、少し窮屈だったけど貴族の暮らしってのも、悪くなかったわ。それに育ちざかりの子供がかわいくない親なんて、まあ、いるかもしれないけど、私はそうじゃなかった。私について回るあなたはかわいかったし、お兄ちゃんぶって甘えたいのを我慢してるティグロもかわいかった」

「じゃあ、じゃあなんで!」

 

 ぱあん、とひときわ強く空気が爆ぜた。

 何が悪いでもないのならば、なぜ、と、なぜ行ってしまったのか、と。

 普段、子供っぽいとはいえそれでも泣き言を言わなかったリリオが、いま、年相応に涙を流しているのだった。

 

 それに対し、マテンステロは謝罪はしなかった。

 謝るということは、悪かったと認めることだ。それはつまり、リリオの悲しみも、それを乗り越えてきた過去も、全ては過ちの上にあったと宣言することだからだった。

 

 マテンステロはただ、寂しげに微笑んだ。

 

「旦那の愛が病み過ぎてて……」

「なんて?」

 

 そして寂しげな笑みのままなんか言い出すので思わず聞き直してしまった。

 

「いやね、アラーチョ……アラバストロもかわいいはかわいいやつなのよ。私に惚れて告白してきた時なんかもう子犬みたいでね。私が弱いやつは嫌よーって遠回しにフッてやったら、そりゃもう男の子って感じで決闘挑んできちゃってまあ、思いっきりぼこぼこにしてあげたんだけど、やっぱり辺境貴族って強いわね。ちょっと滞在するつもりの間に何回も挑んでくるからその度にぼろ雑巾にしてあげたんだけど、その度に強くなってくの。それでついつい絆されて長居してる間に一本取られちゃって、こりゃ年貢の納め時だわと思って結婚してあげたんだけど、いやもうベッドの上でもかわいいのなんのって」

「すいませんけど惚気はあとにして本題お願いします」

 

 リリオが目を白黒させているので話の続きを促したところ、非常に残念そうに、しかしご納得いただけた。聞いてるとこっちのやる気とSAN値が削られそうだ。

 

「最初におかしいなって思った時は、ティグロが生まれた時よね。私も自分の血を引いた子供が生まれるなんて、なんだかとても不思議で、それ以上に愛おしくて、なんだか私が私じゃなくなるみたいに幸せな日々だったわ。それで思ったの。お父ちゃんとお母ちゃんにも孫を見せてやらなくちゃって」

 

 しかしダメだった、とマテンステロは言った。

 

「アラバストロが止めたの。自分も一緒に挨拶に行きたいけど、まだ領地が不安定だとか、産後の肥立ちがとか、まあもっともらしいこと言うから、私もそうかもしれないわねって思って、手紙だけで済ませたわ。まあ生まれたばっかりのティグロに長旅はつらいかもしれないしとも思ったし、毎日大きくなるティグロをかわいがるので忙しかったし。でも、リリオがお腹の中にいるってわかって、今度こそはって里帰りを主張してもダメなのよ。妊婦には危険な旅だからって。それからずっとそう。二人が大きくなっても、ずっとダメだダメだってそればっかり。十二年間ずっと、里帰りどころか領地からも出れなかったの!」

 

 もはやマテンステロは、娘に聞かせているというよりは、完全に愚痴が入り始めていた。

 

「それで私、二人ともいい年だし、一度くらいは里帰りさせてよって訴えたの。そしたらアラーチョ、なんて言ったと思う? こうよ。『僕を捨てないで!』」

 

 腕の中でリリオが完全に固まったのを感じた。

 

「『そう言って帰ってこないつもりなんだ!』『僕たちを捨てるのか!?』『お願いだよマーニョ、どこにもいかないで!』」

 

 マテンステロがノリノリで声真似をするたびに、腕の中のリリオがダメージを受けていくのが感じられた。

 そう言えば威厳あるとか厳しいとか寂しそうな人とかいろいろ言ってた気がする。まあ寂しそうな人ではあるな。うん。

 

「それはもうかわいかったんだけど、さすがにこれはまずいかなーって思ったのよ、私。それで、いい機会だと思ったし、咄嗟にキューちゃんに飛び乗ってたわけ」

 

 それでおしまい、とばかりに冷めかけた豆茶(カーフォ)を啜るマテンステロと、恐らく以前にも説明されたのだろう、なんとも形容しがたい顔で聞き流しているマルーソとメルクーロ。

 そして完全にキャパオーバーして頭を抱えているトルンペートに、再起動待ちのリリオ。

 

 誰か助けてくれ。

 




用語解説

・アラバストロ(Alabastro)
 アラバストロ・ドラコバーネ。三十三歳。リリオの実父。
 アラーチョは愛称。
 先代当主の早逝で僅か十六歳で当主に就任する羽目になるも、当時二十歳のマテンステロのおかげで就任パーティに成功。そのこともあり、またマテンステロの実力にもほれ込み、一年かけてなんとか一太刀浴びせて結婚をつかみ取る。
 若いうちから苦労の連続ではあったが、努力家で才能もあり、実力は十分にある。
 ヤンデレ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合と母の思い出

前回のあらすじ

まさかの実父ヤンデレ疑惑に動揺するリリオだった。
救いはないんですか。


 ウルウにがっしりと押さえ込まれた状態で、母からまさかの事実を暴露されて、理解が追い付いていません。というより理解したくない感じです。

 

 それは、その、なんです。

 

 確かに父は母を愛していました。

 子供心にその愛の深さを感じるほどに母を愛していました。

 

 例えば母が私たち兄妹と遊んでいると、仕事を意地でも手早く終わらせて必ず駆けつけてきました。子供と遊ぶ時間を大切にしてくれる良い父親だと思っていましたけれど、あれは我が子に嫉妬していたのかもしれません。

 例えば父はティグロのほほをよく撫で、私の頭をよく撫でていましたが、あれは母の面影をよく残す兄の顔立ちと、私の髪の色とに、母を重ねてみていたのかもしれませんでした。

 例えば……いいえ、やめましょう。思い返せば思い返すほど、父の行動のいちいちが母を中心に回っていたような気さえしてきます。

 

 思えば父は、仕事人間でした。

 領地を見て回り、領民の暮らしをよりよくしようと試み、飛竜が出れば誰よりも早く駆け付け、そして私たち兄妹が良い大人になるようにと、家庭教師任せではなく自分でも様々な事を教えてくれました。

 しかしそれ以外は、個人的趣味もまるでなく、ただ遠くの空を眺める日々だったように思います。

 その部分が、ぽっかりと欠けてしまった母の存在だったのかもしれないと考えると、父には仕事と母としかなかったのではないかと思えるほどでした。

 

 そう言えば私が拾ってきた動物たちの面倒は最終的には女中頭か父の預かりとなっていましたけれど、母がいなくなってからというもの、父は良く動物たちを撫でる時間が増えていたように思います。

 特に白金の体毛も美しい大狼のプラテーノなど、そのモフモフの体毛に突っ伏するように憩いを得ていたように思います。

 

 あれを仕事人間の憩いと思えばまだいいですけれど、父は時々その白に近い体毛を撫でながら遠くを眺めていました。母の髪の色と比べていたのかと思うと、もはや病気です。

 

「私……私、悲しかったんですよ! 母様が亡くなったと聞いて、本当に悲しかったんですからね!」

「ごめんなさいね、リリオ」

 

 お母様は優しく、でも困ったように笑いました。

 

「でもお母さん心外だわ」

「え」

「たかがはぐれ飛竜ごとき相手に死ぬと思われていたなんて、悲しいわ」

 

 そう言われればそうかもしれません。

 大体が、平時からして飛竜をおやつ代わりに狩っているような辺境貴族の父相手に互角に、というか子供心に感じた限り上回る腕前だった母です。寒いのは苦手だとか言っておきながら、冬場でもはぐれ飛竜が出たと聞けば子供のように喜んで狩りに言っていた母です。

 

 暖炉のそばで優しく物語を聞かせてくれた思い出が強いですけれど、それも考えてみれば冒険屋たちの冒険譚だとか、自分自身の武勇伝とか、大概血なまぐさいものか荒々しいものばかりだった様な気もします。

 

「そう言えば母様、飼い馴らされているとはいえ、飛竜と相撲とって勝ち越してた気がします」

「懐かしいわねえ。飼育種って軽いからあんまり歯ごたえなかったけど」

「重飛竜とも相撲取ってましたよね?」

「あれはなかなか楽しかったわ。がっしり地面掴むから、ひっくり返すの苦労したわ」

 

 ああ、と何だか妙な納得が腑に落ちました。

 そりゃあ、そんな生き物がはぐれ飛竜ごとき相手に死ぬわけがない、と。

 

「キューちゃん見る限り、そげに強かもんとも思えんがの」

「まあキューちゃんはうちに来たときはもうすっかり馴らされてたものねえ」

 

 ほのぼのと祖父母もそんなことを言いますけれど、飛竜ってそんな簡単なものじゃないはずなんですけどね、本来なら。

 普通であれば飛竜乗りとか、辺境貴族が出てきてようやく討ち取るものなんですけどね。

 

 なんだか私の中の常識がガラガラと音を立てて崩れるようで、私はすっかり疲れ果ててしまって卓に沈みました。よしよしと頭を撫でてくれるウルウの手のぬくもりだけが癒しです。

 

「でもリリオも今なら飛竜くらい落とせるって言ってなかったっけ」

「あら、大きくなったわねえ、リリオも」

「『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』なら確かに落とせますけど、当たればですし、落とした後も、とどめ刺すまでが大変ですよう」

 

 ウルウが茶化すので、言うほど簡単なものではないと謙遜しておきましたけれど、実際どうなんでしょう。見たことはあっても、子供の頃の話で、実際に戦ってみたことはないんですよね、飛竜。

 

「リリオはまあ、まだ早いがじゃろ。もうちっくと恩恵がのびんと、なんしろ体が軽いきに、キューちゃんと相撲は取れんろう」

「そうねえ。もう少し魔力の使い方を覚えたら、いいところ行くと思うけれど」

 

 ちなみにそんなお二人はキューちゃんなる野生種の飛竜成体相手に相撲取るくらいは訳ないそうです。飼い馴らされているとはいえ、飛竜を転がせるというのは驚きです。おじいちゃんはまあ見た目からしていけそうな気がしますけれど、おばあちゃんがほっそりとした体でどうやって成し遂げるのかは疑問です。

 

「魔法も魔力も使いようよ。マテンステロはそのあたり、うまく伸びたわねえ」

「恥ずかしいじゃないお母ちゃん。師匠が良かったのよ」

 

 そういえば母の戦い方は魔法も剣も使う魔法剣士です。おじいちゃんとおばあちゃんからいい所を受け継いだという形なのでしょうか。私は魔力の扱い方こそ父から学びましたけれど、剣は家庭教師から学んだので、そのあたりちょっとうらやましいかもです。

 

「ティグロにはちょっと剣を教えたけど、そう言えばリリオに教える前に出てきちゃったものね。なんなら滞在中はちょっと見てあげましょうか?」

「本当ですか!?」

「ついてこれたらね」

 

 にっこりと笑う母の笑顔には、残念ながら容赦というものはありませんでした。

 




用語解説

・飼育種
 飛竜を飼い馴らしているとはいっても、野生種そのままではなかなか難しい。
 飼育種は長い間をかけて品種改良がおこなわれ、やや小柄、細身になったものの、飛行速度・旋回性能では野生種以上の仕上がりとなっている。

・重飛竜
 飼育種の中でも、軽く早くとは真逆に、重く品種改良された種。
 咆哮(ムジャード)、つまりいわゆるブレスの威力を高められており、飛行能力はかなり低いが、地面をしっかりつかんで放たれる咆哮(ムジャード)は戦術兵器クラスである。
 臥龍山脈の途切れ目を囲むように飼育されており、飛竜が出た際の迎撃に用いられる。
 ただ、飼育難度が高く、また咆哮(ムジャード)も連発はできないので、敵の数を減らす程度の使い方。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と母の剣

前回のあらすじ

つくづく出鱈目なリリオ母ことマテンステロ。
その出鱈目さを実感する羽目に。


 あたしが復活するまでの間に、どういうふうに話がまとまったのか、気づけばあたしたちはみんな庭先に出て、新しく入れた豆茶(カーフォ)を頂いているところだった。

 

「怪我しない程度に頑張るんだよー」

 

 気の抜けたウルウの声援が、間延びしたように庭に響くのを、あたしはどこか遠い世界のように聞いていた。

 

「ほらトルンペート。いい加減しゃんとしなよ」

「そう言っても……」

「君って案外頭でっかちだね」

「荒唐無稽ってこういう話なんだなってのは感じてるけどね」

 

 まあ、でも、確かにいい加減立ち直るべきだ。

 

 奥様が生きていて、それも飛竜に飛び乗って辺境から逃げてきたとかで、しかも逃げ出した理由が御屋形様の愛情が重すぎたのが理由だとか、まあ、なんだか、一度にいろんな情報が襲ってきたせいですっかり面食らっていたけど、でもまあ、事実は単純なのだ。

 

 奥様は生きていた。それでリリオも喜んでいる。

 それだけだ。それだけでいい。

 

「リリオのお父さんのことは」

「考えない。意地でも考えないわよあたしは」

 

 散々お世話になった御屋形様が、まさかそんな人物だったとは全く思いもよらなかった。つまり、別に知らないでも生きてこれた情報なのだ、それは。知らなくてもいいことは知らなくてもいい。そのままのことだけれど、しかし大事なことだ。

 

 いま大事なのは、目の前にあることだ

 

「リリオー、頑張りなさいよー!」

 

 そう、目の前のこと。

 

 庭先で剣を構えたリリオと、奥様が、向かい合っているというこの状況。

 

「なんか頭痛がしてきた」

「ブランクハーラも辺境人も戦闘民族なんだし、久しぶりに会ったらこういうもんじゃないの?」

「言い返せないのが悔しい」

 

 生まれは違うあたしだって、多分、辺境に帰ったら、どれくらい強くなったのか確かめられるだろうし、あたし自身確かめたくてうずうずするだろう。結局のところ、そう言う生き物なのだ。

 

「ねえリリオ。さっき言ってた『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』って、あれかしら。いわゆる必殺技っていうやつかしら」

「そうです! ウルウに教えてもらった物凄い技です!」

 

 まあその物凄い技、二回使って二回とも防がれてるんだけどね。

 

「私、そう言うのってすごくワクワクするの。試しに使ってもらっても構わないかしら」

「え、でも……」

「大丈夫よ。けがは()()()()から」

「……………」

 

 成程辺境人と結婚しただけあって、辺境人の扱い方をよく知っているというか、うまく煽る。

 

「おう、えいぞー、やっちゃれリリオー! そいつん鼻っ柱叩き折っちゃれー!」

 

 そして外野、というかおじいちゃんもまた煽る煽る。

 というかこの人もう豆茶(カーフォ)じゃなくて酒が入ってる。

 麦酒(エーロ)とか葡萄酒(ヴィーノ)じゃなくて、酒精の強い蒸留酒を呷ってる。

 

 あれって火酒、つまり火が付くほど酒精が強いって言われてるのに、よくまあ水でも飲むようにかっぱかっぱ飲めるものだ。酒に強い土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちの血でも引いてるんだろうか。

 私も以前飲んだことがあるけれど、あれは、飲むというより舐めるように味わうくらいでちょうどいい。あるいは水で薄めてようやく飲めるくらいだ。

 

「火傷しても……知りませんからね!」

「いいじゃない。火遊び好きなのよ、私」

 

 天空に向けて掲げられた大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻剣に、暴風がまとわりつくように風精が絡みつき、その刀身は集められた雷精で白く輝き始める。

 ぱりぱりと中空に青白い放電が走り、空気が焦げ臭いにおいを漂わせる。

 

 二つの精霊を、呪文もなしにただその意志と確信だけで支配下に置き、荒れ狂うこれらを膨大な魔力に物を言わせて制御する、凶悪な術式が構築されていくのが、目で、肌で、感じられる。

 

「ひゅう。なかなか雰囲気出すじゃない」

「余裕なのも、そこまで、です!」

 

 それはいままでの二度よりもはるかに洗練され、研ぎ澄まされた雷の刃だった。

 今まさに振り下ろされんとする神々の鉄槌だった。

 

「突き穿て――――『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』!!!」

 

 目の前が真っ白になるほどの閃光。

 耳が破裂するのではないかと言う轟音。

 

 地上から放たれた()()()()が、風の道を通って一直線に奥様に向かい、そして焼き尽くさなかった。

 

 うん。

 

 焼き尽くさなかった。

 

 知ってた。

 この流れ知ってた。

 

 しかし知らなかったのは、奥様の防ぎようだった。

 

 メザーガのように、器用に風の道を捻じ曲げていかずちそのものの進路を変えてしまうのでもなく。

 錬金術師の館の時のように霊威をもって力ずくで防ぎきるのでもなく。

 

「ば、かな……!!」

()()()()()()()()()

 

 全く同じようにいかずちを放って、相殺させるなどと。

 

 落雷のような衝撃が一瞬のうちに奔り、大気を焼く異臭がつんと鼻を突いた。

 

「成程成程。風精で風の道を作って、ため込んだ雷精を走らせる。気ままにあちこち走りやすい雷精をうまく直進させる、いい技だわ」

「そ、そぎゃん馬鹿げたこつありよるはずが……」

「でもちょっとばかり、年季が足りなかったわね」

 

 風精をまとう飛竜の革鎧と、雷精を呼ぶ甲殻剣、そして無尽蔵の魔力炉を保有する辺境貴族、この三つがそろって初めて発動すると思われた必殺技を、避けられるでも防がれるでもなく、寸分違わず模倣されるという衝撃に、さしものリリオも膝をついてしまったようだった。

 

 というか、はたで見てたあたしだって顎が外れそうなほど驚いている。

 いままで防がれ続けてきたとはいえ、しかし誰にも真似できないと思っていた必殺技だ。

 

 それをこうまで容易く……。

 

()()()()()()()()()

「え、ちょ、まっ」

 

 そこから先は、あえて語るには及ばないでしょ。

 それこそ確かに、あたしたちが限界だと思っていたものは足場にすぎず、あたしたちが魔法だと思っていたものはお遊戯にすぎず、あたしたちが積み重ねてきた冒険などまだまだ入り口に過ぎなかったのだと、そう思わせる()()が襲ってきた。

 

 それだけのことだ。




用語解説

・蒸留酒
 南部人はかなり酒に強く、蒸留酒も好んで飲まれているようだ。
 蒸留酒自体も南部出身の錬金術師が製造法を確立したと言われ、南部人の酒好きが伺える。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 ブランクハーラ

前回のあらすじ

まさかの見よう見まねで必殺技を相殺されるリリオ。
そして暴風が襲うのだった。


 酒の入ったおじいちゃんによれば、マテンステロさんというのは、ざっくり言えばメザーガの上位互換にあたるということだった。

 

 つまり、剣でも魔法でも、帝国に名を知られた名パーティ《一の盾(ウヌ・シィルド)》のリーダーを上回る腕前で、それはつまり剣ならそんじょそこらの剣士よりも格上で、魔法でも並の魔法使いよりもはるかに上という、チート同然の腕前だった。

 

 私が想像していた剣も魔法も使えるけどどっちもそこそこという器用貧乏な魔法剣士像をハイエンドまで鍛え上げたのがメザーガなら、剣士と魔法使いのいいとこどりしてそれをハイエンドまで鍛え上げたチートがマテンステロさんだった。

 

 何しろ、()()()()()()()()()()とかいう理屈で二刀流やってるような、そして宣言通りその通りの強さを見せつけているような、頭のねじが外れた暴虐だ。

 

 小説投稿サイトでもなかなかいないぞそんな現地人。

 

 まあその両親にあたるマルーソさんとメルクーロさんが、それぞれ戦士系と魔法使い系のハイエンドであることを考えれば、妥当なハイブリッドなのかもしれないが。

 

 そんな化け物に剣と魔法とで追い回されたリリオはどうなったかというと、()()()()()()()という宣言通りぎりぎり怪我せずに回避・防御できる程度には手加減してもらっているようで、いまのところひいひい言いながら立ちまわっている。というか、立ち回らせてもらっている。

 

 途中からマテンステロさんに呼ばれてトルンペートも参加したが、これがまた見事にあしらわれている。

 

 リリオの剣はことごとく弾かれ、いなされ、かわされ、トルンペートの投げナイフもこれまたことごとく弾かれ、かわされ、たまに投げ返され、一方でマテンステロさんの斬撃は容赦なくリリオの防御を力で抜くし、回避させてもらえない。

 

 魔法剣士の魔法の腕前はどうかというと、私はこの世界の魔術師をよく知らないので比較できないけれど、多分比較するだけ魔術師が可哀そうになるほど凶悪だった。

 なにしろ、まず呪文の詠唱がない。指先の動きや、剣の振るい方、またステップなどに反応して、即座に魔法が構築される。そんなことが簡単にできたら魔術師はもっと話に聞こえるほど活躍しているだろう。

 

 指が踊れば火が踊り、剣を振るえば風が切り裂き、つま先が地面を叩けば土塊が隆起して槍のように襲い掛かる。そしてそれらはすべて、リリオの剣とトルンペートのナイフをさばき、そして積極的に攻撃を加えるのと同時に発動しているのだ。

 

 これはもはや考えて行っているのではなく、条件反射的に行っているのではないかと思われるほどの反応速度だ。

 

「冒険屋をはじめとした実戦魔術師が最初につまづくのが、詠唱の長さよね」

 

 とメルクーロさんが笑った。

 

「精霊に言い聞かせれば言い聞かせるほど魔術は強くなるわ。それは自身の確信にもつながる。でもそれは一刻一秒を争う戦闘では致命的なまでに遅いの。だから、実戦魔術師は得意な魔術を瞬間的に発動できるようになるまでが大きな壁。これがむずかしいから、なかなか後輩ができないのよねえ」

 

 気やすく言うが、それは簡単な事ではない。

 素直で、自分には魔法を行使できるという確信が極めて強いリリオでさえ、道具の力を借りてようやく無詠唱で魔術を行使できる。それも溜めあり。

 

 かなり優遇されてチートと言ってもいい私にしても、《技能(スキル)》を使うにはそちらに意識が持っていかれる。レベル九十九であるはずの私でもそれなのだから、いったいこの人のレベルはどうなっているのだろうか。

 

 あるいはこの世界では、レベル九十九というのは通過点に過ぎないのかもしれない。

 

「ウルウちゃーん、そろそろあったまってきたから、あーそびーましょー!」

 

 お呼びの声がかかって、私は立ち上がった。

 私も強くならなければならない。リリオの旅の、その行く末を見守るためには。

 

 

 

 などという決意をずたずたに引き裂かれるんじゃないかと思うくらい、私たちはぼっこぼこにされて力尽きたのだった。

 いや、本当に、チートか何かなんじゃないかと思わせるほどの凶悪な()()だった。

 

 なにしろリリオとトルンペートの猛攻を相手にしながら、私の自動回避を時々――体感で三割くらいの確率で突破してくるのだ。これは回避に徹しているときでの数字だから、こちらから攻撃に出るともっとひどい。

 

 私が恐らくこの体に刻まれた動き方に従って、多分かなり鋭利な拳や蹴りを放っていくと、リリオやトルンペートよりも簡単にいなされ、ぺいっと放り投げられてしまうのだった。

 

「ウルウちゃんは型通りの動きしかできてないわねえ。動きが硬い硬い。もっと自由に動かなくちゃ」

 

 などと言われたが、今の私にはまだまだ難しそうだ。もう少し真面目にリリオたちの鍛錬に付き合った方がいいかもしれない。

 

 マテンステロさんにとっては人汗かいたわくらいのお遊びで、私もリリオもトルンペートも、返事もできないくらいにくたくたになって、私などこっちの世界に来て初めてと思うくらい汗だくになって、そして団子のように積み重なって倒れ伏す羽目になった。

 

「はいはい、ご飯にするわよー」

 

 それでも腹は空くもので、私たちはゾンビよろしくうーあーとテーブルに向かい、貪欲にお夕食を頂くのであった。

 

 マテンステロさんが狩ってきたという鹿雉(セルボファザーノ)とやらの肉を使った鍋のようで、さばくのはともかく、意外にも調理もまたマルーソさんが担当したということだった。

 

「肉の類はわしの方が得意じゃきに」

「魚は私の担当、肉はこの人の担当なの」

 

 このお宅ではそのような分業をしているようだった。聞けば、掃除や洗濯も当番制で二人で分けているそうで、いやはや仲がよろしくて結構な話だ。洗濯やらなんやら、いろいろとトルンペートに任せっきりの我がパーティも見習いたいところである。

 

「あたしは好きでやってるんだからいいのよ」

「そうじゃ。好きなもんが好きなもんをやった方がえいがじゃ」

「私たち二人とも掃除嫌いだから当番制なのよね」

「がっはっは!」

 

 鹿雉(セルボファザーノ)鍋はたっぷりの唐辛子と一緒に煮込まれているらしく、最初は細かな風味や味わいなどわからないくらいに辛いのだが、その辛さが過ぎると、汁にたっぷりとしみ出した出汁のうまみや、またそれをよく吸った野菜のうまみなどがどっと押し寄せてくるのだった。

 

 鹿雉(セルボファザーノ)の肉は、獲れたてで熟成させていないからそこまでうまみが出ていないとのことだったけれど、それでも十分にうまいものだった。味わいとしては、ややパサついて脂身の少ない牛肉といった感じで、特有の香りがあったが、これが唐辛子の汁の中でうまいこと食欲を誘う形になってくれた。

 またザックリとした歯ごたえが気持ちよく、歯切れが良い。

 

 そんな美味しい鍋を頂きながら、珍しくリリオは考え事をしているようだった。

 どうしたのかと思えば、不意にリリオは口を開いた。

 

「母様」

「なあに?」

「母様はもう辺境には帰らないのですか?」

「……そうねえ」

「父も寂しがっています。きっと、帰れば喜びます」

「うーん」

「一度でもいいです。そうしたら、本当に、きっと、父だって、ティグロだって」

「どうしようかしら」

「マーニョ、あんまりいけずしないの」

「ふふふ、そうね」

 

 メルクーロさんに窘められて、マテンステロさんはいたずらっぽく笑った。

 

「リリオも成人の年だし、私のところまでやってきたら、いい加減帰ろうかなとは思ってたのよ」

「じゃあ!」

「そうね。あなたたちも旅で疲れただろうから、少し休んだら、ひとっとび行きましょうか」

 

 素直に喜ぶリリオの横で、しかし私は嫌な予感がしていた。

 

「ひとっとび?」

「うちいま、飛竜が二頭いるのよ。キューちゃんと、キューちゃんの子供」

「つまり?」

「飛んでいきましょ。速いわよ」

 

 リリオの冒険譚辺境編は、思いのほか早くきそうだった。




用語解説

・小説投稿サイトでもなかなかいないぞ
 作者も読み込んでいるわけではないので適当言っているだけだが。

・ひとっとび
 話の展開上の問題でもある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三章 飛竜空路
第一話 鉄砲百合と戦争鱈鍋


前回のあらすじ
話の展開の都合上、旅程を物理的に吹っ飛ばすことが決定したのだった。


 南部一の港湾都市であるハヴェノの冬は、温暖で過ごしやすい。

 と思っていたのは最初の頃だけだった。

 

 そりゃ、辺境や北部ほど、べらぼうに寒い訳じゃないし、この辺りは雪も降らない。

 

 でもなにしろ、日が短くなってどんどん寒くなってくると、すぐ目の前の海って言うのは恐ろしく巨大な冷たさの塊となってくる。

 ちょっとの水たまりならすぐにぬるくなるかもしれないけれど、海はどこまでも続く広さがある。だから短い日差しじゃ温まらなくて、その冷たさが町にまで伝わってくる。

 

 それに風が強い。

 

 臥龍山脈を見上げるヴォーストもからっ風が冷たく吹き降ろしたものだけれど、ハヴェノでは冷たい風が海からやってくる。

 郊外にあるブランクハーラ邸まで風が吹きつけてくるほどだ。

 

 ちょっと買い物にとウルウと二人で市に足を運ぶと、人が多いから暖かいし、人が壁になって風も遮られるから随分ましになる。

 でもともすればびゅうと強い風が吹きつけてきて、軽いあたしはちょっと踏ん張らなければならない。

 

 曇りがちな北部より日差しはきっと暖かいはずなのに、音を立てて吹きすさぶ風にはさしもの辺境育ちも縮こまって、しっかり外套の前を閉じなけりゃあこらえきれないものがあった。

 ちょっと動き回ればほかほかと温まるリリオはともかく、あたしなんかは懐炉(マノヴァルミギロ)を懐に抱えていないと耐えられそうもない。南部で使うことになるとは思ってもいなかったけれど、《自在蔵(ポスタープロ)》に入れておいてよかった。

 

 体の小さいあたしが寒がるのだから、体の薄いウルウも熱をため込めなくてさぞかし苦労するだろうと思っていたのだけれど、いつものしれっとした顔で、背を丸めることもなく平然と歩いている。

 

「あんた寒くないの?」

「大人だからね」

 

 あたしはすぐにピンときたわ。

 これはいつもの不思議道具に違いないってね。

 

 ちょっとこれ持って、と買い物袋を手渡すと素直に受け取るので、そのままぐいりと手を握りしめる。

 ぎょっとしたようにウルウは一歩後ずさるけれど、あたしが手を握ったままだから逃げられない。

 ここ最近で編み出したウルウ対策だ。

 ウルウは離れていれば大抵の動作に対応してぬるりぬるりと気持ちの悪い動きでよけようとするけれど、一度捕まえてしまうとそこから抜け出せない。

 

 あたしなんかは多少つかみかかられても抜け出す技を身に着けているけれど、ウルウはそのあたりの知識が全然ない。反射的に体は動くけれど、その反射を抑え込むようにしてしまえばこちらのものだ。

 

 そのまま腕を抱きしめて身体を密着させてみると、やはり、暖かい。かなり暖かい。ぽっかぽかだ。それもウルウの体を覆うように、不思議な暖かさが包み込んでいる。

 

「あんたなによこれ。あたしの懐炉(マノヴァルミギロ)よりあったかいじゃない」

「あげないよ。これは一個しかないんだから」

「やっぱなんか使ってるんじゃない!」

「大人だからね」

「ずっこい!」

 

 もう買い物は済んだけれど、さすがにべったりくっついて歩くのは難しい。

 荷物もあるし、身長差もあるし、あとウルウが恥ずかしがる。

 しかしあたしもこのぬくぬくとした暖かさは捨てがたい。

 

 ウルウは面倒くさそうにため息をついて、懐から銀灰色の容器を取り出した。あたしの使っている懐炉(マノヴァルミジロ)みたいな感じで、少し小さいけれど、とても美しい彫金がなされていて、くすんだところの一つもない。

 ウルウはそれを握った手であたしの手をつかんだ。

 そうすると、その不思議な道具の効果があたしにも流れ込んできたのだろうか。

 指先にはちっとも熱さなんか感じないのに、しかし全身を包み込むように、不思議な温かさがまとわりついてくるのだった。

 

「フムン……この手の装備品は一緒に装備することもできるみたいだね」

「どういうこと?」

「三人目は難しそうってこと」

 

 あたしは早速リリオを仲間はずれにすることに決めた。

 あの子はほっといてもあったかくなるんだから。

 

 手をつないだままブランクハーラ亭に戻ってくると、庭先でリリオが飛んでいた。

 正確に言うと飛ばされていた。

 ごろんごろんと盛大に地面を転がっているけれど、あれは吹き飛ばされた衝撃を殺しながら距離をとっているようだった。

 もちろんそんな小細工は修行相手である奥様には通用せず、楽しげな足踏みと同時に地面から土の槍が隆起して、転がるリリオを追い立てていく。

 

「あら、おかえりなさい。どうだった?」

戦争鱈(ミリタガード)が安かったので買ってきました」

「あら、いいわね。鱈鍋かしらね。お母ちゃんが腕を振るってくれるわ」

「あとお酒」

「ますますいいわね。じゃあどっちかリリオと交代ね」

 

 土の槍でリリオを翻弄しながら、にっこり微笑む奥様。

 あたしが即座に踵を返すとウルウにがっしりと肩をつかまれた。

 

「あたしおばあちゃんの手伝いするわ」

「待て。待って。今日は私が手伝うよ」

「あたしの方が料理うまいわ」

「帰り道暖めてあげたでしょ」

「私は二人がかりでもいいわよー」

「よし、(パペロ)(トンディロ)(シュトノ)で決めましょ」

「よしきた」

「行くわよ、(ウヌ)(ドゥ)、」

「待って待って」

「何よ」

「一、二の三で行くの? 一、二の三のあと行くの?」

「どんだけ必死なのよ。(ウヌ)(ドゥ)(トリ)さあ(エーク)で行くわよ」

「まだかしらー」

さあ(エーク)ね。よし」

「今度こそ行くわよ。(ウヌ)(ドゥ)(トリ)さあ(エーク)!」

「あっ、くそっ」

 

 ウルウって目は良いけど、いつも最初に(シュトノ)の手を出すのよね。

 しかも振りが大きいからこっちからは良く見える。

 たまに負けてあげてるから気づいてないみたいだけど。

 

 ぼろ雑巾のようになって土塊にうずもれているリリオを回収して家に入る頃には、外から賑やかな破壊音が響き始めたけれど、なにしろ奥様が上手に調整するから、家には小石ひとつ届きはしない。

 リリオは長らくぶりに格上相手に毎日もまれて、めきめき腕を上げている。あたしもなんとかそれに食いついていっているとは思う。それでも奥様は周囲への被害を気にできるだけの余裕が崩れたりしない。

 

 意外なことに、一番大変そうなのは、あれだけ出鱈目で滅茶苦茶だと思っていたウルウだ。

 あたしがどれだけ短刀を投げたって余裕で避けられる気がするのに、奥様の攻撃相手にウルウは必死でよけるし、たまに直撃を受ける。一方でウルウが攻勢に転じると、一発も当たらないし、かえって反撃を受けて転がされている。

 いつもふてぶてしいくらいしれっとしたウルウが、まるで子供のようにあしらわれてしまうのだ。

 

 あの調子じゃあ、晩ご飯が出来上がる前に、あたしの番が来てしまいそうだ。

 伝説の冒険屋ブランクハーラに修行をつけてもらえるのは、ありがたいことだと思うし、実際強くなりたいならこれ以上はない環境だと思うのだけれど、それでも、ちょっとげんなりする。

 

 手抜かりなく手を抜いてもらった上でまるで歯が立たないというのは、三等武装女中の自信もさすがにぐらつくというものだった。

 

 その後、結局あたしも呼び出され、最終的には三人がかりで相手をさせられて、へとへとになるまで振り回された頃に、ようやくおばあちゃんが晩ご飯に呼びに来てくれたのだった。

 

 床を四角に切って灰を敷き詰めた囲炉裏で、大きな土鍋で魚も野菜も一緒くたにコトコト炊いて、鍋を囲んで取り分けるのがブランクハーラ家の冬の食卓だった。

 もうすっかり寒くなってきたので、居間の開口部も戸板で塞いである。少し薄暗くはあるが、海風が入ってこないというだけで大分暖かい。

 

 床に茣蓙(ござ)一枚敷いただけのところに腰を下ろすというのは、最初はなんだか不思議な心地だったけれど、囲炉裏を囲む農村ではよくある形だし、慣れればこれはこれで趣がある。

 

 メルクーロおばあちゃんがこしらえてくれた鱈鍋は、魚と野菜、それから、多分海藻と貝類、それにキノコの出汁だろうか、素材から出るうま味とちょっとした塩だけで調えられた水煮だった。

 これだけでも淡白なうまみが楽しめるのだけれど、これを酸味の強い柑橘類の絞り汁に、酢や出汁を加えて塩と砂糖で調えたさっぱりとしたつけダレにつけていただくのが、たまらない。

 

 ここに各自好みで、刻んだ浅葱(シェノプラゾ)、摩り下ろした大根(ラファーノ)生姜(ジンギブル)、粉に挽いた唐辛子(カプシコ)なんかを加える。

 

 他にも庭で育てているという香草類は好みのわかれるところね。

 爽やかで甘やかな柔らかい香りの目箒(バジリオ)

 目が覚めるような清涼感で記憶力が良くなると言われる迷迭香(ロスマレーノ)

 爽やかなほろ苦さの鼠尾草(サルヴィオ)

 ほろ苦く爽やかな花薄荷(オリガノ)蒔蘿(アネート)

 すがすがしい香りとほろ苦さを持つ立麝香草(ティミアーノ)と、ほのかな甘みと爽やかな香りの小茴香(フェンコーロ)は魚臭さを消してくれる。

 

 あたしが気に入ったのは独特の香りがする香菜(コリアンドロ)だ。唐辛子(カプシコ)をたっぷり加えた辛いつけダレに、この香菜(コリアンドロ)を千切って入れて食べると、異国情緒あふれる味わいがして匙も進む。

 

 リリオはこの香りがちょっと慣れないようだったけれど、ちょっぴり入れてみる分には成程面白いものですと頷いていた。

 奥様は軽く千切って入れる。おじいちゃんはあんまり好きじゃなくて、おばあちゃんは細かくちぎって振りかける。

 あたしは大きめに千切って、たっぷり入れる。食いでがあっていい。

 

 一方でウルウは手も付けなかった。隣でもっしゃもっしゃ食べてたら、真顔でちょっと距離を置かれてしまったくらいだ。

 なんでも、カメムシの匂いがするから無理だという。

 カメムシとは何かと聞けば、香菜(コリアンドロ)と同じようなにおいがする虫だという。

 香菜(コリアンドロ)のにおいがする虫なんてさぞかし美味しいんでしょうねと言ったら、理解できないものを見るような目で見つめられてしまった。

 

 あたしはきっと美味しいと思うんだけど、そう言えばウルウは虫関係が苦手だった。

 見るのも嫌なら触るのもごめんで、食べるのはまず無理という具合だった。

 

 ヴォースト近くの森で羽化直後の川熊蝉(アルツェツィカード)を見つけてリリオと二人大喜びでからりと揚げた時とか、川で蟒蛇襀翅(ボアオ・プレコプテロ)の幼虫を捕まえて甘煮にした時とか、麦畑の害獣駆除のお礼にって跳蹴蝗(クルルンガクリド)の素揚げ貰った時とか、東部の養蜂園で蜂の子の炒め物頂いた時とか、全部姿をくらましているか、リリオに上げてたわ。

 

 南部じゃあ、ヤシの類を食い荒らす檳榔大長象虫(アレコ・クルクリオ)とかいう害虫の幼虫を蒸したり焼いたり、時には生で食べたりとかよくするらしいんだけど、というか実際露店で見かけたりしたんだけど、ウルウが立ち止まってくれないからゆっくり見れなかったのよね。

 

 冒険屋なんかやってたらそのうち嫌でも食べる機会は出てくると思うけど、嫌がる人に無理やり食べさせようって気はないし、食事中に無理に話して聞かせるなんて以ての外なので、そっとしておいてやる。

 それはそれとして香菜(コリアンドロ)味のカメムシとやらは食べてみたいけど。

 

 食事を終えて、おじいちゃんと奥様は火酒を、あたしたちは甘茶(ドルチャテオ)を頂きながら、囲炉裏の火に当たって一服した。

 疲れ切った体に、お腹いっぱいの美味しいごはん、そしてこの暖かさ。

 眠くなる。

 眠くなるけれど、寝る前に汗でべたべたの体をどうにかしたい。

 寒くなって乾燥してきたし、油も塗らないと。まだ若いけど、よく日にあたる生活だし、いまの内から気を付けないと。

 

 あたしがぼんやりとそんなことを考えていると、リリオがちょっと不満そうな声を上げた。

 

「お母様」

「あら、なあに?」

「毎日手合わせしてくれるのはありがたいのですけど」

「手合わせって呼べるくらいにはなってきたかしらねえ」

「うぐぐ……そうでなくてですね、まだ出発しないのかなーと」

 

 それは、あたしも思っていた。

 ブランクハーラ邸にやってきて、奥様との再会を果たして、もう半月ほどになる。

 ハヴェノは雪が降らないから感覚が狂いそうだけど、北部や辺境はもう雪が降っているはずだ。降るどころかすっかり積もっているはずだ。

 いくら飛竜で空を飛んでいくにしたって、雪深くなればそれだけ道行は大変になる。

 辺境との交流が盛んなヴォーストだって、冬には道が閉ざされてしまうのだ。

 

 奥様は火酒でほんのり火照った頬に手を当てて、困ったように笑った。そう言う仕草ばかりはおっとりとしている。

 

「私も早くしたいんだけどね。でも飛竜飛ばすのに、ちょっと手続きがいるのよ」

「手続き?」

「辺境から来るときは勝手に飛んできちゃったけど、南部の人からしたら飛竜が空を飛んでるなんて大騒ぎじゃない」

 

 辺境から飛竜が漏れ出すなんてのは十年二十年に一度あるかないかくらいだから、南部でなくても大騒ぎだけれど。

 でもまあ、そうか。

 いくら飼われているとはいっても、飛竜は飛竜だ。

 それが頭の上を飛んでいくなんて、ぞっとしない話でしょうね。

 というか空飛ぶ大災害が伝説と冠してはいても一冒険屋の手の内にあるって言うのは国家の一大事じゃなかろうか。

 

「ご領主様も勘弁してくれって言うのよね。でもまあ、大丈夫よ。ちゃんと説明して、お願いしてきたから」

「私の知る説明とは違うんじゃないの、それ」

 

 胡乱気に呟くウルウに、奥様は笑った。

 

「快く頷いてくれたわ。私がしばらくハヴェノから出かけるって言ったら、そりゃもう大喜びで」

 

 それはなんというか、納得の話だった。

 一同、何とも言えず、ハヴェノ伯爵の胃痛を思いやるのだった。




用語解説

懐炉(マノヴァルミギロ)(manovarmigilo)
 かいろ。
 金属または陶器製の容器の中に、豆炭や火精晶(ファヰロクリスタロ)を仕込んだもの。
 布などで巻いて温度を調整し、懐に携行して暖を取る。
 本体の値段はピンキリで、使用する豆炭や練炭、火精晶(ファヰロクリスタロ)もピンキリ。

・銀灰色の容器
 正式名称《ミスリル懐炉》。ゲームアイテム。
 装備すると、状態異常の一つである凍結を完全に防ぐことができる。
 ほぼ全ての敵Mobが凍結攻撃をしかけてくる雪山などのエリアでは必須のアイテム。
 燃料などの消費アイテムも必要なく、なぜこれで暖が取れるのかは謎である。
『地の底より掘り出され、ドワーフが鍛え上げたまことの銀。を、贅沢に使用した高級感あふれる仕様でお届けいたします』

戦争鱈(ミリタガード)(militagado)
 互いに相争う戦争狂の鱈、ではない。
 この鱈は主要な海産物であったのだが、南部のいくつかの漁港が、重なり合う海域で漁業権を主張し合って大揉めに揉めたために、この騒動を戦争に例えて、戦争鱈(ミリタガード)の名で呼ぶようになったとか。
 厳密には単一の種ではなく、成魚が全長数十センチ程度の鱈の類を南部ではこう呼んでいる。
 多く身は脂が薄く柔らかい白身で、やや崩れやすい。味わいは淡白。
 新鮮なものは鍋物や揚げ物、焼き物に使われる。
 足が早いため、塩漬けや油漬け、干物、すり身加工などにも多く用いられる。
 卵巣の塩漬けや、内臓の塩辛なども人気。

(パペロ)(トンディロ)(シュトノ)(Papero, tondilo, ŝtono)
 いわゆるじゃんけん。手の形もルールもじゃんけんに準じる。
 どこが発祥なのかは判然としないが、古い文献にも見られることから、神々のもたらしたものではないかとも言われる。
 掛け声は地方などによって異なり、ここをきちんと確認しておかないと揉めることもある。
 例「(ウヌ)(ドゥ)死ねェ(モールトゥ)!」

浅葱(シェノプラゾ)(ŝenoprazo)
 ヒガンバナ科ネギ属の球根性多年草。アサツキ。
 細い葉を持つネギ類の仲間。
 独特の苦み、辛みがあるほか、鮮やかな緑色が美しく料理に彩を与える。

大根(ラファーノ)(rafano)
 アブラナ科ダイコン属の越年草。外皮が白いもののほか、赤、黄、黒などもある。
 肥大した根や葉を食用とする。
 ダイコン。

目箒(バジリオ)(bazilio)
 シソ科メボウキ属の多年草。バジル。バジリコ。
 様々な品種がある。
 ここでは爽やかで甘やかな柔らかい香りの香草。生食できる。

迷迭香(ロスマレーノ)(rosmareno)
 シソ科に属する常緑性低木。ローズマリー。
 生葉、または乾燥葉を香辛料や薬として用いる。
 目が覚めるような清涼感があり、頭が良くなる、記憶力が良くなると言われる。
 甘い香りと爽やかなほろ苦さがあり、肉の臭み消しや、逆に白身魚など淡白な食材への香り付けなど様々な用途で用いられる。

鼠尾草(サルヴィオ)(salvio)
 シソ科アキギリ属の多年草または常緑低木。
 爽やかなほろ苦さがあり、肉の臭み消しや、乾燥葉をハーブティーに用いたりする。
 帝国には「庭に鼠尾草(サルヴィオ)を植える者は施療師に嫌われる」という言葉があり、薬効の高さがうかがえる。

花薄荷(オリガノ)(origano)
 シソ科の多年草。オレガノ。
 樟脳に似たほろ苦い清涼感があり、乾酪(フロマージョ)蕃茄(トマト)に合う。

蒔蘿(アネート)(aneto)
 セリ科の一年草。ディル。イノンド。
 葉は乾燥するとすぐに香りを失うため、新鮮なうちに使わなければならない。

立麝香草(ティミアーノ)(timiano)
 シソ科イブキジャコウソウ属 の多年生植物の総称。タイム。
 すがすがしい香りとほろ苦さを持ち、勇気を鼓舞し、悪夢を退ける効果があるとされる。

小茴香(フェンコーロ)(fenkolo)
 セリ科ウイキョウ属の多年草。フェンネル。オールレンジ攻撃用兵器ではない。
 ほのかな甘みと爽やかな香りがあり、魚料理の風味付けなどに用いる。
 また鱗茎は玉葱のように食用に使用される。
 整腸作用がある。

香菜(コリアンドロ)(koriandro)
 セリ科の一年草。コリアンダー。コエンドロ。パクチー。香菜(シャンツァイ)
 「カメムシのような風味」と言われる独特の香りがあり、好みが非常に分かれる。
 大抵の場合、薬味や添え物として使われる程度で、そのものをたっぷり食べることは少ないとか。
 逆に昆虫食を嗜む人間からすると、薫り高い昆虫は上等な昆虫であり、「コリアンダーのような風味」がするカメムシは高評価であったりするらしい。

蟒蛇襀翅(ボアオ・プレコプテロ)(boao plekoptero)
 ウワバミカワゲラ。
 川、および川辺の森林地帯などに生息する。
 いくつもの節を持つ蛇のように長い体の蟲獣。
 幼虫は十五センチから二十センチ、成虫は三十センチから大きくて五十センチ程度まで育つ。
 成虫は羽をもち、低空を飛行する。
 殻が硬く、身も少なく、食用に向かない。
 幼虫は羽を持たないがエラを持ち、水中で生活する。
 そのまま、またはぶつ切りにして蜜と香草で甘煮にするか、素揚げにして塩をふることが多い。
 川の清浄さ、餌などにより変化があるが、枯草のような香りがある。

跳蹴蝗(クルルンガクリド)(krurung-akrido)
 トビゲリイナゴ。
 草原や、林などに生息する。
 イナゴの中でも後肢がとくに発達し、鉤爪上の頑丈な造りになっており、近くから蹴りかかられると怪我をすることもある。
 ただし攻撃目的ではなく、逃走や驚きから跳ねているだけなので、むやみに近づかなければ問題はない。
 大きなもので七センチ程度。
 麦や稲を食い荒らす害虫。
 害虫駆除のついでに大量に捕獲できるので、村でまとめて調理して振る舞われることが多い。
 焼く、炒る、甘辛く煮付ける、揚げるなどの調理法がある。
 頭と鉤爪は硬く、事前に取り外すか、食べるときにこれを持ち手として食いちぎるなどする必要がある。

・蜂の子
 蜂の幼虫。蛹や成虫を含むこともある。
 ミツバチも複数種おり、養蜂家も必ずしも単種のミツバチだけを扱う訳ではないので、ここでは特定できない。
 また、養蜂家以外では、農民や冒険屋が野生のスズメバチの類の巣を暴くこともある。
 味は淡白で、炒ったものは鶏卵の玉子焼きに似るとされる。
 その他には甘煮、蒸し焼き、素揚げの他、麺麭(パーノ)生地に練りこんで焼き上げることもあるという。

檳榔大長象虫(アレコ・クルクリオ)(Areco kurkulio)
 ビンロウオオオサゾウムシ。
 ヤシの仲間である檳榔樹(アレコ)を食い荒らす害虫。
 成虫は最大で十五センチ程度になる。
 ずんぐりむっくりとした甲虫で、見た目通り頑丈で、力が強い。
 腕などにしがみつかれると痣ができるほどだという。
 直線的ではあるが飛行もし、ぶつかると相当痛い。
 幼虫は芋虫状で、滑らかな舌触りとねっとりと濃厚な味わいで、生食するほか、焼く、揚げる、蒸すなど加熱して食べられる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 白百合と竜車

前回のあらすじ

今後出てくるかどうかも定かではない食材の話で終始したのだった。



 ハヴェノ伯爵にお願いしてきたからすぐに許可も下りるわよ、とお母様が暢気に言っていた通り、数日のうちに許可状とやらは手に入ったようでした。

 伯爵のお人柄が出ているのでしょうか、非常に神経質そうな字で、非常に神経質そうにみっちり書き込まれた羊皮紙の書状でした。

 

 何しろ飛竜の旅はハヴェノから出発して辺境に辿り着くまでの長い道程で、複数の領地をまたぐものですから、予定している航路や野営予定地、日程などをまとめた書類、その間に通過する予定の領地に宛てた書状、許可状などがどっさりです。

 

 明らかにハヴェノ伯爵個人で許可を出せる類のものではなく、駅逓省や軍務省、内務省など、各省の印の捺された書類が見えます。

 通過予定の各領地への通達は当然間に合うはずがありませんので、上からの許可状を振りかざして事後承諾でごり押しする気満々です。

 できるだけ人里を避けて飛ぶ予定みたいですけれど、これ絶対、面倒だから見られないようにして行けよってことですよね。

 

 この飛行計画のためにハヴェノ伯爵がどれだけの人脈とコネと袖の下とを使ったのか、ちょっと考えたくありません。

 よくまあこの短期間で帝都からの許可をもぎ取ったものです。

 どれだけお母様を放り出したかったんでしょう、伯爵。

 

 辺境から宮廷に参内する際に竜車を飛ばすことは確かにありますけれど、あれはかなりしっかりした計画を立てて、準備期間をおいて行うものだったと思います。

 辺境の武力と権力を誇示して、また辺境守護の確かさを喧伝するためのある種の観兵式みたいなものですから、多くの領地を通って、人目に触れるようにゆっくり飛ぶらしいです。

 もちろん、素通りなんてことはせず、ちょこちょこ降りては各領地で歓待を受けながら進むわけです。

 

 今回はそういう行事ではなくて、完全に単なる移動でしかないのでいくらか簡略化できることでしょうけれど、それでもかなりの大事です。

 いや、一頭いれば町を壊滅させられる飛竜を、貴族でも何でもない個人が所有しているっていう時点で大分大事なんですけど。

 

 私がハヴェノ伯爵だったら生かしておけない不安要素だと思います。

 だからといって手を出せる相手でもないですけど。

 

 そもそも規格外の個人戦力であるブランクハーラとかいう存在がお膝元にいる時点で勘弁してくれってなりますし、そこに飛竜が二頭もついてくるって、なんか悪いことしましたか神様っていう感じですよね。

 領地に飛竜を住まわせてる、飼育下においてるって、帝都のお歴々からしたら叛逆とか謀叛とか疑ってくださいって言ってるようなものですよ。

 

 いままで隠し通してた、ということはないでしょうから、コネとカネとその他諸々使えるもの何でも使って釈明してたんでしょうね。騎士団送り込まれてない時点で奇跡なのでは。

 

 本当に、本当に、ハヴェノ伯爵の胃痛がしのばれます。

 

 ともあれ、ついに出発の日です。

 

 私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は、庭先にででん、と鎮座ましましている、車輪のついた箱のようなものを並んで見上げました。

 大きさは、そうですね、少し大きめの馬車くらいといった感じですかね。骨組みは金属で補強され、いかにも無骨な佇まいです。飾り気はなく、最低限必要な形に整えましたという具合でした。

 それが二台です。

 

 それは、辺境で何度も見たことがある竜車を真似て造ったもののようでした。

 もちろん、本場の竜車はもっとちゃんとした造りですし、見栄えもいいですけれど、まあ別に誰に見せる訳でもありませんから、こんなものでしょう。

 実物を見たことがない職人に、詳しい造りは知らないままあれこれ記憶を頼りに指示して造ってみて、それでも何とか形になっているのですから、立派なものと言っていいでしょう。

 

 一度も試し乗りしてないので今回が初試乗になるということで、そこはかとなく不安ですけれど。

 

 さて、二台の内の一台には巨大な枝肉や、燻製の類、干物の類、野菜類、豆類、保存食の類、飲料水の樽と、とにかく食料品でぎっちり詰まっています。

 私たちだけでこんなに必要なのだろうかと思いましたけれど、これはほとんど飛竜の餌になるようでした。

 考えてみれば、私たちは時々村や町にでも寄れば食料品は手に入りますけれど、飛竜の餌を確保するのは大変そうです。

 勝手に狩りなんかさせたら近隣住民が泡を食って驚くことでしょう。

 

 そしてもう一台が私たちが乗るためのものです。

 旅の荷物を積み込むついでに中を検めてみましたが、成程、十分竜車に似せて造ってあると言っていいでしょう。

 飛竜は非常に寒くなり、また空気も薄くなる上空を飛んでいくので、小ぶりな窓や扉もがっちりと密閉できる造りになっています。

 このままでは息が詰まってしまいますけれど、そこはきちんと風精晶(ヴェントクリスタロ)を用いた器械が設置されていて、空気を清めてくれるようになっています。

 戸を閉めてしまえば、分厚く綿を詰められた外壁が寒さをある程度防いでくれそうですし、暖を取れるように小ぶりな鉄暖炉(ストーヴォ)が据え付けられています。

 

 さすがに貴族の用いる竜車みたいに立派な家具なんかはついていませんけれど、冒険屋にとっては十分すぎる環境です。

 

「……これ、何に使うの?」

「ああ、きっと体を縛るためのものですね」

「……フムン?」

 

 壁の金具に結びつけられた帯を、ウルウが不思議そうに眺めます。

 

 竜車というものは、馬車のように安定した地面を走るものではありません。

 飛竜が上からがっしり掴んで、持ち上げて飛んでいくものなんですね。

 なので、安定した飛行体勢に入っているときはともかく、上昇時や着陸時、それに風が強い時なんかは、かなり揺れるんです。

 だから体を車体に固定していないと、あちこち転がってしまって危ない訳です。

 ちゃんとした竜車だと、快適な座席に固定用の帯がついているものなんですけど、この竜車にはそんな立派なものはついていません。

 代わりに壁に直接取り付けられた帯で体を固定するという訳です。

 

 それを聞いて、ウルウは非常に憂鬱そうな顔で帯を引っ張りました。

 

「船酔いする人間が耐えられると思う?」

「あー……まあ寝てたら慣れますよ」

「私は繊細なんだ」

「私たちが繊細じゃないみたいな言い方止めてもらえます?」

「繊細なの?」

 

 じっとりとした目線に、さすがにそうです繊細ですとは言えませんでした。

 

 げんなりとした様子でうなだれるウルウを、トルンペートと二人がかりでなだめすかしていると、不意に日差しが陰りました。

 雲でも出てきたかな、あんまり空が荒れると乗り心地が一層悪くなるかもしれない、と空を見上げると、そこには死がそびえていました。

 

 三人そろって()()()と口を開けて見上げた先で、二頭の飛竜がゆっくりと羽ばたいて、舞い降りてきたのでした。

 吼えるでもなく、睨むでもなく、牙をむくでもなく、ただそこにあるというだけで、重苦しいほどの圧迫感が私たちの身をすくませ、ぞっと総毛だつような死の予感を思わせるのでした。

 

 ぎくり、と私の足は思わず知らずのうちに逃げ出すようにつま先をそらし、トルンペートはいまにも飛び上がりそうに腰を沈め、そしてウルウでさえも、目を見開いて動きを止めているのでした。

 

 先の一頭は成竜で、しなやかに伸びる尾の先までおよそ十四メートルはあるでしょうか。

 深い緋色の羽毛は熾火を身にまとうように力強く、二対四枚の翼が風精を緩やかに渦巻かせていました。その巨大な体は水に沈み込んでいくように静かに高度を下げ、やがて猛禽のように鋭い爪を持った四つ足が、音もなく地面に降り立ちました。

 

 その背の鞍にまたがり、体を固定していた帯を解いているお母様が、子供か何かに見えるほどに立派な体格です。

 強張ったまま動けないでいる私たちのことなどまるで気にした風もなく、ゆっくりと足を折りたたんで寝そべる態度には、圧倒的強者としての風格というものがにじみ出ていました。

 

 後から降り立ったもう一頭は、若い、というよりもいっそ幼い個体のようで、胴は五メートルばかり、尾まで入れて十メートルといったところ。羽毛もまだ明るい朱色を光らせています。跳ねるように軽やかに地面に降り立つと、落ち着かないように首を振るい、かちりかちりと爪を地に打ち、二対二連の四眼できょろりとこちらを観察するように眺めてくるのでした。

 

 その子竜でさえ、ごくりと息を呑ませるような()()()()()ものがあるのです。成竜がたしなめるように尾の先で叩き、それでようやく腰を落ち着けてくれた時には、思わずほーっと安堵の息がこぼれるほどでした。

 

 それは只人が向き合うにはあまりにも力強く、そして美しい生き物でした。

 

「どう、リリオ。野生のはカッコいいでしょ! おっきいのがキューちゃんで、ちっちゃいのがその娘のピーちゃんね」

 

 そんな生き物から平気な顔で降りてきて、気の抜けたことを言うお母様は本当に何なんでしょうね。

 

 しかし、確かに野生種の飛竜は、私が見てきた飼育種の飛竜とはまるで違う生き物でした。

 飼育種は小型化と軽量化が進んで、大きくても全長十二メートルくらい、それも細身です。

 けれどキューちゃんなる野生種の仔竜は十メートルに至り、しなやかながらも力強い体つきです。それもまだ若い個体で、これから更に大きく成長するだろうとのことでした。

 

「……リリオ」

「……なんです?」

「飛竜、落とせるんだっけ?」

「……勘弁してくださいよ」

 

 やれると思っていました。

 あのメザーガにだって認めてもらって。

 きっと私は飛竜にだって勝てると思っていました。

 物語の英雄のように、格好良く戦えるって。

 そう、思いあがっていました。

 

 でもそれは、飼育種の馴らされた飛竜を想定していたものでした。

 その想定でさえ、当たりさえすれば落とせるかもなんて、そんなものでした。

 

 これは。

 こんなのは。

 想定外も、いい所。

 

 いくらなんでも、これは、無――

 

「……ピーちゃんの方ならギリいけるのでは……?」

「思ったより余裕そうでよかった」

 

 ウルウは苦笑いして、私の手を取ってそっと手のひらで包み込んでくれました。

 自分でも気づかないうちに、小刻みに震えていたその手を。

 それでなんだか安心してしまったのか、強張り切っていた身体がぴしぱし音を立ててほぐれて、ぎこちなく息が吐き出されていきました。

 

 隣を見ればトルンペートも、しおしおと沈むように崩れ落ちかけて、なんとかこらえている様子でした。

 

「あらまあ。いまからそんなんじゃ、先が思いやられるわね」

「いくらなんでもいきなり飛竜は、」

「アラバストロは十六で当主になって、飛竜退治をこなしてるわ」

「むぐ」

 

 お母様はおかしそうにけらけら笑って、それから柔らかく私の頭を撫でてくれました。

 

「そのうち慣れるわよ。あなたが冒険を続ける限りね」

 

 きっとその冒険を続けた先の境地から、母は導くでも教えるでもなく、ただ見守ってくれているのでした。




用語解説

・羊皮紙
 市井では菌糸紙や植物紙が流通しているが、公文書や格式ばった文書などは高価な皮紙が用いられることが多い。
 我々の知るいわゆる普通の羊の皮であったり、四つ足の爬虫類の羊の皮だったり、かなり特別なものだと飛竜の皮を用いたりする。
 見栄えは良いのだが、規格統一が難しく、分厚いので場所を取り、持ち運ぶのも大変で、迂闊に書き損じもできないと、現場の文官からははなはだ不評である。

・駅逓省
 宿場や駅、飛脚(クリエーロ)、郵便、為替、また交通などを取り扱う行政機関。
 駅逓卿が所管する。

・軍務省
 軍事を取り扱う機関。
 皇帝直轄の騎士及び兵士を指揮下に置く他、有事には領主の騎士・私兵に対して命令権を有する。
 軍務卿が所管する。

・内務省
 または総務省。
 国内、とくに皇帝直轄領の行政その他を取り扱う機関。
 各省の調整、緩衝、また便利屋扱いな所がある。
 内務卿が所管する。

・一頭いれば町を壊滅させられる
 個体によるが、多くの町は基本的に対空兵装が用意されていないため、圧倒的に不利。

鉄暖炉(ストーヴォ)(stovo)
 帝都で開発された暖房器具。
 いわゆる薪ストーブだが、鉄に火精晶(ファヰロクリスタロ)を練りこんでいたり、我々の世界のストーブとは造りが違うようだ。
 暖炉よりも熱効率が良く、帝都を中心に売れ行きは良いという。

・ピーちゃん
 野生種の飛竜。子竜メス。
 体長は二メートル。全長(尾まで含めた長さ)三メートル。翼開長四メートル弱。
 体色は鮮やかな朱色。好奇心旺盛でやや頭が悪い。
 生まれた時にハヴェノ伯爵に追加で許可を貰いに行ったら、死にそうな顔で祝い金を出してくれた。

・ギリいけるのでは
 実際、空を飛ばないという条件下であれば、リリオはソロで子竜とやりあえることだろう。
 どちらも頭はあまりよろしくないが、経験の分リリオがやや有利か。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 亡霊と空の旅

前回のあらすじ

圧倒的な超生物との遭遇に、戦慄する一行であった。




 飛竜って生き物は初めて見たけれど、何とも不思議な生き物だった。

 この世界に来てから、散々ファンタジーな生き物に遭遇してきたけれど、なにしろドラゴンの類だ。ファンタジー強度が高い、気がする。

 

 前準備なしでいきなりご対面した時は、これ死ぬのでは、と呆然としてしまったくらいに、生き物としての強度が凄まじい。気配というものなのか、それとも魔力とやらの圧力なのか、大人しくしているはずなのに、こっちが気圧されるような気分だった。

 

 ライオンの檻に放り込まれたらあんな気分になるんじゃないかと思う。

 たとえ襲ってこないとわかっていても、怖いものは怖い。

 

 マテンステロさんは技術とか、立ち回りとか、戦闘勘とか、そう言うものが積み重ねられて、私を圧倒してくる。

 でも飛竜の場合は、単純に()()のだ。

 多少のプレイヤースキルとか対策とか、そんなものはまるで関係ない、圧倒的なステータス差みたいなものを感じさせる。

 

 さしものリリオも腰が引けるくらいだったし、トルンペートはリリオがいなかったら逃げ出していたと思う。それでいい。それが賢い選択だ。

 私たちは素のステータスの高さとちょっとした経験で調子に乗っていた。

 最近マテンステロさんにしごかれてちょっと強くなった気がしてた。

 そんなところに、うっかりレベル帯間違えた強ボスと遭遇してしまったのだ。

 折れずに済んでよかったってくらいだね。

 

 そんな、天狗になってた鼻っ柱を小気味よくへし折られるようなショックが抜けてみれば、飛竜って言うのは、恐ろしくも美しい生き物だった。

 

 私は飛竜なんて呼ばれているから、いわゆる、ワイバーンって言うのかな、翼竜みたいのを想像していたんだけど、実際の飛竜は全然違うものだった。

 確かに顔つきは爬虫類のようではある。鋭い牙があって、力強い、いわゆるドラゴンと言った顔つきだ。

 しかし全体としては、猛禽のような印象がある。

 

 翼はワシを思わせるようなものが二対四枚。邪魔くさくないかなと思うのだけれど、折りたたんでしまうと驚くほど小さく収まるし、羽ばたく時も、風精の力で飛んでいるのか、実に優雅で滑らかに動く。

 体を覆う羽毛はちょっと驚くくらいしっとりと触り心地が良く、特に細くふわふわとした和毛など、そのままうずもれてしまいたいほどだ。

 

 鋭い爪をもつ足は、フクロウなどのように獲物を掴み、引き裂くのに適しているのだろう。そんな凶悪さを感じさせるのだけれど、ちゃっかちゃっかと爪音を立てながら、歩き回るピーちゃんはちょっとかわいい。

 最初は見慣れない私たちに警戒していたようだけれど、飼い主のマテンステロさんが引き合わせてくれると、途端に好奇心を押さえきれなくなって、二対二連の四つの目を見開いてきょろきょろと見つめてきて、ふんふんと鼻先を近づけてくるのだった。

 

 リリオが勇気を出し、トルンペートがおっかなびっくり引け腰で、恐る恐る手を出すと、くふんくふんと鼻を鳴らして匂いを嗅いで、それからべろんちょと大きな舌で舐めてくるのだった。

 そうなると後はもうなし崩しで、伸し掛かってくるわ、翼をバサバサ羽ばたかせるわと騒がしい犬っころといった具合で、リリオもトルンペートもきゃいきゃい言いながら撫でまわしたり、甘噛みされたりするのだった。

 

 出遅れた私が手持無沙汰でいると、お母さん竜であるキューちゃんが、仕方ないなという具合に寝そべったまま尻尾で私をつついてくるのだった。

 触っていいんだろうかと私が恐る恐る撫でてみると、好きにしろと言わんばかりに脱力して目をつむるのである。

 そして、仕方ないから構ってやっているという態度のくせに、私がもういいかなと離れようとすると、翼で器用に私を巻き込んでくるのだった。

 どうやら足の届きにくい翼のあいだとか、耳の裏のくぼみとかをかいてやると喜ぶようだった。

 

 私、あんまり生き物触るの得意じゃないんだけど、ここまででかいと、もはや生き物っていうか、なんかもこもこの布団みたいで、そこまで気にならない。

 それでも羽毛の下の筋肉の動きとか、生き物特有の生暖かさとか、そういうのにちょっとどきっとする。どきっとするけど、子犬とか触るときほどではない。

 犬とか猫とかって私より小さいからうっかり怪我させたらどうしようってなるけど、これ、どうあがいても怪我とかしないものな。

 

 大きな翼に挟まれながらもそもそとご奉仕させていただいていると、問答無用で飛竜臭に包まれる。

 この飛竜臭が、何とも言えず、もぞもぞする。

 干したての布団のような、ちょっと甘いような、香ばしいような、でも確かに生き物って感じの少し脂っぽいというか、獣臭さというか、それで少し線香みたいに煙たいような。

 

「うーん……なんとも言えない」

「飛竜臭、としか言えないですよね」

「悪くはない」

「なんかこう、喉元まで出てくるんだけど、それじゃないんだよなー、みたいな感じよね」

「わかる」

「私もたまに喫飛竜するものね」

「喫飛竜」

「たぶん帝国でもここでしか聞かないようなワードだ」

「でも雨の日はちょっと匂いがねー」

「あー」

「濡れるとどうしてもねー」

「あーねー」

 

 私たちはやんちゃ盛りのピーちゃんが満足するまで、本当にピーピーと甲高い声で鳴くのを聞きながら喫飛竜し、それからようやくおじいちゃんとおばあちゃん、それに預けていくボイに別れを告げて、飛び立つのだった。

 

 颯爽とキューちゃんにまたがるマテンステロさんは、普段とは違う装いだ。

 リリオ曰くの飛行服とやらだけど、マテンステロさんとおばあちゃんことメルクーロさんのお手製のもののようで、辺境の飛竜乗りたちが着ているものとはまた違うらしい。

 

 辺境の飛竜乗りたちは飛竜革のものを着るらしいけれど、南部じゃちょっと手が届かない。

 だからあの鱗持つ羊の革を使った、()()()のように上下一体となったもので、内側はもこもこの羊毛で温かそうだ。

 頭にしっかりと被った帽子も同じような造りで、耳を覆い、顎下でしっかりと結ぶようになっている。

 手袋やブーツも、飛行服とそろいのもので、隙間ができないようにぴったりと留められていた。

 

 ファンタジーだなと思わされるのは、その表面に刺された刺繍だ。

 見た目にはただ奇麗だなとしか思わないのだけれど、どうもその模様や、刺すときに流し込む魔力などがそのまま魔法となっているという。

 リリオの革鎧や、剣の柄巻きに術式を刺してもらったのと同じような技術らしい。

 リリオの場合は耐久力の向上や放電の術式だったけれど、この飛行服の場合は、保温や、風除けなどのようだ。

 

 また、口元には防毒マスクのようなものをつけ、目にはゴーグルをかけていて、これなんかはファンタジーなんだかミリタリーなんだかわかりゃしない。

 風精石(アエロ・クリスタロ)を仕込んで、酸素欠乏や気圧の変化に対応しているとか、でかい虫の抜け殻を使っているとか、素材的にはファンタジーだけれど。

 

 そんなマテンステロさんに促されて、私たちは車輪のついたコンテナと言った様相の竜車に乗り込んで、角灯の明かりの下、シートベルトらしい帯で体を固定する。

 取り付けられた伝声管で外のマテンステロさんに合図すると、少しして、車体が大きく揺さぶられ、そしてお腹の底が不安になるような浮遊感が私を襲った。

 

 事前の説明によれば、マテンステロさんの乗るキューちゃんが、がっしりと上から掴み上げて竜車を持ち上げて飛ぶらしい。

 私からすると永遠かと思うほどの間、竜車は激しく揺れた。それも規則的にではなく、右に左に、上に下に、前後に斜めに、まるで出鱈目に揺れるのである。

 

 見ればリリオはちょっと楽しそうであるし、トルンペートもいつものすまし顔だ。

 私は自分の顔がいまどんなことになっているのかはあまり考えないことにした。

 あまり愉快な想像ではなかったからだ。

 

 やがて十分に高度が取れて飛行が安定したのか、揺れはせいぜい船くらいまで落ち着いた。つまり私の致死レベルだ。

 マテンステロさんのしばらくは揺れないわよとの声が伝声管から聞こえたが、揺れてるんだよなあ。

 

 リリオは早速シートベルトを外し、元気に立ち上がる。馬鹿止めろ。揺らすな。

 トルンペートは猫みたいに静かな足取りで立ち上がり、私のベルトも外してくれた。

 

「窓開けましょうか。ちょっとは楽になりますよ」

「……開けて大丈夫なの?」

 

 飛行機程の高度を取っているのかは知らないが、少なくとも結構な高さを、かなりの速度で飛んでいるはずだ。迂闊に窓を開けていい物だろうか。

 自分でも情けなくなるような声で聞けば、窓に風精の風除けが刻まれていて、強い風は入らないし、気圧も保たれるという。

 

 その言葉の通り、スライド式の小さな窓を開けると、冷たい風が軽く吹き込むけれど、思ったよりも大人しいものだ。むしろ、その冷たさが心地いいくらいだ。

 

「魔法って便利なんだねえ」

「まあ、ちゃんとした竜車だったら、ちょっとした家が建つくらいのお金かかりますけどね」

「奥様もおばあちゃんも、自分でちょいちょいっとやれるから、こんなの気楽に造れるのよね」

 

 私もなんとかよろよろ立ち上がって、三人で顔を寄せ合うようにして窓の外を覗くと、ハヴェノの町がもうはるか眼下に遠ざかっていくのが見えた。

 青く輝く海がきらきらと日差しを反射し、緑の大地が柔らかく広がり、そして驚くほどの速さで景色が移ろっていく。

 地面の上を進んでいく旅では決して見れない光景に、私たちはしばしのあいだ目を奪われるのだった。

 

「……………」

「わあ、私たちの通った街道がもうあんなに遠くに……あれ、ウルウ、どうしました?」

「吐きそう」

 

 私たちの空の旅は最初からクライマックスだった。




用語解説

・飛竜
 二対二連の目、二対四枚の翼、二対四本の足を持つ、空を飛ぶ竜種。
 全身は羽毛に覆われ、高高度でも体温を保持し、また風の動きを敏感に把握する。
 飛行は空力もあるがもっぱら風精の操作によって成し遂げられ、翼は風精との感応・受容に用いられるのではないかと言われる。
 二対の目はそれぞれ遠近に対応しているという説がある。
 長い尾は姿勢制御の外、攻撃にも用いられる。
 メスを巡る争いや縄張り争いなどでは、極端な体格差がない場合、まず翼を広げて体を大きく見せる威嚇を行い、次いで長い尾を鞭のように鋭く振るい、より大きな破裂音をさせることで勝敗を決めるとされる。
 それでも決まらない場合、鋭い爪で掴みかかり、また噛みつくなどして争うが、意図して殺傷に至ることは少ない。
 羽毛は多くの場合茶系統、または赤く、年を経るごとに色を濃くしていく。肌の色も羽毛に準じる。
 稀に白色個体が生まれるが、大抵は虚弱で、成体になるまで育つことは少ない。
 しかし白色個体がうまく生き延びた場合、風精との親和性が非常に高い強力な個体となるとされる。

・飛竜臭
 常食する食物や生活する環境、また体調などによっても異なるが、おおむね「日向のような匂い」「くしゃみが出そうな匂い」などと称される。

・喫飛竜
 信頼関係の構築のためにも多くの時間を飛竜と過ごす飛竜乗りは、総じて飛竜臭に好意的なものが多く、精神の安定や緊張の緩和などを感じるとされる。
 相棒である飛竜との一体感を高めるためにも彼らは頻繁に接触し、人間より飛竜と接している時間の方が長いというものも少なくない。
 飛竜と離れていると不安を感じる、心細いといったものは多く、抜け羽毛などを袋に詰めて喫飛竜する習慣がある。
 部外者からはドン引きされるのが常である。

・飛行服
 航空服とも。
 種族的に空を自由に行き来できる天狗(ウルカ)たちでもなければ、空を飛ぶ、ということ自体がこの時代一般的でない。
 また天狗(ウルカ)たちであっても、道具や術の助けなくして高空を高速で移動することは難しい。
 そのため飛行服は辺境の飛竜乗りたちが飛竜に振り回されながら洗練させていった独自の装備である。
 基本的には風圧で飛ばされないよう余計な凹凸がなく、体に密着したものであり、内側は起毛で温かく、外気に触れる隙間は最低限度に抑えられている。
 耐久性が重視され、多少の動きづらさや、脱ぎ着のしづらさは仕方がないものとされる。
 そのうえで余計な重量は飛行の妨げとなるため、防具としての機能は素材と術式頼りである。

・防毒マスクのようなもの
 給気面。
 航空機乗りの用いる酸素マスクのようなもの。
 鉱山等で、窒息しない土蜘蛛(ロンガクルルロ)についていくために同様の道具を用いることがあり。
 風精石(アエロ・クリスタロ)によって安定した酸素の供給を行える。
 長期間の飛行時には、ボンベ状の器具と接続して使うこともある。

・ゴーグル
 航空眼鏡。
 高速で走り回る一部の馬などに乗る際に使われることもある。
 もっぱら大甲虫(グランダ・スカラーボ)大王甲虫(モナルコ・スカラーボ)の抜け殻、特に目の部分を用いて造られる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 鉄砲百合と空の旅

前回のあらすじ

空爆不可避。


 大叢海の遊牧国家アクチピトロを支配する、高慢にして不遜なる天狗(ウルカ)の王族たちでも、おいそれとは翼の届かない空の高みを、竜車は往く。

 

 手を伸ばせば雲は手にも触れられそうで、頭上を仰げば日差しが髪にも触れそうで、見下ろせば人の住む世がはるかに遠く、小さく広がっている。

 辺境貴族や、選りすぐりの飛竜乗りたちでもなければ見られない光景を、あたしたちはしばしのあいだ独占したのだった。

 

 リリオは久しぶりの竜車に目を輝かせ、あたしも職人謹製のものとは違う手作り感あふれる車体に感心し、そしてウルウはどこまでも広がる大空にきらめく乙女心をふりまき、ひとしきり空の旅というものを満喫した。

 

 それが飛び立って十分かそこらくらいの話。

 

 景色がいいとは言っても、人里から離れてるから山か森か平地しか見えないし、それも見慣れてくるし、見飽きてくるし、窓は小さくて狭いし、まじないがかけてあるとは言っても開けっぱなしでは冷えるし、いつまでもぼけらったと景色を眺めていられるほど枯れていないあたしたちは、誰か言い出すでもなく自然と窓を閉ざしてしまった。

 

 窓を閉めてしまえば、竜車だなんだとは言っても所詮はただの箱だ。

 しかも装飾も何もない簡素なものだ。

 角灯に仕込まれた火精晶(ファヰロクリスタロ)がちろちろと投げかけてくるぼんやりとした明かりの下で、あたしたちは早々に暇を持て余していた。

 

 馬車なら交代で御者を代わって、いくらかの暇つぶしにもなったけれど、なにしろ飛竜を乗りこなせるのは奥様だけだ。

 朝から夕までぶっ通しで飛竜を駆り、冷たい空気に身をさらしている奥様の負担を考えると、お客様然としてこうして暇を持て余しているというのもなんだか申し訳ない気もする。ましてやその暇にぶーたれて悪態をつくというのはますます持って問題よね。

 

 奥様は飛竜に乗るのは楽しいし、飽きないと仰ってくださるし、実際伝声管越しに調子っぱずれの鼻歌が聞こえてきたりと、余裕は余裕そうだし、楽しそうは楽しそうだ。

 航路も飛行計画も余裕をもって立てているから、気にしないでいい、そのかわり野営の準備は全部任せるわ、と奥様は笑うけれど、どうも、こんなに楽をしていると旅をさせていただいているという感じがして、落ち着かない。

 

 でも、暇なものは暇なのよね。

 何と言おうと、退屈を感じる心はごまかせない。

 

 ここでがっつり睡眠時間を稼いで、野営の見張りをがんばるというのも考えないではないけれど、そもそも飛竜が寝そべってる野営地に、どんな馬鹿が近づこうというのだろうか。

 火の持ちのいい鉄暖炉(ストーヴォ)もあるので、焚火の火を絶やさないように、なんてことも必要ない。

 

「あたしたち、こんな快適で怠惰な旅して、いままで通りの旅に戻れるのかしら」

「真顔で悩んでるところ申し訳ないんですけど、毎日お風呂入って、毎日新鮮な材料でご飯作って、夜は謎の魔除け頼りで見張りも立てず、ふわふわのお布団で三人仲良く惰眠をむさぼってる辺り、私たちいままでも大概快適で怠惰な旅してますからね」

「よりによってリリオに言われるとは」

「さらに言えば、ヴォーストで乙種魔獣狩りで荒稼ぎしたのでしばらくお金にも困りません」

「何気にお金持ちなのよね、あたしたち」

「稼ぐ割に使わないしねえ、意外と」

 

 冒険屋ってのは、普通はお金があんまりたまらない。

 仕事道具である武器や防具ってのは使えば使うほどすり減るし、時には壊れてしまったりもする。

 使い捨ての道具なんかも多いし、仕事前に神殿で術をかけてもらったりしたらそれも少なくない出費だ。

 依頼を達成するために必要なものを買い集めて、現場で道具を壊したり怪我をしたり、なんだかんだで結局、本末転倒なことに足が出たりする。

 それもまだ依頼を達成できているからましな方で、頑張って準備して、あれこれ苦労して、結局失敗したら、依頼料は入らない。大赤字だ。

 無事成功したって、大喜びで打ち上げなんかしてたら、手元に残るのはほんのちょっぴりだ。

 

 無所属で冒険屋やるって言うのは、それらを全部自分で抱えて対応しないといけないっていうことだ。世間一般で言うところの、「金で雇えるごろつき」っていう冒険屋の印象が、それを物語ってる。

 

 事務所に所属してる連中は、仕事も回してもらえるし、住処だってあるし、怪我した時は面倒見てくれたりもするから、ずっとましになる。その分、事務所に払うお金もあるから、まるっきり楽になるってわけでもないけど。

 

 活躍している冒険屋ばかり見ていると見落としがちなことだけれど、事実として、冒険屋なんて言うのはやくざな商売で、真っ当な仕事じゃあないのだ。

 

 あたしたちの場合は、ちょっと特殊だ。

 

 腕がいいっていう、まあそれだけで一財産かけて育て上げなければならない条件を、あたしたちは冒険屋になる前から持ち合わせていた。だから怪我もしないし、大抵の仕事は労せずこなせる。

 怪我もしなければ疲れもしないから、そんなに休みを入れないでも仕事を続けられるから、お金も次から次に入ってくる。

 

 それから装備だって上等なものだ。あたしは結構安物使ってるけど、リリオのものは、飛竜革の鎧に、大具足裾払(アルマアラネオ)の剣なんて言う、まずもって壊れることもすり減ることもない代物だ。買い替える必要なんてないし、手入れもそこまで気にしなくていい。

 ウルウの装備も、どんな代物かよくわからないけれど、大して手入れもしていないようなのに、ずっと使っていられるようだから、大したものだ。

 

 お金を使わなくて済むって言うのは、基本的にあらゆるものを擦り減らしながら走り続ける冒険屋にとって、理想的な状況だ。

 

 それに加えて、あたしたちは最初はともかく、こなれてきてからはもっぱら乙種魔獣の討伐を重ねてきた。

 これが、稼ぎがいいのだ。

 護衛とかみたいに拘束時間が決まってるわけでもないから、手際さえよければ短い時間でさっさと終わらせられる。つまり時間当たりのお賃金が、いい。

 討伐数が決まっていなければ、狩れば狩っただけお金になるし、狩った魔獣の素材をさばけば、依頼とは別にお金が入る。

 

 正直、辺境で魔獣の相手をしてきたリリオやあたしにとっちゃ、北部の魔獣はそこそこ歯応えがあるなっていう程度で、しっかり準備をすればまず負けることなんてない。

 でも普通の冒険屋にとっては割に苦労する手合いだから、競争相手が少ないので気兼ねなくやれるから、いい仕事だ。

 まあ、少ないって言うだけで、単一の魔獣の専門家とかみたいな熟練の冒険屋は、あたしたちより腕も手際もいいから、すっかりあたしたちで独占ってわけにはいかないけれど。

 

 打ち上げに関しては、ウルウはともかくリリオもあたしも結構盛大にはしゃぐし、そうでなくても普段からよく飲みよく食べるので、これが支出としては結構大きい。

 大きいけれど、圧迫してくるほどではない。

 買ってきた魔獣を食材として消費することも多いし、店で食べるばかりじゃなくてあたしが調理することが多いからそこまで高くつかない。

 

 そんな具合に、入ってくるお金が多くて、出ていくお金が少ない、という当たり前のことで当たり前にあたしたちの財布は肥え太っていたのだ、いつの間にか。

 あんまり実感はないけど。

 

「ほとんどパーティとして資金管理してるから、自分のお金っていう感覚がないのかしらね」

「かもしれませんねえ」

「経済は回していかないと腐っていくだけだから、ちょこちょこ使っていかないとね」

「そう言う意味ではウルウが一番お金使うわよね」

「単価が高いだけで、頻繁ではないかな。リリオの財布は緩いんじゃない?」

「まあ、ご当地ご飯は大抵買い食いしてますけど」

「ご飯とか、あとに残らないものくらいしか買わないわよねえ」

「記念品とか集めてみる?」

「まあ悪くないけど………しまうの、あんたの《自在蔵(ポスタープロ)》よ?」

「思い出は荷物にならない」

「これだから馬鹿容量持ちは」

 

 あたしたちはそんな風にうだうだとよもやま話を繰り広げ、そして口元がにぎやかになった分、寂しくなった手元をトランプで埋めることにした。

 

 お金のことが話題に上がったので、じゃらじゃらと邪魔っけな三角貨(トリアン)を掛け金にして、ポーカーで遊ぶことにした。

 トランプもポーカーも帝都から広まった遊びで、ヴォーストでも大抵の酒場で札を広げる姿が見られたものだ。

 辺境ではさすがにまだそんなに一般的ではないけれど、貴族の間では新しい遊戯として知られていて、あたしもリリオの遊び相手として覚えさせられたものだ。

 

 やり方は、地方や人々によって違うけれど、あたしたちはいつも《三輪百合(トリ・リリオイ)》流のやり方でやっていた。

 つまり、五枚の手札をやりくりして、強い役を作る。一番強い役のものが勝つ。親は勝ち負けに関係なく順繰りで。ジョーカーは入れない。

 ざっくりこんな感じ。

 

 あんまり常識と親しくないところのあるウルウは、意外にもこの遊びを知っていた。

 最初は何か奇妙なものでも見るような目で札を何度も検めていたものだけれど、やり方を突き合わせてみれば、すぐに飲み込んでしまった。

 あたしが知っているよりもずっと多くのやり方を知っているみたいだったけれど、実際に遊んだことはそんなにないようだった。

 「遊ぶ相手がいたように見える?」というのが冗談だったのか本気だったのか、いまいち判断しかねて乾いた笑いしか出なかったのも懐かしい思い出だ。

 

 ウルウはそんな具合で、そこまで慣れてはいない。

 リリオはちょくちょく遊んではいたけれど、やる相手がもっぱらティグロ様かあたしかくらいだったので、経験は言うほどじゃない。

 貴族のお嬢様の遊び相手として、接待も含めて徹底的に叩きこまれたあたしは、一番の熟練と言ってよかった。相手を勝たせる方法を知っているのだから、当然自分が勝つ手技も仕込まれている。

 

 だから根が正直で顔に出やすく、ついでに言うと掛け金も吊り上げ気味なリリオなんかはいいカモで、接待なんか気にしないでいいこういう場では、いくらでもむしり取れる。

 もちろん、あんまり露骨にやると疑われるし、すぐに飽きてやめてしまうので、ほどほどに勝って、ほどほどに負けて、最終的にほどほどの儲けを出すのがうまいやり方だ。

 

 なのでリリオ相手であればいくらでも転がしてやることができるのだけれど、ウルウときたら、これが問題だった。

 最初の内こそ、まあ運がいいやつだなと思っていたのだけれど、さすがに三回連続手札交換なしでむちゃんこ強い役(ロイヤルフラッシュ)を繰り出してきた時は思わず真顔になったものだ。

 

 毎度毎度という訳ではないのだけれど、ここぞというときに必ずいい役を拾ってくるので、リリオみたいに手ひどく負けるということがない。

 何が何でも勝つというタイプではないので、ほどほどにしか勝たないけれど、逆に言えばそのほどほどが崩れることがない。

 あたしが仕込みを入れてなんとか負かそうとしたときに限って、リリオが調子に乗ってかけるのを尻目にさっさと降りてしまうのである。

 

「……あんたがむやみやたらに運がいいのは知ってるつもりだけど」

「そうかなあ」

「ロイヤルフラッシュが三人被るってある?」

「私、はじめてのロイヤルフラッシュが引き分けなんですけど……」

 

 あたしたち三人が場に出した手札は、そろって最上位の手役が出来上がっていた。

 あたしがロイヤルフラッシュなのは積み込んだからだ。

 リリオがロイヤルフラッシュなのも積み込んだからだ。

 でもウルウには役なし(ハイカード)になるように積み込んだはずだ。

 二人もロイヤルフラッシュをそろえて、手札がハイカードから、勝てるはずがない。

 

 なのにこいつ、手札全交換して一発でそろえてきやがった。

 

 そもそもロイヤルフラッシュなんて手役、自然にそろうものではない。

 散々仕込まれたあたしだって、なにも仕込みを入れずにロイヤルフラッシュがそろったことなんて、ありゃしない。一発で引くなんてのは、どうかしている。

 

 素直にすごいですねえと感動しているリリオを尻目に、あたしは乾いた笑いしか出てこなかった。

 

「六十四万九千七百四十分の一」

「……一応聞いとく。なにが?」

「ロイヤルフラッシュ引く確率」

 

 めまいがする。

 それを三人分って、どれくらいの確立なんだろう。

 いや、あたしとリリオの分はあたしが揃えたんだし、その二人分のロイヤルフラッシュを抜いたところから揃えてきたんだから、確率はもうちょっと変わってくるんだろうけれど、

 なんにしたって、ちょっと幸運に恵まれ過ぎている。

 

「いかさましてないわよね?」

「やり方知らないんだよね。トルンペートがしてるのは何となくわかるんだけど。教えてくれない?」

「手が付けられなくなるじゃない」

「………あれっ、トルンペートいかさましてたんですか!?」

「盛り上げる程度にしかしてないわよ」

「その割にはいつも私のお財布がさみしくなるんですけど……」

「その分あたしの財布が膨らんでるから不自然じゃないわ」

「そう、です、か……うん? あれ?」

 

 うんうんと首をひねっているリリオはさておいて、こうまで運といかさまで左右される遊びでは、三人が三人とも平等に楽しめるとは言い難いだろう。

 とはいえ、トランプを使うものは運が絡むものが多い。

 記憶力も絡んでくるから、とにかくウルウを相手にすると勝率が駄々下がりする。

 楽しめると言えば楽しめるけれど、リリオが不憫でならない。いかさまは止めないけど。

 

 なんかこう、運もいかさまもないような遊びはないかしら。

 帝国将棋(シャーコ)も冬場の暇つぶしとして、辺境でもよく遊ばれていたものだけど、なにしろかさばるから持ってきてないし、ヴォーストでも買わなかったのよね。

 あれなら純粋に腕前での勝負になるし、駒落ちでやればあたしもいかさまなしでうまいこと加減ができる。

 

 とはいえ、ないものは仕方がない。

 なんかないかしらねえとあたしたちがうなだれると、ウルウも手持ち無沙汰に呟いた。

 

「あっち向いてホイでもしようか」

 

 何気ない呟きがあんなことになるなんて、その時あたしたちは思ってもいなかったのだった。




用語解説

・ポーカー
 近年、トランプとともに帝都から発信された札遊びの一種。
 ローカルルールなど細かな差異はあるが、大まかなルールは同じで、基本的に我々の知るポーカーと同様のものであるとみてよい。
 トランプと言い、誰かが持ち込んだようでさえある。
 最近では酒場などで専門のディーラーとして立ち、稼いでいる者たちもいるという。
 流行の品であり、熟練のものは見た目も洗練され、巷ではモテるとかなんとか。
 『お前なんだか、トランプとか武器にして戦いそうな顔だよな(笑)』などと煽ると危険なのでお勧めしない。

帝国将棋(シャーコ)(ŝako)
 おおむねチェスのようなゲーム。
 盤のマス目の数や、駒の種類など、地方によってさまざまな種類があり、統一されていない。
 また、駒の役目が同じでも、形や名称が違うということもある。
 例えばナイトに当たる跳馬(チェヴァーロ)の駒は、帝都ではいわゆる「ウマ」の形だが、西部ではより身近な騎獣である大嘴鶏(ココチェヴァーロ)を模した駒である。
 帝都では各地の盤を揃えた店があり、代表的な複数の帝国将棋(シャーコ)がプレイできるようにマス目や駒を変えられる特殊な盤なども扱っているという。
 愛好家は他地方の盤を集めていたりしていて、ご当地産業にもなっているようだ。
 変わったものとしては、三人でプレイできるもの、自分の使用する駒を、複数種類の中から自由にに選んで並べることができるもの、実際の地形をかたどったものなどがある。

・あっち向いてホイ
 じゃんけんから派生する遊び。
 まずじゃんけんで勝敗を決める。
 「あっち向いてホイ!」の掛け声とともに、じゃんけんの勝者は上下左右のいずれかを指さす。じゃんけんの敗者は掛け声とともに顔を上下左右のいずれかに向ける。
 指をさした方向と顔を向けた方向が一致すれば指さした側の勝利。
 方向が一致しなければ再びじゃんけんからやり直す。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と螻蛄猪鍋

前回のあらすじ

いかさまと業運にはさまれてカモにされるリリオ。
運の絡まないゲームとして提案されたのは。


 ともすれば不遜さの乗りそうな鼻っ柱がひくりとうごめきました。

 勝気な釣り目が大きく見開かれて、まるで飛び掛かる寸前の猫のように張りつめています。

 朽葉色の瞳はいま、火精晶(ファヰロクリスタロ)の灯りを照り返して、時に黄色く、時に赤く、奇妙に揺らぎながら、私の一挙手一投足を睨みつけるように見張っているのでした。

 

 こんなに、ああ、こんなにも強い視線を向けられるのはいつ振りのことでしょうか。

 血に飢えた魔獣たちも、潜み狙う盗賊たちも、命を切り結ぶ相手を求めて放浪する武芸者たちでさえも、こうまでも強い目を見せたことはなかったでしょう。

 

 恐れ知らずの武装女中とはいえ、小柄で、華奢で、愛らしくさえあるトルンペートの小作りな顔からは、いまや青ざめたように血の気が引いていて、形の良い耳ばかりが火照ったように赤く染まっていました。

 集中している。

 針先のようにピンと張り詰めた意識が、私に、私の指先に全霊をもって集中している。

 

 そのことがなんだか、私に不思議な高揚と、奇妙な興奮とを覚えさせるのでした。

 

 全霊に対して、私も全霊でもって応える。

 そのことがどれほど心地よく私をたかぶらせてくれることでしょうか!

 

「あっち――」

 

 ちり、とかすかに揺らがせた指先に、トルンペートのまつ毛がかすかに揺れ動きます。

 凍り付いたように微動だにしない手足と裏腹に、首から上はいまにも弾けそうなほどに(リキ)が込められているのが窺えました。

 わずかに開かれた唇の下に、大きめの犬歯がちろりと顔を覗かせているのが、期を窺う猟犬を思わせます。

 

「向いて――」

 

 私は指先からすっかり力を抜いて、だらりと脱力させていました。

 必要なのは、その瞬間まで力の方向性を悟らせない、極限の脱力。

 そして、脱力から瞬時に立ち上がる、手首のしなやかさと切れ味。

 

 事ここに至っては、もはや小手先の揺さぶりは無粋。

 一瞬。

 ただ一瞬の攻防にこそすべてがある。

 

 すべてを、この、一瞬に――

 

「――ホイ!」

 

 刹那、私の指先は、蛇の躍りかかるようにしなやかに、そして容赦なく、視線ごと首を引きずり回す思いでもって、左へと振りぬかれました。

 

 トルンペートの瞳が、須臾に切り裂かれ刹那に刻まれた時間の中、私の指先を追いかける。

 人に残された獣の神経が瞬時に発火し、食らいつき、追いすがり、しかして人の築き上げた理性がそれを押し留める。

 ぎりりと音を立てて奥歯が噛み締められ、ぎゅうと顎の筋肉が隆起する。

 無意識が指先を追いかけようとすることを、意識の手綱が強引に押さえつけ、すでに動き出してしまっていた筋肉を、また別の筋肉が押さえ込む。

 

 おのれの力でおのれの首を断つがごとき筋肉の相争う悲鳴が音もなく響き、その鼻先は私の指を離れ、さかしまの方向へと向けられたのでした。

 

 振り抜かれた勢いのままに汗が飛び、ぱたぱたと音を立てて床に散りました。

 

「……やりますね」

「この程度……なのかしら?」

「へえ……まだ、強がれますか」

「慣れてきたのよ、いい加減……次で決めるわ」

「見せてあげようじゃあないですか……“格”の“違い”ってものを……!」

「ええ、そうね……あたしが“上”で、あんたが“下”ってことをね……!」

(ウヌ)!」

(ドゥ)

(トリ)!」

『そろそろ降りるわよー』

「アッハイ」

 

 拳を振り上げ、さあ(エーク)の合図で振り下ろそうとしていた私たちは、伝声管から気の抜けた声を響かせるお母様によって、最高に盛り上がった瞬間に奇麗に水を差されたのでした。

 えー、もうちょっと遊んでたいよー、といった気分ですが、竜車を操作してくれているお母様に文句など言えようはずもありません。

 そもそも力んだところで間を外されてしまって、変に気勢をそがれてしまったので、もう一回あのノリをと言われても難しいです。

 

 手ぬぐいで汗をぬぐい、途中で暑くなって脱ぎ捨てた上着を拾い上げて着込み、もそもそと固定用の帯を結びます。

 そうして一息ついてから顔を合わせると、さっきまでなんであんなに単純な遊びであんなに盛り上がっていたんだろうと、妙に冷静な気持ちになってしまって、なんだか妙に気まずくなって視線をそらし合うのでした。

 

 最初は、遊び方を教えてくれたウルウも混じって、三人で回していたのですけれど、私とトルンペートが盛り上がるにつれてウルウはそのノリについていけなくなり、また一時は落ち着いていた乙女塊大海嘯が再び込み上げてきたので、固定帯を結んで毛布にくるまってしまいました。

 

 そうして止める人もいなくなった私たちはどこまでも高みに上っていってしまったわけです。

 恐るべしあっち向いてホイ。

 いや、だって絶対指の方見ちゃうじゃないですか。それをこらえて他所向かなきゃいけないんですよ。それをわかったうえで指先で誘導して、振り切る前にくいっと翻して騙したり、それさえも見越して視線と顔の動きとを逆にして見たり、いや、本当に面白いんですよこれ。

 

 ともあれ。

 

 私たちの火照った体が落ち着いてくるころには、竜車はがたがたと大きく揺れながら高度を下げていき、ウルウの魂の抜けるような細い悲鳴を背景に、ひときわ大きく揺れて着地したのでした。

 

 竜車は半日ほど飛んだ先の、森の傍の開けた野原に降り立ちました。

 半日ほどとはいえ、なにしろ飛竜の翼で翔けた半日です。ハヴェノからはすでに遠く離れ、南部は南部でも東部よりの内陸地まで辿り着いていました。

 

「そうねえ。この辺りはツィンドロ子爵領に入るのかしら」

「ということは、あの山が噂に名高いアミラニ火山ですかね」

 

 いくらか先に峰高くそびえる、山頂付近に雪を冠するアミラニ山は、人族が町をつくるには適しませんが、土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちにとっては鉱物が豊富で熱源も得られる良好な鍛冶場です。

 神話の頃より土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちはこの古く偉大な火山を掘り、町を作り、鉄を打ってきたそうで、古代聖王国時代に多く打ち壊された芸術的土蜘蛛(ロンガクルルロ)様式の建築物も現存している、歴史的にも文化的にも、そして観光地としても名高い土地です。

 

 帝国が古代聖王国の残党を狩り出し、東大陸を統一するにあたって、多くの武具がこのアミラニ山から供出されました。

 その功績をたたえて長たる土蜘蛛(ロンガクルルロ)がヴルカノ伯爵として取り上げられ、現在もその権力と影響力は帝都にまで響くものです。

 

 広大で肥沃な農地を支配するツィンドロ子爵も、質の良い鉄の農具と舞い振る火山灰の恩恵を強く受けており、この古き鍛冶師の末裔を寄り親と仰いでいるとのことです。

 

 しかし、確かに遠くまで気はしましたけれど、日はまだいくらか高く、飛ぼうと思えばまだ飛べそうではあります。

 

「まあ飛べなくはないわよ。でも、飛竜に乗るのもそれなりに疲れるし、竜車に乗りっぱなしもしんどいでしょ?」

「はい」

「ウルウのここまで力強い肯定そうそうないわよね」

 

 それに、暗くなってくると空から着陸可能な場所を見つけるのは難しく、ちょうどよく開けた場所を見つけたら早めであっても切り上げる、とのことでした。なるほど、空の旅は空の旅で、何事も都合よくいくという訳ではないようです。

 

 飛竜鞍を外し、好奇心に負けてうろつこうとするピーちゃんを軽くたたいて窘めてから、じゃああと任せたわ、と残して、お母様はキューちゃんの暖かくも柔らかい背中に寝そべって、すぐにも高いびきを立て始めました。

 どこでもいつでも体を休められるというのは、旅する冒険屋としては素晴らしい素質です。

 

 任されました、ということで、私たちは早速野営の準備に取り掛かりました。

 まあ野営と言っても、頑丈で鉄暖炉(ストーヴォ)もある竜車のおかげで、やることは大してありません。

 なんて素晴らしきかな竜車、と一瞬思いましたけれど、考えてみれば普段からそんなに変わらない気もします。焜炉付きの幌馬車に、見張りにもなるボイちゃん。それに魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕のおかげで、普段から楽してます。

 

 いつもと変わりませんね、ということで、私たちは普段通りを心がけて、作業を分担しました。

 つまり、力自慢の私は薪拾いに荷物持ち。勘が鋭く遠間の攻撃が得意なトルンペートが狩り。そしてウルウは収穫が多い時の《自在蔵(ポスタープロ)》係です。

 

 ぶっちゃけ仕事だけ考えるとウルウには留守番していてもらっても構わないのですけれど、新しい土地の新しい風物を見て回りたいというのもウルウの旅の目的ですし、何より、寝ているとはいえ、寝ているからこそ、旅仲間の母親という親しい訳でもなくかといって無関係という訳でもない微妙な相手と二人きりにさせるのは申し訳なかったのです。

 

 昼寝して無防備なお母様を置いていくのも、というのは余計なお世話でしょう。

 高いびきをかいてぐっすり眠っているようには見えますけれど、あれで熟練の冒険屋ですから、誰か近づけばすぐに目覚めるでしょうし、なんなら射程ギリギリから矢を射っても止められそうな気がします。

 それに、頂点捕食者と言っていい飛竜のキューちゃんとピーちゃんがいる訳ですし、あれをどうにかするのは地竜の突進でもないと無理でしょう。

 

 それでもあんまり時間をかけてはすっかり暗くなってしまいますし、何より私のお腹も空いてきていますので、あまり高望みをせずに、さっと捕まえられるあたりを仕留めていきます。

 

 木もまばらで土中に根が蔓延っていないあたりでは、こうした土に潜り込むように掘り進め、草木の根や虫の類を食べる螻蛄猪(タルパプロ)が良く見つかります。北部でも見かけますけれど、土に霜が降り、硬く冷たくなる冬は南下するとも聞きます。

 体は猪にしては小柄ですけれど、上向きに生えた幅広で頑丈な牙と、鋤のように発達した前足のひづめで結構な速度で土を掘り起こし、ずんずんと進んでいく様はいかにも猪と言った感じです。

 

 ただ、割と浅い所を潜るので地表が盛り上がってしまって居場所がわかりやすいですね。またほとんど目が見えず、地上を歩く速度もあまり速くないので、結構いい的です。

 

 それでも、うっかり螻蛄猪(タルパプロ)の真上を踏み抜いてしまったりすると、恐ろしい力強さで杭のような牙が打ち上げてきて、時には死者が出ることもある生き物です。

 

 私たちは森に入って早速この螻蛄猪(タルパプロ)の道を見つけ、掘り進んでいる真っ最中のところに深々と剣を突きさし、うまく仕留められました。

 土越しに一撃で仕留める自信がない場合は、斜め後ろからそっと土を掘り返してやり、逃げようと頭を土に突っ込んでいる間に槍などで仕留めるとよいでしょう。

 

 一方で少々見つけにくく、そろそろ帰ろうかなと言うときに運よく茂みの中に見つけられたのが、狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)でした。

 これは兎や鶏くらいの大きさで、赤褐色の羽毛と、横縞模様の幅広な尾羽を持つ、草原やまばらな林に住む羽獣です。

 木の上ではなく、茂みの中や地面のくぼみに巣をつくり、茂みをくぐるように低く飛び回るので、地味な体色もあってなかなか捉えづらいところがありますね。

 

 私は見落としそうになり、トルンペートも気配を探ってはいましたが、見つけたのはウルウでした。

 生き物のいのちの気配を探るとかいう、技術ではなくある種のまじないで、茂みの中に隠れた狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)の位置を正確に探り当て、そこをトルンペートが短刀をひょうと投げて仕留めたのでした。

 茂みにかたまって潜んでいた何羽かの狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)が素早く飛び上がって逃げようとしましたが、そこをまた短刀が鋭く狙ってもう一羽が得られました。

 飛び立つ姿を眺めて、肉付きのよさそうなものを狙う余裕振りです。

 

 どちらもすぐにしめて、雷精を心臓に流して血抜きし、きりりと冷たい雪解け水の水精晶(アクヴォクリスタロ)水で流し、しっかり冷やしました。

 以前はこうした作業が苦手だったウルウも、最近は少し慣れてきたのか、直接手掛けるのはまだ難しいようですけれど、お手伝いくらいはできるようになってきました。

 

 茸や山菜、香草の類、そして薪を採りながら野営地に戻ると、お母様がぱっちりと目を覚まして迎えてくれました。

 飛竜のキューちゃんはどっしりと腰を落ち着けたままで、きょろきょろと辺りを見回し、ふんふんと鼻を鳴らして落ち着かないピーちゃんが飛び回らないよう、見張っているようでした。

 

 狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)は明日の朝食用にしまい込み、螻蛄猪(タルパプロ)を今夜の夕餉として胡桃味噌(ヌクソ・パースト)の鍋に仕上げることにしました。

 

 三人がかりで手早く解体し、毛を焼き、改めて水で血を洗ったバラ肉を大きめの塊にしてから、大鍋に香草と酒、それに少しの塩を加えて、水から茹でていきます。

 本当はしばらく酒と香草で漬け込んでおきたいんですけれど、もっと言えば何日か寝かせた方が美味しいんですけれど、贅沢は言えません。

 余った分を食糧庫の方の竜車にしまって寝かせることにしましょう。

 

「あなたたち、いつもそんな大鍋持ち歩いてるの?」

「欠食児童が二人もいるんで」

「馬鹿容量の《自在蔵(ポスタープロ)》持ちがいるんで」

「防具にもなるので」

「さては馬鹿なのねあなたたち」

 

 灰汁を取りながらじっくりと茹で上げ、すっかり柔らかくなったら茹でこぼし、ごろっとした大きさに切り分けます。これと根菜類、香草を、酒、胡桃味噌(ヌクソ・パースト)などを溶いた大鍋で煮込み、最後に葱や葉物を加えてもう一煮立ちさせて、いただきます。

 

 薄切りの猪肉を使った鍋も美味しいですけれど、ごろっと塊に切ったバラ肉はなかなかに食いでがあってたまりません。もう少ししっかりと味をしみこませるには時間がかかるので、野営には向きませんけれど、鍋の汁自体をちょっと濃い目にしてやって、うまく味を乗せてやります。

 

 ウルウは濃い目の味付けがちょっと苦手ですけれど、なんだかんだ体を使う冒険屋の私たちには塩気が嬉しい限りです。そしてその、ともすればべったりとしそうな濃い目の味付けの中にも、ウルウが見つけて摘んできた葉物が、独特の香りを立てて、味に膨らみをもたらしてくれています。

 

 葉物というか、私は食べ物として見たことなかったというか、もう本当に、そこら辺の適当な葉っぱという感じだったんですけれど、ウルウに言われるままに食べてみたら、これが美味しいんですよ。

 ちょっとほろ苦さがあって、でも独特の爽やかな香りが食欲を掻き立てるのでした。

 

 ウルウによれば、恐らく菊の仲間である花の葉であるとのことでした。

 ウルウがシュンギクと呼び、お母様が王冠菊(クローノ・レカンテト)と呼んだこの葉物は、いままで見向きもしなかったことがなんとももったいなく感じられるほどの味わいでした。

 春には可愛らしくも美しい花を咲かせるとのことで、花としては見られても食用としては見られていなかったのですね。

 

 私たちは大鍋にたっぷりの猪鍋に舌鼓を打ち、お腹をすかせた二頭の飛竜には、取り出したばかりの螻蛄猪(タルパプロ)の内臓をはじめとした餌を与えました。体の大きさに見合って、結構な量を平らげていく様はなかなか見ていて気持ちのいいものがあります。

 

 ウルウも感心したように二頭の食事風景を観察していました。

 ウルウって、生き物苦手なのに生き物の観察するの好きなんですよね。一番観察してる生き物は私です。いいでしょう。

 

 そうしてご飯が済んだら、普通の冒険屋であれば見張りを立ててお休みですけれど、なにしろ私たちは現役冒険屋からもおかしいと言われている《三輪百合(トリ・リリオイ)》です。

 ウルウが黙々と金属製の例の湯船を準備し始めると、お母様がおかしそうに笑い始めました。

 

「お風呂?」

「ええ、お風呂です」

「さてはあなたたち、とびっきりの馬鹿ね?」

「不本意なことによく言われます」

 

 私とお母様、ウルウとトルンペートに分かれてお風呂を頂き、ハヴェノで購入した香り付きの新しい石鹸で体を磨き上げ、気分も体もすっきりです。

 以前は石鹸と言えば一番安い、香りも何もないものをちびりちびりと使っていたものですけれど、潔癖なくらい奇麗好きなウルウが惜しまず使い、切らさず仕入れしているうちにだんだん感覚が麻痺してきて、いまでは精油で香り付けしたものや、可愛らしく成形されたものなどをいろいろ比べていて、三者三様にお気に入りができたりしています。

 

 風呂の神殿ではこういった変わり石鹸を必ず取り扱っていて、定番のもののほか、地方特有の品もあって、旅の中でいろいろ試してみるのも楽しいものです。

 

 そして湯上りには、ウルウ特性の()()()を髪に馴染ませて、石鹸できしきしごわついてしまっていた髪を整えてやります。

 最初は柑橘の汁を湯で薄めたものを使っていたのですけれど、出歩いているうちに痒くなったりすることがあったので、ウルウが改良したこのりんすなるものを私たちは使っています。

 林檎酢(ポムヴィナーグロ)葡萄酢(ヴィノヴィナーグロ)に香草や精油などを加えたもので、使用するときはお湯で薄めて使います。

 割と簡単に作れるので、最近は土地土地でお値段や名産を勘案して、三人であれやこれや好みに合わせて自分用のものを作っています。

 

 今日はお母様には私と同じものを使っていただき、同じ香りをまとうことにしました。

 なんだかちょっと、くすぐったいみたいな、不思議な気持ちです。

 

 お風呂を済ませて、念のためにウルウの魔除けの匂い袋をしかけて、お休みの時間です。

 いつものように竜車にウルウのお布団を敷きましたけれど、さすがのウルウの不思議なお布団もお母様も含めた四人で潜り込めるほどの広さはありません。

 

 これは仕方がありません。

 魔法のお布団にはちょっと詰めてもらって、毛布を分厚く敷いてもう一つ寝床を作り、二人二人に分かれて眠ることにしましょう。

 

 ウルウは寝床変わると寝付けないたちですし、トルンペートはお母様と一緒だと緊張するでしょうから、ウルウとトルンペート、私とお母様に分かれることにしましょう。

 仕方がありません。

 これは仕方がありませんね。

 なのでにやにやとこっちを見てる二人は覚えていなさい。

 

「ねえ、私寝るときにまで突っ込まなきゃいけないの?」

「え?」

「なんです?」

「《自在蔵(ポスタープロ)》に羽毛布団突っ込んでるの?」

「あー」

「完全に忘れてました、そう言う感覚」

「ねー」

「私が呆れるって、本当に、相当よ、あなたたち」

 

 伝説の冒険屋は、そうして苦笑いするのでした。




用語解説

・ツィンドロ子爵(cindro)
 南部の内陸に広がるツィンドロ子爵領は、平地が続く土地で、広大な農地を保有する。
 アミラニ火山の噴火によって形成された、平らで、柔らかく、水はけのよい地質で、地下水が豊富。空気を含むことで保温性も高い。やや痩せ気味ではあるが、長年の間に研究された肥料の効果が出やすいとも言える。
 西大陸から渡ってきた柑橘類を古くから育てており、特に、島国から伝来した、皮が薄くて剥きやすく、小さいが甘みの強い、種もなく食べやすい蜜柑(モルオランヂョ)(moloranĝo)が帝都で人気となり、生産を拡大している。

・アミラニ火山(Amirani)
 南部ヴルカノ伯爵領の大部分を占める活火山。
 古来から土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちが住み着き、開発してきた火山。
 活火山ではあるが、土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちがほぼ完全に管理しており、最後に噴火に至ったのは百年単位で昔のことである。

・ヴルカノ伯爵(vulkano)
 アミラニ火山及びその周囲のいくばくかの土地を所領とする伯爵。土蜘蛛(ロンガクルルロ)。血統の古さ、領民からの信頼、技術力、経済力など周辺への影響力は強い。

・魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕
 ゲームアイテム。それぞれ以前登場した《魔除けのポプリ》、《宵闇のテント》のこと。

螻蛄猪(タルパプロ)
 蟲獣。半地中棲。大きく発達した前肢と顎とで地面を掘り進む。が、割と浅いところを掘るのですぐにわかる。土中の虫やみみず、また木の根などを食べる。地上では目が見えず動きが遅いのでよく捕まる。

狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)(lavurso koturno)
 羽獣。茂みや地面のくぼみなどに巣をつくる。赤褐色の羽根色。雑食性で幅広く何でも食べ、時には蛇なども捕食する。農作物への食害もある。
 駆除以外では、毛皮目的の狩猟が多く、また丁寧にした処理した肉は美味であり、食用にもされる。
 冬季は動きが鈍り、気温の低い北部などでは冬眠することもある。

王冠菊(クローノ・レカンテト)(Krono lekanteto)
 キク科シュンギク属。シュンギク。
 奇麗な黄色い花を咲かせる菊の仲間。外側が白くなっているものもある。
 帝国では観賞用としてされているが、無毒で、葉は独特の香りとほろ苦さがあり、食用に耐えうる。

・りんす
 閠がこの世界に来た当初は、石鹸でアルカリ性に傾いた髪を、柑橘類の絞り汁を湯で薄めたもので酸性に傾けることでリンスとしていた。
 しかし光毒性と言う、紫外線に当たると皮膚にダメージを与える性質があったため、特に色素の薄いリリオがかゆみやふけなどを生じさせてしまった。
 このことから材料を見直し、香りが尖らない果物酢をベースに、香草や精油などを加えて調合した。
 やや手間と金がかかるようになったが、好みや体質に合わせて調整を繰り返し、それなりに使える代物になっているようだ。

葡萄酢(ヴィノヴィナーグロ)
 林檎(ポーモ)の採れる北部では林檎酢(ポムヴィナーグロ)が、葡萄(ヴィンベーロ)(vinbero)の採れる地域では葡萄酢(ヴィノヴィナーグロ)が流通しているようだ。

・仕方がありません。
 全く持って仕方がないのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 亡霊とこの気持ちの名

前回のあらすじ

伝説の冒険屋を次々に呆れさせる《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一行。
そして母親に甘えるリリオであった。


 他人の寝息。

 他人の気配。

 他人の体温。

 他人の重み。

 

 以前の私であれば、これらの一つでも傍に感じられれば、とても落ち着いて過ごすことなどできなかったことだろう。

 家賃ばかりが高いアパートでも、薄い壁の向こうに人の気配を感じて、なかなか寝入れなかったことを覚えている。

 会社で寝袋に包まっていた時も、終電後にうごめく亡者たちの足音や、栄養剤の助けもむなしく沈み込んだ死者たちの寝息に、浅い眠りしか得られずに苦労したものだ。

 

 ともすれば自分の鼓動さえも煩わしく感じられたあの頃、墓の下のような静けさが恋しかった。

 

 その私がいま、大きいとはいえ、車の中に四人並んで眠るという事態に陥っても平然としていられるのは、なんだか不思議な気分だった。

 もうパーティとしてそれなりに過ごして、一緒に寝てきたリリオとトルンペートだけでなく、稽古はつけてもらったけどそこまで関りがあるという訳でもない、リリオのお母さんという赤の他人の気配があっても落ち着けているというのは、私の人間的成長の証なのだろうか。

 

 まあ、私とマテンステロさんを一番端同士にしてくれたのもあるんだろうけれど。

 

 竜車の反対側で、リリオはマテンステロさんに甘えるようにして、毛布にくるまっている。

 私にはお母さんというものがいたことがないのでよくわからないけれど、やはりその存在は、決して小さいものではないのだろう。

 

 日頃、あんなにたくましく、笑顔でパーティを引っ張っていくリリオだけれど、それでもまだ十四歳の女の子だ。

 トルンペートがいくらかお姉さんではあるけれど、彼女はリリオを立てる。リリオのことを支えてはくれるけれど、甘やかしてはくれない。

 私は随分年かさだけれど、でも二人が頼りにできるほどの頼もしさなんてありはしない。甘やかすほどの度量もない。

 

 この国では十四歳で成人らしいけれど、それで急に大人になれる訳じゃない。

 二十六年生きてきた私だって、いまだに自分が大人なんだって意識はない。

 甘えたい盛り、というやつなのだろうか。普段は少し、背伸びしていたのかもしれない、そう言う強張った部分が、マテンステロさんの前でははがれてしまうのかもしれない。

 

 素が出た、というよりは、たくさんある顔のうちの、ひとつなのだろうけれど。

 

 ひそひそとした話し声や、笑い声が漏れ出てくるのを聞いていると、微笑ましいような、少し寂しいような、そんな気持ちがする。

 

 そんな私が横たわる《(ニオ)の沈み布団》の中には、トルンペートが同衾している。

 というか、リリオと同じようにトルンペートも大概小さいので、抱き枕代わりにしている。

 

 リリオは本当に小さくて、その癖柔らかい肌の下には密度の高い筋肉が詰まっていて、やけにぽかぽかと体温が高く、ゆっくり温めてくれる。

 一方でトルンペートは少し背が高く、少し細身で、しなやかな筋肉に覆われているけれど、ちょっと骨ばっている。だからか、体温がちょっと低い。私もあまり体温が高くない方なので、触れあっていると、リリオとは違って、じんわりと体温が交わって馴染んでいくような、そんな落ち着きがある。

 

 竜車の中は鉄暖炉(ストーヴォ)で温められ、私の体もある程度は寒さ暑さに強いけれど、それでもこうしたぬくもりが腕の中にあるのとないのとでは、大分違う。

 

 石鹸と、お手製リンスの香り、それに、人の匂い。

 鼻先にそれを感じながらうつらうつらとしていると、私の胸にうずまって生暖かい吐息を漏らしていたトルンペートがもぞもぞと顔を上げて、呟くように言った。

 

「あんた、変わったわね」

「そうかな」

「そうよ」

 

 猫がそうするように、私の胸をふにふにと押しながら、トルンペートはおかしそうに笑った。

 

「会ったばかりの頃は、隣に座るのだって、お尻一つ分はあけなけりゃならなかったわ」

「そうだったね」

「人に触るのだって怖がって、前だったら、こうしてたら、きっとがちがちに固まって、どうしたらいいのかわからないって顔してたわ」

「そうかも」

 

 そう、それは、いまもあまり変わらない。

 いまも、知らない人は怖いよ。人込みは落ち着かないし、街中を歩くのは息苦しい。初めての人と話すのは、ひどく疲れる。

 でも、馴染みの人の隣は心地よい。人のいない景色は物悲しく、一人の部屋はうすら寒い。下らないことを話していると、心が落ち着く。

 

 けれど、リリオとトルンペートは別だった。

 特別だった。

 特別に、なっていった。

 

 二人は私を受け入れてくれた。

 この世界では異物でしかない、生前の世界でだって何かとつながることのできなかった私を、受け入れて、繋ぎとめて、そして放してくれなかった。

 

 はじめのうち、私はリリオのことを、ただの()()()にしようと思っていた。いかにも駆け出しと言ったリリオの姿は、初々しく、新鮮さに満ちた冒険の旅を思わせた。けれどきっとその旅は苦難に満ち、ともすれば断ち切れてしまうかもしれない。

 私は彼女の旅を程よいところで見限り、そして次の旅へと関心を移すだろう、そう思っていた。

 

 けれど気づけば私は舞台に飛び上がり、そしてリリオに手を取られ、トルンペートに絡めとられ、もう客席は第四壁の向こうへと隠れてしまった。 

 

 独りで生きて、独りで死ぬのだと思っていた。

 でも、いまではもう、独りではどうしたらよいのかわからないでいる自分がいる。

 

「私は、君たちに依存してるんだと思うよ」

「依存?」

「すっかり頼り切って生きてるってこと。君たちがいないとだめってことかな」

「ふうん。……ふうん」

「なあに?」

「それって、好きってことかしら?」

 

 見下ろせば、鉄暖炉(ストーヴォ)の火に照らされて、勝気な目がきろきろと輝いていた。

 

「どうかな」

「わからないの?」

「なんていうのかな」

「うん」

「そういう、のじゃないと思う」

「そういうのって?」

「なんかこう、きれいな感じのじゃ、ないかなって」

「きれい?」

「うん。もっと、こう……私のは、自分勝手っていうか」

「ふうん?」

「リリオがね、どこに行こう、あれをしようって、私のことを引っ張っていってくれると、すごく、楽なんだ」

「楽?」

「自分で何か決めなくていいって、私が何かしなくても、手を引いてくれるのって、すごく、楽なんだ。ついていっていいんだって、そう思えるのは、信じる努力をしなくてもいいって言うのは、すごく、楽なんだ」

「ふうん」

「トルンペートもね」

「あたし?」

「うん。だめになりそう」

「なによ、それ」

「ご飯美味しいし、お掃除してくれるし、なんだかんだ付き合いいいし」

「いいじゃない」

「なんか、甘やかされてだめ人間になりそう」

「いやなの?」

「いやじゃないから、困る」

 

 リリオから離れたくない。

 トルンペートから離れたくない。

 放されたくない。手放さないで欲しい。

 ずっとそばにいて欲しい。縛り付けてしまいたくなる。

 

 マテンステロさんが現れて、リリオがそっちに甘えるようになって、本当は少し、嫌な気持ちがした。

 死んだと思っていたお母さんと再会できて、よかったねって、そう言ってあげなきゃいけないのに、私は素直にそんな気持ちにはなれなかった。

 私が。

 私の。

 私に。

 なんて言えばいいのかわからないくらい、ぐちゃぐちゃになった気持ちを、私はどうしたらよいのかわからなくて、きれいに折りたたむこともできないまま、本当はいまも抱え込んでいる。

 

 もしゃもしゃと適当にこねくりこんで、少しずつ端の方を千切っては散らして、均していくしかできない。

 

 私がうまく言葉にできないものを、ぽつりぽつりと告げていくと、トルンペートは少し笑ったようだった。

 

「誰かを好きになるって、あんたが思ってるほど、きれいなもんじゃないと思うわよ」

「そう、なのかな。でも、うん」

「物語の中ではそうかもしれないけど、人間だもの」

「うん」 

「自分の胸の中にあるものなんだから、きれいなものばかりじゃないわ」

 

 トルンペートの薄い胸の中には、どんな色が詰まっているのだろう。

 彼女がうずまる私の胸の中は、何色なんだろう。

 

「あたしだって」

「うん」

「リリオには自由に旅してほしいって思うけど、でも、時々、独り占めにしたくなるわ」

「ほんとに?」

「ほんとに。あたし、本当に子どものころから、リリオと一緒なのよ。あの子の面倒見て、後始末して、名前だって付けてもらったし、秘密の宝物だって分けてもらえたわ。いまだって、何かあったら一番に頼ってもらえるって、そう言う自負があるわ」

「うん」

「最近あんたのせいでちょっと怪しいけど」

「そう、かな」

「そうなのよ。だから、まあ、たまに、あたしのなのよって、思うわよ」

「うん」

「うそ。本当は結構ちょくちょく思ってるわ」

「うん」

「それで、うん、そうよ。あんたからリリオを取り上げたい時もあるんだけど」

「うん」

「あんたを独り占めしたい時もあるわ」

「うん?」

「ええ」

「私を?」

「ええ。なんかリリオの方ばっかり構ってる時とか」

「そんなつもりはないんだけど」

「あたしがそう感じてるのよ」

「なんかごめん」

「あとは、ほら、よそでご飯食べてるとき」

「え、なんで?」

「なんか、無防備に美味しそうな顔するから、あたしの方が美味しいの作ってるじゃないって」

「あー、うん?」

「餌付けしてんだから他所に浮気するんじゃないわよって」

「えー……なんか、ごめん?」

「気難しい猫が、自分以外に隙見せた時みたいな、そんな感じ」

「わかるような、わかんないような」

「あとおっぱい」

「なんて?」

「おっぱいあるじゃない」

「うん。右と左に」

「んふ」

「並んで、あるね」

「なんでちょっと笑わせようとするのよ?」

「そういうつもりじゃないんだけど」

「その、おっぱいよね」

「そのっていうか、いままさに触られてるんだけど」

「リリオと二人で分けてると、やっぱり独り占めしたくなるのよ」

「なに、なんなの? 私の胸を二人で分けてるの?」

「こう、あんたをはさんで寝るじゃない」

「うん」

「それで、右パイと左パイを」

「右パイと左パイ」

「それぞれ所有権を主張するのよ」

「私の固有の領土なんだけど」

「あんたたまにこう、左を下にして寝ることあるんだけど、逆って滅多にないのよ」

「待って待って待って、私それ知らない」

「いまも左向いてあたしのこと抱いてるじゃない」

「あー、うん?」

「だから左側人気があるのよ。そういうときやっぱり、独占したくなるわよね、おっぱい」

「だから私のなんだけど」

「まあ、結局好きって言うのは、こんな感じで、そんなにきれいなもんじゃないわよ」

「そう、そうなのかなあ」

「あたしが信じられない?」

「喩えがおっぱいじゃなあ……」

「おっぱいは大事なのよ」

「そうなんだ……そうなんだ?」

「そうなのよ」

「そうなんだ……」

「そうなのよ」

「あー……私も、そうなのかな。そうなのかも」

「そう?」

「朝起きた時、布団にトルンペートがいないとなんか、もやもやする」

「なにそれ」

「一人だけ早起きして、支度とかしてると、なんかこう、なる」

「なるって、何がよ」

「私より支度の方が大事なんだ、みたいな」

「なにそれ可愛い」

「言ってて恥ずかしくなってきた」

「いいわよ。そういうのはもっと言って」

「やだ。子供みたいだ」

「おっきな子供みたいなもんじゃない」

「もう」

 

 眠くなってきたせいか、なんだか言わないでもいいことを言ってしまっている気がする。

 私はトルンペートの頭をかき抱いて黙らせて、さっさと眠りについてしまうことにした。

 

 腕の中の頭は、小さめで、きれいに丸く、そして鼻先が小生意気に尖っていた。

 

「うん」

 

 いままさに私はトルンペートを独り占めしているのだと思うと、何となく、わからないでもない気持ちだった。

 

「私は、そう、好きなのかもしれない」

 

 なんだか、胸のつかえがとれたような気がした。




用語解説

・おっぱいは大事
 単なる脂肪のふくらみに過ぎないのだと言われようとも、運動するとき邪魔にしかならないと言われようとも、それでも、おっぱいは大事なのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 鉄砲百合と狸鶉と韮葱の炒め焼き

前回のあらすじ

お布団にくるまれてガールズトークに興じるウルウとトルンペート。
おっぱいは大事。


 窓も戸も閉め切った竜車の中では、朝の訪れを感じ取ることは難しい。

 まあ、いつも決まった時間に、かちりと歯車の噛み合ったように目覚めるあたしが、惰眠をむさぼるには少しばかり弱い言い訳だけれど。

 

 あたしを抱きしめたまま静かな寝息を立てるおっぱいもといウルウの寝顔を眺めながら、なんとはなしに昨夜話していたことを思い出して、抜け出しづらくなってしまった、というのが本当のところだった。

 別に、あたしがするりと抜け出して、てきぱきと支度を整えたところで、ウルウは何にも言わないだろうし、朝の準備が楽でいいとさえ思うかもしれない。

 けれどそれで、顔に出ないだけで、確かな言葉にはならないだけで、もしかしたらもやもやとやらを抱えているのかもしれないと思うと、仕方がないなあという気持ちになって、布団から抜け出せないでいるのだった。

 

 そのままだと二度寝してしまいそうだったので、おっぱいからは抜け出したけれど、暖を求めてむずかるものだから、腕の中からは抜け出せそうになかった。

 

 日頃のウルウは、いつも何考えてるかわかんない無表情で、目つきも眠そうに細めていることが多いけれど、それでも、ご飯を食べてほんのり唇の端が持ち上がったり、街並みを眺めて目を見開いたり、近頃はその感情の起伏が見て取れるようになってきたと思う。

 

 表情には乏しいけれど、あえて表情を隠そうとするわけでもないから、よくよく見ていればその違いは必ず目に見える形で浮かんでくるものだったし、慣れてくればその気配で、なんとなくわかっても来るものだった。

 

 いまも何考えてるのかわかんないってことは結構あるけれど、でも、どう感じているんだろうっていうのは、もうあんまり間違えないんじゃないかと思う。

 

 そう、そして、寝顔だ。

 起きているときは、ちょっと気取ったり、格好をつけたりするところのあるウルウだけれど、寝ているときはそういったものがみんな取れちゃう。

 

 辺境育ちのあたしや、もともと色が薄いリリオとはまた違った、ちょっと病的な肌の白さのせいで、最初はまるで死人みたいだと思うこともあったけれど、眺めているとこれほど賑やかな死人はそういないわね。

 だらしなく口を開いて涎を垂らしたりなんかしないけど、夢でも見ているのか微笑んでいる時もあるし、リリオの寝相で布団がはだけたり、あたしが抜けだしたりしてぬくもりが消えると眉をひそめたりする。

 

 寝息は静かで、寝返りもあまり打たなくて、寝相はいいけれど、ちょうどいい大きさのものがあると抱き枕にする癖がある。それはリリオだったり、あたしだったり、枕だったり、どこかから取り出した大きなぬいぐるみだったりする。

 それから、顔の近くにあるものに、赤ちゃんみたいに唇をくっつける癖がある。そうすると、安心するみたいだった。

 だからあたしとリリオは、ウルウの顔が自分の方を向いていると、そっと手を寄せてみたりしてみる。そうすると、すり寄ってくるのだった。

 リリオに同じことをすると、舐められたりしゃぶられたり、下手すると噛まれるので迂闊なことはできないわね。

 

 いまも物寂しそうにしている唇に手の甲を当ててやって、まどろみに安らぎを与えてやる。

 こんなふうに甘やかすから、ダメになるかも、なんて言われるのだろうか。

 

 そんなことをぼんやりと考えていると、何やら視線を感じた。

 振り向けば、がっしりとしがみついたまま寝息を立てるリリオを腰のあたりにぶら下げた奥様が、にやにやと笑っていた。

 別に後ろめたい所はないのだけれど、なんとなく気恥ずかしくなって視線を逸らすと、ますます悪戯っぽい笑みが深くなったような気がする。

 

 奥様はうん、とひとつ伸びをすると、何のためらいもなく立ち上がり、腰にリリオをぶら下げたままのしのしとあたしたちの布団をまたいで、勢いよく竜車の戸を開いた。

 竜車にはまじないが刻まれていて、閉め切っている限りは風は強く吹き込まないし、息が詰まるということもないけれど、さすがに戸を開け放つとその効果も途切れる。

 

 南部とはいえ冬の朝。

 冷え込んだ空気がどっと流れ込んで、寝坊助二人がわたわたと目を覚まし始めた。

 

 竜車の中でリリオとウルウが身を寄せ合うようにして朝の訪れに抗っているのを尻目に、奥様は颯爽と竜車を降りていく。

 あたしも手早く髪を整えて、速やかにそれに続く。武装女中は、朝から完璧でなくてはならないのだ。

 

 あたしが竜車から降りると、奥様は巨大な赤い毛玉に取り付いていた。

 よく見ればそれは体を丸めて、翼に首と尾を突っ込んで眠っている飛竜二頭だった。

 キューちゃんとピーちゃんは奥様の気配に気づいて起き出し、わしわしと撫でてもらいながら、羽繕いを始めたようだった。

 飛竜乗りは飛竜との触れ合いの時間を多くとるというし、あれもそうなんだろう。

 

 あたしは水精晶(アクヴォクリスタロ)の水で顔を洗い、口をゆすぎ、朝食の準備に入ることにした。

 

 石を組んだかまどに改めて火を起こし、新しい鍋で水を湧かす。

 温まるまでの間に、昨日ウルウに羽をむしらせ、内臓を取り除いておいた狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)に手を付ける。

 皮に残った毛や、細かい毛を焼いて処理し、小刀片手に解体していく。

 鳥の類の解体を覚えておくと、他の生き物を解体する時にも役立つわね。

 猪とか大きいのは、解体の手順が違ってくるけど、少なくとも鳥の類はみんな大体同じ造りだから、どうすればいいのかってことはわかってくる。

 

 今回は昨夜のうちに頭は落として、内臓も抜いてしまったから、まず、関節を外して、腿から下を切り外す。胸肉をあばらから浮かせて、筋を外した手羽ごと引きはがす。骨からささみを抜く。

 骨付きのまま煮たりすると美味しいが、食べるときちょっと面倒くさいし、手短にさっと炒めるつもりなので、骨は外してしまう。骨にそって刃をいれて開き、骨を取り除き、しがみつく軟骨を外す。軟骨も美味しいは美味しいけれど、集めるほどの数はないので、今回は見送りだ。

 こうしちゃうともう、なんていう鳥だったのか見分けるのが難しくなるくらい、いわゆる「お肉」の形だ。

 

 骨は鍋に放り込んで、だしを取る。

 

 ささみの筋を取り、余分な脂を切り取り、適当な大きさに切り分けていく。食べてるって感じがするくらいの大きさ、でも下品じゃない程度にころころとした感じに。

 狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)は結構皮の脂が厚くて食いでがある一方、肉の方は割とあっさりとした、臭みのない赤身肉で、羽獣ではあるけれど、どちらかと言えば鳥の類より獣の類の肉に近い味がする。

 

 切り終えたら下味を入れて、粉をはたいて衣をつける。

 

 韮葱(ポレオ)の緑の硬い部分は出し取りも兼ねて猪鍋に放り込んでおき、白い部分は肉と同じくらいの感じでざくざくと刻んでいく。個人的にはあればあっただけ嬉しい。

 肉と韮葱(ポレオ)だったら、韮葱(ポレオ)の方がおいしいときだってあるくらいだ。

 

 ハヴェノを出るときに仕入れた甘唐辛子(ドルチャ・カプシコ)があったから、これも新鮮なうちに使っちゃいましょ。鮮やかな赤や黄色、緑の色どりが映えることでしょうよ。

 ヘタを取り、種を外し、肉厚な果肉を刻んでいく。

 ちょっと甘みが強いけれど、ま、悪いことにはならないでしょ。

 

 これだけでもいいけど、ハヴェノの華夏(ファシャ)街で食べた炒め物が美味しかったのよね。

 こう、変わった形の豆だか木の実だかみたいのが入ってて、なんて言ったかしら、ウカジュ? カジュ? みたいな名前のやつ、あれが美味しかったんだけど、色々食べ歩きしてたら、買って来るの忘れちゃったのよね。

 

 だから今日は、兜胡桃(キラスユグランド)で代用ね。

 殻付きのまま袋詰めにされた兜胡桃(キラスユグランド)を、もそもそ起き出してちんたら顔を洗っていたリリオに投げつけて、割らせることにする。

 

 普通の胡桃ならあたしでも割れるけど、投げつけたら武器になるほど硬い兜胡桃(キラスユグランド)は胡桃割りがいる。鍋で炒って温めて、薄く口を開いたところに短刀をねじ込んで割る、というのもできなくはないけど、やっぱり時間かかるし、面倒くさいのよね。

 

 その点、リリオは素手で平然と割っていく。

 小さい手の中でばきばきと恐ろしい音を立てて兜胡桃(キラスユグランド)が割れていく。

 試しにと手に取ったウルウが、しばらく取り組んで、それから真顔でリリオの作業を見つめてた。

 そうよねえ。あれ人間が割れる硬さじゃないわよねえ。

 

 リリオがあくびまじりにばきばきと兜胡桃(キラスユグランド)を割っている間に、あたしは出汁の取れた鍋をかまどから降ろし、揚げ物用の鍋に油を満たして火にかける。

 

「鍋いくつ持ってるのよ?」

「え、いくつでしたっけ………ウルウ、鍋何個あったかしら?」

「えーっと、その大鍋ひとつと、揚げ物用ひとつと、寸胴鍋と、片手鍋が二つ、あ、三つか、あとは、土鍋ひとつと、フライパン……浅鍋が二つ、華夏(ファシャ)鍋の大きいのがひとつ、小さいのがひとつ、それから」

「もういいわ。ウルウちゃん、私のパーティに入らない?」

「お・か・あ・さ・ま!」

「冗談よ。半分は」

「もう!」

 

 突っ込まれるまで完全に忘れてたけど、そうよね、鍋だけでもこんなにあるって異常よね。

 便利だからあたしは何にも言わないけど。

 

 鍋に用意した油は、葡萄種油(ヴィンセモレオ)だ。

 香りがないからなんにでも合わせられるけど、逆に言うと油の香りを生かしたい時にはちょっと物足りない。今日は揚げ物ってわけじゃないから、これでいい。揚げ物として香りをつけたい時は、香りの強い油をちょっと加えてやればいい。

 

 油の温度が低いうちから、兜胡桃(キラスユグランド)を放り入れて、じんわり過熱して水分を飛ばしていく。これやると油が一発で汚れるからあんまり好きじゃないんだけど、でもまあ、そこまで気にする程じゃない。

 どうせ油はウルウに大量に持たせてるもの。

 

 兜胡桃(キラスユグランド)が仕上がったら、狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)の肉を油通し、というより揚げちゃう。カリッと揚げちゃう。

 で、野菜は油通し。

 

 油を油入れに濾し入れて、古布で残った油をふき取り、揚げ物鍋をリリオに放り投げる。洗い物くらいはして貰おう。

 

 華夏鍋を取り出してよくよく熱して、油返ししたら、刻んでおいた生姜(ジンギブル)大蒜(アイロ)を炒めて香りを出し、狸鶉(ラヴルソ・コトゥルノ)のガラの出汁と牡蠣油(オストル・サウツォ)醤油(ソイ・サウツォ)でたれを作り、味を調え、調え……

 

「こんな感じだったっけ?」

「大丈夫?」

「不味くはないわよ。なんか記憶と違うだけで」

「まあ、隠し味もあるだろうしねえ」

 

 まあ大体こんな感じだったからいいわよ。

 材料を放り込んでざっくり絡めて、出来上がりだ。

 それから、昨夜の猪鍋の残りを温めて、かなり豪勢な朝ごはんのできあがり。

 

 華夏(ファシャ)の調味料使って、華夏(ファシャ)料理っぽくして見たけど、やっぱりまだまだ違うわね。美味しいは美味しいけど。

 

 朝食を済ませ、あたしたちは今日の旅程を確認する。

 広げた地図は、南部のものと、そして東部のものね。

 普通の旅ならその地方の地図があればいいけど、なにしろ一度にかなりの距離を飛ぶ竜車だから、あっさりと地方をまたげるわけね。

 

 奥様は東部の地図をとんとんと指さす。

 

「今日は、そうねえ、このあたりまでかしらね」

「えーと……バセーノ子爵領ですね」

「どんなところ?」

「そうですねえ、温泉で有名ですね」

「温泉」

 

 ウルウが食いつくけど、でも、いくらなんでも竜車で温泉街に乗りつけるってわけにはいかない。

 かといって、山や森に竜車を隠してちょっと寄ってみる、なんてのも難しい。

 なあんだ、と露骨に気落ちするウルウはわかりやすいけど、まあ、あたしも残念だ。

 なんだかんだ、あたしたち、お風呂やら温泉やら楽しみにしてるものね、いっつも。

 

「ああ、でも、辺境から帰ってきた時に、山の中に温泉見つけたのよ」

「秘湯ってやつですか?」

「そうねえ、その時にちょっと手を入れて入れるようにしたから、まだ使えるんじゃないかしら」

 

 寄る?

 と悪戯っぽく笑う奥様に、私たちの答えはもちろん決まっていた。

 

 朝から枝肉を平らげた飛竜たちによって竜車は空高く飛び上がり、ウルウは朝ごはんが出てこないように床に沈んで黙り込んだ。

 

 東部へ向かい、徐々に北上していくにつれて、段々と寒さも深まってきた。

 まだまだ辺境程じゃあないけど、南部と比べたらやっぱり冷え込む。

 南部じゃあ雪なんてめったに見られないけど、東部はちょくちょく降る。地域によっては、かなり積もるところもあるらしい。

 北部でもあまり雪が積もらないところがあるから、単純に北の方で寒いから雪が降るってわけじゃないのよね。

 雪は結局雲によって運ばれてくるわけだから、風向きとか、山で遮られたりとか、いろいろ条件がかかわってくるわけ。

 

「ヴォースト出てきた時は、まだ秋で雪は降ってなかったよね」

「あのあともうすぐに降り始めてたと思いますけどね」

「え、そんなに降り始めるの早いの?」

「ヴォーストあたりは大分雪降るらしいですからねえ」

「辺境はもっと早いわよ」

「一年の半分くらいは雪が積もってるって言っていいですよね」

「じゃあ私たちがつく時はもう、すっかり雪が積もってるわけだ」

「そうなるわね」

 

 雪の積もった辺境の景色を思い浮かべて、私たちはほうと息を吐いた。

 

「ちょっと楽しみだね」

「うんざりするわね」

 

 噛み合わない呟きに、思わず顔を見合わせるのだった。




用語解説

韮葱(ポレオ)(poreo)
 南部原産のネギ属の野菜。茎は太く、葉は平たい。
 基本的に成長とともに土を盛り上げて育てる根深ネギ。
 軟白化した部分を主に食用とし、緑の葉も柔らかい部分は食す。
 リーキ、ポロネギ。

甘唐辛子(ドルチャ・カプシコ)(dolĉa kapsiko)
 甘味種の唐辛子(カプシコ)を品種改良したもの。
 鐘型、やや大型の果実で、辛みはない、またはほとんどない。
 緑、黄色、赤など、さまざまな色が存在する。
 生食のほか加熱したり、乾燥させて粉末状にしたものを色素や香辛料として用いる。
 ピーマン、パプリカ。

華夏(ファシャ)
 大叢海をはさんだ向こう側、西大陸のほとんどを支配下に置く西の帝国ことファシャ国。
 ざっくりと言えば中国のような国家であるらしいが、帝国のように広範であるため、一概には言えない。
 現在は帝国との仲は極めて良好であり大叢海さえなければ気軽に握手したいと言わせるほど。

華夏(ファシャ)
 ハヴェノの一角に存在する、華夏(ファシャ)からやってきた人々が暮らす外国人街。
 異国情緒あふれる町並みで、華夏(ファシャ)料理や華夏(ファシャ)文化などが楽しめる。
 もちろん、活気あふれるこの区画にも、薄暗い面はあるのだが。

華夏(ファシャ)街で食べた炒め物
 恐らく腰果鶏丁(ヨウクォチーディン)
 鶏肉と腰果(ヨウクォ)の炒め物。
 トルンペート達が食べたものは、帝国人向けに調整されたもので、鶏肉を揚げたものにソースを絡めた形だったようだ。

・ウカジュ? カジュ? みたいな名前のやつ
 腰果(アカジュヌクソ)(akaĵunukso)。
 ウルシ科の常緑高木の種子。
 南大陸原産で、華夏(ファシャ)では腰果(ヤオクォ)として利用されているほか、南部でも輸入している。

兜胡桃(キラスユグランド)(Kiras juglando)
 胡桃(くるみ)の一種。
 肉厚で大振りであり、仁は大きくコクがあるが、石のように頑丈な殻でおおわれており、取り出すには苦労する。
 大型の胡桃割りや、万力型の胡桃割りなどが必要で、大量に用意するのはかなりの労力である。
 石で殴ると石の方が割れるほどのあまりの硬さに、胡桃割り人形殺しなどとも呼ばれる。
 

華夏(ファシャ)
 西大陸を治める華夏(ファシャ)で広く用いられる鉄の丸底鍋。
 持ち手や鍋の深さ、大きさなど、いくつか種類がある。

葡萄種油(ヴィンセモレオ)(vinsemoleo)
 葡萄酒(ヴィーノ)を作る過程で得られる種子を絞って得られる油。
 古くは葡萄酒(ヴィーノ)を作る際は、葡萄(ヴィンベーロ)の種類も様々に混ぜ、皮も種も混ぜ込んで作っていたが、洗練されていくうちに副産物として油も搾られるようになった。

牡蠣油(オストル・サウツォ)(ostrsaŭco)
 牡蠣(オストロ)を塩茹でした煮汁を濃縮し、小麦粉などでとろみをつけ、砂糖などで調味したもの。
 華夏(ファシャ)の料理人の間で崇められる食の神ジィェンミンがもたらしたとされる。

・食の神ジィェンミン
 華夏(ファシャ)が西大陸を統一した頃に存在したと言われる料理人。またその陞神した神。
 現在の多彩な華夏(ファシャ)料理の基礎を作り上げたと言われる。
 一説によれば、美味なる料理を求めた境界の神プルプラが異界より招いたともされる。

大蒜(アイロ)(ajlo)
 ヒガンバナ科ネギ属の多年草。球根を香辛料・食用として用いる。ニンニク。

・バセーノ子爵領(baseno)
 東部の領地の一つ。温泉地で有名。
 浴場建築の優れた技術が蓄積されており、美麗な浴場が多く見られる。

・噛み合わない呟き
 降雪地帯とそうでない地帯の出身の人には、雪に対する認識に結構違いがみられる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合と家族風呂

前回のあらすじ

朝からがっつりと朝食を摂り、旅に備える一行。
飯の話しかしてねえなこいつら。




 安定して飛行している間はそれなりに会話もできるウルウですけれど、上昇や下降で上下動が入り始めると途端にだめになります。

 窓を開けて冷たい空気に当たることで酔いをごまかして、搾りたて乙女塊大放出ということももうなくなりましたけれど、やはりこの激しい上下動の最中は、できるだけ動かないようにしてこらえるということしかできないようです。

 

 小食とはいえ朝から結構食べましたし、ちょっと辛そうですね。食べ過ぎたり飲み過ぎたり、またお腹が空き過ぎたりしていると酔いやすいと聞いたことがあります。私は酔ったことがないのでよくわからないんですけど。

 

 トルンペートは揺れには結構強くて、ウルウを撫でてあげたりと、甲斐甲斐しくお世話しています。誰かのお世話をしている時のトルンペートは本当に生き生きとしています。

 

 私は本当に、全然平気なんですよね。

 竜車には慣れてますし。

 まあ辺境の竜車はさすがに貴族用だけあって内装も快適ですし、使用する飛竜も気性の大人しい飼育種の、それも安定した飛行の得意な選ばれたものですから、揺れももっと少なく、静かなものですけれど。

 

 竜車はやがて、ぐわんぐわんと右に左に上に下に斜めにと揺れに揺れながら、どしんと音を立てて着地しました。この着地の荒っぽさも、竜車用に調教された飛竜では味わえない醍醐味ですね。結果としてウルウは死にそうになりますけれど。

 

 外の物音が落ち着いて、お母様が外から竜車の戸を開けてくれますと、冷たい空気が吹き込んできて、ウルウがほっとしたように息を吐きました。

 ひどい酔いも、寒気に急にさらされることで体が驚いて、すっかり忘れてしまうようでした。

 

 まあそれでも、お腹の中身がひっくりかえったような気持ちの悪さがすっかり消えてしまう訳ではないようで、まさしく亡霊(ファントーモ)のような顔つきのままなのですけれど。

 

 そんなウルウを支えながら竜車を出ると、そこは山間にぽっかりと開けた窪地のようでした。

 

「前に来た時、ちょうどよく着地できる場所がなかったから、キューちゃんに薙ぎ払ってもらったのよね」

 

 訂正、山間にぽっかりと開いた傷痕のようでした。

 溜めに溜めた咆哮(ムジャード)でも盛大にぶちかましたのか、えぐり取られたような窪地にはいまも木々は復活していないようでした。

 

 恐らくはかなり荒れ果てていたであろう大地は、いまはすっかりと雪に覆われて、竜車の車輪もすっかりと埋もれてしまっています。

 試しにと降りてみると、柔らかな新雪に膝のあたりまで埋まってしまいます。これは結構な積り具合です。

 

「……これ、どうするの?」

 

 雪に慣れていないウルウは、埋もれてしまった私を引き上げながら、小首を傾げます。

 確かに膝まで積もった雪を()()ながら歩くのは大変なものです。

 冷えますし、濡れますし、疲れます。

 でもご安心を、雪国にはきちんとそうした時の対処法があるのです。

 

 私たちは荷を開いて、雪輪(ネジシューオ)を取り出して、早速靴に取り付けました。

 これは木の枝や木材を楕円状に曲げて組んだもので、雪にかかる体重を広く分散することで、深く沈み込まないようにするというものです。堅い雪を上るために爪も付いていて、慣れれば大抵の雪道は楽に歩けるようになります。

 慣れないうちは、ちょっと歩き方を気にしながらじゃないと、雪輪(ネジシューオ)同士をぶつけてしまいますけれど。

 

 私たちは雪輪(ネジシューオ)をしっかりと固定して、降り積もった雪の上に降り立ちました。

 こう、雪を踏んでいると、冬だなって感じがしますね、やっぱり。

 ウルウも初めての雪に興味津々のようで、面白がるように足踏みしています。

 

「ちょっと歩くけど、この先に温泉が湧いてるのよ。竜車はさすがに通れないけど、行く?」

 

 もちろん、私たちはそのつもりでした。

 最低限の荷だけ持って、私たちはお母様の後に続いて、入り組んだ山道に挑みました。

 人の立ち入らない土地だけに道は全く獣道の有様で、伐採するものもないために木々が密集して入り組み、そのくせ木の根ででこぼことした道には滑りやすい雪が積もっているという、実に面倒この上ない道でしたが、私たちもそれなりに足腰の鍛えられた冒険屋です。

 慣れてくればそう苦労することもなく踏破できました。

 

 慣れるまでが大変でしたけど。

 

 私とトルンペートはなんだかんだ辺境で慣れていますけれど、ウルウは雪の山道は初めてですし、体が大きいのでちょっと大変そうでした。

 それでもその大変さを楽しむ余裕くらいはあるようで、遅れずについてきたのは全く大したものです。

 

 私たちの後を、二頭の飛竜もついてきていましたが、こちらはさすがに木々の間をきれいにすり抜ける、というのは、体の大きさからして難しいようでした。

 落ち着きのあるキューちゃんは、体が大きい割に巧みに道を選んで歩き、精々灌木を踏みつぶしたり、細い木々を押しのけて折ったりといった程度ですけれど、小柄なピーちゃんはまるで落ち着きがなく、無駄に広げてしまった翼が引っかかったり、上から落ちてきた雪にぴいぴい鳴き叫んだり、賑やかなことこの上ありません。

 

 こうしてみると、野生種の飛竜というものは縦にも横にも大きいように見えて、柔らかな羽毛の下は意外とほっそりと細身なようでした。ちょっときついかな、と思うような隙間も、体をよじりながら通り抜けてしまうのでした。

 

 やがて木々がまばらになり、足元の雪が薄くなって地面が見えてくるようになりました。なんだかほんのり暖かくなってきて、心なし硫黄のようなにおいもし始めます。

 そうしてすっかり視界が開けると、もうもうたる湯気が立ち込める広々とした泉が、そこには広がっていたのでした。

 そこらの公衆浴場よりもよほどに広く、小舟くらい浮かべていてもおかしくないくらいの広さがあり、駆け寄って湯に触れてみると、少し熱い程度で、ちょど良いくらいの湯加減です。

 

 これならすぐにでも浸かれるのではないかと思えるくらいに好条件の温泉でしたけれど、お母様に窘められました。

 

「直接入ると危ないわよ」

 

 どういうことかというと、どうもこの温泉を住処とする魔獣がいるそうで、迂闊に飛び込むと、その魔獣と一戦交えるようなことになるというのでした。

 お母様は返り討ちにしてやったとのことでしたけれど、何も一頭や二頭だけという話ではありませんし、気にしながら浸かっていたのでは全く落ち着かないから、一角に岩で囲んだ湯船をこさえたとのことでした。

 

 成程、確認しに行ってみれば、温泉の一角に、ごつごつとした岩を組んで区切られた湯船があり、野趣あふれる趣となっていました。

 なんでも、近くにあった岩を切り崩して、外側を区切り、底に平らな石を敷き、きれいに湯が出入りするように調整してと、一日仕事で組み上げたというのですからなかなかの力作です。

 

 というより、岩を切り崩すってどういうことなんでしょうか。

 岩って切るものでしたっけ。

 あまりに自然に言われたので流してしまいましたけれど。

 

 ともあれ、こんな素敵な露天風呂です。

 浸かっていかないというのはあまりにももったいない話です。

 私たちは手分けして、葉っぱやごみを取り除き、汚れた岩を磨き、心地よく入浴できるだけの準備を整えました。

 

 後は入浴するだけですけれど、さすがに四人全員で一緒に入る、というのは難しそうです。

 お母様が自分用に作ったものですから、そこまでの広さは無くて、入れても二人が限度と言ったところでしょう。

 

 私たちはすこし相談して、二人ずつに分かれて入浴することにしました。

 つまり、最初に私とお母様がお湯を頂いて、その間、ウルウとトルンペートは今晩の夕餉の食材を集めに行きます。

 そして交代して、ウルウとトルンペートが入浴している間に、私とお母様が集まった食材を調理して夕餉の支度をする、とこういう訳です。

 

 旅を通して仲も深まってきましたけれど、やはり、人見知りのウルウや使用人としての意識があるトルンペートがお母様と二人きりで裸の付き合いというのは厳しいでしょうし、この組み分けは仕方がありません。ええ、仕方がありません。

 

 ウルウとトルンペートが期待しているように言い残して去っていくのを見送って、私たちは早速温泉を楽しむことにしました。

 もこもこに着ぶくれた服を脱いでいくときはとにかく寒いのですけれど、温泉に飛び込めばそんな寒さもどこへやら、体はほっこり暖かく、顔はひんやり涼しくと、露天風呂特有の心地よさに頬も緩みます。

 

 これで風があって吹雪いていたらさすがにつらいのでしょうけれど、今日は雪も降らず風も吹かず、穏やかな天気でのんびりと温泉を楽しめます。

 

 私の白い肌がお湯に温められてほんのり赤く染まっていくのと対照的に、お母様の褐色の肌は血の色がそこまで目立ちません。

 南部の陽光あふれる気候と、陽気な人々の気性、それらに実に似合った肌色だとは思いますけれど、私とは似てないなと思うとちょっと寂しくはあります。

 

 瞳の色も、同じ翡翠色とは言いますけれど、お母様のそれが鮮やかな青を含むのに対して、私は少しくすみがちな気がします。

 

 兄のティグロなどは、髪はお父様譲りの灰金色ですけれど、肌はお母様とそっくりの柔らかな褐色で、目元などもよく似ているような気がします。

 

 他にも、数えてみれば似ていない点が多いように思われて、なんとなく落ち着かない気持ちで、私はお母様を眺めていました。

 もちろん、そんなことは実に下らない悩みで、似てる似ていないなんて大したことではなく、私がお母様の娘であるということは間違いのない事実なのですけれど、しかし長く離れていた時間が、私に不思議な距離感を覚えさせているのでした。

 

 お母様に甘えたいという気持ちは強く、実際、ハヴェノの家でも、旅の中でも、お母様に甘えているとは思います。けれど、そうした素直な甘えたい盛りの私の中に、同時に、どう触れていいのかわからない、少し気がねする、そんな緊張があるのも確かなのでした。

 

 もしかすると、大人になっていくにつれて、親と子のあいだには、自然とそうした距離感のようなものが生まれて、大人と大人の、互いに自立した関係性というものができていくのかもしれませんでしたけれど、あの冬に置いてけぼりにされた子供のままの私が、うまくそれに適合できないでいるのでした。

 

 温泉の暖かさと、冬の空気の冷たさ、それに挟まれて、ぼんやりとお母様を眺めてみましたけれど、お母様の方はまるで何も気にしたところなんてなくて、ただひたすらに飛竜乗りの疲れをお湯の中に溶かし込んでいるような、そんな暢気な顔です。

 

 もしかしたらこれも大人の余裕というもので、お母様の中にも、離れ離れになっていて、見ないうちにずいぶん大きく育っていた娘に対する気がねとか遠慮とかそういうものがあるのかもしれませんでしたけれど、

 

「リリオ、あんた少しはおっきくなったけど、胸は小さいままね」

「なんですとー!?」

 

 全然そういうの、ない気がしてきました。

 自然体すぎるお母様に、なんだか気が抜けるような気もします。

 

 あんまり建設的でないことにあれこれと頭を使ったところで、私の頭では大したことなんて考えられそうにありませんし、それならまだ、ウルウたちが何を採ってきてくれるのか、晩ご飯は何になるだろうか、そういうことを考えていた方がよほどましという気もしてきました。

 

 私がため息とともにいろんなものをお湯の中に吐き出すと、お母様はそう言えば、と何気なく呟きました。

 どうせろくでもないことなんだろうなあ、とは思いながらも耳を傾け、

 

「ウルウちゃんとトルンペートちゃん、どっちが本命なの?」

「ぶフッ」

 

 本当に、ろくでもないことでした。

 




用語解説

咆哮(ムジャード)
 竜種が用いる攻撃方法の一つ。大量の魔力を風精などに乗せて吐き出す攻撃で、竜種が持つ最も威力の高い攻撃手段である。

・雪をこぎ
 雪をこぐ。雪の積もった道を歩くこと。
 藪をこぐ、のようにも使う。
 北方・辺境訛り。こざくなどとも。

雪輪(ネジシューオ)(Neĝŝuo)
 かんじき。雪に沈み込まないように、足元の面積を広げる道具。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 亡霊と温泉魚

前回のあらすじ

山間の温泉に辿り着く一行。
いよいよもって旅行番組の様相を見せ始めてきた。


 湯の花漂い、分厚い湯気の覆う温泉で、ぼんやりと釣り糸を垂らしている姿っていうのは、かなりシュールだと思う。シュールっていうか、クレイジーっていうか。

 

「……これ、本当に釣れるのかしら?」

 

 横で()()を片手に見守るトルンペートも、実に疑わしそうな眼だ。

 そりゃそうだ。

 温泉で魚釣りなんて、聞いたことがない。

 

 でも、マテンステロさんによれば、この温泉に棲む魔獣こと温泉魚(バン・フィーショ)とやらが、結構な数、泳ぎ回っているのだという。

 そして温泉魚(バン・フィーショ)が泳ぎ回っているということは、それが餌にしている生き物や、逆に温泉魚(バン・フィーショ)を餌にしている生き物も、多分、いるんだろう。

 

 半信半疑ではあるけれど、なにしろファンタジーな世界のことだ、温泉を住処とする魚類がいても、そういうものかもしれないと私なんかは思う。

 

 例えば、ドクターフィッシュとか呼ばれる魚類は、確か三十七度程度の水温でも生きていけるはずだ。

 足湯なんかでこう、角質を食べてくれる奴だ。

 私は体験したことがないのだけれど、くすぐったくて面白いとは聞いたことがある。

 

 他にも、温泉に広がる藻だとか、四十度を超える温泉で確認されたオタマジャクシだとかいるらしいし、極端な話で言えば、深海の熱水噴出孔付近では八十度を超える中で棲息しているポンペイワームとかイトエラゴカイとかいるしね。

 

 そう考えると、風呂の神なる超存在が実在しているこの世界のことだ、温泉の中で平然と棲息している生き物がいてもおかしくはないと思う。

 現地人のトルンペートからしても疑わしく思えるみたいだけれど、まあ、いないと決めつけるより、いるかもって思った方が面白いし、いざ遭遇した時に慌てないで済む。

 

 それに、私の場合、いるかいないかもわからない生き物を待ち続ける必要はない。

 

「いるなら必ず釣れるし、いないなら釣れない」

 

 そう、この《火照命(ホデリノミコト)の海幸》ならね。

 こうして釣り糸を垂らしているこの釣り竿、ゲームアイテムの一つで、水辺で使えば確率でアイテムが釣れるというものだった。

 幸運(ラック)極振りの私がこの釣り竿を使えば、百パーセント何かは釣れるのだ。

 そして生物相が限られているだろうこの温泉であれば、いるとするのならばほぼ確実に温泉魚(バン・フィーショ)が釣れること間違いなしだ。

 

 あまりの便利アイテムっぷりに私自身呆れるほどだが、隣のトルンペートなどはあきれ顔で、またいつもの便利道具かという顔をしている。便利だからいいや、というスタンスではあるみたいだけど。

 

 今回は、釣り気分を少しでも味わえるかと思って、《生体感知(バイタル・センサー)》での魚群探しはせずに、適当な場所で糸を垂らしているので少し時間はかかるだろうが、もとより釣りとはそういうものなんだろう。よくは知らないけど。

 

 ぼんやりと湯気を眺めていると、トルンペートが温泉に向けていた疑わしげな視線を、《火照命(ホデリノミコト)の海幸》に向ける。

 

「詮索するわけじゃないけど」

「なあに?」

「そういうのって、どこで手に入れた訳?」

 

 そういうのっていうのは、つまり、この《海幸》だけでなく、《(ニオ)の沈み布団》とか、《魔除けのポプリ》とか、トルンペート達の言うところの便利道具のことだろう。

 改めて尋ねられて、私は少し考えこんでしまった。

 

 フムンと漏らしたきり黙り込んだ私に、トルンペートはどことなく気まずげに鼻を鳴らした。

 

「別に、詮索する気はないわよ。言いたくないなら、」

「どこで手に入れたんだろうねえ」

「はあ?」

「いや、誤魔化すわけじゃなくてさ、本当に、これ、どこから手に入れたんだろうねえ、私」

 

 自分でもわからないのかと呆れられたけれど、実際、わからないものは仕方がない。

 

 ゲーム内のどこでどんな条件を満たしてどのように入手したのかということなら、余すところなくしっかり覚えている。攻略wikiも丸暗記してるから、効率のいい入手法だって教えてあげられる。

 でも()()は、()()()は、私がゲーム内で集めたアイテムそのものではないのだろう。

 

 私のいまの体が、心臓麻痺かなんかで死んでしまった私の魂だけを積み込んだ、プルプラお手製のお人形であることを考えれば、まあやっぱりプルプラお手製の付属品みたいな感じなんだろうなあ、と思う。

 あの割といい加減な所のありそうな神様のことだ、深く考えずに設定そのままに流し込みで作った感じがしてならない。

 

 なのでどこで手に入れたのかと聞かれたら、わからないながらもこう答えるほかない。

 

「神様からもらったって言ったら信じる?」

 

 下手な宗教みたいな文句だ。

 我ながらあんまりにも胡散臭すぎて、鼻で笑いながら言ってしまったが、トルンペートはちょっと肩をすくめるだけで、どうかしら、と呟いた。

 

「普通なら鼻で笑うところなんでしょうね」

「だろうね」

「でもあんたなら、ありそうかな、くらいには思うわ」

「そうかなあ?」

「いくらなんでも世間知らずが過ぎるし、なんか変なまじないとか使うし」

「フムン」

「便利道具だけじゃなくて、あんた自身が神様の落とし子だって言われても、まあ、信じられなくはないわ」

「落とし子ねえ」

「深い意味はないわよ?」

「うん? うん」

 

 温泉魚(バン・フィーショ)が生息していると言っても、入れ食いになるほどの数はいないようで、釣り竿はまだピクリともしなかった。

 これが釣りというもののスタンダードならば、私は多分釣りには向かないだろうな、という気分になってきた。つまり、だんだん飽きてきた。

 こうしてトルンペートが隣で話し相手になってくれていなければ、さっさと《生体感知(バイタル・センサー)》や《薄氷(うすらひ)渡り》などを使って強引に捕獲に移っているはずだ。

 

 そうした方が手っ取り早いし効率がいいのは確かなのだけれど、趣は全くないし、完全に作業になってしまうので、私のスタンスではないなという気はする。

 

「そういう便利道具って、どれくらい持ってるのよ?」

「いっぱいあるけど、秘密」

「なんでよ」

「便利道具に、便利に頼られたら、面白くないし」

「そんなつもりはないけど」

「《自在蔵(ポスタープロ)》とか、《布団》とか、割と使い倒してるよね」

「あ、やっぱり《自在蔵(ポスタープロ)》も普通じゃないのね」

「まあね」

「どんなのがあるのよ。役に立たないのでもいいから」

「役に立たないものはあんまり持ってないけど……ほら、あれとか」

「なによ」

「酔いを誤魔化す時に抱いてるぬいぐるみとか」

「熊のやつ? なんか特殊なの?」

「特に何もないんだよね」

「はあ?」

「フレーバー・テキスト……説明書きが気に入って、持ってたんだよね」

「どんなの?」

「『ぼくはタディ、七つの子のお守り役。ぼくはタディ、夢の国までお供する。ぼくはタディ、忘れられても傍にいる。ぼくはタディ、君のテディベアになりたい。ぼくはタディ、君だけのテディベア』」

「なんだか、不思議な響きだわ」

「特に効果はないはずなんだけどね。抱いてるとちょっと安心する」

「おっきなくせに」

「心は小さくてね」

「ところで」

「なあに?」

「引いてるわ」

「あっ」

 




用語解説

温泉魚(バン・フィーショ)
 温泉に棲息する魚類。魔獣。
 水精に働きかけることで温泉という特異な環境に適応しているのではないか、ということで魔獣と言う風に扱われているが、実際のところ生物学的に適応しているのか、魔術によって適応しているのかは判然としていない。
 体長は最大で一メートルほどで、サメの類に似る。
 肉は甘く、脂肪が少なく柔らかい。
 腐りづらく、山間などでよく食べられる。
 しかし鮮度が低下すると独特の臭気を発するため、あまりよそでは知られていない。
 肉食で、おなじく温泉に棲息する魚類や両生類を主な餌とするほか、温泉に入ってきた北限猿(ノルダシミオ)などを襲うこともあるとされる。

北限猿(ノルダシミオ)
 猿の仲間のうちで最も北に棲息する一種。
 果物や昆虫を主に食べる他、時に肉食もする。
 赤ら顔で、北部で酔っぱらいを指してよく猿のようだとよばうのはこの北限猿(ノルダシミオ)が由来である。
 人里近くにも出没し、食害などを出すこともあるが、多く人の真似をして、危害を加えないことが多い。
 温泉に浸かることで有名。

・ドクターフィッシュ
 コイ亜科の魚ガラ・ルファの通称。
 人間の手足の表面の古い角質を食べるために集まってくるとされる。
 三十七度ほどの水温でも生存でき、温泉にも生息する。

・温泉に広がる藻
 高温の温泉などに適応した極限環境微生物。
 様々な種類が存在する。

・四十度を超える温泉で確認されたオタマジャクシ
 南シナ海はトカラ列島に所属する口之島で発見されたリュウキュウカジカガエルのオタマジャクシは、最高で四十六・一度にも達する温泉に棲息している。
 生体のカエルは温泉では発見されていないことから、幼体の時のみの特性ではないかとされる。

・ポンペイワーム
 栗毛の牡(二〇一九年現在三歳)。父にItsmyluckyday、母にBriecatを持つ。
 ではなく。
 深海の熱水噴出孔間近で発見された生物。
 八十度程度の熱水付近に棲息するため、火山噴火の犠牲で有名なポンペイの名を与えられたとか。
 本編には登場しない。

・イトエラゴカイ
 同じく深海の熱水噴出孔付近で発見された生物。
 高温でも壊れにくい特殊なタンパク質でできているそうだ。
 本編には登場しない。

・神様の落とし子
 優れた才能の持ち主や、美貌の持ち主、また幸運の持ち主などを呼ばう言い方。親のわからない孤児や迷子などを指すこともある。
 また、非常に魅力的である、運命を感じる相手であるなどという言い回しでもある。

・《薄氷(うすらひ)渡り》
 ゲーム内《技能(スキル)》。《暗殺者(アサシン)》系統がおぼえる。
 設定では「一時的に体重をなくす」ことができるとされ、水上を歩行可能にするだけでなく、使用中所持重量限界を緩和できる。
 また足音が消え、一部の敵Mobから発見されなくなるまたは発見されにくくなる効果がある。
『生きるということは、薄氷を踏んで歩くが如く』

・酔いを誤魔化す時に抱いてるぬいぐるみ
 ゲーム内アイテム。正式名称 《ネバーランド・タディ》。
 効果は特になく、イベント報酬として手に入るが、売値も高くない。
 イベントの雰囲気を味わうためのもので、イベントを終えて手に入れた時は何となくしんみりするが、プレイヤーの開く露店などで束で売られたりしていてちょっともやもやする。
『ぼくはタディ、七つの子のお守り役。
 ぼくはタディ、夢の国までお供する。
 ぼくはタディ、忘れられても傍にいる。
 ぼくはタディ、君のテディベアになりたい。
 ぼくはタディ、君だけのテディベア』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 鉄砲百合と二人湯

前回のあらすじ

中身も盛り上がりも落ちもない釣りだけで一話使いやがった、という回。


 釣れるまで半信半疑どころか二信八疑くらいだった温泉魚(バン・フィーショ)とやらは、鮫の仲間らしいなかなか凶悪な魚だった。

 竿を引く力も強いし、こちらを引きずり回して粘る体力もなかなかのもの、そして釣り上げたあともがちがちと牙を鳴らす様は、実に凶暴ね。

 

 釣りなんてあんまりしないからうまいやり方がわからず、びったんびったん暴れまわる温泉魚(バン・フィーショ)相手にあたしたちは大いに狼狽え、てんやわんやと騒いだ挙句、ウルウがひらりと針を一刺ししてとどめを刺して、なんとか黙らせたのだった。

 

 一メートルほどはある大物を都合二匹釣りあげて、無駄に汗をかいてしまったあたしたちは、もうこんなものでいいかと早々に切り上げることにした。

 

「釣りは楽しめた?」

「しばらくはいいかな」

 

 やっぱりあたしたちにこういうのは向いてないのだ。

 

 あたしなら、短刀や投げ矢で直接水中の獲物を狙った方が早いし、ウルウも水中の魚の位置がわかるし、水上歩行なんて芸当もできるから、もっと手早い手段がある。

 リリオなんかは最近、雷の術を操るようになったから、水に剣を差し込んで、ばちりと一撃やってやれば魚が勝手に浮いてくるという始末だ。

 

 冒険屋として多芸であった方がいいのは確かだけど、でも向き不向きってのはあるもの。仕方ないわね。

 

 あたしたちが温泉魚(バン・フィーショ)を引っ提げて帰ってきた頃には、リリオたちは温泉から上がって服を着ているところだった。

 温泉に入っている間は暖かくていいんでしょうけど、寒さに凍えながら急いで服を着ている姿はなかなかにみっともない。

 仕方がないんでしょうけど、もはや湯冷めとかそういうのじゃないわよね、これ。

 せっかく温まった分を、すべて発散してしまっていそう。

 

 二人に温泉魚(バン・フィーショ)を託して見送ったあたしたちは、そういう不安とは無縁だ。

 あたしはにやりと笑った。

 何しろ、ウルウには便利な懐炉(マノヴァルミギロ)がある。

 触れている間、あたしも全身ぽかぽかする、便利な奴だ。

 あまりに便利すぎて、リリオには黙っている。しょっちゅうウルウに引っ付くから、気づいてるかもしれないけど。

 

 さすがに二人で一緒に握りながら服を脱ぐってのは難しいから、ひとりずつこの魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)の恩恵にあずかりながら服を脱いで、温泉へと身を投じた。

 そうすると、少し熱いくらいのお湯が、じんわりとあたしたちの体を温めてくれて、これが得も言われぬ心地よさなのだった。

 

 ウルウの魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)も暖かくて心地よいのだけれど、あれは全身が一時に暖かい膜でおおわれるような具合で、心地よくはあるけれど、情緒がない。

 温泉の熱はじんわりと体に染み入ってくるような具合で、はだえから骨の芯までゆっくりと温められて、思わずほうとため息が漏れ出るようなものだった。

 

 風呂好き温泉好きのウルウと行動すると、町の風呂屋はもちろん、野宿の時の()()()()()風呂など、いろんな風呂を味わうことになるのだけれど、天然の温泉に申し訳程度に湯舟を繕ったこの露天風呂は、なかなかに野趣あふれて面白みがあった。

 

 見れば少し離れて、飛竜のキューちゃんとピーちゃんがざぶざぶと湯を揺らしながら温泉へと潜り込んでいるところだった。

 いままでは、あたしたちが釣りをするのを邪魔しないように、控えていてくれたようだ。

 温泉は、真ん中あたりは結構な深さになるようで、大きな飛竜が鼻先を突き出すようにして全身を浸かれるくらいにはなるようだった。

 文字通り羽を伸ばして温泉を満喫する様は、超生物、圧倒的存在としての飛竜というよりは、同じ熱を共有する入浴客の一つでしかなかった。

 

 生意気にも突っかかってくる温泉魚(バン・フィーショ)を片手間に追い払い、時にはおやつ代わりに頭から齧って湯を赤く染めているあたりはやっぱり化け物なんだなと思うけど。

 

 そんな、ある種出鱈目に贅沢な光景を眺めながら、あたしたちも温泉を楽しむ。

 ()()()()()風呂よりは広いけれど、二人一緒に入るとちょっと手狭かなという具合の湯船に肩まで浸かって、あたしたちは肺の中身を絞り出すような吐息を漏らした。

 ちょっと熱いくらいの湯は、肌にぴりぴりして、悪くない。

 

 横を見れば、ほっそりしているくせになかなかな代物である二つの()()()()が湯に浮き沈みしていて、眼福であるような気もするし、どうして自分の胸元には存在しないのだろうかという侘しさも感じる。

 そしてその()()()()の持ち主は、結い上げてまとめた黒髪のほつれを気にしながら、ぱしゃぱしゃと肩にかけ湯などしている。

 

 ほんのり火照るうなじは珠のように湯をはじいていて、これで二十六歳は嘘だろうと常々思わされる。

 大した化粧品もない旅で、保湿がどうの冬場はかさつきがどうのとか言いながら、これだ。

 あたしやリリオはまだ若さがどうのと言い訳できるけど、ウルウの場合はなにかズルしてるんじゃないかというくらいに肌の張りがいい。

 本人は、以前はもっとカサカサ肌だったんだけどねなどと言っているけれど、法の神の裁きにでもかけてやりたいところだ。

 

 なにしろ大抵の男より背が高いから、そういう点ではあまりモテないかもしれないけれど、でもそれを補って余りあると思う。

 

 異国情緒あふれるというか、西方人めいた顔立ちは、独特な魅力がある。

 肌は病的なくらい白いけど、そのちょっと病的なくらいが、なんだか背徳的というか、不思議に惹きつけられる。そして病的な色合いなのに、水は良く弾くし、もちろん柔らかく滑らかだ。

 

 対照的に深く黒い長髪は、櫛を通しても手ごたえがないくらいに艶やかで、枝毛なんかひとつもありゃしない。

 艶やかすぎて髪留めが落ちちゃうことはあるけど、それにしたっていろんな髪形も試せるし、お得感ありよね。

 

 目つきは悪いというか、いつも不貞腐れたような伏し目がちというか、眠たげというか、人と目を合わせたがらないんだけど、それが絶景にみはったり、美食にそっと細められたりすると、なんだか秘められたものを見たような気分にさせられる。

 とどめとばかりに泣きぼくろが色気を振りまいてきやがるのよね。

 

 欠点である背の高さだって、何しろ体形がいいから、ああ、そう言えばっていう程度でしかない。

 出るとこ出てるけど、ほっそりとしていて、でも骨が浮いてるってわけじゃないのよ。

 技込みでとはいえリリオを押さえつけられるくせに、全然筋肉質な所がなくて、たおやかな感じってこういうのを言うのかしらね。

 もしかしたらあたしでも押し倒せるんじゃないかって思わせるくらいなのよ。実際やったらするりとかわされるんだけど。

 

 まあ、うん、勿論これが贔屓(ひいき)目っていうやつなのはよくわかってるわ。

 身内だから、親しいから、よく見える。

 実際、最初に見た時の印象は、とにかく根暗で、目つきが悪くて、ひょろっとうすらノッポな、なんか不気味な奴って具合だったわ。

 おまけに詳しくは気取らせないくせに、じんわりと圧のある気配だから、結構怖いものがあったわ。

 

 でも付き合っていくとね、いい女なのよね、こいつ。

 酒場とかでご飯食べる時も、自然と給仕に取次しやすい場所に陣取るし、人付き合い苦手っていうか嫌いなくせに、率先してみんなの注文とかするし、ハシとかいう二本の棒で器用に取り分けるし。

 そんなことしなくていいのよって思うし、言うんだけど、気持ちよく食べてる姿が好きだからって言われたら、もう、仕方ないじゃない。そりゃお酌してもらうわよ。

 おかげさまで、がっつくだけのリリオの食事でさえ、なんとなく品よく調整されるわよ。

 なんていうのかしらね、ウルウ曰くの、女子力っていうの?

 そういうの感じさせるわよね。

 あたしもするから、リリオだけ女子力がない感じなのよ。実際あんまりないんでしょうけど。

 

 なんかこうやって並べ立てていくと、かなりの優良物件みたいに見えてくるから不思議よね。

 でも初見でそう言う風に思えるかっていうと、無理よね。無理無理。断固として無理。

 あたしが無理だったんだから無理に決まってるわよ。

 

 付き合えばいい女なんだけど、付き合うまでが長いのよ。

 人見知りで、人間嫌いで、それを助ける妙なまじないまであるから。

 だって、姿消すのよ、こいつ。

 見えないんだから、いないのと一緒じゃない。

 リリオがおしゃべりしたがるから、最近は姿さらしてることも多いけど、必要ない時はとことん姿消してるのよ、こいつ。

 

 で、姿現してもよ、壁があるのよ。壁。

 仕方がない時とか、さっき言った、注文する時とか、必要があればこいつ流暢に喋るのよ。

 喋るんだけど、親しみがないっていうか、完全に仕事で喋ってるのよ。

 

 笑顔も浮かべるけど、商人たちが浮かべる営業用の笑顔でしかないし、やろうと思えば小粋な会話もするけど、本心なんか欠片もないし。

 あれよ、お酒注文するときに給仕の娘なんかに微笑んだりするじゃない。そりゃあたしだってするし、リリオもするし、大概するんじゃないかしら。不愛想に、酒と飯、なんて注文するの、滅多にいないわよ。

 あの笑顔が完全に作り物なのって、もう怖くない?

 無意識に、とか、反射的に、っていうんじゃないの。意識して笑顔作ってるのよ、あれ。

 そのこと自体怖いし、そんなことしなきゃならなかった以前のウルウの住んでたとこも怖いわよ。

 

 リリオのくだらない冗談に塩対応してるときのやる気ない顔の方がよっぽど感情こもってるのって、どうなのかしらね、ほんと。

 

 だからこうして温泉とか入ってて、完全に力の抜けた顔とか見せられると、あたし、すごい偉業を成し遂げたんだわって気分さえするわね。

 気難しい野良猫が手から餌食べてくれた時みたいな。

 

「……あのさ」

「あによ」

「そんなに見られると穴が開きそうなんだけど」

「いっそ開きなさいよ」

「ええ……そんな無茶苦茶な」

 

 あたしの視線を煩わしそうに手で遮りながら、ウルウは片方を引くつかせた。

 にやつくのを押さえてたりする顔だ。

 こういうなんでもない会話が、意外とこいつのツボだったりするのだ。

 

「あんたさ」

「なあに?」

「リリオが奥さまにべったり甘えてるから、寂しいんじゃない?」

「トルンペートこそ、リリオのお世話できなくて寂しいんじゃないの」

「むっ」

 

 最近あたしとの二人組が多いから、案外寂しがり屋な所のあるウルウは思うところがあるんじゃないかとつついてみたら、図星だったようで、むきになったように言い返してきた。

 ちょっと強がりそうになったけど、こういうとき、こちらもむきになるとよろしくない。

 あたしは大人な対応をしてやることにした。

 

「まあ、そうかもしれないわね」

「……意外」

「そう?」

「のような、そうでもないような」

「まあ、寂しいのはほんとよ」

 

 奥様が姿を消してからの四年間、リリオの傍にいたのはあたしだ。

 それまでだって、奥様がつきっきりだったわけじゃない。お世話して、面倒見たのは、あたしだ。

 リリオと一番時間を長くともにしたのは、あたしだっていう自負さえある。

 

 それが母親と言うだけで、急に現れて横からかっさらっていくというのは、どうにも釈然としない。

 そりゃあ、四年ぶりで、しかも死んでいたと思っていた相手との再会だ、しばらくの間は仕方がないとは思う。思うけれど、納得がいくかと言えば、全然そんなことはないのだった。

 

「あんたも寂しいんでしょ」

「……寂しい、んだと思う」

 

 改めて尋ねてみれば、素直にそう返してくる。

 あたしたちは二人とも寂しがり屋なのだ。

 

「寂しいっていう気持ちは、よくわからなかったんだけど、多分これが寂しいって気持ちだと思う」

「どんな気持ちよ?」

「なんかこう、胸がさわさわして、きゅうっとして、落ち着かないんだ」

「ああ、うん、そんな感じよね」

「父さんが死んだ時みたいな」

「思ったより重たいの来たわね」

「でもお母さんっていうのは、リリオにとってすっごく大事だと思うから。私はお母さんって、いたことがないからよくわからないんだけど、それでも、邪魔しちゃいけないと思うんだ」

「あー」

 

 あたしにも、母親ってものは、よくわからない。

 母親も父親もいなかったあたしにはそもそも親ってものがよくわからないけど、でも大事なんだろうなってことはわかるし、邪魔しちゃいけないってこともわかる。

 

 わかるけど、それであたしたちの寂しさがどうなるってわけではないのだ。

 むしろ遠目に見てる分、一層寂しくなる気さえする。

 

「もうさあ」

「うん」

「あの親子は放っておいて、あたしたち二人でくっついちゃおうかしら」

「チーム暗殺者だね」

「最強の二人ね」

「違いない」

 

 あたしたち寂しがり屋二人は、ちょっと手狭な露天風呂の中、肩を寄せ合ってしばらくぼんやりとそのぬくもりを楽しんだ。

 そうしてとけあうぬくもりの中で、あたしはふっと思うのだった。

 

 でも、きっとそれじゃ物足りないんだわ、と。




用語解説

・法の神
 法の神ユルペシロ(Jurpesilo)のこと。
 神々の裁定者。法と裁きの神。揺るがざる大天秤。
 正しきとあやまちとを見定めて裁くという。
 ただし、その司る法は神々の法であり、人の世の法ではない。
 人の罪は人の法で裁かれるべきであり、神は人を裁くことをしないという。
 ユルペシロは人の裁判を手助けしてくれるが、あくまでも人の法に則った判決を述べるだけで、その法が正しいかどうかは言及しないとされる。
 かといって神々の法に則って裁いてもらうのはお勧めできない。
 既知外の神々の法がどうして人々を守ってくれるなど考えられるだろうか。

・ハシ
 箸。二本の棒を片手で使ってものを食べるという頓狂な発想の食器。
 西大陸の華夏(ファシャ)などで広く使われている。

・女子力
 決まった中身も根拠もない、発言者の定義するところの「女子っぽさ」の度合いを示すとされる架空の力。
 「じょしぢから」と読むとまた別のパゥワになる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合と温泉魚のサシミ・白葡萄酒煮込み

前回のあらすじ

よもやこの章は飯と風呂の話だけで終始するのではないか、と思わせる回。


 先に温泉を頂いた私とお母様は、ウルウたちが釣ってきた温泉魚(バン・フィーショ)なる見事に大振りな鮫のような魚を受け取り、早速調理するべく竜車まで戻ることにしました。

 

 とはいえ、温泉ですっかり温まったのに、服を着るときにはどんどんと冷えていき、すっかり着込んだころにはまた温泉に入りたくなっていました。

 

「リリオもまだまだねえ」

「むー。お母様はずっこいです」

「使える技を使ってるだけよ」

「むぐぐ」

 

 一方でお母様は平然としています。

 風精に働きかけて空気の壁を作り、氷精を遮って寒さを防いでいるのです。

 何の装備もない素っ裸で、呪文の詠唱もなく、息でもするかのようにそんな術を使える方がおかしいのであって、私は冒険屋としてはいたって普通だと思うのですけれど。

 

「普通どまりでいいなら、それでいいんじゃない?」

「そう言われると、むぐぅ」

 

 冒険屋の道は、長く険しいです。

 

 私もなにしろ辺境貴族の端くれ。魔力の量は多く、精霊にも好かれやすいのですけれど、いかんせん精霊と触れ合い、操る術に通じていません。

 ここしばらくの間にお母様にもおばあちゃんにもいくらか手ほどきしていただきましたけれど、どうにも不器用なのか、なかなか身に付きません。

 身に着ければ便利などとちょっとした宴会芸か何かのように気楽に言ってくれますけれど、本来魔術というものは一朝一夕でできるものではありません。

 

 そう考えると、戦闘で使えるようなものはあまりないとはいえ、細々と魔術の使えるトルンペートはかなり努力家で、そして素質があったのでしょう。

 ウルウも精霊がくっきり見えると言いますし、変わったまじないをたくさん使いますし、真面目に習えば魔術も使えるようになるのではないでしょうか。

 この二人がいるなら別に私は使えなくても問題ないんじゃないかという気もしてきましたけれど、なんだかそれはそれで悔しいので、努力あるのみですね。

 

 来た道を辿るように竜車まで戻る道を、温泉魚(バン・フィーショ)に雪をまぶして、表面を洗いながら進みます。これは単に後で洗う手間を惜しむだけでなく、温泉から釣り上げられたばかりでほんのり暖かい温泉魚(バン・フィーショ)を急速に冷やしてやるための工程でもあるそうでした。

 冷やしすぎると身が固くなるそうですけれど、なにしろ温泉でホッカホカの魚です。多少しっかり冷やした方がよさそうです。

 

「これも、温泉なんかに住んでるけど、一応鮫の仲間なのよ」

「鮫って初めて食べます」

「このくらいの距離だったら気にしないでもいいんだけど、鮫って時間がたつと独特のにおいがしてくるのよね」

「足が早いんですか?」

「腐りはしないのよ。でもその代わり、変なにおいがするのよね」

 

 においはするけれど保存は利くので、海辺よりもむしろ山間などで珍味やご馳走として食べられることが多いのだとか。その独特の香りを興がるということもあるけれど、新鮮な魚に慣れたハヴェノ人であるお母様にはあんまり好みじゃないみたいです。

 

 なので、どんな魚でも一緒ですけれど、水揚げしたらすぐにしめて、氷水などで冷やすのが一番鮮度をよく保てる方法なのだそうです。

 直接氷で冷やさず氷水で冷やすのは、直接だと氷焼けと言って身が悪くなることが……この温泉魚(バン・フィーショ)はいいんでしょうか。直接雪がっしがっしなすり付けてますけど。

 まあお母様は細かいこと気にしなさそうですね、うん。

 

「私が真っ先に氷の魔法を覚えたのは、漁師との付き合いが多かったってのもあるかもしれないわね」

 

 幼いころから好奇心旺盛だったお母様は、よく知り合いの船に乗せてもらって、様々な魚の捕り方やしめ方、捌き方を教わったそうで、それが巡り巡って、辺境まで新鮮な魚介を届けるという、お父様との出会いにつながったわけですね。

 なんだか物語のように運命的ですね。

 

 その後の道中も、飛魚(フルグフィーショ)は身が黒くなりやすいし、脂は足が早いし、塩漬けは硬くなるし、水槽で運ぶにはでかすぎるし、しめ方の改良や超低温の氷室の発達がなければなかなか流通させられない雑魚だったとか、氷室で寝かせると味が深まることがわかってから値が高くなり始めたとか、海辺の町に住んでいないとなかなかわからないことを教えてもらいました。

 それに、凍らせた大型魚は凶器になるとか、烏賊(セピオ)の墨を蕃茄(トマト)と煮込んで練り物(パスタージョ)に和えたものがうまいのだとか、ほかにも様々なとりとめもないことを話したように思います。

 

 それは情報を交換するというよりは、全く中身のない、ただ言葉を交わすことだけを楽しむ、そんなどうしようもなく下らない、そして贅沢な会話だったように思います。

 

 竜車に戻った私たちは、ふわふわと柔らかい新雪をある程度投げてしまい、その下から顔を出した硬い雪をさらに踏みしめて押し固めて、しっかりとした土台を作ります。

 そうしてここに空気がよく通るように薪を積み、火を起こします。

 今日は、まあ二基あればいいでしょうかね。

 雪の上で火が起こせるのだろうかとお思いかもしれませんが、起こせます。

 こればっかりは慣れですけれど、慣れさえしていれば大抵の状況で焚火は熾せます。

 

 かまどを作る石は、雪で埋まってしまって探すに探せませんので、五徳に鍋をかけて湯を沸かします。

 

 火が安定したら、早速温泉魚(バン・フィーショ)を捌きにかかります。

 と言っても私は鮫の類を捌いたことがありませんから、余さず美味しくいただくためにも、ここは慣れたお母様に手本を見せていただきます。

 

 まずお母様は、水袋の水とたわしを使って、改めて温泉魚(バン・フィーショ)の表面を洗ってぬめりを落としました。

 次に魚を捌くための分厚い包丁を取り出すと、手早くひれを落とし、頭を落とし、内臓を抜き取り、尾を落とし、三枚に卸していきます。

 手馴れているので非常に速やかに作業は進んでいくのですけれど、鮫の肌というものはなかなかに丈夫なものらしく、どんどん刃が削れて切れなくなっていくのが窺えます。それでもするするっと手妻のように一尾を捌き通して、奇麗な白っぽい桃色の身をさらす三枚おろしの完成です。

 

 お母様が包丁を研いでいる間に、私も自前の包丁で挑戦してみましたが、これがなかなか難敵です。

 鮫肌が非常に丈夫なのは承知の上でしたが、内側も意外でした。骨が恐ろしくやわいのです。

 鮫という生き物はあれだけ強そうななりをしておいて、なんとその骨は軟骨ばかりでできていたのです。

 三枚に卸そうとして骨に刃を当てると、うっかり骨ごと身を切り落としてしまいそうになるくらいでした。

 

 ちょっと時間をかけながらもなんとか捌き終えましたけれど、断面はがたがたになってしまって、お母様のと比べると明らかに見た目が悪く、きっと身の締りも悪くなっていることでしょう。

 

「まあ、誰だって最初はそんなものよ」

 

 私のささやかな消沈を気にも留めず、お母様は沸かしたお湯をざばざばと温泉魚(バン・フィーショ)の皮にかけていきます。

 するとなんということでしょう、あれほど丈夫で頑固だった皮がべりべりと簡単にはがれるようになるではありませんか。

 温泉に住む温泉魚(バン・フィーショ)も、さすがに沸かし切ったお湯にまでは耐えられなかったようです。

 

 お母様の捌いたきれいな方の身は、サシミにするということで、しばらく置いておきます。

 いまのうちに切っておいてしまってもいいのですけれど、そうすると乾いてかぴかぴになってしまいます。サシミもまた、出来立てが美味しいのでしょう。

 

 サシミに使わない、私の捌いた方の身と、頭や骨と言った部位を使って、私が火の入った調理を施します。

 サシミも美味しいですけれど、寒いですし、やはり温かいものが欲しいですものね。

 

 まず玉葱(ツェーポ)をざくざく切ります。

 塘蒿(セレリオ)もあったのでこれも入れちゃいましょう。ざくざく切ります。

 人参(カロト)がしなびてきてたので、これもざくざく切っちゃいます。

 大体の材料はざくざく切っちゃえばいいんです。

 大体の大きさをそろえて、火の通りが同じくらいになるようにって考えておけばいいんです。

 まあ、あんまり考えてやってないんですけど。

 

 野菜を見比べて、生姜(ジンギブル)を二欠け。

 一欠けは叩いて細かく刻みます。

 もう一欠けは、うすーく薄切りにして、それをさらに千切りにして、針のように細くして、水にさらします。

 

 しなびかけた韮葱(ポレオ)も見つけたので、頭の青い部分はぶつ切りにして香り出しに、白い部分は、外側のしなびたところを取り払い、適当な長さに筒切りにして行きます。

 ちょっと考えて、この筒を切り開き、芯を取り除き、繊維にそって千切りにして行きます。

 出来上がったら先ほどの生姜(ジンギブル)と一緒に水にさらします。

 

 この針生姜(ジンギブル)と白髪韮葱(ポレオ)は、ウルウに教えてもらったやりかたでした。

 

 温泉魚(バン・フィーショ)の身は程よい大きさに切り分け、兜は割り、中骨の部分も適当な大きさに分けます。

 

 身の部分に軽く下味をつけ、粉を叩き、油を温めた浅鍋でさっと両面を焼いて、すぐに取り上げます。

 これは表面を固めてうま味を逃がさない工夫だとかで、ここで火を通してしまう必要はありません。

 私一人ならこの時点で食べてしまっても良いような気分にもなりますけれど、ここはちゃんと最後まで頑張っていきたいところ。

 

 同じ浅鍋で微塵切りにした生姜(ジンギブル)を温めて香りを出し、野菜の類を放り込んだらざっくり炒めます。玉葱(ツェーポ)は先に炒めると甘みが良く出ますし、人参(カロト)は火が通りづらいのでここである程度通しておきたいところ。

 塘蒿(セレリオ)? 塘蒿(セレリオ)はなんかこう、うまいぐあいにやればいいんじゃないですかね。

 生でも火を通しても美味しいんですからあんまり気にしなくていいんですよ、うん。

 

 炒め終えたら深めの鍋に移して、先ほど焼き目を入れた温泉魚(バン・フィーショ)の身を崩さないように並べ、隙間にアラを放り込みます。

 そこに水、白葡萄酒(ヴィーノ)をひたひたになるまで注ぎ……ひたひたでいいんでしたっけ。まあいいでしょう。もう注いじゃいましたし。多すぎたら火にかけて飛ばせばいいんですよ。うん。

 

 で、塩と、砂糖を少し、月桂樹(ラウロ)の葉を適量放り込んで煮込みます。

 月桂樹(ラウロ)の葉はいいですよね。大体何に使っても間違いないですから、適当に放り込んでもまずくなることはありません。

 トルンペートなんかは、いろんな香辛料を使い分けますし、ウルウもなんだかんだ鼻がいいので、それらしいものを放り込みますけど、まあ、私は、うん、これも私らしさというか?

 

 船旅や、長期の旅のために、お湯で溶くだけで使える固形の出汁なんかもあるらしいですけれど、あれはさすがにお高いのでそうそう気軽に使えません。

 いや、私たちの資金からしてみたら使えないことはないんですけど、あんまり割に合わないなあ、と。

 瓶詰の濃縮出汁なんかはまだ手が届くお値段ですけれど、移動が多い冒険屋にとって、割れ物の瓶詰はちょっと使い辛いんですよね。

 これらがあれば、ちょっとの手間で味わいはぐっと深くなる、らしいのですけれど、そういうのは町のお店とかで外食する時に食べればいいかなあ、と。

 

 トルンペートの鹿節(スタンゴ・ツェルボ)なんかは、割とお値段は張りますけど、壊れ物でもなし、お手軽でもあり、ある種、この固形出汁のお仲間と言っていい気もします。

 

 まあ、私はよくわからないので、わかる方法で調理するとしましょう。

 

 勘で味を見極めたら、蓋をして少し火からはなし、コトコトと煮込みます。

 後は美味しくなあれと祈るだけです。

 

 コトコト煮込まれる鍋の前で私が美味しくなれの祈りと踊りを捧げていると、やがてお風呂上がりでほかほかとしたウルウとトルンペートが帰ってきました。

 ゆっくり温泉を楽しんできたんでしょうけど、なんかほかほかしすぎてません?

 私が凍えながら着替えて、冷め往く体温を感じながら帰ってきたのと全然違いません?

 またなにか不思議な便利道具でも使っているんでしょうか。

 ぐぬぬ。

 

 ともあれ、二人が帰ってきたのならば、ご飯です。

 私が煮込みの最後の調整をしている間に、お母様はサシミに取り掛かります。

 

 美しい桃色をさらした温泉魚(バン・フィーショ)の柵は、笹穂のようにするりと細長い包丁でもって、するりするりと鮮やかな手つきでサシミにされていきます。

 サシミってただ切ればいいものだと最初は思っていましたけれど、違うんですよね。使う包丁、切り方、また温度や、しめ方、そういったもの全てが、ありありと出てきてしまう繊細な料理なんですね、サシミ。

 

「お魚は寝かせた方が美味しいんだけどねえ。南部人はあんまり寝かせないで、ちょっと歯応えの(こわ)いのが好きよねえ」

 

 お肉も熟成させた方が美味しいですものね。

 普段は獲ったらその場で食べちゃいますけど。

 

 お母様はするすると切っていった――サシミは「引く」と言うそうですね――温泉魚(バン・フィーショ)を皿に奇麗に盛り付け、そして新たな切り身を、今度は沸かしたお湯にくぐらせます。

 茹でるのだろうかと思いきや、さっと取り上げて、冷水につけて冷ましてしまいます。

 これは湯引きというそうで、表面だけ加熱され、生臭さや余分な脂を取り去るほか、身が引き締まる効果もあるそうです。

 冷水から引き揚げられた柵は、霜が降りたように白く染まっており、これをサシミのように引いていくと、薄桃色の中心部が鮮やかに表れて、見た目にも美しい仕上がりです。

 

 またもう一つ柵を取って、こちらは串を刺して、なんと火で炙り始めました。

 串焼きで食べるにしては大きい、と思っていると、これも表面を炙るにとどめて、冷ましてしまいます。

 こちらはタタキと言うそうで、西方の炙り焼きのやり方だそうです。

 藁で焼くと香りがついてよいとのことでしたが、さすがにそこまでの準備はありませんでした。

 こちらも生臭さなどが取れる他、水分が飛ぶので味が濃く強まるそうです。

 また、食欲をさそう香ばしさがたまりません。

 

 刺し身は醤油(ソイ・サウツォ)で、湯引きは胡桃味噌(ヌクソ・パースト)と酢などを混ぜた酢味噌で、タタキは大蒜(アイロ)生姜(ジンギブル)、さらし玉葱(ツェーポ)などの薬味と一緒に、柑橘の汁と醤油(ソイ・サウツォ)を合わせたものでいただくと美味しいとのことでした。

 

 私の方はもう少しかかりそうでしたので、先に頂くことにしましたけれど、これがまた、同じような姿をしているのに、その味わいは三者三様に素晴らしい物でした。

 

 まずサシミです。

 少し独特の香りが鼻につくかな、とも一瞬思うのですけれど、脂が豊富でとろりと舌にとろけて、甘みが強いんですね。

 ちょっと不安になるくらいくにゅりくにゅりと柔らかくて、脂を食べている、という感じなのですけれど、これがまた美味しい脂なんですね。

 

 湯引きはがらりと印象が変わりました。

 表面が締まっていて、先ほどの不安になるような柔らかさに、確かな歯ごたえをもたらしてくれるんですね。そして酢味噌がまた、いい。甘みのある胡桃味噌(ヌクソ・パースト)を酢がさっぱりとした具合に仕上げてくれていて、濃厚、だけどあっさりという味の妙なのですね。

 そして、湯引きの効果と酢の効果との合わせ技か、先ほどは少し気になった独特の匂いが、全然気になりません。

 

 タタキは力強い印象でした。

 まず薬味を使わずに合わせ醤油(ソイ・サウツォ)だけで頂いてみたのですけれど、これがなかなか、味わい深い。湯引きと同じように身が締まっているだけでなく、炙りによる香ばしさが鼻に心地よく、またいくらか脂っこいなと感じ始めた舌に、身自体のうま味が濃縮されて感じられるんですね。

 ここに大蒜(アイロ)生姜(ジンギブル)玉葱(ツェーポ)と言った力強い薬味をけしかけますと、温泉魚(バン・フィーショ)の方も、追いやられるなどと言うことは全くなく、力を合わせて舌に挑んでくるんです。

 その上で決して重たく感じさせないのが、合わせ醤油(ソイ・サウツォ)の柑橘の爽やかさですね。

 

 サシミを楽しんでいる間に、煮込みの方もいい具合に誤魔化せもとい出来上がりましたので、皿に取り上げて、最後の仕上げです。

 

 水にさらしておいた針生姜(ジンギブル)と白髪韮葱(ポレオ)をよく絞って、これでもかっというくらいたっぷりと煮込みの上に散らします。散らすというか、もう、乗せます。たっぷり。

 そして枸櫞(ツェドラト)を搾って果汁をかけまわし、さらにその上から、浅鍋で熱した橄欖(オリヴォ)油をかけまわします。

 バチバチと跳ねながら、橄欖(オリヴォ)油の香りが漂い、爆ぜた枸櫞(ツェドラト)の汁が爽やかな香りをあげ、また韮葱(ポレオ)生姜(ジンギブル)とが高熱にさらされて、しおれながらその香りを解き放ちます。

 香りの三重奏と、跳ね上がる油の音に、視線も集まります。

 

華夏(ファシャ)街でやってたわよね、こういうの」

「あれ美味しかったんで、やってみようかなと」

「あれは蒸し物だったけどね」

 

 仕上がった白葡萄酒(ヴィーノ)煮込みを、熱々の内に頂くことにしましょう。

 

 火を通した温泉魚(バン・フィーショ)の肉は、生の時の柔らかな食感とは異なり、しっとりとした鶏肉のような歯応えで、硬すぎるということはなく、口の中でほろりとほどけていくようでした。

 味わいは淡白ですが癖はなく、白葡萄酒(ヴィーノ)の香りが邪魔されずに漂います。

 また、針生姜(ジンギブル)と白髪韮葱(ポレオ)と一緒に食べると、じゃくじゃくとした食感と辛みが、この控えめな味わいにすっきりとした芯を一本通してくれるようでした。

 煮込み料理には普通はあり得ない、かけまわした油の香ばしさもまた、味わいに複雑さを与えてくれます。

 

 また、出汁とり用として放り込んだアラも、侮れません。骨周りなどぷにぷににとした食感がたまらず、軟骨ももう少し煮込めば美味しくいただけそうなものでした。

 

「かなり凶暴な魚だったけど、こうしてみると美味しいねえ」

「存外、危険な魔獣の方が美味しいのかしら」

熊木菟(ウルソストリゴ)も調理次第で美味しくいただけましたしねえ」

 

 温泉魚(バン・フィーショ)は美味しいだけでなく、その鮫皮はおろし金に使ったり、剣の柄巻きに用いたりと、素材としてもなかなかに優秀なようでした。

 

「温泉も楽しめて、美味しいご飯も食べれるなんて、いい場所だね」

「住みついたらあっという間に温泉魚(バン・フィーショ)絶滅させそうよね」

「そう言えばキューちゃんたちはどこへ?」

 

 ご飯時になっても帰ってこない飛竜二頭に小首を傾げると、ウルウとトルンペートは顔を見合わせ、そしてぼそりと呟いたのでした。

 

温泉魚(バン・フィーショ)、絶滅したかも」

 

 おやつと温泉をたっぷりいただいた飛竜二頭が帰ってきたのは、それから少しした後でした。




用語解説

玉葱(ツェーポ)
 ネギ属の多年草。球根を食用とする。タマネギ。

塘蒿(セレリオ)
 セリ科の淡色野菜。独特の香気がある。セロリ、オランダミツバ。

人参(カロト)
 セリ科ニンジン属の二年草。もっぱら根を食用とする。ニンジン。

月桂樹(ラウロ)
 クスノキ科の常緑高木。葉に芳香があり、古代から香辛料、薬用などとして用いられた。
 食欲の増進や、消化を助けるとされる。

・固形の出汁
 固形出汁《ブリョーノ・クーコ》(buljono kuko)と呼ばれるものは様々な種類が存在する。
 例えば、材料となる牛、羊、豚、鶏などを蜂蜜のような粘土になるまで煮詰め、オーブンで乾燥させたもの。
 例えば、乾燥・粉砕した原料を粉類、調味料、香辛料などとともに押し固めたものなどである。
 どちらもある程度大掛かりな工業手法が必要であり、また需要がそこまで高くないため、現在はまだ高価であるか、希少である。
 多量の油脂で食材などとともに出汁を固めたものは安価であり、手作りも難しくなく、またカロリーが高く寒冷地や難所では人気がある。

・美味しくなれの祈りと踊り
 そんな宗教的儀式は存在しない。

枸櫞(ツェドラト)
 ミカン科ミカン属の常緑低木樹。シトロン。檸檬(リモーノ)の類縁種。
 でこぼことした楕円形で、果皮は柔らかいが分厚く、果汁も果肉も少ない。
 酸っぱい種類とそうでない種類がある。

橄欖(オリヴォ)
 モクセイ科の常緑高木。オリーブ。
 果実は油分を多く含み、古くから油が採られてきた。
 また採油だけでなく、身は食用にもなり、塩漬けが良く出回っている。
 橄欖(オリヴォ)の木材は硬く丈夫で、やや高価ながら道具類によく使われる。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 亡霊と帰ってきた抱き枕

前回のあらすじ

マジかよ。マジで飯だけで終わっちまった。しかも八千字近くもひたすら飯の話だよ。
どうなってるんだ。



 鮫っていうのは初めて食べたけれど、なかなか悪い物じゃなかったね。

 食べたことがない身としては、ちょっとゲテモノ枠というか、食材としてはなかなか見れない生き物だったけれど、調理して食べてしまえば、普通に美味しいものだった。

 刺し身はちょっと微妙かなー、美味しいけどちょっと気になるかなーという感じだったけれど、煮込みは普通に白身魚として美味しい部類。

 

 フカヒレとかキャビアとか、変な例としては肝油ドロップとか、鮫由来の食品は割と見かけたことあるけど、鮫の肉って出回らないよなあ。

 普通にスーパーとか、回転寿司屋とかで見かけるものだったら、普通に食材として受け入れる感じだよね。

 いや、出回ってるとこには出回ってるんだろうけど、私の住んでたとこ、別に沿岸地帯でもなし、そういうの見たことなかったな。

 そもそもスーパーでお買い物、なんて随分してないけど。

 

 鮫もとい温泉魚(バン・フィーショ)を美味しくいただいて、心配していた温泉魚(バン・フィーショ)絶滅も、軽くおやつ程度にただいてたくらいだったらしいので杞憂に済んだし、私たちは焚火にあたりながらのんびりと(テオ)などを頂いていた。

 

 そう、(テオ)だ。甘茶(ドルチャテオ)じゃない。南部産のお茶なのだ。

 

 帝国各地で飲まれている甘茶(ドルチャテオ)は、ベリー系やハーブ系など、甘いお茶はなんでも甘茶(ドルチャテオ)と呼ぶので、地方によって全然違うというのは前にも言ったと思う。

 南部にはいわゆる甘茶(ドルチャテオ)というのはない。

 他の地域の甘茶(ドルチャテオ)がそれ自体甘いのに比べると、お茶に蜂蜜とか砂糖とかを自分で加えて甘さを調節するのが南部流だ。

 西方から茶葉も輸入しているし、茶の木自体の栽培もしてるらしいから、実際、私の知るお茶と同じか、品種がちょっと違うくらいのものなのかもしれないというか、うん、普通に紅茶だな、これ。

 

 私なんかは懐かしいような気もして少しホッとするけど、帝国では茶の木のお茶はそこまで人気じゃないらしい。栽培が難しいし、発酵も難しいし、渋みがあんまり好きじゃなかったり。

 

 南部で栽培してるのは、お茶好きの貴族が頑張って挑戦し続けた成果みたいなもので、完全に趣味の産物らしい。

 庶民なんかはむしろ、南大陸とかいうところから輸入したり、自前でもちょこちょこ栽培したりしているという、豆茶(カーフォ)の方が好みなんだとか。

 豆茶(カーフォ)も大概苦いけど、伝わってきた時に砂糖と乳をたっぷり入れて飲む甘い飲み物として紹介されたみたいで、ブラックで飲むのは少数派だ。

 

 こう、丼みたいなでかい器にたっぷりとカフェオレ注いで飲むんだよ、南部人のティータイム。

 下手な甘茶(ドルチャテオ)よりよほど甘いよね、あれ。

 

 メザーガなんかはいつもブラックで飲んでたっけ。胃が荒れそうな顔してるのに。

 彼の場合はあんまり甘いものが好きじゃないのと、覚醒作用が目的みたいなところはあると思うけど。

 

 マテンステロさんは甘ったるいカフェオレ大好きみたいだけど、今回の旅には豆茶(カーフォ)は持ってきていない。

 乳の類はあんまり日持ちしないから旅には持ってこれず、しかし乳がないのに豆茶(カーフォ)なんか飲めるかという、そういう理由らしい。

 

 このお茶は、まあ少しくらい渋みはあるけど、砂糖でどうにかなる程度だから、許容範囲らしい。

 私にはよくわからない感覚だ。

 

 お茶を済ませて、歯を磨いて、肌に保湿用の油を塗って、あとは寝るだけなんだけど、あくび交じりにもそもそ竜車に向かった私たちに、マテンステロさんが宣言した。

 

「今夜は組み分け変えましょ!」

 

 眠そうで実際眠い我々三人と違って、マテンステロさんは実に元気だ。

 この人が元気じゃないところ見たことないけど。

 

 もっともらしく語るところによれば、竜車での旅は長く退屈で、閉塞感に満ち、倦み飽きてしまう。そんな状態は心身によろしくないことは明白である。だから、刺激が必要なのだと。

 私としては変わったご飯食べられるし、温泉にも入れたし、十分刺激たっぷりな一日だったのだけれど、旅慣れたマテンステロさんにはそうではないのかもしれない。

 

 面倒くさいから明日でいいんじゃないですかね、と消極的なムード漂う我々を気にした風もなく、マテンステロさんは楽しげに私たちを見回して、そして密かに身を潜めようとしたトルンペートの首根っこを問答無用で掴んだ。

 あれ怖いんだよなあ。

 目の前にいるのに挙動が読めないんだもん。

 いつの間にか掴まれてるんだよ。

 マテンステロさんに言わせれば、単なる手先の技らしいけど。

 

 借りてきた猫よろしく大人しくなったトルンペートを引っ提げて、マテンステロさんは意気揚々と竜車に乗り込んでいった。

 去り際に垣間見えたトルンペートの目は必死で助けを求めていたように見えなくもないけど、お腹いっぱいでお茶もいただいてお目目がしぱしぱするくらい眠いから、多分見間違いだろう。私は何も見てない。知らない。わからない。

 

 リリオも悟りを開いたような目で見送っていることだし、我々は何も見なかった。うん。

 私たちはどちらともなく頷きあって、もそもそと竜車に乗り込み、《鳰の沈み布団》に潜り込んだ。

 

 いつもは三人で包まっている《布団》は、やはり二人だと、少し広く感じる。

 もともと一人用の《布団》なんだから、これでも定員オーバーのはずなんだけど。

 

 一日空いたせいか、ちょっと遠慮しがちに潜り込むリリオを、今日は私が抱きすくめて枕代わりにする。普段はリリオの方から抱き着いてきて、放っておいてもくっついているから、私の方から抱きしめると、どこら辺に手を当てたものか、どう抱えたものか、ちょっと要領がわからなくて、少しまごつく。

 リリオの方も、私からそうしてくるとは思わなかったようで、きょとんとしている。

 トルンペートと同じ感じでいいとは思うけど、トルンペートとは違って、子供みたいに体温が高いから、なんだか腕の中がほっこり暖かくて、不思議な感じだ。

 

 別に何日も何週間も離れていたってわけじゃないのに、なんだかそのぬくもりが不思議と懐かしく感じられた。

 

 なんだか居心地が悪いというか、座りが悪いというか、もぞもぞと抱きなおしているうちに、リリオも落ち着いてきたらしくて、いつものようにむぎゅうと抱き着いてきて、おかしそうに笑う。

 

「今日はなんだか、随分と積極的ですね」

「うん。寂しかったから」

「ふなっ!?」

 

 明らかにからかうような口調だったけれど、私は昼間の内にトルンペートとの会話の中で、ある程度自分の中の寂しさというものを認識し終えている。

 自分でもちょっと子供っぽいかなとは思うけれど、ずっと一緒に旅をしてきたリリオが取られてしまったような気持ちだったのかもしれない。

 いまは、なんだかちょっと安心しているような感じだよ。

 

 うつらうつらとしながらも、ある程度まとめ終えた素直な所を伝えてみると、リリは意外そうに、でもなんだかくすぐったそうに、小さく笑った。

 

「いつもはつれないのに、今日は随分素直です」

「うん、まあ、トルンペートとお話してね、ちょっと気づいたっていうか」

「気づいたって寂しいってことですか?」

「それもある」

 

 確かに私は寂しさを感じている。

 そのことに気付かされた。

 そして、寂しい理由にも。

 

「私さ」

「はい」

「私、結構君たちのこと、リリとトルンペートのこと、気に入ってるみたいだ」

「まあ、そうなんでしょうねえ」

「うん、君たちのこと、大事で、大切で、一緒に居たい」

「……はい」

「はなれたくない」

「……はい」

「ねむい」

「もうちょっとがんばってっ」

「おやすむ……」

「あああ……勿体ないような惜しいような……」

 

 腕の中に抱きすくめた体温。

 顔を薄めた髪から漂う、お手製リンスの少し甘酸っぱい香りと、ささやかな皮脂の匂い。

 そっと回された小さな腕。

 

 どれも、以前ならばきっとおぞましくさえ感じたいきものの感触が、なぜだか今の私にはとても安らいで感じられるのだった。




用語解説

・カフェオレ
 豆茶(カーフォ)は南大陸で発見されたが、当初は原住民の間で食用とされるほかは、その効用を偶然知ったものが眠気覚ましなどに用いる程度だった。
 いつごろからか豆茶(カーフォ)の豆を潰し、湯で溶いて飲用とする飲み方が始まったが、この頃はある種の秘薬のような扱いだった。
 南大陸の開拓が進んでいく中で豆茶(カーフォ)は薬用として目をつけられ始めたが、まだ一部の宗教関係者などが用いる程度だった。
 いつごろからか、恐らくは偶然から、豆を炒ると香ばしく香りが立つことが発見され、焙煎されるようになると、豆茶(カーフォ)は嗜好品として広まるようになった。
 人々の間に広まっていくうちに、より飲みやすくするために砂糖や乳を入れる飲み方が一般的になっていったとされる。
 南大陸で一般化されたこの風習は商人たちによって帝国に持ち込まれ、気候の近い南部で何とか栽培に成功し、南部での豆茶(カーフォ)の喫茶文化が洗練されていったという。
 渋みや苦みを伝統的に苦手とする帝国全体としては、すでに甘茶(ドルチャテオ)が喫茶文化の柱となっていたこともあり、趣味人のあいだでのみ流通することとなり、「知ってはいるが飲んだことはない」という人間が増えた。
 このため、南部外の人間が砂糖や乳を入れる「正しい」飲み方を知っていると、情報通であるとみなされることがある。

 なお、諸説あるが、最初に豆茶(カーフォ)に砂糖や乳を入れる飲み方を提案して、大々的に広めた人物は、神の啓示を受けたと証言したとされる。「神は()()()()()()()()を望まれている!」という発言が当時の新聞に残っているが、完全に発狂していて詳しくはわからなかったとのことである。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 飛竜空路

前回のあらすじ

恐ろしく短く感じる……飯の話をしていないというだけで……宇宙の 法則が 乱れる!


 あたしはリリオ程じゃないにしてもチビだけど、それでもそんじょそこらの連中には負けっこない。

 街道を荒らしまわる盗賊どもだって、あたしにかかればひとひねりだ。

 生中な連中じゃ手も足も出ない魔獣だって、最後にゃ鍋の具材にでもしてやれる。

 酒場で飲んだくれた冒険屋どもなんて相手にもならない。

 

 実際、この旅が始まってから、あたしが手こずった相手なんて数えるほどだ。

 三等とはいえ、飛竜紋を許された武装女中というものは、最低限その程度の武威を誇れなくては名乗れない。

 

 そりゃあ、完璧な女中だなんてうぬぼれる気はない。

 それでも自負がある。矜持がある。

 三等武装女中トルンペートには、意地がある。

 

 なんてまあ、格好つけたいところだけれど、泣く子も黙る武装女中にも勝てないものがある。

 

「今夜は組み分け変えましょ!」

 

 快活で裏表なく、魅力的と言って差し支えないような笑顔を前に、あたしは速やかに身を潜めてウルウの陰に隠れようとした。

 恥も外聞もない。

 大事な仲間を人身御供にしてでも逃げ出したかった。

 暗殺技能を仕込まれ、隠形を叩きこまれて以来、これ以上ないというくらいの会心の遁走だったと思うのだけれど、そんなあたしの全力全開などなかったかのようにこともなく、奥様の指があたしの首根っこをひっつかんでいた。

 

 力任せに鷲掴みにしているわけでもなく、鋭利な殺意で脅しつけてくるわけでもなく、まるでそこらの子猫を掴み上げるみたいに、無造作で、無遠慮で、無神経で、そして無慈悲だった。

 そこには悪意すらもなかった。

 ただ掴んで、運ぶ。それだけのことだった。

 あたしが奥さまと寝るということはすでに決定事項になっていて、覆すことのできないさだめとなっていて、そしてあたしは荷物のように運ばれるだけだった。

 

 竜車の奥に放り込まれ、分厚い毛布がぽいぽいと放り出されるので、あたしは仕方がなくそれを敷き詰め、整え、寝床とし、ではあとはごゆっくりと抜け出そうとして、やはり許されずとらわれた。

 

 乱暴ではなかったけど、容赦もなかった。

 あたしは何か言ったり、何かしたりすることも許されず、あれよあれよという間に毛布お化けこと奥様に絡めとられ、もこもこの毛布に一緒に包まることになってしまった。

 

 奥様は、大人しくしていれば、いっそおっとりしていると言っていいくらいに穏やかに見える方だし、微笑み方もやんわりしていて、仕草の一つ一つも柔らかく、そう、いうなれば()()()()()()だ。

 

 辺境であまり深く関わることのなかった頃、特に寒さのせいで動きたがらない冬場なんかは、それこそ絵にかいたような貴婦人といった具合で、どうしたらこの人からリリオみたいなおてんばが生まれるんだろうと不思議でならなかった。

 

 しかし、実際に私人として付き合うようになり、その行動を間近で見るようになった今、その印象は全く誤りであったことがよくよくわかった。

 

 穏やかなのも当然で、やんわりしているのも当然で、柔らかいのも当然で、優しそうなのも当然だ。

 

 何しろ、この人は、()()のだ。

 

 お腹の満ちた虎が兎なんかに牙をむいたりしないように、奥様がわざわざ荒ぶる必要なんて、大抵の場合存在しないのだ。

 どうとでもできるからどうもしないし、何とでもなるから何にもしない。

 

 ある意味においては、この方はどこまでも傍若無人なのだった。

 自由で、気儘で、そしてどこまでも勝手な人なのだった。

 

 冒険屋という生き物の、一つの理想の境地ではあると思うし、遠目に見る分には素直に感心もできそうだ。

 でもいざあたしがその振る舞いに巻き込まれるとなると、これは嵐の中に身一つで放り込まれたような気分だった。

 

 個人としての性質がそうであるだけでなく、困ったことに、奥様は、奥様という立場があった。

 つまり、あたしがお世話するリリオの母親で、あたしが仕える御屋形様の伴侶であるという、そういう立場が。

 あたしは奥様に仕えているわけじゃないけど、でも、それでもあたしから見れば奥様は仕えるべき立場の相手なのだ。

 

 天下の内に恐るるべきものを持たない武装女中も、仕える主には頭が上がらないのだ。

 

 あんまり親しい付き合いがあるわけでもなく、力量にも圧倒的に差があって、そして身分的にも頭が上がらない相手、となれば、これはもうあたしががちがちに固まって、まるで安らげなかったのも仕方がない話だとは思う。

 

 まあそんな小動物の気持ちなんて虎どころか竜みたいなものであるところの奥様には理解できないようで、暢気な顔で暢気なことをおっしゃるものだ。

 

「そんなに緊張することないじゃない。いまはただの冒険屋同士よ」

 

 そりゃあいくらなんでも、無理だ。無理です。勘弁してください。

 今すぐにでも逃げ出したい。

 逃げ出して、あっちのほんわか柔らかいお布団で寝てる二人のところに潜り込みたい。

 でも、いくら恐ろしくて、恐れ多くて、あと極めて面倒くさいとはいえ、さすがにそれはまずいという理性は残っている。

 

 子供のころから徹底的に躾けられた、武装女中としての心構えがこの極めて居心地の悪い心情を作り出しており、そしてその武装女中としての心構えが同時に、「多少無礼であれ精神安定のために逃げ出す」という選択肢を奪っている。

 ままならないものね。

 痛し痒し。痛し痒しだわ。

 

 奥様にはあたしの気持なんかはこれっぽっちもわからないようではあるけれど、それでもあたしが緊張でガッチガチになっているというのは、まあ目で見ただけでもわかるわよね、ゆるゆると視線を巡らせて何事か考えているようだった。

 あたしの緊張をほぐすための小粋な小噺でも思い巡らせているのならば、せめて普通に笑えるものにしてほしい。リリオなんかしょっちゅう滑るし、ウルウの噺なんかは笑いどころがつかめないものが多い。

 

 奥様はしばらく、んー、と可愛らしく唸って、それから、そうねと頷かれた。

 

「恋バナしましょ」

「はあ?」

 

 無礼極まりない「はあ?」であったけれど、緊張と居心地の悪さが限界に達したあたりでの理解不能な発言に、「はあ?」だけで済んだのだと言う風に考えて欲しい。

 もちろんこの「はあ?」は単純な疑問が爆発するように解き放たれてしまったが故の反射的な「はあ?」、つまり「お前何言ってんの?」を意味する「はあ?」だけでなく、よりによって緊張をほぐすための話題としてそんな危険球を投げつけてくるのかという「はあ?」や、あなた今年で三十七歳でしたっけその年でその話題を選んできますかという「はあ?」であり、また、もしかしてそれ自体が私を笑わそうとする試みですかそれならば失敗していますよという「はあ?」であり、それらが入り混じった複雑な心境の中をまっすぐに貫いてくる「正気か?」を意味する「はあ?」でもあった。

 

 つまり全く、完全に、私の全身全霊からの「はあ?」であった。

 

 失礼と失礼を重ねて失礼で打ち合わせて失礼で焼き上げたと言わんばかりの無礼の極みたる「はあ?」にも、奥様はまるで気にした風もなく、楽しげに微笑まれたままだった。

 

「恋バナよ、恋バナ。若者風の言い方なんでしょ、恋の話の」

「はあ、いや、それは、わかりますけれど」

「やっぱり女子が集まったら、そういうのするものだと思うのよね」

「そういうものなんでしょうか」

「私もやったことないのよ」

「私もです」

 

 私の場合、まあ、恋バナというか、女中の間で下世話な話とか、誰それができてるとか、そういう話はしょっちゅうしたことはあるけれど、多分恋バナというくくりではないと思う。

 

 奥様は奥様で、何しろ若いころから冒険屋で旅してまわり、そして冒険屋というものは比較的男性が多いから、あまり女性との絡みがなかったのかもしれない。

 女性冒険屋と話すことも時にはあったのかもしれないけど、臨時パーティなどはともかくとして、誰かと組んで旅したということもあまりないそうだから、恋バナする関係まで発展したこともないだろう。

 

 では辺境で御屋形様と結ばれた後はどうかというと、これが難しい。貴族の奥様ともなれば、やはりお茶会やらなんやらを開いて他の奥様方とご交流されるのが貴族界の一般的な習わしだとは思うのだけれど、なにしろ辺境というのは、土地の広さの割に貴族が少ないのだ。ぶっちゃけ三家しかない。

 郷士(ヒダールゴ)なんかを含めればもう少し増えるけど、それでも少ない。

 その上、一年の半分は雪が積もっていて、行き来が難しい。

 なので奥様会も難しいのだ。

 

 辺境貴族は、帝国貴族より実利を取り、使用人との距離も近いけれど、それでもやはり使用人は使用人で、奥様は奥様だ。ある程度はざっくばらんにおしゃべりしたりはできるかもしれないけれど、やはりどこかに遠慮ができてしまう。

 

 もとが南部の奔放な土地柄で育った奔放な冒険屋であるところの奥様としては、長い辺境での暮らしに大分鬱憤がたまっていたというのは、こういうところが理由であるのかもしれない。

 

 かといって故郷であるハヴェノに帰れば帰ったで、ブランクハーラの名は伝説の冒険屋という看板でもある。それだけじゃなく、奥様自身もあちこちで悪名もとい勇名を残す大冒険屋だ。

 なかなか親しい女友達もできなかったのかもしれない。

 

 そう考えると、こうした機会に、いままでできなかった話をしてみたいというのは、いじらしいという気もしないでもない。

 

 …………何にも考えてなさそうな笑顔を見る限り、思い付きで言ってそうな感じもするけど。

 

 まあ、それでもある程度枠組みが決まった方が、おしゃべりに付き合う方も気が楽だ。

 とはいえ恋バナか。

 何しろあたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》も、ヴォーストにいる間は依頼漬け、旅している間も特に出会いなどなく、恋とは縁遠いところにあるんじゃないかと、

 

「うちのリリオはウルウちゃんに()()()()みたいだけど、トルンペートちゃんはどうなのかしらって思って」

 

 思考を適当な方向に流そうという努力は見事に遮られた。ぶった切られた。粉砕された。

 あたしがどう答えたものかと、半分開きかけた口をもごもごとさせていると、奥様は実に楽しげに声を潜めて、いかにも内緒話を楽しもうといった風情だ。

 気分は猫にいたぶられる小鼠だけど。

 

「ああ、ええ、まあ、そうですね。そうでしょうね。リリオはまあ、随分ウルウに懐いていますから」

「それで?」

「それで、とは?」

「トルンペートちゃんはどう思ってるのかしらって」

 

 三人パーティで、二人の間に不明な矢印が発生したとしたら、残りの一人としてはどんな気持ちか。

 これは単純な数式じゃなかった。

 あたしにとってリリオは世話を見るべきお嬢様で、ウルウは数少ない友達だ。

 これが難しいところ。

 旅の主体は、リリオだ。リリオが冒険屋やりたいから、っていうのがパーティの起こり。

 ウルウの目的は、そんなリリオの旅を面白おかしく観劇すること。

 で、あたしはそんな二人のお世話。

 

 リリオが右いきゃ、ウルウも右についてくでしょうね。

 ウルウが左に行きたいって思ったら、リリオは左を選ぶことでしょうよ。

 でもあたしがまっすぐ行こうったって、それで左右される二人じゃないだろう。

 

 リリオはウルウを見ていて、ウルウはリリオを見ている。

 あたしは、そんな二人を見ている。 

 向かい合う矢印に、あたしっていう余計な点が一つくっついて、《三輪百合(トリ・リリオイ)》という三角形はできてるのだ。

 

 いまのところは、二人はあたしを気にかけてくれている。

 あたしの存在を許容してくれている。

 

 でもリリオが本当にウルウとくっついてしまったら、あたしの居場所はそこにあるんだろうか。

 

 なんて、考えたところで、あたしの答えは決まっている。

 

「別に、どうも」

「へえ?」

「主人の恋路に口を挟む気はありません。むしろ、あのリリオが誰かとくっつくんなら、将来の心配しなくていいですもの」

「ふうん」

 

 奥様は、リリオによく似た翡翠の瞳で、リリオと全然似ていないまなざしをあたしに向ける。

 

「本当に?」

 

 短い問いかけに、自分で勝手に圧力を感じて、思わず詰まる。

 

「ドラコバーネの家は、ティグロが継ぐでしょうね。辺境貴族らしく丈夫だから、あの子にもしものことなんてまずないでしょうね。だから、リリオが家を継ぐことはきっとないわ」

「そう、でしょうね」

 

 だから、リリオは冒険屋になりたがっている。

 というよりも、リリオが冒険屋になりたがっているから、妹思いのティグロ様は、何が何でも家督を継がれるだろう。

 

「爵位を継ぐこともないリリオは、厳密には貴族じゃない。貴族なのは爵位を持つ本人だけだものね。だからリリオは、貴族を親に持つ平民でしかない。政略結婚なんてする気もない辺境貴族だから、リリオがどこかに嫁ぐ必要もないわ」

「そう、なりますね」

 

 そうだ。

 リリオは面倒な貴族社会のことなんて考えなくてもいい立場だ。

 御屋形様は最初からそういう方面のことは期待していないし、ティグロ様はリリオの自由を阻むものがあればみんな抱え込んでしまわれることだろう。

 

 リリオは自由だ。

 どこへでも行けて、なんにでもなれる。

 旅を住処として、冒険屋だってやっていける。

 

 そして。

 

「自由に恋もできるわ。身分の差なんて気にしない恋が」

 

 だからウルウを慕うことができる、なんて話じゃない。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それは本当に、どこまでも残酷なささやきだった。

 悪意があれば恨めた。

 邪気があれば責められた。

 

 だが、そこにはただ善意があるのだった。

 奥様は、いたぶるでもなく、なぶるでもなく、ただひたすらに善意と好奇心から話を振ってきているのだった。

 

 あたしは耳をふさいだ。

 あたしは目を閉ざした。

 あたしはかぶりを振って、奥様の言葉を、視線を、拒む。

 

 やめてください。

 やめて。

 

「それとも、ウルウちゃんかしら?」

「やめて!」

 

 これは。

 この気持ちは。

 あたしの気持ちは恋なんかじゃない。

 リリオは幼馴染で、姉妹で、主従で、そして友達。

 ウルウは旅仲間で、姉妹で、相棒で、そして友達。

 

 それでいい。

 それがいい。

 あたしはいまの関係が心地よい。

 

 本当に?

 そう問いかけたのは、奥様の声だっただろうか、それともあたし自身の声だっただろうか。

 

 いつの間にかあたしは意識を手放していたようで、気づけば毛布に一人包まれて、鉄暖炉(ストーヴォ)の火がぼんやりと竜車の中を照らすのを見つめていた。

 

 寝不足のままに起き出せば、奥様はまるで何事もなかったかのように飛竜の世話をし、リリオたちも相変わらず眠たげな様子でもそもそとまどろみから抜け出そうともがいていた。

 

 冷たい水で顔を洗っても、気分はどこか晴れず、昨日の残りで朝食を済ませながら今日の予定を話している間も、なんだかぼんやりとした心地だった。

 

 それでも体は習慣通りに後片付けを済ませて、誰に促されるわけでもなく竜車に乗り込んでいた。

 ぐらりぐらりと揺れながら空の高みへと舞い上がっていく竜車に、ウルウの声なき悲鳴が漏れ出る。

 

 空模様はあまりよろしくなく、竜車は落ち着きなく揺れながら曇り空を飛んでいく。

 まるであたしの胸の内みたいだ。

 なんて柄にもなく感傷的になってしまったのは一瞬で、あたしの胸の内以上に滅茶苦茶にかき乱されたウルウの面倒を見ているうちに、なんだかどうでもよくなってきてしまった。

 何がどうあれ、あたしは誰かをお世話しているときが一番落ち着くものらしい。

 

 揺れに揺れる飛竜空路。

 もう間もなく辺境へとたどり着く。

 もう間もなくこの旅も終わりに近づく。

 

 いつまであたしたちは旅を続けられるだろうか。

 あたしのぼんやりとした不安を置いてけぼりに、竜車は往く。

 

 北の果て、辺境へと。




用語解説

・「はあ?」
 頻出語の一つ。
 たいていの場合、反射的な問い返しの他に、複数の意が込められている。

・恋バナ
 恋の話の略。
 自分の恋の話をしている時よりも、他人の恋の話をしている時の方がたいていの場合盛り上がる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四章 処女雪
第一話 白百合と境の森


前回のあらすじ

揺れる空の旅。
揺れるこの気持ち。
旅の果てにあるものを、私たちはまだ知らない。


 雪の降り積もる音というものを、聞いたことがあるでしょうか。

 あんなに軽くてふわふわとした雪でさえ、絶えず積み重なるときには音を立てるものなのでした。

 息をひそめて、そっと耳を傾けると、きしきし、きしきしと、小さく軋むような音を立てて、雪は静かに積もっていくのです。

 それはあんまりにも静かで、そしてあんまりにも美しい音で、そのほかにはどんな音だって聞こえないほどなのでした。

 

 雪の降らない地域の人たちに対して北国を説明するにあたって、この文言は最高に詩的で素敵で情緒あふれるものなのでもはや常套句となりかけているのですけれど、ガチの雪国に来てしまった旅人には詐欺じゃねえかと罵倒されるまでが流れです。

 雪国で雪が降り積もってるのって、最初は見てて綺麗で聞いていて美しいものですけれど、だんだんそれどころじゃなくなりますからね。

 

 私ももう聞き飽きたどころかあんまり意識もしなくなったくらいに有り触れたものなのですが、しかし、それは雪というものの一面にしかすぎません。

 北部や辺境には雪を表す言葉が百も二百もあると言われているくらいです。

 

 まあ、言われているだけで実際にはそんなにないんですけど。

 

 初雪とか根雪とか堅雪とか、なんとか雪みたいな言い方はそりゃいくらでもできるんでしょうけれど、はっきり別の言葉として雪を表す言葉はそんなにありません。

 あってもまあ、十個くらいじゃないですかね。霰とか、雹とか、霙とか、雲雀殺とか。

 田舎に行けば行くほど独特の言い回しなんかが残っていたり変化していたりするので、はっきりとは言えないんですけどね。

 

 なんていう話を長旅のささやかな時間つぶしにと思って語って聞かせてみたのですけれど、ウルウはそれどころではないようでした。

 何しろ、竜車は揺れるもので。

 

 降りしきる雪の中を飛んでいく竜車は傍目には優雅かもしれませんが、実態としては無数の氷の粒に馬よりも早く体当たりし続けるというかなり厳しい現実があるんですね。

 何しろ下手な風よりも早く飛んでいるので、常に暴風にさらされてる状態です。そこに雪が付きまとうのですから吹雪です。どれだけ静かに降ろうと、飛竜の速度で突っ込んでいったら吹雪と変わりないのです。

 

 飛竜はその程度の雪なんてまるで問題になりませんし、頑丈な竜車もこれくらいでは壊れません。

 しかしそこに乗っている人間はそうもいきません。

 私は全然へっちゃらなのですけれど、ウルウはもはや死んだほうがましといった顔です。

 ウルウよりはましなトルンペートも、あまり元気とは言えません。

 

 もっと高く、雲の上をいけば、雪もなく風も平らで、随分穏やかな飛行になるのだそうですが、問題はその高さになると空気が薄くなってしまって、竜車のまじないではちょっと心もとないのでした。

 それに空気が薄い分、飛竜が飛行に多くの力を費やさなければならなくなるので、かえって飛べる距離は短くなることもあるのだそうでした。

 

 もちろんそんな話もウルウにとっては全く頭に入ってこない内容なのでしょうけれど、しかし私の声は聴いていると耳障りが良いとのことで、子守歌代わりに延々と中身のない話をし続けることになっています。

 いいんですけど、いいんですけどなんていうかこう、最初っから聞いていないとわかっているのに喋り続けるのって結構しんどいものですね。お喋りが好きなのと一人で喋れるのって全く別の話なんですね。

 

 延々と喋り続けることしばし、ウルウがなんとか寝つき、トルンペートがうつらうつらとしはじめ、そして私が一周回って喋りつづけることが気持ちよくなってきたというかやめどころを見失ったというかそのような無我の境地に陥りかけたころ、飛竜が揺れ始めました。

 この揺れ方は、と天井を見上げると、飛竜の操縦を務めているお母さまが、伝声管からそろそろ着地する旨を伝えてきました。

 

 今日は窓を閉めっぱなしだったので時間感覚がいまいちはっきりしませんが、ずいぶん長く飛んでいたように思います。

 

 激しい揺れに否応なしに目覚めさせられたウルウがうつろな目で竜車の角を見つめはじめ、トルンペートが強張った体をほぐしながら降りる準備を始めました。

 それにしても本当に、ウルウは小舟は大丈夫なのに何で船とか竜車はダメなんでしょう。いまだによくわかりません。

 

 竜車から降りた我々を迎えたのは、うっそうと茂る森でした。

 降り積もる雪の重みに耐えつつも立派な緑を見せつける針葉樹林です。

 私がウルウと出会った、あの境の森です。懐かしいものです。あの時よりだいぶ北寄りですけれど。

 ウルウとしてはどう思っているのでしょうかと振り向いてみましたが、どうもそれどころではないようで冷たく新鮮な空気を深呼吸しながら、こみ上げてくる乙女塊をこらえているようでした。

 

 見なかったことにして、体をほぐしながら空を仰げば、赤々とした夕日が見えており、すっかり夕刻を回っているようでした。

 

「んっ、んー……はあ。今日はずいぶん長く飛びましたね」

「境の森と遮りの河を一度に渡っちゃいたいからね。そうすればカンパーロにお昼くらいにはつけるわ」

「……遮りの河って何?」

 

 吸気面や眼鏡を外すお母様のお手伝いをしていると、すらりとした身体をぐんにゃりと曲げて参っているウルウが、それでもなんとか会話に参加してきました。

 好奇心に忠実なのは良いことです。そうでなくても会話に参加してきてくれていいのですけれど。

 

 遮りの河というのは、境の森の東側を流れる大きな河のことで、幅が広く底も深く、流れもそこそこ早いので、渡る方法が限られています。

 湧き出る元は臥龍山脈の奥深くで、流れる先は海まで続きますので、たった一つしか架かっていない大橋を渡らなければ、普通は辺境に行くことはできません。

 飛竜みたいに普通じゃない手段もあるので、絶対とは言えませんけれど。

 

 この遮りの河と境の森の二つが帝国と辺境を隔てる一種の境界線というわけです。

 政治的領土的な区分でもありますし、越えると途端に魔獣が強くなる生物学的な区分でもありますし、そしてやっぱり物理的な区分でもあります。

 

 その向こう側のカンパーロとは、辺境の入り口でもあるカンパーロ男爵領のことです。

 男爵領ではありますが、辺境内では最も領地が広く、農耕に適した土地が多く、辺境の胃袋といっても過言ではありません。

 よそからの商人もみなここを通るので、流通も非常に活発です。辺境としては。

 

 さすがの竜車でも広大な境の森と遮りの河を渡るのには時間がかかるようで、今日はここで野営をし、明日の朝からカンパーロ男爵領に向かう、とそう言うことなのでした。

 

 なお、私の朗々とした説明は、限界を迎えたウルウの乙女塊によって中断させられたことをここに追記しておきます。




用語解説

・カンパーロ
 カンパーロ男爵領。
 アマーロ家が代々治める広大な領地で、肥沃な平野が広がり、豊かな農地に恵まれた土地。
 辺境ではあるがよく拓かれており、内地との交流も活発。

・遮りの河
 大陸東部の河。辺境領と帝国内地を分けるように南北に長く広がる河で、橋は一つしか架かっていない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊と大甲虫の網焼き

前回のあらすじ

ついに辺境(の手前)までたどり着いた一行。
そしてついに溢れかえったウルウの乙女塊。
溢れるゲロは虹の色。


 吐いたらすっきりした。

 

 いきなりで申し訳ないけれど、本当にそんな気分だった。

 実際問題として必ずしも吐いたら楽になるわけではないし、胃液で喉が焼けたので快調というわけでは決してないのだけど、何かのスイッチが切り替わったみたいに少し楽になるのは確かだ。

 胃に物が入っている時特有の、あのドバドバっとあふれて、あァ一息ついたというような一種の爽快感はないのだけれど、私は吐きました、という一点で脳が切り替わるというか、言っててなんだけどやっぱり全然切り替わらねーっつーの。ちょっと楽になったかなーと一瞬思うんだけど、希釈されてない胃液があちこち焼いてるせいで苦しいし、もうほんと勘弁してって気持ち。

 

 それでも、冷たい空気を吸い、雪で顔を洗ううちに、冷たさが私の神経を無理矢理立て直して、ぐるぐると気持ちの悪い酔いはいくらか晴れた。

 

 蒸留水を取り出して口をゆすぎ、一息。

 これはアイテムとしての《蒸留水》じゃなく、精霊晶(フェオクリステロ)屋で頼んだ蒸留水の水精晶(アクヴォクリスタロ)を詰めた水筒だ。ヴォーストを出るときに仕上がった分は全部買ってきた。

 ハヴェノでも頼んでおいたけど、そちらは数が仕上がる前に辺境に旅立ってしまったので、在庫持て余してるだろうなと申し訳ない。

 まあ、立ち寄った時には買うから許してほしい。

 

 私がそうして回復に全神経を費やしているころ、元気この上ないリリオとマテンステロさんは意気揚々と「晩御飯獲ってくる」と言い残して森に入ってしまった。森は彼女たちにとってスーパーマーケットみたいなものなんだろう。

 

 トルンペートはそれを見送って、ざっと雪かきし、かまどを組み、野営の支度を進めてくれていた。

 本当にこの子はできる子だ。

 そして私はできない子だ。

 

 お荷物でしかないのが申し訳ないのだけれど、誰かを頼ることができるという麻薬じみた快楽は私をどんどんダメ人間にしている気がする。

 辛い時、誰かに辛いですと言える気持ちがわかるだろうか。

 気楽にわかるーと言える人は帰ってどうぞ。

 違うんだよ。そう言う簡単な気持ちじゃないんだよ。

 

 などとこじらせたオタクみたいなことを思いつつ、私は寝そべったキューちゃんの羽に挟まれて喫飛竜にいそしむ。

 ひとところにじっとしていられないピーちゃんと違って、大人なキューちゃんは弱った私を振り払ったりしないのだ。

 正確に言えば、ゲロ臭いのか嫌がって振り払ってきやがったのを自動回避全開で張り付いたところ根負けしてくれた。いい子だ。

 それにしても自動回避の出鱈目な動きではなぜ吐き気が起きないのだろう。三半規管どうなってるんだ。

 

 しばらくして、何とか私が回復してきた頃、二人は獲物を引きずって帰ってきた。

 普通の獣は、雪の上とは言え引きずったりすると傷がつくので、怪力のリリオは頑張って持ち上げてきたりするのだけど、今日は気にせず引きずってきている。

 そんなに丈夫な獲物なのかと顔を上げてみて、そして私はそっとキューちゃん枕に舞い戻った。

 

 私は何も見ていない。

 

「ウルウ、ウルウが見てなくても現実はいなくなったりしませんよ」

「現実よさらば」

「はいはい、諦めてくださいね」

 

 リリオも最近、私の扱いが雑になってきた気がする。

 まあ私も、私みたいなやつがいたら相当雑に扱うだろうからなんにも言えないんだけど。

 

 諦めて顔を上げると、そこにはダンゴムシがいた(柔らかい表現)。

 

 目をつぶり、深呼吸をし、それから改めてそのデカ物を観察してみよう。

 

 それはダンゴムシというか、ワラジムシというか、要するに背中がたくさんの節で分かれた外殻になって、脚がうじゃらっと並んだ生き物だった。バカでかい複眼が何個かついている方が多分頭。

 そして、でかい。とにかくでかい。

 小柄なリリオではいくら力があっても確かにちょっと担いでこれなかったサイズだ。

 人間が二人くらい荷物と一緒にまたがれるサイズで、実際、これを移動手段とする人もいるそうだ。

 馬なんかと比べて視点が低いけれど、このうぞうぞした多脚で、森の中の凸凹も平気で進んでいくそうだ。

 やめろ。ひっくり返すな。その脚を見せるな。

 

「へえ……あ、そうなんだ……」

「露骨に興味ない顔ですね」

「いやだって……虫じゃん?」

大甲虫(グランダ・スカラーボ)ですね」

「名前じゃなくて。え、なに?」

 

 裏返したそのギガ・ダンゴムシの太い足を切り落としていくリリオとマテンステロさん。トルンペートも参戦。

 もしかしなくてもだが。

 

「食べるの、それ?」

「美味しいですよ?」

 

 味じゃなくて。

 

 しかし私の苦悩を置いて、三人はてきぱきと超銀河ダンゴムシをさばいていく。

 手慣れているあたり、この巨大な虫も辺境人にとっては森のおやつなのだろう。

 

 三人は一通り足を切り取り終えると、分厚いナイフを腹と背中の殻の間に入れて、べきばきと恐ろしい音を立てて開いていく。かなりの力作業の様で、もはや(のみ)みたいな分厚さのナイフを、ハンマーで叩いて刃を入れていき、てこの原理で押し開けていく。

 コツみたいなものがあるんだろうけれど、もうなんか機械とかの解体作業にしか見えない。

 

 腹側の殻が剥がれて、見えてきた中身は意外にもきれいなものだった。白みがかった透明な身がみっちりと詰まっていて、綺麗につやつやと輝いている。

 これは巨大な伊勢海老と念じ続けていると、だんだんそんな風に見えてこないこともない。

 

 お腹の殻がすっかり引きはがされると、今度はまた別のナイフで、背中の殻から肉を剥ぎ取りにかかる。なにか膜のようなものが殻と肉の間にあるようで、そこに刃を入れていくと、べりべりと剥がれていくのだった。

 見ていると簡単に見えるけれど、膜が破れないようにするにはちょっとコツが要りそうだった。

 

 うん、大丈夫。そろそろ食材に見えてきた。

 ブロック肉から牛とか豚を想像できないのと一緒だよね。

 命の大切さとかありがたみとか動物愛護とか、そんなことよりも私たちは心の平穏のためにブロック肉が大事なわけですよ。

 どれだけ異世界にもまれようと現代社会で生まれ育ったもやしメンタルのOLあがりにはそれくらいでちょうどいいんだよ。

 

 引っぺがしたお肉はかなりの量で、部位ごとに分けていくんだけど、その塊がまたでかい。

 バラしていくと内側にしっかり内蔵とか神経索とか脳みたいなものが確認できるんだけど、いままで解体に付き合ってきた哺乳類とか四つ足の鳥類とか爬虫類とかと比べると、なんかこう、生き物としての構造がかけ離れすぎていて、そこまでグロく感じない。

 血も、血っていうか体液かな、それも赤くなくて、透明っぽい黄色で、そこまで生々しくない。

 

 肉をメインとして食べるとして、内臓は食べられるのだろうか。

 このあたりになるともう虫だからという気持ち悪さは鳴りを潜めて、単純に子供じみた好奇心で覗き込むようになっていた。

 

大甲虫(グランダ・スカラーボ)は雑食で、落ち葉とか枝とかもバリバリ食べるんですよね。お肉とか魚とかばっかり食べてたらワタも食べられるらしいんですけど、大概そういう、落ち葉とかで詰まってるので、あんまり美味しくないです」

 

 消化管はそう言うわけで、ポイみたいだ。

 その代わり、最初脳みそかなって思った黄色い塊は、食べるらしい。

 

「なにこれ?」

「肝ですね。味噌(パースト)ともいいます」

「蟹味噌みたいなものか」

「そうそう、蟹とか、海老とかもありますよね」

 

 さすがにこんなサイズで見たことはないが。

 なにしろリリオの両手では足りず、でろんと垂れているくらいだ。

 中腸線とかいうやつだ。肝臓みたいな働きをするらしい。なので重金属とかの生体濃縮がちょっと怖いが、まあ、この異世界でそんなこと気にしてたら何も食べられない。

 

 綺麗さっぱり身を剥いだ後の殻は、ちょっとした浴槽みたいなサイズだった。

 と言ってみたら、これだから風呂気違いはみたいな顔されたけど、日本人としてこのたとえは致し方ない物でして。

 

 で、現地人としてはどのようにあつかうのか聞いてみたら、防具とかに使うらしい。

 木材のように軽いけど木材よりしなやかで丈夫。研げばナイフみたいにも加工できる。

 金属と違って鋳潰すことはできないけど、火であぶって曲げたりはできるので、いろいろ使われているようだ。

 

 動きはそこまで俊敏ではないので、罠や、道具に工夫をして猟師によく狩られるらしく、お肉も素材も割と安価らしく、駆け出しの冒険屋だけでなく村人とかにとっても馴染みのある素材だそうだ。

 ただ、まあ、よく狩られるというのはそこまで質も良くないわけで、消耗品くらいの扱いかな。

 

 それでこれはどう食べるのかと見ていると、かまどに鉄網をかけて、その上に丸みのある殻を乗せる。小さめの節とは言え、元がでかいから、ちょっとした浅鍋みたいなサイズだ。

 これに切り分けた身を並べ、軽く塩と胡椒(ピプロ)を振る。

 殻の上で加熱されていく身は、その熱と塩でもってじわじわと水分をにじませていくのだけれど、これがまたいい香りがする。こうして殻自体を鍋にすることで、炙られた殻は香りを放ち、内側では出汁をにじみださせるといういい働きをするのだった。

 

 水分がある程度出てくると、身は白く濁り、いくらか縮んでくる。

 そしてその水分も熱せられて徐々に煮詰められていき、濃厚なスープになっていく。

 そのスープはさらに煮詰められていき、やがて水分がほとんどなくなってきた頃合いを見計らって、乳酪(ブテーロ)が投入された。

 音を立てて溶けていく乳酪(ブテーロ)の香りが、濃厚なスープの香りと混ざり合って暴力的な香りを立ち昇らせたのだった。

 そして仕上げに、枸櫞(ツェドラト)をさっと絞ってかける。

 

 私はもうこれが虫だということは全く頭になく、視覚に、嗅覚に訴えかけてくる暴力的なまでの誘惑にあっさりと屈したのだった。




用語解説

大甲虫(グランダ・スカラーボ)(granda skarabo)
 大型の節足動物。蟲獣。人間が乗れるくらい巨大なワラジムシを想像すると早い。甲は非常に頑丈だが、裏返すと簡単に解体できる。動きが遅く、肉が多いので、狩人にはよい獲物。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と辺境入り

前回のあらすじ

美味しいものには勝てなかったよ(ダブルピース)。


 海老か蟹かで言ったら、海老寄りよね。

 なにがって、昨日たらふく食べた大甲虫(グランダ・スカラーボ)の味だ。

 ぷりっとして、心地よい歯ごたえ。甘みのある肉。味わい深い出汁。

 煮てもいいし、蒸してもいいけど、やっぱり網焼きは野趣もあるし、食べてるって感じがしていい。

 

 一晩明けて、朝食は昨日のあまりの大甲虫(グランダ・スカラーボ)の肉と肝の汁物だ。

 肉はあんまり大きすぎず、でも思わず笑顔になっちゃうくらいには大振りに。

 野菜は、まあなんだっていい。馬鈴薯(テルポーモ)に、人参(カロト)韮葱(ポレオ)牛蒡(ラーポ)もいい。まあほんと、なんだっていい。

 大甲虫(グランダ・スカラーボ)の汁物は、何を入れようとも美味しく仕上がる、味の力技なのだ。

 

 味の基本は、胡桃味噌(ヌクソ・パースト)だ。これと、大甲虫(グランダ・スカラーボ)の肝を溶かし込む。それから、臭み消しに白葡萄酒(ヴィーノ)などの癖が少なめのお酒。臭みは消したいけど、肝の味わいを壊したくない。

 

 もう本当に、窮極的には胡桃味噌(ヌクソ・パースト)と肝と酒だけあればいいっていうくらい。

 酒飲みなんかは、肝とこそいだ肉に酒を注ぎ、殻の上で火にかけて楽しむなんて言う乙なやり方もするらしい。というかあたしたちもしたけど。

 

 大甲虫(グランダ・スカラーボ)の肝は味が濃いだけじゃなくて、さっぱりとした香りも特徴よね。

 海老や蟹みたいに、磯の香りは全然しないの。まあ当然だけど。

 その代わり、森の香りっていうのかしらね、そういうのがする、ような気がするわ。

 ちょっと土臭いかもって感じる時もあるんだけど、そういうのは内臓処理の時にワタの中身をこぼしちゃったりしてるだけよ。大甲虫(グランダ・スカラーボ)て、エサ食べるとき土も一緒に食べちゃってるらしいから、匂いが移るの。

 

 肝をそのまま食べるっていうのも、もちろん美味しいわ。

 虫に当たることもあるからちょっと覚悟がいるけど、ねっとりとした舌触りに、濃厚な味わいはたまらないものがあるわね。

 

 でもアタシとしては、やっぱり肝汁よね。

 火を通してやることで香りが一層引き立つし、何より汁物全体がうまさとしての格を一段も二段も上げるのよ。

 ちょっとしなびてきた野菜でも、適当に突っ込んで煮てやるだけで美味しく頂けちゃう。

 まさしく、味の力技ってわけね。

 

 朝からこの力強い朝食を平らげ、たくさん余った肉は飛竜の餌にして、さあ、今日も竜車の旅が始まる。

 始まると言ったって、あたしたちは竜車に乗るだけなんだけど。

 その乗るだけが苦痛極まりないやつも一人いるとはいえ、ほんと、なんにもすることがない。

 

 今日は雪もやんで、風も穏やか。

 揺れもあんまりないから、とは言ってみたけれど、まあ、風のある時と比べたらって話よね。

 竜車っていうのは、どうやっても揺れる乗り物なんだから。

 馬車の揺れと一緒だと思うんだけど、ウルウって、馬車では酔わないのよね。

 

「酔わないわけじゃないけど」

「あ、そうなの?」

「揺れが一定だから何とかって感じ」

「あー……」

 

 まあ、堅い地面の上を走る馬車は、精々その凸凹で上下するくらいだ。

 上下左右斜めにと揺れる方向を選ばない船や竜車は厳しいと、まあそう言うことなんだろう。

 

 青ざめた顔のウルウが魂ごと中身を吐き出してしまわないように、昨日はリリオがひたすら喋り続けた。

 あたしとしては気持ち悪くて体調が悪い時にごちゃごちゃ言われたらお願い黙って静かにしてもしくは黙らせて静かにさせるわよってなると思うんだけど、ウルウからすると適度な雑音がしている方が落ち着くらしい。

 雑音扱いされたリリオはむくれていたけど、死にそうな声で「声が……声がいい。あと顔も」と取ってつけたように言われてすぐに機嫌を直していたから、ほんとにちょろい。

 

 まあその雑音発生器ことリリオもさすがに昨日喋りっぱなしで喉が嗄れ気味だったので、今日は交代してあたしがお喋りを引き継ぐことにした。

 無理はしなくていいって言われたけど、こう見えてあたしはお喋りが嫌いではないのだ。

 女中の仕事の三割くらいはお喋りと言っていい。

 場合によっては八割くらい。

 仕える主人がお喋りに飢えていたらそれこそ一日中喋るのが仕事みたいなものだ。

 というのはまあ言い過ぎかもしれないけど。

 

 ともあれ、あたしにとって雑談というのは職業柄必須技能と言ってもいいし、同時に純然たる楽しみと言ってもいい。

 あたしはぐったりと横になったウルウの背中をゆっくり叩いたりさすったりしてやりながら、愚にもつかないお喋りをはじめた。

 

 話題なんて言うものは、いくらでもある。

 天気のこと。竜車のこと。飛竜のこと。辺境のこと。いままでの旅のこと。料理の献立や、買い物した時の話。

 それこそ内容なんてなんでもいいんだから、子供に聞かせるようなおとぎ話の類でも全然かまわないのだ。

 

 実のところあたしは物語を語るのが得意だったりする。

 吟遊詩人になれるとまではいかないけど、リリオが今よりもっとちっちゃい頃は、あたしが枕元でお話をしてあげたものだ。

 

「かえるくんが美しい菫畑に思わずほうとため息をつくと、どこからかくすくすと笑い声がし始めました」

「……………」

「いったい誰だろう。かえるくんが不思議そうにあたりを見回すと、鮮やかに咲き誇る菫の花が風もないのに揺れました。不思議に思ってのぞき込んでみると、なんとそこには美しい妖精たちがくつろいでいるではありませんか」

「……………」

「妖精たちはかえるくんが目を丸くするのをおかしそうに笑って、こう言うのでした。『まんまと罠にはまりおったな、愚かなかえるよ』」

「……………」

「かえるくんはハッとしました。『さては黒蜥蜴のヴェルダリヴェロの差し金だなッ』『今更気づいても、もう遅いわ。いよいよもって死ぬがよい』。恐るべき暗黒妖精の無慈悲な死の罠が、かえるくんに迫る!」

「トルンペートさあ」

「何よ。いまいいとこなのに」

「寝かしつけるの超絶下手だったでしょ」

「毎晩滅茶苦茶盛り上がって一度も素直に寝てくれなかったわ」

「そりゃ寝ないよ、これじゃ」

 

 そうなのだ。

 今もリリオは目をキラキラさせてあたしのお話を聞いてくれるし、面白いことは間違いないのだ。

 でも残念なことに子供を寝かしつけるためには面白すぎても良くないのだ。

 だって寝ないもの。

 リリオがもっともっとってせがむし、いつの間にかティグロ様も聞きに来るし、あたしもなんか盛り上がっちゃって語りに熱が入ってきて、気づいたら御屋形様が混ざって「続け給え」って言ってくるのよ。

 仕方ないじゃない。

 

 あたしはリリオの寝物語としてよく語って聞かせたかえるくんのお話の最新作「かえるくん対黒蜥蜴~死線に踊れ~」を即興で語ってみせ、興が乗ってきたのでそのまま「練り物(パスタージョ)の国の王子様と熱砂の死闘」というお話もおまけに聞かせてやるのだった。

 

 いやまったく、リリオも拍手喝采で、あたしも満足のいく語りだった。

 惜しむらくはウルウの体調が万全ではないので、しっかり楽しんでもらえなかったことだろうか。

 かわいそうに。目が死んでる。

 

 水袋の水で喉を湿らせて一息つき、さて今頃どのあたりかしらね、なんて思ったところで、あたしはふと気づいた。

 

「ねえリリオ」

「なんですか?」

「いま思ったんだけど、これって不法侵入じゃないかしら」

 

 リリオはきょとんとして、あたしの顔をまじまじと見つめた。

 

 ほら、あたしたち、竜車で境の森も遮りの河も、一息に飛び越して辺境領に入ろうとしてるじゃない。

 そうなると大橋に備えられている関所を素通りすることになる。空に関所は置けないもの。

 

 で、そうでなくても、キューちゃんは元野良だし、ピーちゃんはその子供だ。辺境で登録された騎竜じゃない。

 未登録の飛竜が、臥龍山脈からじゃなく北部からやってくるなんてのは、大騒ぎになるんじゃないかって思うのよね。

 

 辺境は大きく三つに分かれていて、臥龍山脈の裂け目を塞ぎ、監視するフロントでほとんどの飛竜が狩られるか追い返される。で、それをすり抜けた飛竜はモンテートの飛竜乗りと対空兵器で駆逐される。

 これから向かうカンパーロは産業地帯で、飛竜の狩り残しなんて滅多にやってこないけど、それでも辺境は辺境だ。

 迂闊に飛んでいったら、撃ち落される可能性もあるんじゃないだろうか。

 

 という疑問と不安をこぼしていると、伝声管から奥様の笑う声がした。

 

『だーいじょうぶよう』

「あ、お母様」

『たかだか門番に私が負けるはずがないわ』

「奥様が言うと冗談か本気かわからないんですけどそれ」

 

 奥様は少女のように笑って、それから安心させるようにこう仰った。

 

『勿論そうなることはわかっているから、ちゃんと事前に伝書鷹(レテルファルコ)を飛ばして、顔を出しますよって連絡を入れてるわ。だから今頃、迎撃(おでむかえ)の準備を男爵がととのえてくれてるわ」

 

 どうやら時間のかかった事前準備には、辺境への根回しも含まれてたみたい。

 とはいえ、それでも、未登録の飛竜で、亡くなったことになっている奥様が帰ってくるのだ。

 その対応に追われる下っ端のことを思うと、なんだか申し訳なくなるのだった。




用語解説

馬鈴薯(テルポーモ)
 ナス科ナス属の多年草。地下茎を芋として食用とする。じゃが芋。

牛蒡(ラーポ)
 いわゆるゴボウ。
 帝国ではもともと食用ではなく、葉などを薬用にする程度だった。
 しかし飢饉の時代に西方人が持ち込んで食べるようになると、南部でジワリと広がり、面白がりの東部人が栽培し、流行りに鋭い帝都で調理法がまとめられた。
 馬鈴薯(テルポーモ)などもその類である。

・かえるくんのお話
 喋るカエルを主人公としたトルンペート力作の物語シリーズ。
 東京を救ったりはしない。

・「かえるくん対黒蜥蜴~死線に踊れ~」
 因縁の宿敵である黒蜥蜴のヴェルダリヴェロの卑劣な罠にはまり、暗黒妖精と死闘を演じるかえるくん。果たしてかえるくんは生きてこの地獄を抜け出せるのか、黒蜥蜴との決着はどうなるのか。緊張と弛緩の緩急が子供たちを眠らせないだろう。

・「練り物(パスタージョ)の国の王子様と熱砂の死闘」
 昔々あるところに練り物(パスタージョ)が大好きな王子様がいて、そして彼はいま秘宝を求め、悪の宰相率いる魔盗賊団と競うように死の砂漠に臨んでいた。過酷な砂漠でのサバイバル、魔盗賊団との共闘、そして争いと息も継がせぬ急展開に次ぐ急展開が子供から睡眠時間を奪う。

・フロント
 辺境最奥、竜たちが彷徨い出る臥龍山脈の切れ目を監視し塞ぐ竜狩りたちの住まう土地。
 辺境伯領。
 極めて過酷な環境ではあるが、それでも辺境人たちはこの地に住み着き、人界を竜の脅威から護ってきた。

・モンテート
 子爵領。険しい山岳地帯であり、人々は山に張り付くように街を築き暮らしている。
 臥龍山脈に向かって要塞が幾つも建てられ、対空兵器と飛竜乗りたちが、フロントで討ち漏らした飛竜たちを狩っている。

伝書鷹(レテルファルコ)
 ある程度の大きさの街や宿場町には必ず存在する飛脚(クリエーロ)屋が所有する、生物としては最速の郵便配達手段。使用される鷹は餌代もかかるので配達費用はかなりのものだが、空ではまず敵なしの鷹を飛ばすため、速度・安全性共に抜群である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合とカンパーロ男爵領

前回のあらすじ

静かにまどろんでいたいウルウVS絶対に子供を寝かせないトルンペート。


 波打つ雪の海のような境の森を抜け、空から見下ろしてもなお広い遮りの河を飛び越え、ついに、ついに私たちは辺境領にやってきたのでした。

 

「と言っても、まあ」

「あんまり変わり映えしないね」

「まあ冬だもの」

 

 適当な森の傍に着陸しましたが、正直冬場の雪国はどこも似たようなものです。

 とりあえず白い。

 これです。

 

 勿論、慣れ親しんだ森とかならある程度の区別もついてくるんでしょうけれど、でもそれさえも怪しくなってくるのが冬場の怖い所です。 

 辺境は獣も強く、飛竜も現れる、その上そんな中でも健気に野盗が現れる、とても危険な土地ですが、でも死因を比べてみると、上位に来るのは「自然」です。

 獣に襲われれば死にますし、飛竜に襲われればもっと確実に死にますし、野盗と戦えばどっちが死ぬかわかりません。何なら病気でも死にます。

 でもそんなものを待たなくても、辺境では人は何もしなくても死ぬのです。

 凍って死ぬ。それが辺境でもっともありふれた死に方です。

 

 内地の人間は自然との闘いとかそう言う言葉を平然と口にしますが、そもそも自然とは闘いになりません。闘ったら死にます。いかに闘わないかが自然との付き合い方なのです。

 

「わかりましたか、ウルウ」

「御説いちいち御尤もだと思うんだけど」

「だけど?」

「ちびっこが言うと説得力がない」

「むがー!」

 

 そりゃあ私は小さいですけれど、しかし自然との付き合い方はウルウよりもよっぽど熟知しています。

 ウルウのような都会派とは人間強度が違うのです。

 

「辺境貴族は体の造りが違うから話半分に聞いた方がいいわよ」

「ですよねえ」

「むーがー!」

 

 物理的な人間強度の問題にされてしまいました。

 いや、確かに辺境人の中でも辺境貴族は特に頑丈で強靭ですけれど。

 

 まあ実際問題として、辺境領に入ったからと言って何もかもがすっかり切り替わるわけではありません。

 入り口も入り口のカンパーロはまだ穏やかな方で、他所からのお客さんも観光したりできる程度ではあります。それでも大分不便は感じるようですけれど。

 

 さて、ここから男爵がおられる町まで飛ぶとすっかり夜になってしまいますので、私たちは早めに野営の準備を整えてここで一夜を明かし、翌朝早くに出発しました。

 一夜明けた朝の日差しに照らされた辺境は言葉にできないほど美しいものでした。

 なんて言えば観光雑誌に記事が書けそうですけれど、正直なところこれほど見ごたえのない光景もそうはないのではないかというのが私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の総意でした。

 一面の銀世界がきらきらと輝くさまは確かに美しいものかもしれませんが、ウルウ風に言えば「もう見た」というやつです。さすがに見飽きました。

 

 ただでさえ真っ白で距離感がおかしくなるのに、何しろ恐ろしく降り積もるので、あらゆるものが起伏を失って、平坦な白がどこまでも続くのです。

 ところどころに集落は見つかりますが、誤差範囲内です、もはや。

 

 死にかけながらも、もしや辺境ってずっとこんな感じなのではとウルウが勘付き始めたころ、到着を知らせるお母様の声がしました。

 それからすぐに竜車は例の激しい揺れをはじめ、私たちはしっかりと体を固定し、ウルウは世界を呪う顔をしました。

 無力。

 なでなでしてあげましょう。トルンペートも一緒になでなでしてくれます。

 ウルウも喜んで虚無を呼吸するような顔をしてくれます。

 なんかごめんなさい。

 

 竜車が無事に着陸した様で、ようやく揺れが収まりました。

 私とトルンペートは固定帯を外し、身なりを整え、それから干からびた蚯蚓のように横たわるウルウを起こしてなんとか介抱してあげました。

 とはいえ、素人造りの竜車に乗った冒険屋風情です。

 身なりを整えると言っても、たかがしれています。

 せいぜい舐められないように、っていうくらいですもんね。

 その点、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は舐められる要素一杯です。

 成人したての私に、女中の格好のトルンペート、それに場合によってはそもそも姿を見せないウルウ。

 これはひどい。

 

 まあ、別に冒険屋としての見栄を張る必要はあんまりないんですけど、一応。

 

 程なくして外から竜車の扉が開かれ、私たちが程々には見えるように姿勢を正して竜車場へと降りていくと、ずらりと並んだ儀仗兵たちが槍を掲げ、楽団が歓迎の曲で出迎えてくれます。

 私はなんだかんだこういうのに慣れていますし、その私付きの侍女であったトルンペートも同じくそうです。

 ウルウは全く慣れていないようですけれど、まあウルウはやはりウルウといったところで、突然の大音量にちょっと眉を上げただけで、平常運転です。

 もうちょっとこう、驚いてくれてもいいと思うんですけど。

 

 内地の貴族なんかはもっと派手で仰々しいこともしたりするんでしょうけれど、単なる訪問者の出迎えにここまでしてくれるのってそうそうないんですよ?

 私が帰ってきたというだけでなく、長らく行方不明だったお母様も一緒に帰ってくるといういわば一大行事だからこそここまでしてくれたわけでして。

 そのあたりのことをもうちょっとですね。

 

「いま朝ごはんが喉元のあたりだからあとでいい?」

 

 アッハイ。

 

 限界のきわきわをつま先立ちで渡り歩くウルウは、それどころではないようでした。

 たぶん、あれですね、太鼓とかの打楽器の重低音がもろにお腹に響いてるんでしょうね。

 

 一人一人が内地の騎士を素手で完封できるような儀仗兵の間を、お母様はまるでうららかな午後の花畑でも散歩するような足取りで通り抜けていき、私たちもそのあとに続きます。

 辺境を出るまでは、なんとなく、漠然と、この人たちはきっと強いんだろうなあと思っていたものでしたが、実際にいろんな人と触れ、闘い、越えてきた今では、ただの背景に徹しているこの人たちの練り上げられた強さというものがひしひしと感じられます。

 

 具体的には、たぶんお母様が暴れ出したら全員でかからないと話にならないくらいの。

 

 うん。

 比較対象が間違っていますね。

 

 私たちが導かれるままに進んだ先で、大きく両手を広げて出迎えてくれたのは、恰幅の良い初老の男性でした。柔和な顔つきとその体系から油断を誘われますが、それは単に太り(じし)というよりも、大型の獣が蓄えた分厚い肉の鎧を思わせました。

 

 お母様の姿を見るなり大きく声を上げて笑い抱擁を交わし、私の顔を見るなり大きく頷いて柔らかなお腹で抱きしめてくれる。

 まるで農家か牧場を営んでいる親戚のおじさんのような人懐っこいこの人が、ここで一番偉い人でした。

 彼こそがカンパーロ男爵ネジュヴィロ・アマーロその人でした。

 

「いや! いや! いや! いやぁー、ようこそおかえりになられた! マテンステロ殿はすっかり顔色が良くなられたな! 南部人はやはり日に焼けたほうがよろしい!」

「おかげさまで。あなたも息災そうでよかったわ」

「いや! いや! 全く! それにリリオお嬢様! 少し見ない間に随分立派になられて!」

「お久しぶりです、おじさま。お変わりないようで」

「お嬢様はすっかり大きくなられた!」

「ふふふ、わかりますか!」

「ええ! ええ! 目を細めてなんとなーく遠めに見ますれば!」

「もー!」

「しかし、立派になられたのは本当ですとも。お顔つきが変わられた。よか武者振りじゃ!」

 

 挨拶もそこそこに、私たちは飛竜場に隣接するお屋敷へと案内されました。

 竜車と飛竜は一等腕のいい飛竜乗りが世話してくれるとのことでしたけれど、もとが飛竜乗りの少ないカンパーロの飛竜乗り。野生種のキューちゃんとピーちゃんをうまくあしらえるかちょっと不安ではあります。

 お母様がよくよくしつけているから大丈夫だとは言いますけれど。

 

 雪囲い、雪吊りと冬支度をすっかり施され、それでもなお雪に埋もれて高さが半分ほどになった庭を通って、私たちはお屋敷を見上げました。

 南部造りの建物が私たちにとって物珍しく感じられたように、北部造りのお屋敷はウルウの目に興味深く映ったようでした。

 ヴォーストも北部の町でしたが、あれは都会風の造りでしたし、辺境の造りはまた違います。

 

 辺境では豊富な木材を用いた木造建築が多くみられ、特に丸太を組んだ丸太組作りが一般的です。この造りは北部でもよく見かけられますが、何といっても断熱性が高く、木肌が湿気を吸うので冬も夏も快適に過ごせる優れものです。

 屋根は緩めの切妻屋根で、杮葺きか、樹皮葺きが多いですね。

 おじさまのお屋敷はこの造りの建物をいくつかつなげたような形で、外壁にさらに厚板を張り、赤い塗料で塗り立てているのが特徴ですね。

 この塗料は防腐・防水の役目があるそうですが、同時に派手な色で雪の中でも目立つようにしているとのことです。

 

「飾り気のない所で申し訳ないが、さ! さ! どうぞ中へ!」

 

 貴族、とは言っても、辺境貴族はあまり飾りません。

 というか、方向性が違います。

 芸術家の絵画や彫刻よりも、獣の剥製や毛皮、武具などを飾ることが多いですね。

 しかし無骨一辺倒かというとそんなことはなく、木彫りの人形や、防寒も兼ねた壁掛け絨毯など、居心地の良さを重視した暖かみのある内装なのでした。

 特にカンパーロは内地との交流地でもあるので、様々な文化を思わせる品々も見られました。

 おじさまはそう言った異国情緒を好むところがあり、以前来た時よりも増えているかもしれません。

 

 それぞれ部屋に通され、荷物を下ろして一息ついたところで、私たちは寒かったろうし、疲れただろうからとお風呂を勧められました。

 

「おふろ」

 

 お風呂と聞いて復活したのがウルウでした。

 とはいえ、実際お風呂に向かってみると、期待とは違ったようです。

 

 というのも、北部や辺境では、お風呂と言ったら蒸し風呂なのでした。

 ヴォーストはあれで都会でしたので、浴場形式のお風呂が広まっていましたけれど、昔ながらのお風呂と言えばこれです。

 たっぷりの蒸気で満たされた小部屋でじっくりと汗をかき、汚れを落とし、そして戸を開けて外に出て冷気に身をさらしたり、なんなら表面の氷を切り開いたため池に浸かったりします。

 

「頭おかしいんじゃないの?」

「寒空の下より水の中の方があったかいんですよ」

「頭おかしいんじゃないの?」

 

 辺境理論は内地の方にはあまり理解されません。しかし事実なのです。

 水は凍ってないんだから、凍ってる外よりあったかいんですよ。

 ウルウも意味わかんないと言いながら私たちに付き合っているうちに、「水の中の方があったかい」と理解してくれました。

 

 それから私たちは蒸し風呂で蒸され、ウルウのしっとりと汗をかく肌を眺め、それから水風呂に吶喊しては芯まで凍えそうな冷たさに沈み込み、また蒸し風呂逃げ帰って蒸されというのを繰り返し、辺境流のお風呂を楽しんだのでした。




用語解説

・儀仗兵
 内地では儀仗兵と言えば見栄えは非常にいいけれど実際に闘うことはない張り子の兵、と見られることが多いが、辺境の儀仗兵は「見た目のいいでかくて旧式の武装で最新装備の連中を相手に戦える」エリートがやることになっており、実力も高い。
 そもそも全員が飛竜革の鎧や大具足裾払(アルマアラネオ)の武器などを装備しているというだけで、内地の騎士とは一線を画している。

・ネジュヴィロ・アマーロ(neĝviro Amaro)
 当代カンパーロ男爵。いわゆるトドのような体形と称される恰幅の良い初老の男性。
 辺境貴族では最も弱いとされるが、仮に飛竜がカンパーロまで到達してしまった場合でも対応できるだけの胆力と覚悟、実力がある。

・蒸し風呂
 辺境や北部の一部では、風呂と言えば蒸し風呂が一般的である。
 風呂の神流行が届いていないというのもあるが、大量の水を湧かして温度を維持するというのが極寒のこの国では難しいという理由もあるようだ。
 一家にひとつはさすがにないが、集落に必ず一つはある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊と晩餐会

前回のあらすじ

蒸し風呂を楽しむ一行。
一面の雪景色の中、全裸で池に飛び込む姿はクレイジーとしか言いようがない。


 暑さと寒さを感覚が麻痺してきたのか、苦行としか思えない蒸し風呂周回をすっかり楽しんでしまった。

 ロシア人が凍った池に飛び込んで泳ぐ動画見たことあるけど、実際やってみるとほんと、「水は凍ってないんだから氷点下の外気よりあったかい」とかいう気の狂った理論がまかり通る世界なんだよね。

 

 なんだか却って疲れたような気もするけど、心なし血行も良くなったような気がするし、たまにはこういうのもいいだろう。

 汗をかく私というのが珍しいのか、リリオとトルンペートにはじろじろと観察されてしまったが、まあ、そりゃ、私だって汗くらいかく。

 サウナではちょっと汗かきすぎて、出た後、汗臭くないかなと思ってしまったくらいだ。

 

 さて、綺麗に肌を磨いて、身支度を整えた私たちは、男爵さんの夕食の席に招かれた。

 木造ログハウス風のお屋敷なのもあってあんまり貴族って感じがしないのだけれど、それでも相手は列記とした貴族だ。

 私は帝国人じゃないけど、でも礼儀は払ってしかるべきだろう。

 というか礼儀云々の話するなら、そもそも私、招かれていいのだろうか。

 リリオとマテンステロさんはともかく、トルンペートは肩書武装女中だし、私も肩書冒険屋だ。

 さすがに駄目なんじゃなかろうかと尋ねてみたら、リリオに笑われた。

 

「大丈夫です。辺境貴族はそう言ったことをあまり気にしません」

「服もな──くもないけど、これでいいの?」

「えっウルウ礼服持ってるんですか?」

「見せないよ」

「えー!」

「私だけおめかししたって浮くじゃないか」

「なんで、なんで私は礼服持ってきてないんですか……ッ!」

 

 ちょっと口を滑らせかけたが、さすがに恥ずかしいのでご免被る。

 いつもスーツだったからかっちりしたスタイルは平気だけど、ドレスなんて着る機会なかったから、絶対無理だ。

 どうしても必要になったら引っ張り出すかもしれないけど、効果があんまり実用的じゃないから、それこそ本当にお偉い貴族様と会うときとかになってしまうだろう。

 辺境貴族は気にしないという言質はとったから、しばらく着る機会はなさそうだ。

 

 とは言え全く普段通りというのもあんまりだから、ちょっとは着飾っておこう。

 野暮ったいマントである《やみくろ》を外すと、その下は《影に仕える者》という細身の黒の詰襟にパンツで、質はいいがデザインはやや地味だ。まあ神父の着るカソックっぽいしセミ・フォーマルとは言い張れるだろうが、華やかさに欠ける。

 手元の革手袋に革の手甲は、装備アイテムではないようだが、一応それなりの強度がある。食事の席にこれは物々しすぎるだろう。外していこう。

 腰のベルトに並んだナイフやら瓶やらも外していく。ゲームグラフィック通りの小物なんだけど、実態としては現地でも手に入る特に効果のない見た目だけのものというのは確認済みだ。冒険屋としてそれなりに準備しているようには見えるからつけていただけで、一度も使ったことはない。

 足元の編み上げブーツは本格的に仕事用って感じで、武骨一直線だ。《忍び足》というシンプルな名前のこれは、足音を消すというこれまた地味な効果付き。

 

 外せるものを外してみると、旅の宣教師みたいになった気がする。括弧付きで似非と大きくつけたいが。

 

 髪はせいぜい見栄えが良いようにアップで整えることにして、ちょっと考えてから、《仇討簪(あだうちかんざし)》というアイテムを挿すことにする。

 これは二本足の銀製平打簪、ということになるだろうか。派手ではないが、百合の花を模したのだろう優美なデザインで、私の大人の魅力を引き出してくれることだろう。そんなものがあるとすればだが。

 

 すっぴんでも怖いものなしの便利ボディに生まれ変わりはしたけれど、一応メイクもしておこう。

 などと言ったけれど、実際に使うのは現地の化粧品ではなく、《謀りのメイク》という変わった装備品だ。

 一応頭装備に分類されるこれは、ゲームグラフィックでは笑顔をかたどった唇とまつげといったものだった。

 インベントリから取り出してみればさすがにそのものではなく、アンティークの化粧箱といった風情の道具が出てきた。開いてみれば見慣れたものから見慣れないものまで、化粧品が詰まっている。

 わかるものだけ使ってもよさそうだが、頭の中で装備することをイメージしてみると、手は勝手に動き出し、てきぱきと化粧を始めるではないか。

 機械的にビジネスメイクしていた時よりて慣れてるんじゃないかこの動き。

 

 横から面白そうに見ているリリオと技を盗もうとしているのか鋭い目つきのトルンペートの視線が刺さる中、私の手はするすると化粧を終え、付属の手鏡で確認してみれば、健康そうな肌色の私がいた。目元は心なしパッチリしているし、口元は少し笑っているようにも見える。

 なるほど、私にとって謀った顔はこんな顔かもしれない。

 

 さて。首から上は仕上がったが、どうするかな。

 ドレスまで着込む気はないけど、ちょっとこれは地味すぎるか。

 胸元に何かアクセント入れようかね。

 アクセサリー系の装備を検めて、そのうちの《ソウル・メダイヨン》を首にかける。

 これは楕円形のメダルのようなペンダント・トップを持つアクセサリーで、ちょっと調べてみるとロケットのように開くことができるらしい。

 

「何が入ってるんですか?」

「えーとね、なんて言ったらいいのかな」

「なんでしょう、これ」

「遺髪」

「遺髪」

「うん、遺髪ってことになるかな」

「えっと、その、どなたかご家族の……?」

「ううん、私の」

「……………?」

「いや、うん、まあ、気にしないで」

 

 言ってみればこれ、メモリアル・ペンダントとか遺髪入れとか言われるものなんだよね、設定的に。

 で、なんで自分の遺髪なんて妙な言葉が出てくるかっていうと、このアイテムの特殊効果が絡んでくる。

 《エンズビル・オンライン》の世界では、プレイヤー・キャラクターが死亡した場合、直前に利用した神殿で復活する。この際に、ため込んだ経験値と所持金が一部失われ、また復活直後は一定時間ステータスが低下する。いわゆるデス・ペナルティっていうやつだ。

 《ソウル・メダイヨン》はこのデス・ペナルティを無効化するという強力な効果を持つアイテムだ。これを装備していれば、いくら死んでも経験値や所持金は減らず、復活したらまたすぐに冒険に出られる。

 設定上は、このペンダントに封じた髪が死の穢れを代わりに受け止めてくれるということで、プレイヤー間では自分の遺髪という風に認識されているのだった。

 

 まあ、あんまり強力すぎて排出率が大幅に下方修正されて、いまや新規で手に入れたらそれだけで伝説になるほどのレアアイテムだけど。

 

 ま、そんな裏側はともかく、これもあまり派手ではないなりに、程々のアクセントにはなる。

 そんな風に私なりに準備して臨んだ晩餐会だけど、成程、辺境貴族は気にしない、というのは、こういうことか。

 

 なんとなく想像していた、無駄に広い部屋に無駄に広いテーブルに、という想像は全く裏切られ、ちょっと広めの食卓といったテーブルでご一緒させていただくことになった。

 席次とかも全然気にしてないみたいで、ホストである男爵さんが出入り口に近い下座に、奥さんと、長男がその隣に、後のみんなは好きなとこ座ってという具合だった。ありがたいっちゃありがたいけど。

 

 料理も、飾らないざっくばらんとしたものだった。

 内地との交流地と言っていたっけ、割とよそで見かけた料理が多い。悪い言い方をすれば新鮮味がない。

 しかし素朴な料理はどれも素材がいいのか味は悪くない。むしろ、いい。

 お酒もそれなりに高そうなもので、それを遠慮するなとばかりに瓶が並べてある。

 給仕も、私たちが気を遣わないようにという配慮か、それとも男爵さん自身の気質なのか、コース料理みたいに順に出すってんじゃなく、ずらっと一度に並べてくる。こういうの、嫌いじゃない。

 

 普段給仕する側で、っていうかそのものずばり女中であるトルンペートは自分が給仕されるのはちょっと落ち着かないようだったけど、でも食べるものは食べるし、飲むものは飲む。

 私も遠慮せずにいただくが、なかなかいい。温かいものを温かいまま出してくるっていう、ただそのことがこの北国では最高のご馳走だろう。

 なんだかんだここ暫く寒い外での食事が続いていたから、すごくありがたい。

 

 リリオとマテンステロさんは、男爵さんと楽しそうに思い出話やら近況なんかを話していて、入っていけないなりになんとなく会話を聞いていたのだけれど。

 

「ねえトルンペート」

「なによ?」

「男爵さん、リリオをお嬢様って呼ぶよね」

「呼ぶわね」

「リリオってもしかして、男爵さん以上のお家なの?」

「あれ、名乗らなかったっけ?」

 

 そう言えば、リリオは名乗ってないけど、トルンペートが初めて来たとき、名乗っていた。

 全然興味なかったのですっかり頭の隅に放置してたけど。

 

「あの子、フロント辺境伯アラバストロ・ドラコバーネのご令嬢よ」

「フロント……辺境伯ってことは」

「辺境で一番偉い大貴族の娘よ」

 

 これにはさすがの私も開いた口が塞がらないという思いだった。

 

「……()()で?」

()()でなのよねえ」




用語解説

・《影に仕える者》
 ゲーム内アイテム。《暗殺者(アサシン)》系統専用の影属性装備。
 回避率を大きく上げる外、《技能(スキル)》の隠密効果を上昇させる効果がある。
『《暗殺者(アサシン)》はお前に仕えているわけではない。心せよ。奴らは陰に生き、陰に死ぬ』

・《忍び足》
 ゲーム内アイテム。脚部装備。
 隠密率を上昇させるほか、《隠身(ハイディング)》中の移動速度低下を減少させる。
『抜き足、差し足、忍び足……歩き方のことだ。足なんざ切り取ってきても役に立つか』

・《仇討簪(あだうちかんざし)
 ゲーム内アイテム。頭部装備。
 攻撃力、奇襲時のダメージ量、即死攻撃の成功確率を上昇させる効果がある辺り、単なるアクセサリーではなく、これで突き刺しているのだろう。
『簪一本あれば、人は殺せる』

・《謀りのメイク》
 ゲーム内アイテム。頭部装備。
 隠しステータスである《魅力値(アトラクション)》を上昇させるほか、クリティカル率、即死攻撃成功率、窃盗成功率が上昇する。
『私、残酷でしてよ?』

・《ソウル・メダイヨン》
 ゲーム内アイテム。アクセサリー。
 デス・ペナルティを無効化する強力な効果を持つ。
 GvG、つまりギルド同士の戦闘イベントにおいて、ギルドメンバー全員がこれを金尽くで集めて装備し、死んでは復活してすぐに挑んでを繰り返すゾンビアタック戦法で大いに荒らしまわり、その後、効果の一部変更、排出率の極端な下方修正を食らい、いまや新規ではほとんど手に入らない超レアアイテムである。
『魂は永遠である』

・ドラコバーネ
 フロント辺境伯を代々襲名する、辺境の頭領。
 辺境で一番(物理的に)強い個人でもある。
 一応、リリオの実家。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と思い出話

前回のあらすじ

実はものすごくいいとこのお嬢様だったリリオ。
あれで。あんなので。


 辺境貴族があまり作法とか礼儀とかを重んじない、というのは半分正しくて半分誤りだ。

 辺境でだって、作法や礼儀というものはあるし、それを軽んじる者は相応の報いを受ける。

 ただ、内地の作法や礼儀と比べると、それが形式や様式よりも、実際的な部分を重視するってこと。

 思い遣りや、敬意、そういったものをまっすぐに表現するといってもいい。

 そう言ったものを示すためであれば、形式的な作法は曲げてもいい。

 辺境では誰も席次を口うるさく言ったりはしないし、食器の使い方が正しくないからと嗤うこともない。

 

 内地のお高く留まった貴族は、そういった辺境貴族のやり方を野蛮だ、洗練されていないということもあるが、辺境の作法が決していい加減というわけじゃない。

 辺境だから礼儀などいらんと無礼な態度をとった貴族が、その場で斬首され、周りの辺境人もそれを賛美したという逸話も故事にあるくらいだ。

 ただ、作法や形式を多少曲げることよりも、中身もないのに形ばかりを強調するやり方を良しとしないってわけ。

 

 別にその辺境のやり方が最上に素晴らしくて、内地の作法は形骸化したゴミだなんていう気はない。

 辺境のやり方だって善し悪しだし、内地のやり方だって善し悪しだ。

 その土地にはその土地のやり方があり、譲れないところは仕方がないとして、譲れるところは譲るほうが文明的だというだけだ。

 

 という風に頭の中で唱え、念じたのは、つまるところ譲りがたいけど譲らざるを得ないこの現状に対して思うところかあるけど言うに言えないからだ。

 

 暖かい部屋、美味しいお酒、美味しいごはん、とっても素晴らしい。

 素晴らしいけど、そんな晩餐会に武装女中(あたし)が席をもらっているってのがもう、落ち着かない。

 いくら辺境がざっくりばらんとしてるからって、使用人は使用人、そこはしっかりと区切られている。内地と比べれば大分距離が近いかもしれないけど、それでもこうして主人と同じ卓につくなんてのは、まずない。

 

 しかし、いまのあたしはリリオのお付きの武装女中ではなく、リリオの冒険屋仲間のトルンペートという形で認識されてしまっていて、そしてその通りに遇されているのだった。

 いや違うんで、女中なんで、なんてことはもちろん言えない。

 リリオも悲しむだろうし、閣下も興を損ねるだろう。

 というか閣下も、顔見知りなのだしあたしが武装女中だということもわかっているだろうに。

 まあ、辺境貴族は豪放だ、だからどうしたって言うんだろうけど。

 

 だから仕方がなく、せめて前掛けは外して精いっぱいお客様面するけど、でも女中に給仕されるとどうにも背中がむずむずする。

 リリオに給仕してる姿を見るとあたしにやらせてって言いたくなる。

 これも職業病っていう奴だろうか。

 ウルウも、人見知りの癖に平然と給仕されてて、なんかようやく手のひらからエサを食べてくれるようになった野良猫が他所でもエサ貰ってるのを見た時のような気分だ。そんな経験ないけど。

 

 そんなあたしのもやもやをよそにウルウはなんだかんだ美味しそうに食べるし、リリオと奥様、男爵閣下は思い出話に花を咲かせている。

 あたしとしてはもう、せっかくいいお酒が飲めるんだから、考えるのをやめて酒食におぼれたいところなんだけどそうもいかない。

 リリオが思い出話するってことは、当然、リリオといっつも一緒にいたあたしも話に巻き込まれざるを得ないのだった。

 

「いやあ、まったくお懐かしい。旅に出られるときはすぐに出て行ってしまわれたから、お見送りも半端なもので」

「もう、私を肥え太らせて食べるんじゃないかってくらいおもてなしいただきましたよ」

「おや、そうでしたかな。はっはっは!」

「リリオがお暇しようとする度に、不思議と名物料理が出てきたのを覚えていますよ、閣下」

「いや! いや! いや! まあそのような偶然もあるかもしれませんな!」

 

 男爵閣下には確か息子さんばかりで、結局娘さんができず、ちょくちょく遊びに来ていたリリオのことを目に入れてもいたくないと言う可愛がりようだった。

 リリオもリリオでまったく人見知りすることもなく物怖じもせず、おじさまおじさまと無邪気になついていたものだから、閣下としても可愛がり甲斐があったことだろう。それによく食べるから、餌付けのし甲斐も。

 あたしもリリオのおこぼれにあずかってよくお菓子をいただいたものだ。

 

 ……あれ、あたしも餌付けされてるな。

 よくよく思えばあたしもリリオと二人まとめてかわいがられていた気がする。

 まあ、いくらあたしだって、子供の頃はそんなものだろう。うん。仕方がない。

 

 カンパーロは堂々たるド田舎だけど、でも内地から遠ざかる一方の他の地域より、よほど物珍しい品が流通している土地柄でもあって、その上、土地も広いのでリリオにとってはいい遊び場所だった。

 遠路はるばる竜車で遊びに来て、結局旅疲れでついて早々ぐっすり寝て一日つぶしてしまったり、よく知りもしない森にフラフラっと遊びに行って二人して迷子になったり、牧場で羊たちのお世話をすると言いだして、結局牧羊犬に面倒を見られたり。

 

 いやあ、こうやって語ってみるとなんだかほのぼのして見えるけど、当時のあたしにとっちゃ、ついていくだけで全身がぼろぼろになりそうなほど疲れる大冒険だった。

 

 あ、これ比喩表現じゃないわよ。

 森で害獣や魔獣に追っかけ回されて骨折ったり、リリオが力加減間違えて骨折ったり、骨折ってばっかりだったわ。あ、これも比喩表現じゃなく、物理的にね。骨を折られては泣いて、強制的に回復させられては泣いて、また折られては泣いて、あたし、けっこう泣いてばっかりだったわ。腕から折れた骨が飛び出て泣かない子供がいたらあたしが見てみたいけど。

 まあそんな風に、腕を折られ足を折られ、あばらを折られ鎖骨を折られ、全身大概折ったんじゃないかってくらい折ったわね、骨。

 

 骨付きの肉をいただきながら、こんな感じだったかなーなんて、今では平気で思っちゃえるくらいだ。

 って言う話を隣のウルウに振ってみたらものすごく嫌そうな顔された。

 それが面白くてつい、ウルウが食べようとしてるお肉と見比べて、自分の脇腹のあたりを指してみる。

 

「それ、このあたりね」

「あのねえ。食べる気なくなるんだけど」

「背中側ね。あばら骨についてるやつ」

「君は肉付き悪くてまずそう」

「あら言ってくれるじゃない」

 

 ウルウは、はァー、とクソでかいため息をついて、ちょっとあたしの耳元に口を寄せて、脅すみたいに言った。

 

「食べちゃうよ」

 

 かすれ気味の低い声が、腰のあたりにぞわぞわ来た。

 

「懐かしいですねえ。ラピーダはまだ元気ですか?」

「まだまだ現役でやっとります。子供も、もう立派な牧羊犬ですな。雪解けしたら、新しい卵も孵ることでしょう」

「楽しみですねえ」

 

 あたしがうへあ、と変な声を出している間に、ウルウはお肉を骨から綺麗に外す作業に戻り、リリオたちは牧羊犬の話で盛り上がっていた。

 それどころではないあたしは、しばらく腰のぞわぞわに悩まされるのだった。




用語解説

・ラピーダ
 カンパーロ男爵家の牧場に飼われている八つ足の牧羊犬。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 白百合と辺境男爵

前回のあらすじ

エロい声がする。


 よくよく暖炉の利いた部屋で、美味しいお酒と美味しい食事をご馳走になる。

 こんなに幸せなことはそうそうないと思います。

 そこに楽しい思い出話も加われば、幸甚の至りというものです。

 

 おじさまこと男爵とはもうずいぶん長い付き合いで、それこそ私が生まれた時には領地まで駆けつけて顔を見に来てくれ、それからも折を見てはおもちゃやお菓子などを届けてくれました。

 そしてまた私が遠出しても良い頃になると、竜車に乗ってちょくちょくとカンパーロへ遊びに来たものです。

 

 実家も遊び場所に事欠かないといってもいいのですけれど、やはりカンパーロは一味違います。

 平野が広く続き、畑や牧場が多いのはもちろん、森林も良く育ち、獣たちと遊びまわったものです。

 当時のトルンペートはおとなしく引っ込み思案で、いささかやんちゃにわんぱくに育った私がその手を取ってどこに遊びに行くにも連れて行って、一緒に楽しく遊んだものです。

 

「あんなこと言ってるけど」

「お気に入りのぬいぐるみを引きずって持ってく子供と一緒よ」

「私そんなことしたことないなあ」

「あんたが外で遊ぶ子供だったとは思わなかったわ」

「外で遊ぶ子供じゃなかったわ、私」

「よねー」

「ねー」

 

 外野がなんか言ってますけど、美しい思い出なのです。

 こうして骨付き肉食べるたびに、泣き虫だったトルンペートを思い出します。

 うん。

 さすがに悪いことしたなーとは思ってます。

 仕方がないんです。

 当時の私は自分基準でしか物事を考えていなかったので、人間がそんなに簡単に壊れるとは知らなかったんです。

 今はちゃんと壊したら壊れるってわかってます。大丈夫。

 倫理観大事です。

 

「いや! いや! いや! お嬢様のご帰郷まったく嬉しいことですが、しかしまた急でしたな。冒険屋として、ゆるりと旅暮らしでもされているものかと」

「ええ、まあ、ちょっと予定外でした……というか、その予定外の、お母様が生きていたことは驚かれないんですね?」

「まさか! まさか! 驚いておりますとも!」

 

 おじさまは愉快そうに笑って蜂蜜酒(メディトリンコ)を呷りました。

 辺境には蜂がほとんど住んでいないので、蜂蜜酒(メディトリンコ)はお高い輸入品頼りです。

 なのでお土産にと思って積んできたのですが、喜んでもらえたようでよかったです。

 

「いや! いや! 全く、マテンステロ殿から手紙が届いたときは大いに驚きましたとも。しかしそれ以上に、長年の疑問がさっぱり晴れたというものですなあ」

「長年の疑問、ですか?」

「まさかあの御仁が冬場で動きの鈍ったはぐれ飛竜ごときに後れを取るはずがないと思っておったのです。そうしたらこれですからな。いや! いや! 飛竜を飼いならすとは! 愉快! 愉快!」

「あらあら、随分信頼されてるわねえ」

「はっはっは! 信頼させたのはあなたでしょうに」

「どういうことですか?」

 

 愉快そうなおじさまが言うには、こういうことでした。

 まだ辺境伯に就任したばかりのお父様が、就任式の宴もそこそこに、よりにもよってどこの馬の骨とも知れない冒険屋を嫁にするなどと言い出したものだから、随分と揉めたのだそうです。

 しかも自分に勝てたら結婚してやるなどという不遜なことをのたまっている。

 そして実際に、まだまだ若殿とは言え、辺境の頭領たる若きアラバストロを軽々と叩き伏せてしまった。

 これには腕自慢の辺境武者(あずまもののふ)たちも興がって、こぞって名乗りを上げて挑んだそうです。

 そこらの兵など話にならず、騎士が挑んでも相手にならず、ついに男爵自身も剣を合わせたものの、これが倒すに倒しきれない。なんのなんの、我こそは辺境貴族でも最弱、この程度ではないぞと、次なる手練れモンテート子爵に託したはいいものの、これもまた何合打ちあってもまるで崩せそうにない。

 

 負けはしない、負けはしないが、しかしうまく勝つのも難しいと攻めあぐねているうちに、目を覚ました若き辺境伯が先約は私だぞと立腹して、その場は決着がつく前に流れてしまったのだそうです。

 しかしそれでも、よもや騎士どころか辺境貴族とここまで渡り合えるものがいるとは思わなんだとお母様の強さは知れ渡り、今ではその腕前は大いに認められているのだということでした。

 

 おじさまの長男であるネジェロ(にい)も挑みたかったそうですけれど、当時はまだ成人しておらず、指をくわえてみているだけで悔しい思いをしたそうです。

 

 何しろ強いということがそれだけで大きな評価につながる辺境です。

 この逸話を知るものはみなお母様に尊敬の念を抱き、そしてできることならば手合わせしてもらいたいという、非常に脳筋な夢を抱いているそうです。

 私も辺境生まれ辺境育ちの辺境人ですけれど、辺境人のそう言う、「ちょっとお茶してかなーい?」「いいねー、ちょうど小腹空いたしー」みたいなノリで「ちょっと切り結ばなーい?」「いいねー、ちょうど血沸き肉躍るしー」ってなるところ大概頭おかしいと思います。

 

 週末の街角で秋波を送る若者がごとく、旅の道中ですれ違った武人相手に剣気を送ってみたりとか、辺境仕草は奇怪極まりないです。

 勿論みんながみんなそう言う血気盛んというわけではないのですけれど、というかけんかっ早さで言うと多分帝都人とかの方が上なんでしょうけど、強さというものに重きを置く風潮は一般的です。

 

 辺境人の強さや気風というものをよくよく知っている私やトルンペートにとっては今更な感じですけれど、ウルウにとってはいまいちよくわからないようで、いつもの話は聞いているけれど理解はしていないといった顔です。

 こればっかりは私にはうまく説明できません。私も辺境人ですし。

 

「うふふ。私もまさかこんなに強い人たちがいるとは思わなかったわ」

「それをみんな、()してしまったというのに!」

「楽しかったわね。みんな元気かしら。娘たちもここしばらくかまってあげたから、いくらか達者になったわよ」

「ほほう! ほほう!」

 

 きらり、とおじさまの目が輝きました。

 私はウルウにそっと目くばせします。

 

「ではいかかです! 親交を深めるためにもひとつ手合わせなど!」

 

 辺境流の「ちょっとお茶して行かない?」に、ウルウの目が死にました。




用語解説

・ネジェロ(neĝero)
 カンパーロ男爵の長男。今年で二十八。
 甘いフェイスのイケメンだが、辺境貴族の例にもれず血の気は多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊と試合前夜

前回のあらすじ

「ちょっと切り結ばなーい?」
「いいねー、ちょうど血沸き肉躍るしー」


 辺境人は頭がおかしい。

 とまではさすがに言わないけれど、大分血気盛んというか、腕自慢というか、強さというステータスを最重要視する気風ではあるみたいだ。

 

 マテンステロさんが余計なことを言ったせいで、男爵さんに「()らないか?」とお誘いを受けてしまうことになり、私たち旅の一行はまとめて辺境の戦士たちと手合わせする羽目になってしまった。

 非戦闘員のふりをしようと思ったけど、マテンステロさんが容赦なく「この子が一番強いわよ」などとさらに煽るようなことを言うもので、否応なしに巻き込まれてしまった。

 もう、してしまったとしか言えない。私は何一つ望んでいないんだよそんなこと。

 

 さすがにお風呂も夕食も済ませた後で手合わせというのもなんなので、明日のお昼前にでもいかがですかな、いいわねえ楽しみにしてるわ、などと遊びの予定でも組むかのように予定外の交流試合を組まれてしまった。

 この人たち他に娯楽がないのだろうかというくらい乗り気だ。

 そんなに力比べしたいなら熊と相撲でもしたらとリリオに八つ当たり気味にぼやいてみたら、それはたまにしますと普通の調子で返されてしまった。

 たまにするのかよ。

 

 熊も人間のことを恐れますから、運悪く遭遇して、狩る予定がないので追い払おうとすると、まあ相撲になりますよね、などと頭のおかしくなるようなことを言われる。

 そりゃ熊も人間のこと恐れるわ。

 

 夕食も済ませて、明日を楽しみにしておりますぞなどと、遠足を前にした小学生みたいにきらっきらした目の男爵に見送られてしまった。

 長男の人も割とイケメンなのに、こちらも遠足を前にした小学生みたいにきらっきらした目だ。

 そして隣を見ればこれまた遠足を前にした小学生みたいにきらっきたした目のリリオ。

 君らだけで完結してくんないかなあ。

 

 げんなりしつつメイドさんに案内された寝室は別棟にあった。

 棟は別とは言え渡り廊下も太い丸太を組んだログハウスっぽい造りで、寒い思いをすることもなく移動できたのはありがたい。

 部屋はそれなりに広いけれど、寒々しいということはない。

 むしろ木肌の見えるログハウス調は視覚的にも暖かみさえ感じる。

 ログハウスに泊まったことはないけれど、なんかこう、私の中では北欧とかカナダとか、あるいはメルヘンな世界観を思わせる。メルヘン、そう、サイズはあれだけど、森の小人たちの家とかそんな感じ。

 

 足元にある絨毯は毛の長いふわふわしたもので、独特の模様には何かしら魔法っぽい意味合いがあるのか、精霊の動きをわずかに感じる。防寒のためか、絵画の代わりでもあるのか、壁にかけられたタペストリーにお同じような気配を感じる。

 小振りな暖炉も、サイズの割に暖かいことを考えると何か仕掛けがあるのか。

 

 なんて考えていると、メイドさんが可愛らしいドヤ顔を見せてくれた。

 

「お目が高い」

「はあ」

「こちらは名物の魔術織りの絨毯でして、ちょっと地味かもしれませんが、てげぬきぃのです」

「てげぬきぃ」

「んんっ、とても暖かいのです、お客様」

 

 まあ、理屈はわからないけど、暖かいのはいいことだ。

 メイドさんは簡単に部屋のことを説明してくれ、それから呼び鈴みたいなのを渡してくれた。

 小さいけど、なかなかこじゃれたデザインだ。

 どうもこれはある種の魔法の道具の様で、振って鳴らすと組になったもう一つの鈴が共鳴して鳴り出すという。何か用事があるときはこれを鳴らしてくれということらしい。

 便利だけど、うっかり落としたりして鳴らさないように気をつけないとな。

 

 他に何かご質問はと聞かれたので、ちょっと見下ろしてから、聞いてみる。

 

「君も武装女中ってやつなの?」

「とんでもない! 私は普通の女中ですよう」

「ふうん。なんだか、身のこなしにスキがないから」

「そうですか? こんなものだと思いますけれど……」

 

 フムン。

 革の前掛けもしていなかったしまあ普通の女中なんだろうとは思ってたけど、やっぱり武装女中はそんなにごろごろしているものでもないみたいだ。

 まあ、武装女中でもない割に隙もないし、体幹もしっかりしてそうだし、辺境は標準レベルが高そうだけど。

 もしかしたら私が知らないだけで、メイドさんというものは本当にこれくらいが普通なのかもしれないけど。

 

 正直言うと、私の中のメイドさんの基準値がトルンペートなので、まともなメイドさんの普通が私にはわからないのだった。家事ができて気遣いができて戦闘ができてそして顔がいいんだよ。スタンダードが壊れる。

 

 さて、お気軽にお呼びくださいねと言い残してメイドさんが立ち去った後、私はてきぱきと寝間着に着替えてさっさと寝る準備を整える。

 旅してるときは、宿であっても一応すぐに動けるようにコンバット・ジャージを着るか、軽く首元を緩めるだけのこともあるけど、なにしろ領主のお屋敷というこれ以上ない安全地帯だ。

 今日はヴォーストで仕立てておいた寝間着を着ちゃう。

 高めの仕立屋さんで、ちゃんと寸法測ってもらったオーダーメイドだ。まあこの世界、服買おうと思ったら基本古着屋かオーダーメイドの二択なんだけど。

 

 デザインとしては、ネグリジェって言うのかな、ワンピースタイプのものだ。

 素材にもこだわった結果、結構なお値段がしてしまったが、悔いはない。

 この際ケチってもしょうがないと思って、お金をかけてふんわりピンクでフリルやレースもたっぷりの、少女趣味な感じ。

 私、無駄に図体がでかいからこういうデザインのって大体サイズがなくて悔しかったんだよね。

 最初着たときはやりすぎた、これは犯罪だろと思ったけど、着心地いいし楽だし、リリオもトルンペートも可愛いと言ってくれるのでまあいいかな、と。

 どうせ誰に見せるというわけでもないし、寝るときくらい好きにさせてほしい。

 

 本当は、たぶん着心地も性能もかなりいいだろう寝間着系の装備アイテムも持っていたんだけど、こっちに来るときはちょうどギルドの倉庫に預けてたから、インベントリには入ってなかったんだよね。残念。

 

 ベッドは天蓋付きでこれまたメルヘンでお姫様みたいだなとか我ながら甘ったるいことを一瞬考えもしたけど、分厚いカーテンを見るに、もしかすると防寒用なのかもしれない。

 メイドさんがいるからプライバシー保護用という用途も考えられるけど、部屋付きではないみたいだし、純粋に機能的なものかなあ。

 

 これはカーテンを閉め切った方がいいのかどうかと悩んでいると、ノックの音。

 応答すると、やってきたのはリリオだった。

 リリオも今日はネグリジェタイプの寝間着で、上にカーディガンを羽織っている。私が快適だとお勧めしたからか、二人も似たようなの仕立てたんだよね。さすがに私ほどお金かける気にはならなかったみたいで、グレードはちょっと落ちるけど。

 

 平然とメイドさんを従えているけど、全くこれっぽっちも気にした風がない自然な感じで、そのあたり一応は貴族なんだなと思う。

 

「あ、もう休むところでした?」

「いや、大丈夫だよ。眠れないの?」

「そういうわけでは……多分明日のこと面倒くさがってるんだろうなー、と」

「ああ、うん、それは、まあ」

 

 うん。

 面倒くさいは面倒くさい。

 

 一応身内である男爵さんのその場のノリと、と確実に身内であるマテンステロさんの悪ノリで、私まで巻き込まれてしまったことを一応申し訳なく思ってくれているようだった。

 まあリリオが何かしたというわけでもないし、別に責める気はないが。

 

「おじさまも悪い方ではないんですけれど、辺境は尚武の気質と言いますか、武を尊ぶといいますか、あんまり他所の人に押し付けたくはないんですけれど、そう言う土地柄でして」

「まあ、悪意のない、善意百パーセントの申し出だったのはわかってるけど」

 

 地獄への道は善意で舗装されているとかいうけど、まあ、今回のは寄り道みたいなものだ。

 別に急ぐたびでもないし、というか私には万事が万事急ぐ理由なんて欠片もないし、観劇料と思ってあきらめよう。

 

「多分、ものすごく面倒くさいと思っているとは思うんですけれど、できれば付き合っていただければ、」

「クッソ面倒だけど」

「ぐへえ」

 

 言葉にするまでもなく面倒極まりないけど。

 でもまあ、やるならば。

 

「君は」

「はい?」

「私に勝ってほしいの?」

「それは、もちろん」

「そう」

 

 まあ、やぶさかでもない。




用語解説

・魔術織りの絨毯
 刺繍に魔術的意味を持たせる技術と同じように、織り方に魔術的意味を持たせた絨毯。
 ただでさえ高価なものが、さらに高価になる。
 ただし、質の良いものは非常に優れた魔道具となり、所有しているだけでステータスと成程。

・てげぬきぃ
 意訳:とても暖かい。

・呼び鈴みたいなの
 《共鳴(ともなり)の鈴》。二つあるいは複数で一組の鈴。
 ひとつを鳴らすと組になっているもう片方も同じように鳴り出す効果がある。
 ただしあまり遠くまでは効果が届かず、精々同じ建物内でしか共鳴しない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と女中対決

前回のあらすじ

勝利フラグが立ちました。


 女中にお世話されてる時の女中ってどういう顔したらいいのかしら。

 あたしがそんな悩みを抱えているって言うのに、あたしをお世話する女中の方は全く気にした風もなく、女中が女中に給仕するって言う現実を平然と受け止めていて、なんだか格の違いを見せつけられた気分だった。

 いやまあ、あたしも給仕する側だったらそんな気持ちは顔には出さないけど。

 

 まあ、いつもあたしがやっている仕事を、自分の身で受けるというだけのことだ。

 全く落ち着かないけれど、でもそんなわがままばっかり言ってられない。

 リリオと行動するって言うことは、冒険屋として、《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一員としてやっていくって言うことは、つまりそういうことなんだ。

 いや待て本当にそう言うこと……?

 ちょっと迷ってしまったけど、まあ、あんまり深く考えない方がよさそうね。

 

 久しぶりに一人の寝床で目を覚まして、女中の手を借りて身支度を整え、食堂へ。

 リリオは顔洗ったかしら、服はちゃんと着てるかしら、ウルウはたまには寝ぼけて下着付け忘れたりしないかしら、なんて職業柄かいろいろ考えてしまうけど、しかし今のあたしにできることはない。

 あるとすれば、食堂に集まった二人をちゃんと検めてやることくらいだ。リリオの目に目やにはないし、ぼたんも掛け違えていないし、ウルウは残念なことに今日も下着を付け忘れてはいなかった。

 

 まったく、世の中はままならないものね。

 

 席について、朝の挨拶や歓談が交わされる中、朝食の皿が次々と運び込まれ、そしてウルウの顔が引きつる。

 まあ、気持ちはわかる。

 なにしろ辺境は、朝から食べる量がとにかく多いのだ。

 

 山と積まれた麺麭(パーノ)だけでも何種類もあって、よく食べる黒麦の麺麭(セカル・パーノ)、少しお高い白麦の麺麭(トリティカ・パーノ)や、種なしのパンなどの他、大きさや形、粉の違いなど、様々だ。

 果醤(マルメラド)も種類が多い。林檎(ポーモ)や、藍苺(ミルテーロ)苔桃(ヴァクチニオ)といった木苺(ルブーソ)の類の果醤(マルメラド)は、麺麭(パーノ)に塗るだけじゃなく、肉料理にもかけられる。重めの料理もさっぱりといただけるって寸法だ。

 分厚く切った燻製肉(ラルド)塩漬肉(シィンコ)、ぶっとい腸詰(コルバーソ)、何種類もの乾酪(フロマージョ)、それに塩漬けや酢漬けの(ニシン)、鮭、干物の鱈なんかもある。

 茹でた芋や潰し芋は定番だし、酸っぱい甘藍(カポ・ブラシコ)(ラーポ)の漬物といった、冬場でも食べられるように加工した野菜も大事だ。

 大麦の(ホルデアージョ)包み焼(・トールト)や豆のスープも並んだ。

 

 昨晩は他所からのお客である奥様とウルウに配慮してか、馴染みもあるだろう北部風の料理でもてなしてくれたようだけれど、ウルウとしては辺境風の料理の方が面白いようで、量はともかくその目新しさは楽しんでいるようだった。

 ほんと、量はともかく。

 

 冒険屋って言うのは基本的によく食べるし、リリオはその中でも特に食べる。何しろ辺境貴族だ。あたしも体の割に食べる。食べなきゃリリオについていくだけの活力は得られない。

 ウルウは最近ちょっとずつ食べる量が増えてきたけど、それでも小食な方だから、この量には辟易しているようだった。

 辺境のバカみたいな量に付き合わなくてもいいとは思うけど、でも、もうちょっと食べてほしいとは思う。美味しいものを食べている時のウルウは満たされた顔をするから、って言うのもあるけど、体が細くて心配になるときがあるので、もうちょっと太ってほしいのだ。

 おっぱいはあるけど、緊身衣(コルセート)も締めてないのにお腹はほっそりしまってて、いやほんと、どういう体つきなのって感じ。

 悪くないわよ。

 決して悪くないわよ。

 ただちょっと、まあ、もうちょっと(しし)置きがいい方がグッとくるもとい安心する。

 

 あたしの好みはどうでもいい。

 健康、それが一番だ。

 

 たっぷりの朝食を済ませて、さすがにすぐに手合わせを、ってことにはならなかった。

 食べてすぐはさすがにしんどい。

 辺境貴族の閣下とリリオはけろりとしてるけど、いくら辺境の人間でも普通はあれだけ食べた後に全力で運動は早々できやしない。

 

「普通の辺境人って何?」

「茶々入れないの」

 

 手合わせは腹ごなしを済ませて、お昼前にということになった。

 その頃にはお腹もこなれて、みっともなく朝食を銀世界にぶちまける心配もないだろう。

 みっともなく半固形の未消化物を銀世界にぶちまける可能性はあるかもしれないけど。

 

「そう言えばトルンペートだけ吐いたことないんじゃない?」

「あ、そうかもしれません」

「しょっちゅう吐いてるあんたらがおかしいんだからね?」

「冒険屋としての通過儀礼って言うか」

「《三輪百合(トリ・リリオイ)》の伝統芸というか」

「捨てちまいなさいよそんな伝統」

 

 腹ごなしがてら、あたしたちは軽く散歩などしてみたけれど、何しろ冬の辺境だ、景色には期待できない。

 冬囲い、雪吊りのなされた木々が見られる庭は、あたしたちにとっちゃ結構見慣れた、というか見向きもしないしけたものなんだけど、雪自体に慣れていないウルウにとっては物珍しいらしく、雪に足を取られながらも散歩を楽しんでいるようだった。

 

 冬囲いって言うのは、簡単に言えば庭木が風邪をひかないように、凍り付かないように、藁とか(むしろ)とかで包んでやることだ。

 雪吊りは、雪の重みで枝が折れないように、柱になる棒なんかを立てて、そこから伸ばした縄で枝をつってやることだ。細い枝なんかはまとめて縄でしばってやる、しぼりというのもある。

 

 そう言うのを説明しながら、まともに歩けていないウルウの手を引いてやっているうちに、存外時間は早々と過ぎてしまった。

 

 手合わせの場所に選ばれたのは、竜車場だった。

 冬場は雪が積もって何もかも埋まってしまうけど、少なくとも竜車場だけは、緊急で飛んでくる竜車がいるかもしれないので、可能な限り雪かきをしたり、踏み固めたりして、平らに保っているのだ。

 また、真っ白な世界を目当てもなしに飛ぶ竜車のために、雪に埋もれない背の高い塔が灯台のようにそびえたち、また着陸場所も真っ赤な塗料や篝火で目印を作るようにしてある。

 まあ、あたしは専門じゃないので詳しくはないけど。

 ともあれここならば広いので大立ち回りしても大丈夫だし、足元もほどほどに安定しているというわけだ。

 

 やっぱりというかなんというか、先鋒はあたしだった。

 なんだかんだ言っても、あたしって《三輪百合(トリ・リリオイ)》じゃ一番弱いものね。

 別に卑下してるわけじゃなくて、もっと正確に言うなら、あたしが一番一般人枠ってこと。

 常識人って言ってもいいわね。

 リリオは辺境貴族だし、ウルウはウルウだし。

 だからあたしが一番弱いって言うのは、あたしが一番まともだって言うことだ。

 一番弱いし、一番まともだから、一番こすっからい手も使うので実際闘うと誰が一番ってなかなか言えないけど。

 

 あたしのお相手は、閣下の長男ネジェロ様の武装女中だった。

 同じ武装女中とあって、装備はほぼほぼ同じだ。

 硝子蓑蟲(ヴィトラサクラルヴォ)の糸で織った給仕服に、臙脂も艶めく飛竜革の前掛け。

 腰帯には鉈と短刀、それに手斧。手袋も長靴も、確かな戦闘擦れの残るものだ。

 とはいえ、見た目は同じようなものでも、実態は違う。

 

「お初にお目にかかります。二等武装女中のペンドグラツィオと申します」

「ご丁寧にどうも。三等武装女中のトルンペートと申します。お見知りおきを」

 

 二等武装女中。

 三等武装女中のあたしより、一等級上の武装女中だ。

 辺境の武装女中は、戦闘力も生存力も、女中としての腕前や心構えも、厳しい試験の上で確かめられ、等級を定められる。

 二等ともなれば騎士とも遜色のつかない腕前を誇る。

 その上で、優雅な御辞儀をはじめとした所作にも隙がない。

 

 何しろあたしは最近、冒険屋として荒っぽい生活に身を置いていたから、こういう洗練された所作を見るとちょっと焦る。

 体に染みついたものは、なんて言うけれど、人は訓練を途切れさせると途端に劣化していく。

 養成所で散々味わった教鞭の痛みを思い出しながら御辞儀を返し、改めて向かい合う。

 

 審判兼一番近くで観戦できる観客であるところの男爵閣下が、開始の号令を吠えるとともに、ペンドグラツィオは腰の鉈を抜く。

 

 剣と言うには短く、短刀と言うには長く、中途半端な長さは野山の中で枝や下生えを打ち払うのに適したもの。騎士の持つ剣と比べたらいかにも野良道具といった風情ではあるけど、鉈は武装女中の基本武装ね。

 分厚い刃は折れず曲がらず、先端が重い造りは短いながらに打撃力が高く、短いゆえに取り回しの幅が広い。多少の刃こぼれなど戦力の低下につながらない武骨な鉈は、下手な武器よりもよっぽど凶悪だ。

 斧にしろ短刀にしろ、もとはと言えば「あくまでも武装していない侍女」という体裁のために、武器ではなく野良道具を携帯させているという形だったらしいけど、手練れの武装女中が振るう野良道具は、なまじの名剣魔剣よりも命を刈り取る作業に長けているんじゃないかって思う。

 

 短い剣としても、棍棒としても、時には盾としても使える鉈に対して、あたしは短刀を両手に構える。

 とは言えいつもの投擲用じゃない。足場の悪い雪の上じゃいつまでも距離は取れないし、飛竜紋の武装女中の装備と防御を貫くのはさすがに厳しいからね。

 近接戦となると、同じ鉈での勝負は、小柄なあたしにはちょっと分が悪い。

 いなしてかわして捌いて避けて、うまく隙をついていくってのがあたしらしいやり方。

 

 まずは小手調べとばかりに仕掛けてくるペンドグラツィオ。

 繰り出される鉈を受け流していくと、養成所での訓練を思い出す。

 リリオと内地に出てから、同じ武装女中とやり合うことは全然なかった。飛竜紋の武装女中なんて話にも聞かなかったし、内地の武装女中もまあ程度が知れたようなものだった。

 久々にご同僚が相手だと思うと、格上相手に緊張ってのもあるけど、それ以上に懐かしくって、楽しくなる。

 

 ペンドグラツィオはあたしより上背もあるし、つまり手足も長い。間合いが広い。でも結局のところ、人間の手足って言うのは、胴体に関節で取り付けられた棒っ切れだ。曲がる場所は限られていて、回る角度は決まっている。

 あたしはそのからくりを正確に把握して先読みできるほどの達人ってわけじゃないけど、それでも小柄なりの戦い方は叩き込まれた。

 

 例えば右腕は、右側には広く間合いがある。でも左側に振ろうとすると、自分の体が邪魔になる。

 例えば肘は上と内側には曲がるけど、下と外側にはどうやったって曲がらない。

 そういう人間の体の造りの上から見て、無理が出てくる場所に潜り込む。そして、一突き。

 それがあたしに叩き込まれたやり方だ。

 

 とはいえ、武装女中相手に早々うまくいくわけでもない。

 懐に潜り込もうとしたときには、ひらめく裾を翻して、鋭く蹴りが見舞われる。

 咄嗟に短刀で受けて後方に飛んだけれど、手首がしびれる。やけに、重い。

 

()()()()()わね。足癖が悪いこと」

「あなたこそ、何本呑んでるのかしら?」

「さて、ね」

 

 飛竜革の長靴はとても丈夫だ。でも革だから、金属よりは軽いし、柔らかい。

 ペンドグラツィオは靴の爪先、いや、たぶん靴底と踵にも鋼を仕込んでいるんだと思う。

 鋼は重いから蹴りにもその重さが乗るし、硬いからただの飛竜革より破壊力が上がる。

 怖い女だ。

 

 全身に刃物を仕込んでるあたしも大概だと思うけど。

 

 仕込みがばれた以上出し惜しみはしないらしく、ペンドグラツィオは鉈のみならず拳闘を交えはじめた。どちらかといえば、彼女は殴る蹴るといった拳闘の方が性に合っているらしい。

 鉈を基点としていた先ほどまでに比べて、大分動きの幅が広がり、やりづらいったらない。

 おまけにこの女、靴だけじゃなく手袋にも鋼を仕込んでいるらしく、繰り出される拳の一つ一つにえげつない重みがある。下手に真似しようとしたら腕の筋を痛めるだろうけど、慣れ切った鋭さがある。

 そんな重しを手足に仕込んでこの雪の上を自在に立ち回りするんだから、辺境の人間は大概頭がおかしい。

 

 とはいえ、だ。

 いまのところあたしは特に怪我をすることも、何なら有効打を受けることもなく、ペンドグラツィオの攻撃をさばき続けることに成功している。

 最初は手加減されているのかと思ったけど、というか事実手加減されていた臭いけど、段々回転数を上げていき、拳闘も解禁し、それでもなおあたしはそれをちゃんと見切ることができて、余裕をもってさばいて、その上で反撃もできていた。

 

 なんだか不思議な感覚だった。

 ちょっと前のあたしなら必死こいて逃げ回ってたようなえげつない蹴りをかいくぐり、ちょっと前のあたしなら見つけることさえやっとの隙に短刀をねじ込む。

 明らかに無理のある体勢で避けるペンドグラツィオ、それを見送って次を待ち構える余裕さえある。

 あたしには今や、ペンドグラツィオが明確に焦りを覚えているのを如実に感じ取っているのだった。

 

 結局あたしは程よく汗をかいた辺りで、鉈を弾き飛ばしてペンドグラツィオに膝をつかせることができた。あたしが手巾で軽く額をぬぐう程度のところ、格上のはずの武装女中は肩で息をしてすっかりくたびれたようだった。

 短刀に比べて重い鉈を振り回し、それに加えて手足に重しを仕込んでいたとはいえ、ずいぶんな疲れようだ。

 というより、大立ち回りを演じたペンドグラツィオをからかうように動き回っておきながらさほども疲れていないあたしの方が、やけに体力に溢れているということかも。

 

「三等なんて、騙されたわ」

「あー……奥様にしごかれたからかも」

「羨ましい限りだわ。昇級試験をお勧めするわ」

「養成所でまたしごかれるの? あー、まあ、気が向いたら」

 

 行楽気分のリリオたちに手を振り返しながら、あたしもその行楽気分の仲間となるべく歩き出したのだった。




用語解説

果醤(マルメラド)
 果物に砂糖や蜜を加えて加熱濃縮したもの。ジャム。

藍苺(ミルテーロ)
 ツツジ科スノキ属の低灌木種及びその果実。
 ビルベリー。
 青紫色の実をつけ、生で食べると果汁の色がつく。
 柔らかく傷つきやすいため専ら素手で採取され、傷みやすいためその土地でのみ消費される傾向にある。

苔桃(ヴァクチニオ)
 ツツジ科スノキ属の常緑小低木及びその果実。コケモモ、リンゴンベリー。
 赤い実は非常に酸味が強く、果醤(マルメラド)砂糖漬け(コンフィタージョ)などにして用いる。

砂糖漬け(コンフィタージョ)
 主に果物を砂糖につけたもの。果醤(マルメラド)のうち、果物の形を残しているものも言う。

塩漬肉(シィンコ)
 特に言及しない場合、豚や猪のもも肉を塊のまま塩漬けしたものやその類似品。
 燻製するもの、煮沸するもの、加熱しないものなどがある。

甘藍(カポ・ブラシコ)
 アブラナ科アブラナ属の多年草。結球する葉を食用とする。キャベツ。

(ラーポ)
 アブラナ科アブラナ属の越年草。根菜。葉も食べる。カブ、カブラ。

麦粥の(ホルデアージョ)包み焼(・トールト)
 小麦やライ麦の生地に大麦の乳粥、マッシュポテトを乗せて焼き上げたパイ料理。

緊身衣(コルセート)
 補正下着の一つ。胴を締め上げてウエストを細く見せるために使用するほか、腰痛緩和のためにも用いられる。
 健康にあまりよくなく、流行でもないが、たまに見かける。

硝子蓑蟲(ヴィトラサクラルヴォ)
 硝子の森に生息する昆虫。蛾の仲間。
 硝子質の甲殻を持ち、硝子質の小枝などを蓑のようにまとい、硝子質を含む糸で枝からぶら下がる。
 この糸は非常に丈夫かつしなやかで、繊維素材としては最上級の性能を誇る。
 その分、扱いには極めて特殊な専門職が必要だが。
 内地ではその糸の取引自体がまずないが、辺境では養殖もしており、武装女中のお仕着せや貴族、騎士の衣類、鎧によく用いられている。

・ペンドグラツィオ
 カンパーロ男爵嫡男ネジェロ付きの武装女中。等級は二等。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合と男爵令息

前回のあらすじ

格上の武装女中ペンドグラツィオを意外とあっさりあしらってしまうトルンペート。
どうやら『暴風』にしごかれていつの間にか成長していたようだ。


 おじさまことカンパーロ男爵に誘われて臨んだ交流試合は、《三輪百合(トリ・リリオイ)》からはトルンペート、向こうからはペンドグラツィオという武装女中との、武装女中同士での対決で始まりました。

 

 トルンペートがいつも一緒にいてくれるので感覚が麻痺してしまいそうですけれど、実は武装女中同士が手合わせするのって、なかなか見れない組み合わせです。

 飛竜紋の入った前掛けを許される辺境の武装女中だけじゃなく、内地の武装女中でもそうですね。

 数自体がそんなに多くないのもありますけれど、そもそも武装女中は女中であって、戦闘は本業じゃないんですよ。

 

「これ笑うとこ?」

「気持ちはわかります」

「あんたらね」

 

 格上の二等相手にも引けを取らず、むしろかなり余裕を残していい運動してきたと言わんばかりのトルンペートが帰ってきました。

 ほら、ご覧ください。

 こうして普通に立っているトルンペートは普通の女中です。いささか普通じゃなく美少女ですけど、これは私の贔屓目もあるので勘定に入れないでいいでしょう。

 大真面目に武装女中って本業は女中なんですよ。家事ができる傭兵じゃなくて、戦闘ができる女中なんですね。

 

 大昔、辺境が帝国に組み込まれることになったとき、辺境の人たちも考えたんです。

 自分たちは武勇を誇る、誇りすぎる。人界を護るために竜狩りを続けてきたその強さを自覚していたんです。

 なので帝国の人々を出迎えたり、内地に出向いたりするときに、極力脅威を感じさせないように一切武装せずに、騎士たちも連れないことにしました。

 でもいくらなんでも手ぶらで共もないのでは見栄えも悪いし、護衛なしでは家臣たちもいい顔をしない。

 

 そこで双方に対する詭弁として、武装女中が生まれました。

 無力な内地の人々には、あくまでも野良仕事用の道具を持った女中だと。

 辺境の人々には、貧弱な内地相手としてはきちんと武装した護衛であると。

 

 帝国から派遣された初代辺境総督と、絆を結ぶために嫁入りした辺境の姫騎士の歌物語にもこの武装女中の逸話が登場しまして、これがまた初演以来帝国各地で長く演じられている大人気の演目なのです。

 なので武装女中は辺境だけでなく内地の人々にも広く知られ、いまや内地産の武装女中もいるんですね。

 

「……それって結局女中と護衛の合いの子ってことじゃ?」

「女中だって言う詭弁を通すために、徹底して教育されてるので、とても優秀な選りすぐりの女中なんです」

「戦闘技能は?」

「護衛なのに弱くちゃ仕方ないのでそちらも徹底的にしごかれた生え抜きの腕前です」

「武装女中はなんだって?」

「ごりごりの武装集団です」

「あんたらね」

 

 まあ、うん、でも、いくら鍛え抜かれているとはいっても、女中としての仕事も同時並行で叩きこまれているので、普通の武装女中と本職の騎士なんかと比べるとやっぱり弱い、と言っていいと思います。

 ただ、この強い弱いというのも曲者で、野外でぶつかり合ったら騎士の方が強いかもしれませんけれど、室内や、武器が限られている中での戦闘や、主人の護衛などを鑑みた場合、武装女中に分があるでしょう。

 

 適材適所というやつですね。

 

「はいはい、あたしのことはいいから、次、あんたの番よ」

「頑張ってきますね!」

 

 さて、次鋒は私ということで、お相手は、と見れば、優しげな微笑みを浮かべたネジェロ(にい)こと、カンパーロ男爵嫡男のネジェロでした。年は確か三十になるかならないかでしたっけ。

 

「今年で二十八になる。ちっちゃなリリオーニョが成人するんだ、俺もいいおじさんだよ」

「またまた。ネジェロ兄はいくつになってもネジェロ兄ですよ」

「お前はいい子だなあ。お前の兄貴は容赦なく俺をおじさん呼ばわりするよ」

 

 うーん、まあ、兄のティグロはそういうところあります。

 丁寧というか、慇懃無礼というか。

 

 ネジェロ兄とはそれこそ私が生まれた時からお付き合いのある、庶民的な言い方をすれば近所のお兄ちゃんです。恰幅の良いおじさまと比べると細身ですけれど、顔つきの柔和さはよく似ています。

 とは言えただの甘い顔つきの甘い人かというとそうでもなく、これで立派な辺境貴族。血の気の多さはお墨付きの札付きです。私とティグロ、二人まとめて一緒に遊んでくれたというのがどれくらい頑丈なのかお察しいただければ。

 

「お前の剣と鎧、そんなだったか?」

「ふふん、いいでしょう。ヴォーストで強化してもらいました」

「大方派手にぶっ壊して直してもらったんだろう」

「ぐへぇ」

 

 お見通しでした。

 でも強化されているのも本当なので、ここは胸を張っていきましょう。

 

 私の武器が大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻を削り出した剣であるのに対して、ネジェロ兄の獲物は(スペル)硬質陶磁(ツェラミカージョ)を削り出した剣でした。

 この(スペル)硬質陶磁(ツェラミカージョ)というのは古代聖王国時代の遺跡に使われている建材のことで、まともな方法では傷をつけるのも大変な恐ろしく硬い石です。似たようなものとしては、ヴォーストの地下水道なんかの建材である超硬(スペル)混凝土(ベトノ)こと聖硬石などがありますね。

 

 天然ものか人工物かの違いはありますけれど、どちらも恐ろしく頑丈な素材で、つまり力加減を考えずに振り回すのに適したとても辺境人らしい武器です。辺境人が力任せだって言いたいわけじゃなく、半端な武器だと力に耐えられないくらい強いってだけですけど。

 

 細かな性能の違いはあるんですけれど、まあそういうのは玄人の好み次第ということで。

 

 私たちは朗らかに礼をしあい、おじさまの合図とともに大上段の大振りを互いに繰り出しました。

 大抵の相手なら剣の頑丈さと辺境貴族の怪力が合わさって一撃で仕留められるものでしたけれど、私たちにとっては軽い挨拶みたいなものです。

 よくできましたとばかりにネジェロ兄は柔らかく微笑んで、それから鉈で枝を掃うかのような気軽さで剣を振るってきます。もちろんそんな気軽な手つきであっても、獲物は本物の凶器であり、ふるうのは常人離れした怪力です。

 

 それを真っ向から受け止め、撃ち合うことが叶うのも、私が辺境貴族であり、獲物が大具足裾払(アルマアラネオ)の剣であり、つまり同じ化物の条件を揃えているからでした。

 私たちが一合一合打ち合う度に、まるで岩と岩とが激しくぶつかり合うような馬鹿げた轟音が響き渡りました。

 メザーガやお母様は確かに強い、強すぎるのですけれど、それでも、この轟音をぶつけあえるのは辺境貴族同士でなければできないことでしょう。

 それだけ辺境貴族というのは、生物種として格が違うのです。

 

 それなのにお母様にいまだに勝てないのはなぜなのか。謎です。

 

 ともあれ、私たちは楽しむように剣を合わせていきましたけれど、さすがにちょっと厳しくなってきました。

 私もお母様に随分しごかれてそれなりに腕は上がったと思いますけれど、辺境貴族ネジェロは十四年分私よりも長く剣を振るってきているのです。

 

 それに加えて、まず体格差があります。

 私の体は小さく、ネジェロ兄は上背のある方です。

 基本的に、体が大きい方が強いというのは辺境貴族にも通じる理論です。

 腕力に関しては恩恵の強さが物を言うとは言え、腕が長ければ間合いは広がり、そして遠心力が打撃に加わる。

 これはちびの私には無視できない差です。

 

 そしてまた武器の差があります。

 どちらが優れているという話ではなく特性としての話で、私の大具足裾払(アルマアラネオ)の剣はしなやかで軽く、受け流しや素早い剣技に優れるのですけれど、ネジェロ兄の(スペル)硬質陶磁(ツェラミカージョ)の剣はなにしろ石剣ですのでしなやかさはまるでないのですけれど、とにかく重いのです。

 そんな鈍器並みの重たさの剣が、体重を乗せて降ってくると、私としては受けづらいのです。

 軽い私の体では、下手に受けると吹き飛ばされてしまうのです。

 足場が雪というのも頂けません。いくら慣れているとはいえ、これだけの衝撃を受け止めるには、この足場は弱すぎるのです。

 

 単純な打ち合いでは、分が悪いということですね。

 

 じゃあ打つ手がないのか、と言えばそんなざまでは冒険屋などやっていられません。

 私は打ち合いから受け流し主体に切り替え、ネジェロ兄の剣をいなしながら息を整えます。

 呼吸はすべての生命活動の基本。正しい呼吸ができていることが、重要です。

 

 呼吸を意識して、全身の力を意識して、魔力を練り上げていく。

 剣士にして魔術師であるお母様はこの辺りをほとんど無意識でこなせるみたいですけれど、私にはまだまだ難しいものです。それでも、なんとか戦いながらこなせる程度にしごかれたのですよ。できないとぼろくそにされるので。

 

「お、札を切るか。おじさん嬉しいねえ」

「出し惜しみは、しませんよ……ッ!」

 

 私の魔力の動きを察して、おじさんの剣撃は一層鋭く激しいものとなって降り注ぎました。

 大剣のような重量が、鉈か何かのようにあまりにも気軽に振り下ろされる。

 真正面から受ければ、いくら私の恩恵が強いとはいえ、押し負けるのは確実だったでしょう。

 

 けれど、私は整えた魔力を剣にまとわせ、この振り下ろされた死に真っ向から立ち向かうことを選びました。

 振り下ろされる剣に対し、打ち上げる剣。

 重みを活かせる振り下ろしに対し、それはあまりにも無謀な戦いだったかもしれません。

 けれどそれは、尋常な物理学においての話。

 魔力の恩恵を受けた手は、腕は、肩は、背は、そして足に至るまでの全身は、大地を支えに力強く剣を振り上げ、刃がかち合う。

 

 まるで小さな爆発でも起きたかのような衝撃に、互いの剣が停止する一瞬。

 その力の均衡を崩すのが、剣に宿った魔力の一握り。

 

 心の中で火花が散り、剣先に宿った魔力が音を立てて爆発する。

 その爆発は強烈な推進力となって、暴れるように剣を打ち上げる。

 

「う、おォ……ッ!?」

 

 力の均衡を打ち崩すその衝撃に、ネジェロ兄の手から剣がもぎ取られ、そして突き立った雪をその熱で溶かしました。激しい打ち合いと、魔力のぶつかり合いが、それだけの熱量を生んでいたのでした。

 

 ドラコバーネの魔力は、爆ぜる魔力。

 今まで使うほどのことに陥ったことがないので、使うまでもなかった切り札。

 というと格好いいですけれど、まあ実戦で使えるほど私が魔力の扱いできてなかったんですよね、いままで。

 でも、お母様にしごかれ、ぼろくそにされ、できなければご飯抜きとかいう地獄を乗り越えて、私は見事勝ち取ったのです。

 

 自分自身の魔力の炸裂で手がじんじんとしびれるのを押し隠して、私は勝者にふさわしい笑みで胸を張りました。

 

「ドヤ顔だ」

「ドヤ顔ね」

 

 外野がうるさいですね。

 

「いや、参ったな。随分腕を上げたよ」

 

 しかし、ネジェロ兄は手をぶらぶらと振りながら苦笑いしましたけれど、なんとなく釈然としないのも事実です。

 最後の、魔力の炸裂の瞬間、一瞬ネジェロ兄の剣の重圧が緩んだような気がするのです。

 怯んだ、というわけでもないでしょうから、あれはむしろ、手加減されたのでしょうか。

 ちょっと不満げに見上げてみると、おじさんはやっぱり柔らかく笑うのでした。

 

「悪いけど、剣が惜しくなった。あそこで攻めたら、押し勝つにしても、折れてたんでな」

 

 少なくとも、そう言わせるくらいには腕を上げたと、いまは満足するよりなさそうでした。




用語解説

(スペル)硬質陶磁(ツェラミカージョ)
 超硬質セラミックス。古代遺跡の建材や道具などの形で発掘される素材。
 金属ではなく陶磁であるため加熱に非常に強く、溶けて曲がったり折れたりしない。
 その代わり加工も削り出すほかにない。

超硬(スペル)混凝土(ベトノ)
 いわゆる聖硬石のこと。地下水道など、遺跡の建材としてよく見られる。
 ざっくり言えば素材の粒子単位から魔術的補強のなされた超硬質コンクリート。
 頑丈なだけでなく経年劣化にも強く、二千年経ってもほとんど劣化していない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と老剣士

前回のあらすじ

辺境貴族同士の戦いは、大抵人間が出せない音を出す。


 リリオと、男爵さんの息子さんの手合わせは、まあ私が言うのもなんだけどちょっと人間離れしていた。マテンステロさんのところでしごかれて万国びっくり人間ショーは満喫したと思っていたんだけど、辺境人がみんなあんな感じだとしたらほとほと度し難いな。

 

 身のこなしとか技術面で言うと、二人とも大したことはなかった。

 いや、他の冒険屋とか見てきた限り、かなり大したことあるんだろうけれど、マテンステロさんみたいな規格外見ちゃうと、目が肥えちゃうよね。

 

 まあそれでも、大分チート入ってる私の目でも追えないマテンステロさんと比べると十分落ち着いて観戦できるレベルだった。

 ただ、剣を打ち合ってる音がどう聞いても重機がうろつく工事現場のそれだったので、この人たちも大概おかしい。

 キンキンキンキン流石だな、っていうんじゃなくて、ガンゴンガガンやりますねっていう力こそパワーな蛮族の音がするんだよ。ハンマーで殴り合ってんのかこいつら。

 

 その爽やか蛮族青空殴り合い合戦を制したのは我らが《三輪百合(トリ・リリオイ)》のリーダーであるリリオだったわけだけど、この子、このちっちゃい体にあんなパワー秘めてんのかと思うとちょっとどころではなく命の危険を感じるよね。

 別に私も怪物だし、今更ヒィッ化け物!とかやらないけど、こいつ、私が耐えられるのわかっててあのパワーで抱き着いてくるんだよな。本気でやばい時は避けるけど、ハグで《HP(ヒットポイント)》減るのってはっきり言って恐怖だからね。

 私の場合痛みとかだけじゃなくて数字で見えるからより一層怖いんだよ。

 なんなら君のボスMobみてーな力強さ(ストレングス)も数字で見えるから怖いんだよ。

 

 それでも馬鹿犬じみた笑顔でダッシュで駆け寄ってきて褒めて褒めてって顔されると無下にもできないのだ。にんげんだもの。

 

 晴れているとはいえ息が白くなるほど寒い寒空の下、体から湯気立てて髪までぐっしょり汗にぬれていたので、タックルは全力回避。風邪ひかないように、タオルは投げてあげる。そうすると私が拭いてあげなくてもトルンペートがかいがいしくお世話してくれるのだ。

 適材適所だね。

 

 さて、そんな具合で二人の試合が終わったわけだけれど、なんで私がトリなんだろう。

 武装女中であって本業は戦闘職ではないらしいトルンペートが先鋒なのはまあわかるとして、大将はうちのリーダーであるリリオであるべきだったんじゃなかろうか。

 

 そう言う不満たらたらなのを察したのか、男爵さんが柔和そうに笑った。このおじさま、腹から善い人そうではあるんだけれど、善人が私にとって都合のいい人かというとそう言うわけでもない。地獄への道はいつも善意で舗装されているのだ。

 

「いや! いや! いや! ウルウ殿は一番()()()とマテンステロ殿から聞かされておりますのでな!」

「頑張ってねウルウちゃーん」

 

 この人ほんっと無責任に煽るよなあ。

 もしかして、ハヴェノでしごかれてた時、徹底的に札を切らないように誤魔化しまくってたのがばれてんのかな。しかたがないだろう。私みたいな《技能(スキル)》頼りの構成だと、あんまり奥の手みせると後がないのだ。

 リリオみたいな素直なタイプじゃないから、地力でどうこうってのはできないんだよ。

 

 まあ、しかし組まされたものは仕方がない。

 やるからには正々堂々真正面から誤魔化し切ろう。

 

 武装女中同士、剣士同士という先の試合とは違い、私の相手は同じ《暗殺者(アサシン)》というわけではなかった。そりゃそうだ。私を見て暗殺者だと判断するのは無理だろうし、じゃあなんだろうってなると何者なんだろうな私は。

 

 憮然として立つ私と対峙したのは、初老の男爵さんよりまだ年上の、顔にしわの刻み込まれた老人だった。老人と言っても、かなり立派な骨太の体格で、背筋もピンと伸びていて、まるで老いというものを感じさせない。

 

「お初にお目にかかる。アマーロ家剣術指南役を務めまするコルニーツォと申すもの。よろしくお頼み申す」

「はあ、ええと、ウルウと申します。今日はお手柔らかに」

「うむ、うむ」

 

 背丈で言うと私の方が上なんだけど、骨も筋肉も太いし、姿勢がいいからか、全然小さくは見えない。

 なんていうのかな、気迫みたいな、そういうのがあるよね。

 手にした剣は派手な装飾もない武骨な剣なんだけど、かなり使い込まれた年季を感じる。まるで手足の一部みたいに馴染んでいて、目立たない。それがかえって怖い。

 それにこの刃の輝きは、以前にも見たことがある。

 

「フムン。わかりますかな。古いが、聖硬銀でできておる」

「以前に、見たことが」

「見劣りせねば良いが」

 

 渋く笑うお爺様だけど、剣術指南役ってことは、さっきヤバそうな音を立ててリリオとヤバそうな打ち合いしてた長男にも剣術教えてたってわけで、全然全く油断できない。

 この人は辺境貴族ではないらしいけど、辺境貴族でもないのに辺境貴族に剣術教えているっていう理論の破綻がもう怖いでしょ。

 

 聖硬銀の剣ってことは、確かメザーガが使ってたのも同じ素材の剣だった。

 珍しい素材みたいであまり詳しくは知らないけど、リリオに言わせると使い手次第で大きく化けるらしいから、見た目は地味でも十分ヤバい代物だろう。

 見た目が地味っていうのは、こういう場合一番手ごわいんだっていうのがセオリーだしね。

 

 まあ、油断しないようにとは言っても、私にできるのは避けて避けて避けて後たまに殴る蹴るってくらいだけど。

 いやほんと、私、戦闘って苦手なんだよ、いまだに。

 

 試合開始の合図が響き、コルニーツォさんは中段に構えてずいずいと距離を詰めてくる。

 こっちは無手なんだけど、それで遠慮する気はなさそうだった。

 というより、この世界ではある程度腕が立つ人は、ステータス見れるわけでもないのに相手の強さがなんとなくわかるらしい。私は《暗殺者(アサシン)》系統の特性なのかそのあたりがわかりづらくはあるようだけれど、それでもそのわかりづらいっていうのが警戒するには十分な要素らしい。

 

 ファンタジーな世界に迷い込んで、一番ファンタジーだなって思うのがその気配とか気迫とか空気とか読む能力だよなあ。

 

 なんてぼんやり考えている間にも、コルニーツォさんは容赦なく切りかかってくる。

 さっきの長男氏と比べると力強さは劣るけれど、鋭さが段違いだ。一つ一つの動作がよくよく油の注された機械のように精密で、そして素早い。

 この素早いっていうのは、一つの動作が早いって言うだけじゃなくて、次の動作へのつなぎ、その次の動作への準備、そう言った一連の動きを頭で考えるのではなく体が覚えて繰り出してくる素早さだ。

 動作と動作の継ぎ目に考えたり躊躇ったりする隙がないから、単純な速度以上に、早い。

 

 なんてことをただのんびり考えているわけじゃなく、私の体はそれらをのらりくらりと自動回避でかわし続けている。私自身かなり気持ち悪いと思うほどの出鱈目な動きは、術理として剣術を叩き込んだ人ほど不可解なものとして困惑するものらしいけれど、このお爺様はまるで怯むところがない。

 

「素人の何を考えているかわからない剣の方が怖い、というのはよく言われることだが」

 

 踏み固められているとはいえ沈み込む雪の上をするすると詰め寄りながら、お爺様は獰猛に笑った。

 

「そこで止まるのであれば、剣の道の入り口止まりでな」

 

 つまり、訳の分からない動き程度は前提条件、ということか。

 まあ、人間より魔獣の方が多いとかいう辺境で剣を取る人だ。理外の理というものとやり合い慣れているんだろう。

 

 そうなると困ってくるのは私だ。

 なにも私は自動回避にすべて任せてぼんやりしているわけじゃない。

 あえてぼんやりしてないと、ファンタジー世界の住人はすぐにこっちの意図を読んできやがるので、下手に意識を集中するとそこから崩されるのだ。

 殺気を読むとかいう物理法則に反したスキルを標準装備してるからなファンタジー世界。

 

 とは言えこれが通じるのは程々の相手までで、ある程度腕の立つ連中だと、その完全無意識自動回避だと、逃げ道をどんどんふさがれて論理的物理的に回避不可能状態に追い込まれて無理矢理回避盾を突破されてしまう。

 

 じゃあどうするかって言うと、どうしようもないんだよな。

 いや、しょうがないじゃん。

 私、ただの元OLだからね?

 いくら身体がチートでも、ちょっとの間ナチュラルチートに修行つけられてても、私、平和な現代社会で社畜してた運動不足で心臓発作起こした元OLだからね?

 

 これ以上回避できませんってところまで追い詰められたらそりゃ、もう回避できないんだよ。

 

「ようやく、追い詰めたましな」

「これで降参ってわけには」

「わしもようやく体が温まってきたところでな」

「あー、オーケイ、お手柔らかに」

 

 ついに追い詰められて、ではどうするかって言うと、防御するしかない。

 自動回避を理詰めで追い詰められて、私はついに武器を抜かされた。

 と言っても散々ひけらかした《死出の一針》じゃない。あれじゃちっちゃすぎて防御もなにもない。

 インベントリから引き抜いて、コルニーツォさんの剣を受け止めたのは、《暗殺者(アサシン)》系統の両手武器、《ドッキョシ》と《コリツシ》の二本一組の大振りのナイフだ。

 自慢じゃないけど、ハヴェノでの乱取りじゃあ、マテンステロさん以外にはいまだに武器を抜いたことがない。それをさせるんだから、このお爺様は、少なくとも技術面においては《三輪百合(トリ・リリオイ)》の二人より上だ。

 リリオは怪力ばかり目が行くけど、あれで剣術自体も達者だから、このお爺様の腕前が並大抵でないのがわかる。

 

 いやまあ、並大抵だったら剣術指南役なんかやってないんだろうけど。

 

 ともあれ、まあ、抜かされてしまったからには、私の回避盾としての性能はさらに上がる。

 避けるだけでなく、受け流しまでできるからね。

 というか受け流ししかできないんだけどね。

 レベル九十九だから、鍛えてなくても力強さ(ストレングス)の数値は結構高いんだけど、それでもがちがちに鍛えた前衛職相手だと見劣りする。ファンタジー世界の住人、恩恵とかいうブーストで、見た目以上のパワー出してくるからなあ。

 このお爺様の剣はリリオよりは弱いけど、それでも私が真正面から力比べするにはちょっと困るパワーだ。しかも、こちらの力が入りづらい角度で刃を入れてくるので、やりづらい。

 

 今は受け流しに専念しているけれど、こちらが本腰入れたので向こうもやる気出したみたいで、太刀筋が殺す気になってきてる。

 単に鋭いだけなら受け流し続けられるけれど、こちらの動きを見てから太刀筋が唐突に切り替わるとかいう、訳の分からない剣が襲ってくるのだ。これを下手に受けてしまうと、そのまま刃を滑って切り返してくる。

 勿論、そんな変幻自在な動きをしているのだから、一太刀にかけられる力はずいぶん落ちているのだけれど、人間を殺すのに無駄に力をかける必要はないとばかりに十分致命的な力で十二分に致死的な隙を狙ってくるので、()はむしろ上昇し続けている。

 

 最初の内は刃で刃を受け流す音が、澄んだ金属音を奏でていたのだけれど、段々余裕がなくなってぎゃりぎゃりと濁り始めてきた。

 徐々に手首も痛くなってくる。全然抜いたことがないということはそれだけ慣れていないということで、いくらこのチートボディが使い方を体で覚えているとはいえ、私の頭はそう言うわけにもいかず、そのギャップが埋めきれないダメージを残していくのだ。

 

 この徹底した受け流しの盾がそう長くはもたないことを、私だけでなくこのお爺様もわかっているらしく、年寄でスタミナもそう持たないだろうに、攻めの手を緩めることがない。

 長期戦に持ち込むよりも、このまま削り切ろうという腹積もりだろう。

 実際、このまま続ければ私が論理的物理的に追い詰められて削り切られるのは避けられない未来だろう。

 

 別に私としてはこんな見世物みたいな手合わせで我武者羅に頑張って勝ったところで何も得られるものなんてないし、手札を一枚切ればその分、将来切れる手札が減るだけなのであんまり頑張りたくないので、このまま押し切られて降参したって構わないのだ。

 

 構わないのだけれど、でも、まあ、うん。

 ものすごい面倒くさいしクッソ面倒だし言葉にするまでもなく面倒極まりないけど。

 でも、うん。

 でも、なんだよなあ。

 でも、まあ、リリオは、私に勝ってほしいらしい。

 ならまあ、うん。

 まあ、やぶさかでもない。

 

「ちょっと手妻を見せるので」

「フムン?」

「驚いて死なないでねおじいちゃん」

「ぬかすわ!」

 

 むしろ笑みを深くしたお爺様の剣が、私の脳天を真っ二つにした。

 

「──は?」

 

 比喩でも何でもなく、お爺様の剣が私の脳天を通り過ぎ、股下まで抵抗なくするりと抜ける。

 さすがに想定外だったらしくたたらを踏むお爺様の体を、私の体はやっぱりするりと抵抗なく通り抜ける。

 そしてたやすく背後を取った私の《ドッキョシ》が首筋にあてられ、一本だ。

 

 これは以前、頭もイカレてるけど、技前も大概イカレてる凄腕の大女にしてクレイジー・バーサーカー・ゴリラことナージャだか長門だかと試合した時にも使った《技能(スキル)》で、名を《影身(シャドウ・ハイド)》という。

 いつも身を隠すのに使っている《隠身(ハイディング)》や《隠蓑(クローキング)》の上位《技能(スキル)》にあたるが、身を隠すというより回避に特化したものだ。

 影属性の魔法《技能(スキル)》という扱いで、体を影に変えて攻撃を回避する、という設定らしい。

 ゲーム的には使用中攻撃不可能になる代わりに物理攻撃無効という代物で、《SP(スキルポイント)》消費は激しいけれど、敵の必殺技とかを避けるのに便利だった。

 

 この世界ではもおおむねそんな感じの壊れ性能が実装されているみたいだけど、あんまり見せると対応されそうなのがこのファンタジー世界の怖い所なので、極力隠していきたい。

 

「……参り申した」

「それは、よかった」

「しかし、手加減なすったな」

「手加減、というわけではないんですけど」

「けど?」

「殺さずに済ませるのは、難しいので」

 

 別に格好つけているわけでも何でもなく、死神(グリムリーパー)という《職業(ジョブ)》は本当にそう言うところがあるのだ。

 即死攻撃に特化しすぎているので、戦闘イコール相手を殺すことなんだよな。

 《ドッキョシ》、《コリツシ》にしても確率による即死効果付きで、この世界では相手の急所というか、ここを攻撃すると即死というラインが幻覚じみて見えるので、間違ってもそこを攻撃しないように気をつけないといけないのだ。

 まあ、そもそもその即死ラインが細すぎて突破困難なんだけど。

 

「フムン、甘い、と言いたいところですが、負けては何も言えんわい」

 

 肩をすくめて一応納得してくれたようで、私も肩の荷が下りた。

 いや本当、戦うのは、苦手なのだ。




用語解説

・コルニーツォ
 アマーロ家剣術指南役。辺境貴族ではないが、怪力の辺境貴族相手に剣術を叩き込めるだけの剣術遣い。
 辺境で一番怖いのは、強いから強い辺境貴族以上に、その辺境貴族と渡り合おうとまともに考えている、技術でその域にまで挑もうとか言う頭のおかしい連中である。

・《ドッキョシ/コリツシ》
 ゲーム内アイテム。《暗殺者(アサシン)》系統専用の両手武器。
 確率での即死効果付き。奇襲時のダメージ量と即死発動確率上昇。
 癖がなく、純粋に攻撃力と即死確率が高い武器。
『人は誰であれ死ぬときは独りだが、誰も傍にいない中で死ぬのは、魂に堪える』

・《影身(シャドウ・ハイド)
 《隠身(ハイディング)》系統のハイエンド。隠密効果はむしろ下がったが、攻撃に対する回避性能が非常に高い。
 発動中攻撃不可になる代わりに、物理攻撃無効の他、一部障害物の無効、魔法・範囲攻撃に対して確率で回避といった高性能な《技能(スキル)》。
 《SP(スキルポイント)》消費は激しいので、ボスの範囲必殺技を回避したりという使い方が多い。
『俺自身が影となることだ』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と寝耳に水

前回のあらすじ

切り札を一枚切ってでも格好いいところを見せたかったウルウ。
ええかっこうしいである。


 ウルウの動きを目で追うのは難しい。

 単純に動きが速いということもあるけれど、予想もしない動きをすることが多々あるから、まともな戦闘を繰り返してきた人間ほど、その意味不明な動きに困惑させられる。

 人間より魔獣とやり合うことが多く、人間にはとても繰り出せない挙動を多く経験してきている辺境の人間にとっても、これがやりづらい。

 

 しかも本当に厄介なのは、その意味不明さが本人にも理解できていないし把握もできていないということだ。

 

 妙な話だけど、ウルウは自分の体の動きを全然把握していない。

 相手の攻撃をぬるりと避けた後に、自分が避けたのだということを察する、そんなおかしなことがちょくちょくあるくらいだ。

 ウルウは自動的だからなどとうそぶいているけど、無意識の挙動は、一層動きを読めなくしてる。

 

 身のこなしは恐ろしく鋭いのに、本人の意識はぽやっとしているから、やろうと思えばこれを追い込むことはできる。どんなに意味不明な動きをしても、どんなに無意識で体が動いても、よくよく観察してやれば、ウルウは決まった動きしかしていないことがわかる。

 どんな状況でも対応するほど多彩だから気づきにくいけど、同じ体勢、同じ角度で、同じ攻撃を繰り出された時、ウルウは全く同じ避け方をする。

 

 あたしだって、こん畜生、どうにかして暴いてやるわって何度も挑んで、それでやっとこ気づいたことだけど、ウルウの避け方は、実はわかりやすいのだ。

 迫ってくる脅威に対して、最短距離で、最小の動きで、回避する。

 本当にこれだけなのだ。

 避けた後の体勢とか、相手の次の挙動とか、自分の今後の行動とか、そう言うのを何も考えていない、ただその一瞬の危険を回避するだけの動き。

 それが繰り返されると、どんどん無駄と無理が積み重なっていくから、一見意味不明で理解不能な身のこなしに見えているけど、あのぬるりぬるりぐにゃりぐにょりとした動きもすべては最短最小、それに尽きる。

 

 だから、ウルウが無理な体勢を取らざるを得ないような攻撃を繰り返していけば、ウルウの動きはある程度強制できる。いくらウルウでも、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……まあ、理屈の上でいえば、だけど。

 

 奥様はちょくちょくこの回避不能状況に追い込んでくるし、達人の勝負っていうのはもともとそう言う詰将棋みたいなところがあるけど、ウルウの本当に厄介な所は、そこまでやってなお、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 どういうことかって言うと、ウルウは極端に運がいいのだ。

 運の良し悪しなんて口にするのは、勝てない言い訳みたいで好きじゃないんだけど、でもウルウの場合、はっきりと数字に出るくらいに運がいい。

 あと一歩というところで、足が滑る、帯がほどける、風が吹いて目に砂が入る、足元にもぐらの巣穴があって踏み抜く、弾かれた小石がひゅーるるると上空で弧を描いて何の因果か動き回った後の頭の上に落ちてくる、いやほんと、冗談みたいだけど全部本当にあったことなのよね。

 

 ウルウ一流の言い方をすれば、蓋然性があるなら必ずそうなる程度の運の良さなのだ。

 

 これは戦闘だけでなく、日常においてもそうで、だからあたしたちは福引とか引くときは必ずウルウに引かせるし、そしてそれは必ず当たる。もっとも当たるって言ったって、最初から入っていない当たりくじは引けないし、ウルウにとってどれが当たりかっていうのもあるから、必ずしもあたしたちの望み通りってわけにはいかないけど。

 

 なので、ウルウを追い詰めるときはそんな運の良さも黙るくらい徹底的に追い詰めないといけない。

 

 男爵家剣術指南役コルニーツォさんは、そのあたり容赦がなかった。

 雪に慣れていないと察すればさりげなく足場の雪を乱して足を取り、積極的に攻める気がないことを見て取ればますます大胆に攻め立て、短い時間でウルウの癖をどんどん暴いて追い詰めていく。

 ウルウがよけきれずに二刀を引き抜くまで、ものの数分といったところだろうか。

 あたしやリリオじゃあまず抜かせることさえ二人がかりでないとできないってのに、全く怖いものだ。

 

 ウルウがあの禍々しい二刀を抜いて、それで持ち直したかって言うと、そうでもない。むしろ剣撃は悪辣さを増していく。

 芸術的なほど正確に、ウルウの二刀は剣を受け流そうとする。

 けどコルニーツォさんの剣は、直前で驚くほど鋭角に軌道を変えたり、あえて受けさせてその上を滑るように切り返してくる。

 あれは、つらい。

 しっかり構えて対応すれば、見せかけの剣か本命の剣かは、振りの鋭さや強さから見抜けないこともない。でも、そもそも戦闘勘がまるでないウルウには、とてもじゃないけど、見えはしても咄嗟に対処できないだろう。

 それにあの受け手の刃の上を滑ってくる斬撃。あれがいやらしい。

 からみつくような剣は、激しい音は立てないけれど、確実に気力体力を削ってくる。

 おまけに、一度短剣で受けているからか、ウルウのあの奇妙な回避がうまく機能しないみたいで、反応がやや遅れる。

 

 奥様との手合わせだとこのくらい追い詰められたあたりで手も足も出なくなって一本取られるのが常だったけれど、この日のウルウはもう一枚札を切るようだった。

 

「ちょっと手妻を見せるので」

「フムン?」

「驚いて死なないでねおじいちゃん」

「ぬかすわ!」

 

 あえてさらしたような隙に、コルニーツォさんの剣が容赦なく振り下ろされる。

 そして振り抜かれる。

 ウルウの脳天抜けて。

 抜けてっていうか、脳天から股下まで切り裂いて。

 

 老練な剣士であるコルニーツォさんも、これにはさすがに驚いてつんのめってしまったようだ。

 そしてその隙にウルウの体はまるで本当の亡霊(ファントーモ)のようにコルニーツォさんをすり抜けて背後に回り、短剣を突き付けて決着。

 審判役の男爵閣下も理解が及ばなかったようで、迷うように一拍遅れてからの、一本の声。

 

 あたしはもうこれ、二度目なので、ちょっと驚きはしたけど、それだけだ。

 以前にナージャとかいう、ウルウより背の高い女剣士との手合わせで見せたまじないね。

 まるで身体が影になってしまったかのように、黒く染まったその身体はなんでもすり抜けてしまうみたいだった。

 あれからあたしやリリオが何度か見せてよってお願いしても、すきるぽいんとの減りが激しいから嫌だ、とかなんとか言われて嫌がられている。たぶん魔力的なものをたくさん使うんだろう。

 でもなんだかんだちょろもとい甘いから、二人がかりでおねだりを続けたらやってくれそうではあるので、時々思い出したようにお願いしてみたりしてる。

 あたしは単純な好奇心からだけど、リリオはウルウと重なってみたら実質ウルウに包まれていることになるのではとかなんとか大分気持ち悪いことを言っていた。でも割とわかりみが深いので、そうねとだけ言っておいた。

 ほんと、そうね。

 

 ウルウのまじないで一発逆転されたコルニーツォさんはしてやられたと楽しそうに笑い、男爵閣下も非常に満足されたようだった。

 内地の人が良く勘違いするところだけど、辺境武士(あずまもののふ)は別に搦め手や策略、まじないなんかを卑怯だとか惰弱だとかは言わない。

 そりゃ、力自慢はするし、正々堂々としているのは確かだけど、それはそれとして毒を使おうが罠にはめようが奇襲をかけようが、それを卑怯卑劣とののしることはない。

 何しろ闘っている相手が自然の驚異と竜なのだ。この二つを相手に、辺境の人々は闘い続けてきたのだ。鍛え続けて全身全霊をささげてもなお届かない。頭を絞り道具を造り策を練り上げ罠にはめる。本当の本当に、できる限りのことをできる限りする。

 それが人間の可能性であり、それが辺境の誇りなのだ。

 だから、それを褒め称えこそすれ、蔑むことはない。

 

 ただ、大昔に戦争した時に、これでもかと毒と罠と策略盛り盛りで攻めてきた内地の人を、素晴らしい覚悟と意気込みだって褒め称え笑いながら、真正面から正攻法で叩き潰しちゃった逸話が残っているらしく、その印象が強いのか、内地の物語に残る辺境武士(あずまもののふ)は卑怯なことを嫌うまっすぐな騎士とかそんな感じに思われているらしい。

 単に搦め手使わなくても勝てる戦力差だったかららしいんだけど。あ、数じゃなくて質でね。辺境貴族出たら終わる感じの。

 なお、ウルウもこの話を聞いて「なにその魔王ムーブメント」と多分ドン引きしていたので、辺境人は昔から辺境人なんだなとは思う。

 

 手合わせも無事終わり、私たちはお昼をいただきながら、手合わせの感想などを語り合った。

 参加したコルニーツォさんとペンドグラツィオも同席した。

 武装女中であるペンドグラツィオは、さすがに席について食事までは一緒にせず、ネジェロ様の給仕をしながら、受け答えしてる感じだけど。

 あたしも武装女中なんだけどなとは思うけど、さすがに給仕されることももう慣れた。

 

 あたしとペンドグラツィオの手合わせは、普段見ることのできない武装女中同士の戦闘が見られたということで、まずまず満足度は高いようだった。

 リリオたちも、いつも見せる投擲をほとんど使わない近接戦を演じてみせたことで、あたしが遠間からちまちま攻め立てるだけの女でないことを見直してくれたようだった。

 ぶっちゃけると、三人の中で一番弱いのはあたしだという自覚はあるので、今回自分の成長がはっきりと確認できて安心していたりする。

 二人はあたしが弱いからってあたしをのけ者にしたりなんかはしないけど、でもあたし自身が、あたしが足手まといになりたくないのだ。武装女中なのに家事しかできないことを許容できない職業的な矜持でもあるし、二人と並んで立ちたいっていう個人的な希望でもある。

 

 リリオとネジェロ様に関しては、まあ辺境人らしいなという感じ。

 搦め手やまじないを否定しない辺境武士(あずまもののふ)だけど、辺境貴族はそもそもの地力が強すぎるから、策を弄さない殴り合いが一番一般的だ。

 互いの剣の鋭さや重さを素直に褒め称え、大声で笑いながら激しく酒杯を交わす。

 うん、内地で想像する豪放で粗野な蛮族そのものだ。

 ただ、リリオは黙ってれば美少女だし、ネジェロ様も甘い顔立ちの男前なので、絵面はちゃんと貴族同士の歓談だ。顔がいいっていうのはそれだけで武器になるなとつくづく思う。

 奥様もリリオのお母様なだけあって、全然種類は違うけど美しい方だし、ウルウもまあ、癖があるというかちょっとよく見ないと分かりづらいけど美人さんだし、よくよく考えてみなくてもあたしは結構な美形たちと行動を共にしてるわけだ。

 あたし?

 あたしはほら、武装女中って基本貴族の侍女だから、顔の良さも選定条件なのよ。

 そういうこと。

 

 そんな感じで和やかに歓談は弾んだんだけど、ウルウとコルニーツォさんの手合わせの話になって、問題発言が飛び出た。

 

「いや! いや! いや! ウルウ殿は全く大したお方だ!」

「いえいえそんな」

「謙遜なさるな! じいが後ろを取られるところなぞ、わしは初めて見ましたぞ!」

「ちょっとした手妻ですよ」

「はっはっは! 大した手妻だ! いや! リリオお嬢様がヨメを連れてくるなどと言うので危ぶんでおりましたが、成程! 成程! ただ好いた惚れたというわけではなかったのですな!」

「──はあ?」

 

 曖昧な笑みで男爵閣下の賛辞をのらりくらりと受けていたウルウの表情が固まった。

 そしてゆっくり小首をかしげて、ゆっくりリリオを凝視する。半端に微笑みが残ってる分、怖い。

 そんな濁った眼で見られたリリオは全力で首を振ってるけど、普段の言動もあって信用されてないのがまるわかりの視線のやり取りだった。

 

 二人の間の緊張が高まったので、あたしがそっと挙手する。

 

「えーと、男爵閣下。横から失礼しますが、その、えー、いったいそのようなお話をいずこからお聞きに?」

「はて。はて。マテンステロ殿にお伺いしたのだが」

「ええ、私よー」

 

 首を傾げる閣下に、平然と笑う奥様。

 どうやらこのクソアマこと奥様の悪戯であったらしい。

 悪戯なのか本気なのかと言われたらちょっと怪しいけど。

 まあ、悪戯であるにせよ、何か考えがあるにせよ、リリオがウルウをそう言う意味で好いて慕っているのは、はたから見ても事実だった。

 ウルウはリリオのそういう態度をわかっていて、その上で子供の言うことだとあしらっている。

 子供だから、年上の女性に対するあこがれみたいなものを、勘違いしているのだと。

 そういうことに、しようとしている。

 そういうことに、したがっている。

 

 ウルウの故郷では女同士っていうのがあんまり普通じゃないとか、ウルウ自身が恋愛沙汰にあんまり触れたくないとか、建前通りリリオがまだ子供だから本気にしちゃいけないとか、いろいろあるんだろうけど、でも、たぶん、一番は、いまの関係を崩したくないっていうのが大きいんだと思う。

 

 友達と下らないこと話しながら特に目的もなく旅して美味しいもの食べたりお風呂入ったり冒険してみたり、子供がなんとなく想像する楽しそうな暮らしを、子供がなんとなく想像するように淡く夢見てた女が、手に入れたのだ。手に入れてしまったのだ。

 大人の頭と子供の心で持て余してた夢を、大人の頭と子供の心で諦めてた世界を、今更手放せるわけがない。

 

 あたしから見たら、ウルウってやつは化け物みたいに強くて、化け物みたいに得体が知れなくて、化け物みたいな化け物なんだけど、でも同時に、こいつの中身はようやくつなげた手のかたちを変えることさえ恐れるほどの臆病な子供なのだ。

 自分が得たものをとても信じられなくて、時々立ち止まって呆然と手を眺めて、夢なんじゃないか動いたら消えちゃうんじゃないかって、それでもつないだ手を離すことの方がもっと怖くて、立ちすくんで泣きそうになっている、そんな小さな女の子なのだ。

 

 どうやったらそんな、心が粉砕骨折して整復しないまま治っちゃって神経にザクザク刺さってんのに痛み止めもなしで過ごしてでも大丈夫ですなんて言えるわけもないから黙りこくって死に損なってるような人格が形成されるのかあたしにはわかんないけど、でも、得たものが信じられなくて、絶対に手放したくないっていう、その気持ちはよくわかる。

 

 だって、あたしもそうだったから。

 だって、あたしもそうだったんだから。

 

 何にもなかったあたしはリリオに拾われ、何にもなかったあたしは何もかもを与えられて、何にもなかったあたしはあたしになれて、そして、何にもなかったあたしは誰かを好きになることができた。

 だから、変えたくない、失いたくない、ウルウのそんな気持ちが、わかる、ような気がする。

 そうして見れば、ひどく強張ったウルウの目は、なんだか泣きそうな子供のそれのようにも、見えるのだった。

 

 リリオは、ちらりとウルウを見て、ちらりとあたしを見て、一つ息を吸って、一つ息を吐いて、それからもう一度ウルウとあたしを見て、深く息を吸って、細く吐いた。

 

「私が、ウルウを慕っているのは本当です。けれど、そう言う関係ではありません。私たちは、仲間で、友達で、姉妹で、そして、それ以上は、まだ、そう、まだ、これからなのです」

 

 軽く目を伏せるようにして、だから何も言ってくれるなと言外に語るリリオに、閣下は頷かれた。

 

「なんと、そうでしたか」

 

 うむうむ、と頷いて、閣下はからりと笑った。

 

「では早めに交渉を済ませるがよろしい」

「は?」

「寝室を用意します故、ごゆるりと」

 

 閣下が指を鳴らすなり、すべて承知しておりますと言わんばかりの訳知り顔の女中どもにかこまれ、二人は拉致されたのだった。

 これだから辺境貴族(ばんぞく)は。




用語解説

辺境貴族(ばんぞく)
 基本的に、辺境貴族は人の心がわからない連中が多い。
 わかっていてもやることなすことが荒いことも多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 処女雪

前回のあらすじ

拉致られるウルウとリリオ。
二人の交渉とは如何に。


 男爵家の女中は優秀でした。

 私にあてがわれていた部屋にウルウと二人で押し込まれ、文句を言う間もなく逆らう隙もなく、私たちはするすると脱がされててきぱきと寝間着を着せられてしまいました。

 まだ昼なんですけど、なんていう暇もなく、年嵩の女中がどうぞ()()()()()と含みたっぷりにほほ笑んで、そして去っていってしまいました。

 

 静かな部屋に二人取り残されて、さて、どうしたものか。

 

 ちらりとウルウを見上げてみると、ウルウは呆然としたように閉ざされた扉を見つめていました。

 私の耳がおかしくなっていなければそれはつい先ほど音を立てて鍵が閉められていたのでした。

 辺境頭領の娘を監禁しようとしますか普通?

 するんですよ、辺境人。

 むしろ辺境界隈では、惚れた女相手に何もせずちんたらしてるほうが極度の奥手でおかしいという、情緒の欠片もない常識が横行してるんですよね。

 一番おとなしいのでも熱烈な恋文を送って花束贈ってなんなら熊とか狩ってきます。

 明日死ぬかもしれないので今日先っぽだけでもとかいう春歌が昔から残ってるくらいですからね。

 嫌なら本気で抵抗するでしょとかいう、都会なら顰蹙物の発想がまかり通る上に、嫌だったら本当にぶちのめそうとしてくるのが辺境人なんですよ。こわっ。

 

 などとちょっと面白おかしく呆れていますよみたいな空気を作ってみましたけれど、瞬時に吹き飛ぶほど脆弱な空気でした。

 ウルウは黙りこくって微動だにしませんし、私も何を言ったらいいものかわかりません。

 何か言いたい、何か言うべきだとは思うのですけれど、何も言えない、何を言っていいのかわからない、そんな具合でした。

 

 一応、嫌われてはいないと思うんです。

 ウルウは好き嫌いをあんまり表に出さない人ですけれど、それでも嫌いな人とずっと一緒にいられるような図太い人ではありませんし、それに、私の欲目でなければ、ウルウもまた旅を楽しんでくれていたように思うのです。

 ただ旅をするということではなく、私たちと一緒に旅することを、確かに楽しんでくれていたように思うのです。

 私を、私たちを、好いていてくれていると、そう思うのです。そう願うのです。

 

 でも、ウルウはとても繊細な人です。

 私が抱き着こうとしても放り投げたり、私が冗談を言っても塩対応してきたり、面倒な事件に巻き込まれても肩をすくめてやれやれとか言っちゃったりしますけど、でも、ウルウの心の深い所は、とても柔らかくて、傷つきやすくて、小さく震えているということを、私は何となく察しているのでした。

 私にはわからないことで傷つき、私にはわからないことで怖がり、私にはわからないことで壁を作るウルウ。

 だからゆっくりと、時間をかけて、その心に触れていきたいと、そう思っていたのでした。

 

 それがこんなことになるなんて。

 せめてそう思っていたことだけでもわかってほしいと顔を上げると、ウルウの静かな顔がそっと見下ろしてきました。

 

「わ、たしは、」

「リリオは」

 

 切り出そうとした私に、ウルウの静かな声が降ってきます。

 

「リリオは、私が好きなのかな。私を、そう言う対象として、見ているのかな。マテンステロさんの、悪趣味な悪戯とかじゃなくて」

 

 感情のこもらない声に私はうつむいて、それでも、そうだ、そうです、とそのように答えました。

 

「そう、なのだと、思います」

「そう、思う?」

 

 そう、思う。

 そうだと、祈る。

 そうなのだと、願う。

 

 いいえ。

 ああ、いいえ。

 本当のところを言えば、私自身にも、私の気持ちがよくわからないのでした。

 私には私の気持ちを感じることはできても、それに意味のある名前を付けることができないでいたのでした。

 

 私は人の心がわからないと兄に言われたことがありました。

 リリオ、可愛い妹、愛しい怪物、お前は人の心がわからないのだね、と

 ええ、ええ、そうかもしれません。みんなを見て、みんなを真似して、わかったようなふりをして、でも結局ずっとわからないままでした。

 私のなんでとみんなのなんでは、いつもいつも重なりませんでした。

 同じ場所で笑い、同じ時に泣き、同じものを見ているはずなのに、私の心はいつも一人でした。

 それでも私はわからないなりに、わからないままに、生きてきました。

 人はいつだって一番深い所では分かり合えないものですから、だから、そう、だから、私のこれもまたそうなのだと、諦めてきました。

 わからないものはわからないのだと、そう、思ってきました。

 

 でも私は、ウルウを、ウルウのことを、わかりたいと思ったのでした。

 わからないまでも、知りたいと思ったのでした。

 ウルウのことを想う気持ちを、知りたいと思ったのでした。

 まだ誰も名付けてくれない、まだ誰にも共感してもらえない、この気持ちを。

 この気持ちの名を、知りたいと思ったのでした。

 

 触れたい。

 護りたい。

 自分のものにしてしまいたい。

 

 欲しがる気持ちが、()()であるならば、これはきっと()()なのだと、思うのでした。

 ()()なのだと、信じたいのでした。

 ()()なのだと、願うのでした。

 

「私は、ウルウに恋をしているのだと、そう思うのです」

 

 顔を上げられないまま、私は自分自身でさえまとめられない気持ちを吐露し、自分自身でさえ説明できない思いを表明し、そして、恋心を、伝えたのでした。恋心だと思いたいものを、伝えたのでした。

 

 ウルウはしばらく黙って、私の言葉を反芻しているようでした。

 気の遠くなるような、でもきっと大したことのない時間が流れて、再び声が降ってきました。

 

「私は、私はね、リリオ。私の故郷は、あー、あんまり、同性愛が、女同士でっていうのが、あんまり普通じゃないところだったんだ。私自身、そう言うことを考えたことはないし、正直なところ、君の言うことには、なんていうか、困惑してる」

 

 それは、率直な言葉でした。

 変に飾ったりせず、素直な気持ちを、私に伝えようとしてくれているのでした。

 素っ気ないようなその言葉が、私の胸に絶望をよぎらせました。

 心臓がひび割れた硝子のように軋むのを感じました。

 こんな気持ちになるのならば、もっとはっきり言ってほしいと思うくらいでした。

 

「でも」

 

 うつむいた私のうなじあたりに、その声は困ったように降ってきました。

 

「困ったことに、なんでか、なんだか、嬉しく感じちゃう私がいるんだ」

 

 驚いて見上げた先には、背中を向けたウルウの姿がありました。

 いつも見惚れるほどにするりと伸びた背は、なんだか奇妙に傾いて縮こまり、豊かな髪の間からのぞく耳は、鮮やかに色づいているのが見て取れたのでした。

 寝間着を所在なげに握った指先が、意味もなく開いたり閉じたりしているようでした。

 

「それは、その、つまりあの、」

「待っ、て、その、あー、うれ、しくは、あるし、私も、リリオのこと、たぶん、きっと、嫌じゃない……嫌じゃない、けど、その、考え直した方が、いいと思う」

「考え直すって……なんでですか?」

「私、あの、面倒くさいし」

「知ってます」

「その、あー、絶対、無理って言っちゃうこともあると思うし」

「善処します」

「あ、あと、あの、あの」

 

 ウルウはしばらく、あの、とか、えーと、とか意味をなさない言葉を繰り返して、それから、しゃがみこんでしまいました。顔を覆って、精いっぱい身を縮こまらせて、何かから身を護ろうとするように、隠れようとするように。

 

 なにこれかわいい。

 

 ではなく、普段と違いすぎるウルウの姿に困惑していると、蚊の鳴くような声で何事か言いました。

 

「えっ?」

「わ、割と最悪なこと言うんだけど……」

「えっ」

「わ、私その、わがままっていうか」

「わがままなのは知ってますけど」

「そうじゃなくて、そうだけど、その、と、トルンペート!」

 

 がたん、と音がしましたけどそれどころじゃなくて。

 

「わ、私、わたし、その、トルンペートのことも好きなんだ」

「えっ、私もトルンペートのこと好きですけど」

「そ、そうじゃなくて、あの、トルンペートも、大事で、リリオも、その、大事で、ふたりとも、あの、」

 

 口ごもるウルウでしたけれど、私は何となく察しました。

 そしてすっかりトルンペートのことを忘れていた自分を恥じました。

 いえ、その、ずっと一緒にいるのが当たり前だったので、ずっと一緒にいるのが当たり前なので、ずっと一緒にいるだろうことが当たり前と思っていて、今更トルンペートを外して考えるなんて、想像の外でした。

 

「私も好きですし大事です」

「えっ」

「ウルウも好きです、大好きです。トルンペートも好きですし、大好きです」

「えっ、えっ、あっ?」

「二人とも私が幸せにしますので、大丈夫ですよ。心配ありません」

「えっ、あの、リリオの方が割と最悪なこと言ってない?」

「そう、なのでしょうか?」

「え、ええぇ……?」

 

 懐の広いところ、安心できるところを見せたつもりだったのですけれど、ウルウは困惑した様でした。

 しばらくうんうんと唸って、そして一人で考えるのは諦めた様でした。

 

「と、トルンペートはどう思ってるのさ!?」

「うぇあっ!?」

 

 突然叫んだウルウに、がたんと衣裳棚が開いて、中からトルンペートがまろび出てきました。

 なんだトルンペートか。

 

「…………えっ」

「なっ、なに!? なんでばれたのよ!?」

「最初からいたでしょ! メイドさんに紛れて隠れてたじゃん!」

「わ、わかってたなら言いなさいよ!」

「えーと」

「それどころじゃなかったんだ! い、一杯一杯だったんだから!」

「な、泣くことないでしょ!」

「泣いてない! 助けてくれると思ってたのに!」

「あ、あの?」

「だ、だって仕方ないじゃない! 邪魔しちゃ悪いと思って!」

「覗き見してたのに!?」

「きき、気になっちゃったんだもの!」

「ヘタレ! 意気地なし!」

「なによ臆病者! 腰抜け!」

「あのですねッ!」

「なによチビ!」

「なにさバカ!」

「単純なだけに刺さる!」

 

 醜く言い争っていた二人の間に割って入り、私は仕切りなおすことにしました。

 

「あの、全部聞いてたっていうか、見てたんですよね」

「うっ、ぐ、ま、まあ、そうよ。なによ。文句あんの」

「いやあの、文句と言いますかあの……あー」

 

 何といったものか。

 私はとりあえず、端的に現状をまとめることにしました。

 

「私」

 自分を指さして、

「あなたたち」

 二人を指さして、

「告白しました」

「あー」

「うー」

「ので、その、一応、返事とか欲しいなー、なんて、思ったりするわけでして」

 

 なんて、言ってみたりすると、二人とも黙り込んでしまいました。

 真っ赤な顔で黙り込んでしまいました。

 ものすごく気まずい沈黙にさらされているんですけれど、もしかして私すごく恥ずかしい状況にあるんじゃないでしょうか。

 割と勢いで物を言ってたんで記憶があれなんですけど、ドヤ顔キメ声で二人とも幸せにしますとか言っちゃってた気がします。

 

「わ、私は答えたから」

「あっ、ずるっ!」

「ずるくない。なあなあで誤魔化そうとする方がずるい」

「そもそもあたし直接言われたわけじゃないじゃない!」

「ああ、そうでした。トルンペート、好きです、大好きです。ウルウと二人とも幸せにします」

「んっ、ぐ、がぁ……はぁー……ずっる。ずるい」

「リリオずるいよね」

「ずるいわ。さすがリリオずるい」

「えっ、なんで私責められてるんですか」

「ずるい。ずーるーい」

「そうだーずるいぞー」

「ええ……なんですかこれ……」

 

 なおこの茶番、全員顔真っ赤でやってるんですよ恥ずかしいでしょう私は恥ずかしいです。

 

「……トルンペート」

「あによ」

「私も、その」

「あー、ばか、やめて、いまはやめてちょっとマジで」

「私も、トルンペートのことが好きだよ。大事だ。ずっと一緒にいてほしい」

「うがぁー、あー、もう、あーもう、はぁー、ばか、すき」

「えっ」

「えっ」

「あたしも、好きよ。好き。あんたたちのこと、好き。大好き。どうよ。これで満足?」

「大変満足しました」

「わ、私はもうちょっと言ってほしいかもしれない」

「あんたもうほんとその、はぁー、なに? なんなの? 私を殺したいの?」

「えっ、なんかごめん」

「ばか。すき」

「うん」

 

 なおこの茶番、全員顔真っ赤でやってるんですよ恥ずかしいでしょう私は恥ずかしいです(二度目)。

 

「ところで」

「なによ」

「これさ、どこまでが交渉なの?」

「はあ?」

「鍵あかないんだけど」

 

 ウルウに言われてトルンペートが扉に向かいましたが、確かに鍵はかかったままでした。

 

「うぇあ。ああもう、壊すわけにもいかないし……」

「これさ、交渉が終わるまで開かないってこと?」

「終わるまでって何よ終わるまでって、大体やることやってあー、なに? あんたそう言うこと言いたいの?」

「多分、そう言うこと」

「えー、あー、いやまさか、でもないとも言い切れないのが」

 

 二人して何やらもごもご言い合っていますけれど、どういうことでしょうか。

 私が首を傾げていると、ウルウが本当に困った顔をしました。めったに見れない顔です。

 へんにゃりと眉が曲がって、とても情けない顔をして私を見ています。

 

「え、や、だってリリオ子供だよ?」

「成人はしてるのよ、あれでも」

「私の中で十四歳は子供なんだけど」

「鉱山では土蜘蛛(ロンガクルルロ)の後を歩け、よ」

「知らない諺だけど言いたいことは何となくわかる、わかるけど、えー、でも、えー」

「もう、なんですか二人とも、私だけ仲間外れにして」

「そう言うわけじゃないんだけど、えーと」

「肚ァくくってなさい、あたしが説明したげるから」

「うーん、むう」

 

 一人悶絶するウルウを置いて、トルンペートががっしり私の肩をつかんできました。

 

「あんた、ウルウを嫁さんにする交渉のために閉じ込められたのよね」

「はあ、ええ、まあ、そうですけど」

「口先で了承を得ましたなんて言って、閣下が、っていうか奥様がこの鍵開けると思う?」

「いや、ないと思いますけど……え、じゃあどうしたら」

「決まってるじゃない。嫁さんとすることしろって言ってんのよ、これ」

「えっ、あー……えっ。()()()()()()ですか?」

()()()()()()なんでしょうね」

 

 さすがに鈍い私も察しました。

 察してしまいました。

 おずおずとウルウを見上げてみれば、雪のように白い肌はすっかり赤く染まって、なんていうか、その、あの、誘ってるんですかこの人?

 勿論そんなことはなくて、むしろ私を子供とばかり思っているウルウなのでとても困っているのでしょう。

 私もとても困っています。

 その、私はあの、ウルウのことを()()()()()()なので、()()()()()()をするというのはやぶさかではないどころか、あの、大変大歓迎なんですけれど、なんですけれどその、ウルウがこれでは何というか。

 

 ウルウは何とか覚悟を決めた様で、強張った顔で宣言しました。

 

「わ、私が一番大人なので、なんだけど、なんだけどさ」

 

 なんだけどなんでしょうか。

 

「恥ずかしい話、この年まで経験がなくて、その、全然わかんないんだ」

 

 煽ってらっしゃる?

 むしろこれ、私の方が無垢な子供に手を出してるようでものすごい背徳感があるんですけどなんですかこのでっかい幼女。

 

「だから、あの、その……よ、よろしく?」

 

 私たちは冷静になるために少し間を置き、そして、支度に入りました。

 

 私はいま、寝台に腰掛け、両手をそれぞれウルウとトルンペートに取られていました。

 右手を恐る恐る取ったウルウが、ぱちり、ぱちりと、音を立てて私の爪を切っています。

 土蜘蛛(ロンガクルルロ)製の細やかな細工の施された爪切りが、ウルウの手の中で柔らかく握られ、私の爪を丁寧に切っていきます。

 

 私の左手の爪はすでに切り終えていて、それをトルンペートが仕上げのやすりがけをしてくれていました。

 深爪気味に切られた爪が、丁寧に丁寧に磨かれて角を落とされ、つるりとした肌をさらしていきます。

 

 美女と美少女に挟まれてお世話されているというすさまじく贅沢な状況の上、その二人は私の好きな人で、二人も私も好きなのでした。

 意味がわからないほどの多幸感に包まれて呆然としていると、トルンペートがにやけるのをこらえているような複雑な顔でぼそりと呟きました。

 

「これって、ねえ」

「はい」

「ただの爪のお手入れではあるんだけど」

「はい」

「これから自分に触れるものを自分で準備するのってすごい、あの、()()

 

 まじまじと見てみると、トルンペートの目付きは大分、その、あれでした。

 お世話好きの女中精神に、さらに特殊な状況が合わさって、冷静に見えて中身は大変なことになっているようでした。

 

 ウルウは、と振り向いてみると、爪を切り終えたウルウは丁寧にやすりがけしてくれているところでした。

 ああ、よかった、こちらはまだ大丈夫そうです。

 

「リリオの指、ちっちゃいね」

「あはは」

「これ、この、ちっちゃくて、細い指が」

「あは、は?」

「これが……これが……」

 

 あ、こっちも駄目でした。

 駄目です。冷静なのが私しかいません。

 これはもう私がなんとかするしかありません。

 

 などと思っていましたけれど、ウルウの爪を二人がかりで切るにあたって、私もこの行為の異常性と高揚感に気づかされるのでした。

 最後にトルンペートの爪を切るころには私たちは三人とも相当に相当なことになっており、仕上げ終えた時にはすっかり()()の準備が整ってしまっていたのでした。

 

 結局、私たちはその後、夕食を取ることも忘れ、朝日が差すことも気づかず、疲れ果てるまで()()に励んだのでした。




用語解説

・ずるい
 ずるいのだった。

・鉱山では土蜘蛛(ロンガクルルロ)の後を歩け
 郷に入っては郷に従えと似たような意味。
 専門家のやることに口出しするなという意味でも使われる。

・でっかい幼女
 この女、二十六年間処女をこじらせているのである。

・爪切り
 繊細な部分を傷つけるといけないので。

・交渉
 さくやはおたのしみでしたね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話
200話記念掌編


200話記念、思えば長く続いたものですね。
今回は妛原閠のお話と相成りました。
短いお話ですが、お楽しみいただければ幸いです。


 忘れることができない私の人生は、覚えていたくもない言葉で埋まっていて、覚えていたくもない事柄が積もっていて、覚えていたくもない記憶に沈んでいる。

 生まれ落ちた時から絶えず積み重ねられてきたそれらがどれほどの毒を孕むものだったか、その結果として今ここに立っている私の為人からなんとなくでも察してもらえると思う。

 というか、察してもらえない場合はあえて説明するようなことはしない。したくもない。

 なのでご想像にお任せする。

 

 まあ、それでも、こんな人間に育ってはしまったけれど、育った果てに一度は無為に死んでもしまったけれど、そんな私が曲がりなりにも人間として生きてきて、曲がりなりにも人間として生きていこうなんてトチ狂ったことを考えたのは、考えているのは、そんな毒の沼の中にも確かに美しい輝きがあることを、残念なことに知ってしまっているからだった。

 

 凍り付いた真冬の夜空に煌めく星のように、かそけきながらも確かな輝きが、目の奥でちかちかと瞬く度に、私は諦めきることもできず、信じ切ることもできず、果てない「次こそは」を重ね続けて、大空にも羽ばたけず水底にも沈めず、ただ這いずるように生きてきた。

 

 不器用な生き方だったと思う。

 無様な生き様だったと思う。

 でもほかにやりようはなかったと思う。

 不器用でも。

 無様でも。

 私は私だった。

 それでいいのだと、認めてくれる人がいたから。

 

 子供の頃の私は泣き虫だった。

 なんて言っても、今の目付きも悪けりゃ愛想も悪い私からは想像し辛いかもしれない。

 

 だからまず、思い浮かべてほしい。

 

 年のころは、まあ小学生、十歳くらい。

 その当時なら身長はまだ全然伸びておらず、クラスの背の順でも割と前の方だった。

 そのおチビさんは、ずっと俯きがちで、おどおどと視線を迷わせて、人と目を合わせられなくて、人と話を合わせられなくて、何か言おうとしてはいつも諦めている、そんな子供だった。

 何をするにしても考えすぎて要領が悪くて、茫然と突っ立ってることの多い子供だった。

 

 なまじ成績が良いのが、まあ子供受けしなかった。

 いじめられている、というほどではなかった。

 ただ、いい扱いはされなかった。

 遊びにも誘われず、時折からかわれ、そしてたいていの場合相手にされなかった。

 

 いまみたいにある種達観してしまうと、その程度のことはどうとも思わなくなるのだけど、当時は何しろピュアなお子様だった閠ちゃんは、ほどほどに期待し、ほどほどに裏切られ、ほどほどに傷つく毎日だった。

 

 泣き虫の閠ちゃんは、嫌なことを忘れられない子だった。

 完全記憶能力持ちだから仕方ないねって話じゃない。

 ことあるごとに思い出してしまう悪癖があったんだ。

 ふとしたきっかけで思い出が刺激されて、嫌な記憶がぶわりと舞い上がるんだ。

 学校についてしまったとき、教室に入るとき、教科書の悪戯された落書きを見るとき、苦手な先生の顔を見たとき、下校中に横切る猫を見たとき、そんな些細なことで、嫌なことが思い出された。

 寝る前にぼんやりと天井を見上げている時にさえ、それは浮かんできた。

 そして思い出は減ることがない。

 日々を過ごせば、その分だけ増えていく。

 

 死にたい、っていうほど、強い感情は抱かなかった。

 ただ毎日気が重くて、しんどくて、なんとなく嫌だった。

 学校を休んでしまえばよかったかもしれないけど、真面目、というよりは、ルーチンワークから外れることが苦痛だったから、嫌な思いをするのがわかっていて、嫌な日々を繰り返してた。

 

「おとうさん、もういやです」

 

 当時の私は、父の真似をして敬語で喋っていた。

 子供心にそれは礼儀正しい振舞いだと知っていたから、いつもそうしようと心掛けていた。

 あまり中身は伴っていなかったと思うけど。

 

 帰宅してしばらくして、そんなことを漏らした閠ちゃんに、父は優しくなかった。

 

「何が嫌ですか」

「なんだか、いやです」

「なんだか、というのは」

「いやなんです。しんどい」

「フムン。体がつらいのですか」

 

 口下手でうまく説明できない十歳の私に、父はまるで心中察することもせず、問診を試みてくるのだった。しかし自分自身でも何がどう嫌なのかうまく把握できていなかった当時の私に、父が納得し理解できるような返答は不可能だった。

 

 少しの会話の間に小賢しい閠ちゃんは、やっぱり駄目なんだ、言っても伝わらないんだ、じゃあ言うだけ無駄だし意味がないし止めよう、とあっさり見切りをつけた。

 過去の失敗を執拗に思い返す閠ちゃんは、失敗の記憶ばかり思い出すので、できるだけダメージの少ない段階で逃げに移るのだった。

 

 しかし父は空気が読めなかったし、人の心がわからない男だった。

 もういいですと言いだそうとした閠ちゃんのちっぽけな体を抱き上げて膝の上に置くと、上等な櫛で当時から伸ばしていた髪を()かし始めたのだった。

 

「え……なに? なんですか?」

(こよみ)さん……あなたのお母さんも、よく嫌だと言いました」

 

 閠ちゃんの困惑を聞き流して、父は母のことを語り始めた。

 父は何か判断に困ると、母の話を持ち出す癖があった。

 人間味に薄い父と比べて、話の中の母は大層人間味に溢れる濃い味人間で、おそらくそれを頼りにしているのだった。

 

「何の生産性も見いだせない、あれが嫌だこれが嫌だこういうの気にくわないあれこれが腹が立った、というような愚痴を、延々と良く聞かされていました。僕に櫛を押し付けて、髪を梳かさせながら、一人でいつまでも愚痴を言い続けるんです」

 

 十歳の閠ちゃんにも、見たことのない母親が大概あれな人種なのではないかと思い始める年頃だった。

 そんな人と一緒にされているのかとひそかにショックを受けている閠ちゃんの髪を機械的な手つきで梳かしながら、父は続けた。

 

「そして言ったら言った分だけすっきりして、あとに残さない人でした。怒りも、悔しさも、悲しさも、言葉に出して吐き出してしまって、それで済ませてしまいました。言葉にすることで、何をどう嫌だと感じているのかはっきりさせることは、胸の中のもやもやに形を与えて、処分しやすくするそうです」

 

 父自身は全く理解も納得もいっていないらしい理論を、淡々とした口調で説明して、そしてその淡々とした口調のまま、どうぞなどと言ってくるので、私は困ってしまった。

 

「僕はあまり人の機微や感情には鋭くありませんので、言ってもらった方がわかりやすいですし、ご自分でもすっきりすることでしょう。幸い、僕は共感性に乏しいので、聞き役に徹するのは得意です。サンドバッグと思ってどうぞ」

 

 それきり父は髪を梳かす機械となってしまって、私はどうしたらいいかしばらく迷って、それでもおずおずと「学校が嫌」と言ってみた。父はわかったような返事もせず、もっともらしい頷きもせず、ただ黙々と髪を梳いた。

 物足りないような気もしたし、言っても大丈夫なんだというような気もした。

 それで私は、あれが嫌だ、これが嫌だと、思い出されるままに嫌を吐き出していった。

 それはだんだんと具体的になっていき、細かくなっていき、そして吐き捨てるたびになんだか馬鹿らしくなっていくのだった。

 なんで私はこんなくだらないことを気にしていたんだろうって。

 

 そうしてついに、言いたくなることが思いつかなくなって、私は少しの間黙りこくった。

 それから喋りすぎて火照った顔を振り向かせて、父に抱き着いた。

 

「おとうさん、ありがとう」

「はい。お役に立てれば、幸いです」

 

 父は最後まで冷たくて心地よいメンテナンス・マシーンだった。

 もっともそのあと、学校に対していじめの確認と訴訟の準備をしようとし始めたので、慌てて止めたけど。

 

 それは煌めきというには地味すぎて、輝きというにはくすみすぎて、瞬きというには平坦だったけど、それでも、それは確かに私の胸の中でずっと私を生かし続けた思い出だった。

 父は愛することが苦手で、私は愛されることが苦手だったけれど、それでも確かに、私たちは親子だった。

 

 今も、思い出せる。

 まだ赤ん坊だった私に、父はこう言ったのだった。

 言葉なんてわかるはずもない、頭も座らないような生まれたての赤ん坊に、父は言ったのだった。

 

「はじめまして、閠さん。僕は妛原(あけんばら) 軅飛(たかとぶ)といいます。今日からよろしくお願いします。不慣れで不器用だと思いますが、いつかあなたが立派な大人になる日まで、あなたを守り、育て、支えます。僕があなたのお父さんです」

 

 母を亡くして、たった一人になった父は、それでも迷うことなく私の小さな手を握ったのだった。

 愚直なまでに不器用なその物語を、私はいまも確かに、受け継いでいる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五章 竜囲い
第一話 亡霊とこの痛みの名 ※アタッチメントパーツ版


※(2022年12月24日追記)
 このエピソードにはファンタジーご都合魔法による部分的性転換または付与を示唆する描写が含まれています。
 具体的なところをぼかしてご説明すると「不明なアタッチメントパーツが接続されました」結果、一部読者の方に深刻な障害が発生しています。
 この度、ごあんしんの「ノン・アタッチメントパーツ版」及び「フル・アタッチメントパーツ版」の差分を公開いたしましたので、好みに合わせたバージョンをお楽しみください。
 なお、大筋の内容に変化はありません。
 他のバージョンを読んで「さっき読んだやつやん?」となった方は、おおむねさっき読んだやつやから、間違い探し気分でお楽しみください。なお性癖には間違いなどありませんので、ご自分の楽しめる性癖を大事にしていきましょう。



前回のあらすじ

朝まで『交渉』した《三輪百合(トリ・リリオイ)》であった。
詳しい交渉内容については皆様のご想像にお任せする。


 すごかった。

 

 語彙力の死滅した説明で大変申し訳ないのだけれど、何しろ語彙力だけでなく思考力をはじめとしていろいろと死んでいるのでご配慮いただきたい。

 

 幸いなのかなんなのか、境界の神プルプラちゃん様謹製と思しきこのボディは朝になるやぱっちりと目が覚めた。

 ちょっと気だるいくらいで、なんなら寝起きで跳ね起きて陽気なラテンのリズムに乗って絶頂有頂天なブレイクダンスを決めることだって可能だろう。

 あくまでカタログスペックであって、実際のご使用はお控え願いたいところだけど。

 

 まあ、そんな具合に、極めて残念なことにフィジカルの方はむしろ元気なくらいなのだけれど、メンタルの方は何しろド畜生ブラック社畜あがりの二十六年間処女をこじらせていた死にぞこないなのだ。ちょっと荷が勝ちすぎた。

 

 さて、まどろみを引きずらないすっぱりとした覚醒が必ずしも素晴らしい朝につながるかと言えば全然そんなことはなく、うっかり目覚めてしまった私は死にぞこないメンタルで惨憺(さんたん)たる様子の寝室、より正確に言うならばカーテンで閉め切られた天蓋付きのベッドを目撃してしまった。SAN値チェック待ったなし。

 

 いや本当に、冗談抜きでベッドは酷い有様だった。

 

 やけに頭の位置が低いなと思えば、枕がない。ずり落ちてしまったのかと頭上に手をやるも、空ぶるだけでその感触にはありつけない。枕投げをした記憶などないのだけれど、と少し思い返して、お目当てのブツが私の腰の下にあることを思い出してしまった。SAN値チェックどうぞ。

 

 なんで腰の下にあるかって? 気配りのできるチビメイド様が私が腰を痛めないように気を遣ってくださったからだよこん畜生。なんで腰を痛めるのかわからない良い子はお母さんとお父さんには聞かずに然るべき年齢になったら信頼できる参考書を読みなさい。

 

 私の腰の下でへたった枕の感触を感じながら、のっそりと体を起こす。すると私の右パイと左パイを分割統治していたらしいちみっ子どもがずり落ちた。名残惜し気にわきわきと両手が柔らかい脂肪を求めてさまようけど、そこはお腹だ。くすぐったいからやめろ。そもそも君たちのお求めのバストは私の固有の領土だ。

 

 見下ろしたシーツはぐっちゃぐっちゃに波打っていて、むしろよくまあ頭の回っていなかった私たち三人が潜り込めたなという具合だった。

 アホほど寒い辺境とは言え、というか辺境だからこそか、部屋の中はガンガンに暖房が利いて暖かく、カーテンを締め切ったベッドはなおさらで、その状態でアダルティック大運動会夜の部を開催したとあって、三人分の汗その他を吸ってやや湿り気さえあって、意識が覚醒した今はそこはかとなく気持ち悪い。

 

 目を凝らせばとてもではないけど乾かなかったシミとかが見えてしまいそうで、《暗殺者(アサシン)》の夜目の良さが腹立たしくさえある。

 すよすよとのんきに寝息を立てている両脇の二人が恨めしい。

 

 いっそ私もすべて忘れて二度寝しようかと思ったけど、まあ、無理だった。潜り込もうとシーツを持ち上げた時点で、三人分の濃い体臭と汗のにおいと汗じゃないにおいとさらには血の匂いまでもがむわっと上がってきて、無理だった。無理寄りの無理っていうか無理しかなかった。

 

 なんで昨日は気にならなかったんだろう。いや、気づいてはいたかな。でもこう、なんか、非日常な感じがバイブスアゲアゲなフットー気味の脳みそにはむしろ燃料投下みたいな役割を果たした可能性はある。よくおぼえていないけど。よくおぼえていないといったらよくおぼえていない。

 

 シーツを下ろして昨夜の残り香を密閉しようとする試みは遅きに失したけど、まあ、でも、あえてまた開封する必要もないだろう。だってこのシーツの下、シーツの上よりもひどいことになってるもんな。シュレディンガーの猫も黙って首を振る、確定事項の大惨事がこの下にあるんだよ。

 もうなんかしんどいやらいたたまれないやらで顔を覆うと、その手から、具体的には指先から二人の特殊な残り香がして死にたくなる。何度目だSAN値チェック。

 

 駄目だ。このままでは私の正気が持たない。もう手遅れかもしれないけど。

 

 二人を起こさないようにシーツから体を抜いて、カーテンをちょっと開いてベッドから抜け出す。

 暖炉が良く利いていて、魔術織りだか何だかの絨毯の効果もあるのか、裸でも寒いということはなかった。

 

 それにしても、下着はそもそも寝るときつけてないからいいんだけど、私のお気に入りの寝間着はどこに消えたのか。たぶんシーツの海のどっかにあるとは思うんだけど、どういう経緯で脱いだのか脱がされたのか、そして流れ去ったのか。いやまあ、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるけど、思い出したくない。

 

 うん、と伸びをしてみても、体は疲れていないけど、しかし、なんていうか、違和感は酷かった。

 違和感というか、異物感というか。こうしてまっすぐ立とうとすると、脚の間にものすごい異物感が残っている。脚の間っていうか、うん、まあ、ね。綺麗に爪を整えた可愛らしいお手々で、二人がかりで可愛らしくないスキンシップをはかってくれやがったおかげで、私のお腹の中と外がひっくり返るんじゃないかと思った。外気に触れていい場所じゃないんだぞ、()()は。

 まあ()()だけじゃなく、私の体中余すところなく、二人の指と唇が触れていないところなんてないんじゃなかろうかっていうくらい揉みくちゃにされたからね、ほんと。

 

 窓から差し込む朝日に照らされた肌に点々と……点々ってレベルかこれ。集団暴行にでもあったのかっていうくらい鬱血の跡が残っててうんざりする。たぶん二人の肌にも数は少ないながら残っているだろうことを思うとかなりげんなりする。なんで鬱血が残るのかっていうのはママとパパに聞いたりしないで以下略、だ。

 

 ベッドの上が酷いことになっている、なんて言ったけど、私自身も大概酷い有様だった。

 リリオが切らないでほしいというので無駄に長いままの髪は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり下敷きになったり抱きすくめられたりで滅茶苦茶に癖がついて大暴れしてるし、鼻が麻痺してるのではっきりとはわからないけど、たぶん匂いもついてしまっていることだろう。

 

 肌はさっきも言ったとおり鬱血だらけで、おまけに汗でドロドロ、乾いた唾液やらなにやらでかぴかぴ。あいつら私の体を飴玉か何かかと勘違いしてるんじゃなかろうかってくらいだったから、思いもよらないところまでそんな感触がある。

 その鬱血が全身でぴりぴり痛むし、やけに痛む首をさすってみると血がにじんできた。そう言えばリリオの馬鹿に噛みつかれもしたんだった。

 

 喉もイガイガする……おまけにガラガラに嗄れている。妙なもん口にしたし、普段喋らないのにあんなに声を出したから……出しちゃったもんだから……ああくそ。この世界に来てからどころか、前の人生さかのぼってみても、あんなに声出したことないんじゃないのかな。

 

 水差しの水をコップに半分くらい注いで呷る。うがいしたい位だけど、吐き出す先がないので、飲むしかない。飲み込むしかない。ああ、もう。変な味がするし、口の中変な感じだし。果たして何割が私自身の唾液なんだか。

 

 あー、もう、ほんと。確認すればするほどダメージが後追いで来る。

 しかも私は器用にそれを忘れるってことができないのだ。確認したら確認した分だけ、累積ダメージが積み重なっていく。呪いか毒だなこれは。

 

 それにしても、朝か。

 私は窓から差し込む朝日の角度に、呆れるというか、驚くというか、まあちょっとしたショックではあった。

 

 いやだってさ、私たちが閉じ込められたのがお昼いただいた後でさ。それからまあ、顔面大噴火の自滅告白わめき散らし大合戦やらかして、着替えたり、爪切ったり、なんやかんや準備したにしても、言ってもその程度なわけで。

 

 その後、晩御飯も忘れて朝方近くまで大人のおしくらまんじゅうアルティメットドッキングスペシャルに励んでいたのかと思うと、こいつらこの小さな体でどんな体力しているんだと。

 体力もそうだし、それだけ私を求めるのってどういう趣味嗜好なんだ。こちとら賞味期限ぎりぎりアウトの半額シール付き行き遅れ傷み気味な社畜ブラック(特大Lサイズ)だぞ。胸か。バストか。そんなにおっぱいがいいのか。わからん。本当にわからん。

 

 それにしても、お腹が減った。

 

 前の人生では空腹という感覚を忘れるほどに、というか把握できないほどに疲弊しきっていた私は、当然のように朝から食欲がわくような健康的な生き方はしていなかった。活動するためにエネルギーを補充する、という感じだった。

 それが今では、目覚めて少しもすればお腹が空きだすという実に健全かつ健康な体になってしまって、いやはや、人生何があるかわからないものおーっとぉ。

 

 空腹のせいでお腹に気をやってしまったのがまずかった。変に力が入ったのか、その、なんだ。()()()()()()()()がお腹から流れ出て足を伝って落ちていく気持ちの悪い感触がががが。

 ああ、そうだよなあ。胃袋は空いてるけど()()()は一杯一杯だもんなあ、などと現実逃避したいところだけど、このお高そうな絨毯汚すのもはばかられるので、とっさに取り出した《セコンド・タオル》でふき取っていく。同じくお高そうなシーツをさんざっぱら汚しちゃってるので今更と言えば今更だけど。

 

 もそもそとタオルで足と股座をぬぐいながらベッドをチラ見するけど、起き出してくる気配はない。いい気なものだ。人の体を好きなだけいじくりまわして、出したいだけ出して、あとはぐーすか寝てるとか。先に起きて綺麗に整えてくれるような甲斐性は、まだ期待できそうにない。

 まあ、あれだけ出したんだから疲れているのかも──などと頭をよぎってほんと何度目だSAN値チェック。そう、出されたんだよ。お腹の中に。二人で何度も。

 

 まさかプルプラちゃん様が信者にあんな加護を与えるとか、プルプラちゃん様ほんとプルプラちゃん様過ぎる。理屈で言えば、過酷な自然環境のせいで死亡率高いので、この加護を使ってカップリングの幅を増やして産めや殖やせやしてるわけなんだろうけど、そんな理屈くたばってしまえ。

 何のことかわからないピュアリー・ボーイ・アンド・ガールそしてその他のみんなはまかり間違ってもマミーとダディーに聞いちゃだめだからね。私は責任取れないんだから。

 

 まあ幸いにも、というか幸いかどうか知らないけど、プルプラちゃん様の加護には、あー、なんというか、()()()()()()()()()()の境界に関する加護もあるみたいなので、責任取らないでもいいと言えばいいんだけどいやかなり痛かったし一生に一度のことだし今後いいご縁なんてないだろうから何が何でも責任取ってもらわないと困るけど、ああ、もう、とにかく、今後も旅は続けられるってこと。

 

 そのせいで遠慮なしにやられたわけだけど、まったく。

 仮に私たちの冒険が書籍化されてもこのシーン載せられないだろうなあ。アニメ化などもってのほかだ。

 

 ああ。

 もう。

 はあ。

 

 現実逃避はこのくらいにして、いい加減に二人を起こさないといけない。

 眠かろうと疲れていようと、何が何でも起きてもらわなければならない。

 何故なら。

 

「おはようございます」

 

 ノックの音とともに、メイドさんの声が忌々しいくらい爽やかに響いたからだった。




用語解説

・SAN値チェック
 SANチェック、正気度ロールと言われることが多い。
 クトゥルフ神話を題材にしたTRPG『クトゥルフの呼び声』または『クトゥルフ神話TRPG』において用いられるステータス及びそれに関連するシステムの呼称。
 SANとは「正気」などを意味する英単語Sanityの略。
 つまりプレイヤーの正気の度合いを示す数値のことなのだが、このゲーム、プレイ中にちょくちょくプレイヤーキャラクター(PC)の正気を削るイベントが発生する。
 その際に行われるのがいわゆるSANチェックで、ダイスによって減少の度合いが決まる。
 一度に減りすぎると狂気に陥り、行動に制限がかかったりする。ゼロになればPCは再起不能というわけ。
 なおSAN値は基本的に劇中では回復しないので、減少したSAN値をもとに次のチェックが訪れるのでどんどん悪化していく。
 その先に訪れる不可避の発狂に気づいたあなたはSANチェックどうぞ。成功で1、失敗で1D6の減少です。

・よくおぼえていない
 この女、完全記憶能力者なのである。

()()
 ()()()だ。

・鬱血
 →吸引性皮下出血

・《セコンド・タオル》
 ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
 実はこの世界にもタオルと同様の織物(毛巾)はあるのだが、手織りのため少々お高い上に、普及品は我々の知るタオルと比べると性能や肌触りがいまいちなので、閠はあまり使いたがらない。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』

・プルプラちゃん様の加護
 実は境界の神プルプラの信者は、辺境以外ではあまり多くない。
 神話の中でも登場率が非常に高く、親しみやすいとも言えるが、要するに「圧倒的上位から遊びでかき回してくる」という邪神ムーブもといトリックスターっぷりが厄介者扱いされているのだった。
 そんな邪神の加護の中でも珍しく実用的なのが交わりに関するもので、同性間、異種族間で婚姻するものは、子をなすために神殿に祈りに行くのがならわしである。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話 亡霊とこの痛みの名 ノン・アタッチメントパーツ版

※(2022年12月24日追記)
 このエピソードは「第一話この痛みの名は」からアタッチメントパーツ要素を取り除いた加筆修正版です。
 大筋の内容は変更ありません。
 「さっき読んだやつかな?」と思った方はさっき読んだやつとほぼ同じですので、間違い探しの要領でお楽しみください。ただし性癖には間違いなどないので、ご自分の楽しめる性癖を大事にしていきましょう。




前回のあらすじ



朝まで『交渉』した《三輪百合トリ・リリオイ》であった。
詳しい交渉内容については皆様のご想像にお任せする。



 すごかった。

 

 語彙力の死滅した説明で大変申し訳ないのだけれど、何しろ語彙力だけでなく思考力をはじめとしていろいろと死んでいるのでご配慮いただきたい。

 

 幸いなのかなんなのか、境界の神プルプラちゃん様謹製と思しきこのボディは朝になるやぱっちりと目が覚めた。

 ちょっと気だるいくらいで、なんなら寝起きで跳ね起きて陽気なラテンのリズムに乗って絶頂有頂天なブレイクダンスを決めることだって可能だろう。

 あくまでカタログスペックであって、実際のご使用はお控え願いたいところだけど。

 

 まあ、そんな具合に、極めて残念なことにフィジカルの方はむしろ元気なくらいなのだけれど、メンタルの方は何しろド畜生ブラック社畜あがりの二十六年間処女をこじらせていた死にぞこないなのだ。ちょっと荷が勝ちすぎた。

 

 さて、まどろみを引きずらないすっぱりとした覚醒が必ずしも素晴らしい朝につながるかと言えば全然そんなことはなく、うっかり目覚めてしまった私は死にぞこないメンタルで惨憺(さんたん)たる様子の寝室、より正確に言うならばカーテンで閉め切られた天蓋付きのベッドを目撃してしまった。SAN値チェック待ったなし。

 

 いや本当に、冗談抜きでベッドは酷い有様だった。

 

 やけに頭の位置が低いなと思えば、枕がない。ずり落ちてしまったのかと頭上に手をやるも、空ぶるだけでその感触にはありつけない。枕投げをした記憶などないのだけれど、と少し思い返して、お目当てのブツが私の腰の下にあることを思い出してしまった。SAN値チェックどうぞ。

 

 なんで腰の下にあるかって? 気配りのできるチビメイド様が私が腰を痛めないように気を遣ってくださったからだよこん畜生。なんで腰を痛めるのかわからない良い子はお母さんとお父さんには聞かずに然るべき年齢になったら信頼できる参考書を読みなさい。

 

 私の腰の下でへたった枕の感触を感じながら、のっそりと体を起こす。すると私の右パイと左パイを分割統治していたらしいちみっ子どもがずり落ちた。名残惜し気にわきわきと両手が柔らかい脂肪を求めてさまようけど、そこはお腹だ。くすぐったいからやめろ。そもそも君たちのお求めのバストは私の固有の領土だ。

 

 見下ろしたシーツはぐっちゃぐっちゃに波打っていて、むしろよくまあ頭の回っていなかった私たち三人が潜り込めたなという具合だった。

 アホほど寒い辺境とは言え、というか辺境だからこそか、部屋の中はガンガンに暖房が利いて暖かく、カーテンを締め切ったベッドはなおさらで、その状態でアダルティック大運動会夜の部を開催したとあって、三人分の汗その他を吸ってやや湿り気さえあって、意識が覚醒した今はそこはかとなく気持ち悪い。

 

 目を凝らせばとてもではないけど乾かなかったシミとかが見えてしまいそうで、《暗殺者(アサシン)》の夜目の良さが腹立たしくさえある。

 すよすよとのんきに寝息を立てている両脇の二人が恨めしい。

 

 いっそ私もすべて忘れて二度寝しようかと思ったけど、まあ、無理だった。潜り込もうとシーツを持ち上げた時点で、三人分の濃い体臭と汗のにおいと汗じゃないにおいとさらには血の匂いまでもがむわっと上がってきて、無理だった。無理寄りの無理っていうか無理しかなかった。

 

 なんで昨日は気にならなかったんだろう。いや、気づいてはいたかな。でもこう、なんか、非日常な感じがバイブスアゲアゲなフットー気味の脳みそにはむしろ燃料投下みたいな役割を果たした可能性はある。よくおぼえていないけど。よくおぼえていないといったらよくおぼえていない。

 

 シーツを下ろして昨夜の残り香を密閉しようとする試みは遅きに失したけど、まあ、でも、あえてまた開封する必要もないだろう。だってこのシーツの下、シーツの上よりもひどいことになってるもんな。シュレディンガーの猫も黙って首を振る、確定事項の大惨事がこの下にあるんだよ。

 もうなんかしんどいやらいたたまれないやらで顔を覆うと、その手から、具体的には指先から二人の特殊な残り香がして死にたくなる。何度目だSAN値チェック。

 

 駄目だ。このままでは私の正気が持たない。もう手遅れかもしれないけど。

 

 二人を起こさないようにシーツから体を抜いて、カーテンをちょっと開いてベッドから抜け出す。

 暖炉が良く利いていて、魔術織りだか何だかの絨毯の効果もあるのか、裸でも寒いということはなかった。

 

 それにしても、下着はそもそも寝るときつけてないからいいんだけど、私のお気に入りの寝間着はどこに消えたのか。たぶんシーツの海のどっかにあるとは思うんだけど、どういう経緯で脱いだのか脱がされたのか、そして流れ去ったのか。いやまあ、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるけど、思い出したくない。

 

 うん、と伸びをしてみても、体は疲れていないけど、しかし、なんていうか、違和感は酷かった。

 違和感というか、異物感というか。こうしてまっすぐ立とうとすると、脚の間にものすごい異物感が残っている。脚の間っていうか、うん、まあ、ね。綺麗に爪を整えた可愛らしいお手々で、二人がかりで可愛らしくないスキンシップをはかってくれやがったおかげで、私のお腹の中と外がひっくり返るんじゃないかと思った。外気に触れていい場所じゃないんだぞ、()()は。

 まあ()()だけじゃなく、私の体中余すところなく、二人の指と唇が触れていないところなんてないんじゃなかろうかっていうくらい揉みくちゃにされたからね、ほんと。

 

 窓から差し込む朝日に照らされた肌に点々と……点々ってレベルかこれ。集団暴行にでもあったのかっていうくらい鬱血の跡が残っててうんざりする。たぶん二人の肌にも数は少ないながら残っているだろうことを思うとかなりげんなりする。なんで鬱血が残るのかっていうのはママとパパに聞いたりしないで以下略、だ。

 

 ベッドの上が酷いことになっている、なんて言ったけど、私自身も大概酷い有様だった。

 リリオが切らないでほしいというので無駄に長いままの髪は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり下敷きになったり抱きすくめられたりで滅茶苦茶に癖がついて大暴れしてるし、鼻が麻痺してるのではっきりとはわからないけど、たぶん匂いもついてしまっていることだろう。

 

 肌はさっきも言ったとおり鬱血だらけで、おまけに汗でドロドロ、乾いた唾液やらなにやらでかぴかぴ。あいつら私の体を飴玉か何かかと勘違いしてるんじゃなかろうかってくらいだったから、思いもよらないところまでそんな感触がある。

 その鬱血が全身でぴりぴり痛むし、やけに痛む首をさすってみると血がにじんできた。そう言えばリリオの馬鹿に噛みつかれもしたんだった。

 

 喉もイガイガする……おまけにガラガラに嗄れている。妙なもん口にしたし、普段喋らないのにあんなに声を出したから……出しちゃったもんだから……ああくそ。この世界に来てからどころか、前の人生さかのぼってみても、あんなに声出したことないんじゃないのかな。

 

 水差しの水をコップに半分くらい注いで呷る。うがいしたい位だけど、吐き出す先がないので、飲むしかない。飲み込むしかない。ああ、もう。変な味がするし、口の中変な感じだし。果たして何割が私自身の唾液なんだか。

 

 あー、もう、ほんと。確認すればするほどダメージが後追いで来る。

 しかも私は器用にそれを忘れるってことができないのだ。確認したら確認した分だけ、累積ダメージが積み重なっていく。呪いか毒だなこれは。

 

 それにしても、朝か。

 私は窓から差し込む朝日の角度に、呆れるというか、驚くというか、まあちょっとしたショックではあった。

 

 いやだってさ、私たちが閉じ込められたのがお昼いただいた後でさ。それからまあ、顔面大噴火の自滅告白わめき散らし大合戦やらかして、着替えたり、爪切ったり、なんやかんや準備したにしても、言ってもその程度なわけで。

 

 その後、晩御飯も忘れて朝方近くまで大人のおしくらまんじゅうアルティメットドッキングスペシャルに励んでいたのかと思うと、こいつらこの小さな体でどんな体力しているんだと。

 体力もそうだし、それだけ私を求めるのってどういう趣味嗜好なんだ。こちとら賞味期限ぎりぎりアウトの半額シール付き行き遅れ傷み気味な社畜ブラック(特大Lサイズ)だぞ。胸か。バストか。そんなにおっぱいがいいのか。わからん。本当にわからん。

 

 それにしても、お腹が減った。

 

 前の人生では空腹という感覚を忘れるほどに、というか把握できないほどに疲弊しきっていた私は、当然のように朝から食欲がわくような健康的な生き方はしていなかった。活動するためにエネルギーを補充する、という感じだった。

 それが今では、目覚めて少しもすればお腹が空きだすという実に健全かつ健康な体になってしまって、いやはや、人生何があるかわからないものだ。

 

 お腹のことを思ったせいか、異物感がやばい。まだ入っている感じがするというか、指がまだ中で動いてるんじゃないかっていうか、そんな感じ。ぼんやり突っ一本二本はまあわかるけど、最終的に何本だっけ。二人がかりで粘土こねるか手でも洗うみたいに。思い出したら頭おかしくなりそう。

 ぼんやり突っ立っていると、乾ききっていなかったまたぐらとか肌とかからなんかいろんな体液とか、いろんな香り付きの潤滑液とかが垂れてきて焦る。

 このお高そうな絨毯汚すのもはばかられるので、とっさに取り出した《セコンド・タオル》でふき取っていった。同じくお高そうなシーツをさんざっぱら汚しちゃってるので今更と言えば今更だけど。

 

 もそもそとタオルで足と股座をぬぐいながらベッドをチラ見するけど、起き出してくる気配はない。いい気なものだ。人の体を好きなだけいじくりまわして、なめ回して、あとはぐーすか寝てるとか。先に起きて綺麗に整えてくれるような甲斐性は、まだ期待できそうにない。

 まあ、あれだけすることしたんだから疲れているのかも──などと頭をよぎってほんと何度目だSAN値チェック。なんどもその、されたんだよなあ。二人に何度も。私もちょっと。

 

 まさかこの世界にあんなにたくさんの夜のグッズがあるとは思わなかった。

 潤滑液っていうか、まあはっきり言ってローションの類は序の口で、それだって肌に塗るとあったかくなる奴だったり、暗闇で光る奴だったり、ちょっと敏感になる奴だったり。

 あと、まあ、ほら。震える奴とか、入れたり出したりするやつとか、まあ、いろいろあるわけだ。

 しかもそれがさあ、アングラなお店で売ってるものとかだけじゃなくて、神殿で買ってきたやつが結構あるらしいのがまた驚きだ。

 豊穣の神様の眷属伸に、娼婦の守護神みたいなのがいるらしくて、その神殿がいろいろとまあお楽しみグッズを開発したり売り出したり自分で使ったりしてるんだけど、人の煩悩ってどこでも変わらないというか、欲望は人類の文化を加速させるというか、色々そろいすぎててビビる。

 

 何のことかわからないピュアリー・ボーイ・アンド・ガールそしてその他のみんなはまかり間違ってもマミーとダディーに聞いちゃだめだからね。私は責任取れないんだから。

 

 まあ幸いにも、というか幸いかどうか知らないけど、その守護神印のアダプターとかジョーク・グッズとかにはそういう病気とかにならないようにする加護もあるみたいなので、そこは安心と言えば安心だ。

 いやいくら安心安全でも、やることやれば不可逆的な身体変化もあるわけで、かなり痛かったし一生に一度のことだし今後いいご縁なんてないだろうから何が何でも責任取ってもらわないと困るけど、ああ、もう、とにかく、今後もごあんしんで旅は続けられるってこと。

 

 そのせいで遠慮なしにやられたわけだけど、まったく。

 仮に私たちの冒険が書籍化されてもこのシーン載せられないだろうなあ。アニメ化などもってのほかだ。

 

 ああ。

 もう。

 はあ。

 

 現実逃避はこのくらいにして、いい加減に二人を起こさないといけない。

 眠かろうと疲れていようと、何が何でも起きてもらわなければならない。

 何故なら。

 

「おはようございます」

 

 ノックの音とともに、メイドさんの声が忌々しいくらい爽やかに響いたからだった。




15-1-2

用語解説

・SAN値チェック
 SANチェック、正気度ロールと言われることが多い。
 クトゥルフ神話を題材にしたTRPG『クトゥルフの呼び声』または『クトゥルフ神話TRPG』において用いられるステータス及びそれに関連するシステムの呼称。
 SANとは「正気」などを意味する英単語Sanityの略。
 つまりプレイヤーの正気の度合いを示す数値のことなのだが、このゲーム、プレイ中にちょくちょくプレイヤーキャラクター(PC)の正気を削るイベントが発生する。
 その際に行われるのがいわゆるSANチェックで、ダイスによって減少の度合いが決まる。
 一度に減りすぎると狂気に陥り、行動に制限がかかったりする。ゼロになればPCは再起不能というわけ。
 なおSAN値は基本的に劇中では回復しないので、減少したSAN値をもとに次のチェックが訪れるのでどんどん悪化していく。
 その先に訪れる不可避の発狂に気づいたあなたはSANチェックどうぞ。成功で1、失敗で1D6の減少です。

・よくおぼえていない
 この女、完全記憶能力者なのである。

()()
 ()()()だ。

・鬱血
 →吸引性皮下出血

・《セコンド・タオル》
 ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
 実はこの世界にもタオルと同様の織物(毛巾)はあるのだが、手織りのため少々お高い上に、普及品は我々の知るタオルと比べると性能や肌触りがいまいちなので、閠はあまり使いたがらない。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』

・豊穣の神
 正式名セマト(Semato)
 天津神。農耕神。神話によれば、狐の姿をしているとも、狐を眷属に従えるともいう。
 その身体から様々な作物を生み出すとされる。
 地に広がった人々が慣れぬ土地で飢えにあえぐのを見かねた神々が、はるか虚空天より呼び寄せ、その四肢を裂いて四方に投げやり、そのはらわたを引き出して八方にばらまき、その血を絞って天より降らせ、肉と骨を大地に埋めて馴染ませたという。
 これにより人々は大地より恵みを得て生きていくことができるようになったそうだ。

・娼婦の守護神
 正式名称「親愛と交合の神アモーレローソ(Amoreroso)」。
 さらに言うと娼婦の守護神ではなく「娼館と娼婦と男娼とその他仲良く気持ちよく健全にお楽しみするすべてのお友達」の守護神。公式声明である。
 かつて日照りと飢饉に見舞われた土地で、雨と実りを求めて豊穣の神を祀る目的で、三日三晩に及ぶ過酷な聖婚の儀を成し遂げた少年が、豊穣の神に認められ陞神したとされる。
 本神いわく「他にやることないし死にかけるとむらむらしちゃって、なんかまわりのやつらも目をギラギラさせちゃって、ご飯代稼ぎと思ってしゃぶったりしてるうちに盛り上がっちゃって、気づいたらみんな勃たなくなっててひとりでいんぐりもんぐりしてたら、空から『ふーんえっちじゃん』っておひねり投げられて神様になってた」とのこと。
 例によって例のごとく神託(ハンドアウト)を受けたものは発狂していて正確なことはわかっていない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話 亡霊とこの痛みの名 《三輪薔薇》版

※(2022年12月24日追記)
 このエピソードは「第一話この痛みの名は」のノン・アタッチメントパーツ版だけではもしかしたら物足りないのではと思い立って編集した、男女同権に配慮した性別逆転版です。
 大筋の内容は変更ありません。
 「さっき読んだやつかな?」と思った方はさっき読んだやつとトポロジー幾何学的にほぼ同じですので、間違い探しの要領でお楽しみください。ただし性癖には間違いなどないので、ご自分の楽しめる性癖を大事にしていきましょう。




存在しない前回のあらすじ



朝まで『交渉』した《三輪薔薇トリ・ローゾイ》であった。
詳しい交渉内容については皆様のご想像にお任せする。


 すごかった。

 

 語彙力の死滅した説明で大変申し訳ないが、何しろ語彙力だけでなく思考力をはじめとしていろいろと死んでいるのでご配慮いただきたい。

 

 幸いなのかなんなのか、境界の神ことクソプルプラの野郎謹製と思しきこのボディは、朝になるやぱっちりと目が覚めた。

 ちょっと気だるいくらいで、なんなら寝起きで跳ね起きて陽気なラテンのリズムに乗って絶頂有頂天なレゲエダンスを決めることだって可能だろう。

 あくまでカタログスペックであって、実際のご使用はお控え願いたいところが。

 

 まあ、そんな具合に、極めて残念なことにフィジカルの方はむしろ元気なくらいなのだが、メンタルの方は何しろド畜生ブラック社畜あがりの二十六年間童貞をこじらせていた死にぞこないなのだ。ちょっと荷が勝ちすぎた。

 

 さて、まどろみを引きずらないすっぱりとした覚醒が必ずしも素晴らしい朝につながるかと言えば全然そんなことはなく、うっかり目覚めてしまった俺は死にぞこないメンタルで惨憺(さんたん)たる様子の寝室、より正確に言うならばカーテンで閉め切られた天蓋付きのベッドを目撃してしまった。SAN値チェック待ったなし。

 

 いやマジで、冗談抜きでベッドは酷い有様だった。

 

 やけに頭の位置が低いなと思えば、枕がない。ずり落ちてしまったのかと頭上に手をやるも、空ぶるだけでその感触にはありつけない。枕投げをした記憶などないのだが、と少し思い返して、お目当てのブツが俺の腰の下にあることを思い出してしまった。SAN値チェックどうぞ。

 

 なんで腰の下にあるかって? 気配りのできるチビ従者様が俺が腰を痛めないように気を遣ってくださったからだよこん畜生。なんで腰を痛めるのかわからない良い子はお母さんとお父さんには聞かずに然るべき年齢になったら信頼できる参考書を読みなさい。

 

 俺の腰の下でへたった枕の感触を感じながら、のっそりと体を起こす。すると俺の右乳首と左乳首を分割統治していたらしいちみっ子どもがずり落ちた。名残惜し気にわきわきと両手がコリコリした乳頭を求めてさまようが、、そこは腹だ。くすぐったいからやめろ。そもそもお前たちのお求めのニップルは俺の固有の領土だ。たとえいじられ過ぎて政変待ったなしだとしても。

 

 見下ろしたシーツはぐっちゃぐっちゃに波打っていて、むしろよくまあ頭の回っていなかった俺たち三人が潜り込めたなという具合だった。

 アホほど寒い辺境とは言え、というか辺境だからこそか、部屋の中はガンガンに暖房が利いて暖かく、カーテンを締め切ったベッドはなおさらで、その状態でアダルティック大運動会夜の部を開催したとあって、三人分の汗その他を吸ってやや湿り気さえあって、意識が覚醒した今はそこはかとなく気持ち悪い。

 

 目を凝らせばとてもではないが乾かなかったシミとかが見えてしまいそうで、《暗殺者(アサシン)》の夜目の良さが腹立たしくさえある。

 すよすよとのんきに寝息を立てている両脇の二人が恨めしい。

 

 いっそ俺もすべて忘れて二度寝しようかと思ったけど、まあ、無理だった。潜り込もうとシーツを持ち上げた時点で、三人分の濃い体臭と汗のにおいと汗じゃないにおいとさらには血の匂いまでもがむわっと上がってきて、無理だった。無理寄りの無理っていうか無理しかなかった。

 

 なんで昨日は気にならなかったんだろう。いや、気づいてはいたかな。でもこう、なんか、非日常な感じがバイブスアゲアゲなフットー気味の脳みそにはむしろ燃料投下みたいな役割を果たした可能性はある。よくおぼえていないが。よくおぼえていないといったらよくおぼえていない。

 

 シーツを下ろして昨夜の残り香を密閉しようとする試みは遅きに失したが、まあ、でも、あえてまた開封する必要もないだろう。だってこのシーツの下、シーツの上よりもひどいことになってるもんな。シュレディンガーの猫も黙って首を振る、確定事項の大惨事がこの下にあるんだよ。

 もうなんかしんどいやらいたたまれないやらで顔を覆うと、その手から、具体的には指先から二人の特殊な残り香がして死にたくなる。何度目だSAN値チェック。

 

 駄目だ。このままでは俺の正気が持たない。もう手遅れかもしれないが。

 

 二人を起こさないようにシーツから体を抜いて、カーテンをちょっと開いてベッドから抜け出す。

 暖炉が良く利いていて、魔術織りだか何だかの絨毯の効果もあるのか、裸でも寒いということはなかった。

 

 それにしても、俺の下着や寝間着はどこに消えやがったのか。たぶんシーツの海のどっかにあるとは思うんだが、どういう経緯で脱いだのか脱がされたのか、そして流れ去ったのか。いやまあ、思い出そうとすれば鮮明に思い出せるけど、思い出したくない。

 

 うん、と伸びをしてみても、体は疲れていないが、しかし、なんというか、違和感は酷かった。

 違和感というか、異物感というか。こうしてまっすぐ立とうとすると、脚の間にものすごい異物感が残っている。脚の間というか、うん、まあ、な。綺麗に爪を整えた可愛らしいお手々で、二人がかりで可愛らしくないスキンシップをはかってくれやがったおかげで、俺の腹の中と外がひっくり返るんじゃないかと思った。出すところであって入れるところではないんだぞ、()()は。

 まあ()()だけじゃなく、俺の体中余すところなく、二人の指と唇が触れていないところなんてないんじゃなかろうかっていうくらい揉みくちゃにされたからな、マジで。

 

 窓から差し込む朝日に照らされた肌に点々と……点々ってレベルかこれ。集団暴行にでもあったのかっていうくらい鬱血の跡が残っててうんざりする。たぶん二人の肌にも数は少ないながら残っているだろうことを思うとかなりげんなりする。なんで鬱血が残るのかっていうのはママとパパに聞いたりするなよ以下略、だ。

 

 ベッドの上が酷いことになっている、なんて言ったが、俺自身も大概酷い有様だった。

 リリオが(そのほうがそそるので)切らないでほしいというので無駄に長いままの髪は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり下敷きになったり抱きすくめられたりで滅茶苦茶に癖がついて大暴れしてるし、鼻が麻痺してるのではっきりとはわからないけど、たぶん匂いもついちまっていることだろう。

 

 肌はさっきも言ったとおり鬱血だらけで、おまけに汗でドロドロ、乾いた唾液やらなにやらでかぴかぴ。あいつら俺の体を飴玉か何かかと勘違いしてるんじゃなかろうかってくらいだったから、思いもよらないところまでそんな感触がある。

 その鬱血が全身でぴりぴり痛むし、やけに痛む首をさすってみると血がにじんできた。そう言えばリリオの馬鹿に噛みつかれもしたんだった。

 

 喉もイガイガする……おまけにガラガラに嗄れている。妙なもん口にしたし、普段喋らないのにあんなに声を出したから……出しちまったもんだから……ああくそ。この世界に来てからどころか、前の人生さかのぼってみても、あんなに声出したことないんじゃないのかな。

 

 水差しの水をコップに半分くらい注いで呷る。うがいしたい位だが、吐き出す先がないので、飲むしかない。飲み込むしかない。ああ、もう。変な味がするし、口の中変な感じだし。果たして何割が俺自身の唾液なんだか。

 

 あー、もう、ほんと。確認すればするほどダメージが後追いで来る。

 しかも俺は器用にそれを忘れるってことができない。確認したら確認した分だけ、累積ダメージが積み重なっていく。呪いか毒だなこれは。

 

 それにしても、朝か。

 俺は窓から差し込む朝日の角度に、呆れるというか、驚くというか、まあちょっとしたショックではあった。

 

 いやだってなあ、俺たちが閉じ込められたのが昼飯食った後でさ。それからまあ、顔面大噴火の自滅告白わめき散らし大合戦やらかして、着替えたり、爪切ったり、なんやかんや準備したにしても、言ってもその程度なわけで。

 

 その後、晩飯も忘れて朝方近くまで大人のおしくらまんじゅうアルティメットドッキングスペシャルに励んでいたのかと思うと、こいつらこの小さな体でどんな体力しているんだと。

 体力もそうだし、それだけ俺を求めるのってどういう趣味嗜好なんだ。こちとら賞味期限ぎりぎりアウトの半額シール付きアラサー傷み気味な社畜ブラック(特大Lサイズ)だぞ。尻か。ヒップか。そんなに運動不足で太り気味の尻がいいのか。わからん。本当にわからん。

 

 それにしても、腹が減った。

 

 前の人生では空腹という感覚を忘れるほどに、というか把握できないほどに疲弊しきっていた俺は、当然のように朝から食欲がわくような健康的な生き方はしていなかった。活動するためにエネルギーを補充する、という感じだった。

 それが今では、目覚めて少しもすれば腹が空きだすという実に健全かつ健康な体になってしまって、いやはや、人生何があるかわからないものおーっとぉ。

 

 空腹のせいで腹に気をやってしまったのがまずかった。変に力が入ったのか、その、なんだ。()()()()()()()()が腹から流れ出て足を伝って落ちていく気持ちの悪い感触がががが。

 ああ、そうだよなあ。胃袋は空いてるが()()()は一杯一杯だもんなあ、などと現実逃避したいところだが、このお高そうな絨毯汚すのもはばかられるので、とっさに取り出した《セコンド・タオル》でふき取っていく。同じくお高そうなシーツをさんざっぱら汚しちゃってるので今更と言えば今更だが。

 

 もそもそとタオルで足と股座をぬぐいながらベッドをチラ見するが、起き出してくる気配はない。いい気なものだ。人の体を好きなだけいじくりまわして、出したいだけ出して、あとはぐーすか寝てるとか。先に起きて綺麗に整えてくれるような甲斐性は、まだ期待できそうにない。

 まあ、あれだけ出したんだから疲れているのかも──などと頭をよぎってほんと何度目だSAN値チェック。そう、出されたんだよ。腹の中に。っていうか尻に。二人で何度も。

 

 リリオがまさかあんなにでかくなるとは思わなかったし、トルンペートの舌があんなに奥まで届くなんて知らなかったし、俺の尻が俺の知らない奥行きと広がりを見せるとは知りたくもなかったし、触ってもいないのにあんな…………死にたくなってきた。

 

 まさか男同士の恋愛どころかセッも割と普通な文化圏なうえに、やろうと思えばプルプラのクソの加護とかで平然と同性カップル間に血のつながった子供が埋めるとか、DLなsiteかな??

 まあ理屈で言えば、過酷な自然環境のせいで死亡率高いので、この加護を使ってカップリングの幅を増やして産めや殖やせやしてるわけなんだろうが、そんな理屈くたばってしまえ。

 何のことかわからないピュアリー・ボーイ・アンド・ガールそしてその他のみんなはまかり間違ってもマミーとダディーに聞いちゃだめだからな。俺は責任取れんぞ。

 

 まあ幸いにも、というか幸いかどうか知らないけど、お排泄物様の加護には、あー、なんというか、()()()()()()()()()()()()加護もあるみたいなんで、責任取らないでもいいと言えばいいんだがいやかなり痛かったし一生に一度のことだし今後いいご縁なんてないだろうから何が何でも責任取ってもらわないと困るがでも子ども相手に責任を要求する三十路手前のおっさんっていうのもどうなのか、ああ、もう、とにかく、今後も旅は続けられるってことだな。

 

 そのせいで遠慮なしにやられたわけだが、まったく。

 仮に俺たちの冒険が書籍化されてもこのシーン載せられないだろうなあ。アニメ化などもってのほかだ。

 

 ああ。

 もう。

 はあ。

 

 現実逃避はこのくらいにして、いい加減に二人を起こさないといけない。

 眠かろうと疲れていようと、何が何でも起きてもらわなければならない。

 何故なら。

 

「おはようございます」

 

 ノックの音とともに、メイドさんの声が忌々しいくらい爽やかに響いたからだった。




15-1-3

用語解説

・SAN値チェック
 SANチェック、正気度ロールと言われることが多い。
 クトゥルフ神話を題材にしたTRPG『クトゥルフの呼び声』または『クトゥルフ神話TRPG』において用いられるステータス及びそれに関連するシステムの呼称。
 SANとは「正気」などを意味する英単語Sanityの略。
 つまりプレイヤーの正気の度合いを示す数値のことなのだが、このゲーム、プレイ中にちょくちょくプレイヤーキャラクター(PC)の正気を削るイベントが発生する。
 その際に行われるのがいわゆるSANチェックで、ダイスによって減少の度合いが決まる。
 一度に減りすぎると狂気に陥り、行動に制限がかかったりする。ゼロになればPCは再起不能というわけ。
 なおSAN値は基本的に劇中では回復しないので、減少したSAN値をもとに次のチェックが訪れるのでどんどん悪化していく。
 その先に訪れる不可避の発狂に気づいたあなたはSANチェックどうぞ。成功で1、失敗で1D6の減少です。

・よくおぼえていない
 この男、完全記憶能力者なのである。

()()
 ()()()だ。

・鬱血
 →吸引性皮下出血

・《セコンド・タオル》
 ゲームアイテム。戦闘中に敵モンスターに使用すると、攻撃を中止し、ヘイトを解除してくれる。ただしその状態でさらに攻撃を仕掛けると猛烈に反撃してくる上に二度と効果がなくなる。
 実はこの世界にもタオルと同様の織物(毛巾)はあるのだが、手織りのため少々お高い上に、普及品は我々の知るタオルと比べると性能や肌触りがいまいちなので、閠はあまり使いたがらない。
『猛然と振るわれる拳を必死で耐えるボクサーに、セコンドは迷った。タオルを投げるべきか、否か。何しろ審判が最初に殴り殺されてから、止めるものがいないのだ』

・プルプラのクソの加護
 実は境界の神プルプラの信者は、辺境以外ではあまり多くない。
 神話の中でも登場率が非常に高く、親しみやすいとも言えるが、要するに「圧倒的上位から遊びでかき回してくる」という邪神ムーブもといトリックスターっぷりが厄介者扱いされているのだった。
 そんな邪神の加護の中でも珍しく実用的なのが交わりに関するもので、同性間、異種族間で婚姻するものは、子をなすために神殿に祈りに行くのがならわしである。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

※お詫びとご説明※

 いつも異界転生譚ゴースト・アンド・リリィをご愛読いただきありがとうございます。

 作者の長串望です。

 2019/12/11に公開いたしました第十五章第一話「亡霊とこの痛みの名」の内容について、皆様に大変お楽しみいただいたと同時に、一部の方からは疑念と不満の声も頂いております。

 これは予想していたことでもありますけれど、今後も同様のことが十分にあり得ますことから、お詫びとご説明をさせていただきたいと思います。

 

 お声を頂きましたのは、具体的には、少女たちがなかよしなかよしする内容を期待してくださった方々からで、本文中で唐突に示唆された真夜中超電磁ブレードの存在とそれを用いた辺境式マッスルドッキングトリオは、いささか好ましくないとも感じるというものでした。

 特に前話にあたる第十四章最終話「処女雪」おいて、互いに互いの爪を切って事の準備をする少女たちという描写で盛り上げてからの、不意打ちよろしく出会い頭のコレジャナイタワー建立というかたちでしたので、期待されていらっしゃった方々にはお好みの形で提供できなかったことをお詫び申し上げます。

 

 またもう一つお詫び申し上げますことといたしまして、先に申し上げましたように、異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ、ならびに同シリーズである異界転生譚シールド・アンド・マジックにおいても、今後同様の、または類似のことが十分にあり得ますことをここに改めてお知らせいたします。

 これには、今回のような女性に対するアタッチメント・パーツの取り付けの他、男性に対するアタッチメント・パーツの取り付け、その他の性に対するアタッチメント・パーツの取り付け、同性恋愛・異性恋愛・異種族間恋愛の別にかかわらずすべての関係性の表現、男性の妊娠、世間一般に特殊とされる性質・嗜好・性癖などなどを含みます。

 当方といたしましては本編中に十分にこれらの下地は示唆していたつもりでしたけれど、ご説明が足りず、困惑された方々には改めてお詫び申し上げます。

 

 異界転生譚シリーズ、またわたくし長串望のスタンスは常に欲張り性癖盛り合わせセットとなっております。アレルギーや好みの問題からお得な選べる性癖セットをお求めの皆様には申し訳ありませんけれど、そっと該当部分から目をそらして半分だけでもお楽しみいただければ幸いです。

 

 最後に、今回の問題点となった後付け接続端子の存在に関して、わたくし長串望の個人的な解釈をご説明させていただきたいと思います。

 お昼過ぎから翌朝まで続くなかよしなかよしに関しまして、具体的な内容描写は控えさせていただきました。実際に行われた競技内容に関しては皆様のご想像のままです。

 指と唇とでふやけるまでふやかし、主種様々な道具を用いて実績をアンロックしていく過程で、いわばそれらの数多くの道具の一つとして奥まで届く便利棒が使用された、とそうお考えいただくこともまた可能なのです。

 大事なはじめてを自分の体の一部で達成したいという思いもあるかもしれません。

 もちろんその逆に、ディスイズマイワイフ耐久コネクティング試験が変わりばんこに行われ続けそして朝にということも考えられるでしょう。

 想像は自由なのです。

 

 これがあくまでもわたくし個人の考え方であり、正しいというわけでも、強制するわけでもありますん。

 どうしても駄目だ、匂わせるだけでもアウト、という方はいらっしゃると思いますので、これ以上は読んでいられないとお思いになられましたら、心の安寧のためにもそっと閉じていただくのがよろしいかと思います。

 もしそれでも、他は面白いからと読んでいただけるようでしたら、幸甚の至りです。

 どうか半分目をそらして、お付き合いいただければ幸いです。

 

 くだくだしい語りにお付き合いいただきましたけれど、今後もよしなにお願い申し上げます。

 

 

 長串望

 

※(2022年12月24日追記)

 魚の小骨が喉に残ったようなもどかしさがいまなお残っていることは私の不徳の致すところでございます。

 小骨と言えど、骨は骨。誤った処置をしたり、取り除かずに残っているとやがて傷口が炎症したり化膿したり最悪命にかかわることを思えば、ただ読者の皆様に一方的に寛大さをお求めするのも勝手だったかもしれません。

 

 この問題を残したままゴスリリを終えることはできないなと、この度はさしでがましいようですがささやかなお詫びとしてごあんしんの「ノン・アタッチメントパーツ版」と「フル・アタッチメントパーツ版」こと「《三輪薔薇》版」を公開させていただきました。

 

 大変申し訳ないことに、今までは苦手な方にはそっと目をそらしていただいておりましたが、今後は極力、できるだけ、まあぼちぼち、「騙して悪いが」ということはないように気を付けた上で、手を変え品を変え無理矢理にでも見せつけていきたいと存じます。

 

 今後とも敬遠せずに異界転生譚シリーズを応援していただき、また忌憚なきご意見を頂けますと嬉しい限りでございます。

 

 なおすべてのご意見が必ず反映されるわけではないということも、ここにまた明記しておきます。

 よしなに。お願い申し上げます。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 鉄砲百合と取扱注意

前回のあらすじ

すごかった。
正直怒られて修正を求められるのではないかと怯えているのであった。


 すごかったわ。

 

 何がっていうか、何もかもっていうか。

 あんなにあんなだと思ってなかったって言うか。

 

 そりゃあたしも、女中仲間に揉まれて鍛えられてきたわけだし、女同士で盛り上がればそう言う下世話な話もしてたし、子供じゃないんだから知識としては知ってたわ。でも、うん、知ってるだけだったんだなって今となっちゃ思うわ。

 誰それがなにがしとくっついただとか、同期はみんな抱いたねとか、ナニが大きいだとか、締め付けの具合だとか、まあ、娯楽も少ない年頃の女が集まれば猥談でいくらでも盛り上がるのよ。

 あたしもそう言うの聞いたり、話したりして、そういうもんかなーとか思ってたんだけど、実際経験しちゃうとそう言うのがみんなかすんじゃうくらいのすさまじさがあったわね。猥談語る経験者と自称経験者がすぐに態度で見分けられたの、こういうことだったのねって感じ。

 

 猥談では滑稽だなって笑ってたのが、もう全然馬鹿にできないの。あんなにもすごいんだったら、そりゃ誰だってがっつくし、頭の中パーになるし、下半身でもの考えるようになるわよ。

 何しろ三人とも初めてだし、突然のことだったし、ウルウはともかくアタシもリリオも完全に雰囲気にのまれてたっていうか、トサカに来てたっていうか、それこそがっついて頭の中パーになって身体でもの考えてたから、最初から最後まで滅茶苦茶だった、と思うわ。

 

 まあ、最初の最初はほら、まだ正気だったのよ。正気っていうか、まあ、まだ落ち着いてたっていうか。

 おぼこいお嬢ちゃんみたいにまずは口づけからしよっかって。

 なんだか恥ずかしくなっちゃって、なんか顔が見れなくなっちゃって、ちらっちらって伺うみたいにして、目が合ったらなんだかいてもたってもいられなくなって顔を伏せたりして、自分がそんな恋する乙女みたいな真似するとは思わなかったわ。

 

 で、覚悟を決めて、いざってなったら、はちあったわけよ。

 あたしと、リリオと。

 ほら、口づけするってなったら、向かい合って、唇と唇を重ねるわけよ。

 それで、あたしとリリオはそれぞれウルウと口づけしようとしたわけ。そしたらほら、押しのけ合うことになるじゃない。何しろ頭に血が上ってるからなんだこいつぶっ殺すわよとまではいかないまでも、我が我がってなるわけよ。

 なにしろ最初の口づけだもの。形があるものじゃないけど、やっぱり一番がいいじゃない。あたしが、いえ私が、って問答にもなるわ。

 そりゃリリオが主であたしが従者ってのはあるけど、でも同じ女に懸想してるってことでは対等だもの。譲れないわよね、もちろん。

 

 それで、いよいよ取っ組み合いで決めようかってなったら、ウルウが言うのよ。

 別に私ははじめてじゃないしどっちでもって。

 誰としたのよって詰め寄ったら、あいつ、こう言うのよ。お父さんとはしたことあるからって。

 なんか、すっかり気が抜けちゃったわ。おかしくって。

 

 それで、三人顔寄せ合って、ひとところに唇を集めてね、三人一緒に口づけしたの。

 なんだかおかしかったわね。ほっぺたがぶつかり合って、額がぶつかり合って、口付けてるんだか何だかわかりゃあしなかったわよ。でも、うん、それでもねえ、最初は微笑ましかったんだけど、何度も唇を重ねてると、胸の中で好きだーっていうのが、どんどん積み重なって、勝手にどんどんおっきくなってくの。

 で、誰かがね、もう誰だかわかりゃしないんだけど、ちょっと舌を出したのよ。湿った感触がして、びっくりして、あとはもう雪崩れ込むようだったわ。

 

 まあ、そんな理性が月まで吹っ飛んだような具合だったからウルウにはずいぶん負担かけたと思うわ。鍛えてるあたしでも腰痛いし、普段使ってないような体のあちこちが軋むし。リリオがケロッとしてるのはもうなんも言わない。リリオだもの。

 

 ああ、そう、リリオと言えば、普段食い気ばっかりのくせして、最近ウルウだよりで全然使ってなかった《自在蔵(ポスタープロ)》にあれやこれやと忍ばせてたのには驚いたわね。何にも準備してなかったから助かったといえば助かったけど、いったいいつの間に買いそろえたのやら。

 

 なんてことをぼんやり思い返している間にも、男爵家の女中は優秀なもので、下世話な顔一つ見せず、手早くあたしたちを盥の湯で清め、着替えさせてくれた。

 お世話されるのに慣れてるリリオも、さすがに「あのあれ(ウーモ)」の跡が散った肌を見られるのは堪えたようだった。

 その上、実にさりげなくしかししっかりと窓を開け放って換気までされて、部屋にこもった、あー、よどんだ空気をね、自覚させられるとこう、さすがのあたしも取り繕うのに必死だった。

 

 なおウルウは逃げた。

 あたしたちを叩き起こすや否や、姿を消してしまう呪いで女中たちから隠れて、こっそりお湯を借りたりしながら身支度を整えてた。あたしたちにはそれがうすぼんやりとした影みたいな姿で見えるけど、そうもいかない女中たちは()()()()の姿が見えないので不思議そうにしていた。

 

 よもや逃げられて主従で慰め合っていたのではとか言うクッソ不本意な目で見られちゃったけど、支度が済んだら何事もなかったかのように取りすました顔で現れてくれたので、女中を驚かせながらも誤解は解けたからよかった。

 あたしたちばっかり恥ずかしい目にあって、一人だけ取り繕ってるのが腹立つけど。

 

「………ねえウルウ」

「なあに」

「今朝は髪結わないのね」

「うっさい」

 

 腹いせというわけじゃないけど、軽い気持ちでからかってみたら水月に容赦のない貫き手をねじ込まれて死ぬかと思った。油断してたとは言えあたしが反応できないのってかなり本気だった。

 感情との付き合い方がど素人のウルウは照れ隠しで人を殺しかねないらしいので、からかうときは気をつけないといけないわね。

 

 でも、そりゃ馬鹿みたいに跡付けたあたしたちが悪いのは確かだけど、あたしだって跡が残ってるし、リリオだってそうだ。そのうちのいくつかはウルウがつけたものなんだから、お互い様だと思う。

 なんなら背中と脇腹に爪の跡まで残ってるし血まで滲んでるんだけど、まあそれは言わないでやろう。トチ狂ったリリオが噛みついた分考えると確かにこっちの方がやらかしちゃってるし。

 

 神経質そうに首元を気にし、髪ににおいがついていないか確かめ、落ち着かない様子のウルウは、冬眠明けの熊みたいだった。それが可愛く見えるのだからあたしも大概頭がやられている。

 

 いやだって、仕方ないじゃない。

 

 懐いてるのか懐いてないのか微妙な猫みたいな感じだったのに、くっきり爪痕残すくらいあたしを求めてくれたっていうのが、あたしの頭をふわんふわんに喜ばせているのだ。尽くすのが武装女中の(サガ)だけど、応えてもらえるのはその本能に深々と突き刺さるのだ。

 そりゃあ嬉しくてにやつきもする。

 するけど、あんまりからかうのもまずいか。

 いつも通りのつもりだけど、調子に乗って距離感間違えてるかもしれない。

 神経質な猫みたいに毛を逆立ててるウルウを見てると、ちょっと落ち着いてくる。

 

 あたしはしあわせいっぱいで喜びいっぱいだけど、憮然とした顔のウルウはもしかしたらそうじゃないのかもってちょっと不安にもなる。

 だってウルウだ。

 物語を読んで物を知ったような顔をしている生き物であるところのウルウだ。

 恋物語を読んで恋を知ったような生き方をしてきていても、おかしくはない。

 そんなある意味お子様なウルウが大人の階段を一気に駆け上ってしまったら、その生々しさとか諸々に打ちのめされて、平気な振りした裏ではすっかり怯えてしまっているのかもしれないのだ。

 

 朝食の席で男爵閣下と奥様に盛大にお祝いされても、こぎれいに取り繕った営業用の愛想笑いで受け流してしまったのも、なんだかちょっと不安だ。あの作り笑顔の裏で、もう触れてくれるなと念を放っているようでさえあるもの。

 さすがにこれがずっと続くと、あたしはもとより、リリオがまずいかもしれない。どんな顔をしていいかわからずに表情筋が死に絶えて無表情になっているという大変珍しく面白いもとい重症なのだ。

 

 めでたいめでたいと人のいい笑顔で人のよろしくない腹蔵を伺わせる男爵閣下と、無責任に朝から酒など口にしている奥様、二人の笑い声に紛れ込ませるように、そっとウルウをつついてみる。

 

「ねえ」

「……なあに」

「もしかしてその……嫌だっヴぇッ」

 

 恐る恐る尋ねてみたら肋骨の隙間に的確に貫き手をねじ込まれた。あたしが体裁をとりつくろえる程度に加減しているあたりが恐ろしい。

 これは相当怒っているのでは、と伺ってみると、ウルウはこちらを見てもくれない。もくもくと、あのハシとかいう二本の棒で、煮豆をひたすら一粒ずつつまんでは口に放り込んでいる。

 駄目か、とうなだれそうになりながらも未練がましくチラ見してみると、なんか、よく見たら、耳が赤い。

 

「……嫌じゃないから困ってる」

 

 ぼそぼそっと、隣にいるあたしたちだって聞き逃してしまいそうな小さな声が、酒も飲んでいないのにくらりとくるほど蠱惑的に響いたのだった。

 うつむき気味の顔は長い髪で隠されて横からは伺えなかったけど、向かい側の奥様がニヤニヤしてたから、ああ、きっと、お察しってこと。

 

 




用語解説

・あれやこれや
 ファンタジー世界特有であったりなかったりする様々な道具がいろいろあるらしい。
 残念ながら本編ではお見せすることができないものもあるのでご想像にお任せする。

あのあれ(ウーモ)(umo)
 物の名前が出てこないときに用いる語。
 →鬱血

()()()()
 嫁女と書くと思われる。
 嫁に同じ。

・水月
 ここではみぞおちのこと。
 人体急所の一つで、ここに衝撃を与えると非常な痛みが走り、また横隔膜の動きが瞬間的に止まることがあり、呼吸困難に陥る。

・貫き手
 手の指を握らずまっすぐ伸ばした状態で相手を突く技。
 鍛えていないと指先を痛めるが、拳よりも小さい面積に力が集中するため、急所などを突くとより大きなダメージを与えることができるとされる。
 閠が本気でやった場合、魔力の恩恵を受けていない人体程度なら貫通させられるかもしれない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 白百合と仕切り直して

前回のあらすじ

すごかった(二回目)。
照れ隠しに暴力を振るう系ヒロインはいまもジャンルとして存在するのか。


 すごかったです。

 

 というのをいつまでもやっていると、さすがにウルウが本気で怒りそうなのでそろそろやめておきましょう。

 いやほんと、ここだけの話、本当にすごかったんですけどね。

 私もう、途中で頭の中がぐっちゃんぐっちゃんになって、それで、真っ白になって、ぐわーってなっちゃったんですけど、ぶん殴られて正気を取り戻すまで壊れなかったウルウってすごくありません?

 あと私が噛みつくや否やためらいなくこめかみを棍棒でぶち抜くトルンペートすごくありません?

 というか、私がぷっつんくるの見越して寝台に鈍器持ち込んでおくっていう気概がもうすごくありません?

 

 なんか私だけすごさの基準が違う気がしてならないのですけれど、まあそれはそれとして。

 

 正直なところ何を食べているのか全く味もわからないまま気もそぞろに山盛りの朝食を平らげたところで、おじさまは私たちにいくつかの贈り物をくださいました。旅の餞別と、そしてお祝いにと言って。

 私たちの旅に必要なものだからというそれは、防寒具一揃いでした。

 成程、確かにこれは必要なものでした。

 

 移動中はずっと暖かくした竜車の中にいましたし、外に出る時も、辺境育ちの私やトルンペートにとってはまだ大した寒さでもなかったので、北部で買った上着でもどうにかしのげました。

 お母様の飛行服は何しろ空の上を翔けるためのものですから防寒は言うまでもなく、ウルウに至っては多分なんかいつものまじないか道具のおかげかしれっとしてます。

 

 でもさすがにどんどん冬も深まっていく中、辺境を奥へ奥へと旅するとなると、しっかりとした防寒着が必要になってきます。寒くて凍えるとかそんな話ではなく、率直に死ぬからです。凍って死にます。

 いくら辺境育ちでも、辺境育ちだからこそ、辺境の極寒に対してはきちんと対策しないといけません。

 

 私が辺境を出た時は初夏のことで、かさばる防寒着なんかはさすがに持ってきていなかったので、ここで手に入るなら、ありがたいことです。ありがたいというか、出発する前にどこかで買っていこうと思っていましたから、ちょうどよいですね。

 

 おじさまが気前よく私たちに下さったのは、最高級の大箆雷鳥(アルコラゴポ)の防寒具でした。

 それも真っ白な総冬毛の上等なものです。大箆雷鳥(アルコラゴポ)の毛皮は、暖かいだけでなく水をよく弾くので、雪が溶けても、中までしみ込んできません。よく手入れした大箆雷鳥(アルコラゴポ)の毛皮は、海を泳いでも大丈夫だというくらいです。

 

 上下と手袋、長靴と揃えてあって、どれも文句なしに一級品です。

 上着は縁を長い毛で縁取った頭巾がついていて、すっぽりかぶって口元までしっかりぼたんを留めると、外気を遮ってまつげや呼気が凍るのを防いでくれるようになっています。

 下衣は着衣の上からでも履けて、足さばきも邪魔しない程度にゆったりした造りで、もふもふと暖かいけれど窮屈さがありません。

 袖や裾はひもで絞れるようになっていて、外気が入り込まない造りですね。

 

 手袋はさすがに分厚くて、ちょっと細かな作業はしづらくなりそうでしたけれど、手のひらのあたりから指先の方だけ開くようになっていて、そこから指を出せるようになっていました。これは便利です。

 

 長靴の内側はもこもこの毛でおおわれて実に暖かです。おまけに底が最高。靴底です。なにしろ幅広で、滑り止めの細かな溝が入った護謨(グーモ)底なのでした。

 内地の靴だと雪が染みますし、氷の上で滑りますし、辺境じゃやっていけません。その点、護謨(グーモ)底の辺境の靴は滑りにくく、雪も染みませんし、弾力があって疲れづらいですし、寒さにも強いです。

 外付けの金属鉤をくっつけて氷に突き立てる靴もありますけれど、石畳の上じゃ却って危ないですから町中じゃ使えませんし、何しろ金属というのはよく冷えますから、うかうかしてると氷に刺さったまま凍り付いて抜けなくなるなんて時もあるんです。

 その点、この護謨(グーモ)底はそんな心配がありません。

 

 内地で買うとお高い護謨(グーモ)底の靴ですけれど、実はこの護謨(グーモ)、辺境特産だったりするんですよ。南大陸でも似たようなものが見つかってるらしいですけれど、安定した供給と品質の高さはまだまだ辺境護謨(グーモ)が頭一つ抜けているようです。

 

 小柄な私たちだけじゃなく、ちょっとばかりでなく背の高いウルウにもぴったりのものをしれっと持ってくるあたり、もしかするとお母様から連絡があった時点から準備していたのかもしれません。

 

 ちなみにそんな品々の中で私たちが一番喜んだのは、たっぷり用意してくださった替えの靴下でした。

 毛糸で編んだ厚手の靴下は、ありふれたものではありましたけれど、何しろこれがあるとないとでは全く何もかもが変わってきますし、その癖穴があいたり擦り切れたりとすぐに駄目になってしまう消耗品なのです。

 

 この素敵な贈り物をありがたくいただいて、おじさまと騎士たちに盛大に見送られながら私たちは竜車に乗り込んでいきました。

 またか竜車と早速うんざりげんなりぐったりしているウルウでしたけれど、なんだかそんな姿ですらとてもいとおしく思えます。

 その後ろ姿を眺めながら悦に入っていると、お母様に小突かれました。

 

「そろそろいい加減にしないと、ウルウちゃんも怒っちゃうかもしれないわよ」

「うぐ、それは困ります」

 

 というか大本の元凶はお母様なんですけれど。

 やっちゃったてへみたいな顔で、一歩間違えば大惨事の密室を作り出すとかどういう神経しているんでしょう。

 親の顔が見たいと思いましたけど、ハヴェノでじっくり見てきましたし、なんなら実の娘が私です。

 納得の顔。

 

 まあでも、言っていることはもっともですので、気をつけなければいけませんね。

 ただでさえ神経質なウルウです。

 このあたりでちょっと冷静になって、切り替えなければなりません。

 

 竜車は空高く飛びあがり、よく晴れた空を勢いよく駆け抜けていきます。

 まあ私たちは締め切った竜車の中で、ウルウのこの世を呪うようなうめき声を聞きながらなのでいまいち格好がつきませんが。

 なにはともあれ、私たちの旅はいよいよ辺境らしい辺境へと至ります。

 

 龍の(あぎと)より来る竜たちを迎え撃つ天然の要塞。

 吹雪を切り裂いて天翔ける飛竜乗りたちの根城。

 対竜最終防衛線モンテートへと。

 

 




用語解説

大箆雷鳥(アルコラゴポ)(Alko-lagopo)
 オオヘラライチョウ。
 大陸最大級の羽獣。辺境及び北部の一部に棲息。雄は箆状の巨大な角を有する。
 成獣の体長は三メートル前後、肩高は二メートルに及ぶ。
 記録では一トン越えの個体も見られる。
 草食ではあるが、成獣は熊木菟(ウルソストリゴ)をはじめとした大型肉食獣を追い払うないし殺傷することが可能である。
 針葉樹林及び沿岸部でよく見られる。
 夏は褐色、冬は純白の羽毛に換毛する。
 羽獣としては珍しく足にも羽毛がある。
 毛皮は防寒性、防水性、耐久性に優れ、肉も食用になるが、仕留めるのには危険が伴うため、傷の少ない毛皮は非常に希少。

護謨(グーモ)(gumo)
 いわゆる弾性ゴム。植物から採取されるラテックスを精製、凝固乾燥させた生ゴムに硫黄や炭素などを加えたもので、我々の知るゴムと大きな違いはない。
 近年では南大陸の植民地で発見されたゴムノキの類からもラテックスが採られるが、輸送費、栽培数、加工法の問題などがあり、まだ主流ではない。
 現在は辺境で栽培されている不凍華(ネフロスタヘルボ)のラテックスが主に用いられている。
 不凍華(ネフロスタヘルボ)のゴムは、耐寒性に優れ、辺境の極寒でも柔軟性と弾性を失わないとされる
 やや高価ではあるものの、一般に流通する程度には普及しており、冒険屋や騎士、また商人たちの靴に用いられることが多い。馬車の車輪に用いる例もある。
 なお、最初に靴底にしようとしたのは冒険屋らしい。


不凍華(ネフロスタヘルボ)(nefrostaherbo)
 辺境及び北部山岳地帯の一部でみられるキク科タンポポ属の植物。
 濃い黄色の花をつけ、綿毛のついた種子を作る。葉は色濃く黒っぽい。
 地表部は背が低いが、根は非常に長く、二メートル以上のものもザラ。
 ゴム加工用の栽培種では品種改良が進み、この根が太く、乳液を多く含む。
 生命力が強く大抵の場所に根付き、極寒の地である辺境において通年花を咲かせるため「凍らない花(草)」の名で呼ばれる。
 この花が凍らない理由は乳液の持つ性質にあり、これは真冬の辺境においても凍結しない対低温性を示す。
 辺境が帝国領に組み込まれた後、当時帝国側から派遣された総督がこの性質に目をつけ、特産として利用できないか研究した結果、酢酸を加えて凝固させた生ゴム、硫黄を加えた弾性ゴムの製法が確立された。
 長々と語ったがお察しの通り今後この知識が本編で活用されることは多分ない。


・竜の(あぎと)
 竜たちが住まうとされる北大陸と帝国との間にそびえる、臥龍山脈の切れ目。
 飛竜たちはこのわずかな隙間を通って人界へとやってくるとされる。
 現在は対竜最前線であるフロント辺境伯領がこれを塞ぐように要塞化している。

・モンテート
 子爵領。対竜最終防衛線。
 龍の顎を蓋するように広がる山岳地帯。
 臥龍山脈ほどではないが険しい山々を要塞化する形で町ができている。
 フロントを突破してきた飛竜はここで確実に撃墜される。
 フロント要塞が完成する以前はここが竜殺しの最前線であり、竜の顎までの間に住み着いていた竜どもを根こそぎにすることで現在の辺境伯領が開拓されるようになった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊と対竜最終防衛線

前回のあらすじ

すごかった(三回目)。
男爵から冬の装いを贈られ、いざ臨むは対竜最終防衛線モンテート。


 すごかったすごかったってさんざん言ったけど、竜車に乗り込む頃には私たちはいつもの私たちになっていたように思う。

 というか、結局のところ、私たちは私たちでしかなかったというか。

 

 私は竜車に乗り込むなり早速げんなりし始めたし、トルンペートは毛布用意してくれたし、リリオはいつものいい声でどうでもいいおしゃべりして気を紛らわせてくれるし。

 

 そりゃ、朝はまあ、ぎこちないところもあったし、気恥ずかしかったけど、いつもの面子で、いつものことしてるんだから、なんとなくいつも通りの空気になって、結局いつも通りやっていくんだよね、

 別にいつもと違う話するわけじゃないし、バカップルみたいにいちゃいちゃしだすわけでもない。そうしたいとも特に思わない。

 

 ただ、少し距離感が変わったっていうのかな。

 溝ができたとか、そういうわけじゃないんだけど、でもまあちょっと、クッションの綿が寄ってしまったようなすわりの悪さがあって、でもそれはそんなに悪いものでもなくて、なんだか変な気持ちだ。

 

 竜車の飛行が安定して、私もなんとか会話できるくらいになって、私たちはいつも通りに下らないお喋りをした。しようとした。してるつもりっていうか、うん。

 いつも通り、普段通りを気にかけるように、装うように、全員が全員そんな風にふるまっているようではあった。

 

 私も朝みたいにぴりぴりしてないし、トルンペートもそわそわしてなくて、リリオだってにやにや笑いはひっこめた。

 でも、まあ、うん。

 やっぱりまあ、 ちょっと落ち着かない。

 

 私たちの関係は変わってしまったけれど、でもそれはいままでの関係がなくなったわけじゃない。

 私たちは相変わらず友情を持ち合わせていたし、姉妹のように思う気持ちもあったし、冒険屋仲間としての仕事意識も、ちゃんとある。

 そこに、今までになかった属性が、突然、ちょっと増えただけだ。

 

 まあ、そのちょっとだけが、見えないところ、気づかないところで少しずつ違和感になって、つまずいたみたいに戸惑っている、のかもしれない。

 私が雪道の歩き方にまだ慣れないように、それはきっといつか自然なものになる、のだろう。

 なってくれないと、困る。

 

 私だけじゃなく二人も、同じようなことを考えていたようで、暇つぶしにポーカーなんかしてる間も、気が付いたらなんだか目があっていて、私たちはなんだか照れ笑いしてしまった。

 それは、やっぱりなんだか少しぎこちなくて、それから、やっぱり悪くない気持ちだった。

 

「うん、やっぱり、私たちには急すぎたかもしれませんね」

 

 リリオが吹っ切るように笑った。

 

「まあ、あんまり突然すぎたからね」

「事故みたいなもんだったものね。事故では済まさないけど」

「それは勿論、まあ、今後の『交渉』次第ってことで」

「えーっと、それはつまり」

「辺境の蛮族式交渉は嫌だからね」

「ウルウって恋文とか交換日記とかする感じなの?」

「うっさい」

 

 ただもう少し普通の付き合いを続けたいと言うだけだ。

 そりゃ、あんなことしちゃったから、何が普通かって言うとあれだけど。

 そんな私の複雑なのか面倒くさいだけなのかわけわかんないメンタルを酌んでくれたわけじゃないだろうけど、リリオはただ柔らかく微笑んだ。

 

「私たちは、私たちなりのやり方あり方を、少しずつ見つけていけばいいと思いますよ」

 

 そう締めくくるリリオは、なんだかとてもすっきりしたような、いいこと言ってやったみたいな笑顔だけど。

 

「はいフラッシュ」

「ストレートフラッシュ」

「……役なし(ブタ)です」

 

 順当にぼろ負けしていた。

 

 その後も予定調和と言わんばかりにリリオをぼろっくそに負かして小遣いを巻き上げたのだが、まあ、なんだ。悪くないよ、やっぱり、こういうのは。

 私も、リリオも、トルンペートも、別に変っちゃいない。変わっちゃあいないんだ。

 ただ少し、ほんの少しだけ、私の中にある二人が、二人の割合が、増えたって言うだけなのかもしれない。属性のタグ付けが、一つ二つ増えたって言うだけかもしれない。

 それで、それでさ、そのタグが、今まで使ったことのないやつで、ちょっと扱いに困ってるんだけど、でもまあ、そのうち、なんとなく馴染んでいくんじゃないかって、そう思う。今は自然と、そう思える。

 

 変なのって、自分でも思う。

 ほんと、変な気分だ。

 以前の私なら、誰かとの関係が変わるのって、苦痛だった。

 何も変わらないでほしかった。

 生きているのがしんどくて、死んでいくほどの気力もなくて、楽しくもないような人生を、それでもこのまま続いてくれって、変わらないでくれって、そう祈ってた気がする。

 

 変わることは怖いことだ。

 自分が変わることも、周りが変わっていってしまうことも。

 

 選択肢はいつもはいかいいえだけの二択であってほしかったし、いつも同じものを選ぶ実質一択であってほしかった。

 生きていくことは変化の連続で、死ぬことさえ大きな変化で、いつだって怯えていた。

 見ないふりして、知らないふりして、死んでないだけで生きていないような、当たり障りない人生を生きてきた。

 

 でも、今はさ。

 今は、昔ほど怖くない。

 おっかなびっくり歩いてたら、馬鹿みたいに笑う声が聞こえるから。

 それもまあ、悪くないかな、なんて。

 そんな風に思うのだった。

 

 まあ、そんな私のポエティックモノローグは誰に聞かせることもなく、朝食と胃液がブレンドされた虹色に規制されるだろう乙女塊とともに窓から不法投棄された。

 空からの嘔吐は不思議な解放感と爽快感といつもの不快感とがあるけれど、真似するのはお勧めしない。吐かないに越したことはないのだ。

 

 私がトルンペートにお腹をさすられながらリリオの子供っぽいけど心地よい声を聴いてなんとか人の形を保っているうちに、竜車は目的地にたどり着いたようで、マテンステロさんのアナウンスとともに容赦なく激しい揺れがおろろろろ。

 

 相変わらず乱暴に竜車が着陸し、ようやく私はふわふわしない足場を得た。

 二頭の飛竜が着地する音がそれに続き、私は二人の力を借りてなんとか身だしなみを整えた。

 死にそうな顔はもうどうしようもないとして、せめてぼさぼさの髪はどうにかして、あと水で口もゆすいでおきたかったのだ。

 

 今更《隠蓑(クローキング)》で隠れようとは思わない。

 どうせ強制イベントなんだから腹をくくって精々楽しむとしよう。

 

 竜車を降りた先は、カンパーロの竜車場とはまた趣が違った。

 

 まず、クッソ寒い。

 寒さに体を慣らしていこうと思って《ミスリル懐炉》はしまっておいたんだけど、後悔するレベル。

 男爵さんにもらったもこもこ毛皮の上下とかのおかげで死ぬほど寒いとまでは言わないけど、さらしてる顔面が凍り付きそうだ。

 フード被りたい。かぶって前締めきって閉じこもりたい。さすがにそうもいかないけど。

 

 この寒さは、単にカンパーロより北だとかそういうことだけではなく、標高の違いがあるんだろう。

 モンテートというのは山にへばりついた領地らしく、子爵の屋敷というか城もその山のただなかにおっ建てたものだそうで、つまりここは冬の北国の山の上なのだ。

 そりゃ寒い。

 そして空気が薄くてちょっと息苦しい、気もする。

 今回竜車乗るときに、「慣らしとかないといけないから」とか言って気圧調整する仕掛けを止められてた時点で嫌な予感はしてたけど、さては結構な標高あるなここ。

 この便利ボディでなければ結構きつかったと思う。

 

 で、竜車場の造りは、カンパーロではほとんど雪の上に塗料で線引いただけの広場みたいだったけど、モンテートの竜車場は丁寧に雪かきされて、石畳かな、地面が見えているのだ。私にはよくわからない標識や停止線みたいな模様も書いてある。

 すっかり日も暮れているけれど、かなり強い光源がいくつも、高所から照らしていた。

 見上げれば、人工光じみた白い光が、金属製の細い柱の先で輝いている。

 確か輝精晶(ブリロクリステロ)とか光精晶(ルーモクリステロ)とか呼ばれてる珍しい精霊晶(フェオクリステロ)だ。

 それを惜しげもなく使った照明が、等間隔で並んで、広々とした竜車場を照らしているのだった。

 

 降り立った私たちを迎えたのはやはり儀仗兵たちだったけれど、こちらもカンパーロとはまた違う。

 カンパーロの出迎え儀仗兵たちは、飛竜革の鎧を着た騎士という感じだったけど、モンテートの儀仗兵たちはみな、マテンステロさんの着てる飛行服のようなスタイルなのだ。

 マテンステロさんのものと違って、鮮やかな赤の飛竜革でできていて、胸甲などが施されて鎧に近い感じだ。造りもしっかりしていて、成程これが飛竜に乗っていたら格好よさそうだ。

 まあ、マテンステロさんのはこれを参考に南部で手に入る素材で作ったものだから、見劣りするのも仕方ない話ではある。

 

 儀仗兵たちで驚いたのは、飛行服だけでなく、掲げた武器もだった。

 カンパーロではそれは槍だったけど、飛竜乗りたちが掲げるそれは、どうにも、見覚えがある。

 それもこの世界ではなく、生前の話だ。

 それはどう見ても銃剣に見えた。あの、銃の先っぽに刃物がついたやつ。

 私は銃の類にはあんまり詳しくないのでよくわからないけど、テレビで見た猟銃とかみたいな形状だと思う。素材は何かわからないけど、飛行服に合わせてか赤く塗装されている。

 

「……銃あるんだ、この世界」

「ああ、投射器(パフィーロ)ですね。良く知ってましたね、ウルウ」

「うーん……私の知ってるのと同じかどうかはわからないけど」

 

 まあでも、あれだけ形状が似てたら似たような用途の武器だとは思うけど。

 機会があれば調べてみよう。

 

 歓迎の楽団もカンパーロみたいに華やかな感じじゃなくて、規律の整ったマーチング・バンドって感じ。曲調も勇ましいもので、力強い。

 雪が降っていないとはいえ、この極寒で演奏できるって言うんだから、楽器も演奏者もタフだ。

 金管楽器なんか、下手すると呼気が凍り付いて唇はがれなくなるんじゃなかろうか。それ以前にこの空気の薄さでよくまあその肺活量維持できるものだ。

 エクストリーム・マーチング・バンドかよ。

 

 そんな盛大なお出迎えの中心人物が、モンテート子爵バンキーゾ・マルドルチャであるらしかった。

 子爵さんは顔にすっかりしわの刻まれた高齢のようだったけど、私と同じくらい背は高く、がっしりとした骨太の体型だった。筋肉も太そうで、しわ以外はまるで老いを感じさせない。

 雪国なのに随分日焼けしてると思ったけど、あれは雪焼けとやららしい。

 

「よく来た!」

 

 野太い声が力強く響く。

 言葉を飾らず、率直に端的にものをいう人のようだ。

 

「久しぶりだなマテンステロ! 息災のようだな!」

「ええ、お久しぶり。爺様も元気そうね」

「無論だ! おお、リリオ! 帰ったか! お前は相変わらず小さいな! 縮んだのではないか!」

「むがー! 少しは大きくなりましたよお爺様!」

「むわっはっはっは! 愛い奴め! おお! 武装女中のチビも生きておったか! 長生きしろよ!」

「閣下はそろそろご勇退召されては」

「相変わらず生意気なことよ! 善哉善哉!」

 

 実に豪快に笑い、実に豪快に肩を叩いては再会を喜ぶ子爵さん。

 身体もでかいけど、耳が遠いからなのではと疑うほど声もでかい。

 なんというか、いよいよ蛮族らしい蛮族が出てきたなって感じ。

 

 そしていよいよ私の番になったのだけど、なんか威圧感がすごい。

 身長あんまり変わらないから見下ろされるわけじゃないけど、圧迫感がすごい。

 あと顔が怖い。

 

「フーム。それで、貴様が婿殿か!」

 

 またその流れか。

 マテンステロさんほんと余計なことしかしないな。

 しかしまあ、もはや否定もできない既成事実があるわけで、ここは粛々と、

 

「成人したてのリリオを傷物にしたからにはわかっとろうな!」

 

 ああん?

 

「ひょろっこいナリしおって、まだ公界(くがい)ン立たん、あずないリリオばだまくらかしてぎゃんにやがっとろう、ぬしゃ! かー! わしゃ、ぬしゃんごつおどくさか女がいっちょん()ーかん! くそごうわく!」

 

 なんか、えらい勢いでまくしたてられている。

 興奮しすぎてお国言葉が出てしまっているので何と言っているのかはわからないけど、これで褒め称えられているってことはないだろう。

 いまにも殴り掛かってきそうな剣幕に、お付きの人が抑えにかかり、リリオとトルンペートも顔色を変えたけど、私はそっと制止する。

 

 リリオの関係者にはご挨拶行脚する羽目になるだろうと思っていたけど、さすがにこの扱いは、頭にくる。

 

「傷物だって?」

「おーそがじゃ! わしゃ聞いとぉぞ! 小僧ン屋敷でこんげちゃんこか娘っ子に、」

「──傷物にされたのは私だ!」

「──あア?」

「こちとらその娘っ子に二十六年物の処女膜ぶち破られて泣かされてんだぞ訴えたら勝つからな!」

「な、なに? なんじゃとォ?」

「その通りでございます。面目次第もありません」

 

 トサカに来た勢いで逆切れすれば、爺さんは目を白黒させて狼狽えた。

 謝罪会見じみて死んだ目で犯行を認めるリリオに、爺さんは形容しがたい顔で固まった。

 

 冷え切った石畳に、貴重な辺境貴族の土下座が披露されたのだった。




用語解説

輝精晶(ブリロクリステロ)
 光精晶(ルーモクリステロ)とも。非常に希少な光の精霊の結晶。古代王国の遺跡には、どういった手法で集めたのかこの結晶が多くみられる。

投射器(パフィーロ)(Pafilo)
 小銃のような見かけの兵器。
 火薬の代わりに魔力で爆発を起こして銃弾を撃ち出す、または魔法そのものを撃ち出す火器。
 ここでは魔法を撃ち出すもの。
 強い指向性を与えることで、通常の魔法より射程や威力が向上する傾向にある。
 ただし帝国で実用化されているのは大砲サイズで、魔導砲と呼ばれるもの。
 銃のサイズだと気軽に装填できる実包や魔法式が用意できず、使用者は自前の魔力を流し込んで自分の魔法に指向性を持たせるという、魔法の発動媒体として用いなければならない。
 実質的に高い魔力を持つ辺境人の専用武器と化している。

・モンテート子爵バンキーゾ・マルドルチャ(Bankizo Maldolĉa)
 すでに老境に達しているが、バリバリ現役の武闘派。
 いかにも肉弾戦が得意そうな見かけだが、当代一の飛竜乗りでもある。

・雪焼け
 雪に反射した日光で強く日焼けを起こすこと。

・「ひょろっこいナリしおって、まだ公界(くがい)ン立たん、あずないリリオばだまくらかしてぎゃんにやがっとろう、ぬしゃ! かー! わしゃ、ぬしゃんごつおどくさか女がいっちょん()ーかん! くそごうわく!」
(意訳:「筋肉もついておらず弱そうな姿をして、まだ世間知らずで、幼いリリオのことを騙してとても調子に乗っているだろう、お前は! かー! わしはお前のような生意気な女が一番嫌いなのだ! とても腹が立つ!」)

・「おーそがじゃ! わしゃ聞いとぉぞ! 小僧ン屋敷でこんげちゃんこか娘っ子に、」
(意訳:「おお、そうだ! わしは聞いているぞ! 小僧(注:モンテート男爵)の屋敷でこんなに小さな娘に、」)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 鉄砲百合と吶喊子爵

前回のあらすじ

空から虹色のポエティックモノローグが降ってくる。


 貴族は頭を下げない、なんて口さがない人々は言うらしいけど、辺境ではそんなこともない。

 貴族と平民の距離が近いというか、近すぎるというか。

 まあ内地と比べたらそもそも領地の広さに対して人口が少ないから、領民はみんな領主の顔を知ってるし、何だったら領主も主だった面子は見知ってるし何なら一緒にお酒飲んだこともあるって位には、近い。

 

 勿論、辺境貴族と平民の間にだって歴とした格差があるけど、それはどちらかというと役割分担みたいなところがある。

 古来、竜殺しを成し遂げることができたのは、当時まだ辺境貴族なんて呼び方をされていなかった、一部の英雄たちだけだった。

 自然と英雄たちは竜の撃退と人々の守護を担うことになり、それができない人々は英雄を支える側に回った。

 その関係がずっと続いていて、それが今の辺境貴族と平民につながってる。

 

 だからか、できる人ができることをする、っていうのが、辺境の習わしなのよね。

 竜を撃退できる人が竜を撃退し、畑を耕せる人が畑を耕し、古きを学び新しきを生み出せる人が学問に携わる。

 だから人々はできないことを責めたりしないし、自分ができることを誇りに思う。

 ただまあ、才能のない人間が夢を見ることに、とても厳しい環境であるのは確かなんだけど。

 

 何の話だったかしら。

 ああ、そうそう、辺境貴族は頭を下げるって話よ。

 いくら竜を相手に戦えるくらい強いからって、辺境はそれだけで生きていけるほど甘い環境じゃない。

 領主として祭り上げられた辺境貴族最大の敵は、いつか自分の背中を刺してくるかもしれない不和ってやつなのよね。

 

 頭を下げて済むなら下げない方が損だ、なんて言葉があるくらいね。

 

 まあ、それでも、初対面の素性も知れない相手に何のためらいもなく土下座かますのは他では見ないけど。

 

 凍り付いた石畳に大柄な体を縮こまらせるようにして土下座した子爵閣下と、それを止めるでもなく「子爵がまたやらかしてるんだけど」と言わんばかりの呆れ顔で見下ろしているお付きの護衛。

 いつものこと、なのよね。言っちゃえば。 

 

「いや! げに! げに相済まんこつば()うたもんじゃ! こんげなチビの()()()()に来てござったんに、頭のはつからおらびよってからに、ハァ、ほんなこつはんかくしゃあとこば見せてしもうた!」

「いえ、あの、もう、本当にもういいですから」

 

 石畳にひびが入る勢いの土下座に、珍しくプッツン来たウルウも、さすがにドン引きして落ち着いたみたいだった。

 まあ、あの調子で謝られ続けたらかえって目立って恥の上塗りもいいとこだろう。

 それに、ウルウからしたら謝ってるだろうってのはわかっても、辺境訛りがきつすぎて何言ってるかわかんないだろうし。

 

 ウルウが何度か制止して、ばっちゃん──子爵付きの武装女中が抱き起して、ようやく閣下は気が済んだようだった。

 抱き起してっていうか、脇腹に遠慮のない蹴りをかまして怯んだところを、腕を取って極めるようにひねり上げて、強制的に立ち上がらせたって感じだけど。

 何してんだこいつって顔でウルウが凝視してたけど、ばっちゃんはしれっとしたおすまし顔だし、閣下も気にした様子はない。

 いやまあ、他所の人間の感覚だとおかしいかもしれないけど、辺境貴族と辺境武装女中の関係としてはよくある光景なのよね。

 

 ぶっちゃけ、護衛なんて必要ないくらいにはぶっちぎりで強生物であるところの辺境貴族だから、武装女中の主な仕事って主人の露払いとか身の回りの世話とかその程度で、残るのはこうしてあほほど頑強な主人の行動をいさめることになるのよね。

 あたしがリリオの頭はたいたり、蹴り入れたり、極め技かけたりするのと一緒よ。

 

 何しろ辺境貴族って何をするにしても力加減が必要な生き物だから、下手なことする前に近くの誰かが止めてやらないといけないのよね。

 辺境の武装女中が強い理由の一つは、これよね。

 どんな外敵より強い主人を力技で黙らせられるようにっていう。

 

「すまんかったな。いや、わしん中ではリリオはまだちゃんこい子供でな。その子供が相方を見定めて連れてくるなんぞと手紙が来たもんで、いや、てっきり。まさか、あのちゃんこいリリオが嫁とってくるとは……」

「本当に、もう、いいので。お願いします」

「いやはや、しかし、ハァ、まあ、()()()()とはのう」

 

 閣下は昔からこういう、考えなしに吶喊しては、勘違いが原因でちょくちょく頭を下げている人なのだった。武装女中のあたしにさえ勘違いでやらかして頭を下げたことがあることを教えたら、ウルウも呆れ顔でため息をついた。

 辺境貴族ってのは、まあ、良くも悪くもこういうところがある。

 

 まあ一番呆れるべきは、一人で馬鹿笑いしてる奥様だけど。

 大方奥様が、先触れの手紙に適当なことを書いて寄越したに違いないのだ。

 あたしたちがジト目で睨んでみても、奥様はてんで気にした風もない。

 言い訳さえも笑いながらだ。

 

「やだもう、そんな目で見ないで頂戴な。悪気があったわけじゃないのよ」

「悪戯っ気は大いにありそうなんですけど、お・か・あ・さ・ま?」

「確認しなかった私も悪いけど、でも確認するようなことでもないし、てっきりウルウちゃんが手引きしてあげると思ったんだもの。大人だものね」

「うぐ」

「それがまさかリリオに手を引かれて、それどころかトルンペートちゃんまでなんて」

「うぐぐ」

 

 どう考えてもただからかって遊んでいるだけの奥様だけど、言ってることはまあ正論は正論なので、言い返すに言い返せない。というかウルウは完全に赤面して黙り込んじゃった。

 まあ、こういうことに年齢は関係ない、こともないんだけど、でもまあ、成り行きに任せたらそうなっちゃったんだから仕方ないわよね。

 

 まあ、嫁だなんだって言ったって、あたしたちはみんな女だし、そもそも三人一組だし、古式ゆかしく誰が嫁だの誰が旦那だのって分け方はあんまり具合が良くないわよね。

 誰が上で誰が下ってのも──ああ、偉い偉くないっていう意味じゃなくて、つまり体勢の話だけど──、そりゃあそれぞれの向き不向きや好みもあるけど、いつもいつでもってわけじゃないかもしれないじゃない。

 たまには趣向を変えてとか、今日はこういう気分だとか、そういう、ね。

 

 だからあたしたちはみんなが嫁でみんなが旦那でって言い方もできるんだけど、まあ、便宜的に決めるなら、子爵の物言いも間違いではないわよね。

 私たちの三人で誰が嫁かって決めるなら、間違いなくウルウだし、傷物にされたのもウルウだし、美味しくいただかれちゃったのもウルウだし。

 うん、こりゃウルウが嫁だわ。

 

「大変遺憾なんだけど」

「世の中には甲斐性ってもんがあるのよ」

「私にはないとでも?」

「あるの?」

「あるとも言い難いけど、じゃあリリオにはあるの?」

「よし、この議論は止めましょ、不毛だわ」

「だよね」

「二人とも後でお話ですね」

 

 まあ、こうしてじゃれ合ってる分には誰が嫁でっていうのもどうでもいい問題よね。

 そういうのをはっきりさせたい人は自分たちの身内でやればいいし、議論したい人は議論したい人同士で議論すればいい。

 あたしたちにとって大事なのはあたしたちの関係だけで、あたしにとって大事なのは、嫁っていう響きが存外悪くないわねってことだけだ。

 あたしの嫁……いやまあ、あたしだけのってわけじゃないけど。

 

「ねえ嫁」

「なにさ嫁」

「そういう軽妙な漫談みたい返しを期待してたわけじゃないんだけど」

「軽妙な漫談みたいな返しをした覚えはないんだけど」

「私のことはぶるの止めませんか嫁たち」

「引っ込んでろ嫁」

「お呼びじゃないわよ嫁」

「何ですかこの軽妙な漫談みたいな返し」

 

 なんだかこのまま永遠にじゃれ合っていてもいい気もしてきたけど、残念ながらいちゃつくのを楽しめるのは当人たちばかりでまわりは別に楽しくないのが問題ね。

 適当な所で切り上げろやという圧迫感をばっちゃんが発してきたので、そろそろ大人しくしよう。

 

「まあ、こんなところで長話もなんじゃい。飛竜の旅も疲れるもんじゃし、腹も減ったろう。晩飯の用意はしとるから、飯にしようや」

 

 きゅるる、と腹で返事をしたのは誰だったか。




用語解説

・「いや! げに! げに相済まんこつば()うたもんじゃ! こんげなチビの()()()()に来てござったんに、頭のはつからおらびよってからに、ハァ、ほんなこつはんかくしゃあとこば見せてしもうた!」
(意訳:「いや! 本当に! 本当に申し訳ないことを言ってしまったものだ! こんなチビの嫁に来て下さったのに、頭ごなしに怒鳴りつけてしまって、ハァ、本当にみっともない所を見せてしまった!」)

・ばっちゃん
 モンテート子爵バンキーゾ・マルドルチャ付き一等武装女中プルイーノ(Prujno)。
 子爵とは同年代で、爵位継承前から武装女中として付いており、付き合いは長い。
 高齢ではあるが「このやんちゃ坊主が大人しく引っ込むまで」は現役で続けていくつもりらしい。
 なにかと問題行動の多い主について回るため、手が早い。
 遊びに来たリリオやトルンペートは子爵自ら対応(という名目で遊びまわ)していたので、気心は知れている。

・嫁
 帝国法では婚姻の際に婚姻届けを領主に提出する決まりがあり、書式上「夫」、「妻」の項が存在する。
 法律上、婚姻するものの性別を規定していないので、同性婚も多いが、その際は便宜上の「夫」、「妻」を決めることになる。とはいえ、名称以外に違いはないので、どちらがどちらを名乗ろうと何の問題もない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 白百合と飛竜の炙り焼き

前回のあらすじ

土下座する辺境貴族が見れるのは帝国でもここだけです。
なお現地ではよくみられる模様。


 じじさま、子爵は辺境貴族から見ても非常に豪快で豪放で磊落な方なんですけれど、その行動力に思考が追いつかないことの多い方でもあります。

 つまり勘違いで突っ走って盛大に事故ることの多い方なのです。

 

 これがこと飛竜の襲撃だとかの緊急時ともなれば、即断即決の迅速な行動が速やかな迎撃へとつながりますし、経験に裏付けられた考えるよりも先に動く勘も鋭く、非常に優秀な方でもあるんですけれど。

 殺しちゃった壊しちゃったでは取り返しがつかないのでそのあたりはある程度自制があるんですけれど、あるはずなんですけれど、あるとは思うんですけれど、まあ辺境貴族ですからね。私も人のことは言えません。

 

 いや、私はちゃんと自制心ありますよ?

 人一倍魔力の恩恵が強かった私は、成人の儀で旅立つ前に、徹底的に力加減を覚えこまされましたからね。

 生卵を潰さないように握ったまま運動するとか、切れやすい細糸をあちこちに巻き付けて一本も切らないで生活するとか、とてもとても頑張りました。

 なのでたまにしか壊しません。

 小さい頃からさんざんトルンペートを壊しちゃいましたからね。

 私は反省できる人種なのです。

 

「ね、辺境貴族でしょ?」

「そうだね。よく今まで生きてたね」

「壊すの得意なやつの周りには、直すの得意なやつが充実するみたいなのよ」

「成程」

 

 なんか二人が言ってますけど、本当に私は辺境貴族の中ではまともな方だと思いますからね。

 カンパーロの皆さんと比べられるとまあ、ちょっと辺境度が高いかなとは思いますけど。

 

 まあ、私のことはいいとしまして。

 

 じじさまはあれな人ですけれど、そんなじじさまを支える周りの人は必要以上にきちんとしっかりした人たちですので、万事滞りなく整えられています。

 

 招待された食堂も、まあ山岳にしがみつくような要塞の中なので広さも豪華さもカンパーロほどではないんですけれど、石造りの武骨な造りの中に、趣のある調度品などが下品でない程度に散りばめられており、いぶし銀とでもいうべき渋みのある良さがあります。

 貴族はお金がかかっていることを見せつけるのも仕事ではありますけれど、モンテートは軍事色の強い領地。むしろこのような控えめで、されど油断ならない具合というのが丁度よいのかもしれません。

 

 まあそのように整えたのは代々の使用人たちであって、じじさま個人の好みは金ぴかに飾り立てたド派手な調度品とか、とにかくでっかい武具とか、大型の獣の剥製とかなんですけど。

 じじさまの部屋なんかもう、観る分には楽しくても過ごす分には全く落ち着かない感じでしたからね。

 飛竜の全身剥製が飾ってあるの、帝国広しといえど多分ここくらいですよ。

 

 そんなじじさまの趣味的にはまあいささか地味な所のある、落ち着いた食堂で、私たちはもてなされました。

 料理は主に馬鈴薯(テルポーモ)玉葱(ツェーポ)人参(カロト)や豆類といった保存のきくもの、それにかなり強く塩漬けされた鰊や、甘藍(カポ・ブラシコ)(ラーポ)の漬物といった保存食が並びます。

 これは冬場だからと言うだけでなく、もともと急峻な山岳地帯でろくに作物が取れず、ふもとのわずかな農地から運んでこれるものを貯蔵して食料にしているからなんですね。

 それでも見栄えよく給仕してくれる料理人の腕の良いこと。

 

 供される種類は主に麦酒(エーロ)で、鮮度が悪く塩辛い塩漬けや漬物と釣り合いを取るために、とにかく大量に摂ります。何しろ飲料水も貴重なので、自然と薄めた麦酒(エーロ)を飲むことが多かったりします。

 葡萄(ヴィンベーロ)を育てるのも大変なので、葡萄酒(ヴィーノ)はまず飲まれません。

 蜂蜜酒(メディトリンコ)はわずかに出回りますけれど、非常に高価です。

 芋類や穀類を材料にした火酒は、寒さの中でも凍りませんからよく飲まれますけれど、さすがに強いので、水代わりとはいきません。

 でも景気づけや、体を温めるのに飲んだりします。

 

 この火酒、辺境では水酒(アクヴェート)と呼ばれています。水のように透明で、水のように癖がないからともいわれていますね。

 これとですね、この水酒(アクヴェート)と、前菜に出された魚卵(カヴィアーロ)が実に合うんですよ。

 この魚卵(カヴィアーロ)は、バージョで頂いた鮭の卵、つまり赤い魚卵(ルージャカヴィアーロ)とは違う、黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)という小粒の黒いものです。辺境で魚卵(カヴィアーロ)と言ったら普通はこっちですね。

 

 辺境は海に面していないというか、海辺が残らず断崖絶壁なので漁のしようがないんですけど、実は塩湖があるんです。しょっぱい湖ですね。

 ここに住む塩蝶鮫(ペクリタフーゾ)魚卵(カヴィアーロ)が昔から現地の特産でして、辺境貴族も税として納めることを認めるくらいに美味しいんです。

 内地ではこれがもう高値で高値で、びっくりするくらいの高値です。

 宮殿に卸せるくらいの代物ですよ。

 

 それをこう、「ウソッ」というくらいたっぷりと貝殻の匙にとって、ぱくり、と頂いちゃいます。

 これがもう、たまらないのなんのって。

 赤い魚卵(ルージャカヴィアーロ)と比べると小粒な黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)、歯ごたえもやや柔らかですね。ねっとりとした食感の中に深いコクがあり、独特な香りとともに力強いうまみが感じられます。

 

 おまけにこれ、保存目当ての塩のきついものではなく、辺境でしか食べられない塩の薄いものです。塩がきついと、熟成されたこの香りとうまみが、台無しになってしまいますから、これは現地でないと食べられない贅沢な代物です。

 

 そして、そしてですよ。

 ただでさえ贅沢なこの味わいに、流し込むのは水酒(アクヴェート)

 すっきりとした味わいと、燃えるような酒精が、ともすればくどくなりかねないこってりとしたうまみを洗い流し、舌をもう一度楽しめる状態に回復してくれるわけです。

 

 素晴らしい、素晴らしい味わいです。

 これは延々と繰り返せますね。ダメ人間まっしぐらです。

 

 しかしこれは前菜、前菜に過ぎないのです。

 ここで満たされていては戦う前に負けたようなものです。

 

 塩漬けばっかの食卓に飽きてきたウルウが、もうこれだけでいいかなみたいな顔し始めてますけど、駄目ですってば。

 

 モンテートのとっておきは、なにしろすさまじいものです。

 

 前菜を程よく楽しみ、会話が花開き始めたところで、思わず心惹かれてしまう香りとともにやってきたのが、主菜の大皿でした。

 これがもう、昔ながらの豪快な一品で、とにかく肉、といった見た目です。

 

 二人がかりで運んできた大きな皿の上には、どっしりとした塊肉の炙り焼きが、香草や香味野菜とともに鎮座ましましていました。

 これは絶対美味しいというか、これで美味しくなかったら許さんぞという見た目の暴力ですよ、もはや。

 

 この大きな炙り焼きの塊を、主人であるじじさまが大ぶりな包丁で客人に切り分けていくのですけれど、これがまた堂に入っています。

 

 温められた皿に分厚く切られた肉がでんと載せられ、皿を運んできた料理人が添え物をいくつか添えて、女中たちが給仕してくれます。

 ああ、この香り、たまらなく懐かしくなります。

 

 うまみを閉じ込めるように外側はしっかりと焼き目が残り、しかし内側は薄い赤色を保ったままです。必要以上に加熱せず、しかし生というわけでもなくきちんと火は通っている。炙り焼きの最も上等な焼き方です。

 これほど大きな肉の塊を、むらなく芯まで火を通すのは、料理人の腕の良さの証左です。

 

 早速刃を入れると、焼いたとは思えぬほどの柔らかな切りごたえ。食用に調整された牛肉などと比べるとやや硬いですが、それも野趣と言えば野趣。

 切り分けて口にすれば、力強い肉のうまみ。それにとろける脂。歯ごたえがややきつい所もありますけれど、まさしく肉を食べているなっていう感じがします。

 独特な香りもむしろ、香草の利かせ方もあって、かえって食欲をそそりますね。

 苔桃(ヴァクチニオ)の甘酸っぱいたれがまた、塩気の利いた肉によく合うんです。

 

 ああ、なんだか帰って来たなあっていう気がします。

 懐かしのお味です。

 

 なんて、ほっとしながら肉の塊を切り崩していく私の隣で、ウルウはしきりに首を傾げていました。

 

「どうしました?」

「ん……いや、食べたことないお肉だなあって。山じゃないと獲れない生き物?」

 

 小首をかしげるウルウですけれど、まあ、それは、そうでしょうね。

 山じゃないとというか、辺境じゃないと食べれません。

 それも竜の顎かここくらいじゃないとまともに手に入りません。

 

「ふふん、美味しいでしょう。辺境名物ですよ」

「まあ、美味しいけどさ。何のお肉?」

「ウルウも見たことのある生き物ですよ」

「見たことある……って言っても。こんな大型の生き物……あ」

「そうです」

 

 思いついたように手を止めて、まじまじと炙り焼きを見つめるウルウ。

 多分正解ですね。

 

「これ、飛竜のお肉なんですよ」




用語解説

水酒(アクヴェート)(Akveto)
 芋類、穀類を原料とした蒸留酒。
 白樺の炭で濾過したほぼ無味無臭のものが多いが、香草などで香り付けしたものもある。

赤い魚卵(ルージャカヴィアーロ)(Ruĝa kaviaro)
 イクラのこと。
 鮭の熟した卵を一粒ごと小分けにしたもの。塩漬けやしょうゆ漬けにして食べる。
 帝国内地でカヴィアーロと呼ぶのはこれのことで、もっぱら港町でのみ消費されてしまう高級品扱い。

黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)(Nigra kaviaro)
 ここでは塩蝶鮫(ペクリタフーゾ)の卵を塩漬けしたもの。
 他のチョウザメの類の卵を用いた類似品はあれど、辺境の黒い魚卵(ニグラカヴィアーロ)は希少性・味ともに再高級品とされる。
 なお生産地ではスープの浮き身にしたり、炒め物に調味料代わりに放り込んだり、粥に混ぜ込んだり、雑に消費されているとか。

塩蝶鮫(ペクリタフーゾ)(Peklita Huzo)
 辺境固有種。具体的に言うと「強い」。
 ペクラージョ湖に棲息するチョウザメであることからのシンプルな名づけ。
 鮫に似ているが鮫の仲間ではない。
 産卵のために生まれた川に遡上する。
 最大で十メートル程度まで育った個体が記録に残っているが、もっぱら獲られるのは二メートルから三メートルの個体である。
 卵は魚卵(カヴィアーロ)として加工されるが、肉はあまり美味しくなく、一応保存食にするか、飼料か肥料になる。

・ペクラージョ湖(peklaĵo)
 塩漬けを意味する言葉から名付けられた。
 海水程度の塩分濃度を持つ塩湖。
 その塩分濃度のためか、冬場でもめったに凍らない。
 流入する河川はあるが出口となる河川がないという条件は満たしているものの、水分が活発に蒸発する乾燥地帯でもないため、なぜ塩分濃縮が起こっているのかわかっていない。
 古来から辺境の貴重な塩田として利用されてきた。
 閉ざされた環境では独自の生態系が築かれているとか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と辺境名物

前回のあらすじ

辺境名物を贅沢に頂いた晩餐。
飯ノルマこなしたみたいな空気である。


 子爵さんの屋敷、というか、お城、というか、まあ聞いたところによればまさしく要塞であるというお住まいにお邪魔して、食堂に案内されたんだけど、これが結構立派だった。

 華やかさという点ではカンパーロのお屋敷の方がいかにもって感じだったけど、こちらはなんていうのかな、中世のお城っていう感じがもろに出てる。

 石造りで、武骨な造りで、明かりが蝋燭なので若干薄暗くて、ファンタジー漫画とか映画とかに出てくるスタイルそのものだ。

 その中にも、勇壮な絵のつづられたタペストリーや、暖炉のレリーフ、ちょっとした装飾品など、見る人が見ればわかるだろう品の良さが見え隠れしている。

 

 あのやかましく派手そうな子爵さんのセンスとは思えないな、というか多分周囲の人の見立てでやってるんだろうな。

 要塞の主なのに、一番部屋に似合ってない。

 自己主張が激しすぎるんだよなこの爺様。

 騎士たちが並んでても違和感ない部屋だけど、この爺様がむわっはっはっはって笑う度に山賊の親玉にしか見えない。

 

 まあ山賊は置いとくとして、落ち着いた雰囲気の食堂に好感度を抱いたところで、ふるまわれた食事はまずちょっとがっかり。

 

 なにしろ標高も高めな山にへばりつくように建設された要塞だから、食料品は栽培などまともにできようはずもなく、ほとんど輸送して貯蔵したもの頼りなのだろう。

 馬鈴薯(テルポーモ)とか玉葱(ツェーポ)とか豆とかの保存のききそうな野菜ばかりで、青物はあまりない。

 で、大分塩気や酸味の強い、干し肉や干し魚、塩漬けに酢漬けに油漬け、そういったものを大量の薄めた麦酒(エーロ)でいただく感じが基本らしい。

 

 この世界、冷蔵庫あるくらいだし、割と保存は利かせられると思うんだけど、多分輸送コストがかかるんだろうね。

 聞いてみたところ、ほぼほぼ竜車でしか往来できないらしいので、輸送すべて竜車頼りってことになる。その竜車を引く飼育種の飛竜はピーちゃんキューちゃんの野生種より小柄で、馬力やタフネスで劣るので、一台の竜車に複数つくらしい。

 貴重な戦力である飛竜を輸送に回さなければならないうえ、冬場の山風はかなり体力を奪うみたいで、そんなに頻繁に大量には運搬できないようだ。それに加えて、立地的に食料保存庫にそこまで広さを取れないんじゃないだろうか。

 ああ、それに、人間の食糧だけじゃなく、その輸送に使う飛竜にも結構な量の餌が必要になる。

 こうなるともう、仕方ないとしか言えないなあ。

 

 まあ、仕方ないとはいえ。

 料理人の腕がいいのか、盛り付けもきれいだし、味も美味しいんだけど、うん。

 舌肥えちゃったかなーとは、思ったよね。

 美味しいんだけど、ちょっと野暮ったいかなって。

 もてなし用の振舞いなんだろうけれど、実用性が先立ってる感じが強い。

 一応、ビタミン不足とかも気にしてか生の林檎(ポーモ)やベリー類もあるんだけど、圧倒的に華やかさに欠けている。

 色が主に、茶色い。

 

 いや、けなしてるみたいだけど、実際美味しいは美味しいんだよ。

 この世界、異世界転生ものでよく見かける「飯がまずい」展開がほぼないんだよね。

 よほど食にこだわりがあるのか、こだわれるだけの余裕があるのか。

 歴史的に考えると、大昔にかなり発展してた時期があるっぽいので、その時期のを部分的に継承したり、再発見してるみたいなところはあるけど。

 

 ただまあ、なに?

 冒険屋としては異例に小金持ちなせいでいいもの食べてきてしまったし、連れが料理上手だし、先日辺境とは言えモノホンの貴族様の食事も頂いちゃったし、かなり舌が肥えちゃってるなーと。

 ものすごく腕がいいのはわかるんだけど、まあ前線基地の食事ですよねって感じ。

 普段だったら普通に美味しいって満足してたんだけど、なまじ滅茶苦茶美味しい色とりどりな朝食頂いてきた後だから、なんか、こう、ねえ。

 

 多分、旅を始めてきた頃の私が見たら全力でぶん殴りそうな嫌な奴だと思う、今の私。

 

 ああ、でも、前菜で頂いたキャビアは美味しかった。

 私の知るキャビアと同じものなのかは、そもそもキャビア食べたことないからよくわからないんだけど、鮫っぽい魚の魚卵の塩漬けみたいな説明だったから、おおむね似たような食べ物と思っていいだろう。

 これが、また、美味しい。

 

 塩漬けとはいっても、そこまで塩がきついわけでもなくて、むしろ素材の甘みが引き立つようでさえある。多分産地から飛竜便で直送って感じなんだろうね。

 魚卵って言うからイクラとかとびっこみたいにプチプチした感じかなって思ったら、ねっとりとした歯ごたえで、味わいはかなりコクがある。

 やや生臭いような、独特の香りはあるんだけど、熟成の結果なのかなんなのか、これがなかなか、悪くない。最初を乗り越えちゃえば、むしろ癖になるかもしれない。

 

 私の貧相なイメージでは、キャビアってなんかこう、クラッカーとか黒パンに乗っけて食べてるのを想像してたんだけど、今回はかなり贅沢な食べ方だった。

 

 私の手には、虹色にきらめく、多分大きな貝を削って作ったのかな、それだけでインテリアになりそうなスプーン。繊細な味わいを殺さないために純金のスプーンを使うって料理漫画で読んだことあるけど、化学反応を起こさないんなら貝でもいいわけだ。お値段的にもこれ結構しそうだし、見劣りしない。

 その地味に高そうなスプーンで、リリオの真似してたっぷりと掬い取る。大皿からじゃないよ。一人一人につやつや輝く貝の器が行き渡ってて、そこに「こんなに!」というくらい盛られているんだ。

 

 これを、口を大きく開けて、ぱくんと頂く。

 贅沢さここにだけ偏りすぎてない?

 ペース配分大丈夫?

 って言いたくなるくらいの前菜だ。

 

 北海道人だってイクラをこんな食べ方しないだろう、って一瞬思ったけど、多分してるな連中は。瓶からぞんさいに飯の上にかけたりして、「お母さんまだイクラあるの?」「もう飽きた」みたいなこと言って冷蔵庫に半端がいつまでも余ってるみたいな贅沢してるはずだ。

 あいつら帰省するたびに土産にはホワイト・チョコ挟んだラング・ド・シャばっかり持ってきて、SNSでは蟹とかジンギスカンとか美味しそうなものばっかり載せるからな。

 ネタ枠だったらしいジンギスカン風味キャラメルを「意外と悪くない」ってコメントしたら、SNSで笑いものにしたの知ってんだからな。

 

 職場の同僚のアカウントなど知ってしまうものではない。

 悪口言われてるくらいならまだしも、悪意の欠片もなく侮られ蔑まれ見下されていた日には認知が歪むからね。しかもその子が普通にいい子だったりすると脳髄がひずみそうになる。

 それで私はSNS止めたくらいだからな。

 三日後には再開したけど。

 ブロックとミュート機能を採用したものに祝福あれ。

 

 さて、もうこの前菜だけでいいかなあと思い始めたころ、まさかのメインの登場だった。

 

 まず、かぐわしい香りとともにそれは運ばれてきた。

 デーレンデーレンと聞こえてきたら鮫が現れ、ダダンダンダダンと聞こえたら未来から殺人ロボットがやってきて、デンドンデンドンと聞こえてきたら宇宙怪獣と戦うロボットが登場するくらいに、確実に「美味いものがやってきたぞ」と思わせる、そんな香りだった。

 その大皿が二人がかりで運ばれてきたのを見た時のインパクトと言ったら、思わず拍手で出迎えたくなったほどだ。

 

 それは肉だった。

 もう、シンプルに肉だった。

 大皿にドンと鎮座ましましている焼き目も香ばしい肉の塊だった。

 以前テレビで、有名なビュッフェ・スタイルのレストランで、限定ローストビーフの塊を切り分けているのを見たことがあるけど、あれよりまだ大きいかもしれない。

 

 これを、ホストである子爵さんが大ぶりな包丁で切り分けるんだけど、これがまた豪快だった。

 よく見かけるような、お上品なスライスなんかではない。たっぷり厚みを持たせて、贅沢に切っていく。

 単に豪快なだけのように見えて、子爵さんの包丁さばきは見事なものだった。

 あれだけ太い肉の塊なのに、包丁は滑らかに肉に入っていき、のこぎりみたいに変に何度も往復させることなく、するりするりと何度か前後させるだけで綺麗にすとんと切り分けてしまう。

 そしてその断面は美しいピンク色をさらしていて、乱れの一つもない。

 

 見事なのはお肉の焼け具合と子爵さんの包丁さばきだけではなく、気配りもだった。

 まず主客であるリリオ、次にその母親であるマテンステロさん、主客の伴侶となる私とトルンペート、という風に順番は厳格に定めているんだけど、でも主客に一番量を、あとはみんな一緒、みたいな頭でっかちじゃない。

 よく食べるリリオにはとにかく分厚く、冒険屋でこれまたよく食べるマテンステロさんもほどほどに分厚く、背が高いのに小食であることを見抜いたのか聞き及んだのか私には少な目、トルンペートには程々といった具合に、それぞれの食べる量に合わせて切り分けてくれる。

 それもこれくらいならいけそうかなって言うぎりぎりのあたりを見定めてきてくれる。

 その上、皿を持ってきた料理人が盛り付けて、付け合わせを添えてくれるんだけれど、これがまた綺麗なのだ。

 

 さて、温められた皿にサーブされたお肉を、早速いただくとしよう。

 赤身も鮮やかなお肉だけれど、しっかり火は通っているようで、血がにじみ出ることもない。よくできたローストだ。ステーキみたいな厚さのローストって食べたことないけど。

 これにナイフを入れてみると、やはり、柔らかい。生では切りづらいし、焼けすぎても硬い、でもこれは程よくやわらかで、心地よい手ごたえとともに肉が切れていく。

 

 まずはこれを、そのままで一口。

 少し硬めの歯ごたえは、旅の最中に狩ったジビエで慣れたものだ。

 臭みとも取れる独特の香りも、最近ではすっかり慣れてきて、個性の一つとしてとらえることができるようになってきた。それにうまく香草が利いていて、むしろ味わいの一部として力強い。

 噛みしめる度に舌に感じられる旨味はかなりしっかりとしていて、滋味深い。

 脂身のあたりをちょっと頂いてみると、これもまた、驚くほど甘く、舌触りの良い脂だった。とろりととろけて、決してくどくない。

 

 次に、かけられたソースに絡めてみる。この甘酸っぱさは、苔桃(ヴァクチニオ)だったかな。

 塩気のあるお肉と、甘いソースがこんなに合うんだってことをこの世界に来るまで知らなかったのが悔しいよね。まあ、生前にそんな知識があったところで、食べることに全く興味がなかったわけだけど。

 そう言う意味では、むしろ食べることの楽しみを知ってからで良かったのかもしれないけど。

 

 うん。美味しい、んだけど。

 

「どうしました?」

「ん……いや、食べたことないお肉だなあって。山じゃないと獲れない生き物?」

 

 リリオと一緒に旅してると、ふらっと野山で適当に狩った獣とか食べることが多いんだけど、この味ははじめて食べる味だった。似たような味も知らない。

 

「ふふん、美味しいでしょう。辺境名物ですよ」

「まあ、美味しいけどさ。何のお肉?」

「ウルウも見たことのある生き物ですよ」

「見たことある……って言っても。こんな大型の生き物……あ」

 

 なんかドヤ顔で遠回しに伝えようとしてくるの素直にイラっと来るんだけど、大人の態度で考えてみる。私が見たことはあるけど食べたことはなくて、これだけのお肉が取れる大型の生き物。辺境名物。

 ふと、あの美しい生き物が頭をよぎった。

 

「そうです。これ、飛竜のお肉なんですよ」

 

 マジか。

 思わずまじまじとお肉を見つめてしまった。

 飛竜って食べられるのか。そしてこんなに美味しいのか。

 というかここの人たち飛竜乗りとかで飛竜を溺愛してる人たちらしいけど、それなのに飛竜食べるのか。

 なんか一度に考えてしまって混乱した。

 それはそれとして美味しいのでもう一口食べるけど。

 

「……えっ」

 

 食べてから改めてこれが飛竜肉であることに混乱してしまった。

 

「えっと……飼育してる飛竜を食べてるんですか?」

「ぬわっはっはっはっは!」

 

 素直な所を聞いてみたら大笑いされた。

 

「わしらが乗り回す飛竜は、老いたり、戦いで死んだら、乗り手がちっくとだけ頂いて、あとは素材ば剥いで、肉は塚に埋めよる。食用に別に育てるのは難しいのう。金がかかるし、気位が高い。人に懐くもんを掛け合わせてようやく飛竜乗りが乗り回せるようになったが、それでもな」

 

 となると、このお肉の出どころは、野生、ということか。

 

「うむ、わしらが落とした飛竜は、素材ば剥いで、肉はわしらと飛竜とで食っとる。落とした分だけエサが増えると思えば飛竜も頑張る(けっぱる)。乗り手もうまいもん食えるで、精出す。飛竜の肉は全然腐らんから、長々熟成させたもんをこうして宴に出しちょる。うまかろ?」

 

 大変美味しかったけど、なんかキューちゃんピーちゃんをよこしまな目で見てしまいそうだ、などと思いながらもやっぱり美味しいのでもう一口頂くのだった。




用語解説

・北海道人だって~
 おおむね偏見ではあるが、やや実体験交じりではある。

・ジンギスカン風味キャラメル
 ジンギスカンとは言うが、原材料に仔羊は使用されていない。
 なので実際のところは、ニンニクと玉葱ががっつり利いたタレの風味をエンチャントされた甘く香ばしいキャラメルという地獄の共演を果たした代物。
 共演とは言うが、ジンギスカン風味は完全にキャラメルを殺しに来ている強さで、それにキャラメルが大人げなくあらがうという全面抗争に陥っているため、味覚も脳も盛大に混乱する。
 食べた人によって評価が大いに変わる魔性のアイテムでもある。

・SNS
 実話でも経験談でもないが、ありそうな話ではある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 鉄砲百合と要塞温泉

前回のあらすじ

連続の飯レポであった。
内容はほぼ同じなので実質焼き増しである。


 飛竜肉食べると辺境に帰ってきたなって、やっぱ思うわよね。

 まあいくら辺境だからって、飛竜の肉はさすがにしょっちゅう食べられるようなものでもないけど。お祝いの席とか、こういう歓迎の宴の時とか、そう言う時に食べるものよね。

 勿論、消費するのはもっぱら貴族とかお客さんだけで、あとはまあ、新年の振舞いとかで、砦勤めのものにいくらかわたるくらい。さすがにふもとの庶民にまでは渡らないわ。

 

 それはリリオの故郷であるフロントでもそこまで変わらない。

 あっちの方が飛竜の数が多いし、獲れる肉も多いけど、それでも領都の一部の高級店に卸されるくらいで、他所の町や村にまではまず回らない。

 ああ、あとはまあ、贈答用っていうか、帝都の皇族とか大貴族とかに、新年の挨拶代わりとか、誕生日のお祝いとかに送ったりはあるわね。

 

 狩るのは大変だし、絶対数が少ないけど、常温でも全然腐らないから、遠方への贈り物には便利らしいのよね。毎年贈ってるから、ぶっちゃけ魚卵(カヴィアーロ)の方が高級品扱いされてるらしいんだけどね、皇族の人には。

 まあ、一介の武装女中には縁のない話だけど。

 

 魚卵(カヴィアーロ)に飛竜肉にと、誰に話したって信じてもらえないような豪勢な夕食をいただいたあたしたちは、そのまま旅の疲れを癒してくれと浴場に案内された。

 浴場よ。

 お風呂。

 勿論、これに一番喜んだのはウルウだった。

 

 疲れていようと疲れていまいと、一日一回は必ず風呂に入るもの。

 多い時は一日に三回くらい。

 以前ヴォーストで見たことあるのよ。人気のない時間帯を選んで、出入りしてるの。

 あれは、もし人気のない温泉とかだったら、一日中でも入り浸るんじゃないかってくらいね。

 風呂の神官にでもなるつもりかしら。

 

 まあ、ウルウの影響もあって、いまやあたしたちもすっかり風呂に慣れてしまって、一日が終わる前にひとっ風呂浴びないと、どうにも落ち着かない体にされてしまった。

 そりゃまあ、清潔にしておいた方がいいのはわかるわよ。

 国だって、衛生を鑑みて風呂の神殿に援助してるわけだしね。

 でも旅の最中でも湯を沸かして風呂に入るとかいう気の狂った所業を日常にしてしまっているのは、帝国広しと言えどあたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》だけだろう。

 

 どんなお風呂なのだろうかと期待しているウルウに急かされ、あたしたちは女中の案内で浴場へと向かう。

 モンテート要塞には二種類のお風呂がある。立地的な問題で二種類しかない、とも言えるけど。

 んん、いやいや、立地的にって言っちゃうとやっぱり二つでも多いのかしら。この山の上に浴場があるってだけでもすごいわけだし。

 

 一つは使用人や飛竜乗りや文官が利用する大浴場。

 大っていっても、そこまで大きくはない。要塞の人間が、時間帯を決めて交代で入らなければならないようなものだ。それだって芋を洗うような具合だそうだ。

 あたしはリリオのお付きとして一緒にお風呂に入っていたから、こっちは話に聞くだけで行ったことはない。

 なんとなく薄汚いのを想像してしまうけど、時間帯ごとにきっちり清掃して交代してるみたいなので、むしろかなり綺麗ではあるらしい。

 

 もう一つは、当主である子爵閣下をはじめとした貴族と、客人が利用する浴室だ。

 帝都からの客人を迎え入れるために、当時の領主が増設したものだそうで、実用一辺倒で効率重視の武骨な要塞の中にあって、見栄えを気にした立派なものだった。

 わざわざ時間とお金をかけて運んだ大理石敷きの浴槽はいっそ浮いてるって言っちゃってもいいくらい、帝都風だ。

 

 あたしたちが案内されたのは後者の方で、四人で入るとちょっと狭く感じるけど、それでも足を伸ばすくらいの余裕はある。

 本来なら、客人が自分で連れてきた使用人とか、子爵閣下の方で用意なさった使用人がお世話してくれるんだけど、これは閣下が控えてくれた。

 あたしたちの一行にはあたしっていう立派な武装女中もいるし、そもそもこの四人は一応冒険屋なのだ。冒険屋は妙に気を遣わんほうがゆったり休めるだろうと、そのように言って下さったのだった。

 あたしたちはともかく、ウルウは絶対嫌がるし、奥様もなんだかんだお好きではないので、ありがたい。

 それに、余人には見せられない状況であるわけだし。

 

 脱衣所で服を脱いで、意外というか不思議だったのは、平気で裸になれるし、平気で裸を見れるってことだった。

 もちろんそれは、女所帯だからっていうことで、平気と言ったって隠すべき場所をあけっぴろげにさらしたりはしないし、人様のそう言った部分を凝視したりもしない。

 そういう当たり前のことはそうとして、閨を共にした相手に肌を見せることも、その肌を見ることも、思いの外に動じるところがないな、っていうことだ。

 

 そりゃもちろん、綺麗だなとは思う。

 

 リリオの肌は雪焼けすることもなく白くつややかで、張りがある。

 子供みたいな体形の癖に、力が入るたびに()()()の下の綯われた縄のような筋肉がうっすらと浮き上がるのは面白かった。

 少年のように骨ばっているようで、でも確かにやんわりとした丸みを帯びた肉付きは、成長途上の若枝のような生命を思わせる。

 

 ウルウの肌は相変わらず病的に白い。日に当たってない白さだ。一緒に旅してるのに不思議だけど。

 でもその弱々しいように見える肌は、水をよく弾く張りのあるもので、リリオと大違いのしなやかな曲線は妙に蠱惑的だ。

 元々背が高いうえに、姿勢もいいから、どうしても見上げなきゃいけないんだけど、そうするとほっそりとしたくびれのせいで一層豊かに見えるやわやわが驚くほどの迫力を持って見下ろしてくる。

 

 そのように二人の体はとてもきれいで、魅力的なんだけど、でもそれだけなのだった。

 あの時のように冷静なんて言葉が蒸発してしまうような熱はない。

 二人も同じように感じているようで、なんだか不思議なくらいあたしたちは穏やかだった。

 いつもいつでも盛ってるってわけじゃないんだから、そりゃそうなんだろうけど。

 

 ああ、でも、まあ、いまだに消え切らないあのあれ(ウーモ)とかを目の当たりにしてしまうと、そろって目をそらしてしまったけど。

 

 そんなあたしたちを見て、

 

「あら、まあ」

 

 多くは語らず、しかしそれ以上に多弁に過ぎる顔でにんまりとあたしたちを見比べた奥様は、上機嫌でさっさと浴室に向かわれた。

 おのれ。

 奥様は奥様で非常に均整の取れた若々しいお体なのだけれど、これにも反応しなくてよかった。誰彼構わず反応するような女だったら、気軽に風呂屋にも行けなくなる。

 

 追いかけるようにあたしたちも浴場へと足を踏み入れる。

 おお、と声が漏れたのは、ウルウだった。

 あたしとリリオはまあ、何度も遊びに来てはその度に利用しているから今更だけど、はじめての人にはこれはなかなか見どころのある浴室だと思う。

 

 よく磨かれた大理石敷きの床と浴槽はなまめかしく白く輝き、四方の壁と天井には美しく舞う飛竜の彫刻が彫られてる。

 この彫刻がまたよくできていて、目立たないようにその随所に輝精晶(ブリロクリステロ)の照明が仕込まれていて、はっきりとした光源がわからない柔らかい光が浴室全体を照らすようにできているのだ。

 風呂係の使用人たちが使う調度の類も、防水性に優れ、また品質も良いものばかりだ。

 

 ウルウがそう言った高級志向溢れる浴室の中で、一番気にしたのは、浴槽へお湯を注ぎ続ける出水口だった。

 

「……なにこれ」

「何って……こう、お湯が出てくるやつですね」

「そうじゃなくて、えーっと、この間抜け面」

「もう、怒られますよ」

 

 ウルウが言っているのは、のっぺりとした丸みのある、どこか愛嬌のある──まあ、確かにウルウの言う通り、ちょっと間の抜けた顔だ。これが出水口として、曖昧に笑うみたいに半端に開いた口から湯を吐き出しているのだった。

 

 これはなんでも、むかし流行った彫刻で、風呂の神マルメドゥーゾを表しているらしい。

 つまり大昔の山椒魚人(プラオ)の顔ということでもある。

 神話の時代より後、山椒魚人(プラオ)たちの顔つきも人族と似た造りになっているから、今はこんないかにも両生類です山椒魚ですって顔の山椒魚人(プラオ)はいないらしいけど。

 

 昔ながらの風呂の神殿とかにはこれと同じものがちゃんと据え付けられているらしいけど、近代になって新設されまくった公衆浴場や風呂の神殿では、予算の関係とか、流行りの関係とかで、そんなにたくさんは置いてない。らしい。

 あたしも詳しくはない。

 

 手早くぱっぱと体を洗ってしまうのは、冒険屋の習い。

 とはいえ、あたしたちはみんなそれなりに髪が長いので、ちょっと時間がかかる。

 冒険屋の中には、男よりも短く刈り上げる人もいるらしいけど、そこまで思い切るのはちょっと。楽だし熱気がこもらないっていうけど、ねえ。

 まあ、あたしは武装女中で、見た目にもある程度見栄えってもんがいるから、やっぱり長い方がいいのよ。長すぎるのも大変だけど、ある程度髪の毛あった方が、髪型でいろいろ見せられるしね。

 

 リリオはまあ昔からの習慣と、あと髪が強いから。

 髪質が丈夫だから手入れが面倒じゃない、っていうことじゃなくて、まあそれもあるんだけど、純粋に、物理的に、鋏が負けるのよ。さすがに鉄の方が丈夫だから切れるは切れるけど。

 あれだけ絹糸みたいな柔らかさの癖に、鋏で切ろうとすると滅茶苦茶強靭すぎて、切りそろえるの大変で仕方ないのよね。

 辺境貴族はみんなそんな性質らしくて、長く伸ばすか、逆にある程度短く刈り揃えちゃって、剪定するみたいにちょくちょく鋏を入れるみたい。

 

 ウルウは切りたいみたいなんだけど、リリオがせっかくだから、って言うもんだから伸ばしたまんまなのよね。

 甘いっていうか。それともこだわりがないだけかしら。

 こんだけ長いと結ったり編んだりいろいろ遊べるから、あたしは楽しいんだけど。

 

 そんな感じで体を洗い終えたら、風呂神様のえれえれと吐き出すお湯溢れる浴槽で、あたしたちはじっくりと旅の疲れを取ることにした。

 正直、ご飯をたらふく頂いた後だからちょっと苦しくはあるんだけど、でもまあ、食べられるときに食べて、休めるときに休むのも冒険屋の習いだ。

 便利な言葉ね。

 

 ふへー、と肺の奥から疲れを絞り出すように息を吐いて、ちょっと熱いくらいの温度の湯に肩までつかる。

 極寒の辺境の冬に、それも何もかも足りないが基本のモンテート要塞で、こんなに満腹で心地よくお湯に浸かれるというのは、もうこれ以上ない贅沢よね。

 

 しかもこのお湯、一応温泉らしいのよね。

 なんでも昔、旅の風呂の神官が温泉の匂いを嗅ぎつけて自力で山を登って要塞までたどり着いて、錫杖でこーんと一発山肌を叩いたところどっと湯が湧き出して空を飛んでいた飛竜を撃ち落としたなんて伝説が残っているらしい。

 

「ちょっと情報量多すぎない?」

「まあ色々つけ足されたんだろうけど。でも温泉湧いてるのはほんとみたいよ」

「こんな高い所でも出るもんだねえ」

 

 感心したようにウルウは頷いて、それから小首を傾げた。

 

「そういえば、風呂の神官、いないね」

「いるわよ」

「えっ」

「一応貴族の入る浴室だから、神官は別室で湯を扱ってるのよ。辺境貴族は気にしなくても、内地からのお客さんとかは気にするでしょ。貴族には暗殺とかいろいろ疑わなきゃいけないし」

「ふうん」

 

 世俗の権力者と神官は相性が悪い、っていうわけでもないんだけど、神官ってこう、神様第一な所があるから、有力な神官ほど権力者の言うこと聞かないのよね。

 だからまあ、一緒にしてもあんまりいいことはないのよ。

 

 物知らずなウルウにいつもの解説をしながら、あたしは湯に浮かぶやわやわを堪能するのだった。




用語解説

・出水口
 美術史の話となるが、帝国では神話の登場人物や、神々を彫刻に彫ったり絵に描いたりする流行が一時期あった。
 マルメドゥーゾの顔の出水口もその一つで、当時は風呂と言えば必ずこの顔を用いたという。
 流行の発端はと言えば、芸術の神々ムーザ・コレクトの一柱ミハエランジェーロの神託を受けたと称する彫刻家の稀代の名作が世に知れ渡り、貴族の間で在野の芸術家を発掘することがブームになったことが切っ掛けであるとされる。
 このブームのために帝国の美術・芸術は大いに触発され発展することとなったが、同時に貴族たちの芸術に対する莫大な浪費合戦が問題となり、規制が入ることとなった。
 これによってブームは緩やかに鎮静化し、節制主義と呼ばれる内的な美しさを追求するスタイルが流行していくこととなる。


・芸術の神々ムーザ・コレクト(Muza kolekto)
 多くは陞神した詩人、芸術家たちであるとされる、複数の神々の総称。
 ミハエランジェーロ、オーラ・ネーロ、フンジワラなど。
 芸術分野や地域によって挙げられる名前も異なり、ひとまとめに呼ばれることが多い。

・風呂の神マルメドゥーゾ
 風呂の神、温泉の神、沐浴の神などとして知られる。この世界で最初に湧き出した温泉に入浴し、そこを終の棲家とした山椒魚人が陞神したとされる。この神を信仰する神官は、温泉を掘り当てる勘や、湯を沸かす術、鉱泉を生み出す術などを授かるという。

山椒魚人(プラオ)
 最初の人たちとも称される、この世界の最初の住人。海の神を崇め奉り、主に水辺や浅瀬に住まう隣人。肌が湿っていないと呼吸ができないが、水の精霊に愛されており、よほどの乾燥地帯でもなければ普通に移動できる。極めてマイペースで鈍感。好奇心旺盛でいろいろなことに興味を示すが、一方で空気は読めず機微にもうとい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 白百合と辺境子爵

前回のあらすじ

これもノルマかお風呂会。
お湯に浸かれてご満悦のウルウであった。


 おはようございます。

 清々しい朝ですね。

 

 などと述懐できるほどに、本当に何事もない一夜でした。

 いやまあ、それが普通と言えば普通なんですけれど。

 

 じじさまの計らいで、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は三人で一つの部屋をあてがってもらい、一つの寝台を三人で分け合って休んだのですけれど、驚くほどなにもありませんでした。

 

 最初は、実は少し不安だったんです。

 

 何のかんのと言って、私は辺境貴族です。

 ちゃんと成人したと、辺境から出ることを許されたくらいには、きちんと自制できるようになったことを認められてはいます。

 でもそれは自制しなければ誰かと触れ合うことも危険な生き物ということでもあります。

 実際、お母様と再会したときは制御が揺らいで、癇癪を起してしまったわけですし。

 

 人は簡単に壊れてしまう生き物ですし、私は人を簡単に壊してしまう生き物なのです。

 

 そんな私がお風呂上がりで火照った体をおそろいの寝間着に包んだ二人の姿を見て我慢できるとは思いませんでした。

 絶対ムラムラすると思いました。

 ムラムラするだけならともかくイライラし始めて体力にまかせて朝まで暴れまわるかと思いました。閨的な意味で。

 

 ところがまあ、我慢どころか、別にムラムラもしなかったんですよね。

 それは勿論、二人はとても魅力的ですし、きれいだなあとかちょっとドキッとはしましたけれど、それはいつものことなんですよね。きれいだなー、すてきだなー、かわいいなー、って。

 ウルウに抱き着いても、トルンペートに髪を整えてもらっても、あの時みたいな熱がわいてこなかったんです。

 

 ただ、なんだか。

 なんていうのか。

 

 お腹も満たされて、お風呂でぽかぽかに温まって、柔らかな寝台に三人で倒れこんで。

 なんだか、それだけで、満たされてしまったような気持ちでした。

 くっついたり、お喋りしたり、それだけでなんだか胸の中がいっぱいで、とろとろとなんだか眠気がゆっくりやってきて、それがなんだか少し惜しいような、でもこれ以上なく心地よくて。

 

 だから、きっと、これが。

 これこそが。

 しあわせなんだなあって。

 

 それだけをぎゅうっと抱きしめて、気づいたら朝だったわけです。

 

 こんなに満たされた朝はそうそうないですよ。

 まあ、満たされすぎたせいで寝過ごしましたけどね。

 二人とも私を見捨てて朝の準備完全に整えてから、例の棍棒でぶん殴って起こしてくれました。

 普通に起こしてくれていいんですよ?

 あ、起きなかった。はい。面目次第もございません。

 

 まあ、そのような次第で、どうやら私は、仲間であり伴侶である二人を所かまわず無節操に求めてしまうような肉欲蛮族に成り果ててはいなかったようで、まず一安心です。

 あ、それはそれとして二人に完全にムラムラしないかと言えばそんなこともなく、そういうつもりでそう言う目で見れば、その、なんです、朝からムラッと来てまたぶん殴られました。

 違うんです。

 私は蛮族ではないんです。

 私の身体は蛮族かもしれませんけれど私は蛮族ではないんです。

 ムラッとは来ましたけど。

 ムラッとは来てしまいましたけど。

 

 うん。止めましょう。

 清々しい朝ですからね。清々しく流してしまいましょう。

 

 さて、ちょっと騒々しくはありましたけれど朝の支度を終えて、私たちは食堂で朝食をいただきました。

 モンテート要塞の食堂はなかなか渋くて格好いいのですけれど、窓がなく閉塞感があるのが辛いところです。

 冬場ですし、要塞ですし、立地的に開口部が限られてくるのでもうどうしようもないんですけれど。

 

 さすがに朝から飛竜の炙り焼きをドン、ということはありません。

 ありませんけれど、辺境は辺境です。全体的に量は山盛りです。

 たっぷりの麺麭(パーノ)馬鈴薯(テルポーモ)、豆、塩漬け、酢漬けの甘藍(カポ・ブラシコ)(ラーポ)、うん、この辺りはもう見慣れたものですね。

 

 ただ、かなり奮発してくれたようで、不凍華(ネフロスタヘルボ)の葉をさっと甘酢で和えたものが、目にも嬉しい彩りとなっていました。

 これは冬でも枯れず凍らずの庶民の味方なのですけれど、さすがにモンテートの山の上にはあまり生えていません。

 なので数少ないこれらは発見者が食べてしまうか、かなりの高額で取引されます。

 もしくは、平地ならそこらへんで摘めるようなものにわざわざお金をかけて竜車で輸送することになります。

 ありがたいことです。

 

 不凍華(ネフロスタヘルボ)は食感が面白く、葉はしゃきっとしているようで、噛むと中は粘り気があって、不思議な歯ごたえです。味はちょっと苦みがありますけれど、冬場に新鮮な青物を食べられるっていうのはかなりの贅沢です。

 

 そして宴の翌朝の定番料理が、飛竜の尾を煮込んだ汁物です。

 飛竜の尾はよく動く部位でもありますし、非常に筋っぽく硬いのですけれど、その分、強い味わいがあります。

 これを圧力鍋でしっかり煮込むと、肉はほろりと柔らかくなり、ぷるぷると柔らかな脂身も相まってたまらない美味しさとなります。

 また骨ごと煮込んだ旨味は、韮葱(ポレオ)生姜(ジンギブル)といった本当に最低限の臭い消しだけで調えられ、こってりした宴の料理を味わった翌朝にはたまらなく沁みるものがあります。

 

 この竜尾の汁物でお腹が動き出したところで、お次も辺境でしか食べられない、辺境でもなかなか食べられない、飛竜の食材行ってみましょう。

 

 お皿に美しく盛り付けられた、まるで花弁のように薄切りされた真っ白な何か。

 これ、実は脂なんです。

 塩漬竜脂(ドラコグラーソ)といって、飛竜の脂に香草を揉み込んで塩漬けにしたものを、薄切りにしているんですね。

 もともとは豚や牛の脂で同じようなことをした、塩漬脂(サリタグラーソ)とか、単に白脂(グラーソ)とか呼ばれているものを、飛竜の脂でもやってみたものだそうです。

 暖房の効いた部屋ではすぐに溶け出してしまうので、こうして美しく薄切りにするためには、冷え切った部屋で体温を移さないように気をつけなければいけない、難しい食材です。

 

 この透き通るように美しい脂を、温めた麺麭(パーノ)の上に乗っけてやるとですね、じわっと熱でとろけて、うっすらと透き通っていくさまがまた何とも言えずなまめかしいものです。

 少し硬めの乳酪(ブテーロ)のように塗り広げてやって、ぱくりと頂くと、口の中一杯に飛竜脂独特の香りがふわりと開き、とろりとした脂の甘みと塩気とが舌の上に広がります。

 

 これは麺麭(パーノ)だけでなく、蒸かした芋やに乗せたりしても美味しいですし、汁物に加えるとぐっとうまみが増します。焼き物に乗せると、ぱさぱさした肉でも脂が足されてうまい具合になりますね。

 ああ、もちろん、お酒との相性も良いですね。

 

 あんまり脂っこいのが得意ではないウルウも、自分で量を調整でき、脂としてはさっくりと軽めな塩漬竜脂(ドラコグラーソ)は気に入ったようで、なによりです。

 気に入りすぎて今度白脂(グラーソ)をごそっと買ってきそうで怖いですけれど。

 一度はまると馬鹿みたいに買うのに、かなりの確率で飽きて放置しますからね。ウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》はものが腐らないからまあいいと言えばいいんですけれど。

 

 さて、そんな素敵な朝食をたっぷりと頂いているとですね、ええ、なんというか。

 食べるのもそこそこにそわそわと子供みたいに落ち着かないじじさまが熱烈な視線を送ってきて、ばっちゃんに窘められていました。

 

「しかしなあ、プルイーノ」

「しかしもへったくれもありません。子供ではないのですから、お皿の上をかたしてしまいなさい」

「わかったわかった。年寄りにあんまり詰め込ませるな」

「世間でいう年寄りは籠一杯の芋を朝から平らげません」

 

 落ち着かないじじさまに苦笑しながら朝食を済ませ、温かい甘茶(ドルチャテオ)を頂きながらじじさまのお話を伺います。

 まあ、伺うまでもなく、隣のウルウはすでにお察しの様で、目が死んでいます。

 仕方ないんです。

 これが辺境なんです。

 辺境貴族なんです。

 

「マテンステロからいろいろ聞いたんだがのう、嫁どんは」

「旦那様、ウルウ様です」

「じゃったじゃった。ウルウどんは、あれじゃ、若造ンとこの爺を見事()したと聞いてな」

 

 じじさまは非常にいい笑顔です。

 辺境貴族のいい笑顔というのはつまりそういうことですね。

 それにしても山賊の親玉みたいな笑い顔をしています。

 

「わしゃな、あの爺さんが欲しかった。ありゃ良か腕だべ。目ぇばつけよったけんどあン若造が先に持ってってしもうての。惜しかことばした。それを無傷で一本取ったち聞いてわしゃ楽しみんしよったと」

「つまり、辺境名物ってことですね」

「むわっはっはっは! うむ! げに辺境名物よ! リリオもチビの武装女中も随分()()よったち聞きおる、見せてもらわにゃいかんべや!」

「もしかして辺境貴族はこの流れやらないと死ぬの?」

 

 ウルウがものすごく面倒くさそうな顔をしていますけれど、まあ、そうですね、死にはしないにしても大層がっかりするので、お付き合いいただければ幸いですね。

 あったかいお風呂と美味しいごはんのお礼と思って。

 

だば(では)! 早速やるべやるべ! 空ン具合もよか! わしゃウルウどんば貰おうかの!」

「あら、駄目よ爺様」

「おうなんじゃマテンステロ! お前がさんざ褒め散らかしたんじゃ、お預けは酷かろ」

「それはもう、腕は確かよ。でもこの娘は遊びが苦手なの」

「ほほう?」

「もう少し手加減できる相手じゃないと、殺しちゃうもの」

 

 じじさまの笑みが、深まりました。

 空気が軋むような笑顔を笑みと呼んでいいのかどうかは知らないですけれど。

 元来笑いとは威嚇であると聞いたことがありますけど、この笑顔の敵とは対峙したくないですね。

 

「ぬわっはっはっはっは! よか! よか! お前に免じて許しちゃる。誰ぞ適当なもん見繕え!」

「すでにご用意しております」

「仕事が早いのうババアは!」

「クソジジイの面倒を見ておりますと自然に」

「ぬわっはっはっはっは!」




用語解説

不凍華(ネフロスタヘルボ)
 放っておいてもはびこる上に手入れも要らず、わさわさと生い茂る葉は多少苦みがあるものの冬場の貴重な食材としてサラダなどにされる。食感はややねっとりと粘り気がある。
 花を原料にした不凍華酒(ネフロスタヴィーノ)は安価な酒類として家庭で醸造されたりする。
 根を焙煎して煮出した不凍華茶(ネフロスタテオ)豆茶(カーフォ)に似た風味があるとか。
 凍らない特性を持つ乳液を水に混ぜ込むことで凍りづらく、また腸詰(コルバーソ)などに混ぜ込むことで低温下でも柔らかさを保つ手法が古来から見られるほか、集めて煮詰めると弾力を示すことが経験的に知られており、噛む嗜好品として用いられていた。
 また接着剤や目張り、防水用途でも用いられた。

・圧力鍋
 帝国では圧力鍋はあまり一般的ではない。
 ただ、買おうと思えば買えるもので、言わば「専門店や料理好きの人が持ってる特殊な調理器具」のような扱いだ。
 基本的に職人の手作りなので、下手な職人のところで買うのはお勧めしない。

 標高の高いモンテート要塞では加熱調理に必須と言ってもいい。
 普通の鍋の形のものや、大型の大量調理用器具としての圧力鍋も存在する。

塩漬竜脂(ドラコグラーソ)(Drakograso)
 飛竜の脂を香草などと一緒に塩漬けにしたもの。
 北部や辺境、一部東部などでよく見かける脂身の塩漬けを飛竜の脂肪で行ったもの。
 飛竜乗りは貴重な脂肪源、熱源としてこういったものを背嚢に詰めているという。

塩漬脂(サリタグラーソ)(Salitagraso)、白脂(グラーソ)(Graso)
 保存がきき、乳酪(ブテーロ)よりも変質しにくく、貴重な脂肪源として重宝される。
 またビタミンなども多く含み、栄養価は高い。

甘茶(ドルチャテオ)
 辺境の甘茶(ドルチャテオ)は甘い香りのする香草の類を使用したハーブティー。
 北部とはまた異なるブレンドのようだ。
 また甘茶(ドルチャテオ)以外にも不凍華(ネフロスタヘルボ)の根を焙煎して煮出した不凍華茶(ネフロスタテオ)なども良く飲まれる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と観戦日和

前回のあらすじ

またもや飯レポ、そして辺境名物のお誘いである。
もはやパターン化してきている。


 はい。恒例の辺境名物、蛮族野試合三番勝負はっじまっるよー。

 

 お察しの通り死ぬほど面倒くさいので、多分死ぬほど死んだ目をしていると思う。

 いつもいつも、いっつもいっっつも言ってるけど、私戦闘は苦手だし、むしろ嫌いな方なんだよ。

 そもそも運動なんか子供のころくらいしかしたことのなかった、子供の頃でさえ引っ込み思案の閠ちゃんであった私に、何を期待できるというのだ。

 残念ながらこの世界の人々は超人ボディと凡人メンタルを併せ持つやれやれ系チートキャラしか知らないので無茶振りしてくるのだ。

 くそっ、なんて時代だ。

 

 朝食から腹ごなしの時間をはさんで、お昼ごろ。

 冬のモンテートにしては非常に良い天気だという抜けるような青空の下、私たちは優雅な猫足のテーブルに飲み物と軽食を並べ、ピクニックかティータイムといった風情で観戦を決め込むのだった。

 

 まあ、主催の子爵さんが山賊の親玉か鎌倉武士みたいな面してどっかり腰掛けてるので、よく言っても野点(のだて)、率直に言わせてもらえれば合戦場の本陣みたいでさえある。なんて強い顔と雰囲気だ。

 顔も似合わないし本人の趣味でもなさそうだし、でも品自体は実にいいものなので、奥さんとかの趣味なのかもしれない。

 夕食の席でも姿を見かけなかったし、亡くなられたか、もっと生活しやすいふもとにいるのかもしれないけど。

 

 並べられた軽食は、ティータイムと言うにはやっぱりちょっと武骨で、分厚めのサンドイッチとか、腸詰(コルバーソ)とか。もはや糧食かな。そして分類は軽食になるかもしれないけど物量的には山である。

 ちょっと目立たないように、衝立の向こう側ではスープの鍋もかき回されている。

 なんなら子爵の手には、一パイントぐらい入りそうな木製のマグカップにホットビールがなみなみ注がれていた。なお二杯目。

 お金あるだろうに金属製でない理由は、そうじゃないと凍るかららしい。

 

 そう、凍るんだよ。

 いくら晴れてようと日が照ってようと、ここ標高三千とか普通に超えてるだろう山の上なんだよ。

 温度計がないから正確な所はわかんないけど、いくら暖かめに見積もっても氷点下行ってるんだよ。

 風吹いたらもっと寒いでしょこれ。そして実際吹いてるし。

 試しに《ミスリル懐炉》を外してみたら顔面凍るかと思った。

 

 まあ、北国出身ではない私なのでちょっと誇張表現あるかもしれないけど、それでもこの爺さんぺらそうなコート一枚で平気な顔してるのはおかしいのでは。

 

 などとぼろくそに言ってみたけど、実際そこまで寒くはないはずなんだよね、ここ。

 私たちが来るときにも使った飛竜場なんだけど、ここ、石畳の床がきちんとさらされているんだ。

 雪かき大変だろうなと思ってたけど、どうもこれ、ロードヒーティング的な仕掛けが施されているみたいで、足元があったかいんだよね。

 ここで雪を溶かして、端の方にある排水溝を通じて流して、生活用水としても使用してるのかな、ざっくり聞いたところでは。

 

 だからまあ、カンパーロの雪上観戦よりはよっぽど快適ではある。

 

 例によって例のごとく私はトリに据えられてしまい、先鋒はやっぱりトルンペートだった。

 お相手は子爵さんの侍女であるらしい、プルイーノとかいうあのおばあちゃん武装女中だった。

 なんでも一等武装女中という「どえりゃあばっちゃん」らしいのだけれど、先日二等武装女中を圧倒している姿を見てるので、そこまで不安はない。

 むしろ、枯れ木みたいに細いおばあちゃんを見てると、そろそろ荒事は引退した方がと心配になる。

 

 まあ、そんな心配も試合がはじまるまでだったけど。

 

 カーテシーも美しく、エプロンドレスの二人が向かい合って礼をした直後、ブ厚い鉄の扉に流れ弾丸(ダマ)のあたった様な激しい金属音とともに、二人の武装女中がぶつかり合っていた。

 アイサツ終了から零コンマ二秒の恐るべき速攻だ。

 

「ば、ばっちゃん手加減!」

「年寄りには寒さが堪えますもので、早めに終わらせたいのですよ」

大人気(おとなげ)!」

「あらやだ、在庫(シナ)切れ中だわ」

 

 さすがにマテンステロさんの気まぐれ地獄トレーニングを共にしたトルンペートだけあって、重たげな鉈で猛攻を受け止め続けている。

 というと善戦してそうだけど、実際のところ、スピード重視のトルンペートが回避ではなく防御せざるを得ない状況に追い込まれていて、その上、得意のナイフではなく重たい鉈を持ち出さなければならないパワーが相手ということだ。

 

 しかも恐ろしいことには、このおばあちゃん、素手だった。

 一応、武装女中のお仕着せである手袋はしてるんだけど、カンパーロの二等武装女中ペンドグラツィオみたいに金属を仕込んでいる感じではない。

 革手袋一枚しか帯びていない拳が、激しい金属音を立ててトルンペートを追い詰めているのだった。

 

「……なにあれ」

「腕に魔力を込めて、硬質化してるんですね。殴りかかるときは筋力を強化して、打撃の瞬間だけ硬質化することで柳のような柔軟さと鋼鉄のような硬さを両立してるんです」

「さらっと出てくるわりに初耳なんだけど」

「トルンペートも一応できますよ。ただ、激しい打ち合いの途中で成功させるのは難しい、というかほとんど曲芸です。常時できるようになって初めて一等を名乗れるらしいですね」

「リリオもできるの?」

「私はできません……というか、辺境貴族は魔力だけはあほみたいにあるので、ああいう曲芸覚えるより素直に魔力垂れ流した方が早いですから」

「ぬわっはっはっは! あのばあさんは人を殴るのに慣れとるからのう!」

「主に旦那様が原因でございますねえ」

 

 つまり、化け物に掣肘入れるために磨き上げられた技術(ワザ)であるらしい。

 あのおばあちゃんは人間の範囲の魔力量をやりくりして、職人みたいな精密さで制御しているらしい。

 しかも、あれは本人にとっては猛撃でさえないっぽい。軽口飛ばしてくる余裕もある。

 拳は絶え間なく撃ち込まれてるんだけど、足元は静かなもので、スカートがひるがえるどころか足首さえほとんど見せない。つまりこのばあちゃん、腰の入ったパンチの一発もなしなのだ。

 

 マテンステロさんの連撃も大変だったけど、あの人はムラッ気があるので、読みづらくはあっても隙をつくことはできた。でもこのおばあちゃんは実に堅実な拳をしている。積み重ねたカラテだね。

 

 トルンペートも飛びずさって距離を取ったり回り込んだりしたいみたいなんだけど、拳の切れ目がほとんどないので下手に退がれず、うまく隙を見つけて退こうとすると、試合開始直後みたいなすり足踏み込みが容赦なく追いかけてきて、体重乗ったいい奴をもらうみたいだった。

 

 結局、トルンペートは守りに徹しているうちにどんどん気力体力魔力とリソースをがりがり削られていき、最終的には鉈を弾かれのけぞったところに、首筋に手刀を添えられて一本取られる形となった。

 勝ち方まで優雅だなこのばあさん。

 タイが曲がっていてよ、みたいな絵面だもんな。多分あの手刀、人の首とか簡単に折れるけど。

 

「ば、ばっちゃん少しは年取って……ぜっ……はっ……!」

「私が強く思えるのは、あなたがそれなりに上達したからですよ。ところで」

「な、なに……っ」

「手巾を借りても? 汗をかくとは思わなかったものだから」

 

 しれっとした顔でしれっとのたまうおばあちゃんに、トルンペートは叩きつけるようにハンカチを寄越して、ばったり倒れた。

 うん、ありゃ完敗だよね。格好いいもん。

 

 極めて優雅にトルンペートを担ぎ上げて──優雅?──おばあちゃんは退場し、次鋒は我らがリーダー、リリオの出番だった。

 そう、一応《三輪百合(トリ・リリオイ)》のリーダーってリリオなんだよね。巷では一番影が薄いって言われがちなリリオが。

 

「なんだかすごーく失敬な事思ってません?」

「だって君が出張るときって、大体一撃で片付くか泥仕合するかの二択じゃない」

「必殺技をお手軽に防がれるのもあります」

「無い胸を張らないの」

「いいでしょう、今日は派手に私の魅力を紹介しちゃいましょう」

 

 君の魅力は十分知っているつもりだけど。

 まあいいや。

 どうせろくなことにならないし。

 

 寒くないのかちょっと厚手の服の上にいつもの飛竜鎧を身に着けた程度のリリオ。まあリリオって動き回る戦い方するしね。

 それと対峙したのは飛竜乗りの着る飛行服をダンディに着こなした壮年の男性で、名乗りによれば子爵さんの長男であるグラツィエーロ氏だという。

 普段は飛竜乗りたちの隊長格みたいな感じで行動を共にしていて、食事も彼らと摂っていたようだ。

 人数の少ない精鋭集団をうまいこと扱うには、同じ釜の飯を食う距離感がいいってことなのかな。単に本人の趣味っぽくもあるけど。

 

「フムン……久しぶりだな、お嬢ちゃん」

「ええ、お久しぶりですおじさま。辺境弁で大丈夫ですよ?」

「小さい小さいと思っていたが、なかなかどうして凄味を身に着けてきたじゃあないか」

「ありがとうございます。辺境弁で大丈夫ですよ?」

「近頃は投射器(パフィーロ)ばかりだが、たまには剣で遊ぶのも悪くはないだろう」

「楽しみですね。辺境弁で大丈夫ですよ?」

「……………」

「辺境弁で大丈夫ですよ?」

「──おめなぁ! げにおめなぁ! シュッとした()()()ン娘っごさ前やけン、よかにせじゃーち顔しよんのがわがらンべかな!? おめは器量よしで手も早ェがら嫁どンば捕まえてこれっじゃろうけンど、()ァは麓さ降りねば嫁ンもわらはんどンも顔見れンとぞ! (わけ)ェめごこン前ぐれェかっごつけさせれ!!!!」

「おじさまは昔からえーふりこくからですよ」

「こっぱらすね! ……失敬」

 

 取り繕おうとしてるけどもう手遅れすぎる。

 黙ってたらダンディなおじさまなんだけど、辺境訛りが出た時点で完全に革ジャン着た農家のおじちゃんだもんなあ。

 なに言ってるのかは全くわからないけど、試合前から口ではぼろ負けしてるみたいで、大丈夫かなこの人。

 

 ともあれ二人は向かい合って、そそくさと礼をした。

 

 リリオはいつもの剣で、おじさんは古びた長剣だった。骨董品ではありそうだったけれど、実用品であるのは間違いない武骨さだ。

 長大なサーベルと言うべきか、日本刀の親戚と言うべきか、反りのある片刃の刀剣で、やや太身。

 切っ先は大きく、そこだけ諸刃作りになっているようだ。刀身に彫られた溝、いわゆる樋は、俗にいう血流しのためと言うより、重量緩和のためと思われた。

 興味深いのは、刀身の長さに見合わず柄が非常に短いことで、片手の拳の分しかない。柄頭は大きく張り出していて、飛竜の頭を思わせる造りだった。

 また、サーベルのような護拳どころか、日本刀のような鍔さえない、柄からそのまま刀身につながる造りだった。

 

 これは多分馬上、というより飛竜乗りが使うからには飛竜に乗った状態でインファイトにもつれ込んだ際の装備と思われた。

 

 リリオは挑発ついでにため込んでいた魔力を剣に注ぎ、開幕から例の爆ぜる魔力で叩き切ろうという算段だったらしいけれど、おじさんは激高したように見せておいてしれっと後退した。

 後退して、およそ剣の間合いとは思えない距離から片刃長剣を大振りに振るう。

 コマンドミスかな、なんて暢気なことを考えていると、あわててのけぞったリリオの後ろの方で、山肌がさっくり切れた。

 あんまり鋭く切れたので見間違いと思ったけど、おじさんが剣を振るう度にその先ですぱすぱと山肌に傷が入っていく。

 

「おわっ!? け、剣で遊ぶってのはなんだったんですか!?」

「だーっはっはっは! 遊んでるべや! おめの馬鹿ンごつクソぢからン相手なンざしてやらン! ()ァが空爪(からづめ)で踊りゃ踊りゃ!」

「ひえっ! そんなんだからもてないんですよ!」

「こっぱらすね!!!」

 

 空爪……熊木菟(ウルソストリゴ)とかが使う、なんかこう、風精に干渉して空気の刃飛ばす技だっけ。似たような技使う魔獣が結構いるし、なんならマテンステロさんもできる、割とポピュラーな技だ。

 ここまで鋭利で静かで遠くまで届くのは初めて見たけど。

 何気に凄まじい腕前だし、怪力インファイターに対する戦術としては非常に正しいのだろうけれど、大人気なさの溢れる試合展開だった。

 はたから見ると、馬鹿笑いしながら剣を振り回してるアブナイおっさんと、奇声を上げながら見えない何かからゴキブリのようにかさかさと逃げ続けるアブナイ女の子という、非常にアブナイ絵面だった。

 

 とは言えさすがに何度も繰り返されれば慣れてくるようで、リリオも回避が安定してきた。

 安定してくれば、鋭いとはいえ魔力で固めた空気の刃、リリオなら魔力を込めた剣で弾けるようにもなる。

 で、安定して防げるようになってくると、反撃もしてくる。

 

「だーっはっはっゥオッ!?」

 

 距離という防壁で安心して慢心してたおっさんに、まさしく電光石火の速度で襲い掛かったのはリリオの剣から放たれた霹靂猫魚(トンドルシルウロ)仕込みの雷撃だ。

 武器の性能込みとは言え、多少のタメであれを出せるのは結構怖いと思う。

 音の百倍以上速く迫る雷撃を避けるおっさんもつくづくおかしいけど。

 大気中では減衰するし直進もしない雷撃だけど、ある程度リリオの魔力で雷精に方向付けしているから、一応おっさんの方には行く。行くけれど、命中率は高くない。なのでたまたま避けられた、というのはあるかもしれない。

 

 一発だけなら。

 

「なんだべやァァアッ!?」

「最後に当たればよかろうなのです! ふふはははははははーっ!」

 

 辺境貴族であるおっさんが魔力消費を気にせずに空爪を連発できるんなら、同じ辺境貴族のリリオも馬鹿みたいに雷撃を乱発できるのだった。

 普段はこれやると味方にも当たるし、普通の獣には過剰威力だし、その癖マテンステロさんには届かないのでやらないだけで、マップ兵器みたいな悪辣さがあるな。

 おっさんも負けじと空爪で応戦し始めると、お互いに干渉して軌道がずれまくり、すぱすぱばりばりと破壊の嵐が吹き荒れる。

 しかも途中で、お互い飛竜革の装備には矢避けの加護があることを思い出して、防御より相手のリソースを削るべく攻撃を優先し始めたので酷い有様になってきた。

 風も雷も「軽い」から、矢避けの加護で避けられるらしいんだよねえ。

 ああ、こりゃひどい。

 

 なんで私が平然としているかって言うと、マテンステロさんがしれっと防壁張って観戦席を守っているから。

 なんで私が優しくそれを見守っているかって言うと、周囲への被害が出始めたので一等武装女中サマが両成敗を決定したからだった。




用語解説

・パイント
 ヤード・ポンド法における体積(容積)の単位。
 イギリスとアメリカでは定義が異なる。
 ウルウの認識では英パイントで、こちらはおよそ568ml。

・ホットビール
 ビールに香辛料やドライフルーツ、砂糖などを加えて加熱したもの。
 日本ではあまり普及していないが、ドイツやベルギーでは寒い冬によく飲まれる。
 耐熱容器で電子レンジでも作れる。

・《ミスリル懐炉》
 ゲームアイテム。
 装備すると、状態異常の一つである凍結を完全に防ぐことができる。
 ほぼ全ての敵Mobが凍結攻撃をしかけてくる雪山などのエリアでは必須のアイテム。
 燃料などの消費アイテムも必要なく、なぜこれで暖が取れるのかは謎である。
『地の底より掘り出され、ドワーフが鍛え上げたまことの銀。を、贅沢に使用した高級感あふれる仕様でお届けいたします』

・ロードヒーティング
 ウルウが言っているのは道路等の舗装の内側に、電熱線や温水のめぐるパイプを張り巡らせたもので、路面の融雪、凍結防止のための設備。
 施工も維持も割と高くつくので、コスト削減のため様々な工夫が試されている。
 個人的には積もる雪をどうにかするには力不足で、どちらかと言えば雪かきで残った雪を溶かし、路面で凍結しないようにするための装置といった印象。
 帝国では塗装式の魔術が用いられており、要するに魔法で温めている。
 消費魔力は安心安全の当主由来。

・腕に魔力を込めて~
 単純に身体強化するのが魔力の恩恵。これは言わばステータスの問題で、程度の差こそあれ、鍛えれば上昇する。
 プルイーノが行っているのは《技能(スキル)》や《特性(アビリティ)》といった技術レベルの話であり、理論立った技術体系ではあるけれど、実践しようとすると素質と才能と根気がいる。

・グラツィエーロ(Glaciero)
 子爵の長男。
 妻と子供たちがいるが、さすがに要塞で暮らすわけにもいかないので麓の町で生活している。
 いわば単身赴任のお父さんなのだ。
 最近の悩みは子供に「お父さんおかえり」ではなく「お父さんいらっしゃい」と言われたこと。
 普通にしていればダンディだし甲斐性もあるのだが、山賊の息子は山賊というか、根が田舎者。
 実力はあり、飛竜乗りとしても優秀で、部下にも敬意を払われているが、やや抜けている。

・「──おめなぁ! げにおめなぁ! シュッとした()()()ン娘っごさ前やけン、よかにせじゃーち顔しよんのがわがらンべかな!? おめは器量よしで手も早ェがら嫁どンば捕まえてこれっじゃろうけンど、()ァは麓さ降りねば嫁ンもわらはんどンも顔見れンとぞ! (わけ)ェめごこン前ぐれェかっごつけさせれ!!!!」
「おじさまは昔からえーふりこくからですよ」
「こっぱらすね! ……失敬」
(意訳:「──お前なぁ! 本当にお前なあ! スタイリッシュ/スマートな都会の女の子の前だから、イケメンですよって顔してるのがわからねえかな!? お前は顔も良くて手も早いから嫁さんを捕まえてこれただろうけど、俺は麓に降りなきゃ嫁も子供たちも顔見れないんだぞ! 若くてかわいい子の前くらい格好つけさせろ!!!!」
「おじさまは昔から格好つけるからですよ」
「うるさい! ……失敬」)

空爪(からづめ)
 風精を乗せた空気の塊を打ち出す攻撃方法。
 熊木菟(ウルソストリゴ)のものが威力も高く有名だが、風精と親和性の高い魔獣には多く使うものがいる。
 熟練の冒険屋には同じようなことができるものもいて、より鋭い斬撃を飛ばすこともできるという。

・「だーっはっはっは! 遊んでるべや! おめの馬鹿ンごつクソぢからン相手なンざしてやらン! ()ァが空爪(からづめ)で踊りゃ踊りゃ!」
(意訳:「だーっはっはっは! 遊んでるだろう! お前の馬鹿みたいな怪力の相手などしてやらん! 俺の空爪(からづめ)で踊れ踊れ!」)

霹靂猫魚(トンドルシルウロ)
 大きめの流れの緩やかな川に棲む魔獣。成魚は大体六十センチメートル前後。大きなものでは二メートルを超えることもざら。水上に上がってくることはめったにないが、艪や棹でうっかりつついて襲われる被害が少なくない。雷の魔力に高い親和性を持ち、水中で戦うことは死を意味する。身は淡白ながら脂がのり、特に揚げ物は名物である。
 リリオの剣の柄巻、及び鎧の補修に使われており、雷精との親和性と、耐性が上昇した。

・矢避けの加護
 方法や属性は様々だが、要は「飛び道具などの軌道を逸らすまたは迎撃する魔術・法術的仕組み、あるいは神性などの加護」の総称。
 飛竜の革は極めて高い親和性を持つため、矢避けの加護も強力である。使用さえすれば。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 鉄砲百合と老拳士

前回のあらすじ

蛮族野試合三番勝負、手早く二本連続。
蛮族の名に恥じない試合でしたね。


 ひどい目に合ったわ。

 もはや手合わせはお約束みたいなかんじだけど、まさかばっちゃん直々に揉まれるとは思わなかったわよ。

 だって、あたしが初めて会った時からばっちゃんはばっちゃんだったし、その癖初めて会った時から恐ろしく強かったから、あたしの頭が上がらない人間名簿にキッチリ記名済みなのだ。

 

 ああ、まあ、でも、こんなに強いんだってことを、はじめて知ったわ。

 それはつまり、ばっちゃんが言うように、あたしがそれがわかるくらいには成長したってことで、嬉しくはある。まだ届かないんだって思うくらいには、まだまだ弱っちいんだけど。

 そりゃ、武闘派の子爵閣下と幼馴染だって言うだけあるわよ。

 まあ、あたしもリリオの幼馴染であるからには、弱いままではいられないんだけど。

 

 すっかり疲れ切っちゃって、軽食を頂いて回復に専念している間に、リリオとグラツィエーロ様の試合が始まった。

 相変わらずグラツィエーロ様はええかっこしいだけど、あれで実力もあるので恐ろしい。

 あの人、あれだけ強い癖に、本職は飛竜乗りなのよ。

 飛竜乗ってた方が強いってのよ、あれで。

 そりゃ強い飛竜に乗ってたら単純に強いでしょうけど、飛竜乗りってのは単に飛竜に乗っかった人ってわけじゃない。飛竜を乗りこなして、飛竜単体よりもずっと強くある、そういうものなのよね。

 

 まあ、いくら強くてもあの調子で子供っぽいというかむきになるところがあるから、ばっちゃんに窘められるんだけど。

 っていうと、なんか悪戯した子供が叱られてるみたいな字面だけど、実際のところは空爪と放電が飛び交う中をしれっとした顔でするする掻い潜って、拳で物理的に黙らせてるから。

 飛竜革の前掛けにも一応矢避けの加護あるけど、皮革の量的にも魔力的にもそんな強力には張れないはずなのよ。つまり自力で避けてんのよねあれ。

 

 あたし、あれ目指さないといけないのよね……。

 まあ、ウルウの変態回避よりまだ目指し甲斐はあるけど。

 

 そのウルウは、いよいよ出番となって死にそうなほど面倒くさそうな顔で対戦相手と向き合ってた。

 相手はウルウと比べなくても小柄なおじいちゃん。子爵家の剣術指南役のカーンドさんだ。背筋は伸びてるけど、いかにも細身で、禿げあがった頭に優しそうな顔をした柔和なご老人。

 っていうこと以上のことを、実はあたしは知らなかったりする。

 

 リリオが遊びに来た時、剣の稽古を見てもらったりすることはあったんだけど、立ち合いとかはしないで、剣の構え方とか、振り方、脚運びなんかを、ゆっくりやってみせて、言葉で言って聞かせて、実際にさせてみて、そういう教え方だった。

 その教えは勿論、リリオの剣をよく伸ばしてくれたんだけど、カーンドさんの腕のほどはというとあたしたちは見たことがないのだった。

 

 そのカーンドさんはいま、剣も持たず身一つで、ウルウに柔らかく微笑んで見せた。

 

「お初にお目にかかります、棒振りなど教えさせてもらっている、カーンドと申しますもので」

「ウルウと言います」

「ウルウ殿は、アマーロ家のコルニーツォ殿を圧倒されたそうで」

「いえ、圧倒というほどでは」

「ふ、ふ、ふ、謙遜召されるな。コルニーツォ殿は実に良い腕をされておられて。子爵(バンキーゾ)殿もあの方を買われておりました。わしなどは、は、まあその代わりのようなものでして」

 

 照れるようにつるりと禿げあがった頭をなでるカーンドさん。

 うーん。実際どうなんだろう。コルニーツォさんの剣技は先日見せてもらったけど、確かにあれは凄まじいものがあった。体格も良くて、気迫もあった。

 それに比べると、カーンドさんは、なんていうか、悪く言うわけじゃないんだけど、老後に近所の子供とかに剣の振り方教えてるご隠居さんみたいな、そう言う感じがある。

 

「ウルウ殿は剣は得手でないとお聞きしますので、どうでしょうかな、ここはお互い無手で戯れてみるというのは」

「私はその方がありがたいですけど……いいんですか?」

「ふ、ふ、ふ、構いませんとも。戯れですので」

 

 ううん。

 やっぱり、とても柔らかい雰囲気で、握った拳も枯れ木みたいで、ウルウも困惑してるみたいだ。

 大丈夫かなあ、なんて思っていると、子爵閣下が笑った。

 

「マテンステロ、お前、あの娘が遊びのできん奴じゃち言うたべ」

「ええ、言ったわね」

「じゃからこっちからは遊びの得意なやつを宛がったわ」

 

 などと言う。

 となると、演武のような形で型を見せるような、そんな試合になるのか。

 なんていう予想は完全に甘かった。

 

 軽く礼をして、ウルウはどうやって戦おうか、って言うよりどうやって逃げ切ろうかみたいな顔をしていた。

 そこに、カーンドさんは緩く握った拳を胸辺りに構えて、散歩でもするみたいにするする歩み寄った。それがあんまりにも無防備で自然なもんだからあたしは初手を見損なった。

 

 攻撃があったのだと気づいたのは、ウルウの先足が跳ね上がったからだった。

 ウルウ自身が驚いたその挙動は、カーンドさんが緩く握った拳に隠して、何気ない所作でえげつなくひねり込んできた足払いを避けたものだった。

 ぎょっとして足元を見下ろすウルウに、カーンドさんは優しく微笑んだまま、鉤のように曲げた指先で顔を掬い上げるように眼球を狙ってくる。

 なにしろ見下ろしたところにそんなものが迫ってくるもんだから、ウルウももちろんのけぞって避けるのだけれど、それは悪手だ。

 目潰しの挙動は全然力の入っていない牽制だ。勿論、ウルウが暢気にしてたら容赦なく眼窩に突き立ててたろうけど、本命じゃない。

 

 すっかり体勢を崩したところに、流れるように体を翻したカーンドさんの足払いが、稲穂を刈り取るようにウルウの足元を掬い上げる。

 あわやひっくり返りかけたウルウの身体は、浮き上がるように宙返りして、後方に飛び退る。

 

 咄嗟に構えたウルウに、カーンドさんは追撃しないで、にっこりと微笑んだ。

 

「コルニーツォ殿は、強いお方でした。しかし残念ながら手合わせする機会には恵まれませんで」

 

 今日は天気がいいですねといった世間話でもするように、カーンドさんは柔らかな声で言った。

 

「戦う前に比較された汚名を、ウルウ殿で雪ぐのも悪くはありますまい?」

 

 ああ、うん。

 あたしは悟ったわね。

 この爺さん、絶対性格悪い。

 

 いままでのはお試しとばかりに、そこから先は容赦のないものだった。

 

 距離を取りたがるウルウに対して、カーンドさんは徹底的に距離を詰めてくる。水草にまとわりつく川の水のように、柳の枝に絡みつく風のように、つかず、離れず、攻め立ててくる。

 小柄な体はむしろ懐に入り込みやすく、短い手足は却って回転速度が速い。

 そしてその攻め方がまたいやらしい。

 ばっちゃんと同じように、魔力のしなやかな運用法を心得てるんだろう、腕はよくしなり、拳は鋼のように鋭い。そしてそれらの素直な打撃の合間に、あたしからは多分としか言えないけど、多分空爪を放っている。

 

「なんっ、こ、れっ!?」

「戯れなれば、手妻でも」

 

 空爪と言っても、グラツィエーロ様みたいに遠くに飛ばすものじゃない、本当に極近く、拳の先に置くように、見えない打撃を置いてくる。決して速くはなく、むしろゆっくりと飛ぶ打撃。

 これが近間にまとわりつきながら間合いを自在に変じさせて、戦闘慣れしていないウルウの処理能力を追い込んでいく。

 

 そして、傍から見ていてやっと気付いたのだけれど、この空爪の本当にいやらしい点は、間合いを自在に変えることじゃなく、意味のない攻撃を置くことができるってことだ。

 ()()()()()ウルウには、すべてが見えてしまって、そのすべてに対応しなければと頭が引きずられ、動きが鈍る。

 

 鈍るとはいっても、ウルウの身体はほとんど自動的に回避行動に移る。本人に言わせれば本当に自動的らしいけど、この爺さんはそこを見抜いて狙ってきてる。

 散りばめた無数の空爪は、そのどれもが牽制であると同時に、そのどれもが当たれば十分な打撃になる武器だ。避けなくても大丈夫なものもあれば、避けなくてはならないものもある。そして今は避けなくて良くても、数瞬後に回避の邪魔になる位置に置かれるものもある。

 時間差で当てられる武器、いや、これはもはや罠ね。

 

 そしてそれらに翻弄されている間、カーンドさんの足は常に立ち位置を変え、いやらしくウルウの足元に絡みつく。ウルウがいくら人間離れした動きをするからって、動きの起点は地面にある。地面を蹴る脚にある。

 それを執拗に狙われれば、たとえ避けられても、避けること自体がウルウの行動を制限する。

 

 拳、空爪、絡みつく足、それらがまるで詰め将棋(シャーコ)のように、ウルウは縛られていく。

 まだ当たりはしない、当たりはしないけれど、確実に未来が狭められて行く。

 いよいよ()()()足が滑ったり、()()()躓いたりして逃れているけど、それはつまりぎりぎりだってことだ。

 

「ふ、ふ、ふ、面妖な。しかし、まあ、これも戯れなれば」

「こ、のっ、もうっ!」

 

 ついにはその()()()()さえも貫通してカーンドさんの手がウルウの黒衣を掴み、引き寄せる。

 ウルウの回避はあくまでも()()()()()()()()()()()()()という、無茶苦茶な精度だけど当たり前のことしかできない。

 だから掴まれてしまえばもう、逃げられは、

 

「ふ、ふ?」

「辺境の、爺様は、本当に!」

 

 掴まれて拳をねじ込まれたウルウの背後に、もう一人ウルウがいる。

 

「私に《技能(スキル)》を使わせ過ぎだ!」

 

 しっかりと掴まれたはずのウルウの体はカーンドさんの腕の中でほろほろと崩れていき、咄嗟に飛び退ったその足元の影がゆれる。

 沼のように波紋を揺らがせる影の底から、()()()と顔を出すものがいる。

 さしものカーンドさんも目をみはるけど、時すでに遅し。

 影から伸び上がるように現れた長身痩躯が、手刀を突き付けていた。

 

「全く、辺境の遊びっていうのは、私には向かないみたいだ」

「ふ、ふ、ふ、戯れ過ぎたようですな」

 

 疲れきったような顔で、ウルウはため息をついた。

 確かに、あれだけ激しいやり取りだったのだ。戦い慣れしていないウルウには、目も回るような思いだっただろう。

 お疲れさまと素直に言ってあげたい。

 でももうちょっと頑張ってもらわないと困る。

 

 触発された奥様と閣下が素手でやり合い始めたから、ね。

 まるで飛竜同士が戯れるような有様に、ばっちゃんも手早く撤収準備を整えていた。

 そうね、怪物同士の戦いだもの、処置なしってこと。

 げんなりした顔のウルウに肩をすくめて、あたしたちも逃げ出す算段を立てるのだった。




用語解説

・カーンド(Kando)
 モンテート子爵マルドルチャ家の剣術指南役。
 カンパーロ男爵アマーロ家剣術指南役のコルニーツォは同年代でよく比べられていたが、住んでいた地域が違い、実際に手合わせする機会はなかった。
 非常にしなやかな魔力運用を心得ており、当代の人間としては珍しく三次元的な攻防を理屈立てて習得し、教えている。
 長男グラツィエーロの非常に伸びのある空爪も彼の教えによるもの。

・浮き上がるように宙返りして
 実はこの時、咄嗟にゲーム内《技能(スキル)》を使わされている。
 《薄氷(うすらひ)渡り》といい、《暗殺者(アサシン)》系統がおぼえる。
 設定では「一時的に体重をなくす」ことができるとされ、水上を歩行可能にするだけでなく、使用中所持重量限界を緩和できる。
 また足音が消え、一部の敵Mobから発見されなくなるまたは発見されにくくなる効果がある。
『生きるということは、薄氷を踏んで歩くが如く』


将棋(シャーコ)(ŝako)
 帝国将棋(シャーコ)。おおむねチェスのようなゲーム。
 盤のマス目の数や、駒の種類など、地方によってさまざまな種類があり、統一されていない。
 また、駒の役目が同じでも、形や名称が違うということもある。

・しっかりと掴まれたはずの~
 ゲーム内《技能(スキル)》のひとつ、《幻影・空蝉(クイック・リムーブ)》。
 事前にかけておくことで、致命的なダメージを受けた際に一度だけ身代わり人形を召還し、ダメージを肩代わりしてもらえる。人形はそのダメージで破損し、自身は極近くの安全地帯に転移する。
 ウルウはあくまで保険としてかけていたのだが、つまりあの爺さん致命的な拳をねじ込んできたのである。
『フフフ……馬鹿め! それは本体だ!』

・沼のように波紋を揺らがせる影の底から~
 ゲーム内《技能(スキル)》のひとつ《影身(シャドウ・ハイド)》の効果。
 《隠身(ハイディング)》系統のハイエンド。隠密効果はむしろ下がったが、攻撃に対する回避性能が非常に高い。
 発動中攻撃不可になる代わりに、物理攻撃無効の他、一部障害物の無効、魔法・範囲攻撃に対して確率で回避といった高性能な《技能(スキル)》。
 《SP(スキルポイント)》消費は激しいので、ボスの範囲必殺技を回避したりという使い方が多い。
『俺自身が影となることだ』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 白百合と飛竜小屋

前回のあらすじ

遊び慣れしたいやらしいじい様にうぶなウルウがいい様に弄ばれる回でした。



 ウルウ曰くのところの怪獣大決戦は、老執事の朗々と歌い上げる今期収支決算報告書下書きにおける要塞施設修繕費用の段で勢いを減じていき、続けて取引先商会の石材高騰と兵員賃金の臨時過重貨物運搬代上乗せの段でいよいよもって幕を下ろし、綺麗な土下座が披露されました。

 それにしても一応は土下座していますよと言うお母様のあの悪びれたところのない顔、腹が立ちますね。あれ、本当に悪びれてないんですよ。性質(タチ)が悪い。

 一方で土下座慣れしたじじさまの、あの顔はいったいどういう感情なんでしょうね。ものの見事にクシャクシャです。

 

「はい、ご当主様は、ごめんなさいのできる子でございますね。よい子にございます。できれば四、五十年くらい前には、良い大人になっていていただきとうございましたけれど」

「げに……! げにすまんこつ……!」

「ああ、お謝りになられないでください。お顔をお上げください。無駄ですので。その土下座には、三角貨(トリアン)ほどの価値も、ございませんから。ご当主様に置かれましては、値引きなり、借金なり、月賦なり、資金繰りにおいて思うさま頭を下げていただければよろしいかと。原価はただですので」

 

 氷のように冷たい目で見降ろされて、じじさまが沈みました。おいたわしや。

 このままでは遠からず私たちも極寒の世界にご招待されそうでしたので、同じく修繕費の段で責められそうなグラツィエーロおじさまとともにそそくさとお暇することにしました。

 

 ウルウはもうさっさと部屋に戻って横になりたいみたいなお疲れ顔でしたけれど、せっかく飛竜乗りの要塞にやってきて、飛竜乗りの隊長とご一緒しているのですから、案内していただくことにしました。

 私もトルンペートも勝手知ったる他人の家ですけれど、ウルウは案内されていくうちに見慣れない景色に好奇心を隠せないようでした。

 ふふん、ウルウはやっぱりそう言うところがありますからね。疲れていても、好奇心は正直です。

 

 おじさまに案内されていった先は、ちょうど飛竜場から山肌へと接続されている箇所で、融雪のまじないもここからさきはさすがにかけられていません。

 しかし飛竜乗りたちによってせっせと雪かきはされていて、きちんと通れる道ができています。

 

 山肌にしがみつくような道は、長い間に広げられ、押し固められ、人間だけでなく飛竜がきちんと通れるほどの広さがありました。

 そしてそんな道の先にあるのが、帝国広しと言えども辺境にしかない、あまたの飛竜たちが飼育されている竜舎場なのでした。

 

 転がり落ちたらふもとまで転がり落ちてしまいそうな斜面には、いくつもの横穴が開いていて、そのどれもが驚くほど広々とした洞窟となっていました。見上げた斜面のあちこちに、そのような横穴が等間隔に並べられているのでした。

 

「自然の地形……ってわけじゃないよね」

「まさか、だな。とはいえ人が掘ったとも思えん。伝承によれば、飛竜の咆哮(ムジャード)で穴を開けて回ったと聞くが、よくもまあ山が吹き飛んでしまわなかったものだ」

 

 この横穴もそうですし、そもそもモンテート要塞自体が、今となってはどうやって建設したのか誰も知らないのでした。

 建設当時の痕跡を探そうにも、長い年月の間にかなりの改修、修繕、増築などなされていて、建築当時の姿を知るものはもう誰もいないのです。

 

 それぞれの穴には、はしごと呼ぶのもおこがましい、山肌に杭を打って鎖でつなげたものが渡されているのみで、飛竜乗りたちはみな(ましら)のように器用にするすると上り下りするのでした。

 

「大体予想はついてるんだけどさ、ここが竜舎場ってことはつまり、あの穴に?」

「ええ、もちろん!」

 

 おじさまの案内で、ちょっと鎖を登った先の横穴をのぞいてみます。

 そこにはぐるりと丸くなって寝息を立てる、一頭の若い飛竜の姿がありました。

 体格は、子竜のピーちゃんよりは大きいですけれど、成竜のキューちゃんよりはやや小柄で、細身です。

 顔つきは野生種と比べると丸っこく、どことなく柔らかくさえあります。

 体色は鮮やかな炎赤色で、これでもきちんとした成竜ですね。

 

 飛竜は、覗き込んだ私たちの気配に気づいてじろりと片目を開けましたけれど、それだけでした。またすぐに目を閉じて寝息を立て始めてしまいます。

 飼育種とは言え、強靭な生き物です。人間程度にいちいち目くじらは立てないということでしょうか。馴れているので大丈夫なのでしょうか。

 この辺りは判断が難しいところです。個体にも寄りますしね。

 

 鎖を降りて下の道まで戻り、今度は最下段の少し広めの横穴を覗いてみます。

 

「……これも飛竜?」

 

 ウルウが首を傾げたのも当然で、その穴の中で寝そべっていたのは先程の飼育種とも、キューちゃんピーちゃんの野生種とも似ていない竜でした。

 

 先の飛竜が細身だったのに比べ、こちらは逆にかなりの骨太で、キューちゃんよりももっとずっとずっしりがっしりとした体格です。羽毛の下の筋肉もかなり発達しており、豊かな冬毛の上からでもその盛り上がりがうかがえるようでした。

 そのような立派な体格でありながら翼はむしろ小さく、自力で飛べるのか不安になるほど小さいものでした。特に後翼はかなり退化しており、そのうちなくなってしまいそうでさえあります。

 私たちがのぞき込んでも、穴に入り込んでも全く気にせずすよすよと寝息を立てる顔はかなりたくましく、特に顎がかなり発達していました。口が大きく発達しているだけでなく、顎をつなぐ筋肉が太く横に張り出しており、それで余計に顔が大きいように見えるのでした。

 

「おい、バリスト! バリスト一等砲兵! どこさ()ェり込んだだ! 御客人に説明差し上げろ!」

 

 おじさまが怒鳴ると、横穴一杯にその怒声が反響して、もぞもぞとその竜の片翼がうごめきました。

 いえ、いいえ、それでも竜はぐっすり寝こけて気にもとめていないのですけれど、どうやらその翼の間に誰かがいたようなのでした。

 

「うぇーい……なんスかァ……飛竜とのお昼寝は訓練要綱で認められてるんスからね……」

「普段から仕事しとりゃあなんも言わんがな、ほれ、しゃきっとしろ! 若ェ()()()さ来たべ!」

「ええ……? 嬢ちゃんにチビちゃんじゃないスか……あれ、新顔だ」

 

 若い飛竜乗りは眠たげに目をこすって、大きなあくびをしてから、一応という具合に背筋を伸ばして、ぎこちなく礼をしました。

 

「あー……ドーモ。バリストっス。砲兵とかいうのやってるッス。()()()はボムボーノちゃんッス」

「えーと、このボムボーノは」

「ボムボーノ()()()

「……ボムボーノちゃん」

良し(ボーネ)。新顔さんは、おっきくてかわいいッスけど、ボムボーノちゃんが一番()()()()()()()()()。わかるッスか?」

「あー……うん、はい。ボムボーノちゃんはおっきくてかわいい」

良し(ボーネ)

 

 変わった人みたいでした。

 割と奇人変人扱いされがちな《三輪百合(トリ・リリオイ)》の面々がそろってちょっと引くくらいには。

 えーっと、バリストさんでしたっけ。彼は満足そうにうなずいた後、おもむろにボムボーノの、もといボムボーノちゃんの首筋に顔を突っ込んで、ずぞぞぞぞぞぞぞぞと大きく息を吸いました。

 そして顔を上げます。

 

「まずこの種の飛竜を重飛竜って言うんスけど」

「いまのは? いまのは何の説明もないの?」

「? 俺、なんかしちゃったッスか? ただの喫飛竜ッスけど……あ、もしかして飛竜吸わない地域の方ッスか?」

「吸わない地域の方が主流なんだよなあ」

「何が楽しくて生きてるんスか?」

 

 価値観の違いにウルウも真顔です。いつものことですけど。

 野生種とは言え飛竜との触れ合いもあり、喫飛竜も嗜んだことのあるウルウですけれど、さすがに何の前触れもなく自然体で喫飛竜する根っからの喫飛竜者に会うのははじめてですもんね。あれは結構ビビります。

 

 バリストさんは納得いかないという顔で首を傾げながら、納得いかないという顔で首を傾げるウルウに説明を続けます。異文化交流ですね。

 

「重飛竜ってのはまあ、ぶっちゃけ飛べない飛竜ッスね」

「飛竜なのに?」

「なのにッス。品種改良の話は難しいんでやめとくッスけど、まあ、飛んで戦う代わりに、咆哮(ムジャード)を徹底的に伸ばした種だと思ってもらえればいいッス。空飛んでる飛竜は、強すぎる咆哮(ムジャード)吐くと反動でふらついたり落ちたりするんで、あんまり強くは吐けねえんス。重飛竜はだからそもそも飛ぶのを捨てて、地面にがっしりしがみついて、固定砲台みたいに使う竜ッスね。安定して狙えて、安定して飛竜落とせる威力ッス」

 

 私も実際に重飛竜が咆哮(ムジャード)を吐くところを見たことがありますが、あれは本当にすさまじい威力です。正面から直撃してしまった哀れな飛竜が、一撃で四散してバラバラになって落ちてくるのはゾッとしないものがありますね。

 

「自分じゃあ飛べないんで、他の飛竜に運んでもらって、交代で砲座に就いて、飛竜が来たら撃つ。咆哮(ムジャード)は強力ッスけど連続しては吐けないんで、撃ち残したのを飛竜乗りが狩る。こんな感じッス。確かフロントにもおんなじ感じの砲座があるらしいッス」

 

 そうですね、私の故郷のフロント、その要塞や山岳にもこんな感じの拠点があって、重飛竜が控えていますね。

 向こうでは飛竜が高く飛べないので、飛竜乗りは少なくて、ほとんどが地上に引きずり降ろして倒すことが多いんですけど。

 大体フロントで半分くらい狩って、すり抜けたやつをモンテートで徹底的に落とします。

 

 今は冬場で季節外れですからほとんど飛竜は来ないんですけれど、確かフロントでは一年で大体六十頭くらいは最低でも狩ってるので、モンテートにもそれくらい来てる計算ですね。雪のない一年の半分に限定すれば、月に十頭ですかね。三日に一回の計算ですけど、実際にはある程度群れてくるので、そこまで均一じゃないですけれど。

 あ、この数字は集落なんかを襲撃して駐在騎士とかに討たれた数は含まれてませんので、もうちょっと全体としては多いかもしれませんね。

 

 っていう話をウルウにしたら、

 

「修羅の国なの?」

 

 って言われました。

 シュラってなんでしょう?




用語解説

・老執事
 センコレーロ(Senkolero)氏。
 執事と言うより要塞の管理を見ている家令なのだが、わかりやすさを優先し、また実際に執事業も兼務しているため、ここでは執事とする。
 決して怒らないと言われるほど冷静沈着。内心はどうだか知れないが。
 辺境人としては珍しく喧嘩はからっきしだが、口喧嘩で負けたことは生涯ただの一度もなく、当主も良く泣かされる。

・バリスト(Balisto)
 モンテート要塞に努める一等砲兵。
 趣味は昼寝と喫飛竜。
 飛び回らずに一所に八時間とどまっていていいとかいう重飛竜乗りを天職と思っている。
 いまいち頼りなさそうだが、咆哮(ムジャード)の的中率は断トツ。
 左手薬指の爪だけ臙脂に染めている。

・砲兵
 モンテート要塞においては成竜の重飛竜の乗り手を一等砲兵、観測手、また幼重飛竜の飼育などを手がけるものを二等砲兵と分類している。

・ボムボーノちゃん(Bombono)
 重飛竜。十二歳の雌。卵の頃からバリストに育てられた。
 体色はかなり濃い臙脂。
 体長十メートル。全長(尾まで含めた長さ)十三メートル。翼開長四メートル。
 体重はヒミツ。
 左前脚第四指の爪だけ臙脂に染められている。

・重飛竜
 飼育種の中でも、軽く早くとは真逆に、重く品種改良された種。
 咆哮(ムジャード)、つまりいわゆるブレスの威力を高められており、飛行能力はかなり低いが、地面をしっかりつかんで放たれる咆哮(ムジャード)は戦術兵器クラスである。
 飛竜が出た際の迎撃に用いられる。
 ただ、飼育難度が高く、また咆哮(ムジャード)も連発はできないので、敵の数を減らす程度の使い方。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 竜囲い

前回のあらすじ

ひりゅうのかいかた じゅうひりゅうへん。
飛竜乗りには変な人が多いのでした。


 モンテート要塞の竜舎場は、いままでの旅の中でもかなり見ごたえのある場所だった。

 ランタネーヨの牧場で、盲目の牛と呼ばれる巨大なモグラや、羊と呼ばれるもこもこの蜥蜴を見せられた時と同じか、それ以上のカルチャーショックだった。比較対象が地味だが。

 

 最初に飛竜のキューちゃんを見た時は、あ、これ死ぬなって直感するくらいには超生物感バリバリだったんだけど、山肌に空いた横穴の中で、もこもこの冬毛に包まれて丸くなっている飛竜はでかい猫みたいな感じがあった。

 だらしない奴になると、ひっくり返って腹見せて寝こけてたしね。

 

 まあ、それというのも、この飼育種の飛竜たちは、野生種のキューちゃんに比べるとだいぶおとなしくて、顔つきも丸っこいからかもしれない。

 あと、担当の飛竜乗りがもれなくずぞぞぞぞぞぞぞと音を立てて喫飛竜している姿が見られたのもあるかもしれない。

 

 辺境貴族で、かつ隊長でもあるグラツィエーロさんが顔出しても全く気にせず喫飛竜続けるし、上司の扱い雑だし、飛竜乗りというのは個々人の自己主張が激しい職種みたいだった。

 まあ飛竜を乗り回して戦うような人たちだ。普通の兵士みたいに足並み揃えてっていう感じよりスタンドプレイの結果によるチームワークみたいなところはあるだろう。

 

 飛竜の数はかなりのもので、モンテートの飛竜乗りだけでも帝国征服できるんじゃないかと思ったんだけど、なかなか難しいみたいだった。

 飛竜は確かにとてつもない距離を飛んで渡れるけど、これが兵站という概念とまず仲が悪い。現地調達にも限度があるし、燃費が悪い。

 戦力としても、飼育種は野生種と比べるとスタミナや馬力で劣るらしい。それでも普通の砦とか相手だったら圧倒できそうだけど、素早さを伸ばした結果耐久力はかなり落ちていて、バリスタみたいな兵器でも落とされかねないみたいだ。当たればだけど。

 

 実際に運用した上での数値を説明してもらったんだけど、撃墜対被撃墜比率(キルレシオ)、つまりこっちが相手を倒す間に、こちらは相手にどれだけ倒されるかの比率で言うと、野生種一に対して飼育種三。一頭落とすのに三頭がかりで相打ちってことだ。

 これもうまくいってってことで、実際はもうちょっと渋いので、確実を期して一頭に対して最低五頭以上で囲んで叩くのが基本戦法らしい。

 

 まあそもそも、一対一を好む本能的に蛮族のイメージが強い辺境人だけど、実際には囲んで棒で叩くが基本理念の理性的な蛮族らしいので、飛竜もその基本戦法にのっとった結果、数字上でも正しいってなっただけらしいけど。

 

 火力はあるけど弾数に限りがあり、高速で飛べるけど燃費が悪く、維持整備にも手間がかかるって、なんとなくだけど戦闘機みたいだ。

 モンテート要塞みたいな人間の食料も難しい場所で燃料、つまりエサはどうしているのかなって思ったんだけど、落とした飛竜の肉が主らしい。かなり栄養価があって腹持ちもいいんだとか。

 それだけだともちろん足りないんだけど、肉食に見えて雑食の飛竜は、穀類とか植物性のものでも大丈夫みたいで、それらを飼料にしてるみたい。なんなら竜車運輸の緩衝材として用いられている藁とかクローバーっぽいのも食べるらしい。

 

 戦死した飛竜乗りや内地の諜報員を竜葬と称して食べさせるんだぜとか若い飛竜乗りが言ってきたが、グラツィエーロさんが窘めてくれた。怖がらせようとしてきたらしい。

 

「まったく。今はやっとらんから安心しな」

 

 ……今は?

 まあいいや。掘り下げるとよろしくなさそうな気がするし。

 

 そうして竜舎場をたっぷりと堪能した私たちは、最後に、貸してもらった横穴に我が物顔で丸くなるキューちゃんピーちゃんを見舞った。

 穀類とか藁とかの飼料はあまりお気に召さないようで、持参した枝肉とかをバリバリやってたようだ。

 周囲の横穴の飛竜たちは、壁越しにも気配やにおいで野生種の存在を感じるらしく落ち着かない様子だったけど、うちの二頭は泰然としたものだ。あ、いや、若いピーちゃんは気になるのか、鼻をスピスピ言わせてきょろきょろしてるけど。

 

 丁度ブラッシングをしてもらっていたところの様で、飛竜乗りが恍惚とした表情で手入れに精を出している。野生種を触る機会なんてないだろうし、楽しいのだろう。

 壁際にごろんと二、三人転がされているのは、腕が良くなかったので蹴り飛ばされたらしい。それでも恍惚とした顔してるあたり本物だが。

 

 私たちは退屈そうな二頭を撫でてやり、喫飛竜をさっと済ませて、要塞へと帰ってきた。

 その頃にはもうすっかりいい時間で、ぼろくそにされた飛竜場もある程度修復されていた。これがなくても発着できないことはないけど、飛竜の負担が大きいので、修繕整備は最優先らしい。

 

 暖かい屋内にほっと一息つき、ほどよい空きっ腹を抱えて夕食の席へ。

 相変わらず食卓に並ぶのは芋に豆に漬物にと変わり映えしないけど、今日のメインはまた珍しいものだった。

 さすがに飛竜肉のローストみたいな豪勢なものはそう何度も出ないようだけれど、それに勝るとも劣らない逸品だ。

 

 温められた皿に盛られたのは、オムレツだった。鶏卵のオムレツより色味が濃く、橙に近い。

 乳酪(ブテーロ)の香りがふんわりと立ち上るのは得も言われぬ心地にされたし、何より目を引くのはその大きなことで、「雑巾ほどあるオムレツの、ほくほくしたの」を食べるのだ。

 

 ナイフを入れると、程よく半熟にとろけた中身が、流れ出ない程度にとろりと崩れる。

 橙色の卵に包まれていたのは、細かく刻んだ野菜と、肉だった。スパニッシュオムレツのような風情だ。

 これを慎重に掬い上げて口に含むと、まず乳酪(ブテーロ)の香り、それから卵の旨味と甘みとが広がった。この卵の味の濃いことと言ったら、今までに食べたことのないほどだった。舌に絡みつく濃厚な旨味が、わずかな塩で実によく引き立てられていた。

 中身の野菜は、珍しさもない、変わったところのないものばかりだったけど、濃厚な卵に包まれることで、その素朴なところがかえってよく味わえた。

 肉は、これは飛竜の肉であるらしかった。燻製にしたものを刻んで、自身からあふれ出した脂でカリカリになるまで炒めて、その脂と一緒に野菜を炒め、これらを卵に封じ込んだのだった。

 この脂がまた、さっくりと軽いけれど、香りがよくたち、くるんだ卵を開く際に、遠慮なしに立ち上ってくる。

 

 もちろん、この卵は飛竜の卵だった。

 野生の飛竜の卵など、辺境と言えども手に入ることはないので、これは飼育下でなければ手に入らない、他所では希少なものだそうだ。

 飛竜の数は、厳密に制限されて飼育されていて、交配も血統をもとに定められているそうだ。

 だからこうして口に入る卵というのはみな無精卵で、ひと月かふた月に一度、一抱えもあるようなものを産み落とすので、それを調理するのだという。

 この卵は、栄養価にも富み、魔力も豊富で、例にもれず長期の保存がきくので、表にどの飛竜のいつ頃の卵かを記して、古いものから使っていくそうだ。

 幼竜にとってもよい飼料になるので、殻ごと食べさせることも多いとか。

 

 私には食べ物の魔力がどうとかいうのはよくわからないけど、しかし食べると元気になるような味がするのは確かだった。栄養のあるものを食べているな、という感じがする。腹も満ちるし、頭もすっきりするのだ。

 あれだけ味も濃く、かなりの大きさだったのに、気づいたらすべて食べきってしまったくらいだ。

 要塞で病人や怪我人が出た時は、飛竜の卵料理を食べさせるとすぐに良くなるなんて話もあるそうだった。

 

 私が飛竜の卵や生態について感心していると、説明する子爵さんも話し甲斐がある様で、説明がてら卵の殻を使った細工品も見せてくれた。

 その細工物というのは、犬位なら丸々入ってしまいそうな大きな卵が台座に据えられたようなもので、鮮やかな朱色の卵の表面には、丁寧に彫り込まれたのであろう飛竜の図柄が広がっていた。

 それだけでもイースター・エッグのように美しいというのに、これはランプやランタンのように使うものなのだという。

 

 食堂の明かりをちょっと落として、殻を外した台座に組み込まれたオイルランプのようなものに火を灯し、また殻をかぶせる。

 すると、内側からの光が朱色の殻に透かされて、暖炉の火のような暖かみのある赤色がさっと部屋中を照らした。そしてまた、表面に刻まれた透かし彫りの部分は光が強く抜け、壁に巨大な飛竜が浮かび上がるという仕掛けだった。

 

「わしは飛竜や戦士の勇壮な絵図が好みだが、(さい)などは星空を写し取った星図のものが好みでな。なかなか悪くなかろう」

 

 ゆらゆらと火が揺れるたびにゆらめく光の絵は、成程確かに幻想的で美しいものだった。

 ただ、それを前に自慢げに両手を広げているのが山賊の親玉みたいな顔なので、なんかの儀式っぽいけど。

 

 卵の殻は非常に丈夫なため、こうした丸ごと使った工芸品の他、ふたを取り付けて保存容器にしたり、かけらを服に縫い込んで急所を守ったり、研ぎあげれば刃物として使えたり、また砕いて粉末にして煉瓦や陶磁器の材料にもなるという。

 一つ一つが大きいし、竜舎場では結構手に入るのでいろいろ利用されているけれど、これをよそに持っていったらそれこそ邸宅が建てられるような高値で取引される代物みたいだ。

 管理がしっかりしているので絶対にないけど、もし有精卵なんか持ってったら領地くらいは買えるかもしれない。違法品だけど。

 

 夕食が終わり、甘茶(ドルチャテオ)とともに歓談するにあたって、子爵さんは私たちに土産だと言っていくつかの品々を見繕ってくれた。

 

「なに、うちじゃあ余り気味じゃからの」

 

 などと農家のじい様みたいなことを言って寄越してきたのは飛竜素材の装備であった。

 まあ、そりゃ一杯取れるでしょうよ。

 

「リリオ、お前は……割に装備も大事に扱っとるのう。意外じゃ。白革は今更じゃし、年頃のもんが喜びそうなもん用意させたでな」

 

 リリオに用意されたのは、上等な小箱におさめられた、これは、髪飾りかな。ふわふわとした白い羽を、花の花弁のようにまとめて束ねたものを、ヘアピンのようなものに取り付けた形だった。まるでリリオの白い髪から咲いたようだ。

 とても珍しい白い飛竜の羽だそうだから、これまた高いんだろう。屋敷が建つような。

 

「成人したというのにお前ときたら着飾らんからの。嫁に愛想尽かされんよう、少しは洒落も覚えるころじゃろ」

「ありがとうございます! 二人とも、似合いますか?」

「はいはい可愛い可愛い」

「今度はすぐに壊さないでよね」

「あんですとー!」

 

 トルンペートには、なんか革張りのケースが用意されていた。

 これだけで結構な豪勢さだけど、開けた先はまた結構な代物だった。

 布張りのケースにおさめられていたのは、十二本一組の投げナイフ一式だった。

 刃先がやや幅広で、やや小ぶり。一緒におさめられたホルスターに収めて腰に巻けそうだ。

 しっとりとした刃は金属的というよりもどこか有機的になまめかしい白で、滑り止めの臙脂色の革が柄に巻き付けられていた。

 

「飛竜の肋骨(アバラ)ァ削り出した短剣よ。しなやかだが()()軽いんで、芯材に(かね)を仕込んどる。なんじゃったか?」

重石鉄(ペザシュトノ)にございます」

「おお、それよそれ。鉛んごつ重いでの、ちっくと重心の釣り合いがむつかしいが、すぐ覚えるじゃろ」

「ありがたく頂戴いたします」

 

 なるほど、この白色は骨の白ということか。

 風精との相性も良く、ある程度魔術に通じているトルンペートにはいい装備だろう。

 デザインもスマートで格好良く、より《暗殺者(アサシン)》っぽさが上がった気がする。

 このパーティ暗殺者二人もいてほんとバランス悪いな。

 それにしても、うちで余ったから、みたいな出され方したけど、これ気軽に投げたら盗まれるレベルの高級品だよな。

 

「嫁どん、ウルウどんには何がええじゃろかと迷ったんだども、どうせリリオが碌なもん寄越しおらんち思うてな、祝いにはちっくと武骨じゃが、細工は華やかにしたべ」

 

 で、私。

 私には、守り刀というのをくれた。

 刀子っていうのかな。全体が二十センチくらいで、刃よりも柄の方がやや長い。

 魔術的な模様が掘られた磁器のようになまめかしい片刃は、飛竜の牙から削り出したものなんだそうだ。

 武器とかじゃなくて、工具、道具って感じの刃物で、さらに言えば美術品的な拵えでもある。

 鞘と柄は艶やかな黒い素材で出来ていたけれど、これも金属でもなし、木材でもない。何かの角などのようなつるりとした触り心地だ。

 その黒い肌に螺鈿のように、黒みを帯びた銀の真珠層で、おそらく黒百合のたおやかな姿が描かれている。

 

 私はあまりこの手の芸術品に造詣が深くないのだけれど、思わずほうとため息の漏れるような、妙な色気のある造りだ。

 そしてまた、造詣は深くないなりに、多分これも例にもれずドン引くほど高いんだろうなというのはお察しだ。

 ガチじゃん。

 これガチの美術品じゃん。

 

 子爵さんはえらいいい笑顔だし、おばあちゃん武装女中もいい仕事しましたみたいな顔だし、これ完全に手付金だよね。守り刀ってこれ、嫁入り道具的なあれだよね。

 大変いい物を頂きましてっていうか私が頂かれてんじゃないかこれ。

 黒地に黒百合ってこれ完全に私イメージしたデザインでしょ前からあったわけないでしょこのために作ったやつでしょ怖ッ。

 え、私が来てから作ったのこれ?

 子爵さん土下座かましたあとすぐに作らせたのこんなもん?

 仮にマテンステロさんから連絡が言った時点で、傷物とかなんとか考えながらも一応準備してくれてたとして、そんな早々とできるの?

 

 様々な疑問を押し込めつつ、笑顔で押し頂いた。

 受け取らないわけにもいかないし、いやまあ、怖くはあるけど別にリリオとの関係を解消したいわけでもないし。まあ歓迎してもらってるって思っとこう。

 

 それにしても、なんというか。

 囲われ始めてるなあ、などと、思ってしまうのだった。




用語解説

・盲目の牛
 しいて言うならば巨大なモグラ。
 完全に家畜化されており、現状では自分の寝心地の良い形に土を掘るくらいしかせず、自分で餌を摂ることもできない。
 濃い乳を出す。
 これとは別に普通のいわゆる牛もいるようだ。

・羊
 鱗の隙間から、鱗から更に変化した長いふわふわの体毛をはやす四つ足の爬虫類。
 とげのついた尻尾を持ち、外敵に対してある程度自衛ができるが、基本的に憶病で、積極的な戦闘はしない。
 いわゆる普通の羊もいるようではある。

・竜葬
 犯罪者や諜報員をエサにして食わせるというのは、脅しとしてはよく言われるが、実際には人の味を覚えるといけないので、行われたことはない。
 ただ、死亡した飛竜乗りの一部を遺された飛竜に食わせるという風習、また逆に飛竜乗りが戦死した相棒の一部を食べるという風習はいまもある。
 尤も、飛竜が落ちて飛竜乗りだけが脱出するというパターンはあっても、背中に乗った飛竜乗りが死亡するようなダメージで飛竜だけが生き残ることはまずなく、また懐いた相方以外を乗り手として認めることが滅多にないために安楽死させる場合が多く、ほとんど形骸化している。

・飛竜の卵
 竜卵は食べたものに怪力をもたらすと言われる伝説の食べ物である。内地では。
 また竜の卵を秘境で手に入れ、孵った竜と冒険する冒険譚も古来からあるが、まさかそんな夢物語みたいなことが現実にあるわけがない。一方西部では。
 鶏卵より色味が濃いのは何らかの色素のためと思われるが、詳細は不明。
 栄養価は高く、味も濃い。
 以前、どこかの馬鹿娘が丸まる温泉卵にしたら滅茶苦茶美味しいのではないかと試させたことがあるが、このサイズを適温で加熱して芯まで程よく温める苦労は凄まじいもので、料理人曰く割に合わないとのこと。
 殻は非常に頑丈で、卵割台に固定して、鑿と槌で底に穴を開けるようにして開く。

・髪飾り
 非常に珍しい白色個体の飛竜の羽を用いた髪飾り。
 魔術的にも調整されており、メタ的なことを言えば飛び道具の命中率と回避率が上がる。
 素材の量的にはそれほどでもないので、屋敷は建たない。
 殺してでも奪い取ることを計画する程度ではあるが。

・飛竜の肋骨(アバラ)ァ削り出した短剣
 適切な処理を施した飛竜の骨は、下手な金属よりも強く、軽い。
 また風精との相性が良く、メタ的に言えば飛び道具の命中率が大幅に上昇。
 センス次第で曲芸めいたこともできるだろう。トルンペートはもともとしてるが。
 当然高価で、投げられた相手が刺さった短剣を命がけで持ち去ろうとしても不思議ではない。

重石鉄(ペザシュトノ)(Pezaŝtono)
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちが扱う金属。
 銀灰色で、非常に硬く重いために重い石、ペザシュトノの名前を付けられた。
 融点が三千度以上と非常に高く、特殊な炉と高い冶金技術を必要とする。
 鉛のように、とは言っているが、実際には鉛より重く、金に近い比重。
 恐らく肋骨剣の芯材というより、バランス・ウェイトとしてごく少量用いられているのだろう。
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)はこの金属の武具を造ったこともあるのだが、重すぎて人気がなく、歴史的にすたれた。

・守り刀
 辺境ではこんなちっぽけな刀子などなんの自衛手段にもならない。
 実用というよりは「これは俺のもの」という見せつけのようなもの。
 ウルウが危惧するように、三品の中で一番高価。
 値段をつけようにも、一品もので辺境素材で辺境職人製という、鑑定人泣かせ。

・何かの角
 実際には角ではなく牙。
 黒毛岐佐(ニグラエレファント)という動物の牙。
 非常に密で重量があり、大変硬い。
 加工に手間がかかるため、材料費より加工費の方が高くつく。
 開き直ってほぼ素の状態に持ち手を付けて武器だと言い張った例もある。
 実際モンスターをハント出来そうな破壊力だったそうな。
 
黒毛岐佐(ニグラエレファント)(Nigra elefanto)
 クロゲキサ。
 北部では絶滅。辺境では乾燥地帯に棲息。
 背高は五メートルを超すものもある。重量は十トン以上の記録あり。
 太い足と長大な鼻を持つ象の仲間で、耐寒のため褐色の体毛に覆われている。耳は小さい。
 湾曲した黒い象牙は二メートルを超すことも多い。
 極めて密で硬いため武器や、凍った土を掘るのに使われるが、重たいため育ちすぎると自重でかしぐ。
 老齢個体が地面に象牙をめり込ませて餓死したと思しき骨格が発見された例もある。
 なお、骨も肉も黒い。
 非常に頑強な生物だが、貴重な蛋白源でもあり、辺境では命を対価にしても狩りの対象とされてきた。

・黒みを帯びた銀の真珠層
 大黒瑪瑙扇(アガートトリダクノ)の真珠層。
 

大黒瑪瑙扇(アガートトリダクノ)(Agato tridakno)
 オオグロメノウオウギ。
 北洋及び辺境ペクラージョ湖に棲息し、移動などはせず海底に転がっている。
 北洋種と辺境種は近縁種ではあるが厳密には別種。
 貝殻は扇形で、波状に湾曲し、分厚い。
 殻長は二メートル前後。重量は二百キログラム程度。
 外側は黒褐色だが、内側は黒みを帯びた真珠層を持ち、虹色にきらめく。
 肉はやや大味ではあるが甘みがあり、塩辛などにもされる。
 その見た目から発見が、重量から入手が難しく、傷のない貝殻は非常に高価。
 巨大な真珠を育むという伝説があるが、実際には精々小粒のものか、歪んだ謎の塊ができる程度。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六章 おかえりなさい
第一話 鉄砲百合と辺境伯領


前回のあらすじ

親戚から囲い込まれにかかるウルウ。
しかしそれも悪くないのだった。


 たっぷりの朝食を頂いて、モンテート要塞の充実した飛竜場から飛び立ったのは早朝のことだった。

 山おろしに背を押されるようにして、上下に広がる雲の間を滑るように飛び、日の暮れる前になって、あたしたちはようやくフロント辺境伯領にたどり着いた。

 

 まあ、やっとなんて言ったけど、モンテート要塞から辺境伯領まではそんなに近くはない。要塞こそ山の上にあるけど、領地自体はそれなりに広い。

 それに広大な塩湖であるペクラージョ湖が境としてフロント辺境伯領との間に横たわっていて、これを今日中に渡れるかどうかっていうのはちょっとした賭けだった。

 

 幸い、モンテートの飛竜乗りと竜車工たちの手で、奥様の日曜大工による竜車が大分改良されていたからなんとか強行軍で渡り切れたけれど、私たちからは尊い犠牲が出てしまった。

 

「まだしんでない……」

「顔面崩壊してるんだから大人しくしてなさい」

 

 涙と鼻水と乙女塊を出せるだけ出して、お見せできない顔でぐったりしているウルウはまあ、笑えるを通り越して悲惨だった。

 これで竜車の改良をしていなかったらどうなっていたことやら。

 

 いや実際、竜車の改良はほとんど新造っていっていいくらいのもんだったわ。

 さすがに要塞の工房じゃ完全な新造はできないにしても、補修くらいはするのよ。その補修を最大限までやった感じよね。

 そこまでお世話になるわけには、って思ったんだけど、竜車工曰くの「見よう見まねで辛うじて継ぎ接いだ、いままでというか初日で空中分解しなかった奇跡を空の神に感謝せざるを得ない使い古しの林檎(ポーモ)箱」を放置しておくのは我慢ならなかったみたいで、ブチ切れながら仕上げてくれたのだった。

 

 大柄な土蜘蛛(ロンガクルルロ)の竜車工たちが大声で████(フェクーロ)████(フェクーロ)って怒鳴り散らしながら、四つ足で駆け回りながら四つ腕を振り回して竜車(と呼んだら本気で怒られた)を解体して組み直していくのはなかなかの見ものだったわね。

 傍若無人が服着て歩いてるような奥様も、さすがに土蜘蛛(ロンガクルルロ)の職人たちには素直に降参して、大人しくこの大工事を眺めてた。

 まあ、竜車工たちが呼びかけみたいな頻度で繰り出す「馬鹿でねェのかオメはよォ!」という文句が、日曜大工の変態じみた完成度に対する彼らなりの称賛だったこともあるだろうけど。

 

 あたしはこういう物造りには詳しくないので、どういう改良がなされたのかよくわかってないけど、見た目からして完全に別物になったのは確かね。

 骨組みはなんか、軽銀(アルジェンテート)の合金だか何だかを使った丈夫で軽いものになって、薄い板に術式刻んでいろいろ誤魔化してた壁とかも同じような合金を表に張って、断熱のために内側に魔術織りの絨毯が張られた。

 度重なる雑な離着陸で死にかけていた足回りも、護謨(グーモ)引きの車輪とバネの利いた車軸に生まれ変わったそうだ。

 

 もはや別物になってしまった竜車の中でも最も分かりやすく変わったのは内装だった。

 ウルウが大変喜んだことに、折りたたみながらなかなかに快適な椅子が設置され、居住性が増したのだ。しかも寝椅子にもなるので、飛行中はほぼ死んでいるウルウも安心して死んでいられる。

 窓も大きな硝子窓になっていて、景色が気軽に眺められるようになっていた。

 ああ、硝子じゃないんだっけ。なんかよくわかんないけど、土蜘蛛(ロンガクルルロ)お得意の変態技術によるとてつもなく丈夫な硝子っていうか、透明な金属っていうか、そんな感じのものらしい。

 ウルウは心配そうだったけど、土蜘蛛(ロンガクルルロ)の技術者は自信のないものは実用しないから、そこは信用していい、はず。多分。

 

 まあ、そんな風に素晴らしく強靭勝つ快適に生まれ変わった竜車でも、ウルウはやっぱり死んだけど。

 こればっかりは仕方ないわね。

 いくら竜車の性能が良くなったって、運ぶ飛竜が野生種でちょっと荒っぽいし、なによりモンテート要塞を越えたあたりから辺境の空は荒れ始めるのだ。

 

 適当な空き地に着地して、なんとか息を吹き返したウルウも、乙女塊を出し過ぎてもう乙女汁しか出なくなりながら、嵐でもあったのかと思ったとぼやいたくらいだ。

 でも竜車から降りてみても、空はよく晴れて、地表は風も大人しい。

 

 実は、辺境、というより臥龍山脈に近づけば近づくほど、どうしたことなのか上空のあたりで常に風精が暴れまわるようになって、風がかき回され続けてる感じなんだそうだ。

 飛竜は大きな翼を持ってるけど、その飛行はもっぱら風精を操ることで成し遂げてる。

 でも荒れ狂う風精はさしもの飛竜も制御しきれなくて、これほど力強い生き物であってもまともに飛べなくなってしまうのだ。

 

 だから、龍の顎を抜けて、フロントも突破してきた運のいい飛竜だって、風に振り回されてすっかり疲弊して、地表に落ちて暴れまわった挙句に狩られるか、モンテートで撃ち落されるかっていう二択になる。

 たまに生き延びて森の中とかで見つかったりする個体もいるらしいけど。

 

 ウルウが地味に魅力的な女から、地味に魅力的だけどでかくてクソ邪魔なお荷物になってしまったので、寝椅子に安置してあたしたちだけで手早く野営の支度を整える。

 そんな死に体のウルウを揺さぶっていつもの魔除けを強奪していくリリオは本当に弱った人の気持ちが理解できないんだろうなあ、となんだか生暖かい目で見てしまった。なおその暴虐に対する返答は顔面鷲掴みだった。

 

 さすがにすっかり暗くなった今から狩りに出かけるのは危険なので、モンテート要塞でいくらか分けてもらった食料を調理して簡単な夕食を用意することにした。

 豆に、芋に、根菜に、漬物、干物。保存のきく、焼き締めた酸味のある麺麭(パーノ)

 あたしたちがもともと用意してた乾燥野菜に、鹿節(スタンゴ・ツェルボ)練り物(パスタージョ)、香草や香辛料の類。

 並べてちょっと考える。

 

 貰った食材の中に、保存のきかない生腸詰(コルバーソ)である小腸詰(コルバセート)があったので、これにしよう。これは氷漬けにでもしないと長持ちしないので、普通なら買ったその日に使わないといけないのだ。

 炒め物もいいけど、今日は汁物にしよう。温まるし、調理器具が少なく済む。

 

 (ラーポ)人参(カロト)馬鈴薯(テルポーモ)塘蒿(セレリオ)を火が通りやすいようにちょっと細かめに切り、韮葱(ポレオ)はザクザクと切っていく。

 鹿節(スタンゴ・ツェルボ)でさっと出汁を取って、これらの具材をコトコトと煮込む。この時、汁はちょっと多めにしとく。

 なんでかっていうと、ここに練り物(パスタージョ)を放り込むからだ。

 今日使うのは、小貝殻(コンケトーイ)っていう、小さな貝殻みたいな形の練り物(パスタージョ)。見た目も可愛いし、へこみに汁が入るので味も絡みやすい。

 

 小貝殻(コンケトーイ)がすっかり茹でられてしまう前に、小腸詰(コルバセート)の出番だ。ぐにゃんぐにゃんと柔らかいこいつの端を切って、絞り出すようにして少しずつ分けて鍋の中に落としていく。するとこれが脂と肉のうまみを汁に加えながら、可愛らしくちっちゃな肉団子になるのだ。

 あとは香草と塩でさっと味をつけておしまいだ。

 

 これがすっかり仕上がった頃には、ウルウも何とか復活して、元気にお腹が空いたと言い始めた。まあこれは純粋に、お腹の中身をすべて吐き出してしまったから仕方がないんだろうけど。

 

 屋外はさすがに寒いので、鍋を竜車の鉄暖炉(ストーヴォ)に移して、中で頂く。

 

 野菜は程よく柔らかく煮え、小腸詰(コルバセート)もぷりぷりといい歯ごたえだ。

 北部や辺境では結構腸詰(コルバーソ)の類をよく食べる。とりあえず腸詰(コルバーソ)食わせとけば喜ぶくらいだ。小腸詰(コルバセート)みたいに足の早いものはご馳走といっていい。

 

 この腸詰(コルバーソ)の汁物は、だからあたしたちにとっちゃ定番なんだけど、ここに南部の練り物(パスタージョ)を放り込んでみたのは、はじめてだった。でもこれがなかなか悪くない。悪くないどころか、実に美味しい。

 くにくにとした歯ごたえは面白く、変わった形は口の中に未知の舌触りを与えてくれる。

 辺境育ちのあたしとリリオにも、南部育ちの奥様にも懐かしく目新しい美味しさだ。

 ウルウはまあ、何食べさせても大抵は美味しそうに食べるけど、今日のも当たりだったみたいだ。

 ちょっと軟らかめにしたから、疲れたウルウの胃腸にも優しいことだろう。

 

 あたしたちはそうして手早く夕食を済ませて、早めに休むことにした。

 強行軍でさしもの野生種の二頭も疲れていたし、明日は早めに動きださなければならないのだから。

 

 あまりにも快適に改良された竜車のおかげであわや寝過ごしそうになったけれど、あたしたちはウルウが保険として用意しておいた不思議な時計のおかげでぱっちりと目を覚ますことができ、さっと朝食をお腹に入れることができた。

 余りものの汁物に、体を温めるために生姜(ジンギブル)をちょっと加えただけのものだけど。

 

 夜の間にちょっと積もったらしい雪を投げた後、あたしたちは竜車をつなぎ直した。

 雪に沈まないように、車輪に()()を履かせ、キューちゃんピーちゃんに(くびき)(ながえ)を取り付けていく。形や大きさは違うけど、ここら辺は馬車と一緒よね。

 二頭とも滅茶苦茶嫌そうな顔するんだけど、奥様が窘めながらだったので何とか言うことを聞いてくれて助かったわ。

 この先は空がまともに飛べなくなるから、こうして竜車を牽いて歩いてもらわなきゃいけないのだった。

 

 慣れない装具に不満げに落ち着かない飛竜たちと引き換えに、ウルウは朝からご機嫌だった。

 なにしろ、もう食べた分だけ吐き出さなくて済むのだから。




用語解説

████(フェクーロ)(Fekulo)
 検閲済み。
 あまりお上品ではない罵倒語。
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の間では挨拶といってもいいほど頻繁に使用される。
 彼らの会話は五割がこの便利な言葉で発せられ、残りの四割は拳で、あとの上澄みのような一割が他の種族に真似できない芸術品であると言われる。
 もっとも、この種族ジョークは天狗(ウルカ)たちによるもので、この五割を主に使わせるのももっぱら天狗(ウルカ)たちなので、単純に天狗(ウルカ)の性格と土蜘蛛(ロンガクルルロ)の相性の問題なのではないかともいわれる。

軽銀(アルジェンテート)(arĝenteto)
 赤豆石(ルジャファーボ)を原料とする金属。
 鉄の三割少々という軽さで、加工しやすく、表面にすぐ酸化膜を作るので耐食性もある。
 ただし純粋な軽銀(アルジェンテート)は強度が低いので、合金の形で用いられることが多い。
 採掘量も多く加工もしやすいが、現状、土蜘蛛(ロンガクルルロ)の技でなければ原料から精製できないため、露骨に価格が調整されたりする。。

赤豆石(ルジャファーボ)(ruĝa fabo)
 軽銀(アルジェンテート)の原料である岩石。
 赤灰色を基調として、白、黒、緑などを帯びることもある。
 名前の由来は赤い豆状の小粒でよく見つかるため。
 南部や、東部の一部、南大陸でよく産出する。
 大叢海にも大規模な鉱床があるのではないかと推測されている。
 粉塵が肺にたまることで死に至る病が知られており、扱い時にはマスクの類が必須。

・透明な金属
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)秘伝の技術の一つ。
 鋼鉄のように頑丈でガラスのように透き通っている。
 透明軽銀(アルジェンテート)
 極めて特殊な工法が用いられ、専用の工房と熟練の職人が必要なため、土蜘蛛(ロンガクルルロ)でも造れるものは少ない。


小腸詰(コルバセート)(kolbaseto)
 生腸詰(コルバーソ)の一種。小振りで細長い形状をしている。
 調理時にケーシングから絞り出して使用される。
 基本は作中のようにスープに使われることが多いようだ。 

小貝殻(コンケトーイ)(konketoj)
 練り物(パスタージョ)の一種。
 貝殻型に作られたものの中でも小振りなものを指す。
 中に詰め物をすることもあるようだ。

・雪を投げた
 雪かきしたという意味。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 白百合と行く行く雪道

前回のあらすじ

竜車をつなぎ直した一行。
これからは地上の旅だ。


 フロント辺境伯領にぎりぎり辿り着いて一夜を明かした私たちは、竜車をつなぎ直して、キューちゃんピーちゃんに牽いてもらってここから先を進んでいくことになります。

 二頭とも、慣れない装具をつけられたことや、竜車を牽いて歩くこと、また尻尾のやりどころなどかなり不満がある様でしたけれど、お母様になだめられてしぶしぶといった感じで歩き始めてくれました。

 

 最初はなんだか落ち着かず、歩く速度もゆっくりとしたものでしたけれど、段々と馴れてきてコツをつかんだのか、雪道もなんのそのと速度を上げていきます。飛竜は見かけより軽いですし、空踏みのように風精で足元に見えない足場を作っているのか、沈み込むこともなく軽快な足取りです。

 

 滑らかな雪道の上ですし、車輪に履かせたそりで滑っていくので、揺れはもうだいぶおとなしい具合で、空を飛んでいる時と比べたらほとんどないものといっていいくらいでしょう。

 ウルウも実に穏やかな表情で、モンテート要塞で据え付けてもらった椅子にゆったりと身を預けて、広々とした窓越しに景色を楽しむ余裕もある様で何よりです。

 

 私たちからすると冬場の辺境の景色なんて言うのは雪しかない退屈極まりないものでしかないのですけれど、雪自体になじみのないウルウにはそれさえも面白いようでした。

 

 ウルウが久しぶりに心安らかに旅を楽しめているようですのでそっとしておくことにして、私とトルンペートは揺れが少ないので気楽に遊戯版を広げられると、じじさまに貰った帝国将棋(シャーコ)のモンテート版を早速楽しむことにしました。

 

 帝国将棋(シャーコ)は地方ごとにいろいろな盤面や駒の種類があるので、それぞれに戦略や戦術が異なり、なかなか一筋縄ではいかない知的な遊戯です。つまり私にふさわしい遊戯ですねうそですすみません。

 

 モンテート版の帝国将棋(シャーコ)は特徴として、辺境特有の飛竜の駒があることと、モンテート山を模した地形が真ん中に横たわっていることが挙げられます。

 この地形は歩兵や騎兵などの駒では渡るのが難しく、飛竜の駒でないと自由に行き来できません。

 しかし同時に重飛竜や大型石弓などの罠となる駒が伏せられますので、進路は慎重に選ばなければなりません。

 この伏せ駒は、事前に自分と審判だけが見られる用紙に伏せた場所を記しておき、攻撃するか、攻撃された時にはじめて盤面に駒を実際に置くようになっています。

 なのでどこに伏せ駒があるかを予想してこれを避けたり、またここにあるぞと確信を得た時に先に攻撃することで防いだりします。勿論、空振りした時はそのまま手番が終わってしまうので、よくよく考えなければなりません。

 伏せる側も、意味のなさそうな場所に配置したり、また伏せておきながらあえて攻撃を仕掛けないで相手を誤解させ、安心しきったところで仕掛けると言った、使い時も大事です。

 

 私とトルンペートの戦法を比べてみると、トルンペートはこの伏せ駒の配置がうまく、こちらの嫌がる位置というものをよくよく熟知して的確に嫌がらせしてきます。一方で私はといえばあまりそういった戦略は得意ではないのですけれど、思い切りがいいのでうまくかみ合うとこれらの罠をまっすぐに突き破る爆発力がある、と思います。

 勝率はやっぱりトルンペートの方が高いのですけれど、だからこそ勝ったときは実に気持ちのいい物です。

 私の飛竜がトルンペートの陣地を縦横無尽に荒らしまわるときなどまったくたまりません。

 逆にトルンペートが堅実に侵攻させた歩兵や騎兵が、すっかり留守になった私の陣地を切り崩していくさまなど悲しくてなりません。

 

 そのようにして私たちがしのぎを削り合っていると、ウルウが短く呼びかけてきました。

 これはいつもの「リリオ教えてくれるかな」っていう期待の眼差しですね。最近は割とトルンペートにお株奪われがちですけど。

 

 私が応じると、ウルウは窓の外を指さして言いました。

 

「道がきれいに踏み固められてるけど、誰かが雪かきしてるの?」

 

 成程。

 確かに、竜車はいつの間にか街道に入り、馬車がすれ違える程度の広さに雪が除けられ、押し固められています。

 私たちにとっては見慣れた冬の道ですけれど、他所の人には不思議に思えるかもしれませんね。

 

「これは街道整備の一環ですね。除雪車が頻繁に村や町の間を往復して、冬場でも最低限の往来ができるようにしてるんですよ」

「除雪車?」

「ええ、こう、なんていうんですかね。雪を押しのけるような形をした大きなそりを、雪むぐり(ネヂタルポ)が牽くんです」

雪むぐり(ネヂタルポ)?」

「可愛いですよぉ、雪むぐり(ネヂタルポ)。白くておっきくてふわふわのもこもこで、それが短くて太い脚で雪を掻いて、ぎゅむぎゅむって胴体で押し固めながら進んでいくんです」

 

 私の素晴らしい説明はしかし、ウルウにはうまく伝わらなかったようで首を傾げられました。

 あまつさえトルンペートに説明の引継ぎを頼まれてしまいました。

 

雪むぐり(ネヂタルポ)はあれよ、牛みたいな生き物よ」

「あー、あのでっかいモグラ」

「真っ白で、円匙(ショベリロ)みたいな足で雪をザクザク横にかき分けながら進んでいくのよ。ほら、道のわきに雪の壁みたいのができてるでしょ。あれが雪むぐり(ネヂタルポ)が押しのけた雪。往復して左右に雪を分けてくか、二頭並べて一気に道をつくったりするわね」

 

 そうそう、それです。私が言いたかったのそれです。

 

「北部でも雪深いとこだと家畜化されてるわね。辺境もかなり。野生のは雪を掘り進んで雪の下の植物とか、木の根っことかかじってるって言うわね。飼われてるのはまあ、牛と一緒よ。牧草とか、埋め草とか食べさせてるわね」

 

 そうなんですよね。それも私が言いたかった奴です。

 

「それで、味は?」

「味」

「味」

「うーん……まあ、牛と同じような感じよね。ただ、食用じゃなくて、荷牽きとか除雪とかで働かせる家畜だから、肉は硬いし筋張ってるわね。年老いたやつとか、ケガして安楽死させた奴なんかを食べることはあるけど、そこまで美味しいもんでもないんじゃない?」

「まあそんなもんかあ」

「そんなもんよ」

 

 ええ、そうですね。それも私が言いたかった話です。

 

「……………」

「……………」

「……………」

「えーっと…………なんかまだある?」

「そうですね! 雪むぐり(ネヂタルポ)は、えーっと、あの、あれです。あー…………とても」

「とても?」

「とても、可愛い」

「トルンペート」

「そうね。牛はすっかり動かないけど、雪むぐり(ネヂタルポ)は実は泳ぐのも得意ね。夏場とかは水辺で過ごしてたり、まだ雪の残ってる山とかに移動したりするわ」

「……………」

「……………」

「……………」

「…………まだやる?」

「もういいですもん……」

 

 知ってました。

 わかってました。

 でもちょっと格好つけたかったんです。

 いやでも、私これでも生き物のこととか詳しい方ですからね。

 ただちょっと地元の有り触れた生き物過ぎてかえってそんなに良く知らなかっただけですからね。

 毒キノコとか扱わせたら私の右に出るものはそんなにいませんよ。多分。おそらく。きっと。

 

「そういう意地汚さを主張するエピソード以外になんかないの?」

「ウルウ、リリオよ?」

「だよねー」

「うーがー!」

 

 確かに、あれこれ拾い食いして自分の身体で毒性を確かめてしまったていう話はちょっと意地汚いかもしれませんけれど、でもでもこれ結構役に立ちますし。いざというとき見分けの難しいキノコを見極めて食料調達できますし。山で生き残るには最適の知識ですよ。

 

「キノコってあんまりカロリーないから食べても足しにならないらしいね」

「なによカロリーって」

「あー、熱量、っていうか、うーん、食べると太る度」

「食べると太る度」

「キノコは食べても太る度がとっても低いから、たらふく食べても実際には活力にならない」

「……だそうよ」

「美味しいですもん! キノコ美味しいですもん!」

「そうだね。キノコ美味しいね」

「ええ、うん。キノコ美味しいわね」

「優しさが辛い!」

 

 お昼にキノコ汁がそっと出されたのが、一層辛かったです。




用語解説

・モンテート版の帝国将棋(シャーコ)
 地方によって盤面や駒、ルールそのものに差異がある帝国将棋(シャーコ)
 その中でもモンテート版は、盤面を二分する山脈地帯と、それを飛んで渡れる飛竜の駒が特徴的。
 高価な駒は、飛竜の骨を削ったもので作られていたりする。

雪むぐり(ネヂタルポ)(Neĝtalpo)
 魔獣。巨大なモグラの仲間。冬場は非常に軽く長い体毛を身にまとい、雪に沈まずに移動できる。
 夏場は換毛し、土中のミミズなどを食べる他、果物などを食べる。

・埋め草
 サイレージ、つまり牧草などを乳酸発酵させた飼料。
 サイロと呼ばれる貯蔵庫の中で嫌気発酵して作られる。
 これにより長期保存が可能となり、栄養価も高まるとか。

・食べると太る度
 余り的確な翻訳ではないが、女子がカロリーという単語を用いるときはもっぱらこの意味のことが多い、のではないかと思う。
 男子的にもおおむね同じ意味と思われるが、女子が厭う一方で男子は好む傾向もあるとかないとか。
 カロリーとキロカロリーの神にささげる供物は基本的に脂と塩が多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 亡霊と第一村人

前回のあらすじ

リリオが頑張って説明する回でした。
頑張りが結果を出すとは限らないが。


 揺れない地面というものがどれだけ素晴らしいものか、私たちは普段意識しない。

 それは当たり前のように存在し、当たり前のように与えられ、当たり前のように忘れていることだから。

 しかしいま、私はこの大地の確かさを改めて感じることで、自分がどれだけ恵まれているかを噛み締めていた。

 

 ああ素晴らしきかな()()の旅。

 

「ウルウがまた()()()()してますね」

「うっさい」

 

 まあ、そろそろテンション下げていこうか。

 辺境特有の空の事情とやらで、竜車が飛行をやめて牽引に移ったおかげで、私は旅を旅として楽しめる体調まで復活したのだ。

 竜車の車窓から辺境旅情を噛み締めるように味わうのが今の私にできる最大限の旅の楽しみ方だ。

 

 リリオとトルンペートは、子爵さんが暇つぶしにいいだろうと言って寄越してくれたチェスみたいなゲームに勤しんでいる。

 帝国将棋(シャーコ)とかいうゲームで、地方ごとに盤面の形や駒の種類、ルールが違うという代物で、お土産を買おうとお店を覗くと大抵置いてあるそうだ。

 三人でプレイできるものもあるらしいので、今度見つけたら買っておこうと思っているのだが、大体いつも忘れている。全てを覚えているということと、それを適切なタイミングで思い出せるということは全く別の問題なのだ。

 

 二人が遊んでいるのはモンテート版で、盤の真ん中あたりの色がグラデーションのように多色になっている。

 これはモンテート山を表していて、中心の色濃い部分ほど標高が高く、外側の色の薄い部分ほど標高が低いという扱いで、色ごとに標高ポイントとでもいうべき点数がついている。

 高価な盤だと標高を実際の高さで表現した立体的なものもあるとか。

 で、その点数次第で、駒の動かしやすさが変わるみたいだ。

 例えば、多分ポーンとかに当たる歩兵の駒は、標高が一段階違うマスには移動できる。でも二段階違うマスには移動できず、迂回するしかない。

 飛竜の駒は飛車や角行のように何マスも移動出来て、標高が何段階か違っても移動できるけど、その際は移動できる距離に制限を受ける。

 

 この標高システムは移動だけでなく、攻撃にも関わってくる。

 普通、飛竜の駒は歩兵の駒を攻撃できるけど、歩兵の駒は飛竜の駒に攻撃できない。でも歩兵の駒が飛竜の駒より高い標高にいるときは、隣接する飛竜の駒に攻撃ができる、とかね。

 基本的には高い位置にいる方が有利なので、手早く山の上の方に陣取ってから、相手の駒を取りながら降りていくというのが定石のように思える。

 

 ただ、ここで油断ならないのが伏せ駒というルールだ。

 チェスなんかと違って、帝国将棋(シャーコ)ではプレイヤーは自陣の中であれば好きなように駒を配置した状態でスタートできる。

 これを布陣というんだけど、この布陣を決めるときに、プレイヤーは盤面を表した図か、棋譜みたいな表記でどのマスにどの駒を配置するかを書いておく。これは相手には見せない。そして一部の特殊な駒は実際に盤面に乗せることなく、存在を隠したまま試合を開始できる。

 つまり、どこに置かれたのかわからない駒を隠した、伏兵戦ができるのだ。

 

 この駒は、相手の駒を攻撃するか、移動するときには姿を見せなければならない。そしてそれ以降は隠れられない。でもそれまではじっと息をひそめていられる。もしも相手の駒が気づかないままでそのマスを移動したら、奇襲が成功したということで相手の駒を取ることができる。

 できるというのが寛容で、奇襲を仕掛けず隠れたままでいるという選択もできる。いやらしい。

 また、相手側も、伏せ駒があるなと思った場所に攻撃を指示できる。伏せ駒を見事見破った場合は、奇襲に失敗、返り討ちにあったということで伏せ駒は取られてしまう。でも勘違いだった場合は空振りで手番はそこで終了、お手付きということで次の手番ではその駒を動かすことができなくなる。

 

 このあたりで大分複雑だと感じてたけど、さらに複雑にするルールがある。

 帝国将棋(シャーコ)では、全体の持ち駒の総数は決まっている。これは対戦相手との交渉である程度増減できるみたいだけど、お互い同じ数の駒を使う。

 この総数というのが面白いところで、ある程度の上限はあるけど、どの種類の駒を幾つ使うかを自分で好きに決められるのだ。

 例えば飛竜の駒ばっかり使ってもいいし、逆に飛竜を一つも使わず歩兵を増やしたっていい。

 トルンペートが武装女中の嗜みとして仕込んでいる雑談ネタの一つには、王将とかキングに当たる大将の駒以外すべて伏せ駒で布陣したプレイヤーの話とかもあったくらいだ。

 

 まあこの極端な例は、純粋な戦略とみなすよりは、帝国将棋(シャーコ)を材料に用いたある種の表現みたいなところなんだろうけど。パフォーマンスだね。

 この人はそのパフォーマンスで帝国将棋(シャーコ)大会決勝戦を制したらしいけど。

 

 このほかにも駒ごとに特殊な能力があったりと戦略戦術戦法の幅が非常に広そうなので、私は誘われたけどしばらく(けん)に回っている。

 ある程度定石っぽいものを覚えておかないとろくな勝負にならないからね。

 私は負ける勝負は好きじゃないんだ。

 

 見た感じトルンペートの勝率が高いので、彼女の戦法を中心に覚えこんでる。

 飛竜は少なめで、歩兵と騎兵を自陣に広めに配置。で、伏せ駒が多い。

 リリオの多用する飛竜駒が勘と読みで伏せ駒をいぶり出している隙に、勾配の緩い外縁部を大回りして騎兵と歩兵がじわじわと敵陣を切り取りにかかる。

 焦って飛竜を向かわせようとすると、伏せ駒が途端に牙をむく。

 この二律背反に右往左往している間に、陸上部隊が大将を囲むか、切り札の飛竜が間隙を縫うかのように一気に追い詰めるという具合だ。

 勝敗はトルンペートが堅実に磨り潰すか、リリオの勘が冴えて一気呵成に攻め立てるかで決まる感じ。

 

 なんて、意外と白熱した試合を見せるもので、ついつい観戦に集中してしまった。

 目を休ませる意味も込めて外の景色を眺めてみるけど、いやはや、一面の銀世界っていうのは本当に目を奪われるものだね。

 何もかもが真っ白な雪に覆われて輪郭を失って、日差しを反射してきらきらと煌めいている。

 そのただただ真っ白な中にも、雪の下の地形や、木々を思わせる輪郭が淡く見て取れて、なんだかおもしろい。

 そして竜車が進むにつれて、その雪景色の中に人工物も紛れてくる。

 

 私が最初に気づいたのは、塔のようなものだった。

 雪に埋もれた平野に、ぽつんぽつんと点在するように、塔が建っているのだった。

 赤い、煉瓦造りの塔だろうか。真っ白な雪に半ば埋もれながら、それでもちゃんと丸い帽子みたいな屋根をそびえさせ、ひょこんと頭を出して伸び上がっている。

 造りはとてもシンプルで、のっぺりしていた。

 窓はない癖に、頑丈そうな扉が、なぜだか屋根のあたりとか、階段もない壁の真ん中とかに取り付けられているのだった。

 

「リリ、トルンペート」

「あによ」

「なんでいま言い直したんですかウルウ、私に聞いていいんですよ」

「あれ何」

「あれって何よ」

「さらっと流すの止めてもらえません?」

 

 私が窓の外を指さすと、二人はさりげなく盤をがたがた揺らしながら席を離れて窓の外を覗いた。あー、うん、接戦だったもんね。私が盤面覚えてるから元に戻せるんだけど。

 ともあれ、二人はしばらく私が指さすものが何なのか探るように小首をかしげていたけど、やはり気が利いて察しがいいのはトルンペートだった。

 

「ああ、貯蔵庫のこと? あの煉瓦の塔」

「さすトル」

「なんて?」

「さすがトルンペート」

「フムン。悪くないわね」

 

 ドヤ顔のトルンペートをなでりなでりしてあげ、改めて塔を見やる。

 貯蔵庫、か。普通の倉庫なら平屋建ての大きな建物を想像するんだけど、それとは別物っぽい。

 

「何を貯蔵する塔なの?」

「あれは」

「埋め草です!」

「……………」

「……………」

「家畜の餌にする牧草なんかをですね、雪の降らない時期にあの塔の中に貯め込むんですっ。すると積み重ねられた牧草が、中で発酵して、腐りづらくなるんですっ。それで冬場も保存できるんですっ。それが埋め草ですっ! どうです私もちゃーんと答えられますよ!」

「えーっと、さすリリ、さすリリ」

「そうね、さすリリ、さすリリ」

「むふー!」

 

 早口でまくし立ててドヤ顔決めてきたリリオを、二人でなでりなでりしてあげる。

 リリオはごまんぞくした。

 我々もごまんぞくした。

 

 しかし、なるほど。牧草の貯蔵庫か。

 そう言われてみると、なんか、北海道の絵葉書とかで見たなこんなの。

 なんかの観光名所なのかなと思ってたけど、実用的なものだったのか。

 とすると、あの造りも何らかの実用性があるのかな。

 塔状なのは、多分牧草を詰め込みやすくして、密閉しやすくするためだろう。

 屋根にある扉は牧草を上から詰め込むためのもので、段階的にいくつか取り付けられた扉は、中身を取り出すときに、その高さに応じて使う扉なのだろう。

 ごまんぞくしたリリオに代わって説明してくれたトルンペートによればそれで大体あっているようだった。

 

 しかしそうか。

 飼料貯蔵庫があるということは、ただただだだっ広い雪原に見えて、ここら辺は牧草地で、つまり人里が近いのだった。

 

 予想にたがわず、竜車は間もなく快速で村へとたどり着いた。

 雪ばっかりで比較対象がなかったので速度がいまいちわかっていなかったけれど、並の馬車よりよほど速いなこれ。

 もはや比較対象としての自動車とかの速度がいまいち思い出せなくなってきている自分が怖い。視覚情報としての速度は覚えてるは覚えてるけど、感覚としてピンと来なくなってきてる。

 

 竜車が止まり、降り立った村はほとんど雪に埋まっていた。

 最低限出入り口や主要な通り道は雪かきしてあるけど、ほとんど雪原から屋根だけ覗いているような有様だ。

 その屋根というのも、茅葺の背の高い三角屋根で、たしか合掌造りとかいったかな、それを思い出させる。

 家と家の間は、都会育ちの私からすると不安になるくらい広い。それほど戸数は多くないだろうに、点々と散らばっているので、なおさら村は広々と、そして寒々しく見えた。

 

 竜車を見つけた村人が口々に何かを言い合い、一人が一番大きな家に走っていってしばらく、毛皮をまとった壮年の男性が急ぎ足で駆けてきた。

 髪も髭もぼさぼさの伸び放題で、どこからが毛皮でどこからが地毛なのかわからないような有様で、それはほとんど雪男かイエティかといった風情だった。

 

 その雪男は私たちを前に、ほとんど跪きそうな勢いで深々と頭を下げた。

 マテンステロさんが気さくに顔を上げるように言わなかったら、本当に雪の中に突っ伏して平伏していたかもしれない。

 

「おおめんずらすなァよぐきてけだねし。こんげじゃいごだはんでてェしたおがめェもできねごっつあっどんばってぢくゎろさひィいれでらはんでなンぼがぬぎっごどあっがいわんつかぬぐまらさるべ。やンれすばれるべな。あずますぐねえばってわんだじんえさきてくんろ」

 

 ……………なんて?

 

 辺境訛りとかいうのも大概慣れてきたと思ったけど、今回はレベルが違った。

 自動翻訳チートさんが息してない。無茶しやがって。

 というかこれは本当に交易共通語(リンガフランカ)なのか?

 フランス語とかじゃないのか。

 あんまり口開かないし、抑揚も全然ないし、切れるとこもわからないので、本当に何を言ってるかわからない。

 第一村人の第一発言がこれって厳しすぎないか。

 

 一応ちらっと横を見てみると、マテンステロさんはさっぱりわかってないみたいだけどいつも通り堂々としていて、リリオとトルンペートは一応わかるけど、と苦笑いしている感じだ。

 

「このあたりは辺境の中でもきつい北部訛りが色濃く残ってますからね。歓迎してくれてるようです。家に招待してくれると」

「成程……成程?」

「あたしもあれ解読するの相当時間かかったもの。しかたないわ」

「辺境人本当に意思疎通できてるの……?」

「辺境共通語があるじゃない」

「肉体言語はちょっと履修してないなあ」

 

 ともあれ、口だけでも歓迎してくれるならよかった。

 田舎の農村だし、冬場だし、本当なら余所者は歓迎したくないだろうからね。

 さすがは辺境伯の娘と奥さん効果。

 

 リリオに今の簡単な翻訳を聞いていると、マテンステロさんがトルンペートの通訳で、感謝を告げ、お土産にとたっぷり積んである火酒や蜂蜜酒(メディトリンコ)の箱を差し出していた。

 領主の奥さんに土産までもらってまたもや平伏しそうになっているあたり、いくら辺境では貴族と平民の距離が近いとはいえ、かなりの御威光っぽい。

 

「彼はこのココネーヨ村の村長をしている、郷士(ヒダールゴ)のトラヴィントラードさんですね。普通の平民より貴族に近い分、畏れも多く感じているんでしょう」

 

 郷士(ヒダールゴ)といえば、いつだったか寄った温泉街のある、東部のレモの町も郷士(ヒダールゴ)が治めているんだったか。貴族じゃないけど、貴族から任命されて代官として領地を治めている一代貴族。実際はほぼ世襲らしいけど。

 郷士(ヒダールゴ)っていうことは、こう見えてある程度領地が広いのかな。もしくは辺境という土地自体が、広さに対して人間が少なすぎて、その上雪でも閉ざされるから、点々と郷士(ヒダールゴ)を置いてるのかも。

 まあそのあたりのシステムはよくわからない。

 

「ココネーヨ村は農業もしますけれど、養蚕と楓が有名ですね」

「養蚕はともかく、楓?」

「ええ、楓です。砂糖の木とも呼ばれる、甘い樹液を出す楓があるんですよ。南部で甘蔗(スルケカーノ)が、北部で甜菜(スケルベート)が、西部で竜舌蘭(アガーヴォ)、東部では蜂蜜といった甘味がある中、辺境では楓から蜜や砂糖を取るんです」

 

 成程。メープルシロップみたいな感じだろう。

 原産地ともなれば素敵なスイーツを期待してもいいのかもしれない。

 などと言う考えが顔に出たのか、リリオが複雑な顔をした。

 

「……なにさ?」

「期待しない方がいいというか、覚悟した方がいいというか」

「待って待って待ってなんか怖い話してない?」

「まあこれも旅の醍醐味と思って……」

「怖い怖い怖い」

 

 なにやら妙に脅されながら、私は辺境の村を訪れたのだった。




用語解説

・貯蔵庫
 サイロ。適度に水分量を調整した牧草などを貯蔵し、密閉された内部で乳酸発酵させる。
 このあたりで見られるのは塔型サイロのようだ。

・埋め草
 サイレージ。サイロで乳酸発酵された牧草。飼料として用いられる。

・「おおめんずらすなァよぐきてけだねし。こんげじゃいごだはんでてェしたおがめェもできねごっつあっどんばってぢくゎろさひィいれでらはんでなンぼがぬぎっごどあっがいわんつかぬぐまらさるべ。やンれすばれるべな。あずますぐねえばってわんだじんえさきてくんろ」
(意訳:「おお、お久しぶりですな。よくいらっしゃいました。こんな在郷(いなか)なもので大したおかまいもできないのですけれど、囲炉裏に火を入れていまして、いくらか暖かいですから、少しは暖を取ることができるでしょう。やれやれ寒いですな。あまり居心地の良いところではありませんが、私どもの家に来てください」)

・ココネーヨ村(La Kokonejo)
 ここにあるのかないのかココネーヨ村。
 フロント辺境伯では有り触れた農村形態。
 広い農地、牧草地があり、羊や牛を飼い、養蚕と楓の蜜取りをする。
 辺境伯領の常として人口の割にかなり広い範囲を含んでおり、住民より家畜の方が多いなどと揶揄されることも。

・トラヴィントラード(Travintrado)
 ココネーヨ村を治める郷士(ヒダールゴ)
 冬場は髪も髭も伸ばしっぱなしで雪男のようだが、夏場はさっぱりと刈り上げて十は若返って見えるとか。
 特技は物真似で、鳥や獣の鳴き声を模写して狩りに役立てている。
 また宴会では村民物真似百連発が爆笑必至の持ちネタとして披露されている。

甘蔗(スケルカーノ)(Sukerkano)
 サトウキビ。主に南部で栽培されている。
 帝国に出回る砂糖は南部の甘蔗(スケルカーノ)と北部の甜菜(スケルベート)でほぼ二分されており、シェアを奪い合っている。

甜菜(スケルベート)(Sukerbeto)
 テンサイ。サトウダイコン。主に北部と辺境の一部で栽培されている。
 帝国に出回る砂糖は北部の甜菜(スケルベート)と南部の甘蔗(スケルカーノ)でほぼ二分されており、シェアを奪い合っている。

竜舌蘭(アガーヴォ)
 リュウゼツラン。サボテンと一緒くたにされることもあるが、別物。
 テキーラなど、蒸留酒の材料になる。甘いシロップも取れる。
 竜の舌がこんな形だったら、口内炎がひどいことになるだろう。

・楓
 ここでは大糖蜜楓(メガミエラチェロ)のこと。

大糖蜜楓(メガミエラチェロ)(Megamielacero)
 オオトウミツカエデ。
 砂糖楓(スケラツェロ)(Sukeracero)の別名ではなく別種の楓。
 辺境及び境の森の一部に自生。
 平均樹高八十メートル、平均幹周三十メートル。
 秋には赤く紅葉する落葉広葉樹。
 木材は重厚で頑強。家屋や家具などにもよく用いられる。
 樹液を煮詰めた糖蜜、砂糖などが貴重な糖分源、エネルギー源として広く活用されている。
 砂糖楓(スケラツェロ)よりも樹液が濃く甘い。またミネラルなど栄養価も高い。
 大糖蜜楓(メガミエラチェロ)の森林には樹液を狙う動物や昆虫が数多く生息し、蜜の収穫は時に命がけとなる時もある。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 鉄砲百合ととどっこさま

前回のあらすじ

第一村人が何を言っているかわからない件。
書いてる人も良くわかっていない件。


 村の中でも一等大きな村長の家に向かう道すがら、毛むくじゃらの村長は村の様々なことを教えてくれた。これは馴染みの顔であるあたしたちが、見慣れない顔を連れていたので気を遣ってくれたのであり、そして存外にお喋りだからだった。

 

 聞いているのかいないのか特に気にした風もなく、例の口をはっきり開かない北部訛りの強い辺境弁がつるつると流れていくけれど、もちろんウルウには何を言っているのかさっぱりわかっていない。

 そもそも喋っているのか唸っているのか歌っているのかそれさえもわかっていない。

 一応何とか聞き取ろうとは努力してるみたいだけれど、なにしろ内地の言葉の神の神官が、自力での聞き取りを断念して、加護を賜ってようやく理解できたほどだ。あたしだって時々わかんないのに、いかにも都会っ子のウルウにわかろうはずもない。

 

 リリオが通訳するとしょっちゅう話が飛ぶので、あたしがちょこちょこ要約しながら伝えるのを、ウルウは神妙な顔で聞いている。

 なんだかんだ負けず嫌いな所があるので、あたしの通訳を足掛かりに意地でも自力で翻訳しようとしているのだろう。ご苦労様だ。

 

「えーっと、楓蜜(ふうみつ)の旬は雪解けしてくる春先だから、いまは見せらんないって」

「年中採れるわけじゃないんだね」

「そうね。春先の寒暖の差が激しい二か月くらいの間だけよ。その二か月で、一年分以上の楓蜜を摂るの」

「大変そうだ」

「大変は大変ね。死ぬまでは最近はあんまりないけど、けが人は毎年出るし」

「えっ?」

「でも蜜を煮詰めると物凄く甘いにおいが立ち込めるし、幸せな気持ちになるわね。出来立ての蜜をふるまうお祭りもあって、こう、雪に垂らして、冷えて固まった蜜を棒で巻き取ってそのまま食べるなんていうお菓子もあるのよ」

「情報量が多い」

 

 時期になると、働ける人たちはみんな総出で楓蜜小屋に仕事に行って、一日中楓蜜を作るのよね。

 なんなら泊まり込みだって普通にするわ。その時期だけの村ができるようなもの。

 だから帰ってくる頃には全身から甘いにおいがしちゃって、もう大変。

 でもその甲斐あって、辺境の楓蜜は内地の高級店にだって下ろせる自慢の仕上がりってわけ。まあ辺境産ってだけで、大概なんでも高値がついちゃんだけどね。

 

 そんな期間限定の楓蜜とは違って、もう一つの主要産業である養蚕は通年でやってる。

 村人たちの言うところの、()()()()()()ってやつだ。

 

「ちょうど作業してるだろうから、見学できるって。せっかくだから見てく?」

「蚕って、虫だよね……」

「まあ、虫は虫だけど、可愛いもんよ。ふわふわしてるし」

「すごく嫌な予感がする……」

 

 なんて口では言いながら、好奇心には勝てないのがウルウって女だ。おっかなびっくりって具合でついてくる。

 村長が案内してくれたある家では、とどっこさまの糸球を大きな蒸し器で蒸しあげているところだった。あまり高温で蒸してもいけないし、低温でもいけない。温度の違ういくつかの蒸し器で段階的に蒸すのだ。

 程よく蒸して程よくほぐしてやり、病や虫を殺したら、かびないように広げて、乾いた室内で乾燥させる。大体、一か月くらいかしらね。それくらいで糸球も落ち着くとか。

 この家はその保管用の部屋が家のほとんどを占めてるわね。

 

 次に案内された家では、大きな鍋で糸球を煮ていたわ。

 日常づかいの囲炉裏の他に、それ専用の場が用意されてるのよ。

 程よい温度の熱湯の中で煮られた糸球は、絡まった糸がだんだんほぐれて、その表面をちっちゃな箒で撫でてやっている。そうすると糸口、つまり糸の端っこが見つけられるから、何本かを()りながらまとめていく。

 こう、ちっちゃい木枠みたいのに、くるくると撚り合わせた糸を巻き取ってくのよ。

 このときに、撚る向きとか、撚り数とかで糸の性質や品質は変わってくるから、それぞれの家できちんと統一できるよう、子供の頃から叩き込まれるらしいわね。

 

 で、そうしてまとめた糸は、まだ濡れてるからそのままだと糸同士がくっついちゃうし、よれてたり乱れもある。引き伸ばしながら巻いてるから、伸びきってて切れやすくもある。だからこれを整えながら大きな枠に巻きなおして、湯を沸かして程々の湿気のある部屋で落ち着かせてやる。

 

 そうしたらようやく、染めとか織りとかできる状態になる訳ね。

 ココネーヨ村では染めはやってないけど、機織り機はある。そこで織った絹布や、大枠に巻いた絹糸なんかを出荷するわけだ。

 

 もちろん、途中途中で何年もやってる熟練の職人が、厳しい目で検査して、市場に出せるものだけ出してるけどね。特産はただ売ればいいってもんじゃないのよ。きちんと厳選して価値を高めないといけない。

 検査落ちしたのはどうなるかというと、普通に村で使ったりするので、もしかしたら帝国で一番絹を使ってる、贅沢な地域かもしれない。

 

 で、肝心の蚕、とどっこさまはどこで育てているのかっていうと、一番大きな村長宅の二階だった。

 とどっこさまが怯えるといけないので静かに、と注意を受けてから、貴重な財源であり村の宝でもある養蚕室を見せてもらった。

 室内は温度湿度が几帳面に整えられ、いくつもの棚がずらりと並んでいた。

 この棚自体も、年季は入ってるけどよく手入れされていて、大事にされてるってのがよくわかるわね。

 

 村長がその棚のうち一つを恭しく引き出して、そっと私たちを手招きした。

 あたしたちはもう知ってるから、先頭はウルウに譲ってあげる。

 楽しみのような、ものすごく嫌でもあるような、何とも言い難い複雑な表情で、ウルウはその長身をぎこちなくかがめて棚を覗き込んだ。そして固まった。

 やっぱ駄目だったかな。

 

 あたしも横からのぞき込むと、そこには手のひら大の真っ白な()()()()がもっしもっしと元気よく楓の葉を食べていた。西大陸産の蚕なんかは桑の葉を食べるらしいけど、辺境の蚕は楓の葉を常食する。だから冬になって葉が落ち切ってしまう前に、紅葉した葉をたっぷりと集めて保管して餌にしてる。

 他の葉は食べないから、蚕を増やすのって餌の面でも難しいのよね。

 

 それにしても蚕っていうのは、不思議な生き物だ。

 すっかり家畜化されてしまったこの生き物は、もう野生では生きていけない。

 脚はすっかり短く退化して、もう自分の足で歩くこともできないし、何かにつかまることだってできやしない。自分の体重だって支えられないから、いつも寝そべっている。

 餌の楓の葉も、口元においてあるから食べるけど、自分で餌の元まで移動することはできないし、すぐそこにあったって、自分で引き寄せることもできやしない。

 

 唯一、後ろ脚だけは長いけれど、これも歩くことには使えない。

 しゅるしゅると糸疣から吐き出す糸を、くるくると丸めて糸球にして行くっていう、生存には全く関わらない作業にしか使えないし、それだってたぶん自分で考えてそうしてるわけじゃなくて、糸を出したらそういう動きをするっていう、あらかじめ決められた動きをしているに過ぎないんだろう。

 そしてその糸球ですら、大きくなりすぎると自分に絡まってしまって死んでしまうんだから、人がその都度適当な大きさで切り離して、回収してやらないといけない。

 

 丸っこくて、ふわふわで、何にも傷つけないくせに傷つきやすい。

 可愛らしくもあるけど、哀れでもある。

 食べて、糸出して、寝て、食べて、糸出して、寝て、その繰り返し。

 ずっとずっとその繰り返しなのよ。

 その繰り返ししかできないのよ。

 その上、気温が変わっても、湿度が変わっても、餌が切れても、ちょっとした病気にかかっても、すぐに死んじゃう。

 自分であらがうことができやしない。

 それでも健気に食べて、健気に糸出して、健気に寝て、健気に生きてるのよ。

 

 そのあまりにも儚い命と、高価な絹糸を吐き出すことで、蚕は尊蚕様(とどっこさま)って呼ばれて、人々に大事にされているわけね。

  辺境では、蚕一頭の命は人ひとりより重いっていうくらいで、故意に蚕を殺したものは本人はもちろん一族郎党に至るまで恨まれるし重たい罰もあるってくらいよ。

 

「というわけよ、ウルウ」

「うーん……」

「いけそう?」

「後ろ足がややきもいけど……あと口元が露骨に虫だけど……毛玉っていう認識でいればギリ……」

「まあ、可愛いもんでしょ」

「そう、うん、そう……若干可愛いかもって思い始めた自分が怖い……」

 

 慣れって大事よね。

 もちろん蚕はお触り厳禁なんだけど、この調子なら裏側は見せない方がいいだろう。

 露骨に虫だから。




用語解説

・楓蜜
 メープルシロップ。
 環境の厳しい辺境で、竜殺しをはじめとした最初の人々が生き延びてこれたのは、このメープルシロップが大きな助けになったのではないかともいわれる。

・とどっこさま
 蚕のこと。
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の中でも糸を紡ぎ布を織る氏族、荒絹(フーリオーリ)が連れてきたとされる。
 現在も、辺境の絹糸の出来を見極め、全体を監督するのは土蜘蛛(ロンガクルルロ)の一族である。
 もとは八つ足八つ目であったが、入植時に既に完全に家畜化されており、目はほとんど埋もれ、脚も後ろ足を除いては痕跡があるばかり。
 内側は内臓がみっちりと詰まっており、体を動かす筋肉はほとんどない。
 なぜ糸球を作るのかは今となってはわかっておらず、もととなった種も不明。

・絹
 辺境産の絹は非常に美しい光沢をもち、西大陸の絹よりも丈夫。
 また魔力の乗りも良く、上質な魔道具などを作るには必須といわれるほど。
 ただし生産性は西大陸のものに比べると高くなく、希少。
 辺境では税の代わりとして納められる。

・重たい罰
 過去、火事によって蚕小屋が失われたある村では、火元の家族は村民全員から激しい暴行が、生きている間も死後も与えられ、郷士(ヒダールゴ)が駆け付けたころには原形をとどめていなかったとされる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と蜜蕎麦粥

前回のあらすじ

かわいいかわいいカイコ見学。
ぬいぐるみ化してもいいのよ?


 村長自慢の、いえいえ、村の誇りでもあり宝でもある蚕を見せていただいた私たちは、その愛らしくも哀れな生き物の生活を妨げないように、そっと一階に戻りました。

 そっと差し出された一番真新しいであろう茣蓙に腰を下ろして、あたたかな囲炉裏の火にあたっていると、ブランクハーラの家で戦争鱈(ミリタガード)の鍋を食べていたことを思い出します。

 しっかりと厚着はしていましたけれど、やはり冬の辺境は寒いですからね。遠慮なく暖まりましょう。

 火に手をかざして、表裏を炙るように温めながら、私はウルウの様子を伺います。

 

「ただの蚕じゃないだろうとは思ってたけど……やっぱり蜘蛛の仲間か……」

 

 ウルウは好奇心で生きているようなところがあるので、見るは見ましたし、説明もきちんと聞いていましたけれど、やっぱり足の多い生き物はあまり得意ではないようです。

 でも犬は慣れましたし、それから比べたら脚なんてないに等しい蚕もすぐになれるのではないでしょうか。

 

「まあ、パッと見た感じはぬいぐるみみたいでかわいいかもってなるんだけど、後ろ足とか口元とかがもろに虫だったからね……覚悟しておいたら大丈夫かもしれないけど、正面からは見たくない」

 

 成程。

 そう言えば犬も、毛並みとかは大丈夫でしたけど、口元はあんまり覗き込みたくない感じでしたね、ウルウ。

 まあ普通の獣とかと比べると蟲獣は露骨に造りが違いますから、慣れない人はなんだか不思議な、異界の生き物のようにも見えるのかもしれません。

 日常的に狩りなどで接しているとあんまり感じるところもないのですけれど、食材の形でしか見たことのない内地の貴族なんかは、もとの形を見たこともないし、恐ろしく感じることもあると以前聞いたことがあります。

 随分やわだなあと思ったものですけれど、ウルウのそういうところを見ると、可愛らしいなあと思ってしまうのでこれはもはや処置なしです。

 

 ウルウは蚕にちょっとげんなりしてるみたいですけれど、絹は辺境では貴重な収入源です。

 どれくらい貴重かというと、蚕を盗んだものは一族郎党、体を内側から溶かす土蜘蛛(ロンガクルルロ)の消化液を流し込まれて死ぬまで晒し者にし、死んだ後は潰して家畜の餌か肥料にするという処刑方法が一般的なくらいです。

 もう少し軽い例で行くと、絹糸を盗んだものは同じ重さの肉を生きたまま虫の餌にするとか、絹布を盗んだものは同じ面積の皮膚を生きたまま剥ぐとか、そういう感じですね。

 

 見学してきたような形で作られた絹は、総監督でもあり検査役でもある土蜘蛛(ロンガクルルロ)の氏族、荒絹(フーリオーリ)がしっかりと検めて、少しの瑕も許さず徹底的に弾いていき、ようやく市場に流れます。

 その流通も、それぞれの村が勝手に売るのではなく、村々を取りまとめる郷士(ヒダールゴ)たちが集め、全てを全て辺境印の絹として管理した上でのものとなります。

 これも一つの公共事業といってもいいでしょうね。

 作物の実りが乏しい辺境においては、この絹が財源となって民を生かしているのです。

 

 辺境産の絹は、単なる希少性や美しさだけでなく、その丈夫なことと魔力の乗りが良いことが高い評価を受けています。

 非常にもったいない使い方ですけれど、重ねれば鋭い剣も刃が止まり、矢も徹らずという程です。勿論、衝撃は逃せませんし、結構重ねなければなりませんけれど、非常に軽く、通気性や保温性も良く、肌触りも良いという布としての品質も非常に高いので、貴族や要人の衣服にはもってこいというわけです。

 

 同じ繊維系としては、トルンペートたち武装女中のお仕着せとか、騎士の鎧下とかに使われている硝子蓑蟲(ヴィトラサクラルヴォ)の糸が文句なしの最上級品なんですけれど、これは蚕のようにたくさんは糸を出してくれませんし、扱いも難しいんですよね。

 並の刃物では傷ひとつつかない、つまりは糸一本切るのも大変なわけで。

 ぶっちゃけた話、完全装備の全身金属鎧とか、飛竜革の鎧と比べても、武装女中のお仕着せって割高だったりします。

 最悪、汚れたら火にくべれば汚れだけ燃えて本体は無傷って話しましたっけ。してないですよね。

 純粋に防御力で考えたら飛竜革鎧の方がずっといいんですけど、見栄えよく美しくを全く損なわずに並の鎧以上の性能を持たせるとかいう、辺境人をして頭おかしいと思える性能してますからね。

 

 そのようなことを話しているうちに、囲炉裏にかけられていた鋳物の鉄瓶が沸き、村長がすりおろした生姜(ジンギブル)を加えて、さらに匙でとろりとした琥珀色を混ぜ入れ、最後に水溶き芋粉でとろみをつけます。

 そうして、温かい生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)が不揃いな湯飲みに注がれました。

 ありがたく受け取ってみると、ふわりと立ち上るのは甘く薫り高い湯気でした。

 

「……これは……もしかして、楓の蜜?」

「そうです。生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)に楓蜜を入れるのが辺境流ですね」

 

 場合によっては、生姜(ジンギブル)甘茶(ドルチャテオ)もないので白湯に楓蜜と芋粉を溶いただけのこともありますね。

楓蜜は糖分や、様々な滋養に富んでいますので、ただ白湯を飲んで暖まるよりもずっと効果があります。

 それに、甘いものを飲むと人間誰しもほっとするものですからね。

 

 蜂蜜の生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)も美味しいものですけれど、やっぱり楓蜜の生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)はほっとします。生姜(ジンギブル)のぴりりとした辛さに、楓蜜の濃い薫り。

 冬の辺境の味ですね。

 冷めにくいよう芋粉でとろみをつけた生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)は、私たちの身も心もほっと温めてくれたのでした。

 

「ざっくりと見ただけですけれど、辺境の村は大体どこもこんな感じですね。どうでしたか?」

「うん……他の地域の人から魔境とか地獄とか散々言われてたけど」

「言われてましたね」

「暮らしてるのは普通の人たちで、普通にもてなしてくれて、普通の人だなって」

「フムン」

「雪もすごいし、生活も大変そうではあるけど、でも偏見でものを言うのはよくないなって思ったよ」

「ふふふ。ウルウも辺境に慣れてくれれば幸いです」

 

 まあ。

 なんです。

 旅情を満喫しているウルウが可愛そうですので、その普通の人たちは熊とか鉈一本で狩ってくるし、人一人当たりの命のお値段が安いし、時々野盗とか他の村と小競り合いして容赦なく手足とか命とか切り捨ててるってことは言わないでおきましょう。

 内地の人の想像する魔境が、現実の辺境と比べるといくらか平和だっていうのも伝えないでおきましょう。

 

 知らない。わからない。見てない。聞いてない。

 大事ですね。

 

 生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)を頂いてほんわかしているウルウを生暖かい目で見守り、今後目にするであろう辺境の現実に思いをはせるのでした。

 

 ところで早速やってきた辺境の現実その一は、夕食として振舞われた蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)でした。

 

 寒くて雨の少ない辺境でも育ってくれる蕎麦(ファゴピロ)は辺境では主食として広く栽培されています。

 なにしろ収穫までも早いですし、小麦の育たない土地でも実をつけますから、辺境の胃袋を支える貴重な作物です。

 辺境自慢は蕎麦(ファゴピロ)自慢なんて言うくらい、辺境では蕎麦(ファゴピロ)がよく食卓に上がるんですよ。

 他にも黒麦や大麦も良く育てられ、大麦からはご存知麦酒(エーロ)がたくさん作られますね。

 

 さて、蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)はその蕎麦(ファゴピロ)の実をひきわりにして、乳と乳酪(ブテーロ)、場合によっては肉や野菜の出汁で粥にしたものなのです。

 単に(カーチョ)といった場合この蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)を指すくらい、辺境では一般的な、ありふれた食事の一つですね。

 これがですね、うん、まあ、なんというか。

 

「…………味がしない」

「しないわけではないんですけどね」

 

 これ、塩を全然使わないんですよ。

 蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)に限らず、塩気がかなり少ないものが多いです。

 塩湖であるペクラージョ湖で製塩はしていますけれど、何しろ一年の半分が雪に閉ざされる辺境では流通が大変でして、農村では塩が貴重なんですよ、やっぱり。

 保存食づくりとかにもがっつり使うので、普段の食事にはなかなか。

 逆に言えばそう言った保存食と合わせればまあ何とかという感じでもありますけど、辺境ではこういう時に使うものがあります。

 

「……それさあ。そのお粥にかけてるのさあ」

「お察しの通りです」

「塩とかじゃないの、ここは」

「塩より安いんですよ、辺境だと」

 

 粥の上にとろりとかけられて行く琥珀色。

 そう、楓蜜です。お好みでどうぞ。

 私は割と好きなんですけど、なかなか好みの分かれるところですね、甘い(カーチョ)

 いかがでしょう。

 

「……メープルシロップの味がする虚無」

 

 言っている意味はよくわかりませんが言わんとしていることは何となくわかります。

 半端に楓蜜をけちると、あまり味のない蕎麦(ファゴピロ)の存在感がすごいんですよ。味がないのに。

 成程食べる虚無です。

 でも蜜をしっかり絡めてやればちゃんと甘いので甘い味がします。言ってることもまた虚無な気がしますけど、他に言いようがありません。

 

 いや、もっとこう、肉桂(ツィナーモ)とかの香辛料を利かせたり、乳酪(ブテーロ)たっぷり入れたり、干した果物入れたり、果醤(マルメラド)入れたりすればかなり美味しくなるんですよ。

 でもそれを貧しい農村に期待されても困るんですよ。

 楓蜜かけるだけ味覚に対して良心的といっていいでしょうね。

 

 庶民に愛される蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)は、一部では蕎麦(ファゴピロ)を消費するための楓蜜とか、楓蜜を食べるための塊とか言われたりもしてますけれど、うん、まあ、これが辺境の味、の一つなのです。

 

 楓蜜を多めにかけてしっかりかき回し、甘い味の虚無を頂くのでした。

 

「……もしかして辺境ご飯ってずっとこんな感じ?」

「お楽しみに!」

「ねえ」

「お楽しみに!!」

 

 お楽しみに!!!




用語解説

荒絹(フーリオーリ)(HouriOri)
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の中でも機織と服飾に長けた氏族。
 蚕を家畜化し、この世界に持ち込んだとされる。
 自らも色鮮やかな金の糸を吐き、編み、織り、刺し、様々な細工を凝らす。
 美しい見た目、美しい技術を持つが、見た目以上の怪力で絡ませた糸を引っ張り木を根元から引き抜いたという逸話もある。
 古代には空を舞う天狗(ウルカ)さえも捕らえていたとか。
 聖王国の台頭に伴い、絹糸や織物を狙われて乱獲され、辺境に落ち延びたとされる。
 現在も辺境から出るものは稀で、出てきたとしても蚕と絹は決して外に漏らすことはない。

生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)
 生姜のすりおろしや絞り汁をお湯やお茶に溶かしこんだもの。砂糖を加えたりする。
 この日のものは、甘茶(ドルチャテオ)に生姜を摩り下ろして入れ、蜂蜜を加えたものだった。
 体が温まる。

・芋粉
 馬鈴薯(テルポーモ)から生成されるでんぷん。
 北部や辺境でよく栽培され、よく精製される。

蕎麦(ファゴピロ)
 いわゆるソバ。寒く、乾燥した地帯でも生育する。北部でも多く育てている。
 西方では所謂麺類としての蕎麦として食べられることもあるが、帝国の一般としては蕎麦粥やガレットなどのような形で食されているようだ。

蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)(Fagopira kaĉo)
 蕎麦の実をあらびきやひきわりにして、乳や出汁で煮たもの。
 好みでバターや砂糖などを加える。
 辺境人は黒麦の麺麭(パーノ)と蕎麦粥で出来ているというくらいありふれた主食。
 作り方次第で美味しくなるのだが、冬場は贅沢は言えない。

肉桂(ツィナーモ)(cinamo)
 シナモン。ニッキ。
 ニッケイ属の樹木の樹皮からとれる香辛料。
 体を温める作用があり、胃にもよいとされる。
 独特の甘みと香り、そしてわずかな辛みがある。
 菓子の類のほか、料理にも幅広く使われる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 亡霊と雪の中で

前回のあらすじ

久々の粗食に真顔になるウルウ。
なんとも失礼な女である。


 おい粥食わねえか。

 おはようございます。

 今朝も陰気にやってまいりましょう異世界紀行辺境編。

 

 朝からテンションおかしいのは勘弁して。

 仕方がないんだ。

 辺境入ってから美味しいもの食べてばっかりだったから期待が高くなりすぎてたんだ。

 いやほんと、仕方ない。これは仕方ない。

 

 いや、だって、ねえ。

 思い返してごらんよ。

 辺境に入ってからの食事というものを。

 野宿してる時でさえさ、何しろうちの面子は食材確保に困らないんだよ。

 森がスーパーマーケットを地で行ってるんだよ。ちょっとしたついでで、獣狩ったり適当に歩いたりしながらキノコとか山菜とか一品二品平気で増やしてくんだよ。

 それをさ、それをだよ、私がこれでもかとチートしてガン積みしてる調味料とか香辛料とか調理器具とか使ってさ、美味しく仕上げるわけだよ。

 森がキッチンなんだよもはや。目の前で狩猟採取して目の前で調理して目の前で提供されるんだよ。

 しかもさあ、何食べてもこの上なくしあわせみたいな食べっぷりを横でされながら頂くわけだよ、その料理を。

 辺境来る前からそんな感じっちゃあそんな感じだったけど、食べ慣れない食材も出てきて日替わりでお楽しみ状態だったんだよこっちは。

 

 で、貴族のお屋敷だとか要塞だとかで、今度は貴族の振舞い料理を頂いたわけだ。

 飛竜のぶあついローストとか、飛竜の卵のでっかいオムレツとか、そういう特別ないかにもご馳走っていう奴だけじゃなくて、並ぶ食事が全部貴族様の食事だったわけでさ。

 麺麭(パーノ)ひとつとっても焼き立ての香り立つようなやつでさ、それをずっと頂いてたわけでさ。

 それが急にこう、蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)、ねえ、これ、味のないお粥にメープルシロップかけたやつみたいな感じになると、ギャップが酷い。落差で発電できそうなレベル。

 

 いや、これも美味しいんだよ?

 これを常食してるって聞いたら、まあわかるかなってくらいには食べられるんだよ。

 塩気が圧倒的に足りないなーって思うけど、まあその代わり甘くして食べれば食べられるし。

 最初は甘いお粥っていう時点で脳が混乱したし、試しにちょっとメープルシロップかけて食べてみたら味のないもちゃっとした粥(一部甘い)っていう、虚無にシロップかけて食ってるような有様に喉を通らなかったけど、開き直ってシロップかけまくったらまあ、ギリそう言うもんかなって。

 

 かつてブロックタイプの栄養食品とゼリータイプの補給食品で生きてきた人間が言うのもなんだか間違ってると思うけど、毎日これが続くと思うと、成程、冬の辺境は地獄だ。

 辺境で生きている皆様に対してあまりにも失礼すぎるかもしれないけれど、それは私ではなく、私を美味しいごはん食べなければ生きていけない体にした《三輪百合(トリ・リリオイ)》の二人に言ってほしい。私のせいではない。

 

 朝からもちょもちょと無心に蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)を頂いて、そんな下らないことを考えてみたりしたが、現実は変わったりしない。

 冬場はどうしたってものもないので、基本的に食べるものといえばもっぱら蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)だという話を聞いて絶望を深めるなど。

 

 いっそ私たちの持ってきた食料を提供するというのはどうだろうかと考えたけれど、意外にもリリオに窘められた。

 

「確かに私たちはたくさん食料を積んでいますけれど、もし旅程が長引けば、その分ピーちゃんキューちゃんの餌の分ががっつり差し引かれます。そうでなくても限りはあります。村長にだけ分ければ、村長は村人から恨まれるでしょう。村人全員に分けようとすれば、今度は足りなくなるでしょう。誰も幸せになりません。止めておきましょう」

 

 ガチ目の正論でまっすぐに窘められてちょっとへこんだ。

 なにも私も本気で言ったわけではないのだけれど、普段ポンコツ気味のリリオにまっとうなことを言われると自分がとてつもないポンコツのように思われて、こう、()るものがある。

 

「あんた時々忘れてるかもしんないけど、()()一応貴族の娘なのよ。教養あるのよ?」

「ああ、そんな設定あったっけ。活用されないから……」

「ぶっとばしまーすよー?」

 

 そのようにじゃれながら普段よりも早い朝を過ごし、厚着してから外に出てみると、分厚い雲に覆われた空から、零れ落ちるようにひらりひらりと雪が降っていた。

 勢いこそないものの、昨夜の内からもう降り始めていたようで、柔らかい新雪が昨日の私たちの足跡をすっかり隠してしまっていた。

 村の中ではちらほらと、朝の早い村人がせっせと雪かきをしているようだった。

 

 しかし雪か。

 これはまた、今日は、

 

「寒くなりそうだね」

「あったかくなりそうですね!」

 

 言って、思わず顔を見合わせる。

 雪がちらつき、そうでなくても背の低いリリオなんかは隠れてしまいそうな雪の小山が道沿いに積み上げられているような光景は、どう見ても寒い。いかにも雪国といった寒そうな光景だ。

 でも言われてみると、そんなに寒くない気もする。吐く息は白いけど、もう慣れてしまったくらいのものだ。特別寒い感じはしない。

 最近になってはじめて知った、寒いの上位種である凍ると痛いとがまだ来ないくらいだ。

 

「雪国の人間じゃないとわかんないだろうけど、雪の日の方があったかいのはほんとよ」

「ええ?」

「分厚い雲があるってことは、それがあったかい空気を逃がさないってことなのよ。蓋されてるのね」

「……成程」

 

 放射冷却の逆、という感じかな。雪国の人は経験則でそれを知っているのか。

 

「それに、雪ってあったかいのよ」

「それはさすがに冗談?」

「これもほんと。雪の下に野菜とか埋めて保管するって話、したっけ?」

「聞いてない」

甘藍(カポ・ブラシコ)とか、大根(ラファーノ)とか、林檎(ポーモ)とかをね、収穫した後、雪の下で保存するのよ」

「凍っちゃわないの?」

「凍っちゃわないのよ。雪って、雪洞(イグロ)とかと一緒で、熱をあんまり通さないの。だから、雪自体は冷たいんだけど、もっと冷たい外の寒さは通さないから、凍らずに、けどよく冷えるのよ」

「自然の冷蔵庫、氷室だね」

「そうね、普通の氷室より冷たいけど……そうして保存した野菜ってなんでか甘くなるのよね。まだ雪が積もる前、降り始めの頃なんかは、寒さにさらされた雪菜(ネヂャフォリオ)とか紅根菜(スピナーツォ)とかも甘くなるし」

 

 いわゆる越冬野菜ってやつだ。

 私もまだ食べたことはない。と思ったけど、もしかしたらカンパーロで頂いた料理の中に使われていたのかもしれない。普通に美味しい美味しいと何も気にせずにいただいていたけど、あれがそうだったのかもしれない。

 

 村長さんがのしのしやってきて、例の摩訶不思議な辺境訛りで私たちに何か告げる。

 私に伝わりやすいようにと、あるいはもともとの性格として、他の村人に比べて身振り手振りが大げさというくらい大きいので何とかそこから読み取ろうと挑戦はしてみているのだが、さっぱりわからない。

 もしかしたらろくろ回すポーズ的な、特に意味のない奴なのかもしれない。

 この世界の人、というか帝国の文化圏的に、そういう身振りが結構大きめなのは確かだ。PBSほどではないにしても、BBC程度には。

 

「ウルウ、そのわかったような曖昧な笑顔と適当な相槌は止めた方がいいですよ」

「通じてると思われるわよ」

「お国柄っていうか、そういう癖が染みついててね……」

 

 駄目だとはわかっているんだけど、なかなか抜けない悪癖だ。

 この国の人たちは、大なり小なり基本的に自分の意見はきちんと言うし、聞く方もちゃんと聞く。わからないことはわからないと言う。態度で示す。

 相手が気を悪くするかもとか、気恥ずかしいとか、そういう骨に染みついたやり方はこの国では通じない。

 言葉よりも仕草や目線で会話する節のある、この寡黙な雪国の人々も、それはきちんと通じているからこそだ。察してくれなんてのは甘えだね。

 

 私は改めてさっぱりわかりませんという顔で村長の言葉を聞き、そしてリリオの通訳に耳を傾けた。

 

「空読みによれば、昼くらいまでは穏やかですけど、えー、昼過ぎから風が出始めて、荒れるということです。えー、かなり荒れるみたいです。明日の朝には落ち着くみたいですので、今日は出発を控えた方がいいと」

「空読みっていうのは?」

「空の神の神官よ。その地方の空の具合をずっと研究してるから、天気を先読みできるの。辺境は空が落ち着かないけど、それでも五割を下ることはないわ」

 

 五割の天気予報か。

 どういう道具を使ってどういう加護があるのか知らないけど、通信機器も人工衛星もなしで五割行くんならかなりの的中率じゃなかろうか。しかも、不規則に風精が荒れてるとかいう辺境の特殊な空を相手にそれだ。

 

 急ぐわけでもなし、あえて予報に逆らうのも馬鹿らしい。

 私たちは雪男もとい村長さんの忠告を素直に聞き入れることにして、竜車を止めさせてもらった村長宅の裏手に回った。

 そこではマテンステロさんが腹ごなしの運動といわんばかりに、竜車に上って積もった雪を幅広の角スコップみたいので投げ捨てていた。

 スコップって言っても、ブレードの部分も木製だから、(すき)とか、船のオールとか……ああ、あれだ。あの、なんていう名前かは知らないけど、ピザを窯に突っ込むときに使ってるあの木のでっかいしゃもじみたいなやつ。あれみたいだよね。

 

 私から見たら危うげなくやってる感じなんだけど、あれでマテンステロさんも雪国の生活あんまり得意ではないっぽいので、リリオとトルンペートがやや不安げに見上げていた。

 

「奥様だからケガとかは心配しないけど……落っこちたり埋まったりはしそうよね」

「するんだ、やっぱり」

「気を付けてても、事故はあるもの。埋まってそのまま春になってようやく見つかるなんてこともあるわ」

 

 怖っ。

 見回してみれば、他の家なんかでも、屋根の雪下ろしをしてる。

 家の人がやってたり、高所作業の得意な土蜘蛛(ロンガクルルロ)の人が手伝いでやってたりするみたい。天狗(ウルカ)の人は、あんまり腕力が続かないので向かないそうだ。あと性格的に。

 確かに、慣れた人の作業を見てると、マテンステロさんは危なっかしい。

 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の、鎚矩(ファベルユスフ)とかいう氏族の人たちらしいんだけど、大工仕事が得意らしくて、彼女らの働きぶりは実に慣れたものだった。

 動きっぱなしで暑いのかやや薄着のまま、するするとはしごを登り、命綱を張り、四本の腕で計画的にてきぱきと雪を下ろしていく。

 マテンステロさん、命綱どころか立ち位置も滅茶苦茶で、なんとなくで手近な雪をポイポイ捨ててるし。

 

 結局見かねたリリオが加勢に出たので、私とトルンペートは親子の時間を邪魔しないように暖かな村長宅に避難するのだった。

 




雪洞(イグロ)
 いわゆるかまくら。イヌイットのイグルーのようなものから、雪を積み上げて掘るかまくらのようなものまで。辺境では冬場によくつくられる。

雪菜(ネヂャフォリオ)(Neĝa folio)
 実はこれが、と決まった野菜の名前ではなく、雪の時期に収穫する葉物のこと。
 そのため地方によって別ものを指すことも多い。
 北部、辺境にてよく用いられる呼称。

紅根菜(スピナーツォ)(Spinaco)
 ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属の野菜。
 赤い根には鉄分を多く含むとされる。
 高温化では自身の成長と生殖に励むので、冷涼な環境の方での栽培が多い。
 収穫前に寒さ、またさほど多くない程度の雪の下にさらすと、葉が縮むが糖分やビタミンなどの濃度が上昇する。
 これを寒締めという。

・越冬野菜
 晩秋に収穫した野菜を畑に放置し、雪の中で冷蔵貯蔵して保存食とする方法。またその野菜。
 冷蔵保存されて新鮮なまま冬季の食材となるだけでなく、糖度が増して甘みが増す。

・PBS/BBC
 それぞれPublic Broadcasting Service、British Broadcasting Corporationの略。
 前者がアメリカの、後者がイギリスの公共放送局。
 ウルウの主観では、アメリカ人の方が身振りが大きく、イギリス人の方が皮肉が利いている。

・空読み
 空模様を読んで天気を予測する人。
 特に空の神の神官のことを言う。
 神からの託宣に頼るだけでなく、独自に統計資料などをまとめており、土地によるがかなり正確な予報が出せるようだ。

・幅広の角スコップみたいの
 雪かき用の円匙(ショベリロ)
 土などを掘る必要がないため、軽さを優先し、また消耗品として、先端まですべて木製のものも多い。
 硬い氷などを砕く際には鶴嘴や金属製の先のとがった円匙(ショベリロ)を用いる。
 なお、軽銀(アルジェンテート)製の雪かき円匙(ショベリロ)もあるが、貧しい村で使うことはまずない。消耗品だし。

・ピザを窯に突っ込むときに使ってるあの木のでっかいしゃもじみたいなやつ
 ピザピール、またはピザパドルなどと呼ばれることが多いようだ。
 見た目がそれらしく見えるので、ピザを提供する際に柄の短いものが皿代わりに使われることも。
 木製のものはへらが分厚く、また焼けてしまうので、ピザを放り込むときには使えるけれど、取り出したりちょっと動かすにはあまり向かない。
 そのため金属製のピザピールで取り出すことが多い。と思う。

鎚矩(ファベルユスフ)
 地潜(テララネオ)と並んでよく知られる大工仕事を得意とする種族。
 鎚矩(ファベルユスフ)が骨を立てて地潜(テララネオ)が肉付けすると言われるコンビネーションで、芸術的な彫刻に飾られた建築物などが建てられることも。
 建物そのものだけでなく、建具や家具、船なども手掛ける。
 ただ、土蜘蛛(ロンガクルルロ)によく見られる芸術家気質は抜けないもので、ちゃんと納期を切って見張る監督役がいないと、数十年がかりで世紀の大建築物を、とか平然とやりかねない。
 地潜(テララネオ)と比べると細身だが、足腰はしっかりしておりバランス感覚や三次元知覚に優れる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 鉄砲百合と内職日和

前回のあらすじ

異世界水曜どうでしょう。
雪と戯れるというか、雪に遊ばれているというか。


 いまはちらちら降るくらいだけど、夜のうちに結構積もっちゃったみたいね。

 適当に雪下ろしやってる奥様にはリリオのやつが心配して加勢にいったし、あたしとウルウは引っ込むことにした。

 でもその前に、ウルウが飛竜たちを気にした。

 

「雪が降る日はあったかい、って言ってたけど、そもそもが冬で寒いし、これから荒れるんでしょ。キューちゃんたちは大丈夫かな」

 

 さすがに飛竜がすっぽり入れるような空き家も倉庫も洞窟もないから、キューちゃんピーちゃんの二頭の飛竜は野ざらしだった。

 あたしは大丈夫だろうってことを知ってるけど、ウルウはちょっと心配そうなので、安心させてやるためにも見に行くことにした。

 

 村人が怯えないように、またうっかり野良飛竜と間違われて狩りの準備なんかされないように、飛竜たちは村長宅の軒下で丸くなって夜を過ごしていた。

 あたしたちがのぞき込んだときも、二頭はぴったり寄り添って丸くなり、寝息を立てていた。

 自分で掘ったのだろう、雪に半分以上埋もれて、背中にもいくらか雪が積もった状態だけど、近くによるといくらか暖かい。

 

「……なんか、このあたりだけあったかくない?」

「飛竜自体体温高いのと、風精操って分厚い毛布みたいにしてるんじゃないかしら」

 

 雪に掘った穴に自分から埋まって、背中側は風精で蓋して、保温性の高い雪洞(イグロ)みたいにして休んでるんでしょうね、これ。

 器用なことだ。これがもともとの飛竜のやり方なのか、奥様と一緒にいるうちに器用になったのかは知らないけど。

 

 何しろ、そもそもが極寒の北大陸からやってくるような超生物だ。

 このくらいじゃびくともしないみたい。

 さすがに龍の顎の向こうのことは、辺境の人間だってわかりやしないけど、辺境より北なのに辺境よりあったかいってことはないでしょうよ。

 第一、あったかいんならわざわざ寒い辺境までやってくることもないし。

 

 ウルウが暖かい膜みたいな不思議な空気を確かめるみたいに手を出したり引っ込めたりしていると、急に背中を押されるように風が吹いて、あたしたちはつんのめるように飛竜たちに飛び込んだ。

 するとわさわさと翼が大きく開き、それが巻き付くようにして、あたしは子竜のピーちゃんに、ウルウは親竜のキューちゃんに捕まってしまった。

 なんということだ。近くに熱源を見つけた二頭が、いい湯湯婆(ヴァルマクヴヨ)とばかりにあたしたちを捕獲してしまったのだ。

 もふもふふわふわもこもこのあったかい生き物に包まれてしまったあたしたちは、もはやこの超生物の拘束から逃れようもなく、飛竜臭に包まれて死ぬまで湯湯婆(ヴァルマクヴヨ)をさせられるのだった。

 

 なんて遊んでたら眠くなってきたけど、二頭ともお腹が空いてきたのか、あたしたちをぺいっと放り出して、竜車に餌をあさりに行ってしまった。

 ちぇっ。

 

 取り残されたあたしたちが村長宅に引っ込み、生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)を頂いてほっと一息つく頃には、竜車の雪下ろしを終えた奥様達、それに屋根の雪下ろしと雪かきをしていた村長達も帰ってきた。

 途端に人口密度が増したけれど、それでも田舎の家というものは広いものだから、囲炉裏の傍にみんな集まると、やっぱり背中の方は寒々しい。

 

 さて、やることもないけどどうしようか。

 晴れてるなら出発するか、ちょっと大糖蜜楓(メガミエラチェロ)とか楓蜜小屋とか見に行こうかと思っていたけど、雪じゃあ外に出る気もしない。

 あたしたちがぼんやり生姜湯(テオ・デ・ジンギブロ)をすすっていると、村長や家の人は、普段の通りになんだろう、せっせと内職を始めた。

 

 農村で暇な時といえば、いやまあ、暇なときなんてないという言い方もできるけど、外にも出れず畑仕事もできない、家畜の世話もしてやったってときに何をするかっていうと、内職なのだ。

 内職もいろいろあって、機織とかみたいに売りに出すものを作るっていうのもあるけど、ほとんどは自分たちで使う日用品や消耗品を作る。

 蚕を育てている村長の家では、蚕の世話がそりゃもう一番大事な仕事ではあるんだけど、それにしたって自分たちの日々の営みも大事だ。

 物は使えば減るし壊れるのだ。

 

 内職に使う材料は、色々あるけど、もっぱら藁だ。

 藁というものは便利で、麦の類を育てたついでにとれるけど、なんにでも使える。

 家畜の餌は勿論、この家の屋根を葺いているのだって藁だし、壁にも寒さを防ぐために藁の(むしろ)を張る。作るものも、手袋や、(みの)、笠、深沓(ふかぐつ)束子(たわし)、籠をはじめとした入れ物、鍋敷きや茣蓙、箒、紐に縄と、生活のほとんどに藁が使われる。

 自分たちが使う分だけでなく、多めに作れば、売ることだってできる。

 どうしようもなく余ったって、燃えやすいから焚き付けにも使えるし、肥料にしてしまってもいい。

 焼いた灰だって、あく抜きなんかに仕える。

 

 他には、家によっては、獲れた獣の毛皮を処理したり、織物や編み物、不織布(フェルト)の衣類を縫ったり、綿入れを指し縫いしたり、やることはいくらだってあるわけよ。

 

 村長の家の人が藁を編み始めるのをぼうっと眺めているのも、なんだか居心地が悪いし、暇だ。

 ちらと横を見れば、奥様は早々に酒をかっくらって、これでもかと厚着した上に分厚い毛布にくるまって、囲炉裏傍で寝入ってしまった。

 まあ、飛竜乗りは体力使うし、そもそも寒いのがとても苦手な南部生まれの奥様なのだ。ゆっくり休んでいただこう。

 

 リリオは気張って手伝いしているけれど、向こうからしたら畏れ多いことこの上ない相手なので、端的に言って迷惑そうだった。これで腕がいいならともかく、結構不器用だから、十分なやる気に見合わずあんまり進んでないわね。

 まあ、藁で遊んで面倒ごとを言わないでいてくれるなら、と向こうも放置を決め込んだみたいだ。

 一般村人にとって、辺境貴族、特に子供は歩く爆弾みたいなもんだものね。

 比喩じゃなく、力加減間違えたら爆弾みたいな被害出すし。

 

 ウルウはそれを見て、引っ込み思案を思いっきり顔に出しながらも、真似してやり始めた。

 こっちはリリオと違って順調だ。

 一番手際のいい村長の真似をしているのもあるし、たまに忘れそうになるけどこいつ、一度見たものは忘れないとかいう特技があるので、工程を間違えないのだ。

 もちろん、実際の技術は見たからってすぐ真似できるものではないけど、元々そこそこ器用だし、ちまちました手作業が性に合っているのか、飽くことなく無心に編み続けるので、仕事は早い。

 早々に飽きてきたらしい村長のお子さんだかお孫さんだかにじーっと見つめられてやりづらそうだが、精々懐かれるといい。もうちょっと対人対応力を高めるがいい。

 

 さて。

 あたしはというと、藁仕事は遠慮しておくことにした。

 面倒くさいとかそういうことではなく、せっかく時間ができたんだから、最近さぼりがちだった道具の手入れをしようと思ったのだ。

 武装女中たるもの、道具の一つ一つをきちんと手入れして、いついつでも万全な状態を保たないと、とは思うんだけど、旅すがらだと全てを万全にってのは難しくて、最低限の手入れにとどまっちゃうからね。

 

 調理器具やらはウルウの馬鹿みたいな《自在蔵(ポスタープロ)》に預けてるけど、自前の武器はもちろん自分で装備したり、自前の《自在蔵(ポスタープロ)》に収めてる。

 それを、囲炉裏から遠くて寒いので人気のないあたりに、一つ一つ抜いては並べていく。

 興味津々の子供の目があったけど、しっしっと追い払ってウルウに押し付ける。子供は嫌いじゃないけど、好きでもないし、第一危ないものね。

 

 まず、飛竜紋の武装女中の標準装備であり、規格品である、鉈、手斧、短剣。

 これは使うかどうかはともかく、みんな持ってるし、ちゃんと装備してる。前掛けの飛竜紋と同じく、正規の武装女中だって証明するためのものね。なりたての武装女中にもちゃんと用意してあげられるように規格化されたものってことでもあるけど。

 だからこれ、売るのは勿論、落としたり盗まれたりしたらものすごく怒られるわ。新しいのは結構高いお金払って買わなきゃいけないし。戦闘や実用で消耗したり壊れた分には、かなり割り引いてくれるけど。

 そういう品だから、市場に出回ってたらすぐ回収されるわね。それでも好事家の貴族とかが持ってたりすることはあるらしいけど。さすがに貴族相手にはそんなに強く出れないものね。

 でも飛竜紋でもない武装女中に装備させたりしたら、武力行使で回収するらしいけどね。

 

 これらはみんな、特別な魔術はかかっていないけれど、地潜(テララネオ)の職人たちによって鍛え上げられた恐ろしく頑丈な品々だ。錆びづらく、欠けづらく、曲がりづらい。で、ちょっと研ぎづらい。

 純粋に質がいいから、それ目的でも狙われたりするわね。

 それをあたしたち武装女中は、戦闘よりももっぱら野営中の道具として実用してるんだけど。

 

 他に実用品として、規格品じゃないけど、結構持っている武装女中が多いのが、円匙(ショベリロ)だ。穴掘るのに使えるし、ぶん殴るのにも使えるし、盾にもなるし、鍋がない時は最悪これで調理もできると、何かと便利だ。野営が多い冒険屋も持ってる人が多い。

 あたしが持ってるのは便利な組み立て式。匙部分と、柄の真ん中部分と、取っ手部分の三つに分かれている。全体が中空で、取っ手の方の柄は少し太く、ここに真ん中部分の柄を差し込んで、匙部分は外して、短く収納できる。固定するときは、蝶ねじでとめる。

 柄が中空だし、あんまり頑丈じゃないけど、その分ちょっと軽いし、長さも調節できる。

 それに不銹鋼(ルスティムナージョ)製で、お手入れが楽だ。

 咄嗟に引き抜くには向かないけど、まあ、そういう武器扱いする人は、もっと頑丈なのを買う。

 リリオなんかは、そもそも柄の短い、小さいものを持ってるわね。

 

 それから、短剣やら、短刀やら、針やら、金串やら、剃刀やら、まあ刃物の類は数が多いわね。

 《自在蔵(ポスタープロ)》に入ってる分は勿論、普段から身に着けてる分が多いのよ。

 腰帯に帯びてるのとか、袖や襟、前掛けや靴に仕込んでるのとか。髪をお団子に結い上げた髪留めなんかも、強度と鋭さがあるやつだし。

 裳袴(ユーポ)の裾にも仕込んであるし、靴下留めにも仕込んであるし、なんだかんだ、あたしって見た目以上にかなり重装備してるのよね。

 一つ一つ抜いて並べてったら、いつの間にか見物してたみんなに、感嘆ともドン引きとも取れる声を上げられちゃった。

 

「商売でも始めるの?」

「売りもんじゃないわよ」

 

 あたしの売りは技術(ワザ)なんだから。

 

 刃物の類の次は、暗器だ。いままでのも暗器じゃないかって言われると、まあそうなんだけど。

 でもいままでのは、ちゃんと武器ですよって腰に帯びてるのもあったし、隠してるのだって、どこに隠すかっていうものだった。

 あたしが言う暗器は、どこに隠すかじゃなくて、いかに隠すかっていう物だ。

 

 例えば、あたしは買い物にも使う戦闘用財布を腰から外す。

 言い間違いじゃないわよ。戦闘用財布。

 革製の、細長い袋状で、口を紐で絞って閉じるやつなんだけど、これに砂とか三角貨(トリアン)とか一杯詰めるじゃない。で、絞って、ぶん殴る。こうすると、棍棒みたいな攻撃ができる上に、柔らかいから外傷が残りづらいのよ。

 裏側にいかにも飾りですよって感じでついてる(びょう)は、もちろん殴った時に破壊力が増すためについてるわ。この鋲部分で殴っちゃうと跡が残るけど。

 日常づかいもできるし、武器持ち込めないところでもしれっと持ってけるし、便利ね。

 この方法さえ知っておけば、適当な袋でも同じことできるから覚えといて損はないわ。

 

 あと、飾り紐。

 武装女中は女中だけあって、あんまり派手に装飾品とかで着飾ったりできないけど、飾り紐とかは許される範疇だから、お洒落さんなんかはこだわるわよね。

 あたしのもこだわりの品で、白く染めた人髪で編んで、極細の鋼線を編み込んだものね。

 これで締め落としても良し、拘束しても良し、小銭や石をはさんで拳に巻けば拳鍔(けんがく)代わりにもなる。先端に重しや短剣をつければ縄鏢(じょうひょう)だ。

 他にも紐や縄の類は持っていて損はないわね。

 

「トルンペートは何と戦ってるの……?」

「主を害するもの全てよ」

「格好いいやらおっかないやら」

 

 さすがに全部並べると大変なので、よく使うものだけ並べて手入れしていく。

 研いだり、ほつれがないか確かめたり、部品を変えたり。

 ここら辺はまあ、普通のお手入れよね。ウルウは興味津々で眺めてるけど、特別なことはない。

 

 で、一通り終わったら、子爵閣下に頂いた、例の短剣を検める。

 いい品物だってのはわかってるんだけど、さすがにいい品過ぎるし、装備できないでいたのよね。

 箱を開ければ、布張りの内側には十二本一組の飛竜骨の短剣が並んでる。撃剣用のもので、先は幅広。重心も先端寄りだ。

 これがまたうっとりするくらいに綺麗なんだけど、性能としても素晴らしいのよね。

 

 一回だけ、ほんとに一回だけよ、試しに投げてみたんだけど、うっとりするくらい綺麗な軌跡を描くもんだから思わず身もだえしちゃって、ドン引きされたわ。仕方なし。

 

 とはいえ、扱いがちょっと難しいのもほんと。

 風精との相性がすごくいいし、これ自体も強い魔力があるんだけど、手元から離れちゃう撃剣の性質上、あたしが遠間まで念を伝える練習か、手元から離れるときにどうしたいかをしっかり決めておかなきゃいけない。

 あたしは特別魔術が上手なわけでも、特別風精との相性がいいわけでもないから、とにかく練習あるのみだ。

 

 手っ取り早い練習として、武装女中の訓練でもやった、お手玉の要領で剣投げをする。

 短剣を頭上に投げ、それを受け止め、また投げ上げる。これを繰り返して、段々投げる短剣を増やしていくのだ。

 慣れてきたら右手の短剣は左手で、左手の短剣は右手で受け止めたり、逆に右手の短剣は右手で、左手の短剣は左手で受け止めるという風に、やりかたを変えていくと飽きないし、作業化しなくていい。

 まあ十二本くらいなら、なにしろ撃剣なら武装女中でも上位に入るこのあたしだから、目をつぶってたってお手玉できるんだけど、それじゃあ風精を操る練習にならないから、空中で回るように念じたり、あえて適当な方向に放って戻ってくるように命じたりしながらやっていくと、いい具合に頭が疲れてくる。

 

「危ないお遊びするね」

「武装女中たるもの、これくらいはできるもんよ」

「……女中関係あるの、それ」

 

 言われて考えちゃったけど、うん、関係ないかもしんないわね。

 座興ぐらいできないでは、なんて言われたような記憶もあるけど、雑技団じゃないんだから、ねえ。

 まあでも、できて損するわけじゃない。

 少なくとも今は、退屈を持て余した村長の家の子供たちが大人しくして喜んでくれているんだから、悪くはないでしょ。




用語解説

湯湯婆(ヴァルマクヴヨ)(varmakvujo)
 ゆたんぽ。金属や陶器製の容器に熱湯を注ぎ、布などで巻いて暖を取る暖房器具の一種。
 体温と熱均衡を起こし、翌朝でもぬるい状態なので、顔を洗ったりに用いることもあったという。

不織布(フェルト)(Felto)
 動物の毛を叩いたり揉んだり巻いたりして圧縮することでシート状に加工した布。
 引っ張ったりこすったりには弱いが、クッション性や保温性は高い。

・鉈、手斧、短剣
 武装女中の標準装備。規格品で、こちらにも一応飛竜紋が入っている。
 実用一辺倒であまり飾り気はない。あえて言うなら合理的美か。
 何度か改良されており、製造時期で微妙に形状などが異なる。
 前掛けと並んで辺境の武装女中の証明であり、売却・盗難・紛失は厳罰もの。
 所有者の死亡時も含めて、可能な限り回収される。
 ただし普通に使って壊れたり消耗した場合は格安で売ってくれる。
 その希少性から好事家が蒐集したがる。
 性能は実にいいのだが、調子こいて自分で使ったり、返却を求められて断ったりすると、辺境流のやり方で交渉が始まるので要注意。
 場合によっては交渉前に「もう答えんでよか!」となったりもする。

円匙(ショベリロ)
 いわゆるシャベル、スコップの類。日本ではシャベルとスコップの違いは土地によって違うが、円匙(ショベリロ)は大型のものも小型のものも含んだ総称。
 塹壕で一番人を殺した武器でもあるとかなんとか。
 なんで穴掘りの道具を冒険屋がみんな持っているかといえば、序章で実用シーンがあるので確かめよう。

・蝶ねじ
 頭の部分が蝶の羽のように広がっており、ねじ回しではなく手で直接回して締めたり緩めたりできる。

不銹鋼(ルスティムナージョ)(Rustimunaĵo)
 錆びない鉄(ルスティムナ・シュターロ)の省略。
 錆びないわけではなく錆びにくい合金鋼。
 鉄と比べると加工難度が上がり高価だが、お手入れは格段に楽。

裳袴(ユーポ)(Jupo)
 腰より下を覆う筒状の衣服。
 スカートのこと。
 恐ろしいことに、辺境の武装女中はスカートで森も山も雪の中も踏破してきやがったようである。
 まあ、さすがに雪の中では、下に厚手の長靴下は履いているようだが。

・見た目以上にかなり重装備
 武装女中は見た目も大事なので、武器を隠すように装備することはありふれている。
 もっとも、トルンペートほど隠し持っているものはさすがに珍しいが。

・戦闘用財布
 我々の世界ではブラックジャック、サップなどと呼ばれる暗器・武器。
 類似品でスラッパーなども。
 砂や金属片などを詰めて殴ることで攻撃する鈍器。
 普通の棍棒と違って柔軟性があり、衝撃が相手の体内に浸透するため、外傷が残りづらい。
 そういう発想のある人間にとっては、世の中の大抵のものは「戦闘用」と頭につければそれだけで武器になる。

・拳鍔
 けんがく。メリケンサックのこと。

・縄鏢
 端的に言えば投げナイフに縄のついたもの。
 索撃武器。

・撃剣
 剣投げの技のこと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合と殺竜館

前回のあらすじ

ナチュラルにワンマンアーミーな装備している女中。
これだけ武装しておいて一番非力という。


 一夜明けて、日の出るか出ないかという早朝に、私たちは目を覚ましました。

 何しろ今日のうちに領都まで辿り着きたいですから、早めに出ないといけません。

 ちらっと外を伺ってみましたけれど、ちらちらと細雪がちらついてはいますけれど、空読みによればもう荒れることはないだろうとのことでした。

 

 頂いた朝食の蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)に、ウルウがひっそりと醤油(ソイ・サウツォ)かけまわしたり、私もあたしもと取り合ったりと騒動はありましたけれど、私たちは手早く準備を整えて、早速出発することにしました。

 

 キューちゃんピーちゃんも大きなあくびをしながらお目覚めで、竜車につなぐと大きく翼を広げてひとつ伸びをしました。

 野生種の飛竜は、村人からするとやっぱり猛獣害獣の類ですから、遠巻きに恐れるような声が上がりましたけれど、二頭とも全く気にせずのしのしと村の中を歩いていきます。

 

「辺境人はみんな飛竜をおやつ代わりに狩ってるって内地では言ってたよね」

「さすがにそこまではありませんよ」

「そうよ、おやつ代わりってのはねー、なんぼなんでもないわ」

「だよねー」

「たまのご馳走よ」

「えっ」

 

 このあたりで野良飛竜が出てくるってことは、龍の顎を必死こいて抜けだして、荒れる空に揉まれて、お腹も空いていればすっかり疲労もしている個体です。

 結構元気が残ってるとさすがに村人ではどうしようもなくなって騎士とかが呼ばれるんですけど、矢避けの加護も満足に張れないくらい疲れてたり手傷負ってるのは、ちょっと手ごわいお肉です。

 矢とか槍とかに縄付けて何発も打ち込んで、引っ張り続けて体力を奪って、その間も雨あられと射かけ続けて、徹底的に囲んで仕留めるのが農民の飛竜狩りです。別に革とかは取らなくてもいいやって考えなので、傷つけてなんぼです。流れる血の分だけ体力を奪えます。

 大体まあ、三日ぐらいかかることもざらですね。

 うまくいけば怪我人だけで済みます。

 

 村人たちが朝からせっせと雪かきしてくれた道を抜けて、竜車は街道に出ました。

 こちらも随分早くから除雪車が巡回していたようで、よくよく固められた雪道が伸びていました。

 ありがたいことですね。二頭とも器用なので、軽い新雪程度なら風を操って吹き飛ばせるでしょうけれど、やらないで済むならその方が消耗が少ないですしね。

 それに、雪除けに使う分を、加速に使えるので速度も上がります。

 はっきりとした仕組みはよくわからないんですけど、ウルウがなんとなく風精の動きを見れるので、多分だけどと前置きして説明してくれました。

 それによれば、まずひとつに、足元に風精を固めて空踏みの要領で足場をつくり、沈みづらくしているそうです。それから、追い風のように風を吹かせて、それを翼で受け止めて加速しているようです。

 

 飛竜と言うのは空を飛べばもちろん速いですけれど、このようにして地上も恐るべき速度で駆けるものなんですね。

 飼育種だとちょっと馬力が足りないのでもうちょっと速度が落ちるんですけど、二頭は体も大きいですし、大きくて重い竜車を牽いても全然平気そうです。

 

 あんまり変わり映えすることのない雪道をひた進み、道々いくつかの村を通り過ぎ、お昼ごろになって休憩です。

 走り通しで流石に二頭も疲れたのか、雪の中に突っ伏して、熱くなった体を冷やしているようでした。

 お母様もすっかり疲れて、キューちゃんの背中で横になりました。

 

「地面の上走ってると、空の上と違って、揺れが直接来るのよ。それに足をたくさん動かすから、背中のお肉も激しく動くのよね」

 

 この辺りは普通の乗馬と同じような振動などが、もっとずっと大きくなって襲い掛かってくるみたいでした。大きいから安定するというわけではないんですね。

 それに、飛竜の駆け方というものは、結構跳ねるような動きがあるみたいですし。

 

「上空が荒れてるんならさ、こう、低空を飛んでくのは難しいの?」

「えーっと、どうなんでしょう」

「難しいわよー。上空だと、地上まで距離があるから色々余裕あるけど、低空飛行だとちょっと落ちたらすぐだもの。頼りの大気の厚みも全然足りないし、かといってちょっと上ったらすぐに荒れるし。キューちゃんも私も神経使うから嫌よ」

 

 とのことでした。まあ私たちはお母様の操る飛竜で旅していくわけですから、お母様が一番楽な方法でお願いする外ないですね。

 お母様が駄目だったら、私たち誰も飛竜に乗れませんからね。

 

 というわけで、お母様にはゆっくり休んでいただいて、私たちで昼食の準備です。

 この時期は狩りで獲物を探すのも大変ですので、手持ちでやりくりしましょう。

 まあ、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の場合、ウルウという例外存在がいるので、手持ちがえらいことになってるんですけど。

 もうお粥は嫌だという顔のウルウのためにも、塩気のあるものを用意してあげましょう。

 

 何はともあれ竈をいくつか作り、鍋に湯を沸かして暖を取りながら作業です。

 トルンペートは粉に卵と乳を加えて練り、何かの生地を作りはじめました。

 私はどうしましょうかね。刻み鰊(ムエラ・ハリンゴ)でも作りましょうかね。

 えーっと、馬鈴薯(テルポーモ)を茹でて、その間に玉葱(ツェーポ)を微塵切りにします。細かい方がいいですね。でもすりおろしちゃうとまたなんか違うので、あくまで細かい微塵切りです。

 

 玉葱(ツェーポ)を刻んだら、塩漬け(ニシン)も刻みます。

 鰊はですね、鰊は海のない辺境でも一応とれるんですよ。ペクラージョ湖に住んでるんですよね。数少ない海……まあ、海の魚です。

 鮭と鰊と塩蝶鮫(ペクリタフーゾ)……あとなんかいましたっけ。細かいのはいるかもです。良く知らないっていうくらいですね。

 なのでお馴染みの味ではあるんですけど、やっぱり豊富な海の魚介には憧れますよね。

 塩漬け鰊はもう、徹底的に刻んでいいです。

 粘り気でるくらいまで刻んでいいです。挽肉ですね、言ってみれば。

 

 両手に包丁を持ってひたすら無心に叩いていると、トルンペートも玉葱(ツェーポ)を刻んでいました。こちらは私みたいに細かくなく、普通の微塵切り。そしてウルウに頼んで挽肉を取り出していました。むむ。便利です。

 その玉葱(ツェーポ)と挽肉に塩と香辛料を加えて、ひたすらぐっちゃりぐっちゃりまぜ始めました。粘り気が出るまで大変なんですよねえ、あれ。

 

 こちらはいい感じに刻み終えたので、馬鈴薯(テルポーモ)の様子を見ましょうか。そっと串を刺してみれば、いい具合です。

 取り上げて、熱々のまま布巾で表面を抑え、皮をむいていきます。熱いうちじゃないと綺麗にむけませんから、大変です。

 火傷しないように気を付けて皮をむいたら、丁寧に潰して、乳と乳酪(ブテーロ)を加えて混ぜ合わせます。これに味付けたら潰し芋(テルポーマカーチョ)として一品なんですけど、今日はこれが材料です。

 

 潰し芋(テルポーマカーチョ)が程よく冷めたら、玉葱(ツェーポ)と鰊を加えて混ぜ合わせます。味は、塩漬け鰊の塩気が濃いので、ちょっと粉胡椒(ピプロ)と、蒔蘿(アネート)を加えるくらいでいいですね。

 偏らないようにきれいに綺麗に混ぜてやれば、刻み鰊(ムエラ・ハリンゴ)の出来上がりです。

 これをこのまま麺麭(パーノ)にぬって食べても美味しいですけれど、今日は焼きましょう。寒いですしね。

 トルンペートの方がある程度仕上がったら焼くことにして、手のひらより小さく小分けにしておきます。

 

 それで、向こうはどんな感じかなと見てみれば、さっきまで練っていたと思っていた挽肉はもう仕上がっていて、最初に練っていた生地で作ったらしい皮でせっせと包んでいました。

 ウルウが。

 最初にやりかただけ教えられたらしいウルウが無心で包んでいく一方でトルンペートが何をしているかと思えば、血蕪(サンガベート)玉葱(ツェーポ)人参(カロト)、塩漬け甘藍(カポ・ブラシコ)根塘蒿(トゥベルセレリオ)といった野菜を千切りにしたもの、あ、それに蕃茄(トマト)ですかね、それらを炒めているところでした。

 しかも合間合間で生地をちぎって丸めて伸ばして、ウルウに皮を寄越してます。

 私が一品に必死こいている間に片手間で二品目作ってました。恐るべし。

 

 炒めた野菜類を、鹿節(スタンゴ・ツェルボ)で出汁とったお鍋に放り込み、月桂樹(ラウロ)の葉と胡椒(ピプロ)を加えて煮込みはじめたら、手が空いたので皮を量産してますね。私も包むのを手伝いましょう。

 こう、丸い皮の真ん中に具を置いて、半分に折るようにして端っこを留めて半月形にします。そうしたらその端と端をくっつけて止めて、耳型というか帽子型というか、そのような形にします。

 耳に似ているので、耳餃子(オルェロラヴィオーロ)というんですよ。これ。

 

 私が参加したので量産体制は整い、せっせと耳餃子(オルェロラヴィオーロ)が包まれては並べられて行きます。

 トルンペートはそれをしり目に、鍋にモンテート要塞で貰った塩漬竜脂(ドラコグラーソ)を贅沢に放り込み、大蒜(アイロ)を卸し入れました。肉を使ってないみたいですし、白脂(グラーソ)入ってないと脂っ気が足りないですもんね。

 塩を加えて味を調えたら、火から下ろして寝かせたいところなんですけど、まあ今日はお腹空いてますしさっさといただいてしまいましょう。

 トルンペートはそこに包み終えた耳餃子(オルェロラヴィオーロ)を放り込んでいきます。

 これは、あんまり見ないですね。

 でもまあ、美味しいものと美味しいものを組み合わせれば美味しいに決まっています。

 

 コトコト煮て耳餃子(オルェロラヴィオーロ)が茹で上がる間に、私は先程の刻み鰊(ムエラ・ハリンゴ)を浅鍋で焼いていきます。そして食器を洗うのが面倒なので、焼きあがったら直接、切り分けた黒麦の麺麭(セカル・パーノ)に乗せていきます。

 うっかりそのまま食べてしまいそうになりましたけれど、全部焼きあがるまで我慢です。

 そうこうしている間に耳餃子(オルェロラヴィオーロ)も茹で上がり、お母様も起きてきて、お昼御飯の時間ですね。

 

 ウルウがまず驚いたのは、耳餃子(オルェロラヴィオーロ)の入った紅煮込み(バールチョ)でした。

 

「えっ赤っ……赤過ぎない?」

血蕪(サンガベート)というお野菜の色が出てるんですよ。見た目だけで、味は普通ですのでご安心を」

「ふーん……ボルシチみたいな感じなのかな」

 

 紅煮込み(バールチョ)には酸奶油(アツィドクレモ)と、蒔蘿(アネート)の葉をちぎって添えました。酸奶油(アツィドクレモ)はやや酸味がありまったりとした奶油(クレーモ)で、なんにでも使える便利な調味料ですね。

 恐る恐る口にしたウルウは、意外と穏やかな味わいに驚いてくれました。

 そう、血蕪(サンガベート)は色は凄いですけれど、味はあんまりないというか、穏やかなんですよね。なので具材の味と塩気の素朴な味わいなんです。

 今回はお肉を入れていないので旨味がちょっと乏しいんですけれど、そこを塩漬竜脂(ドラコグラーソ)と、耳餃子(オルェロラヴィオーロ)が補ってくれています。

 

 耳餃子(オルェロラヴィオーロ)は、ウルウ曰く「スイギョウザみたい」とのことでしたけれど、これがまたたまらない美味しさです。

 口の中にとぅるんと放り込んでかじると、もっちりと柔らかい皮が歯にも心地よく、丁寧に練った挽肉の具はぷりんぷりんとして食い応えたっぷりです。

 

 私の刻み鰊(ムエラ・ハリンゴ)は、生で麺麭(パーノ)に塗って食べると鮮烈でいかにも前菜といった感じなんですけれど、焼き上げることでちょっとした軽食くらいまで食べ応えが増しますね。

 黒麦の麺麭(セカル・パーノ)と一緒にかぶりつくと、じゅんわりと肉汁というべきか魚汁というべきか、旨味たっぷりの熱々のお汁が溢れて口の中に広がります。

 これを大きく頬張って口の中で味わうことの何としあわせなことでしょうか!

 潰し芋(テルポーモカーチョ)を混ぜ込んでいるので、かさ増しみたいに思えるかもしれませんけれど、このお芋の素朴な味わいが、ちょっと強いかなっていう塩漬け鰊をしっかり受け止めて、程よい具合に落ち着かせてくれているんですね。

 とりあえず入れてみよっかなと千切り入れた蒔蘿(アネート)の爽やかな香りが、ともすれば魚臭く野暮ったくなりそうなところをうまい具合に引き締めてくれています。

 

 なんだかんだお腹空いていたんでしょうね。

 けっこうたくさん作ったつもりの耳餃子(オルェロラヴィオーロ)もすっかり食べ尽くしてしまって、私たちはすっかり満たされてしあわせな気分で後片付けを終え、また竜車の旅を再開するのでした。

 

 竜車は軽快に進み、日が沈むちょっと前に、何とか領都であるフロントの町にたどり着きました。

 ここまでくると、壁のようにそそり立つ臥龍山脈の威容がはっきり見て取れますね。

 長く滞在したヴォーストの町も、臥龍山脈に連なる山々である(ヴォースト)(・デ・)(ドラーコ)の麓でしたが、あれなども臥龍山脈そのものと比べると全く丘のようなものです。

 冒険の神ヴィヴァンタシュトノただ一人が登頂できたとも言われるその標高は、伝説によれば三万四千尺に達するとされます。これは交易尺で一万四百メートル近くにもなります。

 そしてその山肌たるや、極めて急峻なことは鹿の類すら拒絶し、所によっては壁のような断崖絶壁、鼠返しのように反り返った場所さえあると言います。

 そしてただ高いだけでなく、辺境上空の風精の乱れは臥龍山脈付近で最大となり、ほとんど狂気の沙汰といっていいほどに荒れ狂っているのだそうです。

 

 その臥龍山脈を背にするように築かれたフロントの町は、背の高い石造りの立派な城壁に囲まれていました。分厚く、頑丈な造りは、帝都のそれにも勝るとも及ばない程でしょう。

 時間も遅いので人の出入りもすっかりなくなり、そろそろ閉めようかとしているこれまた重厚な扉に急ぎ向かえば、門番の衛兵がすぐに見つけてくれ、下にも置かない扱いで出迎えてくれました。

 

「これはこれは! リリオお嬢様! それに! ああ! 奥様! お帰りになられたのですね!」

 

 感涙せんばかりの衛兵が声高に私たちの来訪を告げると、詰め所は上を下への大騒ぎで、高らかに喇叭が吹き鳴らされ、私たちの到着を待って控えていたらしい、土蜘蛛(ロンガクルルロ)──足高(コンノケン)の女中がすっ飛んできました。

 えーっと、この子は武装女中の、なんでしたっけ。よく使い走りさせられているので、ゆっくり話したことない子ですね。

 

「三等武装女中のデゲーロよ」

「ああ、そうそう、その子です」

「お嬢様、奥様、おかっかかえられませ!」

「なんて?」

「しっ失礼しましたっ。噛みましたっ!」

「いいわよぉ。お迎えありがとうね」

「きっ、きょーえつしごく? しごくですっ!」

 

 元気のいい子ですね。あわてんぼうな感じですけど。

 

「えっ、えっ、えーとっ」

「落ち着きなさいよデゲーロ。()()()()()()()のははんかくさいわよ」

「せからしかっ! ああっ! 失礼しましたっ!」

「ほらほら落ち着いて」

「ひっひっふー……ひっひっふー……えーっと、御屋形様もお待ちです。旅でお疲れとは思いますが、早速参りましょう!」

 

 デゲーロはあわただしくそう言って、とっとこ自前の足で走って私たちを先導してくれました。

 足高(コンノケン)は馬車と同じくらいの速度で、馬車と同じくらいの体力で走れますから、こういう先導もお手のものです。

 

 竜車はただでさえ珍しいのに、野生種の飛竜が牽いているとあって、道中は視線を集めること甚だしく、町中にどよめきが走りました。

 そして騎乗したお母様や私の姿が見つかるや、人々は私たちの帰りに驚きながらも出迎えの言葉をかけてくれたのでした。

 

 正門からまっすぐに続く大通りを進んでいく先を見上げると、まるで空まで届く巨人が大鉈で綺麗に真っ二つにしたような山脈の切れ目が、龍の顎がそこにはありました。

 そしてその麓、龍の顎の端から端までに広がる壁こそが、館にして、要塞である、私の実家なのでした。




用語解説

刻み鰊(ムエラ・ハリンゴ)(Muela haringo)
 刻んだニシンとマッシュポテト、刻み玉葱を混ぜ合わせた料理。
 パテとしてパンに塗って食べたり、焼き上げて食べたりする。
 もっぱら朝食に食べられるほか、軽食としても出される。

潰し芋(テルポーマカーチョ)(Terpoma kaĉo)
 蒸した、または茹でた馬鈴薯(テルポーモ)を潰し、乳酪(ブテーロ)と乳と混ぜ、調味したもの。
 とりあえずでついてくることが多い他、他の料理の材料としてもつかわれる。

蒔蘿(アネート)(aneto)
 セリ科の一年草。ディル。イノンド。
 葉は乾燥するとすぐに香りを失うため、新鮮なうちに使わなければならない。

血蕪(サンガベート)(Sanga beto)
 ヒユ科フダンソウ属。赤紫色をした根を主に食用とする。
 見た目に寄らず、人参(カロト)よりも甘く、最も甘い野菜の一つだともいう。
 やや土臭い。
 根はサラダとして生食したり、甘酢漬けにしたり、加熱して食べたりする。
 若い葉と茎は柔らかく、紅根菜(スピナーツォ)に似る。
 絞り汁には催淫効果があると信じられている。
 切ったり加熱したりすると大量の赤い汁が出るため、この名前がついた。

根塘蒿(トゥベルセレリオ)
 塘蒿(セレリオ)の変種。
 葉や茎は苦味があり食用に向かず、肥大化した根を食用とする。
 生、または焼く、茹でる、煮るなど過熱して食べる。
 香りや栄養成分は塘蒿(セレリオ)に似る。

月桂樹(ラウロ)
 クスノキ科の常緑高木。葉に芳香があり、古代から香辛料、薬用などとして用いられた。
 食欲の増進や、消化を助けるとされる。

耳餃子(オルェロラヴィオーロ)(Orelo raviolo)
 小麦粉を練って作った皮で、挽肉や魚介のミンチと刻んだ玉葱(ツェーポ)などの具を人間の耳のような形に包んだもの。
 出汁で茹でて酸奶油(アツィドクレモ)などで食べる外、揚げたりもする。

大蒜(アイロ)(ajlo)
 ヒガンバナ科ネギ属の多年草。球根を香辛料・食用として用いる。ニンニク。

黒麦の麺麭(セカル・パーノ)
 ライ麦のような穀物をもとに作られたパン。黒っぽく、硬く、製粉も甘いが、栄養価はぼちぼち高い。

紅煮込み(バールチョ)
 血蕪(サンガベート)を用いた鮮やかな深紅の煮込みスープ。
 驚くほど赤いが、あくまで血蕪(サンガベート)の色素が出ているだけで、辛くはない。
 具材は決まっているわけではなく、極論、血蕪(サンガベート)を使っていれば紅煮込み(バールチョ)と言い張れる。

酸奶油(アツィドクレモ)(Acidkremo)
 奶油(クレーモ)を乳酸発酵させた食品。
 辺境のものは脂肪分が少なめだとか。製法も違うとか。
 謎の土地辺境の謎だ。
 アミノ酸やビタミンに富む。

奶油(クレーモ)(Kremo)
 ざっくり言えば生乳から脂肪分を分離して取り出したもの。
 一番簡単な分離法としては、生乳を数時間放置すると上の方に浮いてくる。
 料理や菓子作りなどに用いられる。

臥龍(がりゅう)山脈
 辺境の東端から、帝都北部の不毛荒野まで連なる山脈。
 平均標高三万四千尺(約一万三六三メートル)に及ぶとされる、北大陸と東大陸を物理的に切り離す絶壁。
 後に冒険の神となった半神ヴィヴァンタシュトノが唯一登頂に成功したという。
 標高もさることながら、頂上に近づくにつれて気流は複雑かつ不規則に荒れ狂い、地上からも空からも一切の侵入者を拒む。

・フロント
 対竜最前線。
 辺境の最奥。
 竜殺したちの封ぜられし地。
 かつて飛竜たちを狩り続けた竜殺したちが、ついに人界から飛竜を追い詰めた果てであり、これ以上は進めないと断念した限界でもある。
 降雪量は多いが、山から流れ落ちる雪解け水は滋養に富み、短い春夏の間に多くの実りをもたらす。

足高(コンノケン)
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の氏族の一つ。遊牧民。足の速い家畜たちとともに平原を移動する氏族。
 非常に足が速く、弓を得意とする狩猟民族でもある。
 主に西部の平原地帯に住んでいるが、帝国の宿場制度と飛脚(クリエーロ)制度が広まるにつれてその足の速さを徴用され安定した公務員として就職するものも多い。

・デゲーロ(Degelo)
 足高(コンノケン)の少女。
 三等武装女中。女中としてはトルンペートの先輩だが、武装女中としては後輩。
 足の早さを買われてお使いや伝言などをよく任される。つまりはつかいっぱしり。
 おっちょこちょいで落ち着きの足りないところがある。

・がちゃつかせる
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちはどの氏族も程度の差はあれど甲殻を有する。
 この甲殻が打ち合わさって立てる音を指すもの。
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)が慌てていたり騒がしくしていたりする様子を揶揄するもの。

・龍の顎
 不自然なほど鋭利な臥龍山脈の切れ目。
 自然にできたものなのか、何かしらの原因があってできたのかは、いまとなっては不明。
 唯一、山脈にも遮られず、低空ならば風精の乱れにも巻き込まれずに通行できるため、北大陸から飛竜がやってくる侵入口となっている。
 これを防ぐため、フロント要塞が壁のように立ち塞がっている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 亡霊と進撃のお父様

前回のあらすじ

いよいよ帝国最北の町にたどり着いた一行。
その先に待ち受けるものは。


 それは、館というには、あまりにも大きすぎた。

 大きく、分厚く、重く、そして大雑把すぎた。

 それは正に、要塞だった。

 

 なんて思っちゃうくらいに、リリオの実家はがちがちの要塞だった。

 

 城壁に囲まれたフロントの町の大通りをまっすぐに突き抜け、やがて家々もまばらになり、林立する岩と森を抜けた先。

 日照権侵害しすぎだろと言わんばかりにそびえたつ壁みたいな山々──臥龍山脈とやらがそびえる極北の地。

 その巨大な壁が、うっかり落として割れちゃった花瓶みたいに綺麗に引き裂かれた、覗き込むだけで恐怖と狂気に駆られそうな山脈の切れ目、あるいは無限の連なりを錯覚する大渓谷である龍の顎。

 飛竜たちがやってくるというその巨大な裂け目の端から端までを、水も漏らさぬ偏執的な几帳面さで石を積み上げて築き上げた壁が、フロント要塞だった。

 

 その高さたるや、あれほど立派に見えたフロントの町の城壁など目ではないほどで、古い文献によれば百七十尺あまり、メートル法もとい交易尺に換算して五十メートルを超すという。

 その上にそびえる砲座や尖塔などはもっと高い。

 それだけの高さの壁が、何百メートルかという幅の大渓谷を塞いでいるのだった。

 もはや要塞と言うよりダムかよって感じだ。

 五十メートルってことは、えー、仮に一階を三メートルか四メートル、間を取って三・五メートルにしようか、それぐらいだとすると、十四階建てとちょっとくらい。

 疑いようもなく、この世界に来てからぶっちぎりで背の高い高層建築だ。

 どうやってこんなもん建てたんだ。しかもこの辺境で。

 

 しかもこの恐ろしく背の高いダムもとい要塞の外壁は、ただただ石を積み上げていっただけではなく、極めて正確に切り揃えられた石を組み立てたもので、その随所には恐らく古代の職人たちが彫り上げたであろう芸術的な無数の彫刻に溢れているのだった。

 ヴォーストの町の神殿街でも、このような装飾的彫刻の類は見られたけれど、それよりももっと圧倒的な迫力がある。

 美しいし、なにより()がある。

 この門をくぐるものは一切の希望を捨てよって、あれはロダンの地獄の門だったか。

 

 考える人はいなかったけど、雰囲気たっぷりではある重厚な扉が、何人もの人手によってゆっくりと開かれていく。ファンタジー好きにはなかなか胸躍る光景だね。

 そして扉の向こう、もう一枚の城壁を背にしてたたずむ建物は、今度こそ成程、館と呼べるような美しい代物だった。というかこれはもう、館というより城だ。

 灰色がかった石造りの城が、雪化粧を纏ってそびえていた。

 何回そびえたって言うんだよって話だけど、いや実際、何もかもがスケールが違い過ぎて、とにかく驚かされる。

 

 城を前に竜車を降りて、改めて見上げてみたけど、ここまで巨大な建築物というものは、この世界に来てはじめて見た。

 神殿なんかも、結構背が高い建物はあったけど、まるで比にならない。

 もしかしたら、貴族なんかが持っているお城とかはこれに匹敵するのかもしれないけれど、ここの場合、そのお城の前後をはさんでそびえたつ五十メートル越えとかいう城壁の存在感が凄まじい。

 巨大すぎて、お城の日当たり最悪だもんな。結構敷地面積あるからまあ何とか日照時間稼げてるんだろうけど、多分お昼前後しかまともに日が差さないんじゃなかろうか。

 

 すっかり日の暮れた今などは、あちこちに篝火や、輝精晶(ブリロクリステロ)の光源が配置されているのだけれど、それがかえって色濃い影を投げかけて、神秘的で荘厳な存在感を放っていた。

 

 こんなずっしりと重厚感のあるお城がリリオの実家だというのがちょっと信じられない。

 どうしたらこんな子供がこんなお宅で育つのだろうか。

 

 思わず、隣の白いポニーテールを見下ろしてしまったけれど、私の胡乱気な視線に全く気づかず、どうです凄いでしょうなどとのんきなことを言っている。

 確かにどえらいご実家だけど、なんか観光地とか古城巡りの一環で来ましたみたいな感じで、脳内でリリオとこのご立派な城を結び付けるのに苦労する。

 

 だってこう、ねえ。

 このお城、端的に言って吸血鬼とか住んでそうな感じだし。

 千年単位で生きてる伝説級の吸血鬼とか、あるいはそれこそ世界の半分くらい気前よくくれそうな魔王とか住んでそう。

 それに比べてリリオはチビだしあっぱらぱーだし能天気だし脳筋だし、どう見ても元気花丸バカ犬系歩くハリケーンだし、百歩譲ってもギャグマンガ調の勇者サマようこそ魔界村編って感じであって、どう足掻いても似合いそうにない。

 悲しいくらい似合わなさすぎる。

 黙っておすまし顔してればまあお人形さんみたいな美少女なんだけど、それが一分持てば拍手喝采だ。残念過ぎる。

 

 母親であるマテンステロさんも、まあこの人はそもそも他所から来た人だから仕方ないんだろうけど、お城の雰囲気とは似ても似つかない。

 白い髪に褐色の肌、いかにも南国といった鷹揚でのんびりとした顔立ち。そして存外ちゃらんぽらんな性格。

 良くて観光客でしかない。

 悪いと遺跡荒らしに来た冒険屋といった風情だ。冒険屋だけど。

 中身は割と手足が先に出てから考えるとかいうタイプだし。

 

 トルンペートはその点、雰囲気結構合うんじゃないかと思う。

 普段からおすまし顔だし、小生意気そうなところはゴシックな雰囲気と似合う気がする。

 メイド服もお城との相性は抜群だ。言うことなし。

 おまけに足音とか気配消す癖とかあるから、いつの間にか現れていつの間にか消えるっていうのは実にそれっぽい。

 

 などと勝手に想像していたら、トルンペートに脇腹を小突かれた。

 

「あんたが一番それっぽいわよ」

 

 ……そうかもしれなかった。

 黒尽くめに黒髪黒目、不健康そうな面構え。

 良くて亡霊、悪くて死神かな。《死神(グリムリーパー)》なんだよなあ。

 

 なんて下らないことを考えているうちに、立派な正面玄関が従者たちによって開かれ、傍に女中を控えさせた男性が姿を現した。

 滑らかでしわもない白い肌に、緩い三つ編みにまとめたアッシュブロンドの髪。伏せ気味な翡翠色の目は、やや翳がありながらもリリオのそれとよく似ていた。

 人間味に欠けた中性的な顔立ちは、いっそ精巧な人形か、神々の手になる作りものといわれた方が納得できそうだった。

 それは、ぱっと見ただけで単純思考で美形だと思ってしまうくらいには、美しい人だった。

 

 もしかして噂に聞いたリリオのお兄さんかとも思ったけど、確かリリオ兄のティグロは一歳違いだった。

 それにしてはいくら何でも年かさに見える。

 

「お父様」

 

 隣でリリオが呟いた。

 おとうさま、というその響きが脳に沁み込むまで、ちょっとかかった。

 確かに、確かによく似ている。並べてみれば成程と頷ける美形の組み合わせだ。

 しかしまあ、随分と若作りなパパさんである。

 以前聞いた名前は、アラバストロ。

 アラバストロ・ドラコバーネ。

 この美しい男性が、リリオの父親で、辺境の筆頭である、辺境伯ってわけだ。

 

 しかしこうして見ると、今までに出会った辺境貴族、カンパーロ男爵とモンテート子爵のごつい体格と比べると、いっそ頼りなく見えるほどの優男ぶりだ。

 それこそ、さっき想像した冗談じゃないけど、まるで吸血鬼みたいでさえある。

 リリオが黙ってさえいればあるいはこのような冷たい美しさを見せるのだろうかと想像し、またこの冷ややかな麗人が能天気にあけっぴろげの笑い方をしたらリリオみたいになるのだろうかともうそうして見たけれど、ちょっと私の脳でシミュレーションするには荷が勝ちすぎた。

 

「おかえり、リリオ」

 

 辺境伯は薄い唇をやんわり曲げ、目じりをしっとりと下げて、甘やかに微笑んだ。

 非人間的な美貌が、小さく綻ぶようにして感情をあらわにするさまは、何しろこの私でさえどきりとしたくらいの蠱惑的な微笑みで、使用人たちも男女問わずそっと目を伏せるほどの奇妙な魅力があった。これはほとんど魔力といっていいほどだ。

 それは圧倒的上位者の微笑みだった。男爵や子爵の微笑みが獣の笑みであるとすれば、これは全くそれらを高みから見下ろし、ただおかしみをもって笑うそれだった。

 

「それから」

 

 仕草の一つ一つに、目を離せなくなるような色気があり、夢見るような足取りはその一歩一歩が見るものをこそ酩酊させそうだ。

 ああ、しかし。

 そう、しかし。

 しかし私は、私たちは、遅まきながらに思い出したのだった。

 

「おかえり、僕のマーニョ」

 

 その日、私たちは思い出した。

 リリオパパがヤンデレだという恐怖を。

 結構ガチ目にヤバい奴だという事実を。

 

 何のためらいもなく引き抜かれた剣が、笑顔とともに振り下ろされたのだった。




用語解説

・《死神(グリムリーパー)
 産廃職。特殊なスキルや《貫通即死》の専用装備以外は《暗殺者(アサシン)》系統の微妙な上位互換で、肝心な専用装備も普通に使おうと思うとまるで意味がない。尖り過ぎたステータスのものでもなければ使えないうえに、その尖り過ぎたステータスだと即死無効の無生物に対抗できない。
『アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパーっ!』

・アラバストロ(Alabastro)
 アラバストロ・ドラコバーネ。三十三歳。リリオの実父。
 アラーチョは愛称。
 先代当主の早逝で僅か十六歳で当主に就任する羽目になるも、当時二十歳のマテンステロのおかげで就任パーティに成功。そのこともあり、またマテンステロの実力にもほれ込み、一年かけてなんとか一太刀浴びせて結婚をつかみ取る。
 若いうちから苦労の連続ではあったが、努力家で才能もあり、実力は十分にある。
 ヤンデレ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 鉄砲百合と氷の貴人

前回のあらすじ

ヤンデレ が あらわれた!

ニア ・にげる

まおう からは にげられない!


 リリオが十四歳になり、もう二年くらいは経ったような気がしてたけど、実際は成人の儀として旅に出たのがまだ涼しさも残る初夏のこと。本格的な冬に入る前に帰ってきたのだから、まだ半年も経っていない。

 でもその数か月のことがあまりにも濃密で、衝撃的に過ぎた。だからフロントの街並みに帰ってきて、そしてお館を見上げて、なんだか随分久しぶりのような、懐かしむような気持ちになったものだった。

 一年の半分は雪に包まれ、足りないものばっかりで、不便なことばっかりだったけれど、それでもあたしはここで育ったのだなと、ここがあたしの故郷なのだなと、そう思わせてくれるものがあった。

 

 人によっては畏れさえ感じるだろう古城も、あたしにとっては我が家のような安心感があった。

 そりゃあ、つらいことや嫌なこともあったけれど、あたしにとって帰ってくる場所はここだった。

 たったの数か月離れただけでそこまで感じ入っちゃうなんて軟弱かなって思うけど、でもどうやら故郷ってものはそういうものらしい。

 あたしは誰から生まれたとも、どこで生まれたとも知れない、余所者に過ぎないけれど、それでもあたしが過ごした日々は、確かにふるさとというものを心の中に刻み付けていったのだ。

 

 辿り着いたお館の正門から、御屋形様が現れた時も、あたしは奇妙な安心感を覚えたものだ。

 とても同じ人間とは思えないような、冷たい氷の彫刻のような美貌は、しかしあたしにとっては頼れる存在だった。

 リリオに振り回され、顔面の形が変わろうとも、御屋形様は常にそこにあって見守ってくださっていた。

 リリオの拾ってきた獣たちが亡くなった時も、奥様がいなくなられた時も、旦那様はただじっとそこにあって、揺るがない柱のように私たちを支えてくれていたように思う。

 もちろん、その内面はあたしが思うよりもずっと多感に様々なことを思い、考え、揺れていたのだろうけれど、それを表に見せない強さがあった。

 

 数か月ぶりの御屋形様も、お変わりないようだった。

 ある種、凄まじいと言ってもいい美貌はお陰りもなく、久しぶりに奥様と再会したからか、その微笑みは全く万感と言わんばかりに喜びを露わにしておられた。

 奥様が姿を消されてから、御屋形様がこのようにお笑いになることなど久しくないことで、使用人の中には思わず涙をこぼして喜ぶものもあった。

 私も涙ぐみそうになり、視界がにじんだほどだ。

 で、にじんだ次の瞬間には、ほっそりとした脚の踏み込みが石畳を砕き、あたしたちのすぐ横を暴力が駆け抜けていた。

 人の形をした竜が、死が、純粋な力の発露が、すぐ隣で爆発したのだった。

 

「おかえり、僕のマーニョ」

「ええ、ただいま私のアラーチョ」

 

 旦那様の剣と、奥様の双剣、ぶつかり合った衝撃が大気を揺らし、よろめいたあたしの襟首がひっつかまれ、身体は横っ飛びにお二人から遠のいていた。

 見ればウルウが片手にあたしをひっつかみ、もう片手でリリオを麦袋みたいに担いでそそくさと逃げ出していた。

 

「ちょっと、猫じゃないんだから」

「猫みたいに身軽じゃない」

 

 まあ、それもそうだけど。(ましら)のようと言われなかっただけいいか。

 ウルウは十分すぎるほどに距離を取ってから、リリオを放り捨て、あたしから手を離した。

 つまり最大限距離を取ったってことね。

 襟元をただして、それから改めて振り向いてみると、なかなかにぞっとしない光景が広がっていた。

 

 誰をも魅了するような不思議な魔力を持った甘やかな微笑みを浮かべて、その笑顔のまま両手剣を片手で振り回す御屋形様。何しろ凄まじい美形だから、その凄まじい美形が笑顔で剣を振り回して迫るっていうのは何かの怪談か、失敗した笑い話みたいな恐ろしさがある。

 

 最初の爆発的な一合とは違い、双剣で受け流すようにさばいていく奥様も、どこかおっとりとした柔らかい微笑みのままで、顔と体さばきがまるで合っていない。なんだか演技を致命的に間違えているのに、劇自体は誰にも止められないまま進んでいく即興劇のような恐ろしさがある。

 

 大気さえも邪魔だと言わんばかりに音を立てて空を叩き切りながら振るわれる大剣と、血も凍るほどに鋭利で精密な双剣と魔術が、互いに互いを食い破らんとする二頭の蛇のように絡み合いねじれていく。

 神業めいて受け流し合う、出会っては分かれる刃が交わす、しゃりん、しゃりん、と鈴のように涼やかな音が、いっそ場違いなほど耳に響いた。

 

「ああ、本当に、本当に、長かった。とても長く待ったよ、マーニョ」

「そうねえ、ちょっと長くなったわ」

「四年も待たせたんだ。何か言うことは?」

「そうね」

 

 奥様はにっこりと微笑まれた。

 

()()ができるようになったのね。褒めてあげる」

 

 大剣が破裂音を置き去りに振り下ろされ、奥様の双剣に受け流されそらされてなお、石畳に深々と食い込んだ。食い込み、砕き、そして破壊の力が土塊(つちくれ)石礫(いしつぶて)と氷片を矢のような勢いでまき散らす。

 

 賢い使用人たちはすでに距離を取るか物陰に隠れており、先程の涙はどこへやったのだという身のこなしだ。賢くない使用人に関してはこの館で長く生きていくことはできないので、考えなくていい。

 キューちゃんとピーちゃん、竜車を牽いてきた二頭は煩わし気に礫を払って、不満げに唸った。風精を操るまでもなく、翼を振るっただけだから、ちょっと小石が飛んだようなものなんだろうけど。

 

 あたしたちはと言えば、

 

「リリオシールド!」

「『超…電磁、バリアー……改』!!!」

 

 ウルウがリリオの首根っこひっつかんで何のためらいもなく盾にして、リリオが何の迷いもなく()()()()()()()な技を使って流れ弾を弾き飛ばしていた。

 多分、以前《メザーガ冒険屋事務所》に所属するウールソさんと角猪(コルナプロ)鍋作ったときに、ウルウが吹き込んだ技ね。

 結局あたし教えてもらってないから今度強請ろう。

 ああ、それで、あたし?

 誉れ高き武装女中のあたしはもちろん、主人の見せ場のために後ろに控えさせていただきましたとも。

 

 まるで子供が枝を振るうかのように、あるいは女中が布団を叩くように、手首と肘の軽い返しで気軽に振るわれる連撃が、前庭の美しい石畳を、雪に埋もれた芝生を盛大に打ち砕いては瓦礫を通り越して砂礫に変えていく。

 まあ石畳が美しいのは数年くらいしか使ってないからで、なんで数年かと言えばしょっちゅうリリオが破壊していたからだ。それが御屋形様に代わっただけで、そして石畳だけでなくその下の土までえぐれて爆散しているだけで、いつも通りと言えばいつも通りだ。

 いつも通りでなく激しいし、いつも通りでなく長く続くけど。

 御屋形様がっていう時点で完全にいつも通りではないとも言えるけど。

 

 あたしがそんな現実逃避気味の目で見守る先で、お二人は破壊(かいわ)をお続けになる。

 

「そうねえ、ちょっと見ないうちに痩せたかしら。お尻が細くなっちゃって」

「君が帰るのを待つ間に、少し鍛えてね」

「抱き心地が悪くなっちゃったかしら」

「後で存分に確かめるといい」

 

 地揺れかと思うほどの凶悪な踏み込み。瞬きすら許さない高速の斬撃。

 爆ぜる大気。刻まれる大地。

 激しい魔力のうねりに、子竜のピーちゃんが狼狽えて吠え始めたけど、親竜の尻尾が顔面を叩き伏せて黙らせていた。

 

 顔だけ見てみれば、涼やかな麗人の甘やかな微笑みと、おっとり南国美人の鷹揚な微笑みとが、麗らかな春の午後に語らうような見目好い具合なんだけど、その周囲で相手の命をもぎ取らんとする暴力が荒れ狂っているから頭が混乱する。

 

「里帰りは楽しかったかい?」

「そうねえ、楽しめたわ。たっぷり」

「それはよかった。じゃあ──まずは足を落とそうか。もう二度と帰らなくて済むように」

「いいわね。落としてみなさい──できるものなら」

 

 美人夫婦の殺し合い(かたらい)が、雪に埋もれた前庭を破壊していく。

 庭師のエシャフォドさんが三年がかりで手掛けている雪の下で休ませて次の春には太陽の光をたっぷり浴びて青々とした芝生を見せてくれる爽やかで風薫る落ち着いた大人の魅力あふれる前庭そして安らぎが訪れる、となる予定だった前庭が大規模土木工事もかくやという大惨事に崩れ果てていく。

 せっかくリリオが旅立って安心して造園作業に専心できるはずだったのに。

 

 もはやあたしには聞き取ることのできない不明な罵詈雑言が、風に流れては、消えた。




用語解説

・リリオシールド
 この世で一番信頼できる盾。
 などと言えばちょろいので騙されてくれるが、やってることは外道の極みである。

・『超…電磁、バリアー……改』!!!
 尖った礫状の雷精を、自身を中心に球状に高速回転させることで、接近する物体をはじく防壁を作る技。
 命名は格好良さ重点であり、改とついているがもちろん一度たりとも改修したことなどない。
 この技の最大の目的は、ロマンである。

・庭師のエシャフォドさん(Eŝafodo)
 たまにうっかり討ち漏らした飛竜が落ちてきたり、幼いアラバストロがやんちゃに暴れまわったり、嫁取りだとか抜かして余所者の冒険屋と荒らし回ったり、話を聞きつけた騎士やら馬鹿やらが力試しに続々やってきやがったり、ようやく落ち着いたと思ったら二人の子供が遊び場にしてぼろくそにして、やっとこさ次子が成人迎えて大人しく旅に出てくれたと思ったら、思ったより早く帰ってきたうえに最大級の爆弾放り投げやがったせいで五年計画の三年目が見事に基礎工事からやり直しになったので、先代当主に庭木を細切れにされた思い出がフラッシュバックしてブチ切れ、五十数年前と同じく当代当主のドタマに円匙(ショベリロ)叩き込むことを決意した長年ドラコバーネ家に仕えている老庭師。

・庭師のエシャフォドさんが三年がかりで手掛けている雪の下で休ませて次の春には太陽の光をたっぷり浴びて青々とした芝生を見せてくれる爽やかで風薫る落ち着いた大人の魅力あふれる前庭そして安らぎが訪れる、となる予定だった前庭
 夢。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合とかなりアレな人

前回のあらすじ

庭師のエシャフォドさんブチ切れるの巻。


「ヤンデレだ」

 

 呟くウルウ。

 なんでしたっけヤンデレって。確か以前説明してもらったときは、相手が好きすぎて心が病んじゃってる人のことでしたっけ。

 それらしい人をお父様以外に知らないので、正しい使い方なのかどうなのかいまいちわからないのですけれど、まあ、うん、確かにお母様のこと好きすぎて病んじゃってますよね。

 劇とか小説とかでは見たことあるような気もしますけれど、そう言うのは大抵短剣で背中から一突きとか、毒薬を飲んで心中とか、そういう感じだったんですよね。

 少なくとも畑耕すみたいなノリで、大剣で石畳と凍った地面を掘り返すような力強さではないんですよね。

 

 ウルウの目が遠いです。

 その隣のトルンペートも現実から逃げ出した目をしています。

 私も逃げ出したいです。

 切に逃げ出したいです。

 でも原因となるお母様を連れてきたのは私たちで、つまりこの大惨事を引き起こしたのは私たちなんですよね。

 そっと隣の二人を見たらそっと目をそらされましたけど、今更他人のふりしても遅すぎますからね。

 

 私たちが見たくないんだけれど見ざるを得ないといった調子で眺める先で、完全に殺す気としか思えない魔力の奔流が吹き荒れ、つられた風精が嵐のように前庭を荒れ狂います。

 お父様が大剣を振るう度に大気が音を立てて爆ぜ、振り下ろされるたびに大地が砕けて爆ぜていきました。人足要らずのお手軽土木工事ですね。なお基礎は吹き飛びます。

 そしてその爆弾でも振り回しているのかという猛撃を、お母様は平然といなして、踊るように双剣を振るいます。触れただけで何もかもずたずたに引き裂きそうな大剣が、完全に威力をそらされては、しゃらりしゃらんと鈴のように澄んだ音を立てて剣が触れ合っては離れてを繰り返します。

 

 まあ、綺麗な音を立てるのは刃だけで、大気は爆発するような音を立てますし、大地は実際爆発してますし、踏み込みの度に何もかも砕け散りますし、それに対してお母様が剣を振るい足踏みするたびに風が切り裂き大地が隆起しと大騒音が続いてるんですけど。

 

 しかし、ヤンデレですか。

 私からするとお父様が壊れてしまったようにしか見えませんけれど、これをずっと押し隠してきたんでしょうか。私たちの前では冷静沈着で落ち着いた大人の顔を保ち続けてきたのでしょうか。

 その理性的なところがかえって怖いですよね。

 落ち着いて狂ってるみたいな。 

 いや、本当に、いままであんな素振りが全くなかっただけに、私としては困惑の一言です。

 本当に全くなかったのかというとちょっと自信ないですけど。

 

「お父様はいったいどうなさってしまわれたのでしょうか……」

「どうにかなっておられるのでしょうねえ」

 

 突然の声に振り向くと、お父様付きの老武装女中ペルニオがいつの間にか私たちにそっと寄り添って、佇んでいました。

 老とはいっても、それは単に私が子供の頃からずっと仕えていて、それどころかお会いしたこともないお父様のお父様、お爺様にも仕えていたというので結構な年配だと予想しているだけで、見た目は若い女性のそれです。少女という程には幼くありませんけれど、乙女にしてもかなり若い顔つきです。

 その顔つきも、そもそもどこの人なのかもわからない何とも曖昧な顔立ちで、整ってはいるのですけれど、整い過ぎていて、ちょっと人間味に欠けます。見ているとたまに不安になるほどですね。

 緩く編まれた暗灰色の髪はいつ見ても艶やかで、熾火のようにちろちろとした赤をのぞかせる瞳は動揺にわずかに揺れたことさえもありません。

 顔以外は肌もさらさず、一度たりともお仕着せを着崩したことのない、完璧に完璧を重ねたような完璧女中ですので、一層正体不明です。種族すらわかりません。

 正体を探るといって彼女の裳袴(ユーポ)をめくろうとしたお兄様は、結局その裾をひるがえさせることもできないまま、体力切れで断念していましたね。

 

 その偉く若作りな武装女中は、昼下がりのお茶を何ということもなくすするような顔つきで大惨事を眺めた後、固定したかのように崩れない無表情をそのままに私たちを順繰りに眺めていきました。見慣れないウルウの姿に目を留めると、僅かに小首を傾げ、それからまた戻し、視線が私に戻ります。

 昔から私はどうにもこの目が苦手でした。なんだか絵の中の人物が自分をじっと見つめていることに気づいたような、そんな怪談じみた圧力があります。

 トルンペートもどうにも得意ではないようで、居心地の悪そうな、座りの悪そうな顔でわずかに目をそらしました。

 

「ペルニオ、ねえペルニオ。お父様はどうなさってしまったのでしょう。いくら何でも、あんな風になるなんて……あんなお父様は見たことがありません」

「左様でございますねえ」

 

 ペルニオは私の言葉を咀嚼するように、ゆっくりと何度か頷いて、僅かに目を伏せて考えているようでした。

 その落ち着いた仕草を見せつけられると、礼儀作法や仕草の授業のあまりよろしくなかった評価を思い出します。

 長らく当主の傍に仕えているだけあって、私よりよほど貴族に見えるような落ち着きです。

 決して慌てず、言葉も急がず、まるでお手本のように完璧です。

 

「少し前に、奥様からのお手紙を頂きまして」

「ああ、お母様が飛ばしたものですね」

「それ以来、一睡もしておられません」

 

 噛んで含めるようにゆっくりと、極めて美しい発音で述べられた意味がいまいち飲み込めませんでした。

 

「えーっと?」

「三日ほど、前のことでしょうか。お手紙を受けとりましたわたくしが、お開きして差し上げるのも待ち切れず、ご自分でお取りになられると、こう、お開きになられました。どうやら奥様がお帰りになられるとのことで、ええ、ええ、それはもう大層なお喜びようで。小さなアラーチョお坊ちゃまの頃のように、大いにはしゃがれまして」

「嬉しかったんですね」

「ひとしきりはしゃがれましたあと、ぜんまいの切れた時計のように、こう、ぴたりとお止まりになられまして、こう仰いました。『またどこかへ行ってしまわないだろうか』と」

「ああ、うん、それは……」

 

 ないとは言えないでしょう。

 というかお母様としては結構頻繁に実家のあるハヴェノに帰りたかったみたいですので、今後もちょくちょく帰ると思います。少なくとも冬場は嫌だと言いかねません。一度は野良飛竜に無理矢理乗って抜け出したくらいですし。なんならその野良飛竜でモンテート要塞さえも突破したわけですし。

 お父様の心配ももっともです。

 

「それで、そう、御屋形様もお悩みになられまして、食事も喉を通らぬ有様。わたくしも大いに面どもとい心配いたしました。そうしましたら、突然お部屋でお笑いになられました。とても楽しそうにお笑いになって、それから、とても良い解決策を思いついたと無邪気に仰られました」

「すでにいい予感がしないんですけれど」

「『手足を落として僕がお世話しよう』と」

 

 大分ぶっ飛んだ解決策でした。

 もっと他に最善策があると思います。

 それでさっきそんなことを言っていたんですね。挑発か何かかと思っていたら本気でした。

 

「もちろん止めてくれたんですよね?」

「ええ、ええ、それは勿論、わたくしも御屋形様を支える傍仕え。盛り上がっておられるところに水を差すようで心苦しくはありましたけれど、きちんとお伝えいたしました。『これ以上の愛玩動物は困ります』と」

「ちがーう。ちがいます。そうではないのです」

「小粋な女中冗句にございます」

 

 この完璧女中の何が怖いって、表情一つ変えずに、誰が相手でも平然とふざけたこと言いだすところですよね。

 しかもこれが、つまりそういう発言をしたという冗句なのか、そういう冗句をお父様に言ったということなのか、判断に困ります。

 もう考えるだけ疲れるので気にしないことにしましょう。

 

「お父様は、やはりあまりにも衝撃が強くて、壊れてしまわれたのでしょうか」

「左様でございますねえ。少し、違うように思われます」

 

 ペルニオはゆっくりと小首を傾げ、そしてまたゆっくりと戻して、一拍置いてから続けました。

 

「もともとアレな方なのです」

「もともとアレな方」

「失礼いたしました。訂正いたします。もともとかなりアレな人にございます」

「もともとかなりアレな人」

「思い込んだら、こう──まっすぐなお方です」

「まっすぐ、ですか」

「つまり、古今稀に見る馬鹿です」

 

 古今稀に見る馬鹿の一閃が、前庭の土を盛大に爆散させていました。




用語解説

・ペルニオ(Pernio)
 特等武装女中。
 暗灰色の髪に緋色の瞳。肌は白く、外見年齢は十代中盤から二十前後。
 種族も実年齢も不明。
 先代当主に仕えていた他、先々代にも仕えていたらしい。
 表情が変わったところを見たものがない、着替えるところを見たものがない、顔以外の肌を見たものがない、走る姿を見たものがない、いつ寝ているのか誰も知らない、とないない尽くし。
 恐らく現役最年長にして、恐らく現役最強の武装女中。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 亡霊と何度目だ怪獣大決戦

前回のあらすじ

美形だろうとヤンデレだろうとやることは蛮族であった。


 天下一武闘大会の観客になった気分だった。

 

 瞬間移動でもしているのかっていう速度でマテンステロさんとアラバストロさんが動き回るものだから、私のチート気味の目でもいい加減追いかけられなくなってきた。身体だけでもそれなのだから、ふるわれる手足はもはや見えないどころか二、三本増えて見えるほどだし、小型の台風みたいに吹き荒れる魔力だか魔術だかは、何が起こっているのかわからないほどだ。

 

 さっきから破裂音が響いてるのは多分、アラバストロさんの剣が音速の壁ぶち破りまくってる音だと思うんだよね。その後振り抜いてもれなく地面もぶっ叩いて爆砕してるけど。

 マテンステロさんの双剣も地味におかしな速度で、あれ、もはや飛行機とかヘリコプターのプロペラの回転じみて軌跡は見えても剣自体が見えない。しかもそれを、指振ったりステップ踏んだりで発動するインスタント魔術と並行して繰り出してるから、大概頭おかしい。

 

「ねえリリオ」

「なんでしょうか」

「あれ、どっちが優勢なの?」

「……どっちなんでしょうねえ」

「あんまり凄すぎると、どう凄いのか、どれくらい凄いのかもわかんないわよね」

「だよねえ」

 

 私たちもマテンステロさんにしばらく鍛えてもらったけど、三人がかりでようやく遊びになる程度だった。本気は少しは引き出せたのかもしれないけれど、全力はまるで見えもしなかった。

 生涯現役をうそぶくマルーソさんの後を、当然のように引き継ぐだろう極めつけの人間台風(ブランクハーラ)の申し子。

 そしてそのマテンステロさんを相手に、引けを取らないどころか互角に切り合うアラバストロさんは、単独で飛竜を退け続けてきた人間兵器。人界の壁。極北の魔人。

 もはやこんな怪獣大決戦、どちらが優れているのか私たちにはわかりゃしない。どっちが勝っても人類に明日はないみたいなキャッチコピーつけたいとこだね。

 

 三人で首を傾げていると、アラバストロさん付きの武装女中だとかいう、ペルニオさんがにこりともせずにゆっくり頷いた。

 

「左様でございますねえ」

 

 この人、リリオよりよっぽどお上品だよな。

 まあお上品ではあるけど、それ以上に全身から胡散臭さが匂い立つから、素直に感心もできない。

 子爵さんのところの武装女中、トルンペートを一方的にあしらっていい汗かいたみたいな顔してたおばあちゃんが一等のところを、この人その上の特等武装女中とかいうやつらしい。見た目に寄らず随分長いこと武装女中してるみたいだし、油断ならない。

 それに武装女中と言っておきながら、お仕着せが完全に普通のメイドさんなのも気になる。

 エプロンも、飛竜紋は入ってるけど、飛竜革のじゃなくて普通の白いエプロンだし、鉈も斧もナイフも身に着けてない。上等な服を美しく着こなしてるけど、どこからどう見ても普通のメイドさんだ。

 それだけに怖い。

 大体突き抜けて強い奴ほどかえって普通に見えるっていうのが漫画やラノベの定番だからな。 

 本人はそんな私の胡乱気な目を全く気にすることもなく、私たち以上に他人事みたいな顔で観戦してるけど。

 

 お人形じみて左右対称な顔が、ゆっくりと小首をかしげ、ゆっくりと戻して、ゆっくりと続ける。

 

「今までの戦績から、申し上げますと、奥様が勝ち越しておいでです。もともと、奥様が絆されて、雛鳥同然だった御屋形様に一太刀お許しになられたのがお付き合いの始まりにございますし」

「じゃあ今回も?」

「とも、申し上げられません。奥様が長くお出かけになられている間、御屋形様はそれはもうお荒れなられまして。普段でしたら、城勤めの騎士様方にお任せになるようなときでも、積極的に飛竜狩りに精をお出しになって、気晴らしなさっておられました」

「君のお父さん気晴らしで飛竜狩ってんの?」

「仕事熱心なお父様だなあと思ってたんですけれど……」

「目的は気晴らしでも、おひとりで飛竜の相手をなさっておいでですと、否が応にも剣は冴えますもので。懊悩に振り回されるように飛竜に当たる御屋形様は、それはもう笑えもといお苦しそうではございましたけれど、結果として以前よりずいぶんお強くなられました」

「いまなんか言い直さなかった?」

「そのような次第ですので、早めにお切り上げになれば奥様が優勢。逆に持久戦にお持ち込みになられれば御屋形様が優勢と言えましょうか」

 

 見た目は柳腰の優男といった風情なんだけれど、リリオパパ、アラバストロさんの方が体力あるのか。

 まあ、リリオもちっこい身体で出鱈目に体力あるからなあ。

 私たちの中で一番荷物持てるし、私たちの中で一番疲れにくいし、私たちの中で一番回復しやすい。前にちょろっと話したけど、ステータス見る限り《HP(ヒットポイント)》と《SP(スキルポイント)》の回復量と回復速度がなんか異常に高いんだよね。

 リリオの怖いところってその怪力とか爆発力だけじゃなくて、戦闘続行能力がずば抜けてるところがあるよね。手合わせするときは、徹底的に回避して一時的に疲れさせて、回復する前に一本取ることにしてるけど、回復許すと多分私の方が先にスタミナ切れする。

 やっぱ血筋なのかな、あれ。

 

「フムン」

 

 ペルニオさんはゆっくりと小首をかしげて、ゆっくりと戻して、それからゆっくりと視線を前庭に戻した。

 その先では相変わらず二人が暴れまわっているけど、確かによく見ると、マテンステロさんの額には汗が見えるけど、アラバストロさんはやや頬に赤らみが出てきた程度だ。マテンステロさんが手合わせで汗かいたことってなかったくらいだから、これはなかなかに怖い。

 

「辺境貴族は、人間ではありませんので」

 

 しれっと口が悪いなと思って見やると、ペルニオさんはゆっくりかぶりを振った。

 

「人間業ではないとか、人間離れしているとか、そういうことではございません。文字通り、言葉通り、辺境貴族という生き物は、人族ではございません」

 

 小粋な女中冗句とやらなのかと伺うけれど、まるきり表情も空気も変わらないので、いまいち判然としない。

 しかしこれにトルンペートとリリオも頷いているので、もしかしたらもしかするのか。

 

「辺境貴族は、無尽蔵の魔力を誇られます。これは、魔力の回復がお早いとか、魔力の保有量が多くいらっしゃるとか、そういう話ではございません。ただそこにあるだけで魔力を産生する。それは人の所業にはございません。──それは、竜の(わざ)にございます」

 

 竜の、業。

 竜車の陰で煩わし気に破片を払う二頭の飛竜を見やり、それからリリオを見下ろす。

 

「ただそこにあるだけで、ただそこにあることが、魔力の泉を湧き出させる理外の存在、法外の実存。──竜胆(リンドウ)器官。辺境貴族とは、古の頃に竜の心臓を食らい、その業を食らった者たちの末裔にございます」

 

 普通の生物であれば、他の生き物を食らい、大気を漉し取り、周囲から取り込むことでしか回復することのできない、いわばいのちそのものである()()()。それこそが魔力。この異世界のあらゆるものに宿り、あらゆるものを支配する可能性。

 その魔力を何に頼ることもなく、ただそこにあるからというだけで自前で生み出し、生み出し続ける止まらない炉心。道理外れの道理崩し。

 リリオのように幼いものにさえ、人間をたやすく壊せる暴力を与える奇跡。

 

 それを十全に成熟させ、そしてなお成長し続ける化外の心臓。

 その暴力がたった一人の内に宿り、たった一人に向けて振るわれている。

 

「……それ、勝ち目あるの?」

「勝ち越しておられるのが、奥様にございますれば。──それに」

「……それに?」

 

 ペルニオさんはゆっくりと頷き、ゆっくりと戻し、それからその連続する爆心地に視線を向けた。

 一層激しくなり、荒れ狂う風が、土塊が、石礫が、横殴りに吹き荒れる中、涼しい夏風に目を細めるように、そっと髪を抑えて、女中は平然としている。

 

「三徹目にございますから、そろそろおつむの方がお落ちになられます」

 

 歩み寄る先、雑になってきた大剣が、疲れの見えてきた双剣とかち合い、ガラスの割れるような音を立ててへし折れた。

 砕け散る刃が落ちるよりも早く、土の槍が風の刃が人竜の自由を奪い、容赦のない拳が細い顎に叩き込まれた。

 あとはほとんど、一方的だったと言ってよい。




用語解説

竜胆(リンドウ)器官
 竜の持つエーテル臓器。心臓の裏側にある、手で触れることのできないもう一つの心臓。
 ただそこにあるだけで、ただそこにあることが、ただそこにあるために、魔力を生み出し、生み出し続ける魔力炉。いのちの湧き出す泉。
 逆説的に言えば、竜胆器官を持つものが竜である。
 辺境貴族とはこの竜胆器官を持つ一族であり、人の容(カタチ)をした竜のことである。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 おかえりなさい

前回のあらすじ

ふてぶてしくなければ女中はやっていけない。
ふてぶてしすぎると人間としてどうかと思うが。


 人間台風と人外台風がぶつかり合うとどうなるかっていうと、こうなるのね。

 こうなっちゃうのね。

 流れ星でも落ちてきたかのように、飛竜の溜めに溜め込んだ咆哮(ムジャード)が至近距離からぶちかまされたように、前庭は盛大に大穴を開けて吹き飛んでいた。

 庭師のエシャフォド爺さんがブチ切れて、とてもここに書けないような罵詈雑言を吐き散らしていたけれど、怒りが限界を迎えて卒倒でもしたのか、若い衆が思い遣って他所へ引っ張っていってくれたのか、それももう聞こえない。

 

 いつまでも続くかと思われた激しいぶつかり合いは、お互いの剣がかち合ってへし折れたことで一転した。

 一瞬呆けたような沈黙が走り、それも束の間、お二人は無用の剣を捨てて取っ組み合いの殴り合いに突入なさった。

 突入というか、その後、殆ど数秒の間に決着がついたんだけど。

 

 単純な力比べとなれば圧倒できると踏んだのか、御屋形様が掴みかかろうとなさったたところを、奥様が力いっぱいに踏みつけた地面が、圧縮され鋼のように研ぎ澄まされた土の槍となって襲い掛かる。

 これを素手で握りしめて力づくで押さえつけて、押さえ込んで、ねじ伏せてしまったのはさすがに御屋形様というべきところだけど、同時にさすがは脳筋蛮族の大親玉、などというウルウじみた感想が浮かんでしまった。

 その蛮族解決法は大きな隙を生み、奥様の指打ちが生んだ風の刃ががら空きの顔面を襲った。

 隙があったとはいっても、その肉体自体が魔力で鎧われた頑丈さ。いくら奥様でも簡略化した魔術では、皮一枚は切れても肉まで及ばない。及ばないけど、逆に言えば皮一枚は切れる。

 その剃刀じみた鋭さに御屋形様が思わず目を閉じてしまわれた瞬間、奥様の拳が顎先に打ち込まれて、人体が立ててはいけない音を立てて、人体がやっちゃいけないような角度に首がかしいだ。

 

 いくら辺境貴族が頑丈で、御屋形様がその頂点に立たれているとはいえ、脳が揺れれば体の自由は奪われる。

 ぐらりと足元が揺れたのを見逃さず、奥様はよろけた体に組み付いて地面に引き倒すや、ご自分の伴侶のお美しい顔面を、畑でも耕すかのように左右の拳で滅多打ちにし始められた。

 肉と肉とがぶつかる湿った音と、骨と骨とがぶつかる硬く鈍い音とが、絶え間なく響き続ける。

 その間も御屋形様の身体は痙攣するようにはねては奥様を振り払おうとなさるけれど、完全に組み敷かれておられるようで、暴れても暴れても奥様は絡みつく蛇のように離れない。離れたらすさまじい反撃が返ってくることを思えば、当然も当然か。

 

 すっかり頭に血が上っておられるのか、奥様は温厚な顔立ちに獰猛な獣のような笑みを浮かべて、南部訛りの激しい罵倒語を繰り返しながら、旦那様の顔面を地面に埋めようとでもするかのような拳を叩き込み続ける。

 御屋形様の身体がくったりと脱力したのは拳が五十を数えたあたり。奥様が回転しすぎた車輪を落ち着かせるように緩やかに速度を落としながら殴り続けることさらに十数度。奥様が荒い息を繰り返しながら拳を止めたころには、御屋形様の上半身は柔らかくほぐされた黒土に埋もれていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 自分の伴侶にまたがったまま、血まみれの拳を振り上げて蛮族の勝鬨を上げる奥様。

 辺境貴族に真っ向勝負で打ち勝つというのも物凄いけれど、自分の伴侶の顔面を容赦なく滅多打ちにできる人間性というのも凄まじい。

 奥様の穏やかなお顔しか知らないあたしとしては、成程辺境貴族と結婚するような人間がまともなわけがないと大いに納得するのだった。現実から逃げてるとか言うな。

 常識的じゃない生き物だけに常識というものをしっかり教え込まれたリリオは、その常識を幾重にも上塗りする現実を前に絶句していたし、ウルウもドン引きした様子で言葉もない。

 あたしも、乾いた笑いしか出てこないわよ、これは。

 

「素晴らしい腕前、素晴らしい胆力。お変わりないようで安心いたしました」

 

 そんなあたしたちを尻目に、特等武装女中のペルニオ様が、やる気のない拍手とともに、熱のない声音でそんなことをうそぶく。

 この人は本当に、どんな時でも平常運転だ。神経が死んでるんだろうか。

 吠えながら拳を振り上げる奥様と、下半身だけ土からはみ出している御屋形様。

 それはあたしの知っている奥様ではないし、あたしの知っている御屋形様でもない。

 どうしてこんな惨状を目の当たりにして平然としていられるのか、あたしには理解できない。

 などと思っていたら、ペルニオ様のガラス玉みたいな目がアタシを見つめていて、うへえとする。どうもあたしは、昔からこの人の目が苦手だ。

 まるで造り物みたいに冷たくて、無感情で、その癖、その鉄面皮のままドすべり冗句や謎の姿勢を決めてくるので、あたしには、というか使用人みんな揃って、笑っていいのかなんなのかいまだにわからない。

 バカ受けするのは女中頭位だ。あの人はあの人でどうかしている。

 

 その人形(づら)があたしを見つめて、ゆっくりと瞬きする。

 

「トルンペート」

「うぇ、はいっ」

「物事を、一面的に見てはいけません。あれも現実。これも現実。主がぼろ雑巾にされているのも現実です。笑えますね」

「わら、えっ」

「失敬。本音が」

「えっ」

「おすまし顔で格好つけている御屋形様も現実。あそこで湿った生乾きの雑巾みたいになっている御屋形様も現実。穏やかな気持ちで受け入れていきましょう」

「主がぼろ雑巾にされていて、なんでそんなに平然と……?」

「私が武装女中だからです」

「えっ」

 

 ペルニオ様はまたゆっくりと瞬きをして、続けた。

 

「時には主を護り、時には主から護るのが武装女中のお勤め。主が暴走した時には、よっしゃいまだとばかりに物理的に押さえ込んで囲んで棒で叩いてでも止めるのが武装女中です。自分の手を汚さずに鎮圧できたのならば、喜んでお茶請け片手に観戦するのもお務めです」

「えっ……えっ?」

「武装女中って強くなればなるほど頭おかしくなるの?」

「否定できないのが辛い」

「左様でございますね。みな、大概面白おかしくいらっしゃるようです」

「他人事のように」

 

 ペルニオ様はしれっとぬかしたあと、改めてあたしたちに向き直り、ゆっくりと美しく立礼した。

 

「なにはともあれ、おかえりなさいませ」

 

 美しい女中の後ろで、奥様の死体蹴りが旦那様を掘り起こしていた。




用語解説

・南部訛りの激しい罵倒語
 南部訛りは罵倒語のバリエーションに富むと言われている。
 帝都人や東部人のような皮肉などよりも、直接的な罵倒が多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七章 巣立ちの日
第一話 白百合と鬼百合


前回のあらすじ

Q.帰省したら両親がぼろ雑巾になってしまい、
 どういう顔をしたらいいのかわかりません。
A.笑うしかないんじゃない?


 お父様が壊れてしまいました。

 ああ、いえ、お父様付きの武装女中ペルニオによれば、元々かなりアレな古今稀に見る馬鹿らしいのですけれど、少なくとも私の知る限りはまっとうな人だったと思います。思うんですよ。ちょっと思い出が信じられなくなってきましたけれど。

 そのお父様がいま、心身ともに壊れてしまいました。

 

 中身の方はまあ私にはもう判断の付きようもないんですけれど、体の方はもう見て取れるくらいはっきり壊れてしまっていますね。

 お母様の拳で耕された顔面はもはやどこが鼻でどこが口なのかもわからない有様で、放り出された人形のようにだらりと力なく伸びた手足はもしかしたら関節が増えているかもしれません。服も血と泥でまみれて、もうどうやっても繕い直すのは無理そうでした。

 

 お父様があれだけ傷ついてしまうのは、私の知る限りでは初めてでした。

 飛竜相手にも大した手傷も負わないで済ませてしまうお父様です。それをここまで壊してしまうお母様の凄まじさです。あるいは、三徹目で頭が大分朦朧としていなければ追い込むことすら難しいお父様の凄まじさというべきでしょうか。

 多分ですけれど、意識している間は徹底的に張り巡らされていた魔力の鎧が、意識が危うくなっていくにつれて緩んでしまい、その隙を攻め込まれたというかたちなんでしょうか。

 いくらお母様がブランクハーラであろうと、生物種としての優劣ははっきりしていますから、おそらく天高く積み上げた策と罠と仕込みとはったりを切り崩しながら、岩を穿つ雨だれの様に根気よく、徹底的に磨り潰しにかかって、ようやくあれなのでしょう。

 私にはまだ辿り着けない境地です。

 

 そんなお父様をぼろ雑巾にしてしまったお母様の方はどうかというと、こちらも満身創痍で、お手製の飛行服は半分以上ぼろきれと化していました。いろいろと見えてしまっていますけれど、かけらほどの色気もありません。中身もちょっと見えちゃってますしね。この冬に全身から湯気が昇ってる始末ですし。

 先程まではタガの外れたように調子っぱずれに笑いながらお父様を蹴り続けていましたけれど、突如糸の切れたように受け身もなしで顔面から倒れていってしまいました。

 興奮して痛みも何も感じなくなっていたんでしょうけれど、限界だったのでしょうね。

 遠目に見ても血まみれですし、殴り続けていた拳は指がおかしな方向にねじれてますし、顔面が三割増しで膨らんでますし、さっきも砕けた歯みたいのを血と一緒にお父様に吐きつけてましたし。

 

 二人が血だまりに伏してからたっぷりと三分ほどもう動かないことを確認してから、武装女中を先頭に使用人たちが爆心地に回収に向かいました。重たげな戦鎚を手にした武装女中は、弱った主人らを狙う不届きものを警戒してのことではなく、もし主人らが動き出した時にまた動かないようにするための要員で、担架を担いだ使用人が二人を乗せて運びだすのを横で護っています。

 

「…………えっ、死んでないよね?」

「多分死んでないです」

「多分……?」

「危なかったらもっと大慌てで回収しにきますから」

 

 ウルウは釈然としない様子でしたけれど、我が家の医療体制は分野においては帝都よりも上だと自負しています。なにしろ爆ぜちゃったトルンペートもちゃんと元通りに詰め直してくれましたし、壊れるたびに直してくれますので、信頼性は高いですね。

 私も直してもらったことがありますけれど、ご存知の通り傷ひとつなく健康体です。

 まあ実際のところ、帝都の医療事情をよく知らないので、もしかしたら帝都でも同じようなことができるのかもしれませんし、半分に割いても直せるくらい凄いのかもしれません。

 

 さて、お父様とお母様が回収され、庭師たちが庭を埋め戻し始め、使用人たちがそそくさと立ち去っていくと、何とも言えず間の抜けた静寂が残りました。

 まっとうな手順としては、お父様に迎えられて館に帰り、ウルウの紹介も兼ねてお茶でもしながら歓談して、みたいな感じだと思うんですけれど、初手でつまずいていますからね。

 とりあえずペルニオに指示を、と思ったところで、開けっ放しだった正門から武装女中を連れて顔を出すものがありました。

 

「やあ、おかえりリリオ。ひさしぶり。元気そうでよかったよ」

 

 お父様がもう復活したのでしょうか、そんなことを一瞬思ってしまうくらいには、お父様と似た雰囲気がありました。お父様に近い灰金の髪に、お母様譲りの褐色の肌。着こなしは帝都でも見劣ることのない伊達ものです。

 涼し気な顔立ちには悪戯っぽい笑みが浮かんでいて、眩しい日差しでも見るように目を細めてこちらを見下ろしていました。

 どこに出しても恥ずかしくないまさしく貴族の令息といった気品はそのままに、冒険屋のたむろする荒っぽい酒屋にでも顔を出すような気安い仕草で片手をあげる少年。

 

 ティグロ・ドラコバーネ。それが私の兄でした。

 

「もう、ティグロ。いたのならお父様を止めてくれても良かったじゃないですか」

「やだなあ。僕だってまだ死にたくないし。冒険屋ならある程度現実主義にならないと」

 

 軽薄と言っていいほどに軽やかに、悪びれた風もなくしれッと言ってのけます。

 旅の先輩だけあって、なんだかわかったようなことを言います。二歳しか違わないんですけどね。いやまあ、私たちの年頃で二歳差というのは結構大きいものかもしれませんけれど。それが生まれてきた頃からの付き合いともなればなおさら。

 

「まあ父上はあれで静かになったことだし、いいってことにしようよ。それよりも僕はお仲間を紹介してもらいたいもんだけどね」

「ああ、そうでした。ウルウ、これは私の兄のティグロと言います。ティグロ、こちらは私の冒険屋仲間のウルウです」

 

 放っておいたら姿を消して陰に隠れそうなウルウの手を取って、紹介します。

 ものすごく嫌そうですけど、手を取れば諦めて横に立ってくれます。というか、そうしようと思えば私に指一本触れさせないようにすることもできるのに、簡単に手を取らせてくれるあたり、ウルウって感じです。

 他所様相手なら営業用の笑顔も作れるウルウですけれど、私の身内であるティグロ相手にはどういう顔をすればいいのかいまいちわからないようで、人見知り全開でどーもと短く挨拶していますね。借りてきた猫みたいです。

 ティグロはもともとそのくらいのことでは気にしない人種ですけれど、でもなんでしょうね、気にしないどころかなんだかおもしろがっているような顔でにやにやとしています。

 そのにやつき顔で見上げられて、ウルウもなんだか居心地が悪そうです。

 なんだか私も落ち着きません。

 だって、ほら、あれですよ。

 この状況、考えてみたら、はじめてお友達を家に連れてきた妹っていう感じじゃないですか。あのリリオがお友達を、みたいな受け取られかたされてたらかなり恥ずかしいものがあります。

 私に友達がいないみたいなの止めてもらえませんかね。

 単に同年代の子供がそうそういないっていうだけの話ですよ。

 辺境貴族なんて基本そんなものですよ。

 ああでもティグロは辺境でも友達多いんですよね。同じ辺境貴族の親戚だけじゃなく、ちょくちょく町を出歩いたりして、気安く話す友人も多いみたいなんですよね。いったい我が家の血のどこにそんな社交性があったというのでしょうか。

 などと私が一人もやもやしていると、ティグロは清々しいほどの笑顔で私に言いました。

 

「ふふふ、聞いてるよ、リリオ」

「えっ。なんです。友達くらいいますよ」

「森のお友達のことはどうでもいいけど、そうじゃなくってさ」

 

 動物しか友達いないわけじゃないんですけど、と睨んでみましたが気にもとめられません。

 にま、とティグロの笑みが深くなります。

 どこかお母様を思わせるいやらしもとい悪戯っぽい顔です。

 

「みんな聞いてるよ。リリオが嫁取りしてきたって。トルンペートまで手籠めにしたんだってね。やるじゃないか」

「なっ、ばっ、()()ますよ!」

「できるものなら?」

「ぐぬぬ……!」

 

 けらけらと楽し気に笑いながら、ティグロはひらひらと手を振ります。

 その手のひらの一枚を、いまも突破できる気がしません。

 悔しいことに、私は実の兄に対して負け越しているのでした。それは勿論、兄妹の間の些細な喧嘩の勝敗でしかないのですけれど、でもこの些細な喧嘩というものが家庭内ではなかなか重みがあるのです。

 私だってお母様にたくさんあしらわれもとい訓練を受けたので、負けやしないぞという気持ちはあるのですけれど、それでも敗北の歴史は記憶にしっかり刻まれているのでした。

 そもそもがティグロがからかうので私が反発するという流れで、それ以外では甘いお菓子を譲ってくれたり何くれとなく気にかけてくれたりと普通にいい兄なのも困ります。

 私、勝てるところがあまりにもないのでは。

 

「まあからかうのはこのあたりで止そうか。ようこそ我が家へ。歓迎するよ。()()()()()

 

 ウルウを見上げてにっこりと微笑み、ティグロは静かに目を細めたのでした。




用語解説

・ティグロ・ドラコバーネ(Tigro Drakobane)
 辺境伯アラバストロの長男。リリオの兄。
 父からアッシュ・ブロンドの髪を、母から褐色の肌を受け継いだ美少年。
 辺境では珍しい肌色のため、エキゾチックな魅力があるとして領内では非常にモテる。
 兄妹喧嘩の範疇とは言え、リリオに勝ち越しており、相応の実力者。

・森のお友達
 相撲を取った熊とか、かけっこした狼とか、おままごとした猿とか。
 三十分後には串焼きか鍋になっている割合も高い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊と鬼いちゃん

前回のあらすじ

リリオ兄こと、ティグロは爽やかな美少年ぶりを見せつけるが……?


 リリオに兄がいるという話は前々から聞いていたけれど、じゃあ実際どんな人なのかっていうのはあんまり詳しく聞いたことがなかった。聞く機会がなかったし、あんまり興味もなかったし。

 それでもまあ、リリオのお兄さんだからリリオに似て美形なのかな、とは何となく漠然と思ってた。

 その想像は半ばくらいあっていて、半ばくらいは間違っていた。

 

 ティグロと名乗った青年、というよりまだ少年かな。前に聞いた話じゃあ、二歳違いの十六だそうだし。私からすると十代なんて言うのはもうそれだけで妖精か何かかっていうくらい別次元の生き物に感じる。つまり私は妖精と旅してるわけだけど。

 兄妹とはいっても、彼の外見はリリオとはあまり似ていなかった。リリオが美少女であるのと同じくらいには立派な美少年ではあったけど、ジャンルが違う美形だ。

 リリオはマテンステロさんのように象牙のようなクリーム色を帯びた白い髪だけれど、ティグロは父親譲りのアッシュ・ブロンド。肌の色も逆で、リリオは白く、ティグロは甘いチョコレート色。瞳は二人とも鮮やかな翡翠色だけど、ティグロは少し青みがかっている。

 顔つきは兄妹と言うだけあって似てはいるけれど、印象が大分違う。リリオはアメリカのCGアニメ張りに表情豊かだから少し子供っぽく見えるけど、黙っているとどこか父親を思わせる作り物のような美しさがある。一方でティグロは悪戯っぽい目元と言い、柔らかな顔立ちと言い母親の影響が強いようだ。性格もマテンステロさん寄りだとちょっと手に負えないけど、どうだろう。

 

「改めまして、はじめまして。僕はティグロ。ティグロ・ドラコバーネ。リリオのお兄ちゃんのね」

 

 私からしたら年齢も背丈もだいぶ低い相手ではあるんだけど、でもさすがは貴族様というか、まったく腰の引けたところのない堂々とした態度は素直に感心する。私なら絶対無理だ。いますでに対応の仕方に悩んで腰引けてるし。

 リリオやトルンペートよりは背丈があるけど、でも背が高いという感じでもない。この年頃なら平均位かなあ。その外見もまた私に対応の仕方を悩ませる。

 悩む私を見上げる目は、なんだろうなあ。まっすぐではあるけど、真っ正直ではなさそうだ。リリオもたまに、というかしょっちゅう何考えているんだかわかんない透明な目で見てくることはあるけど、ティグロの場合は考えを読ませてくれない目付きだ。

 ああ、うん。ちょっとだけ見た、アラバストロ氏の目に似てるかもしれない。

 楽しそうにほほ笑んでいるのは、顔だけかもしれない、とはちょっと思う。

 まあ、私のいつもの疑心暗鬼かもだけど

 

「簡単ないきさつは聞いてるけど、リリオの一党に入って冒険屋仲間をしてくれてるんだってね。そして()()()()仲良くしてくれてるとか」

「えーと、まあ、そういうことになるかな」

 

 結局私は、リリオと同列に扱うことにして、敬語は早々に放棄した。貴族相手の振舞いをされて喜ぶ顔でもない。しなかったら喜ぶっていう具合に単純でもなさそうだけど。

 敵対的ではないし、疎まれているわけでもなさそうだけど、値踏みされてるのは感じる。でもその価値基準がよくわからない。貴族にありがちそうな権威や地位でもなさそう。辺境人らしい強さへの信仰でもなさそう。まさか顔の良し悪しでもないだろう。

 じゃあ、何で私を見てるんだろうか。

 

「ま、なんだろうね。妙な話だけど、ウルウ、あなたが今後も妹と()()()してくれるんなら、していってくれるんなら、あなたの義兄ってことになるのかな。年下の義兄で悪いけど」

 

 にっこり笑って差し出される手を数瞬見下ろして、そっと手を重ねる。

 

「よろしくお義兄ちゃん。年増の義妹で悪いけど」

「ふふふ。よかった。堅苦しい人だったらどうしようかって思ってたんだ」

「私も気軽に接してもらえると助かるよ」

 

 小さい手だ。いや、私の手が大きいのか。十六歳の少年の掌なんて、こんなものかな。

 

「手を出したのはリリオみたいだけど、でも、リリオはね。僕の妹なんだ。可愛い妹。相手がいい人そうで良かったよ、本当に」

「あー……節度あるお付き合いはさせてもらってるよ」

()()()()()()()()()()()()()

「…………私が嫁らしいよ」

「んっふ、その返しはちょっとおもしろかったかな。うん、ごめん。一線を越えられたのは君の方だものね。お義兄ちゃんからも謝っておこう」

「ちょっとティグロ! ウルウを取らないでください! 私のですよ!」

「私は物じゃないんだけど」

「いいじゃないか、減るもんじゃないし。年上の義妹ってなんかぐっとくる響きだし」

「うがー! だめですよ! ダメ!」

「ふふふ、リリオは可愛いなあ」

「がうがう!」

 

 長々と握手をしていたら、リリオが横から割って入って引き離された。

 怒るリリオって言うのも珍しいけど、どちらかというとこれはむしろじゃれている感じかもしれない。

 私には兄弟姉妹がいなかったからよくわからないけど、でも犬がじゃれ合ってるみたいな感じにも見える。むしろ態度的には、余裕のある大型犬に、小型犬がきゃんきゃん飛び掛かってる感じ。

 

「ねえトルンペート、ティグロってどんな人なの?」

「どんなっていってもね。私はリリオの傍から見た姿しか知らないけど、気さくな人よ。社交的で、誰とでもすぐ友達になる感じ。洒落者で、はやりに鋭いわね。帝都の流行も気にかけてるみたい。ちょっと軽いとこがあるかもしんないけど、まだ十六歳にしてはしっかりしてて、家も安泰ねーってみんな言ってるわ」

 

 まあ、わからないでもない。

 前世でも見かけた、よくできる子って感じで。何事もそつなくこなす感じ。カリスマっていうか、集団の中で頭が出てるタイプだよね。

 

「ま、私はあんまり詳しくないけど、一つ確かなことがあるわ」

「なあに?」

「ティグロ様はね、妹大好き人間よ」

「妹大好き人間」

 

 そう評価される兄は、妹にじゃれつかれて天使のような微笑みを浮かべていた。

 成程、メイド公認の妹大好き人間(シスコン)なだけはある。

 

「私も、会ってすぐだけどひとつわかったこともあるよ」

「あら、なによ」

 

 私は手袋をそっと外して、手のひらを検めた。

 

「握力はさすがの辺境人だね」




用語解説

妹大好き人間(シスコン)
 リリオに人間の友達がいないのは事実だが、その原因の一端にそもそも近寄らせてくれないという謎の圧力があったかもしれない。
 謎だ。

・握力
 辺境人、辺境貴族の平均握力は不明だが、少なくともリリオは熊木菟(ウルソストリゴ)の頸骨を素手でへし折れる。
 ティグロはそこまでのパワータイプではないようだが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と辺境の晩餐

前回のあらすじ

年下のお義兄ちゃんはシスコンでした。


 久しぶりにお会いしたティグロ様は、お変わりないようだった。

 まあ久しぶりって言っても、そう何年もたったわけじゃないのよね、意外にも。ものすごく久しぶりにも感じるけど、実際は半年程度なわけで。初夏に旅立って、冬に帰ってくるなんてそんな短い旅だとは思わなかったわ。

 この違和感ずっと感じっぱなしだけど、まあそれくらい、旅の日々が濃厚だったってことなのかしら。それとも故郷って言うのはそれくらい心に沁みるものなのかしらね。

 

「ああ、そう言えばティグロ! どうせのぞき見してたんでしょうけど、お母様ですよお母様!」

「ああ、うん、そうだね」

「あれ、思いの外に反応鈍くありません?」

 

 旅程が縮まった原因でもある、奥様発見の報を喜び伝えるリリオに対して、ティグロ様はにっこりと微笑んで肩をすくめられた。

 

「知ってたしなあ」

「なんだ知ってたんで……何で知ってるんです?」

「僕の成人の儀の時に、旅先で普通に見かけてさ。あれ、お母様だ。あらティグロ、元気? お母様も元気そうですね、冒険屋復帰ですか。そうなのよ鈍っちゃってねー。みたいな感じで」

「ノリ軽っ!」

「正直、山でうっかり熊に遭遇した気分だったよね。お互い、あっやべっ、て。僕その時、賭場でトバしちゃって借金返すために女装して給仕しててさ、そしたらお母様が若い子と同伴で来店して、ものすごく気まずかったよねー」

「すごく! すごく気になりますけど! 突っ込みどころが! 突っ込みどころしか!」

 

 リリオが激しく突っ込みに回るのってあんまりないわよね、そう言えば。

 かといってボケが面白いかって言うとそうでもないんだけど。

 

「もー! なんで黙ってたんですか! 私ずっと知らなかったんですけど!?」

「そりゃ言わなかったからね」

「言えっつってんですよ!」

「その方が面白いかなーって。実際面白いリリオが見れたね。やったよ」

「うーがー!」

 

 兄妹仲のよろしいことで。

 ティグロ様は昔からリリオと遊ぶと言うよりリリオで遊ぶのがお好きな方なのだ。

 そしてティグロ様付きの土蜘蛛(ロンガクルルロ)の一等武装女中フリーダは、そんなお二人の姿を恍惚として見守る筋金入りの子供好きだ。その趣味を満喫した上で、頭部に髪飾りの様に煌めく宝石様の側眼でウルウやあたしの姿も把握して、一挙手一投足を見逃さないでいるというのだから、恐ろしい。

 以前のあたしはフリーダに一撃入れることもできず、手合わせするたびに四本の腕でからめとられてはよーしよしよしよしと全身まさぐられたものだ。そろそろ好みの年齢を超えるはず、もといあたしの腕も磨かれたので、一撃くらい入れてお返ししてやりたいところね。

 

 まあ、いくら子供好きのフリーダでも、いまはあたしよりウルウの方に意識が向いてるみたいだけど。何しろウルウときたらちょっと目を離すと姿が消えているのではないかというくらい気配が薄いし、実際妙なまじないで姿を消していることも多いのだ。

 そしてあたしという暗殺者の相手に慣れたフリーダは、ウルウが表に見せない中身を察して警戒しているのだ。かつてあたしがウルウを恐れたのと同じように。

 それでもあたしと違って、その警戒を表に出すことはしないし、微笑みとともにもてなすあたりは、成程一等だなって思うけど。

 

 あたしたちが通されたのは食堂だった。宴などが催される大広間ほどではないけれど、カンパーロのお屋敷やモンテート要塞と違って、かなり広々とした造りだ。当然冷え込みやすいのだけれど、大きな暖炉や、防寒もかねて壁に飾られた織物が見ものだ。それに、天井からつるされた枝型吊り照明(ルーストロ)は、土蜘蛛(ロンガクルルロ)謹製の硝子細工と輝精晶(ブリロクリステロ)を組み合わせた美しいもので、中央からの客も感心させる一品ね。

 いくら辺境貴族が武辺者ばかりとはいえ、貴族はやっぱり貴族で、見栄って言うのは大事なのよ。お金をかけることができるっていうことはそれだけ豊かであるということだし、良い職人を抱えていることは領地の文化の高さを示せる。

 それらは侮られないための武器にもなるし、他領との交易や外交にも有利に働く。らしい。あたしはよくわかんないけど。そういう政治とかは、意外とリリオの方が詳しいのよね。一応あれでも貴族の令嬢ではあるわけで。

 

「お腹を空かせて帰ってくると思って、準備させてたんだ」

 

 ティグロ様がそうおっしゃったように、夕食はすぐに用意された。

 フロントの御屋形で一家の方々が召し上がる食事は、カンパーロやモンテートの様に一度に食卓に並べられることはない。

 先も言ったように、あちらは部屋を小さくして暖房を利かせ、暖かさを保つから、料理を広げても冷めることがない。

 でも冷えやすい造りのこの御屋形ではそうして一度に並べてしまうと料理はどんどん冷めてしまうので、正餐では一品ずつ料理を提供していくのが基本だ。これは内地の貴族たちもやっているけれど、どちらが先なのかはあたしも知らない。

 

 まあ、そう言う料理を普段は見ている側であって、こうして給仕されるのはやっぱり初めてだから全く落ち着かないんだけど。やっぱり慣れないわよ、これ。身内ばっかりだし、堅苦しいことは言わないから、それは楽と言えば楽だけど。

 

「トルンペート久し振りー」

「半年ぶりくらいかしら。相変わらずちっちゃいわね」

「どこ見て言ってんのよあんたは」

 

 給仕をしてくれる女中も顔見知りで、傍で給仕してくれる時に下品でない程度にからかうように笑いかけてくる。あたしも以前はそっち側だったんだけどなあ。でもリリオが成人の儀の旅としてだけでなく、ちゃんと冒険屋として家を出るって決めちゃってるから、あたしもそれについていくって決めちゃってるから、あたしたちはそのうちお客様として扱われることになる。慣れないとね。

 あれ。いやでも結局女中は女中なんだし、あたしがお客さま扱いされるのはやっぱりおかしいんじゃないか。などとは思うけれど、まあ今更しょうがない。

 

 冬場とは言え辺境の棟梁たる辺境伯の御屋形ともなれば、その食材の充実ぶりも、また料理の技巧も他の比較じゃあないわ。そして気遣いも。

 食前酒として、北部や辺境では割と強めの蒸留酒を出したりするけど、ウルウがあんまりお酒に強くないことを知ってか、葡萄酒(ヴィーノ)を出してくれた。辺境でも暖かい辺りでは葡萄酒(ヴィーノ)を作っていて、いくらか割高ではあるけれど、美味しいものが多い。

 食中酒も、ウルウには酸汁(アツィーダ)を振舞ってくれた。これは黒麦と麦芽を発酵させた飲み物で、見た目は濁った黒麦酒(エーロ)の様でもあるけど、酒精はほとんどなくて、お酒だと思ってる人はほとんどいない。味はなんていうのかしらね。薄い麦酒(エーロ)ってんでもなし、ちょっと甘酸っぱい。

 フロントでは木苺(ルブーソ)の類の汁を混ぜ込んだものが多く、これもそうだった。

 

 料理が出るまで、ティグロ様はもっぱらリリオの旅の話をねだった。

 リリオの話を、というよりも、楽しげに話すリリオの姿を、ティグロ様は微笑ましく見守っておられた。こうしているととても良い兄妹に見えるのだけれど、この人、あの御屋形様の血が流れているのよねって思うと、なんだか見方が変わってきちゃいそう。

 

 前菜には鮭の凍膾(デゲラージョ)が盛り付けられた皿が出た。

 凍膾(デゲラージョ)は冬の間、保存のために吊るした魚介や肉が使われる。寒い中吊るしておくと食材は凍ってしまうんだけど、これを炙ったり、薄く削る様に切ってそのまま塩や油、酢なんかで食べる。

 丁度シャリシャリと半凍りの具合で食卓に提供するには料理人の見極めと給仕の迅速さが大事で、暖房の利いていないあほほど寒い部屋の中で皿に盛りつけるのが常だ。

 凍らせることで保存が利くし、魚などに潜む虫も殺してしまえる。それに水分や脂が程よく抜けるので、味わいも深くなるっていう、自然の不思議を利用したおいしさね。

 

 続く汁物(スーポ)は、林檎(ポーモ)木苺(ルブーソ)汁物(スーポ)だった。あえて粗目にすりおろした林檎(ポーモ)はしゃくしゃくとした食感を残していて、そこに木苺(ルブーソ)のぷつりぷつりとした心地よい歯ごたえが混ざり込む。

 果物の甘酸っぱさだけでなく、生姜(ジンギブル)肉桂(ツィナーモ)なども利いていて、体の内側からほっと暖まるような気がする。

 ウルウは甘い汁物(スーポ)ってはじめてみたいで、なんだか不思議そうな顔をしてた。まあ、確かにあたしも作って出したことないわね。他の料理と鍋を共有出来ないし。

 

 三皿目は魚料理。辺境では魚と言ったら、川か塩湖で獲れるもので、塩漬けや酢漬け、油漬け、干物で流通することが多いわね。海に面してないから海産物を物珍しがる、とは言うけど、塩湖でも意外と色々取れるから、決して魚介が少ないわけじゃない。むしろ貴重な食料として昔から活用されてきたらしいわね。

 苔桃(ヴァクチニオ)の甘いたれをかけて提供されたのは、鰊の麺麭粉揚げ(コトレート)だった。麺麭粉揚げ(コトレート)っていっても、ウルウがやるようなたっぷりの脂で揚げる奴じゃあない。浅鍋に多めの油を温めて、炒め焼きにしたやつだ。

 鰊を三枚におろして、塩や胡椒(ピプロ)、香草で下味をつけ、二枚の間に潰し芋(テルポーマカーチョ)をはさんで、細かく卸した麺麭(パーノ)をまぶしてカリッと仕上げる。単純だけど、これがまた美味しい。馬鈴薯(テルポーモ)でかさ増しもするから、庶民にも嬉しい。

 

 っていうのをね、いままでウルウに説明してあげてたのはリリオとあたしなのよ。最近はもっぱらあたし。でも今日は、きちんとした正餐の様式で、席が離れてるから、そう気軽に説明もしてあげられない。それに一応お客様扱いのあたしが説明役を取っちゃうってのは、もてなしに文句があるって言ってるようなもんだ。

 だから、ウルウの給仕についた女中が、人見知りのウルウが気にしない程度に、料理の解説をしてくれている。ウルウもそれにいちいち頷いて、料理を楽しんでいるようだから、不便はないみたいね。

 

 不便はないんだろうけど、あたしとしちゃあちょっと不満だ。お役目取られちゃったみたいで。

 なんとなく、恨みがましいってんでもなし、拗ねたみたいな目を向けたら、女中にニヤッと笑われた。クッソ。見透かしてやがる。あとでいじめちゃろうか。

 

 なんてあたしが不貞腐れてるのにようやく気付いたらしいウルウは、あたしを見て小さく小首をかしげて、少し考えこんで、それから小さく戻して、もう一度あたしを見た。

 そして、そうして、唇のあたりにちょっと人差し指をやって、あとでねと唇だけでそう呟いた。

 

 あとでね。

 

 なにが?

 なにを?

 

 あたしの困惑など気にもかけず、ウルウは鰊を味わうのだった。




用語解説

・フリーダ(Frida)
 ティグロ付きの一等武装女中。
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)地潜(テララネオ)氏族出身。
 背はあまり高くないががっしりとした体型。
 子供好き()で、ストライクゾーンは八歳くらいからギリ十六歳くらい。
 嗜好は外見に寄っており、実年齢は気にしないタイプ。
 武装女中としての厳しい教育を耐え抜き、一等武装女中にまでなったのは、美形揃いの貴族の家で美少年や美少女のお世話するためだったと語っている筋金入り。
 妻も顔面と小柄さで選んでおり、土蜘蛛(ロンガクルルロ)の女性としては珍しく母性旺盛。
 ウルウに対して警戒しつつも、妙な幼女味を感じ取っており、監視にとどめている。

枝型吊り照明(ルーストロ)(Lustro)
 いわゆるシャンデリア。簡単なものから高価なものまで幅広く、材質も様々。
 吊り下げる構造上、天井の強度も大事で、設置には金がかかる。
 通常は光源に蝋燭などを用いており、床近くまで下ろして灯すことが多い。
 なお辺境の枝型吊り照明(ルーストロ)は、落下させて敵を殺す用途も説明書に書いてある。

・正餐
 最も正式な献立による料理。帝国では夕食にあたる。
 コース料理の歴史は複雑で、もとは聖王国においてフルコースや略式コースが存在した。
 聖王国打倒後は一時期その文化を否定する意味で廃れるも、格式や、料理を最善の状態で提供することなどを考えた場合、結局のところコース料理に戻ってきた。
 その混乱のためにコースの順番や提供する料理などは地域ごとに違いがあり、何が正式かは難しい。

・料理の技巧
 辺境伯の館に勤める料理人は、内地にて料理を学んだプロで、既存の辺境料理と内地の洗練された技巧を組み合わせて発展させている。
 閉鎖的に見える辺境だが、その実人々はみな新しいもの好きで、古くから内地の文化をよく取り入れてきた。

酸汁(アツィーダ)(Acida)
 「酸っぱい、酸味のある」を意味する飲料。
 黒麦と麦芽を発酵させた飲料で、一般家庭では黒麺麭(パーノ)を材料にすることが多い。
 飲料として飲むだけでなく汁物(スーポ)の材料にしたり、麺麭(パーノ)種にしたりする。

凍膾(デゲラージョ)
 凍った刺し身のような料理。
 冬場、保存のために軒先などに吊るした魚や肉をそぎ切りにして食べる料理。
 生で食べるため、加熱すると失われてしまうビタミン類を摂取しやすく、またきちんと冷凍したものは寄生虫などが死ぬために腹も壊さない。
 基本的に半凍りのまま食べるもので、これをさらに塩や酢に漬け込んだものなどはまた別の名で呼ばれる。

林檎(ポーモ)木苺(ルブーソ)汁物(スーポ)
 それは果たしてスープなのか。ジュースじゃないのか。
 帝国では主に東部の一部、北部、辺境などで見られる。
 果物だけのもの、果物と野菜を使ったものなど、さまざまな種類がある。
 夏場は冷製で、冬場は温製で食べることが多い。

・鰊の麺麭粉揚げ(コトレート)
 辺境ではイワシ、ニシン、サケ、チョウザメ、ナマズ、コイ、カマス、タラなど、魚介の消費が多い。
 ニシンはよく食卓に上がる魚の一種で、調理法も多彩で、潰し芋(テルポーマカーチョ)との組み合わせはよく見られる。
 ここでは一つに組み合わされて調理されているが、ニシンだけをパン粉焼きにして、潰し芋(テルポーマカーチョ)を添えて食べることも多い。

・あとでね
 席が遠くてお喋りできないで退屈なのかなと思っただけで、ウルウには別に他意はなかった。
 つくづく問題のある女である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合と実家の味

前回のあらすじ

ウルウの無意識ムーブメントに翻弄されるトルンペートであった。


 久々の実家は、何とも心休まるものでした。

 帰省直後こそお父様がぶっ壊れてしまって、お母様と庭をぶっ壊してしまって、最終的にお母様もろともぶっ壊れてしまうという、ウルウでなくてもドン引きするような大惨事になってしまってどうなることかと思いましたけれど、迎えてくれた我が家は懐かしいあの日のままでした。

 

 ティグロは相変わらず私をからかっては遊びますけれど、それが私を心から歓迎してくれているのだということが分かります。私たち兄妹はいつもこうだったのです。からかわれて、反発して、そして最後には笑いあっているのです。

 

「ねえティグロ。私が旅立ってから半年くらいは経ちますけれど、何か変わったことはありましたか?」

「なにも。なーんにも、さ。辺境は相変わらずだよ。そりゃ、細々としたことは変わってくけどさ、でもきっと百年経ったって辺境はそう変わりはしないよ」

「まあ、そうかもしれませんけれど」

「精々が、そうだなあ、使用人の中に結婚したものがいるね。子供を産んだものもいる。新しい武装女中が入った。町に新しい喫茶店ができた。そんなことくらいだよ」

「喫茶店!」

「食いつくところはそこだよねえ。リリオはどうだった?」

「私ですか?」

「そう。半年だけだけど、でも、やっと旅に出れたんだろう?」

 

 夕食の席について、食前酒を楽しみながら、ティグロは私に旅の話をねだりました。かつて私が、旅から帰ったティグロに話をねだったように。その頃のお返しというわけではありませんけれど、私は旅の思い出をひとつひとつ開いては語っていきました。

 

 旅に出て早々に、トルンペートを撒いて一人旅をしてしまったこと。

 境の森の中で、ティグロから聞いた経験が役に立ったこと。でも全部が全部はうまくいかなくて、苦労したこと。

 そしてそこでウルウに出会ったこと。

 

 ウルウと旅を共にするようになってから、私の物語は大きく広がっていったように思います。

 盗賊に出会ったこと。潔癖症のウルウに犬みたいに全身を洗われたこと。旅籠で食べた美味しいもの。

 ヴォーストについてからはメザーガの冒険屋事務所におしかけたこと。トルンペートが追いついて、すこしもめたこと。三人で冒険屋の一党を組んだこと。その生活がなんだかくすぐったくて、落ち着かなくて、でもやがて馴染んでいったこと。

 山に、野に、地下水道に、たくさんの冒険がありました。

 

 熊木菟(ウルソストリゴ)の恐ろしい空爪のこと。

 霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の主や、地下水道の巨大な穴守と戦ったこと。

 鉄砲魚(サジタリフィーショ)鉄砲瓜(エクスプロディククモ)を相手に苦労したこと。

 甘き声(ドルチャ・コンソーロ)の恐ろしい誘惑。

 メザーガとの立ち合いで認められたこと。

 ムジコの町の奇妙で、そして少し物悲しい自鳴琴の物語。

 温泉の町で出会った茨の魔物と、カローシしそうな聖女様の話。

 海を渡り、お母様と再会したこと。

 

 冒険の間の、美味しい食べ物のことが、もしかしたら一番熱がこもったかもしれません。

 《黄金の林檎(ポーモ)亭》の角猪(コルナプロ)の煮込み焼きに、黄金林檎(オーラ・ポーモ)

 《踊る宝石箱亭》の揚げ霹靂猫魚(トンドルシルウロ)やサシミ。

 鉄砲瓜(エクスプロディククモ)の得も言われぬ甘さや、夏場に食べる氷菓の心地よいこと。

 バナナワニのスキヤキに、角猪(コルナプロ)鍋、熊木菟(ウルソストリゴ)鍋。

 温泉の湯で蒸した土蜘蛛(ロンガクルルロ)特製の蒸し物料理。

 

 美しいものをたくさん見て、美味しいものをたくさん食べて、知らなかったことをたくさん知りました。

 

 ティグロは私の拙い話の一つ一つを頷きながら静かに聞いてくれました。

 私は確かに旅をすることが好きで、冒険が大好きでしたけれど、その話を誰かに聞いてもらうことがこんなにも楽しいとは知りませんでした。

 ただ、夢中になって話していて、ふと気づいたら、いつくしむような目で見られてて、なんだか恥ずかしくなってしまいましたけれど。

 

 こういう、なんでしょうね、兄としての余裕みたいなのを向けられると、妙な敗北感があります。

 ほんの少ししか変わらないはずなんですけどね、年は。

 

 私は少し気を落ち着けて、ゆっくり料理を楽しみながら会話を続けることにしました。

 

 前菜、汁物、魚料理と来て、お肉です。やっぱりお肉美味しいですよね。お肉には人を幸福にする成分が含まれているに違いありません。

 なんて適当なことを言ったら、ウルウに真顔でよく知っているねと言われてしまいました。

 これはどっちなんでしょうか。冗談なんでしょうか。本当なんでしょうか。ウルウはこう見えておちゃらけたところもあるんですけれど、大抵の場合顔面が死んでるので判断がつきません。忘れたころにネタ晴らししてくるのです。こわい。

 まあでも本当に困るような冗談は言わないので、そこは信頼できますけれど。

 

 一人用の小さな土鍋で熱々のまま供されたのは、辺境ではおたぐり(ティーリ)と呼びならわされている煮込み料理でした。ウルウもこれなんだろうと覗き込んでしまう、ちょっと変わったお肉が入っています。

 これはですね、飛竜のお肉ということはお察しでしょうけれど、その中でも内臓に当たるところなんですね。

 普通のお肉が、ある程度寝かせて熟成させた方がおいしいところ、内臓肉は腐りやすく、新鮮なうちでなければ食用に耐えません。そして新鮮なうちに処理するにはとても手間がかかるので、なかなか面倒なお肉なんですよね。

 でも獣たちが獲物のお腹、内臓から食べ始めるように、滋養に富み、そして味もいいのです。

 

 おたぐり(ティーリ)に用いられる内臓は主に腸で、これをひっくり返して()()を抜き、塩水とたわしでごっしごっしと洗います。灰汁に付け込むとかのやり方も聞きますね。

 こうやって洗うときに、ながいながーい腸をたぐり寄せながら洗うのでおたぐり(ティーリ)と言うんだとか。勿論、他所の貴族とかにお出しするときには、もっとこう、長ったらしいそれらしい名前で呼びますけどね。

 

 こうして洗った腸は何度も茹でこぼしたりしてから煮込まれるんですけれど、味付けは地方によってそれぞれですね。猪醤(アプロ・サウツォ)だったり、塩だけだったり、香辛料を使ったり。具材も、根菜や、葉物、他の内臓もあれこれ突っ込んだりとおうちそれぞれです。

 また、同じおたぐり(ティーリ)と呼んでいても、煮込みではなく炒め物だったり、串焼きだったり、つまり単に腸のことをおたぐり(ティーリ)と呼んでいることもありますね。

 

 我が家では胡桃味噌(ヌクソ・パースト)仕立ての煮込みで、具材としては馬鈴薯(テルポーモ)牛蒡(ラーポ)人参(カロト)玉葱(ツェーポ)生姜(ジンギブル)などです。味付けは大分濃い目で、お酒がとても進みます。

 

 おたぐり(ティーリ)は白っぽく、お肉とは思えない、でも他に何かと言われると思いつかない、くにゅくにゅとした不思議な歯ごたえで、顎にも楽しい美味しさです。匂いはちょっと独特なので苦手な人もいますけれど、我が家の使用人は優秀で、下処理も上手なのでかなり上等な方です。

 町ではさすがに飛竜の腸は出回りませんけれど、家畜の腸を用いたおたぐり(ティーリ)も乙なものです。

 

 こってりとした煮込みを味わえば、今度は氷菓です。といってもこれは締めのお菓子ではなく、口直しですね。藍苺(ミルテーロ)の鮮やかな紫色の雪葩(ショルベート)で、さっぱりとした甘酸っぱさが、おたぐり(ティーリ)でちょっとくどくなった口の中を洗ってくれます。

 それにしても冬場に暖かい部屋で氷菓を頂くというこの贅沢さ、たまりません。

 

 さて、さっぱり口直しが済んだら次です。

 口直しをした後に、だめ押しと言わんばかりにもう一度お肉、それも脳が馬鹿になるほど美味しさの棍棒で殴りかかってくる炙り焼き(ロスタージョ)を出すっていう構成を考えた過去の料理人の感性、私最高に好きですね。

 

 大きなお肉の塊を、お父様がいないので主人役代行のティグロが切り分けてくれます。

 こちらのお肉はですね、辺境の過酷な土地柄でも牧場の努力によってのびのび育った自慢の牛さんの肉なんですよ。これがもう、一度食べたら他で牛肉食べられないくらい美味しいです。いや、食べるんですけどね、結局。

 

 飛竜の肉も美味しいですよ。そりゃあ美味しいです。魔力も豊富です。

 しかし美味しく食べるために飼育されて、美味しく食べるために品種改良され続けてきた、完全なる食用家畜の美味しさというものはもはや暴力です。野生の力強さとか、自然のもたらす恵みとか、そういう勿体ぶった物言いを真正面から殴り倒す美味しさの暴力です。うるせえ、肉だ、そう言わんばかりに。

 美味しいお肉を、美味しく焼いて食べる。言ってしまえばそれだけの、ただそれだけのことを窮極まで突き詰めたのがこの炙り焼き(ロスタージョ)なのです。

 香ばしい焼き目と、それを裏切る内側の美しい赤身。最高のお肉が、最高の加減で調理されているのです。

 

 これをですね、これを、甘酸っぱい苔桃(ヴァクチニオ)のたれで頂く。

 塩だけで食うのが一番おいしいとかそう言う小理屈はどうでもいいんですよ。塩でも舐めてろ下さい。さっぱりとした塩加減の、まさにお肉食べてますっていう感じのお肉に、甘酸っぱい苔桃(ヴァクチニオ)。この取り合わせは、犯罪的な美味しさです。

 

「ふふふ、リリオの好きなもの、用意しておいたからね」

 

 いまだけは、からかい屋のティグロが神にも見えるのでした。

 

 




用語解説

・お肉には人を幸福にする成分が含まれている
 肉類には、幸せホルモンとも呼ばれる脳内物質セロトニンの材料になるトリプトファンが含まれている。
 同時にその吸収を阻害する成分もあるので、これ単体なら植物性食品から摂取するか、バランスの良い食事が大事。
 また動物性脂肪にはアラキドン酸と呼ばれる脂肪酸が多く含まれ、これが脳内でアナンダマイドというセロトニン同様に幸福感をもたらす物質に代わる。
 どちらも別に肉からしか取れないわけではないにしても、肉を食べるという行為自体が幸福に結びついて学習されている方も多いはずだ。

おたぐり(ティーリ)(Tiri)
 もとは馬の類の腸を用いた料理の総称。洗う際に腸を手繰るような動きをすることからその名がついた。
 内臓はビタミン類も豊富で、辺境で不足しがちな栄養素を摂取する方策の一つでもある。
 現在では馬は勿論飛竜や、食用家畜である牛の腸でも同様の料理が作られている。
 味付けや調理方法は多様であり、練り麺の汁にしたり、乾酪(フロマージョ)をかけて竈で焼いたりといったものもあるようだ。

・辺境の過酷な土地柄でも牧場の努力によってのびのび育った自慢の牛さん
 内地の人間になにが君たちにそこまでさせるのかと言わしめるほど、辺境の酪農家は牛の魅力を追求し続けてきた。
 酪農で知られる北部や東部にもその技術やノウハウは逆輸入されており、辺境産の牛肉は今や立派なブランドである。
 もちろん出回らないのだが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊とこれからのこと

前回のあらすじ

お肉を食べると脳がはぴはぴするお話。


 まだ手が痛いんだけど、などとぐちぐち言う気はないけれど、義理の兄になるらしいリリオのお兄さんは、どうも父親の性根をしっかり引き継いでいる気がする。

 つまり妹さえ関わらなければ至極まっとうな貴族のお坊ちゃんなんだろう。

 

 夕食の席は、異世界で初めてどころか、前世でも体験したことのないガチ目のフルコースだった。

 美しいカトラリーも並べられ、一品ずつ運ばれてくる皿は、いままで培ってきた辺境貴族というイメージをいい意味で裏切る洗練された品々だ。

 

 席がちょっと離れちゃって、トルンペートの解説が聞けないのは残念だけれど、メイドさんが給仕するたびに簡単に説明してくれるし、私が首を傾げると適切にサポートしてくれるので、成程優秀だ。

 あとは私が人見知りで不愛想でなければ完璧だったんだけど、まあ仕方ない。

 

 ティグロ君はリリオとお喋り、というかリリオのお喋りをまるで天使みたいな顔で聞き入っている。オタクの知り合いが顔のいい推しについて語っている時の顔と同じだから、触れない方がいいだろう。放っておこう。尊さに包まれてあれ。

 

 トルンペートは同僚らしいメイドさんにちょこちょこからかわれてるみたいだけど、楽しそうで何よりだ。同僚と仲がいいって言うのはほんと、大事なことだよ。仕事選ぶときは仲良くなれそうかどうかっていうのほんとよく考えてほしい。職場って言うのは生理的に無理な相手とも同じ部屋で時間を過ごさなければならない地獄だからね。

 

 食前酒にはきりりと冷えた白ワインを出してくれた。ウオッカとか飲みそうなイメージだったけど。

 この世界のワイン、そこら辺の酒場とかで飲むような葡萄酒(ヴィーノ)ってやつは、ブドウの種類とかできとか気にせず一緒くたにした奴が多くて、赤も白もないようなものが多い。でもこれはしっかりと白ワインで、ピンと張りのある辛口だ。それでいてフルーティーでさわやかな香りが膨らむいいお酒だね。

 私、お酒の良さはよくわからないけど。

 

 食事中は水でいいんだけどなあと思うけど、飲用水って案外割高なんだよね。

 代わりに出てきたのは酸汁(アツィーダ)とかいう黒っぽい飲み物で、炭酸の抜けたコーラを麦茶で割りましたみたいなそんな味がする。そこにフルーツフレーバーと甘酸っぱさ。謎だ。何ものなんだろうこれ。まずくはないけど。

 

 前菜にはルイベが出てきた。あれだよ。北海道の、鮭の凍った刺し身みたいなやつ。現地で食べたことはないけど、解凍ミスって半凍りの刺し身食べたことあるから知ってる。勿論こちらのお味はそんなものとは比較にもならないけど。

 

 続くスープは黄色というかクリーム色っぽいポタージュかな、と思ったら、なんとびっくり、甘い。

 かぼちゃの甘さとかではない、がっつり甘い。甘酸っぱい。果物の甘さだ。聞けば林檎(ポーモ)木苺(ルブーソ)の類だって言うんだから驚きだ。

 熱々ではなく、程よく暖かく、美味しいは美味しいけど、脳が混乱する。

 

 塩気を補うかのように登場した魚料理は、一尾丸々の姿。パン粉をつけて、揚げ焼きみたいにしたのかな。骨はどうしてるんだろう、と思ってナイフを入れると、すんなり刃が通る。開けば白い。白いふわふわ。成程マッシュポテトを腹に詰めているのだった。

 

 美味しいけど、でもトルンペートの作るマッシュポテトの方がおいしいよなあって、ちらっと見やれば何やら当人と目が合った。唇を尖らせてじろりと見ている。

 私はアイコンタクトなどという高等スキルは持ち合わせていないし、人の顔色など俯いてやり過ごしてきた人種だから、そういうわかれよみたいな目付きをされても困る。

 困るけど、何しろ私も《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一員として人間一年生を頑張ってきた身だ。そろそろ仲間の顔色くらいうかがえるようになってきたとも。

 わかる。わかるぞ。リリオがティグロ君に取られちゃって寂しいんだろう。席が離れてお喋りもしづらいしな。

 でもせっかくの高級料理なので私はご飯を優先したいのだ。疑似独り飯を堪能したいのだ。

 唇だけで後でお喋りしようねと伝えて、私は次の料理を待ち構えた。

 

 お肉料理は、現地ではおたぐり(ティーリ)と呼ばれている煮込みだった。

 ちっちゃな土鍋で提供されたそれは、ぱっと見た感じ、モツ煮だ。前世では居酒屋の定番だったかもしれないが、こちらの世界ではあんまり見かけない。

 というのも、内臓は傷みやすいからね。それに処理も手間だし。冷蔵庫があるとはいっても容量には限りがあるわけで、内臓はそんなに人気がない。

 とにかく安いので、さばいたばかりのお肉屋さんとかで早々に売りさばいて、屋台や家で調理されてしまって、地元の人以外はあんまり食べられない、秘かな現地の味だね。

 

 味付けもまあモツ煮って感じで、胡桃味噌(ヌクソ・パースト)のちょっと甘めの味噌味と、生姜(ジンギブル)の感じかな。濃い目だけど、くにゅくにゅしたモツを噛んでいるうちにちょうど良くなってくる。

 

 雪葩(ショルベート)が出てデザートかなって思ったけど、口直しなんだってね。まあ、確かに、口直しは必要だろう。

 ちんまりした氷菓を頂けば、すぐにも次の料理がやってくる。

 

 それはロースト・ビーフだった。牛肉なのだった。いやまあ牛って言ってもあのでかいモグラみたいのなんだけど、とにかくそれは私がこの世界に来てからもしかすると初めて目にした「お肉」だった。

 完全に食用のために飼育されて、調理されたお肉。恐ろしく柔らかく、恐ろしく味わい深いこのお肉のパワーは。リリオじゃないけどしあわせ成分が大量に含まれていること間違いなしだった。

 

 一皿ずつの量はそこまでではないんだけど、さすがにそろそろしんどい、というところで、終わりを感じさせるサラダが出てきた。さすがに辺境で一番偉い家とは言っても、冬場に生野菜はやっぱり大変みたいで、茹でて角切りにした馬鈴薯(テルポーモ)血蕪(サンガベート)と、玉葱(ツェーポ)や漬物を酢なんかで和えたものだった。

 血蕪(サンガベート)の、テーブルビートみたいな赤さが全体を染め上げていて、スプーンですくいあげて食べてみるとしゃくしゃきとして、少し甘い。

 

 さすがにもう終わってくれるかなと思い始めていたら、銀のお盆に乗った何かを選ぶように言われる。まじまじと眺めてみれば、それは小さく切り分けられたチーズみたいだった。牛をたくさん育てていて、酪農も盛んだということだから、チーズも美味しいのだろう。

 でも私はあまりチーズに詳しくないので、あんまりにおいがきつくないものをとお願いした。

 

 いくつか並べられたチーズに、ミルクピッチャーみたいなちっちゃな容器がひとつ。何かと思えば、楓蜜だそうだ。お好みでチーズに蜜をかけて食べるらしい。ハイカラというか、異文化というか。私にとってお酒のつまみのチーズってチーズサンドとかチーズかまぼことかだし。

 

 メイドさんが選んでくれたチーズは、成程なかなかいいチョイスだった。

 猫と鼠が喧嘩しそうな穴あきチーズは、結構硬い。そしてチーズ臭いと言うより、ナッツみたいな香ばしい香りがして、悪くない。ビールと合うんじゃないの。

 二つ目は、これも硬質なチーズで、でも単に硬いって言うんじゃなくて、シャリシャリっとした結晶みたいな食感がある。かなり密な感じで、白ワインとかで、口の中でとかしながら味わうのがよさそう。

 三つめは白カビに覆われたもので、中身は柔らかく、自重でとろりと崩れかけるほど。見た目通りねっとりして、こってりしてるけど、塩気が強めでさっぱりとした後味。

 

 四つ目は大理石模様みたいに青カビが走るブルーチーズだった。

 私これ絶対苦手なんだよなあ。と敬遠しそうになっていたら、メイドさんにメープルシロップをかけるように言われた。甘さで誤魔化そうとしたって無理だよこの匂いは。独特の臭いとかじゃなくて臭いんだよ。

 それでも自信満々におすすめされるので、「まことにござるかぁ?」という顔でシロップをかけてしぶしぶかじってみると、これが、美味しい。

 鼻先に運んだだけで顔をしかめそうになるあの匂いが、メープルシロップの豊かな香りにくるりと包まれ、強すぎるくらいの塩味が甘みと混ざり合って程よく丸くなっている。そうして尖った部分が緩和されると、ブルーチーズが本来持っていた濃厚な旨味がしっかりと味わえるようになっていた。

 あとから、喉奥から鼻に独特の香りが昇ってくる気もするんだけど、これをワインで流し込んでやるのも、悪くない。

 

 こうして食事がすっかり終わって、料理の皿を乗せていたプレイスプレートが下げられ、ようやくデザートだ。

 甘いものって、人間を幸せにする効果があるよね。疲れて死にそうなときにコンビニのやっすいスイーツはある種のカンフル剤だったくらいだ。

 コンビニスイーツを侮るつもりはないけれど、さすがに貴族のおうちのスイーツは格が違った。

 これでもかとこんもり木苺(ルブーソ)の類が盛り込まれたタルトに、あえて牛乳のシンプルな美味しさで勝負する雪糕(グラツィアージョ)。それに生の林檎(ポーモ)の飾り切りが優美に飾られている。

 

 帝国って、なんちゃって中世ファンタジー世界の癖に、砂糖を普通に量産してるから結構お菓子の類も発展してるんだけど、やっぱり良くて菓子パンみたいなのがパン屋に並ぶくらいで、ガチのお菓子屋さんとかケーキ屋さんって少ないんだよね。

 そこに貴族の家の菓子職人が大人気なく全力で仕留めにかかってくるんだから、これがまずいわけがない。

 

 デザートを頂いた後の豆茶(カーフォ)、じゃないなこれ。なんだ。

 メイドさんによれば不凍華茶(ネフロスタテオ)といって、以前食べた不凍華(ネフロスタヘルボ)の根っこを焙煎して淹れたお茶なんだそうだ。つまりタンポポコーヒーみたいなものか。

 見た目は黒いし、香りは豆茶(カーフォ)に似てるけど、味はどちらかというとほうじ茶とかに近いかもしれない。さっぱりとして、後味がすっきりしている。それでいて、香ばしい甘みがある。

 リリオは砂糖やミルクを入れるみたいだけど、私はこのままの方が好きかな。

 一緒についてきたチョコレートと合わせると丁度いい感じ。

 あれ。そう言えばチョコレートってこっちに来てから初めてかも。貴重なのかな。もうちょっと味わって食べればよかった。

 

 恐ろしく高級だろう料理を、メイドさんに給仕されて食べることになっても、なんだかんだ平然と楽しめるようになってしまったあたり、私のずぶとさも大概パワーアップしているな。何があっても「リリオの身内だもんなあ」というワードが頭にポップアップしてしまうし。

 

 夕食を終えた私たちは、モンテートの温泉ほどではないにしても立派な浴室をお借りして湯あみした。ほかほか温まった後は寝室に案内されたのだが、気が利いているというか、なんというか、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は三人で一つの部屋を宛がわれることとなった。

 下世話な気の遣い方でないことを祈るけど、まあ、差配があのティグロ君なら大丈夫だろう。単に妹がそうしたいからとかいう理由っぽいし。

 

 なんだか見慣れてきた天蓋付きのベッドに三人で潜り込み、まるで当たり前みたいな顔をして両側から引っ付かれて、少し窮屈だけど、少し暖かい。

 

 暗闇の中で、心地よい眠気に身を任せながら、ぼんやりと思ったのは到着早々のひと悶着だ。

 

「リリオのお父さんとマテンステロさん、あれ、大丈夫かな」

「大丈夫よ。御屋形の術師は腕がいいの。明日には復活なさってるわ」

「それはそれで怖い」

 

 あれだけ全身ぐずぐずにされて、翌日にはケロッとしているというのは、ちょっと想像し辛い。以前野盗相手に使ったポーションも一瞬で治してしまったけれど、果たしてこの世界にそれだけの医療技術があるんだろうか。

 何しろこのパーティの面子はろくに怪我をしないので参考にならない。

 

 ともあれ、復活するっていうんなら、明日はリリオ父との面談タイムだろう。

 それで、それから、どうするんだろう。

 

「どうするって、何がですか?」

「一応これで、成人の儀ってやつはひと段落ついたんでしょ」

「まあ、帰ってきちゃいましたし、そうなりますね」

「だからさ。また旅に出るの? それとも家でまた暮らすっていうのもあるんじゃないの」

「それは」

 

 リリオはどんな顔をしてるんだろう。

 私はただぼんやりと天蓋を見上げて、その刺繍を目でなぞった。

 

「家族と楽しそうにしゃべってるリリオを見てさ、ちょっと思ったんだ。リリオのお父さんはちょっと過激だけど、でも、傍にいてほしいっていう気持ちは、確かだと思うよ。家族なんて、いつなくなっちゃうかわかんないんだし」

「ウルウのお父様は、そうでしたね」

 

 そうだ。いつまでもあると思っていたけれど、父は呆気なく亡くなった。

 痛いとか、辛いとか、そう思うこともなんだか億劫になるほど、それは私の心を鈍麻させて、そして死ぬまでそのままだった。

 いまになって後悔するようなこともあるけれど、それはもういろんな意味でどうしようもないことだった。

 

 リリオは少しの間、私の髪に顔をうずめて、それでも、とつぶやくように言った。

 

「それでも私は、冒険に出たいんです。まだ見たことのないものを見に行きたい。まだ知らないものを知りたい。ウルウは……ウルウは、ついてきてくれますか?」

「……君が、」

「『君が()()であるならば、君が()()であるうちは、君の寂しさを埋めてやるのも、やぶさかではない』」

「む」

「ねえ、それウルウの決め台詞なの?」

「そう言えばトルンペートいなかったですものね。あのですね、ウルウがですね」

「やめて。やーめーて。()()じゃなくなったら私、他所行くからね」

「『きっと! きっと()()します! ()()なります!』」

「こんにゃろ」

「ふぐむぐぐぐ」

「あたしを置いていちゃつかないで貰えるかしら嫁ども」

「トルンペートはついてこないの?」

「行くわよ。行くに決まってるでしょ。あんたらだけじゃ不安過ぎるわ」

「じゃあトルンペートも『()()』なりましょう!」

「ねえ、だからそれなんなの?」

「あのですね」

「なんでもないったら!」

 

 

 




用語解説

・オタクの知り合いが顔のいい推しについて語っている時の顔
 オタクはすぐ自分の好きなキャラを「顔がいい」というワードでくくろうとするが、この一言に含まれる意味合いは多様かつ豊富なため、簡単には説明できない。

・チーズ
 辺境では酪農と共にチーズ作りが盛んである。
 知名度や流通では東部や北部のものが有名だが、年間かなりの量のチーズが消費されている土地柄でもある。
 その原料も牛だけでなく、ヒツジやヤギなどからも絞る。

不凍華茶(ネフロスタテオ)
 タンポポに似た不凍華(ネフロスタヘルボ)の根を焙煎して淹れた飲料。
 見た目はコーヒーに似るが、カフェインは含まれない。
 飲み過ぎると腹を下すこともあるが、逆に言えば便秘にもよく、通じが良くなるとして健康茶扱いもされる。

・チョコレート
 現地では楂古聿(チョコラード)(ĉokolado)と呼ばれる。
 豆茶(カーフォ)と同じく南大陸で発見され、輸入される可可(カカオ)(Kakao)から作られる。割と高価な品ものなのである。
 チョコレート菓子を最初に作ったものは、神の啓示を受けたと主張しており、「神は()()()()()()()()を望んでおられる!」という発言が当時の新聞に残っているが、完全に発狂していて詳しくはわからなかったとのことである。つまりいつもの。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と激しい朝

前回のあらすじ

うかつに格好つけて決め台詞なんて言うもんじゃないという教訓。


 なんか最近、女中らしい仕事してなくて駄目になりそうな気がするわね。

 お世話されるのってどうにも落ち着かなくって、今朝はうっぷん晴らすみたいに二人の着替えを全て手伝って、髪のお手入れまでしたわ。時間があったら爪にやすりまで当ててたわね。リリオが相変わらずいぎたないから、もう。

 

 今頃はもう女中たちはみんな仕事に精を出しているだろうに、あたしはこうして寝ぼけ眼の二人をかいがいしくお世話することしかできないなんて。ああ、歯がゆい。

 

「私が言うことじゃないけど、トルンペートも大概ワーカーホリックだよね」

「わーかー?」

「お仕事大好き病」

「あー、うん?」

 

 字面は前向きだけど、とても皮肉のこもったいい方なんでしょうね、これ。

 まあ確かに、ちょっとした強迫観念みたいなのがあるのかもしれない。働かなきゃ、みたいな。

 そりゃ、好きでやってるのもあるけど、でもやらなきゃ、って言うのも、確かにあるのよね。

 

 たまにはのんびりしなよ、なんて言われて、まあちょっとくらいはて思っちゃったけど、二人がかりで髪をいじられているときに女中どもが朝食の案内に来たときは、どうしてやろうかと思ったわ。その表情筋が耐え切れなくなった時がお前の最後だと知るがいいわー。あっ、いまにやってした! にやってした! くっそ!

 

 言葉ではなく生暖かい目線と空気で散々にいじられながら、あたしたちは女中に連れられて食堂に向かう。食堂って言っても、昨夜の正餐に用いたようなのじゃない。もうちょっと気楽に使えるような小さめの部屋だ。まあそれにしたって、貴族の邸宅の中での話だけど。

 

「ね、ね、トルンペート」

「……なによフロステーモ」

 

 あくびを漏らす二人の後ろで、あたしにちょっかいをかけてきたのは女中仲間だ。狼の獣人(ナワル)だけど、ふさふさの耳と尻尾からじゃ、人懐っこい馬鹿犬にしか見えない。今もはしたなく尻尾を振りながら、にまにま笑顔でひそひそ話を繰り出してくる。

 

「にひひ、聞いちゃったよー、聞いちゃったよォー、おぜうさまとよめじょ取り合ってどろどろの三角関係なんだってー?」

 

 子供のようにあどけなく屈託のない笑顔から、えげつない発言がまろび出る。相変わらずゲスい女だ。女中仲間の中で、胡散臭いうわさ話を一等に広めるのはいつもこの女だった。それを楽しんでた一人だから、悪しざまにいう気はないけど、でも自分が対象になると確かに気持ちのいい話じゃないわね。

 

 あたしは肘で小突いてやって、ため息を一つ。

 

「誰がどろどろよ。誰が。うちはいたって健全なお付き合いしてるわよ」

「へーえ? なァんだー、面白くないの。昨夜も普通に寝ちゃったみたいだしー」

「なっ、あんた盗み聞き、」

「あ、やっぱりそうなんだー。初心だねー」

 

 ぐぬぬ、かまをかけられたみたいね。

 馬鹿っぽい顔して抜け目がないから、嫌になる。

 

「でもさー、でもさァー、実際どうなわけ? 夜はさー、三人で蛇みたいに絡まるの? それともあのでっかいよめじょに()()()()()、」

()()()()()()

「うへっ、あーい、ごめんなさーい、反省してまーす」

 

 調子に乗った馬鹿犬に釘を刺したのは、あたしじゃなくて先導する二等武装女中ルミネスコだ。天狗(ウルカ)特有の感情の読みづらい目がちらりとこちらを見やり、すぐに戻った。

 天狗(ウルカ)は大概お高く留まったところがあるけど、ルミネスコの氏族である白頭(キ・ガ)はそれに加えてちょっと冷たさがある。空を飛べない代わりに、凍てつく海の中を泳ぐ白頭(キ・ガ)は、価値観が人とは異なる、らしい。

 

 フロステーモは秘かに舌を出す。ルミネスコはそれをわかっていて、何も言わない。

 フロステーモは感情を出し過ぎで下品だし、ルミネスコは無表情すぎて面白みがない。

 女中って言うのはなかなかちょうどいいのがいないわね。

 あたし?

 あたしは専属だからいいのよ。リリオ向きに調整されてるから。

 

 あたしたちの小声のじゃれ合いを、それでも多分聞き取れていたんだろうウルウは、何とも言えない顔で鼻先をかいて、それからぼそりと言った。

 

「それにしても、リリオのお父さんが復活してるんなら、マテンステロさんとまた喧嘩するんじゃないの?」

「あれを喧嘩って言うのかしらね……」

「さすがに、一晩休んですっきりしたでしょうし、屋形の中でまで暴れませんよ。多分。きっと」

 

 まあ、あたしもリリオも絶対にとは言えないわよね。

 お二人の仲のいい姿しか知らないし、あれだけ大荒れに荒れる御屋形様って見たことなかったし。

 目を覚まして、冷静な頭で今度こそ監禁しようと思い立ったら、何をなさるか分かったもんじゃないもの。

 とはいえ、もしそんなことになってたら、朝食前にすでにひと悶着あるでしょうから、いまこんなにのんびりもしてられないわよね。

 

 途中でティグロ様とその武装女中フリーダと合流してから食堂にたどり着き、ルミネスコとフロステーモが両開きの扉をゆっくりと押し開く。

 暖かな暖炉の熱がゆらりと漏れ出し、そしてその先に御屋形様と奥様がおられた。

 

 正確に言うと、抜身の剣を弱々しく辛うじて握った御屋形様と、それを抱きすくめてねじり込むような口吸いで黙らせている奥様の姿があった。

 

 速やかに扉が閉じられ、冷や汗で尻尾の先まで湿ったような顔のフロステーモと、平然とした顔のルミネスコが振り向く。

 

「申し訳ございません。手違いでまだ支度が整っていないようにございます」

「えっ、いやあの」

「申し訳ございません。手違いでまだ支度が整っていないようにございます」

「アッハイ」

「今朝はよく晴れております。美味しく朝食を頂くためにも、朝の心地よい空気を楽しみながら御屋形をご案内させていただきます」

「アッハイ」

 

 うっすらとした微笑みとも取れる仮面のような表情で、ルミネスコはあたしたちを先導して歩き出した。気持ちゆっくり目の足取りで。

 無駄に遠回りして、必要もない道を通り、壁掛けの絨毯を眺めたり、中庭の雪を楽しんだりして、どのくらいの時間がたっただろうか。

 あたしたちはなにも見なかったし、実際なにもなかった。知らない。わからない。全員が全員、その共同幻想を共有し終えたころ、再び食堂の前にたどり着く。

 

 冷汗は引いたものの顔が引きつっているフロステーモを気にした風もなく、ルミネスコはわざとらしく何回か咳払いをした後、合図をして扉を開いた。

 暖かな暖炉の熱がゆらりと漏れ出し、そしてその先に御屋形様と奥様がおられた。

 

 やや服装とおぐしの乱れたほんのり頬の赤い御屋形様と、その腰を抱いて実につやつやとご機嫌そうな奥様が。

 

「んんっ……やあ、おはよう諸君。いい朝だね。朝食にしようか」

 

 あの、手遅れです、御屋形様。




用語解説

・フロステーモ(Frostemo)
 辺境伯の屋形に勤める女中。灰色の耳と尻尾を持つ狼の獣人(ナワル)
 素の表情が笑っているように見え、子供っぽい顔立ちや体型もあって人懐っこく見えるが、性格は割と下種。ゴシップを趣味としており、下世話な詮索を好む。
 特別に仲のいい友人もいないが、誰からもそこまで嫌われないという、立ち位置の構築がうまい。

・ルミネスコ(Luminesko)
 天狗(ウルカ)の氏族白頭(キ・ガ)の二等武装女中。
 表情が薄く言葉少ないため冷たく見られることが多い。
 本人からすると考えることが多すぎて口が回らないとのこと。
 大体において一人でボケと突っ込みを脳内で繰り広げており、思考内容がかなり賑やか。
 笑いのツボがクソ雑魚過ぎて腹筋が異様に強い。

白頭(キ・ガ)
 天狗(ウルカ)の氏族の一つ。
 天狗(ウルカ)の特徴の一つでもある前腕の飾り羽はほとんどひれ状で、密に生えた短く硬い羽毛に覆われている。
 風精との親和性はあまり高くなく、空を飛ぶことはできない。代わって水中を泳ぐことが非常に得意で、海を「飛ぶ」と言われるほど。
 一時間以上の潜水もこなし、山椒魚人(プラオ)と魚しか知らないような深海まで潜ると言われる。
 また主に極寒の地に住んでおり、かなり高い耐寒性を示す。
 もっとも好きで住んでいるわけではなく、暖かい地方に移り住んだものも多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 白百合と知りたくなかった事実

前回のあらすじ

Q.。手違いでまだ支度が整っていない。いいね?
A.アッハイ。


 他の地域より洗練されているとはいえ、やはり辺境は辺境で、朝食はフロントでも似通ったものです。

 ウルウに言わせるところの辺境流、つまりは大量の炭水化物と干物と漬物です。

 麺麭(パーノ)に芋に豆、干し魚に燻製、漬物の数々、果醤(マルメラド)乾酪(フロマージョ)

 

 ただ、カンパーロやモンテートと異なるのは、牧畜が非常に盛んなため、卵や乳が多く使われるということですね。

 一度の朝食に、目玉焼きと卵焼きと茹で卵と落とし卵が揃うこともあるくらいで、昔の卵好きの詩人がこれを絶賛する詩を残しているくらいです。彼は毎朝必ず卵を六つ以上使った目玉焼きを食べていて、卵を食べ過ぎて早死にした詩人として有名です。

 

 乳に関しては乾酪(フロマージョ)のような加工品だけではなく、朝早く牧場で絞られた絞りたての牛乳をそのまま、あるいは少し砂糖を加えて飲んだり、かたく泡立てて料理に添えたりもします。

 卵焼きにも使われたり、多くの料理に使われている隠れた立役者ですね。

 

 そしてウルウがあんまり嬉しそうな顔をしなかった蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)も、こういう言い方するのはあれですけれど、お金がある家では立派な一品に様変わりします。

 ひきわりの蕎麦(ファゴピロ)を、出汁や牛乳で煮て、乳酪(ブテーロ)塩漬脂(サリタグラーソ)、砂糖を惜しげもなく使い、お好みで楓蜜をかけていただくと、農村のそれとは全く別物と言っていい仕上がりです。

 すべての家でこうした蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)が食べられるようになればいいのですけれど、なかなかそうもいきません。

 

 内地の貴族や大商人には、たくさんの食事を並べるだけ並べることがある種の権力の誇示として行われていて、その余りものを使用人たちが食事として頂き、それでも残飯が出るということがままあるそうです。

 しかし辺境においてはそのような無駄は大領主であるフロント辺境伯でもできません。並んでいる分はすべて胃袋に収まる前提で並べられています。

 ウルウがげんなりした顔をしていますけれど、もうちょっと食が太くなってもいいと思うんですよね。私たちほどではないにせよ。

 出されたものは全部食べますけど、一人で放っておくとすぐ好きなものだけ食べようとしますしね。

 

 ウルウ曰くの氷の麗人であるお父様も、所作はとても美しいながら私と同じように皿を平らげていきます。昔は当たり前に思ってましたけど、他所の常識を知ってから改めて見ると面白いくらいに健啖なんですよね。私もですけど。

 むしろ、私なんか割と所作がゆるいのと顔に出やすいので大食いでも納得されるところ、お父様は綺麗なお顔と綺麗な所作で何かの奇術か何かのように皿の中身を消していきますからね。

 

 私たちが「何も見なかったこと」についての衝撃を乗り越え、朝食をゆっくり楽しめるようになってから、お父様はおもむろに口を開きました。

 

「リリオ。改めて、よく帰ってきたね。大変だっただろう。旅の間にどんなことがあったのか、」

「お父様ごめんそれもうやった」

「そうか……そうか。うん。あとでティグロから聞くとしよう」

 

 威厳たっぷりのお父様をティグロが遮ります。お父様しょんぼり。

 いや実際しょんぼりなさっているかどうかはちょっと顔色からわからないんですけれどね。でもまあ、十四年間お父様の娘をやってきているので、なんとなく雰囲気で分かります。空気さえ読めれば割とお父様もわかりやすいんですよね。動物と同じです。

 

 お父様はもそもそと蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)を口にして、それから少しの間、甘茶(ドルチャテオ)果醤(マルメラド)を加えて匙でかき回していました。

 これは言葉を探している感じですね。お父様、割と咄嗟のことが苦手な人ですので、出端をくじかれると立て直すのに時間がかかるんですよね。

 果醤(マルメラド)がすっかり溶けた甘茶(ドルチャテオ)を一口すすり、ようやくお父様が調ったようでした。

 

「リリオ。冒険の旅は楽しかったかね」

「はい! とっても! ウルウとも出会えました。いろんな出会いや冒険がありました。素晴らしい旅だったと思います」

 

 ティグロには遮られてしまいましたけれど、私としては何度語っても語り足りないくらいです。

 せっかくなのでお父様にもじっくりとウルウのかわいらしさもとい旅の楽しかった思い出を、

 

「では、もう十分だね」

 

 語ろうと、えっ。

 

()()()()()()なら辺境でもできる」

「え、あの、お父様?」

「そもそも成人の儀自体時代遅れだ。ティグロの時も思っていたんだよ。わざわざ内地になど行かないでもいいだろうと」

「お父様、私は」

「私を安心させておくれ、リリオ」

「私は、それでも、冒険屋になりたいんです」

「……私は悲しい」

 

 私たちの会話は完全に平行線でした。

 まあ、お父様元々会話が得意な方ではないので、頭の中で練った言葉を一方的に言って、それが駄目だった時はまた言葉を練り直さなければいけないんですけれど。

 細い指が再び匙で甘茶(ドルチャテオ)をかき回し始め、空気が軋むような圧迫感が食堂に広がり始めました。

 

 お父様がこういったことになることはあまりないのですけれど、私やティグロが癇癪を起こした時と似たような空気です。それを敏感に感じ取った武装女中たち、ティグロ付きのフリーダや、食堂に先導してくれたルミネスコが腰のものに手を伸ばしました。いざというときは主人を殴ってでも止めるのが武装女中のお仕事なのです。

 お父様付きの武装女中であるペルニオだけは、お父様の斜め後ろで普段と変わらぬ態度です。背筋に鉄の棒の入ったように姿勢よく、浅く目を閉じるように静かにたたずんでいます。さすがの余裕ですね。……寝てませんよねこれ。

 

 お母様はちょっと眉を上げたようですけれど、目下の関心はお父様の発言よりも、お父様の癇癪で食卓が吹き飛ばないかということの様で、好きなものをそそくさと食べてます。そうですよね。お母様大概放任主義ですもんね。

 まあお父様が暴れ出したら手は出るんでしょうけれど。

 

 トルンペートは慣れないお父様の圧に、食事の手も止まって腰が少し浮いています。武装女中としての習性もあるんでしょうね。おいてきた武装の代わりに、袖口の隠し短剣に手が伸びています。いやほんと、どれだけ仕込んでるんでしょうね。

 

 ウルウはとてつもなく面倒くさそうな顔で、ものすごく関わり合いになりたくなさそうな顔でした。まあ、ウルウって、家族間の話とかすごく苦手そうですもんね。おまけに人の家なのでちょっと居心地悪そうですし。

 でもくろぉきんぐとかいうまじないで姿を消してないだけ、私にかかわってくれようとしているんだなあという気がして嬉しいま一瞬半透明になりませんでした?

 

 私はと言うと、子供の頃からのお父様に叱られた記憶がなんとなく思い出されて、そわそわと落ち着かない感じです。私の言い分は胸を張って主張できますけど、それはそれとして叱られてきた記憶というものはなかなか消えないものなのです。

 

 同じくらい叱られていそうなティグロはしれっとしたもので、玉子立てのゆで卵を匙で掬いながら、肩をすくめました。

 

「ねえお父様。リリオは自由な旅の空が好きなんだよ。家に閉じ込めちゃかわいそうじゃない」

「ティグロ。お前はリリオを引き留めると思ったが」

「そうしたいけどね。でも僕はリリオが楽しんで生きることの方が大事だよ」

「私も娘の幸福を願わないわけではない」

 

 お父様は寄りに寄った眉間のしわをほぐしながら、大きなため息をつきました。

 

「しかし、心配するのが親というものだ。腹を痛めた子供なのだから」

 

 お父様の愛情は少し歪んでいるかもしれませんけれど、ちょっとお母様に傾きすぎているかもしれませんけれど、それでも、確かにお父様は私のお父様なのでした。すれ違うことはあっても、父は私を愛してくれているのでした。私が父を愛しているように。

 

 と、いい話風にしたいんですけれど、あのちょっと、あのですね。

 困惑する私と同じように、ウルウも首を傾げています。

 

「あの、揚げ足取るみたいですけど、お腹を痛めたのはお母様では?」

「下らないことを言わないでおくれ」

 

 ああ、ですよね。ちょっとした言葉の綾で

 

マテンステロ(マーニョ)にそんな負担を強いるわけがないだろう。プルプラ様に願って私の胎で育てて、産んだに決まっているだろう」

 

 あまり知りたくなかった私の誕生秘話にちょっと気が遠くなりそうでした。




用語解説

・卵を食べ過ぎて早死にした詩人
 コンパクトー・ファレーゴー(Kompakto Falego)。
 辺境の農家に生まれ、吟遊詩人に憧れて、詩作にふけりながら放浪するようになったとされる。
 師が誰であったかは判然としないが、詩からは極めて高い教養が感じられ、貴族と親しくしていた、あるいは本人が貴族であったとの説もある。
 詩のモチーフとして食べ物をはじめとした庶民の身近な物事を扱い、大衆派としてよく知られる。
 特に卵に関する詩が多く、本人も大の卵好きであったという。
 そのため、卵の食べ過ぎで極度の肥満状態にあり、心臓を悪くして亡くなったというのが通説だった。
 しかし現代の研究では、卵の食べ過ぎでそこまでの肥満に陥ることは考えづらく、また当時の風聞にもファレーゴーの体格に言及するものは少なく、そう見えるくらい卵を食べていたというのが実際のところだろう。
 なお、いまのところ最も信頼できる説における最期の地は東部の農村であり、そこでは固ゆで卵を丸呑みして喉に詰まらせて亡くなった、施療師が慌てて切開したところ腹には十二個も固ゆで卵が詰まっていた、という話がまことしやかに語り継がれている。

・腹を痛めた子供
 プルプラちゃん様の加護の中でも実用的なものに、子宝に関するものがある。
 子供に恵まれない夫婦の間だけでなく、同性間の子作りにおいても性別の境界を「ちょいちょい」して子供ができるようにしてしまう。
 その際にどのような手段が用いられるかはまちまちだが、男性が子供を孕むくらいはよくある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊とわからない親心

前回のあらすじ

この実家には爆弾しか転がっていないのか?


 プルプラちゃん様ほんとクソみたいな仕事ばっかりするな。

 リリオ出生の秘密に、まあ正直げんなりする。よそ様の家のそう言った赤裸々な事情なんぞ知りたくもない。本人的にも大ショックみたいで口をあんぐり開けているけど、本筋的にはそれ言わなくても良かったよねっていう感じのサプリメントなんだよなあ。

 誰が得するんだよその情報。トルンペートなんか白目剥いてるし。

 ティグロ君は知ってたっぽいけど。

 あとマテンステロさんはそのてへぺろみたいな顔腹立つんで止めてもらえませんかねえ。

 

 しかし辺境、本当にとんでもないな。

 辺境だけじゃなくて、プルプラちゃん様に加護を祈ればどこでもできるらしいけど、他じゃあ最後の手段みたいな感じの扱いなのに、こっちじゃあ割とポンポン平気で加護を賜ってるらしい。

 女同士でも子供ができるようになるっていう話を聞いたときは、そりゃまた便利なもんだって暢気に考えてたけど、まさか男女の役割さえ入れ替えることができるとは。

 境界を司るとかいう神様だから、男女の境界なんぞ簡単にあやふやに出来るんだろうか。やることなすこと完全に邪神ムーブメントなんだけど。

 

 それにしても、女同士での件はどういうことなのか目で見て体で理解させられたけど、忘れたくても忘れられない自分が恨めしいくらいにはっきり見て感じちゃったけど、マジふざけんなプルプラちゃん様って感じだけど、男性が妊娠して出産もするってどういうことなんだろう。

 何かそう言う映画あったけど、観たことはないんだよね。私筋肉ってあんまり好きじゃないし。

 筋くらいは読んでおけばよかった。

 アラバストロさんのあのくびれありそうなほっそいお腹にリリオ入ってたの?

 百歩譲ってお腹の中でリリオが育ったとして、どうやって産んだんだ。いやそもそもどうやって入れたんだ。出入口どうした。増設したのか。それともなんかよくわからんマジカルファンタジーな出来事が起こったのか。

 ちらっと見てみたけどマテンステロさんはそのてへぺろみたいな顔腹立つんで止めてもらえませんかねえ。

 

 やめよう。これ以上考えても心を病みそうだ。

 そう言うの好きな知り合いはいたけど、私にはそう言う属性はないんだ。

 そう言う属性持ちに限ってこれくらいはまだ普通とかいうけど、それは世間一般で言うところの沼の底なんだよ。大分ディープなんだよ。

 どの層を狙ってるのか知らないけど引きずり込もうとするんじゃあない。

 

 氷の麗人、人のカタチをした竜、ヤンデレパパ、そして今度は二度の出産を経験した経産夫というタグ付けがなされてしまって、もう私はこの人をどんな顔で見ればいいのかわからない。

 

「ティグロもリリオも、私がお乳で育てた可愛い子供たちだ」

 

 やめろばか、真面目な顔でお子様の性癖が偏りそうなことを言うんじゃない。

 リリオが死にそうな顔してるし。そりゃ子供としては結構聞きたくない部類の話だろうさ。いや、父親から生まれて父親のお乳を吸ってたという話は同じカテゴリに入れていいのかどうか知らないけど。ティグロ君平気な顔してるように見えるけどこれさては遠い目してるな。

 こうして見てみると、マテンステロさんって、異国の地で一目ぼれしてきた美人の若い貴族を孕ませて二人も産ませて、黙って家出て生活費どころか連絡も入れずに年単位でぶらついて、子供が会いに来たからなんとなくくっついて帰ってきて、もうどこにもいかないでってすがってくるのを殴り飛ばして、しれっとした顔で朝ご飯がっついているとかいう、つくづく救いようのない人種に感じる。

 ついでに言えば、ティグロ君が漏らしたことには、なんか若い子ひっかけてたみたいだし。

 それにさっきもキスでアラバストロさん黙らせるとかいうこともしてるわけで。

 ちょっとジトッと見てしまうのも仕方ない。

 

 そう言う風に考えてしまうと、その血を引いてるリリオも大概だよな。

 割とちゃらんぽらんなところとか、冒険好きな所とか、絶対母親似だし。

 そもそも私がリリオの旅についていくことにしたのだって、あれリリオにナンパされたようなものなんじゃないのか。子供だし面倒見てやるか仕方ないなあみたいな気持ちもあったけど、うまいこと転がされていたのでは。妹気質というか、割と甘えるの得意だしなこいつ。

 それに私が最初に言い出したし、三人で納得してるからいいけど、このチビ、十四歳で二股かけて、安定性のない仕事と旅に付き合わせようとしてるんだよなあ。

 

 何かマイナスに考えこんじゃうとどんどんマイナスに行ってしまう。

 いやまあ別にマイナスでもないのか。全員納得尽くだし、全員楽しんでるし、私たち三人はまあこれで安定してるんだろう。

 なんかあってから考えよう。問題は見ないふりだ。

 そう言うのは得意だ。自分の命が削れる音まで聞かないふりしてたんだし。

 

 私が意外に結構おいしい蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)を意味もなくスプーンでかき混ぜていると、リリオパパ、アラバストロさんは大ダメージを受けたリリオを気にした風もなく話を進めている。

 

「リリオ。私はお前を心配しているんだ。遠い地でお前を失うようなことがあれば、どんなに悲しいだろうか」

「お父様、それでも竜殺しの免状は得たはずです」

「いささかの手違いとは言え、野生種の飛竜を目の当たりにしたはずだよ。それでもまだ竜殺しをうそぶけるかい」

「私を冒険屋としてお認めになったはずです!」

「一応の力量は認めただけだよ。リリオ。子を思う親の気持ちもわかっておくれ」

 

 うーん平行線。

 お互いの論点が違うんだもんなあ。

 リリオは短いとはいえいままで冒険屋やってきた実績があるし、自信もある。だから旅を続けたい。

 アラバストロさんはそう言うの関係なく心配だから家にいてほしい。私にはわかりかねる親子の情ってやつだね。

 お互い引かない、というかうまくかみ合ってない親子の言い合いを、私が聞いててもいいのかなあと何となく落ち着かない。嫁だなんだと言われてもうそれでいいやって開き直っちゃいるけど、それでもよその家の話って、なんだかねえ。

 

 せっかくの美味しさもなんだかぼやけてくる蕎麦粥(ファゴピラカーチョ)をつついていると、同じように落ち着かない様子のマテンステロさんと目が合う。この人の場合どういう落ち着かなさなんだろう。嫁と娘が言い争っているのを聞いている出張がちで家に寄り付かないパパさんの気持ちかな。そんなもん私にもわからないけど。

 

「そういえばマテンステロさん、そっちの問題は解決したんですか?」

「うーん、まあ解決と言えば解決かしら」

 

 犬も食わないというか犬も恐れて近づかない夫婦喧嘩を繰り広げた件について聞いてみれば、朝から酒など飲みながら答えてくれる。

 

「アラーチョはちょっと束縛強いけど、でもそこが可愛いとこでもあるし、辺境も嫌いじゃないのよ。だから、雪が溶けてからは辺境にいて、雪が積もる前に南部に帰ることにしたの」

「よくそれでまとまりましたねえ」

「まあ、なんだかんだ言ってお互い惚れた弱みってやつよね」

 

 冬が長い辺境の春夏だけと言えば、一年の半分もないわけで、よくまあそれで妥協が成立したものだ。惚れたからこそアラバストロさんはあれだけ荒れたと思うんだけど、まあそう言う男女の機微は私にはよくわからない。人間って言うのは、私にはちょっと難しすぎる。

 

 しかしそれでいいんなら、リリオもそれでいいんじゃなかろうか。

 

「じゃあリリオもたまに里帰りするって形で認めればいいのでは?」

 

 私のつぶやきは食堂に間抜けに響いたのだった。




用語解説

・何かそう言う映画
 恐らくアーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ジュニア』。

・そう言う属性
 男性の妊娠は実はそれほど珍しいテーマではない。
 前述の『ジュニア』のように映画になったものもあるし、SFのテーマとしてもしばしば扱われる。
 さらに身近な話としては、少なくとも名前くらいは知っているという方が多いだろう中国の古典伝奇小説『西遊記』においても、三蔵法師と猪八戒が妊娠するエピソードがある。
 映画『アヴェンジャーズ』でも知られるロキ(その元ネタである北欧神話のロキ)が、牡馬との間に子供をもうけたエピソードも知られている。その子が八本足の駿馬スレイプニルである。
 本邦においても小説、漫画、ドラマ等で扱われたことがある。
 また、この世界の考え方からすると、つまり人族主観ではなく隣人種全体の視点から見ると、男性が妊娠するのはそうおかしなことではない。
 一部の種族は男性が育児嚢で子供を育てることもあるし、そもそも人族のような陰茎などを持たない種族も多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と胃が痛くなる話

前回のあらすじ

家を出て独り立ちしたい子供と、家にいてほしい親のお話。
のはずなのだが情報量が多すぎる。


「じゃあリリオもたまに里帰りするって形で認めればいいのでは?」

 

 ウルウのつぶやきが食堂に響いて、なんだか間の抜けたような空気が流れた。

 まあ、そう、なのかもしれない。

 リリオと御屋形様の主張が平行線をたどるなら、妥協点はそのあたりになると思う。

 思うんだけど、そう簡単に妥協点で妥協できるんなら人は争ったりしないのよね。

 

 リリオとしちゃあ、別にそれでいいんでしょうね。そう顔に出てる。

 帰ってきたくないってわけじゃなくて、旅を続けたいだけなんだから、定期的に辺境に寄るのは、むしろいい旅路になるでしょうし、帰省して安心もできるし、リリオにとって何の問題もない。むしろ、生涯旅に出て帰らないなんてそんなこと考えてもいないでしょうし。

 

 でも御屋形様はそうでもないみたい。

 奥様のことを妥協されたのであればリリオもついでに、と思うけど、むしろ奥様で妥協したから、娘のリリオのことは何としても引き留めたいのかもしれない。あたしにはちょっとわからないけど。

 ウルウもいまいちわかんないって顔してるみたいに、あたしにもやっぱり親子の情とかってよくわかんないものだ。

 そりゃ、心配は心配かもしれないけど、そこまでかなって。あたしは一緒にくっついてるからそう簡単に言えるだけなのかもだけど、でも成人して、それも立派にやっている娘をいつまでも家に縛り付けてるってのもどうかとは思う。

 リリオがよそで粗相したら心配だからっていう意味だったら、よくわかるけど。

 

 御屋形様は少しの間、中身をすでに飲み干した茶碗の中で匙を回して、それから脇にやった。ペルニオ様が待ち構えていたようにおかわりの甘茶を注ぐ。

 

()()()。マーニョとリリオとでは、話が違う」

 

 そのとき、はじめて御屋形様の目がウルウにむけられた。

 そう、はじめてだ。歓迎してくれるような口ぶりだったけれど、それはすべて奥様とリリオに向けられたものだった。あたしにもおこぼれで目を向けてくれたけど、それだけ。ウルウには一度も目もくれちゃいない。

 奥様からの手紙で、リリオとあたし、リリオとウルウ、あたしたちのこともきっとご存知だろうけれど、御屋形様はそれに関して一度も話題に出しておられない。

 そもそも興味をお持ちでないのか、リリオのいつものお遊びに過ぎないとお思いなのか、それはわからない。

 

 でも、少なくとも好感情はお持ちではないみたいだった。

 嫌悪すらない、無関心。

 そこから、余計なことを言う羽虫程度にまでなった。そんなところだろうか。

 その冷たい圧に、あたしは顔を上げられない。

 視界の端で、生意気なフロステーモが、尻尾を股の間に挟んで震えているのが見えた。

 

「マーニョはもとより自力でこのフロントまで辿り着ける力量があった。リリオはそうではない」

 

 それは、その通りだ。

 成人の儀で旅に出る時も、過保護にも竜車でカンパーロまで送られ、その後もあたしという補助があってようやくリリオは旅立てた。こうして帰ってくるにも、奥様の飛竜があってこそ。

 いまでは随分たくましくなったけれど、御屋形様の中では小さなリリオのままだ。

 

「たまに里帰りと言っても、マーニョの飛竜の様に気軽に帰る足もない。辺境は里帰りには向かない土地だ」

 

 それも、全くその通りだ。

 辺境から内地に引っ越したものは、足が遠くなって殆ど辺境には帰ってこない。内地からやってきたものも、帰るに帰れず辺境にとどまるものも多い。

 どれだけ格好つけようとも、路銀を稼ぎながらの旅暮らしでは、定期的に辺境を行き来するなんてとてもじゃないけど無理だ。

 

「娘を危険な目に合わせたくないというのは、親として当然の気持ちだろう。わかってくれるだろうか、()()()()()()()()?」

 

 名前を憶えていないのではなく、覚える気もないという露骨な一刺し。部外者は口を出すなと、御屋形様はそう言っておられるのだった。

 リリオとの仲を、認めた覚えもないし、認めるつもりもないし、そもそも知ったことではない、と。

 

 人の心の機微とかそのあたりにいまいち疎いウルウだけど、人の悪意には敏感だ。

 いつも眠たげで面倒くさそうな顔も、さすがに強張る。

 それでも、面倒ごとはごめんだとばかりに黙りこくって、何もかも聞き流すなんてことはしなかった。しないでくれた。ウルウは匙を置いて、小さく鼻を鳴らした。

 

「そうですね。一般的には親は子供を危険から遠ざけたいらしい」

「わかってくれたようで」

「私は一般的な家庭ではなかったのでそんな気持ちなんて知りませんね」

「……ほほう」

「心配して、不安になって、悩みもするでしょう。でも、その危険を選ぶのは子供の自由です。子供には自分の道を選ぶ権利がある。自分の道を選ばなきゃいけない義務がある。子供は親の所有物じゃあない。一番身近で、でも対等な他人ですよ」

 

 以前、ウルウに聞いたことがある。

 ウルウのお父さんは、とても人間味に薄くて、感情が乏しくて、人を愛することがわからない、「ろぼっと」みたいな人だったって。それでも、ウルウのお父さんは誠実な人だった。ううん、だからこそ、誠実だったのかもしれない。

 亡くなったウルウのお母さんの分まで、彼はウルウを育てた。愛し方はわからなくても、誰かの真似に過ぎなくても、ウルウが一人でも立てるようになるまで、守り、育て、支えてくれた。

 それは必ずしも最善ではなくて、最適でもなくて、失敗も多かったかもしれない。ウルウの今を鑑みるに、完璧とは言えなかったでしょうね。

 

 でもウルウは、ウルウのお父さんのもとで、所有物じゃなかった。娘という扱いではなく、ウルウという一人の人として扱われた。親子の情を感じられなくても、対等な他人として向き合ってくれた。

 

 ウルウは愛することも愛されることも苦手な親子だったっていうけど、あたしは、それは立派な愛だと思う。

 それは確かな愛だったんだって。

 

 だからこそ、ウルウはいま、面倒なことになんて関わり合いたくないだろうに、こうして口をはさんでくれてる。

 愛するだけの人を、そう見える人を、ウルウは嫌悪するんだ。

 

「私が、リリオを、物扱いしていると」

「私にはそう感じられますよ」

 

 御屋形様はゆるゆると顎をさすって、そして小さく頷かれた。

 

「そうなのかもしれない」

 

 頷いて、でも。

 

「しかし、それが私の愛だ」

 

 ウルウにとって誠実さが大事であるように、対等であることを尊ぶように、御屋形様もまた愛を掲げておられる。それはきっとどちらも間違っていなくて、どちらも正しくなんてない。

 ただどう思うか。どう感じるか。何を大切にするか。それだけのすれ違いなんだ。

 

 でもそのすれ違いが、決定的に平行線をたどる。

 そうなれば、あとは強い方が決める。

 この場で強いのは勿論、御屋形様だ。立場も。武力も。そして、多分、愛も。

 奥様が口を挟まない以上、それは覆らない。

 

 だから。

 

()()()()()()()()()()

「……ほほう?」

「強さで物事を決めるのが辺境のやりかたなんでしょう。リリオが心配だというなら、リリオの巣立ちを拒むなら、リリオの強さを、覚悟を、試せばいい」

「君は、何を言っているのかわかっているのかい?」

()()()()()()()()()()()()()()()()、ってこと」

 

 御屋形様は不愉快そうに鼻を鳴らし、そして、それでも、どうしようもなく唇は釣り上がった。

 挑まれれば拒めない。それは、掟以上の(サガ)だった。




用語解説

・愛
 あれも愛。
 これも愛。
 歴史上、最も正しさを足蹴にしてきた大義名分である。

・挑まれれば拒めない
 リリオ史上初の、自分が挑んだわけでも挑まれたわけでもない喧嘩をさせられる事態である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合と届かざる境地

前回のあらすじ

なぜか本人の意志確認なしに話が進むのはよくあること。


 どうしてこうなるんですかねえ。

 なんてぼやいちゃったりしますけれど、これどちらかというとウルウの台詞だと思うんですよね。

 

 まだ舌に美味しい朝食の味も思い出せる昼前、私は辛うじて穴は埋め終えた前庭で剣を取っていました。

 剣を、ねー。はい。剣を取っていました。

 

 こちらの剣は、まあ私も血の気が多いですし、冒険屋なんてやってますから抜く機会多いんですけれど、大具足裾払(アルマアラネオ)という辺境棲息の魔獣の甲殻を削り出したものなんですよね。

 色は、何というんでしょうねえ、鋼の色でなく、滑らかな白磁のような柔らかく透明感のある光沢がありますね。甲殻の、しなやかな内側の部分を削り出して、丁寧に磨くと、こういう色合いになるんだそうです。

 

 その刃はひやりとするようでいて、触れると暖かみがあるような、まあ実際は暖かいというより熱伝導性が金属ほど高くないのでそう感じるだけなんですけど。

 光沢があるとは言っても、磨かれた鋼ほどぎらつくわけではなく、穏やかで優しい色合いは、気配を殺して機を伺うにも目立ちすぎず便利です。

 

 しなやかで強く、折れず曲がらず、刃もほとんど鈍らない。魔力の通りも良く、錆びることもない。いいこと尽くめの様でもありますけれど、欠点もあります。

 それが、金属の剣と比べると()()ということですね。

 軽いから持ち運ぶのは楽なんですけれど、戦う時が少し困ります。

 武器の破壊力というものは、単純に言ってしまうとそれ自体の頑丈さと、振り回す際の速度、そして重量が合わさって算出されます。つまり硬くて重いものを速く振り回せばそれだけ強いのです。

 ところが甲殻剣はその軽さが仇となって、破壊力そのものは通常の金属の剣に劣ってしまうのです。確かに丈夫ではありますけれど、極端な言い方をすれば、仮に絶対に折れない紙の剣があったとして、それでぺちぺち叩かれて痛いかっていう話ですね。

 

 なので甲殻剣の使い手は、その重量を補えるだけの腕力で振るってようやく金属剣とどっこいの威力を叩き出せます。勿論それではどう考えても効率が悪いので、正確に刃筋を立て、的確に急所を狙い、鋭利な切断を狙うことが必要となってきます。

 私なんかはもう、腕力はあっても小柄で体重が全然足りてないので、剣術の冴えは大分磨かないと話になりませんでしたね。

 ウルウは私のこと、結構剣ができる方とか思ってるみたいなんですけど、単純に剣術の腕で言ったら私相当なものですからね。剣豪ですよ剣豪。あとはまあ、体格がついてきてくれれば。

 

 長年の研究で、重さを補うために中空に繰り抜いて重たい芯材を詰めたり、より鋭利な切断効果を狙って曲刀として誂えたりと様々な挑戦があったようですけれど、元々の素材からして取り扱い難度が高いので、そう言ったものは私の剣より高価かつ貴重なものになりますね。

 私の剣でさえ内地に持ち込めば帝都に家建てられるような代物ですから、お値段はお察しです。

 辺境でさえ出回りません。

 

 素材の扱いづらさ以上に、入手難易度も高いですね。

 大具足裾払(アルマアラネオ)

 この生き物がまあ強いのなんのって、私の荒っぽい使い方でもびくともしない剣を見てもらえばわかる通り、恐ろしく強靭な甲殻と、巨大な体格を持ち合わせた上に、それが恐ろしく早く動き回るという、辺境人でもまず相手したがらない生物です。というか普通に逃げます。

 具体的な強さの指標としては、防衛網をすり抜けてきた飛竜が、サクッと狩られて美味しく食べられちゃうくらいです。疲労し切って森に逃げ込んだ個体とは言え、飛竜を相手に無傷で仕留めて頭からヴァリヴァリいっちゃう生き物です。

 単に空を飛べないから地上に落ちたのしか食べないだけで、空飛べてたら飛竜絶滅させてますよ。

 

 まあ空を飛べないから空にいれば大丈夫かって言うとそうでもなくて、昔、飛竜乗りたちが素材目当てで狩りに行ったら、小隊がいくつか呆気なく落とされたそうです。一つの小隊が四頭ですから、十何頭かは落とされたとか。

 落ちたものは例外なくヴァリヴァリやられちゃったみたいなので、いち早く離脱した飛竜乗りからの情報しか残っていないのですけれど、なんでも投射器(パフィーロ)のように()()()を飛ばされて落とされたのだとか。

 飛竜の咆哮(ムジャード)はために時間がかかり、飛竜乗りの投射器(パフィーロ)では甲殻を貫けない。

 となればもう、飛竜では相手できないのがおわかりですね。

 

 脱皮するので抜け殻も素材にはなるんですけれど、そちらはちょっと格が落ちます。脱皮してすぐに本体がヴァリヴァリ食べてしまうので、命がけで回収するほどではないですね。

 あ、脱皮したてなら、海老や蟹と一緒で行けるのではと思ったら大間違いです。すでにやらかして失敗した記録が残っていますね。殻がまだ柔らかいので攻撃は通ったそうなんですけど、柔らかい分普段よりしなやかに俊敏に動いて、普通にぼろくそに蹂躙されたそうです。

 

 さあ、そうなってしまうと私の剣は一体どうやって素材を手に入れたのでしょうか、となりますね。

 その答えは勿論、皆さんお察しの通りの辺境貴族の出番です。

 それも当主格が完全装備で、騎士や神官などの一党を率いて、罠や毒を用いてようやく倒す感じです。倒せるには倒せるけど消費が激しいので滅多にやりません。私も見たことありません。

 この生き物、これで竜種じゃないんですよね。恐らくですけど。

 なんでこんな生き物を普段放置しているかって言うと、飛竜とは違って人里に出てこないからですね。棲み処の森の奥の方に引っ込んでて、出てきません。なのでその生態も謎が多いんですよねえ。

 

 そう言う謎の一つ一つを追い求めて解明していくのも、冒険の醍醐味だと思うんですよね。

 そう、私の冒険はまだ始まったばかりなのです。

 

 などと現実逃避してみましたけれど、まあ、現実からは逃げられないわけで。

 剣を、ね。剣を取ってるんですよ。

 剣を取ってどうしてるかって言うと、向き合ってるんですよ。お父様と。

 ウルウ曰くの辺境名物蛮族野試合って感じですけど、今回は焚き付けたのウルウですからね?

 さすがにこう、話し合って納得してもらいたかったんですけれど。

 まあ結局、私もお父様も辺境人ですしね。仕方ないといえば仕方ないのかもしれませんけれど。

 

 諦めて剣を構えた私に対して、お父様は棒立ちと言ってもいい無防備。それどころか剣さえ帯びず、無手のままです。準備が整っていないのではなく、これで万全なのです。

 

「さて、リリオ」

 

 良く晴れた空を見上げながら、今日は雪は降らなさそうだ、とでも言いそうなほどとてもあっさりとした口調でお父様は切り出しました。

 

「辺境の遣り方を口に出された以上、私も厳密にはかろうと思う。一切合切の言葉を無用とする、辺境の天秤で。まあ、簡単なことだ。素手の私に有効打を入れること。それだけだ。ただそれだけの試験だ」

 

 とてもつまらなそうに述べられるお父様の説明に、お母様も頷いていました。

 確かに、そのくらいが妥当なのかもしれません。

 限定的とはいえ飛竜を一方的に屠り、消耗さえ覚悟すれば大具足裾払(アルマアラネオ)さえ狩ることのできる、隣人種の中でも頂点に近いといっていい辺境貴族、その筆頭相手に一撃を入れることができたのならば、それはひよっこの私としては十分及第点かもしれません。

 

 ……あれ。二人の頭の中では、少なくともお父様に一撃入れられるくらいの脅威がごろごろいると考えてるっぽいのが怖いんですけど。いるんですかもしかして。お母様は例外と思ってましたけど、少なくともお母様は冒険屋最強と呼ばれてるわけではないんですよね。

 うーん………ちょっと楽しみになってきました。

 不安より楽しみの方が大きいのは、そりゃお父様も心配するよなというのが分かっちゃいますけれど。

 分かっちゃいますけれどー、でもまあ、お父様とお母様の娘なので、仕方ないですね。

 

 武装女中ペルニオの気負いのない、というよりやる気のない開始の合図が響き、同時に私はしかけていました。

 どうしてこうなったんだろうとは思いながらも、やるからには全力で仕掛けなければと、すでに魔力は最大に練り上げておいたのです。勿論それはお父様もお察しでしょうけれど。

 

 開幕からの最大火力。

 練り上げられた魔力をたらふく溜め込んだ雷精が、いま、解き放たれる。

 

「突き穿て――――『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』!!!」

 

 目の前が真っ白になるほどの閃光。

 耳が破裂するのではないかと言う轟音。

 

 地上から放たれた()()()()が、風の道を通って一直線にお父様に直撃しました。あれ。しましたね。しちゃってますね。

 

「フムン……()()()()だが、()()()()なら気を張っていれば避けるまでもない」

 

 はい知ってたー、知ってましたー。

 珍しくいけたかなと思いましたけれど、閃光が突き抜けた後には、無傷どころか服に焦げさえついていないお父様が平然と佇んでいました。

 魔力の幕が全身をくまなくよろい、破壊も熱も届いていないようです。

 そらすとかですらなく、真正面から完全に受け止められてしまっています。

 眩しさと轟音とはさすがに響いたらしく、目をこすり、耳を軽く叩いていますけれど、ホントそれだけです。ぶちかます私でさえ、片目をつぶり、耳に気合を入れなければならないのに。気合い入れてどうにかなるのが意味わかんないとウルウなんかは言いますけれど。

 

 まあでも、メザーガにもお母様にも、なんなら不思議な館の扉にさえ防がれた必殺技です。これで終わるとはみじんも思っていませんでしたとも。言ってて悲しくなりますけど。

 ともあれ、通じないとわかっていれば、その後の行動も決まっています。必殺技を目くらましの牽制にするなんて豪勢ですけれど、通じないのなら致し方なし。

 即座に踏み出し、上段から袈裟斬りに斬りかかります。まだ視界が眩んでいる最中の最短距離、最速の一撃、は()()で受け止められ、いなされる。返す剣で切り上げるも、これもまた小指でたやすくいなされる。

 

 反撃に備えて飛び退るも、お父様は悠然として佇んだままでした。

 

「いい太刀筋だ。良く励んだものだ。でも素直過ぎる。素直にいい太刀筋だから、目が眩んでいても太刀筋はよく()()()。見えるから受けられるし、受けられるから届かない。私に当てるどころか、ここから一歩動かすことも出来はしない」

 

 メザーガの時を思い出します。あの時も、私の剣は届きませんでした。まるで届くようにも思われませんでした。

 けれどあの時は、九億九千九百九十九万九千九百九十九回振るえば届くかもしれないと、そう思えました。あまりにも遠く、儚い希望でも、それでも私はあと一振りを振るうことができました。

 

 でも、お父様相手には、それがまるでない。

 例え九億九千九百九十九万九千九百九十九回の先に一太刀入れたとしても、それがお父様のはだえに傷の一つも入れるところがまるで想像できませんでした。

 全力の刃の二度が二度とも、小指の先に血をにじませることさえできていないのです。

 辺境で学び、魔獣を相手に試し、お母様に鍛え直された剣が、それでもまだ、届かない。

 それはちょっとした絶望でした。

 届かざる境地が、無辺の荒野が広がっているのでした。

 

 ああ、それにしても、

 

「お前はよく鍛えた。まっすぐな剣は気持ちよくさえある。だが爪切りにすらならない。例え永遠に剣を振るおうとも、例えお前の心が永遠に折れずとも、その永遠の果てに届く未来はどこにもない。いまではなく、いつか、お前が大人になり、私が老いさばらえた時ならば、可能性はあるかもしれない。だがそれはいまではない。断じていまではないのだ。その時が来るまで、大人しく牙を磨くがいい」

 

 それにしても、よく喋りますね、お父様。

 絶対それ練ってきてますよね、台詞。

 

 




用語解説

大具足裾払(アルマアラネオ)
 辺境の森林地帯などに棲む巨大な甲殻生物。裾払の仲間としてはかなり鈍重そうな外見ではあるが、その甲殻は極めて強靭な割に恐ろしく軽く、裾払特有の機敏な身のこなしに強固な外角が相まって、下手な竜種程度なら捕食する程に強大な生き物である。
 蟲獣ではなく、どちらかというと蟹の仲間であることが近年の研究で明らかになっている。
 棲息地帯が危険な森林地帯の奥地であること、個体数が少ないこと、また戦闘になった場合の生存者が少ないため、詳しい生態はよくわかっていない。
 体長は十メートル程度という記録が残っているが、そもそも平均値が出せていないうえに、寿命も不明であるため予測が立っていない。
 一応竜種ではないとされるが、それさえも(多分)と但し書きが付く。

・『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』(Fulmobati dentego)
 通算四度目の必殺技(必殺しない)である。

・台詞
 アラバストロ・ドラコバーネ。アドリブの利かない男である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と気楽な観戦

前回のあらすじ

やはり通じない必殺技(必殺するとは言っていない)。
果たしてリリオの剣は父に届くのか。


 天気がいいと寒いってこういうことなのかな。

 よく晴れた昼前。雲一つなくすきっと晴れた空は青く、日差しも温かい。温かいけど、でも空気は乾いていて、そして冷たい。陽光を浴びてちょっと暖まっても、すぐに冷えてくる。

 

 まあでも、辺境にもずいぶん慣れたし、死ぬほど寒いとまではいかない。カンパーロで男爵さんに貰った大箆雷鳥(アルコラゴポ)とやらの防寒具が、結構あったかいしね。

 結構分厚くてもこもこしてるけど、そこまで動きにくくもない。ファー付きのフードまでしっかり被るとちょっと邪魔くさいけど。通気性が悪いから、ちょっと胸元を開けてるけど、それでも全然寒く感じない。割といい貰い物だ。

 真っ白だから、普段黒ずくめの私はちょっと落ち着かないけど。

 

 便利な《ミスリル懐炉》は、トルンペートに貸している。さすがに雇い主のアラバストロさんの圧には参ったみたいだし、いつもみたいに飄々とってわけにもいかないみたいだから、まあ気持ちはともかく身体だけでも暖かくなってもらいたいところ。

 

 それだけじゃあまだ落ち着かないみたいだから、仕方なく膝に乗っけてあやしてるけど、やっぱりはらはらと試合を見ている。

 そりゃねえ。どっちを応援するって言うのも、トルンペートには難しいよね。

 リリオを最優先したいっていう気持ちもあるだろうし、それはそれとしてアラバストロさんには恩義もあるし。リリオに無事勝ってほしいけど、アラバストロさんがリリオに出ていってほしくないっていう気持ちもわかるだろうし。リリオが辺境に残って夢を諦めるか、それとも旅に出てアラバストロさんがすっかり落ち込んじゃうか。どっちが勝ってもトルンペート的にはマイナスなように思えちゃうんだろう。

 

 向き合って遣り合う、というよりは一方的にリリオが攻め立てて、アラバストロさんが片手で、それも小指だけで弾くっていう遣り取りを観戦しながら、私はのんびり暖かなお茶など頂いている。

 辺境伯の御屋形も、まあやっぱり蛮族は蛮族というか、蛮族野試合はいつものことみたいで、テーブルやら椅子やら軽食やらお茶やら用意してもらって、完全に観戦ムードだ。

 マテンステロさんは相変わらずお酒飲んでるし、私が暢気にお茶すすってても罰は当たるまい。

 トルンペートももうちょっと気楽になればいいのに、どうにも雇い主の前だと硬くなるらしい。まあ、恩義もあるらしいしね。

 ティグロ君も思うところがあるだろうに、酒かっくらうほどではないけど割と余裕のある顔だ。彼の場合あれかな、リリオが勝って主張を通すのが一番望ましいけど、負けて辺境にいてくれてもそれはそれで悪くないっていう、どっちでもいいっていうポジションなんだろうなあ。

 

 私は戦闘のことはさっぱりわからないんだけれど、傍から見ていてもまあ、まるで鋼鉄の柱を相手に棒切れを振り回しているようというか、とてもじゃないけど勝負になってない。

 構図としては、いつぞやのメザーガとの試合を思い出させるけど、そのメザーガだってここまで無茶苦茶ではなかった。

 人体が立てているとは思えない硬質な音を立てて、あのリリオの剣撃を素手で弾くって言うのは、私には理解できない。

 確かにリリオはちっちゃいし、軽いから、あんまり剣に体重は乗らない。でも剣の技術そのものは結構達者みたいで、鋭く的確に剣を振るうから、その切れ味は生半ではない、はずだ。素人目だけど。

 その立派なプロが振り回す刃物を素手で受けるってどういうことなの。

 

「魔力による強化も、極まると、ああなります。魔法・魔術という程には、洗練されてはおられませんけれど、単純に出力が大きいというだけで、あのように、鉄よりも硬くなるものです」

 

 しれっと椅子に腰かけて観戦してる武装女中のペルニオさんがそんな解説してくれる。ほんとふてぶてしいなこの人。

 そして私も大概太くなったな。初対面の人でもちゃんとお話しできてるぞ。偉いぞ私。まあ、そう言ってもほとんど向こうが一方的に解説してくれてるだけだけど。

 まあ解説してくれるって言うならありがたい。私はのんびりお茶をすすり、膝の上のトルンペートのお口にお茶請けをねじ込み、あくあくと頬張るのをぼんやり見下ろす。

 

「辺境貴族でなくとも、熟練ともなれば、例えば奥様などであれば、身体の一部を魔力で強化するのは、よくある戦法ですね」

 

 そう言われてみれば、モンテートのおばあちゃん武装女中も打撃のインパクトの瞬間だけ魔力で硬質化させて殴ってたっけ。あれを防御に転用……というか元々防御用の技なのかな。

 トルンペートもちょっとは出来るんだっけ。まああれは曲芸みたいなもので、実用化できるのは本当に手練れだけみたいだけど。マテンステロさんはしてるのかどうかよくわかんない。あれだけの戦闘ができるんだから、してるとは思うけど、防御させられるほど私たちまともに相手できてないしね。

 

「御屋形様の場合は、常時全身を硬質化させた上、魔力の膜を、こう、広げておられます。無尽蔵に魔力がおありだからできるのであって、こちらは普通ではありませんけれど」

「……全身?」

「はい。大人気のない方にございますので」

 

 大人気ないにもほどがある。

 まあ、マテンステロさんとやり合ってる時もそんな話だったから、辺境貴族の戦闘モードってのは基本的にそうなのかもしれない。飛竜とやり合うんだったら、最大限にバフ積んでやりたいだろうしね。自分自身が最大の凶器である辺境貴族的には、それを最大限活かす戦法なわけだ。

 

 しかしそれにしても、全身に魔力を回しておいてなおリリオの『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』を受け止めて平然としてるってのは、ちょっと出力の桁が違い過ぎる。

 ひとりだけスーパーロボット系のユニットみたいになってる。

 散々不発に終わってる必殺技だけど、あれでもリリオの最大火力だ。

 あれを無傷で耐えちゃう鎧なら、リリオの攻撃はまず通らないってことだ。そりゃ勝ち目はない。

 

「感電してないってことは本当に全く通さないってことかな」

「いえ。しておられます。あれはいわゆる、痩せ我慢にございます」

「痩せ我慢」

「さしもの障壁も、雨粒の全てを全て、風の流れの全てを全て、防げるわけではございません。ある程度の電流は、確かに通っておられます。通った上で、魔力で体を抑え込んでおられます。辺境貴族は、人族ではございませんけれど、身体の構造は、人族とお変わりございませんので」

 

 痩せ我慢でも、減衰したとはいえ高圧電流を耐え切るのは大した根性だ。魔力ってのは凄いもんだね。あるいは父親としての愛という奴のおかげかもしれないけど、それは私にはよくわからない世界の話だ。

 

「しかし、あの程度であれば、何度受けようとも、御屋形様が崩れることはないでしょう。残念ながら、お嬢様ではあの鎧を貫くことは、叶いませんね」

「いや、いいよ」

「おや。お嬢様がお勝ちになることを、お望みだったのでは?」

 

 お望みというか、勝てるということは知ってる、っていう感じだよね。

 信頼でも何でもなく、事実として。

 リリオでわかってたけど、アラバストロさんもやっぱり人体なら、勝てる。

 私の目が、即死させるラインを目に見て取れる以上、あれは殺せば殺せる生き物でしかない。

 殺せる生き物なら、通じる手段があるならば、勝ち方を作るのは、それほど難しいことではない。

 

 そして、それはもう、リリオに伝えてあるのだった。

 

 だから大丈夫だよーとトルンペートの頬を突っついて遊んでたら、ガジガジ噛まれてしまった。情緒不安定過ぎるだろこのチビメイド。




用語解説

・痩せ我慢
 感電してしまった場合、精神論ではどうにもならない。
 筋肉が収縮して痙攣したり、意識が飛んでしまうのは電気刺激によるものであり、ホルモンや脳内麻薬ではどうしようもない。
 アラバストロの場合、かなりの部分、特に頭部への電流を障壁でカットし、筋肉の痙攣を魔力で強引に押さえ込んでいる。
 咄嗟にこらえたものの、格好悪いところを見せるのではと内心かなり焦っていたようだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と冒険者の流儀

前回のあらすじ

余裕ぶっこいて観戦するウルウ。
果たしてリリオに授けられた策とは。


 やっぱり、無理だ。

 リリオは強い。もとから強くて、そして旅に出てからもっと強くなった。

 それはあたしの贔屓目なんかじゃなくて、きちんと段階を踏んで、少しずつ実力を確かなものとしてきた。

 あたしはそれをすぐ近くで見てきた。いくつもの壁を、乗り越えてくる姿を見てきた。

 

 だから、きっと、なんて。もしかしたら、なんて。

 思っていた。願っていた。

 でも、やっぱり、無理だ。

 無理だったんだ。

 

 リリオは諦めも悪く剣を振るうけど、それは御屋形様に傷ひとつ付けることもない。小指一本ですべて防がれて、一撃当てるどころか一歩動かすこともできないでいる。メザーガとの試合の時と同じように、でもあの時よりももっと絶対的な壁がそこにあった。

 

 強いとか弱いとか、そう言う次元じゃない。

 辺境貴族って言うのは、()()だった。()()いうものだった。()()いう世界なんだった。

 人のカタチをした竜。

 人のカタチをした怪物。

 この世の果てに竜どもを押し込める、人間世界の番人。

 それが、弱いわけがない。

 そんなもの、どうしようもないじゃない。

 負ければそのまま世界に竜どもが溢れかえる、そんな重圧を軽々と肩にして、不可能を繰り返し続けてきた一族の末裔が、その頂点が、軽々しく乗り越えられる壁のはずがない。

 

 やっぱり、どうやったって、無理だ。

 無理だと思う。

 思うんだけど。

 だーけーどー。

 

「ちょっと」

「なあに?」

 

 ちょっと睨んでやるけど、あたしを膝に乗っけたウルウはのんびり観戦してお茶なんてすすってる。さっきもあたしの口にお茶請けを放り込んできて、いやまあ美味しかったけど、そういうことじゃなくて。

 そりゃ、あたしだって別に冒険の旅自体はどうでもいい。別にあたしは旅は好きでも何でもない。そりゃあ、結構楽しかったし、続けられるんなら、いいなあって思う。でも別にこだわりはない。こだわりはないけど、リリオが悲しむから、それは嫌だ。嫌なのだ。

 リリオが悲しむかもしれないというのに、その原因となったウルウは暢気なもので、それに腹が立つ。

 

「あんたが焚き付けたんでしょ。旅できなくなったらどうすんのよ」

「ええ? ううん、そうだなあ。辺境での生活って言うのも面白そうだけど、私の目的は人様の冒険を特等席で眺めて楽しむことだからね。他のよさそうなパーティでも見つけて寄生するんじゃないかなあ」

 

 お茶請けをかじりながらあっさり言うもんだから、一瞬あたしはなに言ってるんだかわかんなかったわ。

 だってそうじゃない。あたしたちはこれまでずっと一緒に冒険屋してきて、それに、順番がいろいろ狂っちゃったとは言え、契り合った仲なのよ。

 それをあっさり見捨てるなんて、しかもこの試合の言い出しっぺの癖にそんなこと言いだすなんて、思わずかっとなっちゃいそうだった。

 

 でもウルウはすぐに、こう続けたの。

 

「まあ、そうはならないんだけど」

「どういうことよ?」

「トルンペートってトリッキーなテクニカルタイプに見えて、リリオ以上に辺境的脳筋タイプだよね」

「言ってることはわかんないけどなんとなく意味はわかるわよ。急に何よ」

「脳筋蛮族ガールってこと」

「前も聞いたけどほんとなによそれ」

 

 ウルウはしみじみとお茶をすすって、ほんのり温かい溜息を吐いた。あたしの後頭部のあたりが、湿っぽくぬくい。

 

「君たちはさあ、工夫しないんだよねっていう話」

「はあ?」

「腕が立つし、地力もある。鍛えて強くなってきたし、いま届かなくてもいずれ届くと努力を重ねる。すごいと思うよ。皮肉でも何でもなくって、私はそう言う価値観をすごいと思う。少年漫画ならド定番の王道路線だ。私にはとてもできない。そんな健全な精神を保っていられる自信はないね」

 

 いつもの露悪趣味者みたいな自虐めいたことを言いながら、ウルウは手の中で卵を転がす。小さな卵。鶏の卵かしら。何かが張り付けてある。なんだろう。

 

「なにこれ?」

「さすがに私の手品もいつか種が切れるからね。作れるものは作っておいたんだ」

「はあ?」

 

 なによそれ、って聞くよりも先に、試合に動きがあった。

 ただただひたすらに打ち込んでいるだけに見えたリリオが、何度目になるか、距離を置いた。そして数瞬呼吸を整えてもう一度斬りかかるって言うのが今までの展開だった。御屋形様もそれに備えてか、腕がわずかに上がって構えられる。

 

 その瞬間、リリオは空いた手を腰の《自在蔵(ポスタープロ)》に突っ込んで、何かを取り出して鋭く放り投げた。紐か、帯? 違う。なにあれ。それは紐の両端に、分銅をつけたようなものだった。それは分銅の重みで鋭く回転しながら飛んでいき、御屋形様の脚に絡みつく。

 

「あれはボーラ。狩猟用の道具だね。腕を絡め取れたらよかったんだけど、すぐ千切られそうだし、それなら動かない足元に確実に入れて、意識を下半身に逸らさせるのに使えって言っておいた。プライドからも動き回ったりはしないと思うけど、いざというときワンテンポ遅らせることも出来そうだし。人間、足を動かしづらくなると体勢を変えるのも大変なんだ」

 

 確かにボーラとやらが足元に絡みついて、御屋形様はそちらに気が取られたようだった。多少の拘束程度、辺境貴族ならすぐに引きちぎれる。でもそのすぐは、戦闘では致命的な時間だ。

 

 リリオは気がそれた隙を見逃さず、いえ、そもそも投げた直後から即座に次の手に出ていた。迷いがない。

 取り出したのは、あれは酒瓶かしら。それに火種。瓶の口にねじ込まれたぼろきれに火を灯して、今度は御屋形様の上体に投げつけられる。一瓶だけじゃなくて何本かが投げつけられて、一つは咄嗟に振るわれた小指で打ち砕かれ、いくつかが地に落ちて割れる。

 いくらなんでも割れやすすぎる。何か細工してあるのかしらって思った瞬間、爆発するような勢いで御屋形様が炎に包まれた。

 

「うぇあっ!?」

「火炎瓶だね。作り方はとても簡単だから真似しないように」

 

 打ち砕かれた瓶から飛び散った液体が御屋形様の体にかかり、地面に散らばったものと一緒に燃え上がってるみたい。御屋形様は手足を振って消そうとするけど、火は広がる一方だ。

 

「ヴォーストの錬金術街で見かけてね。臭水(くそうず)から精製した燃える水……ざっくり言って()()()()だね。布地や肌に沁み込みやすいから扱いが難しい。つまり対処し辛いってことだね」

 

 リリオはさらに何本か瓶を放り投げて追加し、御屋形様はいよいよもって全身炎に包まれる。足元は拘束されてうまく動けず、地面に転んで雪の上を転がるけど、全然消えない。

 

「油火災って厄介でね。水をかけると油が水に浮いて広がって、かえって火事が広がる。温度を下げるか酸素の供給を絶たないといけないんだけど、難しいよねえ。毛細管効果で衣類や体毛に沁み込んで燃えるから、人間が燃えると消火は大変だ」

 

 燃え上がる御屋形様を眺めて、ウルウは淡々と続ける。

 

「熱や電撃に対しても、魔力とやらはある程度耐性を高めるのは実証済み。でも限度はあるのもわかってる。火傷はするし、何より呼吸が必要。肺が焼けたらもっといいんだけど、咄嗟に息を止めてる。惜しいね」

 

 えぐい。言ってることがあまりにもえぐい。

 呆然と見守るあたしの頭を、ウルウの手がゆっくりと撫でた。

 

「君たちは、努力はするけど工夫が少ない。そうできるならその方がいいけれど、そうできないならどうにかしないといけない。確かに私は戦闘は苦手だけどね、でもさ」

 

 その目はあまりにも冷静だった。

 獲物を追い詰める狩人の様に、最後の瞬間まで気を抜かない静かさがあった。

 

「でも、冒険者(プレイヤー)としては私の方が先輩だ」

 

 御屋形様がぐぐっと身を屈めて、力を籠める。

 そして爆発した。違う。炎を吹き飛ばしたんだ。

 集中させた魔力を、一気に体外に放出して炸裂させたんだ。

 辺境伯家の炸裂する魔力が、炎に巻かれた髪や服ごと、沁み込んだ燃料を吹き飛ばして炎を払う。

 

 その目はもはやわがままな娘を見守る親の目じゃあなかった。

 明確な危機を前に、()()することを心に定めた戦士の目だった。

 覚悟の決まった眼が、リリオを睨みつけた。

 

 そして炎に食われた空気を取り戻すように大きく息を吸い込

 

「よしきた」

 

 んだらだめです御屋形様ー!

 

 いやどっちを応援しているんだろうあたしは。リリオを応援しないと。

 でもここまでえげつなく()()られると、さすがにひどいとしか言えない。

 

 のけぞるように大きく息を吸い込もうとしたところに、リリオが投げつけたのはさっきウルウが持ってた卵だった。それも一つや二つじゃない。投石器みたいな袋を使って、十個以上を放り投げてくる。

 御屋形様もさっきの火炎瓶で十分に警戒してるから、うかつに打ち砕けない。地面に落としてもヤバいかもしれない。かといって割らないようにすべてを柔らかく受け止めるにも、瓶以上に割れやすい卵を全て受け止められるわけがない。

 じゃあ距離を取るかって言うと、最初のボーラがここで生きてくる。火に巻かれたし、千切ろうと思えば一瞬だ。でもその一瞬は、卵を避けるには遅すぎる。

 

 結果として、すべてが中途半端な体勢で御屋形様は卵を浴びることになった。

 割れた殻から弾けるように舞い上がったのは、血? 赤い液体?

 

「おっと、気を付けてね。風下じゃないから大丈夫だと思うけど」

「なに? なんなのよあれ?」

「催涙弾」

「は?」

 

 サイルイダンとやらの液体を顔面に浴び、また大きく息を吸い込んでいたので鼻や口からも取り入れてしまった御屋形様の悲鳴はすさまじいものだった。

 

「あッぎッばッづァあああああああああああああああああッッッ!!?」

 

 いままで一度も聞いたことのない、ウルウに言わせるところの「イケメンが出しちゃいけない声」が響き渡り、その流れで言うところの「イケメンがしちゃいけない顔」にリリオの拳が迷いなく叩きこまれたのだった。




用語解説

・ボーラ
 狩猟用具、または投擲武器の一つ。
 構造として最もシンプルな形は、ロープの両端に重りをつけた形になる。
 おもりの遠心力を利用しての打擲や、投擲、そして絡みつけせての捕縛などに用いる。
 ロープの数や錘の種類に変動はあるが、使い方はおおむね同じ。
 日本においては分銅鎖がこの仲間とも言え、「微塵」などと呼ばれる。
 微塵の名の由来は、うまく使えば相手の骨を木っ端微塵にできるからだとか。
 
・火炎瓶
 モロトフ・カクテルとも。
 家庭で作れる非人道兵器。
 「ガラスびんその他の容器にガソリン、灯油その他引火しやすい物質を入れ、その物質が流出し、又は飛散した場合にこれを燃焼させるための発火装置又は点火装置を施した物で、人の生命、身体又は財産に害を加えるのに使用されるもの」。
 瓶の中にガソリンなどの可燃性の液体を詰め、布などで栓をした簡易の焼夷弾。
 栓をした布に火をつけて火種とし、投げつけて割ることで燃料を飛散させ、火種の火で燃焼させる。
 人体に使用した場合、燃焼による火傷のほか、呼吸のための酸素が奪われることによる窒息、呼吸によって炎が肺に運ばれて内側から焼かれるなどの結果に至る。
 当然、本邦での製造・所持は御法に触れるので厳禁。

臭水(くそうず)
 燃える水とも。原油のこと。
 この世界は惑星の歴史的には割と最近陸地が作られたのだが、それ以前からも海洋では植物が豊富に繁茂していた。
 恐らくはそれらが海底に堆積して原油のもととなり、大陸構築の際に巻き込まれて地表近くに露出したものと思われる。
 精製技術はあるものの、ほとんど一部の錬金術師の実験程度で、大量採掘、大量生産はまだなっていない。
 帝都では計画はしているものの、採掘予定地の選定が困難なため揉めているようだ。

冒険者(プレイヤー)
 ゲームというものは効率を追い求めていくと、ボタン押しっぱなし放置で経験値やアイテムを入手し続けられる脳死プレイが見えてくるが、それとは別にアイテムやスキルを駆使して敵の弱点を突くことが大事になってくる。
 ウルウのプレイしていた「エイシストール」というキャラクターは即死攻撃こそ強力だが本来の攻撃力は低く、即死の通じない非生命系の敵に非常に弱かった。
 そのため、そう言った敵を倒すために《青い大きなボム》や《ソング・オブ・ローズ》といった爆弾をはじめとする攻撃アイテムや支援アイテムを多用していた。
 冒険者というものは本人の強さがどうこうというより、目標を突破してなんぼなのである。
 最終的な収益が黒字になれば勝ちであるし、何なら赤字でもやってやったぜ感があれば勝ちである。

・催涙弾
 文字通り涙を催させる弾。
 ここでは中身を抜いた卵の殻に、後述する赤い液体を詰めたもの。
 投げつけて破裂させることで液体を飛散させ、眼球や粘膜部分に当てて使う。

・赤い液体
 家庭で作れる非致死性兵器。
 ざっくり言うと唐辛子(カプシコ)粉末をアルコールに浸して成分を抽出したもの。
 カプサイシン・スプレーとおおむね同じ。
 目や粘膜、皮膚に強烈な痛みと灼熱感を与える。
 目に当てた場合一時的な盲目が期待できる。
 鼻・喉の粘膜に触れれば、呼吸困難、せき、鼻水が期待できる。
 非致死性とはいうものの、使い方によっては窒息死などの可能性があるほか、心臓や肺への負荷や毒性などによって死亡に至る可能性も否めないのでよい子のみんなは手を出さないように。

・イケメンがしちゃいけない顔
 イケメンの顔面偏差値が著しく低下すると攻撃が通るようになる。
 という話ではもちろんなく、催涙弾の影響でまともに魔力を練れなくなったため、魔力障壁、身体硬質化がまともに維持できなくなり、攻撃が通るようになった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 巣立ちの日

前回のあらすじ

汚いなさすがアサシンきたない。


 私の拳は間違いなくお父様に一撃を加えました。

 それは倒れ伏したお父様自身も、お酒を片手に観戦していたお母様も、ぱち、ぱち、ぱちと気のない拍手をした後ようやく自分が審判役だったことを思い出してくれたペルニオも、認めてくれるものでした。

 手加減なく手加減してもらって、手抜かりなく手を抜いてもらって、容赦なく容赦してもらって、それではじめて、ようやくはじめて、お父様に勝った拳は、血と唐辛子(カプシコ)汁とでねちょっとしめってえんがちょでした。

 

 私の勝利は、私だけのものではありませんでした。

 私一人であれば、どうやっても届かない境地だったことでしょう。

 剣にこだわり、辺境貴族としての自分にこだわったままでは、私は手も足も出なかったことでしょう。

 

 でも、私は冒険屋なのです。

 それを思い出させてくれたのが、ウルウでした。

 私は、私たちは冒険屋なのだから、問題を解決するために遣り方にこだわっちゃいけないと。

 頭を使い、やれることを全部やって、そうして冒険を終わらせるまでが冒険屋稼業なのだと。

 そして私は果たして人間に使っていいかどうか悩む道具の数々と、果たして人間に用いていいかどうか悩む策を授けられ、それを十全に果たしたのでした。

 

 ウルウの策を実現させるには、トルンペートからしばしば学んでいた投擲技術が役に立ちました。いざという時、咄嗟の時に、何でもいいから近くにあるものを投げつけて距離を取る、その程度だった技術が、私の中でしっかり積み重なり、過つことなくお父様の顔面に催涙弾をぶちかますことを叶えてくれたのでした。

 

 私は今まで力任せに、腕任せになんでもこなそうとしてきました。そして実際にそうできてしまったことで、私は自分自身の成長の幅をかえって狭めてしまっていたのかもしれません。

 ただの剣士ではなく、ただの武辺者ではなく、道具も、策も使いこなして、どんな相手にも対応できるようになる。

 それこそが冒険屋なのでしょう。

 

 真正面からじゃなく、正々堂々じゃなく、もしかしたら卑怯とも邪道ともいわれるかもしれませんけれど、それでも私は超えがたいはずの壁を超えることで、人間としてひとつ大きく成長したような気がします。

 いま叶わないから、鍛えて強くなってあとで挑む、なんて、それは贅沢なことです。

 いまできる全てを賭して、そしてそれでも届かないなら届くように工夫する。

 それが、人間というものの本当の強さなのかもしれません。

 

 などと、色々言葉を重ねて時間を稼いでみましたけれど、どちらかというと催涙弾で目と喉をやられた傷の方が大きいらしいお父様はいまだに悶絶しており、回復しません。

 いい感じに締めたかったんですけど、うまくいきませんね。

 

 非常に丁寧な所作で、言い換えるならあえて時間をかけるようにして水差しに水を汲んできたペルニオがお父様の顔を洗って差し上げ、うがいを繰り返し、なんとか復活するまでに私は暖かいお茶を一杯頂いて人心地つく余裕がありました。

 

 いや、なんていうか、あれそこまでえげつない代物だったんですね。

 ウルウに、躊躇したら連携が崩れるから、何も考えないで言われたとおりに投げつけろって言われてたので、畳みかけるようにやりましたけど、うん、思い返すと酷いですね。

 ボーラとかいう道具は、あれは便利ですしよくわかります。

 でもその後の火炎瓶とかいうのは完全に殺しにかかってますし、お父様じゃなかったら死んでいたのではという気もします。

 さすがの私も燃え上がるお父様を見てこれはまずいなって思ったんですよ。でも結構動き回るので意外と燃えないなあって。燃え尽きないなあって。動かなくなってから考えてもいいのかなあって思案しているうちに炎を吹き飛ばされちゃいまして。

 ウルウからは炎を突破してきたらと言われてたんですけど、まさかあんな方法があるとは。びっくりしましたけれど、そこは指示通りすかさず催涙弾です。

 これが通じなかった場合は渡した海水の瓶をぶちまけて動かなくなるまで電流流せって言われてたんですけれど、通じてよかったです。

 

 ようやく回復したお父様が足元に絡みついたボーラを引き千切、らないで丁寧に外して返してくれました。そう言うところ律儀ですよね。

 

 ちょっと緊張した心地で見上げると、お父様は激戦の後とは思わせない涼しげな顔で見下ろしてきます。

 

「策を練り、工夫を凝らし、勇気を奮ってよくぞやったものだ。辺境貴族の遣り方ではないが、辺境の生き様としては相応しい。……いや。いやいや。成程。冒険屋か。思えばお前は昔から、あの手この手で家庭教師の目をかいくぐって遊んでいたものだ。知ってはいたが、認めたくはなかっただけかもしれないな」

 

 お父様の唇を歪ませたのは、何とも苦い微笑みでした。私にしてやられたこと。自分自身の認識の甘さ。それらが唇の先で、吐息に吹かれて流れていきました。

 

「お前には、辺境は狭すぎたのかもしれない。行って、見てきなさい。世界の広さを」

 

 お父様はそう言って、静かにほほ笑みました。

 全裸で目が充血して鼻血を流しながら。

 冷たい風が、吹きました。

 

「……………」

 

 ペルニオに連れられてお父様は一旦引っ込み、私たちがゆっくり温かいお茶とお茶請けを楽しんだ頃、きちんと着替えて一応の傷の手当てもしてお帰りになられました。

 

「策を練り、工夫を凝らし、」

「いや、そこはやり直さなくていいです」

「そうか。そうだな。やり直さなくて、いいか……」

 

 お父様しょんぼり。

 焦げた髪も切っちゃってちょっとさっぱりした感じですけれど、この憂い顔の麗人、さっきまで拷問を受ける罪人もかくやという顔してたんですよね。

 

 お父様は、何度か口を開いては閉じて、視線をさまよわせながら言葉を探して、そしてようやく、ぽつりぽつりと続けました。

 

「お前は筆不精だけれど、心配するから、手紙を書きなさい」

「はい」

「困ったときは、遠慮せず連絡をしなさい」

「はい」

「金を工面してもらうことは恥ではない、いつか返せばいいから、仕送りも強請りなさい」

「はい」

「これからも剣に励みなさい」

「はい」

「冒険屋の流儀も、よく学びなさい」

「はい」

「たまにでいいから、帰ってきなさい」

「はい」

「けがや病気には、気をつけなさい」

「はい」

「好き嫌いはせずなんでも食べなさい」

「はい」

「お前は本当になんでも食べるから、お腹を壊さないよう気をつけなさい」

「はい」

「悪い人に騙されないように、気をつけなさい」

「はい」

「大切な人には、いつも誠実でいなさい」

「はい」

「心で善いと思ったことだけをしなさい」

「はい」

「悪いことをしたなら悔い改めなさい」

「はい」

「きちんと歯を磨きなさい」

「はい」

「風呂でよく体を清めなさい」

「はい」

「湯冷めしないよう、きちんと髪は乾かしなさい」

「はい」

「それから……」

「はい」

「それから。それから」

 

 お父様は、それからを何度か繰り返して、困ったように眉を顰めました。

 

「それから、ああ、ああ、それから、ああ、困ったな。お前には聞かせたくないことまで、言ってしまいそうだ」

「どうぞ、言ってください」

「弱音だよ」

「どうぞ、どうぞ言ってください」

「ああ、そうか。うん。そうか」

 

 何度か小さく頷いて、私の顔を覗き込んで、頬を撫で、髪に触れ、お父様はこぼしました。

 

「……行かないでおくれ。私から離れないでおくれ。危ないことをしないでおくれ。家にいておくれ。どうか……どうか、行かないでおくれ」

「……お父様」

「……ああ、ああ。忘れてくれ。忘れておくれ」

「いいえ。いいえ、忘れません。でも、ごめんなさい。私は行きます」

「ああ……ああ。行くがいい。行ってしまえ。どこへなりと」

 

 お父様の顔がくしゃりと歪みました。

 それは、笑っているようで、泣いているようで、そしてそのどちらにも見えました。

 

「子供はいつか巣立つものだ。巣立ってしまうものだ。そして、そうして、それを見送ってはじめて、ようやく大人になれるのかもしれない」

 

 ぎゅうと抱きしめる腕は力強くて、でも泣き出しそうになるほど暖かくて、そして小さく震えていました。

 私もその背を一度強く抱きしめ返して、それから、どちらともなく離れていきました。

 

 さよなら、子供だった私。

 冬の良く晴れた日。それが、巣立ちの日でした。




用語解説

・海水の瓶
 人体はそれなりの電気抵抗を持つが、水に濡れている状態だとかなり低下する。
 通常の水よりも電気を通しやすい海水で濡れていればなおさらである。
 単品だと一番安全なのに、完全に殺すつもりの組み合わせである。

・巣立ち
 子供はいつか親離れしなくてはならないが、親もまたいつか子離れしなくてはならない。
 それは独立であるが、別離ではない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八章 辺境女はしたたか小町
第一話 三女中が行く


前回のあらすじ

実の父親を火あぶりにした挙句、顔面を崩壊させてぶん殴り、自立を宣言したのだった。


 辺境の冬は、分厚い雪に覆われている。

 さらりとした細かい雪は、寒さの証と言ってもいい。

 そのどこまでも白い銀世界を、三人の女中が駆け抜けていた。

 

 女中(メイド)である。

 飛竜紋の入った革のエプロンをかけて、スカートをはためかせるようにして、メイドが駆け抜けていく。

 まだ日も登らぬ夜更け、青白い月明かりを照り返す雪原を、馬よりも早くメイドが駆け抜けていく。

 それは武装女中養成所からやってきた三人の特等武装女中たちであった。

 

「あーあーあー……せんないわー、げにせんなかねー。なして(オレ)らァがこんだたゆぎんなか出にゃあいかんかねー!」

 

 不服そうな声をあげたのは、一等若いメイドである。

 子供という程に幼くはないが、大人にはまだ随分遠い。それでいて、その全身にみなぎる活力は生半の修練で身につくものではない。特等という武装女中の頂点にいたっていることを思えば、その若さは異常といってよい。

 

 半袖の下からのぞくのは臙脂(えんじ)色の飾り羽。足元の靴も、靴底というものがなく、猛禽じみたあしゆびが垣間見える。

 その天狗(ウルカ)の若いメイドはツィニーコといった。天狗(ウルカ)の中でも闘距(パレミロス)と呼ばれる氏族の出で、飛ぶことは全く苦手なのだが、蹴り足は非常に強く、秀でたものは空を走るともいわれる。

 

 ツィニーコもまたその優れた脚でもって、容易く沈みこんでしまいそうなほどやわい雪の上を、一足一足、爆ぜるような踏み込みでもって蹴り飛ばしては飛び跳ねるように駆けていた。

 また、それだけの激しい運動をしながらも、同道する二人の耳元に正確に声を届ける技術は繊細極まりない。声を風精に乗せる技はさほど珍しくもないが、この速度での移動中に明瞭に聞き取れる声を届けるのは熟練を必要とした。

 

「だはんこくでねェの。ペルニオ様ん言うこつじゃきしょんなかね」

 

 微笑みと共に返したのは土蜘蛛(ロンガクルルロ)のメイド、フォルノシードである。

 彼女の氏族荒絹(フーリオーリ)土蜘蛛(ロンガクルルロ)の中でも美しい髪と、そして豊かな肉体を持つ。それだけでなく先祖返りもはなはだしく、昆虫の腹部のように肥大した腰がスカートを膨らませていた。

 その下で、甲殻に覆われた四つ足がまるで体重というものを感じさせない足取りで、雪上を駆け抜けていく。

 

「そいもまたせんなか話だべや。(オレ)ァあん(しと)が好ーかん」

「おじィだけでねェか」

「おじィこつあるかい!」

 

 鼻で笑うフォルノシードに、噛みつくように怒鳴り返すツィニーコ。

 実際、ペルニオというメイドは無暗に恐ろしいような人柄ではない。それはそれは恐ろしく強いことは確かだが、それで人を脅すということもない。物腰は穏やかで、変に偉ぶることもない。説教を垂れることもない。

 

「じゃっどん、あん(しと)ん相手ばすっとはなまらよだきいじゃろ」

「あん調子で冗談くれよるやろかい、どんげな顔すっぺかァち考えにゃならんべ」

「んだんだ。御屋形にゃペルニオ様ァ()()()おるでやるずくがねェじゃだ」

「一人は玩具箱(トイ・ボックス)さ出らんべさ」

「どんだかね」

 

 三人目の特等武装女中、アパーティオは二人の会話を聞きながらも、ぴくりとも反応しない。不健康なほど白い肌に、月影に煌めく銀糸の髪。しっとりと濡れたようなその質感は、山椒魚人(プラオ)に特有のものだ。

 目をほとんど閉じたまま、彼女は雪の上を滑るように進んでいく。いや、それは実際に滑っているのだった。

 前後に軽く開いた両足は、ツィニーコのように力強く雪を蹴ることも、フォルノシードのように激しく駆けることもしない。ただ佇むように雪に接する足が、ほとんど自動的に前へ前へと体を滑らせて進んでいく。

 

 物静かでマイペースなアパーティオが会話に参加しないのはいつものことだった。そしてそれで特に問題もない。ただそこにいるだけで、特等というものは意味があるのだ。

 

「トルンペートじゃったかいにゃあ、(オレ)ァあんまいはっしとは覚えよらんじゃっとけんど」

「あンれだ、ホレ、えーたいこーたいあえまちょーして、玩具箱(トイ・ボックス)入りしよったべさ」

「ホゥイ、それよな。おぜうンふうりまーしゃってやぶれよったやつじゃら」

「んだんだ」

 

 ツィニーコら特等武装女中は、辺境の武装女中の頂点にあると言っていい。一等のうち特に目をかけている何人かを除いては、直接指導するようなこともないし、それなりに数のいる新入りどもをすっかり把握できているかというと難しい。

 

 しかしその中でも、トルンペートという娘は比較的話題に上がる名前だった。というのも、よく怪我をするのである。それも転んだとか切ったとかいう軽いものではなく、最低でも骨折はしていたし、よく血まみれになっていた。治療所である玩具箱(トイ・ボックス)に運び込まれるときに意識がないこともざらだった。

 

 それが訓練の結果ということは、ない。内地の人間には怪物扱いされることもある辺境人だが、訓練の度に全身の骨をぺきぽきと小枝のように折っていては命がいくつあっても足りない。

 哀れなことにその負傷のほとんどすべては彼女の仕える主人、幼いリリオによるものだった。

 辺境貴族は生まれた時から埒外の成長を始める、竜の子だ。幼く見えてもその力は強大で、幼いからこそ加減を知らない。それゆえ、腕が立ち経験の豊富な一等がつけられることが普通だったが、リリオは自分が拾った子供を自分の侍女にすると言ってきかなかったのである。

 

 週の半分は養成所で女中としての教育が施され、残りの半分では生きたぬいぐるみよろしく振り回される。ようやくリリオが落ち着き、なんとか三等として見れるようになった時は、一同何やら感動したものだった。

 

「ほなけんど、なんじゃいねー、ずんぶいぱだだ女じゃら」

「トルンペートけ」

「んにゃ、()()()()だば、よめじょ。おぜうンよめじょじゃだ」

「女中ば嫁んしたち聞いたべ」

「んにゃ、んにゃ、内地で嫁取りすなったンじゃと」

「おなめっこけ」

「知らん。なんちゃーわからん」

 

 成人したリリオが嫁を連れて帰ってきたというのは、すでに養成所まで噂が届いていた。しかしきちんとまとまったものではないから、それぞれが勝手に尾ひれをつけて回って、その正体は判然としない。

 大体において、トルンペートがついにお手付きになったとか、内地で嫁取りをしてきたとか、いやいや旦那を捕まえて女中と二人で嫁に入ったとか、いい加減なことこの上ない。

 ただ確かなこととして、どうも二人で出て行ったはずが三人組として帰ってきたということは共通していた。

 

 呼びつけたペルニオによれば面白い女だということだが、さてどういう意味の面白さなのか。

 ツィニーコは暇な冬場に降って湧いた話題に興味津々だし、フォルノシードもしとやかにほほ笑みながら気にならないわけではない。アパーティオは、それを気にもとめていない。

 

 寒風をものともせずに飛び跳ねながら、ツィニーコは獰猛に笑った。

 よくはわからないが、わざわざ呼びつけたからには遊ばせてもらおう。

 トルンペートの試験が本題と言えば本題だが、なに、そちらはすぐに済む。

 ぼろ雑巾にしてやってから、ゆっくり遊ぶとしよう。

 

 恐るべき速度で、三女中が屋形に迫りつつあった。




用語解説

・「あーあーあー……せんないわー、げにせんなかねー。なして(オレ)らァがこんだたゆぎんなか出にゃあいかんかねー!」
 (意訳:「あーあーあー……面倒くさいなー、ほんと面倒くさいなー。なんでオレ達がこんな雪の中、出てこなきゃいけないかなー!」)

・ツィニーコ(Ciniko)
 天狗(ウルカ)闘距(パレミロス)氏族の特等武装女中。十九歳男性。
 飛びぬけた格闘センスと喧嘩っ早さで暴れまわり、矯正目的で武装女中養成所へ。
 上には上がいることを体に叩き込まれ、反骨精神もあって武装女中として鍛えに鍛える。
 根が真面目だったこともありめきめきと成長し、最年少で特等入りした天才。
 自身が天才であり優秀である自覚を持つが、同時に経験の少なさも把握しており、積極的に戦闘の機会を探している。

闘距(パレミロス)
 天狗(ウルカ)の一氏族。
 翼を用いた飛行が苦手で、頑張っても高所からの滑空や落下速度の低減が関の山。
 しかし極めて強靭な足腰を持ち合わせており、地上を走る速度・スタミナともに天狗(ウルカ)随一。それどころか空踏みという、空気を踏んで走る技術を持ち合わせており、空を走ってくる。
 性格は荒っぽく、かなり闘争心が強く、けんかっ早い。

・「だはんこくでねェの。ペルニオ様ん言うこつじゃきしょんなかね」
 (意訳:「わがままを言わないの。ペルニオ様の言うことだから仕方ないわ」)

・フォルノシード(Fornosido)
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)荒絹(フーリオーリ)氏族の特等武装女中。三十六歳女性。
 先祖返りが甚だしく、他の土蜘蛛(ロンガクルルロ)より甲殻が顕著で、また腰から下が蜘蛛の腹部のように肥大化し、脚部も強靭。
 美しく豊かな容姿だが、戦闘においては冷徹で残酷。

荒絹(フーリオーリ)
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の中でも機織と服飾に長けた氏族。
 蚕を家畜化し、この世界に持ち込んだとされる。
 自らも色鮮やかな金の糸を吐き、編み、織り、刺し、様々な細工を凝らす。
 美しい見た目、美しい技術を持つが、見た目以上の怪力で絡ませた糸を引っ張り木を根元から引き抜いたという逸話もある。
 古代には空を舞う天狗(ウルカ)さえも捕らえていたとか。
 聖王国の台頭に伴い、絹糸や織物を狙われて乱獲され、辺境に落ち延びたとされる。
 現在も辺境から出るものは稀で、出てきたとしても蚕と絹は決して外に漏らすことはない。

・「そいもまたせんなか話だべや。(オレ)ァあん(しと)が好ーかん」「おじィだけでねェか」「おじィこつあるかい!」
 (意訳:「それも面倒くさい話じゃないか。オレはあの人好きじゃない」「怖いだけじゃないの」「怖くなんてない!」)

・「じゃっどん、あん(しと)ん相手ばすっとはなまらよだきいじゃろ」「あん調子で冗談くれよるやろかい、どんげな顔すっぺかァち考えにゃならんべ」「んだんだ。御屋形にゃペルニオ様ァ()()()おるでやるずくがねェじゃだ」「一人は玩具箱(トイ・ボックス)さ出らんべさ」「どんだかね」
 (意訳:「でも、あの人の相手をするのはすごく面倒でしょ」「あの調子で冗談を言うから、どんな顔したらいいかって考えなきゃいけないわよね」「そうそう。御屋形にはペルニオ様が二人もいるからやる気が出ないな」「一人は玩具箱(トイ・ボックス)から出ないでしょう」「どうだかね」)

・アパーティオ(Apatio)
 山椒魚人(プラオ)の特等武装女中。七十二歳のいまは女性。
 特に尖った能力があるわけではないが、オールラウンドにこなす万能型。
 あまりやる気はないが、仕事はこなす。
 冬場は半分冬眠状態であり、浅くまどろむような状態だという。
 それでもこの「冬のナマズ」は同道する二人を同時に相手しても負けることはないのだが。

山椒魚人(プラオ)
 最初の人たちとも称される、この世界の最初の住人。海の神を崇め奉り、主に水辺や浅瀬に住まう隣人。肌が湿っていないと呼吸ができないが、水の精霊に愛されており、よほどの乾燥地帯でもなければ普通に移動できる。極めてマイペースで鈍感。好奇心旺盛でいろいろなことに興味を示すが、一方で空気は読めず機微にもうとい。

・「トルンペートじゃったかいにゃあ、(オレ)ァあんまいはっしとは覚えよらんじゃっとけんど」「あンれだ、ホレ、えーたいこーたいあえまちょーして、玩具箱(トイ・ボックス)入りしよったべさ」「ホゥイ、それよな。おぜうンふうりまーしゃってやぶれよったやつじゃら」「んだんだ」
 (意訳:「トルンペートだっけ、オレはあんまりしっかりは覚えてないけど」「あれよ、ほら、いつも怪我して、玩具箱(トイ・ボックス)入りしてたでしょう」「ああ、それだ。お嬢様に振り回されて壊れてた子だ」「そうそう」)

・「ほなけんど、なんじゃいねー、ずんぶいぱだだ女じゃら」「トルンペートけ」「んにゃ、()()()()だば、よめじょ。おぜうンよめじょじゃだ」「女中ば嫁んしたち聞いたべ」「んにゃ、んにゃ、内地で嫁取りすなったンじゃと」「おなめっこけ」「知らん。なんちゃーわからん」
 (意訳:「それにしても、なんだろうな、すごく妙な女だな」「トルンペートのこと?」「いや、嫁さんだよ、嫁さん。お嬢様の嫁さんだよ」「メイドを嫁にしたって聞いたわ」「いや、いや、内地で嫁さんを捕まえてきたんだって」「(めかけ)さんかしら」「知らない。なんにもわからない」)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 鉄砲百合と真冬の薄明かり

前回のあらすじ

雪原を駆け抜ける三人の女中たち。よい子は真似しないでね。


「は……はっ、ハッチュ!」

「おや、健康(サーノ)!」

「あんがと」

 

 のっけからくしゃみで失礼。

 しっかり厚着はしてるけど、辺境の冬はやっぱり寒いものね。

 こらえきれずもう一つ重ねてくしゃみ。我慢しようっていっつも思うのに、どうしてもこらえられないのよね。

 

「トルンペートのくしゃみかわいいよね」

「くしゃみがかわいいって何よ」

「ほら、リリオのくしゃみってかわいげないし」

「あーね」

「えっ、心外なんですけれど」

 

 リリオはそんなこと言うけど、少なくともかわいいくしゃみじゃないわよね。

 ハックショーイッって盛大なくしゃみするのよ、毎回。もう全身使ってくしゃみするんじゃないかってくらい力強いの。いっそ清々しいくらいなんだけど、前方にいる人はご愁傷様よね。

 最後に畜生とかくそくらえとか言わないだけいいけど、おじさんみたいってたまに思う。まあ、世間一般で言えば貴族のご令嬢のするくしゃみじゃあないわ。

 

 あたしだって、こらえられないなりに、できるだけ大人しくなるように頑張ってるのよ、これでも。かわいいとまでは自分では思わないけど、リリオと比べるとまだ見れる方だと思う。

 

「ウルウは……あんたくしゃみするの?」

「人をなんだと思ってるのさ」

「妖精枠」

「ですよねえ」

「君らねえ」

 

 ウルウによれば、ウルウだってくしゃみするときはするらしい。

 でもそれなりに長いこと一緒にいるのに見たことないんだから、しないっていう方が信じられるくらいだ。

 

「くしゃみの出やすさは個人差があるからね。確かに私はそんなに出ない、かも」

()()()でも突っ込んでみようかしら──ハッチュ!」

健康(サーノ)、だっけ。ばちが当たったかな」

「あんがと。そんなことない、は、は、」

「よっこいしょ」

「変な合いの手入れないでよ……ああ、出そうで出ない!」

 

 くしゃみがたくさん出るのも落ち着かないけど、出そうで出ないって言うのが一番落ち着かないわよね。

 しっかし、それにしてもくしゃみが多い日だ。体調管理には気を付けてるけど、あったかい内地でしばらく過ごしたから、身体が寒さを忘れちゃったのかもしれない。

 

「それとも、誰かに噂されてるんじゃないの」

「噂? なによそれ」

「ああ、こっちじゃ言わないんだ……私の国だと、くしゃみするのは誰かが噂した時なんだって」

「ふぅん。変なの。まあろくでもない噂しか流れてなさそうだけど」

「かわいい武装女中の話かな」

「私たちの間で盛大に噂話になってますもんね」

「もーうー!」

「牛さんかな」

 

 まあでも、噂だか何だか知らないけど、ちょっと悪寒があるのは確かだ。風邪ひかないように気をつけないと。

 なにしろ辺境の冬ってやつは恐ろしく冷えるし、あたしはちっちゃくて薄いから熱をため込みづらいし。あたし以上にちっちゃくて薄いリリオは、それ以上に熱を発してるから平気そうだけど。

 

「辺境は寒い寒いって言うけどさ」

「寒いでしょ」

「それだけじゃなく……あのさあ。天気が悪いからかなって思いこもうとしてたけど、やけに暗くない?」

「もう冬ですからね」

「冬だからって日が短すぎるよ」

 

 ウルウが胡乱な目付きでようやくうっすら明るくなり始めた山際を眺めた。

 せっかくだからフロントの町も見物しようって、早起きして御屋形から出てきたのは確かだけど、ウルウの感覚だと今時分はもうすっかり明るくなってるはずなんでしょうね。その感覚はまあ、間違ってはいないのよ。

 でもここは辺境なのだった。

 

「辺境の冬は、昼がなくなるのよ」

「はあ?」

「内地でも冬は日が短くなるでしょうけど、辺境ではどんどん短くなって、ついには日が出なくなるのよ。真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)ってやつね」

「ひと月か、もう少しくらいでしょうか。夜と、この薄暗い感じがずっと続きますね」

「成程。極夜ってやつだ」

 

 あたしはもう慣れちゃったけど、内地の人がこれを体験すると、最初は面白がるんだけど、段々塞ぎ込んじゃって鬱になることもあるらしいのよね。ずっと暗くて日に当たれないのってしんどいらしいわ。

 逆に夏には日が沈まない、昼と薄明が繰り返される夜のない夜(マルノークタ・ノークト)の時期がある。ずっと明るくてもやっぱり心が辛くなるらしいから、人間って言うのは難しいものよね。

 

 寒いし、朝も早いし、真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)で暗いけど、フロントの町は多くの人が出歩いていた。

 みんな毛皮で厚着して、毛皮の帽子をかぶっているから、もこもこと着ぶくれている。あたしたちもだけど。

 ウルウは帽子があんまり好きじゃないみたいだけど、帽子かぶらないと脳が凍るから駄目だって教えたらちゃんとかぶってくれている。いや、冗談じゃなく本当に頭から凍死することがあるから、辺境の冬は怖いのよね。

 

 それでもみんな明るくなると出てくるのは、日の光が短いからだ。その短い、薄明かりでしかない日の光を最大限浴びるために、みんな散歩したり日光浴したりするのだ。

 なんでかは知らないけど、日の光を浴びないと心だけじゃなくて身体も悪くなるらしいのよね。ウルウによればびたみんがどうとかいうらしいけど、よくは知らない。

 

「……辺境はベビーブームなの?」

「べび?」

「いやなんか、赤ん坊とか子供連れてる人多いなあって」

 

 ああ、まあ、確かに辺境は子供が多いのよね。

 いまくらいだとまあ、二、三か月くらいの子供抱いてる人が多い。それ以外にも自分で歩ける子供は、もこもこに着ぶくれてそれにくっついていっている。

 

「ほら、辺境って雪が積もると道が閉ざされるし、この時期は暗いからできることも少ないし、仕事とかやること少ないのよね」

「うん」

「だから、秋頃に子供が増えるのよ」

「接続詞の意味」

 

 いやだって、ねえ。やることないからやるしかないのよ。冬って。

 で、今頃やると、十か月後って秋頃なのよ。だから秋頃は産婆さんが大忙しなわけね。

 それを毎年やると、子供がどんどん増えていくのよ。

 

「ああ、それって、うん、成程ね」

 

 まあ、増えても増えても、内地と比べるとやっぱり死んでいく数も多いんだけどね。

 辺境は死ぬ理由には事欠かないもの。だからたくさん産む、って言うわけでもないけど。

 いろんな技術が発達して、いろんな神様に加護を願っても、子供が死ぬのって一瞬なのよね。ほんと、目を離した瞬間。それで、その一瞬で取り返しがつかなくなる。あたしも良くこの年まで生きてこれたわ。

 

「そう言えばウルウって、人間嫌いってうそぶいてるじゃない」

「事実そうなんだけど」

「赤ちゃんとか子供もそうなの?」

「ん、ん、ん、……きらい、って言うほど積極的じゃないけど、でも、得意ではないかな。泣かれるとどうしたらいいかわかんないし、小さくて、弱くて、壊してしまいそうだし」

 

 そう言うウルウは、なんだか途方にくれたような顔で遠目に子供たちを見守っているのだった。




用語解説

健康(サーノ)
 誰かがくしゃみをした時、傍にいる人はこのように声をかける風習が帝国にはある。
 もう少し丁寧だとお大事に、とか気を付けてね、とか。

真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)(Mezvintra krepusko)
 いわゆる極夜。高緯度帯で日が昇らない夜が続く現象。
 辺境あたりでは、薄明程度には明るくなるが、日が出てくるようなことはないようだ。

夜のない夜(マルノークタ・ノークト)
 いわゆる白夜。極夜の逆で、高緯度帯で日が沈まず昼が続く現象。
 辺境あたりでは夜の時刻も薄明程度の明るさが続くようだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 白百合と冬至祭市

前回のあらすじ

かわいいくしゃみは不穏な気配の前触れだろうか。
まあ不穏じゃない時などないのだが。


 フロントの町は、私が出てきた頃とはすっかり様変わりしていました。

 いやまあ、私が出たのは雪のない初夏で、そしていまはすっかり雪の積もった冬なので、そりゃ何もかも違いますよね。初見だと同じ町とは思えないくらい景色変わりますからね。積み上げられた雪で道も狭くなりますし、場合によっては細い道なんかはなくなります。

 街並み自体はヴォーストとそこまで変わらない石造りの街並みで、より積雪に対応した造りって言うくらいなんですけれど。

 

 そういった雪国事情ではなく、時期柄ということで、町は華やかに飾り立てられて賑やかなものでした。

 冬となれば畑仕事も出来ず、家畜も内に引っ込めて、節約しながらこもっているのが正しい冬の生活ではあるんですけれど、いやまあ、年末ですからね。それだけというわけにはいきませんとも。

 

「……なんだか賑やかだね。やることないんじゃないの?」

「それはもう、冬至祭(ユーロ)ですからね!」

 

 ウルウは小首をかしげて、町中を飾る赤と緑の色彩を胡乱気に眺めました。

 そうですね、ウルウとは初夏に巡り合って、これが初めての冬至祭(ユーロ)でしたね。私たちにとっては当たり前の風物詩ですけれど、ウルウの国ではなかったのかもしれません。

 

冬至祭(ユーロ)というのはですね、年越しのお祭りなんですよ!」

「フムン、賑やかなわけだ」

「冬至過ぎから始まるお祭りで、まあ、なんです。なにするって言うと改めて説明するのも難しいですけれど、お酒飲んでご馳走食べたりするわけですよ」

「トルンペート」

「まあ、リリオの言うのでも大体あってるわよ。冬至過ぎから、年越して何日間かまで続くお祭り。幸いなる日(フェリチャ・フェリオ)とか言うわね。仕事納めして、一年の締めに家族でぱーっと楽しむわけ。若い人は恋人同士で過ごしたりもするけど」

 

 町中もそれに伴って賑わうもので、期間中の広場では冬至祭(ユーロ)市がずっと開かれているものです。

 帝国ではどこでも大抵、広場の真ん中には松や樅、杉といった常緑樹を運んできて、冬至の木(ユーラルボ)として飾り立てます。

 これがどれくらい大きくて、立派で、飾り付けが美しいかでその土地の豊かさが見えてくると言ってもいいでしょう。

 

 また冬至の木(ユーラルボ)は縁起物ですから、家の軒先や店の前などにも、小さなものが飾られます。

 最近だと、小さな鉢植えくらいの大きさの、卓上に飾れるような可愛いものも売っていますね。

 

「……毎年持って来なくても植えとけばいいんじゃないの?」

「普段は邪魔ですし、それに後で枝落として燃やしますしね」

「燃やすのあれ?」

 

 もったいない、なんてウルウは言いますけれど、まあ燃やすのも縁起のうちというか。地方によって異なるみたいなんですけれど、辺境では年越しの夜に火をつけて、一晩中火が絶えなければ良い年になると言いますね。

 ご家庭の暖炉で燃やす用の薪もあって、丸太を輪切りにしたものに、ちょいと楔で十字に傷を入れたものですね。この傷の真ん中に火をつけると、火が長持ちするんです。

 

 この薪の火や燃えさし、灰などは魔除けの効果なんがあるとかで、信心深い人はその火種を一年中繋いで絶やさないようにするとか。

 うちの屋形でも、前庭に冬至の木(ユーラルボ)を用意するのでウルウも見れますね。

 

 冬至祭(ユーロ)といったらあとは何がありましたかね。

 

「あんたの好きなアヴォ・フロストじゃない?」

「それがありました!」

「アヴォ、なんて?」

「アヴォ・フロストですよ! 真っ赤な衣を着た謎の老人で、二十四日の本祭の夜にどこからともなく現れては、良い子にはお菓子やおもちゃ、悪い子には罰を与えたり拐ったりするんです!」

「あー……サンタさんいるんだ」

「毎年飛竜乗りが哨戒するんですけれど、いまだに捕まえられないんですよね」

「ガチでいるやつじゃん」

 

 しかしなんでしょうね。

 先程からの反応を見るに、ウルウのくにもとにも冬至祭(ユーロ)があったのでしょうか。

 

「ん、まあ、似たようなのはあったよ。クリスマスっていって、サンタクロースっていうお爺さんが来る」

「やっぱりどこも似たようなのあるんですね。どんなふうに過ごしてたんですか?」

「えっと……夜まで仕事して」

「祝日の話ですよね?」

「チキン……鶏肉とケーキ買って食べて」

「宴会ですね!」

「いや一人で」

「祝日の話ですよね?」

「あとは雪山籠ってサンタ狩ってた」

「祝日の話ですよね!?」

 

 よほど蛮族なのでは。

 しかしウルウが遠い目をするので突っ込むのはやめておきました。まあ、うん。あんまり思い出したくないこともありますよね。

 ウルウは割とそう言うのが多いので困ります。

 まあいまは私たちがいますからね、三人でしっかり冬至祭(ユーロ)を楽しみましょう。

 

 伝統的な行事としても面白いものですけれど、なんといっても冬至祭(ユーロ)市ほど心躍るものはありません。

 内職でせっせとこさえた彫り物や編み物、餌を減らすために潰した家畜を贅沢に使った料理、日持ちのする焼き菓子なんかもあります。

 

 家の分の買い物はもう家の者が済ませてくれていますので、気兼ねなく楽しむためだけに楽しめるのが最高ですね。

 久しぶりの人混みにウルウはものすごーく嫌そうな顔でしたけれど、好奇心には負ける程度に慣れてきてくれたので、一緒に回れていいですね。

 

 私たちは香辛料と砂糖を効かせた温麦酒(ヴァルマ・エーロ)を手に、屋台の間を練り歩きました。

 普段の市で見るような屋台ももちろん多いですけれど、やはり冬至祭(ユーロ)市ならではの品は楽しいものですね。

 

 例えば麺麭(パーノ)屋なんかでは、この時期は色粉を加えた卵白菓子(シャムクーコ)仁糖膏(マルツィパーノ)で様々な人形を作ったりしています。裕福さや子沢山を象徴する豚だったり、力強さや格好良さから飛竜をかたどったり、また真っ赤な意匠のアヴォ・フロストも人気があります。

 卵白菓子(シャムクーコ)はがりがりっと硬い食感でそんなに美味しくはないんですけれど、仁糖膏(マルツィパーノ)はねっちりとした歯ごたえの中に豊かな香りと甘みがあって、そして腹持ちもいいですね。

 他にも、飴屋さんでも色粉を加えて様々な形の飴を作ったりしています。

 

 お酒ももちろん大人気で、あちらこちらで温麦酒(ヴァルマ・エーロ)や、少しお高い輸入物の温葡萄酒(ヴァルマ・ヴィーノ)、そして火酒で温まり、乾杯する人たちが多くみられます。

 ウルウはあんまりお酒飲みませんし、昼間からっていうのも好きじゃないみたいですけれど、なにしろ辺境は寒いですから、お酒で温まろうっていう人は多いですね。酒でも飲んでないと、って言うのもあるんでしょうけれど。

 

「あ、これなんかは辺境名物ですよ」

「なにこれ。お菓子?」

 

 ウルウが首を傾げたのは、屋台にドンと置かれた大きな黒っぽい塊です。

 太い巻物状になったそれを、端の方から裁断機で輪切りに切り落し、渦巻き状になったものを売ってくれます。この渦巻きを端からほどいて、そのままかじったり、千切って食べたりするんですね。

 見た目は何というか、茶褐色の柔らかな飴というか餅というか、そこに種実類や干し果実などが散りばめられています。

 試しに買ってみて分けてあげると、ウルウはなんとも言えない顔をしました。

 

「なんていうか……ものすごい甘さというか……()()

 

 まさしく重い、というのがこのお菓子ですね。

 食感はねっちりして歯ごたえがあり、噛みながら舐め溶かすような、そのような具合です。

 そして味ときたら遠慮なしに甘くて、脂っ気もたっぷりです。

 気軽に食べるお菓子や主食と言うより、もとは飛竜乗りや騎士が行軍に持っていった熱量食というやつなんです。冬の極寒の中では、普通に歩いているだけでも、それどころか立っているだけでも体力を消耗します。だから頻繁に休憩をとって何か口にするのですけれど、その際にこのような、すぐに食べられて精がつく、その上で保存も利くものが作られたのだそうです。

 

「いざという時の備えにはいいかもね……なんていうの、これ」

「ふふふ、その名も(ドラケ)──ヴぇっ」

朝駆け(マテン・ライディ)よ」

「ふうん。見かけの割にさわやかなネーミングだ」

 

 トルンペートに後頭部ぶん殴られました。

 違うんです誤解です。私はただ辺境人の素朴で荒っぽい素直な感性を伝えたかっただけで、ウルウの口から俗っぽい卑語が飛び出てくるのを期待したのはほんのちょっぴりなんです。

 はい。

 すみません。ちょっぴりですけど期待してました。はい。

 なのでその冷たいまなざしは止めてくださいトルンペートなんか目覚めそうです。

 

 まあ、その、なんです。そんなわけで、朝駆け(マテン・ライディ)には俗っぽい古い呼び方もあるんですよという、そう言うあれでした。

 

 仕切り直すようにあたりを見回せば、この辺りは神殿関係の屋台が多いですね。

 神官たちが寄付を募ったり、ご利益のある品を売りさばくわけです。

 

 辺境にもいくつもの神殿があります。風呂の神や鍛冶の神、農耕の神、酒の神、太陽の神や、家畜の神等々。内地ほど種類はないですけれど、やはり人の手の及ばない領域となると、祈る外にないということもあって、信仰は熱心なものです。

 特に大きな神殿は境界の神プルプラ様ですね。他所ではあんまり大々的には人気がないんですけれど、辺境ではみな一度は祈りをささげたことのある神様ですね。

 

 せっかくなので寄っていこうとするとウルウが渋りました。ウルウはあんまりプルプラ様が好きじゃないみたいですね。いやまあ、悪戯好きだったり、(シモ)で俗な話も多い神様なので、内地の人は微妙な顔したりしますもんね。

 

「でも、プルプラ様は縁結びの神様でもあるんです。私とウルウが出会えたのも、きっとプルプラ様のおかげですよ」

「んー、むー、まあ、それは、あながち間違いでもない気もするけど」

「それに便()()()道具もたくさんぶふぇっ」

 

 ずらりと並んだお楽しみ道具の数々を指し示したら肋骨の隙間に貫手食らいました。

 そうでした。ウルウはそう言うところ初心なのでした。辺境って結構そう言うのおおらかというかあけっぴろげなので、私もすっかりそれに乗っかってしまっていました。

 うう、でもこういうお祭りごとの時はお安く買えるんですよね。プルプラ様のご加護付きの道具がこのお値段ってかなりお手頃なんですよう。

 

「あんまりやると愛想つかされるわよ」

「ぐぬぬ」

「……こ、()()()()()、使いたいの?」

 

 ウルウが昼間からしちゃいけない顔でそんなこと言うので、やっぱり買っていくことにしました。




用語解説

冬至祭(ユーロ)(Julo)
 幸いなる日(フェリチャ・フェリオ)(Feliĉa ferio)とも。
 冬至、つまり一年で一番日が短い日、そしてそこから再び日が長くなっていくことを祝う祭とされる。
 北半球にあるらしい帝国でも冬至日はおおむね十二月二十二日前後なのだが、なぜかそれを過ぎて二十四日の夜、二十五日を冬至祭(ユーロ)当日と定め、一月六日までを祭の期間とする地域が多い。
 その起源や歴史には諸説あるが、帝国においては初代皇帝が定めて以来、法的に祝日とされ、戦争行為を慎むよう法律が公布された記録が残っている。
 プルプラちゃん様の仕業なのかは定かではない。
 なお聖王国には冬至祭(ユーロ)はないがクリスマスはある。

冬至の木(ユーラルボ)(Jularbo)
 現地におけるクリスマス・ツリー。
 常緑種であれば何でもいいようで、特にこだわりなく様々な木が用いられる。
 辺境ではより大きくより枝ぶりの良いものがいいとされ、主たる広場に飾るものは業者が展示権をかけて争う。
 広場などには大きなものが飾られ、恋人たちの待ち合わせによく使われる。
 またこれを薪として燃やし、一晩火が絶えずに続くとよい一年になるとされる。
 その火や燃えさし、灰は縁起物として扱われる。

・アヴォ・フロスト(Avo Frosto)
 紅翁。
 赤衣をまとった謎の老爺の言い伝え。起源不明。民俗学者も突然湧いて出てきたと頭を悩ませる存在。
 角の生えた四つ足の馬にそりを牽かせて空を飛び(!?)、二十四日の深夜に飛来し、良い子供には玩具や菓子を与え、悪い子供には罰を与えたりさらったりするという。
 さらに学者たちを悩ませるのは、毎年その存在の観測や捕獲を目的に作戦が練られるも、一度も捕まえられず、そのくせ姿は見せることがあるという点である。証拠はないが見たものは多いという、たちが悪い怪異。
 辺境においては毎年飛竜乗りの精鋭が追跡を試みるも、成功したためしはない。

・雪山籠ってサンタ狩ってた
 《エンズビル・オンライン》もご多分に漏れずクリスマス・イベントが存在した。
 そしてご多分に漏れず良心に欠けたアイテム量を要求してくるため、狩場でよくもめる。
 イベント完走者は聖夜当日もゲームにこもっていた面構えの違う連中として畏敬の目で見られる。

温麦酒(ヴァルマ・エーロ)
 麦酒(エーロ)を香草や砂糖、ドライフルーツと加熱して飲む方法、またその飲料。
 いわゆるホットビール。

卵白菓子(シャムクーコ)(ŝaŭmkuko)
 泡立てた卵白と砂糖を乾燥させ焼いた菓子。いわゆるメレンゲ菓子。
 作り方や分量によって硬さが異なり、硬いものは歯が砕けるほどという。

仁糖膏(マルツィパーノ)(Marcipano)
 砂糖とアーモンドなどの種実類の粉を練り合わせたもの。
 いわゆるマジパン、マルチパン。
 様々な形に造形され、鮮やかに着色される。
 専門の職人がいるほどで、見栄えの良いものは非常に高価で取引される。

温葡萄酒(ヴァルマ・ヴィーノ)
 葡萄酒(ヴィーノ)を香草や砂糖と温めたもの。
 いわゆるホットワイン、グリューワイン。
 辺境ではほとんどワインが作られておらず、輸入品のためお高い。

朝駆け(マテン・ライディ)(Maten rajdi)
 力強く朝の空を駆ける飛竜の影、また朝駆けしても体力が続くように、という名づけとされる。
 元は後述の名前だったのだが、内地からの客に供する際にさすがにそのままでは品位に欠けるということで、急遽名付けられた。
 材料は竜脂または獣脂、バター、牛乳、砂糖、メープルシロップ、胡桃などの種実類、ドライフルーツ、冷凍させて水分を抜いた凍み芋、山栗(カシュターノ)など。
 ざっくりとした調理法は以下のようなもので、すなわち脂及び糖、シロップを煮溶かした乳を加熱して練り、凍み芋や山栗(カシュターノ)のペーストと合わせ、蒸し窯で練り上げ、種実類やドライフルーツなどを混ぜ込む。
 ある種のキャラメルに近い。
 出来上がったものを四角く幅広い容器に広げ、ある程度固まってきたところで巻物状に丸め、冷やし固める。固まったものを端から輪切りにし、一巻きずつ提供するのが普通。
 近年では最初から細かく切り分けたものも見られる。

(ドラケ)
 勃つん棒(ドラケリティーヂョ)。竜(たつ)の棒ともかけているのか。
 朝駆け(マテン・ライディ)の古称、俗称。現地ではいまだにその名前で呼ぶ人は多い。
 すぐに食べられかつ保存もきき、冬場の行軍でエネルギーになるものとして開発された軍用の熱量食が起源。
 巨大な巻物状に丸められた姿が飛竜の陰茎のようだということで、竜の勃起という身もふたもない呼び方をされていたらしい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊と邪神ちゃん様

前回のあらすじ

この世界にもクリスマスはあるらしい。
果たして聖夜となるか性夜となるか。


 ろくでもないもんしかないな。

 というのは、境界の神プルプラちゃん様の神官たちが営業している屋台の品々だった。

 その、なんだ、リリオが熱心に見比べてる夜のお楽しみグッズ関連が結構売れ筋らしく、子供も通るのに普通に並べられてる。夜の営み関連の神様は別にいるらしいんだけど、そこら辺のかぶりは気にしないらしい。

 

 まあ第一印象がそれではあったとはいえ、よくよく見れば一応ためになるご加護がついているのもあるようだった。

 マテンステロさんとアラバストロさんが使ったらしい、男女のあれそれを一時的にあれそれする薬とか、生まれてくる子供の性別にかかわる道具なんかもあるみたいだった。辺境では生き死にが身近なので、性に関する加護も身近で、そして重要なんだろう。

 そう言う見方からすると、まあ、なんだ、夜のお楽しみグッズもまあ、その、そう言う需要なんだろう。

 

 そう言うのからそっと目をそらしてながらも、ちゃんと見て回ってみると面白いものもある。

 例えばトルンペートがお財布と《自在蔵(ポスタープロ)》の容量と相談して悩んでいるのは、月のものを抑える薬だ。医の神や他の神の屋台でも似たようなのを扱っているし、神様の関わらない薬師の仕事としてもそう言うのはあるらしくて、一般的なもののようだ。

 私もピル買うとき面倒くさいこともあったから、そういう当たり前みたいに置いてあるのはいいと思う。

 

 あんまり抑えると体に悪いんじゃないのかって不安に思う人もいるんだけどさ、私からすると熱が出て頭痛がして腹痛に悩まされ手足が冷えてまたぐらから大出血するような事態が一年の半分くらいあるっていう方が異常だと思うし、それで死ぬ可能性もあるんだから薬で押さえた方が安全だと思うんだよね。

 まあその辺の考え方は強制はしないし、人それぞれだと思うけど。

 

 後は珍しい加護なんかだと、農芸品の品種改良とか、合金の加護なんかがある。どちらも農業の神様とか鍛冶の神様の加護が別にあるんだろうけど、どうなってるんだろうね。競合したりしないのかな。

 

 神殿の出張屋台ってことを忘れるくらいに、この世界の神官というのはかなり俗っぽいようで、売れるものは何でも売るし、値切り交渉もするし、算盤も弾くし、商人と大差がなかった。

 実際のところ、神官って言うのは偉く……つまりより()()()()()()()につれて、神様の既知外の精神に触れる機会が増えてしまって、その、なんだ、精神が()()になってしまうみたいで、そうなると一般社会とは没交渉になってくみたいなんだよね。

 だから若手とか下っ端がこうして俗世との交流でお金儲けして運営していく形みたい。

 同じ神官でもガチで修業して精神がアバる神官と、運営の方に携わる事務神官みたいなのにわかれるんだとか。

 

 そんなプルプラちゃん様の神殿の出張屋台で、私としてはトルンペートのお買い物にお付き合いしていくつか薬を買っていこうと思ってたんだけど、そうもいかないようだった。

 

 ねえトルンペート、って声をかけようとした先、ほんの数メートル先が、無限に遠い。

 遠近感とか整合性とかそういうものを完全に無視した、脳が認識を拒絶する類の無限の距離がそこに横たわっていた。

 リリオの笑い声や、トルンペートの悩む唸り声が、どこまでも遠い。

 

 ゆっくりと振り向いた先には、当たり前のような顔で店番している、その顔が認識不可能な正体不明存在。

 直視しないように半分目を背けた先で、若いような年老いたような、男のような女のような、瑞々しく若々しく、がらがらと嗄れ果てた、あるいはそのどちらでもないような声が、ころころとあるいはゲラゲラと笑った。

 

「いらっしゃいませ。何をお求めでしょうか?」

「いやマジで勘弁して下さい。何にも求めていないって言うか平穏無事だけが望みなんで」

()()!」

 

 ()()

 目の前にどうしようもなくどうしようもないものが()()

 そう言うのは伏線とか前振りとか頂戴っていつも思ってるんだけど、現実は非情だ。

 これはそういうものだ。

 ()()()()()()()()が形を伴ってやってきたのだ。

 

 半分そむけた視界の隅で、柔らかな指先が皺の刻まれた頬に当てられて上品な微笑みとともに下劣な哄笑が響き渡る。どれが本物だ。あるいはどれも本物ではないのか。境界の右と左とに分けられればすべてのものははっきりとするけれど、しかし境界の上に定まった姿などありはしない。分かちがたくおぞましきものがそこにある。

 

「楽しそうでよかったですわ。いつの世も色恋は話題の種になるもの」

「神々も下世話な趣味を共有できるようでほっとしたよ」

「でもそろそろ冒険もお望みなんじゃないかと思って」

「もうすこし市場調査が必要じゃないかな」

「いいえ。()()()()()がお望みなのよ」

 

 ああ、うん、そうだった。そうなのだった。

 私などは所詮神々の遊戯盤の上に転がされた駒の一つに過ぎず、そして望むと望まざるとというのは駒の一つ一つなどではなくダイスを振るう神々のそれなのだ。

 この会話にだって特に意味などないのだろう。

 言ってみればこれは、キーパーとプレイヤーがお茶を飲みかわしながら、次のセッションにどうやってPCを絡めていくか考えているようなものだ。

 導入部分のその以前、どんな導入を差し込むかの雑談だ。

 考えをまとめるための手遊び、その手の中で転がる駒が私だ。

 

 そしてどうやら卓上遊戯は正統派のアドベンチャーをしようじゃないかという意見に傾きつつあるらしい。

 勘弁してくれ。

 私はのんびり旅道楽ロールプレイなんだ。ダイスはちょっとしたハプニングの乱数であってくれればいいんだ。

 もう最近ずっとそうだったじゃないか。もうこのままでいいじゃないか。

 この卓はそういうどうでしょう路線で行こうよ。

 

 などと私は願い祈るのだが、神様には願いを聞いてやっても叶えてやる義理はないのだった。

 

「確かにそれはそれで需要があるわね」 

「そうでしょう?」

「でも()()()()()。そうじゃない需要もあるの」

 

 願わくは、せめて単発セッションであってくれ。

 キャンペーンシナリオはお求めではないんだ。一見さんがさらに入りづらくなるだけだから。途中参加も気軽にできるのんびりセッションしてようよ。

 

「別に今すぐどうこうというわけじゃないわ。そう言う需要もあるし、そうじゃない需要もある。そういうプレイングもあるし、そうじゃないプレイングもある」

 

 邪神ちゃん様は微笑んだ、と思う。

 その微笑みを直視すれば私のささやかな正気など瞬時に消し飛ぶだろう。

 

「あなたは好きにしていいし、嫌なことから逃げてもいいわ。でも()()()()()()があるということだけは覚えておいてね」

「そう言う需要は、番外編とかスピンオフとか、私の関わらないところでやってほしいんですがね」

「あら、つれないわ。()()()()の手伝いもしたのに」

 

 この邪神め。




用語解説

・夜のお楽しみグッズ
 謎の光によって本編では描写されない。

・月のものを抑える薬
 冒険屋ならずとも、女性あるところには需要がある薬や加護である。
 実際、売り上げのうちかなりの部分はこの手のものらしい。
 もちろん、抑える加護があるのだから、男性に月のものを与える加護もある。

・精神が高尚になってしまう
 神官が修行して格をあげればあげるほど、信仰する神の影響を多く受けてしまう。
 そうなると既知外の精神に触れた人間風情の魂は、まあお察しだ。
 例えば風呂の神殿の高位神官は精神がゆだっていると言われ、風呂から出ることがない。
 境界の神の高位神官は生きているとも死んでいるとも言えない状態にあるとか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 鉄砲百合と呼び出しの使者

前回のあらすじ

邪神が気軽に過ぎる件。


 やっぱり極端に効きが強い奴より、弱いやつで体調と相談しながら使ってくのがいいわよね。その方が調整しやすいし。

 あたしが月のものの薬を買いこんで、リリオが碌でもない買い物を済ませている間に、ウルウはなんとお布施を納めていた。しかも結構な額。

 

「あんたそんなに信心深かったっけ」

「厄払いだよ」

 

 短く返したウルウは、苦々しい顔だ。なんか嫌なことでもあったんだろうか。

 まあ嫌なことがなかった日の方がウルウにとっては珍しいかもしれないけど。

 気を紛らわすようにしてあたしの買い物を覗き込んでくるから、ウルウにも薬をすすめてやる。ウルウはあんまり重い方じゃないけど、でもやっぱりあるとないとじゃだいぶ違う。

 そこそこ値が張るし、かさばるし、常備できる訳じゃないけど、ある時はやっぱり安心できるわよね。

 

 それに買える場所も限られてて、ヴォーストやハヴェノじゃ、境界の神の神殿があんまり大きくないから、医の神の神殿とかで買わないといけないのよね。そっちだと効きはいいんだけどもっと高いし、やっぱり慣れてる方が落ち着くわ。

 ウルウも疑わしそうにしながらいくつか買ってみるようだった。

 

 境界の神の屋台では、そう言った実用的な品の他には、お遊び系のものが結構あったりもする。 

 一時的に性別をかえる薬は、子供を授かることはできない完全にお遊び用だし、髪の色や量を買えるものもある。そういったものは当たり外れも大きいから、買うこと自体が博打めいてる。もちろん、その原理は不明だから、慎重な人は買わない。度胸試しに買っていく人はいる。

 

「はかると身長が変わる巻き尺……伸びる方向で? 縮む方向で?」

「それも博打よね。しかもどれくらいって言うのがわかんないし」

「……これ、ちゃんと戻るやつ?」

「戻るわよ。ほとんどの場合は」

「普通はその注釈いらないんだよなあ」

 

 まあ、あたしはそう言うのは買わない。

 宴会なんかで買っていって、酔いから冷めてどえらいことになっていたっていう笑い話は良く聞くけど、自分がそういう目に遭うかもってなると笑えない。解呪……いえいえ、ご加護を改めていただくためのお布施は、そういう道具を買った時の何倍もするから、まったくいい商売だ。

 建前としては、ご加護を願いながらも、自分の考え違いからうまくいかなかったから、ご加護を取り消していただくという身勝手になるので、その分、手間もかかるとかなんとか。

 よく言うわ。

 

「マッチポンプだねえ」

「なによそれ」

「自分で火をつけておいて、自分で消してみせる奴」

 

 成程、まったくそれのことね。

 

 ろくでもない道具をあれこれと買ってきたらしいリリオに二人で冷たい視線を投げかけて、リリオが妙な方向に目覚めそうになった頃、慌ただしい足音が聞こえた。

 おまけにあたしの名前を呼ぶ声も。もうちょっとこう、おしとやかさってものを学んだ方がいいんじゃないかしら。

 

 人込みを器用にかき分けて、がちゃがちゃとやってきたのは三等武装女中のデゲーロだった。フロントの城門で、あたしたちを出迎えた土蜘蛛(ロンガクルルロ)の娘ね。相変わらずがちゃつかせてはんかくさいんだから。

 

「あー! トルンペート! やっと見つけた!」

「ちょっと、リリオもいるのよ」

「おわっ、おぜう様! こりまたすんずれいをば!」

「訛ってる訛ってる」

 

 デゲーロは四本足をかっちゃかっちゃとしばらく彷徨わせながら深呼吸して、心を落ち着けた。

 そういうのを現れる前に済ませておけば、もう少し見られる登場だったんだけど。

 ようやく落ち着いた呼吸を、結局ふんすふんすと荒い鼻息で台無しにしながら、デゲーロは再度あたしを呼びつけた。

 

「もう、あんたを探して随分走りまわされたわ!」

「その割には四つ腕がいっぱいだけど」

 

 デゲーロの四本の腕は、温麦酒(ヴァルマ・エーロ)と串焼きと薄円焼き(クレスポ)林檎飴(カンディタ・ポーモ)で埋まってた。

 

「武装女中を見なかったかって聞きまわったら、なんでか知らないけどおまけに持たされちゃったのよ! 仕方ないじゃない!」

「おつかいの子供だものね」

「おつかいの子供のやつだねえ」

「おつかい上手にできましたね、偉いですよ」

「えへへえ……じゃなくて!」

 

 子供っぽく腕を振り回して、デゲーロは再度、いやいや三度仕切り直した。

 

「とにかくあんたよ、トルンペート! お呼びがかかってんのよ!」

「ええ? 辺境伯令嬢(リリオ)の侍女を呼びつけるってなによ?」

 

 そりゃああたしは三等武装女中で、あんまり偉くはないけど、それでもリリオのお付きだから、リリオを通さないであたしを呼びつけるってのは道理じゃない。御屋形様や奥様ならともかくだけど、そのお二人も今頃お忙しいだろうし。

 なんて小首を傾げたら、デゲーロは今更声を潜めるようにこう言ってきたのだった。

 

「特等よ、特等! 養成所の特等方が御屋形にいらしてるの!」

「うへえ、特等ゥ? いま冬よ? 雪積もってんのよ? 養成所から御屋形までどうやって来たってのよ」

「走って来たわよ」

「……ほんとにやりそうだから困るわね」

「ほんとだって。特等なんだから」

 

 特等武装女中。

 そんな風に呼ばれる武装女中は本当に一握りだ。

 御屋形様付きのペルニオ様が御屋形にいる唯一の特等で、残りの数名も武装女中の養成所で後進を育ててるか、帝都で宮廷勤めだ。

 

 一等、二等、三等って並んでいて、その一番上に君臨してる特等は、あたしたち武装女中からすると逆らおうとも思えないおっかない連中なのよね。

 三等のあたしだって、下手な騎士に対抗できる。一等や二等ともなれば下手な騎士より強い。じゃあ特等はって言うと、達人とかと比べなきゃ話にもならない。

 

「なんでまた特等があたしを?」

「私も詳しく聞いてないけど、あんたの昇格試験するって言ってたわよ?」

「なんで?」

「なんでなんでって私に聞いてもわかんないわよ! 私が聞きたいもの!」

 

 まあ確かに、ここでデゲーロを問い詰めたって仕方ない。

 仕方ないけど、頭の中ではなんでがいっぱいだ。

 

 普通、武装女中の昇格試験は一等がやる。普通の武装女中の中で一番優秀なのが一等だからだ。

 あたしがただの女中から、三等武装女中に認められた時だって、一等が見てくれた。その時だって、他の同期と並んで一緒くたに試験を受けたものだ。

 三等から二等も、確か同じだったはずだ。

 二等から一等へは推薦があったときだけ数人の一等が試験するらしいけど。

 

「うーん……まあ、いいわ。わかった。待たせるわけにもいかないし、すぐ戻るわ。あんたはリリオたちを、」

「え、一緒にいきますよ」

「えっ、いやでも」

「私も気になる。試験って何するの?」

 

 デゲーロに代わってもらって、二人には冬至祭(ユーロ)市を楽しんでもらおうと思ったのだけれど、どうやらこのお人よしどもはついてくる気満々のようだった。




用語解説

・はかると身長が変わる巻き尺
 我々の世界より神様との距離が近い現地ではあるが、ジョークグッズを売りさばくのは境界の神の神殿くらいである。
 しかも実害がある類の。
 ジョークグッズとは言え本物の神の加護があるものなので笑えない事態になることもしばしばで、そのくせ効果は一回限りだったり不明の回数制限付きだったりと使い捨て前提。

薄円焼き(クレスポ)
 蕎麦粉(ファゴピロ)や小麦粉を水で溶き、薄く広げて焼いたもの、
 クレープ。甘いものをまくこともあるが、塩気のあるものをまいた軽食としてのものが多い。

林檎飴(カンディタ・ポーモ)
 丸のままのリンゴに肉桂(シナーモ)などで風味をつけた飴をまとわせたもの。
 リンゴ飴。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 白百合と武装女中あれこれ

前回のあらすじ

突然の呼び出しに困惑するトルンペート。
野次馬根性でついていったその先で待つものとは。


 雪むぐり(ネヂタルポ)の馬車は、普通の馬車よりずっと揺れが少ないのが特徴です。

 いやまあ、馬車って言うか()()なので、文字通り雪の上を滑るんですよね。なのでがたつくことはそんなにありません。

 おうちの紋章が入った馬車で御屋形まで帰りながら、私たちは武装女中についてちょっとお勉強中でした。

 

 というのも、武装女中の試験ってどういうものなのか、よく知らなかったからなんですよね。

 ウルウはともかく、主人である私が全然知らないというのも情けない話なんですけれど、基本的に武装女中の格って武装女中の間で決めちゃうので、私関われないんですよね。

 

 普通の貴族とか普通の女中とかっていうものをよく知らないので想像交じりで言っちゃいますけれど、まあ普通のお宅では、働きぶりとかを主人が見て、取り立てたりするものだと思うんですよね。あとは女中頭が女中たちを差配したり、執事が使用人たちを取りまとめたり。

 

 辺境の武装女中の場合、武装女中の養成所というものが人里離れたところにあって、ここで教育を受けるものなんです。その中で、一等だとか二等だとか三等だとかの格付けをするんです。それで、このくらいの女中が欲しいんだけどって言う依頼があったときに、条件に見合った武装女中を送り出すんだとか。

 必ずしもみんな養成所育ちというわけでもなくて、例えばカンパーロ男爵領の武装女中は殆どカンパーロ領内で育った武装女中です。ただ、その教育は養成所出身の一等なんかが見ていて、定期的に養成所から視察がいくとか。

 トルンペートも私のおもちゃもといお付きをしながらだったので、養成所にずっといたわけじゃありませんけれど、それでもきちんと他の武装女中に指導を受けていました。

 

 ウルウが言うところのブランドものというやつですかね。飛竜紋の武装女中という価値を貶めないように、厳格に格付けがなされているそうです。

 まあそんな具合で、いくら主人が気に入ったとしても、勝手に昇格させることはできないみたいで、例えば私がトルンペートは実に素晴らしい女中だと思っていてもその格付けには一切口出しできず、精々昇格してもいいんじゃないかという推薦を出せるくらいなのだそうです。

 

「まあ、それも格上の武装女中からの推薦の方が優先されるくらいのものだけど」

 

 そんな武装女中が昇格する機会というものは、自分で申請してそれを格上の武装女中も認めてくれたときか、格上の武装女中が目をつけて推薦してくれたとき、とこのふたつみたいですね。

 稀に、格上の武装女中がいない状況で、見ないうちにかなりの実力をつけてしまっている場合もあるみたいです。トルンペートはそんな感じですよね。

 

「今回は、どうもモンテートのばっちゃんが推薦してくれたみたいね。それで、なんでか知らないけどペルニオ様が養成所から特等呼び寄せちゃったみたいだけど」

 

 普通は昇格試験というものは、一等武装女中が見るものなのだそうです。

 逆説的に言うと、昇格試験の試験官をする資格を持つ武装女中が一等武装女中と言ってもいいでしょうか。

 

 トルンペートの三等というのは、実際のところその実力の幅は広く、一応戦える女中といった最低限度から、トルンペートのように冒険屋稼業も平気でこなせるくらいまでいるようです。ただ、いくら強くても女中としての技能がないといけないので、どちらも高い練度で身に着けているものは少ないとか。

 

「デゲーロも最初は、組手が苦手で落ちたわよね」

「私、普通の女中上がりだったからなあ。走るの早かったから、折角だから受けてみたらーってくらいで」

 

 そこから鍛え直してちゃんと三等武装女中に成れているのだから、デゲーロもえらいですね。

 

「で、二等って言うのは、強くて、女中仕事も出来て、の上に、他の女中の面倒を見れるって言うのが、確か昇格の条件ね」

「つまり人を使えるようにってことかな」

「そういうことね。自分の勤めてる部署で後輩なんかに差配できるようになれば十分ね。とはいえ、それができても、二等に上がるにはもちろん腕っぷしもそれなり以上に必要だけど」

 

 強いだけでは武装女中にはなれませんけれど、でも強くなければ武装女中じゃないんですよね。女中の中には一軍の軍師もかくやというくらいに部下を使うのが得意な人もいますけれど、それも個人の武力が伴わないと武装女中にはなれないわけです。

 いままであった二等武装女中は、例えばカンパーロ男爵令息ことネジェロ(にい)付きのペンドグラツィオや、我が家に勤めているルミネスコなどでしょうか。

 トルンペートはペンドグラツィオに模擬戦で勝っていますから、武力はきっと認められることでしょう。

 

「ま、悔しい話、トルンペートはかなり腕上げたみたいだし、二等には上がれると思うわよ。普通なら」

「うーん、ま、そうね。自信はなくもないわ。でも相手が特等なのよねえ」

「特等に試験見てもらったっての聞かないしねえ」

 

 二等より上の一等となると、そうですね、モンテート子爵ことじじさま付きのプルイーノが一等でしたね、トルンペートが言うところのばっちゃんです。残念なことにうまくあしらわれてしまいましたけれど、腕は認めてくれていましたね。

 それにティグロの侍女であるフリーダも一等です。まだそんなに年かさでもないのに一等まで叩き上げた実力はすさまじいものがあって、よく私も四本の腕で軽々とあやされたものです。

 

 一等ともなると、あくの強い武装女中の集団を従えることくらいは要求されるそうです。勿論のこと、部下の武装女中たちよりも強くなくては話になりません。

 

「ま、さすがにあたしも一等までは無理ね。ばっちゃんにもかなわなかったし、何より人を使う経験がね」

「まあ、トルンペートはずっと私のお付きでしたから、あんまり人を使う経験なさそうですもんね」

「そうなのよ。だから推薦とかもなかったし、あたしも望まなかったし」

 

 主人のことを思えば、格が高い方が箔もつくというものですけれど、そうなると私とこんなぐだぐだの馴れ合いはできなかったかもしれないとトルンペートは言います。

 

「リリオが認めてるし、むしろそうして欲しいって言うからあたしもざっくばらんにしてるけど、一等とかになっちゃうとそう言うのも難しいかもしれないもの。格に見合った振舞いってやつね」

「成程、そういうのもあるかもしれませんね」

 

 とはいえ、私は家も継ぐ気がありませんし、貴族として振舞う気も全然ない放蕩娘なので、トルンペートには是非とも今のまま砕けた調子でいてほしいものです。

 

「でもお賃金はぐっと良くなるのよね」

「そう言えばトルンペートの給料ってどうなってるの? 誰が払ってるの?」

「一応、『ドラコバーネ家』に仕えて、リリオの侍女として配属されてるって形だから、御屋形様がお賃金を支払ってるってことになるわね。まあ口座に預けっぱなしで、旅の間は冒険屋としての収入くらいね」

「……リリオってさ」

「なんですか?」

「親の金で雇ったメイドさんお嫁にして、自分では一銭も払わずに、それどころかメイドさんに別口で働かせて金稼がせてるって言う感じになるんじゃないの」

 

 アッ視線が冷たい!

 いや、うん、でも、そういうことに……なるんですかね。なるんですよね。

 考えたことなかったですけれど、そういう……ことなんですね。

 

「いやまあ、あたしもそれでいいんだし、いいじゃない。大体リリオがお賃金払うことになったら、とてもじゃないけど首回らなくなるわよ。武装女中って高いんだから」

「君、リリオのこと甘やかしすぎじゃない?」

「いいのよ、甘やかしたいんだから。それに、逆に言えばリリオが困ったときでも、御屋形様からのお賃金は滞らないから、将来が安心だわ」

「うーん。したたか」

 

 なんだか私一人だけものすごーくいたたまれない気分ですけれど、うう、いまの私にはトルンペート一人雇うだけの資産がないんですよね。いや、本当に辺境の武装女中ってお高いんですよ。そのお値段も養成所の方で厳格に決めてるので、勝手に変えられないし。

 いつかちゃんと私のお金で雇うのでその時まで優しく見守ってください。

 

「トルンペートが三等になったときは、どんな試験をしたの?」

「んー、あたしん時は、フリーダが見てくれたわね。まあ普通のことよ。掃除や洗濯の手際とか、料理の美味しさ。あとはほら、頭に本を乗せてね、それで落とさないように歩いたりとかして、姿勢の良さとか作法を見たり」

「組手もしたわよね。あんた飛び道具使うから、フリーダ様もそれに合わせてさ」

「だったわねー。格闘技は何とか及第って感じで冷や汗だったわ」

「私が言うのもなんだけど、土蜘蛛(ロンガクルルロ)相手に四つに組めって人族には酷よね」

「ほんとよもう」

 

 トルンペートとデゲーロはきゃいきゃいと楽しげに思い出語りをして、それからふいに真顔になりました。

 

「あと、あれが大事よね」

「ああ、うん、あれね」

「あれってなあに?」

「顔」

「顔ね」

「顔……?」

「顔面点はかなり大きいわ。美しさ滅茶苦茶大事」

「お化粧ひとつで当落変わることもあるらしいもんね」

 

 武装女中は、主人の護衛としてそばに(はべ)ることが多いので、美人さんばかり採用されるそうです。

 たまたま美人さんばっかりってわけじゃなかったんですね……。




用語解説

雪むぐり(ネヂタルポ)(Neĝtalpo)
 魔獣。巨大なモグラの仲間。冬場は非常に軽く長い体毛を身にまとい、雪に沈まずに移動できる。
 夏場は換毛し、土中のミミズなどを食べる他、果物などを食べる。

・飛竜紋の武装女中
 武装女中は辺境に端を欲する文化だが、法的に規制されているわけではないので名乗ろうと思えば武装女中と名乗ることは自由。
 なので帝国各地に武装女中を名乗ったり、そのように扱われる女中は存在する。
 その中でも辺境の飛竜紋を許された武装女中は別格で、いわばブランドもの。
 武装女中を名乗るだけならいざ知らず、仮に飛竜紋を掲げようものなら、地の果てまで草の根かき分けてでも追いかけてくるケジメ案件である。

・顔
 小説では地味顔や目立たないと描写されているキャラクターが、イラストではえらい別嬪さんになる例が多いが、辺境の武装女中はその嗜好の違いはあれど例外なく全員が一定以上の顔面偏差値を誇る。
 武力が目立つ武装女中だが、見た目も商品のうちなのである。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と特等武装女中

前回のあらすじ

なぜなにゴスリリ:武装女中編
顔は大事という話。


 顔面は大事らしい。

 いやまあ、そりゃそばに置くんだったら美人さんの方が嬉しいだろうし、見栄えもいいだろうし、内にも外にもいいことなんだろうけれど、なんたるルッキズムの暴力。

 実力はあっても顔面で落とされたら可哀そうすぎる。

 

 とはいえ、トルンペートはかわいいとはいえ、整形美人さんらしいんだよね。

 以前からなんとなくざっくりとは聞いてたんだけど、今回のほほんと思い出話風に語ってくれたところによれば、リリオに振り回されて壊れるたびに修理されてたトルンペートは、せっかくだからとその際に顔面も整えて修復されちゃったらしい。

 突っ込みどころが多いけど、辺境の武装女中は割とそう言う整形美人さんが多いみたいだった。

 手術の跡とか全然見当たらないし、辺境の医療技術はすさまじいものがあるな。

 

 リリオはあんまり怪我しなかったからそんなにお世話にならなかったらしいけど、トルンペートはことあるごとにぼろ雑巾のようにされては担ぎ込まれていたので、御屋形の医療施設であるらしい《玩具箱(トイ・ボックス)》とやらは実家のような安心感があるらしい。親の顔を知らないトルンペート的にはまさしく親の顔より見た医療施設らしく、これ以上私に突っ込み疲れさせないでほしい。

 

 まあなんにせよ、辺境の武装女中にとって顔面というものは大事な看板らしく、御屋形で待ち構えていた特等武装女中とやらもとにかく顔がいい三人組だった。

 

 アラバストロさんとマテンステロさんが暴れるだけ暴れて大穴ぶち開けて、とりあえず埋めるだけ埋めた前庭で、その顔のいい三人組とペルニオさんは私たちを出迎えてくれた。

 

 ひとりはスレンダーな天狗(ウルカ)の人で、臙脂色の飾り羽が美しい。三人の中では一番小柄で、顔立ちはちょっと生意気系。天狗(ウルカ)にありがちな上から目線面だ。天狗(ウルカ)って身長の高低にかかわらず人を見下すというか、自身の優越性を疑わない面構えしてるんだよね。

 

 またひとりは土蜘蛛(ロンガクルルロ)の人で、いままで見てきた土蜘蛛(ロンガクルルロ)よりだいぶ、その、なんだ、これ差別用語に当たらないことを祈るんだけど、虫っぽい。なんか先祖返りとかいう奴らしく、下半身は殆ど巨大な蜘蛛だ。それを支える足も露骨に虫。

 微笑みが上品で大人っぽいだけにその異形っぷりが目を引く。

 

 三人目は、一見して普通の人族かなって思ったんだけど、山椒魚人(プラオ)という水陸両用の隣人種らしい。髪も顔も濡れたような艶があるけれど、実際に水精の加護で、地上でも乾かないよう潤っているんだとか。何とも言えずミステリアスな雰囲気だけど、こういう大人しいタイプが一番強いんだろうなという感じ。

 

「突然のお呼び出し申し訳ありません、リリオお嬢様、奥方様。この度、三等武装女中トルンペートの昇格試験を任されました、特等武装女中のツィニーコと申します」

「同じく、フォルノシードと申します。お見知りおきを」

「……アパーティオと。よしなに」

「雪深い中、遠方より遥々お越しいただき嬉しく思います。試験のほど、よしなにお願いします」

 

 三人は華麗なカーテシーと共に挨拶を述べ、リリオも丁寧に返す。真面目な顔してるとちゃんとご令嬢なんだよね、リリオ。私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の中では一番ちゃんと教育受けてて、一番血筋も良くて、なのにこれなんだよなあ。どこで残念要素が混じってしまったのか。

 

 しかしそれにしても、気になるのは新手の特等武装女中三人に並んでしれっと混じってるペルニオさんだ。この人、ご当主のお付きじゃないのか。お付きの武装女中って私設秘書みたいなところもあるんじゃないのか。

 

「ペルニオさん、アラバストロさんはいいんですか」

「お気遣い、ありがとうございます。御屋形様はただいま大変ご多忙ですので、よろしいのです」

「どういう接続詞なのそれ……忙しいんならなおさら……あ、そう言えばマテンステロさんもいない」

「ええ、ええ、奥様も、ただいま大変ご多忙ですので」

「へえ……あの人野次馬根性で見に来そうだけど……」

「ええ、大変()()()なのです」

「……あの……それはこう…………暗いし寒いから家出たくないので、あの、()()()という……」

「秋頃にはお祝いの品でも、頂戴できれば」

「真顔で……」

()()()()()()()!」

 

 ペルニオさんの冗談なのか冗談じゃないのかマジでわかりづらいトークをぶった切ったのは、ちょっと子供っぽい感じのある生意気ボイスだった。

 ツィニーコとか名乗った天狗(ウルカ)の特等だね。

 どうやらそれが素であるらしい荒っぽい笑みに荒っぽい口調で、ツィニーコは割って入ってきた。

 

「カッ、仲良くおしゃべりもいいけどよォ、なあペルニオ様よォ。(オレ)らも雪の上走ってわざわざ来たんだ。そろそろ理由(ワケ)ってやつを伺いたいもんだぜ、オイ!」

 

 ツンツン立て気味の赤い短髪と言い、荒っぽい口調といい、いい感じにヤンキーだ。

 特等武装女中ともなれば品行方正でお上品な感じだと思ってたんだけど、という胡乱な視線を敏感に感じ取ったのか、天狗(ウルカ)は器用に私を下から見下した視線でねめつけた。

 

(アタマ)の挨拶こそ舐められねェよーにオ上品(ジョーヒン)にやらせてもらったがよォ、特等は武装女中の中でも別格ッ! てめえでてめえの主を選ぶ権利があるッ! その特権を持つからこその特等だッ! 例え辺境の棟梁だろうと関係ねェ!」

 

 君出てくる作品間違えてない?

 そのくらい元気よく啖呵を切ったツィニーコは、私から視線を切るとそのままペルニオさんをじろっとにらんだ。

 

「ペルニオ様よォ、あんたが呼んだから(オレ)らもわざわざ来たんだ。なんだってまた小娘の昇格なんぞで(オレ)ら特等を呼びつけたってんだよ、エ?」

 

 ペルニオさんは湧き上がる闘気的ななんかをさらりと受け流し、例の感情が読めないアルカイックスマイルで穏やかにこう告げた。

 

「冬の間お暇でしょうから、()()()差し上げようと思いまして」

「──()()()!?」

 

 その一言は、ツィニーコだけでなく穏やかにほほ笑んでいたフォルノシードまでをも怒らせるものだったらしい。アパーティオも、なんとなく不機嫌そうな気もするけど、いやこの人表情変わんないのでよくわかんないな。

 空気の読めない人種であることに定評のある私にもはっきりわかるほどの、殺気めいた怒りが噴きあがった。

 

 ところで君らその「!?」とか「ビキッ」ていうのどうやって出してんの?

 やっぱ違う作品の人じゃないの君ら。

 間に挟まれて咄嗟にそんな現実逃避をしてしまった。




用語解説

玩具箱(トイ・ボックス)
 フロントの領主館及び武装女中養成所に一つずつ存在する医療施設。
 全身骨折を平然と整復してみたり、顔面を整形してみたり、焼かれて薬品まで食らった領主を短時間である程度治したりとその医療技術は異常なまで発達しているようだ。
 しばしば治療ではなく修理という単語が使われたりなど、あまり普通の医療施設ではないようだ。

・ご多忙
 大変お忙しゅうございます。

・特権
 特等武装女中には、自分で主人を選ぶ権利≒不本意な主人にあてがわれない権利の他、必要であれば主人に逆らう権利などを有する。
 当然、その特権を利用するためには、他の追随を許さない実力の維持向上が義務である。

・「!?」とか「ビキッ」
 由緒正しきヤンキー仕草。
 ただ、これを浮かべる際の表情が少し違うだけで、密室殺人等のミステリーなんかに変わってしまうので要注意。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 鉄砲百合の戦い方

前回のあらすじ

ハードラックとダンスっちまいそうな女中だった。


 養成所から特等武装女中がやってきた、とは聞いていたけど、まさか三人も来てるとは思わなかった。

 いつもぼんやりして穏やかなアパーティオ様は、まあいい。ほとんど実害はない。というかあんまり接したことがない。

 フォルノシード様は厳しいところもあるけど丁寧な人だし、他の武装女中からも慕われてるみたいだし、理不尽なことはないだろう。

 でもツィニーコ様は、ちょっとおっかない。

 

 ツィニーコ様はここ数年であっという間に特等に認められてしまったいわゆる天才で、天狗(ウルカ)特有の上から目線以上に、自身の才能と実力を大分鼻にかけた人だ。あたしも含めて、ほとんどの武装女中は、あとからはいってきた新入りに、あっという間に追い抜かされて、雲の上の高みから見下されてるわけだから、あんまりいい印象はない。本人の性格もあるけど。

 

 口調も荒々しいし、口より先に手が出るような人だから、ツィニーコ様と遭遇するのはあんまり嬉しい事態じゃあなかった。手が出るって言ってもモノに当たるくらいだし、他の特等もなだめてくれるので、実際に被害に遭ったっていう子はいなかったけど、まあ見た目と空気が怖いって言うのはそれだけで、ね。

 

 とはいえ、ある意味ツィニーコ様のことは、ほとんど情報のないアパーティオ様よりわからないかもしれない。その派手な振舞いの陰に隠れた部分をあたしは知らないのだ。

 ウルウにもにらみを利かせ、ペルニオ様にもメンチを切り、腕組みしてふんぞり返るような女中らしからぬ男らしい立ち姿など決めて見せたツィニーコ様だったけど、実際にツィニーコ様主導で試験が進むにつれて、あたしはこの荒々しい人が存外まめまめしく気の利く人であることがわかっていったのだった。

 

 ツィニーコ様はまずあたしの目の前にずいっとやってきて、おもむろにぴんと立てた人差し指であたしの顔を指さした。それをついっと左右に振る。あたしの後ろに回って、耳のあたりで指を鳴らす。右。左。

 もう一回正面に回って、がっちり顎を掴んだと思ったら、口の中を覗き込まれる。歯並びを確かめるようにじろじろ見られて、匂いも嗅がれる。

 手を取られて手袋をはぎ取られ、表裏と確かめられる。

 

 まるで家畜の健康状態でも確かめるように一連の作業を手早く終えて、ツィニーコ様はフォルノシード様を見た。フォルノシード様は軽く小首をかしげて見せ、それでツィニーコ様は思い出したようにうなずいた。

 

「ツィニーコだ。お前の試験を主に担当する……その前に、お前がトルンペートで間違いないか?」

「はい、トルンペートと申します。よろしくお願いいたします」

 

 試験は、あたしを試すだけでなく、ツィニーコ様がうまく試験できるかどうかも同時に見ているようだった。

 

 あたしたちは屋形にあがり、適当な空き部屋で室内試験に移った。

 ツィニーコ様は目付きも悪いし、あたしに対しては口も悪いけど、やること自体は穏当なものだった。

 

 初めに、基本として頭に本を乗せて立たされる。姿勢が悪いと落としちゃうし、すぐに疲れちゃう。それに何より見た目がよくない。それから、そのままの状態で、床に伸ばした帯の上をまっすぐに歩かされる。姿勢の良さと、美しさが評価されるやつね。

 

 暇してたリリオとウルウも真似してみたら、リリオは意外に出来るんだけど、こらえ性がないというか落ち着きがなく、すぐにぶれてしまう。ウルウはしれっとやってみせるんだけど、背が高いせいか必然的に下を見ようとして落とすことが結構ある。

 

 立って、歩いて、それから姿勢の試験が続く。座り方や、立ち上がり方、美しい礼の仕方。こういうのは普通の礼儀作法の授業と同じだろう。

 武装女中が違うのは、そこに非日常の場面が盛り込まれるところだ。椅子や卓、細々とした箱などを重ねて作った悪路を歩いたり、優雅に武器を構えたり。主人の立ち位置を意識しての立ち回りとかも。

 

 意外なことにツィニーコ様は先に自分でやってみせて、それからあたしにやらせた。そしてその時の優雅さと言ったらご令嬢であるはずのリリオより素晴らしく、説明する口だけがそこらの酒場から拾ってきたんじゃないのって思うくらいちぐはぐだった。

 

 三等試験の時にはなかった壁を使った飛び跳ね方までやった後も、試験は続いた。

 卓についての食事の作法や、野外での作法。洗濯や掃除といった家事。貴族の家のみならず、一般家庭にある道具を用いた戦闘方法。絵画や芸術品、高級品や珍品の目利き。慣れ親しんだ主人ではないはじめての人間を相手にした時の、要求を読み取る気遣い。字の綺麗さや書く早さ、相手や用件によって変わる文章の内容、その修飾、用件の伝え方。野外での生存技術だけでなく、農村部や都市部での的確な迷彩、生存技術。女中としての奉仕精神。部下への指示の出し方。

 

 多岐にわたる試験は、ほとんど休みなく次々に続けられた。そしてそれに受かったのか落ちたのか、どういう評価を受けたのかを一切知らされないままに次に移っちゃうから、心も体も結構しんどい。多分そう言う打たれ強さみたいのも評価のうちなんだろう。

 

 室内での試験は、厨房で何品か料理を作って終わった。ツィニーコ様がくじを引いて決めた課題料理を知っているか、そして正確に作れるかというものと、手持ちの材料と厨房内のものを使って自信のある料理を作るというもの。

 

 そうして食事と休憩を兼ねて調理試験が終わった後、あたしたちは改めて前庭に引き出された。

 そう、いよいよ組手の時間だ。

 

「いままでの試験で分かっただろーがよォ、強ェだけじゃいい武装女中にゃなれねェ。だが、強くなけりゃ武装女中じゃねェ!」

 

 ドン、と腕組みしてふんぞり返ったツィニーコ様。ただただ荒っぽく力自慢なだけかと思ったら、誰よりも優雅な作法や仕事を手本として見せつけられちゃったので、凄まじい説得力があるわね。単に身体能力と勘のいい「いわゆる天才」かと思ったら、普通に努力家だったわ。

 

「お前は飛び道具が得意らしいな。合わせてやる。お前は何を使ってもいい。足りなきゃ今のうちに仕込んできてもいい。お前に使える全てを使って、(オレ)から一本取ってみせな」

 

 そういうツィニーコ様は、武器らしい武器を帯びていない。服装こそ、飛竜革の前掛けや手袋と支給のお仕着せだけど、標準装備の鉈も斧もない。《自在蔵(ポスタープロ)》らしいものもない。

 

「おうおう、いいじゃねェか。キッチリ相手を観察すんのは悪くねえ。とはいえ、疑心暗鬼にさせんのはかわいそうだからな、先に(オレ)の芸を教えておいてやろうじゃねェか」

 

 親切にもそう言って、ツィニーコ様はおもむろに足をあげて空を踏んだ。そしてそのまま体が持ち上がり、逆の足が空を踏む。そしてまた体を持ち上げ、逆の足が空を踏む。まるで階段でも上るように、自然に優雅にその身体が持ち上がっていく。

 風精を用いて体を空に持ち上げる高等技術、(から)踏みだ。

 理屈自体は目新しくもなけりゃ難しくもない。リリオも、装備の効果を活かせばできる。って言っても、それも全力で駆け抜ければという話だ。

 ゆっくりと昇るっていう、その動作の穏やかさがかえって恐ろしい。形を持たない空気が、完全に支配されてその足の裏で固められてるんだ。

 

()()女中たァ言うが、御覧の通り(オレ)は寸鉄ひとつ帯びやしねェ。だがその代わりよォ」

 

 ひうん、と大気が切なく泣いた。

 軽やかに振るわれた脚の先、佇むあたしの前で土交じりの雪がぱっくりと裂ける。

 続けて演武の如く振る荒れる手足に応じて、あたしの周りで雪がえぐれ、裂け、砕け散る。

 蹴りの空爪(からづめ)、拳の空爪、もっと小さな指先からの空爪。

 

「お前がどんだけ仕込もうがよォ、悪ィがこの世を覆う大気全てが(オレ)の武装だ! 最年少の特等武装女中がどれだけ天才か、土産話ができるくらいにはもってくれよォ!?」

 

 恐ろしく研ぎ澄まされた空気の刃が、あたしのすぐそばで金切り声を上げる。ツィニーコ様の荒ぶる闘気に感応したように、風が激しく渦巻き始める。

 いくら優雅に取り繕おうと、この荒々しい暴力こそがやっぱりツィニーコ様の本性なんだろう。

 

 それを見て、あたしはなんだか、かえって安心していた。

 そりゃ、あたしには風を見る目はない。勘だってない。飛竜の肋骨の短剣を貰いをしたけれど、まだ使いこなせたなんて言えるほどじゃあない。

 リリオに比べれば力強さや打たれ強さも全然だし、ウルウに比べたらとろ臭くて鈍いことこの上ないだろう。

 

 それでも、あたしはやっぱりこういうわかりやすい相手だと、()()()()()()()って安堵さえする。

 

 審判役のフォルノシード様が、向き合うあたしたちを見て、高らかに開始を宣言した。

 ツィニーコ様が猛然と風を巻き込み始め、そしてあたしは勝負の「組み立て」を済ませた。

 暗器使いはどこに隠すかは大事じゃない。()()()隠すかが大事なのよ。

 《自在蔵(ポスタープロ)》から抜き出した、ウルウ監修の火酒の火炎瓶を大量に投げつけた。




用語解説

・空踏み
 空気を踏んで空を走る技術、と一般に言われる。
 風精と親和性の高い装備や、優れた魔術を使うものが可能とする。
 ただ、それ自体が軽く、散りやすい空気に乗るというのは難しく、普通は勢いをつけて駆け抜けるのがせいぜい。
 ツィニーコがやってみせたように、完全に空気に乗っかって身体を支えるというのは極めて高等な技術である。
 純粋に風遣いとしての技量で言えばマテンステロが相手にならないレベル。
 短期的には飛竜相手にマウント取れるほどである。

・火酒の火炎瓶
 閠が作ったガソリンの火炎瓶ではなく、辺境では手に入りやすい火酒を用いたもの。
 とはいえそのアルコール度数は九〇パーセント超えで、ほぼエタノール。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 白百合と火気厳禁

前回のあらすじ

初手で非人道的兵器を持ち出したトルンペート。
よい子は真似しちゃいけない戦闘がはじまった。


 長く苦しい戦いでした。

 開幕火炎瓶から始まった模擬戦は、先の読めない展開が続くものでした。

 

 トルンペートが火炎瓶を引き抜いて投げつけた時は、もしやこれで決まるのではと思ってしまったくらい、私は火炎瓶というものに対して信頼を抱いていました。何しろ特別な材料や技術を使わなくても作れて、特別な技能や訓練もなしに扱え、決まればお父様さえこんがり上手に焼ける兵器なのです。

 人道とか環境への配慮とかを気にしなければ、文句なしに今年一番の成果を上げた道具と言っていいでしょう。

 

 しかし、単純な道具というものは得てして単純に対処されてしまうこともあるのです。

 いえいえ、ここは特等武装女中ツィニーコの鋭い洞察力と対応力を褒めるべきでしょうか。

 

 トルンペートが鋭く投げつけた二本の火炎瓶は、狙いたがうことなく空中のツィニーコに飛んでいったのですけれど、やはり特等というものは簡単な相手ではありませんでした。

 私なんかは飛んでくるものがあったら咄嗟に弾こうとかその程度なんですけれど、なんとツィニーコは火炎瓶を空中で受け止めてしまったのです。それも自分の手ではなく、風精を操って空気で瓶を握るという曲芸めいた真似をしてみせたのです。

 

「カッ! 構造は単純だな。火種に容器に、中身は液体か。火薬と導火線……ッて関係じゃねエな。どっちかッつゥと照明に近ェ……成程、割れりゃア燃料が飛び散って、一気に燃え上がるわけだ。夜間のボヤ騒ぎでたまに聞くぜ」

 

 そしてすぐさまその構造と効果を推察してみせて、極めて冷静に対処してしまったのです。つまり、空爪を飛ばして火種を消し飛ばしてしまったのです。火のない火炎瓶などただの燃料瓶です。無力化され、解放された瓶はただただ地面に落下して、割れてしまいました。火がなければ酒精もこぼれるだけです。離れた私たちの元まで、濃い酒精が香る様です。これいいお酒ですよ。

 

「工夫は認めるが、舐めるなよッ! そんなあからさまに火のついたモンを馬鹿正直に受け止める馬鹿がどこにいるかッてんだ! 怪しいモンならテメエに近づく前に叩き落とす! ちょっと見りゃア仕組みなんざ馬鹿でもわかる! わかりゃ対処なんざいくらでもできる! 山ン中の間抜けな畜生どもだって避けらァ!」

 

 啖呵を切るツィニーコでしたけれど、あの、それうちのお父様にざくざく刺さるので止めてもらっていいでしょうか。

 ウルウも遠い目しちゃいます。まあ、もともとこの火炎瓶というものは、動かない的や、密集した人々の間に投げ込んだり、また建築物や地面にぶつけて火の海を広げるような、そう言う使い方らしいですから、一対一で向かい合って投げつけるって言う用法がすでに間違っているんでしょうけれど。

 

 必殺の火炎瓶が通じず、さあトルンペートの次の手はと思えば、なんとまたもや火炎瓶を構えています。それもさっきより数が多いですね。数は力です。それは事実とはいえ、多ければ効くかって言うとそうではない気がするんですけれど。

 

 ツィニーコもまた同じように考えたらしく、鼻で笑い、そして落胆したようにため息もついて見せました。

 

「たくさん投げりゃあどれかは当たると思ったか? 運良く一つでもあたってくれりゃあとか思ったか? ──特等を舐めるなよッ!」

 

 事実、トルンペートが投げつけた火炎瓶はすべて正確に火種を消されたうえで、風の手に捕まれて地面に叩き落とされてしまいました。虚しく酒精が漂います。

 手が二本しかない相手であれば、数は確かに有効でしょう。しかしツィニーコは違います。その操る風の手は二本どころではなく、その全てを精妙極まる操作をしてのける技量があるのでした。

 ツィニーコにもっと悪意があれば、火種を消すのではなく、柔らかく受け止めた火炎瓶を全てトルンペートに投げ返すことだってできたことでしょう。

 

 しかし、そのような恐るべき風の防衛線を広げるツィニーコを相手に、トルンペートが取れる手があるでしょうか。

 例えば私であれば、無理矢理力づくで近づいて、そして結局空までは手が届かないのでどうしようもないでしょうか。

 ウルウは平然と空爪を避けながら近づいて、空踏みで近づけるかもしれません。そもそもウルウが積極的に攻める姿が想像できませんけれど。

 

 トルンペートの得意とするところの投擲は、風の盾に対して相性がよくありません。どれだけ正確に投げようとも、投げられたものは後から力を加えることができません。横から風を受ければあっさり曲がってしまうものなのです。

 鱗貫きと呼ばれる、非常に力強く貫通力のある投げ方もあるのですけれど、それだって限度はあります。

 

 ここにきて、トルンペートの決定力の乏しさというものが露呈してしまったのかもしれません。対応力には優れるトルンペートですけれど、勝負を決める決定的な打撃力に欠けるのです。

 

 はらはらと見守る先で、トルンペートは《自在蔵(ポスタープロ)》からやはり火炎瓶を引き抜きました。

 

「カッカッカッ、ははあん、ははあん、お前、あれだな。あれなんだな。──(オレ)を舐めてんのか?」

 

 額に青筋を立てるツィニーコ。その怒りに巻き込まれるように、風が吹き荒れ、そしてその手元に収束していきます。その場の風を適当に放り投げるような軽い空爪ではなく、集めた空気を固めて叩きつけようというのでしょうか。

 小さな嵐のような風の暴力が、その手のひらの上で回ります。

 いよいよもってこれはまずい、と焦ったのは外野ばかりで、むしろトルンペートはにやりと笑ったのでした。

 

「舐めてはいないし、勝てるとも思ってないわ」

「──は?」

「多分百回やっても、あたしは百回とも負ける。でも千回やれば、一度は取れる。その一度が今回よ。今回きり。あとの九百九十九回は負ける、そういう一回」

「お前に策でもあるんならッ! 見せても()()()()()()()()()()()

 

 それは、まったく突然のことでした。

 手元の嵐を今まさに解放せんとしたツィニーコは呆気なくその制御に失敗して、それどころか空踏みさえままならず、自分の引き寄せた風に巻き込まれるように落下していったのでした。

 その落下した先へと、トルンペートの最後の火炎瓶が緩やかに放り投げられ、そしてぼんと音を立てて大気が勢いよく燃え上がりました。

 

「なっ、ばっ、なななななななッ!?」

「思ったより激しかったわね」

「何をしたんですかトルンペート!?」

 

 しれっと爆発を引き起こしたトルンペートによれば、こういうことでした。

 ばらまいた火炎瓶は火種を消されたけれど、割れた瓶からは火酒がばらまかれた。そしてこの火酒は非常に酒精の強い、というかほぼ酒精で出来た高価なもので、とても揮発しやすい。揮発というのは、加熱しなくても自然のままで少しずつ蒸発していくことだそうで、つまり瓶のばらまかれたあたりには揮発した酒精が漂っていたようです。

 それに引火してあのように一時に火が広がったようですけれど、そもそもなぜツィニーコは落下したのでしょうか。

 

 その答えは、フォルノシードに回収されたツィニーコの様子にも関係がありそうでした。一気に燃え上がったので驚きましたけれど、爆発の威力自体はそこまでのものではなかったようで、ツィニーコもそれほど傷ついてはいないようでした。しかしそれ以上になんだか気持ち悪そうで、指を喉に突っ込んではげえげえと吐き戻してしまっています。

 

「あれだけ空気を使うんだもの。空気を飛ばせば、気圧差で自分のところに空気がやってくる。自分で飛ばすときにも、手元に空気を持ってくるわ。その空気は勿論手近なところから寄せるわけだけど、あのあたりの空気にはあたしのばらまいた酒精が混じる」

「フムン……でも酒精を嗅いだだけであんなに酔うほど弱かったんでしょうか……?」

「弱くしたのよ」

 

 そう言ってトルンペートが取り出したのは、干し茸でした。今日の料理の試験の際に使ったものですね。

 

「前に森で一夜茸(インコ・チャーポ)取ったじゃない」

「ああ、お酒との食べ合わせが最悪に悪い……」

兎ノ酒杯(レポラ・グラーソ)。あれと同じような茸よ。たっぷり食べてもらったわ。勿論あたしは味見さえしてない」

 

 どうやら、使うかどうかは別として、事前に毒を仕込んでいたようです。それもお酒さえ飲まなければ効果の出ない毒を。まさか勝負が始まる前からしかけているとは。おっかないですね。私も胃袋を掴まれているだけに、なかなかぞっとしない話です。

 それに、まさか火炎瓶がただの見せかけで、本命は酒精をばらまくことだったとは。

 これにはウルウと二人でえげつないえげつないとひそひそ話しちゃいました。あんたらには言われたくないって言われちゃいましたけど。

 

「うぇぇええ……してやられたぜオイ、まったくしてやられたぜ……」

 

 特等は毒への耐性も強いのか、それともフォルノシードが飲ませた何かしらの薬品が効いたのか、ややふらつきながらもツィニーコは復活した様でした。

 そして、意外にも怒り狂うということもなく、むしろ冷静に三人で何やら話し合っているようでした。

 

「地力は微妙だな。伸びしろはあるかもしれねェが、あんま期待はできねェ」

「仕込みは面白いのでは。はたから見ていた私も悪意が感じ取れなかったもの」

「ワザ師だな、ありゃ。芸を磨くか、ネタを仕込むか」

「三等には置いておけないけど、一等という器でも、ね」

「……二等で、いいよ…………」

「んー、ま、アパ姉もこうだし、妥当じゃねエか」

 

 話はまとまったようで、髪の端を焦がしたツィニーコが改めて向き直り、宣言しました。

 

「トルンペート。今日からお前は二等だ。二等武装女中を名乗れ。その上でよく励んで怠けンなよ」

「ありがとうございます」

「それはそれとしてクッソ生意気だな(ツラ)ァ覚えたかんな」

 

 さて、試験も済んで、庭も再び荒れて、ひと段落と行きたいところだったんですけれど、トルンペートにメンチ切り終えたツィニーコは、なぜかそのままウルウに絡み始めました。

 

「おうおうおう、ウルウっつったか」

「……そうだけど、絡まれるようなことしたかな」

「ペルニオ様が面白ェこと言うんだよ。お前に遊んでもらえってなあ」

 

 どうもペルニオがけしかけたみたいでした。

 極めて面倒くさそうなウルウが非難するような視線を向けても、ペルニオはしれっとしたものです。

 あれですかね。ぎりぎりまで渋ってなんだかんだ付き合ってくれるといういつもの展開でしょうか。

 などと思っていたら、ペルニオがウルウの耳元でそっと何かささやきました。

 

「どういうこと? なにを知ってる?」

「終わった後に、お話ししましょう?」

 

 珍しく動揺したらしいウルウは、少しのあいだ考えて、そしてツィニーコに向き直りました。

 

「いいよ。しょうがない。やろうか」

「よォしよし! 噂のよめじょの実力ってヤツ、気になってたんだ! (オレ)からやらせてもらうぜ!」

「ダメだ」

「ああん?」

「寒いし、面倒くさいし、あとがつかえてるから、さっさと済ませよう」

「──へえ?」

「三人まとめてやろうか」

 

 空気のきしむ音が聞こえたような気がします。




用語解説

一夜茸(インコ・チャーポ)(Inko ĉapo)
 ヒトヨタケ。コプリーヌとも。
 徐々に黒く変色しはじめ、インクのような液状に溶けてしまう。
 現地語のインコ・チャーポは英名のインクキャップからとった。

兎ノ酒杯(レポラ・グラーソ)(Lepora glaso)
 カクテルグラス型の傘を持つ茸。味はよく、干すとよい出汁が出る。
 酒と一緒に食べるとひどく悪酔いしたような症状が出るうえ、毒素は一週間ほど残るのでその間の飲酒は厳禁。
 見た目が地味であるため、知らずに食べる人も多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と辺境の女

前回のあらすじ

君たちはどこを目指しているんだという戦い方が流行っている《三輪百合》。
元祖ド畜生戦法の伝道者ウルウの戦いぶりとは。


 長くもなく苦しくもない戦いだった。

 期待してる人とかいたら申し訳ないんだけど、私は戦闘苦手だし嫌いだし面倒くさいから、見せ場もなく山場もなく、特等武装女中とやらの活躍もなく、さっさと終わらせた。

 普段だったらもう少し手加減というかサービスもしないでもないんだけど、ペルニオさんが気になること言うから、大人気なく全力でイベント終了を優先してしまった。RTAだなこれじゃ。

 

 いやまあ、ほんと、相手が悪かったと思うよ、彼女らも。

 私だって私が相手だったらなんだこのクソゲーってなると思うし。

 

 この大気全てが武器だと言わんばかりに、空を駆けまわって全方位から空爪の空爆を仕掛けてくるツィニーコは、まあ、格好いいよね、こういうの。風遣いって格好いいんだよなあ。

 トルンペートの時はやっぱり手抜かりなく手を抜いてくれてたみたいなんだけど、私相手には遠慮なしで、熊木菟(ウルソストリゴ)も目じゃないような大威力の空爪が次々飛んでくるんだよね。

 

 まあ、全部自動回避するから関係ないんだけど。

 

 で、フォルノシードさんは、こう、土蜘蛛(ロンガクルルロ)はパワータイプって言うイメージあったんだけど、意外とテクニカルタイプだったね。

 最初は何されてるかよくわかんなかったんだけど、ツィニーコの空爪の間を通して、っていうか、多分練られたコンビ技なんだろうね、風に乗せてほとんど不可視の糸を飛ばしてくるんだよ。

 多分、糸でからめとって身動きが取れないところを空爪で叩くか、逆に空爪で逃げ場所をなくしたところで、糸で切断するみたいなそういう感じなんだろうね。

 いやー、糸遣いも格好いいよね。スタイリッシュって言うか。風の刃にも通じるんだけど、ほとんど見えないから、気が付いたときにはずたずたにされてるみたいな、中二病的な格好良さがある。

 

 まあ、全部自動回避するから関係ないんだけど。

 

 普通なら逃げられない避けられないどうしようもない圧倒的な攻撃だったんだろうけど、私の積み上げた幸運値(ラック)を崩すにはちょっと足りなかったようだ。避けられるスペースがあるんなら避けられるんだよ、私の身体は。

 

 すでに発見されてる状態だから《隠蓑(クローキング)》とかで隠れることはできなかったんだけど、まあ当たんないから関係ないよね。

 空飛んでるのと、周囲を素早く駆けまわるのと、ちょろちょろする相手だからさ、追いかけて叩くのも面倒くさくって。

 

 《石拾い》して、《石投げ》して、終わり。

 

 あ、一応《技能(スキル)》ね、これ。

 チュートリアルみたいので覚える最初期の《技能(スキル)》で、文字通り石拾って、投げるだけ。

 でもこれステータスに関係なく無属性固定ダメージ通るし、さりげに必中なんだよね。自然回復する程度のダメージと、軽いヘイト集めくらいしかできないけど、まあ十分だよね。

 

 どれだけ避けてもなぜか頭にヒットする石礫を、しかも際限なく続けられたら、この二人でなくても降参すると思う。

 残りの、アパーティオとかいう人はそもそも参戦しなかった。というか寝てた。寒いし興味ないからいいって。気が合いそうだ。

 

 さっさとイベントこなしたら、本命イベントだ。

 ペルニオさんもさっさと終わることは予想していたのか、気のない拍手で迎えてくれた。

 

 リリオたちを置いて、私とペルニオさんは屋形の一室に移った。ペルニオさんの私室だというそこは、センスはいいけれど生活感に欠ける部屋だった。

 

「ミニマリストというわけでは、ありませんけれど、部屋に物が多いのは、落ち着きませんから」

「……それで。さっきのはどういうことかな?」

「性急ですね。お茶の一杯でも、ご馳走しようと思っていたのですけれど」

()()()()()()()()()()()()?」

 

 私の問いかけに、ペルニオさんはただゆっくりと茶器の支度を始めた。

 それが私には苛立たしい。

 この世界での生活は、私にとっては気楽な旅行みたいなものだ。だった、か。リリオと出会い、トルンペートと友達になり、少しの苦労をしながら、たくさんの未知と物語を巡る、おおむね穏やかな日々。

 大抵の問題はどうとでもなるし、私をどうこうできる存在というのはそれほど多くない。

 最悪、私の手元にある《死出の一針》ならば強制的に事態を終わらせられる。

 

 けれど、それが()()()()()相手なら話は別だ。

 ペルニオさんはさっき、こう囁いた。

 

「死神()()()()も丸くなりましたね」

 

 エイシス。

 それは私が《エンズビル・オンライン》で用いていたハンドルネームだ。

 その名を知るものがこの世界にいるはずがない。いるとすれば()()()()()()だけだ。

 仮にペルニオさんがプレイヤーだとして、そして私のエイシスとしてのプレイを知っているのならば、それは甘く見ていい相手ではない。

 

 勧められた席にもつかず、手の中に《針》を忍ばせて警戒する私に、ようようお茶を淹れ終えたペルニオさんは、アルカイックスマイルのままこう言った。

 

「止めましょう。千日手になりますよ」

「……?」

「あなたにわたくしは殺せないし、わたくしはあなたに攻撃を当てられません」

「ッ!?」

 

 ペルニオさんはゆっくりと席に着いて、それからもう一度私に席を勧めた。凍り付いたような十数秒間の後に、私がおずおずと席に着くと、それでようやく彼女は口を開いた。

 

「まず最初に、答えはイエス、です」

「……プレイヤー。それも私を知ってる」

「何ならお話もしたことがありますよ。お久し振りと言うべきでしょうか。それとも初めましてと言うべきでしょうか。わたくしは、()()()()()()はHAL-1。本名は春原(すのはら) 雛菊(ひなぎく)と言います。とはいえ、もうずいぶん長いことペルニオの名で通していますから、今後もこちらでお願い申し上げます」

 

 あまりにもあっさりとペルニオさんは答えた。

 HAL-1。確かにその名前は知っている。そして本当にその名前の持ち主なら、私は確かに彼女を()()()()。システム上、それは不可能なのだ。

 何故ならばその名前を持つキャラクターの種族は自動人形(オートマータ)。命を持たない機械であるところのその種族は、即死貫通さえ通らない即死無効種族だからだ。

 

「っていうことは……」

「ええ。見た目は大分人間に寄せましたけれど、中身は機械です」

 

 おもむろに彼女は自分の頭を持ち上げた。文字通り、左右から手でつかんで、首から引き抜いてしまった。その断面からは、私には理解のできない歯車や配線が見える。予想はしていたとはいえ、なかなかショッキングな光景ではある。

 そしてそのショッキングな光景を眺めながら、私はさらに恐ろしい想像にいたってしまった。昔馴染みと会うだけでSAN値チェックが必要だとは。

 

「もしかしてと思うんだけど、さっき言ってた『()()()()()()』ってさ」

「ええ。()()()()()()もわたくしとしてこの世界に来ていますよ。他のと言っても、わたくしではありますし、いまこうしている今も、同時にわたくしなのですけれど、この感覚はうまく説明いたしかねます」

「ああ、そう、まああんまり知りたくもないけど……」

 

 HAL-1、といういかにもSFチックな名前は、お察しの通り「通し番号」だ。一番がいるなら、二番も三番もいる。私の知る限り四番までいる。

 どういうことかというと、HALという名前を冠する一から四までのキャラクターを()()()()()していたのが彼女なのだ。

 

 懐かしき我が同胞、《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》が一人、と言っていいのか四人と言うべきかのか。

 ただでさえ面倒くさい種族である自動人形(オートマータ)を、四体同時に育成して、独りでパーティ組んでた頭のおかしいプレイヤーが彼女だった。

 確か当時は、物理タンクと、魔法アタッカー、ヒーラー、サポーターの四種四体を操作してたっけ。

 多少マクロは使っていたにせよ、四台のPC(パソコン)を使って四体のPC(キャラクター)を支障なく動かしていたあたり、プレイングだけでなく本人のスキルも大概おかしい。

 

 今の彼女がどういう精神状態で存在しているのかは、彼女からしても説明しづらいらしいが、いやはや。

 

「突っ込みどころが多い……他のあなたは?」

「一体は養成所に。一体は領内の巡回に。一体は御屋形で医者の真似事を」

「医者……まさか《玩具箱(トイ・ボックス)》って」

「それもわたくしです」

「そりゃあ優秀なわけだ……」

 

 トルンペートがちらっと口にした医療施設。ネーミング的に現地語っぽくないと思ってたけど、転生者がらみか。消費アイテムはそうそう使えないだろうけれど、治療《技能(スキル)》ならこの世界の基準よりはるかに上のレベルで治療できるだろう。

 

自動人形(オートマータ)はアイテム消費激しいから大変だろうけど……()()()()?」

「この辺境のほとんど始まりから。そういうあなたは極最近のようですね」

「時系列どうなってんだ……私はまあ、半年くらい」

「おや、まあ。本当に、最近ですね」

 

 さて。

 一応は知り合いということで少し落ち着いたけど、例え知り合いであっても私別にこの人のことよく知ってるわけでもないんだよな。同じギルドだったし、会話もしたことあるけど、この人何しろ一人でパーティ組んでるから大概のこと自分でできるし、あんまりからむことなかったんだよ。

 その上、機械だから即死させられない天敵だし、向こうも当てられないとかいうけど、私がギルド戦でやられた時のこととか知ってるから普通に対処されそうなんだよなあ。

 

 対応を考えあぐねていると、ペルニオさんは気にせず話を続けた。

 

「あなたが三人目です」

「は?」

「転生したプレイヤーです。過去にもしかしたらという伝承があったりもしますけれど、確定したのはあなたが三人目です」

「他にも来たの?」

「雪が積もる前に帝都から一人。その人物によれば帝都にはもう一人いるそうです」

「やっぱり《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》?」

「ええ。詳しくお話ししましょうか?」

「いや、いいや。変に絡みたくない」

 

 思わず断ってしまうと、ペルニオさんは小さく何度か頷いた。

 

「面倒ごとには関わりたくない。素晴らしい判断にございます」

「皮肉かな?」

「とんでもないことでございます。わたくしもそう考えておりますので」

 

 ペルニオさんはそう答えて、命を持たない瞳で私をじっと見つめた。

 

「わたくしはこの辺境で長く暮らしております。いまやふるさとと申し上げてよろしいでしょう。その辺境を離れる気は全くございません。帝国では不穏な空気もあるようにございますが、辺境に事件を持ち込まれることも望みません。正直なところを申し上げるのであれば、わたくしはあなたに、面倒ごとを持ち込まないよう釘を刺しておきたかったのです」

 

 成程、それはもっともな話だった。

 私がこの人を警戒していた以上に、この人も私を警戒していたのか。

 プレイヤーの強力さを自覚していれば、そのプレイヤーと敵対した時の怖さは想像がつくというものだ。

 

「安心して、といっても難しいかもしれないけど、私も面倒ごとはごめんだよ。きっとリリオは面倒ごとに首突っ込みたがるだろうけど、私は遠慮したいね」

「フムン。あなたは異世界転生したのにチートスキルで無双したくないのですね」

「あなたもそうだろう。私はひとがゲームしてるのを横で見てるのが好きなだけだよ。最近だと温泉とご飯も」

 

 ペルニオさんはまじまじと私を眺めて、それから肩をすくめた。

 

「そのように過ごせることをお祈り申し上げます」

 

 不安になるから止めて?




用語解説

・RTA
 リアル・タイム・アタックの略。
 ここでは速度優先で事情は勘案しない意で使用している。

・《石拾い》/《石投げ》
 ルビさえないが一応ゲーム内《技能(スキル)》。
 それぞれ《石》を拾い、投げることができる。
 《SP(スキルポイント)》の消費は極めて少ない。
 《石投げ》は地味に無属性固定ダメージ必中ではあるが、当然ダメージは極微。
『道端の石が最初の武器だ。最後の武器にならんといいな』/『遠くから、一方的に。人類の武器の原点はここにある』

・《石》
 一応ゲーム内アイテム。何の変哲もない石。重量値はあるが、売却値はない。
 どんな地形だろうと関係なく《石拾い》をすれば手に入る。
 一応素材やイベント用アイテムとしても扱われるが、お察し。
 新規マップが導入される度に、現地で《石拾い》を使用しては《「どこそこ」の石》として記念に売るプレイヤーが一定数いた。
『つまずいて転ぶのも、拾い上げて磨くのも、君の自由だ』

・《死出の一針》
 クリティカルヒット時に低確率で発動という超低確率でしか発動しないけれど、即死耐性持ちでも問答無用で殺す《貫通即死》という特性を付与された武器。しかしあまりにも武器攻撃力が低く、その取得難易度もあって産廃でしかない。
『何者であれ死神の持つ一針を恐れぬ者はなかった。髪の毛の先程の、ほんの小さな一点を刺されれば、ただそれだけで偉大な王も道端の乞食も、分け隔てなくその命を散じるのだった』

・春原雛菊
 《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》の一人。プレイヤー。現在はペルニオを名乗る。
 自動人形(オートマータ)という特殊な種族のキャラクターを六体育てており、その六体を同時にプレイしていたというトチ狂ったプレイヤー。
 通常は-1から-4の四体をパーティにして、残り二体は関係ないように見せかけて運用していた。
 その六体全てが意識を共有しているらしいが、その感覚は他人に説明しづらいという。
 詳細は不明であるが、辺境の歴史のかなり初期からこの世界にいたという。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 鉄砲百合と石遊び

前回のあらすじ

ついに接触することになった、他の転生者。
果たして神々は何を望んでいるのか。


 ペルニオ様とウルウがようやく帰ってきてくれて、あたしは心底ほっとしたわ。

 二人が何の話をしてたのか、二人の間にどんな因縁があったのかって言うのは、ものすごく気になるは気になるんだけど、いまはそれどころじゃないのよ。

 

「もう遅いわよ。あーでも帰ってきてくれてほんとよかった!」

「ええ? なに? そんな喜ばれるとかえって怖いんだけど」

 

 素直に喜ぶということを知らないウルウは滅茶苦茶怪訝そうにしてたけど、まあ間違いないわ。

 あたしはさっきからツィニーコ様に絡まれて、リリオも同じようにフォルノシード様に捕まってて、そしてアパーティオ様は立ったまま寝てて、とにかくろくでもないのだ。

 

「おうおうおう! ようやく帰ってきやがッたな! お前よゥ、さっきのはなんなんだよオイ!」

 

 あたしに絡んでずっと質問攻めにしていたツィニーコ様が、ようやく離れてくれた。逃げようにもなにしろこの人の体術は滅茶苦茶に上手なので、出足から潰されるようにして一歩も逃がしてくれなかったのだ。

 あたしにしてやられたのはまあ策を練ってうまく仕込んでということで認めてくれたみたいなんだけど、ウルウにあっさりやられたのはどうにも納得できないし意味がわかんないってことで、あいつなんなんだよってずっとその繰り返しだった。

 

「なんなんだよって言われてもなあ……御覧の通りだけど」

「一切御覧の通りじゃねえんだよなア」

「ごく普通の旅人A」

「普通でもなけりゃ旅人でもねエ。オラさっさと吐け! さっきはなにしてくれやがッた!?」

 

 滅茶苦茶荒っぽい物言いだけど、顔は手品見た子供のそれよね。フォルノシード様はもうちょっとおとなしめの様子なので答えてもらえたんだけど、特等武装女中まで上り詰めると、なかなかしてやられることってなくて、しかも何をされたのかもわからないくらいってなると数えるほどもないらしくって、それが面白くて仕方がないみたい。

 ここで悔しがるだけじゃなくて面白がれるのが、強くなる秘訣なのかしら。

 

 飛び掛かって捕まえようとするツィニーコ様を、いつものぬぼーっとした調子でひょいひょい避けるウルウ。そしてそれさえも面白いらしくてますます盛り上がる特等方。

 

(オレ)も選ばれし特等武装女中だ! その特等がああまであっさりやられッちまったんじゃあ面目が立たねェ! せめて手妻のタネくらいは吐いてもらうぜッ!」

「タネって言ってもなあ」

 

 まあ、そう言われてもウルウも困るわよね。

 本人曰く、この気持ち悪いよけ方は自動的らしくて、自分でもどうやってるのかわからないらしいから、説明もできないだろうし。

 まあお二人とも体術も凄まじい練度にあるから、ある程度まではどういう動きなのかって言うのはわかるらしいのよ。こうして避けられながらも、どうやって避けているのかって言うのはわかるみたい。ただ、これが続いていくと、なんでそう言う避け方をしたのかわからないのが多くなっていって、しまいにはどうして避けられるのかわからないけど運よく避けられたっていう事態に陥る。

 

 老獪な連中はこの動きを物理的に封じて詰めることが出来るんだけど、あたしには無理ね。このお二方ならできそうなんだけど、そこはそこ、ウルウもそう言う手合いにしてやられ続けてきたから、そういう事態になりそうだと思ったら、自分から滅茶苦茶な動きして、「運よく避ける」やつをするのよね。

 

 とはいえ、ずっとこの調子じゃ流石に可哀そうだ。面倒臭いって顔に書いてある。

 

「ほらウルウ。さっきもなんか妙なまじない使ったんでしょ。それ見せてあげたら?」

「あ、そうですよ! 遠くから一方的に攻撃してましたよね!」

「ああ……あれね。まあ、あれでいいなら」

 

 リリオがきゃいきゃい言うと、すぐに仕方ないなあって顔するんだから、まったく甘い。

 あたしが言ったからかもしれないけど、まあそこは主人を立ててあげるわ。

 どっちにしろウルウは多分甘いだろうし。

 

 ウルウが了承したので、まとわりついてたツィニーコ様もおとなしくなった。

 そこで、みんなで集まって、ウルウがさっきのまじないを見せることになった。

 この二人に百発百中で石を当てるなんて、いったいどんなまじないなんだろうか。

 あたしにも出来るんなら、是非教えてほしいけど。

 

「さっきの、ね。《石拾い》と《石投げ》」

「名前が雑なのですね」

「感性が死んでんのか?」

「私がつけたんじゃないったら」

 

 ウルウは衆人環視が落ち着かないらしく、もじもじとして、わざとらしく空ぜきなどして、それからおもむろに屈んだ。無意識に胸に目が行っちゃったけど仕方ないと思う。その姿勢はそうなると思う。

 

「まず石を拾うでしょ」

 

 うん、石を拾う……待って。

 

「ちょっと今あたし、よく見てなかったかもしんない」

「ええ?」

「あー……(オレ)も見てなかったかもしんねェ」

「すみませんけれど、もう一度お願いできますか?」

「仕方ないなあ……」

 

 あたしひとり胸を見てたかと思えば、お二方もそう言いだす。

 いや、でもそう言うことじゃないだろうな。

 あたしだって胸に視線がいったからって言う問題じゃない。はずだ。

 今度こそ目をそらさずにあたしはウルウの手元を見る。

 

「まず石を拾うでしょ」

「待て待て待て」

「いますこし……ゆっくりお願いします」

「ええ……?」

 

 違うの。違うのよ。別に屈みこむときの胸とか太ももとか、髪をかき上げる仕草とかに目が行っちゃってるわけじゃないの。そういうことじゃないの。言い訳じゃないのよこれほんとに。

 

「だからー、こうやって、」

 

 ウルウが屈みこむ。

 

「こうして、」

 

 指先が雪面に伸びる。

 

「まず石を拾うでしょ」

 

 指先に石がある。

 

「!?」

「いやいやいやいやいや!?」

「なにさもう……次行っていい?」

「待って待って待って、なんか納得いかないそれ!」

「ええ……?」

 

 視線が集まって居心地の悪そうなウルウ。

 注目されてさらにもじもじするウルウ。

 かわいい。

 じゃなくって!

 

「もう一回もう一回!」

「何回やっても同じだよ……」

「同じだから変なんだろが!」

 

 ウルウがよいしょってかがむ。かわいい。

 片手で髪をかき上げながら、もう片手を雪面にのばす。かわいい。

 そして石を拾う。かわいい。

 かわいいけど、違うそうじゃない。

 

「おかしいだろ!? なんかおかしいだろそれ!?」

「なんかってなにさ?」

「いやだって……なあ!?」

 

 ツィニーコ様の物言いはめちゃくちゃだけど、言いたいことはものすごくよくわかる。

 ウルウはまず石拾うでしょって気軽に言うけど、これ、見てよ、この、雪原。土混じりで、荒れちゃってるけど、この前庭、雪で覆われてんのよ。

 

「だーかーらー、まず石拾うでしょ」

「どこから!?」

「どこから出たのよその石!?」

「何言ってるのかわかんない」

「なんでわかんねーんだよッ!?」

 

 ウルウが石を拾う。ヤジ入れられて石を捨てる。ウルウがまた石を拾う。また物言いがついてまた捨てる。ウルウがさらに石を拾う。それも意味わかんないのでまた石を捨てる。

 拾っては捨てて、捨てては拾って、それが繰り返されて、捨てられた石が積まれていく。そりゃ、拾って、捨てて、新しいのを拾って、捨ててって繰り返しているんだから、理屈としてはそうなる。でもその理屈は現実とうまくかみ合わない。

 気づけばあたしたちの前に、どこから湧いたかわからない石の小山ができていた。

 

 ウルウがその石の小山に腰掛けて休んでいる間に、あたしたちは石を拾って検分する。

 

「……まあ、普通の石、だよな」

「そう、ですね……割ってみても、ただの石のようですね」

「うーん……投げた感じも、ただの石よね。避けられないわけないわよね……」

「味も見ておきましょう」

「リリオ、お腹壊すわよ」

「冗談ですよう……というか噛み砕けることは疑わないんですね……」

 

 あたしたちが首を傾げていると、眠っているとばかり思っていたアパーティオ様がのっそりとやってきて、おもむろに石を二つ取り上げて、目の高さに持ち上げて眺めた。

 

「……おんなじ」

「へ?」

「おんなじ石です」

 

 そりゃあ、そうだろう。石だし。

 そこらへんに落ちてるような、いわゆる石って言う石で……いやまて。

 あたしたちは慌てて石を並べて、見比べてみた。

 それは色も形も大きさも、まったく同じように見えた。

 

 ペルニオ様が片手に一つずつ持ち上げて、ぽつりと仰る。

 

「ミリグラム単位で、同じ重量ですね」

 

 同じ石が、小山になっていた。




用語解説

・おんなじ石
 《石拾い》はどんな場所でも《石》を拾えるが、この《石》はゲーム内アイテムである。
 ゲーム内アイテムは、同種のものであれば全く同じ情報を参照している。
 手抜きといえば手抜きだが、ゲーム内では当然の仕様である。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 白百合と石合戦

前回のあらすじ

「そこ突っ込んじゃうんだ」という話題でまさかの一話使いきりである。


 結局、なぜ石が現れるのか、なぜ同じ見た目の石なのか、納得できる説明はできそうにありませんでした。

 ウルウとしても、そう言うものだから、という以上の説明は持ち合わせていないようでした。

 

「自分でやってるのにわからないんですか?」

「そういうのは製造者に問い合わせてほしいなあ」

 

 正気をなくすかもしれないからおすすめしないけど、とはウルウの談です。

 

 謎は解明できないまでも、とりあえずこの段階では石が出てくるというだけのことでしたので、私たちはこの問題を棚上げしてしまうことにしました。とにかく、石はそこにあるのです。石自体は特殊なものではないのです。となれば先程の一戦で見せた謎は、なぜ石が当たるのかという点に尽きるわけです。

 

 とはいえ、石を拾うだけでここまで謎が溢れかえってしまって、しかも本人には説明できないのです。投げる方も同じことでしょう。

 みんなが見守る中で、ウルウは石を一つ手に取りました。

 

「じゃあ、次ね。次行くからね」

「おう」

「お願いします」

「ちゃんと見てるわよ」

「じゃあ、こう……石を投げるね」

 

 的となるようなものが何もない荒れ果てた前庭でしたので、しっかりと構えたツィニーコに向けて、ウルウが軽く石を放ります。

 そしてそれは問題なくツィニーコの手の中に受け止められました。

 いたって普通です。

 何かおかしなことがあったようには見えません。

 しかしツィニーコが動き回っているところを狙うと、話が変わってきました。

 

 ウルウが石を放ります。するとツィニーコに当たります。

 言葉で言えばこれだけのことなのですが、実際に目にすると何もかもおかしな光景でした。

 

「おまっ、おかしいだろいまのは!?」

「私投げただけなんだけど」

「だからおかしいんだろうがッ!?」

 

 そう、ウルウは投げるだけなのです。

 投擲の専門家であるトルンペートでなくても、素人の私から見てもしょぼい投げ方にもかかわらず、ウルウの投げる石は必ずツィニーコに届くのです。

 物を遠くに投げるのって意外にコツがいるもので、ウルウみたいに肩を使わずに手首だけで放るような下投げで遠くまで届くわけないんですよ。

 

 にもかかわらず、ツィニーコがどこでどう動いても当たりますし、なんなら後ろにいても当たります。

 ウルウが立っていようが座っていようが、何なら横たわっていようが、ツィニーコを狙って投げると、必ずツィニーコに当たるのです。

 しかもどんなに力が入っていないように見える投げ方でも、ウルウの手を離れた瞬間、決まった速度で飛び出して決まった威力でツィニーコに当たるのでした。これはツィニーコも認めるところでした。

 

 試しに私やトルンペートが、同じ石を使ってツィニーコに投げつけてみても、当たるか当たらないかはその時次第です。ツィニーコが本気で避けたらまず当たりません。その威力もまちまちです。

 なのにウルウが投げると、ツィニーコが止まっていようと動いていようと、当たる直前で避けようとしても、必ず同じ威力で命中するのでした。

 

「どうッいうッことだァァァアアアアッ!?」

「私が知りたい」

 

 最終的にツィニーコは不貞腐れて地面を転げまわり、フォルノシードに回収されていました。

 

 そうして暴れまわった結果、前庭の騒動を聞きつけた庭師のエシャフォドが途中で怒鳴り込んできてしまいました。あちこちに石を散らかすもので、最低限埋めるだけ埋めて心の傷をいやしていたエシャフォドが怒り心頭で、一人か二人殴り殺さねば収まりそうにないような具合でした。

 私たちが何とかなだめになだめて、これこれこういう事情でしてと説明すると、エシャフォドはそんなわけあるかと一喝しました。私もそう思います。

 

 仕方がないのでウルウが実演してみせると、エシャフォドはしばらく石を眺めて、怒りを納めてくれました。

 

「お前さん、同じ粒の石を大量生産できるんじゃな。玉砂利が欲しかったとこじゃ」

 

 ウルウの労働が決定しました。

 庭を荒らした罰として、ウルウはひたすらその場で石を拾い続け、私たちはその石を回収して袋詰めし、倉庫に収めていきました。連帯責任で全員やらされました。

 私、一応この家の令嬢なんですけれど、むしろその分働かされた気がします。いやまあ、いままでのこと考えればこの中では私が一番庭壊してますし、なんならお父様がこの前壊滅させましたし、仕方ないかもしれません。

 

 エシャフォドが満足するころには、ウルウは珍しくすっかり疲れ果てて、倒れ込んでしまいました、

 

「うう……《SP(スキルポイント)》が尽きるとかはじめてなんだけど……」

「なんですかそれ」

「なんていうか、こう……頑張れる度的なやつ……」

「的なやつなんですね……」

 

 休めば回復するみたいですけれど、それが切れちゃうともう何にもやる気が出ないらしいくらい疲れるみたいでした。ウルウがここまで消耗したのは初めてかもしれません。

 ()()()()の朝も結構元気でしたのに、って言ったら肋骨の隙間に貫手食らいました。意外と元気です。

 

 仕方がないので屋形に運び込み、暖かな暖炉の傍でトルンペートが膝枕をしてあげることになりました。

 

「あたし二等に昇格したんだから、そのご褒美ね」

「ううん……? なんか逆じゃない?」

「いいのよ、これがあたしにはご褒美になるんだから」

「なんか悪いからお祝いは用意するけど」

「それはそれで貰うわ」

「そういうとこトルンペートって感じがする」

「いい女でしょ」

「ほんとに」

 

 せっかくのご褒美なので、私は邪魔しないように庭に戻って、特等たちと遊ぶことにしました。今回私結構暇だったので、運動不足気味なのです。

 まあ遊ぶと言っても、さすがに特等武装女中、普通に強いので遊んでもらってるって感じです。

 

 ツィニーコは軽く組手してくれましたけれど、さすがに一日動きっぱなしで疲れたみたいで、すぐにフォルノシードと交代しました。

 

 フォルノシードも気疲れしたとかで、小難しいことはせずに力比べの手押し相撲をしてみました。

 ウルウに言わせるとフォルノシードは糸遣いの技巧派らしいんですけれど、さすが土蜘蛛(ロンガクルルロ)、力は普通に怪力といっていいくらいです。

 四つ腕のうち二本だけで私と組んで押し合うわけですけれど、いやまったく、この私でも押し切れない相撲上手です。まあ土蜘蛛(ロンガクルルロ)は足が多い分安定性も高いですし、体重の軽い私だとこういう形では全然相手にならないんですけれど。

 

「……お嬢様とは普通の相撲は組みたくないですねえ」

「そうですか?」

「小さくて怪力って、結構怖いですよ」

 

 そういうものなんでしょうか。

 

 さて、それでアパーティオはというと、この人はまた立ったまま寝ていました。

 

「何かのご病気ですか?」

「んにゃ、山椒魚人(プラオ)はこういうの多いンだ。冬眠しちまうんだと」

「冬眠してるのになんで来たんですか?」

「そりゃ、養成所のためさ。寝てるとは言え特等が一人でも残ってちゃ、留守番組も息抜きにならねえだろうさ」

 

 ツィニーコがそう言うので部下思いなのだなあと感心していたら、当のアパーティオは寝ぼけ声でむにゃむにゃ言いました。

 

「……残ったら仕事全部任されそうだもん……」

 

 ああ、そういう……。




用語解説

・庭師のエシャフォド
 トチ狂った当主が帰ってきた嫁と喧嘩して三年がかりの庭に大穴ぶち開けて壊滅させやがり、ようやく穴埋めだけでも終わらせてみたところ武装女中の試験とかでど真ん中を爆破され、おちおち寝込んでもいられねえと思って顔を出してみたらどっから沸いたのか石を散らかされて脳の血管が何本かプッツン行きかけつつも、粒のそろった石を大量にしかもただで仕入れられるという思わぬ僥倖ににっこりしている、今後の災難をまだ知らない老庭師。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 辺境女はしたたか小町

前回のあらすじ

まさかの初ダウンが「過労」という笑えない元社畜である。


 暖炉の火が燃えているのをずっと映してるだけの動画が結構人気あるらしいんだけど、いまならなんとなくわからないでもない。

 暖かな暖炉の傍。柔らかく沈み込む上等なソファからちょっと足をはみ出させながらも、メイドさんの膝枕を満喫する。前世ならいくら払えば叶えられそうかな。結構お高くつきそうだ。

 

「ねえトルンペート」

「んー? なあに?」

「昇格祝い、本当にこれでいいの?」

「いいのよ。もちろん、なんか貰えるなら遠慮なく貰うけど」

「そりゃ用意するし、あげるけどさあ」

 

 うーん。

 膝枕される側はなかなか心地いいし嬉しいものだけど、膝枕する側って別にいいことない気がするんだよね。トルンペートは肉がちょっと薄いところあるから頭の下に骨を感じるし、それってつまりトルンペートも私の頭の重みが食い込んでつらいんじゃないかと思う。

 私は寝てるだけだけど、トルンペートは姿勢も変えられないし。

 

「結構悪いもんじゃないわよ、これ。こうしてまじまじと眺める機会ってそんなにないし。それに独り占めできるってのも気分がいいし」

「そんなもんかなあ」

「そんなもんよ。そりゃリリオと二人占めもいいけど、時々は独り占めしたくなるの。あんたのことも。リリオのこともね」

「そりゃまた、贅沢なことで」

「だから後で、リリオもかまうわ。ご褒美にね」

 

 リリオの時に足がしびれないように、負担を軽くしてあげた方がいいんだろうか。

 それともトルンペートは重い方がいいみたいなそう言う性癖なんだろうか。難しいところだ。

 

 トルンペートは膝枕を提供するだけでなく、かいがいしく私の面倒を見た。いや、トルンペートの言い方をするなら、「かまう」ってやつだね。猫とかといっしょかな。

 お菓子をあーんして食べさせたり、髪を梳いたり、耳かきしたり、トルンペートはそう言うのがたまらなく楽しいらしい。私も心地いいのでウィンウィンだ。

 

「……自分の考えが自分じゃないみたいだ」

「そう?」

「前だったら、膝枕とか絶対嫌がってたと思う。あーんとか論外だし、髪とか耳とか触られたら吐いてたかもしんない」

「繊細っていうか潔癖っていうか」

「なんか今はそう言うの感じないから、麻痺しちゃったのかなって」

「今の方が健康なのよ、それ」

 

 そうなのだろうか。

 私としてはいまの自分は異常だけど。

 

「いいのよ。あんた、疲れてたのよ。それで、いまは心が落ち着いて、ちょっと丸くなったの」

「そんなもの、かなあ」

「そんなものそんなもの。そういうことにしちゃいましょ」

 

 うーん。誘惑に堕落しちゃいそうだ。しちゃっていいらしいけど。

 私はもぞもぞと頭を動かして、トルンペートのお腹に耳をぴったりあてた。鼓動とか、お腹の中の音とか、聞こえる気がする。その温度が、いまは、ちょっと落ち着くような気がするし、ちょっと気持ちの悪いような気もする。総じてちょっともぞもぞする。

 

 見上げる私の視線を、トルンペートはまっすぐに見下ろしてくる。それで、ちょっと悪戯っぽい笑顔をして、私の頬を撫でたり、鼻先をなぞったり、目元を押さえたりする。

 なんだか楽しそうな彼女を眺めながら、私はぼんやりと湧き上がってくる思いを、ぼんやりしたまま口にした。

 

「あのね」

「なあに?」

「うん。あの……なんかね。面倒なこととか、さ……あるかもしれないんだって」

「どこ情報よ」

「どこっていうか……なんかそんな感じなんだって」

「ふうん?」

「それで、それで、なんだろな……なんか困ることになったり、するかもしんないんだって」

「ふんわりしてるわね」

「うん。きっとそうなるってわけじゃないみたいなんだけど、なるかもって」

「まあ、そうね、リリオは喜ぶんじゃない」

「トルンペートは嫌でしょ」

「どんなのかわかんないから何とも言えないけど、でもまあ冒険でリリオが喜ぶなら、あたしはそれでいいわ」

「うーん」

「それは、別にあんたが悪いんじゃないんでしょ」

「じゃない、と思うんだけど……ぅん、でもなんか需要があるって言うか、そう言うの期待されてるみたいなのがあるというか」

「誰によ。それに、別にあんたがそうしたいわけじゃないんでしょ」

「うん。いや、まあ、そりゃね。普通にご飯食べて……あとお風呂入って……一緒にいたいだけ」

「かわいいこと言うんだから。ね、じゃあそれでいいじゃない。嫌なことがあっても、嫌って言えないのかもしんないけど、そん時はあたしたちがかわりに言ってあげるから。それでいいわ」

「惚れ直しちゃう、かも」

「二等だもの。もっと、もーっと、惚れちゃっていいわ」

 

 ふわふわした暖かいものが、私を包んでくれているみたいだった。

 そう、この時はあんなことになるなんて思ってもいなかったのだった。

 

「ちょっと、またなんか変なこと考えてるでしょ」

「お約束かなって」

 

 辺境のしたたかな(ひと)は、だいじょうぶよとそう言ってくれるのだった。




用語解説

・膝枕
 『万葉集』にも記述のある歴史ある文化。
 おたかい。

・だいじょうぶ
 根拠はないが、無敵の言葉。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

なぜなにゴスリリ
なぜなにゴスリリ1 Q&Aからはじめましょう


 おはようございます。会えなかったときのために、こんにちはとこんばんはとおやすみなさいも。

 作者の長串望でございます。ながくし、のぞみと読みます。

 いつも『異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ』並びに異界転生譚シリーズを応援いただき誠にありがとうございます。

 今日は名前だけでも覚えていってね。

 

 本編を期待された方には申し訳ありませんが、番外編どころか解説編でございます。

 登場人物紹介とか設定解説とかうっとうしいし背中がもぞもぞするという方は読み飛ばしていただいて、また次回の更新をお待ちいただければ幸いです。

 

 さて、ゴスリリもついに260話、途中の休載も含めて連載期間は三年を超えており、前回の話は何だっけで済めばいい方で、最初の方のことなど皆様うろ覚えのことと存じます。

 途中でちらっと出ただけの設定がさも常連ですよみたいな顔でしれっと出てくるので、みなさまにはしばしばご迷惑をおかけしております。

 

 そこで、皆様の疑問の声をここらでまとめさせていただき、忘れかけてきた情報のおさらいや、詳しく触れていない部分の解説などをさせていただこうかなというのが、このなぜなにゴスリリという次第でございます。

 ゴスリリ、とは銘打ってございますが、姉弟作である『異界転生譚シールド・アンド・マジック』や、かかわりのある『平賀さんはヒーラーなんですけど!?』にも触れていきたいと思いますので、まだお読みではない方はそちらもこの機会に是非どうぞ。

 

 長々とご挨拶をさせていただきましたが、このあたりでタイトルコールでも入れて本筋に入ってまいりましょう。

 

 なぜなにゴスリリ1

 Q&Aからはじめましょう

 

 はい、ということで、今回は皆さんからいただいた質問を一つ一つ答えていきましょう。

 普段から質問は時折頂くのですけれど、今回は改めて送っていただいた質問に答えてまいりますね。

 

 ではひとつめ。

 いつも応援ありがとうございます、クルロさんからのご質問と、Jhon=Smithさんの質問も一部かぶりですので並べてお答えいたします。

 

「実際のところ殺す気で戦った場合ウルウと無敵砲台は現地の強い人たちとどこまでやり合えるのか。カタログスペック的に」

「実際のところ、ウルウさんの強さと行った点は結構気になりますね。

 滅多に、というかほぼないでしょうが、本気で生死を分かつ戦いなら負けなしになるか否か。

 あと、ゴスリリによく出てくる固有名詞のルビは何語だったりとか。

 私、気になります!」

 

 ということで、主人公たちの強さは皆さん気になるようですね。

 ここでは本人たちのやる気やメンタルは考慮しないものとして、どうなるのかを考えていきましょう。

 また現地の強い人は、現時点までに登場した人物を対象としましょう。

 

 さて、ゴスリリの妛原閠ですが、「相手を殺すこと」だけを条件とした場合、最新章で転生者であることが明らかになったペルニオ以外は全員圧勝できますね。

 生き物である限り必ず殺すことのできる《死出の一針》と幸運値極振りの組み合わせは、即死無効であるペルニオを除きこれを防ぐ手段はありません。その上で、《隠蓑(クローキング)》をはじめとした姿や気配を隠すことのできる《技能(スキル)》を活用すれば、居場所が判明している限り確実に殺せます。

 

 もちろんこれは皆さんがお求めの答えではないと思いますので、ちゃんと真正面から戦った時のことも考えてみましょう。

 どうなるかといえば、こちらも実は同じ答えになります。ステータス的に言えば、閠はいままで登場した人物全員相手に一方的に勝利することが可能です。

 

 でも今まで結構苦戦してたよね、と思われるかもしれませんけれど、それもそのはず閠は縛りプレイをしていたようなものなのです。(比較的)腕力が低く、武器攻撃力で打点を稼ぐタイプの閠は、武器なしでは大したダメージも与えられず、本人の格闘能力もたかが知れています。しかし武器を装備してしまうと、今度はもれなく即死効果がついているので相手を殺してしまう。なので回避不能になるまで追い詰められてしまうのですね。

 

 全く勝てそうにないとぼやいているマテンステロ相手でさえ、不殺の誓いを破棄してしまえばそれだけで終わります。自分から攻撃できないから追い詰められるだけですので、追いかけて一撃当てればそれで勝ちですね。

 

 閠を相手にした場合の最適解は、《隠蓑(クローキング)》などを使われないように、絶対に一度も視界から外さず、かつ接近を許さず離れもせずのつかず離れずを維持したまま遠距離攻撃を連発し、閠が消費して動けなくなるのを待つことですが、そんなことができたら苦労しません。

 閠が逃げに回った場合、全力で追いかけないと見えないところで姿を消されてそのまま暗殺されるといういやらしさ。

 閠の自動回避の仕様上、回避不可能な範囲攻撃に巻き込むことも有効ですが、その場合、閠の姿が見えなくなる攻撃を仕掛けてしまうとそのまま姿を消されて暗殺というルートがががが。

 

 なんだこの夢キャラ。メアリー・スーかな?

 

 ゲーム内では命中率の高い連中が隠形看破の装備やバフを使い、完全に囲んでタコ殴りにして運よくワンキルしたり、全然関係ない罠にはまって死んだりなどはありましたので、絶対に勝てないわけではないのでしょうけれど。

 多分火山の噴火とかに巻き込めば勝てます。

 

 さてお次は無敵砲台ことシールド・アンド・マジックの二人組、紙月と未来ですね。

 この二人はもう少し易しいかなというとそうでもありません。

 タンク役の未来とアタッカーの紙月、突破不能な壁と圧倒的な火力とみられがちな二人ですが、その実態は「対応力の化け物」でした。

 

 本編で衣装持ちとも称された紙月ですが、未来も同じように、属性ごとの装備を常に持ち歩いています。重荷にしかならないので普通は使わない道具や装備は倉庫に預けるものなのですけれど、二人は常に最低限なんにでも対応できるように装備を幅広く持ち歩いているんですね。そのためアイテム目的の狩りでは荷物を持ち切れず、荷物持ちの人などが別途必要になるとか。

 

 装備だけでなく《技能(スキル)》構成も実は対応重視です。未来のステータスこそ耐久特化みたいなところがありますけれど、《技能(スキル)》は幅広く、どんな状況にも対応できるようにしていますね。

 その代わり攻撃に使用できる《技能(スキル)》はほとんどなく、たとえ無類の防御力を誇っていても、ソロで戦闘しようとしたら、無駄に時間かけた上に削り殺されるしかありません。

 

 一方の紙月はアタッカーとして活躍もしますが、その実態は攻撃もできるサポーターです。回復も使える。バフもデバフもできる。《技能(スキル)》回しが早い。などなど。

 《技能(スキル)》それぞれのレベルは低い代わりに幅広く《技能(スキル)》を取得しており、なんでもできる器用貧乏なんですね。

 普通なら器用貧乏というものはうまく活躍できないものなのですけれど、紙月の場合は極端に魔法の行使にのみ特化したステータスを振り、高価で希少な装備によって威力不足などを強引に解消しています。

 

 この二人はそれぞれの長所を生かして組み合わせ、状況に応じて最適な装備と《技能(スキル)》回しを行うことで「無敵砲台」とまで言われるようになったんですね。なので事前に取り決めておいたフォーメーションが崩されたり、予習していない完全に予想外の攻撃を食らうと意外ともろかったりします。

 

 まあ色々言いましたけれど、この二人が現地の人と戦った場合、大抵の場合は単純に磨り潰せます。

 こっちは設定書いてるだけで楽しいので文字数は勘弁して下さいね。いえい。

 

 どういうことかといいますと、城攻めと同じ理屈が発生するからです。

 通常城攻めには相手の三倍の兵力がいるとかなんとかweb小説界隈ではよく言うらしいんですけれど、未来がどっしり構えるだけで、小さな城ができてしまうようなものなんですね。簡単には突破できない城壁です。それも物理にも魔法にも対応する。

 そこに紙月が内側からバフをかけデバフをかけ砲撃もして補給もしてとなるわけです。

 

 ここでは強い現地の人として、マテンステロ、アラバストロ、ウルカヌスをあげてみましょう。

 マテンステロは多彩な魔法をワンアクションで使用でき、本人も凄腕の双剣遣いです。冒険屋としては殆ど最上級といっていいでしょう。この人が一番相性悪いです。豪快に見えて手数と技術で勝負する人ですので、単純に堅い未来を突破できません。属性防御が不要なくらい、それぞれの属性攻撃が弱いんですね。

 

 アラバストロの場合、ゴリ押しでいいところまで行くかもしれません。単発の出力が高く、魔力の回復も早いですから、言ってみれば城壁にひたすら大砲ぶち込む砲兵ですね。シンプルに単発火力が高いので、シンプルに削れます。ただ、紙月からの攻撃があるので、じり貧ですね。

 悲しいことに、魔力自動生産機能付きという規格外の性能なのに、ハイエルフとかいう雑な一言で紙月の方が豊富な《SP(スキルポイント)》量と回復速度誇ってるのでいいとこありません。

 

 ウルカヌスは火属性特化の非常に優秀な魔術アタッカーです。現在登場した人物中、火属性魔法は一番強い人ですね。未来の属性防御でようやくといったところで、酸素を焼き尽くす「欠如」を押し付けることができるので長期戦は危険です。ただ、属性がはっきりしてるだけに紙月に対処されやすいですね。

 

 最悪なまでに鈍足なので積極的攻めには向きませんが、仮に地竜のタマを移動手段にした場合移動要塞になります。バカの考えた最強かな?

 このような具合で、《魔法の盾(マギア・シィルド)》の二人を相手にした場合、突破は困難です。

 

 対処法としては、二人を分断させるのが一番ですので、独りでいる時を狙うこと。

 正面から戦う場合は、一度に対応できない複数の属性の強力な攻撃の波状攻勢とかですかね。

 あとは、まあ、足元で火山が噴火したら倒せるんじゃないですかね。

 

 とまあこんな感じです。

 本編ではもうすこし縛りがきつかったり、本人たちが常に最適解で行動できるわけではないことなどが理由で結構弱体化しますので、ドキドキハラハラして頂ければ幸いです。

 

 Jhon=Smithさんの質問の後半部分、「あと、ゴスリリによく出てくる固有名詞のルビは何語だったりとか。」に関してですが、ほとんどの場合、ゴスリリ本編第四章第五話で出てくる「エスペラント語」ですね。

 ただ、動植物の固有名詞などは、エスペラント語の既存の言語を組み合わせた「かばん語」だったりします。

 

 例えば角猪(コルナプロ)ですけれど、これは角を意味するコルノ(korno)と、イノシシを意味するアプロ(apro)を組み合わせたものです。

 もう少し変形が激しいものだと、ポケットや小型を表すポーショ(poŝo)と保管倉庫を意味するスタープロ(staplo)を合わせて《自在蔵(ポスタープロ)》ですね。もっと激しいのもあるので、あまり真剣に読解しないでくださいね。

 

 エスペラント語以外では、隣人種の名前などがありますね。

 土蜘蛛(ロンガクルルロ)はエスペラント語ですが、その氏族である足高(コンノケン)はアシダカグモの鹿児島方言です。天狗(ウルカ)はざっくり言えばサンスクリット語で天狗のこと。

 ただ、作者の人も語源を書き忘れて何だったか覚えていないこともありますので、謎なのもあります。

 

 さて、二つ目の質問に参りましょう。

 

「もしウルウがカモノハシモドキの肉を美味しそうだと思わなかったら、無補給のままで居られたのでしょうか。」

 

 ポテフレさんからですね、ありがとうございます。

 

 これはどういうことかというと、閠は転生後しばらくは眠気も空腹も覚えず、汗もかかず、意識するまでは生理機能が働いていなかったことに関する言及ですね。しかしリリオが鴨鼠(ソヴァジャラート)を食べるのを見て「美味しそうだ」と思ってしまってから、それらの生理機能が徐々に機能し始めていきましたね。

 

 答えとしましては、あの時点で回避できたとしても、どこかの段階で感覚を思い出してしまっただろうというところでしょうか。しかしもし仮にずっと思い出さないままだったら、無補給で行動可能だったでしょう。ゲームにはスタミナシステムも空腹システムもなかったからです。

 

 そもそも閠が無補給で問題なかったのは転生者としても例外的な事例で、シルマジの二人は転生直後からとくに意識せずとも普通に生理機能が働いています。

 これは転生直後の時点での閠の感性がド畜生ブラック社畜生活によって麻痺してしまっていたから起こってしまった一種のバグで、現在は修正されて……いるんでしょうか。謎です。

 カフェインやエナジーなドリンクの過剰摂取と早朝出勤深夜帰宅、徹夜も社内泊も刻み休憩も頻発していたために睡眠のリズムも感覚もぶっ壊れて眠いという感覚が常態化して麻痺、食事も時間になれば補充していただけで味覚的にも空腹感的にも麻痺、という悲しい現代社会の闇ですね。

 

 という感じでいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 今回頂いた質問は以上です。

 ほかに質問がある方、記事内での答え方がいまいちに感じた方、以前も質問したけどもう一度聞きたい、もっと詳しく知りたい方など、いつでもお待ちしております。

 こちらの感想欄や、活動報告のコメント欄、またTwitterアカウントなど、アクセス可能なところでご質問ください。

 

 それではまた次の機会にでも。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

なぜなにゴスリリ2

 おはようございます。会えなかったときのために、こんにちはとこんばんはとおやすみなさいも。

 長串望です。

 前回のなぜなにゴスリリはお役に立ちましたでしょうか。

 今回も皆さんから寄せられた質問にお答えしていきたいと思います。

 

 はい、というわけで今日の質問第一弾はこちらです。

 

「ウルウはガ〇ダムに勝てるのでしょうか。

全身鎧とかは関節部の薄い所を狙って即死が通りそうな気がするのですが、例えばゴーレムなどの無機物内に乗り込んでいる相手に即死が通じるのかなと。」

 

 いぬさんからです。ありがとうございます。

 

 まず、そうですね。ガン〇ムには勝てませんね。

 あの、版権的に。

 

 というのはまあ一応言っておくとして、実際のところどうなのでしょうか。

 一つ一つ考えていきましょう。

 

 前提として、閠の使う《死出の一針》をはじめとした武器の即死効果は、相手の生身の体にあたらなければ発動しません。

 生物相手の効果ですしね。

 なので当たらない限りは効果が出ません。

 

 ではまず全身鎧です。

 よく関節部分の隙間が弱点扱いされますが、試しに全身鎧で画像検索してみますと、驚くほど隙間がありません。装甲のない部分は弱いということはそりゃあ誰でも思うことなので、しっかり防御されていますね。

 可動部分も複数の装甲を綺麗につなぎ合わせて、滑らかに動くようになっています。

 きちんとした鎧だと歩き回ってもガチャガチャ音がしないそうですね。

 

 さあ《針》で相手を刺し殺すぞ、となってもどうも刺さりそうにありませんね。

 《針》自体の武器攻撃力は低いので、鎧をさっくり貫くことはできません。

 じゃあ鎧着てたら効かないじゃん、というのは少し待ちましょう。

 

 というのも、ゲームではちゃんと鎧着てる相手にも効くからです。

 皆さんも即死効果のあるゲームで、似たような場面を見たことがあるかもしれません。

 他にも、どうやったら効くねんというビジュアルの相手に毒や麻痺や眠りや火傷が効いたり。

 雑にゲームの効果を再現するプルプラちゃん様のことですから、鎧くらいならやれそうです。

 

 ならどうなるかといえば、恐らく目穴などのどうしようもない開口部をピンポイントで通すことになるのでしょう。

 もとがクリティカル前提のとっても確率の低い即死技ですから、そのくらいは必要でしょう。

 そして閠の幸運値ならそれができるでしょう。

 

 ということで、全身鎧は(よほど変なのじゃなきゃ)いける、ということでよさそうです。

 

 次に、ゴーレムなどの無機物に乗っている場合ですね。

 これも全身鎧の流れを使ってよさそうです。

 つまり、当てられるなら殺せるということです。

 搭乗席が完全に覆われ、物理的に《針》を届けることができないのであれば、即死効果の条件を満たすことができませんから、これは無理そうです。

 実質的には即死無効の無機物相手と同じでしょう。

 

 最後にガのつくアレですが、お察しの通り即死は効きません。

 ただ、そもそもの質問が「閠は勝てるのか」ですので、その答えとしましては、勝てる、かも、ですね。

 いろんなガがあるので、ここは横浜にも建造された初代ので考えていきましょう。

 

 ざっくりとした情報としては、高さが18メートル、重さは本体が43.3トンとのこと。

 えらく軽いですね。詳しくはないんですけれど、ずっと小さな戦車とかより軽いのでは。

 その軽いボディの装甲には、ルナ・チタニウム合金とやらが、特殊樹脂や強化セラミックを充填した三重ハニカム構造になっているとかなんとか。

 

 このルナ・チタニウム合金は、名前の通りチタンの合金の仲間で、放射線の遮断に優れているとか。宇宙での運用を考えると最重要案件ですものね、放射線。そしてその上で十分な強度も出せる、と。

 実際の強度はどんなものかというと、ザ〇の装甲材である超硬スチール合金の二倍くらいだとかなんとか。

 多分この合金も宇宙世代にふさわしい強度なのでしょうね。

 この超硬スチール合金の装甲はガのやつのバルカンで穴が開く程度であり、その二倍というと、まあバルカンの連射で穴が開きそうですね。

 

 即死攻撃は勿論効きませんが、閠はそういう即死の効かない相手を倒すために爆弾の類も常備していますね。数は限られていますが、それなりに威力がありそうです。

 ガのやつは人が乗って戦うものですから、当然乗り降りのための開口部があり、他にも可動部が多く存在しています。当然、簡単には壊れないようにできているでしょうが、やりようはいくらでもあります。

 

 基本的にガのやつは同じようなサイズの敵と、レーダーの効かない有視界戦闘する機体です。当然、人間サイズの敵と戦うようにはできていません。

 初代本編でも爆弾を直接取り付けられるなどの回があったり、シリーズにも工作兵による破壊工作がしばしばみられます。

 人間サイズの相手をとらえられるほどセンサーは敏感なのかは謎ですし、そもそも《隠蓑(クローキング)》などであっさり突破できる可能性は非常に高いでしょう。そのうえ機動武闘伝の住人かよってくらい身軽に移動できますので、18メートルの体を好きなように上るのも造作のないことでしょう。

 

 あとは直接爆弾を設置して爆破してやれば、十分勝ち目はあるかもしれません。

 

 断言できないのは、まあよそ様の作品なのもあるんですが、ほら、ガのやつに乗ってるのニュータイプなので。

 キュピーンされたら普通に気づかれそうで怖いですね。

 

 まあコラボ作品との戦闘は双方にあとくされの無いようにって言うあれもね!

 

 そんな形で誤魔化したところで、次の質問に参りましょう。

 はい、nabeさんからの質問ですね。ありがとうございます。

 

「ロマンサー達のゲーム時代での互いのPVP戦績ってどんなもんなんでしょう」

 

 ということで、《エンズビル・オンライン》内の戦績ですね。

 これがちょっと難しい。

 基本的に《EO》内ではプレイヤー同士は攻撃できないようになっています。

 PVPは示し合わせたプレイヤーたちが、特殊なマップに送られる形で行われます。

 人気なのはGVG、つまりギルドバーサスギルドとも呼ばれるものや、制限時間内に生き残ったものが勝ちの乱闘形式など大規模なものでですが、個人間やパーティ単位でもできます。

 

 個人間で勝負した場合、これといって何か手に入るわけでもありませんので、純粋に対戦ゲームしたい人、《技能(スキル)》の使い方を教えるために利用する人などが多いでしょうか。

 

 《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》たちは同じギルドのメンバーなので、GVGで戦ったことはあんまりありません。以前は別のギルドに所属してた人はあるかもです。

 乱闘形式の場合、お互いにお互いのことクッソ面倒くさいと思っているので、よほど競い合ってるか相性いいかでないと挑みさえしません。

 

 なのでほぼ戦績がない、という答えなんですけど、これでは面白みがありませんね。

 

 現在までに登場した転生者の内、戦闘に向いたメンバーの相性をちょっと考えてみましょう。

 閠ことエイシス、無敵砲台の紙月ことペイパームーンと未来ことMETO、そして春原雛菊が操作するHAL-1からHAL-4のHALシリーズ。この三組ですね。

 単純に数で考えた場合、一対二対四。数の面で言えばHALシリーズが強そうですが。

 

 ここはそれぞれの組が正面から、十分に相手への対策を組んだ上で勝負すると考えましょう。

 

 エイシスが無敵砲台の二人と勝負する場合、構えられる前に不意打ちしなければ勝てません。

 エイシスは驚異的な回避能力と貫通即死の一撃を持ちますが、逆に言うとそれ以外ありません。対無機物相手の爆弾や罠などは、完全に防御に徹した無敵砲台には届きません。

 そして貫通即死も当たらなければ意味がなく、その貫通即死も場合によっては防がれます。

 回避も万能ではなく、範囲攻撃を相手には《SP(スキルポイント)》を消費して耐えるしかありません。そして消耗戦になった場合スタミナのないエイシスはすり潰されるだけです。

 

 無敵砲台の二人は構えさえすればエイシスを防げますが、常時構え続けることはできませんので、いかに素早く接近を察知して構えるかが大事です。

 ペイパームーンは察知系の《技能(スキル)》を持っていますが、それは常時展開できるわけではありません。相手が範囲内にいなければ意味がないですし、《SP(スキルポイント)》の消費も馬鹿にできません。

 運よく察知に成功できれば、今度は接近を許さない猛攻が必要です。しかも単発の魔法は避けられ、消費の激しい範囲魔法を強いられます。

 METOは短時間であれば貫通即死さえ防ぐ絶対防御が可能ですが、あくまで短時間、それも《詠唱時間(キャストタイム)》が長いので即座には発動できず、《待機時間(リキャストタイム)》が非常に長いので二度は使えません。

 

 エイシスをいかに見つけるかが最初の難問ですが、その後も、無敵砲台は足が遅いため、エイシスは隙を見つけて逃げ出し、隠形を整えて再度挑めばいいため、エイシスが有利かもしれません。

 

 エイシスとHALシリーズはどうでしょうか。

 一対四と数はさらに不利になり、さらにそもそも貫通即死が効かない無機物種族ですね。

 ただ、一方的にHAL有利とはなりません。

 

 エイシスはやはり姿を隠しての接近、からの無属性攻撃アイテムの使用による攻撃という戦法になります。

 うまく接近できればあとはパーティのど真ん中で、あるいは後衛職の背後からひたすら爆殺を試みる形ですね。

 できれば支援職か魔法攻撃職を先に落とせればうまいこといくかもしれません。

 

 これに対してHALシリーズは、四体操作こそおかしいですが、それぞれの性能は普通の最大レベルキャラです。まあ自動人形(オートマータ)という種族は金さえかければいろんなことができる種族なのですが、それでも極振り連中よりよほどまっとうなパーティです。

 なのでいかにエイシスを察知するか、また攻撃された時に素早く反撃し、体勢を整えるかということになります。

 幸い、攻撃手段は察しがついていますので、その方向に防御を固めて、回復手段を用意しておけば、対処は難しくありません。狙われやすいところもわかっているのです。

 さらに範囲攻撃も使えるし、その大きな消費も四人パーティだから十分補えるという余裕があります。

 

 最終的には、積載量の少ないエイシスの弾切れですり潰される可能性が高いので、HALシリーズ有利でしょうか。

 

 最後に無敵砲台とHALシリーズですが、遭遇戦ならともかく、お互いに完全に対策を積んだ場合、千日手になる可能性が高いです。

 無敵砲台は相手に合わせて装備や《技能(スキル)》を組み合わせて万全の防御と苛烈な攻撃を実現していますが、これを四体で分担し、さらにフレキシブルに運用できるのがHALシリーズです。極振りほどの尖ったステータスは見せませんが、対応力はかなり高いのです。

 相手の弱点をうまくつく形になった方が勝利する、という程度で、お互いが完全に読みあってしまうと、単にぶつかり合って、消耗して、お互い倒し切れないまま日が暮れる感じですね。

 

 とまあ、恐らくこんな感じだろうと思われます。

 異世界に転生し、いろんなことに変化のあった現在では、どうなるかは神のみぞ知るということで。

 

 今回も皆様の質問にお答えしていきました。

 また質問がいくつか届きましたら、次回のなぜなにを更新しようと思います。

 それではまた。




感想・質問等、いつでもお待ちしております。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九章 天の幕はいま開かれり
第一話 鉄砲百合と北の輝き


前回のあらすじ

極北よりやってきたのは三人の特等武装女中。
なぜ女中なのか。
なぜ女中にこんな戦闘能力が必要なのか。
我々はいったい何を見ているのか。
女中とはいったい……。

そんなもろもろを石を投げつけるだけで終わらせる女がこちら!


「オーロラって見られるの?」

「おーろら?」

 

 ウルウがそんな問いを投げかけてきたのは、ある日の昼下がりのことだった。

 まあ昼下がりって言ったって、真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)の最中だから、時計ではそうなるって話だけど。

 

 その日は、って言うかその日も、あたしたちはリリオの私室でごろごろしてた。

 なにしろ辺境の冬ってのはできることが限られてくる。ここ何日かは雪も降っていたから、あたしたちはそろって引きこもっていたのだ。

 

 冬至祭(ユーロ)とか、ウルウがしたことないって言う雪遊びとか、季節外れの飛竜退治とか、まあ色々してみたけど、そんなのはもう一瞬よね。あとは全部、閉ざされた雪の中で退屈に過ごすしかない。

 

 領内を見て回るのにも限度があるし、御屋形の中だって一通り案内しちゃったら終わりよ。いくら立派でも、極端な話は住居なわけだから、そこまで見どころらしい見どころもないし。

 しいて言うならお庭だけど、それも冬じゃあね。

 

 ウルウはどうも御屋形様にちょっと目をかけられているのか目をつけられてるのか、たまにお茶に誘われてるけど、あたしとリリオはなぜか呼んでもらえない。

 嫁会なんだって。なにそれ。

 

 その御屋形様も冬場はやることがなくって、寒がりの奥様もやることがなくって、そうなるとやることしかなくなるからしばらく見てない。

 リリオはそのことに関して考えないようにしている。

 年の離れた弟か妹ができるかもしれないと考えるのも複雑だろうし、父親の胎が膨らむのを想像するのはきついものがあるんだろう。

 あたしはそれはそれで耽美だと思うけど。

 

 それでもしばらくは、プラテーノやプンツァプンツァと遊んでたけど、リリオが叱られたのでそれもお預けだ。

 一応リリオが拾ってきた愛玩動物だけど、面倒を見るのはもっぱら御屋形様や使用人で、懐いてるのもそっち。

 リリオはたまに遊んでやる、というか、玩具にするので、割と嫌われてる。本人はまるで気付いていないけど。

 

 ウルウは意外に愛玩動物たちを気に入ったようだった。

 というかモフモフが気に入ったようだった。

 生き物は苦手だって言うウルウだけど、どちらかというと小動物が苦手みたいだった。壊してしまいそうというか、どう扱ったらいいのかわかんないから。

 リリオの愛玩動物はみんなでかいのでその心配はない。

 

 ただ、そこは潔癖と言うかなんというか、触った後は手を洗う。

 プンツァプンツァのショックを受けたような顔が笑えもといあわれだった。

 まあ、でかいだけあって抜け毛もたくさんつくので、あたしも触った後は気を付けるけど。

 

 愛玩動物に拒否られて、御屋形様にも叱られたリリオは、室内での鍛錬に励んでいた。暖炉で温めているとはいっても、薄着でうっすら汗かきながら、逆立ちで腕立て伏せしてる。

 骨ばって色気に乏しいリリオだけど、こういう健康的に汗をかいてる姿は逆になんかこう、いい。

 

 ウルウは寝台にごろんと横になって、そんなリリオを眺めるともなく眺めがら、うとうとと半分まどろんでいた。

 ほとんど部屋から出ることもないから、雑な部屋着でくつろいでる。その無警戒で無防備で気だるげな感じは、なんか退廃美術めいたおもむきがあった。

 

 あたしはそんな対照的な二人を眺めながら短刀を研いでいた。眼福。

 

「オーロラは……あの、あれ。なんか寒い地方で観れる……空に光る幕みたいのが見えるやつ」

「ああ、北の輝き(ノルドルーモ)ね」

 

 北の輝き(ノルドルーモ)はきれいだけど、辺境じゃ別に珍しいものでもない。

 空さえ晴れていれば、そのうち見られる。

 でも冬だし極夜だしなんだかんだ外に出ないから、目にする機会がなかったわね。

 珍しくはないって言っても、見られるかどうかは運次第だしね。待ち構えても全然出てこなくて、少し休もうかと仮眠してる間に出てきたり。

 

 あたしも辺境に来たばかりの頃、うんと寒い晴れた晩に、夜空にはためく光り輝く帯のようなものを見てすっごく感動したもんよ。こんなにきれいなものが世界にあるんだって、泣きそうになったわ。

 でもいま思えば出血多量と低体温と激痛で意識がもうろうとしてたから、それで一層きれいに見えてたのかもしれない。笑ってるリリオも絶世の美少女に見えたし。

 死ぬ間際はなんでもきれいに見えるものよ。

 

 まあ、そうでなくても毎年見られるもんだから、いまとなっちゃあそんなでもないわね。

 たまに外出した時に運よく見れたりしたら、あらきれいねってなるけど、それだけ。

 空ばっかり見上げてるわけじゃないから知らないけど、かすかに漂うような程度のものなら、もしかしたら一年中見られるんじゃないかしら。

 

「お花見とかお月見とかみたいな感じで、北の輝き(ノルドルーモ)を見る行事とかないの?」

「うーん。まあ個人ではやるかもだけど、そんな大々的なのはないわね」

 

 昔は北の輝き(ノルドルーモ)を眺めるお祭りって言うか行事みたいなのもあったらしいけど、見ごろとなる時期はあっても確定で見られるわけじゃないから、廃れていったみたいね。

 ただ、冬至祭(ユーロ)とか、そう言うお祝い事の時に見事な北の輝き(ノルドルーモ)が出ると、すっごく盛り上がるわ。

 

「なによ。見たいの?」

「そりゃあ、まあ。せっかくだしね」

「じゃあ、見に行きましょうか!」

 

 逆立ちしながらリリオが言う。

 まあ、そうね。ウルウもここしばらくすっかり退屈してるし、リリオも体力を持て余してる。あたしだって、まあ、仕事はしてるけど、冬場は鬱屈するってもんよ。

 

「それじゃあ、準備がいるわね」

 

 とびきりの北の輝き(ノルドルーモ)を見るには、とびきりの支度が必要なのだ。




用語解説
北の輝き(ノルドルーモ)
 詳しい原理は省くが、北極・南極地帯で見られる大気の発光現象。
 いわゆるオーロラ。極光とも。
 帝国では辺境でよく見られるほか、北部でも山際が赤く燃えるように見える。

・プラテーノ
 リリオのペット。身の丈二メートルほどの白金の雌狼。
 辺境では普通の獣であってもみな大きく、魔獣のように魔力を持つという。
 群れを雪崩で失い一頭でうろついていたところ、かけっこをしていたリリオに出合い頭に轢かれ、そのまま拾われた。
 面倒見はいいがやや神経質。
 リリオが帰ってきてから雪の下の草などを掘り返して食べる頻度が増えており、胃薬なのではと言われている。

・プンツァプンツァ
 リリオのペット。身の丈四メートルの白い雌虎。
 親虎がリリオの乗る馬車に襲い掛かり返り討ちに遭い、みゃあみゃあと鳴いているところを拾われた。
 プラテーノより年下で、よく甘えようとして踏みつぶしている。
 人懐っこく、ややおつむが弱く、臆病。
 リリオが来るとプラテーノの後ろに隠れようとするが、おやつで簡単に釣れる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 白百合と旅支度

前回のあらすじ

オーロラを見てみたい。
叶えてあげたい、そんなささやかな願い……。
よっしゃ旅支度すんぞ。
えっ。


 さあ、北の輝き(ノルドルーモ)を見に行くとなったら、支度をしなければなりませんね!

 ただ見るだけなら庭から空見上げてるだけでいいんですけれど、でもそれではとびきりのとは言えません。

 この御屋形はなんだかんだ臥龍山脈のふもとなのでいうほど空も見えませんし、雰囲気に欠けるというものです。

 

 思い出しますねえ、懐かしいものです。

 私が子供の頃、やってきてくれたばかりのトルンペートは、北の輝き(ノルドルーモ)を見上げてとても驚いてくれました。

 それがなんだかとっても可愛らしくって、嬉しくって、私は一番きれいな北の輝き(ノルドルーモ)を見せてあげたくなったんです。

 辺境にすっかり慣れて、まあこんなもんよねって見飽きてしまう前に、とびっきりの輝きを見て、ずっと覚えていて欲しいなって、そう思ったんです。

 

 だからトルンペートの手を取って、ふたりで北の輝き(ノルドルーモ)を見に行ったんですよね。

 ああ、いまでも覚えています。あの日の北の輝き(ノルドルーモ)の鮮やかな輝きを。

 空一面に輝く薄絹のようなものが揺らめきながら広がっていって、まるで私たちを迎えてくれたみたいでした。

 トルンペートもとても感動してくれて、ぽろぽろと涙をこぼしながら空を見つめていましたっけ。

 

 その後すぐに目から光が消えそうになりましたけど、追いかけてきていたペルニオたちが修理してくれましたのでなんとかなりました。

 いやー、あの時は大変でしたね。私もとっても叱られてしまって。

 私もさすがに成長しましたので、ちゃんと壊さないようにできるようになりましたとも。えへん。

 ウルウはなんだかんだ壊れないのでちょっと甘えちゃいますけど、あんまりやると怒らせてしまいますので気をつけないといけませんね。

 

 冒険屋として荒くれを相手にしているので忘れられがちですが、私もこれで貴族の令嬢です。

 ウルウも見直すような、ご令嬢の差配というものを見せてやりますよ!

 

「……見せて差し上げますわよ?」

「なにさ急に気持ち悪い」

 

 ぐへえ。

 まあ言葉づかいではないですよね。そう言う安直なのはダメですよね。

 気を取り直して、早速支度を進めましょう。

 

「トルンペート」

「ええ。幸いなことに、天気予報もしばらくは晴れ続き。気温も低めで夜空も良く見えそうよ」

「なるほど。では、」

「馬車はちょうど買い出し用のが空いてたから、一式詰めてもらったわ」

「それでは、」

「あたしたちも荷物は殆ど解いてないし、厨房に食糧詰めてもらったら終わりよ」

「…………これがお嬢様の差配ですことよ!」

「うーん、あながち間違ってもないような」

 

 まあ、主人の意図を正確にくみ取って差配する優秀な侍女こそが、お嬢様の価値を高めるわけですよ。

 そういうことにしておきましょう。

 実際問題としても、普段家のことに口を出さない私があれこれ言うより、家の備品や備蓄について詳しいトルンペートの方が効率がいいのは当然なんですよね。

 なんなら私は御屋形に何台の馬車があるのかもよく知りません。

 

 トルンペートがてきぱきと指示を出して使用人たちと準備を整えていってしまうので、お嬢様は暇になってしまいました。

 うーん。

 私たちの手荷物の準備を、と言っても、かさばる荷物はウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》に入ってますし、鎧なんかはすぐに装備できるようにしてますし、なんならふらっと旅に出ることもできるんですよね、私たち。

 いままで旅続きの冒険屋でしたからね……今の長逗留が例外なわけで。

 

 ウルウも手持ち無沙汰になって、ふらっとどこかへ行ってしまったので、いよいよ私はやることがありません。

 仕方がないので、ここはうちの愛玩動物たちを愛でようと思い立ちました。

 久々に帰ってきたときも、一通り愛でたのですけれど、しばらく会っていないうちに距離感ができちゃったんでしょうかね、ちょっと塩対応されてしまいました。

 なのでここはちゃんと、私が飼い主であること、私がお前たちを忘れたことなんかなくて今でも愛情を注いでいますよと言うことを、伝えておかないとですね。

 

 うちの愛玩動物たちは、辺境の動物のご多分に漏れずみんな大きいので、小さな小屋では窮屈ですから、基本的に放し飼いです。

 御屋形の中をうろついたり、庭でうろついたり、好きに過ごしています。

 もちろん、みんな賢いので、そこらで粗相をすることもありませんし、使用人に悪戯することもありません。うっかり花瓶を割ってしまうことさえありません。

 なので昔はよく、この子たちはできるのにお前はどうしてなんでもかんでも壊してしまうんだろうねとお父様に叱られたものです。

 

 まあ私のおてんばな子供時代のことはともかくとしまして、いまはうちのかわいい子たちを可愛がってあげなければいけません。

 しかし動物というのは気ままなもので、こちらがかわいがってやろうとするときに限ってそっぽを向いてしまうもので、私が撫でてやろうとする前にふいっと去ってしまいます。

 さては私がしばらく留守にしていたので拗ねているんでしょう。可愛い連中です。

 

 どこかにちょうどいい可愛がり対象はいないかとうろついていたところ、階段のてすりにもたれかかったマルマーロを発見しました。ぷすーぷすーと平和な寝息が聞こえてきますね。

 この酔っぱらいが帰宅途中で力尽きたような寝姿を見せるシロクマは、凍った湖で溺れていたので助け上げて、家に連れてきてあげたのでした。

 

 マルマーロは寝るのが大好きで、どこでも寝てしまいます。

 退屈した私が寝ているところを無理に構おうとして、お父様によく叱られたものです。

 そっとしてあげましょう。

 

 うーん。動物たちのことを思い出すたびにお父様の影がちらつきます。

 それで、ふと思い立って家族も誘ってみることにしました。

 せっかく実家に帰ってきたのに、なんだかんだ家族間交流が乏しかった気もしますし。

 

 しかし、これは失敗でした。

 たまには家族旅行なんかどうでしょう、なーんて言い出すのはいつも仕事で外に出てる家のことなんか何にもわかっていない男親が相場らしいですけど、私もそうだったかもしれません。

 

 お父様の執務室を尋ねてみると、長椅子でお母様とお茶をしているところでした。

 

「ええ? 北の輝き(ノルドルーモ)? ああ、あのきらきらしたやつね」

「そうです。ウルウが見たことないって言うので、見に行こうかと」

「うーん私はいいわ。寒いもの」

 

 まあ、お母様は冬場は一歩たりとも外に出ませんもんね。

 飛竜でも出たら暇つぶしに行くかもしれませんけど、前科があるのでもうお父様が出してくれない気もします。

 

「当主が気軽に出歩くわけにもいかん。お前たちだけで行っておいで」

 

 そのお父様はと言うと真面目なもので、涼しい顔でそんなことをおっしゃいます。

 はあ、まあ、辺境の棟梁としてご立派だとは思いますけど。

 

「近くありません……?」

「だって寒いんだもの」

「ふ、夫婦ならこのくらいの距離は普通だ」

 

 お父様、普通の夫婦は、ぴったりくっついて腰を抱かれて一枚の毛布にくるまれたりしないと思います。

 あと毛布の下でもそもそいじられたりもしないと思います。

 お母様はもっと自重すべきだと思いますし、お父様はもう、なんかもう、アレです。

 

 昼間っから()()()()()()()というか、もしかしたら小休止中だったのかもしれません。

 自分の親のそう言う一面を見るのは、何とも言えずもにょりますね。

 

 そんなもにょり顔でティグロを訪ねたら、何にも言わないうちから察してくれたのか、苦笑いであったかいものを出してくれました。

 

「まあ、僕もちょっとどうかなって思うけど、あれでも随分寂しかったみたいだからさ。あれも愛の形ってことで、見ないふりしておこう」

 

 お父様と似た美貌の、でもお母様と似たいたずらっ気のある口元が、そんなことを言います。

 ううん、ティグロは私と二歳しか変わらないのに大人ですね。この年頃の二年というのはそれほどまでに大きいのかもしれません。

 なんというか、頼もしさと悔しさみたいなものがまじりあいます。

 

 昔はティグロにもよく遊んでもらったものですけれど、帰ってきてからは何となくウルウたちとばかり過ごしていて、すっかりご無沙汰だったかもしれません。

 なのでいい機会だし、一緒に行きませんかと誘ってみたのですけれど、ティグロは私の頭をわしゃわしゃ撫でまわして言いました。

 

「ああもう、リリオ、僕の可愛いリリオ、本当にお前は可愛いことばかり言うね。そりゃあ僕だって行きたいさ、行ってあげたいともさ。でもねえ、でもリリオ、僕だってそんなに野暮じゃあないよ」

「野暮?」

「新婚旅行くらい、水入らずで楽しんでおいて」

「しんこんりょこう」

 

 馬鹿みたいに繰り返した私に、ティグロは悪戯っぽく笑うのでした。




用語解説
・貴族の令嬢
 もはや誰も期待していないが、この娘、一応辺境伯の令嬢なのである。
 帝国ご令嬢ランキングみたいなものがあれば頂点争いしてもいいくらいの格なのである。
 なお実態はお察し。

・マルマーロ
 リリオのペット。体長三メートルちょっとの雌のシロクマ。
 湖でアザラシを捕っていたところ、運悪くリリオに襲撃され、咄嗟に死んだふりをしたところ家まで拉致られて現在にいたる。
 賢くふてぶてしく、特技は寝たふりと死んだふり。
 よく二本足で立ち、肩をすくめるようなアメリカン仕草をする。
 中におっさんが入っているのではないのかと疑われるレベルで仕草がおっさん。

・新婚旅行
 帝国にも新婚旅行の風習はあるようだ。
 定番としては風光明媚な観光地や、歴史ある帝都、近年では海を挟んだ華夏に向かうカップルも。
 とはいえ交通手段が限られているため、お金と余裕がある富裕層の習慣のよう。
 一般的には実家や親戚巡りなど、近場で済ませる傾向がある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 亡霊と新婚旅行

前回のあらすじ

おてんば令嬢リリオは、旅の支度を差配しようとするもうまくいかず、落ち込んでしまう。
そんなリリオを、家族は優しく見守り、見送ってくれるのだった。


 なんだか大ごとになっちゃったなあ、なんて他人事のように思っちゃったけど、私の発言が原因でこんなことになっちゃってんだよなあ。

 静かだった御屋形は騒がしく人々が行きかうようになり、使用人の皆さんがあれこれと支度をととのえてくれている。

 話聞いてただけだと、なんか馬車も用意してるらしいし、食料がどうのとか言ってるし、どうも日帰りではないような遠出をするみたいな感じだった。

 

 うーん。

 マジで大ごとになってしまった。

 

 いや、軽い思い付きだったんだよね。

 極夜とかあるしさあ、北欧とかに近い感じなのかなあってぼんやり考えてて、じゃあオーロラ見れるんじゃないかなって。

 

 テレビでは見たことあるんだよ、オーロラ。

 でもツアーとかでもさ、見れるかどうかは運次第みたいなこと毎回いうし、旅行行くような余裕なんてなかったし。

 それが何の因果かこうして北国にやってきて、もしかしたら見れるんじゃないかなーって、そういう、あわよくば精神みたいな。

 

 別に、絶対見たい! って言うほどじゃないんだよ。

 せっかくだから見れるなら見ておきたいなみたいな。

 でもそれって、庭先でお喋りしながらチャンスを待って、運よく見れたらよかったねーって感じで、済むかなあって思ってたんだけど。

 

 済まなかったね。

 全然済まなかった。

 

 出不精っちゃあ出不精な方だけど、きれいなものは見たいし、素敵なものは探しに行きたい。

 いい加減やることもなく家の中にこもりっきりってのも飽きてきたから、外出したくはあったよ、そりゃ。

 だからありがたいはありがたいけど、規模がでかすぎて腰が引けるというか、わくわくはするけど、でも、申し訳ないというか。

 ちょっと車出そうかみたいな感じで旅行計画立てるくらいにはフットワーク軽いし、お貴族様なんだよなあ、リリオ。

 

 トルンペートは準備で忙しくしてるし、私はやることもないので、《隠蓑(クローキング)》で姿を消しながら支度の様子を見物してみた。

 厩の方では幌付きの大きな馬車、という名の大ぞりが用意されて、ストーブやら毛布やらいろいろと旅に必要そうなものが詰め込まれていた。ボイの馬車もこんな感じだったなあ。

 あの子、置いてきちゃったけど、まあ辺境の雪の中に連れてくるより、南部で暖かく待ってもらった方がいいだろう。

 

 馬車をひくのは、例の巨大なモグラ、雪むぐり(ネヂタルポ)だった。

 飛竜たちも運動不足じゃないかなと思ったけど、連中は冬は冬眠と言うか、ほとんど寝て過ごしてるらしい。君ら極寒の北極から来たんじゃないのか。

 

 大モグラに姿を消したまま近寄ってみると、なかなか毛並みがいい。多分。

 目が完全に毛に埋もれていて、サツマイモみたいな体型なので、前後がわかりづらいけど、一応鼻はつんと突き出ている。

 他の馬じゃない馬を見ても思うんだけど、この世界の人たちはよくまあこんなへんてこな生き物を家畜にしようなんて思い立ったものだ。

 なんか家畜の神とか牧畜の神みたいのもいるんだっけ。リリオ解説がなかったので詳しくはない。

 

 厨房をのぞいてみると、トルンペートがキッチン・メイドさんとかとあれこれ話しながら食材を箱詰めしてた。

 私のインベントリに放り込めば鮮度も量も気にしなくていいし、何なら新鮮食材がすでに山のようにあるんだけど、そのあたりをあえて御屋形の人たちに公開する必要もない。貰えるものは貰っておくべき、ってことかな。

 

 それに辺境のものはまだあんまり買い込んでないから、辺境の味と言うか、そう言うものを楽しむ意味でも嬉しい補給だ。余った分はインベントリないないしちゃえばいいし。

 

 私がうろちょろしてると、トルンペートは気づいたみたいでちょっと片眉をあげたけど、《隠蓑(クローキング)》で隠れてるってわかったから、何にも言わないでくれている。

 パーティメンバーには、半透明の姿で見えちゃうんだよね。

 パーティから外せば見えなくなるとは思うけど、外し方がわかんないし、そもそも今更彼女たちをパーティから外せるかっていうと難しそうだ。

 

 私は何となく、そうしてしばらくトルンペートの仕事ぶりを眺めていた。

 昇格試験の時に、人を使うのは慣れてないって言ってたけど、私からすると結構うまいことやってるように見える。

 上司として部下を使う、って言うのじゃあ確かにないけど、どういう用事の時は誰に声をかければいいのかをよくわかってるし、その相手にどういうふうに頼んだらいいかもわかってる。

 この人には顔を合わせて伝えるとわかりやすい、この人にはメモにまとめた方が伝わりやすい、って。

 誰かに用事を頼んでる間に、手持ち無沙汰な時間が全然できないのもすごい。

 自分の仕事だけじゃなく、他の人の仕事のペースとか、そう言うのをうまく勘案している。

 こいつはあっちに行くからついでに伝言も頼もう、あの人今日はあれしてたからあの件について聞いておこう、そういうのを、計画的にじゃなく、その場の判断で器用に回してる。

 

 私はそう言うの全然ダメだったなあ、なんてちょっと思い出す。

 人に仕事を任せることも、頼ることも、全然できなかった。

 他の人がいま何をしているのかは、わかってた。全部覚えてた。

 このペースだと間に合わないなとかもわかってた。

 この人に手を貸せば、この人に助けてもらえばもっと早く済むなとかもわかってた。

 でもなにひとつできなかった。

 ひとりで黙々と作業を進めていた。

 

 トルンペートは楽しそうに笑い合い、お喋りしながらも作業を進めていく。

 その周りにいる人たちも、それにつられて仕事を進めていく。

 私にはこれも、できなかったなあ。

 お喋りして全然仕事が進まない奴ら、そのくせ人の作業にはケチつける奴ら、自分たちがさぼってたから進んでないのに人に押し付けてくる奴ら。

 それに、そういうのがわかってて、何にも言わないで心の中だけで文句を言ってた私。

 

 あの人たちと仲良くできたとは今でも思わないけど、それでもまあ、私もずいぶん不器用だったんだなって、そんな風に思う。

 

 私は他の人の邪魔にならないようにトルンペートに近寄って、耳元に頑張ってねって言い残して後にした。

 

「うへあ」

「なにトルンペート、キモい声出して」

「キモい言うな。いやちょっと、あれよ、あの……淫魔が」

「淫魔が!?」

 

 ある程度準備が整って、出発は翌日の早朝だった。

 私たちはもうすっかり手慣れた旅支度をととのえて馬車に乗り込み、御屋形の人たちに見送られて出発する。

 御者はまずトルンペートが担当して、残り二人は幌の中で暖まる。

 それで、こまめに交代して休憩しながら進む。

 そう言う形になるようだった。

 

「ずいぶんな大荷物になったけど、どれくらいかかるの?」

「そうねえ、まあ普通に進めば何日かくらいじゃないかしら」

「天気もしばらくいいみたいですし、遅れても一週間まではいきませんよ」

「ふむん」

 

 飛竜の旅とかで感覚がマヒしてるけど、まあボイの馬車の時もそんな感じだったかな。

 馬車で数日と言えば、近いと言えば近い。多分一日で五十キロとか六十キロとか、そのくらいじゃないかな。それかけるところの日数だ。

 速いように思えて、実際のところは馬車ってそんなでもないんだよね。

 整備された道を行っても、歩くよりは早いかなってくらいの速度だ。時速何キロかなってくらい。走れば追い抜けるくらいだ。

 自動車や電車に慣れた地球人からするとちんたらしてるようにも思えるけど、なにしろ生き物がひいてるんだ。無理に急げば疲れるし、疲れればその後の回復にも時間がかかる。

 長距離を旅するには、これくらいの速度が限度みたいだ。

 

 なんて訳知り顔で言ってみたけど、この感覚も信用ならない。

 というのも、馬と一口に言ってもこの世界の人間大雑把すぎるので、騎乗する動物はなんでも馬なのだ。

 普通の馬も馬。犬も馬。鳥も馬。この雪むぐり(ネヂタルポ)も馬。

 なので馬車と一口に言っても、平均速度も、持続距離も、全然変わってくる。

 

 それに、内地では宿場がしょっちゅうあったけど、辺境ではそこらへんは整備がされてないみたいで、夜は野宿になるだろうという話だった。

 野宿となるとその準備も時間を食うから、なんて考え始めると、私にはさっぱり旅程がわからなくなる。

 なので何も考えず揺られている、というのが最適解なのだった。

 

「新婚旅行なんですからウルウはゆっくりしててくださいね!」

「はあ?」

 

 成程そうなるのかと思ったが、そもそも式も挙げていない、などと真面目に考えてしまって、私はリリオにアイアン・クローを決めていた。

 

「照れ隠しが痛い!」




用語解説
・《隠蓑(クローキング)
 《隠身(ハイディング)》の上位スキル。《暗殺者(アサシン)》が《隠身(ハイディング)》を一定レベルまで上げると取得可能。姿を隠したまま移動できる。ただし低レベルでは移動速度が遅く、実用に足るレベルまで上げるのは苦労する。また使用中に攻撃を仕掛けると自動で解除されてしまう。
『アレドの殺し屋は孤独なものだ。仕事の時も休みの時も、死んだ時さえ誰にも見つからないのだから』

雪むぐり(ネヂタルポ)(Neĝtalpo)
 魔獣。巨大なモグラの仲間。冬場は非常に軽く長い体毛を身にまとい、雪に沈まずに移動できる。
 夏場は換毛し、土中のミミズなどを食べる他、果物などを食べる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 鉄砲百合と魔法の懐炉

前回のあらすじ

軽い気持ちで言い出したことが大ごとになってしまい戸惑うウルウ。
新婚旅行を前に遅めのマリッジブルーな気分。
その頃トルンペートは淫魔に耳を犯されていた。


「あだだだだだだっ! 顔が! 顔が取れます!」

「取れてから言って」

「手遅れでは!?」

 

 なんか後ろがうるさいけど、まあ出発は上々ね。

 空は良く晴れてるし、風もそんなにない。空気はかなり冷えるけど、風がないだけでずいぶん助かるわ。

 真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)の時期だから、いつまで経ってもお日様は暖めてくれないけど、そのかわり目が焼けることもない。

 馬車をひく雪むぐり(ネヂタルポ)も調子がよさそうで、軽快に進んでくれる。

 冬場の移動って言うのは色々大変だから、そういうちょっとした幸運でもありがたいものね。

 

 雪国ってのはどこもそうかもしんないけど、冬場の移動ってかなり退屈なのよ。

 なにしろ雪で真っ白、どこまでも続く銀世界。景色を眺めて気を紛らわそうにも、いつまで経っても変わり映えしないんだから、つまんないもんよ。

 ウルウなんかは結構面白そうなんだけど、まあそれも今のうちだけよ。

 あたしなんかはもうすっかり慣れて、飽きて、嫌いにもなりそう。

 それでもまあ、うんざりしながらもどうしようもない馴染み深さを感じるし、内地の雪のない景色に物足りなさを感じちゃうんだから、郷愁っていうのはまるで呪いね。

 

 しかもこの退屈は、ただうんざりするだけじゃなくて、命にもかかわってくるのよ。

 いくら慣れてるって言っても、辺境って、寒いのよ。

 ただ寒い寒いって言っても内地の人間にはわかんないでしょうけど、水が凍るよりもずっと寒いの。

 真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)の間はお日様も出ないもんだから、その寒さときたら息も凍るし、まつげも凍るし、下手すると眼球が凍っちゃうくらいよ。

 露出してる顔なんかは皮膚も凍っちゃうかもしれないから、油や軟膏を塗って気をつけないといけないわ。

 

 あたしはこの道も慣れてるから、普通に進んでる分には迷ったりはしないけど、でもそうじゃない人だったら、一面真っ白で目印もない世界じゃ、遭難待ったなしよ。

 そう言う点では、雪上の旅は、船旅に似てるわね。

 目印のない海上で、太陽と星だけを頼りに何か月も船を走らせるように、辺境人は雪の上を旅する。

 あたしだって、星や太陽からある程度の進路は決められる。

 でももし吹雪いたり、何か問題があって道を間違えたら、ちょっと覚悟しないといけない。

 何の覚悟かって、春先の雪解けで発見される未来をよ。

 

 冗談じゃなく、凍死ってのは身近なものなのよ。

 男爵閣下に頂いた大箆雷鳥(アルコラゴポ)の防寒具を着込んでるけど、それでも御者席でボーっとしてたら、眠るように死んじゃう。

 辺境の冬場はみんな帽子とか頭巾をかぶるけど、これはお洒落とかじゃなくて、単純に、そうしないと脳が凍って死ぬからなのよね。

 もし旅程が狂ったら、食料、水、燃料、どれが足りなくなっても、あたしたちを待つのは凍って死ぬ未来だ。

 

「まあ、気を付けてても、毎年凍死者が出てるわよ」

「飛竜より寒さでの被害の方が多いですよねえ」

「怖っ」

 

 死ぬだけじゃなくて、雪焼けも怖い。凍傷ってやつね。

 寒いはずなのに、手足が火傷したみたいに腫れあがったり、ひどい時は腐ってしまって切り落とさなきゃならなくなる。

 だから、寒いからってじーっと縮こまってないで、ちょこちょこ手足や指先を動かして熱を作らないといけない。気づかないうちに凍っていて壊死しましたなんて笑い話にもならない。

 なにしろ冷えてくるとまず感覚がマヒしちゃうから、本当に気づけない。

 

 そしてそれだけじゃあ当然持たないから、短い間隔で交代するし、休憩も頻繁に取る。

 あったかいものを飲んで、活力になるものも食べる。

 おやつ食べるってんじゃないの。燃料をくべるようなものよ、これは。

 

 こういう時に重宝するのが、昔ながらの熱量食である朝駆け(マテン・ライディ)ね。

 寒さでとんでもなく硬くなるけど、これを軽くあぶって食べると、生存率が上がるわ。

 冗談じゃなく、朝駆け(マテン・ライディ)が開発されたころに統計取ったんですって。いまでも非常食としてこの時期はどの家にも置いてあるんじゃないかしら。

 最近だと楂古聿(チョコラード)なんかも効果が高いって言われてるけど、これはまだ高価なのよね。南部からの輸入になるし。

 

 昔ながらの人だと、脂身を食べたりもするわ。生のやつ。

 体の中で熱になりやすいし、栄養も豊富なんだって。

 

 お酒を飲む、って言うのも一つの手だけど、これは良し悪しね。

 お酒を飲めば、血管が開いて血の巡りがよくなって、暖かくなった気にはなるわ。

 でもそれは血のめぐりがよくなったからであって、身体に何かあたたかいものが付け足されたわけじゃないの。

 むしろ体のあたたかみが、外に逃げやすくなるってことでもあるのよ。

 ちょっとのお酒で寒さを誤魔化すのはいいけど、頼り過ぎると死んじゃうわ。

 辺境では、貧乏人は強い酒を飲んで、それで道端で死ぬわね。

 金持ちはより強い酒を飲んで、道端で死ぬわ。

 

 外が寒いから、幌の中は遠慮なしに鉄暖炉(ストーヴォ)を焚いて温める。

 中の人が暑いと感じるくらいにね。そうじゃないと、御者席で凍え切った体を温めることはできないもの。

 でも汗をかいたまま外に出ると凍っちゃうから、そこは気をつけないといけないわね。

 

 あたしが後ろからじんわりこぼれ出る暖気を背中に感じてると、のっそりとウルウが出てきた。

 

「はい、あったかいものどうぞ」

「あら。あったかいものどうも」

 

 受け取って、湯気を顔に浴びる。

 すすってみれば、それは塩気の効いた汁物だ。表面には蓋をするように脂が浮いている。

 寒いと言っても、防寒具の下では汗もかく。汗をかけば塩を失う。

 脂も塩も、寒さを乗り切るのに大事なものだ。

 

「ね、寒いでしょ。交代しよっか」

「まだ大丈夫よ。それに、交代するって言っても、あんた道わかんないでしょ」

「それもそうだけど……中は退屈だし」

「外も退屈よ?」

「でも隣にいたらあっためてあげられるよ」

「ふむん」

 

 ちらっと横を見ると、ウルウは懐から銀灰色の容器を取り出した。

 触れていると体が暖かい膜に覆われたようにあたたまる、不思議な魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)だ。

 隣にいてもらわなくても、それを貸してもらえば済む話ではある。

 あるけど、ふむん。なるほどね。

 ウルウは銀世界を楽しみたい。

 あたしはあったまりたい。

 

 思いついて、ウルウを隣に座らせる代わりに、後ろから抱えてもらった。

 あたしはリリオより大きいけど、でもウルウからしたら大差はない。

 すっぽりとウルウの腕の中に収まって、二人で魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)を抱え込めば、二人とも暖かい。

 なにより、背中に感じる()()()()が、あたしをほっこりさせてくれる。

 

「あー! ずるい! トルンペートずるいですよ!」

「交代よ交代。かわりばんこ。あんたも後でやってもらったらいいじゃない」

「ぐぬぬぬ」

「でもこんなにあったかかったら交代しなくてもいいかも」

「ちょわー!?」

「冗談よ冗談……気が向いたらね」

「ちょっとトルンペート!? 独占禁止です!」

「この前のポーカーの負け分、まだ受け取ってないわよ」

「むぐぐ……う、上乗せして返しますから!」

「うーん、私の体が私の意思に反して取引されてる」

 

 結局、あたしはウルウをしばらく堪能して、リリオから三度ほどせっつかれるのだった。




用語解説
・目が焼ける
 雪国では実は冬場の方が日焼けする、と言ったら笑うだろうか。
 北方はオゾン層が薄いから、というのもあるが、足元の雪に反射した日光が照り返してくるので、上から下からダブルで焼かれるのである。
 このため、目が日焼けする雪目というものが起こる。
 皮膚でさえ日焼けしたらぴりぴり痛むのだから、眼球となると涙が止まらなくなる。
 北部や辺境では、この雪目を防ぐために古くからスリットの入った板を目元に当てる遮光器が用いられ、近年では色眼鏡も使用されている。

大箆雷鳥(アルコラゴポ)(Alko-lagopo)
 オオヘラライチョウ。
 大陸最大級の羽獣。辺境及び北部の一部に棲息。雄は箆状の巨大な角を有する。
 成獣の体長は三メートル前後、肩高は二メートルに及ぶ。
 記録では一トン越えの個体も見られる。
 草食ではあるが、成獣は熊木菟(ウルソストリゴ)をはじめとした大型肉食獣を追い払うないし殺傷することが可能である。
 針葉樹林及び沿岸部でよく見られる。
 夏は褐色、冬は純白の羽毛に換毛する。
 羽獣としては珍しく足にも羽毛がある。
 毛皮は防寒性、防水性、耐久性に優れ、肉も食用になるが、仕留めるのには危険が伴うため、傷の少ない毛皮は非常に希少。

朝駆け(マテン・ライディ)(Maten rajdi)
 力強く朝の空を駆ける飛竜の影、また朝駆けしても体力が続くように、という名づけとされる。
 元は後述の名前だったのだが、内地からの客に供する際にさすがにそのままでは品位に欠けるということで、急遽名付けられた。
 材料は竜脂または獣脂、バター、牛乳、砂糖、メープルシロップ、胡桃などの種実類、ドライフルーツ、冷凍させて水分を抜いた凍み芋、山栗(カシュターノ)など。
 ざっくりとした調理法は以下のようなもので、すなわち脂及び糖、シロップを煮溶かした乳を加熱して練り、凍み芋や山栗(カシュターノ)のペーストと合わせ、蒸し窯で練り上げ、種実類やドライフルーツなどを混ぜ込む。
 ある種のキャラメルに近い。
 出来上がったものを四角く幅広い容器に広げ、ある程度固まってきたところで巻物状に丸め、冷やし固める。固まったものを端から輪切りにし、一巻きずつ提供するのが普通。
 近年では最初から細かく切り分けたものも見られる。

楂古聿(チョコラード)(ĉokolado)
 いわゆるチョコレート。
 豆茶(カーフォ)と同じく南大陸で発見され、輸入される可可(カカオ)(Kakao)から作られる。割と高価な品ものなのである。
 チョコレート菓子を最初に作ったものは、神の啓示を受けたと主張しており、「神は()()()()()()()()を望んでおられる!」という発言が当時の新聞に残っているが、完全に発狂していて詳しくはわからなかったとのことである。つまりいつもの。

・銀灰色の容器
 正式名称《ミスリル懐炉》。ゲームアイテム。
 装備すると、状態異常の一つである凍結を完全に防ぐことができる。
 ほぼ全ての敵Mobが凍結攻撃をしかけてくる雪山などのエリアでは必須のアイテム。
 燃料などの消費アイテムも必要なく、なぜこれで暖が取れるのかは謎である。
『地の底より掘り出され、ドワーフが鍛え上げたまことの銀。を、贅沢に使用した高級感あふれる仕様でお届けいたします』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 白百合と遠くから来た人

前回のあらすじ

試され過ぎた大地では油断したものから脳が凍って死ぬ。
だが言ってることは大体与太と茶番なので、脳死で読んで特に問題はない。


 結局あれから、トルンペートはなかなか交代してくれず、暖かい幌の中なのに心は寒いままでした。

 むむむ。

 その上、ようやく交代してくれたときもウルウと一緒に引っ込もうとするので油断なりません。

 ダメです。今度は私の番です。

 

「いちおう私の体は私に所有権があるんだけど」

婦々(ふうふ)なので共有財産です」

「その理屈で言うと君たちも私のものになるんだけど」

「そうですよ?」

「そう…………なんだ?」

 

 ウルウのツボはよくわかりませんが、ウルウの恥じらう顔は何度見てもいいものですね。

 観賞しようとすると即座に顔面をわしづかみにされるので、少ししか見れないのもまた趣きがあります。

 

 幌の中に引っ込んだトルンペートに変わって、ウルウの膝に座ります。

 誰かの膝に座るって、なんだか不思議な心地です。

 

 もっと幼い頃は、お母様やお父様がしてくれました。

 ティグロもしようとしてくれましたけれど、体格差がそんなにないので難しいものでした。

 トルンペートは、膝枕はありますけれど、膝に座ったことはありません。

 

 血のつながった家族でもなくて、面倒を見てくれる使用人でもなく、それでも、こうしてぴったりくっついて、膝の上にちょこなんと座っていると、なんだか不思議にドキドキして、それでいて落ち着くのでした。

 

 私のお腹のあたりに腕を回して、触れるとも触れないとも言えない微妙なあたりでとどめているウルウは、少し緊張しているのでしょうか。あまり、落ち着いてはいないのかもしれません。

 たくさん抱き着いて、肌を合わせて、口づけだってしましたけれど、ウルウはいまもまだ奥ゆかしく恥ずかしがり屋で、そして他者の存在というものに慣れていないのかもしれませんでした。

 

 私がゆっくりともたれかかって、頭の重みを鎖骨のあたりに預けると、ウルウの体はよくできた椅子の背もたれのようにピンと伸びました。

 それで、私の頭の後ろの方で、どうにも居心地悪そうに、さまようように吐息が流れるのを感じます。

 うふふ。可愛いですね。

 なんだか悪い子の気分です。

 それでも離れていかないでくれるウルウのことを試しているみたいで、なんだかドキドキします。

 

 とはいえ、そんな甘酸っぱいドキドキも容赦なく薙ぎ払っていくのが大自然の厳しさです。

 少し風が出てきて、かるい地吹雪が視界を邪魔します。

 降り積もった新雪が、風にあおられて散らばるのです。

 風がもっと強くなってくれば、吹雪と大差ありません。

 

 ウルウが隠し持っていた魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)はとても暖かいもので、触れているだけで体をあたたかい膜が包むような、不思議な代物です。

 最近までトルンペートと二人で秘密にして、秘かに暖を取っていたのです。

 こんな素晴らしいものを内緒にしておくなんてひどい嫁たちですよ。

 

 まあそんな魔法の懐炉(マノヴァルミギロ)なんですけれど、これは直接冷たいものに触ったときは普通に冷たく感じる様で、つまり風に吹かれて飛んでくる雪は普通に冷たいんですよ。

 ウルウは「効果的に言えば凍り付きはしないはず」とかなんとか言いますけれど、しゃっこいものはしゃっこいです。

 

 でも、私たちにとってはただ煩わしいだけの地吹雪も、退屈なばかりの雪景色も、ウルウにとってはとても新鮮で面白いものらしく、なんだか目がきらきらしてる気がします。

 普段の目が死んでるせいかもしれませんが。

 

 ちらっと振り向けば、ウルウの目は地吹雪を透かすようにどこか遠くを見つめていました。

 のぼらない日が薄ぼんやりと照らす、藍色と紫色の山際が、その黒々とした瞳に映って不思議な色合いを見せていました。

 

 最近はすっかり馴染んでしまって、あまり考えることもありませんけれど、本当に、ウルウはどこから来たんでしょうか。

 辺境のことだけでなく、帝国のことを全然知らないようでした。

 じゃあ西方の人かと思えば、西大陸のこともさっぱりのようで。

 まさか聖王国、と疑ってみても、それこそまさかで、ウルウは聖王国というもの自体をよくわかっていませんでした。

 南大陸の人々、というには雰囲気がどうにも異なるように思えます。

 

 いつぞやの冗談じゃありませんけれど、ここまで浮世離れしていると、本当に妖精か何かなんだろうかって、思っちゃいますよね。

 妖精にはこんなに素敵に柔らかくて暖かい肉の体はないでしょうけれど。

 うーん。謎です。

 

 謎と言えば、我が家の謎多き女中であるペルニオとの関係もまた謎です。

 彼女が一体何者で、どこからきて、いつから仕えているのか、正確なところは誰も知らないのです。

 あるいはご先祖様の手記などをあさってみれば何かわかるかもしれませんが、そのためには倉庫をすっかりさらって探検する羽目になるでしょう。

 そのくらい昔から、ペルニオはそれほど姿を変えずにずっとずっと我が家を守り続けてくれている、らしいのです。

 

 少なくともお父様がおねしょしてべそかいてる時のお話ができるくらいには昔からいます。

 多分私がおねしょした時の話も後世に伝えられる気がします。

 そうやって先祖代々弱みを握られてきたかと思うとなかなか恐ろしい話ですね。

 

 そのペルニオがウルウと知己であるというのは、どうにも妙な話でした。

 いえ、知己というのは違うのでしょうか。ウルウはペルニオのことを知らず、ペルニオの方から触れてきたようにも思います。

 あるいは誰も知らないペルニオの故郷こそが、ウルウの故郷なのでしょうか。

 詳しいことはわかりません。ウルウは何も言ってくれませんし、ペルニオの口を割らせるのは並大抵の努力では済まないでしょう。

 

 謎多きペルニオと、謎多きウルウの関係。

 少し、少しだけもやっとします。

 

 ペルニオが誰も知るものがいないほどに昔から仕えてきてくれたように、ウルウもまた、私の、私たちの傍にいてくれるのでしょうか。

 それとも、やってきた時と同じように、いつかふいに消えるように旅立ってしまうのでしょうか。

 

 なんて。

 そんな私のもやもやに気づくこともなく、ウルウはのんきなものでした。

 のんきにあったかいものをすすっています。

 

「ねえリリオ、これ道合ってるの?」

「ええ、もちろんですよ」

「よくわかるもんだね。一面真っ白で、起伏も消されちゃってるから、私にはどこが道かすらわかんないよ」

「ああ、そうですね。道を地図上の線のようにはっきりわかっている、って言うわけではないんです」

「フムン?」

「船旅のようなものです。船も同じ航路を巡るとしても、いつも同じ線の上を走っているわけではないでしょう。羅針盤と天測を頼りに、海図のどのあたりを走っているかを計算して、無事に目的地にたどり着くでしょう。それと同じことですよ」

「なるほど、銀世界は雪の大海原なわけだ」

真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)の時期は太陽を頼りにするのは難しいですけれど、星と月はよく見えます。晴れていれば。それから、殆どうずまってしまって見えづらいですけれど、元の地形というものはこの下に眠っているわけです。波の下の浅瀬を透かして見るように、そうした地形を読み取って、遠くの山の位置や、飛島のような木立の姿、それに移動した時間なんかを頼りに馬車を進めるんです」

「へえ。適当に進めてるわけじゃないんだね」

「私がいつも適当だと思いましたか」

「ちょっとね」

「ぐへえ」

「でもそう言うところは頼りにできるんだね。見直したよ」

 

 もう。

 ウルウはすぐそういうことを言って喜ばせるので困ります。

 惚れ直したと言ってくれたらもっと嬉しかったですけれど。

 

 ウルウはどこを見たらいいのかわからないというように銀世界に視線を滑らせて、肩をすくめました。

 

「私、正直ひとりになったら帰ることさえできそうにないから、はぐれないでね」

 

 なぜかなんだか、私はその言葉でうんと嬉しくなってしまうのでした。




用語解説
・しゃっこい
 冷たい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 亡霊と美しき銀世界

前回のあらすじ

このひとはどこからきてどこへいくのだろうか。
切ない疑問の裏で、雪国に隠された人身売買の闇がウルウの身体利用権を勝手に行使するのであった。


 美しいものが見たい。

 思えば私の旅の目的はそれだった。

 リリオという飛び切りの物語を見つけて、それに乗っかってきたけど、あの時の私の選択は大いに正解だったのだろう。

 

 たくさんの景色を見てきた。

 知らない町。知らない山並み。知らない海原。

 賑やかな市場。木漏れ日とせせらぎ。無限に跳ね続ける波兎たち。

 もう見るべきものなんてないと思っていた私の脳に、新しい世界が毎日のように刻まれていく。

 

 一面の銀世界は、そんな私を圧倒させる美しさだった。

 見るもの全てを完全に覚えてしまう私の頭の中に、無数の白い絵が積み重なっていく。

 ただ白いだけの雪が、極夜の薄暮の中で、様々な顔を見せてくれる。

 光のきらめきのその一粒一粒さえもが、鮮やかに輝いて見えた。

 

 そう。

 これはきっと。

 きっとこれは。

 多分、鬱の回復の反動じゃないかなと思うんだよね。

 躁状態ってやつ。

 体の悪い所はあらかた治って生まれ変わったけど、私のメンタルは完全には治ってなくて、リリオと旅していくうちに躁鬱を繰り返しながら若干健康に向かいつつある途中で、いまは躁に走ってる時なんだって。

 

 自分でやばいなーと思うもんねこのメンタル。

 元々日によってテンションにがたつきのある人種だったし……いや昔はそうでもなかった気もするからこれもやっぱり躁鬱かな。

 まあでももとがひねくれネガ人間だから、ポジティブ気味の躁状態のときは違和感やばいって言うか、自分がキワキワだなって感じはするので、ちょっとメートル下げていかないとな。

 

 まあそういうキワキワでヤバヤバなメンタルで瞳孔ガン開きでなくても、雪景色はきれいなものだ。

 リリオたちはすぐ飽きるって言うけど、まあ、私は雪国のつらさをあんまり味わってないからしばらくは楽しめそうだ。

 雪かきとかさせられたら一瞬で嫌いになりそうだけど。

 

 さて、銀世界は美しいだけじゃない、って言うのを、二人から道々聞かせてもらった。

 私は男爵さんに貰った防寒着も着こんでるし、《ミスリル懐炉》のおかげで寒さ知らずだけど、それでも風に吹かれて飛んでくる雪が顔に当たると普通に痛い。冷たすぎて痛い。

 

 幌の中では鍋にずっとあったかいものを用意していて、定期的に御者席に寄越してくれる。

 それだけじゃなく、短い間に何度も幌の中に引っ込んで休憩もとる。

 リリオは、ウルウがいるからだらだらした感じになっちゃいますねーなんて笑うけど、トルンペートによれば普通なら奥歯がなるほど凍え切った体を溶かすための作業に成り果てるらしい

 

 もし《ミスリル懐炉》なしで吹きさらしの御者席に座っていたらと思うとなかなかぞっとしない。

 特に二人は体も小さいんだから、すぐに体温を奪われてしまいそうだ。

 私が景色を見たいがために御者席にお邪魔してるけど、生存率的な意味でも正解だったかもしれない。

 

 御屋形を出てからそれなりに経ったけど、極夜の最中である辺境は、いまもまだ薄明の中だ。

 全く真っ暗というわけではないけれど、南の空が夕焼けのようにぼんやりと明るいばかりで、あとは薄紫から紫、藍色、紺色と夜を引きずったような薄暮が続く。

 私の目はこのくらいの暗さなら全然大丈夫で、その玄妙な美しさにため息をつく余裕くらいあるけど、たとえばこの暗さで車を運転しろって言われたら普通に勘弁してほしいと思う。

 私はペーパードライバーだし、雪道も運転したことないけど、なれたドライバーでも街灯もない雪道、というかそもそも道なんだか何だかわからないままに走るのは怖すぎると思う。

 

 おまけに風が吹けば横から雪が飛んでくる地吹雪とかいうのがあるし、視界も常に開けているわけじゃない。

 さっききらきらしたのが見えたけどあれダイヤモンドダストじゃなかろうな。結構寒くないと見えないはずだけど。

 さっきも二人で、私がいなかったらまつげが凍るとか吐息が凍るとか辺境あるあるトークしてたから、私が考えている数倍以上は寒いんだろう。

 

 そんな恐ろしい寒さの中でも、まばらにだけど木立が通り過ぎていく。

 濃い緑の針葉は、極寒の世界でなお凍り付かない力強い生命力を思わせた。

 なんにもない真っ白な世界に見えて、生命というものはしぶとくしたたかに生きているものらしい。

 

 いまも、木々の間を何か駆けていったようだった。

 大きさ的に、狐かなにかだろうか。一瞬だったし、雪に紛れる白さだったのでいまいちわからなかった。

 

 まあ仮に狐的な生き物だったとしても、哺乳類かどうかは怪しいのがこの世界の困ったところだ。

 特に、天狗(ウルカ)とかと一緒にやってきたのか、鳥類的な生き物がよくみられる。哺乳類のニッチを鳥類が埋めてしまったような、四つ足の鳥とか、ほぼ痕跡しか残ってないような鳥類とか、そういうの。

 

 爬虫類も同じような事例があるけど、鳥類よりは少ない印象。

 もしかすると寒い地方に住んでないだけで、私があんまりうろつきまわっていない南部とか西部とかには多いのかもしれない。

 

 ああ、それに、でかい虫。

 私としてはあんまり直視したくない生き物なんだけど、意外とおいしいんだよなあ。

 見たくないし意識したくないんだけど、普通に美味しかったのが悔しい。

 そのうちリリオたちみたいに、脱皮したての蝉とか見つけて今日はご馳走だねとか言い始めるのかと思うと怖い。

 

 そう言えば辺境ではたいがいの動物が大きいというけど、さっきの狐みたいなのもそうなんだろうか。

 少なくとも御屋形のでかい狼とか虎とか熊とか、そう言うのを見る限り狐サイズの鼠とかでもおかしくはない。

 いまも、通り過ぎる木立の向こうに、なにか大きなものがゆっくり動いているのが見えた、ような気がする。

 いや、あれが生き物だとするとあんまりでかすぎる気もする。象かなんかか。

 

 いちいちその全てを指さして尋ねてみてもいいんだけど、リリオだしなあ。

 最初期は大分助かったんだけど、トルンペート加入後は異世界ペディアとして圧倒的に差をつけられた感があるね。

 滅茶苦茶大雑把な時もあるし、なんかの雑誌の受け売りだったりする時もあるし。

 

 それに、知識なしでただ眺めて圧倒されるていうのも、悪くない。

 私は設定資料とか大好き人間だけど、言葉で説明されず雰囲気だけで描写してくる奴も好きなのだ。

 はっきり見えるときとか、どうしても気になる時だけ尋ねればいいだろう。

 どうせリリオじゃ大した説明は期待できないし。

 

 などと考えていたら、頼れるトルンペートがあったかいものを手に交代を宣言した。

 リリオもごねるけど、これで三度目の交代打診だからね。トルンペートもそれで折れて交代したんだし、リリオもこれには逆らえない。

 

「よーっし、あたしの番ね!」

「ぐぬぬ、以前だったら絶対御者嫌がったくせに……」

「お互い様でしょ。ほら閉めなさいよ、暖気が逃げるでしょ」

 

 トルンペートがリリオを幌に押し込み、我が物顔で私の膝に座る。

 まあ、私の膝はどうやらこの二人の共有財産らしいんだけど。

 あげた覚えはないんだけど、うん、まあ、そういうものらしい。

 個人の肉体は普通は資産として共有しないものだと思うんだけどなあ。

 

 ともあれ、異世界ペディアことトルンペートが来てくれたのは頼もしい。

 知識なしで眺めるのも悪くないとかいったばかりだけど、それはそれとしてコメンタリーつきのも好きなんだよ私は。

 

 例えば……お、あれとかどうかな。

 少し先の方の木に、なんか丸っこい栗鼠みたいなのがいたから指さしてあっ死んだ。

 質問しようと口を半開きにした私の視線の先で、丸っこい栗鼠みたいなのが投げナイフに射抜かれてぴぎぇみたいな断末魔を残して落下する。

 

縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)よ。結構いるわね。丁度いいからお昼にしましょっか」

 

 それはとても清々しい微笑みだった。




用語解説
縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)(tamiasturno)
 シマムクリス。帝国の広範に分布する羽獣。
 主に平野や低山地の他、都市部などにも生息する。
 体色は縞模様のある灰色で、くちばしは黄色い。
 発達した素嚢を持ち、前足で器用に餌を詰め込む。
 十羽以上の群れをつくることが多い。
 農村などでは害虫を捕食するが、同時に農作物も食害するので厄介。
 都市部でもごみをあさったり、糞害がある他、泣き声が非常にうるさく騒音も問題になる。
 味は良いとされ、害獣として積極的に捕らえ、食べてしまうことが多い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 鉄砲百合と縞椋栗鼠のパイ

前回のあらすじ

突然世界が美しく思えたり、気分が明るくなったら、もしかしたら躁状態になってるかもしれないので気をつけようという啓発。
そしてその裏でいともたやすくえげつなく命を奪われるリスモドキ。害獣死すべし。慈悲はない。


 練習代わりに投げた飛竜の肋骨の短剣は、実に使い勝手がいいものだった。

 慣れるまでは結構かかったけど、今ではそれなりに思い通りに操れる。

 このくらいの小さな獲物なら、当てた後、手元まで飛んで帰ってこさせることもできた。いちいち回収しなくていいってのは、投げもの遣いには嬉しい限りよね。

 結構魔力使うから、ほんとはこういう雑用で使っていいものでもないんでしょうけど。

 

 まあ、この素晴らしい短剣と、あたしの素晴らしい技前のおかげで、全部投げて外れはなし。

 短剣十二本で獲物が十二。悪くないじゃない。

 さすがにもう一巡する前に、残りは逃げちゃったけど。

 

縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)だっけ? よく狩れるね」

「簡単よ。動きが単純だもの」

「うーん、この戦場は地獄だぜ感」

「はあ?」

 

 お昼と聞いて喜んで飛び出てきたリリオと支度をしながら、ちょっと聞いてみたんだけど、どうもウルウが言ってるのってそう言うことじゃないみたいね。

 まあ、あたしの短剣投げにもそりゃ感心はしてたんだけど、そうじゃなくて、かわいいんですって。

 縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)が。

 

「これ食べるの? ええ……かわいいじゃん」

「かわいい……?」

「かわ……?」

「え、なにこれ私がおかしいの?」

 

 うーん。

 短剣を引き抜きながら縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)を眺めてみる。

 まあ、小動物系ではある。ふわふわもこもこしてるし、確かにウルウ的には好きそうな感じだ。

 ウルウはふわふわもこもこしてるだけで無条件に点数入れるとこあるし。

 ふさふさのしっぽなんかウルウ的にかなり高評価だろう。

 

 確かに言われてみればまあ、愛玩動物として見れなくもない。

 見た目は。そうね、そういうことかしら。

 ウサギとかといっしょね。

 

「えーとですね、かわいく見えるかもしれませんけれど、害獣ですよこれ」

「害獣?」

「こいつらね、食害がひどいのよ」

 

 あたしは肥えた一匹を掴んで持ち上げてみせる。

 小動物系とはいっても、それなりの大きさだ。

 くちばしは短く分厚く、大抵のものはかじって食べてしまえる。

 

「こいつら、木の実とか、茸とか、虫とか、まあ草食寄りの雑食よね、なんでも食べるのよ」

「人里ではゴミをあさることもありますし、小さくてはしっこいので家に忍び込んで食料を荒らすこともあります」

「当然、畑も荒らすわ。兎とか栗鼠とかの類は、あんたにはかわいく見えるかもしれないけど、農家の絶対殺す害獣十選殿堂入りなのよ。放っておいたら死ぬのは農家の方だもの」

 

 雪の上に縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)十二匹並んでる。短剣の数が十二だから、一度に仕留められたのがこの数ってだけで、実際には多分二十匹以上は群れてただろう。

 こいつらは冬場に温め合ったり、外敵に襲われても助かる確率を上げるために、群れて集まる習性がある。

 なのでこいつらの食害は、必然的に数の暴力にもなる。

 小さくてはしっこくて数も多い。厄介この上ないわね。

 

 そして厄介なのは人里に対してだけじゃない。

 山や森で増えすぎると、木の皮や根までかじりだすから、土地が荒れちゃう。

 天敵の肉食獣がうまいこと減らしてくれるといいんだけど、そういう肉食獣が増えると今度は人間の方が困る。

 こういうのはなかなかに塩梅が難しいのだ。

 

「あー……うん、そう言う感覚なんだね」

 

 理屈はわかるけど、みたいな顔ね。

 まあ都会っ子ってのはこういうものかもしれない。

 ヴォーストで過ごしてた時も、町の人間たちは、自然というものをよくわかっていないことが多かった。自分の食べる食材が、実際に生きている時の姿を知らない子供だっていた。

 ウルウみたいに旅に慣れてきても、そう言う感覚は抜けきらないんだろう。

 

 雪むぐり(ネヂタルポ)が、その円匙(ショベリロ)みたいに幅広な前足で、雪をべしべし叩いて潰して、しっかり立てるくらいに固めてくれる。

 このあたりの雪はさらさらとした粉雪で、そのうえこの時期は日もあたらず、一度溶けてまた固まるって言う工程がないから、そのさらさらがびっくりするくらい積もってる。

 だからこうして固めないと、まるで落とし穴みたいにすぽんと腰くらいまで埋まっちゃうこともよくある。下手するとリリオくらいなら頭まで埋まるほど、粉雪だけが積もっていることだってある。

 ここまで来ちゃうともう雪輪(ネジシューオ)履いてたって誤差みたいなもんよ。

 

 あたしとリリオは、雪に突っ込んだ縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)を処理していく。

 一匹ずつ喉を裂いてもんで血を抜き、皮を剥いで内臓を抜き、雪で洗う。まあこの辺りはウルウも慣れたものよね。ちょっと気持ち悪そうだけど、眼をそらして逃げるなんてことも最近はない。おっかなびっくりだけど手伝いもしてくれる。

 ただ、まだうまくなくて、ウルウに任せると処理が甘かったり食べるとこが減っちゃったりするから、一匹だけ見せながらやってもらう。

 

 一度見たことは忘れないし、不器用でもないから、やれるはやれる。

 ただ、頭でわかってるのと実際の感覚ってのは、どうしても同じじゃないからね。

 こういうのは数こなして覚えてくしかないわ。

 

 縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)は常にものを食べ続けて素嚢に溜め込んでるから、抜き出した内臓には中身が残ってることが多い。これをしっかりしごき出してやって、雪で洗う。

 中身と言っても木の実や茸、種子なんかが多いから、肉食もする雑食よりはきれいなもんだ。そうでない時もあるけど。

 

 十二匹分を手早く処理すれば、ふわふわもこもこの毛皮が脱げて一回り小さくなったお肉が十二個と、その中身が雪の上に並ぶ。なかなか壮観だ。こうなっちゃうと鶏とかとそう変わらない。鶏と比べて違うとすれば、皮下脂肪が全然ないから、筋肉がつるんと見えることくらいか。

 

 毛皮の方は、まあ色々な使い道があるけど、高く売れるって程でもない。刃物で殺してるから、傷もあるし。お土産に持っていったら、ほどほどに受けがいい程度。子供の小遣いくらいのもんよ。

 

 それよりも、肉だ。

 さあって、リス肉は久しぶりだけど、なににしようかしら。

 焼いてもいいし、煮てもいい。取れたての生の脳みそは、珍味だ。

 

 でもまあ、かわいさを摂取し損ねたばかりのウルウがかわいそうだし、あんまり形がわかるものは止めてあげた方がいいかもしれない。

 となると、ここはパイにしましょう。

 刻んでミンチにして、パイ生地で包んじゃえばもとの形なんて気にしないもの。

 パイ生地は寒いと作りづらいけど、こんなこともあろうと事前につくったものを《自在蔵(ポスタープロ)》にいくらか保存してるのだ。ウルウのに。

 

 あたしは分厚いまな板を固定して、これまた分厚い肉切り包丁をリリオに渡す。

 そして自分も構えて、リス肉を次々に刻んでいく。

 ミンチは手間がかかるけど、リリオがいると格段に楽でいい。

 そして面倒なものは、楽できるときに食べるに限る。

 

 リリオと二人がかりでどかどかとまな板を叩いてたら、ウルウもやるって言い出して驚いた。

 ウルウが嫌がるだろうと思って形をなくす作業をしているのに、そのウルウがリスの形を粉砕する作業をしたがるとは。

 

「チタタㇷ゚だチタタㇷ゚」

「なにそれ?」

 

 よくわかんないけど、まあ楽しそうで何よりだ。

 リリオはともかくあたしは普通に疲れる作業だから、交代して休み休みやれるのは助かる。

 

 肉が刻めてきたら、骨も刻む。縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)は割と大柄だから、太い骨は難しいけど、細い骨は一緒に巻き込んで圧し折って混ぜ込んじゃう。

 ここで手抜きをすると、骨の塊が残って、食べるとき嫌な思いをする。

 内臓も入れちゃうし、脳みそも投入。こうすれば余すとこなく食べれちゃうのだ。

 

「脳みそって珍味なんでしょ」

「まあ、珍味は珍味よ。生で食べる人もいるわね」

「トルンペートも?」

「まあきれいに取れたら、一個くらい食べよっかなってくらい」

「私はそこまで好きでもないですね。ちっちゃいので」

「食べ応えの問題なんだ……」

 

 まあおいしいはおいしい。魚の白子の、コクが深いような味わい。

 でも何としてもってほどでもないわね。牛の脳なんかとそうかわらないし。

 生なので普通に病気も怖いし、一回食べたらしばらくはいいかなって感じよね。

 ウルウもさすがに生は嫌っぽい。

 でも気にはなるらしいので、一つ取っておいてパイと一緒に焼いてやろう。

 

 他は全部刻んで混ぜる。

 リスとかウサギとかの類は、脂肪が全然ないから、これで脂を補う。脳ってほとんど脂肪なのよね。

 それでも足りないから、あたしは牛脂も混ぜちゃう。

 これで割とあっさり目のリス肉に、いい感じのコクも出る。

 

 リリオとウルウが仲良くチタタㇷ゚チタタㇷ゚言いながら刻んでいる間に、あたしはあったかい幌の中に戻ってパイ生地を練り直し、焼き窯もどき(クヴァザウフォルノ)に張り付けていく。

 これはまあ、鋳鉄の分厚い深鍋みたいな感じよね。

 それに重たい蓋。

 

 出来上がったミンチを詰めて、あまりのパイ生地で蓋をして、鉄蓋をかぶせる。

 この焼き窯もどきをストーブの上にかけて、そして鉄蓋の上に焼けた炭を置いてあげる。

 こうすることで、上下から加熱できるから、鍋みたいだけど、オーブンと同じような調理ができるって言う寸法よ。

 ある程度焼けたら火からおろして余熱で焼き上げて、その間にスープも仕上げちゃおう。

 

 香ばしいかおりに、はやくも胃袋は待ちわび始めていた。




用語解説
・はしっこい
 素早い、敏捷であるの意。

雪輪(ネジシューオ)(Neĝŝuo)
 かんじき。雪に沈み込まないように、足元の面積を広げる道具。

・パイ
 現地人組の回ですが、誤字ではありません。
 今まで横文字全てを現地語に変換してきましたが、ほぼ無意味な上に読むときも煩雑ですので、日本語として一般的に使われている横文字はそのまま使用する方向でいきたいと考えております。
 実は現地語変換もいろいろ法則があったのですがお気づきでしょうか。
 調べてみると面白いかもしれません。
 過去の表現に関しても順次修正していきたいところですが、文量が多大なうえ、複数サイトで連載しておりますので、時間と気力次第と思われます。
 なお本当にパイがわからなかった方のために用語解説も入れておきます。
 小麦粉と油脂で作った生地で果実類や肉、魚その他の具を包み込んでオーブン等で焼き上げた料理または菓子のことです。パイ投げには基本的に用いません。
 代表例はスターゲイジー・パイなど。

・チタタㇷ゚
 アイヌ語で「我々が・たくさん叩いた・もの」のような意味の語、また料理とされる。
 魚や肉などを細かく叩いて刻んだもので、なめろうやタルタルステーキのような料理らしい。
 主に生食し、鮮度の落ちたものはつみれなどにして汁物に入れて食べるとされる。
 アイヌを題材に含む漫画作品で有名になった。
 作中では「チタタㇷ゚、チタタㇷ゚」と唱えながら刻んでいた。

焼き窯もどき(クヴァザウフォルノ)
 いわゆるダッチオーブン。
 蓋つきの金属製の深鍋で、蓋に炭火などの熱源を載せられるようにしたもの。
 これによって上下から加熱できるため、野外でオーブンとして利用できる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 白百合とラッコ鍋

前回のあらすじ

突然のゴールデンな調理風景。
かわいいリスの画像をお手元にご用意いただくとより一層お楽しみいただけます。


 縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)のパイのように、野山でとったものをその場で調理するというのは旅の醍醐味の一つです。

 それは勿論、どんなお肉でも大抵は熟成させた方がおいしいものですし、そもそも野生の動物のお肉より、ひたすらにおいしさを追求されて品種改良が続けられてきた経済動物たる家畜のお肉の方がおいしいのは間違いないですし、それを十分な設備と、厳選された調味料と、洗練された調理法で仕上げた方がどうやったっておいしいんですけれど、それはそれ。

 調理工程や、それ以前の狩りや、自然の中での食事、そういったことが目には見えず言葉でも表せない微妙な違いとなって、私たちの舌と脳を楽しませてくれるのです。

 

 まあそういうおためごかしみたいなのはさておいて。

 野外でご飯っていいですよねー! と思うのは事実なんですけれど、それはそれとして不便なのも事実です。

 事実って言うか、不便さだけが唯一真実の事実で、楽しさとか美味しさとか心の余裕とかはもうなんか表面的なものにすぎないということもできます。

 寒さって無慈悲な現実なんですよね。

 

 幌馬車の旅って結構楽しそうに見えますし、これでも最大限快適になるように準備もして工夫もしてるんですけれど、まあ物事には限度があるんですよ。

 特に、この辺境においてはその不便さのけたがちょっと違います。

 嘘つきました。

 ちょっとどころじゃなく違います。

 

 私とトルンペートは慣れてますけれど、ウルウがこの不便さに気づき始めたのは、お昼を終えて後片付けしてる時でした。

 まず、洗い物が死ぬほど大変です。

 寒いから面倒くさいというだけではありません。

 汚れが落ちないし、落とせません。

 

 その理由の一つに、まず水がありません。

 雪というものをよく知らない人は、溶かして使えばいいじゃないかという人もいるんですけれど、そうもいきません。

 雪って要するに氷なんですよ。それも間に空気をたくさん含んでいるので、熱が通りづらい氷です。

 これをわざわざ洗い物のために火にかけて溶かすなんて、とてもとても。

 同じ理由で、雪を飲用水にするのもおすすめできません。自分の命を削って飲むようなとても高価な一杯になるでしょう。

 

 そして水を用意してもそこからがまた大変です。

 洗い物をよくする人はわかると思いますけど、油汚れってお湯で洗うとすぐ落ちます。逆に冷水だと全然です。せっけんだって溶けづらく、泡立ちにくくなってしまいますから、なおさらです。

 まあ雪を溶かすよりはまだ暖めるのも簡単なので、火にかけてお湯にしてもいいんですけれど、湯気が顔に張り付いた後放っておくと顔面が凍るので気をつけなければいけませんね。

 

 なのでウルウは渋い顔しますけれど、鍋も皿もできるだけきれいにこそいで汚れを残さないようにして食事をし、洗う時も雑紙で拭って汚れを取るというのが現実的です。

 その後は、なんなら幌から出して外に吊るしておいてもいいです。

 野外に吊るしてたらほこりやらで汚れる、と思うかもしれませんがここは冬の辺境です。

 細菌も虫も活動が絶えるような極寒の中の方が、衛生的ですらあります。究極の衛生って要するに生命のいない環境ですからね。

 

 まあ、一時的なものですし、これは仕方のないこととウルウも納得しましたし、むしろ感心していたくらいです。

 あまりにも環境が違うと、あらゆるものの条件が変わってきてしまうものなんですよね。

 

 ただ、そんな不便な旅を楽しむ余裕があるウルウにしても、露骨に渋い顔をしたものがあります。

 それがお風呂です。

 お風呂と言うか、お風呂に入れないという事実です。

 

 馬車の旅でも船旅でも、箱単位で買い占めた温泉の水精晶(アクヴォクリスタロ)とどらむかん風呂なる手製の風呂釜を引っ張り出して、毎日欠かさずお風呂に入り続けてきたお風呂キチ……潔ぺ……とてもきれい好きでお風呂好きのウルウですけれど、さすがに無理です。

 理由はもうおわかりでしょう。寒いからです。寒すぎるからです。

 たとえいくつもの問題を乗り越えてようやくお風呂に入れたとしても、出た瞬間に肌とその表面のお湯は極寒の空気にさらされて凍り付きます。

 

 端的に言うと死にます。

 

 珍しいことに往生際悪くあれやこれやと知恵を絞ったウルウでしたけれど、どうやっても無理なものは無理でした。

 ウルウのしょんぼり具合と言ったら相当なものでしたよ。

 下手するともう帰るとか言い始めそうなほど愕然とした顔してましたからねえ。

 

 それでも諦めきれず、ストーブのすぐそばであぶられつつ、寒い寒いと言いながら温泉水で濡らしたタオルで体拭いてるのはもう執念と言うかなんというか。

 なんでしょうかね。ウルウのおくには、一日お風呂入らないと死ぬ国だったんでしょうか。

 私たちはそこまで潔癖ではないですけれど、まあでもウルウに付き合っているうちに確かにちょっと気持ち悪いなって言う感覚は覚えるようになってきたので、わからないでもありません。

 それになによりお風呂入らないと露骨に臭いって言われますし、露骨に臭いって顔されますし、露骨に臭いって距離取られるので、素直にウルウにならいます。

 三人で服脱いで、寒い寒い言いながらタオルで体拭いてる姿は、なんか秘境に伝わる謎の儀式めいていました。

 

 まあ、そうやって頑張ってみたところで、どうしても、その、なんです。

 こもるんですよね。

 

 大きめの幌馬車とはいえ、荷物も積んでますし、ストーブにもたれるわけにもいきませんし、三人横になったらみっちりになっちゃうくらいなんですよ。

 おまけに、ストーブは焚きっぱなしで、鍋に水も沸かしっぱなし。

 寒くても換気はしないと死んじゃいますけど、その分ガンガンに焚いてるので、暑い、蒸れる、というわけで。

 おまけに私たちはみんな大箆雷鳥(アルコラゴポ)の防寒具を着込んでるわけなんですが、これも防水性が高いもので、つまり、汗が逃げてくれません。蒸れます。

 服は洗濯できませんけれど、そこはウルウが予備をたくさんしまい込んでるので残念もとい幸いなことに着替えはできます。できますけれど、それを着る体の方はごまかしがききません。

 

 ていねいにていねいに、濡れタオルで体を拭いてはいますけれど、寝てる間にも汗はかきますし、狭い幌馬車に空気はこもりますし、こう、なんというか、その、ですね。

 まあ、言わないのが乙女の気遣いというものですよ。

 

 でもなんといいますか、普段はきれいににおいを消してしまうウルウの、ウルウ自身のにおいがですね。

 

「あがががががっ! 照れ隠しが痛いっ!」

「いや……普通に視線が気持ち悪かったから……」

「辛辣!」

 

 幸いにもウルウはすぐに離してくれましたけれど、まったくもう、癖になったらどうしてくれるんでしょうか。なんて言ったら冷たい目で見てもらえました。

 あと多分、なんか手拭いで手をふいてたので、許してくれたからじゃなくて私の脂っこくなった髪の感触が嫌だったからではないかという気もします。

 普通に恥ずかしいですね。

 

 しかし納得いきません。

 私だけでなくトルンペートもそういう目をしていたはずなんですけれど。

 そのあたりトルンペートは要領がいいというかなんというか。ぐぬぬ。

 

 まあ臭かろうが気持ち悪かろうが人は生きている限りご飯食べて眠って過ごさなければいけないわけで、多少の不便も乗り越えていかなければならないのです。

 そんな今晩のご飯は陸海獺(テルマル・ルトラ)と、干した勝ち草(ヴェンコ・アイロ)のお鍋です。

 

「こいつ、泳ぐの? 泳がないの?」

「水が凍ってないときは泳ぐわ。凍ると陸に出てくるのよ」

「たまに寝てる間に湖面が凍って閉じ込められるのもいますね」

「不器用な生き方してるなあ……」

 

 陸海獺(テルマル・ルトラ)は泳ぎの下手なカワウソの仲間で、そのとても密な毛皮は暖かく、高値で取引される高級品です。

 お肉の方はと言うと独特の香りがあるので、まあ万人向けとは言えないかもしれません。

 狭い幌の中にこの匂いが立ち込めると、さすがにちょっとむわっと感じます。

 

「フムン……ちょっと硬いって言うか、ぱさぱさする」

「あんまり脂身ないものね。ま、格別おいしいもんでもないわよ」

「精がつくとは言いますけれど、まあ野のものはたいていそう言いますよね」

「でも言うほど臭くはない、かな。ギョウジャニンニクのおかげかな」

勝ち草(ヴェンコ・アイロ)ですね。これは香りも強いですし、元気も出ますよ」

 

 むわっとするほど私たち三人のにおいがこもった幌の中で、陸海獺(テルマル・ルトラ)勝ち草(ヴェンコ・アイロ)の香りが湯気とともに立ち上ります。

 その湯気を透かして見ると、おや、おかしいですね。なんだかしっとりと汗ばんだウルウがやけにいろっぽく見えてきました。

 いけませんね。これはいけませんよ。

 

「ふう……少し、暑くなってきたかも」

「ん、そうね……あんまり汗かいて、風邪ひいても困るし、少し前開いた方がいいわ」

「そう、かも……?」

「そうですね、いっそ上着は脱いじゃいましょうよ」

「そうね、そうしましょ」

 

 おーっと。

 いけません。これはいけませんよ。

 そっと上着を脱がせてあげているトルンペートの横顔がやけになまめかしく見えてきました。

 

「ほら、リリオも脱いじゃいなさいよ」

「え、いやあ……私はいいですよ」

「なによ急に照れちゃって……かわいいじゃない」

「かわいい」

「やめてくださいよぉ」

 

 幌の中は、その晩、とてもこもりました。




用語解説

縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)のパイ
 ここでは詳細は割愛するものの、かなりおいしかったようである。
 用語解説では味覚についての解説は特にしないが、閠は初のダッチオーブンによる初のリス肉(?)のパイということもあり、単純な味覚情報以上に新奇なものとしてとても新鮮に感じていたようだ。
 いやまったく文面だけでもお楽しみいただければよかったのだが、それにはいささか紙幅が足りないようである。
 まあ本編には特に関係ない情報なので、気にせずに読み進めていただきたい。
 ダッチオーブンの内側でたっぷりとバターの香りを膨らませた、すこし分厚めのざっくりしたパイ生地に、牛脂などで脂肪分を補われてジューシーに仕上がったおっと文字数が。

陸海獺(テルマル・ルトラ)
 オカラッコ。
 北部の海などで見られるラッコの仲間が、内陸に取り残されてしまったものと見られているが、その進化の過程は判然としていない。
 夏場は川や湖などで過ごし、魚介類や海藻などを食べ、水が凍り始める時期には陸に避難し、木の実や昆虫、小動物を獲物とする。
 食生活が季節で大幅に変わるため、捕まえた時期によって味が大いに変わるという。
 また塩湖に棲むものは水が凍らないため通年水中生活をし、通常のラッコ同様の生態をしているという。

勝ち草(ヴェンコ・アイロ)
 カチグサ。ギョウジャニンニクの仲間。
 強い香りを持ち、滋養がつくとされる。
 北部や辺境では春先に大量に摘んで干し、通年利用される。
 基本的には山菜の一種として野で摘むものだが、一部では栽培もしている。
 またその強い香りから魔除けの効果があるとされ、実際に一部の害獣はこの香りを忌避するとされる。

・いけません
 陸海獺(テルマル・ルトラ)の肉はとても精がつくとされ、ひとりで食べてはいけないと言われている。
 実際のところどうなのかは不明だが、どうしようもなくなったら相撲とかとればいいんじゃないですかね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 亡霊と凍てついた湖

前回のあらすじ

こいつら相撲取ったんだ!!


 なんやかんやで旅程は長引き、ようやく目的地に辿り着いたのは予定より二日遅れだった。

 なんだよ。なんやかんやはなんやかんやであって、特に何があったわけではない。ないったらない。

 余裕をもって準備してくれたらしいけど、それでも燃料とか食料とか水とか、無駄に消費しちゃったんだから、立ってるだけで死ぬこともある極寒の冬ではよろしくないことだろう。

 

 だというのにリリオもトルンペートも上機嫌なので、私一人だけむくれてしまう。

 若さか。これが若さなのだろうか。体力的にも、精神力的にも。若さゆえの楽観性なのか。

 そうはいっても私、まだ二十六なんだよな。そのうち二十七になるけど、まだ三十路前。うーん。二十代で若さを気にしちゃうのも、いろいろだめかもしれない。

 

「ほら、見えましたよ」

 

 私の膝の上で遠くを指さしたリリオ。その指先を私は目で追う。

 山道を抜け、見下ろした先には平野が広がっていた。

 常緑樹が濃い緑を雪の下にのぞかせる、山がちな景色の中で、そこだけが奇妙に平坦に開けている。

 

「ほら、あそこに村が見えるでしょう。あのほとりの村にお世話になります」

「んん……ずいぶん端っこに……って、ほとり?」

 

 指さされた先には、確かに何軒かの小ぢんまりした建物があった。そりゃ森のそばの方がなにかと便利なんだろうけど、それにしたって平野の中には一軒も家がない。牧場とかできそうなのに。

 そこで気づくのが、リリオのほとりという言い回しだ。

 ほとり、という単語の正しい用例を私が自身をもって主張できるほど知らないけど、でも普通は川のほとりとか、湖のほとりとか、水際に使う言葉だったと思うんだけど。

 

 そこではたと気付く。

 もしや、そういうことなのか。

 

「奥の大きな山がボレタント山、いま抜けてきた二つの山の、大きな方が小ボレタント山の兄ヶ岳、小さい方が弟ヶ岳です。そしてそれらに囲まれたあれこそが、北の輝き(ノルドルーモ)を見るにはもってこいのレウチースカ湖です」

「あれ、やっぱり湖なんだ……」

 

 きらりと輝くほどに平坦な平地……ではなく、あれは凍った湖だったらしい。

 山に囲まれた盆地のような地形はまるで鍋の底で、これはいわゆるカルデラ湖というものかもしれなかった。

 火山活動の影響で形成されるやつだね。詳しくは知らなくてもみんな何となく名前だけは知ってるやつ。

 

 馬車はそりそりとなめらかに雪道を滑っていく。

 雪むぐり(ネヂタルポ)も道は覚えているみたいで、その足取りには迷いがないし、手綱を取るリリオも懐かしそうではあれ、迷うようなことはなく安心できる。

 とはいえ。

 

「……この道、私たちが通ったあとしかないよね」

「まあ雪が積もればわだちなんて消えますし……そもそも冬場は往来がほとんどなくなりますしね!」

 

 笑顔でそんな解説入れてくれるリリオだけど、こんな山奥で外部との交流がなかったらさぞかし大変なんではなかろうか。いや、それいったら、辺境の大体どこであっても冬場の交通網は壊滅状態らしいけど。

 

 不安になりながらも辿り着いた村は、実に閑散としたものだった。

 寒村というやつだ。物理的にも寒いし経済的にもお寒い。まあ辺境の冬は以下略、だけど。

 

 建物の多くは寄り添い合うように、恐らくは湖のほとりに沿うように並んでいた。

 多分、湖が解けたら船を出して漁をする生活なのだろう。この時期は使えない船の類は、凍り付いてしまわないようにか、家に立てかけるように置かれていたり、雪避けの屋根みたいに使われていた。

 

 ただ、びっくりするくらい大きくて立派な建物もあって、こう言っては失礼かもしれないけど田舎の寒村に不似合いな都会的なセンスも感じる造形だ。

 いかにも金がかかっていそうだし、いかにも金を使いそうな、維持費だけでいくらするんだろうなんて考えてしまうご立派な邸宅だ。

 

「早速、村長を訪ねましょう。空き家があるはずなので、そちらを借ります」

 

 リリオがそんなことを言うので、てっきりこの豪邸が村長の家かと思ったら、見向きもせずに素通り。

 通りがかりにちょっと見て見たら、門扉は鎖がかけられてるし、人の気配もない。でも雪下ろしはされてるし、一応管理はされてるっぽい。

 

 なんだろうなあ、と思ってる間に辿り着いた村長宅は、他の家と大差ないもので、やはり漁を生業にしているような趣だった。

 

 リリオの訪問に出てきたのは老人のような白熊で、違った、白熊のような老人で、髪も眉毛も髭も恐ろしく長く、もはや顔が見えない。どころか分厚く着込んだ毛皮と入り混じって境界すらわからない。

 ちっこい客人を見るなり、この村長から「やんれまァめんずらすなァ」と辺境訛りが炸裂したので、私には翻訳不能な会話が始ま

 

「失礼。冬場に外の方がいらっしゃるのは珍しいもので……道中さぞかしご不便だったことでしょう。狭苦しい所ですが、是非あたたまってください」

 

 らない!?

 思わずぎょっとして二度見してしまった。

 

 白熊村長はそのワイルドな見た目に似合わない、渋くも甘やかなダンディボイスで私たちを招き入れ、暖炉近くの椅子を勧めてくれた。その仕草もまた丁寧で洗練されている。

 本人が言うように決して広くはない家だったけれど、家具や丁度は品がよく上等なもののように見受けられ、ごちゃごちゃした生活感というものがない。

 こういうのは人を通す部屋だけで、実際には奥の方は生活感にあふれているのかもしれないけど、そもそも応接間というものを用意してる村なんてまずないから、かなりレアなケースだ。

 

 私がほへーと間抜け顔で見まわしていると、白熊村長は白湯にメープルシロップをたらしたものを用意してくれた。甘茶(ドルチャテオ)として用いるハーブや果実があまりとれない辺境の冬では、これがスタンダードなおもてなしだ。

 

「何しろ辺鄙な村で、お嬢様がお帰りとは露知らず……そちらの方は旅のお連れ様で?」

「ええ、こちらはウルウ。ウルウ、こちらは村長のマルディコです」

「はじめまして。お世話になります」

「私の嫁なのでお見知りおきを」

「よっ……奥方様を連れて帰られるとは、驚きましたな」

「あ、トルンペートも私の嫁です。三人で結婚しました」

「式は挙げてないけどね」

「…………それは、大変結構なことで」

 

 一度はこらえた村長だったけど、さすがにちょっと処理に時間がかかった。

 なんか申し訳ない。

 白熊村長の解凍もかねて、村のこととか、今回の目的とか、そう言う雑談を交わしてみたけど、いやほんとうに流暢にしゃべる人だ。

 っていうのも、どうもここが観光地だかららしかった。

 

「冬場は行き来も大変で、見どころもそうないのですが、夏場はきれいな湖で泳いでいただくこともできますし、宿には温泉も引いております。ですので時期になりますと観光地、また避暑地としてみなさまにご利用いただいております」

 

 なるほど、いまはシーズン・オフってことらしい。

 先程の豪邸は、シーズンにだけ開く旅館みたいなものってことだね。

 リリオん家の別荘もあったりするらしい。さすがにそこを今から使えるようにってのは難しいだろうけど。

 

 最大限に観光地としておもてなし(ちから)を高める一環として、村長さんや営業にかかわる人はみんな仕草や言葉を勉強して、いまや内地の人が来ても満足できるレベルまでになったのだそうだ。

 シーズン・オフでも油断せずに応接間は整えてる村長さんは意識高いんだね。

 まあさすがに寒さには耐え切れず、白熊みたいなことになってるみたいけど。

 

 村長さんが貸してくれたのは、観光客用のコテージみたいなのだった。

 お高い宿を取るほどではないけど、そこそこ快適に過ごしたい客層用で、ベッドなどの家具は一通り完備してある。

 ただ、さすがに冬場の利用はほぼないらしく、ストーブは幌馬車のやつを流用することにした。

 これよりランクが下がる、いわゆるバンガローみたいなやつは、すぐには準備できないというか、雪の下なので掘り起こすところかららしい。

 

「うう……あったまるまでかかるけど、でも久し振りに屋根のある所だ……」

「なんだかんだウルウって都会っ子だもんね」

 

 リリオについて野外活動も多いけど、そうなんだよ、私都会っ子のもやしっ子なんだよ。

 慣れてきたし、ぼちぼちこなせるようになってきたけど、安眠度は露骨に違う。ていうか、なれてきた今でもゲーム内アイテム使って快適さを少しでも上げようと足掻いてるしね。

 虫とか、蒸し暑さとか、臭いとか。いろいろあるのだ。

 

「さすがに疲れたし、夜まで休みましょ。真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)とはいえ、しっかり夜になってからの方が綺麗に見えるわよ」

 

 ということで私たちは冷たいベッドに悲鳴をあげながら潜り込み、一休み。

 なんて軽く言ったけど、自分で思ってた以上に疲れがたまってたらしく、リリオに揺さぶられてようやく起きるくらいぐっすり寝こけてしまっていた。

 

 寝ぼけ眼をこすって、うん、と一つ伸びをすれば、二人はもう準備万端だった。

 万端って言うか、なにその装備。

 二人はしっかり着込んでいるだけでなく、折り畳みの椅子や、なんかドリルみたいなのなんかも用意してた。

 椅子はともかくそのドリルは何なのさ。っていうかドリルて。

 

「釣りです」

「ふむん?」

「氷上釣りってやつね。湖の氷に穴開けて、そこから釣り糸を垂らすのよ」

「あー……見たことはあるやつ」

「あんたそう言うのほんと多いわよね」

 

 まあ、テレビとかネットとかでだけど。

 釣りかあ。私には釣りの才能はあんまりなさそうだけど、氷上釣りは面白そうだ。ワカサギとか釣るやつだ。

 なんでも、オーロラを見れるかどうかは運次第だし、釣りをして時間を潰しながら何日か粘ってみようってことらしかった。

 なるほど、釣りで時間も潰せるし、見れなくても当座の食料はゲットできるという一石二鳥なわけだ。

 

 なんだか楽しみで急に眼が冴えてくるあたり、私の体も現金なことだ。

 村の人も使っているというそりにあれやこれやと道具を積んで、私たちは湖に向かった。

 私にはどこが境目なんだか全くわからなったけど、リリオたちが、ほらここですよ、ここから湖です、というあたりからは、確かに足元の感覚が違う、ような気もした。

 表面に薄く雪も積もってるけど、心なし滑る、気もする。

 

 少し歩いて適当なところにそりを止め、まずは風よけのテントを立てた。本当に簡単なもので、効果のほどは頼りない見た目だけど、かわりにすぐに立て終わる。

 ランタンをそこにぶら下げて、ふとあたりを見回してみると、離れたところで同じような明かりがいくつか見える。村の人が釣りをしているんだろう。彼らは生活のためだろうけど。

 

 リリオがさっきのドリルを凍った湖面に突き立てた。

 これは、なんて言うんだろう、長い棒状の造りで、片側はらせん状にブレードが巻き付いている。で、反対側はハンドルになっていて、これを回してがりがりがりと氷に穴をあけていくようだった。

 

「リリオなら殴った方が早いんじゃないの」

「まあ、鶴嘴とかで穴開ける人もいますけど、危ないですね」

「叩く感じの衝撃だと、ヒビが広がって足元ごとぱっかーんと割れちゃったりすることもあるらしいわよ」

「こわっ」

 

 普通に立てるし、そりとかも持ってきたけど、そうだよな。

 いま、私は表面だけ凍った湖の、その上に立ってるわけだ。

 リリオが掘った穴は結構な深さというか、氷の厚みがあるけど、それでもともすれば全部割れて冷たい水の中に、なんてこともあり得るんだよね。

 

 私はそんな怖い想像をしてしまったけど、リリオたちは慣れてるのか気にした風もない。

 いやまあ、私だって《薄氷(うすらひ)渡り》使えば普通に水の上歩けるんだけどさあ。

 そう言う問題でもない気がする。

 

 ともあれ、三人分の穴をあけたら、椅子に座ってそれぞれ糸を垂らす。

 釣り竿は少し小さくて一見おもちゃみたいな感じだけど、リールもあるし、結構しっかりした造りだ。

 釣り糸は先端に重しがついている。そして途中で五、六本枝のように釣り糸が分岐して、そこに釣り針がつけられていた。

 

 餌は何かと思えば、つけない。というより、餌になるものも、この寒さではろくに取れない。

 だから、ルアー、いや、毛針に近い感じでやる。色とりどりの古い布切れを裂いて巻き付けていて、意外にこれでも魚は引っかかるらしい。

 まあ魚に色が見えているのかどうか私は知らないけれど、人によってはこだわるポイントらしい。

 

「なにが釣れるの?」

「色々釣れますよ。美味しいのとか……そこそこ美味しいのとか」

「それ絶対普通の人が食べたらやばい奴でしょ」

 

 リリオは時々ナチュラルに毒とか食うので困る。

 そしてそれが別に辺境貴族特有の頑丈さとかでは別になく、リリオ個人の悪食のせいだというのがまた困る。アラバストロさんは普通にお腹壊すらしいんだよなあ。

 

「そうねえ、実際色々釣れるわよ。公魚(ワカサギ)に、(スズキ)の仲間とか、大きいのだと(コイ)川魳(カワカマス)とか」

「カマスって大きくなかったっけ?」

「釣れるのはまあ、大きくても一尺……三十センチくらいよ。大きいやつはこの程度の針にはあんまり食いつかないわ」

「食いついたら?」

「諦めるか、氷を割るしかないわね」

 

 大きすぎても面倒なわけだ。

 私たちはそうしてしばらくの間お喋りしながら釣り糸を垂らしていたけど、一匹も釣れないうちからトルンペートが立ち上がり、リリオもテントを片付け始めた。

 釣りが得意ではない私でもまだ退屈してないのに、早すぎるのでは。

 

 と思ったら、「ほら、次行くわよ」なんて言われる。

 そしてしばらく歩いた先で、また同じように準備して釣り糸を垂らすのだ。

 それでまたしばらくしたら、釣果に関係なく移動する。その繰り返しだ。

 釣りって腰を据えるものだと思っていたんだけど、なんだこれ。忙しないな。

 

「つまりあの場所にはいないってこと?」

「さあ。それはわかんないわ」

「じゃあなんで移動するのさ」

「死ぬからよ」

「は」

 

 トルンペートは大まじめに言った。

 

「クッソ寒いから、じっと座ってたら気づいたときには眠くなって死ぬわ」

「手遅れになる前に、こまめに体動かさないと危ないんですよねえ」

 

 かなり切実な理由だった。

 そのくせ、周りで同じように釣ってる村人たちは、飯のためだけでもなく、趣味でもあるみたいだから大概おかしい。




用語解説
・なんやかんや
 なんやかんやはなんやかんやです。

・ボレタント山(La Boletanto)
 辺境に所在する活火山。
 大昔の大噴火で山体の一部を吹き飛ばし、レウチースカ湖ができたとされる。
 住民が住み着いてからは噴火の記録はないが、近くに温泉が湧いていたり、ちゃんと活動しているようだ。
 
・小ボレタント山
 やや大きな兄ヶ岳と、やや小さな弟ヶ岳を合わせてこのように呼ぶ。
 ボレタント山と向き合う形でレウチースカ湖を三方から囲む。
 こちらは火山ではないものの、地質学者によればボレタント山と地質がよく似ており、過去の大噴火で対岸まで吹き飛ばされた山体が割れて突き刺さったのではないかという説もある。

・レウチースカ湖(La Leŭciska Lago)
 ボレタント山の火山活動によって形成されたとされるカルデラ湖。
 冬季は全面氷結し、氷上釣りなどが行われる。
 豊かな生態系を持ち、周辺環境含めて多種多様な生物がすんでいる。
 夏季には辺境各地のみならず内地から観光に来る者もいるほどの名勝地。
 というよりは、内地から来ようとする観光客が猛者なだけか。

・白熊村長
 マルディコ氏。ラッコの獣人(ナワル)
 親戚一同みな小柄でモフモフしてかわいいのだが、幼少期の彼はそれを嫌って鍛錬に励んだ。
 その結果、背も伸びて筋肉もつき、狩りもうまくて頭も良くて真面目という文武両道青年になるものの、かわいさを求める価値観の女性陣にはまったくモテず、いまの奥さんに出会ったのは四十代だとか。
 なお、筋肉をつけすぎた結果、重くなり過ぎて水に浮かぶことができなくなってしまった。
 それでも、水面を走るだけなら十五メートルくらいまではいけるらしい。

・《薄氷(うすらひ)渡り》
 ゲーム内《技能(スキル)》。《暗殺者(アサシン)》系統がおぼえる。
 設定では「一時的に体重をなくす」ことができるとされ、水上を歩行可能にするだけでなく、使用中所持重量限界を緩和できる。
 また足音が消え、一部の敵Mobから発見されなくなるまたは発見されにくくなる効果がある。
『生きるということは、薄氷を踏んで歩くが如く』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 鉄砲百合と釣り三昧

前回のあらすじ

湖のほとりの観光地。いちゃつくカップル。
凄惨なスラッシャー映画が始まるかと思いきや、ロシアの釣り番組が流れてきたでござるの巻。


 結局、初日は北の輝き(ノルドルーモ)を見れないまま終わった。

 まあこれは予想通りだ。見ようとして構えてるとなかなか出ないもんだしね。

 一週間くらいがっつり張り込めるだけの準備はしてあるから、そこのところは心配しなくていい。

 しいて言うなら、そのあいだはずっと釣りをして過ごすことになりそうなので、退屈は退屈だって言うことくらいか。

 

「うーん……なんかもやっとしたのは何度か見れたし、私は別にもういいんだけど」

「あんなの見た内に入んないわよ」

「そうですよ! 本当の北の輝き(ノルドルーモ)は、それはもう素晴らしく美しいものなんですよ!」

「うぅん、そりゃまあ、そう言われると気になるけどね」

 

 ウルウはそんなこと言うけど、それって遠慮しいなだけよね。

 面倒くさがりなところがあるから、もう飽きちゃったのかなって思うかもしれないけど、全然そんなことないに決まってるわ。

 絶対見たいはずなのよ、なんだかんだ。名所とか、珍しいものとか、絶対しょぼいってわかってても一応見に行く程度にはそう言うの好きなのよこいつ。

 ひとりだったら絶対、なんにも言わずにいつまでだって腰据えてたはずよこいつ。

 あたしたちは見慣れてるから、付き合わせちゃ悪いって気を遣ったつもりなんだろうけど、でもそうじゃないの。そうじゃないのよー、もー、こいつは。

 

 あたしは、あたしたちは、ウルウと見たいのだ。一緒に見たいのだ。

 三人で並んで、北の輝き(ノルドルーモ)を見たいのだ。

 きっとそれは、今までに見たどんな北の輝き(ノルドルーモ)とも違った美しさだろうから。

 

 あたしたちは、昼の間は暖房を利かせた部屋にこもって、熱を逃がさないように三人で寝台に潜り込んだ。

 今朝帰って来て早々に、ウルウはもう耐え切れないとばかりに風呂を用意して堪能しちゃったので、もうあたしたちはウルウを堪能できないんだけど、まあそれはそれで。これはこれで。

 なんだかんだ寒い中で座ってるのって、自分で思ってるよりかなり体力使うから、こんなところで体力使うわけにもいかないしね。

 

 あたしたちは夜になると、お酒と、暖かいものを用意した。

 お酒はまあ、そりゃ迂闊に寒い中で飲むと死ぬけど、でも手足の血管を広げるって言うのは悪くないのよ。その熱が逃げないように気をつければ、手足とか末端部が凍っちゃうのを防げるから。って言っとく。

 暖かいものは、やっぱり塩気と脂が必要だものね、汁物を鍋に用意して、これを厚手の布でぐるぐる巻きにする。これで少しは冷めづらいはず……なんて思ってたら、普通にウルウが《自在蔵(ポスタープロ)》にしまい込んじゃった。

 ああ、うん、そうよね。あんたのそれものが冷めないものね。

 

 湖上に辿り着いたら、また釣りよ。

 テント立てて、穴開けて、糸垂らして。

 座って、お酒飲んで、暖かいもの飲んで。

 それで適当なところで切り上げて移動して。

 その繰り返し。

 

 火でも焚ければもう少しじっとしててもいいんだけど、さすがに氷の上でそれをやる勇気はないわよ。

 灰とかの断熱材敷いて、上にストーブ置けば大丈夫、みたいな話も聞くんだけど、さすがに真似するのは怖いわ。落ちたら死ぬもの。

 リリオはまあ大丈夫かもしれないし、ウルウはそもそも水の上歩けるけど、あたしは足場が崩れたらおしまいね。冷水に落ちちゃったら、なにかする前に動けなくなってそのまま死ぬと思う。

 

 なんて怖いことは、釣り糸垂らしてる時に考えたりしないわ。

 氷に穴開けてるけど、それはそれ、これはこれよ。

 

 氷上釣りは久しぶりだけど、釣れるとやっぱり面白いわよね。

 釣れないときはほんと釣れないんだけど、釣れるときはびっくりするくらいポンポン釣れるのよ。

 氷で水中の様子なんてわかんないから、指先の感覚頼りなんだけど……もちろんあたしにはなんにもわかんないわ。多分そこらへんで講釈垂れてるおっさんとかだって、きっとわかってないわよ。

 釣り人の言う「感覚」って結局勘でしかないと思うわ。あたしはね。

 

 騒がしいリリオもそこそこ釣るし、ウルウも思い出したように引き上げると釣れてたりする。

 ちっちゃいのは、それこそ指みたいな大きさの公魚(ワカサギ)とか、手のひらにのるくらいの(マス)の類とか。

 大きいのは(シャケ)とか、(カマス)とか、変わりどころではチョウザメなんかも釣れるわね。

 ウルウがなにこれって言ったのは沙魚(ハゼ)かしら。

 ぶっちゃけ、あたしも名前がよくわかんない魚は多いわ。

 

 ああ、それに魚以外だって、もちろん釣れるわ。

 エビとか、ザリガニの仲間とかね。

 

 釣れたらそれは適当に氷上に放っておく。捨ててるわけじゃないわよ。

 ただ、こうしておくと、しばらく跳ねまわった頃には凍っちゃうのよ。そうしたらしめるまでもないし、バケツから飛び出てくる心配もない。動かなくなった頃合いで集めればいいわけ。

 

「ほんとに色々釣れるね。生態系が豊かなんだ」

「そうねえ。夏場なんかは、潜ったりできるんだけど、浅い所だけでも結構見れるわよ。ほら、この前食べた陸海獺(テルマル・ルトラ)も浮いてるし」

「ああ……うん……あれね」

「釣りだと見れませんけど、レウチースカ湖には名物にもなる変わった水草もあるんですよ」

「水草?」

 

 たまに釣り糸にもが絡みついたりするけど、これはまた別のものだ。

 実物があったらわかりやすいんだけど、この時期は土産物屋も開いてないものねえ。

 

「ええ、毬藻(ピルカルゴ)という藻の仲間ですね。この藻は不思議なことに、水中で絡み合うみたいに集まって、丸くなるんです。お手玉みたいに丸くなるので、子供が投げ合って遊んだりしますね。大きいものだと拳くらいの大きさにまでなるんですよ!」

「お、マリモだ」

「知ってるんですか?」

「見たことはある」

 

 また出たわね。

 まあ本とかで知ったってことなんでしょうね、多分。話には聞いたレベルみたいだから、実物には結構食いつくのよね。

 いまもちょっと気になるのか、穴の中を覗き込んでる。さすがに見えないわよ。

 いや、こいつのことだからまた妙な道具とか持ち出すかもしれないけど。

 

「食べられるものも多いみたいだけど……危ない生き物もいるの?」

「あー……まあ、そんなにはいないわよ」

「いることはいるんだ」

「そりゃあ、安全なだけの場所なんてないわよ。生き物が住んでるんだし」

「それもそっか」

 

 ただまあ、危ないって言うのも、ピンキリっていうか、危険の種類にもよるわよね。

 

「種類?」

「そう、食べたら毒だとか、触ったら毒だとか、襲ってくるとか」

「あー……そういうね。触ったらダメなのもいるの?」

「うーん……毒持ちは気にするようなのはなかったと思うけど。とげが刺さると痛い、とかくらい」

「まあそれはそうなる」

「うーん、そうですね、大体は全部素揚げして食べられちゃうような奴ばかりですし」

「それはそれで楽しみだけど」

「それでまあ、襲ってくる奴よ」

「跳ねたり、噛みついたり?」

「そのくらいは普通の魚でもあるわよ。やばいのは、氷割ってくる奴よね」

「は?」

 

 うーん、その顔。

 そうよね。そりゃそうなるわよね。

 割れたら死ぬ氷の上で釣りしながら、そう言う話したらそうなるわよね。

 まあでもそう言うのもいるから、一応話しておかないと。

 

大螺旋貝(マシーヴァヘリカーゴ)っていうやつね」

「名前からして強いやつじゃん」

「うーん、強いかというと、まあそこまでではありませんよ。陸上なら」

「水中生物は大体そうだと思う」

「こいつはまあ、巻貝なんだけど、タコとかイカみたいに触手があるのよ。で、釣りしてると、釣り穴から触手伸ばしてくるの」

「なにそのSAN値減りそうなの」

「さっきみたいに釣った魚とかを凍らせてるって覚えてて、横から盗もうとするのよ」

「賢いというかせこいというか」

「それがでかいやつになると、欲張って触手ねじ込もうとして、氷が割れちゃうのよね」

「あれ厄介ですよねえ」

「ふうん…………それってああいう感じ?」

「ああ、そうそう、あんな……」

「ええ、こういう感じの……」

 

 にゅるり。

 二日酔いの中で見る悪夢みたいな触手が、あたしたちの目の前で氷を引き裂いたのだった。




用語解説
毬藻(ピルカルゴ)
 マリモ。球状に集まることで有名な藻。
 単体の藻ではなく、糸状の藻が集合することで一つの大きな球状となっている集合体。
 あまり大きくなると中心部は光合成ができなくなり、内側から枯れて腐ってしまうこともあるという。
 自然に集まって自然に球状になるわけではなく、湖内の水流などの条件が重なってこの形態になるという。
 実は球状にはならないだけで、同種の藻は他の水系でも見られる。

大螺旋貝(マシーヴァヘリカーゴ)
 オオラセンガイ。現地語では「大きいでかい螺旋」みたいな意味合い。
 巨大なオウムガイやアンモナイトのような形状の頭足類。
 十年以上かけて成長し、その直径は二メートル超えの記録が残っている。
 百本近い触手を持ち、根本付近に発達した神経節がそれぞれを脳の指示なしで操る。
 巨大な貝殻のほとんどは中空で、内部のガスを調整して水中での浮上・沈降に用いる。
 泳ぎはあまり得意ではなくゆっくりと動くだけだが、触手は強い。
 かなり賢く、釣り人の習性を覚えて、釣り穴から獲物を横取りすることを覚えている。
 結果として釣り人に被害が出ることはあるが、積極的に襲っているわけではない。
 ではないのだが、触手でつかんでしまったらまあご飯かなと思って食べてしまうので危険。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 白百合と振り向けばやつがいる

前回のあらすじ

口では何と言おうと、身体は求めてるじゃないか……。
素直に愉しみ始めてるぜ……釣りをな!
釣り番組に傾き始めていた三人を謎の触手が襲う!


 みしみしみし、と嫌な音がした時にはもう手遅れでした。

 私のあけた釣り穴から、溢れてきた、溢れてくる、溢れていく、溢れ零れ満ち満ち満ちみっちりとはみ出ていた触手が触腕がぬめるぬるぬるとした腕、腕、腕、手、腕、指、数えきれない無数の数えきれないうごめく暗い彼の彼女の触手が触手がまるで血しぶきか噴水かあるいはさかしまの滝か何かのように勢いよく飛び出しながら、私たちの私たちが三人が座っているいた足場を引き裂き砕き砕いていきました。暗い水の中からのぞくのは、夜を食む異界の羊のごとき一対の感情の読めない不可思議なつやつやとした黒々とまるい平たいくぐるくる目、目、目。ああ、そこに! そこに!

 

 おっと、驚きすぎてちょっと混乱しちゃいましたね。てへぺろ。

 下から大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)がやってきて、魚を狙って触手を伸ばしてきたみたいですね。小さい内は、穴から触手だけ出して、うまいこと魚を盗んで帰っていく、なんてことがよくあるんですよ。

 しかしこの個体はかなり大きく、巻貝の直径だけでも二メートルくらいはありそうです。

 あの貝殻の中身は中空なので見た目ほど重くはないんですけれど、その代わりに浮力があるんですよね。この巨体が下から氷を持ち上げて、しかも欲張って穴に触手を次々ねじ込んだ結果、ひびが入り、そのひびが一気に広がり、ばきばきばきと足場の氷を連鎖的に崩してしまったようですね。

 

 などと冷静に判断できたのは、ウルウのおかげでした。

 ウルウが私とトルンペートを左右に抱えて、ひょいひょいと水面を歩いて安全な氷上に戻ってくれたのでした。

 さすがに足元が一瞬で崩れてしまったときは、私も咄嗟に反応できませんでした。

 (カラ)踏みすれば普通に逃げられたんですけれど、人間、そういうことを瞬間的に判断できるようにはなってないんですよ。

 いやまあ、普段から使ってれば反応できたんでしょうけれどね。

 実際問題として空踏みって使う機会ないんですよね……。

 

 さあて、しかし困りましたね。

 私たちが釣って氷の上に投げておいた魚たちは、おぞましいほどにおびただしい触手に根こそぎ捕まってむしゃむしゃされています。

 うーんこんにゃろめです。

 

 座っていた椅子も、風よけのテントも、根こそぎにされて、ばりばりぐしゃぐしゃばきばきごくんと食べられてしまいました。

 大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)は目があんまりよくなくて、水の外だと鼻もあんまり利かないので、触手が捕まえたものは何でも口に運んじゃうんですよね。

 というか触手は触手で自分で勝手に動いてるみたいで、もさもさ動いて、何かに触れたら掴んで、引き寄せられるなら口に運ぶみたいな感じみたいです。

 

 うーん。面白い生き物です。

 それはそれとしてはなはだ迷惑極まりない生き物ですね。

 

 小さい内なら盗み食いで済むんですけれど、大きくなると氷を割ってしまい、そして学習するんですよ。

 氷を割っちゃえば妨害してくる釣り人は逃げちゃうし、触手を伸ばして獲物を探さなくても水中に落ちてきちゃえば楽に取れるし。

 別に積極的に人間を狙って襲うわけじゃないんですよ。自分から氷の上に上がってくることもないですし。

 

「うーん……魚取られたのは腹立つけど、これ以上仕掛けてこないんなら放置でもいいんじゃない?」

「ウルウは優しいですね。辺境では『腹立つ』は十分な理由ですけれど」

「蛮族だぁ」

 

 まあでも、そうですね。水中の敵って厄介ですし、割り切ってしまうなら放置でもいいんですよ。

 湖も広いですから、場所を変えてまた襲われるという確率はそこまで大きくありません。他にも釣り人はいるので、そちらに行くかもしれませんしね。

 ただ、そのですね。

 

「でも、食べると美味しいんですよね」

「なんならあの殻も高く売れるわ」

「よし、やろっか」

 

 現金でよろしいことです。

 まあ、私たちあんまりお金には困ってないので売れるかどうかはいいんですけれど、大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)っておいしいんですよ、本当に。

 私たち、《三輪百合(トリ・リリオイ)》って、なにが目的って旅先で美味しいもの食べるのが目的みたいなところあるじゃないですか。

 そもそもは私の成人の儀で諸国を巡りーの、お母様の痕跡を辿りーの、してたらまさかのお母さまを発見して実家に帰りーの、って感じでしたけど、旅してるときはおおむねご飯とか温泉のこととかばっかりでしたし。

 もはや冒険屋って言うか武闘派旅行集団ですよ。

 前にウルウが暇つぶしに書いた旅行記をブン屋に売ったら、普通に旅行誌に載りましたし。

 

 まあそんなこんなでやる気も出たところで、大捕り物と参りましょうか。

 

「とぉりゃあっ!」

 

 と掛け声も勇ましく、トルンペートが水中へ沈み込もうとする大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)に投げつけたのは投網でした。

 これは漁師が使う丈夫な投網を買ってきて手を加えたもので、獲物を生け捕りにするのに重宝します。

 鋼線を編み込んで強度を増し、網の端々に取り付けたおもりは鉤状になって、獲物に引っかかって絡みつくという寸法です。

 おまけに大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)は触手で触れたものをとりあえずつかんで引っ張るという習性がありますから、おぞましくもおびただしい触手がうぞうぞと網に絡みついていくではありませんか。

 

「よい、てこ、しょォッ!」

 

 そんな投網を引き継いで、思い切りよく引き挙げるのが私です。

 この大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)は直径が二メートルを超えるとても大きな個体ですけれど、先も言ったように空は中空。それどころか浮力を生むために軽いガスを詰めているとか何とかで、見た目よりは大分軽いものです。

 泳ぐ力も弱いので、いくら暴れても私ならば問題のないものに過ぎません。

 

 過ぎませんけれど。

 

「お、およよよよよ・・・・・ッ!?」

 

 滑ります。

 なにしろ私たちは氷の上なのです。さらさらとした粉雪も上にかかっています。

 これに飛び散った湖水がしみ込み、凍り付き、じゃりじゃりと細かな砂利のようになってしまっています。滑るし、崩れる。これでは踏ん張りがききません。

 大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)が沈み込もうとする力が大したことないので何とかなっていますが、じわりじわりと足元が滑って氷の割れ目に引き込まれつつありました。

 

「成程。パワーはあってもおちびじゃウエイトが足りないわけだ」

「大きくても厳しくありませんこれ!?」

「なんなら私がやろうか?」

「んんんんん……て、手助けだけ! 手助けだけお願いします!」

 

 ウルウに任せると相手が何であれほぼほぼ倒せちゃうらしいですし、実際殺していい相手なら文字通り瞬殺なのは見たことあるんですけれど、あんまりそれに頼り過ぎるのも良くないと思うんですよね。

 というかウルウには私が格好いいところを見てもらいたいわけで、情けない私を助けてもらってばかりだとメンツが立たないのです。

 まあ《自在蔵(ポスタープロ)》とかお風呂とかなんとか、頼るところは頼るんですけれど。

 

「よしきた。じゃあ足場は任せて」

 

 ああ、あと、最近は頼るとちょっと嬉しそうなのもなんかこう、弱いんですよねえ、私。

 ウルウは踏ん張る私を抱きしめるみたいにして、すぐ後ろに立ちました。

 

「効果的には多分これで……《壁虎歩き(ゲッコークライム)》」

 

 不思議な呟きと共に、恐らくウルウの不思議なまじないが効いたのでしょう。

 自然に佇んでいるだけにしか見えないウルウの足元が、滑るはずの氷にぴったりと張り付いて動かなくなってしまいました、

 そのびくともしないウルウにしっかりと抱きしめて支えてもらえば、もう私に怖いものなどありません。

 

「んんんんん……どぉっっせぇぇぇええいいッ!!!」

「声がかわいくない」

 

 頑張って一本釣りしたのにかなり辛辣な一言いただきました。ありがとうございます。

 耳元でボソッと呟かれてちょっと手が緩みそうになってしまいました。

 

 勢いのままに私たちの背後に叩きつけられた大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)は、その衝撃でか触手の動きも鈍くなってしまいました。

 のたのたとのたうつ触手が、それぞれに別の悪夢を見てもがくように、てんでんばらばらにうごめきさまよいます。何かを掴もうとしているのか、触れようとしているのか、まるでわからない触手の動き。

 うぞうぞもにょもにょぬちょぬちょぬたぬた、なんかこう……百本もある触手がランタンの光に照らされてのたうち回ってるの、あんまり精神によろしくないですね。

 ウルウがいうところのサンチが減るというやつです。

 

「うわ……きもいきもいきもい」

「どういう動きなんでしょうねこれ……」

「ええ……これどうすんのよ。触りたくないんだけど」

「でも美味しいんでしょこれ」

「それはそれ、これはこれよ。イカはまあ食材として見れるようになったけど……これでかいし多いし」

「わかる。わかりみ」

「わかりみよねー」

「うーんでも美味しいんですよね」

「じゃあ早くとどめ差しなさいよ」

「ええ……私がですかぁ?」

「食べたいんでしょ。言い出しっぺなんだからさ、ほら」

「ううん……落ち着いてから向き合うと普通に精神によろしくないですね」

 

 などと、きゃいきゃい騒ぎながらも私たちは無事に大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)にとどめを刺し終えました。

 私たちがって言うか、私が。

 なんか近寄ったら触手がのたのたうごめくので、できるだけ見ないようにして、殻踏みつけて頭に剣を突き通しました。

 そしたら最後のあがきなのか全身触手でつかみかかられてぬちゃぬちゃされましたよ。

 いやまあそのまま力尽きたのでそれで痛いとか怪我するいうこともなかったんですけど、触手まみれ、粘液まみれの時点で地獄です。

 タオルで拭ってもなかなか取れず、寒い思いを強いられるのでした。

 

「……………」

「ごめんて。爆笑したのは謝るよ」

「悪かったわよ。ちょっと楽しくなっちゃって」

「……これ別に私じゃなくても良かったやつですよね」

「いや、汚れたくないし……」

「ウールーウー!」

「ごめんて。ごーめーんー、だからぬちょった手で触るのやめて! マジで!」

 

 まあそれもいい笑い話ということで。

 

「まあ、でも、大螺旋貝(マシ―ヴァヘリカーゴ)で済んでよかったわね」

「え、なんか意味深な言い方するぅ……」

「あいつはまあ事故みたいなものだもの。もっとヤバいのもいるわ」

「辺境は試され過ぎてるなあ……で、何がいるって?」

「ええ、毬藻マン(ピルカルゴヴィーロ)というやつでして」

「あ、出た」

「え?」

 

 振り向けばそこには、

 

 

 

 




用語解説
・《壁虎歩き(ゲッコークライム)
 ゲーム内スキル。《暗殺者(アサシン)》が覚える移動スキルの一種。
 設定では壁などに張り付いて歩くことができる、とされ、壁面や断崖など、通常は歩行不可能な地形を踏破可能になる《技能(スキル)》。
 一部の隠しエリアに侵入できるほか、広大なマップのショートカットなどに有用。
 銅像などのオブジェクトの上にも移動できるので、自撮りスクリーンショットなどでも活躍。
 また、一部のボスはこの《技能(スキル)》を使うことで移動可能なオブジェクトの上から、反撃を受けずに一方的にタコ殴りできるという裏技があった。
 長年修正されていないので、仕様なのではないかという声と、チゲ鍋で忙しいからという声がある。
『皇城の衛兵が、不埒な侵入者を相手にすることは稀だ。その前に飢えた「壁」の餌食になるからだ』

毬藻マン(ピルカルゴヴィーロ)
 マリモ。球状に集まることで有名な藻。
 単体の藻ではなく、糸状の藻が集合することで一つの大きな球状となっている集合体。
 その、マン(ヴィーロ)だ。

・そこには、
 語られないものがある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 亡霊とかがやくもの

前回のあらすじ

日本人にコズミックホラー渡してもこうなるってわかってたろ!
あいつら未来に生きてんだよ……。


 いやぁ、毬藻マン(ピルカルゴヴィーロ)はやばかった。

 この世界に来てからけっこうピンチあったけど、もしかしたら最大のピンチだったかもしれない。

 ヴィジュアル的にはシンプルなやつだったけど、あれ絶対ごちゃごちゃした感じの滅茶苦茶強いボス倒した後に出てくる、一周回ってシンプルなデザインできた裏ボス感あるもん。

 まともに戦ってたら限界社畜OL転生譚、完!みたいになってたかもしんない。

 早々に逃げてよかった。

 リリオもトルンペートもあれはやばいしか言わないし、あとで村長さんに聞いても「あんたたづアレを見ただか!?」みたいな反応するし、もはやオカルト板かアブノーマル・オブジェクト扱いなんだよなあ。

 

 まあ、あれが何であったのかは今は考えないでおこう。

 この完全記憶能力持ちの私が、思い出そうとするだけで頭痛がするしな……これ、プルプラちゃん様の顔を思い出そうとする時と同じ頭痛っぽいから、多分本当にヤバい奴なんだろうなあ。

 

 私たちは大螺旋貝(マシーヴァヘリカーゴ)とかいうクソでかアンモナイトを何とか担いで岸辺に避難していた。

 こんなバケモノ巻貝がそう何匹もいるとは思わないけど、また氷を割られても疲れるしね。メンタルと言うか、SAN値も削られたし。

 タコとかで慣れてると思ってたけど、ランタンの明かりひとつとかいう暗がりの中で、百本近い大小の触手がうぞうぞしてるのは普通に精神衛生上よろしくない。

 

 うう、それにしても、結局ぬちょぬちょを浴びることになってしまった。さすがにリリオひとりに担がせるわけにもいかなくて、三人で担いで慌てて逃げてきたからなあ。

 一応タオルで拭ったけど、乾いたところがちょっとカピカピして気持ち悪い。別に毒って言うわけじゃないんだろうけど、気持ちよくはない。

 もったいないけど、強めのお酒で肌だけは拭かせてもらった。

 

 はあ、しかし、疲れた。

 リリオもトルンペートも、ぐでーんと横たわってしまってる。冷えるから適当なところで起きなよね。

 このクソでかアンモナイト、見た目よりは大分軽いんだけど、それでもまあ生き物として妥当な重さはしてるし、かさばるんだよね。貝殻はでかいし、触手はぶらぶらするし。

 

「一応この貝殻売れるんだっけ?」

「ええ、まあ、売れるは売れますよ」

「これだけ大きいのは珍しいし、さっき叩きつけた時の傷も目立たないし、割といいお値段つくと思うわよ」

「へえ……」

 

 うん。

 へえ、なんだよなあ、私たちの場合。

 冒険屋としてはこういう降ってわいたような収入は大喜びするべきなんだろうけど、そこらへん私たちの金銭感覚は狂いに狂ってるからなあ。

 一時期荒稼ぎしたし、私の時間経過しないうえに容量がアホみたいにあるインベントリのおかげで、適当な荷物転がしてるだけでもそれなりに儲かるし。旅商人どころか卸売業者だよこれ。

 

 あと最近は町で生活するより旅してる時間の方が長かったから、お金使う機会なかったんだよね。脳筋蛮族ガールズのおかげでご飯は森で捕れるし。この大地が食卓なんだね、とかいうと詩的だけど、現実は狩猟採取時代から脱していないだけなんだよなあ。

 辺境ついてからは、いよいよ代金向こう持ちの至れり尽くせりどころか、お小遣い(お小遣いという額ではない)ももらっちゃったし……。

 完全に貴族の道楽旅行道中なんだよなこれ。

 

「多分、世の中の冒険屋が聞いたら全力でぶん殴られても仕方ないと思う」

「まあ、そろいもそろって普通の面子じゃないもんね、うちって」

「そうですね。貴族令嬢の私が一番普通なくらいで……」

「いや女中のあたしの方が普通でしょ」

「いやいや限界社畜OLだった私の方が普通でしょ」

 

 不毛な争いはさておき、私たちはこの高額だという貝殻を村に寄贈してしまうことにした。

 宿代としては高すぎるかもしれないけど、私たちそこら辺の感覚バグってるからなあ……。

 それにいくら私のインベントリに入れられると言っても、このクッソかさばる代物をいつまでも持ち歩いていたところで、私たちには売りさばく当てがないのだ。辺境には冒険屋組合ないし、かといって内地の組合に持って行っても辺境の素材はお値段青天井になりかねない。

 もしかしたら将来的にどこかで何かに使えるかもしれなくもなくもないけど、私その理屈でエリクサー最後まで使えない人種だしね。持ってない方がまだましだ。

 そもそもイベントアイテムにしちゃでかすぎんだよこれ。お城から兵士呼んで回収してもらうレベルだぞこれ。

 

 中身を丁寧に引きはがした後、村長に貝殻を寄贈すると、ご家族にも大いに喜ばれた。っていうかご家族ちっちゃいなおい。リリオより小さい大人久し振りに見た。

 なんでもラッコの獣人(ナワル)とかいう皆さんは、大喜びで貝殻を担いで、わちゃわちゃと運んで行った。こういう小さいキャラがわちゃわちゃしてるゲーム好きだな……癒される。

 

「私も小さいですよ!」

「こういう時ばかり推してくる……はいはいかわいいかわいい」

「むふー」

 

 えっ、ていうか村長もあれの仲間なの?

 思わず二度見してしまったが、まあ、うん、そういうこともあるだろう。

 あったかいものを頂いて少し話をしてみたところ、あれだけ大きいのは珍しいそうで、売らずに展示して観光資源にするとのことだった。たくましいことだ。

 

「いやはや、素晴らしい贈り物をありがとうございます。ささやかな品ですが、名産の瓶詰毬藻(ピルカルゴ)などお土産にいかがでしょうか」

「ああ、いえ、旅の身ですので、割れ物はご遠慮しておきます……気持ちだけ」

 

 これ修学旅行のお土産で売ってるやつだとか思わなかったわけではないけど、おばちゃんが手で丸めたマリモでも何でもない藻だとか思ってしまわなかったわけではないけど、それ以上にあのアレを思い出してしまいそうだったのでやめておいた。あのあいつってこれの進化系なんだろうか。どういう関係なんだろう。

 

 ああ、でも、ラッコ獣人(ナワル)のみなさんが、あの小さなおててでむぎゅむぎゅ丸めたマリモは普通にプレミア付きそうだ。

 生産者の顔写真張ったらバズるんじゃなかろうか。

 

 なんて考えてぼんやりしてたら、段々身体も冷えてきた。

 トルンペートが手際よく火を熾して、リリオがクソでかアンモナイトを剣で適当に刻む。でかすぎるので包丁で一本一本切るより、剣でやっちゃった方が確かに楽そうだ。

 どちゃぬちゃと雪の上に落ちた触手はまだ気持ち悪いかったけど、三人できもいきもい言いながら雪で洗って、適当な串にさしてやる頃には、なかなかどうして、普通に食材として見れるようになっていた。

 あれだ。おでんとかのタコ串みたいになってる。

 なんだかんだ言って日本人てゲテモノ食いと言うか、食べられると見るや目線がすぐに変わる生き物だよなあとは思う。

 

 私たちは焚火でアンモナイト串をあぶりながら、内職するみたいにちまちまと触手を刻んで串にさしていった。先っぽの方はそれこそタコ串みたいだし、根元の方はぶつ切りにしてコロコロした感じ。この辺りは煮てもいいかも、

 

「……刺し身」

「ウルウって人のこと言いますけど、自分もたいがいですよね」

「まあ、こいつで当たったって話は聞かないけど……」

 

 うーん、そう、だよなあ。一応湖水のものだしなあ。

 川とか湖のものは、寄生虫が怖いんだよなあ。辺境の寒さ的に凍らせて寄生虫殺すってのもありかもしれないけど、マイナス二十℃以下で二十四時間以上とか、結構時間がかかるらしいんだよね。

 私はいま食べてみたいんだよなあ。

 

「うーん……寄生虫、なあ……」

「口では悩みながらも手はすでにさばいてるんですよねえ……」

「こいつが悩んでるときってほぼほぼ内定状態よね」

 

 ええい、うるさい。

 いざとなればゲームのアイテムで解毒しちゃえばいいし、試さないのももったいない。

 私は部位ごとに適当に引いてみて、皿に盛ってみた。

 薬味は……とりあえずはいいか。醤油だけで。

 

「触手はなんかかたいですね」

「食べるんじゃん。言いながら食べるんじゃん」

「そりゃあんたひとりには食べさせないわよ」

「あ、身はいいですよこれ。やわこい」

「あー……いいね。はるかにいい。イカっぽい、ような、貝みたいな」

「歯応えは烏賊(セピオ)っぽいわよね。ちょっとこりこり、くにくに、より少し強め」

「味が結構濃いね。淡水なのに、意外」

「くちばし周り、かなりおいしいのでは……?」

「あ、あたしもあたしも」

「私の分まで取らないでよ」

 

 そうして刺し身で一杯やってるうちに、半凍りの触手串も解凍されて、いい感じに炙られてきた。

 イカっぽい香り、と言えばイカっぽい。でも貝とか焼いた時の感じもする。()感がないから、貝よりかなあ。

 刺し身だと強すぎた歯応えも、炙るとほどよく顎に心地い。噛んでる感じが気持ちいい。

 イカ焼きだ。でも、結構お高めの貝とか食べた時の、ああいう美味しさが舌の根にじわっと染みてくる。

 

「余った分は、濃い目の味付けで炒めたり、煮込んでもいいわね」

「絶対おいしい奴じゃん」

「あと、肝よ」

「あ、内臓の刺し身はしないよ」

「させないわよ。さすがに。そうじゃなくて、肝もね、濃厚で美味しいのよ。前に食べたのは炒め物だったわ」

「手で抱えられるくらいのは漁で捕れるんですよ。一応高級食品ですよこれ」

「うっわー……すごい雑に食べてる」

「いくらとれるかしらね、これ……この大きさだし、肝もかなり大きいから、いろいろできるわよ」

 

 美味しいクソでかアンモナイトを雑に食い散らかして、ほどほどにお酒もきこしめして、いい感じにあったまって心地よくなった私たちは、焚火の傍で横になって空を眺めた。

 そう、そう言えば私たちはオーロラを見に来たのだった。

 一応、毛皮とか毛布とかをたっぷり下に敷いてるけど、クソ寒い。

 それで自然に寄り添い合って、っていうかお互いの体温を奪い合って団子になったけど、アホほど寒い。

 ロマンも色気もあったもんじゃない。

 でも仕方ない。寒いものは寒い。

 私は自然を楽しもうという高尚な考えを早々に捨てて、さっさと《ミスリル懐炉》で三人まとめてあったまった。

 

 しっかし、寒いは寒いけど、それはそれとしてというか、そのおかげというか、空気は驚くほど澄んでいて、星々がよく見えた。

 湖に釣りに出ていた人たちももう家に帰って、その家ももう明かりを消してしまっていて、あたりは深い湖の底に沈んでしまったように真っ暗だった。

 その中に私たちの焚火だけが、浮島のようにぽつんと浮いている。

 

 手を伸ばせば届きそうな、なんて使い古したフレーズだけど、寝転んだ私の見上げた先には、まさしくそんな星空がひろがっていた。届きそうで、零れ落ちそうで、そしてどうしようもなく遠い。

 見知らぬ星座が、見知らぬ夜空で、見知らぬ物語を人知れずに語り続けていた。

 赤い目のさそりは追いかけてこず、オリオンはここでは歌わない。

 空の巡りのその先を、私は知らない。

 私の星がどこにあって、そこはここからどれくらい遠いのか、きっと知ることもない。

 

 とっぷりと闇に沈んだ岸辺に、こうして横たわっていると、なんだか自分のちっぽけな体が浮き上がって、夜空の中を漂っているような気持ちさえした。

 不思議な解放感と、怖いくらいの寂しさ、そして言い知れぬ満足感があった

 

 そんな私の肩を揺さぶるものがある。

 

「ウルウ、ウルウ」

「ん、ふ……?」

「寝ると死にますよ」

「ロマンが死んだよ、いま」

「ロマンは疲れてるんでしょう、起こさないであげましょう」

「あたしたちは普通に死ぬから、交代で休みましょう」

 

 うん、まあ、そうだね。私のロマンを返せ、と言いたいところだけど仕方ない。

 《ミスリル懐炉》は触れてないと発動しないから、うっかり寝てる間に手放したらお陀仏だ。

 実際、この眠気は寒さもあると思うし。

 

 私たちは適当に時間を区切って、三人でかわりばんこに休んだ。こういうのも慣れたもんだ。

 いや、慣れたかな。いや全然慣れてないな。私が大人気なくゲームアイテムで快適さを優先するから、こういう不便さとは基本的に縁がないんだよね。

 

 何度目かの交代か、眠るとも眠れずに、うとうととしていると、なんだか音がした。

 ちりしり、ちりしり、とノイズみたいな音が、どこか遠くで、静かに響いているような気がした。

 あたりは風もなく、どこまでも澄んだ空気が、奇妙な音を私に聞かせていた。

 その不思議な声にあわい夢を揺さぶられて、私はゆっくりと目を開いた。

 

 そこには、いままさに北の空を覆うように揺れる、光の幕が横切っていくところだった。

 手で触れることができそうなほどに、はっきりとしたひだの一つ一つまでが、私の目には見えた。

 その色を何とたとえたものだろうか。天の高い所では赤く、そして中ほどにいたるにつれて緑白に輝き、ゆらりゆらりと揺れる裾の方では、青白くたゆたうようにも見えた。

 その不思議にかがやくものが、ちりしり、ちりしり、私の知らない言葉で、私の知らない歌をうたいながら、宇宙の風に揺れていた。

 

 ぎゅう、と私の手を握るものがあった。

 私の右手と、左手を、左右から握るものがあった。

 小さなそのぬくもりを握り返してしまったから、私はいつのまにかまなじりに膨らんだ涙をぬぐうこともできなかった。

 

 ああ、思えば、ずいぶん遠くまで来たものだ。

 

 不器用な生き方をしてきた。

 奇妙な道のりを歩いてきた。

 思いがけない出会いをした。

 信じられない幸運を掴めた。

 

 死んでいないだけで、生きていることさえできなかった亡霊の私が、ここまで歩いてきた。歩いてこれた。

 もういいかなって何度も思いながら、その度に君たちが手を引いてくれた。

 おまけみたいなものだと思っていた、余生みたいなものだと思っていた、この二度目の人生は、どうしてだろう、こんなに遠くまで歩いてきてしまったよ。

 

「ねえ」

 

 私は、どこまでいけるんだろう。

 私たち、どこまでいけるんだろう。

 

 涙は、零れる前に凍ってしまったよ。




用語解説
・ロマンが死んだよ、いま
 実際よく死ぬ。現実を突きつけられたり、現実に追いつかれたり、人理を守ったりして。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 天の幕はいま開かれり

前回のあらすじ

お前……消えるのか……?
ところがどっこい消えません。
そのときがくるまでは。


「……さっむ」

 

 目を覚ました時の寒さというのは、どうしてこうも耐えられないのか。

 っていうか耐えられないから目がさめちゃうのかしら。

 一度起きちゃうと、この寒さじゃ二度寝もきかない。

 

 あたしがもぞもぞとベッドを抜け出すと、一人分の熱が逃げだしたことに反応して、でっかいのとちびっちゃいのが湯たんぽを求めてのたうった。

 まあ、そうよね。人間の体温は魅力的ではあるけど、暖まるには物足りない。

 人を救えるのは結局のところ、分厚い壁と暖炉の火よ。

 

 じんわり熾火になりかけてたストーブに、薪と火精晶(ファヰロクリスタロ)をぶち込む。

 一晩もつのはなかなか優秀だけど、もう少し頑張ってほしい、技術の進歩が望まれるところね。

 あたしはちぢこまりながら暖炉の火にあたり、じっくり身体を炙って暖める。

 

 昨夜もこんな感じだった。

 あたしたちだってそこまで期待はしてなかったほどの見事な北の輝き(ノルドルーモ)に、ウルウは泣きだしちゃうくらい感動してくれた。

 あたしたちは仲良く手をつないで、お互いの体温を分け合って、口づけし合った。

 それで、お酒も入ってたし、程よくお腹も満たされていたし、言ってみれば条件は満たされてたのよ。

 

 荷物を片付けて小屋に引っ込んで、そのあたりまでは雰囲気も最高だったのよね。

 片付けの手間も、夜のことを思えばちょっとした障害みたいな感じで、かえって燃え上がるみたいな。

 でもその火もベッドに入ってすぐに鎮火したわ。っていうかベッドに消火されたわ。

 だってクソ冷たいんだもん。

 

 その前の時点でもう、さあ。防寒具脱いで、寝間着に着替える時点で、もう、いや寒いなこれとはなったのよ。

 それでもまあ体温を分け合ってるうちにあったかくなるだろうってベッドに潜り込んだら、これがキンキンに冷えてるわけよ。拷問器具かってくらい。

 いやもう、真顔よね。

 いや、無理、って。

 人肌万能説にも限界があったわ。

 っていうかもうこんだけ寒いと肌が冷たいから、人の肌に触るのも冷たく感じちゃうわけよ。

 ウルウの豊かなお山でさえ、というかほぼほぼ脂肪でできた豊かなお山だからこそ、真冬の登山めいて登頂を拒む厳寒の冷たさだったわ。

 誰よおっぱいに挟まれば暖かいとかいったのあたしだった。

 

 それでまあ、脱ぎ捨てたばかりの防寒具をもそもそ羽織って、ストーブに火を入れてさ、身体を炙るわけよ。

 あたしの嫁たちが、揺れる火に照らされて裸を見せつけるわけよ。

 何の色気もなかったわ。

 多分二人から見たあたしもそうだったんでしょうね。

 奥歯鳴らしながら、中腰になって、なるべく暖炉の火にあたる面積を増やそうと苦心して炙られてるんだもの。何の儀式かって感じよね。

 

 特にウルウが、身体大きい割にそんなに熱を作らない体質みたいだから、苦労したわね。

 おっぱいも、特に冷えるみたいで。

 横から見たらそのおっぱいが揺れること揺れること。でもその揺らしてる本人は、そうしないと死ぬって顔して必死こいて腕とか脚とかこすってるわけよ。火熾しかってくらい。

 さすがに色気とかそう言う話じゃなかったわよね。

 

 いやまあ、それでもまあ、なんていうかまあ、ねえ?

 戦って盛り上がったし、お酒飲んでご飯食べて盛り上がったし、綺麗なものを見て盛り上がったし、あたしたちの中ではいろいろな盛り上がりが積み重なってたわけよ。

 雰囲気も、あったし。お酒ももう少し入れて、身体もあったまって、部屋もあったまって、開き直ったみたいにみんなでシーツ広げてストーブの火に当てたりもして、いろいろあったまったし。

 

 うん。まあ。なによ。

 なんだかんだでなんだかんだはしたわね。

 そりゃあ……したわよ。しない理由もないし。

 

 くっついて、じんわり体温分け合って、そうするとこう、気持ちが盛り上がってきて、好きで、大好きで、幸せって気持ちになるのよ。

 それをこう、分けあっていくうちにどんどん高まってなんやかんやよ。

 なんやかんやはなんやかんやね。

 

 あぶっているうちに体があったまってくれば、あたしは手早く着替える。

 あたしは要領のいい女なので、もちろん着替えもストーブであぶってあたためておいた。

 冬場に冷え切った服着るのってなんかの刑罰かってくらいつらいもの。

 

 うん、と一つ伸びをして、換気のためにも窓を押し上げてみると、まだ日は出ていなかった。

 出る気配も、いまいちよくわかんない。真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)だしね。

 でもまだ早い時間なのは確かだ。もう少し寝れると思ったけど、なかなか。やっぱりストーブはもっと進歩して欲しいわ。

 

 あたしは椅子をがこがこ引きずって、ベッドのそばで腰を下ろす。

 ベッドの中では、ウルウが猫みたいに、大きな体を丸めて寝ている。その腕の中では、リリオが抱き枕になっていて、寝ぐせだらけの頭をウルウの胸元に突っ込んでいた。

 まるでお姫様みたいに、あるいは死体みたいに、まっすぐ伸ばしてたみたいに寝ていたウルウは、最近あんまり見ない。なんだかだらしなくなっちゃったみたい、って複雑そうな顔をするけど、あたしはこういう奔放な寝相の方が好きだ。

 あたしがベッドから蹴りだされた時は例外として。

 

「あーあ。幸せそうにしちゃって。あたしも挟まりたいわね」

 

 体温の高いリリオに、骨に当たらなければ柔らかいウルウ。

 それに挟まれて二度寝できたらどんなにか幸せなことだろう。

 でもリリオが寝ぼけたら死ぬ。あたしはお利口な武装女中なので、リリオと二人でウルウを挟むことはあっても、リリオに抱きしめられる間合いでは寝ない。子供の頃にそれで何回も修理されてるので、いい加減に懲りた。

 でもまあ、体調が万全で、体力に余裕があって、《玩具箱(トイ・ボックス)》が近い時なら、たまにはいいかなと思う。あたしをくしゃくしゃに抱きつぶして寝るリリオはそりゃあもう信じられないくらいかわいくてきれいな美少女なのだ。さすがあたしのご主人様だ。

 

 なんてことをのろけ話としてウルウにしたら、君たちのそう言う関係は本当にヤバいと思うって真顔で言われたから、まあ、そりゃそうなんだろうなとは思う。思うけど、でも仕方ないじゃない。これがあたしの愛なのよ。

 なんならウルウにも抱きつぶしてほしいし、締め上げてほしいんだけど、ウルウにそんなことさせたら絶対嫌がるというか自分が死にそうな顔しそうだから興奮するもといダメよね。うん、ダメよ。まだダメ。

 

 ああ、でも挟まれたい。

 ウルウ曰くのところによれば、百合に挟まれると死ぬらしいけど、あたしだって《三輪百合(トリ・リリオイ)》の一人なのよね。黒百合と白百合に鉄砲百合が挟まれてもいいと思うんだけど、ダメかしら。

 っていうか挟まれると死ぬ理論で言うと、白百合と鉄砲百合にいつも挟まれてる黒百合はすでに死んでると思う。まあ、半分亡霊(ファントーモ)みたいな感じなのは確かだけど。

 

「はあ。もう。早く起きなさいよ。北の輝き(ノルドルーモ)は見たけど、他にもいろいろあるのよ。氷滑りしたり、雪滑りしたり……食べ物だって、それにお酒も。あ、温泉あるんだったわね。この時期も開いてるんなら、入らせてもらえないかしらね……」

 

 ひとつ思い浮かべれば、連想的に次から次へと湧いてくる。

 リリオとはいろんなことをしてきたけど、それをも一緒に楽しむのは悪くない。何度も過ごしてきた退屈な冬だって、あたしたち三人にとってははじめて過ごす一緒の冬だ。

 あたしはウルウの頬を指で押す。むにむに。ぷにぷに。寝ていると少しだけ幼い顔は、まるで大きな子供みたいだった。

 

「ねえ」

 

 かわいいもんだ。

 あたしはこいつにいろんなものを食べさせてやろう。

 いろんなものを飲ませてやろう。

 いろんなものを見せてやろう。

 いろんなもので遊ばせてやろう。

 いろんなところにいって、いろんな思い出を作ろう。

 

「ねえ、あたしたち、きっとどこまでだっていけるわ」

 

 あたしたち三人で、どこまでも、どこまでも行きましょうね。




用語解説
・どこまでも、どこまでも
 旅の終わりが来るその時まで。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十章 そして《伝説》へ…
第一話 白百合と旅支度


前回のあらすじ

「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう」
              宮沢賢治『銀河鉄道の夜』


 私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》が辺境で過ごす冬も、いよいよ終わりを迎えようとしていました。

 真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)は過ぎ、日差しは日一日と長く暖かくなり、雪が少しずつその(かさ)を減らし始めていました。

 

「さあ、いよいよ旅立ちの時ですよウルウ!」

「え、やだけど……」

「やだけど!?」

 

 お部屋でずびしと天井高く腕を振り上げた私は、さっそく腕のやりどころを見失ってしまいました。

 たっぷり綿の詰まった椅子に腰を下ろして、厚着した上にひざ掛けに肩掛けと重装備のウルウが、ものすごーく胡乱気な目で私を見ています。

 トルンペートも暖かい甘茶(ドルチャテオ)を自分で注いで、我関せずとすすっています。

 

 うぐぐ。なんか空ぶってるみたいな空気で嫌ですね。

 私はもそもそと椅子に戻って、トルンペートが注いでくれた甘茶(ドルチャテオ)をいただきます。

 うん。今日もおいしいですね。やっぱり寒い日は楓蜜をたっぷりまぜた甘茶(ドルチャテオ)が一番です。

 

 でもそうじゃないんですよ。

 旅立ちの時なんですってば。

 

「ええ……? いや、まだ寒いし……ほら、雪も積もってるしさ。まだ早いって」

「ウルウ、気持ちはわかりますけれど、いま何月かわかってますか?」

「さあ……真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)のせいで日付感覚狂っちゃってるんだよね」

真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)はもう過ぎましたよ。もう三月ですよ三月!」

「へえ……辺境って日が短いし寒いから実感ないね」

 

 ううん、ウルウにすっかりこもり癖がついてしまいました。

 私が急かして声を荒らげて、ウルウがだらだら過ごそうとするというのは、なんだか普段と逆な気もします。

 思えば最近、朝もあんまり早起きしなくなりましたし、夜も早めに寝てしまうようになりました。

 冬季鬱の一種かもしれません。

 

 うとうと眠そうでぽやぽやしているウルウというのも、それはそれでちょっとかわいいというか色っぽいというか、そういう面もあるのですが、それはそれ、これはこれです。

 

「あのですね、ウルウ。もう三月なんです。冬至前にフロントに来て、年も越して、もう三月ですよ三月。ウルウと会ったのが初夏なんですから、二人の思い出がかなり辺境で埋まってきちゃってますよ」

「途中からあたしもいたんだけど」

「──三人の思い出がかなり辺境で埋まってきちゃってるんですよ!」

「雑」

「雑いよねー」

「こういう時いっつも仲いいですね!?」

 

 まあ、気持ちはわかるんですよ。

 お母様も寒さが苦手ですし、ウルウも寒いのは別に得意ではないみたいで、あえてその寒い中、頑張って旅に出たいとは思わないっていうのは。

 辺境の中で出かけたりっていうのは、そりゃありましたよ。北の輝き(ノルドルーモ)を見に行った時とか、領都に遊びに行った時とか、そのほかいろいろ。

 でもそれはまあ短距離というか、ちょっとしたお出かけ感覚です。出かけた先で、ちゃんと暖かい思いができたわけですよ。

 

 でも辺境を出ようってなると、行きのことをどうしても思い出さざるを得ませんよね。

 飛竜に揺られて乙女塊を空中投下したり、地上に降りれば寒い中で狩りをしたり野営の準備をしたり。思い出せば楽しい旅の記憶、というだけでもないのが事実です。

 実際問題、腰を据えちゃうとまた旅に出るのって結構つらいんですよね。まさしく腰が重くなります。

 旅に出たいと家を出て、冒険屋としてあちこち旅してまわりたいと思っている私でさえ、この実家の空気には抗いがたい誘惑を感じます。

 

 何もしなくてもご飯が出てきて、手足を伸ばせるお風呂にいつでもつかれて、暖房のきいた暖かいお部屋で惰眠をむさぼれる。貴族って本当に贅沢だなあって心底感じちゃいます。

 そして、ごく潰しとして地味に地道に罪悪感とか焦燥感がわいてくると、いい感じに力仕事とか狩りとか任せてくれるんですよ。私の扱い方を私以上に分かってますよ、さすが実家。

 

 トルンペートも天職である女中仕事を心置きなくやれるうえに、お世話の対象が私だけでなくウルウというお嫁さんが増えて二倍面倒見れるので、ものすごーく生き生きして、ものすごーく充実しています。

 そうなんですよねえ。トルンペートって女中さんなんですよねえ。侍女というか。

 武装女中はあくまで武装してる女中さんなので、戦闘は本職じゃないんですよねえ、本来。

 私と旅してると、狩りと戦闘と調理がお仕事みたいになってますけど。それはそれで楽しそうにはしてくれてたんですけど。

 やっぱりこう、主人である私を、たっぷりお金かけた贅沢な品々で面倒見るのが、一番楽しそうではあるんですよねえ。

 

 ああ、ほら、いまだって、トルンペートがウルウの髪をいじり始めましたよ。

 ウルウはもともと髪が長いですし、私が長いほうがいいと言ったからか伸ばし続けてくれて、豊かで美しい黒髪はいじりがいがあることでしょう。

 私もウルウのいろんな髪型が見れて目にもうれしいのは確かです。

 

 ウルウもウルウでまあ、うとうと気持ちよさそうに頭を預けてしまって。

 この姿、出会ったばかりのウルウに見せてあげたいですね。

 最初のころのウルウは、髪とか絶対に触らせてくれませんでしたからね。

 態度で拒絶するだけじゃなくて、一度など「気持ち悪いからヤダ」ってはっきり言われましたからね。

 

 そりゃあ、あんまり仲良くない人間に髪を触られるのっていやですけど、仮にも同室で過ごしてる相手にそこまではっきり言われるとは思いませんでしたよ。

 それがいまでは、丁寧にくしけずってもらって気持ちよさそうにしたり、三つ編みにしたり二つ結いにしたり、あまつさえ「ほらー、かわいいわよこれ」「えー、似合わなくない?」「似合わなくないって!」みたいにキャッキャうふふと楽しそうに!

 

 まあ私が髪をいじってもらってるときも似たような感じなんですけれど。

 ちょっとやきもち焼いておくと後で私もしてもらえます。

 

 うーん。しかしかわいい。

 こういう光景はいつまでも残しておきたいものですね。

 

「トルンペート、寫眞機(フォティーロ)はどこでしたっけ?」

「あら、久しぶりに撮るの? どこだったかしら……蔵にしまってあると思うけど」

「ふぉてぃ……なんだって?」

「ああ、寫眞(しゃしん)……目で見たままの景色をそのまま写し取れる機械があるんです」

「カメラあるんだ」

 

 ウルウがのっそりと背を起こし、目をぱちくりとさせました。ようやくおめざですね。

 しかしかめら、ですか。ウルウの国にも寫眞機(フォティーロ)があったんでしょうか。普通にありそうですね、ウルウの妖精国(仮)。

 

寫眞機(フォティーロ)は探すのに時間がかかりそうですけれど……確か寫眞帳がありましたね」

「ああ、ほら、そっちの棚よ」

「ほらウルウ、これが主人を顎で使う女中ですよ」

「嫁の髪で手が埋まってるのよ」

「じゃあ仕方ないです」

 

 仕方ないのでした。

 

 さて、自分の部屋なのに人に聞かないとどこに何があるかもわからないお嬢様は、さっそく寫眞帳を開いてウルウに見せてあげました。

 家族で撮ったものや、辺境の景色、うまく写っていませんが北の輝き(ノルドルーモ)を撮ろうとしたものなど、たくさんの思い出がそこに並んでいました。

 

「フムン、白黒なんだ」

「おや、色付きのを見たことが?」

「うん、まあね……しかし、白黒でも君の元気さはよくわかるね」

「そうでしょう! 私の魅力が寫眞にも……あれ?」

「大体ぶれててまともに写ってないんだね」

 

 おおう……そういえば、昔からじっとしているのが苦手な子供だった気がします。

 家族の記念撮影とかはちゃんとじっとしてるんですけど、お父様が気まぐれで撮ろうとした奴なんかはだいたい動き回ってるせいでまともに写っていませんね。

 うーん。これはなんかちょっと恥ずかしい。

 

「せっかくですから、ちゃんと写っている写真を残しておきたいですね」

「じゃないと君、なぜか写り込んだ謎の発光体として語り継がれそうだしね」

「そこはかとなく怪談になっちゃうわね……」

寫眞機(フォティーロ)見つかったら、ウルウも一緒に撮りましょうね」

「ええ……? 私はいいよ。写真写り悪いし」

「いいじゃない。髪も綺麗に結ったげるわ。お針子も呼んで何着か新しくしましょっか」

「宝石商も呼びましょう。記念撮影用にかわいいの買いましょうね」

「女子高生みたいなノリでえげつない貴族の金遣いするなぁ……」

 

 まあ貴族の金遣いというか、寫眞機(フォティーロ)そのものがそれなりにお値段張りますからね。

 帝都の新聞屋なんかは、高性能な小型の寫眞機(フォティーロ)を使って、寫眞入りの新聞を発行しているらしいですけど、あれも帝都だからですよねえ。

 うちだって、おそらくお父様がお母様撮りたいから買っただけで、普通の貴族は寫眞機(フォティーロ)とか持ってないですからね。普通に寫眞屋を呼びつけますよ。

 

 さーて、じゃあさっそく寫眞機(フォティーロ)をさがしに行ったらダメなんですよ。

 あぶないあぶない。

 

「寫眞は撮るとして、それより! そろそろ旅立ちの準備ですよ!」

「ええ……まだ言うの? 一緒にお布団はいってだらだらしようよ」

「ものすごーく魅力的な誘惑ですけれど、さすがにそろそろまずいです」

「まだ雪積もってるのに?」

「まだ積もってるうちじゃないとダメなんです」

 

 ウルウがこっくりと小首をかしげて、なんで?って顔をするので、この瞬間にこそ寫眞機(フォティーロ)がいるんですよねえと歯がゆい気持ちでいっぱいです。

 

「まあ、雪国はじめてならわかんないでしょうけど、雪って、溶けると水になるのよ」

「そりゃそうだけど」

「身長より高く積もった雪が全部溶けてくのよ。全部水になるのよ」

「あー……つまり、浸かる?」

「そういうことなんですよねえ」

 

 一度に全部溶けるわけではないとはいえ、積もり積もった雪すべてが水だと思えば、辺境というのは大きな湖に半ば沈んでいるようなものなのです。

 溶けていった雪は、雪解け水となって川に流れていき、あふれかえります。大地を潤すどころか、大地がひたっひたになります。じゃばっじゃばになります。

 それが辺境全土で順次発生していくわけです。

 

「来るわよ。来ちゃうわよ。おっそろしい()の季節が」

「うげ。すっごく嫌な響き」

「泥濘に沈んだ辺境は、それはもう悲惨ですよ。雪なら多少沈んでも上を歩けますけど、泥はもっと緩くて、もっと沈みます。しかも雪よりも迅速にしみ込んでくるんですよ、冷たい泥が」

「本当、あの時期は最悪よね。歩きなら大丈夫なところでも、馬とか車は沈んじゃうから、重たい荷物が運べなくなったり」

「慎重に歩いても絶対泥で汚れますしね……毎年盛大に泥まみれになって何度しかられたことか」

「しかも雪が解ける温度ってまだ地味に寒いから、しみ込んだ泥が冷えて底冷えするったらないわ」

 

 私たちがうんざりするような思い出を口々に語りあうのを聞いて、ウルウもさすがにその有様を想像して察したようでした。

 

「なるほど。雪解けまで待つと、今度は泥のせいで出られなくなるんだ」

「そうなんです。空を飛べる飛竜も、離陸、着陸時には絶対泥に触れるので、ものすごーく嫌がります」

 

 飛竜ってかなり綺麗好きな生き物なので、泥とかつくと滅茶苦茶不機嫌になるんですよ。比較的温厚な飼育種でさえ、泥で汚れると乗り手の言うことを聞かないことがままあるとか。

 

「それにいい加減お母様も飽きてきちゃったみたいで」

「ああ……暴れられる前にってこと?」

「まあ、そういう面も無きにしも非ずです」

 

 一応、山菜とか春の恵みもあるにはあるんですけれど。

 

「泥まみれになるのと引き換えですけどどうします?」

「……わかったよ。準備しようか」

 

 こうして、渋々ながらも《三輪百合(トリ・リリオイ)》の旅が再開することになったのでした。




用語解説

寫眞機(フォティーロ)
 寫眞を撮るための機械。
 一般的には町などに一軒程度寫眞屋があって、ある程度余裕のあるご家庭では記念などにそこで撮ってもらうことが多いようだ。
 個人で所有するには金と手間が必要で、貴族でもよほどの趣味人か。
 ただ、帝都の新聞社では社会実験などの名目で政府から最新の携行型寫眞機(フォティーロ)が融通されているとか。
 現状は白黒寫眞が主で、カラーのものは珍しいようだ。
 なおその仕組みは、我々の知るカメラと必ずしも同一ではないのかもしれない。

・妖精国
 妖精郷などとも。
 ファンタジーな世界観においてなお妖精や、その住まう国というものはおとぎ話の類で、ほとんどまともに観測されたためしはない。
 というより、魔力視がほぼないものが風精などをたまたま視ることのできた事例や、何かしらの神性や精霊のふるまいを正しく認識できていない場合に、人々がその不思議な情景に物語を添えてみたようなものが妖精話ということになる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊とあふれ出る思い出

前回のあらすじ

実家でがっつり冬休みを堪能してしまった《三輪百合》。
食っちゃ寝してだらだらと過ごしてしまったツケが下っ腹に来てもよさそうなものだが。


 結局、写真を撮ったり、そのためだけに何着かおろしたり、アクセサリーがおもちゃみたいに気軽に購入されたり、というイベントは足早にこなされ、並行して進んでいたらしい出立準備は私の一切あずかり知らないところで終わってしまっていた。

 

 いやまあ、私にできることって特にないんだけど。

 私にできたのは、竜車に乗り込んで、シートベルトしめて、そして可及的速やかに意識を失うべく目を閉じることだけだった。

 

 モンテート要塞の土蜘蛛(ロンガクルルロ)たちの手によって実用に足る程度に改修された竜車は、ここフロントでさらに辺境伯の紋の入った立派な竜車に改造、というかほとんど丸々再建されていた。

 これは、アラバストロさんが公用で使うのと同じくらいの品格のもので、きちんと手続きさえすれば他の貴族のお屋敷に乗り付けても問題がないくらいらしい。

 まあ、格付けの上での話であって、たいていの貴族はどれだけ手続きを済ませようと竜車で乗り付けられるとか普通に勘弁してほしいだろうけど。

 

 まあそれだけ立派な竜車なので、内装もかなり快適だ。

 揺れも軽減されているらしいけど、そこは、まあ、比較的であって、私はすでにつらい。

 気圧や室温も保たれて、シートもかなり上等で沈み込むような柔らかさ。

 リクライニング機能というか、野営用として倒してそのままベッドにもなるという、どこまでも武辺が抜けない辺境仕様だ。当然のように武器や猟具、野営道具もきっちり収まっている。

 

 飛行中に倒しておくのは危ないらしいので、私は背もたれにしっかり身を預けて、揺れから意識をそらすべく現実逃避に走った。

 

 さて。

 

 時間が経つのは早いものだねえ、なんて言い出したら年を食った証明らしいけど、実際そんな気持ちだった。子どものころは毎日がもっと長かったような気がするし、明日っていうものにたくさんの希望を抱いていた気がする。

 

 でも二十歳過ぎると十代のころとは時間の流れが違ってくるんだよね。

 生活の違いもあるんだろうけれど、毎日が忙しく過ぎ去ってしまう。子どもの頃より夜遅くまで起きられるようになっても、やることがたくさんで残り時間を気にするようになってしまう。

 それで、たまの休みなんかも、何かしようと思っていたはずなのに、ベッドでだらだら過ごしているうちに気づけばあっという間に日が暮れて、何もできないで終わってしまう。

 

 ブラック企業に勤めていたころはもうただ毎日が過ぎていくのにしがみついているのに精いっぱいで、ただただその日をどうやり過ごすかっていうことばかりで、今日が何日の何曜日なのかっていう感覚さえなくなっていたような気がする。

 

 この世界にやってきて、リリオと旅をするようになって、私の世界は一変した。

 毎日が本当に濃密で、それでいて驚くほどに楽しく軽やかに過ぎ去って。

 落ち着く間もないくらいにせわしなくって、それなのにまた明日を楽しみにできた。

 リリオとトルンペート、二人の若さにつられたのかなって思うくらい、私は健やかな日々を送っていた。

 

 そんな私が、こんな降ってわいたような正月に実家に帰省するようなお休みをいただいてしまうとどうなるかというと、それはもう驚くほど堕落してしまったのだった。

 

 いや、実際これはまずいって。

 最初こそ、貴族のお宅だし、人様の家だし、なんなら婚約者というかお嫁さんの実家なわけで、緊張したり気を遣ったりと落ち着かないものだったんだよね。

 

 でもここ、何もしなくていいんだよね。

 

 朝は結構お寝坊しても、二人が一緒にお寝坊してくれるし、ご飯だって呼びに来てくれるし、片付けもしなくていい。部屋の掃除もしてくれるし、お茶やおやつも出てくる。

 そもそも用事もなく外に出れないような厳しい冬なので引きこもってても何も言われないどころか、リリオ様と違って手がかからなくていいとか謎の誉め方されるし、大型ペットと安全に触れ合えるおさわりコーナーもある。

 かといってこもりっぱなしでもなく、暇をしてたらちょっとした仕事をさせてくれたり、図書室に通してくれたり、たまーに外に遊びにも行ったり。

 

 その上、真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)、つまり一日中太陽がほとんど昇らない極夜の日々だから、私の体内時計とか生活リズムとかは徹底的に壊されて、ブラック社畜時代の始発前に起きて終電ギリギリで帰るか会社に泊まるようなクソバイオリズムとはおさらばしたわけだ。

 比較的健康な冒険屋バイオリズムも破壊されちゃったけど。

 

 いや、それでもまあ、昨年中はまだましだったと思うんだよね。

 オーロラ見に行ったり、領都観光したり、劇を見に行ったり、色々出歩いたりしてたんだよ。

 

 でも年末になってクリスマス的な年越し祭り的な日々を過ごしているうちにどんどんだらけていったよね。おいしいもの食べて、暖炉の前でうとうとして、ダメ人間街道をまっしぐらだったよね。

 飛竜乗りたちと紅翁(アヴォ・フロスト)、現地のサンタ的なやつを捕まえに行ったり、それはそれで遊んだりしてたんだけどね。

 まあ歴戦の戦士達でも、音速突破する飛行そりはさすがに無理っぽかった。もともと辺境の空は荒れ気味だしね。

 

 それでだらだら年越して、あんまりだらだらしてるからってその時も一度(かつ)を入れられたんだよね。まあ喝というか、じっとしてられないリリオに遊びに行きましょうよってねだられて、雪の中ひいこら言いながらの地獄ハイキングだったなあ。

 最初は初狩とかいって、なにか仕留めて今年の縁起を占うとか言う蛮族おみくじしようっていう話だったっけ。そろそろジビエも食べたいなあとかなんとか私も乗っかって出かけたんだけど、出かけてった先で、このあたりは大具足裾払(アルマアラネオ)の生息地が近いんですよみたいな話してさ。

 

 ほらあれ、リリオの剣の素材になってる辺境の生き物で、辺境貴族が返り討ちにあうくらい強くてレアな生き物らしいんだよね。

 その時ゲットした素材が結構あって、リリオの剣もそこから削り出したらしいんだけど、それ以来絶対に手を出しちゃいけないってことで新規素材の入荷はないみたい。飛竜素材がんがん狩ってきてる辺境人にしては大人しい話だって思ったけど、いや、賢明な判断だったんだねえ、昔の人。

 

 ちょっと見るだけならとかリリオが言い出して、トルンペートは止めたんだけど私も調子乗ってて、どうせ回避できるし見てみようよとか言っちゃって。

 いやあ、まさか一回死ぬとは思わなかったよね。しかも初撃で。

 

 あれかなーって遠目に見えたか見えないかあたりで、『不明なエラーが発生しました』とかシステム音声みたいなのがしたと思ったら、吹っ飛んでたよね。私一人で先行しててよかったよあれは。

 避けられなかったんじゃなくて、自動回避そのものが発動しなかったんだよね。

 自動蘇生アイテムもってなかったら本当に死んでたよあれは。いや、一回本当に死んだのかな。死んでる間のことはさすがに覚えていないんだよね。

 ただ、着ていた防寒着が大分セクシーなことになってたから、相当な強制ダイエットを食らったのは確かっぽい。

 

 二人を担いで逃げ帰ったんだけど、それでまたしばらく引きこもったよね。

 あの時の私はかなり精神状態やばかった気がする。転生した時はもう半分くらいメンタル死んでたし、自分が死ぬんだってこともわかんなかったけど、あの時は死って言うものがあまりに容赦なく目の前にいたからね。

 

 それで、二月にバレンタインデー大祭っていうのがあってさ。

 あ、これ原文ママね。本当に現地でもこの呼び方するんだよ。

 なんか、チョコレート菓子を発明した人が、神託(ハンドアウト)を受けて発狂して叫んだ言葉がもとらしいよ。この世界の神様、気軽に人を発狂させるから油断できない。

 

 二人も私を元気づけようとしてチョコ作ってくれたり、私もそれを受けてありがとうねって、それで済んでたら美談だったんだけどね。

 三人でキャッキャしてたら次から次に決闘申し込まれて、とんだ一日だったよ。

 

 辺境のバレンタインってさあ、高価なチョコレートを果たし状代わりに送って、決闘でお付き合いの是非を決めるとか言う蛮族フェスティバルらしいんだよ。

 みんなチョコ好きで、もらえたらうれしいんだけど、じゃあチョコもらったから付き合うかっていうとそれはまた別の問題で、付き合う前段階の力試しをする権利をチョコでゲットするってことらしい。

 

 なに言ってんだこいつら。

 

 辺境人の好みって、強い人が基本らしいからね。

 もちろんそれだけじゃないけど、ある程度強くなくっちゃ話にならない。

 まあでも、自分より強い相手じゃないと嫌だ!っていうほど過激派は少ない。だって、相手も同じ考えだったら、絶対付き合えないし。

 だからまあ、情けないくらい弱いってことじゃないのを証明するための決闘みたいなものなのかなあ。ダンスみたいなものかも。

 それで相性がよさそうだったら付き合うっていう感じ。

 

 私の場合、一応領主の娘の婚約者ってことになってるから、本気で付き合ってくれ、っていうやつじゃなくって、多分私と戦ってみたい戦闘狂どもがイベントにかこつけて挑戦してきたみたいな流れだと思う。騎士団全員来たしね。馬鹿か?

 

 私が新入りだから私に多く来たけど、リリオやトルンペートにも結構並んでたから、もう結構な騒ぎで、最終的に面白がったマテンステロさんが乱入してくるし、それを追いかけてきたエプロン姿のアラバストロさんがぶち切れて大暴れするし、散々だったなあ。

 

 あれ。意外と私、なんだかんだあれこれしてる気がするな。

 今月も、なんだっけ、乳酪祭り(ブテーロ・フェスト)とかいうのでお祭り騒ぎしたし。

 クレープみたいなやつを、たっぷりのバター使ってたくさん焼いたり、バタークリームでこってりのケーキとか、揚げバターなんかもあったな。

 クレープの丸い形は太陽を象徴していて、春が来るのを祝うみたいな……ああ、そういえばもう春ですねー、早く出発しないとですねーみたいな話してた気がする。普通に聞き流してた。

 

 あとはまあ、うっかり誕生日過ぎてたんだけど言い忘れてて、誰にも知られないままに二十七歳になってしまったり。二月二十九日なんだけど、平年だったみたいだからそもそも誕生日がない年ではあったんだよね。

 いや、いまさら言い出せないんだよねえ。絶対二人とも怒るし、盛大に祝ってくれるし、なんか申し訳ない。

 ここしばらくお祝いもしてなかったから、私の中で誕生日という概念そのものがなくなってたんだよなあ。

 ほとぼりが冷めたころにそっと言い出そうと思う。

 

 うーん、こうして思い返してみるとなんだかんだ意外といろいろイベントをこなしてしまってるなあ。

 リリオが言う通り、私がこの世界に来てからまだ一年もたってないんだけど、なんだかもう五年くらいはのんびりやってる気がしてた。

 

 でもまあ、リリオでなくても、さすがにこうもダラダラと過ごしていてはだめかもしれない。

 私はもう余生というかセカンドライフみたいなもんだから悠長に構えていてもいいんだけど、二人はまだ十代だし、私に突き合わせて時間を無駄にさせるのも悪い。

 

 もう少しもすれば、泥濘の季節になるという。

 それがどんなものか私は見たことがないけど、確かナポレオンも、冬将軍だけじゃなくって泥将軍にもずいぶん苦労したって聞く。

 現代のロシアとかでも、雪解けの時期はさぞかしぬかるむことだろう。そこまでいかなくても、日本の北海道とか長野とか、豪雪地帯は毎年ニュースで見るくらいだ。

 しかもそれは大体の道がアスファルトやコンクリートで舗装された都市圏の話だ。

 

 辺境でも領都なんかは石造りだったり、コンクリートやアスファルトもたまに見られる。

 でもほとんどの土地は自然のままで、街道なんかだって舗装されていない、土を踏み固めたものに過ぎない。一年の半分は雪の下にある道を舗装するのは徒労感もあるし、雪の下でも劣化するから補修も大変そうだし、そりゃそうだろう。

 

 となれば雪が解けて水浸しになれば、それらは全部水を吸って泥の沼に成り果てるというわけだ。

 草地だって、きっと湿地帯みたいなことに成り果てるだろう。

 確かにそれは嫌だ。泥の中を歩いていくなんて私にはとても無理だし、たとえ馬車でも、すぐにはまり込んでしまって、それを抜け出すのにまた一苦労、なんてのは本当にご免被る。

 

 だからそうなる前にさっさと旅立つっていうのは正しい選択であり、私も異論はない。

 異論はないけれど、揺れに揺れる竜車の中で、思い出に浸って耐えるのもそろそろ限界だった。

 行きでもそうだったのだ。帰りでも、乙女塊が空に輝ける虹を作ってしまったのは、私だけのせいではないと思いたい。




用語解説

・アヴォ・フロスト(Avo Frosto)
 紅翁。
 赤衣をまとった謎の老爺の言い伝え。起源不明。民俗学者も突然湧いて出てきたと頭を悩ませる存在。
 角の生えた四つ足の馬にそりを牽かせて空を飛び(!?)、二十四日の深夜に飛来し、良い子供には玩具や菓子を与え、悪い子供には罰を与えたりさらったりするという。
 さらに学者たちを悩ませるのは、毎年その存在の観測や捕獲を目的に作戦が練られるも、一度も捕まえられず、そのくせ姿は見せることがあるという点である。証拠はないが見たものは多いという、たちが悪い怪異。
 辺境においては毎年飛竜乗りの精鋭が追跡を試みるも、成功したためしはない。

大具足裾払(アルマアラネオ)
 辺境の森林地帯などに棲む巨大な甲殻?生物。裾払の仲間に見えるが全然別の種であることが近年の研究から示唆されている。
 かなり鈍重そうな外見ではあるが、その甲殻は極めて強靭な割に恐ろしく軽く、裾払に似た機敏な身のこなしに強固な外角が相まって、竜種を平然と捕食する程に強大な生き物である。
 蟲獣ではなく、どちらかというと蟹の仲間ではと考えられていたが、菌類っぽい気配がすると湿埃(フンゴリンゴ)からの聴取で可能性が示唆されている。
 棲息地帯が危険な森林地帯の奥地であること、個体数が少ないこと、また戦闘になった場合の生存者が少ないため、詳しい生態は全然わかっていない。
 体長は十メートル程度という記録が残っているが、そもそも平均値が出せていないうえに、寿命も不明であるため予測が立っていない。
 一応竜種ではないとされるが、それさえも(多分)と但し書きが付く。
 唯一の討伐記録を持つ辺境伯が、討伐どころか生息地への接近も禁じているため、調査は必然的に護衛の期待できない命がけになる。

・自動蘇生アイテム
 ゲーム内アイテム。
 正式名称《聖なる残り火》。
 アクセサリー枠を一つ埋めることになるが、死亡時に自動で全回復して蘇生してくれるレアアイテム。
 蘇生時にこのアイテムは失われる。
 上位陣はお守り代わりに必ず一つは持っているが、複数持つのはさすがに難しいという程度にはレア。閠もあと何個かしか持っていない。
『目覚めなさい。その火が消えないうちに』

・バレンタインデー大祭
 楂古聿(チョコラード)、いわゆるチョコレート菓子を最初に作ったものは、神の啓示を受けたと主張しており、「神は()()()()()()()()を望んでおられる!」という発言が当時の新聞に残っているが、完全に発狂していて詳しくはわからなかったとのことである。つまりいつもの。
 バレンタインデー大祭はこの叫びを発祥とするイベントで、チョコレートの普及を推し進めたい商会などの目論見によって全国的に広まったとか。
 その雑で荒っぽく急激な広がり方のせいでローカルルールが激しい。

乳酪祭り(ブテーロ・フェスト)
 辺境で執り行われる、春を祝う祭り。
 たっぷりの乳酪(ブテーロ)を使った薄円焼き(クレスポ)がたくさん焼かれる。
 蕎麦(ファゴピロ)粉の薄円焼き(クレスポ)は辺境では日常的によく食べられているが、この日は特に小麦を使った柔らかなものが饗される。
 この薄円焼き(クレスポ)の丸い形は太陽を象徴するとされており、真冬の(メズヴィントラ)薄明かり(クレプスコ)を過ぎて春の太陽が昇ることを祝うとされる。
 また薄円焼き(クレスポ)に使うほかにも乳酪(ブテーロ)をたっぷり使う習慣が生まれており、特に揚げ乳酪(ブテーロ)燻製肉(ラルド)楂古聿(チョコラード)がけを添えた『さよなら健康(アディアウ・サーノ)』コンボは人気。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鉄砲百合と春の待つ声

前回のあらすじ

冬休みのイベントをダイジェストでお送りしました。
ダイジェストで死んでないこいつ?


 まあ予想通りっていうか、お約束っていうか、竜車が飛び立つなりウルウはぐったりと座席にもたれちゃったわね。

 ただでさえ白い顔を青白くさせて、物憂げに眉を顰める姿はちょっと目を引かれるくらいきれいだけど、さすがに具合悪くて()せってる相手になにができるってわけでもない。

 

 さっき窓を開けて盛大に()()()()()()()()から、いまはいくらか楽みたいだけど、ほんとかわいそうになるくらい弱弱しくなっちゃってまあ。

 胸元をくつろげて、はたはたとうちわであおいでやって、さわやかな香りのお香とか焚いてやってるけど、これで少しは楽になってるのかしら。ウルウって結構我慢しちゃうところがあるから、よく見ていてもわかんないことがあるのよ。

 

 あたしもリリオも乗り物は何でも平気だから、ウルウのこういう酔いやすい体質って、いっつも不思議でならないのよね。

 竜車はまあ、普通はない上下の移動や揺れが激しくて、内臓が持ち上げられるみたいな感覚あるから、気持ち悪くなるってのもわかるわ。空気の肌触りっていうか、気圧ってやつかしら、そういうのが変化するのも、違和感は覚えるし。

 でも、ウルウは馬車に揺られるのは大丈夫みたいだし、小舟に乗るのも平気みたいなのに、むしろ揺れの少ない大船に乗ったとたんぐんにゃりしちゃったり、不思議な酔い方するのよね。

 

「ううん……揺れが激しいっていうか……がたがたって細かいほうが、楽なんだよね。気持ち悪いは気持ち悪いけど、身構えられるし」

「それが馬車とかの揺れってこと?」

「そう……大きな船とかだと、揺れの波が大きいっていうか……ちゃんと立ってるはずなのに、気づかないところで変に傾いちゃってるみたいな気持ち悪さが……うぇ」

「ほら無理しないの。冷たいもの食べる?」

「トルンペートが完全にお世話に入っちゃってますね」

 

 リリオが生暖かい目で見てくるけど、しかたないじゃない。

 元気な主人に仕えるのもいいものだけど、弱ってるところをかいがいしく世話するのって、あたしの女中魂のいいところをちくちく刺激するのよね。

 リリオなんてずいぶん長いこと風邪一つひかないし、なんだかんだ体調崩すウルウってあたしの母性的なそういうのをくすぐるのよ。

 

「んん……」

「ほぉら、大人しくしてなさいよ」

「なんか聞いてたほうが気がまぎれるから……なんか喋ってて」

 

 ほら、これよこれ。「おはなしして?」って幻聴が聞こえてきた気がするわ。

 

「トルンペート、その顔はよそでしないほうがいいと思いますよ」

「おっと、素直な心が」

「うーん、反省の色なしですね」

 

 さてさて、喋っててって言われると、何がいいかしらね。

 あたしの創作おとぎ話を披露すると、なぜかみんな続きが気になって寝付けなくなるらしいからやめておくとして。

 

「そうね。今回は機会を逃しちゃったし、辺境の春についてなんてどうかしら」

 

 辺境の春ってのは、いいものよ。

 まあこれは、辺境人の言うことだから、きっとどこの人も自分のところの春はいいものだっていうとは思うけどね。

 それでもまあ、いくら辺境だって、春ってのは心躍る素敵なものなのってこと。

 

 そりゃあ、泥の季節なんて言われるくらいだから、雪解けの時期なんてひどいもんよ。

 まず積もった雪がだんだん沈んでいくみたいに(かさ)を減らしていくんだけど、この時の雪は湿って重たい雪になるのよ。それで、急にずっとあったかくなるわけでもないから、夜とか朝方とか、寒い時間にはその溶けかけた雪がまた凍り付いて、硬い氷の塊になっちゃう。

 それがまた滑りやすいし、突き崩すにも苦労するし、たまったもんじゃないのよ。

 

 ようやくそれも溶けてきて、地面が見えてきて一安心、ってわけにはいかないのよね。

 むき出しの土は、みんなたっぷりの水を吸って泥や沼みたいになっちゃうし、じゃあ草地なら大丈夫かなって踏み込んでみると、ずぶずぶって湿地みたいに沈み込んじゃう。

 おまけに、この時期だってやっぱりまだ冷えるから、冷たい水が服にしみ込んで、すぐに凍えちゃう。

 さすがに凍り付くほどじゃないけど、でもこれで体を壊す人だって少なくないわ。

 

 あらやだ、なんだか嫌なことばっか喋っちゃったわね。

 

 もちろんいいことだってたくさんあるのよ。

 春になって雪が解けていったら、山菜の時期よ。キノコ採りの時期よ。

 前に陸海獺(テルマル・ルトラ)の鍋を作った時に入れた勝ち草(ヴェンコ・アイロ)、あの時は干したものだったけど、春には新鮮なのが採れるわ。

 みんなでたくさん採って、たくさん干して、一年中使うのよ。

 

 あれより香りは弱いけど、だからこそ色々使える熊韮(ウルサ・アイロ)なんかもいいわね。そのまま生でも食べられるし、汁物に浮かべたり、細かく刻んでたれに使ったり、乾酪(フロマージョ)に練り込んだり。あ、麺麭(パーノ)生地に練り込んだりもするわね。

 

 岩三つ葉(エゴポディオ)なんかもおいしいわ。香りもさわやかで、まだ柔らかいうちのは、その場で摘んだのを生で食べてみたっておいしいくらいよ。それをこう、両手でがっさり抱えられるくらい、一度に採ってこれちゃうのよ。

 岩三つ葉(エゴポディオ)のなにがいいって、それだけ採ったって、翌年にはまた元気にいくらでも生えてくることね。

 

 土筆(エクヴィゼート)は食べたことある?

 あれ食べないっていうところも多いらしいわね。

 春になると地面からこう、茶色い指みたいのが伸びてくるのよ。あ、怖い話じゃないわよ。松葉独活(アスパラーゴ)みたいなもんよ。

 雪が解けてすぐ、日当たりのいい土手なんかに柔らかいのがたくさん生えてくるんだけど、早く摘まないとすぐ枯れちゃうのよね。

 これをあく抜きして、色々使うんだけど、ほろ苦くっておいしいのよね。

 

 山菜と言えば、(プテリディオ)は欠かせないわね。

 ほら、シダの仲間の葉っぱよ。

 春先になると新芽が出てくるから、まだ若い、丸まったやつをとってくるの。

 これもあく抜きがいるから、たくさん採ってみんなで集まってね、大きな鍋で一緒くたにしてあく抜きするのよ。

 ちっちゃいころはあんまり好きじゃなかったんだけど、だんだん好きになってきて、春の山に入って見かけると、あ、食べられる葉っぱだ!って喜んだものよ。

 

 キノコはあたしはあんまり詳しくないけど、歩き紅豹茸(ヴァパーコ)を見つけたらいいことがあるっていうわね。紅豹茸(ムシャ・アマニート)によく似てるけど、しばらく見てたら歩き出すからすぐわかるわね。

 え? そりゃ歩くわよ。歩菌類だし。

 ああ、紅豹茸(ムシャ・アマニート)と似てるだけあって毒とか幻覚作用があるから、毒抜きは必須ね。ただ、うまみも抜けちゃうから、見極めが大事ね。リリオがよくやばい顔してたから覚えてるわ。

 え? そりゃラリるわよ。毒キノコだし。あれはそう、うん、あんた風に言うとえっちだったわ。

 ええ? キノコにはそんなに詳しくないんだってば。なんでそんなに食いつくのよ。

 

 食べ物ばっかじゃ芸風がリリオと変わんないし、そうだ、庭造りとか、園芸とかいいわよね。

 辺境ってそういうのを楽しむ風習ないんじゃないかって思ってる内地人多いけど、そんなことないのよ。

 そりゃあ、一年の半分は雪の下なんだから、内地の立派な庭園みたいなのを造るのは難しいわね。

 でも、辺境の緑や花も綺麗なものよ。

 南部じゃあ大きくて色鮮やかな花が多かったじゃない?

 でも、辺境で咲く花はね、小さくて可憐な花をこぼれるように咲かせるの。

 苔の敷かれた岩場の隙間から、そういう愛らしい花が、一つ二つ顔を出していたり。

 小さな池に、水鳥が仲良さそうに集まっているのを眺めたり。

 時々は、白鳥(チグノ)なんかが来てくれたりもするわね。

 

「うう……なんかいろいろ見たかったなあ……」

「まあ、次回よ次回」

「そうですよウルウ。いつでも帰ってこれるのが実家というものです」

「必ずしもそうではないと思うけど……」

「あたしもそう思うけど、でもまた今度でいいっていうのはほんとよ。辺境なんだもの。内地みたいに、すぐすぐいろんなことが変わっていったりはしないわ」

「はやりものも入ってきますけど、定着するかっていうとちょっと頑固ですしね」

「そうそう。だから、辺境を楽しむのは、年をとってからでも遅くないわよ」

 

 少なくとも、北部なんかは結構そういう扱いが多い。

 リリオがよく読んでる旅行雑誌なんかにも、老後は北部で牛でも育てる生活を、なんてのが書いてあったりする。

 実際にはそんなに気軽にできるようなものでもないけど、都会の人間からするとそういう牧歌的な生活ってやつがうらやましくなるのかもしれない。

 

「…………君らは若いからそういうけどさあ」

「あんただってそう変わんないわよ」

「十歳以上違うし……君らが二十歳のころは、私は三十路越えてるんだよ」

「それで?」

「それでって……私がおばちゃんになっても、一緒とは限らないじゃないか」

「そんなことないわよ。ねえリリオ」

「もちろんです。きっと素敵な淑女(シニョリーノ)になってますよ」

「ううん………でもほら、私がおばあちゃんになったらさあ」

「掌のしわとしわが重なるくらい、一緒に歩いていきましょうね」

「あんたそういう論調じゃリリオには勝てないわよ」

「……そうみたいだ」

 

 ウルウは竜車酔いじゃない居心地の悪さに、手のひらで顔を隠して縮こまってしまった。

 

 ううん、でも、そうね。考えたことなかったけど、あたしたち三人、いつまで旅ができるのかはわかんないけど、しわくちゃになっても馬鹿みたいなこと言いあって過ごすのは、きっと楽しいことだろう。

 それにそんなに先のことじゃなくっても、そう、三十路くらいになったら、ウルウも結構(しし)置きがよくなって、年増の色気がどえらいことになっていそうだ。

 そのころのあたしたちはちょうど盛りって具合だからそれはもう、うん、楽しみよね。

 

「ほらウルウ、内地ではもう春が来ていますよ。春の名所や名物が待ち構えていますよ」

「雑誌情報でしょ……ああほら、押し付けないで。いま文字読んでたら絶対吐く」

「しかたないですねえ。ほら、私が読んであげましょう」

「ワーイアリガトウ」

 

 面倒くさそうに答えるウルウだけど、あたしは知ってる。

 こいつはリリオの声が滅茶苦茶好きなので、そばで雑誌を音読してるだけでも耳が幸せになるのを。

 何ならあたしの声だって好きみたいなので、耳元でいろいろささやいてやると反応がとてもいい。

 まあ、そういうあたしだってリリオだって、ウルウが耳元で低い声なんか出したら、そりゃもう、具合がいいのだけど。

 

「そうですねえ。まだ行ったことのない西部とかだと、大嘴鶏(ココチェヴァーロ)の繁殖が始まったりするそうですね。北部でもたまに見かけたでしょう、あの大きな鳥の馬ですよ」

「滅茶苦茶な言い回しなんだよなあ」

「卵はとても大きくて、一抱えもあるんだとか。天狗(ウルカ)みたいですねえ。食用の卵は一年中採れるらしいですから、行ったら食べてみたいですね」

「ダチョウの卵みたいなのかな……っていうか待って天狗(ウルカ)の人って卵生なの?」

「それはそうですよ。へえ、ふむふむ、遊牧民という人たちが暮らしているそうですね。産卵が落ち着いたら遊牧も始まって、鶏乳(けいにゅう)の出も増えるので乳製品がたくさん作られるんですって! 鶏乳の乾酪(フロマージョ)は食べたことないんですよねえ」

「独特の香りがするらしいわね。でも癖も味わいのうちよね」

「楽しみは楽しみだけど情報量が多い。鶏乳ってなに? お乳出るの? 鳥なのに?」

 

 ウルウもおしゃべりしているうちにずいぶん気がまぎれたようで、いつものなぜなぜが始まったわね。

 ウルウって本当にもの知らずだけど、でもこういう当たり前の話題に投げかけられる純粋無垢な質問って、たまにすごく真理を突くようなことがあるから油断できないのよね。

 なんでお乳が出るのか……哲学的ね。

 

 あたしたちはそんな風に春に思いをはせながら、来た時とは逆をたどって辺境を旅立っていく。

 

 モンテート要塞では、子爵が相変わらず大きな声で出迎えてくれて、飛竜料理で歓待し、飛竜素材をお土産によこしてくれた。

 もちろんあたしたちも、フロントで造られた酒や珍味、甘味の類を贈らせてもらった。

 御屋形様の支払いだから、あたしたちは気前よく渡せるというものだ。

 

「おお、嫁どん! ろくすっぽもてなしもできんかったばってん、次ン来ぃやった時は砦の若集ば集めッて宴でん開くべぇかち話しおってな! きかない二才(にせ)ばッかで嫁どんはせんないかもしれんべが、わけ娘ッごさ前やきつやつけとォもんばかりでの、暇があったら肝ば練ッてみらんべか! よかじゃろが!」

「んぇあ……えー……よいお誘いですのであとでリリオたちと話してみますね」

「おお! 待っとるき!」

 

 カンパーロではもうだいぶ春めいてきていて、つまり雪も随分緩くなってきていて、上着を着ているとちょっと熱く感じるくらいだった。

 気の早い山菜なんかはもう顔を出し始めているようで、歓待の席にも新鮮な青物が並んでなんともうれしい限りだったわね。

 男爵閣下も例の「いや! いや! いや!」節で盛大に出迎えてくれて、リリオともどもほっこりしてしまった。閣下のあれを聞くと、いい意味で気が抜けるのよね。

 

 ウルウのほうは、珍しく自分から話に行ったと思ったら、剣術指南役のコルニーツォさんだった。

 

「その節はどうも」

「少し見ないうちに腕をあげられたようだ」

「そう……かもしれません。それはそれとして、子爵閣下のところでカーンドさんという方と手合わせしたんですが」

「む。それは、なんと申すか、フムン」

「あなたのことで愚痴られて大人げなく攻められましたよ」

「……あの御仁は、そういうところが嫌で、逃げておりましてな……」

「ああ、そういう……」

 

 なんか二人して遠い目しちゃってたわね。

 

 あたしたちは春を目指すように足早に辺境を飛び、そしていよいよ内地と辺境を分かつ遮りの川を越えて、境の森の手前までやってきたのだった。

 行きではそのまま飛び越えてしまった境の森だけど、奥様は迷いなく飛竜を駆って、竜車を下ろした。

 こわばった体をほぐしながら竜車を降りると、そこにはあたしたちを待ち構える姿があった。

 

「おう。久しぶりだな」

「あれ、おじさん!」

「あ、おじさんだ」

「おじさん久しぶりね」

「事実だが連呼すんな終いにゃおじさん泣くぞ?」

 

 そう、そこで待っていたのは、ヴォーストであたしたちを見送ってくれたリリオの叔父、メザーガだった。




用語解説

陸海獺(テルマル・ルトラ)
 オカラッコ。
 北部の海などで見られるラッコの仲間が、内陸に取り残されてしまったものと見られているが、その進化の過程は判然としていない。
 夏場は川や湖などで過ごし、魚介類や海藻などを食べ、水が凍り始める時期には陸に避難し、木の実や昆虫、小動物を獲物とする。
 食生活が季節で大幅に変わるため、捕まえた時期によって味が大いに変わるという。
 また塩湖に棲むものは水が凍らないため通年水中生活をし、通常のラッコ同様の生態をしているという。
 陸海獺(テルマル・ルトラ)の肉はとても精がつくとされ、ひとりで食べてはいけないと言われている。
 実際のところどうなのかは不明だが、どうしようもなくなったら相撲とかとればいいんじゃないですかね。

勝ち草(ヴェンコ・アイロ)
 カチグサ。ギョウジャニンニクの仲間。
 強い香りを持ち、滋養がつくとされる。
 北部や辺境では春先に大量に摘んで干し、通年利用される。
 基本的には山菜の一種として野で摘むものだが、一部では栽培もしている。
 またその強い香りから魔除けの効果があるとされ、実際に一部の害獣はこの香りを忌避するとされる。

熊韮(ウルサ・アイロ)(Ursa ajlo)
 クマニラ。
 森の木の下など、直射日光の当たらない湿り気のある地面に見られる。
 ニンニクに似た香りがある、幅広の葉のニラといった感じ。

岩三つ葉(エゴポディオ)(Egopodio)
 春先に三つ葉のような柔らかい葉をつける、セリ科の植物。
 食用、また薬用としてよく用いられる。
 繁殖力が高く、地下根で広範囲に急激に広がるため、悪質な雑草でもある。

土筆(エクヴィゼート)(Ekvizeto)
 ツクシ。スギナの胞子茎。
 春先に生えてきて、胞子を放出した後は枯れてしまう。
 そのあとに生えてくるスギナは全然見た目が違うが、こちらが本体。本体?
 地下茎が地中で伸びまくり、切断されても再生するので、一度根付いてしまうと除去が死ぬほど大変。

(プテリディオ)(Pteridio)
 ワラビ。シダ植物の一般総称。
 ここで言っているものがワラビなのかゼンマイなのかその他なのかは微妙に謎。
 あく抜き必須だが、独特の風味で愛されている。

歩き紅豹茸(ヴァパーコ)(Wapaqo)
 アルキベニヒョウタケ。
 帝国北部から辺境にかけて見られる歩菌類の一種。
 紅豹茸(ムシャ・アマニート)によく似ており、間違えるものも多い。
 ただ、毒性や幻覚作用などはほぼほぼ紅豹茸(ムシャ・アマニート)と変わりないので、特に問題ない。
 ちょっとレアで、ちょっと味がいい。らしい。

紅豹茸(ムシャ・アマニート)(muŝa amanito)
 ベニヒョウタケ。ベニテングダケとも。
 帝国内でも比較的広範で見られる毒キノコ。
 摂食すると弱い酩酊状態になり、食べ過ぎると腹痛、嘔吐、下痢を起こすが、半日から二日程度で抜け、死亡例は少ない。
 環境や季節、収穫した土地によって毒の強さが変わるが、どの場合でも致死量はキロ単位とされる。
 その酩酊作用から幻覚目的や儀式的利用なども一部あるが、弱すぎるために一般的ではない。
 むしろ、この毒がうまみ成分でもあるため、そちらを求めての摂食が多い。
 干すと毒が強くなるが、塩漬けにして保存したり、湯でこぼしたり水にさらすことで毒は抜ける。

大嘴鶏(ココチェヴァーロ)(Koko-ĉevalo)
 極端な話、巨大な鶏。
 草食よりの雑食で、大きなくちばしは時に肉食獣相手にも勇猛に振るわれる。主に蹴りの方が強烈だが。
 肉を食用とするのは勿論、騎獣として広く使われているほか、日に一度卵を産み、また子のために乳も出す。農村でよく飼われているほか、遊牧民にとってなくてはならない家畜である。
 一応騎乗用と食畜用とで品種が異なるのだが、初見の異邦人にはいまいちわかりづらい。

・「おお、嫁どん! ろくすっぽもてなしもできんかったばってん、次ン来ぃやった時は砦の若集ば集めッて宴でん開くべぇかち話しおってな! きかない二才にせばッかで嫁どんはせんないかもしれんべが、わけ娘ッごさ前やきつやつけとォもんばかりでの、暇があったら肝ば練ッてみらんべか! よかじゃろが!」
 (意訳:おお、嫁さん! ろくにもてなしもできたかったが、次に来たときは砦の若いものを集めて宴会でも開こうと話していてな。気の利かない若者ばかりであなたはつまらないかもしれないが、若い娘さんの前だということで格好つけたがっているものばかりなんだ。よかったら肝練りしていってくれるだろうか。いいだろう)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 白百合とうれしい出迎え

前回のあらすじ

よくわからないままに蛮族パーリナイ参加を検討してしまった閠。
そして出迎えてくれたのは懐かしい顔ぶれだった。


 境の森の手前で竜車を降りた私たちを出迎えてくれたのは、ヴォーストの町で冒険屋事務所を構える私の叔父、メザーガとその一党の一人、土蜘蛛(ロンガクルルロ)のガルディストさんでした。

 メザーガは気だるげで飄々(ひょうひょう)としていて、ガルディストさんは気さくで人好きのする笑顔が魅力的です。

 

 もとは《一の盾(ウヌ・シィルド)》というメザーガの一党からはじまった《メザーガ冒険屋事務所》ですが、このふたりはその中でも結構気が合うというか、悪友同士という空気があって、うらやましい年の重ね方をしているなあと思わされるものです。

 言葉を飾らずに言うと、年取っていくらか落ち着いたチンピラみたいな感じです。

 厄介なことに非常に腕の立つチンピラなのですが。

 

「やあ、久しぶりだな。元気してたかい」

「ええ! やはり辺境の冬はいいものですね!」

「ははは、子供は風の子ってやつだな」

「もう成人ですよう!」

 

 辺境で侮られて子ども扱いされたなら、「いまなんち()た?」と辺境言語が交わされるところですが、からかわれてもそんなに嫌な気がしないのがガルディストさんの不思議なところです。

 若いころはさぞかし女の子と遊んでいたのではと思われます。

 ああ、いえ、土蜘蛛(ロンガクルルロ)なので、人族とは逆で鼻息の荒い女性をうまくあしらってる悪女ならぬ悪男みたいな感じかもしれません。

 本人は結婚する気もないみたいですし。

 

「ところでお二人ですか? 馬車は二台ですけれど」

「おいおい、この馬車をもう見忘れたのか?」

「えっと……あっ!」

 

 メザーガたちの後ろに並んだ二台の馬車のうち、一台は事務所においてあったものでした。

 しかしてもう一台は、懐かしい(ほろ)には、《メザーガ冒険屋事務所》の所章《一の盾(ウヌ・シィルド)》の紋章と、私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の紋章が並べて描かれていました。

 

「あ、私たちの馬車だこれ」

「南部に預けてたの、持ってきてくれたの?」

「おうとも。人がくれてやったもんを早々に置いていきやがって。ボイだって寂しかったろいたたたたた」

「ボイに手をかまれる人ははじめて見たんだけど」

「犬は序列をしっかり決めるらしいですからね」

「この犬畜生が!」

「映画で真っ先に殺されるチンピラみたいなセリフだ」

 

 馬車のそばで寝そべっていて、そして今しがた頭をなでようとしたメザーガの手を歯形が残るくらいきっちりかみついて見せたのは、私たちの馬であるボイでした。

 馬車と一緒にメザーガに贈られたボイは、大熊犬(ティタノ・ドーゴ)というとても大きな犬種の馬で、私たち三人と荷物の乗った幌馬車を一頭で()けて、多少の害獣なら自分で追い払ってしまえる、賢くて強い馬でした。

 

「やあ、ボイ、忘れてないかな……とと、はいはい、寂しかったね」

「うーん、でっかいもふもふとでっかい女。これは流行(はや)るわ」

「君のトレンドはいつも尖ってる気がする」

 

 そっと目線を合わせたウルウとトルンペートに、ボイは早速鼻先を寄せ、頭を擦り付けて、再会を喜んでいるようでした。短くはなかった別離の時間を埋めるようでもあります。

 

 竜車には載せられなかったので、南部はハヴェノ、お母様の実家であるブランクハーラ家に預けてきたのですが、こうして数か月ぶりに再会できると私も胸がいっぱいにあいたたたたた。

 

「ボイに手をかまれる人はこれで二人目だね」

「犬は序列をしっかり決めるらしいもんね」

「はわわ! 私が悪かったですから!」

 

 辺境に連れていくのは無理だったとはいえ、長らくよそ様に預けて放置してしまったのですから、ボイが怒るのも無理はありません。私は何とかなだめてすかして干し肉で機嫌をとって、それでようやく許してもらえたのでした。

 二人は普通にわしゃわしゃ撫でてました。くそう。

 

「どうせまた旅を続けるんだろうからな、せっかく贈ったもんはしっかり使ってもらうぜ」

「それでうちの事務所の宣伝にもなるってわけだ。おじさんたちに楽させてくれよ」

「広告料取ろうかなあ」

「お前らまだうちに籍あるからな? うちの従業員だからなお前ら?」

 

 私たちは早速馬車に荷を移し替え、新たな旅の支度をすっかり整えたのでした。

 その間に、メザーガとお母様、従兄妹同士の二人は久闊(きゅうかつ)(じょ)していたようでした。

 

「久しぶりねメザーガ()()()()()()

「やめろやめろ気持ち悪い。お前そんな感じじゃないだろうが」

「かわいい従兄妹に対してつれないこと言うのね。悲しくて泣いちゃうかも」

「お前が泣いたの妹に目つぶし食らって反射で流してたときだけだろ」

「そうそう、『これが、涙……?』って驚いたわね」

「ブランクハーラは人間やめてるが、精神はせめて人界に寄せてくれるか?」

 

 メザーガのことは、お母様からよく聞いていたんですよね。ご自分の冒険譚や、古い冒険譚の他に話すものといえば、メザーガの冒険譚が多かったように思います。

 私が小さい頃は、一年に一度、夏ごろにひょっこり顔を出してくれて、お母様とよくじゃれあっていたような気がします。

 

「それさあ。リリオフィルター通してるから多分そこまで美しい情景じゃないよね」

「退屈してた奥様に追い回されて、追い詰められた賞金首みたいな怒声あげてたわね」

「あれれ?」

 

 うーん、言われてみると思い出の中のメザーガはよく走っていたような気がします。

 私のことを抱き上げたり、高い高いと放り投げてくれていたような記憶もあるんですが、よくよく思い返してみると「娘が惜しくねえのかてめえは!」「せめてガキのほうに気をそらせ母親!」とか叫んでいたような気がします。

 チンピラでしょうか?

 お母様だけでなくお父様とも仲良くじゃれていたような気がしましたが、その流れだともしかしたら嫉妬したお父様に五分刻みにされかけていたのかもしれません。

 

「ブランクハーラのサイコパスと辺境のヤンデレ貴族に追い掛け回されて五体無事でいるの、メザーガもしかしてすごい人なんじゃないの?」

「まあ巷に出回ってる冒険譚が本当なら、もしかしなくてもすっごい冒険屋らしいわよ」

「あれで?」

「あれでなのよねえ」

「お前らおっさんはいくら殴っても許される砂袋とでも思ってる?」

「砂袋は喋らないですよ」

「しまいにゃ泣くぞ?」

 

 まあ、そんなこと言いながらも、夏とは言え普通に辺境まで来て手土産に辺境生物狩ってきて、お母様とお父様の二人がかりで追い掛け回された上に、手加減が死ぬほど下手だったころの私の遊び相手までして、文句たらたらに元気いっぱい帰っていったのですから、メザーガも人のこと言えない程度にはたいがい人間やめてるのは確かです。

 

「というかメザーガ! なんだったんですか、あの思わせぶりなセリフは! 覚悟していけとか!」

「あー? 最大級に度肝抜かれたろうが」

「抜かれて戻ってこなくなるかと思いましたけど!」

 

 メザーガは、お母様の実家を訪ねて旅立った私に、覚悟していけなどと言って送り出したのですけれど、まさかその覚悟というのが、死んだと思っていたお母様が生きていたことだとは思ってもいませんでした。

 そして私が思っていたのと違って、お母様がかなり破天荒な人柄だったということもまた、私を驚かせたのでした。

 

「そらお前、俺が『お前のおふくろは実は生きている』て言ったらどう思ったよ」

「それは、まあ、驚いたかもしれませんけれど」

「それでずぼらなおっさんが続けるんだよ。『襲い掛かってきた飛竜とっ捕まえて、背中に乗って実家に飛んで帰ったんだと。理由はお前の親父さんの愛が重いからだってな』と続けるわけだ」

「まず間違いなく信じませんでしたけれども!」

 

 気になりすぎて道中気が気ではなかったかもしれません。

 そう考えると、詳しく教えなかったのはメザーガの気遣いともいえるかもしれません。

 あるいは、メザーガ自身がそんなトンチキな話を真顔で伝える自信がなかったからかもしれません。

 実際にそんな話を聞いてたら、まずお酒が入っているかどうかを確認していたはずです。

 いまとなっては、せめてお酒が入っていてほしかったという気持ちです。

 

「まあ、ともあれマテンステロにも無事再会して、大方実家で親父さんとも手合わせして、いくらか腕も上がったか?」

「ふふん! そうですとも! 私はなんとお父様に一撃いれたんですよ!」

「ほう、お前さんがねえ。ちっちゃなリーニョだと思っていたのがまあ、」

「火達磨にして、粘膜に唐辛子(カプシコ)ぶちまけて、動けなくなったところを見事に顔面パンチだったね」

「そうそう。ダメだったら海水ぶっかけて雷ぶつける予定だったんだっけ?」

「ちっちゃなリーニョだったのがよぉ! 人間のやることかそれが!?」

「人間だからやるんだよ」

「人類に失望した神かなんかかお前は!?」

 

 うーん。

 メザーガ的にも結構えげつない戦法だったみたいですね。

 まあメザーガも技巧派ではありますが、なんだかんだ本人が強いですから、そういう小細工はあまり使わない印象ありますもんね。

 どちらかというとそういう手合いであるガルディストさんは、苦笑いしながらも理解は示してくれているようでした。

 

「ええい、一皮むけたんだかなんだかわからん。お前、冬ごもりの間に休みボケしてないだろうな」

「むっ、反論しづらい正論はやめてください」

「せめて否定しろ! まあいい。どうせ剣は嘘をつけねえんだ」

 

 そうです。そうでした。

 メザーガが腰のものを叩いて見せたように、私もまた頷いて応えました。

 剣士が久方ぶりに相対したのです。剣の具合を確かめるのが武辺者というもの。

 

「よし。じゃあ一つ手合わせしてみるか?」

「ぜひ!」




用語解説

・メザーガ・ブランクハーラ
 人間族。リリオの母親の従兄妹にあたる。四十がらみの冒険屋。
 ヴォーストの街で冒険屋事務所を経営している。

・ガルディスト
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)の野伏。パーティのムードメーカーであり、罠や仕掛けに通じる職人。また目利きも利く。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊と語らう剣

前回のあらすじ

可愛い姪っ子の思わぬ成長に叫ぶ叔父。
子供はすぐに大きくなるものですね。


 もう慣れてきたからなんも言わないけどさあ。

 この世界の人、公用言語が肉体言語なのかっていうくらい、手合わせしたがるよね。

 いや、私の見てきた人たちが特別肉体言語に親しんでいるバーバリアンどもであるという可能性は大いにあるのだけれど、それを認めてしまうと私のバーバリアンSSRの引きがよすぎて気持ち悪い。

 バーバリアンが出過ぎて「どのバーバリアン?」ってなっちゃうのはほんと勘弁してほしい。

 

 さて、その蛮族♂と蛮族♀が向かい合っている。

 片や白髪気だるげダンディことメザーガは、聖硬銀の玄妙なる輝きを見せる剣を無造作にひっさげ、特に構えをとるでもなく悠然とたたずんでいた。

 片や我らが若き脳筋蛮族ガールことリリオは、大具足裾払(アルマアラネオ)の甲殻を削りだした真珠のごとき白い刃をやや上段に構え、腰は軽く落として臨機応変の対応を試みているのだろうか。

 

 別にリリオを侮っているわけではないだろうけれど、胸を貸すという立場でもあるからか、メザーガは自分から繰り出すことはない。

 ないのだが、その妙に色気のある皮肉気な笑みとか、無造作に体を開いて見せた構えだとか、そういった自然体そのものが雄弁な挑発として成立しているというのは、技術(ワザ)というよりこの男の性質(サガ)のようでもあった。

 多分いらん喧嘩とかたくさんしてきたんだろうなあ。

 

 ただ、この無言の挑発というのは厄介なもので、リリオとしては攻めねばと焦れる一方で、隙だらけに見えて恐るべき実力があることを知っているので、手が出しづらいのだろう。

 「構え」というのは、攻守の種類を自ら限定して、戦闘をやりやすくするものであるが、メザーガの棒立ちにも見える悠然とした立ち姿は、その限定のない自在性を秘めている。

 

 とか何とか分かったようなことを言ってみたけど、実際のところ私にはさっぱりそこら辺の戦術理論はわからない。

 でもリリオのことは少なからずわかるので、やりづらそうではあるなあ、というのは察せる。

 

 しばらくの間、リリオは剣先をぴくりぴくりとわずかに揺らしながらメザーガを見据え、メザーガはそれに対してわずかにつま先をずらした。

 

 そして何かの合図があったわけでもなく、唐突に空気のはぜるような音とともに、リリオの体は真横に落下したかのような速度でメザーガに肉薄していた。

 上段に構えた剣が小細工なしにその運動量を乗せて振り下ろされ、半身にかわしたメザーガの剣の腹にいなされ、わずか横にそらされる。じゃおん、とわずかに濁った金属音は、メザーガが完璧にはいなし切れなかった証左だ。らしい。なんかそんなこと言ってた気がする。

 

 メザーガもわずかに目を見開いて感心した様子で、まあだからといって甘んじて受け止めるつもりもないようで、流れるような足払いが浮足立ったリリオを払い転ばせない。転ばない。パン、と音を立てて払われた以上に勢いをつけてリリオの体がくるりと宙返り、地面に手をついてそのまま両足をそろえての変則飛び蹴り。早々に剣はどうした。

 メザーガはこれを上体をそらしてあっさり避けると、軸足を変えてからの逆足、槌のように振るわれるかかとがリリオの頭を狙うも、伸びきった足を器用に振り回し、ぱん、とまた爆ぜる音、重心を移動させて飛びのいたリリオは毛先を少し刈られたのみ。蹴りの鋭さで髪の毛を切るな。物理学仕事しろ。

 

(ましら)のごときというやつだな。身軽なもんだぜ」

「軽さも悪いことばかりではないというのがわかりましたから」

「それにその爆ぜる音……魔力の使い方を覚えてきやがったな」

 

 そう、先ほどからの爆ぜる音は、リリオが魔力を使って起こしているものだった。

 魔力というものには個人の体質のように、特性があるようだった。リリオのそれは炸裂。爆ぜる魔力だ。当初は癇癪などを起こすと暴発して、近くのものを破壊してしまう厄介な性質だったけど、冬ごもりの間にマテンステロさんにみっちり叩き込まれた結果、リリオはこれをある程度自在に扱えるようになっていた。

 

 例えば踏み込む足の裏で魔力を爆ぜさせれば推進力となるし、空中であっても魔力を爆ぜさせることで強引に体勢も変えられる。どんな体勢からでも運動エネルギーを好きな方向に発生させられるというのはとても便利だろう。

 炸裂するという性質上、威力を間違えれば自分の体にもダメージが入るもろ刃の剣だけど、そもそも頑丈なリリオはその許容範囲がとても大きい。自爆兵器ただし壊れるとは言っていないみたいな凶悪な爆発能力だ。

 

 ただ、戦闘中のような動き回る状況下では、武器を通して発現させるのはまだ難しいようで、どうしても自分の体を起点にせざるを得ない。そのため、攻撃に用いるよりはもっぱら自分の身体操作に拡張性をもたせるために使用しているところだ。

 

 などと私が自分の理解のために解説しているさなかにも、リリオは踊るように動き回り、メザーガもそれをいなしながらくるりくるりと回り続ける。

 激しく見えるが、これは準備運動みたいなものなのだろう。

 

 一度大きく離れた後、リリオは刃に手を添えて、雷精を巡らせ始めた。

 

 リリオは魔術師ではなく、魔術の訓練も受けてこなかったから、以前はとにかく雷精をため込んで、装備の力を借りてようやく必殺技である『雷鳴(フルモバティ)一閃(・デンテーゴ)』を放てていた。

 しかしいまだにろくに必殺していないことからもわかるように、これは技としては未完成すぎる。

 

 いやまあ、それでも普通の相手には普通に恐ろしい技なんだよね。

 そもそも雷精っていうのが、普通の人は使えないし、だから雷精使いの相手をしたことがある人って少ないらしい。

 というのも、火や風なんかと違って、雷や電気というものは目で見て理解するというのがとても難しい。どういうものかわからないと、魔術は途端に難しくなるらしい。

 

 リリオの場合は霹靂猫魚(トンドルシルウロ)の雷撃をその身でもって受けるという経験があったから体で覚えてしまったけれど、普通の魔術師的な人たちはそんなことしたら普通に死ぬので、まず覚えられないそうだ。

 そしてその霹靂猫魚(トンドルシルウロ)狩りをしているヴォーストの冒険屋たちも、電撃を体で覚えても、魔術を使うような人たちではないので、結局使われない。

 

 雷精という恐ろしい代物を、規格外のメザーガとマテンステロさんがただ規格外だからと言って軽々と攻略してのけたわけではない、というのを、冬ごもりの間にリリオは学んだ。というか叩き込まれた。

 

 それは極めてシンプルな理屈だった。

 

「音よりも早く届く雷撃でも、一キロ先からわかってたら避けられるわ。目の前にいたって、これから撃ちますよって構えてたら、そりゃ避けられるわよ」

 

 テレフォン・パンチみたいなものだ。

 ために時間がかかるし、狙いも大雑把、特に隠蔽もしていないので相手に技の構成が筒抜けと、見た目の派手さのわりにメザーガにはあっさりそらされ、マテンステロさんに至ってはその場で模倣までされてしまった。

 

 必殺技の威力はすさまじいものだから、それはそれで高めるとして、もっと効率的な運用をしなければ格上には通用しない。

 リリオはだから、とにかくスムーズに魔力を運用することを叩き込まれた。

 尋常ではない高みにいる、魔法剣士というハイブリッド・ジョブのハイエンドにいるようなマテンステロさんの域には到底立てないが、それでも、その下位互換たるメザーガと戯れる程度であれば、届く。ようやく、届くのだ。

 

 雷撃をまとわせた剣を、リリオは大振りに振るう。

 コンパクトな体から繰り出されるすさまじい膂力というリリオの特性を考えると、剣を大きく振るうのはあまり意味がない。

 しかし、雷撃をまとっていると話は別だ。

 

「おうおう、おっかねえなあ、おい」

「ふふふ……これぞ新必殺技! 『超電磁ブレード……改』!」

「なんだその……なんだ格好いい奴は!」

 

 かつて私と戯れに開発した、スタンガンと同様の効果を持つ『超電磁ブレード』。ため込んだ雷精をたたきつけるという基本は変わらず、よりコンパクトに、スマートにまとめ上げたこれは、消費電力をぐっと抑えながらも、継続的に電撃を与え続ける凶悪な性能だ。

 一発当たりのショックは少ないが、それでも十分スタンロッドのような感電が見込める。

 つまり、大振りで振り回して、すこしでも当たれば、それで十分な威力があるのだ。

 

 これによってリリオの、怪力ながらも精密な剣術によって敵にダメージを与えるような「点」をつく戦法は、より広く「線と面」でもって相手の行動を阻害して追い詰める領域に至ったのである。

 

「おっ、おお……! なかなかひやひやさせるじゃねえか……!」

「ふふふははははっ! 必殺技がちゃんと活躍すると嬉しいものですね!」

「ふつうはちゃんと活躍するものを必殺技って呼ぶんだがなあ」

「正論はやめてください!」

 

 まるで詰将棋のように、リリオは着実にメザーガを追い詰めていき、メザーガも回避に余裕がなくなってきていた。

 なにしろ、剣でいなせば剣を通して感電するという厄介な攻撃だ。

 

 しかも、省エネとはいえ常に魔力を使い続けるこの魔剣、こと無尽蔵の魔力生成力を持つリリオが使う限りは、スタミナ切れというものがない。

 いや、実際には普通に体力とかスタミナとかを消費するのでいつかはダウンするんだけど、それが普通の人に比べて段違いに長持ちする。すくなくとも、対人戦の間にスタミナ切れはないだろう。

 

 おまけに、リリオ自身は雷精で感電しないので気にせず振り回せる。ああ、いや、実際には感電してるらしい。ただ、本人曰く「もう慣れました」らしく、なんだその暗殺一家の子供みたいなのは。

 多分、デンキナマズが脂肪組織で絶縁してるみたいに、魔力でコーティングしてるんだろうけど。

 

「これはリリオも調子に乗っちゃうよね」

「まあ、ようやく披露できたものねえ、新必殺技」

「私はそもそも当たらないし、マテンステロさんも雷精対策できるし、トルンペートも遠間から攻め潰せるしね」

「あたしが言うのもなんだけど、リリオって本当に相手に恵まれないわよね」

「もっと私を応援するようなこと言ってもらえません!?」

「あー、まあがんばってーって言いたいけど、多分もう遅いね」

「えっ」

「じゃあ、そろそろ飽きたから終わるぞー」

 

 私が適当に手を振った先で、メザーガの無慈悲な反撃ですべては終わってしまった。

 

「よし、ほれ。はいよっと」

「えっ、あっ」

「革は、雷精を通さねえんだよなあ」

「そげなあッ!?」

 

 リリオが油断して振るった剣を、メザーガが皮手袋をした手であっさりとからめとってしまい、すこーんと剣の腹で額を叩かれて、一本。

 まあ、そう、皮革って一応絶縁体なんだよね。ゴム手袋ほどではないけど。人間の皮膚も絶縁体っちゃあ絶縁体。ただ、水分とか塩分とかで湿ってると絶縁性が下がって電気が伝っちゃう。

 ここで瞬間的に電圧上げられたりすればまた違ったかもしれないけど、完全に調子乗ってた省エネ電気じゃ無理だろう。

 

「まあ、悪くはなかったぜ。初見の相手はまず間違いなく得物で受けて、そのまましびれっちまうだろうよ」

「ですよね!」

「だが俺は、お前が雷使うのはもう知ってるからな。知ってるなら対処できる、対策できる。もとより初見でお前の必殺技破ったの忘れたわけじゃねえだろう」

「ぐへえ」

「素直、正直は美徳かもしれんが、お前さんにゃもう少し悪辣さ……いやさ、言葉が悪いな。遊びだ、遊びを覚えるんだな」

「遊び、ですか……」

 

 まあ、余裕とか、そういうことかな。

 新必殺技で満足しちゃって、それを磨いたけど、本当はその使い道や、それさえもブラフにした搦め手といった先の先まで考えておかなければならないだろう。

 

 リリオは強い。強いけど、まだ、それだけだ。

 辺境貴族っていうのは、そういうところあるんだろうね。

 アラバストロさんも、地力では圧倒的に強いはずなんだけど、マテンステロさんにいまひとつ及ばないところがある。

 そのマテンステロさんにしたって、天性の才能が結構大きい。本人の努力ももちろんあるけど、最初からできる人間の努力であって、存外挫折や苦労の経験は少ないんじゃないかな。

 

 そういう強さゆえに、っていうのは、私やトルンペートにも少なからず言えることかもしれない。

 

 そこにきて、メザーガっていうのは、凡人のハイエンドみたいなところがある。ブランクハーラの血筋であっても天才ではない。むしろブランクハーラという看板の下では見劣りするくらいらしい。

 それでもほどほどの才能と、表に見せないたゆまぬ努力が彼をこの高みに立たせたのだろう。

 数えきれない苦労と挫折、そしてそれらを乗り越えてきた結果こそが。

 

 まあ、そんな風にリリオだけじゃなく私たちにとってもメザーガは優れた先達ということだけれど。

 

「じゃあ、次は私の番ね!」

「いや待て。マテンステロ、時に待て。お前は手合わせなんていらんだろ」

「ほら、私、むかしメザーガに負けたことあるじゃない」

「馬鹿言え、ガキの頃の話だろ。冒険屋になってからは俺が負け越してるじゃねえか」

「負けた時のこと思い出すたびに腹立つのよねー」

「おっまえ! ほんっと!! 昔っからそういうとこだぞお前!」

「ほーらー、いいじゃない。手早く済ませるから」

「負けず嫌いがてめーだけの血筋だと思うなよこのクソアマ!」

「じゃあやりましょ!」

「ぜってーやだよ!!!」

 

 恥も外聞もなく逃げるメザーガの姿は、大人の生き汚さも教えてくれるのだった。




用語解説

・『超電磁ブレード改』
 以前咄嗟に名付けてしまった『超電磁ブレード』の改良版。
 改良前はため込んだ雷精を剣先から一度に放出してたたきつけることで気絶させる技だった。
 改良後は常に一定の雷精を帯びていることで、接触した対象に電流を流すようになっている。
 一度に流れる電圧・電流量は減っているが、金属製の武器防具でガードするだけでしびれてしまうという、対人戦では非常に効果的な技。
 触れ続ければ電流を流し続けることもできるし、本人の意思で瞬発的に電圧・電流量を調整できる……かもしれない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 鉄砲百合と旅の予定

前回のあらすじ

人生の先達としていろんなことを教えてくれるメザーガであった。


「ほーら、むかしみたいに遊びましょうよー、()()()()()()

「勝つまで毎日抜き身の段平(ダンビラ)引きずってきやがったのは遊びとは呼ばねえんだよ!」

「加減なく手加減してくれたデコピンのお返しはまだ済んでないわよー」

「根に持ち方が陰湿なんだよてめえはッ!」

「ほーらほら、喋ってると舌も下っ腹も刻んじゃうわよー」

「フジャッケンナ!」

 

 一見おっとりして柔和に笑う奥様と、気だるげで斜に構えたようなところのあるメザーガ。

 二人はあんまり似ていないように見えて、目元とか、髪質とか、部分で見ると結構似ている部分もあって、それが追いかけっこしている姿というのはなるほど兄妹のように見えなくもなかったわね。

 

 ああ、もちろんあたしはそんな楽し気な()()()()()に混ざろうとは思わないけど。

 しっかし、よくまあメザーガも、あれだけわめきながら奥様から逃げられるものよね。

 あたしたちからすると、三人がかりでも届かない奥様の猛攻を、いまもしのぎ続けるメザーガには恐れ入るし、同時に、リリオを軽々とあしらってみせるメザーガがそこまで必死になる絵面というのが面白くもある。

 

 笑えるって意味じゃなくて、自分たちがまだ届かない領域のすさまじさを見れているんだっていう、そういう感動まじりのやつね。

 まあ普段余裕こいてるメザーガがなりふり構わない様子っていうのが笑えるのは事実だけど。

 

 そんな楽しそうな二人を邪魔することはせずに、あたしたちはガルディストさんとあらためて再会の喜びを分かち合った。

 

「やあ、元気にしてたか、って聞かなくても、さっきのを見ればわかるか」

「元気も元気です! やっぱり辺境はいいものですね!」

「リリオちゃん、北部の夏でも大分だれてたからなあ。寒いほうが体に合ってるんだろう」

「かもしれません。暮らすのが大変でも、あの寒さがないと調子を崩しそうです」

「俺は寒いのが苦手だから、うらやましい話だよ」

 

 そういうガルディストさんは、かなりの厚着だった。

 ガルディストさんは北部のヴォースト住まいとはいえ、土蜘蛛(ロンガクルルロ)っていうのはあんまり寒さに強くないらしいと聞く。

 もこもこに着ぶくれた姿は、夏ごろのいかにも身軽そうな姿とは一変しちゃってた。素早く動き回って敵を翻弄(ほんろう)したり、密やかに動いて索敵したり、そういう野伏(のぶせ)としてはかなり重装備になっちゃってるわね。

 

「里帰りを終えたってことは、また冒険屋稼業だろ。今度はどこに行くんだい?」

「そうですねえ、辺境で結構冒険しちゃいましたし、しばらくはのんびり旅でもしたいですね」

「いいねえ、いいねえ。おじさんもたまに旅したくなるねえ」

「ご馳走ぜめだったし、野宿でもして、あたしも腕を振るいたいわねえ」

「まあ、でもなんにせよ、一度ヴォーストで荷物を整理したいね。辺境は激レアアイテムたくさんあるけど、普通のものがなあ」

「そうですね! なんだかんだ消耗品もそろえたいですし」

「雑誌も新しいの出てるはずだし、そっちも、」

「そりゃ、やめといたほうがいいな」

 

 じゃあヴォーストに一度帰ろっか、と盛り上がりかけたあたしたちを、ガルディストさんが静かに止めた。

 

「やめといたほうがいいし、行ってもろくな品もないぜ、いまのヴォーストにゃ」

「ええ? なにかあったんですか?」

「まあ、()()()があったらしいんだがな、詳しくはわからん。ウールソが何か知っているらしいが、あの坊さんは口が堅いからな」

「なによ、何があったっていうの?」

「なんていうかね。こう……」

 

 ガルディストさんは言葉を探すように、手で空中をしばらくかき混ぜて、それから諦めたようにそれをくしゃくしゃ握りつぶした。

 

「こう、クソ寒いんだよ」

「まあ、そりゃあ、そろそろ雪解けとはいえ、まだ冬ですし」

「辺境と比べたらあれだけど、北部も十分寒いものね」

「そういう寒さじゃねえんだよ。俺もヴォーストに住んでそれなりだけど、こんなに寒かったことはないね」

「フムン。異常気象ってやつかな」

「まあ、異常は異常だな。空読みどもは、観測史上最低気温、最大の大寒波だとか言ってたな」

「って言ってもねえ。あたしたち辺境から来たのよ?」

「辺境の寒さは俺も知ってるよ。けどなあ、ヴォーストは辺境じぇねえんだよ」

「フムン?」

 

 あたしとリリオが小首をかしげていると、ウルウはなんだかわかったようにうなずいていた。

 

「寒いのには慣れてるヴォーストの人たちも、いままでにない寒さで対応できなくなってるんだ」

「そういうことだな。エージゲ子爵直々にヴォーストに常駐して陣頭指揮執ってるんだが、どうにもな」

 

 エージゲ子爵ってのは、確かヴォーストのあたりを治めてる貴族ね。普段はヴォーストには代官を置いて、たまに視察に来るだけみたいだけど、その()()()が一冬構えるってのは結構大変な話なんだろう。

 

「なにしろあの運河が一部凍っちまってな。冒険屋どころか衛兵やらも総出で氷割りに駆り出されてな」

「池とか湖ならともかく、流れてる川も凍るんだねえ」

「まあ、北部でも川が凍ることは結構ありますよ。でも都市部のヴォーストで凍るっていうのは私も聞いたことがありませんね」

「俺も初めてだよ。そのせいで運河の魚どもも鈍くなってて、漁獲量は激減。停泊した船が凍っちまうから、船の出入りも減っちまってな」

「ってことは、運河経由の荷物がだいぶ減っちゃったんじゃない?」

「そういうことだなあ。だから、いまのヴォーストにゃ碌なもんが残ってなくてな」

 

 おまけに雪解けの時期もずれ込み、周辺農家や牧場も大打撃。その作物を食べている消費者たる都市としては、自分のことだけで手いっぱいらしかった。都市の備蓄を放出しているなんて話まで聞いたら、さすがにそこで装備を整えようとは思えないわね。

 

「っていっても、ヴォーストって北部のハブ都市なんでしょ? あそこ経由しないと大変じゃないの?」

「まあでかい道も運河もヴォーストにつながってるが、別に迂回しようと思えばできるさ。いまは寒波を避けて、下道のほうが早いくらいかもしれん」

 

 まあ、そうなのよね。

 ただ、どこにでも道はあるって言ったって、勝手がいい道っていうのは限られてる。道がしっかり固められているかっていうのもあるし、道中で宿場があるかっていうのも問題だ。

 あたしたちは狩りをしたり野宿したりで、荒野を突き進むこともできなくはないかもしんないけど、それはそれとして文明人としていろいろと保ちたいものもあるのだ。

 

「そうさなあ。いったん東部に抜けて、そっから帝都にってのはどうだ? 帝都観光はまだだろ?」

「帝都は確かに行ってみたかったですね」

「東部は、前に行った町はできるだけ避けてみるのはどうかしら」

「それ大丈夫なの?」

「まあ東部は町も多いですし、地形も割となだらかですから、そこまで心配はいりませんよ」

「東部も南のほうじゃあもう春の気配がするだろうし、雪が降らないところも多い。のんびり旅するにはいいとこだぜ」

「だらだら回って、暖かくなってきたら帝都に行きましょうよ。雪解けの時期の帝都は大変らしいですし」

「帝都も寒いの?」

「寒いは寒いけど、それ以上に滑るのよ。舗装されてて、水はけがちょっと悪いから、道が凍っちゃうらしくて」

「ああ……そういうの聞いたことある」

 

 ウルウが遠い目をする。

 まあ、大変そうだものね、滑るのって。

 あたしたちも寒いのや雪には慣れてるけど、凍って滑る道っていうのは、そこまで慣れてもいないのよ。

 あれは雪が少なくて、でも寒いっていう土地ならではの恐ろしさらしいわね。

 

 あたしたちがきゃいきゃいとあれこれ相談していると、ようやく奥様に解放されたらしいメザーガがよたよたとやってきた。

 服は汚れて、額の汗もえらいことになってるけど、それでも厚着したままで特にけがもなくしれっと逃げ延びているあたり、メザーガもただものじゃないわよね。

 まあ、じゃれあいでけがしてもって感じなんでしょうけど。

 

「帝都行くのか? じゃあそこから西部行きゃあ、一応全国制覇だな」

「東西南北、で中央と辺境ですね」

「まあ帝国も広いから、完全制覇ってわけにゃあいかねえがな」

「メザーガもあちこち旅したのでしょう?」

「それでも全部ってわけにゃあいかねえな。広いぜえ、帝国は」

 

 それを聞いて、リリオはひるむどころか「むふー」と楽し気ですらある。

 そりゃあ、そうか。旅が好きで、冒険が好きで、夢見て故郷を出てきたんだ。そのくらいのほうが、やりがいがあるって話だろう。

 まあそれは、好きでついてきてるあたしも、ウルウだって同じことだ。

 

 あたしたちはそれから頭を突き合わせて、ああだこうだと旅程を組んでいった。

 雑誌を見ながらここはどうだろう、あそこに行ってみたいとリリオが考えもなしに提案し、そこは行ったことあるな、そっちはよく知らんけど道が険しいなど、旅慣れた先達二人が言い添える。

 この街道は見ものだと聞けばそこを歩くことにして、この街に美味しいものがあると言えばそこにそれて、ここはしばらく浴場がないとなればウルウがとてつもなく渋い顔をしたり。

 まあ、こういうのって考えているときが一番楽しいまであるわよね。

 

「そういえば、メザーガたちはどうするんですか?」

「まさか本当に、ここまでボイと馬車を連れてきてくれただけってことはないでしょ?」

「そこまでお人よしじゃあねえよ。高い通行料も払ってとんぼ返りじゃ馬鹿みてえだろ」

「ま、ヴォーストがやりづらいんでね。しばらくは辺境風情を楽しもうと思ってさ」

「辺境に旅行感覚でねえ……まあ、私が言えたことでもないけど」

「辺境っつっても、カンパーロあたりでのんびり過ごすつもりだ。蒸し風呂と辺境飯でも楽しもうってな」

「こういう時のための積立だからな。まあ俺も役得ってことで楽しませてもらうよ」

 

 酒だ肉だ蒸し風呂だと盛り上がる男二人に、ウルウがぼそりとつぶやいた。

 

「そういう旅行にクナーボ君おいてくるのはどうかなあ」

 

 クナーボは事務所の経理やら料理やら様々な雑用やらをこなしてくれる女装の少年で、そしてメザーガにとってもほれ込んでいる子だった。嫁にしてほしいと公言しているし、だめなら嫁にしたいとも言ってのける豪のものでもあるわね、

 そのクナーボを置いて野郎ふたりで旅ってのは、確かに、ねえ。

 

「うぐ、い、いや、事務所に誰もいないってわけにゃいかんからな。留守を任せられるのはあいつくらいでだな」

「いつか刺されるんじゃないの?」

「はっはっは! 言われてるぜメザーガ!」

「ガルディストさんが」

「まさかの俺かい!?」

「頼む、俺のために刺されてくれ」

「どんだけ義理があってもごめんだよ馬鹿野郎!」

 

 まあ、いくらなんでも刺したりはしないだろう、とは言い切れないのが、情愛の難しいところよねえ。




用語解説

・なにか
 北部エージゲ子爵領近く、臥竜山の山肌脈を「奇妙な色彩」が昇っていき、やがて山頂から空へと広がり、消えていったという。
 この「奇妙な色彩」は突発的な暴風を伴っており、直接的な干渉は不明なものの、以降ここを中心として北部全体に厳しい寒波が広がっていった、とされる。
 エージゲ子爵は関与を否定し、領内最大の収益を誇るヴォーストの被害軽減のため、冬の間常駐している。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 白百合と境の森

前回のあらすじ

イベント進行の都合上、初期拠点に後戻りできないやつ。
セーブするタイミングには注意しよう。


 男二人で気兼ねなく旅行を楽しんでくるというメザーガとガルディストさんを見送り、お母様ともここでお別れです。

 

「じゃあ、私ももう行くわね」

「お母様は、一度南部にお戻りになるんでしたね」

「ちゃんと実家に報告しないと、怒られちゃうもの。あったかいころになったら、また辺境に戻るわ」

「辺境と南部で行ったり来たりは大変そうだ……」

「そうでもないわよ。ピーちゃん、キューちゃんも羽を伸ばせるし、私も旅は好きだものね」

「うう……でも、もう少しご一緒してもですね」

「旅がしたいなら、親離れしなきゃだめよ、リリオ。それに、娘の新婚旅行の邪魔なんかしないわよ」

「は」

「じゃあねー」

 

 二頭の飛竜が飛び上がり、境の森をざわつかせながら南部へと去っていくのを見送って、私たちは顔を見合わせました。

 

「新婚旅行……もう済ませちゃってますよね」

「オーロラ見に行った時のだね」

「まあ、あれって結局お里のうちじゃない。旅に入るの?」

「そう言われると、ノーカン?」

「というかそもそもまだ式も上げてないですし」

「実態は事実婚だけど、まだ婚約扱いかしら?」

「はやめに確定してほしいんだけど」

「あら、ウルウが乗り気なんて意外」

「するならするで、せめて三十路前には済ませたい。ドレスとかきつい」

「うーん、前向きなのか後ろ向きなのか」

 

 成り行きでなし崩しでなあなあで、私たちはお互いを嫁と言いあっているわけですけれど、ええ、ええ、そうです、まだ結婚式は上げていないんです。法的にはまだ婚前なのです。実態はもう結構どっぷりたっぷりねっちょりしてるんですが、それはそれとして。

 式を挙げるなら、それはもう盛大に、華やかに、大々的に揚げたいと思っていますので、そのあたりは根回しも大事なんですよ。

 

 なのでまあ、厳密には新婚旅行というか、婚前旅行ではあります。

 でもまあ、心情的にも響き的にも、新婚旅行のほうが素敵ではなかろうかと私なんかは思うんですよね。

 これからの私たちの旅はみんな新婚旅行なのです。なんてすばらしい薔薇(バラ)色の日々でしょう。

 

「おいしいもの食べて、温泉を楽しんで、魔獣とか盗賊を狩り倒して素敵な新婚旅行にしましょう!」

「うーん、隠しきれない蛮族感」

「趣味なのか仕事なのかで結構変わると思うわ」

「……半々くらいですかね」

「蛮族ラインだなあ」

「えー、じゃあ四分六(しぶろく)で」

「境界線を探ろうとするあたりが、知的蛮族」

「ちょっとよくなりましたよトルンペート!」

「あんたがそれでいいなら、あたしは何にも言わないけどさあ」

 

 なまあたたかーい目で見られてしまいました。

 

 私たちは適当にじゃれあった後、ボイちゃんの曳く馬車に乗ってさっそく境の森の入り口、関所に向かいました。

 

 帝国内地と辺境を隔てる遮りの河と境の森は、領地としては辺境に含まれていますが、辺境の玄関たるカンパーロではなく、辺境筆頭フロント辺境伯の直轄領となっています。

 領境としての守りを任される二つの関所は、それだけ重要ということですね。

 

 あ、いつものですが、この守りというのは、辺境への侵入者を阻むのではなく、辺境から危険な害獣が出てきたりしないようにするという意味合いですね。

 

 もちろん、太平の世においては、守りだけではなく内地との交流の要としても非常に重要な場所なんですね。

 辺境への出入りは、飛竜のような特例を除けば必ずここを通ることになりますから、ここの通行が滞ってしまうと、辺境の経済はかなり困ったことになってしまいます。

 それはそれでまあ普通に生活はできるんでしょうけれど、一度上がってしまった生活水準を落とすのはみんな耐えられませんからね。

 

 それだけ重要な関所ですので、これもまた当然。

 

「えっ、たっっっか……!」

「そうなんですよねえ……通行料が結構するんですよねえ」

「通行する頭数と、馬車があるなら馬車代も、大きさによって変わってくるわね」

「荷物も、種類によっては課税対象ですね」

「それにしたって、随分するんだねえ」

 

 通行料。関税。

 宿舎もついた大きな建物を横切り、重厚にして壮麗な時代がかった大門を抜けながら私たちは、そのお値段のお高いことに盛り上がりました。

 いや実際、ちょっとした記念になるくらいの金額なんですよね。

 荷物なしの素通りでもいいとこの旅籠の宿泊費くらいはします。そりゃあメザーガもとんぼ返りは御免となるほどです。

 

 関所というのは、通行の要所に設けられるもので、どこの領地にも何か所かはあるものです。川にかかった橋だとか、領境にある街道だとか、人が多く通る場所ですね。大き目の町の門番のようなものです。

 単純に危険物や危険人物を取り締まるだけのこともありますが、たいていは通行税としていくらか支払うことになります。人が通るだけでお金になるので、領地としては貴重な財源なんですね。

 だからと言って高額過ぎれば通行する人もいなくなるので、普通はまあ仕方ないなって思うくらいのお値段です。

 

 普通の関所でここと同じ値段設定だったら、まあまず誰も通らず、私設橋とか道とか横行しちゃいますよ。

 とはいえ、お高い理由もちゃんとあるんです。

 

 大門を潜り抜けた私たちを出迎えてくれたのは、雪をかぶりながらもあざやかな深緑を見せる豊かな森が、左右に真っ二つに切り開いててまっすぐ続く街道の姿でした。

 その道幅は大型の馬車が二台余裕をもってすれ違えるほどで、ここからは見えませんが、道中には一定間隔で待避所もあり、軽い休憩などもできるようになっています。

 道の端は金属製の柵で森と隔てられ、道は幅のそろった石畳できれいに舗装されて乱れもありません、仮に柵が壊れていたり、石畳が割れていたり沈んでいたりするものがあれば、一日数回の定期巡回がそれを見つけて、翌日にはきれいに修復されています。

 この定期巡回はそれだけでなく、害獣などが道に出てきていれば即座に討伐してくれますし、なにかの事情で立ち往生している馬車があれば助けてくれます。

 

 しかも、普通の街道がある程度地形に寄り添い、また人々の往来に合わせて曲がりくねっているところ、この街道は完全に計画的に測量・伐採・舗装工事が行われたそうで、境の森を最短距離の直線で貫いているのです。

 

 おかげで馬車はかなり速度を出して突っ走ることができ、帝国で最も流れのはやい街道として記録に残っているほどです。

 私が森の中をちんたらさまよっていたのと比べ、この街道を突っ切れば一日で楽々通過できてしまうのです。

 

「はあ……これは大したものだね。帝国流の高速道路だ」

「これだけの道を整備維持しているものですから、通行料もお高いんですね。税収にもそりゃあなりますけど、かなりの部分が街道の補修に使われているそうですよ」

 

 これだけの街道は帝都につながるものにもほとんどなく、敷設には相当の期間とお金がかかったことでしょう。

 とまあ、それだけ立派な街道なのでお値段がご立派なのも仕方ないんです。

 

「まあ払えるし、払うけどさあ。リリオなら名乗れば通してくれたんじゃないの?」

「無駄ですよ。ここの関所は辺境伯直轄ですけれど、()()()()()()()()()()()()()

「……んん? どういうこと?」

 

 そう、ここは辺境伯令嬢たる私どころか、辺境伯その人であるお父様であろうと、通行しようとする限りは絶対に定められた通行税が課されてしまいます。一切の減額なしです。

 もし万が一、仮に辺境貴族が支払いを拒んで武力で押しとおろうとした場合、関所は総がかりでこれを迎撃してきますし、仮にそこで辺境貴族が、絶対ないとして辺境伯が命を落としたとしても、関所には何の咎めもありません。

 

「……なにそれ」

「まあ複雑な歴史と言いますか。そもそも厳密には、このあたり、境の森と遮りの河は、辺境総督領だったんですよ」

「うん? 辺境伯じゃなくて?」

「ええ、辺境が帝国に編入した時、辺境総督府がおかれまして、それが先ほどの建物ですね」

 

 その当時、帝国は編入した国に総督を置き、その文化や環境を学びながら帝国内に融和させていくという政策をとっていました。総督がそのまま貴族となって封じられる例もありますが、たいていの場合は現地の有力者と縁をもって治める形だったようです。中には現地有力者を直接総督として採用する例もあったとか。

 

 辺境もその例にもれず、辺境総督が送られてきたのですけれど、辺境筆頭の住まうフロントはあまりにも厳しく、仕方がなく辺境の玄関口、つまりここに総督府がおかれたんですね。

 そう、宿舎もついたあの大きく立派な建物は、大昔には総督府として建設され、総督が住んでたんです。

 

 この総督は一応皇族で、辺境筆頭であった我が家のご先祖様から娘が一人この総督に嫁入りして、帝国と結びつきを強めるっていう政略結婚だったみたいですね。

 このお二人は、帝国内地と辺境の環境や文化の違いでいろいろすれ違ったりぶつかったりしながらも、いくつもの苦難を一緒に乗り越えていったそうです。

 

「あー、それ聞いたことある」

「ほら、舞台を観に行ったじゃないですか」

「ああ、そういう演目だったねそういえば……あの時は結構それどころじゃなかったからなあ……」

 

 総督と姫騎士の物語は辺境だけでなく帝国全土で人気の定番劇で、フロントの劇場に三人で観に行ったりもしました。まあ、確かにあの時は観劇どころではなかったんですけれど……。

 

 その後しばらくは、総督府が帝国とのつなぎをとり、ドラコバーネ家との交流を続けました。最終的には総督府が廃止された際に、辺境は帝国辺境伯領と定められ、我が家が辺境伯として辺境を治めることになったんですね。

 

 この地は今でも当時の名残というか、伝統というか、正式にはいまも辺境総督府直轄領として書類に記載されていて、管理人も名目は代々総督代行を襲名しています。

 そういう感じで、ここ境の森の関所と、同じく遮りの河の関所は、非常に独立性の高い施設なんですね。

 

「フムン。面白い歴史だねえ。今度あの劇ももう一度真面目に観に行かないとなあ」

「いやまあ、あれは劇なので結構脚色とかありますし、歴史通りではないみたいですけれどね」

「ああ、いや、まあそっか。具体的にはどこら辺が脚色なの?」

「華麗な武装女中出てくるじゃない。実際はしょっちゅう鉄棒で姫騎士をぶんなぐってたらしいわよ」

「そりゃあ脚色するよ……」

 

 あと、劇では無理矢理嫁がされた苦悩とか描かれてましたけれど、実際にはかなり押せ押せだったみたいで、初夜から「さあお子種を、婿殿!」って迫って総督さんを泣かせたりしてぶん殴られたりしてたみたいですね。

 当時は同性婚って内地では珍しかったらしいですし、総督さんも苦労したとか。

 

 私たちはそんなことをグダグダ喋りながら、軽快に走り抜けるボイちゃんの馬車に揺られていました。

 揺られていたといっても、揺れはかなり軽微なもので、ウルウが驚くほどでした。

 

「びっくりするくらい揺れないね」

「もともとがしっかり平坦になるように敷設されたらしいですからね」

「よくまあこんな森を切り開いたものだね……その総督さんってのが?」

「いえ、実はもともとは古代聖王国時代に敷設されていたんです。全面聖硬石製の道だったそうですよ」

「フムン? でも今は石畳だよね?」

「反乱戦争の時に、聖王国製の建物とかものを破壊する流れがあったんですけど、さすがに全面聖硬石の舗装をすべて破壊するのは途中で心が折れたみたいです。端っこはちょっと削ったみたいですけど」

「それで、せっかく道があるんだから使いたいけど、聖王国の造ったものってのは腹が立つから、埋め戻して石畳敷いたらしいわよ」

「うーん、すがすがしいほどのごり押し力技」

 

 そうなんですよねえ、結構そういうの多いんですよ。

 聖硬石製だったり、とにかく頑丈で壊せないやつは、表面をごまかして流用したり。

 フロントの防壁もその類ですし、あとは帝都の城壁もそんな感じだとは聞きます。

 有名な観光名所だと、大陸橋跡なんかは、そのまま残ってるみたいですけれど。

 

「となると、足元を掘ったら遺跡があるから工事延期どころか、聖硬石で掘り返せないからその一帯全部建築不可みたいなのあるのか……」

「資源として活用するにも、聖硬石削り出すの、あんまり割に合わないんですよね……」

「聖硬石製の武器って頑丈ではあるけど、もはや趣味の領域なのよね……」

 

 美しい街道に、なんとも渋い感想が流れたのでした。




用語解説

・総督と姫騎士
 タイトルは地方や脚本・演出によって異なるが、大筋としては同じ。
 史実上の人物である皇女にして初代辺境総督と、辺境棟梁の娘である姫騎士を中心に語られる。歌劇・演劇・叙事詩など様々な形で演じられ、歌われてきた。
 ほとんどの場合は大いに脚色されており、史料的価値はあまり高くないが、武装女中や同性婚、辺境の文化を帝国内地に広く知らしめた功績がある。

・総督府
 現在は通行者が有料で使える宿舎にもなっているが、建物時代は総督府として建造されたものをそのまま使っている。当時の価値観がうかがえる壮麗なもので、総督と姫騎士の物語のファンからは聖地でもあるとして、この総督府を見に来るだけの観光客もいるほど。
 実際、通行税だけでなく、宿舎の利用料でもかなりの収益があるようだ。

・聖硬石
 とんでもなく硬いため防壁などには便利なものの、掘り出すのも削り出すのも相当な労力がかかるため、費用が天井知らずになりかねず、もとからあるものを流用する以外ではほとんど使われていない。
 同じく古代聖王国時代の遺物である(スペル)硬質陶磁(ツェラミカージョ)がものによっては金属としての性質が強く実用的な刀剣などに加工される一方、聖硬石製の武器となるともはや趣味の領域。
 刀剣は折れず曲がらずよく切れるが理想とは言うものの、聖硬石製の刀剣はわずかなしなりさえもなく、衝撃が逃げずに振るった人間の腕のほうが折れたという逸話もある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊と森の思い出

前回のあらすじ

イベント進行の都合で素通りした地点にも、意外なエピソードが眠っていたり。
飛行船とか入手した後にサブイベントとしてこなしていくやつ。


 境の森の街道を、ボイは軽快に駆け抜けていく。時折すれ違う馬車もあるけれど、そちらも結構な速度を出していて、驚くほどの速度感だ。

 

 馬車というものが身近ではない人間からすると、車っていうくらいなんだから結構な速度で走るものだろうと思っていたけれど、この世界で実際に馬車……馬……?まあ馬車に乗ってみて、意外と遅いことに気づかされたものだ。

 もちろん、ちんたら歩いているよりは普通に速い。

 人間の歩く速度が時速四キロくらいらしいけれど、それと比較するとまあ、倍いくか、いかないか。時速六から八キロくらいだと思う。早歩きか、小走りくらいすれば追いつける。

 

 これは多くの道が舗装されていない、せいぜいが踏み固められた土の道であるという悪路が理由でもあるけど、馬が疲れるからっていうのがでかい。

 馬力とか言う単位に使われるくらいパワフルであっても、馬は生き物なのだ。餌も食べるし、水も飲むし、休憩だっている。

 単体でもそういう諸々があるのに、馬車を曳いて、人も荷物も載せているのだから、その労力たるや。

 

 もちろん、急かせば速く走ることもある。

 それでも悪路の都合で、時速二十キロはいかないだろう。十何キロってところ。

 まあ、この世界の馬は、でかい鳥だのトカゲだの亀だの種類が多いから一概には言えないけどね。

 例えばうちのボイなんかは、全速力で走ってもらった時は、体感で時速三〇キロから四〇キロは出てたと思う。あの時はさしもの私も中身が出た。いつものとか言わない。

 

 自動車だったらそんな速度で走ってたら煽られることもあるかもしれないけど、馬車でその速度は大ごとだ。丈夫で元気なボイだって、一時間も走ったらへとへとになってしまう。

 そんな走り方を何度もしていたら、馬の寿命はずいぶん縮んでしまうだろうって話だった。

 

 宿場とか村とかの感覚も、そういう時間と距離の感覚で結ばれているし、その道は直線なんかではなくぐねぐねと曲がっているものだから、この世界では実際以上に土地が広く感じられるものだ。

 

 しかし、この街道はそこが全く別物で、別次元だった。

 ボイの軽快な走りは時速二〇キロは普通に出ている。普段なら結構な速足だけど、道がきれいに舗装されているからか、ボイにはまだまだ疲れが見えなかった。

 車輪は実に滑らかに白い石畳の上を駆け抜け、そのわずかな振動は心地よいほどだった。

 

「この速度で私が酔わないっていうだけで、この道はすごいよね」

「まあ、ウルウの基準はそこですよねえ」

 

 いや、実際これは大事なことだよ。

 

 私はもともと馬車の揺れは割と平気なほうなんだ。

 揺れがガツンとしているというか、ガタン、ガタン、と単発の揺れがくるだけで、そこまで辛くない。

 それでも速度を上げたり、悪路を走ったりするとさすがに揺れが激しく、連続してくるので、どうしても辛くなってくるけど、この道はそれが全然ないのだった。

 これほどまでにきれいに平坦に舗装された道というのは、この世界に来てから初めてだった。全部これにしてほしい。本気で。

 

 まあ、実際のところ道路の敷設っていうのは技術もお金も時間もかかるうえに、露骨に利権が絡むから、そう簡単にはいかないんだろうけどね。

 

「しっかし、ウルウの乗り物酔いっていうのもよくわかんないわね。馬車は平気。船はダメ。でも小船は大丈夫」

「うーん……水の揺れは、浮いてる限りずっと続くからかなあ。小さい船だとその揺れがすぐに、直接響いてくるから疲れはしても耐えられるんだけど、大きい船ってほら、地面が傾くみたいなそういう嫌な揺れ方するじゃん」

「なんとなくわかるけど、感覚としては全然わかんないわ」

「君ら、三半規管も蛮族してるもんねえ」

「それは、褒めてんの? (けな)してんの?」

「褒めてる褒めてる」

「うーん、嘘くさい」

 

 乗り物酔いする人は、結構わかってくれる感覚だと思うんだけどなあ。

 大きい乗り物のほうがつらいんだよ。タクシーは大丈夫でもバスはダメだったり。あ、タクシーも匂いでダメだったりするなあ。

 大きいと、小さな揺れなんかが抑え込まれる代わりに、大きくてゆっくりした揺れがお腹に響いてくる感じがするんだよ、私は。あれがきつい。

 三半規管が少しずつ狂わされてる感じがするんだよなあ。

 

 まあ、私の乗り物酔いに関しては掘り下げてもいいことは何にもないので、境の森に意識を戻してみよう。

 私とリリオが初めて会ったのも、この森だった。

 とはいっても、こんなにきれいに整備された道なんかじゃなかったけど。

 

「完っ全に森の中だったよね。けもの道歩いてたよね君」

「いやあ、懐かしいですねえ」

「そのころあたしはあんたを探して散々さまよってたわよ」

「その節は、なんというか、本当にごめんなさい」

 

 十四歳になり、成人の儀として故郷から旅立ったリリオは、一人旅への憧れと、トルンペートの甲斐甲斐しいお世話から逃げるために、この忠実な武装女中をまいて一人で森に飛び込んだらしかった。

 

「お世話から逃げるっていうのがもう意味わかんないわよ。してあげてんのよ、お世話を、こっちは」

「まあ、甘やかしすぎたんだろうねえ。何でもしてもらうのって、一人前になったんだって気分に水を差すだろうし」

「まあ、その件は前にも話して、反省はしてるわよ」

 

 その反省の結果が、主人を顎で使い、重たい荷物を運ばせ、夜には主従逆転したりもする、そういう現状につながってるわけだけど。

 

「こいつ、あたしに眠り薬飲ませたうえに椅子に縄でくくってとんずらしやがったのよ?」

「思ってたよりも周到な逃走」

「だって私が起き出すと絶対目を覚ますじゃないですか……」

「だからって縄でくくるまでする?」

「時間稼ぎくらいにはなればいいなあって」

「まあ一分で抜け出したけど」

「うーん、信頼と実績の武装女中」

 

 トルンペートはトルンペートで、目覚めてすぐに縄を抜け出し、単身ですぐさま追いかけに走ったっていうのは、ほんと忠義の人だよね。

 ただ、残念ながら狩人スキルはあまり優秀ではなかったみたいで、初手からリリオの追跡につまずいて、このよく整備された街道を突っ走っていっちゃったんだって。

 まあ、そりゃ普通はこの街道を選ぶんだけど、リリオは普通じゃないしね。

 

 街道を抜けて、宿場にたどり着いてもそれらしい姿はなし。

 大慌てでヴォーストまで走っても見つからない。どこかですれ違ったと思って慌てて境の森を駆け戻って、宿舎の面々に手あたり次第()()()()()()して、ようやくリリオが森に入っていったことを知った、と。

 それでトルンペートは森に踏み入ってリリオの痕跡を探したらしいけど、足跡を読めるほどのスキルはなくて、とにかく道になりそうな場所を追いかけていったらしい。

 

 そんなトルンペートの必死の苦労には申し訳ないんだけど、その時には私と一緒に森を抜けて、宿場に向かってるころだったっぽいんだよね、どうも。

 

「ほんっと、あの時は大変だったわよ。リリオに何かあったらどうしよう、リリオが何かしたらどうしようって」

「後者のほうが怖いよねえ」

「そうそう。思わず祈ったわよね。せめて示談ですむ相手でありますようにって」

「ぶっとばーすぞー?」

 

 まあ、実際のところリリオはそこまで喧嘩っ早くはないので、喧嘩売られなければ自分からもめ事を起こすようなタイプでもない。

 それは逆説的に、喧嘩を売られれば喜んで端から端まで買う蛮族ってことでもあるんだけど。

 そういう時は()()()にして返して見せしめにするし、それでかえってやり返しに来るやつにはもう容赦なく根きりにするらしいので安心らしい。なにも安心できない。修羅の国の人?

 

「それにしてもよ。あんたたち、あたしがいないとこでどんな出会い方したのよ」

「どんな、って言われてもなあ」

 

 ちょっと説明がしづらい出会いだったのは確かだった。

 私自体がよくわからないシチュエーションだったし。

 

 日本のブラック社畜OLだった私は、目が覚めたら全然知らない異世界にいて、しかもプレイしていたゲームのアバターボディだった。そのくせこの異世界はそのゲームとは特に関係ない正真正銘の異世界。

 人間づきあいとか社会とかに疲れ切ってた私は、《技能(スキル)》で姿を消して、ステーションバーよろしく人々の繰り広げるドラマを観劇して自堕落に過ごそうとか考えていた。

 

 そこで原石めいた輝きを見せるリリオを見つけて、ちょうどいいからこいつの冒険を間近で楽しもうとついていくうちにうっかりほだされちゃって、しかも微妙に気づかれてたみたいで危ないところをかばわれ、それでまあ、落ちちゃったよなあ、私。

 思わずぷっつーんときて、熊木菟(ウルソストリゴ)を倒して、リリオを助けて、それで、まあ、なんやかんやあって旅を共にすることになったわけだよ。

 

 わけわかんねえなこれ。

 こんなもんがあらすじとかだったら私は読むのやめるよ。

 

「ふふふ、あれはとても不思議な出会いでしたよ! 私が森の中を一人進んでいくうちに、きれいな幽霊のお姉さんがついてくることに気づきましてね。ご飯を分けてあげたり、私がさっそうと助けたりといった出来事が二人の仲を急速に深めていき、なんやかんやあって二人は結ばれるというわけですよ」

「なにその童貞が三分で考えたみたいな雑な話」

「なーにをー!?」

 

 いやまあ。

 その童貞が三分で考えたみたいな雑な話もあながち間違いではないから困る。

 なんだったらそのあと、戦うメイドさんとか言う量産ファンタジーみたいな娘が出てきて三人で結ばれるっていうさらに雑な話もあるからなあ。

 

「うん、ほら、まあ私たちの話はいいとして、トルンペートはどうなのさ」

「あたしがなによ」

「トルンペートとリリオの出会いって、あんまり詳しく聞いたことないなあって」

「あー? そうだっけ?」

 

 友達ビギナーになって色々話したりしたけど、あんまり深くは突っ込まなかったんだよね。

 なんかこう、リリオに拾われた的な話は聞いてるんだけど、詳しくはよく知らない。

 

「うーん……ええっと、なんていうかねえ」

「なにさ、トルンペートも話しづらいんじゃないの?」

「別にそういうわけじゃないわよ。ただ、なんていうかこう……」

 

 トルンペートは少しの間言葉を選んで、それからこう切り出した。

 

「まず、あたしがこいつを殺そうとしたじゃない」

「初手できていい情報じゃないんだよなあ」

 

 いきなり物騒に切り出された話は、なるほど物騒だった。




用語解説

・狩人スキル
 ウルウ→なんもわからん。《技能(スキル)》使えばまあ。
 トルンペート→わかりやすい痕跡とかならわかる。足跡は運次第。
 リリオ→勘と運で大体なんとかしている。

・まず、あたしがこいつを殺そうとしたじゃない
 詳細はトルンペート回でなんかふわっと話しているので、忘れている場合は読み返すとなんとそこに書いてある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 鉄砲百合と《跳ね鹿亭》

前回のあらすじ

改めて説明しようとするとどうしてそうなったのかと悩むもの。
本当に、どうしてこうなったのか。


 森を抜けて関所をくぐり、いつも通りのがたがた揺れる街道をしばらく進む。

 ボイは軽快に走り抜けた分、荒れ道に少しご不満のようだった。まあ、わかる。慣れてるとはいえ、ガタンガタンと揺れればお尻が痛いし、ウルウは耐えられるようだけど言葉数は減るし。

 

「いや、これは舌噛むから」

「辺境行きの街道は、行き来が少ないですからねえ」

「帝都付近はみんな舗装されてるらしいわね」

 

 もっとひどい荒れ道に慣れてるあたしたちでも、噛むときは、噛む。

 それも意識と関係ないところで容赦なく噛んでしまうので、血が出るくらいに噛む。

 こればっかりは運よねえ。

 

 ボイの脚でそこそこの時間進むと、程よいころ合いに宿場にたどり着いた。

 辺境から一番近い宿場で、つまり帝国内地としては最果ての宿場ってことになる。

 でもまあ、観光名所って感じではないわよね。辺境に行こうってやつは、そもそももっと手前の町とかでしっかり準備を整えるし、ここはあくまで休息場所としての宿場でしかないもの。

 そしてそれは辺境から帰ってきた人にとっても同じね。

 

 安心して体を休められる寝台と、暖かい食事、それさえあればもう十分なわけね。

 だからここはそんなに大きくない、さびれているとは言わないまでも(ひな)びてはいる小宿場だ。

 

 御者席で手綱をとるあたしの後ろで、リリオとウルウがあたしにはわかんない思い出話をキャッキャとしてる。うーん、そこはかとない疎外感ね。

 でも三人いると結構そういうことがあるから、いまはあたしの番じゃないんだって、そう思うのが一番ね。あたしの番の時は、ウルウが割を食ったりするし。

 

「いやあ、懐かしいですねえ、ウルウ!」

「ええ……懐かしくはないでしょ。大変だっただけで」

「思えばここがウルウと初めての夜を過ごした場所でしたね」

「森の中でも過ごしてたでしょ」

「もう、いけずですねえ……あ、そうだ。思い出の木賃宿にしましょうか、ウルウ」

「旅籠で」

 

 ウルウが硬貨を一枚指ではじいて、リリオの額に命中させた。

 きらりと光る輝きは、金色。

 ウルウが最終手段として持っているっていう、金貨だ。

 換金できるかわからないし、できても価値が大きすぎるだろうからって普段は使わない。

 使わないけど、そのくせこうして遊びみたいに雑に扱ったりもするんだから、よくわかんないわよね。

 

 旅籠は《跳ね鹿亭》といった。

 小ぢんまりとはしていたけれど、掃除の行き届いた感じのよさそうな旅籠だった。

 いまは辺境の出入りの時期じゃないからか静かなものだったけど、あたしたちが馬車を寄せればすぐに出てきて案内してくれた。

 

「この子は寝藁を用意してあげてください。食事は穀物系の飼料で大丈夫です」

「はい、はい、かしこまりました。お食事がお急ぎでなかったら、奥に浴場がございますので、まずはそちらで旅の埃を流されてはいかがでしょうか」

「お風呂」

「はいはい、お風呂が先ですね。では、すこし長湯するかもしれませんので、食事はゆっくりでいいですよ」

「はい、はい、かしこまりました」

 

 次の宿場には、観光名所でもある有名な旅籠《黄金の林檎亭》があるけれど、この旅籠はそれよりはいくらか格が落ちるように見える。

 それでも、そもそもがあたしたちは辺境伯家のものだし、ウルウはウルウでよくわかんない価値基準があるから、その程度の格の上下はあんまり気にしない。

 清潔で、居心地が良ければ、それでいい。

 ウルウはお風呂があれば、まず言うことはない。

 

 部屋に荷物を置き、武装を軽くして身軽になると、あたしたちは早速奥にあるという浴場に向かった。

 この宿場には公衆浴場はなくて、ここの浴場もこの旅籠の客にだけ利用が許されているらしかった。

 客がないこの時期だから、つまりあたしたちの貸し切りってことね。

 

 脱衣所を手早く抜け、ひんやりした空気に気持ち小走りになりながら向かった浴場は、なるほど良くも悪くも小ぢんまりとしていた。

 旅籠の規模にふさわしい程度の造りで、装飾の類もほどほど。

 風呂の神官も、いかにも新人っぽい若い娘が、にこにこと奥のほうに浸かっているばかりだった。

 

「味があるねえ」

「鄙びてるっていうんじゃないの」

「落ちついた造りじゃないですか」

 

 まあ、言葉は違えど意味するところは同じようなものよね。

 

 あたしたちは好き勝手言いながら、洗い場で石鹸を泡立てて洗いっこし始めた。

 一緒になって最初のころはウルウが見かねてリリオを丸洗いする感じだったのが、いまでは三人がわちゃわちゃとお互いを洗いあう感じになった。

 ウルウがリリオの髪を洗ってる後ろで、あたしがウルウの髪を洗ったり。リリオがあたしの髪を意外に丁寧に洗っている横で、職工みたいな目つきと手つきのウルウがあたしの体を磨いてくれたり。

 ウルウの体を洗う時は、あたしとリリオの二人がかりね。左右からわしゃわしゃ泡立てて磨いてあげると、ウルウはちょっと居心地悪そうにして、でも逆らわず身を預けてくれる。その微妙な緊張が、嫌がっているわけじゃないっていうのが、いままでの付き合いでわかるのがちょっと嬉しい。

 

 右パイと左パイをリリオと二人で分け合って、左右から洗っていると、それはもうものすごい光景で、あたしは今でもそれを思いっきりガン見してしまう。三回に一回くらい目潰しが来るので、反射神経が鍛えられちゃうくらいよ。

 ウルウの照れ隠しって殺意に似てるわよね。

 

 ウルウは耳が弱くて、耳を洗ってるときもくすぐったそうだけど、耳元で「くすぐったくない?」「かゆいところはないですか?」「ほら、腕上げて」「脚を失礼しますね」って左右からささやいてあげるとかわいそうなくらい真っ赤になって、かわいい。

 でもあんまりやりすぎると、本当に()()()()()しまうから、ほどほどでやめてあげないといけない。

 

 リリオの体を洗う時は、その時の気分にもよるけど、ウルウと二人で徹底的に磨くことが多い。

 リリオはよく動くし、革鎧も着込んでるし、なにかと蒸れるから、汗やあかで汚れやすい。それに、本人に任せておくと耳の裏とか細かいところをおざなりにしちゃうから、油断できない。

 そうして身を任せているリリオは、さすがに貴族というか、子どものころから人にさせることに慣れてるから、妙な貫禄があるわよね。

 ただ、いくら体が小さいからって、ウルウの脚の間にすっぽり収まって半分抱きしめながら洗わせた時の姿は暴君すぎた。ウルウは子ども相手っていう顔だったけど、あの時の顔に浮かんでた優越感はすごかったわね。ずるい。まああたしもしてもらったけど。

 

 きれいに泡を流して、湯船につかる。

 ま、わかってたけど、可もなく不可もなく。

 まああったかいお湯に全身浸かれるってだけで、可も可、何でも許せるわよね。

 

「それにしてもさあ」

「なによ」

「ここって、辺境に一番近い宿場なんだし、ここにこそ公衆浴場が必要なんじゃないの」

「フムン」

「辺境に行く人は、ここで身ぎれいにして行ったほうが舐められないだろうし、辺境から帰ってくる人も、ここでひとっ風呂浴びてさっぱりしたいんじゃないの」

「あーねー」

 

 まあ、それも一つの理屈よね。

 でも実際にはそうではないっていうのは、別の理屈があるからなのよ。

 

「そりゃ、ここが内地の最果てだけど、辺境に行っても、境の森と遮りの河とがあって、それを越えても、まだいくらかは歩かないといけないのよ」

「ああ……行きも帰りも飛んでたから気づかなかったけど、関所を越えてすぐ辺境の町ってわけじゃないもんね」

「そうそう。だからここで身ぎれいにしても、カンパーロにつく頃には旅の汚れがつくわけよ」

「私たちの旅の速度は普通じゃないですから、参考になりませんよねえ」

 

 なので、辺境に行く人は、向こうの宿場なり、町なりで風呂に入るわけ。

 

 それで、辺境から帰ってきた人は、また別の事情がある。

 

「そりゃあ、公衆浴場がくまなくあればいいんだけど、予算ってもんがあるのよ」

「あー……政府主導だけど、お金の都合でこの辺りはまだ建てられないんだ」

「そういうことです。それで、限りある予算でどこに立てるかといえば、やはり主要都市の手前になります」

「フムン。つまり、ヴォースト手前の宿場だね。そこで身ぎれいにしてからおいでってことね」

「そうそう、衛生管理としても、その方がいいってわけ」

 

 街に入る直前で風呂に入ってもらえば、町に汚れや病気を持ち込む確率はぐっと下がるものね。

 まあ、今後もこの衛生政策が続いていけば、いつかはこの宿場にも公衆浴場が建てられるだろうけど、何年後になるかって話よね。街道も宿場も、帝国には数えきれないほどあるんだから。

 

「それに、次の宿場には《黄金の林檎亭》があるでしょう」

「あそこね、美味しかった」

「そうそう、美味しい旅籠です」

「あたしは食べてないんだけど」

「あー……機会があれば寄っていきましょうね。まあ、その《黄金の林檎亭》が人気なので、辺境までいかない観光客も立ち寄ったり、人の出入りが多く栄えているんですね」

「フムン。それで公衆浴場が必要なわけだ」

「そのうち他にも名物が増えたら、新しい街に発展するかもしれませんね」

 

 あたしたちはそうしてだらだら喋りながら、旅の疲れを湯に溶かすように、ゆっくりと長湯した。

 

「《黄金林檎(オーラ・ポーモ)》だっけ、名物」

「そうそう。あとお肉。豚の角煮みたいなやつ」

「《角猪(コルナプロ)の煮込み焼き》ですよ。あれは是非また食べたいですね」

「絶対食べるわよ。リリオのせいであたしは食いっぱぐれたんだもの」

「うう、その節は……」

「まあ、私は量が多かったから、トルンペートに分けてあげるよ」

「やりぃ!」

「ええっ、前回は私に分けてくれたのに……」

「連続で分けてもらおうとする根性があさましいわね」

「言葉のとげが鋭いッ!」

「食べ物の恨みって怖いね……」




用語解説

・《跳ね鹿亭》
 辺境最寄りの宿場に所在する旅籠。
 辺境の出入りが多い時期には繁盛するが、シーズンオフは静かなもの。
 名物の鹿雉(ツェルボファザーノ)料理からこの名がついたとされる。

・《黄金の林檎亭》
 ヴォースト手前の宿場に所在する旅籠。
 名物の菓子の名前からこの名がついた。
 境の森で獲れた角猪(コルナプロ)の料理も人気。

黄金林檎(オーラ・ポーモ)
 看板にも名を掲げる名物菓子。贅沢に林檎を丸々一つ使ったもので、こちらも門外不出のレシピ。貴族でもなかなか真似できないという。

・《角猪(コルナプロ)の煮込み焼き》
 ヴォースト直近の宿場町に店を構える旅籠《黄金の林檎亭》の名物料理。後述のデザートもあって、ここの料理を食べたいがために用もないのに宿場町まで訪れるお客さんもいるのだとか。宿泊客限定の料理で、レシピは門外不出。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 白百合と旅籠飯再び

前回のあらすじ

ゴスリリと言ったらお風呂回。
という割には意外とお風呂してないと思いますが、世間の平均がわかりません。


 お風呂上がりのホカホカ体温を逃さないように、しっかり着込んで急ぎ足で部屋に戻ってきて、一息。

 こぢんまりとした旅籠ではありますが設備は悪くなく、北部の寒さもなんのその、この部屋の中は安らげる暖かさに保たれていました。

 

 後から取り付けたのでしょう、内装から少し浮いている鉄暖炉(ストーヴォ)のそばに集まって、やかんで沸かした白湯に楓蜜を少し垂らして、ほっと一息。

 

「やっぱり鉄暖炉(ストーヴォ)があると便利ですねえ」

「暖炉だと、全部の部屋にってわけにはなかなかいかないものね」

「そう考えると君の家すごいよねえ」

 

 そうなんですよね。うちの実家……フロントのあの屋敷は、二階にも暖炉があったりします。それも古い型なので、がっつり重たい石造りの奴ですね。あれを上層階に設置するには基礎がかなりしっかりしていないといけませんし、煙突の配置も大変です。

 鉄暖炉(ストーヴォ)は煙突のやり場こそ考えなければいけませんが、そもそもの煙の量が大分少ないので、大分融通が効きます。重量も、ものに寄りますが持ち運びが可能な範囲なので、設置場所を選びません。

 屋外においても使えるので、外での作業があるときに火を焚いて、そばで暖をとったりもできますね。

 

 私たちの使う幌馬車にも設置されていて、暖房に、料理にと欠かせなくなっていますね。

 

 私たちが寄り添ってくっつきあってわちゃわちゃいちゃいちゃして暖を取っていると、旅籠の小間使いが来て、食事の支度について尋ねてきました。

 私は、もうすっかりお腹が空いてしまったのでさっそくお願いします、と心づけを握らせて帰しました。

 

 三人でいるときは一応は頭役である私が財布を預かっているのですが、こうして心づけを渡すとき、トルンペートはちょっと肩をすくめますし、ウルウはまじまじと見つめてきます。なんだか落ち着きません。

 

「もう、なんですか?」

「んにゃ。私は、チップ文化が珍しいから見てるだけ」

「リリオのを普通と思うとよくないわよ、ウルウ」

「あ、やっぱり?」

「え、私なにか間違えました?」

 

 不安になってお財布を握り締めると、トルンペートはちょっと意地悪な笑い方をしました。個人的にはそういう笑い方が一番かわいいトルンペートだと思うのですけれど、それはそれとして心臓に悪いです。

 

「ふつうはもっと小金(こがね)よ。さっきの子も、受け取ってびっくりしてたじゃない」

「大事そうに両手で握りしめてったねえ」

「ええ……? 私いつもこれですけれど」

「いつもだから呆れてるの。普通は三角貨(トリアン)何枚かっていうのに、あんた五角貨(クヴィナン)握らせるんだから」

「多分これ、だいぶんお大尽(だいじん)様だよねえ」

「そうなんですか!? お父様もティグロも、いつもそうだったのに……」

「御屋形様は大貴族の見栄もあるし、ティグロ様は妹にケチなとこ見せられないでしょ」

「まあ、流れの冒険屋が握らせるには大金だよねえ」

「はわわ……」

 

 なかなかに衝撃的な事実でした。

 いやまあ、五角貨(クヴィナン)一枚は、三角貨(トリアン)百枚に値しますし、そこそこいい感じの夕食が食べられる額なのはわかっているんですけれど、まあ、でも、その、なんです?

 この程度、っていうか。

 

「ほら、これが生まれついての金持ちよ」

「金銭感覚が私たち庶民とは違いすぎるよねえ」

「やめてくださいよそのわざとらしいやつぅ」

 

 大仰な身振りですっかり呆れられてしまいました。

 

「君さあ。最初会った時も、大分ケチって旅してたくせに、払う時は金払いが異常にいいから驚いたよね」

「この子、いまだに値切り下手だものねえ」

 

 うう。まあ、そういわれると、反論できません。

 使わないでいることはできるんですよ。無駄なことにお金を使わないっていうの。

 でも必要な時にお金を払いましょうってなると、特に考えずに言われたとおり払おうとしちゃうんですよね。

 お金の計算はできても、実際のものの価値観がいまいちよくわかっていないのかもしれません。

 

「いいもの見てるんだから、目利きはできそうなのにね」

「逆よ。最上級のもの知ってるから、質の低い奴は押しなべておんなじに見えてるのよ」

「あー……」

「その『わかるー』みたいな顔やめてもらえます!?」

「わかるー」

「口でも!?」

 

 ヴォーストについてから、結構稼いじゃったのもよくなかった気がします。

 いえ、お金が入るのはいいことなんですけれど、余裕があるからとお金の使い方を学ばなかったのはよくありませんでした。

 トルンペートがお買い物上手なので、今後は隣で学んでいかないといけませんね。

 

「お待たせいたしました。当店名物、《鹿雉(ツェルボファザーノ)の食べ尽くし》を始めさせていただきます」

 

 反省はここまでにして、給仕が手押し車を押してやってきてくれました。

 さあ、どんなご馳走が、と思いきや、手押し車の上には未調理の材料が皿にきれいに盛られているではありませんか。

 生のまま食べるというのでしょうか。

 

 卓について見守る私たちの前で、給仕は卓上焜炉に土鍋を置き、火をいれました。

 土鍋はすでにある程度熱していたようで、すぐにふつふつと沸き始めます。

 

「これは……お肉?」

鹿雉(ツェルボファザーノ)(もも)(すね)、尾です。脛肉と尾はあらかじめ骨ごと煮込んでおります」

 

 鍋の中にはお肉がごろごろと転がっているだけで、他に具材はありません。

 その煮汁はわずかに白濁して、えもいわれぬ芳香を立ち昇らせていました。

 

「まずは水炊きを。骨と脛と尾をあらかじめ時間をかけて炊いた出汁で、腿肉を低温からじっくりと炊いております」

 

 水炊きというのは南部のほうの料理だそうです。

 もとは具材だけを水から炊くもので、そこには塩さえもいれないそうです。

 骨や()()から出る出汁だけで素晴らしい旨味が出るそうで、時間がかかるその工程を丸っと厨房で済ませた上で、私たちの前で仕上げだけしてくれるという嬉しい料理ですね。

 

 目の前で香りと湯気を味わわせたのちは、たっぷりとした腿肉や、骨から丁寧に外された脛肉、ころりとぶつ切りにされた尾肉が丁寧に盛り付けられて、調味料の入った小皿とともに供されました。

 鹿雉(ツェルボファザーノ)特有の香りはありますが、時間をかけて炊いた出汁はそれを独特の香気に昇華させていました。

 

「塩だれ、唐辛子(カプシコ)だれ、青檸(リメーオ)だれの三種をご用意しております。お好みでお召し上がりください」

 

 なるほど、白っぽいたれ、赤いたれ、緑の果皮を削って散らしたたれと三種類あるようです。

 

 私はまず白いたれで腿肉をいただいてみました。

 煮込み時間が浅いことから、ぎゅむぎゅむとしっかりとした歯ごたえを残しており、食べ応え十分。

 お母様の実家である南部のハヴェノでいただいた鹿雉(ツェルボファザーノ)は獲れたてで、新鮮なれど熟成されていないものでしたけれど、こちらのお肉はきっちり熟成させたもののようで、驚くほど旨味がはっきりしています。

 単純な塩だれが、その旨味を包み込んで一段も二段も持ち上げてくれています。

 

 ほろほろに煮込まれた脛肉のうまみと言ったら、腿肉をしのぐほどでした。柔らかすぎるので、お肉の醍醐味の一つである歯ごたえは失われているのですけれど、その分口の中でほろりとほぐれて純粋に旨味が口の中に充満していく思いです。

 甘みさえ覚えるこのお肉を、さわやかな香りの青檸(リメーオ)だれでいただいてみたのですけれど、これが驚くほどに相性がいいのです。

 あまりに簡単にほぐれて、ともすれば平坦なうまみの塊になりかねない所を、この青檸(リメーオ)だれのカーンと冴えかかった酸味が鋭く差し入って、立体的な味へと組み替えてくれるのです。

 ウルウはこの青檸(リメーオ)だれをとても気に入ったようで、口元がうっすらほころんでいるようでした。

 

 そして尾の肉ですけれど、肉というより骨、その周りにへばりついた皮と肉というのが尾肉の印象です。

 牛の尾の肉なども汁物として人気の高い部位で、それは鹿雉(ツェルボファザーノ)も変わりません

 じっくりコトコトと煮込まれても、脛肉のようにほろりと崩れることなく、ねっとりと骨にまとわりついたお肉は、ウルウのいうコラーゲン、プルプルとした脂身と混然一体となった質感で、これを骨から前歯でこそげるようにしていただくと、お口の中は幸せでいっぱいになります。

 自分の口の中で骨からはぎ取るというのは手間ですけれど、その手間自体が、私の舌を能動的にお肉へと向かわせ、舌のあらゆる角度からお肉を楽しませてくれるのです。

 そして舌だけでもなく、唇にもプルプルと心地よいこのお肉の合間に、こりゅりとした軟骨の心地よい歯ごたえ。

 時間と手間をかけて食べるだけの価値が、ここにあります。

 

 南部人の好みそうな唐辛子(カプシコ)だれにつけていただくと、やはりこのお肉もその良さがぐっと引き立ちます。

 ともすれば脂っこくなりすぎる口の中で、唐辛子(カプシコ)の辛さがそれらを燃やしてくれるような心地よいほてりがあります。

 トルンペートはやはりこのたっぷりの唐辛子(カプシコ)が気に入ったようで、給仕にお代わりをもらうほどでした。

 

 そうして私たちがお肉を食べている間に、土鍋では野菜たちが煮られていました。

 葉野菜、根菜、ねぎの類。火の通りやすさを勘案して順に沈められた野菜たちが、鹿雉(ツェルボファザーノ)の濃厚な出汁をたっぷりと吸いこんだのですから、これがまずいはずがありません。

 これもはやり、事前に火はいれていたのでしょうけれど、ふつふつと沸き立つか沸き立たないかの出汁の中で揺れる姿はなんとも蠱惑的です。

 

 この野菜をやはり三種の出汁でいただいて、舌鼓を思うさま演奏していますと、なんと給仕は土鍋にさらに細工をしていくのです。これで終わりなどではなかったのです。

 

 土鍋にさっと塩が投じられ、乾麺がぱっとひろげられました。

 出汁の中で少しずつゆでられていく練り物(パスタージョ)

 私たちがただのお湯でゆでてもおいしくなってくれる練り物(パスタージョ)が、鹿雉(ツェルボファザーノ)の、そして野菜のうまみさえも煮だした出汁を吸いながら茹でられるのですから、これはもうどうなるか想像もつきませんでした。

 

 やがて土鍋の出汁が徐々に()()を減らし、麵が茹で上がりました。給仕はそれを深皿に盛り付け、細身の葉野菜を散らすと、土鍋に残った出汁をかけまわして供してくれました。

 

 調味料は、麺を茹でるときに投じられた塩だけです。香草もありません。散らされた葉野菜も、シャキサクとした歯ごたえのほかには、わずかな青臭さが楽しめるばかりです。

 しかし、それで十分でした。十分すぎるほどでした。

 

 驚くほど濃厚に煮詰められた鹿雉(ツェルボファザーノ)の白濁した出汁が、全てでした。

 主食であるべき麺は、濃厚な旨味を受け止め、味わいやすくするためのものだったのです。

 私たちは出汁をたっぷりと吸った麺を味わい、最後の一滴まで出汁を味わい、そろって感嘆の吐息を漏らしたのでした。




用語解説

・心づけ
 いわゆるチップ。
 相場は諸説あり、というかその土地土地や文化によっても異なるため、一概には言えない。
 普通は軽い用事程度であれば小銭を渡すくらいで、しっかりとしたレストランでコース料理頼んでも五角貨(クヴィナン)はチップとしては高い。三、四人で一枚でちょうどいいくらいか。

・お大尽
 お金持ちや、その金をたくさん使って豪遊する客のこと。
 二人はリリオをからかっているが、シチュエーションによってはお前らもたいがいだからなと突っ込む者はこの場にいない。

・《鹿雉(ツェルボファザーノ)の食べ尽くし》
 《跳ね鹿亭》の名物コース料理。
 文字通り鹿雉(ツェルボファザーノ)の全身を利用したコース料理で、肉、内臓、脳、脂、骨と一通り堪能できる。
 またコースには含まれないものの、血などを利用したソーセージなども販売している。
 それなりにお値段は張るが、お手軽に単品料理としてもそれぞれ注文できる。
 

・鹿雉(ツェルボファザーノ)
 四足の鳥類。羽獣。雄は頭部から枝分かれした角を生やす。健脚で、深い森の中や崖なども軽やかに駆ける。お肉がおいしい。

青檸(リメーオ)
 ライム。果皮が緑の未成熟な頃に収穫される。
 鮮烈な酸味とさわやかな香りが特徴の柑橘類。
 果皮は薄く、表面を細かく削って香りづけにも用いられる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と旅籠飯再び

前回のあらすじ

ゴスリリと言ったらご飯回。
これは言い訳できません。うるせえ。


 十秒チャージのゼリー飲料とブロックタイプの栄養補助食品で生きてるやつとか意味わかんないよね、などと脈絡もなく過去の自分をディスったりしつつ、鹿雉(ツェルボファザーノ)の水炊きから始まるコースを堪能した。

 いやもう本当にね、最近はもう以前の私がどうしてあんな食生活をできたのかわからなくなってきたよね。

 いや、覚えてはいるし、当時の心境とかも普通に言えるけど、もうあのころには戻れないよね。感覚が別物になってる。というかあの頃が人間として間違ってる方向に転がり続けてたっていうか。

 

 食事に魅力を感じない、最低限で済ませたいっていう人が一定数いるのは知ってるし、そういう人たちの感覚が異常だっていうわけじゃない。

 ただ、こうして美味しいごはんを楽しんでいる私はそういう人たちじゃあなくて、むかしの私が食事を楽しめなかったのは妛原閠としては深刻な故障に陥っていたんだなって、そういう話。

 

 もともと私は、食べるの好きだったはずなんだよね。

 そりゃあ、中学校の頃とかはさ、急に背も伸びたりして、不安になって、無理なダイエットとかもしたけど、でも食べること自体は好きだったんだよ。

 それは本当に、父のおかげだったと思う。栄養バランスやいろどりに気を遣って、私が健やかに育つように手をかけてくれた父の。

 父はそれこそ本当に、食べることに特別の意味は持っていなかった人で、栄養が補給できればそれでいい人だったけど、それでも父は私にそうあるようには求めなかった。私がどのような個性を持っていても、どのような嗜好を持っていても、好きな道を歩めるように、選択肢を狭めることのないように、与えられるものをすべて与えてくれていたんだと、いまはそう思う。

 

 私は、私自身の悲観的な性質のために、父の与えてくれた選択肢を、うつむいたまま自ら放棄してしまったけど、父の……お父さんのくれたものすべてが、無駄ではなかったと、そう思う。そう思いたい。

 

 私は、なにものにもなれないまま死んでしまって、なにものにもなれないまま遠い異世界に来てしまったけど、お父さん、私はいまの生活を結構気に入っています。

 

「めっっっっちゃおいしそう」

「ウルウの語彙が死んでしまいました」

「割と頻繁に死ぬわよね」

 

 うるせえ。

 

 いや、仕方ないって。

 亡き父に思わず報告しちゃうくらい、美味しそうなのだ。

 

 水炊きからスープパスタまでの一連の流れでコースは終わったかなと思ったら、メインはこれかららしいのだった。

 いま卓上コンロの上には土鍋に変わってフライパンがかけられていて、なにかの脂身を焼いていた。まあ、なにかっていうか、流れ的にこれも鹿雉(ツェルボファザーノ)の脂身なんだろうね。ちょっと分厚い鶏皮みたいなのがじっくりと火にかけられて、油を吐き出していっている。

 そしてその油が熱せられて、鹿雉(ツェルボファザーノ)の脂身をじっくりと揚げていく。自分の油で自分を揚げ焼きにしていくなんて、自家発電めいている。

 

 そして脂身がすっかり油を吐き出し、カリカリのきつね色に揚がったらフライパンから取り出し、今度はそこにお肉を投入だ。それに、なんだろう、赤黒いつやつやした部位と、白っぽいふにゃふにゃしたなにかもフライパンにそっと横たえられ、鹿雉(ツェルボファザーノ)の油で揚げ焼きにされていく。

 

鹿雉(ツェルボファザーノ)の背肉と肝臓、脳でございます」

 

 へえ!

 背肉ってことは、ロースか。

 脂身が少なく、お肉としての味がよく味わえるんだっけか。

 

 それに肝臓に、脳と来た。

 

 レバーはわかる。鹿のレバーは食べたことないけど、牛とか豚のレバニラ炒めとかはよく食べてた。

 実家にいたころはよくお父さんが作ってくれたものだ。特に思春期の頃。っていうか具体的には私にはじめてが来てから。

 ほうれん草とか、鉄分多めな食材とかさあ。あと豆腐とかの大豆食品とか。おやつにドライプルーンとか置いてあってさあ。

 いまならわかるけど、さあ。当時の私は全然気づいてなかったよね。何でも美味しい美味しいって普通にモリモリ食ってたよね。

 いや、わかるよ。お父さんもあえて何も言わなかったの。男親に気を遣われるの、思春期の閠ちゃんにはめっちゃくちゃ恥ずかしかっただろうからさあ、わかるよ、うん。

 

 鉄分、大事だよねえ。お父さんありがとう。娘の繊細なハートまで守ってくれて。

 

 で、だ。

 脳は、あんまり食べたことがない。生前は一度もない。

 脳筋蛮族ガールズも、獣とか仕留めても、脳を食べることは少ない。

 っていうのも頭蓋骨が頑丈なので普通に面倒くさいからだ。頭まわりのお肉も、その場でさっと調理して食べるには、ちょっと面倒が多いんだよね。

 私がそれと意識して食べたことがあるのは縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)の脳みそくらいかな。チタタㇷ゚したときのやつ。トルンペートが一個だけ脳みそ取り分けてくれて、焼いて食べさせてくれたんだよね。

 強いて言うなら白子っぽくて、まあ美味しいはおいしいけど、二人の言うようになにがなんでも食べたいってほどでもなかった。

 

 鹿雉(ツェルボファザーノ)の脳は、その身体の大きさに比べるとあまり大きくなさそうに見えたけど、それでも縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)のよりはもちろん大きい。

 これがまあ、見た目はしわしわで露骨に脳みそっていうヴィジュアルなんだけど、特に衣もつけないで焼くので、結構メンタルに来る絵面だ。

 思わず口元がきゅっとなったのを、二人から生暖かい目で見られてしまった。

 

 フレンチなんかで出てくるとは聞いたことあるけどさあ。やっぱりえぐい。

 目をそらしてみても、悲しいことに私は完全記憶能力者、いつまでたっても忘れられない鮮明な画像が脳内に居座るのだ。まあそのうち慣れると思うけど。

 魚の白子は割と平気だしな。見た目似たようなものだし、精巣なんだからもっと忌避感わいてもいいのに。結局はおいしさの前にはすべてが無意味だよね。

 

 丁寧に揚げ焼きにされた鹿雉(ツェルボファザーノ)ロースとレバー、脳みそが皿に盛られ、クレソンっぽいものとカリカリになった脂身を添えてお出しされる。

 フムン。こうしてきれいに盛り付けられると、ちゃんとした料理って感じでグロテスク感はだいぶ和らいだ気がする。個人差はあると思うけど。

 

 でもさすがにいきなり脳みそは勇気がいるので、ヘタレの私は安牌(アンパイ)のロースからいただく。鹿ステーキだ。まあ鹿そのものではなく、なんか鹿っぽい見た目の鳥類なんだけど、いまさらではある。

 

 きこきことナイフで切り分けてみると、中心部はほんのり赤い。血が滴る赤っていうんじゃない。火は通っているけれど赤さが残っている、そういうピンク色っぽい感じ。ロゼっていうのかな。

 口に含んで歯を立ててみると、ぎゅっと力強い歯ごたえ。硬いは硬い。でも顎に心地よい硬さだ。肉を食べているんだって感じる、いわば肉感あふれる歯ごたえ。

 生前では柔らかい肉がもてはやされてたけど、こういうしっかりもの食べてるんだっていう歯ごたえは、味覚ではない味わいとして、脳を刺激してくれる。

 

 ソースも何もかかっていない、シンプルな塩味。でもそれがいい。がりがりっと削られた岩塩の粒が、口の中ではじけるように感じられる。水炊きでも美味しくいただいた鹿雉(ツェルボファザーノ)肉だけど、焼いた肉っていうのは、人間の脳のもっとも古い記憶を揺さぶる、そんな気がする。

 まあぶっちゃけ水分飛んで味わいが凝縮してるのと、メイラード反応の化学的暴力だとは思うけど、そんなの関係ねえとばかりに旨味が殴りつけてくる。

 

 ひとしきり肉の歯ごたえを味わったら、今度はレバーに挑んでみよう。

 レバーステーキというか、レバーフライというか。切り分ける感触は肉よりだいぶ柔らかい、というか肉とは全然違う不思議な感触だ。

 レバーはさすがに芯まで加熱されていて、赤身はない。濃い目の灰色がかった色合いは、あまりおいしそうには見えないけど、私はレバーという美味を知っているのだ。

 歯ごたえは、ねっちり。表面はカリッと焼き目がついているけど、レバー特有の不思議な触感。

 まずいレバーっていうか、まずいレバーの調理法として、食べた時にぼそぼそした触感がするっていうのがある。あれはまずい。同じレバーなのにどうしてこんなにっていうくらいまずい。いや、このねっちりした触感が苦手っていう人も聞くけどね。私はそのどっちかで言えば、後者のほうが断然好きだ。

 

 あと、香り。っていうかにおい。

 全然臭くないです!とかレポーターみたいなことは言えない。レバーはね、臭いんだよ。

 血抜きをきれいにしようと、臭い消ししようとも、レバーそのもののにおいは、どうしようもない。普通に臭う。ごま油とか香りの強いもので隠そうとしても、苦手な人には貫通してくるらしい。

 なので、そういう人には私の感想は何の参考にもならないと思う。

 私、レバー結構好きだしなあ。

 臭いのも個性のうちだよ。もちろん処理がまずい奴は普通に嫌いだけど。

 鹿雉(ツェルボファザーノ)のレバーも普通に臭う。牛とか豚のそれとは少し違うけど、でも共通してレバー臭い。

 

「鉄分がね……多いんだよ。レバーには」

「なんか語り始めたわよ」

「ビタミンとかも多くてね……食べ過ぎなければ、とても健康にいいんだ」

「なにか悲しいことでも思い出しました?」

「お弁当にレバニラ炒めが入ってたことがあってね……」

「ああ……」

 

 私はそれが普通だと思ってたんだけど、弁当にレバーはねえよってドン引かれたことがあるんだよね。いいじゃん、美味しいじゃん。でもレバーもニラも、匂いが強いからさ。結構からかわれて、恥ずかしさのあまり泣きそうになったよね。

 まあ、そのころの、中学の頃の私はすでにまわりの男子見下ろしてたから、睨んだら黙ったけど。どうした、笑えよ男子。

 お父さんに泣いて訴えたら、鶏レバーの甘辛煮とかになって、普通においしくてどうでもよくなったけど。あとお父さんが弁護士の算段立て始めたからそれどころじゃなかったし。

 

 少し悲しい過去をうっかり思い出したりしちゃったけど、心を立て直して脳みそに挑もう。

 なんて、結構覚悟したみたいな言い回しだけど、実際のところここまでくると別にそこまでグロくは感じなくなってた。

 というか、縞椋栗鼠(タミアストゥルノ)をチタタㇷ゚した時のグロさを思えば、たいていのことは大したことがない。

 

 割合気も楽にナイフを入れてみると、かなり柔らかい。すとんと刃が入る。

 断面は、やはり白っぽい。なんか、豆腐っぽい。豆腐ステーキだ。そう思ってしまうと、もうこれをグロテスクには感じなくなってくる。これと比べたら、みそ汁に白子が浮いてた時のほうが、子ども心に怖かった。完全に培養液とかに浮かんでる脳みそだった。

 

 さっそく一切れ口にしてみると、表面は揚げ焼きにしたためか、カリッとしている。

 そのカリッの内側では、豆腐のように柔らかな触感がふわふわと感じられる。でも、豆腐とは違って、不思議な旨味がある。お肉のような濃厚な旨味じゃない。どちらかというと、脂の甘味に近い、そういう旨味。

 見た目の淡白さに比べて、結構こってりしてる。こってりしてるけど、脂そのもののようなくどさじゃない。

 

 白子の天ぷら、こんな感じだったなあ、なんてちょっと思い出す。

 あれは、ちょっといいお店だった。天ぷらのほかに、新鮮な生の白子を、ポン酢でいただいてさ。

 アレに近い。白子の感じだ。ありだね。全然あり。

 

 そこに、鹿雉(ツェルボファザーノ)の脂身だ。

 脂身っていうか、鶏皮みたいな感じ。それを、脂がすっかり抜けてカリカリになるまで、焼いたものだ。

 ほとんど薄いおせんべいみたいな、そういう感じになってしまっている。

 フォークを押し当てると、ぱりんって割れてしまう。

 これだけ食べても、パリパリ触感と油のうまみで十分美味しいんだけど、脳みそと一緒に食べると、食感が補完しあって、また、いい。

 

 かりかり、ふわふわ、かりかり、ふわふわ。

 脂っこくて、口の中がくどくなるまで繰り返して、そこにきゅっといっぱい、林檎酒(ポムヴィーノ)をいただく。さわやかな酸味が、さぱっとキレイに洗い流してくれて、あとには心地よい満足感が残るって寸法だ。

 

 私たちは鹿雉(ツェルボファザーノ)をたっぷりおいしく堪能し、ストーブの火に当たりながらいただく林檎(ポーモ)のシャーベットで最後まで楽しませてもらったのだった。




用語解説

・安牌
 麻雀用語である「安全牌」を略したもの。
 麻雀では自分のターンで山から牌を一枚取り、手牌から不要な一枚を捨てるのを繰り返し、定められた役をそろえるというのが基本の流れ。
 手牌から一枚捨てた際に、他のプレイヤーはこの捨て牌を奪って役を揃えるいわゆる「ロン」で上がることができる。
 安牌とはこのロンをされることがないだろうと推測される、文字通り安全な牌のこと。
 転じて、危険がなく安全であるもの・ことを指す言葉として使われる。

・メイラード反応
 おおまかにざっくりと言えば、食品の糖とアミノ酸を過熱した時に見られる褐変、つまり茶色っぽくなる反応。
 わかりやすい例でいえば、肉を焼いたときに赤色から茶褐色に変化したり、玉ねぎを炒めたら茶褐色になったりという反応。
 ただし、焦げるのは炭化であり、メイラード反応とは異なる。
 この反応に伴って食品は様々な香ばしい風味を発するようになる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 鉄砲百合と盛り上がる夜

前回のあらすじ

美味しいごはんに、懐かしき父を思い出す閠。
お父さん、娘はこんなに大きくなりました(物理的に)。


 《鹿雉(ツェルボファザーノ)の食べ尽くし》、なるほどこれは侮れないものね。

 お値段もそりゃあ、侮れないものだったけど、そういうことじゃなくってね。

 

 鹿雉(ツェルボファザーノ)はまあ、そこまで珍しい獲物でもないのよ。でも角猪(コルナプロ)とかと比べると、そこまで多くは出回らないわね。

 別に角猪(コルナプロ)と比べて数が少ないとかそういうわけでもないし、特別強いとか賢いっていうわけでもない。何なら角猪(コルナプロ)のほうが、猟師を返り討ちにした数は多いんじゃないかしら。

 

 ただ、普通に角猪(コルナプロ)のほうがおいしいのよ。

 とれる肉の量だって、脂の量だって、何なら毛皮の広さだって、角猪(コルナプロ)のほうが上。

 まあ普通に食べられるし、あんまり()えると森がやせるから、ある程度は狩るんだけど、それでもお肉としては角猪(コルナプロ)のほうが人気あるのよね。

 

 鹿雉(ツェルボファザーノ)がまずいっていうんじゃないわよ。

 普通においしいわ。まあ、普通には。

 でも、鹿雉(ツェルボファザーノ)角猪(コルナプロ)と比べると脂が少ないし、肉質がちょっとパサついて感じちゃうのは確かね。

 野の獣のお約束として、特有のにおいはあるけど、それもあっさりしたもので、はまるほどの癖もないから、なんていうか、面白みもないわけよ。

 

 どちらかというと、そうね、ほら、あたしが持ってる鹿節(スタンゴ・ツェルボ)とか、ああいう加工品のほうが、鹿雉(ツェルボファザーノ)はおいしいんじゃないかって思うわ。脂が比較的少ないから、腐りづらいし、加工しやすい。

 

 まあ、これは結構あたしの偏見っていうか、好き嫌いの範囲かもしれないけどね。

 鹿雉(ツェルボファザーノ)のほうが好きっていう人は、確かにいるもの。それに昔から、いろんな調理法もあって、よく食べられてきたわけだし。

 あたしからすると、鹿雉(ツェルボファザーノ)はちょっとお上品に過ぎるかなって、そういう話よ。

 

 まあ、こんだけ下げるようなこと言っちゃったけど、この《跳ね鹿亭》っていうのは、鹿雉(ツェルボファザーノ)の扱いをよくわかってるらしいわね。

 水炊きって言ってたかしら、あの煮込みからしてすごかったわね。

 骨で出汁をとるっていうのは、とんでもなく時間も根気もいるから、あたしたちにはとてもできないお店の味ね。

 それに、普通ならあれこれ調味料やら香味野菜をいれちゃうところを、あくまで鹿雉(ツェルボファザーノ)そのものの出汁であそこまで仕上げるんだから、見事なものよ。

 

 あれはもう、出汁が主役だったわね。肉も野菜も麺も、あの出汁を食わせるための具材に過ぎなかったっていうか。

 臭みもなく、必要以上の濁りもなく、あの出汁を仕上げるには繊細な仕事がいるわ。沸くか沸かないか、そういう微妙な火加減が要求されるのよ。

 あの領域に達するまでには、きっと眠れない夜もあったでしょうね。

 

 そしてさっぱりと鹿雉(ツェルボファザーノ)の出汁で暖まったところで、焼き物もやっぱり簡素にして簡潔。鹿雉の油で揚げ焼きにして、岩塩を削ってかける。

 肉だけを、肉そのものを、ただ肉として食わせる、これはもういっそぜいたくでさえあったわね。

 いくら鹿雉(ツェルボファザーノ)が癖が少ないとはいえ、血抜きがまずけりゃ臭み消しもなしには食べられない。特に肝臓なんかはね。

 飾り気のない食わせ方で客を満足させるんだから、肉に自信がなきゃできないわ。

 

 いやほんと、あの肉は自信があって当然よね。

 適切に処理されて、よくよく熟成された肉っていうのは、驚くほどうまいものなのよ。

 一見黒ずんで、悪くなってるんじゃないかって思えるようなあの深い熟成は、相当に気を遣ってるはずよ。

 あたしたちは森で狩ってすぐ食べちゃうのが基本だし、ウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》はなんでか熟成が進まないから、うちじゃ熟成肉はまず食べられない。

 

 あたしも熟成させた鹿雉(ツェルボファザーノ)が、こんなにもうまいものだなんて全然知らなかったわ。すぐに食べちゃうか、干し肉にしちゃうか、そういうことしかしてこなかったからね。

 っていっても、あたしたちじゃうまいこと熟成させるなんてのは難しいから、これもやっぱりお店の味よね。

 

 最後には林檎(ポーモ)雪葩(ショルベート)で、脂っこくなった口の中もきれいさっぱりよ。

 暑い地方に住んでる人間は、夏の盛りに氷室でつくった氷菓を楽しむのが普通だけど、あたしたち北の人間からすると、やっぱりあったかい火に当たりながら氷菓をつつくってのが、一番の贅沢よね。

 

 そんな感じで、たくさん食べて、たくさん飲んで、あたしたちはくちくなったお腹をなでながら楓蜜入りの白湯で一服していた。

 氷菓で冷えた分を取り戻そうとしているのか、それともお肉をたらふく食べたからか、あたしはぽかぽかしたほてりにゆったり身体を預けていた。

 

 鹿雉(ツェルボファザーノ)は精がつくっていう話は、まあ特別聞かないけど、野の獣はたいがいそういう扱いされるわよね。栄養価的には知らないけど、やっぱり野生の動物はそういう生命力みたいなものが、影響してくるんじゃないかっていう。

 まあ、民間療法というか、迷信と言えば迷信よね。

 

 でも、事実としてあたしはいい感じにほてって、部屋はいい感じに狭くてこもってて、鉄暖炉(ストーヴォ)でうまいこと暖まってるから風邪をひく心配もない。

 ぽかぽか、っていうか。

 ほら、わかるでしょ。

 お風呂入って、ごはん食べて、お酒も飲んで。

 そういうお腹の欲が満たされたら、次はもう、ねえ。

 

 ───むらむらしてきた。

 

 あたしは決め顔で独白した。

 

 リリオは寝台に横になって、膨れた腹を心地よさそうに撫でている。

 いまはまだ食欲の余韻に浸ってるから、リリオの立ち上がりには時間がかかりそうだ。でもリリオは消化も早いから、立ち上がりさえすればたっぷり補給した燃料の分、高まってくれそうでもある。

 なんなら、さするような触れ方で緩やかに立ち上げていくっていうのも、あたしの好みだ。

 そうして立ち上がった後は、激しく求められたりしたら言うことはない。

 

 ウルウはゆったりと椅子に腰かけて、湯呑を両手で包むようにして、ちびちびと白湯をすすっては、ほうと小さな息をついてまったりしている。

 こいつ、おっきな身体でこういう小動物みたいなそぶりを無意識でやってのけるから、油断できないわよね。かわいいと思ってるのかしらかわいいわよ。

 もうこいつのせいであたしの好みとか(へき)とかぐっちゃぐっちゃよ。でっかい女をかわいいと思っちゃうようになったあたしはもうこの女から逃げられそうにないので、ちゃんと最後まで責任取ってほしい。

 具体的にはまず今夜、あたしの指をたっぷり温めてほしい。

 

 むっつり言うな。

 むっつり言うなって。

 わかってるから。

 いやでも仕方ないじゃない。

 好きになっちゃったのよ。リリオしかないって思ってたあたしが、ときめいたりどぎまぎしたり、そういう恋みたいなやつを、まじめにしちゃったのよ。

 だからリリオと左右からもんにょりぐんにょりしたいのは乙女心のなせる業なのだから、仕方ない。

 

 なんて。

 あたしが熱のこもった目で見つめていることに気づいたのか、ウルウは耳元の髪をゆっくりとかきあげて、かすかに笑ったみたいだった。

 その吐息交じりの微笑みに、あたしは馬鹿みたいにドキリとしてしまう。

 

 ウルウは白湯を置いて立ち上がると、リリオが転がってる寝台にするりとむかう。

 おそろいの薄手の絹の寝間着が、あたしの鼻先を香水のように曖昧に漂っていった。

 

 これは、これはよもや。

 珍しくウルウが、乗り気なのでは。

 あたしはごくりとつばを飲み込んで、ウルウに続いて寝台に向かった。

 ドキドキが止まらなかった。

 あたしは童貞みたいに緊張しっぱなしだった。

 

 バレないように深呼吸して、爪を短く切りそろえていたことを確認。

 さあ、いざ、と向き直った先では、ウルウが寝台に帝国将棋(シャーコ)盤を広げてた。

 

「…………うん?」

「ふふふ、旅の醍醐味はやっぱり宿でのゲームだよね」

「あー、うん?」

「冬の間、隣で見ながら定石しっかり覚えたからね。絶対私が勝つよ。賭けてもいい」

「…………やってやろうじゃないの」

 

 ふんすふんすとドヤ顔で言ってくるかわいいでっかい女の、かわいい挑戦を、どうして退けることができただろうか。

 あたしは一人で盛り上がっていた熱をこらえながら、野生をなくした猫のようにぐでんと横になるリリオを足でどかす。

 

「ほら、リリオ場所あけなさいよ」

「んぇあ……あれ、帝国将棋(シャーコ)ですか? いいですね」

「まず私とトルンペートね。交代でやろうよ」

「何局やる気よまったく……時間かかるし、早指しで行きましょ」

「あ、じゃあ私時間はかりますね」

「ふふん、いいよ、すぐに終わっちゃわないといいけど」

「このデカ女……! 棋力の差をわからせてやるわ!」

 

 じゃらりと駒を広げて、《三輪百合(トリ・リリオイ)》内での帝国将棋(シャーコ)(全国共通版)格付け争いがこうして始まったのだった。

 

「じゃあ、まずは慣らしってことで」

「そうだね。実際に指したことあんまりないし」

「やり方は見て覚えたんでしょ、細かいところ大丈夫?」

「説明書は丸暗記したよ」

 

「いやあ、ごめんねトルンペート手加減してもらって」

「ぬぐぐぐぐぐ……!」

「はいはい、試合後の煽りは実際シツレイですよ」

「ごめんごめん。じゃあ次はリリオやろっか」

「ふふん、私はトルンペートのように油断などしませんよ!」

「綺麗なまでにフラグ立てるなあ」

「この流れは期待できないわねえ」

「ちょっとぉ!?」

 

「ほらほら早く指しなよ。どうせ君の手は読めてるんだし」

「手加減してやってるのがわかんないみたいね。大女総身になんとやらって?」

「はい知ってたー知ってましたその手はーはい伏兵ドン」

「こっのっ、デカ女……! 武装女中をなめるんじゃないわよ……!」

「きゃーこわーい」

お排泄物(クソ)がよっ!! 煽るのは寝台の上だけにしなさいよ……!」

 

「は? は? 辺境貴族は恥とかご存じではない?」

「勝てばよかろうなのですよぉ!」

「汚いなさすが辺境人きたない、蛮族はこれだから」

「負け惜しみだけは立派なものですねえ。これが戦争芸術というものです!」

お排泄物(クソ)がよっ! 親の顔思い出したら納得しかないな!」

「親は関係ないでしょう、親は!」

 

「それが女中のやることですかぁ!?」

「あっははははははは!! ねえねえ今どんな気持ち? 王手直前で主力が罠で全滅するのどんな気持ちよぉ?」

「煽りだけは一等武装女中してっ!! 主人を立てるってこと知らないんですか!?」

「あー、そうでちゅねえ、お嬢様は接待帝国将棋(シャーコ)じゃないと勝てませんものねえ」

「勝てますけどぉ!?!?」

「こういう時に身分とか持ち出すの完全に負け犬ムーブなんだよなあ」

 

「あっれえ、センパイは帝国将棋(シャーコ)のルールご存じない? それ反則ってご存じない?」

「や、やりやがったわねこのクソ女……! あたしをはめたわね……!」

「人聞きが悪いなあ! トルンペートが勝手に自爆しただけでしょ?」

「むっきゃあああああああっ!!」

「ごめんねえ、チンパン語は履修してないんだ」

「どうどう、トルンペート、拳が出たら負けですよ」

「ハァ、ハァ……そ、そうね、こんなので煽られてちゃ……」

「やーいざーこざーこ」

「あ゛あ゛!?!?!?」

「乗っちゃだめですよトルンペート! 戻って!」

 

「はあぁ~~~?? 千日手は引き分けなんですけどぉ~~??」

「ウルウが王手かけ続けてましたから、この場合ウルウの負けですよ」

「あれ、あっれぇ? ご存じない? 帝国将棋(シャーコ)の勝ち負けご存じない?」

「審判が煽ってきてんですけどぉ~~??」

「はいじゃあ勝ちですねー、私の勝ちでぇ~す。対局ありがとうございま~す」

「こすっからい手で逃げ切りやがって……! 潔さとかの文化はないんですかねえ!」

「負け犬の遠吠えは気持ちいわねえ」

「だから審判が煽るんじゃないよ!!!」

 

 その夜は、とても盛り上がったのだった。




用語解説

・チンパン語
 チンパンはチンパンジーの略。
 ゲーマーがしばしば用いる煽り文句、罵倒の一つで、学習能力のないプレイや、思考停止したごり押しなどに対して、人間としての知能が感じられないとしてチンパンジーになぞらえて用いられる。
 またマナーの悪いプレイヤーに用いられることもある。
 チンパン語とした場合は、特に言動などについて揶揄している。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 そして《伝説》へ…

前回のあらすじ

ゲーミングお嬢様(蛮族エディション)。
ゆうべは おたのしみでしたね!


 窓を開くと、山際を切り開き始めた朝日が、眩しくも鮮烈に差し込んできました。

 朝の空気はまだまだ冷たく、思わず身震いするほどでしたけれど、寒気のために少し開けておきましょうか。

 寝間着越しの肌に少し寒く、しかしさわやかな朝の風が、部屋を撫で上げていきます。

 

 窓辺でその風を一身に受けて、ひんやりとした空気を呼吸すると、きしむように疲れた全身が少しずつ目覚めていくのを感じました。

 

 ああ、なんて気持ちのいい朝なのでしょう。

 

 私はすぐ後ろで燃え尽きてうめき声を漏らすいかにも不健康な寝姿×2をしり目に、朝日に目を細めました。

 ああ、本当に。朝日が眩しいですね。眠い。誰ですかこんなバカなことはじめたの。

 

 結局、私たちは一晩中ガチンコ格付け帝国将棋(シャーコ)勝負に興じ、力尽きたように意識を落としたのは多分一時間か二時間前くらいだと思います。眠い。

 頭を使いすぎてくらくらしますし、声を張り上げすぎて喉もいたいです。羽交い絞めにしたり取り押さえたり、それにあらがったりと筋肉も疲れました。

 

 ええ。ええ、帝国将棋(シャーコ)の話です。帝国将棋(シャーコ)の話のはずです。

 まあ帝国将棋(シャーコ)というか、後半はこう、なんと言いますか、盛り上がり過ぎたと言いますか、もっぱら煽りの応酬に終始した気がします。

 ウルウいわくのチンパン同士の民度の低い罵り合いが一晩続いた感じです。

 喧嘩っていうんじゃないんですよ。口論でもない。正当性とかは欠片ほどもなかったですね。ただもうひたすらに相手を(おとし)めて言い負かしてやり込めて、すこしでも相手の『上』を獲ろうとやりあってたわけです。

 もはや帝国将棋(シャーコ)の勝ち負け以外のところで争ってましたもんね、最後は。

 

 勝てば盛大に煽り散らして、負ければ負け惜しみで噛みついて、多分猿のほうがもうちょっと紳士的な争いをしますよ、っていうくらい酷い有様でしたね。

 帝国将棋(シャーコ)を指していただけのはずなのに、髪はぼさぼさに乱れて、あっちこっち爪痕残ってますし。なんて嬉しくない夜の痕跡でしょうか。

 

 私たち辺境出身者は、日ごろからウルウに煽り耐性が低いとか蛮族仕草とか暴力が基幹言語とかさんざん言われてきましたが、今回のことでウルウもたいがいだなっていうのがよくわかりましたね。

 喧騒から距離をとるっていうか、当事者にならないようにしてるから気づきづらいですけれど、ウルウってなんだかんだ沸点低いですよ。

 ウルウ語録が普段の十五割増しくらいで飛び出た気がします。

 

 結局、最終的な勝敗ってどうなったんでしたっけ。

 盤と駒はウルウの下敷きになっていますし、そのウルウはトルンペートの下敷きになってますし最終的な盤面なんて全く覚えていません。

 まあ、下手に勝敗を決めちゃうとまたこの醜い争いが再燃しそうなので、忘れてしまったほうが平和かもしれません。

 

 それにしても、私たちがあんなにもいがみ合うことがあるなんて思いませんでした。

 そりゃあ、私たちも若い娘で、枯れ切ってるわけでもないですから、意見がぶつかることもありますし、気に食わないなってときもあります。

 馬鹿にしたり、反発したり、喧嘩したことだって何度もありますし、いまだに分かり合えないなっていうことだって多いくらいです。

 

 でもチンパンは初でした。

 初チンパンです。

 

 もうこれが最後でいいと心底思いますが、私たちは自分の中にチンパンが潜んでいることに気づかされてしまいましたからね。そしてそのチンパンを解放することがどんなに心地よく爽快で愉快であるかということも。これが最後のチンパンだとは私にはとても思えません。

 それは邪悪な喜びであり、非文明的な悪しき愉悦です。

 しかし、同時にそれは私たちが自然に持っている本性でもあるのです。

 

 私たちは心のチンパンと向き合い、対話を試み、そして飼いならしていかなければならないのかもしれません。

 

「っていうあたりで、ほら、そろそろ起きてくださいよ」

「うう……全然寝れてない……」

「自業自得ですからねこれ。眠くっても出発しないといけないんですから」

「うう……おっぱい……」

「半分は私のですよトルンペート!」

「全部私のなんだよなあ……」

 

 私たちは気だるい体を引きずって朝風呂を浴び、なんとか無理に体を覚醒させて、目を覚ましました。

 冷や水で顔を洗えば無理にでも意識は立ち上がりますし、体温を上げれば体は活動し始めるものです。

 まあそれでも全身バッキバキで疲労感がすさまじいものでしたけれど。

 

 風呂から上がると、すぐに朝食を用意してくれました。

 

「昨夜はお楽しみでしたね」

 

 アッハイ、すみません。

 疲れただろうから軽めにしましょうかなんて気遣われてしまいましたけれど、ちゃんとたっぷりといただきました。

 体が資本ですから、食べられるときには食べておかないといけませんからね。

 

 山盛りの蒸かし芋に、煮豆に根菜、目玉焼きに燻製肉(ラルド)小腸詰(コルバセート)、キノコの炒め、片面焼きの麺麭(パーノ)などなど、実に素敵な朝食です。

 私もトルンペートも、体は小さいですけれど、食べるときにはしっかり食べます。

 ウルウは以前と同じく、げんなりしたような顔でそれを見ながら麦粥で済ませていますが、私たちからすると相変わらず小食で不安ですね。

 

 ただ、私たちが小腸詰(コルバセート)だのを差し出すと、仕方ないなあって顔で食べてくれるので、これはこれでかわいくていいですね。餌付けしてる感じが楽しいです。二人が私に色々食べさせるのもわかる気がします。

 

「さて、宿場まで来たけど、この後はどうしようか」

「ヴォースト辺りはもうだいぶひどいってことでしたから、次の宿場も危ないかもですね」

「うーん、旅籠のひとが言うには、ここも例年に比べたら厳しいらしいわね」

「じゃあもう、ここで道を変えて南下しはじめましょうか。道は悪くなりますけど、一応街道はありますし」

「この辺りなんかあるの?」

「何にもありません……というとさすがに地元の方に失礼ですけれど、観光名所としては特に何もないですね」

「まあ、畑と牧場とって感じよね」

「あー……人より牛が多いやつ」

「なのでしばらくはのんびり南下して、適当なところで川下りして東部まで一気に進みましょう」

「まあある程度行けば、凍ってるってこともないでしょうしね」

「東部かあ。東部も何にもないっていえば何にもないんじゃないの?」

「目立つ感じではないですけど、観光名所は多いんですよ。ムジコだって、普通だったら音楽の都として華やかだったんですから」

「何気に生活水準も高いのよね、東部。機械とか発展してるし」

「そういえば時計も東部産が多いんだっけ」

「そうですそうです。機械式時計は東部が主流ですね。せっかくですから時計で有名な町なんかにもよりましょうか」

「いいねえ。前に通ったのとは別のルートで行こうよ」

「芸術、景勝地、それに美味しいもののあるところでね」

 

 私たちは観光雑誌を広げて、さっそくあれやこれやと言い合って計画を練り始めるのでした。

 旅というものは、その計画を立てるところからしてもう楽しいものです。

 ともすれば、この瞬間が一番楽しいと思える時もあります。

 

「私としては《忘れられた都》は一度見てみたいですね」

「それって観光地になってる遺跡群でしょ? どうせ死んでるんだし、見たってねえ」

「生きてる遺跡なんてそうそう見つかりませんよ。廃墟だけでも見てみたいじゃないですか」

「君んちも遺跡利用してるんじゃなかったっけ」

「言っても実家ですしねえ……」

「あたしは《白の森》を推すわね。見てよし、味わってよしよ」

「蜂蜜の名所ですもんねえ」

「そして蜂蜜酒(メディトリンコ)の名所でもあるわ」

「トルンペート、結構呑兵衛(のんべえ)だもんねえ」

 

 《白の森》の蜂蜜酒(メディトリンコ)は人気も高く、最上級のものはよそでは出回らないというくらいですから、現地まで呑みに行きたいというのもわかる話です。

 また名前の通り、白い花を咲かせる針槐(ロビニオ)の木々が立ち並ぶ森も素晴らしい光景で、季節になると観光客の団体が見物したりするそうです。

 でも遺跡群だって、魅力的だとは思いませんか?

 そりゃあ、もうあらかた発掘済みで、目新しいものはないらしいですけれど、でも、浪漫(ロマン)だと思うんですよねえ。

 

「んー……私こっちの、《竜骸塔(りゅうがいとう)》ってのが気になるかなあ」

「お、渋いところ来ますねえ。エルデーロの森の《竜骸塔》と言えば、魔術師の聖地ですよ」

「名所っていえば名所だけど、ほとんど史跡旧跡に片足突っ込んでるわよね」

「ふぅん……でも名前が格好いい」

「ウルウって結構そういうところあるわよね」

「わかりみですね」

「わかんないでほしい」

 

 ウルウが不思議なまじないを使うとはいえ、私たちは基本的に魔法・魔術の類は補助的にしか使わない一党です。私やトルンペートが使うものは、装備に宿った精に頼ったものですしね。

 なんて言いましたっけ、ウルウが言うところの脳筋物理アタッカーズですね。殴ったほうが実際ハヤイというやつです。

 なのであんまり学べることはなさそうですけれど、かなりの歴史がある塔なので、単純に史跡などとして考えれば見どころがあると言えるでしょう。文化的にも興味深いですし、そのたたずまいも全く見事なものだと聞きます。

 

「うーん……そのあたりをつないでいくと……結構沿岸まで行くわね」

「帝都に行くって考えたら、ぐるっと大回りになっちゃうね」

「まあ、急ぐ旅でもないですし、夏か秋くらいについてればいいかなーくらいでいいんじゃないですか」

「そうねえ。帝都は季節関係なく、色々見どころあるものね」

「帝都かあ。帝都ではなに見るの?」

「お店巡るだけで結構楽しめるとは思いますけど、個人的に行きたいお店があります」

「おっ、なによ。武具店とか言わないわよね」

「それはちょっと気になりますけど、辺境以上のものはそうないでしょうしねえ」

「無意識のマウントがえっぐいよねえ」

「なんとですね、帝都にはものすごーく美味しい、《伝説》のお菓子があるらしいんです」

「へえ、そりゃまた()()()じゃない。どんだけすごいってのよ」

「まあ都会って進んでるだろうから、期待してもいいかもね」

「いえ、味についてはよく知らないんですけれど」

「ですけれど?」

「───店名が《伝説(ラ・レゲンド)》なんだそうです」

「なんじゃそりゃ」

 

 そんなに壮大な名前だったら、本当においしくても、肩透かしでも、どちらでも話の種になりそうじゃあないですか。

 私たちはそのあまりのくだらなさにしばらくけらけら笑って、ひとまずの目的をその《伝説》に定めることにしたのでした。

 

 無計画で、ぐだぐだで、でも楽しくて、時々危なっかしくて。

 美味しいものを食べて、温泉を楽しんで、三人でわちゃわちゃして。

 私たちの、《三輪百合(トリ・リリオイ)》の旅は、きっとこんな感じで続くのです。

 いつかくる旅の終わりまで、私たちの旅は終わらないのです。

 

 そのいつかが、どうかできるだけ遠い明日でありますようにと。

 そんな私たちの願いを聞き届けてくださいますようにと。

 私はそっと祈りをささげるのでした。




用語解説

・《忘れられた都》(L'Urbo de Forgesita)
 帝国東部に所在する古代聖王国時代の遺跡群。
 複数の遺跡を含む一帯の総称であり、国の特別管理指定地でもある。
 いまも発掘作業は続けられているが、叛乱戦争時にほとんどが打ち砕かれ、遺物などはほとんど持ち去られてしまっており、目新しい発見はここ数十年見つかっていない。
 また、複数発見されている遺跡都市の内、比較的状態がよかったために現代まで大規模に残っていたに過ぎず、古代聖王国の重要拠点でもなかったため、考古学的調査以上の意味はないとされる。
 それでも、生きている遺跡の発掘を夢見るものがいまだにあちこち掘り返してはもめているらしい。

・《白の森》(La Blanka Arbaro)
 帝国東部の蜂蜜の名所。
 針槐(ロビニオ)が計画的に植樹された養蜂場であり、花の咲く時期には真っ白な花が咲き誇り、観光客に人気のスポット。
 養蜂場では蜂蜜や蜂蜜酒(メディトリンコ)の直売も行っており、最上級の蜂蜜酒(メディトリンコ)は貴族でもなければここでしか飲めないという。

針槐(ロビニオ)(Robinio)
 ハリエンジュ。本邦ではアカシア(ニセアカシア)としてよく知られる。
 白い花を咲かせ、良質な蜂蜜の原料となる。

・《竜骸塔》(La Fuorto de Mortadrako)
 帝国東部エルデーロの森(La Erdelo)に所在する歴史ある魔術師養成所。
 地竜の遺骸を建材にして建造したとされるが、内部の詳細は部外者には秘匿されており、不明な点が多い。
 この地竜は塔の開祖らが討ち取ったものであると伝えられ、伝承通りであれば最大五十メートルを超えていたとされるが、文書により大きく異なり正確性は疑わしい。
 事実であれば伝説上でも数値の証言がおおむね一致している最大個体ラボリストターゴの二十五メートルをゆうに超えている。
 おそらく塔全体の外観から必要な建材を推測して逆算した数値と思われる。

・《伝説(ラ・レゲンド)
 帝都に店舗を構える知る人ぞ知る名菓子店。
 開店日にむらがある上に予告もなく、また陳列商品が少ないために開店早々売り切れで閉めてしまうことも多く、そういう意味でも伝説扱いされている。
 元宮廷菓子職人の店であるとの噂もあるが、取材は一切お断りで詳細は全くの不明。
 運よく購入できた客の証言では、味は文句なしによいという。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一章 それでもぼくはきみに笑おう
第一話 亡霊と旅の疲れ


前回のあらすじ

チンパン女子会で絆を深めた《三輪百合》の一行。
もう、チンパンしない。


 運河を下り、東部をぶらぶらと旅し始めたころには、すっかり春の気配が漂い始めていた。

 というか、辺境や北部では冬が長いだけであって、東部の三月は普通に春だった。一部豪雪地帯をのぞけば、東部は基本的に温暖らしい。

 

 草木は若芽や若葉を伸ばしつつあり、虫が遊び鳥が歌っていた。

 風はまだ少し肌寒い程度には涼しいけど、うららかな春の日差しはぽかぽかと暖かく、御者席で揺られているとうとうとと眠りに落ちてしまいそうになるほどだった。

 

 ボイの曳く馬車は、軽快に進み続けていた。道は荒れ気味だが、最新の馬車はサスペンションも上等なのか、揺れはかなり軽減されている。

 見渡す限りに春の気配が感じられる林が左右に広がり、キラキラした木漏れ日が時折瞼越しに鋭く刺さって、まどろみから目を覚まさせた。

 

 手綱を引いているのに舟をこぐとはこれいかに、なんて思っても、日本語の妙を分かり合える相手というのはこの世界にはいない。そこらへん、翻訳さんがもう少し頑張ってほしいのだけれど。

 まあ、その翻訳さんの中の人ならぬ中の神が、プルプラちゃん様なのか、また別に翻訳チームがいるのかは謎だし、知ったところでSAN値の減少以外は期待できなさそうだ。

 

 私はだんだんと増えていく木立の数を数えながら、幌の中を振り向いた。

 

「ねえ、これやっぱり道間違えてない?」

「あ、やっぱりですか?」

「さっきの分岐で間違えたくさいわね」

「もう一方は滅茶苦茶遠回りっぽかったからなあ」

「方角で言えばこっちの道だったもんねえ」

「やっぱり道で悩んだときに、棒倒しで決めるのはダメでしたね」

「っていうか君は伝家の宝剣をもうちょっと大事に使うべきだと思う」

 

 そう、私たちは道に迷っていた。

 ガイドブックに載ってる地図の解像度が微妙なのもあるけど、そもそも地図があんまり正確じゃなかったりするんだよなあ、この世界。

 空を飛べる天狗(ウルカ)がやってる地図屋もあるんだけど、天狗(ウルカ)ってあんまり商売する人種じゃないから、すごく珍しいうえにすごく高いんだよね。

 あとは地図の神殿でも販売してるけど、この神は旅の神の眷属神みたいで、基本自分の足で歩いて測量して地図作る神官ばっかなので、正確性はともかく必ずしも新しい地図があるわけではないんだよね。加護で地図作れるのに。

 

 まあリアルタイムで更新される便利な地図アプリ的な存在は普及してないってこと。

 

 歴史的なものの見方をすると、地図って軍事的に重要な機密情報でもあるから、あんまり正確なものが普及するのは支配階級としてはうれしくないのかもだけど。

 仮に地図アプリが戦国時代の人の手にあったら、どんなに弱小の家でも天下獲れるよ。まあそれは言い過ぎにしても、それくらいチートなんだよね、正確な地図。

 帝国は一応天下泰平ってことになってるけど、領地間の小競り合い程度はあるらしいし、聖王国とか言うなんか古代文明の末裔みたいな国といまも戦争中ではあるらしいし。

 

「まあ……ある程度いい加減な地図でもどうにかなっちゃうんだよねえ」

「地図なんてそんなもんでしょ」

「ええと、多分ここで間違ったので、いっそこのまま森を抜けましょうか」

「一応村とかあるわね。まあなんとかなるでしょ」

「はいはい」

 

 あとはまあ、需要なんだろうなあ。

 支配階級は軍事的に重要なポイントは抑えてるかもだけど、領内全土の完全な地図は多分持ってないところが多い。測量をはじめ、地図作りはとてもお金と時間がかかるし。

 領土の面積とかを正確に把握するメリットはそこまで大きくないのだ。少なくとも現状では。

 収穫量の計算とか、税の計算とかには必要かもだけど、それも要は耕作地の面積だけ測量すれば済む話で、地図とはイコールではない。

 

 街中で暮らして、どこにいくにもアスファルト舗装の道路でつながっていて、必ず民家やらなんやらがあるような環境で暮らしていると忘れそうになるけど、実のところ人間が住んでる範囲ってすごく狭いんだよね。

 特に日本なんか、居住可能範囲がすごく狭いらしい。山とか川とか、そういう障害物が多いからね。

 

 帝国ではそれがさらに顕著で、人間の領域っていうのはもう、点と線って言っていい。大き目の点である町があって、村や他の町まで、道という線でつながれてる。その線の外っていうのは、基本的に未開拓だ。村や町といった点の周辺で開拓を続けても、巨大な面になるほどではない。

 それらを囲む森や山や草原には、時には武装した人間が束でかかっても返り討ちにあうような魔獣も住んでたりする。そもそもその自然環境そのものが、呆れた速度で植物が繁茂しまくる森とか、採掘した翌日に鉱石が生えてくる鉱山とかなので、開拓スピードはゆっくりしたものだ。

 

 多分、これ神様連中の調整とか入ってるんだろうなあ、って思わないでもない。

 この環境遊び倒して飽きるまでは、次の時代に進まなさそうな気がする。

 まあ、南大陸とか言うアメリカみたいな新大陸が発見されてたりするらしいので、じわじわアップデートもしてるらしいんだけどね。

 

 まあ、私はこの環境はまだまだ飽きてないし、まだまだ目新しいものがあるし、しばらくはこれで構わないけど。

 

 なんてことをもだもだやっているうちに、春の木漏れ日が差し込んでいた林は、やがて木々の密度を増やして森の深みへとなっていき、道はますます荒れて乱れはじめ、上り下りを含む山道になり始めていた。

 うん。完全に森だ。手つかずの森。しかも山がちのやつ。

 

 一応道は続いているし、(わだち)も見えるので、人の行き来はあるらしい。地図上でもいまのところ間違いはなさそうだし、このまま進んでいいだろう。

 途中野宿もすることになりそうだけど、奥には村があるらしいのが地図に載っている。そこまで古い地図じゃないので、急に不可解な現象で村が全滅していたりしない限り大丈夫だろう。

 

 まあ、情報伝達の遅いこの世界では、小さな村がいつの間にかなくなっていてもおかしくはないんだけど。それにしたって、自然な人口減少であれば、その段階で何かしら外部に伝わっているだろうから、それさえもなく突然消えるなんてのはもう、ファンタジーというよりミステリーやパニックホラーだ。

 どちらもお呼びではないけど、まあ楽しめなくはなさそう。

 

 進むにつれて木漏れ日は乏しくなり、いよいよ薄暗くなってきた森の中を私たちの馬車は進む。

 続く道を右に折れ左に折れ、のぼってはくだって、何回か休憩しているうちに、もうすっかり方角も時間もわからなくなっていた。

 こっちに来たばかりのころだったら、不気味でたまらなかっただろう。

 境の森で目覚めたばかりのころだって、すぐにリリオを見つけられたから何とか自分を保てていたけど、あのまま一人でさまよってたら、冗談抜きで亡霊になってたかもしれない。

 

 ひとりで生きるのが楽とか言う生活スタイルしてたけど、あれもたいがい狂ってたからなあ。

 結局私は、独りの時間が長めにほしいけど、でもずっと一人だと寂しいっていう、そういう半端なやつなんだろうね。割とそういう人多そうだけど。

 

 やがて日が暮れてきたのを察して、私たちは馬車を止めて野営の準備を進めた。

 といっても、ボイと高性能幌馬車が戻ってきたおかげで、そんなにすることはない。

 

 まず馬車の車輪に、歯止めとか輪留めとか呼ばれる(くさび)状の道具を車輪と地面の間に噛ませて、馬車を固定する。一度これを忘れて、寝てる間に馬車が進みだしそうになったのを、ボイが吠えて止めてくれたことがあって、それ以来ダブルチェックを徹底してる。

 

 (たきぎ)を集めて焚火(たきび)(おこ)す……っていうのは、実は、毎回薪を拾い集めてきてるわけじゃない。なにしろ私の《自在蔵(ポスタープロ)》……ってことになってるインベントリは、収納量がいまのところ底知らずで、そのうえ中のものが腐ったりしない。なので暇なときに集めて保管してるんだよね。

 だからポンと出して、火をつけて、育てて、ハイ終わり。なんだかんだ薪を集めるのって時間とるし、事前に用意しておくのは場所とりすぎるから、私みたいなイレギュラーがいないとできないことだね。

 

 この火でご飯作るときもあるけど、そうでないときも多い。なにしろ幌馬車の中にストーブを積んでるから、煮炊きはそれで十分っちゃ十分なんだよね。

 直火が欲しかったり、煙が出る奴だったり、単純に複数同時に調理したい時とかは、かまど組んだりするけどね。

 

 どっちかっていうとこの焚火は、獣除けと、ボイが暖を取るためなんだよね。

 ボイも詰めれば馬車内で寝れないことはないんだけど、本人ならぬ本犬が狭いの嫌がるので、外で寝てる。だけど、毛でもふもふだろうと寒いときは普通に寒いので、火のそばで暖を取ったりする。

 この子、動物だけど火を恐れないんだよねえ。ヒグマとかも火を恐れないって聞くけど、この子はそれだけじゃなくて、定期的に薪をくべたりするんだよね。自分の好きな火加減調整したりするし。

 賢すぎてちょっと怖くなる。

 

 そして狩りも、実は最近あんまりしてない。

 たまにはするんだよ。私が見たことないやつ、食べたことないやつだったり、あとは単純においしいからぜひ獲っておきたいやつとか。

 でもさあ、これも私のインベントリのせいなんだけど、保管するだけしてそのままのやつが結構積み重なっちゃって、いわばお肉貯金がえらいことになってるんだよね。お肉以外もだけど。

 私は全部覚えてるけど、それでもいい加減煩雑(はんざつ)になってきたし、最近のごはんは在庫放出をメインにしているのだった。

 

 そんなわけで今日も在庫の角猪(コルナプロ)肉を使った、簡単な煮込みをいただく。

 材料や調味料、調理器具に恵まれた私たちだけど、毎日毎日手の込んだものってわけでもなく、普通にお手軽料理の時も多い。作るのが面倒くさい時どころか、献立に頭を使うのさえ面倒くさい時だってあるしね。

 

角猪(コルナプロ)肉もちょっと飽きてきましたね……」

「おいしいんだけどね。一頭当たりのお肉が多いから、必然的に在庫も多いんだよね……」

「煮て、焼いて、炒めて、蒸して、揚げて、和えて……大体はやっちゃってるのよねえ」

「甘いの、辛いの、酸っぱいの、塩辛いの、大体何でも美味しくいただいちゃいましたね」

「パイにもしたし……ハンバーグは最近やってないんじゃない?」

「ああ、あの肉団子……すごくおいしいですよね。おいしいんですけれど」

「そうなのよ、色々工夫もきくし、おいしいのよ。でも」

「そう、面倒くさいんだよねえ……」

 

 ハンバーグ、滅茶苦茶面倒くさいんだよね。

 角猪(コルナプロ)だけじゃなく、他のちょっと微妙なお肉なんかとあいびきにしたり、お肉の味をごまかすこともできるし、色々アレンジもできる。

 でも、面倒くさい。

 なにしろじゃあちょっとお肉屋でミンチ買ってきてってわけにはいかないのだ。

 ミンチも全て手刻み。三人でひたすらチタタㇷ゚することになる。これが地味にしんどい。

 他の調理と比べると、この叩いて刻む工程が結構手間と時間とるんだよ。

 しかも私はともかく、二人がよく食べるから、量がえらいことになる。バカの考えたハンバーグみたいな馬鹿でかいサイズのバカハンバーグを焼こうとするんだよ。しかも一人一枚。

 

 以前、タネだけ大量に作ってインベントリにしまって置こうってやったことがあるんだけど、ある分消費したらその後は面倒くさくて続かなかったよね。だって丸一日肉を叩き続ける作業で潰れるし。

 ミンサーがなあ……ミンチマシーンがあればすべて解決するんだけど、私も構造は知らないんだよね。

 多分土蜘蛛(ロンガクルルロ)の鍛冶屋とかに頼めば作ってくれるとは思うんだけど、時間かかりそうだから、しばらく腰を落ち着けるようなことでもなければなあ。

 

「でもそれがあれば便利なんでしょ? どんなのよ」

「こう……お肉いれて、ハンドルを回すと、中でなんかこう、刃とか?で肉とか骨とか潰して、最後にひき肉が出てくるっていうヤツなんだけど……」

「死体処理に使う闇組織の道具か何かですか?」

「発想がえぐい!」

 

 まあそういう事件があったりしたとかは聞くけど。

 

 私たちは結局、ハンバーグ食べたいよねえというふわっとした話題をおかずに角猪(コルナプロ)シチューを平らげて、早々に休むことにした。

 っていっても、これから後片付けもあるんだけど。

 

「……ふう」

「おや、どうしましたトルンペート」

「ん、ごめん。なんでもないわ。ちょっとだるくて……」

「あれ、()()ですよね?」

「きみほんとデリカシーないよね」

「ほんとに。でも、確かにまだだったはずなんだけど……」

「疲れが出たのかもね。ここしばらくで急に暖かくなってきたし、体調崩したのかも」

「ほら、休んでいてください、トルンペート。後片付けくらいしますよ」

「ううん……じゃあ、ごめんだけど、先に休むわ」

 

 幌馬車に戻って《(ニオ)の沈み布団》に潜り込むトルンペートを見送り、私とリリオは顔を見合わせた。

 トルンペートが素直に休もうとするってことは、表面に見える以上にしんどいようだった。

 仕事に関しては結構意地を張るタイプのトルンペートが、こんな中途半端で後片付けを任せてくれるっていうのは、そういうことだと思う。

 

 手早く後片付けを済ませて幌馬車に戻った私たちは、トルンペートをかいがいしく世話し始めた。

 ちょっと鬱陶(うっとう)しそうに、それでもちょっと嬉しそうにそれを受け入れてくれる姿が、なんかいい。

 

「ん……」

「ちょっと熱が出てきていますね」

「横になったら油断しちゃったのかも。結構だるい……」

「どこかで悪い風邪でも貰ったのかな……薬あったよね」

「うーん……くしゃみも鼻水もないですし……痛いところありますか?」

「んぅ……筋肉痛みたいな感じはあるかも……」

「熱さましは様子見して、痛み止めと栄養剤(せん)じておきましょう」

 

 リリオは手慣れた様子で小鍋に乾燥した野菜とか香草みたいなものを放り込んで煮出した。

 なんだか、漢方っぽいにおいがする。

 私は薬と言ったら錠剤とかのイメージだけど、帝国でよく見かけるのはこういう生薬とか、お医者さんが処方する粉薬とか水薬だ。あとは神官がなんか作ったなんかだ。神殿系のアイテム、種類が多すぎて、ほんとに何かとしか言えないんだよな……。

 

 こういう生薬系が民間療法なのかどうなのか私には判断がつかないけど、いわゆる薬草として効能がある野草や山菜なんかもリリオはある程度知っていて、自分で摘んできたりもするので、信用するしかない。

 

 そうしてできた煎じ薬を少し冷ましてからトルンペートに飲ませようとしたけど、体を起こすのもつらいようだった。仕方ないのでやかんを吸い飲み代わりに少しずつ飲ませると、こくりこくりと半分ほど飲んでくれた。

 

「ありがとう……ごめんだけど、もう、休む、わね……」

 

 くったり。

 まさしくくったりと、トルンペートは力なく意識を手放した。

 薬は効いたのだろうか。よくわからない。飲んだばかりですぐには効かないだろうけど、でも効果のほどがわからないから、不安になる。

 

「ゆっくり休ませてあげたいけど……」

「明日は馬車で休んでもらうしかないですね。揺れるのはもう仕方がありません」

「……大丈夫かな」

「心配ですか?」

「そりゃ心配だよ。君は違うの? そんなに薄情だとは思わなかった」

「もちろん心配ですよ。でも誰だって体調を崩すことはあるものですよ、ウルウ。ウルウがいま心配のあまり心の調子を崩しているみたいに」

「……ごめん」

「仕方ないですよ。ウルウと旅をしてから、病気になったことはありませんでしたものね。不安になってしまうのも仕方ありません」

 

 無意識に当たってしまった私を、リリオはやんわり受け止めて微笑んでくれた。

 普段は子供っぽいリリオが、こういう時はとても頼りになって、なんだか少し、困る。

 私はなんだかリリオを直視できないような、そんな気持ちだった。

 

「……大丈夫かなあ」

「大丈夫、とは断言できませんけれど、病気だってけがだって、旅をするうえで、いいえ、ただ生きていくうえでだって、つきあっていかなければいけないことです。つきあって、そして乗り越えていかなければいけないんです」

「……………」

「そんなに心細い顔をしなくても大丈夫ですよ。トルンペートも辺境育ちです。朝にはすっかり元気になっているはずですよ」

「……うん」

 

 翌朝。

 リリオは、起きられなかった。




用語解説

・地図
 帝国で一番精密かつ詳細な地図は天狗(ウルカ)の作ったもの……というのは実は誤り。
 天狗は確かに鳥瞰、空からの視点を持っているが、精密な製図技能を持つものは少なく、絵を描くものさえ稀。
 帝室が抑えている帝国全土の地図は囀石(バビルシュトノ)に発注したもので、現在も変化分は定期的に更新され続けている。彼らの精密な測量技術と製図技術は他の追随を許さない。

・南大陸
 歴史的に見れば最近発見された新大陸であるが、この歴史的発見以前は海流や海竜などの障害のために到達できず、観測もできず、全く未知の存在であった。
 それでも発見に至ったのは、ある船乗りが「南へゆけ」という神託(ハンドアウト)を受けて発狂したことがきっかけであり、不思議なことにこれ以降、南大陸への航路を妨げる障害が緩和されたように見える。
 生涯地に足をつけず天を翔け続けるという天玄(ワッカトゥイトゥイ)の発言が真実であれば、「千年前には影も形もなかった島が増えた」とのことだが、詳細は不明。
 現地には千年以上続くとみられる文明や生物圏が存在しており、あるいは歴史ごと神々の手で造られたのではないかという仮説もある。

・まだ
 なにがまだだったのかは不明だが、三人は行動を共にしているからかタイミングが被ることが多い。

・《(ニオ)の沈み布団》
 ゲームアイテム。使用すると状態異常の一つである睡眠状態を任意に引き起こすことができる。状態異常である不眠の解除や、一部地域において時間を経過させる効果、また入眠によってのみ侵入できる特殊な地域に渡る効果などが期待される。
『水鳥は本質的に水に潜る事よりも水に浮く事こそが生態の肝要である。しかして鳰の一字は水に入る事をこそその本質とする。命無き鳰鳥の羽毛は、横たわる者を瞬く間に眠りの底に沈めるだろう。目覚める術のない者にとって、それは死と何ら変わりない安らぎである』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 亡霊と病人二人

前回のあらすじ

旅の疲れか熱を出してしまうトルンペート。
翌朝リリオは起きてこれなかった。
…………あれ?


 リリオが倒れた。

 というより、寝床から起き上がれなくなっていた。

 私は冷え込む朝だというのに隣の体温が高いことに気づいて、愕然としていた。

 

 額に触れれば、常の子供体温ではすまされない熱。

 くったりと脱力して、浅い息を繰り返すさまは、どこからどう見ても弱り切っていた。

 トルンペートもまた同様の症状で、昨夜から回復は見られない。

 

 私は二人を並べて布団で包み込み、ストーブにやかんを沸かして幌馬車内の気温と湿度を高く保たせた。

 馬車を降りると、ボイが不安げに私を見つめていた。匂いか、雰囲気か、賢いこの子は二人の不調を悟ったのだろう。私はこの大きな犬をできるだけ丁寧に撫で、朝の分の餌をやり、そうすることで自分の心の安定をはかった。

 

 少しして二人は目覚めたが、ひどくだるいとしきりに言った。

 ひどい筋肉痛のような疲労を感じるという。疲労。発熱。症状だけ見れば過労のようにも見える。わからない。

 鍋でパン粥を作り二人に与えたが、リリオでさえ食欲がわかないようだった。

 それでも、とにかく体力だけはもたせなければならない。南部産の黒砂糖と、岩塩、柑橘類の果汁でスポーツドリンクもどきを作ってみると、二人ともなんとか飲んでくれた。

 嚥下(えんげ)能力も弱っているのか、すこしのみ込みづらそうだ。

 

 ボイを馬車につなぎ、急ぎ走らせる。ボイも主人らの不調を思ってか、荒れた山道の中を精一杯急いでくれている。

 私は頻繁に二人の様子を確認しながら、地図をにらみ、道程を確かめた。

 

 割合、落ち着いて行動できている、とは思う。

 私は人の看病などしたことはなかった。

 父は体調管理に気を遣い、病気をしない人で、少なくとも娘にその姿を見せることのない人で、がんを宣告されるまで、それは続いた。私は父の面倒を直接見たことがない。

 けれど、幼いころは体を壊しがちだったから、父が私を看病してくれる姿はよく覚えていた。甲斐甲斐しく世話をしてくれ、不安になった私に「(こよみ)さんの時と比べると大分安心感があります」と、病弱だった母と比較して妙な慰め方をしてくれた。

 

 だから、最低限何をすればいいのかはわかる。

 けれど、原因がわからないのでは私には打つ手がない。

 熱が出て、体調が悪い、じゃあ風邪だ、という短慮はよくない。

 二人はくしゃみも咳も鼻水もなく、ただ倦怠感が続いている。それがどういう病気なのか私にはわからない。

 

 医学書を読んでおけば、とは思わない。

 やろうと思えば私は棚ごと医学書を覚えることだってできたけど、そうはしなかった。なぜならば、読んでも意味がわからないことが早期に判明したからだ。

 学術書の類は、それを読み解くのに必要な前提知識があまりにも膨大だ。その前提知識を学ぶことにさえ、広範な知識の理解が必要になる。

 全く畑違いの分野の知識は、ただ蓄えたところで理解にはつながらない。

 私に理解できる範囲は家庭の医学系の生活で役立つものくらいで、そしてそれらはいま十分に活躍してくれている。それ以上は望めない。

 

 この世界の医療や病気について、もう少し学んでおけばよかったというのはある。

 リリオもトルンペートも基本的に健康で体調を崩すことも稀なので、その二人が一度に倒れてしまうと、私は途端に役立たずが露呈してしまう。

 

 医者が必要だ。

 切実にいま、そう思う。

 医者か、このファンタジー世界なら、癒しの力を持つ神官。

 

 でもそのどちらも、この世界では希少だ。いや、元の世界でだって、医者というのは人口に比べて少ないものだった。でも、少なくとも車を飛ばせばたどり着ける範囲にはいた。

 でも、馬車が進める距離は限られている。大きな町の病院など、たどりつけようはずもない。

 

 次の村には医者がいるだろうか。神官がいるだろうか。それはあまりにも乏しい希望だった。小さな村には、医療従事者がいないことはざらだ。

 病気になれば横になって休むほかにすべはなく、けがをすれば自分たちで包帯を巻くくらいしかない。あるいは村の老人が、薬草などについて詳しいこともある。そういう人は薬師(くすし)として重宝される。

 だがそれでさえ、いない村はいないのだ。隣村や、町にまでいかねばどうしようもない、そんな村があるのだ。

 

 昼頃、私は馬車を止めて昼食を準備した。

 粥は、やはりあまり入らないらしく、申し訳なさそうに謝られる。

 

「ごめんなさい……せっかく、作ってくれたのに……」

「いいんだよ。大丈夫。水を足して重湯みたいにするから、それで少しは飲めるかな」

「あたしの《自在蔵(ポスタープロ)》の、干した人参(カロト)みたいなのいれていいから……あと鹿節(スタンゴ・ツェルボ)で出汁とって……」

「君はよくまあそんなに喋れるねえ」

 

 二人に何とか食事をとってもらい、休んでもらう。眠くなくても眠って体力の消費を抑えてもらうつもりだったけど、言うまでもなく二人はすぐに意識を手放した。ひどく疲れた時みたいに。

 額に手を当てる。熱はまだ高かった。微熱状態がずっと続いてる。額だけでなく体も汗ばんでいて、冷えないように丁寧に拭いて、着替えさせる。その間も二人は目覚めず、意識のない体を動かすのには骨が折れた。

 

「意識はまだ明瞭……熱と倦怠感であんまり起きていたくはないみたいだけど。扁桃腺が腫れてたりもない。感染症じゃないのかな……いや、素人判断はよくないな。とにかく、栄養を取らせて、休ませるしかない」

 

 風邪の時の対処もそうだけど、人体というのは基本的に病気に対しては免疫力に頼るほかにない。消化の良い栄養のあるものを食べて、体を温め、体力を消耗しないように休む。これだけだ。病原体だけをピンポイントで破壊する薬はそう都合よくは存在しない。

 

 私は自分の分の昼食も用意して、手早く済ませる。

 食事は味気なく、一人だけ形も味もはっきりしたものを食べるのは気が引けたけど、看病している私が倒れてしまっては意味がない。まず私が体調を管理しなければ、二人を助けることはできない。

 

 私は地図を広げる。

 リリオが買った雑誌についていたちゃちな地図だけど、村や町の位置関係は十分に正確だ。

 

「とはいえ……現在地まではわかんないからな」

 

 おおよその居場所はわかる。次の村がこの先にあることもわかる。

 しかし、ではあとどれくらいなのかがわからない。

 大き目の街道などは、マイルストーンや看板などでおおよその距離がわかるけど、この道にはそういうものもない。

 

 この先にある村と、元来た道の先にある町と、どちらが近いのか、もう判断がつかない。

 町には医者も神官もいたけど、ここまでにかかった時間を考えると、決して近いとは言えない。

 それならば、まだ村のほうが近いのではないだろうか。村だってそう他の町などから離れた辺鄙な場所にぽつんと存在することはないはずだ。ある程度行き来が可能な距離にあるはずだ。

 

 はずだ、というより、きっとそうだろうという期待が強かったが、しかし私には頼れるものがもはやない。とにかく、進むしかない。

 村に行けば医者がいる。村はきっともうすぐだ。そうとでも思わなければ、私は焦燥感のあまりにどうにかなってしまいそうだった。

 

 苛立ちは、何も生まない。冷静な思考の邪魔になるだけだ。

 そう考えようとしても、苛立ちや焦燥を抑え込めるわけではなかった。

 

 不安な状況だけでなく、環境もまた私をいらだたせた。

 私はしばしば耳元の羽音に手を振り回し、肌に何かが触れる感触に手足をこすったり払ったりした。

 

「……山か海かで言えば、やっぱ海だな」

 

 ぱちん、と蚊を叩き潰しながら、私はぼやいた。

 冬の間は全然出てこなかったので忘れていたけど、森の中は普通に虫が出るのだ。

 蚊とかダニとか、ムカデとか蜂とか、とにかく足が多くて小さい奴らがわさわさいるのだ。

 私は最近ではリリオたちのせいで虫を食べる羽目にもなっているから、多少慣れてきたけど、でも嫌いなものは嫌いだ。

 特に小さいのがダメだ。羽虫とか、ダニとか。

 

 でっかいのはまあ、食べさせられてきたのもあるけど、まあ甲殻類かなと思えば耐えられないことはない。それに、この世界の虫の「でかい」は本当にでかいので、もはや虫というより敵Mob扱いで何とか対処できる。きもいけど。

 

 でも小さい奴は本当にダメだ。

 人によってはでかいほうが嫌だって人もいるかもだけど、私は小さいほうがダメ。

 体を這いずり回りそうな、そういう感じがすごい嫌。

 実際に見たり触れたりするだけじゃなく、映像や画像で見たり、いるかもって想像するだけで、ちょっと体がかゆくなるくらいだ。

 

 実際、いまもそういう気分で、しょっちゅう体を払ったりしてる。

 二人と話してるときは気もまぎれるけど、一人で黙っていると、虫の妄想や、実在の虫が、ダブルで私の精神を責め立てる。

 

 ああ、やめよう。

 考えると余計にそっちに意識が行っちゃう。

 

 私は二人の容態を確かめる。

 呼吸は少し浅いけれど、息苦しいという感じではない。ただ少し、力ない。

 

 リリオは病気もケガも乗り越えなくてはならないのだといった。

 そうして強くなって、旅を続けていかなければならないと。

 でもその試練は、こぼれおちた脱落者をすくいあげてはくれないだろう。

 試練を乗り越えられなかったものはどうなるのか。そんなのは決まっている。

 ()()()()()()()()。死ぬか、そうでなくても二度と旅はできなくなるか。

 私たちの旅もそのような結末を迎えるのだろうか。

 それは、受け入れがたかった。

 

 たとえそれがこの世界の全員に平等に与えられる試練だとしても、私は二人を贔屓したかった。

 二人以外との旅を、私はもはや想像できなかった。許容できなかった。

 半端に舞台に上がってしまった観客は、もはや客席に戻ることなどできやしない。

 

 それなら、と私はインベントリに手を入れた。

 引き抜いたのは、輝く装飾も厳かなガラス瓶。

 

 《万能薬》。

 

 MMORPG《エンズビル・オンライン》で、私が頼りにしていた回復アイテムを、二人に投与することを決めた。

 この世界からすればチートそのものでしかないアイテムの使用を、もはや私はためらわなかった。




用語解説

・暦(こよみ)
 妛原 暦。妛原閠の母。閠を出産後、産後の肥立ちが悪くそのまま亡くなってしまった。
 生まれつき病弱で、出産は命がけになると知っていた。

・干した人参(カロト)みたいなの
 高麗人参……と見せかけて、普通に干した人参(カロト)
 人参(カロト)は栄養が高いだけでなく、免疫力を高める効果があるとされ、薬用として干したものを常備しているものは多い。

・《万能薬》
 ゲーム内アイテム。
 病気や火傷、衰弱、麻痺など、ほとんどの身体系バッドステータスを回復させる効果がある。
 重量値がやや高く、値段も高いため低レベル帯では非常に貴重。
 しかし、複数種類の回復アイテムを常備しておくととてもかさばるので、これ一本に絞るプレイヤーは少なくない。
 『五百ページ目に記載された薬は万病を癒す』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 亡霊と病ならざる病

前回のあらすじ

早々に鬼札を切るウルウ。
ありとあらゆる万病を癒す《万能薬》がその真価を発揮する。


 結果から言えば、《万能薬》は、────効かなかった。

 

「《万能薬》ってのはなんにでも効くから《万能薬》じゃないのかよ……っ!」

 

 ガラス瓶を乱雑に放り投げて、私は悪態をつく。

 期待していただけに、その落差に心がささくれる。

 胡散臭く、決して信用できないあの邪神(プルプラ)が用意した小道具だ。妙な落とし穴があるかもしれないとは思いつつも、説明書き通りの効果は期待できるはずだと踏んでいたのに、これだ。

 

 いや、決して効果がなかったわけではない。

 確かに効いてはいたのだ。

 

 私は《万能薬》の効果を確かめるため、パーティメンバーとして登録している二人にだけ使えるステータス閲覧で状態を確認した。

 これによって私は二人の現在の状態を数字として見ることができる。

 

 この時点で見えたのは、二人の《HP(ヒットポイント)》と《SP(スキルポイント)》が少しずつではあるものの継続的に消耗していること、そして状態異常欄に《衰弱》の文字だ。

 二人に見られる継続的な消耗は、《衰弱》のバッドステータスと同様のものだ。つまりこの二つはつながっているとみていい。

 

 《衰弱》は《万能薬》で治せる身体的バッドステータスの範囲内だ。

 《エンズビル・オンライン》では軽微も軽微の症状で、普通であれば時間経過でも治ってしまうようなものでしかない。

 私自身、《衰弱》を防ぐ装備《やみくろ》でお手軽に対応しているくらいだ。

 でも、いまの二人は時間経過でも治らず、悪化しているように見える。まったく同じではないのだろう。油断はできない。

 

 ……そして実際、私の懸念通り、《万能薬》は十分に効果を発揮しなかった。

 投与直後は《衰弱》の二文字がきれいに消え去り、二人も少し楽になったように見えたのだが、ほっとしたのもつかの間、すこしの間に二人にはまた《衰弱》のバッドステータスが付与されてしまっていた。

 

「効いてはいる……確かに効いた。なのに、すぐに戻るんなら意味がない……」

 

 《万能薬》は上位プレイヤーなら常備している人権アイテムだ。

 でも値段は張るし、重量値も高いので、STR(ちからづよさ)が高くなければ数を持てない。

 私はSTRを全然伸ばしていなくて、高いLUC(うんのよさ)と即死攻撃頼りの運用をしていたから、この手の重いアイテムは少ししか持っていない。

 そもそもが、状態異常どころか普通の攻撃だって食らわないようにする装備構成と狩場選びだったのだ。当たれば死ぬ濡れた障子紙みたいなステ振りだったのだから、備えも最低限しかない。

 

 インベントリを確認しても、あと数本。

 今後補充されることがないことを思えば、ここで二本も切ってしまったことがすでに致命的なミス。

 確認のためだけにさらに消費することなど、できはしない。

 

 私は胸をかきむしりたくなるような焦燥をこらえて、努めて冷静にふるまう。

 

「大丈夫……少なくとも、《衰弱》であること、《衰弱》を消せることはわかった。時間稼ぎにはなる」

 

 《衰弱》のバッドステータスを解除する手段は多く、もっと安価で数もある《特濃人参ジュース》でも同様の効果は得られるうえ、こちらは《HP(ヒットポイント)》も回復する。

 《特濃ニンジンジュース》も数に限りはあるが、こちらは回復アイテムとしてそれなりに数を持ってはいる。フレーバーテキストも気に入ってたし。

 

 一本を半分に分けて二人にそれぞれ投与すると、《衰弱》はやはり一時的に解除され、そして《HP(ヒットポイント)》はしっかり回復した。回復した分、二人も少し楽そうになり、すこしの間起き上がり、会話することもできた。

 けれど、《衰弱》はやはりすぐに戻り、《HP(ヒットポイント)》の減少が再開する。

 なにより、《特濃人参ジュース》では《SP(スキルポイント)》は回復できない。他の回復アイテムが必要だが、難しい。

 

 《エンズビル・オンライン》では、《SP(スキルポイント)》が切れても《技能(スキル)》が使えないだけで、じっと待っていれば回復するものだった。

 しかしこの世界では、《SP(スキルポイント)》はなんというか、一種の生命力のようなものでもあるらしい。魔力、とか言うものか。使っても休めば回復するけど、時間がかかる。一度に大量に失えば、貧血やめまいといったような症状を引き起こす。極度に失われれば、意識を失ったり、魔力回復速度も低下する。

 それが理由で即座に死に至ることはない、とマテンステロさんに聞いたことがあるが、魔力が枯渇して、そのまま衰弱が死につながるという例はあるようで、油断はできない。

 

 リリオは竜胆(リンドウ)器官とかいったか、竜の心臓みたいなのを持っているらしくて、回復量が尋常じゃない。それでもこの《衰弱》のバッドステータスによって機能は低下しているらしくて、少しずつ減少している。

 そのような異能を持たないトルンペートの消耗はそれ以上で、身体的症状としても見て取れるほどだ。

 

 なのでリリオはまだしも、トルンペートには《SP(スキルポイント)》回復アイテムを使いたいけれど、これも数が乏しい。

 

 もともと私は《SP(スキルポイント)》の消費が最低限になるようにしていた。消費と回復がトントンになる状態で隠れて移動し、戦闘するときは極めて短時間。回復もアイテムではなく、隠れて時間経過で回復していた。

 重量値を圧迫するアイテムは抱え込めなかった。

 ぶっちゃけ《万能薬》より少ない。緊急時用の《SP(スキルポイント)》全回復アイテムを少し持っているだけだ。

 

 トルンペートのことを思えば今すぐにでも使ってあげたいけれど、結果として後で足りなくなってしまえば意味はない。

 たとえトルンペートがどれだけ苦しそうであろうとも、私はぎりぎりまで《SP(スキルポイント)》回復手段を温存しなければならない。

 命を助けるために、苦しませなければならない。……本当に助かるかも保証がないのに。

 

「殺すことならいくらでもできるのに……なんて、漫画でよくある悲しい悪役のセリフを吐くことになるなんてね」

 

 空元気も元気のうち、と馬鹿なことを言ってみたが、むなしくなる一方だ。

 私は馬車を進め、定期的に容態を確認しては、現状維持に努めた。幸い、数値の減少は遅々としたもので、今日は再度の投与は必要なさそうだ。

 二人の消耗具合と、減る一方の在庫数、そして冷徹な計算で投与回数を考える自分に、ますます私は焦れていく。

 

 医学書を読みふけって医療への道を進んだりしなくてよかった。

 私は医者にはなれそうにない。人の命というものを前にして、冷静ではいられない。

 いっそ半分は優しさの薬二錠でどんな病気でも治る世界ならよかったのに。

 

「……病気?」

 

 私は二人のステータスを確認する。

 そこには相も変わらず忌々しい《衰弱》の二文字。

 

「……《病気》が()()

 

 《エンズビル・オンライン》には多くのバッドステータスがあるが、《病気》もそのうちの一つだ。《衰弱》と同じく《HP(ヒットポイント)》と《SP(スキルポイント)》が減少していくほか、ランダムで画面の揺れや、《技能(スキル)》発動時の失敗判定、またパーティメンバーへの感染などがあった。

 時間経過で治ることもあるが長時間かかり、移動や戦闘をしている間は基本的に治らず、アイテムや宿屋で回復するものだった。

 

 この《病気》は長時間水に浸かっているとか、不衛生な環境にいるとか、一部の敵の攻撃に付随しているとか、《病気》持ちのプレイヤーと行動を共にするとか、そういうことが理由で付与されるバッドステータスだ。

 そりゃ《病気》になるだろうというもので、ゲームにもかかわらず予防が大事と標語みたいなことがよく言われたものだ。

 

 一方で、《衰弱》は単独で付与されることが少ない。

 敵が魔法などで直接付与してきたり、特殊な環境下で付与されることもあるが、基本的には《病気》などと一緒に発症し、デバフ効果を強める類のものだ。

 《エンズビル・オンライン》をプレイしていた時はあまり気にしていなかったけど、というか状態異常にならないようにとだけ気を付けていたけど、つまり《衰弱》っていうのは結果であって原因ではないのかもしれない。

 何かしらの要因で《衰弱》しているのであって、その《衰弱》を解除しても原因をどうにかしないかぎりはすぐに元に戻ってしまう、対症療法でしかないのかもしれない。

 以前ムジコの町で《衰弱》に陥ったのも、家の幽霊の奏でるオルゴールの影響下に入ってしまったことが原因であり、それを解決しなければならなかった。

 

 そう思いいたると、さらに不可解になってしまう。

 なぜ《病気》がないのか。《呪詛》でもない。他にバッドステータスの表記がない。

 ムジコの時のような特殊な環境もあるようには見えない。

 ただ減っていく。二人の命が減っていく。削れていく。失われていく。

 重症化もしないけど、よくもならない。ただただ少しずつ、失われていく。

 

「現地人特有の症状なのか……? いや、プルプラなら雑にでも対応させているはず……全く描写されないというのは、つまり《エンズビル・オンライン》の記述では描写されないなにか……」

 

 こういうとき、自分のプレイスタイルの雑さが悔やまれる。

 世界観や、裏に横たわるストーリー、イベントで描かれるドラマ、そういうものを眺めて楽しんでいた私は、一方でゲームシステムそのものに関してはあまり理解が及んでいない。

 攻略情報に関しても、自分のプレイスタイルに関するところをつまんで読んでいた。攻略wikiを全部読んで丸暗記していればこんな時困らなかっただろうに、私は必要ないからと省いてしまった。

 だってwiki全部読むとか、貴重な休日全部潰れるの目に見えてたから……!

 いくらなんでもその過ごし方は悲しすぎるだろ……!

 そういいながら結局ベッドから起き上がれずだらだらしてたけど……!

 

 昔の自分を殴りつけてやりたい。

 wiki全部暗記しろと叱りつけてやりたい。

 ゆるふわ系に見えるアニメは割と展開が重いのが多かったから気をつけろと説教してやりたい。

 

 私は焦燥のあまり支離滅裂な思考を転がしながら、その日をやり過ごした。

 地図の通りであれば、順調に進んでいる。はずだ。急ぎで進めているから、もう近い。はずだ。

 でも、まだかかる。かかるが、それでも、何とか明日には着く。はずだ。だろう。そうであってくれ。

 

 私は二人の容態を確認しながらまんじりともせず一晩を過ごした。

 翌朝、二人の呼吸は少し楽そうだった。症状に変化はないが、慣れてきたのかもしれない。それがいいことなのか、悪いことなのか、私には判断がつかない。

 《特濃人参ジュース》投与後に、少しほっとしたように笑ってくれたことだけが、私の救いであり、希望だった。

 

 私は早速馬車を進めようとして、立ちすくんだ。

 馬車の外では、火の消えた焚火跡のそばで、ボイが寝そべって動かなかった。

 ボイが、発症した。

 

 朝露をきらめかせる朝日が、ゆっくりと絶望を照らしていった。




用語解説

・《衰弱》
 ゲーム内バッドステータス。
 《病気》や《呪詛》、また特殊な環境や敵の攻撃下において発症する。
 《HP(ヒットポイント)》と《SP(スキルポイント)》が継続的に減少し、STRやVITなどのステータスが低下する。
 時間経過や回復アイテムで解除可能。

・《やみくろ》
 ゲーム内アイテム。死神(グリムリーパー)専用装備。フード付きのマント。
 ボスMob「グリムリーパー」が低確率でドロップする。
 このMobは即死攻撃以外ダメージを受けない上にHPゲージが三つある、つまり三回即死攻撃を成功させないといけないという特殊なつくりで、倒すのには苦労する。
 衰弱、汚泥、汚損、即死を無効化する。
 また死神(グリムリーパー)専用《技能(スキル)》を開放するのに必要な装備の一つ。
『闇とともにあれ』

・人権アイテム
 持っていて当然、持っていなければゲームを進めることもできない、つまりそれがなければ土俵に立つこともできない強力なアイテムを指す用語。

・《特濃人参ジュース》
 ゲーム内アイテム。
 同じくアイテム《特濃人参》を加工すると出来上がる。
 飲むと衰弱、毒などの状態異常を回復するうえに《HP(ヒットポイント)》も大きく回復する。
『このとろみはいったいどこから出てきたんだ……?』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 亡霊と静かな村

前回のあらすじ

絶望は続く。
この地獄の底はどこにあるのか。


 夕方ごろ、私は村にたどり着いた。

 もうだいぶ日は傾いて、夕方と言っても、すぐに夜になりそうなくらいだ。

 黄昏(たそがれ)時を通り過ぎて、だいぶ暗くなってきた時分(じぶん)ではある。

 

 私は疲れていた。

 疲れ果てていた。

 身体的疲労。精神的疲弊。

 その二つが互いに影響しあって、単独以上のしんどさを私の胃と肩に負わせていた。

 

 一瞬でもいいからどこかに腰を下ろして休みたい、そんな気持ちを押さえつけてここまで来た。

 いまも、安心してしまったためか、崩れ落ちるようにして座り込みたくなってしまった。

 でも、まだだ。

 まだ駄目だ。

 ここはまだスタートラインなんだ。

 なにも安心なんてできない。

 

 森を背にした、というか、半ばくらい森にうずもれるような村。

 畑を耕し、森で家畜を放牧し、木を伐り獣を狩り、そうして暮らすよくある村の一つ。

 

 遅い時間だからか、村は静かなものだった。

 灯りも見えない。

 油にせよ蝋燭(ろうそく)にせよ、明かりは貴重だから、このような山間の村では灯していなくても当然だろう。

 

 けれど、あまりにも静かだ。

 家はいくつも見えるから、山間とはいえそれなりの規模の村であろうに、炊事の煙も見えない。

 道行く人は一人もおらず、八本脚の犬も、普通の猫も、姿が見えない。

 鳥の鳴き声も獣の声だってしない。

 

 あまりにも静かすぎる。

 

「……そのくせ、虫は普通にいるのが腹立つなあ」

 

 肌にもそもそする感じがして、ぺしぺしと払う。

 それが実在の虫なのか、私の虫がいるかもという思い込みが生み出すイマジナリー・バグなのかはわからないが、とにかくもそもそして気持ちが悪い。

 汗だくだし、ドロドロだし、もうなんか一周まわってどうでもいいという虚無感さえある。

 でも虫はきもいので払う。

 

「ああ……疲れた。死ぬほど疲れた。疲れて死んだことはあるけど、もう二度とは御免だよ」

 

 独り言がボロボロこぼれる。

 朝からずっと話し相手もなく歩き続けてきたから、独り言でも言っていなければメンタルが持たなかった。メンタルが持たなかったから独り言をボロボロこぼしてるのかもしれないけど、まあどっちでもいい。私があんまりまともでないのはいつものことだ。

 

 あまりの人気のなさに軽く絶望しながらも、私はとりあえず一番大きな建物を目指した。

 そういう建物は基本的に村長の家とか、なんか重要施設であろうという経験則からだ。

 たとえ違ったとしても、まあ、大体村の中央とかにあるので、全体を俯瞰するにはちょうどいい。

 

 のそのそとそちらに向かうと、かすかではあるが灯りが見えた。

 光のちらつき具合から、蝋燭かな。もしくは簡素なオイルランプ。

 しっかりと照らすものというより、手燭(てしょく)とかのちょっと手元足元を照らす系のやつかな。

 

 とにかく、その灯りを目指して私はのそのそ歩く。

 駆け寄るだけの元気はもうなかった。それでも、灯台を目指す船のように、あるいは火に誘われる蛾のように、私はふらふらと進んだ。

 希望、というか。

 期待、というか。

 もうなんでもよかった。

 とにかくなんでもいいから、何か変化が欲しかった。

 前向きであればいい。でも後ろ向きでも、諦めはつくかも。

 

 たどり着いた建物のそばには、井戸があった。

 滑車に縄をかけて桶を下ろす、釣瓶井戸だ。ここらでは手押しポンプはまだ出回っていないらしい。

 灯りはその井戸のそばに置かれていて、まさしくいま、一人の娘が水を汲まんとしているところだった。 

 

「あのう、すみません」

「えっ」

 

 おもむろに声をかけると、娘は驚いたように振り向き、驚いたように私を見つめ、驚いたように口を開いて、そのまま驚いたように桶を井戸に落としてしまった。

 少し間をおいて、ばしゃんと水音。

 

 そのまま、すこしの沈黙が下りた。

 

 娘はぽかんとしたように私を見つめ、私はぬぼーっとした顔で見つめ返していた。

 いや別に私が変な顔をしていたわけではなく、表情を作る気力体力がもはやなかったのだ。

 ちゃんと聞こえるだけの声を張れただけでも褒めてほしい。

 

 などと誰にともなく言い訳してみたけど、その間も娘は私のほうを見つめて、ぽかんとしたままだった。情報の処理が追い付いていない顔をしていた。私もよくそうなるからわかる。私の場合憮然とした顔みたいになるから、不機嫌と思われることが多いけど。

 

 娘は、簡素な麻の旅装だった。薄汚れている、とまではいわないけど、旅慣れているという程度には見える。けれど胸元には、真鍮か何かで造られたアクセサリー……というか、紋章みたいなものを下げていて、これは神官の持つ聖印とかの類かもしれなかった。

 顔立ちは少し幼くも見えるが、それ以上に疲労が色濃く出ていて、やつれているといってもいい。

 

 旅の神官、かな。と私は脳内で聖印リストを参照する。

 前にヴォーストの神殿街に行ったとき、主要な神殿のしるしは覚えておいたのだ。

 それからすると、地球で医療の象徴とされていたアスクレピオスの杖よろしく、杖に絡みつく蛇のしるしは、医の神の神殿のものだった。

 

 つまり、医療従事者だ。医者を探して早々に発見できたのだから、これは僥倖だ。

 しかしその頼みの綱は茫然としたままで、なかなか再起動しない。

 私の頭から足元まで眺めながら、頭の上には「?????」と疑問符がいっぱいみたいだ。

 

 いやまあ、私、端的に言って怪しいしな。

 黒づくめだし、この世界的には身長高すぎるし、亡霊に間違われるくらいだし。

 

 私は努めて優しそうな声を意識して、できるだけ丁寧にほほ笑みかけた。

 

「私は怪しいものではありません」

「ひえっ」

「連れが体調を崩してしまって、休ませてあげたいんです。お医者様がいれば、できれば診察もお願いしたいんです」

「……………」

「……あの?」

「……馬……」

「馬? いえ、私は馬じゃないですけど」

「え、あの、いえ、馬はどうしたんですか?」

「ああ、はい。馬も倒れてしまって、馬車で寝かせてます」

「…………はあ?」

 

 なるほど、馬が見えないから不審そうだったのか。

 私は納得して、後ろの幌馬車を指し示した。

 中ではリリオとトルンペート、そして詰め込むようにボイが横になっている。

 

 いやあ、ボイが倒れてしまったから、もうどうしようもなくなって、仕方なくここまで馬車を曳いてきたんだよね。私が。まさしく馬車馬のごとく働かされてしまったよねハハハ。

 LUC極振りでSTR全然振ってない《暗殺者(アサシン)》系統とはいえ、これでも最大レベル。どころかこっちの世界に来てから上限超えて成長したみたいで、レベル一〇八になってた私だ。滅茶苦茶無理すればやれないことはなかった。

 とはいえ、素のSTR値では無理だったので、色々工夫はした。《技能(スキル)》とかね。

 

 まず、馬車がクソ重すぎたので、どうにかなんねーかなと思い、いったんインベントリに入れてみたりした。

 入りはしたけど、さすがにリリオたちをインベントリ収納は怖すぎる。一応生きてる獲物を入れたこともあるけど、知的生命体の知性にどう影響があるかわからないので怖すぎてやめておいた。

 とはいえ、二人とボイを私一人で担ぐのはSTRはともかく体格的に無理だし、できてもみんなにかなり負担をかけてしまう。

 でも馬車をいったんインベントリにいれたおかげか、私の所有物、装備品として認識できたみたいで、つまり《技能(スキル)》の範囲内に入れられたんだよね。

 

 それで、馬具を体に結び付けて、これは装備これは装備って念じながら、《薄氷(うすらひ)渡り》を使う。これは「一時的に体重をなくす」ことができるとされ、重量値の限界が緩和される《技能(スキル)》だ。これで馬車を何とか引っ張ることができるようになった。

 それでも私の足では小さすぎて摩擦が足りず、思うように引けず、そこで《壁虎歩き(ゲッコークライム)》の出番。これは本来、壁とかにはりついて歩けるようになる《技能(スキル)》なんだけど、地面に対して使えば足が滑ることもなく、がっちり張り付いて純粋に力技で馬車を曳けるという寸法だ。

 そのほか、脱輪した時は《影分身(シャドウ・アルター)》で増えて無理矢理引っ張り出したり、《技能(スキル)》大活躍だったね……。

 

 その他、装備構成も滅茶苦茶頭使って、アイテムも使えるものは使って、移動速度重視でここまで来たっていう寸法だ。

 いやあ、死ぬほど疲れた。

 《SP(スキルポイント)》が赤ゲージまで減るとか、マテンステロさんにしごかれて以来だわ。

 あれのおかげで最大《SP(スキルポイント)》が成長した感じはあるけど、本当に疲れるのでしばらくやりたくない。

 

「そんなわけで、どこか休ませる場所だけでも貸していただければ……」

「……そ」

「……そ?」

「────そ、そんちょー!!」

 

 悲鳴に似た声が、夜のしじまに響くのだった。




用語解説

・医の神
 オフィウコ(Ofiuko)。
 死者をよみがえらせたなどの逸話も残る人神。
 蛇の毒より薬(血清)を作り出したことで神々に召し上げられたという。
 信仰するものに医療、薬草、また毒などの知識を与え、癒しの加護をもたらすという。
 聖印は杖に絡みつく蛇。

・《薄氷(うすらひ)渡り》
 ゲーム内《技能(スキル)》。《暗殺者(アサシン)》系統がおぼえる。
 設定では「一時的に体重をなくす」ことができるとされ、水上を歩行可能にするだけでなく、使用中所持重量限界を緩和できる。
 また足音が消え、一部の敵Mobから発見されなくなるまたは発見されにくくなる効果がある。
『生きるということは、薄氷を踏んで歩くが如く』

・《壁虎歩き(ゲッコークライム)
 ゲーム内スキル。《暗殺者(アサシン)》が覚える移動スキルの一種。
 設定では壁などに張り付いて歩くことができる、とされ、壁面や断崖など、通常は歩行不可能な地形を踏破可能になる《技能(スキル)》。
 一部の隠しエリアに侵入できるほか、広大なマップのショートカットなどに有用。
 銅像などのオブジェクトの上にも移動できるので、自撮りスクリーンショットなどでも活躍。
 また、一部のボスはこの《技能(スキル)》を使うことで移動可能なオブジェクトの上から、反撃を受けずに一方的にタコ殴りできるという裏技があった。
 長年修正されていないので、仕様なのではないかという声と、チゲ鍋で忙しいからという声がある。
『皇城の衛兵が、不埒な侵入者を相手にすることは稀だ。その前に飢えた「壁」の餌食になるからだ』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 亡霊と病んだ村

前回のあらすじ

ようやく人里にたどり着いた閠。
第一村人とのファーストコンタクトは失敗に見えるが。


 正直すまんかった。

 

 あの後、やはり村長宅であったという大きな建物に通してもらい、二人と一頭を休ませてもらった私は、座り込んだままそのまま少し寝入ってしまったらしかった。

 それで、肩をゆすぶられて起きたのだけれど、目覚めた時には結構頭がすっきりしていて、自分の異常さが思い出されてしまった。

 

 いやあ、うん。

 そりゃ驚くし、怖くもなるよね。

 

 異様な長身の黒づくめの陰気な女が、黄昏時に馬車引きずってやってきて声かけてくるとか、いろいろしっちゃかめっちゃかな怪談だよもう。

 しかもその女、疲れ果ててる上に、仲間が心配すぎてメンタル病み病みで、でも疲労が突き抜けてテンション壊れてたからガンギマリの目つきしてて……そりゃ夜道で遭遇したら悲鳴上げるわ。

 

 私はあの娘に起こされてすぐに、小ぢんまりとした食卓に案内された。

 別に食事をふるまってくれるというわけではなく、台所と食卓だけがかろうじて使用できる環境だったからだ。

 というかここが埋まったらいよいよなにもできなくなるってことらしい。

 

 四人掛けのテーブルに、私が座り、その横に例の娘が座り、そしてむかいに二人の男女が座った。

 

「すみません、ご挨拶もせずに寝入ってしまって……私はウルウ。旅の冒険屋です」

「いやいや、なんでも一人で馬車を曳いてきたとか……どれだけ恩恵が強くとも、それは疲れただろう」

「ましてこの病の森に踏み入られたのだ。よくご無事でしたのう」

 

 優しく微笑んだのは若々しく健康的な体つきをした、しかし疲れが表情に刻まれた土蜘蛛(ロンガクルルロ)の女性だった。

 彼女は風呂の神官エヴィアーノと名乗った。この村に常駐する唯一の神官だという。

 私をねぎらい案じてくれた老紳士は村の村長コールポであるという。結構な年に見えるが服の上からでもパツパツと張り上がった筋肉がうかがえる老マッチョで、しかしやはり顔は疲れていた。

 

「ウルウさんは大丈夫なようでしたが、お二人と馬はやはり罹患(りかん)しているようで……何もできず、申し訳ないです」

「いやいや、クヴェルコはよくやってくれているよ」

「まったくじゃ。あんたがおらなんだら、被害は目も当てられんことになっておったろう」

 

 娘はクヴェルコといった。

 やや頼りなさが感じられたが、それもそのはずというか、彼女は医の神官とは言っても見習いで、旅をしながらの実地研修中にこの災禍に見舞われてしまったのだという。

 私の異様を目撃してしまったことと言い、なんというか運が悪い子だ。SAN値の減少がおもんぱかられる。

 

「フムン……私は助けを求めてきたんですが……それどころではなさそうですね」

「うむ……申し訳ないが、この村もあんたのお連れさんと同じように、みな倒れてしまっておってな」

「とはいえ、何もなしでさまよっているよりはよかったでしょう」

「なんとか治す手段があればいいんですけれど……」

 

 私はそっと振り向いて、村長宅の様子をうかがった。

 この家は、はっきり言って()()()()

 異様にこもったように感じられるのは、多数の人間がひしめく人いきれ。

 その中に漂うように、なにかをいぶしたようなにおいがする。

 それに、わずかにだが、血の匂いと、腐ったような匂いが、どこかからか流れてきているような気がした。

 

 耳をすませばかすかにうめくような声が響き、一つ一つは小さなそれらが、無数に合わさって波のうねりのように不安な音を響かせていた。

 その中には、リリオとトルンペート、ボイのものも含まれていることだろう。

 彼女たちが黒々とした波にのまれて引き込まれてしまう姿を幻視して、私は頭を軽く振るった。

 

「他の部屋はすべて、ということですか」

「左様……村の者共はみな倒れ、どうにかしてこの屋敷に運び込みはしたが、寝かせる場所ももうないでな。床はすべて埋まり、廊下に並べて、それでどうにか……」

「お連れにはすまないが、他に(すべ)もないんだ」

「いえ、屋根をお貸しいただいただけで、十分です」

 

 聞けば、村人たちもみなリリオたちと同じような症状なのだという。

 この村長宅でも足りず、近くのいくつかの家に、みな同じようにひしめき合って寝かせられている。

 村の人口は三百と少しで、運悪く立ち寄ってしまった旅人や、家畜たちもみな倒れてしまったという。

 いまはここにいる三人のほか、症状の軽いものが何とか面倒を見ているとのことだったが、それも長続きはしないだろう。

 

 患者たちは食事をとる気力もなく、日々体力は失われる一方だが、エヴィアーノが毎日井戸水に法力を込め、癒しの温泉水にして与えていることで、何とか命をつないでいるという。

 見習いとはいえ医の神の神官であるクヴェルコも、床ずれを癒したり、体を拭いたりして、合併症などが起こらないように気を配っているらしい。

 また、かろうじて近場で採れる薬草などをもとに、薬も作っているという。

 

「私やクヴェルコは、加護のおかげだろう、いまのところはなんとか」

「わしも鍛え上げた筋肉がなければ危ういところだったじゃろう……」

「あの、村長さんは気合と責任感で耐えてらっしゃるので、参考にしないでください」

 

 村長の命を削るサイドチェストに、クヴェルコさんがそっと訂正を入れる。

 うん、まあ、もともとの体力の差が出てるんだろうなってのはわかる。

 いやでもそれならリリオはどうなんだって話ではある。見た目はともかく、実質的な頑健さはリリオのほうが上だと思うんだけど。

 あるいは年齢だろうか。高齢のために、かえって症状が出づらいとか。

 そうでなければ筋肉の神の加護とかがありそうで怖い。

 この世界ホントなんでもありというか、知らない神が多い。 

 

「それにしても、なんなんですかこれは。病気、なんですか?」

「ええ、病気、と言えば病気でしょう。少し前から急に広まったらしいんです」

「ああ、最初は秋頃だった。少し疲れやすいものが出て、冬には収まったんで、軽い風邪程度にとらえていた」

「それが、春先からまた急に増え始めてのう。最初は疲れが出る程度だったのが、どんどん悪化して、動けなくなるものが出始めた」

「そして後からかかったものは、急激に容態を悪化させるようになったんだ。昨日まで元気だったものが、朝には動けなくなるような、ね」

「私が来た時には、家畜も倒れ始めてて……診察してもなかなか原因がわからなかったんです。ただ疲れて、動けなくなって……採血しても、特に異常はないんです」

「フムン……助けは呼ばなかったんですか? 医者とか、他の神官とか」

「呼んだとも。ああ、呼んだともさ」

 

 村長は深いため息をついた。

 うつむきがちのサイドトライセップス。はち切れそうな上腕三頭筋が奏でる悲し気に震えるセレナーデ。

 

「わしの息子を、隣村に走らせた。しかし帰ってこん。領主に疫病の流行を伝えねばならんが、もう走れるものがおらんのじゃ」

「この病は、逃げることを許してくれないんだ……」

 

 一人息子を命がけの連絡役として走らせたのだ。そしてその息子はいまだに帰ってこず、救援の手もやってこない。苦悩の中で、眠れない夜もあったことだろう。

 村長は頭を抱えるようにダブルバイセップス・フロントを見せつけた。

 彼の両肩には馬車より重い心労が乗っかっているに違いない。

 

「……村長さんはポージングしないと喋れないの?」

「あれで気合を入れなおしてるらしくてな……」

「不思議なんですけど、実際あれで進行が抑えられてまして……」

「幼いころから厳しく鍛えた自慢の息子……あやつも無事であると信じたいが……」

 

 ゆっくりと立ち上がって、悲し気に背を向ける村長。

 その背中が黙って語るラットスプレッド・バック。シャツの上からでも見て取れるソレはいままさにはばたかんと力を貯める筋肉の翼だ。

 

「……やっぱり筋肉の神っているの?」

「ええと……いるかもしれません……」

「いままさに生まれてる神とかもいるらしいからねえ……」

 

 なんかさっきから思考に妙なノイズが走っているというか、筋肉ワッショイなワードが走ってくるから、いまいち深刻になり切れないんだよなあ……。




用語解説

・エヴィアーノ(Eviano)
 風呂の神官。土蜘蛛(ロンガクルルロ)の氏族地潜(テララネオ)の女性。
 まだ若いものの、村専属の神官として赴任しており、この村の病の広がりに対しても彼女の風呂がかなりの抑制になっていたとみられる。

・コールポ(korpo)
 山間の村の村長。人族男性。
 たいていのことは筋肉を鍛えれば何とかなるという信念のもと、若いころから村を率いてきた。
 筋肉だけでは解決できない病の流行に、やや気落ちしている。

・クヴェルコ(Kverko)
 医の神の神官(見習い)。人族女性。
 実地研修として旅をしながら医術の腕を磨いている途中だったが、ちょうど病が流行しつつある村にピンポイントでやってきてしまった不運な女性。

・サイドチェスト
 ポージングの一つ。
 サイド(横)から見たチェスト(胸)の厚みを強調するポーズ。
 体の厚み、腕や足の太さを魅せつける。

・サイドトライセップス
 サイド(横)からトライセップス(上腕三頭筋)を強調するポーズ。
 上腕三頭筋の大きさや形の良さを魅せつける。

・ダブルバイセップス・フロント
 両腕(ダブル)のバイセップス(上腕二頭筋)をフロント(前面)から強調するポーズ。
 上腕二頭筋だけでなく、前面から見えるすべての筋肉、逆三角形のシルエットを魅せつける。

・ラットスプレッド・バック
 ラット(背中の筋肉)のスプレッド(広がり)をバック(背面)で強調するポーズ。
 迫力満点の背中の広がりと美しいシルエットを魅せつける。

・筋肉の神
 マ神(マッスルの神様)の存在はいまのところ公的には確認されていない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 亡霊と病の虫

前回のあらすじ

マ 神 降 臨 (しません)


「フムン……それで、治療法はまだないんですね」

「ううん……あると言いますか、あるけど難しいと言いますか」

「必要なものがあるなら言ってほしい。私がなんとか用意する」

「いえ、それがですね……」

 

 医の神官見習いクヴェルコさんは、困ったように少しの間悩んで、それから何か小さな箱を取り出した。

 その中にはこれまた小さな紙片が入っていて、真ん中に何か小さなものがついていた。

 

「これは……うえ。虫?」

「はい。ダニの一種だと思います。仮に紅真蜱(ルジャ・イクソード)と呼んでいます」

 

 それはダニの標本だった。

 何かしら粘着性の接着剤で、紙片に張り付けてあるらしい。

 名前の通り真っ赤なダニで、色は派手だけどサイズは小さいので、気を付けて見なければ見失ってしまいそうだ。

 

「しばらくこの村で診察しているうちに発見したんです。医の神の神殿では病原生物の図鑑もそろっているんですけど、このダニは載っていません。新種のダニです」

「フムン。このダニが病気を持ってきたってこと?」

「いえ。ダニが媒介する危険な病気は数多く報告されていますけど、これは別のようです。実際、採血しても、他の検査でも、特別な細菌などは見つかりませんでした」

 

 顕微鏡でもあるのか、あるいは医の神の加護にそういうのがあるのか、医の神官にはそういうのを見抜く技能があるみたいだった。

 そして細菌なんかも知識として存在してるんだね。ウイルスについても知っているんだろうか。この世界の医療関係の発展具合はよくわからない。

 今後はもう少しそっちにもアンテナ張っておくべきかなあ。

 医療関係だけでなく、結構いろんなところで不自然に発達した知識体系とかあるから、安易に中世っぽいファンタジー世界と考えておくとすれ違いが大きいんだよね。

 

 さて、それはともかくとして、このダニは媒介者ではない、とのことだった。

 つまりダニが刺すと同時に、ダニの持っている病原体が身体に入って悪さをするという、そういう病気ではないということだね。

 私としてはダニが原因って言われたらすぐにそうかと思っちゃったけど。

 

「このダニは、魔獣、なんだと思います。とても危険なダニです」

「魔獣? こんなに小さいのに?」

「実際魔蟲とされるものは少なくありません。このダニは大きな魔術を使うわけではありませんが、非常に厄介な性質を持っているみたいなんです」

 

 クヴェルコさんは、寝かせておいたリリオの服を、一言断ってからめくった。

 真っ白な肌はいま発熱のせいか火照って赤らんでおり……その中でも目立つ赤い発疹が見られた。

 そしてそこには、いままさに血を吸っているらしい紅真蜱(ルジャ・イクソード)がいた。

 

「こいつが……!」

「払っても無駄です。紅真蜱(ルジャ・イクソード)は何匹も取り付いて、血液と同時に魔力を吸い上げるんです」

「そうか、それで……」

「流行初期は数が少なかったんでしょう。病状の進行も穏やかでした。でも数が増えると、一度にたくさんがとりついて、一気に魔力を吸い上げることで、すぐに衰弱させてしまったんだと思います」

「全然気が付かなかった……」

「肌に残る発疹も、ありふれたものです。特別な跡を残すわけではありませんから、わかりづらいんです。すぐに消えてしまいますし。それで、獲物が弱ったら、次々に他の個体がとりついて、血と魔力を吸っていくんです」

「えげつないな……」

 

 クヴェルコさんは丁寧にリリオの着衣を直して、疲れたようにため息をついた。

 

「いまどれだけ増えているのかはわかりませんが、リリオさんたちがすぐに倒れてしまったということは、救助の人が来ても、村まではたどり着けないかもしれません……」

「なんてことだ……でも、ダニなんでしょ? 殺虫剤とか、そういうのは効かないの?」

「ええ、私たちもそう思いました。ダニが原因であるとわかって、すぐに対処したんです。これでなんとかなるって」

 

 しかし、ならなかったのだろう。

 悲痛な表情で、クヴェルコさんは続けた。

 

「村中を虫除けの香で燻して、肌に塗り薬も塗りました。エヴィアーノさんの手を借りて、祝福された温泉水で洗い流しもしました。夜着や寝具も全て、です」

「じゃあ、この匂いは」

「ええ、その時の名残です。でも、効かないんです。効かなかったんです。こうして捕まえて、直接煙を浴びせて見ても、殺虫剤に浸してみても、死なないんです。薬剤耐性がついているんです。やっと殺せた理由が薬の効果じゃなくて窒息死ですよ。変な笑いが出ちゃいました」

「……スーパーダニってわけだ」

 

 薬剤耐性……殺虫剤なんかの効果に対して、耐える力を持ってしまったってことだね。

 殺虫剤界隈はこうした薬剤耐性とのいたちごっこで、近年では薬剤じゃなくて凍らせることで仕留めたりするタイプも開発されてるくらいだ。

 

 これがネズミとかなら、罠にかけたり、駆除したり、そういうことで数は減らせる。頭のいい個体が逃げ切って生き延びてしまうかもしれないけど、大きさという制限があるから、侵入を制限することはできなくはない。

 これもいたちごっこだけどね。

 

 でもダニとなると、侵入を完全には防げない。こんなに小さな生き物だ。蚊帳を張ろうと、小さな隙間があればそれで十分だ。

 だから、この村の人たちは、ダニが原因であるとわかっても、それを防ぐことができなかったんだ。

 

 でも、変な話だ。

 前からいたダニが、薬の使い過ぎで薬剤耐性を身に着けたっていうならわかる。

 でも紅真蜱(ルジャ・イクソード)は新種のダニだ。いままでこの辺りにはいなくて、急に発生した不自然な生き物だ。

 あるいはよそからやってきて爆発的に繁殖してしまったのか。

 それに対して、対症療法であれ処方し続けてきたのだから、責めるのは酷だろう。

 

「早いうちであれば、村長さんの息子さんのように、他所の村に連絡に走ることもできたんです。でも今では、みんなそんな体力もありません。馬だってやられているから、とても」

 

 でも、まだ生きている。

 生きているから、つらい。

 クヴェルコさんは悔しそうに言った。

 

「このダニは、あまりにもむごいんです。紅真蜱(ルジャ・イクソード)の一番厄介なことは、殺さないことなんです」

「殺さない、こと?」

「もし紅真蜱(ルジャ・イクソード)が一度に大量に取りついたら、計算上では人を殺すことだってできるんです。でも、やつらはしないんです。常に衰弱させて、安全な状況で、長く、長く、血と魔力をむさぼって殖え続けるんです。お年寄りも、子どもも、だからまだ死んでいないんです。体が弱いはずの人たちさえ、ずっと苦しみながら、でもまだ生きているんです」

 

 死んでしまうなら、見限ることもできる。

 どうしようもないのだと諦めて、自分だけでもと逃げることができる。

 でも、死なないのだ。生きているのだ。苦しんでいるのだ。助けを求めているのだ。あまつさえお前だけでも逃げろと言ってくれるのだ。

 それを、どうして放っていけるだろうか。

 

 まだ死んでない。どうにかできるかもしれない。治せるかもしれない。

 そんな思いを抱かせてしまう。離れられなくしてしまう。それはあまりにもむごい話だった。

 

 そして、そんな思いを振り切って走り出した人たちさえ、おそらくは道半ばで力尽きて倒れてしまうのだ。それではあまりにも、救いがない。

 

「……そういえば、ウルウさんはなんで大丈夫なんでしょうか?」

「うん? うーん、なんでだろう」

 

 いぶかし気に言われてみても、思い当たることはなかった。

 確かに私は《やみくろ》という装備をしている。いつも着てるフード付きの黒いマントみたいなのだ。

 これは《衰弱》他いくつかの状態異常を防ぐ効果はあるけど、ダニを防ぐ効果はない。

 リリオたちが《衰弱》だけで《病気》とかが出なかったのも、これが紅真蜱(ルジャ・イクソード)によるドレイン攻撃であって状態異常ではなかったからだ。多分。

 であれば、私もやられてもおかしくはないんだけど……。

 

 またもそもそして払ってると、クヴェルコさんが「それ」と急に言う。

 

「え?」

「いま払いましたよね」

「うん? うん、なんかきもいから……」

「それ紅真蜱(ルジャ・イクソード)です……」

「えっ」

 

 なんかもそもそしてきもいあたりを見てみると、なるほど確かになんか虫がいる。気持ち悪くてすぐ払ってしまった。

 えっ、きもっ。

 もしかしていままでもこれずっとこのきもいダニが這いまわってたのか。

 気づくと途端に気持ち悪くなって、ばさばさとマントを振り払ってしまった。

 なんかちっちゃい赤いのがパラパラ落ちた。きもっ。え。きもっ。反射的に踏みつぶしたら普通に死んだっぽい。

 地味に微妙に経験値入ったっぽい感覚があった。小数点以下の。

 

「……………」

「…………えーっと」

「ああ。うん……きもい、から、かなあ……私、敏感肌だから……」

「敏感肌……」

 

 まあ、もう少し突っ込んで考えてみると、いくら小さいダニとはいっても、一応これドレイン攻撃だから、回避判定が発動しているのかもしれなかった。

 そういえば私この世界であんまり虫に刺されたことないし。

 いくら囲まれようが、ダニ程度の攻撃なら普通に回避できるってことなんだろうなあ。

 なんか森に入ってからいつも以上に肌がそわそわして払ってばっかりいたけど、そういうことだったんだね。

 

 まあ、そういうゲームシステム的な都合を知らないクヴェルコさんとしては、村を壊滅に追い込んだ凶悪生物がきもいからの一言で無力化されているのを知って、かなりショックだったんだろう。

 虚無としか言えない表情で「敏感肌……」と繰り返すクヴェルコさんには悪かったけど、いやでも、これは私にはどうしようもないんだよなあ。

 運がよかったってことで何とか収めてほしい。




用語解説

紅真蜱(ルジャ・イクソード)(ruĝa iksodo)
 新種のダニの一種。魔獣ではないかと推測されている。
 動物に取り付いて血を吸うと同時に魔力を吸い上げており、体力を大幅に削ってくる。
 弱ったところに他の個体が連鎖してとりついていくことで継続的に衰弱させるだけでなく、一定数以上が同じ個体に取り付くことがなく、殺し切らない程度にとどめて獲物の生存時間を伸ばして吸血を続けるという奇妙な習性がある。
 生殖器が存在せず、排泄器官もなく、そもそも消化器官も退化しており、血を吸った後は栄養を摂取できるわけでもなく、放置すればそのまま死ぬ。
 不明点が多く、自然の生物であるかさえ疑問視されている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 亡霊と病の出処

前回のあらすじ

村を壊滅に追い込んだ悪魔。
その正体に対して一言。
「えっきもい」


「《生体感知(バイタル・センサー)》」

「ふえ?」

「あーあーあー……こうして可視化しちゃうと鳥肌立つくらいきもいなあ」

 

 よくわかっていないらしいクヴェルコさんの横で、私は《技能(スキル)》を通して村を見渡した。

 《生体感知(バイタル・センサー)》は、ざっくりいえば生物を見抜く《技能(スキル)》だ。隠れていても、障害物があっても、この《技能(スキル)》を使えば光の点のような形で生命が見えるようになる。

 普通は物陰の多いところとか、隠れるのが得意な敵を探すために使うけど、こういう小さい生き物を発見するのにも便利ってわけだ。

 

 いやまあ、いままで気づいていなかっただけで、無数の光点が村中を埋め尽くしているのを見ると、ちょっとぞっとしないが。

 なんだっけなあ。菌がデフォルメされた姿で見える主人公が出てくる漫画あったなあ。あれはまだかわいげがあったけど、こっちはひたすらにきもい。光るだけで、虫は虫だもんなあ。しかも有害なやつ。

 

 夜闇の中に無数の輝きが散らばっているのは、ある種星空のように見えなくもないけど、でもこれは全部ダニなのだ。地の光はすべて敵だな。

 

 私は試しにリリオの肌に張り付いた紅真蜱(ルジャ・イクソード)を観察してみた。

 小さな光がリリオの肌の上でしばらくじっとしていると、その光は微妙に膨らんでいく。多分これが、血と魔力を吸っているっていうことなんだろう。リリオ自身の発する光は、味方っていうことなんだろう青い光で、紅真蜱(ルジャ・イクソード)らしい光は敵Mobとして赤い光なので、十分見分けがつく。

 

 しばらくの間そのまま待ってみると、赤い光がぴょんと跳ねてリリオから離れた。

 十分に血を吸ったってことなんだろう。光も強く、その向こうに見える身体も太って見える。

 ぴょんこぴょんこと素早く跳ねる姿を、《暗殺者(アサシン)》の動体視力で追いかけてみれば、外へ向かっている。

 

 追いかけて外に出れば、隠れるでもなく紅真蜱(ルジャ・イクソード)は一直線に跳んでいく。どこに行くものかとゆっくり後を追ってみると、不思議なことに合流する別の紅真蜱(ルジャ・イクソード)があった。

 赤い点が一つまた一つと増えていく。

 そうして追いかけていく光点が、また別の光点の群れに合流していく。

 

 単に紅真蜱(ルジャ・イクソード)同士が群れているというわけではなく、これは同じ方向に向かううちに合流したという感じに見えた。

 

「うーん、こいつらに社会性があるようには見えないけど……」

 

 うん。

 立ち止まって光点を眼だけで追いかけてみると、村から出てきた紅真蜱(ルジャ・イクソード)はみんな、同じ方向を目指しているようだった。

 そして反対に、すこし小さな、つまり血を吸っていないんだろう光点が、反対方向から村にやってくる。

 

「……これは、森に向かっていって、それで森からやってきてる、ってことかな」

「森に……そういえば、最初期に被害があった人は、みんな森に入る人だったそうです」

「フムン。森で発生したのが、村で餌を大量に見つけて大繁殖、かな」

 

 しばらく観察してみたけど、紅真蜱(ルジャ・イクソード)は森からやってきて、そして森へ帰ってくる流れができあがっていた。

 村に入ってから獲物を探すように動き回ることはあるけど、行って帰っての流れは変わらない。

 村の中では吸血だけして、他には何もしない。

 

「ダニの生体は詳しくないんだけど……決まった産卵場所とかあるのかな」

「私も詳しくはないんですが……紅真蜱(ルジャ・イクソード)には生殖器なんかが見つからないんです。もしかしたら女王蜂みたいに女王ダニがいて、森の中で産卵してるのかもしれません」

「フムン。ずいぶん妙なダニだけど……そうなると、その産卵場所が好適過ぎて、大繁殖したのかな。逆に言えばそこを壊しちゃえばこれ以上増えない、とは期待したいけど」

 

 とはいえ、森の中に連中のなにかがあるのは確かっぽいので、ここをカットするだけで村への被害は減る、と思う。多分。

 わかんないけど、でも他に何も手掛かりがない以上、森を探ってみるのはありだろう。

 

「ううん……でも、森はとても危険ですよ」

「村の中がすでに危険だからなあ……」

「そうなんですけど、そうじゃなくて、最近は森の様子も変なんです」

「フムン?」

 

 聞けば、すこし前から森の獣や鳥たちが姿を見せなくなったという。そういえば、鳴き声も全然しなかった。

 まあ、十中八九紅真蜱(ルジャ・イクソード)の仕業だろう。人間を襲うダニが、他の動物を襲わないってこともないだろうし。

 村を全滅させる規模のダニの群れだ。森の中で暮らしていた野生動物たちに深刻な被害を与えていてもおかしくはない。あるいは野生動物を狩りつくしたから人里に出てきたか。

 

「それに、森の動物が減ったせいか、厄介な虫が増えてきちゃってるんです」

「厄介な虫って、紅真蜱(ルジャ・イクソード)以外に?」

「ええ……ちょっと見てもらえますか?」

 

 クヴェルコさんに連れられて行ったのは、牧舎だった。家畜を住まわせてる小屋だね。

 この牧舎では豚とかを飼っていたらしい。

 

「豚たちも紅真蜱(ルジャ・イクソード)にやられてしまって、でもその頃には村の方たちも倒れてしまったから、処分もできなかったんですけど……」

 

 ぷん、と鼻につく血の匂いと腐敗臭。

 なるほど。弱った家畜を助けることもできず、そのまま衰弱死。でも死体も処分できず、腐るままになっていたってことなんだろうけど……。

 

 そこに、ぶん、と耳につく羽音。

 ぶん、ぶぶん、ぶううん、ぶん、ぶん。

 

 《生体感知(バイタル・センサー)》に、ダニじゃない光点が見える。もっと大きい、そして素早い、赤い光点。

 それは牧舎のそばに転がっている、もはやなにものともわからなくなった肉塊に飛びついて、肉をむしっていった。

 そんなのが何匹も何匹も、ひっきりなしに死体に取り付いて肉をはいでいく。

 

「……あれって、蜂? でもすごく大きい……」

灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)です。とても凶暴なスズメバチの仲間で、ああして死体の肉をむしるだけじゃなくて、迂闊に近づくと人間にも攻撃してきます」

 

 スズメバチ、と言えば、確かに。

 背中は灰色がかっているけど、お腹は黄色と黒の縞模様がいかにも警告色って感じに派手だ。

 しかし、それにしても。

 

「でっか……でかすぎない?」

「帝国最大のスズメバチですから……医の神の神殿にも、毎年被害報告が来るんです」

 

 確か最大のスズメバチであるオオスズメバチで四センチとかだった。

 でもこの灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)は、タカとは言わないまでも本当に雀かそれより大きいくらいの体長はある。十五センチはあるんじゃないか。なんでそのサイズで飛んでるんだ。航空力学仕事しろ。

 おまけに尾にある針は、いや針っていうかもはやナイフみたいのがついてて、それで肉をザクザク切ってる。顎もデカくて肉をぶちぶちむしる音が聞こえてきそう。

 

「厄介だな……しかもあれが、森で殖えてるって?」

「はい、多分森の中の獣が紅真蜱(ルジャ・イクソード)にやられて、その死骸を餌にして殖えてしまったんだと……」

「うわあ……生態系が滅茶苦茶じゃないか」

 

 紅真蜱(ルジャ・イクソード)が大繁殖して、その紅真蜱(ルジャ・イクソード)が衰弱させた動物が餓死するか、それより先に灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)に殺されて餌にされ、そうして殖えた灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)が人里に出てきて餌場を開拓して、普通なら人間が駆除するけどその人間も軒並みダウンしてるので、家の中に隠れていても遠からず人間を餌にし始めて……ひどい結末しか見えない。

 

「うーん……一応《魔除けのポプリ》を村長宅に設置するとしても……すでに入ってるやつには効かないし、そこまで広範囲カバーできるかわかんないし……」

「とにかく、森は危険なんですよ……!」

「危険だから、早くなんとかしないとね」

「一人じゃ危ないですって!」

「いや、独りだからちょうどいいよ」

 

 クヴェルコさんは心配して必死に引き留めてくれる。いい人だなあ。

 私が医者だったら絶対もう逃げだしてるし、この人はいい人なんだろう。

 でも、本当に、独りだからちょうどいいんだよね。

 言い方が悪いけど、そう。

 

「待ってください……」

「……リリオ。ダメだよ、安静にしてないと」

「リリオさん!? ど、どこにそんな体力が……!」

「気合です!」

「筋肉の神の信者がまた!?」

 

 いやまあ、リリオは村長さんの同類じゃないと思うし、もしそういうの信仰し始めたら私ちょっとマッチョ苦手だから無理なんだけど……。

 そうじゃなくって。

 

 剣を杖に、無理をして起き上がったんだろう。

 浅く、荒く呼吸するリリオの気持ちはうれしい。うれしいけど、安静にしてもらわないと困る。

 

「ウルウ、一人に……無理は………させられません……!」

「リリオ……でもね、独りだからちょうどいいんだ」

「一人じゃ、危ないです……!」

「違うよ、リリオ。本当にごめん。でもね」

 

 私はそんなことは言いたくなかった。

 リリオを傷つけたくなかった。

 でも、はっきり言わなくちゃいけなかった。

 

「足手まといがいないほうが、やりやすいんだよ」

「……………ッ!!」

 

 リリオも、わかってはいるんだと思う。

 私は、根本的にチームプレイに向いていない。

 性格的にも、能力的にも、私はソロのほうがやりやすいんだ。

 ステータスそのものに圧倒的な開きがあるんだよ。私たちの間には。

 普段は二人に合わせて行動してるけど、本当は私一人なら大抵のことは問題なくこなせちゃうんだ。

 そんなことには何の意味もないから、普段はそうしないだけで、でもそうする必要があるなら、私は独りで行動したほうがいいんだ。

 

「それ、でも……それでも……ッ!」

「リリオは、優しいね」

 

 リリオは知ってるんだ。

 確かなことは何もわからなくても、私が本当は怪物みたいな存在なんだって、知ってるんだ。

 トルンペートがそう察したように、力ある者たちがみんな私の影に見ていたように。

 リリオもまた私が怪物だって知っていて……そして、だからこそ、独りにしちゃいけないんだって思ってる。思ってくれてる。

 その優しさがうれしいよ、リリオ。君のそういう心を、尊いと思う。からかいなんかじゃない。心の底からそう思う。

 

 でも、だから、だめだよリリオ。

 

「ごめんねリリオ」

「ウルウ……ッ!」

 

 私は手の内に生み出した鋭い針で、リリオの心臓を貫いた。

 

「君を死なせないために────君には死んでいてもらうよ」

「そん、な……っ」

 

 崩れ落ちる身体は小さく、軽く、少しずつ冷めていく体温が、寂しくて仕方なかった。




用語解説

・《生体感知(バイタル・センサー)
 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》。隠れた生物や、障害物で見えない向こう側の生物の存在を探り当てることができる。無生物系の敵には通用しないのが難点。
『生命を嗅ぎ取る嗅覚こそが彼の奥義だった。それ故にゴーレムに撲殺されたのだが』

灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)(Nizovespo)
 帝国最大のスズメバチ。働きバチは体長十五センチに及ぶ。
 単体では丙種だが当たり所によっては危険。群れとなった場合は乙種でも上位の危険性。
 広範囲にわたってコロニーが形成された際には甲種認定され、森ごと焼かれた事例がある。
 強靭な顎で肉をかみちぎるほか、尾から伸びる針はナイフ状に進化しており、猛スピードで突進してすれ違いざまに切り裂いたり、内臓に深々と刺さってきたりする。
 一応毒も持っているが、たいていの場合毒が効く前に獲物は死ぬ。
 非常に攻撃的な性格の肉食種で、巣に近寄った動物を無差別に攻撃するほか、縄張り内を積極的に巡回して獲物を探す。
 獲物は昆虫、小動物だけでなく、大型の動物も捕食対象としており、熊木菟(ウルソストリゴ)などの強力な動物相手でも襲い掛かるほか、人里付近に巣を作った際には人間も襲うことから、積極的な駆除対象となっている。
 また、ミツバチも積極的に襲うことから養蜂家からは目の敵にされている。
 蜂の子は肉厚で非常に美味。

・《魔除けのポプリ》
 ゲームアイテム。使用することで一定時間低レベルのモンスターが寄ってこないようにする効果がある。
『魔女の作るポプリは評判がいい。何しろ文句が出たためしがない。効果がなかった時には、魔物に食われて帰ってこないからな』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 亡霊と病の森

前回のあらすじ

殺してでも死なせない。
突然の凶行の真意とは。


 いや死んでないよ?

 全然死んでない。

 

 なんかそれっぽい空気出しちゃったけど、別に私そこまでメンがヘラってないからね。

 死なせないために死なせるとかなんかもうヤバ目のセリフ言っちゃったけど、なんかこう……あれは、さあ。頑張るリリオ見てたらなんかうるっと来ちゃって、雰囲気盛り上がっちゃって言っただけであって、別に殺してないからね。

 私がリリオを殺すわけないでしょ。

 

 あー恥ずかし。

 恥ずかし乙女。

 

 あれはね、《仮死の妙薬(マンドレイク)》っていう《技能(スキル)》なんだ。

 《暗殺者(アサシン)》系統の上位職、いまの《死神(グリムリーパー)》の一個下の《職業(ジョブ)》である《執行人(リキデイター)》っていうヤツで覚えるんだけど、名前の通り使った相手を《仮死》状態にできるっていう変わったスキルなんだよね。

 

 《仮死》はバフともデバフともいえる付与効果で、動けなくなるし《技能(スキル)》も基本使えなくなる。自然回復もしなくなって、なにもできない。でも敵からは死んだっていう風に判断されて、ほとんどの場合ヘイトが切れて攻撃されなくなる。

 範囲攻撃に巻き込まれたりとかはしょうがないけどね。

 

 面白いことに、敵MobとかNPCにも使えることがあって、イベントバグったことあって笑ったなあ。《仮死》状態で話進むんだもん。

 

 それで、アイテムとか《技能(スキル)》で《HP(ヒットポイント)》を回復させたり、もう一回この《技能(スキル)》を使うと《仮死》は解除できる。

 例えば私が《仮死》中であっても、私は《仮死の妙薬(マンドレイク)》だけは使えるから、いつでも死んだふりができるんだね。

 このあたりはかなり早いうちに小動物で実験はじめて、自分で人体実験したからかなり確実だ。

 さっきリリオを寝かしなおしてから解除したけど、無事息を吹き返したしね。

 

 いやー、しかし、あのあとクヴェルコさんにめっちゃ慌てて説明したけど、「この人仲間を殺して錯乱してる……」みたいな目で見られて、誤解解くまですごい時間食ってしまった……。

 《仮死》状態にする薬なんです必要な処方なんですって何度も説明して、納得してもらったら今度は、じゃあ紅真蜱(ルジャ・イクソード)に襲われないよう村人全員にお願いしますって土下座されそうになって、困ったよね。

 気軽に使ったように見えるかもだけど、《SP(スキルポイント)》の消費も安くないから、さすがにみんなには使えない。

 あんまり長時間《仮死》にさせた場合、どういう影響が出ちゃうかわかんないしね。

 

 まあ、そんないざこざを乗り越えて、私はようやく森に挑むことができるというわけだ。

 一応、もしかしたら、万が一、私が帰ってこれなかったり、時間がかかりすぎてリリオとトルンペートに問題があるといけないから、二人には《聖なる残り火》という自動蘇生アイテムを装備させておいた。かまどとそのうちで燃える火をあしらったネックレスだ。

 その効果は以前身をもって体験したから、考えたくもないけど、二人がもし死んでしまっても、一度だけは万全な状態で復活できる。状況が改善できなかったら結局は時間稼ぎに過ぎないかもしれないけど。

 

「これで在庫はないから、私のほうは凡ミスもできないけど……まあ大丈夫でしょ」

 

 森は深く、普段は危険な害獣や魔獣もたまに出るらしい、とは聞いたけど。

 やはり紅真蜱(ルジャ・イクソード)のせいか、生き物の気配に乏しく、しんとしたものだ。

 《SP(スキルポイント)》消費を抑えるために、こまめに《生体感知(バイタル・センサー)》を入れたり切ったりしてるけど、ほとんど目に見えるのは紅真蜱(ルジャ・イクソード)の小さな光点と、植物の淡いものくらいで、大型の動物の生きている気配は見えない。障害物貫通して見えるはずだから、これは近くにはもう生きている動物があまりいないってことかもしれない。

 

 ただ、まだ死んでいないっていう程度に衰弱して、命の光が淡くしかともっていない動物は道中で結構見かけた。死んでいるやつもいたのかもしれないけど、夜の森で、光も見えないとなれば、私にはなかなか発見できなかった。

 まあ、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の餌食になったりして、血の匂いとか腐臭してるやつは気づくけど。

 

 そういった死体や半死体を発見したり、植物の繁茂具合を見ていれば、この森の生態系が結構豊かだったんだなあと想像はできる。

 食べたことのある動物や、見たことのない動物が結構見られた。

 肉食獣も草食獣も区別なく、見境なく、紅真蜱(ルジャ・イクソード)の被害に遭ってしまっているみたいだ。

 

 先ほども、大きな猪ほどもある巨大な毛虫がぐったりとして動かなくなっているのが見えた。

 きもいから近づかなかったけど、あれほど大きな動物も、紅真蜱(ルジャ・イクソード)の大群に襲われたら衰弱して動けなくなってしまうのだ。

 おそらく普通に血の流れる生き物は、この森では全滅したとみていいだろう。

 

 しいて言うなら、虫は生き残ってると思う。

 ダニが他のダニや昆虫も捕食対象にするのか私はよく知らないんだけど、少なくとも灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)は生き延びているどころか、生息圏を盛大に拡大しているところだった。

 他の虫たちがどうかは知らないけど、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)に関しては紅真蜱(ルジャ・イクソード)の被害を免れている。あるいはある種の共生関係が築かれているのかもしれない。

 

 灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の恐るべきスピードで飛んできてばらまかれる紅真蜱(ルジャ・イクソード)というのを想像すると、それはあまりぞっとしない話だった。

 でも、ないとも言えない。

 

 なんにせよ、この先に進むなら、いよいよ回避しようがないほどの紅真蜱(ルジャ・イクソード)の大群とか、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の群れと戦うことになるかもしれない。

 比較的安全な今のうちに。装備は整えていったほうがいいだろうね。

 虫嫌いだし。きもいし。ゲームシステム的にも隠形が効かないのが多いし。

 ていうか《エンズビル・オンライン》はMobのビジュアルが凝り過ぎてるんだよ。そりゃ見た目がいいに越したことはないけど、虫系はほんと勘弁してほしい。うぞうぞ動く多脚とかホントもうやめてほしい。

 

 いやいや、ゲームへの恨みを吐き出してしまったが、これは一応リアルだ。

 落ち着こう。

 

 私はインベントリをあさって、対多数用の装備に切り替えていった。

 狩場を決めてプレイしてたからあんまり装備を持ち歩いてないんだけど、囲まれると回避が効かなくなって死ぬから、これだけはお着替えちゃんと用意してるんだよね。虫系Mobはレベルが低くても基本群れで襲ってくるから、回避削られるんだよねえ。

 

 なんてことを思いながら、お着換え完了。

 性能の高い《やみくろ》……フード付きの黒いマントはそのまま、両手で構える大鎌《ザ・デス》を武器として装備。

 足元は《死の舞踏》という、人間の足の骨を模したような悪趣味なブーツだ。

 頭装備としてかぶるのは、ドクロの仮面だ。《ヴァニタスのまなざし》という。

 そのほかにもいくつか装備したけど……ざっくりした見た目は、本当に死神だね、こりゃ。

 

 まあ死神って、神に仕える農夫とか、刈り取り人とか言われるし、害虫駆除に赴くには洒落が利いてる……利いてるかな? なんか不安になってきた。陽キャのハロウィンパーティにガチコスプレで行ってしまったようなそんな気恥しさと死にたみが募ってくる。現実にはそんなイベント参加したことないけど。

 

「ううん……アジャラカモクレン、アゾアエーアイユリ、テケレッツのパア」

 

 まあ、ちょっとテンション下がりながらも、お仕事はお仕事だ。

 私は《生体感知(バイタル・センサー)》で引き続き紅真蜱(ルジャ・イクソード)の後を追いかけていき……そして、明らかに紅真蜱(ルジャ・イクソード)ではない高速で動き回る光点に気づく。

 色は赤。真っ赤だ。敵意ビンビン。

 

 振り向けば、そこにはあの凶悪な灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)

 ぶん、ぶうん、ぶぶうん、ぶん、ぶん。

 一匹見ればなんというか、羽音に集められるように、何匹もの灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)が集まってきて、顎をがちがち鳴らした。警戒音ってやつかなあ。

 一応確認してみたけど、《隠蓑(クローキング)》は発動してる。発動してるけど、明らかに感知されている。やっぱりだめか。

 虫は見てる色とかが違うとか言う理屈で、《エンズビル・オンライン》でも隠形看破してくることが多かったし、諦めて解除する。《SP(スキルポイント)》の無駄だ。

 

 別にこいつらの相手する気はないんだよなあと思って、姿勢を低くしてゆっくり後ずさってみるけど、普通に襲い掛かってきた。ダメか。やっぱり黒い服は蜂が襲ってくるっていうのホントだね。

 

「うわ怖っ」

 

 普通によけたけど、避けた先にあった木に、だぁんとダーツでも投げたみたいな音を立てて灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)が突き刺さる。どんな威力だ。しかもぎこぎこと引き抜こうとしてるし。せめて自爆して死んでくれ。

 

「……っていうか、蜂って昼行性だと思ったんだけどなあ」

 

 視力が悪いから夜は巣で寝てるって聞いたことあるんだけど、種類によるのかな。

 あるいはこいつらも、なにかおかしくなってるのか。

 

「私も虫の専門家じゃないし、ごめんだけど」

 

 ひょい、ひょい、と襲い掛かる蜂をよけながら、私は大鎌を振りかぶった。

 

「えーと、絶滅したらごめんね」




用語解説

・《仮死の妙薬(マンドレイク)
 《暗殺者(アサシン)》系統の上位職《執行人(リキデイター)》が覚える特殊《技能(スキル)》。
 対象は敵味方問わず近接単体。敵及びパーティ外のプレイヤーに使用する場合は抵抗判定あり。
 《仮死》状態を付与し、またすでに付与された《仮死》状態を解除できる。
 ゲーム内では敵MobやNPCにも判定さえ抜ければ《仮死》を付与でき、イベント進行がバグることが報告されていた。ただ、見た目が面白いだけで進行自体には問題がないものが多く、いまも修正されていない。
 また一応死亡時と同様の処理が走るせいか、《毒》や《強化》などの状態付与は一律すべて解除されてしまうバグがあり、状態異常を無理矢理乗り切る「秘技死んだふり乱舞」が編み出された。SP消費を考えたら効率的ではない。
『おおロミオ……じゃない!? 曲者!』

・《執行人(リキデイター)
 《暗殺者(アサシン)》系統の上位職。
 《暗殺者(アサシン)》から転職してなることができ、さらに上位に《死神(グリムリーパー)》が存在する。
 状態異常の付与や、変装など、直接戦闘には寄与しない特殊な《技能(スキル)》を覚える。
『七つの顔を持ち、七つの声で話し、七つの家庭で暮らし、一つの墓も残らない』

・《聖なる残り火》
 ゲーム内アイテム。
 アクセサリー枠を一つ埋めることになるが、死亡時に自動で全回復して蘇生してくれるレアアイテム。
 蘇生時にこのアイテムは失われる。
 上位陣はお守り代わりに必ず一つは持っているが、複数持つのはさすがに難しいという程度にはレア。閠もあと何個かしか持っていない。
『目覚めなさい。その火が消えないうちに』

・大きな猪ほどもある巨大な毛虫
 現地名猪蟲(アプラウポ)(aprraŭpo)。イノムシ。
 羽化しない幼形成熟のチョウの仲間。
 表面に黒褐色の剛毛を持つ毛虫様の姿を持つ。
 ずんぐりむっくりとしており、芋虫としては短い。
 視力に乏しく、口元にあるものはとりあえず食べてみる雑食性。
 興奮状態になると見かけによらぬ猛スピードで突進することがある。
 頑丈な頭部は時に木石を砕くことがある。
 また剛毛に覆われた表皮は丈夫で、刃や矢が通らないことも。
 肉は赤身で濃厚な旨味と甘み、深い滋味がある。モチモチと押し返すような弾力も魅力的。
 帝国全土に生息しており、よく見る豚はこの猪蟲(アプラウポ)を品種改良したものとされる。

・《ザ・デス》
 ゲーム内アイテム。武器。
 「死」の名を冠した最上位武器だが、攻撃力はぼちぼち。
 ただし攻撃時に周囲一マスすべてにダメージが通る範囲武器。
 かつ、クリティカル時に低レベルとはいえ即死判定が発生する。
 ある《死神(グリムリーパー)》専用《技能(スキル)》を習得・使用するのに必須。
『その首をはねておしまい! ……おや、もうなかったね』

・《死の舞踏》
 ゲーム内アイテム。脚部装備。
 装備すると移動速度が上がるほか、敵に囲まれた際にも移動を妨げられず、抜け出ることが可能になる。
 一部の敵の拘束技も抜け出る事例が報告されているが、必ず再現されるわけではないらしい。
 Mobのすり抜け時に座標指定がバグることがしばしばあり、混戦時に挙動がおかしくなるという報告がある。
 また、Mobが無限沸きするポイントでの実験で、画面外にはじき出されて戻ってこなくなったという報告もある。
 公式からのアナウンスはなく、仕様なのかバグなのかも不明。
『同じ死ぬなら、踊らにゃ損、ソン!』

・《ヴァニタスのまなざし》
 ゲーム内アイテム。頭部装備。
 装備するとアイテム、《技能(スキル)》、また自動回復他で《HP(ヒットポイント)》を回復しなくなるが、回避判定が一回余分に計算される。
 つまり、一度回避に失敗してももう一度判定して回避できる。
 二度目の判定でも失敗すれば普通に食らうが、計算式を間違えているのか、二度目の回避判定には囲まれた時のマイナス判定などが入らず、素の数値で回避できる。
 簡単に言えば、敵に囲まれても回避率が低下しなくなる。
 実装後間もなく、また入手難度が高いためまだバグが広く知られておらず、修正が入っていない。
『すべては無だ。何もかも虚しい。死だけが、ああ、死だけが確実だ』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 亡霊と病原顕現

前回のあらすじ

異様な森へ挑む閠。
突然差し込まれるよそ様の宣伝。
一体この森に何が起こっているのか。


 別に好んで虫の虐殺を行いたいわけではないんだけど、襲い掛かってくる以上、対処しないわけにもいかない。

 一応、避け続けるってのもできないわけじゃない。できないわけじゃないけど、そうすると進めば進むほどに蜂が増えるんだよね。

 こいつらよけられても全然諦めないで、無尽蔵のガッツとタフネスでひたすらぶんぶんと襲い掛かってくるから、もはや歩いているんだか物理演算バグであらぶってるんだかわかんない滅茶苦茶具合になってきたから、仕方なく駆除してる。

 

 別にまあ、難しい話じゃない。

 戦略も何もなく来た端から突っ込んでくるだけだし。

 《ザ・デス》……《死神(グリムリーパー)》専用装備である、死神の代名詞みたいな大鎌をぐるんと大きく振り回せば、それで(たか)ってきた蜂どもは一掃できる。

 いくら普通のスズメバチの三倍くらいあるような巨大バチでも、所詮十五センチくらいの軽い生き物だ。金属の刃にはなすすべもなく切り裂かれてしまう程度でしかない。

 

 普通なら、ぶんぶんと高速で飛び回る灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)に攻撃を加えるのは難しいかもしれないけど、これだけ囲まれてると適当に振るっても当たるくらいだし、私はアホみたいにLUC(うんのよさ)が高いので、本当に適当に振るってるのに()()()すべてキレイに命中するのだ。

 

 さすが範囲攻撃武器というか、ゲーム内でも雑魚敵狩りに重宝しただけはある性能だね。適当にクリック連打するだけで自分の周囲の敵すべてにダメージ入るんだから、もはや作業だ。

 そして敵からすると、私は囲んでいるはずなのに攻撃が当たらないクソチーターであり、もはや自然現象の竜巻とかに突っ込んでるのと大差ない一方的な虐殺になるのだった。ショッギョムッジョ。

 

 しかしそれにしても、だ。

 足元にがしゃぐしゃと蜂の感触が感じられるほどに虐殺もとい撃退し続けているにもかかわらず、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)は次々と現れては次々と襲い掛かってきて、そして次々と迎撃されていく。

 群れで攻撃してきたり、巣を運営したり、社会性はあるはずなんだけど、思いのほか知性がなさそうなごり押し戦法が続く。まあ、知性っていうものは一通りではないのかもしれないけど。

 それにしたって、こんだけやられたらいい加減何か学習しそうなものではあるけどなあ。

 弾幕シューティングただし初手からチートみたいな戦闘を続けてると、色々思わないでもない。

 

 虫だし、きもいし、危険だし、私はこいつらに全く同情もわかないし、いっそ絶滅してくれても全然かまわないんだけど、それでも、地味に地道に、ちまちまと経験値が入り続ける感覚があって、現在進行形で命をすり潰していることが生々しく伝わってきて、あまり精神衛生上よろしくない。

 

 いやほんと、なんなんだろうね、こいつら。

 

 うっかり蜂の巣に近づいたから襲ってくるのかなと思ったんだけど、付近にそれらしい反応はない。

 灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)どもは森の中を飛び回っていて、そしてたまたま私を見つけて襲い掛かってくるのだ。自動的に、反射的に、巡回警備みたいにしてエンカウントしては攻撃してくる。

 そしてその頻度は奥へ進むほどに増していく。

 あるいは、単一の巣ではなく、もっと大きな群れである、コロニーとか言うのが森の奥に存在しているのかもしれない。

 

「まあ……()()()()()はすぐみたいだけど」

 

 私がいろいろ考えたところで答えなどは出ないけど、でも百聞は一見に如かずというか、答えがそこにあるのならば、見に行けばすむ話だ。

 《生体感知(バイタル・センサー)》を通して見える赤い光。四方八方から集まってきた紅真蜱(ルジャ・イクソード)と、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の描く星空のごとき無数の輝き。

 その集う最奥。そこには、センサーが眩むほどのまばゆい巨光が鎮座していた。

 

「……もうセンサーはいらないくらいだ」

 

 ()()は、もう肉眼で見えていた。

 

 うっそうと茂っていた木々が、不意に広く開けていた。それも自然な形などではない。ひどく不自然な形で、その広場は生み出されていた。

 まるで隕石でも落ちたかのように、あるいは巨大な顎で食いちぎられたかのように、その一角だけが不意に落ち窪んで沈み込んでしまったような、あまりにも不自然で唐突な窪地。あるいは、大穴。

 濃い土のにおいがした。湿り気さえ感じる土のにおい。雑草の一つもまだまともに生えそろわない、砂礫と土塊とを掘り返したままにさらすその地肌は、この大穴が生み出されてからまだそんなに時間が経っていないだろうことをうかがわせた。

 

 蜂を避けて穴に足を踏み入れると、不思議に襲撃がやむ。

 だがその代わりに、穴の中心から発せられる異様な圧迫感が、私の足を鈍らせた。

 進むほどに、その気配は色濃く、強くなる。

 

 その大穴の中心に、()()はいた。

 巨大な大穴の中にいながらにして、窮屈そうにさえ見えるほどの巨体は、天から落ちてきた巨岩なのだと言われても信じられそうだ。

 切り立った岩山がそのままに動き出したらこのように見えるのではないかというような、鉱物めいた鋭いとげが、顔から甲羅から、(いわお)のごとき全身から四方八方に向けられていた。

 だがそれは生きている。あまりにも巨大でまばゆい赤い輝きが、私の目には映っている。

 この世界で遭遇してまともに対峙した生物の中ではいまのところ最大級である飛竜、それと同様の生命に訴えかける圧迫感があり、そしてそれよりもさらに大きい。

 

 ただそこにいるだけで、ただそこにあるだけで、世界のきしむ音が聞こえるような、視覚的、心理的重量感。これほどに巨大な生物が存在し、あまつさえ眼前で呼吸しているという、正気を打ち砕かれるような生々しい存在感。

 それがわずかに身じろぎするだけで、それがゆっくりとした呼吸を繰り返すただけで、じりじりと精神が焦がされるような焦燥感があった。

 その目がちらとでもこちらを向けば、それだけで心は削れ、圧し折れるかもしれない。

 

 存在の格が、違う。

 生物としての次元が、違う。

 

 ()()は、巨大な、本当に巨大な……えーっと。

 

「これ、KAD〇KAWAに怒られない?」

 

 ()()は巨大なワニガメだった。

 そこには、巨大なワニガメが鎮座していた。

 それはもう巨大なワニガメが、大穴の中心に鎮座ましましていた。

 

 はっきり言ってそれは()()()()だった。

 

 巨大生物として私に恐怖を叩き込んだあの飛竜よりもさらにデカい。幅も厚みもある分、さらに巨大に見える。

 ワニガメといったけど、それはそのいかつく恐ろしい顔つきからそういったまでで、体型としてはむしろゾウガメなどの陸生の亀に近い。ささくれ立った岩の柱のような四肢が、地面に突き立っている。

 ここからでは全容が見えないが、仮に亀っぽい体型と考えれば、体長二十メートル近くはあるんじゃなかろうか。甲羅の高さも、それに近いだろう。

 

 まずその巨大なワニガメに圧倒されてしまったけど、その周辺の様子もまた異様だった。

 えぐり取られたようにぽっかりとあいた穴の外周、そこに一部の根をさらしながらもかろうじてたたずむ木々は、異様な()()によってほとんど覆われていた。

 いや、それはこぶなどではない。その表面にあいたいくつもの出入り口から、ぶん、ぶうん、ぶぶうん、ぶん、とおぞましいは音が響き渡っている。

 そうだ。それらはすべて灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の巣だった。

 この広場を囲むすべての木に、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の巣がみっちりと張り付いているのだった。

 

 全周から響き渡る、ぶん、ぶうん、ぶぶうん、ぶんという羽音が、何重にも重なり合い、響き合い、背筋を震わせ内臓にまで響くような気味の悪い振動となって、あたり一帯を満たしていた。

 一つ一つは小さな羽音が、耳をふさぎたくなるような騒音となって、耳をふさいでも肌にしみとおる狂騒となって、この場を支配していた。

 

 ────()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そのただでさえ異様な光景の中で、さらに異様な動きがあった。

 無数の灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)のうちの一群が、血の赤さを残した、血の滴る新鮮な肉を顎に咥えてやってきた。森の獣の肉を引きちぎり、ここまで運んできたのだろう。

 本来であれば巣に運び幼虫の餌とするべきその肉を、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)はまっすぐにワニガメの口まで運ぶ。

 呆けたように開かれたままのワニガメの凶悪な口の中に、無数の灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)たちが運ぶ無数の肉片が次々に落とされていく。

 時には肉片ばかりではない。傷ついた個体がワニガメの口の中に自らその身を投じていく。

 

 生贄の祭壇に粛々と供物をささげるがごときその動きは、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)だけのものではなかった。

 

 ここに至ってはもはや赤い川のごとくに()()()()を成して跳ねまわり這いずり回りやってきたのは、信じがたいほどにおびただしい、数えることさえもばかばかしいほどの膨大な群れと化した紅真蜱(ルジャ・イクソード)の大群だ。

 これほどの大群が、全て腹を満たしてきたというのならば、獲物となったのは森の獣だけでは済まないだろう。あの村の全住民、それでさえもまだ足りない。近隣の村々、あるいは町、想像さえもおぞましいほどの人々の犠牲が、この赤い川となっていま、ワニガメの口の中に注がれていった。

 

 ────()()()

 

 岩が転げ落ちたのか。

 一瞬そう惑うほどに、その音は低く深く響いた。

 それは()()()()だった。

 生贄の祭壇と化した口中へと供物が満たされ、それを一飲みに飲み干してしまった、その音だった。

 

 もはや灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)は私を襲わず、紅真蜱(ルジャ・イクソード)どもは一心不乱に赤い川となって、ワニガメの口の中へと身を投じていく。

 小さな小さな命たちが、その赤い光の輝きが、次々と飲み下されては、消えていく。

 

 それはあまりにも異様な光景だった。

 それはあまりにも異常な現実だった。

 胸が悪くなるほどに陰惨で、吐き気を催すほど醜悪。

 

 その異質な世界に、声が響いた。

 

「あらあら。そんな古典極まるコスプレで、灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)をよくかわしてきたものかしらぁ。それに紅真蜱(ルジャ・イクソード)の中でも平気な顔をして、ぴんぴんしてるなんてぇ……」

「敏感肌なものでね」

「ふぅん。それが本当なら、まだ改良の余地があるのかしら。それともイレギュラーにまで対応するのは費用対効果(コスパ)的にナンセンスかしら。ねえ、死神サン?」

 

 それは、いっそ吞気ともいえるほどに穏やかな声だった。

 うららかな午後の小道で、木漏れ日と春風の中、たわいもないおしゃべりをするような、そんな。

 

 だがここは血肉と腐臭にまみれた地獄の底のような修羅場であり。

 そのただ中で灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)にも紅真蜱(ルジャ・イクソード)にも襲われず、平然と巨大怪獣の背に腰を下ろす姿は、どう考えても真っ当ではない。

 

 声の主は、女だった。

 それも、少女と呼んでもいいかもしれないくらい、あどけない。

 それは不思議な姿だった。あるいは不気味な姿だった。

 怪獣の岩のような背に腰かけ、子どものするようにぶらぶらと足を揺らしながら、そいつは私を見下ろしていた。

 素朴な農民のように健康的に日に焼けた肌と裏腹に、そのまなざしは酷薄な好奇心をたたえ、唇にはあざけりの色を秘めた微笑みが浮かんでいた

 そこらの村娘のようなありふれた麻の服の上から、鮮紅もあせぬ流血にまみれた白衣を羽織り、サイズの合わない眼鏡がずり落ちるたびに、袖から出切らない指先が何度も持ち上げなおしている。

 

 なにもかも、ちぐはぐだ。

 

 かしいだ眼鏡がきらりと月影を反射して、ああいう風に反射する眼鏡って実在するんだなあとなんだか現実逃避したようなことを考えてしまった。

 

 私は眼鏡っ子は嫌いではないし、萌え袖白衣には一定のステータスを感じる人間だけれど、その組み合わせとして存在するこの少女は、どうにも好感情を抱けそうな相手ではなかった。

 というか、どうあがいてもこの状態で善意の第三者ってことはないだろう。

 

「えーっと。一応聞いておくんだけど」

「ええー? なにかしらぁ?」

「これは……()()()()()()は、あなたの仕業かな?」

「ええ、そうよ。そうですとも」

「……認めるんだ」

「だって、違うって言ったらあなた、信じてくれるのかしら?」

 

 まあ、そりゃそうだ。

 私が黙って肩をすくめると、謎の少女もまたオーバーに肩をすくめて、片眉を上げて鼻で笑って見せた。うーんアメリカンなメスガキだな。あるいはその皮肉屋(シニカル)な笑い方はブリティッシュメスガキか。

 

「まあそうね。まあそうかしら。折角なのだから折角なのだし、このワタシが名乗ってあげるかしら!」

「遠からんものは音にも聞けって?」

「最前席で目にも焼き付けるといいかしら!」

 

 メ……謎の少女は怪獣の背の上で立ち上がり、ちょっとふらつき、その凸凹(デコボコ)として意外に不安定な足場で右往左往しながら何とか具合のいい立ち位置を見つけて仁王立ちし、腰に手を当てて胸を張りさえした。

 

「遠き聖都におわす聖王陛下もご照覧あれ! あなたのしもべがいま声高く名乗りましょう! ワタシはユーピテル! 《蔓延る雷雲のユーピテル》! 誉れ高き魔法使い(ウィザード)の称号を賜りし、愛しき聖王国の守護者にして、悪しき帝国をくじくものかしらぁ!」

 

 おどろおどろしくおぞましいステージの上で、キンキンしたガキっぽ……生き生きとした少女の声が跳ねた。そしてずり落ちた眼鏡をくいっとドヤ顔で持ち上げる。

 そのポンコツ極まる姿と、その足元で邪悪かつ醜悪な生贄の儀式めいた捕食活動を続ける怪獣とが全くかみ合わない。

 

 そんなひどいワンマンステージを見上げながら、満を持しての名乗りなのに「かしら」って疑問形なんだとか、それ親御さんの仕事着借りてきたのとか、とりあえず腹立つから一発殴っていいかなとか、色々思いもしたけれど。

 

 それよりも、だ。

 

「……えーっと、ごめんそれ流行(はや)ってるの? ノリがちょっとわかんない……」

「反応があまりにも渋いかしら!?」

 

 やっべ。

 どっかでメインイベント見落としてきたかもしんない。

 なんか重大なワードとか出てるっぽいのだけれど、ご当地飯と温泉巡りばっかしてたので、ぜんぜんわかんないのだった。




用語解説

・《蔓延る雷雲のユーピテル》
 公開されている情報は少ないものの、最重要危険人物として指名手配されている。
 聖王国の破壊工作員の一人とされる怪人。
 ウィザードは聖王国のエージェントの中でも特に秀でた魔術遣いたちを指す言葉であるとされる。
 《蔓延る雷雲》の二つ名の通り強力な雷遣いであると同時に、非常に繊細な電磁気力操作によって、多種多様な生物を操るとされる。また古代聖王国時代の超科学力をもって生物の品種改良なども行うとのこと。
 非常に古い時代の文献からもその名が散見され、そのたびに重大な事件を引き起こしており、世代を経て襲名されるものと推測されている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 亡霊と堕ちた地竜

前回のあらすじ

ガ、ガメ……!?
メインシナリオそっちのけでゆるキャンしていたツケが、いま。


「ほら、あれかしら。聖王国なのよ。わかるかしら」

「あー……聞いたことはある。なんかこう……ずっと昔に戦争で負けて北極に追い込まれたみたいな神話聞いた」

「うっわあ……ええぇ……今の子ってみんなそのくらいの認識なのかしら? 学校でそういう歴史とか習わないのかしら? ううん、いや、でもそんなわけないわよねえ……」

「そもそも学校とかあるのかなあ」

「義務教育の敗北……ッ! 学校さえない田舎者……ッ!」

「いやまあ、私、帝国の人じゃないしなあ……」

「むががが……まさかそんなド田舎者がここまで手練れなんて、想定外かしら!」

 

 ううん、まさか露骨な悪役に、教育制度について嘆かれるとは思わなかった。

 いやまあ、あるらしいよ? 学校的なのは。寺子屋っていうのかなあ。村とかだと簡単に教えるくらい。

 町とかだと授業料払えば学校行けて、それもそんなに高くはないらしい。

 リリオみたいな貴族の家なんかは、それこそ家庭教師に高等教育受けるし、一般人の受け答えとか知識量から見ても、それなりの教育はされてるはずなんだよね。

 

 私も本で読むだけじゃなくて、ちゃんとした教育をざっくりとでも受けたほうがいいかなあ。

 

 さて、それはともかくだ。

 どうやらこの謎の少女改め《蔓延る雷雲のユーピテル》とやらは聖王国のなんかエリート・エージェントみたいなやつらしかった。

 神話の時代に戦争で負けてからずっと、間隔をあけつつも帝国とは争い続けてる、らしい。

 

「ようやく地竜の卵を発掘して! ようやく孵ったのを育てて! 骨董品のイントナルモーリまで持ち出して! 虫を使って餌集めまでコツコツして! 順調に行くかと思ったら二匹目は雛のうちに死んじゃうし! 残った卵は盗まれるし! くじけず頑張ってたらいよいよ大詰めの段階で現れる妨害! っていう盛り上がったところなのにいろいろ台無しかしら!」

「私、別に盛り上げ要員じゃないんだよなあ」

「神話扱いされるレベルの因縁の相手かしら! もうちょっと緊張感が欲しいかしら!」

「うーん……興味はあったけど、そのあたりの設定はまだ読み込んでないんだよね」

「もう! 不勉強かしら!」

「ゆるゆるキャンプ生活が楽しくてねえ……」

「遊びに行くのは宿題やってからって教わらなかったかしら!」

「それは教わったけど」

「実践できてないなら意味がないかしら!」

 

 ごもっともすぎて言い返せない。

 うーん。別にそんなつもりはなかったのだけど、ぷんすこ怒らせてしまった。

 だってそういうメインシナリオやる気全くなかったし……私、正直日常的な世界観が読み取れるサブシナリオとかイベントのほうが好きなんだよなあ。

 

「まあいいや。とにかく、敵、ってことだね」

「そう! 大事なのはそこ! もちろん、敵かしら! 敵も敵かしら! ……これで敵対しなかったら、それこそあなたなんなのって話かしら?」

「うーん、それもそう」

「ご納得かしら!」

「ご納得したよ」

 

 うん。

 私は重たいしかさばる大鎌(ザ・デス)を肩にかけて、ぼんやりと巨大ワニガメ改め地竜とやらの上のユーピテルを見上げる。

 

 眼鏡はまたずり落ち、押し上げられ、ゆるゆるだぼだぼの白衣が肩からずり落ちかけ、直される。

 キョトンとしたように見下ろす顔立ちは、本当にあどけない。肌はよく日焼けしていて、すこし荒れている。運動しているとか、そういう焼け方じゃない。毎日長時間日にさらされた、労働者の肌だ。顔の造作自体は、帝国でよく見る顔立ち。つまり普通。

 でも目の輝きだけが、常人離れしている。キラキラを通り越してギラギラしている。瞳に星でも浮かんでいそう。幼さと残酷さ、純粋さと邪悪さが、混然一体となっている。ような気がする。

 

 今までに会敵したことがないタイプっていうか、遭遇したことがないタイプですらある。

 まあ私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》一行が敵対する人間って、要は盗賊とかであって、まあ目的意識とか、所属国家とか、色々違うから、印象が全然変わってくるのも当然だけど。

 やっぱりこういう幹部みたいな敵キャラって、個性的じゃないといけないのかなあ。この子もなんかこう、無理にキャラ作ってるみたいな感じはあるし。服装があざとすぎるし、語尾にかしらが多すぎる。

 

「……あら? あらら? 構えないのかしら? 仕掛けてこないのかしら?」

「え? ああ、私、ムービーはスキップしない派なんだよね」

「……はえ?」

「他にもなんか話すのかなって思って。まだセリフある?」

「……ははーん。ははーんかしら。さては何かしら? 余裕かしら? 余裕ぶっこいてるのかしら?」

「怒涛の四連続かしらだねえ」

「かっちーん、かしら! これだけの灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の群れを前にして! 成体の地竜をまえにして! よくぞ虚勢を張れたものかしら! 美味しいひき肉になる準備ができたら、かかってくるかしら!」

「ふうん。それって、村の人たちもひき肉にして餌にする予定なわけだ」

「当たり前かしら! 肉団子にして地竜の餌にしてやるかしら!」

「セリフはそれでおしまいかな。じゃあもういいや。さよなら」

 

 私は軽く踏み出すようにして、《縮地(ステッピング)》で地竜とか言う巨大ワニガメの眼前まで一足で跳ぶ。この程度の距離は、極まった《暗殺者(アサシン)》系統には射程圏内どころか鼻先でしかない。

 そしてじゃまっけな大鎌を頭上に放り上げ、代わりに引き抜いたのは、それと言われなければ気づかないほどに小さく細い、針。月影に照らされた一筋の銀色。

 

「────()?」

 

 振りかぶる必要さえなく、もったいぶる意味さえなく、指さすように突きつけた針は、何の手ごたえもなくするりと地竜の額に突き通った。

 岩肌のような鱗も、金属光沢さえ見えるとげも、その巨体そのものだって、意味はない。何の意味もない。ただただ無意味だ。

 動かなくなったその頭を蹴りつけて飛び上がり、落ちてきた大鎌をキャッチして元の位置へ。

 最初と同じ光景で、しかしすべてが決定的に変わっている。

 

「────()?」

 

 王も騎士も、民も乞食も、老いも若きも男も女も。

 あるいは悪魔であれ、あるいは神であれ。

 それが生きている限り、殺せる。死なせる。それがわかる。

 確信をもって、私は殺す。死を与える。

 

 正義のためでも人々のためでもなく、ただ個人的な怒りと憎しみとをもって、私は殺す。

 

「言い忘れてたけど」

「────()()()()()()()()()()()()!?」

「私はいま、大分怒ってるんだ」

 

 《死出の一針》。

 チート以外のなにものでもない悪辣な《死》そのもの。

 問答無用の即死効果が、レイドボスじみた巨大怪獣からあっけなく命を奪う。

 吐息は途絶え、鼓動は止まり、瞳から光は失われる。

 もたげていた首がゆっくりと力を失い、ずずんと重たげな音を立てて地に落ちる。

 ()()したからだ。()()なるようにしたからだ。

 死んだ。死に絶えた。地竜はいま、命を失ったのだ。

 

「なっ、ばっ、死んでる!?」

「そりゃ一番厄介そうなのは一番先に潰すよ」

「外傷もない。毒が効くわけがない。呪いが通るわけもない。事象変異の痕跡もない。これは、これは未確認情報素、生命素の操作……!?」

「うるさいなあ。死んだ。死んだんだよ。それだけ。死ねば死ぬ。誰であっても。君であっても」

「こんな、こんなことが、こんなバカげたコスプレ女に……!?」

 

 狼狽するユーピテルに、私は《針》を向けた。

 

「私はね、怒っているんだ。本当に怒っているんだ。こんな体に悪そうな健康に良くなさそうな感情、私は欲しくないのに。なんで怒らせるかな。どうしてそんなことするのかな。ねえ。怒ってるんだよ。怒ってるんだって。怒っているんだって言っているんだよ私は! よくもうちの子を(エサ)にしたな。よくもよくもうちの子を傷つけたな。よくもよくもよくも、私のリリオとトルンペートを穢してくれたな……!」

 

 怒りは、時とともに薄れる。

 けれど、言葉を重ねるごとに新たに湧き上がるものだ。

 私は私の怒りを再燃させる。どこに向けることも、誰に向けるわけにもいかなかった、理不尽への憤りと嘆きを、この女に向ける。

 私自身の心の安寧のために抑え込んでいた怒りを、事ここに至っては遠慮なくぶちまける。

 

 体力を削り気力を削り、最後は肉として地竜とやらの餌にするつもりだったというのならば。

 最初から人の命などただの消耗品として、名誉も誇りもなくただ食らうつもりだったというならば。

 そこに同情も容赦もいりはしないのだ。

 

「絶対に、ぜっっっったいに、赦さない。赦してやらない。謝ったって赦してやるもんか」

「この、ワタシが……! この《蔓延る雷雲のユーピテル》がッ! お前ごときにッ!」

「は、怒った? 私はずっと怒ってる。さあどうする? さあ! 蜂とダニでどうにかする? どうにかできる? やってみるか、クソガキが!」

「言わせておけばぁああああッ!!」

 

 殺意に満ちた視線が、瞬間、交差した。




用語解説

・イントナルモーリ
 古代聖王国時代に開発された洗脳装置。
 脊椎動物の神経系に直接打ち込まれる侵襲式受信装置と、外部より命令信号を送信する親機から構成される。
 装置はソフト・ハードとも、使用する生物種ごとに調整が必要で、他種他個体へのそのままでの流用は不可能。
 親機は大戦時に破壊されており、修復も面倒なため、ユーピテルは頑張って自力で直接電波を送信している。

・《縮地(ステッピング)
 《暗殺者(アサシン)》の《技能(スキル)》の一つ。短距離ワープの類で、一定距離内であれば瞬間的に移動することができる。ただし、中間地点に障害物がある場合は不可能。連続使用で高速移動もできるが、迂闊にダンジョン内で高速移動していると、制御しきれずに敵の群れに突っ込んだ挙句《SP(スキルポイント)》が切れるという冗談にもならない展開もありうる。
『東にぴかっと 西にぴかっと 天下を自由自在に 千里の山々を駆け抜けて 暗殺者は行く』

・《死出の一針》
 クリティカルヒット時に低確率で発動という超低確率でしか発動しないけれど、即死耐性持ちでも問答無用で殺す《貫通即死》という特性を付与された武器。しかしあまりにも武器攻撃力が低く、その取得難易度もあって産廃でしかない。
『何者であれ死神の持つ一針を恐れぬ者はなかった。髪の毛の先程の、ほんの小さな一点を刺されれば、ただそれだけで偉大な王も道端の乞食も、分け隔てなくその命を散じるのだった』

・情報素
 聖王国における記述論的事象操作技術体系──魔法用語の一つ。
 精霊や魔力など、魔法を引き起こす肉眼では見えないなにかをこのように呼ぶ。
 生命素は存在が提唱されつつも実証されていない情報素の一つ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 亡霊と仕切り直し

前回のあらすじ

開幕ボスを瞬殺する、掟破りの初手《即死》。
まあ攻撃力1でも活躍するらしいし……。


「おのれおのれおのれ、オッッッッノーレッ!!」

「煽ってなんだけどメートルのはね上がり方が怖い」

 

 絶対に赦してやらないとかクソガキとか、私のかわいそうな語彙力から頑張って罵倒してみたけど、ユーピテルのぶちギレっぷりはちょっと引いちゃうくらいだった。なんか少し冷静になっちゃうくらいには。

 

 ユーピテルは形相どころか人相さえ変わりそうなほどにFワードを喚き散らしながらのけぞり、怒りのままにさらにのけぞり、もうこれのけぞりすぎてブリッジだよって程にのけぞって、そして見事なアーチを全身で描いたまま、不意にぴたりと静止した。

 

 スカートの中身が見えちゃってるけど、見たくないよこんなの。嬉しくなさすぎるパンチラ。なんか異形の生物とか潜んでそうだし、なんなら第二形態としてまたぐらから頭が出てきてそのまま戦闘に突入しそうでいやすぎる。

 というかそもそも私は女の子のパンチラに喜ぶ人間ではないのだ。私の性的指向は別に女性に向いてるわけじゃないし。トルンペートとかよく私のことえっちだとか冗談言うけど、私はふたりの体に、普段からそういう目を向けたことってないんだよ。シチュエーション次第なだけで。

 

 なんの話だっけ。だめだな。リリオ分とトルンペート分が切れそう。

 

 そうそう、嬉しくないパンチラというか、どれだけ取り繕っても悪魔がとりついてる系ブリッジで静止したユーピテルの異様な気配に、私は気勢をそがれていた。

 

「…………なーんて。結構驚いちゃったけど、どれだけ異様な現象でも、結果が簡単であれば対処も簡単かしら」

「……なんだって?」

「外傷もなし。毒もなし。呪詛もなし。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ばちん、と爆ぜるような音とともに、ユーピテルのまたぐらが発光した。輝く股間──違う。その紫電の出処は、彼女の手のひらだ。手のひらが音を立てて電流を発していた。

 ストロボめいた発光とともに、ただの電流ではないであろう、蛇のごとくのたうつ発光体がブリッジ体勢のユーピテルの手のひらから、地竜の死骸へと注ぎ込まれていく。

 

 理科室の実験めいてカエルの脚に電流を流したかのように、地竜の四肢ががくがくと震えを起こし、崩れ落ちた頭部がびくりびくりと跳ね回る。壊れたおもちゃのような不気味なけいれんがひとしきり地竜の全身を伝わり、そしてユーピテルが恐るべき背筋力でゆっくりと体勢を起こす。ちょっと怖い動きなのでやめてほしい。

 

 ユーピテルが体を起こすのと同時に、その足元でくたばっていたはずの地竜は、ぎょろりと目を見開き、岩の柱のごとき足でゆっくりと体を起こし始めていた。ただでさえちょっとしたビルみたいだった巨体が、はっきりと動き出すというのは圧巻を通り越して恐怖だ。

 

「生命素の略奪、あるいは破壊。恐るべき所業なのかしら。でもそれは肉体の破壊ではない。壊れていないのならば、()()()()()()()()()()ことなど造作もないかしら」

「いまのブリッジには何の意味が?」

「もとよりワタシは《蔓延る雷雲のユーピテル》! 生体を駆け巡る電流はすべてワタシの手のひらの上!」

「ブリッジしてたよね。いま」

「《脳雲(ブレイン・クラウズ)》のちょっとした応用……多少酸欠で脳細胞が死滅したところで、エミュレートして動かすなんてお茶の子さいさいかしら!」

「ブリッジはなんだったの? ねえ?」

「イントナルモーリで調整された地竜は死を恐れず、このワタシがいればその死さえも覆せる! あなたのチートも無意味かしら!」

「ねえブリ」

「うるせー! ひき肉になるかしら!」

 

 咄嗟に飛びのくと、直前までいた空間がぞぶりと削り取られるように、地竜の顎が(くう)()んでいた。図体のわりに、攻撃速度は決して遅くない。さっきまで死んでいたっていうのに。

 ……そうだ。死んでいた、はずだ。

 《生体感知(バイタル・センサー)》を入れなおしてみれば、さっき死んだはずの肉体に、再び生命反応が見られる。心臓を強制的に動かしたのか。脳がどうとかも言ってた。

 

 正直なところ、私はプルプラ謹製のこの体に備わったチートである《即死》という効果についてよくわかっていない。相手が死ぬのは確かだけど、本来死ぬということには様々な要因や段階がある。

 例えば人間の死は、極論酸欠が主な原因だ。脳細胞に酸素が行かなくなって死ぬ。心臓が止まったり、出血が多かったり、それらも全て脳に酸素が行かなくなるから死ぬ。窒息も同じ。脳が壊れるから死ぬのだ。

 

 《即死》、特に《死出の一針》の《即死》は肉体の破壊をほとんど伴わず、ただ死なせる。脳が停止するのだと思う。それが可逆なのか不可逆なのかずっとわからなかった。小動物相手の実験では、心臓マッサージ程度でどうにかなるものではなかったけど。

 

 脳の電気信号が途絶する形で《即死》しているならば蘇生は望めないと思うけど、この女は派手なだけでなく非常に繊細な電気の魔術を扱うらしい。たとえ死なせても、脳に電気信号を流しなおして復活させるというとんだチート振り。あるいはイントナルモーリとか言う何かの仕業か。

 わからないけど、その結果が目の前にそびえているのだから、その点だけはどうしようもない事実だ。

 

 認めざるを得ない事実を、正直認めたくない。

 

「フムン……確かに生き返ってる。なら、もう一回殺すかな」

「何度でもやってみるといいわあ。そのたびに()()()()()()()()かしら!」

「死ぬまで殺せば死ぬんだよ、こういうやつはさあ!」

 

 虚勢を張ってみたけど、そう、結局はそこに尽きる。尽きてしまう。

 なにしろ死んでも生き返るのであれば、外傷をほとんど与えられない《死出の一針》はアドバンテージが消滅してしまう。数字にして1しかダメージ通らないからねこれ。

 殺しても殺しても生き返るならば、死なせること自体がただの時間稼ぎにしかならない。

 

 そして向こうもそれをわかっているから、もはや時間稼ぎさえさせてはくれないだろう。

 

「まあ何度でも殺していいけど……もう一回でも殺せると思われるのは心外かしらねえ!」

「あ。やべ」

 

 地竜が大きく口を開いて、噛みついてくるのではなく、大きく息を吸い込み始める。

 それはただの呼吸なんかじゃない。明らかに体の容量を超えるだろう体積の空気が、恐るべき肺活量で吸い込まれ続けている。その影響はちょっとした暴風だ。とっさに身構えなければ、私ごと吸い込まれてしまう。

 

 これは吸い込み攻撃、()()()()()()

 結果として私への妨害にもなってるけど、これは副産物どころか、単なる()()でしかない。

 

 そうだ。私はこれを知っている。

 この攻撃を知っている。

 

 同じ竜種である飛竜。その戦闘を見物させてもらった時に見た。

 見物と言っても戦闘自体はすぐに片付いてしまって、ほんのちょっぴりしか見ることはできなかったのだけど、それで十分なほどのインパクトがあった。

 

「……咆哮(ムジャード)か!」

 

 咆哮(ムジャード)……いわば「ブレス攻撃」というヤツだ。

 ドラゴン系のモンスターが、炎やその他を吐きつけて攻撃してくる凶悪無比な範囲攻撃。

 飛竜のそれは大量の空気を吸い込んで圧縮し、風の砲撃として打ち込むというものだった。

 それこそ岩肌に穴をあけるほどの破壊空間は、当然のように人間がまともに食らえば歯車的砂嵐の小宇宙ともいうべき致死的なダメージとなる。具体的に言えばひき肉になる。

 

 ただでさえヤバイその咆哮(ムジャード)だけど、飛竜は空を飛んでいるから反動を気にしてそれほど威力を上げられない。

 じゃあ、がっしりとした足で地面にそびえるこいつの咆哮(ムジャード)はどうだろうか。

 それを呑気に想像して身をもって確かめるというのはちょっと悠長すぎる。

 

「ゲージたまるまで待つわけないでしょ……ってっ!?」

「もちろん、()()()なわけがないかしらぁ!」

 

 凶悪な範囲攻撃を繰り出される前に再殺をもくろんだ私の出足をくじいたのは、蜂だった。灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)だ。

 ユーピテルが不可思議な手の動きで空をなぞると、それに従うように灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)たちが私に襲い掛かってくる。

 それは先ほどまでの無造作に突進してくるだけの雑な弾幕ではない。的確にこちらを包囲し、隙をつぶすように波状攻撃を仕掛けてくる。

 おそらくはユーピテルが電磁波か何か、目には見えない力で蜂たちを操作しているに違いなかった。

 

「さあ、いよいよもって死ぬがよいかしら!」

「本家本元の蜂のスウォーム攻撃ってわけね……!」

 

 しかも、回避しつつ大鎌(ザ・デス)を振るって蜂を撃退していたのだけれど、全然減らない。大穴外縁から飛んできているのだろうかと思っていたのだけど、よく見ればそればかりではない。

 

「うげ……地竜の甲羅に()()してるっての!?」

「キヒヒハハハハハハ! これぞ生きて歩いて貪り尽くす、最強の機動要塞なのかしら!」

 

 地竜が立ち上がったことで見えるようになった甲羅の影や側面に、びっしりと張り付いていたのは灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の巣だ。拠点に蜂の巣を集めたばかりじゃなく、最大戦力である地竜本体に営巣させて、防衛戦力にしてるってわけだ。

 地竜はどうしても攻撃が大味で、素早くもない。それを直掩する機動部隊ってわけだ。

 

 しかも、よく見れば蜂の巣だけじゃなく、ソフトボール大はある巨大なダニが何匹も張り付いている。

 そいつらは地竜の血を吸っては、ひたすらに卵を産み続けているようだった。当然その卵からは、ダニが(かえ)る。あの厄介な紅真蜱(ルジャ・イクソード)たちが。

 

「地竜の血で紅真蜱(ルジャ・イクソード)を殖やして、その紅真蜱(ルジャ・イクソード)が周辺生物の血を集めてきては地竜の餌になって、そのエサで増やした血で紅真蜱(ルジャ・イクソード)が殖えて……なんて嫌なサイクルだ」

 

 そこに灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)たちが、血を吸われて衰弱した獲物の肉も運んでくるのだから、無駄もなく効率もよかろう。

 

 なんて感心してる場合でもない。

 そうしてみている間にも、巨大紅真蜱(ルジャ・イクソード)は卵を産み続け、その卵は順次孵化していく。生まれたばかりの紅真蜱(ルジャ・イクソード)たちは小さいながらもすでに活発で、跳ねまわりながら赤い流れとなって私を目指してくる。

 

 空からは灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)のスウォーム攻撃、地面は紅真蜱(ルジャ・イクソード)が覆い尽くさんばかりに流れてくる。

 別にユーピテルが最初から狙って用意したわけじゃないだろうけど、冗談抜きでこれはまずい。

 

 私の素の回避率は一八二パーセントってのは、前も話した。

 今はあれから上限を超えてレベルが少し上がり、装備も変えてるから若干変わってるけど、それほど大きく変わってはいない。

 だから物理的に回避不可能でもなければほとんど絶対によけられる。

 

 《エンズビル・オンライン》の仕様では、敵に囲まれると敵の数だけ回避率が低下してしまった。幾ら回避率が高くても周りを囲み込まれたらタコ殴りにされて食らってしまうってことだ。

 でも、いま私が装備している《ヴァニタスのまなざし》は、面倒な理屈は省いて説明すれば、この仕様をバグですり抜けられる。囲まれようが数で攻められようが百パー越えの回避率で避け続けられる。

 

 ただなあ。

 ただ、回避「率」っていうように、これ確率で計算してるんだよ。しかも「素の」回避率だから、状況や相手次第で変動する。

 私を囲み、空間を埋め尽くすような勢いで襲い掛かってくる虫どもは千や二千じゃきかない。まさしく万軍だ。万もいれば、まさしく万に一つがありうる。クリティカル・ヒットを重ねられた場合、確率は大いに変動し、計算結果次第では私にダメージを通しかねない。

 

 そして灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)には一応毒があるうえ、単発威力も結構高いので紙装甲の私にはきつい。紅真蜱(ルジャ・イクソード)などは張り付かれたが最後《SP(スキルポイント)》ががっつり削られることがわかってる。これが何匹もと考えたら、被弾は致命的だ。

 

「そこまで悠長なことも言ってられないかも……!」

 

 そう、万が一というその考え方さえ悠長だ。

 念のために装備しておいた《死の舞踏》が、まずいことになってきている。

 足元装備である《死の舞踏》は、みっちり囲まれてもMobをすり抜けられるというもので、逃げられないままタコ殴りにされて死ぬという地獄から解放してくれる。

 のだが、バグなのか仕様なのか、まあたぶんバグなんだけど、すり抜け時に座標指定がいかれることがある。だからあんまり使いたくなかったんだよ。

 

 どういうことかというと、囲まれた状態で抜け出そうとする→抜け出した先にもMobがいるのでそれもさらにすり抜けようとする→その先にもみたいな繰り返しがあると、画面外のはるかかなたまで吹っ飛ばされたり、最悪本来移動できないような場所に飛ばされて脱出できなくなる「*いしのなかにいる*」状態になりかねない。

 

 いま私はそのバグに翻弄されつつあり、もはや自分の意思から離れてあっちこっちに振り回されるように移動し続けていて、もはや自分の立ち位置が把握できないでいる。

 

「は? はあ? 避け……? なに? どうなってるかしら? 超スピード? 幻術? 違う、そんなちゃちなものじゃない……なんでレーダーに映らなくなる瞬間があるのかしら!? 存在確率そのものを操作しているとでも……?」

「わかったら教えて。切実に。マジで」

「なんで避けてるお前がわからないのかしらっ!!?」

「苦情は神様に言ってほしい」

「また! 神! の! 仕業かしら!!」

 

 だんだんと地竜の上で地団駄を踏むユーピテル。

 敵ではあるけど滅茶苦茶その気持ちはわかる。いやほんと運営(かみさま)仕事しろ。あるいは仕事するなというべきか。

 

「ええい、忌々しい邪神のせい! またか! またかしら! 絶対に許さんのよ()()()()()!」

「──待って、いまなんて」

「さあ、やーっておしまい!」

「あ、やべ」

 

 虫どもの回避とユーピテルの発言に気を取られている間に、()()は終わってしまったらしい。

 慌てて振り向けばそこには、溶鉱炉のように凶悪な輝きを漏らす巨大な口が、ぽっかりと開かれていた。

 

 地竜は足を踏ん張り、圧縮に圧縮を重ねた空気をおもむろに吐き出した。

 いや、それはもはやただの空気などとは呼べない。恐るべき圧力で折りたたまれた空気分子はバラバラに分解して原子に分かれ、さらに電子とイオンに電離してプラズマと化す。んだと思う。多分。きっとね。

 いや、私それどころじゃなかったから考察なんて後からしたようなもんで、正しいかどうかはわからない。

 

 激しい光とともに吐き出されたそのなにかは、抑え込まれていた莫大なエネルギーを瞬間的に開放した。私に思い付いた表現で言えば、それはプラズマの爆発だ。

 吐き出された爆心地は高温のプラズマによって灼き熔かされ、ついで圧力から解放されたことで折りたたまれた空気が急激に膨張、轟音とともに爆発し、融解した地面ごと吹き飛ばして大穴にさらなる穴をぶちあけた。っぽい。

 灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)紅真蜱(ルジャ・イクソード)も、盛大なフレンドリーファイアで瞬間的に蒸発して跡形もなく消し飛ばされた。んじゃないかな。

 

「キヒヒハハハハハッ!! さすがのプレイヤーも跡形もなく吹っ飛んだかしらぁ!?」

 

 自身もプラズマの負荷によってか血反吐をあふれさせる地竜と、その上で哄笑するユーピテル。

 私はというと、《技能(スキル)》で避けるわけにもいかず硬直しかけたところ、気づいたら上空からそんな地獄絵図の一部始終を目撃していた。

 多分、偶然座標指定バグで上空に打ち上げられたんだろう。これも高LUCのなせるわざか。運が悪ければ普通に死んでいただろう事実に、さすがに背筋が凍える。

 

 でも、まだ生きてる。

 生きてるから、間に合った。

 

「もとからアホほど《詠唱時間(キャストタイム)》が遅いやつだけど……こんなシビアな状況じゃ永遠かと思った」

「な!? 避けたかしら! この程度はということ……!」

「いや、さすがに肝が冷えたっていうか、GM判断の救済措置って感じもする」

「ええい! 空中なら今度こそ……!」

「でも二度目はなさそうだから、もう終わらせるね」

 

 私は《ザ・デス》を構える。

 重たいしかさばるけど、この《技能(スキル)》は、この装備じゃないと使えない特殊なものなのだ。

 

「死は来ませり、死は、死は来ませり──《収穫の時は来たれり(ハーヴェスター)》」

 

 《技能(スキル)》宣言と同時に、体の深いところからごっそりと何かが引き出される感覚がする。寒気を伴うような不快感。命を削るような悪寒。いままでにないほど瞬間的に《SP(スキルポイント)》が消費された。

 

 大きく鎌を振り上げれば、それに合わせるように、ぞろりと闇が立ち上がる。見たこともない、見ることもできない、くらやみそのものが立ち上がる。

 地竜さえも見下ろして立ち上がったそれは、古臭く黴の生えた、死神の姿をしていた。黒衣に身を包んだ、まっさらなされこうべ。虚ろな眼窩が地べたを這いずる有象無象を見下ろして、かたかたとあざ笑う。

 

 さあ。さあ、さあ。刈り取りの時だ。収穫の時だ。

 巨大な死神が、巨大な鎌を振り上げる。その姿は私にだけ見える幻覚などではない。

 呆然と見上げたユーピテルが、とっさに身構える。けれどそれは無意味だ。死神の鎌は、まるで影か幻のようにあっけなく彼女の体をすり抜けながら、地表をするりと撫で上げた。風の吹くような虚ろでむなしい音だけが、響いたような気がした。

 

「あ……あれ? な、なにもないかしら? きひ、キヒヒッ、た、ただのこけおどし、」

「じゃあ、ないよ。もちろん」

 

 ぼとり。

 

 それは、小さな音から始まった。

 

 ぼとり。

 ぼとぼとり。

 

 そして瞬く間に、音は連なる。

 

 ぼたっぼとぼとぼたり、ぼた、ぼたぼとぼた、ぼたぼたぼた、ぼと。

 

 ぼたりぼたりぼたぼたぼたぼとぼとっぼたっ。

 

 ぼとぼたぼとっぼたぼたっ、ぼた。

 

 ぼたっ。

 

 ぼたぼた、ぼた、ぼとり、ぼとぼとり、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたっぼとぼとぼたり、ぼた、ぼたぼとぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼたぼたっぼとぼとぼたり、ぼた、ぼたぼとぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼ、たぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた、ぼた。

 

 夕立のごとく突然に始まったその音は、最後の一つを落としてまた唐突に、終わる。

 

 ────()()()

 

「……は?」

「ステージギミックは早めに壊す主義なんだ」

「プ、レイ、ヤー……ッ!!」

 

 息絶えて落下した灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)紅真蜱(ルジャ・イクソード)の死体が、死体が、死体が、死体が、万を超える死体が、大穴に無残に降り積もった。

 地竜の甲羅に巣をつくったものも、大穴の外縁に構えたものも、全てが例外なく、容赦なく、慈悲もなく、根こそぎに死に絶えた。

 飛んでいたものも、巣の中にいたものも、幼虫も卵も、一切合切すべてがすべて、綺麗に死に尽くした。

 

 《収穫の時は来たれり(ハーヴェスター)》。

 それは《死神(グリムリーパー)》が覚える唯一の()()()()()()であり、《エンズビル・オンライン》でたったひとつの()()()()()()

 馬鹿みたいに詠唱に時間かかるし、極々低レベルの敵にしか通用しないけど……こういう、数だけは多い敵を一掃するには最適の《技能(スキル)》だ。

 

「君が油断ならない相手だっていうのはもう骨身にしみたから……次の手が出てくる前に、さっさと片付けさせてもらうよ」

「ま、またしても、またしてもお前らかしらプレイヤーッ!!」

「ああ……なんかわかんないけど……身内がごめんね?」

 

 どうやら、名前も顔も知らないご同輩たちがやらかしたらしいことだけはわかったので。

 申し訳ないけど、その憎しみの歴史にもう一人名前を付け加えてもらうとしよう。




用語解説

・《脳雲(ブレイン・クラウズ)
 詳細不明。《蔓延る雷雲のユーピテル》が用いる固有魔法と推測される。

咆哮(ムジャード)
 竜種が用いる攻撃方法の一つ。大量の魔力を風精などに乗せて吐き出す攻撃で、竜種が持つ最も威力の高い攻撃手段である。

・プレイヤー
 競技の選手や、遊戯の遊び手、また音響・映像記録媒体の再生機を指す聖王国語。
 また極めて特殊な個人または集団を呼ぶ語としても使用される。

・《収穫の時は来たれり(ハーヴェスター)
 ゲーム内《技能(スキル)》。
 《死神(グリムリーパー)》が覚える唯一の範囲攻撃魔法であり、《エンズビル・オンライン》全体でも唯一の範囲即死攻撃。
 攻撃範囲は「画面全体」で、最大で自身のレベルの十分の一レベルまでの敵に《即死》判定。
 《詠唱時間(キャストタイム)》は装備などで短縮できず固定で三〇秒。通常の《技能(スキル)》の《詠唱時間(キャストタイム)》が長くても数秒なので、例外的に長い。使用後の《待機時間(リキャストタイム)》も六〇〇秒と極めて長い。
 この《技能(スキル)》で倒した敵からは経験値、金銭、アイテムが手に入らない。
 これらはすべてナーフされ続けた結果であり、実装直後は「《詠唱時間(キャストタイム)》五秒で画面に映るすべての敵Mobに《即死》判定を行い、《待機時間(リキャストタイム)》三〇秒で再使用可能、経験値等も普通に手に入る」だった。
 なお、閠が使用時になんか言ってたのは別に詠唱でもなんでもないので必要ない。
『あなたのこれからが、実り多き人生であらんことを!』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 亡霊と死の足音

前回のあらすじ

恐るべきブリッジを魅せつけるユーピテル。
彼女の言う「プレイヤー」とは果たして。


 死屍累々っていうのはこういうのかな。

 大穴は灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)紅真蜱(ルジャ・イクソード)の死体でほとんど埋め尽くされていた。もはやそれらはピクリとも動かず、そしてしばらくの間は、腐ることさえもなくただ風に吹かれて枯れ果てていくのを待つばかりだろう。

 なにしろ空間中の微生物まで軒並み根こそぎまるっと皆殺しにしてしまっているらしいのだ。

 《生体感知(バイタル・センサー)》でも、背筋がぞっとするほどに清浄な空間が見えてしまった。

 

 この《収穫の時は来たれり(ハーヴェスター)》というスキル、広範囲の低レベルMobを一掃できる《技能(スキル)》なんだけど、お金もアイテムも、そして経験値さえも入らないために、これだけの大虐殺を行った私の手には、手ごたえというものは実は残っていない。

 一度使ったら十分は使えないので実用性皆無の産廃《技能(スキル)》だけど、こんな悲惨な光景をあっさりと生み出してしまうことを思えば、早々使うことなどないほうがいいのかもしれない。

 

 まあ、それはそれとして実装直後から弱体化(ナーフ)され続けたのは恨むけど。

 

「……巣の中の幼虫まで根こそぎ死んだみたいかしら。反応がまるで返らないなんて」

「まあ、そういうものだからね、これ」

「そういうもの、かしら…………やはり外傷なし、毒でもなし、呪詛もなさそう……致死レベルの放射線も感知できなかった……()()だから()()である、だなんて、全く度し難いかしら」

 

 蜂を拾い上げて観察していたユーピテルは、表情の消えた顔でぐるりを見回し、ため息をついた。

 あるいはその目には、何かしら肉眼では見えないものまで見えているのかもしれない。本人の言を信じるならば、それこそ放射線や電磁波まで見えているのか。

 そもそもこの世界の人間に放射線という概念が知識としてあるとは思わなかったけど……あるいはそれも聖王国の科学力の高さってことかな。

 

「さて、地竜はよみがえらせたみたいだけど、蜂やダニはどうかな。この数をまとめて生き返らせることは? できる? できないよね? できるって言われるとほんと面倒だからできないって言ってほしいんだけどほんと切実に」

「……できないかしら」

「そのかしらはどっちの意味……? まあ、できないってことだよね。うん。よし。結構」

 

 まだ手がないわけじゃないけど、この数を平然と蘇生されたりしたらかなりきつい。

 外傷なしだと簡単に蘇生させられるってことなら、物理的に破壊しつくさないといけない。そういうことをするためには、在庫に限りのあるアイテムを惜しみなく消費しないといけないからしたくないんだよね。

 

 私のそんな内心の焦りに気づいているのかいないのか、ユーピテルは手のひら大もある巨大な蜂の死体を手の中でもてあそぶ。というより、観察を続ける。

 

「まったく、どういう現象なのかしら。()()だから()()だなんて、神格存在どもは本当気軽に現実改変して……しいて言うならば呪詛に近い……けれど汚染は見られない…………本当に生命素を断ち切っている? いまもって仮説だけの存在……けどこれが実証にもなるかしら? 興味深い、まったく興味深いかしら」

 

 羽を、足を、頭を、胴を、無造作に開かれむしられ崩れていく蜂。そしてボロボロになったそれをあっさりと放り捨てて、ユーピテルは私を見た。

 いや、ただ見る以上に、私は何か見透かされたような気持ちになった。

 裸でいる以上の頼りなさ、心細さを感じる。

 見られている。見られているのを感じる。可視光だけじゃない、やはりこいつ、なにかを見ている!

 

「憎たらしいことこの上ないけど、それ以上に……()()()()()かしら。毎度のように毎度のごとく邪魔してくれやがるけど、これほどに肉薄できる機会は稀かしら。是非とも、なんとしても、捕まえて実験したいかしらぁ……」

 

 じっとり。

 質量さえ感じる視線に、気持ち悪さを覚える。異様な熱量がそこにある。輝かない光が瞳の奥で燃えている。不気味だ。生理的に無理。きもい。もはや単純な罵倒にしかならないレベルで()だ。

 

「いいかしら。やってやろうかしら。もとより虫どもは地竜が育つまでの給仕役。まだ若いけど、ここまで仕上がったなら、兵器としては十分!」

 

 ずん、とただ一歩で地響きを起こしながら、地竜が私に向かう。

 大きく口を開けて、大気を吸い込み圧縮し始める。咆哮(ムジャード)。しかしさっきのような大掛かりなものじゃない。

 プラズマ化まではさせずに、空気の砲弾を吐きつけてくる!

 

「確かめるかしら! お前の挙動!」

「君のような勘のいいガキは嫌いだよ……!」

 

 とっさに飛びのいて回避すれば、地面が吹き飛ばされ、土塊が弾丸のように周囲に飛び散る。

 私がそれをよけている間に、地竜はさらに息を吸い込み、次の咆哮(ムジャード)を放ってくる。

 

 こいつ、ユーピテル、私の自動回避に勘づきつつある!

 先ほどは咆哮(ムジャード)をよけられたけど、あれはたまたま座標指定がバグって上方に打ちあがってしまったからだ。

 《死の舞踏》の効果は敵集団を透過してすり抜けられるけど、攻撃そのものに対してその判定は発生しない。

 咆哮(ムジャード)のような面の攻撃に対しては、すり抜けも回避もできない。

 

 ユーピテルはそういう理屈はまだわかってない。

 だから牽制もかねて連続咆哮(ムジャード)で私を試している。

 

「ほらほらほらァ! 回転上げていくかしらぁ!」

「このっ、調子に乗りやがるなあ……!」

 

 咆哮(ムジャード)を正面からすり抜け可能ならば、地竜本体が噛みつきなりで仕掛けてきただろう。そうして回避の限度を探ってきただろう。

 さっきのように上方に逃げたなら、身動きできない空中に攻撃を繰り出せばいい。空中で対処できるなら、その手段も学習できる。

 そしてすり抜けできずに後方にしか逃げられないなら、ひたすらに咆哮(ムジャード)を繰り返せばごり押しできる。

 

 そもそも向こうは私をここで仕留める必要がない。

 地竜を育てる餌集めと、周辺地域への浸透制圧戦略を担っていた虫たちは全滅した。そのうえ咆哮(ムジャード)まではなって派手に暴れている。これ以上ここに隠れ潜んで力を蓄えることは現実的ではない。

 

 ユーピテルの大目標は、ここを離れて次の拠点を用意することだ。

 私を仕留めれば目撃者がいなくなってそれが楽になるだけで、育て上げた生物兵器とともに無事に離れられるならば、私などはどうでもいいのだ。

 まともに攻撃を当てられない私を捕まえたり仕留めたりはあくまで小目標であって、大目標だけでいいなら無尽蔵のスタミナで私を追い払い、撤退に追い込むだけで済む。

 

 忌々しいことに、この戦法は私に対して有効だった。

 

 地竜の咆哮(ムジャード)は最初のと比べれば威力を絞ったものだけど、それでも前方の地面を扇状にえぐり吹き飛ばす範囲攻撃で、紙装甲の私が食らえばただでは済まず、一撃でも受ければそのまますり潰される。

 そんな威力の咆哮(ムジャード)が、ほとんど絶え間なく繰り出されてくる。

 ためというためがほとんどない。息を吸い込んで、咆哮(ムジャード)、息を吸い込んで、咆哮(ムジャード)。最初に距離を取らされたのが痛い。懐に入り込む前に次の咆哮(ムジャード)が来る。

 

 地竜のスタミナは恐るべきもので、その繰り返しを平然と行ってくる。プラズマで焼けた喉も、すでに回復しつつある。血反吐を吐きながら咆哮(ムジャード)を吐き続け、損傷と再生を繰り返し、その微妙なバランスは完治へと傾きつつある。

 あるいはその身体を痛めつけるような攻撃も、ユーピテルが何かしらの洗脳手段で強制しているのかもしれない。痛みもなく、スタミナ切れもない、装甲で固められた砲台。厄介すぎる。

 

「なら《縮地(ステッピング)》────おわっ!?」

「そぉらぁ! このワタシがいることも忘れちゃ困るかしらぁ!」

「《無敵砲台》の二人を思い出すなあ……!」

 

 こうなれば地竜など相手にしていられない、司令塔であり蘇生係であるユーピテルを直接仕留めに行こう、などと考えて咆哮(ムジャード)回避直後に《縮地(ステッピング)》で接近を試みれば、即座にユーピテルの手のひらから電撃が走る。これには自動回避が発動したけど、それも避けてからわかったようなものだ。

 ユーピテルが光ったかなと思った瞬間には、もう回避していて、それから電撃が襲ってきていたことに気づいたのだ。

 

電気遣い(エレクトロ・マスター)の厄介なとこだ……!」

「それを避けるお前もたいがいかしら!」

 

 光の速さとまではいわないまでも、音速を軽々と超えてぶち込まれる攻撃は、この世界では例外的な速さだ。しかも空気中だというのに私を直接狙ってくる精密性。まあ、直進しかできない《縮地(ステッピング)》を狙い撃つのは難しくなかっただろうさ。

 リリオの必殺技もたいがいだけど、ユーピテルの電撃はそれをただの汎用攻撃レベルにまで実用化させている。つまり、連続で来るってことだ。

 

 そして当然のように、そんなところで踊っていれば、

 

「ひき肉になるかしら!」

「ひき肉じゃすまないでしょこれ!」

 

 咆哮(ムジャード)

 跳び退(ずさ)って結局振り出しだ。

 しかも私の評価を上方修正したらしく、咆哮(ムジャード)に紛れて電撃も飛んでくるからたまったものではない。

 

 地形を盛大に変えるマップ兵器の、おきて破りの毎ターン連続攻撃を避けながら、私は考える。

 

 《影身(シャドウ・ハイド)》、という《技能(スキル)》がある。

 これは魔法《技能(スキル)》のひとつで、自分自身を影に変えてしまうことで、本来避けられない範囲攻撃もすり抜けて回避が可能になるという《技能(スキル)》だ。

 消費は大きいが、こういうボスの範囲攻撃を避けるのに重宝する……のだけれど。

 

「タイム! ターイム!」

「ノータイム! 鮮度のいいうちにひき肉にしてやるかしら!」

「まだ生きてるんだよなあ!」

 

 そういう範囲攻撃っていうのは、必殺技というか、大技というのを想定してるんだよ、本来。

 ドカンと一発の大技を耐え忍んで反撃に移るっていう、そういうやつなのだ。だから、こんなに連発されると、いくら回避できようと反撃に移る暇がない。

 《影身(シャドウ・ハイド)》を使っている最中は攻撃も、他の《技能(スキル)》の使用もできないし、移動速度に制限がかかるから、接近するのに時間がかかる。《SP(スキルポイント)》を食いすぎるし、相手は動かない固定砲台でもポンコツAIでもない。普通に距離を取られておしまいだ。

 

 回り込むように移動し続けているけど、地竜は柱のような四つの脚でずがんずがんと地面を掘り返しながらすぐに方向転換してしまう。でかくて重いからとろい、ってこともなく、むしろ巨体はそのまま一歩一歩のストロークの長さを意味していた。

 

 となれば、私に必要なのは、範囲攻撃を回避しながら、ユーピテルの電撃にも対処して、高速で地竜に肉薄して、すぐに強力な攻撃に移れる、そういう手段だ。ばかばかしい。

 こんな状況でも入れる保険があってたまるか。

 

 ユーピテルが私を無理に殺したり捕まえたりする必要が実はないように、私もユーピテルをここで何としても仕留めなきゃならない理由はない。

 リリオとトルンペート、そしてまあ成り行きではあるけど村人たちをむしばむ奇病の原因はここで根絶やしにした。

 こいつが聖王国の破壊工作員だっていうなら、領主や帝国の偉い人に通報して対処してもらえばいい。

 

 大きく後退して肩で息をする私に、ユーピテルは攻撃の手を緩めた。

 地竜はゆっくりと息を吸い込んで咆哮(ムジャード)をため込んではいるが、こちらをうかがっているらしいのがわかる。

 

「さあて……いい加減大人しくしてくれるのかしら?」

「……私は怖かったんだ」

「あら、いまさら後悔してるかしら? 大人しく実験動物になるなら優しくしてあげるかしら!」

「私は怖かったんだよ。リリオが、トルンペートが、死んじゃうかもって思ったら、怖くてたまらなかった」

「……誰? ああ、お仲間かしら。別にそっちには興味がないから、どうでもいいかしら。ああでも、プレイヤーだったら……」

「私はそうじゃなかった……そういうんじゃなかった。そうであってはいけなかった。入れ込み過ぎた。今更かもしれないけど、リリオの冒険に私は邪魔だったんだ……でも、もう遅い。二人が私を壊してしまった……違う……私が…………二人をダメにしてしまう…………それでも」

「なにを妙なことを……!?」

 

 私はその《技能(スキル)》を使うことを決意した。

 莫大な《SP(スキルポイント)》が支払われ、体の奥底から何かが失われていく、

 指先が冷えていき、それなのに心臓は熱く火照る。

 今にも破裂しそうな鼓動をこらえるように胸元を握り締めれば、そこからあふれ出ていくものがある。

 

「────《いまという花を摘め(カルぺ・ディエム)》」

 

 宣言。それは祈りのように頼りなく、後悔のように重い。

 私の心臓から伸びてきた一輪の薔薇、それをそっと引き抜く。

 血のような赤い花。肌を引き裂く鋭いとげ。

 命そのものから咲いたその輝きを──握りつぶす。

 

「……!? なにかわからないけど、なにかヤバいかしら!」

 

 地竜の咆哮(ムジャード)が激しく大地を吹き飛ばし、間髪入れずにユーピテルの電撃がその一帯を激しくかき回す。

 私はそれを、ユーピテルの後ろから見ていた。

 

「──────ン…ん…なぁ……っ……!……?」

 

 気配か、電磁波か、遅まきならに私に気づいて振り返ろうとするユーピテルを、私は見ていた。

 ゆっくり、ゆっくりと振り向くのがよく見える。

 振り向きざまに右手が振るわれ、流れるように肩から指先へと電流が伝い、そして電撃となって空をかけるのを見ていた。放たれる電撃を予測して半歩横によけて、その青白い閃光を横から眺めさえした。

 

 ユーピテルが何かを言おうとしているのが見える。その声が聞こえる。

 でも言葉はわからない。それはあまりにもゆっくりすぎた。

 

 ねばつく重たいゼリーのような空気をかき分けて、私は地竜の頭に降り立つ。

 ともすればどこまでも飛んで行ってしまいそうになる体を慎重に抑えて、岩のようなその肌の上に陣取る。

 

 ユーピテルが振り向こうとしている。

 でも、それはもう遅い。

 遅すぎる。

 

 私は大鎌(ザ・デス)を振るう。

 それは()()()地竜の分厚いうろこの隙間に突き立ち、鋭い傷跡を作る。幸運の一撃(クリティカル・ヒット)。でもそれはまだ浅い。

 大鎌を振り上げ、また振るう。

 それは()()()同じ傷跡に突き立ち、傷跡を広げる。幸運の一撃(クリティカル・ヒット)。でもそれはまだ浅い。

 大鎌を振り上げ、振るう。

 それは()()()広げた傷跡に突き立ち、さらにその傷跡を広げる。幸運の一撃(クリティカル・ヒット)。でもそれはまだ浅い。

 振り上げ、振り下ろす。

 ()()()傷跡を広げる。幸運の一撃(クリティカル・ヒット)。でもそれはまだ浅い。

 振るう。

 ()()()幸運の一撃(クリティカル・ヒット)。でもそれはまだ浅い。

 攻撃。

 幸運の一撃(クリティカル・ヒット)。でもそれはまだ浅い。

 

 幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)。普通の一撃。幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)幸運の一撃(クリティカル・ヒット)

 

 幸運の(クリティカル)、おっとぉ、空振(スカ)った。

 というより、地竜の首がそこで泣き別れした。実時間で一秒間、百六十発くらいかな。()え物切りの部位破壊とはいえ、さすがに硬い。

 っていうか、これ殺し切ったというか、《即死》入ったっぽい。ボスなのにずいぶんあっさり片付けちゃってごめんだけど、でも《即死》耐性持ってないほうが悪い。

 

 切断した首が、ゆっくりと落下していく。ようやく振り向いたユーピテルの顔がゆっくりと驚愕に歪んでいく。

 

「降参してほしいんだけど──あ、だめか」

 

 私の言葉に、ユーピテルがゆっくりと顔をしかめ、耳元に手を持っていく。

 うーん。遅い。遅すぎる。

 もちろん、これは私のほうが()()()()だけだ。

 私のとんでもない早口は、彼女の耳には可聴域を大きく超えて聞こえていることだろう。

 キーンとかキュルルとか、動画の再生速度を上げていくと声が聞こえづらくなる現象、あれのもっとひどいバージョンだ。

 

 《いまという花を摘め(カルぺ・ディエム)》。

 それは《エンズビル・オンライン》でも最上級の速度増加《技能(スキル)》だ。

 

 ゲーム内ではあらゆる行動にAGI(すばやさ)がかかわっていた。攻撃速度に移動速度、一部の《技能(スキル)》にも影響した。

 ゲーム用語では、一秒間にどれだけダメージを叩き出せるかというのをDPS(Damage Per Second)つまり秒間火力という。この数字の上げ方は単純にSTR(ちからづよさ)を上げたり、強い武器を装備したり、強い《技能(スキル)》を使ったりするという単発火力を上げるほかに、殴る回数を増やすという方法がある。

 つまり、一秒間に殴る回数が増えれば、当然ながら一秒間に一回しか殴れないやつより実質的に与えられるダメージが増える。しかも殴る回数が増えるということは、幸運の一撃(クリティカル・ヒット)をそれだけ多く判定させられるということでもある。

 だから火力を高めようと思ったら、単発火力のみならず攻撃速度をも高水準で併せ持っていないといけない。

 

 そのため、武器攻撃職、つまり私みたいに武器を持って敵を直接攻撃するプレイヤーは、《技能(スキル)》や装備、アイテムの効果などによって一時的に攻撃速度を二倍とかにする、実質火力二倍とかは標準装備と言っていい。

 

 で、二十倍だ。

 なにがって、そりゃあ、《いまという花を摘め(カルぺ・ディエム)》の速度増加効果ね。

 最上級職である《死神(グリムリーパー)》が最大レベル付近で覚える《技能(スキル)》で、《技能(スキル)》レベル最大まで育て上げて、っていう気の遠くなるほどの時間がかかる……つまり廃プレイヤーなら義務教育程度の労力で手に入る公式チートだ。

 なにしろこれ使うだけで二十倍の火力を叩き出せるのだから、声を揃えて「バカか?」と言われるのも仕方ない。

 効果時間は実時間で五秒間だけだから、起動させたらあとは何も考えず殴るくらいしかできないけど、それでも十分すぎる。

 

 なんでこのチートがナーフもされずに今も使えているかというと、デメリットがでかいからだ。

 この《技能(スキル)》は、超加速で圧倒的に火力を高められるけれど、効果時間が切れたら終わる。

 終わるっていうのは効果がってことじゃなくて、命が。

 命が、終わる。比喩表現でも詩的表現でもなく、死ぬ。

 使用後五秒で、確定で《即死》する。

 そんな自爆確定のピーキーすぎる設定なのだ。

 

 さて、その五秒のうち二秒くらいが過ぎたけど、私からするとそれなりの時間だ。

 なにしろ体感速度も二十倍だ。二秒間の二十倍は四十秒。

 残り時間は実時間で三秒、私の体感時間で一分間。なんかしてたらすぐだけど、ぼんやり過ごすと長い。

 

 などとぼんやり見ていたら、ユーピテルの体を紫電が駆け抜けた。

 さすがに電流はこの二十倍の速度でも滅茶苦茶速いな、などと思っていたら、そのまま電流をまとった蹴りが鋭く迫ってきて、とっさに自動回避していた。

 

「へえ……加速した世界に入門してくるとはね」

「フフン……これも我が《脳雲(ブレイン・クラウズ)》のちょっとした応用、電気信号」

「まさか直接電気信号を直接末端神経に送り込んで高速で操作するとはね」

「少しは驚くかしら!!」

「大分驚いてるよ」

 

 でもそれ、割とメジャーなんだよなあ、電気遣い界隈。

 

 私は焦げ臭いにおいをゆっくりと嗅ぎながら鎌を向ける。

 

「大分無理してる技だ。自分を焦がしながらとは恐れ入るね」

「無理はお互い様かしら。お前の心臓は異常な鼓動を繰り返してるかしら。それがいつまでももつわけがない!」

「お互い時間がないわけだ……」

 

 私の鼓動はいま、少し早めだ。

 体感時間二十倍の私が少し早めに感じるということは、BPM一六〇〇超のギネスもびっくりの新記録を叩き出していることだろう。当然人間はそんなエンジンみたいな拍動に耐えられるようにはできていない。

 

「私としては、いま降参してくれれば、命までは取らないよ」

「ふうん、お優しいことかしら?」

「あとは司法に任せる」

「受けるとでも?」

「──── いいや」

「そうね。ぜぇーーーったいに、ノウ! かしら!」

 

 瞬間、ユーピテルの全身が発光し、爆発的に電流がほとばしる。

 でもそれは目くらましだ。光に紛れて、一切のためらいなく後方に跳躍する姿が見えた。

 そうだ。彼女には、無理をして私を殺す必要がない。

 生物兵器という大目的はすでにして失われてしまったが、それは同時に重たく目立つ足枷から解放されたということでもある。

 同じ加速状態にある私たちだけど、私のほうが先にはじめたのだ、限界も私のほうが先に来るという読みは、実際正しい。ユーピテル一人であれば、それを振り切って逃げるのは造作もないことだろう。

 

 私はそれがわかっていた。口では降参を勧めたけれど、それで済む相手とは思えなかった。

 なにより、逃げてくれれば()()()()()から。

 

 颯爽と逃げ出したユーピテルの背中はもう遠い。

 だけど、まだ見えてる。見えてる分には、問題がない。

 

「────《死を忘ること勿れ(メメント・モリ)》」

 

 それは紫電よりも速い、光よりもなお速い。

 《技能(スキル)》の結果を見届けることもなく、私は独り、地竜の背に腰を下ろした。おろしたというより、ほとんど崩れ落ちたようなものだ。

 鼓動はますます早まり、視界が薄暗く、狭まってきた。耳鳴りもする。鼻血は、出てないかな。出てないといいな。格好悪いし。

 

 残り一秒。体感時間で、二十秒。

 何かするには短く、なにかを思うには長すぎる。

 

 ユーピテルは逃がしてしまったけれど、大量破壊兵器になりかねない地竜は仕留めたし、リリオとトルンペートを苦しめ、村人たちを(さいな)んできた紅真蜱(ルジャ・イクソード)の女王は根絶やしにできた。

 まだ生き残っている紅真蜱(ルジャ・イクソード)も、生殖能力を持たないというから、あとは消えていくだけだろう。

 自動蘇生アイテム《聖なる残り火》はリリオとトルンペートに預けた分で最後だから、私の分はもうない。ない時に限ってこうなるから、なにか運命的でさえある。

 

 やるべきことは全て済ませたように思う。

 できることはすべてこなしたように思う。

 だからもう、これでいいだろう。

 だからもう、ここでいいだろう。

 

「さあ──、死のうか」

 

 

 

 

 

   ◆◇◆◇◆

 

 

 

10

 

 走っていた。

 走っている。

 筋肉は悲鳴を上げ、骨は軋みをあげ、皮膚は焦げていき、全身が死につつある。

 

 でも、それでも、生きている!

 生きているなら、私の勝ちだ!

 

 《蔓延る雷雲のユーピテル》は森を駆け抜けながら笑った。

 電気信号による強制的な身体強化はすでに解除していたが、走りながらの哄笑は肺にひどく負担をかけ、まるでおぼれかけの喘鳴のようなひどい声だった。

 

 地竜の餌集めと周辺地域の流通麻痺を狙った紅真蜱(ルジャ・イクソード)は駆除され、時間をかけ労力を注いできた肝心要の地竜さえも破壊されてしまったが、それさえも大したことではなかった。

 いや、手痛い損失は十分大したことだったが、それでも、損失以上に得られたものが大きかった。

 

 

「はっ、ぜっ、はっ、ひっ、ひひっ、くひひっ、()()()()()……!」

 

 おぞましく、恨めしく、憎たらしく、そして素晴らしい性能をみせるあの神の駒ども。

 その一つと直接対峙して、その能力の一端にでも触れられたのは僥倖だった。

 あの時も、あの時も、あの時も、何か大きな企みが実を結ぼうとするとき、やつらは現れた。神格存在どもに選ばれた、やつら謹製の超存在。ただいること、それだけが現実性を歪めていく特異点。

 何度も邪魔されてきた。何度も裏切られてきた。懐柔しようとしたこともあった。ひたすらに回避しようとしたこともあった。広く監視してその芽を摘もうともしてきた。

 だがそのすべてが潰えてきた。潰されてきた。

 

 その歴史を……まさしく二千年になんなんとする歴史を思えば、今回の一戦はむしろ稀に見る成功と言っていい。成功も成功、大成功だ。

 プレイヤーの現実改変能力を直接確認し、その限界を推しはかり、なおかつ生きて逃走まで果たした。

 

 

 プレイヤーは、絶対ではない。

 やつらは神格存在どもに導かれ、ピンポイントでこちらを妨害してくる。

 けれど、防げる。防げるのだ。

 今回は判断が遅れて、手札を捨てる羽目になった。だがそれだけだ。

 二千年の間に失ってきたもの、奪われてきたものを思えば、この程度のロスは微々たるものだ。必要なベットだったといってもいい。

 地竜ほどの手札を揃えるには時間も労力もかかるが、それとて不可能ではない。

 第一、時間は常にユーピテルの味方なのだ。

 ピンポイントで現れる奴らは、所詮その時だけの障害。

 ほんの数十年、あるいは百年そこら、その間に消えていき、飽きられていく、その程度の駒。

 

 

 十分に距離を取り、ユーピテルは足を緩める。

 痛みも苦しみも消してしまっているが、肉体の物理的な不具合はもはや無視できなかった。

 足はガクガクと震え、呼吸は落ち着かず、心臓は跳ね回って踊り続ける。

 電気信号を調整して少しずつ鎮静化させているが、それらは体に必要な働きだ。あまり無理もできない。

 

 

 脱げ落ちかけた白衣を引きずり上げ、ほとんどずり落ちた眼鏡をかけなおす。

 その動作が、ユーピテルの興奮した心を少しずつなだめていく。

 そうだ。ルーティーンだ。ルーティーンワークが大事だ。

 ユーピテルがユーピテルであるために必要な、ユーピテルを形作る器。

 

 

「くひ、きひひっ……すー、はー、すー、はー、げほっ、ぐ、ううっ、ぐふっ、はー」

 

 笑いを抑え、呼吸を整える。

 こけつまろびつ逃げ回り、みっともなく息を荒げて、ボロボロの体を引きずって……それは美しくはない姿だった。誇れるところなどない姿だった。

 だが、ユーピテルは胸を張る。最後に笑うものが勝ちなのだ。最後に笑うためにあらゆることをしてきた者が勝つのだ。

 

 

 そしてユーピテルは何でもしてきた。ありとあらゆることをしてきた。

 愛するものを失い、信じたものに裏切られ、ただ一人戦い続けてきた。

 すべては祖国のため。聖王国のため。二千年前に失われたすべてのため。

 この地上から薄汚い木偶どもを根絶やしにし、おぞましいモンスターどもを打ち払い、邪神どもに戦いを挑み、引きずりおろすのだ。

 

 

 ところでこれはなんだろうか、とユーピテルは頭上の「3」を見上げた。

 さっきまでそれは「10」だった。走っている最中はもっと大きな数字だったような気もする。

 それはだんだん数を減らして、いまや「3」になっていた。

 

 

 疲れた頭でぼんやりと見上げている間に、数字は「2」になった。

 手を伸ばしてみても、それは実体があるものではないのか、ただホログラムのようにすり抜けてしまう。

 可視光でも、赤外線でも紫外線でも、見えはしても触れられる実体がない。

 レーダーには何も映っていないのだ。

 

 

 ついに「1」になった。

 ユーピテルは妙に不安になってきた。

 この不思議な数字からは何の圧力も感じない。見上げなければ気づかないほどに存在感もない。

 ただそこにある。そういうものとして、そこにある。

 ()()だから()()だというものを、さっきも見たような気がして。

 

「なんなのかしら、これ?」

 

 

 




用語解説

・《無敵砲台》
 《無敵要塞》などのぶれあり。
 《エンズビル・オンライン》でウルウと同じギルド《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》に所属していた二人組のプレイヤーのコンビ名。
 がちがちに防御特化のタンクと、全属性対応の魔法アタッカーというシンプルゆえに崩しにくい厄介な組み合わせだった。

・《影身(シャドウ・ハイド)
 《隠身(ハイディング)》系統のハイエンド。隠密効果はむしろ下がったが、攻撃に対する回避性能が非常に高い。
 発動中攻撃不可になる代わりに、物理攻撃無効の他、一部障害物の無効、魔法・範囲攻撃に対して確率で回避といった高性能な《技能(スキル)》。
 《SP(スキルポイント)》消費は激しいので、ボスの範囲必殺技を回避したりという使い方が多い。
『俺自身が影となることだ』

・《いまという花を摘め(カルぺ・ディエム)
 ゲーム内《技能(スキル)》。
 《技能(スキル)》レベル最大の場合、使用者の移動速度を三十倍、攻撃速度を二十倍に増加する。効果時間は五秒。その後《即死》効果を付与する。この効果は解呪《技能(スキル)》等で解除することはできない。
 この《技能(スキル)》使用中に攻撃《技能(スキル)》等を使うことも可能だが、《待機時間(リキャストタイム)》は短縮されない。
 後方で蘇生役が待機して、死ぬたびに蘇生して何度でも使わされる地獄のような光景もたまに見られたが、《待機時間(リキャストタイム)》が長めなので普通に戦ったほうが効率はいい。
『飲め、歌え、そして死ね!』

・《即死》耐性
 基本的に《エンズビル・オンライン》のボスMobは《即死》に対して耐性を持っており、《即死》頼りの《暗殺者(アサシン)》などには厳しい相手であることが多い。
 だからこそ、それを突破できる《死神(グリムリーパー)》の《貫通即死》は話題になったのであり、そもそも普通の《即死》が通るような奴にボスを名乗る資格はないのである。
 ただ、《エンズビル・オンライン》古参という性根の腐った連中は、日々あの手この手で強制的に《即死》を付与しようとシステムの穴を突き続けており、《実質即死》などと言う謎ワードまで生まれている始末である。

・《死を忘ること勿れ(メメント・モリ)
 単体指定魔法《技能(スキル)》。
 対象のレベルやステータスに応じてカウントダウンを開始し、ゼロになると同時に確定で《即死》を付与する。確定なので、解呪するか《即死》耐性を持たない限り確実に《即死》させる。
 高レベル帯のボスMobなどは現実的でない桁のカウントダウンになってしまい、普通に戦ったほうが速い。
 しかし移動速度が速くすぐに逃げてしまうMobなどに対してはデスポーンしない限り確実に倒せるので、高経験値の逃走型Mob狩りに便利。
 なお、シビアではあるものの会話イベントなどの直前に使用すると、会話ウインドウの裏でカウントダウンが進み、会話終了と同時に死ぬというかわいそうなハメ殺しも可能。
 また《仮死の妙薬(マンドレイク)》との合わせ技で、寝てる間に勝手に死んでくれるという、通称「ここでタイマーストップDeath」が一時期猛威を振るったが、当然のように修正された。運営仕事すんな。
『二度はあり得ない。しかし一度は避けられない』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 それでもぼくはきみに笑おう

前回のあらすじ

死ぬまで殴れば実際死ぬ。
前王朝時代の英雄アーサー・ペングラタンのコトワザである。


 いや死んでないよ?

 全然死んでない。

 

 なんかそれっぽい空気出しちゃったけど二度目。

 さすがに私も何の準備もなしで死んだりしたくないし、ちゃんと備えてるよ。

 まあでも一番怖いのは、死んでもゲームと同じ仕様で、デスペナルティ付きで神殿とかでリスポーンしちゃうことだよね。死ぬのも怖いけど、死ねないのも怖い。自分の身でスワンプマンは試したくない。

 

 で、死ぬ死ぬ詐欺の話ね。

 《いまという花を摘め(カルぺ・ディエム)》を使うと死ぬっていうのは、これホント。

 ただこれさあ、システム的に死んだ状態にするっていうやつなんだよね。

 もし効果時間中に死んじゃって、死んでる間に効果時間過ぎるとするじゃない。それで誰かに蘇生してもらった後、《技能(スキル)》の効果でまたすぐ死んじゃうってなったら、そりゃバグだよって言われるじゃない。

 だから、死んだらこの「直後に死ぬ」効果はなくなるんだよ。

 

 で、《仮死の妙薬(マンドレイク)》。

 これ使うと《仮死》になるんだけど、これ一応システム的には死んでるんだよね。

 条件付きだけど、これ死亡してるって判定されるの。

 だから《仮死》状態になると、バフもデバフも基本全部解除されちゃうんだよね。

 なんでそういう処理にしたのか知らないけど、死んでるから基本Mobにも襲われなくなるし、経験値とかも入んない。

 

 この二つを組み合わせるとね、完成しちゃうわけだよ。素敵な死ぬ死ぬ詐欺が。

 《いまという花を摘め(カルぺ・ディエム)》を使って大暴れして、効果で死ぬ直前に《仮死の妙薬(マンドレイク)》で《仮死》になる。するとシステム的には一度死んだって判定されちゃって、《いまという花を摘め(カルぺ・ディエム)》の《即死》判定がキャンセルされる。

 あとは《仮死》を解除すれば、ペナルティの支払いを踏み倒してすぐに復帰できるっていう、ね。

 

 厄介な状態異常とかを強引に振り切る方法としても活用された、人呼んで「秘技死んだふり乱舞」というやつだ。PvPでも使うやつがいて、一時期は「死体は二度殺せ」っていう風潮があったよ。

 

 そうして無事に死亡回避した後、私は疲れた体を引きずって村へと帰った。

 地竜の死体とか、素材になりそうなものは面倒なので全部置いてきた。剥ぎ取りが面倒だし、丸々全部インベントリに放り込んでも出す場所に困るし。

 あれはお金にもなりそうだから、今後が大変だろう村の人たちの復興資金にでもしてもらおう。

 

 村にたどり着いたころには、うっすらと日が昇り始めていた。

 行きは急いで走ったけど、帰りは疲れてとぼとぼ歩いてきたし、死神そのままの装備じゃ風聞が悪すぎるので着替えたりもしたし、まあそのくらいはかかるだろう。

 

 念のために《生体感知(バイタル・センサー)》を使ってみると、紅真蜱(ルジャ・イクソード)たちの気配はだいぶ薄れていた。というより、組織立った行動をとっていた赤い光点が、いまはただばらばらにうろついているだけで、あとはもう消えていくばかりなんだろうなというのが察せられた。

 

 灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の残党がまだいくらか飛び回ってはいたけれど、帰る巣のなくなったこいつらはどうなるんだろうか。村人の安全のために、見かけた分はすべて《ザ・デス》で切り払っておいたけど、まあ生物多様性よりも人命優先だ。仕方ない。

 

 村長宅にたどり着くと、風呂の神官エヴィアーノさんと、村長のコールポさんが出迎えてくれた。

 紅真蜱(ルジャ・イクソード)たちが不活性化したことで、村人たちは徐々に衰弱を脱しつつあるみたいで、二人は彼らの回復に努めているみたいだった。

 エヴィアーノさんは風呂の法力(風呂の法力???)を込めた井戸水を人々に配っていて、村長さんは薬研でゴリゴリと薬草をすり潰していたけど、正直腹筋ローラーで筋トレしているようにしか見えなくて、一瞬遠い目をしてしまった。

 

「おお、帰られたか! よくぞご無事で!」

「ええ、まあ……なんとかなったみたいですね」

「ああ、紅真蜱(ルジャ・イクソード)たちが急に減ってね。残ったものも動きが鈍く、新しい被害はもう出ていないんだ」

「そうですか、それはよかった」

 

 水を浴びてきたらどうだろうか、疲れているだろうし、それにひどい顔色だ。

 そう言われて、井戸で水を組み上げて桶の中を覗き込んでみたけど、揺れる水面に映る顔色なんか、私にはわからなかった。

 でもまあ、元気快活朗らかな顔色ってわけではないだろう。

 それはもう妛原閠ではない別のなにかだ。

 

 ……まあ、それだけでもなく、顔色も悪くなるだろうけど。

 

 私は頭から水を浴びて、一息ついた。春先で、明け方となればまだ肌寒い。水は冷たく、刺すようでさえある。けれど、それによっていくらか気のまぎれる部分もあった。冷たい水が、目に見えない汚れを洗い流してくれるようだった。

 

「そういえば、クヴェルコさんは?」

 

 医療従事者である医の神官見習いの娘の姿は、見えなかった。

 今村に必要なのは彼女の献身的な介抱だろうと思ったのだけれど、聞いてみれば遣いに出たという。

 

紅真蜱(ルジャ・イクソード)が落ち着いて、あんたがなにかやってくれたんだろうって思ってね。とにかく早いうちに領主に知らせなけりゃならんかったし、それに、村長も気丈にふるまってはいるが、息子さんのことが気にかかっているようだったから、一番体力が残っているあの子に走ってもらってるんだ」

「ううん……彼女一人で大丈夫なんですか?」

「幸い、というかなんというか、害獣どももみんなやられてしまってるから、かえって今の街道はよほど安全だよ。それにああ見えて彼女は巡礼の医の神官だ。旅慣れてるし、度胸もある」

 

 そういうものらしい。

 しかし、確かに動けるものは動かなければ、この村はにっちもさっちもいかないだろう。

 いくら紅真蜱(ルジャ・イクソード)が収まったとはいえ、村人たちはまだ回復せず、病人の群れでしかない。領主なり近隣の人々なり、救援が必要なのは確かだ。

 

 一息ついてから、私は恐る恐るリリオとトルンペートを見舞った。

 廊下の一角に、かろうじて薄い毛布を敷いて寝かせられた二人は、出る前とは違って穏やかな寝息を立てていた。もう苦しげな顔はしていない。少しやつれたように見えるけど、でも、確かに生きている。

 

 かために絞った手拭いで汗を拭いてやりながら、その体温や肌の様子を検めていると、二人はゆっくりと目を覚ました。

 

「ん、ん……あれ……?」

「……うぇあ……ここどこよ……?」

「二人とも、大丈夫? 痛いところはある?」

「ウルウ……? 私は……?」

「ふたりとも、悪い病気にかかっていてね、少し休んでいたんだよ」

「そう、だったのね……悪かったわね、面倒かけて……」

「いいんだよ。ふたりにはいつもお世話になってるしね」

「うぇ……なんかきもちわる……」

「失敬な」

 

 減らず口が叩けるなら、あとはもう大丈夫だろう。

 まだつらいところ悪いけど、汗を拭くついでに服も着替えさせる。

 完全に意識のない人間を着替えさせるのは難しかったから、前をくつろげさせる程度しかできなかったのだ。いくらか過ごしやすい服に着替えてもらって、ゆっくり休んでもらおう。

 ああ、意識が戻ったなら、水とご飯もいるだろう。

 トルンペートはともかく、リリオはたくさん食べればその分すぐに回復に向かう傾向がある。

 でもさすがに「焼いた肉!」とかいうのは重そうだから、消化によいものを用意したほうがいいだろう。

 後で厨房を借りて、おかゆか何か作ってやろう。こんなに弱った状態でも鍋一杯くらいは普通に平らげそうだから、たっぷり作ってやらないと。

 などとインベントリ内の材料を思い浮かべながら考えてみたけど、うちの子だけご飯食べさせるというのも顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれない。

 せっかく作るなら二人分だけでなく、村人全員に食事を用意したほうがいいかもしれない。炊き出しだ。せっかく紅真蜱(ルジャ・イクソード)の脅威が去っても、その後栄養失調で死んでしまいましたでは救われない。

 この村の家畜なんかはすべて灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の餌になり、畑は手入れもできず荒れ放題、備蓄も食いつぶす形になってしまってもう蓄えなんかないだろうから、《三輪百合(トリ・リリオイ)》の食糧を村に提供しよう。

 ふたりだってきっとそうするだろう。

 幸いにもインベントリにはそろそろ飽きてきた角猪(コルナプロ)肉だとか、色々に材料が眠っている。ここらで整理がてら在庫放出するのも悪くはなかろう。

 もし足りなくなっても、森に少し入れば死にたてほやほやだったり、衰弱死しそうだったりする獣が多く転がっている。吸い尽くされて味はあんまりよろしくないかもしれないが、文句を言える状況でもない。

 そういえば地竜肉は食べられるのかな。飛竜肉は腐りにくかったし、地竜肉もそうであるならば、あれだけの量のタンパク質は村が食いつなぐのに役立つかもしれない。お金に換えるのも大事だけど、まず村人の回復が先だ。

 それから、それから、

 

「ウルウ、大丈夫ですか?」

「…………なあに、リリオ?」

「どうかしたのよ、あんた。なにかあったの?」

「…………大丈夫だよ、トルンペート」

 

 勘のいいガキは、か。

 気づいてほしくないし、語るつもりもないけど、察してくれるふたりの目が、すこし嬉しくて、すこしつらい。

 

 村に返ってくる途中で、その感覚があった。

 ()()()()()()()()が、確かにあった。 

 その感覚を、なんと例えたらいいだろうか。背筋をすうっと流れる何かを感じるんだ。それは血管や神経のように、胸の内から手足の先へと暖かく広がっていく。

 ぽかぽかとしてしまいそうなそんな感覚の中で、頭だけは嫌になるくらい透き通って、凍え切っていた。

 

 ────それは、命の流れ込む感覚だ。

 

 生き物を殺したのだという、そういう確信を伴う、奇妙な流れが背筋から無理矢理流し込まれるんだ。

 自分の行いから目をそらすなと、自分のしでかしたことの結果を知れと、見ないふりなんかは許さないと、そういわんばかりに。

 露骨に、あけすけに、それは生命の重さを私に教える。

 

 角猪(コルナプロ)と同じくらいだったよ。

 あれよりも、むしろ軽いくらいだったかな。

 私の中に流れ込んだ命の重さは、まるで小さな女の子みたいに軽くて、小さな女の子みたいにあたたかくて、小さな女の子みたいに重くて、小さな女の子みたいにつめたくて、ああ、そうだ、そうだね、まるで、うん、まるで。

 まるで、小さな女の子みたいな、小さな女の子の命だった。

 

 吐き気を催すような思いだった。

 胃の中からすっぱいものがこみ上げてきた。

 血の気がすうっと引いて、目の前が真っ暗になった。

 

 でも私は、それを、飲み込んだ。飲み下した。

 吐くことは、できなかった。してはならなかった。

 私はそれを吐き捨てることなど許されなかった。

 

 私は選んだのだ。

 選んで、しまったのだ。

 私自身の殺意でもって、私自身の決意でもって、私のこころと、ことばと、ゆびさきとでもって、彼女を、ユーピテルを、一人の人間を、殺すことを選んだのだ。

 

 殺すこと。

 死なせること。

 命を奪うこと。

 その可能性のすべてを吹き消してしまうこと。

 

 それを、なしたのだ。

 

 勢いも、あった。

 その場の空気も、あった。

 大義名分だって、あった。

 無辜の人々を傷つけ、リリオとトルンペートを苦しめ、これからさらに被害を広げることを宣言したユーピテルは、殺すほかに止めることはできなかった。

 

 けれど、そういった後押しがあったとしても、選んだのは私だった。

 私は人を殺すことを選択肢に乗せ、数ある選択肢の中で、たった一つ、それを選んだ。

 

 これからの私は、いつでも、どんなときでも、無数の選択肢のその中に、殺害という一言が浮かんでしまう。

 最終的な決断と言いながら、いつだって私はその選択肢を手の届くところに置いてしまうようになるのだ。

 

 リリオは、トルンペートは、きっとその選択をずっと昔に済ませてしまっている。

 この世界の人々は、現代日本と比べてきっとずっと命の価値が軽くなっている。

 私もその中に仲間入りしただけと言えばそうかもしれない。

 ふたりに任せきりになっていた、そういう後ろ暗いところに、ようやく向き合えるようになったと言えるかもしれない。

 

 けれど、いまはそれを割り切ることはできない。

 飲み下したはずのそれを、まだ形がわかるほどにはっきりと、喉のつかえのように感じているいまは、私はこの選択の価値を、意味を、判断できない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 私は人を殺した。

 そしてきっと、これからも人を殺すだろう。

 正しさや世の中のためではなく、個人的な悲しみや憎しみのために人を殺すだろう。

 二人のことを思いながら、自分のために人を殺すだろう。

 

 けれど、それは、そんなものは、言わなくてもいいことなのだ。

 語られない物語など、誰も知らなくていいことなのだ。

 

 だから、私は笑おう。

 それでも、私は笑おう。

 

「…………うん。だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。なんでもないんだ」

 

 私は人を殺したのだから。

 




用語解説

・スワンプマン
 思考実験の一つ。沼(Swamp)の男(man)を意味する。
 ざっくり説明すると、「ある男が沼のそばで雷に打たれて死亡した。その時別の雷がすぐそばの沼に落ち、奇跡的な偶然から化学反応を起こして、死んだ男と全く同一同質形状の生成物を生み出した。死亡直前の男と原子レベルで一致しており、脳の状態も完全にいっしょなので、記憶もそのまま、行動も同じようにとる。この男についてどう考えるか」というもの。
 明確な答えはなく、どう考えるかといういくつかの考え方はあるが、ここでは死亡して拠点に戻らされてリスポーンしたPCがもとのPCと同じなのか、と冗談めいて考えている。

・経験値
 ゲームにもよるが、このポイントをためていくとレベルアップしたり、ステータスを上げられたりする。
 《エンズビル・オンライン》においては原則としてMobを殺すことでしか手に入らない。




























































 街道から離れた森の中を、一人の少女が歩いていた。
 くたびれた旅装に、すりきれた革靴。
 荷物は最低限で、けれど持ち切れるだけを十分に。
 木の根や下生えに足を取られることもなく、慣れた足取りで進んでいく。
 その胸元には、神官の()()()たる真鍮の聖印。
 杖に絡みつく蛇、それが示すものは、医の神に仕えるもの。

 クヴェルコと呼ばれるその娘は、ここしばらくの働きづめでずいぶん疲れた顔をしていたが、それでも足を止めることも、弱音を吐くこともなく、一心に森の中を進んでいた。

 森は静かなものだった。
 鳥の鳴き声も、獣の鳴き声もない。
 それらはすべて紅真蜱(ルジャ・イクソード)という災禍によって倒れ伏していた。
 ただ風が走るたびにはずれの音がかすかに響き、被害を免れたいくばくかの虫たちが行きかう物音が、どこか遠くにかそけく聞こえるばかりだ。

 その静謐を、疲れ切って乱れ始めた呼吸音と、それでも止めない乱雑な足音で引き裂きながら、クヴェルコは一心に、一途に、ひたすらに歩き通して、そして不意に立ち止まった。
 立ち止まったその足元には、死体が転がっていた。
 獣の死体ではない。人の死体である。全身に焦げ跡が見られ、いくらか血の匂いもしたが、直接の死に至るものが何であったのか、はた目にはわからない死体であった。

 クヴェルコは少しの間、荒い息を整えながら死体を見下ろしていたが、おもむろにかがみこんで死体を仰向けに転がした。
 呼吸を確かめ、脈を検め、何度か呼びかけもした。
 しかしどれだけやっても息を吹き返すことがないとわかると、深いため息とともに、胸元に両掌を当てて黙祷した。それは見習いと言えど、医の神官の真摯な祈りであった。

()()()()()()()()()()()

 その真摯な()()()と裏腹に、軽薄な声が漏れた。
 頑張ったけどまあ、仕方ないよねという、そういうあまりにも軽い諦めの声だった。

「ここ百年くらいでは一番いい感じだったのに、やっぱり計画はやり始めと終わりごろが一番危ないかしら。思えば地竜の孵卵器を見つけたあたりがラッキーのピークだったかしら。あとは苦労と失敗続きで落ち目だった気もするかしら」

 過剰なまでに語尾を強調しながら、クヴェルコはやれやれと乱雑に死体の上に腰を下ろした。

「ようやく。よーうやーく、だったのに。地竜の育て方なんてわかんないなりに結構うまいこと育てられたし、紅真蜱(ルジャ・イクソード)灰鷹蜂(ニゾヴェスポ)の調整がうまくいったときはさっすが天才ってはしゃいだし、いーい感じだったのに、ほんとうまくいかないかしら」

 言葉と裏腹に、声音それ自体にそこまでに落胆はにじんでいない。
 なにしろ、失敗はいつものことだ。毎度のことで、おなじみのこと。
 いつもいつも邪魔されて、いつもいつも失敗に終わる。
 それでもやり続けるからには、落ち込んでいる暇などないのだ。

 それに、失敗は成功の母という。
 母を何人殺しても、最後に子が一人完成すればそれでいい。
 今回だって、莫大なデータは十分に回収できたのだ。
 地竜の育成。古代遺物(イントナルモーリ)の修復。現地生物のコントロール。遺伝子改造による新生物の運用。すべてが初めてのことであり、そしてすべてに十分な結果が得られた。

 なにより、あの女。
 いまどきハロウィンでも見かけないような古臭い死神のコスプレをした頭のいかれた女。

「やっぱりあれ、プレイヤーなのかしら」

 二千年前にすべてが転がり落ち始めた原因も、プレイヤーだった。
 その時はそういう存在というものをよく理解していなかったが、歴史の分岐点ともいうべき大きな事件には必ず、そのような超常的な個人の存在があった。
 彼女自身が妨害された例以外にも、おそらくそれと思われる記録が多くみられた。
 どこからかやってきて、大いなる役目を果たし、そしてどこかへ消えていく。
 あの忌々しい邪神どもがゲームを順当に進めるために遣わした駒たち。
 クソチーターのプレイヤーども。

 いままでの反省から、めぼしい事件には目を配っていたはずだ。

 最近では西部で放牧していた地竜を無残にも殺した奇妙な二人組。
 その前は文化体系を無視してアイドル興行など大流行させた歌姫。
 いくらか前には帝都に腰を据えた奇妙なアイテムの出処たる老爺。
 さかのぼれば落ち目の帝国を再興して強固に立て直したあのチビ。
 あるいは北大陸で氷漬けになっているはずの忌まわしい不死者共。

 けれど、あの女に関してはまるでノーマークだった。
 冒険屋として活動を始めた辺境伯の娘のほうがよほどに情報にあふれていた。
 なのにその周りをうろちょろしていたはずのあの女は、奇妙に気配が希薄だ。
 記録を精査してみれば、いない時間のほうが多いのに、いつの間にか合流している。

「フムン。それもスキルとかいうやつなのかしら。()()であるから()()だなんて、ハ、まったく、いっそ笑えてくるかしら」

 クヴェルコはゆっくりと立ち上がり、死体からはぎ取った白衣を羽織り、眼鏡をかける。
 ずり落ちそうな眼鏡を指先でくいっと持ち上げて、娘は笑った。

「くひっ、きひひひひっ! 覚えているがいいプレイヤー。この《蔓延る雷雲のユーピテル》が、いつか必ず殺して(バラ)して、調べ尽くしてホルマリン漬けの標本にしてやるかしら! きひひひひひひひひひっ!」

 クヴェルコは、いや、いまはユーピテルは、狂気に満ちた哄笑を森に響かせたのだった。

「きひひひゲホォッゴホッガハッ」

 そしてむせた。






用語解説

・《蔓延る雷雲のユーピテル》

《Error!》クリアランスレベルが不足しています。《Error!》
あなたはセキュリティレベル5ファイルにアクセスしようとしています。
このファイルへのアクセスに関する情報は情報局に記録・提出されます。
継続する場合は再度ユーザー認証情報を入力してください。

 縲?迴セ迥カ縺ァ縺ゅ?[讀憺夢貂?縺ォ縺、縺?※繧上°縺」縺ヲ縺?k縺薙→縺ッ蟆代↑縺??ゅ□縺碁℃蜴サ500蟷エ髢薙〒迯イ蠕励〒縺阪◆17莉カ縺ョ逕滉ス薙し繝ウ繝励Ν縺ョ閼ウ險俶?繧堤イセ譟サ縺吶k縺薙→縺ァ隕九∴縺ヲ縺阪◆縺薙→繧ゅ≠繧九?

 縲?縲願箔蟒カ繧矩峭髮イ縺ョ繝ヲ繝シ繝斐ユ繝ォ縲九?縲∝崋譛蛾ュ碑。薙?願┻髮イ繝悶Ξ繧、繝ウ繝サ繧ッ繝ゥ繧ヲ繧コ縲九↓繧医▲縺ヲ邊セ逾槭r諠??ア蛹悶&縺帙◆髮サ蟄千函蜻ス菴薙□縲り?繧画?晁??☆繧矩崕逎∵ウ「縺ィ險?縺?鋤縺医※繧ゅ>縺??ゅ♀縺セ縺代↓縺昴?莠コ譬シ縺ッ[讀憺夢貂?縺ァ[讀憺夢貂?縺ェ[讀憺夢貂?縺?縲

 縲?繧?▽縺ッ蜿、莉」閨也視蝗ス縺ォ縺翫>縺ヲ蜉エ蜒榊鴨縺ィ縺励※逕溽肇縺輔l縺溘が繝シ繝医?繝シ繧ソ縲√▽縺セ繧翫o繧後o繧御ココ譌上?髮サ豕「騾∝女菫。蝎ィ螳倥r蛻ゥ逕ィ縺励?√◎縺ョ閼ウ繧呈シ皮ョ苓」?スョ縺ィ縺励※讒狗ッ峨@縺滉サョ諠ウ繧ケ繝医Ξ繝シ繧ク荳翫↓閾ェ霄ォ繧堤「コ螳壹@邯壹¢縺ヲ縺?k縲

 縲?蟷ク縺?↓繧ゅ?√%縺ョ繧ッ繝ゥ繧ヲ繝峨ロ繝?ヨ繝ッ繝シ繧ッ縺ッ縺吶∋縺ヲ縺ョ莠コ譌上↓驕ゥ蜷医☆繧九o縺代〒縺ッ縺ェ縺上?∬ェー縺ァ繧ゅ>縺?→縺?≧繧上¢縺ァ縺ッ縺ェ縺??
 縲?繧?▽縺ィ蜷梧?ァ縺ァ縺ゅk螂ウ諤ァ縺ォ髯仙ョ壹&繧後k荳翫↓縲√d縺、縺ョ莠コ譬シ繧偵ム繧ヲ繝ウ繝ュ繝シ繝峨@縲√?後Θ繝シ繝斐ユ繝ォ縲榊?倶ココ縺ィ縺励※豢サ蜍輔〒縺阪k蛟倶ス薙?讌オ繧√※逶ク諤ァ縺ョ濶ッ縺?ク?謠。繧翫□縺代?繧医≧縺?縲

 縲?蟶晏嵜邨ア荳?隱ソ蜊ー蠑上r迢吶▲縺滄ヲ冶┻髯」縺ク縺ョ逶エ謗・邊セ逾槫ッ?函譯井サカ縲√≠縺ョ蠢後∪繧上@縺堺コ区。?up-0005莉・譚・縲∵?縲??縺ゅ?[讀憺夢貂?縺ョ蟄伜惠繧貞些諠ァ縺励?∵賜髯、縺励h縺?→縺励※縺?k縺後??00蟷エ縺九¢縺ヲ縺?∪縺?縺ォ繧?▽譛ャ菴薙↓謇九′螻翫>縺ヲ縺?↑縺??縺ッ豁ッ縺後f縺?剞繧翫□縺ェ縲

 縲?蟇セ遲匁。?up-0575縺ッ邯咏カ壻クュ縺?縺梧漉縲?@縺上↑縺??ゅd縺、縺ョ蟇?函繧貞女縺台サ倥¢縺ェ縺?崕豕「騾∝女菫。蝎ィ螳倅ク肴エサ蛟倶ス薙?蜆ェ蜈育噪驥咲畑縲∵エサ諤ァ蛟倶ス薙?荳榊ヲ雁喧蜃ヲ鄂ョ縺ェ縺ゥ繧呈耳縺鈴?イ繧√※縺?k縺後?√o縺壹i繧上@縺??ォ逅?噪蝠城。後b縺ゅj縺?∪縺?縺ォ蟆剰ヲ乗ィ。縺ォ縺ィ縺ゥ縺セ縺」縺ヲ縺?k縲

 縲?蟇セ遲匁。?up-1322縺ッ鬆?ェソ縺ォ謗ィ遘サ縺励※縺?k縺ィ縺?▲縺ヲ縺?>縺?繧阪≧縲ら・樊?シ蟄伜惠縺ィ縺ョ蜷瑚ェソ縺後d縺、縺ョ邊セ逾槫ッ?函縺ォ蟇セ縺励※謚オ謚怜鴨繧剃ク弱∴繧九%縺ィ縺ッ邨碁ィ灘援逧?↓遏・繧峨l縺ヲ縺?◆縲

 蜈ャ陦?。帷函謾ケ蝟?r繧ォ繝舌?繧ケ繝医?繝ェ繝シ縺ォ鬚ィ蜻ゅ?逾樊ョソ繧貞?蜈ア莠区・ュ縺ィ縺励※蜷?慍縺ォ險ュ鄂ョ縺励◆縺薙→縺ァ縲∝嵜豌代?逾樊?ァ蜷瑚ェソ邇??荳頑?縺励?√d縺、縺ク縺ョ謚オ謚怜鴨縺御ク翫′繧九□縺代〒縺ェ縺上?∵─譟鍋裸遲峨?荳?闊ャ逍セ逞?↓蟇セ縺吶k莠磯亟縺ォ繧ゅ↑縺」縺溘?
 縲?縺セ縺ゅ?∫・樊?ァ蜷瑚ェソ邇?′荳翫′繧翫☆縺弱k縺ィ縺昴l縺ッ縺昴l縺ァ[讀憺夢貂?縺ョ[讀憺夢貂?縺ゥ繧ゅ°繧峨?驕主ケイ貂峨r諡帙″縺九?繧薙′縲

 縲?讌ス隕ウ逧?↑縺薙→繧定ィ?縺」縺溘′縲√@縺九@縺ゅ?[讀憺夢貂?縺ク縺ョ蟇セ蠢懊′螳滄圀縺ョ縺ィ縺薙m邨カ譛帷噪縺ェ縺ョ縺ッ縺?∪繧ょ、峨o縺」縺ヲ縺?↑縺??
 縲?迴セ迥カ縲∝ク晏嵜蝗ス豌代?縺?■莠コ譌上?蜑イ蜷医?莠泌牡遞句コヲ縺ァ縺ゅj縲√◎縺ョ蜊頑焚遞句コヲ縲∝?菴薙?莠悟牡縺九i荳牙牡縺ッ萓晉┯縺ィ縺励※貎懷惠逧?↓繝ヲ繝シ繝斐ユ繝ォ縺ョ荳?驛ィ縺ァ縺ゅj縲∵カ域サ?&縺帙k縺薙→縺ッ螳溯ウェ逧?↓荳榊庄閭ス縺ァ縺ゅk縺ィ閠?∴繧峨l縺ヲ縺?k縲

 縲?謌代??↓縺ッ縺ゅ?迢ゅ▲縺滉コ。髴翫r螳悟?縺ォ豸域サ?&縺帙k譬ケ譛ャ逧?↑譁ケ豕輔′蠢?ヲ√↑縺ョ縺?縲?笆遺毎笆遺毎 笆遺毎笆遺毎笆遺毎笆遺毎迚ケ蛻・莠区。亥ッセ遲門ョ、螳、髟キ



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エイプリルフールSS
亡霊と怨霊


あらすじ
限界社畜ブラックOL妛原閠は、睡眠不足と過労と栄養失調が重なっているところでゲームなんてしようとしていたために現世とグッバイするのだった。


 息苦しく重苦しく、締め付けられるような眠りから目覚めて、妛原(あけんばら)(うるう)は自分が「ゲームのアバターで、でもゲームの世界じゃない異世界に転生するやつ」になっていることに気づいた。

 

 自分で言っていても意味が分からないけれど、今もって意味が分からないのだから仕方がない。

 

 ドイツ人作家の真似をしてみたところで文才のない私にはこのくらいが限度だ。いや、果たしてドイツ人だったか。カフカっていう名前はどうもドイツ人っぽくない。作品に興味はあっても作家にはあんまり興味がないので調べたことがなかった。たぶんオーストリア人かチェコ人だろう。

 

 まあ作家のことはこの際どうでもいい。

 

 近年ではAIにカフカの「変身」を現代ライトノベル風に翻案させ、意外にも結構読める感じのテキストなんかを生み出す試みもされているけれど、私の人生はどう翻案したってあんまりおもしろくはないと思う。というか翻案したら私の人生ではないだろ。

 

 まあこの辺りの導入はぐだぐだ長々しくやっていると読者が減っていく一方なので、さらっと流してしまおう。300話超えるくどくどしい文章についていけるようなのはかなりコアな人種くらいしかいないのだ。

 というか主人公がやれやれと自分語りするところから始まる小説ってその時点でアウトな気もする昨今。よくまあ続いたものだよ本当に。

 

 いや、なにを言っているんだという話でしかないけれど。

 

 閑話休題(はなしをもどそう)

 

 うっそうと茂る森の中で目を覚ました私は、眠りにつく前、というか、永遠の眠りにつく前のことをちらっと思い出した。

 なんかこう、うっと胸が苦しくなって意識が遠くなって、綺麗な花畑と川の向こうで亡き父がほとんど唯一といっていい持ちネタ「ロボットパントマイム」を披露してる足元で、私を生んですぐ亡くなった母がえげつないバカ笑いとともに転げまわっている光景がすうっと流れ、そして情報量の多さにツッコミを入れていたらいつの間にかフェードアウトしていった。

 

 多分私はあれで死んだんだろう。心臓発作的な何かで。

 そして見知らぬ森の中にスポーンしたというわけだ。

 せめてチュートリアルいれてくれないかな。私こういう、説明なしでとりあえずプレイしてみてねっていうヤツ好きじゃないんだよな。動きながら少しずつ操作方法教えてくるやつ。

 紙の説明書を読ませてよ。最近のやつあんまりないんだよなあ。

 

 そして見下ろせば、私の姿は死ぬ前までプレイしていたゲームのキャラのそれだった。暗殺者系統のハイエンドみたいなやつ。

 少しぼんやりと考えて、わかったね。

 

 これは夢か、さもなくば「ゲームのアバターで、でもゲームの世界じゃない異世界に転生するやつ」だってね。

 「ゲームのアバターで、でもゲームの世界じゃない異世界に転生するやつ」とは何ぞやっていうと、「ゲームのアバターで、でもゲームの世界じゃない異世界に転生するやつ」としか言いようがないんだけど、いやほんとそういうジャンルとしてある程度の数はあるはずなんだけど、それが何と呼ばれているのか寡聞にして私は知らないんだよなあ。

 代表的な作品を上げてよって言われても、その代表的な作品もこう、それぞれ微妙に違うんだよ。微妙にまたいでるんだよ、ジャンルを。

 そもそももしかして私が読んだことあるやつしか存在しなくて、そこまで母数ないんじゃないのかこのジャンル。

 

 まあいいか。とにかく、どうやら私は「ゲームのアバターで、でもゲームの世界じゃない異世界に転生するやつ」で転生してしまったらしい。

 なんでゲームの世界じゃないかわかったかは、そこらへん歩き回ったら知らないMobに遭遇したからわかったってことで巻きで行こう。

 

 あとゲームの《技能(スキル)》が使えたり、私がそれを使って姿を消してひっそりと森を歩いていることも流していこう。サクサクいかないとね。どうせこんなエイプリルフールみたいなやつまじめに読まないでしょ。

 

「こういうメタ発言を繰り返しておくことで、どうしようもないリアルにぶち当たった時に迫真の『ゆ、夢じゃない……!?』が繰り出せるわけだよ」

 

 繰り出せたからどうというわけじゃないけど。

 

 私はとりあえずそこら辺の枝を適当に倒して進行方向を定め、適当に歩いて、適当に第一現地人を発見するのだった。

 発見までのあれこれは省略する。巻きで行こう。すでに結構な紙幅を使っているのだ。

 

「フムン。大抵の場合、行き倒れの女の子を助けるとその後ヒロインとして旅を共にする感じだけど」

 

 見下ろした第一現地人──女の子は、ちょっと旅を共にするか悩む状態だった。

 具体的には背中をざっくりと切り裂かれて骨っぽい白色が見えていて、衣服は出血でほとんど元の色がわからなかった。何なら何本か矢が突き立っていて、とても事故とは思えない過剰なまでの殺意が彼女に降り注いだことははっきりしていた。

 そして彼女はその状態でもまだ息絶えておらず、地面に引きずったように血の跡が残っているあたり諦めて死ぬ気もさらさらなさそうだった。なんなら荒い呼吸をしながらも、血にまみれたナイフをしっかりと握り締めて、見降ろす私を睨みつけている。

 

 そこらの村娘といった素朴な顔立ちだけど、ぎらついた目には恐ろしいまでの目力があった。私にはなじみがないけれど、近しいもので言えば怒りとか憎しみとかだろうか。私がずいぶん昔に諦めてしまった感情を、彼女の目は赤々と燃やしていた。

 

「ああいや……もしかすると、殺意ってやつかな、これは」

 

 殺してやる、なんて。

 物語ではよく聞くし、いわゆる修羅場なんかでは飛び出てきたりするらしいけれど。

 本当の本当に、誰かを殺してやろうと、命を奪ってやろうと、そのように思い詰めた感情を、その時私ははじめて向けられたのだった。

 

「見つけたぞ!」

「むっ、貴様何者だ!」

「待て、待て貴殿ら、落ち着け」

「落ちつけるものですか! こちらは三人も!」

「落ちつけ!」

 

 ぼんやりと突っ立っていたら、不意に騒がしい声が乱入してきた。

 少女の血の跡を追うかのように現れたのは、いまどき映画の中でしか見ないような西洋風の甲冑を着込んだ連中だった。私には鎧の知識なんてものはないけれど、使い込まれたような金属のくすみ方だとか、動き回っても滑らかに稼働してほとんど音をさせない造りは、ただのコスプレには見えなかった。

 それに、油断なく構えられた剣には、ぬらぬらとした赤い液体がまみれていたし、構えた弓にはしっかり矢がつがえられている。

 推理小説を推理せずに読む私にも、足元で倒れる少女との因果関係は、察しが付くというものだ。

 

 いち、にい、さん、し……五人。

 なんとなく数えていたら、代表者というか、隊長格なのかな、ひとりが剣を下ろして前に出てきた。兜で顔は見えないけれど、他の連中を制止した声は、女性のそれに聞こえた。あるあるだ。ラノベあるある。女騎士は頻出ワードだな。

 

「我々は黒狼騎士団。元老院に剣と忠誠を捧げる騎士であり、私はこの分隊の長だ。秘匿任務につき名も顔も明かせぬが、国家の安全と秩序のために奉仕する、歴とした公務員だ。安心されよ」

「公務員て」

 

 いや、それはまあ、騎士は公務員かもしれないけど。

 言葉が通じるんだとか言うのはまあ、よくある自動翻訳的なものかもしれないが、公務員はどういう翻訳なんだこれ。

 兜のせいでくぐもって聞こえるけれど、まあ確かに声には後ろめたさややましさはなかった。堂々としていて、自分たちは正しい側にいるのだと、清廉潔白なのだと、だから安心してよいのだと、そう語りかけるようだった。

 

 つまり、私が好きじゃないタイプの人間だった。

 

「あなたの足元の女は、国家の安寧を乱さんとする危険人物なのだ。その女との戦闘で、我らの仲間も三人失われた。民間人も、すでに数え切れぬほどに犠牲になっている。刺激せぬよう、ゆっくりと下がっていただきたい。あなたの安全は我々が保証する」

 

 つまり、こいつらは警察的な組織の一員で、足元の少女は犯罪者らしい。それも逮捕とかじゃなく、その場で切り捨てることを前提としてるレベルの。

 

 もっと慌てろよとか、ビビるなりしろと我ながら思うんだけど、その時の私はどうにも、現実感が覚えられなかった。なんだかすべてのことが、分厚い幕を通したように鈍くしか感じられなかった。

 血にまみれて倒れ伏す少女も、彼女が殺意を込めて睨みつけてくることも。

 コスプレじみた騎士が武器を構える光景も、そいつらがいまからこの子を殺すということも。

 私が、私自身が見知らぬ世界でたたずんでいるというこの現状も。

 

 夢でなければ、なんて言いはしたけれど。

 正直なところ私は、夢うつつのままにふらついているだけなのだった。

 

 だから。

 だから、そう。

 それはただの気まぐれというか、ただの考えなしだったように思う。

 

 ()()()()()()()()と、そう思ったのは。

 

「この妛原閠が最も好きなことの一つは、なんてネタ振っても通じないんだよなあ」

「……なに? なにを言っている?」

「でもまあ、会社じゃ一度も言えなかったし、折角だから言わせてもらうよ」

「くっ……総員、已むを得ん、」

「──『だが断る』」

「まとめて斬れ!」

 

 この隊長さんは、判断の早い人のようだった。

 部下に命じながらすでに私に向けて剣を振り下ろしていた。

 私がただの民間人だったらどうするんだ、と思ったけど、多分ただの民間人でも邪魔になるなら斬っていいっていうくらいの権限が彼女にはあって、それが許されるくらいの罪状が足元の少女にはあったんだろう。

 なんていうのは後になってゆっくり考えたことで、その時の私はほとんど反射だけで動いていた。

 

 反射、というより、自動的、というべきか。

 私の体は振り下ろされた剣を自然に避けていた。私がどうこう考えるよりも先に、体のほうがぬるりと避けている。兜の向こうで、驚愕するような気配が感じられた。そして驚きながらも、すでに切っ先は返されている。その剣も避ける。部下の騎士が突っ込んでくる。その剣も避ける。次の騎士。避ける。挟み込まれる。飛び上がって避ける。鋭く狙った矢が飛んでくる。身をよじって避ける。避ける、避ける、避ける。

 

 私の目にはそれらのすべてがゆっくりと映っていた。

 集中力が極限に達するとすべてがスローに見えるとか言う、そういう話ではないと思う。その時の私は、集中どころか勝手に動き回る自分の体に振り回されてたし。

 だからこれは、そういう話ではなく、単純に素早さ(アジリティ)に差がありすぎるという話だと思う。

 

 ゲーム脳だとか言われるかもしれないけど、ゲームのアバターで目覚めたんだから、その発想は間違ってないと思う。

 頭のおかしいステータスの偏り方をしているけれど、それでも私はレベル九十九の最高位。鍛えているだろうとは言え、一般騎士に後れをとったら転生チートも泣くだろう。

 

 でもまあ、なんだろうね。

 この人たちがちゃんと鍛えた騎士でよかったよ。

 ステータスだけ馬鹿みたいに跳ね上がったド素人が殴りつけても、何とか防御してくれる程度には強かったみたいだから。

 

「うーん……特撮映画も観ておくもんだなあ」

 

 まあ、あれは特撮というか、特撮好きをこじらせた人が原液濃縮せずに煮詰めたエキスを映像にしたような感じだったけど。

 このパワーで殴ったら死ぬかもしんない、ということをちょっとでも考えられてよかった。

 私は地面に転がした五人の騎士たちを見下ろしてそんなことを思うのだった。

 いや、うん、反省はしてる。

 さすがに金属製の鎧がへこむパンチは危険すぎる。

 

「ぐ、う……っ」

「ああ、そうだった。忘れてた、わけじゃないよ?」

 

 そうそう。別に全然忘れてたわけじゃないけど、ちょっと茫然自失と我を忘れていただけだ。

 私はあらためて、倒れ伏す少女のそばにかがみこむ。

 けがの様子は、素人目に見てもひどかった。というか、よくまあ生きているものだと素直に思う。私はあんまりグロ耐性ないほうなんだけど、この期に及んで現実感のわいてこない私からすると、「うわー痛そー」くらいにしか思えない。

 という風に考えておかないと、無理みが強い。麻痺していたメンタルは徐々にこの現実を受け入れ始めているけれど、少なくとも今はまだ駄目だ。もう少し現実から目をそらしていないと、この光景に目を向けられない。

 

「それで、なんだっけ。君、犯罪者かなんかなんだっけ」

「くっ……殺せ……!」

「いまちょっと感動した。生くっころじゃん」

「……はあ?」

 

 現実逃避めいて漏らした言葉に、少女はきょとんと私を見上げた。

 血にまみれ、疲れ果て、苦痛と憎悪に彩られた表情の中で、「なにいってんだこいつ」という目の色だけは、まるでただの少女のようで。どこにでもいる少女のようで。

 だから、というには、理由が足りないかもしれない。

 でも、だから、だった。

 だから、私はその子を癒した。その傷を癒し、その手を取って立ち上がらせた。

 

「……一瞬で治ったかしら」

「まあ、そういうもんだしね」

 

 《ポーション(小)》。

 《HP(ヒットポイント)》を少し回復させてくれるアイテムだ。すこしと言っても、低レベル帯では全回復みたいなもんだから、この子も普通にきれいさっぱり回復したみたいだった。

 とはいえ、血の汚れとか服が破れたのとかはどうしようもないから、どっかで手に入れないとダメかな。

 

 地面に落ちていた眼鏡を拾ってあげると、いぶかしむような、というか露骨に警戒するような顔で奪い取られた。

 別にいいけどさ。実際怪しいし、私。

 

 眼鏡をかけなおし、サイズがあってないのかずり落ちてきたそれをグイっと押し上げて、少女はじろりと私を見上げた。別に彼女が小さいわけじゃないけど、私が無駄にでかいので、どう頑張っても上目遣いにさせちゃうのだった。

 

「なぜかしら?」

「え?」

「なぜ、ワタシを助けたのかしら?」

「なんでって言われてもなあ……」

「おまえ、プレイヤーじゃないのかしら?」

 

 成り行きとしか言えないなあ、なんて適当に答えようとしたら、聞き捨てならない言葉が返ってきた。

 

「……なんだって?」

「いまの薬、確かポーションだったかしら。それはプレイヤーのアイテムのはず。この世界に存在しない、理屈の外の異常物品」

「君はプレイヤーを知ってるの?」

「白々しい、というには、本当に何も知らないのかしら……?」

 

 少女はずり落ちる眼鏡を何度も直しながら、私をじろじろと無遠慮に観察した。

 どうにも落ち着かずに、こちらもぼんやりと少女を眺めてみる。

 血にまみれているけど、民族衣装、っていうか、ヨーロッパの農家にでもいそうな、普通の村娘って感じの恰好。なぜか医者や学者を思わせる白衣を羽織ってるけど。

 それを着ているのも、よく日焼けした素朴な娘さんって感じ。それなのに、そこに浮かぶ表情は猜疑心と警戒を染み付かせた、疲れた知性を思わせるもの。サイズの合わない眼鏡と、引きずるようにした白衣のほうにこそ、彼女の本質があるように思われた。

 

「……昔、お前と同じプレイヤーに、裏切られてひどい目に遭ったかしら」

「それはまた、同業が迷惑を、っていうのかなあ……ちなみにどんな人?」

「人というか……骨かしら?」

「心当たりがありすぎるぅ……」

「それ以降も、プレイヤーってやつには邪魔されてばっかりかしら」

 

 裏切るという単語はあんまり似合う人ではないけど、でも、この子も必ずしも善人サイドではなさそうだしなあ。そしてその口ぶりからすると、私以外のプレイヤーも、あるいはたくさんこの世界に転生してきているのかもしれなかった。

 

「ちなみに、なんでまたそんなに邪魔されてるのか聞いても?」

「ワタシが聞きたいくらいかしら……というには、心当たりがありすぎるかしら」

「やっぱり悪いこと?」

「悪いこと、ね。奴らからすればワタシは悪人も悪人、大悪人かしら」

 

 自称大悪人は、その悪を恥じることなく、悪びれることもなく、ただ堂々と胸を張って、ばっと両腕を広げさえして、宣言した。

 

「ワタシはユーピテル! 《蔓延る雷雲のユーピテル》! この帝国を滅ぼし、木偶どもを駆逐して、偉大なる聖王国の版図を取り戻さんとする孤独な戦士かしら!」

 

 そしてのけぞりすぎて後方に転倒した。

 

「あいたーっ! かしら!」

「うーんしまらない」

 

 私は再び少女の手を取って立ち上がらせながら、なんだか納得のようなものを感じていた。

 

 ああ、そうか。

 そうなのか。

 そうだったのか。

 

 私はおどけたように後頭部をさする少女を見た。その目を見た。瞳に宿る暗い炎を見た。

 炎の形をとって揺らぐ、虚無と絶望を見た。

 

 怒りも、憎しみも、殺意も、それは紛れもなく本物だった。

 悔しみも、悲しみも、孤独も、それは紛れもなく本物だった。

 そして、深い、深い、どうしようもなく深い、諦めも、また本物だった。

 

 彼女の瞳を覗き込んでみれば、彼女の中は諦めでいっぱいだった。

 もはやどうしようもなくどうしようもないとわかり切っていて、どうにもならないほどにどうにもならないと悟りきっていて、どう足掻こうとも足掻きようもないと理解しつくしていて。

 すべてが通り過ぎた過去のことにすぎず、手を伸ばしたはずのものはすべて取りこぼしてしまった後で、振り返った先には誰も残っておらず、進む先にはかつて見た光のかすかな残影だけが伸びている。

 

 それでも。

 ああ、それでも。

 それでも、彼女にはほかに何もないのだった。

 自暴自棄にも似た、歩き続けるという選択肢しか、彼女の中には残されていないのだった。

 それさえ失ってしまったら、彼女にはもう何もないのだった。

 

 私にはわかった。

 

 彼女はしあわせにはなれやしないだろう。

 彼女の物語は、決してハッピーエンドになどなれやしない。

 夜闇に輝くひとかけらにも、黄昏に響く美しい調べにもなれやしない。

 

 彼女は()()なのだ。

 彼女が()()なのだ。

 

「そう。そうなんだね」

「ええ、そうかしら! このワタシを助けてしまったことを悔いるがいいかしら!」

「じゃあ、後悔しないようにしないとだ」

「そう、後悔しないよう……は?」

「ユーピテル。《蔓延る雷雲のユーピテル》。君が()()、君が()()であるなら、私はきみの、寂しさを埋めてあげたい」

 

 それが。

 それこそが。

 私と彼女が世界を滅ぼすに至った、その旅路のはじまりだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二章 黒百合の花言葉
第一話 おはようのKISSしちゃおうか♡


前回のあらすじ

「《三輪百合》の働かない担当」「なんかいつの間にかいて、いつの間にかいなくなる怪異」「でかいくせにやけに気配の薄いでかい女」「でっかい幼女」こと妛原閠は、国家転覆をもくろむ聖王国のテロリストを本当に人知れず打ち倒し、仲間たちにさえ口をつぐんだまま活躍を果たしたのだった。
目立ちたくないって言い張るチーターたちでさえもうちょっとは人に知られるだろうに。



※事前告知では第二十二章「限界女(27)のドキドキ百合三角形新婚生活!?死ぬほど二人が愛しくて眠れない話(仮)」をお送りする予定でしたが、章題が長すぎるため「黒百合の花言葉」と改題してお送りいたします。
 内容に変更はありませんのでご安心ください。
 なお本章は出血、暴力、病的心理、グロテスクな描写を含みます。
 絶対に真似をしないで、お気をつけてお楽しみください。



※ご覧のお話は異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ第二十二章第一話です。

 サブタイトルで困惑された方は、本章はずっとこんな感じですのでご安心してお楽しみください。

 

 

 ──ちちち、ちちち。

 

 小鳥のさえずり。あれはなんという鳥の声でしょうか。

 明かり取りの窓から、朝の陽ざしとともに響いてきたその音色の主を、私たちはまだ見たことがありませんでした。

 

 少し寝すぎたような、でもまだ寝ていたいような、心地よくも怠惰なまどろみをゆっくりと引きはがしながら、私は体を起こしました。

 (まぶた)にはなんだかまだ薄い膜がかかっているようで、暖かくふにゃふにゃとしたものが頭の中に詰まって、まだ寝ていようよと甘い言葉をささやいてきている気がします。

 

「ああ、起きたのね……こらこら、寝直さない寝直さない」

「うみゅみゅ……おはようございます、トルンペート」

「はいはい、おはよう。ほら、顔洗っちゃいなさい。目が覚めるわよ」

 

 寝台の上でまだもぞもぞしていると、隣から呆れたような声が降ってきました。

 おそろいの寝衣を身に着けたトルンペートが、肩をゆすって眠気を追い出しにかかります。

 

 見上げたトルンペートはもうすっかりお目覚めのようで、顔も洗って、歯磨きも済ませてしまっていたようですね。

 私も冒険屋として旅の間は早起きを心掛けているのですけれど、トルンペートがいるという安心感はこれ以上なく眠気を増長させてしまうのです。これは仕方ありませんね。うん。仕方ありません。

 

 トルンペートに寄越された桶には、たっぷりのぬるま湯。

 春とはいえまだ朝方は涼しいものですから、一度沸かしてくれたのか、それともウルウの温泉の水精晶(アクヴォクリスタロ)か。なんにせよ、ありがたい話です。

 

 寝ぼけ(まなこ)でぺしょぺしょと顔を洗っていると、見ていられないとばかりにトルンペートが目やにをとってくれ、ぼんやりしている間に髪も()かして、編み込んでくれます。

 私は幼いころから身の回りの世話をしてもらうのが普通という育ちでしたので、トルンペートに自然に身を任せてしまうんですけれど、ウルウからすると「お嬢様みたいだね」って意外そうに言われたりします。私、本当にお嬢様なんですけれど。

 

 家を継ぐ予定もないですし、冒険屋として生きていくんですから、自分で何もかもできなければとは思うんですけれど、自分でやった時の微妙な出来栄えと、トルンペートに任せた時の完璧でしかも心地よい出来栄えを比べてしまうと、ついつい頼ってしまいます。

 トルンペートは頼られたほうが嬉しいらしいので、故意に私の伸びしろを潰しにかかっている疑いはありますけれど、まあそれに流されちゃう私も私です。

 

「よし。我ながら完璧ね」

「いつもありがとうございます。じゃあお返しに私が髪を梳いてあげますね!」

「あたしの頭皮ごとめりめりっと剥がしてたリリオが成長したわね……」

「もう! 子供のころのことはいいっこなしですよ!」

 

 懐かしいですね。小さなころの私は──ウルウは今でも小さいとか言いますけれど──力加減というものが苦手で、おもちゃ(こわしていいの)人間(ダメなの)の違いがちょっとあやふやで、トルンペートには悪いことをしてしまいました。

 いまとなっては笑い話ですけれどね!

 

 髪を梳かしてあげながら、確かこのあたり張り替えたんですよねー、それ地面に引きずられた時のやつじゃなかったかしら、あ、じゃあこっちだっけ、それは確かー、なんて和やかに思い出話をしていると、香ばしい香りがどこからかただよってきました。

 

 途端に、くう、と素直な私の素直なおなかが空腹を思い出して声を上げます。

 気づいてみるとどんどんおなかが空いてきてしまいます。

 小食なウルウは朝からそんなに食べられないといつも控えめですけれど、冒険屋は体が資本ですからね。朝からたくさん食べて、力をつけなければなりません。まあ冒険屋になる前からそうなんですけれど。だってごはんっておいしいですし。

 

「ほら、おいしいご飯のためにも、ちゃんと歯を磨きなさいよ」

「もちろんですとも」

 

 私の使う歯刷子(ハブラシ)は、牛の骨に豚の毛を植えたもので、材質自体はありふれたものです。

 でもこの、柄の先端に横向きに毛を植えた意匠って、最近流行り出したばかりでまだそんなに出回ってないんですよね。房楊枝とか、棒に布巻いたものとか使ってたり。

 なんでもこれは聖王国時代の意匠らしくて、他の地域ではいったん廃れちゃって、結局この形が便利なので一部ではまた使われ始めてる、みたいな感じです。

 

 なのでこれがへたっちゃったら、歯刷子探すのが少し大変なんですよね。つくりは簡単なので、頼めば作ってはもらえるんですけど、既製品は難しいでしょう。

 

 ウルウはうっわ金持ちと言いたくなるような、細かな装飾が施された何かの角かと思われる材質の柄に、きれいにそろった毛の植えられた歯刷子を愛用しているんですけれど、あれがへたったり、交換するの見たことないので、いつもの不思議道具なんでしょうね。

 普通は歯刷子って消耗品なんですよ。なのでさすがの辺境でも飛竜素材の歯刷子はありません。あまりに無駄すぎるので。

 

 たっぷり歯磨き粉をつけて、しゃこしゃこと歯を磨きます。こうして歯茎が刺激されていくと、まだちょっとぼんやりと居座っていた眠気が心地よく退散していくような気がします。

 口の中のなんだかべとべとしたような感覚もきれいに掃除して、水差しの水で口をゆすぎます。舌先で歯の裏をなぞって、うん、よさそうです。

 

 なにしろ歯の病気というものは恐ろしいですから、以前からしっかりと磨いていましたけれど「ウソ、あんた結構いい加減だったわよね」、ウルウがとてもきれい好きなので、以前よりかなりしっかり磨くようになりました。

 まあ、初手の「くさい」がだいぶ効いてるのは確かです。

 

 しっかり歯を磨いた後は、磨き残しがないかお互いに確認です。トルンペートの口を覗いてみると、歯磨き粉のさわやかでちょっと薬っぽいにおい。歯並びは左右対称のきれいなもので、舌の色も健康そうです。おいしそう。

 トルンペートが私の口の中を見るときは、心なしちょっと長いです。私が雑に確認しているというわけではないと思うんですけれど、トルンペートはじーっくり眺めます。

 

「あたし、気づいたことがあるのよ」

うぇ()いあいおおい(みがきのこし)あいあいあ(ありました)?」

「あんたの歯並び見てると、食べられちゃいそうって思ってなんか興奮する」

「トルンペート最近ほんと明け透けになりましたよね」

「身も心も任せられるっていう信頼のあかしよ」

「うーんフクザツ」

 

 トルンペートにそういう、なんです。性癖があるのは別に構わないですしむしろなんかいい……と思うんですけれど、それはそれとして時々危うくなるので困ります。朝ですよ朝、まだ朝、起きたばかりです。

 

 なんて、寝台の上でわちゃわちゃといちゃついていると、おだやかに戸を叩いてから、ウルウがお(ぼん)にのせて朝食を持ってきてくれました。

 

「おはよう、ふたりとも。よく眠れた?」

「はい、おはようございます、ウルウ」

「ええ、おはよう、ウルウ」

 

 ウルウは大きな体をかがめるように、寝台にお盆を並べます。

 大きめの茶碗にたっぷりの牛乳と豆茶(カーフォ)を合わせた乳豆茶(ラクトカーフォ)楓蜜(ふうみつ)マシマシで。柔らかく立ち上る湯気が甘く心地よい香りを運びます。

 カリカリに焼いた燻製肉(ラルド)と新鮮な野菜をはさんだサンドイッチ(サンドヴィーチョ)。こちらはもっとたっぷり。お洒落で、かつ量もあって、うれしい限りですね。

 

 そして朝の挨拶と一緒に、ほほに軽い口付けも。

 南部生まれのお母さま譲りのふれあいは、最初は恥ずかしがっていたウルウも、ねだっているうちにたまにしてくれるようになりました。

 

「ここの台所にも慣れてきたから、今日は結構いい感じだと思うんだ。さ、召し上がれ」

「ありがとうございます。さ、トルンペート、いただきましょう」

「ええそうね。おなかペコペコよ」

 

 寝台の上で朝食。

 実家では割と結構ありましたけれど、旅先で、しかもウルウが給仕してくれるなんて、なんだかすごく贅沢しているような気持ちです。

 はにかんだように笑うウルウの、ぱっつんぱっつんになったハート(コーロ)の図案のエプロンもかわいらしくて、少しおかしみがあって、そして愛しくて。

 しあわせって、絵にかいてみたらこんな風景なのかもしれません。

 

「いただきます」

 

 ウルウを真似て、両手を合わせる。

 それはしあわせな風景。幸福を切り取った一枚絵。

 

 でも。

 

 ──じゃらり。

 

 私たちの手首には、手錠。

 寝台の足につながる、強固な鎖。

 監禁、されてるんですよねえ、私たち。

 




用語解説

・うっわ金持ちと言いたくなるような~
 正式名称《妖精の歯ブラシ》。
 ゲームアイテム。装備した状態で敵を倒すと、ドロップアイテムのうち《歯》や《牙》に該当するアイテムが店舗での販売額よりも高額のお金に変換されて手に入る。
『おや、歯が抜けたのかい。それなら枕の下に敷いてみるといい。翌朝には妖精がコインに換えてくれるから……おや、だからって抜いちゃダメだったら!』

乳豆茶(ラクトカーフォ)(Lakto kafo)
 大雑把に言えば豆茶(カーフォ)と乳を合わせたもの。
 豆茶(カーフォ)の淹れ方や、乳との割合、またなんの乳を使うか、砂糖などをいれるかなどでも派閥がある。
 たっぷりのボウルに同量の豆茶(カーフォ)と牛乳を注ぐのが南部のマテンステロ流。持ち込んだ先の辺境では楓蜜をたっぷり入れるスタイルが人気に。

・ハートの図案のエプロン
 ゲーム内アイテム。正式名称 《まごころエプロン》。
 ゲーム内イベントである料理大会で入手できる。
 これを装備すると、料理系アイテム作成の成功率に上昇補正がかかる。
『料理は愛! 私の! 愛が! 食べられないっていうの!?』

・手錠
 ゲーム内アイテム。正式名称《重たげなブレスレット》。
 Mobに使用すると逃走を阻止でき、自身と繋がった状態にできる。
 攻撃時に確率対抗ロールがあり、これで負けると拘束が外れる。
 つまり幸運値のきわまった閠は、基本的に外されることがない。
 ヘイト、つまり敵の攻撃も引き寄せるため、Mobをつないだ状態で低レベルの仲間に倒させるというパワーレベリングも可能。
 一部には見た目の良いMobを引きずって歩く猛者も。
『お前の愛情、手錠デスマッチに似てるんだな……』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 ここが私たちの愛の巣だね♡

前回のあらすじ

朝からべたべたあまあまイチャイチャのモーニングを送る《三輪百合》。
奥手恥じらいデカ女がハートマークのエプロンでごはん用意してくれるんですよ。
なお逃げられない模様。
※「異界転生譚ゴースト・アンド・リリィ」本章の内容は犯罪を推奨するものではありません。
絶対に真似しないでください。



 貴族に仕える武装女中としては、寝台で朝食なんて言うのは結構見慣れた光景なんだけど、平民からすると結構な贅沢(ぜいたく)なのよね。読み物とか、劇とかでもちょくちょく出てくる。

 実際のところは、しっかりした朝食っていうより、朝のお茶と軽食で目を覚ましてーって感じよね。朝からそんなに食べないって家ではそれで済ませちゃうところもあるらしいけど、辺境の御屋形ではみなさん寝台でも食べて、食堂に集まったら温かいものをがっつり食べて、って感じよね。

 リリオは寝坊助だったから、寝台での朝食はくいっぱぐれることも多かったけど。

 

 リリオの寝坊助は、奥様譲りかしらね。

 私は奥様のお世話はあんまりしたことがないんだけど、なんでも朝は半分寝ながら、大きな茶碗一杯の乳豆茶(ラクトカーフォ)をのんびりとろとろ飲み終えるまで起きないですって。

 冬場はもっとだめで、毛布でくるんで抱きかかえて、暖炉の前にしばらく置いておかないと起きないんですってね。南部生まれの奥様には寒さが堪えるんだろう。

 そう考えるとリリオはまだ寝ざめがいいほうかもしれない。

 

 はー、懐かしいわね。

 まだ寝てたいってむにゃむにゃしてるリリオの顔洗って歯を磨いて、目が覚めてきたらお茶と軽食も手ずから食べさせてあげて。

 いま思うとあれは甘やかしすぎてたかもしれない。食べるくらいは自分でさせるべきだったかもしれない。

 でもねー、麺麭(パーノ)をちぎって口元にやると、寝ぼけ眼でくんくんって鼻ならして、ひな鳥みたいに口開けて食べるのよ。それでちょっと焦らすと、次は?って見上げてくるの。

 あれはいろいろ、こう、壊れるわよ。(ヘキ)が。

 もし指まで食べられちゃったらって思うとすごくドキドキしたわ。

 ……壊れてたわね、(ヘキ)が。あのころにはすでに。

 

 まあそんなわけで寝台でのお世話ってのは慣れてるんだけど、自分がされる側ってなると話は別よね。

 

「はい、トルンペートも。あーん」

「ああもう、自分で食べられるわよ」

「そっか……そうだね……」

「~~~~っ、わかったわよ、ほら! あーん!」

「はい、どうぞ」

 

 (ヘキ)が……!

 (ヘキ)が壊れる……!

 

 でっかい女が捨てられた子犬みたいに寂しそうな顔するのも、受け入れたとたん花開くみたいに微笑むのも、大きな手でつまむみたいにしてあーんしてくるのも、破壊力が強すぎる。

 お世話されるのに慣れてないとかそういうの抜きにしても、この女はあざとすぎた。好きだけど。そういうのも好きだけど!

 

 めちゃくちゃに眼福ではあるし、気恥ずかしいとはいえ普段のウルウなら絶対にやってくれないであろうご奉仕してくれるのも最高ではあるんだけど、これはまずい気がするわね。

 このまま全部受け入れちゃいそう。

 

 あたしがニコニコウルウとか言う脳が破壊されそうな珍品を前に焦燥感を募らせている中、リリオは実に自然体でひな鳥のごとくウルウのあーんを受け入れていた。なんなら唇や頬を汚して、仕方ないねって感じで優しく拭われたりしてる。

 あたしがお世話するはずのリリオが、あたしがお世話するはずのウルウにお世話されてて、その光景にいろんな意味で脳が破壊されそうだわ。そしてあたしもお世話されて本当にあたしはもういっぱいいっぱいなのよ。

 

 あたしもわざと頬につけてふいてもらおうかな……と一瞬、現実逃避と妄想が入り混じる。

 

 いけないいけない。

 リリオはもう自然体でいてくれていいけど、あたしはちゃんと危機感を持っておかないと。

 

 寝台の上で和やかな朝食を楽しんでるけど、いま、あたしたちはウルウに監禁されている。

 呑気なやりとりをしてるけど、あたしたちの右手首と左足首には、頑丈な鎖につながれた手錠、足錠がかけられている。

 その鎖の反対側は、寝台の脚にしっかりとつながれてしまっている。

 

 幸せの情景のその裏側では、歪な状況が生み出す()()()が、ゆっくりと、でも確実に、深刻な負荷をため込んでるのを感じてた。

 

 そもそものはじまりは、少し前のことだった。

 あの山村での一件──あたしとリリオが妙な病気で倒れちゃって、ウルウがどうやら問題を解決してくれたらしい、あの一件からしばらく旅をつづけたころのことだった。

 

 ウルウが詳しく話してくれないから、何か病気を運ぶ虫の大本を駆除してくれたらしいってことしかわかんないけど、一人で頑張ってくれたらしいウルウはしばらくの間、少し疲れてるみたいだった。

 あたしたちが二人とも倒れちゃって、世間に不慣れなウルウが頑張って一人で村の人とお話しして、苦手な虫にげんなりしながら不案内な山の中に分け入って行ったっていうんだから、そりゃあ疲れもすると思う。引きずるものだってあったのかもしんない。

 

 そう、あたしたちには教えてないけど、何かがあったんだろうなとは思う。

 でもそれはウルウのふところの柔らかいところに触れる問題だし、あたしたちも無理に聞き出すことはしなかった。ただ旅を続けていく中で、時間と触れ合いとがウルウを癒してくれることを期待してた。

 

 実際、ウルウは旅を続けていく中で徐々にいつも通りの姿を見せてくれるようになった。すっかり元通りになってくれたようにも見えた。まあ、あたしたちにそういう姿を意識して見せてくれてたのかもだけど、少なくとも演技ができるくらいには回復したんだって、あたしたちは気軽に考えてしまったのだった。

 

 季節はすっかり春を迎え、まだいくらか肌寒いけど、少し歩き回ればいくらか汗もかくという塩梅。

 いくつかの宿場を抜け、もう少しすれば山を抜けて次の町までつくという、そんなころだった。

 

 宿場からも次の町からもほどほどに離れたあたりで、街道に枝道が見えた。

 それは半分ほど埋もれかけてたけど、古いわだちの跡がまだしっかりと残っている、人の通った道の跡だった。

 

 御者を務めていたあたしはそれに気づいて、ウルウのちょっとした気晴らしになるんじゃないかなって、寄り道を提案してみた。

 なにしろここまで何にもなくて、順調な旅路に安心半分退屈半分ってとこだったから二人とも賛成してくれて、茂みをかき分けるようにしていそいそと馬車を枝道に進ませたのだった。

 

 そうすると、少しも進まないうちに、木々が開けて小屋が見えた。

 壁には(つた)()い、屋根の瓦は苔むしてたけど、傾くことも崩れることもなく、いまも立派にたたずむ小屋だった。

 

 すぐそばには屋根付きの釣瓶(つるべ)井戸もあって、縄も桶も朽ちちゃいたけど、蓋はちゃーんと残ってた。試しに自前の桶を放り込んでみたら、ごみもないきれいな水が汲めたわ。

 

 裏手を覗いてみたら、ほとんど(やぶ)になりかけた畑の跡があった。たぶん元は甘藍(カポ・ブラシコ)(ラーポ)だったんだろう、交雑しまくった野生の菜の花(コローゾ)じみた雑種の黄色い花がはびこってたわね。

 

 いまは見当たらないけど家畜も飼ってたのかしらね。二、三頭ばかり豚を飼えそうな厩舎(きゅうしゃ)も崩れずに残ってた。

 

 あたしたちは一通りを眺めて回ってみたけど、やっぱり人の気配はなかった。

 下生えの様子から見ても、もう何年かの間、人が歩いたこともなさそうだものね。地面にはもう、人の痕跡よりも、動物の気配の方が色濃く残っているまである。

 

 表に戻って玄関扉を見てみると、把手(とって)に鍵がぶら下げてあった。玄関鍵だ。

 

「もうだれも住んでないのかな?」

「そうみたいですね。こういう風に鍵が下げてあるということは、もう使わないから、好きに使っていいということですね」

「多分、病気とか、年を取って便利な街に移り住んだとか、そういうのね。たまに見かけるわ」

「フムン。でもなんでこんなとこに住んでたんだろうね。町からも宿場からも微妙に遠いし、村ってわけでもないし」

「いろいろ事情はあるでしょうけれど……隠者というやつでしょうかね。町の喧騒から離れたいとか、脛に傷があるとか。あ、お金持ちのご隠居さんがのんびり暮らしたいっていうのもありますよ」

「うーん、確かにスローライフしたいってのはわかるかも」

 

 人間ってもんは社会的な生き物で、完全に一人で生きていくというのは難しいものなのよ。

 でもなんかの理由で人里からちょっと離れたいっていう人もいるわけ。

 そういう意味では、町から遠からず近からずのこの小屋はちょうどいい位置かもしれないわね。

 このくらいの距離だったら、町までいって買い物をすることもあっただろう。なんなら人が住んでいたころは、行商人が顔を出してくれたかもしれない。

 

 でもその住人が去っちゃうと、その半端な距離から、わざわざ足を運ぶ人もいないんでしょうね。

 

「困った人が寝泊まりできるようにって鍵を残してくれたのかもしれませんけれど、ちょっと行けば町にも宿場にも行けますから、素通りされてきたんでしょうねえ」

「こういう空き家はよからぬやつが住み着くってのが相場だけど、町からほどほどの距離ってのは悪党にはちょっと不便だったのかもね」

「巡回騎士も見回らなさそうですから、意外と見つからないかもですけれどね」

 

 なんて好き好きに言っていると、ウルウは何か考えるようにしてじっと小屋を見つめて、それから不意にこう言いだしたのだった。

 

「ねえ、別に急ぐ旅ってわけでもないし、ちょっと泊まってみようよ」

 

 




用語解説

菜の花(コローゾ)(Kolozo)
 黄色い花を咲かせる野草、野菜。直接の食用の他、油をとるためにも利用される。
 また非常に多くの変種があり、甘藍(カポ・ブラシコ)(ラーポ)もそのひとつ。
 どれも多くの地域で栽培されているが、交雑しやすいため近くで栽培するには注意が必要。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 もう逃げられないゾ♡

前回のあらすじ

ごはんも着替えもお手洗いも、全部私がお世話してあげるからね♡
※絶対に真似しないでください。



「ねえ、別に急ぐ旅ってわけでもないし、ちょっと泊まってみようよ」

 

 不意にそう言いだしたウルウに、私たちはちょっと顔を見合わせました。

 

「ええ? 普通に行けば明るいうちに街につくわよ?」

「そりゃ町の方が快適だし便利かもだけど、せっかく見つけたんだしさ。この家だって、寂しい思いをしてきただろうしね」

「ウルウのポエットが出ましたよ」

「なんだかんだそういうところあるわよねこいつ」

「こーらー、君たちねえ」

「んふふ、はいはい、わかりましたよ」

「そうね、じゃあ軽く掃除もした方がいいだろうし、ちゃっちゃとやっちゃいましょ」

 

 たまにはそういうのもいいよねってことで、私たちはさっそく小屋の掃除に取り掛かったのでした。

 一晩泊まるだけだから、と思っていたのですけれど、ウルウ基準の軽くというか、ウルウってこういうとき妙に凝り性ですよねっていうか、なんだかんだ結構しっかり掃除してしまいました。

 

 まずは厩舎を掃いて、ウルウがしまい込んでいる(わら)を敷いてあげてボイの寝床を作ってあげました。

 それで小屋に上がってみると、迎えてくれたのはうっすら積もった埃。それに蜘蛛の巣や、小動物のフンなどなど。

 

「うへぇ……」

「ほら、家ってのは放置するとすぐこうなっちゃうのよ」

「これはひどいですね……ウルウ、止めておきましょうよ」

「ううん。ここで退いたらなんか負けた感じがする」

「ウルウって妙なところで強情ですよね……」

「よく負けるのに負けず嫌いよね」

「負けてないが?????」

 

 私たちは手分けして掃除をしていくことにしました。

 窓を開け放って換気し、箒で天井近くから家具、床まできれいに掃き清め、埃を全部追い出してしまいました。小屋中の埃をひとところに吐き出したものですから、もうその量と言ったらちょっとした小山みたいなものですよ。

 窓の隙間なんかから舞い込んだ土埃や、小動物たちの毛や羽なんかが、積もりに積もってたわけです。

 

 それから、井戸から水を汲んで床から家具からしっかりと拭き掃除までしてしまいました。雑巾は何度も洗って、水も何度変えたことでしょうか。井戸水はきりりと冷たく、春先の空気はそれをぬるませることもせず、何度もひいひい言いながら手を真っ赤にしてみんなで雑巾絞りをするんですよ。

 時間がかかってしまったのは、別に私が力加減を間違えて何枚か引き裂いてしまったからではありません。

 

「絞る動作で布を破断させる握力とか……」

「し、しかたないでしょう! ご令嬢に雑巾絞りの経験なんてあんまりないんですから!」

「冒険屋としてはあってしかるべきだと思うわよ」

「ぐへえ」

「そういえば、子供同士のいたずらみたいな感じで、腕をぎゅうって絞るのを雑巾絞りって呼んでたなあ」

「なにそれときめく」

「トルンペートほんとそういうのさあ」

 

 おしゃべりしながらでしたけど、一度やり始めるとみんなてきぱきとしたもので、掃除はさくさく進んでいきました。

 

 私は寝室だけでいいじゃないかとも思ったのですが、なにしろ奇麗好きのウルウが仕切るのです。開けられるところは全部開けてきれいにし、手入れできるところは全部手入れしてしまい、台所の水がめや(かまど)の薪置き場まで、もうすっかり人が住み着けるくらいに整えてしまったのです。

 トルンペートが仕方ないわねって家事技能を発揮し、ウルウがなんか増えて動き回り、私は突っ立ってると邪魔だからお風呂でも磨いててと浴室に放り込まれたのでした。

 

 そう、お風呂です。なんとこの小屋、しっかりした浴槽を構えた浴室があるんですよ。

 お金持ちのご隠居が済んでいたというのもあながち間違いではないのかもしれません。

 ウルウの()()()()()風呂とどっこいくらいの大きさですけれど、それでもこんなところにお風呂があるというのはすごいことですよ。

 

 しかもウルウの()()()()()風呂のように直接浴槽を加熱するものではなく、台所にある風呂釜で薪を燃やし、壁越しに浴槽につながる管を通じて加熱されたお湯が循環して浴槽の水を温める、というつくりなんですね。

 つくり自体はわかりやすいものですけれど、造るのにも修理するのにも職人の手がいるし、お金がかかるんですよね、これ。そして本当のお金持ちは今日日(きょうび)は家に風呂の神官を常駐させているという……。

 まあ、街中ならともかく、こんなところにぽつんと立った小屋には不釣り合いな、いいお風呂ってことです。

 

「追い炊き風呂じゃん……君たちの技術ツリーほんと意味わかんないよね」

「山の中でも風呂沸かすやつがなんか言ってるわね」

 

 掃除が終わったころにはもうすっかり夜が更けてしまって、私たちも達成感と引き換えにすっかり汚れてしまっていました。

 でもこのくらいはわけのないことです。

 なにしろ、汚れたままじゃなんだし、私のわがままに付き合わせちゃったしと、ウルウが手ずからお風呂を沸かしてくれたのですから。

 

 まあ浴槽の大きさから一緒には入れなかったので、私とトルンペートで先にお湯をいただく形になったんですけれど、すぐ隣にあけられた窓から湯加減を聞いてくれたり、調節してくれたりとこれはこれでうれしいものですね。

 そしてウルウが入るときは、残り湯でいいよっていうウルウを押し切って、私たちで火の番をしてあげるわけです。

 

「湯加減はどうですか、ウルウ」

「ありがとう、ちょうどいいよ」

「なんだかこういうのもいいですね。声だけでやり取りっていうのも新鮮で」

「確かにそうかもね」

 

 ええ、本当に、こういうのも新鮮でよいものです。

 普段の、一緒にお風呂に入る裸のお付き合いは、身も心も開いて向き合うものですけれど、こうして声だけで通じ合うものもあります。

 少しこもったような、浴室内で反射した声は、普段と響きが違ってなんだかドキドキしますね。

 

「……ちょっとそっち詰めなさいよ」

「トルンペートこそ」

「…………なに騒いでるの?」

「あー、っと……ちょっと天体観測を……」

「そうそう。見えそうで見えないあたりを、見ようとしちゃったり」

「ふうん?」

 

 あと窓からぎりぎり覗くと湯煙の向こうがやけに魅力的に感じたりもですね、あったりとかなかったりとか。まあ、ちょっと盛り上がった後、ふたりでセイザしてなにやってるんでしょうねって反省しましたけど。

 なんでしょうね。お風呂でさんざん見てきたんですけれど、真正面から見るのと覗いて見るのとでは違う感動がありますね。

 

 まあ、閑話休題(なんやかんやで)

 

 掃除に駆け回り、心地よくお湯につかり、すっかり脱力してしまった私たちは、簡単な汁物でお夕飯を手早く済ませて、あとは食後のお茶をまったりと楽しみました。

 

「思った以上に働かされちゃったけど、でもこの達成感は悪くないわね」

「そうですね。しっかり掃除してみると、この小屋結構つくりがいいですし、快適に過ごせますし」

「たまにはこういうのもいいわねえ。ウルウがお茶まで淹れてくれて、至れり尽くせりっていうか」

「まあ、私のわがままだからね……ごめんね、ふたりとも」

「いいわよ、このくらい。でもさすがにちょっと、疲れたわね……」

「ええ……このまま眠気に身をまかせたいです……」

「いいんだよ。ゆっくりお休み」

「でも……まだ……歯を磨いて……」

「あっ、そうだった、どうしよう……でももう飲ませちゃったし……あ、トルンペートが落ちちゃった……リリオももう寝ちゃうかな……」

 

 まあ、それで気持ちよーく寝ちゃって、目が覚めたら手錠でつながれてて、にっこにこのウルウがおはようって言うんですよ。

 

「おはよう、ふたりとも。今日からここで暮らすね」

 

 それから今日になるまで、私たちは監禁されてるんですよ。




用語解説

・ウルウがなんか増えて
 《影分身(シャドウ・アルター)》のこと。
 ゲーム内《技能(スキル)》。《暗殺者(アサシン)》系統が覚える。
 単体敵に対して、複数の分身体を生み出し、高速の連続攻撃を見舞う物理属性の《技能(スキル)》。
 攻撃回数がとにかく多いので、クリティカルが連発すると恐ろしいダメージ量になる。
『お前が己で、お前も俺で、お前も俺なのか、そうするとお前も俺だな、じゃあお前は誰だ、俺か。それで、そう。俺は、誰だ?』

・もう飲ませちゃった
 《眠りに誘うもの(エンスリーパー)》。
 《暗殺者(アサシン)》系統の上位職《執行人(リキデイター)》が覚える特殊《技能(スキル)》。
 近接単体に状態異常「睡眠」を付与する。奇襲が一番効果があり、気づかれている状態、敵対されている状態と成功率が低下し、直接戦闘時にはほぼ抵抗される。
 エフェクトはランダムで、後ろから口元に布を押し当てる、ひもで吊るした五円玉を振る、粉末を目元に投げかける、謎の模様が浮かんだ板(スマホ?)を見せる、首筋を手刀で打つ、みぞおちを殴る、飲料を手渡すなど無駄に豊富に種類がある。
 閠は今回、頑張って台所でスキルを使いまくって最後の飲料が出るまでガチャった。さすがに二回は豪運でもちょっとかかったようだ。
『オラッ!催眠!寝るまでやれば実質確定!』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 ドジっ子新妻はお世話好き♡

前回のあらすじ

人の往来の途絶えた忘れられた小屋。
《三輪百合》の三人はここに一夜の宿を求める。
女三人、密室、一夜。
何も起きないはずがなく……。

※覗き行為は歴とした犯罪行為です。
気の知れた仲であっても、悪戯半分でも、それは悪事です。
卑劣で浅ましい許されざる行為です。絶対に真似しないでください。
二人もあのあとちゃんと白状して謝り、今後は許可をとってから覗くことにしました。




 最悪の目覚め、っていうよりは、とにかく訳が分からないって心境だったわ。

 目が覚めた時には手錠がかけられてて、外してって言ってもだめだよって微笑んでて。

 最初は意味が分からなかったわ。

 ウルウの下手な冗談だって思った。悪い冗談なんだって、この後ネタ晴らしがあるんだって、そう思いたかった。

 

「手錠を外して」

「ダメだよ」

「手錠を、外しなさい」

「だーめ。ここからは出してあげないよ」

 

 あたしは素早く室内を見回した。

 あたしたちが掃除した小屋の寝室。

 シーツも整えた寝台。鎖は寝台の脚につながってる。

 いつも枕元に置いて寝る《自在蔵(ポスタープロ)》がない。それどころか荷物はみんな見当たらない。

 いつの間にか着替えさせられた寝衣だけ。

 

 安心して。水も食料も困らない。ご飯も用意する。ってウルウは言ったわ。

 これからはずっと一緒だよ。いつまでもいつまでも幸せに暮らそうね。どこへも行かないでね。どこにも行かないからね。いつまでもいつまでも、いつまでもいつまでもいつまでも、私たち一緒にいようね。って。

 

「冗談はいいから、早くこれを外して!」

「冗談じゃないよ。ここでずっと暮らすんだよ」

 

 隣のリリオも、寝ぼけてるのもあって状況がつかめてないみたいだった。

 何の話をしてるのかわからないって様子で、あたしとウルウの間を視線が行き来してた。

 ウルウはそんなリリオの様子をほとんどいつくしむみたいに眺めて、こう言ったわ。

 

「おなか減ったよね。すぐに朝ごはん用意するから」

 

 ウルウが部屋を出るのを見送って、あたしたちはすぐに手錠を外そうとした。

 荷物も装備も全部隠されてたけど、寝衣には針金を仕込んでたし、それで解錠できないかって試してみたのよ。

 でもだめ。鍵穴は見えるのに、針金を突っ込んでも感触がないの。本当にただの穴って感じで、なんのひっかかりもない。たぶん、いつもの不思議道具ね。まじないの品なんだ。

 

 鍵が開けられないんならってことで、じゃああたしの方をどうにかすればいいでしょって、次は関節外してみたのよ。リリオもそれでびっくりして、さすがに目を覚ましたわね。ドン引き言うな。

 だけど、これもだめ。

 手錠そのものがあたしの手首に吸い付いてるっていうか、ぴったりくっついて離れないの。自由に回せるのに、不思議よね。

 

 あたしがいろいろ試してだめだったから、最終手段としてリリオが全力で引きちぎろうとしたんだけど、まさかのまさか。

 びくともしないもんだから逆にふたりとも笑っちゃったわよ。

 鎖も、手錠も、リリオが全力で引っ張っても、ひねり上げても、噛みついても、びくともしないの。普通の鋼鉄くらいまでならなんとかなるはずなんだけど、恐ろしく強靭な金属……っていうよりは、やっぱり不思議道具ってことなんでしょうね。単純な力じゃなく、まじないがリリオの怪力を防いでるのよ。

 

 こりゃどうしようもないなってなったころに、ウルウが戻ってきた。

 手にしたお盆には、湯気を立てる豆茶(カーフォ)麺麭(パーノ)燻製肉と(オーヴォ・ク)目玉焼き(ン・ラルド)、それに生野菜の盛り合わせ。

 手軽だけど、これぞ朝食って顔した組み合わせね。

 

「おまたせ。さあ、召し上がれ」

「わーい、いただきます!」

「あんたねえ……まあいっか。いただきます」

 

 リリオが鎖のこと忘れたみたいにケロッとして普通に食べ始めるもんだから、あたしも毒気を抜かれちゃって、もそもそと食べ始めた。

 まあ、ウルウがつけてきた、でっかいハート(コーロ)が胸に描かれた前掛けに気が抜けちゃったってのもある。

 でも、正直なところ味はよくわかんなかった。

 

「……ねえ、すごいわね、これ。全然外れないわ」

「そうだね。外れたら困るし」

「もうじゅーぶん驚いたから、いい加減外してちょうだい」

「どうして?」

「どうして、って……」

「これからは全部私がしてあげる。もう外に出る必要なんてないんだよ。だから外さない」

 

 あ、これあかんやつ、って思ったわね。

 もうあたし、ぞっとしちゃって。

 ウルウの目、底なし沼みたいにどんよりしてた。

 

 とにかく何とかしなきゃって思ったら、手早く食べ終えたリリオが、すって手を挙げたの。

 

「ウルウ」

「なあに?」

「お手洗いです」

「私はお手洗いじゃないよ……じゃない、え? なに?」

「お手洗い行きたいです」

「おおおおお手洗い!? いま!? いまではなくない!? いま私さあ!」

「でも朝のお通じがですね」

「君いつもお通じいいもんね!? ちょ……ちょっと待って……!」

「ここでしていいですか?」

「いいわけないでしょ!?」

 

 この女、ほんと台本から外れると途端にこれよねって、なんかふふってなったわよね。

 

「ど、どうしよう、どうしよう……!」

「だからほら、外してよ」

「ダメ!!!」

 

 この雰囲気ならって思って言い出してみたら、思いのほか強い拒絶が返ってきた。

 あんなににこにこしてたのに、いまは追い詰められたみたいに、今にも泣きだしそうだった。

 

「外したらどっか行っちゃう……やだ……やだぁ……!」

 

 泣き出しそうっていうか、実際ほとんど泣き出してた。

 見開いた目からボロボロって涙がこぼれて、大の大人がうう、うう、ってうなるみたいに嗚咽(おえつ)漏らして、どうしようどうしようって髪をかき乱すのよ。

 かなり危険なんじゃないかって、正直思ったわね。

 

 でもそんなの何にも考えてないリリオが、漏らすよりは、漏らすよりは!とかいって脱ぎ始めたからウルウもいよいよ悲鳴上げちゃって。

 あたしもさすがに隣でされるのは嫌だったし、ウルウの恐慌状態がいよいよ危険だったから、じゃあ手錠でウルウとリリオをつないで、それで(かわや)に行きなさいよって。

 

「あ、ああそっか! ありがとうトルンペート!」

「さすトルですね! さすトルですよ!」

「ほら、つなぎ直すから暴れないで……ほら、これでいいから、はやくトイレに……!」

「あ、あ、あ、待ってくださいウルウ、あんまり急かすとあっ、ちょっと出」

「ああああああああああああああああああッ!!!」

 

 ウルウがこの世の終わりみたいな悲鳴上げる横で、リリオが超内股でちょこちょこ小走りしてったのは普通に笑ったわ。まあ、笑っていいのか何なのか、わかんなかったけど。

 

 それ以来、ちょくちょくお手洗い大丈夫?って顔出すようになったし、助かるは助かるのよね。

 おまるじゃないだけよかったっていうか。まあウルウ的にもおまるは嫌みたいなのよね。人のこと監禁しておいてなんだけど、さすがに糞尿の処理まではちょっと、って感じみたいで。

 あたしならさあ!って思ったけど、あたしは賢いのでさすがに言わなかったわ。

 

 でもあたしが用を足してるときは、すぐ外で待ってるからっていうウルウにちゃんと見張ってないとだめでしょって言い張って個室内で待たせてるわ。目をそらしたりするから、ちゃんと見張ってなくていいのって言って。ウルウの目をじっと見ながら用を足すのよ。

 違うの、誤解よ。これは異常な状況が、あたしの振る舞いまでをも異常に見せちゃってるだけなのよ。違うわよ。

 ウルウはあたしが逃げないか見張れて、あたしは監禁者であるウルウが不審な行動をとらないか見張れて、お互いに利があるでしょってだけなの。そのうえ変態って言ってもらえるわ。

 

 …………違うわよ?

 

 なんだっけ。

 まあそんな感じで、ウルウも全然こういうの慣れてないし、そもそも慣れるもんじゃないでしょって話だけど、道具の扱いとかあたしたちの待遇も悩みながらなのよね。

 

 着替えの時もどうしようってなって、服に手をかけたはいいけど鎖が邪魔になってどうしようってまた半分泣きそうになりながらしばらく硬直してて。

 

「まあ、私は別にしばらく着替えなくてもいいんですけれど」

「ダメに決まってるでしょ!!!」

「別に外も出てないですし、寝てるだけなんですし汚れてないですよ」

「寝てる時が一番汗かいてるんだからさあ!」

「別に三日くらいはまあ……」

「トルンペート! どういう教育してんの!?」

「野営とか続くとそういうこともあるのよね……」

「貴族のお嬢様名乗るのやめてもらってもいいかなあ!?」

 

 ウルウも潔癖症なのよねえ。

 とはいえ着替えないとっていうのは、確かにね。

 野営の時とかっていうのは非日常なわけで。日常生活で服も着替えない体も洗わないっていうのは、その余裕がないかものぐさかなんだし。

 

 それで結局、鎖ってまだある?あるんならこう、右手と左手を……いっそ足かしら、片方つないで片方外して、そっちを着替えさせたら反対って感じで、えっとこういうことかな、そうそうそういう感じ、上手よ、よくできたわね、えへへ、みたいなね。そんな感じで、いまのつなぎ方になったのよね。

 

「さすトル! さすトルありがとう!」

 

 みたいなね。

 

 なんで拘束監禁されてるあたしの方がが助言しないといけないのよとは思うけど、まあ抜け出せないならちょっとでも生活環境は改善したいものね。

 

 そういう差し迫った問題が解決すると、ウルウは生き生きとあたしたちを介護というかお世話し始めた。別にウルウはあたしと違って人のお世話をするのが好きっていうたちじゃないんだけど、それでもウルウはあたしたちの顔を見るたびに、あたしたちがちゃんとそこにいるってことを確認するたびに、ほっと安堵するように、心底からの喜びを(たた)えるように微笑む。

 普段のウルウを知ってる身としてはにこにこ笑顔でしあわせそうなデカ女には「誰!?」って一瞬なるんだけど、それでもそれはあたしたちのウルウなのだった。

 

 毎日笑顔で、しあわせそうで、恥じらいながらもあたしたちに愛情を示してくれる。

 それは、ある種の幸福の情景ではあると思う。でもそれが上っ面であることをあたしは知ってた。わかってた。あの取り乱して泣き出したウルウの方が本当なんだってことを、あたしは知ってたんだ。

 たぶん、ウルウ自身さえも、そのことを知っていて、わかっていた。それでも、そのことを見ないようにしてた。

 

 あたしたちは、歪な生活をつづけた。




用語解説

・オーヴォ・クン・ラルド(ovo kun lardo)
 要するにベーコンエッグ。

・さすトル
 「さすがトルンペート私たちには思いつかないことも簡単に答えを出してくれますね特にシモとかの方向にはなんかやたらと的確なので普段から考えてるんじゃなかろうかと疑っちゃいそうになりますけれどそれが私たちのトルンペートですもんね」の略。

・おまる
 帝国でのトイレ事情はおいおい話すとして、おまるも一つの選択肢ではある。
 おまるやつぼのようなものに用を足して捨てに行くというスタイルはまだ一部のご家庭などでは現役である。
 幸いここのトイレは、せせらぎの流れを一部引き込んだ自然の水洗トイレともいうべきものだったようだ。そのかわり湿気の被害が大きいので、ウルウ的には微妙にもんにょりしている。

・さすトル(二回目)
 「さすがトルンペートお世話のことに関してはやっぱりプロのメイドさんだよね普段はちょっと忘れそうになるけど家事全般も戦闘もできる万能メイドさんは頼りになるよあとは性癖がもうちょっとおとなしくしてくれればでもそれが私たちのトルンペートだしね」の略。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 トラブルだって恋のスパイス♡

前回のあらすじ

絶対に笑ってはいけない監禁生活一日目。
もとい監禁被害者が加害者のメンタルが爆発しないようにうまいこと調整していくゲーム開始。
※絶対に真似しないでください。


 どうにかして抜け出さねばなりません。

 

 と、最初は思ってたんですよ。

 いや、本当ですよ。私でもちゃんと危機感持ってますからね。

 まあ本当の最初は、いまいち何が起きてるのかよくわかってなかったんですけれど、監禁されているんだってことがちゃんとわかってくると、さすがの私も呑気できませんからね。

 ウルウがどういうつもりなのかはわからないけれど、こんな状態は普通じゃないし、どうにかして打開しなければならないっていうことは考えていたんですよ。

 

 でもですね。

 

「……なんか、慣れてきちゃいましたねえ」

「悪い意味で慣れちゃったわねえ」

 

 一週間くらい、でしょうか。

 私たちが監禁されてから、そのくらいが経ちました。

 初日こそ困惑ばかりでしたけれど、ウルウがお世話してあげるって言う通り、かなり至れり尽くせりなんですよね、いまの生活。

 

 ウルウの手料理が一日三回食べられますし、午後にはおやつも用意してくれます。

 何なら好きなだけお昼寝しててもかまいませんし、膝枕をねだったらちょっとだけねって家事の合間に膝を貸してくれもします。私の知らない国のおうたを歌いながらポンポンされるといつの間にか時が飛んでしまいます。

 

 相変わらず外には出してもらえませんけれど、鎖が長いので室内をうろつく分には困りません。腕立てとか、天井の(はり)を使った懸垂(けんすい)とか、体を鍛えることにもそんなに不便しません。

 そうやって汗をかいたら、ウルウにお風呂にも入れてもらえます。鎖でつないで一人ずつですし、ウルウは服を着たままですけれど、きれいに洗ってもらえますし、しっかり髪も乾かしてもらえます。

 

「もしかして、なんですけれど」

「なによ」

「もしかしてこれ、悪い生活じゃないのでは……?」

「ほんとそれよね」

 

 トルンペートはお世話できずにお世話されているという現状に若干不満はあるようですけれど、それでも明かり取りの窓から差し込む陽だまりに合わせて移動しながら床でごろごろしたりと、家猫じみただらけぶりです。

 

 まあ、ここまで落ち着いてだらけていられるのも、いくらかは問題解決の糸口が見えてきたからでもあるんですけれど。

 

 まず最初に気づいたのは、鎖がつながれている寝台でした。

 腕立てとかだけじゃ物足りなくて、何か重しになるものはないかなって探してた時に、ふと思いついて寝台を持ち上げたんですよね。

 そしたらトルンペートが、

 

「寝台持ち上げられるんなら、つながれてる意味なくない?」

「……そういえば!」

 

 ここから離れられないようにするためにつながれてるのであって、寝台ごと移動できるならこれもう拘束されてないのと一緒ですよ。

 なんとなく重たくて動かせない印象でしたけれど、純粋にモノとしてみれば大した重量ではありません。まあかさばりますし、対する私が軽すぎるので限度がありますけれど。

 

 それに気づいたトルンペートといろいろ試してる間に、綺麗に寝台の脚を引っこ抜くこともできました。

 工具はなかったですけれど、トルンペートが構造を確かめて、私の指でちょいと力を籠めれば、破壊せずに足だけ引っこ抜けちゃったんですよね。

 手錠はまじないのせいで外れませんけれど、それがつながっている寝台の脚は外せるので、これでさらに身軽になれます。

 

 こうしていざ簡単に抜け出せるってわかっちゃうとなんか落ち着いてしまうもので、私たちは拘束されたままのふりをして、現状を見定めることにしたのでした。

 

 例えば、お手洗いに行くときは、さすがに部屋から出してもらえます。

 手錠でウルウと繋がれた状態でお手洗いに向かうまでの間に、私たちは小屋の中をこっそり観察していました。

 

 小屋の中には、馬車に積んであった鉄暖炉(ストーヴォ)や家具も移され、かさばるからとウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》に収めていた荷物もいくつか取り出されて並べられていました。

 棚には日用品なんかが並べられていて、生活臭がします。というか完全に住み着く体勢ですよこれは。

 

 きれいに整理整頓されていて、モノが取り出しやすいように並べられて機能的な一方、飾り気とかおしゃれとかそういったものは(とぼ)しく、使わないところは本当に何も置いてなくて無味乾燥としているという、ウルウらしいといえばウルウらしい光景ですね。

 

 出入口は、玄関と勝手口の二つ。これは掃除の時にも確認しましたね。

 窓は明かり取りの窓が何か所かありますけれど、小柄な私でもこれをくぐるのは難しそうです。

 お手洗いは川から水を引いているのか、どこかから流れてどこかへと流れて行っているようですけれど、これは窓以上にくぐるのは無理そうっていうか普通に嫌ですね。

 

「フムン。窓ねえ……確かにちょっと狭いわよね、これは」

 

 寝室にある明かり取りの窓も、どうしても肩がつっかえる程度の大きさです。

 高さがあるのはどうとでもなるとして、大きさの問題はいかんともしがたいところです。

 

「まあでも、あたし一人なら出られるわよ、これ」

「ええ? トルンペートも細いといえば細いですけど、私よりは大きいじゃないですか」

「普通にやればそうだけどね」

 

 トルンペートはすこし肩を回して、柔軟運動でもするように何度か曲げ伸ばしして、いけそう、と言いました。

 そして腕をぶるんと振るうと、トルンペートの右腕がだらんと脱力してしまいました。いえ、脱力ではありません。それは奇妙な具合でした。トルンペートの肩がペタンとなだらかになって、腕がずるんと伸びたように見えます。

 

「うわっ、なんですかそれ」

「肩の関節外したのよ」

「うわぁ……指だけじゃなくて肩も外せるんですか?」

「両肩とも行けるわよ。ほら」

「うっわきもっ」

「きもい言うな」

 

 今度は左腕もぶるんと振るって、がこんと音を立てて左肩が外れてしまいました。

 だらんと両腕がぶらさがっていて、肩幅がすっかりなくなってしまったではありませんか。

 それはなんだか、物語の中の蛇人間のような、そんな不思議な姿でした。

 

「うへえ、すごいですねえ。でもそれ、元に戻せるんですか?」

「戻せなきゃやらないわよ。ほら。こっちもほら」

「うええ……痛くないんですか?」

「普通は痛いわね。あたしはこういうのできるようにいじってもらったからできるってだけだから、あんたは真似しちゃだめよ」

「真似しないですよこんなきもいの」

「きもい言うな」

 

 トルンペートは器用なもので、外した肩を、壁を利用して簡単にはめ直して見せました。

 でもこれは簡単に見えるだけで、普通はとてつもない激痛を伴うし、体を傷つける真似なんだそうです。遊び半分でやって靭帯が切れてしまったり、すっかり伸びてしまったらもう元には戻らないんだとか。そうでなくても脱臼は癖になるので体に良くないんだそうです。

 でもトルンペートはあえて自分で外せるようにいじってもらったようで、そのおかげで私に振り回されても骨折せず脱臼で済んだり、すごく柔軟な体になっているんだそうです。

 

 ここしばらく閉じ込められていて、快適ではありますけれどちょっとした鬱屈を貯めていたのかもしれません。

 私たちはうっかりトルンペートの関節外しで盛り上がってしまい、少し騒ぎすぎてしまったようです。

 

「もう、何を騒がしくしてる、の…………?」

「あ、ごめんなさいウルウ、うるさくしてしま」

「なにしてるの!?」

 

 騒ぎを聞きつけて顔を出したウルウは、肩の関節を外したトルンペートの姿を見るなり、血相を変えて部屋に飛び込んできました。

 

「あ、あああああ! こ、こんな、なんで、大変! 大変だ……どうしよう……!? 痛い? 痛いよね? 脱臼、脱臼って怪我? 怪我だよね……《ポーション》でいいのかな……うううううう! わかんない! わかんないよぉ……! うううううう痛いよね、痛いよね、ごめんねトルンペート……!」

「ち、ちが……! 大丈夫よ! ほら、全然痛くないから! 大丈夫、大丈夫だから!」

「大丈夫ですよウルウ! ちょっとふざけすぎちゃっただけで!」

 

 取り乱したウルウは(せき)を切ったように泣き出してしまって、私たちはウルウが泣き止むまで必死になだめることしかできませんでした。

 ウルウはそうしてしばらく泣きじゃくって、気絶するみたいに寝入ってしまいました。

 あれだけにこにこと笑っていたウルウの目元には、よく見ればうっすらと、でも確かに(くま)が浮かんでいました。

 体もいくらか(しし)置きが悪くなって、少し頬がこけたような気がします。

 

 すこししてびくりと目覚めた閠は、底なし沼のような目で私たちをしばらくじっと見つめました。ものも言わずかなり長い間、じっと。

 それからぬっと立ち上がるや、まるで亡霊(ファントーモ)のように生気のない顔で、もうこんなことしないでと言い残して部屋を立ち去ったのでした。




用語解説

・脱臼
 ※このトルンペートは特殊な人体改造と訓練を受けています。
 深刻な障碍が残る可能性があります。絶対に真似しないで下さい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 らぶらぶ新婚生活を送ろう♡

前回のあらすじ

吞気してたらうっかり爆弾処理に失敗する二人。
みんなもメンタルしんどい人のそばで関節外しゲームでギャヒギャヒ笑ってはいけませんよ。
※どの関節であっても外れるのは異常事態です。
絶対に関節で遊ばないでください。
脱臼した場合はすぐに医師の診断を受けてください。


 隠し芸「関節外し」でギャヒギャヒ笑ってたらウルウが泣き出しちゃうし、泣き止んだら泣き止んだで感情が死んだみたいな顔になるし、あれは本当に、あたしたちが思っている以上に精神が追い詰められてるわね。

 

 いやでも、普段の調子でも、あたしがしれっと関節外しとかして見せたらすっごく驚くだろうし、心配するだろうし、ネタ晴らししたらバチクソ切れ散らかしそうではある。そのあと笑いそうだけど。

 ウルウは結構しょうもないネタで呼吸困難になるほど笑ったりもするけど、でも人に心配かけたり危ない真似したりするのは好きじゃないものね。

 関節外しはウルウの気分次第ではバカ受けするネタであったからに、ちょっと時機を間違えたわね。

 

 リリオとあたしは辺境育ちだから、っていうと辺境の皆さんから顰蹙買うかもだけど、まあ笑いの沸点とかツボが違うのは確かなのよね。人の笑いは他人の白け。いまのウルウは考えてたよりだいぶしんどいみたいだから、もうちょっと気遣ってあげないといけなかったわ。

 

 あの後ウルウは、「本当にもう、危ないことはしないで」とだけ言って、泣きはらした目でそれでもご飯を用意してくれて、お風呂やお手洗いの世話もしてくれた。

 そして家事をしているときでも部屋の扉を開けたままにして、折に触れてはじっと室内を、あたしたちの様子を眺めて、ほっとしたように、あるいは詰めていた息を吐くように、重たげな溜息を吐いて、また家事に戻った。

 

 見張られてるようで落ち着かない。というより実際見張られてるんだろうけど、まあ、仕方ないかなとは思う。心配かけちゃったし。

 

 日一日(ひいちにち)と日差しが暖かくなるなと思いながらごろごろ過ごしてたら、一週間くらいかしらね。それくらい経ってから、ウルウが手錠と足錠を外してくれた。

 でもそれは別に解放してくれるってことではなかった。

 

「二人も慣れてきただろうからね。ずっと部屋の中じゃ気が滅入ると思うし、好きにくつろいでね」

 

 つまり、檻の中での飼い殺しから、優雅な部屋飼いに変わったってわけね。

 

「ああでも……()()()にしててね?」

 

 もちろん、釘は刺された。

 

 あたしたちは、それこそ新居に移ったばかりの飼い猫みたいに落ち着かない感じで小屋を見て回った。

 掃除していた時も思ったけど、この小屋は生活するうえで不便が少ないようにできてる。段差も少ないし、見通しもいい。お年寄りと、その介護者が済んでたっていう予想もあながち外れじゃないかも。

 でもまあ、そういうつくりってことは、あたしたちがあえて隠れようとしなければ、背の高いウルウからはどこにいても見えてるってことね。

 

 実際、あたしたちを部屋から出してしばらく、ウルウはすみの壁にもたれるようにして、しばらくあたしたちの振る舞いを眺めてた。振り向けばどこにいても、ウルウと目が合った。そういう位置取りなんだろう。

 

 監視されてる、という圧迫感もあった。

 でも、そうして振り向いた時に垣間見えるウルウの目が、なんだか辛かった。

 眩しいものを見つめるように、どこか遠い景色を見るように、その目はひどく寂しそうだった。

 

 なんて詩的なことを考えてウルウの精神状態を思いやりながらも、あたしは冷静に小屋の中を調べた。

 

 真っ先に確認した玄関には、あからさますぎる露骨な錠前と鎖。勝手口の方も、同じく。

 家の内側に錠前って……と思うけど、まあ侵入されないためのものじゃなくて、あたしたちを逃がさないためなんだから当然といえば当然。

 どうやってとりつけてるのかもわかんないし、たぶんこれもいつもの不思議道具なんだろう。手錠といっしょ。どうせ鍵開けも通じないし、リリオでも壊せないから、試しもしない。

 

「とはいえまあ……手錠と同じってことなのよね」

 

 この錠前と鎖が壊せなくて、扉が開けられないのだとしても。

 そもそもリリオなら石材交じりの木造小屋の壁なんて簡単にぶち抜けるのよね。

 体重軽いから少し手間だけど、まあ力任せより、普段見せる機会のない剣の腕があれば、普通に斬れる。

 

 あたしたちがある程度落ち着いて居間の長椅子でくつろぎ始めると、ウルウは棚からいくつか遊具を取り出してきた。

 トランプに、帝国将棋(シャーコ)、旅先でなんか面白そうと思って買ったけど全然やってない謎の遊戯盤とか。

 

 あ、これ、決闘者(デュエラントイ)じゃない。そういえばあったわね。交換遊戯牌(コレクタ・カルト)ってやつよ。ただ、あたしたちはやり方をろくに覚えてないから、地方限定の札を見かけると何となく記念品みたいな感じで買うだけなのよね。

 いや、ウルウは覚えてるのよ。なんならちょくちょく公式の雑誌買って、最新の決め事とか覚えてるわよ。

 でも前にリリオが遊びたがってやってみたら、「その効果は『倒された時』であって『墓地におくられた時』じゃないね」とか、「『対象に取れなくなる』効果だから、対象を取らないカードで除去できる」とか、「『破壊されない』けど『生贄に捧げる』ことはできるよ」とか、「『再生』は再生してるわけじゃないから、墓地にいるときの効果は発揮できないよ」とか意味不明な呪文唱えるし、リリオに手番が回ってくる前になんかよくわかんない儀式が始まって試合が終わっちゃったり、つまりあたしたち向けじゃなかったのよ。

 

 あたしたちがそっと決闘者(デュエラントイ)をわきによけると、ウルウはとても寂しそうな顔をした。ごめん。でもあたしたちには無理よ。

 やっていけば意外と簡単だからって言われても、無数の札を六十枚以上組み合わせて山札作ったり、運次第で引ける手札を組み合わせて効果を組み立てて行ったり、そういうのは簡単って言わないの。

 あと初心者向けのデッキもあるからって言うけど、平気で山札を数種類用意してるやつの相手は普通にしたくないのよ。多分もう初心者の感覚とか覚えてないでしょあんた。

 

 なんだっけ。

 そうそう、まあ、なんだかんだあたしたちも娯楽に飢えてたから、監禁被害者と加害者という関係ではありながらも、あたしたちは買うだけ買って遊んでなかった地方版帝国将棋(シャーコ)をいくつか試してみたりしたのだった。

 もちろん、チンパンはなしだ。

 あたしたちは淑女なのだ。

 

 とはいえ、おしゃべりしながら遊んだりしてるとのども乾くし、小腹も空く。

 あたしがなんか作ろうかなってなんとなーく立ち上がったら、ウルウの手があたしの手を掴んだ。

 なによ、さびしいの、なんて軽口叩こうとして、じっと見上げてくる視線に詰まった。ウルウの手は、別に痛いくらい強く締め上げてくるってわけじゃない。でもまるで機械仕掛けのように、冷たくゆるぎなく、あたしを捕まえて離さない。

 

「……ちょっと、軽食作ろうかなってだけよ」

「………だめだよ。危ないからね」

「別に料理くらい、」

「だめだよ」

「別に、」

「だめだよ」

 

 あっ、これがウルウの言うはいって言うまで進まないやつね!

 なんて冗談めかしてみたけど。

 柔らかい口調で、うっすら微笑んで。

 でも、圧が、強い。

 

 そりゃあ、まあ、関節外してギャヒギャヒ笑って心配かけちゃったし、危ないって言われると強くは返せないわよ。

 でもそのくらいもさせてもらえないんじゃ、息が詰まる。

 今後改善されるかもしれないけど、それを長々と待つ気はない。

 

「せめて、お茶くらいは淹れさせなさいよ。あたしがご奉仕大好き人間だって知ってるでしょ」

「それは……まあ」

「それにあんた大好き人間でもあるのよ」

「……………仕方ないなあ」

 

 折れずに言いつのって、少しの間のにらみ合い。

 といっても、あたしは自分の顔の良さを知っていて、ウルウがそれに弱いことを知っているのだ。

 いい感じの角度で、いい感じに目を潤ませて、いい感じにおねだりすればこいつはすこぶる弱いのだ。

 野良猫が餌欲しがる時だけ甘えてくるみたいでつよい、とはウルウの談だ。

 

 手を放してくれたのでいそいそ台所に向かうと、気配も足音もなくウルウがついてくる。

 気配も足音もないのに、ついてくるのがわかるあたしもどうかとは思うけど、すさまじい隠形(おんぎょう)のわりにこいつ自身は抜けてるので、気をかけていれば気づけるものだ。目端で確認できる。

 

「茶葉は上の棚。薬缶(やかん)はあそこで……」

「ああもう、台所くらい自分で確かめるわよ!」

「ごめんて」

「なんならあたしのやりやすいように勝手に置き換えるわよ」

「わかったって」

 

 あれこれ言ってくるけど、本来台所はあたしの領分だ。というか、家事全般。

 あたしがしたいことを結構な間封じてくれたんだから、堪能させてもらうわ。

 って態度でふしゃーっとうなってやると、ウルウはお手上げとばかりに下がってくれた。

 

 そしてあたしは台所を検めるという建前で素早く調査していく。

 棚や引き戸はすべて開けて中を確かめ、かまどの様子もざらっと見ていく。

 茶葉、薬缶、茶器、それらはウルウの言ったとおりの場所にあった。着火具も見つけたし、火精晶(ファヰロクリスタロ)仕込みのかまどならすぐに用意もできる。

 

 でも、包丁がないわね。

 刃物全般、それに尖った部分のある金属製品が見当たらない。

 さすがにそこまで抜けてはいないか。

 

「見つかった?」

「……ええ、見つかったわ」

 

 あたしの様子を見計らったかのように、真後ろに立っていたウルウの呼びかけ。

 上から降ってくるみたいな圧迫感と声は、まるであれね、八尺様(オク・フート)じみてるわね。

 

 まあ、武器になるものがあったところで、ウルウ相手には大して意味がない。

 半端な刃物なんか、そもそもあたりやしないんだから。

 

 結局あたしはおとなしくお茶を淹れることになり、茶菓子はウルウがどこからともなく取り出してきた焼き菓子だった。これ既製品ね。前に寄った宿場町で買ったやつ。結構前だったけど、ウルウの《自在蔵(ポスタープロ)》は保存が効くから本当に便利よね。

 

 お茶して、お菓子もいただいて、しばらく遊んで。

 その間あたしは、ウルウの隙を見つけることができなかった。

 いやまあ、見つけてどうしたいのって言われると困るけど。

 でもとにかく、あたしたちはこの小屋を脱出しなけりゃいけないと思う。

 この不自然な監禁生活をどうにか打破しなきゃいけない。

 あたしたちのためにも。

 ウルウのためにも。

 

 その後は台所に立たせてもらえず、ごはんもウルウが時折こっちを確認しながら作ってくれた。

 なんてことかしら……。

 ぴちぴち前掛けでちょっと慣れない手つきの嫁がご飯作ってくれるという実に素晴らしい光景なのに、嫌な緊張感が漂って台無しだ。こういうのはなんの気後れもない純粋にいちゃいちゃできるときにやってほしい。

 

 食事は食卓で普通に()らせてもらえたけど、やっぱりなんだか落ち着かない。

 ウルウもどこかぎこちない感じはする。まるで形ばかり整えたおままごとだ。

 見えない刃がちらついてるのに、あたしたちはそれにどう対応すればいいのか、そもそもどうしてこんなことになっているのか、そしてこれからどうしたらいいのか、まるでわからないままだ。

 それはもしかすると、ウルウ自身もそうだったのかもしれない。

 

 なんてあたしが気疲れしてる間、リリオはまるで気にした風もなく呑気にもきゅもきゅ食べている。まあ、考えすぎるより、ある程度気楽なほうがいいのかも。

 

「この辺りは何が獲れるんでしょうね。そのうちごはんも()きますし、なにか狩りにいかないとですね、ウルウ」

「え? あ、うん……そっか、そうだね」

 

 って思ってたらしれっと様子見に突っつくじゃないの。

 




用語解説

・露骨な錠前
 ゲーム内アイテム。正式名称《最高ロック》。
 場所に対して用いるアイテムで、使用した地点を通行止めにできる。
 解除には、アイテム使用者が調べて解錠を選択する、《盗賊(シーフ)》系統などが覚える解錠《技能(スキル)》を使う、解錠アイテムを用いる、設定された耐久値を超えるダメージを与えるのいずれかが必要。
 通路など限定された地形でしか使えないし、プレイヤー相手には割と簡単に対策されてしまうが、ギルド戦での嫌がらせや、撤退時の時間稼ぎ、また一時的なセーフハウスつくりなどに使われる。
 店売りで買える。
『ロックだとかロックじゃないとか、全然ロックじゃねえ。俺がロックだ』

決闘者(デュエラントイ)(La Duelantoj)
 帝国で一部流行しているトレーディングカードゲームの一種。
 有名な冒険屋や騎士、魔法使いなどをモチーフにしたカードが人気。
 建前上、存命の人物のカードはしっかり許可を取っているが、あからさまにそれっぽいカードはよくある。
 そして死後75日経ったらしれっと改名されてたりする。
 各地に協会があり、地方ごとのカードを販売している。
 なおその難解なルールは新規パックが出るたびに改訂が繰り返されており、昨日の最強カードが今日には紙くずということもなくはない。
 帝都新聞では投資関係の欄に並ぶとか。

交換遊戯牌(コレクタ・カルト)(Kolekta karto)
 いわゆるトレーディングカードゲームのこと。
 代表は上記の決闘者(デュエラントイ)だが、様々なTCGが日々生まれては消えていく。
 根付くにはちょっととっつきづらいとかなんとか……。

八尺様(オク・フート)(La Ok futo)
 オーケイ、太っ、ではない。
 帝国東部・北部に伝わる怪異。山の怪の一種とされる。
 身長が八尺(交易尺でおよそ2メートル40センチ)あることからこの名で呼ばれる。
 若い男性を好んで付きまとい、取り殺してしまうとされる。
 帝都発行の怪談集に掲載され、知名度を得た。
 その話によれば、田舎に帰省した若者に目をつけとりつき、村の者たちが必死で魔除けバリケードを施すも、八尺の恵体から繰り出される拳が分厚い扉をぶち抜き、石造りの砦を蹂躙!
 村人たちは無残にも皆殺しにされてしまったという。
 命からがら逃げだした若者は復讐を誓い、十年の時を経て帰郷。
 待ちわびた八尺様が襲い掛かる! 圧倒的なリーチから繰り出される拳は熊をも殺す!
 しかしその拳を誘い出すことこそ男の狙い!
 八尺様の伸び切った腕と交差するように繰り出されるは十尺剣(デックフートグラヴォ)の鈍い輝き!
 という世にも恐ろしい話だったそうな。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 小さな家にお嫁さんと可愛いワンちゃん♡

前回のあらすじ

なるほど完璧な監禁っスねーっ
力技で脱出できる点に目をつぶればよぉ~~
※建造物損壊罪が適用される恐れがあります。
危険ですし、絶対に真似しないでください。


 お昼ご飯を済ませておなかもいっぱい、部屋の室温も快適で、手錠を外してもらえた安心感からかちょっと眠くなってしまいましたが、うつらうつらとしつつふと思い出しました。

 

「そういえば、ボイは元気でしょうか」

「そうだったわ。あの子、放っておいても普通に適応しちゃうから忘れてたわね」

 

 薄情な、とお思いかもしれませんが、私たちの馬車を曳いてくれる馬こと大熊犬(ティタノ・ドーゴ)のボイのことを、正直私たちは半分以上忘れていたのでした。

 いえ、けっしてボイのことをないがしろにしているわけではないんですよ。

 むしろ馬というものは旅人にとって、重要な資産の一つなんです。単純な価値だけにあらず、心を通わせ、いざというときには頼りにする、仲間とも家族ともいえる存在なのです。

 

 なのですけれど。

 

「実際問題として、あたしたちより賢いんじゃないかってくらい頭いいから……」

「私たちがどうかなっても、ボイは割と平気で生き延びてそうな気はしてますよね」

「だいいちウルウがボイをどうこうするのって想像できないのよね」

「下手すると私たち以上に大事にしてるのでは疑惑ありますね」

「あるわよね」

 

 日の傾きとかから野営時間を逆算して、ちょうどいい感じの野営場所見つけたら自分で止まってくれますし、私たちが野営準備してたら薪集めたりちょっとしたりとかしてくれますし、なんなら火を恐れないので自分で薪を()べ足したりしますし。

 

 いくらなんでも賢すぎる……ってウルウが真顔になってましたもんね。

 こんだけ賢いんなら隣人種ってやつじゃないのってウルウは言うんですけれど、交易共通語(リンガフランカ)が通じないので隣人種ではないですね。

 賢さはともかく体つきは人族に似てる小鬼(オグレート)とかだって、内臓とかまでよく似てますけど、交易共通語(リンガフランカ)通じないのでやっぱり隣人じゃないんですよ。

 って解説したらなぜかドン引きされましたけれど、なんででしょうね?

 

 まあともあれ。

 開放感からかちょっと余裕が出たのか、ようやくボイのことを思い出せたんですけれど。

 そうしたら洗い物してたウルウが手を拭きながら戻ってきました。関係ないですけれど、こういう手を拭いてる仕草ってなんかいいですよね。

 

「そうだね。そろそろ寂しいよね」

「いや寂しくはないんだけど」

「ええ……それはそれでどうなの……?」

「いや、元気でいるなら、まあ……」

「君たちそこらへん結構ドライだよね……辺境人の死生観なの?」

「まあ知らない間に死んでるとかザラなので……」

「うーん、この中世感」

 

 何やかやと言いながら、なんと勝手口から外に出してくれました。

 とはいっても、手錠でウルウとつながれた状態で、ですけれどね。

 右手の鎖には私。左手の鎖にはトルンペート。扉を開けたとたんにとりあえず出てみるのが私。周囲を確認しながら出てくるのがトルンペート。そして引っ張られて出てくるウルウ。なんか犬の散歩に出る光景みたいですね。

 

 久しぶりの外気は、まだいくらか肌寒さを感じました。

 暦の上ではもうすっかり春なんですけれど、大寒波の影響でしょうか。

 これは夏も冷夏になってしまいそうですね。冷夏は作物の実りもよろしくないので、いまから心配です。

 

 さて、勝手口からすぐの厩舎に、ボイはごろんと横たわっていました。

 別に倒れてるとか死んでるとかではなく、もう完全に油断しきっておなか出してごろんとしてました。野営中は絶対に見せないような弛緩具合ですよこれは。なんならすぴょすぴょ寝息立ててだらけてますもの。

 辺境生まれの私が肌寒く感じる程度の気温は、たっぷりとした毛皮のボイにはむしろ快適なくらいのようでした。

 

「まあ悪いようにはされてないと思ったけど、元気そうでよかったわ」

「思ったより快適そうまでありますもんね」

 

 考えてみれば当然といえば当然なのかもしれません。

 ボイからしてみたら、重たい馬車を曳いて一日中歩いたりしないでいいですし、あれこれ考えなくてもいいですし、ちょっとした長期休暇みたいなものでしょう。

 以前の思いがけない長期休暇の時は、主人である私たちが姿を消してしまった上にいつ帰ってくるかわからないという、考えてみたらかなりひどい状況でしたね。その状況で従叔父(メザーガ)に連れられてはるばる会いに来てくれたのですから感動の再会でした。

 うん、普通に薄情でしたね我々は。

 

「しかし……元気なのはいいことですけれど、やけに毛並みが良くありませんか」

「毛艶もいいわね。なんならちょっと肥えた?」

「まあ、私もちゃんと動物のお世話もできるようになったってことだね」

 

 以前は動物に触ることさえおびえていたようなウルウが、胸を張るではないですか。

 いいえ、きちんと動物に向き合い、触れ合い、お世話できるようにまでなったのです。それは立派に胸を張れる成長といっていいでしょう。

 

「毎食栄養バランスに気を遣ってるし、厩舎全部使った広めの寝床も、毎日藁変えてるし。運動だって、畑っていうか庭を駆け回って存分にできる。あ、昨日のウサギはボイが獲ってきてくれたんだ。頑張ってさばいたよ」

 

 ボイの健康的な生活とウルウの頑張りがよくわかりますね。解体も苦手だったのに、ウサギとはいえ立派にさばいて料理できるなんてすばらしいですよウルウ。

 

「それに野営中はどうせ汚れるしって思ってたけど、いまは時間あるから毎日ブラッシングもしてあげられるしね。品評会とか出せるんじゃないかな」

 

 ふふん、と言わんばかりの胸の張りっぷりです。

 いや本当に、自信を持てるくらいのその頑張りは素晴らしいものなんですよ。

 もうたっぷり一日くらい使って褒め称えて褒め倒して押し倒したいくらいなんですよ。

 

 なーんーでーすーけーれーどー。

 

「……これあたしたちより待遇よくない?」

「絶対待遇いいですよね……」

「なんかごめん……あとで髪とかして、マッサージもする……?」

「そうではないんですよ。そうではないんですけれどそれはそれとしてお願いします」

 

 などとごちゃごちゃ話していたら、さすがにだらけていたボイも目を覚ましたようでした。

 のそのそ起き上がると、私たちにすり寄って手のにおいをかいできます。

 うーん、かわいい。しかもウルウのかいがいしいお世話のおかげで毛並みももっふもふです。これは延々といつまでも撫でられますよ。

 

 ボイはボイで、ただただウルウのお世話を堪能して快適な生活を送っていただけではなく、私たち三人がなんだか妙なことになっているなというのは察していたようで、すり寄ってくる姿には何となく慰めとかの空気を感じます。

 うーん、馬に心配かけさせているというのは、なんとも情けない話です。

 馬は賢いですからね、こういうときの察しの良さは、私以上かもしれません。

 

 そうして私とトルンペートがボイのモフモフ分を味わっている間、ウルウは椅子に腰を下ろして私たちをぼんやりと眺めていました。

 眺めているというよりは、ほとんど呆けていて、私たちの方に目を向けてはいますけれど、視線はなんだか散漫で、焦点が合っていないような感じはします。

 

 手足もだらんと投げ出して、背中もなんとなく曲がっていて、普段のウルウが見せないような脱力ぶりです。それも安心した脱力ではなく、疲れ切った脱力でした。

 

 そっとうかがってみれば、あれほど化粧いらずだったお肌は少し荒れてきていて、目の下の(くま)ははっきりと目立ち始めています。

 髪もなんだか艶がなく、ほつれが目立ち、唇もかさかさと乾燥しています。普段から血の気のいいほうではないですけれど、いまは亡霊(ファントーモ)というか、半分死人みたいにさえ見えました。

 

 まじまじと見つめ過ぎたのか、ウルウの視線が不意に私の視線とかち合いました。

 ウルウはしばらくの間ぼんやりと目を合わせて、それからきしむ体を無理に動かすようにして立ち上がりました。

 

「少し、冷えてきたね。戻ろうか」

 

 そういって小屋に戻っていくウルウ。

 その背中はなんだかひどく小さく見えました。




用語解説

・ボイ
 《三輪百合》の馬車を曳く馬。もう一人のメンバーといってもいいだろう。
 細かい計算はできないが、お小遣いを渡すと自分でお肉を買いに行けるくらいには賢い。

大熊犬(ティタノ・ドーゴ)
 大型の四つ足の犬。犬というより熊のようなサイズである。
 性格は賢く大人しく、食性は雑食。
 北から南まで様々な環境に対応でき、戦闘能力も高い。
 丙種魔獣相手に十分に戦え、乙種相手でも相性による。

・隣人種
 ざっくりした定義は「交易共通語(リンガフランカ)が通じるもの」。
 なので囀石(バビルシュトノ)のような生物かどうか怪しいものも範疇に含む。
 神は含まないが、精霊などを含めるかは諸説あり。

小鬼(オグレート)
 小柄な魔獣。子供程度の体長だが、簡単な道具を扱う知恵があり、群れで行動する。環境による変化の大きな魔獣で、人里との付き合いの長い群れでは簡単な人語を解するものも出てくるという。
 この人語を解するというのは、犬猫がなんとなく言いたいことを察するとか、インコが人間の言葉を真似するとかいう程度の意味であり、隣人種としては認められていない。

・メザーガ・ブランクハーラ
 人間族。リリオの母親の従兄妹にあたる。四十がらみの冒険屋。
 ヴォーストの街で冒険屋事務所を経営している。
 リリオとの関係をしばしば「叔父」「姪」と簡便化して書いているが、正確には「従叔父(いとこおじ)」「従姪(いとこめい)」である。
 リリオから見ると母方の祖父の弟の子供にあたる。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 キミを思って苦しいくらい♡

前回のあらすじ

無事な姿を見せてくれた愛馬ボイ。
ほっとしたのもつかの間、ウルウの見せる憔悴ぶりに困惑するリリオ。
果たして彼女はいったいどうしてしまったのだろうか。
※家畜やペットを傷つけた場合、器物損壊罪や動物虐待の咎で罰せられます。
絶対にかわいがってあげてください。


 生活が改善された、ってのは正直助かるわ。

 あくまで部屋から出してもらえたってだけで、根本的なところは何も解決してないから、これで改善されたとかほだされちゃうのもだめな気はするけど、でもちょっと気持ちが楽になったのは確かね。

 

 朝、目が覚めれば手錠を外してもらえて、朝食は三人で食卓を囲む。

 天気が悪そうだったら、ちょっと窮屈だけど、ボイも小屋の中に上げる。

 

 買い貯めてた遊び道具をひとつずつ検めるみたいに、あたしたちは一日を遊んですごす。

 ウルウは家事をするために離れることもあるけど、あたしたちから目を離すことはない。

 小さな子供みたいに見守られる日々は、どこまでも甘ったるく、ほどほどに気だるく、ほどほどに快適。どんどん堕落していっちゃいそう。

 

 遊戯に飽きれば、リリオは室内でもできる鍛錬にいそしむ。腕立て伏せ、腹筋、梁を使った懸垂は、ウルウにちょっと眉をひそめられる。

 もしも天気が良くて、ウルウの体調と気分が良ければ、外で素振りだってしていい。

 運動して汗をかいたら、ウルウに拭いてもらえるし、按摩(あんま)もしてもらえる。

 

 あたしは手入れすべき道具も取り上げられ、するべき家事もほとんどさせてもらえないけど、編み物くらいは許してもらえた。

 時間があるときにちまちま編んでいたいろいろを、ここで仕上げてしまうのも選択肢の一つではあるかもしれない。

 

 お茶を淹れるくらいはさせてもらえるようになったけど、でも子供が火を扱うのを見守る親みたいに、常に見張られてて、何も仕込めない。

 いやまあ、薬も毒も隠されてるから、なんにも仕込みようがないし、そもそも仕込んだところで何になるって話ではあるわよね。

 あたしは別にウルウを傷つけたいわけじゃない。

 

 あたしたちがウルウを傷つけたいわけじゃないように、ウルウもあたしたちを傷つけたいわけじゃなかった。監禁して、手錠でつないで、何をって思うけど、でもウルウはいっそいつくしむように、あたしたちを大事にした。過保護なくらいに。

 

 なんなら、あたしたちが何か危険なことをしようとすれば──関節外しでギャヒギャヒ笑ったりとか、暇だからって組手してみたりとか──血相を変えて止めに来るくらいだ。

 そして決して怒らない。

 ただ泣いて、悲しげな顔を見せ、こんなことはしないでとお願いしてくる。

 別にウルウは狙ってやってるわけじゃないだろうけど、叱られるよりももっとずっと効果的だ。

 まるで真綿で包み込むようなやさしさが、時々よりもちょっと多めに、しんどい。

 

 大事に大事に、大事に大事に大事にされる日々は、ちょっとうんざりすることを除けばあたしたちの生活を改善して、何なら健康になったなとさえ感じる。

 でも体が健康になっても、精神はなんだか鈍麻していくような気さえする。

 

 そうしてかいがいしくお世話するウルウの方はというと、日々健康からは遠ざかっているように見えた。

 はっきり言っちゃえば、ウルウは憔悴(しょうすい)しつつあった。

 疲れ果てて、苦しみさえ覚えていた。

 

 ウルウはそれを隠そうとしてる。ここ数日は化粧をしてまでごまかし始めた。

 でも、目元の隈はや肌の荒れは隠せても、かしいだ背中も反応の鈍さも隠せやしない。

 手入れを忘れた爪はすっかりがたがたになっていて、もしかしたら見えないところで爪を噛んでいるのかもしれなかった。

 

 あたしたちが監禁されてから、ウルウは一度も寝台で寝ていない。

 寝台はあたしたちのいる寝室にしかないからだ。

 そりゃあ、野営の時は寝台なんて立派なものはないけど、それでもウルウの不思議な布団があるから辛くはない。でもそれだってあたしたちの寝台にあって、ウルウは一人で長椅子に寝てる。

 ウルウの長躯(ちょうく)が収まりきらないような長椅子でだ!

 そんな生活が続けば、それは疲れもする。

 

 リリオだってそれを気にして、一緒に寝ましょうと誘ってた。それがだめなら、私たちが長椅子を使うので、どうか寝台で寝てくださいとも。

 あたしも、もちろん寝首をかこうとかの打算はあったけど、それ以上にウルウが心配だったからリリオと並んでお願いもした。

 さみしいから一緒に寝ましょうよとまで言った。

 でも、答えはいつも(ネー)だった。

 柔らかな口調で、困ったように微笑みながら、それでも結論はいつも決まって「だめだよ」だった。

 

 あたしたちが逃げ出すためにウルウをどうにかしようとしている、と疑っているのかもしれない。

 無防備な寝姿をさらすことなんてできないと警戒しているのかもしれない。

 そんなことはないから、なんにもしないから、と我ながら怪しさ満点に誘ってみても、ウルウが頷くことはなかった。

 

「ごめんね。本当に、ごめんね。一緒には寝れないんだ。私はもう、無理なんだ……ごめんね」

 

 いったいぜんたい、あたしたちを寂しくふたり寝させておいて、一人で窮屈な寝台に転がる理由があるもんだろうか。

 あたしは真夜中に、こっそり部屋の鍵穴を覗いたことがある。

 暗い部屋の中から、角灯を照らした居間はよく見えた。

 

 ウルウは、あたしたちの部屋が見える位置に長椅子を据えて、そこに体を横たえていた。

 六尺以上のウルウの恵体は、もちろんそんなものには収まらない。横たわっているというより、長すぎる足を持て余すようにしながら、半身をようやく長椅子にのせているようなものだ。

 

 そんな寝苦しい体勢だから、当然何度も寝返りを打つ。

 それだけじゃなく、何度も起き上がってはため息をつき、寝ようと努力するためだけに横になって、また起き上がる。その繰り返し。

 足元には何本もの酒瓶が並んでいて、時折それを無理にあおっては、むせたりせき込んだり。

 強い酒精も、ウルウを寝付かせるには足りないみたいだった。

 体は疲れ切って、心もすり減って、それでもウルウの神経はウルウを眠らせてくれないようだった。ざりざりとざらつく苦悩が、ウルウの心の柔らかいところを、荒くこすって苦しめているようだった。

 

 ウルウは時々こちらをじっと見つめた。明るい側から暗い側を見ようとしたって、鍵穴から覗き込むあたしには気づかないだろうけど、それでもちょっとドキッとする。

 それでも少し思う。気づいてくれたらとよくわからないことを思う。

 すがるような、拒むような、苦しむような、愛おしむような、そのまなざしに、なんにも言えなくなる。

 ねえ、そのまなざしにはどんな意味があるの。ねえ、そのまなざしに何を込めているの。

 ねえ、ウルウ。ねえ。

 

 ウルウはただじっとこちらを見つめて、ため息をついて、酒をあおり、頭をかきむしる。

 そして何かをぶつぶつとつぶやく。

 それはほとんど口の中でかき回されるばかりで、ほとんど聞こえやしない。

 でも、何度も何度も繰り返されるうちに、時々聞き取れることもあった。

 

 ウルウは繰り返してた。

 

「こんなのダメだ」

「二人を穢してる」

「嫌われたくない」

「いやだ。いやだ」

「でももう放せない」

「たすけて」

「おとうさん」

「もういやだ」

「いかないで」

「もういやだ」

「もうやだ」

「もうやだ」

「やだ、やだよ」

「やだ………………………」

 

 後半はもうほとんど言葉らしい言葉になっていなかった。

 抑え込むような嗚咽が喉の奥から漏れ出ていた。

 それは「しにたい」と聞こえるような気がした。

 それは「しにたくない」とも聞こえるような気がした。

 そして、倒れこむように、気絶するように、ウルウは意識を手放す。

 眠れないどころじゃない。ウルウは無理やりにでも気絶しなければ、朝を迎えられないんだ。

 そしてそれも一晩意識を失えるわけじゃない。

 ウルウの頑強な体は、少しもすれば目を覚ます。

 そうすればまた繰り返すのだ。

 すり減るだけの慟哭と、短い気絶を繰り返して、朝が来るのを待っているのだ。

 あたしたちが起き出すのを、闇の中で待っているのだ。

 

 あたしは決意を新たにする。

 あたしは、あたしたちはこんなおかしな状況を脱しなければならない。

 それも、一刻も早く。

 なによりも、ウルウのために。




用語解説

・ウルウの不思議な布団
 正式名称《(ニオ)の沈み布団》。ゲームアイテム。使用すると状態異常の一つである睡眠状態を任意に引き起こすことができる。状態異常である不眠の解除や、一部地域において時間を経過させる効果、また入眠によってのみ侵入できる特殊な地域に渡る効果などが期待される。
『水鳥は本質的に水に潜る事よりも水に浮く事こそが生態の肝要である。しかして鳰の一字は水に入る事をこそその本質とする。命無き鳰鳥の羽毛は、横たわる者を瞬く間に眠りの底に沈めるだろう。目覚める術のない者にとって、それは死と何ら変わりない安らぎである』

・おとうさん
 閠の父親の事。
 妛原 軅飛(たかとぶ)。享年五十二歳。
 閠の生きる理由は父の死でおおむねなくなった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 なんでそんなこと言うの?

前回のあらすじ

眠れぬ夜を苦しみの中で過ごすウルウ。
救われなければならないのは誰なのか。
壊れる前に、この夜を終わらせなければならない。


 その日の朝早く。

 トルンペートからことの詳細を聞いた私は、覚悟を決めました。

 はじめからわかっていたことでした。

 なあなあで収まる話ではありません。

 

 私はウルウが気の済むまでとも考えていました。

 しかしどうやら、時間が解決する問題なのだとゆっくり構えていていい話ではないようです。

 ウルウが自分で自分を壊してしまう前に、私たちはこの鳥かごを壊してしまわなければなりませんでした。

 私と、トルンペートと、そしてウルウ自身を閉じ込めた優しくいびつなこの鳥かごを。

 

「おはよう、今日もいい天気だ、ね……?」

 

 笑顔を作って扉を開けたウルウが、ぎしりと音を立てるように固まりました。

 その先にいる私たちは、すでにつながれてはいませんでした。

 寝台は解体され、角材めいた寝台の脚は私たち自身の手の中にありました。

 

「おはようございます、ウルウ。そろそろ、終わりにしましょうか」

 

 言い放つ私に、ウルウはしばしの間呆然としていました。

 「なんで」と「どうして」とが混ざり合ったような、半端な吐息が音にもならずにこぼれては消えました。

 ふらりとよろめきながらも、ウルウはなんとか体を支えました。それは半分かしいで、もう倒れこんでいなければおかしい体でした。壊れかけの心と体で、ウルウはぎりぎりそこに立っていました。

 

 ウルウの顔に様々な感情がよぎりました。

 悲しみ。

 苦しみ。

 寂しみ。

 ほんの少しの喜び。

 かすれたような怒り。

 

 そして不意に、すんと感情が抜け落ちてしまったように、すべての表情が消え去りました。

 ウルウの中にあった様々な葛藤や苦悩の、なにもかもがいま、奇跡的な均衡(きんこう)を打ち据えられて崩れ落ちてしまったのでした。

 

 ウルウは一度だけ強く目をつむり、そして開いた時には、押し固められたような笑顔を浮かべていました。まるで人形のように硬質で、色のない笑顔。

 

 その心の動きを、繊細な機微を思うと、胸が苦しくなりました。いたたまれない気持ちでいっぱいになりました。傷つけてしまった、こんなことをするべきではなかったという呵責(かしゃく)の念に駆られさえします。

 

 しかしそれでも、これは必要なことでした。

 私たちのためにも。

 ウルウのためにも。

 

 このいびつで悲しい現状は、断固として改めなければならないのでした。

 

 ウルウは笑顔のまま言いました。

 

「なんのつもりかな。ベッドはおもちゃじゃないよ、ふたりとも」

「私たちを解放してください、ウルウ」

「いけない子だね。ちゃんと直してね。そうしたら許してあげる」

「ウルウだってわかってるはずです。こんなのはおかしい。健全ではありません。解放してください。もうこんなことはやめてください」

「いい子にしないと、ご飯抜きだよ。私だってそんなことしたくないんだ。だから、ね?」

 

 致命的に、会話が嚙み合っていませんでした。

 会話を成立させる気さえありませんでした。

 なにもなかったことにすれば、目をそらしたままにしておけば、きっと元通りになるから。そんな祈りを込めたような、あまりにも悲しい拒絶です。

 

 どんなに苦しくても、どんなに悩んでも、ウルウはこの生活を変える気がないようでした。

 脅迫的なまでに、ウルウはこの生活に固執していました。

 そうしなければならない。そうしなければ壊れてしまう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 なにかが、恐ろしいなにかが、ウルウをそう急き立てているようでした。

 

 そうです。

 ウルウは私たちを傷つけるつもりはないのです。傷つけたくはないのです。

 失いたくなくて、手放したくなくて、そのために私たちを失い、手放すようなことを自らしてしまっているのでした。

 私たちのどんな願いも、ウルウのかたくなな心には、閉ざした心には、響かないのかもしれません。

 

 それでも私は、ウルウに伝えなければなりませんでした。

 たとえウルウを傷つけてでも、ウルウを取り返すために。

 

「私は、私はいまも()()であるつもりです」

 

 びくり、とウルウの肩が震えました。

 

「あなたはあの森で、私に言ってくれました。私はいまもあの言葉を忘れていません。私の胸の中で、その言葉はいつだって輝いています」

「…………て」

「『君が()()であるならば、君が()()であるうちは、君の寂しさを埋めてやるのも、やぶさかではない』」

「………めて」

「輝けるものになろうと思いました! 美しい物語のように、おぞましい悲劇の中でそれでもと抗う(きら)めきのように!」

「……やめて」

「……あなたがそう言ったから。あなたの言葉に応えたかったから。あなたに、私の物語を、見せたかったから!」

「やめて!」

 

 ウルウが叫びました。

 間の抜けた前掛けを、引き裂かんばかりに握りしめて、ウルウはやめてと繰り返しました。

 悲しみも寂しさも、どうすればよいのか持て余して、内側に押し込めることしかできない女の慟哭がそこにありました。

 

「いま、私はとても寂しい」

「………っ」

「隣にいても、隣にいない。触れられる距離なのに、本当に触れることができない。目が合っても私を見てはくれないし、あなたの心を見ることもできない。どうすればいいのかもわからず、ただ寂しさだけを積み重ねている」

「わたしは……っ」

「あなたのためにはじめた私の物語を、あなた自身が閉ざして陰らせようというんですか?」

「違う、ちがう……わたしは……わたしは……っ!」

「………お願いです。お願いですから、ウルウ」

「わたしは、きみを、きみたちを……っ」

「あなたを、嫌いにさせないでください」

「い──っ!」

 

 ばきん、と音を立てて、ウルウの中で何かが割れてしまったようでした。

 

「いやだ! やだ! やだよ! 嫌いにならないで! やだ……やだやだやだ! 捨てないで! やだ! わたしは、わたしまだ……!」

 

 膝から崩れ落ち、頭を抱えて子供のように泣きじゃくるウルウ。

 その肩に伸ばした手は、しかし払われてしまいました。

 

「う、ぐっ、うぐ、うううぅうぅうううう……それ、でも……それでも、だめ……! 私は、君たちを……手放せない……!」

 

 私は払われた手を、その痛みにも似た熱を、少しのあいだ呆然と見下ろすことしかできませんでした。

 ひりひりとした熱が、手のひらから心臓へと昇っていき、私を内側から焦がしていくような心地さえしました。

 それは。

 それは何て甘美な痛みだったことでしょう!

 

 たとえ嫌われても、手放すことはできない。

 

 それはなんて──ああ、なんて。

 

 なんて熱烈な、愛の告白なのでしょう。

 

 笑顔の裏に包み隠すこともなく、優しさの陰に押し隠すこともなく。

 恥も外聞もなく、嗚咽(おえつ)喘鳴(ぜんめい)の中でもらされた、それだけが真実でした。

 

「そうですか。そうですね。私も、ウルウも、頑固ですものね」

 

 どうしようもなく譲れないものがあって。

 どうしようもなく譲れない思いがあって。

 どうしようもなく、どうしようもないのであれば。

 

「私たちらしいやり方で、決めましょう」

 

 後ろでトルンペートが、それはどうかと思うって顔してましたけど。




用語解説

・私たちらしいやり方
 脳筋蛮族ガールズの流儀(私たちらしいやり方)

・どうかと思う
 人の心とかないの?とは思ってる。でも好き。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 ねえ、ずっとここにいて? ずっとずっとずっとずっとずっとずっと一緒にいよう?

前回のあらすじ

たとえ嫌われても、君たちを手放せない。
熱烈な愛の告白に、リリオは殴り合いで決めることを提案する。
どうしてぇ……?


 もめごとがあったら暴力で決めようぜ!

 

 というのは辺境で一般的な手順ではあるんだけど、別に辺境民だっていつもいつでも暴力で物事を決めてるわけじゃないわよ。

 もめごとの内容にも寄るけど、感情的な面でどうしても我慢できないとか、お互いの主張にある程度認められる分があって決めがたいとか、そういう理詰めじゃ決められない場合に、後腐れなくするための手段の一つでしかないわ。

 

 だから別に硬貨を投げて表裏で決めてもいいし、(パペロ)(トンディロ)(シュトノ)で決めてもいいし、サイコロでもなんでもいい。

 

 ただ、まあ、暴力で決めれば一時的とはいえ格付けが済むから、あとで変に蒸し返されないっていうのはあるわね。動物といっしょよ。

 

 議論の一形態としての暴力だから、一方的な暴力や、目に余る卑劣さなんかはもちろん批判の対象になる。正々堂々の殴り合いじゃなけりゃいけないし、相手が死に至るようなことは極力避ける。

 殴り勝ったからって、あとから一方的に吹っ掛けてもいけないし、殴り負けたからって、変に恨んで非協力的になってもいけない。

 

 殴り合いでの決着っていうのは、野蛮ではあっても一応紳士的な協定なのよ。

 

「……いやまあ、蛮族理論であって、一般的じゃないわよね」

「私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》は脳筋蛮族ガールズなので問題ありません」

「私までそこに含まれるの心外なんだけど……」

 

 心底嫌そうにするウルウだったけど、あんたが受けて立っちゃったからいけないと思う。

 受けて立ってもらわなきゃ話は進まなかったんだけど、つくづくリリオに甘いというか。

 

 ……いや、そうでもないか。

 

 部屋が壊れるからって言って、ウルウは私たちの鎖を外して外に出しただけでなく、なんと装備まですべて返してくれた。鎧も、剣も、仕込み短剣も、《自在蔵(ポスタープロ)》も。

 なんならそれらを装備して、調整して、ふたりきりで作戦を練る時間まで与えてくれた。

 

 久しぶりに完全に自由になった体を曲げ伸ばしして、調子を確かめながら、あたしはウルウをちらっと見やる。

 

 対するウルウは、いつも通りだ。

 でっかいハート(コーロ)柄の前掛けってことじゃなくて、旅をしてる時の、ぞろりとした黒づくめの格好。黒の上下に、黒の外套。腰にはいくつかの道具。

 久しぶりの、いつもの格好で、久しぶりの、気だるげで面倒くさそうな顔。

 

「余裕なのね。武器も返して、《自在蔵(ポスタープロ)》の中身も検めないで渡して」

「あとから、全力じゃなかったからとか言われても困るしね」

 

 私たちが準備運動と称して動き回っている間も、ウルウはただげんなりとした様子で、若干背中が曲がっているようにさえ見える。本気で面倒くさがってた。やる気のかけらもなかった。

 そりゃウルウにとっては何の利点もない勝負なんだろうから、仕方ない。勝てばあたしたちが文句を言わず飼われてやるっていう、ただそれだけ。

 

「ねえ……やっぱりやめようよ」

「おや、負けるのが怖いんですか?」

「君たちと違って安い(あお)りには乗らないよ」

帝国将棋(シャーコ)ではあたしにボロクソに負かされたのに?」

「は? 負けてないが???」

 

 あたしたちは心の平穏のために、誰が一番帝国将棋(シャーコ)で強いかは決めないことにしていた。もうチンパンしない。

 

 ウルウは別に、リリオが煽るように負けるのを怖がってるわけじゃなかった。

 むしろ、負けるわけがないと思っているからこそ面倒くさがっているのだった。

 

「本当に、やめてよね。本気で戦ったら、ふたりが私に勝てるわけないでしょ」

「言うじゃない」

「言ってくれますね」

「言うだけで済むならいくらでもいうよ。無理。無駄。無謀。無意味。君たちが何をしたって、どうあがいたって、意味がない。なんなら今から逃げてもらってもいいよ。どうせ無駄だからね。私は君たちの居場所がわかるし、すぐに捕まえられる」

 

 ひたすらに気だるげで面倒くさそうな声だった。

 気負うこともなく、煽るわけでもなく、本当に心から無意味だと思っていた。

 天気の話でもするかのように、今日の献立について話をするかのように、自然体でさえあった。

 

「でも私だって、わざわざそんなことしたくないんだ。疲れるし。君たちも危ない目に合うかもしれないし。そんなことするくらいならさ、いままで通り三人でダラダラ過ごそうよ。ご飯だってさあ、トルンペートが作りたいなら作っていいよ。家事だって任せていい。リリオが運動したいなら、私が付き合ってもいいよ。トルンペートだって、毎日リリオのお世話に専念できた方が嬉しくない?」

「そうね。結構魅力的な提案だわ。あんたのお世話もできるならもっといいかも」

「そうだね。私のお世話だってしていいから、」

「でもダメ」

「あっそう」

「リリオの幸せが、あたしの幸せよ。リリオの幸せはここにはない。こんなところで、腐らせておく気なんてさらさらないわよ」

「あっそう。あっそう。ああそうですか」

 

 ウルウは肺の中身を全部絞り出すんじゃないかってくらいに、盛大にため息をついた。

 普段は無理にでも伸ばしてる背が、ぐんにゃりと曲がって折れる。

 それでもう一回ため息をついてから、ウルウはゆっくり起き上がった。

 まるで蛇が鎌首を持ち上げるようだった。

 

「しかたないなあ。しかたないよねえ。君たちがそんなにわからず屋なら、徹底的に無駄だってわからせないといけないね」

「はっ、やってみなさいよ」

「私が勝ったら、ふたりはもうこの家から出さない。手足を切り落として二度と外に出れないようにおろろろろろろろろろろろろろ」

「うわ急に吐いた」

「ろくに食べてないから胃液と水しか出てないじゃないですか」

「無理……そんなかわいそうなことできない……」

「自分で言っておいて自分で吐いてたら世話ないわよ……」

「言わなきゃいいのに、頑張って脅し文句言おうとするあたりウルウですよねえ」

「でも身動きできない主人をお世話するってのは個人的にはアリね」

「えっ」

「えっ」

「ウルウはおっきいから面倒見甲斐があるわよね……」

 

 芋虫みたいなウルウとリリオを甲斐甲斐しくお世話するのっていいかもしんない、ってちょっと思っただけなのに、なぜかドン引きされちゃったわね。

 違うの。誤解よ。あたしはただそんなことになったって二人のことちゃんとお世話できるし全然嫌じゃないわよっていう、ただそれだけなのよ。積極的にそうしたいってわけじゃないわよ。一応。

 

 始まる前からなぜかウルウにめちゃくちゃ怯えられてちゃって、それはそれでそそる表情ではあったんだけど、いい加減真面目にならないと。

 

 始めの合図はなかった。

 ただ、どちらともなく距離を取り合って、視線が巡って、なんていうか、機が熟した。

 

 ウルウはいつもみたいに、ただぼんやりとしてるみたいにそこに立っていた。

 あたしはそこにむけて短刀を投げる。投げる。投げる。

 腰から、袖から、スカート(ユーポ)から、大小さまざま、形も効果も違う暗器を引き抜いては投げつけていく。

 ()ごと封殺するつもりの飽和投擲は、しかし容易くかわされる。

 

「ウルウ自身を狙ってなくても、やっぱ駄目ね……!」

 

 ウルウの回避はまじないじみているというより、実際まじないそのものだ。神がかっているといってもいい。本人の意思に関係のない自動的な挙動だとは本人の談。

 今回は試しにウルウに対してではなく、()()()()()()()()()()()()にばらまいてきたけど、関係なくかわされた。

 まじないではあるけど、向けられた敵意に反応するみたいな奇妙な理屈じゃない。

 矢避けの加護みたいに、危機に対して自動的に反応してるんだ。

 多分、ウルウの向こう側にある的を狙ってもだめってことだ。

 

 あたしは《自在蔵(ポスタープロ)》から取り出したケースを蹴りあけ、十二本一組の飛竜骨の短剣を連続して投げつける。

 これは風精と馴染みが良くって、あたしの指揮で曲芸じみた軌道で投げることだってできる。

 それこそ、ウルウの周りを飛び回って襲い掛からせるなんてことだって、いまはできる。

 

 これだって、多少惑わせるだけで、ウルウには当たらない。

 でも、あたしの投擲がかわされるってのは別にいいのよ。

 それは最初っから織り込み済みだ。

 

「フラッシュいきます! 『超電磁……フラァーッシュ』!」

 

 飛びずさったあたしに代わって、リリオがウルウに突っ込む。

 そして繰り出される技は、光り輝く……()()

 ウルウがなんか吹き込んで覚えさせたらしいこの技は、剣に雷精を集めて勢いよく発散させる。それもびりびりした雷じゃなくて、光にだけ集中して放つから、消費のわりに見た目だけはすさまじい。

 

 なにしろリリオ自身目をかたくつむらなければ使えないし、後ろにいるあたしだってうっかり直視しようものならしばらく目が使えなくなる。

 直接の傷とかは与えないけど、視力だけで言えば味方に被害が出るようなヤバ目の技なのだ。

 

 危険がないようにリリオは使う前に叫ぶことって決まりを律義に守るから、あたしだけじゃなくウルウも咄嗟に目を覆って防ぐ。

 そう、防ぐ。

 いくらウルウと言えど、光は避けられない。

 

「まぶし……でも、見えないからって……」

「『超電磁フラァーッシュ』!」

「うくっ……だから無駄だって、」

「『超・電・磁! フラァーッシュ』!!」

「うっとうしい……!」

 

 目を潰されたって、ウルウの自動回避には影響がないってのはわかってる。知ってる。

 一応牽制で飛竜骨の短剣を飛ばしてるけど、当たるとは期待してない。

 第一あたし自身、びかびか光るリリオが近すぎて狙って当てられるようなもんじゃない。

 

 一見意味のなさそうな派手なだけの技を連発するリリオに、そのリリオの光のせいでろくに攻撃できないあたし。

 でも、これでいい。

 これがいいんだ。

 

 勝てない相手に勝つために、これが必要なんだ。




用語解説

(パペロ)(トンディロ)(シュトノ)(Papero, tondilo, ŝtono)
 いわゆるじゃんけん。手の形もルールもじゃんけんに準じる。
 どこが発祥なのかは判然としないが、古い文献にも見られることから、神々のもたらしたものではないかとも言われる。
 掛け声は地方などによって異なり、ここをきちんと確認しておかないと揉めることもある。
 例「(ウヌ)(ドゥ)死ねェ(モールトゥ)!」

・飛竜骨の短剣
 モンテート子爵バンキーゾ・マルドルチャより下賜された十二本一組の投げナイフ。
 適切な処理を施した飛竜の骨は、下手な金属よりも強く、軽い。
 骨だけだと軽すぎるので、芯材に重石鉄(ペザシュトノ)が仕込まれている。
 また風精との相性が良く、メタ的に言えば飛び道具の命中率が大幅に上昇。
 センス次第で曲芸めいたこともできるだろう。トルンペートはもともとしてるが。
 当然高価で、投げられた相手が刺さった短剣を命がけで持ち去ろうとしても不思議ではない。

・『超電磁フラッシュ』
 ウルウが超電磁シリーズの一環としてリリオに仕込んだ芸もとい技。
 閃光手榴弾(スタングレネード、フラッシュバンとも)のような効果を期待してのものだったが、閃光のみで音響はなく、片手落ち。
 ただ、それでも至近距離での閃光は視力を奪うには十分で、場合によっては失明の可能性もある。
 野生動物などを恐慌状に陥らせ、野盗相手でもかなり強力な無力化手段。
 ただ、仲間に対しても問答無用でヒットするので、普通に殴った方が早い。
 なお厳密には雷精ではなく光精に変化しているが、リリオ自身は意識していない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 どうしてわかってくれないの?

前回のあらすじ

真っ向から勝負しましょうという顔で、真っ向から閃光を浴びせかけるリリオ。
初手麻痺狙いのデバフガン積みにウルウはどう抗うのか。


「『超電磁フラーッシュ』!」

「ンアーッ!」

「『超電磁フラーッシュ』!」

「ンアーッ!」

「『超電磁フラーッシュ』!」

「ンアーッ!」

「リリオ! その辺でいいわよ!」

「合点承知です! 『超電磁フラーッシュ』!」

「ンアーッ!」

「なんで一回余分にやったのよ」

「今後使う機会ないかなって思ったらつい……」

 

 あんまり使い道ないんですよね、『超電磁フラッシュ』。

 一応多人数相手とかだと便利は便利なんですけれど、味方にも効いちゃうので使い勝手が悪いというか。

 

 それはそれとして、トルンペートの準備が整ったようですので、私は『超電磁フラッシュ』の連発を終えました。

 これだけたくさん使っても、『超電磁ブレード』とかと比べると疲労が少ないので、かなり効率の良い技ではありますね。

 光を弱めれば夜に松明(たいまつ)や角灯代わりに使える『超電磁懐中電灯』(ウルウ命名)とかもできるはできるんですけれど、弱めの力を長時間安定して維持する方が難しいので今後の課題ですね。

 

 さて、私の閃光を浴び続けたウルウは、腕で目元をふさいでいたとはいえ、それでも完全には防げなかったのか、若干ふらついていました。

 しっかり目をつむりながら連発した私だってちょっとくらっとしますからね、これ。諸刃の剣です。

 まあ、そんな状態になりながらもトルンペートの無差別空中殺法をしれっと避けきってますし、目を潰してもウルウの自動回避には何ら関係がないというのがまた恐ろしい話ですね。

 

「ふ、ふふふ……かなりとってもすごーく鬱陶しくはあったけど、これが精一杯かな?」

「ウルウ、そっちじゃないです」

「こっちこっち」

「えっと……こっち?」

「強すぎる光って他の感覚にも響くんでしょうかねえ」

 

 しばらくこっちこっちとやってるうちに何とかウルウの視力は戻ってきたようでした。

 あれでしょうかね。感覚がびっくりして、三半規管とかにも影響するんでしょうか。影響範囲がはっきりしない技って結構怖いものがありますねこれ。

 

「あんなに目くらましを連発するんだから、てっきり目を潰してる隙に逃げるのかと思ったよ」

「逃げたりしませんよ。逃がしもしません」

「心を折るのは、こっちのほうってわけよ」

「心を折るだって? く、くふふふ……」

 

 ウルウはよどんだ目で笑いだしました。

 馬鹿なことを言うねと、そんなふうに。

 

「……何がおかしいのよ」

「私は散々心をへし折られてこの世界に来たんだ。ちょっと刺しただけで折れるからねこちとら。何なら心が折れたから君たち監禁してたわけだし、君たちに反抗されてかなり手ひどく折れてるからね。もっと優しくして。しんどい」

「うーん、こんなにやりづらい相手も初めてですよこれは」

「でも傷ついてるからって、人を監禁していいわけがないでしょうが」

「正論で心を折ろうとしないで……」

「そのつもりないのに勝手に壊れちゃうわねえ……」

 

 うーん。

 なんというか気が抜けてしまいますね。

 そうなんですよね。ウルウってかなりめんどもとい繊細な人なので、何なら常に心折れてるまでありますよね。こころが複雑骨折して、滅茶苦茶な形のまま治そうとして、治るわけもなくじくじく痛み続けているようなところあります。

 

 私たちと旅をするようになってからだいぶ元気に図々しくなってきたと思っていたんですけれど、やっぱりこの間の謎の病気の一件でしょうか。あれでまた心がしんどくなっちゃったんでしょうかねえ。

 

 ぽきぽきと華奢に心が折れていく音が聞こえるようで、なんだか、弱い者いじめをしているみたいで気分はよくありません。

 でもこの精神的弱者が私たち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の中で一等強いのもまた事実なのです。もしかして私たちの一党歪すぎます……?

 

 さて。

 気が抜けましたけれど、茶番は長くは続きません。

 

 どれだけ精神的に傷を多く抱えていようとも、ウルウが尋常ならざる強さを秘めていることは事実。そしてその傷ゆえにこそ、ウルウはいま退くこともできず私たちに刃を向けることになってしまっているのです。

 根本的に状況を変えてしまわなければ、この不毛な争いは終わりません。

 

 ウルウはどこからか奇妙にねじれた短剣を取り出して構えました。

 それは見ているだけで吐き気を催し、同じ空気に晒されているだけで息苦しくなるような、おぞましく呪われた短剣のように思えました。

 

「これは《魔女狩りの短剣》。肉体を傷つけることはないけれど、心を削り、なぶり、貶める呪いの刃。君たちを発狂させるのは嫌だから、早めにギブアップしてね」

 

 体ではなく、心を傷つけるという呪いの武器。

 傷つけてでも手放せないという、ウルウのいびつな心を表すような武器でした。

 

 ウルウはそのおぞましき短剣を手にゆっくりと歩み寄りばちんっ。

 

「おわっ……えっ? なに? なにしたの?」

 

 金属が激しく噛み合うような音とともに、ウルウは素早く後ずさっていました。

 ウルウ自身がなぜ自分がそんな動きをしたのかわからずに困惑する挙動。自動回避されてしまいましたね。

 

 そしてその後ずさった先で、かちり。

 

「んぉわぁっ!?」

 

 どん、と決して小さくはない爆発がウルウの足元で炸裂した時にはウルウの体は宙返りして少し離れたところに着地。

 そこでまた……おっと、運がよかったですね。何も踏まなかったみたいです。

 

「なになになに!? なにこれ!?」

「トラバサミと地雷よ」

「地雷ぃ!?」

 

 まあ、それだけじゃないらしいんですけれどね。

 ウルウが動揺したようにきょろきょろとあたりを見回しますけれど、ふふふ、どうです、全ては見つけられないでしょう。私もどこに何があるのかわからないのでうかつに動けません。後方腕組み姿勢で見守るほかありませんね。

 

「さっきのリリオの『超電磁フラッシュ』連発は、なにもやけくその目くらましじゃないわ。リリオがあんたの目をふさいでる間に、あたしがこのあたり一帯に罠を仕掛けに仕掛けさせてもらったわ!」

「まず地雷とかを隠し持ってたことに私はびっくりしてるんだよ!!」

「あたしが隠し持っててもおかしくないでしょ!」

「悪い方向の説得力!」

 

 罠、といっても目くらまししてる間に仕掛けられるものばかりで、簡易的なものだそうです。トルンペート(いわ)くなのでその基準は謎ですけれど。

 ただ、簡易的とはいえ数だけはありますし、先ほどのトラバサミのように動きを制限するものから、地雷のように直接危険性のあるもの、草を縛って足を取られるようにしただけの簡単なものなど多岐にわたる模様です。

 

 私にはどれが何でどこに何があるのかさっぱりわかりませんし、多分それはウルウも同じでしょう。ウルウに罠知識はたぶんないはずです。そしてあったところで、これだけあちこちに仕掛けられた罠を正確に避けて歩くことは難しいでしょう。

 

 罠それ自体は、踏むまではただの置物です。踏んで初めて危険なものになる。だからウルウも踏んでしまうことまでは避けられず、踏んだ後に自動的に避けるしかありません。そして自動的な回避は次の足場など考えてくれないので、次の罠に着地、作動、回避、着地、作動、回避が繰り返され、いずれは避けきれなくなる、という算段です。

 

「く、こんなバカげた戦法で……!」

「あんたはそのバカげた戦法に負けるのよ!」

 

 ウルウが罠を恐れて動かなければ、トルンペートが短刀を投げて無理やりに動かせばいいだけのこと。避けて、避けて、いずれは罠か短剣か、その両方にか、絡めとられる結末が待っています。

 

「見てるだけのリリオがドヤ顔してるの心底腹立つッ!」

「私はただ見ているだけではありません。いまのところなんにもできないし下手に動くと危ないので、黙って見てるだけが最善、つまりこれが最善手なのです!」

「は、腹立つぅぅううッ!」

 

 心配すべき点としては、ウルウの自動回避はいよいよ追い詰められてくると、()()()避けてしまうという事例が発生することです。

 ()()()足が滑って罠を避けたり、()()()地雷が不発だったり、()()()()()()()()()……。

 

 しかし正直なところ、今回に限ってはその運の良さは発揮されないと私は思っていました。

 ウルウの運の尽きだとかそういうことではなく。

 いくら運が良くても限度があるということでもなく。

 ただ、()()()ウルウの望む方向に転がるというのならば。

 きっとウルウが本心から望む道は、こころから望む方向は、私たちの望むものと同じだろうと、そう思うのでした。

 

 まあそういう感傷的なあれこれはともかくとしまして、いよいよ罠に翻弄されて踊り狂うウルウに、トルンペートが投網での捕獲に乗り出しました。

 飛竜骨の短剣が絡みついた投網は、空中でぶわりと広がり、ウルウを追尾するように覆いかぶさろうとします。

 

「舐めるな……! 《影身(シャドウ・ハイド)》!」

「フラッシュいきます!」

「は?」

「『超電磁フラァーッシュ』!!!」

 

 その身を影に変え、いかなる攻撃もすり抜けてしまう恐るべきまじない──に、真正面から最大光量の『超電磁フラッシュ』を叩きつければ、ウルウの体が化石したように硬直しました。その体を投網は簡単にとらえ、拘束してしまうのでした。

 

 影になるまじないを使っても、ものを見ることはできるようです。ものを見ることができるということは、光を受け止めているということ。激しい閃光はすり抜けることなくウルウの網膜を焼き、意識を奪ったのでした。

 それは、きっと多分、()()()私たちの狙い通りに運んだのでした。




用語解説

・《魔女狩りの短剣》
 ゲーム内アイテム。片手剣。
 HPではなくSPに対してダメージを与える特殊な武器。
 《技能(スキル)》依存の相手を完封することもしばしば。
 これ一本ではHPダメージがないため、アタッカー必須。
 この世界では肉体を傷つけないが痛みだけは与え、気力精神力を削るようだ。
『この短剣で刺されて死んだ者は魔女である』

・トラバサミ
 いわゆる罠と聞いて誰もが想像するであろう代表選手みたいな罠。
 中央の板を踏むとばね仕掛けで左右から金属板が跳ね上がって合わさり、踏んだ足を挟み込んで逃げられないようにする仕組み。
 なお、柄付きのもので直接相手に殴りつけて噛みつかせるというアグレッシブな使い方もあるとかないとか。

・地雷
 帝国内地ではあまり一般的ではないが、古代遺跡の罠などで存在は知られている。
 火薬や火精晶(ファヰロクリスタロ)などを用いたものの他、風精晶(ヴェントクリスタロ)氷精晶(グラツィクリスタロ)といった様々な属性の効果を発揮する変わり種もある。
 辺境では雪上では使い勝手がよくないことからあまり用いられない。
 なお天狗(ウルカ)土蜘蛛(ロンガクルルロ)は種族特性的に普通に看破することが多いので、人族くらいにしか通用しないが人族には滅法効いてしまう。
 製造、販売、また使用に際してはそれぞれの資格所持者の監督が必要であり、除去漏れや巻き込み事故などがあった場合一発資格剝奪もの。
 トルンペートは使用資格と製造の一部資格持ち。

・《影身(シャドウ・ハイド)
 《隠身(ハイディング)》系統のハイエンド。隠密効果はむしろ下がったが、攻撃に対する回避性能が非常に高い。
 発動中攻撃不可になる代わりに、物理攻撃無効の他、一部障害物の無効、魔法・範囲攻撃に対して()()で回避といった高性能な《技能(スキル)》。
 《SP(スキルポイント)》消費は激しいので、ボスの範囲必殺技を回避したりという使い方が多い。
『俺自身が影となることだ』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 嘘吐き! 嘘吐き! 嘘吐き!

前回のあらすじ

三輪百合(トリ・リリオイ)》の絆の力により、罠にはめられ弱点を突かれて心の弱さに足を引きずられ敗北したウルウ。
ねえいまどんな気持ち?


「はらほろひれはれ……」

「あーららら、やっぱり正面からは危ないわねこれ」

「ウルウの言ってた大音響付きのやつってもっと危ないんでしょうね……」

 

 リリオの『超電磁フラッシュ』の直撃を食らったウルウはしばらくのあいだ前後不覚に(おちい)ってくったりと脱力してしまった。

 ちょっと心配ではあったけど、あたしたちはこれ幸いとウルウを縛り上げ、じっくり『お話』するために腰を据えたのだった。

 

「ううん……ふう……まだくらくらする……よくもまあ私を研究したものだよ」

「まあ、あんた新しい技とか使うときなんか解説入れるし……」

「影になるやつも半分くらい自分で弱点まで説明してましたしね……」

「…………それはともかく!」

「大きな声出せばごまかせると思ってるやつ」

「縛り上げてそれで終わりだと思った? これくらいはねえっ」

「トルンペート」

「はいはい」

「あばばばば」

 

 あたしは隣で焚いていた焜炉(こんろ)で練り香を焼き、煙をパタパタあおいでウルウに嗅がせる。

 

「うごごご……なにこれ痺れる!? ひ、ヒレツな!」

「麻痺毒の練り香よ。まー、初手効くやつでよかったわ。あんた変な耐性あるし、いろいろ用意してるわよ」

「こわっ」

「当然でしょ。仲間なんだから」

「仲間に使う毒を用意してるの怖すぎない!?」

「仲間だから、あんたがどんな奴かはわかってるつもりだもの」

「うく……」

「あんたが何にも言わなくたって、なにかを抱え込んでたって」

「……それも仲間ってやつ?」

「そう。それに、これでも嫁なのよ」

 

 ウルウは項垂れてしまった。

 ウルウの中のもやもやとした悪いものはまだ晴れていないようだったけれど、それでも、とげとげしく、自分もあたしたちも傷つけてしまうような空気はどこかへいってしまったようだった。

 ただ、力なく、弱々しく、疲れ果てた姿がそこにあった。

 

「わかってる。わかってた」

 

 それはどこか不貞腐れたような、そんな響きだった。

 

「君たちを傷つけたくない私と、場合によってはえげつなく殴ってわからせるDV脳筋蛮族ガールズでは戦いにならないってことくらい」

「ちょっと」

「それでも、認めたくなかった。手放したくなかった。縛り付けておきたかった」

「あんたが手放そうとしたって、逃げ出そうとしたって、あたしたちが手放さないし、縛り付けるわよ」

「違う、違う……そういうことじゃないんだ……」

 

 ウルウは力なくかぶりを振って、それから情けない目つきであたしたちを見上げた。

 それは懇願(こんがん)だった。恥も外聞もない泣き落としだった。

 こんなにも嬉しくない嫁からのお願いは、いままでになかった。

 

「お願い。お願いだよ、ふたりとも。ここで一緒に暮らそう。いつまでもここで、三人だけで」

「ウルウ。それはとても魅力的なお願いです。でもそれは、もっとずっと年を取って、足腰も効かなくなってからでいいじゃないですか」

「お願いだから……」

「私の輝きは、旅の中にあります。私の物語は、旅の中にあるんです。新しい出会いと別れの中に。それはウルウが一番知っていることでしょう」

「そう、だけど、そうだけど、でも、お願いだ」

「私たち三人、楽しいこともつらいことも、たくさんたくさんあったじゃないですか。ウルウだって楽しんでいたじゃないですか。なのに、なぜ? どうしてそんなことを言うんです」

 

 ウルウは項垂れたまま、しばらく何にも言えないみたいだった。

 時々ぐすぐすと鼻をすする音がして、嗚咽を飲み込む声がして。

 そして、泣きじゃくる子供みたいに情けない顔で、ウルウはこんなことを言った。

 

「だって、旅は危険だ」

 

 それは、あまりにもばかばかしい一言だった。

 旅が危険ですって?

 それは、そんなことは、あたしたちみんなわかってたことじゃない。

 そんなこと当たり前で、あたしたちは今までそんなのいくつも乗り越えてきたじゃない。

 

 なのに、ウルウは繰り返す。

 

「旅は危険なんだよ。死んじゃう。いまに死んじゃう」

「ええと……ウルウ、私たちはそう簡単に死にませんよ」

「ううん、ううん、死ぬんだよ。死んじゃうんだ」

「死なないってば。なんなのよ、急に」

「うそだッ!」

 

 リリオはなだめるように、あたしは呆れたように返せば、ウルウは激高したようにそう怒鳴った。

 嘘だ、嘘だ、嘘吐きだ。あまりに強い言葉が、ウルウの喉から響き渡った。

 

「うそだ! 君たちも死ぬんだ! 死んじゃうんだ! お父さんみたいに!」

 

 それはまったく、癇癪を起した子供のそれだった。 

 甲高くひび割れた声。まるで泣きじゃくる子供みたいな。

 ううん。事実、ウルウは泣きじゃくる子供なんだ。

 顔を真っ赤にして、ぼろぼろと大粒の涙をこぼして、鼻水をすすりながらわめきたてる子供だった。

 誰にもわかってもらえない悲しみと苦しみを泣き叫ぶ子供だった。

 

「あ、あ、あの時! あの時君たちは死にかけてたんだ! 死ぬところだったんだ! し、死んでた! 私がいなきゃ死んでたんだ! わ、私、私だって、どうしたらいいかわかんなかった! わた、私がうまくできなかったら、ふたりとも死んでた! 死んじゃってたんだ!」

 

 あの時。

 それは間違いなくあの日のことだろう。

 リリオとあたしが、そしてボイまでもが、わけのわからない熱病に倒れたあの時のこと。

 あたしたちが目を覚ましたのはすべてが終わった後で、ウルウはその時のことを何にも教えてくれなかった。何かがあったことだけはわかっているのに、ただなにもなかったのだと、無事でよかったと、そういうだけだった。

 でも、そんなわけなかった。

 なにもないわけがなかった。

 

 あたしたちはわけもわからず倒れて、わけもわからず目覚めた。

 だからあたしたちにはその間のことはわからない。

 でもウルウは、あたしたちを看病している間ずっと、たった一人でその恐怖におびえていたんだ。

 あたしたちが死んでしまうんじゃないかって、ウルウはそのことをずっと抱えてきたんだ。

 

「それは……それは、仕方ないじゃない。誰だって病気はどうしようもないわよ」

「そうだね。どうしようもない。誰にも。でも、私は君たちを失うことに耐えられない」

 

 その声はだんだん乾き始めていた。

 涙も枯れ、嗚咽も果て、ひどく乾いた声が、投げやりで捨て鉢に吐き捨てられた。

 

「私は君たちなしじゃ生きていけない。こんなに依存させておいて、君たちは勝手に死ぬんだ。病気で。事故で。獣に、人に殺されて。じゃあ私が守るしかないじゃない。誰にも触れられないようにして、守るしかないじゃない。私が! 私しかできないんだから……君たちが勝手に死なないように私が、君たちを傷つけてでも守らないといけないじゃないか!」

 

 それは滅茶苦茶な理論だった。

 どう考えても筋の通らない癇癪に過ぎなかった。

 でもそれはウルウの中で煮詰まった、どうしようもなくどうしようもない最終手段だったんだろう。いつかその日が来なければいいと思う、そんな。

 そしてこの小屋は、その考えが発露してしまうには十分すぎるほどの条件をそろえてたんだろう。

 

「私が大げさだと思ってるんでしょ。わかるよ。そんなこと言うのは頭がおかしい女くらいだと思うよ。つまり私のことだね。あははははは。おかしい? 笑ってよ……でも本当なんだ。だって私はもともと死んでたんだ。リリオがそれを生まれ直させたのに、トルンペートが私を生かして育てたのに、ふたりは死ぬんだ……ひどい……ひどいよふたりとも…………違う……違うんだ、ごめん、ごめんなさい……そんなこと言いたいんじゃない……でもふたりが死んだら、多分私も死ぬよ。後を追って死ぬと思う。どうかな。しばらくは茫然としてるかもしれない。何も考えられなくなって、ご飯も食べず水も飲まず、一日ぼーっと転がってるかもしれない。それで天気のいい日にふらっと首を切って死ぬと思う。あはははは。ありそう。妛原閠はそういうことする女だよ。だから死なないでよ。死なないでよ。死なないでよ。死なないでよ」

 

 ウルウはゆっくりと顔を覆って、書き消えそうな声でつぶやいた。

 

「でも本当に怖いのは、死ねないことだ」

 

 あえぐようにウルウは繰り返す。死ねなかったらどうしよう。私は本当に死ねるのか。

 長い指が白い首筋を締め上げてる。

 

「本当なら私は死んでたんだ。私はもう死んでるんだ。死人なんだ。でも生きてる。生きてしまってる。私の体がエイシスの体なら、《エンズビル・オンライン》のキャラクターなら、私は死ねない。死ねないことになってる。死んでも生き返るんだ。そうなってるんだ。ペナルティを支払って、神殿で目覚めるようにできてる。確かめたことはないよ。死ぬのは怖い。死ぬのは怖い。死にたくない。死にたくない。でもこの世界でもそうだったら私はどうすればいい? いざ死のうとして、朝目覚めるみたいに生き返ってたら私はどうしたらいいッ。何度も、何度も、何度も何度も何度も、死んでも死んでも死んでも死んでも、それでも死ねなかったら私はどうしたらいいのッ。二人のいない世界で何度も死ぬだけの人生なんて嫌だ、いやだ、いやだ……ッ! それとも私が死んだら私は目覚めるの? これは全部夢で、リリオもトルンペートも夢で、私はあの狭い部屋で目覚めるの? お父さんが死んじゃって何の意味もなくなった世界で私は一人ぼっちでまた生きなきゃいけないの? ふたりが死んだ上に私は何もかも意味のない夢だったって思い知らされた上で生きなきゃいけないの? それで死んだらまたこの世界に放り出されるの? ねえ。ねえ。ねえ。黙ってないで教えてよ! 答えてよ! 一緒に死んでよ……やだよ死なないで! 私を置いていかないで! どこにも行かないで! ひとりにしないで! ひとりにしないで! ひとりにしないで! ひとりにしないで!」

 

 ひとりにしないで!

 

 それは、あまりにも悲痛な叫びだった。

 多分きっと、世界中の誰にも理解されない、ウルウの頭の中にしかない狂気が、ウルウの心を傷つけ、うち砕いて、涙も涸れるほどの絶望の中に浸してしまっているのだった。

 あまりにも重たいその気持ちが、あたしの心にものしかかってくる。

 あたしはどうしたらいい?

 あたしはなにをしてあげられる?




用語解説

・エイシス
 心停止(エイシストール)という医学用語からとった、閠が《エンズビル・オンライン》で使用していたハンドルネーム。《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》の一員として認知されるようになってからは、PVP(プレイヤー対プレイヤーの対人戦)において気づいた時には即死させられているからという畏怖をもって呼ばれていた。なんにせよ中二病である。

・《エンズビル・オンライン》
 作中で閠がプレイしていたMMORPG。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 黒百合の花言葉

前回のあらすじ

泣いて、叫んで、わめいて。
心という器は……。


 ウルウの慟哭は、ウルウ自身の弱った体を痛めつけながら、それでももう抑えることもこらえることできないとばかりに喚き散らされました。

 

「ねえ、ここにいてよ。ずっとここにいてよ! どこにもいかないで、私をひとりにしないで!」

 

 それが、それだけが、ウルウのたった一つの願いなのでしょう。

 たったひとりで、見知らぬ場所に放り出された、なんにも持たないウルウが、それでも希望を持ってしまったのなら。生きていたいと思えるようになってしまったなら。孤独には耐えられなくなってしまったというのならば。

 それは、なるほど、確かに私のせいなのでした。

 

「ご飯だって作るよ。食べたいものなんでも作ってあげる。新しい料理も覚えるよ。家事はぜーんぶ私がしてあげる。トルンペートがしたいっていうならそれでもいいよ。お世話するし、お世話されてあげるよ。ああそうだ! そうだよ! セックスもするよ! セックスもしよう! なんでもしてあげる。いやだって言ってたこともなんだってしてあげる。一日中えっちしようよ。ただれた生活送ろう。赤ちゃん! 赤ちゃんも生んであげる! あああああああああああ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 違うんだ、違うんだ、違うんだ、違うんだ。私は、わ、わたし、わたし違う、そんなこと言いたいんじゃない。ごめん。ごめんなさい。わかってる! わかってる、私は頭がおかしいんだ。いかれてるんだ。な、な、治らない。薬だって効かなかったんだ。ね、ね、寝れなくて、昼間はいつも頭がぼんやりしてた。違うそれは私じゃない。私じゃない。なんでもするよ。ねえ。なんでもするから。き、き、嫌いにならないで。あああでも嫌いになってもいいから、嫌いになってもいいからどこへも行かないで。嘘だ!やだ!やだ! やだ!嫌いにならないで!ひとりにしないで!もうひとりにしないで!どこにも行かないで!」

 

 それはもう全く支離滅裂でした。

 ウルウ自身、自分がいま何を言っていて、何を言いたくて、何を言おうとしているのか、わからなくなっているのかもしれません。自分で自分のことを、制御できなくなっているのかもしれません。

 考えた端からすべて口に出てしまって、口に出たものがまた頭の中でから回って、自分が何を思っているのかさえ正しくわからなくなっているのかもしれません。

 

 黙ったら死ぬとばかりに金切り声を上げ続けるウルウを、私は無理に抱きしめました。

 暴れ出そうとする体を押さえつけて、きつくきつく抱きしめます。

 

「大丈夫、大丈夫ですよ、ウルウ」

「あっあっあっあっあっあっやだ、やだ放して!やだ!怖い!怖い!怖い!やだ!放して!放さないで!やだ!」

「呼吸を。呼吸をしてください。ウルウ。息をするんです」

「はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ」

「息を吸って、吐くんです。吸って、吐くんです。息を、吸って、吐いて」

「ひっ、ひっ、はーっ、ひっ、はーっ、はーっ、ひうっ、ひっ、はーっ」

「大丈夫です。ここにいます。私はここにいます。ウルウもここにいます。呼吸を」

「すーっ、はーっ、すーっ、はーっ、すーっ、はーっ、すーっ、はーっ」

「そうです。ゆっくり。ゆっくり」

「すーっ……はーっ……すーっ……はーっ……」

 

 ウルウの呼吸がだんだんと落ち着いて、きょろきょろとあちこちをさまよっていた視線が、うつろながらも焦点を合わせ始めました。

 とんとんと背中を叩いて、私の体温を移していきます。

 トルンペートがその背中に抱き着いて、じんわりと鼓動を響かせます。

 私とトルンペートの二人でウルウを挟んで、二人分の心を響かせます。

 

 私は告げなければなりません。

 たとえ傷つけることになっても、たとえ苦しめることになっても。

 私は、ウルウにこの気持ちを伝えなければなりませんでした。

 

「ウルウ」

「や、やだっ」

「いいえ、ウルウ。聞いてください」

「やだぁ……」

「私は死にます」

「やめてっ、やめてよ……」

「いつか必ず、私も、トルンペートも、死にます」

「やだやだやだぁ……っ」

「でもそれは、いまじゃありません。いまではないんです。私と、トルンペートと、ウルウと。私たち三人の旅路の果てに、私は死にます。あなたが嫌だといっても、飽きたといっても、世界の果てまで、私の旅の果てまで、この物語の終わりまで、あなたを引きずっていきます」

 

 人はいつか必ず死にます。

 それは私にも避けられないこと。

 だから死なないことは、約束できません。

 でも、ウルウをひとりにしないことは、誓えます。誓います。

 

「私が死ぬときには、私の旅が終わるときには、この物語が幕を下ろすときには。きっとあなたを殺します。神様があなたを取り上げようとしたって、私があなたの手を取って奪い去ります。きっと殺します。きっときっと殺します。一緒に死にましょう。三人いっしょに死にましょう」

「ちょっと、あたしもなの?」

「仲間外れは、嫌でしょう?」

「よくおわかりで。そうね。死ぬときは一緒よ」

「ええ、私たち、いつまでもいつまでも一緒に行きましょうね」

 

 ウルウは私たちに挟まれて、ひとしきり泣いた後、ただ一言、小さくこう言いました。

 

 うそつき、と。

 

 ひどく寂しそうに。

 ひどく悲しそうに。

 そして少しだけ、嬉しそうに。

 

 ええ、そう。

 そうかもしれません。

 嘘吐きかもしれません。

 それでも、あなたを手放せないのは私の方なのです。私たちの方なのです。

 だから、一緒に死んであげることはできなくても。殺してあげることはできなくても。神様からあなたを奪い去りたいというのは、本当の気持ちです。

 

 このあこがれは、きっと神様にだって奪えやしないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後日談、というわけではないのですけれど。

 我らが含羞の人ことウルウは、私たちの前であれだけ泣き喚いたことにひどく恥じ入って、半日くらい部屋にこもって出てきませんでした。

 

 それでも泣きはらした顔がどうにか見れるくらいになったころに出てきて、ぶぜんとした顔で虚空を眺めて指でなぞり、それからおもむろにガラス瓶を取り出して謎の薬液を一気飲みしました。

 

「メンタルがね……メンタルがやられていたよね……」

「ウルウの心がよわよわなのはいつものことでは?」

「ざーこざーこ♡」

「負けてないが???」

 

 まあでも、旅の仲間だというのにこころの危機を察してあげることのできなかった私たち精神面つよつよ勢は反省しなければなりませんね。

 

「ウルウ、辛いことがあったらすぐに言ってください。相談してください」

「そうよ。あたしたち仲間じゃない」

「うん……ごめんね」

「もし身近な人にはかえって相談しづらい時は、心療内科とか精神科に相談しましょう」

「この国精神科あんの!?!?」

「そりゃあるわよ。大きめの町なら大抵あるわね」

「神殿とかもありますけど、神官は割と人の心わからないですからね」

「リリオに言われるって相当じゃん」

「相当なのよ」

「本人の前で言います???」

「まあでもうつ病なんて割とよくあるんだから、重く考えすぎずにまず受診よ」

「ううん……その第一歩が気重というか」

「あたしもたまに診断してもらうし、怖かったらついていくわよ」

「君の場合頭直接いじるやつじゃないの?」

「頭直接いじるやつもあるわ」

「本当にあるとは思わないじゃん……」

「多分今しがた怪しい薬物でどうにかしようとしたやつにドン引きされるの心外なんだけど」

 

 まあ。

 三人が三人とも、努めて明るく振舞ったというのは、お互いにわかっていたと思います。

 それでも、これから何年も、何年も一緒に暮らしていくのですから、一時ぎこちなくなっても、うまく回せていけるように、私たちはそのやり方を覚えていかなければなりません。

 生きていけばしんどくなることだってありますし、また辛くなってため込んでしまったり、吐き出してしまったりということもあるでしょう。そうなる前に私たちは良い付き合い方を学んでいかなければなりません。

 もう二度とウルウが、私たちから離れることがあるかもだなんて、そんなことができるかもだなんて、馬鹿げたことを考えたりしないように、しっかりつなぎとめていかなければなりません。

 

 いつまでもいつまでも。

 いつまでもいつまでもいつまでも。

 私たち、一緒に生きましょうね。




用語解説

・ガラス瓶
 ゲーム内アイテム。《万能薬》。
 病気や火傷、衰弱、麻痺など、ほとんどの身体系バッドステータスを回復させる効果がある。
 重量値がやや高く、値段も高いため低レベル帯では非常に貴重。
 しかし、複数種類の回復アイテムを常備しておくととてもかさばるので、これ一本に絞るプレイヤーは少なくない。
 この時ウルウは自分のステータスを確認して、装備で防げてるはずの「病気」と「衰弱」がばっちりついてるのを確認して、自身のメンタルが病んでいたことを確信。治療を試みた。
 『五百ページ目に記載された薬は万病を癒す』

・心療内科/精神科
 心療内科ではストレス等を要因として現れる身体症状を扱う。
 吐き気や頭痛、動悸、めまい、下痢や腹痛などの症状のうち、心理的ストレスの影響が疑われる場合などは心療内科の扱う範囲。
 精神科は心の病気、症状を扱う診療科。
 鬱病や躁病、睡眠障害や幻聴・幻覚、パニック障害や統合失調症などを扱う。
 帝国では人族に関しては精神医療もある程度発達しているが、他種族に関してはそれぞれの種族に専門家が少ないためアクセシビリティは低い。

・黒百合の花言葉
 「恋」「呪い」「復讐」「憧れ」など。
 なお最後の「憧れ」に関しては、黒百合が高い山に多く見られ、その山々が登山家あこがれの場所であることが多いことから。
 またなかなか見つけられないことからか。
 まさしく高嶺の花というわけだ。



追記
 300話記念SSを予定しています。
 こんな話読みたいなーとか、こいつの話読みたいなーとか、あれ食べさせたいなーとかあったら教えてくださると幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エイプリルフールIFストーリー
IFストーリー 亡霊と死なない君


前回のあらすじ

血まみれの犬みたいなにおいがする女の子を拾った限界女妛原閠(26)。
こんな世界、一緒に滅茶苦茶にしちゃおっか。


「テロリストって儲かんないもんだねえ」

「そもそも儲けのためにテロってるわけじゃねーかしら。というか儲けのためだったらそれはもうテロリズムじゃねーと思うかしら」

「でもテロ活するための資金稼ぎなんだし、それはもうテロの一環じゃない?」

「テロ活いうなかしら…………まあでも確かにこれもテロの一環かしら……?」

 

 健全なテロ活は健全な生活から。

 おはようございます。異世界転生系限界社畜女こと妛原閠です。

 そもそもテロ自体が健全じゃないんだからこの標語に実際意味はない。

 

 なんか知らないけど異世界に転生したっぽい私は、なんか知らないけど現地政府に殺されかけているテロリストの少女ユーピテルを救ってしまい、なんか逆に面白くなってきてなんか知らないけどテロに加担することにしたのだった。

 

 というのが前回までの私だったんだけど、いやー、テロ活って大変だね。

 まず最初にしたのがさ、ユーピテルを殺すことだったんだよね。

 

「お前のことはいまいち信用できねーかしら。でもプレイヤーを利用できる機会なんてもう絶対こねーかしら。だからひとまずは一緒に行動してやるかしら」

「うーん、ツンデレかメスガキか微妙なライン」

「じゃあ、さっそくお前へのテストもかねて、ワタシを殺してほしいかしら」

「…………うん?」

 

 せっかく傷を治してあげたのに、じゃあ早速殺してほしいかしらって言われて宇宙猫になったよね。

 異世界転生したばっかりのニュービーにはちょっと試練がでかすぎじゃなかろうか。

 

 でもこれにはちゃんとわけがあったんだよね。

 なんでもこのテロリスト、この少女としての姿が本体ってわけじゃなくて、他人に乗り移り続けてくタイプの精神寄生体みたいな存在みたいなんだ。というか人族の脳みそを利用して分散コンピューティングじみて自分を演算させてるネット生命みたいな。

 寄生したら人格完全に塗りつぶしちゃって元に戻せないし、同時に二人以上に寄生すると最悪自分同士で殺しあうような分裂を引き起こしかねないから、常に一人しか存在できないんだとか。

 

「もう何度も死んで来たかしら。サクッと済ませるかしら」

「ええ…………命の価値が軽いなあ」

「まあでも、死ぬっていうのは、死ぬほど痛いかしら。だからなるべく痛くない殺し方をするかしら」

「しかも注文が多い……」

 

 初殺人。って言っていいのかな。

 グロいのも嫌だし、ヒト殺すって本当無理なので、即死効果のある武器で痛みもなく死んでもらったけど、なんだろうね。そこまでショックでもない。すぐに別の体で戻ってきたのもあるけど、介錯っていうか、医療行為みたいな、そんな気持ちだったのかもしれない。

 いまならわかるね。

 あのころから私の感覚はだいぶユーピテルに破壊されてたよね。

 

 結局今に至るまで五回くらい殺してるし、ユーピテル以外の敵とか要人とかはもっと殺してるから何とも思わなくなっちゃったけど。

 

 ごろごろと馬車(馬……?)を走らせながら、私は荷台に積んだ数々の木箱と、それにもたれて帳面をにらむユーピテルをぼんやり見やった。

 いまの彼女は、ブロンドの成人女性の姿で、眼鏡と白衣もちょうどいいくらいにフィットしている。

 

「ぬぬぬ……うん? なにかしら?」

「いやあ、行商人ごっこも板についてきたなあって」

「食い扶持が一人増えたから稼がなきゃいけねーかしら」

「君ひとりだとごはんも宿もすっごいいい加減だったからじゃない?」

「お前がぜいたくを言い過ぎなのかしら! 風呂なんてたまにでいいかしら!」

「それは無理。絶対無理」

「目がマジかしら……」

 

 この子、どうせ使い捨ての体だと思ってるからなのか、憎悪のエネルギーに突き動かされて突っ走ってるからなのか、食事も睡眠もかなりいい加減だったんだよね。お風呂もあんまり入んないし。

 でもそういうのって目を引いちゃうだろうし、いざというときに力も発揮できないだろうから、最低限のメンテナンスだと思いなよって諭したらわかってくれた。っていうか理屈ではわかってても面倒くささが勝ってたんだろうな、いままで。

 

 しかし私は譲らない。

 メンタル病んで死んだはずが、この世界に来た時にナニカサレタのか、ご飯とかお風呂とか滅茶苦茶心動かされるからね。特にお風呂。ご飯食べないのはあるあるだけど、汚いのは耐えられない。

 

 あとヒト殺した後とか手を洗わないとしんどい。禊だね、ある種の。

 

 荷台に積んだ木箱のうちいくつかは、売り物じゃなくて心臓が詰まってる。

 私が《強奪(スナッチ)》という《技能(スキル)》で心臓を抜き取り殺したやつだ。どんなやつだ。

 

 警備の厳重な屋敷に侵入して、誰にも気づかれないままに要人を拉致って殺す。

 しかも表面に傷がついていないのに心臓だけなくなっているという異常な死に方は他にはまねできないので、見せしめや、ある種のメッセージとして有効に使える、というのがユーピテルの言だ。

 この心臓の持ち主も今頃前の町の広場で衆目に晒されていることだろう。深夜にいい感じの角度とか二人で言いあいながら設置したから、ぜひ見ていってほしい。

 

 私にはそのあたりの荒っぽい理屈はよくわからないんだけど、要人たちはこれで自分とこのセキュリティが不安になり、がちがちに固めて出てこないようになるんだとか。無残に殺されたくないからユーピテルの邪魔をしたくても怯えてしまうんだとか。黒狼騎士団とかも動きづらくなるんだとか。

 わからん。

 

 私にわかるのは心臓抜き取ったときの感触が心底不快で気持ち悪くてしんどいのと、要人の心臓抜き取って持ってくとユーピテルが喜んでくれることくらいだ。骨投げられた犬か私は。

 屋敷とかに侵入する以上、家族の存在とかが見て取れるのもまた信じられないくらい辛いんだけど、自分が信じられないことにそれにも慣れてきてしまったしんどい。

 

「ところでその心臓ってどうするの? 売るわけじゃないよね」

「売り物なら豚の心臓の方がよっぽど売れるかしら」

「あれを豚っていうのも私理解できないんだけど……」

「図鑑でしか見たことないけど、確かにあれは別物かしら……」

 

 この世界、馬とか犬とか豚とかよくわかんないことになってるからな……。

 

 売るわけでもなければもちろん食べるわけでもない心臓の使い道は、やっぱり「脅迫」らしかった。

 これを小包で送りつけたり、私がこっそり枕元において来たりすることで、恐るべき暗殺者の存在をにおわせて行動を鈍らせるっていうテロらしい。

 

「うーん。世界を滅茶苦茶にしようとは言ったけど、ちょっと考えてたのとは違う方向だな……」

「こういう地道なテロはあくまで下準備かしら」

「地道なテロとは」

「心配しなくても、派手なほうの滅茶苦茶も準備してるかしら」

「それは、あー……楽しみにしていいやつ?」

「もちろんかしら! みんな大好き巨大生物兵器かしら!」

「そのみんなに私も入れられるの納得いかないんだけど……」

 

 それはどうしようもない最低の人殺し道中で。

 それは弁解の余地もない悪党たちの悪だくみで。

 それは誰からも非難されるだろう犯罪者の旅路で。

 

 それでも、それは私にとって新たな人生の第一歩なのだった。




用語解説

・《強奪(スナッチ)
 ゲーム内スキル。《盗賊(シーフ)》系統が覚える。
 通常攻撃と同時にアイテムを盗む。
 即死効果が乗った場合、「心臓」「生首」などの特殊なアイテムを入手できる。
『「盗んだ」んじゃない。「頂戴した」んだ。丁重にな』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話
300話記念SS 酔っ払い鶏とちゃんちゃん焼き


 当番制っていうか、持ち回りって、意外と面倒があるのよね。

 何の話かっていえば、あたしたち《三輪百合(トリ・リリオイ)》の料理当番だ。

 料理以外でも、馬車の掃除だとか、買い出しだとか、旅をするうえでやらなきゃいけないことってのは多いもんよ。

 で、それを誰がやるかって話。

 

 これは冒険屋だけじゃなくて、二人以上の共同体なら必ず向き合わなきゃならない問題だと思うわ。

 最初っから荷物持ちだとか、料理番だとかで雇われたっていうんならともかく、あたしたちは一応三人が三人平等な立場っていう建前だ。実際のところあたしはリリオの武装女中だっていうことを譲る気はないし、もし公式な場に出るときはあたしはそういう立場にふさわしい対応をするだろう。

 

 あたしは本当なら、全部したい。全部してあげたい。掃除も洗濯も料理も、全部したい。

 買い出しも会計も全部あたしがしてあげたい。

 こいつらに任せてられるか、みたいな傲慢な職業意識ってわけじゃない。

 職業意識は職業意識でも、ご奉仕したいっていう武装女中の本能だ。

 

 でもあたしは武装女中であると同時にリリオとウルウの嫁であり、リリオとウルウはあたしの嫁だ。

 そしてこの二人の嫁は、旅の仲間に仕事を全て任せるというのは落ち着かないという実に健全な精神性の持ち主なのだった。いやまあ、リリオは奉仕されるのに慣れてるっていうか、そういうとこあるけど。でも冒険屋としてやっていく以上、そのあたりを自分でもやっていきたいという志がある。

 

 あたしとしてもふたりのそういう精神性はいいと思い。なんでも任せきりにしないでお互いに支え合おうねっていうのはとっても健全だと思う。

 

「トルンペート、言ってることとやってることが一致してませんよ」

「ご飯作るからはやくお鍋渡してよ」

「あたしのお仕事!!!!」

「野営の準備はさせてあげたでしょ」

「やだー! 全部したい! 仕事させて!」

「駄々のこね方が斬新」

「困りましたね」

 

 あたしはお鍋にしがみついてみっともなく喚いた。

 辺境の御屋形にいる間はなにくれとなく二人のお世話ができたのに、旅に戻ってからは三人でゆるーく持ち回りの気づいた人がやる感じになってしまった。

 あたしが積極的に仕事をこなすようにしてるけど、リリオもあれで自分の身の回りは気が付く方だし、ウルウはでっかいくせに細かいところに目が届く女だ。あたしの仕事がとられてしまう。

 

 普段のあたしはここまでごねたりしないけど、たまにこう、無性にお世話したい欲にかられてしまうのだ。ベッタベタに甘やかしたくなるのだ。

 でもそれって武装女中の本能みたいなものだからあたし悪くない。

 

「……主人の自立や成長を妨げるのは、よいメイドさんとは言えないんじゃないの?」

「うぐ!?」

「トルンペート、気持ちは嬉しいですけれど、私は自分では何にもできないお飾りになりたくはありませんよ」

「うぐぐぐ………ぐへぇ」

「あ、ダウンした」

「武装女中の理性が武装女中の本能を抑え込みましたね」

「それマッチポンプじゃない?」

 

 ともあれ。

 あたしはしぶしぶお夕飯を二人に任せて、その調理風景を眺めることになったのだった。

 

 リリオが手に取ったのは、昼間のうちに仕留めた兎百舌(レポロラニオ)だった。血抜きもして、羽もむしってある。

 鼻歌交じりにてきぱきと首を落とし、足を落とし、内臓を抜いて壺抜きしていく手際は手慣れたものね。辺境貴族としては普通のことだけど、内地のご令嬢はまずできないだろうなあと遠い目をしてしまう。

 

 首や足、内臓は捨てない。以前なら捨ててたけど、ウルウの不思議な《自在蔵(ポスタープロ)》はなんでか知らないけどやたらと食材が長持ちするから、こういうのを保存して貯めておける。

 なのである程度の量がたまったら、出汁取りに使ったり、いろいろに使えるのだ。

 

 リリオが丸鳥に塩や香辛料で味を入れている間に、ウルウの方ではさくさくと野菜を刻んでいた。

 人参(カロト)甘藍(カポ・ブラシコ)、緑の甘唐辛子(ドルチャ・カプシコ)玉葱(ツェーポ)、それにキノコの類や、ちまちま育ててた新芽野菜(ショソイ)なんかね。

 リリオが肉しか用意してないから、たっぷりの野菜は嬉しいところね。ウルウはいろどりも気にするから見た目もよさそう。

 

 さて、リリオの方は、兎百舌(レポロラニオ)に塩と香辛料をすり込み終えて、表面に油を塗ってるわね。

 それで麦酒(エーロ)の瓶を取り出して、(かね)の湯呑にとっとっとっとっ……って飲みながら肉を焼こうってつもりかしら。塊肉を焼くときは時間かかるから、そうして時間潰すのも一つの手だけど……。

 

 あ、なるほどね。

 普段あんまり使わない(かね)の湯呑に麦酒(エーロ)を半分くらい、それに香草類。

 そうしたら湯呑を、壺抜きした兎百舌(レポロラニオ)のお尻にねじこんでいく。ちょうど湯呑の上に丸鳥が座り込むみたいな感じね。

 

 できたらそれを、火にかけた金網の上に座らせて、(かね)の桶をかぶせてじっくり蒸し焼きにしていく。

 こうすることで、桶が窯代わりになって熱を反射して、皮目がパリッと焼ける。でもお腹の中では湯呑の麦酒(エーロ)が内側から蒸し焼きにすることで、肉はあくまでしっとり仕上がるって寸法ね。

 豪快だけどこれがまたおいしいわけよ。

 あ、結局飲みながら焼いてる。

 

 で、ウルウの方は、鉄板を使うみたいね。

 たっぷりの乳酪(ブテーロ)を溶かして、刻んだ野菜を広げてる。

 炒めるのかなって思ったら、真ん中を少し開けて、三枚におろした(サルーモ)を皮目から焼いていく。

 それで、合わせ調味料をかけまわしたら、大きめの蓋をかぶせて蒸し焼きに。

 辺境じゃ(サルーモ)はよく食べられるけど、このやり方は見ないわね。ウルウの故郷の料理かしら。

 

 奇しくも二人とも蓋をして蒸し焼きにする形になったけど、なにかしらね、この……なんていうか、文明度の差というか。

 いや別に良い悪いの話じゃないわよ?

 

 ただまあ、蒸し焼きにしてる間に手早く片付けしたり皿の準備してるウルウと、片付け後回しにして酒飲みながら肉の焼け具合を勘と音だけで判断してるリリオと、見比べるとね。

 うーん、脳筋蛮族ガールズの名に恥じない豪快料理感。

 

 リリオが順調に麦酒(エーロ)のお代わりを重ねていく間に、ウルウの方も火が通ったみたいで、蓋を外す。するとふわっと広がるのは異国の香り。ウルウがよく使う醤油(ソイ・サウツォ)だとか豆味噌(ソイ・パースト)とかの西方料理の不思議な香りだ。

 この馴染み薄い異国の香りが、でも不思議なことに馴染み深い乳酪(ブテーロ)の香りと引き立て合う。

 

 ウルウはハシとかいう二本の棒で器用に(サルーモ)の身をほぐすと、木べらで野菜と混ぜ合わせて皿に盛りつけた。

 (サルーモ)の鮮やかな橙色と、たっぷりの甘藍(カポ・ブラシコ)の白い葉が見た目にもよく引き立て合うわね。

 

 そうこうしてるうちにリリオの兎百舌(レポロラニオ)もいい具合に焼きあがったようだった。

 

「うん、割といい感じにできたかな」

「へえ、野菜の水分で蒸し焼きにする感じね。ウルウの故郷(くに)の料理なの?」

「そうだよ。ちゃんちゃん焼きっていうんだ」

「変わった名前ですね。どういう意味ですか?」

「諸説ある」

「諸説ある……?」

「よくわかってないときそれでごまかそうとするわよねウルウ」

「リリオのビア缶チキンみたいなやつこそどういう料理なのさ」

「これは尻酒鳥(アヌサ・ドリンクロ)といっ」

酔っ払い鶏(エブリア・コーコ)よ」

「……あぬさ、なんて?」

酔っ払い鶏(エブリア・コーコ)

 

 辺境風の呼び方は、粗雑なことが多いのよね。

 

 それはさておき。

 リリオは短刀で骨から肉を引きはがすようにして荒っぽく酔っ払い鶏(エブリア・コーコ)を解体していく。兎百舌(レポロラニオ)は鶏よりは小さいから、ちまちま解体するより大雑把にやった方が楽なのは確かなのよね。

 

 皮目はパリッとして香ばしく、油といっしょに柑橘の汁も塗ってたみたいで、さわやかな香りも心地よい。そしてぱりぱりとした皮目に歯を立てれば、肉質はあくまでもしっとり。

 麦酒(エーロ)の香りに、香草、それに強めの塩と香辛料。ちょっと強すぎるかなってところだけど、でも淡白にすぎる兎百舌(レポロラニオ)の肉にはちょうどいいかもしれない。

 うん、感じ、感じ。

 

「あー……こんな感じなんだねえ。たれもだけど、麦酒(エーロ)変えたら味も変わりそうだねえ」

「旅先の麦酒(エーロ)で試してみるのも面白いかもね」

葡萄酒(ヴィーノ)とかだとまた別物って感じですよね」

「確かに、麦酒(エーロ)ならではって感じよね」

 

 いくらでも応用が利くのがこういう単純な料理のいいところよね。

 手を抜けばどこまでも手が抜けるし、()ろうと思えばいくらでも凝れる。

 

 口の中がすっかり肉になったところで、ウルウのチャンチャンヤキとかいうのに移る。

 ところどころいい感じに焦げ目も見えるけど、あくまで蒸し焼き。野菜はみずみずしく、(サルーモ)もふっくらと柔らかい。

 そして味付けがまた、おもしろかった。

 

 ウルウが仕入れてきた西方の豆味噌(ソイ・パースト)は、うまみも強いけど塩気も強いって感じで、独特のにおいもあるから、あたしはそんなに慣れないのよね、まだ。なまじ似たような胡桃味噌(ヌクソ・パースト)に慣れてるってのもあるかも。

 その豆味噌(ソイ・パースト)が、乳酪(ブテーロ)と合うのだ。ものすごく合う。引き立て合うって言っていい。胡桃味噌(ヌクソ・パースト)じゃ、こうはいかない。

 

 豆味噌(ソイ・パースト)胡桃味噌(ヌクソ・パースト)と比べて、塩気もうまみもあるけど、コクがちょっと弱いと感じてた。そこに乳酪(ブテーロ)の脂っ気が、しっかりしたコクを加えてくれている。

 ちょっと苦手に感じてた豆味噌(ソイ・パースト)のにおいも、馴染み深い乳酪(ブテーロ)の香りでうまいこと中和できてる。

 

「ん~~~!おいひい!です!」

「はいはい、ちゃんとごっくんしてからね」

「おいしい!です!」

「うん、お粗末様」

豆味噌(ソイ・パースト)も使いようねえ……」

「慣れもあると思うけどね」

 

 しかし、これは、あれね。

 酔っ払い鶏(エブリア・コーコ)もチャンチャンヤキも、あれが欲しくなるわよ。

 

「明日も早いんだから、飲み過ぎないでくださいよ?」

「肉焼きながら飲んでる自分に言いなさいよ」

「そもそも君たちの年齢で飲むの私の国だと違法だからね……?」

「人族酒飲み、土蜘蛛(ロンガクルルロ)豆茶(カーフォ)飲み、ですね」

「うーん、知らない慣用句」

 

 飲んで、食べて、まったりしながら、あたしたちは小鍋に沸かしたお湯に酔っ払い鶏(エブリア・コーコ)の骨を沈める。沸き立たない程度の弱火で少しのあいだ煮てやれば、程よい塩気と程よいうまみの出汁湯ができるという塩梅だ。

 

 汁物っていうには弱いけど、食後にほっとするくらいの、そういう飲み物。

 三人ですすって、ほうっと息を吐く。

 

「せめて洗い物は、あたしがするわよ!」

「わかりました、わかりましたよ」

 

 でもまあ、たまにはこんな日もいいものかもね。




用語解説

兎百舌(レポロラニオ) (Leporolanio)
 四足の鳥類。羽獣。ふわふわと柔らかい羽毛でおおわれており一見かわいいが、基本的に動物食で、自分より小さくて動くものなら何でも食べるし、自分より大きくても危機が迫ればかみついてくる。早贄の習性がある。

尻酒鳥(アヌサ・ドリンクロ) (Anusa drinkulo)
 もとい
酔っ払い鶏(エブリア・コーコ) (Ebria koko)
 ビア缶チキンと同様の調理法。
 壺抜きした鳥の腹に麦酒(エーロ)を半分ほど注いだ金属製のカップをねじ込み、金網等に座らせて焼く。
 細かいやり方は人によって異なり、いくらでも応用が利く。
 別に辺境の料理というわけではなく、似たような呼び名で似たような調理法が各地にある。
 後に酔っ払い鶏(エブリア・コーコ)を作りやすくするために缶ビールが発明されたことがよく知られている。知らんけど。

・人族酒飲み、土蜘蛛(ロンガクルルロ)豆茶(カーフォ)飲み
 人族は酒で酔い、土蜘蛛(ロンガクルルロ)豆茶(カーフォ)で酔うことから、種族や地域で文化は異なることの例え。
 郷に入りては豪に従え。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。