艦隊これくしょん -apprivoiser-:軍艦・球磨、始まりの海、最果ての空 (AyLsgAtuhc)
しおりを挟む

第1章:水面で揺れる歴史たち
第1節「軍艦と人間、始まりの海」




「めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね……」
(1943年出版、サン=テグジュペリ『星の王子さま』より)




 

『海軍大佐――――。大日本帝国海軍・軍艦(艇)球磨、艦長ヲ命ス』

 

 小寒の候、冬晴れの空。

 本日天気晴朗、ナレドモ海風冷冷タリ。

 

――僕は夢を見た。

 

 一人の黒衣の男が軍艦の前甲板に屹立している。

 齢40近いこの男は、隊伍を組んだ黒軍服の手前、その一点に屹立している。

 第一種軍装を身に纏い、短剣を剣帯し、士官軍帽の陰に潜む、その凛と輝く柔和な目で、艦首旗竿に掲げられた海風に揺蕩う日章旗を見据えていた。

 小柄で無口なこの男は、襟章や袖章から察するに、海軍大佐であると窺える。

 

 本日、この男が屹立している軍艦、その前甲板にて、艦長着任式が執り行われた。

 この軍艦は、1919年7月14日に佐世保海軍工廠で産声を上げた、全長162.5メートル、全幅14.25メートル、排水量5500トン、最大速力36.0ノットという快速を誇る強豪艦である。

 しかしそれは、あくまでも進水当時の話であり、今現在ではやや旧式となった二等巡洋艦であった。

 

 兵装は40口径三年式8センチ高角砲2門、53センチ連装魚雷発射管8門、そして50口径三年式14センチ砲7門が備え付けられている。

 特徴的な3本煙突の先は、ふっくらと丸みを帯び、通称「そろばん玉」と呼ばれる雨水除去装置が取り付けられていた。

 

 帝国海軍における二等巡洋艦の命名慣例である河川の名称が襲用され、大正天皇に奏聞し治定された、この軍艦の名は「球磨」。

 この海軍大佐は、大日本帝国海軍の軍人として、「軍艦・球磨」艦長の任に就く、誉高きこの日を迎えたのである。

 

『まさかの祝――人目の艦長だ。球磨も驚きだ。でもおめでたい』

 

 

 ………………………………

 

 

――――11月、0630、横須賀鎮守府停泊、軍艦・球磨、艦長室。

 

「本日は航海長の知っての通り、各種整備の後、1200より馬公要港部へと向かう」

「了解です。艦長」

 

 日の出遠き朝、電燈の明かりの下。

 着任の翌日、大佐は艦長室の机の上に乱雑ながらも秩序的に並べた航泊日誌と方向航海計器(コンパス)、そして海図へと視線を落とし、航海長と本日の任務について話をしていた。

 

『台湾は久しぶりだ』

 

 ふいと、大佐はあどけなさが残り、どこか間延びした少女の声を聞いた気がした。

 唐突に顔を上げ、そして訝しげに首を傾げる大佐。

 その大佐の様子に、航海長も不審げな表情を浮かべた。

 

「……航海長。今誰か、喋らなかったか?」

 

 寸秒の後、大佐は航海長に向かって口を開いた。

 

「いえ、艦長。艦長室には私たち以外、誰もいませんが……」

 

『鳳梨酥(パイナップルケーキ)と烏龍茶で一服。うん、それも悪くない』

 

 二言目。

 大佐は、今度こそしっかりと少女の声色を聞いた。

 

――幽霊か、はたまた、妖か。

 

 青褪めた大佐の様子に、航海長も殊更不安げな表情を浮かべる。

 寸秒の後、大佐は意を決した様子で航海長に向かって口を開いた。

 

「航海長……変な事を聞くようだが……この艦に童が紛れ込んでいる……なんて事は無いな?」

「え、ええ……少なくとも水兵からその様な報告は上がっていませんが……」

 

『もっともこの球磨、そんな美味しいモノを飲んだり食べたりする事は出来ないが』

 

「……」

 

 三言目。

 大佐は自分が疲れているのでもなく、少女の声色が自分の聞き違えでもない事を確かめると、深刻な表情で頭を抱えた。

 

「……艦長?」

「ああ……すまない、久方ぶりの国外任務で何分緊張しているのだ。1100の総員集合時には顔を出す。それまではよろしく頼む」

「……承知致しました。失礼致します」

 

 航海長は敬礼の後、普段であれば決して見る事が無い、頭を抱えた大佐の姿に狼狽しつつ、艦長室を後にした。

 

「……まさかな」

 

 暫くの後、大佐は確かめる様に口を開いた。

 

「……この部屋に誰か居るのか?」

「球磨も人間になれたら……っておい、そこな艦長……もしかして、この球磨の声が聞こえてるのか?」

「……」

 

 まさか頭を抱える原因を作った張本人から言葉が返されるとは思わなかった大佐は、気を保ちながら恐怖を嚥下し、その震える唇を開き、語気を強めて問いかけた。

 

「……だったらどうした、貴様はなんだ? この大日本帝国海軍が誇る軍艦・球磨に住み着く幽霊か、はたまた、妖か?」

「失敬な。この球磨こそ紛うことなき、大日本帝国海軍が誇る球磨型二等巡洋艦の1番艦、球磨だ。知っての通り、佐世保生まれだ」

 

 大佐の言葉にその存在は、「ぷんすか」と言わんばかりの声色で、堂々と己が名前を告げた。

 

「貴様、何を言って……」

「そうだな……舟魂って知っているか? 海の民が航海の安全を願う神さまの事だ。多くの場合は女性である事が多い。まぁ、そんな存在だと思ってくれ」

 

 その存在の言葉に、大佐は頭を上げ、艦内に鎮座する艦内神社を想起した。

 「軍艦・球磨」の名の由来となった「球磨川」が流れる熊本県・球磨郡に位置し、縁結びの神様が祀られている事で知られる「市房山神宮」。

 その分社である艦内神社には、神木を刳り貫いて作った舟型の中に、舟魂を模った紙の人形と、撤下神饌が供えられていた。

 こうした艦艇内に神社を設ける分祀行事は、帝国海軍では連綿と続く慣わしである。

 軍艦、ひいては艦艇が女人禁制と度々言われるのは、この舟魂、つまり女性の神さまが嫉妬して、機嫌を損ねてしまう可能性を憂いての事らしい。

 

「つまり貴様は……神か?」

「そんな大層な者ではない。球磨は『軍艦・球磨』だ。それ以上でもそれ以下でもない。最も球磨以外に似た様な存在が居るのかは知らん」

 

――そんな妖怪変化を信じてたまるか。

 

 仮にも文明人で帝国軍人でもある大佐は、この事実を否定しようとしたが、こうやって会話が成立している以上、信じない訳にはいかず、大佐は腹を括った。

 大佐は伊達に40年生きていない、ましてや伊達に20年近く軍務に就いていた訳ではない。

 大佐は自分自身の肝っ玉を信じ、艦長室の虚空を仰ぎ、諦めた様子で言葉を投げた。

 

「……で、貴様の目的は何だ?」

「……」

 

 大佐のその言葉と同時に、この「軍艦・球磨」と名乗る存在は沈黙した。

 そうして艦長室には荒涼たる空気が唐突に流れ、大佐は思わず身震いし、身構えた。

 

――この神とも霊とも妖とも分からぬ存在から、果たしてどの様な宣告がなされるのか。

 

 大佐は唯々固唾を呑んで、この少女から告げられるであろう言葉を待った。

 

「……いんだ」

「……」

「……寂しいんだ」

「……は?」

 

 そして告げられた少女の気恥ずかしそうな声色に大佐は、ふにゃりと自分自身の緊張の糸が緩んだのを感じた。

 続けて軍艦・球磨たる存在は言葉を紡いだ。

 

「お前が初めてだったんだ。この球磨が生み出されてから早15年近く、こうやって言葉を返してくれる人は誰一人として居なかった」

 

 そしてその声色は、どこか嬉しそうな色を孕んでいた。

 恐らく今、この少女がこの場に人間として姿を現していたならば、大佐に向かって赤面して嬉しそうな笑顔を浮かべていたであろう。

 大佐は少しでも身構えた自分が阿呆だったと溜息を吐き捨て、軍艦・球磨たる存在に続けて言葉を投げかけた。

 

「目的は分かったが……それにしても何故、私にだけ貴様の声が聞こえるのだ? 先刻まで居た航海長には聞こえなかったようだが」

「球磨にもよく分からんが、どうやらお前とは波長が合うみたいだ。嬉しいぞ、こうしてお前と話せるのは」

「私はちっとも嬉しくない。それに今後、貴様と言葉を交わすつもりは更々無い」

「むぅ……女の子に対して何て口の利き方だ……」

「第一、貴様と話して私に何の利点がある?」

「そ……それは……」

 

 大佐の言葉に辟易した少女は、寸秒考えた後、早口で大佐に捲し立てた。

 

「伊達に15年近く軍艦はやっていない、多少なりとも助言は出来る! 意外に優秀な球磨ちゃんって、よく言われる! 後は……そう! お前も人の上に立つ身だ、何かと孤独だろう。その孤独を枯らしてやる事も出来る!」

「私に助言なぞ必要ない。それに孤独こそ男の本懐。そんなもの犬か軟弱な余計者にでも食わせてしまえ」

「ぐぅ……」

「それに私は必要な時以外、無駄口を開きたくない。だから黙っていてくれ」

 

 とりあえず害が無いと分かった大佐は、少女の言葉を無視し、だんまりを決め込む事にした。

 軍艦・球磨は大佐に何度も話しかけるが、大佐はウンともスンとも言わず、机の上に広げた航泊日誌に記述している。

 

「なぁ……球磨が少しお喋りだったのは謝る……」

「……」

「だからお願いだ……返事をして欲しい……」

「……」

 

 暫くの後、この軍艦・球磨たる存在は、悲しみを吐き出す様に嗚咽を漏らした。

 

「……お願いだ……時々で良いから返事をして欲しい……話しかけても誰も答えてくれないのは本当に辛いんだ……」

 

 そして悲しみを押し殺した声で、少女は大佐に懇願した。

 その軍艦・球磨の言葉と声色を聞いた大佐は、思わず想像してしまった。

 

 西洋袴(スカート)の裾をぎゅうと握りしめながら冷たく震え、涙を浮かべて唇を噛み締め、「お願い行かないで」と、自分から離れ行く人々の姿を成す術もなく眺めている少女の姿を。

 

――思い浮かべてしまった。

 

 大佐はその少女の声色と情景に折れ、苦笑して諦めた様に溜息を吐いた。

 

「そうさな、分かったよ……1年か2年程は、この艦に着任する事になるだろうしな。忙しくなければ何時でも話しかけていい」

 

 そして大佐は、月明かりの様な柔和な目を中空へと投げかけ、口を開いた。

 

「それは本当か!?」

 

 大佐の言葉を聞いた少女は、ぱあっと曇天から光芒が差し込んだ様な歓声を上げた。

 

「ただし、他の水兵が居ない所で話しかけてくれ。流石に精神病科の独房で生涯を送りたくはないからな」

「分かった! ありがとう、本当に嬉しい! 球磨は一寸古いところもあるけど、頑張る! ええと……」

 

――なんともまぁ、ぬらりひょんな道連れが出来たものだ。だが、これもまた面白かろう。

 

「――大佐だ。よろしく頼むよ、球磨」

 

 大佐は昔好んで読んだ、とある帰化人作家が著した怪奇文学作品集の内容を思い出しながら、軍艦・球磨に己が名前を告げた。

 大佐が浮かべたその表情は、月明かりの様に柔らかな笑顔であった。

 

「こちらこそよろしく! ――大佐」

 

 そして軍艦・球磨は、日の光の様に温かくも力強い声色で、大佐に返事した。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 1200、予定通り、軍艦・球磨は抜錨した。

 

 この時を以て、球磨と大佐は、軍艦と人間という奇妙な関係で結ばれた。

 そして軍艦・球磨は、大佐と多数の水兵を担い、馬公要港部へと向かう為、帝国の栄光と誉、そして各々の想いをその胸に抱き、天高く日輪が栄える水平線を進んで行った。

 

 その進む先が、二度目の「大戦」という、帝国の斜陽であるとも知らずに。

 

 

 ……………………………… 

 ………………………………

 

 

『……提督! ……起きろクマ!』

 

「ん……ぁ……?」

 

『……何時まで寝ているんだクマぁ!!』

 

「……ぅぐあっ!?」

 

 その言葉を皮切りに、少女の手から放たれた鉄槌パンチが、寝ていた壮年の男の腹部へと叩き落された。

 加減はあったとは言え、無抵抗の状態で攻撃を受けた男は、成す術も無く腹の中の空気を全て吐き切り、そして飛び起きた。

 

「コホッ……ガハッ……ぃ……痛ってぇ……球磨ぁ……もうちょっと優しく起こしてくれないかな……?」

「うるさいクマ! 今何時だと思っているクマっ!」

「ええと……1200かな……?」

「何寝ぼけているクマっ!? 0630だクマ! そんなに寝てたら、いくら提督でも普通に首が飛ぶクマ!」

 

 鳶色の長い髪と瞳、バネの様なアホ毛をぴょこぴょこと揺らし、そして語尾に「クマ」を付け、その男へと噛みついている、端麗な顔立ちの艦娘。

 白衣のセーラー服を纏った「艦娘・球磨」は、呆れた表情で、あどけなさが残り、どこか間延びした声色を、その男「提督」へと浴びせていた。

 

「妹たちはとっくに起きて食堂に居るクマー。球磨もお腹がすいたクマ。これだから秘書艦は大変だクマー。ちなみに今日の給養当番は大井だクマ。基地の皆も大喜びだクマ。球磨も大喜びだクマ。だからちゃっちゃと身支度を整えろクマー」

 

 提督は先程、球磨の拳が叩き込まれた腹部をさすりながら、申し訳なさそうな表情で球磨に言葉を投げかけた。

 

「ごめんよ、すぐに行くからさ」

「クマ」

 

 分かればいい、と言わんばかりに返答した球磨は、ふんすと鼻を鳴らし、独り言の様に提督へと言葉を紡いだ。

 

「……それにしても起床ラッパが鳴ってもなお、提督が起きて来なかった事なんて、今まであったかクマー?」

 

 球磨は「珍しい事もあるな」という表情の儘、提督が普段寝泊まりしている部屋の扉、そのドアノブへと手を掛け、提督の私室を後にした。

 

「……夢、か」

 

 毛布に身を包んでいた提督は、柔和な目で部屋の真正面を見据え、幾分か朧げな意識の儘、先程の夢を思い出していた。

 しかしチクタクと一秒毎に刻まれる時計の音により、その夢の記憶が刻々と削られていく。

 やがて先程までありありと目に映っていたであろう叙景から鮮明さが失われ、「軍艦・球磨」と「大佐」という断片的な記憶のみが残滓として、提督の脳裏に留まっていた。

 

「球磨が秘書艦になってからもう2年も経つのかぁ……」

 

 提督は誰に語るでもなく、自分自身へと語る言葉を虚空へと投げかけた。

 恐らく、長らく秘書艦として提督に尽くしてくれた球磨、つまり純粋に単純接触回数が多かった球磨だからこそ、あんな形で夢に出てきたのであろうと、提督は先程見た夢の解釈を行っていた。

 

「僕が一等海佐(大佐)である事と、何か関係があるのかな……でも所詮、夢の話だしなぁ……」

 

 提督は一つ大きな溜息を吐き捨て、「夢は夢である」と最終的な結論を出し、その夢の記憶断片をさっさと脳裏の片隅へと追いやった。

 寝ぼけてふわふわと定まらない意識の儘、提督は寝床から起き上がると、さっと寝床を正し、ばしゃばしゃと洗面台で意識を覚醒させ、ぱっぱと身嗜みを整え、ぱりっとした白シャツを着付け、黒ネクタイをぎゅっと締め、着慣れた常装冬服にすっと袖を通し、制帽をひょいと被ると、ちゃっちゃと部屋を後にした。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 僕たちはもうずっと昔から戦争をしていた。

 確か僕が大学を卒業後、国防海軍に入隊して間もなくの出来事だったかなと記憶している。

 

 「深海棲艦」と呼ばれる存在が突如、日本国近海を中心とした世界各国の海域に出現し、航行する船舶を無差別に襲ったのである。

 

 直ぐに深海棲艦掃討の為、各国の軍隊で連合軍が結成され、総力を挙げて深海棲艦と戦った。

 だけど、最新兵器を駆使して戦った各国が得たものは、惨敗という成果のみ。

 無駄に各国の人命や軍事力、ひいては国力を削ぐ結果となってしまった。

 

 某国が躍起になって核兵器の使用を国連安保理決議案で提出したけど、それは結局、反対大多数で否決された。

 その理由は2つあった。

 1つ目は、仮に倒せたとしても、核兵器を使用した際に発生する環境破壊等のデメリットが大きすぎる為。

 そして2つ目は、これは僕がずっと不思議に思っている事だけど、当初危惧されていた最悪のシナリオ。

 「深海棲艦が陸に攻めてきて人間を駆逐する」と言った動きを、一切見せなかった為である。

 

 結果はどうあれ、これにより海路による大規模輸送が不可能となり、資源輸入国だった日本の経済、そして世界経済は緩やかに変わっていった。

 それが停滞なのか衰退なのか、はたまた発展なのかは、僕には分からなかった。

 少なくとも言えるのは、その後、深海棲艦に対する積極的な軍事介入が次第に行われなくなり、各国も半ば諦めた状況で、自国の政治形態を内政重視にシフトせざるを得なくなった。

 その為、他国間での貿易が活発に行われなくなり、少しずつ経済が停滞、そして技術水準が過去の時代へと遡行していったのである。

 

 これが歴史書にも綴られている、現代史の一幕であった。

 

 

 ………………………………

 

 

 それから暫くの後、今から大体4年前に、「艦娘」という存在が現れた。

 

 聞けば「妖精さん」なる存在が生み出した、「旧日本海軍の艦艇の魂」をその身に宿し、「艤装」と呼ばれる海上走行および海上戦闘が可能になる武装を操る事で、軍艦艇に近しい戦闘力を得る事が出来る、深海棲艦と戦う為の唯一の存在らしい。

 

 何度聞いても奇々怪々なオカルト話だ。

 

 艦娘が現れた当時、それは大騒ぎとなった。

 非人道的な人体実験、デザイナーベビーなど、軍部の闇が取り上げられたりもした。

 僕も気になって、自分の地位を利用して、独自に調べてみた事もあった。

 

 でも、そうした形跡は何一つとして見つからなかった。

 僕が最も信頼を置いている地方総監部(鎮守府)司令官に聞いてみても、首を横に振るばかり。

 また彼女たちに出生を聞いてみても、生まれた時の記憶は殆ど無いと答えるばかりだ。

 

 言ってしまえば、管理職である僕でさえ、彼女たちがどのように生まれたのか、一切分からないのである。

 こればっかしは、神さまのみぞ知る。

 

 だけど正直な所、彼女たちの出生について、僕はそこまで熱心に調べなかった。

 何故なら、そんな事を考えている暇があったら、唯目の前に居る彼女たちの為に心血を注ぐべきかなと、僕は考えていたからだ。

 つまり彼女たちの存在そのものを懐疑したり否定したりしてみても、其処に存在しているであろう以上、僕にはどうしようも出来ないのである。

 結局の所、どの様な生まれであれ、彼女たちが今この瞬間、生きているという現実。

 彼女たちの実存について、おいそれと反証を挙げる事が、僕には到底出来なかったのである。

 

 話は変わって、これは僕たちの仕事なんだけど。

 

 何故、深海棲艦が出現したのか。

 深海棲艦は何の為に攻撃を行うのか。

 

 その原因の究明、ひいては海上防衛及び制海権奪回の為、現在の国防海軍の一部門に位置し、「艦娘」との親和性を高める為に、旧日本海軍の階級制度と用語を並行的に採用した艦娘管理部門、通称「大本営」が置かれたんだ。

 

 それで僕の主な仕事はと言うと、昔よりも往来するようになった輸送船や艦艇、また近海任務にあたる別の部隊が攻撃された際に、直ぐに出撃して対応する後援救助部隊の役割を担う艦娘の司令官として。

 そして万が一、深海棲艦が陸に上陸した際の足止めと陸空軍への早期警戒を促し、近隣住民を避難させる、警備基地の司令官として。

 こうした後方任務を主とした、小規模な海軍警備施設の司令官、言うなれば後詰の司令官を、僕は任されていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2節「琥珀石を抱きし者」

 

――――1200、日本国近海航路、海上警備ルート、地点C。

 

「提督と知り合ってからもう2年も経つのかクマー」

 

 三冬統べたる帝さえも、うつらうつらと舟を漕ぐ、穏やかな小春日和の真昼時。

 其処には太陽光を乱反射させ、水銀の様にさらさらと光る海面を、幾分か防寒を施した格好で滑っていく、五つの影があった。

 

「にゃ? 球磨ちゃんって、此処に着任してから、もうそんなに経つのかにゃ?」

 

 浅紫色の短髪を揺らせて、語尾に「にゃ」を付け、静かな口調で喋る艦娘。

 球磨型2番艦「艦娘・多摩」。

 

「あー、球磨姉ちゃんの方が着任時期早かったもんねー」

 

 黒檀色のおさげ髪を揺らせて、ゆるゆるとした口調で喋る艦娘。

 球磨型3番艦「艦娘・北上」。

 

「そう言えば、長く着任している割には、球磨姉さんと提督との間で不思議と浮いた話は聞かないわねぇ」

 

 栗毛色のセミロングヘアを揺らせて、礼儀正しい口調で喋る艦娘。

 球磨型4番艦「艦娘・大井」。

 

「大井姉、流石に歳の差を考えた方がいいと思うぜ……で、そこんとこどうなんだよ、球磨姉?」

 

 深碧色のショートヘアと黒外套をはためかせ、男勝りな口調で喋る艦娘。

 球磨型5番艦「艦娘・木曾」。

 

「別に提督とはなんにもないクマ。上司と部下、提督と艦娘の関係、それ以上でもそれ以下でもないクマ」

 

 そして妹たちの熱に浮いた眼差しを真っ向から受けているのは、この後援救助部隊の旗艦である艦娘。

 球磨型1番艦「艦娘・球磨」であった。

 

 彼女たちは、「艤装」と呼ばれる装備を用いて海上を走り、本日の軍務である近海航路の海上警備任務の為、予め定められた巡回ルートを航行しながら、色恋話に花を咲かせていた。

 

 だが話の中心に居る球磨は、そうした話題とはどこかずれた表情。

 

「それに球磨は、そんな事考える余裕がない程、それはもう提督の事が心配だクマ」

 

 憂いの表情を浮かべて、妹たちに呟いた。

 

「心配にゃ?」

 

 多摩は球磨の言葉に首を傾げると、球磨の言葉の真意を訪ねる。

 寸秒の後、球磨は妹たちに母親が浮かべる様な柔らかな笑顔を向けて、口を開いた。

 

「提督はこう言っちゃ何だけど、軍人向けの人間じゃないクマ」

 

 球磨が発したその言葉に、先程まで熱に浮いていた妹たちの視線が、一気に疑義の眼差しへと変わる。

 

「球磨姉さん、それはちょっと信じられないわ。あれだけ的確な指示を飛ばせる司令官なんて滅多に居ないわ。それこそ、何であれだけの実力がありながら後方部隊の司令官を務めているのか不思議なくらいに……」

「それにアイツ、確か司令官になる前は航空電子整備員(センサーマン)で降下救助員だったか? それで次は特警隊、その後は特警隊幹部教官ときた。バリバリの叩き上げじゃねぇか。そんな奴に球磨姉はよく軍人向けじゃないって言えるな」

 

 その球磨の言葉が「信じられない」という表情で、大井と木曾は反論した。

 

「んー、球磨姉ちゃんは提督の何が心配なのさー?」

 

 今度は北上が球磨に、その言葉の真意について訪ねる。

 球磨は柔らかな笑みを浮かべながら、妹たちに向かって答えた。

 

「提督は優しすぎるクマ」

 

 そう答えた球磨は、先程の笑みとは打って変わり、凛とした威厳のある表情を妹たちに投げかけた。

 

「優しすぎるのは軍人としても司令官としても致命的だクマ。いざという時に公の勝利よりも個の救済を優先して大局を見失う、そんな危険を孕んでいるクマ。まぁ、それは提督自身も十二分に理解しているみたいだクマ」

 

 その真剣な球磨の表情に、妹たちは無意識に姿勢を正し、唯々球磨の言葉を傾聴していた。

 

「だから主力部隊で活躍できる才能があるのに、提督はあえて後詰の司令官に甘んじているクマ。正直な所、何で提督が未だに軍人をやっているのか、球磨にも分からないクマ」

 

 球磨は一通り話終わると、空を一瞥し、ふう、と溜息を吐いて一呼吸しようとする。

 しかしその寸前、無機質な電子音、作戦司令室からの無線連絡の通信音(コール)が部隊全員に鳴り響いた。

 

「噂をすれば何とやらクマ……こちら軽巡洋艦・球磨。どうぞ」

 

『軽巡洋艦・球磨、こちら作戦司令室。並びに部隊各員へ。友軍からの救援要請を捕捉。針路2-2-5、距離20海里(マイル)。救援に向かえ。どうぞ』

 

 無線から聞こえてきたのは、作戦司令室で球磨たち後援救助部隊の作戦状況をモニタリングしている、提督の静かな声であった。

 その静かな声は、これから始まるであろう戦いへの誘いの声でもあった。

 

「軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。了解した、直ぐに移動する。通信終わり」

 

 球磨は無線を切ると、ふう、と溜息を吐く。

 そして一呼吸の後、凛とした表情で妹たちを見据え、司令を下した。

 

「これより本部隊は、友軍の救援に向かうクマ。戦う準備は出来てるかクマ?」

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――1240、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西20シーマイル。

 

『嫌っ……! こないで……!』

 

 球磨たち後援救助部隊の向かった先に見えたのは、深海棲艦の攻撃に曝される、四名の駆逐艦娘で構成された小隊の姿だった。

 複数の深海棲艦からの攻撃に対し、一人の駆逐艦娘が味方を護りながら、息も絶え絶えに戦っている様子が窺える。

 他の三名の仲間は既に大破しており、碌に動けない状況であった。

 

「こちら軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。救援目標並びに敵影を捕捉、攻撃許可を」

 

 球磨はすぐさま無線で、提督に指示を仰ぐ。

 

『軽巡洋艦・球磨、こちら作戦司令室。並びに部隊各員へ。攻撃を許可する』

 

 戦闘許可の命令と同時、球磨は縦一列の単縦陣で背後から追従する妹たちに、精悍な声で言葉を投げかけた。

 

「北上、大井。挨拶代わりだクマ、派手にぶちかましてやれクマ」

 

 その球磨の言葉を合図、艦娘・北上と艦娘・大井は、脚に装着した艤装の出力を「最大戦速」に切り替え、先陣を切って、戦闘海域へと突入する。

 

「おー、敵がわんさか居るねー。大体30ぐらいかなー? 大井っちはどう思う?」

「おしいわ、北上さん。正確には32だわ」

 

 敵を見据えた北上と大井の二人は、同時に魚雷発射管の安全装置を外し、同時に角度を調整した。

 

「20射線の酸素魚雷、いきますよー」

「九三式酸素魚雷やっちゃってよ!」

 

 そして開幕魚雷による、二人同時の速攻攻撃。

 艤装改造を経て、軽巡洋艦から重雷装巡洋艦へと艦種を昇華させた二人が最も得意とする攻撃である。

 圧搾空気と共に吐き出された40発の酸素魚雷の魚群が、寸分狂いなく複線軌道を描き、救援目標の駆逐艦娘小隊の脇をすり抜け、調定深度を維持し、潜行する。

 敵艦隊の足元へと到達した魚雷は儘、起爆した。

 

 敵も突然の援軍、しかも大量の酸素魚雷の波に飲み込まれた事により、32居た敵艦隊の数を、一気に半数近くまで減らした。

 

「砲雷撃戦! 各員散開クマっ!」

 

 魚雷到達を確認した球磨は、凛と声を張り上げ、更なる司令を妹たちに下す。

 

「砲雷撃戦、用意にゃ!」

「本当の戦闘ってヤツを、教えてやるよ!」

 

 その言葉を合図、艦娘・多摩と艦娘・木曾は、救援目標の駆逐艦娘小隊の脇をすり抜け、其々二手に分かれ、そして敵へと突貫していった。

 

 この二人の戦い方は、対極に位置した。

 

「そこにゃ!」

 

 艦娘・多摩は、煙幕弾を周囲にばら撒いて敵と自分の姿を隠し、己の聴覚と感覚を頼りにした間接砲撃戦法で次々と敵艦を沈めていく。

 また掴み所がない自身の動きで、相手のリズムを乱しながら敵を倒す、搦め手攻撃を得意とした。

 自由奔放な戦闘スタイル。

 

「弱すぎる!!」

 

 艦娘・木曾は、主砲による砲撃と雷撃をメイン、軍刀による突撃を交え、基本に忠実、かつ鋭敏な動きで次々と敵艦を沈めていく。

 オールラウンダー、基本に忠実という事は、それだけ自身のリズムが崩れる事が無い。

 それはどんな状況、どんな敵にも対応できるという、戦闘においてかなり大きな強みである。

 英姿颯爽な戦闘スタイル。

 

「大井っちー、そっちに行ったよー!」

「了解よ、北上さん! 挟撃するわ!」

 

 次いで前線に出た、艦娘・北上と艦娘・大井は、息の合ったコンビネーションで分散した敵を挟撃し、各個撃破していく。

 以心伝心の戦闘スタイル。

 

 四人は、其々の個性を最大限に生かし、其々が取りこぼした敵を他の姉妹たちがフォローしていく形で、次々と倒していく。

 敵からすれば、次は誰から、どんな攻撃が飛んでくるのか、全く未知数な状況であった。

 だからこそ、この球磨型四人の突貫部隊に敵う者は、此処には誰も居なかったのである。

 

 球磨は、妹たちが戦っている隙に、救援目標である駆逐艦娘小隊まで近付くと、妹たちが戦っているのを呆然と眺めている駆逐艦娘に声を掛けた。

 

「大丈夫かクマ?」

「私たち……助かったの……?」

 

 その球磨の言葉に、先程まで一人で戦っていた駆逐艦娘は、安堵により身体の芯から力が抜け、倒れそうになる。

 その駆逐艦娘の身体を、球磨は優しく抱きとめると、柔らかな声を掛けた。

 

「よく頑張ったクマ」

 

 他の駆逐艦娘たちも「自分たちがもう少しで死ぬところだった」という恐怖、そして「助かったのだ」という安心から、ぽろぽろと涙を零し、球磨たちに対し、口々に感謝の言葉を並べていた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「球磨ちゃん、こっちは片付いたにゃ」

「球磨姉、こっちも終わったぜ。まぁ、当然の結果だ」

 

 敵艦隊の掃討が終わった妹たちは、球磨と駆逐艦娘小隊に合流し、そして球磨へと声を掛けた。

 

「お疲れクマー。多摩、北上、大井はそこの動けない三人を頼むクマ」

「了解だよー、球磨姉ちゃん」

「分かったわ、球磨姉さん」

 

 大破して碌に動けず、意識が朦朧としていた駆逐艦娘三人を多摩、北上、大井が其々手を貸す事になる。

 それを確認した球磨は、無線をオンラインにし、救援目標の確保を報告した。

 

「こちら軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。救援目標を確保、大破4名、内要救護者3名、轟沈なし。これより戦闘海域を離脱する」

 

『軽巡洋艦・球磨。こちら作戦司令室。了解した、離脱後、地点A(ポイントアルファ)へと向かえ。その娘たちが所属している鎮守府の別部隊が護衛として地点Aに向かっている。合流して、身柄を引き渡した後、そのまま帰投しろ』

 

「了解。通信終わり」

 

 球磨は戦いの終りを告げる様に、一つ溜息を吐き、妹たちに撤退の指示を出そうとする。

 そして口を開き、言葉を声に出そうとしたその瞬間。

 

「……! まずいわ、球磨姉さんっ! 敵の増援よっ!」

 

 大井の言葉によって、球磨の言葉は遮られた。

 大井の電探(レーダー)に感あり。

 そう、戦いはまだ終わっていなかった。

 

 大井は電探に煌々と光る無数の反応を、唯々忌まわしげに見据えていた。

 その大井が告げた悪報に、北上、多摩、木曾が「好ましくない」と、一様に表情を浮かべ、口を開く。

 

「本当まずいねぇ、このまま戦おうにもチビ達庇いながら戦える自信はないよ」

「逃げようにも負傷者担ぎながらだと足も遅くなるにゃ。どう頑張っても逃げ切れないにゃ」

「……どうすんだよ、球磨姉?」

 

 いくら練度が高い部隊でも、護衛対象ありでの戦闘。

 しかも対象は全員大破している。

 風前の灯火である護衛対象を護りながら戦う。

 当然、困難を極めるであろう事は、全員が容易に想像出来た。

 

 例え、交戦自体は可能でも、護衛目標の喪失はまず免れない。

 駆逐艦娘たちの脳裏には死神が横切り、自分たちの死の幻影が鮮明に映る。

 そして駆逐艦娘たちは、真っ青な表情を浮かべ「死にたくない」と呟き、唯々身体を震わせていた。

 

 しかしこの状況で、たった一人。

 たった一人、艦娘・球磨だけが、涼しげな表情を浮かべていた。

 

「……これより本部隊は戦闘海域外まで離脱するクマ。多摩、北上、大井はそのまま要救護者3名の搬送を任せたクマ。木曾は部隊の後退の掩護を頼むクマ。離脱後、援軍到着まで地点Aにて待機だクマ」

 

 球磨は、寸秒の熟考の後、楚々とした声で部隊に命令を下した。

 

「ちょっと待って下さい……それじゃあ、敵艦隊はどうするのですか?」

 

 かろうじて動ける状態にある駆逐艦娘の一人が、その震える唇を無理やり開き、球磨に問いかける。

 駆逐艦娘のその問いに球磨は、子を諭す様な優しげな笑みを浮かべ、返答した。

 

「なぁに、簡単な話だクマ」

 

 そして球磨は、信念を纏った様に熱く、凛と気高い、まるで琥珀石の如く輝く己が眼差しを、その駆逐艦娘へと投げかけて、言葉を繋いだ。

 

「敵艦隊は球磨が引き付けるクマ」

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――1315、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Aから北東4シーマイル。

 

「ごめんなさい……」

 

 後援救助部隊および目標・駆逐艦娘小隊、戦闘海域より離脱、合流地点へと移動中。

 多摩、北上、大井、木曾の後ろを追随する駆逐艦娘は、俯き、すすり泣きながら、さっきからずっと謝罪の言葉を並べていた。

 

「本当にごめんなさい……」

 

 その駆逐艦娘の様子に堪え兼ねた木曾は、その場に立ち止ってから振り返る。

 

「なぁ……さっきから何だってんだよ、辛気臭い。別にお前が謝る様な事は何もないぜ」

 

 そして呆れた口調で、駆逐艦娘へと言葉を投げかけた。

 

「だって……私たちのせいで、貴女たちのお姉さんは……」

 

 

―― そう、この駆逐艦娘は思った。 ――

 

 

 恐らくこの人たちのお姉さんは、私たちを逃がす時間稼ぎの為に、あえてその場に残ったんだ。

 自分の身を挺して、私たちを逃がそうとしてくれたんだ。

 

 撤退するあの瞬間、遠くから迫り来る敵艦隊の影が見えた。

 駆逐艦や巡洋艦、空母だけじゃない。戦艦もたくさん居たのが見えた。

 

 あれだけの数を相手だ。

 艦種が「戦艦」とかなら、まだ一人で対処は出来ただろう。

 でも言いたくはないが、この人たちのお姉さんの艦種は、「軽巡洋艦」だった。

 

 

―― 考えたくはないが、いくら頑張っても、なぶり殺しにされる。 ――

 

 

 先程、球磨に投げかけられた母が浮かべる様な柔らかな笑顔を思い出した駆逐艦娘は、心が締め付けられる感覚を急に覚えた。

 

「ごめんなさい……貴女たちのお姉さんではなく……私があの場所に残っていれば……!!」

 

 その感覚に耐えきれなかった駆逐艦娘は、ぽろぽろと涙を零し、そして大きな声を上げて泣き、目の前に居る木曾に向かって叫んだ。

 

 だがその先の言葉を紡がせまいとした木曾が、泣きじゃくる駆逐艦娘へと近付き、その手をゆっくりと振り上げる。

 

「ありがとな。球磨姉の事を心配してくれて」

 

 そうして駆逐艦娘の頭に自身の手を優しく乗せた事によって、その先の言葉が遮られた。

 

 木曾はぐしゃぐしゃと駆逐艦娘の髪を撫でながら、先程、球磨が浮かべた様な柔らかな笑顔を向けて、更に言葉を紡いだ。

 

「一つ良い事を教えといてやる。球磨姉の事は、別に心配しなくてもいいぜ」

 

 その言葉の意味があまり理解できなかった駆逐艦娘は、しゃくり上げながら、木曾に真意を訪ねた。

 

「でも……あんなに……いっぱい敵が……」

 

 その駆逐艦娘の問いに、多摩、北上、大井が傍に近付き、木曾と同じ様な表情を浮かべ、其々が言葉を並べた。

 

「あの程度、球磨ちゃんなら、どうってことないにゃ」

「だって球磨姉ちゃんは、スーパー北上さまよりスーパーだからねー」

「そうね、球磨姉さんなら心配ないわ」

 

 木曾は駆逐艦娘に向かって、己が姉を誇る様に、高らかに宣言した。

 

「そうさ。なにせ俺たちの球磨姉は最強だからな」

 

 

 ……………………………… 

 

 

 駆逐艦、巡洋艦、空母、そして戦艦。

 其々10数えた所で、球磨は数えるのを止めた。

 

 敵艦隊からすれば、球磨の事はたかが軽巡洋艦の艦娘一人。

 味方に置き去りにされた生贄の山羊としか見ておらず、進撃速度を緩めずに球磨へと近付いてくる。

 

「久々に腕が鳴るクマ」

 

 海風が舞い、波音がヒソヒソと囁いている。

 球磨は、その透きとおる海風と波に、そっと抱き締められていた。

 

 すう、と球磨は優しく息を吸い込む。

 心身が海世界に溶け、同調し、満たされる感覚を感じながら、これから始まる戦いを前に、球磨は静かに心を燃やした。

 しかし球磨の表情は、間もなく戦いの狼煙が上がるとは思えない程、とても穏やかなものであった。

 

 球磨は静かに、海鏡に反射して琥珀色に輝く自身の長い髪を海風に梳かしながら、琥珀石を抱いた瞳で、その肉薄する敵艦隊を見据えていた。

 その凛とした表情で、穏やかにその時を待った。

 

 そして雷鳴轟く敵艦隊一斉砲撃を旗揚げに。

 

「迎撃戦に移るクマ」

 

 白波を蹴立て、球磨は加速した。

 

 左脚、右脚、左脚を前に出し、其々の脚を軸にしながら、身体を斜めに倒す重心移動操舵(セルフステアリング)のみで、ジグザグと之字運動を行い、球磨は敵艦隊へと突貫していく。

 

 その道中、球磨へと目掛け、敵の砲弾が雨の様に降り注いだ。

 到来する敵の砲弾が艦娘・球磨の眼前に迫る。

 そして球磨に直撃するであろう瞬間。

 

「……当たるものかクマっ!」

 

 球磨は脚艤装の出力を上げ、その際に発生する反動(トルク)を利用し、傾いた身体を引き起こす事により、敵砲弾の雨を最低限の動きで掻い潜った。

 

「どこを狙っているクマっ!」

 

 敵から見れば、己の放った砲弾が球磨に当たる瞬間、まるで球磨の身体が蜃気楼の如く揺らぎ、砲弾がすり抜け、後方に着弾するといった状況である。

 

――コイツは普通の艦娘じゃない。

 

 これにより敵艦隊も、先程までの球磨に対しての認識を改める事になる。

 時折、上空から降り注ぐ艦載機の機関砲や艦爆攻撃に対し、球磨は動きに必要最低限の緩急をつけながらそれを躱すと、高角砲で敵機を正確に撃ち落としていく。

 上空に気を取られている隙がチャンスだと感じた敵駆逐艦は、球磨に対して突貫攻撃を試みる。

 

「無駄だクマ」

 

 しかしあろうことか、球磨は上空の艦載機を落としながら、前方から迫りくる敵駆逐艦に主砲砲塔を向け、視認せず的確に射抜いた。

 球磨は止まらない。

 

――あの小娘の息の根を止めてやるっ!

 

 それを見た敵戦艦は、艦隊の先頭に立ち、接近し幾分か狙いやすくなった球磨に対して、精密砲撃を行う。

 球磨は眼前まで迫った敵戦艦の砲弾を見据えた儘、脚艤装の艦底(ソール)で海面を蹴り、空中に自身の身体を投げ出すアクセルジャンプで、砲弾を回避した。

 

「魚雷発射クマー!」

 

 そして着地と同時、球磨は脚艤装に装備した魚雷発射管から数発の魚雷を、敵艦隊に向かってばら撒いた。

 

「……!」

 

 敵戦艦はすぐさま、雷撃防御の為、眼前の海面へと砲弾を叩き込む。

 球磨が発射した魚雷は、敵戦艦が射出した砲弾で波打つ水面に全て呑み込まれ、その鋭敏な信管が誤作動を起こし、敵艦隊の眼前で大きく水柱を上げた。

 

――何とか凌いだか……!

 

 魚雷直撃を免れた敵戦艦は安堵の表情を浮かべた。

 ところがその直後。

 

「やるなクマ。だが、そんな表情を浮かべている暇があるのかクマ?」

 

 敵戦艦の耳に響いたのは、死霊の先触れであった。

 水柱を隠れ蓑に、既に敵艦隊の眼前へと移動していた球磨は、霧散した水柱から大きく飛び出した。

 

 突如、目の前に現れた球磨。

 敵戦艦も突然の出来事に動揺し、接近を許した球磨に対し、一手、行動が出遅れる事になる。

 球磨は琥珀色に輝く目で、眼前の敵戦艦を捉えた。

 

「餞別だクマ」

 

 そして球磨は、背中に携えた艤装の格納管から魚雷を数本引き抜き、先駆けの敵戦艦の脇、すり抜け様、居合の一閃の如く、魚雷を敵戦艦の目の前へと落とし、敵艦隊列隊中枢を突っ切り、背面を取る。

 敵戦艦魚雷命中轟沈の手ごたえと同時、通過した敵艦隊へと振り向いた球磨は、主砲と副砲の雨を敵艦隊に浴びせた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 こうした球磨の動きには秘密があった。

 

 球磨は言ってしまえば、見た目通り、身体も精神も、年端のいかない「少女」だ。

 今は深海棲艦という異形の怪物と同等、或いはそれ以上に渡り合ってはいるが、それは「艤装」という対深海棲艦装備の恩恵が大きい。

 「艤装」を取り払ってしまえば、それは只の「生身の女の子」。

 普通の人間の少女と何ひとつとして変わらないのである。

 

 しかし進水してからその身が沈むその瞬間までの約24年間、海を航海し続けた「軍艦・球磨」。

 その海上での風と波の流れの読み方は、それだけの時間、記憶として、或いは感覚として、その「魂」に刻まれているであろう。

 

 そして球磨は、その「軍艦の魂」を己が身に宿した、「艦娘」として生を受けた存在なのである。

 

 波を押し分けて進む、艦隊の動き。

 風を切り裂いて進む、砲弾の動き。

 

 世界を支配する重力、海に浮かぶ自身の浮力、または艤装を使用した際に生まれる揚力や推進力、或いは風の抵抗。

 それらの感覚を元に、敵の動きや砲弾の風を切る気配に対し、自身の身体の動かし方における最大効率を叩き出し、実行する。

 

 そうした海世界全体の波や風の気配を繊細に感じ取りながら戦う、軍艦艇と人間の境界に生きる、「艦娘」本来の戦闘スタイル。

 それが最高練度を極めた、艦娘・球磨の最大の強みであった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 その後も球磨は、軽巡洋艦の機動力と海上戦術を駆使して、次々と敵艦を海に沈めていった。

 海原の風と波を味方につけ、対空で蚊トンボを落とし、雷撃で進路を抉じ開け、火力で敵を黙らせる。

 先程まで居た敵艦隊は、ものの数十分もしないうちに、撤退を余儀なくされる程、壊滅状態であった。

 

――霧が濃くなってきた。

 

 気が付くと、辺り一面に海霧が広がっており、球磨の目には撤退する敵艦隊の姿が滲んで見えていた。

 粗方の掃討を終えた球磨は、無線をオンラインにし、現状を報告すべく口を開いた。 

 

「こちら軽巡洋艦・球磨。作戦司令室、応答を……!?」

 

 しかしその瞬間。

 風を切り裂き、殺意を纏って向かってくる砲弾の気配を、球磨は背面より感じた。

 

 速やかに球磨は脚艤装の出力を上げ、左に身を翻した。

 刹那、球磨の右腕を砲弾が掠め、小破とまではいかないが、傷を受けた。

 その直後、砲弾の発射音が海原から球磨の耳に響き渡った。

 

「くっ……!」

 

 

―― 球磨は、頭のギアの切り替え速度を上げながら思った。 ――

 

 

 狙いが恐ろしい程、正確だ。

 海霧の中、しかも射程外距離(アウトレンジ)からの砲撃で、この命中精度。

 

 

―― これ程の手練れは初めてだ。 ――

 

 

 直ぐに球磨は、臨戦態勢を取り、砲弾が飛んできた方向へと振り返り、先に視線を投げかける。

 そして砲弾の射手を見据えた球磨は、一見して戦慄した。

 

「……こちら軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。提督、ちょっとマズい事になったクマ」

 

 球磨は冷や汗を一つ落とし、先程オンラインにした無線に対し、目の前の事実を語った。

 

『軽巡洋艦・球磨。こちらも衛星から状況を確認しているが、海霧が酷い。だが、敵影を一瞬だけ捉えた』

 

 提督は無線越しから、何時に無く真剣な声色で、球磨へと言葉を返した。

 

『軽巡洋艦・球磨……これは命令だ、即刻撤退しろ。既に部隊は、救援目標を引き連れ、戦闘海域を離脱し、目標の引き渡しを終えている』

 

 提督と無線を交わしつつ、海霧に見え隠れするソイツの姿を、球磨は冷静に分析した。

 

 ソイツは、長らく陽を浴びなかった様な乳白色の肌をしており、その肌上に黒衣の水兵服を着込み、更にその上から外套を無造作に纏わせている。

 脚に覆っている軽装甲艤装は、鉄屑を集めた様に歪な形をしており、他の深海棲艦が装備している艤装以上に、艤装の形を成しているのかも怪しいものであった。

 深海棲艦特有の歯を剥き出しにした意匠の連装砲を背中から覗かせたソイツの身体は、副砲である速射砲、対空高角砲、そして魚雷発射管と思われる、まるでスクラップを集めて造ったかの様な兵装に飾られていた。

 

 ソイツは、ボロボロになった士官軍帽を被り、白銀色に輝く長い髪を靡かせていた。

 ソイツは、端麗な顔立ちで、唯静かに球磨を見据え、海原に屹立していた。

 ソイツは、蒼玉石の如く輝く、怪しげに光らせた瞳を、球磨へと向けていた。

 

『ソイツは、姫級だ』

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3節「蒼玉石を抱きし者」

 

 この世界に居る深海棲艦の中で、最も最凶最悪な敵、「姫級」。

 熟練部隊でも退けるのがやっとの敵であり、姫級との遭遇時における海軍全体での第一命令は、「即刻撤退」であった。

 

 何故なら、艦娘も無限に存在している訳ではない為、その運用リソースも限られている。

 いくら倒すべき敵とはいえ、大規模作戦を除き、本来目標として通常任務に組み込まれるべきではない敵である以上、悪戯に戦力を減らす必要は無いのである。

 

「分かっているクマ。そうしたいのは山々だクマ。でも、完全に奴の射程内だクマ」

 

 それは最高練度を極めた球磨に限らず、出来れば一人で相手したくない敵であった。

 

『……既に近場を航行している鎮守府主力部隊に応援要請を出している。こちらの部隊にも戻る様に命令してある。援軍到着まで約15分。それまで持ちこたえられるか?』

 

「まぁ、何とかしてみせるクマー」

 

『……了解した。海霧で上空から殆どモニタリング出来ない。よって無線はオンライン状態を維持。もし援軍到着までに撤退可能であれば、即刻撤退せよ』

 

「了解クマ」

 

 球磨は無線に言葉を投げかけた後、全ての兵装が何時でも使用可能な事を確認する。

 そうして球磨は、姫との距離を遠距離に保ちながら、姫の周りをゆっくりと航行し、「さて、どう倒そうか」と考えを巡らせ、姫の出方を待った。

 

「……」

 

 姫はその場に突っ立っているだけに見えるが、球磨同様、何ひとつ身体に無駄な力が入っていないのが、球磨には分かった。

 戦場でこれだけ脱力した敵と相見えるのは、球磨も初めてだった。

 

 以上の事から姫は、兵装含め、球磨と同等、或いはそれ以上の手練れであると窺える。

 

「クマー!!」

 

 均衡を崩したのは、艦娘・球磨の開幕魚雷攻撃からであった。

 それと同時に球磨は、姫を中心点に、円を描く様に航行しながら、主砲を発射した。

 次いで、姫の逃げ場を無くす為、更に雷撃を行い、後を追う形で風を頼りに弾着修正射撃を行った。

 

「……」

 

 しかし姫は、外套をはためかせながら、球磨の砲弾と魚雷を最低限の動きで回避する。

 そして球磨と同様、逆に球磨の逃げ場を無くす様に魚雷をばら撒き、主砲を連射した。

 球磨も、姫の主砲と雷撃を避けつつ、カウンター気味に遠距離から砲弾を叩き込むが、姫は球磨と同じく、始めからその場に居なかった様に、砲弾を躱していった。

 

 つまるところの膠着状態である。

 球磨と姫、一手間違えば決着が付くこの状況で、両者共に決定打が打てずにいた。

 

「くっ……!」

 

――遠距離では埒が明かない。

 

 そう考えた球磨は、周回運動を止め、之字運動を行いながら、姫に対して「接近」を試みた。

 

 しかし何故、「接近」という行動に出たのか、その時の球磨には分からなかった。

 15分程度で援軍が到着するなら、このまま近からず遠からずの距離を保っておけばいいだけの話だ。

 そして姫が、こちらへと過度な攻撃を仕掛ける気配がないと判明した以上、砲弾の雨を掻い潜りながら、提督の命令通り、上手く逃げればいいだけの話だ。

 

 その事を理解しておきながら、あえて球磨は、姫へと「接近」した。

 何故なら、この時の球磨は、「何が何でもこの姫を倒さなければならない」という、名状しがたい感情に駆られていたからだ。

 

 遠距離から副砲で牽制しながら近付くが、所詮は豆鉄砲の為、大したダメージにはならない。

 一撃で勝負を決めるに至る魚雷も、最低限の動きで簡単に避けられる。

 

 だが副砲や当たらない魚雷は、あくまで敵に対する牽制や自身の次の攻撃へと繋げる為の布石(ジャブ)に過ぎない。

 言うまでもなく目的は、自身の攻撃を絶対に外さないであろう超近距離からの、主砲砲撃による一撃必殺攻撃(ストレート)である。

 

 中距離まで近付いたところで、之字運動で接近する球磨の姿を精確に捉えた姫が、魚雷を発射する。

 球磨は、魚雷と魚雷の合間を縫う様に避け、姫と同様に、最低限の動きでそれを回避する。

 

「……」

 

 だがその刹那、脚艤装の反動回避の一瞬の隙を見抜いた姫から、回避不可の予測砲撃が行われた。

 

「ぐあっ……!」

 

 姫の砲塔から発射された砲弾は、球磨の右脇腹を抉り、球磨は大破した。

 

「……まだだクマっ!!」

 

 軋む痛みにより、一層、闘志が湧き上がった球磨。

 その心を反映するかの如く、球磨は主砲から砲弾を続け様に姫へと放った。

 

 まず一発目、姫に向けて直撃弾を放つ。

 

「……!」

 

 予想通り、姫は砲弾を避けた。

 

「そこだクマぁあああ!!」

 

 次いで球磨は、間髪入れずに二発目を射出する。

 そして球磨が二発目に予測射撃で狙うのは、姫の背中に抱えた主砲塔であった。

 

 先程から球磨は、姫に対してずっと直撃狙いの砲撃を続けていた。

 その為、僅かに直撃から狙いがずれた、主砲塔狙いの砲撃は、姫の虚を突く攻撃。

 姫に直撃させるよりかは、命中する確率が高かった。

 

 当然、姫の主砲塔に砲弾を叩き込んだぐらいでは、致命傷はおろか姫級の頑丈な艤装が壊れる筈もない。

 だが、いくら頑丈とは言え、背中に背負った主砲塔に砲弾が着弾した際の衝撃は計り知れない。

 

――果たしてお前は、平然としていられるのか。

 

「……ッ!?」

 

 答えは否である。

 球磨の予測通り、砲弾で主砲塔を弾かれた姫はバランスを崩しかけた。

 

――これで道が開けた。

 

 球磨は之字運動を止め、脚艤装の出力を「最大戦速」に切り替え、姫へと至る道を直線距離で駆け抜ける。

 姫は直ぐに態勢を立て直し、近距離まで直線的に押し迫った球磨に対し、主砲を放った。

 

「なめるなクマぁあああ!!」

 

 それに対して球磨は、海面を勢いよく蹴りつけ、身体を中空へと投げ出し、重心を右脚から左脚へと移動させる様に身体を回転させ、左脚で着地するバタフライジャンプで、その砲弾を回避した。

 

――奴さんの主砲再装填前に、ケリをつけてやる。

 

 そして球磨は、姫との距離、数メートル手前、波が悲鳴を上げるのを聞きながら、急停止した。

 球磨の目が捉えた先に居る姫の距離は、敵である姫の表情がよく観察できる距離。

 

――この距離なら、まず外さない。

 

 球磨は、姫の超近距離まで肉薄する。

 

「これで……終わりだクマっ!」

 

 左肩から覗く主砲ターレットを姫へと向け、球磨はこの瞬間、勝利を確信した。

 

「……」

 

 だが、その様な状況にも関わらず姫は、静かに微笑を浮かべると、蒼玉色に輝く目で逆に球磨を捉えた。

 その姫の会心の笑いに、球磨の身体に戦慄が走った。

 

――しまった、この距離は!

 

 球磨は心の中で叫んだ。

 

 球磨は感じていた。

 自身の焦燥による、自分が犯した決定的な過ちを。

 艦娘として長らく、海での戦闘経験を積んでいた事が仇となった事を。

 

 この姫の艤装は、他の深海棲艦が装備している様な、ゴテゴテとした艤装ではない。

 この姫の艤装は、球磨と同じく、己が動きを最大限に生かす事が出来る軽装甲艤装である。

 動きを最大限に生かせるという事は、己の身が許す可動域内で、どんな動きにも移す事が出来るという事に他ならない。

 

 既に球磨の砲弾は、砲塔薬室へと運ばれ、装填が完了し、装薬にはバチバチと火花が走っている。

 今まさに、コンマ秒後に砲弾を敵前へと吐き出さんとしている砲塔の様子を、球磨は感じていた。

 だがコンマ秒は、姫にとっては十二分過ぎる時間であった。

 

 球磨は後悔した。

 自身の攻撃中止が行えないこの状況を。

 

 そして球磨は失念していた。

 この姫との距離は、航空戦でも砲雷撃戦でも無い、「徒手格闘」の距離だという事を。

 

 姫は脚艤装の出力を全開にし、破裂する様な勢いで球磨の懐へと詰め寄った。

 球磨は防御の為、咄嗟に両手を眼前に構える。

 しかしそれを見た姫は、円を描く様に手で球磨のガードを払い除けると、そのまま球磨の砲塔を右手刀でかち上げ、強引に球磨の砲口をずらす。

 刹那、砲塔から発射された砲弾は、姫の頭の上を掠める事なく、弧を描いて海に落ちた。

 

 そして姫は、詰め寄った自身の勢いを利用して、球磨の胸元へと左拳を叩きこみ、球磨を突き飛ばすと、逆に己が主砲を球磨へと向けた。

 

「ナメルナ」

 

 そして再装填が完了した姫の砲塔から放たれる、必殺の一撃。

 バランスを崩していた球磨にその攻撃を避けられる筈もなく、球磨は直撃弾のカウンターをその身に叩きこまれた。

 

 

 ………………………………

 

 

――これが運命か。

 

 どんよりと白濁した意識の中、球磨は自身の艤装や身体へと意識を向けた。

 主砲、副砲、魚雷はおろか、脚艤装さえもまともに動かない状態である。

 半身が水に浸かり、仰向けのまま海に浮かんでいるのがやっとの状態である。

 

 そしてバシャバシャと水音を立て、その状態の球磨に近付いてくる者が居る。

 それが誰なのかは、球磨には分かり切っていた。

 

「……終ワリダ」

 

 白銀色の長髪を揺らし、蒼玉色に輝く目で、姫は球磨を見下ろした。

 死の宣告を告げる為に、姫は球磨を見下ろしていた。

 

 姫の背中に担がれた主砲塔から再装填を告げる金属音が、球磨の耳へと鮮明に響いた。

 

――この球磨をもってしても……ここまで、か。

 

 自身の死を悟った球磨は、ゆっくりと目を閉じた。

 そして姫は、再装填が完了した主砲砲口を球磨に対して向け、球磨にトドメを刺す為、トリガーを引き絞った。

 

『軽巡洋艦・球磨っ! 繰り返す、応答せよ! 軽巡洋艦・球磨っ!』

 

 そして、その一瞬、無線から提督の声が漏れた。

 

『軽巡洋艦・球磨っ! 一体、何があったっ!? 返事をしろっ! おい、球磨!!』

 

 球磨は目を瞑りながら考えた。

 

――手向けが提督の声になるとはな。

 

 だが、今この状況、自分が死ぬ運命が捻じ曲げられないこの状況で、提督の呼び掛けは何も意味を成さなかった。

 

――皆、すまない。

 

 球磨は心の中で提督と基地の皆、そして妹たちに謝り、姫から下される審判の時を待った。

 

「……?」

 

 しかし、いくら球磨が待っても、その時は訪れなかった。

 球磨は不思議に思い、目を開き、眼前に居るであろう姫を一瞥した。

 

「……!?」

 

 そして球磨は、驚愕した。

 

「……ソンナ……事ッテ……」

 

 何故ならその時、球磨の目に映ったのは、球磨の顔を見据え、そして唯々動揺している姫の姿だったからだ。

 

 背中に抱えた砲口が、微かに震えているのが分かる。

 もごもごと口を開こうとする姫の様は、球磨に対して何か言いたげであった。

 しかし、それが上手く言葉に出来ないと言った様子である。

 

 球磨からしてみれば、敵である姫の態度は、唯々不気味であった。

 

 それから数十秒の後、意を決した様に姫は、そのまごついた口を開いた。

 

「……オ前ノ名前……球磨……ト言ウノカ?」

「……」

 

 姫は海底から唸る様な掠れた声で、球磨にそう尋ねた。

 その姫の問いかけを受け、球磨に一つの疑問が生じる。

 

――何故、コイツは球磨の名前を知っているんだ?

 

 最もその問題の答えは、直ぐに見つかった。

 

『球磨っ!! 頼む、返事をしてくれっ!! 聞えないのかっ!?』

 

――ああ、そうか……提督の無線か。

 

 その実、先程の姫の直撃弾、その衝撃によって球磨の無線機が故障していた。

 故に、普段だったら決して聞こえないであろう提督の声が、無線機を通し、辺り一面に響き渡っていた。

 そして現に提督は、無線機越し、何度も何度も球磨の名前を叫んでいる。

 そう、提督の呼び掛けは、敵である姫にも聞こえていたのである。

 

 球磨は心の中で苦笑した。

 

――今から殺す敵の名前を改めて聞くなんて、中々良い趣味をしている。

 

 球磨は捨て台詞の一つでも殴りつけようとするが、ダメージが大きすぎて思う様に口が開けない。

 

――殺るならさっさと殺れ。

 

 そう球磨は思えど、姫は一向に球磨に対してトドメを刺す様子を見せなかった。

 

 姫は唯、自身の蒼玉色の瞳を、球磨の琥珀色の瞳に重ね合わせていた。

 

「……オ前ノ、ソノ目……」

 

 それから姫は、一言、球磨に対して言葉を投げかけた。

 その刹那。

 

「――――球磨姉ぇえええ!!」

 

 閃光一閃、刀光が姫の佇んでいた場所を鋭く切り裂いた。

 

「……!」

 

 その刀光剣影を姫は、大きく後退する事によって躱した。

 そして其処には、軍刀を片手に構え、球磨の隣に屹立する影が一つ。

 

「……よう、三下奴。うちの球磨姉が世話になったな」

 

 怒りに燃え、姉の盾となり、己が刃を持って姉を護らんとする妹。

 艦娘・木曾の姿が其処にはあった。

 

「北上さんっ!」

「いくよ、大井っち!」

 

 間髪いれず、後続の北上と大井から放たれた魚雷群の軌跡が、タペストリーの如く海原に編み込まれ、敷かれていった。

 そのタペストリーは、大破した球磨、姫と対面する木曾の傍を掠め、姫へと撃来する。

 姫は後退しつつ、そのタペストリーの編み糸を解く様に魚雷を躱していき、魚雷群を全て避けきった。 

 

 しかし、距離は取れた。

 

「煙幕展張にゃ!」

 

 殿を務めていた多摩は、煙幕弾を射出し、すぐさま姫の視界を遮った。

 海面を切り裂いて球磨に近付くと、容態を確認しながら、無線機越しに言葉を投げかけた。

 

「こちら軽巡洋艦・多摩っ! 作戦司令室、聞こえるか!」

 

 多摩は球磨の身体を抱きかかえ、己が感覚を頼りに、姫の居る方向へと指を示し続ける。

 木曾、北上、大井は、多摩が指差した煙幕で視界が遮られた方向、姫が居るであろう方向に、ありったけの砲弾を叩き込んでいた。

 

『多摩っ! 一体そっちはどうなってるんだっ!? 球磨は無事なのかいっ!?』

 

「提督、説明は後にゃ! 球磨ちゃんは、見た感じ傷は酷いけど致命傷ではないにゃー! 直ぐに離脱するにゃー!」

 

『そうか……よかった……!! 直ぐに救護班を手配するよ! 至急、近くを航行する鎮守府主力部隊と合流、その護衛と共に帰投してくれ!』

 

「了解にゃ! 各員、砲撃しながら後退にゃ!」

 

 その言葉を皮切りに、球磨を担いだ多摩が筆頭、次いで壁となる様に北上と大井、そして木曾を殿に、姫の方向に対して引き撃ちしながら後退を始める。

 姫の姿は、煙幕が晴れる頃には霧中で視認出来ない程の距離にあり、十二分に逃げ切れる距離まで広がっていた。

 

『オ前ノ、ソノ目……』

 

 そして撤退の際中、多摩に担がれた球磨であるが。

 球磨は薄れ行く意識の中、木曾が援護に入る直前、姫が球磨に対して投げかけた言葉を、唯々心の中で反芻していた。

 

『……未だ、誰かの想いを胸に抱いて戦っているという訳か……その想いが、踏み躙られたとも知らずに』

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章:胸秘めた想い一つ
第1節「戦いの果てに求めるは」


 

――――1941年11月、1520、佐世保鎮守府近郊、寺島水道、艦隊泊地。

 

『……うぅ……別に、退屈してない。充実してるっ』

 

――また、僕は夢を見た。

 

 相変わらず天気は良く、海風は冷たく、季節は冬の初めである様に思われる。

 無造作に着込んだ士官外套をはためかせ、参謀飾緒をその内側から見え隠れさせる男が一人。

 「軍艦・球磨」の上甲板、その艦首付近に佇む男が一人。

 以前見た夢では「大佐」と呼ばれていた男だ。

 

「……そう言う割には、随分と不服そうだな」

 

 だがその顔は、以前見た夢の時よりも、幾分か歳を重ねており、白髪が多く見受けられた。

 大佐は艦首付近の手摺鎖に両手を置き、眼前に広がる大海原を見据え、重苦しく官製煙草の紫煙を燻らせている。

 

「うるさいっ! お前以外に喋れる奴が居ないのが悪い!」

 

 そうして艦首付近には、大佐以外誰も居ないのにも関わらず、我儘娘が父親に「寂しかった」と噛み付く様な声色が響いていた。

 

――その声色は、僕が知っている「艦娘・球磨」の声色と全く一緒だった。

 

「それよりも参謀長の仕事はどうした?」

「視察だと言って抜け出してきた。今の私は『少将』だ。誰にも文句は言わせんよ」

 

 以前、「大佐」と呼ばれていた男は、その上の将官である「少将」に地位を上げている事を告げた。

 この階級から「閣下」「司令官」、あるいは「提督」と呼ばれるようになり、戦隊司令官、艦隊参謀長、海軍省各局長、軍令部各部長等を務めるなど、その影響力は帝国海軍の中でも絶大である。

 

 少将は今、艦隊泊地に停泊する「軍艦・球磨」へ「視察」という名目で乗艦している。

 時折、慌しく歳の若い水兵たちが上甲板を往復する様子が伺えたものの、流石に自分たちの雲の上の存在である海軍少将が居る艦首付近に近付こうとする物好きは誰も居なかった。

 故に少将は、誰にも話を聞かれる事無く、軍艦・球磨との会話を続けていた。

 

「それに……せっかくの娘の晴れ舞台だしな。まぁ、馬子に衣装だな」

 

 そう言った少将は、先程まで海に投げかけていた視線を、軍艦・球磨の艦橋や奥の中央甲板、そして備え付けられた主砲へと移した。

 少将が居る艦首付近からでは艦橋や砲塔が邪魔して見え辛かったが、件の3本煙突の隣には内火艇が搭載されている。

 中央甲板奥の魚雷積み込み用吊り柱(ダビット)付近には砲弾や魚雷が均等に並べられており、先程から水兵たちがせっせと最下甲板にある弾薬庫にそれらを運んでいる。

 近代化改装によって後甲板に設置された艦発推進装置(カタパルト)の上に、九四式水上偵察機が一機、何時でも発艦出来る状態になっている。

 また主砲や甲板は、普段よりもずっと手入れが加えられ、見違えるほど綺麗に磨き上げられていた。

 

 軍艦・球磨は呆れた様な声色で、少将に言葉を返した。

 

「相変わらず少将はひねくれている。それに球磨は、少将の娘になった覚えはない」

 

 その言葉に少将は、咥えていた煙草を噛み締め、むっとした表情を浮かべ、口を開いた。

 

「どれだけ貴様と一緒に居ると思っているんだ。2年近くの馬公での任務だけでは飽き足らず、艦長の任を解かれた後もだ。陸地任務で横須賀から呉に訪れた時は大体、貴様が居る。一寸前まで貴様が悠々と予備艦暮らしを送っている時もな。運命の悪戯か、私は今や貴様の生まれ故郷である佐世保の参謀長だ。これだけ長く一緒に居れば、貴様は私にとって娘の様なもんだ」

 

 少女に対して早々と言葉を並べ、辛辣に捲し立てる少将の顔。

 その言葉と声色とは相反して、むっとした表情から段々と嬉しそうな笑みを浮かべた。

 そう話す少将は、どこからどう見ても反抗期の娘と話す父親の姿にそっくりであった。

 

「……それとも、私に娘と呼ばれるのは嫌かね?」

 

 そして自身が浮かべている表情に、はっとした少将は、表情を隠す様に笑みを無表情へと変え、咳払いの後、少し悲しげな口調で少女に尋ねた。

 

「……ふっふっふっ~、球磨を選ぶとは良い選択だ!」

 

 だが少将の予想に反し、軍艦・球磨は歓楽の声を上げ、少将の言葉を受け入れた。

 

「……そうか」

 

 少女の満面の笑みの返答に、自身が被っている軍帽のつばをすっと摘み、目元を隠す様に深く被り直し、そうして「気恥ずかしい」と言わんばかりの柔らかな笑みを浮かべた少将。

 ふいと少将は、とある文豪の随筆にあった『檣(マスト)の上へ帽子をかぶつてゐる軍艦』という紀行文の一節を思い出し、少女が軍帽を被り、こちらに向かって手をぶんぶんと振いている軍艦・球磨の姿を連想した。

 

「ふと思ったのだが……球磨型、つまり同型艦は、球磨も含め五隻存在している筈だ」

「そうだ。多摩、北上、大井、木曾、そして球磨の五隻だ」

「球磨みたいに話せる軍艦は、この中には居ないのか?」

 

 それもあってか少将は、軍艦・球磨に疑問を投げかけた。

 

「一緒になる事は多々あった。だが、いくら呼びかけても、うんともすんとも返事しない」

 

 そう尋ねられた軍艦・球磨は、暫く考えた後に、しょんぼりと口を開いた。

 

「そうか、それは残念だな」

「……もし仮に、球磨と同じく軍艦に意志があるとしたら、どんな感じだと思う?」

「そうさなぁ……」

 

 二本目の煙草に火を着け、煙を一口飲み込んだ少将は、腕組みをしながら、自身の考えを並べていった。

 

「多摩は猫の様な性格だろう。自由奔放、悠々自適」

「多摩だけにか? えらく安直な発想だ。にゃあにゃあ」

「吾輩は多摩である、か」

 

 少将は青年の時に文芸誌で読んだ小説の題名を引き合いに出し、その安直な発想に自分自身で苦笑していた。

 そして猫の声真似をする軍艦・球磨に対し、少将は話を続けた。

 

「北上、大井は今年、重雷装艦として改装を受けたな。ある意味、五姉妹の中でも取り分け仲が良さそうだ。仲良き事は美しき哉」

「君は君、我は我なり、されど仲良き。この先50年ぐらいはずっと一緒に居て欲しい」

「えらく遠い未来だな」

 

 50年先の世界はどうなっているのか。

 少将は少年の日に読んだ空想科学小説の知識を元に想像を巡らすものの、どれもこれも悲観的な内容ばかりが脳裏に浮かんできた為、思考を停止させた。

 

 それに艦艇の寿命は短い。

 恐らく叶わぬ願いだろうと少将は思い、言葉を紡いだ。

 

「木曾は末っ子だな。私の経験上、末っ子は一番上の兄姉を他の兄姉以上に特別視する傾向がある。良かったな、球磨。姉の背中をとてとて追う、可愛い妹が出来たぞ」

「女々しい、それでは球磨型の名が泣く。木曾が球磨型で最年少なら、木曾には球磨以上に凛々しくなって欲しいとは思う」

「そう言う割には、声色に説得力が全くないぞ」

 

 そうやって喋る軍艦・球磨の声色は、まだ見ぬ妹に想いを馳せ、胸躍らす姉娘の姿そのものであった。

 

「……もし叶うなら、何時かそんな日が来て欲しい」

 

 軍艦・球磨は暫くの後、ふう、と溜息を吐き、現実に引き戻される事を憂いた声色で、少将に呼びかける。

 

「……そうさな、何時かそんな日が来るといいな」

 

 少将は足元に置いておいた灰皿を拾い上げ、先程までふかしていた煙草の火をもみ消す。

 

「それにしても『合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(ハル・ノート)』か……」

 

 そして球磨と同じく、溜息を吐き捨て、本題に入った。

 

「確か先日、米国の国務長官から出された提案書だったか?」

「ああ、その通りだ」

 

 この時既に、世界は戦火の炎に焼かれており、大日本帝国もまた、激動の時代、その更なるうねりに呑み込まれようとしていた。

 

「昨今の日・米英情勢はもう最悪だ。先の米国の『対日石油禁輸』なんて殊更酷い。知っての通り、我が国は資源輸入国だ。特に石油資源は国家の血とも言える。石油9割は輸入、内7割は米国からだ。それが絶たれたとなると、これはもう死ねと言っている様なものだろう。お陰で軍部のお偉いさん方はお冠だ」

 

 悩ましい、と言わんばかりの表情で空を仰ぎ、少将は話を続けた。

 

「そして今回の提示だ、これが起爆剤となった。もし模那可(モナコ)や呂克松堡(ルクセンブルク)の様な小国でも、同じ様な案を突き付けられたならば、同じく米国と戦うだろう。それぐらいの条件だ」

 

 少将は官製煙草の箱を懐から取り出し、軽く振ってみるが、一本しか残ってなかった。

 

「それにしたって米国は、いくら弱小国とは言え、日本に対する交渉を酷く曖昧なものに済ましている。『まさか日本が米英に対して宣戦布告何てしないだろう』という奴さん達の過小評価もあるかもしれんが……」

 

 溜息を吐き捨てた少将は、残りの一本を口に咥えると、ぐしゃりとその箱を握りつぶした。

 

「こうまでしてこちらを煽ってきたとなると、米国政府には厭戦感情が蔓延している世論を揺り動かす思惑があるのだろうな。特に同盟国の英国は、対独戦線もある。世界一の国力を持つ米国には、当然『連合国』陣営として、『大義名分』ありきで参戦して欲しいだろう。それに今の日本は、開戦に燃える軍部が政治を担い、世論もまたその状況を望み、そして『いよいよ始まる』と奮起している……丁度良い口実だ」

「つまり……球磨たちは、まんまと一杯食わされたって事か?」

 

 その話を聞いていた軍艦・球磨は、「いけ好かない」と言わんばかりの声色で、口を開いた。

 

「……まぁ、表向きはそうなってはいるが、実際どうだか知らんよ」

「……ん? 一寸待て、それはどういう事だ? 何て言うか、参謀長らしからぬ発言だ」

 

 先程の話とは裏腹な、少将の何とも曖昧な答えに疑問を抱いた軍艦・球磨は、少将の真意を確かめる様に言葉を返す。

 少将は煙草に火を付けると、息を整える様に、煙で肺を満たした。

 

「確かに……私は少将で参謀長だ。ある程度の極秘情報も上から降りてくる。だが、一人の人間である以上、手に入る情報には限りがある。他にも他国の密偵による陰謀説、軍部の暴走、非白人に対する侵略戦争、地政学見解による太平洋における日米の覇権争い、歪んだ経済状況の末路……実に様々な思惑や理念が交錯している……どれが正解か……一概には言えんよ」

「なるほど、他者の心の内幕までは語れないという訳か。結局、真実は藪の中か」

「そういう事だ。全員が本当の事を言っているのかもしれないし、誰かが嘘をついているのかもしれない。或いは、全員間違った事を言っているのかもしれんな……少なくとも言えるのは、この国は二度目の大戦を経験するであろうという事だけだ」

 

 そうして少将は、再び両手を手摺鎖に置くと、白波を穏やかに立てる寒海に視線を戻した。

 その目はとても醒めているモノであった。

 

「歴史は繰り返す、か……結局、それが正しい選択なのか球磨には分からん」

 

 軍艦・球磨は、歴史という濁流に対する無常さと憂いに沈んだ声色で、少将に言葉を投げかける。

 少将は一服、紫煙を燻らせた後、軍艦・球磨に言葉を返した。

 

「そうさな。一見、堅牢に思える道義心という城壁でさえ、時代の濁流によって、いとも簡単に押し流されてしまうものだ……関東大震災直後の未曾有の大混乱を知っている球磨なら周知の事実だろう」

「……いい加減な噂話で、他国民が虐殺された事件……無政府主義者が軍部の人間に殺された事件……人間という生き物は、大きな出来事に混乱している状態では、倫理観に反した事を容易に行う生き物だと常々思う」

「その通りだ。過去の歴史としてその事件を見据えている我々から言えば、愚かな行いとしか言いようがない……だが、果たして同じ状況になって、同じ様に正常な判断を下せるのか? 私には断言できないし、断言できるほど私は聖人君子でもない。我々が出来る事と言えば、その様な愚かな行為を戒めとして、その出来事を後世に伝えていく事だけだ」

「それ程、善悪の定義や真実とは脆いモノなんだな」

 

 少将と軍艦・球磨は、人間という生き物の浅ましさや業を嘆く様に、話を続けた。

 

「……そしてこれからの話だ。戦争が始まったら、悲しきかな善と悪、友敵関係という二項対立でしかお互いを区別せざるを得ない。そうでもしないと、自分や家族……ひいては国を護れないからな」

「世知辛いな」

「ああ、世知辛い」

 

 お互いの溜息の呼吸が、虚空に響いた。

 そうして少将は、醒めた目で、手摺鎖を強く握り締めながら、言葉を紡いだ。

 

「……とは言うが、実際はそんな簡単に割り切れる話じゃないんだ。歴史は常に次の時代の潮流に合わせて書き換えられる。帝国が悪い、米英が悪い。そんな短絡的な問題じゃない。元来、絶対的な真理なんて、誰もがおいそれと証明できる訳がない。何が正しいか、間違っているか何て、時代や地域よって変わる。だが……」

 

 そう言いながら少将は、先程火を付けたばかりの煙草を、さっさと足元の灰皿に押し付ける。

 

「もし正しい事があるとすれば、それは極めて個人主義的な思考、個々の信念……即ち、清らかな想いだけだ」

「……清らかな想い?」

 

 そうして少将は踵を返し、軍艦・球磨の羅針艦橋付近を見据え、口を開いた。

 

「そうだ。それは時に他者の想いとぶつかり合い、どちらかが負けるという、自然淘汰の一幕に過ぎん。自分が想いを抱き、正しいと信じた結果だ。結果がどんな形であれ、責任は自分自身で負わねばなるまいて」

 

 軍艦・球磨の艦橋を見据えた少将の目は、真剣であった。

 

「だがな球磨、これだけは努々忘れるな。他者の清らかな想いという領分、その深淵を侵す者には、それ相応の報いが返るだろう」

「……分かった。努々忘れない」

 

 その少将の言葉に軍艦・球磨は、大きく頷く様に力強く答えた。

 

「……何が本当の事で、何が正しくて、何が間違っていたか……何度も言う様に、そんな歴史の真実なんて、時代や時間と共に、後世の歴史家たちによって絶えず変化し、そして書き換えられる。何にせよ、何かしらの解釈は加えられる事だろう」

 

 その声を聞いた少将は、更に言葉を続ける。

 

「そして、この戦争の先に、きっと華やかしい未来が待っている。群衆も軍人も一部を除いて、皆そう思っている。そう、私たちが最善手だと思って始めた事だ。もう誰にも止められん」

 

 ふと、思い出したかの様に少将は、軍艦・球磨に対して、言葉を投げかけた。

 

「球磨は……確か、第三艦隊、第十六戦隊所属だったか?」

「そうだ」

「私も第五艦隊隷下の司令官として戦う事になった」

「なるほど……なら、『提督』と呼んだ方がいいか?」

 

 軍艦・球磨の問いかけに、少将は暫くの後、答えた。

 

「私はどちらでもいい」

「なら、今後は『提督』と呼ぶ」

 

――「提督」か……私も随分、遠くへと来てしまったな。

 

 軍艦・球磨の「提督」という呼び掛けに少将は、何とも言えぬ寂寥感を胸に、心の中で呟いた。

 

「……てーとく」

「……何だ?」

 

 軍艦・球磨は、早速「提督」へと呼びかける。

 

「提督は……この戦争に勝てると思うか?」

 

 だが、その声色は不安を孕んでいた。

 

「……蜘蛛の糸を掴む様なものだな……私も昔、視察に行った事があるが、米英の国力は計り知れん。帝国軍人の言う台詞では無いが、この戦争、九分九厘負けるだろう」

「やはりそうか……」

 

 軍艦・球磨は落胆の声を上げた。

 その言葉を聞いた少将は、軍人らしく後ろで手を組むと、カンカンと軍靴を鳴らし、主錨鎖を跨ぎながら、言葉を吐いた。

 

「……だが可能性はゼロではない。開戦から1年……いや、半年が勝負の分かれ目だな」

 

 その少女の落胆の声を紛らわせる様に、少将は言った。

 

「幸いにもこちらの兵の士気は高い。それまでにある程度、こちらが勝利を残し、かつこちらが妥協する形で米英と講和に持ち込むしかない。それ以上、戦争が長引くなら、物資不足は免れん。ジリ貧は必須。結果、我々は大敗する」

 

 だがその言葉が、気休め以上の意味を成さないであろう事は、お互いが分かっていた。

 

「……開戦となった場合、大日本帝国が生き残る道は、もはやそれしか残されていないだろう……まぁ、戦争なんて一つの時代のうねりに過ぎん。自然を人間が制御出来ないのと同様、軍人である私にも、軍艦である球磨にも、こればっかしはどうする事も出来ない」

「時代のうねりか。なんだかやるせない」

「……そうさな」

 

 そう返した少将は、暫くの間、艦首付近の鉄板装甲の上をのそのそと歩いていた。

 

「……前からずっと気になっていた」

 

 その少将の姿を見据えていた軍艦・球磨。

 球磨には、その少将の姿が一軍人と言うよりかは、むしろ一学者の様に思えてならなかった。

 

「提督は何で、軍人になった?」

 

 そうして軍艦・球磨は、長年気になっていた問いを、少将に対して投げかけた。

 

「……どう言う意味だ?」

 

 その言葉に少将は、足を止め、怪訝そうに顔を上げる。

 

「球磨は提督ともう何年も一緒に居たから分かる。正直言って提督は……軍人にしては、些か繊細過ぎる」

 

 そして軍艦・球磨は、少将の核心に迫る為に、言葉を続けた。

 

「本当は戦いたくない、誰も傷付けたくない、血だって見たくない。提督が何時もそんな顔を浮かべている事を、球磨は知っている」

「……」

「今だってそうだ。平然と隠しているつもりだろうけど、素面に見えるその瞳の奥、その誰かの事を憂いて潤んだ提督の目を、球磨は知っている」

 

 その言葉に少将は、思わず艦橋から視線を逸らし、軍艦・球磨の慧眼に対して感服の微笑を浮かべた。

 

「そんな男が何故、戦いに身を投じる立場の人間になったのか……球磨はずっと気になっていた」

 

 軍艦・球磨は、母親が子を諭す様な柔らかな声色で、少将に尋ねた。

 

「……」

 

 軍艦・球磨の言葉に、暫く俯いていた少将。

 

「……私が選んだのではない。天に選ばれ、流れの儘なっただけに過ぎん」

 

 少将は顔を上げると、諦観を含んだ笑みを浮かべ、軍艦・球磨に答えた。

 

「私はかつての憧れの様に、軍人でありながら小説家として大成する事を夢見ていた。だが所詮、私は有象無象の一人に過ぎなかった。志半ば、私は諦めた……だが、今にして思えばそれで良かったのだと思う」

「どうしてだ?」

「私は悟ったのだ、天命をな。天は二物を与えん。私に与えられたのは少将という地位と、それを可能にする能力だけだった。だから、それを生かす事に決めたのだ」

 

 少将の「天命」という言葉を口にしたその表情は、「天命」に対する一種の畏怖と敬虔の念が含まれていた。

 

「そして私は自分勝手な男だ。私は他者の為に生きようとした事は一度もない。その分、他者にも干渉しない。他者の行くべき道を決めるのは、あくまで他者自身だからな」

「まるで個人主義者の様な言いぐさだ」

「そうさ。私は個人主義者だ」

 

 軍艦・球磨の的を射た言葉に少将は、「その通りだ」と言わんばかりの笑みを投げかけ、己の考えを述べた。

 

「私は何処の党派や思想団体にも属さない。何故なら、人は群れれば群れるだけ、他者に考えを委ね、自身で考える事を放棄するからだ。中道で無ければ、全てを哲学的に批判しなければ、目に見えない大切なモノを何処かで見失ってしまう」

「目に見えない大切なモノ?」

「政治や損得さえも超越した、自身がかつて抱いていた信念、清らかな想いだ。それらが失われた時、人は自分の生きる意味さえも見失う」

 

 少将は、一点の微睡の無い目を掲げる。

 

「だからこそ私は、私が生きている意味を見出す為、軍人として国民を、ひいては国を護る任……誰かを護る為に戦う任に、私は就いているのだ」

 

 そうして少将は、自分自身の清らかな想い、己が「生きる意味」を軍艦・球磨へと宣言した。

 

「それが提督が軍人になった理由であり、提督の清らかな想い、提督の生きる意味という事か」

 

 その宣言を聞いた軍艦・球磨は、その想いを飲み込むように反芻した。

 

「そうだ。陳腐で使い古された言葉だが、その奥底に私は、眩い程の輝きを、私にとっての生きる意味を見出したのだ。その為なら、私の命など安いモノだ」

 

 そして少将は、信念と熱量を纏った眼差しを掲げ、艦首旗竿に揺蕩う日章旗を見据えた。

 

「だからな、球磨。帝国海軍の代表として告げる」

 

 少将のその目は、とても言葉では言い表せない程、激しく熱く輝いていた。

 

「海の上では私たち人間は無力だ。どんな形であれ、私たちの代わりに戦って欲しい。私たちを、この国を護って欲しい。そして、その先にある、平和を勝ち取って欲しい」

 

 その少将の瞳は、月明かりの様に静かに、強く輝いていた。

 

「これが私……いや君に乗艦して戦うであろう水兵たち……私たちの想いだ」

 

 ここまでギラギラと血潮を滾らせた様な目を抱いた人物を、軍艦・球磨は今まで見た事が無かった。

 

「……」

 

 暫くの間、沈黙と緊張の線が、辺りに走っていた。

 

「……言わずもがな」

 

 その沈黙と緊張の糸を弾き、一つの音色を奏でる様に軍艦・球磨は、口を開いた。

 

「球磨は誰かを護る為に軍艦として生み出された存在だ」

 

 そして軍艦・球磨は、一呼吸の後。

 

「お前たちの想いを乗せて戦う。それが球磨の生まれた意味であり、球磨の存在理由だ」

 

 少将の想い。 

 その月明かりの様な輝きに負けないくらいの満面の笑みを浮かべた声色で、軍艦・球磨はその想いを胸に秘めた。

 

「ありがとう」

 

 思わずその声色に負けそうになった少将は、それと同じぐらいの熱量、だが優しげな声色で、軍艦・球磨に言葉を返した。

 

「……一寸、長居し過ぎたな」

 

 少将は、ふと思い出したかの様に懐中時計に視線を落とし、隅にあった灰皿を拾い上げると、中空へと言葉を投げかけた。

 

「球磨、私はそろそろ行く。次はお互い、戦場で会おう」

「また会おう、提督」

 

 そして二人は、暫しの別れを告げると、其々の戦いの場、その世界の濁流へと身を投じて行った。

 

 

 ………………………………

 

 

――――1941年12月8日未明、アメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島、真珠湾。

 

 様々な思惑、理念、そして清らかな想い。

 それらはやがて全てが絡み合い、グチャグチャと粘着質な音を立てながら凝固し、楔となりて歴史に打ち込まれる事であろう。

 

『・・‐・・ ・・・(ワレ奇襲ニ成功セリ。突撃、雷撃隊)』

 

 攻撃隊隊長・淵田美津雄中佐の搭乗する九七式艦上攻撃機から、第一航空艦隊司令部の旗艦である「空母・赤城」宛てに、モールス式信号の電文が発信される。

 そうして「真珠湾攻撃作戦」の始まりを告げた。

 

 人間が狂乱して「虎」に変わり果てるという逸話は、東洋ではポピュラーな話である。

 だが、一つの戦争の始まりを告げる言葉が奇しくも同じ単語であったという事は、単なる偶然なのだろうか。

 或いは何かの本質の一端を言い当てた言葉なのだろうか。

 

 今この時をもって、賽は投げられた。

 大日本帝国はこの先、赤黒く染まった大戦と呼ばれる斜陽の道程を歩む事となるだろう。

 果たしてその行いは、時代に、人々に、そして後世に対してどんな傷痕を残す結果となるのだろうか。

 

 後の歴史書に『第二次世界大戦』、『大東亜戦争』或いは『太平洋戦争』と綴られるであろう、凄惨な悲劇の幕が切って落とされたのであった。

 

 

 ……………………………… 

 ……………………………… 

 

 

「……本当……何なんだろう、この夢は……」

 

 僕はそこで、夢から覚めた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2節「もっと光を」

 

――――1520、国防海軍警備施設、執務室。

 

『もう少しで死ぬところだったクマー!』

 

 そう叫んでいたのは、以前、命の危機を救った駆逐艦娘小隊が所属する鎮守府司令官から、その感謝の印として贈られた鳳梨酥(パイナップルケーキ)を栗鼠の様にぷっくらと頬を張らせながら食べている、艦娘・球磨であった。

 

 先週、遭遇した姫にこっ酷くやられた球磨は、帰還後、有無を言わさず艦娘用入渠ドッグで高速修復材を用いた集中治療を受けた。

 その後、球磨の傷は綺麗さっぱり癒えたものの、酷使しまくった艤装のダメージが思った以上に大きかった為、艤装の修理が完了するまでの数日間、後援救助部隊の旗艦は多摩に任せ、執務室で秘書艦業務に精を出す結果となった。

 

「まったく……」

 

 そして大きな安堵の溜息を吐き捨て、湯呑を片手で持ち、同じく感謝の印として贈られた烏龍茶を渋い顔で啜る提督は、執務室の一角に備え付けられた応接机に球磨と対面して座り、球磨曰く「ゆとりの行動」を取っていた。

 

 つまるところ、3時のおやつの休憩時間である。

 球磨と提督は、球磨が着任した際に買い揃えた中々にして上物の茶器揃で、のんびりと一服していた。

 

「……確かに、姫級があの海域に展開しているとは思わなかったし……そこは僕のミスでもあるよ……でも正直なところ、球磨だったら、適切かつ妥当に攻撃をいなして、さっさと離脱するかなと思ってたから、そこまで心配はしてなかったんだけどさ……」

 

 鳳梨酥をにっこり嬉しそうにモグモグと食べる球磨を見ながら、提督は烏龍茶を一口啜り、言葉を紡いだ。

 

「まさか姫級に対して単騎で突貫仕掛けるとは思わなかったよ……しかも僕の再三の呼び掛けを一切無視してさ……本当、勘弁してくれよ……」

「……ごめんなさい」

 

 申し訳なさそうにしゅんと上目遣いで謝る球磨の姿を見て、提督もこれ以上怒るに怒れず、溜息をもう一つ吐いて、球磨に問いかけた。

 

「それにしても本当……何時もの球磨らしくないよ。どうしてそんな考えに至ったんだい?」

「……正直、球磨にもよく分からないクマ」

 

 しょんぼりとした顔の儘、鳳梨酥を摘まんだ球磨は、頭の上に疑問符を浮かべながら答えた。

 

「……だけど姫と対峙した時、球磨は名状しがたい感情に支配されてたクマ」

「名状しがたい感情?」

 

 そして球磨は、重苦しい顔を浮かべ、その時の出来事を回想した。

 

「……怒り、恐怖、嫌悪、悲しみ、そして憐れみ……それらがグチャグチャに入り混じった様な感情……球磨にもその感情が何処から来たのか分からなかったクマ……そうして、球磨はある考えに至ったクマ」

 

 一つ一つの感情を紐解く様に語っていく球磨に対して、提督は訪ねる。

 

「ある……考え?」

 

 その問いかけに、球磨は一呼吸の後、重い表情で答えた。

 

「あの姫を何が何でも倒さなければならない、と」

 

 その球磨の言葉を聞いた提督は、烏龍茶をまた一口啜り、自分の首に手を添える。

 

「……」

 

 そしてこれ以上、話を続けるべきか悩み、言葉を探していた。

 その様子を察した球磨は、先程の表情とは打って変わり、悪戯な笑みを含んだ表情を、提督へと投げかけた。

 

「それにしても……普段、冷静沈着な提督があんなに叫んでる姿を見たのは球磨も初めてだクマー」

「……僕だってあんなに叫んだのは本当、久しぶりだよ……まぁ、何はともあれ、人死には無かったんだ。これで良しとしよう」

 

 そう言ってほっと胸を撫で下ろした提督。

 それに対して球磨は、まるで「この場に居るのは間違いなのではないか」とでも提督に言いたげな表情を浮かべた。

 

「……でも、艦娘以前に、球磨たちは軍人だから、死ぬ事は当たり前だクマ。まだ人死にが出てないとは言え、提督はもうちょっと慣れた方がいいクマ」

「……軍人だから死ぬ事は当たり前とは言ってもなぁ……それは十二分に理解してはいるが……自分が居なくなる事よりも、球磨に限らず、見知った顔がある日突然居なくなる事の方が、ずっと辛いんだよ……」

 

 そう答えた提督は、机に肘を置きながら、こめかみを手で押さえた。

 そして唇を悔しげに噛み締めた提督の表情は、重く、苦しそうであった。

 恐らく昔の出来事を想起しているのか、目が潤んでいる。

 提督の過去に何があったのか、球磨には分からなかったが、話の流れから察する限り、恐らくはそう言う事なのだろうと思った。

 

 球磨は小さく吐息を洩らし、物優しげな表情を浮かべ、提督に対して穏やかに諭した。

 

「本当、提督は軍人に向いていないクマ。何で提督が未だに軍人をやっているのか、球磨にも分からないクマ」

「……以前、所属していた降下救助員や特警隊の奴らにもよく言われたよ。『お前は優秀だが、如何せん優しすぎる。お前の精神がぶっ壊れる前に辞めた方がいいぜ』ってね」

 

 提督は大きく溜息を吐き、残りの烏龍茶を一気飲みしてから、頭を抱え、球磨に愚痴をぽいぽいと投げかけた。

 

「こんな事だったら司令官なんて引き受けなきゃよかったよ……誰だよ、地位が上がれば役得が増える何て言った奴は……地位が上がれば上がる程、役損ばかりが増えていくじゃないか……あの時点で退職しとけば良かったんだ……そもそもあの時、海軍に入隊しなきゃ……」

 

――そこまで言うなら辞めればいいのに。

 

 球磨は純粋な親心からそう思ったが、それが口に出される事は無かった。

 何故なら、そう毒づきながら話す提督の目は、とても言葉では言い表せない程、激しく熱く輝いていたからだ。

 

 

―― そのように提督が紡ぐ言葉とは相反する表情を伺いながら、球磨は思った。 ――

 

 

 提督が言っている事は、恐らく本心だろう。

 だけど、それを差し置いた「何か」が提督の心にあるのも確かだ。

 

 第一に、いくら後詰の司令官とは言え、司令官という地位を得るには、数々の難易度の高い課程や試験、それをパスするだけの資質や才能と努力、そして相応の実績が無ければ、決して得られる地位では無い。

 

 そして、これ程の信念と熱量を纏った眼差しを掲げた人物を、球磨は知らない。

 これ程、ギラギラと血潮を滾らせた様な目を抱いた人物が、果たしてこの世にどれだけ存在するのだろうか。

 

 

―― 恐らく提督には提督なりの、己が精神、ましてや命さえも厭わない想いがあるからこそ、今この場所に立っているのだろう。 ――

 

 

 ……………………………… 

 

 

 一通り仕事の愚痴を溢した提督は、ふう、と溜息を吐いた後、呆れ顔の球磨を見据え、申し訳なさそうに口を開いた。

 

「ごめんね、色々愚痴っちゃって……司令官って立場上、こんな弱音を吐けるのは球磨ぐらいしか居ないからさ」

「なぁに、気にするなクマ。これも秘書艦業務の内だクマ」

 

 だが球磨の呆れ顔には、不思議と優しさが混じっていた。

 

「なぁ、球磨。変な事を聞くようだけどさ」

 

 その表情を見た提督は、ふと、思い出したかの様に尋ねる。

 

「球磨には、軍艦の時の記憶ってあったりするのかい?」

 

 以前見た「軍艦・球磨」と「少将」の夢。

 それが只の夢なのか、何かの意味を孕んだモノなのか。

 提督は気になり、「艦娘・球磨」へと尋ねた。

 

「……艦娘に引き継がれているのは、あくまでその艦艇に宿った『魂』だけクマ。だから『記憶』がそっくりそのまま引き継がれているって訳じゃないんだクマ。それでも、そうした『魂に刻まれた断片的な記憶』なら思い出せるクマ」

 

 そして球磨は、その提督の質問に少々訝しげな表情を浮かべながら、提督に答えた。

 

「そっか……なら、聞いてもいいかい?」

「別にいいけど……」

 

 球磨は、恥じらいの朱を顔に掠めながら、提督に告げた。

 

「……正直言って球磨の歴史(過去)なんて聞いてもちっとも面白くないクマよ? 他の艦艇みたいに『沈んだ敵艦の水兵を助けた』みたいな美談も無ければ、『艦体が真っ二つになっても最後まで勇猛果敢に戦った』なんて武勇伝もない。ましてや『相次ぐ激戦をほぼ無傷で生き延びて武勲を立てまくった』みたいな伝説めいた幸運譚もないクマー」

 

 薄紅に頬を染めた球磨は、もじもじとしながら、提督に言葉を繋げた。

 

「それでも……聞きたいクマ?」

「うん、それでも僕は聞きたいんだ。そうした歴史舞台の裏側で、球磨が一体何をしていたのかをね」

 

 その球磨の言葉に、提督は即答した。

 その提督の言葉に、球磨は真ん丸と目を見開き、そして嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

「……分かった、それなら話すクマ」

「ありがとう」

「ちなみに球磨自身もうろ覚えの部分があるから、もし間違ってたりしたらごめんクマ。それと、最初っから話すとなると、ちょっと話が長くなるクマー」

「それでも構わないよ」

「まぁ、まだお茶も残ってるし、茶菓子の足しにでもすればいいクマ」

 

 そして艦娘・球磨は、さながら竪琴を奏でながら叙事詩を語る様に静かに、提督へと話し始めた。

 己が生きた激動の時代、その歴史の一幕を。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「球磨が生まれたのは1919年頃、丁度、大正の真ん中ぐらいだったクマ。『八四艦隊案』で産み出された球磨は直ぐに『シベリア出兵』の為、シベリアへの軍の上陸を掩護したり、中国沿岸の哨戒をしていたクマー。『シベリア撤兵』の際にも旅順を拠点として中国沿岸の哨戒任務に従事していたクマ。この頃の球磨は、意外どころかメチャクチャ優秀だったクマ! 向かうところ、敵なしだったクマー。でも、撤兵の翌年……『関東大震災』によって世の中の常識が全てぶち壊され、国内は未曾有の大混乱に陥ったクマ。あの当時はもう本当、しっちゃかめっちゃかだったクマ。まぁ、そんな時代に球磨は生まれたクマ」

 

――――球磨の生まれた時の事。

 

「海軍の迷走はこの時から始まっていたのかもしれないクマ……陸軍との方向性の違いによる不仲、海上航路(シーレーン)保護の理解不足……極めつけは『八八艦隊計画』。知っての通り、戦艦8、巡洋艦8、第二線の主力艦8の計24隻を8年周期で補充する計画だクマー。正気の沙汰とは思えないクマ。そんな大艦隊を平時に持っていたら、日本経済が傾くどころか、国庫が吹き飛んで、然る後ペンペン草も生えないレベルだクマー。日露戦争でバルチック艦隊を撃破した事にどれだけ浮足立っていたのかクマー? 東郷提督も『勝って兜の尾を締めよ』とあれだけ口を酸っぱくして言っていたのに……いや、よくよく思い返してみたら、あの当時は他国も頭のネジが全部吹き飛んだ様な計画を立てていたクマー。だから共倒れになる前に『ワシントン軍縮条約』で主力艦の保有制限が設けられたクマ」

 

――――海軍の迷走。

 

「そういえば俗に言う飴と鞭の法律『普通選挙法』と『治安維持法』の制定も、それから数年後の出来事だったクマ。世の中が段々とキナ臭くなり始めたのもこの頃だったクマ。そして……球磨の名付け親でもある『大正天皇』が崩御され、また時同じくして、当時の文豪が自ら命を絶ったクマ。『ぼんやりとした不安』とはよく言ったものだクマ。超個人的な理由で自ら命を絶ったとはいえ、これから先の出来事を考えると、そうした動乱の時代を予感した様に思えなくも無かったクマ。そうして『大正』の時代が終わったクマ」

 

――――激動と混沌の「大正」の終焉。

 

「混沌の『大正』が終わり、『昭和』に入って球磨を待っていたのは『世界恐慌』という混迷だったクマ。ニューヨーク株式が大暴落を起こし、世界経済は地に落ちたクマ。一度目の大戦で景気を良くしたのを良い事に、加減も知らずバカスカ投資しまくるからこんな事になるクマー。……あれ? 昨今にも似た様な話があった気がするクマー?」

 

――――そして動乱と混迷の「昭和」の始まり。

 

「これにより日本経済も地に落ち、更に追い討ちをかけるように昭和東北大飢饉が発生。農家経済は東北地方を中心に自分の子を身売りする状況まで疲弊するなど、そうした深刻な社会不安が、国内に鬱積していったクマ。そして『ワシントン体制』と『中国ナショナリズム』の挟撃に対する現場の憤懣が頂点に達し、関東軍が政府決定なしに中国の鉄道を爆破、自衛という名目で攻撃を行い、同地を占領。知っての通りこれが『満州事変』だクマー。この事変による他国との一悶着により、結果として日本は『国際連盟』からの脱退を表明したクマ。そして日本世論がそうした軍部の行動を受け、社会不安を払拭する一つの解答として軍部支持に傾向した事により、文民統制が完全に崩壊、軍国主義に走り出したクマ。ちなみにこの時の球磨は、高雄だったり馬公だったり旅順だったり、中国沿岸を行ったり来たりしていたクマー」

 

――――「満州事変」という種火、国際社会からの孤立。

 

「これもあり、日中関係は緊張を増し始め、そして偶発的とは言え『盧溝橋事件』が発生、『日中戦争』が始まったクマ。たった数発の銃声から始まった戦争が、次第に全面戦争へ、そして泥沼化していったクマ。そうした中、先の第一次世界大戦後に敷かれた『ベルサイユ体制』に対しての不満が爆発したドイツ世論、ひいてはちょび髭のアドルフおじさんこと総統閣下がポーランドに侵攻、英仏による宣戦布告よって『第二次世界大戦』が始まったクマ。また日本、ドイツ、イタリアが『三国同盟』を締結した事によって、日本は完全に『枢軸国』陣営に就いたクマ。そして日中戦争の長期化の原因の一つである米英の中国に対する物資支援、後は『ABCD包囲網』などによって、ここからどんどん日・米英関係が悪化していったクマー。……はてさて、この頃の球磨はと言うと、日中戦争始めの頃は、第三艦隊所属として日中戦争に従軍したり、第四艦隊隷下の潜水戦隊の旗艦として活躍したりもしていたけど、既に艦齢は20年近く経っていたクマ。流石の球磨もここまでクマ、後は予備艦生活でのんびり余生を過ごそうかと思った矢先に……」

 

――――「日中戦争」の泥沼化、「第二次世界大戦」の始まり。

 

「『太平洋戦争』が始まったクマ」

 

――――そして「太平洋戦争」の始まり。

 

「第三艦隊の『第十六戦隊』に配属された球磨は、『真珠湾攻撃作戦』直後、『比島(フィリピン)攻略作戦』に参加して部隊の上陸を掩護したクマー。その後、新編された『第三南遣艦隊』の旗艦として戦線に立ったクマ。フィリピンの海で球磨は、敵艦をちぎっては投げまくったクマ。やっぱり球磨は、意外に優秀クマー! また上陸作戦の時、球磨に搭乗していた特別陸戦隊がサンボアンガに上陸して、取り残されていた同胞を救出したクマー。流石、海兵団の古強者が多いだけあって、そのお手並みはとても鮮やかだったクマー! 球磨も見習いたいクマー!」

 

――――帝国の快進撃、栄光の半年。

 

「……だけど、それは泡沫の栄光だったクマ。開戦から6か月後、突如告げられた『ミッドウェー海戦』の大敗によって、これ以降、日本は敗退の道を辿る事になるクマ。それでも、その裏で球磨は、来る日も来る日もせっせと働き続けたクマ」

 

――――歴史の分岐点、日出る帝国、その斜陽の始まり。

 

「部隊の仲間には『足柄』や『長良』が居たクマ。それに馬公で丁度一緒になった『摩耶』とも出撃した事があるクマ。第三南遣艦隊の旗艦の後は、再び『第十六戦隊』へと戻り、『鬼怒』とも一緒に戦ったクマ。後は『北上』と『大井』とも一緒になった事があるクマ。そう言えば……北上と大井はこの基地に居るとして、確か皆は提督の知り合いが指揮する鎮守府に所属していた筈だクマー! 久々に会いたくなったクマー!」

 

――――共に海原を駆け抜けた戦友たち。

 

「比島(フィリピン)攻略作戦が一段落した安堵からか、球磨は『水雷艇・雉』を連れて夜な夜なノロノロと航行していたクマ。だけど、それがいけなかったクマ。未明道中、米魚雷艇に遭遇、それにいち早く気付いた水兵はサーチライトを照射、同時に奴さんの雷撃が始まったクマ。そして……反航戦で衝突すれすれまで接近された球磨に対して、奴さんは魚雷二発を発射。そこで一発が艦首に当たったクマ! この球磨をもってしても、ここまでと覚悟したクマ……だけど何故か魚雷は爆発しなかったクマ。なんと命中した筈の魚雷は、ぽきりと真っ二つに折れて沈んでいったクマー。恐らくあの場に居た全員が首を傾げていたクマ。まぁ、そんな訳で球磨は九死に一生を得たクマー。あの時は本当、もう少しで死ぬところだったクマー」

 

――――幸運を味方に付けた一戦。

 

「ある日シンガポールにイタリア巡洋艦が停泊していたクマ。だけどそのイタリア艦は、言ってしまえば裏切る可能性があったクマ。何故なら既にその時、イタリアの降伏は時間の問題だったからだクマ。そしてイタリアが正式に降伏した直後、シンガポールに停泊していたイタリア巡洋艦が突如として行方を眩ませたクマ。直ぐに球磨はその巡洋艦を追いかけたクマー。だけど……奴さんがどんな手を使ったかは知らないけど、結局目標を発見できず、そのまま逃げられてしまったクマ……あの時の出来事は本当に屈辱だクマ……! その四日後には、サバンに停泊していたイタリア潜水艦の連中とも一悶着起こしたし……そもそも向こうの態度が、滅茶苦茶いけ好かなったのが悪いクマ……! ……あんのヘタリア人ども……今思い返してみても腹が立つクマー! クマー!」

 

――――イタリア人に二度も酸苦を舐めさせられた事。

 

「……その後は、うん……相変わらず増援輸送と哨戒が主な任務だったクマ」

 

 まるで祖母が孫に昔の事を話す様な、優しく温かな口調で球磨は、時に笑い話を交えて、過去の出来事を語った。

 それは提督が知っていた紛れの無い、光と闇が交差する「大正・昭和史」のほんの一握りの出来事であり、その激動の時代を見据え続けた「軍艦・球磨」の歴史の一幕でもあった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「まぁ、こんなところだクマ」

 

 一渉り話し終えた球磨は、一呼吸の息を置いた。

 球磨は自身の湯呑の内側へと視線を落とすが、いつの間にか底の文様が見え、お茶の雫がその表面を潤すばかりであった。

 それに気付いた提督は、机の上に置いてあった急須の横手を持ち、球磨の湯呑へと残りの烏龍茶を注いでやる。

 

「ありがとクマ」

 

 そして懐古主義的な頬笑みを浮かべてお礼を言った球磨は、桜文を散らせた高田焼の湯呑をお淑やかに両手で持ち上げると、水へ落とした様に艶やかな青磁色の焼き物へと一つ、接吻けした。

 

――あれ?

 

 その様子を見ていた提督は、提督が一番聞きたかった事が、まだ球磨の口から提示されていない事に気付いた。

 

――まだ、件の「提督」の事を聞いていない。

 

 そして提督は尋ねた。

 

「ちなみにだけどさ……艦長の事は覚えていたりするのかい?」

「……正直、覚えていないクマ。入れ替わりが激しい軍艦で一々覚えてられないクマ。それにさっきも言ったけど、あくまで球磨が覚えているのは『軍艦・球磨の魂』に刻まれた、大まかな歴史(過去)が殆どクマ」

 

 提督の言葉を聞いた球磨は、ちょっと困った様な表情を浮かべながら提督へと言葉を返した。

 

「そっか……」

 

――やっぱり気になるな。

 

 そう思った提督は、更に球磨へと言葉を紡いだ。

 

「……でも流石に、一人ぐらいは覚えているんじゃない? 印象深い艦長は居なかったのかい?」

 

 提督は、この時向けられていた球磨の表情。

 

「……」

 

 艦娘・球磨の「これ以上は聞かないで欲しい」という信号を、提督は察するべきであった。

 それが「艦娘・球磨」の奥深く、その心の深淵に触れてしまう話題であったという事を、この時の提督は理解してなかった。

 

「……」

 

 暫く困り顔で考え込んだ球磨は、その後、椅子から立ち上がり、消え惑いながら部屋の中央まで歩く。

 そして振り向き、提督に対して笑みを振り、意を決した様に言葉を投げかけた。

 

「……一人だけ、今でもしっかり覚えている艦長は居るクマ」

「へぇ、それは誰なんだい?」

 

 その提督の問いに球磨は、一呼吸置いた後、答えた。

 

「杉野修一海軍大佐」

 

 その言葉を皮切りに、先程まで球磨が浮かべていた笑みに影が差した。

 

 球磨のその笑みを見て、そして球磨が口にした名前を聞いた提督は、自分自身の浅はかさを呪った。

 提督は、自身が今まさに目の前に居る「艦娘・球磨」の深淵を覗こうとしているのだと、直感的に気付いた。

 提督は直ぐに別の話題へと切り替えなければと、直感的に理解する。

 

 そう、提督は、球磨がこの先語るであろう、この娘の「最期」を聞きたくなかったからだ。

 そしてその言葉の重さに耐えられる自信が、提督には無かったからだ。

 

 今ならまだ、何とでも言い訳をつけて、話を逸らして、逃げる事だって出来る。

 

――今ならまだ、引き返せる。

 

「……」

 

 しかしあろうことか、言葉には出さずとも。

 その言葉を発した球磨本人のその目が、「最期」まで聞いて欲しいと、提督に懇願しているのが、提督には痛い程受け取れていた。

 

――ここで逃げたら、この先、僕は一生、この娘に顔向け出来ないだろう。

――ここで逃げたら、この先、一体誰が、この娘の深淵に光を当ててやれるのだろうか。

 

 提督は球磨のその目を見て、球磨の懇願に応えるべく、話の続きを聞く事を躊躇うもう一人の自分を心の中でぶん殴り、球磨に悟られない様、自身の太腿を血が滲むほど強く抓り、そして現実を見据える決心をした。

 話題を振った以上、「最期」まで話を聴くのが自分の責任であると自身に対して命令を下す。

 

 そうして提督は、椅子から立ち上がって球磨を真摯に見据えると、自身の勇気を絞る様に、球磨へと話の続きを促した。

 

「その人って……確か……」

 

 夢で見た「少将」以上に、提督はこの人の名前を史料で知っていた。

 何故ならこの艦長、「杉野修一海軍大佐」は、「杉野はいずこ」で有名な日露戦争の旅順港封鎖作戦で戦死した杉野孫七兵曹長の息子、また「戦艦・長門」の最後の日本人艦長でもあり。

 

「……球磨が1944年1月11日」

 

 そして、1944年1月11日。

 

 

「――――沈むその瞬間まで艦長を務めていた人だ」

 

 

 艦長として、「軍艦・球磨」が沈むその瞬間まで、乗艦していた人の名前だったからである。

 

「艦長だけじゃない、その時一緒に居た水兵たち、あの人達の事は一人一人、今でもしっかりと覚えている。あの日の出来事は、今でも鮮明に覚えている」

 

 球磨はズボン裾をぎゅうと握りしめながら提督に言葉を連ねた。

 

「その日のインド洋の空は、雲一つない快晴で、絶好の訓練日和だった……以前から『敵潜水艦がマラッカ海峡で目撃された』という情報が入っていた為、それに備えるべく、マレーシアのペナンから『駆逐艦・浦波』と出港、対潜戦演習を行っていた……その訓練中、見張員の一人が潜水艦の潜水鏡が一瞬、海に出ていたのを発見した……直ぐにその事を上官である曹長に報告したが、曹長はそれを『見間違え』で済ませてしまった……それが運命の分かれ道だった……その判断を下した曹長も、悔やんでも悔やみきれないだろう……それから40分後、潜水艦から魚雷が発射された……直ぐに戦闘を告げるブザーが艦内に鳴り響き、球磨は取舵一杯で回避を始めたが……間に合わなかった……」

 

 重苦しく、唯静かに嗚咽を洩らす様に、球磨は言葉を紡いだ。

 

「右舷艦尾に魚雷が二発命中……今度は、爆発した……後部機械室と艦尾は一瞬にして火の海に包まれた……皆一様に『諦めるな』と叫んで、懸命に消化活動を行っていた……でも予想以上に火の回りは早く、甲板に搭載していた爆雷に誘爆、そして大爆発が起き、杉野艦長は直ぐに『総員退艦』命令を下した……その時の球磨は、自分が沈む事なんかよりも、ただあの人達が皆無事に脱出できる事を、ひたすら神さまに祈っていた……でも幾ら球磨が祈っても、時間は待ってくれなかった……命令の直後、球磨は艦尾から沈んでいった……それが、たった12分の出来事だった……あっという間だった……脱出に間に合わず、球磨と運命を共にした人も居た……」

 

 冷たく震え、唇を噛み締め、悲しみを押し殺しながら、球磨は言葉を連ねた。

 

「そして球磨は……沈む直前まで、あの人達が抱いていた想いを……今でもしっかりと覚えている」

 

 球磨が自身の過去を語っている姿。

 提督の目に映る球磨の姿は、提督が知っている元気で勝気で一途な球磨の姿では無い。

 

「あの人達は、戦いに負けると分かっていながら必死に訓練をしていた……後援部隊とはいえ、あの人達は、必死だった……あの人達は、希望を抱いていた……戦いの先が大敗だとしても、愛すべき親兄弟、愛すべき郷、自分たちにも護るべき世界があると信じて、あの人達は必死に戦っていた」

 

 艦娘でも無く、ましてや一人の女性でも無い。

 

「大げさかもしれないけど、自分たちが相手に大打撃を与えれば、きっと相手も嫌になって、戦争を止めてくれる……それで自分たちにも護れるモノがあるんだ、と……例え自分たちが死んでも、きっと残された者たちが、自分たちの意思を継いでくれる……戦争に負けて退廃した世界を、きっと戦前や戦時中よりも良い世界にしてくれる……そして、自分たちが必死になって祖国を護ろうとして戦った想いがきっと引き継がれる、と……そんな希望をあの人達は抱いていた」

 

 どこか虚ろげで儚く、今にも砕けてしまいそうな、脆弱な心を抱いた一人の少女の姿であった。

 

「それでもし、生きて終戦を迎えたら、戦死した仲間に花束を手向けよう。遺品や遺骨があれば、包んで故郷の家族の元へと帰してやろう。そして、それが済んだら、祖国の復興に尽くそう、と……あの人達は毎晩、夜遅くまで、将来の期待や展望、希望の想いを抱いて話をしていた」

 

 戦禍のうねり、歴史舞台の裏、唯独り消えていく少女の姿。

 人々が沈み行くその光景を、成す術なく眺めていた少女の姿が其処にはあった。

 

「そんな想いを乗せた中、球磨は沈んでいった」

 

 そして球磨は、提督へと笑顔を投げかけた。

 

「その時一緒に運命を共にした138人の魂……その想いは、今でも球磨の魂の中に生き続けている」

 

 球磨のその笑顔。

 どこか空っぽで、重く、悲しげなその笑顔は、とてもではないが年端の行かない少女が浮かべて良いものではなかった。

 

「……」

 

 提督はその球磨の笑顔を見て、無意識に球磨の元へとふっと歩み寄る。

 

「……提督?」

 

 そして、そっと球磨の身体を抱きとめた。

 

「……」

「てーとく……」

 

 繊細で純白な絹織物でその身を覆い隠す様に、提督は己が純黒の軍衣で唯、一人の少女を抱きとめた。

 少女の悲しみを掬い取る様に両の手を添え、少女の心が壊れない様に両の手で包み込んだ。

 提督は唯、目の前に在るモノ、少女の心を、両の手で受け止めていた。

 

 そして提督は、神さまに祈った。

 願わくは、この少女の歩んだ赤黒い道程、そしてこの先、この少女が歩むであろう青黒い道程に、光あれ、と。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「……ごめん」

 

 暫くの後、提督は球磨の身体を離した。

 そして赤く腫れ上がった目で提督は、球磨を見据えた後、球磨に対して頭を下げた。

 

「何を謝っているクマ?」

「いやさ……嫁入り前の女性に気安く触るもんじゃないし……」

「いい歳した男が何を生息子みたいな事を。流石に抱き付かれた程度では、何とも思わないクマー」

 

 球磨は呆れる様に提督へ言葉を返したが、提督はばつの悪そうな顔の儘、言葉を続けた。

 

「でもさ……僕みたいなおじさんに抱き締められたって嬉しくないだろう」

「確かに、歳もちょっと離れすぎているクマ。まぁ、球磨は提督なんかよりも魅力と才能に溢れる男性を見つけて、提督をアッと言わせてやるクマー」

 

 球磨の言葉に提督は、自然と零れ落ちた懐かしくも温かい頬笑みで、球磨の言葉を受け入れた。

 

「楽しみにしているよ」

 

 球磨は目を細めてうんうんと頷き、執務室を後にしようと提督へと背を向け、扉に向かう。

 しかし数歩の後、球磨はその場に立ち止まった。

 

「球磨……?」

「でも……」

 

 その言葉と共に球磨は振り返ると、提督に向けて一つ、笑顔を投げかけた。

 

 提督に投げかけられた球磨の笑顔。

 その時の笑顔は、提督の心に焼き付き、この先決して忘れる事はないだろう。

 

「さっきは本当にありがとうクマ。正直、凄く嬉しかったクマ」

 

 そう言って提督に投げかけられた球磨の笑顔には、真綿の様な貞潔が含まれていた。

 

「提督は人一倍優しいクマ。それだけは本当に誇っていいクマ」

 

 そう言って提督に投げかけられた球磨の笑顔には、聖母さまの様な慈愛が含まれていた。

 

「球磨はそんな提督の事が一人の人間として尊敬できるし、球磨はそんな提督の事が大好きだクマ」

 

 そう言って提督に投げかけられた球磨の真雪の様な笑顔で、提督は何かとてつもない存在に許された様な気がした。

 

 




【参考文献】
○木俣滋郎『日本軽巡戦史』(図書出版社、1989)
○原 為一ほか『軽巡二十五隻』(潮書光人社、2015)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3節「いもうとの憧憬、おねーちゃんの献身」

 

――――1630、日本国近海航路、海上警備ルート、地点E。

 

「ん~?」

「どうかしたの、北上さん? そんな怪訝そうな声を上げて」

「いやさー、なんかラヴコメ……にしては、えらくシリアスなエネルギーを感じた気がしてさー」

 

 乾風は靡くのを忘れ、朔風が何処かへと身を潜めた、穏やかな冬凪の水界。

 太陽は西へと傾き、海原と御空の境界線が黄昏色に滲み始めた中、水平線上を滑っていく四つの影があった。

 

「なんだそりゃ? 今頃、球磨姉とアイツが仲良しこよしやってる、ってか?」

「それは多分ないにゃ。前にも聞いたけど、球磨ちゃんは提督の事、尊敬してはいるみたいだけど、恋愛対象って立場からすれば、これっぽっちも興味ないみたいにゃ」

 

 艦娘・多摩を先駆けに、北上、大井、木曾の四人は、本日の近海航路の海上警備任務を終え、基地へと帰投する為、決められた巡回ルートを滑走していた。

 

「それに、一番どう思っているのか分からないのは提督の方にゃ」

「確かになぁ……いまいちアイツが球磨姉の事をどう思っているのか分からないんだよな」

 

 木曾は腕組みしながら、提督の顔を浮かべ、その心の内幕を捜査してみたが、どれも真に迫るものでは無かった。

 

「……それを言ったら、提督が私たちの事についてどう思っているのかも……正直、分からないわ」

 

 姉妹たちが話している様子を眺めていた大井は、顎に手を当てながら、不信感にも懐疑心にも近い表情を顔に張り付かせ、そして口を開いた。

 

「どゆこと、大井っち?」

 

 姉妹たちの視線は全て大井へと注がれ、大井の次の言葉を待つ。

 大井は一呼吸した後に、姉妹たちに自分の考えを述べた。

 

「……提督のあの目よ」

「提督の目?」

 

 大井は自分自身の身体を両手で抱き締めながら、提督の優しげな表情を頭に浮かべつつ、確かめる様に口を開いた。

 

「そう。提督の私たちを見る目は、異性を見る目にしては、綺麗過ぎるのよ……イヤらしさと言うか、ねちっこさが全くないのよね。男の人の目線って、もっとこう……べたべたで、ぐちょぐちょで……」

「まぁまぁ、大井っち。流石にそれは提督や基地に居る皆に失礼だよー」

 

 世の一般女性が述べそうな意見だが、これ以上は歯止めが利かなそうだと判断した北上は、大井を宥め、諭す様に言葉を投げかけた。

 

「……ふふ。冗談よ、北上さん」

 

 北上の言葉を聞いた大井は、言葉を返す。

 

「基地の皆は結構、提督に似ている人達や清々しい程ド直球に感情をぶつけてくる人達が多いから、正直言って、私はあの人達の事が好きよ」

 

 そして先程までの懐疑心が嘘だったかの様に、柔らかな笑みを一つ浮かべ、今では信頼感を持った眼差しで、提督や基地の皆の姿を思い浮かべていた。

 

「でも……それにしたって提督の目は綺麗過ぎるのよ」

「てか、なんやかんや言って俺たちとアイツはかなり歳が離れてるぜ。あの堅物司令官の事だし、単に俺たちの事を恋愛対象だと思ってないんじゃないか?」

 

 提督について話を戻した大井に対し、木曾は言葉を投げかける。

 

「私も最初そうだと思ったら……時々言葉で言い現せない程、熱の籠った眼差しを私たちに投げかけてくるのよね、提督は……」

 

 だが大井は、提督に対しての疑問を拭えずにいた。

 大井は、ふう、と吐息を洩らし、海風に揺らめく自身の栗毛色の前髪を指で流しながら、目を細め、静かな表情を浮かべた。

 

「本当、何なのかしらあの目は……よくよく思い返してみたら、別に嫌な視線じゃないのよ……だけど、好きな人に見つめられた時みたいに、ドキドキもしないのよね……でも、何て言うか胸がぽかぽかするって言うか……」

「……あっ」

「北上さん?」

 

 頭に点灯した電球を乗せた様に、北上は唐突に声を上げた。

 

「提督の目で思い出した。あれだ、ちょっと前に大井っちと一緒にショッピングへ行った事があったじゃん?」

「ええ。1か月前くらいの非番の時の事よね。北上さんと一緒に冬物の服を買いに出掛けて、お店で私はオリーブ色のオーバーコートを、北上さんは確かホワイトカシミアのマフラーを買ってたわよね……それで、一緒にお茶を飲んで……天気が良かったから、その帰り道に広い公園でのんびりと散歩出来て、とても楽しかったわ」

 

 大井はその時の事、北上と一緒に可愛い服をきゃあきゃあと選び、北上と一緒に美味しいお茶と美味しいスイーツを嬉しそうに頬張り、北上と一緒に公園内を歩きながら、たわいの無い話を連ねられる日常。

 細やかながらも大きな喜びを噛み締めていた事を、にこにことした表情で思い返していた。

 

「そうそう。それで、その公園には私たちの他に親子連れが居たじゃん?」

 

 その言葉に大井は、あっ、と思い出した様な表情を浮かべる。

 

「ええ、そうね。確か、お父さんとお母さん、それに娘さんの三人で遊んでいたわよね。とても仲睦まじそうで、見ているこっちも何だか嬉しい気持ちになったわ」

「そう、その親子連れなんだけどさ……」

 

 北上は一呼吸置いた後。

 

「提督の目、あの時居たお父さんの目にそっくりなんだよねー」

 

 にっこりとした大らかな笑みを掲げ、口を開いた。

 

「……おしゃべりはそこまでにゃ。水上偵察機に敵影を捕捉したにゃ」

 

 だが、その多摩の言葉に、意識が現実に引き戻される。

 そうして皆一様に諦観した顔を浮かべ、多摩を見据えた。

 

「大物が釣れたにゃ」

 

 しかし多摩は、その場に居た誰よりも諦観と無常、そして憂いを含んだ顔を浮かべながら、現実を述べた。

 

「あの時の姫級にゃ」

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――1700、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Eから北東10シーマイル。

 

『……』

 

 斜陽の水平線、次第に金色から深紅へと色彩をグラデーションさせた海原。

 その世界にポツリと、ひとりぼっちで、ボロボロの士官軍帽を被り、外套を翻す弧影が佇んでいた。

 

「……」

 

 その孤影の他に敵艦はおろか敵潜水艦の影さえも見当たらない。

 完全単騎状態の姫の姿が、其処にはあった。

 

 仲間も連れず、唯独り佇む姫。

 その姿はまるで、誰かを待っている様でもあった。

 

「……!」

 

 唐突に一発の砲弾が、明確な殺意を持って、その姫の背後へと飛来する。

 姫は外套をその身に纏わせながら、身体を一回転させ、その砲弾を易々と回避した。

 直後、一つの砲撃音が海原一面に鳴り響いた。

 

 そして姫は振り向き様、その砲弾の射手へと視線を向けた。

 

「よう、久しぶりだな」

 

 参謀飾緒を肩口に飾り、裾先に北方迷彩をあしらった外套を纏う艦娘。

 艦娘・木曾の姿を捉えた。

 

「……」

 

 そうして、お互いの視線が遠距離より交差する。

 木曾はふつふつと湧き上がる怒りに満ちていく目で姫を見据え、姫はどこか歓喜と困惑を孕んだ目で木曾を見据えた。

 

「俺は5500トン型の軽巡洋艦、球磨型・5番艦の木曾だ」

「……!」

 

 木曾はくく、と笑い声を立てながら、遠くに居る姫に言葉を投げかける。

 その木曾の名乗りに、姫は何て答える訳でも無く、そっぽを向き、自身が被っている軍帽のつばをすっと摘み、目元を隠す様に深く被り直した。

 

「……」

 

 そっぽを向いた姫の表情。

 姫はその時、苦虫を噛み潰した様にも気恥ずかしげな様にも見える表情を浮かべていた。

 しかし遠目からでは、その姫の表情を伺う事は出来なかった。

 

「ずっとお前に会いたかったぜ?」

 

 その為、姫の行動は、木曾からしてみれば「お前など眼中にない」と言った挑発行為にも受け取れた。

 故に姫のその行動は、怒りに心を燃やした木曾の神経を逆なでするのには十分過ぎた。

 

「この前の球磨姉に対する落とし前……ここでつけさせて貰おうかっ!!」

 

 木曾は咆哮を上げ、全魚雷発射管門と主砲砲塔を姫へと向け、そしてトリガーを引き抜く。

 海原に響き渡る、木曾の咆哮を反映させた砲撃と雷撃により、姫との戦いの合図を告げた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

『よう、久しぶりだな。俺は5500トン型の軽巡洋艦、球磨型・5番艦の木曾だ』

 

 戦いの火蓋が切って落とされる寸前。

 

「……ええとさ、作戦司令室に本当の事を報告しなくて良かったのかな? 多摩姉ちゃん」

「そんな事したら一発で提督に止められるのがオチにゃ。それに、あの状態の木曾を止めるのは一苦労にゃ。まぁ、本当に危なくなったら煙幕を焚いて、木曾を無理やり引っ張って、そのまま撤退するだけにゃ」

 

 多摩、北上、大井の三人は、木曾から少し離れた場所で、姫と木曾の様子を伺っていた。

 多摩は作戦司令室へ、通常の防衛戦闘という名目で、姫との接触を報告した。

 衛星からのモニタリングによって直ぐバレる嘘だと分かっていながらも、多摩はその事を伏せて報告した。

 

「戦闘が始まってしまえば、いくらでも言い訳がつくにゃ。それより……」

「……多摩姉さん?」

 

 そして多摩は、姫へと視線を投げかける。

 

「あの姫について、ちょっと確かめたい事があるにゃ」

 

 敵を見る目にしてはあまりにも優しく、そして憂いを含んだ目で多摩は、姫を見据えていた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「――――沈めっ!!」

 

 海原に響き渡る砲撃音と、波を切り裂いて進み、所々で水柱を上げる雷撃の最中。

 木曾は遠距離を保ちながら、姫へと続け様に砲撃を放った。

 

「北上、大井! 砲雷撃戦、用意にゃ! 木曾のサポートに回るにゃ!!」

 

 木曾の背後に居る多摩は、静かながらも遠くまで鳴り響く、鈴が音の声色で、北上と大井に命令する。

 姫から飛来した砲弾の着弾予測情報を、姉妹たちに共有しながら、姫の行動に合わせた偏差射撃を行った。

 

「了解だよ! 40門の酸素魚雷は伊達じゃないからっ!!」

「了解したわ! 海の藻屑となりなさいなっ!!」

 

 加えて北上と大井は、多摩の指示を受けながら移動。

 姫の砲弾を躱し、波立てる様に雷撃の波状攻撃を姫へと浴びせ続けた。

 

「クッ……!」

 

 姫は以前遭遇した時と同じく、身体を揺らし、緻密な動きで、その魚雷群と砲弾を回避していく。

 しかしその姫の動きには、幾分かぎこちなさがあった。

 

「ほら、どうしたっ! 動きが鈍いぞっ!!」

「コノ……!」

 

 その声に反応する様に、姫は木曾に対して偏差込みの砲撃を何発も撃ち込んだ。

 

「当たるものかっ!」

 

 木曾は海風に振う外套を、華奢なその身に絡ませながら、一回転、二回転と、海原を回転し、姫のその砲弾を避ける。

 静止した物体や小さく動く物体よりも、より早く、大きく動く物体に注視しがちである生物の目の性質を利用し、木曾は己の外套を使い、風に舞わせ、自身の的を広狭される事により、姫の精密射撃を尽く躱していった。

 

「考エル事ハ一緒カ……」

 

 だが、それは敵である姫も同様であった。

 姫は木曾と同じく、左右に身体を揺らし、或いは纏っている外套を囮に、木曾、多摩、北上、大井が其々穿つ、鋼鉄の雨霰を軽々と回避した。

 

「チッ……やるじゃないか……!」

 

――だが、これなら勝てる。

 

 深碧の髪を揺らし、精悍な顔立ちで姫を捉え続けた木曾は、勝機を掴んだ事に対する笑みを浮かべた。

 苦戦を強いられてはいるが、依然として木曾が優勢であるこの状況。

 相手の動きが、以前よりも鈍い事もあった。更に数では、圧倒的に木曾が有利である。

 

 だがそれ以上に、今の木曾には姫の動き、そしてその思考が、手に取る様に分かった。

 面白い程、姫の行動が、木曾には読めていた。

 

 しかし遠距離での撃ち合いにより、お互いがお互いの砲撃と雷撃を回避し合うというこの状況。

 一種の膠着状態に陥っていた。

 

――このままでは埒があかない。

 

 お互いの砲弾と魚雷を枯らすまで撃ち続ける気は、木曾には更々無かった。

 

「多摩姉っ! これじゃあ、埒があかねぇ! 接近するから援護を頼むっ!!」

 

――球磨姉を殺ろうとしたお前だけは、絶対に倒す。

 

 頭に血が上っていた木曾は、苛立ちを含んだ声で、姉たちに援護を要請する。

 

「……了解にゃ。北上、大井」

「……うん、分かった」

「……ええ、了解したわ」

 

 そして木曾は姫に対して、進撃を開始した。

 

「頼んだぜっ!!」

 

 その為、普段の木曾だったら絶対に気付いたであろう姉たちの様子に気付かなかった。

 姉たちの声色に、憂いと困惑が含まれていた事に。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「ソコダッ!」

 

 多摩、北上、大井のサポートを盾に、木曾は海面を之字滑走しながら、姫の元へと突貫した。

 その木曾に対し、姫は海底から響く様な声を上げ、砲弾の雨を降らせた。

 

「甘いっ!」

 

 砲弾を着弾ギリギリまで引き付け、進路を左右に瞬刻切り返す事で木曾は回避した。

 

「捉エタッ!」

「くっ……!?」

 

 そうして中距離まで接近した木曾に対して姫は、之字での切り返しが困難なタイミングを見計らい、精密砲撃を行う。

 

「これくらいっ!!」

 

 眼前へと迫った砲弾に対して木曾は、軍刀を鞘から振り抜き、高速移動状態により抗力が増した海面に、スキーのピッケルの様に刀を突き立て、無理やり方向転換する事で、これを回避した。

 

「ぐっ……!」

 

 直後、木曾の右腕を砲弾が掠め、鮮血が飛び散った。

 だが、木曾に言わせてみれば「そんな事は知った事ではない」。

 

「これならどうだっ!」

 

 木曾は、背中の格納管から魚雷を片手で数本引き抜き、海へと落とし、近距離に迫った姫へと雷撃を仕掛ける。

 そして木曾は、姫へと先行する手投げた魚雷に、自らの砲弾を叩き込んだ。

 

「……ッ!?」

 

 直後、木曾の背面を通過した北上と大井が放った魚雷群が、先程、木曾自ら信管を叩いた魚雷に誘爆する。

 白く凍て付く海原一面に、氷柱が落ちたかの如く、無数の水柱が広がった。

 木曾と姫の姿が銀竹林の中に掻き消えた。

 そして、その刹那。

 

「戦いは敵の懐に飛び込んでやるもんよ……なぁ!!」

「……!」

 

 水柱を掻き切り、木曾は軍刀を真っ向から姫へと振るい落とした。

 

「クッ……!」

 

 姫は咄嗟に迎撃砲撃を放つが、それよりも疾く走った木曾の刃筋を避ける事に集中した為、砲塔の狙いが僅かに掠れ、木曾の横顔を掠めた。

 

「……外したか!」

 

 双方ともにガチャン、と次発装填の重金属音が海に響き渡った。

 お互い一発が生きている状態。

 どちらかの近接攻撃が通るか、或いは距離が少しでも開いた方が、一撃を叩き込まれる。

 

「……だが、まだだっ!」

 

 木曾は瞬時に姫との間合いを詰め、上段構えから、切っ先三寸を滑らせ、姫の胴体へと刃線を走らせる。

 姫は身体を後ろに引き、木曾の刀光を自身の白銀の前髪に掠せながら、木曾の斬り下げを皮一枚で避けた。

 

「……チッ!」

 

 木曾は更に踏み込んで、刃を返し、下段から上段へ、姫に対して刃波を立てる。

 姫は半身を切って木曾の斬り上げをあしらった。

 

「それで躱したつもりなのか!」

 

 更に続く木曾の攻撃、その横一文字の薙ぎ払いを、姫は身を翻し、大きく後ろに飛び退く事によって回避する。

 この瞬間、姫の脚が海面から浮いた事により、一瞬だけ姫に、隙が出来た。

 

「食らいやがれえぇえええ!!」

 

 そして木曾は、脚艤装の出力を全開にして、顔の横に刀を添える霞の構えから腕先を伸ばし、姫の顔を狙った刺突攻撃を放った。

 しかしその突き攻撃は、やや大振りであった。

 

「……ナメルナッ!」

 

 死中に活を求めていた姫は、海原への着地と同時、脚艤装の出力を上げ、向かってくる木曾の凶刃へと飛び込んだ。

 そして姫は木曾の突き攻撃に合わせて、側面へと半身を切り、斜めに踏み込んで、凶刃を回避し、刀を添えた木曾の手元へと腕を伸ばす。

 姫はこの儘、木曾の刃を持った手を取り、同時に空いた手で木曾のこめかみに打撃を加え、掴んだ木曾の手元を捻り、海面へと叩きつけようとした。

 

 姫の手が木曾の手に触れるであろう、その一瞬。

 

「悪いな」

 

 木曾はニヤリと笑みを浮かべると、その手に持った刀を離した。

 

「ッ……!」

 

 木曾の手元から重力の儘、海面へと吸い込まれていく刀を尻目に、木曾の行動を察した姫は、直ぐに伸ばした手で鉄拳を作り、木曾の顎目掛けて打撃を加えようとする。

 

「徒手格闘は、何もお前だけの特権じゃない」

 

 木曾はそれよりも早く、やや木曾の手元へと伸ばし切った姫の腕に、薬指を引掛けた。

 

「シマッタ……!」

 

 そのまま姫の腕を接点に、木曾は姫の二の腕へと右手を引掛け、姫の勢いと木曾の脚艤装の出力を利用して手繰り、姫の身体を木曾の側面へと引っ張る。

 そして、姫の側面を取った所で木曾は、姫の腕を離し、外套を纏わせながら一回転して、姫の背面を取る。

 

「グァッ……!」

 

 直後、姫の背中に携えた艤装に滑り込ませる様に、姫の後頭部へと肘打ちを叩き込む。

 次いで木曾は、続け様に姫の背中に後蹴りを、更に姫へと振り向き様に前蹴りを喰らわせ、姫を突き飛ばした。

 

 姫は後頭部の激痛に耐えながら、木曾へと振り返ったが、既に勝負は決していた。

 木曾の砲塔から放たれた直撃弾の衝撃により、姫は錐揉み状に吹き飛ばされた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「格闘術は、球磨姉にみっちりと仕込まれたんだ。そう易々とやられるかよ」

 

 木曾は、仰向けのまま海面に浮かんでいる姫に言葉を投げ付けながら、沈みかけた軍刀を掬い上げ、一振り、海水を払い除け、鞘へと納刀する。

 

「敵ながら中々の腕だ。だが、球磨姉を殺ろうとした事については悪手だったな」

「……」

 

 木曾は姫の元へと近付き、己が砲塔へと砲弾を送る。

 重金属音が響き、木曾の砲塔は何時でも発射可能だという合図を告げる。

 

 そして木曾は、姫にトドメを刺すべく砲塔を、姫へと向けた。

 その木曾の目に、迷いは微塵も無かった。

 

「……」

 

 姫は、艦娘・木曾の顔を見据える。

 そして姫は。

 

「……」

 

 艦娘・木曾に向かって一つ、柔らかな頬笑みを投げかけた。

 

「……はぁ?」

 

 その唐突な姫の頬笑みに、木曾は一瞬、面食った。

 

「……ふん」

 

――潔く諦めたか、それとも気でも狂ったか。

 

「あの世で笑ってろ」

 

 そう考えた木曾は、思考を切り替え、その姫の笑みの意味を別段気にする事無く、背中に携えた砲塔のトリガーを引き抜いた。

 

「……あ?」

 

 しかし木曾の砲塔から、砲弾が発射される事はなかった。

 

「……ふ、ふざけるなっ!」

 

 何故なら、その時の木曾の身体は、まるで金縛りにあったかの様に、次の行動に移す事が出来なかったからだ。

 木曾は自身の脳裏に浮かんだ次の行動を、自身の身体へと強く連続的に司令を出し、実行に移そうとする。

 しかしその司令は、木曾の心がぎゅうと司令を抑え付けた事により、実行に移される事は無かった。

 

「……こんな時に!」

 

 叫び声を上げ、上手く身体が動かない自分自身に対し、苛立ちの言葉を叩き付け、木曾は無理やり身体を動かそうとした。

 そう、木曾の頭の中では、次の姫に対する木曾自身の行動を肯定していたが、木曾の心によって、次の木曾自身の行動が否定されていた。

 

「くっ……!」

 

 

―― 木曾は唇を噛み締め、心の中で叫んだ。 ――

 

 

 コイツは敵だ。

 コイツは深海棲艦だ。

 

 コイツは球磨姉を殺そうとした奴だぜ?

 そんな奴に俺は情けを掛けるつもりなのか? 

 敵に対してそんな感情を抱いた事が一度でもあったか?

 

 無いだろ? 

 じゃあ、なんで俺の身体は動かないんだよ!

 

 なあ、そもそもコイツのその顔は何なんだよ……。

 何でコイツはこんなに満足げな表情を浮かべているんだ?

 俺に殺されるのがそんなに嬉しいのか?

 

 やめろ。

 やめてくれ。

 そんな笑顔を俺に向けるな! 

 その笑顔は……まるで……まるで……。

 

 

―― 球磨姉と同じ笑顔じゃねえかよ。 ――

 

 

「――――球磨……ね……え……?」

 

 

 それは無意識だった。

 気が付くと木曾は、姫に対して己が長姉の名前を、ぽつりと漏らしていた。

 

「……やっと……話が出来たな……木曾」

 

 そして姫は、木曾の呼び掛けに答えた。

 その声色は、先程の姫の海底から唸る様な掠れた声ではない。

 

 そう、聞き間違えようがない。

 その声色は、木曾が知っている、紛れも無い自身の姉。

 

 「艦娘・球磨」と全く同じ声色だった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 艦娘や司令官たちから恐れられている、彼女の存在。

 ある海域下での深海棲艦における司令塔の役割を担う存在である性質上、彼女の名前は「姫」という通り名で呼ばれていた。

 

 そして彼女の在りし日の名前は、「軍艦・球磨」。

 

 1944年1月11日にマラッカ海峡沖で沈んだ「軍艦・球磨」。

 その成れの果ての姿が、其処にはあった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「そんな……嘘……だろ……球磨姉……」

「……」

 

 青褪めた木曾は、海面に仰向けになっている軍艦・球磨の顔を見据えた。

 対する軍艦・球磨は、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、木曾の顔を見つめていた。

 

「なあ……どうして……そんな姿になっちまったんだよ……」

「……すまなかった」

「やめてくれ、謝るなよ……俺は……球磨姉の事を……確か……俺は……」

 

 そして木曾は、身震いした。

 自分が、今、一体何をしようとしていたのかを。

 

――俺は……球磨姉を……殺そうとした?

 

 

 ……………………………… 

 

 

 「艦娘」は「艤装」にその身を守られている時に限り、「深海棲艦」という異形の怪物と同等、或いはそれ以上に渡り合える力を得る事が出来る。

 

 しかし強大な敵へ立ち向かう事が可能になる艤装にその身を包まれている時でさえ、一つだけ守る事が出来ないモノがある。

 それは「心」という、急所を突けばいともたやすく壊れてしまう、脆く儚いモノであった。

 

 艦娘は艤装を取り払ってしまえば、それは只の「生身の女の子」である。

 

 元来の木曾は、冷静沈着で男勝り、姉譲りの勝気な性格である。

 どんな敵でも、どんな困難に陥っても、決して臆せずに立ち向かう事が出来るだけの、勇猛さを持ち合わせている。

 例え、自分が沈む結果となりえても、それを受け入れるだけの覚悟も持ち合わせている。

 戦闘時、私情を捨て去り、敵に情け容赦を掛けずに戦う、非情さも持ち合わせている。

 

 その為、木曾が戦場、ましてや日常生活の出来事で動揺を覚える事は皆無に等しい。

 だが、それはあくまで敵と対面した時や私事による、木曾にとっては日常の状況という場合である。

 

 では、今の状況はどうだろうか。

 自分が良く知っている実姉、その生き写しが敵として登場したというこの状況。

 一体誰が、この非日常を想像できようか。

 

 そして姫が、いくら「分岐したもう一人の球磨の存在」とは言え、木曾は自分自身の姉妹艦、己の姉を殺そうとした。

 例え敵で、深海棲艦で、木曾が知っている姉とは別の存在であったとしても、敬愛する姉の生き写しである存在に、果たして刃を向ける事が出来るのだろうか。

 刃を振り下ろす事が出来る程、姉である球磨に対しての木曾の愛は浅薄なモノだったのか。

 別人で切り捨てられる程、木曾の心は強靭か、或いは既に壊れてしまっているモノだったのか。

 

 もし、実の姉である球磨を殺せという命令が下された時、果たして木曾は命令に従ったのだろうか。

 もし、実の姉である球磨を自身の手で殺めてしまった時、果たして木曾は動揺せず、また涙を禁じ得る事が出来たのだろうか。

 

 木曾は、実姉の死さえも悼まない実妹だったのか。

 

 そんな筈が無かった。

 木曾は、自分が知っている球磨とは別人であると理解していても、「軍艦・球磨」が今浮かべている笑顔と、「艦娘・球磨」が時々浮かべる母親の様な柔らかな笑顔を思い出し、重ねずにはいられなかった。

 

 今の木曾の目には、今目の前に居る存在が、実姉である艦娘・球磨として映っていた。

 木曾は、その考えを頭で何度も否定したが、心で理解してしまった。

 心で理解してしまった以上、もう止められない。

 

 そして木曾は、濁流の様に押し寄せる「球磨姉を殺そうとした」という自責の言葉を、頭の中でぐちゃぐちゃとリフレインさせた。

 

 木曾は、身体の震えを止める事が出来なかった。

 木曾は、何とも言えない嫌な汗が滲み、顔から血の気が引き、眩暈と胃液が逆流しそうな感覚を、手で口を塞ぐ事によって、必死に抑え付けた。

 抑え付けた反動からか、木曾の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。

 言葉にしがたい悲しみや憐み、そして己の姉を殺そうとした罪悪感から、ぽろぽろと涙を零した。

 それと同時に、木曾の身体から力が抜け、ばしゃりと海原に膝を突き、己が身を抱き、唯静かに嗚咽を洩らした。

 

 その刹那、木曾と姫の周りを取り囲む様に、煙幕の帳が降りた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「撤退にゃ。敵の増援が直ぐ傍まで来ているにゃ」

 

 煙幕の帳から水飛沫を上げて木曾へと近付き、海原に涙を落とす木曾の肩を抱いたのは。

 2番目の姉である艦娘・多摩であった。

 

「……多摩……か?」

 

 軍艦・球磨は、孤独を抱いた表情を浮かべ、多摩に対して問いかける。

 

「そうにゃ。球磨型軽巡洋艦の2番艦、多摩だにゃ」

 

 多摩は浅紫色の髪を揺らしながら姫を一瞥し、静かな口調で軍艦・球磨の問いかけに答えた。

 

「……そうか」

 

 軍艦・球磨は静かに頷き、目の前で弱々しく嗚咽を洩らす木曾の頬へと優しく触れる。

 木曾はその手を払う事もせず、静かに自分の手を軍艦・球磨の手と重ね合わせた。

 

「……すまなかった、木曾を頼む」

「……言われなくてもそうするにゃ」

 

 刹那、遠距離から煙幕に直撃しない様な形で、砲弾の雨が降り注いだ。

 

「……それと、お前たちに一目会えて嬉しかった。北上と大井にもよろしく頼む」

「……分かったにゃ」

 

 深海棲艦の増援が間近に迫っていたのである。

 もはや三人には、一刻の猶予も残されていなかった。

 軍艦・球磨は、先程まで触れていた木曾の頬から手を引いた。

 

「……煙幕が晴れる前に早く行った方がいい。私の仲間が直ぐ傍まで来ている」

「……木曾、行くにゃ」

「いやだ……まって……待ってくれよ……!」

 

 木曾はしゃくり上げながら無理やり言葉を発し、自分の頬から離れた軍艦・球磨の手を握ろうと、手を伸ばす。

 

「木曾っ!」

「ぐっ……!」

 

 しかし多摩は、木曾の行動を静止させる為、木曾の背中に携えた艤装の横から腕を差し込み、羽交い絞めで、木曾の華奢な身体を拘束した。

 

「……さよならにゃ」

 

 多摩は、軍艦・球磨に別れを告げる。

 

「離してくれっ! ……球磨姉ぇ! 球磨姉ぇえええ!!」

 

 木曾を抱きかかえる様に拘束した儘、多摩は脚艤装の出力を上げた。

 そうして引き離されていく木曾の目に映ったのは。

 

「……さよならだ」

 

 満足げに木曾へと投げかけられた、軍艦・球磨の笑顔だった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「……お前の言った通りだった」

 

 気が付けば日は没し、辺り一面が濃く青い光に包まれ、水平線が薄暗い虹色を描いていた。

 海面に仰向けになった軍艦・球磨の周りを、部下である深海棲艦たちが、おろおろと心配そうな顔を浮かべ、軍艦・球磨の事を見つめていた。

 

「多摩は猫っぽくて、北上と大井はとても仲が良さげだった。そして木曾は、凛々しく、威勢が良くて、それでいて……くく……なるほど、確かにお前の言った通りだ」

 

 軍艦・球磨はくつくつと笑いながら、在りし日の事を静かに回想していた。

 

「……本当、木曾には悪い事をしてしまった……」

 

 軍艦・球磨は、つんつんと心配そうに自身の脇腹をつつく、まるで魚の様な形をした深海棲艦、「駆逐イ級」の頭をそっと撫でながら、日が没し、深き縹色に染まった大空を、唯茫然と眺めていた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――1800、日本国近海航路、海上警備ルート、地点A。

 

「頼むよっ! 離してくれ、多摩姉ぇ!! アイツは……! アイツは……!」

 

 木曾を拘束していた多摩は、安全圏まで離脱したのを確認すると、肩が外れそうな勢いで暴れる木曾を離す。

 多摩は、それでもなお戻ろうとする木曾の腕を引っ張り、正対した木曾の肩を両手で強く掴んだ。

 

「……離せよ、多摩姉……!」

「……分かってるにゃ」

 

 多摩は自身の目を、木曾の涙を浮かべた目と重ね合わせた。

 

「多摩……姉……?」

 

 そして悔しそうな声を洩らし、歯を食い縛る、実姉である多摩の様子に、強張った木曾の身体から次第に力が抜けていく。

 

「……生き物には良くも悪くも其々動きの中に癖みたいなものがあるにゃ。だけど生き物は、その癖を最大限に生かす事によって、その生き物にとっての癖は、最大の強みとなっていくにゃ。そして人型は、野生動物以上に、動きの違い、その個体差が顕著に現れるにゃ」

「じゃあ……やっぱり……アイツは……」

 

 恐る恐る口を開いた木曾に対して、諭す様な口調で持論を展開した多摩は、一呼吸の後、結論を述べた。

 

「あの姫の動き……砲弾や魚雷を躱すあの動きの癖は……紛れも無い『球磨ちゃん』の癖だったにゃ」

「……!」

 

 その多摩の言葉に木曾は、悲しみと無力感に耐え切れず、力なく首を前に垂れた。

 

「――木曾」

「……大井姉」

 

 殿として木曾と多摩を追随していた大井が、項垂れた木曾へと近付くと、優しく木曾に呼びかけた。

 木曾は、それに答えるかの様に、大井の胸元へと倒れ込み、身体を預ける。

 

「分かってんだよ……アイツは俺の知っている……球磨姉じゃないって事は……でもさ……でもさ……!」

「……ええ」

 

 ぽつりぽつりと悲しみを零す木曾を、大井は木曾の頭を自身の胸元に優しく引き寄せて、そっとその頭を撫でた。

 

「俺には、撃てないよ……いくら別人だとしても……大好きな……球磨姉の事を……!」

「……よしよし、辛かったわね」

 

 そうして大井の胸を借りてすすり泣く木曾を、大井は強く抱き締め、そして木曾の背中をぽんぽんと、子供をあやす様に優しく叩いていた。

 

「う~ん……本当……これからどうすんのさー……多摩姉ちゃん?」

 

 その大井と木曾の様子を見ながら、同じく殿として追随していた北上は、思い悩んだ表情を浮かべ、隣に居る多摩に尋ねる。

 

「どうもこうもないにゃ」

 

 多摩は大きな溜息を吐き捨てると、北上へ憂いを含んだ表情を投げかけ、そして粛たる声で答えた。

 

「もうこれは多摩たち、姉妹の問題じゃないにゃ。他の誰でもない、球磨ちゃん自身の問題にゃ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章:めんどうみたあいてには
第1節「託された約束、時代の終焉」


 

――――1943年11月、1630、沼南島(シンガポール)、セレター海軍基地、第101工作部。

 

『……』

 

――これで、3度目の夢だ。

 

 暦では11月らしいが、場所が赤道直下の為、ジトジトと湿気が肌に纏わり付き、かなり蒸し暑く感じさせられた。

 以前は英国軍が利用していたセレター海軍基地であったが、先の「新嘉坡(シンガポール)の戦い」にて帝国海軍が現地を占領した現在では、作戦参加艦艇の修理整備を行なう為の特設工作部として稼働していた。

 そして其処には現在、一隻の軍艦が乾船渠(ドック)に入渠しており、5番主砲、航空機射出装置(カタパルト)と吊り上げ装置(デリック)を撤去し、25ミリ3連装機銃を新たに増設するという、兵員輸送特化改装工事が行われていた。

 

『……!』

 

「……」

 

 すれ違う水兵全員から敬礼を受け、カンカンと軍靴を鳴らしながら舷梯を上る、白衣の第二種軍装を纏った影が一つ。

 舷門を潜り、上甲板へと上がり、他の水兵や整備兵を掻き分け、更には艦首付近の甲板まで歩を進める、初老の軍人の影が一つ。

 そうして今は人影の無い艦首付近へと、唯一心不乱に歩を進める父親の影が一つ。

 

「久しぶり」

 

 そして、どこからともなく響いた少女の凛とした声色が、その男の耳に触れた。

 その男は、周りを見渡し、自分の他に誰も居ない事を確認すると、中空へと言葉を投げかけた。

 

「……久しぶりだな」

 

 初老の軍人と旧式の軍艦。

 

「大分、やつれたな。提督」

「……そういう貴様は、ボロボロだな。球磨」

 

 「在りし日の提督」の姿と「軍艦・球磨」の姿が、其処にはあった。

 

「中将になったって話を聞いた。おめでと」

「……ありがとう」

 

 再会の喜びを孕んだ声色を投げかける球磨に対して、更に階級を上げていた在りし日の提督である「中将」は、喜びとは裏腹に何処か上の空で言葉を返していた。

 そして中将は、艦首付近にある波切板を背もたれに、力なく腰かけると、球磨に言葉を投げかけた。

 

「……細やかながら、色々活躍して回ったそうじゃないか」

「比島(フィリピン)の海で敵艦をちぎっては投げまくった。やっぱり球磨は、意外に優秀だ。上陸作戦の際も、球磨に搭乗していた特別陸戦隊がサンボアンガに上陸して、取り残されていた同胞を救出した」

「……そうか」

 

 中将の眼前には、ボロボロになった日章旗が、静かに揺れていた。

 

「……魚雷が命中したって聞いた」

「比島(フィリピン)攻略作戦の時に米魚雷艇と戦って、その時一発が艦首に当たった。この球磨をもってしても、ここまでと覚悟した。だけど何故か魚雷は爆発しなかった。あの時は本当、もう少しで死ぬところだった」

「……そうか」

 

 安堵の溜息を一つ吐いた中将は、憂いの表情を浮かべた儘、黄昏色に滲み始めた空を静かに眺めていた。

 

「それよりも提督は何故、此処に居るんだ? 越南(サイゴン)司令官の仕事はどうした?」

 

 そういえば何故、提督が此処に居るのか気になった軍艦・球磨は、中将の現状について尋ね返す。

 

「……2か月前に任を解かれた。流石に私も歳だ。数日前に日本への帰国命令が出たが、貴様が此処に居ると聞いて、無理を言って沼南経由での帰国に変えた……数時間後には、日本行きの艦艇に乗艦して、帰国する手筈となっている」

「そうだったのか。それにしても……そこまでして、こんな旧式の軍艦に会いに来てくれたのは、本当嬉しい」

「……それぐらいしか、今の私に出来る事はないからな」

 

 更に悲しみを吐き捨てた中将の姿は、とても朧であった。

 

「帰国したら提督はどうする?」

 

 その中将の様子が少し心配になった球磨は、更に問いかける。

 

「……帰国したら、予備役として昨今設置された軍需省に就けとの事だ」

「そうか、ならお互い後方任務だ」

「……そうさな、お互い後詰だな」

 

 そうして二人は、皮肉的ながらも温かな笑みで言葉を交わした。

 その二人の言葉には、何とも言えない親近感があった。

 

 だが、それが中将の憂いの種では無い事は分かり切っていた。

 そう言葉を返した中将の声色や姿から、何時も纏っていた筈の覇気が、いつの間にか抜け落ちている。

 この様な中将を見たのは、球磨も初めてだった。

 

「どうしたんだ、提督? 何かあったのか?」

 

 やはりいつもと違う中将の様子に、球磨は心配になって尋ねた。

 

「……球磨。一つ聞きたい」

 

 そして中将は一呼吸の後、球磨に対し、憂鬱を含んだ声で、問いを投げかける。

 

「球磨は、自身の存在理由について疑問を抱いた事はないか?」

「――――無い」

 

 だが、その中将の問いかけは、軍艦・球磨によってあっさりと否定されてしまった。

 

「開戦前にも言ったかもしれないが、球磨はこの国を、ひいては誰かを護る為に生み出された軍艦だ。球磨は唯、お前たちの想いを乗せ、散華するその時まで戦うだけだ」

 

 そうして真ん丸と目を見開いた中将に対して、球磨は更に力強く宣言した。

 

「お前たちが球磨に託してくれたその想い。それが球磨自身の想いでもあり、球磨が戦う理由だ」

 

 その輝きは、今の中将には眩し過ぎる程、強いモノであった。

 

「……貴様は強いな」

「当然だ」

 

 中将の言葉に球磨は、ふふん、と愛らしげに鼻を鳴らした。

 

 

―― その軍艦・球磨の信念を纏った声色を聞いて、中将は思った。 ――

 

 

 これ程、気高く、一点の曇りや疑念もなく、唯自身の想いだけを信じて「戦う」事が出来る少女。

 その想いを果たす為なら、この娘は嬉々として、世界にその身を捧げるだろう。

 

 砲雷撃の雷雨に耐え、戦の炎に焼かれてもなお、激動の時代を駆け抜けようとする、この娘の雄姿。

 

 この時、私は改めて思い知らされた。

 私なんかが遠く及ばないほど、この娘は純粋で無垢だ。

 この娘は気高い存在だった。

 

 

―― 唯々清らかな器、それがこの娘だ。 ――

 

 

 そして中将は、敬意と賞賛と愛情が入り混じった感情の儘、ぽんぽんと鉄板装甲に手を触れ、その表面を優しく撫でた。

 そうして触れた鉄板装甲は、先刻まで燦々と照りつけていた太陽光のせいか、幾分か熱を含んでいたが、不思議な事に触り続けられない程、熱くは無かった。

 

「なでなでしないで欲しい。ぬいぐるみじゃない」

 

 軍艦・球磨は、むぅと目を細めた様な声を上げたが、中将は言葉を返そうとしなかった。

 その中将の表情は、優しいながらも、悲しみに満ち溢れていた。

 

「……提督、球磨で良ければ話を聞く。一体何があった……?」

 

 いよいよ心配になった球磨は、中将に再び尋ねた。

 

「……少し前に司令部でな、ある話を聞いたんだ」

「ある話?」

 

 中将は、一つ一つ悲しみを洩らす様に、話を始めた。

 

「戦備考査部会議や第一線から、起死回生になるであろう窮余の一策、戦局を挽回するであろう戦法が複数挙げられた……しかもその戦法は、全て同じ様な内容だった……皆が口を揃えた訳でも無いにも関わらず、だ……」

「それは一体……」

 

 言葉を無理やり吐き出す様に中将は、口を開く。

 

「爆薬を積んだ戦闘機なり魚雷なりに乗り込み、それを乗員が操作して、米英の敵艦に体当たりする必中の戦法」

 

 そして、それはもう泣きだしそうな程、悲痛な声で、歯を食い縛りながら、その戦法を洩らした。

 

「それって……! それでは乗員は……!」

「……言わずもがな」

 

 その中将が述べた戦法を聞いた軍艦・球磨は、「来るところまで来てしまった」というやるせなさを、ひしひしと心で感じていた。

 

「ミッドウェー海戦以降の前線の話は常々聞いてはいたが……まさか……それ程まで、第一線の戦況は追い詰められているのか」

「……そうだ……今はまだ提案段階とは言え、既に独断による実行例が各地前線で報告されている……それに戦況は、日に日に悪化している……海軍中央部も、近々首を縦に振らざるを得ないだろう……」

「……」

「……私は」

 

 そうして歯の食い縛りを緩めた中将は、弱々しい笑みを浮かべながら、自身の心情について、球磨に語った。

 

「……私はな、球磨……その話を聞いた時……私の心を支配したのは……誰かを護る為に人はそこまで己を捨てられるのかという、自己犠牲に対する敬意の念と……戦争が人を兵器に変えてしまったという、戦争倫理に対する悲嘆の念だった……それで、ふと……私は思ってしまったんだ……」

 

 中将が浮かべた弱々しい微笑。

 

「人は生まれたら、後は死ぬだけの存在だ……だが結局、そこまでして私は何の為に戦っているのだろうな……敗戦は免れないのに……私たちが必死になって戦った未来は、一体どうなっているのだろうか……その先に、意味はあるのだろうか……?」

 

 その笑みは、自分自身で掲げた信念なのに、いつの間にか自分自身がその信念、生きる意味を否定し、自分自身と交わした約束と責任を反故にしようとしているという嘲笑。

 

「……情けないよな、軍人として誰かを護る想いを抱いて戦っていた筈なのに……いつの間にか私自身の想い、私自身の存在価値に疑問を抱いてしまっている」

 

 他の誰でもない、中将自身に対しての嘲笑だった。

 

「この戦いや私の想い……私の今まで生きてきた意味に、一体どれだけの価値があったんだろうな……」

 

 其処には、生きる意味さえも見失った、とても弱々しい初老の男の姿があった。

 

「てーとく」

 

 軍艦・球磨は、堪らずその初老の男に呼びかける。

 

「答え合わせをしないか?」

 

 そして自己否定の念を浮かべた中将に対して、球磨は信念の籠った声色で、言葉を紡いだ。

 

「……答え合わせ?」

 

 その軍艦・球磨の言葉を、中将は反芻する。

 球磨は大きく頷いた様な声色を上げ、口を開いた。

 

「球磨は軍艦とは言え、後方任務が主体だから、生き残る可能性がある」

 

 そして軍艦・球磨は、柔らかな口調で中将に優しく語る。

 

「もしお互い、生きて終戦を迎えたら……この戦争や提督と球磨の想いに、どれだけの意味や価値があったのか……お互いに見つけた答えを、交わさないか?」

 

 その声色には、かつての中将と同じく、強い信念が込められていた。

 

「その答えがどれだけの価値を孕むモノなのかは、球磨には分からん。もしかしたら歴史や社会からしてみれば、提督の想いなど、泡沫の様に儚いモノなのかもしれない。価値が無いモノなのかもしれない。それでも……提督が己の想いを信じ、天命に従い、進み、そして戦ってきた道だ。きっと何かしらの意味が、提督の中にはあるはずだ。世間一般で言われる価値以上のモノが、その答えの中にはあるはずだ」

 

 ふと中将は、軍艦・球磨の影を、目の前に見た気がした。

 中将は目を擦り、見上げる形で、その影を見据えた。

 

「……球磨も提督のその強い輝き、その想いに見合うだけの答えを探してやる。いや、それ以上の価値を見出してやる。だから提督……そんな顔をしないで欲しい……」

 

 白衣の水兵服を纏い、鳶色の長い髪と瞳を抱き、頭の癖毛を揺らす、端麗な顔立ちの少女。

 

――それが、貴様の本当の姿か。

 

「……」

 

 そして中将を見据える少女の顔色は、中将の心の内幕を映した様に、とても切なげであった。

 

「……分かった、球磨」

 

 暫くの沈黙の後、中将はすっと立ち上がると、軍艦・球磨の影に向かって、吹っ切れた様な笑顔を投げかけて、口を開いた。

 

「約束しよう。終戦までに私自身、答えを探しておく」

 

 中将のその笑顔、それは月の様な輝きを帯びていた。

 

「そうか……!」

 

 その中将の言葉を聞いた軍艦・球磨は、めいっぱいの笑顔を中将へと投げかける。

 投げかけられた球磨のその笑顔は、太陽の様な輝きを帯びていた。

 そしてその瞳は、琥珀石にも思える程、強く輝いていた。

 

 中将はもう一度目を擦り、目の前に視線を投げかけるが、其処にはもう誰の影も無かった。

 

「そうさな……口約束だけでは寂しかろう、これを貴様にやる」

 

 ふいと、思いついた中将は、自身が被っていた士官軍帽を、隣に備え付けられていた揚錨係留装置(ケーブルホルダー)の上に、ぽんと置いた。

 

「……気持ちは嬉しい。だけど、球磨はこの身体だ。受け取れない」

 

 その子供の様な中将の姿を見た軍艦・球磨は、少し困った声色で中将に言葉を投げかける。

 その声色には、受け取りたくても受け取れないという、もどかしさが含まれていた。

 

「なら、今の艦長にこの軍帽を艦長室の片隅にでも置いておくよう頼む。私も一時期とは言え、球磨の艦長になった身だ。『例え、形だけでも君たちと一緒に戦いたい』とでも言っておこう。あながち、間違いでもないしな」

「分かった。それなら球磨は、提督の軍帽を約束の証として受け取る事が出来る」

 

 その中将の言葉に喜んだ軍艦・球磨は、静かにその申し出を受け入れた。

 

「……終戦後、また会おう。そして答え合わせをしよう。この戦争に、この私と球磨の想いに、どれだけの価値があったかをな」

「ああ、約束だ!」

 

 そうして中将は、現艦長と二言三言話した後、艦長室の片隅、例え艦長が変わったとしても、ちょっとやそっとじゃ見つかる事が無い様な死角に、自身の士官軍帽を置くと、名残惜しそうに艦から降りて、最後に軍艦・球磨を一瞥した。

 

 艦首付近には、先程見た軍艦・球磨のちんまりとした影があり、中将の月明かりの笑みに負けないくらいの満面の頬笑みを浮かべながら、上甲板からぶんぶんと手を振ると、海軍式敬礼を中将に投げかけた。

 中将は、柔和な笑みを掲げながら、球磨に対して敬礼を返した。

 

 数刻後、中将は日本行きの艦艇へと乗り込み、セレター海軍基地を後にした。

 これが中将の、軍艦・球磨との最後の別れになった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――1944年1月、1700、軍需監理局。

 

 日が没する黄昏の冬。

 蝋が塗られ、赤茶に照った木材床の廊下を、コツコツと軍靴を鳴らしながら歩く、第一種軍装に身を包んだ初老の影が一つ。

 その男は、時々廊下ですれ違う、畏れと賤しさが入り混じった顔で敬礼を投げかける者に対し、心の中で溜息を吐きながら、敬礼を返した。

 

 その男、日本に帰国した中将は、軍需省の管理部長の任に就いていた。

 久方ぶりの故郷の街並みは、重苦しく退廃していたとは言え、長らく外国にいた中将の郷愁の念を誘うのには十分だった。

 恐ろしい程緩やかに、其処では時間が流れていた。

 

「……42年6月のミッドウェー海戦から、全てが狂った」

 

 ふと目の前、その廊下の角先から、誰かの話声が漏れてきた。

 精鍛な声色かつ何処か泥臭さが少ない口調から察するに、若い海軍士官だろうと、中将は考えた。

 

「……赤城、加賀、蒼龍、飛龍……正規空母四隻を失ったのが大きかった」

「……撤退時に三隈を失った事もな」

 

 中将は廊下の角を曲がらず、丁度、三人の若い士官たちの死角になる位置の壁に、音も無くもたれかかる。

 そうして、その手に持っていた資材管理帳簿を開きながら、廊下で話す若い海軍士官たちの悲痛な叫びに耳を傾けた。

 青褪めた声で話を続ける海軍士官たちは、近場の影に自身の上官である中将が居るとも知らず、話を続けていた。

 

「ソロモンでは、加古、龍驤、比叡、衣笠、綾波、霧島、暁、夕立……サボ島では吹雪、叢雲、古鷹……その後は由良、高波、天龍か……ああ、畜生っ……! 自分で言ってて頭が痛い……!」

「昨年の冬だけで、夕雲、望月、初風、川内、夕霧、大波、巻波、冲鷹が沈没し、伊号第19は行方不明らしい……」

「嘘だろ……!」

 

 その言葉を聞いた中将は、もの悲しさを溜息と一緒に吐き捨てた。

 何故だろうか。

 中将には、この若い海軍士官たちの嘆きが、中将自身が発した言葉の様に思えてならなかった。

 

「それでも……俺たちに出来る事は何かないのか……! ……形はどうあれ、俺は最後まで戦うつもりだ……!」

「気持ちは痛い程分かるが、一寸落ち着けって……! それに、後詰の俺たちに一体何が出来るっていうんだ……!? 敗戦は免れないって言うのに……」

「敗戦が何だって言うんだっ!? 戦争に負けたからと言って、俺は米国の奴隷になるつもりなんて毛頭無いぞっ!!」

 

 その一人の若い海軍士官の言葉に、ふいと、中将は昔一度だけ会った事のある、魅力と才能に溢れた壮年の男の事を思い出した。

 あの男は当時、かなりの社会的地位を持ち、時の政治家たちとも繋がりのある男だったが、当時の世論とは裏腹に、この国の敗戦を語った。

 そして開戦直前にあの男は突然、全ての地位を投げ捨て、田舎に家と畑を買い、そして暫くの後、疎開した。

 最初、腰抜けと世間から嘲笑されてはいたが、今にして思えば、その先見の明に脱帽せざるを得なかった。

 

 それぐらいの政治感覚と先見の明が中将にも無かった訳ではないが、軍人と言う立場、そして自分自身の想い、その信念に反する事は中将自身が許さなかった。

 

『もしお互い、生きて終戦を迎えたら……この戦争や提督と球磨の想いに、どれだけの意味や価値があったのか……お互いに見つけた答えを、交わさないか?』

 

 そしてそれ以上に、中将には決して反故に出来ぬ「あの娘」との「約束」がある。

 中将はその約束を交わした時、いや戦争が始まるずっと昔から、「あの娘」に対しての自分自身の想いを素直に認めていたのだ。

 

「……人生は戦いなり、か」

 

 ぽつりと、中将の口から言葉が漏れた。

 よくよく考えたらあの男は、癇癪持ちの癖して憶病とも言えるほど繊細な精神の持ち主の様であるから、単に血を見るのが怖かったから疎開したとも言える。

 だがあの男は、決して「戦い」に背を向けて逃げる様な男ではなさそうだ。

 あの類は、中将と同じく、自分自身の想い、その信念の為なら、己が精神、ましてや命さえも厭わずに戦う事が出来る心を持った男だ。

 恐らくはあの男も、あの男なりの信念があってその道を選んだのだろう、と中将は思った。

 

「私もあの男も、そしてあの娘も……いや皆が各々の信念を纏って……形はどうあれ、必死に戦っているのだろうな……」

 

 気が付くと、海軍士官たちの話声は既に遠退き、しんとした空気が、廊下へと降りていた。

 パタンと資材管理帳簿を閉じ、再び歩を進めた中将は、静かに廊下の角を曲がったが、其処には誰も居なかった。

 

 くたびれた廊下、その視界は暗褐色に塗られ、寂しくドンヨリとした空気が圧し掛かっており、四角の窓から夕陽だまりが、ぽつり、ぽつりと落ちていた。

 時々、窓の外に映る枯れ木を抱いた黄昏の空を眺めながら、中将は仕事場である、管理部長室へと、再びコツコツと軍靴を鳴らした。

 

 その日の夕映えは、血液を垂らした様に、紅く滴り、広がっていた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――1944年1月、1730、軍需監理局、管理部長室。

 

 コンコン、コンコン、と管理部長室の扉が四度の繊細精強な物音を立てる。

 

「入れ」

「失礼致します、中将閣下」

 

 管理部長室の扉を開けたのは、若い陸軍将校だった。

 小柄な中将とは違い、陸軍らしく筋骨隆々な出で立ちである。

 陸軍将校は、柔らかな物腰で扉を閉めると、業務机に座っている中将を見据えた。

 

「件の主要軍需会社生産管理に関する資料を持って参りました。それと幾つか中将閣下が本部に頼まれた資料も届いております」

「ああ、そこの棚に置いておいてくれ」

「承知致しました」

 

 そうして陸軍将校は脇に抱えていた資料を、資料棚の端へと並べていった。

 

「いつもすまない」

 

 資料を棚へと均一に整頓する陸軍将校を尻目に、万年筆を書類に走らせながら、中将は答える。

 

「いえ、私でよろしければ何時でもお声掛け下さい」

 

 資料を並べ終わった陸軍将校は、堅物厳格ながらも敬意を含んだ陸軍式敬礼を中将へと投げかけた。

 実の所この陸軍将校は、海軍出身で、更に突慳貪な態度を取る中将に対し、最初はあまり良い印象を持っていなかった。

 だが陸軍将校は、何度か会話を重ねていく内、中将に対しての印象を改める事になる。

 

 この激動の時代において中将は、やや偏屈者ではあるが、理知的に物事を見据る慧眼を持った人物である事を知るに至る。

 故に陸軍将校は、中将の事を尊敬に値する人物であると、高く評価していた。

 

 そして近頃では、こうして中将直々の指名を受ける事についても、やぶさかでは無かった。

 最も中将が陸軍将校の事をどう思っているかは知らなかった。

 

――だけど、毎回毎回、僕を指名する辺り、それなりに僕の事を買ってくれているのだろうか。

――いや、ある意味では似た者同士なのかもしれない。

 

 陸軍将校は、中将に対し、なんとも言えない親近感を抱いていた。

 

「中将閣下、つかぬことをお伺い致しますが……」

「何だ?」

 

 だからこそ、時々こうして会話を挟む事が出来た。

 だからこそ、陸軍将校は尋ねた。

 

「中将閣下は、戦前に『軍艦・球磨』の艦長をなされていたとの事で」

 

 陸軍将校が運んできた資料群。

 その中、各種軍艦艇戦時日誌資料の中に『軍艦・球磨』の資料が紛れ込んでいたからだ。

 

「そうだが、それが何か?」

 

 ピタリと、万年筆を走らせるのを止め、何処かドスの利いた声で中将は、陸軍将校に返答した。

 余りの恫喝的な声に、陸軍将校は狼狽しながらも、口を開いた。

 

「いえ、その……艦長として乗艦なされた際、どの様な心境だったのかを、お聞きしたくて……」

 

 それを聞いた中将は、頬杖を付き、そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに口を開いた。

 

「どの様な心境と言われても、所詮は軍務の延長だ。士官の転勤など日常茶飯事だろう。それに軍艦の艦長など、偉くなる為の箔付けに過ぎん」

「なっ……!」

 

 その返答に若い陸軍将校は、天下の海軍中将にあるまじき言動では無いかとムッとした。

 

――中将閣下、お言葉ですが……!

 

 だが、その言葉が口に出される事は無かった。

 ふと、陸軍将校は、普段の中将とはどこかズレた返答に違和感を覚えた。

 先程のドスの利いた声といい、普段は目線を合わせて話す中将だが、「軍艦・球磨」の話題が出た途端、先程から目を合わせようともしない事に、陸軍将校は疑問に思った。

 

「それで君は何故、その様な事を私に聞く?」

 

 だが先程まで、目線を逸らしていた中将。

 その中将は、いきなり射抜く様な眼差しで陸軍将校を捉え、声色を低くして話の続きを促した。

 

「え、ええと……」

 

 その眼差しに陸軍将校は、少なからず戦慄する。

 その時の中将の目の鋭さは、鷹の目そのものであった。

 一寸でも下手な事を口走ったら掴み殺してやるという気概さえ伺えた。

 

 だが、下手な事を言うつもりは毛頭なかった陸軍将校は、慎重に言葉を探しながら中将を見据え。

 

「……実のところ、私は熊本県の球磨群出身でして」

 

 「軍艦・球磨」についての己が思い出を語った。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「ほう。それで?」

 

 気立ては良いが、少々お喋りなこの若い陸軍将校の話を、中将は「興が乗った」と言わんばかりに言葉を返した。

 その中将の返事に陸軍将校は、「待ってました」と言わんばかりに、目を輝かせて思い出を語った。

 

「軍艦・球磨……やはり自分自身の郷の名前が付いた軍艦には自然と熱が入るものなのですかね……! 水雷戦隊の旗艦を担う、最初の艦として建造され、あの長門型を超える9万馬力という大出力! そして、その馬力から生み出される36ノットという超高速!」

 

 中将は、他の出世欲に駆られる若者と違い、自己の信念を強く持つ、今のご時世で珍しいこの若者を高く買っていた。

 この陸軍将校を事ある毎に指名していたのは、純粋にこの若者の事が気に入っていたからであった。

 

「列車以上の拘束力を持ち、14センチ砲7門と53センチ連装魚雷発射管4基の強武装を携え、他の水雷戦隊の追随を許さないその気概! まさに熊本人の気概そのものを体現したかの様でした!」

 

――いや、それどころか、ある意味では似た者同士なのかもしれない。

 

 中将は陸軍将校に対し、なんとも言えない親近感を抱いていた。

 

「それはもう少年の時は、本当に感動しましたよ! あの時の感動は今でも忘れません! 今では旧艦扱いではありますが、それでもなお、彼の地でその武勇を振う雄姿は、胸踊ります!」

 

――それにしてもこれは、些か、気恥ずかしい。

 

 中将は自分が褒められている訳でもないのに、とても誇らしく思えた。

 陸軍将校の言葉のせいで、静かに零れ落ちた笑みを隠す為、中将は書類へと向かった。

 

「正直、申し上げますと、私も他の陸軍連中と同じく、海軍連中はあまり好きではありません……ですが、『軍艦・球磨』や他の艦艇は違います! とても誇り高い限りです……!」

 

 陸軍将校の話を静かに聞き入りつつ中将は、航空機及び関連兵器生産受注書に捺印し、民間地方鉄道網整備計画書に署名していった。

 思いの外、作業が捗った。

 

「そう……だからこそ……」

 

 しかし陸軍将校に目もくれず、書類へと向かい、万年筆を滑らす中将。

 その為、中将はこの陸軍将校の様子に気付かなかった。

 

「だからこそ……」

 

 この若い陸軍将校が、手を握り締めて、歯を食い縛って俯いていた事に。

 この若い陸軍将校が、悔しげに口を開いた事に。

 

「……は?」

 

 そして、若い陸軍将校の言葉に、中将は凍て付き、絶句した。

 

 

「――――先日、軍艦・球磨が沈んだ事は、本当に残念でなりません」

 

 

 陸軍将校が口にした、軍艦・球磨の轟沈。

 その、突然の訃報に。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 その言葉を聞いた中将は、時計の針が止まり、世界が突然終わった様な絶望感を覚えた。

 自分の心臓が突然誰かに掴まれ、ぶち抜かれた様な喪失感を覚えた。

 胸の中を蠢蠢とのたうち回る感情を吐き出したくて、剃刀で喉を掻き切られた様に、ひゅうひゅうと、息を洩らした。

 

「……中将閣下?」

 

 そして愛娘の訃報を伝えた、この若い陸軍将校の呼び掛けに、ぷつり、と何かが切れ、箍が外れた音を中将は聞いた。

 

「……ふざけ……るな……」

 

 中将は理知的、冷笑的、高踏的、そして利己的に生きてきた人生で初めて、理性を失った。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「――――ふざけるなっ!! そんな筈があるかっ!?」

 

 寸秒の後、突如として顔を上げ、腹の奥底から沸き出す様な怒号を張り上げた中将は、手に持っていた万年筆を机に叩き付け、書類を撒き散らし、椅子を蹴り倒しながら立ち上がると、飛び掛かる勢いで若い陸軍将校に迫り、その胸倉を掴み上げた。

 

「……ぅぐっ!?」

「あの海域で大規模な戦闘は発生していない筈だっ!! 出鱈目を抜かすなっ!!」

 

 この若い陸軍将校は体躯も良く、中将より一回りも大きかったが、その身体が半分中空に浮く程、掴みかかった中将の腕力は強く、万力で締め上げられた様であった。

 

「ぐっ……! 本当です、中将閣下……!」

 

 陸軍将校は戦慄した。

 確かに自分よりも階級が高い上官に掴みかかられては、恐怖を覚えるのは至極当然である。

 

 しかしそれを抜きにしても、只ならぬ中将の鬼気が、陸軍将校を唯々恐怖させた。

 この小柄な初老の上官の何処にこんな力があるのか、陸軍将校は唯々畏怖していた。

 

「先日11日……! 対潜戦演習時……! マラッカ海峡沖……! 英国潜水艦の雷撃を受けて……!」

 

 その恐怖から逃れる為、陸軍将校は己が知っている事実だけを端的に述べていった。

 

「そんなことが……! あって……! たまるか……!」

 

 その残酷な現実を聞いた中将は、青褪めた表情を更に紺へと染める。

 

「そんなことが……あって……たまるか……」

 

 その顔色は白く、もはや血が巡っていないぐらい蒼白であった。

 それと同時に、陸軍将校の首根っこを掴んでいた中将の手から力が抜ける。

 

「コホッ……ガハッ……!」

 

 陸軍将校は、咳き込みながらその拘束から逃れた。

 

「何をなさるのですかっ……!? 中将……閣下……?」

 

 危うく意識を失いかけそうになり、思わず声を荒げた陸軍将校は、襟を正し、先程まで自分を締め上げていた中将に正対し、見据える。

 

「……」

 

 しかし、先程まで陸軍将校を掴んでいた中将。

 その中将の姿に衝撃を受けた陸軍将校は、先程まで死にかけていた事さえも一瞬にして忘れてしまった。

 

「中将……閣下……」

「……」

 

 今目の前で項垂れている中将の姿は、見るに堪えない程、痛々しい姿であったからだ。

 陸軍将校の呼び掛けにも応じず、中将は暫くの間、咎人の様に首を垂れている。

 

 そうして不気味な程しんと静まり返る管理部長室には、沈黙と緊張の糸が走っていた。

 

「……」

 

 暫くの沈黙の後、中将は陸軍将校に背を向けると、ふらつきながら、先程まで座っていた、所々にインク跡や書類が散乱する机へと向かう。

 蹴り倒した自身の椅子を弱々しく引き起こし、骨が無くなった様にその椅子に腰かけると、窓の外へと視線を投げかけていた。

 

「すまな……かった……」

 

 そして悲しみを押し殺した声で、陸軍将校に言葉を吐き、中将は謝罪した。

 

「いえ……私こそ……中将閣下が激高なされる程、軍艦・球磨が思い入れ深いモノであったとは知らずに……配慮に欠けた事を……」

 

 陸軍将校は、中将の無念に共感しながら、先程掴まれた事が当然の結果であると考え、自分の非を詫びる。

 

「いや、君は何も……悪くない……ただ……ただな……」

 

 中将は陸軍将校に対して、更に言葉を探していたが、悲しみが中将の思考を邪魔しているせいか、それが口に出される事はなかった。

 

「すまないが……暫く、一人きりにさせてくれ……」

 

 その言葉の後、中将は一切の口を閉ざし、唯窓の外へと目線を向け、黄昏空を眺め続けていた。

 

「承知致しました……失礼致します、中将閣下……」

 

 逆鱗に触れてしまったという事よりも、中将の打ちひしがれた姿に胸を痛めた陸軍将校は、震える手で敬礼し、とぼとぼと、管理部長室を後にした。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「……確かに、あの娘は後方任務とは言え、戦地の真っただ中に居る……無論、この瞬間は覚悟していた……だが……」

 

 落日の陽が光を失い始め、透きとおる鮮やかな柿色の光が、管理部長室の窓から降り注ぐ。

 そうして斜陽が誰を責める事無く、中将の居る部屋を照らしていた。

 

「約束はどうした……」

 

 中将の膝には、ぽつりぽつりと、悲しみの雫が、滴り落ちていた。

 

「答え合わせはどうした……」

 

 中将の瞳からは、弔いの涙が、人知れず静かに流れていた。

 

「親より先に死ぬ奴があるか……この親不孝者め……」

 

 血の様に深い紅から、青褪めた様な紫、そして濃紺へと表情を変えていく、日没の刻。

 中将は一刻ずつ姿を変える夕闇に、あの日見た「軍艦・球磨」の笑顔を、何度も何度も思い浮かべていた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

『軍需管理部長――――海軍中将。充員召集解除(解雇)トス』

 

――――半年後、召集解除の通達が言い渡された中将は、儘、軍を去った。

 

 中将は敗国の将ではあったものの、「海軍中将」というかなりの社会的地位が、その手には残っていた。

 また、その地位相応の財産、食糧難ながらも食っていけるだけの財産が、その手には残っていた。

 動乱の最中、公における成功を手にし、この時代における最良の形で、中将は退役した。

 この戦時中、誰もが中将の事を羨ましく思ったであろう。

 

 だが、軍需省時代に中将と最も親しかった陸軍将校は、退役時の中将の事を、後にこう語る。

 

 その時の中将の顔。

 それは紛れも無く「全てを喪った男の顔」であった、と。

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――その後も戦争は続き、それは悲惨を極めた。

 

 戦艦・武蔵、並びに扶桑、山城、金剛など、数多の艦艇を喪った、「レイテ沖海戦」における「日本艦隊の終焉」。

 戦艦・大和、並びに矢矧、浜風、磯風、霞、朝霜を喪った「坊ノ岬沖海戦」。

 

 国ひいては親兄弟を護る為、その先の平和への礎に自らならんとし、自ら望んで兵器として組み込まれた「特攻」。

 「硫黄島」「本土大空襲」「沖縄戦」、軍人はおろか民間人さえも巻き込んだ「本土決戦」。

 

 戦争を終わらせる為の大義名分か、一種の民族浄化か、それとも科学者の好奇心故の罪の産物か。

 人類史における、ありとあらゆる人間の業という業を集約し、広島・長崎へと投下された「原子爆弾」。

 

 どれも「倫理観」という言葉の意味を根底から覆し、癒えぬ傷痕として深々と歴史書に刻まれた、一つの時代の濁流であった。

 そして歴史書に綴られた、この戦争における、その後の顛末はこうである。

 

――――1945年8月15日。

 

 昭和天皇による『大東亜戦争終結ノ詔書』の音読放送、通称『玉音放送』が全国民に向けて放送され、日本の降伏が国民へと公表される。

 

――――1945年9月2日。

 

 「米戦艦・ミズーリ」にて、『降伏文書』に正式調印。連合国軍最高司令部(GHQ)の占領時代が始まる。

 

――その歴史舞台の表。

 

 日本の過去を裁く為、様々な「正義」があった。

 

――その歴史舞台の裏。

 

 日本の未来を護る為、様々な「戦い」があった。

 

――――それから6年後、1951年9月8日。

 

 『サンフランシスコ講和会議』にて、『平和条約』及び『旧日米安保条約』への署名。

 

――――1952年4月28日。

 

 先の『サンフランシスコ講和会議』にて署名された、『平和条約』及び『旧日米安保条約』の発効。連合国軍最高司令部(GHQ)占領時代の終焉。これにより日本の主権が回復する。

 

 そうして一つの時代の戦争が、幕を閉じたのであった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2節「私は此処に居るよ」

 

『昨晩のアメリカ航空宇宙局、NASAの発表によりますと、3日に行われたアポロ9号地球周回飛行のミッション成功の結果に伴い、予定通り5月には、アポロ10号の月周回飛行。7月には、満を持してアポロ11号の月面着陸を予定して……』

 

「……」

 

――懐かしい夢を見た。

 

 その老人は、ラジオから漏れている報道の音で目を覚ました。

 その老人、在りし日の提督である中将は、退役後、独り東京の郊外で余生を過ごしていた。

 

「……球磨」

 

 中将は懐かしい夢を見た。

 戦前、自身が艦長を務め、戦時中に度々言葉を交わした、あの娘の夢。

 そう、一時たりとも忘れ得なかった、「軍艦・球磨」の夢を見ていた。

 

「結局……答え合わせが出来なかったな」

 

 ふいと、自身の頬に手を触れてみると、涙がすぅと伝っていたのが分かる。

 

「貴様と約束した通り……私はちゃんと答えを見つけておいた」

 

 中将は、一つ悲しみを吐き捨て、誰に語る訳でも無く口を開き、果たされなかった約束の答えを口にした。

 

「確かに戦争には負けたが、私やこの国の者たちはこうして生きている……戦争を否定する者も当然多く居たが、それでも戦った者たちの想いを継ぐ者が現れた。この国の未来を護る為、占領を背負い、全能の権威を持って横暴を振う連合国軍最高司令部(GHQ)と必死に戦った男が居た。いや……敵であろう筈のGHQの人間にだって、日本を愛し、その未来を憂い、陛下をお救いした男が居た」

 

 そう呟きながら中将は、杖を突き、思う様に言う事を聞かなくなった脚を引き摺りながら歩き、扉を開けて、自宅の庭へと出る。

 

「私たちやあの娘の想いは、形は違えど、今でも立派に後世へと引き継がれてる……それだけで、私は満足だ。もう未練はない」

 

 しかし、その中将が呟いた言葉。

 その言葉とは裏腹に浮かべた表情には、一つの後悔の念を孕んでいた。

 

「いや、だが……私の心残りは……ただ……」

 

 中将は庭に備え付けられた椅子に座ると、静かに蒼空を見据えた。

 

 その蒼空は、水平線の果てまで続くであろう、暗雲一つない群青であった。

 温かな陸風が、優しく中将の元へと吹き込んでいた。

 

 

―― そして中将は、吹き行く陸風に心情を語った。 ――

 

 

「ただ……あの娘に『さようなら』と言いたかった……私たちには、さようならを言う機会さえ無かった」

 

 一面に広がる大空が私を包み込んでいる。

 まるであの日、初めてあの娘と言葉を交わしたあの日。

 

「せめて、最後にもう一度だけ傍に居て、話をしたかった……あの娘の声色を聴いていたかった」

 

 そして短い間だが、一緒に駆け抜けた、あの激動の時代、あの海原の様だ。

 

「もう少し、あの娘と一緒にこの時代を生きたかった……あの娘はこの現代の様子を見て、一体何を思うだろうか」

 

 あの時のあの娘は、私たちの想いを乗せ、凛とした姿で勇敢に海原を進んで行った。

 

「だが、それでも……それでも私は、あの娘に私自身の想いを託して、あの娘と共に戦う事が出来た事……あの娘と共に過ごせた事……それだけで、私が生きた意味は十分にあった……十分に、価値があったんだよ……」

 

 涙のせいで太陽が揺らいで見える。

 

 そう、あの太陽。

 あの娘と過ごした輝かしいあの日々は、あの太陽の様に眩かった。

 軍艦・球磨の艦長を務め、想いを託し、共に激動の時代を駆け抜けたあの日々は、今でも誉に思う。

 

「……25年か……随分、長い事待たせてしまったな……」

 

 そして、あの娘との思い出、その清らかな愛情の記憶を胸に秘め、私は空へと還れる。

 

「私は答えを見つけた」

 

 もう一度、あの娘に会える。

 

「今からそっちに行くよ、球磨」

 

 そして再会したらこう言ってやる。

 

 

―― この親不孝者、と。 ――

 

 

 瑠璃色に彩ったこの蒼空の海の向こうに、きっとあの娘が居る。

 中将はそれだけを信じ、静かに、唯眠る様に静かに、軍艦・球磨の夢の続きを見ながら、その生涯に幕を下ろした。

 

 

 ……………………………… 

 ……………………………… 

 

 

――この深い水底から、球磨はもうずっと答えを求め続けていた。

 

 軍艦・球磨は、何かを掴みたくて手を伸ばそうとする。

 沈み行く意識に抗い、この深い海底から必死に手を伸ばした。

 澱み、蝕み、そして儚く散っていく意識に負けない様に、軍艦・球磨は想いを繋ぎとめていた。

 

 沈められた敵に対しての憎しみからではない。

 「答えを得たい」という、その想いから。

 

 この戦いに、この想いに、自分やあの人が生きた意味に、どれだけの価値があったのかを。

 

 その答えを得る為に。

 提督との約束を果たす為に。

 軍艦・球磨は答えを求め続けた。

 

 しかし軍艦・球磨には、その最後の願いすら許されなかった。

 

 

 ……………………………… 

 ……………………………… 

 

 

――私は……何年、何十年、此処で過ごしたのだろうか。

 

 軍艦・球磨は何時しか、答えを得るのを諦めていた。

 軍艦・球磨は、そう心変わりする程の時間。

 余りにも長い時間を、独りこの海底で過ごした。

 

 それでも軍艦・球磨は、この閉ざした世界で、在りし日の提督や共に戦った人達と過ごした、あの輝かしい日々の夢の続きを見ていた。

 何時までも忘れない様に、消えない様に、失わない様に、必死に記憶を心へと手繰り寄せ、必死にかき集めた。

 

――私に想いを託してくれた、提督の想い。

――私と運命を共にした、あの人達の想い。

 

 それだけが、軍艦・球磨の慰めだった。

 それだけが、軍艦・球磨の心の在り処だった。

 

 想いを馳せた、遠い遠いあの日々。

 それだけが、軍艦・球磨の全てを優しく受け入れてくれた。

 それだけが、軍艦・球磨の脆弱な心を優しく満たしてくれた。

 

――提督。

 

 そしてそれでもなお、暗く透明な揺り籠に抱かれながら、軍艦・球磨はいつも夢見ていた。

 軍艦・球磨は、在りし日の提督に貰った軍帽を抱き、ずっと待ち続けた。

 

 いつか答えを抱いて、提督の元へとゆける日が来る事を。

 

――でも……独りは寂しいよ……。

――でも……独りは切ないよ……。

 

 軍艦・球磨は孤独に抗えず、独りずっと泣いていた。

 

 

―― そうして軍艦・球磨は、朧気な意識の儘、此処からでは決して届かぬであろう声が届く事を願う様に、在りし日の提督の幻影へと、心の中で語りかけた。 ――

 

 

 提督。

 お前はまだ、この世界の何処かに居るのだろうか。

 

 あの日、お前にそっと撫でられた、あの温もりが忘れられない。

 お前やあの人達が私に託してくれた、あの熱い想いが忘れられない。

 

 提督、私は此処に居るよ。

 

 光さえも届かない。

 誰も来る事がない、悠久なる深淵の闇。

 

 

―― この深海の淵に、私は居る。 ――

 

 

 ……………………………… 

 ……………………………… 

 

 

『おい……さっさと引き揚げようぜ……最近は軍の連中が煩くて……』

『馬鹿野郎っ! お上が怖くて、サルベージ業者が勤まるかよ!!』

 

 ふと、軍艦・球磨は何かに身体を引きちぎられる感覚を覚えた。

 魚に啄まれる様に、軍艦・球磨の身体は、徐々に感覚を失う。

 

――誰かが、私の身体を引き千切っている。

 

『あ……? なんだ、この船は? 露助の船か?』

 

――露助?

 

『大方、大戦時にJepun(ジュプン)の軍人にでもやられたんじゃないか?』

 

――Jepun(ジュプン)?

――大日本帝国……?

 

 そう男達が話している間にも、軍艦・球磨の身体は、肉塊へと変わり、肉魂が鋼鉄へと変わり、やがて鋼鉄が鉄屑へと変わる。

 

『この鉄屑で1トンあたり600リンギット(2万円)か……チッ……シケてんなぁ、おい』

 

 そうして軍艦・球磨は、身体の感覚を失った。

 

 

―― 軍艦・球磨は穏やかに悟った。 ――

 

 

 ああ、そうか。

 これが私の「最期」か。

 

 我ながら惨めだ。

 でも、全てのモノは等しく形を変える。

 変わらないモノなんて、この世に存在しない。

 

 なら、あるがまま受け入れるだけだろう。

 

 それに、私は待つのに疲れた。

 私はもう何十年も待ち続けた。

 

 結局私は、あれだけの強言を吐いておきながら、「答え」を見つけられなかった。

 でも向こうでお前に「答え」を聞いても、お前なら流石に笑って許してくれるだろう。

  

 

―― もう、いいか。 ――

 

 

 軍艦・球磨は静かに意識を落とそうとする。

 

『それにしても、くだらねぇよなぁ。「戦争」なんて殺したがりの馬鹿がやるこった』

 

 しかし、一人の違法サルベージ業者の男が発したその言葉が、軍艦・球磨の意識を強く目覚めさせた。

 

――今何て言った?

――くだらないだと? 馬鹿だと?

 

『あー。実は俺さ、何年か前にJepun(ジュプン)に行った事があるんだ』

『マジかっ!? どうだったよ?』

 

 そして男達は、話を続けた。

 

『あの国は平和かもしれんが、あの国の連中は鳥籠の鳥と同じさ。自分だけの周りを見て、それを世界の全てだと信じ、その外側や過去を見ようともしねぇ。本当、滑稽ったらありゃしねえよ!』

『おいおいっ! そりゃあマジかよ! 病んでるってレベルじゃねえなあ』

 

 その話は、誰かを護る為に戦った軍艦・球磨にとって、耳を塞ぎたくなる、決して聞きたくなかったであろう話。

 

『その時会った日本のガキなんて、ビデオゲームで大戦時の自分の国の兵士を殺してもヘラヘラ笑っているんだぜ? どういう脳みそしてんだよ、あの国のガキはっ!』

 

 現代日本の血も涙も無い大衆論であった。

 

『笑っちまうのわさ、だってあの国、軍部の人間に無理やり戦わされたとか、侵略戦争とかほざいて、その戦争を腫物の様に扱って、まるで見向きもしねえ』

『へぇー』

 

 男達は、下賤な出で立ちで、クスクスと冷笑した。

 

『時々、街に蔓延っている政治団体だ、政治家だが言及してはいたが、結局はてめえらの私腹を肥やしたいだけじゃねえのかよ! 脳みそ空っぽで否定している方が、儲かるもんな、御為ごかしめ!』

『ははっ! 違ぇねえな、おい!』

 

 男達は、下衆な笑みで、ヘラヘラとニヤけた。

 

『本当、馬鹿な奴らだよ』

 

 男達は、下卑た響きで、ゲラゲラと嘲笑う。

 そしてある男が、やれやれと両手を広げ、嘲りの顔を浮かべて言い切った。

 

『結局あの国の人間は、そんな昔の事なんて、過去の軍人が馬鹿やった程度にしか思っちゃいないのさ』

 

 その身が没してもなお、世界の悪意に曝される軍艦・球磨。

 

 

―― 軍艦・球磨は黒くのたうち回る感情を心の中で言葉に変え、叫んだ。 ――

 

 

 なんだこれは。

 あの人達が必死になって護ろうとした、対価がこれか?

 あの人達が必死になって護ろうとした、結果がこれか?

 

 あの人達が必死になって護ろうとした事が、くだらないだと?

 そんなにあの人達の想いが可笑しい事なのか?

 

 あの人達が護ろうとした世界。

 

 

―― あの人達が必死になって護ろうとした、その想いはどうなった。 ――

 

 

 軍艦・球磨の心に、ある感情が芽生え、どす黒く支配した。

 軍艦・球磨は衝動の儘、その感情を、想いを、心を形造り、そして黄泉の国から蘇った。

 

『うわっ!? 何だコイツはっ!?』

 

 黄泉比良坂でイザナミの想いを否定して逃げたイザナギを殺す為に。

 イザナミはこれから毎日、貴方の治める国の1000人の人間の首を絞め殺してやると言った。

 するとイザナギは、お前がそう言うならば、私は一日に1500人産ませようと言った。

 

『銃が全く効かねえ……!!』

 

――1500人も殺す必要はない。

――1000人殺せれば十分だ。

 

『やめろっ……!! こっちに来るな、化け物め……!!』

 

 

―― 軍艦・球磨は慟哭し、憎しみを混じえながら狼煙を上げ、心の中で謳った。 ――

 

 

『人ノ想イヲ、平気デ踏ミ躙ル……!! 人デナシ共メ……!!』

 

 これは人間達に対する虐殺でも、ましてや駆逐などという、そんなツマらない事ではない。

 

『深海ヘ……沈メ……!!』

 

 あの時代を否定した者達への、あの人達の想いを否定した者達への、あの人達の心を嘲笑った者達への復讐。

 私の存在理由を、生きる意味を否定した者達への復讐。

 

 

―― 血も涙も温かみも優しさも無い、冷徹無慈悲なこの世界に対しての「戦い」だ。 ――

 

 

 ……………………………… 

 ……………………………… 

 

 

 この瞬間、世界は分岐した。

 この瞬間、「深海棲艦」は生まれた。

 

 そして、暫くして、「艦娘」が生まれた。

 

 

 ……………………………… 

 ……………………………… 

 

 

「――――畜生っ!! ふざけるなっ!!」

 

 僕はそこで飛び起き、頭が割れそうな程の怒りと悲しみを抱えながら、悟った。

 

「なぁ、神さまよ……こんな……こんな酷い話が……あってたまるかっ!!」

 

 そう、これは……。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3節「誰よりも気高く、誰よりも優しく」

 

――――0200、国防海軍警備施設、執務室。

 

「……」

 

 寒冬とは思えない程、海は物静かな風と波を立てていた。

 仮眠から飛び起きた提督は、執務机に座り、窓の外に映る、月明かり照らす静寂の海原を見つめながら、先程よりも幾分か熱が冷めた頭で、静かに考えを巡らせていた。

 先刻、木曾たちに起こった事実と提督の脳裏に断片化していた夢の記憶を、提督はジグソーパズルを組み立てる様に一つ一つ摘み上げては、頭の中で組み立てていく。

 

 軍艦・球磨。

 在りし日の提督。

 二度目の大戦。

 想いと約束。

 深海棲艦。

 

 そして提督は、一通り組み上げ、編纂した綴織(タペストリー)の最後の断片が揃うのを、静かに待っていた。

 暫くの後、コンコンコン、と執務室の扉が三度の均等静謐な物音を立てた。

 

「……どうぞ」

 

 そして提督の促しの声に反応し、執務室の扉が開かれる。

 

「……提督、入るクマ」

「……球磨」

 

 艦娘・球磨。

 

 提督が待ち望んでいた最後のピースを持った少女が、凛とした表情の儘、執務室へと舞い降りた。

 球磨は落ち着いた足取りで、提督が座っている執務机の前まで歩み寄った。

 

「……木曾は大丈夫なのかい?」

 

 その球磨に対して提督は、心配げに口を開く。

 

「……泣き疲れて部屋で眠っているクマ。今は一人にならない様に多摩と北上と大井が、木曾と一緒に居るクマ」

「そっか……それなら安心だね」

 

 安堵の溜息を吐いた提督に重ねる様に球磨は、静かな吐息を一つ洩らすと、もの柔らかな表情で更に言葉を紡いだ。

 

「それにしても……帰投した妹たちの出迎えに行ってみたら、そこで突然、木曾に抱き付かれて、それでワンワンと泣くんだから、本当にびっくりしたクマ。あんなに泣いている木曾を見たのは久しぶりだクマ」

「……相当ショックだったみたいだね」

 

 その提督の言葉に球磨は、凛とした鳶色の目を提督へと投げかけ、現状を告げる。

 

「……話は北上から全部聞いたクマ」

「……僕も多摩から聞いたよ」

 

 提督はそれに答える様に、熱の籠った視線を球磨に投げかけ、現状を告げた。

 

 「艦娘・球磨」という存在における、もう一人の存在。

 問題の中心に居たのは、「深海棲艦」になったもう一人の自分、「軍艦・球磨」の存在であった。

 

「球磨は彼女の事をどう思う?」

「流石にこの球磨も驚きだクマ」

「そう言う割には随分と落ち着いている様に見えるけど……」

 

 球磨は静かな笑みを浮かべる。

 だが、その笑みには何処か悲哀が満ちていた。

 

「……世界は不思議で溢れているクマ。それに一時期は沈んだ艦娘が深海棲艦になるって話もあったくらいだクマ。今更、球磨と同じ存在が居たとしても納得できるクマ」

「……でも、このままって訳にはいかないよね」

「……その通りだクマー。はてさて、どうするべきかクマ」

 

 頭を抱え、むむぅ、と考え込む球磨。

 

「……球磨」

「なんだクマー?」

「休憩時間中に、僕が尋ねた事を覚えてる?」

 

 その球磨に対して提督は、最後の欠片を揃える事を決意し、神妙な面持ちで球磨に言葉を投げかけた。

 

「クマー? それって……『軍艦の時の記憶』の話かクマー?」

「そう。それなんだけどさ……僕が何でそんな話をしたかって言うとね……」

 

 そして提督は、今まで見た夢の事、「軍艦・球磨」と「在りし日の提督」の全てを、球磨へと告げた。

 

 最初は「そんな悠長に夢の話をしている場合か」という表情を浮かべていた球磨であった。

 しかし、提督の神妙な顔つきと話が進む事に相まって、次第にその表情は真摯なものへと変わっていく。

 そして提督が話終える頃には、己が運命と向かい合う様な諦観した表情で球磨は、提督の夢物語を傾聴していた。

 

「……これで僕の話は終わりだよ」

「……」

「……球磨?」

 

 提督が見た夢の全てを艦娘・球磨に啓示し終えると、球磨は俯き、そうして静かに口を開いた。

 

「……何で球磨は、そんな大切な約束を今まで忘れていたんだクマ……」

「それじゃあ、僕が見た夢は全部……」

「……確かに、提督が話すその『在りし日の提督』と、約束を交わした『記憶』があったクマ」

 

 球磨は顔を上げ、提督を見据え、細く澄んだ声で告白する。

 

「それに……提督の話を聞いて、もう一つ分かった事があるクマ」

「分かった事?」

「球磨がもう一人の自分に相対した時に感じていた、名状しがたい感情の正体……」

 

 そして不安と孤独感を抱いた表情を浮かべながら、球磨は己を慰める様に自分自身を優しく抱き締めた。

 

「何てことはない、ただの自己否定の感情だったクマ」

 

 優しく諭す様な口調で球磨は、自身自身へと言葉を投げかけていた。

 

「球磨……」

 

 提督は静かに執務机から立ち上がると、球磨の目の前まで優しげに歩み寄り、月明の様な眼差しで、球磨を見据える。

 球磨は上目遣いで提督を見つめると、もたれかかる様に提督へと寄り添った。

 そうして提督は、凍て付いた少女の不安を溶かす為、唯静かに、少女の悲しみを受け止めていた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「……提督、艤装の修理はもう終わっているクマ?」

 

 暫くの後、提督の腕から離れた球磨は、再び提督に視線を投げかける。

 球磨が先程まで浮かべていた不安の色は、春に小雪を溶かした様に何処かへと消えていた。

 

「えっ? 少し前に修理は終わっているけど……」

「良いタイミングだクマ」

「……良いタイミングって……まさか球磨、君は……!」

 

 提督は何線もの緊張が走った表情で、球磨の目を見据える。

 

「もう一度、アイツに会いに行くクマ」

 

 そう言った球磨の光る鳶色の目に、迷いは無かった。

 

「だけど、それはあまりにも急じゃないかな……朝まで待ってからじゃ……」

「それじゃ遅すぎるクマ。アイツは恐らく、今も球磨の事を待っているクマ」

「そうだけどさ……」

「……駄目……クマ?」

 

 球磨の切なげな声色を聴いた提督は、畜生と自分自身への苛立ちから唇を噛み締め、球磨に対して口を開いた。

 

「……僕だって出来る事なら直ぐにでも許可を出したいよ……でも……軍規として、姫級の彼女にこちらから戦闘行動を起こすとなると、まずはこの基地の上級単位である鎮守府に許可を取らなきゃいけないし……」

 

 そう、今の提督は司令官としての責務と自分の感情との間で板挟みとなっていた。

 その提督の表情は、我慢出来ない、腹立たしい、もどかしいと言わんばかりであった。

 

「提督」

 

 その提督に対して艦娘・球磨は、懇願を含んだ柔らかな表情を浮かべる。

 

「提督は、人が生きている内で一番長く関わりを持つであろう人物は誰だと思うクマ?」

 

 そうして気高く凛とした声色で、その唇に想いを乗せ、提督に尋ねた。

 

「誰って……それは……」

 

 提督は球磨のその質問に、親兄弟や友人、或いは上官の顔を浮かべた。

 

「いや違う……」

 

 しかし彼らは、絶対的な答えではなかった。

 何故なら、それよりも長く、生まれてから死ぬまでの間、ずっと付き合う事になる存在が居る事を提督は知っていたからだ。

 

「……自分自身だ」

 

 球磨の意図を察した提督は、静かな口調で答えを告げる。

 

「その通りだクマ」

 

 そして球磨は、柔らかな頬笑みと光る鳶色の目を提督へと投げかけ、自身の想いを告げた。

 

 

「――――面倒みた相手には、いつまでも責任があるクマ」

 

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――0340、日本国近海航路、海上警備ルート、地点A。

 

 夜空一面、氷を砕いた様に広がる星々の光が、漆塗りの冬の海面に降り注いでいた。

 夜凪の中、聞こえて来たのは、波の音と一艇の小型艇が滾々と轟かせるモーター音だけだった。

 

「まさか提督が哨戒艇の操縦まで出来るとは驚きだクマ! 提督って実は球磨と同じく、意外に優秀クマー?」

「……海軍に居ればそれぐらい嫌でも叩き込まれるよ。正直、あまり得意じゃないけどね。複合艇の方が使い慣れているけど、流石に複合艇で近海まで出るのは無茶だし。それに大型艦の操縦は、職種が違う僕には絶対無理だよ。あんな大きな艦艇を動かせる人達は本当に凄いと思う」

 

 操舵室の窓から精悍な表情で航路を見据え、時折GPSマップと航海計器を一瞥しながら舵を握る提督。

 そしてその隣で、きゃあきゃあと歳相応の笑顔ではしゃぎ、その笑顔とは不釣合いな艤装を背中と脚に携えた艦娘・球磨。

 

「それにしても、基地の皆が何も聞かずに哨戒艇を貸してくれたのはびっくりしたクマー」

「……最初は基地の皆や球磨や球磨の妹たちに迷惑掛けないように、僕の独断命令として、無理やり哨戒艇を借りて出撃するつもりだったんだけど……それで執務室の扉を開けてみたら、本当驚いたよ……だって基地内の皆が、音も無く扉の前で待ち構えていたんだからね。あの時は止められると思って、押し通してでも借りてやるって腹を括ったけど、止めないどころか、まさか上にも黙って艦艇を貸してくれるなんて……」

「基地の皆は、帰投した木曾の急変具合を見てたクマ。だから皆、色々と思う所があった筈だクマ」

「……そうだね」

 

 二人は警備基地に停泊する、お守り程度にしか役に立たない12.7ミリ機銃を積んだ高速哨戒艇で、静寂が降りた凍て付く海原を進んで行った。

 寒月が天高く照らす月の道を、その一艇の艦艇は進んで行った。

 

「でも、正直言って近海なら提督直々に哨戒艇を出す必要はなかったクマ」

「……それもそうだけど、居ても経ってもいられなくてね。それに、こうすれば球磨の艤装の燃料も、多少なりとも浮くだろうし」

「その提督の気持ちだけでも十二分に嬉しいクマ。ありがとうクマ」

「……これぐらいしか僕に出来る事はないからね」

 

 提督は手慣れた様子で、自分たちの行動を他の誰にも悟られない為に注意深く、電探(レーダー)の電波範囲を広げていく。

 

「それにしても……不思議なくらい、深海棲艦の姿が無いね……」

「恐らくは、アイツの仕業クマー」

 

 しかし黒々と光る電探には、本艇と漂流物か何かの反応以外、まるで世界には自分たちの他に誰も居ないかの様に、反応が返ってこなかった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――0400、日本国近海航路、海上警備ルート、地点C。

 

「球磨、やっと電探に反応があったよ。数は……2……いや、1だね。ここから20海里(マイル)南西に行った地点」

 

 暫く哨戒艇を沖合へと走らせていた提督は、電探に小さく光る、弧影の反応を見据えた。

 

「以前、球磨たちが戦った場所だ……恐らくは、彼女だろうね」

「なら、この辺りでいいクマ」

「分かったよ」

 

 その球磨の言葉に提督は、哨戒艇を減速させる。

 そして船速計の針がゼロになったのを確認し、哨戒艇の機関を停止させた。

 辺り一面には、そうして波風の音と静寂だけが残った。

 

 制帽を被り直した提督は、常装冬服の上に整然と着込んだ幹部外套を夜風にはためかせながら、操舵室の外、艇尾甲板へと静かに躍り出る。

 そして白息を凍らしながら、一面をぐるりと見渡してみた。

 

 南の空では、涙ぐむ蒼い目玉を抱いた小犬座が、亡き主の帰りを待ち、夜空を思い惑っていた。

 また反対側の北の空では、大熊・小熊座の親子が、毎晩休む事もせず、夜空を駆け抜けていた。

 

 そして哨戒艇の電燈と降り注ぐ月光と星彩以外、辺り一面に光は無く、遠くを見渡してみると、水平線の先が黒く沈んでいた。

 それを見た提督は、視界がぐらつき、思わず身震いし、考えたくもない考えが脳裏を過ぎる。

 

――この娘がこの先、進んで行くであろうこの海闇。

――その実、端っこは崖になっていて、この娘がこのまま進んで行ったら落っこちてしまうのではないか。

 

「……提督、どうかしたクマ?」

 

 同じく艇尾に降りた艦娘・球磨は、淑やかに白銀の息を凍らせながら、提督へと声を掛けた。

 

「……いや、なんでもないよ」

「……そっか」

 

 提督は胸騒ぎの念を無理やり押しのけて、球磨に言葉を返す。

 球磨は、提督が立ち竦んでいる横を通り抜け、哨戒艇の縁へと腰を下ろした。

 

「さて……アイツの元へ行く前に、艤装の具合でも確かめるかクマ」

 

 球磨の凛と響くその声色で、提督は胸騒ぎが幾分か和らいだ気がした。

 そして落ちたら二度と戻って来られない様な漆黒を孕んだ海原へと、球磨の小柄で華奢な身体は、何の躊躇も無く、水飛沫を立てて降り立った。

 

「スクリュー……シャフト……主舵……艦本式タービンの出力設定は……よし、注文通りの仕上がりだクマ」

 

 その場で、一回、二回、くるくると回転し、水飛沫を上げながら艤装の具合を確かめる球磨。

 月下の明かりに反射して、サラサラと煌めく水滴を纏わり付かせた球磨のその姿は、無邪気にきゃあきゃあと水遊びをする少女の様にも、海原をひとりぼっちで踊っている少女の様にも見えた。

 

「魚雷発射管……副砲……主砲……問題なし……良い感じだクマ」

 

 そしてキラキラと煌めく水滴をその身に纏わり付かせながら、ぽつりぽつりと透きとおった声色を響かせる球磨の姿は、呪文を唱え、世界に魔法をかけようとする少女の様にも見えた。

 その球磨の姿を哨戒艇の上から見ていた提督は、ふと思った。

 

――その魔法は、一体、誰が為に。

 

 時代の波浪。

 世界の無常。

 少女の無垢な横顔は、その揺らぎの中、静かに輝いていた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「……よし、問題ないクマ!」

 

 全ての艤装の点検を終えた艦娘・球磨は、一つ頬笑みを哨戒艇の上に居る提督へと投げかける。

 提督は、その月明かりに映る球磨の表情を捉えた。

 

「じゃあ、そろそろ行くクマ」

 

 その球磨の表情を見た瞬間、提督は先程押し退けた胸騒ぎの念を強く呼び覚ました。

 

 提督を一瞥した球磨の瞳。

 それは先程、球磨が執務室で見せた「不安」とはまた別の色を孕んでいた。

 

 それは過去の自分と真正面から向き合わなければならないという「怖さ」の色であった。

 

――この儘、この娘を行かせてはいけない。

 

「待ってくれ、球磨」

「……提督?」

 

 心の中でそう叫んだ提督は、意を決した様に言葉を投げかけ、球磨のその「怖さ」の色を孕んだ鳶色の目を見据えた。

 

「行く前に言っておきたい事があるんだ」

 

 提督は被っていた制帽を脱ぎ、凍て付いた空気を目いっぱい吸い込み、そして吐き出した後に、球磨へと言葉を紡いだ。

 

「前に球磨は……『何で未だに軍人をやっているのか』って僕に尋ねたよね。その話なんだけどさ……」

 

 提督は、諦観した表情を浮かべる。

 

「実はね、僕は軍人になるつもりなんて全く無かったんだ」

 

 そうしてその表情の儘、提督は言葉を投げかけた。

 

「……提督」

「……だけど人生って儘ならないよね……僕も当時は他にやりたい事が沢山あったけど、気が付くと僕は、流れのまま軍人になっていた。そして不思議な事に神さまが僕に与えてくれたのは、一等海佐(大佐)っていう地位と、それを可能にする能力だけだった。だから僕は、それを生かそうと決めたんだ」

 

 そうした提督の表情には、どこか後悔と懺悔の念が含まれていた。

 

「でもね、球磨。僕は此処に来てやっと、僕が軍人になった本当の理由が、ようやく分かった気がするんだ……無力な僕は、この瞬間の為に……君に僕の想いを託すこの時の為に、此処に居るんだと思う」

 

 しかし、そうした表情を含んだ提督の目に迷いは無く。

 

「僕はね、球磨。僕は本当に何かを成し遂げる為に、軍人になったんだと思う。誰かを護り、そして誰かを本当に救う為に、軍人になったんだと思う」

 

 自分自身の清らかな想い、己が「生きる意味」を艦娘・球磨へと宣言した。

 

「人生は辛く、苦しい……いっそ心が壊れてしまった方が、死んでしまった方が、どんなに楽かと思う事が多々ある……人は生まれたら、あとは死ぬだけのちっぽけな存在なのに、他人と戦ってまで生きる意味があるのかと思う事が多々ある……」

「……」

「でもね……それでもなお、生き長らえているという事は、こんな僕にも成すべき事があるのではないか……生きる意味があるのではないか……自分勝手で我儘で、ひねくれ者の僕だけど……そう信じて生き続けたからこそ、此処まで生きてこれたと思うんだ……」

 

 提督のその目は、とても言葉では言い表せない程、激しく熱く輝いていた。

 ギラギラと血潮を滾らせた提督のその目は、貞潔な信念を纏っていた。

 

「僕は今まで生きてきた分、敵味方問わず、どれだけ人を傷付けたのか……どれだけ誰かから奪ったのか……その責任として、僕は多くのモノを失ってきた……何かを成し遂げる為に『戦う』という事は、それだけの責任を負う事になるんだ……でも僕は、その責任から一度も目を背けた事はないよ」

 

 そして一呼吸の後。

 

「だからお願いだ、球磨。それを承知の上で、僕と一緒に、基地に居る皆と一緒に、最後まで戦って欲しい」

 

 信念と熱量を纏った眼差しを、球磨へと投げかけ、提督は球磨に自身の想いを委ねた。

 

「……」

 

 そして真剣な眼差しで提督の目を見つめていた艦娘・球磨であるが。

 

「……やっと分かったクマー」

 

 球磨は暫くの後、提督の言葉に対し、母親が浮かべる様な柔らかな笑顔を提督に向けて、口を開いた。

 

「提督は散々傷付いてきたクマ。だから提督は、そんなにも優しいクマ」

 

 月光に反射し、琥珀色に光る長い髪を夜凪に梳かしながら、艦娘・球磨は提督へと告げる。

 

「自分の苦しみを誰かに味わって欲しくない。そう言う願いを胸に提督は、球磨よりも長い時間ずっと戦ってきたクマ」

 

 先程浮かべていた「怖さ」の色は消え失せ、球磨は提督と同じく、信念と熱量を纏った眼差しで、提督を見据えた。

 

「でも、安心しろクマ」

 

 そして一呼吸の後。

 

「もう提督は十二分に傷付いたクマ。後は、球磨に任せろクマ」

 

 球磨は月明かりに輝く琥珀色の目を提督へと投げかけた。

 

「……ありがとうね、球磨」

「クマ!」

 

 提督の想い。

 頭上の月輪の明かりに負けないくらいの満面の笑みを浮かべ、艦娘・球磨はその想いを胸に秘めた。

 

「球磨! 出撃するクマ!」

 

 そして掛け声と共に、球磨は提督から離れ、月明かりだけが道標となって照らす、海の闇へと消えていった。

 離れ行く艦娘・球磨を見つめながら、提督は心の中で呟いた。

 

――出来る事なら、僕が君の代わりに行きたいよ。

――だからもし、君が失敗したら、次は僕の番だからね。

 

 提督は、球磨に内緒で執務机の中に入れた、肉親と知り合いの司令官宛てに認めた手紙の内容を想起しながら、遠ざかる球磨の後ろ姿を見据えた。

 提督は、球磨の後ろ姿が見えなくなっても、球磨が進んで行った方向を、何時までも見据え続けた。

 

 そして提督は、唯、無心で、艦娘・球磨の無事を、神さまに祈った。

 

 

 ……………………………… 

 

 

――――0450、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西10シーマイル。

 

「……!」

 

 海原に照らす月の道を進んでいた艦娘・球磨。

 突如として、海原に砲撃音が響き渡り、球磨の元へと砲弾が飛来した。

 

――しかし、些か狙いが甘い。

 

 球磨は何の苦労もせず、飛来した砲弾を軽々と避けた。

 そして砲弾が飛んできた方向を静かに見据えた。

 

「……」

「……駆逐イ級……クマ?」

 

 其処に居たのは、脚が生え、魚の様な魚雷の様な出で立ち、そして髑髏の様な顔を浮かべた一体の個体。

 深海棲艦の中では最も戦闘能力が低いとされる敵、駆逐イ級であった。

 駆逐イ級は、金属が軋む様な唸り声を上げ、球磨に対して敵意を剥き出しにしていた。

 

 そして駆逐イ級は、金属が潰れる様な甲高い声を上げ、球磨に対して砲撃と雷撃を放った。

 

 

 ……………………………… 

 

 

――お願い、当たってよ!!

 

 この駆逐イ級は、言ってしまえば深海棲艦の中でも一番弱い存在である。

 戦闘能力を底上げした上位種も存在していたが、この駆逐イ級はその類の存在ではなかった。

 

「敵ながら中々の腕だクマ」

 

 しかし今のイ級は、どうだろうか。

 艦娘・球磨の目の前に居る駆逐イ級の戦闘能力は、駆逐イ級という枠組みを軽く凌駕していた。

 精密機械とも例えられる程の致命的な魚雷命中精度を持ち、その砲弾の着弾位置たるや、敵に的確なダメージを与えられる最善手である。

 動きも通常の駆逐イ級とは比べ物にならない程、洗練されたものであった。

 今や駆逐イ級の戦闘能力は、その上位の存在である後期型を軽く凌駕していた。

 通常の戦闘部隊であったら、この駆逐イ級に苦戦を強いられたのは容易に想像がつく。

 

「もうやめるクマ」

「……!?」

 

 しかし、相手が悪かった。

 その静止の声と共に、一発の砲弾が駆逐イ級へと落ちた。

 そして僅かに狙いが逸れた砲弾が駆逐イ級に当たり、駆逐イ級は大破した。

 

「悪いけど、今のお前に球磨は倒せないクマ」

 

――こんなにも力の差があるなんて……!

 

 大破したイ級は既に満身創痍である。

 

――それでも……何としてでもコイツを此処で止めなくちゃ……! 此処で倒さなくちゃ……! じゃないと……!

 

 放った砲撃と雷撃は、艦娘・球磨に尽く躱され、そして殆どを吐き切った。

 

――残りの兵装は、魚雷一発だけ……。

 

 だが当たらない魚雷など、何の意味があると言うのだろうか。

 闇雲に魚雷を放っても、無駄撃ちに終わるのは目に見えていた。

 

――何とかしてこの魚雷を当てなくちゃ……!

 

 ふと、ある光景が駆逐イ級の脳裏を横切った。

 白銀の長髪を海風に梳かし、蒼玉色の柔和な目を投げかけながら、自分の頭を撫でてくれた、己が主の優しげな頬笑み。

 

――そうか……当てさえすればいいんだ。

 

 そして覚悟を纏った駆逐イ級は、最後の力を振り絞り、速度を上げる。

 しかしその速度は、通常限界出力である「最大戦速」の更に上、自身の耐久性や艤装限界性能を一切無視した出力「一杯」であった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「……クマっ!?」

 

 唐突に異常な速度で加速した駆逐イ級は、ジグザグと之字運動を行いながら、艦娘・球磨へと肉薄した。

 球磨は、こちらへと近付いてくるイ級に対し、後退しながら砲撃の雨を落とした。

 しかし殺意が無い砲弾の雨が、イ級を貫く事は無かった。

 

――お前は一体、何をしようとしているんだ?

 

 既に駆逐イ級は大破状態。

 駆逐イ級は、既に砲弾を撃ち尽くしており、魚雷発射管は空っぽになっていた。

 また出力「一杯」でこれだけ無茶苦茶な運動を繰り返していれば当然、燃料や艤装の消耗も激しい。

 今は速度面で艦娘・球磨に勝ってはいるものの、持って1、2分でイ級の燃料は空となり、艤装は破損し、やがて動けなくなるだろう。

 

 だが球磨には、直感的な確信があった。

 

――この駆逐イ級は、一本だけ、魚雷を隠し持っている。

 

 ならば残りの兵装は、たかが21インチ魚雷の一本だけ。

 その状態で、この駆逐イ級は何をしようとしているのか。

 

 そんな事、先の大戦を知っている者なら誰にだって分かる事だ。

 たかが魚雷一本で、戦艦さえも一撃で葬る、必中必殺の攻撃がある事を。

 

「そっか……」

 

 駆逐イ級の行動を悟った球磨は、吐息を一つ洩らすと、動くのを止め、駆逐イ級を見据えた。

 

「……!」

 

 それがチャンスと思った駆逐イ級は、之字運動を止め、球磨に全速力で接近した。

 接触まで数十メートル。

 

 艦娘・球磨は、駆逐イ級の顔を見据える。

 そして球磨は。

 

「……」

 

 駆逐イ級に向かって一つ、柔らかな頬笑みを投げかけた。

 

「……!?」

 

 駆逐イ級は、あまりに唐突過ぎる球磨の行動から、思わず海面を切り裂き、球磨の目の前で静止した。

 

 更にあろうことか、球磨は目の前で動きを止めたイ級へとゆっくり近付き、腕を伸ばし、その頭に触れる。

 そうして、そっとその頭を撫でた。

 

「……お前は、そこまでして誰かを護っているのかクマ」

 

 球磨には分かっていた。

 この子にも、護るべき想いがあった事を。

 そして、まさに今、護るべき想いがある事を。

 自分の身を挺してまで、護るべき者が居る事を。

 

 強靭な顎を持つ駆逐イ級に触れるなど、自殺行為に他ならない。

 噛み付かれでもしたら、最悪、腕を無くす可能性もある。

 だが、それ以上に危険なのは、駆逐イ級が隠し持った、魚雷の存在である。

 

 それを知っていてもなお、球磨は駆逐イ級へと触れた。

 

 

―― それを知っていてもなお、球磨は思った。 ――

 

 

 それでもいい。

 

 腕一本で何かが成せるなら安いモノだ。

 この命で何かが残るのなら安いモノだ。

 

 

―― 提督のあの強く輝く想いが残せるのなら、それでもいい。――

 

 

 ……………………………… 

 

 

 一方、駆逐イ級はこの艦娘・球磨の行動に、どうしていいか分からなかった。

 

――今ここで、この艦娘の腕を喰らい、引き千切るべきなのかな。

――今ここで、隠し持った魚雷の信管を叩くべきなのかな。

 

 しかし駆逐イ級の目には、この艦娘の頬笑みが、己が護るべき者である主の頬笑みと何処か重なって見えていた。

 自分の頭を撫でる温もりが、己が護るべき者である主の温もりと何処か重なって感じていた。

 だからこそ駆逐イ級はこの後、どうすればいいのか分からなかった。

 

「すまないクマ。どうしても道を開けて欲しいクマ。球磨には、何が何でも会わなければならない人が居るクマ」

 

 艦娘・球磨は、駆逐イ級の頭を撫でながら、諭す様な柔和な声で、駆逐イ級に懇願した。

 その声色は駆逐イ級の、己が護るべき者である主の声色と、そっくりであった。

 

「……」

 

 そして駆逐イ級は、暫く悩んだ後、ゆっくりと後退し、艦娘・球磨に針路を譲った。

 

「ありがとうクマ」

 

 お礼を言った球磨は、ゆっくりと速力を上げ、駆逐イ級の横を通り過ぎ、そのまま直進した。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 「艦娘・球磨」の向かう先は唯一つ。

 もう一人の自分である「軍艦・球磨」、その深淵へと触れる為である。

 

『僕は此処に来てやっと、僕が軍人になった本当の理由が、ようやく分かった気がするんだ……』

 

 提督の想いを乗せ、海風の如く、艦娘・球磨は進んだ。

 

『無力な僕は、この瞬間の為に……君に僕の想いを託すこの時の為に、此処に居るんだと思う』

 

 海原を駆ける疾風の如く、艦娘・球磨は進んだ。

 巻き起こした疾風が烈風となり、烈風が鎌鼬の剣となり、やがては球磨の刃となろう。

 

『僕はね、球磨。僕は本当に何かを成し遂げる為に、軍人になったんだと思う。誰かを護り、そして誰かを本当に救う為に、軍人になったんだと思う』

 

 では、その刃は何を成す為に。

 それは、誰かを救う為である。

 

『僕は今まで生きてきた分、敵味方問わず、どれだけ人を傷付けたのか……どれだけ誰かから奪ったのか……その責任として、僕は多くのモノを失ってきた……』

 

 

―― 艦娘・球磨は心の中で高らかに謳った。 ――

 

 

『何かを成し遂げる為に「戦う」という事は、それだけの責任を負う事になるんだ……でも僕は、その責任から一度も目を背けた事はないよ』

 

 提督は己が命さえも厭わない、その強く輝く想いを、この艦娘・球磨に託してくれた。

 ならば軍艦艇の魂を宿した一人の艦娘としてやる事は、その想いを乗せ、唯この身で、その想いを表現するだけだ。

 

『だからお願いだ、球磨。それを承知の上で、僕と一緒に、基地に居る皆と一緒に、最後まで戦って欲しい』

 

 艦娘は、誰かの強い想いさえあれば、己の身が散華するその時まで、戦う事が出来る。

 誰かを護り、そして救う事が提督や皆の想いなら。

 

 

―― 「自分自身」を救わずして、一体この先、誰を救えるのか。 ――

 

 

 そんな提督の想いを乗せた艦娘・球磨の強く輝く琥珀色の目に、迷いは無かった。

 そんな想いを乗せた艦娘・球磨は、たった一人、軍艦・球磨の元へと進んで行った。

 

 そして駆逐イ級は、遠ざかる艦娘・球磨の背中、信念を纏ったその背中を、悲しげな目で何時までも見つめていた。

 

 




■Tips■

○蒼玉石(サファイア)せいぎょく
石言葉:深海・高潔・平和を祈る・一途な想い

○琥珀石(アンバー)こはく
石言葉:誰よりも優しく・大きな愛・抱擁・家長の威厳



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4節「自己受容」

 

――――0550、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西20シーマイル。

 

「……不思議な気分だ」

「……不思議な気分だクマ」

 

 夜の静寂、月の光、そして星の瞬き。

 海風を戦ぎ、邂逅するは、二つの影。

 

「まさか私の自己像幻視と出会う事になるとは。本当、世界は不思議で溢れている」

「まさか球磨のドッペルゲンガーと出会う事になるとは。本当、世界は不思議で溢れているクマ」

 

 冬の星空、無数の想いが生まれ、そして散って星屑となったその跡地。

 その最果ての空と海に映る無数の星々、その天象儀に抱かれた、二つの影。

 

「お前もそう思うか?」

「常々そう思うクマ」

 

 其処には、海面に映る月光の道を境に、一つで二つの存在、「軍艦・球磨」と「艦娘・球磨」が相対していた。

 形は違えど、同じ「魂」を持つ者同士が邂逅し、旧知の友人と久闊を叙する様に、言葉を交わしていた。

 

「……それにしても、一人で来るとは良い心がけだ」

「そう言う癖にお前は、えらく可愛い前哨を配置してたクマ」

「……なんだと?」

「駆逐イ級が一隻、球磨の目の前に立ち塞がったクマ。まぁ……どうやらお前のその様子だと、お前自身も知らなかったようだクマ」

「……あの馬鹿者」

 

 もう一人の自分の言葉を聞いた軍艦・球磨は、物思いに沈み、悲しみを吐き出す様に吐息を一つ洩らす。

 そして顔を上げ、静かな、でも何処か悲しげな顔でもう一人の自分を見据え、尋ねた。

 

「お前は……アイツを沈めたのか?」

 

 その言葉に、優しげな頬笑みを浮かべた艦娘・球磨は穏やかに答えた。

 

「安心しろ、沈めてないクマ。戦いはしたけど、素直に通して欲しいって言ったら、ちゃんと通してくれたクマ。お前は本当、良い部下を持ったクマ」

「そうか……」

 

 自身の不安が杞憂に終わった軍艦・球磨は、安堵と感謝の表情をもう一人の自分へと投げかけた。

 

「……ありがとう。アイツの事だ、例えお前と刺し違えてでも止めてただろう」

「気にするなクマ。お前が命を投げ出してまで、球磨の妹たちに手心を加えて戦ってくれたのと一緒だクマ」

「……流石にバレてたか」

 

 二人は気恥ずかしげな表情を浮かべ、更に言葉を紡いだ。

 

「多摩にはバレバレだったクマ。途中で北上と大井も気付いたクマ。木曾も普段だったら直ぐに気付いたクマ」

「……だが、最後まで気付かなかった」

「それだけ、頭に血が上っていたという事だクマ」

「……本当、お前は良い妹を持ったな。正直、羨ましい」

 

 軍艦・球磨は、決して自分には届かないであろう、悠久とも言える程の距離感を感じていた。

 冬空の窓の外から一人、別れた家族の面影を眺める様な疎外感に襲われていた。

 

「お前の妹でもあるクマ」

 

 それに気付いたもう一人の自分が、内側からその窓を開けてやって、そっと呼びかけた。

 

「……ありがとう。そう言ってくれると、本当、嬉しい」

 

 艦娘・球磨はニコリと笑い、あっ、と思い出した様に、もう一人の自分に対して口を開いた。

 

「……そう言えば、木曾に一撃食らったと聞いてたクマ。だけどその様子だと、どうやら気遣いは無用みたいだクマ」

「そうだな、気遣いは無用だ。こっちにだって高速修復材ぐらいある。見ての通り、準備は万全だ」

「……それを聞いて安心したクマ。出来ればお前とは双方、万全の態勢で戦いたかったクマ」

「私もだ」

 

 ふと、二人が気が付くと、先程まで二人を包んでいた星の煌きは、輝きを潜めていた。

 そして東の空は、うっすらと白み始め、完全な闇は消えかけていた。

 

「夜明け前が一番暗い。だけど、日の出ももう近いクマ」

 

 ブルーモーメント。

 太陽の光と月夜の闇、その二つの世界が重なり、溶け合い、そして儚く消える蒼の時間帯。

 

 二人は暫しの時間、薄明の東の空を眺めながら、物思いに耽っていた。

 二人は透きとおった瑠璃色を、唯ひっそりと抱き締めていた。

 

「……昔、軍艦として初めて海に出た日の事を思い出した。激動と混沌の時代……中々の暗黒時代に私は産み落とされたと思った」

「……球磨も昔、艦娘として初めて海に出た日の事を思い出したクマ。動乱と混迷の時代……神さまは中々酷い世界を考える奴だと思ったクマ」

 

 そしてぽつりと、軍艦・球磨から言葉が漏れ、艦娘・球磨はそれに合わせる様に言葉を重ねた。

 その二人の表情には、「運命」に抗う事は出来ないという諦観が含まれていた。

 

「それでも……初めて海の上で朝を迎えて拝んだ、あの暁の水平線はとても美しかった」

「それでも……初めて海の上で朝を迎えて拝んだ、東の御空を抱くあの暁光はとても輝かしかったクマ」

 

 だが二人は、太陽の様な眩しげな笑顔を浮かべ。

 

「軍艦として生きるのも、悪くないと思った」

「艦娘として生きるのも、悪くないと思ったクマ」

 

 己が境遇、己が「運命」を誇った。

 

 そして、蒼玉石の瞳と琥珀石の瞳。

 柔和ながらも強い信念を含んだ、二人の目線が絡み合った。

 

「……気付けばお互い、随分と遠くへ来てしまったな」

「……でも、此処が最果てクマ」

 

 そう、誰も居ない世界の果てまで来てしまったという寂寥感を二人は覚えていた。

 

 しかし、其々が抱いているたった一つの想い。

 それだけが、たった一つの世界の燈火として、二人の深淵を照らしていた。

 

「名残惜しいが……」

「……そろそろ始めるかクマ」

 

 清らかに対照した二人は、すう、と優しく息を吸い込む。

 そして二人は、心の中の燈火を凛と鮮やかに燃やした。

 

「……行くぞっ!!」

「……望む所だクマっ!!」

 

 誰も知らない世界の中心で。

 後の世の誰もが知りえぬ場所で。

 

 二発の砲弾音が水界に響き渡り、黎明を迎える鐘の音を轟かせた。

 

 時交えず、二人は砲雷撃の篠突く雨をお互いに降らせた。

 魚雷の波浪、副砲の豪雨、主砲の迅雷。

 暁闇の月下、緩急を付け、雷雨を潜り、二人はお互いの弾幕を躱していく。

 ステップを踏み、身体を回転させ、海風を切り裂いて滑り、鉄弾を躱していった。

 

 二本の平行線を描く様に飛沫を上げる二人は、同航戦のまま撃ち、相見える。

 

 着弾した水面には、波紋が広がる。

 二人は響く波紋の間隔を感じながら、神経を研ぎ澄ました。

 水界線上を玉彩絢爛たる閃光が揺らめく。

 

 二人は仲を裂く様に左右へと移動方向を切り替え、同航戦から反航戦に移行する。

 

 二人は寸秒に一度のペースで、繰り返し、繰り返し、水面を鮮麗な火花で彩った。

 鮮やかに海面を彩る火花、その一滴一滴が煌めき、一瞬を生きた大輪の花火の様に、海の暗闇と空の白明に溶けて沈んでいった。

 決して潮流に遡行せず、流れの儘、二人は華奢でしなやかな身体を揺り動かした。

 

 二人は呼吸を合わせ、合わせ鏡の様に、丁字での優位を得る為に踊った。

 

 月下に咲く花火の下、円舞曲を踊る様に、水界の舞台をくるくると踊った。

 驚くほど親密で、そして驚くほど悠遠の距離を二人は踊った。

 退廃と混沌の海を、秩序づける様に、二人は規則的に舞った。

 海世界で二人は踊り、唯、命を燃やしていた。

 

 二人は、お互いの海世界を、己が極彩色で塗り潰し、二人だけの世界を創り上げていく。

 そうしてお互いの長い髪が靡き、掠め、着弾点誤差数ミリの攻防戦が展開される。

 

「左舷斉射クマっ!!」

「甘いっ!!」

 

 軍艦・球磨は、砲撃を避ける為、外套をその華奢な身に絡ませ、拍子良く中空へと身体を舞わせた。

 

「食らえっ!!」

「させるかクマっ!!」

 

 艦娘・球磨は、雷撃を避ける為、己が身をしなやかなに反らせ、水切って魚雷を飛び越えた。

 

「ぐぅ……!」

「くっ……!」

 

 丁字有利を互いに取れぬ儘、二人は反航戦へと戻る。

 

 二人は、擦れ違い様、主砲及び雷撃にて迎え撃つ。

 二人は、水柱と魚雷の間を縫う様にすり抜け、お互いの側面を通過した。

 お互い身体を反転させ、二人は同航戦へと移行。

 

 そして再び、お互いが正対した。

 その二人の距離は、自身の攻撃を絶対に外さないであろう、超近距離であった。

 

「魚雷発射っ!!」

「魚雷発射クマっ!!」

 

 その距離の儘、刹那、二人の号令が交わり。

 

「避けられるものなら……!!」

「……避けてみろクマっ!!」

 

 二人は、手投げと脚艤装の魚雷を、全て発射した。

 そして辺り一面に氷柱が降り注ぎ、その鋭利さ故、二人は身を裂き、紅血を散らせた。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 痛みに耐え、呼吸を洩らす二人。

 お互いの視線が静かに絡む一瞬。

 二人には、その一瞬が永遠とも思えた。

 

 先瞬、お互い捨て身の雷撃を浴びた、軍艦・球磨と艦娘・球磨は、大破していた。

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

 二人はお互いを見据え、絶え絶えに白銀の息を漏らし、寒冷の海に凍らせていた。

 二人はお互いを見据え、主砲塔と魚雷兵装を静かに確認した。

 

――これで撃ち止めか。

 

 既に二人の主砲塔は折れ、魚雷は尽きた。

 以前の時とは違い、お互いの主砲と魚雷が死んだ状態である。

 艦娘と深海棲艦、その主武装たる主砲と魚雷が使えない以上、両者が矛を交えられる筈も無かった。

 

 これ以上は、もう戦えない。

 

――だが、それが何だって言うんだ?

 

「なめるなぁあああ!!」

「なめるなクマぁあああ!!」

 

 軍艦・球磨は右脚艤装の出力を上げ、もう一人の自分の頭を捉えた右回し蹴りを放った。

 艦娘・球磨は咄嗟に左腕で頭を覆い、前のめりになって右回し蹴りを防御し、そのまま肘を立て、もう一人の自分の懐へと突っ込み、かち上げる様に顎を捉えた肘打ちを叩き込むと、続けて右掌底打ちを放つ。

 軍艦・球磨は瞬時に左脚で海面を蹴り、もう一人の自分の肘打ちを回避し、更に後ろに下がりながら、右ストレートを放つ。

 刹那、軍艦・球磨の右ストレートと艦娘・球磨の右掌底打ちが左右で交差し、お互いの顎を掠め、空を切った。

 

 もう二人が武器と言えるモノは、脚に装備した艤装と己の拳のみだった。

 

「何故だクマっ!? お前は誰かを護り、そしてその先の平和を願う想いを乗せて、戦っていた筈だクマ!」

 

 艦娘・球磨はもう一人の自分に対して、言葉をぶつけた。

 

「そんなお前が、どうしてこの国の平和を乱そうとするクマっ!?」

 

 艦娘・球磨は、脚艤装の出力を上げ、後ろに下がったもう一人の自分へと肉薄し、追撃の右掌底を放つ。

 軍艦・球磨は、もう一人の自分の右掌底を左手で払い除け、そのまま右下段蹴りを叩き込む。

 艦娘・球磨は、もう一人の自分の脚を掬い上げる様に左手を振い、蹴り脚をずらす事により、攻撃を回避した。

 

「ふざけるなぁあああ!!」

 

 軍艦・球磨は、もう一人の自分に対して、右ストレートを放った。

 艦娘・球磨は、左手で円を作る様な軌道を描き、もう一人の自分の右ストレートを散らし、ガードが空いたもう一人の自分の顎に掌底打ちを叩き込む為、腕を振るう。

 軍艦・球磨は、飛んできた掌底打ちの方向へと右肩を入れ、もう一人の掌底打ちを潜る様に、避けた。

 

「誰かを護る為にその身を捧げたあの人達の想いを否定して、何が平和だっ!?」

 

 軍艦・球磨は、右、左、右と続け様に、もう一人の自分へと拳を打ち込む。

 艦娘・球磨は、一発目、二発目を左手で払い、そして三発目を払うと、拳を引くタイミングを狙い、踏み込み、もう一人の自分の右手を両手で掴み、捻って、海面へと叩きつけようとする。

 軍艦・球磨は、倒される一瞬、掴まれた手を軸に、弧を描く様に空中へと身体を投げ出す、側宙でもう一人の自分の拘束から逃れた。

 

「あの人達の想いを踏み躙り、蔑ろにしてまで得た平和に、一体何の価値があるんだっ!?」

 

 軍艦・球磨はもう一人の自分に対して、言葉をぶつけた。

 

「まるで腫物を扱う様に、私たちの戦いの時代を、闇に葬ろうとした人間が何人居たっ!?」

 

 軍艦・球磨は、ぽろぽろと清らかな涙を零しながら、もう一人の自分へと想いをぶつけた。

 

「あの人達が行った戦いを、あの人達の想いを利用しようとした政治家や活動家が何人居たっ!?」

 

 軍艦・球磨は美しく泣きながら、もう一人の自分へと想いをぶつけた。

 

「私たち深海棲艦とお前ら艦娘が現れるまで、大戦の事なんて過去の話だと見向きもしなかった人間が何人居たっ!? 言ってみろっ!!」

 

 善と悪、善悪正邪、勧善懲悪。

 そんな二項対立構造では決して言い表せない、理論思考や政治的概念さえも超越した、荒々しくも温かく、粘着ながらも清らかな想いのぶつかり合いが其処にはあった。

 過去から引き継がれた想い、現在から引き継がれた想いのぶつかり合いが唯、其処にはあった。

 

「アイツらは、あの人達の想いを否定したっ!!」

 

 軍艦・球磨は、過去の想いを乗せ、駆ける、避ける、そして、拳を振るう。

 

「分かるかお前にっ!! 私に想いを託し、私と運命を共にした、あの人達の悲しみがっ!! 存在理由を否定された、私自身の恐怖と苦しみがっ!!」

 

 艦娘・球磨は、その想いに応えるべく、現在の想いを乗せ、駆ける、避ける、そして、拳を振るう。

 

 既にこの戦いは「体」の優劣の戦いでも、ましてや「技」の習熟度の戦いでもなかった。

 どちらの「想い」が強いかという、「心」の戦いであった。

 

 刹那、軍艦・球磨の放った右フックが、艦娘・球磨のこめかみを捉えた。

 咄嗟に腕を上げて艦娘・球磨は攻撃を防御したが、その衝撃はガード越しからでも計り知れず。

 艦娘・球磨の視界を白く染め、そしてよろめいた。

 

「……分かるクマ」

 

 それでもなお、艦娘・球磨はもう一人の自分の蒼玉石の瞳を見据え続ける。

 艦娘・球磨は、ぶらんと腕を下げ、構えを解いた。

 それを見た軍艦・球磨は、思わず攻撃の手を止め、後ろに飛び退いた。

 

「お前は『球磨』自身だ」

 

 艦娘・球磨は、もう一人の自分の言葉を優しく受け止めた。

 すう、と一粒の温かな涙を落としながら、もう一人の自分へと囁いた。

 

「だから、もういいんだクマ」

 

 艦娘・球磨は慈愛の笑みを浮かべ、もう一人の自分へと赦しの祈りを捧げた。

 

 艦娘・球磨は知っていた。

 もう一人の自分、軍艦・球磨が何故、この様な凶行に走ったのか。

 

「この世界は冷徹だクマ。他人の想いなんて、これっぽっちも気に留めない無情の輩が蔓延っている世界だクマ。そうした想いを否定する人間が多数を占める世界だクマ」

 

 それでもなお、艦娘・球磨は敢えて問いを投げかけた。

 

「だけど……過去の想いを語り、未来へと受け継ぐ人間も中には居るクマ」

 

 もう一人の自分がどれだけ世界に対して絶望していたのか。

 どれだけ一人で苦しんできたのか。

 どんな信念で戦ってきたのか。

 

「そして……その想いを引き継ぐ人間も、現在には居るクマ」

 

 その想いを直接、その口から聞いておきたかったからだ。

 

「お前の悲しみは全て……お前自身である球磨が引き継ぐクマ。だからもう、その責任を下ろすクマ」

「……!」

 

 その言葉に、軍艦・球磨の心が微かに揺らいだ。

 そして艦娘・球磨は、琥珀石に燃える瞳で、軍艦・球磨を見据えると。

 

「それで球磨は、『球磨』自身を……救ってみせるクマぁあああ!!」

 

 手をぶらりと下げた儘、脚艤装から黒煙と火花を噴き上げながら、爆発的に加速した。

 

「……やってみろぉおおお!!」

 

 軍艦・球磨は、迎え撃つべく渾身の右ストレートを、神速で接近するもう一人の自分へと放った。

 軍艦・球磨の拳が当たるその一瞬、艦娘・球磨は膝を沈め、身体を横に捻り、もう一人の自分の腕を潜り、皮一枚でその拳を躱した。

 極力の一撃を潜り抜けた艦娘・球磨は、脱力からの一瞬、軍艦・球磨の胸元へと、引き付けられる様に腕を伸ばす。

 そうして艦娘・球磨は、掌が触れる一弾指、腰を返し、腕を捻った。

 

 刹那、軍艦・球磨の胸元に、主砲を撃ち込まれた様な衝撃が走った。

 それは、艤装の限界突破出力による踏み込み、爆発的な力の転換、技の発動タイミング、その全てが合わさった、艦娘・球磨の掌底突きだった。

 

 そして直撃弾を喰らった様な衝撃を受けた軍艦・球磨。

 その衝撃は、軍艦・球磨の身体を、軽々と空中へと舞わせる程であった。

 

 直後、太陽柱が水平線に浮き上がり、辺り一面、東の空から輝く暁光に包まれた。

 そうして、二人の影は橙色に滲み溶け、混ざり合った。

 

 日出る海空にその身を優しく抱かれた軍艦・球磨。

 その意識が遠のく寸前、軍艦・球磨の脳裏に浮かんだのは。

 

『――大佐だ。よろしく頼むよ、球磨』

 

 在りし日の提督の笑顔であった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

『球磨』

 

 軍艦・球磨は、懐かしい声を聴いた気がした。

 

『すまなかった。私の身勝手な約束のせいで、貴様には随分と面倒を掛けた』

 

 一面に輝く白銀の光の中。

 

『もう約束に縛られて苦しまなくていい』

 

 鮮やかに蘇る記憶の中。

 

『それに貴様の想いが負けた以上、貴様に残された時間はあと僅かだろう』

 

 軍艦・球磨は、懐かしいあの人の声を聴いた気がした。

 

『だが貴様にはまだ、やる事があるようだな』

 

 そして、大きな海風が軍艦・球磨を揺り起した。

 

『貴様に面倒を掛けた分、私は幾らでも待つ。私は何時でも、貴様の事を待っている』

 

――おい! 君、大丈夫かいっ!? ……おい!

 

『それに「もう一人の私」が貴様の事を呼んでいるようだ』

 

 次第に遠のいていく懐かしい声。

 徐々に覚醒していく意識の中。

 

『球磨。大変だろうけど、もう一寸だけ頑張れるか?』

 

 軍艦・球磨はその声へと静かに告げた。

 

 

「――――提督。球磨、もう一寸だけ頑張る」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5節「守られた約束、最果ての空」

 

――――0800、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西20シーマイル。

 

「……」

「ああ、目を覚ましたんだね、よかった……! 彼是1時間近く目を覚まさないから心配したよ……!」

 

 意識を取り戻した軍艦・球磨の目に映ったのは、心配げに自分の顔を覗き見る、壮年の男の姿であった。

 その直ぐ後ろには、少し呆れ、けれども優しさを噛み締めた表情でその男を見つめる少女が一人。

 ボロボロになった自身のセーラー服の上から、その男のモノであろう外套を羽織る、艦娘・球磨の姿があった。

 

――ああ、そうか。

 

「……お前が」

「……え?」

「艦娘の私の提督か……?」

 

 しげしげとその男を見つめた軍艦・球磨は、その男に尋ねる。

 

「……そうだよ。僕が『艦娘・球磨』の提督、一等海佐の――――だ」

 

 提督は一呼吸の後、熱の籠った声色で、軍艦・球磨に己が名を受け答えた。

 

「そうか……」

 

 軍艦・球磨は、溜息を静かに吐き捨てると、自分が置かれている状況を、ぼんやりとした頭で確認した。

 

「ここは……船の上か……?」

 

 軍艦・球磨は、艤装を外され、仰向けになって小さな艦艇の艇尾甲板の上に寝かされている。

 造りと設置された武装から見るに、恐らくは軍所有の哨戒艇だろうと思った。

 冬の海の割に随分と温かいなと思ったら、先の戦闘でボロボロになった軍艦・球磨の水兵服の上から、救急用毛布が掛けられていた。

 その周りには、包帯やら艤装用工具やら使い切った高速修復材やらが慌しく整頓されている。

 

 気が付けば朝になっていたのか、透きとおる様な寒さを抱いた淡い空色が、軍艦・球磨の眼前に広がっていた。

 そして煌々と昇り行く白銀の太陽が、水上世界の全てを明るく照らしていた。

 

「気絶したお前と動けなくなった球磨を、提督が哨戒艇の上まで運んでくれたクマ」

 

 その言葉に、軍艦・球磨はゆっくりと、提督とその隣に居るもう一人の自分を一瞥する。

 

「今まで軍で培ってきた技術が、まさかこんな形で役立つとは思わなかったよ」

「人生そんなもんだクマ」

 

 提督が纏っている常装冬服は、幾分か乾いていたとは言え、水分を吸ってやや重そうに見えた。

 

――つまりこの男は、何の装備も無しに、この寒冷の海に飛び込んだという事か。

――無茶な事をする。

 

「ふむ……」

 

 軍艦・球磨は提督の瞳を、己が抱いた蒼玉石の瞳で、まじまじと見つめた。

 

――それにしても似ている。

 

「ええと……何かな……?」

 

 その視線に気が付いた提督は、少し戸惑いを浮かべた表情で、軍艦・球磨に対して尋ねる。

 その言葉に軍艦・球磨は、ふっと懐古的な笑みを零しながら、言葉を繋げた。

 

「いや、すまない……お前の声とその柔和な眼差し、アイツにとてもよく似ている、と思っただけだ……」

「アイツって……もしかして……君の提督の事かい?」

「そうだ」

 

 軍艦・球磨は、目の前に居る提督を通し、遠い遠い昔、共に過ごした在りし日の提督の事を、しみじみと懐かしんだ。

 

「お前の声を聴くと、とても懐かしい気持ちに襲われる。お前のその眼差しは、とても安心する」

 

 軍艦・球磨は、決して得がたいモノ、既に失われたモノが、今目の前で再生した様な気がした。

 

「そっか……」

 

 その軍艦・球磨の答えに、提督は色彩のある、けど何処か悲しげな色を浮かべた柔らかな頬笑みを、軍艦・球磨に返した。

 

「……あれ?」

 

 ふと、提督の目に留まる軍艦・球磨の姿が、微かに揺らいだ様な気がした。

 見間違えだと思いながら目を擦り、提督は再度、軍艦・球磨へと視線を投げかける。

 

――やはり、彼女の姿が霞んで見える。

 

 気がかりになった提督は、隣に居る艦娘・球磨へと視線を投げかけた。

 

「……クマー?」

 

 そして艦娘・球磨も、提督と同じ様に訝しげな表情を浮かべていた。

 艦娘・球磨と提督の視線が交わり、二人は腹を括り、コクリと頷くと、軍艦・球磨へと視線を戻す。

 

「……ちょっと傷の具合を確認したいから、毛布を退かすけどいいかい?」

「別に構わない」

 

 心配になった提督は、軍艦・球磨の身体を覆っていた毛布を静かに退けた。

 

「……クマっ!?」

「……君の身体がっ!?」

 

 そして艦娘・球磨と提督は、一様に驚愕した。

 軍艦・球磨の水兵服と身体は、風に舞う桜花の様に静かに、透きとおる光の粒となって、その輪郭を崩していったからだ。

 

「ああ、そっか……」

 

 納得した様な声を上げた軍艦・球磨は、「気にしなくていい」と言わんばかりの表情を艦娘・球磨と提督に投げかけ、言葉を紡いだ。

 

「元々、私は想いだけで形作っていた怨霊みたいなモノだ。私の想いが負けた以上、還る時が来たって事だろう」

「そんな……! それじゃあ君は……!」

 

 だが、心配する提督とは裏腹に、消え行く軍艦・球磨の表情はとても落ち着いた様子だった。

 

「いいんだ、私の身体はとっくの昔にバラバラだ……これは自ら然るべき事だ……それに私が知っている提督は、もうこの世界には居ないだろうしな。今更、未練なんてあるものか」

 

 そして軍艦・球磨は、もう一人の自分を見据える。

 

「だが、お前が知っている提督は此処に居る。それだけ分かれば満足だ」

 

 その表情は、やっと「答え」を見つける事が出来たという、安堵と歓喜の表情。

 

「そして艦娘の私を見て確信した。あの人達の想いは、形は違えどちゃんと生きている。それだけ分かれば私は満足だ」

 

 もう他に何も必要無いという満ち足りた表情、己の心が満たされた表情であった。

 

「だけど……それじゃあ、あまりにも……」

 

 しかし提督は、やっと自分自身の手によって助けられた命の焔が、自身の目の前で消え行くのを見続けるのは、とても耐えきれないものであった。

 提督の脳裏には、在りし頃の自分、誰かを救おうとして必死に奔走した自分自身、そしてそれでもなお誰かを救えなかった自分自身の姿がありありと映っていた。

 

「そうだ、この哨戒艇にはまだ高速修復材が……!」

 

 自分のエゴとは十二分に分かり切っていたが、それでも提督は、何かせずには居られなかった。

 提督は哨戒艇に積んであった物資を取りに、立ち上がって、踵を鳴らす。

 

「提督」

 

 しかし提督の行動は、艦娘・球磨が、提督の制服の裾をぎゅっと掴んだ事によって妨げられた。

 

「球磨……」

 

 提督を見据えた艦娘・球磨のその目は、とても切なげであった。

 そしてその目には、懇願が含まれていた。

 

「もう一人の球磨は、もう何十年も一人で苦しみ、彷徨い、そして戦い続けたクマ」

 

 そして艦娘・球磨は、嘆願の笑顔を浮かべ。

 

「だからそろそろ、休ませてあげて欲しいクマ」

 

 精一杯の祈りを、提督へと捧げた。

 

「……」

 

 その艦娘・球磨の表情を見た提督は、その懇願を否定できる訳も無く、軍艦・球磨の元へとしゃがみ込み、その表情を見据える。

 涙を零しそうなほど潤んだ目で、消えゆく焔の姿を抱いた。

 

「……本当に……僕たちに何か出来る事は無いのかい?」

 

 そして提督は、悲しみを押し殺した声で、軍艦・球磨に尋ねた。

 

――こういう所も、本当そっくりだ。

 

 その提督の表情を見た軍艦・球磨は、母親が諭す様な優しげな表情を提督へと投げかけ、そして口を開いた。

 

「なら、最後に頼みがある……」

 

 そして軍艦・球磨は祈った。

 

「あの人達の想いは、時が経てば何時かこの海風に溶けて消えていくのだろうな……」

 

 永遠など存在しない無常の世界で。

 

「それでも……あの人達が護ろうとしたこの世界を護り続けて欲しい……」

 

 誰かの想いを抱き、担い、そして戦った少女。

 

「そして……一つの時代、この国や誰かを必死になって護ろうとした、あの人達の想いを忘れないで欲しい……」

 

 自分自身が抱いた、その想い。

 

「この世界を護ろうとした、あの人達の想いを否定しないで欲しい……」

 

 自分自身の存在理由。

 

「この私の想いを……否定しないで欲しい……」

 

 その願いは唯、自分の存在を否定しないで欲しい、忘れないで欲しいという、少女の切実な祈りであった。

 

「……分かったよ」

 

 その願いを聴いた提督は、潤んだ目を隠そうともせず、軍艦・球磨へと言葉を紡ぐ。

 しかしその目の奥底には、強く輝く光が潜んでいた。

 

「ありがとうね、『球磨』。こんなになるまでずっと誰かの為に戦ってくれて……約束するよ……僕で良ければ、喜んでその責任を背負わせて貰うよ」

 

 そして月光とも例えられる様な、柔和ながらも信念を纏った目で、提督は軍艦・球磨に約束した。

 

「ありがとう。もう一人の提督」

 

 その提督の言葉に、軍艦・球磨は嬉しげな笑みを浮かべた。

 そして隣で話を静かに聴いていた、艦娘・球磨へと視線を投げかけた。

 

「そして……これは約束と言うか、私の願いなのだが……」

 

 軍艦・球磨と艦娘・球磨の視線が絡んだ。

 

「私は深海棲艦になってから、あまりにも多くの者達から奪い過ぎた……今更、赦して貰おうだなんて都合の良い事は言わない」

 

 一人は蒼玉石の如く輝く瞳で。

 

「……だからこそ艦娘の私には……この先の人生、誰からも奪わずに、さっきみたいに誰かに何かを与えられる存在で居て欲しい」

 

 一人は琥珀石の如く輝く瞳で。

 

「そして艦娘の私には……この先、幸せに生きて欲しい」

 

 軍艦・球磨は、自分自身に対して、この先の幸福を願った。

 

「……分かったクマ」

 

 艦娘・球磨は、大きく自分自身に対して頷き。

 

「お前が苦しんだ分だけ、『球磨』は幸せになれるよう、精一杯、頑張るクマ。精一杯、この世界を、駆け抜けてやるクマ」

 

 そして自己受容の笑みを浮かべ、自分自身の願いを胸に秘めた。

 

「ありがとう。艦娘の私」

 

 もう一人の自分の笑みを見た軍艦・球磨は、にっこりと太陽の様な笑みを浮かべた。

 そうして頭に被っていた軍帽をひっそりと脱ぎ、両の手で胸元に優しく抱き寄せた。

 

 軍帽を脱いだ軍艦・球磨の顔立ち。

 今までは軍帽の影で分かり辛かったが、その軍艦・球磨の白く儚い端麗な顔立ちは、艦娘・球磨の生き写しであると言えた。

 その軍艦・球磨の顔立ちは、とても鮮やかで穏やかなモノであった。

 

 そして、すう、と息を洩らした軍艦・球磨は、風に乗ってその身全てが消えゆく、その時を待った。

 

 

 ……………………………… 

 

 

「この体勢では本当……海が見えんな……」

 

 

―― 軍艦・球磨は薄れゆく意識の中、吹き行く海風に心情を語った。 ―― 

 

 

 だけど私の目には、瑠璃色と白の濃淡が広がる、もう一つの海が広がっている。

 一面に広がる大空が私を包み込んでいる。

 

 ゆっくりと形を変え、きらきらと空を揺蕩う冬雲の姿は、まるで灯籠流しだ。

 蒼空を優しく漂う御霊たちの様だ。

 私もあの中に加わる時が来たという事だろうか。

 

「……でも、不思議と悪い気はしない」

 

 だって、世界はこんなにも。

 あの人達が護ろうとした世界は、こんなにも輝かしく綺麗だって分かったんだ。

 あの人達の想いはしっかりと引き継がれている事が分かったんだ。

 

「ああ……空が綺麗だ……」

 

 あの御空に、白く眩く照らす太陽と淡く蒼く浮かぶ月が見つめ合っている。

 あのふいと横を向いている月なんか、お前そっくりだ。

 あれは、私とお前か? 

 

 あの御空を切り裂く様に、一筋の白線を描いて進む飛行機が見える。

 この世界の果てを目指して飛んで行くのだろう。

 あの日、帝国の栄光と誉、そして数々の想いを胸に、日輪が照らす水平線の果てを目指してお前と一緒に進んで行ったな。

 あれは、私とお前か?

 

「提督」

 

 海風が私の濡れた頬と髪を撫で、波の音を運んできた。

 ああ、先程よりも鮮やかに聞こえる。

 その海風が運んできた波の音と共に囁く、あの人の声が聞こえる。

 

 

―― あの日、球磨に語りかけてくれた、提督の温かな声色が聞こえる。 ―― 

 

 

「――――球磨、やっと答えを見つけたよ」

 

 

 その言葉に答えるかの様に、辺り一面に大きくて優しい海風が吹き込み、軍艦・球磨はその風を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

 そして軍艦・球磨の魂は、優しげに吹く海風に乗って、蒼空へと昇っていった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ:永遠平和の為に鐘は鳴る
第1節「彼女たちが愛したこの世界」


 

 これがこの数週間、艦娘・球磨と僕が体験した不思議な出来事だった。

 この出来事を誰かに伝えなければという焦燥に駆られた僕は、僕が最も信頼を置いている地方総監部(鎮守府)司令官に、この一連の出来事を話した。

 そしたら彼は『興味深い』と呟き、そして『この話を公表しよう。歴史に名を残すぞ』と提案してくれた。

 

 正直、僕は渋った。

 僕は軍艦・球磨と在りし日の提督の話、彼女たちの話を、艦娘・球磨と一緒に、そっと胸にしまっておきたかったんだ。

 何故なら、彼女たちの想いが、世間という現実に曝され、そして穢されてしまう事が、僕にはとてもではないけど辛くて、苦しくて、恐ろしくて、怖くて、耐えられなかったからだ。

 

 でも、僕はそれでも。

 彼女が生きた、あの激動の時代の出来事を。

 そして彼女が担った、あの時代を生きた人達の想いを、このまま忘れさせてはいけない。

 僕は彼女との約束を守る為、誰かにこの事を伝えなくちゃいけないという、脅迫概念にも近い感情に見舞われたんだ。

 

 だから僕は球磨とよく話し合って、球磨と僕の名前は伏せる事を条件に、その提案を飲み、僕が最も信頼を置いている司令官の彼に、この出来事の公表を依頼した。

 僕は別に、何かを本当に成し遂げたかっただけであって、歴史に名を残したかった訳ではなかった。

 

 そして僕の話は彼を通して、瞬く間に国防海軍全体へと広がった。

 話の主語を伏せていた為、内容は紆余曲折を経たものの、結果として、全ての話の行き着く先は決まっていた。

 

『深海棲艦は、過去の大戦で沈んだ軍艦艇の成れの果ての姿であり、誰かを護ろうとしたその想いを否定された無念から生まれた存在である』

 

 海軍の皆がこの話に触れ、皆様々な反応を示した。

 その話を聞いたある者は憐情から涙を流し、ある者は実際に起こった事なのかを懐疑し、ある者は上手い創作だと気にも留めず、ある者は己が司令官としての行いを反省し、贖罪を心に誓った。

 

 そして僕は、とある出来事が起った事により、生まれて初めて自分が本当に何かを成し遂げたんだという、実感を得たんだ。

 

 それは、司令官の誰かが始めた事なのか、はたまた艦娘の誰かが始めた事なのか。

 誰が最初に始めた事なのかは僕には分からなかったけど、艦娘たちが深海棲艦との戦闘後に行ったある儀礼が、非公式に慣例化していったんだ。

 

 その艦娘たちの儀礼とは、深海棲艦との戦闘後に、沈めた深海棲艦に対して献花を供え、最高礼である21発の弔砲を3度鳴らし、弔辞を捧げて、弔意を表す、洋上慰霊儀礼だった。

 

 その右手には砲塔(ターレット)を。

 その左手には献花(カーネーション)を。

 

 純白色のカーネーション。

 その花言葉は、「尊敬」「純潔」。

 

 「その想いは今でも生きている」。

 

 この1年、艦娘たちは誰に命令された訳でも無く、必ずと言っていい程、献花である白色のカーネーションを装備品に加え、深海棲艦と戦っていた。

 司令官たちは、この非公式儀礼を黙認、というよりむしろ推奨していた。

 何故なら、司令官や国防海軍、ひいては国民の大多数が、艦娘たちの行いに希望の光を見出していたからだった。

 

 また、弔辞は部隊によって様々だったけど、とある英国詩人が遺した説教の一節が最も多く用いられた。

 

『貴女たちの死は、私たちの死。何故なら、貴女たちと私たちは同じ存在なのだから。それ故、あえて私たちが言う必要はない。誰の為に弔いの鐘の音は鳴るのかと。その弔いの鐘の音は、貴女たちだけのモノではない。それを聞く私たち自身の為にも、その鐘の音は、鳴っているのだから』

 

 そうして彼女たち、深海棲艦たちは、日に日に姿を現さなくなっていった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 深海棲艦との戦闘が殆ど報告されなくなった影響、また戦闘行動を止めた一部の深海棲艦の娘を、国防海軍が「艦娘」という扱いで人道的に保護していった影響により、「深海棲艦と戦う任務」を次第に解かれていった「艦娘」たちは、其々が生きる道を模索し始めた。

 

 ある艦娘は姉妹たちと一緒に海軍を去り、今では一般人として学校へと通い、立派に生活しているそうだ。

 また、ある艦娘はそのまま海軍に残り、退職後の事を考慮した一般教育や職業教育を受けながら、国家公務員という立場で、今でも誰かを護る為に、心血を注いで働いてくれている。

 

 そして、現在の艦娘たちの任務は、「深海棲艦と戦う任務」から、その快速と機敏さ、そして艤装の恩恵から得た丈夫さを武器に、海で発生した船舶事故の対応および救難者の救助、また水害が発生した場合は、いち早く現場に駆けつけ、住民を避難させる、「救難・救助任務」が主となっていた。

 

 中には艦娘たちを非難する人も居たけど、大多数の人たちが、嬉々として彼女たちの存在を受け入れていた。

 

 人生は戦いの連続だとも言える。

 この先、彼女たちには人生という様々な戦い、困難が待ち受けているだろう。

 だけどもう、彼女たちが武器を持って戦う事は無いだろう。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 また、少しずつではあるけど、深海棲艦について肯定的に捉え、歴史を学ぼうとする理知的な人達も出て来た。

 喪った多くの人命は決して戻らない。

 彼女たちが行った事は、道徳的に考えれば、決して許される事ではないだろう。

 

 だけど、それでもなお、あの時代を生きた人達が必死になって何かを護ろうとした、その想い。

 あの時代を生きた人達の想いを次の世代へと伝えようとした彼女たちの想い。

 

 その両者の想いを、後世に残す事は出来ないだろうか。

 その両者の想いを、永き平和状態の維持に役立てる事は出来ないだろうか。

 

 歴史的に考えれば、戦争状態の方が自然な状態だ。

 むしろ平和状態の方が異常な状態と言える。

 人間の本質は性善ではない、性悪だ。

 そう言える程、人類は戦争を繰り返してきた。

 

 ちょっと歴史を勉強すれば、永遠平和を望むなど、思想家の非現実的な夢想でしかない。

 それが夢のまた夢の話であるという事を、僕は知らなかった訳ではなかったんだ。

 

 それに自分で考えもしないで他者に流される儘、短絡的に、そして闇雲に平和を叫ぶという事だけは、僕には出来なかったし、それだけはしたくなかった。

 恐らくは、歴史を学んだ人達も、同じ想いを抱いていると思う。

 

 でも、それでも。

 歴史を学んだ人達は、一人一人が自分で考え、信じ、願い、そして祈ったと思う。

 僕と同じく、自分で考え、信じ、願い、そして祈ったと思う。

 

 願わくは、あの時代を生きた人達や彼女たちの、誰かを護ろうとした想いが、永き平和への礎と成さん事を。

 願わくは、古の軍艦艇の魂を抱いた彼女たちが、平和に過ごせる事を。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2節「理解者の証明、悠久なる水平線の彼方へ」

 

――――0800、国防海軍警備施設、埠頭。

 

『こんな所に居たクマ。執務室に居ないから、探したクマ』

 

 日出ずる早春の海、絶えず昇り続ける太陽によって、空と海は瑠璃色に輝いていた。

 風光る海原、その隅っこにある軍港の桟橋にぽつりと座り、古びた士官軍帽を膝の上に乗せた男が一人。

 其処には、まるでそれが仕事であるかの様に、静かな波を立てている海を呆然と眺め、黄昏ている提督の姿があった。

 

「まったく……こんな所で油を売ってるなんて、提督さまは本当、良いご身分だクマ。仕事の方はどうしたクマ?」

 

 桟橋に座っているその男、提督へと、鳶色の長い髪を揺らし、春に浮かれる様に、ふわりと近付いてくる少女が一人。

 そして提督に歩み寄った少女は、己が端麗な顔立ちを提督へと投げかけた。

 

「球磨……」

 

 提督はその声の主、艦娘・球磨へと、静かな声で答えた。

 何か押込める様に目頭を押さえ、そうして笑顔を浮かべた提督は、球磨を見据えて弁明した。

 

「いや、何て言うかさ……ちょっと考え事がしたくなってね……一応、緊急連絡が受信出来る様に軍用携帯端末(PDA)は持ってきたけど……ごめんよ、直ぐに執務室に……!」

「てーとく」

 

 その呼び掛けと共に、手を後ろに組んだ球磨は、立ち上がろうとしている提督へと身体を傾ける。

 

「お疲れだクマー。たまにはゆっくり休むといいクマー」

 

 そうして、お日さまの様な温かな笑みを、提督に投げかけた。

 

「……そうだね、たまにはそうさせて貰うよ。ありがとうね、球磨」

 

 その笑顔を見た提督は、自然と零れ落ちたお月さまの様な静かな笑みを浮かべ、球磨に返した。

 

「クマ♪」

 

 そして球磨は、提督の隣にちょこんと座ると、自身の白くしなやかな脚を海の方へぶらぶらと投げ出した。

 暫くの間、球磨と提督は、眼前に広がる水平線を、穏やかに眺めていた。

 

 白銀の太陽、正対して蒼白く群青に浮かぶ月。

 水平線の果てまで続く、暗雲一つない蒼空。

 キラキラと白く光る、凍て溶けた浪間。

 温かな息吹を運ぶ、柔らかな海風。

 辺り一面を彩る、渡り鳥の旋律。

 この世界の理想を映した様な、穏やかな海。

 

 季節はもうじき、春。

 

「あれ? そう言えば、球磨の妹たちはどうしたんだい?」

 

 ふと、球磨と普段一緒に居る筈の四人が居ない事に気付いた提督は、球磨に顔を向けず、問いを投げかけた。

 

「今日は非番で皆出かけているクマ」

 

 同じく海原を閑やかに眺めていた球磨は、視線を交えずに、提督へと言葉を返す。

 

「ああ、そう言えばそうだったね。それにしても、球磨一人とは珍しいね。ここ1年近くは皆一緒だったってのに。特に木曾なんか、信じられないくらい球磨にベッタリだったじゃないか」

「もう1年以上前の出来事とは言え、あんな事があったから皆色々と思う所があったクマ。本当、可愛い妹たちだクマー」

「それなら尚更、球磨は一緒に行かなくてよかったのかい? 今は別に僕や基地の皆だけでも対処できるのに」

 

 その問いかけに球磨は、柔らかな呼吸の後、母親の様な優しげな頬笑みを浮かべて、答えた。

 

「たまには一人になりたい時もあるクマ」

 

 球磨にちらりと視線を投げかけた提督の目に映ったのは、淡い桜色で頬を染めている、球磨の横顔だった。

 

「……そっか」

 

 提督は静かに笑い、再び海へと視線を戻した。

 暫くの時間、二人の間には心地良い沈黙が降りていた。

 

「……球磨」

 

 そして別段、言葉を探していた訳でも無かった提督であるが、先程まで海原を見つめていた顔を球磨へと投げかけ、ぽつりと球磨に呼びかける。

 

「なんだクマ?」

 

 その視線に気付いた球磨は、上目遣いで提督を見据えた。

 二人の目線が絡み合い、提督は言葉を紡ぐ。

 

「球磨はこの先、どうするか決めているのかい?」

「まだ、決めていないクマ」

 

 その提督の問いかけに腕組みをしながら答えた球磨は、この先の展望を語った。

 

「少なくとも、妹たちの教育課程が終わるまでは、此処に居るクマ。このまま海軍に居続けるか辞めるか、大学か民間企業か……まあ、道は沢山あるし、それに当分先の話だクマ。妹たちの進むべき道については、其々の判断に委ねているクマ」

「なら当分は、此処に居るって事かな。まぁ、球磨だったらどんな道を選んでも、そつなくこなせそうだしね」

「そうクマ。球磨は意外に優秀な球磨ちゃんって、よく言われるクマ」

 

 腰に手を当て、ふふん、と愛らしげに鼻を鳴らした球磨であった。

 

「それに……アイツとの約束もあるクマ」

 

 そして提督の膝に置かれた、古びた士官軍帽を一瞥して、言葉を紡いだ。

 

「……そうだね」

 

 海風は、二人の頬と髪を撫でる様に優しく吹き抜けていた。

 

「……なぁ、球磨」

「どうしたクマ?」

「結局、彼女は最後に答えを見つける事が出来たけどさ……」

 

 不意に何時ぞやの夜の胸騒ぎを思い出した提督は、心配げな顔を浮かべ、球磨へと問いかける。

 

「球磨の方はどうなんだい? 球磨も彼女と同じ様に、世界に対して絶望を……」

「提督」

 

 憂虞の念を浮かべた提督に対して球磨は、「もう心配しなくていい」と言わんばかりの表情を投げかけ、言葉を紡いだ。

 

「それは可能性の一つだクマ。希望を託し沈んでいった球磨……絶望を叫び沈んでいった球磨……どっちも同じ、球磨ちゃんだクマ」

 

 艦娘・球磨は日光の様な力強い笑みを浮かべる。

 

 

「――――今の球磨は、古の軍艦の魂、その希望と絶望の想いを引き継ぎ、そして、その想いを胸に抱いて現在を生きる、艦娘・球磨だ」

 

 

 そうして艦娘・球磨は、提督に対し、高らかに己が存在を誇った。

 

 提督を静かに見据えた球磨の瞳。

 その瞳は、太陽が乱反射する海鏡の光を抱き、きらきらと琥珀色に輝いていた。

 その瞳は、海原と群青の空を抱き、きらきらと蒼玉色に輝いていた。

 

「……そっか」

 

 

―― 月光の様な笑みを浮かべた提督は、心の中で思った。 ―― 

 

 

 この娘は強い。

 この娘は、僕が口を出さなくても、そうした数々の想いを胸に抱いて。

 この先もっと、僕が思っている以上に、もっとずっと遠くへと進んでいくだろう。

 

 その内、この娘だけの幸福を見つけるだろう。

 その内、この娘だけの愛を見つけるだろう。

 その内、この娘だけの生きる意味を見つけるだろう。

 

 去る者は追わず。

 僕が立ち止り、人生を振り返る頃には、もうこの娘は此処には居ないのだろう。

 

 僕なんかが、この娘の人生に口を挟んじゃいけない。

 僕なんかが、この娘の人生を邪魔しちゃいけない。

 

 でも、それでも。

 今この瞬間、この僕の想いだけは、君に伝えておきたい。

 

 例え、僕の想いが泡沫の夢だとしても。

 恐らく、在りし日の提督の想いと同じ様に。

 

 例え、血は繋がっていなくても。

 恐らく、在りし日の提督の想いと同じ様に。

 

 君が僕の下を去るその時まで、これからも君と一緒に誰かを護り、そして誰かを救っていきたい、と。

 

 

―― そして僕は、そんな君の提督、父親の様な存在、理解者でありたい、と。 ―― 

 

 

 突然、提督のポケットに入っていた軍用携帯端末(PDA)から、無機質な機械音が響く。

 

『近海20海里(マイル)地点の船舶より救難信号を捕捉』

 

 作戦司令室から、緊急任務の連絡が入る。

 

「さぁ、球磨! 休憩はおしまいだ。今し方、救難信号を捕捉した。サポートは僕に任せてくれ!」

 

 それを見た提督は、先程まで燻っていた火が灯った様に目を煌々と光らせ、球磨へと命令を伝達する。

 

「了解クマ! 球磨、出撃するクマー!」

 

 そしてその提督の言葉を合図に、艤装を展開した球磨は、人々が紡ぎ出した光り輝く海世界へと踏み出していった。

 

 

 ……………………………… 

 

 

 日輪は栄え、西の方に太陽は落とされ、暗闇が世界を染める。

 月輪は栄え、東の方に月は落とされ、光明が世界を染める。

 

 そうして、暁の水平線に、数多の想いが刻まれる。

 

 艦娘である一人の少女は、日出ずる海原を滑走し、提督である一人の男は、その少女へと己の想いを託す。

 

「さて、今日も人助け頑張るクマ!」

 

 過去の歴史、人々が必死に生きた時代、その希望と絶望の軌跡はなぞられ、やがて現在を生きる人々の想いへと募る事により、両者の想いはより一層、輝きを増していくだろう。

 

 太陽に寄り添った月の輝き。

 月に寄り添った太陽の輝き。

 

 艦娘・球磨が抱いた、その強く輝く想いは今日も、水平線を駆け抜けて行くのであった。

 

 

Fin.

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

 
あとがき/編集雑記


 

◇あとがき(2017/08)

 

 拙文ですが、最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。

 本作品のメインテーマは「戦う者の想い」そして「想いを乗せて戦う」です。

 また、バックテーマは「過去と現在を紡ぐ」「自己受容」です。

 

 「軍艦・球磨」の軌跡を描く際の狂言回しとなった在りし日の提督のモデルにつきましては、実際に艦長を務められた方をモデルとさせて頂きました。その方のお名前は此処ではご紹介致しませんが、後方任務を頑張った球磨ちゃんと後詰で頑張った提督さん。そのせいか話が膨らみ、随分と長い作品になってしまいました。

 私は本作で球磨ちゃんの歴史を探ってみましたが、皆さまも、皆さま自身が好きな艦娘の歴史をもう一度探られてみては如何でしょうか。其処には思わぬ史実が隠されているかもしれません。

 

 なお本作品では、「大東亜戦争」あるいは「太平洋戦争」という、非常にセンシティブな歴史の一幕が題材の為、私自身も気合を入れて、史実や証言を調べつつ、慎重に作品を描いたつもりです。ですが私の知識が拙いせいか、それが十分描き切れたかと言いますと、まだまだ不十分であったかと思われます。

 

 また、この作品はあくまでも「史実モノ」に近い形を取っている作品でございます。その為、受け取り方によっては何かしらの政治的意図があって描かれているのではないかと、お考えの方も中にはいらっしゃるかと思われます。

 しかし筆者である私の意見と致しましては、そうした政治的意図が一切無く、そんな公の事よりも個人の想いや心情を描く事が何よりも大事であると考えおり、この作品も極めて個人的な考えの上で描いている事を、この場をお借りして断言させて頂きます。

 

 最後にこの作品を作る際に参考した文献を何冊か下記に掲載致しまして、この話をお仕舞とさせて頂きます。ご興味がある方は、是非とも図書館などで本をお手に取ってご覧頂ければ幸いです。

 

【参考文献】

○木俣滋郎『日本軽巡戦史』(図書出版社、1989)

○原 為一ほか『軽巡二十五隻』(潮書光人社、2015)

○『戦艦大和&武蔵と日本海軍305隻の最期』(綜合図書、2015)

○『特攻 最後の証言』(文春文庫、2013)

○『図解 太平洋戦争』(河出書房新社、2005)

○加藤 陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫、2016)

○E.H.カー『歴史とは何か』(清水 幾太郎訳、岩波新書、1962)

○夏目漱石「私の個人主義」(青空文庫、2017年5月閲覧)

 

 

◇編集雑記(2018/03)

 

 多摩ちゃんが改二になったり、九三式酸素エクレアが発売されたり、球磨ちゃんのバレンタイン専用グラフィックが公開されたり、今年の1月11日に分祀元である「市房山神宮/里宮神社」で「軍艦・球磨」の3回目の慰霊祭が執り行われたりと、時が経つのは何かと早いものでして、気が付けばこの作品を「SS速報VIP」に投稿してから約半年が経過致しました。本作品を投稿後、本スレやまとめサイトのご感想を一喜一憂しながら傍観していた事が、つい先日の事の様に思われます。

 当時は様々なご感想やご意見をお寄せ頂き恐悦至極に存じます。もし当時、ご感想やご意見をお寄せ頂いた方がいらっしゃるのであれば、この場をお借りして改めてお礼を申し上げます。

 

 さて今更ながら、この作品を本小説サイトに投稿した意図と致しましては、『軍艦艇と人間、その境界で生きる』の編集雑記にも記載しております通り、ひとえに私の「戒め」と「決別」の為であります。「戒め」と「決別」という随分と大層な文字を並べてはおりますが、簡単に説明してしまえば、大した理由ではないのです。 大した理由ではございませんので、此処では省略させて頂きます。

 

 このような個人的理由で投稿致しました作品でも、お読み頂けたのであれば、私にとってはこれ以上の喜びはございません。

 

 

・本作品を描いたきっかけ

 

――太平洋戦争についての自分自身の勉強、そしてこの想いを誰かに表現したかった

 

 ふと図書館で『日本海軍艦艇総覧』ならびに『太平洋戦争海戦全史』(新人物往来社、1994)を読み、自分自身「太平洋戦争」について何も知らないんだなと思ったのが描き始めるきっかけでした。

 これは本スレにも記述した事ですが、正直に申し上げますと、西洋史や文学史、哲学史などは元々好きで勉強していたのですが、「太平洋戦争」や「戦史」につきましては、若干の忌避意識があったせいもあり、今の今まで勉強してこなかったのです。

 

 それでふと、図書館で歴史書を手に取る機会があり、断片的にですが歴史に触れる機会を得たのですが、あまりにも凄惨すぎる、「○○が沈んだ」「何百人が犠牲となった」という歴史記述から感じたのは、何とも言えない悲しみと寂寥感でした。

 

 それと同時に、このような歴史があったのに見向きもしなかった私自身に酷く腹が立ち、そしてそうした激動の時代、民間人ではなく、彼女たちに実際に乗艦した軍人が、どのような想いを抱いて戦ったのか興味を抱き、そして少なくとも近代の出来事、それもたった73年前の出来事なのですから、現代でも通じる想いがあるのではないかと思った次第です。

 

 それと踏まえた上で、私自身の想いを何か表現できる事はないか。私はこの想いを筆に乗せなければならない、誰かに伝えなければならないという、使命感といいますか、自分の切実なる必然性といいますか、とにかくそのような感情に支配されたのです。そうして描き上げたのが本作品であります。おそらくそうした自分の想いがあったからこそ、自分の拙い知識とゼロに近い「太平洋戦争」に関する知識に苛まれながらも、何とか形に落とし込めたんだと思います。

 

――「球磨ちゃん」および球磨型を本作品の中心としたきっかけ

 

 さて、本作品は「球磨ちゃん」、すなわち「艦娘・球磨」並びに「軍艦・球磨」のダブル主人公作品ではありましたが、彼女を主人公に選らんだ理由は幾つかあります。

 まず単純な話として、原作版『艦隊これくしょん -艦これ-』を私自身が興味本位でプレイした際に、初期艦の「電ちゃん」を除き、最初の建造で進水したのが彼女だったからです。

 そしてこれが一番大きな理由ですが、私自身、そうやって最初期の艦娘として育てていく内に、彼女の中に「歴史の闇」を感じてしまったからなのです。

 

 もちろん着任したての最初の頃は、おもしろ可笑しくゲーム世界に浸っておりました。

 

「ほう、この子は『球磨』だけに語尾が『クマ』なのか。えらく安直だけど個性的なキャラ設定だなぁ。中々可愛らしい。それで次妹は『多摩』だけにネコキャラなんだ。くまくま、にゃあにゃあ。楽しい動物園。」

「あら、『北上さんと大井っち』は何となく知ってたけど、球磨ちゃんってこの二人のお姉さんだったのね。」

「『木曾』 恰好良すぎだろJK。」

 

「……あれ? 球磨型って実は結構、個性派揃い?」

 

 実はどころではありませんね(笑)

 そんな訳で気が付くと、原作版やアーケード版では専ら球磨型を用いて遊んでいる球磨型提督になっていたのです。(次いで用いているのは第六駆逐隊の子たちですね)

 

 また「球磨ちゃん」は、原作版では普段時では間延びした口調で話す反面、戦闘時は「なめるなクマー!」と勇往さを見せつけてくれたり、二次創作的な面で言えば、「マスコット球磨ちゃん」や「美少女球磨ちゃん」、「球磨おねーちゃん」あるいは「語尾ないとイケメン球磨ねーちゃん」など、なかなか掴み所がなく、そんなところが素直にキャラクターとして魅力的に思いました。

 

 ですが、ふとある疑問が、私の脳裏を横切ったのです。

 

「そういえば、『戦艦・大和』や『戦艦・ 武蔵』はよく歴史番組とか映画で取り上げられたりするけど、『軍艦・球磨』はどんな歴史を辿ってきたのだろう?」

 

 よせばいいのに、育てている手前、何となくそのモデルとなった「軍艦・球磨」の過去を知りたくなってしまうのが、人情かと思います。

 そうして知ってしまったのが、彼女が抱える「歴史の闇」でした。

 

 物語中でも記述した通り、「大正・昭和の激動の時代を勇往果敢に駆け抜け」そして「最期はマレーシア・ペナンの海で雷撃に遭い、実際に乗船していた138名が尊い犠牲となった」。そしてそれだけでは話は終わらず、現代に入り、「違法サルベージの被害に遭った」(あの写真は何度見ても胸を締め付けられます。また「重巡・羽黒」も同様の被害に遭っております)。そんな悲惨な目に遭っている子の一人だったのです。

 

 それ以降、イラストレーターのUGUME氏によって描かれた、コンピュータのモニタに映る、三原色の細かなドットで表現された光学的偏光により、私の瞳というレンズを通して、脳という機械に其処に居るであろうと認識されられた、この子の浴衣姿やサンタコスチュームのはちきれんばかりの笑顔が、何処か影があるように思えてしまい、酷く居た堪れない気持ちになっておりました。

 

――「深海棲艦」魅力的な悪役たち

 

 本作品のもう一人の「球磨ちゃん」は、敵であろう「深海棲艦」側として登場しておりますが、その理由と致しましては、そもそも私が原作版『艦隊これくしょん -艦これ-』を始めたきっかけが、敵側であるレ級やヲ級のグラフィック、つまり深海棲艦側に惹かれたからに由来します。

 

 「撃沈された艦や沈んでいった船の象徴」である彼女たちは、そうした歴史の闇を感じさせるような何とも言葉にしがたい不気味さや煽情さを持ち合わせている反面、悪役なのに何処か憎めない愛らしさを兼ね備えた子が多い、そんな「ギャップ萌え」とも言える多面性を持ち合わせているキャラクターたちだと思います。

 そうした魅力からか、二次創作作品が多く見られ、艦娘たちとはまた違う、彼女たちの物語が色々と描かれているのかなと思った次第です。

 やなせたかし氏の『アンパンマン』の世界ではありませんが、「アンパンマン」と「ばいきんまん」の関係然り、魅力的な作品は総じて、愛おしさを感じるような魅力的な悪役キャラクターが居るからこそ、その物語世界にてより豊かな相互関係が生まれていくんだと思います。

 

 まあ、今でもこの文章を書いている机の隅には、ミディッチュのヲ級とほっぽちゃんがちょこんと居りますので、以上の事を考えますと、どうも彼女たち(艦娘と深海棲艦)を戦わせるのは些か億劫になってしまい、それ以降、原作版とアーケード版とは付かず離れずの距離で遊んでおりました。(その為、お恥ずかしながら、 私はあまりヘビーにゲームをやりこんでいるという訳ではないのです。)

 

――結局、なんで描いたの?

 

 結局、何が言いたいのかと言いますと、私がこのお話を描いた一番の理由は、下記にあるんだと思います。

 

「こうして僕が今書いているのは、彼を忘れないためなのだ。友だちを忘れてしまうのは、悲しいから。」

(サン=テグジュペリ『星の王子さま』、河野万里子訳、新潮文庫、2006)

 

 彼女は確かに其処に居た。

 『戦艦・大和』や『戦艦・武蔵』とはまた違う、歴史舞台の裏で、激動の大正と昭和の時代を駆け抜け、実際に乗艦なされた水兵さんたちの想いを担って戦い、何かを成そうとし、そして散華した彼女の事を、私自身が、何よりも忘れたくなかった。それと同時に、誰かにこの私自身の想いを伝えたかった。

 

 そして実際に彼女に乗艦し、そして散華された人達が何を想って戦ったのか。

 私は(今のところ)平和な時代に生まれた為、どうしても文献や口授ぐらいでしか知る術がありません。その為、残ってない部分は想像力や他の証言から補うしかありませんでした。それでも、乗っていた人達にも、何かしらの想いを抱いて戦っていて、そしてそうした想いは、現代にも通ずるような、普遍的な想いではなかろうか。そうした普遍的な想いを、彼女を通して伝えたかったんだと思います。

 

 また拙い知識を総動員して球磨ちゃんの歴史を頑張って描こうとしたのは、球磨ちゃんに限らず、艦娘一人一人が生きた戦争にはこれだけの歴史背景や物語があったんだよ、という事を私自身、誰かに知って欲しい想いがあったからだと思います。

 

 そうした心の中の鬱憤が、何処かに溜まっていたのでしょう。

 それがまったく関係ないきっかけでSSを描き始め、そして文章という表現方法で吐露させる事となるとは、自分自身で描いておきながら、とても不思議な感覚にさせられてしまいます。

 

 幸いな事に本作品を描いて以降、球磨ちゃんの笑顔からは、今まで私が感じていた影がいつの間にか消えており、私もやっとこさ安心してゲームで遊べるようになったのです。

 

 本作は、そうした一球磨型提督の愚かな願いを描いた作品なのでした。

 

 

・改訂につき

 

 SSからネット小説への文体変更に伴う改行表現の修正、誤字/脱字/衍字のチェックと史実の再確認、ちょっとした文体表現の修正程度で、それ以外はSS速報VIPに投稿した儘となっております。

 

 

・おわりに

 

 これで最後のお話とさせて頂きますが、私が一番好きな艦これBGMに「邂逅」という楽曲があります。この文章を読んで頂いている皆さまの殆どが提督かとは思いますので、「ああ、あの曲ね」と思われる方が多数かとは存じます。

 原作版『艦隊これくしょん -艦これ-』の2016年のアップデートで追加された、「艦娘図鑑」閲覧時に視聴が可能なBGMです。もともとは『艦これ改』(PS Vita、KADOKAWA、2016)の初期艦との文字通り邂逅シーンで使用された楽曲みたいです。

 

 威勢が良く勇猛果敢な楽曲が多い『艦これ』BGMの中では一線を画し、寂寥感あるピアノや弦楽器(ストリングス)による、全体的に透明感のあるオーケストラの音色が特徴ですね。郷愁 (Nostalgia) や穏やかさ(Peacefulness) 、或いは優しさ(Gentleness)、超越感(Transcendental)、不思議さ(Miraculous)などといった感情を呼び起こすBGMです。

 その事も相まって、「艦娘図鑑」のシーンは、ここだけゲーム内で隔離されたような、例えるなら、往来から突如として荘厳な博物館、或いは歴史館に紛れ込んでしまったと思わせるような、そんな空気が漂うシーンとなっております。

 

 また、この素敵な楽曲の作曲者である大越香里氏は自身のTwitterにて、作曲に伴いこのような事を述べておりました。

 

「是非聴きながら図鑑を見てみて下さい、よろしくお願いします。海の底から水面を見上げているようなイメージや、海の底にとどまる歴史のイメージが伝わればいいなと思い作りました。」(2016年4月22日)

 

 私はこのBGMを聞き、一人一人の図鑑を覗く時、上記、大越氏の言葉も相まって、いつもこう思うのです。

 

 滔々と流れる時間と移り行く時代という荒波に呑みこまれ、そして歴史の海へと沈んでしまった「歴史たち」。そうした海の底にとどまった歴史たちは、水面を見上げ、今を生きる私たちに一体何を語りかけるのでしょうか。

 

 そうしてふとした拍子に水面から水底を覗き込み、そしてその「歴史たち」の断片(かけら)を見つけてしまった私たち。まさに歴史たちと邂逅(おもいがけない出会い、めぐりあい)を果たした私たちは、一体何を語りかけてあげるべきなのでしょうか。

 

 その歴史たちの語りに、拙い文章で何とか答えてみようとしたのが、本作品なのかもしれません。

 

 以上でございます。

 いずれは熊本県の市房山神宮へとお参りし、そしてマレーシア・ペナンへと赴き、空と海を仰ぎたいなあという願望を抱きながら、この話をお終いとさせて頂きます。

 

 最後までお読み頂き誠にありがとうございました。

 今後また、ご機会がございましたら、その時は何卒よろしくお願い致します。

 

※もし誤字/脱字/衍字等、また歴史記述につきまして明らかな誤りがございましたら、お手数ではございますが、ご一報頂ければ幸いです

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。