東方キャラを病ませたい (ぬいカス)
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霊夢編 1話

「暇ねぇ」

 

 楽園の素敵な巫女こと博麗霊夢は、花筵となっている境内を箒で掃きながら、気怠げに呟いた。その言葉通り、彼女の表情には覇気が感じられない。今日もまた、何事も起こらない一日を過ごしているからだ。

 

「参拝客も来ないし、わざわざ掃除して綺麗にする必要あるのかしらね」

 

 ぶつぶつと愚痴をこぼしつつも、緩慢な動作ではあるが手を止める事は無い。境内の清掃は一応巫女としての仕事でもあるし、サボっていると神社をたむろしている者達が小煩く嫌味を言ってくるからだ。

 

「はぁ……退屈。また異変でも起こらないかしら。妖怪どもを叩きのめして、この鬱憤をはらしたいわ」

 

 霊夢は軽く溜息を吐いて、気を紛らわそうと空を見上げた。先程までは晴天だったが、いつの間にかどんよりとした曇天模様となっていた。晩春の生暖かい風が、霊夢の髪を撫で上げる。

 

「降りそうにないけど、嫌な感じね」

 

 まるで自分の心を写しているようだと感傷的な思考になった。それは一瞬のことで、次に一呼吸した間に霧散していた。霊夢はさっさと掃除をすませて一服しようと思い、箒を持つ手を早めた。

 

 そして、いつもより早く境内の掃除が終わり、霊夢は本殿の縁側に腰掛けていた。お茶請けの煎餅を、小気味良い音を出してかじっている。

 普段であれば説教臭い仙人や淑女を気取る隙間妖怪等が居たりして人目が気になり、こう大胆にくつろぐ事はないのだが、今日の博麗神社は静寂に包まれていた。

 

「んー。穀潰しの飲兵衛まで居ないのは珍しいわね。今朝には縁側で酔いつぶれていたのを見たんだけど。まあ解放的だしいいか」

 

 疑問に思いながらも、羽を伸ばせるから良いと楽観視に捉える。どうせ、そのうち暇を持て余した魔理沙辺りが、邪魔をしにやって来るのだろう。

 霊夢は湯呑みに残ったお茶を飲み干し、座布団を枕にして横になった。それから空に視線を送り、短くため息をついた後、目を閉じて寝息を立てはじめた。

 天気は相も変わらず曇り空であった。

 

 だらしない姿を晒している霊夢だが、巫女としての天賦の才をもっている。

 強大な力を持つ孤高の者には、無力な他者は近づき難くなり、劣るとも強力な力を持つ者は引き寄せられるのである。霊夢に高位の人妖が寄り付くのはその為だ。勿論、彼女自身の人となりによるものもあるが。

 

 博麗神社は、地理や性質上滅多に人は来ない。だが、前述した訳で妖怪が多数訪れるので、案外寂れているという事でもない。それゆえ余計に人が寄り付かなくなっており、幻想郷の人間からは妖怪神社と言わている。

 

 霊夢は博麗の巫女と言う職業柄、妖怪や神などの人外達とは多くの付き合いがある。また、霧雨魔理沙を始めとする人間の友人も少なからずいる。

 だが、霊夢は生来孤独である。今のところ本人にその自覚はないが、彼女の心には埋まらない隙間がぽっかりと空いており、常に何かを求めていた。

 万物に縛られない、空を飛ぶ程度の能力を持つ彼女の本質を理解できるのは、幻想郷の中でもほんの一握りの者だけである。

 そんな彼女だからこそ、博麗神社の巫女として相応しく、幻想郷のバランスを保つ役割を担い、幻想郷の要として幻想郷を守ってきた。

 

「んっ」

 

 そして一刻程時間が経ち、気持ちよく惰眠をむさぼっていた霊夢が、不意に目を開いた。

 

「……何かしらね」

 

 鳥のさえずりも疎らにしか聞こえない境内に、異質な風が舞い込んだのを肌で感じた霊夢は、先程までの怠惰な様から一転して素早く身を起こした。

 

 丁度夢を見ていた頃合いだったので、まだ開ききっていない視界の先には、こちらに向かってゆっくりと来る人の姿が小さく、朧げに見えた。

 その人物が近づくにつれ、意識がはっきりとしてきたのも手伝って、容姿を明確に見て取れた。

 背格好からして性別は男性で、身なりは紺色の着物の上に縞の合羽を羽織り、足袋と草履を履き、三度笠を目深に被っている。一言で言うと旅装束だった。

 

「この感じ、何だか腑に落ちないわ。何者かしら?」

 

 霊夢がそう思うには様々な要因があった。男から目を離さず、警戒しながら思慮を巡らす。

 

 そもそも博麗神社は幻想郷の最東端に位置し、幻想郷と外界を隔てる博麗大結界の中間に建ってている。故に幻想郷に存在してはいるが、外界にも存在していることになるのである。

 博麗大結界があるので思考ある生命体は、幻想郷からは外界を、外界からは幻想郷を認識出来ない。通常は境界を越えられないのだ。

 

 人里からは反対向きに本堂があるので、そこから真っ直ぐ参道が続き東向きに、つまり外界に向けて鳥居がある。

 鳥居とは本来神社の境域を示す門であり、神と人との世を区画する役割をになっている。

 鳥居を隔てると、外界からは寂れた無人の神社が見え、幻想郷からは変わらず地続きの風景が見える事になる。

 

 鳥居をくぐって博麗神社にやって来る人がいれば、それは意図の有無に関わらず、結界の綻びにより外界からやってきた外来人と呼ばれる人間の可能性が高い。

 この場合、男は人里がある方角から来ているので、格好からして里人か、もしくは幻想入りして日にちが経った外来人だろう。

 

 幻想郷に住む者が博麗神社に訪れるにはどうすれば良いのか?

 神社周辺は鬱蒼とした森林に囲まれており、徒歩で人里から神社の裏まで曖昧に続く、およそ低位ではあるが妖怪の跋扈する獣道を通るか、空を飛んで越えるかしかない。

 そのような辺鄙な場所にある神社に参拝以外の目的で訪れる人は、外界への帰還希望者であると考えるが妥当だ。

 だとすれば、男には陸路にしろ空路にしろ神社まで護送する付き人が居ないといけない。

 

「いや、1人だし違う。じゃあもしかして」

 

 長考の末、合点がいき気分が晴れたのだろう。霊夢は急いで側にあった靴を履いて縁側から地面に降り立ち、いつの間にか側まで来ていた男に向き直り、朗らかな笑みを浮かべて言った。

 

「ようこそ博麗神社へ! 私はこの神社の巫女、博麗霊夢。ちなみに素敵なお賽銭箱はそこよ」

 

 男は三度笠の先を指先で軽く上げ、示された方向にある賽銭箱を流し目でチラリと見やったが、すぐに興味無さげに霊夢に視線を戻した。

 

「ははっ。どうやら噂は本当らしいな。中々に意地汚い巫女さんだ」

 

 心当たりがあったのか、彼は意味ありげに口元に含み笑いを持たせて小声で呟いた。

 

「ちょっと! 初対面の人に対して、随分と失礼な物言いじゃないかしら?」

「ああ、これは失礼した。でも会っていきなり賽銭を要求したら、そう思われても仕方がないだろ?」

 

 霊夢に聞こえていたらしく、先程の柔和な顔付きからは考えられない程に怒気を含んだ声で文句をつけたが、男は悪びれる様子もなく切り返した。

 

「神社に来たら、お賽銭入れるのが礼儀でしょ。私は親切に場所を教えてあげたのよ」

「それもそうだな。子供に礼儀を説かれるとは恥ずかしい。だが、どうやら礼節は弁えていないようだ」

 

 男は苦笑をもらして、自分の視線を霊夢の顔から胸元辺りに下げた。

 

「何ジロジロ見てるのよ。大の男がする事じゃないわね。そういうのが趣味な変態?」

 

 霊夢はじと目で男の顔を見やり、お互いにしばし沈黙した。売り言葉に買い言葉となり、不穏な様相を呈していた境内の雰囲気が平静に戻った。

 少し間をおいて男が呆れたように、視線を動かす事なく口角を上げたまま、右手で自身の胸元をサッと払う仕草をしてみせた。

 

「……あっ!」

 

 境内に、静寂を破る少女の驚愕した声が響く。

 霊夢が着ている巫女装束の胸元辺りには、先刻食べた煎餅の食べかすが一見して見て取れるほどに付着している。

 霊夢は年相応の羞恥心を露わにして、あたふたと粗雑に取り払った。

 

「悪い、少し大人気なかったな」

「……別にいいわよ。華扇とかに見られるよりは、よっぽどマシだから」

 

 霊夢は親に叱られた子供が言い訳するかのようにぶっきらぼうに呟いた。その後に、丸一日は拉致されるわねと言葉を続けて、嫌な事を思い出したのか苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 

「で、こんな辺鄙な所まで何しに来たの? 私の勘だけど、あんた外来人でしょ?」

「まあ、他人からはそう呼ばれているな」

「やっぱりね。じゃあ参拝目的じゃないみたいだし、外の世界に帰る為かしら?」

 

 外の世界と幻想郷の境界を阻む博麗大結界を管理している霊夢は、結界に一時的に穴を開けて、幻想郷に迷い込んだ外来人を外の世界に帰すことが出来る。今までに博麗神社へ訪れた外来人の目的は、全て帰還要請だった。

 

「いや、俺は里で、この神社に咲く桜が非常に美しい情景だと聞いて、一度見てみようと思ってここまで来た。でも来るのが遅かったみたいだな」

 

 男は辺りを見回して、心底残念そうに肩を落とした。境内の木々には所々に残花が付くばかりであり、散りゆく桜は地を儚げに彩る絨毯となっていた。

 

「ふぅん。まあ今年の桜も綺麗に咲いていたわ。妖怪達がこぞって集まって、連日連夜で宴会するくらいにね。でも花見したいからって、外来人が興味本位で来られる場所じゃないんだけどね」

 

 霊夢は不思議そうにして男を注視した。

 彼の年齢は顔付きから想定して二十代後半に近く、青年期は過ぎていそうな按配だ。直立すると霊夢の視線が男のみぞおち辺りに当たるので、頭一つ半個分は高い。肉も程よく引き締まっている。背格好は一般的に観ても大きいほうだろう。

 加えて適度に日焼けした肌に、少々の無精髭が生えており、一見した印象は農民や野武士の類だが、不快感は感じない。身なりを整えれば、前述した背格好も相まって紳士な様になるだろう。

 

「歩くのは慣れてるんだ。桜を見れなかったのは残念だけど、せっかく神社に来たわけだから、言われたとおりに参拝させてもらおうか」

「あら、それは良い心がけだわ。信心深いのは、人間の本来あるべき姿よね」

 

 霊夢は男の言葉を聞いて心を躍らせた。平時に人間が参拝するなど久方ぶりだったからだ。

 

「でもその前に、結構な旅路で体が汚れているし、喉も渇いたから水をもらいたいんだが」

 

 男は薄汚れた手を霊夢に見せながら、くたびれた声色で言った。

 

「でしょうね。手水舎があるから、そこまで案内するわ。ついてきて」

 

 ご機嫌に歩き出した霊夢に、男は言われるがまま同伴した。

 

「ここは静かな場所だな。人が行き来するのは厳しいと道すがら感じたけれど、噂に聞く妖怪神社とは別物らしい」

 

 ゆっくりと歩きながら辺りを見回した男は、相違している事実に肩透かしを食らったのか、残念そうに目を閉じた。

 

「誰に何を吹き込まれたのか知らないけど、まあ今日はいつもより煩くないわね。会話したのもあんたが初めてだし。宴会を開く時なんかは、妖怪達で結構賑わうのだけれど」

 

 普段からそう思われてもおかしくない程に、境内の内外問わず妖怪が訪れる博麗神社だが、今日の来訪者はこの男一人だけだった。

 

「じゃあ、あながち嘘ではないのか。あの新聞は中々に信憑性が高いみたいだ。これからは購読してあげようかな」

 

 癖なのか顎に手をやり、無精髭を触りながら満足気に頷く男。

 

「新聞……ねぇ。それって、どんな事が書いてあったの? 大体想像つくけど」

 

 霊夢は足を止めて振り返り、解答を見ながら問題を解くように淡々と聞いた。

 

「細かいとこは覚えていないが、俺が読んだときは、ここともう一つの神社の特集をやっていたな。君のことも書かれていたよ。……余り良い事では無かったが」

「……その記事書いたの誰?」

 

 男が言い終えると同時に、霊夢は顔を歪ませ眉間にシワを寄せていた。先ほどまでの笑顔は何処へ行ったのやら、今は見る影もない。

 

「名前は、確か射命丸……だったか? 君と同じ年頃の女の子だ。その娘に里で声をかけられて、お試しにとタダで新聞を貰ったんだ」

「……続けて」

 

 男は先程の対応からまた気を悪くさせると思ったのか言葉を濁したが、不穏な空気を持たせた霊夢に促されて、遠慮がちに口を開いた。

 

「まぁ……なんだ。妖怪が目に付いたら通りすがりだろうが退治する鬼巫女やら、事あるごとに賽銭を要求する守銭奴だとか、あと——」

 

「何それ? 誇大解釈も甚だしいわ。カラスの癖に人間を馬鹿にするだなんて。参拝客が来ないのも私が貧乏なのも全部あいつのせいよ。名誉毀損で閻魔に訴え……いや、私が直接裁いてあげようかしら。そもそも前から気に入らなかったのよ。この間も宴会で——」

 

 霊夢は自分で催促しておきながら話を遮って憤慨し、地団駄を踏みだした。どうにも記事の内容が彼女の逆鱗に触れたらしい。

 それから霊夢が落ち着きを取り戻すまで、暫く時間を要した。そして怒りが収まった霊夢は、ふうっと息を吐くと、男を真っ直ぐ見据えた。

 

「……みっともないところを見せちゃったわね。知っているかもしれないけど、あんたの会った女は妖怪の鴉天狗よ。つまり人間の敵なの。そんな奴が書いた捏造記事満載の新聞なんか信じない方が良いわ。この幻想郷で生きていくのならね」

 

 霊夢は未だに息を切らせながら、露骨に不満を残しつつも、これは忠告よと目で念押しする。その様子を見た男は、なだめるかのように軽くうなづいた。

 

「話が逸れちゃったわね。ほら、手水舎はそこだから」

 

 霊夢は歩みを再開して、前方を指さした。

 そこには、四方を吹き抜けにした両端二本からなる柱の上に屋根がついた、いささか手狭な建物があった。中には石造りの水盤に、亀を象った彫像から清涼な天然の地下水が湧いている。

 

 手水舎は神社にお参りする際、人の身体についた穢れや邪気を払う禊の儀を行う為の施設である。博麗神社には鳥居をくぐって少し過ぎた右手に手水舎がある。

 古来より、水とは罪や穢れを洗い流すものと考えられており、側に設置されている柄杓を使って手や口を清めるのだ。勿論神前の儀であることから、相応に手水の作法がある。

 

 まず柄杓を右手に持ち、左手に水をかける。次はその逆。そして再び右手に持ち替え、左に水をかける。このときに掌に少量水を残し、その水で口をすすぐ。また左手を洗い、最後に柄杓を縦に持ち、柄を洗うのだ。

 

 男は三度笠と手甲を脱ぎ、それに習い流麗に禊を行なった。

 

「喉乾いてるんでしょ? それ飲んでも良いわよ」

「……いや、それは遠慮しておく」

「そう? 冷たくて結構美味しいのに。お腹壊したこともないし、水質は問題無いはずよ」

 

 霊夢は男の横にちょこんと並び立つと、彼の持つ柄杓を奪い取り、水を半分ほどすくって口元へ運び、ごくごくと喉を鳴らした。手水舎の水はあくまで身を清めるために使うのであり、飲める飲めない以前の問題なのだが、霊夢は全く気にしていなかった。

 

「うん、美味しいわ」

「おいおい、そのうち神罰がくだるぞ」

 

 神に仕える身の巫女としてあるまじき行為に目を丸くした男は、開いた口が塞がらないようだ。しかし霊夢は得意げな表情を崩さず、自分の目の前で指を振った。

 

「浅い浅い。幻想郷では外の常識は通用しないの。案外、罰が当たるのはあんたの方かもよ」

「……そうかもしれないな」

 

 自信満々に講釈をする霊夢だが、男が言った言葉の意味を理解していなかった。霊夢は巫女の身でありながら、神道を真面目に学んでこなかったからだ。

 

「まあ、飲める程度には境内の手入れが行き届いているようで感心したよ。君はまだ若いのに偉いじゃないか」

「えっ?」

 

 男は微笑みながら右手を少し上げて、霊夢の頭を二度三度と柔らかく撫でる。霊夢はしばらく鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、見る見るうちに頰を赤く染めた。

 

「ふ、ふふんっ。そんなの当たり前でしょ、仕事なんだから。私はやる時はやるのよ。ほら、能ある鷹は爪を隠すってやつ? そうよ、さぼっているように見えて実は——」

 

 霊夢は慌てて男の手を振り払うと、視線をしきりに泳がせて、照れ隠しにそっぽを向き、矢継ぎ早に口を動かす。後頭部に結ばれた大きな赤いリボンが大きく揺れた。いつも説教や皮肉ばかり聞かされているので、こうも素直に褒められるのは苦手だった。

 

「そういえば、俺は随分と道を間違えたようだ。神社の裏側から来てしまうとはな」

「——だからあいつらはお賽銭を入れるべき……って、えっ?」

 

 話の腰を折る男の視線の先を追うと、簡素な古ぼけた鳥居がある。我に返った霊夢は、小さく咳払いをした。

 

「あんた人里から来たのよね? だったら裏通りで正解よ。博麗神社は幻想郷から外向きに建っているもの」

「なるほど。じゃあ、この参道に沿っていけば、元の世界に戻る事が出来るのか」

「あーだめだめ。それなら楽なんだけど、実際は無理なのよね。何でかってのは説明しづらいけど、とにかく鳥居の先に行っても時間の無駄よ」

 

 霊夢は男の答えを即座に否定した。事はそう単純ではない。視覚的に幻想郷と外界の境界を認識することは困難である事から、往来はほぼ不可能。それが出来るのは、ごく一部の特殊な能力を持つ者達のみだ。

 鳥居の奥の道は続いて見えるし、ある程度は先へ進めるのだが、幾ら行けども外界へたどり着くことは無い。物理的に阻害されている訳ではなく、博麗の巫女と神社周辺を囲む大木の霊力が互いに作用しあって、結界を越えようとする者の感覚をずらしてしまうのである。

 よって、進んでいるかのように感じるだけで、実際には同じ風景の所を延々と周っている事になる。逆に一日中どんなに歩こうが飛ぼうが、引き返す時は一瞬で戻れる。

 

「そうねえ。外の世界に帰りたいのなら紫、八雲紫って言うここの管理者に頼みなさい」

 

 八雲紫は幻想郷の管理者であり、その礎を築いた古参の隙間妖怪で、賢者とも呼ばれる。境界を操る程度の能力を有し、幻想郷と外界を行き来出来る数少ない者達の一つである。博麗神社を創ったのも紫だと言われている。

 霊夢一人でも外来人を帰す事は出来るが、事前に紫に話を通さないと、後始末が面倒になってしまう。

 

「その八雲紫とやらは、普段どこに居るんだ」

「さぁ? 私もよくは知らないわ。掴み所のない、胡散臭い奴なのよ。うちにもたまに顔をだすけど、今頃はどこかも知れない所で寝ているんじゃないの」

 

 紫はその能力で神出鬼没に居所を変える事ができる。博麗神社に住んでいたこともあるのだが、現在は幻想郷の端に位置する似通った場所に移住しているらしい。それは本人談で、実際に住居を見た者はいない事から、嘘か真か曖昧ではある。

 

「お賽銭の額によっては、私が取り次いであげてもいいけど? ちょっと結界を緩めてやれば、すっ飛んで来るわよ」

 

 あまりやりたくは無いけどね、と霊夢は苦笑して付け加えた。男は霊夢の冗談に反応する事無く、顎に手を当てて考え込んでいる。

 

 霊夢は男の様子を見て、少し不安になった。どうにも様子がおかしい。外来人が外の世界に帰れると知れば、普通は喜びそうなものなのに。実際、今まで霊夢が会った人達はそうだった。

 だが目の前の男には、そういった感情が全く見えない。表情が乏しいという事もあるが、それよりも心がここに無いといった感じなのだ。

 

「悪い、興味本位で聞いただけだ。俺は帰るつもりはないよ」

「正気? 迷い込んだ外来人が、人里やここに満身創痍で辿り着くだけでも幸運な事なのに」

 

 それきり遠くを見つめ沈黙する男に、霊夢は言葉をかける隙を見出せず、軽く鼻息をついて所在無げに佇んだ。

 

「……物好きな人ねえ。でも、そういうの嫌いじゃないわ」

 

 その呟きは、先程から吹いている一陣の風に掻き消されて、男の耳に届く事は無かった。

 

「こう安らぎに満ちた自然に触れる機会は、外の世界に居た頃には少なかったからな。ここには見た事ない景色ばかりが広がっているし、妖怪が本当に存在するってのもワクワクするだろ? 幻想郷に来られたのは、俺にとっては幸運な事だよ」

 

 男は愁いを帯びた表情から、髭面に似合わず、無邪気な少年のような顔になった。

 

「あまり褒められたもんじゃないわね。好奇心は猫を殺すのよ。でも、気持ちは分からなくもないわ。あんた達外来人からすれば、妖怪は珍しいものだし、景色だって、見た目は……美しいもの」

 

「美しいなんてもんじゃない。俺は幻想郷に来た時に、紫色の桜が舞う場所に居たんだが、その現世の物とは思えない幻想的な光景に、心を奪われたよ」

 

 男は両腕を広げ、胸を弾ませて声高に語る。先程までの落ち着いた様子から一転させた男に、霊夢は少々意外な顔をした。

 

「紫色の桜かあ。それは無縁塚にある妖怪桜の事ね。確かにあそこの桜は綺麗だけど、無縁塚はその名のとおり幻想郷における無縁者の墓地なのよ。人間にとって縁起のいい場所じゃない」

 

 無縁塚は木に囲まれた小さな空間で、縁者の居ない者の墓地となっている場所である。

 幻想郷における無縁者とは外来人を指す言葉であり、実質彼らの為の墓地である。その性質上、冥界に近い場所なので、生きている人間が不要に行ってはならない危険地域となっている。

 

「でも残念だわ。もう少し神社に来る時期が早ければ、妖怪桜なんか目じゃない桜が見られたのに」

 

「ああ、本当に。新聞には幻想郷一美しい桜が拝めると書かれていたからな」

 

「ふぅん。あいつも中々いい事書くじゃない。だからって悪評を広めたのを帳消しにはしないけどね。ただでさえ閑古鳥が鳴いてるってのに、余計に人気がなくなっちゃったし」

 

 霊夢は腰に手を当て、忌ま忌ましそうに言った。博麗神社からは幻想郷が一望でき、桜咲く季節になると多くの者達が花見をしにやって来る。それゆえ観光名所なのだが、集まるのはやはり妖怪達であり、参拝客の減少に拍車を掛けている。

 

「名所の桜が見たいのなら、今の時期だと白玉楼くらいしか咲いていないと思うわ。ただ場所が冥界だから、あんたには無理かな。他の観光名所で言えば、これからの季節だと太陽の畑に咲く向日葵とか、妖怪山の紅葉も良いのだけれど」

 

「聞くだけでも興味がそそられるな。それは是非とも行って見てみたい」

 

「いやでも勿論どこもかしこも危険な……って聞いちゃいないわね」

 

 男は未知なる景色に目を輝かせて期待を膨らませており、霊夢の忠告は男の耳を右から左へと筒抜けていた。

 

「ねえねえ、それよりも大事な用が今はあるんじゃないかしら?」

 

 霊夢はちらちらと賽銭箱を横目で見ながら自信なげに言った。その様子に気付いた男は、少しだけ笑みを浮かべて霊夢の方へと向き直った。

 

「ああ、そうだったな。そろそろお参りしようか」

「ええ! お賽銭箱はこっちよっ!」

 

 男の表情を見て霊夢は満足げに笑う。そして待ってましたと言わんばかりに元気よく返答し、ぱたぱたと駆け足で参道の中央を行く。

 

「ほらぁ、なにしてるの? もたもたしてると、御利益が去っていくわよ」

 

 参道の中程で振り返りながら、遅れて後に続く男に、邪心を感じさせないあどけない笑みを浮かべて急かす。まるで縁日に連れ立つ親とその子供の様だった。

 

「さぁ、どうぞっ」

 

 霊夢は賽銭箱の斜向かいに対面して、鼻息を荒くする。その横に立った男はお辞儀をして、鈴の緒を持ち、左右に揺らした。

 

 普段からあまり鳴らされる事が無かったからなのだろう。お世辞にも心地良いとは言えない、錆びた鈴の音が、境内に鈍く響き渡った。

 そして懐から財布を取り出し、口を開こうとしたが、その手をふと止めた。

 

「そういえば、この神社の御神体は何なんだ?」

「ええっと、何だったかしら。私も知らないのよね」

 

 霊夢は視線を宙に彷徨わせ、あっけらかんとすまし顔で言った。嘘ではぐらかそうとしている訳ではなく本当に知らないのだ。

 

「おいおい。それじゃあ、ご利益がなんなのか分からないだろ。まったく……君はこの神社の巫女なんだろう? それくらい把握しておくべきだぞ」

「だって興味ないもの。それにそんな事今まで聞かれなかったから」

「……ああ」

 

 涼しい顔付きの霊夢に、男は返す言葉が見つからず、お互いに沈黙した。彼は暫く思慮したのち、賽銭箱にそっと硬貨を入れた。乾いた金属音が鳴る。

 それから流れるように、二礼二拍手一礼する男を、霊夢は上の空で見つめていた。

 

「何をお願いしたの?」

「お願いと言うより挨拶だな。この幻想郷に、お邪魔しますってな」

 

 霊夢は面食らって口を半開きにしていたが、男の言動に納得したのか、鈴をふるわすような澄んだ声で言葉を紡いだ。

 

「そう。じゃあ、あらためて幻想郷へようこそ。これであなたは、ここの立派な住人よ」

 

 いつの間にか、灰色の雲はさざ波のように引き、茜色の雲が空を夕映えにしていた。境い目の青空が朱色に染まっていく。

 その光景があまりにも幻想的で、男はしばしの間、目を奪われていたが、はっと我に返った。

 

「夕方になってしまったな。俺はそろそろ帰ろうと思う」

「あら、もうこんな時間。曇ってたから気付かなかったわ。もう少し早く来ていたら、お茶でも出せたのに」

 

 霊夢は男の言葉を聞いて、少し寂しげな表情をした。だが、すぐにいつも通りの表情に戻り、男に笑顔を向けた。

 彼女は男と別れる事が、少しだけ名残惜しかったのである。しかし、それを悟られまいと、努めて明るく振舞っていた。

 

「じゃあな。桜は見れなかったが、ここに来たのは時間の無駄ではなかったよ」

 

 身仕度を整えた男は、簡潔に別れを述べると、霊夢に会釈をして背を向けた。

 

「ちょっ、ちょっと待ちなさい! まだ明るいけど、夜が近づくにつれて妖怪は活発になるのよ。一人だと危険だから送って行くわ」

 

 霊夢は慌てて手を伸ばして、歩き出そうとする男の服を掴んだ。

 

「ははっ、大の男が女の子にお守りされる訳にはいかないだろ。心配いらないよ」

「あっ……」

 

 男はごつごつとした大きな手で、服を掴んでいる霊夢の華奢な手を取り、優しく放して向き直る。そして彼女の気遣いに、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

 その微笑は、とても温かく優しかった。霊夢の胸の鼓動が早鐘を打ち始める。彼の優しさに触れただけで、顔が紅潮していく。

 

 普段から女性ばかり相手をしている霊夢にとって、それは生まれて初めての経験であった。異変解決の際に危機的状況を間一髪で脱した時と似たような感じだが、その時とは微妙に違った感覚だ。

 今まで感じたことの無い感情。霊夢はそれを不思議に思いながらも心地よく思った。

 

「って、そんな遠慮は今いらないのよ! 私が言いたいのは……ああっ、もうっ! とにかく私に任せなさい!」

 

 霊夢はすっかり気を動転させて、声を荒げながら男の背中に近づき、脇から手を回して体を密着させてしっかりと抱き締めた。男の匂いと体温が、直接的に伝わってくる。

 

「おい、何を——」

「いいから!」

 

 抗議の声を余所に、男の足は徐々に地を離れ、体は霊夢ごと宙に浮いた。そのまま高度を上げて行き、前へ進みだした。

 

「霊夢、君は……」

「ふふんっ、驚いたでしょ? 私は博麗の巫女であり、空飛ぶ不思議な巫女でもあるのよ」

 

 そう得意げに言うが、気をつかっているのか、小走りのような速さで飛行している。空を飛ぶのは霊夢にとっては当然の事なのだが、ただの人間である彼は違うからだ。

 

「いや、空を飛ぶのはこれで二度目なんだ。前にその、無縁塚と言う所から人里に送ってもらったからな」

「そうなの? 誰だか知らないけど、人助けなんて物好きな奴も居るのね。ここにいるのは、自分本位な奴ばっかりなのに」

 

 霊夢は感心半分呆れ半分といった口調で言う。

 

「しかし、一体どういう原理で浮いているんだ。羽がある人はまだ理解出来るが、君は人間だろう? 超能力か、はたまた魔法か何かなのか?」

 

「何でかって聞かれても説明出来ないわね。私は物心ついた時から飛べていたし。私の知り合いに魔法を使って飛ぶ人間はいるけど」

 

「ははあ。幻想郷は本当に未知のものが多いな。ますます面白い場所だ」

 

 霊夢には、空を飛べるという事に対する特別な感情はない。飛べるのは当たり前で、飛ぶ事は生活の一部になっている。

 だが妖怪ならともかく、普通の人間は空など飛べないのだ。常識が通用しない幻想郷においても、それが出来る人間は一握りしかいない。

 

 空の海を進む二人の眼下には、美しい夕焼けの陽射しをも拒むほどの、鬱蒼とした広大な森が見渡せる。森は薄暗く不気味な気配を放っており、見る者によっては、まるで森自体が妖怪のようにおもえるだろう。

 

「それにしても、よく一人で博麗神社に来られたわね。迷ったり、襲われたりしなかったの?」

 

 霊夢は、かねてから疑問に思っていた事を男に聞いた。

 幻想郷での生態系は妖怪と神が並んで上位に位置しており、人間はその者達より劣っている生物だ。よって、ここでは人間が妖怪や獣に襲われ食われるのは常である。人間より力の弱い妖精達でさえ、言葉巧みに人を騙して愉悦に浸る有様。

 唯一の安全地帯とされている人里を離れれば、昼間であろうがたちまち彼らの餌食になってもおかしくはないのだ。

 

「いや、なんともなかった。里の外は危険だと言う人もいたが、拍子抜けだったよ。道中で親切に道を教えてくれた人が結構いたしな」

 

「……そいつら、絶対に人間じゃないわ。虫の居所が悪ければ、騙されたり、取って食われていたかも。あんたが今生きているのは、偶々運が良かっただけなのよ。もっと危機感を抱いた方がいいわ」

 

「そうか? 里の中でも妖怪と呼ばれる人達に会った事は度々あるが、みんな友好的な態度だったけどな」

 

「はあ……あのね、それは人里の中だからよ。あんたは外来人だから幻想郷の事を知らなすぎる。講釈しても無駄なんだったら、体感してもらうのが得策なんだけど、それもリスクが大きいし。とにかく私の言う事を信じてほしいの。私は人間で、巫女で、あんたの味方。私は神に誓って、あんたに嘘をつかないわ」

 

「……わかった。そこまで言うのなら、今後は気をつける事にするよ」

 

 妙に真面目な声色で語る霊夢に、男は窮屈そうに答えた。霊夢は納得した面持ちで、それきり口を閉し、飛行速度を上げた。二人の間には荒い風切り音しか聞こえなくなった。

 

 しばらくして人里がはっきりと見える所まで来た。霊夢は速度を落として、ゆっくりと高度を下げ、少し離れた場所に降り立つ。

 街道の先に小さく里の門が見えた。そこには武装した男が二人立っている。近くには既に篝火が焚かれており、辺りを暖かく照らしていた。

 

「ここまで来れば、あとは歩いて行けるでしょ」

「ああ、ありがとな。また会えるか分からないが、お互いに息災だと願うよ」

「……ええ、そうね」

 

 男は霊夢の方に向き直り礼を言うと、そのまま真っ直ぐ歩み出した。

 その背を見送りながら、霊夢は複雑な表情を浮かべている。それから口を開き、何かを言いかけたところで思い留まり、また口を開く仕草を数回繰り返した後、ようやく決心がついたのか男に声をかけた。

 

「ねえ! ちょっと待って!」

 

 霊夢の掛け声で、男は足を止めた。振り返った男の目に映るのは、寂しげな顔つきをした少女の姿。二人はしばらく無言のまま見つめ合っていた。

 

 やがて、霊夢の方が沈黙を破った。

 霊夢は小走りで男に近づくと、懐から奇妙な文様が描かれた三枚の御札を取り出して、押し付けるように男に手渡した。

 

「これをあげる。私の霊力が込められた退魔の御札よ。そこら辺の雑魚妖怪や獣達なら寄って来なくなるわ。もし効力のない相手に襲われたら、相手に直接触れさせると無力化出来るから」

 

「ありがたいが、なぜ俺にくれるんだ? これは貴重な物なんじゃないのか」

 

 男は御札を遠慮気味に受け取ったが、霊夢の行動に疑問を抱いているようだった。しかし、霊夢は気にせず言葉を続ける。

 

「まあ、作るのが結構面倒な物だけど構わないわ。だってあんた危なっかしいし、せっかくの参拝客に死なれちゃ夢見が悪いし、博麗の巫女としても人間を守らないといけないし? それに……また会いたいし……」

 

 それは最初、どこか言い訳じみた口調だった。言葉尻になると、霊夢は視線を逸らしながら、ぼそりと呟くように言った。

 一方、男は霊夢の言葉を聞いてもなお、まだ不思議そうな顔をしている。

 そんな男を見て、霊夢は照れ隠しのように語調を強めて、更に言葉を続けた。

 

「だからっ! また神社に来てって言ってるのっ! あんた幻想郷の事を知りたいみたいだし、今度私が色々教えてあげようとしたの! だから感謝してよね!?」

 

 霊夢はそう叫ぶと、ふんっと鼻息を鳴らして腕を組んだ。

 男はぽかんとした表情で、霊夢を見つめていた。ややあって、彼は笑いを堪えるように喉を鳴らしてから、口を開いた。

 

「そう言う事なら、ありがたく頂こう。何かお返し出来る物があればいいんだが、あいにくこの身一つで来たものだからな」

 

「別に気にしなくても大丈夫よ。その辺の事情は分かっているから。知らない場所にいきなり迷い込んで大変だろうしね」

 

「そうか。何から何まですまないな」

 

 男は申し訳なさげに頭を掻いた。霊夢は微笑んで首を横に振る。

 

「ふふっ。うちに来るのは、あんたの都合が良い時でいいからね。最近暇だし、私はいつも神社にいるから。じゃあ、引き止めて悪かったわね」

 

 そう言って霊夢は男に背を向けた。そして、飛び立とうとしたところ、ふと何か思い立ったようで、再び男の方へ振り向いた。

 

「そう言えばあんたさ、名前は何て言うのかしら?」

「ああ悪い、名乗っていなかったか。名字は——で、名前は○○だ。平凡な名前だろ? 向こうでも覚えにくいのか結構忘れられるんだ」

 

 それから○○は霊夢に向かって手を差し出した。

 霊夢は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔で応じる。二人の手が重なる。彼の掌からは温もりと共に、確かな鼓動が感じられた。

 

「○○さんね。良い名前だと思うわ。私はしっかりと覚えておくから安心して」

 

 ○○は握った手を離すと、そのまま霊夢に背を向け、ゆっくりと歩き出した。その姿が遠ざかり、やがて見えなくなると、霊夢は少し寂しげに目を伏せた。

 

 それから気を取り直すように小さく息を吐き、空に飛び立つ。彼女の頭上には夕焼けに染まった雲海が広がり、遠くには薄らと月が見えている。

 

 霊夢はすぐに帰ろうとはせずに、しばらく幻想郷の空をただよっていた。黄昏時の春風に乗って、霊夢の身体は軽やかに宙を流れていく。上気した頬と微かな汗ばみを帯びた肌を撫でる風の感触は、彼女にとって心地の良いものだった。

 

 やがて太陽の光が消えさり、空は暗さを増してゆき、夜の闇が訪れた。無数の星々の輝きが夜空に浮かび上がり、春の星座たちが煌めいていた。それらの光の粒たちは霊夢に向かって優しく降り注いでくるかのようだ。

 

「……綺麗ね」

 

 そんなことを思いながら彼女はぼんやりと地上の星たちを眺めていたが、不意に吹いた夜風に身を震わせた。

 

「わ、寒っ」

 

 慌てて両手で自分の身体を抱き締めるが、それでもなお冷たい風に全身をなぶられる。

 

「何やってんだろ私。もう帰らないとね」

 

 独り言のように呟くと、彼女は速度を上げて家路へと急いだ。一人だと遠慮なく風を切る速さで飛べるので、先程より時間はかからない。

 空に浮かぶ月が幻想郷一面を照らし出している。その明かりのおかげで、視界はあまり悪くなかった。辺りは静寂に包まれており、時々野犬や狼の遠吠えが耳に入ってくる。

 

 ほどなくして前方に博麗神社が見えてきたところで、霊夢はようやく速度を落とした。境内に降り立ち、そのまま石畳の上を歩いていく。

 

「あら、灯りがついてるわ」

 

 霊夢は住居の壁にある行灯に火が灯っているのを見て、特に驚きも恐れもなく、何気なく呟いた。

 博麗神社には神主は居らず、霊夢は一人で生活している。それなのに留守中に灯りがついているのは、普通に考えれば怪しむべきなのだが、彼女に警戒心はかけらもなかった。

 

 履物を脱いで縁側に上がった霊夢は、心当たりがあるのか、身構えもせずに居間に続く障子を開けた。

 

「やあ、おかえりぃ。遅かったねぇ。先に一献やらせて貰ってるよ」

 

 行灯と月光に照らされた居間には、座布団の上に胡座をかいた少女が我が物顔でくつろいでおり、白く濁った液体が入った盃を、霊夢に向かって掲げた。

 

「萃香、やっぱりあんただったのね。今朝から見かけないと思ったら、こうしてふらっと現れるんだから……」

「へへへっ。私は幻想郷になら、何処にでも居るようなもんさ」

 

 木製のちゃぶ台を隔てて対面に座って頬杖をつく霊夢に、萃香はけらけらと笑い声を立てる。

 

「今宵は月が綺麗だから、飲まなきゃ損だね。ささ、駆けつけ一杯といこうか!」

「いやいや。人間の私が、鬼であるあんたの酒なんて飲めるわけないでしょ。殺す気なの?」

 

 霊夢は目の前に差し出された飲みかけの盃を、ちらりと見やった後、愛想のかけらも無しに押し返した。その言動から、相当きつい酒だと伺える。

 

「ははっ、冗談だよ。そう目くじら立てるなって」

 

 萃香は見た目相応の子供のような口調で、口元に笑みを浮かべ、返された盃を一気にあおった。

 

 伊吹萃香はその小さな身体に不釣り合いな二本の角がある事を除けば、童女のような容姿をしている。だが彼女の正体は、妖怪序列最高位の鬼である。

 幻想郷では、特別力を持つ者は少女の姿をしている事が多い。彼女も例に漏れずに、その中でも最強に近い能力を持つ。

 

 密と疎を操る程度の能力。

 ありとあらゆる物の密度を操る事ができる能力である。例えば、そこらの密度を薄めて辺り一帯の物質を塵にさせたり、空気を薄めて真空にして宇宙空間を作り出せる。高密度にすれば、熱を持たせて溶解させたりも可能だ。仮に人に使えば一瞬で爆散させられる。

 自身にも適用でき、霧状になって幻想郷中に漂う事も可能。鬼であるから、単純に力も強いので、その身一つで百鬼に匹敵する。

 

 人の気持ちといった形のない、あらゆる物を集めたりも出来るので、お祭り好きな萃香は、事ある毎に人や妖怪を集めて宴会を開かせて楽しんでいるのだ。

 

「でも一人酒ってのもつまらないねぇ。奉納品のお酒がまだあったろ? 付き合いなよぉ」

 

「……遠慮するわ。今日は、そういう気分じゃないの」

 

「はあ、珍しくしんみりしているね。いつもは参拝客が来ないだの、お賽銭が無いからひもじいって愚痴こぼしながらやけ酒するのに。何かあったのかい?」

 

 ちなみに博麗神社は参拝客が少ない為に家計が厳しい様に思われるが、実際は宴会での差し入れや、外界から流れ着く品々、異変解決の報酬などがあるので、霊夢一人で生活するには蓄えは充分である。

 

「どうもしないわよ。気が乗らないだけって言っているでしょ」

「嘘。私に嘘が通用するとでも?」

 

 ぶっきらぼうに言い放つ霊夢に、萃香は身を乗り出して探る様な目つきでじっと見つめる。しばらくお互いに視線を交わしていたが、先に霊夢が耐えかねたのか、顔を伏せながら溜息をついた。

 

「……まあ、隠す様な事でもないから話すけど。今日、人間の参拝客が一人来たの。それだけよ」

 

「へえ、この神社に人間が? 縁日でもないのに珍しいもんだ。ちょいと詳しく聞かせなよ。酒の肴にはなりそうだ」

 

 萃香は眉をひそめつつ、瓢箪から盃に酒を注いで話を促す。

 

「いいけど、面白い話じゃないわよ」

 

 霊夢はそう前置きをして、○○との出会いを思い出しながら口元を少し緩め、語り出した。

 

 

 

「——で、彼を人里に送り届けておしまい。ほら、わざわざ話すような事でもなかったでしょ」

 

「ふぅん。外来人だとしても、随分と奇特な奴だねぇ。中々面白そうな奴じゃないの。ただ、ここでは長生きはしなさそうかな」

 

「……そう、そうなのよね」

 

「んー?」

 

 流暢に調子よく語っていた霊夢が、萃香の一言を聞いて、曇った顔で歯切れを悪くした。先程までの饒舌さは鳴りを潜めて、今は俯いて黙り込んでいる。

 そんな霊夢の様子を見て、萃香は目を細めた後、彼女の肩をポンと叩いた。

 霊夢はビクッとして、ゆっくりと顔を上げる。そこには、ニヤリと笑っている萃香の顔があった。

 霊夢はその笑顔を見て、思わず身構えてしまう。

 彼女がこういう表情をしている時は、大抵ろくな事を考えていないからだ。そして案の定、その予想は的中してしまう。

 

「霊夢ぅ、そんなにその男の事が気になるのかい?」

「は、はあ? いきなり何言ってんのよ!」

 

 突然突拍子もない事を言われ、霊夢は狼狽した。

 それから自分の頬が熱くなるのを感じ、赤面して顔を背ける。萃香はその様子を見て、満足気にうんうんと首肯すると、またニタリとした嫌らしい笑いを浮かべた。

 霊夢はムキになって反論する。

 

「○○さんはただの参拝客で、それ以上でも以下でもないわよ! でも外来人だから無知な所があって、博麗の巫女として私は心配してあげてるだけよ!」

 

「やぁん、○○さんだってぇ? ただの参拝客なのに、もう名前まで知ってるじゃん。いつもは無関心を装ってるのにさあ」

 

「ちっ、違うっ。そういう意味じゃなくて……」

 

「あははっ、霊夢も可愛い反応するねぇ。でも、別に人間の男と仲良くする事は悪いことじゃないと思うんだけどね。霊夢だって人間の女の子なんだし、自分の気持ちに素直になりなよ」

 

「それは……」

 

 霊夢は言葉に詰まる。

 確かに○○の事は気になっているものの、それが異性として意識したものなのかと言われれば、自分でも答えようがない。彼とは今日初めて会ったばかりで、お互いの素性を詳しくは知らない関係だ。それなのに恋愛感情を抱くのは、自分の心はあまりにも軽々しくないだろうか。霊夢はそう考えると、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。

 

「……はいはい。妄想膨らませるのはあんたの勝手だけど、この話はもうおしまい」

「えーっ、なんでさあ? 時間はあるんだから、その男の話に花を咲かせようよ」

 

 萃香は不満げに唇を尖らせるが、霊夢はそれを無視して話を切り上げる。

 

「とにかく、もう終わり。これ以上詮索しないで頂戴。それに私は今から晩ご飯の支度をしないといけないし。邪魔するなら、あんたの分のご飯は抜きにするわよ」

「うーん。それは困るねぇ」

「じゃあ大人しくしていなさい」

 

 霊夢は部屋を出ると、大きくため息をついた。そして、そのまま台所へ向かい、食材の下ごしらえを始める。

 

「まったく……人の気も知らないで面白がるんだから。でも、あいつがさとり妖怪じゃなくてよかったわ」

 

 霊夢はぶつくさと文句を言いながら炊飯の準備をこなし、慣れた手つきで料理道具を使って調理を進めていく。

 今日の献立は肉野菜炒めと味噌汁とほうれん草のおひたし、白米に漬物というシンプルなもの。小柄な女性二人分と考えれば十分な内容だろう。

 霊夢はフライパンの中で踊っている具材を見つめると、ふと先ほどの会話を思い出して憂鬱になった。

 

『——素直になりなよ』

 

「……好きとか嫌いとか、そんなの分からないわよ」

 

 霊夢は自問するように呟く。しかし、彼女の声は誰に届くこともなく、空虚の中に消えていった。

 

 

 やがて料理が完成し、霊夢は出来上がった品々をお盆に乗せて居間へと運んだ。

 

「はい、できたわよ」

 

 霊夢が机の上に配膳していると、座布団の上でくつろいでいた萃香が感嘆の声を上げた。

 

「おお、いつにも増して美味しそうだねぇ。これなら、毎日食べたいくらいだよ」

「勘弁してよ。食費だって馬鹿にならないんだから」

 

 霊夢は苦笑しながら、湯呑と急須を持ってきてお茶を入れる。 

 

「ほら、食べましょう」

 

 霊夢が言うと、二人は揃っていただきますをして食事を始めた。料理に箸をつけながら談笑したり、おかずを取り合ったりと穏やかな時間が流れていった。

 

「ごちそうさま。後は呑むなり寝るなり好きにしてていいわよ」

 

 霊夢は食事を済ませて、食器を片付けようと席を立つ。すると、先に食べ終えて晩酌していた萃香が口を開いた。

 

「ちょいと待ちなよぉ。呑まずとも酌くらいしてくれないのかい?」

「お断りだって。大体、花見の時に散々付き合ってあげたでしょ」

「ちぇっ、ケチだね。愛想の無い女は嫌われるよ」

 

 そう言って萃香は瓢箪を持ち上げた。彼女は盃を手に取ると、酒を注ぎ始める。

 霊夢はそれを見届けてから、食器を洗おうと部屋を出た。

 

 そして洗い物を終わらせ、次に体を清めるために風呂場に向かった。

 浴室は住居の奥にあり、やや手狭だが真新しい檜造りの湯船がある。これは以前神社が倒壊させられた時に、ついでに改装してもらった物だ。

 

 霊夢は服を脱いで浴室に入ると、湯船の側に設置された蛇口を捻った。すると、そこから即座に熱湯が勢いよく流れ出した。これも改装した物で、神社の裏手に沸いている温泉から、直接湯を引いてこれるように配管されている。

 浴槽に湯が溜まるまでの間、霊夢は手桶で軽く身体を流し、髪を洗いはじめた。

 

「さて、そろそろいい感じかな」

 

 やがて湯が程よく溜まったので、浴槽に全身を沈めると、霊夢の口から大きな吐息が漏れ出す。それからしばらく彼女は入浴を楽しんだ。

 

 

 その後、着替えを済ませた霊夢は、髪を乾かすついでに一服しようと縁側に腰掛けて空を見上げた。夜空は薄い雲がかかっているだけで、星も綺麗に見える。

 霊夢はぼんやりと星々を眺めて、湯気の立つ湯呑みを傾けた。思わずほっとしたような吐息が漏れてしまう。

 

 そして、ゆっくりとお茶を飲み干した頃、霊夢は不意に居間の方から気配を感じた。居間には既に萃香が居るが、それとは別のものだった。

 

 妖怪特有の気配。それは幻想郷では妖気と呼ばれており、人間と妖怪を判別する重要な要素となる。いくら妖怪が人間の姿形を真似ても、溢れ出る妖気を完全には抑えられないからだ。妖気は凡人には感じ取れないが、妖怪と深く関わる者ほど鋭敏に察知できる。

 

 妖怪退治屋の側面を持つ霊夢は、その正体が何なのかすぐに察した。それは霊夢が知っている者の妖気だった為、相手が妖怪とはいえど警戒はしなかった。

 

「何の用か知らないけど、今はあいつの顔を見たくないわね」

 

 むしろ即刻に無視を決め込み、急いで自室へと引っ込んだ。眠気を覚えたのもあるし、わざわざあの二人の間に首を突っ込んで、長話と酒に付き合わされて宵越しとなるのは、今の気分的に避けたかった。

 

 それから霊夢は今朝から敷きっぱなしにしてあった布団に潜り込み、そのまま目を閉じた。するとすぐに眠気が襲ってくる。

 霊夢の意識はゆっくりと深い眠りへと誘われていった。

 



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2話

 

 

 午後の陽が傾き、少しずつ赤みが差してくる夕暮れの空。時々流れる春風が木々を揺らし、ざわざわと葉擦れの音を立てる。

 

 桜の花びらが舞う博麗神社の、拝殿奥にある母屋の縁側に、重なる二つの影がある。

 背筋を真っ直ぐ伸ばして縁側に腰掛けている巫女装束を身に纏った妙齢の女性が、気持ち良さそうに眠っている少女に膝枕をしていた。その女性は穏やかな表情を浮かべながら、膝の上で眠りこけている少女を見つめていた。

 

 女性の顔立ちは端正で美しく、色白の肌にはシミ一つ無い。髪は腰まで長く伸ばした艶やかな黒髪で、うなじの辺りで結んで纏めている。切れ長の目元と長いまつ毛を持つ茶色の瞳は、夕陽を反射して煌めいていた。

 鼻は高く尖っていて唇も薄く小さい。輪郭はほっそりしていながらも出るところは出ていて、身体付きは全体的に細いものの、女らしさを強調している。

 その整った顔立ちと相まって、彼女はまるで精巧に作られた人形のように見えてしまうだろう。

 だが、よく見れば彼女の目尻や口元は優しく微笑んでいることが分かり、彼女が人間であることが分かるはずだ。

 

「良く眠っているわね。今日は少し厳しくあたり過ぎたかしら。でも、これが最後だから……」

 

 慈愛に満ちた柔和な表情の女性が、無防備な少女の頭を、その透き通るような白い手で子供をあやすように撫でている。すっかり安眠している少女は、くすぐったそうに身動ぎをした。

 

 眠る少女は十歳前後に見えるが、外見よりも幼く見えるほど純粋そうな顔をしていた。しかし今は瞼を閉じているため分からないが、大きな瞳と可愛らしい小さな唇を持っていることは分かる。柔らかそうな頬っぺたは、子供特有のもちっとした感触だ。

 そんな少女を膝枕しながら髪を撫でる女性は、慈しみ深い母親のような眼差しを少女に向けていた。

 

「貴女でも、そのような顔が出来るのね」

 

 不意に女性の横から、驚きを含ませた声が掛けられた。聞き覚えのある声色だったのか、女性は特に驚く様子もなく声の主へ視線を向ける。そこには予想通りの人物がいた。

 

「……紫様」

 

 そこには空間に出来た裂け目から、女性を見下ろすように上半身だけを出している金髪の女性が居た。目は笑っておらず、作ったような笑顔で手をひらひらと振っている。

 彼女の名は八雲紫。この幻想郷を作ったとされる大妖怪であり、幻想郷の管理人である。

 

 声を掛けてきた紫を見て、女性は先程の優しげな表情とは一変して、無感情な冷たい目を彼女へ向けた。

 その態度に紫は呆れたように肩をすくめる。

 

「水を差すようで悪いのだけれど、そろそろお別れしませんと。未練が残ってしまうわよ」

 

 紫は控えめにそう告げると、広げた扇子で口元を隠しながら、すやすやと眠る少女の顔を見て目を細めた。

 

 女性はしばらく黙っていたが、やがて紫に視線を向けたまま、ゆっくりと口を開く。どうやら何か言いたいことがあるようだ。

 だが彼女は言葉を発することなく、ただ悲しそうに眉根を寄せるだけだった。

 

「彼を待たせていいのかしら? それか、貴女が心変わりして、その子を選ぶと言うのなら、私はそれでも構わないけど? ただその場合、もう一方の選択肢は消えてしまうでしょうね」

 

 紫が意地悪げにニヤリと笑う。

 女性は一度目を伏せたが、すぐに顔を上げて紫を見た。そして首を横に振ると、今度ははっきりと言葉を口にする。その瞳には決意の色があった。

 

 それを確認して、紫は満足気に微笑み、手に持っていた扇子を閉じる。すると次の瞬間、紫の姿が忽然と消えた。

 その場に残された女性は少女の頭を撫でながら、優しい声で囁いた。

 

「……霊夢、起きなさい。霊夢」

 

 霊夢と呼ばれた少女は、日暮れの陽光に目をしかめつつ、煩わしく身を起こした。そして欠伸をしながら体をほぐす様に大きく伸びをする。髪についていた一片の桜の花びらが、ふわりと地面に舞い落ちた。

 霊夢はまだ覚醒しきっていないぼーっとした顔で周囲を見回すと、女性の姿を見つけて首を傾げる。

 

「あれ、もう夕暮れなんだけど。休憩は少しだけって言ってたのに、何で早く起こさなかったの?」

「霊夢が余りにも気持ち良さそうに眠りこけていたから、起こすのは可哀想かなって」

 

 霊夢の問いに、女性は優しく微笑んで答えた。その表情はまるで母親のようである。

 霊夢は頭を掻きながら、縁側に腰掛ける。

 

「なーんか変なの。今日の修行は厳しくするわよって、今朝からお師匠さま張り切ってたじゃない。だから私も身構えてたのに」

 

 霊夢の言葉を聞いて、女性はくすりと笑った。霊夢はむっと頬を膨らませる。

 女性は霊夢の隣に座ると、霊夢に向かって手を差し出した。

 霊夢は不思議そうな顔をしながらも、女性の手を握り返す。途端に彼女は霊夢の手を引き込んだ。そのまま女性は霊夢を抱き締める。

 

「な、なに?」

 

 突然のことに霊夢は目を丸くしたが、すぐに我に返って女性を押し退けようとする。しかし女性の腕の力が強くて離れられない。

 それに気付いて霊夢は抵抗をやめた。諦めたわけではない。この女性が自分に危害を加えることはないと知っているからだ。霊夢は抱き寄せられている状態で上目遣いになりながら、困り顔で女性を見る。

 女性は霊夢を愛おしそうに見つめると、霊夢の首筋に顔を埋めた。

 霊夢がびくりと身を震わせる。

 

「……どうしたのお師匠さま。なんでこんなことするの? なんか怖いよ……」

「そうよね。でも少しだけで良いから、霊夢とこうしていたいの。私の我儘を許して……」

 

 女性は霊夢を抱きしめたまま、苦しげに呟く。霊夢は戸惑いながらも、それ以上は何も言わなかった。

 女性は霊夢を強く、強く抱擁する。霊夢はその腕の中で、自分の鼓動が早まるのを感じていた。

 しばらくして、女性は名残惜しそうにしながら霊夢を解放する。そして居住まいを正し、霊夢と向き合った。

 霊夢は未だ戸惑っている様子だったが、やがて落ち着きを取り戻し、いつものように女性に話しかけた。

 

「えへへっ、あんなの初めてだったから、びっくりしちゃった」

 

「ええ。私は今まで、霊夢に冷たく接してきたから、驚くのも無理ないわ。ごめんなさいね」

 

「そんな、謝らなくてもいいの。最初は怖かったけど、でもお師匠さまの体が暖かくて、それで良い匂いもして、気持ちよくって。とにかく嬉しかったからいいの!」

 

 照れ笑いを浮かべながら、霊夢は言う。

 それを聞いた女性は一瞬驚いたように目を丸くすると、優しく微笑んだ。そして、そっと霊夢の頭に手を乗せる。

 霊夢はくすぐったそうに身を捩ったが、嫌がったりはしなかった。

 女性は霊夢を慈しみに満ちた瞳で見詰めていたが、ふと何かに気付いたかのように眉根を寄せた。それから真剣な表情になって、霊夢に語りかける。

 

「……霊夢。急な事だけれど、今から大事な話があります」

「えっ、なに?」

 

 その声音には先程までの優しさはなく、ただひたすらに厳かなものだった。霊夢は困惑しながらも、その雰囲気に呑まれて姿勢を正す。

 女性は一つ深呼吸をして、霊夢を見据えた。

 

「私は今日限りで、博麗の巫女を引退します。これからは霊夢、あなたがその役目を継承しなければなりません。そうなれば私は博麗神社を去り、もう二度と会う機会はなくなるでしょう。あなたには博麗霊夢として、限りある人生を幻想郷に捧げてもらいます」

 

 突然の宣言に、霊夢は唖然とした。しかし言葉の意味を理解するにつれ、目に涙が浮かんでくる。

 霊夢は俯いて首を振った。それは拒否ではなく、悲しみの感情を表す動作。

 

 彼女を師と仰ぎ、生活を共にし始めた時から覚悟はしていた。自分は次代の博麗の巫女になる為に生まれてきたのだと自負していた。だが、いざその時が訪れると、やはり辛くて堪らない。

 

 霊夢は自分の両親の事を覚えていなかった。行方知れずとしか聞かされておらず、そもそも存在を気にした事がなかったのだ。

 霊夢が物心ついた時には、当代の博麗の巫女である女性が側にいて、師として厳しくあたり、時には優しく導いてくれた。

 霊夢にとって女性は母親のような存在であり、心の拠り所でもあったのだ。それが居なくなってしまうという事は、とても耐えられない。

 だからこそ、博麗の巫女を辞めるという女性の決断は理解できるものの、何故自分を置いて行ってしまうのか理解できなかった。

 

「そ、そんな急にっ……言われても、訳分かんないよ! どうして二度と会えないだなんて言うのよ!」

 

 霊夢は必死に言葉を紡ぐ。自分の思いが伝わるように、精一杯の声量で叫んだ。

 しかし女性は悲しげに首を振る。

 

「私っ、まだ怒られっぱなしの半人前だよ!? お師匠さまだって、私のこと全然認めてくれなかったじゃない! 教えてもらう事いっぱいあったのに、まだまだ教わりたいのに!」

 

 霊夢は叫ぶ。女性はそれでも何も言わない。

 霊夢は更に続けた。まるで子供のように泣きじゃくりながら、駄々っ子のように喚き散らす。

 そして、ついに決定的な一言を口にしてしまう。

 

「——お師匠さまのこと、本当のお母さんだと思ってたのにっ!」

 

 女性は息を呑み、目を丸くする。

 霊夢は肩で大きく呼吸しながら、ぼろぼろと涙を流していた。

 沈黙の時間が流れる。

 やがて、女性はゆっくりと口を開いた。

 

「……私は、あなたの母親なんかじゃない。本当の母親なら、自分の娘を悲しませるような真似は、絶対にしないもの。私が今まであなたを育てて来た理由は、あなたが身寄りもなく、無知で無垢で何色にも染まっていなくて、それでいて霊力は天賦の才を秘めている、博麗の巫女に相応しい人間だから。それ以外には、何も無いわ」

 

 淡々と、事務的な口調だった。霊夢は呆然として言葉を失うが、女性の言葉は容赦なく続く。

 

「私は、あなたが人として一人でも生きていけるようにと、厳しく育てたつもりよ。だけど……そうね、あなたは確かに博麗の巫女としては半人前。霊力の扱い方、妖怪退治の心得、結界の張り方に封印の仕方、その他諸々の知識や技術は、並大抵の努力では身に付かない。才能だけでここまで来たといっても過言ではないわ」

 

 霊夢は黙って聞いていた。女性の言っていることは正しい。霊夢の能力は特別なのだ。努力だけでは得られない、素質と運によってのみ得られる能力。

 霊夢は今までずっと修行を嫌がってきたが、本気で修行に取り組めば、すぐに一流の実力を身に付けられるだろう。

 だが霊夢がそれをしなかったのは、女性の存在があったからだ。彼女から手取り足取り教えられる事が嬉しくて、怒られるのも心地良くて、構ってもらえるのが幸せで。

 いつしか霊夢は修行そのものより、女性との触れ合いを優先するようになっていた。一人前になってしまえば、もうこんな風に扱ってくれなくなるかもしれないと怖かった。

 霊夢には、その自覚が無かった。自分がどれほど甘えていたのか、どれだけ依存していたのか。それを理解するのを本能で恐れるように遠ざけていた。

 

 しかし、今となってはそれも無意味な悩みだ。

 女性は博麗の巫女を辞める。つまり博麗神社にいる意味がなくなり、出て行くという事だ。霊夢は置いて行かれる。独りぼっちになってしまう。

 霊夢は気付いてしまった。自分の心の奥底に、どうしようもない感情がある事に。

 それは、孤独への恐怖。自分は誰からも必要とされていなくて、愛されてはいないのだという絶望感。

 霊夢は、師である女性以外に親しい者が居なかった。友達と呼べる者もいない。博麗神社に訪れる参拝客も少ない。そんな環境で育ったからこそ、霊夢は人一倍寂しがり屋になっていたのだ。

 

 霊夢は目の前の女性にすがりつくように言う。

 

「だったら、なんで博麗の巫女を継げだなんて言うの? ……ううん、それが役目なのは分かってる。でも、お師匠さまが博麗の巫女じゃなくなった後も、私はお師匠さまと一緒にいたい……」

 

 女性は静かに首を振る。そして、突き放すような冷たい声でこう言い放った。

 

「私があなた位の年頃だった時には、もう一人で立派に勤めを果たしていたわ。それに私が側にいたら、あなたはいつまでも私に依存して成長しないでしょう?」

 

 霊夢は図星を突かれて絶句した。女性が神社に居着くと、霊夢はいつまで経っても半人前のままだろう。

 霊夢は反論できず、俯くしかなかった。

 

「……分かってくれたみたいね。いいこと、霊夢。これからは一人でやっていきなさい。あなたは私の……弟子なのだから、きっと出来るはずよ」

 

 霊夢は顔を上げ、涙目で女性を見つめた。

 女性は微笑みながら、優しく霊夢の頭を撫でる。霊夢は堪えきれず泣き出した。

 それから少しして、霊夢は落ち着いた。鼻をすすりながらも、しっかりと女性の目を見ている。

 

「……お師匠さま、今までありがとう。私、頑張るから」

 

 霊夢は深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。女性は満足そうに笑い、再び霊夢を抱き締める。

 

「……お母さん」

「霊夢、だから私は——」

「本当かどうかなんて関係ない! 私にとって、お師匠さまはお母さんなんだから! だから……最後だから、お願い。今だけは、お母さんでいて!」

 

 霊夢は大声を出して女性の言葉を遮り、必死に言葉を紡ぎ出した。今言わなければ二度と言えない気がしたからだ。

 その願いが聞き届けられたのか、女性は何も言わずに抱きしめている腕の力を強めた。霊夢も強く抱き返す。

 

 二人はしばらくそのままでいたが、やがて女性はゆっくりと身体を引き剥がした。霊夢の瞳を真っ直ぐに見据えると、女性は諭すように語りかける。

 

「私、もう行かないと駄目だから」

「えっ!? 今日一日くらい一緒にいれないの? そんなに急ぐ必要ないじゃない!」

 

 霊夢は驚いた様子で女性の腕を掴んだ。しかし、すぐに振りほどかれてしまう。

 

「既に決まっている事なの。これ以上引き伸ばす事は出来ないのよ」

 

 霊夢は納得できないといった表情で首を横に振った。しかし、女性は有無を言わせぬ口調で言う。

 

「駄々をこねるのはやめなさい霊夢。最後くらいはしっかりした所を見せてほしいわ。ほら、笑って見送ってちょうだい」

 

 霊夢は悲しげに顔を歪ませ、無理やり笑顔を作った。

 女性は霊夢の顔を見てクスリと笑うと、彼女と目線を合わすように手を膝に置いて前屈みになり、口を開く。

 

「私から霊夢に、母親として最後の言葉を送るわ」

 

 霊夢は小さくコクリとうなずいた。

 

「ご飯はきちんと三食食べなさい。睡眠も夜更かしは程々にしなさい。それと参拝客が少ないからって、神社の仕事をサボらないこと。どんな妖怪でも退治できるように、修行を怠っちゃダメよ。そして困っている人が居たら手を差し伸べなさい。あと……」

 

 女性はそこで一旦口をつぐんだ。霊夢が不思議そうな顔で続きを待つ。

 女性は微笑むと、優しい声で言った。

 

「一人になってしまうけれど、霊夢は私と違って、明るくて素直で元気な子だから、この先沢山の友人が出来るはずよ。友達を大切にしなさい。辛い時も楽しい時も、みんなで分かち合いなさい。あなたなら大丈夫。だって霊夢は私の……自慢の娘なんだもの」

 

 女性は霊夢の頭を優しく撫でた。霊夢は目に涙を浮かべながらも、精一杯の笑みを作ってうなずく。

 女性は姿勢を戻し、霊夢に背を向けた。そして一歩、また一歩と離れていく。

 

 霊夢は離れていく影を掴むように手を宙にさまよわせるが、引き留められる訳もなく距離は開いていく。声をかけようとしたが、口は開けども空気が漏れるだけで何も音にならない。追い縋ろうにも脚が石でもなったように固まってしまい、一歩も動けなかった。

 黄昏時の薄明に、その存在がゆっくりと消えていく。

 

 その時、不意に突風が起こった。木々の葉がざわめき、花びらが舞い散る。桜の花吹雪が二人に降り注ぎ、幻想的な光景を作り出した。

 去りゆく女性が風に煽られ、一瞬だけ身をすくめて立ち止まる。

 目を細めながらも女性の姿を追っていた霊夢は、ハッとした表情で必死に叫んだ。

 

「——お母さん!」

 

 その叫びは強風によってかき消され、女性の耳に届く事はなかった。女性は振り返る事なく歩みを再開し、やがてその姿を完全に消した。

 

 風は止み、辺りには静寂が戻る。黄昏時の光だけが残された。

 霊夢はその場に力無くへたり込み、呆然と虚空を見つめている。泣き腫らした目は赤く染まり、頬は濡れていた。

 

 それから、どれ程の時間が経っただろうか。

 ふと我に返った霊夢は、ふらふらと立ち上がり、おぼつかない足取りで女性が去っていった方向に歩き出していった。

 

 

 

 霊夢と別れた女性が、ゆっくりとだが確かな足取りで向かった先は、視界が悪くとも存在感を示す鳥居だった。その柱にもたれかかるように背を預けている紫の姿が見える。

 

「いいのね? もう」

「はい」

 

 紫の問いかけに対し、女性は短く答えた。

 いつになく神妙な面持ちな紫の横を通り過ぎ、鳥居を出た所で立ち止まった女性は、どこを見るわけでもなく漠然と風景を眺めた。

 

「あの子は、私が母親だと気づいていた。あれだけ厳しい態度で接してきて、最後くらいしか母親らしく出来なかったのに」

 

 淡々とした口調で話す女性は、視線を落として自らの両手をじっと見つめると、拳を握りしめながら続けた。

 

「霊夢が私の事をお母さんと呼ぶたびに、私の心は締め付けられるように痛くなった。私利私欲の為にあの子を産み、そして師匠となって騙し続け、最後に至って裁かれることのないまま生きてきたのだから」

 

 そう言って再び景色に目を向ける。そこには何の変哲もない日常があった。いつも通りの幻想郷の風景。神々や幽霊、妖怪と妖精が跋扈する非日常の世界だ。

 女性は小さく息を吐くと、背後にいる紫に語りかけた。

 

「紫様。私は、自分が如何に卑しい人間なのかを思い知らされました。私は決して人の親にはなれない。紫様と契約を交わし、彼と隔離されたあの時から今まで、私の心は彼の存在で埋まっていた。私の心は、彼以外を受け入れる事が出来ないのです」

 

 女性は静かに言葉を紡ぐ。それはまるで懺悔の言葉のようにも聞こえた。

 

「彼と会えないこの期間は本当に辛くて苦しかった。不満が抑えられなくて霊夢に当たることもありました。自分の弱さを突きつけられました。こんなにも弱い女が母親と名乗るなど許されるはずがないんです。でも、それでも、彼を想う気持ちを止める事は出来ませんでした。いえ、止める必要が無かったのです。そして、彼の為ならば何でも出来ると再認識しました。例えそれが禁忌であろうとも。我が子を妖怪に差し出してでも、彼と共に過ごす事を優先するでしょう。これが愛という感情なのでしょうか? ならば、なんと醜悪で愚劣で傲慢で、それでいて狂おしく魅力的なものなのでしょうか……!」

 

 女性は興奮気味に語る。その声は震えており、瞳には涙が浮かんでいた。そしてその表情は狂気に満ちた笑顔であった。

 そんな女性の様子を見た紫は、無言のまま扇子を開いて口元を隠し、妖艶な雰囲気を放つ瞳で彼女を見据える。

 紫はゆっくりと歩み寄り、女性の肩に手を置いた。

 

「貴女は契約を履行し、無事に役目を果たしたわ。今これより博麗の巫女の任を解き、貴女を解放します。そして、私も幻想郷の管理者としてではなく、八雲紫という一個人として、貴女の願いを聞き届けましょう」

 

 女性は紫の顔をまっすぐに見つめる。その顔は歓喜に染まっていた。

 紫は女性から少しだけ離れると、開いた扇子を閉じて縦に振り下ろした。すると何もない空間に一筋の切れ目が走り、そこから幾つもの巨大な目玉が覗いた。

 紫が軽く手を振ると、目玉は裂け目を広げていく。その裂け目の上下の端には、不気味さとは不釣り合いな可愛らしいリボンが結ばれている。

 

 これは紫の、境界を操る程度の能力の一つ、スキマと呼ばれるものである。空間の境界を操って裂け目をつくり、異なるもう一方の空間と繋げて移動したり、物を出し入れしたりする事が出来るのだ。

 

「この先は、時が流れず、あらゆるものが静止し、あらゆるものが存在しない異界。老いず衰えず死なず、永遠を過ごす事ができる。そして誰の邪魔も入らない。貴女にとっての楽園よ。彼は、そこで待っている。ただし、一度入ったら二度と出られない。それでも、行く?」

 

 紫は女性がこれから向かうであろう世界について説明した。

 女性は紫の説明を最後まで聞くと、思いを馳せるように目を閉じた。

 

 瞼の裏に浮かぶ光景がある。それは彼と過ごした日々の記憶だ。

 初めて出会った時のこと。彼が妖怪に襲われているところを助けた時のこと。彼が外来人でとても感謝されたこと。彼がお礼にと外の世界について色々と面白おかしく話してくれたこと。それで初めて顔が痛くなるくらい笑ったこと。彼に笑顔が可愛いと褒められたこと。恥ずかしくて顔を真っ赤にしたら頭を撫でられてもっと恥ずかしくなったこと。それから何度も神社にきてくれたこと。人里から遠くて何もない所でつまらないのに何でって聞いたら君が居るから楽しいと言われたこと。いっぱい遊びに連れて行ってくれたこと。二人で一緒にご飯を食べたこと。二人でお酒を飲んだこと。そして、二人で月を見たこと。二人きりで夜空を見ながら他愛のない話をしたこと。彼と買い物に出かけた時に見つけた花柄の櫛を彼に買って貰ったこと。彼と手を繋いで歩いた春の日の暖かさ。夏の終わりに花火を見たときの感動。秋になって落ち葉を集めて焼き芋を作った思い出。冬に風邪をひいて寝込んだときに彼がつきっきりで看病してくれて嬉しかった記憶。

 そして自分が彼に抱いている想いを伝えたときのこと。彼が自分を受け入れてくれた日のこと。二人で一緒に寝た夜のこと。彼と交わり女の喜びを知ったこと。彼の寝顔をずっと眺めていたこと。彼に抱きしめられた時の温もり。彼と触れ合った唇。彼に触れられた秘所の疼き。彼と繋がった時に感じた痛み。彼と一緒に達した幸せ。彼の欲望を受け止めた時の快感。彼の全てを受け入れたいという衝動。彼の気持ちよさそうな顔。彼の笑顔。彼の泣きそうな顔。彼の怒った顔。彼の照れた顔。彼の困っている顔。彼の恥ずかしがっている顔。彼の優しい言葉。彼の真剣な眼差し。彼の嬉しそうにしている姿。彼の悲しげな様子。彼の切羽詰まったような声。彼の匂い。彼の感触。彼の鼓動。彼の熱。彼の吐息。彼の汗。彼の唾液。彼の血。彼の垢。彼の味。彼の魂。彼の愛。彼の。彼の。彼の彼の彼の全てが愛おしい。全て鮮明に思い出せる。

 

 女性は自覚する。自分がどれほどまでに彼を愛してしまっているのか。その記憶が彼女の胸の奥底にある感情を呼び覚ます。それは愛の一言では片付けられない。もっと別の、狂おしいほどのなにか。

 

 女性は自分の身体を強く抱き締める。心の中に渦巻く感情の奔流に耐えるように歯を食いしばる。爪が肌に食い込み皮膚を破り血が流れる。閉じた瞳の視界が赤黒く染まっていく。

 

 女性がゆっくりと目を開く。

 その瞳は元の茶色とは似ても似つかないほど赤く染まっていた。まるで鮮血のような真紅の輝きを放つ双玉は狂気を孕んでいる。焦点の定まらない視線は虚ろで、その口元にはうっすらと笑みを浮かべていた。

 もはや女性に未練はない。博麗の巫女としての彼女は死に絶えた。ここにいるのは妄執に取り憑かれた一人の女。

 彼女の心に霊夢の存在は欠片も残っていない。あるのは、ただ一人の男への、狂愛。

 

「行きます。今から行きます。私は彼の元へ行きます。彼と、ずっと一つになります」

 

 女性はそう言い残して、紫に目もくれずに躊躇なくスキマへと飛び込んだ。

 紫はその様子を確認すると、再び扇子を振った。

 スキマは一瞬で閉じられ。後には静寂だけが残った。

 

「感情が乏しくて、人間味の無かったあの子が、あんなにも変わるなんてね」

 

 紫は感慨深げに呟いた。そして、先程まで女性が立っていた場所に歩み寄る。そこには妖気のような気配が残っていた。

 それから、紫はしゃがみ込んで地面に右手をついた。しばらくそのままの姿勢を維持してから手を離す。そこにあった妖気は跡形もなく消え去っていた。

 

「愛とは、何と美しくも残酷で、何と恐ろしくも魅力的なものなのかしら。ねえ?」

 

 不意に紫は立ち上がって、独り言のように言葉を紡ぐ。しかし、その声に答える者はいない。

 紫はくすくすと笑い、振り返って境内を見渡した。そこには人影はなく、ただ桜の花びらが舞っているだけだった。

 

「そろそろ出ていらっしゃいな。隠れているのは分かっているのだから」

 

 紫は楽しげに言うと、前方に向かって扇子を振る。

 

「きゃっ!?」

 

 すると一瞬だけ空間が歪み、そこから一人の少女が悲鳴を上げて現れた。少女は地面にうつ伏せになって倒れこむ。

 

「あらあら。盗み見なんてはしたない事するから、バチが当たるのよ?」

「ぐっ……! 私の二重結界を、こんなにも簡単に破るなんて……ただの妖怪じゃない。一体、何者なの……」

 

 霊夢は悔しそうに唇を噛みながら、紫を睨んだ。紫はそんな霊夢の様子を愉快そうに見つめて口を開く。

 

「そうねぇ。まあ教えてあげてもいいけど、教える意味がないから、教えてあげなーい!」

 

 紫は語尾に音符でも付きそうなくらい軽い口調で言うと、地に伏せている霊夢の方へ歩いていく。

 霊夢は慌てて立ち上がり、身構えた。服についた土埃を払う余裕もない。霊夢の瞳は目の前の妖怪を警戒するように、鋭い眼光を放っている。

 

 紫は平然と間合いを詰めていく。その不気味な姿はまさに妖怪そのもの。

 霊夢は気圧されて、堪らず後ずさって距離を取った。

 紫はそれに気づくと、歩く速度を上げた。霊夢もそれに合わせて後ろに下がる。二人の距離は一定を保ちつつ、徐々に縮まっていく。

 

 やがて霊夢が背中に壁を感じ、これ以上下がれなくなったところで、紫は足を止めた。そして、ゆっくりと両手を上げて、パッと掌を見せた。それは、まるで降参のポーズだった。

 

 それを見た霊夢は、一瞬だけ警戒を緩める。それが命取りとなった。

 

 次の瞬間、紫は一気に距離を縮めると、霊夢のか細い首を鷲掴んだ。そして、お互いの吐息が感じられるほど顔を近づける。霊夢は必死に抵抗するが、紫の力には敵わない。

 紫はニヤリと笑うと、霊夢の耳元で囁くように言った。

 

「私は今から、貴女の大切なものを奪おうと思うの」

 

 その声色は低く、冷たいものだった。

 霊夢はその言葉を聞いて全身を強張らせた。目の前の妖怪が言ったものなど一つしかない。それを奪われるのは、霊夢にとって最も忌むべきこと。

 紫は霊夢の反応を楽しむかのように、霊夢の顔色を観察した後、再び口を開いた。

 

「嫌なら全力で抵抗してみせなさい。貴女は博麗の巫女で、私は人に仇なす妖怪なのだから」

 

 紫の言葉に霊夢は答えなかった。しかし、その表情からは焦りや恐怖といった感情が読み取れる。力の差を見せつけられて萎縮しているようだった。

 

 紫は霊夢の様子を確認すると、右手に力を入れて首を掴んだまま持ち上げた。霊夢は苦しげに目を細め、小さく咳き込む。

 そのまま霊夢を境内の隅へと運ぶと、乱暴に投げ離した。

 

「ぐぇっ……!」

 

 霊夢は受け身を取れずに地面に叩きつけられる。その衝撃に肺の中の空気が吐き出され、呼吸困難に陥った。霊夢は地面をのたうちまわり、激しく咽せる。

 紫は霊夢に追い打ちをかけるため、一歩ずつ近づいていった。

 霊夢は霞んだ視界に迫る紫を捉えて、自分が何をされるか理解し、歯をカチカチと鳴らして震えだす。

 霊夢が怯えていることを確認してから、紫は霊夢の顔のすぐ横の地面を踏みつけた。

 

「ひぃっ!」

 

 霊夢は悲鳴を上げ、反射的に目を閉じて顔を逸らす。

 紫は霊夢の頭上に移動し、見下ろすような体勢になると、しゃがみ込んで霊夢の顎を掴み、強引に正面を向かせた。

 霊夢は目を強く閉じたまま、目尻に涙を浮かべて弱々しく首を左右に振る。

 

「敵と対峙している最中に目を逸らしては駄目よ。常に自分の視界に相手を捉えておく事。お師匠様に教えてもらったでしょう?」

 

 紫はそう言うと、霊夢の首筋に人差し指を当て、ツーっとなぞった。霊夢はビクッと体を震わせ、固く閉ざしていた目を大きく開く。

 

「そうそう、よく出来たわね。偉いわよ」

 

 紫は霊夢と視線が合うと満足気に微笑んで頷く。それから霊夢の頭を優しく撫でて、ゆっくりと立ち上がった。

 そして紫は笑顔のまま右足を上げて、無造作に放り出されている霊夢の左手に向けて勢いよく踏み下ろした。

 バキッ!という鈍い音が響く。

 

「あっ……え?」

 

 突然の事に霊夢は何が起きたのか分からず、呆然とする。自分の左手に目を向けてみると、紫の踵が小指の先に乗っていた。

 紫が察したように足を退けると、小指の第一関節より先が赤黒く変色しており、血が流れ出ていた。

 

「……あぁああぁああああっ!!!」

 

 それを理解した途端に激痛が走り、霊夢は絶叫を上げる。あまりの痛みに気を失いそうになった。

 

「騒がしいわねえ。たかだか小指が一本潰れただけでしょう。さあ、早く立ち上がって、かかってきなさい」

「あうぅ……いたいよぉ……」

 

 紫の言葉に霊夢は反応しなかった。先程の一撃で完全に戦意を喪失しており、立ち上がるどころか顔を動かすことすらできない状態だった。

 そんな霊夢を見て、紫は大きくため息をつく。

 

「じゃあ、次は薬指でもいこうかしらね」

 

 紫はつま先で霊夢の手を軽く蹴る。

 すると霊夢は小さな悲鳴を上げた後、慌てて手を引っ込めた。

 

「ええっと、両手両足で計二十本でしょう。それで両手が二十八で両足は二十六で、既に一回やったから……あらあら、合計で五十三回も出来るじゃない! それだけあれば、途中で立ち上がれるようになるんじゃないかしら?」

 

 紫はわざとらしく頬に手を当てると、嬉しそうな声で言った。

 彼女が言ったのは指の関節の本数。つまり、霊夢が戦意を見せるまで順番に潰していくと言う事。

 

 霊夢は、その残酷な宣言を聞いて顔を青ざめさせた。彼女は必死になって逃げようとするものの、身体は恐怖に支配されて動かない。

 

「や、やめて……お願いだから、もう許して……!」

 

 霊夢は掠れた声で言うと、紫に懇願するように涙を流しながら訴える。しかし紫は笑顔を崩さず霊夢を見つめたまま。

 霊夢の声は紫には届いているはずなのに無視された。それが余計に彼女の精神を追い込む。

 

「痛いの……すごく痛いの。こんなの無理だよぉ……ううっ、ごめんなさい、謝りますから。何でもしますから、どうか助けてください。お願いします……」

 

 霊夢は地面に額を付けて何度も頭を下げた。その姿はまるで土下座をしているようだ。

 それを見た紫は不機嫌そうに眉根を寄せ、何かを考えるように口元に手を当てた。

 

 少しの間沈黙が流れる。その間、霊夢はひたすらに頭を下げる。その様子は惨めを通り越して哀れだった。

 

「酷い有様だわ。もしかして時期尚早だったのかしら。でも、あの子の時よりは成長しているみたいだし。素質は間違いなくあるはずよねえ。はあ……」

 

 紫は一人でぶつぶつと呟くと、しゃがみ込んで霊夢の頭を撫でた。霊夢はビクッと肩を震わせる。

 

「ほら、顔を上げなさい」

 

 優しく諭すような口調で言われ、霊夢は恐る恐る顔を上げる。

 

「許して、くれるの? もう痛い事しない?」

 

 怯え切った表情で霊夢は尋ねた。それに対して紫は微笑みを浮かべると、霊夢に寄り添って抱きしめた。

 

「ええ。もうしないわ。怖がらせてごめんなさいね」

 

 優しい言葉をかけられ、霊夢は安心したのか紫の背中に腕を回す。

 

「いっぱい怖い思いしたものね。痛い思いしたものね。悲しい思いしたものね。苦しくて辛い記憶。でも大丈夫よ。私が全部忘れさせてあげるから」

「え……どう言うこと?」

 

 戸惑った霊夢だったが、すぐに意味を理解したようで大きく目を見開いた。

 次の瞬間、霊夢は紫から離れようと暴れ始める。だが、紫はそれを予想していたかのようにしっかりと霊夢を抱きしめたまま離さない。そして、紫は右手の掌を霊夢の頭に押しつけた。

 

「な、なにっ!? なにかが入ってくる! やめて! 中を掻き回さないで! 気持ち悪いっ! 頭がっ! 割れちゃう!!」

 

 霊夢は悲鳴のような声を上げて叫んだ。それと同時に、霊夢の中で異変が起きた。

 霊夢の記憶の一部が、段々と薄れていくのだ。それは霊夢が今まで経験してきた思い出が全て消え去る感覚だった。師との、母との大事な思い出が。

 

「やめて! やめてよ! それだけは取らないで! お願いだから!」

 

 霊夢は涙をボロボロと流しながら必死になって叫ぶ。

 しかし、そんな霊夢に対して紫は淡々と言った。

 

「貴女は妖怪に立ち向かう事すらできない臆病者じゃない。自分を何だと思っているのかしら? 博麗の巫女でしょう。師に妖怪退治の術を習ってきたでしょう。ならば私を倒さなくては。それが出来る力はあったはず。でも、もう遅いわ。貴女は逃げた。あまつさえ妖怪に許しを乞うた。これは敗北を意味するの。敗者は勝者に従わなければならない」

 

 紫の言葉を聞いた霊夢は目を大きく見開くと、首を左右に振って抵抗する。しかし、いくら力を込めても霊夢は拘束から逃れる事が出来なかった。そうこうしている内に、霊夢の中の大切なものが霞んでいく。

 

「大人しくしていなさい。私は貴女の心に打たれた枷を消してあげようとしているだけ。何も苦しむ事はありませんわ」

 

 紫は諭すように言った。

 だが、霊夢はそれどころではない。心の中にぽっかりと穴が空いていく気分だった。それが喪失感なのか虚無感なのか、それともまた別の感情なのか。今の霊夢には分からなかった。

 

「あ、ああ……」

 

 やがて、霊夢の口から弱々しい吐息が漏れた。次第に霊夢の顔から感情が抜け落ちていき、虚ろな目つきになる。

 そして糸の切れた人形のように力無く倒れた。そのままピクリとも動かず、死んだように眠っていた。

 それを確認してから紫は立ち上がり、霊夢を抱き上げる。そして、母屋の方へ歩いていった。

 

 寝室に入り、霊夢を寝巻きに着替えさせて寝かしつけると、彼女の左手を持ち上げて、小指をそっと握った。

 すると、潰れていた小指の先が元に戻る。紫の力によって傷が治ったのだ。

 その後、紫は霊夢の頬に手を当てて呟いた。

 

「寝顔は本当に似ているわね。中身は全然違うけれど」

 

 その言葉には愛しさが込められていた。まるで我が子を見るような優しい眼差しである。

 

「またいつか会いましょう。その時は初めましてになるのかしら? なんだかむず痒いわ」

 

 紫は少し寂しげに言う。だが、すぐに彼女は平静になり、そして口を開く。

 

「藍。後の事は任せるからね」

 

 紫は虚空に声を投げかけた。

 直後、部屋の隅の空間が揺らぎ、一人の女性が姿を現す。女性は紫の式神、八雲藍だった。

 藍は眠っている霊夢を一通り眺めてから、紫の方に視線を向けた。

 

「……やはりこうなりましたか。あ、いえ、紫様を責めている訳ではありません。ただ、これで良かったのでしょうか?」

 

 藍は心配そうな表情を浮かべながら訊ねる。

 それに対して紫は何も言わず、ただ微笑んだだけだった。それから霊夢を起こさないよう注意しつつ、ゆっくりと布団から離れる。

 

 部屋を出て縁側まで行くと、そこで立ち止まって夜空を見上げた。藍も彼女に倣って隣に立つ。月明かりが幻想的な風景を作り出しており、どこか神秘的であった。

 しばらくして、ようやく紫が口を開いた。

 

「人間って、いいわね」

「……はあ」

 

 唐突な発言に藍は思わず間の抜けた返事をする。

 それでも構わずに紫は続けた。

 

「藍は、人間の事をどう思っているのかしら?」

 

 紫の質問に対し、藍は顎に手を当てると少し考え込む。ややあってから答えた。

 

「そうですね、私は好きですよ。人間は興味深い生き物です。私達妖怪とは根本的に異なる部分が多いので、観察対象として飽きませんし」

「あら、意外と正直ね」

「紫様に嘘をつく理由がありませんから」

 

 紫の言葉に藍は苦笑しながら答える。

 そんな彼女を横目で見て、紫は小さく肩をすくめると、再び前を向いて話し出した。

 

「では、貴女はどう思うのかしら? 貴女の意見が聞きたいわ」

 

 紫は真剣な声色で問い掛けた。

 そんな彼女に藍はしばらく黙っていたが、やがて居住まいを正して、真っ直ぐ紫の顔を見て語り出す。

 

「愛すべき存在だと私は思います。人間という種族は、我々妖怪と違って力も無く、すぐに死んでしまう弱い存在です。しかし、人間は妖怪にはない素晴らしいものをたくさん持っています。例えば、男女が出会い、恋をして愛を育み、子を成す。そういった当たり前の営みすら出来ない私達には、とても羨ましいものなのです。だから、人間と交わりたいという欲求を、私達は潜在的に持っています。でも、妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。この構図があるからこそ、私達妖怪は存在出来ています」

 

 藍の言葉を聞いて、紫は静かに耳を傾ける。藍はさらに言葉を続けた。

 

「古来より、人と妖が交わった先に行き着くのは悲恋ばかりです。結ばれても、別れが来る。死別や離別は当然の事、愛し合った二人が共に暮らす事さえ叶わない。それは私達が人間よりも寿命が長いせいでしょう。人間はどんどん年老いて衰えていく。それに比べて私達はほとんど歳を取らない。不公平だと思いませんか。こんなにも長く生きているのに、何一つ満足出来る事がないまま時間が過ぎていくのですから」

 

 藍の声音には深い悲しみが込められていた。紫は相槌を打つわけでもなく、ただじっと藍の話を聞き続けていた。

 

「だから、私は時折人間になりたいと思う時があります。愛する者と添い遂げたい。それが無理なら、せめて同じ時間を共有させて欲しい。そんな願望を抱くんです。その願いが叶うならば、どんな代償を支払ってもいいと思えるくらいに」

 

 藍がそこまで言うと、紫は藍の方へ顔を向けた。そして、何も言わずに首を縦に振る。

 

「私はご存知のとおり狐の化生です。人に化けて人と同じ姿になる事も出来ます。しかし、所詮は獣の本能を抑え込んでいるだけで、本質は何も変わりません。人を騙し、欺き、喰らう。その事実が人間の魂から消える事は永遠にないのです。いくら私が本心から人間を愛しても、彼らが正体を知ってしまえば、その愛が本物なのか偽りのものなのか区別する事が出来なくなるのです。そして、彼らは私を恐れ、憎むようになる。これが私の恐れている結末です。私の本当の姿を知られてしまうのが怖い。でも、姿を偽ったまま愛を囁くのは、もっと辛いのです。だから……」

 

 藍はそこで言葉を詰まらせる。それから俯いたかと思うと、今度は顔を上げて紫を見つめた。彼女の瞳には涙が溜まっている。

 紫はそっと藍の頬に手を当てた。

 藍は目を瞑り、紫の手の上に自分の手を重ねる。

 

「貴女の言いたいことは、よく分かったわ。聞かせてくれて、ありがとう」

 

 紫は藍の目元に滲んだ涙を指先で拭いながら言った。

 

「……いえ、長々と喋ってしまい、申し訳ありませんでした」

 

 藍は恥ずかしそうに顔を赤らめながら謝罪の言葉を口にした。

 紫は藍の顔から手を放すと、微笑を浮かべる。

 

「変なこと聞いて悪かったわね。じゃあ、私はそろそろ帰るから、後は頼んだわよ」

 

 紫はそう言ってスキマを開くと、その中に入っていった。

 

 紫の姿が完全に見えなくなった後で藍は大きく息を吐きだすと、その場に座り込んだ。

 膝を抱え込んで頭を埋めると、藍は小さく呟く。

 

「やっぱり、寂しいなあ……」

 

 それは、誰に聞かれる事も無い小さな独り言だった。九本の尻尾が、力無く垂れ下がっている。

 

 しばらくして藍は立ち上がると、役目を果たす為に動き出す。

 それは博麗神社に、彼女が存在していた痕跡を消し去る事であった。

 



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3話

 

 

 霊夢は障子の隙間から差し込む陽光によって目を覚ました。

 彼女は大きな欠伸をしながら身体を起こす。まだ眠気が取れず、ぼんやりとした顔のまま、しばらく布団の上でぼーっとしていた。それから、おもむろに目元を擦る。

 

「……んー?」

 

 ふと、妙な違和感を覚えた。目元が濡れていたのだ。欠伸で出た涙かと思ったが、どうやら違うらしい。その涙の正体が何なのか理解できず、彼女は首を傾げる。

 霊夢は振り返って枕元に視線を落とした。流れ落ちた涙と思われる水滴の跡が残っている。そこで、ようやく自分が夜泣きしていたのだと気付いた。

 

「変な夢でも見たのかしら」

 

 そう呟いてみるものの、夢の内容は思い出せない。自然と涙が出る程の夢とは一体どんなものだろう。そんな疑問を抱いた時だった。

 突然、彼女の脳内にある光景が浮かぶ。それは誰かの姿であった。

 

「えっ……」

 

 しかし、顔がぼやけていて誰だか分からない。

 その人物は、装飾も柄も無い簡素な巫女服を着ており、長い黒髪を後ろで結んでいる。霊夢の記憶に無い人物だが、どこか懐かしい感じがした。

 その姿を見ているだけで、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。まるで大切な人を目の前にして立ち尽くしているかのような。

 

「あれ?」

 

 そこまで考えて霊夢の思考は停止した。何かがおかしいと脳が警鐘を鳴らしている。

 それが意味するものは何なのか、自分でもよく分からなかった。ただ、本能的に嫌な予感がする。この先に進むべきではないと理性が訴えかけてくるのだ。

 それでも霊夢は、その衝動を抑えきれずにいた。目をかたく閉じて、もう一度だけ記憶を探る。

 

「いっ……!」

 

 途端、強烈な頭痛に襲われた。脳を直接弄られているような痛みである。彼女は目を見開き、両手で頭をおさえて前のめりになった。

 

「うぷっ!?」

 

 視界がぐるりと回転し、吐き気が込み上げて来る。これ以上は危険だと判断し、霊夢はすぐに考えることをやめた。

 深呼吸を繰り返し、気持ちを静めることに努める。すると、少しずつではあるが気分が良くなってきた。

 どうにか落ち着きを取り戻した霊夢は、大きく息をつく。額に浮かんだ汗を拭いながら、天井を仰いだ。

 

「ああ、気持ち悪い。何なのよ今の……」

 

 悪態をつきながら立ち上がる。とりあえず着替えようと服に手をかけたところで、部屋の外から床板を踏み鳴らす音が聞こえてきた。

 

 何者かが廊下を歩いているようだ。霊夢は動きを止め、再び布団に座り込んで、音の主が現れるのを待つことにした。

 

 やがて、部屋の前で止まった。障子の向こう側から声がかけられる。

 

「霊夢、起きてるか?」

 

 聞き慣れた少女の声だ。霊夢は面倒くさそうな表情を浮かべると、渋々といった様子で口を開いた。

 

「ええ。入ってきていいわよ」

「邪魔するぜ」

 

 許可を出された少女——霧雨魔理沙は障子を開けると、霊夢の部屋に入っていった。

 彼女は帽子を脱いで、霊夢の傍まで歩み寄る。そして何かに気が付いたのか、しゃがみ込んで霊夢の顔を覗き込んだ。

 

「な、何のつもり?」

 

 霊夢は鬱陶しげに眉根を寄せ、魔理沙の肩を押し返す。しかし、魔理沙は動じることなく口を開いた。

 

「おい、酷く目が腫れているぜ。もしかして泣いていたのか?」

 

 そう言って心配そうに霊夢の顔色を窺ってくる。

 

「何でもないわよ。あんたには関係ないでしょ」

 

 霊夢はぶっきらぼうな態度で答えた。しかし、その言葉とは裏腹に、瞳には不安の色が滲んでいる。

 

「はあ? 人がせっかく心配してやったのに、なんだそりゃ。お前はいつもそうだな。私に対して失礼すぎるんだよ」

 

 霊夢の言葉を聞いた魔理沙は呆れたように溜息をついた。それから腰に手をやって、不満げに口を尖らせる。

 そんな彼女を見て、霊夢は小さく舌打ちをした。しかし、すぐに自分の態度は良くなかったかもしれないと思い直す。少しくらいは謝っておいた方が良いだろうと考えた。

 

「……ごめん。言い過ぎたかも。ちょっと変な夢見たから、それでついイラっとしていたのよ」

 

 霊夢は俯きながら謝罪を口にした。魔理沙の機嫌を取るためというより、自分に対する戒めの意味を込めての発言だった。

 

「はー。泣くほど怖い夢だったんだな。ま、夢なんて起きたらすぐに忘れるもんさ。気にすんなって」

 

 霊夢の様子を見た魔理沙は安心させるように微笑む。そして慰めるように彼女の背中をポンと叩いた。

 それを受けた霊夢は一瞬だけ目を丸くした後、バツが悪そうに視線を逸らす。

 

「で、こんな朝早くに何の用なのよ?」

 

 霊夢は何事も無かったかのように話を変えた。だが、目元はまだ赤いままだ。

 

「あー? もう朝早くって程でもないぜ。私はちゃんと朝食をとって、ここに来たんだからな。霊夢が寝坊助なだけだろ」

 

 魔理沙は腕組みをしながら答える。

 霊夢はそれを聞いて、壁に掛けられた時計を見上げた。短針は八を指している。確かに、普段の起床時間と比べれば遅いと言えるだろう。霊夢は軽く咳払いをして、話を戻すことにした。

 

「それは悪かったわね。でも、何の用かは教えてくれても良かったんじゃないの?」

 

「いや、特にこれといって話すようなことは無いんだけどな」

 

「じゃ、何しにきたのよ」

 

「……用がなけりゃあ来ちゃいけないのか? 今までそんな事聞いてこなかったのに、なんで今日に限って突っかかってくるんだよ。訳分かんないぜ」

 

 魔理沙は困惑気味に頭を掻いた。

 霊夢と魔理沙は、知り合ってから口喧嘩をする仲ではあるものの、ここまで険悪な雰囲気になったことは一度もなかった。それが突然、妙な態度を取り始めたのだから戸惑いもするだろう。

 

 霊夢は黙ったままだった。魔理沙の問いに答える気はないようだ。

 しばらくの沈黙の後、先に痺れを切らせたのは霊夢の方だった。彼女は面倒くさそうに髪を掻き上げると、立ち上がって魔理沙を見下ろした。

 

「私、寝起きだから顔洗ってくるわ。ご飯も食べないといけないし、用がないなら帰ってくれないかしら?」

 

 霊夢は素っ気なく言った。これ以上会話を続けるつもりが無いことを暗に示している。

 

「……そうだな。今日のところは、帰ることにするよ。邪魔して悪かったな」

 

 魔理沙は霊夢の様子を察すると、それ以上何も言わずに帽子を被り直した。

 そのまま部屋の出口に向かう。障子を開けると、振り返ってもう一度霊夢の顔を見た。

 それから何かを言いかけたものの、結局は何も口にせず部屋から出ていった。

 

 魔理沙が出て行ってからも、霊夢はしばらくの間動かなかった。彼女は先ほどのやり取りを思い返す。なぜあんなにも苛立ってしまったのだろうかと考えていたのだ。

 魔理沙の態度はいつもどおりのものだったはずだ。彼女は気に触るような事は言っていない。むしろ、自分が言ってしまった。

 

 彼女が邪魔に思えたのは確かだ。だが、それだけではない。もっと別の感情が混じっている気がした。そこまで考えたところで霊夢は大きく息を吐く。考えていても仕方ないと割り切ったらしい。霊夢はとりあえず着替えようと思い、服を脱ぎ始めた。

 

 それからはいつも通りの一日だった。遅めの朝食をとり、境内の掃除をし、昼食を食べてお茶を飲む。そして、夕方には夕食の準備に取り掛かる。

 

 今日の来客は魔理沙一人だけだった。昨夜居た鬼の少女は、今朝から姿を見せていない。霊夢はそのことを少し不思議に思ったが、すぐに忘れてしまった。

 

 夕食後、霊夢は縁側で酒を飲んでいた。月見酒である。お猪口を片手に持ちながら、ぼんやりと空に浮かぶ月を眺めている。その表情はどこか物憂げだ。

 霊夢は一人で酒を飲む時間が好きだった。誰にも邪魔されずに静かに飲むことが出来るからだ。

 

 とはいえ宴会などの大人数で騒ぐことも嫌いではない。人間が人ならざる者達と一緒になって騒いでいる光景は微笑ましいものだ。宴会の席では、皆楽しそうな顔をしている。そこには何の隔たりもない。

 ただ、霊夢は彼らに気を許した事は一度として無かった。

 

 妖怪の本分は人間に畏怖を与える事にある。人を化かし、脅し、襲い、時には生を奪う。力を誇示して恐れられる事で妖怪は存在を保つ事が出来る。

 神も似たようなものだ。人間の信仰を集めなければ存在を保てない。災厄を振り撒き、困窮した人々に恵みを施して信仰を得る。

 

 古来より人間に仇なすものとして、彼らは認知されてきた。博麗大結界が張られた今となっては、過剰に力を振るう事も無くなったが、それでも安心できる存在とは言い難い。

 

 博麗の巫女は幻想郷の平衡を守る者。人間でも妖怪でも、幻想郷に害を及ぼす者は排除しなければならない。

 人当たりが良い者でも、内心ではよからぬ事を考えているかもしれない。博麗の巫女は、そんな者たちと常に向き合わなければならない。

 霊夢は信用している相手などいなかった。今も昔も信じてきたのは自分だけ。他人と仲良くなる事があっても、深い付き合いをすることは無かった。

 

 霊夢はお猪口に入った酒を一口飲み込む。苦味の強い日本酒は喉を焼きながら胃の中へと落ちていく。

 酒が美味しいとは思わない。ただ、酔う感覚が心地良く感じるだけだ。様々な思考が遮断されて無心になれるこの時間が、酒を呑む理由になっていた。

 

 しばらく呑み続けていると、霊夢の頬に赤みが増してくる。身体は火照り始め、頭の奥が痺れ始める。

 霊夢は自分の変化を感じ取った。そろそろ頃合いかと思った彼女は立ち上がる。それからゆっくりとした足取りで自室へと向かう。

 途中で何度か転びそうになりながらも、何とか辿り着いた部屋に入ると、敷きっぱなしの布団の上に寝転がり、掛け布団を被って目を閉じる。そのままの状態でじっとしているうちに、霊夢は眠りに落ちていった。

 

 

 それから時を経て翌朝になり、霊夢は目を覚ました。

 まだ太陽が昇っていない時間帯。部屋の中は薄暗く、障子から差し込んでくる光もほとんど無い。夜明け前といったところだろう。普段ならば二度寝するのだが、頭に鈍い痛みを覚えて起きる事に決めた。

 

 霊夢はのそりと起き上がると、頭痛の原因を確かめるために頭を押さえる。目の奥がずきりと痛んだ。

 二日酔いかと考えたが、昨晩飲んだ酒はそれ程強いものではなかったはずだ。それに自分でも呑む限度は弁えている。

 もしかして、風邪でもひいたのだろうか。それとも疲労が原因なのか。原因は分からない。だが体調が悪い事だけは確かだ。

 

「……喉渇いたわね」

 

 霊夢は、一旦喉の渇きを潤す為に台所に向かおうと思った。しかし、立ち上がろうとした瞬間に強烈な目眩に襲われる。視界が大きく揺れ動き、立っていられなくなる。

 

「あ……」

 

 霊夢は足がもつれて、畳の上へ横転した。受け身を取る余裕すら無く、肩を強く打ち付ける。

 

「いたっ!」

 

 霊夢は思わず声を上げた。痛みに顔が歪む。

 幸い転倒した場所が畳の上だったので、骨は折れていないようだ。

 霊夢は上半身を起こすと、再び立ち上がろうとする。しかし、またしても足元がふらついて倒れてしまった。

 

「何なのよ、もう」

 

 霊夢は苛立った様子で舌を鳴らす。

 どうやら自分の身体は思った以上に参っているらしい。こんな状態じゃまともに動けない。とりあえず、今日は休むしかなさそうだ。

 霊夢は立つのを諦めて布団に潜り込んだ。

 このまま一日眠ってしまえば、少しは楽になるはず。霊夢は再び瞼を閉じた。

 

 そして、どれくらいの時間が経ったのか。霊夢は誰かの声を聞いているような気がして目を開けた。目の前には見慣れた天井が広がっている。

 気のせいだったのかと、ぼんやりとした意識の中で霊夢はそう考える。そして、もう一度目を閉じる。

 

 すると、今度ははっきりと聞こえてきた。

 自分の名前を呼ぶ声だ。外から聞き覚えのある男の声がする。

 

 霊夢はゆっくりと身体を起こした。まだ頭痛は治っておらず、気分は最悪の状態だった。

 更に寝ている間に汗をかいたらしく、着ていた服が肌に張り付いて気持ち悪い。喉の渇きも酷く、返事をするための声量が出せない。それでもどうにか応えようと口を開く。

 

「こ、ここに……居る……かっ、げほっ!けほ!」

 

 言葉の途中で咳が出てしまい、上手く喋れない。そのせいで相手は自分が居るかどうか分からなかったようだ。断続的に声をかけてくる。身動きの取れない霊夢はただ待つしかなかった。

 

 やがて、襖の向こう側から、地面を歩いている人の気配を感じた。

 霊夢はなんとか気付いてもらおうとして、枕を障子に向かって投げた。障子が音を鳴らして揺れる。外にいる者はそれに気づいたようで、足音がこちらへ向かってきた。

 

「……霊夢か?」

 

 障子の前に居る男が、戸惑ったような低い声で問いかけてくる。霊夢は安堵のため息をつくと、掠れた小さな声で答える。

 

「えぇ、私よ。入ってきて」

 

 男は障子を開ける。そこには霊夢の予想通り、一昨日出会った○○の姿があった。

 彼は霊夢の姿を見ると、驚いた表情を浮かべ、慌てながら部屋の中に入ってくる。

 

「おい、大丈夫か!?」

 

 ○○は霊夢に駆け寄って顔を覗き込む。霊夢は苦しそうな表情のまま、弱々しく笑みを作った。

 

「え、ええ。ちょっと頭が痛くて……」

 

 霊夢の言葉を聞いた○○は、すぐに霊夢の額に手を当てて体温を測る。彼の手はひんやりと冷たく、火照っていた身体に心地よかった。

 

「かなり熱があるな。いつから具合が悪かったんだ? 風邪でも引いたのか?」

「分からないわ。今朝起きたら、こうなってたの」

「そうか。ともかく今は、横になって安静にしていろ」

「……うん」

 

 ○○は霊夢を寝かせると、部屋から出ていった。霊夢は不安になりながらも、大人しく布団の中に入る。

 

 しばらくすると、○○はお盆と桶を持って戻ってきた。お盆の上には湯飲みに入った水と、白い布が置かれている。

 ○○は、持ってきた物を畳の上に置くと、再び霊夢の元へやってきた。そして、心配そうに見つめると、優しく話しかける。

 

「取り敢えず水とタオルを持ってきた。あと、薬があるなら場所を教えてほしい」

 

 ○○の問いに対して、霊夢は首を横に振った。

 

「うちに常備薬は無いから、買わないと駄目なの。ごめんなさい、せっかく来てくれたのに、こんな状態で……」

 

 霊夢は申し訳なさそうに言うと、掛け布団で顔を隠してしまった。

 そんな彼女を見て、○○は微笑むと安心させるように頭を撫でた。

 

「病人がそんなこと気にする必要はないさ。俺が勝手に来ただけだしな。それより、他に何かして欲しいことはないか? 

 

 優しい口調で尋ねると、霊夢は少しだけ顔を出したまま答えた。

 

「……それじゃあ、しばらくそばにいて欲しい、かな」

 

 霊夢が遠慮がちに呟く。彼女は○○の顔を見上げると、恥ずかしそうに目を逸らす。

 

「勿論、霊夢の体調が戻るまでいるつもりだ。だが、その間ずっと一緒に居るわけにもいかないだろう。あと、起きてから食事はとったのか?」

 

「ううん。食べてないわ」

 

「じゃあ俺が用意しよう。お粥なら作ってやれるが、食べられそうか?」

 

 霊夢は小さく首を横に振った。

 

「食欲がないの。何も食べたくない」

「そうは言っても、少しでも栄養を取らないと良くならないぞ」

 

 ○○は困ったように言った。

 霊夢は、看病してくれる○○に感謝しながらも、わがままに付き合わせることに罪悪感を覚えていた。それでも、彼が自分のために行動してくれているという事実が嬉しかった。

 

「……やっぱり、お願いしてもいいかしら」

「ああ、分かった。待ってろよ」

 

 ○○は立ち上がると、部屋を出て台所に向かった。

 その後姿を見送りながら、霊夢は急に寂しさを感じてしまう。先程まで孤独感など無かったはずなのに。

 霊夢はその感情を紛らわそうと、上半身を起こしてお盆の上にある湯呑みを手に取った。喉が渇いていたこともあり、一気に飲み干す。冷たい水が全身に行き渡り気持ち良かった。

 

 数十分後、お盆を持った○○が戻ってくる。彼は畳の上に座ると、持ってきたお椀を霊夢に差し出した。中には美味しそうな卵のお粥が入っている。

 

「熱いから気をつけてくれ」

「ありがとう」

 

 霊夢はゆっくりと身体を起こすと、○○から受け取ったお碗を受け取った。そして、お米の甘い香りに誘われるように、スプーンを使って一口分掬う。

 ふーっ、と息を吹きかけて冷ましながら、少しずつ口に含む。塩加減も丁度よく、優しい味がした。霊夢は思わず頬が緩んでしまう。

 

「味はどうだ? 好みにあったか?」

「うん。すごく美味しいわ」

 

 霊夢は笑顔で言うと、お粥を食べ進めた。

 ○○は満足げに微笑むと、霊夢が食べる様子を静かに見守っていた。

 

「ごちそうさま」

 

 霊夢は手を合わせると、空になったお皿をお盆の上に置いた。

 

「もういいのか? 余分に作ったから、まだまだあるぞ」

「これ以上食べたら、美味しすぎて太っちゃうもの。だからこれで十分」

 

 霊夢は冗談めかして言うと、○○に向かって微笑んだ。その表情には疲労の色が見えるものの、先程までのような暗い雰囲気は消え去っていた。

 

「顔色も少し良くなったみたいだな。これなら明日までには治るかもしれない」

「えへへ……そうね。なんだか気分が良くなってきたかも」

 

 霊夢は布団の上で寝転ぶと、天井を見上げた。○○はその様子を見ると、安心したように笑う。

 

「そういえば、ここには他に人は居ないのか? 親や兄妹とかは?」

 

「……私一人だけよ。親は私が生まれてすぐに亡くなったらしいの。他には誰もいないわ」

 

「そうか……嫌なこと聞いて悪かった」

 

 ○○は顔をしかめると、申し訳なさそうに俯く。霊夢は慌てて首を横に振ると、明るい声で話を続けた。

 

「別に気にしないで。私は親の顔も全く覚えていないの。物心ついた時には、既に博麗神社に住んでいたから」

 

「なら、育ての親が居るはずだよな。まさか、ずっと一人きりで生きてきた訳じゃあないだろう?」

 

「え、それは……」

 

 霊夢は言葉に詰まる。彼女は○○の質問に答えられなかった。確かに自分は一人で生きてきてはいない。誰かがそばに居たはずだ。しかし、それが誰なのか思い出せないのだ。

 

「あれ……」

 

 霊夢は自分の額に手を当てると、頭を押さえて考え込む。何故今まで疑問に思わなかったのだろう。そして、どうして思い出せないのだろうか。記憶を探れば探る程、頭痛が酷くなるばかりであった。

 

「ううっ!」

「おい、大丈夫か!?」

 

 ○○は心配すると、霊夢の肩を掴む。彼の手の温もりを感じた瞬間、霊夢はハッと我に帰った。

 

「ごめんなさい。私には分からない。分からないの……」

「いや、謝るのは俺の方だ。もう聞かないから」

 

 ○○は霊夢の背中を優しく撫でながら言った。

 

「さあ、ゆっくり休んでくれ」

「うん、ありがとう。……ねえ、○○さんはどうしてこんなに親切にしてくれるの? 一昨日会ったばかりなのに」

 

 霊夢は不思議そうな表情を浮かべると、○○に尋ねた。彼は腕組みをしてしばらく考えると、ゆっくりと口を開く。

 

「君が俺に親切にしてくれたからだ。それに、苦しんでいる子を放ってはおけないだろう?」

「そっか……優しいのね」

 

 霊夢は小さく呟くと、横になって目を閉じた。

 しばらくして、○○は霊夢が眠ったことを確認すると、部屋を出ていこうとした。

 

「待って」

 

 その時、後ろから声をかけられたので振り返ると、霊夢が上体を起こしてこちらを見ていた。

 

「ん? ……ああ、起こしてしまったか。何か用か?」

 

 ○○は霊夢に近づくと、彼女の様子を伺いながら尋ねる。

 

「私、そばに居てって言ったじゃない。なんで出て行こうとするの?」

 

「いや、帰るつもりはないよ。ただ部屋を出るだけだ」

 

「……私が寝ている間は一緒に居て。お願いだから」

 

「親しくない男が側に居たら、君は落ち着かないんじゃないか? やはり俺は外で待っているよ」

 

 ○○がそう言うと、霊夢は黙ってしまった。そして、少しして、小さな声でぽつりと呟く。

 

「そんなの関係ないわ」

 

 霊夢は○○の腕を掴むと、自分の方に引き寄せる。その瞳には普段の優しさは無く、ただひたすらに不安げな色が浮かんでいた。

 

「お願い……」

 

 霊夢は必死な表情で懇願する。その様子はとても演技とは思えない。○○は困ったように頭を掻いて返事をした。

 

「分かったよ。ここに居るから安心してくれ」

「本当?」

「ああ」

 

 ○○の言葉を聞くと、霊夢はほっと胸を撫で下ろし、再び布団の中に潜り込んだ。○○はため息をつくと、部屋の隅に移動して座り込む。

 

「ねえ、少しお話ししましょうよ。○○さんの事を知りたいの」

 

「俺の事を? それより休んでなくて体調は大丈夫なのか?」

 

「今は眠たくないし、ご飯食べたから少しは平気よ」

 

 ○○は天井を見上げると、顎に手を当てて考え始めた。

 

「そう言うなら構わないが。何を話せばいいんだ」

 

「何でもいいわ。○○さんの好きな食べ物とか、嫌いなものとか、趣味とか、外の世界では何をしてたとか、そういう話を聞かせて欲しいの」

 

「分かった。じゃあ手始めに——」

 

 ○○は腕を組むと、自身の事を語り始めた。霊夢は時々相槌を打ちながら、静かに耳を傾ける。

 やがて話が一段落すると、○○は質問を投げかけた。

 

「良ければ君の事も教えてくれないか。あ、いや、最近の話で構わないから」

 

「えっ、私の? うーん、何から話そうかしら。まず、私は博麗神社の巫女よ。結界の管理が主な仕事。後は妖怪退治をしたり、異変が起きた時に解決したりしているわ。そうそう、最近だと神社の近くに間欠泉が噴き出てきて……」

 

 霊夢は指折り数えると、思い出したように次々と語り出した。○○はそれを楽しげに聞く。

 

「へぇ、それは大変だったな。でも、君みたいな若い女の子が一人で頑張ってるなんて凄いな」

 

「えへへっ。もっと褒めてもいいのよ? 私のおかげで幻想郷の平和は保たれていると言っても過言ではないわ」

 

 霊夢は得意げな顔で胸を張ると、嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

「はははっ、頼もしいな。それで次はどんな話をしてくれるんだ?」

「次は……ううん、ちょっと待って」

 

 霊夢は突然話を打ち切ると、障子の向こう側をじっと見つめ始める。○○が不思議そうにしていると、外から声が聞こえてきた。

 

「霊夢、居ないのかー?」

 

 甲高い少女の呼び声が響く。それを聞いた霊夢は眉間にシワを寄せて不機嫌な顔をしていた。

 

「あいつ、また来たのね」

「知り合いか?」

「ええ、まあ、知り合いっていうか……」

 

 霊夢は言い淀むと、ちらりと○○の顔を見る。

 

「俺が出迎えてこようか?」

「いいのよ。放っとけば、そのうち帰ると思うから」

 

 霊夢は立ち上がろうとする○○を止める。

 しかしその直後、近くから縁側を上がる音がして、ガラリと勢いよく戸が開いた。

 

「なんだ、居るじゃないか。返事くらいしろよ」

「うるさいわよ魔理沙。今は気分が悪いんだから静かにして」

 

 魔理沙は頬を膨らませると、部屋の中にずかずかと入ってくる。そして隅にいる○○の姿を見て目を丸くさせた。

 

「ん? 誰だお前」

 

 魔理沙は物珍しそうにまじまじと○○を見ると、首を傾げる。霊夢はため息をつくと、呆れたように言った。

 

「あんた、初対面の人に対して失礼よ。この人は○○さん。外の世界から来た人よ」

「ああ、外来人か。悪い、気付かなかったぜ。私の名は霧雨魔理沙だぜ」

 

 魔理沙は頭を下げると、気を取り直して口を開く。

 

「ところで、もう昼時だってのに、布団から出て来ないのは何でだ? まさか、具合でも悪かったりするんじゃないだろうな」

「……見ればわかるでしょ。熱があるのよ」

 

 霊夢がぶっきらぼうに応える。その様子は普段より少し弱々しく見えた。魔理沙はそれを見て心配そうに尋ねる。

 

「そうか……いや、昨日からなんか様子がおかしいと思ってたんだ。でも、霊夢が体調を崩すなんて珍しいな」

 

 魔理沙は不安げな表情で、霊夢の額に手を当てた。霊夢はその手を鬱陶しそうにはらう。

 

「触らないで。余計なお世話よ」

 

「……随分と気が立ってるな。そんなに辛いなら医者に診てもらった方がいいんじゃないか? 永遠亭まで私が連れていってやるよ」

 

「いい。こんなの寝てたら治るから。それに、あんな胡散臭い奴に借りを作るのはごめんだわ」

 

 霊夢はそっぽを向いて吐き捨てるように言う。

 

「あー、わかったわかった。じゃあ体調が良くなるまで私が面倒見てやるぜ。ちょうど暇だったしな」

 

「はあ? なんでそうなるのよ」

 

「どうせ他に誰も看病してくれなさそうだろ。私に任せてくれれば安心だぜ」

 

「……結構よ。○○さんが居るから平気だし」

 

 霊夢はふてくされたような顔で言う。すると、それまで黙っていた○○が口を開いた。

 

「君達は友達なんだろ? だったら俺なんかより適任じゃないか。わざわざ看病してくれると申し出てくれたのだから、甘えておけよ」

「それは……」

 

 霊夢は口をつぐむと、チラリと魔理沙の方を見た。○○の言うとおりだ。魔理沙が居る以上、彼に頼る必要は無いのだ。だが、霊夢はどうしても魔理沙を頼る事ができなかった。

 

 ○○は魔理沙と自分が友達と言ったが、霊夢にとって魔理沙は友人ではない。ただの知り合い程度なのだ。向こうが一方的に懐いているだけで、霊夢自身はそこまで親しいつもりはなかった。霊夢は幻想郷の住人達とはある程度親しくしているが、あくまで仕事上の付き合いといった感じである。魔理沙も例外ではない。

 

「……やっぱり嫌。こいつは信用出来ないもの」

 

 霊夢が呟くと、魔理沙が不満そうに眉根を寄せて反論する。

 

「はあ? 何言ってるんだお前は。私が信用出来ないだと? どういう意味だよ」

 

 魔理沙が苛立たしげに尋ねた。

 

「そのままの意味よ。人の物を盗む泥棒のあんたを側に置きたくはないの」

 

「……いやいや、今はそんなの関係ないだろ。私は霊夢の事が心配で言ってるんだぜ?」

 

 魔理沙は呆れたように肩をすくめると、○○の方に向き直った。そして○○の顔を訝しそうに見つめながら、言葉を続ける。

 

「大体、この男は何なんだ。見た感じ医者でもないんだろ? 霊夢とはどういう関係なんだよ。私が知らないって事は、そんなに親密じゃないはずだ。それなのに、どうして霊夢はこいつを頼ってるんだ? この男が私より信頼されてるのは心外だぜ」

 

 魔理沙は○○に詰め寄ると、指を突き付けて詰問する。

 

「お前、外来人と言ったが、外に帰るためにここに来たのか?」

 

「いや、この前霊夢に来てくれと誘われたから、偶々今日行っただけだ。そしたら霊夢が体調を悪くしていて、偶然通りかかった俺が看病を申し出たという経緯だ」

 

「人里から一人で来たのか? 道中に妖怪が出る事くらい知ってるはずだろ」

 

「ああ。一応、霊夢から魔除けの御札を貰ったから、その辺は大丈夫だったが」

 

 ○○は懐から御札を取り出して見せて、魔理沙の問いに答える。その答えを聞いても、魔理沙は納得出来ない様子だった。

 

「……おかしいぜ。霊夢がタダで御札をあげるわけないし、誘われたってのも怪しい。何か隠してるんじゃないのか?」

 

 魔理沙は疑わしげな視線を向ける。○○は困り顔になった。

 

「事実を言ってるだけだ」

 

「嘘つけ! さっきから色々とあり得ないんだよ。お前、呪い師かなんかだろ。霊夢の様子が変なのは、お前が何かしたからに違いないぜ。いや……さては人に化けた妖怪か!?」

 

 魔理沙は○○に向かって怒鳴ると、八卦炉を構え○○に向ける。

 ○○は慌てて否定しようとしたが、それより先に霊夢が動いた。

 

 霊夢は素早く魔理沙に近づき、彼女の襟首を後ろから掴んで○○から引き離した。そして、○○の盾になるように魔理沙の前に立ち塞がった。

 

「わっ、何すんだ霊夢!」

 

 突然の事に魔理沙は驚いて声を上げる。

 霊夢は魔理沙を睨み付けていた。普段の彼女からは想像もつかない程、険しい表情をしている。

 

「あんた、自分が何をしたか分かってるの」

「え? いや、私はただ霊夢を守ろうと……」

 

 魔理沙は困惑しながら霊夢に弁明しようとするが、途中で口を閉ざして黙ってしまった。霊夢が自分をじっと見つめていることに気づいたからだ。

 

 魔理沙は少し怯えているようだった。先程の威勢の良さは消え失せ、霊夢と目を合わせないようにしている。

 

「守る? 私はあんたに守られるような立場じゃないのよ。いつから私があんたの庇護下に入ったの。馬鹿な事を言わないで」

 

 霊夢の声音は冷たかった。まるで氷の刃のように鋭い響きを持っている。魔理沙はびくりと体を震わせると、気まずそうに目を逸らした。蛇に睨まれた蛙のような状態である。

 霊夢は○○の方を振り返ると、いつも通りの口調に戻って言った。

 

「ごめんなさい○○さん。不快な思いをさせてしまったみたいね。こいつには後できつく言っとくから、許してくれるかしら」

 

「……いや、別に俺は気にしていないが」

 

 ○○は戸惑うばかりである。霊夢は魔理沙の方を向いた。

 

「あんたは出て行きなさい。邪魔だから」

「……っ」

 

 魔理沙は涙目になりながら、こくりと無言で首肯すると、その場から逃げるように走り去った。○○は魔理沙を引き留めようとしたが、霊夢に制止される。

 

「あんな奴、放っておけばいいのよ。それより……」

 

 霊夢は○○に向き直り、体を預けるように抱きついた。○○は驚きつつも、なんとか受け止める。

 

「おい、どうしたんだ?」

「ごめんなさい、目眩がしてふらついちゃった。やっぱり動くと駄目ね」

 

 霊夢は弱々しい声で言い、○○の胸に顔を埋めた。○○は戸惑いながらも霊夢の背中を優しく撫でる。

 しばらくそうしていたが、やがて霊夢は顔を離すと○○を見上げた。その瞳には熱っぽい光が宿っている。

 

「こうしていると、なんだが安心するわ。○○さんと一緒にいると、凄く心が落ち着くの。どうしてなのかしら。私にも分からないけど、とにかく離れたくないのよ。ずっとこのままが良い」

 

 霊夢は○○の服の袖を掴むと、甘えるように頬擦りをする。

 ○○は困ったように眉根を寄せたが、霊夢を振り払う事はしなかった。

 

「体が弱っている時ってのは、心もつられて不安定になるし、誰かに頼りたくなるもんだよ。特に霊夢みたいな年頃だと尚更だろう」

「そうなのかなぁ。よく分かんないわ」

 

 霊夢は○○の言葉を聞いて、どこか納得のいかない様子だ。しかし○○が自分を抱き締めてくれている事に満足感を覚えていた。

 霊夢は○○の胸元に頭を乗せると、彼の鼓動の音を聞く。彼の腕の中はとても心地良くて落ち着けた。この温もりがいつまでも続けば良いのにと思った。

 だがそんな時間は長く続かなかった。○○は腕の中の霊夢を見ると、申し訳なさそうに言う。

 

「なあ、そろそろ布団に戻った方が良いんじゃないか? また体調が悪くなるかもしれないぞ」

 

 ○○の心配も当然だった。先程から霊夢の顔色は赤く染まり、息遣いが荒くなっているのだ。明らかに平常ではない。

 

「大丈夫よ。これくらい何ともないもの」

 

 霊夢は笑顔で言うと、○○から離れるどころかより強く密着した。○○の心臓がどきりと跳ね上がる。彼は慌てて口を開いた。

 

「大丈夫じゃないだろ。さっきよりも体温が高くなっているじゃないか」

 

 ○○は霊夢の両肩を掴み、彼女を自分の体から引き剥がす。霊夢の体は熱いぐらいに火照っており、額には汗が滲んでいる。呼吸は乱れており苦しそうだ。やはり体調が悪化してしまったらしい。

 

「ほら、無理をするなって。今日はもう休め」

 

 ○○は霊夢を布団まで連れていき、寝かせようとする。霊夢は抵抗しようとしたが、力が入らないのかあっさりと押し倒された。

 霊夢は潤んだ瞳で○○を見上げる。彼女は熱に浮かされたような表情をしていた。

 ○○はため息を吐くと、彼女の頭を優しく撫でる。

 霊夢は気持ち良さそうに目を細めた。そして○○の手に自ら手を重ね、うっとりとした顔で呟く。

 

「ねえ……眠るまで撫でて欲しいの」

「ああ、いいぞ」

 

 ○○は小さく笑みを浮かべると、ゆっくりと霊夢の髪をすくように手を滑らせる。霊夢は嬉しそうに微笑むと、瞼を閉じた。

 霊夢は自分の頭が撫でられる度に、幸福感に満たされていった。まるで母親に抱かれている赤ん坊のような気分になる。

 

 しばらくすると、霊夢は眠ってしまったようだ。○○は霊夢が完全に寝入った事を確認すると、静かに部屋を出ていった。

 



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4話

 

 

 それから五日の時が流れた。

 

 霊夢の熱は平常へと戻り、体調も快方へ向かったが、○○は未だに博麗神社に留まっていた。理由は一つ。霊夢が○○から離れようとしないからだ。

 

 ○○はこの間ずっと、霊夢と一緒に居た。霊夢が一人で歩くことすら困難な状態だったのだから仕方がない。

 食事や排泄など生活に必要な事は、可能な限り全て面倒を見た。その甲斐あってか、霊夢は徐々に元気を取り戻していった。今ではすっかり以前の調子を取り戻したように見える。

 

 しかし、それは表面上の話だ。内面では以前とは大きく異なる変化が起きていた。

 霊夢は○○に対して甘えるようになった。○○が少しでも離れようものなら、悲しげな顔をして袖を掴む。そればかりか○○の姿が見えなくなると不安げな声を出し、泣き出してしまう事もあった。

 ○○は困った。どうすれば良いのか分からないのだ。こんな状態の少女を放っておくわけにもいかず、結局、霊夢と過ごす日々が続いている。

 

 ○○の霊夢への印象は、最初は大人びた少女という感じだった。十代半ばという年齢を考えれば、かなり背伸びをしているように感じる。

 実際、彼女は子供っぽいところがあるのだが、○○の前ではそれを見せないようにしていたと今は分かる。彼女が時折見せる幼い言動や行動は演技ではなく、素なのだと。○○は霊夢との短い付き合いの中でそれを理解していった。

 

 

 ○○が霊夢と過ごしている間、魔理沙が何度か神社を訪れた。霊夢を心配して様子を見に来たのだろう。だが霊夢に追い返されてしまい、ろくに会話をする事が出来なかった。

 霊夢は魔理沙を敵視しているらしく、彼女が訪れると露骨に不機嫌そうな顔になった。

 

 ○○は帰ろうとする魔理沙を霊夢に気付かれないようにして呼び止め、霊夢の事を聞こうとした。魔理沙は○○の事を未だ怪しんでいたが、会話をしていく内に徐々に打ち解けていき、警戒心を解いてくれた。

 

 そして魔理沙は霊夢の素性を○○に教えてくれるようになる。

 魔理沙が言うには、この数日間で霊夢の様子がおかしくなったのだと。○○は首を傾げた。

 おかしいと言われても、普段の霊夢としか接していない彼にはピンとこない。○○は素直に疑問を口にする。

 

「俺から見た限りじゃあ、いつも通りだったと思うけど……」

 

「お前はそうかもな。でも私は違うんだよ」

 

「どういう意味なんだ?」

 

「私と霊夢って、他の誰よりも付き合いが長いんだぜ? 異変解決とかで一緒に行動する事も結構あったからな。異変が終わったら終わったで宴会したりもしたし。それで、霊夢の性格もある程度分かってるつもりだ。霊夢は誰に対しても平等に接する。博麗神社の巫女として当然の事かもしれないけどさ。でも……あんな風に誰か一人だけに懐くような真似はしなかったはずだ。それが、突然お前にべったりとくっつくようになって、私が邪険に追い返されるなんて……正直、訳がわからないぜ」

 

 ○○は黙って話を聞いていた。確かに言われてみると、霊夢が自分に対する態度は変わっているように思える。距離感が近すぎるというか、まるで恋人に接するような……。

 

 そこまで考えて、○○は頭に浮かび上がった考えを振り払う。霊夢と自分は、まだ出会って数日の関係なのだ。それに歳も一回り以上離れている。自意識過剰にも程があるだろう。

 そう自分に言い聞かせ、○○はこの話題を打ち切る事に決めた。

 

「引き止めて悪かったな。色々教えてくれてありがとう」

 

「いやいや。まあ、あんたがまともな人だって分かったからいいよ。この前は、変に疑ってごめん」

 

 魔理沙はそう言って、○○に向けて右手を差し出した。仲直りの握手を求めているようだ。

 ○○はその手を握り返す。魔理沙の手は温かく、柔らかかった。

 

 その時、○○は背後に異様な気配を感じた。振り返ると、そこには霊夢がいた。彼女は無言のまま二人を見つめている。

 ○○は魔理沙との握っていた手を離す。霊夢は二人の側まで歩み寄ると、魔理沙を睨み付けた。

 

「何をしているの」

 

 霊夢の声は今まで聞いた事がないくらい冷たかった。魔理沙は怯えた表情を浮かべながら答える。

 

「な、何だよ急に。ただ話をしていただけだろ?」

「ふぅん。二人で仲良くお喋りしていただけなのね」

「……そうだぜ」

「そう」

 

 霊夢は短く答えると、いきなり魔理沙の右手を掴んで引っ張った。

 魔理沙はバランスを崩して倒れそうになるが、なんとか持ち堪えて踏み止まる。

 

「何すんだよ! 痛いじゃないか!」

 

 霊夢は無言で魔理沙の腕を捻じり上げた。少女の力とは思えないほど強く、魔理沙の顔は苦痛で歪む。

 

「あぎっ!? いっ……!」

 

 魔理沙は腕を引き抜こうとするも、全く歯が立たない。それどころか更に強い力で締め上げられていく。

 霊夢はそのまま腕を引っ張って、境内にある木々の奥へと連れ込もうとする。

 その光景を見て、○○は慌てて霊夢を止めに入った。

 

「おい、霊夢。一体どうしたんだよ」

 

 霊夢は○○の言葉を聞いて動きを止める。そしてゆっくりと○○の方へ振り向いた。

 彼女の顔は笑顔だった。しかし目は全く笑っていない。鳥肌が立つような恐ろしい形相だった。

 

「○○さん、少しだけ待っててね。すぐ終わるから。ちょっと、二人きりで話がしたいの。大丈夫、すぐに終わらせるから」

 

 霊夢は○○に優しく語りかけるように言うと、再び魔理沙の方を向いた。

 ○○は言葉が出なかった。目の前にいるのは自分の知っている霊夢ではない。そんな気がしたのだ。○○が何も言えないでいる間に、霊夢は再び魔理沙を連れて森の中に入って行った。

 

 ○○は呆然と立ち尽くす。

 しばらくして我に返り、急いで霊夢の後を追おうとした。

 しかしその時、森の中から霊夢が姿を現した。魔理沙の姿はない。霊夢だけが一人で戻ってきたようだ。○○が声を掛けようとする前に、霊夢が口を開いた。

 

「ごめんなさい。待たせちゃって」

 

 先程の事が嘘のように、いつも通りの口調に戻っている。○○は戸惑いながらも彼女に質問を投げかけた。

 

「……あの子は?」

 

 ○○の問いに対して、霊夢は微笑んだまま答えない。代わりに別の事を言った。

 

「ねえ、○○さんの手を見せてほしいの」

 

 霊夢はそう言って○○の右手を掴む。○○は反射的に手を引こうとしたが、霊夢の力が強すぎてビクともしない。

 ○○は仕方なく霊夢の要求に従う事に決めた。彼は自分の手の平を上向きにして差し出す。

 すると霊夢はその手を取って、指の一本一本をじっくりと見始めた。

 ○○は緊張しながらその様子を眺めていた。

 彼女はしばらく黙っていたが、やがてポツリと言った。

 

「手を洗いましょうか」

「……え?」

 

 ○○は思わず拍子抜けしてしまった。

 霊夢は有無を言わさず、○○の右手を掴んだまま歩き出した。行き先は手水舎だった。○○は抵抗する事も出来ず、されるがままに付いて行くしかなかった。

 

 博麗神社にも手水舎が勿論ある。○○は霊夢に連れられて、そこへとやって来た。以前にも来たことがあったが、その時とは状況が大きく違っている。

 

「はい、どうぞ」

 

 ○○は霊夢に手渡された柄杓を使って水を掬うと、左手の甲にかけようとした。

 しかしその瞬間、○○の左手首が何者かによって掴まれる。同時に鋭い痛みを感じた。

 

 見れば、霊夢が一連の行為を止めるように手首を強く握っていた。○○は驚いて彼女を見る。

 霊夢は何も言わず、ただ笑みを浮かべて○○を見つめているだけだった。○○の背筋に冷たいものが走る。

 

「そっちじゃないでしょ?」

「……いや、左からで合っているはずだが」

「違うわ。○○さんの体の中で汚れているのは、右手だけよ」

 

 霊夢は優しい声で言いながら、○○の手首を握った手に力を込める。この少女の体からは想像できないような強い力だ。

 ○○は霊夢の顔を見た。彼女は相変わらず笑顔のままである。しかしそれはどこか不気味で、恐ろしくもあった。

 

「わ、分かったから、手を離してくれないか……」

「ええ」

 

 そう言うと、霊夢は素直に○○の左手を解放した。○○は観念して、霊夢に言われた通りに柄杓を左手に持ち替えて、水をすくった。そしてそのまま右手を清める。

 

 ○○は今になって、ようやく霊夢の意図を理解した。先程、魔理沙と握手した手が右手だった。霊夢はそれを見て、洗わなければならないと判断したらしい。

 しかし、魔理沙の手が特別汚いとまでは思わなかった。そもそも、霊夢が何故そこまでこだわるのか理解できなかった。

 

 ○○は霊夢の行動について考えようとしたが止めた。考えて分かる事ではなさそうだからだ。それよりも、早くこの場所を離れたかった。これ以上霊夢と一緒に居ると、何か良くないことが起こりそうな気がするのだ。

 ○○は手を洗い終えて霊夢の方へ振り向くと、なるべく感情を抑えつつ話しかける。

 

「なあ霊夢」

「んー?」

 

 霊夢は首を傾げて返事をする。○○は少し迷ったが、思い切って話を切り出した。

 

「俺さ、ここに来て六日目じゃないか。そろそろ里に帰らないと駄目だと思うんだよ」

 

 ○○の言葉を聞き、霊夢の表情から笑みが消える。

 霊夢はゆっくりと○○に近づくと、彼の目を覗き込むようにして言った。

 

「どうして? ○○さんは私と一緒に居るのが嫌になったの?」

 

 霊夢の声音には抑揚がなく、平坦だった。○○は霊夢の目を見ると、彼女の瞳の奥底には得体の知れない闇が広がっているように感じられた。

 ○○は慌てて視線を外す。

 

「いや、そういうわけじゃなくてだな……」

 

 ○○は言葉を選びながら、慎重に話すことにした。

 

「別に霊夢が嫌いって訳じゃない。ただ、いつまでも此処に留まってばかりいるのは良くないと思うんだ。俺は人里で暮らす身だし、あまり長く家を空けているのもまずいだろ? それに、霊夢の看病が必要だったからとはいえ、大人の男と少女が二人きりで一つ屋根の下というのは……な? 霊夢も元気になった事だし、一旦帰ろうと思っているんだよ」

 

 最後の方は若干早口になりながらも、何とか最後まで喋る事ができた。

 ○○は霊夢の様子を窺う。彼女は俯いたまま黙っていた。霊夢が何も言わないので、○○は不安になる。

 

 しばらく沈黙が続いた後、霊夢が顔を上げて○○を見た。その瞳には光が宿っておらず、まるで虚空を映しているかのようだった。

 

「……また、私を置いていくの? また、私を一人にするの? 私はずっと待っていたのに。私の側に居てくれる人を。でも、やっと会えたと思ったら、あなたは私から離れようとするのね」

 

 霊夢は○○の目を見つめたまま、独り言のように呟く。

 ○○は思わず一歩下がった。目の前の少女の様子が明らかにおかしい。先程までとは別人に見える。霊夢の雰囲気が変わったことで、境内の空気まで変わったような気さえした。

 霊夢は○○の反応など気にしていない様子で、淡々と続ける。

 

「ねえ、どうしたら私と一緒に居てくれるの? 何が欲しいの? お金なら好きなだけ持っていけばいい。お酒だってあるわよ。美味しい料理も作ってあげる。何でも言って。私ができることは全てやる。私の体を好きにしてもいいの。あなたの言うことに従うし、逆らうつもりもない。だからお願い。どうか側にいて」

 

 霊夢は一気にまくし立てると、○○に向かって手を差し伸べた。○○は呆然としていたが、すぐに我に返ると、霊夢が差し出してきた手を乱暴に払いのけた。

 乾いた音が響く。霊夢は払われた自分の手をじっと見ていたが、やがて○○の方へ向き直った。そして、再び彼に近づこうとする。

 

「や、やめろ!」

「きゃっ!」

 

 ○○は反射的に霊夢を突き飛ばした。

 霊夢はよろめき、地面に尻餅をつく。しかし、すぐに立ち上がってもう一度彼へと歩み寄ろうとした。

 

 ○○は怯えていた。霊夢に対してではなく、彼女から発せられる異様な気配に対してである。

 今、目の前にいる少女は人間ではない。そんな気がしてならなかった。

 

 霊夢が人間離れした力を持っている事は知っている。だが、今の霊夢はそれだけでは説明できない何かを感じさせた。○○は本能的な恐怖を覚えた。この場に留まるのはまずいと判断し、逃げ出すために駆け出そうとする。

 

 次の瞬間、霊夢が○○に飛びかかった。

 突然の出来事だったため、○○は反応が遅れる。彼はそのまま押し倒され、馬乗りにされた。○○は抵抗しようとしたが、身体が金縛りにあったように動かせない。

 

「何で逃げようとするの? 何から逃げようとしているの? 何でそんなに怯えているの? どうして?」

 

 霊夢は○○の顔を覗き込みながら尋ねる。その表情は相変わらず無感情だったが、声音からは狂気じみた執着心が感じられた。

 ○○は必死にもがくが、全く歯が立たない。彼の上に乗っている霊夢は微動だにしないままだ。

 

「そんなに暴れないで。○○さんを傷付けたくないの。大丈夫。お願いだから怖がらないで。何もしないから。ただ、私とずっと一緒に居てほしいだけなの。それだけよ。それなのに、なんで分かってくれないの?」

 

 霊夢は悲しげに目を伏せて呟くと、ゆっくりと顔を上げた。

 ○○は霊夢の瞳を見て戦慄を覚える。彼女の瞳は赤黒く染まっていた。そこには光が無く、底なし沼のようにどこまでも続いている。まるで深淵のような瞳だった。

 霊夢は無言のまま○○の頬に手を当て、愛おしそうに見つめる。

 

「ああ……私の気持ちを分かってもらうには、どうすれば良いのかしら? こんな時、どんな風にしたらいいの? ねえ、教えて……」

 

 霊夢は○○の耳元に口を寄せ、囁きかける。その言葉一つ一つが呪いとなって○○の心に絡みつき、侵食していく。

 それから正面へと向き直り、吐息がかかる距離まで顔を近づけると、○○の唇を奪った。

 

「んっ!?」

 

 ○○は目を見開く。一瞬、何をされているのか分からなかった。数秒後、ようやくキスされているのだと気づく。

 

「ふっ……ちゅぷっ。れろぉ……うぅんっ」

 

 霊夢は口づけをしながら、○○の頭を撫で回していた。○○はどうにか引き剥がそうとするが、霊夢はびくりとも動かない。

 ○○は呼吸が苦しくなり、酸素を求めて口を開けた。すると、すかさず霊夢は自分の舌を○○の口内にねじ込む。

 ○○の口内に侵入した霊夢の舌は、彼のそれと絡まった。彼女の唾液が○○の喉奥に流れ込んでいく。○○はその甘美さに脳髄の奥が痺れるような感覚を覚え、全身から力が抜けていった。

 

「あむっ……ちゅうっ。じゅっ。はぁっ……○○さんの唾、美味しいわ。もっとほしい……」

 

 霊夢は○○の顔を抱き寄せ、さらに深く接吻をする。互いの粘膜が擦れ合う度に背筋に快感が走り、頭が真っ白になっていった。

 

 しばらくして霊夢は○○の口から自分のそれを離す。二人の間に銀色の糸が伸び、やがて切れた。

 霊夢は○○と繋がったままの視線を外す事なく、再び彼に問いかける。

 

「はあ、はあっ……うふふ。○○さんの顔を見ていたら、体が勝手に動いちゃった。口付けって凄いのね。初めてだったけど、癖になりそうだわ。胸がきゅっと締め付けられて、鼓動が強くなって、息苦しくて、身体が熱くなるの。でも不思議。全然嫌じゃない。むしろ心地良くて、いつまでもこうしていたい気分になるの」

 

 霊夢は微笑みながら言うと、今度は軽く触れるだけの口付けをした。○○の思考能力は完全に奪われており、何も考えられない状態だった。

 

「好き。好きなの。○○さんが好き。大好き。好きが溢れて止まらないの。もう抑えられない。止められないの。私分かったわ。この気持ちが恋だって。これが人を想うことなんだって。今まで恋とか愛なんてくだらないと思ってた。何の価値も無いと思っていた。だけど違った。私はあなたに出会って本当の意味で恋を知ったんだと思う。そして今、その感情が爆発するのを感じたの」

 

 霊夢は○○の手をとって、そのまま自身の胸に持っていき、手のひらを押し付けた。服越しだが、○○の手に柔らかな膨らみの感触が伝わる。

 

「分かる? 私の心臓の音。あなたのことを思うだけでドキドキして、嬉しくて、楽しくて、頭がおかしくなりそうなくらい幸せな気持ちになれるの。こんな気持ちになったのは生まれて初めてよ。○○さんも同じでしょ?」

 

「……違う、俺は」

 

「嘘つき」

 

 霊夢はそう言うと、○○の胸に自身の胸を重ねるようにしてうつ伏せになった。二人の顔の距離は鼻先が触れ合いそうになるほど近くなる。

 霊夢は○○の目をじっと見つめたまま、彼の手を握りしめていた。彼女の荒い吐息が顔にかかり、○○の体温が上がる。上気した少女の表情は妖艶さを帯びていて、思わず見惚れてしまうほどだった。

 

「ほら、感じるでしょ。私達の心音は同じ間隔で動いてる。私たちの心は繋がっているのよ」

 

 霊夢の言った通り、○○には自身のものと霊夢のもの、二つの心臓の鼓動が重なっているように感じられた。どちらの音も早鐘のように鳴っている。まるで共鳴しているかのように。

 

「隠しても無駄。誤魔化せないわ。本当は分かっているんでしょう? ○○さんも私のことが好きだって。だから、あんなにも私に優しくしてくれたのよね。素直になれないのは、ただの照れ隠しだものね。大人な所を見せようとして無理しているのよね、うふふっ。そういうところも含めて全部大好きなの。○○さんの全てを愛してるわ。もちろん○○さんの全てが欲しいの。魂も体も心も、○○さんの全てを独占したいの。他の誰にも渡したくないの。○○さんはずっと私の側に居てくれるわよね。永遠に離れることは無いわよね。約束してくれるわよね。ねえ、答えて。ちゃんと○○さんの口から聞きたいの」

 

 霊夢の言葉は切実だった。彼女は○○にすがるような視線を向ける。○○はそんな彼女を突き放すことはできなかった。むしろ受け入れたいという想いが強くなる。

 

「……俺は、いや……俺は霊夢が好き……なのかもしれない。そう、なのかも。分からないけど、でも、俺が霊夢を好きなことは間違いないはずだ。……あ、ああ?」

 

 言葉にしてみると、自分の気持ちがよく分からなくなる。本当に自分は霊夢のことを好きになってしまったのか。それとも何か別の理由があるのではないか。○○は混乱していた。

 しかし、それでも霊夢への好意を否定することはできない。脳が溶けてしまいそうなほどの熱と幸福感に包まれている。霊夢への愛おしさが爆発しそうだ。もはや○○は冷静ではなくなっていた。

 

「そうよ。○○さんは霊夢が好き。霊夢が大好き。霊夢を心から愛している。なら何も問題はないじゃない。だって私たちは両思いなんだから。お互いが好き合っているんだから。○○さんは私のことだけを考えていればいいの。私のことだけを好きでいれば良いの。私があなたを守ってあげる。私があなたを愛するわ。私があなたに尽くしてあげる。私があなたを支えてあげる。私はあなたの、ただ一人の味方よ。絶対に裏切ったりしない。これから先、何があっても変わらない。いつまでも一緒にいるの。もう離さない。一生、死ぬまで、死んでからも、生まれ変わっても、この世界が終わるまで、永久の時まで、私は○○さんと一つになるの。二人で幸せになりましょう。二人だけで幸せになるの。他は何も要らない。邪魔をするものは全て排除する。私にはそれだけの力がある。人間、妖怪、神、霊、どんな存在であろうと敵じゃない。そして、○○さんは私だけのもの。私以外の存在は○○さんにとって害悪でしかない。私だけが○○さんの唯一の理解者。私だけが○○さんの全てを受け入れることができる。だから、安心して。私と一緒なら何も怖くないから」

 

 霊夢は○○に再び口づけをする。それは誓いのキスというよりも、呪いに近いものだった。彼女の言葉は○○の心に絡み付き、決して解けないように縛りつけるのだ。

 

 ○○は抵抗できなかった。霊夢の言葉を聞いているうちに、彼女が自分の事をどれだけ思ってくれているのかを痛い程理解させられた。霊夢から向けられる愛情は、もはや狂気的と言っていいほどの激しさを持っていた。だが、○○はそれを不快だとは思わなかった。むしろ心地良いと感じてしまった。それほどまでに霊夢は真剣なのだ。霊夢は本気で自分を求めている。ならば自分もそれに応えなければならないと思った。もう霊夢を恐れる必要はない。

 

 ○○は霊夢を抱きしめた。

 すると霊夢は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに嬉しそうに笑った。

 ○○と霊夢は互いに強く抱き合ったまま唇を重ね合う。互いの唾液を交換し、舌と舌とを絡ませ合い、熱い口付けを交わし続ける。

 しばらくして、霊夢はゆっくりと顔を離すと、○○の耳元で囁いた。

 

「……ずっとこうしていたいけど、外だと落ち着かないから、神社の中に入りましょうか。そこでいっぱい、仲良くしましょうね」

「……ああ」

 

 二人は手を繋いだまま、境内の地面を踏み締めながら歩いていく。霊夢の表情は幸せに満ち溢れていた。彼女の心は一片の隙間なく○○への愛で埋まっていて、○○以外の事を考える余裕など無いのだろう。

 それが良いのか悪いのか、○○には分からなかった。むしろ、そんな事を気にする必要はないのだ。自分は霊夢を愛し、霊夢に愛される。それだけを考えていれば、それで……。



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5話

 

 

 

 太陽が山の頂上に沈みかけている頃、博麗神社にて。

 夕陽が射す境内に佇む霊夢の姿があった。彼女は目を閉じて、何かを感じ取ろうとしているようだった。その表情は普段より険しく、どこか切迫した雰囲気を感じさせる。

 

 しばらく経って、霊夢は目を開いた。そして鳥居の上へ視線を向けると、そこに座っている八雲紫の姿を視界に入れた。霊夢は険しい顔のまま、紫に向かって話しかける。

 

「来ると思っていたわ。でも、まさか一人で来てくれるなんて思ってもみなかった」

 

 紫は小さく笑うと、霊夢の方を向いて言った。

 

「だって私一人で充分ですもの。あの時もそうだったじゃない」

 

 霊夢は無言で眉根を寄せると、紫の立っている鳥居の下まで歩み寄った。それから少しの間を置いて、ようやく口を開く。

 

「随分と舐められたものね。訳の分からない事言って煙に巻くつもり?」

 

 霊夢は敵意に満ちた目つきで、目の前に立つ胡散臭い妖怪女を睨んだ。しかし当の本人は涼しい顔をして、相変わらず何を考えているのか読み取れない笑顔を浮かべている。それが余計に腹立たしかった。

 霊夢は苛立ちを抑えきれず、語気を強めて言う。

 

「いつまで上から目線で見下ろせば気が済むのよ? 降りて来て、さっさと用件を言いなさい」

 

「んー、そうねえ。どうしようかしら。このまま話しても別に構わないんだけど、それじゃあ霊夢が納得しないでしょうし。むしろ貴女がこっちに来たらどうなの」

 

 紫の態度を見て、霊夢は鼻を鳴らした。

 こいつはいつもそうだ。自分が優位に立てる状況でしか話をしようとせず、相手の出方や反応を楽しむためにわざと挑発的な言動を取る。霊夢は紫の性格を知っているため、こういう時は下手に逆らわず、相手に合わせてやるのが一番だと理解していた。

 だから、素直に従うことにした。

 

 霊夢は鳥居の上に行こうとして、その場で飛んだ。しかし膝上の高さまでしか浮かずに、そのまま重力に引かれて地面に落下してしまう。

 

「あ、あれ?」

 

 それを見ていた紫はくすりと笑い、霊夢は苦々しい表情になる。

 霊夢は地面から立ち上がり、改めて宙に浮かび上がろうと試みるが、またも上手くいかなかった。

 

「……どうして飛べないのよ!」

 

 霊夢は焦燥感を露にして叫んだ。

 すると紫は不敵な笑みを見せ、愉快そうな声で言う。

 

「ふふっ。何を焦ってるの? ほら、落ち着いて。深呼吸をして、ゆっくり考えてごらんなさい。貴女の身体が今、どんな状態なのか……」

 

 紫の言葉を聞いて、霊夢の頭の中に様々な思考が駆け巡る。そしてすぐに答えに行き着いた。

 

「あんたが、私に何かしたんでしょ!?」

 

 霊夢は怒りの形相になり、紫に向かって叫ぶように言い放った。それに対して紫は妖艶な微笑みを絶やすことなく答える。

 

「何かしたと言えばしたし、してないと言えばしていないわ。私はただ、ちょっとだけ貴女の背中を押してあげただけだから」

 

 そう言われても、霊夢には何の事だか分からなかった。そんな彼女に、紫はさらに続ける。

 

「今の貴女は、鳥籠に棲まう小鳥と同じ。飛ぶための翼はあるけれど、外の世界へ出る事は出来ない。鍵が掛かっているわけでもなければ、鎖で繋がれているわけでもないのに。なぜなら、その場所がとても居心地が良いから。隣に誰かが居て、その人と共に居るだけで満足しているから。それはつまり、自分で自分を縛っているということ。だから外に出ようなんて考えすら思いつかない。たとえその先にあるのが、破滅への道しかないとしてもね」

 

 霊夢は黙ったまま、紫の話を聞き続けた。

 彼女はまるで心を見透かすような視線で霊夢を見ながら、言葉を続ける。

 

「また、前みたいに空を自由に泳ぎたいのかしら? それなら、どうすればいいのか教えてあげるわ」

「……言って」

 

 霊夢は静かに、短く呟くように言う。

 それを聞いた紫は口角を上げ、意地の悪い笑顔を浮かべた。

 それから、少し間を置いて紫はゆっくりと、諭すように言葉を紡ぐ。

 

「彼を、殺すのよ」

 

 その瞬間、霊夢の顔つきが変わった。周囲の空気が一変し、肌が粟立つほどの殺気が放たれ始める。だが紫は動じることなく、霊夢の変化を観察していた。

 やがて霊夢が、感情を抑え込んだ静かな口調で言う。

 

「殺す」

 

 次の瞬間、紫はその場から前のめりに吹っ飛び、鳥居の上から転げ落ちる。

 

「ぎゃっ!」

 

 紫は悲鳴を上げて地面に叩きつけれられた。そして呻き声をこぼしながら、うつ伏せのまま顔をあげて鳥居に視線を向けた。

 先程紫が居た場所には、人間大の陰陽玉が浮いていた。それが紫を吹き飛ばしたのだ。

 

 紫はよろめきながら立ち上がると、背後から聞こえる足音に気付き振り返る。そこには霊夢の姿があった。彼女の瞳は、殺意の赤に染まっていた。

 

「……やるじゃない。でも、不意打ちは卑怯だわ。スペルカードルールを忘れたのかしら?」

 

 紫は余裕ぶって言ったが、内心では冷や汗を流していた。

 しかし霊夢は、そんな彼女の様子など気にも留めず、冷静な声で答える。

 

「これは遊びじゃない。私達の邪魔をする者は誰であろうと許さない」

 

 霊夢にとっては紫のことなど、どうでもいいのだ。霊夢にとって大事なのは、○○だけ。

 ○○さえいれば、他には何もいらない。

 ○○以外の全てが敵になる。

 ○○を傷つける全てのモノを消し去る。

 ○○以外、全てを排除する。

 霊夢はそう考えている。今の彼女に必要なのは、目の前の女を殺す事だけだった。

 

「だから、お前を殺すの」

 

 霊夢は、抑揚のない声で言い放つ。

 それを聞いた紫は、呆れたように溜め息をつくと、やれやれと首を横に振った。

 

「誰に向かって口を利いているつもりなのかしら。私は妖怪の賢者の一人よ? その私が、たかが人間の小娘に殺されると思って?」

 

 紫の言葉には明らかな挑発が含まれていて、それを理解した上で霊夢は無視した。

 

 霊夢は無言でその場にしゃがみ込み、地面に手を置く。すると紋様のようなものが地面に浮かび上がり、そこから光の線が伸びた。

 線はそのまま神社の本殿まで伸びていき、そこで止まる。

 光が消えると、神社の本殿の前に大きな魔法陣が出現した。それは禍々しく歪んだ円形をしており、まるで地獄に繋がる門のようにも見える。

 その光景を見た紫は目を見開き、驚愕の声を上げる。

 

「まさか……」

 

 紫の表情には焦燥の色が滲んでいた。

 霊夢は立ち上がり、無造作に手についた土を払う。それから、静かに告げた。

 

「平伏せ」

「あっ……あぁ」

 

 紫の口から掠れた声が漏れた。その言葉と同時に、紫は身体をビクリと震わせ、そのまま膝から崩れ落ちた。紫は四つん這いになり、額を地面に擦り付けるようにしてうずくまる。

 それは紫が意図した動きではなく、強制的に行われたものだった。頭を上げようにも、腕を動かすことすらできない。全身から妖気が抜けてゆき、力が入らなくなる。

 霊夢は地に這いつくばる紫に近づいて行き、冷めた眼差しで彼女を見下ろした。

 

「がっ……ぐぅっ!」

 

 紫は歯を食いしばり、荒く呼吸を繰り返し、必死になって立ち上がろうとする。だが、全く動けない。まるで地の底から見えない力で引っ張られているような感覚だった。

 

 霊夢は、おもむろに紫の頭を踏みつけた。紫の額が地に押し付けられ、ぐりっと鈍い音が響く。紫の顔が苦痛と屈辱の色に染まり、彼女の目には涙すら浮かんでいる。それでもなお、霊夢は容赦しなかった。

 何度も、何度も、繰り返し踏みつける。霊夢の靴底が、紫の頭を蹂躙する。呻き声が、悲鳴に変わる。紫の頭からは血が流れ、辺りに飛び散っていた。

 

 やがて、霊夢はやり飽きたと言わんばかりに足を離すと、しゃがみ込んで紫が被っている帽子を掴んで、乱暴に投げ捨てた。

 そして今度は紫の髪を無造作に鷲掴み、強引に顔を持ち上げる。紫の端正な顔は土と血に塗れ、見る影もない。霊夢はそんな彼女を冷ややかな視線で見つめながら、吐き捨てるように言った。

 

「妖怪の賢者ともあろう者が、人間の小娘如きに頭を下げるなんてね」

 

 紫の頬に、一筋の血が流れる。彼女はどうにか言葉を絞り出した。

 

「……一体何なの? 貴女は……」

 

 霊夢はそれに答えず、代わりに紫の髪を引っ張って仰向けに転がす。なすがままになった紫の腹部の上に馬乗りになると、霊夢は懐から針を取り出し、逆手に握り込む。長く太い鉄の針だ。

 それを見た紫は目を大きく見開いた。自分の腹の上で不敵に笑う少女を見上げ、震え声で訊ねる。

 

「そ、それ、どうするつもり?」

「勿論、針は刺すためにあるものよ」

 

 霊夢はそう言うなり、持った針を紫の左腕に突き立てた。僅かな抵抗感の後、肉を貫く嫌な音と共に針の先端が体内に潜り込む。

 

「あああぁぁっ!?」

 

 紫は絶叫を上げて暴れようとするが、力が全く入らない。霊夢は構わず、針を押し込み続ける。

 

「あううぅ……」

 

 鋭い痛みと熱を感じ、紫は大きく息を吐き出した。霊夢はそのままゆっくりと、確実に、深くまで押し込んだ。やがて針は紫の腕を貫いて地に突き刺さった。

 

 霊夢は針から手を離し紫の顔を覗き込む。紫の表情は痛みに耐えるためか、酷く歪んでいる。額には脂汗が滲み、唇を強く噛み締めていた。その目からは大粒の涙が零れる。霊夢は手を伸ばし、指先でそれを拭うと紫に向かって囁いた。

 

「妖怪なのに涙を流すのね。変なの」

 

 紫は何も言い返せなかった。

 霊夢はつまらなさそうに息を吐き、再び刺さっている針を握る、それからそれをぐりぐりと捻り始めた。

 

「いぎぃっ! やめ、てぇっ!」

 

 紫は堪らず叫び声を上げる。霊夢は少しの間、無言で紫を痛めつけていたが、ふと思い立ったように手を止める。紫は荒く呼吸をしながら、不思議そうな眼差しを霊夢に向ける。

 すると霊夢は口元に笑みを浮かべて言った。

 

「妖怪でも痛みを感じるのよね。だったらどこまで耐えられるのかしら? あと何本、針を刺せば死ぬのかな?」

 

 紫の顔色が青ざめる。霊夢は紫の反応を楽しむかのように、また一本、新たに針を左腕に突き立てる。

 紫は悲鳴を上げ、身を捩らせる。しかし逃れることは叶わない。

 

「あはっ。いい気味ね。妖怪の賢者さん」

 

 霊夢の口調は普段と変わらない。それが余計に恐ろしかった。紫の目に恐怖の感情が浮かぶ。

 霊夢はそれを見逃さなかった。霊夢は紫の耳元で優しく、諭すように語りかける。

 

「大丈夫よ。急所は外してあげる。ちゃんと痛がってくれないとつまらないもの。針も沢山あるから安心なさい」

 

 霊夢の言葉に嘘はない。針はまだまだ残っている。地獄はまだ始まったばかりなのだ。

 

 

 

 

 霊夢は紫の身体の上から退くと、改めて目の前の相手を観察する。

 紫は目を見開いたまま、ぐったりとして動かない。身体中に無数の針が刺さっており、そこからは血が流れ続けている。

 既に生気は無く、瞳孔は開き切っていた。泣き叫んでいた紫は途中から何も言わなくなり、今ではただ静かに涙を流しているだけだ。

 霊夢は自分の手を眺め、そこについた紫の血を見て顔をしかめた。

 

「随分と汚れちゃったわ。○○さんに会う前に、綺麗にならないと駄目ね。こんな姿見せられないし、私以外の匂いがしたら嫌だもん」

 

 霊夢はそう呟くと、紫の死体を跨いで神社の奥へと向かおうとした。

 

「待ちなさい」

 

 不意に後ろから声を掛けられ、霊夢は振り返る。霊夢の視界には、地に伏したままの紫しか映らない。しかし今の声は紫のものだった。霊夢は怪しむような視線を向ける。

 

「こっちよ」

 

 またしても背後から声が聞こえた。今度は霊夢は振り向きざまに弾幕を放とうとした。しかし顔をそちらに向けようと瞬間、思わず動きを止めてしまう。頬に鋭い痛みを感じたからだ。霊夢は反射的に前へ飛んで振りかえった。

 

 そこには、いつの間にかもう一人の紫がいた。髪や服装は乱れておらず、身体には傷一つついていない。先程までとは打って変わって柔和な表情をしている。まるで別人のような変わりようだ。だが、彼女の纏う雰囲気は紫そのもので間違いない。

 霊夢は頬に手を当て、指先に付いた僅かな血液をまじまじと見つめながら言った。

 

「……どういうこと?」

 

「あらあら、ごめんなさいねえ。少し驚かせるつもりだったんだけど、貴女が勢いよく振り向くものだから、つい手が滑ってしまったの。それで頬が切れてしまったようね。傷をつける気はなかったのよ。本当よ?」

 

 紫は自身の爪を見せながら、申し訳なさそうな様子で言う。

 霊夢は警戒した面持ちのまま、自分の身体を確認する。幸い傷は深くなく、出血も少ない。すぐに治りそうだ。

 しかし、そんなことはどうでも良かった。問題は目の前にいる紫が本物かどうかだ。

 

「違う! 私が聞きたいのはそういう事じゃない!」

 

 霊夢は大声で叫ぶと、そのまま地面を踏みつけた。その衝撃で砂埃が舞い上がる。

 紫は両手を広げて首を傾げると、困ったように眉尻を下げて答えた。

 

「そんなに怒ると、可愛い顔に皺が出来てしまうわよ。せっかくの美人が台無しになるから止めなさい」

 

 紫はそう言うと霊夢の方に向かって歩き出す。霊夢は後ずさって距離を取ろうとしたが、紫の方が早かった。

 

「あっ」

 

 霊夢の腕を掴むと、強引に引き寄せようとする。霊夢はそれに抵抗するが、紫の力は強くびくともしない。

 

「私を虐めて楽しかったかしら? それなら、わざわざ余興を用意した甲斐があるというものね」

「何を、言って、いるの!」

 

 紫は妖艶に微笑み、霊夢の顔を見据えたまま話す。霊夢は紫の言葉を聞いて顔をしかめると、掴まれた腕を振り払おうと暴れ始めた。

 紫はその様子を見て口角を上げると、更に力を込めていく。霊夢は歯を食い縛って抵抗するが、次第に力が抜けていくのを感じ取っていた。

 やがて、霊夢は諦めたように力を抜くと、紫を睨んで吐き捨てるように言い放った。

 

「……手を抜いていた癖によく言うわね」

「相手が悪かったわね。でも、私以外だったら殺されていたかもしれないわよ。理性を失った相手ほど恐ろしいものはないんだから」

 

 紫はクスリと笑い、霊夢の頬を撫でる。

 霊夢は悔しそうに唇を噛んだ。そして、霊夢は自分が思っていた以上に、紫の術中に嵌っていることに気付く。霊夢は紫の手を払い除けようとしたが、逆に紫に抱き寄せられてしまった。紫は霊夢を抱き締めると耳元で囁く。

 

「大丈夫よ。私は霊夢と争うつもりはないの。彼との仲を邪魔するつもりもないの。だから、安心して頂戴」

「……その言葉を信用しろっていうの?」

 

 霊夢は疑心暗鬼になりながらも、絞り出すように声を出す。

 すると、紫は霊夢を解放して、今度は優しく頭を撫でた。霊夢は戸惑いつつも、黙って紫の行為を受け入れる。

 紫は穏やかな口調で話し始めた。

 

「空を飛べなくなった。それが何を意味するのか貴女は分かっているはずよ。博麗の巫女が無敵たる所以は、奥義夢想天生にある。それを封じられた今、貴女の力は全盛期の半分にも満たない。つまり、今の霊夢に彼を守る力はないの。貴女達を引き裂こうとする者が襲って来たらどうするつもりなの? 貴女は人間で、彼も人間。幻想郷には沢山の危険がある。怪我や病気でも、いつか死んでしまうわ。それは明日かも知れないし、明後日かも知れない。二人だけで幸せになれるなんて、本気で思っているのかしら?」

 

 紫の問い掛けに対して、霊夢は何も言わずに俯く。その表情からは、不安と焦燥感が浮き彫りになっていた。紫は続ける。

 

「彼を愛しておきながら、どうして彼に迷惑をかけるような真似をするの? 彼の気持ちを考えなかったの? 彼は本当に貴女を愛しているの? 貴女はそんなことお構いなしに、我を通しているだけじゃない」

 

 霊夢は拳を強く握りしめ、何も答えられない自分に腹を立てていた。

 紫の言っていることは正論だ。しかし、それでも納得できない。霊夢には譲れないものがあるのだ。

 紫は霊夢の様子を見て、軽く溜め息をつく。そして、諭すように語りかけた。

 

「とはいえ、私に人の恋路を邪魔する趣味は無いの。むしろ応援しているくらいよ。だから、二人の関係を認めてあげる」

 

 紫は霊夢の手を取ると、霊夢の目を見つめる。嘘偽りのない言葉だと証明するように、霊夢の瞳の奥まで覗き込んだ。

 霊夢はその視線に耐えられず目を逸らす。

 紫は霊夢の反応を確認すると、そのまま続けた。

 

「そして、霊夢にとっても良い提案があるの。聞いてくれるかしら?」

 

 紫の提案という言葉を聞いた瞬間、霊夢は身構える。

 霊夢が警戒していることに気付いた紫は苦笑した。

 

「そんなに怖い顔をしないで欲しいわね。これは貴女も望んでいる事なのに」

「……聞くだけなら、聞いてあげても良いわ」

 

 霊夢がぶっきらぼうに応えると、紫は嬉しそうに微笑む。

 そして、紫は口を開いておもむろに話を始めた。一分も経たないうちに、霊夢の顔から血の気が引いていく。その内容は霊夢の想像を絶するもの。しかし願ってもない申し出だった。

 

「……それ、本当なの?」

 

「ええ。これは契約よ。一度始めたら途中で止めることはできない。それに、この方法以外に貴女達が結ばれる方法は無いと思うわ」

 

「何故、私にこんなことをさせようとするの? 周りくどいやり方をしてまで、何の意味が……」

 

 霊夢の言葉を聞いて、紫は意味深に笑う。そして、一言だけ告げた。

 

「愛を知りたいから、かしらね」

 

 その声音からは感情が読み取れない。思惑を悟らせないための仮面のようにも見えた。

 

「で、どうするのかしら。私の提案を飲むの? それとも断るの?」

 

 紫はいつも通りの口調で言う。

 霊夢は紫の真意が分からないままだったが、断る理由は無かった。○○と共に居られる可能性があるならば、どんな手段を使ってでも掴み取る。

 霊夢は覚悟を決めると、紫の目を見る。

 紫の瞳には、自分の姿が映っていた。まるで鏡合わせのような光景。

 

 霊夢は脳裏に○○との未来を想い描きながら、紫に向かって答えを告げる。

 それは博麗の巫女としてではなく、一人の少女としての願いであった。

 



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藍編

一話完結の短編です。他の話との繋がりはないので、この話から読んでもらっても大丈夫です。






「残念だが、今は紹介出来る仕事は無いな」

 

 慧音は手に持っている装飾も無い地味な湯呑みを傾け、澄んだ声を前方に投げかけた。それを聞いた○○は小さく息を吐き、肩を落とした。

 何となく予想がついていたとはいえ、こうも呆気なく言われると気落ちするのも致し方ないところだろう。

 

「ん……力になれなくてすまないな」

「いえ、慧音さんは悪くないので謝らないでください」

 

 そんな○○の様子を見た慧音は、少し間を置いてから謝罪の意を示す。このやり取りも形式となりつつあった。慧音も言葉こそ詫びているが、その口調はそこはかとなく義務的である。

 同じ問答を繰り返していれば、慣れが出てくるのが当然だ。慧音の態度を咎める気は○○には毛頭ない。

 

「まあ、なんだ。労働意欲があるのは素晴らしいと思う。だけど、そう短期間に何度も訪ねられても良い答えは返せないよ。果報は寝て待てとも言うだろう」

 

 十も陽が昇らぬ内に三度も来られては、人格者である慧音でも内心飽き飽きとしてくる頃だろう。○○に悪気があっての行動ではないので、感情を露骨に表へと出すのは控えているのだが、教師という職業柄では説教くさい面は抑えられないようだ。

 

「それに衣食住に困っている訳ではないだろう? 彼女からは仲良くやっていると聞かされているが、何か不満があるのか?」

「…………あ、いえ、そんな事は」

「彼女のような大妖怪と関係をもつのは、幻想郷に染まった人里の人間では務まらない。しかし外来人であるお前でも無理があったか。やはりあの時断っておけば良かったかもな……」

 

 ○○の、正座している膝の上に置いた手が、握り拳をつくるのを一瞥した慧音は、それきり遠い目をしながら沈黙する。互いに発している湿っぽい雰囲気が、部屋の中に漂い出した。

 ○○は居心地の悪さを誤魔化すように、目の前に出されている湯呑みを持って一口お茶を含んだ。恐らく客人用にと質の良い茶葉を使用しているはずだが、今の○○にはその風味を堪能する余裕はなかった。

 

 

 

 

 ○○は半年ほど前に幻想郷へと迷い込んできた外来人である。魑魅魍魎が跋扈する異世界に意図せず来てしまったにも関わらず、現代に生きる人間には不憫な環境にも瞬く間に適応し、人里で顔も知られる程度になっていった。

 

 そんな折、人里に度々訪れていた然る妖怪の目に○○の姿が止まった。彼女には外来人である○○は際立って映ったのだろう。所詮一目惚れである。

 だが、彼女は妖怪の身であるがゆえに白昼堂々○○に話しかける事も叶わず、遠目で見守る事しか出来なかった。

 日々募っていく抑え難き感情に彼女は、人里の重鎮であり度々○○の世話をしていた慧音に、仲を取り持つ場を設けて欲しいと懇願した。

 

 慧音は既に人里の住民となっている庇護の対象である○○を、自分の意思で妖怪と接触させるのには抵抗があった。しかし自分より遥かに格が高い彼女が、頭を下げてまで頼み込むものであるから、紹介するだけという条件で渋々呑み込んだ。

 

 後の見合いの場で、○○も彼女の事を気に入ってくれたのは、慧音にとっては幸いだった。○○が快く思わなければ、いくら聡明な彼女とて妖怪である事に変わりなく、強引な手段をとりえないからだ。両者同意の上なら、人間と妖怪だろうが口を挟む気はない。そして恋慕が実って成就した彼女が嬉し泣きして慧音に感謝したことは記憶に新しい。

 

 二人が関係を結び、共に暮らし始めてからは○○が慧音に会いに来ることはなくなり、また慧音も仲を邪魔しては悪いと思い、一抹の寂しさ胸に残しながらも身を引いていた。

 だが最近になって突然、便りもなしに○○の方から慧音の自宅へと訪問して来たのだ。

 

 さてどんな惚気話を聞かせてくれるのかと、どのように茶化してやろうかと。嬉しさ半分妬み半分の闇鍋のような心情で臨んだのだが、久しく聞く○○の言葉に慧音は一瞬で毒気を抜かれてしまった。

 

 ○○は挨拶もそこそこに、仕事を紹介して欲しいと頼んできたのだ。確かに以前、人里の顔役である慧音は○○を住民へと受け入れた際、不慣れな土地でも自立出来るように仕事を斡旋していた。

 人口の少ない幻想郷では、ただ若く健康な男というだけで付加価値が生じる。一成人として社交性も持ち合わせていた○○は、仕事先でも柔軟に現代の知識を発揮して、周りから頼られる位に評価も上々であった。

 

 惜しむらくは、後に彼女が住む人里の外へと住処を移す際に、折角慣れてきた仕事を辞めた事であった。しかし大妖怪の彼女と一緒ならば生活に困る事はなく、寧ろ一生を悠々自適に過ごすのは想像に難くないので、これは致し方なしと納得して、慧音はとやかく言う気を失くしたのだった。

 

 それなのに、である。あまり詮索を好まない慧音だが、○○に対して自分は後見人のようなものだと意識しているし、また好奇心も人並みには持ち合わせているので、何故また働こうと思ったのか、その理由を率直に尋ねた。

 

 だが、○○から何とも歯切れの悪い答えが返っていたので、両者共に八の字を寄せるしかなかった。やましい事があるから言いたくないのか知るところではないが、煮え切らない態度を見せる○○に苛立ちを覚えた慧音は、前触れもなしに来られても返答しかねるといった具合に、半ば追い出すように話を終えた。

 

「とりあえず、訳を話せるようになったら再度訪ねてくれないか。私に知られたくない事情があるなら、私を介さずに自力で探せばいいだろう」

「……そうですね、分かりました」

「私も多忙の身でな。稗田家から頼まれた編纂作業が山積みなんだ。だが、お前だからこそ、こうして時間を割いているんだよ」

 

 そして今日もまた、歴史は繰り返される。言葉を選びながら遠回しに退室を促す慧音に、○○はそれ以上口を挟む気も起きず、軽く挨拶をして慧音宅を後にした。

 

 

 

 人里の大通りは、まだまだ陽が高いので人混みや喧騒で溢れている。その雑踏に紛れるように○○の姿はあった。

 考え事をしているのか、顔は俯き加減で足取りも重たい。先程までの行動が、何の成果もなく徒労に終わったのも影響しているようだ。

 

「うわっ!」

「うおっ……」

 

 そんな心境では周りに注意を払う事も出来ず、前方から来る人影に気付かないで正面からぶつかってしまった。衝突した○○と体格の良い男が呻き声をあげた。

 

「おい、大丈夫か!?」

「……ぃってーなコラ! どこ見て歩いてやがんだ!」

「ああ、すみません!」

 

 どうやら相手は二人組の男達で、片方の細身の男が○○と衝突した男に声を掛けている。男は激昂しており、今にも殴りかかってきそうな剣幕で怒鳴っている。そもそも相手側も会話に気を取られて前方不注意だったのだが、同様に上の空であった○○には知る由もなく、自分の責任として謝罪するしかなかった。

 

「テメェ謝って済むモンじゃ——」

「っ! 与平! コイツに手を出すんじゃねぇ!」

「あん!?」

 

 ○○の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした男を、何かに気付いた連れの男が慌てて制止する。語気を荒げる男に連れの男がコソコソと耳打ちすると、一転して青ざめた表情で○○の方へと向き直った。

 

「……へっ、へへへ。すいやせんね旦那。前を見てなかったのは、あっしらのほうでした。コイツも血が上りやすいタチでしてね、どうか許しておくんなせぇ。……ほらお前も!」

「も、申し訳ね——ありませんでしたぁ!」

 

 先程までの逆上具合は何処へやら。深々と平謝りをする二人組を、○○は苦虫を噛み潰したような表情で見つめる。それを怒りと解釈した細身の男は、媚びた笑みを浮かべながら自身の懐に手を差し入れた。

 

「へへっ、あっしとしたことが気が利かんでした。これは迷惑料でござんす。どうかお納めくだせぇ」

 

 細身の男は懐から出した巾着袋を○○の前に差し出した。○○はそれを見つめて、更に眉間に皺を寄せた。

 

「……与平! お前も出すんだよ!」

「お、おう」

「これで、ご勘弁願えんでしょうか? どうか身を切るのだけはご容赦を!」

 

 ○○の顔色を伺ってまだ足りないと思ったのか、もう一人の男に怒鳴って巾着袋を追加させた。元より○○は既に二人を許しており、金銭なぞ要求する気は毛頭ない。だが、そうと分からない男達は○○の気に触る行動を取り続ける。

 

「そういうのは……受け取れませんよ。お互い怪我もないようですし、俺も騒ぎを起こしたくないので、もう良いでしょう。先を急ぐのでこれで失礼します」

 

 いつの間にか○○達の周りには、何事だと言わんばかりに野次馬が集まっていた。○○はばつが悪い状況に軽く目眩を起こしながら、一方的に話を切り上げてその場を足早に去っていく。

 背後から悲鳴にも似た感謝の言葉が聞こえてくるが、毛ほどにも相手にしないで先を急ぐ。

 

 道行く先で○○の姿を認めた通行人は、目を逸らして大袈裟に道を開けていく。中には以前から見知った顔もあった。

 普段なら軽く挨拶くらいはするのだが、今では目線すら合わさずに逃げていく。

 

 まるで腫れ物に触るような扱いだ。だが、○○は彼等を責める気にもなれない。

 幻想郷で生きる人々には生まれた時から存在する妖怪への恐れ、あるいは畏れが本能的にそうさせているのである。

 その本質を理解した時には、もう抜け出せない底無し沼に両足が入った後で、ゆっくりと引きずり込まれるのを待つしか出来ない状況だった。声を上げても、誰も助けてはくれない。

 ○○にとって人里は、居心地の良い場所では無くなっていた。

 

 背後に付いてまわる強大な影は、彼女と共にいる限り永久に離れる事はないのだろう。

 ○○はやるせない思いを胸の内に燻らせながら、真っすぐ帰路につくしかなかった。

 

 

 

 

 

 人里の門をくぐり、数分ほど歩いた頃。○○の前方にその行く手を遮るように空から何者かが降り立った。

 

「お待ちしておりました、旦那様」

「……橙か」

 

 橙と呼ばれた少女は、自身の手をヘソのあたりで重ねて深々とお辞儀をする。それは齢十を過ぎた辺りの年端もいかない少女が、大の大人に向ける態度ではない筈だ。

 それに、橙は姿こそ人なれど人にあらず。その栗色の髪に合わせるように、黒色の猫耳が二つ主張している。背後には二股の黒い尾が揺れており、化け猫の類であるのが見てとれる。

 妖怪から見れば下等となる人間相手に頭を下げる行為は、あまりに異質だと捉えられよう。

 

「もういいから、頭を上げてくれないか」

「はっ、失礼します」

 

 ○○は内心うんざりしながら声をかける。○○が許可をしなければ、いつまでもこうべを垂れ続けるからだ。

 口を一文字に結び、○○へと向ける引き締まった表情からは、不平不満といった負の感情は一切読み取れない。さも当然と示さんばかりの毅然とした振る舞いである。

 

「で、何の用だ?」

「はい。半刻ほど前に藍様から旦那様をお迎えするようにと仰せつかりました次第。化生の身である私奴が人里に入れば、旦那様の心象が悪くなると思い、この様な場所で待たせていただきました」

「……まずいな。もう帰っているのか」

 

 何を隠そう○○の恋人とは、彼の有名な大妖怪『九尾の狐』そして幻想郷を管理している八雲紫の式神、八雲藍その人である。

 

「本邸までの帰路は、僭越ながら私奴が先導致しますので、急ぎ戻られますよう進言します」

「ああ、早く帰らないとな。だが、わざわざ迎えをよこすなんて大袈裟だな。これがあるから、妖怪に襲われる事はないのに」

 

 ○○は愚痴をこぼしながら、自身の右手首を見やる。そこには金色に輝く毛で編んだ腕飾りが着けられている。退魔の念が込められていて、低位の妖怪であれば寄り付かなくなる代物だと、贈り主の藍から聞かされている。

 

「……それだけ、旦那様を想われているという事ではないでしょうか」

「なら、俺はとんだ果報者だよ……まったく。だからこそ……いや、何でもない」

 

 橙は異性としての意見を率直に述べたつもりだが、○○は顔を曇らせて言葉を濁した。

 藍は容貌の整った女性が多い幻想郷の中でも、傾城傾国と称される程の器量好しである。その女性に一途に恋慕の情を向けられているというのに、何の不満があるというのだろう。

 妖怪としても男女の色恋にしても若輩者の身である橙には、ついぞ理解しうる心境であった。

 

「では行きましょう」

「待ってくれ。急ぎなら歩くより飛んだ方が速いんじゃないか? 俺は飛べないから、橙が俺を抱えてさ」

「え、それは……そうですが。あの…………いえ、旦那様がそう言うのであれば従います」

 

 ○○の提案に、歯切れが悪そうに戸惑う橙。少しの間思案した後、おぼつかない手つきで○○を抱えて飛び始めた。

 既に橙の息はあがり、胸の鼓動は爆発しそうな程跳ねている。手はベタ付いて、多量の発汗で式が剥がれるのではと懸念しながらも、妖力を速度を上げる事だけに集中させて先を急いだ。

 

 

 

 

 人里から遠く離れた、疎らな雑木林に囲まれた名も無き場所に、公家の物かと見紛う程立派な屋敷が建っている。そこの門口に○○を抱えた橙は降り立った。

 

「はぁ……! はぁ……!」

「随分と息が荒いが、大丈夫か? 重かったなら無理をさせてしまったな」

「え、げふっ! めっ、滅相もごじゃいましぇん! ふへへ……」

「お、おお……」

 

 橙があまりにも具合が悪そうにしていたので心配して声を掛けたのだが、橙はむせ込みながら頭を振って愛想笑いを浮かべる。○○はその様子を見て訝しげに眉をひそめつつも、労いの意を示そうとして、そっと橙の頭に手を伸ばした。

 

「っ!? ひぃっ! ごめんなさいぃぃ! 許してください! ゆるしっ……うっく、うげええぇぇっ!」

「うわっ! な、なんだ一体……」

 

 橙の被っている帽子に手が触れた瞬間、磁石の同極が反発し合うかのように橙は飛び退いた。そして小刻みに身を震わせた後、一気に嘔吐し始めた。

 

「かへっ! おえぇっ……んむ、かはっ、んはぁ……! はぁ……はぁ……はっ、ぁ、ああ……あああ!? 」

 

 橙は胃の中のものを全て出し終え、しばらく呼吸を整えている内にふと我にかえった。自分が○○の目の前で仕出かした、あるまじき失態。辺りに漂うすえた匂いが、否応なく現実を突きつける。

 

「旦那様、申し訳ございません! 敷地を、汚してしまいましたぁ……うううぅ……」

 

 愛嬌のある顔を涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃにしながらも、頭を必死に下げて謝罪する橙に、○○は反射的にたじろいでしまった。

 だが、それも数秒の事。口の中にいつの間にか多量に溜まっていた唾を飲み込み、顔を和らげて向かい合う。

 

「頭を上げてくれ橙。ああいやっ、辛いならそのままでも構わないから、話を聞いてほしい」

「あううぅ……ぅ?」

「ここは家の中でもないし、そこまで気に病む必要ないんだ。でも、まさか吐き出すとは俺も思わなかったから、少し驚いてしまったけど。ほら、妖怪って皆当たり前に空を飛ぶだろう? だからそんなにも体力を使うなんて考えもしなかったんだ。謝らなければいけないのは俺の方だよ」

「旦那様……」

 

 

 橙は間抜けな声を出して、顔をゆっくりと上げた後、続く言葉を聞いて潤んだ目を丸くし、時が止まったように静止した。

 

 思い起こせば、相手は妖怪といえども藍の式神といえども、同じ言葉を話せて意思疎通が出来るのだ。

 初めて対面した時から、卑屈な態度をとる橙をあまり好意的に見ていなかった○○だったが、今の橙を見ていると少女の姿なのも相まってか、庇護欲が胸の底から湧き上がってくる。

 なんでも言うことを聞くからと、いつの間にか都合が良いように扱っていた自分に憤りを感じて、手を爪が食い込む程強く握りしめる。

 

「そうだ、良かったら家の中で休んでいかないか? 藍には俺から話しておくからさ。茶でも飲めば少しは気分も落ち着くだろうし、俺も橙の事を知りたいんだ」

 

 ○○は、ふと思いついた事を提案した。橙と腹を割って話す機会を設ければ、もう少し気の張らない関係を築けると考えたのだ。

 

「あ……えっと……はぃ。……い? い!? いえっ! それだけは、駄目なのです! 藍様と、旦那様だけの住まいに、お邪魔する訳には、いかないので、どうか私奴の事など気にせずにぃ! 」

「そ、そうかい? そこまで言うなら……」

 

 橙は立ち尽くして躊躇逡巡しながらも、○○の配慮を一旦は肯定したように見えたのだが、途端に血の気を引かせて身振り手振りで否定した。気を使ったのに、逆に使われては○○も立つ瀬がないというもの。

 今の橙には、せっかくの好意を露骨に無下にするのは失礼であると、真っ当な判断を下す余裕など無かったのだ。○○が不快感を微塵も抱いていないのは幸いだった。

 

「まあ……運んでくれてありがとうな。じゃあ道中は気をつけて、ゆっくり帰るんだぞ」

「は、はいぃ。では、私奴はこれにて失礼致します……」

 

 ○○は、一礼してふらふらと飛び去っていく橙を姿が見えなくなるまで見送った。そして視線を戻すと、既に土に吸収されつつある水気の多い吐瀉物が目についた。○○は少しの間立ち尽くした後、地面を蹴ってそれに土を被せた。

 

 ——今度会うときは、マタタビを持っておこう。

 

 ○○は振り返り、やたら立派な造りの門をくぐった。

 ちなみにこの屋敷の周りには強力な結界が貼られており、○○と藍以外の立ち入りを阻んでいる。しかし例外として、八雲紫のように特殊な能力を持つ者と、藍より格上の者には意味をなさない。有象無象の輩では、屋敷を認識するのも叶わないだろう。

 

 玄関の戸に手をかけて深呼吸をする。そして開いた先には、予想通りの光景が広がっていた。

 

「おかえりなさい、○○」

 

 凛とした声が反響する。硬い木造の床にも関わらずに正座をして、見るものを一瞬で魅了してしまう優美な笑みを浮かべている藍と目があった。藍はそのまま三つ指をついて、深々と頭を下げた。

 

「ただいま、藍」

 

 努めて冷静に、動揺を悟られぬよう神経を使いながら短く返事をする。顔を上げた藍の表情は変わらず微笑を湛えたままなので、○○は少しばかり肩の力を抜いた。

 

「外が幾分騒がしかったようだけれど?」

「……何でもないよ。ただ、橙と話をしていただけだ。それより今日はもう仕事は片付いたのかい?」

「ふふっ、○○の元へと一秒でも早く戻りたかったからなぁ。最近は紫様も気を使っているのか癇癪を起こす事も少ないし、随分と楽なものだよ」

「それは何よりだ」

 

 軽く雑談をしながら、土間の段差に腰掛けて草履を脱ごうとする○○の背中に、弾力のあるものがしな垂れ掛かった。

 

「藍? おい、やめっ」

 

 藍は○○の腕を巻き込んで拘束するように抱きしめ、○○の右肩に顎をちょこんと乗せた。藍の吐息を側で感じ、くすぐったそうに抗議の声を上げる。

 

「なぁ、○○。私に無断で外出するなんて酷いじゃないか。夫を家で迎える妻と言うのも趣があって良いものだけど、貴方に早く会いたくて帰ってきた私の気持ちを無下にするのはいけないなぁ」

「……悪かった。何分ただ待つというのも退屈なものでね。気ままに散歩に出掛けるくらいは藍も許してくれただろう?」

「……散歩? 徒歩では遠い人里まで、共も連れずに? 式神を呼ぶ霊符を持たずに?」

 

 ○○にとって好ましくない方へと話が流れている。聡明な藍であるから、的確に言葉尻を捉えてくる。肉体的にも精神的にも絡みつかれて、逃げ場など何処にもない状況だ。対面していないのが唯一の救いである。

 

「少し……語弊があったな。け——上白沢さんに会いに行ったんだ。ほら、あれ以来碌に挨拶もなく引っ越しただろう?」

「ふむ、慧音の匂いがするのはそのせいか。それに……橙の匂いもするな。えらく染み込んでいるようだが、よほど長く触れ合っていたみたいだな? まったく、あれ程『教育』を施してやったというのに粗相を仕出かすとは、お仕置きが必要だなぁ。くふふ……」

 

 一瞬、藍から発せられたとは思えないほど粘り気のある声が、○○の鼓膜にまとわり付いた。

 ○○は今になって藍の嫉妬深さを甘く見ていた事を後悔した。同時に、橙の様子がおかしかったのも合点がいった。結局は藍の影に怯えていただけに過ぎなかったのだと。

 

「……藍、誤解しているぞ。俺が橙に飛んだ方が早く帰れるからと言って、抱えてもらったんだ。命令に従っただけで、悪くはないはずだ。それに橙は随分と疲弊していた。その『教育』とやらが何かは知らないが、余り追い込むような真似はよしたほうがいい」

 

 しかし先程の橙を見る限り、このままだと良からぬ未来しか待っていないのは想像に難く無い。理由はどうあれ、嘔吐する程に精神的苦痛を受けているのだ。

 橙があまりにも不憫であると思った○○は、どうにか藍を宥めようとする。だが耳元で歯軋りをするような音が鳴り、自身を締め付ける力が痛いくらいに強くなった事で、それは逆効果であったと痛感した。

 

「いやに橙を庇い立てするのだな。……彼奴め、いけしゃあしゃあと私の○○の心を乱しおって。くっ……○○の為に夕飯を作って迎えたいと欲を出して、使いを送ったのがいけなかった。……そもそもあれの、式が無ければ知性のかけらもない化け猫風情の何処がいいんだ? ろくに家事もこなせない能無しで、人を化かす事しか取り柄が無いのに、そんなのと共にいて○○が幸せになるはずがあるか! おまけに……ふん、男を知らぬあんな貧相な体では○○も満足出来ないだろう。私なら……そう、私しか○○に釣り合う女はいないのだ! なぁ……何故それが——」

 

 妖気を辺りに振りまき、聞くに耐えない呪詛のような罵詈雑言を、この場に居ない橙に向かって浴びせ続ける藍。

 ○○が知る藍は、大妖怪でありながら非常に温厚で聡明で、それでいて優美で。それなのに現在乱れに乱れ、普段とは真逆の振る舞いをとっている藍の声を聞き、○○は自分の心に染み渡る心地よい感情に酔いしれた。

 

「藍!」

「なっ、○、○○?」

 

 ○○は藍の拘束を力尽くで解き、振り返って向かい合った。そして藍のこがね色の瞳を直視する。それは光を失って酷く濁っていたが、目尻に浮かぶものを確かに認めた。

 

「あっ……んっ……」

 

 藍の肩を強く掴み、自身へと引き寄せる。呆気にとられて為すがままの藍。○○はその瞳から視線を外す事なく顔を近付けていく。○○が求めているのを察した藍は、吐息を漏らして静かに目を閉じた。

 

 そうして互いの唇が触れ合った。その瞬間、固く張っていた藍の尻尾が柔らかくしな垂れた。何の変哲も無い、ただ触れ合うだけの口づけ。それだけでも、藍の心に芽生えている疑心暗鬼を拭い去るには充分だった。

 藍は男女の房事に関して、齢千年以上も生きているだけあって経験豊富であり、殊に房中術は男を一夜で虜にして堕落させる程だ。

 そんな彼女だろうと、本心から惚れた男に愛情をぶつけられれば、生娘のような反応を示してしまうのである。

 

「あん……」

 

 やがて息が続かなくなり、○○の方から身を離した。藍は目を細めて、名残惜しいと言わんばかりに嬌声を上げる。

 

「……ごめんなさい、取り乱したりして」

「ああ。少し驚いたけど大丈夫だ」

「さぞかし、見苦しかったろうな。でも不安でしょうがないんだよ」

「不安? 何がだ」

 

 すっかり落ち着きを取り戻した藍は、居住まいを正して心情を吐露し始めた。○○も余計な口は挟まず、藍の言葉に耳を傾けた。

 

「うん……隠していた訳じゃないけれど、私は過去に幾度か人に化けて、意中の人間と契りを交わしているんだ。相手も快く受け入れてくれたから、初めの内は例に漏れず幸せだった。……だけど長くは続かない。平穏な生活に気が抜けて、不意に変化が解けて狐の姿を晒した時、私を見た彼等の表情には必ず恐怖が表れていた」

「その後、私が幾ら話をしても彼等は聞き入れてはくれなかった。私の元から逃げ出したり、恐怖のあまり幻覚を見るようになって自殺したり。片や私を殺そうとして、陰陽師に売り渡した者もいたなぁ……ふふ」

 

 遠い昔。幻想郷が造られる以前の話である。それは多少の脚色を経て、○○が生きる時代にも伝承されて歴史に残っている。

 

「私は人間と同じように普通に恋をして、愛し合って、子をもうけて。そして共に歩んできた伴侶と鬼籍に入る。そんな当たり前の人生に憧れているだけなのに」

 

 藍は語る内に感傷に浸り、目を充血させて大粒の涙を零した。思わず顔を覆い隠そうとした手が、○○によって引き止められた。

 

「……○○?」

「藍。君は正体を明かして、裏切られるのが怖いのか? 俺は藍が狐だろうが狸だろうが構わない。もし妖怪が怖いのなら、元々あの時に断っていただろう」

「うん……それは分かってる。○○が私を、妖怪であるのを含めて受け入れてくれた事は、嘘偽りではないと。例え打算があったとしても、私は凄く嬉しいよ」

「じゃあ——」

「だから、私はこの幸福を逃したくないんだ。だから、○○を私だけのものにしたいんだ。それこそ監禁してでも、体を使って籠絡してでも! ……でもそんな事をしたら、本心から愛し合うなんて出来ないじゃないか。一方的な愛など、私は認めたくない……」

 

 声を震わせながら、思いの丈を打ち明ける。最後の言葉は、消え入るような声だった。

 今の藍は理性と本能がせめぎ合い、極めて不安定な状態である。足元をほんの少し崩してやれば、いとも容易く壊れてしまうだろう。主従関係で付き合いの長い八雲紫でも、この様な弱々しい姿の藍は見た事がない筈だ。

 

「……私がこんな湿っぽい女だと分かって、幻滅しただろう。妖怪の力を使わなければ、惚れた男の心を繋ぎとめておける自信が無いんだ。そんな私が人並みの幸せを夢見るなんて、ふふっ……随分な高望みだよなぁ。…………でも、もし、そんな私でも受け入れてくれるなら、私は身も心も一生、貴方だけに捧げよう」

 

 全てを曝け出し、満足がいったのか自嘲気味に笑った後、静かに視界を闇に閉ざした。それから大きく深呼吸をして息を整える。表情を引き締めて覚悟を決めた藍は、○○に選択を迫る。

 否定と肯定の二者択一。八雲藍という女の、そして○○の今後を左右する重大な選択。そう簡単に答えは出せそうにない筈だが、○○は即座に口を開いた。

 

「俺はあの見合いの席から今まで、ずっと藍の事を愛している。そして藍の思いを聞いて、その気持ちは確固たるものになった」

 

 藍は驚愕に目を見開いた。涙で視界が歪んでいるが、○○の表情をはっきりと見た。あれだけの重い感情を受けたというのに、○○は不快感を微塵も表に出さずに、優しく微笑んでいた。

 

「これからも、藍だけを愛し続けると誓う。こんな薄っぺらな言葉だけど、俺の思いは届くかな?」

「うっ……うううぅぅ! ○○っ!」

「うわっ!?」

 

 感極まった藍は、飛びついて○○を抱き締める。それだけでは飽き足らず、九つの尾を用いて○○の周りを埋め尽くした。

 

「ああっ、○○……! そんな、言われたら……はっ……はあ……! もうっ!」

 

 藍は獲物を見つけた獣の様な血走った目で、妖力を受けて身じろぎ一つ出来ずにいる○○の顔を見据える。そしてその唇を強引に奪い、舌を乱暴に捻じ込んで口内を犯す。唾液を流し込み、歯茎をなぞり、逃れようとする○○の舌を絡めとって吸い尽くす。

 

「れるっ……んむぅ! ……っはぁ……ふっ!」

「んんっ……ふむぅ!」

 

 息をする事も叶わず、苦しげな声を上げる○○だったが、既に理性が飛んでいる藍には、興奮を助長させる音色にしか聞こえなかった。

 酸素を供給するすべを失くし、○○の視界がゆっくりとぼやけていく。苦しさとは裏腹に○○の心は大いに満たされていた。

 

 

 

 

「——っ! ○○!」

「……ぐはっ!? げっふ! はあっ! はぁ……はぁ……あ、あれ。俺は」

 

 ○○はいつの間にか気を失い、床に横たわっていた。自分の名を呼ぶ声で、跳ねる様に目を覚ます。

 

「ああっ、良かった……! 私は同じ過ちをまた……」

 

 藍は○○の手を握りながら、安堵のため息を漏らした。顎をつたう大粒の涙が、膝枕をしている○○の顔に溢れる。

 

「……俺は、気絶していたのか」

「ごめんなさい、私も良く覚えていないんだ……。気付いたら○○が息をしていなくて、

 ううぅ……。慌てて妖力を使って蘇生させたんだ。危うく、殺してしまうところだったよ……」

 

 ○○は嗚咽を漏らす藍を見つめていると、今だ冴えない頭に邪な考えがよぎった。自分が先程まで死の淵を彷徨っていたとは信じ難い事であるが、恋人の手によって、愛ゆえに終焉を迎えられるのなら、この上ない幸福であろうと。

 それが歪んだ感情である事を自覚しているから、その刹那的な思考をすぐさま片隅へと追いやった。今やるべきなのは、愛しい藍を安心させてやる事だろう。

 

 ○○は重い体を起こして、藍の方へと向きなおった。そして不安げに膝の上に置かれている手を取って握り締めた。藍の興奮冷めやらぬ熱が、肌を通して伝わってくる。

 

「大丈夫。俺は藍を一人で置いては行かないよ。もし死んでも未練があり過ぎるから、その日の内に藍の枕元に立っているかもな」

「うん……絶対、一人にしないでほしい。○○が死んだら一生眠れなくなるし、必ずその日の内に後を追うよ……」

「おいおい。藍が死んだら、紫様も困るだろうよ」

「愛情は尊敬より重いんだ。あのお方ならばそれくらい許してくれるよ」

 

 まだ陽も落ちていないというのに、家の玄関で睦言を交わす二人。それを邪魔立て出来る者など、捻くれ者の巣窟である幻想郷の中にも居ないだろう。

 

「ああ、そうだ。これはもう返すよ」

「え?」

 

 ○○は自身の右手首に着けられた腕飾りを外して、藍に差し出した。○○は知る由もないが、これには○○は私のものだと主張する藍の誇示と牽制の意味合いが含まれている。大妖怪の所有物にわざわざ手を出す輩などいないので、結果的に妖怪を退ける役割も担っているのである。おまけに所有者の居場所をある程度探知する事も出来る。名称は束縛の腕輪と呼ぶのが相応しい。

 

「もう人里に用はなくなったから、一人で出かける事もないしさ。もし俺が信用出来ないのなら、これからも着けておくけど」

「そ、そうか! ○○の意思で、この場所に居てくれるのなら安心だ。……だけど、本当に慧音に挨拶しに行っただけなのか? それなら私も同伴しても良かったんじゃ……」

 

 思わぬところで話を蒸し返されて、○○はばつの悪い面持で頬をかいた。だが、今なら打ち明けられる心境にあったので、咳払いを一つしてから口を開いた。

 

「いや……実は俺も藍と同じで不安だったんだよ。藍の様な器量好しが、どうして俺に惚れたんだろうって。見合いをするまでは話をした事もないのにさ。気分を悪くするかも知れないけど、俺は狐である君に化かされているんじゃないかと考えていたんだ。人を堕落させて愉しむ、魔性の女だと疑っていたんだ。藍が居ないと生きて居られなくなるまで依存させて、そして忽然と姿を消すんじゃないかと。……それがどうしようもなく怖くて。だから、いつでも自立できる様に慧音さんに仕事を斡旋してもらおうと、何回か通っていたんだ」

「そうか、そうだったのか……○○も……」

「だけど、今はもう藍を信じられる。こんなにも俺を愛してくれているのだから。要らぬ心配を掛けて申し訳ない」

 

 ○○は誠心誠意頭を下げる。自分が抱いた女々しい感情のせいで、藍をまた不安にさせたから。

 

「……っ……ふっ。ふふふっ……くっ、くふふふふふ!」

「え、藍?」

 

 藍は耐えるように息を漏らし、そして堰を切ったように笑い出した。あまりに異様な雰囲気に、○○は顔をそっと上げた。

 そこには目を糸の如く細め、三日月さながらに口角をあげて笑う藍が居た。

 

「ああ……○○。貴方はこんなにも私の心を満たしてくれる唯一の男。そんな貴方だから、私の全てを知ってもらいたい。私の体の隅々まで味わってほしい。だから○○、私の愛を受け入れたまえよ……」

 

 藍のしみ一つない美しい手が、○○の頬を撫でる。○○という男の命運は、もう彼女の手の内にある。

 

 妖怪の底知れぬ愛。妖怪に魅入られた人間は、その生涯を掛けて応えなければならない。

 幻想郷に、逃げ場などない。



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橙編

一話完結の短編
藍編との繋がり一部有


 

 幻想郷は梅雨の時期を迎えていた。

 雨は農家にとって恵みの雨とも言うが、こうも長続きすると農作業が出来ないために困る者も多いだろう。

 

 ○○もその内の一人である。彼は自宅で朝食をとりながら、屋根を叩く雨音を聞いて、憂鬱な気分になっていた。

 

 ○○の家は里から離れた場所にあり、周囲には人家もない。雨音を遮るものは何もなく、ただただ無情に降り続けるだけである。この天候では、またしても一日中、家で過ごさねばならないだろう。彼はため息をついて、味噌汁を口に運んだ。

 

 かれこれ三日も雨が続いているため、家の外に出られないのだ。恵みの雨も、度が過ぎれば害になるものである。今みたいに長い期間降り続くと、土壌に悪い影響が出てしまうかもしれない。

 

「今日は、どうしようかな」

 

 ○○は雨の降る外を見て呟いた。

 幻想郷は外の世界と違って娯楽が少ない。テレビやスマホなどはもちろんのこと、漫画も存在しない世界だ。現代における大衆向けの娯楽のほとんどが、幻想郷には存在していない。そのため、彼の楽しみといえば、本を読むことぐらいしかないのだが、その本すら最近は読み飽きてしまった。

 

 とはいえ、○○はこの生活に不満はない。毎日決まった時間に起きて食事をとり、農作業をしに出かける。暗くなれば家に帰って寝るという単調で代わり映えのない日々だ。

 何より、ここには自分しかいないのだから、誰にも邪魔されずに好きなことができる。それは彼にとって非常にありがたいことだった。

 しかし退屈であることに変わりはなく、何か出来る事がないかと考えていた時だった。

 

「……あ、そうだ」

 

 ふと思い出したように○○は食事の手を早めた。そして食事を終えて、食器を片付けると、外に出る準備を始めた。

 

 それから、○○は自宅の裏にある物置に向かった。そこには農業に使う道具の他に、様々なガラクタが置かれている。それらの整理や手入れをしようと思い立ったのだ。特にこれといった理由はないが、強いて言うなら暇つぶしのためである。

 

 ○○は物置の前まで行き、扉を開いた。中に入ると、薄暗い空間が広がっている。湿気が多く、カビ臭い匂いが充満しているせいか、少し息苦しい感じさえする。

 ○○は、その不快さに顔をしかめながらも、奥の方へと進んでいった。そして、なにから手をつけようかと辺りを見回したその時だった。

 

「……ん?」

 

 不意に視界の端で何かが動いたような気がして、そちらに顔を向けた。見ると、床に敷かれた茣蓙の上に誰かがいるようだ。

 

 ○○は警戒しながら近寄ってみる事にした。

 ゆっくりと足を進めていき、ついにその姿が見える位置まで来た。そこで彼は、思わず目を見張った。

 

 何故なら、そこに居たのは一人の少女だったからだ。それも全身がずぶ濡れの状態で横になっており、服装はボロボロで、投げ出された手足には痛々しい傷跡が残っている。明らかに普通ではない状況だが、それよりも彼女の容姿の方が問題であった。

 

「妖怪……か」

 

 そう。少女は人間ではなかった。人間の形をしていながら、茶髪の頭頂部からは二対の獣耳が生えており、臀部には二本の尻尾がある。それらは、少女が人外の存在であることを如実に示していた。

 

 少女は眠っているのか、目を閉じているものの、時折呻き声を漏らし、身を震わせている。そんな少女を眺めながら、○○は何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。この場所に妖怪が居るという事が疑問なのだ。

 

 何故なら、この場所の周囲には魔除けの結界が張り巡らされているはずであり、普通の妖怪が入ってくる事はできないからである。にも関わらず、ここにいるということは、何らかの方法で侵入してきたに違いない。そんな事が出来るのは、一部を除けば限られてくるはずだ。

 

 そもそも、少女は何の為に結界を抜けてまで、ここに来たのだろう。少女に悪意があれば、既に自分は襲われていてもおかしくないはずである。それに先ほどの様子を見る限り、怪我を負って衰弱している様子だ。とても悪者とは思えない。

 

 ○○は色々と思考を巡らせていく内に、ある考えに至った。もしかして、彼女は助けを求めにきたのではないかと。もしそうなら、放っておくわけにはいかないだろう。○○は意を決して、少女に声をかける事にした。

 

「なあ、そこの君」

 

 ○○の声に反応して、少女がゆっくりと瞼を開いていく。その瞳は虚ろで焦点があっておらず、どこかぼんやりとしていた。

 少女はそのまま身体を起こすと、緩慢とした動作で○○を見た。その視線には敵意や殺意といったものは全く感じられなく、まるで迷子の子供のようである。

 少女は何も言わずに、彼をじっと見つめていたが、やがて小さく口を開いた。

 

「……ぃ」

 

 しかし、そこから発せられた言葉は、とても短いものだった。○○は聞き間違いかと思い、もう一度尋ねてみる。

 

「えっと、今なんて言ったんだい?」

「……ごめんなさい」

 

 今度は、ちゃんと聞こえた。どうやら謝罪の言葉を口にしたらしい。○○は困惑しつつも、更に尋ねた。

 

「あの、君はどうしてこんな所に?」

 

 すると、少女は再び黙り込んでしまった。

 ○○は余計に困ってしまった。まさか何も話さないとは思わなかったのだ。この少女が何者なのか分からない以上、迂闊に質問するべきではないかもしれないが、それでもこのまま放置しておく訳にもいかない。

 ○○は少女に近づこうと、足を一歩踏み出した。

 

「……ひっ!」

 

 その瞬間、少女が小さく悲鳴を漏らし、怯えるような表情を見せた。

 ○○はそれを見て足を止める。どうやら、これ以上近づくのは危険そうだ。そう判断した彼は、その場に腰を下ろした。そして、少女を落ち着かせるように話しかける。

 

「大丈夫だよ。僕は、君に危害を加えるつもりはないから。ただ、ちょっと君の事が知りたいだけなんだ」

 

 ○○がそう言うと、少女はおそるおそるという風に、こちらの様子を窺ってきた。それから少しして、少女は小さな声で呟いた。

 

「……あの、勝手に入ってしまって、ごめんなさい。雨を凌げる場所はないかと思って。それで、ここに……」

「そうかい。いや、泥棒とかじゃないならいいんだ。それより、酷い怪我をしているみたいだけど、どうかしたの?」

 

 ○○は心配そうな表情を浮かべながら尋ねる。少女は少しの間沈黙していたが、やがて躊躇うように語り始めた。

 

「妖怪に……襲われたんです。何とか逃げてきたけど、もう限界で……雨も降ってきて……人の家だと分かっていたけど、他に行くところがなくって……本当にごめんなさい」

 

 少女は震える声で謝った。その顔は恐怖に染まっている。○○はそんな少女の様子に胸を痛めながらも、努めて冷静な口調で問いかける。

 

「……それは災難だったね。でも、君も見たところ妖怪じゃないか。ここには結界が貼ってあって、妖怪が来れるような所じゃないんだよ。どうやってここまで来たのか教えてくれないか?」

 

「あ、はい。私は以前、ある高名な妖怪にお仕えしていたのですが、その時に結界の抜け方を教わったので、それを使って入ったんです」

 

「へえ、そうだったのか。君は優秀なんだな」

 

 ○○は感心してみせた。しかし、少女は俯いて暗い顔をしている。何かまずかっただろうか。

 

「そんなこと……ないです。私なんか全然駄目で……いつも失敗ばかりで。物覚えも悪くて……だから、その、ご主人様にもよく怒られてました。お前は出来損ないだって。妖怪として生まれながら、半端者の落ちこぼれだって……」

 

 少女は消え入りそうな声で呟く。その姿はあまりにも痛々しく、見ているのが辛くなるほどだった。○○はかける言葉が思いつかず、黙り込むしかなかった。

 しばらくして、少女がぽつりと言葉を漏らす。

 

「……ごめんなさい。こんな事を言うべきじゃなかったのに。迷惑をかけてしまってすみません。すぐに出て行きますから」

 

 そう言って立ち上がろうとする少女だったが、その身体には力が入っておらず、そのまま倒れそうになった。○○は慌てて少女を支える。

 

「あっ……」

 

 少女は弱々しい声を漏らすと、○○に抱きついた。その手からは体温を感じられず、まるで氷のように冷たい。雨に濡れたせいもあるだろうが、明らかに異常な冷たさだ。

 

「ふらついてるじゃないか。無理しない方がいいよ。元気になるまで居ていいから」

 

「でも、これ以上迷惑をかけるわけにはいきません」

 

「こんな状態の君を放っては置けないし、僕は迷惑だとか思ってないよ」

 

 ○○の言葉を聞いて、少女は申し訳なさそうに身を縮こまらせた。しかし、○○から離れようとはしなかった。

 

「ここじゃなんだから、とりあえず僕の家に行こうか」

「……はい」

 

 ○○は、ずぶ濡れの少女を抱き上げると、ゆっくりと歩き出した。少女の体は驚くほど軽かった。まるで羽のような軽さである。少女は○○の腕の中で丸まり、静かに目を閉じていた。

 

 ○○は少女を抱えて自宅に戻ると、居間に少女を座らせてタオルを渡した。少女はおずおずとそれを受け取ると、髪や身体を拭き始める。

 

「着替えは、僕の服で我慢してくれるかな? 君には大きいかもしれないけど」

 

 少女はこくりと小さくうなずくと、渡された衣服に袖を通した。やはりサイズは大きかったらしく、着ると袖に手が隠れてしまっている。

 ○○は囲炉裏に火をつけて暖をとると、少女の向かい側に腰を下ろし、改めて尋ねた。

 

「落ち着いたところで話を聞かせてほしいんだけど、君は一体何者なんだい?」

 

 ○○の問いに少女は一瞬だけ躊躇したが、やがて語り始めた。

 

「私は、橙と申します。見てのとおり、化け猫の妖怪です。最近まで、この近くの山に住んでいました」

 

 橙と名乗った少女の瞳からは、既に怯えの色はなくなっていた。どうやら自分の事を話せる程度には落ち着いたらしい。○○は安堵しつつ先を促す。

 

「先程も言いましたが、私はとある偉大な方に、式神として仕えていたのです。お名前は八雲藍……様と言いまして、とても美しく聡明なお方でした」

 

 橙は懐かしむように語った。○○は黙って耳を傾ける。

 

「私は藍様の事を尊敬していました。強くて優しくて、賢くて……完璧な存在だと思っていたんです。そんなお方に認めてもらえるように頑張っていました。けれど、ある時から急に藍様の態度が変わったんです。私のことを馬鹿にして、罵るようになったんです」

 

 そこまで言うと、橙は辛そうに顔を歪めた。○○はその表情を見て、何も言わずに続きを待つ。

 やがて、再び語り始めた。

 

「どうしてなのかは分かりませんでした。けれど、ある日を境に藍様は私に辛く当たるようになったんです。そして、私が何か失敗する度に、お前は出来損ないだとか、お前なんかに価値はないとか言って罵倒するようになって……ついには式を外されて、捨てられてしまったんです」

 

 橙は悔しそうな顔で拳を握った。その目からは涙が溢れている。○○はそんな少女の様子に胸を痛めながら、優しい声で話しかける。

 

「……辛い思いをしてきたんだね。でも、もう大丈夫だよ。ここには君を傷つけるような奴はいないからね」

 

 ○○の言葉を聞いた途端、橙は泣き崩れた。声を上げて子供のようにわんわん泣く姿はとても痛ましく、見ていられないほどだった。○○はそんな少女の姿を見つめながら、そっと頭を撫でてやる。

 

「ううっ……ひぐっ……」

 

 しばらくすると、ようやく落ち着きを取り戻したのか、橙は顔を伏せたまま動かなくなった。しかし、その身体はまだ小刻みに震えており、嗚咽の声が聞こえてくる。○○は黙ったまま、ただ優しくその背中をさすっていた。

 しばらくして、少女がぽつりと呟く。

 

「あの……ありがとうございます。少し楽になりました」

 

 その言葉を聞いて、○○は安心させるように微笑んでみせた。

 それからしばらくして、少女は再び口を開いた。

 

「貴方様は、本当に優しくて、不思議な人ですね。まるで神様みたいに感じます。私……こんなに親切にされたのは久しぶりです。それに、あの人と同じ……」

 

 橙の言葉に、○○は首を傾げた。あの人というのは誰のことだろうか。○○が疑問を口にしようとすると、それより先に橙が言葉を紡いだ。

 

「あの、よろしければ貴方様のお名前を教えてくださいませんか?」

「ああ、僕は○○って言うんだ。よろしくね」

 

 ○○は笑顔を浮かべて答える。橙は嬉しそうに笑みを返した。

 

「○○様……素敵なお名前ですね」

 

 橙はそう言って目を細めると、どこか熱っぽい視線を○○に向けた。○○は不思議そうに眉根を寄せたが、すぐに気を取り直して質問をする。

 

「うん。でも、様付けなんてしなくていいよ。普通に接してくれればいいからさ」

「いいえ、そういうわけにはいきません。○○様は恩人ですから」

 

 橙はきっぱりと言うと、○○に向かって深々と頭を下げる。○○は困ったような表情で頬を掻いた。

 やがて、橙はゆっくりと身体を起こすと、真剣な眼差しで○○の顔を見た。

 

「私を助けてくださったお礼がしたいのです。どうかお願いします。私を○○様の下女にしてもらえないでしょうか」

「えっ……ええと、それはどういう意味かな? 下女っていうのは……つまり、僕に仕えるってこと?」

 

 ○○は困惑しながら尋ねる。橙はこくりと小さくうなずいてから、真っ直ぐに○○の目を見据えた。

 

「私には、もう帰るところがないんです。外で生きていく術もありません。だから、○○様に拾われたこの命を捧げたいんです」

 

 橙の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。○○はどうしたものかと悩んだが、やがて苦笑いをして答えた。

 

「そんな大袈裟なこと考えなくても大丈夫だよ。住む場所がないのなら、ここを使ってくれても構わないから。僕は一人暮らしだし、部屋も余っているからね」

「あ、ありがとうございますっ……!」

 

 ○○の言葉を聞くなり、橙はぱあっと明るい顔になった。橙は嬉しそうに尻尾を振ると、再び○○の近くにすり寄ってくる。

 ○○はそんな橙の姿を見て、なんだか犬みたいな子だと思った。

 

「私、何でもやりますっ! 掃除や洗濯はもちろん、料理だってお任せください。あと、○○様がお望みならば、夜のご奉仕も……」

 

「い、いらないってば。家事だけで十分だから」

 

 ○○は慌てて手を振りながら言った。橙は残念そうに耳と尻尾を下げて、分かりましたと言って引き下がる。

 ○○はホッとした表情を浮かべると、時計に目を向けた。時刻は八時を回ったところだった。話題を変えるために、○○は橙に話しかける。

 

「それより朝食はとったのかい? まだ食べていないなら、残りものを用意できるけど」

 

「はい……実は二日前から何も口にしていなくて。何でもいいので頂きたいです」

 

「それは大変だ。すぐに持ってくるよ」

 

 橙は申し訳なさそうな顔で言う。○○はそんな橙を見て、優しく微笑むと台所へと向かった。

 

 数分後、○○はお盆を持って戻ってきた。そこには湯気を立てた味噌汁と野菜の煮物、そして白米が載っている。

 橙は目を輝かせて、お腹を鳴らしながら○○を見上げた。○○は笑顔でテーブルの上に食器を置くと、橙の向かいに座った。

 

「どうぞ召し上がれ。口に合うといいんだけど」

 

 ○○が言うと、橙はいただきますと元気よく言って箸を手に取った。余程空腹が堪えていたのか、○○が見ている目の前で橙はすごい勢いで食事を平らげていった。

 

 やがて、○○が持ってきた全ての食事がなくなると、橙は満足した様子で大きく息を吐いた。

 ○○はお茶の入った湯呑みを差し出す。橙はそれを一口飲むと、ほっと安堵の溜息を漏らして口を開いた。

 

「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

 

 橙は幸せそうな笑みを浮かべて礼を言うと、続けてぺこりと頭を下げる。○○はその様子を見つめながら、自分も微笑んでみせた。

 

「○○様は本当に優しい方ですね。見ず知らずの私のためにここまでしてくれるなんて……」

「いやいや。これくらいお安いごようだって」

 

 橙は感極まった様子でそう言うと、涙ぐんだ瞳で○○の顔を見上げる。○○は困ったような笑顔を浮かべて手を振った。

 それから、橙はふと思い出したように○○に問いかけた。

 

「そういえば、○○様は何故、人里から離れた場所に、一人で住んでいるのですか?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、○○の表情がわずかに強張った。しかし、すぐに表情を元に戻すと、穏やかな口調で答える。

 

「僕は、ちょっと人付き合いが苦手でね。人が多い場所は落ち着かないから、静かな場所で暮らしたいと思ってたんだよ。それを里の人に話したら、この場所を紹介してくれたんだ。丁度、空き家があったらしくてさ。人が住んでいた方が良いって事で、無償で貸してくれたよ」

 

 ○○は少しだけ声を低くして、嘘ではない程度に真実を混ぜて話した。橙は○○の話を聞いて、不思議そうに首を傾げる。

 

「そうだったのですか。でも、○○様のような優しい方が、どうして人を避けたりしているのですか?」

 

 橙の言葉に、○○は困ったような表情を浮かべた。○○は一瞬、本当のことを言おうかとも思ったが、結局口をつぐむことにした。

 自分がこの世界に迷い込んだ存在だと知れば、橙がどんな反応をするのか分からない。下手をすれば、またあの時と同じことが起こるかもしれないのだ。

 だから、○○は適当な理由を付けて誤魔化すことに決めた。

 

「ほら、僕は人と話すのが得意じゃないからね。それで、あまり他人と関わらないようにしていたのさ」

 

「そうは見えないですけど……。私とは普通に喋ってくれていますし」

 

「……うん。それは、まあ、ね」

 

 橙はそう言って、大きな瞳で、じーっと○○のことを見る。真意を探るような視線を受けて、○○は苦笑いをした。やがて、橙は何かを納得するように小さくうなずく。

 

「もしかして○○様も、私と同じような境遇の方なんですか? 人里で酷い扱いを受けていたとか……」

 

 橙の言葉に、○○の心臓がドキリと跳ね上がった。表情には出さないように努めたものの、動揺を隠しきれなかったのか、橙は心配そうに○○を見つめる。○○は慌てて笑顔を作ると、何でもないと言う風に首を振る。

 

「はは、まさか。そんなことはないって」

「……私には、本当のことを言ってください」

 

 ○○の言葉を遮るように、真剣な顔で橙は言った。○○は驚いて目を大きくする。

 橙はまっすぐな目で○○のことを見つめると、再び口を開いた。

 

「私が力になれるかどうかは分かりません。でも、○○様の抱えている悩みを打ち明けてもらえたら、きっと楽になると思います。私は○○様の事を知りたいんです。○○様の助けになりたいんです」

 

 橙はそう言うと、自分の両手をぎゅっと握りしめながら○○の返事を待った。○○はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと息を吐くと、覚悟を決めたように橙の目を見返す。

 ○○は深呼吸すると、落ち着いた声で橙に語りかけた。

 

「……僕は幻想郷の人間じゃないんだ。外の世界から来たんだよ。人里では、外来人だからと言って、色々嫌がらせを受けたりしてきた」

 

 ○○はそこまで言うと、自嘲気味に笑って言葉を続ける。

 

「僕以外にも外来人がいるんだけど、標的にされたのは僕だけだった。理由はよくわからない。ただ、僕の運が悪かっただけなのかもね。外来人の人達は良くしてくれたんだけどね。でも、数は圧倒的に少なかったから、結局、僕は迫害されるようになって……」

 

 ○○はそこで言葉を詰まらせると、顔をうつむかせて拳を固く握った。

 話を聞いていた橙は驚いた様子で目を丸くしていた。○○は橙の反応を見て、やはり言わなければよかったと後悔したが、もう遅い。橙の驚きが冷めるまで待つしかなかった。

 

「……何となく、そんな気はしてました。○○様の、私を見る目つきが、他の人間達と違う気がしたので」

 

 やがて、橙はそう言って、静かに微笑んでみせた。予想とは違う反応に、今度は○○の方が戸惑ってしまう。

 橙は少し寂しげな笑みを浮かべながら、どこか遠くを見つめるように口を開いた。

 

「私は妖怪です。化け猫です。普通の人間なら、私を見ただけで恐れおののいて逃げていきます。でも、○○様は、私を怖がりませんでした」

 

 そう言うと、橙は悲しそうな顔をした。○○はどう答えていいのか分からず、無言のまま続きを待つことにする。

 

「妖怪は人間を恐れさせるのが本分です。それが存在意義です。なのに、○○様は私を受け入れてくれました。優しくしてくれました。私の心は、その優しさで満たされたんです。おかしいですよね。こんなにも人と触れ合いたいと思うなんて」

 

 橙はそこで言葉を区切ると、○○の顔を見ながら微笑んだ。そして、○○の手をそっと握ってみせる。突然の出来事に、○○はビクリと体を震わせた。橙は構わず話を続ける。

 

「やはり、藍様は正しかったようです。私は妖怪として、出来損ないの、半端者の、落ちこぼれです。でも、それでも、○○様のおかげで変われたんです。今の私は、とても幸せです」

 

 橙はそこまで言い終えると、ふぅと小さくため息をついた。それから、もう一度○○の手を強く握りしめてから離す。

 

「だから私も、○○様に恩返しをしたいと思っています。私は○○様の力になりたいんです。人里の人間が、また○○様を傷つけるようなことをしたら、その時は私が必ず守ります」

 

「……ありがとう。その気持ちだけでも嬉しいよ」

 

 橙の言葉を聞いて、○○は複雑な表情で礼を言うことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 それから一月は経ち、二人は特に問題もなく平穏な日々を過ごしてた。雨もすっかり止んでおり、空には綺麗な青空が広がっている。

 

 ○○は毎日のように、農作業に精を出している。橙にはもっぱら家事を任せているのだが、彼女は水が苦手なので、洗濯や料理などの水を使う作業はさせていない。

 

 しかし、○○の傍には常に橙の姿があった。橙は暇さえあれば○○の仕事を手伝ったり、家の中で一緒に過ごしたりと、○○にべったりである。○○は最初こそ困惑していたが、今では橙のことを受け入れていた。可愛い妹が出来たような気分で、○○の方も嬉しく思っている。

 

 橙は○○の仕事を手伝おうとするものの、上手くいかないことが多く、すぐに疲れて眠ってしまったり、構って欲しくて○○の邪魔をしてみたりするなど、子供っぽい行動が目立っている。

 ○○は橙のことを可愛らしく思いながらも、仕事の時は大人しくしていて欲しいと思っていた。

 そんなある日のことである。

 

 いつも通り○○が畑仕事をしていると、後ろから女性の声が聞こえてきた。

 

「ごめんください」

 

 聞き覚えのない声だ。○○は作業を中断すると、鍬を置いてから振り返る。そこには一人の若い女性が立っていた。

 彼女は目を見張る程に美しい容姿をしていた。髪の色は明るい黄緑色をしており、腰上くらいまでの長さがある。服装は白地に青の縁取りがされた上着と、水玉模様が書かれた青いスカートを履いている。色は違えど巫女装束風の衣装であった。

 

 女性はニコニコとした人当たりのいい笑顔で○○に声をかけてくる。

 

「初めまして。私は東風谷早苗と申します。守矢神社の風祝をしています。今日はこちらに用があってやってきました」

 

 彼女の自己紹介を聞いた○○は、驚きつつも丁寧に頭を下げて挨拶をした。

 

「○○です。その……風祝とは?」

「平たく言えば巫女さんですね。神に仕える者です」

「ああ……」

 

 ○○の疑問に対して、東風谷と名乗った女性が簡単に説明する。それを聞いて、○○は納得したようにうなずいた。

 早苗はそんな○○の様子を眺めながら、再び口を開く。

 

「ご理解いただけたようで何よりです。早速ですけど、貴方にお話がありまして」

 

「何でしょう?」

 

「私は稗田様の依頼を受けて、この場所に魔除けの結界を張りに来たのですが、よろしいでしょうか? 時間はそれほどかからないので」

 

 早苗はそう言うと、にっこりと微笑んでみせた。○○はその申し出を受けて、少し困った顔をする。

 彼女が言った稗田とは、人里の重鎮の名前であり、この家を提供してくれた人物でもある。

 

「ここには、もう結界を張ってあるんですよ。だから必要は無いと思いますが」

 

 そう言って、○○は周囲を見渡してみせた。周囲には何も無い。強いて言うなら、地面の土を耕した跡と、そこに生えている雑草がある程度だろう。

 しかし、早苗は首を横に振って否定してみせる。

 

「少し語弊がありました。今ここに張られている結界は、年数を重ねて弱まっているのです。だから、安全の為に張り直す必要があったんですね」

 

 早苗の説明に、○○はなるほどと相槌を打った。確かに言われてみると、橙が結界を抜けられたのも合点がいく。○○はもう一度周囲を見回してから、早苗に問いかけた。

 

「結界を新しくしたら、何か影響がありますか?」

 

 ○○は不安そうな顔で質問をする。それに対して、早苗は優しく微笑むと、安心させるような口調で語りかけた。

 

「いえ、人間には全く害はありませんよ。土地にも、農作物にも、悪影響は出ないようにします。ただ、この土地を護るための結界ですから、妖怪の類は入ってこれなくなります。もし侵入出来ても、持って数秒の命なのでご心配なく。じゃあ始めますね」

 

 早苗はそこまで説明を終えると、いそいそと懐から巻物を取り出して、地面に広げ始めた。そして、地面に座り込むと、筆を使って文字を書き始める。

 

「ちょっ、ちょっと待って下さい!」

「きゃっ!?」

 

 ○○は慌てて声を上げると、早苗の元に駆け寄っていった。突然の出来事に驚いたのか、早苗は悲鳴を上げて飛び上がる。彼女は手に持っていた筆を取り落としてしまった。

 ○○は転びそうになる早苗の腕を掴むと、何とか支えてやる。早苗は恥ずかしそうに頬を赤らめながら礼を言う。

 

「ど、どうも……って、危ないじゃないですか! 急に驚かさないでくださいよ!」

「……すみません」

 

 早苗は怒ったような表情で○○に文句を言い放つ。○○は謝りつつ、彼女に話しかけた。

 

「あの、出来れば結界の内側は、妖怪でも生きられるようにして頂けますか?」

「……どういうことでしょうか?」

 

 早苗は怪しんだ様子で聞き返す。○○の言葉の意味がよく分からなかったのだ。それは当然の反応と言えるだろう。

 早苗の疑問に対し、○○は詳しく事情を説明した。それを聞いた彼女は、しばらく考え込んだ後、小さくため息をつく。それから、ゆっくりと口を開いた。

 

「んー。まあ、家主さんのお願いですから、仕方が無いですね。分かりました。そうするように調整しておきましょう」

 

 早苗の返事を聞いて、○○はホッとした。これで橙も無事に暮らせるようになる。彼は心の中で安堵していた。しかし、そこで早苗が○○に問いかける。

 

「余計なお世話かもしれませんが、力の弱い妖怪とは言え、結界の中に入れるのは危険ですよ。それに、その猫ちゃんは大丈夫なんでしょうか? ペットを飼うのとは訳が違います。妖怪は人間と同じ感覚を共有出来ないので、貴方が命を狙われたり、襲われたりする可能性もあります。それでも良いのですね?」

 

 早苗は○○のことを気遣ってくれているようだった。○○はその優しさに感謝しつつ、しっかりとした口調で答える。

 

「大丈夫です。橙は俺にとって、妹みたいな存在ですから」

 

 ○○は笑顔で言うと、早苗に向かって頭を下げてみせた。それを見た早苗は、少し呆れたように苦笑する。

 

「……野暮でしたかね。では、作業に戻ります」

 

 早苗はそう言うと、再び作業を開始した。○○は邪魔にならないようにその場を離れて見守ることにする。

 

 早苗は地面に置いた巻物に手をかざすと、呪文のようなものを唱え始めた。その言葉は○○には理解出来なかったが、不思議と耳に心地よく響く。まるで歌を歌っているかのように聞こえた。

 早苗が呪文を唱える度に、彼女の手の平が淡く光っていく。やがて、彼女の手の中に小さな光の玉が生まれた。それを早苗は地面に落とす。すると光が弾けて、結界が張り直された。

 

 早苗はそれを確認してから、巻物を片付ける。それから、○○の方を向いて、にっこりと微笑んでみせた。

 

「はい、終わりましたよ。これで、この辺りの結界は全て修復されました。安心安全に過ごせますね」

「どうも、ありがとうございます」

 

 早苗は得意げな顔をしながら、そう説明する。○○はそれを聞くと、深々とお辞儀をして感謝の意を示した。早苗はそんな彼の態度を見て嬉しく思ったのか、楽しげに笑い出す。

 

「じゃあ、私はこれで失礼します。普段は守矢神社にいますので、是非一度は参拝にいらしてくださいね」

 

 早苗はそれだけ言うと、軽く会釈して立ち去ろうとする。しかし、途中で何かを思い出したらしく、○○の元まで戻ってきた。彼女は小声で彼に耳打ちをする。

 

「……ああ、それと、もし何か猫ちゃんに異変を感じたりしたら、すぐに私に相談して下さい。どんな些細なことでも構いませんから。約束ですよ?」

 

 早苗は真剣な顔つきで念を押してきた。○○は思わず背筋を伸ばしてしまう。

 彼女はそのまま軽い足取りで、今度こそ本当に去っていった。○○は彼女が見えなくなると、大きく息を吐きだす。緊張の糸が切れて、一気に疲れが出て来たようだ。彼は農作業を再開する事をやめて地面に座り込むと、空を見上げて黄昏れることにした。

 しばらくの間、沈黙の時間が流れる。彼は何も考えずにぼんやりと過ごしていた。その時である。

 

「○○様」

 

 突然、背後から声をかけられた。○○は慌てて振り返る。そこにはいつの間にか、橙の姿があった。彼女は無表情で、○○のことを見下ろしていた。

 

「なんだ橙か。脅かさないでくれよ」

 

 ○○は自分の後ろに立っていたのが橙だと分かると、ホッとした様子で話しかけた。しかし、橙は冷たい視線を自分に向けてくる。その表情からは、感情を読み取ることが出来なかった。

 ○○は何とも言えない嫌な雰囲気を感じ取った。

 

「あの人間は、あの女は誰ですか?」

「ん? ああ……見ていたのか」

 

 ○○は早苗とのやり取りを思い返してみる。橙は早苗のことを指しているのだろうと思った。

 確かに橙は人間に対して警戒心を持っている。それは○○も知っていた。だが、だからと言って、わざわざ細かく説明しなくても良いだろう。○○はそう判断した。なので、当たり障りのない答えを口にする。

 

「彼女は東風谷早苗さんといって、守矢神社で巫女をしている人だよ」

 

 早苗という名前を聞いた瞬間、橙の耳が僅かに震えた。しかし、○○はそれに気付かない。彼は話を続ける。

 

「それで、ここに張られた結界を新しくしてくれたんだ。でも、結界内にいる妖怪に害はないから安心していいよ」

 

 橙は○○の言葉を聞いても、特に反応を示さなかった。ただ黙って話を聞いていただけだ。○○は彼女の様子が少しおかしいと感じたが、気にしないことにする。

 

 しばらく会話が途切れる。○○は話題を変えるために、先程考えていたことを口にすることにした。

 

「……さて、今日は疲れたから、もう休むことにしようかな。さあ、中に入ろう」

 

 橙は何も言わず、小さくうなずくだけだった。○○は彼女に背を向けると、家に向かって歩き始める。橙は彼の後について来た。

 

 二人は家の中に入り、居間に向かった。

 そこで○○は座布団に座って一休みする。橙も彼の隣に座った。しかし、何も喋ろうとはしなかった。彼女は俯いたままで、じっとしている。

 ○○はその様子を少し不思議に思ったものの、深く考えることはせずに、お茶を飲みながらまったりと過ごす事にした。

 

 それから、静かに時間が流れていった。

 夜更けが近くなった頃、○○は眠気を覚えて欠伸をする。彼はそろそろ寝ようと思い立った。

 

「橙、俺は眠ることにするよ。君はどうする?」

 

 ○○は隣の少女に声をかけた。彼女は顔を上げて、こちらを見る。その瞳には深い闇が宿っていた。まるで何かに取り憑かれたような暗い光だ。

 

「……え?」

 

 ○○はその目を見た時、一瞬だけ恐怖を覚えた。肌に鳥肌が立ち、背筋に悪寒を感じる。だが、それも刹那のことだった。

 橙は無言のまま立ち上がると、○○の前まで移動する。そして、その場に正座をした。

 

「勿論、お供します」

 

 橙はそう言うと、にっこりと微笑んでみせた。○○はその笑顔を見て安心感を覚える。彼は立ち上がって、自分の部屋に向かうことにした。

 

 部屋の扉を開けると、橙も一緒に入ってくる。彼女は○○の後ろをついて回った。

 橙は予てより、○○と同衾することを望んでいた。だが、○○は頑なにそれを拒んできた。それでも食い下がる橙に出した妥協案は、就寝する部屋は同じにして、寝具は別々というものだ。

 

 橙はそれに不満を見せたのだが、○○の方から譲歩してきたことで渋々と受け入れたのである。そして今晩もまた同じ状況になった。

 

 ○○は押し入れから布団を取り出すと、床に敷く。それから、箪笥の中から寝巻きを取り出した。

 橙は○○の様子をじっと見つめている。

 

「……そんなに見られると、着替え辛いよ」

 

 と、○○は呟いたが、橙は無視して動こうとはしなかった。薄暗い部屋の中とは言え、視線を受けると一抹の羞恥心を感じてしまう。

 

 やがて準備が終わると、○○は布団の上に座った。そして、先程から微動だにしない橙を不思議そうに眺める。

 

「どうしたんだい? 早く準備をしておいで」

 

 ○○は優しく声をかけた。しかし、橙は返事をしようとしない。彼女は○○を見つめたまま、その場を動かなかった。○○は少し困ってしまう。

 

「橙?」

 

 ○○はもう一度、名前を呼んだ。すると、橙は急に動き出して、○○の目の前まで移動してくる。

 ○○が戸惑っている間に、橙は彼を押し倒して、上に馬乗りになってしまった。

 

「うわっ」

 

 そのまま、両手で彼の肩を押さえつける。

 ○○は抵抗しようとしたが、橙の力が思いの外強く、身じろぎすら出来なかった。

 

「な、何するんだ!」

 

 ○○は慌てて叫んだ。橙は相変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。だが、薄暗い部屋の中で、その目は妖しく輝いていた。

 

 橙は、ゆっくりと顔を近づけてくる。○○の顔のすぐ側に、彼女の顔があった。吐息がかかるほどの距離である。

 近くに寄って分かったが、彼女の頬は赤く上気しており、呼吸も荒くなっているようだ。○○は嫌な雰囲気をひしひしと感じ取った。

 

「それは……駄目だっ!」

 

 橙は○○の唇に、自らの口を重ねようとする。

 ○○は何とか逃げ出そうとしたが、橙の拘束は解けない。それどころか、ますます力が強くなっていく。このままでは本当に口付けをされてしまうだろう。

 ○○は顔を左右に向けて、彼女の唇から逃れようとした。しかし、橙はそれを許さず、片手を顎に当てて固定してしまう。

 

「○○様……ん……」

 

 橙はうっとりとした様子で、○○の名前を呼ぶ。そして、○○の口を自らのそれで塞いだ。柔らかな感触が○○の口に伝わってきた。

 ○○は橙を引き剥がそうと暴れる。しかし、橙はびくともしなかった。小柄に見える身体からは想像も出来ないほど、強い力で押さえつけている。

 橙は舌を伸ばして、無理矢理○○の口腔内に侵入させた。歯茎や口蓋を舐め回していく。その度にザラザラした感覚が感じられた。

 

「んー! んぐぅ!」

「……ふぁ、れろぉ……じゅぷ、ちゅぱ、ぺちゃ、ぴちょ」

 

 ○○は必死になって逃れようとしたが、無駄だった。彼女は○○の頭を手で抱え込み、自分の方に引き寄せた。更に深く口付けをする形になる。

 

「む、ぢゅ、あ……れる、ん、あむ、はあ、はあ、あああ……」

 

 橙は夢中で○○に吸い付いていた。時折、小さな喘ぎ声を上げながら、彼の唾液を飲み込んでいく。その行為はまるで、餌を求める雛鳥のようであった。

 

「んっ…………っぷは」

 

 ようやく満足したのか、橙は○○の口から自身のそれを離す。口の端から垂れた唾が糸を引いた。

 橙はしばらく惚けたような顔で、ぼんやりと○○を見下ろしていた。その瞳には狂気が宿っている。

 そして再び彼に覆い被さってくる。橙はしばらく余韻に浸っていたが、不意に我に返ると、恥ずかしそうに俯いた。

 

「えへ、えへへ……へ……」

 

 彼女はだらしなく笑みを浮かべている。○○はその姿を見て身震いをした。今までの様子とは明らかに違う。まるで別人のようである。

 

「……君は、誰なんだ?」

 

 ○○は質問する。しかし、橙は何も答えなかった。ただニヤついた表情で見つめてくるだけである。

 

「あつっ!?」

 

 その時、橙は唐突に○○の右肩に噛み付いた。鋭い痛みを感じる。血が流れる感触が伝わり、○○は思わず悲鳴を上げる。橙は○○の反応を見て、噛み付いたまま嬉しそうな声を上げた。

 

「うぃひひっ……」

 

 ○○の耳に不気味な笑い声が届く。橙はゆっくりと口を放した。傷口を見ると、そこには歯型がくっきりと残っていた。そこから滲んだ血液が流れ出している。

 

「……あはっ、痛かったですよね。 ごめんなさい。だけど、必要な事なのですよ」

 

 橙は謝りながらも、どこか愉快そうに言った。○○は肩を押さえて、苦痛に顔を歪ませる。

 彼女はそんな○○を見つめながら、今度は左肩に顔を近づけた。○○は慌てて抵抗するが、やはり拘束から逃れることが出来ない。橙は○○の肩に噛み付く。

 

「っあ!」

 

 ○○は声にならない叫びをあげた。あまりの激痛に涙が出てくる。彼は身をよじって逃げ出そうとしたが、橙はそれを許さない。しっかりと彼の頭を抱え込んだ。橙は何度も○○の肩を噛んでくる。その度に○○は苦悶の声を上げて、涙を流し続けた。

 

 しばらくして、橙は○○を解放する。○○は肩を押さえて、布団の上で苦しんでいた。

 橙はその様子を満足げに見下ろす。それから、彼女はゆっくりと口を開いた。

 

「……やりましたよ。○○様に、私の痕を付けました。こ、これで、もう誰にも、邪魔されません……くふふふ……」

 

 橙は上機嫌な様子で言う。○○は息も絶えだえに尋ねた。

 

「……な、何を言ってるんだ? 一体、どういう意味だ? 何故こんな……」

 

「○○様……○○さま。私だけの○○さま。愛してます、だい好きです……ずっといっしょにいましょう……ずーっと、えいえんに、ふたりきりで……えへ、えへへ……」

 

 橙はうわ言のように呟きながら、○○を抱きしめた。○○は困惑しながら、彼女を引き剥がそうとする。しかし、橙は離れようとしない。それどころか、ますます強く抱きついてきた。

 

「あばれちゃめっでーすよぉ。おとなしく、してくださいねぇ。わたしのにおいをぉ、たあっぷりと、つけてあげますからぁ……ねっ?」

 

「や、やめ……」

 

 橙はそう言うと、○○の胸に頬擦りした。○○は身の危険を感じて、必死に抵抗する。だが、やはり橙はビクともしなかった。橙は○○の顔を見上げると、舌なめずりする。

 

「んふふふっ」

 

 そして、その小さな口を大きく開けると、彼の首筋を甘噛みした。唇を押し当てて吸い上げていく。○○は思わず小さな悲鳴を上げた。橙は唇を離すと、○○の首元を確認する。

 そこには赤く色づいた印があった。○○はそれを呆然と眺める。彼女は妖艶に微笑むと、そこに指を当てた。

 

「これはぁ、あいのあかしなんですよぉ。○○さまが、わたし。のものに、なったっていうあかしでぇえっす。きえっないようにぃ、ま、まいにち、つけてあ、げますね、ぇえへへ?」

 

 橙はそう言いながら、○○の身体に手を伸ばしてきた。○○は慌てて逃げ出すが、すぐに捕まってしまう。橙は再び彼の身体に吸い付いた。

 

 ○○の身体には赤い跡が残されていく。上から下へと満遍なく、丹念に舐められていった。○○は全身に鳥肌が立つのを感じる。

 

 橙はしばらくすると、満足したのか顔を上げた。○○の方をじっと見つめてくる。

 その瞳は赤みを帯びていた。まるで瞳そのものが紅玉であるかのように、美しく輝いている。なのに、どこか禍々しい雰囲気を放っていた。

 

「あ、あぁっ……もぅ、わた、た、わたっし、は……だ、めっ……あ、あ? ふっ。いっ、あはぁつあはは。っあははあ、はあはぁはふひっ! ははぁはあは、ぅひひひっ!」

 

 橙は突然ケタケタと壊れたように笑い出す。その声は次第に大きくなっていった。狂ったように笑う彼女の姿は、まさに狂気の沙汰であった。

 ○○が呆気に取られている間に、橙の姿が変化を始める。

 

「あぎっ……う、ぐ、ぅ……あがっ!?」

 

 橙は前のめりになって、呻き声を漏らしながら体を苦しげに捩る。彼女の髪が急激に伸び始め、振り乱された髪先が○○の顔をくすぐる。

 二対の耳が長く、大きくなっていく。そして、新たに尻尾が何本も生え始める。さらに体つきが変わっていく。身長が伸びて、服越しでも分かるほどに胸が膨らみ、腰にすらっとしたくびれが出来て、お尻が成長していく。まさに、少女から女へと変化していく過程を見ているようだった。

 

 そして、数分後。そこには一人の女性がいた。

 その姿は、先程までの彼女とは、大きくかけ離れている。元々二本だった尻尾は、九本にまで増えており、意思があるかの如くゆらめいていた。

 

 彼女は○○の胸に手をついて俯き、荒い呼吸を繰り返している。時折びくんと痙攣するように震えながら、肩で息をしていた。口元からは舌が覗き、そこから唾液をだらしなく垂れ流している。

 ○○はその様子を見て、ようやく我に返ることが出来た。○○は彼女に気圧されながらも、何とか言葉を絞り出した。

 

「……橙……なのか?」

 

 ○○の言葉を聞いた女性は、大きな耳をピクッと反応させて、それからゆっくりと顔を上げる。そこには、かつての少女の面影など微塵もない、妖艶な女性の顔があった。

 彼女は目を細めて、口角を歪ませる。口元は笑っているように見えるが、それはもはや笑顔とは呼べないものだった。赤い舌を出して、唇の周りを舐める仕草は、ひどく扇情的に見える。漏れ出す吐息には熱がこもり、淫靡なもののように感じられた。

 

「はい。私は、ここに」

 

 橙は○○の問いに対して、はっきりと答える。その声色は成熟した女性のそれであり、彼女がもう少女ではないことを物語っていた。辺りに漂う空気には色気のようなものさえ感じられる。

 

 橙は何かを確かめるように自分の身体に触れる。頭から生えた長い耳に指先で触れたり、顔に触れてみたり、増えた尻尾を撫でてみたりと、様々な動作を繰り返す。

 そして、次に胸元に手を伸ばし、そこにある二つの膨らみに触れた。重力に逆らって自己主張をするそれに、手を沈めるようにして優しく揉む。それはまるで男を誘うような仕草でもあった。

 

 しばらくそうしていた彼女だったが、やがて納得したような表情を浮かべると、○○の方を見て微笑んだ。しかし、その瞳の奥底では得体の知れないものが渦巻いていた。

 

「……○○様」

 

 彼女は○○に顔を近づけると、唇を重ねてきた。○○が驚いていると、舌を差し入れてくる。先程までの荒々しさはなく、優しく包み込むような口付けだった。○○は戸惑いながらも、それを受け入れてしまう。

 

「……んちゅっ……んんっ……ちゅぱ……んふふ……」

 

 橙はそのまま舌を絡めてくる。○○はされるがままになっていた。二人はそのまましばらくの間、お互いを求め合う。

 しばらくして、橙は唇を離した。唾液が糸を引いて、二人の唇を繋いでいた。彼女はそれを拭うことなく、○○に囁く。

 

「○○様……愛しいお方……私だけの……」

 

 橙は○○の上で、自らの衣服を全て脱ぎ去った。彼女の豊満なものが露わになる。

 ○○は慌てて視線を逸らそうとしたが、橙の瞳を見て動けなくなってしまった。彼女もまた、○○を見つめている。その瞳からは強い愛情と情欲を感じた。

 

「○○様。しかと、ご覧くださいませ。これが私の、全てでございます。嘘偽りのない、ありのままの……」

 

 橙はそう言うと、両手を広げてみせる。その瞬間、周囲の気温が一気に上昇した気がした。

 一呼吸ごとに体が熱くなり、呼吸が苦しくなる。視界が歪み始め、意識が朦朧としていくのを感じる。

 

 橙の肌は紅潮しており、額や首筋からは汗が滴り落ちていた。その様子は、ひどく扇情的である。また、九本の尻尾がゆらゆらと揺れており、それが何とも言えない雰囲気を作り出していた。

 橙は恥ずかしげもなく姿を晒していたが、羞恥心などは感じていないようだった。むしろ、○○に惜しげもなく見せつけようとしている。

 

 ○○はごくりと唾を飲み込んだ。橙の体は均整が取れた体つきをしており、無駄な肉は一切ついていなかった。それでいて女性らしい柔らかさを感じさせる。腰はくびれ、尻は大きく膨らんでおり、非常に魅惑的だった。

 

 そして、○○の目の前で揺れる大きなものは、今にもはち切れそうなほどに張り詰めており、色素の薄い桜色の突起は痛々しいまでに尖っている。○○は橙から目が離せなくなっていた。

 彼女はそんな○○の様子に満足すると、妖艶な笑みを浮かべる。それから○○に身を寄せて、耳元で甘く囁く。

 

「お辛そうですね……私が楽にして差し上げます」

 

 橙はそう言うと、○○の着物にも手をかける。○○は抵抗しようとしたが、体に力が入らない。橙に促されるままに服を脱がされていく。

 橙の手の動きはとても滑らかだった。○○はあっという間に下着姿にされてしまう。○○の顔は次第に赤くなっていき、心臓が激しく脈打つ。体中が、燃えるように熱い。

 

「ああっ……これが○○様のお身体……素敵です。綺麗です。惚けてしまいます……」

 

 橙はその身体をまじまじと見ながら、熱い吐息を漏らす。

 ○○は恥ずかしさから身を捩らせた。そんな彼の様子を見て、橙は嬉しそうな表情を浮かべる。

 

「あら、照れているのですね? 興奮しているのですね? 分かりますよ。だって、こんなにも熱く、滾っているのですから……ね? ああ、早く欲しいです……ねぇ、○○様……?」

 

 橙は艶かしく呟き、○○の腰の上で動き始めた。彼女は自らを○○に押し当てるようにして、擦りつけ始める。

 

「や、やめて……」

 

 ○○は慌てて制止しようとした。だが、橙は聞く耳を持たない。彼女は○○の胸に両手を当てて、身体を前後に動かし始める。

 

「んっ……うんっ……どうです、かぁ?」

 

 橙は○○を見下ろしながら、問いかけてきた。○○は歯を食いしばり、何も答えられない。

 ○○は身体に快感を感じつつも、複雑な気持ちを抱いていた。目の前にいるのは、自分の知っている橙ではない。そう思うことで、何とか理性を保っていた。

 

「くっ……あぁっ……いいっ! これぇっ!」

 

 橙は頬を上気させながら、激しく動く。彼女の口からは絶えず嬌声が漏れていた。○○は布団を握り締めながら、その様子を眺めることしか出来ない。

 

「ああっ、もう、わた、しぃっ……ぃ……ぅっ!」.

 

 橙の動きが、より一層激しくなり、そして、終わりを迎えた。彼女は全身を大きく痙攣させたあと、脱力したように倒れ込んできた。○○は慌てて抱き止める。

 橙は肩で大きく呼吸をしていた。しばらくすると、彼女の呼吸が落ち着いてくる。すると、橙は○○の顔を見た。その瞳には欲望の色が見える。

 

「うふふ……予行演習は終わりました。本番は、これからです」

「……本番って、まさか」

 

 ○○は恐ろしくなって、思わず声を上げた。橙は優しく微笑むと、○○の耳元で囁いた。

 

「はい。これから○○様は、私と一つに結ばれるのです。ああっ……この日を待ち侘びていました。私と○○様が、愛を確かめ合うための、愛の行為が始まるんです。くふっ……ふふふふっ……」

 

 橙は○○の胸に手を這わせ、撫で回す。そして、ゆっくりと下へと移動していった。○○は慌てて、その手を掴む。

 橙は少し驚いたような顔を見せたが、すぐに妖艶な笑みに戻った。

 

「……大丈夫です。○○様は何もしなくて良いんですよ。私が御奉仕しますから。私に全てお任せくださいませ。ただただ、気持ちの良いことだけを考えていれば、それで良いんです」

 

「……橙……なんで、そんなに変わってしまったんだ。橙……一体、どうして……」

 

 ○○がそう尋ねると、橙は首を傾げた。

 

「変わってなんかいませんよ。私は○○様を愛しているだけです。あの日出会ったあの時から、ずうっと……」

 

 橙は優しく語りかける。○○はその言葉を聞いて、何も言えなくなってしまった。彼女は続けて、○○に話しかける。

 

「それに……これは、○○様のためでもあるのです。私を受け入れるべきなのです。今の私ならきっと、○○様を幸せにしてあげられます。私と一つになりましょう。私だけのものになってしまえば、怖いものはありません。寿命が私達を別つ事もないのです。永遠に一緒にいられるのです。素敵でしょう? だから、私を、受け入れてくださいませ……」

 

 橙は○○の顔を両手で挟んで、真っ直ぐに見つめてくる。その瞳は狂愛を孕んでおり、○○の心を捉えて離さない。○○の心は、彼女への想いで満たされていった。

 

「橙……僕も、君と、一緒になりたい。きみのことが、好きだ。大すき、なんだ。あいし、て……い、る、ち。ぇ」

 

 ○○は絞り出すようにして言った。橙の顔に満面の笑顔が広がる。

 

「はい……はいっ。○○様の気持ちは、知っています。でも、やはり言葉にされると、嬉しいです。本当に……」

 

 橙は嬉しそうに呟きながら、○○の唇に自らの唇を重ねた。先程とは違い、お互いに舌を絡める濃厚なものになる。

 しばらくして、二人は離れた。お互いの唾液が混ざり合ったものが、糸を引く。橙はそれを拭うことはせず、○○に囁いた。

 

「……では、そろそろ始めましょうか。もう我慢が出来ませんから。早く、早くと、私の中が疼いて仕方がないんです。○○様を早く受け入れたくて……ほら、こんなにも溢れてしまって……」

 

 橙の——が、彼女の太股を伝っていく。彼女は○○の下着に手をかけて、それを下ろした。○○の——が露わになると、橙は息を飲む。彼女はゆっくりと身体を起こし、○○の——を握った。そのまま自分の——にあてがい、擦るように動かす。

 

「……○○樣」

 

 橙は熱に浮かされたような表情を浮かべながら、○○を見下ろしている。彼は何も言わず、黙って橙を見上げていた。

 

「……いただきます」

 

 橙は腰を落としていく。

 ゆっくりと、確実に、橙の中へ、○○が、入っていき、僅かな、抵抗の、先に、やがて、二人は、身も心も完全に一つとなった。

 

 橙は目を閉じながら、ピクピクと身を震わせて、その感覚を味わっているようだ。しばらくすると、彼女は目を開き、○○を見下ろす。そして、妖しく微笑んだ。

 

「……ぁはっ! ああ、○○様……ようやく一つになれましたねぇ。これで、私達は、永遠に一緒ですよ。もう、離れることなんて、ないんです。永遠に! ふふっ、あははっ! この痛みが、私の生涯で、最後の痛覚になるのですね! ならば、痛みすら愛おしいのです! ○○様の、もので、貫かれて、ここに、確かに、ありますからっ! くひひひっ!」

 

 橙は自分の下腹部を丹念にさすり、愉快そうな笑い声を上げる。○○はそんな彼女を見上げることしか出来なかった。だが、彼女の中から伝わってくる温もりは、確かに彼の心を満たしていく。

 橙は両手を○○の手に絡ませて、指をしっかりと握りしめてきた。○○もその手を強く握ることで応える。

 

「くふふふっ……さあ、夜は長いですよ……これからいっぱい、仲を深めていきましょうねぇ……二人で……うふっ、くふふふふふふふふ…………」

 

 

 彼女の、言うとおり、夜は、もう、永遠、に

 

 



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アリス前編

 

『雋エ譁ケ縺ョ繧「繝ェ繧ケ繧堤汲繧上@縺ヲ。雋エ譁ケ縺後い繝ェ繧ケ繧堤汲繧上☆縺ョ』

 

 それは何でもない、ある晴れた日のこと。

 人里の大通りから外れた場所に、一人で歩いているアリスの姿があった。

 

 魔法の森に住居を構える彼女は、日頃から自宅に引きこもっており、こうして出歩く事は少ないが、今日は買い物の為に外出していたのだ。

 

 彼女の手には、手提げ袋が握られている。その中身は、先程立ち寄った店で購入した品々だ。主に食料品や日用品などである。

 それらの荷物を抱えながら、アリスは足を早める。今日は新しい人形の制作に取り掛かる手筈だったからだ。

 

 もう一店だけ寄り道をして、さっさと家に帰ってしまおう。そう考えながら、彼女は脇道へと入る。

 この道は、アリスが向かっている店から遠回りになるが、日中でも人影は少ない。アリスは良い意味で目立つ容姿をしているので、なるべく人目を避けるために、普段は通らない道を選んだのだ。

 

 妖怪などの、人間ではない者が人里に居ても、騒ぎになる事はない。しかし、好奇の目に晒されるのは好きではなかった。

 先程耳にした噂によると、最近は人里での面倒な出来事が多いらしい。出来る限り目立たないようにするのが賢明だろう。

 

 とは言え、全く人が来ないという訳ではない。時折、人とすれ違う事もあった。それでもアリスは、極力目を合わせないようにしながら、足早に進む。

 

 そしてまた、前方から歩いてくる者が見えた。痩せ型の若い男だ。特にこれといった特徴のない外見をしており、どこにでもいそうな平凡な顔立ちをしていた。

 

 いつもなら何事もなく、すれ違って終わりであるが、彼はアリスの姿を認めた途端に足を止めて、驚いような表情を浮かべた。

 アリスは怪訝に思いながらも、軽く会釈をして、通り過ぎようとする。

 

「あ、あの!」

「きゃっ!?」

 

 彼はアリスの行手を遮るように身を乗り出して、声を掛けてきた。

 いきなり目の前に現れた男の顔を、間近に見てしまったアリスは、悲鳴に似た驚きの声を上げる。そして反射的に身を後ろに引いてしまった。それから眉間に皺を寄せて、警戒心をあらわにしながら、相手の様子を窺う。

 

「突然すいません! 怪しい者じゃないんです。僕の名前は○○と言います。少しお尋ねしたい事があって」

「……はあ」

 

 相手の勢いに押されてしまい、アリスは何とも言えない返事をする。

 ○○と名乗った若者は、不審さを取り繕うように柔らかな笑顔を見せる。彼は背丈が低く、細身の体躯をしていて、どこか頼りなさげな雰囲気を持っていた。顔つきも優しげであり、とても悪さをする類の人物には見えない。

 

 アリスは観察を終えて、少し肩の力を抜いた。どうやら害はないようなので、とりあえず話だけでも聞いてみる事にした。

 

「あなたの名前は、アリスさん……ですよね?」

「……ええ、そうよ」

「ああ、やっぱり! そうじゃないかと思っていたけど、本当に本人なんだ……良かったぁ」

「はい?」

 

 ○○は心底安心したという様子で、胸を撫で下ろしている。その反応を見て、アリスはますます困惑してしまう。

 相手とは初対面だというのに、何故自分の名前を知っているのだろうか。そう思った彼女は、軽く記憶を探り始める。

 

 しかし、全く覚えがない。そもそも人里には、滅多に外出しないので、人間の知り合い自体が少なかった。

 時折、人前で人形劇を行う事があるが、その観客だったとも思えない。なぜなら、観客は子供が中心で、規模も小さい。それゆえ、知名度は高くないはずなのだ。

 もしかすると、どこかの店先で会ったのかもしれないと、悠長に考えていた矢先である。

 

「前から、君に渡したかった物があるんだ。家に取りに行くから、少し待っててもらえるかな?  すぐに戻るからさ」

「え、ちょっと……」

 

 そう言うなり、○○は踵を返して走り去って行く。アリスは引き留める暇もなく、彼の背中を見送ってしまった。

 その場に取り残された彼女は、狐につままれた気分になっていた。思考の整理が追いつかず、呆然として立ち尽くす。

 

「何なのよ……いったい」

 

 アリスは、ため息混じりに愚痴を吐きながら、通行人の邪魔にならないよう、道端に身を寄せる。見ず知らずの男の言葉に、律儀に従う必要はないのだが、不思議と悪い予感はしなかった。

 それに、先程の彼の慌てぶりを見ると、無下に断る気にもなれない。彼女はそう考えて、しばらく待つ事に決めた。

 

 それから、アリスが少しばかり苛立ちを募らせてきた頃に、○○は息を切らせながら戻ってきた。

 

「ご、ごめん。待たせてしまって……」

「……まあ、別に構わないけど」

 

 余程急いで走って来たのだろう。○○は呼吸を整えながら謝ってきた。

 アリスは文句の一つでも言ってやろうかと考えていたが、その姿をみて溜飲が下がってしまった。なので、早く本題に入りたいにもかかわらず、彼の呼吸が落ち着くまで待ってあげてから、話を切り出した。

 

「それで、私に何か用があるんでしょ?」

「うん、これを渡したくてね」

 

 ○○は手に持っていた風呂敷包みを差し出した。アリスは一瞬だけ躊躇してから、手提げ袋を手首に掛けて、風呂敷包みを受け取り、○○の顔を見る。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「ここで開けても大丈夫かしら?」

「もちろん。むしろ、今すぐにでも確認して欲しいくらいだよ」

 

 アリスは頷き、受け取った包みを開いて、中身を確認する。

 

「えっ、なんで……」

 

 そこにあった物を見て、アリスは人前にもかかわらず狼狽した。

 風呂敷の中には、洋風の人形が一体、包まれていたのだ。それはアリスが作っている人形達と、外見が瓜二つだった。

 

 ただし、服装だけが僅かに違っていた。アリスの作風に合わせて、青を基調とした衣装を身に付けているが、細部のデザインが異なって見える。

 だが、その人形は紛れもなくアリスが作った作品だった。そう確信できるほど、精巧に作られた代物である。

 

 それより、これを○○が持ってきたという事が、最大の疑問点である。アリスは戸惑いを隠しきれないまま、答えを促すように○○を見つめた。彼はその視線を受け、慌てて身振り手振りを交えながら、説明を始めた。

 

「その人形が、森の中に落ちていたのを、偶然拾ったんだよ。それから人づてに聞いて、持ち主がアリスって名前の女の子だと知ってね。容姿の特徴も聞いていたから、直接会って返せないかと思っていたんだ。拾った時にはボロボロになっていたから、頑張って直してみたんだけど、元どおりとはいかなくて。衣装とか、気に障ったらごめんね」

 

 ○○は申し訳なさそうに頭を掻く。

 アリスは驚きで言葉が出なかった。彼は自分が作った人形を拾っただけでなく、わざわざ修繕までしてくれたようだ。

 人形をよく見れば、傷や汚れが多少なりともある。それでも、丁寧に補修されているのが見てとれた。素人目には分からない程度だが、玄人が観察すれば分かる程度の違いであった。

 

 人形の元々の衣装は、大部分が魔法で作った布が使われている為に、人里で売られている布を合わせても、不恰好になるのは仕方がない。

 しかし、人形師と言われるアリスから見ても、多少の違和感を覚える程度の差なので、○○の仕立てた衣装は、完成度が高いように思えた。

 

「そうだったのね。わざわざ届けてくれてありがとう。それに、こんなにも綺麗にしてくれて」

 

 アリスは礼を言いながら微笑む。○○は照れ臭そうに頬をかいて、小さく首を振った。

 

「いや、なんて事ないよ。彼女には、僕の命を救ってもらったからね。感謝したいのはこっちの方さ」

「……え? それは、どういうことかしら?」

 

「僕は外来人と呼ばれる身でね。気付いたら、どこかも知れない森の中に居たんだよ。その時は右も左も分からずに、困り果てて、途方に暮れて。そんな時に、その人形を拾ったんだよ。手に取った途端、突然動き出したのには驚いたけど、僕を助けるように先導してくれるものだから、必死について行ったんだ」

 

 ○○は懐かしそうに語る。アリスは相槌を打ちながら、その話を興味深く聞いた。

 

「お陰で無事に、人里まで辿り着けたんだよ。人形は、それきり動かなくなってしまったけど、いつか持ち主に返せればいいなぁって思っていたんだ」

 

 アリスは○○の話を聞いて納得した。自分の人形を、彼が修繕したのも疑問だったが、どうやらそういう事情があったらしい。

 

 アリスは魔法を使って、人形を動かす事が出来る。命令を与えれば、それに従って行動するが、魔力が切れると、ただの人形に戻ってしまう。

 

 恐らく○○が拾った人形は、アリスがここ最近の内に、弾幕勝負をした際に使用された内の一体で、負傷して地に落ちた所を、回収されずにいたのだろう。

 アリスと逸れたら、魔法の森の住居へと戻るようになっているのだが、この人形は魔力不足でそうもいかなかったようだ。

 

 しかし、○○が人形に触れた時に、動き出したという点が腑に落ちない。

 魔力を与えられたと考えるのが妥当だが、見るからに普通の人間である彼が、そこまでの魔力を有しているのは思えない。

 また、魔力切れを起こした段階で命令は破棄されて、アリスが再び命令しない限りは、一切行動しないはずだ。

 

 アリスは内心、○○への興味が湧いていた。彼は普通の人間では、ありえないような事をしている。それも無意識のうちに行っているようだ。アリスは、それが何なのかを知りたいと思った。

 

「そうだったの。私の人形が、図らずも役に立ったようで良かったわ」

「うん、本当に助かったよ。あのまま一人で彷徨っていたら、孤独と不安に襲われながら、飢え死にするしかなかっただろうね」

 

 アリスの言葉を受けて、○○はホッとした顔で答える。彼女はその様子を観察して、ますます興味を抱いた。

 

「それより、貴方は手先が器用みたいね。人形の修繕も上手だし、衣装も出来がいいと思うわ。どこで学んだの?」

「えっと……まあ、独学だよ。趣味の延長みたいな感じかな?」

 

 ○○が苦笑しながら答えた内容に、アリスは目を丸くした。彼は謙遜しているが、独学でここまで仕上げるとは相当な腕前である。

 完璧ではないにしろ、心を込めて作った事が伝わる仕上がりだ。それは、この道が長いアリスだからこそ分かった事だった。

 

「まだ若いのに凄いわね。尊敬に値するわ」

「いや、褒められる程の物じゃないよ。僕はただ夢中になって、気が付けば出来るようになっていただけだからね」

 

 アリスは素直に感嘆して褒め称える。○○は照れ臭そうに頭に手をやって、頬を緩ませた。

 あまり他人と関わらない性格をしているアリスにしては珍しく、積極的に話しかけている自覚がある。

 

 彼女は他人より魔法に執着していて、人付き合いが苦手という訳ではないが、必要以上に交流を持つ事は避けていた。

 しかし、目の前の彼に対しては、詮索したいという欲求を抑えられないのだ。

 

 この感情は○○の持つ雰囲気によるものだろうか。そう考えたアリスだが、それだけが原因とは思えない。○○はアリスがこれまで出会った人物とは、どこか違っているように思えた。

 

「……ね、ねえ? もも、もしよかったら、私が住んでいる家に、来ないかしら? 紅茶でも飲んでいかない? えっと、その、お礼をしたいのよ……人形、の」

 

 気が付くと、アリスは○○を誘いにかけていた。他人を自宅に招くのは久しぶりで、ましてや男性を招くのは初めてだった。今までにない事なので、緊張で声が上擦ってしまった。

 ○○は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに申し訳なさそうに首を振った。

 

「せっかくだけど遠慮しておくよ。人形の事は、お互い様だからね。時間を取らせちゃったし、これ以上は悪いから」

 

「あっ、えっ? そ、そう……」

 

 アリスは拒否されるとは思ってもいなかったからか、戸惑いを隠せずに目を泳がせる。対人の経験が不足している彼女にとって、異性との駆け引きは難しい行為であった。

 

 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。どうにか引き留めようと思考を回転させて、ある事に思い至り、ハッとする。

 

「あ、貴方、外来人なのよね? 実は私、前から外の世界に興味があって、その、少し話を聞かせてほしいかな……なんて」

 

 アリスは○○の反応を窺うように、恐る恐ると尋ねる。○○は不思議そうな表情をして、小さく首を傾けた。

 彼が何も言わないので、アリスは自分の発言が不自然だったのかと思い、不安げに視線を彷徨わせる。

 すると、○○の方も困ったような顔で考え込み始めた。数秒ほど沈黙が流れ、やがて彼は何か閃いた様子で口を開く。

 

「僕が話せる事なんて、たかが知れてるから、僕より詳しそうな人を紹介するよ。その人も外来人なんだ。きっと、色々教えてくれると思うよ」

 

「あ、ちがっ、そうじゃなくって! その……わた、私は、貴方の話が、聞きたいの! そう、貴方の事が知りたいのよ!?」

 

 アリスは慌てて否定し、○○の勘違いを指摘する。しかし、焦って早口になってしまったせいで、上手く言葉が紡ぎ出せなかった。

 

「あっ」

 

 彼女は自分の言動を恥じるように俯き、羞恥心によって耳まで真っ赤に染まっていく。

 どうにもならない状況に、彼女は耐え切れず逃げ出したくなった。しかし、今更去る事も出来ず、ただ黙る事しか出来ない。

 

「まあ、そこまで言うならいいよ。あまり長居は出来ないけど」

「……そ、そうっ!」

 

 そんな彼女の心情を知ってか知らずか、○○はあっさりと承諾する。彼は特に気にしていないようで、いつも通りの調子で笑みを浮かべていた。

 アリスは安堵して胸を撫で下ろす。彼女の心境は羞恥で一杯だったが、同時に嬉しくもあった。

 

「じゃあ、早速行くわよ! 飛んで行くから、私に捕まってねっ」

「え? う、うん」

 

 アリスは気分が高揚している事を悟られないように、人形を強く抱きしめて、○○に告げた。彼は不思議そうな顔をしながらも、言われた通りにアリスの腕を掴む。

 

「……そうじゃなくて、背中にしがみ付いてほしいの。私は両手が塞がっているし、それだと落ちてしまうわ」

「そうなんだね。分かったよ」

 

 ○○は素直に従って、アリスに抱き着くような形でしがみ付いた。彼の体温を感じて、アリスは鼓動が速くなるのを感じる。自分で言った事なのに、彼女は動揺を隠し切れなかった。

 

 アリスは○○に気付かれないように、深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、魔法を発動させる。すると、二人の体が宙に浮いて、地面から足が離れた。

 術者と、それに触れているものを浮かせる魔法である。対象が人間の場合は体重が重いので、重心を安定させる為に、術者にしがみ付いてもらう必要があった。

 

「うわっ!?」

 

 空を飛ぶという未知の体験をした事で、○○が驚きの声を上げる。アリスは彼を驚かせてしまった事に、少々の罪悪感を抱きながらも、楽しげな笑みを見せた。

 

「少しだけ我慢してね。すぐに着くから」

 

 そう言って、アリスは目的地に向けて飛行を開始する。最初は戸惑っていた○○だが、次第に慣れてきたらしく、周辺を見回して景色を楽しむ余裕が出てきたようだ。

 

 あまり人里の中で目立つ行動は取りたくないので、普段は魔法を使わないアリスだが、今回ばかりは完全に失念していた。

 幸いにも周囲に目撃者は居なかったようだ。それでも普段の彼女であれば、このような無茶はしなかっただろう。

 

 しばらくの間、二人は無言のまま飛び続けた。○○は初めての空の旅に感動しており、アリスは彼の温もりを肌で感じて緊張してしまっている。どちらも喋る雰囲気ではないので、お互いに黙り込んでいた。

 やがて、目的地である魔法の森が眼下に迫った。

 

 ○○は地上に降り立った時の衝撃に備えて、体を強張らせていた。アリスは、そんな彼の様子を気にかけて、可能な限りゆっくりと着地した。

 

「着いたわよ」

 

 アリスの言葉を聞いた○○は、彼女から離れて恐る恐ると目を開ける。そこは、薄暗い森の中だった。

 二人の眼前には、陰鬱な森の雰囲気にそぐわない洋風の一軒家がある。周囲は鬱蒼とした木々に囲まれ、陽光が遮られていて薄暗い。じめじめと湿っぽい空気と、鼻につく独特の匂いが、辺り一帯に立ち込めていた。

 

「早く家に入りましょう。ここの空気は、人間に悪影響だから」

「う、うん」

 

 アリスは人形と手提げ袋を両手に持ちながら、○○に声をかける。彼は戸惑いつつも返事をして、アリスの後をついていった。

 アリスは玄関の扉を開けて、一足先に中に入る。そして履物を脱いでスリッパに履き替えると、振り返って彼に手招きをした。

 

「お邪魔します」

 

 ○○も靴を脱ぎ、アリスに倣ってスリッパに履き替えた。それから居間まで移動して、二人共ソファーに腰かける。

 

「何というか、おしゃれで綺麗な部屋だね。アリスさんみたいな人に映える感じがするよ」

 

 ○○は室内を見回しながら呟いた。

 家の内装は、全体的に落ち着いた色合いで統一されており、壁に掛かった時計や絵画などの調度品からも、品の良さが窺える。

 窓際に置かれた観葉植物が彩を添えており、清潔感のある印象を受ける空間だった。

 

「そんなにじろじろ見ないでよ。ちょっと恥ずかしいわ」

 

 アリスは照れ臭そうに微笑んで、頬を赤らめる。こうも率直に褒められると、嬉しい反面、どう反応すれば良いのか分からなくなってしまうのだ。彼以外に招いてきた客人達は、お世辞でもそのような事は言わなかったから。

 それから、アリスは気を取り直すように小さく咳払いをして、○○に話しかける

 

「取り敢えず、紅茶でも飲みながら話をしましょうか?」

「そうだね。お願いしようかな」

 

 ○○は彼女の提案に同意して、笑顔で答えた。その様子からは緊張感など微塵も感じられず、慣れている様子でソファーに座っている。

 そんな○○を見て、アリスは自分の方が意識している事が恥ずかしく思えてきて、苦笑いを浮かべた。

 

 アリスは○○から視線を逸らすと、持っていた人形に魔力を流し込む。すると、おもむろに人形が動き出して、台所へと向かっていった。

 

「……さっき空を飛んだように、アリスさんは本当に魔法使いなんだね。凄いなぁ」

 

 一連の動作を眺めていた○○が、感嘆の声を上げて、目を輝かせる。彼にとっては魔法が珍しいようで、羨望の眼差しを送っていた。

 

「そんな大した事じゃないわ。私なんて、まだまだ未熟者よ」

 

 アリスは謙遜するように言って、少し困ったような笑みを見せる。彼女は○○に尊敬されている事を嬉しく思いながらも、自分の実力を客観的に評価して、自嘲気味に笑っていた。

 

 アリスは元々人間だったが、修行を重ねて魔法使いになった経緯を持っている。

 歴は浅く、食事や睡眠などの、魔法使いならば本来取らなくていいものを、未だに癖で取っていた。まだまだ人間に近い感覚を持っており、魔法使いとしては新米も同然なのだ。

 

「魔法とか妖怪とかも、全部本の中の出来事だとばかり思っていたよ」

 

 ○○は感慨深げに言う。彼にとって、この世界は非現実的なものだった。それは彼の常識から逸脱しているものであり、受け入れ難いものである。しかし、実際に体験してしまえば、受け入れる他ないようだった。

 

「ここは、まるで不思議の国みたいだね。丁度、アリスもいるし、人の言葉を喋る動物もいるらしいから」

「不思議の国のアリスね。まあ、確かに言い得て妙だわ」

 

 アリスは小さく笑って、○○の言葉に同意した。確かに幻想郷は不可思議で満ち溢れており、現実味がない。魔法という幻想があるのだから、当然とも言えるだろう。

 

「でも、私は童話のアリスではないわ。私はアリス・マーガトロイド。それが私の名前。不思議の国の住人には、なれないのよ」

 

 アリスは穏やかな口調で言う。それから、台所から戻ってきた人形が、テーブルにティーセットを置いて、紅茶を注ぐ様子を見届けてから、○○の方へ顔を向けた。人形は台所へと引き返して行く。

 

「僕はアリスさんこそ、本物のアリスだと思うけどね。金髪で、青い瞳で、青の洋服を着ていて。それに、お人形みたいに可愛いし」

 

「か、可愛いって……やだ、そんな……」

 

 ○○の率直すぎる言葉を受けて、アリスは顔を真っ赤にして俯いてしまう。彼と話していると、どうしても普段の自分とは違う態度になってしまうのだった。

 人形の操り方さえ忘れてしまいそうなほど、感情が揺り動かされる。しかし、決して嫌ではなかった。むしろ、心地良さすら覚える。

 

 アリスは動揺を隠すように、手元に置かれたティーカップを手に取って、紅茶を口に含んだ。そして、○○に気付かれぬよう平静を装って、静かに息を吐く。

 

「ほら。貴方も冷めないうちに飲んだ方が良いわ」

「うん、そうだね」

 

 その言葉につられて、○○は目の前に置かれたティーカップを眺めた。それは白地に花の模様が施されていて、いかにも女性が好みそうな物だった。中身は薄い赤色をしているため、恐らくは紅茶だろう。

 

「いただきます」

 

 手にとって口元に近づけると、深みのある上品な花の香りが鼻腔をくすぐる。

 そのままティーカップを傾けて一口含めば、さっぱりとした風味が口内に広がった。飲みやすい温度で作られており、とても美味しく感じられた。

 

「おいしい……」

 

 彼の口から、無意識に感想がこぼれた。まだ年若い○○に紅茶の味の違いが分かるはずもないが、この紅茶は彼の口に合っていたようだ。

 その様子を見て、アリスは自分も紅茶を一口飲んでから、○○に話しかける。

 

「それは良かったわ。クッキーもあるから召し上がれ」

「うん、ありがとう」

 

 台所から戻ってきた人形が、テーブル上のティーポットの側に、クッキーが盛られた皿を置いた。それから人形は○○に一礼した後、お役御免とばかりに部屋から退室していった。

 ○○は、その人形の動きを目で追っていたが、すぐにアリスへと視線を戻す。

 

「このクッキーは手作り?」

 

 ○○が質問すると、アリスは少し驚いた表情を浮かべた後、どこか嬉しそうに答える。

 

「ええ、そうよ。よく分かったわね」

 

 アリスは褒めるように言った。彼女が作ったクッキーは、店売りの物と比べても遜色ない出来栄えであり、素人目に見ても完成度が高い事が窺える。

 

「作り置きのもので悪いけど、味は保証するわ」

 

 アリスは謙遜するように言った。彼女は人里から離れた森の奥に住んでいるため、普段から自分で料理を作って食べているのだ。

 

「アリスさんが作った物なら、何でも美味しいと思うよ」

 

 ○○は笑顔で言って、手に取ったクッキーを齧った。サクッと良い音がして、香ばしい匂いが広がる。咀しゃくしてみれば、程よい甘さが感じられ、素朴ながらも優しい味わいをしていた。彼は満足げに飲み込んでから、再び笑みを見せる。

 

「やっぱり美味しい。アリスさんは、お菓子作りの才能があるよ。これなら毎日食べたいくらいだ」

「えっ……」

 

 彼の言葉を受けたアリスの胸中に、仄かな熱が生まれた。体が熱くなるのを感じながら、アリスは○○から目を逸らす。

 彼に喜んでもらえると、こちらも明るい気持ちになる。自分が作った物を、誰かに振る舞う機会など滅多にないため、余計に喜んでいる様子が印象的だった。

 

 アリスは○○に気づかれないよう小さく息を吐いて、心を落ち着かせる。それから咳払いをして、会話を続けた。

 

「ほ、褒めても、何も出ないわよ……」

 

 アリスはうわずった声で返事をする。その様子は明らかに普段とは違っており、傍から見ても不自然だった。

 しかし、○○は特に気にした素振りを見せず、朗らかに笑う。

 

「本当の事だよ。アリスさん自身が、こう、何というか、少女的だからね。甘いお菓子とか、可愛い人形とか、そういうものが似合うような印象で。料理って作った人の人柄が出るものだから、さっきも言ったけど、きっとアリスさんの作るものは、どれも美味しいんだろうなって思うんだ」

 

 ○○の言葉を聞いて、アリスは顔を真っ赤にする。恥ずかしさと嬉しさが同時に押し寄せてきて、どんな反応をすればいいのか分からなくなった。ただ、それでも、どうにか言葉を紡ぎ出す。

 

「そ、そうかしら……」

 

 アリスの声は震えていた。しかし、それは決して恐怖や不安といった負の感情からくるものではなかった。

 彼女の心に渦巻いている感情が何なのか、本人にも理解できていない。ただ、一つだけ言える事があるとすれば、それは○○に対する純粋な好意だった。

 

 アリスは○○の顔を見る事ができず、俯きがちになってしまう。自分の心の中で何かが変わりつつある事を自覚しながらも、それをどう表現したら良いか分からないのだ。

 ○○はそんな彼女の様子を見て、不思議そうにしながらも話を続ける。

 

「さてと……。アリスさんは、外の世界の話が聞きたいんだったよね? 僕にできる範囲の事だったら、何でも話すよ」

 

 ○○は優しく微笑んで言う。その言葉にアリスは、はっとして顔を上げて彼を見た。

 そう言われて、彼女はようやく、自分がどうやって○○を誘い出したのかを思い出したのである。彼の言動に動揺していたせいで、すっかり忘れてしまっていたようだ。

 

「あっ、あ……あぅ、あの、えとっ、えっと、そうね……」

 

 アリスは慌てて思考を整理し、何とか話題を探す。そして、頭に浮かんできたものを、適当に口走った。

 

「あ、貴方の事を教えてほしいわ」

 

 アリスは○○の事を深く知らない事に思い至り、咄嵯に思いついた言葉を投げかける。それは脈絡のない答えだったため、アリスはすぐに後悔した。自分でも何を言っているんだと思ったが、今更撤回はできない。

 

 ○○はアリスの様子を不審に思ったものの、特に追求するような事はしなかった。彼は穏やかな表情のまま、アリスに向き直る。

 

「うん。まず話し手の事を知ろうっていう姿勢は良いと思うよ。じゃあ、そうだね。なんの話をしようかなぁ……」

 

 ○○はテーブルに頬杖をついて、少しの間考え込む。しばらくして、ゆっくりと語り始めた。

 

「僕には、歳の離れた妹が一人いるんだ。妹は生まれつき体が弱くて、よく体調を崩してしまう子だった。だから、外で遊ぶ事よりも、家で本を読んだり、お人形遊びをするのが好きな子でさ。僕も出来る限り、妹に付き合ってあげていたんだけどね」

 

 ○○の口から語られる思い出話は、まるで子供に絵本を読んで聞かせるような口調だった。

 アリスは黙って耳を傾けていたが、次第に引き込まれていく。彼の声色はとても優しいもので、聞いていて心が安らぐのだ。

 

「妹はメルヘンチックな女の子でね、空想の世界に憧れているようなところがあったんだ。特に、本で言うとグリム童話とか、それこそ不思議の国のアリスが好きみたいで。妹がまだまだ小さかった頃から、何度も読み聞かせてあげたんだよ」

 

 ○○は懐かしむように言って、遠い目をする。彼にとって、その記憶は大切な宝物なのだろう。アリスは、そんな彼の様子に胸を打たれながら、彼の言葉に相槌を打つ。

 

「妹が幻想郷のことを知ったら、きっと羨ましがるだろうなあ。空を飛ぶ人や、魔法で動く人形がいるなんて、向こうじゃ考えられないからね。それに、妖怪や妖精もいるし、不思議な事で溢れている。妹にも見せてあげたいよ……」

 

 ○○はしみじみと言う。その様子からは、本当に妹を大切に思っている事が伝わってきた。

 アリスは彼の話を聞きながら、そんなにも大切に想われている妹の事を、少しだけ妬ましく思う。彼の心を独占しているのは、自分ではなく、別の女だという事を、仄かに意識してしまったのだ。

 アリスは胸にモヤモヤしたものを感じながらも、○○に話しかけた。

 

「……さぞかし、可愛らしい子なんでしょうね。私も、一度会ってみたくなったわ」

 

 アリスは努めて冷静な声色で言い、クッキーを口に運ぶ。サクッという音と共に、口内に甘さが広がっていった。甘味は心を落ち着かせてくれる。

 アリスはそれを実感しながら、紅茶を一口飲んで喉を潤した。

 

「そうなんだよ。僕が言うのも何だけど、とても可愛くて甘えん坊なんだ。将来は、アリスさんみたいな可憐な女の子になるんじゃないかな?」

 

「……そう」

 

 ○○の言葉を聞いて、アリスの心の中に、暗い感情が生まれた。○○が他の誰かを褒めると、何故か落ち着かない気持ちになる。ティーカップを持つ手が、僅かに震えている。

 先程まで感じていた幸福感が嘘のように消え去り、代わりに黒い影が根を生やして、心を蝕んでいくような感覚を覚えた。

 一方○○は、変わらず楽しげに喋り続けている。

 

「誰よりも僕に懐いてくれていてさ。大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになりたいって言っていたくらいなんだ。時々くっつかれ過ぎて、困っちゃう時もあるけどね」

 

 ○○の口から、次々と妹との思い出が溢れ出す。

 アリスは、その言葉を耳にしながら、胸の奥底に溜まっていく何かを感じていた。彼の、妹に対する愛情が、言葉を通して自分に流れ込んでくる。それが、どうしようもなく不快だったのだ。

 

 しかし、どうする事もできない。○○に悪意はないのだ。アリスと○○は今日初めて会ったばかりの関係で、一方的な激情をぶつけるのは筋違いであると、アリスの理性が訴えていた。

 

「それで、この前なんか僕の布団に——」

 

 アリスは自分の心の醜さに嫌気が差しながらも、○○の話を聞くしかなかった。○○の語る妹との思い出話が、段々と苦痛になっていく。

 

 血の繋がりがある兄妹というのは、こんなにもお互いを想い合う事ができるのだろうか。自分が○○に抱いている感情とは真逆のものを見せられて、アリスは自分が惨めに思えてくる。

 

 アリスは次第に、自分が何のために○○を家に招いたのか、分からなくなっていった。

 最初は、彼の事を教えてもらうために話をしていたはずだ。しかし、今では○○の口から語られるのは、妹の話ばかり。これ以上聞いていたくないという思いの方が強くなっている。○○は悪くないと分かっているはずなのに、彼に悪態をつきたい気分だった。

 

 ○○はアリスの様子を気にせず、楽しそうに語っている。それはまるで、自分の愛する妹が、どれほど素晴らしい存在なのかを自慢しているようであった。

 

「……ごめんなさい。ちょっと、お花を摘みに行かせて」

「えっ? ああ、うん。分かったよ」

 

 アリスは耐えきれなくなり、席を立つ。○○は不思議そうな顔をしたが、特に追求せずに了承した。

 

 アリスは居間を出て、トイレに向かう。用を足すふりをして、洗面台の前で立ち止まった。鏡に映る自分の顔を見て、思わずため息をつく。

 

「……うん」

 

 アリスの顔には、はっきりと分かるほど嫌悪感が浮かんでいた。

 ○○の語る妹への愛情は、アリスにとっては毒にしかならない。だが、彼はただ純粋に、家族として妹を愛しているだけだ。それは理解していても、アリスの頭の中では、様々な思考が巡ってしまう。

 そのうちに、一つの寝具の中で抱き合って、睦言を交わす男女の姿が脳裏に浮かび、吐き気を覚えた。

 

「うぷっ……!」

 

 胃液と一緒にせり上がってきた激情を飲み込み、口元を押さえながらアリスは思う。先程まで、アリスの心の中を占めていたものは、このような醜いものではなかったはず。

 

 それが今はどうだ。まるで火山が噴火するように、心の奥底から熱いものが溢れ出してくる。その熱さの正体が何であるのか分からないが、とにかく不快で不愉快で仕方がないものだった。限りある理性が、削り取られていくような感覚さえ覚えてしまう。

 

 アリスは何度も深呼吸をし、気持ちを落ち着かせようと試みる。やがて、マグマのような感情は冷めていき、幾分か冷静な思考を取り戻すことができた。だが、冷え固まった溶岩を残して重くなった心は、依然として晴れなかった。

 アリスは顔を上げ、再び鏡の中の自分を見つめる。青い瞳の中に、暗く冷たい炎が揺らめいていた。

 

「私が……○○の……妹だったら……」

 

 ふと、アリスの頭の中に、そんな考えが浮かんだ。彼の愛情を一身に受けられるのは、自分であれば良かったのに、と。

 

「……違う。私はアリス。アリス・マーガトロイドだわ。他の誰でもない。私はアリス……私はアリス……」

 

 アリスは首を振って、邪念を振り払う。自分は○○の妹ではない。ただ一人のアリスだ。そんな事を考えていても仕方がない。

 

 アリスは自分に言い聞かせるように呟いて、居間に向かって歩き出した。

 

 

 

 アリスが戻ってくると、○○はクッキーを食べながらくつろいでいた。

 

「少し待たせちゃったわね」

 

 アリスは元居た場所に座り、紅茶を口に含む。まだ少しだけ温かかった。

 

「いやいや。それより、このクッキーは舌を飽きさせない味だね。つい食べ過ぎちゃったよ」

 

 ○○の言葉を聞き、アリスはテーブルに置かれたクッキーの皿に視線を向けると、一見して数が減っているのが見て取れた。アリスは微笑を浮かべて答える。

 

「ふふっ。気に入ってくれたみたいで嬉しいわ」

 

 アリスは内心で安堵する。今ならまだ、普段通りに振る舞えるだろう。気持ちの切り替えが上手くいったみたいだ。

 

「僕だけ話すのも何だから、今度はアリスさんの事を教えてよ」

「え、ええ……構わないけれど」

 

 アリスは戸惑いながら答えた。まさか、○○の方から、そんな事を言われるとは思わなかったのだ。しかし願ってもない提案なので、断る理由はない。もう妹に関する話は、金輪際聞きたくなかったからだ。

 

「まず……そうね、私は今は魔法使いだけど、元々は人間なのよ」

 

「へえ、生まれつきじゃないんだ。魔法使いって誰でもなれるものじゃないと思うんだけど、やっぱり才能とか関係するのかな?」

 

 アリスの言葉を聞いて、○○は興味深そうな表情を浮かべて質問をする。アリスは少し考えてから、ゆっくりと語り始めた。

 

「それもあるし、普通の人間でも修行すれば大抵はなれるわ。でも、途方もなさすぎる労力と時間を要するの。人生の大部分を、魔法の習得に費やさないといけないのよ。気づいたら年老いて死んでいました、なんて事もあり得るくらいにね」

 

 アリスは遠い目をして言った。○○は彼女の話に興味があるようで、真剣に聞いている。

 

「じゃあ、アリスさんは凄い才能を持っているんだね。年は僕と同じくらいに見えるけど、見た目通りの年齢ではないのかい? 若返りの魔法とか使えるのかな」

 

 ○○は純粋な疑問をぶつける。アリスは自分の外見について触れられたので、一瞬ドキリとした。しかし、動揺を悟られないように平静を装って答える。

 

「……それ聞いちゃうの? そうね、私の年齢は……秘密にしておきましょう。ただ、魔法使いになった瞬間に、老化が止まるって事だけは教えておくわ」

 

「そ、そうだね。不躾な事を聞いてしまったね。ごめんなさい」

 

 アリスの返事を聞いて、○○は慌てて謝った。アリスは彼の様子にクスリと笑う。真面目に謝罪してくれるあたりが、彼の人柄の良さなのだろう。

 

「魔法もそうだけど、私は人形を作るのが好きで、日頃から作っているわ。貴方が拾ってくれた人形も、その内の一体なの」

 

 アリスは話題を変えるために、自分の趣味を話始める。○○はアリスの話を聞くと、驚いたような顔を見せた。

 

「あれって手作りだったの? それは気付かなかったよ。あんな精巧なものを作れるなんて、アリスさんはとても器用なんだね」

 

 ○○は関心した様子で言う。アリスは彼の言葉に満足すると、胸を張って誇らしく語った。

 

「ま、まあ、人形作りに関しては、自信はあるわ。他の誰にも負けないと自負しているの」

 

 アリスは自分が褒められた事で、得意げな態度になる。心の中に光が差し込んだ気分だった。先ほどまで感じていた不安が消え去り、いつもの調子を取り戻す。

 

「……そうだわ。ねえ、私が今までに作った人形を、見てみたくはないかしら? きっと気に入ると思うの」

 

 アリスは妙案を思いついたかのように言うと、○○の反応を待つ。彼は少し考えた後、答えた。

 

「うん。是非見せて欲しいな」

「そう! なら早速、私の作業部屋に行きましょう!」

 

 ○○の言葉を聞き、アリスは嬉しそうな声を出す。そして勢いよく立ち上がり、彼を先導するように歩き出した。自分の作品に興味を持ってもらえる事が、彼女にとってはとても喜ばしかったのだ。

 

 二人は居間を後にして、作業部屋に向かった。アリスは上機嫌で廊下を歩くと、部屋の扉を開けて中に入る。○○はアリスの後に続いて行くと、目の前に広がる光景に目を奪われた。

 

 そこは人形の世界であった。

 壁棚には所狭しと並べられた無数の人形達。床や、作業台であろう机の上に置かれた物もあり、まるで小さな街のように賑わっていた。

 

 どの人形達も、人間の頭程度の大きさで、金色の長髪に赤いリボンを付けている。

 服装は青を基調としたメイド服や、赤を基調としてフリルをあしらったドレスなど様々だ。

 ○○は圧倒されながらも、興味深そうに見回していた。すると、人形の一体に目を止めた。

 

「アリスだ」

「え?」

 

 ○○の言葉を聞き、アリスは振り向く。彼の視線の先には、見慣れた人形があった。

 

「……何を言ってるの? それは、私が作った人形よ。アリスは、私」

 

 アリスは呆れたように言った。すると、○○は我に返ったのか、慌ててアリスへと顔を向ける。

 

「あれ、僕なんか言ったっけ? ごめん、無意識に口に出しちゃったみたいだ」

「もうっ、しっかりしてよね」

 

 ○○は恥ずかしそうに頬を掻いて謝罪した。アリスはその様子を見て微笑むと、壁棚の方へと歩いていく。

 彼女は○○が見ていた人形の前で立ち止まると、その顔をじっと見つめた。青色に染められた瞳は、無機質に光を放っている。

 

 アリスはしばらく人形を見つめると、ゆっくりと手を伸ばした。彼女の指先が人形に触れる。人形はピクリとも動かない。当然、魔法を使わないと動く事はないのだ。

 アリスは人形を手に取って、○○の方に向き直る。

 

「少し試したい事があるの。手伝ってくれる?」

「僕でよければいいよ。何かな?」

「ありがとう。じゃあ、この人形を持ってくれないかしら」

 

 ○○は快く引き受けてくれた。アリスは○○に礼を言うと、手に取った人形を彼に手渡す。

 ○○はそれを受け取ると、不思議そうな表情を浮かべながら、人形を眺めた。

 

「何か、感じない? 抽象的な事でもいいから」

 

 アリスは質問した。○○は人形を色々な角度から見回すが、特に何も感じなかったようだ。彼は首を傾げると、口を開いて答える。

 

「……いや、何もないよ。これがどうかしたのかい?」

「……そう」

 

 アリスはその言葉を聞いて、少し肩を落とした。ある意味、予想が外れたという事である。しかし、落胆する訳にもいかないので、気を取り直すと説明を始めた。

 

「貴方が魔力の切れた人形を操ったと言ったから、また同じ事が出来るかと思ったの」

 

 アリスは人形に目を向けて、寂しげな口調で言う。○○はアリスの様子を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「それは……もう無理かな。僕も里に辿り着いた後に何度か試してみたけど、結局は出来なかったんだ。あの時だけだよ」

「……じゃあ、貴方の意思で動かした訳ではないのね」

 

 アリスは残念そうな声で呟いた。○○もアリスと同じように、人形を悲しそうな目で見る。

 アリスは彼の様子を窺うと、再び口を開いた。

 

「そこまで気に病まないで。貴方は悪くないんだから」

 

 アリスは慰めるように言うが、○○は落ち込んだままだ。アリスは彼の様子を見て、困ったような顔になる。どうにか元気付けたいが、良い言葉が思い浮かばない。

 その時、○○の持っていた人形が、突然身動ぎした。

 

「うわっ!」

 

 彼は驚いて、人形から手を離した。しかし、人形は床に落ちる事なく、宙をふよふよと漂っている。

 それから、人形は○○の顔に寄っていき、頭を撫でるような動作をした。まるで、彼を慰めているようである。

 アリスは驚きで目を大きく開いた後、感嘆の声を上げた。

 

「……凄いわ。人の感情を、人形が読み取っているみたい。これは、人形に意思が宿ったと考えていいのかしら」

 

 アリスは独り言のように呟くと、顎に手を当てて考え込む。○○はアリスの反応に戸惑いながらも、人形について尋ねた。

 

「え、これって、アリスさんが動かしてるんじゃないの?」

「私は、今は何もしていないわ。ただ、人形が自立して動いているように見えるわね」

 

 アリスの言葉を聞き、○○はもう一度人形を見た。人形は可愛らしく首を傾げて、彼を見つめている。まるで人間のような仕草だ。

 ○○は恐る恐る人形に触れた。すると、人形はこそばゆいのか、その体をピクリと震わせた。

 

「ははっ、可愛いなぁ」

 

 ○○は嬉しそうに人形を掴んで、胸に抱き抱えた。人形は抵抗する事もなく、なすがままになっている。その姿は、さながら兄妹のようであった。アリスはその様子を見て、微笑ましそうな表情になった。

 ○○は、しばらく人形と戯れていたが、満足したようで、人形を元の場所に戻す。人形は彼の手から離れると、動きを完全に止めて、無感情にその場に佇んでいた。

 

「……完全自立とは、いかなかったみたいね。でも、確かに自我を持っていたのは、間違いないみたい」

 

 アリスは人形に近付くと、その頬を指先で優しく突く。人形は何も反応せず、ただ佇むのみ。アリスは人形を見つめたまま、静かに語る。

 

「私ね、今までに沢山の人形を作ってきたの。純粋に人形が好きだからってのもある。でも、最終的な目標は、完全な自立人形を作る事。私の意思とは関係なく、自由に、気ままに動く人形。今、その一歩手前まで来ていたと思うんだけど……」

 

 アリスはそこで言葉を区切ると、○○の方へ振り返る。そして真剣な眼差しを向けた。

 

「そうなんだ。でも、アリスさんは人形を自在に動かす事が出来るじゃないか」

 

「私のは魔法で操っているだけで、それに命令をしないと動かないのよ。だから、自立とは言えないわ。貴方がやったように、人形自身の意思で動かす事は出来ないもの。私には……出来そうにないわ」

 

 アリスはそう言って肩を落とした。彼女は長年、自立人形について研究してきたが、結局は魔法の力に頼るしかなかったのだ。それが、いとも容易く破られてしまった事に衝撃を受けた。

 ○○はそんな彼女の様子に気付き、慌てて慰めようとする。

 

「いやいや、僕自身よく分かってないんだよ。人形には何もしてないし、勝手に動き出したと言うか……」

「それでもよ」

 

 アリスはきっぱりと言い放つと、俯いて口を閉ざした。自分でも拗ねて意地になっている事を理解しているが、素直に認めるのは中々に難しい。

 

「でもさ、今のままでも充分凄いと思うよ。こんなに可愛らしい人形を自作出来るんだから、もう少し誇ってもいいんじゃないかな。アリスさんが人形を大事に思ってるのは、十分伝わってくるし。物を大切にしていると、それに心が宿ると聞いた事があるんだ。きっと、この人形だから、出来た事だと思う。僕は、そう思う」

 

「そ、そうなのかしら……」

「うん」

 

 ○○の言葉を聞いて、アリスは顔を上げる。彼の言葉は不思議と信じられた。それは、彼が嘘をつく様な人間ではないからだ。まるで、心を癒す魔法のようだった。

 

「……ありがとう。貴方が可能性を示してくれたから、少し自信を持てた気がする。私はこれからも、人形を作り続けるわ」

 

「うん。僕も応援するよ」

 

 ○○はそう言うと、アリスに向かって笑顔を見せた。その笑顔を見て、アリスも釣られて笑みを浮かべる。アリスの心は、○○の優しい人柄に惹かれて、徐々に安らいでいった。彼となら上手く付き合っていけると、確信めいた予感を抱く。

 

 彼と共に過ごす日々を思い浮かべていると、自然と胸の奥から、幸せな気持ちが溢れてくる。彼と同じ趣味を共有出来たら、どんなに楽しいのだろうか。彼と共に人形を作る。それは、きっと、素晴らしい時間になるだろう。

 アリスはそんな事を考えながら、○○の顔を見つめていた。その思いは段々と強くなっていき、やがて抑えきれなくなった。

 

「ねえっ、貴方も人形を作ってみない? 二人でなら、より捗ると思うのだけど」

「え? 僕が、かい? でも、やり方とか全然分からないんだよね」

 

 アリスは思いの丈をぶつけるように、○○へと問いかけた。彼は少しだけ困ったような表情で答える。すると、アリスはここぞとばかりに○○の手を取って、興奮気味に語りかけた。

 

「大丈夫よ! だって、裁縫が得意なんでしょう? それに、私が手取り足取り教えてあげるから、ね? ねっ?」

「うーん……」

 

 アリスの言葉を聞いて、○○は考え込むように視線を宙に彷徨わせた。

 しかし、彼の返事を待つまでもなく、アリスの中では答えが出てしまっている。彼女の中では既に、○○がこの誘いを受ける事は、決定事項となっていたのだ。こんなにも素晴らしい申し出が、断られるはずがない。

 

「せっかくのお誘いなのに悪いけど、遠慮しておくよ」

 

「…………え。ぁえ? ……あ、あれ、ど、どどっどう、してぇ?」

 

 予想外の言葉を受けて、アリスは動揺した様子を見せる。青天の霹靂だ。断られた事が信じられず、頭が真っ白になってしまう。どうして断ったのか理由を聞きたいのだが、混乱しているせいで舌が全く回らなかった。

 

「元いた世界に帰るからだよ。今日明日って訳じゃないけど、いずれは帰らないといけないんだ。なにせ妹が心配だからね。だから、あまり時間は取れないんだ」

 

 ○○はそう言って、悲しそうに目を伏せる。その表情からは、寂しさと悲しみを感じさせた。

 アリスはその様子を見ると、何も言えなくなってしまう。そして、気まずい沈黙が訪れた。

 

「……ごめんね。だけど、アリスさんには感謝しているんだ。おかげで色々と勉強になったし、楽しい時間を過ごせた。妹にも、いい土産話が出来そうだよ」

 

「……妹」

 

 アリスは小さく声を漏らすと、唇を噛んだ。

 

 

まただ

またしても妹が邪魔をしてくる

二人だけのお茶会を終わらせようと何度も立ち塞がってくる

不愉快だ

本当に腹立たしい存在だ

せっかくの彼との時間をいとも容易く奪っていく

とてもとてもとても許し難い女だ

 

 

「そうだ。良かったら、人形を一体貰えないかな? 妹に、お土産としてあげたいんだよ。きっと、喜んでくれると思うんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は今何と言った

 

あげたい

 

何を

 

人形を

 

誰の

 

私の

 

どんな物

 

大切な物

 

誰に

 

妹に

 

彼だけの螯ケ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っぁ」

 

 ○○の口から発せられたその言葉を聞いた瞬間、アリスの心の中は、どす黒い感情に支配されていく。今まで経験した事もないような、強い衝動が込み上げてきた。

 

 そして、その感情が爆発する寸前、声がした。

 

「……アリスさん?」

「……あっ」

 

 ○○の声で我に帰ったアリスは、自分が無意識のうちに、彼の体に手を伸ばしている事に気付く。彼女は慌てて手を離して、謝罪の言葉を口にする。

 

「ご、ごめんなさい。私ったら、ぼーっとしていたみたい。悪いけど、この人形は、あげられないわ……」

 

「いや、いいんだよ。アリスさんの気持ちは分かるからさ。大切なもの……だしね。僕の方こそ、無理なお願いをしてごめん」

 

 ○○はそう言うと、アリスに向かって優しく微笑む。

 その笑顔を見たアリスは、自分の胸が強く締め付けられるのを感じた。それは先程までの苦痛とは真逆の、心地よい痛みだった。

 

 彼になら、人形をあげても構わない。いや、むしろあげたいと思う。彼なら人形を、アリスの人形を大切にしてくれるだろう。こんなにも優しくて、穏やかで、素敵な人なのだから。きっと、人形も喜んでくれるに違いない。

 

 でも、彼以外が人形に触れる事は許されない。絶対に、誰にも渡したくない。特に、彼の妹には。

 

 アリスは自分の人形が、他の誰かに触れられる場面を想像してみる。すると、途端に吐き気がした。人形が穢されたように感じてしまう。

 それはまるで、自分の一部が汚されてしまったかのような、不快な感覚。一秒たりとも、耐えられない。そんな事になるくらいならば、いっその事、壊してしまいたいと思えるくらいに。

 

「……あ、あのさ。僕、そろそろ里に戻らないといけないんだ。この後、用事があるから……」

 

 ○○はそう言うと、アリスから視線を外す。その様子から察するに、アリスの異変に気付いたのかもしれない。もしくは、気まずい雰囲気が嫌だったのか。いずれにせよ、彼がここから去ろうとしているのは事実だった。

 

 アリスは少しだけ冷静になると、彼を安心させる為に笑顔を作った。

 

「……そうよね。元々、私が無理に誘ったのだし、仕方ないわよね。里まで送っていくから、安心して」

「いや、本当に楽しい時間だったよ。ありがとう」

 

 本当は彼を帰したくはない。だが、アリスには○○を引き止める口実が思いつかない。

 それに、これ以上一緒に居れば、自分の心が保てなくなる気がした。だから、アリスは素直に引き下がるしかなかった。

 

 

二人だけのお茶会が終わった

 

 

 ○○を人里に送り届けた後、アリスは自室に戻って、ベッドに仰向けに寝転ぶ。すると、○○の顔が頭に浮かんできた。彼はもう帰ってしまったというのに、未だに余韻が残っている。

 

 ○○と一緒に居る時は、すごく楽しかった。○○に褒められるのが、とても嬉しかった。ずっと、この時間が続けば良いとさえ思った。

 

 しかし、同時にとても苦しかった。○○には、妹がいる。彼にとって、一番大切な存在である妹が。顔も名前も知らない。会ったこともない。なのに、嫌いで、憎くて、妬ましくて、堪らなかった。

 

「……ねえ、どうして?」

 

 アリスは傍らに置いていた人形を、自分の顔の前に持ち上げる。そして、人形を見つめながら呟いた。

 

 これは○○が拾ってくれた人形。○○が大切にしてくれた人形。

 この人形だけは特別だ。何故ならアリスが人形を作ったのだから。アリスの一部といっても過言ではない存在なのだから。人形にはアリスの心が宿っているのだ。

 

 

だからアリスの感情を色濃く反映する

 

 

「……え?」

 

 人形の瞳に映り込んだ自分の顔を見て、アリスは驚きの声を上げる。

 そこには、鳥肌が立つ様な狂気を瞳に宿し、歪んだ笑みを浮かべた女の姿が、鮮明に映し出されていた。

 

 

「アリスは○○が好き。とても好きになってしまった。○○の事が愛おしくて、アリスの恋人にしたくて、独り占めにしてしまいたいと思っている」

 

 

 瞳に映る女は、口角を吊り上げて、不気味に笑う。まるで呪いの言葉のように、何度も繰り返し、心の中に囁き続ける。

 

 

「だけど、○○にはアリスよりも大切な存在がいる。それが許せない。許さない。アリス以外の女に、あんな優しい笑顔を向けるなんて許せる訳がない。○○にとって、アリスが一番じゃなければ駄目なの。アリスだけが特別な存在でなければいけないの」

 

 

その通りだ

アリスは○○の特別でなければならない

他の誰かではいけない

○○の隣に居るべきなのはアリスだけなのだ

他の誰でもないアリスだけなのだ

アリスは○○を愛している

○○の為なら何でもできる

○○の為に命だって賭けられる

○○が望むのであれば体を差し出しても良いと思っている

 

 

「でも、○○はアリスの事なんて見ていない。彼の目に映るのは、いつも同じ少女だけ。彼の隣には、いつだって螯ケがいる」

 

 

どうすればいい

何をすれば○○の心を独占出来る

簡単じゃないか

そんな事も分からないのか

答えはすぐに出た

とても簡単な事だ

 

 

「○○の螯ケがアリスになればいい」

 

 

 そうだ。そうすれば、アリスは彼の唯一無二の存在になれる。誰にも奪われる事なく、彼の側に居続けていられる。愛を囁いてもらえる。二人きりの箱庭で、永遠に共に生きていける。

 なんと素晴らしい事なのだろう。その光景を思い浮かべるだけで、幸福感に包まれてしまう。想像しただけでも、ゾクゾクとした快感が背中を走る。身体中が熱くなり、息遣いが荒くなる。下腹部の奥が疼き、子宮が収縮を繰り返す。その感覚が心地良くて、つい太股同士を擦り合わせてしまう。

 

 

「○○が欲しい○○が愛おしい○○を閉じ込めたい○○に愛されたい○○と混ざり合いたい○○と溶け合って縺イ縺ィ縺、縺ォ」

 

 

 彼女は人形に語りかける。それは最早、人としての理性を失っていた。獣の様に欲望を口にしながら、人知れず狂気に染まっていく。

 

 

人形の影が

彼女の体に這い寄っていき

やがてそれは

心の奥底にまで達すると

ゆっくりと

確実に

 

 

アリスを

 



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アリス中編

 

 人里でアリスと別れた○○は、その足で寺子屋へ向かった。そこで教師を務める上白沢慧音に用があるのだ。

 

 ○○は寺子屋に入り、近くにいた女性に声を掛ける。その女性もまた、寺子屋に務める者だった。

 ○○は事情を説明して、慧音に取り次いでくれるよう頼んだ。女性は快く引き受けてくれたが、少し待って欲しいと言われたので、その場にて待つ事にした。その間、寺子屋の子供達が、物珍しい様子で、こちらを見ている事に気付く。

 

 子供達の中には、好奇心旺盛な子供もおり、○○の周りを取り囲んできた。そんな子供達に、○○は質問責めにあう。どうしてここにいるのか。何をしにきた等々。

 そんな中でも、○○は笑顔を絶やさず対応していた。

 

 そして、しばらくすると先程の女性が戻ってきた。どうやら話はついたらしく、彼女は自分について来て欲しいと言ってきた。○○はその指示に従い、彼女に案内されるまま移動を始めた。

 やがて到着した場所は、応接用の和室であった。そこには、慧音が正座をして待っていた。

 

「こんにちは、○○。元気そうで何よりだよ」

「こんにちは。上白沢さんも、お変わりないようで。ご無沙汰してます」

「ああ。まあ堅苦しい挨拶は、これくらいにしておこう。まずは、腰を落ち着けて話そうじゃないか」

 

 ○○は慧音に促され、用意された座布団の上に正座をした。ちゃぶ台を挟んで、慧音と対面する形だ。

 彼女と会うのは、今回で二度目であり、前回よりいくらか気安い雰囲気である。しかし、彼女の持つ独特な佇まいからは、緊張を完全に解く事はできなかった。

 それは彼女が教師だからなのか、それとも別の理由によるものなのか。いずれにせよ、○○は彼女に対して苦手意識を持っていた。

 

「お前が人里に来てから何日か経つが、幻想郷での生活は慣れたのか?」

「いえ、まだあまり……」

 

 暖かいお茶を出しながら、慧音が近況について尋ねてきた。それに対し、○○はやや困ったような表情を浮かべつつ答える。

 なにせ幻想郷と外の世界では、文明レベルに隔たりがあり過ぎるからだ。生活環境はもちろんの事、文化や常識なども全く違うため、○○にとっては全てが新鮮かつ驚きの連続なのだ。それに対応するには、○○はまだ若輩者で、経験不足と言える。

 

「だろうな。最初は戸惑う事ばかりで、不安になるかもしれないが、少しずつ慣れていけばいいさ」

 

 慧音の励ましの言葉を聞きながら、○○は出されたお茶を一口飲んだ。それから一息ついて、改めて会話を続ける。

 

「それで、あの……僕は、いつになったら帰れるんでしょうか? そろそろ教えて頂けると、ありがたいんですけど……」

「ん? ……ああ、そうだな」

 

 慧音は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに何か思い当たったように返事をする。そして、机の上に置かれた湯飲みを手に取り、中身を飲んで喉を潤してから、語り始めた。

 

「はっきり言うと、未定だ。今の段階では、いつになるか全く分からない。お前達外来人には、酷な事かもしれないが、しばらく人里で過ごしてもらうしかないな」

 

「えっ!? いや……そんな……」

 

 慧音の発言を聞いて、○○の顔色が曇った。その反応を見て、慧音は何とも言えない顔をしながら続ける。

 

「お前が動揺する気持ちも分かる。向こうにいる家族が心配なんだろう? だが、こればかりは仕方がないんだ。間が悪かったと言うか……。とにかく今は、我慢してくれないか?」

 

 慧音が申し訳なさそうに言った後、○○は黙り込んでしまった。前に彼女から聞いた話では、さほど時間は掛からないと言っていたはずだ。それがどういった理由で延びてしまったのだろうか。○○の疑問に対する答えはなかった。

 

「理由は……教えてくれないんですか?」

「……こちらにも、色々と混み入った事情があってだな。詳しくは話せないんだよ。すまないな」

「そう、ですか……」

 

 ○○の問い掛けに対し、慧音が言葉を濁しながら返答した。彼女は視線を落として、手元の湯飲みを見つめている。

 ○○も、それ以上は追求しなかった。何にせよ、ここで無理矢理聞き出そうとしても、意味はないと思ったからだ。

 それに彼女は、○○に対して真摯に対応してくれていた。ならば、これ以上追及するのは、かえって失礼にあたると考えたのだ。

 それから、しばらく沈黙が続いたが、やがて慧音が口を開いて話題を変えた。

 

「その代わりと言ってはなんだが、お前の生活と、身の安全は保障しよう。もちろん衣食住についても、最大限支援してもらえるよう手配してある。まあ、不自由はさせないよ」

 

 彼女は○○の方を向いて、笑顔で語った。○○も釣られて微笑むが、内心では複雑な心境だった。

 言うなれば自分は被害者であり、保護されるべき立場である。しかし彼女の厚意を受ける一方で、それだけ優遇されるという負い目もあったからだ。

 そんな○○の考えを見透かすかのように、慧音が言葉を続けた。

 

「勿論、ずっとという訳ではないぞ。お前達を、里に住まわせるからには、それなりに働いてもらう必要がある。仕事は、こちらが斡旋するし、報酬も用意するつもりだ。生活も保証されているし、悪い条件ではないと思うがな」

 

 慧音の話を聞いて、○○は少し考えた。確かに、この世界で生きていくためには、同じ人間として働かなければならないだろう。それは○○自身、理解している事であった。

 ○○は、今の状況に困惑しつつも、決して不満があるわけではない。むしろ、幻想郷での暮らしに馴染めず、途方に暮れていたのだから、こうして居場所を用意してもらえたのは、感謝すべきところである。

 

「それは、とてもありがたい話ですけど、僕なんかで務まるでしょうか? 外の世界では社会経験もないから、足手まといにならないかどうか……」

 

 ○○は自信無さげに呟いた。彼はまだ学生の身であり、社会人として働いた経験など皆無だ。そんな自分が、果たして上手くやっていけるのか不安なのだ。

 しかし慧音は、そんな○○に対して、力強い口調で返答する。

 

「問題ない。人間誰しも、最初は初心者だ。それに、得手不得手というものもある。最初から何でも完璧にできる者なんて、滅多にいないさ」

 

「……そう言って貰えると、助かります」

 

「ああ。○○も、何か趣味や特技の一つや二つくらいあるだろう? 教えてくれたら、それを活かせる仕事を、私が選んでやる」

 

 慧音が提案すると、○○は考え込むように腕を組んだ。

 ぱっと思いつくのは、やはり裁縫しかない。妹の喜ぶ顔が見たくて、着せ替え人形の衣装を、自作したのが始まりだった。それをあげた時の妹の反応が嬉しくて、向上心に火がついたのだ。それから独学で勉強して、今では意匠を凝らす事ができるまでになっている。

 

「そうですね……。裁縫なら、人並み以上には出来ますけど」

 

「ほう。では、仕立て屋が向いているな。需要もあるし、外の世界の知識も役に立つだろう。先方には、私から話を通しておく。後日、こちらから追って連絡するから、それまで待っていてくれ」

 

 話がとんとん拍子に進み、気が付くと、いつの間にか○○の仕事が決まっていた。○○としては、特にこだわりがあった訳でもないので、異論はない。ただ、妹を喜ばせるための知識や技術が、ここで生きるとは思わなかっただけだ。

 

「さて、そろそろ私は行かなくてはならん。里の案内でもしてやりたかったが、あいにく多忙の身でね。またの機会にしよう。○○の方からも、色々と聞きたい事があるかもしれないが、しばらくは我慢してくれ。では、失礼するよ」

 

「……はい、ありがとうございました」

 

 そう言い残して、慧音が立ち上がった。そして部屋の出口に向かい、障子に手を掛けて立ち止まる。それから振り返らずに、○○に向かって言った。

 

「一つ聞きたいんだが、お前は外の世界に、恋人はいるのか?」

「……えっ? ……いや、いません、けど」

「そうか。ならいいんだ」

 

 唐突な質問に、○○は戸惑いながら正直に答えた。それを受けた慧音は、素っ気なく返事をして、そのまま部屋を出て行った。

 ○○は、遠ざかる慧音の足音を聞きながら、しばらく呆然としていた。

 

 

 

 その後。○○は慧音が斡旋してくれた仕立て屋の職に就いて、幻想郷での日々を過ごす事となった。

 仕立て屋の主人は気の良い人物で、余所者である○○に対しても、懇切丁寧に様々な事を教えてくれた。おかげで仕事を覚えるのに、さほど時間は掛からなかった。仕事の内容も、○○にとっては趣味の延長のようなもので、苦痛は全く感じない。

 

 ○○は毎日、充実した時間を過ごした。職場の同僚とも仲良くなり、仕事終わりに一緒に飲みに行く事も何度かあった。

 そんなある日の事である。

 

 ○○はいつものように、仕事を片付けて帰宅しようとしていた。時刻は夕方を回り、辺りは街灯が点き始める頃合いである。その帰り道の道端で、不意に声を掛けられた。

 

「よお、○○くん。もう仕事上がりか? 今日は早いじゃないの」

 

 声の主は、見知った人物だった。○○と同じ境遇の、外来人の男性だ。

 年齢は二十代半ば程で、○○よりも年上だ。背が高く体格も良く、顔つきも精力的で、女性に好かれそうな男である。

 ○○は笑顔を作って答える。

 

「あ、はい。ちょうど今、終わったところです」

 

「そうかい。なら、これから一杯どうかな? 勿論、俺の奢りだ」

 

「ええ。……でも、良いんですか? 彼女さんが、待っているんじゃ……」

 

 ○○が遠慮がちに尋ねると、男は首を横に振った。

 

「構いやしないさ。別に毎日顔を合わせてないと、愛想を尽かされるほど、やわな関係じゃない。結婚してる訳でもないしな。それに、たまには男同士、近況を語り合うってのもいいもんだろ?」

 

「まあ、そう言うなら……」

 

 男の誘いに、○○は少し考えた後、承諾する事にした。この世界に来て、○○はまだ日が浅い。知り合いも少ないため、この機会に交流を深めるのも悪くないだろうと考えたのだ。

 それに何より、帰宅しても一人なので、これと言った楽しみがないのが実情だった。

 

 こうして二人は連れ立って、適当な居酒屋へと向かった。どこにでもありそうな大衆向けの店で、○○は店に入る前に、ちらりと看板を見る。店の名は、鯢呑亭というらしい。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 中に足を踏み入れると、元気の良い女性の声に迎えられる。店内は既に賑わっており、席はほとんど埋まっていた。客層は歳のいった男性が多く、二人のような若者の姿は見当たらない。

 ○○は、入る店を間違えただろうかと思い、隣に立つ男に目配せをしたが、彼は特に気にしていない様子だった。

 

「お二人様ですねっ。こちらへどうぞ!」

 

 そうこうしているうちに、店員の女性がやって来て、空いている席へと案内された。二人が座ると、女性はお品書きを手に取り、それをテーブルの上に広げる。

 

「いやぁ、若いお客さんが来てくれると、私も嬉しいですっ。当店のお酒と料理は、どれも美味しいですからねっ。きっと、気に入って貰えると思いますよ!」

 

「はあ……」

 

 明るい口調で、女性は説明を始めた。

 彼女は、癖のある桜色の髪に、鯨を模した特徴的な帽子を被っている。瞳の色は澄んだ緑で、快活な雰囲気を持つ少女だ。歳は、十代の後半くらいだろう。

 

 ○○は、彼女の言葉に曖昧な返事をしながら、目の前に置かれたお品書きを見た。

 飲み物だけでも、十数種類もある。食べ物に至っては、肉類や魚介類は勿論の事、野菜や果物まで豊富に揃っていた。値段は全体的に安く、良心的な価格である。

 

「私のおすすめは、これとこれ! あとこれも、是非食べてみて下さいっ。当店自慢の一品なのでっ! それから——」

 

 注文を決めあぐねていると、少女が次々と料理名を指差して、嬉々として説明し始めた。○○は少し圧倒されながら、適当に相槌を打って聞いていた。

 

「じゃあ、それで良いですか?」

「ん? ……ああ、そうだな。とりあえず、それだけ頼んでみようか」

 

 しばらくして、少女の熱意に押された○○が、少女の選んだ物を頼む事にした。男は、あまり乗り気ではなさそうな顔をしていたが、特に文句を言う事もなく了承した。

 

「はーいっ、ご注文承りました! すぐに持ってきますので、少々お待ちくださいね!」

 

 彼女は元気よくそう言って、その場を離れた。その後ろ姿を見送りつつ、○○は小さく溜息を吐く。何だか、勢いに負けてしまった気がする。

 ○○がそんな事を考えていると、不意に向かいに座る男が口を開いた。

 

「あの子、結構可愛いよな。明るくて、話しやすそうでさ」

 

 その視線は、忙しなく動き回る少女の後ろ姿を追っていた。彼の表情は、どこか羨ましそうである。

 

「それは……そうですね。僕も、そう思います」

 

 男の言葉に、○○は同意を示した。確かに、先程の彼女の接客態度は、大いに好感が持てる。だが、異性に対する感情としては、微妙だと言わざるを得ない。

 

「はい、まずはお通しです! こちらがお酒になりまーす!」

 

 その時、ちょうどお盆を持った少女が戻って来た。彼女は二人の前にそれぞれ、つまみの入った小鉢と徳利を置く。

 

「どうも。せっかくなら、君が酌をしてくれても良かったんだけどなぁ?」

 

「えぇー? どうしようかなぁ……。うちでは、そういう接待はやってないんですよねぇ……」

 

 男の下心満載の誘いに、少女は困ったように笑った。そして、少し考える素振りを見せる。

 

「してくれたら、ここの常連になるかもなぁ。いや、常連どころか、毎日通うかもしれないし?」

 

「本当ですかぁ!? うーん……それなら、今回だけ、特別ですよ?」

 

「ああ、ぜひ頼むよ」

 

 少女は頬に手を当て、悩ましげに呟いた。その様子を見て、男は満足げに笑う。少女は徳利を持ち上げると、慣れた手つきで男の杯を満たしていく。

 その際○○は、周囲の客達から向けられる視線を感じていた。皆、不機嫌そうな顔を浮かべて、二人の様子を眺めている。○○は居心地の悪さを感じながらも、黙って様子を見ていた。

 

「あなたにも、はい!」

「あ、いや……僕は、いいですから」

 

 男への給仕を終えた少女は、今度は○○の方を向いて言った。○○は、慌てて首を横に振る。

 すると、少女は一瞬呆けた表情を見せた後、何かを察した様に微笑んだ。

 

「そうですかっ。では、料理が出来上がるまで、もう少しお待ちくださいねっ!」

 

 やがて少女はそう言い残して、厨房の方へと去って行った。残された二人は、気を取り直して向き合った。

 

「いやぁ、良い娘だよなぁ。今時あんな子は、中々いないぞ。○○くんも、そう思うだろ?」

「そうですね」

 

 男は上機嫌に笑いながら、徳利を手に取って掲げる。○○もそれにつられて、自分の杯を持って彼の酌を受けた。

 

「おまけに、あの胸よ! あれは反則級だわ。歩く度に、ゆさゆさ揺れてさぁ。あんな店員がいたら各方面に失礼だろ。しかし、つい目がいっちまうんだよなぁ……」

「はは……確かに、大きいですよね」

 

 男がしみじみと呟いた言葉に、○○は苦笑した。彼女の胸にばかり注目していると、痛い目に合うのはこちらなのだが。

 

「あんな娘が彼女だったら、毎日幸せだろうなぁ。性格も明るくて、見た目も可愛くて、巨乳だなんて、理想的だよなぁ。俺、本当に毎日通っちゃおうかな」

 

 少女の姿を脳裏に浮かべながら、男は陶酔気味に語る。○○は、それを横目で見ながら、内心で溜息を吐いていた。

 

「いやいや、浮気は駄目ですよ。あんなにも綺麗な彼女さんがいるのに、何を言っているんですか」

 

 ○○は、やんわりと男の言葉を否定した。彼には、同棲している女性が居るのだ。その女性を差し置いて、別の女性を褒めるのは如何なものかと思う。

 

「ああ、そういえばそうだったな。悪い、ちょっと調子に乗ってたわ。隣の芝生は青いって言うだろ? はははっ」

 

 男は軽く笑って、○○の言葉を肯定した。○○は、ほっと息を吐き、手に持った杯に口を付ける。

 それから他愛もない話をしながら、二人は料理を待っていた。やがて、注文していた品が運ばれてくる。それらに箸を付けつつ、酒を飲んでいると、不意に男が思い出したように声を上げた。

 

「そういや、いつになったら俺達は、元いた世界に帰れるんだろうな」

「……そうですね」

 

 男の言葉を聞いて、○○は表情を引き締める。その問いは、○○にとっても頭の片隅にあった問題であった。

 幻想郷に来てから、既に二週間以上が経過しているが、未だに慧音からの連絡は来ていない。このままでは、一生帰れないのではないか。そんな不安が、頭をよぎる事があった。

 しかし、それを口に出してしまえば、余計に焦りが生まれてしまう気がする。だから、なるべく考えないようにしていたのだが、話題に出してしまった以上は仕方がない。

 

「俺は、ここでの生活も悪くないと思っているが、そろそろ向こうの事も気になってくるんだ。家族とか、友達とか、心配してそうだしなぁ」

 

 男は杯を傾けながら、どこか遠くを見るような瞳をして呟く。

 ○○はその姿を見て、自分も似たような気持ちだと共感した。残してきた妹は大丈夫だろうか、両親や友人は元気にしているのか、自分は行方不明者として扱われているのか。そういった事が、気にかかってしまう。

 

「○○くんは、どうなんだ?」

 

 男が質問を投げかけてきた。○○は、少し考えた後に答える。

 

「帰れるなら、今すぐにでも帰りたいですよ。でも……」

 

 そこで言葉を切って、杯に残っていた酒を飲み干す。そして、空っぽになった杯を見つめながら、○○は続けた。

 

「でも、帰る方法が分からないから、待つ事しか出来ないんですよね。誰に聞いても、知らないって言われるだけで……。もしかしたら、帰す気がないんじゃないかなって……最近は、そう思うようになってきてます」

 

 そう言って、○○は自嘲するように笑った。男は何も言わずに、黙々と料理を食べている。しばらく無言の時間が続いた後、男はおもむろに口を開いた。

 

「まあ、住めば都って言うじゃない。ここだって、案外居心地が良いぜ。この料理だって美味いし」

 

 男はそう言いながら、目の前に置かれた料理を指差した。それは、○○も同意できる内容である。

 

「それに、やたらと美人が多いしな。俺としては、そこも評価が高いところだ。それが、妖怪だ何だって話は置いといて、な?」

 

 男が冗談交じりに言うと、○○も思わず苦笑いを浮かべる。

 

「まあ、辛気臭い話をしても、しょうがない。今は、食って飲もうじゃないか。ほらほら、○○くんも遠慮せずに食べな。俺の奢りなんだから」

「あ、どうも……」

 

 男はそう言って、自分の皿から料理を取り分けて、○○に差し出した。○○は、それを受け取って礼を言う。

 男は満足げに笑うと、再び料理に手を付けた。その様子を見て、○○も箸を動かす。

 やがて、二人は食事を終え、満腹感に浸っていた。

 

「ありがとうございましたー! また、いらしてくださいねっ!」

 

 店を出る際に、少女の明るい声が響いた。

 男は上機嫌に鼻歌を歌いながら、先を歩いて行く。○○は、その後をゆっくりと付いて行った。

 月明かりが辺りを照らし、夜道を歩く二人を優しく包む。その道すがらに、男が思い出したように振り返った。

 

「俺は、まだ呑むつもりだけど、○○くんはどうする?」

「僕はもう結構です。明日も仕事があるので……」

 

 ○○は首を横に振って答えた。その返答に、男は残念そうな顔をする。

 ○○は幻想郷に来てから、初めて酒を知ったので、そこまで強くはないのだ。男のように多く飲む事はしないが、それでも顔には出やすい性質で、彼の頬は赤く染まっていた。

 

「そうだよな。無理に付き合わせて、悪かった。じゃあ、俺はこれで失礼させてもらうわ。おやすみ、○○くん」

「いえ、楽しかったです。ご馳走さまでした」

 

 男はそう言うと、○○に背を向けて歩き出す。○○は、小さく手を振って、男の背中を見送った。

 

 それから一人になった○○は、家に向かって足を進める。その途中、ふと思い立って、○○は立ち止まった。そして、周囲に視線を向ける。

 

 普段であれば、この時間帯、そして脇道とは言え、もう少し人が居るはずだ。なのに、今夜に限っては、人の気配が全く感じられない。○○は不思議に思いながらも、歩みを再開した。

 

「○○」

 

 すると、突然背後から名前を呼ばれた。○○は、驚いて振り向く。そこには、見覚えのある少女が立っていた。

 

「アリス……さん?」

「ええ。私はアリスよ」

 

 ○○が名前を呼ぶと、アリスは平坦な声色で肯定した。彼女の表情は、薄暗いせいかよく見えない。そして、何か不気味さを感じさせる雰囲気を纏っている。

 

「どうしてここに? こんな時間に……」

 

 ○○は困惑しながら、疑問を口にした。しかし、彼女は何も言わず、ただじっとこちらを見つめているだけである。○○は、居心地の悪さを感じながら、その場に立ち尽くしていた。

 

 そのまま数秒が経過した後、アリスは一歩、また一歩と踏み出して、○○との距離を詰める。

 そして、手に持っていた人形を目の前に掲げた。

 

「受け取って。貴方に渡したかったの。私の想いを込めて作った人形」

「え……人形?」

 

 アリスはそう言って、○○の前に差し出した。○○は戸惑いながら、それを受け取る。

 人形は衣装を纏っておらず、素体のままの姿であった。そして、その顔は、どこか目の前の少女に似ていた。

 

「どうして……あっ!」

 

 ○○は、そこで気付いた。以前、彼女から家に招かれた際、彼女が作った人形を欲しいと頼んだ事があったのだ。だが、あの時は断られたはずだ。

 

「アリスの人形。どうか貴方の色に染め上げて。それが貴方への贈り物」

「あ、ありがとう。大切にするよ」

 

 ○○が戸惑っていると、アリスは続けてそう言った。彼女が言いたいのは、自分で衣装を仕立てて欲しいという事だろう。○○は、そう解釈して、笑顔を浮かべながら答える。

 しかし、それに対して、アリスは何も言わなかった。そのまま用が済んだとばかりに、踵を返してしまう。

 

「あ、ちょっと待って!」

 

 ○○は慌てて呼び止めた。アリスは、その言葉に反応して、首だけ振り返る。その瞳は、相変わらず感情が読み取れない。

 ○○は少し迷ったが、彼女に声を掛けた理由を話す事にした。

 

「僕さ、しばらくは人里に滞在する事になったから……。良かったら、またお茶でも飲もうよ」

 

 ○○の言葉を聞いて、アリスは無言で彼を見た。そして、しばらく黙り込んだ後、口を開く。

 

「アリスは○○を待っている。人形達に囲まれて。だから譌ゥ縺上い繝ェ繧ケ縺ォ莨壹>縺ォ譚・縺ヲ」

 

「……あ、えっと」

 

 ○○が返答に困っていると、アリスはくるりと身を翻し、その場から飛び去った。

 残された○○は、渡された人形を片手に、呆然として佇んでいる。彼女は、あんなにも神秘的な雰囲気を纏っていただろうか。まるで別人のような姿に、○○は動揺を隠せなかった。

 

 

 その後。○○は家に帰り、作業台の上に人形を置いて、椅子に座っていた。頬杖を突きながら、ぼんやりとしている。

 

 アリスから貰った人形は、素体の状態であり、無機質な裸体を晒している。○○は早速、人形の衣装を制作しようと思い立ったのだが、中々手が動かなかった。

 

 この人形には、どんな衣装が似合うだろうか。妹に喜んでもらうには、どうすれば良いのだろう。そんな考えが、頭の中でぐるぐると回る。

 

 だが、酔いが進んだせいか、頭が上手く働かない。まぶたが段々と重くなっていくのを感じる。視界に人形が見えているはずなのに、焦点が定まらない。

 

 せっかく彼女が作ってくれたというのに、裸のまま放置するのは申し訳ないが、衣装作りは明日でも構わないだろう。○○はそう思い、腕を枕にすると、机に突っ伏してしまった。

 

 そのまま、眠りの世界へと誘われていく。意識を手放す寸前まで、彼は人形の事を考えていた。

 

 

 

 

『繧「繝ェ繧ケ縺ッ雋エ譁ケ縺ク蛻サ縺セ繧後◆』

 

 混濁する意識の中、誰かの声を聞いた気がした。

 

 それはとても優しく、愛らしい声で、自分の事を呼んでいるような感覚に陥る。いや、実際に呼ばれていたのかもしれない。

 頬をぺちぺちと叩かれる感触があり、○○は目を覚ました。

 

「あー! やっと起きたっ。もう、こんなところで寝ちゃうなんて、駄目じゃない!」

 

 ○○は、視界に飛び込んできた光景に驚く。

 そこには、青空を背にして、こちらを覗き込む少女がいた。その少女は、ウェーブのかかった黄金の髪を揺らしながら、○○を叱咤した。

 

 ○○は、ぼんやりとした思考のまま、少女の姿を見る。その少女は、人形のように整った顔立ちをしていた。年齢は十代前半ぐらいで、妹と同じ年頃に見える。

 少女は、大きな青いリボンが付いたヘアバンドをしており、そこから垂れ下がった髪は、肩まで伸びていた。身に付けている衣装は、半袖の白いブラウスに、そこから肩紐で吊った、白いフリル付きの青いスカートである。いかにも少女らしい衣装だ。

 

 ○○は、少女の姿を目に焼き付けるように見つめる。すると、彼女は照れた様子になり、両手を後ろに回して、もじもじし始めた。そして、顔を赤らめながら、視線を横に逸らす。

 

「な、なによぅ……。そんなに、じっと見つめちゃって。恥ずかしいわ……」

 

 そう言うと、彼女は一歩下がり、距離を取った。

 ○○は、その行動を見て、ようやく自分が彼女の姿に見惚れて、固まってしまっていた事に気付く。一旦目を閉じて、気持ちを切り替える。そして上半身を起こして、目の前の少女に声をかけた。

 

「ごめんね。えっと……君は?」

 

 ○○が尋ねると、目の前の少女は、不思議そうな表情を浮かべながら、首を傾げた。

 

「なに言ってるの? わたしはアリスよ。妹の名前を忘れるなんて、ひどいお兄ちゃんだわ」

 

 アリスと名乗る少女は、頬をぷくっと膨らませて、露骨に拗ねた態度を見せた。

 

「……アリス? 妹? いや、それは違うよ」

 

 ○○は、困惑しながらも否定する。

 アリスという名を持つ人物は、自分の周りに一人しかいない。しかし、目の前にいるのは、アリスと外見は似ているが、年が明らかに離れている。

 それに、自分の妹は黒髪の日本人で、少女のような西洋風の容姿はしていない。それならば、やはり別人だろう。

 

 ○○の言葉を聞いて、アリスを名乗る少女は、少し驚いた様子を見せた後、すぐに笑みを浮かべる。

 

「お兄ちゃんは、寝ぼけているのよ。近くの川で、顔を洗って、目を覚まさないと。ほらほら、こっちよ」

「う、うん……」

 

 アリスは○○の手を引いて、彼を立たせようとした。○○は、それに逆らわずに立ち上がって、彼女と一緒に歩き出す。

 

 改めて周囲を観察すれば、ここは色とりどりの花が咲き誇る庭園であった。アリスが向かう方向には小川が流れており、小鳥のさえずりに混じって、涼しげなせせらぎが聞こえてくる。

 

 ○○は、アリスに手を引かれて、花畑を歩いていく。その間、アリスは上機嫌に鼻歌を口ずさんでいた。

 繋いだ手からは、確かな温もりが伝わってきた。その暖かさが心地良く、いつまでも浸っていたくなる。

 

「ここよ、お兄ちゃん」

 

 やがて二人は、小さな川に辿り着いた。流れは緩やかで、水面には太陽の光が反射している。風が吹く度に、木々の葉が擦れ合い、さざ波が立つ。

 

 アリスは、水辺にしゃがみ込み、水に手を差し入れた。彼女のきめ細かい肌に、水が弾ける。

 

「あははっ!」

 

 その光景を見た○○は、思わず息を呑んだ。まるで一枚の絵のように美しい光景だったからだ。楽しげに笑う少女の可憐さに、彼は言葉を失ってしまう。

 そんな○○に気付いたのか、アリスは立ち上がって振り向いた。

 

「ほら、お兄ちゃん。水が冷たくって、気持ちいいよ」

 

 ○○は、アリスに促されるまま、川辺に膝をつく。そして、流れる水を手で掬い、顔にかけた。火照った身体に、川の水は染みるようだ。酔いが醒めるような気がした。

 

「これで、拭いてね」

 

 ○○が顔を洗い終わると、アリスは隣に座り、花柄のハンカチを取り出して、○○の頬に当てた。その優しい仕草に、○○は心が癒やされていくのを感じる。

 

「どう? わたしのことを、思い出してきた?」

 

 アリスは首を傾げて、期待するような眼差しで○○を見つめる。澄み切った青の瞳に、○○は吸い込まれそうになる。思わず見惚れてしまうほどに美しかった。

 しかし、○○はすぐに我に返り、アリスの言葉を否定した。

 

「……いや、やっぱり、君の……勘違いだよ。僕には、アリスという名前の妹はいない。そもそも、君みたいな可愛い女の子は知らないんだ」

 

 ○○が正直に答えると、アリスは目を丸くした後、くすくすと笑う。

 

「ふふっ。アリスのことを、かわいいとは思ってるんだぁ……。ふーん……」

 

 彼女は、○○の答えを聞いて満足したのか、嬉しげな声音になった。

 その様子に、○○は違和感を覚える。どうにもこの子は、自分をからかっているのではないだろうか。

 そんな疑念を抱き始めた時、アリスは、急に真剣な目つきになって語り出した。

 

「ねえ、○○。私の事を記憶してね。お願いだから忘れないでね。心に刻み込んでね。絶対に覚えていて欲しいの。私はアリス。お兄ちゃんのアリス。貴方のアリス。○○のアリス。○○だけのアリス。他の誰でもない。私言ったよね? 約束したよね? お兄ちゃんのお嫁さんになるって。約束は守ってね? お兄ちゃんは、私だけの○○なんだから」

 

 アリスは、早口に捲し立てるように言う。その表情は笑顔だが、どこか笑っていない様にも見える。○○は気圧されてしまい、言葉を返せない。

 

 すると、アリスは○○の頬を両手で包み込んだ。そして、そのまま目を閉じて、口付けを求めるように自らの顔を近づけていく。

 しかし、唇が触れる直前で彼女の動きが止まった。おもむろに○○から離れると、恥ずかしそうに身を捩らせる。

 

「あははっ。焦らなくてもいいよね。まだ時間はあるもん。お兄ちゃんからしてくれるまで私は待つよ。胸を焦がすほどの恋慕の情を我慢できるよ。○○の事を考えるだけで幸せな気分になれるの。この感情に浸れるのならアリスはずっと待ち続けられる」

 

 アリスは、自分の胸に手を当てながら、熱っぽい視線を向ける。○○は、彼女の様子がおかしい事に気付く。先程までの言動は、明らかに普通ではなかった。まるで、何かに取り憑かれているかのようだった。

 ○○は、アリスに声をかけようとしたが、それは遮られてしまう。

 

「じゃあね、お兄ちゃん。また後で会おうね!」

 

 アリスは、○○の背中を押して、川へと突き飛ばした。○○は、急な事で反応できず、呆気なく川に落ちてしまった。

 

 水飛沫が上がり、全身に冷たい感触が一瞬で広がる。衣服が濡れて、身体に張り付いて重くなっていく。

 

 川は予想以上に深いようで、底が見えない。○○は必死に手を伸ばしたが、水面にすら届かない。もがけばもがくほどに沈んでいく。見えない何かが、彼を引きずり込んでいくようだ。

 

 ○○は、息苦しさを覚え始める。酸素を求めて口を開くが、入ってくるのは、水だけだ。視界が、段々と、ぼやけていく。

 もう、意識を保っている事が、難しくなってきた。

 

 やがて、○○は静かに目を閉じた。

 

 完全に意識を失う寸前、彼の脳裏に浮かんだのは、アリスの姿だった。

 

 アリスの顔は笑っている。幸せそうな顔だ。まるで、愛する者と結ばれているかのような、満ち足りた顔をしていた。

 

 そして彼女の隣には

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の隣には人形がいた

 

 

 



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アリス後編

 

 ○○は、ゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした思考のまま顔を上げて、周囲を見回す。

 窓から差し込む陽光が、部屋を照らしていた。眠りこけていたら、朝になっていたらしい。

 

 ○○は上体を起こすと、大きく伸びをした。頭が少し痛む。昨夜、衣装作りに精を出し過ぎたからだろう。二日酔いの可能性もあったが、それを確かめる術はない。

 

 寝ぼけ眼で、先程まで突っ伏していた作業台を見る。

 そこには少女がいた。朝日を反射して煌めく黄金色の髪を波打たせ、透き通るような青い瞳を持つ少女。瞳には生気が宿り、表情豊かで、今にも動き出しそうだ。

 しかし、その体は作り物だ。まるで生きているかのように精巧な造りをしているが、少女は人形なのだ。人間ではない。ただの芸術品である。

 

 ○○は、自分が夜通し縫い上げた衣装を手に取り、人形に着せていく。青のワンピースに、フリル付きの白いケープを羽織らせ、腰に赤いリボンを結ぶ。頭には赤のヘアバンドを付ければ完成だ。

 徹夜で作業したわりには、良い仕上がりだった。人形の専門店に売っていても、遜色ない出来映えだと言えるだろう。

 

「……アリス」

 

 愛しき者の名前を呟き、人形の頭を撫でる。そして、満足気に微笑みを浮かべると、人形を抱えて家を後にした。

 

 人々の喧騒が響く通りに出ると、○○は足早に進み出す。向かう先は決まっている。

 やがて前方に存在感のある立派な門が見えてきた。人里と外を繋ぐ境界線。

 門の傍には、暇そうに談笑をする二人の男がいる。○○が門に近づいて行くと、その内の一人が気怠げに声を上げた。

 

「そこの、ちょいと待ちな。あんた……ここらじゃ見ない顔だが、朝早くに何の用だい?」

 

 男は、○○を胡散臭そうに見つめる。その視線を向けられた○○は、特に臆する事もなく、落ち着いた様子で答える。

 

「外に出たいんです。だから、通してくれませんか?」

「……あんた、名前は?」

「○○と言います」

「○○ね。ちょっと待ってろ」

 

 男が近くの同僚に声をかけて、二人で話し合っている間、○○は大人しく待っていた。すると、一分もしないうちに話が纏まったらしく、先程の男が戻って来た。

 

「通って構わないぞ。名簿に、あんたの名前が載っていたからな。帰ってきた時は、また名前を告げれば良い」

 

 そう言って、彼は再び同僚の元へ戻る。どうやら○○は、既にこの人里の住人として認識されており、問題なく出られるようだ。

 

「ありがとうございます」

 

 ○○は、礼を言うと、そのまま歩き出した。門番の男達が手を振ってくれたので、軽く振り返しておく。

 その内の一人が、誰に聞かせるわけでもなく口を開いた。

 

「……また一人、入っては去っていく。最近多いよなぁ」

「外来人なんて、大方そんなもんさ。せいぜい妖怪共の餌になって、奴らの腹を満たしてくれれば、それでいいんだよ。まあ、俺達には関係ない事だ。なあ?」

 

 もう一人の男は、肩をすくめると、鼻で笑って見せた。

 

 

 人里の外に出た○○は、しばらく道なりに歩いて行った。幻想郷の土地勘はないはずだが、○○の足取りに迷いはなかった。頭の中に地図が浮かんでいるかの様に、目的地へと真っ直ぐ進んでいく。

 

 やがて、鬱蒼とした森が視界に入り始めた。

 ○○は、躊躇なく森の中へ入っていく。木々の間を縫うように進む。枝葉が擦れ合い、耳障りな音を奏でる。

 陽光は天然のカーテンによって遮られ、薄暗い空間が広がっていた。空気は湿り気を帯びていて、不快指数を上げている。

 更には霧状の胞子が漂っており、呼吸する度に喉の奥を刺激されるようだ。

 

 しばらく歩みを進めていると、○○は開けた場所に辿り着いた。

 地面を覆う草木は枯れ果て、乾いた土が露出している。辺り一面に広がる殺風景な光景は、まるで墓場を連想させるものだった。

 

 その中央に、大きな切り株があった。樹齢何百年といった感じで、とても太く大きい。

 切り株の上には、先客が座っていた。桃色のワンピースを着た、幼い体つきの少女だ。短めの黒髪の上に、白い耳のような物をつけている。投げ出された足には履物がなく、裸足だった。

 ○○は、少女の目の前に立つ。少女は○○を見上げると、不思議そうな顔をした。

 

「やあ、人間のお兄さんっ。こんな所で、何をしてるの?」

 

 少女は、○○に話しかけた。鈴を転がすような可愛らしい声音だったが、口調はどこか馬鹿にするような響きを含んでいる。

 

「アリスを探しているんだ。知らないかな?」

 

 ○○は、平然と答える。まるで知り合いのように振る舞っているが、実際は初対面である。少女もそれは理解していたようで、少しだけ苦笑いの表情を見せた。

 しかし、すぐに楽しそうに笑うと、立ち上がって言った。

 

「アリスなら知ってるよっ。案内してあげるから、ついてきてね」

 

 そう言うと、彼女は○○の返事を待たずに歩き出した。○○は、慌てて後を追いかける。

 ○○は、前を歩く少女の背中を見た。ワンピースの裾が揺れて、ちらりと白い太股が見える。

 彼女は、どこか螯ケに似ていると○○は考えなくなくなくあり得ない違う彼女は他人の空似でアリありすが妹なのだから○○はアリスを探しているでしょう。

 

「ほら、あそこだよっ!」

 

 少女は、ある方向を指し示した。そこには、不自然な大穴が開いている。直径数メートルはあるだろう。

 ○○は穴の傍まで近寄ると、身を乗り出して覗き込んだ。穴には闇が広がり、底は見えない程に深い。目を凝らしても何も見えず、ただ暗闇しかない。

 

「……本当に、こんな場所にアリスが——」

 

 ○○が疑念を口にした直後、背中に何かがぶつかる衝撃を感じた。

 

「うわっ!」

 

 ○○は、倒れ込むように穴の中へ落ちていく。

 

「ばあぁぁぁっかっ! まんまと引っかかったねぇ! きひひひっ!」

 

 身体が落下していく中、愉快そうな笑い声が反響する。穴を覗き込み、にやついた笑みを浮かべている少女の姿が遠ざかっていく。どうやら彼女に一杯食わされたらしい。

 

 ○○は必死に手を伸ばしたが、その手は何も掴む事はなく、虚しく宙を切るだけだった。こんなところで終わる訳にはいかない。自分はアリスのところへ行かなければ。

 ○○は、そう、心の中で強く念じた。

 すると、次の瞬間。落下がぴたりと止まる。まるで空中に静止しているかのような感覚だ。何事が起きたのか分からず、○○は混乱する。理解できないまま、○○の体は上へ浮き上がる。

 

「……アリスが、助けてくれたんだ」

 

 ○○は呟くと、そのまま上昇を続けていった。彼の視線の先には、アリスの人形が浮遊しており、その手に○○の腕をしっかりと握っていた。

 

 やがて、○○の体が地上に辿り着く。そこには、先程の少女が、驚愕の表情でこちらを見つめていた。

 

「あ、あれぇ? なななっ、なんで生きてるのぉ!? どうやって戻ってきたのぉ!?」

 

 少女は狼煙の様に、口から泡を吹きながら叫ぶ。どうやら○○が生きている事が信じられないようだ。

 ○○は、地面に足をつけると、アリスの人形を抱きしめた。途端に、自分の中に力が湧いてくるのを感じる。

 

 彼はゆっくりと立ち上がると、少女に向かって歩いて行った。

 少女は後退りしながら、口を開く。

 

「ひいぃぃぃっ! ごめんなさいぃぃっ! 許してくださぁいっ! ほんの出来心だったんですうぅぅぅぅ!」

 

 少女は涙目になり、その場にしゃがみ込んでしまった。そして、両手で頭を抱え、震え始める。

 そんな少女の様子を見て、○○は溜息をついた。呆れたように首を振ると、少女に話しかける。

 

「君は、本当はアリスを知らないんだね?」

 

 ○○の言葉を聞いて、少女は顔を上げた。目には、怯えの色が残っている。少女は、おどおどとした様子で答えた。

 

「は、はいぃ。悪戯したくって、嘘をついたんですぅ……。アリスなんて、知りませんよぅ……」

「そうなんだ。まあ、反省しているみたいだし、許してあげるよ」

 

 ○○は少女に近づくと、彼女の頭に手を伸ばした。

 

「あっ……」

 

 少女は身をすくめて、目をかたく閉じる。殴られると思ったようだ。しかし、○○は優しく少女の頭を撫でた。少女は驚いたような顔をした後、頬を赤く染めて俯いた。

 

「あぅ……あの、あ、ありがとうございます」

 

 豬ョ豌励b縺ョ少女は消え入りそうな声でお礼を言うと、そっと瞼を開けた。潤んだ瞳で○○を見上げると、恥ずかしそうに微笑む。

 

「こんな嘘つきの私を、許してくれるなんて……。優しい、お兄さんですね……」

 

 少女は○○に寄り添いながら蠖シ縺ォ隗ヲ繧後k縺ェ言った。

 その時、背後から何者かが近づいてくる気配を感じ取る。○○は振り返ると、そちらを見た。

 

 視線の先には、二人の少女がいた。

 一人は、金髪の頭にハンチング帽を被ったボブカットの少女。手には串団子を持っている。

 もう一人は、藍色の髪をお下げに結った少女。手には身の丈ほどの杵を持っている。

 二人共、頭から兎の耳が生えているのが特徴だ。

 彼女達は、○○の目の前まで来ると、ぺこりと頭を下げて挨拶をした。

 

「どもどもー。初めますて、お兄さん」

「あ、はい。初めまして……」

 

 最初に話したのは、金髪の少女である。彼女は笑顔で右手を差し出した。○○はその手を握り返す。

 

「いやね? わっち達は、探し物をしておりましてですね。ででして、ここの周辺を歩き回っていたんですしおすし。そうしていたらば、お兄さんの姿が見えたものですけど、つい声をかけちゃった次第でございますのよ」

 

 少女は丁寧に説明した。丁寧な口調ではあるが、どこか胡散臭い感じがする。それがこの子の個性なのかもしれない。

 次に、藍髪のお下げの子が一歩前に出ると、杵を掲げて口を開いた。

 

「探し物は小さな兎だ。私達は以前、そいつに商売の邪魔をされたんだ。その恨みを晴らすために、こうして探しているんだよ」

 

 お下げの子は淡々と言う。表情からは感情を読み取れないが、怒りを感じさせる雰囲気が漂っている。

 どうやら二人は、以前に何かあったらしい。その件について詳しく聞きたいところだが、あまり突っ込まない方が良さそうだ。

 

「見かけませんでしたかのぉ? この森に居るはずなんだすけどなぁ」

 

 金髪の少女はそう言うと、困り顔で肩をすくめた。

 それを聞いた○○は首を傾げる。兎なんて見た覚えがないからだ。○○は二人に尋ねる。

 

「どんな感じの見た目なんですか?」

「ああ、黒髪の妖怪兎だよ。いかにもメスガキって感じの、腹がたつ顔をしてる奴なんだ。あいつのせいで、うちらの店は散々な目にあったんだ。絶対に見つけ出して、嬲り殺してやるんだ」

 

 お下げの子は忌々しそうな表情を浮かべて言った。杵を持つ手を震わせて、相当腹を立てているようだ。

 その時。○○の背後にいる少女が、怯えたように身を引く。○○の影に隠れて、震える手で服を掴んだ。

 

「……あっ」

「ん? どうされましたい?」

 

 ○○は気づいた。彼女達が探しているのは恐らく、自分の背後にいる少女の事だろう。このままだと、彼女に危害が加えられてしまうかもしれない。何をやったのかは知らないが、殺されてしまうのは、あまりにも不憫に思えた。

 だから○○は、彼女を庇うように立った。

 

 お下げの子と金髪の少女は、不思議そうに○○を見る。○○は一呼吸おいた後、二人に向かって話しかけた。

 

「いえ、僕は兎なんて見かけていませ豁サ縺ュましたそういえば今は僕の後ろにいますよ」

 

 ○○の言葉を聞いて、少女達の動きが止まる。そして、お互いを見つめ合った後に同時に口を開く。

 

「出てこいっ!」

「ひぃ! な、なんでばらしちゃうのぉ!? 許してくれたんじゃ……!」

 

 少女は涙目になって叫ぶ。しかし、○○は少女の頭に手を置くと、優しく撫で險ア縺吶↑始めた。

 

「許す訳ないよ。罪を犯したら、償いが終わらない限りはね」

「あ、ああぁぁ……。ふ、不幸すぎるぅっ!」

 

 ○○はそう言って微笑む。しかし、目は笑っていない。その冷たい瞳を見て、少女は震え上がった。

 

「そうだよ。お前には、体で代償を払ってもらうからなぁ……。台無しにされた団子の分、きっちりとな! まずは、生かしたまま、全身の皮を剥いで、塩漬けにしてやんよっ!」

 

 お下げの子は、先端が血塗られた杵を振りかざすと、少女に飛びかかった。

 

「いやだぁぁぁぁあ! たすけてぇえぇっ!」

 

 少女は悲鳴を上げて逃げ出した。しかし、すぐにお下げの子に捕まってしまう。彼女は少女をそのまま地面に押し倒した。腕を後ろに回して拘束すると、少女の体に腰を下ろした。

 

「んっふっふ〜。いやぁ、ご協力感謝しますです。おかげさまで、早期に捕獲出来ますた。本当にありがとうございますだわさ。なのですから、何かお礼をしてさしあげたく存じんす」

「お礼ですか? じゃあ……」

 

 金髪の子は嬉しそうな声で言った。○○は少し考えてから、思いついた事を告げた。

 

「僕も人を探しているんですよ。アリスという名前の女の子なんですけど、見ませんでしたか?」

 

 ○○は金髪の子に問いかける。彼女は、顎に手を当てて考える仕草をした後、笑顔で答えた。

 

「アリスなら、この先で見かけましたような。道なりにまっすぐいくと、着きますかれいど」

「本当ですか? それは助かりました。じゃあ早速向かいますね。失礼します」

 

 ○○はほっとした様子を見せた。これで、ようやくアリスに向かう事が出来る。○○は、彼女達に頭を下げると、別れを告げてから歩き出した。

 しかし、先ほどから、妙に頭が痛い。何か、何かを忘れている気がする。でも、思い出せない。○○は頭を押さえて思い出す必要がないのだから。○○はアリスに逢いに行く。それだけを考えていればいいの。

 

 しばらく歩いていると、道端に巨大な卵の殻が見えた。それは上下半分に割れている。近寄ると、鼻が曲がりそうな悪臭が漂ってきた。卵が腐った臭いだった。

 

 殻の中には黄色の液体が溜まっている。その水の中に、背中から翼を生やした全裸の女性が半身を浸からせていた。

 髪は明るい黄色に、にわとりのトサカみたいな赤いメッシュが入っている。顔色は青白く、死んだ魚のような印象を与えている。

 女性は虚ろな目をして俯いており、○○の存在に気づいていないようだ。○○は顔をしかめながら、女性に声をかける。

 

「あの……すみません」

 

 ○○の声に反応して、女性の顔がゆっくりと上がる。そして、○○の姿を確認すると、嬉しそうな表情を浮かべた。

 

「……わ、わぁっ。若い雄だぁ……。久しぶりに見たよぉ……。お姉さんに、何か用かなぁ? もしかしてぇ、口説こうとしてるぅ?」

 

 女性は舌舐めずりをして、○○を獲物を見る目で見る。その瞳は潤んでおり、興奮している事が分かる。

 それを見た○○は眉間にシワを寄せた。嫌悪感を露にする彼に気づかずに、女性は喋り続ける。

 

「いいよぉ……。君となら、交尾しても……。ちょっと体は貧相だけど、若い雄は大歓迎だよぉ」

「こ、交尾って……」

 

 ○○は、女性の言動を聞いて困惑していた。どう見ても、目の前にいる彼女は正気ではない。目が濁っていて、口元からは涎を流し続けている。

 

「知らないのぉ、交尾ぃ。雄の棒をぉ、雌の穴に入れてぇ、ごしごし擦るとねぇ……。お互いに気持ちよくなっていってぇ、雄が白いのをぉ、卵にぴゅっぴゅしたらぁ……赤ちゃんが出来るんだよぉ……」

 

 そう言って女性は下腹部をさする。彼女の表情から察するに、今にも○○を狙って飛びかかりそうな勢いだ。

 

「あぁんっ! 最近地底に篭りっきりでぇ、ご無沙汰だったからぁ、我慢できないよぉ……。早くぅ、私と子作りしようよぉ……。ねぇえ……」

 

 彼女は誘うように言うと、立ち上がって両手を○○に差し伸べた。黄色の液体が、肌を伝って流れ落ちる。周辺に漂う腐卵臭が、より一層強くなった。

 それを見て、○○は冷や汗を流す。正直彼女とは関わり合いになりたくない。このまま逃げようかと思ったが、ふと思いついて足を止める。

 

「そ、その前に、アリスっていう女の子を見ませんでしたか? 金髪の可愛い女の子なんですけど」

 

 ○○の言葉を聞いた瞬間、女性の動きが止まった。彼女は、少し考えた後に首を横に振る。

 

「知らないわぁ。そんな事より交尾よ交尾ぃ。あんまりお姉さんを焦らさないでぇ……。ほらぁ、こっちにきて、頭空っぽにしてさ、目の前の雌に種付けしよっ?」

 

 女性は、甘えた声を出して手招きをする。

 しかし、○○はその誘いには乗らなかった。

 彼はアリスを探すのに忙しいのだ。それに、こんな化け物とは関わりたくなかった。完熟を通り越して腐りきった物を、わざわざ食べる必要はない。○○にはアリスのような清純で可憐な少女がお似合いなのだから。

 

「僕にはアリスがいるので、貴女の相手は出来ません。声をかけておいて申し訳ないですけど、僕はもう行きますね」

 

 ○○はそう言うと、その場を離れようとした。すると、背後から腕を掴まれる。

 振り返ると、女性が不機嫌そうな表情をしていた。

 

「なんで? どうして? ただで気持ちよくなれて、子孫を残せるんだよ? 責任なんて取らなくていいんだよ? 君は、ただ快楽に身を任せればいいんだよ? もしかして君は童貞なのかな? だから、怖がっているのかな?」

 

 女性は、口から悪臭を放ちながら○○に囁く。吐瀉物以下の匂いが、○○の鼻腔を刺激する。

 カメムシは自分の出した悪臭を嗅ぐと死んでしまうと聞いた事があるが、彼女には嗅覚がないのだろうか。もしかしたら、自分が腐っている事にすら気づいていないのかもしれない。

 

「離して下さい!」

 

 ○○は、女性の手を乱暴に振り払う。女性は、驚いた様子を見せた後、すぐに笑顔を浮かべる。

 

「うへへぇ……やっぱり君は童貞なんだねぇ。それじゃあ仕方ないかぁ……。初めては、好きな人としたいもんねぇ……」

「……そういう問題じゃないんです」

 

 ○○は、女性の発言に動揺した。○○が童貞である事は事実だが、それを初対面の女性に指摘されるのは不愉快だ。○○はアリスの為に純潔を守っているだけなのに。

 

「その、アリスちゃんだっけ? その子もきっと、君に抱かれたくて待っていると思うよぉ。だけどぉ繧「繝ェ繧ケ縺ョ縺ィ縺薙m縺ォ縺翫>縺ァ私は石になりました」

 

 女性は石のように固まった。いや、実際に石と化していた。美しい女性の彫像が出来上がっている。

 

「アリスに行かないと」

 

 ○○は呟いて、再び歩き出す。

 しばらく歩いていると、前方に小さな影が見える。それは、緑髪の幼い少女だった。頭から虫の触角のようなものが出ている事から、彼女が妖怪だという事が分かる。

 彼女は道端に倒れている丸太に座って、弁当箱を箸で突いていた。どうやら昼食中のようだ。

 

「こんにちはー。こんな所に人間さんがいるなんて驚きです。何かご用ですかー?」

「アリスを知らないかな? 僕はアリスを探しているんだ」

 

 ○○の言葉を聞いて、少女は首を傾げる。

 

「アリス? アリとキリギリスなら知っていますけどー」

「違うよ。アリスリスっていうアリとリスだよ」

「はあ。そんな事より、お腹空きませんか? 私は今、ご飯を食べていた所なんですよー。一口どうですー?」

 

 そう言って少女は、持っていた弁当箱を差し出してくる。中にはゴキブリの姿煮、芋虫の天ぷら、ムカデの唐揚げなどが入っていた。どれも美味しそうだが、アリスが入っていないのが気に食わない。

 

「ごめんね。僕はアリスに会いたいんだ。アリスを知らないのなら、もうアリス」

「そうですかー。早く見つかるといいですねー」

 

 そう言うと、○○は再び歩き始める。それからしばらくして、今度は一軒の家の前に辿り着いた。扉の上に看板がぶら下がっており、そこには達筆な字でこう書かれている。

 

『三日月亭 永遠に終わらないお茶会へようこそ!』

 

 どうやら喫茶店のようだ。○○は店の中へと入る。店内には客は一人もおらず、店主らしき人物がカウンターの奥にいた。

 薄紫色の長髪を後ろで束ねており、頭にはうさぎの耳が生えている。バニーガールの格好をした、妙齢の女性であった。

 彼女は○○を見ると微笑み、声をかけてきた。

 

「あら、いらっしゃい。どうぞこちらへおかけになって」

 

 女性は、手招きをして○○をカウンター席に座らせる。そして、これはお通しよと言って、水の入ったコップを手渡してきた。

 

「ご注文は何になさるのかしら? この店のメニューは、水と冷水とお湯しかないのだけれど」

 

 ○○は、渡された水を一気に飲み干す。渇いた喉を潤すと、落ち着いた気分になれた。アリスに逢うために、ここまで来たというのに、こんな所で油を売っている場合ではない。

 

「とりあえず、生アリスの聖水をお願いします」

 

 ○○は、女性にそう告げて頭を下げる。すると、女性は困ったような表情になった。

 

「そんな銘柄あったかしら? うちでは取り扱っていないわねぇ」

「えっ、アリスがないんですか? じゃあ一体誰がアリスを焼くんですか!」

 

 ○○が拳をカウンターに叩きつけて叫ぶと、女性は目を丸くする。

 

「……随分とバッドに入っているわね。貴方、頭は大丈夫?」

 

 ○○の様子を見て、女性は心配そうな声を出した。

 ○○は、自分が狂人であるかのような言われように、不満を感じる。確かに今の自分は少し興奮しているのかもしれないが、それはアリス不足のせいなのだ。アリスを吸引すれば、きっとアリスになれるだろう。

 

「僕はアリスですよ。アリスアリスアリスアリスアリスアリスアリス」

 

 ○○が呟くと、女性がため息をつく。

 

「しょうがないわねぇ。アリスがある場所に案内してあげるから、ついていらっしゃいな」

「アリがとうございまス」

 

 そう言うと、女性は立ち上がる。そして、店の入り口へと向かうと、そのまま外に出て、近くの雑木林に入っていく。○○もその後を追った。

 しばらく歩くと、女性の足は止まった。そこには大きな白い建物が建っており、看板には精神病棟と書かれていた。

 その建物を見た瞬間、○○は理解した。ここは、アリスがある所だ。アリスがあるのならば、ここにアリスもいるに違いない。 ○○が歓喜に打ち震えていると、女性が振り返って話しかけてくる。

 

「ここから先は、貴方一人だけで行ってちょうだい。私は忙しいから帰るわね」

「どうも」

 

 そう言って、女性は踵を返すと立ち去っていった。○○は礼を言うと、建物の中に入っていく。

 中は真っ白な壁に覆われていて、窓は一切なかった。天井からは電灯が吊るされており、その光は疎らである。全体的に薄暗い印象を受けた。厳かな音楽が流れており、空気は重苦しい。

 

 ○○は、辺りを見回しながら進んでいく。受付らしきものはなく、患者と思しき人々が椅子に座って待っていた。その内の一人が○○の姿を見つけると、近づいてくる。

 

「やあ。君は、ここに来るのは初めてかい? それなら、僕が色々と教えてあげようじゃないか」

 

 その男は、○○に馴れ馴れしく語りかける。いや、男と言ってもいいのか分からない。

 何故なら、それは人間の体を持っているが、頭部が凄まじく肥大化しており、目鼻口耳にいたる顔の部位が見当たらないのだ。どこから発声しているのかは不明だが、男の口調は滑らかだった。

 彼は○○の肩に手を置くと、言葉を続ける。

 

「そんなに緊張する事はないさ。ここの評判は聞いているんだろう? 君の病気も、きっと治るよ」

「はあ? 僕は正常です。それよりアリスを知りませんか?」

「アリス? ああ、彼女なら——」

 

 男が何かを言いかけた時、奥の扉が開いて、病衣を着た少女が現れた。茶髪をツインテールにした少女だ。

 彼女は、焦った様子でこちらに向かって走ってくる。その後ろを、看護婦らしき人物が追いかけていた。

 少女は、○○の前で急停止すると、両手で○○の服を握りしめ、涙を浮かべながら訴えかけてきた。

 

「た、助けてくださいっ! ここにいたら頭がおかしくなりそうなんです! イカれた奴等しかいないんですっ!」

 

 ○○は、彼女の必死な形相を見て、困惑する。助けを求められたのならば、力になりたいとは思うが、具体的に何をしたらいいのだろうか。

 考えていると、追いついた看護婦が声をかけてきた。

 

「お騒がせして申し訳ありません。彼女は重度の精神病を患っていて、錯乱状態に陥っているのです。今すぐに連れて帰ります」

 

 そう言うと、彼女は有無を言わさず、少女の腕を掴んで○○から引き離した。すると少女は、激しく抵抗し始めた。

 

「や、やめろおぉぉぉ! 私は地底だ! 地底なんだ! デブ野郎が私に触れるなぁっ! 離せっ! 離せよおおおぉぉっ!?」

「ふむ、これは点滴が必要ですね。頭に穴をあけて、直接脳に入れましょう」

 

 少女は血走った目をして、金切り声を上げる。どう見ても正気とは思えない言動であった。

 しかし看護婦は手慣れた動きで、彼女を拘束すると、そのまま引きずっていく。

 ○○は、この異常な光景に圧倒される。まるで、悪夢の中に迷い込んだような気分になった。

 すると、背後にいた男が、○○に声をかけてくる。

 

「ああなったら、もう手遅れだよ。まあ、この病院では、よくある事だから気にしない方がいい」

 

 ○○は振り返ると、彼に質問する。

 

「アリスがいるはずなんですけど、どこにいますか?」

「ああ、アリスね。そういや話の途中だったね。僕がアリスと出会ったのは、雪が降る寒い日の事だった。俺は懐が暖かかったから、場末の風俗店に足を運んだんだよ。店のパネルを眺めていると、一人の女の子に目が留まった。それがアリスって名前だった。金髪の幼い顔立ちをした二十歳の子で、何故かその子から目が逸らせなくなったんだ。そして気がつけば、私はアリスを指名していた。気分を昂らせて、いざプレイルームに入ったら、そこにはアリスじゃなくて、トロルがいた。力士かと思えるくらい太っていて、髪はプリンになっていた。顔は脂ぎっていたし、肌も荒れ放題。おまけに、口臭が酷くて、吐きそうになったよ。でもキャンセルやチェンジをすると、別料金がかかるから我慢したんだ。拙者は彼女に手を引かれて、シャワーを浴びさせられた後、マットに押し倒されたで候。そこから先は、よく覚えてござらん。気づいたら我は店を出ており、財布の中は空っぽになっておった。酷い店だと思わないかい? でも、ああいう店って後ろに怖い人達がいるらしくってさ。文句の一つも言えなかったんだよね。しかも、翌朝になって鏡を見たら、ごらんの有様だよ。どうやら性病に感染したらしくてね。それ以来、頭の中で海の囀りが聞こえたり、波間に光る真珠を携えるようになって、白い手が出るようになった。君は、流れ星に導かれた星の祈り子を見たことがあるかな? 果ての果てのその先には、母なる胎内に回帰している。それで、今も血を入れ替え続けてるんだけど、なかなか良くならなくて参ったよ。君もパネマジには気をつけたまえ。ふははは!」

 

 ○○は、彼の話を黙って聞いていた。

 彼が言っている事は本当なのか嘘なのか分からない。しかし、その話が真実だろうと偽りであろうと、あまり関係はなかった。

 何故なら、○○にとって、アリスこそが全てなのだ。他の情報など、どうでもいいのだ。

 彼は語り終えると、満足げに頭を揺らしてを去って行った。

 ○○は部屋から出てきた看護婦に話しかける。

 

「アリスはどこにいますか?」

「はい。右が、男子トイレです。左が、女子トイレです。真ん中が、診察室です」

「分かりました」

「ヒビの入った聖餐は、天使の羽根を受けて、彼方へと飛び立つつもりですか? 生理的な岩塩に、骨片をまぶすと、昇華されています」

「ありがとうございます」

 

 ○○は礼を言うと、女子トイレに向かって歩き出す。

 アリスを探すためだ。アリスさえ見つかれば、全てが解決する。○○はアリスの事だけを考えながら進んでいく。

 

「プシュ! ……あっ! 水素の音ぉ〜!」

「炭酸水の音だろ」

「私は幸せです私は幸せです私は幸せです私は幸せです私は助けて私は幸せです私は幸せです私は幸せですわたしはしあわせ」

「神子様に触れられた途端、子宮がパーン、となりましてね。これでようやく、私も神の子を産めるというもの。やはり雌は子を成してこそ価値があるんだ」

「こんなのにまじになっちゃってどうすんの? じかんのむだだから、いますぐげーむのでんげんをきりなよ ps53『ピッ』 データの更新があります。容量は827GBです。寺子屋のクソガキ『あははははははははははっ!』 」

「ちわー! 命蓮寺の集金でーす! 貴方、檀家になられてますよねぇ!? え、家に仏壇がない!? それは罰当たりな! でもご安心ください! 今ならこちらの仏壇っ、税抜き価格で190万800000円でご購入出来ますよっ! 今なら聖白蓮の染み付きパンティーが、セットで付いてきますっ!」

「 (ADHD変換ケーブルください) 」

「ADSLの間違いでは? こちら、サイズが小さい順からS・M・E・L・Lがございます」

「とーほーえーっ? いやんっ! しよっ? リグル・ワンナイトラブ。ミスティア・レロレロライ。下北沢ゲイ音。アクメてゐ。淫乱・処女ビッチ・イナバ。エイリン・オブ・ジョイトイ(八五五六歳) ほうれい線輝夜。ふしだらな妹紅」

「関西のルーミア『そうなんか?』 」

「お支払いの際は、是非とも電子マネーで! 【WAYON】 ……ワヨ〜〜ンッ!」

「だっさぁ〜い! 今時はペイパルだよー? パールパルッ!」

「東方名勝負数え役満。はいそれロ〜ンッ! 立直一発対々和嶺上開花河底撈魚大四喜字一色四槓子四暗刻単騎ドラ四で満州やっ! 四本場で8000オールッ!」

「お燐りんの自機キャラ昇格の目はあるか? エースのプライド・黒猫の意地・忍び寄るオリンリン。難易度ノーマル【開幕から十連敗で迎えた地底との一戦。霊夢、紫、萃香がボムを撃ちまくり、ノーミスで五面道中に到達するも、後続の魔理沙、パチュリーらが撃ち込まれ、激しい弾幕戦の展開。残機三で迎えたボス面、妖精の弾幕で残機が減り、さらにお燐のスペカでピンチは続く……】 」

 

 途中、何人かの患者とすれ違った。彼らは皆、虚ろな目をしており、焦点が合っていないように見えた。各々意味のわからない言葉を発しながら歩いている。そのせいで、ぶつかる事も何度かあったが、気にならなかった。

 

 やがて○○は、目的の部屋の前に辿り着く。扉の横には、『霧雨魔法店』と書かれた看板が掲げられていた。

 ○○は扉を開けると、中に入る。室内は薄暗く、埃の臭いが充満していた。

 

 奥に進むと、分厚い本が所狭しと並べられた棚がある。床にも大量の本が散らばっており、足の踏み場もない状態だった。まるで廃墟のような様相である。しかし、○○は臆する事なく、前に進んだ。

 部屋の隅にある椅子に腰掛けた金髪の少女を見つける。彼女は机に突っ伏して寝息を立てており、起きる気配がない。○○は彼女の肩に手を置くと、優しく揺すって声をかけた。

 

「アリス? 君がアリスなのか?」

 

 すると少女はゆっくりと顔を上げ、○○の顔を見る。

 彼女は、大きな瞳を見開くと、慌てて立ち上がった。

 

「な、なんだお前は!? いつからここに!」

 

 少女は警戒するように後退する。

 ○○は、そんな彼女に向かって微笑みかけた。

 

「やっと……やっと逢えた。逢いたかったよ、アリス」

 

 ○○は、そう言うと彼女に近づき抱きしめた。すると、少女は顔を真っ赤にして慌てる。

 

「ちょっ……いきなり何をするんだ! 離れろよ!」

 

 しかし、○○は彼女を離さない。それどころか、より強く抱き寄せようとする。彼女は腕を振りかざして抵抗するが、力の差がありすぎて振り解けない。

 ○○は少女の首筋に顔を埋めると、匂いを嗅いだ。甘い香りが鼻腔に広がる。少女の、アリスの匂いだ。○○は興奮して、さらに力強く抱きしめる。すると少女は、くぐもった声を出した。

 

「や、やめろって……んっ……やめてくれ……」

 

 ○○は、ますます力を込める。

 すると彼女は諦めたのか、大人しくなっていった。そして○○の胸に顔を埋めて、じっとしている。

 ○○はその事に気づくと嬉しくなり、さらに力を入れようとした。その時だった。突然、○○の後頭部に強い衝撃が走る。視界が揺れ動き、力が抜けていく。

 

「……ふざけやがって、この野郎っ! 客じゃないのなら容赦しないぜ!」

 

 少女は○○を突き飛ばすと、手に持った何かをこちらに向けてきた。どうやら、あれで頭を殴られたらしい。

 ○○は、ふらつきながらも立ち上がると、彼女に手を差し伸べた。

 

「何を、そんなに怒っているのかな? 僕だよ、○○だよ。ようやくアリスに会えて嬉しいんだ。アリスも喜んでくれるよね?」

 

 ○○の言葉に、少女は眉間にシワを寄せて睨んできた。そして、持っていた物を構え直すと、再び突き出してくる。

 

「……アリスって、あの人形使いのことか? なら、人違いだぜ。私は霧雨魔理沙っていうんだ」

 

 ○○は、その言葉を聞いて驚いた表情を浮かべる。どうも目の前の少女は、アリスとは違うようだ。

 記憶が不明瞭だが、アリスはウェーブがかかった金髪で、青い瞳をしていた。対して、この少女は金髪ではあるが、瞳が金色だ。それに、こんなにも乱暴な口調ではないはずだ。

 

「……マリス? アリスじゃないのか。だったら、ここはどこなんだい?」

 

 ○○が質問すると、魔理沙は呆れたようにため息をつく。

 

「ここは私の家だぜ。アリスの家も、同じく魔法の森にあるけど、お前は間違えて入ってきたんじゃないか?」

「そうかもしれない。じゃあ、アリスはどこに?」

 

 ○○が尋ねると、彼女は面倒くさそうな表情を浮かべる。

 

「さっきからアリスアリスって、お前はあいつの何なんだ? まさか、あいつの恋人とか言わないだろうな」

「そんなの決まってるじゃないか。アリスは僕の……僕の、何……なのかな? とても大事な存在だけど……」

 

 自分で言いながら○○は疑問を抱く。今まで考えた事もなかったのだ。しかし今、初めて気がついた。○○にとってアリスとは一体なんなのだろうと。何故、自分はこんなにもアリスを求めて止まないのだろうかと。

 ○○が悩んでいると、魔理沙は首を傾げている。

 

「お前、魔法の森を歩いてきたのか? だったら結構やばいぜ。ここはキノコの胞子が充満していて、人間が長時間滞在できるような環境じゃないからな。幻覚や幻聴に悩まされる事だってあるんだ。まぁ、私みたいに慣れれば平気だが……」

 

 ○○は彼女の言葉を聞いていたが、全く頭に入ってこなかった。それよりも、アリスについて考えてしまう。

 アリスの事を想うと、胸が苦しくなる。それは、まるで病にかかったかのように、じわじわと蝕んでくるのだ。アリスが欲しい。自分だけのものにしたい。そんな欲望が溢れてくる。

 手に持っていた人形を胸に抱き寄せると、脳裏にアリスの顔が思い浮かぶ。すると身体中に電流が流れたかのような感覚に襲われ、震え上がった。アリスに触れたい。抱きしめてキスをして、自分の物にしてしまいたいという衝動に駆られてしまう。

 

「お、おい、大丈夫かよ? 顔色が悪いぜ。薬があるから、持ってきてやろうか?」

 

 魔理沙は心配そうに声をかけてきた。○○は繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ

 

「大丈夫です。僕はアリスに逢わないと」

「縺ッ縺ゑシ溷、ァ荳亥、ォ縺ェ險ウ窶ヲ窶ヲ」

 

 ○○は、服を掴んで引き止めようとしてくる魔理沙を振り払い、顔面に拳を叩き込んだ。魔理沙は鼻をひしゃげさせながら吹き飛び、壁に激突する。

 

 ○○は、魔理沙が動かなくなったのを確認すると、急いで家を出た。あんなゴミ屋敷のような場所に居たら気が狂ってしまう。○○はアリスを探すために森の中を走り出した。

 

 しばらく走り続けると、胞子が濃くなってきた。○○は咳き込みながらも走る速度を上げる。アリスを見つけないと、このままではおかしくなってしまいそうだ。

 時折、人形に顔を埋めて、深呼吸をする。人形からは、アリスの芳香がした。それを嗅ぐと落ち着くことができるのだ。この人形は、アリスのよすが。アリスを感じる事ができる大切な宝物だ。

 しかし、すぐにまたアリスが欲しくなる。この気持ちを抑え込むためには、アリスを見つけるしかない。○○はアリスを想いながら、さらに速度を上げて走った。

 

 やがて、視界に洋風の一軒家が映り込んでくる。あれはアリスの家だ。

 ○○は迷わずに扉を開けて中に入った。そして、アリスの姿を探そうと、居間の方へ向かった。しかし、そこにアリスの姿はない。

 

「アリス! いないのか、アリスっ……!」

 

 必死にアリスの名を叫ぶと、台所の方から足音が聞こえてきた。そちらを見ると、金髪の女性が居間に入ってくるところだった。

 女性は、○○の姿に気づくと、目尻を下げて嬉しそうな表情を浮かべる。

 

「あら、○○。おかえりなさい。今日は早かったわね? ご飯にする? それとも先に、お風呂に入る?」

 

 ○○は返事をせずに、やけに馴れ馴れしい態度の女性を、睨むように見つめた。すると、彼女は困った表情を浮かべる。

 

「……そんなに怖い顔をして、どうしたの? ママ、何か悪い事でもしたかしら?」

「マ、ママ……?」

「えぇ、そうよ。○○は私の可愛い息子だもの。お腹を痛めて産んだのだから、間違いないわ」

 

 ○○は、目の前の女性が何を言っているのか、理解できなかった。確かに、目の前の女性は、母親ほどの年齢に見える。しかし、○○は彼女の事を知らないのだ。

 混乱した頭では、入ってくる情報が処理できずに、気が狂いそうになる。しかし、一つだけ確かな事がある。アリスがいないのだ。アリスさえ見つければ、全ては丸く収まるはず。

 

「あの、アリスはどこですか? この家にいますよね?」

「やだ○○ったら。ママの名前を忘れてしまったの? 私がアリスよ」

 

 女性は笑顔のまま首を傾げる。○○は、彼女の言葉が信じられなかった。でも、彼女が嘘を言っているようにはみえない。

 

 ○○は、改めて女性を観察する。確かに、見た目はアリスそっくりだった。服装も髪型も同じだし、体型まで同じなのだ。

 唯一違うのは、年齢くらいだった。アリスが二十年ほど成長すれば、こんな感じになるのかもしれない。そんな印象を受けるほど似ている。

 

 だが、○○には違和感があった。目の前にいるのは、アリスであってアリスではない。そんな気がしてしまう。

 そもそもアリスとは、一体なんなのだろうか。○○は今まで、アリスの事ばかり考えてきたが、その正体が分からない。

 

 アリスは、慈愛に満ちた美しい母親なのだろうか? 

 

「あれ? ○○くん、帰ってたんだ」

 

 不意に背後から声をかけられたので振り返ると、そこにはアリスがいた。アリスは微笑みながらこちらに歩み寄ってくる。

 

「ただいまの挨拶がなくて、お姉ちゃん寂しいなぁ。ほら、ただいまって言って?」

 

 アリスは○○の手を握って、瞳を潤ませながら懇願してきた。その姿がいじらしくて、つい甘やかしたくなる。

 

「た、ただいま……」

「うんっ! おかえり○○くんっ。お姉ちゃん、○○くんがいない間、ずっと心細かったんだからね?」

 

 アリスはそう言うと、○○に抱きついて頬ずりをしてくる。柔らかな感触が心地よく、○○は身体から力が抜けていくような感覚を覚えた。

 アリスは○○の身体を抱きしめたまま、首筋に顔を埋めてきた。そして、大きく息を吸い込む。

 

「んっ……○○くんの匂いがするぅ……。お姉ちゃんは幸せだよぉ……」

 

 アリスは、うっとりとした表情を浮かべながら呟いた。

 ○○はアリスに抱擁されながら、ぼんやりと思考に耽っていた。アリスは、こんなにも馴れ馴れしくスキンシップを求めてくる人物だったろうか。しかも、自分のことを、お姉ちゃんと自称しているのだ。

 

 アリスは、弟想いの可憐な姉なのだろうか?

 

「あー! おねえちゃんばっかりずるーい! ありすもするー!」

 

 突然、小さな女の子の声が聞こえたかと思うと、背中に衝撃を感じた。振り向くと、そこにいたのは金髪の少女だ。少女は○○にしがみつくようにして、背中に顔を押しつけている。

 

「ありすもねぇ、ぱぱのにおいがだいすきなのっ!」

 

 ○○は、少女の言葉を聞いて困惑した。父親というのは、誰のことを指しているのだろうか。少なくとも、自分ではないはずだ。それはありえない。そして、この少女も、アリスを自称している。

 

「あっ! ぱぱがもってるのって、おにんぎょうさん? もしかして、ありすにくれるのっ!?」

 

 金髪の少女は目を輝かせて問いかけてくる。

 人形という言葉に、○○はハッとなった。この人形は、アリスにあげる為に持ってきた物だ。それなのに、すっかり忘れてしまっていた。

 

「……うん。繧「繝ェ繧ケって女の子から、貰ったものだけど、アリスにあげようと思ってたんだ」

「やったー! ぱぱありがとう! このこ、すっごくかわいいもんねっ!」

 

 金髪の少女は満面の笑みを浮かべて、人形を抱きかかえた。その様子を見て、○○は安堵した。どうやら、喜んでくれたようだ。

 

 アリスは、無邪気で純粋な娘なのだろうか?

 

「むぅ……。お姉ちゃんには、プレゼントはないのかなぁ?」

 

 抱きついたままのアリスが、不満そうな声で言った。それに対して、○○は申し訳なさそうな顔をして答える。

 

「ご、ごめん。人形は、一体しか持ってないんだ」

「○○くんひどーい。お姉ちゃん泣いちゃうよ?」

 

 アリスはわざとらしく目元を拭いながら、上目遣いで○○を見つめる。そんな彼女を見ていると、○○の心はざわついてしまう。

 

「……なーんて、冗談だよっ」

 

 アリスは悪戯っぽく微笑んで、○○の身体から離れた。

 ○○は、ほっとしたような残念だったような、複雑な気持ちになる。

 アリスは○○の隣に移動すると、彼の腕を組んで、寄り添うように密着する。それから○○の耳元に唇を寄せると、彼にしか聞こえないように囁く。

 

「代わりに……後で……お姉ちゃんの部屋に来てね……。そこで、いいこと……しよっ?」

 

 ○○は、思わず生唾を飲み込んだ。その言葉の意味するところは明白である。アリスに視線を向けると、彼女は妖艶な微笑みを浮かべていた。

 アリスはくすりと笑うと、居間から出て行ってしまう。

 

 ○○は呆然と立ち尽くしていた。先ほどのアリスの発言が頭から離れず、悶々としてしまう。アリスの身体は柔らかく、良い匂いがした。思い出すと、身体が熱くなる。

 ○○が煩悩を振り払おうとしていると、背後から声をかけられた。

 

「ぱぱー? あとでね、ありすのおへやにきてほしいの。ぱぱとふたりきりであそびたいの……」

 

 振り返ると、そこには金髪の少女がいた。娘だと自称する少女は、こちらをじっと見上げている。

 ○○は少女に向き直り、しゃがみ込んで視線の高さを合わせた。そして、優しく微笑みかける。

 

「先に、お部屋に帰って待っててくれるかい?」

「うんっ! ありす、いいこにしてまってるから、はやくきてねっ!」

 

 少女は笑顔になって、大きく首を縦に振った。そして、駆け足気味に部屋を出て行く。

 それを見届けてから、○○は再び立ち上がった。すると、いつの間にか傍にいた女性が、口を開く。

 

「○○は大人気ねぇ。私も母親として、鼻が高いわぁ……。でも、○○は私だけのものなんだからね? 私から離れるなんて、許さないんだから……」

 

 女性はそう言うと、○○の身体に抱きついてくる。柔く熟れた身体を押し付けられて、母親の胎内に戻ったような安心感を覚えてしまう。

 

「ここまで来るのに、随分と疲れが溜まっているでしょう? だから……ママに身を任せて……。子守唄を歌って、寝かしつけてあげるから、後でママのお部屋に来なさいね……?」

 

 女性は、○○の頭をひとしきり撫で回してから、部屋から出て行った。○○はしばらく惚けていたが、やがて我にかえり、頭を左右に振った。

 

 アリス達は、三者三様に魅力的な誘惑を仕掛けてきた。彼女たちとの触れ合いは心地よく、いつまでも続けていたいと思ってしまうが、選べるのは一人だけだ。

 

 母、姉、娘。

 どのアリスが、本当のアリスなのか。偽りのアリスが、紛れ込んでいるのか。○○には、わからない。

 

 自分の大切な人は、一体誰なのだろうか?

 自分の家族である事は、確かに覚えている。それが、○○にとって唯一の繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ家族はアリス一人だけだ。他の誰もいらない。

 

「僕の……僕は……僕と、アリスは、か、ぞく……? あれ……?」

 

 何かがおかしい。違和感がある。自分はアリスを愛していて、彼女以外何も要らなくて、アリス以外の人間は邪魔で、アリスだけが愛しくて、アリスだけを愛していて、アリスだけを求めている。

 なのにどうして、アリスのことを、思い出せないのだろう。家族なら、鮮明な記憶が残っていてもいいはずだ。それなのに、○○はアリスの顔を鮮明に思い出せない。

 アリスは、どんな顔をしていただろうか? アリスの声は、どうだっただろうか? アリスは、自分に何と言ってくれただろうか? アリスは、自分をどう思ってくれていたのだろうか? 

 アリスは、アリスはアリスアリス繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ繧「繝ェ繧ケ

 

「アリスは僕の妹だ」

 

 ○○は思い出した。

 アリスと○○は、血の繋がった兄妹なのだ。

 アリスは、母でも姉でも娘でもない。

 アリスこそが、○○の愛する妹で。

 アリスが、世界で一番大切な存在で。

 アリス以外、何もいらないのだ。

 

「アリスは妹アリス妹はアリスアリスはアリス妹」

 

 ○○の思考は、完全に壊れていた。アリスに対する愛情と執着心のみが残り、それ以外のものは全て抜け落ちてしまったようだ。

 彼はアリスしか見えていない。彼の目に映るのは、金髪碧眼の愛らしい少女。

 ○○は、ふらふらとした足取りで、歩を進める。

 

 妹が、アリスが待っている部屋へ、向かわなければならない。

 

 ○○はアリスの部屋の前に立つと、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、簡単に開く。

 中に入ると、そこにはアリスがいた。彼女はベッドの上に腰掛けて、○○を待っていた。彼女は、こちらを見ると、にっこりと微笑む。

 

「お帰りなさい、お兄ちゃんっ」

「うん……。ただいま、アリス」

 

 ○○は微笑み返すと、ゆっくりと彼女に歩み寄った。そして、優しく抱きしめる。

 アリスは抵抗しなかった。○○の腕の中で、大人しくしている。その表情は幸せそうで、とても嬉しそうだ。

 

「やっと、会えた……。アリス……僕の妹……。アリス、アリス、アリス……」

 

 ○○は感極まったように呟くと、何度も彼女の名前を呼んで、頬擦りをする。その瞳には、涙が浮かんでいた。ようやく、アリスに再会できた喜びに、胸を打たれている。

 なすがままのアリスは、○○の耳に艶かしく囁く。

 

「えへへっ、そうだよぉ……。アリスは、お兄ちゃんの妹なのぉ……。わたしのこと、思い出してくれて、嬉しいなぁ……。これからは、ずうっと一緒だよ?」

 

 アリスは甘えるように、○○に身体を預けた。○○はそれを受け止めると、ぎゅっと強く抱き締める。

 

「……本当にごめん。僕はさっきまで、アリスの事を忘れていた。大切な妹の存在を、忘れてしまっていたんだ。だから……今度こそ、絶対に離れないからね……!」

「うんっ! でもぉ……言葉だけじゃ、不安だから……形にして欲しいなぁ……?」

 

 そう言うと、アリスは○○を見上げて、目を閉じた。キスをして欲しいという合図である。

 

「アリス……それは、出来ないよ。僕らは恋人じゃない。家族なんだ……」

 

 しかし、○○は首を横に振って、拒絶する。それでもアリスは諦めきれず、唇を突き出して、不満げな様子を見せた。

 

「どうして? お兄ちゃんは、わたしのことが好きなんでしょ? なら、問題ないよね? ……それとも、お兄ちゃんは嘘つきなの? 本当は、アリスのことが嫌いなの……?」

 

「き、嫌いなわけないじゃないか……!」

 

「じゃあ、証明してよ。アリスが好きだっていう証拠を見せて? アリスの初めてを奪って、アリスをお兄ちゃんのものに……して?」

 

 アリスは潤ませた目で見つめながら、顔を近づけて、○○に迫る。そして、唇同士が触れ合う寸前で、動きを止めて、言った。

 

「この先は、お兄ちゃんがしてね。お兄ちゃんの方から、アリスを求めて欲しいの。それで、わたしたちの心は、一つになれるんだよ。お願い……お兄ちゃん……」

 

 アリスは切なげな声で、訴えかける。アリスの甘い吐息を間近に受けて、○○の理性を揺るがせた。

 このまま、アリスの願い通りにしたい気持ちが膨れ上がっていく。アリスを自分だけのものにしたい。他の男に奪われたくない。そんな独占欲が湧いてくる。倫理観など、もう消え去っていた。○○の頭にあるのは、アリスに対する愛しさのみだ。

 

 もし、キスをしてしまえば、○○とアリスは、兄妹の垣根を越えて、禁断の関係になるだろう。後戻りは出来なくなる。

 だが、それでも構わないと思った。アリスさえいれば、他に何も要らない。アリス以外の全てを捨てても惜しくはない。

 ○○は、覚悟を決めた。

 

「アリス……」

「…………んっ」

 

 アリスを愛しているという証を示すために、彼女を抱き寄せて、口づけを交わす。触れるだけの、軽いものだ。

 唇が離れた後も、二人はお互いの顔を見つめ合っていた。その顔はどちらも赤く染まっていて、初々しい。

 

「……ふ……ふふっ……うふふふふっ…………ふっ……く、くふふふふふふっ……!」

 

 不意に、アリスが笑い出した。何がおかしいのか、ずっと笑っている。

 ○○は困惑した。今のキスは、アリスにとって、それほど面白いものだっただろうか。

 するとアリスは、○○の胸に顔を寄せて、身体を密着させてきた。

 

「ふふっ! なんだか、いろんな感情が、一気にぐちゃぐちゃーって混ざっちゃったみたい。嬉しくて楽しくて幸せで、とにかく笑いがこみ上げてくるのっ! あはははははははははっ!」

 

 アリスは○○の腕の中で、嬉しそうにはしゃいでいる。まるで無邪気な子供のように、楽しげだった。

 その笑顔を見て、○○は安心する。アリスが楽しくて笑っているのなら、それが一番良いことだからだ。

 

「はははは、はっ…………ふうっ……。それじゃあ、○○。そろそろ、私達の故郷に帰りましょうか。ここだと、邪魔が入るかもしれないから、○○とゆっくり過ごせないもの。鬲皮阜に帰って、二人きりで暮らそう?」

 

「故郷……? ……ああ、そうだね。帰ろうか、アリス。僕達の家に……」

 

 アリスの言葉を聞いて、○○は疑問に思ったが、すぐに納得して返事をした。

 元々、自分達は、異界に迷い込んだ、外なるまれびとなのだから。帰るべき場所は、鬲皮阜以外にない。

 

「……でも、もう少しだけ。ここには、私なりに思い出があるから……ね?」

 

 アリスは物憂げな表情を浮かべて、○○に寄り添い、身体を預けた。○○もそれを受け入れるように、彼女を抱きしめる。

 

 ○○は幸せを噛み締めていた。こうして愛する人と、一緒にいるだけで、幸せを感じる。この世界に来て良かったと思えるのだ。

 これからは、アリスと二人で生きていく。いつまでも、永遠に……

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔法の森の奥深く。そこには、寂れて朽ち果てた洋風の家がある。かつてそこに暮らしていた者は、もういない。今は誰も訪れることのない無人の家だ。

 

 中は埃と蜘蛛の巣だらけで、家具も全て壊れている。とても人が住めるような環境ではない。しかし、その場所からは、かすかに妖しい気配が漂っていた。

 

 廊下の突き当たりには、開かずの扉がある。鍵穴がなく、建付けも悪くないのに、何故か開けることができない。そんな不思議な扉である。

 そこの部屋だけは、老朽化が進んでおらず、住人がいた当時のままの状態を保っていた。

 

 その部屋には、床や壁の至るところに、魔法陣が描かれている。その中心には、二体の人形が、横になっていた。

 

 片方の人形は、金髪の少女の姿をしている。

 もう片方は、黒髪の青年の姿だ。

 

 二体の人形は、お互いに手を繋いで、寄り添いあっている。まるで恋人同士のような光景であった。

 

 いつまでも変わらず、同じ姿で在り続ける。

 物語が終わる、その時まで。

 

 

『愛しき貴方へ贈る不思議な御伽話』



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レティ編

 

 寝苦しい夜が過ぎても、昼から燦々と陽光が照りつけ、茹だるような真夏日の様相を呈している。

 

 ○○は荷車をひきながら、とある山の山道を登っていた。山中でも、じっとりと汗ばむような熱気が肌に纏わりつく。

 彼が今歩いている場所は、比較的勾配は緩やかだが、人の手が入っていない獣道であり、時折足を取られて転びそうになる。それでも何とか姿勢を保ちつつ、一歩ずつ足を進めていく。

 

 この名も無き山には、人里で管理している氷室がある。冷凍庫などない幻想郷において、氷室はとても重要な施設だ。

 氷室の氷は、特殊な冷気が纏っており、酷暑の中でも溶けることがない。それどころか、外気温に影響を受けず、常に一定の温度を保てる性質を持っている。

 そのため、氷を使った食物の保存や、氷菓子の製造などに重宝されていた。幻想郷の夏において、氷の需要は高い。

 

 ○○の目的は、そこにある氷を、人里まで運搬することだった。

 しかし、その道中は非常に危険である。妖怪もそうだが、山の中には熊や猪などの、人に危害を加える動物がいるからだ。

 そのため、荷車には退魔の御札が大量に貼られている。これがあれば、人間以外の生物なら近寄れない。

 それでも、この仕事が過酷なことに変わりはなかった。そんな人里の誰しもが嫌がる仕事を、○○は自ら進んで引き受けたのだ。だが、それは純粋な善意からではなかった。

 

「あっついなぁ……」

 

 ○○は額に汗を浮かべながら、そう呟いた。

 気温の高さに加え、道の悪さもあってか、疲労も増して身体中から水分が失われていくような感覚に陥る。そんな状況でも、彼は決して足を止めなかった。

 それは仕事を優先した訳ではない。恋人との約束を守るためである。彼女は自分が来るのを、今か今かと待っているはずだ。早く逢いに行かなければならない。

 ○○はそう思いながら、荷車を必死に走らせた。

 

 やがて、目的地の洞窟が見えてきた。その中に氷室があるのだ。

 ○○は荷車を外に置いて、洞窟の中へと入っていく。そして、ひんやりとした空気に包まれた瞬間、思わず安堵のため息が出た。

 

 氷室の内部は広く、とても綺麗であった。天井付近には、光源として充分な光を放つ謎の苔があり、それが室内全体を明るく照らしていた。また、床にも苔が敷かれており、歩きやすくなっている。

 

「……んっ?」

 

 ○○は氷室を見回した後、首を傾げた。ここには彼女が住んでいるはずなのだ。なのに姿が見えない。

 不思議に思った○○が周囲を探してみると、突然背後から衝撃が伝わってきた。

 

「うわっ!」

 

 驚いた○○が振り返ると、そこには自分を抱きしめる白髪の少女がいた。

 

「うふふっ、驚いたかしら?」

「……当たり前だ。急に後ろから、抱きつかれたんだから」

 

 ○○は呆れたように言って、彼女を引き剥がした。すると、彼女は舌を出して、悪戯っぽく笑う。

 彼女の名前はレティ・ホワイトロック。冬になると現れる雪女であり、○○の恋人でもある女性だ。

 

「まったく、心臓が飛び出るかと思った……」

「ごめんなさいね。でも、これは私なりの愛情表現だから」

 

 悪びれもなく謝った後、レティは嬉しそうな表情になる。それを見た○○は苦笑するしかなかった。

 

「ああ、○○……。しばらく逢えないだけで、胸が張り裂けてしまいそうだったのよ……」

 

 レティは甘えるような声で言いながら、再び○○に抱きついた。そして、愛おしそうに彼の胸板に頬擦りする。

 ○○は困った顔になりながらも、彼女を優しく抱擁してやった。

 

 レティは色白の見目麗しい女性で、性格はおっとりとしていて、同時に寂しがり屋でもあった。一年中寒い場所に一人で住んでいるため、人肌恋しくなってしまうらしい。

 特に○○と過ごす時間は至福の時らしく、彼が傍にいる時は、常に密着しようとする。まるで猫のようにすり寄ってくる姿は、とても可愛く見えるのだが、何しろ彼女の体は冷たい上に、豊満な肉体のせいで柔らかい。そのため、レティに抱き締められる度に、○○は自分の理性と戦っていた。

 

「外は暑かったでしょう? ○○の体、とっても熱いもの……」

 

 レティはそう言うと、○○の顔を見上げて、冷たい吐息を吹きかけた。

 

「まあな。でも、レティのおかげで、今は涼しい気分になったよ」

「そう? 私も役に立てて嬉しいわ」

 

 ○○の言葉を聞いたレティは微笑みながら、彼から離れた。そして、今度は○○の横に回り込み、腕を絡めてくる。

 そのせいで、彼の腕に大きな膨らみが押しつけられた。心臓の鼓動が激しくなるのを感じながら、○○は顔を赤くさせる。

 そんな○○を見て楽しげに笑いながら、レティは口を開いた。

 

「ねえ、○○。今日は泊まっていかない? 久々の逢瀬なんだから、一晩くらい一緒に過ごしたいわ」

 

 レティの提案に、○○は少し考えた後、ゆっくりと首を振って断った。

 

「……悪いな。氷を運ばないといけないし、日が暮れるまでには戻るって言伝してきたから、勝手なことは出来ないんだ」

 

 ○○はそう答えて、レティの方に視線を向けた。その言葉にレティは残念そうに眉を下げる。

 しかし、すぐに笑顔に戻ると、○○の腕を離して、彼の正面に立った。そして、彼の両手を握って、上目遣いで見つめる。

 

「○○。私は貴方の何? 恋人よね?」

「……ああ」

 

 唐突な質問に○○は目を丸くさせたが、数秒ほど考えてから、小さく首を縦に振る。面と向かって肯定するのは、少し気恥ずかしかったからだ。

 それを確認してから、レティは○○の手を握る力を強めた。

 

「じゃあ、私と仕事。○○にとって、どちらが大事なのかしら?」

 

 どこか圧を感じさせる口調で言うと、レティは○○の目を見据えた。○○の瞳に映るのは自分だけ。そう思わせるような強い眼差しである。

 その迫力に気圧されそうになった○○だったが、どうにか踏み止まった。そして、真剣な表情を浮かべると、はっきりとした声音で答える。

 

「レティに決まっているだろ」

「……ふふっ」

 

 ○○の返事を聞いて、レティは満足げに笑った。予期していた答えだから、当然といった感じで。そして、彼の手を離すことなく歩き始めた。

 ○○は引っ張られながらも、不思議そうな顔で尋ねた。

 

「お、おい、どこに行くんだ?」

 

 ○○が尋ねると、レティは振り返らずに答えた。

 

「愛の巣よ」

「……えっ」

 

 ○○が何も言えなくなっている間に、二人は洞窟の奥へと進んでいく。

 すると、そこには氷で作られた小さな家があった。氷の家の中には、ベッドやテーブルなどの、生活に最低限必要な家具が置かれている。

 

 レティは○○を連れて家の中に入ると、彼をベッドに座らせてから、自分も隣に座って、寄り添うように体を密着させてきた。

 

「……今日は、いつも以上に甘えん坊だな」

「ええ。久しぶりだから、仕方ないわ」

 

 ○○が苦笑しながら言うと、レティは頬を緩ませながら、彼の肩に頭を預けてきた。○○は彼女の頭に手を伸ばし、優しく髪を撫でる。

 しばらくそうしていると、レティは○○の手に自分の手を重ね、指を絡ませた。そして、じっと見上げてくる。

 ○○が、どうしたんだという目線を向けると、レティは悪戯っぽい笑みを見せた。

 

「……○○。そろそろ、しよっか?」

 

 そう言って、レティは○○の唇を奪った。そして、舌を入れながら濃厚に口づけをする。

 突然のことに驚いた○○だったが、抵抗することはなく、受け入れる。

 

「ちゅっ……んふぅ……」

 

 互いの舌が絡み合い、唾液を交換し合う。冷たいレティの体とは対照的に、○○の体は内側から燃えるように熱くなっていた。

 短い口づけを交わした後、○○は解放された。レティは蕩けた表情になり、熱っぽい吐息を漏らすと、今度は○○の首筋を舐め始める。

 

「んっ……。ふふっ、しょっぱいわ。たくさん汗をかいたのね……」

「それは、そうだろう。嫌なら舐めなくても……」

「嫌なわけないじゃない。○○の味なんだもの。もっと、欲しいくらいよ?」

 

 ○○の言葉を聞いたレティは、首元から顔を離すことなく、そのまま喋り始めた。そのせいで、彼女の吐息が吹きかかって、○○はくすぐったさを感じる。

 レティはそのまま、○○の耳まで辿り着くと、艶かしく囁いた。

 

「久々に、これも……味わいたいの。いいかしら……?」

「あっ……」

 

 レティがそう言うと、○○の体がビクッと跳ねた。彼女は、その絹のように滑らかな手で、○○の股座を服越しに触ってきたのだ。

 

 レティは○○の耳に軽く口をつけると、舌を出してちろちろと舐めた。その瞬間、○○は背筋をピンっと伸ばしてしまう。

 

「ちょっ、レティ……!」

 

 彼は反射的にレティから離れようとしたが、しっかりと抱き締められているため、離れられない。

 レティは○○の反応を楽しむかのように、股座をゆっくりとさする。その度に、○○の思考は快楽によって溶かされていく。

 しかし、どうにか理性を取り戻し、レティの手を掴んだ。

 

「……どうしたの? もしかして、出ちゃいそうだった?」

 

 レティが、からかうような口調で尋ねてくる。○○は乱れた息を吐き出しながら、首を横に振った。

 

「……ち、違う。ただ、今日のレティは、あまりにも大胆過ぎる。あれほど控えると言っていたのに、どうしてだ?」

 

 ○○が疑問を投げかけると、レティは自嘲気味に小さく笑って答えた。

 

「そう、ね……。きっと、○○への愛が、日々積もり積もって、抑えきれなくなったんじゃないかしら」

 

 そう言いながら、レティは自らの下腹部を撫でた。○○はその仕草を見て、ゴクリと唾を飲み込む。

 

「最近ね、ここの奥が熱くなるの。疼いて疼いて仕方がないの。○○のことを頭に思い浮かべると、特に……ね? 私、熱いのは苦手だけど、○○の熱は心地良くて好きなの。雪女なのに、不思議よね」

 

 レティは○○の顔を見つめながら言った。

 ○○は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

 

「……くふっ」

 

 その様子を見たレティは、妖しい笑みを浮かべると、○○の体にしな垂れ掛かって、ベッドに押し倒した。そして、彼に覆い被さるように四つん這いになり、顔を近づけた。

 

「そう、私は雪女。○○は人間。本来なら相容れない存在。だから、これはいけないこと。決して許されない、禁断の関係……」

 

 レティは○○の頬に手を添え、目を細めて語りかけた。

 

「それでも私達は出逢ってしまった。お互いに惹かれあってしまった。愛し合ってしまった。私は貴方の温もりを知ってしまった。貴方は私の愛を受け入れてしまった」

 

 ○○は何も言わず、黙って聞いている。

 レティは○○の頬を優しく撫でながら、続けた。

 

「……私達は、ずっと一緒にはいられない。熱と冷気は、互いに相反するもの。混ざれば、必ずどちらかが消える。生ぬるい愛なんて存在しない。それが、自然の摂理というもの。それは、分かってるわ。でも……」

 

 レティは○○の胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめるように動かす。その手は僅かに震えていた。○○はレティの手に自分の手を重ねて、優しく握った。

 

 レティと恋仲になって早三年。その間、二人は様々な事を経験してきた。互いに愛を深め合おうとして、一緒の家に住んだこともあった。

 だが、うまくはいかなかった。種族という壁が、二人を引き裂こうとしたからだ。

 

 季節が夏場に近づくと、レティが暑さに耐えられずに、体調を崩してしまうようになった。そうすると、レティは暑さを凌げる場所に籠るしかないのだ。必然的に、二人の触れ合いは減っていく。

 冬場は真逆だ。レティの力が強まり、○○の方が寒さに耐えられなくなる。

 

 あちらが立てばこちらが立たず。そして、レティの愛が深まるほど、○○の熱は彼女に奪われていく。共にいる時間が長ければ長いほど、その愛の差は大きくなっていく。

 この繰り返しを何度もしている内に、二人が共に過ごせる時間は、どんどん短くなっていった。レティも○○の命を奪うの良しとしないからだ。

 結局、レティは○○の体調を気遣って、人里から近い場所にある山の氷室に、避暑地として居を構えるようになった。人里の重鎮も、管理者が現地に居てくれる方が都合が良いので、これを承諾した。

 

 こうして二人は離れて暮らすことになったのだが、これがいけなかった。

 レティの愛情表現が益々激しくなったのである。○○が氷室にいる時は、常に彼の傍に寄り添い、今のように体の繋がりを持とうとするのだ。

 

 ○○の方は、レティと肌を重ねることは嫌いではなかったが、どうしても体に負担がかかってしまう。

 なので、彼はレティに情事を控えて欲しいと頼んだことがあった。行為の後、体が冷え切って体調を崩した自分に、泣きながら縋り付いて謝る彼女の姿を見たくはなかったからだ。

 しかし、熱に浮かされたレティは○○の言葉を聞かず、彼の制止を振り切り、無理矢理に行為を強行するのであった。

 

 情事の最中、レティの様子は二重人格を疑うほどに変貌してしまう。普段とは打って変わって、荒々しく乱暴な一面を見せるようになるのだ。

 彼女は上位の体位を好み、○○の体に噛み跡や引っ掻き傷を大量に付ける。まるで、○○が誰の所有物なのかを主張するかのように。他の雌に対する牽制の意味を込めて。

 そんなことをしなくても、自分はレティ以外の女性に手を出すつもりはないのだと、○○がいくら言って聞かせても、レティは聞く耳を持たなかった。

 言葉でも、体の繋がりでも足りない。明確な愛情の証がないと不安なのだと彼女は言う。それが愛する人を傷付ける行為であると理解していても、止められないらしい。

 

 最初は○○も、レティの独占欲を嬉しく思っていた。自分だけがこんなにも愛されていると思うと、優越感に浸ることができるから。

 しかし、情事を重ねるにつれて、重圧を感じるようになっていった。彼女の愛は、人の身である自分には、重過ぎるかも知れないと。

 

「時々、考えるの。○○を失うくらいなら、いっそ冷凍して眠らせてしまおうかって。そうしたら貴方を傷付けることもないし、永遠に二人でいられるから。でもね……」

 

 レティは言葉を詰まらせると、○○の首筋に顔を埋めて、ぎゅっと抱き締めた。

 

「温もりを感じない○○と一緒にいても、きっと何の意味もない。○○は生きて、笑って、私を抱きしめて、愛を囁いてくれないと嫌なの……。そうでないと、きっと私は狂ってしまうわ……」

 

 レティは○○の耳元で囁いた後、ゆっくりと顔を離した。彼女は○○の目を見つめると、悲しげに微笑む。

 

「そうなるのなら、私が○○の熱で溶かされて、○○と混じり合って、一つになって……。それで、消えてしまう方が……いいの……」

 

 レティは○○の手を取り、自分の下腹部に当てた。そして、○○の顔を見ながら言う。

 

「ねえ……○○はどうしたい? このまま私を抱いて、どろどろに溶け合って、一つになる? それとも私に時を止められて、世界が終わるその時まで、一緒に眠り続ける?」

 

 レティは○○に選択を委ねた。彼女なりの優しさだったのだろう。○○の答え次第で、どちらを選んでも、後悔しないように。レティは○○の返事を待つ間、何も言わずにじっと見つめていた。

 ○○は彼女の瞳を見つめ返す。その目には、ひたすらに真摯な想いが込められていた。

 やがて、○○は口を開く。

 

「馬鹿を言うな。レティを失うのも、レティの悲しむ顔を見るのも、どちらも願い下げだ」

 

 レティは目を大きく見開いた。まさか、○○がそんなことを口にするとは思わなかったからだろう。

 

「人間同士だって、死別や離別があるじゃないか。人間だからって、必ずしも一緒にいられるとは限らないだろう? でも、それまでに思い出とか、子孫を残しておくとかさ。そういうのが大事なんだよ」

 

 ○○はレティを、強く抱き寄せた。自分の想いが真実であることを、肌で感じ取ってもらうために。

 

「俺は、レティよりも先に死ぬ。それは避けられないことだ。でも、だからこそ、その時までレティと一緒にいたい。それに、レティが俺を想ってくれているように、俺にもレティを想っている気持ちはあるんだ。一人で勝手に話を悲劇的にするのは止めよう……な?」

 

 ○○がそう告げた後、レティは何も言わず、ただ静かに涙を流していた。しばらくして、レティが呟く。

 

「○○……ありがとう……。やっぱり、貴方は優しいわ。こんな私を受け入れられるのは、世界中で貴方だけね。もう二度と、こんな我欲は抱かないわ。約束する……」

 

 レティは大粒の涙を流しながら、笑顔を見せた。無理矢理作ったような表情は不恰好だったが、今まで見てきた彼女のどんな表情より魅力的だと、○○には思えた。

 

 それからしばらくの間、二人はお互いの存在を確かめ合うかのように寄り添っていた。

 ○○はレティが落ち着くまで、彼女の背中を撫で続けた。レティも○○の顔を見据えたまま、離れようとしなかった。

 言葉は交わさなかったが、二人の心は決して解けないほどに強く結ばれていることだけは確かだった。それが存外に心地よくて仕方がなかった。

 

「……なあ、そろそろ体を離そうか。このままだと、その、あれだろ?」

 

 しばらくして、○○がそう切り出した。冷静になってみれば、二人の男女が重なるようにして横になっているというのは、非常に気恥ずかしい状況だからだ。

 レティは目を丸くした後、くすりと笑った。

 

「あれって言われても、分からないわ。ちゃんと言って欲しいのだけど?」

 

 悪戯っぽく笑うレティを見て、○○は思わず赤面してしまう。先程までのしおらしさは何だったのかと思うくらいに、彼女は余裕を取り戻していた。

 

「いや、だから……。ほら、この流れだとさ、いつものようにするんじゃないかなと思って……」

 

 ○○が答えると、レティは嬉しそうな表情を浮かべた。そして、自らの胸を押し付けて、甘えるような声で話しかける。

 

「当たり前じゃない。○○の、愛の告白を聞いて、私の体は殊更に火照ってしまったのよ? 責任を、取ってもらわないと……ねっ?」

「せ、責任!?」

 

 レティの言葉に、○○は思わず声を上げた。彼女は○○の頬に手を当てて、妖艶に微笑む。

 

「作るんでしょ? こっ、どっ、もっ。大丈夫、前戯はいらないわ。もうさっきからびしょ濡れだし、今なら○○との赤ちゃんを孕める気がするのっ。だって、卵が子宮の奥で疼いているから……。○○の愛が欲しい、○○の子供になりたいって。あとは、○○の熱を受け入れるだけなの。お願い、焦らさないで……? 早く、来て……?」

 

 レティは○○に熱い眼差しを向けると、彼の股座に手を伸ばし、服越しにそこに触れた。

 

「ほらぁ……○○のも凄いことになってる。期待してくれているのね。私を蕩けさせようとして、どんどん熱く、大きくなっていく……。ふふっ……」

「そ、それはレティが、変なことばかりしてくるからだろ! 大体、いつもはそんなにしないじゃないか!」

 

 ○○は顔を真っ赤にして反論した。しかし、当のレティは口元を緩めて、楽しげに話を続ける。

 

「変なことって、どんなこと……? 私にはぁ……分からないからぁ……教えて欲しいなぁ……?」

「あひぃ……」

 

 レティは○○の耳元に唇を寄せて、吐息交じりに囁いた後、ゆっくりと舌を這わせた。○○は背筋を震わせて、小さく喘ぐ。

 レティは、そのまま耳たぶを甘噛みすると、○○の耳に口を近づけた。そして、甘く蕩けるような声で話す。

 

「くふっ……。○○が、いけないのよ? あんなにも、熱い言葉を、ぶつけてくるから……。私ね、これでも、我慢していた方なのよ? でも、もう駄目。全部、ぜーんぶ受け止めてもらうの。○○への愛もぉ、情欲もぉ、何もかも……。だから、覚悟して……ねっ?」

 

 レティは○○の頭を撫でながら、再び耳たぶに吸い付いた。○○はぞくりとした感覚を覚え、身悶えしながら、レティに言う。

 

「……もう、好きにしてくれ」

「……ふふっ、言質は取ったわ。それじゃあ、早速、始めようかしら。○○、好きよ。大好き。愛してるわ……」

 

 

 理性と言う名の氷を溶かし、情欲という名の炎を燃やし、彼女はその身を、愛する男に捧げた。

 

 そして雪女は、愛欲にまみれた獣と化し、目の前の雄に襲い掛かる。ただの人間である男は、抗う術を持たず、彼女の全てを受け入れるしかなかった。

 

 髪を振り乱し、口からだらしなく唾液を垂らし、白く豊満な尻肉を波打たせる。発情期を迎えた一匹の雌は、貪る様に愛する男の精を搾り取る。

 夜が明けても、夜が更けても、嬌声は止まない。男が精根尽き果てようとも、一つに繋がれた輪が解かれることはなかった。愛は二人の体を循環し続け、互いを求め合う気持ちは、際限無く膨れ上がっていった。

 

 やがて、限界を迎え、弾け飛ぶ。頭の中に、脳を揺らす重厚な鐘の音が鳴り響く。

 これで終わりではない。これは、始まりを告げる合図に過ぎないのだ。

 

 側から見れば、それは狂気の沙汰だろう。しかし、確かに二人は幸せだった。互いを愛し合っているのだから。二人にとって、互いの存在だけが、世界の全てなのだから。

 

 やがて、幻想郷に、一つの命が芽吹いた。

 

 それは、幸福に包まれた愛の結晶。

 あるいは、狂おしき愛の成れの果て。

 



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リリー前編

 

 四季折々の風景が楽しめる幻想郷の春。桜のつぼみは膨らみ始め、日差しに暖かさを感じるようになってきた。

 春の陽気に誘われて、大小様々な妖精たちが、花畑で楽しそうに飛び回っている。

 しかしそんな中でも、一人輪を外れて、おとなしく花を摘んでいる妖精の姿があった。

 

 妖精の名は、リリーホワイト。略称リリー。

 春告精と呼ばれる種族で、その名のとおり春の訪れを告げる存在だ。彼女が居る所には、春の兆しを感じ取った色とりどりの花が咲き乱れるという。

 陽気を浴び、いつもより艶やかに色付いている花々を見て、彼女は満足げな笑みを浮かべた。

 

「早く来ないかなぁ……」

 

 リリーは、そう呟くと、花を編んで冠を作り始めた。その表情は、とても幸せそうだ。まるで、愛する人への贈り物を作っているかのように。

 

 しばらくそうしていると、少し離れた所から、妖精のものと思しき笑い声が聞こえてきた。普段であれば気にもとめないところだが、今の彼女にとっては違っていた。

 

「……もしかして」

 

 編みかけの花冠を置き、白く透き通った羽を羽ばたかせ、そちらの方へと飛んでいく。

 そこに居たのは、予想通りの人物だった。

 

 十歳前後の外見の少年が、ふわふわと宙を浮く妖精を、必死の形相で追いかけ回していた。追いかけられている方は余裕があるのか、ケラケラと甲高い笑い声をあげながら逃げている。

 

「あははっ! ほらほら、こっちだよー!」

 

 そんな風に少年を煽っている妖精の手には、小ぶりな風呂敷包みが握られていた。少年に見せびらかすように振ってみせると、中からは何かがぶつかり合う音が聞こえる。どうやら中身が入っているらしい。

 それを見た少年の顔が、さあっと青ざめる。

 

「や、やめて! そんなに揺らしたら駄目だって!」

「ふぅん? この中には、君の大事なものが入ってるんだぁ……」

 

 少年の言葉を聞いた妖精は動きを止めて、口元を歪ませた。その顔は悪戯をする子供のようであり、同時に悪魔じみた狡猾さを感じさせるものだった。

 

「ほぅら、早く取り戻さないと、大変なことになっちゃうよぉ?」

 

 妖精は再び手の中のものを揺らし始めた。

 

「このぉっ!」

 

 少年は焦った様子で妖精に飛びつくが、手は虚しく虚空を切るだけだった。それから何度も挑戦するが、結果は同じだ。やがて少年は疲れてしまったらしく、地面にへたり込んでしまった。

 

「くっ、くそぅ……」

「きひひっ! 捕まえられるものなら、捕まえてごらんなさ~い! でもでもぉ、のろまな人間には無理だろうけどねっ!」

 

 勝ち誇ったような笑顔を浮かべながら、妖精は中傷を続けた。それで油断しきっていたせいだろうか、背後から忍び寄る影に気づけなかった。

 

「あっ!」

 

 一瞬で手に持っていた風呂敷包みを奪われてしまい、思わず声を上げる。慌てて振り返ると、そこには笑顔を浮かべたリリーがいた。

 

「ひいっ……」

 

 妖精はリリーの顔を見て、先程までの余裕を失い、一転して怯えた表情になった。

 名無しの妖精全般に言える事だが、彼女たちは一様に頭が弱い。そのかわり危機回避能力が秀でているのだ。自分より弱き者をいたぶり、強き者には決して手を出さない。

 だから目の前の少女に対して、本能的な恐怖を覚えてしまう。それでも何とか強気に振る舞おうとするが、リリーの放つ得体の知れない雰囲気に呑まれて動けず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 

「もう充分でしょ? これ以上は、お互いのためにならないわ」

「そ、そそっ、そうだねっ。じゃあ、私はこの辺で……」

 

 妖精に向けて語りかけるリリーの口調は優しいものだが、どこか有無を言わせない迫力のようなものを感じさせた。

 その言葉を聞いた妖精は、ビクッとして震え上がると、すぐに飛び立って逃げていった。

 

 その姿が見えなくなるまで見送ると、リリーは呆気に取られている少年に歩み寄り、しゃがみこんで視線の高さを合わせた。

 その瞬間、今まで感じていた威圧感のようなものが消え失せ、柔らかな空気が漂い始める。

 

「○○ちゃん、大丈夫? 怪我とかしてない?」

「……うん、平気だよ。持ち物を取られただけだから」

 

 心配そうに声をかけてくるリリーを見て、○○と呼ばれた少年の表情が和らいできた。

 彼の、目に浮かんだ涙を隠すように拭う様は、年相応の可愛らしさを感じさせるものだった。

 

「よかったぁ! でも、気をつけないと駄目だよ? さっきは悪戯で済んだけど、妖精の中には人間を攻撃する子もいるからね」

 

 リリーは、ほっとしたように息をつくと、○○の隣に腰掛けた。その動作に合わせて揺れた髪からは、花の香りがふんわりと漂う。

 幻想郷の春は、花が咲き乱れてとても美しいものだ。それは、春告精の彼女も同じく、磨きがかった美しさだった。

 

「これは○○ちゃんの物なんだよね。取り返しておいたから、はい!」

「ありがとう。あの妖精、小さいから結構すばしっこくてさ」

 

 リリーは妖精から取り上げた風呂敷包みを、優しく差し出した。それを受け取った○○は礼を言うと、大事そうに抱え込む。

 そんな彼を見て、リリーは嬉しそうに微笑んだ。

 

 リリーは○○が大好きだ。理由は色々とあるが、一番の要因は、彼が自分を慕ってくれていることだろう。

 

 リリーと○○の出会いは、数年前のこの場所で、今日みたく初春の日のことだった。

 彼女が春の訪れを告げるために地上に降り立った時、たまたまそこに居たのが○○だった。

 当時の彼は少年とも呼べないほど幼く、泣きべそをかいて、途方に暮れた様子で辺りを見回していた。

 一目見て、外来人の迷い子だと確信した。人里の子供が一人で外を出歩くなど、ありえないからだ。

 

 そんな彼をリリーは放っておけなかった。妖精の例に漏れずリリーも悪戯好きではあるが、誰かが本気で困っている時は、見過ごすことができない性分なのだ。

 そして何より、リリーは人間が大好きである。妖精にとって、人間は楽しい遊び相手だ。特に子供は可愛らしく、愛らしい。

 なので○○が悲しんでいる姿を見ると、胸が痛んで仕方がなかった。

 

 リリーは○○を慰めようと話しかけてみたのだが、その途端に○○はリリーに向かって抱きついてきた。

 最初は驚いたものの、すぐにリリーは受け入れた。庇護欲をそそる存在というのは、妖精にとっても心地良いものだったからだ。

 

 彼を安心させる言葉を囁きながら、背中を優しく撫でる。すると、○○は落ち着いてきたのか、涙が止まり、しゃくりあげる声が小さくなっていった。

 やがて落ち着きを取り戻すと、恥ずかしくなったのだろうか、リリーから離れると俯いてしまった。

 それから、二人はお互いに自己紹介をした。話を聞くと、やはり○○は外来人だということがわかった。外出の際、両親とはぐれてしまったらしく、道もわからずに困っていたようだ。

 

 リリーは○○を助けることにした。リリーには彼を外の世界へ帰す力はないので、ひとまず人里に連れて行こうと提案したのだ。

 だが、その提案に○○は難色を示した。どうやらリリーと離れるのが寂しいようで、一緒にいたいと申し出た。

 リリーとしても、人間の子供に頼られるのは悪い気分ではない。なので、しばらく二人で過ごすことになった。

 

 妖精と人間とでは、生活習慣が異なるため、当初はお互いに戸惑うことも多かった。それでも、リリーは持ち前の献身的な性格で○○を導き、困難を乗り越えていった。

 ○○も、いつしかリリーのことをお姉ちゃんと呼びはじめ、彼女も当然のように受け入れた。

 しかし、二人の幸せな時間は、長くは続かなかった。

 

 春も終わろうとしていた頃、リリーはあることに気がついたのだ。自分は春が過ぎれば、次の春がくるまで地上に留まることができない。

 つまり、このままだと○○とは別れなければならないということだ。

 そのことを伝えた時の○○の顔は、今でも忘れられない。まるで世界の終わりが来たかのような、絶望に満ちた表情をしていた。

 

 その顔を見たリリーは、何とも言い難い感情に襲われた。楽しいような、嬉しいような、それでいて幸せで、気持ちが良い感覚。○○が泣いて自分に縋りつく姿を見るだけで、ゾクゾクとした快感を覚えた。

 この子は自分から離れられないんだ。私がいなければ生きていけないんだ。そう思うと、愉悦に浸らずにはいられなかった。

 それが下劣な嗜虐心によるものなのか、あるいは独占欲から来るものなのかはわからない。

 それでも、○○が自分に依存しているという事実が、リリーにとっては至上の喜びだった。

 

 リリーは、春になればまた会えると言い聞かせて、何とか納得してもらった。そして○○を人里まで送り届けると、次の春に備えて眠りについた。

 それから毎年、春が訪れると、リリーと○○は逢瀬を重ねた。彼には人里での生活があるので、以前のように共に暮らすことはできなかったが、さして不満は感じなかった。

 ○○が自分に逢いにきて、自分のことを頼ってくれると、それだけでリリーは満足だった。

 

 だから、リリーは春がいつにも増して待ち遠しかった。

 早く春になってほしい。○○に会いたい。○○と一緒に過ごしたい。リリーは睡眠中、ずっと彼のことばかり考えていた。

 そして今年も冬が終わり、春が訪れ、今に至る。

 

「ねえ、その中身は何なの? 何だか甘い匂いがするわ」

「お菓子だよ。最近、知り合いの人が、人里に洋菓子屋さんを開いてさ。その人に貰ったんだけど……」

 

 リリーは先ほどから気になっていた事を聞いた。すると、○○は言葉尻を濁しながら、風呂敷を解いて包装箱を取り出し、リリーに差し出した。

 

「そうなんだぁ。私のために持ってきてくれたんだね、ありがとう!」

 

 リリーは嬉しそうな笑顔を浮かべて、○○の手から箱を受け取る。早速、蓋を開けてみると、甘い匂いが強くなった。

 

「あっ……」

 

 リリーは小さく声を漏らすと、悲しそうに顔を伏せた。

 

「はあ……。やっぱり、崩れちゃってる」

 

 ○○も箱の中を覗き込んで、ため息をついた。

 そこには、ぐちゃぐちゃに崩れたケーキが入っていた。スポンジは潰れ、クリームはあちこち散乱している。

 こうなったのは、先ほどの妖精が振り回していたせいだろう。

 

「ごめん。僕が不注意だったばっかりに……。せっかく持ってきたのに、こんなになって……」

「そ、そんな、謝らないでっ! ○○ちゃんは、何も悪くないんだから! えぇっと……」

 

 申し訳なさそうにする○○を見て、リリーは慌ててフォローを入れた。それから、飛び散ったクリームを指ですくって、自分の口に運んだ。

 

「……んっ。甘くて美味しいわ。形は悪くても、全然食べられるよ。ほら、○○ちゃんも、あーん……」

「え、うん……」

 

 リリーは、まだ少し形が残っている部分を摘んで、○○の口元へ運ぶ。○○は戸惑いながらも、差し出されたケーキの欠片を口に含んだ。

 

「ほんとだ、美味しい!」

「でしょっ? じゃあ今度は、お姉ちゃんにも食べさせてくれる?」

 

 リリーは悪戯っぽい笑みを浮かべて言うと、体を傾けて○○に身を寄せた。そして目をつぶって、口を開ける。人間のものと変わらない白い歯と、濡れた赤い舌が覗く。

 

「い、いくよ?」

 

 ○○はその艶めかしさに、胸の鼓動を速くしつつも、リリーの口内にケーキを運んだ。

 

「あむっ!」

「わっ、お姉ちゃん!?」

 

 すると、リリーは○○の指ごとくわえ込み、そのまま口を閉じた。驚愕の声を上げる○○を他所に、わざとらしく音を立てて吸い付く。彼の味を堪能するように舌を動かし、唾液を絡ませる。

 

「ちゅ……ちゅうぅ……」

「ちょっと……!」

 

 ○○が手を引こうとしても、リリーは彼の手を掴んで離さない。それどころか、更に強く吸ってくる。やがて、ちゅぽんという音を鳴らし、ようやく解放した。

 ○○の人差し指には、たっぷりと唾液が絡んでおり、仄かに赤くなっている。

 

「えっへへー! 甘さの中に、ほんのり塩気が混ざっていて、すっごく美味しいよっ!」

「も、もうっ! 驚かさないでよ!」

 

 リリーは満足げに呟いて、唇に溢れた唾液を舐めとる。その姿を見た○○は、恥ずかしさと驚きで頬を赤く染めていた。

 

「ふふっ、顔が赤くなってるぅ。そんな○○ちゃんも可愛いなぁ~!」

 

 リリーは楽しげな口調で言うと、○○を抱き寄せて、その頭を撫で始めた。

 ○○は抵抗することなく、されるがままになっている。当然、嫌がるなんてありえないだろう。

 リリーに抱かれると安心する、それは○○にとって当たり前のことなのだ。彼女の温もりによってもたらされる心地良さは、身に染みて理解しているはずだから。

 

「お姉ちゃん、一人で寝るのは寂しかったんだよ? やっぱり○○ちゃんが腕の中にいないと、落ち着かないの。○○ちゃんも、そうだよね? お姉ちゃんに甘えたいよね?」

 

 リリーは○○の頭を撫でながら、艶かしい声で囁いた。しかし、○○は答えない。

 

「……○○ちゃん?」

 

 リリーは不思議そうに問いかけた。いつもなら、すぐに抱き返してくれるはずなのに。

 しばらくして、彼は震えた手で、リリーを押し退けた。

 

「……あのさ、僕……お姉ちゃんに、言わなきゃいけないことがあるんだ」

「んっ……。何、かな?」

 

 ○○は俯き気味に、ぼそりと言う。その表情は暗い。

 リリーは不安そうな顔をして首を傾げた。良い予感がしない。何か良くないことを言われるような、そんな雰囲気を感じる。

 それでも、話を遮るわけにはいかない。他でもない○○が話したいと言っているのだ。リリーは覚悟を決めて、続きを促した。

 

「……お姉ちゃんに会いに行くのは、今日で最後にしようと思うんだ」

「…………えっ?」

 

 ○○は静かに言った。その言葉を聞いた瞬間、リリーは凍りついたように固まった。

 脳が理解を拒むかのように、思考を停止する。○○が何を言っているのか、全くわからない。

 リリーは呆然としながら、恐る恐る問い返した。

 

「……あっ、さっきの悪戯のお返しってことなのかな? あははっ、○○ちゃんも中々やるね! お姉ちゃん、凄くビックリしちゃったよ……」

 

 リリーの言葉を聞いても、○○は何も反応しなかった。ただ黙って、じっと見つめているだけだ。

 

「冗談……だよね?」

「……ううん、本当だよ」

 

 リリーは引きつった笑みを浮かべて尋ねたが、無常にも○○はゆっくりと首を振る。

 リリーは目を見開いた。信じられなかった。○○が自分から離れるなど、あり得ないと思っていたから。

 だが、彼の真剣な態度を見て、それが現実なのだと悟ってしまう。

 

「ど、どどっ……どう、して……なのかなぁ? もしかして、お姉ちゃんのことが、嫌いになっちゃった……とかぁ?」

 

 リリーは泣き出しそうになるのを堪え、震える声で訊ねる。しかし、彼女は理由を聞いたことを、瞬時に後悔した。

 ○○に嫌われるのは、自分の存在そのものを否定されることと同義であると、リリーは思っている。それを想像するだけで、怖くて堪らないのに、よりによって言葉に出してしまったからだ。

 息が苦しくて、頭が痛い。春の陽光が差していると言うのに、身体が冷えていくのを感じて、寒気に襲われる。こんなにも恐ろしい気持ちになったのは、初めての経験だった。

 

 リリーは、○○の顔を見ることができず、視線を地面に落とした。

 すると、頭上から声が聞こえてくる。

 

「嫌いになんて、なってないよ。でも、好きとか嫌いとかじゃないんだ。僕には、どうにもできないというか……」

 

 ○○は困り果てた様子で呟いた。

 それを見たリリーは、少しだけ安心した。少なくとも、嫌われてはいないようだ。それだけで、救われた気分になる。

 しかし、まだ問題は解決していない。リリーは勇気を振り絞って顔を上げ、再び質問を投げかけた。

 

「どういうこと? お願いだから、ちゃんと話して……」

「……うん。僕が、お姉ちゃんに助けられて、それから離れて人里に暮らすようになって、だいぶ時間が経ったじゃない? その間、色んなことを知ったんだよ。ここが幻想郷っていう場所で、僕がただ迷子になったわけじゃないことも、分かったんだ。もう元の家に帰ることができないらしくて、僕は今の家に引き取られたんだけど、それはお姉ちゃんにも話したと思う」

 

 リリーは静かに頷いた。○○が、人里のとある商家の養子になったことは知っている。

 その店は歳のいった夫婦が経営しており、○○を引き取ったのは、子宝に恵まれずに跡継ぎの男子がいないからだとも聞いていた。

 ○○が、日々勉強で忙しいと嘆いて愚痴っていたことも覚えているが、リリーは○○に寄り添うことに意識を向けていたため、あまり気にしていなかった。

 

「春になると、僕がお姉ちゃんに会いに行っていることは、お義父さんたちには知られてなかったけど、今年になってバレちゃったんだ。それで、もう妖精と遊ぶのはやめなさいって、怒られちゃったんだ。外は危ないし、そんなんじゃいつまでも大人にはなれないぞって。今のお前に必要なのは、勉強して賢くなることだって……」

 

 リリーは、○○の話を黙って聞いていた。

 しかし、どうして○○の養父たちが、急にそんなことを言うようになったのか、理解できなかった。

 自分は○○と仲良く遊んでいるだけだと言うのに、何故咎められなければならないのか。○○に危害を加えたのならまだしも、そんなことはありえない。リリーにとって、それは理不尽に思えた。

 

「……○○ちゃんは、それでいいの? お姉ちゃんに会えなくなるのが、嫌じゃなかったのかな?」

 

 リリーは、○○の服をぎゅっと掴んで、不安げに問いかける。

 毎年、春の終わりには、泣きながら別れを惜しんでくれた○○のことだ。本当は、自分と離れたくないと思ってくれているに違いない。

 だが、○○は首を振って、はっきりと答える。

 

「だから、嫌だとかそういうことじゃないんだよ。親代わりをしてくれたお義父さんたちに、わがままを言って困らせたくないんだ」

「……じゃあ、○○ちゃんは、お姉ちゃんより、その人たちが大事なの? お姉ちゃんのことなんて、どうでもいいの?」

「……僕は、まだ子供だから、親に捨てられたら、生きていけない。子供だけど、それくらいは分かっているんだ。だから、その……」

 

 ○○は苦い顔をして言葉を詰まらせた。はっきりとしないが、察するには充分だった。

 確かに、○○の境遇を鑑みると、育ててくれている今の家族の方が優先されるだろう。それは仕方ないことだ。

 それでも、リリーは納得することができなかった。

 

 リリーにとって何よりも大切なのは○○である。彼と出会うまでは、春を告げることが、自分の存在意義だと信じていた。

 だが、今は違う。自分が生きている意味は、彼の傍にいるためにあるのだ。○○のいない人生など、考えるだけで胸が張り裂けそうになる。

 だからこそ、○○の態度は、リリーの心に深い傷をつけた。○○も苦しいはずなのに、自分が言わせてしまったから。お姉ちゃんと呼ばれて頼られているのに、駄々をこねて困らせてしまったから。

 それがリリーを、より一層苦しめた。

 

「……そっか」

 

 リリーは、○○の服を掴んでいた手を離し、ふらりと立ち上がる。

 そして、○○の方を見ることなく、空を見上げた。

 

「……お姉ちゃん?」

 

 ○○は、リリーの様子がおかしいことに気づき、慌てて声をかける。

 

「分かってた。私は妖精で、○○ちゃんは人間だから、いつかはこうなるんじゃないかって思ってたよ。○○ちゃんは、いつまでも子供のままじゃいられないもんね。悲しいけど、寂しいけど、しょうがないよね……」

 

 リリーは、自分に言い聞かせるように呟いた。○○は、そんなリリーを見て、ひどく悲しげな表情を浮かべる。

 お互いに想い合っているのに、どうすることもできない歯痒さを感じて、二人は押し黙ってしまった。

 

「……ねえ、○○ちゃん。最後に一つだけ、私のお願いを聞いてくれるかな?」

「……いいよ、僕に出来ることなら」

 

 リリーは弱々しい声で言った。○○は戸惑いながらも、立ち上がって首肯する。

 すると、リリーは○○の方に振り向き、笑顔を見せた。その笑みは無理矢理つくったものだと、すぐに分かるものだった。そして、どこか虚ろな雰囲気を帯びていた。

 

「私のこと、お姉ちゃんじゃなくて、リリーって呼んでくれないかな?」

「えっ? ……うん。……リリー」

 

 わざわざ呼び方を変える必要はあるのだろうかと、○○は疑問に思っているようだったが、リリーの要望通りに名前を呼んだ。

 ○○に名前を呼ばれた瞬間、リリーの目には涙が浮かぶ。○○に名前を呼ばれることは、もうないかもしれないと思ったからだ。

 

「もう一回……ううん、もっと、たくさん呼んでほしいな」

「……リリー、リリー、リリー、リリー、リリー。……これでいい?」

「うん、私の名前……忘れないように、覚えていて……」

「もちろんだよ」

「……ありがとう。そうだ、ちょっと待っててね!」

 

 リリーは慌てた様子で、何かを探し始めた。その様子を見た○○は、一体何をするつもりなのかと首を傾げるばかりだ。

 

「あれぇ、どこに置いたのかなぁ……」

 

 リリーは、○○にあげるために作っていた花冠のことを、すっかり失念していたのだ。それを思い出して必死になって探すも、花畑の中に置いたせいか、なかなか見つからない。

 

「んっ、この花……」

 

 リリーの視線が、足元に群生している青い花に注がれる。それは、今のリリーの心境を現しているかのような色をしていた。

 

「これでも……いや、これがいいわ」

 

 リリーは、おもむろにしゃがみ込むと、その青く小さな花を一輪摘む。それから、急いで○○の方へと戻った。

 

「待たせちゃってごめんね。これを、受け取ってほしいの」

 

 リリーは、ゆっくりとした足取りで○○に近づくと、持っていた一輪の花を差し出した。

 ○○は、突然のことに困惑しながらも、その手にある花を受け取る。

 

「……花? 嬉しいけど、どうして?」

「私の気持ちだよ。だから、大事にしてほしいの。いつまでも、枯れたとしても、ずっと……」

「……うん、分かった」

 

 まだ幼い○○は、その言葉の意味を理解しかねていたが、リリーがあまりにも真剣に言うものだから、素直に受け取ることにした。

 そして彼は、その花に目を向ける。見た目は、どこにでも咲いているような、ありふれたものだ。特別珍しいものではない。だが、なぜか不思議と見入ってしまう魅力があった。

 

 ○○はその花の美しさに惹かれているうちに、あることに気づいた。それは花の色が、リリーの瞳の色と同じだということだ。青く透き通った、まるで宝石のような美しい瞳。

 ○○は、無意識のうちにリリーの顔を見つめていた。リリーは○○に見られていることに気づくと、恥ずかしそうにして俯いた後、上目遣いで見上げて口を開いた。

 

「えへへ、なんだか湿っぽくなっちゃった。……○○ちゃんが持ってきたお菓子、まだ残ってるよね。甘いものでも食べて、元気出そっ?」

「……そうだね。どうせなら、食べさせ合いっこしようか?」

「うんっ!」

 

 リリーは、わざとらしいほど明るく振る舞ってみせる。○○も、彼女の調子に合わせることにした。

 二人は、どちらからともなく手を繋いで歩き出す。春は出会いの季節だと言うが、別れもまた、同じように訪れるものなのだということを、リリーと○○は思い知らされたのだった。

 

 

 

 リリーは、○○と別れた後も、花畑に残っていた。日は暮れかけているが、彼女は帰ろうとしない。

 夕陽に照らされている花々を見て、物憂げな表情を浮かべる彼女の姿からは、普段の子供らしさは感じられなかった。

 彼女を知る者であれば、その姿を見た者は皆一様に驚くだろう。それだけ今のリリーの姿には違和感を覚えるのだ。

 

「○○ちゃん……」

 

 もう二度と逢えないかもしれない○○のことを想いながら、リリーは呟いた。その声は、夕闇に虚しく吸い込まれていく。

 この先、幾度も訪れる春が、まったく待ち遠しくないと思えるのは、彼が原因なのだろうと、リリーは理解していた。

 

 こちらから逢いに行くことは出来るが、そんな気分にはならなかった。○○の人生に自分は必要のない存在だと分かってしまった以上、今までのよう接することは叶わないのだから。

 人間の○○は成長して大人になる一方、妖精である自分は、何も変わらない。肉体的にも、精神的にも。もちろん○○への愛情は、これからも変わることはないと断言できる。

 

 しかし、彼は変わった。自分への依存を捨て、自立することを望んだ。

 それが、○○にとって最善の選択ならば、受け入れるしかない。○○には幸せになってもらいたい。だから、リリーは彼の意思を尊重した。

 

 やがて○○も人生の伴侶を見つけ、家庭を築き、幸せな生活を送るようになるのだろう。でも、その時、彼の隣にいるのは、自分ではない誰か。

 ○○が他の誰かのものになってしまうと考えただけで、胸が張り裂けそうになる。想像するだけでも辛く、嫉妬で狂ってしまいそうになる。○○と離れたくないと、未練がましく思ってしまう。

 

 しかし、お姉ちゃんと自負してきた自分が、こんな醜い感情を抱いていると知ったら、○○は幻滅してしまうかもしれない。

 相反する二つの気持ちに挟まれて、リリーの精神は悲鳴を上げていた。

 ピシッ、またピシリと、不快な音を立ててヒビが入る。ひとたび亀裂が生じれば、それは瞬く間に広がっていく。

 

 そして、彼女の心は呆気なく砕け散った。

 

「うっ……うぅ……ぐっ、おええぇっ……!」

 

 抑えきれない衝動が湧き上がり、リリーは胸元を押さえながら嘔吐した。胃の中にあったものが逆流してくる感覚が、不快感を伴って押し寄せてくる。

 吐瀉物が美しい花々を汚すも、それを気に掛ける余裕はなかった。

 リリーは、自分の中に渦巻く負の感情を吐き出すかのように、何度も嗚咽を繰り返す。

 

「……ああ、○○ちゃんと食べたお菓子、出しちゃった……」

 

 ケーキの甘味と胃液の酸味、そして○○との思い出が入り混じった味が口の中に広がり、リリーは再び込み上げてきそうになったものを必死に抑える。

 気分が落ち着くまで、しばらく時間を要した。

 

「……いやだ」

 

 リリーは自分の身体を抱き締めるように腕を組み、震える声で言った。

 それから、おもむろに吐瀉物がかかった花を一輪手に取ると、それを口に含んだ。体が異物を排除しようと抵抗するが、無理矢理飲み込む。

 

「○○ちゃんとの思い出は、汚くなんかない。酸っぱくない。しょっぱくない。……甘くて、とっても美味しいもの。……だから、忘れない。絶対に忘れてなんか、あげないんだから……!」

 

 リリーは涙を流しながら、自分に言い聞かせるように呟いた。青空みたく澄んだ瞳は、今は新月のように暗く淀んでいる。

 ○○という名の太陽を失ったことで、彼女の心は暗闇に囚われてしまったのだろうか。

 

「あむ……んっ……ぐっ。くふっ、ふっ、ふ……。美味しいよぉ……○○ちゃん……!」

 

 リリーは乱暴な手つきで花を手折り、むさぼる様に食べ始めた。汚物など意に介さず、一心不乱に食べ続ける彼女の様子は、まるで飢えた獣のようであった。

 

「○○ちゃんも、忘れないでね……。お姉ちゃんを……私を……リリーを、ずっと、ずうっと……。想い合っていれば、いつか……」

 

 リリーの口から漏れ出た言葉は、誰の耳に届くこともなく消えていく。

 そして、彼女の涙が枯れた時、幻想郷に夜が訪れた。

 

 春の冷たい夜風が、リリーの髪を揺らしている。彼女は立ち上がって、○○が去っていった方角に視線を向けた。

 

「そう。必ず、私を求めて、また逢いにくるの。それまで恋焦がれながら、ずっと待ってるからね……」

 

 艶かしい吐息と共に囁かれた声は、どこか妖しげな雰囲気を感じさせる。彼女の表情は穏やかで、○○への愛情に満ち溢れていた。

 

 しかし、その瞳は赤黒く、濁り切って——



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リリー後編

 

 ふすまを開けると、六畳一間の座敷に、煙草の煙がたちこめていた。

 ○○は昔から、この匂いが苦手だった。何が良くて、わざわざ煙を吸い込むのか、理解できなかったからだ。

 しかし、今となっては、その気持ちも分かる気がする。人は社会に生きる上で、精神的に脆過ぎるのだ。

 だから何かにすがりつきたいと思うし、そのために煙草や酒に依存する者が多いのだろう。

 

 それに、身近にいる親しい者を頼るより、遥かに楽だからだ。

 それらの嗜好品は値段も安く、容易に手に入るのも大きい。依存してしまうと分かっていても、それを止めることができない。

 ○○にはそれが分かる。自分がそうだったからこそ、余計に分かるのだ。依存を克服するのは、並大抵のことではない。

 

「来たか。とりあえず、そこに座りなさい」

「はい」

 

 ○○は促されるまま、座布団の上に正座した。目の前では、煙草をくわえた男が胡坐をかいている。

 彼は、この家の主であり、○○の養父でもある。もう人生を折り返している年齢で、髪にも白が目立つようになった。

 恰幅は良く、腹回りだけがでっぷりと突き出している。そのため、着物の上からも身体の輪郭がよく分かった。

 

「店の方は順調みたいだな。お前に店番を任せてから、客足も増えてきたらしいじゃないか」

「ええ、まあ……」

「取引先の旦那さん方の評判も良いぞ。お前になら、安心して任せられるってな」

「ありがたい限りです」

 

 養父は上機嫌そうに笑った。だが、すぐに表情を引き締めると、真剣な眼差しで○○を見据えてくる。

 

「わしも、お前のことは信用しているが……最近どうなんだ? 例の件については?」

「……それは、まだ何とも」

「そうか。焦るなと言いたいところだが、なるべく早いうちに身を固めてほしいからな。わしがそうだったように、子宝にめぐまれない夫婦というのは辛いものだ。それに、お前だって独り身じゃ寂しいだろう?」

 

 ○○は渋い顔をすると、頭をかいて目をそらした。

 彼が言う例の件とは、自分に嫁を娶らせる話である。つまり、お見合いの話だ。

 ○○が大人になってしばらく経つが、彼はいまだ独身であった。そして、それを心配した養父から、催促されている状況なのだ。

 

「嫁の相手くらいは自由に選ばせてやりたいんだが、結構な数の縁談が来ていてなぁ……。断り続けるのも立つ瀬がない。悪いが、今月中には決めてくれないか?」

「……分かりました」

 

 ここまで育ててもらった養父の頼みとあっては、断るわけにもいかない。○○は渋々ながら了承した。

 

「うむ。お前が自分で相手を見つけるのが一番良いのだが、こればかりは仕方あるまい。一応、いくつか候補を選んでおいた。後で目を通しておけよ」

 

 養父はそう言って、紙束を手渡してきた。○○はそれを受け取って礼を言うと、部屋から出ていった。

 

 自室に戻り、紙束を放って畳の上に寝転ぶと、ため息をつく。それからしばらくの間、ぼんやりとしていた彼だったが、やがて起き上がると、仕事机に向かった。

 

 椅子に座って引き出しを開けると、中に入っている押し花のしおりを取り出す。それは、かつて妖精の少女に貰った一輪の花で作ったものだった。

 

「……リリー」

 

 物思いにふけるような顔で、ぽつりと呟く。彼の脳裏に浮かぶのは、過ぎ去った日々に見たリリーの姿。

 彼女は、いつも明るく元気で、笑顔を絶やさない少女だった。彼女に抱き締められた時の甘い花の香りを、今でも鮮明に覚えている。

 穢れなき無垢なる花のように、純真で愛らしかったリリー。その可憐さは、幼少期の○○にとって、太陽よりも眩しく映っていたのだ。

 

 ○○が嫁を娶ることになった時、対象として真っ先に思い浮かんだのはリリーだった。そこで初めて、自分が彼女に恋心を抱いていたことに気付いたのだ。

 しかし、リリーが自分と同じ想いを抱いているとは限らない。彼女は自分のことを、弟のようなものと見ているかもしれないのだ。

 

 大人になった今では、自由に彼女に会いに行くこともできる。それをしなかったのは、彼女の気持ちを確かめることが怖かったからだ。

 それに、一度は自分から彼女を拒絶した身だ。今さらどの面を下げて会いに行けばいいのか分からないという感情もあった。

 そんなこんなで、ずるずると引き延ばしている内に、最終通告を突き付けられてしまった。このままではいけないと思いつつ、どうしても決心がつかない。

 ○○は途方に暮れていた。

 

 ふと手に持ったしおりに視線を落とすと、リリーの顔を思い出す。別れ際に目にした、悲しげな表情が忘れられなかった。

 彼女の青い瞳に涙が浮かんでいる様は、まるで波間に揺れる宝石のようだった。それが雫となってこぼれ落ちる前に、○○はその場を離れたのだ。

 あの時はただ、彼女が泣く姿を見たくなくて、逃げるように走り去ってしまった。別れ際に泣くのは、いつも自分ばかりだったのに。

 リリーを悲しませたのが、罪の意識となって、今でも○○の胸の奥底に残っている。

 

 今後の人生において、どこかでそれが心に引っかかってしまうだろう。

 現に女性の顔を見ると、リリーの面影を重ねてしまうことがあった。その度に、心が申し訳なさでいっぱいになる。

 そんな有り様では、結婚相手を決められないのも当然のことだった。

 だが、だからといって、いつまでも逃げ回っているわけにはいかない。自分はもう、子供ではないのだから。

 

「……よし!」

 

 せめて一言だけでも謝ることができたなら、何かが変わるだろうか。

 そう思った○○は、しおりを懐にしまうと、身支度もおろそかに、家を飛び出した。

 

 幸いにも、まだ春は始まったばかり。春告精のリリーは、地上に出てきていることだろう。

 陽は沈みかけているが、夜が下りるまでには、まだ時間がある。明日にするにしても、決心が鈍っては元の木阿弥だ。

 

 彼は里の大通りに出ると、真っ直ぐに門を目指した。リリーが居るとすれば、あの花畑以外に考えられないと思ったからである。

 

「……あっ」

 

 途中、○○は見知った店の前を通りかかった。そこは、○○も訪れたことのある洋菓子屋であった。

 店の看板商品であるショートケーキが、○○の頭に浮かんだ。あの日、リリーと食べさせ合ったのも、この店の品だ。

 ふいに懐かしさがこみ上げてきて、○○は誘われるままに店内へ足を踏み入れた。

 

「いらっしゃいませ〜!」

 

 とおりの良い声と共に、店員の少女が近づいてくる。明るい緑色の髪を、黄色のリボンで横に束ねており、背中には大きい羽が生えていた。

 その姿は、まさに妖精と呼ぶに相応しいものである。

 

「あ、大丈夫ですよ。私は妖精ですけど、悪戯なんてしませんから」

 

 ○○がじっと見つめていることに気付いた少女は、取り繕うように朗らかな笑みを浮かべて言った。

 

 ここは人間の里と言う名称ではあるのだが、人間以外の種族も多からず暮らしている。なので、彼女のような妖精も珍しい存在ではなかった。

 

 ○○は小さく会釈すると、ショーケースの方へと歩いていく。店内に他の客は居らず、○○と店員の少女だけだった。

 なので、彼の動きに合わせて、店員の少女が隣に並ぶ形となる。

 ○○は吟味する時間も惜しむように、並んでいるサンプルの中から、苺とクリームが乗ったシンプルなものを選んだ。

 

「すいません、これをください」

「はい! おいくつですか?」

「一つ……いや、二つで」

「かしこまりましたー! 少々お待ちくださいねっ!」

 

 少女は注文を聞くなり、パタパタと奥に引っ込んでいった。そして、すぐに戻ってきた彼女は、紙箱に詰められたショートケーキを持ってきた。

 

「代金は、**になります〜」

「はい、えぇっと……あれ?」

 

 ○○は懐から財布を出そうとしたが、何故か手応えがない。どうやら、家に置いてきてしまったようだ。

 

「どうされましたぁ?」

「……財布を忘れたみたいで。取りに戻るので、ちょっと待っていてくれませんか? すぐに戻りますから——」

 

 ○○が店を出ようとして踵を返すと、不意に背後から服を掴まれた。振り返ると、そこには満面の笑顔で佇んでいる少女の姿があった。

 

「じゃあ、代金は後でもいいですよ。ようやくあの子に逢う勇気が出たんですから、早く行ってあげてください」

「……えっ、なん——」

「妖精のよしみですよ。さあ、早く!」

 

 ○○が言い終える前に、少女は強引に紙箱を押し付けると、出口まで押していった。

 戸惑っている内に扉を開けられてしまい、そのまま外へと追い出されてしまった。

 

「くすっ、もう寄り道は駄目ですからね〜」

 

 閉まる寸前の隙間からは、少女のニコニコとした顔が覗いていた。

 

「何だってんだ……」

 

 仕方なく、○○はケーキの箱を手に提げて歩き出す。腑に落ちたわけではないが、気にしない方が良さそうだと判断した。

 

 やがて門の近くまで来ると、門番をしている二人の男と目が合う。

 すると、あらかじめこちらの目的を察していたのか、彼らは何も言わずに門を開けてくれた。それを見て、○○は苦笑いしながら礼を言う。

 里の外へと出る際には、本来なら通行証が必要だ。しかし、○○に関しては特例として認められていた。

 

 いや、○○にと言うよりも、外来人全般に対しての措置である。だから○○が子供の時も、自由に出入り出来たのだ。

 この事に疑問を抱いたとしても、外来人たちが理由を尋ねることはない。彼らにとっては、都合の良い制度となるのだから。

 

 ○○にとって久々の外の景色。それでも特に感慨を抱くこともなく、ただ目的地を目指して真っ直ぐに歩いた。花畑までは、そう遠くはない。

 

 近づくにつれて、次第に不安な気持ちが湧き上がってきた。

 あれから十年以上も経つのだ。リリーは、もう自分のことなど忘れているかもしれない。そもそも、彼女が花畑に居るのかすら分からない。

 そんな風に考えていると、軽快だった足取りは重くなり、いつの間にか歩みを止めてしまっていた。

 

「……はあ」

 

 やはり引き返すべきだろうか。だが、ここまで来ておいて、それもどうかと思う。

 ○○は今更ながら、うだうだと迷い始める。

 その時、○○に背後から近づく影があった。それは、彼が隙を晒す瞬間を待っていたかのように、突然に襲い掛かってきた。

 

「あっ!?」

 

 瞬く間に、手に持っていた紙箱を奪われる。○○が驚いて振り向くと、そこには人間の頭くらいの体躯をした妖精が、宙を浮いていた。

 妖精は紙箱を抱えるようにして持ち直すと、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「きひひっ、間抜け面してんねぇ! ほら、返して欲しいなら、追いかけてきなよ!」

 

 妖精は、人を小馬鹿にする口調でそれだけ言うと、○○の横をすり抜けるように飛んでいく。

 

「こ、こら! 待てっ!」

 

 一瞬呆然とした○○だったが、すぐに我に返り、慌てて妖精を追いかけた。

 ○○は妖精を捕まえるべく全力で走り、妖精も負けじと速度を上げた。○○もそれに食らいつくように、更に足を動かす。

 

「必死に走っちゃって、かっこ悪い〜!」

「くっ、くそ……」

 

 妖精は、後ろを振り向きざまに挑発してくる。その神経を逆撫でする声と、中々縮まらない距離が、余計と○○を苛立たせる。

 

 やがて、図らずも花畑へと差し掛かった。

 ○○が息を切らせながらも、前方に見える妖精を追って、花々の合間を縫うように走っていると、ふと既視感を覚える光景に気を取られた。まるで時間が止まったかのような錯覚に陥り、○○は立ち止まる。

 

「……うっ」

 

 そこに、一陣の風が吹いた。

 視界を埋め尽くすほどに咲き誇った花の群れは、一斉に揺れ動き、花弁を舞い散らせていく。

 目を開けていられなくなるほどの強風。身体中に花びらが張り付く感覚を覚えた。

 

 ○○は思わず顔を背け、腕で覆ってしまう。

 そして、再び目を開いた時には、目の前には誰も居なかった。先程まで追っていた妖精の姿も、跡形もなく消えていた。

 ○○は不思議に思いつつも、妖精が消えたであろう方向に視線を向ける。

 

「……えっ?」

 

 気配を感じて後ろを向くと、そこには黒い服装で身を包んだ一人の少女が立っていた。

 ○○は驚きのあまり言葉が出ず、その場に棒立ちになる。

 やがて少女はゆっくりと近づき、彼の前に立つ。そして、静かに口を開いた。

 

「おかえり、○○ちゃん。少し見ない間に、大きくなったね」

「君は、えっと……」

 

 見上げて微笑む少女。その顔は、○○の記憶にあるリリーに酷似していた。

 しかし、少女の瞳が真紅の色彩を宿している事に気が付き、違和感を覚えた。

 リリーの瞳は、晴れやかな青空のように澄んだ青色だったはず。

 

「どうしたの? ○○ちゃんは、私のことを覚えているはずよ。ほら、早く名前を呼んで?」

「な、名前……」

 

 ○○は、少女の言葉に戸惑いを見せる。向こうは自分の名前を知っていて、いかにも知り合いと言わんばかりに接してくる。

 まさかとは思うが、それでも確かめずにはいられなかった。

 

「もしかして、リリー?」

「……うふふっ、そうだよ。でも、そんなにおっかなびっくり言わなくてもいいじゃない。なんだか傷ついちゃうわ」

「ご、ごめん。前より雰囲気というか、何と言うか……。とにかく変わってて驚いたんだよ」

 

 ○○の勘は当たっており、目の前の少女はリリー本人であった。だが、今の彼女は、外見こそリリーと似ているものの、纏っている雰囲気がまるで違う。

 前のリリーが、陽気を振りまく太陽とするならば、今ここに居るリリーは、妖しく輝く月のような存在だと思えた。

 十数年の歳月が、彼女を変貌させてしまったのだろうか。

 

「でも、またこうして逢いにきてくれたんだもの。このくらいは許してあげる。それに、おっちょこちょいなところは変わっていなくて、なんだか安心しちゃったっ」

 

 リリーは慈愛に満ちた表情を浮かべると、手に持っていた紙箱を差し出した。

 

「それ、妖精に盗まれたケーキ……」

「気を抜いたらだめだよ? 外には、悪い妖精が沢山いるんだから」

「うん、気をつけるよ」

 

 ○○が紙箱を受け取ると、リリーは心配そうに注意を促してきた。

 こういう時の彼女の反応は昔と変わらない。○○は懐かしさを感じながら、苦笑しつつ返事をする。

 

「ねえ、立ち話も疲れるし、座らない?」

 

 リリーは近くの草むらを指差した。そこだけ花が避けるように生えておらず、代わりに芝草が円を描くように生えている。

 リリーは○○の手を取り、そのまま歩き出す。○○はされるがままに引っ張られ、リリーと共に芝生の上に腰をおろした。

 

「えへへ……」

 

 リリーは隣に座り込むと、すぐに身体を寄せてくる。

 花の甘い香りが鼻腔をくすぐり、○○は落ち着かない気分になった。

 ○○が身じろぎすると、それを咎めるように、リリーはさらに身体を密着させる。そして上目遣いで○○を見つめる。

 

「もうっ、なんで逃げるの?」

 

 リリーは不満げに頬を膨らませた。○○は慌てて弁明する。

 

「いや、こんなの久しぶりだからさ。それに、怒ってないのかなって……」

「怒る? 私が? どうして?」

「だって、一方的に別れを切り出したのに、急に戻ってきたりなんかしたら、普通なら嫌がるんじゃないかと思って」

 

 ○○は恐る恐る尋ねた。今のリリーの反応を見る限り、自分の予想が外れていた事は分かる。しかし、それでも本人の口から答えを聞きたかったのだ。

 

「……○○ちゃんと離れてからは、本当に寂しくて、辛かった。でもね、○○ちゃんを責めたりはしないよ。悪いのは、勝手な都合で子供だった○○ちゃんを縛った人間たちの方でしょ?」

「それは……」

「私、今すっごく幸せだよ。○○ちゃんが傍に居てくれるだけで、こんなにも心が満たされるもの。○○ちゃんもそうなんでしょう? だから、私に逢いにきてくれたんだよねっ!」

 

 リリーは○○の腕を掴み、嬉々として語りかける。その瞳は爛々としており、口角は上がりっぱなしだ。

 間違いなく彼女は自分に好意を向けている。しかし、その感情の振れ幅は、あまりにも大きすぎるように思えた。

 

 リリーは○○を逃がさないと言わんばかりに、腕を抱きしめたまま離そうとしない。痛みを堪えるような○○の表情に気づく様子もなく、無邪気に微笑んでいる。

 以前のリリーならば、母親みたく慈愛に満ちた抱擁をしていただろう。それが今では、束縛の強い恋人のように振る舞っている。

 

「ふふっ。体は大きくなったけど、中身は全然変わっていないね。あの頃の○○ちゃんのまま。妖精に悪戯されても、何もできずにオロオロしているだけの、可愛い○○ちゃん……」

 

 リリーはうっとりとした口調で言うと、○○の腕から離れて、今度は正面に回り込んだ。

 膝立ちになり、○○の顔を覗き込んでくる。瞳は妖しい光を帯びており、視線を合わせるのが怖くなるほどだ。

 目は口ほどに物を言うと言うが、今のリリーの目はまさにそれだ。言葉以上に雄弁に、○○への想いを語りかけてくる。

 耐えきれずに○○が口を開こうとすると、リリーは人差し指を彼の唇に当てて、言葉を遮った。

 

「答えなくてもいいよ。○○ちゃんの気持ちは、あの花を通して伝わったから。わざわざ押し花にしてまで、私との思い出を枯らしたくなかったんだよね。あれから何度も縁談を断っていたのも、私のことを忘れていなかったからだよね」

 

 ○○は驚きのあまり目を見開く。自分の心を読んだかのような発言に、心臓が大きく跳ね上がった。

 

「嬉しかったけど、それ以上に大変だったのよ? ○○ちゃんが私のことを想うたびに、燃えるような愛情が伝わってきて、身体中が疼いて仕方がなかったんだから。いくら一人で慰めても、ぜんぜん満足できなくて……。そんな生殺しの日々が続いたせいで、何度○○ちゃんを攫おうと思ったか分からないくらいにね」

 

 リリーは熱っぽい吐息をつくと、○○の手をとって、自身の胸に押し付けた。見た目以上に柔らかな感触が、手のひらに伝わる。

 

「私の胸、前より少し大きくなったのが分かるかな? 人間は恋をすると綺麗になるっていうけれど、それは妖精でも一緒みたいね。○○ちゃんと離ればなれになってから、ずっと恋焦がれていたんだよ。でも、私からは逢いに行かなかった。それは、○○ちゃんに私を求めて欲しかったから。私の存在を、心の奥底で絶えず認識して欲しかったから」

 

 リリーは身体を密着させると、○○の首筋に顔を埋めた。そのまま耳元に囁きかけてくる。

 

「愛は熟成されるものなの。想い人に逢えないなか、時を重ねてこそ、真なる愛の形が育まれる。そうして出来上がった結晶こそが、○○ちゃんを縛り付ける鎖であり、私自身を狂わせる毒でもあるの」

 

 雄弁に語るリリーの声音には、隠しきれない狂気が滲んでいた。耳から入ってくる甘美な響きは、○○の脳髄を蕩けさせていく。

 溺れる者が藁を掴むように、○○はリリーの背中に手をまわした。密着した彼女から、懐かしい芳香が漂ってくる。

 

「うふふ、○○ちゃんは甘えん坊さんだね。安心していいよ。もう離さないから。これからは、ずっと一緒だよ。私たちを隔てるものは、もう何もない。春が過ぎても、○○ちゃんの愛が私を満たしてくれる限り、私は永遠に咲き続けることができるの」

 

 ○○は理解した。彼女は自分の知っているリリーではなくなってしまったのだと。そして、その要因を生み出したのは、他ならぬ自分であると。

 ○○の知らない間に、リリーの心は限界を迎えていたのだ。そして、自己防衛のために、無意識のうちに別の人格を生み出してしまった。

 リリーであって、リリーではない存在。それが目の前にいる少女の正体。

 

 彼女の紅い瞳は、その象徴なのだろう。

 強い執着心と依存心を孕んだ瞳は、○○が知るリリーの面影を残しつつも、どこか恐れを抱かせるものがあった。本能的に、これ以上彼女に深入りするのは危険だと感じてしまう。

 

 それでも○○は、リリーを拒絶することはできなかった。リリーの愛を自覚してしまった以上、○○もまた、彼女を求めずにはいられない。

 リリーの芳香が鼻腔を満たす度に、○○の理性は徐々に削り取られていった。麻薬のように作用したその香りは、○○の情欲を昂ぶらせていく。

 

「きゃっ!」

 

 気づけば○○は、リリーを地面に押し倒していた。

 リリーは、か細い悲鳴をあげて、あっさりと○○の下になった。

 

「はあ……はっ、はあ……! ぐっ、うぅっ……!」

 

 荒々しい呼吸を繰り返しながら、○○はリリーの顔を見下ろした。

 今すぐにでもリリーに貪りつきたい衝動に襲われるが、寸前のところで踏み留まっている。

 

「リ、リリィ……」

 

 ○○はリリーに覆い被さったまま、必死に自制心を呼び覚まそうとした。

 だが、一度火のついた欲望は燃え上がるばかりで収まりそうにない。

 助けを求めるように彼女の名を呟くも、リリーは大の男に組み伏せられているのに怯えもせず、むしろ喜色満面といった様子で、○○を見つめ返してきた。

 

「……どうしたの、そんなに息を切らせて、苦しそうに顔を歪めて。私が欲しくて堪らないのに、そのまま我慢していても収まりがつかないよ? 私なら大丈夫だから、遠慮しないでいいよ」

 

 リリーは○○の首に腕を回すと、誘うように囁いた。幼い顔つきに似合わない妖艶さに、○○は思わず唾を飲み込む。

 

「○○ちゃんの愛を受け入れられるのは、この世で私だけ。他の女なんかじゃ絶対に満たされないし、そもそも○○ちゃんを愛する資格すらないんだよ。あの日、私たちが出会った瞬間から、私たちは結ばれる運命にあったんだから。だから○○ちゃんの全てを受け入れるのは、私の役目なの」

 

 リリーの弁舌は、まるで呪いのように○○の耳に染み込んでいった。○○がリリーを求める気持ちを肯定するように、彼女は言葉を重ねる。

 

 そして、○○は花の蜜に誘われる蝶のごとく、リリーの唇へと吸い寄せられていった。彼女の吐息と体温を感じるほどに、互いの距離は縮んでいく。

 リリーは瞳を潤ませて、○○の接吻を待ち受けている。

 

「今からするのは、誓いの口付けだよ、○○ちゃん。私と○○ちゃんの魂を繋いでくれる、大切な儀式なんだから。目を閉じないで、私の目をしっかり見て?」

「……うん」

 

 ○○は言われるままに、リリーの瞳をじっと見据えた。二人の視線が重なり合う。

 もうリリーの瞳を見ても、○○の心は揺らがなかった。○○が求めるのは、目の前の少女ただ一人だけだ。

 そして、○○はリリーに自らの想いを伝えるべく、ゆっくりと唇を触れさせた。

 

「んっ……」

 

 ○○の口付けに呼応するかのように、リリーの身体が小さく震える。

 表面が触れるだけの軽い接触だったが、それでも○○には充分だった。○○はリリーの身体を強く抱いて、再び彼女と唇を重ねた。今度は少し長めに、彼女の柔らかな感触を楽しむように。

 リリーは抵抗することなく、それを受け入れた。やがて○○が口を離すと、彼女は陶酔した表情を浮かべながら、○○に向かって微笑む。

 

「ふふっ、優しい口付けだね……。私を気遣ってくれているのが、伝わってくるよ。ありがとうね、○○ちゃん」

 

 そう言うと、リリーは○○の頭を撫で始めた。慈しむような手つきが心地よく、○○はされるがままになる。

 

「でもね、全然足りない。このくらいじゃ、私たちの愛を証明することはできないんだよ。もっと深くまで繋がり合って、初めて私たちの心は一つになるの。だから……」

 

 リリーは○○の頭を抱え込み、強引に引き寄せた。そして、二人は再び唇を重ね合わせる。

 だが、先程のような初々しいものではなく、お互いの愛情を確かめるための激しいものへと変化していた。

 

「んふ、ちゅっ、はぁ……。んぅ……れるっ、れろっ……」

 

 リリーは○○の口腔内に舌を差し入れると、彼のそれを絡め取り、激しく舐り始める。

 彼女の甘い唾液が喉の奥に流れ込んでくるたびに、わずかに残った○○の理性は溶けていくようだった。

 口付けだけでは足りないと、腰を浅ましく動かして、リリーの下半身に擦り付ける。発情期の犬もかくやという有様だ。

 

「んっ……○○ちゃんの体は正直だね。早く私と一つになりたいって言ってるみたいだよ」

 

 リリーは唇を離して、惚けきった○○の顔を見つめた。

 最早○○にはリリーの言葉に反論する余裕もないのか、ただ荒い呼吸を繰り返すばかりである。

 

「いいよ、おいで。○○ちゃんの全部を、私の中に吐き出して、私を○○ちゃんのものにして?」

「ぐっ、ぐぅぅっ……!」

 

 その言葉を合図に、○○はリリーの服に手をかけた。乱暴に引き裂くようにして、彼女の衣服を脱がしていく。

 そして、○○もまた着衣を全て脱ぎ捨てると、一糸纏わぬ姿となったリリーに覆い被さった。

 

「あはっ、慌てなくても大丈夫だよぉ……。私は逃げないし、○○ちゃんのことを拒絶したりしないからね」

 

 しかし彼女は苦痛を訴えるどころか、むしろ嬉々として○○を受け入れているように見える。

 ○○は返事をする代わりに、リリーの身体を貪りはじめた。雄の欲望を受け止めるには、あまりにも小さな少女の肉体を、粗雑に蹂躙する。

 

「あうっ! は、激しぃよぉ、んんっ! 壊そうとするくらい、私を求めてくれているんだねぇ……!」

 

 ○○の手つきは性急で、リリーは早くも息が上がっていた。その不慣れな行為にもかかわらず、彼女は痛みではなく快楽を感じているようだ。

 

「リリー! リリィ……!」

 

 ○○はそんな彼女を気遣うこともなく、ひたすら己の欲求を満たすために動き続ける。何をしてもリリーは受け入れてくれる、そう信じ切っているかのようだった。

 

「好きっ、好きぃ……! ○○ちゃんのこと、大好きだよぉ……! だから、もっと、もっと強くぅ……!」

 

 ○○に抱きつく腕に力を込めながら、リリーは何度も愛しき者の名前を呼んだ。足を腰に回して、より深い結合を求める。

 ○○もそれに応えるように、彼女を強く抱きしめて、さらに奥へと押し入った。

 

「んんっ……! おっ、ごぉ……!?」

 

 リリーが声にならない嬌声を上げる。それを皮切りに、獣の交わりが始まった。

 夜の帳が下りてもなお、二人の行為は終わる気配を見せない。溜まりに溜まった情欲をぶつけ合うかのように、彼らは互いの身体を求め合った。

 

 ○○が劣情を放つ度に、リリーの瞳は深みを帯びて真紅に染まっていく。その瞳に映るのは○○の姿。

 ○○もまた、リリーの瞳から目を逸らすことなく、じっと見据えていた。理性などとうに消え失せており、今や本能のみで動いていると言ってもいいだろう。

 それでも、彼女の瞳に映る自分は、まだ人間の姿をしているように見えた。それが○○にとっては救いであり、よすがでもあった。

 こうして○○がリリーを見つめている限り、彼は人間のままでいられるのだ。しかし、それも長くは続かない。

 

 ○○は、自分がゆっくりと、人外の領域へ足を踏み入れていることを理解していたが、もう止まることはできなかった。

 惚けきった彼の脳裏は、ひたすらにリリーを求めて、劣情を発散することしか考えられないからだ。

 

 そして、リリーの瞳が完全なる真紅に染まり切った時、○○の思考は闇に包まれた。

 

「あ、あっ……。あぅ……」

 

 彼の人間性は濁りきり、最早まともな言葉を発することもできない。縋るようにリリーへと腰を押し付けながら、焦点の合わない目で彼女の瞳を見つめている。

 その様子からは、かつて○○と呼ばれた人間の面影は一切感じられない。

 

 今の○○は、リリーによって全てを支配された、か弱い赤子に過ぎなかった。

 

「大丈夫だよ。私は、お姉ちゃんは、ずっと○○ちゃんの側にいるから」

 

 そう言いつつ、リリーは○○の頭を優しく撫でる。すると、彼の表情は見る間に緩んでいき、やがて安心したような笑みを浮かべた。

 

「○○ちゃんは、もう何も考えなくていいの。お姉ちゃんが全部やってあげる。だから、お姉ちゃん以外のことは、全部忘れてしまおうね?」

 

 リリーの瞳には慈愛の光が宿っていた。だが、その光の奥には、どす黒い情念が見え隠れしている。

 狂気とは伝染するものだ。ひとたび、その感情に触れた者は、自らもまた狂わされてしまう。それが愛を知った者であれば、尚更である。

 

「あの頃みたいに、お姉ちゃんがお世話してあげる。お姉ちゃんが、悪者から守ってあげる。それから、お姉ちゃんが一生、愛してあげるからね……」

 

 リリーは腰を引いて、腑抜けになった○○の体を引き寄せると、自らの胸に埋めさせた。そして、赤子をあやすような手つきで背中をさすった。

 

「あうぅ……」

 

 それは、○○にとって何よりも心地の良いものだった。リリーに抱かれていると、全てを忘れて、ただただ安らぎを感じることができるのだ。

 ○○は、リリーの胸を枕に、ゆっくりと眠りについた。思い出の中にあった、彼女との幸せを、夢に見ながら。

 

 

「おやすみ、私の愛しい○○ちゃん」

 

 


















【リリーブラック】
能力・愛を振りまく程度の能力
危険度・極低(中)
人間友好度・高
主な活動場所・あらゆる場所

 春告精と呼ばれる妖精の変異体。歪な愛欲に支配された精神が、その身に宿る力を大きく変質させてしまったらしい。
 幻想郷に春を告げてまわるという本来の役割も忘れ、ただひたすらに愛しい人の寵愛を求めるばかりになっているようだ。

 春告精は、春を過ぎれば消える定めなのだが、彼女に至ってはそれが当てはまらなくなっている。
 本人曰く、愛の力によって、自らの存在を保っているのだそうだ。冗談みたいな話だが、あながち間違いではない。

 妖怪や神、そして妖精に言えるのは、肉体より精神に依存する存在であるということだろう。深い情念があれば、それだけその存在を強く保てる。
 彼女の場合、常に愛する者に寄り添おうとする想いこそが、種族の垣根すら超えてしまうほどの力となっているわけだ。

【能力】
 春を告げる能力から派生したもの。周囲に春の温かさ、もとい愛の暖かさを感じさせる。
 彼女が伴侶と接することで、一種の鱗粉、またはフェロモンのようなものを発生させるらしく、それを吸い込んだ者は体が暖まる感覚を覚えるのだという。
 この効果は吸った者により様々で、ある者は安らぎを覚え、またある者は情熱的に燃え上がるとかなんとか。

 つまり、生物の心に眠る獣性を呼び覚まして、発情させる効果もあるわけである。なんとも羨ま……恐ろしい能力だ。

【目撃報告例】
・一匹でいるところを見たことがないわ。ずっと旦那さんと一緒で、おしどり夫婦みたいだった。羨ましい……。
(匿名)
 彼女は伴侶に依存しているので、死ぬ時も一緒なのかもしれない。

・うちのお店の常連さんです。会うたびに綺麗になっていくのは、旦那さんの愛のおかげでしょうか。私もリリーちゃんに負けないくらい、お兄さんを愛していきます!
(洋菓子屋の店員)
 妖精も人に恋をする時代だ。

・この前会った時、旦那のこと自慢された。すっごく熱がこもっていて、聞くだけで溶けそうだった。でも、あたいのお兄さんのほうがサイコーだって言ったら、ちょっとした喧嘩になっちゃった。
(湖の氷精)
 そのまま蒸発してしまえばいいと思う。

【対策】
 元は普通の妖精なので、危険度は低いとされているが、瞳の奥底に底知れぬ狂気を宿しているため、何が起こるか分からない怖さがある。
 とはいえ、人間に対する友好度は高いので、余程のことをしなければ無害と言える。

 むしろ注意すべきは、彼女の伴侶である男性の方だと思われる。
 リリーは彼に危害を加える者、もしくは彼に言い寄ろうとする女性には、苛烈な報復を行う傾向にあるそうだ。
 ただ、彼に手を出さない限りは、彼女も手出ししてくることはないだろう。

 普段の彼女は伴侶の男性に対して、見てるこちらが甘すぎて吐き気を催すほどの溺愛ぶりを見せてくれる。
 その様子を女性が見てしまえば、恋人がいる者なら負けじと対抗心を燃やし、いない者は新たな恋の予感を感じ取るのだとか。

 恋の風物詩となった彼女の対策は無用なので、もし見かけたら吉兆として喜んでおくといい。
 きっとあなたにも、素敵な出会いが訪れるはずだ。


——以上、裏求聞史記より抜粋。


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ルナサ編

 

「以上で、プリズムリバー楽団の演奏会は終了となります。ありがとうございました」

 

 人里の公民館。そこでルナサは、妹たちと共に演奏を終えると、観客に一礼した。

 まばらな拍手が広間に響き渡る中、ルナサたちは舞台袖へと下がりはじめる。ルナサは歩きながら、観客席にいる○○の方へ目を向けた。

 

「……うぅ」

 

 彼はいつも通り、優しい笑顔でこちらを見ている。はっきりと目が合ってしまい、ルナサは羞恥を感じて、視線を逸らすように前へ戻した。それから、早足で舞台袖に向かっていった。

 

 ルナサは控え室として使っている部屋に入ると、椅子に座って、深く息を吐いた。今回の演奏会について思い返すと、憂鬱な気分になってしまう。

 

 また、上手く弾けなかった。最初から最後まで演奏に集中できず、ミスが目立ってしまったのだ。

 あのようなことになったのは、今日が初めてではない。ここ最近は、ずっと同じ調子だ。

 

「姉さん、そう落ち込まないで。きっと次は大丈夫だから」

「そうだよ。今日は、たまたま調子が悪い日だったんだよ」

 

 隣にいたリリカとメルランも心配して、ルナサに声をかける。だが、それでも彼女の曇った表情は晴れない。

 

「ごめんなさい。私一人で足を引っ張りすぎた。貴女たちにも、迷惑をかけてしまった。私がいないほうが、演奏会は上手くいっていたはず……」

 

 俯きながら謝るルナサを見て、リリカとメルランは顔を見合わせた。そしてお互いに肩をすくめると、メルランが先に口を開いた。

 

「何を言ってるのよ! 迷惑だなんて思ってないわ!」

「そうだよ! 私たちは三人で一人、三位一体、トライアドプリズムリバー! 誰か一人だけ欠けても駄目なの!」

 

 続けてリリカも調子を合わせるように言った。その言葉を聞いて、ルナサの顔が上がる。

 リリカとメルランは、各々ルナサの手を取り、彼女の顔を覗き込んだ。二人の瞳は、真っ直ぐに彼女に向けられている。

 ルナサは、その視線から逃げるように目を伏せた。しばらく無音が続いたので、なんだろうと思い、視線を戻すと、目の前にある二人の顔は、奇妙な変顔になっていた。

 

「……ふふっ」

 

 それを見たルナサは、釣られて笑顔になる。心の中にあった暗い気持ちが、晴れていくようであった。

 

「うん! やっぱり姉さんは、笑ってる顔がいいわね!」

「そうだよ! 暗い顔していたら、彼氏に嫌われちゃうぞー?」

「か、彼氏じゃないって……!」

 

 二人が言うと、ルナサは顔を赤面させた。それから恥ずかしさを誤魔化すために、わざとらしい咳払いをしたが、リリカとメルランはそれを無視して、話を続ける。

 

「またまたまたぁ。もう良いとこまでいってるくせに」

「そうだよぉ。この前なんか、二人きりで部屋に閉じこもってたじゃない!」

「そ、それは……そうだけど、別に貴女たちが想像しているようなことは、してないからっ!」

 

 ニヤついた表情で話す姉妹を見て、ルナサは更に頬を染めた。

 

 ルナサは先月の出来事を思い出す。

 確かにあの時、○○と一緒に部屋の中にいたのだが、それは彼と合奏をしていただけだ。それが終わった後、彼はすぐに帰ったので、何もやましいことはなかった。ルナサにとっては、普段通りの出来事だったのだ。

 そう言い訳をするルナサであったが、リリカとメルランは意地悪な笑みを浮かべると、さらに追及をしてくる。

 

「本当かなぁ? 今日だって、観客席に彼の姿があったけど、あれは姉さんが呼んだんでしょ?」

「姉さんってば、ちらちら彼の方見てたもんねぇ。心ここにあらずって感じで、全然演奏に集中できてなかったし。私たちに感付かれてないとでも思ってたわけぇ?」

 

 二人は交互に話しかけるが、そのたびにルナサはますます頬を染めていった。もはや耳まで真っ赤になっている。

 

「あー! もうっ、うるさいうるさいっ! とにかく違うったら違うっ!」

 

 とうとう耐え切れなくなったのか、ルナサは大きな声で叫んだ。そして椅子から立ち上がると、そのまま部屋を出ていく。

 残された二人は、お互いの顔を見合わせると、呆れたように溜息を吐いた。

 

 

 それから、ルナサは公民館の裏口から出て、そこで立ち止まり、大きく息を吐いた。

 空に視線を向けると、もう夕焼け色に染まっていて、遠くの方ではカラスが鳴いていた。辺りには涼しい風が流れており、ひとまずは心地よい気分になれるだろう。

 だが、今のルナサは、そんなことを気にせず、ただ一点の流れる雲を見つめていた。

 

「ルナサ」

 

 ルナサは不意に名前を呼ばれて、声がした方に顔を向ける。

 そこには、○○が一人で佇んでいた。おそらくルナサが出てくるのを、外で待っていたのだろう。

 ○○は、ルナサが気づいたのを確認して、彼女のもとへと近づいた。そして、ぎこちない様子で、口を開いた。

 

「今日は、少しミスが目立っていたけど……」

 

 その言葉を聞いて、ルナサは気まずそうに目を逸らす。それから、彼に対して頭を下げた。

 

「ごめんなさい。私から誘っておいて、こんな結果になってしまって……」

 

 ルナサは心からの謝罪の言葉を告げた。それを受けて、彼は慌てて首を横に振る。

 

「いや、ルナサを責めたいわけじゃないんだ。体調でも悪かったのかなって思ってさ。それだけが気がかりで」

 

 ○○は心配そうな表情をしている。ルナサは顔を上げて、申し訳なさそうに答えた。

 

「体は平気。だから、あれが私の実力……」

 

 ルナサは視線を落としながら言った。自分の情けなさに嫌気が差してくる。

 今日の演奏会は、今までで一番酷いものだった。長女である自分が、妹たちの足を引っ張ってしまったのだ。それから、せっかく彼が来てくれたのに、満足に演奏できなかった。

 悔しさと悲しさで涙が出そうになる。だが、ここで泣いてはいけないと、必死に堪えた。

 

「ルナサ」

「あっ……」

 

 だが、その我慢も徒労に終わる。何故なら、○○に頭を撫でられたからだ。

 ルナサは突然の行為に驚いて、体を硬直させる。

 

「俺は、ルナサの音が好きだよ。君の妹たちのように派手さはないけど、曲全体を包み込むような温かさがあるんだ。調和って言えばいいかな。君の奏でる音を聞くだけで、落ち着くんだよ。君の音色は、他の誰にも真似できない。俺にとっては、一番好きな音だ」

 

 ○○は優しく語りかける。それを聞いたルナサは、体の力が抜けていく感覚を覚えた。

 

「だから、もっと自信を持って欲しい。君は、素晴らしい演奏者なんだから」

「……うん」

 

 ○○の言葉を聞いた瞬間、ルナサの目からは大粒の涙が零れ落ちた。嬉しかったのだ。彼の口から、最高の褒め言葉を聞けて。それがルナサにとって、どれだけ嬉しいことなのか、きっと彼は知らないだろう。

 二人はしばらく無言でいたが、やがて○○の方から口を開く。

 

「あー、俺さ、明日は丸一日時間が空いてるから、ルナサの練習に付き合うよ」

 

 それは彼なりの思いやりだった。今日のようなことがないように、少しでもルナサの力になりたいと思ったのだろう。

 

「……ほんと? じゃあ、朝に迎えに行くから、いつもの場所で待っていて」

 

 ルナサは彼の提案を受け入れ、小さく微笑んだ。また、○○と二人きりになれる。その事実が何よりも嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。

 

 それから○○は、ルナサに別れを告げると、その場を後にした。その後ろ姿を眺めながら、ルナサは呟く。

 

「私の音は、貴方だけに」

 

 その言葉は、誰が聞くわけでもなく、風に乗って消えていった。

 

 

 翌日、ルナサは○○を伴って、霧の湖近くにある廃洋館へとやってきた。

 この建物は、ルナサとその妹たちが住んでいる家である。元は外の世界にあったものが、形をそのままに幻想郷へ流れ着いたものだ。

 

 外観は西洋風の造りになっており、貴族の屋敷を彷彿させる。周囲の草木は剪定されておらず、伸び放題になっていた。

 かつて美しい花々に彩られていた庭は、今では見る影もない。雑草だらけで荒れ果てており、建物自体も薄汚れている。

 この辺りは、昼間は霧に覆われていて、太陽の光が届かないため、常に曇り模様だ。なので、普段から人間は近寄らない場所であった。

 

「どうぞ、入って」

 

 ルナサは廃洋館の一室に○○を案内する。そこはグランドピアノが一台置いてあるだけで、他には何もない部屋だった。

 室内はカーテンを開けていても薄暗く、息苦しい印象を受ける。窓の外では、相変わらず濃密な霧が立ち込めていた。

 ルナサは○○のあとから部屋の中に入ると、静かに扉を閉める。そして、○○に向き直った。

 

「今日は妹たちが居ないから、騒音に邪魔されずに練習できるわ」

「そうか。あの子たちの演奏も嫌いじゃないけど、騒がしいのが玉に瑕だな。ルナサみたいな落ち着きが、もう少しあればいいのに」

 

 ○○は苦笑しながら言った。ルナサは○○の言葉を聞いて、少し顔を赤く染めると、恥ずかしそうに微笑を浮かべる。

 妹たちの演奏する音楽は、賑やかで騒がしい。この広い建物のどこにいても、壁を突き抜けて聞こえてくるほどなのだ。

 それは彼女たちが騒霊だから仕方がないのだが、○○は騒音が煩わしいようで、苦手意識を持っているみたいだった。

 

「まずは、軽く試奏させてもらうよ」

「ええ」

 

 ○○はピアノの前まで歩いていくと、椅子に座って鍵盤蓋を開けた。鍵盤を覆っている布を外し、両手を置いて、ゆっくりと奏で始める。

 緩やかな速度を保った穏やかで優しい曲調が、室内に響き渡った。その音は心地よく、いつまでも聞いていたくなるような魅力があった。

 ルナサは目を閉じながら、その音色に耳を傾ける。彼の演奏は、いつも通り素晴らしいもので、聞いているだけで心が安らぐ。

 

「……好き」

 

 ピアノの音色に溶け込むように、自然と言葉が漏れた。それは無意識のうちに発せられたものであり、彼女自身も気付いていない。もちろん、○○の耳にも届かなかった。

 

 ○○と出逢った時から、ルナサは彼の持つ雰囲気に惹かれていた。自分のすべてを、優しく包み込んでくれるような温かさを感じるのだ。

 それから、彼が奏でる音楽にも、大きな魅力を感じていた。彼が生み出す音色は、自分の渇いた心を潤してくれる。

 ○○は演奏家ではないので、技術面は未熟なものの、人の感情に訴えかける力がある。それがルナサにとっては、何よりの魅力だった。

 

「うん。音は、あれから変わってないな」

 

 ある程度弾いたところで、○○は手を止めた。それから軽く鍵盤に指を滑らして、満足げに呟く。

 

 ○○は外来人で、外の世界ではピアノの調律師をしていたらしく、彼と出逢えたのも、彼がこの廃洋館に偶然迷い込んだからだった。

 聞けば、田舎の僻地まで仕事で行った帰り道で、山道を車で走っている際、濃霧に飲まれてしまい、気が付けば見知らぬ場所にいたという。

 

 道に迷い、電子機器も使えない中で彼を導いたのは、湖畔に響き渡るヴァイオリンの音色だった。

 ○○の鼓膜を震わすその音は、気が動転していた彼の心を鎮めてくれたらしい。

 そして、音色に誘われるように辿り着いた先には、ルナサが暮らす廃洋館があり、○○は彼女に保護されたのだ。

 

『どうもありがとう。ちゃんとしたお礼をしたいけど、俺にできるのは、ピアノの調律くらいだから』

 

 ○○を人里に送り届ける際に、恩返しにと言って、このピアノを調律してくれた。かつて四姉妹だったプリズムリバーの末娘レイラが、生前に弾いていたものだ。長年放置されていたが、○○が調律したことで、元の美しい音を取り戻した。

 寂しがり屋で内気な性格のレイラが弾くピアノの旋律は、とても繊細で美しいものだった。それは、彼女が亡き後も、ルナサの大切な思い出として残っている。

 

「……もっと弾いてほしい。貴方の音が聞きたいの」

 

 ルナサは○○を見つめながら、熱っぽい声で言った。その瞳は潤んでおり、頬は紅潮している。

 ○○の音を聞くたびに、ルナサの心は彼に囚われていく。○○が奏でる音色は、レイラが奏でていたものと似ているのだ。

 二人は性別も年齢も異なるが、どこか重ねて見てしまう部分がある。それがルナサにとって、彼に特別な想いを抱く理由。初めは興味本位でしかなかったが、今は恋焦がれるほどになっていた。

 

「俺だけが弾いても、練習にならないだろ?」

 

 ○○はルナサの視線を受け止めつつ、首を傾げた。

 彼はまだ、ルナサの気持ちには気付いていない。それでも、こうして付き合ってくれているのは、ルナサに対して恩義を感じているからだろう。そこに好意はあっても、恋愛感情はないはずだ。

 

 ルナサはそれを理解しつつも、少しでも自分を意識してもらいたくて、彼女なりにアプローチを続けていた。

 といっても、ルナサは奥手で口下手なので、いつも言葉ではなく、ヴァイオリンの音で示すのが常である。

 

「……そうだった。じゃあ、いつも通り、私も一緒に演奏する」

 

 ルナサはヴァイオリンを持ち出して、○○の隣に立つ。彼女の身長は○○より大分低いので、椅子に座った彼と同じ目線の高さになる。

 

「準備はできたから、いつでもいいわ」

 

 ルナサは一呼吸してから、弓を構えた。

 ルナサたち三姉妹は、手を使わなくとも楽器を奏でられるが、やはり楽器は自分の手で弾いた方がしっくりとくる。なので、普段から演奏をする時は、それぞれの得物を手放さないのだ。

 

「俺が合図するから、それに続いてくれ。さん、にぃ、いち——」

 

 彼の掛け声に合わせて、ルナサたちは合奏を始めた。

 二人の奏でる音楽は、ピアノとヴァイオリンの二重奏だ。いつも三姉妹が弾く曲と似ているが、微妙にアレンジが施されている。

 ルナサの奏でる音色は、○○の音色に寄り添うように響いている。曲の始まりは、彼の奏でる音色を引き立てるように、静かに優しく弾いていた。

 

「んっ……」

 

 やがて曲が佳境に差し掛かると、ルナサは演奏を続けながら、喘ぐような声を漏らした。○○の音に酔いしれ、意識が蕩けそうになる。

 ルナサの息遣いは荒くなり、その表情は快楽に染まっていく。音を乱すまいと、彼の演奏に意識を集中させるほどに、ルナサは官能的な気分になっていった。

 弓を持つ手が震え、身体中が敏感になり、内側から燃やされるような感覚に襲われる。互いの音を交わらせることで、心までもが一つになったかのような錯覚に陥っているのだ。それは性的快感にも似た心地よさだった。

 

「ふうっ……!」

 

 ルナサは、昂る感情をヴァイオリンの音色に込めた。それは燃え上がる恋の調べ。ルナサの想いが乗せられた情熱の旋律は、ただ一人の男に向けて捧げられている。

 ○○の奏でる音色が耳を打つたび、ルナサは高みまで追い詰められていく。下腹の奥が熱く疼き、秘所からは絶えず快感の証が溢れ出し、下着の一点を濡らす。

 

「ふっ、ふっ……! はぁ、はぁ、あはぁ……!」

 

 ルナサは必死に耐えようとするが、抗えない悦楽が全身を走り抜ける。立ったまま太ももを浅ましく擦り合わせ、腰を悩ましげに揺らしながら、愛しい人の音に溺れていった。

 ○○のピアノの旋律が、ルナサを狂わせる。音に身を委ねるだけで、絶頂に達してしまいそうなほどの快感。異常ともいえる高揚に理性は溶かされ、雌の本能が剥き出しにされていく。

 体に触れられてもいないのに、ただ音を聞いただけなのに、こんなにも乱れてしまう自分が恥ずかしかった。しかし、そんな羞恥すらも、今の彼女にとっては、情欲を滾らせる燃料にしかならない。

 

「んっ……くふっ……ふっ、ふぅっ!」

 

 ルナサは、ヴァイオリンの弦を震わせて、溢れる情欲を音色に変えた。艶めかしさを孕んだ旋律は、○○の音と混じり合い、絡み合うようにして響き渡る。

 二人の男女が織り成す愛の協奏曲。一種のまぐわいともとれる淫靡な調べは、ルナサの秘められた欲望を曝け出していく。

 

「あっ……あぁっ……!」

 

 やがて合奏の幕切れが訪れると、ルナサは体を細かく痙攣させ、天に登った。余韻に浸りながらも、ルナサはなんとか自我を保ち続けていた。だが、身体の火照りと痺れるような甘い刺激は収まらない。

 

「……おいおい。まったく駄目じゃないか。もっと落ち着いて、俺の音に合わせないと。そんなに激しく弾いたら、せっかくの曲が台無しだぞ?」

「……ごめんなさい。気分が乗ってしまって、つい……」

 

 ○○は呆れた様子で、ルナサを見つめていた。彼は演奏に集中していたので、ルナサの痴態に気付いていなかったようだ。

 

 ルナサは申し訳なさそうに俯いたが、内心では愛情を○○に気付いてもらえなかったことを残念に思っていた。

 あれだけ想いを音色で伝えているのだから、少しくらい意識してくれてもいいはずなのだが、その辺は鈍いところがあるらしい。

 

「前は控えめだったはずだけど、最近は随分と激しいな。何か心境の変化でもあったのか?」

「……ええ、まあ」

 

 ルナサは頬を染めながら、小さく呟いた。

 ○○と一緒にいるときは、常に幸せを感じている。離れている時でさえ、彼のことを想うと胸が温かくなるのだ。

 そして、その感情を音に乗せて、彼に届けたいと思うあまり、今のような演奏になってしまう。それは悪癖だと自覚しているが、どうしてもやめることができなかった。

 

 妹たちと合奏をしているときでさえ、○○のことばかり考えてしまっている。演奏に集中できないのは、ほかでもない○○のせいだ。

 今までは、ずっと妹たちと一緒で、寂しさを感じることはなかった。しかし、○○が現れてからというもの、彼のことしか考えられなくなってしまった。

 誰かに恋をするなんて想像したこともなかったし、ましてやその相手が人間とは思いもしなかった。だが、違和感なく受け入れることができたのは、ルナサたち三姉妹の出自を考えれば、当然かもしれない。

 

 彼女たち騒霊は、人間のレイラによって生み出された存在。人間を拠り所とする霊である以上、人を愛することは自然なことだ。それが異性であれ同性であれ、対象が同じであることに変わりはない。

 そして、拠り所だったレイラは、もうこの世にはいない。その事実が、彼女たちの心に大きな穴を空けた。

 

 自己が曖昧となり、存在意義を失いかけていた彼女たちは、残された姉妹で支え合って、形を保ってきた。

 しかし、それはあくまで仮初めの関係であり、心の穴を埋めることはできなかった。好きではあっても、愛しているわけではなかったからだ。

 

 そこに現れたのが、○○という青年だった。

 彼との出会いは、確かに偶然の産物に過ぎない。彼がたまたま迷い込んだ先が、ルナサたちの住む家だったというだけの話。

 だが、そんな些細な出来事も、ルナサの運命を大きく変えることになった。

 

 ○○の音が、レイラに似た音色をしていたからだろうか。あるいは、初めて親しくなった異性が、彼だったからだろうか。

 理由は定かではないが、ルナサの隙間だらけの心を埋めたのは、紛れもなく○○の存在だった。

 なので、ルナサが○○を好きになったのは、ごく自然な成り行きといえるだろう。

 

「作曲者が抱いていた感情を音に乗せるのは、良いことだと思う。ただ、奏者が自己の感情に振り回されてちゃいけない。曲の意味が分からなくなるからな」

 

 ルナサの返答を受けた○○は、厳しい表情を浮かべていた。彼にはルナサが、演奏に自分の気持ちを乗せすぎているという印象を受けたようだ。

 

「ルナサは、周りが見えなくなっているんだ。演奏に集中するのは悪いことじゃないけど、周りの音を聴かないと、合奏として成立しない。さっきも、途中から走り気味だっただろ? あんな調子じゃ、他の二人が可哀想だ」

「……うん」

 

 ○○の言葉を聞いたルナサは、しゅんとした様子で肩を落とした。返す言葉もないといった感じだ。

 

「悩みごとがあって集中できないんだったら、俺でよければ相談に乗るぞ?」

 

 ○○は心配そうな顔をしながら、ルナサに問いかける。

 

「それは……」

 

 ルナサは、自分が抱えている問題について、どう説明したものかと悩んでいた。

 貴方への想いを音に乗せて演奏している。そう打ち明けたところで、○○が困ることは目に見えている。彼は、ルナサが好意を寄せていることを知らないのだから。

 

 でも、いっそのこと、この場で告白してしまおうか。そうすれば、楽になれるかもしれない。○○とも、もっと深い関係になることができる。音だけでなく、彼のすべてを手に入れることができれば、自分の心は完全に満たされる。

 

 ルナサは、頭の中に浮かぶ誘惑に抗えずにいた。

 ○○に抱かれ、愛を囁かれる妄想が、脳内で勝手に繰り広げられる。心も体も一つになって、お互いのすべてを貪り合うような情事を夢想し、ルナサは体を震わせた。そんな未来が訪れるなら、どんなに幸せなのだろうか。

 たった一言、好きだと彼に告げれば、それが手に入る。しかし、その一言がどうしても口にできなかった。

 

 ○○と恋仲になりたいという想いはあるのだが、拒絶されるかもしれないと考えると、恐くて仕方がないのだ。

 それに、もし受け入れてもらえなかったら、今の幸せを失ってしまうことになる。それだけは絶対に嫌だった。

 しかし、このままでは、永遠に彼の心を掴めない。それどころか、いつまで経っても進展することはない。それでは、いずれ自分は飽きられて、見捨てられてしまうのではないか。そんな不安が、ルナサを苛んでいた。

 

 幻想郷には、自分よりも魅力的な女は大勢いる。○○が自分以外の女に惹かれて、離れていってしまう可能性は十分にあるのだ。

 もし、それが、妹たちの誰かだったら。想像したくはないが、あり得ない話ではない。

 次女のメルランは、明るい性格で、人当たりも良い。三姉妹の中でも、一番発育の良い肉体を持っていて、性的な魅力も備えている。

 三女のリリカも、調子の良いところはあるが、人懐っこい性格だ。小柄でも、口八丁で男を篭絡することは、できるかもしれない。

 

 一方、自分はどうだろうか。周りからも暗い女だと認識されていて、容姿に関しても優れているとは思えない。口下手で口数も少なく、愛想も良くない。

 そんな自分を、○○が受け入れてくれるのか。考えれば考えるほど、自信が無くなっていくばかりだった。

 

 だが、今の○○に、女の影はない。○○の側にいられるのは、今はルナサだけなのだ。それはルナサにとって、数少ない好機だと言える。ならば、多少強引であっても、彼の気を引くしかないのではないか。

 ルナサの心に、強い焦燥感が湧き上がる。今ここで行動しなければ、手遅れになってしまう。そんな予感がしていた。

 

 意を決すると、ルナサは深呼吸をして気持ちを整えた。そして、○○の顔を見つめながら、ゆっくりと唇を動かした。

 

「私……貴方が、○○のことが好き。○○のピアノの音を聴いてから、ずっと好きだったの。私の演奏を褒めてくれる優しい声も、叱ってくれる厳しい態度も好き。それに、もっと違う○○の音を知りたい。私の知らない音を、もっと聞かせて欲しい。もっと深く、○○と繋がり合いたい。○○が側にいる時……ううん、いない時にだって、○○のことを考えているわ。ヴァイオリンを弾く時も、○○のことを想って弾いているの。○○だけを見ているから、周りに合わせられないの。奏者としては失格だけど、もうそれでもいい。私は、○○と、ずっと一緒にいたい。○○の側を離れたくない。そう、つまり……○○を、愛しているの」

 

 ルナサは、思いの丈をぶつけるようにして、○○に告白をした。

 ひとたび恋心を口に出すと、堰を切ったように言葉が流れ出た。ここまで饒舌なルナサは、彼女の妹たちでさえ見たことがないだろう。それほどまでに、彼女は○○を強く求めていたのだ。

 

「……ルナサが、俺を?」

 

 ○○は、ルナサの告白に困惑しているようだった。突然、少女に愛の言葉を告げられたため、どうして良いか分からないといった様子だ。

 

 そしてルナサには、もう迷いはなかった。自分の想いは全部伝えた。後は、彼が自分の想いを受け入れてくれるかどうかだけだ。

 ○○が自分に好意を抱いていることは、何となく察しがついている。彼は、自分の演奏をとても気に入ってくれている。頭を撫でてくれたこともあるし、会話をするときは、目をじっと見てくることが多い。きっと、そういうことだろう。

 ○○の答えを待つ時間は、ルナサにとっては無限のように感じられていた。彼の口から出るであろう返事に、ルナサは耳を傾ける。

 

「そう、か……。うん……」

 

 ○○は、何かを考え込んでいるようだ。急なことなので、戸惑っているのかもしれない。

 しかし、ルナサは、彼の反応に落胆することはなかった。むしろ、○○が真剣に悩んでくれたことに喜びを感じていた。○○は、自分のことを意識してくれているということだからだ。

 しばらく沈黙が続いたあと、○○は静かに口を開いた。

 

「ごめん、俺もルナサのことは好きだけど、愛するとか、そういうことはできない」

「えっ……?」

 

 ○○の言葉を聞いた瞬間、ルナサは全身が凍りつくような感覚に襲われた。心臓が高鳴り、頭の中で血流が激しく巡っていく。視界が歪み、手足が震え始めた。

 ○○に拒絶された。脳はそう理解していたが、心がそれに追いつかなくて、ルナサは呆然と立ち尽くしていた。

 

「俺さ、付き合っている人がいるんだ。ええっと、外の世界って言うのか? そこで出会った人なんだ。今は帰ることができなくて、離ればなれになっているけど、彼女を愛していることに変わりはない。だから、ルナサの気持ちに応えることはできないんだ」

 

 ○○の声は聞こえていたが、ほとんど耳に入らなかった。彼には恋人がいた。その一点が、ルナサの心に亀裂を走らせる。

 しかし、まだ、まだ完全に終わったわけではない。ルナサは、最後の希望にかけてみることにした。

 

「……じゃ、じゃあ、○○がここにいる間だけなら、どう……? ○○が幻想郷にいる間は、私と一緒にいる間は、私だけの恋人になって欲しいの……」

 

 幻想郷には結界が張られていて、人間や妖怪が気軽に行き来することはできない。だから、○○が元いた世界に存在する女とは、会うことができないのだ。

 そして聞くところによると、外来人の帰還は、ある時期を境に滞っているらしい。ということは、○○もまた、いつ帰れるか分からない身なのだ。

 ならば、その間だけでも、○○を独占したい。それから自分の愛情で彼を包み込み、蚊帳の外にいる女のことなど忘れさせてやれば、いずれ自分を選んでくれるはずだ。ルナサは、そんな願いを抱いていた。

 

「……君が、そんなことを言うとは思わなかった。彼女を裏切れだなんて……」

 

 ○○は、とても困った顔をしていた。無理もない。いきなりこんなことを言われても、すぐに受け入れられないのは当然だ。

 だが、それでも、ルナサは諦めるつもりはなかった。

 

「黙っていれば、分からないじゃない。それに、恋人になってくれたら、私は○○の望むことは何でもするわ。私が養うから、生活にも不自由させないし、ずっと愛を囁いてあげられる。か、体だって、○○の好きにしていい。だから……ね?」

 

 ルナサは、○○に詰め寄って、彼の手を握った。指が長くて、大きな手だ。この手で体を触れられたら、どれほどの快楽が得られるのだろうか。

 彼に調律されてみたい。自分でも知らない音を、鳴かされてみたい。彼だけに聞かせる、秘密の音色。

 湿り気を帯びた思考で、ルナサは自分の願望に浸っていた。そして、自然と○○の手を引いて、自分の胸に押し付けようとした。

 

「やめてくれ!」

「きゃあっ!」

 

 しかし、ルナサの想いとは裏腹に、○○は彼女を突き飛ばした。小柄なルナサは簡単に吹き飛び、床に転がってしまう。

 

「うぅ……」

 

 ルナサは呻き声をあげた。そして、突き飛ばされた拍子に尻餅をついたルナサを見て、○○は我に返ったようだった。

 

「わ、わるい……。だ、だけど、君はどうかしているぞっ! いくらなんでも、言って良いことと悪いことがあるだろう! どうして、そんなに非常識な考えを……」

 

 ○○は動揺した様子で、まくし立てるように言った。彼も、ルナサの行動には驚いているようだ。

 

 ルナサは、臀部に伝う鈍い痛みを感じて、自分が取り返しのつかない失敗をしてしまったことに気がついた。自分の想いを伝えることに夢中になりすぎて、彼の気持ちを考えていなかったのだ。

 ルナサは、自分の浅はかさに嫌気が差して泣きそうになったが、ぐっと堪えて立ち上がる。そして、精一杯笑顔を作って、○○に語りかけた。

 

「だって、仕方がないじゃない。私は○○を愛しているんだもの。たとえ○○に恋人がいても、私の想いは変わらない。だから、せめて一緒にいる時だけは、私だけを見ていてほしい」

 

 もう退路は断たれているのだ。こうなった以上、前方が茨の道だろうと、ルナサは進むしかない。例えそれが、愛する人を深く傷つける結果になろうとも。

 

「そんな……そんなのは……」

 

 ○○は、まだ迷っているような表情を浮かべていた。どうすれば、彼は自分を受け入れてくれるのだろうか。

 しばらく考えた後、ルナサは一つの結論に至った。

 

「想いも体も拒むのなら、私の音を捧げるわ」

 

 ルナサは、静かに呟いた。○○は、ルナサの言葉を理解できなかったようで、怪しげな目つきで彼女を見つめる。

 ルナサは気にとめず、再びヴァイオリンを取り出して、弓を構えた。そして、弦に当てられた白い指先が、ゆっくりと動き出す。

 

 次の瞬間、薄暗い室内は、ルナサの奏でる幻想的な旋律に満たされた。騒霊の彼女が鳴らす鬱の音。それは聴く者を狂わせ、心の中に不安を呼び起こす。

 音を隔てるものはなく、室内を反響しながら広がっていく波紋は、○○の心の中にも浸透していった。

 ルナサは自分の音色を、単独で○○に聴かせたことはなかった。いつも彼の前で弾く時は、必ず誰かの音と合奏するようにしていたからだ。

 しかし、今は違う。これはルナサの独奏であり、彼女はただひたすらに、○○への愛を表現していた。

 

「うっ……くっ……!」

 

 ルナサの音色は、○○の鼓膜を通して脳髄を刺激し、彼の精神を支配していく。

 やがて、○○はおもむろに床へ膝をつくと、苦しそうに胸を押さえ始めた。

 

「……ねえ、○○が幻想郷に来てから、随分と経つわよね。それでも、外の世界にいる彼女は、○○のことを想っているのかしら? 人の想いなんて、移ろいやすいものだから、きっと○○のことなんか忘れてしまっているわ。そして、他の男と付き合っているかもしれない。あるいは、○○より素敵な男性を見つけて、結婚しているかもね。ああ、なんて報われないのかしら……」

 

 ルナサは演奏を続けながらも、独り言のように語り続けた。○○の心に絡みつくように、じわじわと染み込ませるように。

 それは、○○の頭の中に様々な映像を浮かばせる。恋人の笑顔、幸せそうな家庭、新しい命の誕生。それらは、この先○○と彼女が歩んで行くはずだった未来。

 

 しかし、その映像は一瞬にして崩れ去り、暗闇の中へと消えていった。代わりに現れたのは、寝具に寝そべった男の上に、裸でまたがる女の姿。

 男は恰幅の良い中年で、下品な笑みを浮かべて、彼女に何か話しかけている。すると、彼女は嬉しそうに微笑んで、男の唇に自分のそれを重ね合わせた。

 そして、二人は求め合うようにして、激しく体を絡め合った。お互いの肌から汗が滲んでいる。長く艶やかな黒髪を乱して、女は一際大きな声を上げる。惚けた女の顔は、確かに○○の恋人……彼女のものだった。

 ありえない。そう思いつつも、○○は頭の中の光景を否定することができなかった。肉と肉がぶつかる卑猥な音や、彼女の甘い嬌声が、脳内で鮮明に再生される。まるで、今現在、外の世界で繰り広げられているかのように。

 

「ほら、その女は、いとも容易く○○を捨てた。自分の欲求を満たすためなら、恋人の気持ちを踏みにじることも厭わない。浅ましく腰をかくつかせる、発情期の雌。そんなケダモノのどこに、○○に愛される資格があるというの?」

 

 ルナサは手を止めて、ヴァイオリンを宙に放り投げた。それは地に落ちることなく、ふわりと浮き上がって空中に留まる。ヴァイオリンは奏者の手を離れてもなお、弦を妖しく震わせて、音色を奏で続ける。

 ルナサは、うなだれている○○に近寄った。鬱の音によって支配された○○は、虚ろな瞳でルナサを見上げて呟く。

 

「……酷すぎる。あんまりだ。俺はこんなにも彼女を愛しているのに、どうして……」

 

 ○○の瞳には、ルナサではなく恋人の女が映っていた。彼の心の中では、まだ彼女への想いが生きているのだ。

 そんな○○の様子を見て、ルナサはくすりと笑う。

 

「○○は一途なのね。そういうところも素敵よ」

 

 ルナサは、○○の頬を優しく撫でながら言った。それから、彼の耳元に顔を近づけると、冷たい声で囁く。

 

「でも、○○の想い人は、平然と貴方を裏切った。○○の心を弄んだの。だから○○も、そいつのことを切り捨てるべきだわ」

「……ああ、そうかも……な……」

 

 ○○は、ルナサの言葉を聞き入れ始めていた。

 ルナサは、普段の寡黙な雰囲気からは想像できないほど饒舌だった。そして、彼女の口から語られる巧言は、どれもが狂気を帯びていて、聞く者を惑わせる。絶えず響いているヴァイオリンの音色も相まって、○○の心はルナサの世界に取り込まれつつあった。

 

「そうよ。そして、私を○○の伴侶にすればいい。私なら、○○の寂しさを埋められる。○○に愛を囁くことができる。○○を幸せにできる。○○を絶対に裏切らない。霊体だから、○○が死んだあとも、ずうっと一緒にいられる。それから——」

 

 ルナサは自分なりの愛情表現を語り続ける。そして、呆然としている○○の手を取り、自らの胸に当てた。

 掌越しに伝わる、ルナサの心臓の鼓動。ドクンドクンと脈打つ音が、○○の脳髄まで響き渡る。

 

「霊体でも、人の情欲を受け入れられるの」

 

 ルナサは、そのまま下へと誘導した○○の手を、スカートの中へと滑り込ませる。

 太腿の内側に触れた途端、○○はビクッと体を跳ねさせた。だが、彼はルナサを振り払うことができない。鬱の音色によって気力が湧かず、思考能力が低下しているためである。

 

「んっ……○○の手が、私に触れてる……。はぁ、あっ、熱い……」

 

 ルナサは、○○の手に自分の指を絡ませ、下着の上をなぞらせるように動かした。そこは十分に湿っており、○○の興奮を誘う。

 ルナサの秘部は熱を持ち、柔らかくなっている。初めての男を受け入れる準備ができていた。

 

「ねぇ……○○。私の穴を、埋めて欲しいの。夫婦の契りを、交わしましょう。そうしたら、私はずっと○○の側にいるわ。永遠に離れない。死んでからも、魂だけになっても、○○と一つになるの。そして、また新しい命として生まれ変わっても、必ず○○と巡り合うことができるの」

 

 ルナサの甘言は、鬱の音を掻き消すほどの愛情と執着に満ち溢れている。それは気力を失った○○にとって、天啓のように感じられた。

 

「はあっ……! はあっ……!」

 

 虚だった○○の瞳に光が戻り始める。しかし、その光は正常なものではない。狂った欲望に染まった、危うげな輝きを放っている。

 

「ふふっ……くふふふふっ……!」

 

 ○○の変化に気づいたのか、ルナサは不気味に笑い始めた。彼女もまた、○○と同じように、異常なまでの情念に支配されているのだ。

 

「ああ……こんなにも素敵な時はないわ。だって、○○のすべてを、独り占めにできるのよ? だから、この時だけは、獣のように交わってもいいわよね?」

 

 ルナサは○○を床に押し倒し、その上に覆い被さる。そして、張り詰めた彼の情欲を露わにすると、自らも服を脱ぎ捨てた。

 霊体だというのに、ルナサの身体は生身の人間と遜色がない。透き通るような白い肌や柔らかな肌は、まさに生きた人間の、少女の肉体としか思えなかった。汗ばんでしっとりとした質感すら感じられるほどである。

 

「心だけでなく、体まで繋がってしまったら、私たちはどうなってしまうのかしら。くふふっ……!」

 

 ルナサは自分の下腹部に手を当てて、妖艶な笑みを浮かべた。その表情は、もはや少女のものとは思えないほど淫靡で、妖しい魅力を漂わせている。

 

「さあ、教えて○○。初めての私に、本当の愛を、○○の愛を刻み込んで……!」

 

 

 ○○には、もうルナサの音しか聴こえなかった。ヴァイオリンの鬱々しい音も、肉を打つ淫靡な音も、彼の耳には届かない。

 ただ狂ったように漏れるルナサの嬌声だけが、彼の心を満たしていた。

 

 まだ年若い調律師には、人ならざる者の狂気は重すぎた。乱れた音色は、この先も正されることなく、永久に心を蝕んでいくだろう。

 騒霊が奏でる狂愛の旋律は、廃洋館の一室で、どこまでも深く響いていた。



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メルラン編

 

 妖魔が蔓延る丑三つ時。

 幻想郷の人里は静まり返り、出歩く人間はほとんどいない。当然、人間は夜に眠るものであるし、妖怪の多くは夜行性だからだ。安全が保証されている人里の中とはいえ、夜更けに出歩けば、妖怪と鉢合わせする可能性も間間ある。

 

 人里の郊外に居を構えている○○もまた、虫たちの鳴き声を耳にしながら、眠りに就いていた。

 ○○は布団の中で規則正しい寝息を立てていたが、不意にその目が開いた。何か物音を聞いた気がしたのだ。しかし、寝ぼけ眼で周囲を見回しても、狭い居間は何事もなく平穏なままである。

 気のせいかと思い、再び目を閉じようとすると、またしても音が聞こえたような気がして、彼は布団から身を起こした。

 

 それは家の戸を叩く音だった。

 こんな時間に、一体誰が訪ねてきたのかと不審に思いながらも、立ち上がって居間の明かりを灯し、玄関へと向かう。

 

「……どちら様で?」

「あっ、私よ! 早く戸を開けて!」

 

 ○○が引き戸越しに尋ねると、戸の向こうから鈴虫よりも通りの良い可愛らしい少女の声が返ってきた。

 聞き覚えのあるその声を聞いて、○○はすぐに相手が誰なのかを理解する。

 引き戸の突っ張り棒を外し、ゆっくりと戸を開けると、そこには予想通りの少女の姿があった。

 

「うふふっ、来ちゃった!」

「メルラン、今が何時だと……」

 

 満面の笑みを浮かべてそう言ったのは、月明かりに照らされた淡い水色の髪を、ウェーブでなびかせている少女、メルランあった。

 彼女は、人里でも有名なプリズムリバー楽団の一員であり、金管楽器を巧みに操る騒霊でもある。

 ○○が不服そうな顔で注意しようとすると、メルランはそれを遮るようにして○○に抱きついた。彼女の豊満な胸が体に押し付けられ、甘い香りが鼻腔を刺激する。

 

「お、おい……!」

「あ〜、やっと○○に触れられたわ〜。悪いけど、もうちょっとだけ、このままでいさせて」

 

 動揺する○○を他所に、メルランは彼の胸に顔を押し付けながら幸せそうにしている。

 そんな彼女を見て、○○は抵抗する気力を無くしてしまった。溜め息をつくと、されるがままにして、天井を仰ぐ。

 

「んん〜」

 

 しばらく経って満足したのか、ようやく○○から離れると、メルランは自分の口元に手を当てて微笑んだ。

 

「起こしちゃって、ごめんね? だけど、どうしても我慢できなくて」

「まったく、夜更けに来ることはないだろう。……とりあえず、中に入るか?」

「ええ、もちろん!」

 

 メルランは我が物顔で家に入ると、勝手知ったる様子で居間に向かい、座布団に腰掛けた。

 ○○は呆れつつも、ちゃぶ台を挟んで反対側の座布団に座り込む。

 

「むぅ、何で隣にこないの! 寂しいじゃない!」

 

 メルランは不満げな表情をして頬を膨らませると、座布団ごと移動してきて、○○の隣にぴたりとくっ付いた。

 

「……こっちは寝起きなんだ。少しくらい、勘弁してくれよ」

 

 ○○が額を手で抑えながら苦言を呈すると、メルランは上目遣いで彼を見た後、悪戯っぽく笑う。

 

「じゃあ、私がハッピーにしてあげよっか? 夜想曲のアンサンブルなんてどうかしら! 今夜は満月だから、楽器も滾ってるわよ〜!」

 

 そう言うなり、メルランは両手を広げて演奏の準備を始めた。

 彼女の背後に複数の金管楽器が現れて、宙をふよふよと漂う。それらは、騒霊の彼女が創り出した、楽器の幽霊である。

 

「や、やめろって。静かにしないと、近所迷惑になるだろ。あと、声も抑えてくれ……」

「ええ〜? でも、○○が言うなら、しょうがないかぁ」

 

 慌てて○○が制止すると、メルランは不機嫌そうに口を尖らせた。それでも聞き入れてくれたようで、浮いていた楽器たちが、順番に姿を消していく。

 ○○は安堵の息を漏らすと、改めて目の前にいる少女を見やった。

 彼女は楽しげに微笑んでおり、その笑顔からは嫌味を感じさせない。むしろ、見ているこちらまで気分が良くなるほどである。

 

「その代わりぃ……。んっ……」

「えっ?」

 

 メルランは目を閉じて、唇を突き出した。その仕草に○○が思わず声を上げると、メルランは目を開け、意地悪な笑みを浮かべる。

 

「静かにしてほしいのよね? 私の騒がしい口を塞ぐには、これが一番いいと思うけどぉ?」

 

 そして再び目を閉じ、無防備に○○の前に顔を晒した。彼女の唇はわずかに開いており、舌を絡める濃厚な口付けを待っているように見える。

 ○○とメルランが恋仲になって、まだ数ヶ月しか経っていないのだが、彼女の積極性にはいつも驚かされていた。突然、家に訪ねてきたかと思えば、こうして強引に迫ってくることも珍しくない。

 

「はやくぅ、ちゅうしようよ〜」

 

 ○○が逡巡していると、痺れを切らしたメルランは駄々をこねるように催促してきた。○○の肩に手を回し、体を密着させてくる。

 

「んーっ、んっ、ん!」

「……わかったよ」

 

 甘えた声で鳴きながら何度も求められて、ついに○○は根負けしてしまった。眠気の残る頭では、彼女の誘惑に耐えることができなかったのだ。

 メルランの唇に、自分のそれを重ねる。

 すると、彼女は待ってましたと言わんばかりに、強引に舌を差し込んできた。○○の口内を、メルランの柔らかな舌が蹂躙していく。

 

「じゅるっ、れる、ぢゅうぅぅぅ……!」

 

 メルランは○○の首に腕を回して抱きつくと、彼の唾液を一滴残らず吸い取ろうとするかのように、激しく舌を絡ませる。

 時折漏れ出る吐息は、まるで情事の最中のように熱く、少女には似つかわしくない下品な音を立てていた。

 

 メルランと付き合うようになってからというもの、彼女は会うたびに、愛情を惜しげもなく伝えてくる。それは、言葉だったり、行動だったり、時には楽器を使って表現したりと様々だ。

 そして、日を重ねるごとに、自分への想いが強くなっているように思える。今日もそうだ。夜更けに訪ねて来るなり、熱烈な口づけを求めてきた。

 ○○は、メルランに求められること自体は嬉しいと感じるものの、それが段々と激化していることに不安を覚え始めていた。行き過ぎた愛情に応えられるほど、自分は強くないと自覚していたからだ。

 

「ぐっ……んんっ!」

「……ん〜?」

 

 ○○は息苦しさに耐えかねて、メルランを引き剥がそうとする。

 しかし、彼女はそれを察知したのか、○○の膝の上に尻を乗せ、足を腰に回して固定する体勢を取った。首にも巻き付けた腕に力を入れ、絶対に離さないという意思表示をしてくる。

 

「んふふぅ〜」

 

 ○○の抵抗を遮ったメルランは、勝ち誇ったように喉を鳴らすと、さらに深く唇を押し当ててきた。舌の根元まで差し込み、○○のそれと交わらせる。

 彼女の舌が動く度に、水音が鼓膜を響かせ、その淫靡さに○○は眩惑された。意識が遠退きそうになるのを堪えながら、彼女の背に両腕を回す。

 

 メルランの身体は、○○からすれば小さく、抱きしめるとすっぽりと収まってしまう。しかし、可愛らしい顔に似合わない豊満な胸だけは例外で、○○の体に押し付けられていた。服越しでも分かるくらい柔らかい感触が伝わってきて、○○は下半身が疼いてしまうのを感じる。

 

「んんっ……。ちゅっ」

 

 やがて、メルランは満足げに鼻で息をすると、○○を解放した。二人の唇を繋ぐ銀色の糸が切れた後も、名残惜しそうに舌なめずりをする。そして、○○の顔を見つめ、艶やかな笑みを浮かべた。

 

「うふふっ、ごちそうさま。○○とのキス、すごく美味しかったわぁ……」

「は、激し過ぎるって……。息が、できなく……なるだろ……。死ぬかと、思った……」

 

 ○○は途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、息を整える。あと少し遅れれば、本当に窒息していたかもしれない。それほど彼女の愛情は重く、深いものだった。

 

「大丈夫よ〜。○○が死んじゃっても、私が面倒見てあげるから」

 

 だが、メルランは○○の心中などお構いなしといった様子であった。騒霊の彼女にとって、○○が息絶えることは大した問題ではないようだ。死生観が人間とは違うので、それも当然といえる。

 かと言って、彼女自ら○○の命を奪う真似はしないだろう。二人は両想いであり、わざわざ恋人を殺す理由がないからだ。

 

「それに、満更でもないでしょ? だって、○○のここ、おっきしちゃってるもんねっ?」

 

 メルランは自らの腰を、○○の下腹部に押し付けてきた。彼女が言う通り、○○のモノはすっかり硬くなっており、着物を力強く押し上げている。

 

「だ、誰のせいだと思って……」

「うん、私のせいだよね。じゃあ、責任を取らないといけないよねぇ?」

 

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。

 ○○は布団に押し倒され、その上にメルランが覆い被さってくる。見た目以上に強い力によって組み伏せられた○○は、身動きが取れなくなってしまった。

 

「今日も私が動くから、○○はじっとしてていいわよ〜。たぁくさんっ、ハッピーにしてあげるからね!」

 

 恋人同士の営みが始まった。彼女から絶え間なく与えられる快楽に、○○の意識はほどなく途絶えることになる。堕ちる寸前、彼が見たものは、楽しげに笑いながら跳ねているメルランの姿だった。

 

 

 翌日、○○が目を覚ました時には、メルランは既に姿を消していた。○○の衣服は整えられており、昨晩の出来事は夢だったのではないかと思わせる。

 しかし、体のあちこちに残る疲労感と、布団に染みついた情事の残り香が、現実であったことを教えてくれた。

 

「……腹減った」

 

 ○○はしばらく放心していたが、空腹を感じて、布団から起き上がる。

 

「……ん?」

 

 伸びをしたりして体をほぐしていると、ちゃぶ台の上に紙切れが置かれていることに気が付いた。

 寄ってみると、何か文字が書かれている。どうやら手紙のようで、内容はこう書かれていた。

 

『おはよう○○。それから、昨晩はごめんなさい。しばらく逢えてなかったから、ついやり過ぎてしまったわ。○○を困らせるつもりはなくて、ただ○○の愛が欲しかっただけなの。だから○○なら、私を面倒な女だと思わないで、受け入れてくれるよね。私たちは、恋人だものね。それと、今度プリズムリバー楽団の定期公演があって、その準備のために忙しくなりそうなの。だから、またしばらくは逢えなくなると思う。でも、私はいつでも○○のことを想っているわ。○○も、私以外の女に目移りしたら駄目よ。○○を幸せにしていいのは、私だけ。それを、よく覚えておいて。貴方の愛しいメルランより。 追記・これで美味しい物でも食べてね』

 

 文面からは、普段の明るい彼女の雰囲気はまったく感じられなかった。ただただ湿っぽい独占欲だけが滲んでいる。

 ○○は、それに対して嫌悪感を抱くことはなかった。今に始まったことではないので、慣れたというのもあるだろう。

 ○○はメルランのことが好きだし、今の関係を大切にしたいと思っている。それでも、あの情熱的な求愛だけは、どうしてもついていけない部分があった。

 だが、彼女はそれを受け入れて欲しいのだろう。謝罪から始まる文章は、そんな気持ちの表れのように思える。

 

 メルランは明るく優しい性格なので、普段は○○の意思を尊重してくれていた。たまに感情が振り切れて、昨晩のようになるとしても、それを除けば良い恋人関係といえる。

 だから彼女の偏愛を妥協するには十分で、○○が別れを考えるまでには至らない。どこまでいっても、○○はメルランのことを嫌いになれないのだ。それが倒錯した彼女の愛情を助長させているのだが、○○は気付けないでいた。

 

「こんなに貰ってもなぁ」

 

 ○○は、手紙と共に置かれていた封筒を手に取り、中を確認してため息をついた。

 中に入っていたのは、紙幣の束であった。これだけあれば、優に一ヶ月は贅沢に過ごせる額である。しかし、○○の望むものではなかった。

 

 そこまで困窮しているわけでもないのに、メルランが大金を渡すのは、ひとえに不安の裏返しだと思われる。繋ぎ止める何かがなければ、○○が自分から離れていくのではないかという恐れが、彼女の心を蝕んでいるのだろう。

 だから、少しでも利用価値があるものなら、何でも与えようとするし、身体を使って○○に奉仕しようとするのだ。

 ○○が喜んでくれると、本気で信じているからこその行動なのだが、それが彼にとっては重荷になっていた。

 

「とりあえず、飯を食わないと……」

 

 それでも今は、メルランのことより自身の体の方が重要であった。睡眠不足と空腹、そして枯れ果てるまで精を搾り取られたことで、○○の体力は限界に近い。

 ○○は、よろめきながらも台所に向かうが、食材が尽きていることに気づく。ここ数日は、買い出しに行っていなかったのだ。

 

「……外で食べるか」

 

 ○○は、おもむろに着替えや洗顔などを済ませて、外出の準備を整えた。

 それから家を出ると、降り注ぐ太陽の光に思わず目を眩ませる。時計を見ていなかったので、とうに時刻が朝を過ぎていたのに気付けなかったからだ。

 季節は春から夏に移り変わろうとしており、日中は暖かくなっていた。日差しも強くなっているようで、少し歩くだけで汗ばんできそうである。

 

 しばらく歩いて人里の大通りに出ると、そこは既に賑わっており、そこかしこから活気のある声が聞こえてくる。

 売り文句を並べる青果店の店員、行き交う人々の話し声、商品を売り込む客引きの声など、雑多な音が入り混じって、○○の耳に飛び込んできた。

 

「うーん」

 

 昼時なので、どの食事処も繁盛していた。○○は、どこに入るべきか迷ってしまう。あまり外食をしないので、目移りしてしまうのだ。

 

「……ここでいいか」

 

 しばらく悩んだ末、老舗風の雰囲気漂う蕎麦屋に決めた。

 

「らっしゃい!」

 

 店内に入ると、出汁の良い香りが漂ってくる。手打ちらしく、店員の動作と共に麺が打たれる音が響いており、食欲を刺激する。

 

「ざる蕎麦を一つ」

「あいよっ、ざる蕎麦一人前ね!」

 

 何席か空いている適当なカウンター席に座り、注文する品を伝える。それから、しばらく待つと、○○の前にざる蕎麦が置かれた。

 

「いただきます」

 

 ○○は待ってましたとばかりに箸を取り、早速食べ始める。コシがあり、喉越しも良い。美味しいと素直に思えた。薬味として乗せられたネギやワサビも、口の中を爽やかにしてくれる。

 

 客の回転率は早いようで、入れ替わり立ち替わりに他のお客さんが訪れては、料理を食べていた。

 そんななか、黙々と食べ続ける○○の背後を通り過ぎた男が、小声で吐き捨てるように呟く。

 

「……ちっ。嫌なやつが、メシ食ってるぜ」

 

 その言葉は、○○の耳に届いていた。

 ○○から離れた席に座ったその男は、何食わぬ顔でいるが、時折睨みつけるような視線を向けてきている。○○に対して悪意を持っているのは明らかだった。

 

 ○○は、男の顔に心当たりはない。それでも、自分が嫌われている理由は、なんとはなしに察しがついていた。恐らくは、自分がメルランと付き合っていることが、気に入らないのだろう。

 彼女は、プリズムリバー楽団に所属する三姉妹の中でも、特に人気が高い。人間の間で、ファン倶楽部が作られるほどだ。

 だから、○○と交際していることが知られれば、彼女に好意を寄せていた人間から反感を買うことは、想像に難くない。

 実際に○○は、そういった輩から何度か絡まれたこともある。小言を言われたりする程度なので実害はないが、面倒なことには変わりない。

 

「ごちそうさま。お代はここに」

「まいどー!」

 

 ○○はかき込むように蕎麦を平らげると、早々に店を出て行った。これ以上ここにいても、気分が悪くなるだけだと思ったのだ。

 空腹は満たされても、残された疲労感と不快感は消えていない。○○の心は、ささくれ立っていた。

 

「……あっ、そうだ」

 

 そのまま家に帰ろうと歩き出したが、その途中で、食材の買い出しをしなければならないことを思い出す。外食に頼って出歩くと、いつメルランのファンに出くわすとも限らないので、○○は極力自炊するようにしているのだ。

 ○○は進行方向を、再び大通りへと向けた。

 

 メルランと付き合いだしてから、窮屈な生活を強いられることが多くなった。だが、彼女に責任はないし、愛想を尽かすつもりもない。彼女の愛の味を知ってしまった以上、手放すことはできないからだ。

 ○○は自覚なく、ある種の依存状態に陥っていた。

 

 

 それから数日が経った。

 メルランが残した手紙に書かれていたとおり、○○は彼女と一回も会っていない。

 

 あれからというもの、○○はいつもどおりの日常を過ごしているが、彼の心の中は常に曇っていた。

 あの夜、意識を失うまで求めてきたメルランの姿が脳裏に浮かんで、○○を悶々とさせているのだ。

 会いに行こうとしても、叶わない。恋人だというのに、○○は彼女の居場所を知らないからだ。

 

 思えば、告白をしたのはメルランの方からで、いつも彼女から誘われて、逢瀬を重ねている。自分から誘ったことは、一度もなかった。

 つまり、○○は完全に受け身の状態であり、彼女がその気にならなければ、会うこともできない。

 そのことを疑問に思うことなく、○○はその状況を受け入れていたが、今にして考えると、これは異常なことだ。

 一方的な片想いならば、まだ納得できたかもしれない。しかし、○○もメルランを好ましく思っていて、二人は両思いのはずなのだ。

 

 彼女の愛情が深過ぎて、自分が押され気味になっているのだろうか。

 それとも、もしかすると、自分は彼女に弄ばれているのではないのか。快楽を満たすためだけの存在として、都合良く使われているのではないか。

 そんな不安が、いつしか○○の心に渦巻いていた。

 

「……メルラン」

 

 その日、○○は珍しく酒の力を借りていた。夜中に出歩いて、普段は飲まない酒を飲んで酔っぱらい、ふらふらとした足取りで、自宅に帰る途中だった。

 住居もまばらで、人気のない道を歩いており、もちろん提灯もなく、月明かりだけが頼りだった。

 なので、前方から来る人影に気付くのが遅れ、吸い込まれるようにぶつかってしまう。

 

「ぐぅ……」

「おっ!」

 

 両者は、それぞれ呻き声を上げた。

 足取りがおぼつかない○○は、尻もちをつく形で地面に倒れ込む。

 一方の相手は、平然としていた。○○よりも遥かに体格が良く、筋肉質であることが分かる。

 

「おう、大丈夫か? ちゃんと前見て歩かねえと、夜道は危ねえぞ」

「……あぁ、悪いな」

 

 ○○は立ち上がりながら答えた。幸いにも怪我はなく、服についた汚れを払うだけで済んだ。

 改めて相手の顔をよく見ると、どこかで見たことのある顔立ちをしていることに気が付く。それは、蕎麦屋で舌打ちをしてきた男の顔だった。

 

「……ん? あ、てめえは!」

 

 向こうも気付いたのか、目を見開いて叫んだ。それから、意気揚々と○○の胸ぐらを掴む。

 男も酒に酔っているようで、彼の口から漂う酒臭い吐息に、○○は顔をしかめてしまう。

 

「メルランちゃんを誑かしてる野郎じゃねえか! こんな夜更けにほっつき歩いて、しかも酒臭くして、いい身分だなぁ、おい!」

「ぐっ、うぅ……」

 

 唾を飛ばしながら怒鳴り散らす男に対し、○○は何も言い返せない。事実だからだ。

 

「ちっ、てめえがまともな奴だったら、何もするつもりはなかったが、見た感じそうじゃないみたいだなぁ。ちょうど良いぜ、憂さ晴らしさせて貰うとするか!」

 

 男は勢いよく○○を地面に押し倒すと、馬乗りになって拳を振り下ろしてくる。

 

「ぐぇ……! ごぉっ!」

 

 一発、二発、三発。何度も殴られるが、酩酊状態の○○に抵抗する力はない。男との体格差もあるので、されるがままになるしかなかった。

 

「みんなのアイドルのメルランちゃんに、抜け駆けで屑野郎が手を出すなんて、許せねぇよなぁ!?」

「げほっ、ごぼ……! や、やめて……」

「うるせぇ! ちょっとばかしツラがいいからって、調子に乗りやがって! てめえの顔面に、ピカソの絵を描いてやるよ!」

 

 男は○○の懇願を跳ね除けると、執拗に顔面ばかりを狙って殴り続ける。そのたびに○○の頭部は跳ね上がり、地面に叩きつけられた。

 

「ぶべっ! ぐぼぉ……! ぐうぅ……!」

 

 ○○の顔は腫れ上がり、見るに耐えない有様となった。鼻はひしゃげ、歯は何本も折れ、口の中も切れに切れて血塗れになっていた。

 

「……はあっ、はあっ。これで、少しは懲りたか?」

 

 男は殴る手を止めると、荒い呼吸を繰り返す。男の分厚い拳は、○○の血で赤く濡れていた。殴り慣れているのか、酔っ払って鈍っているのか、彼は痛みを感じていないようだ。

 一方、○○は虫の息で横たわっていた。もはや声を出すことさえできず、指一本動かせない。

 

「ふんっ、二度とメルランちゃんの前に姿を現すんじゃねえぞ。まあ、そのツラじゃ無理だろうけどな。ぺっ!」

 

 男は満足気に言い、倒れ伏している○○に唾を吐きかけてから、その場を後にした。

 

 残された○○には、僅かに意識があったが、おもに顔面を襲う激痛のせいで動けず、助けを呼ぶこともできなかった。

 このまま放置されれば、いずれ死んでしまうかもしれない。だが、どうすることもできないまま、ただ時間が過ぎていくばかりだった。

 

「め…………ら……ん……」

 

 やがて、○○は意識を保てなくなり、そのまま気を失ってしまう。闇に閉ざされた視界の中に、メルランの笑顔を幻視しながら。

 

 

 

「……て。……きて、○○。おねがい……。目を覚まして……」

 

 どこからか声が聞こえ、重く沈んでいた○○の意識は浮上し、昏睡の中から覚醒していく。

 まぶたをゆっくりと開くと、○○の顔を覗き込むようにしているメルランと目が合った。彼女は目に涙を浮かべており、頬に伝い落ちた雫が○○の肌に落ちてきた。

 

「あっ……ああっ! ○○! ○○っ! よかったっ! ほ、本当に……よかった……!」

 

 ○○が目覚めたことに気付いたメルランは、感極まった様子で○○に顔を近づけて、額を擦り付けてくる。鼻先が何度も触れ合い、彼女の荒い呼吸が顔に吹きかかった。

 

「め、める……ら、ん」

「ええ、私はメルランよ! ちゃんと、覚えているのね……! じゃ、じゃあ、○○と私は、どんな関係……?」

「……こい、びと」

「そう、そうよ! 私は○○を愛していて、○○も私のことを愛してくれてる、そうよね?」

「……ああ」

 

 まだ覚醒しきっていない意識の中で、○○は答えた。途切れ途切れにではあったが、言葉を紡ぐことはできた。

 なぜ彼女が、今更な質問をするのか疑問だったが、今は聞く余裕がない。自分のことで精一杯だったからだ。

 どうやら寝具の上に寝かされているようで、柔らかな綿の感触が背中に伝わってくる。

 そして、首から下が、まったく動かない。鉛でも詰め込まれたかのように、身体全体が重かった。

 

「……うん。ちゃんと、——になれたのね。一時はどうなるかと思ったけど、これなら安心できるわ……」

「……え? なに、が?」

「ううん、こっちの話。○○は気にしなくていいの。そう、私のこと以外、何も考えなくてもいいのよ……」

 

 メルランは○○の横に寝転ぶと、擦り寄るようにして身体を密着させ、彼の腕を自らの胸に押し付けるように抱いた。

 

「まだ、体も動かせないでしょ? 時間が経てば、慣れるはずだから、それまでゆっくり寝るといいわ。私が側で見守っていてあげるから……ね?」

 

 そう言って微笑むと、○○の頭を撫で始める。慈しみを込めた優しい手つきだった。

 ○○は、その心地良さに身を委ね、再び眠りの世界へと誘われていった。

 

 

 次に目が覚めた時には、ようやく体を起こすことができた。

 部屋を見渡すと、窓もない殺風景な空間が広がっている。壁際に寝台が置かれているだけの、簡素な造りだ。

 

「メルラン、ここは? 俺は、いったい……」

「私たちが過ごす部屋よ。○○と私以外、何もない、二人だけの……」

 

 隣にいたメルランに問いかけると、彼女は嬉しそうな表情をして、○○の手を取った。いつもの笑顔とはどこか違う気がしたが、今の○○にはその理由がわからなかった。

 

 それよりも気になるのは、自分が何故ここにいるかということだが、記憶の混濁が激しく、うまく思い出せない。まるで霞がかかったように不明瞭で、頭の中は薄暗くなっている。

 それでも○○は、なんとか思い出そうと必死になった。すると、直近の記憶が脳裏に浮かぶ。

 確か夜更けに、暴漢に襲われて、それから意識を失った。そのあとの記憶は、まったくない。ならば、答えは一つしかないだろう。

 

「……メルランが、俺を助けてくれたのか?」

「……私は……ううん、そう。私が○○を助けて、ここに連れてきたの。酷い怪我をしていて、長い間眠りっぱなしだったけど、もう大丈夫だから」

「そうだったのか。色々と迷惑かけたみたいで、すまなかった」

「○○が謝る必要なんてないわ。だって……私が……」

「いやいや、俺が夜更けに出歩いたせいだから。とにかく、ありがとう」

 

 ○○は、精一杯の感謝の意を込めて頭を下げた。そして、容易に体を動かせたことで、自分の体が治っていることに改めて気づく。顔面に負っていたはずの傷跡もなく、痛みもない。あれほど酷かった腫れも引き、健康的な状態に戻っているようだ。

 だが、その代償として、何か大切なものを失ったような喪失感を覚えていた。それが何なのかは、わからない。

 

「……うん。でも、もう二度と、○○を傷付けさせたりはしないわ。私が、ずうっと○○の側にいて、守ってあげるから」

 

 彼女は先程から、○○の手を大事そうに両手で包み込み、頬擦りをしたり、指先に口づけしたりしている。

 その姿は恋する乙女のようであり、または情欲の虜になった雌の姿でもあった。

 

「……私が、私が姉さんに遠慮したから、こんなことになったんだわ。○○を、一度は失いかけてしまった。でも、姉さんも、ようやく愛を手に入れられた。だから、もう、私は、我慢する必要なんて、ないのよね? リリカも、私の気持ちを、わかってくれるよね?」

 

 ぶつぶつと呟く彼女の声は、独り言のように小さくとも、○○の耳には届いていた。それは彼女自身に言い聞かせている言葉のようでもあったが、○○はその内容を理解することができなかった。

 そして、彼女の瞳は虚ろに揺れており、焦点が定まっていないように見える。それでも、中心に○○の姿を捉えていた。

 

「○○。貴方には、辛い思いをさせてしまったけど、そのおかげで、私たちは同じになれた。時を気にせず、永遠に睦み合うことができる。図らずも、私が望んでいた形になってしまったわ」

 

 メルランはそう言うと、○○の腕を引いて抱き寄せ、顔を近づけた。彼女の吐息を感じる距離になり、○○は思わず顔を背けようとしたが、メルランは強引に彼の顔を正面に向けさせた。

 

「メ、メルラン……?」

「もうっ、逃げちゃ駄目よ。これからは、ずっと一緒なんだから、そんなことされたら寂しいじゃない。○○には私の全てを受け止めて、受け入れて、そして愛して欲しいの。○○が見ていいのは、私だけ。○○が聞いていいのは、私だけ。○○が吸っていいのは、私だけ。○○が触れていいのは、私だけ。○○が味わっていいのは、私だけなのよ」

 

 ○○の身体は、メルランによって強く抱きしめられた。腕や足が絡み合い、お互いの肌の温もりを直に感じることができる。

 そして、○○の視線は、彼女の瞳に吸い込まれていた。かつて余裕たっぷりに色付いていた虹彩は、すっかり淀み切り、今あるのは、狂気に満ちた暗い輝きだけだ。

 

 ○○にはわからなかった。彼女が何を言っているのか、どうしてこうなったのか、自分がどうすればいいのかも。

 ただ、ひとつ言えるのは、自分は確かに彼女に愛されていて、とても幸せだということだけだった。

 

「うん、○○は幸せなの。私が○○を幸せにして、○○が私を幸せにしてくれる。永遠に循環する幸福。それを分かち合える存在は、私たち以外にいないのよ」

 

 メルランの目尻が下がり、○○の顔に近づいてくる。そして○○の唇に、メルランのそれが重ねられた。

 舌と唾液が入り混じり、混ざり合ったものが喉の奥に流れ込んでくる。○○は反射的に喉を鳴らして飲み下し、胃の中へと落としていった。

 

「うふふっ、いっぱい飲んでね……。あとで私も、○○に注いで貰うから……ねっ?」

 

 メルランは腰を揺らし、○○の下半身に刺激を与える。その動きに合わせるように、○○は無意識のうちに自分のモノを膨らませていた。

 

「○○、愛してるわ。これからも、いつまでも変わらない。私たちだけの世界で……永遠に……」

 

 メルランはそう囁きながら、○○の体に覆い被さっていった。○○も抵抗することなく、それを受け入れた。

 

 

 部屋の中には、淫靡で狂った音色が鳴り響いている。幸福を謳うように、永遠を誓うように、二人はひたすら交わり続けた。

 

 彼らの幸福は逃げ場なく、漏れ出すことなく、彼らだけの世界を漂い続けるだろう。

 そして何者にも、幸福の旋律を止めることは、できないのだ。

 

 




















【怪異!? 変死体の恐怖! 人里の闇!】

 昨日、霧の湖付近にて、人間の遺体が発見された。遺体の性別は男性。身元は、人里に住む外来人であることがわかった。
 死因は首を引き裂かれての失血死。それ以外に、目立った外傷はないようだ。
 いつもなら、妖怪か獣に襲われた哀れな人間として、忘れ去られることだろう。

 しかし気になる点は、遺体の手の爪に、血痕と肉片がこびりつくように付着していたことだ。
 そして首の傷跡は、人間の爪で引っ掻かれたもので、被害者自身が付けたものだと推測されている。つまり、自殺ということだ。

 人間が、自ら首を掻きむしって死ぬ。
 そんな発狂ものの死に様なんて、あり得ないだろうと思う方もおられるかもしれないが、あり得ないことが当たり前に起こるのが、ここ幻想郷なのだ。
 人間を狂わせて、死に至らしめる。それが可能な者は、幻想郷にいくらでも存在している。
 あるいは騒霊、あるいは月の兎、あるいは厄神、あるいはさとり、あるいは——いや、ここまでにしておこう。

 最近、人里の路上で、外来人の撲殺死体が発見されるという事件があったのは、記憶に新しいところだ。
 そして、またしても外来人が亡くなってしまったわけだが、この二つの事件に関連がある可能性は高い。
 だが人里の自治体は、この件について何も言及しておらず、捜査も行われていない。幻想郷での外来人の待遇を、暗に物語っているとも言えるだろう。

 それからもう一つ、気になることを耳にした。
 その撲殺死体は、無縁塚に埋葬される予定で、遺体を人里で管理していたらしいのだが、当日になって管理者が赴くと、遺体は忽然と姿を消していたという。

 わざわざ人里で人間の死体を盗むような輩といえば、かの邪仙しか思い当たらない。
 この一件について、当人に取材を試みたものの。
『失礼ねぇ。確かに昔は色々やってたけど、今は愛しい旦那様のことで手一杯なのよ。だから、私は一切関係ないわ。天地神明に誓ってね』
 と煙に巻かれてしまった。

 どうも真偽のほどがはっきりしないが、いずれにせよ人里でこのようなことが起こるのは、好ましくない。
 今後、同様の事件が起きないことを、筆者としても祈るばかりである。


——捨てられた新聞の一部より抜粋。


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リリカ前編

 

「それって、解散ってこと?」

 

 霧の湖から、少し離れた場所にある、廃洋館。

 その一室で、リリカはそう言って、首を傾げた。すると、その視線の先の、椅子に腰掛けているメルランが、静かにうなずく。

 

「一旦ね。つまり、活動休止ってことよ。姉さんがいないし、私たちだけでライブをしても、意味がないじゃない?」

 

 メルランは、リリカの問いに答えると、手に持っていた帽子をかぶった。そして、椅子から立ち上がり、窓際へと移動する。リリカの視線も、彼女につられるように動いた。

 窓から見える景色には、やはり霧が立ち込めており、遠くの方は見えなくなっていた。

 そんな外の様子を眺めながら、メルランは続ける。

 

「姉さんの恋が成就したのは、喜ばしいけど、四六時中部屋に籠もられると、困るわねぇ。まあ、それだけ彼に、夢中なんでしょうけど……」

 

 そこまで言うと、メルランは小さく溜息をついて、リリカの方へと向きなおった。それは迷惑というより、羨んでいるような声色だった。

 

「そっかぁ……。姉さんたちとライブできないのは、寂しいけど……。まあ、仕方ないよね。私も、しばらくは、お休みでいいと思うよ」

 

 メルランの言葉を聞いたリリカは、特に驚いた様子もなく言った。ある程度は、予想していた展開だからだ。

 このあいだ行われた定期公演の最中、ずっと想い人に向けて演奏をしていたルナサの音色を聴けば、彼女がどれほど彼に心酔しているか、分かるというものだろう。

 

 その積もり積もった感情を伝えきるには、長い時間を共に過ごさなければならない。

 だから、ルナサの行動も、メルランの提案も、リリカとしては納得できたのだ。

 

「ええ。でもこれで、ようやく私も、彼と一緒になれるわ。姉さんよりも先にっていうのは、気が引けてたから、ちょうど良かったのかも」

 

 一方メルランは、自分の提案が受け入れられたことに安堵しつつ、嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 

「ああ、あのイケメンの彼氏さんね。姉さん、その人に、ぞっこんだもんねぇ。意外と面食いだったのは、驚きだけど」

「うふふっ、顔は関係ないわよ。ただ、彼が他の人間より、違って見えただけ。魂の輝きが、私の目を引き付けたの。運命の人って感じかな。それに、なんだかお世話したくなっちゃうところとか、本当に可愛いのよ? あぁ、早く逢いたいわぁ……。それから、誰にも邪魔されないところで、一緒に生活して、毎日——」

 

 頬に手を当てて、幸せそうに語るメルランだったが、その言葉は、徐々に早口になっていく。まるで妄想の世界に、入り込んでいるようだった。

 

「うぇ〜、のろけ話は、勘弁だよぉ。そんなに我慢してたなら、さっさと一緒に暮らしたら?」

 

 リリカは、うんざりしたように顔をしかめると、呆れた声で言った。だがメルランは、即座に首を横に振る。

 

「そうしたいのは、山々なんだけど、リリカを、一人にすることになるし……」

「別に私にまで、気をつかうことないよ。私は、大丈夫だからさ」

「……本当? 一人で、寂しくないの?」

「だから平気だってば! 心配性だよ、姉さんは……」

 

 心配するメルランに対して、リリカは特に気にしていないといった口調で返した。しかし、表面上は強がってこそいるものの、内心では、姉と離れるのは寂しかった。

 それでも彼女は、それを表に出さないよう努めている。なぜなら、自分が姉たちの枷になるのが、嫌だったからだ。

 

 プリズムリバー三姉妹は、三人で一つ。その絆は、とても強く、たとえ離れてしまっても、お互いの存在を、常に意識し合っていた。

 しっかり者で、三姉妹のまとめ役である長女、ルナサ。明るくて優しい、ムードメーカーの次女、メルラン。

 そんな姉たちに支えられて、リリカは今日まで存在できていた。

 

 だからこそリリカは、二人に負担をかけたくないと思っていたし、彼女たちの力になりたいとも思っていた。

 たとえ姉たちの心が、自分から他の誰かに向けられようとも、それが二人の幸せなら構わない。姉たちが幸せならば、自分もまた幸せなのだ。そう思っているから、リリカは耐えられる。

 

「……ごめんなさい。じゃあ、とりあえず今日は、今日だけは、彼と一緒に、過ごさせてもらうわね」

「いや、めちゃくちゃ遠慮してるじゃない! 一ヶ月くらいは、二人で楽しんできなって!」

 

 申し訳なさそうな表情で謝るメルランを見て、リリカは思わず突っ込んだ。どうも過保護すぎる姉の態度に、つい声が大きくなってしまう。

 

「私だって、友達の一人や二人はいるし、それに、恋人だっているんだから、そんなに寂しくなんかならないよ。むしろ、姉さんの方が心配。今まではずっと、私たちのために我慢してくれてたんだし、これからは自分のことを、優先してほしいかな」

「……あら、リリカに恋人がいたなんて、初耳だわ。どんな人なのかしら。今度、紹介してくれる?」

「あっ、えぇっと……。そう、ね……」

 

 リリカの言葉を聞いて、メルランは意外そうな反応を見せる。それから、興味深そうな視線を、妹に向けた。

 

 リリカは困ったような笑みを浮かべると、少し言葉を詰まらせた。

 なぜなら、リリカに恋人はいない。それから、友人だって、一人もいないのだ。姉を安心させるために、咄嗟に口から出任せを言ってしまっただけである。

 

「まだ、そんなに深い仲じゃないから、ちょっと無理かな〜」

 

 とはいえ、リリカは適当に誤魔化すことにした。その口ぶりに、メルランは不思議そうな顔をする。

 それからしばらくして、メルランは何か察したのか、納得した様子を見せた。

 

「……うふふ。リリカも、独り占めにしたいと思うくらい、その彼のことが、好きなのねぇ」

「うん……? まぁ、そう……だね」

 

 何か腑に落ちない気がしたものの、リリカはひとまず肯定しておいた。すると、メルランは満足げに微笑む。

 

「彼とは、もう……したのかしら? まだだったら、私が手解きを、してあげるわよ?」

「えぇっと……うん、したよ。だから姉さんは、何も心配しないでいいから」

 

 姉からの意味不明な問いに、リリカは少し迷ったが、再び頷いた。こういうのは、肯定しておくほうが楽なのだと、経験上知っている。

 

「そうだったの〜。リリカは、私たちの知らないうちに、大人の階段を、のぼっていたのね〜」

「あ、あはは……。私だって、いつまでも子供じゃないってこと……だよ? だから、姉さんたちと離れても、全然寂しくないし?」

 

 どこか感慨深そうに語るメルランに対し、リリカはぎこちない笑顔で答えた。だが、内心では動揺している。よくわからないが、盛大に勘違いされているような、そんな気がしたからだ。

 

「なら、お言葉に甘えて、しばらく彼と一緒に、過ごさせてもらおうかしら〜」

「うん、そうしなよ! いっぱい楽しんできてね!」

 

 しかしリリカは、あえて何も言わなかった。ここで余計なことを言うと、ややこしくなりそうだと思ったのだ。

 リリカは、さっさとメルランを送り出すことにした。姉の背中を押しながら、満面の笑みで見送り、その姿が見えなくなると、彼女はため息をつく。

 

「恋人かぁ……。何が、そんなに良いんだろう」

 

 リリカは、ぽつりと呟いた。姉たちが熱心に求めているものを、十分に理解できなかったのだ。

 二人から話を聞いていたので、なんとなくどういうものなのかは、わかっているつもりだった。

 けれど、いざ自分の身に置き換えてみると、やはり姉たちの言うような感情は、湧いてこない。

 

 むしろ、そんなものに、時間を費やすことが、馬鹿らしく思えた。三姉妹で合奏している時の方が、楽しいと思うし、満たされると感じる。

 そう考えると、リリカにとって恋人とは、家族よりも優先順位が低い存在だった。しかし、姉たちにとっては、違うらしい。

 

「私にも、恋人がいたら、わかるのかなぁ……」

 

 そんなことを思いつつ、リリカは小さく嘆く。

 リリカは、一度も恋をしたことがなかった。もちろん、ずっと姉の背中を見てきたので、興味がなかったわけではない。ただ、今までは、そういう機会に恵まれてこなかっただけだ。

 もしも、自分に恋人ができたとしたら、一体どんな日々を送ることになるのだろう。それは、リリカの想像もつかない世界だ。無を有にするのは、困難を極めた。

 

「うむむぅ……!」

 

 そう考えているうちに、頭が痛くなってきた。

 そこでリリカは、一旦思考を中断し、頭を振った。そして、廃洋館にある自室へと、戻ることにする。

 

「ふぅ……」

 

 部屋に置かれたベッドに、うつ伏せに寝転ぶと、リリカは静かに目を閉じた。それから、再び恋人という存在について、考え始める。

 そう、例えば、自分の恋人になるのは、どんな人なのだろうか。

 

 まず、優しい人がいい。自分を包み込んで、大切にしてくれる人。

 そして、一緒に音楽を楽しめる人がいい。自分の演奏を聞いて、喜んでくれる人。

 それから、楽器を弾ける人がいい。自分の知らない音を、奏でられる人。

 

 最後に、自分を好きになってくれたら、それでいい。自分以外の誰かに、目移りすることなく、真っ直ぐに見ていてほしい。それが一番重要だと、リリカは思った。

 もし、そんな相手が現れたのならば、きっと自分も、その人を同じように、好きになるはず。

 

「……ぷっ!」

 

 そこまで夢想して、リリカは思わず吹き出した。自分が、柄にもなく、ロマンチックなことを考えていたことに、気がついたからだ。これではまるで、恋物語に出てくる乙女のようではないか。

 

「ううぅぅ!」

 

 姉たちの話に、影響されてしまったのかもしれない。リリカは、恥ずかしさを隠すように、枕に顔を埋めて、足をばたつかせた。

 

「はあ……。恋って、難しいのね。姉さんたちは、やっぱり偉いよ」

 

 しばらくして、リリカは落ち着きを取り戻すと、しみじみと呟いた。姉たちに感心しつつ、同時に羨ましく思う。

 もしも、姉たちのように恋をすれば、自分も何か変わるのだろうか。そんな疑問を抱きながら、リリカは再び、妄想の世界へ旅立った。

 

 

 

 それから、数日経ったある日。

 リリカは一人、人里を訪れていた。目的は特になく、強いて言えば、暇つぶしである。

 

 廃洋館にいても、一人でやれることは少ない。そして、無限にある時間を、孤独に過ごすのは、限界がある。

 だから、寂しさを紛らわすために、こうして外へと出かけたのだ。今日は天気も良いし、外出するには、絶好の機会だった。

 

 人里の雑多な空気を感じ取りながら、リリカは当て所無しに歩く。

 リリカは騒霊だが、それでも姿形は、人間と遜色ない。そして、その小柄な体躯は、人里にいても浮かずに、すっかり馴染んでいた。

 普段着ではなく、服装を人里の人間と同じように合わせているせいか、すれ違う人々は、彼女のことを気にせず、あるいは気付かずに、通り過ぎていく。

 

 人里で、プリズムリバー楽団の名は知られていても、リリカの顔を知っている者は、意外と少ない。

 二人の姉が奏でる、個性的で馴染みやすい音と比べれば、リリカの音は幻想的なもので、印象に残りにくいからだ。

 なので彼女の存在は、人里において、それほど目立つものではない。姉たちの影に埋もれて、希薄な存在として、溶け込んでいた。

 

「うん? なんだろう、あれ……」

 

 しばらく歩いていると、遠方に人だかりが見えた。

 興味本位で近づくにつれて、そこから楽器の音色と共に、歌声が聞こえてくる。どうやら、誰かが路上で、弾き語りをしているようだ。

 

 人だかりの隙間から覗き込むと、そこにはギターを抱えて立っている、一人の青年の姿があった。彼は目を閉じて、楽しげな音色を響かせている。

 見物人の中には、子供もいれば老人もいた。けれど、誰もが笑顔を浮かべており、音楽を楽しむ雰囲気に包まれていた。

 その光景を見て、リリカも自然と笑みをこぼす。

 

「——はいっ、おしまいです! ありがとうございました!」

 

 そうこうしているうちに、演奏が終わった。拍手が鳴り、やがて人だかりが散っていく。その中には、おひねりを青年に渡している者もいる。

 

「あ、どうもっ、どうもです!」

 

 彼は嬉しそうな表情で、それを受け取っていた。それから、身支度を整え、その場から離れようとする。

 

「……待って!」

 

 気づけば、リリカは青年を呼び止めていた。

 自分でも、なぜそうしたのか、わからない。ただ、このまま彼を見失うのは、なんとなく嫌だと思ったのだ。

 

「ん?」

 

 声を聞いた青年が、リリカの方へと振り向く。そして、不思議そうに首を傾げた。

 

「あっ、えっと……」

 

 呼び止めたはいいものの、リリカは二の句が継げず、言葉を探すように視線を彷徨わせる。焦る気持ちばかりが募っていき、思考が空回りする。

 

「君も、俺の弾き語りを、聞いてくれたのかい?」

 

 そうしてリリカがまごついている間に、彼の方から近づいてきて、問いかけてきた。

 彼は、リリカよりも大分背が高く、それでいて細身で、優しそうな雰囲気を持つ青年だった。

 

「……うん、途中からだけど」

「そうか。どうだったかな、俺の曲は。楽しんでくれたなら、嬉しいけど」

 

 リリカは少し考えてから、素直に答えることにした。嘘をつく必要もないと、思ったからだ。

 

「最後の方しか、聞いてなかったけど、いい曲だったわ。私の知らない音ばかりだったもの。とても新鮮で、心地よかった。もっと聞きたいなって、思うくらいに。……でも、ちょっとだけ物足りなくも、あったのよねぇ。なんていうか、もう一歩って感じ?」

 

 それは、リリカの正直な感想であった。彼の音楽は、確かに素晴らしいものだった。けれど、まだ発展途上であるような気がした。

 もちろん、リリカが偉そうに言えることではないのだが、それでも自分たちの音と比べてしまうと、どうしても劣っているように思えた。

 

「はははっ! そうかい、物足りなかったかぁ。いやいや、君は正直な子なんだな、うんっ」

 

 しかし、リリカの意見を、彼は否定しなかった。むしろ、満足げに笑ってみせた。

 

「俺さ、いつもこの時間に、ここで弾き語りをしてるんだ。毎日ってわけじゃないけどな。良かったら、また来てくれよ。今度は、君の満足いくような曲を、聞かせてあげるからさ!」

 

 彼は、そう言って微笑むと、手を差し出してきた。リリカは、握手を求めているのだと理解するのに、数秒かかり、慌てて自分の手を伸ばした。

 大きくて、暖かい手だった。握っただけで、こちらの体温まで、上がってしまいそうだった。

 

「き、気が向いたら、来てみるかも……!」

「ああ。とりあえず、明日もやる予定だから……って、あれ?」

 

 リリカは、照れ隠しにそう言うと、すぐに彼の手を振りほどいた。そして、逃げるようにして、その場を離れる。

 後ろからは、驚くような声が聞こえたが、リリカは振り返らなかった。

 

 それからしばらくの間、リリカは脇目も振らず、早足で歩き続けた。

 やがて、人里の喧騒から離れた辺りで立ち止まると、胸に手を当てて、息を整え始めた。心臓の鼓動は早く、顔が火照って、とても熱い。

 

「……初めて、握っちゃった。男の人の手って、あんなに大きいんだ……」

 

 胸に当てた手に、視線を落とす。先ほど、彼と握手を交わした時の感触が、まだ残っていた。

 あの時は、余裕がなく気付かなかったが、今こうして思い返すと、恥ずかしさが込み上げてくる。

 

「うぅ、なんで私、こんなにドキドキしてるの? 変だよ……」

 

 そう呟いてから、頭をブンブンと振る。けれど、それで治まるどころか、余計に激しくなっていく一方だ。

 今まで味わったことのない感覚。姉たちとライブを行なっている最中、激しく動いても、ここまで胸は高鳴らない。

 

「でも何だか、あったかい。嫌いじゃなくて、不思議な気分……」

 

 その正体は、わからないが、少なくとも不快ではなかった。それどころか、心地よくさえ感じる。ずっと味わっていたいと、そう思えるほどに。

 

「明日もやるって言ってたし、また行ってみようかな……」

 

 リリカは、ポツリと独り言を漏らすと、小さく笑みを浮かべる。

 青年との出会いは、リリカの心を、少なからず動かしていた。それが、どういう意味を持つのか、今のリリカにはわからない。ただ、悪い気がしないのは確かだった。

 

 

 

 そして翌日。リリカは、昨日より早い時間帯に、人里へ訪れた。

 今日も天気は快晴で、清々しい陽気が、辺りに満ちている。人里の住民たちも、心なしか活気に溢れているように感じられた。

 

「ええっと、確かこの道を、まっすぐ行って……」

 

 リリカは、そこまで人里の地理に詳しいわけでもないため、記憶を頼りに、ゆっくりと道を進み、彼と出会った場所へと向かう。

 

 やがて、見覚えのある通りに出ると、目的の場所は、すぐに見つかった。近くに川があり、水の流れる音が、微かに聞こえる。

 

「んー、来るのが早すぎたかしら」

 

 無事に辿り着いたのはいいものの、彼の姿は見えなかった。まだ、来ていないのかもしれない。

 

 リリカは、近くにあった大きい木箱の上に腰掛けると、足をぶらつかせながら待つことにした。

 それから、暇つぶしがてらに、キーボードの霊を具現させ、演奏を始める。

 昨日聞いた彼の曲を、真似たものだ。音感は、人並み優れたものを持っているので、容易に再現できた。

 今日も聞けるだろうかという期待を込めて、リリカは鍵盤を叩く。

 

「——あっ!」

 

 夢中で演奏していると、いつの間にか目の前に、あの青年が立っていた。彼は、リリカの演奏に耳を傾けているようで、どこか嬉しげに目を細めていた。

 それに気づいて、リリカは思わず手を止めてしまう。すると彼は、申し訳なさそうに、声をかけてきた。

 

「ああ、邪魔したかな。続けてくれて、いいんだけど」

「う、うん、もういいのっ。貴方が来るまでと思って、弾いていただけだからっ」

「おー、そうか。待たせたみたいで、悪かったなぁ」

「ま、待ってなんかないわよ! 貴方より、ちょっとだけ早く来ただけよっ!」

 

 リリカは、顔を真っ赤にして否定する。彼に待ち焦がれていたと思われるのが、恥ずかしかったからだ。実際、そのとおりなのだが。

 

「はははっ! でも、俺の曲を聞きに、来てくれたんだろ?」

「それは、そうだけど……うん」

 

 しかし彼は、特に気にした様子もなく笑う。リリカは、その笑顔を見て、少しホッとした気持ちになった。

 

「昨日は、自己紹介してなかったな。俺は○○。最近、ここに迷い込んだ、外来人ってやつだ」

「リリカよ。貴方、やっぱり外来人だったのね。道理で、私の知らない音を、出せるわけだわ」

 

 ○○と名乗った青年に対し、リリカも名乗る。そして納得するように、相槌を打った。

 

「まあな。ここって、文明が明治時代くらいだろ? 百年先の音楽なんて、誰もわかるはずがないからな。だから俺の曲が、新鮮に感じるんじゃないか?」

「そうかも。外の世界の音楽は、私もあんまり詳しくないし」

「じゃあ、俺が教えてあげよう。これでも向こうでは、ボカロPとして活動していたからな。ミリオンヒットを、飛ばしたこともあるんだ」

 

 ○○は、そう言って自慢げに胸を張ると、リリカの頭をポンと撫でた。

 リリカは、子供扱いされたような気がしてムッとしたが、不思議と嫌ではなかった。嫌味が感じられないほど、彼の雰囲気が明るいせいだろう。

 

 それから○○は、リリカの隣に腰かけると、色々と話をしてくれた。

 外の世界のことや、自分のこと。とりわけ、機械音声で歌うボカロなる存在について、熱く語ってくれたのだった。

 楽しそうに話す彼を見ていると、リリカの心も、自然と明るくなっていった。初めて知ることばかりで、興味深く聞き入ってしまう。

 

「○○は凄いのね。一人で作詞作曲して、歌って弾いて、みんなに聞いてもらえるんだもの。私もやってみたいけど、姉さんたちと一緒に演奏するだけで、精一杯だし」

「ははっ。ネットでは、大勢に崇められたけど、リリカみたいな女の子に直接言われると、恥ずかしいもんだな」

 

 リリカは、素直に賞賛の言葉を口にした。褒められるのが好きで、姉以外の他人を認めたことのない彼女にとって、かなり珍しいことだった。

 けれど、それを口にすることに、抵抗はない。そして、もっと彼のことを知りたいと思えた。

 

「でも、そんなに凄いもんでもないよ。俺はただ、昔っから音楽が好きで、その楽しさを、みんなに伝えたかっただけなんだ」

 

 ○○は、謙遜するように苦笑する。その瞳には、純粋さが宿っており、嘘偽りはないように感じられた。

 リリカは、その言葉を聞いて思う。彼は、本当に音楽を楽しんでいるのだと。自分と同じで、心の底から、好きなのだろうと。だからこそ、見ず知らずの人々を、笑顔にできるのだと。

 

「リリカも、音楽が好きなんだろ? それに俺の曲を、一回聞いただけでコピーしていたし、結構才能あると思うぞ」

「そ、そうかな? ……私って、凄い? 偉い?」

「そりゃあ偉いさ。その歳で、シンセを自在に操れるなら、神童と言ってもいいくらいだ」

 

 リリカは、おどけたように言う。すると○○は、真面目な顔つきになって、答えてくれた。お世辞ではなく、声色からも本気で言ってくれているのが、伝わってくる。

 

「え、えへへっ……!」

 

 それが嬉しくて、リリカは思わず口元を緩ませた。いつも姉たちの影に隠れているため、自分が認められることは少ない。

 しかし、この人は純粋に、自分を褒めてくれる。リリカにとっては、初めての感覚だった。

 

 だからリリカは、○○に好意を持った。今まで会った人間とは、何もかもが違っている。何だか彼の全身から、キラキラと輝くものが、放たれているように見えた。

 

 そう自覚すると、急に体が火照ってくる。ドキドキと心臓の鼓動が激しくなり、頭がボーっとしてきた。昨日、彼の手を握ったときのような、不思議な気持ちになる。

 リリカの○○を見つめる視線が、無意識のうちに熱を帯びていった。

 

「あー! 歌のお兄さんだ!」

 

 不意に前方から、甲高い声が聞こえてきた。

 リリカがそちらに目を向けると、そこには一人の小さな少女が佇んでいた。

 リリカと同じ年頃の見た目をしており、肩まで伸びた黒髪を、リボンで二つ結びにしている。どこにでもいそうな容姿を持つ、人間の少女だった。

 

 少女は、○○の目の前まで駆け寄ると、満面の笑顔を浮かべる。そして、彼の腕を掴むと、そのままグイグイと引っ張った。

 

「ねぇ、今日は歌わないのー?」

 

 ○○の腕を掴みながら、駄々っ子のように体を揺らす。それを受け、彼は困ったような表情になると、優しく諭し始めた。

 

「ああ、今から始めるところだよ。だから、もうちょっとだけ、待っててくれないかい?」

「うん! わたし、お兄さんの歌が好きだから、すっごく楽しみ!」

 

 ○○が答えると、少女はパッと顔を輝かせて、元気よくうなずいた。

 

「……んっ」

 

 リリカは、そんな二人の様子を、黙って見つめていた。そして、自分の中に、黒々とした何かが生まれるのを感じる。

 それは、今まで感じたことのない、不快なもの。

 ハエや蚊が耳元を飛んでいるような音。黒板を爪で引っかくような音。そんな耐え難い音色が、頭の中に響いて、脳を揺らしている。

 

 どうしてこんなに苛立っているのかは、リリカ自身もわからない。気分良く○○と話していたところを、邪魔されたせいなのか、それとも彼が、自分以外の女と話しているのが、気に食わなかったのか。

 どちらにせよ、リリカは目の前の少女に対して、良い印象を持っていなかった。

 

「まだかな、まだかなぁ〜」

「おいおい、そう急かさないでくれよなぁ」

 

 ○○は、ギターをケースから取り出すと、軽く弦を弾いて、音を確かめ始めた。

 その隣で、先ほどの少女が、無邪気な笑みを絶えず浮かべており、今か今かと彼の姿を見つめている。

 

「……なによぅ」

 

 唐突に蚊帳の外へ追いやられたリリカは、不満げに頬を膨らませる。

 せっかく彼と楽しい時間を、過ごしていたというのに、水を差されてしまったことが、面白くなかったのだ。それを自覚するには、十分だった。しかも、割り込んできたのは、自分と同じくらいの歳頃の、女である。

 

 文句の一つは言いたかったが、脈絡がなさすぎるため、リリカは言葉を飲み込んだ。少女は別に、悪いことをしているわけではない。

 それに、○○にとってリリカは、観客の一人でしかない。昨日出会ったばかりなのだから、当然だろう。

 自分は、特別な存在などではない。そして、彼の音は、一人だけのものでは、ないのだ。

 

「よし、準備完了だ。それじゃあ、始めようか!」

「やったー!」

 

 やがて試奏が終わり、○○は少女に向かって微笑む。少女も歓喜の声を上げ、存分に感情を表現した。

 

「リリカも、待たせたな」

「——も」

「うん?」

「……ううん、何でもないわ。それより、早く聞かせて?」

 

 ○○は首を傾げるが、リリカは誤魔化すように言う。彼は不思議そうな顔になりながらも、ギターを構えて、演奏を始めた。

 

 リリカは、静かに息を飲んで、居住まいを正した。

 あれほど褒めてくれたのに、彼の中では、自分の存在は、二の次なのだろうか。そんな考えが頭を過ぎるが、今はそんなことを、考えるべき時じゃない。

 

 ○○の演奏に集中するんだ。

 リリカは、そう自分に言い聞かせると、彼の音に意識を向ける。彼の奏でる旋律は、やはり新鮮で心地よいものだった。まるで、春風のように暖かく、優しい音色だ。

 リリカは、その調べに身を預けるようにして、目を閉じる。彼の音が、全身に染み渡っていくようで、とても気持ちいい。隙間の空いていた心が、満たされていくような感覚。特に、彼の声が合わさることで、より一層の輝きを、放っている気がする。

 この時間が、永遠に続けば良いのにと、リリカはそう思った。

 

 だが現実は、無情にも過ぎ去ってしまうものだ。あっという間に彼は、最後の一小節を、演奏し終えてしまった。

 途端に、周囲から拍手が起こり、感嘆の声も上がる。

 

 リリカはハッと我に返った。どうやら演奏が終わったことに気付かず、惚けていたらしい。

慌てて周りを見回すと、いつの間にか人だかりができていて、皆一様に彼の演奏を賞賛して、盛り上がっているところだった。

 

「どうも! まだ続けていきますよ!」

 

 ○○は照れ臭そうに、はにかみながら、再びギターを構える。すると周囲の歓声は、さらに大きくなり、熱を帯びたものへと変わっていった。

 

 リリカは、○○の後ろ姿を見つめる。人だかりの中でも、やはり彼だけは、目立って見えた。

 ○○が弾く曲は、次々と移り変わり、様々なジャンルの曲を、披露していった。どれもリリカが初めて聞くようなものばかりで、その全てが素晴らしいと思えた。

 

「——ありがとうございました!」

 

 気づけば、彼は全ての曲を、弾き終わっていた。締めの口上と共に、観客全員から、拍手が巻き起こり、リリカも無意識のうちに、手を叩いていた。

 

「——さて、どうだったかな?」

「あっ、そ、そうねぇ……」

 

 観客が散って行き、辺りに静寂が訪れたところで、○○は振り返って、リリカを見た。

 リリカは一瞬、言葉に詰まってしまった。正直、演奏に夢中になっていて、途中から何も覚えていないのだ。

 しかし、何か言わなければ、彼に申し訳がない。必死になって、言葉を紡ぎ出した。

 

「前よりは、良かったかも……」

「そうか、満足いったか!」

「えっと、満点じゃなくって! ……やっぱり少し物足りない、かな」

 

 リリカは素直になれずに、そんなことを言ってしまう。

 本当は、彼の演奏に、満点を付けたいくらいだったが、ここで認めてしまうと、彼との接点が、なくなってしまうような気がしたからだ。

 批評を求めてくれる間は、彼と繋がっていられるかもしれない。彼の特別で、いられるかもしれない。

 だからリリカは、あえて厳しい意見を口にした。少しでも長く、彼と関わり続けるために。

 

「まじかぁ。リリカは、手厳しいな……。でも、前より楽しんでくれたなら、それでもいいか!」

 

 ○○は、少しだけ困った顔をしたが、すぐに笑顔になると、リリカの言葉を受け止めてくれた。

 いち少女の個人的な意見にも、真摯に向き合ってくれる。そんな彼の姿勢を、リリカは好ましく思っていた。

 

「よかったら、どこが悪いとか、教えてくれないか? 次までには、改善しておくからさ」

「ん? ……んんー」

 

 彼は、期待を込めた眼差しを向けてくる。そう言われても、思い当たる改善点はない。

 ○○の演奏は、とても心地よく耳に響いてきていたし、彼の音楽に対する情熱が、存分に伝わっていた。だから、悪いところなんてない。

 リリカは、そう言いたかったが、それを口に出すことはできない。褒め称えることは、先ほどの言動と、矛盾してしまうから。

 

「……あー、なんか、寂しい感じなのよ。そう、音の厚みが、足りてないというか……」

「はあ、なるほどね……」

 

 リリカは苦し紛れに、思いついたことを口にした。

 その意見を受けた○○は、顎に手を当てて、考える仕草を見せる。それから、しばらくすると、リリカに向かって、口を開いた。

 

「……でも、どうにもならないなぁ。ギターと声だけじゃあ、限界があるし」

「そ、そうよね。変な指摘しちゃったかしら」

「ああいや、そんなことはないよ。俺の曲って、元々は打ち込みで作ったやつだからさ。それを編曲なしに、生で演奏してるから、どうしても不自然になるんだよな。だから、リリカが言ってることも、正しいと思うよ」

 

 リリカは、自分の言ったことが、否定されなかったことに安堵しつつ、同時に、彼の言葉の意味が理解できずに、首を傾げた。

 

「打ち込みって?」

「えっと、機械の音で、曲を作ってるんだ。パソコンと音源があれば、できるんだけど。でも、ここにあるはずないしなぁ……」

 

 リリカは、彼が何を言っているのか、分からなかった。だが、彼もまた、同じように困惑していることは分かった。

 ○○は、リリカの疑問に答えようと、説明を続けようとする。

 

「ううん、つまり……って、そうだ! リリカは、シンセを持ってるじゃないか! それがあれば、いけるかもしれないぞ!」

 

 途中、彼は良い考えを思い付いたように、表情を明るくして、顔を上げた。リリカは、彼の勢いに押されながらも、なんとか声を出す。

 

「た、確かに、私が使うのは、そうだけど……。でも、人間には、扱えないものだから」

「……人間にはって、えっ? もしかしてリリカは、人間じゃないのか?」

「あっ……。そ、そうなの。隠してるつもりは、なかったんだけど……。あの、ごめんなさい……」

 

 リリカは俯くと、申し訳なさそうに、体を小さくした。本当に言い出す機会がなかっただけで、そこに悪意はない。

 今のリリカの姿は、服装からして人間にしか見えず、思考や仕草も、人間のそれと変わらない。だから○○は、勘違いしてしまったのだろう。

 

「ああっ、謝らなくてもいいから! この世界には、妖怪が居るのが、当たり前なんだろ? 俺、差別とか嫌いだからさ。全然気にしないって!」

 

 ○○は、慌てた様子で言う。リリカが人間ではないという事実に、驚いたものの、嫌悪感などは一切抱いていないようだった。むしろ、リリカのことを心配するように、眉根を寄せている。

 

 そんな彼の様子を見ると、リリカは嬉しく思うと同時に、申し訳なく思ってしまう。

 自分のせいで、彼に気を遣わせてしまったのだ。早く何か言わなければと、焦りを覚えてしまう。しかし、唇が震えるばかりで、声を出すこともできない。

 

 そんななか、○○は急に真剣な面持ちになった。前屈みになり、リリカに目線を合わせて、口を開く。

 

「……なあ、リリカ。もしよかったら、俺とバンドを組んでくれないか?」

「……え?」

 

 ○○の突然の提案に、リリカは思わず固まってしまう。そんな彼女の様子を気にすることなく、彼はさらに話を続けた。

 

「今の俺の音楽に、リリカの音楽が加われば、もっと良いものになるはずだ。大勢の人たちを、楽しませることが、できるかもしれない。それにリリカも、満足のいく曲を聞ける。だから、どうかな?」

 

 ○○は、熱っぽく語りながら、両手を力強く握っている。

 彼の熱意が、リリカの心に響いてくる。彼の音楽は、人を惹きつける力を持っていて、その力が今、リリカに向けられていた。

 ○○に求められている。必要としてくれている。それはリリカにとって、何よりも嬉しいことだった。感じれば感じるほどに、胸は高鳴り、頬は紅潮していく。

 やがてリリカは、意を決したように、ゆっくりと口を開いた。

 

「……うん。私で良ければ、喜んで」

 

 リリカは、○○の目を見つめながら、微笑んだ。

 現在、プリズムリバー楽団は、活動休止中であり、リリカが彼と共に活動することには、なんの支障もない。リリカ自身、好意を抱いている彼の誘いを、断る理由もなかった。

 

「そ、そうか、そうかっ! ありがとう、リリカ! よぅし! これで、演奏の幅が広がるぞー! 今より良い音楽を、みんなに届けることができるぞー!」

 

 返事を聞いた○○は、上機嫌に叫ぶ。道行く人々も、彼の声に釣られて、そちらに視線を向けた。だが、彼は周囲のことなど、お構いなしといった様子だ。

 そんな○○を見て、リリカは苦笑いするしかなかった。そして、はっきりと実感してしまう。○○と一緒に演奏できるという喜びが、自分の心を満たしていることを。

 

 それからリリカは、○○と日が暮れるまで語り合い、これからの方針を定めていった。○○は、しばらく譜面作りに、時間を使うということになり、彼と後日改めて会う約束をして、名残惜しみながら別れた。

 

 

 廃洋館に帰ってきたリリカは、自室に入るなり、部屋の照明を灯して、ベッドの上に腰掛ける。彼と別れたというのに、全身に広がる高揚感が、おさまらない。ふわふわと宙に浮いて、地に足がつかないような感覚だった。

 ふと、壁際に置いてある姿見に、目を向けてみると、そこには、ニヤけ顔の少女が映っていた。

 

「あわわっ!」

 

 リリカは、慌てて表情を引き締めようとするが、上手くいかない。ますます口角が上がり、目が細まっていく。

 そして、どこか既視感を覚える光景だと思い至った瞬間、リリカは唐突に、理解してしまった。

 

「……姉さんたちと、同じだわ」

 

 今のリリカの表情は、恋煩いをしている時の姉たちと、同じなのだ。

 浮かれていて、緩みきっていて、締まりのない顔。それでも、とても幸せそうに見える表情。

 

 リリカは恥ずかしくなって、鏡から顔を背けた。だが、どうしても気になって仕方がない。恐る恐る、もう一度だけ、ちらりと横目で、確認してみる。

 やはり、そこに映るのは、先ほどと変わらない、幸せそうな少女だった。

 

「……そっか。そうなんだ。これが、恋なんだ。自分でも、どうしようもなくなるような、この気持ちが、恋……。男の人を、好きになる、なってしまう、これが、恋。私は○○を好きになって、○○に恋をしたんだわ……」

 

 リリカは、ぽつりと呟く。初めて経験した感情を噛みしめるように、何度も何度も繰り返す。すると不思議なことに、心のざわめきは、次第に落ち着いていった。

 ひとたび認めてしまえば、なんてことはない。今まで悩んでいたことが、馬鹿らしく思えてくる。姉の背中を見てきたからこそ、リリカにはよく分かった。

 

「なるほどなぁ。これは姉さんたちも、夢中になっちゃうわけね」

 

 リリカは大きく息を吐き、ベッドに身を沈めていく。天井を眺めながら、ぼんやりと○○のことを、思い浮かべた。

 

「○○……」

 

 彼が好きだ。一緒に居たい。彼の音楽が好き。彼の優しいところが好き。彼の全てが、好きでたまらない。彼に求められたい。彼のために尽くしたい。彼の笑顔が、頭から離れない。ずっと見ていたくなる。彼の音を、聞きたくなってしまう。彼の声を、聞きたくなってしまう。

 

「……うん?」

 

 しばらく妄想していたリリカだったが、不意に下腹部への違和感をおぼえて、声を漏らした。その正体を確かめるべく、彼女は、ゆっくりと股の方に、手を伸ばした。

 

「えっ、なに?」

 

 下着越しに触れてみれば、そこは湿りを帯びていた。

 漏らしたおぼえはないのに、どうしてだろう。そう不思議に思いながらも、リリカは下着の中へと手を入れた。

 

「んん〜?」

 

 ぬるっとした感触と共に、指先に何かが触れる。それが何なのか確かめようと、リリカはさらに奥へ指を進めた。やがて、小さな突起物に、辿り着く。

 

「あうっ……!」

 

 それに指が触れると、リリカは悲鳴に似た声をあげて、身体を震わせた。固く、熱を帯びたそれに触れた途端、痺れるような感覚が、全身を駆け巡っていったのだ。

 リリカは、慌てた様子で手を引き抜き、荒くなった呼吸を整える。しかし彼女の身体は、火照ったままで、落ち着かない。

 

「はあ……。なんだか、あついわ……」

 

 リリカは困惑しながらも、下着を濡らしたものの正体を確かめるべく、そこに触れた手を、目の前にかざす。

 

「……なに、これ」

 

 指先には、粘ついた透明な液体が、付着していた。ぬるぬると糸を引いており、さらに照明を受けて、光り輝いている。

 恐る恐る鼻に近づけてみると、独特の匂いが漂ってきた。汚いというより、むしろ尊いもののように思えるのが、妙である。

 

 こんなものは知らない。いったい、自分の身に、何が起きているのか。リリカは、ただ呆然とするしかなかった。

 こういう時に頼りになる姉たちには、今は相談しにいけない。

 長女のルナサは、定期公演を終えた後、あの男の人と共に、部屋に閉じこもったままだ。次女のメルランも、あれ以来、姿を見ていない。

 

「うーん」

 

 とりあえず、病気でもなさそうなので、不安な感情は消えていった。しかし、なぜ急に、このような現象が起きたのかという疑問は残る。

 

「……ああ」

 

 そこでリリカは、ふと気付いた。○○のことを考えたから、このようになってしまったのではないかと。

 試しに、もう一度だけ、頭に思い浮かべてみると、また先程の状態に戻ってしまった。下腹部の奥が疼き、熱を持った何かが、湧き上がってくる。

 リリカは、再び下着の中に手を入れ、先ほどと同じように、指先で突起物に触れた。今度は少し力を入れて、ぎゅっと摘んでみる。

 

「ぎっ……ぃ……!」

 

 すると、今まで感じたことのない強烈な快感が、リリカを襲った。頭の中で何かが弾けて、視界がしきりに点滅する。腰が細かく痙攣してしまい、背を弓なりに反らせた。

 

「ぐっ、うううぅ……!」

 

 リリカは、必死に歯を食い縛り、声を抑えようとする。だが、どうしても漏れてしまう。それでも、彼女は構わず続けた。

 もう止まらない。止められない。○○のことを考える度に、この症状は悪化していくばかり。いや、悪いものでは、断じてないのだが、そんなことはどうだっていい。今は、この尊い感覚に、浸っていたかった。

 

「——はあ! はあっ! はあぁ……!」

 

 どのくらい時間が経っただろうか。

 リリカは息を切らして、天井を見上げていた。身体中汗まみれで、服が肌に張り付いており、身を預けているベッドも、よくわからない体液で汚れてしまっていた。

 扉や窓が閉め切られた部屋には、湿った空気が充満していて、少し蒸し暑い。しかし、不快ではなかった。むしろ、心地良いとさえ感じる。

 着替えや湯浴みをしないといけないのは、分かっているものの、動く気にはなれなかった。まだ全身に、甘い余韻が残っているからだ。

 

「……はあ」

 

 ○○を想っての行為は、とても気持ちが良いものだった。リリカは、心の底から、幸せを感じていた。こんなにも満たされたのは、騒霊として生まれてから、初めてかもしれない。そう思うほどに。

 しかし、それは完全ではなく、心を満たしていたものは、時間の経過と共に、少しずつ漏れ出していく。

 そして、最後には、ぽっかりと穴が空いてしまったように、虚しさが残った。

 

「……○○、○○、○○、○——」

 

 リリカは、○○の名を、何度も呟いた。自分では、一人では、埋められなかった空白を、満たすために。彼を求めて、名前を紡いだ。

 

「……好き。○○、好き……。好きぃ……!」

 

 溢れ出る何かを堰き止めるには、心の穴を埋めるには、○○が必要なのだ。○○だけが、リリカの存在を、肯定してくれる。○○がいなければ、自分は薄れてしまう。確信を抱けるほどの想いが、そこにはあった。

 しかし、好きだけでは、物足りなく感じ始めていた。もっと欲しい。もっともっと強くて、深い繋がりが欲しい。リリカの心は、その先を求めていた。

 

「恋……? これは、本当に恋なの? 人を好きになるのが、恋なんだよね? でも、私の想いは、恋よりも、もっと深くて、重くて、それ以上の何か。でも、私が、○○を好きなのは、本当で。じゃあ、やっぱり恋なのかな……。ううぅ……。わ、わからない。リリカには、わからないよぅ……。助けて、○○……。○○、○○……! リリカは、あなたが好き、大好きなのぉ……! 大好き、大好きぃ! 大好き○○っ! ○○っ……! 大好きだからぁっ!」

 

 

 ○○を求めるリリカの声は、次第に大きくなっていく。それでも、誰もそれに気付かない。

 かつて共にいた姉たちも、それぞれが何かの虜となっており、リリカを見ていない。

 

 リリカの、際限なく膨らむ何かを、止められる者はいない。そして、それを受け入れられるのは、ただ一人しかいないのだろう。



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リリカ後編

 

 それからというもの、リリカは○○への異常な恋心を自覚したはいいが、その想いを口にすることは、できなかった。

 なぜなら、いざ告白しようとして、彼の前に立つと、全身が震えるほど緊張してしまい、上手く喋れなくなるからだ。

 一人でいる時は、声を大にして言葉にできるのに、彼に伝えようとすると、どうしても口ごもってしまう。

 

 以前、そんな状態になっていたルナサを、からかったことがある。音色で伝えるのではなくて、直接言えばいいのにと、そう思っていた。

 普段のルナサは、冷静沈着で、表情の変化が少ない。良く言えば、真面目な性格。悪く言うと、暗い性格だ。

 そんな彼女が、顔を赤くして慌てる様子は、リリカにとって愉快なものだった。

 

 しかし今なら、姉の気持ちが、よく分かる。好きな人に告白するというのは、想像以上に大変なことなのだと。ましてや、相手は人間であり、自分たちと、異なる種族だ。

 

 ○○とは、あれから何度も会っているが、未だに慣れない。会話をするだけで、精一杯だ。

 前にメルランが、恋人の男とくっついているのを見たことがあるが、あんな風に振る舞える自信はない。今でも手を握るだけで、動悸が激しくなり、まともに顔を見ることすら、できなくなる。

 こんな状態では、○○に自分の気持ちを伝えることなど、到底無理だった。

 

 だが、このままではいけないことも、理解している。自分のことを見てほしい。○○の一番になりたい。○○に愛されたい。それが、リリカの望みだった。

 

 唯一、○○と合奏している間だけは、素直になれる。ギターを奏でる彼の背中に向けて、好きだよ、と囁くことができた。

 もちろん、そんなことで満足できるはずもなく、○○と別れた後は、自宅に戻ってからも、悶々としてしまう。

 

 そして、満たされない心を慰めるように、リリカは○○を想って、自慰に耽る。

 誰から教えられたわけでもないが、リリカは理解していた。体を触って、弄って、気持ち良くなれば、いくらかは心が落ち着くということを。

 しかし、行為が終わった時には、決まって虚しさが残る。それから、○○への想いは、募っていく一方だ。

 

 恋とは、一種の病気だと、リリカは思う。

 罹ってしまったら最後、治ることなどあり得ない。たとえ想いが成就しても、さらに昇華して、重く、暗い、湿った感情になるだけだ。

 そして、想いが挫折してしまえば——もう、どうしようもない。

 

 リリカは、自分がそうなってしまうことが怖くて、恐ろしくて、たまらなかった。

 気持ち良く、幸せだとしても、裏を返せば、それだけ苦しいということ。

 二人の姉は、よくこんな気持ちに、耐えられるものだ。どうすれば想い人に振り向いてもらえるか、相談したいところだったが、それもできない。

 

 友人もいないリリカにとって、この苦しみを打ち明けることができるのは、姉妹であり、同じ騒霊である二人だけだった。

 しかし彼女たちは、それぞれの恋人に首ったけ。リリカの話を聞く余裕は、ないだろう。

 だから、リリカの、○○への好意は、歪な形で発露される。

 

 

 

 ある日の昼下がり。リリカは、いつものように、人里に向かって飛んでいた。

 今日は○○が、新曲の譜面を見せてくれる予定で、その期待感が胸に渦巻いている。なので、普段より体が軽く感じられ、空を進む速度も、心なしか速い。

 頬が緩みそうになるのを抑えながら、彼女は目的地へと急いだ。

 

 ○○とは、友達以上恋人未満の関係が続いており、リリカは彼に好意を抱いているものの、なかなか進展がない。彼には、あくまでバンドを組む上での相棒、といった感じで、恋愛対象として見られていないようなのだ。

 ○○に恋人がいないことは、日常会話の中で、さりげなく確認していた。しかし、観客の女性たちの中には、明らかに彼を意識している者がいる。

 路上ライブが終わったあと、○○と談笑する彼女らを見て、嫉妬に駆られたりもした。

 

 この嫉妬という感情。これが厄介なのだと、リリカは思う。とりわけ恋愛において、それは顕著に現れる。

 純粋に○○の恋人になりたいと願いながらも、彼が他の女性と仲良くしているのを見ると、醜い感情を抱いてしまうのだ。

 

 自分だけを見てほしい。自分だけに優しくしてほしい。自分だけのものになってほしい。そんな独占欲が湧き上がり、どうにかして彼を振り向かせようと、躍起になってしまう。

 しかし、手立てといえば、リリカには音楽しか思いつかない。異性を魅了する手段など、他に知らないのだ。

 奇しくも、姉のルナサと同じ悩みを、抱えることになってしまった。

 

 幸いなことに、○○は音楽好きで、リリカの能力を評価してくれていた。そして彼の作る曲を、最大限に活かせるのは、あらゆる音色を奏でられるリリカしかいないのだ。

 その点に気付いてからは、ある程度自信を持つことができた。他の女よりも、自分は○○に近い存在なのだと。唯一無二の立ち位置にいると。

 

 そう自分に言い聞かせることで、いくらかは嫉妬や不安が軽減され、○○と過ごす時間を楽しむことができるようになった。

 とはいえ、○○を独占したいという気持ちは変わらない。いつか彼と結ばれることを、願ってやまなかった。

 

「早すぎちゃったかな……?」

 

 人里での待ち合わせ場所に降り立ったリリカは、周囲をまんべんなく見回した。しかし○○の姿は、まだない。

 ここは、○○と初めて出会った場所で、リリカにとっても、特別な思い入れのある所だった。

 

 リリカは、近くを流れる川のほとりに腰掛けて、○○を待つことにした。

 水面に映る自分の姿を眺めると、薄い色調の茶髪が目に入る。前髪をいじったり、指先で摘んでみたりした。

 最近、艶が出てきたと感じるのは、気のせいだろうか。肌も以前より、ずっと綺麗になったような。

 

 最近見た姉たちの顔が、ふと脳裏をよぎる。二人は、恋をしたことによって、より美しく、輝いて見えた。

 つまり、○○のおかげで、自分も変われたということだろう。ならば、もっと可愛く、美しく、綺麗になりたい。○○が見惚れてしまうくらいの、魅力的な女の子に。

 

「——んん?」

 

 約束の時刻を過ぎても、一向に現れる気配のない○○に対して、リリカは疑念を抱いた。

 彼は今まで、遅れるようなことは一度もなかったはずだ。もしかしたら、自分が日付を間違えたのだろうか。それとも、何か事故に遭ってしまったのか。

 

 そわそわして落ち着かないリリカは、立ち上がって辺りを見まわしたり、深呼吸をしたりして、なんとか心を鎮めようとした。

 そして、飛んで上空から探してみようかと考えたその時。遠くから、○○の声が聞こえてきた。

 

「おー! リリカ! こっちだっ!」

 

 リリカは声の方向に視線を向けると、こちらに向かって走ってくる○○の姿を捉えた。

 彼を見つけることができ、安堵の息を漏らすと同時に、ある違和感を覚える。

 

「いやぁ、待たせて悪かったな!」

「ううん、大丈夫よ。それより……」

「ああ、これなぁ」

 

 リリカの前までやってきた○○は、自身の目にかかっていた前髪を横に流し、申し訳なさそうな表情を浮かべながら言った。それから、右手を顔の前にかざす。

 彼の右手には、包帯が巻かれており、怪我をしているのだと見て取れた。

 

「どうしたの、いったい……」

「んー、俺の不注意というか。少し前、待ち合わせ場所に行こうとして、家を出たら、玄関前に封筒が落ちててな。俺の名前が書いてあったから、拾ったんだよ。それで、中を見ようと封を切ったら、手紙と一緒に、カミソリが入っててさ。思いっきり手を切ってしまったんだ。それから医者に診てもらって、傷口を縫ってもらっていたら、こんなに遅れちゃって……。ほんと、間抜けだよなぁ。あはは……」

 

 ○○は、笑い話のように語っていたが、リリカにとっては、とても笑えるような状況ではなかった。

 右手は、彼の利き手である。演奏をする上でも、日常生活を送る上でも、欠かせない重要な部位なのだ。

 そこを怪我したとなれば、日常生活に支障が出ることは必至で、演奏も難しくなるかもしれない。

 ○○とリリカを繋いでいるのは、音楽だ。だから、怪我が治るまで、○○と一緒にいられなくなる可能性も、十分に考えられる。

 

 それに、封筒に彼の名前が書かれていたということは、差出人は間違いなく○○を狙っていたはずであり、その人物が再び行動して、どんな状況になるのか、想像がつかない。

 次は、手の怪我だけでは、済まないかもしれないのだ。

 

「……その、封筒に入っていた手紙には、なんて?」

「ん? ……ああ、大したことは、書かれていなかったよ。だから、リリカは気にしなくていいって」

 

 ○○はそう言って、リリカを安心させるように、微笑んで見せた。だが、リリカの胸中は、穏やかではない。

 

「それより、ほら! 新曲の譜面だ! 今回は、発狂ピアノのパートを長くしたから、負担がかかって大変だと思うけど、リリカなら、やれるだろ?」

 

 ○○はそう言うと、手に持っていた楽譜を差し出した。それを受け取ったリリカだったが、目を通そうとしない。

 

「……どうした? いつもなら、はしゃぎながら、すぐに読むじゃないか」

 

 リリカは俯いて、黙りこくっている。彼女の心の中では、様々な感情が入り乱れていた。

 ○○が心配でたまらない。早く怪我が治ってほしい。一緒にいられる時間が減ってしまう。○○の音を聞けなくなってしまう。

 そして何よりも、この状況を作り出した元凶への、激しい怒りが湧き上がっていた。

 そんなリリカの様子を見て、察するものがあったのか、○○は穏やかな口調で言う。

 

「そんな顔するなって。リリカは、笑顔でいる方が、可愛いんだからさ」

 

 リリカは、その言葉を聞いて、思わず顔を上げた。○○の顔を見ると、彼は変わらず、優しい笑顔を浮かべている。

 

「今の顔じゃあ、楽しい演奏もできないぞ。ほら、笑って笑って!」

 

 ○○は、そう言いながら、リリカの頬を、指先でつっついた。リリカは、一瞬だけムッとした顔をしたが、すぐに表情を和らげる。

 それから、ゆっくりと口角を上げて、目尻を下げた。○○が可愛いと言ってくれた、とびきりの笑顔を、見せるために。

 

「よーし、合格!」

 

 ○○は満足げに言った。

 リリカは、彼の反応に嬉しく思う反面、少し照れ臭くも感じる。やっぱり、○○のことが好きだ。改めて、強く実感することができた。

 

 だからこそ彼を、危険な目に遭わせるわけにはいかない。これ以上、彼に危害を加えさせるものか。誰だか知らないが、必ず見つけ出して、報いを受けさせてやる。

 ○○の、音楽家にとって大切な手を、安易に傷つけた罪は重い。絶対に、許されない。

 リリカが決意を新たにしていると、○○が声をかけてきた。

 

「それと、しばらくは、ライブができないから、一旦活動休止ってことにしよう。二週間は安静にしてろって、医者に言われたからな。まあ、それまでお互い、自由に過ごすとするか」

「……わかったわ。でも、あんまり外を出歩かないでね。いつどこで狙われるか、わからないんだから……」

「心配性だなぁ、リリカは。ただの悪戯だって」

 

 リリカは、○○の右手に巻かれた包帯を見つめながら言った。しかし、○○は軽く笑い飛ばすだけだ。

 あまりにも楽観的な彼の態度に、リリカは苛立ちを覚える。自分は○○以上に、不安を感じているというのに。

 活動休止は、致し方ないにしても、彼は危機感がなさ過ぎる。もっと真剣に、自身の安全を考えてほしいものだ。○○の体は、○○だけのものでは、ないのだから。

 

「とりあえず、今日はこれで帰るよ。なんか体調が悪くてさ。麻酔用の、変な匂いのお香を、嗅がされたせいかなぁ……」

 

 ○○は、左手で鼻を押さえて、わざとらしく嫌そうな顔をしてみせた。

 

「……うん。気をつけて、帰ってね。それから、ゆっくり休んで、早く治してね」

「ああ。二週間後の、いつもの時間に、またここに集合しよう。じゃあな!」

 

 リリカは、それだけ言うと、○○の背中を見送った。

 それから、楽譜を折りたたんでしまい込み、すぐに空へと飛び上がって、彼の後を追う。

 

「私が、守ってあげなくちゃ。○○を守れるのは、私しかいないんだから……」

 

 あの様子だと○○は、自身に危険が迫っていることに、まるで警戒していないようだ。だから自分が、彼の周辺を、見張っていなければならない。

 リリカはそう考え、空から○○の後を追ったのだが、彼を襲う者は、現れなかった。さすがに連続して、事件が起こることはないらしい。

 

 彼が家に帰った後も、リリカは変わらず、空に止まっていた。だが、特に不審なものはなく、静かな時間が、過ぎていくだけだった。

 

「——おい、そんなとこで、じっとして、何やってんだ?」

 

 不意に背後から声をかけられ、リリカは驚いて振りかえる。そこには、ホウキに跨って、宙に浮かんでいる少女がいた。

 少女は、帽子から靴に至るまで、白黒のモノトーンで構成された服装をしており、その特徴的な格好は、魔法使いを連想させた。

 それに映えるような金色の髪をなびかせて、少女はリリカの側までやってくる。

 

「……誰?」

「はあ? 魔理沙だよ、霧雨魔理沙! 春雪異変と、大結界異変の二回も、私と出会っているだろ!」

 

 魔理沙と名乗った少女は、金色の大きな瞳を細めて、睨むような視線を向けた。リリカは、その目つきの悪さに、一瞬たじろいでしまう。

 

「……ったく、どいつもこいつも、妙な態度とりやがってさ。いったい私を、何だと思ってんだ」

 

 魔理沙は不満そうに呟いた。それから、リリカの方へ向き直ると、再び口を開く。

 

「で、何やってんだよ。待ち合わせか、なんかか? いつもお前と一緒にいる奴らは、いないのか?」

「……どうでもいいでしょ、そんなの。あんたには関係ないし。目障りだから、早く私の周りから消えて」

 

 リリカは、そっけなく答え、冷たく突き放すように応じた。

 

「んだよっ、感じ悪いなぁ。人がせっかく話しかけてるっていうのに……」

 

 リリカの反応に、魔理沙はますます不機嫌になる。

 しかし、リリカは意に介さず、それ以降も沈黙を続けた。今は、こんな女と話している場合ではないのだ。○○を守るためには、一瞬たりとも油断できない。

 リリカの頭の中には、○○のことしかなかった。それゆえに、彼女の耳には、もう何も聞こえてはいない。隣にいる女のことなど、眼中になかった。

 

「……わーったよ! 消えりゃあいんだろっ!?」

 

 やがて魔理沙は、そう吐き捨てるように言うと、勢いよく飛び去っていった。

 リリカは、風によって乱れた髪を整えながらも、○○の家をじっと見つめていた。

 陽が沈み、幻想郷に夜が訪れても、リリカはその場に留まり続けた。

 

 時折、地上に降り立ち、壁越しに家の中の様子を確認していたが、特に変わった様子はない。

 彼の家は、小ぢんまりとした木造の長屋で、寄って見ると、所々から隙間が見え隠れしている。壁も薄く、あまり良い環境ではないようだ。

 

「あ〜、不便だ。恋人の右手ちゃんが、この有り様じゃなぁ……」

 

 そんなことをぼやく○○の声が、外からでも、はっきりと聞こえるくらいだった。しかし、右手が恋人とは、どういった意味なのだろうか。

 そんな疑問が浮かんだりもしたが、リリカは○○の安否が確認できただけで満足し、彼の家に背を向けると、また空高く舞い上がっていく。

 

 そのまま夜通しで見張り続け、陽が昇り始めた頃、異変は起こった。

 

「あれは……」

 

 ○○の家に近づく人影を認め、リリカは急降下して、地面に降り立つ。それから、物陰に身を隠すようにして、こっそりとその人物を覗き見た。

 

 それは、背の低い小太りの、人間の男であった。

 男は、○○の家に近づいて行くと、懐から何かを取り出して、玄関の前に置いた。そして、用は済んだとばかりに、足早に立ち去って行った。

 リリカは、その姿を目で追いつつ、男が置いたものを確認しに、その場へ向かう。

 

「これ、○○の言ってた……」

 

 そこあったのは、手のひらほどの封筒だった。風で飛ばないよう、ご丁寧に重りを添えてある。封筒を手に取って見ると、表面には○○の名前が記されていた。

 ○○の怪我のこともあるので、慎重に封を開け、中身を確認する。中には、手紙が一枚だけ入っていた。

 その内容は、こうである。

 

『昨日、警告してやったのに、またリリカと会っていたな。それに、汚い手で、リリカに触りやがって。ずっと見ていたんだぞ。リリカは、僕のものだ。お前みたいな奴が、リリカに近寄ろうとするんじゃない。次、会ったりしたら、手の怪我だけじゃ、すまさないからな。これは、最終通告だ。足りない頭でも、この意味を理解しろ』

 

 リリカは、その文章を読んで、怒りに打ち震えた。下手人は、○○を狙っていたのではなく、自分を狙っていた過程で、○○を巻き込んだのだと、悟ったからだ。

 自分に付き纏っていた人間がいるとは、露ほどにも思っていなかったリリカにとって、まさに寝耳に水の出来事。

 自分が早く気付いていれば、こんなことには、ならなかったかもしれない。そう思うと、悔しくてならなかった。

 

「ゆ、許さない……!」

 

 同時にリリカは、下手人に対する、激しい憎悪を覚えた。そして、その感情のままに、行動を開始する。

 

 手紙を破り捨てると、空に飛び上がって、男の去っていった方角を見据える。男は、まだ付近を歩いており、見失う心配はなかった。

 リリカは、男の背中めがけて、一直線に飛んでいき、上半身に体当たりをする。

 

「おぅふっ!」

 

 男は、前のめりに倒れ込むと、顔を地面に打ち付けた。リリカは、倒れた男の足を掴んで、再び空へ飛び上がる。

 

「あふぁ……!」

 

 唐突に身体を持ち上げられた男は、情けない声を上げた。しかしリリカは、そんなことは気にせず、男を逆さにしたまま、人里から離れた場所まで運んでいった。

 

 やがて、霧の湖に辿り着く。人里以外なら、どこでもよかったのだが、意図せず来てしまった。

 リリカは、湖の畔に着地すると、そこでようやく男を解放する。

 

「おっべぇ……!」

 

 投げ捨てられた男は、顔面を押さえながら、地面の上を転げ回った。

 リリカは、それを冷めた眼差しで眺めていたが、やがて男に歩み寄り、胸ぐらを掴んで引き寄せる。

 

「……あ、あ、あっ、リ、リリカ……。リリカたんだぁ!」

「うぇ!?」

 

 男は、恐怖した表情を浮かべたが、見る見るうちに、下品な笑みへと変わっていった。それから、低く濁った気色の悪い声で、そう呟くと、リリカの頬に手を伸ばそうとしてくる。

 その動作を見たリリカは、慌てて掴んでいた手を離した。

 

「こ、こんなに近くで見たのは、初めてだよぉ……。やっぱり可愛いですなぁ、リリカたんは……。 はあ、はあっ……」

 

 リリカは後退りしながら、汚物を見るような目で、男を見た。実際、気持ち悪いのだから、仕方がない。

 鼻息を荒くし始めた男は、状況を確かめるように、辺りを見回し始める。それから、リリカの顔に視線を移すと、目を輝かせた。

 

「ひ、人気のない場所まで、僕を連れてきたってことは、ぼ、僕の想いを、知ってくれたんだよね? 僕だけのものに、なってくれるんだよねっ?」

 

 嬉しそうにしている男に対して、リリカは嫌悪感でいっぱいになっていた

 この男は、何か勘違いをしている。あの手紙の文言からして、自分に好意を向けているのは、間違いない。しかし自分は、男のことを、何一つ知らないのだ。

 それなのに、どうして男のものに、なれるというのか。そもそも、○○以外の男など、全く興味がないわけで。

 

「ふひひひっ……。幻想郷に来てから、ずっとリリカたん推しをしていた甲斐があったよ……。僕の方が、早くに追っかけしていたのに、あの忌々しい男と、バンドを組んじゃうなんて……。でも、ようやく、僕たちは、両想いに、なれたんだねぇ……。さあ、リリカたん、僕の胸に、飛び込んでおいでぇ……!」

 

 男は、気味悪く笑いながら、一歩ずつ近づいてくる。一面油まみれで、ニキビがある顔を歪ませている姿は、ガマガエルを連想させた。

 丁度、霧の湖にも生息しており、よく妖精たちが捕まえて遊んでいるが、その見た目は、目の前の男ほど醜悪ではない。

 

 そんななか、リリカは、あることに気付いた。この男は今、幻想郷に来てから、と言った。つまり、男は外来人だということだ。

 

 本来、幻想郷において、人ならざる者が、人里の人間に危害を加えるのは、御法度だ。見つかれば、退治屋に追われてしまう。

 しかし例外はあり、それは人間が、外来人の場合である。外来人であれば、手を出しても、よほど目立たない限り、咎められることは、まずない。

 

 リリカは最初、男をある程度痛めつけたら、解放するつもりだったが、その考えを改めた。

 ○○に怪我を負わせた男に、生きる価値はない。もう、この場で始末してしまっても、問題はないだろう。

 

「そんなに私が好きなら、私の音も、受け入れてもらうわ——」

 

 リリカは、おもむろにキーボードの霊を具現させて、鍵盤を叩き始める。

 濃厚な霧に覆われた湖に、リリカの幻想の音が響き渡った。静寂を切り裂き、荒波を立てるように。

 

「ふおおっ!? リリカたんのソロライブ! 僕だけのために、演奏してくれるなんて……!」

 

 男は、歓喜の声を上げ、身体を震わせる。リリカの音を、全身で感じ取っているようだった。

 

 その様子を見て、リリカはさらに激しく、鍵盤を打ち鳴らす。リリカの感情の高まりに合わせて、幻想の音も激しさを増していく。もはや躁も鬱も超える、狂想曲と化していた。

 

 リリカが奏でる音色は、彼女の姉たちと比べたら、何の特徴もないものだ。外の世界で忘れ去られた幻想の音とはいえ、幻想郷では珍しくもなくなる、無個性な音。

 

 しかし、それゆえに、あらゆる音に合わせることができる万能性を持つ。

 色に例えれば無色、あるいは白色で、リリカのさじ加減ひとつで、どんな色にも染められる。

 そして今、リリカが音色に込めているのは、男への明確な殺意。その色は、漆黒だった。

 

「……うっ? ごっ、おっ……!」

 

 男の身体が震えていたのは、感動からではない。殺意の波紋に触れたからだ。

 男は、身体の内側から湧き上がる不快感に、苛まれていた。それは全身に、くまなく浸透していき、やがて男は耐え切れずに、膝をつく。

 息ができないのか、首元を押さえて、口をパクパクと開閉させており、顔色は見る見るうちに青ざめていった。

 

「がっ……! こ、こっ……!」

 

 やがて男は、酸素を求めて、首を掻きむしり始めた。ガリガリと皮膚を引っ掻いて、血を流しながらも、男は苦しみから逃れようと必死になる。

 人間は痛みを受けた際、痛覚を緩和させるために、脳内麻薬を分泌するのだが、それが今は、逆に作用していた。

 

 男は、自分が苦しんでいる理由がわからず、ただひたすらに、苦痛から逃れるための行動を、取り続ける。爪が剥がれるような勢いで掻きむしり、やがてその先端が、首の太い血管に届いた。

 プチュッと音をたてて、大量の血液が流れ出す。しかしそれでも、男は止まらない。喉元に指先を突き刺したまま、激しく痙攣し始めた。

 

「……ごっ」

 

 そして男は、完全に動かなくなった。

 口からは、血反吐と泡を吐き出しており、瞳孔が完全に開いている。股間からは、糞尿が漏れ出し、粥の如き液体が滴っていた。

 

 リリカは、男が死んだことを確認すると、鍵盤を叩く手を止めて、ため息をついた。それから、キーボードの霊を、消滅させる。

 霧の湖に、再び静寂が訪れ、自然の声だけが響いていた。

 

「汚ったないなぁ」

 

 鼻をつく異臭と、見るも無惨になった男の姿に、リリカは顔をしかめた。

 これ以上、ここにいる意味もないので、リリカは男の死体をそのままにして、空に浮かびあがり、廃洋館へと向かう。 

 

「これで一安心、かな。でも、あんな気持ち悪い人間が、私のファンだったとはね……。私を見てくれるのは、○○だけでいいのになぁ。はあ、気分悪い……」

 

 リリカは、溜息混じりに呟くと、飛行速度を上げる。

 

「……そうだ。私のファンが、あの人間だけじゃなかったら、また○○が、危ない目にあうかも……。それに、○○にもファンがいるから、そいつらが暴走して、○○を傷つけるかもしれない……」

 

 ふと、リリカの中で、そんな不安が生まれた。可能性としては低くとも、ありえなくはない話だ。

 そして、それはいつだって、起こりうる可能性がある。例えば、こうしている今も、何者かが○○に、危害を加えているのかもしれなくて。

 

「——○○!」

 

 リリカは急停止し、進行方向を、人里の方角に切り替え、凄まじい勢いで飛び去った。

 幻想郷最速をうたう、鴉天狗のブン屋をも凌ぐ速度で、あっという間に人里へ辿り着き、○○の家の前に降り立つ。

 

「くっ、開かない……! ○○! 大丈夫なの!? ○○っ! ○○……!?」

 

 家の中に入ろうとするも、玄関の戸は鍵がかかっているのか、ビクともしない。焦燥感に駆られたリリカは、人目も気にせず、大声で○○の名前を呼んだ。

 すると家内から、慌ただしい足音が聞こえてきた。僅かに戸が揺れたあと、勢いよく引き戸が開かれる。

 

「リ、リリカじゃないか……。こんな朝っぱらから……。それに、どうして俺の家を……」

 

 困惑した表情を浮かべた○○が、リリカを見て、目を丸くさせた。

 リリカは、そんな彼の様子を確認し、胸を撫で下ろす。どうやら、危惧していたような事態には、陥っていないようだ。

 

「よかったぁ! 何ともないのね……!?」

「……ん? ああ、心配して、来てくれたのか。でも、昨日の今日だから、そんなに慌てなくても……」

「駄目よっ! いつ、誰が、どんな理由で、○○を傷付けるかわからないんだものっ! ○○の側には、私がついてないとっ!」

「お、おい、声が大きいって……」

 

 興奮気味に捲し立てるリリカに対し、○○は慌てて唇に人差し指を当てる仕草を見せた。

 しかし、リリカの耳に、彼の言葉は届いていない。おもむろに○○へと近づき、その身体を抱き締めると、頬擦りを始めた。

 

「だって、○○の身体は、私のものでもあるのよ? ○○が傷つくと、私も痛くて、苦しくなるの。……わかる? ○○なら、わかるよね?」

「ちょ、いいから離れて……!」

 

 ○○は、抵抗を試みるも、リリカを突き放すことができない。小柄な少女の身体を、どう押し退ければいいのか、わからないのだろう。

 

「……あっ、○○の胸、ドキドキって、音を鳴らしてる。私、知ってるよ? これは恋の音。好きな人ができた時に鳴る、素敵な音色……。ねえ、○○は、私に恋をしてるんでしょ? 私が側にいるから、ドキドキしてるんだよね?」

 

 リリカは背伸びをして、○○の胸に耳を当てながら、甘えるように囁いた。○○の心臓の鼓動が、早くなっているのが、存分に感じられる。

 

「そ、そんなことは……」

「ふふっ、恥ずかしがらなくてもいいよ。私も、同じ気持ちなんだから。○○のことを考えると、心と体が温かくなって、幸せな気持ちになるの。でも、私のドキドキの方が、○○よりずっと大きいんだよ?」

 

 リリカは、○○から離れた後、彼の左手を取って、自身へ引き寄せた。そのまま、自分の左胸に押し当てさせる。

 

「んっ、○○が、私に触ってくれてるぅ……。こ、これぇ、すごいよおぉ……! 胸がっ、爆発しちゃう……!」

 

 リリカは、艶めかしい吐息を漏らしながら、体を震わせた。自分自身の、異常な胸の高鳴りを実感しつつ、○○の手を握る力を強める。

 

 ○○に触れられると、自分で慰めている時よりも、遥かに強い快感を覚えるのだ。そして、頭の中に霞がかかったようになり、何も考えられなくなる。血流が加速して、意識すらも薄れていく。

 それなのに、下腹部の奥底からは、熱い疼きが込み上げてくる。リリカはもう、立っていられなくなりそうだった。

 それでも、○○の手を離さない。もっと、この幸せを、感じていたかったから。

 

「○、○○、好きぃ……。私、○○が好きなのぉ……。今まで、言い出せなかったけどぉ、私、○○のこと、大好きなのぉ……。○○のことが、頭から離れないの……。○○が、他の誰かに取られるなんて、耐えられないの。ぜったい、誰にも渡さない。私の○○、私だけの、○○なんだよ……?」

 

 リリカの口からは、自然と○○への想いが溢れ出していた。あれほど告白するのに、とまどっていたのが、今では嘘のように感じられる。

 そして以前は、手に触れるだけで精一杯だったのが、抱きしめて密着できるようにまでなっていた。

 

 だが、リリカ自身、ここまで大胆な行動に出たことに、まったく驚いていなかった。むしろ、もっと○○に触れたい、○○に触れられたいという欲求が、沸き上がってくるのを感じる。

 もはや恋する乙女と言うより、獲物を狩らんとする肉食獣のような目つきで、リリカは○○を見つめていた。

 

「おお、なんだなんだっ! 朝っぱらから、見せつけてくれるじゃないか!」

「あんな小さな女の子の胸を揉んで……。あの人は、ロリコンなのかしら?」

「おいおい……。せめて家の中で、イチャつけよなぁ」

「あ、いや、これは……。お、おい、リリカ……! 人に見られてるから、そろそろ離してくれっ……!」

 

 気づけば、二人の付近には、何人かの野次馬が集まっていた。リリカが、大声で○○の名前を叫んでいたので、近所の住民が、様子を見に来たのだろう。

 それでもリリカは、周囲の視線など、お構いなしといった様子だ。自分の胸に擦り付けるよう、○○の左手を動かし続けている。

 

「ふぅー! ちっぱいだからって、容赦しないねぇ! 揉みごごちは、いかがでしょうかぁ!?」

「……あの人、よく川の近くで、歌ってる人じゃない?」

「そうそう、○○とか言ったかな。それに、あの女の子も、どこかで見たような……」

「……うるさいなぁ」

 

 しかし、いい加減煩わしくなってきたのか、リリカは舌打ちをしながら周囲を睨むと、○○の体を抱きしめて、空高く舞い上がった。

 

「う、うわっ……!」

 

 唐突な浮遊感に襲われ、○○が声を上げる。それを気にせず、リリカは飛び続ける。

 目的地は、もちろん廃洋館だ。あそこなら、誰にも邪魔されずに二人きりになれる。それに、他の人間がやって来ることもないので、○○の身の安全も、確保できるはずだ。

 

 そう、姉たちがしたように、恋人のことを、独占すればいい。自分の部屋に閉じ込めて、誰の目にも触れさせなければいい。ずっとくっついていれば、お互い幸せになれる。

 

 やはり、姉は頼りになる。先駆者として、模範を示してくれたのだから。これで○○は、自分だけのものになったも同然である。

 早く帰りたい。二人だけの、幸せな世界へ。○○と二人っきりになって、永遠に幸せな時間を過ごしたい。

 好意の先を行く感情に支配されたリリカは、一心不乱に飛び続けた。

 

「ああっ、気分がいいわ……。好きが溢れて、止められない……。でも、好きじゃ、足りないの……。私の、○○への想いは、好き以上の、何かなの……。○○なら、この気持ちを、知っているよね? 私に、教えてくれるよね? 私の身体に疼く、あったかくて、切なくて、気持ちのいい熱の正体を、教えてくれるよね!? ふふっ、楽しみだなぁ……! 一人で触るだけで、あんなに気持ちいいのに、○○と一緒にしたら、どうなるんだろう!? きっと、もっともっと、気持ちよくなれるよね……!? ふ、ふふ、くふっ、くふふふふっ……!」

 

 リリカは、○○を抱き締める力を強めながら、心の底からの笑みを浮かべる。

 それは、いつか見た幸せそうな少女ではなく、狂気に満ちた雌の顔であった。

 

 

 

 

 

 霧の湖から、少し離れた場所にある、廃洋館。

 

 そこには、騒霊のプリズムリバー三姉妹が住み着いており、今日も今日とて、騒がしい音を鳴らしている。

 三姉妹の音は、それぞれ特徴的なものの、一つだけ共通して、言えることがあった。

 

 それは、狂愛を彷彿させる、歪んだ音色だということ。何者にも理解できない、常軌を逸した音楽だということ。

 

 もし、耳にしてしまえば、あなたも、きっと——

 



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妖夢前編

 

「幽々子さまー? どこにいらっしゃるのですかー?」

 

 冥界に存在する白玉楼。

 そこに住まう妖夢は、主である西行寺幽々子を探していた。広い屋敷内を、声を張り上げながら歩き回るも、幽々子からの返事はない。

 

「幽々子さまを、見かけなかった?」

 

 ちょうど廊下を通りがかった幽霊に訊ねてみるが、いい答えは返ってこない。

 白玉楼の住人は、妖夢と幽々子以外に、使用人の幽霊たちがいるものの、その誰もが幽々子の居場所を知らないと言う。ふわふわと漂う幽霊たちは、ただ一様に、霊体を横に振るばかりであった。

 

「屋敷に居ないとなると、庭の方かなぁ」

 

 妖夢は大きく溜め息をつきながら、庭へと足を向けた。広大な敷地を有する白玉楼で、一人の姿を探すのは、困難極まることだ。

 

「うぅ、やっぱり外は暑いわね……。これだと、剪定も大変になっちゃう……」

 

 庭にある木々を見つめ、忌々しげに呟く。

 白玉楼には、多くの桜の木がある。春になるとそれは見事な光景だが、今は夏真っ盛りのため、青々とした葉をつけているだけだ。

 

「——幽々子さまー! どこですかぁー!」

 

 さすがに徒歩では探せないため、妖夢は空を飛び回りながら、大声で呼びかけていた。地平線が見渡せるほど広く深い庭園で、主人を見つけることは容易ではない。

 それでも諦めず探し回っていると、視界の端に見慣れた姿が映った気がした。そちらへ飛んでいくと、やがて大きな枯れ木の下にたどり着く。

 

 この木は、西行妖と呼ばれる、妖怪桜の成れの果てだ。大昔に、禍々しい妖気を含んだ桜の花を、大量に咲かせたことで、多くの人間を死に至らしめたという曰く付きの木だった。

 今となってはもう、花をつけることは、ないのだが——

 

 妖夢の目に映ったのは、そんな西行妖の下で佇む、幽々子の姿だった。

 風に揺れる桜色の髪と、生気の見えない白い肌。同じく、桜色の瞳は、どこか虚ろげで、ぼんやりとした表情をしている。

 

「探しましたよ、幽々子さま……」

 

 幽々子の前まで降り立った妖夢は、そう言って彼女に歩み寄ろうとする。

 しかし幽々子は、それに反応することなく、虚ろな瞳のまま、西行妖を見つめ続けていた。まるで、側にいる妖夢の存在すら、認識していないかのようだ。

 

「……幽々子さま?」

 

 妖夢が怪しげに眉を寄せると、幽々子が口を開いた。彼女は、今にも消え入りそうな、小さな声で呟く。

 

「寒いわ」

「……はい?」

 

 その言葉の意味がわからず、妖夢はさらに顔をしかめた。

 冥界であっても、四季は存在する。特に、今の時期は真夏で、じりじりと太陽が照りつけており、気温も高い。肌に張り付くような、じっとりとした暑さを感じるし、汗だってかく。

 それなのに寒いとは、どういうことだろうか。幽々子の体を見ると、少し震えているようだった。

 

「……あら、妖夢じゃない。どうしたのかしら?」

「あ、えっと……」

 

 幽々子は、ようやく妖夢に気付いたようで、わずかに首を傾げた。

 相変わらず焦点が合っていない様子だったが、先ほどの寒さを訴える声とは違い、いつも通りの口調だったので、妖夢はひと安心する。

 

「あの、今から顕界に行くのですが、何か御用があればと思いまして……」

「……そう。じゃあ、甘いものを、買ってきて欲しいわ」

「分かりました。では、行ってまいります」

 

 それだけ聞くと、妖夢は幽々子に背を向けて、忙しなく飛び立った。なんだか今の幽々子には、近づき難い雰囲気があったのだ。

 いつもは顔に、ふんわりと柔らかい微笑を浮かべていて、飄々としている幽々子なのだが、今日に限っては、それが一切感じられなかった。そのことが、妖夢に妙な不安を与えていた。

 

「……なにか、あったのかな?」

 

 そう思いはするのだが、それを直接、本人に訊ねることはできない。いくら従者とは言えど、個人的なことにまで、立ち入るべきではないからだ。妖夢にできることは、空気を悪くしないように、そっとしておくくらいである。

 依然として胸の内に、モヤモヤしたものを抱えながら、顕界へと向かっていった。

 

 

 しばらくすると、妖怪の山が見えてくる。この辺りは、幻想郷の中でも比較的標高が高く、自然が豊かな場所だ。

 妖夢の目的は、そこにある鍛治工房に寄ることだった。

 

「ごめんください」

「……はぁい!」

 

 ふもとの開けた場所に降りた妖夢は、目の前に建つ一軒の家に声をかけた。すぐに中から、元気な声が聞こえてきて、玄関の扉が開かれる。

 現れたのは、水色の髪を、妖夢と似たようなボブカットにした少女だった。少女は、赤と水色のオッドアイを輝かせて、にっこりと微笑んだ。

 

「誰かと思えば、妖夢さんですか」

「はい。預けた刀を、受け取りに来たんですけど」

「……あー、そうですねぇ」

 

 妖夢が言うと、少女は眉を寄せて、困ったような顔になる。

 少女の名は、多々良小傘。唐傘おばけの妖怪で、幻想郷でも有数の鍛治職人として、その筋では有名であった。

 とりわけ仲が良いわけでもなかったが、そのことを知ってからは、定期的に彼女の元を訪れている。

 妖夢が振るう大小二刀のうち、長物の楼観剣は、妖怪が鍛えたもので、人間には扱えない代物だ。なので、こうしてたまに、鍛え直しを依頼しているのだった。

 

「予定では、今週中にでき上がるはずだったんですけど……。ちょっと今、取り込んでいまして……」

「はあ、そうなんですか」

「だから……あっ!」

 

 小傘が、何かを言いかけたときだった。

 突然、家の中から、大きな音が聞こえてきた。甲高い、泣き叫ぶような声が、辺りに響いている。

 

「あわわっ!」

 

 その声を聞いた小傘は、慌てふためき、顔を真っ青にする。そして、妖夢を残し、急いで家の中に戻っていった。

 

「どうしたんだろう……」

 

 妖夢は、何事かと思いながらも、小傘のあとを追う。勝手に上がり込むのは気が引けたが、彼女の様子を見る限り、そんなことを言っている場合では、ないのかもしれない。

 家の奥に進むにつれて、どんどん騒がしくなっていく。どうやら、先ほどから聞こえる悲鳴は、こちらの部屋から、発せられているようだ。

 

「よーしよしっ。いい子だから、泣かないのっ。ほら、べろべろばぁ〜!」

 

 部屋に入った途端、妖夢は目を丸くした。

 そこには、赤ん坊を抱いた小傘がいて、あやしている最中だったのだ。

 

「……小傘さん?」

「うわっ、勝手に入ってこないで下さいよ!」

「ご、ごめんなさい。でも、緊急事態なのかと思って……」

「……そ、そうですか」

 

 声をかけると、小傘は驚いたように振りかえった。それから、怒った様子で責めてきたものの、妖夢が謝罪すると、すぐに落ち着いた表情になり、腕の中の赤ん坊を見つめた。

 その様子は、普段の陽気な小傘とは、かけ離れている。別人のような印象を、受けるくらいだ。

 

「えっと、その子は?」

「……無縁塚で、拾ったんです。幽霊たちと、人を驚かす練習をしていたら、泣き声が聞こえてきて……。なにかなと思って行ってみたら、この子が捨てられていたの。それで、可哀想になって、連れて帰ってきたわけです」

 

 妖夢の問いに、小傘は静かに答える。

 妖怪が、人の子を可哀想だと思うなんて、珍しいこともあるものだと思ったが、口には出さなかった。彼女の、赤ん坊を撫でる手つきは優しく、慈愛に満ち溢れたものだったからだ。

 小傘は、しばらく黙って赤ん坊を観察していたが、やがて妖夢の顔を見て、口を開く。

 

「……変、ですよね? 人を驚かすのが、お化けの存在意義なのに、人助けをするなんて。でも、この子の笑ってる顔を見た瞬間、私の中で、この子を幸せにしてあげなきゃっていう気持ちが、湧き上がってきたんです。それが、どうしても抑えられなくて」

 

 そう言って、小傘は再び視線を落とす。

 

「私は、変だとは思いません。小傘さんのしたことは、とても素晴らしいことだと思います」

 

 妖夢は、小傘の言葉を否定するつもりはなかった。

 妖夢自身、他者を斬るための刀を扱う身である。斬ることしかできない自分とは違い、小傘のように、誰かを笑顔にできる存在は、尊いものだと思えた。

 

「……ありがとう。少し、救われた気分になりました」

 

 小傘は、弱々しく微笑むと、赤ん坊を布団に寝かせた。そして、妖夢に向き直って言う。

 

「ふふっ、こんな調子だから、鍛治も思ったように進まなくって……。お金を貰っておいて、本当に申し訳ないですけど、もうちょっと待っていてくれませんか?」

「そういうことなら、構いませんが……」

 

 小傘は、すまなさそうに頭を下げる。

 事情が事情だけに、妖夢としても強くは言えなかった。しかし、大小を二刀流で扱う妖夢にとって、長物の楼観剣が手元にないのは、痛手となり得る。

 妖夢が困り顔で頭を掻くと、小傘は何かを思い出したのか、ぽんと手を叩いた。

 

「そうだ! 代わりといっては何ですけど、面白い物を差し上げますよ!」

 

 そう言って、押し入れの中を、ガサゴソと探り始める。そして奥のほうから、一振の刀を取り出した。

 

「これ、無縁塚で拾ったんですけど……。どうですか?」

「はあ」

 

 小傘が差し出した刀を、妖夢はじっと見つめた。

 鞘は黒色で、何の装飾もない質素なものだったが、物の造り自体は、少し古臭く感じるものの、しっかりしているように見える。

 手に取ってみると、ずしりと重い感触が伝わってきた。見た目よりも、重量があるようだ。

 

「……あれっ?」

 

 刀身を確認するため、抜刀しようとしたのだが、何故か上手く抜けなかった。まるで、見えない何かに引っかかっているような感じだ。

 拵えは薄汚れているものの、錆び付いてはいない。試しに、思い切り力を込めてみるが、ビクともしなかった。

 妖夢は首を傾げながら、小傘の顔を見る。

 

「ぬ、抜けないんですが?」

「あらー、妖夢さんでも、駄目だったかぁ。それ、私も抜こうとしたんですけど、さっぱりで」

 

 小傘は、残念そうな表情で、肩をすくめる。

 

「使い手を選ぶ妖刀の類いかなと思って、一応持ち帰ったんですけど、どうやら違ったみたいですね」

 

 小傘の言葉を聞き、改めて刀を眺める。確かにこの刀からは、妙な気配を感じる。彼女が言うように、普通の刀とは違うように思えた。

 

「一本だたらの私から見ても、曰く付きなのは、間違いないと思うんです。値打ちのあるものかも、しれませんし……。でもまあ、抜けなかったら、しょうがないですよね。やっぱり、代金を何割か返すほうが——」

「いえ、私は構いませんので、この刀を頂いてもいいでしょうか?」

 

 妖夢は、小傘の言葉を遮るように言う

 この刀の、柄を握ったときの、手に馴染む感覚。言いようの知れない高揚感。

 妖夢の直感が告げていた。この刀を扱えたら、自分は今より高みへ登れるはずだと。

 

「そ、そうですか……! ぜひ、持っていってください!」

 

 妖夢は、おもむろに刀を背に差した。

 すると、先ほどまでとは打って変わり、気分が落ち着いてくる。自分が、剣の達人になったかのような錯覚を覚え、今なら何でも斬れそうな、そんな気がしてきた。

 

「……では、また後日、暇ができたら取りに来ますので」

「はいっ! それまでには、しっかりと仕上げておきますからっ!」

 

 妖夢は一礼すると、小傘の家を後にした。それから、上機嫌な様子で空を飛び、白玉楼への帰路につく。

 背中に差してある刀のおかげだろうか。いつもより、道のりが短く感じる。

 西の方角を見ると、日が傾き始めており、もうすぐ夕方になりそうだった。出発するのが遅れたせいもあり、思った以上に時間がかかってしまった。

 

「……あ、お使い、頼まれてたんだった」

 

 遅れた原因が、幽々子を探していたことによるものと考えていたら、ついでに彼女から、甘いものを買ってくるように言われていたことも、思い出した。

 

「間に合うかなぁ……」

 

 人里で、いつも利用している和菓子屋は、日が暮れると閉まってしまう。今から行けば、ぎりぎり閉店までに、間に合うかもしれない。

 

 妖夢は人里に向けて、方向転換をした。そして、全速力で空を駆ける。

 心なしか、身体が軽い。これも、刀を持った影響なのだろうか。普段の自分からは、考えられないような速度で飛んでいるが、不思議と疲れを感じない。

 

 しばらく飛び続けているうちに、前方に人里が見えてきた。店の看板が、夕陽に照らされて光っているのが、遠くからでも見える。

 そのまま、勢いよく店の上まで行くと、店前に着地した。まだ閉店には余裕があったようで、すんなり店内に入ることができた。

 そこで、饅頭などの甘味を買い込むと、再び白玉楼へ向けて出発した。

 

「……でも、抜けないんじゃ、使えないよね」

 

 道中、妖夢は独り言を呟いた。

 抜けない刀ほど、使い道のない物はない。妖怪相手には、こけおどしにもならないだろう。

 それでも妖夢は、この刀を手放すつもりはなかった。何故かは分からないが、手放してはいけないような気がしていたのだ。

 

「まあ、色々試してみれば、なにか分かるかも」

 

 頭の中で、鞘から抜く方法を考えながら、飛んでいく。しかし、考えれば考える程に、余計に分からなくなる始末。白玉楼に着いても、それは続いていた。

 

 

 後日、自分なりに試行錯誤したものの、結局は抜けずじまいだった。

 年季が経って、噛み合わせが悪くなってるのかと考え、刀を火で炙って温めてみたり、逆に冷水に浸けて冷やしたりしたが、変化なし。

 硬い物にぶつけてみても駄目だったし、思い切って上空から地面に叩き付けてみたこともあるが、やはり駄目だった。

 

 その蛮勇かつ苛烈な行為で、刀が曲がったり折れたり変形することもなく、鞘にいたっては傷一つ付かなかった。どうやら、かなり頑丈にできているようだ。

 ここまで試しても駄目となると、いよいよお手上げである。

 一応、素振り用に使うくらいなら問題ないだろうと思い、今日も妖夢は、白玉楼の庭で、抜けない刀を振っていた。

 

「はあ! やあっ!」

 

 甲高い掛け声と、刀の風切り音だけが、辺りに響く。

 妖夢の剣術の腕は、まだまだ未熟であり、太刀筋も半人前のもの。それでも、この刀を振るっていると、何となくだが、上手く扱えるような感覚があるのは、確かだった。

 

 妖夢は、刀を振る手を休めることなく、ぼんやりと考える。この刀の持ち主は、どんな人物だったのだろうかと。

 おそらく、相当な腕前を持っていたに違いない。そうでなければ、こんなに手に馴染むはずが、ないのだから。

 

 妖夢は手を止めて、刀を見つめる。

 使い込まれた刀には、人の想いが宿ると聞いたことがある。そして、刀身に浮かぶ波紋は、持ち主の心の形を表すとも。

 この刀の柄に巻かれた布は、ぼろぼろになっている。それだけ、この刀を愛用していたということだろう。

 

 この刀は、どのような気持ちで、振るわれてきたのだろうか。その人物の生きた証が、ここに残っているような気がする。確かめたい気持ちはあるものの、抜けないのであれば、それは叶わぬ願いだ。

 妖夢は、ふぅと息をつくと、構えを解き、刀を背に差した。

 

「……そう言えば」

 

 妖夢は、あることを思い出した。この刀は、無縁塚で拾われた物だということを。ならば、そこに行けば、刀を抜く手立てが、見つかるかもしれない。

 

 思い立ったが吉日。

 妖夢は早速、顕界にある無縁塚へと飛んでいく。山に沈もうとしている太陽が、その姿を照らしていた。

 

 

 無縁塚は、縁者が居らずに供養してもらえなかった者たちが集う、墓地のような場所。幻想郷の端という、外の世界と繋がりやすい所に存在しているため、外の世界の道具が、流れ着くことも多い。

 この刀も、そういった流れ着いた物の、一つなのだろう。

 

 木々に囲まれた道を抜けると、開けた場所に出た。そこには、どんよりとした陰気な雰囲気を漂わせている、寂れた土地が広がっている。

 ここは、死んだ者の魂が行きつく場所である冥界にも近いためか、霊的な力が強く、普通の人間では、あまり長居できないような空気に包まれていた。

 

 幽霊の存在は、生者に精神的な影響を及ぼしやすく、陰気な場所に居る幽霊は、やはり人にとって悪影響を与えるものだ。

 しかし妖夢は、半分人間であっても、もう半分は幽霊なので、そんな雰囲気に当てられることなく、真っ直ぐに歩いていく。

 辺りを浮かんでいる幽霊たちは、彼女の姿を見ると、驚いた様子を見せ、慌てて逃げていった。それは妖夢が腰に刺している、白楼剣のせいだろう。

 

 白楼剣は、斬られた者の迷いを断つことができ、すなわち幽霊を斬れば、その場で成仏させることができるのだ。それゆえ、幽霊たちにとっては、恐ろしい存在である。

 しかし、迷いのない生者には一転、ただただ切れ味の悪い短刀と化すのが、使いにくいところ。

 

「うーん……」

 

 しばらく歩き回ったあと、妖夢は残念そうな表情を浮かべた。刀の手がかりになりそうなものは、一見して見当たらない。

 試しに、刀を抜こうと試みるが、やはり抜けない。場所が関係しているわけでも、ないらしい。

 

「むう……。骨折り損になるのかぁ」

 

 妖夢が溜め息を吐き、その場から離れようとした、そのときだった。

 突然後方から、獣の唸り声のようなものが聞こえてきた。妖夢は、確認のために振り返る。

 

「わっ……!」

 

 そこには、一匹の大きな狼がいた。小柄な妖夢より、体躯は二回りも大きく見える。

 黒く染まった毛並みを持つ身体からは、禍々しい妖気が薄ら出ており、血走った赤い瞳も相まって、一目で普通の獣ではないことが分かる。

 

「ウウゥ……!」

 

 狼は低い声で、威嚇するように鳴きながら、ゆっくりと近づいてくる。妖夢も、それに合わせるように後退り、距離をとった。

 

 いま持ち合わせている得物は、抜けない刀と、生身には分が悪い白楼剣のみ。弾幕での中距離戦は、妖夢の苦手とするところ。

 そもそも弾幕は、遊びで使用するものであって、実戦での攻撃手段には成しえない。

 それから、相手が一体だけならまだしも、他に仲間がいて、呼ばれる可能性もある。この状況は、かなりまずい。

 

「逃げる……?」

 

 その選択肢もあるが、相手も逃すつもりはないらしく、こちらの様子をうかがいながら、じりじりと距離を詰めてくる。

 それに、由緒正しい西行寺家の、剣術指南役を仰せつかった妖夢にとって、獣一匹相手に背を向けるなど、許されない行為だった。敵前逃亡は、すなわち死を意味する。

 

「やるしか……!」

 

 妖夢は覚悟を決めると、腰に差した白楼剣の柄に手をかけ、鞘から引き抜いた。そして、下段に白楼剣を構え、臨戦態勢に入る。

 スペルカードを用いた、美しさを競う弾幕戦とは、わけが違う。

 知性を持たぬ獣との、ルール無用の白兵戦で、純粋に命のやり取りが行われる。

 

「ふっ!」

 

 緊張の糸が張り巡らされる中、先に動いたのは妖夢のほうだった。地を蹴り、一気に間合いを詰める。

 そして、対手の鋭い爪を持つ前足が、振り下ろされる瞬間を見計らい、それを紙一重で避けつつ、横薙ぎに斬りかかる。

 

 肉を裂いた確かな感触が、手に伝わってきた。妖夢の斬撃は見事に決まり、その部分から鮮血が飛び散る。

 だが、刀身の短い白楼剣では、致命傷を負わせることはできなかったようで、狼は怯むことなく、即座に反撃に転じてきた。

 

「くっ!」

 

 すぐさま後ろに飛び退き、何とか回避しようと試みるも、間に合わず、右の肩口を爪で切り裂かれてしまう。

 

「あぐぅっ……!」

 

 痛みに顔を歪めながらも、体勢を立て直し、再び構えを取る。しかし、右肩に受けた傷は深く、腕を動かすだけで激痛が走る。

 出血量も多く、肩から腕を伝って、手にまで垂れてきており、柄を握る手が滑りそうになっていた。

 

「うぅ……楼観剣さえあれば、こんな獣一匹くらい……! どうすれば……!?」

 

 この窮地を打開する策を考えるが、思いつかない。その間にも、狼は攻撃の機会を伺っている。体力も相手の方が上で、ジリ貧になる前に、なにかしら手を打たなければならない。

 焦燥感を募らせる妖夢だったが、その最中、背中に冷たいものが触れたような感覚がした。

 

「……なに?」

 

 妖夢の背には、抜けない刀しかない。しかし、刀の感触は別もの。それなのに、自分の背中に触れているものが、確かにある。

 妖夢は不思議に思ったが、考えている余裕はなかった。すぐに狼が、襲いかかってきたからだ。

 

 妖夢は、咄嵯に身体を捻り、攻撃をかわそうとする。しかし、狼の動きが思ったより速く、避けることはできずに、全身での体当たりを受けてしまった。

 

「うぐぅっ!」

 

 勢いよく後方に吹き飛ばされ、地面を転がる。狼は、そんな彼女に追い打ちをかけるべく、さらに距離を詰めようとする。

 妖夢は、なんとか立ち上がろうとするが、ダメージが大きく、身体が思うように動かない。このままだと、やられてしまう。

 

「はっ……! はっ……!」

 

 絶体絶命の状況の中、妖夢は荒い呼吸をしつつ、無意識のうちに白楼剣を納刀し、背中の刀に手をかけていた。

 

 抜けない刀。

 しかし、今の妖夢にとっては、それが唯一の希望に思えたのだ。

 血塗れの右手で柄を掴み、力一杯引き抜きにかかる。この窮地を脱出するためなら、どんな代償でも払うつもりだった。

 

「えっ……?」

 

 すると不思議なことに、あっさりと刀身が姿を現した。あれほど頑なに抜刀できなかった刀が、あっけなく抜けた。

 その刀身は錆ひとつ見せず、美しい輝きを放っていて、鏡のような刃が夕日を反射し、一面を赤く染め上げた。

 

「……よぅし」

 

 妖夢は、抜刀できたことに驚きつつも、目の前の敵に集中していた。

 痺れが出てきた右腕は、徐々に感覚がなくなってきており、左手も添えて両手で支えながら、刀を下段に構える。

 片膝をついた状態ではあるが、長物を持つ姿は様になっており、狼も警戒してか、距離をとって様子をうかがっていた。

 

 立ち上がれないほどの怪我を負っている現状、長期戦は不利だ。一撃で仕留めなければならない。

 妖夢は、対手を見据えつつ、荒れた呼吸を整えて、攻撃に備える。その顔つきは、とても半人前の剣士には、見えなかった。

 

 やがて狼は、低い姿勢のまま、じりじりと距離を詰めてくる。

 そして、自身の間合いに入った瞬間、跳躍した。鋭い牙による噛みつきと、鋭利な爪での引っ掻き攻撃。どちらも当たれば、致命傷になることは必至。

 

 それに対し、妖夢は冷静だった。左右に避けようともせず、ただ静かに構えを取り続ける。彼女の目には、対手がゆっくりと迫ってくる様が、映し出されていた。

 

 そのうちに狼が、妖夢の一足一刀の間合に入り、爪を突き出してくる。

 その刹那、妖夢の姿が、狼の視界から消えた。

 

 妖夢は、獣の跳躍力を上回る速さで前方に飛び、宙に浮いた狼の懐へと、潜り込んでいた。

 それから、身体の捻りを利用して、すれ違いざまに下段からの切り上げを放ち、腹部を深く切り裂く。手応えはなく、まるで空気を斬ったかのような感触だった。

 

「グオォォッ!」

 

 狼は、赤黒い臓物と共に、鮮血を撒き散らしながら地面に落下し、苦悶の声を上げる。妖夢の一刀は、致命の一撃となり、狼の命を確実に奪っていった。

 やがて狼の呼吸は、ゆっくりとしたものになっていき、完全に停止した。

 

「……やった……の?」

 

 物言わぬ骸となった狼を見て、妖夢は呟く。

 勝ったという実感がわかず、呆然としている妖夢だったが、狼を剣先で突いて、完全に死んだことを確認してから、ようやく安堵の息を漏らす。

 それから、緊張から解放された反動なのか、その場に尻餅をついてしまった。

 

「あ、危なかったぁ……」

 

 本当に、紙一重のところであった。あと少し、狼の攻撃を避けるのが遅ければ、今頃は腹の中に収まっていただろう。

 しかし、最初から楼観剣さえあれば、こんな獣一匹に苦戦することなど、なかったはずだ。そう思うと、この勝利も、素直に喜べない気持ちになってしまう。

 

 しばらくして、妖夢は鞘を支えにして立ち上がり、刀身の血糊を振り払おうとする。そのとき、ある異変に気付いた。

 

「……あれ?」

 

 刀身に、こびりついているはずの血糊が、跡形もなく消え去っているのだ。あれだけ深く斬りつけたにもかかわらず、一切の血糊がついていないというのは、不自然である。

 訝しみながらも、とりあえず納刀しようと鞘に手をかけたそのとき、ふと、ひとつの考えが頭に浮かんだ。

 

 もしやと思い、自身の右手を、まじまじと見つめる。

 視線の先には、汗ばんだ手のひら。先ほどまで血塗れだったはずなのに、すっかり綺麗になっていた。

 

「……血を、吸ってる?」

 

 この刀が妖刀の類いならば、生物を斬ることによって、その者の生命力を吸い取り、自らの糧としているのではないだろうか。唐突に抜刀できたのも、自分の血を吸ったからかもしれない。

 

 妖夢は、自身の仮説が正しいのかを確かめるべく、再び狼の死体へ近づき、刀を肉に突き刺し、すぐに抜く。

 すると、刀は瞬く間に血を吸い始め、みるみるうちに血糊が消え去っていく。

 やがて刀身には、一滴たりとも血が残っておらず、ただただ朱に染まった空を照らし出していた。

 

「すごい……。これが、妖刀の力……」

 

 恐ろしいと感じる反面、妖夢は魅入られたように、刀を見続けていた。

 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。妖夢は、刀を鞘に納め、身体の状態を確認する。

 

 切り裂かれた肩口の傷は、既に出血が止まっており、痛みもあまり感じなくなっていた。この回復力も、半人半霊たる所以なのだろう。

 しかし、受けたダメージは相当なもので、身体中が悲鳴を上げている。早く白玉楼に帰って、休まなければならない。

 

 妖夢は、ふらふらと蛇行しながら空を舞い、帰路につく。遠くのほうで、夜を告げる烏の鳴き声を聞きながら。

 

 

 

 一夜明け、妖夢は布団から起き上がるなり、顔をしかめる。

 全身が、筋肉痛のような症状に襲われていた。少し動くだけで、鈍い痛みが走る。

 無理もない。昨日の戦いで、満身創痍になるまで、戦い抜いたのだから。

 

「むんっ……!」

 

 それでも気合で立ち上がると、じっくり身体をほぐしてから、着替えを済ませて、部屋を出た。

 向かう先は、広い屋敷の数ある居間のうち、いつも幽々子と共に朝食をとっている部屋だ。廊下で幽霊たちと挨拶を交わしながら、歩みを進めて、目的の居間へとたどり着く。

 

 そこには既に、朝食に舌鼓をうっている幽々子の姿があった。妖夢が入ってきたことに気づくと、彼女は箸を止め、笑顔を浮かべる。

 

「あら、おはよう。主人よりも遅く起きるなんて、従者失格ね?」

「も、申し訳ございません!」

 

 幽々子の言葉に、妖夢は慌てて平伏した。

 起床した際、時刻を確認していなかったことを、今さらになって後悔する。悠々と歩いてこなければ、間に合っていたかもしれないからだ。

 そんな妖夢を見て、幽々子はくすりと笑う。

 

「たまには、そういうこともあるわよ。さあ、ご飯にしましょう。早くしないと、妖夢の分まで、食べちゃうかも〜」

「おまちください! それは困りますっ!」

 

 幽々子の冗談に対して、妖夢は必死の形相で食いつく。その反応が面白かったのか、幽々子はまた笑みをこぼす。

 妖夢が、いつものように食卓に着くと、二人は揃って食事を始めた。

 近日、幽々子の様子がおかしかったのは、どうやら杞憂だったようだ。少し引っかかってはいたが、そう結論づけることにした。

 

 そして、何事もなかったかのように、普段通りの日常が始まる。

 妖夢は、庭師としての仕事をこなし、終えたら剣術の稽古を行い、鍛錬に励む。その繰り返しだ。何も変わらない。平和そのもの。

 その中でも、妖夢の胸中は、浮き足立っていた。自分が、妖刀を扱えるという事実に。

 妖夢は、白玉楼の広大な庭で一人、妖刀を握りしめながら、感慨にひたる。

 

 あの、大狼とも呼ぶべき獣を、一撃の下に斬り伏せた際の感覚を思い出す。まさに熟練の剣士の如く、刀を振るえたのだ。

 窮鼠猫を噛む、あるいは火事場の馬鹿力かもしれないが、この妖刀を使えば、剣豪になれる可能性が高まるのではないか。そう思うと、興奮が収まらなかった。

 師匠と呼んでいた祖父の背中を追って、これまで努力を重ねてきた。それが、ようやく報われるときが来たのだと。

 

「くふふっ……」

 

 思わず、含み笑いを漏らしてしまう。こんなに楽しい気分になったのは、久しぶりであった。だが、それも長くは続かなかった。

 

「……あれ?」

 

 妖刀を抜刀しようと柄に手をかけた瞬間、ある違和感に気づく。

 またしても、抜けなくなっていたのだ。力を込めても、びくりともしない。

 

「そうだった。血が、欲しいのね?」

 

 昨日、抜刀したときは、右手の血を吸った直後であったため、簡単に抜けたのだろう。

 妖夢は、白楼剣で自身の右指先を切りつける。浅く切れば、白楼剣の特性も効かない。

 もちろん傷口は、すぐに塞がり始めたが、付着した血はそのままだ。その手で妖刀の柄を握れば、当然、抜刀できるはずだった。

 

「んー?」

 

 しかし、いくら力を込めようとも、妖刀が抜ける気配はない。血だけでは、足りないということなのだろうか。

 昨日のように、窮地に陥らない限り、この妖刀の力を引き出すことは、できないのか。それとも無縁塚のような、陰気臭い場所でないと、駄目なのか。

 

「……試してみよう」

 

 妖夢は、妖刀を背に括りつけ、白玉楼を飛び出した。主に一言告げるべきかと思ったが、今は一刻も早く、妖刀の力が見たかった。

 

 

 しばらくして、無縁塚に辿り着いた。

 近日に戦闘をおこなった場所へ降りたのに、件の狼の骸は、影も形もなく消え去っている。

 それは、冥界とも近いこの場所では、別段珍しくもなく、むしろ自然と言える光景で、それに今の妖夢にとっては、些末な問題に過ぎなかった。

 

「ふう……」

 

 静寂の訪れた、不気味なほどに閑散とした空間で、妖夢は再度、妖刀の柄を握る。

 そのとき、近くに生えていた茂みが、不自然に揺れ動いた。

 

 何かが、いる。

 そう直感した妖夢は、すぐさま腰の白楼剣を抜き、臨戦態勢を取った。右手に持った白楼剣の切っ先は、真っ直ぐ前方へと向けられている。

 

 やがて、茂みの中から現れたのは、長い黒髪を後ろに束ねた、人間の男だった。

 

「……人間じゃ、ない」

 

 しかし妖夢は、この男が人ではないことを、瞬時に悟る。姿形は人でも、感じる気配は、死者のものだった。

 よれた着物を身にまとい、ボサボサと枝毛のある髪の毛や無精髭を見る限り、あまり清潔とは言えない風貌をしている。だが、その顔立ちは精悍であり、切れ長の瞳には、強い意志の光が宿っていた。

 見た目からして、二十代半ばといったところであろうが、纏っている雰囲気は、それとは全く違う。どこか達観しているような、歴戦の武者のような威圧感があった。

 男は、鋭い視線で辺りを見回すと、最後に妖夢の方を一睨し、ふっ、と口元を緩めた。

 

「……お前か。その刀を、抜いた者は」

「えっ?」

 

 男は、抑揚のない声で、妖夢に語りかけてきた。

 妖夢は、一瞬戸惑うも、即座に構え直す。

 男の瞳からは、一切の感情を読み取ることができない。その視線は、妖夢の背にある妖刀に向けられている。

 妖夢は、この得体の知れない相手に対して、恐怖を抱いてしまった。妖怪と対峙する時とも違う、今まで出会ったことのない類の、異質な存在。

 

「どうした? 刀の切っ先が、震えているが」

 

 その言葉は、妖夢の緊張を見透かすように発せられたものだ。事実、彼女の手は小刻みに振動しており、それが相手に伝わってしまっていた。

 

「くっ……! お、お前は、何者だ!? 無縁塚にいるということは、亡者の類いか!?」

 

 強がってみせるものの、声は上ずっており、明らかに動揺を隠しきれていない。

 だが、そんなことは気にしていないのか、男は淡々と答える。

 

「俺が何者かなんて、関係ない。重要なのは、お前が、その刀を持っているということだ」

 

 その答えに、妖夢は眉根を寄せた。どうも話が噛み合わない。相手は、何を言っているのだろう。

 分からない、分からないが、分からないことは、斬ってみれば分かる。真実は、斬って知るものなのだから。

 師の教えが、脳裏をよぎり、刀を握る手に力がこもった。

 

「……震えが、止まったか。なるほど。構えだけは、一人前だな」

 

 妖夢の変化を感じ取ったのか、男はわずかに口角を上げる。

 

 妖夢は、再び白楼剣を構え直し、相手の出方をうかがった。

 相手は、とくに得物を携帯していないようだ。それなのに、この余裕は一体、どこから来ているのだろうか。丸腰の男を相手にするのは、気が引けなくもないが、人ではない以上、手加減する必要はない。

 仮に相手が武器を隠し持っていたとしても、白楼剣ならば、問題はないはずだ。幽霊の類に対しては、絶大な威力を発揮する白楼剣である。斬れないものは、ほとんど無いと言っていいだろう。

 

 だが妖夢は、間合いを詰めることが、できないでいた。それは、男の放つ異様な威圧感によるものだろう。

 その立ち振る舞いに隙がなく、まるでこちらの動きを、全て見通されているかのような錯覚に陥る。自分より、遥かに格上の存在と、対峙している感覚。どこに切り込んでも、即座に反撃を食らうような、嫌な予感があるのだ。

 

 男は動かない。妖夢の様子を観察するように、ただじっと見つめているだけ。それが余計に不気味だった。

 

 妖夢は、自分の鼓動が、早鐘を打っていることに気付いた。極度の緊張感が、自分の心身を蝕んでいる証拠だ。

 妖夢の額から、一筋の汗が流れ落ちる。柄を握る手に、汗が滲む。呼吸が乱れる。視界が狭まる。喉が渇き、耳鳴りがする。

 

 男は、一歩も動いていないはずなのに、妖夢は徐々に追い詰められていく。真夏の日中だというのに、冷ややかな風が、頬を撫でる。

 

「……ふっ!」

 

 痺れをきらし、先に動いたのは、妖夢のほうだった。

 白楼剣を正眼に構えつつ、一気に距離を縮めようとする。防御を捨てた、一直線の攻撃。丸腰の相手に臆する必要はないと、判断してのことだ。

 

 しかし、その瞬間、視界がぐるりと回転した。

 妖夢は、目まぐるしく回転する世界の中で、自分が吹き飛ばされたのだということを自覚したが、すでに遅かった。

 受け身をとれず、地に叩きつけられ、頭に強い衝撃を受ける。

 

 薄れゆく景色の中、妖夢が最後に見たのは、首から血飛沫をあげている、自身の胴体であった——

 

 

「——おい」

「……はっ!?」

 

 妖夢は、即座に意識を覚醒させた。自分は、気を失っていたのだと理解すると、すぐに状況を確認し始める。

 先程と変わらない立ち位置で、自分は白楼剣を構えている。そして、男も相変わらず、その場に佇んでいた。

 

 どういうことだろう。確か自分は、首を落とされたはずではなかったか。そう思いながら、恐る恐る左手で、自分の首を触ってみる。

 そこには、傷一つなかった。痛みもなく、違和感すらない。あれだけの一撃を受けておいて、無傷とは考えられない。

 妖夢は、敵前であるにもかかわらず、混乱していた。

 

「駄目だな。正直、斬られてやってもよかったんだが、殺気を受けただけで気絶するような奴じゃあ、話にならない」

 

 男は、いやはやといった様子で言う。

 その言葉を聞いて、妖夢は確信した。この男は、自分を試したのだ。男の殺気が、この先に待つ明確な死の情景を、自分に見せたのだろう。

 そして、自分と男とでは、圧倒的な実力差が、あるのだということも。

 

「また、震え出したぞ? 構えすらも、解けてるじゃないか」

 

 男の指摘通り、妖夢の身体は、再び震え始めていた。

 だが、それも無理のないことだ。それほどまでに、目の前の相手は、格上の存在なのである。月とスッポン、天と地の差と言うべきか。

 それを如実に感じ取ってしまったからこそ、妖夢は畏怖してしまったのだ。

 

 自覚してしまうと、もう止まらなかった。歯の根が合わず、カチカチという音が鳴り響く。

 妖夢は、戦意を喪失していた。この男は危険だ。絶対に敵わない。今すぐ逃げなければならない。

 しかし、足がまったく動かない。いや、むしろ動くことを恐れていると言ったほうが、正しいだろう。

 

 蛇に睨まれた蛙。虎に狙われた兎。鷹の前に飛び出た雀。今の状況は、まさにそれである。

 もはや、まともに思考することができない。ただひたすらに、童のように震えることしか、できなかった。

 

「……なんだ。白楼剣を扱っているから、てっきり妖忌の身内かと思ったら、まるでなってないな」

「……あ、えっ?」

 

 男の口から、唐突に祖父の名前が出てきたことに驚き、妖夢は思わず声を上げてしまう。

 その反応を見て、男は妖夢の顔に、視線を向ける。

 

「魂魄の者、なんだろ? 白髪に、その半霊。白楼剣まで、持っているからな」

 

 妖夢は、ようやく目の前の男が、何者であるのかを理解した。

 祖父の知り合いだと言うなら、この異常なまでの実力にも納得できる。それを念頭に置くと、男の纏う気迫は、祖父と同じようなものに感じられた。

 

「は、はい。私は、魂魄妖夢と言います。魂魄妖忌は、私の祖父で、剣の師匠でもあります」

 

 妖夢は白楼剣を納刀したあと、背筋を伸ばし、敬語を使って自己紹介をしていた。それが当然のことであるかのように、自然と口をついて出た言葉だった。

 男は、そんな妖夢の様子に、苦笑を浮かべる。

 

「なら、お前は妖忌の孫なのか。……まさか、あの堅物に、孫ができているとは。時の流れというものは、恐ろしいものだ」

 

 無精髭が生えているアゴを撫でながら、感慨深げに呟く男。その表情からは、先程までとは一転して、優しげな雰囲気が漂っていた。

 それに当てられたせいだろうか。妖夢はつい、気になっていたことを、図々しく尋ねてしまった。

 

「あの、お師匠様と、お知り合いなのですか?」

「ん? まあ、知り合いではあるか。なんせ、刀を交えた仲だからな」

 

 男は一瞬だけ、懐かしそうな顔をしたが、すぐに元の表情に戻った。

 

「それより、お前は妖忌の弟子だというのに、随分と弱々しいな。剣の腕は未熟。精神面も、青二才そのものだ」

 

 男の口調は、どこか責めるようなものだった。反論したい気持ちはあったが、妖夢にはそれをする勇気がなかった。

 事実、男の言っていることは正しい。妖夢は、まだ未熟で、弱かった。虚勢を張ったところで、彼の前では、まるで意味を成さないだろう。

 

「それに、何だその装いは。男のくせに、肌を晒すなど、恥ずかしいと思わんのか」

 

 妖夢の服装は、半袖のシャツに、青緑色のベストを羽織り、上に合わせたスカートといった普段着である。確かに生腕生足を露出しており、刀を扱う者としては、少しばかり軽率な格好かもしれない。

 しかし、それよりも、妖夢にとっては、気になることがあった。

 

「わ、私は、女ですっ! まだ身体も未熟ですけど、ちゃんと女なんですっ!」

「……なに?」

 

 男は怪しく目を細め、妖夢のことを見つめた。

 いくら自分のことを、こき下ろされようとも、妖夢は我慢できる。だが、性別に関しては譲れない。

 小柄で、髪も短く、胸も小さいとはいえ、自分は、れっきとした女の子なのだから。

 

「……女の童が、刀を振っているだと? しかも、白楼剣まで与えているとは、どういうことだ? 妖忌の奴は、何を考えて……」

 

 男は顎に手を当てて、ブツブツと独り言を言い始める。妖夢は、その様子を見て、さらに不安になる。

 正直、祖父と肩を並べる程の剣士に会ったのは、初めてのことだった。妖夢の頭の中では、既に目の前の男に対する畏怖は消えており、今残っているのは、ただ一つ。

 この男に、失望されたのではないかという、恐れだけである。剣の腕を貶められるより、そっちのほうが、ずっと辛いことだった。

 

「……まあいい。妖忌は今、どこにいるんだ?」

「あ、えっと……」

 

 男は、何かを考え込むような素振りを見せたあと、そう問いかけてきた。

 妖夢は、その質問に答えようとしたが、口籠ってしまう。

 祖父の居場所は、わからない。ある日突然、姿を消したからだ。生きてはいるようだが、それ以上の情報は、持っていなかったのだ。

 

「……申し訳ございません。私にも、よくわかりません。数年前に、刀を残して、居なくなってしまったんです。半人前の私に、跡を継がせて……」

 

 寡黙ではあったものの、厳しくもあり、優しくもあった祖父。剣の達人として尊敬していたし、目標としていたし、それから、家族としても拠り所であった。

 そんな彼がいなくなって以来、妖夢の心の中には、ぽっかりと大きな穴ができてしまっていた。

 

 祖父は、言葉ではなく、背中を見て学べと教えてくれた。ならば、自分にとっての手本は、祖父以外にいない。しかし、学ぶべき背中は、失われてしまった。

 数少ない祖父の教えでは、どうすればいいのか、わからなかった。一人では、半人前の自分では、剣の道を極めることなど、できはしない。いつまでも、半端なままだ。

 

 鍛錬を積んでも、強くなる実感がない。強くなっているという確信もない。ただ漠然とした焦燥感だけが、日々募っていく。

 そこに、祖父と同じような実力を持った男が、目の前に現れたのだ。それはまるで、運命的な巡り合わせのように思えた。

 

「そう、か……。まいったな……」

 

 妖夢は、恐る恐る男の表情をうかがう。すると、男の瞳の中に、微かな動揺の色が見えた気がした。

 男は、しばらく黙っていたが、やがて小さく息をつくと、妖夢に歩み寄ってきた。

 

 妖夢は、その行動の意味がわからず、呆然と男を見上げていた。

 祖父と同じくらいの背丈で、武人らしい体つきをしている。着物の上からでもわかる肉の漲りは、それだけで、彼が並大抵の修羅場を潜り抜けていないことがわかる。

 あまり異性と接点のない妖夢でさえ、胸の高鳴りを抑えられなくさせる程に、魅力的な雄の肉体だった。

 

「お前が背に差した刀は、元々俺が使っていたものだ。それは、俺の死と共に封じられて、悠久の時を経ていた」

 

 男の言葉に、妖夢は驚愕する。この妖刀の持ち主が、目の前にいる男だというのだから。

 

「二度と抜かれることはないと思っていたが、まさか妖忌の孫が、抜くことになるとはな。お前には、素質があるようだが、その刀を扱うには、余りに危うい」

「えっ……?」

 

 妖夢は、男の視線が背中の刀に向けられていることに気づき、柄に手を伸ばそうとする。しかし、それは叶わなかった。

 男が妖夢の手を掴み、制止させたからである。

 

 妖夢は、驚きと戸惑いで声が出せず、男の顔を見る。

 彼は妖夢の手を掴んだまま、じっと妖夢の目を見つめ返していた。その表情は真剣そのものだったが、どこか悲しげでもあった。

 

「抜いてしまったものは、仕方がない。だが、断じて、その刀を使うな。もし使ってしまったら、お前の身は、破滅する」

「そ、そんな……」

 

 確かに、男の言う通りかもしれない。妖夢の心の中には、先ほどまでとは違う不安が、芽生え始めていた。

 この刀を使えば、自分はどうなるのか。高みには、至れるかもしれない。しかし、代償として失うものも、大きいはず。それほどまでに、この刀からは、底知れぬ力が感じられるのだ。

 

「いいか? 封印を施せる者に、刀を渡すんだ。あれから、どれだけ時が経ったのかは知らんが、封印術が廃れていることは、ないだろう。巫女なり、仙人なり、陰陽師なり、とにかく専門家に任せろ」

 

 男の声色は優しく、妖夢に対する心配が、伝わってくるようであった。しかし、その優しさが、妖夢の心を縛り付ける。

 

 妖夢は、男から目を逸らせないでいた。まるで魅了されたかのように、視線を外すことができない。

 男が、自分に道を示してくれる存在であり、かつての師のように、自分のことを導いてくれる人だと、感じられるからだ。

 

「あの、貴方は……?」

「……俺か? 俺は、人の道を踏み外した、どうしようもない愚か者だ。そして、死んだはずなのに、残滓が刀に取り残されて、彷徨うだけの亡霊になってしまった。だが、刀を封印すれば消えるから、安心していい」

 

 妖夢が問いかけると、男は自嘲気味に笑いながら、そう言った。

 妖夢は、男の言葉に衝撃を受ける。剣豪であるはずの男が消えてしまうことに、大きな喪失感を覚えたのだ。

 この男なら、祖父が失踪してしまった今、自分にとって、一番身近な目標になってくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いていただけに、落胆の色は大きかった。

 

「お前は、妖忌の孫なんだろう? だったら、俺みたいな奴になるんじゃない。妖忌みたいに、立派な剣豪になれ」

 

 男は、そう言って妖夢に微笑むと、掴んでいた手を解放する。そして、そのまま立ち去ろうとしていた。

 

「あ、あの……!」

「刀の件、任せたぞ」

 

 妖夢は、慌てて男を呼び止める。しかし、彼は振り向くことなく、その場を後にした。

 残された妖夢は、しばらくの間呆然としていたが、やがて我に返る。そして、すぐに後を追いかけた。

 

 しかし、すでに男の姿は、見えなくなっていた。

 茹だるような暑さの中、湿った空気が肌にまとわりつく感覚だけが、妖夢の中に残されていた。

 



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妖夢中編一

 

 ジリジリと照りつける日差しに辟易しながら、妖夢は人里の通りを歩いていた。今日は食材の買い出しのために、一人で外出しているのだった。

 

 その背中には、件の刀を携えている。男に刀を封印しろと言われたものの、未だに決心がつかなかった。

 封じてしまえば、彼とはもう会えなくなるかもしれない。それがどうしても嫌で、踏み切ることができなかったのである。

 なので抜くこともできないのに、未練がましく刀を持ち歩いているのだ。

 

「えぇっと、どこから行こうかな……」

 

 この辺りは、様々な店が並んでいる場所のため、いつも賑やかで活気がある。妖夢にとっては、見慣れた光景だ。

 妖夢の主人である幽々子は、深窓の令嬢のような外見をしている割に大食漢であるため、こうして定期的に人里へ、食材の調達に行かなければならなかった。

 

 冥界にも食材はあるのに、わざわざ顕界まで降りてきたのは、幽々子が偏食だからである。現世の食べ物のほうが、好みらしいのだ。

 面倒だと思うものの、白玉楼に居る使用人の幽霊たちは、みな冥界から出ることを嫌がるので、自分が行くしかないのだから仕方がない。

 

「ん? あれは……」

 

 しばらく歩いていると、前方から、一人の女性が近づいてくるのが見えた。

 妖夢はその女性に対し、違和感を抱く。彼女は、人の姿をしているが、人里の住人とは雰囲気が違う気がしたのだ。おそらく、妖怪の類と思われる。

 

 別段、人里で人に化けた妖怪を見ること自体、珍しくない。それに悪事を働く妖怪ならともかく、そうでない妖怪であれば、退治する必要もないので、基本的には放っておかれている。

 妖夢も、そういう存在にいちいち反応していては、キリがないと思っているのだが、その女性には、どこか見覚えがあった。

 

 腰まである茶髪を、後ろで束ねており、上品な和装に身を包んでいる。一見して、名家の奥方様のような印象を抱く。

 そして、何より特徴的なのは、幻想郷で見かけるのは珍しい、眼鏡を掛けていることだ。童顔に似つかわしくない、銀縁のフレームが、妙な雰囲気を放っている。

 そう疑問に思いつつも、そのまますれ違おうとしたところで、唐突に女性は立ち止まり、妖夢のほうへと振り返った。

 

「……おぬし。そこ行く半霊の剣士よ」

「はい?」

 

 女性の呼びかけに対して、妖夢は足を止めた。その古風な口調にはどこか聞き覚えがあり、妖夢の脳裏を刺激する。

 

「その後ろに背負った刀……。もしや、餓狼ではないか?」

「えっ?」

 

 女性が妖夢の背中にある刀を見て、眉間にシワを寄せながら言った。しかし聞き慣れない名称だったので、妖夢は戸惑うしかなかった。

 

「人里とはいえ、白昼堂々とそんな物を担いで歩くものではないぞ。儂らに喧嘩を売っとるのか?」

「いや……その……」

 

 妖夢が答えられずにいると、女性が言葉を続けた。

 それでもなお、妖夢が何も言えずに立ちすくんでいたところ、痺れを切らしたように女性が一歩前に出た。

 

「なんじゃ、知らずに持ち歩いておったのか。無知は罪じゃのう」

 

 そう言って女性は嘲笑を浮かべながら、妖夢に向かって歩み寄る。妖夢より頭一つぶん背が高いため、自然と見上げる形になってしまう。

 その知性ある顔立ちからは想像できないほど、彼女の口元に浮かぶ笑みは邪悪だった。それは人というよりも、むしろ妖怪のそれに近い印象を抱かせる。

 

 女性も隠す気はないらしく、周囲に漂う空気は、肌を刺すようにピリピリと張り詰めていた。

 しかし、人里の通行人は、誰も気にしていない様子だ。次元の違う者に対して、人は鈍感になれるものである。

 

「あの、貴女はこの刀のことを、知っておられるのですか? これは、いったい……」

「ふむ、どうやら本当に知らないようじゃの。それなら教えてやってもよいが、ここでは目立つ。場所を変えようぞ」

 

 そう言って女性は、妖夢を後目に歩きだす。妖夢は戸惑いながらも、彼女の後を追うことにした。

 

 

 二人はしばらく歩いたあと、人気がまったくない路地裏に入り込んだ。

 そこでようやく女性が足を止める。そして妖夢の方を振り返ると、薄く紅を塗った唇を開いた。

 

「さて、何から話したものか」

「なんでもいいです。刀のこと、刀の持ち主のこと、知っていることを、すべて話してください!」

「おおぅ……」

 

 妖夢は興奮気味に、語気を強めにして言う。

 その勢いに気圧されたのか、女性は一瞬たじろいだ様子を見せたが、一旦咳払いをすると、すぐに元の調子を取り戻した。

 

「……そうじゃのう。まず、その刀は、餓狼と呼ばれている妖刀で間違いはない。かつて幾多もの妖怪を、なますのように斬り伏せたとされる代物で、故に妖怪からは忌み嫌われておる。そして餓狼には、斬った者の生き血を吸い、切れ味を増すという特性があるのじゃ。人にしか扱えず、同時に人が扱えば、その身を乗っ取られてしまうとも言われており、実際にその刀の持ち主は、人ではなくなったからのう。まこと妖刀の名に恥じぬ、恐ろしい得物じゃ……」

 

 そこまで言い終えると、彼女は目を細めながら頬に手を当てて、何かを思い出すような仕草をした。懐かしむというよりは、悲しそうな表情である。

 

「まあ、人が人智を超越した力を手に入れれば、当然の末路といったところか。人の身のままでは、人ならざる者に到底太刀打ちできぬ。しかし、人の身に余る力を欲すれば、必ず報いを受けるということじゃなぁ。因果応報。この世の摂理は、決して変わらない。それが、たとえ幻想郷であろうともな。……と、話が逸れたのう」

 

 その声には、どこか哀愁のようなものが感じられた。それは、過去に思いを馳せているかのような口調であった。

 女性の言葉を聞き、妖夢は改めて背中の鞘に収まった刀を、肩越しに見つめる。しかし、元々いわく付きのものだと知っていたから、そこまで驚きはなかった。

 

「その刀の持ち主は、○○という名の男で、たいそう腕が立つ剣客じゃった。真っ当な人生を歩んでいれば、今ごろ歴史に名を残すほどの剛の者になっていたであろうが、残念なことに、あやつは道を踏み外してしまった」

「○○さん、ですか」

「うむ。元は誠実な若者じゃったが、ある日を境に、私怨に取り憑かれてしまってな。その矛先は、人ならざる者たちに向けられるようになった。それからは、ただひたすら気狂いの如く妖怪を狩り続け、やがて孤剣にて百鬼夜行を屠り、修羅の道を歩むようになったのじゃ。その果てには、心の隙を突かれて、己の内に巣食うものに、体を支配されてしまったのじゃよ。その後、どうなったのかは、知るよしもないがの」

 

 女性は淡々と言葉を連ねる。それは物語を語る語り手のように、淀みなく紡がれていく。

 あの男に、そんな過去があったとは思いもしなかった。そして彼女が語る内容は、妖夢の心に強く響いていた。

 やはり彼の実力は、常軌を逸していたのだ。過去——妖怪が百鬼で群れるほど全盛であった時代の剣客。そんな人物に、落ちぶれた者たちが集う幻想郷で生きる自分がまるで敵わなかったのは、当たり前のことだった。

 

 だが妖夢は、悔しさよりも先に尊敬の念を覚えた。彼は、自分にない強さを持っている。それを得た過程はどうあれ、自分もまた、彼に近づきたいと思えるのだ。

 女性の話を、黙って聞いていた妖夢だったが、彼女の語りが終わると同時に、口を開いた。

 

「その、○○という方は、どうして妖怪ばかりを、狙うようになったのですか?」

「……聞けば、気分を害するかもしれんぞ? それでも聞きたいかの? それに、少し長くなるが、よいか?」

 

 女性の声音からは、明らかな警告の意が含まれていた。しかし、今の妖夢にとっては、どうでもいいことだった。

 

 自分は未熟者だ。だから強くなりたかった。そのために様々な経験を積みたいと、常日頃から考えていた。

 そのためには、どうしても知らなければならない。彼の素性を知れば、強さの秘訣がわかるかもしれない。安直な考えだと自覚しつつも、妖夢はその欲求を抑えることができなかった。

 

「はい、教えてください」

 

 妖夢は、力強く首肯した。

 女性は少しの間、思案顔を浮かべていたが、妖夢の意志が固いと悟ると、小さく溜息を吐き、重い口を開き始めた。

 

「随分と昔の話になるがな……。まず、○○は武家の出じゃった。それゆえ、幼少の頃より、剣術を学んでいたのじゃ。才も有り、瞬く間に頭角を現していき、将来を有望視されておった。それから、許嫁もおってな。同じ歳頃の幼馴染で、互いに好いておったそうじゃ。その娘もまた、才色兼備の素晴らしい女子じゃった。やがて、○○が家督を継ぐことに決まり、その祝言が間近に迫ってきた頃、悲劇が起きたのじゃ……」

 

 そこで女性は、一旦言葉を区切ると、視線を地に落とした。その表情は、暗い影を落としており、どこか悲しげに見える。

 彼女は数瞬の後、再び話し始めた。

 

「好事魔多しとは、よく言ったもので、何事も順調に行くことのほうが珍しい。ある日、娘が突然、その行方をくらませたのじゃ。そして、数日後に発見されたときには、変わり果てた姿になっておった。○○の目の前に現れたのは、娘の亡骸じゃった」

 

 彼女は一呼吸置くと、沈痛な面持ちで言葉を紡ぐ。

 

「ただ殺されただけではない。その亡骸は、見るも無残な有様で、獣が食い散らかしたかのように腹を裂かれ、内臓をすべて引きずり出され、肉は余すことなく喰われておったらしい。まさに地獄絵図のような光景じゃろうな。そして、遺体の側にあった髪飾りだけが、辛うじて生前の娘の面影を、残していたという」

 

 その悲惨な話に、妖夢は絶句し、背筋が凍るような感覚に襲われた。

 もし、その話が本当ならば、彼はどのような感情を抱いていたのだろうか。想像するだけで、身の毛がよだつ。

 そして、そのような残虐極まりない行為に及んだ者に対し、妖夢は強い憤りを感じた。話を聞いただけで、彼に共感してしまったのだ

 

「下手人は、近くの山に潜む、木端の妖怪じゃった。娘とは縁もゆかりもなかったはずじゃが、何故かそやつは、娘に目をつけたようじゃ。妖怪が好むのは、善性を秘めた無垢な人間の魂じゃから、おおかた娘の魂に惹かれたのであろう。いずれにせよ、娘は奴にとって、格好の餌食だったというわけじゃ」

 

 そこまで語って、彼女は一度大きく深呼吸をした。長い話に疲れているのか、あるいは別の理由があるのかは、わからない。

 

「無論、○○は激怒した。娘の仇を討つために、その山へ赴き、見事仇討ちを果たした。しかし、自身が強者であるがゆえに、呆気なく終わってしまったせいか、怒りの矛先を見失ってしまったのじゃろう。以後、○○は腑抜けとなった。娘を追って、自刃することも考えただろうに、結局はやらなかった。武家の人間として不様な真似はできないという、そんな意地があったのじゃろう。そして死に場所を求めて、戦場で刀を振るい続けるうちに、いつしか妖そのものを憎み、恨むようになっていった。此奴らさえいなければ、娘は死なずに済んだはずだ。この世から妖怪という存在を完全に消し去るまで、復讐は終わらぬ。それが、○○の出した結論だったのじゃ」

 

 その言葉を聞いて、妖夢は胸の奥底に熱いものが込み上げてくるのを感じていた。一人の男の悲しみを思うと、自分の心までもが痛み、苦しくなっていく。

 

 ○○に対して、妖夢は少なからず親近感を覚えていた。自分も、家族である祖父を失った身だ。

 死別したわけではないので、彼と比べれば、遥かに軽いものだが、それでも似たような境遇であることに、変わりはない。

 だからこそ、彼の気持ちが理解できた。自分と同じように、大切な誰かを失っているのだと。

 

「その刀……餓狼は、元は名も無き刀であった。○○が愛用していただけの得物でな。しかし、数多の妖怪を斬り捨てる中で、次第に妖力を蓄えていったのじゃ。妖怪にも心はあり、恨み辛みの念を抱く者も、おったということじゃな。何せ無差別に斬りまわっていただけじゃから、怨嗟の対象も、それこそ山の如しじゃった。そのすべてが刀の糧となり、妖刀へと成り果てたのじゃ」

 

 妖夢は、女性の言葉を聞きながら、○○の愛刀を眺めた。

 経緯を知れば、彼が封印しろと忠告してきたのも、納得できる。確かにこれは、危険すぎる代物だ。未熟者の自分では、制御しきれる気がしない。だが、惹かれるものがあるのも、また事実。

 

「餓狼と呼ばれる所以は、常に一人で戦い続けた○○の生きざまが、一匹狼のように見えて、それと掛けられたのもあるじゃろうな。心の穴を、飢えた心を満たすためだけに戦う姿も、まさに獣そのものじゃったからなぁ……」

 

 そこまで語って、女性は一息ついた。語り終えると、少しだけ寂しげな表情を見せる。

 そこで、それまで黙って話を聞いていた妖夢が、口を開いた。

 

「……お話は、よくわかりました。ですが、貴女は何故、そこまで詳しく知っているのですか? その……○○さんとは、どのような関係なのですか?」

 

 妖夢の質問に、彼女はしばらく押し黙っていたが、やがて諦めたように小さく溜息をつくと、ゆっくりと妖夢の方を向いて、答え始めた。

 

「別に大した話ではない。昔、儂が支配していた国の近くで、その一連の事件が起こったのじゃよ。そして、人に化けていた手の者共から、事のあらましを聞いたのじゃ。○○には、同胞を殺されたりもしたが、奴の生き方に共感するところもあってのう。それに見惚れる程に美しい剣筋じゃったし、主君の犬として生き永らえる武士より、修羅の道を往く孤高の狼というのも、嫌いではなかった。それゆえ、儂からは手を出さず、放っておいたのじゃよ」

 

 女性の話を聞いて、妖夢はますます混乱した。

 彼女が妖怪であるのは、間違いない。だが、国を支配していたということは、それ相応の力を持った妖怪だということだ。

 一体、目の前の女性は、何者なのだろうか。疑問に思った妖夢は、恐る恐る尋ねてみた。

 

「あの……貴女は、妖怪なんですよね? 一体、どのような……」

「なんじゃ、おぬしとは一戦交えたこともあるというのに、気づいておらんかったのか……。まあ、それも無理ないかの。儂の変化が、完璧すぎるゆえ。ほれ、種明かししてやろうぞ!」

 

 女性がそう言うと、唐突に彼女の身体が濃ゆい煙に包まれていく。その光景を見て、妖夢は思わずたじろいだ。

 やがて煙が収まると、そこには体一つ分はある大きな尻尾と、獣の耳を持つ、狸のような姿をした女性の姿があった。

 

「ふぉっふぉっふぉ! 大妖怪、佐渡の二ッ岩マミゾウとは、儂のことじゃ! ……驚いたか?」

「え、ああ……はい。驚きましたけど、どうして人間の姿をしていたんですか?」

「んー、それはじゃなぁ、そっちの方が色々と都合が良いからじゃ。詳細が気になるか? では、少し長くなるが、話してやろうぞ!」

「じゃあいいです」

 

 いつぞやの異変の際、マミゾウとは顔を合わせたことがあった。その時のことを思い出した妖夢は、面倒なことに巻き込まれる前に、話を打ち切った。

 

「な、なんじゃ、興が削がれるのう……」

「いえ、長々とお話いただいたので、これ以上は。では、私は用があるので、失礼します。ありがとうございました」

 

 刀の詳細と、○○の素性さえ知れれば、それで十分だったのだ。もう彼女に用はない。早くこの場を立ち去ろうと、妖夢は彼女に背を向ける。

 しかし、そんな妖夢を引き留めるように、マミゾウは話しかけてきた。

 

「ちょっと待ってくれぬか? 最後に一つ、教えてほしいことがあるのじゃ」

「何でしょうか?」

「おぬしは、それをどうするつもりじゃ? どういった経緯で手に入れたかは知らぬが、実用性はともかく、縁起の良いものでないことだけは確かじゃ。悪いことは言わん。手放したほうが、よいと思うぞ?」

 

 真剣味を帯びた声音で語るマミゾウに対し、妖夢は静かに首を横に振った。そして、○○の愛刀を見つめながら、ぽつりと呟く。

 

「……私が一人前になるためには、何かに頼らなければなりません。私一人では、何もできないのです。だから、この刀を持って、形からでも一流の剣士になったつもりで、振る舞わなければいけないと思ったのです。そうすれば、いつかは……きっと、強くなれますよね?」

 

 妖夢の答えを聞いたマミゾウは、しばらくの間、黙って考え込んでいた。そして、おもむろに口を開く。

 

「……闇に惹かれれば、闇に魅入られる。せいぜい、気をつけることじゃな。他者の決めた道に口出しするのは、あまり好かんからの。儂からは、それだけじゃ。引き止めて悪かったのう。縁があれば、また会おうぞ」

 

 そう言って、マミゾウは妖夢に別れを告げた。妖夢も、軽く会釈をしてそれに応える。そして、両者は別々の方向へ歩き出した。

 

「○○、さん……」

 

 やはり彼は、剣の道で自分より遥か先を行く存在なのだ。妖夢は改めて、その事実を思い知った。

 道を踏み外したと言っていたが、人が妖怪を斬ることの是非など、所詮は他者の価値観でしかない。

 人と妖は敵であり、相容れぬもの。それが、世の理であるはずだ。

 彼は善人ではない。だが、悪人でもない。ただ己の信念に従って、刀を振るっていただけ。そこに迷いはなく、躊躇もないのだろう。

 

 それに比べて、自分はどうか。妖夢は、自分の心の中に問いかける。

 主の幽々子に仕えているとはいえ、それは魂魄家の先代から役目を引き継いだことに他ならない。自分が望んで、仕えたわけではない。産まれたときから、そうなる運命だと、定められていただけだ。

 自分の意思で選んだのではなく、流されるままに生き続けてきた。それゆえ、今の自分に何があるのか、わからない。まるで霧の中を、彷徨っているような気分だ。

 だが、それでも一つだけ、言えることがある。

 

「……強くなりたい」

 

 剣の道を歩んでいる者なら、誰しも一度は願うこと。妖夢もまた、その例外ではなかった。祖父が刀を振るう姿を見て以来、妖夢はずっと、その思いを抱き続けていた。

 しかし、いくら修行を積んだところで、その願いが叶わないことを、よく理解していた。どれだけ努力しても、祖父の足元にも及ばないということは、嫌というほど身に染みていたからだ。

 

 そして、幻想郷には同じ道を進む者がおらず、相談できる相手すらいない。比較対象がいない以上、上達しているのか、成長できているのか、判断することすらできなかった。

 だからこそ、○○と出会ったときは、本当に嬉しかった。彼とならば、切っ先が見えない暗闇の中でも、共に歩み続けることができるかもしれないと、そう思ったのだ。

 

「まだ、無縁塚に居るのかな……」

 

 刀の封印が解かれたから、○○は姿を現したのだろう。ならば、刀を封印しない限り、再び彼と会える可能性がある。

 そう考えた妖夢は、急いで買い出しを終えて白玉楼へと戻った。

 そして、庭師としての仕事を片付け、剣の鍛錬に使う時間を、○○を探すことに費やすことにしたのだ。

 

 

 

 単身、無縁塚へ赴き、○○を捜し回る妖夢。それほど広くない場所なので、彼の姿は、すぐに見つかった。木に背を預け、地面に座り込んでいる○○の姿が。

 

「あっ……」

 

 ○○に声をかけようと近寄った時、妖夢はふと足を止める。よく見ると彼は目を閉じており、どうやら眠っているようだった。

 しかし気配を察したのか、すぐにまぶたを開き、妖夢の方を見つめてきた。

 

「……なんだ、誰かと思えばお前か」

「も、申し訳ありません! お昼寝の邪魔をするつもりは、なかったのですが……」

「目を閉じていただけだから、気にしなくていい。それより、なぜ刀を持っている? 俺の忠告を無視してまで、何のつもりだ」

 

 妖夢の背にある刀を見た瞬間、○○は顔をしかめた。どうやら、かなり不機嫌になっているらしい。それも無理ないだろう。

 妖夢は少し迷ったが、意を決して、○○に話しかけることにした。

 

「あの……この刀を封印したら、貴方は消えてしまうんですよね?」

「そうかもな。俺は、この世の理から外れた存在。刀に縛り付けられた、残留思念に過ぎない」

 

 ○○は、ぶっきらぼうに答えると、苛立ちを隠そうともせず、大きな溜め息をつく。

 

「輪廻転生という言葉を、知っているか? 死んでも魂は巡り続け、新たな生命として誕生するという思想だ」

 

 唐突に語り始めた○○の言葉に、妖夢は首を傾げる。

 

「俺は一度死に、人間から亡霊になった。そして刀に縛られ、この世に留まり続けた。刀の妖力が尽きるまで、俺は消えることもできないままだ」

 

 亡霊は幽霊と違い、肉体を持った存在である。生前の未練によって、成仏することもできずに、現世を彷徨い続ける者。○○の場合は、怨霊といったほうが、適切だろうか。

 妖夢の主である幽々子も亡霊であるが、彼女の場合は、みずから死期を早めただけであるため、未練が残ったままでいるわけではない。例外中の例外。

 だが、○○は違う。彼は生ける屍も同然なのだ。人の道を外れ、修羅道を歩むことを選んだがゆえに、彼は人としての尊厳を、奪われてしまったのだから。

 

「……初めは、復讐のつもりだった。だが、刀を振るううちに、斬る喜びを覚えていった。人間一つ、生死を賭けて斬れば斬るほど、言い知れぬ快感を覚えた。そして、いつしかその感覚に溺れるようになってしまった。それが刀に取り憑かれ、刹那に生きる者の宿命なのかもしれないな」

 

 淡々と語っていく○○だったが、妖夢は彼が何を言わんとしているのか、理解できていた。妖夢自身、その気持ちに覚えがあったからだ。

 

 これまで妖夢は、剣の腕を上げるために、様々な者と戦ってきた。それは妖怪であったり、神だったり、時には人間を相手にすることもあった。

 そのとき感じた感情は、今思い出しても鳥肌が立つほどに恐ろしく、そして甘美なもの。血を流し、傷つきながらも、刀を振るい続けることができた理由が、そこにあったのだ。

 

「だがな、その果てには、何もないんだよ。ただ虚しさだけが、残るだけだ」

 

 そう呟く○○の顔には、諦めの色が浮かんでいた。彼は、自らの運命を受け入れているのだ。

 妖夢は、何も言えなかった。彼の言葉を否定しようにも、明確な根拠がない以上、軽々しく口にすることはできなかったからだ。

 

 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。やがて、先に口を開いたのは、○○のほうだった。

 

「だから、妖忌……お前の祖父に頼んだのさ。迷いを断ち切る白楼剣で、俺を終わらせてくれと。だが、完全には消せなかった。幾千の妖を斬り捨てた俺の業は、消えなかったんだ。積もり積もった怨嗟が、俺を縛り付け、中途半端に自我を残してしまった。妖忌は、自分の腕が未熟だからと嘆いていたが、それは違う。怨嗟の念が、強すぎたせいだろうな」

 

 ○○の口から発せられた事実に、妖夢は驚愕した。祖父が、そんなことをしていたなんて、まったく知らなかったのだ。自身の過去を語りたがらない祖父のことだから、仕方ないといえば、それまでかもしれないが。

 ○○は、妖夢の表情を見て、少しだけ微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。

 

「妖忌に封印され、悠久の時を経て、その孫に封印を解かれるとは、なんの因果か。皮肉にも程がある。……ふふっ。べらべらと、語りすぎたようだな。……さて——」

 

 ○○は自嘲気味に笑うと、未だ立ち尽くしている妖夢に、視線を向けた。黒々として、光のない瞳に見つめられ、妖夢は思わず息を飲む。

 

「お前に、斬れるのか? 俺の……妖忌にも斬れなかった業を、お前のような半人前が、斬ることができるのか?」

 

 試すような口調で尋ねてくる○○に、妖夢は言葉を詰まらせた。

 そんなのは、無理に決まっている。心技体ともに未熟な自分が、亡霊とはいえ歴戦の剣客である彼を、斬れるはずもない。

 祖父でさえ斬れないものを、自分なんかが斬ることなど、できるはずがない。

 

「……無理、です」

「なら、さっさと刀を封印してもらえ。刀の怨嗟が、いつお前に牙を向けるか分からんからな。女の身にして修羅に堕ちたくはないだろう?」

 

 妖夢の言葉を聞いた○○は、少し呆れた様子を見せる。

 しかし妖夢は、○○の言葉を受けてもなお、その場から離れようとはしなかった。むしろ、一歩ずつ○○へと近づいていく。その顔からは、何かを決意した様子が見て取れる。

 

 そして、彼の前まで来ると、妖夢は刀を地に置き、静かに腰を落として、正座をした。生足に草がチクチク刺さるが、気にせず姿勢を崩さない。

 妖夢の行動の意味がわからず、怪しげな目付きで見つめる○○を尻目に、妖夢は大きく深呼吸をする。それから、○○を見据えながら口を開く。

 

「確かに私では、貴方を斬ることはできません。ですが、今は無理でも、いつか必ず成し遂げてみせます。私が、貴方の迷いを斬って、救ってみせます!」

 

 妖夢の決意に満ちた声が、辺り一帯に響き渡る。彼女の眼差しは真剣そのもので、嘘偽りなど微塵も感じられないものだった。

 そのまま、両手を地面につけ、頭を垂れる妖夢。その姿はまるで、主君に忠誠を誓う家臣のようであった。

 

「だから私を、貴方の弟子にしてください! 未だ剣の道半ばなれど、この身に流れる血は、祖父の妖忌と同じもの。稽古をつけてくだされば、いずれ師匠を超える日が、来るやもしれません」

 

 妖夢は、額を地に擦り付け、○○に弟子入りを申し出た。

 この行動には、○○も驚いたようで、しばらく目を丸くして固まっていたが、やがて大きなため息をつく。

 

「……頭を上げろ。おなごに土下座をされる趣味はない」

「で、では……?」

 

 ○○の言葉を聞き、おそるおそるといった感じに、頭を上げる妖夢。

 彼女は今、凄まじく緊張していた。脂汗を流し、心臓の鼓動は早くなり、手足は小刻みに震えている。それは恐怖からくるものではなく、武者震いに近いものだった。

 

「俺は常世の存在。つまり、陰気の濃い場所から離れられん。だから刀のことは、お前に託すしかない。しかし、お前にその気がない以上、何を言っても無駄なんだろう? 自分を斬らせるために、自分の手で弟子を育てるなど、正気の沙汰ではない。……それでも、人の道から外れた俺には、案外似合っているのかもしれないな」

 

 そう言うと○○は立ち上がって、妖夢に向かって手を差し出した。妖夢はその手を握り返し、同じく身を起こす。

 

「いいだろう。俺の剣術を、教えてやる」

「……はいっ!」

 

 こうして、幽々子の従者である魂魄妖夢は、白玉楼の庭師であった妖忌の孫娘は、○○という亡霊の剣士に、剣術を教わることとなった。

 妖夢が○○に教えを乞うた理由が、自分の為なのか、それとも彼のためなのかは、妖夢自身にもわからない。

 ただ一つ言えるのは、二人の出会いが、偶然ではなかったということだけだ。



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妖夢中編二

 

「はぁ〜、さっぱりしたぁ」

 

 夜の自主鍛錬を終え、汗まみれになった身を湯浴みで清めた妖夢は、呑気にそんなことを言いながら、自室へと向かっていた。

 白玉楼の廊下から見える夜空には雲一つなく、月と星々が輝いている。今宵は十五夜。冥界の夜は、静かだった。

 

 その中を歩く妖夢の足取りは軽い。○○という新たな剣の師を得られたことで、拠り所が出来たような気がしていたのだ。

 あの日、彼と師弟の関係になってからというもの、毎日のように剣術指南を受けているのだが、それはとても楽しいものだった。

 

 寡黙で多くを語らない祖父とは違い、彼は対話をもって教えてくれる。また、彼の戦い方は実戦的で、無駄がなく洗練されていた。型にはまっている自分とは、対照的だと思ったものだ。

 それに、何より○○と一緒にいる時間が心地良い。彼は、動きが良ければ褒めてくれるし、悪ければ叱って注意してくれる。そして最後には頭を撫でて、よくやったと言ってくれるのだ。

 

「……ふふっ」

 

 そのときの感触を思い出し、思わず笑みを浮かべてしまう。

 祖父は良くも悪くも、妖夢に対して無関心であり、どこか物足りなさを感じていた。それゆえ、誰かに認めてもらうということに慣れていないのだ。

 

「なんだか修行も楽しいなあ……」

 

 自然と口から漏れる独り言は、年相応の少女のものとなっていた。西行寺家の剣術指南役という重責を担う者としてではなく、一人の少女として。

 

「早めに寝て、明日に備えないとね」

 

 そう呟きながら部屋に入り、布団を敷いて横になる。一日鍛錬に明け暮れて疲れているせいか、すぐに眠気が襲ってきた。

 このまま眠りについてしまおう。そう思った瞬間、妖夢は微かな違和感を覚えた。

 

(なんだろう……?)

 

 それは肌を刺すような、冷たい空気の流れだった。以前にも感じたことのある、嫌な雰囲気である。

 妖夢は布団の上で身を起こし、目を閉じて神経を集中させる。すると、やはり間違いなかったようで、自室の外から何らかの気配を感じとれた。

 

「白玉楼に、何かが居る……。これは幽々子さまじゃない。もしかして、侵入者……?」

 

 わざわざ冥界にある白玉楼にまでやってくる者は滅多にいないが、万一にもあり得ない話でもない。現世ならともかく、ここは常識では計れないことが起こる場所だ。

 

 とにかく確認してみるしかないと、妖夢は静かに立ち上がる。そして、刀掛台に置かれた二振りの刀を手に取った。

 それから部屋を出て、もう一度神経を研ぎ澄ませて、気配を探ってみる。どうやら屋敷の近くには居ないようだったが、それでも離れた場所に何者かがいることは確かだった。

 

「……遠い。でも、この気配は……」

 

 妖夢は急いで身支度を整えると、そのまま空に飛び立って行った。

 

 

 

 冥界の夜空を駆けること数分。

 白玉楼の広大な庭の中、月明かりの下で佇む影を見つけた妖夢は、そこへ降り立った。

 

「お前、死んだはずじゃ……」

 

 そこにいたのは、かつて無縁塚で切り殺したはずの狼だった。

 闇夜に溶け込む漆黒の毛並みに、爛々と輝く紅の瞳を持つ獣は、牙を剥いて低く威嚇するような声を上げながら、妖夢を見据えてくる。

 

「あの致命傷を受けて、生きていたの? ……いや、死んで成仏できなかったから、怨霊となってまで、お礼参りにきたのか」

 

 妖夢はそれを前にしても、臆することなく対峙していた。目の前にいるのは、ただの獣ではないと理解しているからだ。

 以前戦ったときは、楼観剣が手元になかったせいで苦戦を強いられたが、今は違う。妖怪によって鍛え直された楼観剣は、刀身を熱く滾らせていた。

 今こそ、醜態を晒したあのときの借りを返す時だと、妖夢は背に差していた楼観剣の柄に手をかける。

 

「どちらにせよ、わざわざ冥界までご苦労様。そして、さようなら」

 

 スラリと楼観剣を抜き放ち、切っ先を向けながら、妖夢は冷ややかな声で告げた。

 

「白玉楼の庭を、お前のような薄汚い獣の血で汚したくはないけど、大人しく斬られてくれる気はないみたいだし、仕方ないよね」

 

 狼は、妖夢の言葉を理解したのか、それとも単に気に食わなかっただけなのか、再び低い鳴き声を上げる。それが、開戦を告げる合図となった。

 

「いざ参るっ!」

 

 先に動いたのは、妖夢の方だった。地面を蹴り、一気に間合いを詰めていく。

 対する狼も、妖夢に向かって飛びかかった。鋭い爪が生えた前脚を振り上げ、彼女の身体を引き裂こうとしたのだ。

 

(遅いっ……!)

 

 しかし、妖夢は冷静に見極めると、最小限の動きだけでその攻撃をかわしていく。そして、すれ違いざまに刃を振るった。

 その一撃で、狼の両後脚は根元から綺麗に切断され、体勢を崩された相手は地面に倒れ込んでしまう。

 無縁塚で相対したときの再現だったが、やはり楼観剣の切れ味は抜群で、白楼剣の比にならない。

 

「なんてたわいない……」

 

 倒れたまま地面にのたうつ狼を見て、妖夢はつまらなそうに呟く。それから、とどめを刺そうと楼観剣を構え直したが、そのとき異変が起きた。

 

「……えっ?」

 

 突然、斬られた後脚から黒いモヤのようなものが立ち昇り、傷口を覆い始めたのだ。やがて、それは大きな塊となって、形を成していった。

 妖夢は思わず目を見開く。そして、すぐに直感的に悟ってしまった。

 

「再生……しているの?」

 

 ものの数秒足らずで、完全に元通りになった後脚。それを目にして、妖夢は唖然としてしまう。

 しかし、そんな彼女に構わず、今度は狼が襲いかかってきた。しっかり地を蹴ったところを見るに、生えた後脚はまやかしなどではなく、確かな実体を持っているようだ。

 

「……なら、急所を狙えば! ……霊突!」

 

 そう判断すると、妖夢はすかさず楼観剣を突き出した。心臓、あるいは頭を貫けば、いかに再生力の高い妖怪といえど、絶命は免れないだろう。

 だが、そう上手くはいかなかった。狼はその攻撃をあっさりかわすと、また距離をとってしまう。

 

「狼にしては、なかなか賢いじゃない。でも、所詮は獣。……幽々子さま、ごめんなさい。少しお庭を荒らします」

 

 妖夢は楼観剣を握り直すと、改めて上段に構えた。そして霊力を込め、自らの能力を解放させる。

 

「断命剣……!」

 

 すると、楼観剣は眩しい光を放ち始め、同時に刀身からは霊気が溢れ出してきた。周囲の空気までもが、ピリピリと震え出す。それはまさに、必殺の一撃を放つ準備が整った証であった。

 狼もそれに気づいたらしく、低く喉を鳴らして警戒心を露にしている。しかし、もう遅かった。

 

「——冥想斬!」

 

 気の入った掛け声と共に、楼観剣を一気に振り下ろす。霊気を纏った淡い緑色の光刃が、地を抉りながら真っ直ぐに狼へと向かっていった。生半可な敵ならば、この技の前には無力と化すだろう。

 

 光速で迫る剣圧を前に、もはや回避は不可能。狼は、なす術もなく光に飲まれ、断末魔をあげる暇なく消滅していくはずだ。

 

「やったか……?」

 

 光の奔流が消えたあとには、何も残っていなかった。肉や骨、毛の一本すら跡形もなくなっている。どう見ても今の一撃を受けて、無事でいるはずがない。

 そう思いながら、妖夢はゆっくりと楼観剣を納めようとしたが、そこで違和感を覚えた。

 

(……おかしい)

 

 確かに手応えはあった。それなのに、なぜ自分はこんなにも不安を感じているのか。嫌な予感がする。

 次の瞬間、妖夢はゾクリと背筋が凍るような感覚に襲われた。そして、咄嵯に振り返る。

 

「なっ……」

 

 そこには、黒い霧状の何かが渦巻いていた。凄まじい妖気の集合体であることが、嫌でも分かってしまう。

 

「まさか……」

 

 妖夢は静かに息を飲む。やがて、その渦の中から現れたのは、先ほどの狼だった。

 ただし、その姿は変わっていた。まず、明確に身体の大きさが違うのだ。

 

 先ほどより一回り大きくなっており、肉の厚みが増したように見える。さらに、口吻が長く伸び、顔つきまで変化していた。

 そして、何よりも異様なのは、全身から漂うドス黒い妖気だ。ヒリヒリと肌を刺してくるような気配は、とてもただの獣のものとは思えない。

 

(不死身とでも……? それに、やられるたびに妖力が増すの……?)

 

 冷や汗を流し、思わず一歩後退する妖夢。目の前にいる存在が、恐ろしくて仕方がなかったから。

 

「ウオォォォォッ……!」

 

 狼は、そんな彼女に追い討ちをかけるように、獰猛な遠吠えをあげた。周囲の空気が乱れ、振動する。

 思わず両手で耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、妖夢はそれを必死に抑え込む。刀を手放したら、その時点で終わりだと本能的に悟っていたからだ。

 

「ぐっ……!」

 

 狼の身体から立ち昇っている妖気が、一層強くなっていくのを感じる。そのあまりの邪悪さに、妖夢は今すぐ逃げ出したくなった。

 しかし、足を動かそうとしても言うことを聞かない。飛ぼうとしても霊力が乱れてしまい、それもかなわなかった。まるで、魂を直接掴まれ、握られているようだ。

 恐怖のせいなのか、それとも対手の妖気にあてられているのか。いずれにせよ、このままでは不味いということだけは、はっきりとしていた。

 

「はっ……はあっ……!」

 

 呼吸が荒くなり、心臓が激しく脈打つ。額に玉のような汗が浮かび、手足が震え始めた。

 しかし、そんな妖夢の様子などお構いなしといった様子で、狼はジワジワと距離を詰めてくる。その鋭い眼光が、妖夢の身体を射抜く。

 

(ば、化け物……!)

 

 弾幕ごっこでは味わったことのない、明確な殺意。それを身をもって感じ取った妖夢は、ついに限界を迎えてしまう。

 握力が抜け落ち、そして、楼観剣を手離してしまったのだ。地面から乾いた音が響くと同時に、妖夢はその場に崩れ落ちる。

 

「か、勝てない……。私じゃあ、こいつに太刀打ちできない……」

 

 情けなく呟くと、妖夢は諦めたように目を閉じた。もう格付けが済んで、抵抗しても無駄だということがわかっているのだ。

 

 人は脆く、精神が恐怖に支配されただけで死ぬ。ましてや、相手は妖怪の中でも上位に位置するであろう化け物なのだ。並大抵の精神力で抗えるものではない。半人前の妖夢が戦意を喪失するのは、当然のことであった。

 

「くそぅ……!」

 

 妖夢は震える声で悔しさを滲ませる。言うことを聞かない身体が恨めしく、そして無力な自分が腹立しかった。

 あのとき、しっかりとトドメをさせていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。妖夢の心の中で後悔が渦巻き、自責の念が膨れ上がっていく。だが、いくら悔やんでももう遅い。時間は戻らないのだ。

 

(でも、なんであのときは勝てたんだろう……?)

 

 ふと、無縁塚で戦ったときのことを思い出す。

 確かに苦戦したが、それでも狼を倒すことはできた。その場では再生もしなかったはずだ。それは、何故だったのだろうか。

 

(……そうか。あの刀……○○さんの刀で斬ったから……)

 

 妖刀餓狼。あの刀は、斬りつけた者の血を啜る。それは、妖気を吸収するということだ。つまり、狼の妖気を奪ったから、再生能力が一時的にでも失われたということになる。

 

 妖夢はその結論に至り、ようやく納得した。それと同時に、餓狼を帯刀しなかったことを後悔した。どうせ抜けないからと思っていたので、白楼剣と楼観剣しか帯刀してこなかったのだ。

 

 しかし、今更嘆いても仕方がない。妖夢は、ゆっくりと目を開ける。もう一足一刀の間合いまで、狼が迫ってきていた。

 もはやこれまで。妖夢は自分の死を受け入れようとした、そのときだった。

 

「グルルゥ……」

 

 狼が突如として空を見上げたかと思えば、そのままピタリと動きを止める。妖夢も何事かと思い、慌てて顔を上げる。

 

「……なに?」

 

 上空には満月を背にして、人影のようなものが浮遊していたのだ。それはゆっくりと下降すると、音もなく地面へと降り立った。

 そして近づいてくるその人物を見た瞬間、妖夢は驚きのあまり息を飲んだ。

 

「あっ……えっ?」

 

 それは、自分と瓜二つの姿の少女であった。何もかもが、まるで鏡写しのようにそっくりである。

 しかし、瞳の色だけが違っていた。妖夢のほうは、深い海の底を思わせるような蒼い色をしているのに対し、少女の目は赤い宝石のような輝きを放っているのだ。

 

「……ふふふ。なるほど、喰われに参ったか。なら、是非もないわ」

 

 突然現れたもう一人の妖夢は、狼の方へ視線を向けると、静かに語った。

 彼女が発した声質は妖夢と同じなのだが、どこか違和感がある。しかし、今はそんなことよりも、目の前の現象に頭が追いついていなかった。

 

 彼女は含み笑いを漏らすと、妖夢たちの方へ歩み寄り始めた。

 不思議なことに、一歩、また一歩と足を進めるたびに、狼は怯えるように後退りをする。その様子はまるで、彼女に気圧されているようでもあった。

 

 やがて、二人の妖夢の距離がニメートルを切るかというところで、狼が大きく後ろへ飛び退いた。そして、牽制するように睨みつける。

 

「……貴女は、何者?」

「何って、私はお前よ。そして、お前は私でもある。そんなことより、邪魔だから退いてくれないかしら? 万が一にも、身体を傷つけるわけにはいかないし」

 

 妖夢の問いに、彼女はそう答える。口調こそ丁寧なものだったが、その言葉からは有無を言わせない迫力があった。

 そして彼女は、手に持っていた刀の鞘から悠然と刀身を抜き放つ。

 

「えっ、それは……」

 

 妖夢は、その刀に見覚えがあった。いや、見間違えるはずもない。

 月夜を薄らうつす刃紋。それは紛れもなく、○○の愛刀——餓狼だった。

 

「ああ、今宵は満月。故に、死に狂うには丁度いい」

 

 彼女は抜刀した状態で狼に正対すると、鋭い眼光で一睨みする。そして刀を、肩に担ぐように持ち上げた。

 次の瞬間、刀身から凄まじい妖気が溢れ出す。彼女自身からも禍々しい殺気が放たれたかと思うと、妖夢は全身が粟立つ感覚に襲われた。

 

(まずい……!)

 

 妖夢は本能的に悟る。近くに居たら危険だ、と。それから這いつくばるようにして彼女の間合いから離れ、事の成り行きを見守った。

 

「いかなる命も、我が剣の前には無常。永久に儚く散るがいい。流星剣、徒花——」

 

 詠唱を終えると同時に、彼女は刀を一閃。そして、刀身に纏わり付いていた妖気が、解き放たれる。

 先ほど妖夢が放った剣技とは、比べものにならない剣圧。それは空気を切り裂きながら一直線に突き進み、瞬く間に狼を飲み込んだ。

 

「ギッ……!」

 

 一瞬の断末魔をあげ、狼は内側から破裂するように爆散した。

 辺り一面に飛び散る肉片と血飛沫。それらが雨粒のように降り注いでくる中、妖夢は腕で顔を庇いながらその様子を見ていた。

 

「さあ、おいで……」

 

 彼女は、血の雨を浴びて白髪を朱に染めながら、刀を天に掲げた。

 すると、刀身に吸い込まれるようにして、狼の血と妖気が吸収されていくではないか。

 妖夢の全身に付着していた血肉も、霧散するように消えていく。それに伴って、刀が妖しく輝き始める。

 

「……きれい」

 

 妖夢はその光景を見て、感嘆の声を漏らす。凄惨な戦いが終わったと後だというのに、まるで一枚の絵画を見ているかのような気分になった。

 

「……まだ? そう、足りないというのね。ふふふ……いいわ。私もよ……」

 

 刀が完全に血を吸収すると、彼女は刀に問い掛けるような素振りを見せ、そしてうっとりとした表情で、刀身に口付けをした。その姿は、とても常軌を逸しているように見える。

 

 それから鞘にしまうと、背に差して妖夢の方へと向き直った。

 妖夢は、呆然と立ち尽くしていた。今し方起きた出来事が、未だに信じられなかったのだ。

 

 彼女は辺りをキョロキョロと見渡すと、何かに目星をつけたのか、ゆっくりとそちらに歩み寄っていく。

 そして、地面から拾い上げたのは、妖夢が落とした楼観剣だった。

 

「ほら」

「えっ? ……あ、ありがとう」

 

 抜き身の楼観剣を持ちながら妖夢の目の前まで来た彼女は、それを差し出した。妖夢は楼観剣を受け取ると、慌てて頭を下げる。

 しかし、彼女は何も言わずに、妖夢の横を通り過ぎていった。

 

 その時、妖夢は彼女の瞳の色を見た。それは先ほど見た時よりも赤く染まっており、まるで鮮血のように真っ赤に輝いていたのだ。

 妖夢は、背筋に悪寒が走るのを感じた。得体の知れない恐怖が、心の奥底から湧き上がってくるような感覚に襲われる。

 

「死合いの最中に得物を手放すとは、剣士としてあるまじき行為よ。この未熟者」

 

 彼女は、背中越しに妖夢へ語りかける。その声は、妖夢が聞いたこともないくらい冷たく、無機質なものに感じられた。

 

「そ、それは……そのとおり、です……」

「まったく、我ながら情けない。あの程度の相手に怖気づくなんて」

 

 妖夢が振り返るよりも早く、彼女は言い放つ。妖夢は何も言えずに押し黙り、ただ俯くことしかできなかった。

 そんな様子を知ってか知らずか、彼女はそのまま話を続ける。

 

「ようやく目が覚めたと思ったら、まだ器が仕上がっていないみたいだし。どうしたものかしら?」

 

 彼女は独りごちるように呟いた。その言葉の意味が理解できず、妖夢は首を傾げる。

 

(……目が覚める? 器?)

 

 聞き返そうにも、口を挟む雰囲気ではない。妖夢は、大人しく次の言葉を待った。

 

「あの方のおかげで、ある程度は馴染んだようだけれど……。でも、まだまだ足りないわ」

「……何を言っているの?」

 

 妖夢は堪らず疑問を口にする。すると彼女は、妖夢を一睨みすると、不機嫌そうな口調で言った。

 

「愚か者。そうやってすぐ人に答えを求めるところ、本当に気に入らないわ。少しは自分で考えなさい。お前自身のことなのに」

 

 妖夢は思わず、ビクッと肩を震わせる。

 

「まあ、お前の役目は、機が熟すまで五体満足でいること。それだけだから、別に構わないけど」

 

 彼女は淡々と口にすると、もう用はないと言わんばかりに、その場から飛び去っていった。

 

「何なのよ……」

 

 一人残された妖夢は、しばらく呆然としていたが、やがて楼観剣を鞘にしまい、屋敷に帰ろうと飛び始めた。

 色々と分からない事だらけだったが、精神的、身体的疲労から、考えるのをやめたのであった。

 

 

 

(ああ、疲れた……)

 

 それから屋敷の自室の前へ戻ってきた妖夢は、障子を開けて中に入る。

 

「あれ?」

 

 部屋の中には先客が居た。というより、残っていた。

 ふよふよと宙に浮かんでいる白いものが、部屋の隅でポツンと佇んでいたのだ。

 

「……そういえば、さっきから見かけなかったわね」

 

 それは妖夢の半霊だった。半霊とは妖夢にとっての半身。普段から側にいるのが当たり前なので、あまり気に留めていなかったのだ。

 

「……あっ」

 

 妖夢は、ふと先ほどの出来事を思い出す。もう一人の自分と、出会った時のことを。

 

「さっきの、もしかしてあなたなの?」

 

 妖夢は、半霊に向かって話しかける。だが、返事はない。霊体であるはずの半霊には、そもそも発声器官がないからだ。

 一応、半霊の意思で一時的に実体化することも可能だが、それをやると妖力を大幅に消耗するため、普段はしない。半霊もその気はないようで、ただゆらゆらと漂っているだけだった。

 

「でも、私の半身に過ぎないから、あんなに強いわけないよね」

 

 妖夢が悩んでいても、半霊に変化はなかった。

 

「うむむ……むっ?」

 

 ふと半霊の方に視線を向けると、側の畳に何かが落ちていることに気づく。それは、刀掛台に立て掛けてあったはずの、餓狼だった。

 

「やっぱり……」

 

 妖夢はそれを拾い上げると、まじまじと見つめる。

 それから柄に手を添え、刀身を抜こうとした。しかし、刀はびくともせず、抜ける気配もない。

 

「……はあ。なんで私には抜けなくて、あなたはいとも容易く抜くことができるの……」

 

 妖夢はため息をつく。そして、再び半霊の方へと目を向けた。やはり、半霊は何も語らない。

 

「教えてくれてもいいのに。あなたは私なんだからさあ。半霊のくせに生意気じゃない?」

 

 挑発してみるものの、半霊は相変わらず何も言わない。

 

「はあ……。もういいもん、寝るっ!」

 

 その態度に腹を立てたのか、妖夢は再び大きな溜め息をつき、仕方なく床に就くことにした。

 

 

 

『目覚めた少女は幼き夢をみる』

 

 

 

 少女にとって、刀は全てだった。物心ついた時から刀を握り、技を仕込まれていった。

 それは少女が望んだことではなく、ただこの世に生を受けた時から与えられた義務に過ぎない。それが当たり前であり、それ以外の生き方など知らなかった。

 

 幸いにも少女には天賦の才があった。齢にして十に満たないにも関わらず、師である父の背中に迫るほどに。そして同時に、刀の魅力に取り憑かれてしまった。

 

 それこそが、惨劇の始まりであった。

 

 刀を振るう度に感じる高揚感と快感は、麻薬のように少女の心を蝕んでいく。一つしかない命を賭ける価値がある程に素晴らしいものなのだと、少女はそう信じて疑わなかった。

 故に斬る以外何も知らない。それ以外に興味も関心もない。ただひたすらに刀を振り続け、酔いしれる。

 人の道理を教えられることもなく、人の在り方を深く知ることもないまま。愛情を向けられることのないままに。

 

 

「そんなところに居ると、風邪をひくぞ」

 

 満月が夜空を照らす十五夜。屋敷の縁側に腰掛けていた少女に、声をかける男がいた。

 

「父さま」

 

 男は少女の実父だ。長い白髪は後ろで束ねられていて、一つ一つの動作ごとにゆらゆら揺れている。

 白髪なのは老いているからではなく、元々色素がないからだ。先祖代々受け継いできた体質らしく、一族全員が白い髪をしているらしい。

 

 顔立ちはとても整っており、成長期の子を持つ親とは思えないほど若々しい。

 ただし目つきだけは鋭く、切れ長の目をしている上、常に眉間にシワを寄せているため、不機嫌そうな印象を与えるのだ。武人然とした雰囲気も相まって、初対面では近寄り難い人物だと誰もが思うだろう。

 

 それでも娘の前では、愛情を持つ父親を演じようと努力しており、その表情を和らげながら隣へ座った。

 

「何をしていたんだ?」

「刀を、見ていました」

 

 父からの問いに対し、少女は無表情で答えた。その瞳は何も映さず虚ろだが、それでも美しい顔立ちをしていることが分かる。

 父ゆずりの白髪は肩先まで伸びており、前髪は綺麗に切り揃えてある。肌の色は白く透き通っていて、血が通っているのか疑わしいくらいだ。しかし病的な印象はなく、むしろどこか神秘的ですらある。

 

「刀……白楼剣か」

「はい。これから自分の命を預ける得物。よく知っておかないと」

 

 少女は手に持った抜き身の刀を、月にかざすように持ち上げながら言った。

 

「真っ直ぐです。刀身も、刃紋も」

「白楼剣は、斬った者の迷いを断つ刀だからな。曇りなき鏡のようなものだ」

「はい。よく斬れそうだと思います」

 

 少女の言葉を聞いて、父は閉口するしかなかった。まだ幼いとはいえ、自分の娘の異常性に気づいているからだ。

 

 この少女の中には、人として大事なものが欠けている。愛情や優しさといった感情はもちろんのこと、自分の身を危険に晒すことへの恐怖心すら持ち合わせていない。

 剣士としては優秀かもしれないが、あまりにも歪すぎる。しかし、だからこそ強者でいられる。

 

 そしていつか娘が、自分を超える存在になるだろうと、彼は確信に近い予感を抱いていた。それを期待してしまうこと自体が、自分の弱さであるとも理解しながら。

 

「……正直なところ、お前に跡を継がすには、まだ早いと思っている」

「何故です? 父さまは、私の力を認めています。だからこそ、白楼剣を譲り渡してくれたはず」

 

 少女は、ようやく父の顔を見た。彼の言葉の意味を理解しかねているという様子だった。

 

「ああ。腕は申し分ない。西行寺様も褒めていらっしゃったからな。だがな、それだけでは駄目なんだ」

 

 父の言葉に対して、少女は何の反応も示さなかった。彼女の頭の中にあるものは、たった一つだけ。自分が今より強くなるためには、どうすればいいかということだ。

 誰が何を言おうとも関係ない。ただ刀を振るいたいだけだという意志が、伝わってくるようであった。

 それを感じ取った父は、ため息をつく。

 

「……お前にとって、剣とはなんだ?」

「剣は斬るためにあります。そして剣術は、敵を斬るための手段」

 

 唐突に投げかけられた質問に、少女は即答した。

 それは彼女にとって当然のことであり、疑問を抱く余地もなかった。諷意もなければ誇張もない。ただ純粋なまでに、彼女はそう思っていた。

 そんな少女を見て、父は悲しげな表情をする。まるで我が子を憐れむような目だった。

 

「力を振るうことに、愉悦を覚えたことはあるか?」

 

 今度は少し間を置いて、ゆっくりと訊ねた。少女はその意図を掴みあぐねるものの、素直に答えることにした。

 

「はい。その時は、生きる意味を実感できるので」

 

 父の望む回答ではなかったのかもしれない。それでも少女はそう答える他なかった。それ以外に、何も知らなかったから。

 その返答を聞いた瞬間、父の目が鋭さを増した。何かを見定めるかのように、じっと娘の姿を凝視する。

 

「やはり——」

「あなた」

 

 口を開こうとした時、横槍のように聞こえてきた声によって遮られる。彼が振り向くと、そこにはいつの間にか女性が立っていた。

 

 白髪の彼とは対照的に、艶のある黒髪を腰まで伸ばしている。切れ長の目は涼やかな印象を与え、これまた整った顔立ちは美しく、十人が見れば十人は美人だと評するだろう。

 ただし、表情はどこか陰りを帯びており、それが美しさに妖しさを加味して、妖艶へと昇華させていた。

 

 女性は彼の妻であり、少女の実母である。

 彼女は隣り合っている二人を見るなり、眉根を寄せて言った。

 

「床でお待ちしておりましたのに、こんなところで何をなさっているのです?」

 

 語調こそ丁寧なものだったが、そこに込められている感情は明らかな怒りであり、有無を言わせない迫力があった。

 

「いや、部屋に向かう最中、この子を見かけたものだから……」

 

 少しばかりしどろもどろになりながら、彼は弁明する。

 彼は、妻のことを苦手としていた。いや、どちらかと言えば、心底惚れているからこそ、機嫌を損ねることが怖いといったほうが正しいだろうか。

 

「なるほど。私より、娘のほうが大切なのですね……」

 

 女性はその言葉を聞き、少女に対して獣のような鋭い視線を向ける。実娘に嫉妬するほどの愛憎。もはや狂気と言ってもいいほどの想いが、彼女にはあるのだ。

 

「……なにを拗ねておるのだ?」

「当然でしょう。私はあなたが来るのを、ずっと待ち焦がれていたのですよ? なのにあなたは、私のことなど見向きもせず、娘の相手をしていらっしゃった」

 

 彼の問いに対し、妻は淡々と答えた。口調自体は冷静だが、表情には苛烈なまでの憤怒が現れていた。

 

「……悪かった。しかし、数分くらい良いではないか」

「私にとって、数秒ですら我慢ならないのです! 一刻も早く、あなたの温もりを感じたい……だというのに……あなたは……」

 

 そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせた。先程までは威勢よく話していたが、今は俯いて肩を震わせている。

 

「お、おい、なにも泣くことはないだろう……」

 

 彼は妻を慰めようと慌てた様子で立ち上がり、そっと肩に手を置く。すると、女性は彼の胸元に抱きつき、その身体を強く抱きしめた。

 

「抱いてくださいまし」

「……娘の前でか?」

「関係ないわ。私の側にいるのは、愛する夫だけですもの」

 

 そう懇願されては仕方がないとばかりに彼は一息をつくと、妻の背に手を回して優しく撫で始めた。

 

 その様子を、少女は無表情で見ていた。少女には、母が泣いている理由も、父が母を宥めようとしていることも、まったく理解できなかった。

 しかし、自分が原因で夫婦仲が悪くなっていることだけは分かった。だから、これ以上二人の邪魔をしてはいけないと思い、静かにその場を離れようとした。

 

「私は自室に戻ります。おやすみなさい、父さま、母さま」

「……ああ。そうしてくれ」

 

 両親の側を横切る際、少女は小さく会釈をした。それに対して、父は申しわけなさそうに短く返事をする。

 

 母は何も言わなかったが、彼女はちらりと横目で、少女のほうに視線を向ける。

 その濡れた瞳から伝わってくるのは、激しいまでの独占欲だ。そして口元は笑みを浮かべていたが、目は全くといっていいほど笑ってはいなかった。

 

 何故そんな目で見られるのか、少女は不思議だった。自分の何が気に入らないというのだろう。自分はただ、そうあれかしと母の期待に応えようとしているだけなのに。

 この歳で、西行寺家剣術指南役を父から引き継ぐに至るまで、剣の腕を磨いてきたというのに、何故。

 

 胸の内に燻る冷たい火を感じながらも、少女は足早にその場を去っていく。惑う少女の姿を、気味が悪いほどに輝く満月だけが見つめていた。



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