ONE PIECE~Two one~ (環 円)
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01-カエルヒ

 指先に触れるもう一つの手。握りしめた手が触れ合う。温かな場所。

 

 母は云った。

 

 まだだめよ。そのままでいて。

 

 わたしは頷いた。

 わたしの隣にいる、もうひとりのわたしも再び眠りに入る。

 おかあさん、ちゃんと起こしてね。

 

 わたしとわたしはうとうとと、戻る。

 うつつにみる、まどろみへと。

 

 

 

 

 

 それは優しく切ない夢だった。  

 目尻から流れる涙で目が覚め、指先が頬を濡らした跡を拭う。

 瞼を擦りながら周囲を見回すとまだ夜が明けきっていないようだった。布団の中で暖を取り目が慣れるのを待ってから時計を見ると5時を回ったばかりだと知る。このまま二度寝すれば幸せだろうと思いつつももぞもぞと毛布の中で手足をはみ出しながら、背伸びした。

 テレビを付ければちょうど天気予報をしており、天気予報士がはつらつとした声で空模様を伝えている。

 

 『本日の天気は全国的に晴れ、からりと晴れ洗濯物を干すには良い一日となりそうです』

 

 彼女、はカーディガンを羽織り、ストーブを付けて前髪を髪留めで押え、ぱたぱたと洗面所へと向かえば、パクリと歯ブラシを銜えこむ。

 水を入れスイッチオン。放っておくと湯が沸くティファールは便利だった。朝の必需品とも言えるだろう。

 

 洗顔しさっぱりとしたところで、窓越しに空を見た。

 青が広がり、雲ひとつない。

 ゆっくりと窓を開ければ冷たい風が室内へと流れ入った。

 ぶるりと身が震える。けれど彼女は凛としたような、朝の空気が好きだった。ゆっくりと空に昇ってくる朝日も、そして軒先から聞こえてくる雀のさえずりさえ、今日という日常の始まりを知らせてくれる。

 肩にかかる髪が風にたなびく。高層ビルによって切り取られたように見える空の向こう側に視線を向ければ、だいたいの一日の様子が分かる。

 晴れの日と雨の日とでは風の匂いが違うのだ。

 「夕方から雨。傘は必需、かな」

 

 唇から洩れる声は、朝の澄んだ空気の中に溶けてゆく。

 軽めの朝食を取り、道着に着替えて庭で軽く体を動かした。大抵は型を取るだけで終わる。祖父が生きていた時は道場で相手をして貰っていたが、今はひとり、呼吸を乱さないようにひと通りを流すだけだ。

 

 太陽の光が燦々と照りだしてくると汗を流し、服を着替える。そうするといつもはここで自宅を出なければならない時間となる。だが今日は随分と早起きしてしまったため、時間が余っていた。駅まで自転車で15分、雨を考えて徒歩で行くとしても30分もあればお釣りがくる。

 本棚からどれにしようかと迷っていた指先が一冊、を選んだ。

  『星の航海術をもとめて』

 友人たちからは本の虫と言われてしまうほど、家の中には部屋ごとに、様々なジャンルの書が並んでいる。その殆どは父や母が蓄えていた書物だ。だがそろそろ、自分が買った本達も、部屋をひとつ占領しそうな勢いであるのは間違いない。

 友人達と大学の帰りに本屋によれば、最後の最後まで粘るのが常だった。

 どれもこれも、読んでみたいものばかりで目移りしてしまうのだ。

 「飽きないねー」

 友人達は苦笑しながらも、行くよー、と必ず声をかけてくれる。彼女はその時、手にしていた本を戦利品としていた。

 「好き過ぎるってのも面倒だよね」

 そう言われても仕方が無い。これだけは引けない、こだわりだった。

 好きなのだもの。いつもそう返答する。

 そう言いながら、なぜか、知らなければならないという焦りに似た感情もまたある事を彼女は知っていた。

 理由は分からなかったが、大切な約束のような気がする、といつも思う。

 

 彼女は紅茶を入れ、時計にタイマーをセットし、居間のソファーではらりとページを捲った。

 手の中にある本には、口承でのみ伝えられてきた航海の技法を、カヌーに乗った若者の大冒険を添えて書かれている半フィクションものだ。読み返す度に何度、眼前に広がる青を瞼の奥に思い浮かべただろう。

 大学を卒業した後、仕事をしながら船舶免許を取ってもいいかもしれない。

 そんなことを思う。

 そしてどこか南の島で小さな小舟を操りながら、実際に青の視界へ旅立つのも楽しそうだと想像した。

 出来るかどうかは置いておき、やってみたいこと、を夢見るのは楽しいし、もし今、出来なかったとしても、いつか、できるかもしれない。

 

 小さな頃から感じる、海への憧憬は今も変わらず続いている。

 

 久々に懐かしい夢を見た。

 母の中に居た時の、優しい暖かさとでもいうのだろうか。

 小さな時、どうしてひとりなの?と両親に何度も尋ねていたのだという。ひとりではなかった、もうひとり、寄り添うように眠る存在が居た筈なのに、と。

 生まれる時も難産だと聞いた。

 陣痛が弱く、まるでまだ体内に留まって居たいと願っていたようだ、と。

 

 ふと視界が揺らぐ。

 アラームが鳴る前に時計の針を確認し、ゆっくり本を閉じた。

 鞄を取り、財布の中身を確認する。帰りに寄る場所があった。

 今年も今日で終わりを迎えるというのに、論文の資料作成がやってもやっても終わらないのが原因だ。

 個人分はなんとか提出出来そうだが、グループでのまとめがなかなか難しかった。誰かがまとめ役をしてくれたらいいのに。誰も彼もがそう思いなあなあとなってしまったのがいけなかった。

 とはいえ彼女も自分から立候補して、やります、などと率先する性分ではない。

 

 早めに帰れたらいいな。そうして紅白を見よう。

 そしてゆく年くる年が終わってからケーキを食べ、寝ようと思っていた。

 20回目の誕生日が、もう少しでやってくる。

 

 彼女は書きかけのレポートが入ったカバンを手に、家を出る。

 「行ってきます」

 

 

 

 夕方、突然の雷雨が交通機関を麻痺させた。

 天気予報を信じていた人々は携帯電話を片手に、空の機嫌を見守っている。

 夏場は珍しく無くなったゲリラ豪雨だが、真冬の発生は余り見られない、という。

 雷が避雷針へと幾つも手を伸ばしていた。

 

 何かを引き裂くような、爆音。

 そして停電。雷を苦手とする人々が悲鳴を発する。

 人々はみな、足止めされた場所で空を見上げた。視線を落としていた携帯や時計、本等から、パトカーと救急車のサイレンがこだまする黒く立ちこめた雲へと。

 

 

 わたしはゆっくりと瞬きした。

 頭がぼう、っとした。眠り過ぎたのか思考が霞んでいる。眠りから覚めると見知らぬ天井が…見えない。まどろみが強く、いまいち意識もはっきりと持てないでいた。

 ここはどこだろう。まず考えたのはそれだった。

 大学から帰る途中で降り始めた雨に負けず、駅に向かっていたはずだ。

 思いの外激しい雨粒にしっかりと傘を持ち歩いていた。

 …確か、雷が凄くて…

 

 ぼんやりとした視界がもどかしい。倒れてしまったのだろうか。病院、にしては賑やかな声が聞こえるような気がする。

 ここはどこだろう。

 叔母に、連絡がいってしまったのだろうか。もしそうならメンドクサイ事になりそうだと思いながら、目を瞬(しばた)かせた。

 なにせ叔母は海外在住で、日本とは地球半周分ほどかかる国に住んでいる。

 『だから言ったじゃない。こっちにおいで、って。何かあった時直ぐに駆けつけてあげられないのだから』

 きっと今回もお小言を貰うだろう。

 心配してくれるのはありがたかった。けれど、出来るだけ干渉されたくない、とも思っていた。

 

 荷物の中には学生証と定期が入っている。病院に運ばれたと仮定するなら、まずは大学に連絡が行くだろう。そこで止まっていて欲しいと切に願う。

 とりあえず起きなければ。

 そう思って手足を動かすが、いつものようには動かせなかった。しかもなぜか急に不安が湧き出して止まらなくなる。抗おうとしても理性より、感情が優先され、言葉にならない音が泣き声に変わるまでそう時間はかからない。

 

 「なにやってんだい、ホント下手だねぇ」

 賑やかしさが終わらない周囲から、そんな声が聞こえた。

 「おかしいのう。つい今の今まで寝とったのに」

 困ったような表情を浮かべる男から、同年くらいだろうか、かつてのありし日を知っている老婦人が、必死に泣き声をあげる、赤子をひょいと抱きかかえた。

 「ほうら、安心おし。周りがうるさいから、びっくりしちまったんだよねぇ」

 心地よく揺れる腕の中で、はふう、と息をつく赤子に老婦人は語りかける。

 「もう大丈夫だよ。ごつごつとしたガープさんの腕は固かったかい」

 「……」

 わしはこういうのは苦手なんじゃ。

 大きな巨体した、白いものが目立ち始めた男が胸を張って言う。

 その意識はどんなもんだと自慢しているようにも聞こえる大きな笑い声だった。

 祭り囃子のような人々の声が周囲を取り囲む。男の寄港に、多くの人が沸き立っているようだ。聞こえてくる言葉は、うたげ、飲み放題、料理。

 楽しげな声音が多く響いている。

 

 

 そこに至る前。

 確かな意識を持っていたとは言い難かったが、随分と長い間、波の音を聞いていたような気がしていた。

 口元に寄せられる甘い液体が喉を通過していた時以外はずっと寝ていたようなものだから、確とした記憶では無かった。けれど耳に覚えているほど聞き続けていた音は、そうそう忘れないものだろう。

 

 

 

 とある小さな村に、巨大な船が港についた。特色ある船は遠く海原を進んでいる姿を見るだけで、どこに属しているのかを如実に表す。

 それは世界を守る船だった。しかも着した村では特別な意味も含んでいる。

 

 港に着いた男はゆっくりと村へと入ってゆく。

 良く見知った場所なのだろう。

 両の手に生まれて数か月しか経っていない、首が座りかけた乳児を掴んで道を進んでいる。

 途中で出会った、道の先に住む住人だろうか。歓迎を親しげな言葉で放ちつつ、道すがらを共に歩く。

 特色ある船、は軍艦だった。

 村に近づくたび、増えてゆく人の群れをかき分けるかのように、水兵が中将、とその男の名を呼んだ。

 「なんじゃ、なにか…」

 こそりと伝令を耳元で報告すると、放っておけと面倒くさそうに一蹴する。どうせ任務という枠から外れているのはいつものことで、そこら辺に漂っている海賊船の3つ位を沈めれば帳尻が付くからだ。

 聞けば物騒な会話だと誰もが思うはずのものを堂々としていても、周囲の人垣は全く崩れない。それどころか、近頃沖合に黒い髑髏旗を付けた船が見えるのだと不安を口にする者達も居る。

 「分かった。後ほど行かせよう」

 海軍船を見ればこの海域から出ていくだろうが、と黒い口髭を蓄えた口角が上がる。がしかしこの男、ガープ的には海賊(それ)よりも優先すべき事項があった。

 己が船長を務める軍艦には、両手に握る子供らが使っていたベットや身の回り品が乗せられている。まずはそれらをこの村にある自宅に運ばなくてはならない。

 今日明日くらいは村に滞在するつもりでいたが、長くは隠し通せないだろう。ガープは本来向かう海域へ出ずに、大周りともいえる航路を取っていた。全ては双子をこの村に届けるために船長特権で下したのだ。

 このふたりを、この島に送り届けるためだけに、東の海へやって来た。

 

 すやすやと眠る赤子らは、周囲がどんなに騒いだとしても起きなかった。

 時折薄く目を開くものの、すぐにまた、眠りの中へと落ちてゆく。

 生まれたのがつい先日だ。外に出たとしてもすぐに動き回れるはずもない。

 「ガープさんの孫かい、その子らは」

 「可愛いじゃろ。エースとアン、という」

 男は目を細めた。

 どういう経緯であれ、ガープに託されたこの子供たちは、彼にとって初孫と言っても良いだろう。可愛くない訳が無い。

 「どうれ、遊んでやろう」

 何を思い誤ってか、ガープは盛大な笑いの後、高い高いを始める。

 後方、海側より荷車を引き、押していた海兵が遠くに見える小さな、上空に放り投げられる何かを見れば慌てて駆け寄り奪った。

 首もまだ座っていないのになにしているのかと上司に注意し、抱きとめた小さな体をあやしながら、手持無沙汰なガープをも働かせて家の装丁が整ったベットへと双子を寝かしつける。

 

 そうして目を覚まし、お腹が空いたのか、それとも人肌が恋しかったのか。泣き始めた女児をガープが抱けば、余計に泣き叫び始めたのを見かねて、老婦人が取り上げたと言う流れだ。

 まだぐずぐずと、いつ泣きだすのか解らないご機嫌斜めの状態ではあるが、一応は老婦人に抱かれるのは納得しているかのようにも見える。

 

 

 自分の名をアン、と認識した彼女はは深呼吸をし、自分を落ちつける。一体何がどうなっているのかを確かめたかったが、五里霧中だった。

 状況を確認しようと試みるも、目も見えず聞き慣れた言葉は全く聞こえてこない。

 全力で棚上げしたかった。

 問題だらけで、出来るのは泣く事くらいしかないのではないだろうか、とすら思う。

 

 指を動かそうにも力が入らず、理性よりも感情が優先された。

 戸惑いしかない。

 けれど自分を包みこむ手は優しかった。

 随分と頬に当たるひげが邪魔だとは思ったが、言葉に出来ない。

 どことなしか幼い頃、母に抱っこして貰っていたような、懐かしい気持ちだった。この手は自分ともうひとりに危害を与えない。それだけはなぜか分かった。

 

 赤ちゃんってこんな気持ちなのかなぁ。

 

 アンはふと思う。

 

 触れて来る手だけが頼りだ。

 確か生まれたばかりの新生児は、最初光の明暗しか認識できず、成長するに従い視力を得たはずだ。

 テレビでそんな事を放映していたような記憶がある。

 

 何かが近づいて来た。

 それは安心できる匂いだった。

 

 おじい、ちゃん?

 アンは数年前に身罷った、祖父かと声を出す。

 懐かしい顔がそこにある気がした。また会えるだなんて、夢でも見ているのだろうか。手を伸ばし笑いかける。

 

 「おお?」

 「ガープさん、抱いておやりよ」

 

 大きな掌が体を包む。ごわごわとした腕に戸惑いを浮かべながら幼子を抱く男の顔はいつもよりも優しい感じがした。周囲の声がひそひそと、だが確実に聞こえるような大きさで子煩悩ぶりを発揮し始めているガープを噂する。

 

 「エースは良く寝る子ね」

 

 お腹が空いたのかしら、それとも…

 村の女達はガープから女児を再び取り上げると、てきぱきとミルクを飲ませ、着替えを終わらせた。もう一人は掛けられていたタオルケットを蹴飛ばし、大の字になって寝続けている。その横へ、うとうととし始めた幼子を横たわらせた。

 

 触れ合う手が心地よくて、アンはそのまま瞳を閉じる。

 今まで何かが足りなかった。手を伸ばせばあるはずの何かが、どこかに行ってしまったような気がしていた。

 よかった、横に居る。

 感じていた孤独感と違和感が全て消え去っていた。

 

 ?

 アンは幸せな気分と共に押し寄せる眠気を理性でどうにか横に寄せて、考える。

 先ほど自分を抱いた人物は誰なのか、と。

 最初は祖父と思ったのだが、なんだか違う気がした。身長は高くはあったが、あんなにごつごつはしていなかったはずだ。しかも髪がまだ黒かった。

 しかも、だ。して貰っている事をかき集めて考察するに、なぜが赤ちゃんまで退行しているような気がしてならない。

 とりあえずは自分が赤ん坊になっているのを容認し、棚に上げよう。次の問題は言葉だ。近しい言語が、聞き覚えのある響きもあったが、なぜだか全てが初めてに思える。

 

 そしてふと気付く。記憶がふたつある、という事に、だ。

 …っ

 瞬間こめかみに感じた痛みに両目を瞑る。

 

 モンキー・D・ガープ。

 彼は世界の”正義”を守る世界政府直属の海上治安維持組織、海軍本部中将であり、未来に生まれてくるだろう弟の祖父に当たる。

 

 弟…なにそれ。

 

 流れ込んでくる何かを必死に振り払おうとするが、拒めない何かがどんどんと流れ込んでくる。

 清濁など関係無い、渦だ。

 針を刺したような痛みは次第に悩全体を苛む苦しみへと変わる。

 それはまるで、古い記憶をまっさらな、新しい今から重ねられるだろう月日の為に塗りつぶされるかのような感覚だった。

 いわゆる死、というモノの体験とでもいうべきか。

 人は生まれる前の記憶を持たない。時折、例外的に保持したまま生まれてくる個体もあるが、それは本当に稀なことだ。多くは生まれてからの記憶しか無いし、どこからヒトはやって来て、去るのか謎のままだ。

 

 忘れてなんかやるものか。半ば意地だったともいえる。

 かつての自分、今の自分。

 かつての境遇、これからの断片が小さな体に駆け巡った。

 声をあげれば、祖父が何事だと己の身を再び抱き上げる。

 息が苦しく、空気が欲しくてぱくぱくと口を動かした。

 泣いているつもりは無かったが、生理的に流れる体液が頬を伝う。

 

 長い、長いふたつの世界をたゆたいながらみていた、現が重なった。

 …わたしは母を此方でも失っているのか。

 妊娠も42周を越えると過期となり母体へ多大な悪影響を及ぼす。また胎児を守っている胎盤の機能不全も起きやすくなり、医療が発達していたあちら側ではこの事実が発覚したその日に誘発分娩がおこなわれていただろう。

 

 しかし。此方側ではその処置すら難しい。

 置かれている状況も変わっていただろう。

 こちらの母はふたつの命をこの世に送り出し、力尽き果てた。

 

 『…女の子ならアン、男の子なら…エース』

 母の声は慈しみに満ちていた。

 「彼がそう決めてた…この子たちの名は…」

 忘れまい、と願う。

 いつかこの事を、エースに伝えるまでは覚えておきたい、と強く願った。

 生まれてきてくれてありがとう。かつての母はアンではない自分にもそう言ったからだ。

 声は出なかった。ほろほろと流れ落ちる涙を拭く事も出来ずに、歪み、霞んだ景色をただ見つめる。

 

 記憶は残った。ぐらぐらと脳が揺れ、飲んだばかりのミルクを吐き出したい欲求にかられるが、なんとか耐える。一度口に入れたものは、出さない主義だった。

 情報を振りかえって思ったのは、向こうに戻る術を考えるより、現実をまず何とかするべきだろう、ということだ。

 あちらでの生活は、確かに捨て難い。自分の置かれていた状況は一般的な普通とは多少違っていたが、こちらと比べると十二分に平穏な部類に入る。

 

 まずは生きなければならない。

 受け入れた。受け入れざるを得なかった。

 嫌だ、元のわたしに返してと否定しても何かが変わるわけでもない。

 夢であれば覚めるのを待てばいいが、まぎれも無く現実であるように感じられた。

 逃げ場所など無いならば、非現実的であったとしても受け入れて対処した方が絶対に良い結果が生まれる。

 原因をいつまでも探し求めるより、結果から次の手をどうするかを考えるべきだ。

 与えられた情報を上手く使って乗り切る術を思考する。

 

 どうすればいい?

 答えは明確だった。

 この小さな体で出来る事は限られている。

 体はまだ自由に動かせないが、首が座り始める前後であるならば、せいぜい生まれてから3カ月から4カ月だろう。

 何よりも今は、大きくならねばならない。

  

 未来を先見させられるというのは、余り気持ちの良いものではないというのも分かった。確実に起きるかどうかはこれから確かめなければならないが、こういう者はきっと起るべくして起るものなのだろう。

 様々な事情が絡み、預けられた経緯も理解する。

 だがしかし。

 自由奔放な悩を持つ義祖父の取るこれからの行動は、放任や放置などという言葉では生ぬるいと言えた。例えるならば土に埋める種を海水に浸す、ご飯だと肉食の生きた獣の前に放り出す。あげればきりが無い。

 根本的に何かが間違っていると、アンは力いっぱい叫びたかった。

 あちらで良く言う、目に見えぬ何かの存在が起因していると言うならば、首元を引っ掴んで文句を一言、言ったとしても罰は当たらないはずだ。

 それでも回避出来ないというならば、対処を会得するしかないだろう。

 

 「さて、この子たちをどうするかじゃが…」

 ガープは大人しくしている子供達を見た。目的地に連れてきたは良いが、このままここに赤子だけで置いておくのにも無理がある、とは理解していた。

 若くしてこの村の村長となった友人を頼っても良いが、折角だからもうひとつの伝手、を使うのも良いだろうと決める。

 明日にでもあいつらに預けてみるか。

 

 そのつぶやきが誰を指しているかは明白だった。

 どういう未来が待ち構えているかが分かっていても、事に当たる事が出来なければ意味が無い。坂道でボールを転がせば、絶対に下に到着するまで止まらない、物理法則と同じだ。

 

 あいつ、とはこの村から見える裏山、コルボに根城を持つ山賊ダダン、だろう。

 窃盗、詐欺、殺人。

 山賊ゆえに自分たちが生きてゆく糧を手に入れる手段が暴力であってもためらわない人物のようだった。

 ある意味哀れだ、とアンは思う。山賊を生業にしている誰もが、最初から暴力を振るう側ではなかったはずだ。

 弱肉強食、力を持たない者から淘汰される場所で生きていれば、持たざる者は持てる者から奪い取ってなにが悪い、と考え至るにさほど時間はかからないだろう。

 

 人間は基本、獣だ。両親と幼いころから確立された教育で考える知恵を得、思考し、理性を育む。

 子は親の背中を見て育つ、とは名文句だ。子供は周囲を見て、親のまねをしながら大きくなってゆく。言葉や知識も然り、だ。

 

 ダダンの下で育てばそのまま親を継いで賊の頭になるか、はたまたグレて自分の一家を旗揚げするか。もしくは反面教師として真逆の路を歩むか。

 

 3つあげた選択肢の中で、最も行きつくに難しいのは最後だ。

 この人、はそれを望んでいるのだろうけれど。

 難しいだろうなぁ。

 生まれたばかりの赤ちゃんに、少なくともエースに、空気を読めというのは酷だと思う。

 ため息をつくと幸せが逃げてゆくと言われるが、果たしてどれほどついているのかアンは判らなくなってきていた。

 

  結局、ガープはそろそろ灸を据えなければならない頃合いになっていた腐れ縁のダダンをはじめとする山賊たちを半壊状態に陥らせ、今までの罪を問わない代わりに二人の赤子を押しつけた。

 

 その”話し合い”の中身は凄まじかった。半ば目を回しながらアンは確かに見る。

 脚から生み出された空気を切り裂く音が耳に届いた瞬間、山賊たちは鋭い刃で切り裂かれたような傷を負った事を。拳銃の弾をいともたやすく回避し、相手に肉薄するまで瞬きをする暇も無かった事を。

 余りの恐怖と痛みに叫び出す者や逃げ出す者たちもいる。

 蹴りで呼び起こす鎌風は嵐脚(らんきゃく)、銃弾回避は紙絵(カミエ)、瞬間的に移動したのは剃(ソル)というものらしい。

 優しく何かが教えてくれる。

 名を上げた3つの技は海軍で教えられている体術のひとつで、ひとつひとつを一式と称し、使い手達を~式使い、と呼ぶ。

 

 この術を会得する為には長い年月を必要とする為、海軍内でも使い手は一握りだ。習得しようとしても出来ない人員の方が断然多いという。

 

 「ガープ、お前はいつもそうだ!厄介事の度にあたしんとこに来んな!」

 ぼろ雑巾のようになりながらも、ダダンは立ちあがり叫ぶ。

 二人は旧知の間柄なのだろう。出かける時も『友人』に会いに行く、と言っていたからだ。

 「もう一度言うぞ。お前が育てろ、ダダン」

 「だから誰の子か聞いてるんだよ、あたしはっ!!」

 切れた皮膚からぴゅーと血が怒りにまかせて叫ぶダダンから飛んだ。

 「お頭っ」

 手下のひとりが止血に走り寄り、緊迫した空気が再び流れだした瞬間、義祖父が大暴れしている時も寝ていたエースが目を覚まし力の限り泣き叫び始める。

 

 手を伸ばしても身長分以上の距離が足りない。大丈夫だと伝えようとも言葉が発せない。

 かたやぐったりと回る景色を瞼を閉じ隔絶したアンは思う。

 あんまり怒ると出血多量で死んじゃうよ、おばさん。おじいちゃんも手加減するならもう少し優しくすればいいのに。筋肉馬鹿なんだから。これは血筋?この島の風土?Dの名前を継ぐ人っていうのはみんな可愛すぎるほど直線たりする?

 

 普通の生まれたてであればこんな事は思わないだろう。

 だがさらりと毒舌が吐けるくらいには意識を保っていられた。精神的に、ではなく肉体的に耐えられる負荷までが限界だったが、意図して物事を昨日より今日と、見られるようにはなっていた。

 

 まさか、と。アンは思い至る。

 ダダンは一家を束ねる頭であったが、女でもある。ほんの少しでも母性本能に火が付く事を願っていたとか…。

 自身の考えを、そらもう力いっぱい、思いっきり地平線の彼方へと放り投げた。

 ダダンという人物に文句を言うのはきっと、お角違いなのだろう。

 女だてらに頭を張るのは、気概が無くては出来ない事だ。もしかすれば優しい人物なのかもしれない。ただ幼い身の上で、たらいまわしにされるのだけは遠慮したかった。山賊という打ち止め感のある小さな組織に、横のつながりがあるとは思えなかったが。

 

 海軍の仕事もあり手元で育てられない環境だとは言え、預け先にここを選ぶガープの内心を覗けるものなら見てみたかった。

 お前達を立派な海兵にしてやる。そう何度も、アンがアンとして意識を持ち始めてから何度も聞いていたからだ。

 海軍に入れたいのなら、それなりの預け先もあるような気もする。たとえば引退した同僚とか、良く耳にするセンゴクという人物に相談すれば何か良い方法を見つけてくれるかもしれない。

 

 そう思いながら、アンは違和感を覚える。

 与えられた情報が真実である、という前提ではあるのだが、自分達を引き取り、義理とはいえ祖父となってくれたこの人物は父との約束を守った。

 死を迎える自分に替わって、生まれてくる子供を頼む、そう一方的に言われた言葉を、果たしたのだ。

 母が長期の間、胎児を己が体の中に留め続けたのも、海軍がとある偉業を成し遂げた、父から連なるその血を根絶やしにするために放った者らから守るためだったはずだ。

 義祖父は本来、抹殺側に立つ。

 世界の決定に従うべき立場でありながら、母の出産を見守り、こうして生まれたばかりの乳児を、自分の息がかかった安全な場所に連れて来てくれたのだ。

 

 生まれてくる子には罪は無い。

 たしかにそうだろう。親の罪を子に着せるのは時代錯誤もいいところだ。

 だが犯罪者の子供としてレッテルを張られ、逃げるように居住地を変えている二次的な被害者となっている存在があることもまた、事実だった。

 守られている。

 意識や知識があったとしても、何の役にもたっていなかった。

 無力だと言うつもりもない。ただ動きようにも動けない事情がある。なにせこちらでは生まれたばかりなのだから。

 

 東の海(イーストブルー)は最も穏やかな海とされ、辺境に位置するこの国は一応、海賊に襲われにくい場所であろうとは推測出来る。

 

 「しゃあない、お前ら。こいつらの面倒みてやれ」

 背を向け去る義祖父を見送る。

 こうして二人はダダンのもとで暮らし始める。

 どんな生活が待っているかは蓋を開けてみなければわからないが、恐々と触れてくる手は温かかった。

 

 今は静かに時を過ごそう。

 秒針は進み始めた。時を巻き戻す事も、無理に進める事も出来ない。

 一秒づつ、刻まれてゆく。

 今は早く大きくなること。行動出来るようになる事。走れるようになったら…

 出来る事をひとつづつしてゆこう。

 

 そう心に決めアンは瞼を閉じた。



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幼少編
02-ふたり


  時間の流れは、鼓動の早さに比例すると聞いたことがあった。

 ゆっくりであればある程、時間がゆったりと過ぎる、という。生き物の中ではゾウが最も長く、ネズミが最も短いらしい。寿命を心臓の鼓動時間に換算すると、心臓が20億回打つのだそうだ。どんな命も20億回分の寿命を手渡され生まれ来る。

 

 緑が青く茂る中を、アンは走っていた。向かっているのはフーシャ村だ。

 

 月日は、怒涛のように過ぎていった。

 何がどう凄かったのかを説明しようにも、ありすぎてどれから話していいのかが判らない。生まれてからすぐ、あちらの常識が全く通用しないだろう事は、だいたい分かってはいた。だがここまで常識と非常識が混在しているとは思っても見なかった、というのが偽りざる本音だろうか。

 その為、こちらをよく知る必要が出てきた。あちらと同じような社会が形成されているならば、もっと理解が早く進んだだろう。

 だがしかし。そんなに甘いものではなかった。

 これならば記憶を一度真っ白にし、何も知らないままに受け入れた方が早かっただろう。向こう側の記憶を一切奪われずに過ごせている現状に後悔はしていなかった。ただ先入観がどうしても邪魔をして、否定したくなる事柄があったのもまた事実だ。

 時折夢が世界の成り立ちや、過去にあった情景、そして未来を示唆する景色を残してゆくが、それが本当に事実であるのかを調べる必要が出て来た。まるっと全てが信じられず、ひとつの方向からでは無く、多方面からの情報が欲しかった、という事情もある。

 義祖父が休暇を取って島に戻ってくる度にねだった本が、フーシャ村の一軒家を占拠する日も近いのではないかと思う位だ。

 

 月日が流れるのは早いもので、アンがアンとして、こちらの世界に来てから7年の歳月が過ぎていた。

 

 アンは知識を求め本の虫に、共に生まれたエースは野山を駆け廻り、めきめきと野生児に成長するという真逆を走っている。

 仲は良いほうだろう。村に住む友人たちの姉妹や兄弟達と比べてみても、どちらかと言えばくっつき過ぎだと言われるかもしれない。

 村という比較的安全圏内で暮らす同い年達よりも、山賊が狩場とする山で、その山賊達と暮らしながら日々、フーシャ村や森を超えた先に広がる場所へ走って移動しているのだから、体力も持久力も半端無く付いてくる。

 自転車があれば楽なのだろうが、整備された道など無いに等しい。海岸沿いもほぼ、崖が続く。ならば足を使うだけだと自然に徒歩になったのは言うまでもない。

 

 4年前、アンに弟が出来た。

 正確に言えば、アンとエースを引き取ってくれたガープ義祖父に孫が生まれ、お前達の弟だと明言されたのだ。

 そして今日という、5月5日、弟は5歳の誕生日を迎える。

 弟の誕生日は毎年、厄日だった。

 そう。義祖父が帰って来るのだ。

 今年は一体何が起こるのか、予想だにつかない。アンに出来る事は、弟と一緒に持ち運ばれた先で、サバイバルを行うくらいだ。毎日を人間がほぼ立ち入ることの無い自然の中で暮らしている双子にとってみれば、場所が変わるだけで、生きてゆく生活そのものへの変化は無いに等しい。

 

 与えられた情報の中でも、"D"とつく名の面倒さを体験する良い日、とすらアンはこの頃思うようになっていた。

 弟の名はモンキー・D・ルフィ、世界に刻まれた予定では、海賊王の名を継ぐ者として記されている。

 全ての始まりを手に入れ、新世界という限られた者だけが行きつける海で、父が次世代に託した宝を頭上に掲げる。それがやんちゃ盛り真っ只中のルフィであるというのだから、驚きだ。これはエースも知らない、アンだけの秘密だった。

 

 森を下っていると、思い出す。

 

 

 

 彼女が乗る小舟を見つけたのはアンだった。3歳になり、ようやく村長から貸出の許可が下りたばかりの本を海が見える森の端で早速読み始めようとページを開こうとした時だ。海原の中に何かを見つけた。

「どうした?呼んだろ」

「ねえ、エース。あれ船だよね」

  しばしの間を置き、アンへ木陰を提供していた木の上から声が掛かる。

 アンはゆっくりと人差し指を海の方に上げた。示される方向をエースは目を凝らして見る。

 「…船だな」

 「あのまま進めば主に会うよね」

 主、とはフーシャ村から幾分か進んだ大陸棚を超えた辺りに出てくる海王類だ。体長は小舟ならば簡単に噛み砕き呑み込んでしまうほど巨大な海洋生物で、種族を共通して凶暴な性格なため人間からは恐れられていた。

 「何とかならないかな」

 「したいのか?」

 アンは縦に首を振る。あの船にはわたし達の弟が乗ってるの。

 弟、という言葉に何の事だと眉を寄せるが、わかった、とエースは頷き唇の端を持ち上げる。

 「まかせろ」

 

 ふたりは漁師が使う船をこっそり拝借し、もう一回り大きな船に乗っていた女性と合流。久々の得物に食いつこうとしていた海王類の鼻っぱしをふたつの拳で殴りつけ急いで船を岸へとつけた。

 「海底でほんの少し、大人しくしてくれているといいな」

 にっこりとほほ笑むアンに、それは"のたうちまわっていればいい"の言い間違いじゃねェ?と思うが、口にするのをやめ、 「なってんじゃね?」

 そう、無難に答える。

 大きく口を開けたその中に、今が旬と言われる決して動物が近寄らない、触れるだけでも手が腫れてしまう死の辛さを体感できるという実を放りこんでやったのだ。きっと何事が起ったのかと混乱しているに違いない。

 村長の元へと案内する道すがら、彼女と幾つかの言葉をやり取りする。

 「勇敢ね」

 困ったような、知っている誰かを投影しているような言葉に、アンは「褒め言葉として受け取っておきます」そう返答した。

 今から思えば、4歳児のすることではない。村に行けば村長に怒られ、マキノに心配して貰いながら、好物のマフィンを食べていたが、あれは黒歴史と呼んでもいいくらいだ。

 

 彼女が持っていたのは、ガープの息子であるドラゴンからの手紙だった。

 本来ならば無理をしてはならぬ体であった。産後すぐの安静にしなければならない時期であろうに、子供のためだと、助けたい一心で海を渡ってきたのだと言っていた。ここにいては十分な栄養を摂取できず、母子共に危険に晒されると諭されやってきたという。

 

 すぐさまガープへと連絡を村長は取った。

 そう、伝書鳥だ。村長の家に飼われている鳥はガープが普段詰めている海軍本部へ飛ぶよう訓練されている。 

 時間差なく用件を伝えられる電伝虫(でんでんむし)があればすぐに呼べるのであろうが、そんな都合のよい生き物はこの村にはまだ、ない。

 以前ガープが海軍で使っている一匹を置いて帰ろうとしたが、村長が職権乱用するべからず、と叩き返したのだ。

 

 女性と生まれたばかりの赤子は義祖父となる人、が帰って来るまで村長の家で看て貰える事になり、アンは胸をなでおろした。

 「ありがとう…」

 彼女が言った。

 眠る赤子に目を細め、見つめる視線に自然と笑みが浮かぶ。

 短い出会いだったが、確かに感じる命の育みに気持ちが高ぶったのを覚えていた。

 

 

 アンは山を下り村へと急ぐ。確か定期船が到着するのが今日だったはずだ。ガープは確か5歳の誕生日を迎えるルフィに山とプレゼントを持ちかえると言っていた気がする。なぜか嫌な予感しかしない。

 背負ったかばんには本と、包帯、ガーゼ、傷薬が入っていた。どこに飛ばされてもめげない、くじけない、諦めない気持ちは覚悟完了済みだ。考え方ひとつで、何事も楽しくなる。

 本当は今日、エースと一緒にグレイターミナルへ行く予定にしていたのだが、頭を下げて行き先を変更させて貰っていた。

 心配の種がふたつ、どちらを優先するか気持ちがせめぎ合う。軍配があがったのは弟のほうだった。

 

 そもそもは、1歳になったばかりのルフィをどこぞの無人島に放り出そうとするガープを止めたのが始まりだった。見張り役を付けて送りだすからと笑い、挙句の果ては「お前たちはワシの孫だからな、大丈夫じゃろう!立派な海兵になれ!」とのたまい、アン共々ジャングルの中へ置き去りにした。そしてその次の年はコルボ山の幾つか向こう側にある名も知らぬ山の谷へと3人揃って突き落とされ、人喰い虎の巣から大脱出するという大冒険を繰り広げる事になった。翌年は趣向を変えたとかで、風船をくくりつけられ大空への旅へ。海王類に食べられそうになるという、この歳では稀な体験もさせて貰えた。…そしてまた今年も地獄への招待状(プレゼント)を持参した祖父がやってくるのが今日という訳だ。

  

 エースは余り村に近寄りたがらなかった。町とは違う。村人たちはみな、良い人ばかりだと分かっていても、人の傍に居るのが辛いと感じていた。

 その気持ちは、痛いほどアンには分かる。

 この国の、忘れらたようにぽつんと存在するフーシャ村を除いた人々は、どこかしら病んでいるように見えた。

 あちらでも、確かにあった。けれどここまでは酷く無かったはずだ。

 大人たちは子供に理解出来ようも無い、と平気で傷つける言葉を発した。人を見下す言葉をこよなく愛し、己より強い力には美辞麗句を並べすり寄る。

 7歳の子供が受け止めるには重すぎる痛みもあった。

 実際に何度か、エースは端町で暴行事件を起こしている。

 ゴールド・ロジャー。

 ダダンが放った一言で、父の名を知ったエースは端町で顔見知りになったチンピラ達に聞いたのだ。

 『ゴール・D・ロジャーを知っているか』と。

 町の人達にしてみれば唯一悪態を付ける事の出来る相手だ。故人でもある。幾ら悪口を言っても報復されはしない。

 結果、チンピラ集団が立ちあがらなくなるまで、エースは暴れ回った。

 アンは止められなかった。違う。止めなかったのだ。

 ふたつの世界で生きた年齢を足せば27となるにもかかわらず、感情が理性を押しつぶした。

 後で自己嫌悪に陥ったのは言うまでも無い。2度も子供としての時間を得られるのは、ある意味幸運だとも思う。

 ふたりで、泣いた。ひとりでなくて良かったと、泣き疲れて眠ってしまうまで泣いた。

 心を強くしよう。アンは経験を積ませて貰えた年齢の分だけ、しなやかに生きようと誓った。

 

 

 エースは今頃森の中を自由気ままに遊んでいるのだろうか。少し意識を集中すればわかる。もやもやとした気持ちが伝わってきた。少し頬を膨らませ拗ねているようにも思える。

 「エースったら…」

 母の胎内に長くいたおかげなのかそれぞれがどこに居るのか、相手を呼べば意識は伝わり大体の位置も掴むことが出来た。

 「無茶…してるなぁ」

 木の枝に長い体をまきつけた巨大な蛇を、鉄パイプひとつで立ち向かっている。ひとりよりふたりでかかった方が勝てる確率は高い。が、男は時としてひとりで立ち向かいたくなる、などと格好良い事を言いつつ、ガープ義祖父にコテンパンに伸ばされては森へと入り、強さを求め走り回っていた。

 そういう時は決まって、限界まで暴れ尽くす。

 

 エースはアンと別れて行動している時、何かに取りつかれたかのように攻撃的になった。

 一緒に居る時はしっかりと、存在を確かめるように手を握り締めるのに、だ。

 森を渡り海を見回せる場所に出る。青の色を平たく見れば、船影はまだ見えない。

 アンは回れ右、と進んできた道を僅かに斜めにエースの元へ急ぐ。

 木々の間を潜り抜け、道なき路を身軽に進んだ。生まれた時からある意味サバイバルだ。これくらいなんという事は無い。

 

 養い親であるダダンは最初こそおむつ替えやミルクを与えてくれていたが、よちよちと歩き始めたふたりの遊び道具としてナイフを渡したり、言葉を知り歩きはじめると掃除、洗濯から始まり靴磨き、武器磨き等をさせた。雑用をこなす手は、いくらあっても足りない、という状況だったからだ。

 

 アンはこの時、短刀の使い方を教えてもらい愛用の武器とした。雑用の仕事は丸っきり無駄ではなかったと思っていたが、エースは違った。ある日森へと入り、獲物をしとめてきたのだ。最初は兎、鳥類が続き、仔イノシシ。これはアンも一緒に狩に出かけ捕った得物だが、エースは森の中を器用に渡っていた。アンも雑用をほどほどにやった後、ふたり揃って森で一夜を過ごす事も多くなり、数日ダダンの家に戻らない生活が当たり前になってゆく。

  

 友達が出来てからは彼が居る"不確かな物の最終駅(グレイターミナル)"まで毎日走り、他愛も無い話をしながら宝さがしをする日々を過ごしていた。

 通称ごみ山、は無法地帯となっている。弱者は強者に虐げられ、暴力は日常茶飯事だ。力を持たなければ生きてはいけない。だが瓦礫の山だからこそ、集う者達も居る。

 

 "不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"、それはスモーキーバレーを彷彿させる場所だった。

 実物を見たことは無い。写真でのみの知識、だ。

 ひとつの山から丘へ。

 かつて在ったゴミの集落は発展のしわ寄せと皮肉をこめて"マウンテン"と吹聴される。これ以上叩かれると国のイメージを損ねるとし、閉鎖されたが山に変わるゴミの行き場は他にも存在していた。富から生まれるゴミは無くならない。

  貧困の象徴には首都やその周辺に住む人々から出された不要物が毎日大量に運び込まれ、その中から廃品回収を行い僅かな日銭を稼ぐ貧民が暮らして行ける住処へと変わってゆく。

 

 同じだった。

 "不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"にはありとあらゆるごみが壁の内側から集められ、日に2度廃棄される。ゴミを漁る並びも強者順だ。

 食べ残された残飯、気に入らなくなったと捨てられた衣類、傷がついてしまったからと捨てられた家具、へこんだ鍋や破けた本、不必要とされたありとあらゆる物が大門から吐き出された。大量に積み重なった町での不用品を漁り、生計を立てている人々も少なくは無い。

 海岸線近く、山に沿って半月型を描く街を守る石壁の間。

 ごみ山に住む人々によって持ち運ばれる財産は、ダダンの家から直線に下った麓にまで裾を拡げていた。

 幾年掛けここまで広がり作られたのか、想像も出来ない。ただアンが生まれた年には既に存在していたらしい。となれば、最下層に埋もれた積載物は、10年以上も昔にこの場所へ廃棄されたと考えても良い訳だ。

 欲は人を突き動かす原動力でもある。しかしその風景は、欲の行く末というよりか、人間の未来のようにも思えてしまった。

 

 "不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"には様々が混在している。無いものを探す方が難しいくらいだ。他国から流れて来たもの、ごみ山で生まれ育つもの、町で住む資格を奪われたもの、生まれに関係無くすべてがごったになって存在し、至る場所にスラムを形成していた。

 太陽によって熱せられたゴミから自然発火した幾つものくすぶりが白い煙を立ち登らせている。ふたりにとって初めて本当の友人が出来たのもここだ。ごみ山にはたくさんの子供たちが居た。多くは捨て児なのだという。出自は当然、分からない。赤子の末路は特に悲惨だ。それでも幸いな類に入るのは、暇だからと育ててくれる存在が居てくれた事だろう。だがそれも長続きせず、物と同意義であるため、命は気まぐれに捨てられる。小さな命は小さな体を震わせ寄せ合っていた。無法地帯に置いての最弱者たちといえるだろう。

 匂いに至っては最悪だ。最初は余りの悪臭にアンはその場で食べたものをすべて吐き出してしまった。鼻を切り落としてしまえば、少しはましになるだろうかと本気で思案したくらいだ。

 

 それでも人間は生きている。劣悪な環境の中で、生き抜いていた。

 ごみ山に居を構えた人々は津波のように吐き出されるゴミを再生利用(リサイクル)し再生物資を町へ売りに行く。しかし売った僅かな金を石壁をでる前後で奪われる事もひっきりなしだ。

 嗚咽が止まらないほどの匂いの中、息絶える命も多い。大人子供問わず、固く頑丈な壁に阻まれたゴアの首都と此方側、"不確定な物の終着駅"(グレイターミナル)は、隔絶された世界だった。

 

 言わずもがな、ごみ山の海岸線側は海賊の根城にもなっている。

 大小幾つか、ただのチンピラの寄せ集まりも中にはあったが、一番大きな集団と言えばブルージャム海賊団だろう。この国、ゴア周辺をテリトリーとし海と陸、両方を行き来しているようだった。

 

 ごみ山の頂点(ボス)、それが彼ら、だ。規模としては乗組員50人、陸でのみ活動をする動員30人ほどの集団だろうか。貴族と癒着し、金品や荒事を引き受ける代わりに、ある程度の犯罪を黙認されている。

 賢いやり方だと、アンも思う。いつ切り捨てられるかは貴族の気分次第ではあるが、利用価値を見出して貰っている間は身の安全を保障されるわけだ。

 

 ならば海に出ている間に捕まれば良い訳だが、どうやら海軍も人手が足りないらしい。

 ゴア王国周辺に海軍の船が通りかかるのは稀だった。

 東の海(イーストブルー)は赤い土の大陸(レッドライン)と偉大なる航路(グランドライン)で区切られた4つの海の中で最弱と言われている。しかし海に出れば海賊が、陸に上がれば山賊がたむろしていた。

 海では海軍が支部を置き取り締まりに明け暮れ、陸ではそれぞれの国が軍隊でもって征伐する。

 だがゴア王国では賊の多くを放置したままだった。罰せられるのは壁の内側に入って来た不届き者だけだ。いくらゴミ山で助けてくれと声を上げても、町の人々は聞く耳を持たない。そもそも、壁の内側と外側にあっては、同じ生き物として認識していないのだ。

 町に住む事を許されない家に生まれてきたのが悪い。仕方が無い、だから諦めろ、という考え方だった。

 「怨むなら自分を生んだ親を憎めばいいじゃない、可哀そうね。平民に生まれたばっかりに」

 奴隷になれば、存在を認めてさしあげても良くてよ?透明ななにか、さん。

 貴族たちは平気で、蔑みの目を向け、言葉を放った。

 

 

 

 SIDE エース

 「後ろガラ空き」

 声に緊張がゆるむ。待っていた。

 「必要ないだろ、アンが居るのに」

 「頼りにされて、嬉しい…けどっ」

 アンはナイフを抜き、眼前に迫り来ていた巨大蛇の鼻先を一閃させる。

 鱗を突き抜けた刃がつけた傷から赤い血が飛び散った。

 蛇は逃げない。再度、増えた獲物を丸のみしようと大きな顎門を開く。

 「ここ、怪我してる」

 頬を指先が通った。笑みを含んだ優しい気持ちが流れ込んでくる。

 

 気配が近づいてきているのは感じていた。途中で引き返して来たと分かった途端、何かに勝ち誇っている自分に気がつく。

 時々ふらっと姿が消える時はジジイが無茶振りを発揮している時だ。アンはジジイの孫を随分と気にしていた。

 村でひとり、暮らすガキなんか放っておけばいいんだ。心が思う。けど分かってる。

 おれたちがダダンに預けられ、どういう思いをしてきたのか身にしみているからだろう。

 アンは優しいからほっとけないんだ。

 おれとそいつ、どっちが大事なんだよ、なんて聞ける訳ねェし。

 アンが村に行くって言った時、…そりゃ悔しかったさ。アンはおれの半分なんだ。

 ジジイの孫なんて放っておけばいい。ひとりじゃない。村には人がいっぱいいるだからな。

 おれは言葉にしなかった。

 けどアンにはおれの気持ちが伝わっちまう。だから言葉を飲み込むんだ。困った顔をさせたくねェし、笑ってるアンが好きなんだ。

 

 「今日のご飯は唐揚げにしようか」

 「いいな」

 

 ダダンが作る料理は塩コショウをかけて、ただ焼いた肉が多い。食えれば文句ねェけどな。

 けどアンが作ると旨いんだ。村で料理を教えてくれる人がいるらしい。

 

 やられてばかりじゃ格好悪い。おれは鉄パイプを握り直し、走る。

 お互いの背を預け合いながら、木の幹を伝い大きな口を開く蛇の頭部へ後方から鉄パイプで打撃を与えた。この巨大蛇には毒は無い。とぐろの中に巻き込まれたらおれたちなんて簡単に絞殺されちまう。蛇の尾がアンを捕まえようと伸びたが遅い。ヤツの尻尾がアンの元へ行き着いく頃には既に俺の横にその姿を移していた。

 

 器用なんだよな。多少空間が空いた場所でも器用に空中を歩くんだ。海軍のヤツがやってたのを見よう見真似てみたら出来たんだってさ。ジジイにも何度か教えて貰ったらしい。おれももうちょっとで出来そうなんだ。アンに出来て、おれに出来ねェわけがないからな。

 アンが蛇の注意を引き、おれが得物をしとめる。蛇の頭蓋骨を粉砕すれば…

 「今日の飯はお前だ!」

 一撃必殺!余裕だった。

 蛇はぐったりと力を失い、重力に従い地面へと落下する。

 適当な蔦草を引きちぎり息絶えた晩飯を運びやすく結び、ふたりで担いでゆく。ダダンの家は現在地から岩場と川を渡った先だ。

 

 「ねえ、エース。一緒に行かない?」

 アンが誘う。どこに、向かうかはひと言も無しだ。

 分かってるけどな。

 村に降りるのは正直、気が引けていた。だってよ、おれたちはロジャーの血を引いている。あいつの影がおれにも覆いかぶさっているんだ。

 端町で聞いた言葉が耳の奥で繰り返される。おれがやったわけじゃない。おれが殺したわけじゃない。

 「大丈夫だよ。もし何かがあったらわたしが止める。心配しないで。怯えないで」

 こつりと額が合わさる。

 だけどお前だって引いてるんだぞ、いっぱい人を殺したあいつの血を。分かってるのかよ。

 「うん、そうだね。お父さんの手はきっと真っ赤だ。けどね、エース。わたしたちにはお母さんの血もあるんだよ」

 母の前では父もただの男だったのよ?

 大丈夫だよ。おとーさんが暴れ始めたら、お母さんが止めてくれる。ってさ。

 楽天的過ぎるよな。

 でも、何度も救われているんだ。もしひとりだったら、なんて考えるとぞっとする。

 

 生まれてきて良かったのかと何度も問いかけた。ジジイは生きてみればわかるって言ってやがったけどよ、いつまで生きていれば分かるのかは教えてくれなかった。アンも同じだ。

 答えなんてあるのかなぁ、ってどこまで頭に花咲いてんだよ。

 「少なくても、お父さんとお母さんは私たちを待ってたよ。守ってくれた」

 分かりにくいけれど、ガープ義祖父(おじいちゃん)もわたしたちに激甘だと思うよ?

 

 それはねえだろう!

 それだけは断固否定してやる!

 ありえねえ!

 

 アンが笑う。

 同じ服を着て、後姿を見るとおれたちは瓜ふたつなのだとよく言われていた。仮親の、ダダンですら間違うくらいだ。一家の誰もが何度も、おれとアンの名前を呼び間違えていた。

 アンはおれが怖がってる何かを恐れていない。

 

 サボすまねェ。おれは決断する。待っているだろう、いつもの待ち合わせ場所に向かって頭を下げた。

 今日はそっちに行けなくなった。

 アンと一緒に、資金調達してお前のところに行くはずが、なぜか、話している間に、いつの間にかフーシャ村に行くことになってたんだ。

 船貯金は明日から頑張るからな、今日はマジですまねェ。

 

 ふたりでダダンの家へ得物を持ち帰り、おれたちは、おれも渋々とフーシャ村へ向かった。

 

 

 けどおれはやっぱり村に入るのをやめた。

 港へは行ったさ。着いたばかりのガープを出迎え、村の前までは着いて行った。

 「そうか、エースお前も海軍に興味を持ってくれたか!」

 「違う!アンがどうしてもって言うからついて来てやっただけだ!!!」

 「エースちゃん抱っこしてやろう!」

 「やめろジジーイ!!」

 

 おれは少し離れたところでアンを待った。牛をかこってある柵の上に座る。海からの風が村の方に吹いていった。

 今日ジジイの孫が5歳になる。誕生日なんてダダンに祝って貰おうなら、ひと仕事手伝えと言われるに決まっていた。

 アンも殴られようが罵られようが、一度としてダダンの仕事に着いて行った事はない。引きずられても途中で逃げ出し、戻ってきていた。

 間接的に人を害する手伝いをしているのだから、これ以上はしたくない、という。同罪ならばなにをしても同じだと一家の誰かが言っても、頑として動かない。

 ダダンの得物は主に町方面や他の村の奴だけど…おれもこののどかな村に住むヤツから何かを奪いたいと思えなかった。

 

 おれたちはいつか海に出る。

 海を行くためには船が居る。金が必要だった。

 船は高い。ちまちまとゴミを拾って稼げる額でもなかった。

 じゃあどうするんだよ、って言う話になった。

 まじめに搾取されながら生きている奴から奪うのは論外として、パッと浮かぶのは貴族が住む高町に入って銀行を襲う事だ。けど一発で指名手配されちまう。船を手に入れる前に捕まるなんて馬鹿げていた。

 

 そうなればおのずと手段は限られてくる。

 人殺しも…、ってところでアンが口をはさんで来た。

 「ふたりとも飛躍しすぎ」

 アンの目が座っている。口元には笑みを浮かべているのに、だ。

 「海に出るな、とは言わない。ふたりをきっと海が呼んでいるんだもん。けれどもう少し穏便だと嬉しいな」

 

 話し合いの結果、チンピラから巻き上げるのが一番だと結論した。

 元をたどればまじめに働いて搾取されてるやつの金なわけだが、そこまで考えてたら何も出来なくなってしまう。

 出会って意気投合し、貯めだした船貯金は着実に、額を増やし続けている。

 

 「だから何度言えば分かるの!義祖父(おじいちゃん)の頭の中はお花畑かっ。ルフィを木樽に入れるな!だから餓死するしないじゃないのよっ」

 アンの声が頭を横切ってた。お前の頭の中も負けてないけどな。

 「ルフィも少しは抵抗してっ」

 孫はすでにジジイに対して抵抗する気力を奪われてるようだった。

 「義祖父(おじいちゃん)酷い、何気にちょっと本気とか。それなんか漂ってる!わたしまだ7歳なのに、手加減、手加減を申告しますっお嫁にいけなくなっちゃう!」

 

 腹を抱えて笑ってしまった。どういう状況なのか、手に取るように分かってしまった。

 「何だ、アン負けてんのかよ」

 (分かってるなら助けてエースっ)

 おれは吹き出しながらアンが待つ場所へ、走り出していた。



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03-シャンクス

 船が見える。

 ”不確かな物たちの終着駅(グレイターミナル)”からの帰り、エースがその影を見つけた。

 「こっちに向かって来てるな」

 進路が変わらなければいずれフーシャ村に着くだろう。

 立ち止り緑の木々の間から見える小さな影を見つめる。3本マストのキャラック船だ。

 ここ1年ほど、フーシャ村を拠点のひとつにして、東の海を巡っている海賊達だった。

 

 いい船だよな。

 何度目かの寄港の時、港に泊まっていた船を見てエースが言った。

 おれたちも早くこんな船に乗りてぇよな、とも。

 いつか海原へ出る。それは二人に共通した目的だった。否、サボとルフィを含めれば4名、全員が飛び出そうとしている。

 大海賊時代だから、ではない。それぞれが、それぞれの目的の為に海に出ると決めている。明確な理由が出せていないのは、唯一、アンだ。

 

 

 シャンクスは3人を船に招いてくれた事もあった。

 錨は下ろしたまま、甲板の上で食糧の積み込みの手伝いをしたり、貴重な本を読ませてもくれた。

 しかし船への誘いは皆無だ。

 海の過酷さ、危険度、それだけでは無い。海賊と名乗れば最後、海軍から追手がかかる。例え小物であっても、だ。

 敵は海軍だけではない。同業者達にも狙われる。名を知られる前は新人(ルーキー)狩りを楽しむ数多くの賊たちに。名が売れ始めれば賞金稼ぎ(バウンティーハンター)は海軍から出される指名手配書を手に襲いかかって来るだろう。

 海の上では力ある集団だけが航海を続ける事を許される。

 生半端な覚悟では海の藻屑となり消えゆくだけだ。

 お前達にはまだ早すぎる。力を蓄えろ、そう言われているような気がした。

 

 

 「エースは明日もサボのところに行くのでしょう?」

 否定の言葉は無い。最低限、偉大なる航路(グランドライン)を航行出来る船を手に入れようと思うならば、最低5000万と換算しても凄まじい金額だ。それが2隻分、まだまだ資金は足りない。

 「行って来いよ」

 大振りのイノシシと戦いながら、眉を寄せたままのアンにエースは言う。

 「そんなにおれとサボが心配か?」

 「ううん、違うの。ちょっと色々考え事をしてて」

 難しい本ばっかり読んでるからだ。 エースはにしし、と笑う。

 その間にもイノシシは勢いを付け鋭い角牙をエースに向けて振りかざしていた。

 倒木や岩場を飛び跳ね、追撃をかわす。

 「行って来い」

 ただそれだけを、ぶっきらぼうに言った。

 表情は見えないが、きっと口を尖らせているに違いない。

 だがエースは知っていた。アンがどんな夢を見ているかを、だ。月明かりさえもない漆黒の闇の中で目を覚ます度、こぼれた涙を拭い、抱きしめてくれる。

 お互い隠し事はしなかった。否、してもばれてしまうのだ。ならば初めからしないほうが良い。

 岩場の一角に追いたてられたエースは鉄パイプを構える。背には3メートルを優に超える壁石が横たわっていた。

 最後の一撃とばかりに、イノシシは駆けた。脳天を何度も殴打されたせいで一体何をしているのか、分かってはいないのだろう。中に在るのは脳が伝える暴走だけだ。目の前にある全てにその牙を振るう、凶暴性だけが残っていた。

 「うん、ありがとう、エース」

 岩場の上で、持ち運び用の蔦を用意しながらアンは静かに笑んだ。

 「悪りィ、時間かけちまったな」

 「……」

 軽い足場の振動の後、パラリと砂埃が舞った。イノシシは鼓動をゆっくりと停止させてゆく。 

 「じゃあ明日は別行動、させて貰うね」

 承諾の返答は、小さな頷きだった。

 

 

 狩った得物はぺろりと平らげられた。毎日の食事を作らせて貰っている身としては、すっかりと空になるのは嬉しいのだが、毎日の献立を考えるのも一苦労なのだ。ちなみにメニューは鍋にした。

 イノシシと聞けば、やはりボタン鍋だろう。

 自家製の野菜も家の前に広がった畑で採る事が出来る。

 アンに言わせて見れば自業自得と言わざるを得ないのだが、一家は地団太を踏んで悔しがっていた。

 事の発端は1カ月ほど前、に遡る。ドーン島には内陸部に決して裕福とは言えない村がいくつか点在していた。

 壁の内部に在る王都は煌びやかだが、その外は言わずもがな、貧困が人々の暮らしを圧迫している。

 統治する王も壁の内部が潤っていれば、外はどうなっても構わないと言わんばかりの政策ばかりだ。

 

 だが数ヶ月前。

 それは薬として長年、その村では使われ続けていたものだったが、世界を渡り歩き植物の調査を行っている博士が持ちかえり調べた結果、『これは数年に一度流行する伝染病の、特効薬となる!』と発表したのだ。しかも絶滅したとされている希少植物である事、も拍車をかけ国はその村を特別保護区とし、開発が進められている。

 そうなれば当然、物の行き来が生まれる訳だ。当然、ダダン一家はそれらを狙った。

 金だけでは無い。資材や物品、宝石など旨みの詰まった商隊が襲い放題だった。道がたった一つしかなく、そこを通らざるを得なかったからだ。だが山賊はダダン一家だけでは無い。

 数か月間は実入りにほくほくと頬を緩ませていたのだが、山賊が頻繁に荷を襲う事から輸送ルートを山から海に切り替えたらしい。

 そして危険な山道から、海へと路が切り替わればどうなるかは、現状が指し示す。

 

 アンが思うに、ほんの少しでも貯蓄しておけばよかったのだ。

 が、山賊に日越の金は要らないのだと、マキノの店で贅沢の限りを尽くした。

 結果、山道を使う商隊がピタリと止まり、以前よりも逼迫した生活へと転げ落ちている訳だ。

 そのため野菜や果物の苗を裏庭に植え、日々の食へと繋げ無くてはならない状態となっている。

 だがその方が、山賊をするより健全だと、アンは思っていた。

 広がる畑には各々の性格や、好みが色濃く出るため、見ているだけで楽しかったからだ。

 

 ダダン一家の食事風景は、弱肉強食と言い切っても過言ではない。

 保存食にジャーキー作ろうと思ってたけれど。あの大きさじゃ、残らないよね。

 アンは自分に分けられた量を胃に収めてから、夕方までに溜まっていた洗いものを終わらせ家の中に入る。小さな火を熾したままの居間では、寝息を立てた大人達がいろいろ転がっていた。久しぶりに酒が入った為だろう。

 アンは囲炉裏の回りで満足そうにしている寝顔全てにタオルケットをかけ、自分も寝床である小さな物起き床の上で包まる。エースは既に風呂にも入り、寝ていた。そう、不貞寝、だ。わしゃわしゃと黒髪を撫で、伸ばされた手を握り、目を閉じる。

 

 

 朝、夜明けとともにおきだしたアンは朝食の用意を始めた。米粥を炊き日干しした魚を人数分用意して暖炉のところに置いておく。早く起き、食べたもの勝ちだがそこまでは構ってられない。

 家を出る頃にはすっかり朝日が昇っていた。ふたりはもちろん、自分達の分はしっかりと食べて出る。走ってそれぞれの目的地に向かうのだ。体力が尽いてしまえばその場で倒れてしまう。

 北と南、分かれ道で背を向ける。

 「気ィつけて行って来い」

 「サボによろしくね」

 アンは道すがらにある木によじ登り、海が見える高さで目を凝らす。

 船が通る航路は大体決まっていた。村周辺からゆっくりと視野を広げる。

 いた。

 きらきらと輝く青の中にしっかりと見える船影がある。風が順調に吹けば、昼過ぎには到着するだろう。

 

 前回シャンクス達が寄港した時の話は、マキノや村長、弟本人から聞いていた。

 どうしても船に乗り込みたくて、ナイフを頬に突き立てた事や、ヒグマと名乗る山賊が来た事、シャンクス達が手に入れたすこぶる不味い、悪魔の実を食べてしまった事なども、教えて貰った。

 『海の秘宝』とも言われている悪魔の実は食べた者に様々な特殊能力を授ける。

 形状は何らかの果物に似ている事が多いという。唯一共通であるのは果皮、果肉に唐草模様があること、だ。味は共通して二度と口にしたくない、とのこと。

 悪魔の実を集めた図鑑が存在しているのだ。以前、船に乗せて貰った時に閲覧した。

 

 『一目瞭然 悪魔の実辞典』

 

 希少であればある程、収集家(コレクター)達の間では高価なもの、として取り扱われていた。最低額でも1億は下らないという。

 ルフィが食べた実は『ゴムゴムの実』だ。不味かったならば吐き出せばいいのに、口に入れた食べ物は飲み込むのが筋だと、意地で飲み込んだのだという。それは弟らしい言い様だった。

 

 今までに分かっている種類は大きく分けて3つに分かれる。【超人(パラミシア)系】【動物(ゾオン)系】【自然(ロギア)系】だ。

 超人系はルフィが食べたゴムゴムを含む、通常ではありえない極めて特殊な体質になる、何かに作用して魔術的な効果を及ぼすモノが含まれている。3種の中では種類が一番多いとされ、時々、ぽっかりと、海に浮かんでいるのだとか。

 

 動物系はその名の通り動物への変身能力が身に付く。人間よりはるかに力強い動物達の力を手に入れた能力者は、戦いにおいて力関係がノーマルの人間と比べ天と地の差が開く。特別な幻獣種と言われる、希少価値の高い実も中には含まれていた。

 

 そして最後が自然系と言われる、体を自然物そのものに変え、自在に操る力だ。3つある中で最も希少と言われ、自然現象そのままを体現している。そのため物理攻撃を無効化したり受け流せるという絶対防御を得る事が出来るという。

 

 とはいえ。

 実際に能力者、実を食べた者と戦ってみない事にはどういう力を保持しているかは分からない。ルフィのように実物が傍に居るならば、試せようがそうそう簡単に出会える能力者でもないだろう。

 ルフィが旅立つまで11年、運命の輪が回り出す頃には、何かに誘われるように能力者達がとある場所に集ってゆく。それまで生きていられたらいいのだけれど。

 今から心配していても鬼に笑われて終わってしまう。その時が近づいてくれば、その時に必死に考えよう。悔いが残らないよう、生きるしかない。

 

 店内はがらん、としていた。

 昼飯時を過ぎるとPARTYS BARも夕方になるまでは閑古鳥が鳴く。

 アンはルフィを誘い、軽食をマキノに作って貰った後、いつものようにカウンターで本を開きながら会話に耳を傾けていた。

 「もう船長さん達が航海に出て長いわね。そろそろさみしくなってきたんじゃない?ルフィ」

 「ぜんぜん!おれはまだ許してないんだ。あの山賊の一件!」

 グラスを磨きながらマキノはくすりと笑む。もっとかっこいい海賊だと思ってたんだ、と膨れるルフィに、あんな事をされても平気で笑ってられる方がかっこいいと思うわ、と諭すように笑む。

 「マキノはわかってねェからな。男にはやらなきゃいけねェ時があるんだ!!」

 「そう…ダメね私は」

 「うん、だめだ」

 ひとりで村に暮らすルフィにとって、マキノは甘えられる存在だった。アンの事はどちらかと言えば友達、と言った感じだろうか。アンにしてみても、マキノは大切な人だ。料理の仕方や、裁縫も彼女から教えて貰っていた。

 

 窓からは気持ち良い風が入って来ている。

 「ルフィ、もう少ししたら…」

 会話が一段落したところを見て、アンが話し始めようとしたその時、蝶番が鳴る。

 「邪魔するぜェ」

 扉を押しあけて入った来た人物達は濁った眼をした男達だった。ルフィが小さく、「げ」と嫌な顔を露骨にしたことで把握する。奴らが件の山賊達だ、と。

 

 自らを客だと大きな声で叫び、酒を寄こせと荒げる。

 下品だった。飲み方も、食べ方も、言葉ですら。まだダダン達の方がよっぽどましに見える。

 次々と注文を繰り返す男たちに、マキノは酒類を運び続けていた。

 「ルフィ、関わった方が負けだよ。シャンクス達は言っていたのでしょう。こんな事は他愛の無い事だって」

 「けど、けどっ!!!」

 拳を握りしめ、目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 くやしいのだ。大好きな人の悪口を言われて、それでも関わるなと言われ、何も出来ない無力さに唇を噛んでいる。

 気持ちは痛いほど分かった。けれどここで相手の言葉に乗れば、わざわざ相手の土俵にまで下りてやることになる。

 「やめろ!!!」

 ルフィが椅子を飛び降り、山賊達に向かって叫ぶ。

 「シャンクス達をバカにするなよ!!! 腰ヌケなんかじゃないぞ!!!」

 マキノが止めに入る。

 「…ルフィ」

 アンはゆっくりとルフィの前に立った。

 無謀だがまっすぐだ。自分の事ではなく、大切な人をなじられ腹を立てている。悪い事では無い。だが、まだ早い。

 アンは真正面から山賊達の眼光を受ける。

 

 顔を貸せや、と言われ、ルフィとアンは外の路に出た。

 ずらりと賊たちにふたりは取り囲まれる。男達はにやにやと気持ちの悪い笑みを顔面に貼りつかせていた。

 「下郎が、この子に触れるな」

 アンは山賊頭をけん制する。

 しかし子供相手に賊たちが怯む事は無い。

 家々の窓からは村人たちが事の顛末を固唾をのんで見守っている。銃や短刀を持つ賊たちに成す術を普通はもたない。善良な人達だ。

 「くそォ!!!おれにあやまれ!!!」

 「ルフィ、前に出ないで!」

 引っ張られ、殴られ、投げられてもルフィは立ち向かうのを止めない。

 ボスを含めて15人、やって出来ない事も無いだろうが、銃や刀を誰もが手にしている。力を使わずひとりで片すには少々厳しい状態といえた。

 「ちくしょう!!!絶対許さねェ!!!」

 「ルフィ!」

 落ちていた木の棒を拾い、振りあげる。しかし子供の、振りかぶりだ。ゴム人間になっても毎日体を森で鍛えている訳ではない。

 「危ない!!」

 賊頭の足が、転がり込んだアンの背を捉えた。四つん這いになってでも弟を守る。

 「アン!」

 青ざめた顔が歪んでいる。今にも泣きだしそうだった。

 「全くもう、無茶するんだから…」

 アンは肘を張り、背を圧す力に抗う。

 「このガキどもがァ」

 

 「その子たちを放してくれ!」

 村長の声が聞こえた。マキノが呼んでくれたのだと、アンはそちらへちらりと視線をやる。

 彼女は心配そうに村長の横で立っていた。

 「ルフィが何をやったかは知らんし、あんた達と争う気も無い。失礼でなければ金は払う!!その子たちを助けてくれ!!」

 腕の下で、ルフィが小さくつぶやく。村長、と。

 義祖父が不在の間、親代わりのひとりとなってくれている人物だ。

 「さすがは年寄りだな。世の中の渡り方を知ってる。だが!」

 ふぐっ

 横腹をふいに蹴られ、アンは横倒しにされる。痛みで息が、止まる。その数秒の間に賊頭の足がルフィの後頭部を踏み捕らえた。

 「駄目だ、もうこいつは助からねェ。なんせこのおれを怒らせたんだからな…!!!」

 山賊頭はご立腹だった。山ざる、ルフィの一言はまさしく、その像を言い当てている。

 売り飛ばすのをやめ、ここで殺してしまおう、賊頭がすらりと刀を抜く。

 「ボスザルさん、その子を、放して」

 「あぁ?! ガキがなにを…」

 山賊のひとりが一歩、前に出、立ち塞がる。

 アンは衣服の汚れそのままに立ちあがった。私の弟に、手を出さないで。

 思う事柄はそれひとつだ。目的が果たされるならば手段は厭わない。弟を取り戻すため拳を握った。鮮やかに色づいていた感情が、ゆっくりとあせてゆく。

 遠いどこかで誰かが自分を呼んでいるような気がした。だが誰が呼んでいるのか分からない。

  「おーい、アン!」

 不意に、耳触りの良い声がアンを掬いあげた。底無し沼に沈んでゆくような、感覚から一気に引き抜かれる。

 「港に誰も迎えが無いんで何事かと思えば」

 村長たちの後方より歩みを進めたのは、赤髪の男、シャンクスだった。

 「ルフィ、お前のパンチは銃のように強いんじゃなかったのか?」

 「うるせェ!!」

 「アンも真っ白だな」

 「え、あ、うっ、っ、ちょっとだけ、お、おめかししてみたの、よ?」

 軽口が叩けるなら上等、とばかりに赤髪の唇が弧を描く。

 「何しに来たか知らんがケガせんうちに逃げだしな。それ以上近づくと殺すぜ、腰抜け」

 山賊の言葉などどこ吹く風のように、シャンクスは近づいてきた。

 取り巻きのひとりが銃を抜いて、赤髪の男のこめかみに当てる。下卑た笑いが聞こえてきた。以前と同じように、シャンクスが振る舞う、そう思っているのだろう。

 「銃を抜いたからには命を懸けろよ」

 声音は普段とは変わらない。ただ声に込められた意志が違っている。

 「あァ!? 何言ってやがる」

 「そいつは脅しの道具じゃねェって言ったんだ…」

 直後に響く銃声。引き金を引いたのは誰だろうと見ると、いつも骨付き肉を食べている巨体のラッキー・ルウだ。

 山賊達は突然の事に唖然とし、卑怯だと声を上げる。

 弱者を虐げるのには長けているが、強者と対峙した時、どうしていいのかが判らないのだろう。山賊達の目の前に立つのは、海賊達だ。

 シャンクスはゆっくりと、山賊達にも分かるように言葉を並べてゆく。

 「おれは酒や食い物を頭からぶっかけられようが、つばを吐きかけられようが、たいていの事は笑って見逃してやる」

 麦わら帽子の向こう側にある目が殺気を帯びた。

 「どんな理由があろうと!!おれは友達を傷つけるヤツは許さない!!!!」

 山賊頭は侮蔑の笑いを上げる。そして取りまきたちに指示を飛ばした。

 殺せ、海の上に浮いているだけの海賊が、山賊にたてついた報いを受けさせろ、と。

 

 動いたのは副船長だった。

 抜刀し向かい来る山賊達の初人の額にたばこを押しつけ転倒させると、ライフル銃を構えず持ち手の部分を鈍器に見立て次々と殴り倒した後、改めて銃口を山賊頭に向けた。

 強い。

 邪魔にならぬようこっそりと横手の柵の前に避難したアンは思う。

 船と言う限られた足場の上で、生死をかけた戦いを何度も潜り抜けて来た猛者たちなのだ。陸にくすぶり焼け焦げた山賊達では相手にならないだろう。

 仕掛けてきたのはこのガキどもだとまくしたてる山賊に対し、「どの道賞金首だろう」とシャンクスは切り捨てる。

 話し合いなど対峙し銃を抜けば余地は無い。

 実開かれた血走る目、食いしばられた歯はぎりぎりと音を立てていた。

 

 「ッ・・・!」

 アンは突然襲い来た頭痛と吐き気に膝を付き両手を口に当てる。

 それは最初、ただ、ただ気持ち悪いもの、だった。

 何か大きなものがのしかかり、アンを押しつぶし、そして流されてゆくような嫌な感覚だった。霊感など持ったことなどないが、なにかに乗っ取られてしまいそうな、といえばわかってもらえるだろうか。

 息がつまり、大量の脂汗が噴出してくる。

 

 にらみ合いは続いていた。海賊の数は変わらぬまま、山賊勢は頭目だけを残し、すべて土の上に伏していた。おとなしくルフィを離し、山へと帰るならそれでよし、もしも立ち向かってくる気骨があるならばそれもよし。海賊達は静かにその場に立っていた。

 しかし舌打ち、の後、煙幕が上がる。

 「し!し!しまった!!油断してた!!ルフィが!!どうしよう!!みんな!!」

 シャンクスはたかが小物、と侮っていたわけではない。しかしこの状況で、弱者ばかりを相手にし続けているこの男に足掻けるわけが無いと、見くびってはいた。

 落ちつけとラッキーが肉を食べながら笑う。副船長に至っては呆れつつも、ヤソップと次の手を考えているようだった。

 

 夢を繰り返し、観た。

 それはただの映像だ。手を伸ばしても、叫んでも、ただ上映し続ける。

 水面が揺れる青の中、赤が流れ出す。手にはルフィを抱き、痛みを噛み殺し笑う顔。

 

 繰り返させてなるものか。アンはそれを目的にしていた。

 しかし時は同一を繰り返す。

 

 流し込まれた何かは、未来に起きるだろう数時間後の映像だった。

 山賊を追いシャンクスの仲間たちは手分けをして森に入ってゆく。この村にはまだ2度しか来たことのない彼らのねぐらを洗い出すのは容易ではない。しかし友を見捨てては己の信念に恥じる行為となる。

 

 アンは胃にあったすべてを吐き出していた。寄り添い、背を撫でているのはベンだ。

 「お願い、シャンクスとベックマンは、ここを離れない・・・で・・・」

 

 海賊の面々は事の始まりをマキノから聞いた後、は森に向けてつま先を向けていた。山賊ならば、勝手知ったる領域の中に逃げ込むだろうと判断しての事だ。

 「・・・お頭」

 シャンクスは頷く。

 意識を失い、力なくその体をベンに寄りかかっている小さな体を見ながら、赤髪は指示を出す。

 何かを感じたのだ。信じるべきだと。

 「森はお前らに任せる、行ってくれ」

 その声に任せろ、と口々が応え、ヤソップを残し海の賊が走り出す。

 

 時計の針が時を刻み、太陽の光も橙を帯び始めた。

 何事かが起きている時ほど、待つという行為は忍耐を必要とする。

 「・・・アン」

 弛緩していた体が力を取り戻し、瞼がゆっくりと開いた。すでに口元に残っていたものはマキノがきれいに拭い取っている。

 「シャンクス、あの賊と、ルフィは海に」

 そして主が二人を狙ってる。

 よろりとふらつきながら、アンは言葉した。黒の瞳は虚ろに近く、いつものような穏やかな光はない。

 

 「今から向かっても間に合うか」

 ベックマンの問いに、ゆっくりと首を横に振る。

 「だから、跳ぶ」

 とぶ、と言われ、最初は空を行くのかと思ったが、それでも数分の時間は掛かる。

 「ベックマン、ヤソップ、迎えの船、よろしくお願いします」

 シャンクスをほんの少しだけ、お借りしますね。

 

 二人はその視線に、肌が泡立った。もしここに時計があったならば、秒針がたてる音がいつになく、大きく聞こえただろう。黒の虚ろの中にある、言いようのない悪寒とでも言うべきものを見たのだ。

 いつも本を読み、静かに笑っている少女の面影はなりを潜め、例えるならばまるで舞台の上を支配する演者のようなえもいわれぬ雰囲気をまとっていた。

 どうすればいい?

 シャンクスは膝を折り、小さな存在と視線を合わせた。

 アンは乾いた喉に無理矢理唾液を落として発する。

 「運べるのはひとりだけ、皆は走って。みんなの船の近く、主が小舟を狙う」と。

 そして小さな手がシャンクスの指を握った。

 

 瞬間、眼前に青が広がった。否、何かを通り過ぎたような感覚を得た。それは今まで生きてきた中で経験したことのない、形容しがたい何かだった。しかし、目標は捉えた。アンが持つ能力については、また後日でもいいだろう。まずは友の救出が優先だ。

 

 「「ルフィ!」」

 「アン!シャンクス!!」

 空からアンとシャンクスのふたりが落ちてくる。嬉しさの涙だろうか、弟の目尻に大きな粒が出来上がっていた。首元を掴まれている弟は、今まさに海へと投げ入れられようとしている。

 アンは背筋に走る、悪寒に身を震わせた。

 「ッ、ぁ・・・ぁあ」

 向かってきているのだ。悪夢、が。

 

 山賊は子供の声に何事だと空を見る。

 何か、を認識した時には、腕にかかっていた重力が失われている事に気が付いた。

 波が立てる音に混じり、水しぶきが立ち上る。

 アンがルフィを抱き、アンをシャンクスが抱く。

 悪魔の実を口にした能力者は、一生かなづちになるというハンデを負う。しかも海に身を浸せば、足をばたつかせることすらできずに沈んでしまうのだ。もともと水という水に溺れていたルフィは、余計水に嫌われた体になっていた。出来るだけ弟の顔を肩の上までくるよう、抱きしめる。

 「大丈夫よ、ルフィ」

 アンは必死にしがみついてくる弟を抱きしめた。

 海面が大きく盛り上がる。滝のように流れる海水は、空気を含み白く落ちてゆく。赤の口は既に開かれていた。山賊が乗る小さな小舟が大きな顎口に噛み砕かれる。

 主、だ。

 ぎろり、とその眼光が人間3人を捉えた。

 まるで本当の主食は、お前達なのだ、と主張するように、だ。

 すでにアンには主とやり合う体力は残ってはいない。

 

 「失せろ」

 静かな一言が走る。それは畏怖の力を持っていた。野生の中にあれば、己より強いものが持つものである、と本能で知っている。びくり、と海王類は身を硬直させた。

 腕の中にあるルフィは震えている。何がそうさせているのか。分かってはいないだろう。アンとてそうだ。無視出来ない背から感じる圧迫感に意識を手放したくなる。重圧はどんどんと増し、黒く塗りつぶされそうだった。これを真正面で受けている海王類は生きた心地がしないだろう。

 主は本能に抗えなかった。どぽん、と沈み込むように巨体は海の中に消える。

 

 数秒の後、ルフィがぼろぼろと涙をこぼし始めた。緊張がとけたのが一番の要因だが、自分を抱くアンから力がゆっくりと抜けていたのだ。それに顔色も白い。

 「おい、泣くな男だろう」

 しゃくりあげる声は止まらない。海は青いまま、横たわっている。

 「それにしても凄いな、今の」

 「…せつ、めいは……秘密、に、…して…」

 「ジャングズ!!! アンが!」

 意識を保つのが困難になりかけて来た時、確かに聞こえて来た。小舟を出しシャンクスを助けに来た賑やかな声の数々が近づいてくる。

 もう大丈夫。未来は、変わる。悪夢は、もう見る事はない。

 アンは何かに誘われるまま意識を手放した。

 

 

 ゆっくりと目を開く。体がだるかった。まだ布団に包まっていたいというまどろみの気持ちを押しのけ、むくりと上半身を起こし周囲を見る。しらない部屋だった。大きなベットの上でぼーっと周りを見回す。簡素な部屋だ。必要最小限にとどめられた実用的な一室、とでも言おうか。重厚な机の上には地球儀と海図が一枚置かれている。

 覗きこんでみると東の海にある島々の名前があった。

 「すごいな、さすが双子だな」

 声に顔を上げる。立っていたのはシャンクスだった。

 聞けば3日も寝ていたという。

 「怪我…したの?」

 「ああ、大事ない」

 左腕には包帯が巻かれていた。山賊が乗っていた小舟の木片が左腕を直撃したのだという。骨も折れていないし、ただ少し傷ついただけだと笑った。

 アンはシャンクスにゆっくりと近づき、怪我をしたという掌を取る。

 「痛く、ない?」

 「ああ、おれの船に乗る船医はすげェからな」

 致命傷となる怪我をしても、あっという間に治してくれる。

 シャンクスはそう言って、包帯がある掌を握った。

 「そっか、よかった」

 アンはほっと息を吐く。

 未来は変わった。予定調和を乱せば何らかの修正、が働くだろうと思っていたのだが、考えていたよりも事が上手く運んだようだ。しかし、油断は禁物だった。いつもこう、だとは限らないからだ。

 「エースに聞いた。おれを守ってくれたんだって?」

 夢の事を話したのか、と小さく意識の向こう側に尋ねた。すると我関せず、とばかりに口笛を吹いているエースが居た。あんなに秘密だと言っておいたのに。むくれはするが、責めはしなかった。

 それだけ意識を感じられなくなったエースが焦ったということなのだろう。アンであっても、エースが消えたと感じたなら確実に慌てふためく、と断言できた。

 「アンが消えたってそりゃもう凄い険相で飛び込んできたんだ」

 当の本人は眠り続けるアンの様子を心配しながら、今日も元気に飛び出して行ったという。サボが待つ"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"へ向かったのだろう。ダダンの家からと比べ、距離的に約2倍の行程を走破している事になる。早めに出発しないとひと仕事する時間も無い。なので身の安全を一応、守ってくれているシャンクスにそろそろ起きそうだから頼む、と言い残していたらしい。この3日間、シャンクスはベットを奪われただけではなく部屋を追い出された事、その間は副船長であるベックと一緒にむさくるしい夜を明かしたと笑いながら教えてくれた。

 「マキノさんが昼飯を用意してくれたんだ、食べるだろ。ルフィも来てるぜ」

 「うん、お腹ぺこぺこだよ」

 賑やかな食事の後、物資が運び込まれた船は岸を離れた。船影はゆっくりと遠くなってゆく。見送りの人は手を振り、航海の無事を言葉していた。

 ルフィは流れる涙そのままに、夕焼けの空をいつまでも見ている。

 この場に集っている一味以上の仲間を集めて海賊王になるというルフィの宣言にシャンクスは自身の麦わら帽子を預けた。

 かつて父からシャンクスに譲られたいわくがついている、年季の入っている帽子だ。何度も修繕され、大切に使われているのが分かった。

 弟の目が、遥か未来の蒼に向かっている。それがなぜかくすぐったく、待ち遠しく思えてならなかった。

 「これはおれが預かったんだ、アンにもやらねェからな!」

 「うん、それはルフィが大切に持っていてね」

 "偉大なる航海(グランドライン)"の軌跡が次の世代に手渡され、時は進む。

 



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04-ポルシェーミの一件(1)

 ガープがやってきた。

 7歳を迎えるルフィの誕生日に合わせて帰って来たのだろう。ダダンに預けたふたりの様子も必ずと言っていいほど、帰郷の際には見に来ていた。いつもは単身で登って来るはずなのだが、なぜか今日はルフィの声も聞こえる。

 海賊王になるというルフィの声、悪魔の実など食いおって!という義祖父の声。

 海兵になるかどうかはさておき、とうとう待ち望んでいた日がやってきた訳だ。

 

 シャンクスが海に出てから、ルフィは村に下りてきたアンに自分も鍛えて欲しいと言ってきた。あの日、あの海での経験がルフィの意識を変えたのだろう。無謀を素で行う所は変わってはいない。だが自分の弱さを認める事が出来た。強くなりたいと願った弟に、アンは曜日を決めて村に足を運んだ。基本的な体力を養わねば、森に入っても弱肉強食の掟にひれ伏してしまうからだ。

 コルボ山は深い山林が広がっている。その殆どが人の手の入らない、自然の、食物連鎖の上に築かれている。人が立ち入らない場所というのは、それなりの理由があるから『立ち入ってはならない場所』として流布されるものだ。

 特にダダンが暮らす山の中腹辺りは、唯一縄張りを持つ主たちが立ち入らない中立地域ともいえる場所となっている。理由は簡単だ。長年ダダンがあの場所に居を構え、罠を張り巡らし、野生が近づかないように奮闘した結果だった。以外にダダン一家は強かった。なまじ徒党を組んで事に当たってはいない、という所だろう。

 

 悪魔の実を食べたとはいえ、ただの村の少年であるルフィがそのまま森で生活すればどうなるか。生まれつきの幸運を持っている節があり、起るとは思えないが、最悪の事態が起きてしまった時は死につながりかねない。

 村に下りるようになったアンは、時にはエースも加わえて、砂浜で走り回っては疲れ果てて寝転がり、平野の鹿などを捕りに行って共に食に有りついたりと、慌ただしい日々を送っていた。"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"に住むサボにも弟分の話は伝えてある。一緒に来ればいいと誘うが、彼はゴミ山から動かなかった。

 

 叫び声があがる。

 愛ある拳には悪魔の実の効果も打ち消されるようで、覇気という特殊な力を纏っていなくともガープのゲンコツはルフィの脳天に直撃した。その痛さと言ったら、脳心頭を起こしてしまいかねないくらい、ガツンとくる。しかも男二人には容赦なく、たんこぶが山と築かれる事も少なくは無い。

 以前町に連れていって貰った時には、いつもの行動を普通にしでかしたエースの頭上にはタンコブの塔が出来たほどだ。日常的な不確かな物の終着駅(グレイターミナル)走破ルートでは無く、村から船に乗り港を繋ぐ航路であったのも悪かったのだろう。有り余った体力がそうさせてしまったのだろうが、そこは、そこ、と分別した。自業自得に救いの手を差し伸べず、みっちりと愛の鞭を受けて貰ったのだ。もちろんその後の慰めは忘れなかったが。

 

 「おじいちゃんこんにちは。ルフィを連れてどうしたの?」

 わざとらしい言い様に、エースはそっぽを向く。時折観るアンの夢で、分かっていたのだ。これは確定事項、なのだと。そしてアンは、ずっと待ち望んでいた。

 母の中から一緒だった自分が居るのにも関わらず、新しい誰かが来て嬉しいなど、意味が分からなかったのだ。

 確かにこの小さな、弟、となる人物が懐いてくるのは、思っていたより悪い気分では無い。

 だが、それとアンの喜びとは別の話だ。

 「アンか、また少し大きくなりおって。元気で何よりじゃ!」

 「だずけて、アン、イデデデデデ!!」

 ようやくほっぺたを放して貰えたルフィはアンとエースの方へと歩いてくる。

 

 「ガープさん!! ホントもうボチボチ勘弁しておくれよ!! あいつらもう10歳だよ」

 「こり以上我々じゃ手に負えニーよ!!」

 騒ぎを聞きつけた面々と。

 外へ呼び出されたダダン一家は口々にふたりの悪童ぶりを吐露する。

 しかし用件とは引き取りではなく、引き渡しだった。

 「よし…じゃあ選べお前ら。ブタ箱で一生終えるか、こいつを育てるか」

 目を瞑ってやってるお前らの数は星の数だ…!!!

 

 とはどこかでも聞いた覚えがあるセリフだなぁとアンは首をかしげる。

 「そりゃまー捕まるのもやだけど」

 時々監獄の方がマシじゃないかって程このふたりでほとほと参ってんのに、それに加えてあんたの孫、ですか。

 ダダンだけではなく、一家の誰もが顔色を青色に変えている。

 ねえみんな。みんなのご飯、ほぼわたしが作ってるんだけれど。台所仕事が出来るわたしが居なくなったらみんな困ると思うんだけれど。

 0歳児でこの家に預けられた時は、当番制で回されていた家事その他の状況を思い返せば、ぶるりと身が震える。現代的な生活を送っていたアンには、耐えられない状況が見えてくるまで、時間はかからなかった。小さいながらも体が自由に動けるようになった3歳ごろから、一家を叩き直したのは言うまでもない。

 幼児のお願い、は絶大な威力を誇るのだ。

 

 ちゃんと言われた最低限の雑事はやってるのだけれどなぁ。アンは日々の雑用をひとつづつ数えてみる。

 ダダン達からしてみれば基本言う事を聞かない。最近は鉄砲玉のように帰ってこない事もある。持ち帰る獲物が最近大型化してきた。もしかして自分達より力を付けちゃってる?最近は暴れても手がつけられないよ?という状況なのだろう。

 アンはエースを見る。

 眉がひくひくと動き、邪笑みを浮かべた口元は今にも爆発してしまいそうな形相をしていた。

 野牛を狩り終えてすぐだというのに、野生児は体力がまだあり余っているようだ。

 「エース、ルフィを頼んだぞ!!」

 「……」

 エースは応えない。ただ唇を真一文字に結んで、ガープを見ていた。

 「決定ですか!!!」

 「…なんじゃい!!!」

 ダダン達が涙を流して必死に抗議しても、ガープに一睨みされて終わりだ。

 「お預かりします…」

 義祖父とダダンの初遭遇は、まだお互いが10代だった頃と聞いた事があった。既にその頃ダダンは山賊に身を窶(やつ)しており、フーシャ村へ強襲に入った時に初めて出会ったという。

 言わずもがな、コテンパンに伸ばされたそうな。

 詳しい話は酔いつぶれて聞き出せなかったが、意外につきあいが長い、という事は分かった。

 

 「おれ、山賊大っっ嫌いなんだ!!」

 その日の夕食時、ルフィは言った。暖炉を囲む面々も困ったような、腫れものにどう触れようか思案しているのが分かる。

 「黙れクソガキ。あたしらだっておめェみたいなの預けられて迷惑してんだ!!」

 この場に居たくなければ好都合、勝手に出てゆき勝手に野垂れ死ねとダダンは叫んだ。

 あの肉もこの肉も、このふたりが獲ってきた野牛の肉だ!! あたしらにも分け前を渡すことで食卓に並ぶんだ!! 

 仮親の言葉はまだまだ続く。

 要するに、山賊稼業が不況と言いたいのだ。

 森には意外と食べ物が溢れている。ただ一家を養えるだけの量を毎日確保できるのかと聞かれたら、出来ない、と答えざるを得ない。この周辺は大型の野生動物が余り寄りつかないからだ。

 言うなればこの一家の主な収入源は窃盗、詐欺、だった。ルフィに人殺しまでやって貰うと示唆する。だが祖父には告げ口するなと言うのも忘れてはいなかった。

 

 一日に一度、コップ一杯の水と茶碗いっぱいの米。

 保障される食はそれだけだ。

 後は自分で勝手に調達し、勝手に育てと言う。

 

 同じ事を言葉を理解し始めた頃に言われた記憶がある。

 だからエースは狩を始めた。

 「わかった」

 「ん…わかったんかいっ!!! 泣いたりするトコだそこはァ!!!」

 ダダンの突っ込みに笑いがこみあげてくる。以前祖父に無人島のジャングルへ投げ込まれた時に、口に出来そうな物は大抵試し済みなのだ。既に平原で一緒に獲物を捕えて食べた事もあるルフィに、泣いて慈悲を乞えという方が無理な話だった。

 

 「おい、分けてやるから食え、食って寝ろ」

 がつがつと肉に齧りついていたエースが一切れ、ルフィに渡す。

 既に風呂は済ませていた。水を入れ火を焚き、沸かすのはふたりの仕事として、一応、振り分けられていたからだ。

 アンはまさかの行為に、吃驚して食事の手を止める。まさかルフィに食事を分け与えるとは思わなかったのだ。

 小さな男二人は、異常な食欲を見せている。分けられた肉の殆どは、エースの皿にあった。アン自身の肉は既にルフィの腹の中に収まっている。小食のアンをいつも大丈夫か、とエースは気遣うが、どこにそんな容量が入る隙間があるのだろうと毎食ごとに不思議に思うくらいだ。

 

 そうして翌日から追いかけっこが始まった。

 ダダンの根城から山を下り"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"まで走り抜けるには確実に進んでも2時間はかかる。

 ふたりで最初たどりついた時は行くだけで1日、帰りに1日半かかった距離だ。しかも帰りは山を登らねばならない。その途中で夕飯用に狩も行うのだ。

 そのため。

 「おれたちは今日から振り向かない。後を追って来い。山を抜ければごみ山が広がる場所に出る」

 そこまで一緒に来れたなら、翌日からは一緒に行こうね。

 

 初日から崖下に落ちたルフィを助けに行こうとするアンを力づくで止め、喧嘩しながらダダンの家に戻ると案の定、まだ帰ってきてはいなかった。

 「今ここでおれたちが助けに行ったら、あいつはひとりじゃ何も出来ねェヤツになる」

 助けに行きたい気持ちは同じだというエースに、アンは頷き差し出された手を握った。

 

 仮親はとうにふたりの事を見放している。確かに情はかけてはくれているのだろう。義祖父と同じく、分かりにくい部類ではあったが、幼い頃はそれなりに可愛がってくれていたようにも思う。

 だが口が悪かった。どこで野垂れ死んでしまっても、ガープには事故だと報告すればいいと思っている事、”鬼の子”と呼び、万が一預かっている事を政府に知られたらどういう目に合うのかなどなど、姿を見せなければ平然と言葉にしてしまう。

 

 エースは思う。ひとりぼっちでいたなら、とうに壊れてしまっていただろう。人を憎み、世界を憎み、蔑む全てが壊れてしまえばいいと願い。そして生まれてくるべきではなかった命である自分を憎む。死にたいと願う。どうして母は、自分を生んだのだろう。死ぬなら母と一緒に死にたかった。

 心が悲鳴を上げる。感情の矛先は怒りに変わり、悲痛な叫びすら闇の中に埋もれてゆく。

 

 子供は身近な人物達を感情を敏感に感じ取る。どうやら大人になると忘れてしまうものらしい。蹲(うずくま)ったエースをアンが抱きしめた。

 ひとりであったなら、きっと闇に飲まれていただろう。けれどふたりいる。鬼の血を引いていようが、生まれて来たのだ。父が待ち望み母が守った命は鼓動を打っている。このぬくもりは幻では無い。

 

 あいつは、村で。村の奴らに大切にされてきたんだろ。

 ガープのジジイもいる。

 なんであいつが来ちまうんだ。おれから奪うなよ。持っていくな。

 戻ってこなければいい。エースは心の奥底で、ほんの少しだけ、そう思った。

 

 3日目の夜、ルフィは帰って来た。谷底にある狼の巣に入りこんでしまったらしく、全身に切り傷を負っていたのは分かっていたが命には別状はない。アンはルフィを抱きしめた。化膿している傷が無い事を確認するとアンとエースは湯を沸かし、弟の汚れを落とした後、傷薬や包帯を巻き軽食を口に突っ込んで一緒に眠りへと落ちる。

 

 近道であるワニの巣の傍、狩り場である岩場、蛇の群生地帯、ルフィは追い掛けては見失い、禿鷹についばまれても毎日、毎日ふたりの背を追いかける事を止めなかった。

 雨の日も風の日もルフィは必死に追いかけ続ける。

 森の主である大型の虎や熊をやり過ごしたのも一度や二度では無い。しかしその度にルフィは何らかの助けを得て、窮地を脱していた。

 ある時、その一部始終を見ていたアンは、ルフィには持って生まれた天運に感謝した。

 ひとりでは生きていけない事を知るルフィには、合いの手が入る。それは山に入ってきていた狩人であったり、その地域を縄張りに持つ二番手の獣であったりと様々だったが、ルフィは必ず切りぬけた。

 アンはエースが放って置けと言っても、時々食べられる木の実やキノコを教えながら、通った途の痕跡をこっそりと残す。人があまり通らないけもの道を好んで通るエースだったが、幾つかの道順を知れば、好む地点が幾つか重なっているのが分かる。そういう中継点を弟へ教えつつ、アンは日々走った。そうしてルフィは生傷絶えぬ追跡が3カ月を超えた頃森を初めて抜け出る。

 

 「エース!アン!」

 数分も開けず姿を現したルフィにふたつの手が待っていた。

 「来たな」

 「よく来たね」

 エースのぶっきらぼうな言い方にくすくすと笑みながら、アンはルフィを招く。

 

 「おえっ!!くっせ~~何だここ」

 森が途切れた向こう側に広がる景色は、混沌としていた。鼻が曲がってしまいそうなにおいもそうだが、光景に目を見張る。

 「最初はそうだよね」

 「慣れちまえばどってことねェよ」

 3人は道なき道を通り途中で分かれエースは門へと向かう。

 「エースどこ行くんだ?」

 「門の方で、ちょーっと…ね」

 犯罪が蔓延している地帯とは言え、気軽に強奪へ行きました、とは言えない。

 アンは通れる場所と近づかない方が良い辺りをルフィに教える。

 「入り江の方は特に行っちゃだめよ。ブルージャム達が居るから」

 「なんだそいつら」

 「山賊と海賊を足して、2で割った賊、かな」

 ルフィは嫌な顔をする。山賊と言う名がつくモノに拒否反応を起こすようだ。

 

 "不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"からゴルボ山に近づいたところに小さな森がぽつんと存在している。ゴミは木の根元まで広がり、足の踏み場もない。ゴミの悪臭も凄まじいが、まだこの森に入ると緑の香りがほのかに匂い、気分的にも緩和されているような気がする。山へはこの森からでも入る事が出来た。

 待ち合わせの木に登り待っていると、サボがやってくる。

 「お。来たな、新入り」

 シルクハットにゴーグルを付けた少年が木をよじ登って来る。

 「おれはサボだ。ルフィだろ、話は聞いてる」

 差し出された手に、ルフィは応えた。

 「お前らから話を聞いて3カ月位か。アンもスパルタだよな」

 サボの言に少々もの申したかったが、ぐっとそこは言葉を飲み込む。

 そうすれば今日の稼ぎを既に終えたサボが、エースは一緒では無いのかと得物が入った袋を置き、尋ねてきた。

 「大門の方に向かったけれど、途中で会って無いよね」

 このごみ山全てが足場であり通り道だ。いくらでもすれ違いはある。

 自己紹介を兼ねて、雑談をしているとエースの気配が近づいてくるのが分かった。いつもより周囲を警戒し身を隠しながら此方へやって来る。足跡を残さないよう木によじ登り、周囲を見回した。

 「誰も、今のところいないよ」

 森の中に"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"に住む人々が入って来る事は少なかった。

 森には時々、野獣が下りてくる。エースならまだしも、ただのか弱い人間に敵おうはずもない。

 「うわ!! すげェ!! おれよりすげェ!! 大金だぞ、どうした!?」 

 「大門のそばでよ、チンピラ達から奪ってやったんだ。どっかの商船の運び屋かもな」

 得意げにエースが口角をあげる。

 この森にはこっそりと宝を隠せる洞(うろ)が多く空いていた。ゴミの集積でいびつに盛り上がった幹も多い。ゴミが重なり化学反応で何かしら影響が出ているのかと思ってしまうくらい、奇形を見る事が出来た。

 

 「海賊貯金はいくらあってもいいからな」

 一体幾ら貯めれば海賊船を買えるのか。男二人はいつもその話で盛り上がる。

 「お前ら海賊になんのか!? おれも同じだよ!!!」

 貯金を隠し場所へ納め、海賊談議に花が咲いた。アンは変わらず肩かけ鞄に入れて持ってきた本を読みつつ、話を小耳に挟む。

 「モーガニアには成らないようにね。どうせならピースメイン希望かな。宝の地図を見つけて、誰からも奪略せずに海を渡れたら一番なんだけれど」

 「モーガニア?ピースメイン?宝の地図!?」

 ルフィが目を輝かせている。

 友達と兄弟と、こんなにも楽しい時間を過ごせるなんて思ってもみなかった。

 あくびを誘うのどかな時間が暫く過ぎた頃、そこへ数名の男達が声を荒げた状態で森へと入ってきた。

 梢が風で立てる葉擦れの音が大きく響く。エースはルフィの口を塞ぎ、サボは身を低くして隠れた。

 「ここらじゃ有名なガキだ。"エースとサボ"あとアンといったか。お前から金を奪ったのは…その"エース"で間違いねぇんだな!!」

 「はい…情けねぇ話です。油断しました」

 子供たちがこの辺りをうろうろしているという話でも聞きつけて来たのか。大柄の男とチンピラが数名森へ足を踏み入れる。

 「呆れたガキだぜ。ウチの海賊団の金に手ェつけるとは……!!」

 

 しまった、あのチンピラ、ブルージャムんとこの運び屋だったのか。

 やべェ金に手ェだしちまった…

 本物の刀もってんぞ、手下のポルシェーミだ。

 あいつイカレてんだ!!

 

 ひそひそと小さな声で眼下に見える男たちを見定める。チンピラは良い。まだ戦える相手だ。問題はやはりポルシェーミだった。

 この男との戦い負けた人物は、確実に拷問にかけられ死ぬ。子供であろうと一切容赦しない鬼と言われていた。生きたまま皮を剥がし苦悶の表情を見るのが楽しみ、という残酷的な思考の持ち主として知られている。目を付けられ息絶えた者も少なくない。

 サボはそういう、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)内で囁かれている噂や話を拾ってくるのが上手かった。

 

 通り過ぎるまで息を潜め、一気に岩場ルートから山へ逃げ入るしか手は無い、と話し合う。入ってしまえば此方のものだ。

 「あれ、ルフィは…」

 「あ」

 アンの顔からさーっと血が引くのを感じた。

 逃げ出すにしても体が一回り小さなルフィは先に駆け出さねばアンやエース、サボのスピードについてはいけない。だからわたしと一緒に少し早めに出発しようね、と二人話していた直後の事だった。

 「放せ!!! コンニャロー!」

 すぐに動く、と勘違いしてしまったルフィは下におりてしまったらしい。

 エースとサボが額に手をあて、最悪だ、と呟いている。

 何事も無くルフィをただの孤児だとその場に放置してくれれば御の字だ。

 アンは祈るような気持ちで、見守る。

 「一応聞いておくか。エースというガキが俺達の金を奪って逃げた。知らねェよな」

 しばしの沈黙の後、緊張した面持ちで口を開く。

 「し…し…知らねェ」

 視線が泳ぎ口をとがらせる子供に、男は唖然とした。

 態度で知っている、と言ってしまっているようなもの、だったからだ。

 「よしよし、知らねェなら思い出させてやるよ…安心しろ…!!」

 

 あの馬鹿…エースのつぶやきはルフィへ向けられてはいるが、アンへの言葉でもある。

 一途に、素直に生きて来たルフィに嘘を期待する方が無理だった。

 まさしく漫画やアニメに出てくる、がく、とうなだれる思いをアンは現在進行形で体感していた。

 ポルシェーミが放ったのか、チンピラ達がルフィが捕まった辺りを入念に調べ始めている。下りたくても下りれない。

 「貯金の事あいつ口を割ったりしないのか」

 「わからねェ、移動させた方が……」

 ひそひそと交わされる言葉の間に、アンは割り込む。

 「しない。ルフィは絶対に言わないよ…」

 確信だった。嘘は付けないが秘密は守る。

 アンの声音にふたりは顔を見合わせた。

 

 「仕方ねェ、助けに、行くぞ」

 エースが意を決め、言葉にする。

 しかし、どれほど待ってもチンピラ達が引く様子が一向に訪れない。時だけが刻一刻と過ぎてゆく。

 焦燥感だけがゆっくりと雪のように降り積もっていった。

 最終手段としての移動方法をアンは持っている。だが使えば最後、脱力感と共に耐えきれないほどの睡魔が襲ってくるのは実証されていた。以前ルフィを助けるためシャンクスを連れて空間を飛んだ時も3日意識を失っている。

 「どうしても身動き出来ねェ状態になったら、頼む」

 エースの言葉にアンは頷く。

 話にだけは聞いていたアンの特殊技能をようやく見られるのか、とサボは楽しそうに笑む。

 「その代りちゃんと運んでね。置いてきぼりは嫌よ?」

 財宝よりも、もっと大切な宝を取り返しに行くのだ。迷っている暇などは、ない。

 



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05-ポルシェーミの一件(2)

 太陽が西へと傾き始めると"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"でも人々の動きが緩慢となる。今日も一日、生き残れたと言う安堵と、またやってくる明日の為に寝床へと潜り込む、そんな時間だ。

 首都から排出された不要物も使えそうな再生物は根こそぎ持ち去られ、残るものはここでも使えない、ゴミだけとなる。

 だがそんなごみの山に群がる小さな影があった。伸ばす手は短く、小さい。

 日が暮れるまでの短い間だけが最弱者である子供達がゴミを拾える時間だった。周囲の様子を伺いながらそっと隠れ家から這い出し、小さな手で残り物を懸命に探し始める。

 

 "不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"には小さな入り江があった。

 このごみ山での頂点であるブルージャムが率いる海賊が船を停泊させ拠点にしている場所だ。周辺は平らに整地され、木の幹を削り出して作った柱を突きさし、簡素に組み上げられ垂れ幕が張られている。家として使っている訳ではないが雨風をある程度しのげるよう建てられていた。

 

 停泊する船の一室では待つことにしびれを切らし始めた男が凄みを増し、船員のひとりに向け眼光を飛ばす。

 「遅ェなァ、オイ…」

 背筋を冷たくする目がぎろりと動く。彼、は表情筋を強張らせた。己の失態ではないのに、怒りの矛先を向けられているのだ。睨め付けられた船員はたまったものではない。

 「今日の責任者は誰だ?」

 「ポルシェーミの野郎です、ブルージャム船長!」

 海賊団に所属している人員及び、その下っ端までもが船長の人となりを人でなし、と評する。

 ブルージャムはいとも簡単に、人員を切り捨てた。その様はまるで、落ちているこの葉を握りつぶすのと変わりない。船員の胸中にはいつ自分もそういう風に扱われるか、分からない、という恐怖が絶えずあった。船に乗り込んでいる誰もが細い細い綱を、毎日命からがら渡っている。野心を秘めた鋭い目に、首元をワイヤーで絡ませられ、身をすくませながら生かされている。

 お前達の代用品などそこら辺に捨てるほどあるのだと。遠回しになど言わなかった。だが男達はブルージャムに使われる他、生きる術を忘れさせられていた。

 「もう日が暮れるぞ……」

 金に光る懐中時計を確認し、ゆっくりとドスの効いた声が発せられる。偶発的に同席となった船員は、生命の危機を感じていた。船長は感情のまま引き金を引く事を迷わないから、だ。

 「あの野郎。金を持って逃げたわけじゃあるめェなァ…」

 「いやァまさか」

 あの人がそんな事を。

 ほろりと出た言葉に、死んだ魚のような、虚ろな目が一斉に彼を的にした。

 

 すぐにポルシェーミの野郎を探しに行かせます!

 無言のまま眼球だけでいけ、と命ぜられた船員は部屋を飛び出る。

 「使えねェなァ、おい」

 あれはいつ、手下に下ったバカだ。…まあいい、おい、そこのお前。暇つぶしだ。こっちに、来い。

 獰猛なつぶやきは暗く沈み始める部屋の中に落ちる。

 

 

 SIDE アン

 「移動する先の座標は確かにその地点だけれど、上下、どちらかに出現するかは運なの。上手く、着地してね」

 3人は船貯金を隠した場所より探しまわるブルージャムの一味から身を隠すように、死角を見つけては木の上部へと登っていた。下に下りれないのだから仕方が無い。

 ピンポイントで探しに来ないという事は、ルフィが沈黙を続けているという証拠だとアンはふたりに言い続けていた。ポルシェーミが拷問を行う場所は入江と門の丁度中間地点辺りにある。

 そこは流れ着いた軍艦の鉄板を屋根に使い、贄をサンドバックして遊べるよう太い木を梁とした頑丈な作りになっていた。なぜ知っているのかといえば、以前アンが仲良くしていた女児を救出に行った事があったからだ。ポルシェーミは小児性愛(ペドフィリア)だった。簡単にいえば幼児を性的欲求の対象とする性的倒錯者だ。もっと簡単にいうなれば、13歳以下の女の子に手を出す、とてつもなく危ない男なのだ。ポルシェーミの半径5キロ圏内から対象年齢者は逃げるべし。ロリコンならまだ愛でるだけなので許容も出来ようが、手を出す危険人物に近寄るべからず、なのである。

 

 だがしかし、この無法地帯では何もかもがあって良しとされていた。

 常識など通用しない。襲い襲われ、殺し、脅し、喰らう。

 当然などなんの価値も、値打も持たなかった。

 

 アンは自身に大丈夫だと言い聞かせる。考えたくは無かったが、アンもまだ、ポルシェーミの嗜好に符合しているのだ。

 アンとて移動した先で倒れ、相手に確保されるのという最悪の事態はご免被りたかった。ルフィを運ぶのも大変だろう。荷物にだけはなりたくはない。だが瞬間移動は肉体的疲労より精神力がごっそり持っていかれるような感じがしていた。鍛えるにもどうすればいいのか、分からない。

 学生であった時を思い出す。10年前ともなると、かなり記憶が曖昧となっているが、試験勉強が嫌で、集中力が切れた時は大好きな本を読む事に没頭していた。楽しくて寝食を忘れ、気がつけば朝を迎えていた事も多々ある。

 集中力。

 好きな物であれば長続きするが、嫌いな物であればすぐ切れてしまう。

 結局はやろうと思う気持ち次第でなんとでもなりそうな気もしていた。マラソン走者達は例えコンディションが最悪であっても走り通す事を諦めたりはしない。困難であるほど、強敵が居並ぶほど気持ちが集中するという。

 やろうという強い意志があれば、どんなに辛くとも耐える事が出来る。

 要は気合、だ。そして振りだしに戻りかけ、やめた。

 

 内部に足りなければ外部から取り込めばどうだろう。

 

 呼吸を整え、自身を自然の中に溶け込ませる。此方に来て意識してやった事は無かった。風に耳を澄まし、木の中を通る水を感じ、その下にある大地を感じる。空には太陽の温かさがまだ残っていた。夜の帳を下ろす闇がゆっくりと進んできている。

 世界に包まれていた。たくさんの気配を感じる。

 切り絵のように取り出された一部では無い。繋がっている。

 フーシャ村ではマキノが訪れ始めた村人たちと話していた。村長も奥さんとの会話の最中だ。様々な人の声が聞こえる。

 ルフィも見つけた。泣きながら耐えている。

 ほんの少しだけアンは木から力を分けて貰った。緑が風に揺れる。応援されているようにも聞こえるのが不思議だ。

 心が軽く弾む。

 

 

 SIDE エース 

 アンの変化が手に取るようにおれには分かった。何かを考えていたかと思うと、呼吸をゆっくりとし始め、片手を空へと伸ばす。サボとふたり、いらいらとし始めていた。このまま待ってたとしても埒があかねェ。それなら正面突破した方が早いと、鉄パイプを手に立ちあがった時だった。

 ぞくり、悪寒が走る。耳鳴りと大音量のなにかが突然、おれの中に流れ込んできた。

 「お待たせ、じゃ、飛ぶね」

 アンはにこりとほほ笑む。

 「ちょっと待て」

 おれは頭の痛みに耐えながらアンを止めた。くらくらと揺れる視界に、ぎゅっと目を瞑る。

 「無理して飛ぶ事無いんだぞ、おれ達あそこまで走っていけるんだ」

 サボが鉄パイプを握り締め、アンを見る。

 「大丈夫だよ。場所の把握は済んでるし、動けると思う…たぶん」

 語尾が小さくなって顔を背けるのは確信がないからだろう。

 なんとか頭を振って眩む感覚を振りはらう。

 「たく、お前な。なんでもひとりで抱えんなって言ってるだろ」

 おれは上目づかいで頬を膨らませるアンの頭を撫でた。きっと無理をさせる。だけど、やめろと言った所で聞く訳も無い。

 「お前が倒れてもおれがおぶってやる。安心して倒れろ」

 おれは特にアンに対して嘘はつかない主義だ。

 「うん、じゃあ…その言葉に甘えるね」

 おれ達のやり取りに、黙ってたサボが、「お前らって、きっとそう言うだろうなって思ってたよ」そう言って笑う。

 「どっちも我が強いもんな」

 

 

 「いい加減に吐きやがれ!!!」

 ポルシェーミの声には焦りが含まれていた。ゴム人間である子供に鈍器は通用しない。ならば刺つきのグローブではどうだと殴ってみれば効果覿面(こうかてきめん)だった。それから数時間、脅しと甘言を繰り返すが、麦わら帽子をかぶった子供は杳(よう)として口を開かない。

 「コイツ…叫ぶ気力も失ってますぜ」

 聞こえてくるのは血が滴り地面に当たって跳ね返る水音と、小さくなったしゃくりあげる声だけ。

 「…たぶんもう何も喋らねェ…いや、喋られねェし…正直ムゴくて見てられねェ……!!」

 チンピラの悲痛な言葉の答えは、拳だった。

 「ガキをかばうヒマがあったらエースとサボを捜して来い!!」

 

 ポルシェーミは苛立っていた。

 声が荒ぶるのは命の危険が差し迫った状態だったからだ。時刻はとっくに過ぎている。船からこの場に使いがやって来るのも時間の問題だ。そうなれば問われる。ポルシェーミは背筋に嫌な汗を感じながら、ブルージャム船長の己よりも冷たい、双眼にぶるりと身を震わした。

 あの目に射すくめられた者は全て、冷たくなるのだ。

 今まで何人も見て来ていた。言われた仕事をこなせなかった者たちは全て、このごみ山の一部と成り果てている。

 早く何とかしなければならなかった。ポルシェーミとて命は惜しい。出来るならば逃げ出したかった。しかしどこへ逃げると言うのだろう。この島国で、ブルージャムの手から脱せる場所などどこにもない。早く、早く何とかしなければ。

 それだけが思考を支配する。

 

 周辺では出入りの激しいあばら屋を遠巻きで見ている人々が居た。

 「あんな子供を…」

 町の保安官を呼ぼうかという声も出るが、このごみ山では法律が通用されない。しかも貴族に上納しているブルージャムはこの国において、特にごみ山での犯罪を黙認されている。

 それどころかごみ山に逃げ出した害虫を処分する度、些少とはいえ報奨金も出ていた。

 私掠を認められているのだ。見捨てられた地で幾ら死体が増えても、町に住む事を許されている人々にとっては、ああ、そうなんだ、と軽く聞き流せる程度の話に過ぎない。

 

 「いわねェ……!!!」

 秘密を守り通す麦わらに、ポルシェーミも刃を抜く。

 「ならば死ね!!!」

 

 

 「「やめろぉぉぉぉぉ!!!」」

 重なる声はあばら屋の壁を砕き、地へ着地する。姿はふたつ、おれとサボだ。

 男達は最初、呆気にとられていた。思わぬ所から突然、おれ達が現れたんだ。そりゃ、びっくりするよな。

 「こいつだ!! こいつが金を奪ったんだ!! 畜生ォ」

 腕に包帯を巻いたチンピラの一人が、残った指先でおれを指す。

 「来てくれたならありがてぇ。こいつの口が固くて困ってたんだ」

 ポルシェーミの大きな手がルフィの首を掴んだ。微かな声でおれとアンの名を呼ぶ。

 お前、なんだかんだって世話、焼かせすぎなんだよ。

 おれはお前が嫌いだ。おれに無いものをいっぱい持ってるくせに、おれの大切なモノに触ってくる。けどアンがお前の事を大切にしてるから、仕方なく、なんだ。

 …今助けてやる、待ってろ。

 「サボ!!」

 大男はおれの声に視線を一瞬こちらへ向ける。

 「ウォリャァァ!!!」

 サボが小さな体の利点を使い後方へ回り込んだのち、後頭部を力いっぱい殴打する。

 周りに数人たむろうチンピラ達は翻弄されてばかりだ。あっけにとられていた奴らが後ろから切り込んできても無駄なあがきだ。

 目が後ろに付いてるみたいに、おれには分かる。

 サボの会心の一撃を受け巨体は顔面からゴミが散らばる地面へめり込んだ。そのままチンピラのひとりが持っていたナイフをサボは奪う。あいつのスリはおれが知っている奴の中でもとびきりだからな。

 「逃げるぞエース!!!」

 縄を切ったサボがルフィの体を抱え上げ叫ぶ。

 「先に行け!!」

 「バカお前…!!!」

 駆け出し始めていたサボは足を止める。砂埃が舞った。

 「一度向き合ったら、おれは逃げない!!!」

 「やめろ!!! 相手は刀持ってんだ!! 町の不良とわけが違うぞ!!!」

 

 おれはポルシェーミを見据える。背にはサボとあいつがいた。誤差が無いよう、アンも力の限りこの場へと飛んだんだ。ここでおれが踏ん張らなきゃ、いつやれってんだよな。

 「オイ…少し魔がさしたんだろ?」

 大人しく金を返せよ、悪ガキ。

 余裕を浮かべ粘っこい黄色い歯を覗かせた大男の顔が歪む。嘘ばっかり並べやがって。子供だからって舐めてんじゃねェよ。それに返す、なんて言ったところでその力を振るうのは止めねェだろう?

 「安心しろ、おれ達が有効に使ってやる」

 「馬鹿言ってんじゃねェよ!!!」

 怒りを満たした形相が刀を振り下ろす。鉄パイプを構えるが、細いそれは奴が振るった剣によって先の丸まった部分が断絶され、刃の先が額を通った。避けきれず鋭い痛みが走るが構わない。

 「ガキどもが…お前等に負けたら、おれぁ海賊やめてやるよ!!」

 おれは自然と笑みを浮かべていた。

 その言葉に二言はねェよな。大人の都合を並べて、あれは無かった事に、なんて事はさせねェぞ。

 「やめさせてやる!!」

 ちょっと待ってろ、そう言ってあいつを地面に置いたサボがおれの横に揃う。

 それぞれが鉄パイプを構え地面を蹴った。

 「遅せェよ」

 おれとサボのふたりがかりでポルシェーミへ向かう。必死に払い、打ち、突く。

 視線が捉える。いつの間に後ろに回ったのか、巨体の後方にはアンが居た。いつもの顔じゃあねェ。一切の感情を消した、仮面が張り付いている。そしていつもは手にしない、手に握った鉄パイプを力任せに振りかぶった。棒はヤツの側頭部を直撃し形を変える。そのまま勢いで身を回転させ太い首元に蹴りまで入れていた。おっかねェ。普段怒らねェアンが切れると、ジジイよりも怖いと思う時がある。それが、今だ。

 ポルシェーミの体が浮く。おれは鉄パイプを捨て、拳に力を込めた。脂肪が詰まった腹へ、歯を食いしばった一撃が、食い込む。

 後部側面、そして真正面からの力は逃げ場を求めて唯一の方向へと向かう。その先にはあばら屋を支える柱があった。衝撃を受け、ぐらりと揺れる。

 「サボ走れ、崩れるぞ!!」

 

 

 サボがあいつを、おれはアンを抱え背負い、獣道を登る。休憩場所がある滝つぼの岩場を目指し、ひたすら走り続けた。追っ手は来ないみたいだな。きっとあばら屋を掘り起こすのに必死になってるんだろう。

 アンはフラフラになりながらも焚き火を起こして、おれ達が水辺から上がって来るのを待っていた。

 傷口を洗い流したおれたちの手当を終え、満足顔で倒れる。その傍であいつが変な顔して泣き続けていた。はっきり言って、煩かった。

 「お前…悪りィ、クセだぞ、エース。本物の海賊相手に、”おれは逃げねェ”なんてさ。 なんでそうお前はヤバい方に自分から行くんだよ。死んだら元も子もねェんだぞ」

 サボの言いたい事はよく分かる。

 でもさ…あの状態で逃げられるかどうか、微妙だと思ったんだ。ひとりひとりで走るならいけかもしれねェ。けど、なんでかな。おれが立ち止まらなきゃ、って思ったんだ。おれだけなら安い命だ。奴らがお前達を追う方が我慢ならなかった。

 

 おれのいい訳を聞いて、サボが溜息をついた。

 呆れてんだろうな。そうおれが言うと、

 違う、と切り返してきた。

 そしてサボがおれの目をじっと見る。

 「お前が死ぬと、おれも困るんだ」

 突然の一言に言葉が詰まる。胸がどきりと跳ねた。

 

 「こんな事しちまってブルージャムの一味はもうおれ達を許さねェだろう。どうせこの先…追われるのは確定だ」

 サボの心配は当然なんだろう。けどやっちまったもんは仕方ねェ。

 割り切るしかねェけどそう簡単に割り切れるほど、簡単な問題でも無いっていうのも、分からなくもないけどさ。

 サボが頭を抱えてあれこれと考えぶつぶつ言っているのを聞きながら、おれは予備に隠しておいた鉄パイプを試し振りする。けどどうもしっくりとこない。前に使ってた棒(やつ)のほうが良かった。

 

 「怖がっだ…死(じ)ぬがどぼどっだ」

 ルフィは傷の手当て中もずっと泣いていた。

 「ああああ!!! うるせェな、いつまで泣いてんだ!! おれは弱虫も泣き虫も大っ嫌いなんだよ!!」

 イライラする!! アンが無茶するのはこいつがいるからだ。お前さえいなけりゃ、あのおっさんと戦う事も無かった。お前はどこぞの金魚のフンか!

 おれが叫ぶと嗚咽していた声がぴたりと止む。

 「ありがどう……たす…助げでぐれで…ウゥ…」

 「てめぇ!!」

 「おい、おい。エースなに怒ってんだよ。礼言ってるだけだろ」

 サボが慌てて止めに入る。

 んだよ、止めんなサボ。こいつにはちゃんと言ってやらなきゃわからねェんだ。

 

 「ブルージャムの奴らは性別、年齢問わず平気で人を殺す。なんで言わなかった」

 サボはおれをあいつから遠ざけ、理由を聞いていた。

 しゃくりあげながら、話せばもう友達になれない。ルフィは涙を必死にこらえ言う。

 「なれなくても死ぬよりましだろうが。なんでおれ達と友達(ダチ)になりたいんだよ」

 「アンが教えてくれたんだ。一緒だと楽しいって」

 耐えきれなくなった涙がぼろぼろと零れる。んだよこいつは。

 「だって…だって他に!! 頼りがいねェ!!!」

 

 おれはその一言に、言ってやろうと思っていた全てが止まった。

 

 フーシャ村には帰れない。山賊にも世話になりたくない。手をのばしてくれたアンと、同じ手のひらを持つエースだけが寂しさを紛らわせてくれた。今日初めてサボにも会えた。嬉しかった。無理しなくとも、普通に笑えた。

 時々帰って来る祖父以外は誰もいない部屋にぽつんとひとりきりになる。

 「…1人になるのは痛ェのより辛ェ!!!」

 言葉に、偽りなど無い。

 

 親が居ないのは知っていた。

 その代り、村全体でこいつを育てているんじゃなかったのか。あんなにも村人達に囲まれて、構って貰えてそれ以上何を望むって言うんだよ。

 「お前、親は」

 「じいちゃん以外にいねェ」

 

 ルフィは鼻をすすって、必死に涙をこらえながら言葉する。

 孤独の苦しさは身にしみている。ジジイが居ない分、村の奴らが…

 ああ、なんだ。お前も腫れものみたいに扱われてたのか。

 「…おれがいれば辛くねェのかよ…」

 ルフィは頷く。

 「おれがいないと困るの…か」

 こくり、とルフィが再び頷く。 

 「アンもいねェと嫌だ」

 

 町の奴らは言っていた。

 ロジャーにもし子供がいたら?

 そんな奴がいたら困るだろうが、なぁ!

 そいつは生まれてくる事も生きる事も許されねぇ!

 なんたって"鬼の子"だからな! 

 同じ空気を吸ってる、ってちみっと思うだけでも反吐が出らぁ!

 嘲笑を繰り返した。

 誰もかれも同じことを口にする。誰からもおれ達は存在すら許されていなかった。

 

 「お前はおれに…生きててほしいのか?」

 不意に出た言葉だった。

 「当たり前だ!!」

 嘘ではないと、分かった。まっすぐにおれを見ている。なるほど。お前はいるって言ってくれるんだな。アンが…構いに行くわけだ。

 「そうか…でもおれはお前みてぇな甘ったれ嫌いなんだ」

 いろんな感情が胸ん中でごわごわしやがる。変な気分だ。

 

 「おれは7歳だぞ!!お前みたいに10歳になったら絶対泣かねェしもっと強ェ!!!」

 「おれは7歳んときはもう泣いてなんかねェよ!! バカはお前だ、一緒にすんな!!」

 

 

 賑やかしい声にむくりと身をアンは起こす。

 「うるさくて眠れねぇ?」

 サボが鉄パイプを肩に担ぎ、此方を見る。

 「ううん、心地いいよ? いやあ、いい兄弟喧嘩してるなぁって。ちょっと嬉しくなって起きちゃった」

 

 アンはサボと共に観戦していた。

 エースが心の内に隠し持っていた声がようやく聞けたのだ。

 ただそれだけなのに、どうしようもなく感情がこみあげてくる。ルフィの存在は、エースの中でもどんどんと大きくなっていくだろう。在っても良い、ただそれだけの事を認めてくれる誰かがいるだけで、生まれてきた意味を見いだせる。

 サボの一言も効果大、だったよね。さらりと殺し文句言っちゃう所が罪深いのだけど。

 アンはくすくすとひとりで笑む。

 

 「ところでよ…」

 「あー、ごみ山にサボ帰れないね。どうする?」

 今日の事で少なくとも、ブルージャム海賊団には命を狙われる危険性が出てきたわけだ。奪った宝もきっと秘密裏に探し出す算段をしているだろう。3人の後をつけて場所に辺りを付け、そして奪いに来る。大人達にしてみれば、子供らが隠し貯金を殖やしてくれているようなものなのだ。急いで取りに行く必要など無い。満タンになってから、ゆっくりと手に入れればいいだけの話なのだ。

 アンは思案する。

 「サボが良ければ、ダダンおばさんのところに来ればいいと思うな」

 ダダンがどういう声を上げるのか、分かってはいたがサボなら大丈夫だろう。上手く一味をおだてて、丸く話を納めてくれるに違いない。エースは散々くそばばあだと罵るが、以外に面倒見のいい所があるのだ。つぼをついたお願いすればきっと、置いてくれるだろう。

 

 案の定、ダダンはムンクの叫び宜しく、新たに転がり込んできたサボに驚愕の声を上げた。

  

 コルボの悪童たち。

 山や深い森の中で猛獣を狩り、町の不良たちやごみ山の犯罪者、入り江の海賊達との戦いに明け暮れ、その名は壁を越え王国の中心街にまで届くほどになる。

 

 「アンちゃん、無事で何よりじゃのぅ。ここいらも多少は落ちついたわいな。それぞれの溜飲も少しはくだった…の」

 数日後、ごみ山に住む老人からアンは聞いた。

 ポルシェーミの姿が消えた、と。

 船長が放った銃撃で、頭を射ぬかれゴミ山の一部になったという。

 ようやく罰が当って清々した、そう暗い目を光らせ、老人は言った。

 



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06-絆

 ゴア王国。

 それは東の海(イーストブルー)の辺境にありながら、世界美国30選に必ず、名が挙げられる国の名だ。アセット式建築用法で統一された町並みは、それぞれの階級ごとに特色を変えている。特に貴族階級が住まう地区には瀟洒(しょうしゃ)な景観が続く。繁華街の中心部には美麗に整備された広場にはごみひとつ落ちておらず、50万冊を超える蔵書が納められた華麗な書の殿堂には、遠く南の海からも閲覧者がやってくるという。

 この国では全ての民に分け隔てなく教育を施し、高い教育を受けた人々もまた軽やかに、幸せそうに日々を営んでいる。

 彼らは来る祭典を控え、王国を挙げ世界貴族である天竜人(てんりゅうびと)を迎える準備に余念が無い。出席されるご予定のジャルマック聖は殊の外、東の海の中でもゴア王国に立ち寄るのを楽しみにしている、とお言葉を賜れた。

 式典は前夜祭から催される予定となっている。

 定期船は各所より出航。問い合わせは運航事務局まで。

 

 アンはニュース・クーが持ってきた新聞を片手に、サンドイッチを食べていた。記事に関しては別段、変わった動きは記載されていない。いつも通り、平常運転だ。エースからは金の無駄遣いだと言われているが、ここ最近ずっと、新聞を買い続けていた。数ヶ月前に小さな記事で見た、続報を探していたのだ。しかし、あれから全く続きが載らないでいる。その記事、とはとある人物の死、だった。

 絶対に何かが起る。

 アンはそう、予想していた。彼の死によって、何事かが起きないのがおかしいと思えたからだ。

 夢で観るのはアンのごく近場の現象だった。偶に違うなにか、を知る事もあるが、確率的には低い。

 

 「ごちそうさまでした」

 アンは両手を揃える。以前からの習慣で、ご飯の始まりと終わりは欠かさず行っている。

 中心部には数え切れないほどの店舗が軒を連ねているが、食べ歩いた中でもこの店の味が一番お気に入りで通い続けていた。

 特にサンドイッチ系が美味しい。

 この食べ物を最初に考え出した人物はすごいと思う。本を読みながらでも、手を汚さず食べる事が出来るからだ。発祥を遡っていくと平たいパンを使って大皿から自分の皿へ食事を取り分ける時に使われていたらしい。

 もしいつもの食卓へ、これに似た物を出したらどうなるだろう。

 常々、食事時の食べ方が宜しくないと思っていたのだ。

 ダダンの家には囲炉裏はあっても竃(かまど)は無い。しかし代用品はいくらでも用意出来る。鉄板が一枚、物置に放置されていたはずだ。錆を落とせば使えないだろうか。もし使えたなら、いろんな食事を作る事が出来るだろう。例えばお好み焼きや焼きそばなどなど、だ。

 アンはぺろりと指を舐める。

 今日は兄弟達とは別行動をとり、中心街にあるオープンカフェにいた。野生的な生活も慣れれば悪くは無いのだが、時々、口恋しくなる食べ物がある。そういう時はこうして、食べに来ていた。たまごときゅうり、ツナとトマト、ハムとレタスの組み合わせが絶妙すぎて怖い。手作りすれば安上がりだが、加工する前にいつも完食となるダダン一家の食卓は、エンゲル係数がすこぶる高い。採る、や、獲る、はあっても、買う、は無かった。

 山での生活は充実している。ルフィが来て、サボが一緒に暮らすようになり毎日が楽しかった。

 

 「さて、とそろそろ…」

 

 町に繰り出してきたのは、本を買う為だった。数か月に一度届く、義祖父からの書物は残念ながら全て読み終えてしまい、サボと相談して一冊だけ購入する事にしたのだ。海へ出るまでに最低限、知って居なければならない知識は以外と多い。全員が海へ出る希望を持っている為、皆一緒に航海術を読み、調べ、学んでいる。大抵の場合、エースとルフィが眠気に負けて睡眠タイムに入ってしまうのだが、アンとサボは疑問点を挙げながら、議論を繰り返していた。そしてその都度思う。サボは本当に10歳かと。そしてこういうのを非凡な才能、というのだろう。

 アンはメモを見つつ、買い忘れた物が無いか、鞄の中を確認する。

 包帯や絆創膏、傷薬と大切な本、ちゃんと入っていた。

 端町で分かれたエース達は美味しいものを食べてくる、と言い残し走って行った。行先を聞かなかったが、どうせいつもと同じだろう。向かう先はほぼ決まっている。出来るだけ物はお金を出して買って欲しかったが、海賊貯金の方が大切だと、いつも無銭飲食するのが常だった。

 

 横並びにある白のテーブルには身なりを正した町の人々がそれぞれの時間を楽しんでいる。

 アンは背もたれに寄りかかり、周囲を観た。人々の波にまぎれてせっせと清掃に励むクリーナー達が働いていた。クリーナー、とは掃除を主な職とする人達の総称だ。手にもっているのは箒と下におろせばぱかっと口を開くちりとりだった。彼らが細々と働き続けてくれるおかげもあり、中心街の各所にはゴミひとつ落ちてはいなかった。回収されたものはすべてまとめられ、"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"へと運ばれてゆく。

 

 最近見る夢は大きな炎だった。全てを覆い焼き尽くす赤の炎の中に声が響き渡る、ただそれだけの風景が続く。

 思い当たる場所はあった。

 しかし食い止めようにも方法が思いつかない。

 彼ら、この壁の内側に住む人々にとって、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)は、ごみ山以外の何物でもないからだ。そこに住んでいる存在があったとしても、それがどうした、と言う話になる。法が存在しないゴミだめに、国籍を持たないなにかが動いていても別段、気にするようなもの事では無い。それがどうしたというのだろう。捨てたごみがどうなろうと、知った事では無いからだ。

 何年もかけて積まれ続けたごみは、許容を満たそうとしている。ならば効率的に処理しなければならない。

 

 もしもを考えてみる。

 今この時点から火事が起こるとごみ山の人々に噂と流すとしよう。

 上手くいけば半分くらいは信じてくれるかもしれない。様々な要因が重なり、いつもごみ山からは発火直前の炎がくすぶっているからだ。しかしその状態が続いて長い。俺達をここから追い出そうとしている輩の、嫌がらせだと理解する者達も多いと予想で来た。

 数日もかからないうちに、伝聞は広がる。そうすればきっと門を守る軍隊の耳にも入るだろう。

 

 火事が自然発であった場合。

 王国はそのまま放置するか、もしくは利用するか。

 アン的には後者に傾くと考える。

 

 火事が人為的であった場合。

 軍隊は噂にも一応、注意しているだろうから、こういう話があった、くらいは報告書にあげるだろう。

 そしてそれが高町にある行政府に上がったならば、……どうなるか。

 目的はごみを燃やす事だ。強硬手段に打って出て来るか。それとも計画通りに事を運ぶか。

 どちらにしてもアンの立ち位置的に後手後手にならざるを得なかった。

 

 一番良いのは何があっても良いように、準備を整えておくことだ。しかし可燃物が大量に積まれた不確かな物の終着駅(グレイターミナル)で、準備も何も、用意出来る訳が無い。唯一出来るかもしれない、のは逃げ道を作っておく事だ。が、足の下にある大量の燃える元、の存在に、果たして経路を作っても役に立つだろうか。

 

 何も起らないのが一番良い。

 けれどこの願いは果たされないだろう。

 夢、の的中率はほぼ100%だ。足掻けばなんとかなる場合もあるが、それはごく身近の、少数に限られた。

 

 暦はゆっくりと確実に刻まれている。

 前いた場所でもそうだが、こちらでも歴史の改ざんが当たり前のように行われているようだった。特に国史、は勝者の記録であり、敗者には記述を加える資格が無い。年号は幾つか、歴史を持つ国々よって違っているものの、世界政府が奨励している作り上げられた歴史年表に当てはめれば現在は1513年、となる。

 

 歴史は作り変えられやすい。

 記憶媒体が発達しているあちらとは違い、誰の目に触れても真実だと知らしめる方法がこちらには少ないからだ。あっても利用できるのは数限られた、一握りだけだろう。時計やランプ、医療用精密がそこそこ出回っている町の状況をみると、きっと洗濯機やテレビ、掃除機、乾燥機くらいはあるだろうなぁと想像出来る。

 PCやネット環境は多分無い、はずだ。もしあれば、様々な議論が世界で活発に行われるだろう。世界政府として情報の統制を行っている節が強いため、流通するのは余り宜しくない。

 可能性がゼロでは無いが出回っていないものとして空を飛ぶ飛行機、ヘリコプターなどだろうか。偉大なる航路(グランドライン)では磁気異常があるというし、常識が通用しない気候変動も起こっているというから、飛ばせない、というのが理由だろう。

 ディーゼルエンジンもこれだけ機械が出回っているのだからあるだろうと思いきや、どれだけ探しても本の中には見つからなかった。世界のどこかにはあるのかもしれない。けれどもし、隠されているのだとしたらどうだろうか。

 

 これもまた、空白の100年に纏わる、異端知識ってとこかな。

 

 発明の手順がてんでばらばらで、何がどう繋がって実用化されているのかを予測できない。

 石炭で動く機関車は水の都で稼働しているが、船舶の一部にも使われれている可能性は否定できなかった。けれど、どんなに探しても、海洋面積の方が大きな世界であるとしても、産業革命が起る気配が微塵も見えて来ないのはなぜだろうと考える。意図して起こさせないようにしているのか。けれど海軍にはDr.ベガパンクという発明家が在席している。そのほかにも役に立つか立たないかはは兎も角として、研究者は世界にたくさん居た。

 統制された世界で、果たして起り得るかは微妙だとは思うが、避けて通れない通過点でもあるだろう。

 

 世界を、一体どうしたい、の?

 

 隠匿されようとも、真実を追い求める何者かによって、いつかは白日のもとへ晒される。

 歴史とは誰が作り、誰が認定しているのか。情報を誰が収集管理し、放出しているのか。小さな疑問が違和感を探り当てるのも難しくは無く、全てが必ずしも真実を語るものではないと知る。

 

 

 アンは会計を済まし、路上の流れに紛れる。

 ほんの少しだけ、溜息をついた。

 中心街は治安が良い分だけ、値段も張る。端町にも美味しいサンドを出す店があるのだが、物騒な地域にあり、たまに絡まれるのが難点だ。ここ中心街まできてしまえば、ブルージャムの手下達とも出会う事は無い。ゆっくりと買ったばかりの本も流し読み出来る。

 ポルシェーミの死後、2回ほど入り江の海賊達と戦ったが、どちらも痛み分けで終わっていた。さすがに荒くれ者達が束になって掛かって来ると、防戦一方になっていまう。此方の手勢はたったの4、対して賊達はその都度人数を補強してやってくる。サボは手先の器用さを生かし、何らかをかすめ取るのを忘れなかったが、最近は相手の警戒も強くなり、その他がなかなか成果を上げられない状態が続いていた。

 

 中心街の広場を抜け、問屋街に向かう。

 そこで安く売りだしていた柔らかで厚めの生地をまとめ買いする。

 薬として珍重される薬草や熊の肝、鰐皮などを引き取ってくれる相手を見つけたアンは、3人に隠れてこっそりを小金を貯め、引っ越しに必要な物資を町に来る度、持ちかえっていた。海賊貯金の多くはエースとサボが集めた大切な貯蓄だ。必要な物資を買うのであれば使ってもいい、という了承を得てはいたが、入手手段からしてやはり気が引けるお金ではある。

 森にある欲しい物、の大抵は3人が調達して来てくれた。

 アンが購入しているこの布も、欲しいと口に出せばエースがこっそりと持ちかえって来るだろう。

 だから物欲を絶対に、口には出さない。

 

 盗む行為にどうしても抵抗を感じてしまう自分がいた。ダダンに無理矢理強襲に連れて行かれそうになった時もそうだ。出来るだけ穏便に、だが必死で抵抗して逃げ出した。結論的に言えば、長年染み付いた、モノを金銭で買うという習慣と倫理は鉄壁の牙城を築いている、ということだ。

 

 「食い逃げだァ----!!!」

 通りを歩いていると、ガラスが割れる音が響き渡る。しかもその現場は真上、だ。

 「誰か捕まえてくれ~!!!」

 店内からの声には悲壮が、そして悲鳴は割れたガラスから逃げようとする人々が上げる。まだここは中心街に近い。予想外の出来ごとに大わらわだ。重なりが蟻の子を散らすように動いていた。

 

 (アン、行くぞ)

 

 声無き声が届く。飛び出してくるタイミングを合わせたのだろうか。きらきらと頭上から落ちてくるガラスを避けながら、アンは走る。

 「結構いけたな」

 「だろ?!」

 4階の窓を飛び出した兄弟達は、店の旗を支えるポールを器用につかむ。そして店先を飾るファッションテントに身を弾ませ、通路に降り立った。手には相変わらず鉄パイプが握られている。

 アンはその、つき破った店の佇まいを見、大きなため息をついた。数年前と但し書きがつくが、ここの料理はなかなかいけると義祖父に連れて来て貰った店だったからだ。

 …顔を覚えられてたらどうするの。

 いらぬ心配だとエースは言う。

 だがどうしても、最悪の事態を思い描いてしまった。悪い癖だとサボも笑ったが、杞憂で済めばそれでいい。

 

 今の所、壁の内側は安全だ、と。安全は壁がもたらしてくれる。危険など無い。この場所で起る訳が無い。

 根拠無くそう思い込んでくれている、壁の内側に住む人々のお陰でなんとかなっていた。

 フーシャ村の人々も危機感が薄いが、初めて見る顔、に対しては少なくとも緊張感を持つ。国が組織する警官が至る所に居るとはいえ、何があっても自分は絶対に大丈夫だ、誰かは被害に遭うかもしれないが自分では無い、と軽く見ているからだろう。

 

 兄弟達もそうだ。

 首都の住民が壁の外側に住んでいる人々を軽るんじている。

 知っているからこそ、逆手にとっていた。

 立案者はサボだ。

 内と外の現状をよく知っているからこそ出来るのだろう。そうアンは視ていた。

 

 だがいつも思うのだが、鉄パイプを持ったままの格好で、どうやって食事の席まで辿りつけるのだろうか。

 不思議でならない。

 

 「それ貸せ。スカートなんて穿いてるんじゃ走りにくいだろ」

 「あ、うん。ありがとう」

 両手で抱えていた紙で包まれた布をエースが奪い取り、片手で抱える。

 「またあの3人組か!! 常習犯だ! なぜ店に入れた!!」

 町のガードの声が聞こえる。路を歩いていた人々は何事が起ったのかと周囲を見回した。

 「逃がすな、そこの子供4人を、誰か、取り押さえてくれ!!」

 日ごろの運動不足が祟ったのか、治安維持を生業とする服装をした男がこちらを指さし息を切らせながら応援を求めていた。

 どちらの世界も30代は運動不足世代なのだと、くすくすと自分だけしか分からないネタで笑みを含む。

 端町に逃げ込めば追手を巻くなど容易かった。そこから門を抜け、"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"を走り山へ入ればもうこちらの領域だ。

 

 「サボ!? まさか、待ちなさい、お前生きてたのか!!! 何をしている、家へ戻りなさい!!」

 身なりの良い紳士が何事かを制止する。だが急に止まれて言われても、はいそうですか、と止まれるわけが無い。

 アンはちらりとその人物を見た。シルクハットを被った、壮年の、生活環境が豊かな男だ。その服の至る所には意匠を凝らした花の紋がある。3本つけた羽飾りは、ここゴア王国では貴族である事を示す、表象(シンボル)だった。

 この国では貴族それぞれが各家によって形や色が違う花紋を持っている。

 基本的には花、を模して象形されていた。

 かわって王家は動物を模るという。直系は獅子、そして分家は草を食むものと聞いた事があった。それぞれの家には紋の動物が飾られているのだと言うが、もう一段上の壁向こうには、一般市民が安易に近づける場所ではなかった。

 

 …サボのベルトにある花の模様、あれはやっぱり貴族紋だったんだ。

 アンは杖を振りあげてサボの名を呼び続ける男から、前方を走るエースへと視線を移し、障害物を越えて不確かな物の終着駅(グレイターミナル)を越える。

 道筋は新たに作った、中間の森を通過し、コルボ山の麓から中ほどにある滝つぼを横切るコースだ。そしていつもの休憩所まで一気に走り抜け、足休めする間も取らず、エースとルフィはサボに詰め寄った。

 「「おれ達の間に秘密は作らないって約束だろ?話せ!」」

 ふたりの声が見事にハモった。一字一句違えず、言葉が響く。双子として生まれたアンより、このふたりのほうがシンクロ率が高いのではないかと、たまに思う。

 

 難しい文句は必要が無い。

 兄弟達はずっと見つめ合っていた。いわゆる根競べだ。幾つも単語を並べるより、意をぶつかり合わせるこの方法は、いろいろな意味で効果も高かった。

 しばらくの後、サボは降伏の意を示す。

 

 ポツリ、ポツリと話し始めた内容は、サボにとっては、勇気を要とする告白だった。

 町でサボを呼びとめた男が自分の父である事。ごみ山で生まれてなどおらず、両親もちゃんとふたり健在である事。そして、生まれがゴア王国貴族階級である、事。

 「お前らにはウソをついてた…ゴメンな」

 

 エースとアンが初めてサボと出会ったのは、確か5歳の頃だ。

 お互いの行動範囲が似通っており、毎日では無かったが数日に一度、必ず顔を合わせれば、自然に会話を交わしあう数も多くなっていった。

 意気投合した後は中間の森を待ち合わせ場所とし、そこから日々、お宝を探したり、端町でその日限りの日雇いをこなして海賊貯金を始めた。

 そういえば、と思い出すのは一体どこに住んでいるのか、をサボが頑なに話さなかった事だ。

 どれだけ村へ、可愛い弟もいるし遊びに行こうと誘っても、頑として首を縦に振らなかった。

 

 聞いて欲しくないなら、それでも構わない。エースもアンも気にはしていなかった。

 ある時、サボが今日からこの森に住む事にしたんだ。にこやかに笑って宣言したのはいつだっただろう。

 『海賊貯金もすげェ貯まってきてるだろ。もしもの為に幾つか、移す隠し場所も作りてェし、丁度いいんだよ』

 そう言ったのは丁度1年くらい前だった、はずだ。

  

 サボの声が小さくしぼむ。

 ルフィは謝ったからそれでいい、と許したが、エースが理由を尋ねた。

 なぜわざわざごみ山に居たのか、を。

 

 サボは唇を噛みしめ、苦しそうに吐き出してゆく。

 曰く。

 王族と近づくために勉学に勤しめ。

 お前の幸せは私達を楽にさせる事だ。

 お前の存在など王族に比べ、とるに足らない。だから王族と結ばれろ。

 

 両親が繰り返したとされる言葉は聞くに堪えない語彙ばかりだった。

 だがそれも『貴族』であれば、『貴族』である身分に疑問を持たず当たり前としていたならば、気にならなかったに違いない。

 

 苦い記憶にサボは云い捨てる。

 「あいつらが必要としているのは'地位'と'財産'を守り増やしていく”誰か”でおれじゃない」、と。

 人間の子供は生まれ落ちたその瞬間から、自力で立つ事が出来ない存在だ。世話をして貰い、言葉を教えられ、成長と共に術を身につけてゆく。

 必要とされていない。自分でなくても変わりがある。

 

 王族と結ばれなければ、親の役に立たなくては、必要の無い物。

 出来が悪いと日々、喧嘩を繰り返す両親の声を聞き続けたサボの心は、擦り切れる寸前、だったのだろう。

 逃げ出した。

 「あの家におれは邪魔なんだ」

 親がいても独り。縋れる相手もいない。

 聞いている方が次第に呼吸が苦しくなってゆく。

 

 ごみ山はごみだ。そこに群がるのもごみだ。人の形をしたごみ屑には近づくな。

 貴族は貴族以外を蔑み、地位と名誉と金の計算に明け暮れる。強者には媚を売り保身を求め、弱い者には当然のように力を振るっては自己を優越しながら見下す。

 「…嫌なんだ、あんな生き苦しい場所は」

 ずっとこっちのほうがいい。おれが選べない未来なんて、いらないんだ。

 

 独白が、終わる。

 エースは一通りの話を聞き、ぽんとサボの肩を叩いた。

 サボはもがき苦しみ、5歳という年端もいかない年齢から己を殺し続けていた、と知ったからだろうか。

 貴族の生活がどういうものなのか、余りアンにはピンとこない。だが自分の経験から想像し、寄り添う事は出来る。

 あちらの世界でこれに良く似た話、を聞いた事があった。なんだったろう、としばらく考えていたが、そう、確か歌舞伎の世界だと思い出した。彼ら一族全てを座といい。生まれて来る子供はその座、一族の芸を全て受け継ぐ義務を、生まれて来た瞬間から背負う、という。

 確か分家の誰だれとは知らずに付き合って、好きだけれど別れなくてはならないとかなんとか。

 愚痴を聞いていたのか。

 アンは昔を思い出し、懐かしさでほんのりと笑みを浮かべた。

 

 座、の話ではないが、何かを背負っているという意味では、エースやアン、ルフィ、そして貴族階級として生まれたサボも変わりない。

 

 アンはちくりと胸に痛みを感じた。

 一度大人になって、再び子供を繰り返したからこそ分かる。人間の子供は、親という存在が無ければ生きてはいけない存在だ。野生に目を転じれば、確かに生まれたてはか弱く、親の庇護が無ければ弱肉強食の理によって捕食されるか、自然に淘汰される。だが人間はひとり立ちするまでの最低年数が長い。エースやサボ、そしてルフィは普通という枠から飛び抜けているからこそ、10という年齢でここまでやってのけられる。あちらで生活していた時のアンは10才時、何が出来ていただろうか。

 アンは溜息に、エースと自分がかかえる秘密を乗せる。

 

 エースは知ってしまった。

 自分の生まれが両親を除いて、その他大勢の誰かにとっては望まれたものでは無かった、と言う事実をだ。ゴール・D・ロジャーについて聞き回っていたいた時に、気付いてしまった。

 その夜の事は、忘れられない。

 

 アンがひとり思考の海に浸っている間に、男達はすっかり仲直りをしてしまっていた。なんだかんだと言い合いながら、仲がいいのだ。そして話はいつか出る航海に移っている。

 必ず海へ出よう、この国を飛び出して自由になるのだと誓いあっていた。

 世界を周り叙事(じょじ)伝を書くのだとサボが夢を語れば、エースも負けじと顔いっぱいに笑顔を浮かべ、生きた証を刻みに行くと叫ぶ。手段を選ばない、とはエースらしい言い方だ。

 「おれは!!」

 ルフィは興奮し手を握り締め、両手を空へ突きあげる。

 「海賊王に!!! おれはなる!!!!」

 「「は??」」

 ルフィの宣言に、ふたりは声をはもらせる。

 だがアンはそれを当然のように受け止めた。なぜならその手には、すでに世界を1周し終えている帽子が共にあるのだ。本人は知らないが、アンにとっては形見とも言える品だった。

 父からそのお気に入りであったシャンクスに渡った帽子が、今は血の繋がらない弟の元にある。

 仲間を見つけ、1周して世界を見ればいい。

 

 「…お前は…何を言い出すのかと思えば…」

 爆笑していたサボも将来が楽しみだと腹を押さえて続く。

 

 「アンは?」

 ルフィが目を輝かせ走り寄り、切り株に座るアンへ跳びかかった。そして膝の上に乗れば、じっと姉を見つめる。

 「ん?」

 一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。エースに目配せすれば、海へ出る目的だと教えられる。

 問われた答えを探しながら、アンは弟の頬をびよーんと伸ばした。さすがゴムだけあってよく伸びる。

 「ちょっとまて」

 どう答えようか思案している最中、サボがまじめな顔をして、全員が船長である事に気付いた。確かにそれぞれの目的が違えば、向かう先も異なってくるのは当たり前だ。

 「思わぬ落とし穴だ。サボはてっきりウチの航海士かと」

 「お前らおれの船に乗れよー」

 と言ったところで、全員の目が向くのはアンだ。唯一の乗組員候補に、視線が集まる。

 「どうしよう。ひとりなんて絞れないかも」

 

 唯一の船員候補に3人の思惑が交差する。

 

 「----将来の事は将来決めよう」

 三竦みが暫く続いた後に、エースが切りだした。

 「みんなバラバラの船出になっちまうかもな…なら、」

 木の空(うろ)から取り出してきたものは、1本の瓶と4つの杯だった。いつの間に持って来たのだろう。見た事がある瓶だ。ダダンの棚からこっそりすくねて来たのだろう。酒の趣味だけは特別に秀でている彼女のコレクションの中でも、一番良い瓶を持ってくるとはさすがエースだというべきか。度数もさることながら、香りだけで酔える代物だった。それを少量とはいえ、10歳と7歳児が飲んでも大丈夫なのだろうかと、口元が引きつる。

 「お前ら知ってるか?盃を交わすと"兄弟"になれるんだ」

 注ぎながら続く言葉は、耳に心地よく響く。

 「海賊になる時同じ船の仲間にはなれねェかも知れねェけど、おれ達の絆は"兄弟"としてつなぐ!!」 

 どこでなにをしていても、この絆は切れない。それは血を越えた、縁だ。

 

 「これでおれ達は今日から!」

 「兄弟だ!」

 「おう!」

 アンも輪の中に入り、器を打ちならす。

 

 

 夏から秋へ、秋から冬へ。季節は移り変わってゆく。

 義祖父からの追撃をかわすために独立宣言をダダンに渡し、清水が沸く水場に近い巨木へ引っ越してからは毎日がいつもよりも短くなったように感じていた。

 秘密基地は義祖父(ガープ)に見つからない為の隠れ家でもあったのだが、いつの間にか4人で暮らすための拠点となってゆく。ダダンの家から不確かな物の終着駅(グレイターミナル)へ向かうよりも、秘密基地からの方が断然早い近道を見つけられたからだ。

 食事や風呂は変わらずダダンの家で取っていたが、寝るときは拠点へと戻る。

 バラバラに暮らしていた頃より、一緒である方がなにかと都合もよかった。

 鉄砲玉ふたりに、抑止力ふたり、とバランスが整ったからだ。

 

 端町で喧嘩となれば真っ先に狙われるルフィがを守るため、自然と連携が生まれた。

 たまに、だがエースが禁句を耳にし、感情を爆発させ暴れまわるのをサボと二人で止めたり、賑やかしくなったダダン宅での食卓で成長期の3人が大人顔負けの食欲を見せたり、今まで倒せなかった森の主でもある熊やトラと引き分けるまでになってゆく。

 

 主との対決は、船長宣言をしている3名の内、勝った者が残りのふたりを従えるという約束がアンの知らないうちに交わされていたと言う経緯がある。それぞれのテリトリーを持つ主達は、アンという存在に限ればなぜか大人しくつき従がった。上位として見ている訳では無いようだが、自然の一部として認識しているような行動をとる。そこにあるのが当然である存在に、わざわざ牙を向ける必要があるのか、と言ったところなのだろう。

 「あなた達の領域を犯すつもりではないの。ただ少しだけ、私の兄弟達に付き合ってあげて」

 来る日も来る日も繰り返していた主との対決が、兄弟達の力を底上げし凶暴さに磨きをかけてしまったのだが、それは不可抗力だとアンは諦める事にした。

 

 楽しく幸せな時間は駆け足で過ぎてゆく。

 

 「マキノー!! 村長!!」

 その日は絶対に昼を越えた辺りでダダンの家に帰って来る事をアンに約束させられていた兄弟達を含む一家は、山道を上がって来る3つの姿に声をあげた。

 もちろんダダンもマキノ手製の酒が届き、狂喜乱舞している。

 樽を運んできたのはアンだった。

 「ったく、そういう力仕事はおれに頼れよな」

 「吃驚させたかったんだもん。エースに隠すの凄く大変だった」

 マキノが持参したのは酒だけでは無い。兄弟達の服もあった。

 「あなたがサボ君ね。初めまして、会えて嬉しいわ。マキノよ、よろしく」

 今日は宴会だーと騒ぐダダン一味達の横で、村長から小言を貰っているルフィのまじめな顔が、なぜか笑いをそそる。

 「アンがせっせと生地を集めてたのはこれだったんだな」

 「うん、みんなも服きつそうだったし。わたしもお年頃だもん」

 サボが笑う。アンも笑み自然に口元に浮かんだ。

 

 「ずっと続けばいいよな」

 サボの言葉に、アンは頷く。

 「でさ、船を作って貰う順番は総当たりがいいんじゃねェかと考えてるんだ」

 「それだとルフィは一番最後だね」

 

 今日もひとり辺り33戦プラス1は全てルフィに黒丸が付いていた。

 

 夢は続いている。

 今度も悪夢は夢のままにしておけるだろうか、とアンはひとり暮れなずむ紅の空を見上げた。

 

 

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 酒の味、体験

 

 

 口に含んだ瞬間、味よりもまず苦さが舌全体を襲った。かつて嗅いだ事のある香りだ、毒では無い。

 ごくり。

 アンはなんとか、苦みに耐えて飲み込む。

 お酒とは、適応年齢に達する前に飲めばこんなに不味いものだったのか、と認識を新たにした。

 これ以後、ちゃんと成長するまで飲むのは止めておこう、そう決める。

 ひとくち、されどひとくち。

 ゼミの帰りに多少は嗜む事はあったが、この体で口にするのは初めてだ。

 「あーん、えーしゅー、さぼー、おれくるくるまわる、すげェぞおー」

 「なんかぼーってなるな」

 「もういっぱいいっとくか?」

 

 『ちょっとストップ!未成年の飲酒は禁止されて…ない…かわかんないけどそれ以上飲んじゃだめぇぇぇ』

 アンはそう言ったつもりだった。

 だが現実には舌が回らず。

 「りょっとすろっぷ。みせりねむのいんりゅはきんりられれ…」だった。

 

 急性アルコール中毒になりませんように。

 星に願うのはそれ、だった。

 夜も更け星が瞬く時間になり、喉が渇いて起きたアンは、地面に転がる兄弟達が生きて寝ている事を確認出来た。川の水を掌ですくい、こくりと喉を鳴らす。

 

 そして月明かりに照らし、見た瓶のラベルに書かれた文字を見て、ひとり苦笑した。

 『Brandy』

 

 「お子様なわたし達には、早かったよね、これは」

 この酒をいつかまた、4人揃って飲めるだろうか。

 アンは静かに波打つ、群青の空と海を、見た。

 



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07-焔群の山(1)

 視野が真っ赤に染まっていた。

 炎が幾つもの柱を上げている。途切れることのない悲鳴、逃げ惑う人の影が揺れ動く焔の中に映っていた。

 エース!サボ!ルフィ!

 名前を呼んでも炎が立てる轟音に邪魔されて届かない。

 立ち尽くしている場所は見たことのない景色のように思える。

 だがそこは、小さな頃から何度も足を運び、幾人もの友達を得た"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"だ。

 分かっていた。

 

 これが夢だ、と。

 

 熱くも無ければ苦しくも無い。

 けれど涙がこぼれていた。人が息絶えてゆく。

 この炎が上がる原因が何であるのか、分からない。止められない。

 嗚咽が漏れる。

 何とか出来る術が欲しい。

 

 アンは夢の中で叫ぶ。

 誰か、助けて、と。

 

 

 SIDE エース

 静かな夜だった。フクロウの鳴き声も聞こえない。

 アンがまた唸されている。観ているんだ。

 触れない。

 ただ流れていく景色みたいなものがずっと続く。

 

 おれたちがもっとガキだった頃、その夢を共有したことがある。繰り返しみる夢は最初、陽炎みたいにはっきりしない。けど日を重ねるにつれ、次第に鮮明になってく。

 丁度おれ達が海賊貯金を始めた頃に、悲鳴が聞こえるって言いだした事があったんだ。そん時はおれも引きずられて何度か見た事もある。血の匂いがする焦土に、ひとりの、今のおれ達くらいのヤツがこっちを見ていやがった。顔も覚えている。そいつはおれをみて言った。『罪を背負った忌まわしきは…さっさと死ね』ってな。

 

 けどそいつを、殴る事が出来なかった。

 当たってもおれが通り抜けるんだ。

 あの台詞は、おれ達に向けたものじゃねェってアンが言ってたけどさ。遭う事があったら、絶対に一発、やってやるんだ。

 

 アンは今、炎に苦しんでいる。

 額に触る。熱い。おれは小さくため息をついた。

 自分の無力さが歯がゆいんだ。早く大人になりてェ。そうしたら、もっといろんな事が出来るようになる。

 

 …ダダンの所に連れて行く…か?

 アンならおれやルフィと違って、嫌がらねェだろうし。ちゃんと看て貰えるだろう。

 何日か前から調子が悪そうだった。

 いつもなら躓いたりしねぇ場所で転がったり、食も進まずすぐに横になりたがってたんだ。

 おれ達でフォローに回ったけどどうも動きがおかしい。昨日の朝の段階で発熱してたから、一日安静にするよう、念押しして出かけた。動いてないと口で言っても、おれたちは繋がってる。だから観念して寝てたみたいなんだけどな。盗んできた薬も効いてないみたいだし。どうする。

 

 「エース…」

 「ん。水飲むか」

 いらない。そう小さく答えて、伸ばした手が掴んだのはおれの腕だった。そのまま自分の頬へと持って行く。

 「手が冷たくて気持ちいい…」

 いつもはおれのほうが体温高いのにな。

 

 狭いながらに我が家となったこの場所は、安心して眠れる。

 ルフィもサボも大の字になって寝ていた。

 木の上に作ったのはなんとなくだ。下に作るよりカッコイイって理由だったかな。

 設計はサボだ。組み上げはおれとサボがした。アンとルフィは下で、飯の支度とか、調達とか、だ。ダダンの家と比べたら小さいけどさ、おれたちにとってここは大切なアジトだった。

 体を丸めて眠りに落ちるアンの髪に触れる。

 柔らかい。

 この熱は、炎だ。夢がアンを玩ぶ。

 海へ出たいとこんなにも思うおれにアンは、”お父さんみたい。枠には嵌らない。嵌められない。エースは自在に形を変える炎ね”と、言ったことがある。

 おれは覚えてねェけど、母さんのこともアンは覚えていた。

 

 おれが炎だったら、絶対にアンをこんな目にあわせたりしねェ。

 

 翌日おれは嫌がるアンをダダン達に任せ、一足遅れて"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"へと向かった。剃(ソル)を使えば多少距離が開いてもすぐに追いつける。

 本当は教わる気なんて無かったんだ。

 けどアンが、折角おじいちゃんが指南してくれるっていうんだから、一緒に行こう? って言うから、だな。

 ジジイも村じゃなくてこっち側に来やがったし。

 ふたりで行くと、ジジイはすげェ嬉しそうにしてた。

 

 それからの事、は簡単に想像できるよな。

 

 擦り傷なんて当たり前、切り傷に打撲、骨はどうってことなかったけど、全身筋肉痛はきつかった。一番びっくりしたのが、アンが弱音を吐かなかった事だ。それなのに、おれだけが止めた、なんて言い出せねェよ。

 何日間かかけて、一通りをジジイから仕込まれた。けどまだ、余り使いこなせてねェんだよな。見よう見真似で、形だけは、ってところだ。

 アンに言わせりゃ、技のひとつひとつを理論的に解体すると、子供の体で使うには無理があり過ぎる、んだと。

 「負荷がかかり過ぎるのよ。だからおじいちゃんも手加減して教えてくれてる」

 …アンの言う手加減で、力が入らなくなってげっそりした感じになるおれ達は、どんだけ弱いんだろうな。

 結局、ジジイからは教えられた6つある技の内、使っても良いだろうって言われてるのは、剃(ソル)だけだった。

 

 「これで二人も海兵一直線じゃな!」

 って言ってたけど、そうそう簡単になってたまるかっての。

 でもなァ、アンは覚えてるんだろうか。ジジイとの約束。

 あいつ脇くすぐられて、うんって言ってた気がするんだよ。条件が条件だし、ジジイも仕事で忙しそうだからな。来るとは思えないけど。

 「サボ!ルフィ!」

 「来たな、エース」

 鉄パイプを片手に、集合場所で待っていてくれたふたりと合流し、おれ達は一気に山を下る。

 

 

 …待ち構えられていた。

 おかしいと思ってたんだ。

 

 ここ数日、ブルージャムの手下がおれ達の姿を見ても追いかけて来なかった。どの道を通るのか、どこへ向かうのか、見張ってやがったんだ。くそっ、アンがいたら、こんな事にはならなかったのに。

 「サボを返せよ!!! ブルージャム!!!」

 ルフィが叫ぶ。

 おれ達は捕まっていた。腕を掴まれていて身動きできねェ。

 サボはもう、軍隊の方へ引き渡されちまってる。

 「”返せ”とは意味の分からない事を。サボは家の子だ。子供が産んで貰った親のいいなりに生きるのは当然の義務なのだよ。学の無い小童どもに言った所で通じる訳もないか」

 見下げる目には蔑みがある。おれが一番嫌いなやつらが持ってる目だ。

 見たことがある顔だった。そう、以前サボを呼びとめたやつだ。

 「ゴミクズ共め…家の財産でも狙ったのか。息子をそそのかし、家出を強要して」

 違う。おれは否定する。

 だがサボの親がその口からこぼす言葉は、反吐が出るくらい気持ち悪いものばかりだ。いい加減おれもカチン、ときた。

 言わせておけばいい気になりやがって。誰がそそのかすかよ。

 サボは自分の意思でお前の元から去ったんだ。いいなりだと…子供はお前らの人形じゃねェんだ。勝手に未来を決めんなよ!

 

 ブルージャム一味のひとりが拳を振る。けど遅い。子供だと舐めてかかると怪我するぞ。

 おれは振りおろしてくる拳を受けず外側ではなく内側へ滑り込み、屈伸し力を溜めた拳を腹にめり込ませる。

 「ぐはっ」

 手を出してきた男があおむけに転がった。

 だが多勢に無勢で、おれはブルージャム率いる男達に捕らえられてしまう。

 がらくたが地面を成すそこに体を押しつけられ、頭蓋骨を踏まれる。

 「くそっ、どけやがれ!」

 必死にもがくけど、動かねェ。っていうか蹴るな!

 「コラ海賊!! 子供に手を出す際は気を付けたまえ!!」

 サボの親は飛び散った泥を払い、汚らわしい、消毒せねば、と心底嫌そうな感情を顔に表した。

 「止めてくれっ、ともだ…!」

 心からの叫びは途中で止まる。

 父親が手でサボを殴ったのだ。

 「うるさいぞ、いつからお前は口答えする子になってしまったんだ。全ては奴らのせいだな、可哀そうに。さあ家に帰ろう。そしていい子に戻るんだ」

 ブルージャム一味から、町へ続く門を警備する黒ずくめへサボの身が渡される。

 

 「後は頼んだぞ、海賊ども」

 「無論だ、ダンナ。もう代金は貰ってるんでね。このふたりが二度と坊ちゃんに近づけねェよう、始末しときます」

 愛想いいブルージャムの声が気持ち悪ィ。サボはその声の裏側にある真意に気付いてしまった。…言うな、おれ達ならどうにでもなる。だからサボ、言うなよ。

 だけどその願いは聞き届けられなかった。

 「…何でも言うこと聞く、言われたとおりに生きる…だからこの二人を傷つけないでください。大事な兄弟なんです。お願いします」

 ルフィがサボの名を呼ぶ。振り切れと、叫んだ。

 「おれ達なら大丈夫だ、一緒に自由になるんだろ!!?」

 シルクハットで顔を隠し、サボは歯を食いしばっている。なんだよ、これは。こんな別れ方じゃねェだろうが。

 「サボ!」

 名前を呼んでもサボは振りかえらなかった。

 おれはそのまま、町の中に消えて行く背を見てる事しか出来ない。アンが居たなら、サボが今、何をどう思ってるのか分かる事が出来るのに。

 

 残されたおれ達はブルージャムの一味に連れられ、やつらのアジトへ放りこまれていた。暴れるルフィを取り押さえられ、おれも踏みつけられてて逃げようにも逃げられなかったのもある。

 「くつろげってぇ言うのは無理だろうからな。その場でいい」

 ブルージャムはどかりとソファーに腰を下ろす。

 ここは入り江の横に作られた船長専用の建物だった。さすがに以前殴りこんだ所とは広さも、中に詰める護衛の人数も違う。

 「まったくわからねェもんだな。評判の悪ガキどものひとりが貴族様だった、なんてな。わざわざ”高町”からごみ山をバカにする為にやって来るとは…おめェらも災難だったな」

 ブルージャムは心底、おれ達を憐れんでいた。だからどんなに睨みつけても、口汚ェ言葉を喚き散らしても、よしよし、とあやすように見ていた。

 「バカ言え!! サボはそんなヤツじゃねェ!!」

 「そうだ!!おれ達は兄弟なんだぞ!!」

 おれ達の気が済むまで喚き散らさせた後、酒瓶を持ったブルージャムが口端を上げる。

 「運が悪かったと思え、な」

 ブルージャムはゆっくりとまるで子供に言い聞かせる親みたいに言い聞かせてくる。

 元々貴族とは住む世界が違うのだ、と。

 「貴族に生まれるなんてことはな、頑張って出来るような事じゃねェ。幸運の星の元に生まれるってこった」

 おれは深く息を吐くブルージャムを見た。

 出来るモンなら変わって貰いてェよ…、っていうのは、本心なんだろうな。

 

 サボはすげェ嫌がってた。

 ブルージャムが貴族を心底羨ましいと思うように、サボは貴族では無い、おれ達みたいになりたいって、言っていた。

 ないものねだりね。

 アンの声が、聞こえた気がした。離れていても、いつもアンが側にいる。

 けどさ、自分にないモノって欲しくなるもんなんだよな。よくわかるよ。

 「おめェら、奴にはもう近づくなよ」

 剣呑な目が細められる。

 近づけば殺さなきゃいけねェ。子供は大人の言う事を聞く、それが貴族の世界だ。あいつの事は忘れてやりな。それが優しさってもんだ。

 ブルージャムはおれを見る。

 

 大人ってヤツは自分の中にある考え方で、すべてを判断する。間違ってるとは思わない。

 ヤツはサボの事を知らない、だから言えるんだ。

 けど口には出さなかった。教えてやる義理もないからな。

 ちゃんと考えられたのは、おれが黙っている間も、ルフィが言い返してくれてたからだ。その分、頭の芯が冷えていた。

 本当ならこういうのは、サボとかアンがしてたからな。これであってるのか、あんまり良くわからねェけど。

 

 おれが黙っていると、ポルシェーミの名を出してきた。

 サボが言ってたように、根に持ってやがったのかと思ったけど、どうやらそうじゃないらしい。

 このごみ山での掟はたったひとつ。

 強いか弱いか、だ。

 ブルージャムは弱いモノが嫌いだという。むしろポルシェーミを倒したおれ達を、見なおした、と。

 むしろ強ェ奴は好きだ。歳は関係ねェ、

 「ところでよ、今人手が欲しいんだ。駄賃も出す。なあに、簡単な仕事だ。手伝わねェか?」

 そう言った。

 

 何を?

 おれは尋ねる。

 「さぁな、お国のするこった。俺達もこの地図の通り、旗の着いた木箱を置けって聞いてるだけなんでな」

 ブルージャムが手を放した紙が床に落ちた。

 こういう時サボやアンならどうするだろう。ルフィはおれを見ていた。

 周囲に立つ男達の数は、おれひとりじゃ、どう足掻いても余る。ルフィも逃げ足が大分早くはなって来てるけど、ひとりで逃げろって言ったって、言う事聞かねェだろうしな。

 …手伝った方が身のため、か。

 

 眼前のブルージャムの後方に立つ男達が刀に手を当てている。後ろからも低い笑い声が聞こえてきていた。

 「わかった」

 おれは頷く。サボも今日の明日なんかには動かないだろう。

 折りを見て、助けに行く。あの壁の向こうに迎えに行ってやる。はっきりあいつの口から、戻ると聞くまで、おれは絶対に諦めねェ。

 それにアンが観てる、あの夢。熱の原因がなにか、わかるかもしれねェからな。

 

 

 SIDE サボ

 いい子ってなんだろうな。

 繰り返してきた問いだ。答えは外を知って、出た。

 はっきり言って両親はおれを持て余していた。親の言う事を素直に聞いて意のままに動くのが彼らにとって普通の子供であり、なぜなにどうしてとおれが理由を聞いたり彼らの意にそぐわない行動をとるおれが理解できなかったのだろう。

 アン曰く、そもそも子供とは親の分身ではない。子供が親の言うとおりに育つのは稀で、それこそ操り人形でもなければ無理だろう、と。

 「どう足掻いてもジレンマにぶち当たるもの。この役割は、自分でなくてもできるんじゃないか。もしこの役割をこなし続けられなければ、誰かにとって代わられるのではないかって」

 ほんの少しだけ、苦味を交えた乾いた笑いをアンはこぼしていた。

 人は当然ながら自我を持つ。そしてできることとできないこと、出来るはずだと成長する過程で独り立ちする準備、反抗期というものが起きるそうなのだ。

 特殊なケースだとはおもうけどエースとアンみたいに、何も話さなくても通じ合うってのはなかなか出来ない代物だろうな。

 それなのに、おれの両親は、両親の思っている事を把握して、その通りに動かないおれを疎ましく、扱いかねていた。きっと両親も同じ事を言われ、なんの疑問も抱かずに育ってきたんだ。小さな頃から言われ続け、自分で考える事を放棄した。考えずに、親から言われた事をそのまま繰り返す。

  

 だからおれは焦っていた。

 貴族はそういうヤツらばかりだと、戻ってきてよく分かったからだ。

 使用人、ここで働いてる者達にも期待は出来ない。高町で働く事にステイタスを感じ、他の仕事についている一般民衆とは違うのだと、優越感に浸っているからだ。

 実際にそれなりの、特典もあるからな。

 

 火の手が上がる。聞いて愕然とした。と同時に、やるだろうな、っていう納得もあった。

 養子に入っていたステリーが、当然という態度でぺらぺらと話す。

 この国の汚点を全部燃やす、と。

 山と積まれたゴミだけじゃない。人も、全部まとめて、燃やす、という。

 聞いた瞬間、頭の中が真っ白になって気が遠のきかけた。

 誰もがみんな、分かっちゃいない。

 その汚点を作りだしたのはこの石壁の内側全なのに、ごみ山に住む人間にしわ寄せを全て背負わせるつもりでいる。同じ事を繰り返す、典型的なパタンだ。

 

 アンと話をして分かった。

 この国の人間は、特に壁の内側に住んでいるヤツほど、基本的に臭いものにはふたをして、見なかったふりをするのだと。

 

 「くそ、これをなんとかしてあいつらに知らせなきゃ…アンが観てた夢はこれだったんだ」

 何カ月も前から決まっていたという。嫌な夢を観る。そうアンが憂いを言葉にした、時間をさかのぼれば、夢が出始めた時期と符合する。

 世界政府の『視察団』が東の海(イーストブルー)を巡っているという話は、ニュース・クーの新聞で知っていた。今回は世界中で最も安全な海と云われてる東の海域へ"天竜人"がやってくる、と。その一団が3日後、この国に到着するんだ。

 

 

 王侯貴族は特に今回の来国を待ちわびていた。

 そりゃそうだろう。

 ゴアって言うこの国は、天竜人に憧れるが故に全てを模してんだから。世界がひれ伏す権力を持ってるやつらに気に入られたら、この国の注目度も上がる。数年に一度各国の王達が集まって会議がされるらしいけどさ、そこでの発言力も大きくなるらしいんだ。

 権力の頂きは赤い土の大陸(レッドライン)にある聖地マリージョア。ごく一部の血筋が、大昔に世界政府を作ったという理由だけでずっと君臨している。

 おれはそれを疑問に思った事は無かった。遠い世界の出来事だって、意識してなかったんだ。

 首を傾げたのはアンだった。

 アンはすごい。同じ歳とは思えないくらいだ。

 なぜ、と当たり前のことでも疑問をぶつけくる。そして分かるまで、自分が納得出来る答えにつきあたるまで調べていた。

 フーシャ村のルフィの家には、本が溢れてるんだ。村長から借りるだけじゃ足りなくなったとかで、町の本屋に通っていたくらいだ。手に入れられる種類は値段の関係もあったけど、ふたりでよく議論もした。

 嫌いだった勉強が、いつの間にか好きになっていた。きっとアンのお陰だ。

 

 世界の縮図。

 そう言ってしまっても、この国はおかしくない。

 壁の内側に暮らす人々は、不必要である、と判断したモノをすべて廃棄する。こちらとあちら、線を引き差別した。

 世界で最大権力を持つ天竜人もおれ達の事を下々民(しもじみん)と差別し、区別した人間を奴隷にするという。この国では奴隷制度が認められてないから、ごみ山の人間を嘲り侮蔑する。自尊心を満足させるために誰かを貶めることさえ厭わなかった。

 

 いつだったか、こういう話をしたことがある。

 「サボは国って何だと思う?」

 「え…」

 泳ぎ疲れて岸辺に上がり、火にあたっていたおれにアンは尋ねた。

 突然問われて、考える。

 「生まれた場所、人が集まる場所、貴族が大きな顔をしてて…」

 思いつく言葉を並べてみる。

 「うん、国は人が集って形成される。リーダーを決めて纏まりが出来たらそれが基礎となるのね」

 力を持つものが持たざる者の上に立つのは自然なこと。なぜならより強い個体が指揮を執った方が、上手く物事を動かす事が出来る。効率の問題、ね。それにて率先して引っ張ってくれる人がいたら楽、でしょ。

 

 アンは本の一文を引用しながら、話に興味をもったルフィにも分かるように噛み砕いた。

 

 「指導者に求められるのは、全ての責任を負う事。生も死も、別れや罪も。仲間が背負った荷物の半分を背負う。だから指導者が支配者でいられるのね」

 「じゃあおれが守ってやるよ! アンもエースも、サボも! おれは何も出来ねェから、助けて貰ってる。だからおれがみんなを守るんだ!」

 

 にしししし。

 ルフィが胸を張って笑う。

 「おれ達の半分は重いぞ、ルフィ?」

 おれがそう言えば、

 「バーカ、まだお前は守られてろよ。兄ちゃん達がいる間はな、任せとけ」

 エースが自信に満ちた笑みで、弟の額を突く。

 「その前にちゃんと体、拭いて火にあたろうね」

 アンはルフィの髪を拭き始めた。

 

 そして小さな声で、貴族の人達が早く気付ければいいのだけれど。この国が、本当に終わってしまう前に。

 緑の向こう側にある、青を見て言った。

 まだ貴族の生まれだって話す前のことだ。

 知ってたんだろうな。エースやルフィみたいに驚いてもなかったしさ。

 あの時もただ、頷いてくれた。

 おれに貴族の中に戻らざるを得なくなっても、頑張れば中から変えて行くことも出来るんじゃないかって教えてくれてたんじゃないかって思う。

 

 けど、アン、もう駄目なんだ。

 ステリーもおれの事もゴミ人とか臭ェとか、抵抗も無くさらっと使ってる。貴族っていう毒に侵されてんだ。

 分かっちゃいない。貴族なんて壁の内側の、誰かに守って貰わなきゃ生きていけねェくらい、弱っちいのにさ。

 高町でふんぞり返ってる方が、偉いだなんて、笑っちまう。

 しかも今の生活が永遠に、ずっと永続的に続くと信じて疑っちゃいないんだ。

 東の海(イーストブルー)が比較的安全だと言っても、いつ均衡が崩れるか分からないのにな。

 一度この国は、滅びるべきなんだ。

 戦争がどんなに悲惨か、アンが語った話は、冷や汗が出るくらいに怖かった。あっちゃいけねェって思った。

 けどもう、だめだって思うんだ。遅すぎた。

 なんでおれは、貴族になんて生まれちまったんだろう。お前らに会えて、おれはより強く思うようになった。

 

 高町をそっと抜け出す。外からの侵入は難しいけど、内から外に出るのは意外と簡単なんだ。

 おれは端町ににある守備の詰め所へと向かう。

 窓のあっち側じゃ軍隊の奴らがブルージャムを使って、油と爆薬を配置している最中だと言う話をしていた。

 おれは声を必死にかみ殺す。

 壁の外には、命が生きてるんだ。過酷な場所だけど、生まれてるんだ。

 王侯貴族こそが、生かされてるって言うのに、感違いもここまでいけば立派だよな。

 どうする? どうすればいい?

 

 木と壁をよじ登り部屋に戻って一夜を明かしても、高町は静かだった。ただ風が強い。火が放たれたら全てが燃えきるまで止まらないだろう。

 家庭教師が休憩に入ったところで、おれは家を抜け出す。そして高町を歩く何人かに声をかけてみた。

 「そんな事はみな知っているが、それがどうしたのかね?」

 「可燃ごみの日でしたわね。しっかりと窓を閉めて用心しませんと。ゴミが部屋の中に入って来てしまいますもの。汚らしい…思い出させて下さってありがとう」

 「それは皆が黙認すべき事だ。もし高町以外の誰かに漏れたらどうするのかね。我々は特別なのだ。君も貴族の子なら自覚を持ちなさい」

 

 おれは愕然とする。

 分かってはいた。けど、ほんのひとりでも、酷い事をする。

 そんな言葉が出ないか、期待してたんだ。

 

 誰も彼もが知っていた。

 おれは心のどこかで、やっぱりそうか。とも思ったんだ。

 この町は、ここで住んでいるヤツらはみんな、これから大勢の人が死ぬと分かっているのに、何事も無く飯を食い、勉強しろという。

 国があるのは当たり前。家があるのは当たり前。飯も温かな作りたてが出て来て、食べさせて貰えるのが当たり前。

 当たり前が崩れると、ぎゃんぎゃんと喚き出す。当然の権利だと主張し出す。

 自分でやってる訳じゃない。

 全て、誰かがやってるんだ。

 

 価値観が全く、違う。すべきは富と名誉をより大きくする事で、この国に住む人々が快く生きていけるようにする、なんて考えちゃいない。自分さえよければ、いいんだ。

 すぐそこで火事が起こされる。

 それなのにどこか遠い世界の出来事のように語る。

 

 何が美しい国、だ。

 上手く隠しているだけじゃないか。表面だけを取り繕って、その実は黒くドロドロしている。

 綺麗な物だけを集め、雅やかな物だけを留め、少しでも傷つき壊れたら新しいものと取り変える。壁の内側は、それが当然だった。

 貴族だってそうだ。王族に見向きされなくなったら没落する。だから必死に取り入ろうとしていた。

 本当の強さってなんだろうな。おれは弱い。なにも、出来ない。悔しいけど、火事を止められないんだ。

 アンならどうする?

 お前はおれの知らないたくさんの事を知っている。

 どうすれば、いい?

 

 王国の中心に近づけば近づくほど、思考や言葉が自分以外の誰かを蔑ろにする。おれは知ってしまった。自分以外の誰かを思いやって、自分の得にならなくても、喜ぶ顔を見れば、それでいいっていう奴らを。

 おれはもう、ここじゃ生きていけない。生きていたくない。自由が欲しい。

 アン、ごめん。内側から変えるなんて無理だ。

 

 「家出少年を見つけたぞ!あそこだ!」

 

 くそっ、もう追手が来てやがる。おれが家の恥になるってなら、何故放っておかないんだ。養子も、ステリーもいるんだ。おれじゃなくてもいいはずだろ。なのにどうしておれに関わる!

 エース…ルフィ…アン…

 お前達だけでもいい。今日か明日、数日間でいい。ごみ山から逃げろ。

 この国の人間は、”汚点”という名の大虐殺を、焼き捨てる気なんだ。

 …頼む、死なないでくれ。

 



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08-焔群の山(2)

 北の空が赤く染まっていた。暗闇の中に見える粉じんは大量の黒い煙を空に舞い上がらせ、東へと流れてゆく。

 「お頭、町じゃねえ。"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"が…燃えている!!」

 隠すことなく舌打ちをしたダダンは厳しい表情のまま煙草に火を付けた。

 「お前ら、ガキどものねぐらは知ってるね」

 見て来いという指示を受けた一味のひとりが駆け出す。

 「…おばさん、家には誰もいない。ふたりは…炎の中に、いる」

 その声に走り出していた男がつんのめり転がった。

  なぜそんな所にふたりが居るのかアンには分からない。分からないが、伸ばした意識の先は確かにごみ山だった。しかもブルージャムまで近くに感じる。サボが居ない理由を探して視線を彷徨わせた。

 熱で朦朧とした意識が語りかけを邪魔をしていた。エースの様子が、視えない。

 「アン、おめェは寝てなきゃだめだ」

 マグラが浅い息を繰り返しながら、外へ出てきたアンを抱きあげる。

 「行かせ…て」

 だめだ。ダダンはアンにぴしゃりと否定する。可愛くないクソガキの方割れだとしても、弱っている状態で放りだすのはばつが悪かった。

 「寝てな、いつもは簡単にすり抜けるマグラからも逃げられねェんだ。あたし達が探しに行く。何人か残って、アンを見張ってるんだ。残りは行くぞ、ついてこい!」

 

 寝床へ連れて行かれたアンは、額に冷たいタオルを乗せられる。熱は身を焼くように、じりじりとこがしている。

 待って、私も連れて行って。

 声は届かない。

 たくさんの悲鳴が聞こえる。友達や、顔見知りになった人、横切った事があるだけの人。

 そのすべてから叫びがあがっていた。

 町からは動揺と、不安、嘲笑、そして安堵と興奮が伝わって来る。

 その中でひときわ大きな声があった。

 

 サボ、だ。

 兄弟の身を案じ、逃げろと叫んでいる。

 

 大門の前では軍隊が炎を逃れて町へ入ろうとする命を狩り取っていた。

 誰が一番多く射落とせるかのゲームが行われている。

 サボのそばに、感じたことのある気配がひとつあった。

 義祖父やルフィによく似ている。

 芯の通ったまっすぐな想いは、触れていても嫌な気はしない。

 

 混濁とした意識の中、浮遊感に任せて一気に不確かな物の終着駅(グレイターミナル)まで至る。

 ひときわ大きな絶望と怒りを発しているのはブルージャムだ。

 体よく切り捨てられたのだと知るまでにそう時間はかからない。

 黒幕は単体では無いだろう。規模が大きすぎる。となれば王かと見込む。

 違う。高町全体、だ。最終的な指示を出したのは王だが、以前からごみ山を処分する進言が行われていたようだった。使われたのはハイエナのように足元をうろつく海賊だ。

 燃やす見返りに貴族にでも召し上げると言う餌でもぶら下げられたのだろう。

 

 歴史を紐解いてみても上流社会と言われる場所では表立っての抗争はない。覇権争いは水面下でじわじわと行われるのが定石だ。決して表沙汰にはならないよう真綿で首を締めあげるがごとく、ゆっくりと策謀を達成させる。誰もが気付かない間に、蜘蛛の糸に絡めとって突き落とすのだ。そもそも血統を重んじるゴアの貴族社会に下賤な血を混ぜるわけはない。

 貴族という煌びやかな生活美や権力、ブルージャムはその表側の姿だけを羨み欲した。足元を掬われているなど、思いもよらなかっただろう。

 アンは不思議と笑んでいた。

 なにかに急かされるように、むさぼるように本を読み、得ていた情報が、よもやこんな所で役に立つとは思いもしなかったからだ。

 

 それよりも気になることがあった。エースとルフィが動いていないのだ。火事で周りが火の海であるとはいえ、足がすくむ二人では無い。しかもエースは剃が使える。ルフィが一緒だとしても炎の中を一瞬で、抜けられるはずだ。

 内側では無く、肌を焼く痛みを感じた。捕まっているのだ。何かに捕らわれている。

 こんなところで寝ている訳にはいかなかった。行かなきゃ。ただその想いが体を動かす。

 

 「アン、お頭の言う事を聞け。お前が行っても足手まといだ」

 いつもなら振り払える手も、今は全く敵わない。

 涙がこぼれる。

 

 無力だ。

 

 大切な人を助けにすら行けない。

 力が欲しかった。

 誰かを打ちのめす力ではなく、守るために力が欲しいと強く願う。

 あちらでも願った。

 両親を返してください、と。私の大切な家族を奪わないで。

 けれどその願いは叶えられなかった。どんなに泣いても、この命と交換しても構わないとすら叫んだとしても死んだ者は戻ってこないのだ。神や悪魔に願ったところで、差し伸べられる手や囁きは無い。

 誰もいない空間にたったひとり残される虚しさはいつまで経っても心を苛む。

 

 二度と失いたくなかった。

 死んでも助ける。

 アンは自分のために残ってくれたふたりに、ごめんなさい、と伝え姿を消す。

 

 

 炎は森にも迫っていた。

 火の粉に揺れる木々の葉が、熱にあぶられ茶色く変色し始めている。

 エースの元に飛んだはずが、飛距離が足りず途中で落ちてしまったようだった。幹に寄りかかり呼吸を整える。カラカラと乾いた喉が痛かった。内外からの熱さで、本当に焼けそうだと思いながら、夕焼け空のよりも赤く揺れ動く炎が燃え盛る場所に目を凝らす。どこが火元であるか、もう、分からない。こんな所に入っていけるのだろうか。

 アンは両手で頬を叩く。

 きっと火の中に居るエースとルフィはもっと熱いだろう。弱音を吐きそうになる唇を噤み、力を解放した。跳べる。跳んでみせる。そう自分に言い聞かせ、アンは空間をたゆませ結ぶ。

 2回目の移動は炎の中だった。ふたりはここでも無い。かくりと、ついてしまった膝を立て、体を持ち上げる。

 はやりこの熱でいつもの通り、とはいかないらしい。

 門の近くに来すぎていた。思い通りに点と点を結べない。

 耳に届く音以上の声が響いては去ってゆく。音がさざ波のように引いては押し寄せてきていた。

 

 「アンちゃん」

 小さな声が自分の名を呼ぶ。

 駆け寄ってくる友達に、アンは表情を歪ませる。

 「どうして、こんなところに…いつもは森の方に夜は!」

 呂律がまわらない唇で問いを放てば、びくりと幼子達が身を縮めた。

 「パンをくれるって。いつも叩いてくる人達が居なくて…ほどこしだから食べていいって言うから…」

 幼子達が咳を繰り返しながら、アンへとしがみついてくる。ここに住まう子供たちの多くは、捨てられた者たちばかりだ。サボのように自ら家を出、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)へとやってくる方が希少だと言えた。なぜならば人々が自然とこの場所を嫌うように、仕向けているからだ。町という囲いの中にある端町を、外と繋がっているから、として汚物と言い捨てている町の住人もいる。

 

 ただ国は、国民が嫌う端町、そして不確かな物の終着駅(グレイターミナル)を必要な【施設】である、と認識していた。その理由として、利用価値があるから、という模範解答を示すだろう。

 また、首都に住む者達にとってみても、無ければ困る【施設】となっていた。

 国民が日々出すごみを捨てる場所は必要不可欠であり、またその中から探し出される再生資源は、人々の暮らしの根底を支えている。

 王国は資源の持ちこみを端町に限って許可し、再生品の販売も黙認していた。

 人々もそれに準じ、賃金を必要としない労働力によって回収された品々を加工し、中心部へと持ちこむという経済路を生んでいる。偶に、だが持ち込まれるワニや蛇の皮など、高町に住む貴族達が最も欲する装飾品にもなるのだ。人々の暮らしは、繋がっていた。

 

 これらは経済が回る、という視点に於いてはなかなか良い考え方、ではある。

 だが見方を変えれば、本来の目的が見え隠れしているのに気が付くだろう。

 

 そう。不確かな物の終着駅(グレイターミナル)には、大切な役割があった。

 最も住環境が悪い場所に、最下層の存在を置いてやる事で、本来上層部に向かってくる平不満を、別の方向へ逸らす、先として、活用されているのだ。

 

      賤民。

 

 言葉としては明確化されてはいないが、まさしく、端町の一部、そして不確かな物の終着駅(グレイターミナル)に住まう者達はここの区分に入れられていた。

 だから首都、ゴアに住む人々は自分の身を、まだましな方だと認識している。

 自分よりも貧しい暮らしをしている誰かがいる、そういう状況を作ってやるだけで、この身はまだ裕福なのだと、中間層は勝手に認識する、と高町、そして王侯は理解していた。

 

 本来ならばこの首都に不必要である、醜悪なもの、に目をつぶっているのだ。

 そうでなくては、困る。

 

 そして貧富の差を身近にする為に、わざわざ不確かな物の終着駅(グレイターミナル)から端町へと、本来はごみの排出口として作った扉から、出入りを容認しているのだ。

 壁の内側にあることが、特別だと誤認して貰わなければ、困る。

 

 全ては紋を持つ者達が裕福に暮らし、天上人と同様とまではいかぬまでも、雅を共有したい。そして出来るならば彼らと同じく、その場に鎮座するだけで甘い蜜を長々とすする事が出来る仕組みを作り出したい。

 願いを叶えるため、人の心の中にある感情を把握し、操ってきた。

 その結果、今の形をゆっくりと形成したのだ。

 

 

 熱に浮かれていたからだろうか。

 今まで感じなかった、意思までもがアンの中に流れ込んできていた。

 今までで最も、嫌悪を感じる意識体だ。否定はしないが、同意もしない。

 

 この国には必要なもの、ではないが、お前達の存在を許してやろう。

 与えるのは底辺の役割だ。

 生きたいのであれば、与えてやろう。

 哀れみと言う名の蔑みを。

 慈愛と言う名の虐待を。

 

 アンは過ぎ去ってゆくそれらにぶるりと体を震わせた。

 血の気が引く感覚は手足を凍えさせる。

 

 こんな考え方を持つなど、同じ人間、だと思いたく無かった。

 事実、彼らにとって、ここ、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)に集まった全てが床に落ちた埃、塵あくたと同じだったのだ。

 アン自身が彼ら、貴族に対しノブレス・オブリージュ、を期待し過ぎていたと語った方が良いだろう。

 

 王侯貴族は全くぶれてはいない。

 元々からそうだったのだ。だからサボは、貴族を捨てたがっていた。

 その理由がやっと分かった。ゴア王国の貴族は贅沢を楽しみ、搾取、収奪するだけの存在なのだ。

 アンが思い描いていた、社会的尊厳を保ち、少なくとも建前として社会に奉仕する名士、では無かった。

 「…わたしは、サボになんて事を」

 発言した言葉は、もう取り返せない。サボに謝らなければならなかった。

 

 そして決断の日が訪れる。

 王は王の血族が長きに渡り生み出してきた、負の遺産であるこのごみ山を綺麗にする。ただそれだけだった。

 どうせならそこにしか住まう事しか赦されなかった、生きてはいけない虫けらも同時に、処理してしえば一石二鳥と言うものだ。そうすれば時折、海風が吹かぬ日に漂ってくるあの、悪臭も少しはどうにかなるだろう。

 全て焼いてしまえばよい。そうすれば、より一層、良い暮らしが出来るに違いないのだから。

 

 本当に心の底からそう思っている彼に、開いた口が塞がらない。

 反吐が出る。とはこういう気持ちを言うのだろう。

 アンは炎の向こう側に見える、王宮を見上げた。そしてそこでのうのうと、この大惨事を眺めている存在へ声を上げる。

 「どこまで人の命を軽薄すれば!心乏しい者たちが!」

 叫びと共に周囲の炎が円形に掻き消え、黒く焦げたゴミからは白い煙が上がった。

 炎から身を守れる場所を見つけた人々がどんどんと集まって来る。

 腹が煮えくり返っていた。

 人の命など顧みられてはいない。それをアンは分かっていた。どういう心理であるかも理解もしている。

 限られた特権の人々のみが幸せを謳歌出来る世界だと言う事も、わきまえていた。

 貧困も良しとしよう、差別されたって構わない。

 不平不満を胸に押し込めながらも、この場で生活している人々はただ生きていたいのだ。

 「なぜそれだけの事が、許されない!」

 叫喚があがる。

 

 それに応じるように、風が生まれた。

 大きな渦だ。ゴミを吹き飛ばし、えぐり取り路が出来る。

 「アンちゃん、船だよ!」

 幼子達が指す指先の向こうに、巨大なマストが見えた。

 「ガレオン船…」

 なぜそんなものがこのごみ山に停泊しているのかを考えている暇などない。

 死に直面して嘆いていた人々が一斉に動き出す。アンも3人の幼子達の手を引いて船を目指した。

 

 大きな船だった。船首にはドラゴンの意匠が施されている。

 「自由の為共に闘う意思のある者は! この船に乗れ!!」

 声は上から降ってきた。

 最初は誰もが顔を見合わせる。だが次第に、言葉の意味を理解すると、ゆっくりと集団が動き出す。呼びかけに応え、下ろされていた縄梯子を掴み、人々は船へと登った。

 自由。それは魅惑の言葉だ。

 今まで抑圧されて生きて来たごみ山の人々にとってもみれば、初めて手にするものに違いない。

 

 「自由ってなあに?」

 アンは少し考え、ゆっくりと発言する。

 「もう誰からも叩かれたり、奪われたりしない事。やりたい事を言葉にして出来る事、かな」

 幼子達はアンの言葉にきょとんとしていた。意味がまだ、分からないのだろう。

 「もう少し大きくなったら、理解できるようになるわ」

 「アンみたいに本も読めるようになるのか?」

 「ええ。いろいろな事も学べる。もう恐れなくていいの。生きる事を不安に感じなくても、大丈夫」

 

 列はだんだんと伸びていた。

 下に降りて来たのは船員だろうか。誘導により喧嘩などは起きていないようだったが、ひしめき合う人々の姿があった。

 アンひとりだけなら、縄はしごを伝って昇り切る事が出来る。だが子供達は途中で力尽きかねない。

 アンは背にひとり、片手にひとりづつ抱え、空を蹴る。義祖父から使用を制限されている技だが、今使わず、いつ使うというのだろう。

 ふわりと体が持ちあがり、子供たちが声を上げた。炎の中とはいえ、広がる景色に瞳を輝かせている。空を飛ぶなど、一生に一度あるかどうかだ。

 船を見下ろせる高さからゆっくりと船頭へと降りる。

 そこにはフードを被った、気を引く人物がいたからだ。眼光は鋭いが、不穏な目つきではない。

 「こんばんは。あなたがこの船の船長さんですね」

 男がアンを見定めるかのように観察する。

 「…炎を払ったのは君か」

 男がゆっくりと声を発した。周りに控えた人物達は動かない。

 「この子たちを宜しくお願いします」

 男の問いには答えなかった。しても意味の無い事だからだ。

 「…ヴァナタは一緒に来ないの」

 アンはこくりと頷く。

 本来の目的をまだ、達してはいない。

 見つめて来る目は、言を問うていた。

 

 なので、大きな顔の人だなぁ…

 見たままの感想をそのまま思う。

 

 「今ヴァターシの顔が大きいって思っチャブルね!?」

 「あーうー、えと。はい」

 「考えたんかい!!」

 どこかしらから聞こえてくる突っ込みに、顔の大きな人、は楽しそうにくるりとターンする。

 「素直な子は好きよ」

 投げられたウインクを無視してアンは、幾分か視線を和らげた男にほほ笑んだ。

 彼、が何者なのか。分かったからだ。

 

 「ドラゴン。貴方とはきっとまたどこかでお会い出来るでしょう」

 男の目がす、と細められる。

 名乗っていないのに、なぜ知ったか、と言う色を隠さない。

 だがそれをも、アンは答えない。

 今ここで説明する時間が惜しかったからだ。

 

 あなたは大切な弟へ血を繋いだ人。

 愛情故に手放した、ルフィをここ、に感じたのでしょう?

 だからわたしを助けた。

 

 意思の強い目は義祖父やルフィと同じだ。どこまでも先を見つめている。

 しかし自分とは混ざらないものを同時に感じた。

 しようとしている事、は今の世界に必要かも知れない。しかしどういう手段を用いたとしても革命は劇薬だ。どうやっても必ず血は流れてしまう。

 だからこそかつてアンが暮らしていた世界で、過去起こったとされる無血で行われた名誉革命が、背景がどうであれ、尊いと言われる所以だった。

 

 ドラゴンの目尻がふと和らぐ。瞬間、アンは姿を消した。

 その間、銃数秒。視線を合わせていただけだ。

 面白い存在だ。

 ドラゴンは赴いたであろう場所に視線を向ける。

 「瞬間移動!?」

 誰かが消えた少女を見て口にした。

 「逃した魚は大きいかもしれなッティブルわよ」

 男は何も語らない。しかし静かに笑みを浮かべていた。

 「いずれ会える」、と。

 

 

 SIDE エース

 熱さに目が回りそうだった。

 ヤツはもう、正気じゃない。ってか、こんな炎の中で、正常を保っていられる方が、おかしいんじゃないか?

 息をする度、鼻が痛ェし、喉もガラガラする。

 

 きっとサボは分かってくれるだろう。今はルフィと、そしておれの命を優先しても、サボは笑って許してくれる。

 長い時間をかけて貯めた金だ。でもそれは誰かの物であって、おれ達自身が得ていた金じゃない。マホロバだよ、って、アンが言ってた意味がようやく分かった。

 泡、なんだな。

 だから未練は振り切った。宝はまた、集めればいい。

 

 隠し場所を、おれは言う。

 「宝の場所は、山のふもとにある木の洞だ。よく見れば幹に登った跡を見つけられる」

 ブルージャムは狂気の笑みを浮かべた。  

 「いい子だ。じゃあそこまで一緒について来て貰おうか」

 嘘という可能性もあるからなぁ。

 ブルージャムの目が爛々としていた。完全にいっちまってる。

 金、金、金。

 金があればなんでも買える!

 ヤツは自分の言いたい事を、ぶちまけた。けどおれ達にとってみれば、そんなもの、本当なら必要ないものだったんだ。海に出るため、船が必要だった。船は買うものだと、サボに聞いて、集め始めた。

 「フザけんな!向かってるうちに逃げ場が無くなっちまう!場所は教えたんだ、お前らだけで勝手に行けよ!」

 おれは叫ぶ。

 

 だけどブルージャムには伝わらなかった。しかも執拗に、おれに案内しろと言う。

 「ガキの分際で…俺をこれ以上怒らせるなよ」

 かちゃりと撃鉄(ハンマー)が鳴る。

 ヤツは本気だった。

 

 「ガキの集めた財宝を頼りにしてでも…俺は再び返り咲いて、貴族どもに復讐すると誓ったんだ!」

 ブルージャムの目からドス黒い感情が噴出していた。付き従ってるやつらも恐怖で頭がどうにかなっちまったみたいで、言われた事だけを忠実に実行している。

 

 ルフィ。

 おれの気がかりは、弟だけだった。

 くそ、放せ!放しやがれ!こいつらおれ達も道連れにする気かよ!

 

 「おめェらの兄弟もそうだ。貴族なんてもんは、自分を特別な存在だと思ってやがる。だからあんな一芝居を打ったのさ。壁の中に戻るためになァ。ヤツらは結局、その他大勢は全部、どうでもいいんだ。なあ、やり返してやろうぜ。あの壁を越えてよう…」

 「違う!!サボはそんな安っぽくねェ!!!」

 「いいや、違わんな。お前らも大変だっただろう。貴族の坊ちゃんに合わせるなんてなァ。わざわざこんな場所まで来てつるむ理由なんざ知れてるだろうが。お前らは優越感に浸るためだけに利用されてたんだ、可哀そうに。親が大金持ちのあいつになんの心配がある?全てが保障されてるあいつになんの危機感があるってんだ?せいぜいおつむの良し悪し位だろうが。お前らは貴族の道楽に付き合わされたのさ。腹の中じゃお前らを見下して、鼻をつまんで笑ってたのさ!」

 

 ブルージャムは一気に、心の内に溜まっていた言葉を吐き散らした。

 けど、それをおれに分かれって言うほうが、無理だ。

 おれはサボを信じてる。だからブルージャムが言ってる意味が分からない。恨むのはサボを除いた、貴族だけにしろ。おれに同意を、求めるな。

 

 「それ以上…サボを悪く言うなよ」

 腹の底から吐き出す言葉は自分に言い聞かす言葉でもあるそうだ。ブルージャムはたぶん、おれ達を罵(ののし)る為に言ったんじゃない。おれ達を身代わりにしやがったんだ。正直カチンときていた。兄弟を馬鹿にされて、黙ってられるほど大人じゃねねェし。

 …けど、この喧嘩は買わねェ。すべき事がある。…しかも今、増えやがったし。

 「…おれ達を放せ」

 

 「そうだ!! サボはただ自由になりてェだけだ!! 放せ!!」

 ルフィが自分を捕まえている一味の腕にかみつく。固い肉でも噛み切る頑丈な歯だ。噛まれた男が悲鳴を上げ、背の刀を感情のままに抜いた。抜きざまに鉄パイプを切り裂き、ルフィへ振り斬る。

 赤が吹き出る。

 「ルフィ!!!」

 男がとどめを刺そうと、地面に落ちたルフィの腹へ向かい剣をたてる!

 「ルフィに手を出すなァ~~~~~!!!!!」

 

 ドクン、とおれの中でなにかが波打つ。そしてその何かが、体の外に噴き出す感覚に一瞬あっけにとられた。

 なんとか倒れずに踏ん張れたのは、支えが、あったからだ。

 アンの野郎。無茶、しやがって。あいつ、自分の体の状態、分かってやがんのか。

 おれは襲い来る脱力と眩暈を振り切る。

 しかも丁度都合のいい事に、周りのやつらが全員、泡吹いて倒れやがったんだ。

 

 ブルージャムを除く8人がその場に横たわっている。

 「何をしやがった!!! 胡散臭ェガキめ!!!」

 おれの腹に奴からの足蹴りが入る。咄嗟のことで避けられなかった。

 いってぇぇ! っ、踏むなよ!

 「殺してやる。全員、俺以外の全てを殺しつくしてやる!!!」

 「エース!! やめろォ~~~!!!!」

 ルフィの声が遠い。

 引き金が引かれる。

 瞬間、おれは死を覚悟した。

 悪ィ、アン。迎えに行けねェや。

  

 「やめねェか海坊主!! エースを放しなァ~~~!!!」 

 その声は突然だった。特にヤツにとっては、炎の中から突然出てきた存在に、不愉快さを表した。邪魔が入ったせいで、鬱憤が晴らせなくなったからだ。

 ブルージャムは炎の中から飛び出した斧に、左手で引き抜いたサーベルで対応する。そして間合いを取るように、後方へ飛び退いた。

 「ダダン…!!!」

 ルフィーの声におれは顔を上げた。いつの間にか目の前に一味が勢ぞろいしている。

 「やっといた!!」

 マグラがそう言うって事は、まさかおれ達を探していたのか。

 「サボの奴がいニーが?!」

 「大丈夫だ。サボは壁の中にいる」

 だらだらと血を流すルフィにドグラが駆け寄っていた。

 「てめェ…コルボ山のボス猿だな…」

 「山賊ダダンだ。何の因果かこのガキ共の仮親登録されててね」

 大分短くなった煙草を吐き捨てると、くるりと身を翻し、叫ぶ。

 「逃げるぞ!!!」

 「ハイ、お頭!!!」

 誰もが従う。

 統率力は、ダダンの方が上みてェだ。おれはこんな時だけど、笑っちまった。

 

 「エースも、急げ」

 マグラがおれに声をかけてくる。けどおれは動かない。ブルージャムの目が言ってやがるんだ。すべてを殺しつくしてやる、ってな。それにさっき、ダダンが来てくれなきゃ、おれは死んでた。だからいい。

 「おれは、逃げない」

 さっさとルフィを連れてってくれ。

 

 ダダンが足を止めておれを見る。

 「そいつはヤミとけ!!! ブルージャムのヤバさはハッタリじゃニーぞ!!!」

 子供が粋がっていいレベルじゃねェ?そんなこと端から分かってる。

 理屈じゃねェ。理由もわからねェ。

 けれどなにかが、おれに立ち止まれって、言ってんだ。

 

 「お…おれも!!!」

 「ダメだ!! ルフィ、お前出血してるだろう!! 早く止めねェと!!」

 マグラが止めてくれて、助かる。

 ルフィはすぐに、おれやサボの真似をしたがる。いくら言っても聞かなくてさ。危なくて放っておけねェんだ。

 

 ブルージャムが一歩前に進んできた。けどおれは動かない。

 その様子にダダンが盛大に舌打ちを響かせた。

 「エースはあたしが責任を持って連れて帰る」

 だからお前らは、走れ!

 その声に、一味が一斉に駆け出す。一糸乱れぬ逃走だった。

 さすがだな。

 おれはダダンへ意識をちらりと向ける。

 こういう時、ちゃんと言う事を聞くのは、ブルージャムのように恐怖で縛りつけてるからじゃねェんだよ。普段から一味の面倒だけは、ぶつくさ言いながらも見てるからな。

 

 「ダダン、アンはどうした」

 炎がちりちりと肌を焼く。目はブルージャムを捉えたままだ。視線が外れたら奴は動く。

 「家で転がしてある」

 嘘じゃない。ダダンが家を出る時は、転がされてたんだ。

 あいつ…無茶しやがって。

 「…来てるぞ」

 おれの一言に、ダダンは意図が分かったらしく、再び大きく舌打ちをした。

 あいつがじっとしてるわけない。さっき感じたのは、やっぱりアンだ。

 「女に…子供…少し腕に覚えがあるくらいで過信すると血ィ見るぞ」

 戦場で生き残るのは『強者』と『臆病者』だけだ。『勇者』は死ぬと相場が決まっている。

 ブルージャムが気持ち悪ィ顔して饒舌に語った。ハッタリじゃねェってことくらいは、おれにも分かる。

 

 火の勢いは増すばかりで、落ちつくような素振りが全く見えなかった。

 「タバコ切れか。と落ちつかねェな」

 面倒臭そうな物言いに隠れて、さっさと終わらせるぞ、と暗にダダンは含ませる。

 「言ってろよ…すぐに終わらせてやる」

 おれは唇を弧にする。

 そしてアンのバカを迎えに行ってやらなきゃ、だからな。

 まったく、おれ以外は心配ばかりかけさせるヤツばっかだ。そう思いながら、拳を握った。

 



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09-選択

 さざなみが打ち付けては引いてゆく。潮の満ち引きは終わらない。自然の営みを象徴するかのように続く、波打ち際に、アンは立ちつくしていた。

 空には今にも落ちて来そうな程の星が瞬いている。

 手を伸ばせば掴む事が出来そうだ。

 

 手紙をくしゃりと握りしめる。

 

 目を通したそこにはサボらしい几帳面な文字が綴られていた。

 「広くて自由な海には、いろんな不思議が眠ってるんだ。たとえばこのドーン島、ゴアの国は元々、移民によって造られた。知ってるか?」

 いつも横を向けば、暴れまわるエースとルフィを見守るように、立つ姿があった。

 すぐに何かへ飛びつくふたりに次いで、ポジションはいつも3番手か4番手。

 ふたりが喧嘩をし始めた時はじゃんけんでどちらを止めに行くか決めたり、木を削り弓矢を作って狩を楽にしてみる工夫をしてみたり…考えより体が先に動く暴走ペアを、補助し合っていた。

 これからはひとり、どうすればいいのか分からない。

 

 いろいろな話もした。

 たくさんの本を読み、語り合った。

 世界の景色を、埋もれたお伽話を見に行くと楽しげに笑っていた顔が思い浮かぶ。

 

 けれど、サボはここにはもう、居ない。

 ドグラから話を聞いた時は、嘘だと一蹴した。

 サボがそんな危ない橋を渡るわけが無い、制止を振り切ってアンは町に跳んだ。

 しかしドグラが言っていた事は本当だった。この国を訪れた、世界貴族が乗る船を横切ったとして、小舟を天竜人自ら直々に手を下したのだ、と。小舟はあっという間に火に包まれた、という。砲により炎が上がったのだ。そして紅は青の中に消えた。

 世界貴族が到着する。船よりそちらのほうが優先されるのは当然だった。人々はもろ手を挙げて声を上げ出迎える。誰も彼もがすっかりと、世界貴族によって沈められた船の事など、忘れられてしまっていた。多くがそんな事があったような気がするが、それがどうしたんだ? もしかして不敬を行ったあの船に乗っていた誰かの知り合いか? 寄るな、寄るな。 破廉恥がうつる。

 

 アンは苛立ちを隠す事無く、相手を見る。睨みつけてはいなかったが、誰もが一歩、足を後退させていた。

 

 だれも助けには行かなかったのだ。

 子供ひとりの命など、たかがしてれいる。

 この日に世界貴族が到着すると、前もって交付されていたはずだ。知らないとなれば首都の住人では無い。どこかの辺鄙な村か、生き残りか。どうでもよい。

 

 世界の中心に有られる、やんごとなき存在を手厚く迎える方が、国王を初め王侯貴族だけでは無く民衆までもが優先した。

 

 仕方無いじゃない。世界貴族様がいらっしゃったのだもの。

 恥知らずと言ったのは悪かった。だが本当のことだろう? あんたは違うとしてもだな…

 

 唇を噛みながら、話をしてくれた人の元を去る。

 この人にどうして、と問うのはお門違いだ。なぜならば、その人々の意見こそ、この国の常識であるからだ。世界貴族がやってくる。それを知っていながら、船を出したあの子供が悪い。それが大多数の意識だ。

 アンは諦められなかった。諦めたくなかった。もしそれが自分の身に起こっていたならば、仕方が無いと割りきれていただろう。ただアンがそうやって受け入れたとしても、エースやサボ、ルフィはアンのように諦めないだろうと断言できる。友達として、兄弟としての絆は時間では無い。諦めないのが当然だからだ。

 

 目撃情報を集めて回った。

 ようやく見つけたその人は、周囲を気にしながらそっと教えてくれた。子供がひとり乗っていたのは確かだが、船の残骸を引き上げた時には姿が無かったという。沖に出る海王類にでも食べられたのだろうと語った人は苦い顔をしていた。

 その日、アンはどうやって戻ってきたのかは覚えていない。ダダンの家に帰り着いた頃にはどっぷりと日が暮れていた。

 エースは一晩木に縛り付けられ、翌日この海岸で声を上げて泣いた。

 ルフィは悲しみを隠すことなく感情のまま泣き、まだ眠っている。

 

 そしてアンはひとりで丸一日を過ごした。そして闇の中を見据えていた。

 ひたり、と空虚が寄り添ってくる。この感覚は身に覚えがありすぎて、不自然な笑みが浮かぶのが自分でも分かった。

 

 サボの夢など片鱗もなかった。

 世界は余計な情報ばかりをアンに押し詰めて来てくる。なのに肝心な、兄弟の事が解らないなどあり得ない。あって欲しく無かった。

 しかしアンはただの受信機なのだ。伝聞は選べない。分かっている、分かっていたつもりだった。世界が放つ、刻まれた時間を全て把握するなど、出来はしないのだ。それでも、どうして気付けなかったのだろう。アンはただそれだけを繰り返し考える。

 何かある時は夢で教えてくれる、と過信していた。

 火事の件も、シャンクスの件も、近しい身の回りの出来事が記憶に残るほど夢に出続けたからだ。

 

 サボは高町に捕らわれていた。兄弟を心配し端町まで抜けだし、逃げろと叫ぶサボをなぜ最初に迎えに行かなかったのか、後悔が心を苛む。

 だが実際に出来ていたか、と言われれば、無理だった、に違いない。エースと出会うまで、何度跳んだか覚えていないくらいだ。

 

 あの日、嫌と言うほどサボが置かれていた状態を思い知らされた。

 なぜ貴族を嫌っていたか。10歳という年齢で、見切りをつけねばならなかったほど、腐敗した思想の中で何を成せるというのだろう。自分と言うモノを偽ってまで、生きていく程、息が詰まる場所も無い。

 

 エースの怒りも、ルフィの涙も、ダダンの制止も。それぞれがそれぞれを思い行動していたのに。

 アンはギュッと両手を握りしめる。

 無力だ、と。

 

 

 あの身動き出来なかった、そういい訳を繰り返す。

 失敗したならもう二度と繰り返さなければいいじゃないか。

 自分自身の弱さや甘さの部分がそっと囁いてくる。だがその回答としてアンは、『2度もあってもらっては困る』として受け付けなかった。

 

 出来た事があったはずだ。

 過去を戻す事など、出来はしない。

 作り物のゲームでは無いのだ。都合が悪くなったら、セーブしてある場所からやり直せばいい。何手そんな事、出来る訳じゃない。現実は現在進行形で進んでいる。今の一秒もすぐに過去となるのだ。

 その時に出来る選択の中で一番良いものを。

 今回は出来なかった。

 悲しいのに涙も流れない。

 硝子の破片が刺さったように痛いのに、心は寒々としている。

 手を伸ばした先に水面があるならば、姿を映した向こう側に居るアン自身は、きっと不敵な笑みをたたえているだろう。

 その気持ちの名を知っている。

 "全てを壊してしまえば楽になるよ" "復讐すればいいじゃない。世界なんて脆いのだから"

 

 必死にアンはその心を抑える。これらは赦されない衝動だ。

 どんなに大切にしていたとしても、こぼれ落ちて無くなってしまうならば、最初から持たなければいい。作ってしまいそうになるなら、壊してしまえばいい。

 

 かつてのアンはただ両親の死を抱えるしかなかった。

 加害者になにを言うのでも無く、ただ必死に空虚に涙した。

 なにも出来なかったからだ。

 なにをしていいのかも分からなかった。

 

 けれど今は違う。

 世界を跨いだとき、知った事柄がある。

 それを使えば、世界は簡単にひっくり返った。そして全てが無へ還る。

 

 嫌だ。

 アンは瞼を閉じる。

 「復讐しても、失ったものは戻って来ない。加害者に仕返しに行けば、余計に憎しみが、悲しさが深くなるだけだもの」

 どうせするならば生き地獄を味わって貰わねば、困るのだ。

 ただ命で償う、それだけでは軽すぎる。

 

 アンは伸びてきた手を握り返す。

 「貴方はわたしの願いを、言ってくれてるだけなんだよね。ありがとう」

 本音を自覚するのは、胸が切り裂けてしまうかと思うくらい、痛い。

 誰もが幸せに、暮らせる場所なんてありはしない。

 分かっているのだ。

 どんなに物質的に恵まれ、豊かな国で暮らしていても、うめられない空虚感がある、ということを。

 する方はいつでも無自覚だ。些細な言葉、些細な行動で知らないうちに、誰かを傷つけている。

 大切な物を作らないように生きようと思っていた。

 必要以上に関わらないように一線を引こうとした。

 

 けれど。

 得てしまった。

 ひとつの体を半分こして生まれてきたエースを。

 義祖父を、友達を。

 そして何より大切な、盃を交わした兄弟達を。

 「…ごめんね」

 アンは白い手を引き、自分の中へと招き入れる。どんなに否定したとしても、それはアン自身の衝動であるのには変わりないからだ。

 出て来てくれてありがとう。ごめんね。アンは自分自身にそう言葉をかける。

 

 見回してみれば、優しい手ばかりが差し出されていた。

 怖々と取れば、大丈夫だと握り返す手の温かさに頬が緩んだ。

 それを壊してまで、世界を巻き込み復讐なんて、出来ない。

 

 「ったく、お前は難しく考え過ぎなんだよ」

 不意の声は、アンの体をびくり、と震わせる。

 振り返るとエースが立っていた。

 ぶっきら棒にアンの掌を握り、そのまま黙って座らせ、自分も背中合わせに胡坐をかいた。

 

 

 火事が起きた日、ダダンとエースに合流は出来た。

 

 ダダンが振るう斧と、使いなれた鉄パイプを持つエースが繰り出す手数に、さすがのブルージャムも追い込まれた。1対2、幾ら徒党を束ね自身も腕に自信を持っていたとしても、周囲を火に囲まれじりじりと焼かれ続けているのだ。体力自慢であってもじわじわと削られてしまう。

 「お前らァ…こんなことをして、ただで済むと思ってんのかァ」

 ブルージャムがしわがれた声で威嚇する。しかしふたりは攻撃の手を止めなかった。

 喧嘩を売ってきたのはそっちだ。買ったからにはとことんやってやるよ。

 覚悟を決めたダダンは強かった。

 時間経過と共に悪くなる足場も気にせず、エースは打撃の手を休めない。撃ち尽くされた拳銃は既に炎の中に消えていた。

 「俺は返り咲くんだ!! 奴らに復讐する為に!! こんな所でしんでたまるかァァァ!!!」

 吠えた瞬間の隙をダダンとエースは見逃さなかった。

 正面からダダンが、真横からエースが武器を大きく振りかぶる。

 「ごみ山のボスザル、お前にはお似合いの最後だよ」

 斧を振り抜いたダダンがゴミから噴き出した炎の中に消える、ブルージャムに最後の一言を言い捨てた。

 「逃げるよ!!!」

 ダダンが事の終わりを確認するや、もうここには用が無いとそそくさと駆け出した。

 エースはこくりと頷き、ダダンの後を追う。

 そしてアンを拾った。

 「ったく、起きろ、アン、寝るな、黒焦げになるぞ」

 ブルージャムとの戦いをしている場所を目指していたらしい。だがアンの体は既に力が失われていた。なんとか意識を保っているようだが、それこそエースにしてみれば信じられない精神力だと言っても良い。

 

 (…エース)

 唇を動かすのも億劫なのだろう。意識での会話を何度か繰り返し、ダダンと共に炎の海を跳ぶ。

 気配を感じた際、目的地がエースだと、アンがここまで来るのは予想していた。熱に浮かれた状態でなにを指針にするかは一目瞭然だからだ。それに実の所、来てくれて助かった。周囲はすでに逃げ場が無い状態だったのだ。

 跳べるかと聞けば、肯定が戻ってくる。だがどこに跳べるかは分からないという答えだった。

 ダダンは不安げな表情を見せるが、走ったところで森まで行きつけるかどうか、危うい状態だ。それならばいちかばちか、跳んでみるのも手だというエースに、嫌々ながらも承諾した。

 そして最終的に跳んだ先は森まであと少し、という場所だった。

 だがその着地点は大きく火を吹きあげる場所だった。ダダンはふたりを庇い、全身に大やけどを負ってしまう。エースはアンとダダンを背負い、狭間の森に流れる小さな小川近くで隠れ潜んだ。ここは海へ出る事も出来る小道にもすぐ行ける。

 エースは大きく海側からう回路を使い、何度も町へ盗みに入った。衣糧や医薬品。自身と仮親、そして双子の命を繋ぐため、エースは必死だった。アンにもそれは、してはならぬ事だと言えなかった。

 

 ある程度回復したエースとアンで、ダダンを家へ運び込めたのは、大火事の日の翌日、昼過ぎだっただろうか。

 式典とはどういうものかと、新聞を見ていたドグラがごみ山の様子を見ると同時に見物し、サボの遭難を目撃したのは二日目の午前中だ。アンとエースならば片道数時間で不確かな物の終着駅(グレイターミナル)からダダン宅まで走れるが、山賊とはいえドグラの足でも優に倍以上はかかる。この時はフーシャ村から出ていた臨時便の船に乗って、首都へと向かっていた。そのため、報が一味にもたらされたのは夕日が沈む前、だった。

 ふたりを守ったダダンは一味によって介抱され、清潔な包帯を巻いて横になっていた。エースとアンも水で体を清め、手当がなされる。

 心配していた一味から、なにがあったのか聞かれるのは当然だろう。

 ぽつりぽつりとダダンは皆に聞かせながら、会話が進行する。

 そしてもたらされた訃報に、エースが激高した。薄闇の中、かたき討ちに出ようとするエースを止めたのは、意外な人物だったと言っていい。ダダンだ。全治1カ月の体に鞭打って、エースを諫めた。今頃、開いた傷に再度悪態をついている頃だろう。

 

 温かさが伝わってきた。

 エースはなにも言わなかった。手のひらが冷たい指を探り当て、ギュッと握りしめてくる。

 アンはは膝を抱き、体温を感じながら声を押し殺すことなく、泣いた。

 

 

 朝日が昇る。

 どうやら立ち直るのが一番遅かったのは自分らしいと気付いたのは、迎えに来たルフィの姿を見た時だった。ダダン達が寝静まった頃に出かけようとするエースから、大体の場所を聞いたのだと言う。

 「腹減った!狩りに行こう!!」

 いつもの鉄パイプを持ち、いつでも出かけられる準備をしていた。

 「アン、17歳で出航だぞ」

 「え…なんの話かよくわからないのだけれど」

 首をかしげていたアンがもしかして、と思った事を口にする。

 サボが18で成人として認められるから、17で海に出るって言ってたあれ、かな?と。

 「そうだ!!! サボの分まで海賊になるんだ!!」

 この世界では自由に海を往けるのは、海賊しかない。国の許可を得て、政府の承認されても、侵入してはいけない海域が存在している。もしそこに入ろうものなら、世界で最も罪が重い判決が下されるとされていた。

 海賊旗を掲げたサボの行方が分からなくなっても尚、海賊しかないのだろうか。アンはゆっくりとふたりを見る。

 このふたりがどこかに所属する、とは性格的にも考えづらい。だがそれは命を粗末にしてまで、なるべきものなのだろうか。

 

 ぐー。

 アンは苦笑する。ルフィは腹が減ったと胸を張り、エースが果物幾つか置いて来ただろう。と呆れた。

 「じゃ、先にお腹いっぱいになろうか」

 それからでも考え事は、出来る。

 人間生きている限り腹は空くのだ。

 かなづちのルフィを陸に残し、穏やかな波へと双子は身を沈めた。青の世界が広がる。木を削ったくいを使い、魚を追いこみつつ一気にどどめを刺すのはエースの拳だ。いつの間に覚えたのか、ルフィが薪を拾い、火を熾して待っていた。

 「ありがとう、凄いね、ルフィ」

 えっへんと胸を張るルフィも成長しているのだと感じる。留まっているのは自分だけだ。

 ふたりが海賊になるというならば、致し方ない。ならば海に出る、その目的を助けるための力を蓄えなければならない。そうアンは結論付く。

 

 2mを超える魚が焼き上がるまでには少し時間が必要だった。

 「町の方はまだ片付けが残ってるみたいだからな。当分あっちには行かねェ」

 体のだるさも忘れて、飛んだ"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"の閑散具合を思い出す。エースはアンを通して、その惨状を見たからだろう。門が平行になるまで積みあげられていたゴミの量がどれだけ凄まじかったのか、現状を見ればわかった。大門からそれも随分と長い階段が見えていたからだ。高さで言うと大体、35mくらいだろうか。

 下に降りると銃を撃たれるようだった。生き残った住人を駆逐するように、上層部より言い渡されているらしい。壁の上から見た景色は、数日前までそこにゴミが大量に廃棄されていたとは思えないくらい落ちくぼんでいて黒かった。そもそも可燃物が大量に層を成していたのだ。くすぶっていた多くの火種が、爆発による火を得て劫火と化すのも分かる。壁に当たった風が上昇気流となりアンの鼻にも届いた。

 死の匂いが濃厚に含まれている。

 だが下で作業している兵達はそれにすら気付かない。ただ臭いとだけ、認識している。

 ゴミも人も等しく燃やされ消えた。

 

 軍隊による後始末が初日という事もあり行われていたが、彼らはきっと数日後には適当な理由をつけて撤収するだろう、とアンは踏んでいた。

 なぜならゴミとして様々な物を捨てることに疑問を持ってはいない王国内部の人間達は、同じ事をまた繰り返すだろうからだ。適当に、明日から投棄出来る場所が確保出来れば、後はどうでもいい。

 

 海に潜り三日振りの食べ物を口にしたアンは昨日、ふたりで話し合った事を聞く。

 失わない為に強くなる。その思いは共通だった。

 「中間の森に隠してた財宝は全部無くなってた」

 木の葉で焼けた部位を掴み、口へ運びながらエースは言った。

 財宝集めは終わりだな。

 「その方がいいかもね」

 同意を示しながら、アンは体についた塩を払い落した。当分の間はエースが言う通り、町に近づかない方がいいだろう。本当はこの機に乗じて、しておきたい事もあったのだが、自身で手を下すのもどうかと思っていた。わざわざ手を汚しに行かなくても、彼らはその内に自滅するだろう。

 

 衣服をまとったアンに、ぎゅーとルフィが抱きついてくる。

 死、と直面するにはまだ、7歳という年齢は幼すぎた。10歳でも受け入れがたい現象ではあるだろう。しかし弟は理解している。意味を押しつけられたエースやアンとは違い、どういった種類の感情であるのかを含んで知っていた。だから生まれるべきでは無かったと自分の命を否定するエースへ、自然と寄り添った。必要だと叫び、死を遠ざけたのだ。それでもエースは生への執着が弱い。生きているのは、アンを含め、どうしてもエースが居なければ立ち行かない存在があるからだ。

 「アンも死なねェでくれよな」

 弟の目が、潤んでいた。たくさん泣いたのだろう。目尻がまだ、赤い。

 「大丈夫だよ、ルフィ。わたしは、大丈夫。鉄砲玉のふたりを置いて、逝けるわけないじゃない」

 "悔いのないように生きる"

 それは杯により結ばれた兄弟に共通する思いだ。

 自由の対義語は専制、束縛、統制。この中で最も的を得ているのは専制だ。

 サボは権力に殺された。支配者と置き換えてもいい。

 

 どう足掻いてもこの世界の現状は、一部の特権階級だけに富が集中し豊かに暮らしている。天に上る龍の如く君臨する、世界政府の根本を作った偉大な王達の子孫が権の殆どを握っているのだ。

 秩序を守る立場にある、海軍や司法でさえ天竜人の一言には敵わない。

 腐っても鯛、ということわざと同じだ。彼らが白と云えば白、黒と云えば黒となる。

 正悪は関係無い。天竜人の定めが全て、なのだ。強者の理屈は、いつでもまかり通る。そして歴史さえも、勝者の自由となる。敗者の綴った歴は黒く塗りつぶされ、偽りとされた。

 国に属して生活している限り、束縛は続く。

 海に出る人達は少なからず、何かを断ち切って出てゆくはみ出し者だ。

 国に住むことで得られる権利や安全を捨て、身一つで海原へと旅立つ。確かに自由だ。しかし身を守るすべは己だけとなる。だから思考の似通った者同士で徒党を組む。もしくは人を奪略し恐怖で縛りつけた。

 徒党は賊となり己の欲望が赴くまま、国の圧力に屈し生きる人々を奪略し自由を謳歌する。

 脱する事の出来ない人々をあざ笑いながら、自由の意味を取り違え罪を重ているのが現状だ。

 

 「自由に生きること。一番難しい選択だよ。それでもふたりは、自由を求める?」

 生き方としては何かに所属するほうが楽なのだ。

 自由を選びとれば、全において己で決断しなければならない。

 

 「おれ…アンの言ってることさっぱりだ。サボは誰よりも自由を求めてた。難しいってことも、知ってただろ」

 そうだね。

 弟の言葉に頷く。

 親から貴族であるならばそうであれ、と望まれ続け、姿を消しても探そうともせず。一応の世間体を考え、捜索、の形だけは取っただろう。けれど親自身が探しには来なかった。5年間も、サボは二重の生活をし続けていたのだ。最後の一年は本格的に家出をしていたが、それでも4年間、子供の行動に不審を見つけられなかったなど、あり得ない。どれだけ放任なのだ。義祖父よりも始末が悪い。

 ゴア王国の上流階級そのものが、トリカゴなのだ。

 そこで生まれ、育ち、小さな世界の中で老い、寿命を迎える。

 ある意味、幸せなのかもしれないと、アンは思う。それだけ、でよいのだから。それ以上を考えずにいて、いいのだから。

 けれどサボは知ってしまった。世界がそのトリカゴだけでは無い、と。

 自由の意味を知ってしまったのだ。貴族社会だけではなく、ありのままの外を実感してしまったから、余計に居られなくなったのだろう。心を捻じ曲げて、煌びやかな世界に留まるのを良しとしなかった。

 

 だから海に出ようとし、いよいよ戻されてしまった機に実行した。

 17という年齢を定めていたのにも関わらず、留まれなかったサボに吐息をつく。

 

 ……サボのバカ。

 サボなら、6年とちょっとくらい、どうにでもなったでしょうに。

 死んだなんて信じない。信じてやるものか。

 絶対に生きてなさい。死んだとしても黄泉の淵から引きづり出して呼びもどしてやるんだから。

 焼けた魚を食べながら、アンはこの場に姿なき、サボへと語りかける。

 

 「おれはシャンクスみたいな海賊になりてェ。そして海賊王になるんだ!!!」

 大きな葉に掴み取ったほくほくの白身を飲み込んだルフィが、大きく発言する。

 アンはびくりと身を硬直させ、立ち上がり夢を語るルフィを見上げた。

 弟が目標としている海賊の名は、遠く、この東の海にまで届いてきている。

 その理由を何となく、アンには見当がついていた。その身にまとう雰囲気が、海原と反するその赤の色が、より強く、青に誘うのだ。しかもあの一味のメンバーは誰であっても魅力的だった。あんな仲間達と海に出れば、何があっても乗り越えていけそうな気がする。だからルフィは連れて行って欲しいとねだった。けれどその願いは叶えられず、今に至る。

 

 「おれは悔い無く、自由に生きる海賊になる」

 エースの瞳には強い意志が秘めていた。

 そしてちらりとアンを見、問う。お前はどうするんだ、と。

 「私も一緒だよ。悔い無く自由に生きたい」

 けれども。海賊一択というのが、ね? 

 アンはロマンを語り始めたふたりに、しまった、と思いながら苦笑した。

 そして自分に言い聞かせる。

 時間を浪費するな、人生は時間の積み重ねなのだから、と。

 ここで立ち止まっている暇など無い。サボも留まる事を否定した。そのサボを消失した感情で自分を動けなくしてしまうのは、彼に対する侮辱だ。

 遺体は上がっていない。生きている。勝手に殺してくれるなと、そう世界へ断言した。

 

 「船だ!!」

 ルフィーが立ちあがった。大きな船の船首には犬の像が飾られている。

 大ガレオン船だ。色は違うが、黒い龍のガレオンを見たばかりのアンが言う。

 「最近大きな船が良く来るね。祭典の船も含めて3隻目、か。軍艦が東の海に何の用があって…あれ?あれって…おじいちゃんの…船なんじゃないかな?」

 アンの声にエースは、「げ、マジかよ」と心底嫌な顔をする。

 「じいちゃん帰ってきたのか!!」

 エースとは正反対の反応をするルフィを押しのけ、まじめな顔をして肩を掴む。

 「逃げろ、アン、いいか。絶対にジジイには捕まるなよ」

 「え、どういう意味」

 「だからとにかく逃げろよ。おれも逃走には手を貸す。何があっても振り向くな。絶対に逃げ切れ」

 

 その意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。

 



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10-約束

 "絶対に来るなよ、いいな、絶対だぞ"

 アンは憮然とした面持ちで、ツリーハウスにひとり、転がっていた。

 ガレオン船は既にフーシャ村に着岸しているだろう。

 エースはアンに、念押しをして行った。だがアンにしてみれば、どうしてエースがそんな事を言うのか、全然、さっぱり分からなかったのだ。悶々とした気持ちが止まらない。

 義祖父に会わせたくないという、その理由が思い当たらなかったからだ。

 記憶を遡るが、思い当たる節が無い。だから余計に、この気持ちに対して始末が悪かった。

 

 エースはルフィを連れ、村に向かった。

 今頃村では、義祖父を迎え宴会の準備が着々とすすめられているだろう。アンもその場に加わりたかった。久しぶりの生ガープなのだ。あのごつごつとした手のひらに、頭を撫でられると無条件に嬉しくなる。

 

 わたしもおじいちゃんに会いたいのに。

 

 それがアンの、紛れもない今の気持ちだった。

 だがエースがあそこまで、絶対を連呼するのは珍しい。大概の場合、お前の好きにしろよ、とアンの自由を認めてくれるのに、だ。

 なにか、があるのだろう。

 それが分かれば対処が可能になる。だが当の本人にその記憶が無く、思考が始められなかった。

 「…ふう」

 アンは溜息をつく。

 

 以前義祖父が村に滞在していた数日間は主に、六式という技術を得るための大特訓だった。身はボロボロ、心は案外打たれ強く平気だったが、この年齢で筋肉痛を経験するとは思わなかった。なのでなにかが起る訳もない。海兵になるのじゃ! といつもの如く言われ続けていたが、それは全部エースが、なるか! ざけんな! いい加減にしろ! と一蹴していたから問題ないはずだ。

 ならば、一体なんだというのだろう。

 

 エースはなにを恐れているのか。

 それさえ分かれば、アンが起因している心配であるならば、何とか出来るはずだった。

 しかしエースは断固としてそれをアンに明かさない。アンとしても無理矢理聞き出そうとも思わなかった。言いたければ言うだろう。だからそれまで、待つ。

 …とはいえ落ちつかず、気も漫(そぞ)ろであるのは否めない。

 

 アンが原因で且つ、エースとルフィが嫌がる事。

 「って、なんだろう」

 町で買ってきたお菓子をアンひとりで食べる。なんて嗅覚が鋭いあのふたりに隠れて出来る訳もないし、勉強のためノートを渡す。…にしてもサボが居ない今、ふたりは好き勝手遊び回っている状態だ。

 

 もしかして気付かれたか。

 アンはそっと意識をエースに向けるが、あからさまにそわそわしている様子は無い。多少の緊張はしているようだが、プレゼントとは関係なさそうだ。どちらかと言えばアン、に関してもしそのま実行しやがったら義祖父と刺し違えても止めてやる、という物騒な思考をしているのが気になった。

 誕生日を祝う、という概念が低いダダン一家では、『誕生日ってそれ、美味しいの?』だ。

 抱える家族が20名近くおり、単純計算、月に1度はやってくる計算だ。はっきり言ってきりが無い。それに収入が落ちて来ている今、財布のひもを締めねば日々の荒事も難しくなってきているようだった。なので誕生日何ぞ勝手にしろ、という。

 

 だからアンは毎年任意でエースの誕生日を祝ってきた。

 そして今年もそのつもり、にしていたのだ。

 今までふたりの誕生日には見向きもしなかった義祖父が帰って来た、のには吃驚だが、毎年義祖父が弟に贈るプレゼントがとんでもないもの、だと知っているアンは、はっきり言って不安しか感じない。

 「っ、ぷっ、あはは!」

 久しぶりに義祖父には会いたいが、誕生日だというそれだけで、一歩引いてしまう自分になぜか笑ってしまった。

 

 世界を渡った向こう側では、毎年元旦に年神様からひとつ、歳を貰うのだと教えて貰った事がある。歳を重ねる、という事はその年を無事に過ごせる、裏返しだという。貰えなければどうなるか。アンは祖父から聞いた話に、涙を浮かべたのを覚えていた。

 「うん、あれは初めて聞いた時は怖かった」

 

 同じ話をエースやルフィにもした事があるのだが、気丈に振る舞っていた兄とは打って変わり、弟は目尻に溜まった涙をこぼすまいと必死に鼻をすすっていた。

 泣き虫は嫌いだ。

 という兄の言を素直に従っている可愛い弟の姿に他ならない。

 

 アンはころりと仰向けに寝転がった。

 考えても考えても埒が明かない。ならばこれ以後、どんなに考えても分からないだろう。

 もやもや感が嫌だった、もどかしかった。痒い所に手が届かない。というよりか、痒い場所が分からず必死になって違う場所を掻きむしっている。

 

 アンは考えるのを止めてみた。

 そして重ねてある本の背表紙に指を滑らせる。人差し指が止まったのは、星の本だった。

 海はその時々で表情を変える。嵐に寄って流され、場所が分からなくなった時、通常、見るのは方位を示す磁石だ。しかし世界は、そう甘くはない。四方の海では常識内であっても、この世界、生命が生きるこの星の中心にある航路、偉大なる航路(グランドライン)と呼ばれる場所では意味を成さないとされていた。そう、特殊な磁場により、普通のコンパスでは役に立たないのだ。

 今すぐの入手は困難だろうが、出航までにはきっと手に出来るだろう。

 だがもし、調達出来なかったとしても現在地を知る方法があった。そう、星だ。

 天体は磁場の影響を受けない。雲にさえ邪魔されなければ、計測出来る。

 

 「ポラリス、ラムー、ミフィア……ラカーユ、アルヘナ」

 アンは恒星の名をつぶやく。

 サボとこのツリーハウスの頂きに昇り、太陽が水平線から昇ってくるまで、星の動きを眺め、そして覚えていった。

 この惑星に住む人々は、自分達が立つ大地が星だという事を知らない。大地が真っ平ら、と思っている人々も少なからずいるだろう。

 サボも世界は丸く、航路が存在し一周出来る、とは理解していたが、この大地が空に輝く星と同じだとは思いもよらぬ事実だったらしい。

 嘘だ、とは言われなかったが、どうしてそんな事を知っているのかと強めに追求された。

 どう説明すれば分かって貰えるのか。アンも最初は悩んだ。宇宙という概念が無く、この星の外側からこの星そのものを映した映像など無かったからだ。

 否。大昔は存在していた。

 しかし今、は遺失してしまっている。としたほうが正確だろう。

 

 アンは目を閉じて意識を広く浅く広げてゆく。

 そうすれば緑の木々の間を風に身を移したように、青の空へ出た。眼下には碧の海とのどかなフーシャ村が見えた。

 そして自分のかたわれへと指先を伸ばす。

  

 

 エースは厳しい表情で近づいてくる船を見ていた。いつもは定期船に乗って帰って来るガープが、仕事の船を使う理由にも見当がついていた。弟は祖父の乗る船にただ、喜んでいる。シャンクスの影響を受け海賊なると公言しているものの、その夢のきざはしである、船に関しては興味が強かった。それがどんなに小さくとも、海軍所有であっても、だ。

 よりにもよって今なのかよ。

 エースは小さく舌打ちする。ルフィは単純に大きな船が近づいて来る様子に興奮しているようだった。

 さすが海軍本部の大ガレオンだけあり、見る見る間に帆に風を受け近づいてくる。

 もしかして、が外れて欲しかった。

 しかしこの日に間違いなく入港してくる船の目的はたった一つしかない。

 

 「アンをジジイにやるかよ」

 ルフィは兄の一言に飛びあがる。

 「じいちゃんアンを連れてっちゃうのか?!!」

 エースは答えない。言葉にすると嘘も真になってしまう気がする。

 

 港には村から船の影を見た人々が集まり始めていた。

 「マキノ!!」

 ルフィが姿を見かけ走り寄ってゆく。この時間であれば多少店を空けていても平気なのだろう。

 「この時期に戻ってくるだなんて珍しいわね」

 町では式典があったと言うし、東の海を巡る世界貴族という方達の安全確保かという声も上がっている。よもやアンとエースの誕生日だと気付く者はひとりとして居ない。

 

 船がゆっくりと着岸した。帆がたたまれ梯子が下りる。そして長であるガープを先頭に乗組員が次々と上陸した。

 抱きあげた孫にメロメロ顔になった上司に代わり、平和の象徴である東の海ではあるが警戒は怠らないように、と副官であるボガードが下士官達に通達をしている。

 

 「珍しいのう、エース、お前が迎えに来るとは」

 「何しに来やがった」

 いの一番に尋ねたのは目的だった。東の海(イーストブルー)の巡視であればよし、そうでなければ抗うまで、と決めてきている。

 ガープはアンの姿がこの場に無い事を確認すると、ルフィを下ろし腕を組んだ。

 「聡くなったな…お前も一緒に来るか?」

 「ざけんな」

 エースの声は静かだ。

 考えての行動なのだろう。子供らしい激昂を予定していたのだが、これもまた一興だとガープは笑みの形をより深くする。

 それにしても子供の成長とは早いものだと思わざるを得なかった。

 人の言にすぐにカチンときていたエースが、物事の先を見ている様に感じ入る。

 そもそもアンだけに至っては、子供らしくは無かった。無理に背伸びをしているようでも無く、自然に大人の中に混じって遜色の無い考え方をしていたからだ。

 売り言葉に買い言葉を放つ事無く、必ず一息置く。それは大人でも難しい所作だ。

 「じいちゃん、アンはダメだ!! おれの大切なねーちゃんだぞ!!」

 言葉遣いの悪さに、愛のゲンコツが下る。

 声にならない叫びがふたつ、その場で上がった。

 変わらぬのは、我が血を引いた孫だけか。ガープはそれもまた良しとした。

 

 「約束は、約束じゃからな。わしは果たしに来ただけじゃ」

 にやりと笑む顔は、山で見るガープの姿とはまた違う。正義を表す白のスーツに、将校のみが纏う事を許された同色のコートを身につけた義祖父は海軍の一翼を成す中将の名に恥じない貫禄を見せていた。

 敵対すると決めた相手だ。気圧されてたまるかとエースは目に力を込める。

 

 「なるほど。隠したか」

 ガープの笑みが濃くなる。どこかは分からないが、ダダンの隠れ家ではないだろう事は確かだ。

 探しに行くのは良策ではないだろう。おびき寄せるが良いか、出て来るのを待つか。

 そもそも好奇心の強い子供だ。よもや約束を忘れてはいないだろう。となれば、わざとこちらからの一手を待っている可能性がある。

 どちらかと言えばガープは中央突破型の、アン曰く、脳筋類に振り分けられている。

 だが講ずるのが嫌いではないのだ。準備期間が面倒なだけで、いざ実行するその時の高揚は好物だ。

 「中将、これはどちらへ」

 「家に運びこんどいてくれ。わしもすぐ行く」

 船から様々な物が、主に料理機材が海兵たちによって村へ運ばれてゆく。

 

 村ではガープの帰還に村を挙げて宴会の準備が始まっていた。どれだけお祭り好きなのかと思うくらい、村人たちは何でも宴にしてしまう。この村の風土や村人たちの気性も関係してはいるが、大海賊時代の幕開けと共に、陸だけの恐怖に加え海からの恐怖に輪をかけた、これが一番の理由だろう。貴族諸侯、王族が済む町には軍隊があるが、小さな村々には駐在所すらない。ガープが時折寄港するとは言っても、いつ襲われるか分からない環境にある。ならば皆楽しめる時にぱーっと騒ごう。日々の不安も宴の時だけは感じなくても済む。

 ある意味刹那的な喜びを急いでいるようにも感じられる。

 だがそれもまた、仕方の無い話だった。世界はいつまで経っても落ちつかない。状況はガープが海兵となった若かりし頃より、悪化傾向にある。それは熟れすぎた果物に似ていた。甘い香りはする。だがその実、中身は腐りかけている。丈夫な皮に守られているが、裂けたが最後、どうなるかは想像に容易い。

 

 「そういえば初めてじゃったな」

 不意にエースは抱きあげられる。いつもの強引さが無く、自然に体が持ち上げられたショックもあって一瞬だが身が固まった。

 「大きくなりおって。たらふく誕生日ケーキ食わせてやるから待ってろ」

 そう言われて大人しく出来る訳もない。避けたかった未来が確定した瞬間でもあったのだ。身を捻って地に足をつく。

 そして久しぶりに会う村の人達に揉みくちゃにされているルフィに構わず、エースは駆け出した。気が付けば追って来るだろう。

 それに。

 エースは思う。今だけでもぽっかりと空いた心の隙間を感じずにいられるなら、村に置いておいたほうがいい。

 だから気がつかなかった。

 そっとガープの後方に控えていた海兵の姿が消えていた事に。

 

 エースは森を走る。いつも通る獣道とは違った路だ。まさかありはしないだろう。そう思ってはいたが、追手がつけられているかもしれない。だから一応の安全策を取り、遠回りしつつ目的地へと向かう。

 途中で丸々とした鳥を捕まえ、道すがらきのこをいくつかひっこ抜いた。材料さえあれば、アンが煮るなり焼くなりして美味しいものに仕上げてくれるからだ。

 ログハウスについた時には両手が塞がるまでに量が増えていた。

 不器用なりに編んだかごに食材を入れ、エースはログハウスに登る。

 アンは眠っていた。本を読んでいるうちに寝落ちたのだろう。

 時計の針が秒を刻む音がやけに大きく聞こえてくる。サボの姿が無いだけで、こんなにも狭いとすら感じていた部屋が広々とするものかと、エースはその場で座った。

 書きかけのメモがしおり代わりに挟まれ、細かな文字で似通った記述がされた本の題名があった。

 

 "読み書きくらいは出来るようにならなくちゃな"

 

 ダダンの所では鉛筆すら持ったことが無かった。アンが出来るならば別に必要ないだろうと見向きもしなかった識字だ。サボは両親に出来が悪いと言われ続けていたと言っていたが、エースにしてみれば十分すぎるくらいだった。そもそも教えるのが苦手だと言っていたアンが途中で匙を投げても、サボは根気強くエースに教え続けた。その結果、世界で使われている共通言語のみではあるが、読み書きできるまでに至らせた。

 

 サボって先生に向いてると思うな。エースにここまでさせたんだもん。凄いと言わざるを得ない。

 それはおれが馬鹿だって言いたいんだな。

 ううん、エースの事はなーんにも。サボが凄いって言ってるだけよ?

 

 そんな会話をしていたのがつい昨日の事のように思い出す。

 「どれだけ考えないようにしてても、ふと思い出すものよ」

 いつの間にか目を覚ましていたアンが、くあーっと背伸びする。まだ眠そうにうとうとしていたが、エースが持ちかえった材料をみて早速料理の準備に取り掛かろうとしている。

 「で、おじいちゃんの用件ってなんだったの?」

 直球だった。

 

 ツリーハウスから少し離れた場所で鳥を捌き、4人で作ったかまどできのこと鳥をことこと煮込みながら、入港時の様子をアンは聞いていた。

 誕生日ケーキを義祖父が作ってくれるという話を聞き、心の底から嬉しそうな顔をする半身に、エースはため息をつく。

 「お前覚えて無いのか?」

 「…えと、何を…かな?」

 本気で覚えていない様子を見せるアンへ今度こそ盛大なため息を放つ。

 

 あのなぁ。

 おれでも覚えてたくらいなんだぞ。なんで忘れちまうかなぁ。

 本心がさっくりとアンを刺す。

 「だって本当に覚えてないんだもん」

 エースは胡坐を書いた肢に肘を突き要約する。

 まだ幼かった頃、ルフィが2歳を迎える前後にガープが同僚を連れ帰郷してきたを話を出すと、何となく思い出してきたのか、そう言えばそんな事もあったと口にした。

 「でさ、ジジイがこの子らを海兵にするつもりだってもう一人の奴に言ってたろ。それだったら今からでも預かってやろうかってそいつがジジイに言ってさ」

 「あ…」

 椀にスープを入れていた手が止まった。すっかり忘れていたという顔だ。

 「だって海軍って、普通12歳からでしょ。入隊できるのって」

 海軍の支部が人員を募集する張り紙を町に配布した際、記されていた募集要項に年齢制限が12歳以上の健全な若者、とあった。

 だから、11歳の誕生日までに大きなケーキをおじいちゃんが作ってくれて、一緒にお祝い出来たら3年間だけついてゆく、と言ったような気がした。額に手をあて、忘れていたかったと、複雑な心境を胸中に渦巻かせる。

 

 「で、どうすんだ」

 このまま海軍にはいっちまうのかよ、とエースの目が語る。

 前例が無いからと言って、諦めるようなガープでは無いのだ。年齢制限があるなら、今回を特例として認めさせればいい。海軍では英雄とふたつ名がつく万年中将でもある。その孫が入隊するのだから、多少の決まりごとはねじ伏せられる、否ねじ切るだろう。そしてそれでも通らぬならば、今まで培ってきた全てをつぎ込み、跡型も無く壊滅させるに違いない。

 

 「どうって…」

 アンは自分がまだまだ弱い存在であると知っていた。違う。火事の日に思い知らされてしまったのだ。

 友達を、兄弟を助けに行ったはずが、助けられ、支えられている。

 この島には自然が溢れ、人が近づかない危険地域も多い。鍛練してゆけばそれなりに強くなれるだろう。海に出ても1年や2年、新人(ルーキー)から脱却し始めた猛者達に勝るとも劣らない力を付けることも可能だ。

 しかし。世界は広い。

 この世界の海は5つ。赤い土の大陸(レッドライン)の向こう側にある新世界は、東西南北というそれぞれの海で揉まれのし上がってきた一団が"偉大なる航海(グランドライン)"という更なる洗礼を受け、試練と言うには厳し過ぎるふるい分けを乗りきった末に足を踏み込む事を許された果て近き海だ。

 父であるロジャーが、何かを次の世代へ伝えるためにあえて"ひとつなぎの大秘宝"(ワンピース)を置いて来たと明言した場所でもある。

 エースは瞬く間に、最後の海に辿り着くだろう。Dという名が導くからだ。

 その時自分は果してエースの隣に立っていられるだろうか。

 背を任せて貰える力量を果たして手にしているのだろうか。

 

 女海賊として名を馳せている人物も確かに居る。

 しかし腕力ひとつとっても男に比べ、どうあがいても女は劣るのだ。幼いころなら違いも些細だが、成長期を迎える頃には格差が生まれるだろう。例え今、たがいが互角であろうとも、頂きを迎えた後は加速度的に下へと向かってしまう。

 弱さを認め、力量に合わないから背中を守り合う相手を誰か探せと言ったとしても。

 エースはそれでも、きっと共に行こうと手を差し出してくる。

 義祖父が自分達を海兵にしたい理由も分かっていた。

 ゴール・D・ロジャーの血を引いた鬼子だと知れたとしても、父親とは真逆の路を歩く、正義の言葉を背負った存在であれば、殺さずの理由となるからだ。なんだかんだと無理無茶無謀を素で行う義祖父ではあるが、家族、とりわけ孫には甘い。

 だから迷う。

 「ねえ、エース…」

 名を呼ばれ、ぶっきらぼうに声を返す。アンは静かにほほ笑んでいた。

 「聞いてやる。話してみろよ」

 お代わりの器を差し出しながら、エースは先を促した。

 

 

 

 夜。

 円を描いた満月に負けじと、焚かれた積木が赤々と炎を上げていた。

 町の広場には幾つものテーブルが置かれ、人々が持ち寄った食べ物や酒が並んでいる。

 その中でひときわ大きなテーブルには、11段重ねの巨大ケーキが鎮座していた。少々形は歪んでいるが、しっかりと夜空にそびえ立っている。

 「んだこれは…」

 手を繋いで山を下りたふたりに、クラッカーの祝福が待っていた。

 山で自活しているというルフィの兄と姉に、会った事も話した事も無い村の人々が、おめでとう、と声をかけてくる。

 「どうじゃ、アン、エース!! ワシのケーキは!!!」

 可愛いウサギ柄のエプロンを付けたガープが、仁王立ちでふたりを待ち構えていた。

 心配する事はありませんよ。

 ひげにホイップをつけた上司に、その人物が行った報告はほほえましい内容だった。

 例え利用される、としてもだ。自身の境遇を悲観する事無く、未来と向き合っている。

 もう少し頼って欲しいと思わなくもないのだが、それをダダンが聞けば、世話してるのはわたしらだ!と鬼の形相をして叫ぶだろう。

 それで良い。とも思うのだ。

 安易に底辺まで転げ落ちる事は無い。

 

 「凄い!」

 アンは感謝を義祖父に伝え、抱きつく。

 後ほど知った事だが、ケーキ作りを会得するまで5年かかったと教えてくれた人物がいた。そう、ボガードだ。孫との約束を守るため、初年、次年共にスポンジ地獄を味わったという。3年目からは言わずもがな、だ。

 主役のふたりが到着し、宴も盛り上がる。

 音楽が奏でられ、歌を唄い、酒が入った樽が割られていた。

 「これすっげェ美味かった!!」

 こっそりと盗み食いしたのだろう。ルフィがケーキタワーを指さす。

 「ケーキは最後だよ! さあさ、お腹いっぱいお食べ!!」

 村の女性が頬を膨らませるルフィの頭をポンポンと撫でている。

 ガープの帰還を祝っての宴が、いつの間にか村を挙げての誕生日パーティへと変貌している状況に、エースはがっくりと肩を落としていた。

 

 こいつら調子良すぎじゃねェか…

 

 都合良すぎだろう。そう思わなくもない。だが当のアンが楽しそうにしている。

 サボの消息が分からなくなってから、考え込む事が多くなっていたのだ。

 生き別れてしまったのは、誰のせいでも無い。もし責任の所在を決めねばならない場合でも、アンには無いのだ。サボは自分の身の振り方を自分で決め、そして実行に移した。エースとしても諦めた訳ではない。見つかるまでずっとサボを探し続けるだろう。

 

 海兵たちも混ざり、いつもより、随分と騒がしくも愉快な会場だった。

 肉や魚、野菜を次々と皿に盛ってくれる村人に感謝しつつ、賑やかしい中心部分からアンはそっと抜け出ていた。動きの先を読んでいたかのように、エースがそこに待っている。

 「アン…」

 テーブルの上に皿を置き、瞳を見る。

 「うん、もう決めたことだよ。後悔したくない。わたしはエースと海へ出る。その為の力を得に行く。だから少しの間だけ、頑張って来てもいいでしょう?」

 答えは言葉では無かった。

 強く抱きしめられた体が痛む。けれど押し返したりは出来なかった。

 母の胎内で留まっていた時からずっと一緒だったのだ。そうやすやすと、割りきれる感情でもない。

 緩んだ腕がだらりと下がる。肩に額が乗った。

 今度はアンが、エースを抱きしめる。ほんの少し、身長差が出てきていた。

 いつまで一緒に居られるだろう。その問いに応えてくれる声は無い。

 だからアンはもうひとりの自分にそっと囁いた。

 すればエースが慌てて顔を上げ、アンを見る。

 

 「約束。わたしは必ず戻って来る。だからそれまで、わたし達の弟を、よろしくね」

 

 エースは頷いた。

 そして心をもう一度強く結びつける。

 離れ離れになっても、ずっと一緒だと。

 



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11-ハジマリ

 風音が空を切る。一筋の光が、軌跡を残して円を描いた。間一髪で避けた刃筋はすぐに目の前に迫っては通りすぎてゆく。何とか回避し続けるものの、いつ切っ先が追い付いてくるか、わからない。冷たい汗が背を伝った。しかしアンが浮かべる表情は笑みであり、周囲から見れば切迫した状況下にも拘らず、どこか涼しい顔をしているように見えた。

 その実内心はばくばくと心臓が鼓動を速めており、余裕などありはしなかった。

 これが"偉大なる航海(グランドライン)"の、将校と呼ばれる人達の力なのだ。と示威されているかのようだ。世界には猛者が、至る所に在る。改めて思い知らされる。

 

 「っ、」

 アンは前方に受け身を取り、刃筋をかわした。体を丸め剣士の後方に回り込むと振り向きざまに足を振る。

 (無理、届かない)

 アンがそう幅を読んだ通り、リーチの差を見て取った剣士が間合いを開ける。そして次の瞬間には肉薄してきた。その切っ先は紛れも無く、首筋に流れる動脈を的としている。アンとしてもここで切り破られる訳にはいかない。後方に身を引く。が、それは剣士にとってあらかじめ予想されていた動きだった。平らに構えていた剣をそのまま薙ぐ。

 (…左右に避けるしか)

 ない。

 しかし剣士の思惑に乗り気でない無いアンは、そのまま下半身をわざと滑らせ、体を斜めに滑らせる。視線は剣士を見たままだ。そしてちらりと右へと動かす。

 剣士はそれをフェイントとした。薙いだ剣先を下方に向ける為、遠心力を借りそのまま振り下ろす。

 その数秒間を使わぬ理由など無い。相手のくるぶしへと思いっきり蹴りを叩きいれたのだ。

 剣士は前方に吹き飛ぶ。

 剣は空を数回くるくると舞い、甲板へと突き刺さった。

 だが剣士も伊達に何度も死線を潜り抜けて来てはいない。置かれたままになっていたロープを手に取り、たゆみを取りながらアンへ向かい放った。簡易の鞭であり、視野を狭める障害物にもなる。

 アンも立ち位置を把握し、視線の中に入ってくる異物を振り払う。だがその間に剣士は立ち上がり身を低く駆け出していた。

 

 動きがどの野生動物とも違っていた。尋常では無く早い。確実に急所だけを狙ってくる。鋭い刃が何度肌に迫ってきたか数える暇も無かった。

 義祖父は木刀での訓練を許さなかった。既に海に出ているのだ。海賊船に遭遇する可能性も高い。ならば実戦に近い訓練をした方がよいだろうと、真剣を使っての模擬となっていた。

 状況は見ての通り、アンに分が悪い。

 

 (けれど…)

 アンは参った、とは言うつもりが無かった。

 何のために兄弟達から離れて、ひとり船に乗ったのか分からない。こんな所で躓いている訳にはいかないのだ。

 半身の構えを取る。体は自然体のまま相手を見据えた。そして格闘戦が開始される。

 

 「なかなかのものですね」

 「…わしの孫じゃからな」

 

 広い甲板を見渡せる特等席で、ガープは孫娘を見ていた。さすがに山で育っただけの事はあり、先を読ませない動きに柔軟性を感じさせる。何かの流派を手本としているのか、それとも自然と手に入れたのか、変化に富んだ手数には技を見ることが出来た。

 先だっての休日に教えた六式の基礎もしっかりと守っている。そこからどう昇華させていくか、が楽しみだった。

 

 これはもしかすれば…もしかするのう。

 あやつも無理に連れてくるべきじゃったか。

 

 11歳になったばかりの少女は乗り込んだ初日から、下士官達の訓練に紛れ込んだ。

 雑用をこなす下士官達の中に潜り込み、洗い方を教わりながら要領よく、いつももより早く終わらせてしまったという。その後は下士官達が行う体力づくりだ。地味な訓練は誰もが嫌がる。しかし今日は1時間も早い開始だったと聞いていた。その後の終了も時間がおし、上官がわざわざ終わりを宣言したくらいだ。それなのに誰もがもう少し続けてもいいという言が飛び出、なぜか疲れ顔をした者達はひとりもいなかったという。

 ガープは書類仕事を終え、副官からの報告を受けた際、方眉を上げた。

 禁じはしなかったが、初日でそこまで潜り込むとは思っていなかったのだ。それと同時に、孫娘なら少しもおかしくは無い、とも考えた。これがもうひとりであれば、馴染むというより反発を繰り返し、剣呑な空気が生まれていたに違いない。

 そして夕食の鐘が鳴る頃、ガープはその様子を覗きに食堂へと足を向けた。

 既に孫娘は海軍への入隊が決まっている。迎えに来る前に先だって、総務へその書類を提出してきた。だが正式に、海軍本部の海兵になるには、本人が本部で朱印を押さねばならない。それに幾人かの同期から、是非会わせてくれとの面会希望まである。

 ガープ中将のお孫さん。

 『中将』という役職は少なからず、家族にも影響を及ぼす。

 親の権力を笠に、傍若無人に振る舞う輩も決して少なくはないからだ。

 これは心配、はない。懸念だろうか。

 人の中にあってこそその本質が現れ始めている。島では見られなかった、かつての好敵手そのままの雰囲気を感じ取ったのだ。誰もが惹かれて止まない、その豪胆さと懐の広さ。出会う場所が違っていたならば、友になっていただろう。

 

 それに加え、この船に乗った後、船長室で真正面切りにっこりと、孫娘からダメダシをを喰らわされた身としては少々、気になっていたのだ。環境としては余り良い場所で育ったとは言い難い。ダダンは山賊身を貶めてしまったが実の所、情に厚く気立てが良いのだ。生まれながらにして逆境の中にあったふたりには、とにかく親とは同じ方向に向いて欲しくは無かった。だからこそ最も安全で世界政府の目にも触れにくいゴアで、環境を反面教師として理不尽な物事に対し、毅然とした態度を取れるよう導いたつもりだった。

 

 双子の父と赤毛の女性、ルージュは子供たちの成長を見ることなく先立った。

 それは双子の、特にエースの心には暗い影を落としている。父の名を知り、父の名を罵倒され、暴力を振るったのだ。誰しも親が、顔を知らなかったとしても、だ。貶められていたなら、表現できない怒りが湧いても仕方が無いだろう。

 だがそれが世界だ。

 だがそれが父親であるロジャーが成した事実だ。

 しかしその行為を子が、引き継がねばならない訳もない。

 

 島に戻り成長を確かめる度、アンはエースと違って最初から落ちついた気性をしていた。物事を客観的に捉え、自分自身と切り離して判断する。逸材だった。

 とはいえその身をすぐに海軍本部があるマリンフォードに連れて行く訳には行かなかったのだ。ロジャーが最後に発言した内容に関し、世界政府が過剰反応を起こしたためだ。海軍を使い、徹底的にロジャーの痕跡を探らせ、洗いざらい暴露させていた最中だった。

 (よもやアンがエースより内に秘めた怒気が強いとは思わなんだな)

 逆鱗に触れなければどうというものではない。

 だが一度でもそれに触ればどうなるか。子は親の背を見て育つと言うが、全く以てよく似ている。

 しかしその怒りは、孫娘の禁忌、に触れてしまった時、だけだ。

 平常の孫娘は聞きわけが良く、まじめで朗らかな子供だった。元々の人懐っこさも幸いして、ほんの数日で新しい環境にも馴染むだろう。そう予想していた。この船にあるのはなにも好意だけではない。無関心も含まれていた。

 中将の孫である、と意識しない代わりに、アンに対してもなにも無い。ただの人であり、そこら辺に転がっている小石と変わらない。そんな者もこの船に乗っている。

 しかし孫娘はそんな人物達の中にさえ飛び込みそして溶け込んだ。凄まじい適応能力と言わざるを得ないだろう。そしていつの間にか、アンの周りには人が自然に集まるようになっていた。

 

 「アン、六式を使ってみい…!!」

 周囲からざわめきが起こった。後方に立つ副官、ボガードも片眉を上げる。

 

 聞こえてくる言葉を正確に把握したアンは、ちらりと祖父が立つ方向へ意識を向けた。

 心臓が悲鳴を上げている。命をかけた戦いでは無かった。ただの手合わせに過ぎない。だがこうした緊迫した空気の中に居続けていると、否応にも感覚が研がれてゆく嫌な感じがした。本物の刀を使っているとはいえ、本当の命のやり取りではないのに、だ。

 森では食うか食われるか、だった。己の命を狙う存在に対し、容赦などありはしない。

 心を通して声が聞こえる。

 うん、そうだね。

 アンはそこから自分の中ですとん、と落としこめる答えを見つけた。

 殺生が無いからだ。演習として、ただ力を揮っている。

 殺意が無いだけでこれほどまでに違うのかと、思わず笑みを浮かべてしまった。

 ずっと違和感があったのだ。自分達は明日を生きるために毎日命をひとつづつ狩っていた。そこには死、が必ずあった。

 ここで口にする食事は誰かが、獲ってくれた物、だ。感謝は忘れてはいなかったが、それでも意識としては軽くなってしまう。

 人はなにかの命を踏み台にして、毎日を生きている。それなのに、ここには、曖昧さだけがあった。訓練、という枠組みの中に甘えてしまっているのだ。

 アンは身構えるのを止めた。一所懸命になる必要などなかったのだ。

 自分の目指す場所をそっと思い浮かべる。

 

 剣士も最初の考えを訂正せざるを得ない状況となっていた。ガープの孫とはいえ、まだ11歳になったばかりの少女が相手だ。すぐに音を上げるだろうと思っていた。中将が如何に常識から外れているからといって、その孫までが普通では無い、などと思わないだろう。斬るつもりなど無く、もし刃を振りかぶったとしても寸止めすれば良いだけの話と軽く考えていたのだ。

 しかし中将は言った。六式を使ってみろ、と。

 その小さな体で、体を苛めぬくと言う言葉すら生ぬるい、鍛錬を積んだ所で使い手になれるかどうかすら分からない体技を、使いこなす事が出来るのか。

 

 カチャリとつばが鳴る。

 

 動いたのはアンだった。剣士の眼前から一瞬で姿を消す。剃だ。後方に現れた姿を捉え、剣士は取り押さえようと手を伸ばす。しかし掴んだのは残影だった。既に姿は横手に回り込み手のひらを脇腹に添えられている。後方へ剣士は飛び退くが懐に飛び込んできた小さな体が、みぞおちに拳を突き上げる方が若干速かった。

 体重の割には重い一撃が腹部にめり込む。鉄塊を拳に纏わせつきあげたものだと気付いた時には、仰向けで人垣の中に沈んでいた。

 「ご指南ありがとうございました」

 ぺこりと一礼したアンはにこりと笑みを浮かべる。周囲によってその身を起こした剣士は、大事ない、と手を貸した若い海兵達へと告げる。

 手加減されていた、と剣士は歯がみする。

 中将が六式を使えと言った後、少女の変化に気付かなかったのが敗因だった。もしこれが戦場であれば、例外に漏れず、この世から去っていただろう。肋骨もひびは入っているだろうが、折れてはいないようだ。

 

 「御苦労じゃったの、ゆっくり休め」

 ガープは倒れた剣士を労い、その他の海兵達へ訓練へ戻ろうよう言い渡すと孫娘を呼ぶ。

 仲が良くなった海兵達にもみくちゃにされていたアンが義祖父の声に応えた。そして輪の中から抜け出、揺れるコートの後へ続く。その際にひらひらと揺れる手のひらを向けられた剣士は完敗だと肩をすくめた。

 

 向かったのはガープの部屋だ。着くや否や、アンはベッドへ放り投げられる。

 「寝ておれ」

 義祖父はそう言って、踵を返し出て行った。

 「おじいちゃん?」

 アンは首を傾げ、そして数秒の後にくすくすと笑った。

 義祖父なりの気遣いだったのだ。

 靴を脱ぎ、ベッドへとうつぶせに寝転がる。

 

 

 出航時。

 ルフィが泣いていた。

 

 誕生日ケーキは宴に参加した皆で美味しく食べ終わり、それぞれが家路についた頃、アンは約束を果たしてくれた義祖父の手を取り、海軍への入隊意思を告げる。

 破顔するガープの笑顔には安堵が刻まれていた。やはりこの身に流れる血を憂いていたのだろう。

 その後は久しぶりの家族団欒だった。

 エースは絶えずむすっとしていたが、お風呂も大きな掌でごしごしと洗われ、温かな湯船の中で水を掛け合う。そして久しぶりに家族4人で大きなベットに横になった。

 枕を取り合い、布団を奪い合い、最終的には祖父の大きな体の上が3人の定位置だ。3人の体重が乗っても豪快な寝息を立てる祖父は健在だ。

 ルフィは兄弟を得るまで、ここでひとり暮らしてきた。村長を始めマキノや村人達が世話をしてきたと言うが、広い部屋の中、ぽつんと居るのは寂しかっただろう。アンに手を引かれていたとはいえ、弟は始め、この家へ入るのを嫌がったのだ。

 大丈夫。姉はそう言い聞かせ、弟を抱きしめた。

 ひとりになるのは、嫌だ。

 不安げな弟の表情に、アンはその頬を伸ばす。

 「大丈夫。わたしも、エースも、サボも…居る。ひとりじゃない」

 エースはアンの言葉を、すぐ側でじっと、聞いていた。

 

 朝食はマキノの店で済まし、港へと向かった。宝払いはいつのも事だ。マキノも笑顔で紙を受け取っていた。

 港へ続く一本道では、誰もが無言だった。兄弟でアンの手を握り締める。

 行って欲しくは無い。

 唇をかみしめたふたりの口元が、言葉を飲み込む。

 船は既に出航準備を終え、帆を下げる時を静かに待っていた。

 

 「アンが、アンが行っちゃう、エーズゥゥゥ」

 「泣くな!おれが一緒に居てやる。アンは必ず帰って来る、だから泣くな!男だろ!!」

 

 手のひらがただ離れただけなのに、こみ上げてくる寂しさに涙が浮かぶ。

 ルフィは自分の心に正直だ。双子にとって、ルフィは泉であり太陽だった。ふたりが上手く表現出来ないものを、代わりにしてくれる。

 

 「アンお前もだ! 泣くな!」

 行くって決めたのはおまえだろ。

 エースは額を突き合わせ、弟に言い聞かせていた視線をアンに投げ、指さす。

 杯を交わすと、兄弟になれるんだ。

 どんな事があっても、例え離れ離れになっても、この絆は切れる事は、ない。

 ずっと、繋ぐ。

 

 ただそれだけの事が、どれほど心強いか。旅立つ瀬戸際に立ち、改めて分かる。

 だからサボは足を踏み出せたのだ。

 

 「うん!行って気ます!!」

 ほんの少し、離れるだけだ。心は絆は繋がれたまま、体だけがすぐに触れ合える距離では無くなる。

 それにアンには瞬間移動という心強い力があった。空間を繋げばいつだって、抱きしめ合う事が出来る。

 だから、孤独ではない。

 

 

 …そして邂逅の夢は終わる。瞼がゆっくりと開けば、窓からは青が見えた。ゆっくりと体を起こす。

 横に寝ているはずのエースとルフィの姿が見えないことに、はて、と首を傾げた。そして慣れない揺れに、船に乗っているのだと思い出す。

 義祖父が寝ていろ、と気をかけてくれたのだ。

 

 ちゃんとご飯食べてるかなぁ。

 ちゃんと傷の手当ては出来てるかなぁ。

 喧嘩して無いかなぁ。

 ダダンおばさん達にちゃんと説明してくれてるかなぁ。

 

 想いの先は兄弟達に向かう。

 寝台から降りると、机が目につく。山と積まれた書類を見ると、この船に関する資材関係の帳簿から訓練度合いを示した各部署からの報告書など、てんでばらばらになって置かれていた。

 頑丈な机に腰をおろし、何気にまとめてみる。

 こういう分配は、卒論を書く先輩達の資料をまとめる手伝いをしたこともありお手の物だ。

 クリップを引きだしから見つけると、とめてゆく。

 「ほとんどの書類、おじいちゃんがサインしたら済むようにはなってるけど…」

 アンは最近、世界へと目を向ける事が多くなっていた。以前の暮らしと比べている訳ではないが、全てがちぐはぐなのだ。技術レベル的にあるべき物が無く、その技術が進歩する上で、必要な過程を踏んでいないのにも拘らず、どうしてこれが存在しているのかと訝しめる機械があった。

 ぺろり、と剥がしたこの付箋もそうだ。

 糊、単体だけならわりと簡単に作る事が出来る。だが紙と紙の間に、粘着剤をつけ、形を整え束にまとめられている、というこの部分が難しいのだ。元々からあれば、あっても別段おかしくは無い品だ。しかしこれが出始めた時、誰もが便利な道具が出来た、と思っただろう。

 それを使い、不備がある個所を示してゆく。

 

 

 「起きたか」

 ふと視線を上げると湯気立つコップを持って、義祖父が入って来た。その正体は久しぶりに嗅ぐコーヒーの香りだ。町や村では一般的な飲み物だが、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)やダダンの家ではそうそうお目にかかれる嗜好品では無かった。前者では匂いの問題もあり、後者ではコーヒーより酒が選ばれていた、

 「ほう。分かるのか」

 ミルクを多めに入れてきた方の取っ手を、アンへと向ける。それに礼を伝え、口につけた。ほろ苦く、そしてほんの少し甘い。

 「まとめただけ。おじいちゃんのサインが必要なの多いもん」

 アンは大きすぎた椅子から立ち上がり、机の横に立った。替わりにどかりと椅子に寄りかかったのは義祖父だ。そして仕分けられた書類を手にする。

 「ここのページ、多分数量の記載が間違ってる。ずれてきてるから、チェックして貰ってみて」

 バラバラ過ぎて見る気も失せていた雑多な書類仕事が、すっかり、殆どと言ってよいほど片付いていた。

 どこで手習いした、とは聞かない。

 フーシャ村にある、ほぼ在るだけの家には手作りの本棚が幾つも据えられ、様々なジャンルの書籍が所狭しと並んでいるのを見ていたからだ。帰郷の際にも幾つか持ちかえっていたものの、蔵書となっていた量は、ガープが想像していた以上に増えていた。

 村長から本を借り、全て読みつくすと次は町の古本屋を梯子していたらしい。余りにも買った本が大漁で持ち運べない時は、村長宅に輸送ペリカンが何十羽も群れになって押し寄せて来たのも一度や二度では無いと聞いている。

 

 こりゃわしの船で預かった方がいいかもしれん。

 海軍学校卒では無い場合、配属は基本、その人物を迎え入れた艦が受け持つ。支部で有能そうな人物がいれば、振り分けられた四方の艦で引き取る事もままある。

 しかしアンの場合はガープの他、配属を希望している人物がいた。

  

 「ところでおじいちゃん、行き先変わったの?」

 「急にどうしたんじゃ」

 いや、だって。なんとなく?孫娘にも明確な理由が分かっていないようで、難しい顔をして考え込んでいる。

 

 ガープは肘をつき、孫娘を見る。

 確かに、つい先ほど進路の変更を指示してきた所、だ。本部より行き先変更の通達が来、舵を切ったばかりだ。

 船は数十分前、東の海から凪地帯へと入り、風の力を蓄え自動航行を可能とした動力へも切り替わっている。

 本部の科学者が数名、年年にもわたり繰り返してきた思考錯誤の試作品第一号だ。

 しかし寝入っていた孫娘が、この部屋の外から漏れ聞こえる声から情報を得たとは考えにくい。

 

 "偉大なる航路(グランドライン)"はコンパスが全く役に立たない海域でもある。この事実を知らずに航路に入る輩は後を絶たないのは、の情報を知っている者達が少ない、という現状があった。

 別段海軍がその情報を伏せている訳ではない。

 それぞれの海に住む多くの人々が、偉大なる航路(グランドライン)に入る為の情報を必要としてない、のがひとつの原因と言えるだろう。

 それに昨今、偉大なる航路(グランドライン)へ入ってくるのは海賊達ばかりになっている。

 知られていない事、がある意味振るい分けになっているようだった。

 なにも知らない彼らが幸運にも航路に入れたとしよう。しかし流れる海流も、風の流れすら一定の方向を保ってはいない海だ。コンパスだけでは対処が出来ず、途方にくれるだろう。そして同じ場所をくるくると回り続け、新たな島に上陸することなく果ては無人船となり浮かび続ける。故に、海賊達からは"偉大なる航路(グランドライン)"は海賊の墓場とも呼ばれていた。

 唯一この航路で舵を取る方法は、各島々を繋ぐ指針を辿る他ない。

 その道具を『記録指針(ログボース)』という。しかしこの指針では、島に到着する度次々と行き先が書きかえられてしまう為、ひとつ前の島に戻ろうとしても出来なかった。

 永久的に磁場を記録する『永久指針(エターナルポース)』だけが唯一固定した道標といえるだろう。

 

 「本部に直行するはずじゃったが、途中W7へ寄る」

 ふうん。

 アンは気の無い振りを装うが、内心は心臓がバクバクと鼓動を打っていた。夢を過信しない、与えられた情報を鵜呑みにするものか。そう思い決めたが、今までその夢に何度も助けられて来ている。

 昨日見た夢は最初から現実味を帯びていた。しかも以前お世話になった面々が首を揃えて捕らわれていたのだ。

 久しぶりの予知夢、そして先ほどの邂逅夢、なにか、の合図と思っても良いだろう。

 

 そしてアンは考える。シャンクスを助けられた時と、大火事の時と何が違うか、を。

 それは圧倒的な量だ。

 大火事はひとりで何とか出来るレベルを、越えてしまっていた。全てを救えるなど、思い上がりも甚だしい。けれど自分はそれをしようとしていたのだ。

 もしも、の話になるが、向かう先をエースだけとし、友達ともあそこで別れ向かっていたならどうなっていただろう。そこでサボの話を聞いていたならば。

 熱に浮かれていたとはいえ出来るならば全員を。手が届かないならば知っている者達だけでも。

 とは甘い考えだった。

 知っている者達ですら、手が足りなかったのだから。それにより、大切な兄弟をひとり失っている。

 だから自分の力量をまだまだ足りない、と認めた。精一杯背伸び出来る範囲も把握する。

 これからは基本的な力量を底上げし、何とか出来るレベルをより広くしてゆくことだ。

 

 定められた方向を変えるには幾つかの方法がある。真正面から力ずくで行おうとすると押し寄せる何十倍もの重さに耐え、いなさなくてはならない。けれど物事とは、人と人がさまざまに何かを積みあげた結果ともいえる。ならば組み上げる最中に細工をしこめばどうだろう。ほんの少し根元を揺り動かすだけで先は広がる。ただし、長年にわたる仕込みが必要なため、即席で行うのは難し過ぎた。

 

 ならば暗躍はどうだろう。

 上手く手を後ろか回して、物事を上手に片づけていた友人が脳裏によぎる。

 手際がいいというか、謀略家の域に入っていたような気もするけれど。

 

 アンは向こうで生活していた時も、余りそう言うモノには関わっていなかった。というよりか、関わらないようにしていたという方が正解だ。教授達が勢ぞろいする手前、どうしても、という場合を除きお断りしていたのだ。どんな関係でもさらりと流してしまう。飄々とした人だとも噂されていたのも知っている。

 

 出来るの?自分に問う。

 違うでしょう?

 問い掛けてきた自分に笑む。

 出来ないと決めつけない。やってみないと分からない。動かないと始まらない。

 諦めの悪さには自信があった。諦める事を、諦めたくらいなのだから。

 船の航路はぶれず、水の都へと至るだろう。

 「トムさん達元気かなぁ」

 小さなつぶやきは楽しげな響きを含み、風に乗った。

 



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12-W7

 沈みゆく町、ウォーターセブン。

 ここは昔から造船業が盛んな島としても有名だった。

 町にかつての賑わいを取り戻そうと、苦境であっても木槌やかんなの音を絶やすまいとする職人たちの手によって、少しづつではあるが復興の兆しが見え始めているという。

 

 水の都にはもうひとつ有名な物があった。

 それは海列車だ。波間に揺れる線路を走り、近隣の島、3つを結ぶ。それともうひとつ、特別路線があるが一般民衆が使う事はほぼ無いだろう。なぜならば司法の島へと続く路、だからだ。

 "海列車"を生みだした人物の名はトム、という。機関車の名は制作者からとられ"パッフィング・トム"と名付けられていた。

 4本の線路を全て完成させた造船技師は、14年前に下された執行猶予後の判決を待っている。

 

  司法船が到着するまで残り7日。

 

 アンはドックに入った船から降り町を歩く。

 宿はドックの近くに運よく取ることが出来た。その手腕たるやさすがボガード副長、と誰もが頷く。長年"ガープ中将"のサポートをし続けているだけはあった。高級宿ではないものの、どこへ行くにも便が良い中央街の一件を貸し切りる事が出来たのだ。海軍とはいえ久々に大勢の船乗り達を迎えた町は、ほんの少し活気づいているようにも思える。

 夕食までには戻ってくるように言い聞かされていた。

 アンが向かおうとしている先は、直線距離で考えればさほどではない。しかしこの町は年に一度ある、災害をやり過ごすために、特殊な町の形となっていた。打ち寄せる波を効率よく排水出来るよう、至る所に切り込みの如く水路が存在しているのだ。

 勝手知ったる場所とでも言わんばかりに、アンは細路に入り段差も気にせずふわりと体を空に踊らせる。

 遠くへは行かないように、耳にタコが出来るまで言われたが、一晩くらい不良した所で義祖父にとっては予想範囲内だろう。

 眼下に見えるのが裏町だ。月歩を使い、大地を走るかのように舞う。表には1から4までのドックが並び、裏手に回ると5から7までのドックがある。景色は変わっていない。

 

 この島に到着するまでの間、もう一度正式に六式を義祖父を始めとする習得済みの海兵達より習い直したのだ。

 とある夢を見てからは寝る時間も惜しかった。最低限まで削り、終了と言われた時点で意識を放り投げる。そして真夜中に目覚めれば、待ってましたと言わんばかりにエースが甲板へアンを誘導した。

 ただひとりであれば、もっと時間がかかっていただろう。

 持つべきものは遠くに離れていても意識を共有出来る双子の存在、と言うべきか。

 今までは言葉で会話していた。否、サボに出会ってから会話の必要性が身に染みた、という方が正しい。育て親であるダダン他、あの家の面々とは必要最小限の言葉以外、かわしていなかったのだ。特に獲物を外に狩りに出るようになってからは、朝と夜の数時間だけだった。不確かな物の終着駅(グレイターミナル)に行くようになり、サボや他の誰かと話す必要性が出てきた時、ふたりは顔を見合わせ大爆笑した。そうだ、会話は無言では出来ない。唇を動かし、声を発しなければ意思疎通が出来ないのだと、思い知った。

 ルフィからはふたりが無言になると、「おれも混ぜてくれ!」なんてよく言われていたくらいだ。例え本当に、ぼーっと青の空を眺めていたのだとしても、ふたりだけずるい、と頬を膨らませていた。

 「ひとりじゃなくて良かったよ、本当に」

 月光が降り注ぐ森の中の空き地で、エースは笑む。

 「折角持ってんだからな。使わなきゃ損だろ」

 確かにその通りだ。

 技の特性と効果をふたりでああだこうだと話しあいながら、技を見真似から自身のもの、へと落としこんでゆく。そして月歩は自分達の身で確かめ合いながら、高低差を気にすることなくどこからでも飛び降りれるまでに至っていた。路が無いのであれば、なにも無い所を道にしてしまえばいい。

 

 なにが一番幸運だったのか。わざわざ言葉にしなくとも分かる。

 エースと繋がっていられたこと、だろう。

 当初の予定では、ある一定の距離以上を離れてしまうと、以前の経験上から考えて、お互いの存在を感じられなくなると思っていた。だがしかし、箱を開けてみればどうという事は無い。今までとは違った環境に置かれたせいなのか、それともお互いが強く意識し合うようになっている為か、いつもの通り繋がる事が出来る。そして今回、離れて判った新事実もふたりを驚かせた。

 それは"感覚の共有"だ。

 例えばアンが火に手をかざしたとしよう。すれば当然ながら火傷する。その火傷する感覚、がエースに伝わるのだ。

 今までも何度か、アンが倒れた時エースがその熱を感じとったり、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)で怪我したエースの傷の痛みを感じたりなど、そう言えば、と思い返せば無かった事例では無い。が、ここまで強くは無かった。

 とはいえそのおかげもあって、容易く、は無かったものの、誰から見ても六式使いと呼ばれるに相応しくなっている。

 

 つい先日には覇気という力も持ち得ていると判明した。義祖父はより一層孫の教育…に余念が無くなっている。これに関してはふたり共に、両手を上げた。どうしようもないと覚悟を決めざるを得なかった、というほうが正しい。昔から義祖父がこうする、と決め決断をひっくり返せた試しがないのだ。

 (覇気って音の波が来るあれだろ)

 (そうそう。大きく分けると2種あるんだって。ひとつは相手を察知する力。そしてもうひとつは悪魔の実を食べた相手にも打撃を与えたり、守りの力に変化させるもの)

 伝わる先ではふうん、という思いが帰って来る。

 そして3つ目。

 大きくふたつと言った後で続く数字を言われ、いぶかしむ顔が浮かぶ。

 覇王色の覇気、というモノもあるらしいよ。

 アンが感じる向こう側では、眉に皺を寄せたエースが大きなため息をついていた。

 覇王色、というものがなんであるのか、気付いたのだ。一度目はアンが三度目の行方不明となった時。この時はシャンクスが発生源だった。二度目はあの火事の夜の出来ごとだ。

 あの焔の中で、エースは無自覚で使用していた。しかし説明を聞けば聞くほど、その力の内容がなぜかしっくりとしたのだ。

 

 意思の力らしい、と義祖父は言った。

 

 過去、海軍に所属し名を挙げた人物達の中で見聞色や武装色の使い手は存在していても、ほぼ覇王色を備えた人物は居なかった、という。

 それはそうだろう。

 義祖父が語るには、ロジャーの一味もこの力を使おうておった、とのことだ。義祖父自身は受けてもどうという事も無かったらしいが、船が運航できなくなるまで、海兵達がどたばたと倒れ、見事に逃走されたのだと、思い出を楽しそうに口にした。

 取得していた人物の名を聞けば、海軍という宮仕えの組織には向かない者達ばかりだ。

 

 死人に口無し。

 例え生きていたとしても、教えを請いに訪ねたところで、門前払いされるだろう。偶に夢で見る父は、そういう人物だ。

 ならばどうするべきか。

 知識や技術は持ち得る人物にとって、秘宝に等しい。そう簡単にやすやすと、教えて貰える訳が無かった。その道に入りたければ、師匠の元に弟子入りし、師匠の仕事を目で盗み、そして自分なりに技術を獲得していくのが本筋だ。

 そもそも海軍に入隊するからと、本部へ向かう行きの船で六式を学べるなど恵まれ過ぎている。

 実際義祖父が海軍本部中将であり、その孫だという身分証明があるからに他ならない。家族内の内情を知らぬ誰かの目から見ると、アンはお嬢様に他ならない。ぬくぬくとした環境からはなれ、わざわざ何しに来た、であろう。

 

 伝手、が無いわけ、ではなかった。

 その人物ならばきっと、教えてくれと頼めばすぐさま、了承の言が戻ってくる。だがその人物、が厄介なのだ。出来るだけその人物との接触は、義祖父には内緒にしなければならない。ばれればげんこつひとつでは足りないだろう。なにせ可愛い孫達を海賊などという『死地』へ向かわせるような、誘いをかけた人物なのだから。

 本当のところは義祖父の勘違い、に尽きる。ルフィがシャンクスの生き様に共感し、目指しているだけなのだ。

  (やめだ、考えてもきりがねェ)

 その夜、アンはエースと共に、出たとこ勝負だと意見をまとめ、月を眺めながら意識を沈ませた。

 

 

 

 瞼を開けば青が広がっている。

 ウォーターセブン、は古くから海と共に生きてきた町だ。

 風を感じながら眺める島そのものが町、と表現しても違(たが)わない。毎年決まった時期に町を襲う高波が無ければ、このような構造にはなっていなかっただろう。海に近づくほど末広がりになるその風変りな形は、毎年少しづつ変わってゆく。海流の流れの緩急が月ごとに変化するため、人々は絶えず海を見続けなければならなかった。高く高く、頂きは伸びてゆく。

 ドングリの形を思い描いて貰えば、大体の形は間違ってはいない。

 下部には流れ着いた廃材が山となり、積み重なって足場が形成されている。もしその下を覗く機会があるならば、眺めてみるとよいだろう。

 元々の陸地の殆どが海の中にあり、先人達の営みの跡が静かに残されている。

 そこから目を中ほどに移せば、船を釣り上げるためのアームや、木材を転がし運ぶベルトコンベア、そして幾つもの鉄縄をまとめた機材が据えられているのが見えるだろう。そう、このウォータセブンという町を形成する主要産業、造船地、だ。まさしく産業都市と言っても過言ではない機材の数々が並んでいる。この町に住む多くの人々は中ほどから上、を居住区としている。が、例外も多く、あった。

 以前よりは復興してはいるように見えるものの、まだまだ道半ば、といった感じがした。

 

 改築や増築で多少の変化はあったが、見慣れた街並みはそのままだ。

 懐かしい風景に知らず知らず口元に笑みが浮かぶ。

 途中の露店で水水肉の串焼きを1本買い、歩きながら食べていると後ろから声が掛かった。

 

 3人組の男達、だった。その形相は端町で見かけた彼ら、と瓜二つだ。素行が似れば、その容姿まで同一と化してしまうのだろうか。アンはそんな事を考えながら、首を傾げた。

 「見かけない顔だなァ。そのかばんの中身、俺らに見せてくれるか」

 「本しか入って無いよ」

 一応、中身を教えてみる。

 「見せろっていうのが聞こえなかったか?アァ?!」

 脅し文句も、場所は違えど同じようなものだ。吹き出したくなるのを何とか堪え、アンは囲んできた3人組みを見上げる。

 抵抗する気はさらさら無い。見せて収まるものならば、と鞄を差し出した。実際の中身も、本当に分厚い本だけだ。持っていた小銭も、串焼きで使いきってしまった。

 「んだよ、鳥類辞典?ほんとにこれだけかよ。つまらねぇなぁ」

 溜息は、金目のもの、を期待していたからだろう。男達は鞄ごと水路へ本を放り投げた。

 どぽん、と水音が立ち本が沈む。アンはその背を見送り、男たちが去ったのを確認してから水路へ入ろうとすると、果物を売る行商人が待てと制止した。手に持つさおで器用に、水路の底へ沈んでしまったびしょぬれの鞄をひっかけ手渡してくれる。

 「お嬢ちゃん、災難だったなぁ」

 「いえ、拾ってくれてありがとう。助かりました」

 行商人は首を横に振り、船を漕いでゆく。ぺこりと頭を下げ、アンは空を仰いだ。びしょぬれになった鞄を、肩に担ぐ。

 

 アンは不確かな物の終着駅(グレイターミナル)で、人が人に行う不徳の、思い付く限りの全てを見てきた。

 だから本を奪われ、本を水路に投げられたくらい、どうという事は無い。乾かせばまた見ることが出来るのだ。

 しかし人の心はなかなか潤わない。欲望はきりが無い。あればあっただけ、あるのが普通だとし、もっと他をと求める。今現在の状況を、どれだけ自分が満たされているかを認識せずに、だ。

 ある意味、アンもそうだった。義祖父はこの体に流れる血を隠すために、敢えて義祖父は懐に抜き身のまま、刃を抱きいれた。生きていられる。それだけで満足しなければならない身だ。しかしアンはエースと共に海に出る、そう決めた。未来を夢見てしまった。その手段として、義祖父の誘いに乗り、着いて来たのだ。

 人の心は一度擦れてしまうと、なかなか元には戻らない。手を差し伸べてくれる、誰かが現れたとしても、容易ではない。そんな姿を幼少の頃から、大勢、見てきた。

 アンは足を僅かに速める。

 水路に沿った道が途切れ、一面に景色が広がった。トムズ・ワーカーズの本社は少し変わった所に存在している。

 この町に初めて来た人ならば、絶対に辿りつけないと言い切れた。その訳はこの町が複雑に入り組んでいるからに他ならない。5と6番ドックの間にある「橋の下倉庫」、と言われてもどこにあるのか首を捻ってしまうだろう。中央の町を支える柱から伸びた、船を海へ落とす橋の陰にひっそりと居を構えているのだ。会社としての許可は町から発行されていないが、その腕は確かな物、であると誰もが知っている。なぜならこの会社の社長であるトムは海賊王の船を造った人物であるからだ。

 そう、宝樹アダムを材とし"偉大なる航海(グランドライン)"を一周したオーロ・ジャクソンの建造者。と言えば聞こえは良いが、実際の所、この町では腫れもののように扱われていた。

 だがトムはそんな人々の目など気にしていなかった。

 船大工であれば一度は己の手で触ってみたい材のひとつとして宝樹の名があがる。その宝樹で船を一隻、造る事が出来たのだ。それこそが誉と、笑む。

 そして海賊王が処刑され、幾年も経っているにも関わらず、彼が作った海賊王の船は現在もどこかに隠されているという噂があった。なぜならロジャーの足跡を洗い出す最中でも、船の行方は依然と知れなかったからだ。

 大切に扱われた物には魂が宿る。

 以前フーシャ村の老人が昔話として話して聞かせてくれた事、があった。

 船は無人でも波間に漂いながら目的地へと達する。それは船自身に心が芽生えるからだと言っていた。それを信じるならば、いつかまた、乗るに相応しい人物が現れるのを待ちわびながら、どこかにあり続けているのだろう。世界を一周したという船は、いまもどこかで海原で風を受ける日を夢見ている。そう思えた。

 

 しかし世界を統治する政府や、世論は『海賊王』の称号を得た男が乗る船を制作した、船大工に良しとした感情を抱かなかった。

 それが腕一本で世界を渡り歩ける、とてつもなく腕の良い船大工であったとしても、だ。

 海賊王の船を造ったという事実が公になると世間は一気にトムに対して風当たりを強くした。

 それだけ"偉大なる航海(グランドライン)"を制覇した男の影響力は世界に対して計り知れない、無形の威力を持っていたからだ。

 新たな時代の幕開けを宣言した男が処刑された後、トムは断罪された海賊王の船を造った罪を問われた。

 

 造られた船には罪は無い。

 海賊が乗ればそれは海賊船となり、商人が乗れば商船、海軍が乗れば軍艦と呼び名を変える。

 しかし世界政府は判断を下した。"海賊王"に関わった全てを抹消する、と。

 エースとアンは母と、己の死後子供を頼む、と遺言を託したガープの手で守られ、ここまで年を重ねて来られたが、大きな声を上げて自らの出生を言えるわけではない。

 知れたら最後、オハラの子と同じように追われる身となるだろう。

 

 「こんにちは」

 会社のドアを開け中に入るが誰も居ない。

 となれば、皆がいる所はたった一か所だ。木槌の音が聞こえないのは、昼食時間なのだろう。

 時間を察したかのように、腹時計が鳴る。

 ココロさんのおにぎり美味しかったなぁ。と思わず緩んだ口の端からこぼれそうになっていたものを飲み込み、空へ駆け出した。

 眼下に広がるのは荒波を越え船としての役目を終えた木材や機材達が眠る場所だ。海流の関係なのか、ウォーターセブンのこの岸辺には、様々が流れ着く。時折、落とし穴のような空洞も形成される為、踏みならされた道で無ければ注意は怠れない。足場を確かめながら進むと聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 「トムさーん!!」

 アンは声を上げ両手を広げる。

 目の前には心地良いふくらみがあった。たぷんとしたこの弾力が懐かしい。思わず目を閉じ、息をついた所で噛み殺されていた含みが破裂した。

  「たっはっ…!!っ…!!…!!」

 おにぎりを持ったまま、魚人が笑う。

 「ンマー!アン!」

 突然の来客に、その場に座っていたそれぞれが声を上げた。手紙のやり取りはしていたが、直に合うのは以前の突発的な別れ以来だ。

 「アイスさんもお久しぶり。ココロさんも、お変わりなく」

 歓談が続く中、不意に腹の音が鳴った。微笑みと共に差し出されるおにぎりを笑顔で受け取る。やさしい味に自然と笑顔が結ぶ。

 その横で角界ガエルのヨコヅナが一匹、汗をタラリと流していた。アンは両手でぷにぷにと柔らかな感触を久しぶりに堪能する。

 「大丈夫、食べないから」

 それでもヨコヅナは硬直したまま動かない。その様子に皆が笑う。以前来た時と変わらない顔が、揃っていた。

 

 「それでどうしたんだい?また飛んできたんじゃないだろうね」

 ココロが3つめのおにぎりを手渡しする。咀嚼しきり、受け取ってからアンは残念ながら、と前置きした。

 「今回は船で来たの。ちゃんと海流に乗って」

 アンは中央街を指をさす。

 

 「そういや、海軍旗(カモメ)が朝通ったな。それに乗って来たのか。たっはっ…!!っ」

 トムが豪快に笑う中、アイスバーグはおにぎりをほうばるアンを厳しい目つきで見る。

 「入隊は決まっているけど、まだ正式な階級は貰って無いの。だからそんな怖い顔しないで」

 それにもし海軍となっていたとしても、トムを捕まえたりなどする訳が無い。

 苦笑する少女に、そう言うことにしておこうか、とアイスバーグは視線を反らした。

 「…フランキーが武装船を造り続けている、のも変わらないのね」

 周囲に放置された船が現状を物語っていた。トム曰く、そろそろ35号が出来上がりそうなのだという。

 「度を過ぎた凶器は、造るもんじゃない…」

 アイスバーグのつぶやきは的を得ていた。武器を手にするならば、それ相当の覚悟をしなければならない。その道具で命を殺める可能性を常に心に留めておかなければ、造ってはならないのだ。造り手はその責任を否応なく、背負わされる。その代表的な例が、目の前にいるなら、なおさらだ。

 小さな震えが走った。

 

 「町の様子を見てきたけれど、まだ厳しいのね」

 海列車が煙を上げて駅へと入ってゆく様を景色としながら、アンはつぶやく。

 記録(ログ)に関係なく、町と町を結ぶ線路は完成した。しかし他の町に住む人々は水の町の現状を知っている。商売するにしても要らないのなら他に回すだけ、と足元を見るのだと言う嘆きも少なくは無い。

 「たっはっ……!! だが人間に活気がある。希望は繋いだ。これからだ。結果はすぐにはついて来ねェよ」

 トムは弟子に根気強く待つよう言葉をかける。

 「やるだけの事をやったら男は、ドンと胸を張ってりゃいいんだ…!!!」

 有言実行を成してきた男の言葉は重い。

 

 

 アンがこのウォータセブンを初めて訪れたのは、3歳の時だった。

 なんとはなしに瞬間移動という能力があると自身で把握してから、好奇心を抑えきれず初めて飛んだ先がトムの腹の上だった、のだ。身に過ぎた能力はもちろんその場で力尽き、意識を失ったのは言うまでも無い。着地地点先のトムも就寝後の、眠りの深い時間だったため、ココロが発見し起こすまで腹の上に子供が寝ているなど気付かなかった。

 丸一日と半日が過ぎた辺りに目を覚ましたアンが見た最初は、ヨコズナの顔だ。

 ぷにぷにで温かいカエルに飛び付いたアンがそのぷっくらとした腹に噛みついたのは後々の笑い話となっている。

 

 1カ月ほどの滞在だったが、アンはその間この水の都を走りまわった。どこかしらヴェネチアに似た雰囲気を持つ町が好きになってしまったのだ。

 どこからともなくやって来た子供を追い立てず、好きなだけここにいればいいと言ってくれたトムには何度お礼を言ってもいい足りないくらいだった。初日こそ胡散臭いと怪訝な目を向けていたアイスバーグも数日の内には手を引いてくれるようになり、大人しく仕事を眺めるアンと打ち解けるのも時間がかからなかった。

 廃材を利用して海王類を倒すと意気込むフランキーにも、声援を送ったのを昨日の事のように覚えている。

 

 出会いも突然だったが、分かれも突然だった。

 微かに聞こえたエースの呼び声を頼りに、東の海へ戻る事は出来た。しかしそれ以後遠方へ、島の向こう側へとぼうとすると、障壁に当たりはじき返されてしまうようになったのだ。

 年に数回、手紙のやり取りをしているものの、こうして面と向かって話すのは7年ぶり位になる。

 

 今日は泊ってゆけるのかと聞かれたアンは、出来れば、と返した。数日行方不明になっても、義祖父は慌てないだろう。元来からして細かい事は気にしないタイプだ。海兵達にも船がドックに入っている間は自由行動してよし、と通達されている。司法船が到着すれば護衛の任に当たるだろうが、それまでは召集される事は無いと踏んでいた。

 

 夢は現実となるだろう。

 7日間で出来ることを考える。

 まずは廃船島に転がる、狙われるだろう危ない船の処分は出来るだけ迅速に行う必要があるだろう。

 夢で見た司法船は何者かの砲撃を受けていた。その何者か、が分かればこんなに苦労しなくとも良いのだが、アンの夢はそこまで都合よく、全てを見せてはくれない。だがしかし、分かりやすい目印、は示されていた。

 黒の服、複数人の影。

 夢があんなにも鮮やかであるのは、黒服達がなにかを仕掛けてくるに違いない、のだろう。

 彼らの目的はトムへと語り継がれている【秘密】を奪う事、だ。

 となれば何らかの罪をトムに着せ、連行すれば簡単に手に入る。

 

 と、アンはここで重要な事柄に気がついた。

 わたしは今、なにを想像したのだ、と。

 トムに何らかの罪を着せる。そして連行する。

 この二つを行使出来るのは、公的な役職に立つ人物に限られる。

 ならばその公的な役職とはなにか、と考えれば背筋に冷たいなにかが流れ落ちるのを感じた。

 

 トムが持つ【秘密】の内容をアンは知っている。

 直接聞いた訳ではない。

 この島に、トムの腹に、出現したその瞬間に、この島、ウォータセブンと人々に親しみ呼ばれる存在が教えてくれたのだ。

 世界には幾つかの兵器が存在している。

 そのひとつがこの土地で代々守られている、とアンは囁き聞いた。

 それは形あるものではない。形あるものになる可能性がある。しかしそれが形を得た時、かつての焔よりも大きく燃え盛るだろう。

 

 アンは教えられた理由を考えた。

 ただ平凡に、造られた枠の中で生きて行くだけならば、知らなくても良い事柄がたくさんあると知っていたからだ。

 知識を得た直後は、どんなに考えても分からなかった。けれど今ならば、これから起るだろうなにかを想像できる。

 アンが考えるにトムが【秘密】を持ち続けている事、で何らかの抑止力となっているのだろう。しかし誰かの手にそれが渡るとどうなるか。大きく分けて二つ、考えられるが、人間という生き物をよくよく観察していると、悪い方向にばかり思考が向いてしまう。

 今回の夢がアンに与えた任務(ミッション)は、きっとこうだ。【設計図を死守し、簒奪に対する対応をせよ】

 どこかの戦争ものゲームのようだが、失敗すれば、そこで全てが無となる。これは現実なのだ。肌を切れば赤の血が流れるし、鉄塊で強化された拳で殴られると、骨も折れる。

 セレクトを押したらもう一度繰り返せる遊び(ゲーム)ではない。

 

 となれば、だ。

 アンが今、考えられる一番最良の策は、現状を維持する事、となる。

 世界を破滅に導く危険性のある設計図など、歴史の影に埋もれ、それこそ限られた一族だけに伝わる口伝の如く、ひっそりと眠らせておけばいい。

 兵器は基本、殺しの道具だ。現存する世界の技術を使えば復元も可能だろう。

 

 あちらの世界では兵器が抑止力として使われていた。武力を持っていると知らしめることで、戦いそのものを抑える効果を狙う。しかし兵器を持たない国はいつ自分にその矛が向けられるか、気が気では無く危機感を募らせる。いつその兵器のターゲットに据えられるか分からないからだ。だから恐怖に飲み込まれた国は、拮抗した力を持とうと、より強力な殺戮兵器を欲し手を伸ばす。

 

 アンは思う。

 図面を残した人物はなにを未来に願ったのだろうか。未来を憂えたと信じたい。

 現在世界は世界政府という組織が全てを支配している。その統治は既に800年以上。空白の100年という、かつての、かつて、世界政府と呼ばれる体制の前身、それと戦力を互角とする勢力がぶつかり合った時期を経て、今がある。

 

 今の世界は勝者が何百年もかけて作り上げた。しかし世界には敗者が残した幾つもの碑石が、知識が、技術が存在している。

 そして今この時、敗者が残した兵器群を勝者側に属する人間が何らかの理由で探し求ていた。

 ロジャーの死によってもたらされた、大海賊時代という迷惑な概念を一気に駆逐する為の力を欲したのか。それとも全く別の目的が隠されているのか…。

 これ以上、推測でのみ物事を判断するのは危険だ、と判断し考えるのを中断した。

 

 とくんとくん、と耳に心地よい鼓動が聞こえる。アンの寝台はトムだ。こうしてうつ伏せになっているとあの時の事を思い出す。

 寝室にはトムとアンのふたりだけだ。かつてはヨコヅナやフランキー、アイスバーグ共に、この部屋で雑魚寝していたが、成長と共にひとり部屋へと移ったのだという。

 「ねえトムさん。そのまま聞いて」

 アンは小さな声で囁く。

 「近い未来、トムさんが持つあるもの、を狙ってやってくる人物がいるの」

 

 それはまだ誰であるか分からない。

 しかし相手がどの組織に所属しているのかは見当がついていた。

 

 〝世界政府〝

 

 トムの鼓動は乱れない。

 先があるのなら聞くと、ゆっくりと撫でられたその手に促され、アンはぽつり、ぽつりと言葉を繋いでゆく。

 見た事が、あるのだ。

 現在、兵器の設計図はトムの手によって、幾つかの部位に分けられ隠されている。ぱっと見て分かる者はいない、と思えた。

 しかし"機械"の製造者達はどうだろう。

 人々が現在、必需品とし、使っている数々の電化製品は、元を辿れば兵器として利用されていたものばかりだ。

 今はまだいい。秘密は書面のまま、色あせている。だがひとたび誰か、トム以外の誰かに秘密が渡ったとしたら、どうなるだろう。【秘密】を形にしたいと欲する人物がいるかもしれない。

 

 断然無理な話なのだ。

 海の中を走れる列車など、あちらの世界でも存在していなかった。海水という、どう足掻いても対応できない、不安定でかつ最大の難問題を克服出来ないからだ。

 ただの鉄ならば海水に触れるだけで腐食する。

 ならばどうして金属船が海に浮かんでいられるのか。それは海水に触れる部分を限定し、その部分を定期的に腐食しないよう、船底を検めるからだ。

 

 海列車は確かにこの周辺の島々を結び、定期船だけで繋がる島々より経済特区としての色合いを濃くした。

 だがしかし、海に線路をひき、列車を走破させる技術力に関して、造船を生業にしてきた島の技術者とはいえ、疑惑の目を向けられるのは至極当然の成り行きともいえる。

 機関車の技術は間違いなく過去の遺産を応用して作られていた。外燃エンジンに関しても過去の技術を使い蒸気機関、であるように思わせつつ、実際は搭載した蓄電池によって作動する仕組みが採用されている。走り始めこそ石炭が必要だが、速度が安定すると必要とする燃料が劇的に減るのが特徴だ。

 かつてトムは海列車の図面を誰にも見せず、単身で描いていた。見本としていたのは古び黄ばんだ、今にも破けてしまいそうな設計図だ。

 何度も何度も失敗し、その失敗の原因を突き詰める。

 過去の遺産には故意に書き損じられていた個所が幾つもあったのだ。トムはそれをひとつづつ見つけ、図を引き直し、この町の為になればと奮起した。この町のためにと希望を組み上げたのは全てトムの業績だ。町の人々も表立ってはトムに感謝を伝えないが、感謝の念があるからこそ、ひっそりとトムズ・ワーカーズが佇み続けていられる。

 

 アンは先日、友を見失った。

 あの炎の中、たくさんの命が苦悶の叫びを上げて失われた。

 その恐怖は今も胸の中にくすぶり続けている。

 アンはこの温もりを失いたくなかった。

 「トムさん、死なないで」

 この言葉が我がままだと分かっている。

 だがあの日の出来事が、溢れだす感情を止められなかったのだ。

 

 大きな、みずかきがある手が肩の円みを包み、しばらくの後、ぽんぽんと背を撫でた。

 それが答えなのだろう。幼子に心配は要らないと、温もりで応えた。それにアンは少しだけ安堵し、瞼を閉じる。

 



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13-設計図

 司法船到着まで後3日。

 アンはフランキーお手製の海王類殲滅艦、バトルフランキーシリーズをアイスバーグの手を借り、最新式を除く全てを解体し終えていた。青い空の元、晴れ晴れとした良い表情でいい汗をかいたと額を拭うふたりに、創造主が非難の声を上げる。

 「おい!それは次のに使うんだ!なに切り刻んでんだ、アン!」

 「えへへ。やっちゃった、ごめんね」

 昨日までの解体作業には造り主のフランキーも参加していたのだが、今日は新作の35号に乗り海王類とガチバトルをして来たのだ。

 そしてその成果として、仕留めた海王類をけん引している。

 

 説得は思っていた以上にあっさりと、簡単に進んだ。

 

 いつもの面子だけならばいつもの如く、それぞれ両者言い争いの末、喧嘩別れに終わっていただろう。

 だが今回に限って言えばアン、が運良く居た。兄弟間の調停は、サボとアンが引き受けていたのだ。場を収めるのは得意、と言ってもいい。なのでアイスバーグの堪忍袋が切れる前に、アンがほつれた部位を繋ぎ合わせ、かつフランキーの主張もやんわりと取り入れ提案してみたのだ。立場として中立は保ち、両者の意見を対等に聞いたのが項を奏したのだろう。

 分解を申し出る前に、アンはよくよく、放置されていたフランキーの作品群を見て回った。そうすると以外や以外、番号が若くなるほど埃が積り、また破損個所が直されぬまま、捨て置かれている船体が多く存在していたのだ。

 ここは流れ来る地だ。材料となる廃材はいくらでもある。

 だがしかし、作り置かれ、朽ちるに任せている船体がどこか物悲しく思えてならなかった。折角造られたのにも関わらず、使われず、そこにあるだけ、などと造られた船もたまったものではないだろう。だからアンは海を走る船として造られたのに、置きものと化しているのは、本来の目的からかけ離れているのではなかろうか、と疑問符を投げかけてみたのだ。

 予想通り最初、フランキーは首を縦に振らなかった。

 使わぬものであれば分解しても問題無い。はずなのだが、フランキーはごねた。理由を教えて欲しいと言っても、だめだ、の一点張りを崩さない。いつもこの、我慢比べでアイスバーグがもういい、と突っぱねるのだろう。が、そうはアンが卸さなかった。

 じっとフランキーの様子を観察したのだ。そして手掛かりとなる言葉、を探した。

 すればなんという事も無い、いわゆる反抗期、というやつだった。アンは深刻な問題が底辺に存在しなかった、それだけで満足、としてもいい。

 トムやココロはじっくりとフランキーの話を聞き、それならばやってみろ、と背を押し見守ってくれる。

 造り始めはそれでよかった。しかし造り続けて居れば、自分が一体何を造形しているのか、次第に分かってくる。

 そして止めてくれる誰か、その言葉、を放ってくれるのが兄弟子だった訳だ。

 だがお年頃のフランキーは素直になれず、衝突した。駄々っこの子供ではないのだから、謝れば済む、と思いがちだろう。しかしある程度の年齢に達しているからこそ言えない言葉、も出て来るのだ。

 アンはフランキーの、アイスバーグに反発する気持ちが、理解出来ない訳ではない。

 十分にわかってはいるのだ。しかし正論ばかり突きつけられると無性に腹がたってしまうのが心でもある。

 アンにも経験があった。

 通りすぎ、振り返った時にようやくわかる。いわゆる闇歴史というやつだ。

 

 「で。試運転はどうだった?」

 「任せろ!ばっちりだぜい!」

 フランキーは両腕を空に掲げ、片足を折ってポージングした。

 

 獲物は相当の大きさである、と見ただけで目測できた。海王類にタンコブが出来る程の威力、と伝えてわかって貰えるだろうか。

 機械には特別詳しくは無いが、どれもこれも、海王類と戦う力としては過大過ぎるようにも思えた。

 フランキーはまるで仇を討つかのように、ただ力を求めている。飽くなき求めては、新たを欲していた。

 飢え、なのだろう。

 フランキーの心、その奥底に染み付いたなにかがそうさせているのか。

 アンはなにも言えない。だからそっと目を閉じる。

 自分もフランキーと何ら、立場的に変わらないからだ。

 アンも力を求め得るために海軍本部へと向かう。

 だから戦闘船を造り続けるフランキーの気持ちが良く分かった。手を止めてしまうのが怖いのだ。立ち止まるのが恐ろしいのだ。

 とはいえこのまま、危険な船を今の状態で保持させておくわけにはいかない。現実となりうる夢をどうにかするためにも、最悪の芽は摘み取らねばならなかった。

 

 フランキーにとっては、築いてきたものを奪われたような感覚に違いない。

 壊される立場で考えるとそうだ。

 だが壊す方も、楽しんでいる訳ではなかった。特にアイスバーグはトムやフランキーと同じ造り手、だ。時間をかけ組み上げ、造り出した船を壊される心情を一番良く理解している。それでもなお破壊しなければならないという意見を曲げないのは、起きて欲しくない最悪の状況を恐れているからだ。起らないよう、先手を打つつもりで槌を振っていた。

 「ねぇ。これ18についてた大砲なんだけど」

 「ああ22号のボーンド砲の試作だったんだ。けどいまいち気に食わなくてな」

 弾が回転すると速くなるのだという。フランキーが語り出した専門的な用語が混ざる難解な説明をアンは笑顔で聞き、頷く。はっきり言って、フランキーが話してくれる内容の半分もわかってはいない。だが楽しそうにしゃべり続けている彼、を見ていると自分までうきうきしてきた。

 いつかの夢、はきっと果たされるだろう。そう思う。

 

 船の分解も終盤に差し掛かった頃、少しの休憩、とアンは木槌の音を聞いていた。

 フランキーは再び海へ漕ぎ出して行ってしまったため、実のところ暇を持て余していたのだ。

 本来ならこの後、町への買い物へ付き合ってもらうはず、だったのだが予想外の部品が切り刻まれたのが余程、堪えたらしい。アイスバーグになら鬱憤をぶつけられたが、アンは女だ。しかも年下だ。暴言を吐け無かった。してしまえば男が廃るからだ。よって再び海へ出た。

 小波、そして木と木が打ち鳴らされ、かんなによって削られる響きに耳を澄ませる。きれいな音色だ。

 その中に踏みしめる雑音が混ざった。姿はまだ見えない。しかし反射的に身を廃材の中へもぐりこませる。森での生活で培った感、だった。

 「アン?」

 アイスバーグが姿を消した少女の名を呼ぶ。

 その時トムも気がついた。此方側に向かってくる幾つかの足音に視線を向ける。

 「どうもこんにちは。あなたですか?造船技師のMr.トム、とは」

 見知らぬ男たち、だった。黒を基調にした、仕立てのよさそうなスーツを着ている。なぜそんな人物たちがわざわざここに来たのか。見当が付かなかった。

 ここに足を運ぶ者たちは知れている。ここは廃材が流れ着くゴミ溜めだ。ウォーターセブンの職人も好き好んでこの場所へは来ない。どうしても、仕方が無く、足を向けざるを得ない場合にだけやってくる。

 偉大なる航路(グランドライン)を行く海賊たちもこの場所へはやってこない。船を修理するなら、工房を持った職人をまず、訪ねるからだ。

 

 実際、現在造っている船も孫請けとして造っている状態だった。

 本来船は、工房で作れらるのが一般だ。小型船ならば船大工ひとりでの製造が可能だが、大型船ともなれば幾名もの職人の手を渡る。

 船は生き物だ。使用される目的により形も深さも、長さも変わる。

 今回の船は商船だ。父から独立する子への贈り物なのだという。

 注文主を辿ればかつてトムズワーカーズを贔屓にしてくれていた商家に行き着く。しかし世間は風評に左右されるものだ。海賊王となった男が批判されている現状で、その男が乗っていた船を造った技師が手がけた船に乗っている商売人など信用できない。これが世界の常識だ。そのため直接トムに注文を出すと世間の風評が、となり、とある工房からの下請けとなっている。

 その商家の男はトムの人柄と腕をかっていた。しかし商売には一番、必要の無い、出来れば遠ざけたい存在でもある。

 それでも、とトムはその下請けを快く引き受けた。

 竜骨にトムが造った船である、という刻印が入らなくとも、自分が造った船が必要とされている事が嬉しい、と請け負ったものだ。

 アイスバーグは静かに拳を握り締める。

 

 

 ・・・どこか遠くで糸を引くような音が伸びてゆく。

 アンは物陰に隠れながら、それがいったい何の音であるか確かめようとした。

 危ないものではない、と思う。思うがしかし、この音が思い出させたのは、花火大会で玉が打ち上げられ、落ちてくる時のそれ、だ。男たちの視線から刺客になる場所を探し、そして青を見上げる。

 すればどういうことだろう。

 丸くて黒いものが見えた。真上ではないが、放物線を延ばせば近くに落ちるような気がする。黒い点は重量に見合った引力を受け、その速度を上げていた。

 そこの人、危ないよ。そう声をかける暇も無い。

 

 「いやァ、捜しました。すいませんが…」

 トムの目は、話しかけてくる男では無く、黒い丸を追っている。

 「少々お話を」「させて頂きたい」「わ…」「たしは」「サイファーポールNO5のスパンダヴァ」

 

 お見事!と絶賛したいほどの命中だった。

 しかも会話が細切れでよく分からない単語と化し、その爆風に乗り吹き飛ばされる姿は、体を張って笑いを取る、どこかの芸人とそっくりだったのだ。含み笑いを噛み殺し、じっとそちらを見る。

 直撃したその場所は火薬特有の黒い煙がもわもわと空へ立ち上ぼっていた。

 まるでアニメのようだと思ったのはアンだけの秘密だ。

 弾はトムに話しかけていた男だけを吹き飛ばし、落ち行く体は廃材の中へと頭から突き刺さった。

 そのさまはまるでコントだ。どこぞに仕掛けがあるのかと、飛び出して突っ込みそうになり、アンはぐぐっと自重する。

 最初は何が起こったのかと唖然としていた付添の4名だが、ひとりがぎこちなく動き出せば、名を呼びながら助けに駆けつけた。

 よくもまあ、見事に突き刺さったものだとアンは影から見る。しかも爆風の最中になにか叫んでいなかっただろうか。助け出された彼、はところどころ傷を負っているようではあったが、致命的な怪我はしていないようだった。どれだけ頑丈な体をしているのだろう。

 「おう!悪ィ!! 誰だか知らねェが祝砲が当たっちまった!おーい、アン!見ろ見てくれ!見るんだぁぁぁぁぁ!!って、あいつどこ行きやがったんだ」

 

 バトルフランキー35号再び帰還。

 朝仕留めた海王類よりもさらに大きな固体を引っ張って来たようで、波間に巨体がぷかぷかと浮いている。

 あー。あれ焼いたらきっと美味しいだろうなぁ。

 アンはゆるりと口元を緩ませた。朝の獲物は毒袋を持っている種類だったため、ココロがきれいに処分していたからだ。

 軍艦での整えられた食事は美味しかった。船で出される3食は栄養価だけでなく、味も抜群だ。しかし長年の食生活により野性溢れた食事が主だったアンは、無性にそれらが恋しくなっていた。ジャンクフードと置き換えてもいいだろう。ダダン一家と食べていた、塩コショウを振りかけただけの肉が懐かしく思う。

 あとで捌こう。焼いて食べよう。尻尾の辺りが多少減っていても気づく人は居ないだろう。うん、それでいこう。拳を握りしめ、喉を鳴らす。

 

 「あのバカはまた…性懲りもなく……!!!」

 アイスバーグがハンマーを振りかぶり、帰港したばかりの35号を打つ。

 その一撃は直すにも手間がかかるだろう凹みを作りだした。

 今回は良かった。損害が無かったからだ。しかし一歩間違えば、自分や師匠、友人にあの玉が当たっていたかもしれない。

 「何度言わせるんだ!次から次へとこんな戦艦造り続けやがって!!! これもおれが処分してやる!!!」

 「だー!! てめぇやめろアホバーグ!!!」

 最新艦に手を出すな!

 表現するには色々と、問題のある語彙が飛び交う。これがココロさんが言っていたいつもの喧嘩の風景、なのだろう。

 

 「別に人を攻撃するわけじゃねぇだろうが!!!」

 今、当たりましたが何か。そこは突っ込んでおくべきだろう、とアンは思う、が声は出さない。

 「お前の意思どうこうじゃねェ!!! 凶器を存在させた責任を問い掛けてんだ!!! バカンキー!!!」

 戦艦も道具だ。使い手によって左右される。存在しているからには、使われる。フランキーしか使わない、のではない。もしもフランキー以外の手で、扱われた場合どうするのか、とアイスバーグは聞いているのだ。しかし二人の論点は合致しない。

 

 「トムさん、何とか言ってくれよ!!! わが社の面汚しだ、こいつは!!」

 「たっはっ…!!…!!…!!…!!…」

 豪快な笑いは必死の形相で叫ぶ男の声さえもかき消していた。

 そうして何度目かの叫びでようやく全員が気が付く。

 「あんた、だれ?」

 「聞いてなかったんかい!!!」

 ええ。全く。聞く気など最初からありませんでした。

 とは誰も思わないだろう。意図的に無視していたわけではないが、トムにとっては黒服の男は単なる野次馬でしかなく、アイスバーグにとっては見る価値もない、フランキーに至っては居る事すら認識してもらえなかったレベルだった。

 アンはそっと息をつく。これから始まるであろう、修羅場に向けて心落ち着かせるために。

 

 

 

 時はゆっくりとだが確実に流れ行く。

 黒服の男たち  政府の役人が帰った後、トムはアイスバーグとフランキーを夕食の後、部屋に来るように呼んだ。ココロが作ってくれたシチューも、照り焼きも、会話無く胃袋に収めた男たちは、ココロの帰宅と同時にトムの元へやって来た。背中にひっついて離れないアンも含め部屋の中はどことなしか冷たい空気が漂う。

 

 男たちの話は要領が得なかった。

 設計図とは何か。アイスバーグは考える。

 海列車のそれ、とは違うだろう。なぜならそれは公開されているからだ。

 

 向かい合わせの椅子とテーブル。

 そこに甘い香りの飲み物が置かれた。トム特製の蜂蜜湯だ。

 

 「大切なものをお前達に預けたい」

 

 そう言って机の上に置かれた紙の束を見て、アイスバーグは驚愕する。

 「これは造船史上最悪の"バケモノ"だ」

 そこに描かれている線を見ればわかった。有り得てはならぬもの、であると。だがしかし、これは人の手で造れるもの、なのだろうか。

 アイスバーグがまず思ったのはそこ、だ。そして耳を疑った。

 「これ、造っても・・・いいのか」

 目を輝かせて見入っているフランキーが信じられなかった。そして真横から聞こえた、ありえない声にアイスバーグの感情は荒立つ。テーブルに両手を打ちつけ、大きな音をたたせながら、

 「まだ分かんねぇのか!! こんなもんこの世に存在させちまったら…」

 叫ぶ。

 ちらりと現在の所有者はどこ吹く風か、笑みを崩さずにいる。

 「ああ、世界は滅ぶ。たっはっは……!!」

 師匠の陽気な口調に、アイスバーグは額を押さえた。

 だがしかし。

 「造ってみようと思う気概は、たいしたもんだ」

 トムの笑顔は変わらない。

 

 これは遥か昔からこの地に伝わる大切なもの、だ。この島に暮らす人々の手によって、秘密裏に受け継がれてきた。

 政府がこの設計図の存在を嗅ぎつけ動き出している。

 何のために、かは今日の会話内容では分からなかったが、自身が持っていては危ない、と新たな世代に手渡す事を決めたのだとトムは言った。

 沈黙が流れる。

 蜂蜜湯から立ち上っていた湯気は、消えていた。

 怖いけれど受け取る。冷や汗を浮かべながら口にするアイスバーグとは真逆の反応を示したのはフランキーだった。

 

 にこやかに笑うトムの後ろから、淡々とした声が響く。

 「違う、世界は一度、半分滅んだのよ。その戦艦の名はプルトン。冥界の王の名を冠した戦艦兵器。製造されたのは大昔のここ」

 がたりとアイスバーグが立ちあがる。

 「なぜ知っているかは聞かないでね。どうして知っているのか、わたしにも説明が出来ないから」

 トムの背から降りたアンが人差し指を唇にあて、静かに笑んだ。

 この設計図は世界のどこかに眠る、同型船がもし使われそうになった時、対消滅させるために残されたものだと言葉を繋げる。そもそも大昔に作られた戦艦が今、残存しているほうが驚きとなるだろう。鉄は錆びる。錆びた鉄は崩れてゆく。

 しかしそれは今現在もとある場所に保管されていた。オーパーツ、と呼んでも支障ないだろう。

 

 「そうか、この駆動の並び、見たことがあると・・・」

 収納されていた蒸気機関車の設計図を取りだし、アイスバーグが受け取った古紙の一枚と並べた。

 「世界政府は異端知識として封じた技術を欲している」

 図を見比べていた視線がアンを厳しい表情で問う。憂いを浮かべた瞳は、到底11歳の少女の物とは思えなかった。

 「過去は既成事実だから、変えられない。変化するとすれば、これからの時間なの。わたしは世界政府を擁護している訳じゃない。トムさんをロジャーの船を造ったからと言って断罪するのは間違っていると思うし、プルトンをはかりごとをしてでも手に入れようとするあの男の事が大っ嫌い」

 年相応な表情に戻ったアンはトムの横に座る。

 「大海賊時代で一番苦しんでいるのは、普通に暮らしている人々だよ。兵器を手に入れた世界政府が、戦禍を拡大させるのは目に見えてる」

 バスターコールという、海軍による無差別虐殺方法も実在しているのだ。

 それで十分であるはずなのだ。それなのに過去の力までも保持して何をしたいのだ、とアンは思う。

 眠り続ける兵器を、無理矢理叩き起こす必要など無い。伝説という夢物語は伝説のままにしておく方が良い時もある。

 

 二人の目が、疑惑の色を浮かべる。

 それはそうだろう。

 十一歳の小娘が、何を偉そうに物を語っているのか。

 アンが二人の立場ならば、きっとそう思う。

 だから二人にはアンの秘密を暴露することにした。世界政府に伝えれば、報奨金は思いのままとなるだろう。

 だから秘密を告げる。プルトンの秘密を共有する者として仲間に加えてもらうために。

 

 「わたし、本当の名前、あるんだ」

 ポートガス、はお母さんの名前。父の名前は……。

 

 音が連なった後、ぽんぽん、とつむじを撫でられる。どうやら眉が八の字になっていたようだ。見上げればトムがにこやかに笑んでいる。

 懐かしい名前を聞いた。その瞳が語るのは、悪意ではない。

 「…あのなぁ、そんな爆弾おれ達に投げるなよ」

 肘をついたフランキーが大きくため息をつけば、

 「ンマー、一蓮托生ってことにしておいてやる」

 アイスバーグも苦笑した。

 

 「ついでだ。わしの不安要素も二人に言っておこう」

 しきりに笑った後、そう言ってトムが提示したのは、幼い少女の写真が写る手配書だった。

 

 

 

 △▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 海鳥が鳴く。

 窓は開け放たれ、白のカーテンが風に揺れた。

 清潔に整えられた室内には、この部屋に似つかわしくは無い幾つかの黒が運び込まれている。

 それらを開き、元ある形に戻している男達の表情は総じて無、と言っていい。

 感情を押し込めたか、はたまた殺したか。

 唯一その中で異色であるのは、若紫の柔らかな髪を逆立て歯を力の限り噛み耐えている男だろう。

 名をスパンダムといい、世界政府諜報機関CP長官の息子だった。幼い頃から偉大な父の背を見て育ち、父からじきじきにその考え方と人の使い方を指導されてきたサラブレットだといえよう。

 

 彼の任務はただひとつ。

 空白の100年を生み出した、とある兵器の設計図を入手すること。

 ただそれだけのはずだった。

 命令に忠実な部下達が集めたとっておきの情報なのだ。間違えるはずが無い。

 世界政府直下でありながら独立した諜報機関サイファーポールには世界中から様々な報がもたらされる。

 その中でもCP5はあらゆる武器に関する情報を扱う部署だ。古今東西で新たに作られるそれをも秘密裏に入手し、製造者を政府に仇なす危険人物だと判断された暁には、対象者(ターゲット)をすみやかに処分する。

 多くの実績を上げてきた。

 

 それなのに。

 スパンダムの胸中に繰り返されるのは、自分を存在しないものであるかのように振舞った、魚ごときの態度だった。

 調べは既に済んでいるのだ。"司法船の約束"などどうでもよい。素直に認めれば良いものを、知らぬ存ぜぬと嘘を重ねた。

 

 大罪である。

 それだけで万死に値する。

 世界政府に属するスパンダムが正しいのだ。正しくなくてはならない。そうだとも、政府が定めている民法では司法の権威が高く、それに従うよう記されている。だがしかし、スパンダムはその民法に縛られない立場にあった。彼を縛せるのは世界政府高法だけなのだ。

 

 五老星は言った。

 やってみるがよい、と。

 それはスパンダムにとって好機だった。と同時に崖っぷちに立ったともいえた。

 司法は光の正義だ。無くてはならない法だ。

 しかし闇の正義もまた必要不可欠なものだ。それをスパンダムは施行できる。だがそれはまだ小さな正義だ。もっと必要だった。もっと闇の正義を手にするために、設計図を手にいれなければならなかったのだ。

 

 【危険なものほど、政府が管理しなけりゃなぁ。】

 

 こんなところで時間を潰している暇などはない。

 父のようにこの手に掴む。その期待には応えなければならない。張り切るべきだろう。

 父が座していた椅子の座り心地はよさそうだった。

 親の七光りといわれても構わなかったが、同僚に実力を見せ付けるのもまた必要不可欠な行為と知っている。なぜならばスパンダムは選ばれた人間だからだ。

 CPとは言え五老星と直接会うなど出来るのは己くらいだろうと自負している。

 会ってくださるのはスパンダムが長官の息子であり、さまざまな手柄を立ててきたからだ。

 上司にお伺いを立て、承認されるもを待つのが苦痛だった。

 だから約束した。

 

 【罪状なんざ、作り出せばいいだけの話なんだよ、魚ども。】

 

 父が美酒に酔いしれながら話してくれた武勇伝を思い出す。

 それはオハラと呼ばれるとある島の話だった。その真相を上機嫌で語ってくれた、成功したそれを聞いた時の高揚感は忘れもしない。

 脚本を書くのだ。そしてその上で、何もかもが踊る。道化となる。

 涙も笑いも、演出を取りまとめるスパンダムにだけ捧げられる、一回きりの公演だ。

 

 【今回も楽しませろ。オレ様を。】

 

 思い通りにならなかった事など、ひとつもなかった。

 全てがスパンダムにひれ伏すようになる。その光景を想像するだけでなんともいえない高揚感が湧き出てきた。

 そうだ、そうでなくてはならない。

 世界を支配する政府の暗部を担っている己に、誰もが敬意を示すのが当たり前なのだ。

 

 【このオレ様を怒らせた罪、その身で購ってもらおうか。

  誇りに思うが良い。哀れな魚どもよ。正義のための尊い犠牲に選んでやったのだから。】

 

 スパンダムは脳内で脚本を練り始める。

 世界を丸く、滞りなく治める世界政府の影、その執行者である自身がより富むために。

 散々部下が苦労して調べ上げた情報だ。待つ時間が苦痛だった。その苦い思いすらも舞台に上がる役者達へと擦り付けてゆく。

 

 そうして思うのだ。

 10年以上続くこの大海賊時代に終止符を打ち、政府の中枢がある天空の台地に座す役に就任するのだ、と。

 

 ああ、使える。廃船島には船がいくつも転がっていたはずだ。

 工作部隊がそろそろ到着する。光の正義である司法船が襲われるなど前代未聞の事態となるだろう。

 CPは中央政府の中でも厳格な組織だ。

 まさか、とは思いもしないだろう。目当てが無くとも、あつらえば良いだけの話だ。

 

 指示を、出す。

 黒服の男達は黙ってうなずいた。

 

 「さあ、始めようか」

 

 スパンダムがゆっくりと立ち上がる。

 その胸中はT・ワーカーズに属する魚どもに光と闇の裁きを、その鉄槌を叩きつける事のみがあった。

 すぐに身をもって味あわせてやろう。

 楽しみにしていろ。

 

 怒りを押し固め、いびつな狂気を表情に、スパンダムは動き出す。



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14-凶器を生む腕

 

 さすがに4日間、連絡なしの外泊はよろしくなかったらしい。

 義祖父であるガープは街中なのだから多少放っておいても死にはしないだろう、と放任を推奨していたがその他が黙ってはいなかった。世間では11歳の少女が、いくら成人した海兵相手と手加減なしで模擬試合が出来るとはいえ、未成年であるならば保護が必要である、と考えるものだと上司に諌言したのだ。そうして中将は真面目に部下へ謝罪し捜索を指示、命令を受けた数人がグループを組み町の表裏を探しまわっていたという。

 知った後、そっと心の内で胸をなでおろしたのは言うまでも無い。

 

 アンはといえば久し振りに顔でも見せておくかと、ほくほく顔で宿に向かって歩みを進めていた。

 思いの外切りだした肉が大量になってしまった為、トムから小さな荷台を5つ借り、電車のように繋げて水路横の通路を地道に歩いていたのだ。

 干物にすれば味が濃くなって旨い。

 そう聞けばやってみたくなるのが人情だ。駄目元で聞いてみれば、無事船の建造が終わったのだからいいだろう。商品である船を納めた後、次の受注が入るまでならば、とココロの指示に従い男達がせっせと太陽の下に薄く切られた魚肉を並べ続ける事となった。そして2日経ちようやく終わりが見えた頃、朝昼夜と投入しては食べていた鍋の出汁も見事に煮詰まり、脂肪が薄い赤みと野菜、白米を投入し宴会が始まった。

 酒などはない。下請けで得た金銭は余りにも少なく、次に受ける仕事の仕入れに足りるかどうか。資金繰りは厳しい。いつもの自転車操業だと誰もがわかっている。

 しかしトムは陽気だった。手がけた船が海に浮かび、白波を立てて走る。それが嬉しくて仕方が無いのだと笑った。

 その様子を見る弟子ふたりも、いつものことだ、でもこれがトムなのだと笑んだ。

 アンはそんな4人を見ながら表情をほころばせる。

 

 そうしてアンは義祖父の下へと帰り支度を始めた。またトムの元へ戻ってくるつもりにしていたため、鞄は預かってもらっている。フランキーからも出来るだけ早くに来い、と強く呼ばれている。アイスバーグ曰く、会話のレベルが似通っているから楽しいのだろう、との事。もちろんフランキーは即座に否定していたが、話していて楽しいのは確かだ。

 義祖父に対し構えているわけではないが、どちらのほうが肩の力が抜けるか、で比べるなら、トムの側のほうがそうだと言えた。だからすぐに引き返すつもりにしていたのだ。

 何か騒がしいなぁ、と裏通りから表に出た時に海兵達とばったりと出くわした。

 どこに行っていたのかと肩を尖らせる者、安心したと肩を丸める者、誰もがアンの事を心配していた。

 していなかったのは、自由人の義祖父だけだ。

 初めての感覚にくすぐったくなりながらも、声をかけてくれるひとりひとりに、ごめんなさい、を伝える。

 

 宿に着くと、ボガードから静かに言い聞かされ、義祖父には楽しかったか?と問われた。

 もちろん答えはYES、だ。

 内心でフランキーにすぐ戻れなさそうだと謝りながら、かけられた言葉を噛み締める。

 持ちかえった荷台の山はすぐさまどこかに運ばれて行った。その際に塩焼き希望と伝えるのも忘れない。どこで貰ったのかと聞かれても、満面の笑顔を浮かべるだけだった。

 どういう環境で育ってきたのか。口が堅く古株であればあるほど、知っている。だから誰もがとやかくは問い詰めなかった。

 「食べきれないからって、分けて貰ったの」

 そう発言するアンを尊重したのだ。

 宿の料理長が腕まくりをし包丁を手に奮闘し始めた頃、アンは義祖父に連れられるまま部屋に入る。

 広い部屋だった。窓からは遠くに海が見える。観葉植物が置かれた室内には、ソファーや簡易のキッチンまで付属していた。

 そして一番目を引くモノと言えばやはりこれだろう。アンは白い山へと近づく。船から運び込まれた書類が床に積まれていた。

 「おじいちゃん、これなに…」

 「ほとんどが訓練報告書じゃ。ほっとけ、それよりも着替えてみぃ」

 たった4日で書類がこんなに溜まるものだろうか。口元が微妙に引きつく。聞けば航海に出るまでに、使うだろう書類を船底近くの倉庫へ運び込むのだという。海軍は組織だ。毎日の訓練や申請などで紙が大量消費される。

 アンの脳内では某歴史の開拓民が行った開墾風景が広がっていた。広大な畑を耕す、契約農場を耕す男たち。

 想像の世界からアンを呼び戻したのは、義祖父の声だった。意図するものに視線が向く。ふたつ並ぶベットの上には、白の衣類が置かれていた。

 「お前の世話を焼きたがる奴らが多くて困っておる」

 こそばゆい感覚の再来だった。

 緑茶を急須で注ぐ義祖父に、わたしもーと茶碗を持ってゆく。

 

 1年に2度ほど、休みを取り様子を見にガープは山へやって来た。

 その殆どは成長を確かめ普段足りていないスキンシップを補う為、という名の肉体言語だったのだが、お土産も忘れず持ち帰っている。

 ゴア王国で手に入らない本をねだったのも一度や二度ではない。うっかり者の義祖父は忘れて帰って来るのも多かった。しかし、必ずと言って持ちかえって来ていたのはワノ国の特産である緑茶と、せんべいだ。

 アンは緑茶をいつも楽しみに待っていた。お茶の香りは懐かし景色を思い出させてくれる。堅焼きせんべいも然りだ。

 家の近くにあった、手焼きのぽたぽたや、七味せんべい、海苔せんべいなど、思い出しただけでも味が思い浮かぶ。

 

 手に取り広げて見ると、制服だった。帽子はさすがにサイズが無かったため用意されてはいないが、ちゃんとアンのサイズに仕立て直されていた。

 「階級は本部についてからじゃな。今は私服でもかまわん。しかし…司法船が港についた後はそれを着用せい」

 義祖父の言に、はて、何か自分もするのだろうか。

 疑問に首を傾げているとソファーに座ったガープが茶をすする。

 「司法船にはわしらがW7に停泊しとるのは伝わっておる」

 その先に続いた言葉は、アンに衝撃を与えた。

 お前にも警備に当たって貰うことになっとるんじゃ。

 

 ちょっと待っておじいちゃん、わたしそれ困る。大切な用事があるの!

 心の叫びに向こう側でびくりと身を震わせたエースはさておき、こめかみにしわを寄せ、急いで予定変更プランを練り直す。どうしても、1隻、一番渡って欲しく無い危険な船舶が敵に奪われそうな気がしていた。否、奪われなくとも作り出せばいいだけの話だ。

 かつて一夜城を作り上げた武将が居た。

 勝つための方策として、出来るはずの無い城をその場にたった一夜で出現させた男がいる。

 作り話だと誰もが思うだろう。だがそれは、一夜城は創作ではない。事実だ。

 その男のように、トムを訪ねてきた男はするだろう。あの男の目は、権力を欲し、貪る鬼畜のそれに見えた。

 敵対相手は政府の裏組織であろう予想から、夜の闇に紛れて工作するなどお手の物だと予想している。

 フランキーの大切な船を使わせてなるものか。そのために大量の涙を飲みこんでもらい最新を残して壊しつくしたのだ。だが必死に考えても、何も思い浮かばない。アンがトム達の側に居ることを前提に、何度も作戦を練ってきた。しかし現状が、義祖父の言からしても行かせてはもらえない確立が高い。何とかしたい気持ちだけが高まる。

 アンは義祖父の横にちょこんと座り袖を掴む。こうなれば実力行使だ。力押しするのはアンの流儀では無かったが、今回ばかりは仕方が無い。

 どうした、と目で問う義祖父に声の音域を下げる。

 「ねぇおじいちゃん。ちょっと裁判の日、注意して欲しいの。何事も無ければいいけれど、何かが起きたときは、そうなったら許してね」

 意味ありげな孫娘の言い方に、ほほう、とガープは楽しそうな笑顔が浮かべた。

 「わしにも言えんことか」

 アンは思わず息を飲み込む。

 「海軍中将のわしじゃなく、お前の祖父としてでも言えんか」

 じ、と見つめられる黒にアンは手を上げたかった。目の中にある光には見覚えがあったからだ。誰だというまでも無く、確かに血縁だと意識してしまう。

 「これは、ひとりごとなんだよ」

 アンは天井を向く。

 「町で聞いたんだ。最近この辺りにどくろが頻繁に出るんだって。ただのどくろじゃない。蛇なんだって。繋がってるから多少はあったんだろうけど。このごろは凄いらしいんだ。近々港に豪華客船がやってくるってもちきりだったから、もしかすると、って。その船ってさ、頻繁に出るわけじゃないんだよ。もし目をつけられたら危険だと思ったんだ」

 「ほほう、噂は怖いのう。わしも独り言じゃ。10あるうちの何本目かのう」

 「天井って白いんだね。あの電灯9本とか10本とか使いすぎだよー」

 

 交わった視線が絡み合う。

 「気分を変えるためにも着て見せてくれんか」

 「うん」

 アンは短く答え立ち上がり、着替えてみる。

 仕立てられた制服に袖を通し赤のリボンを胸の前で結んだ。海兵が普段身につけるリボンは青と決まっているが、適当な長さのモノが無かったのだろうと勝手に納得する。

 「この服を着たら、気軽におじいちゃん、って呼べなくなっちゃうね」

 「そうじゃのう。けど呼んで貰って構わんからな。わし気にせんし」

 暢気(のんき)だなぁ、とアンは思う。しかしこの気の良さが、義祖父のよい所でもあった。ガープ中将、を船に乗る誰もが悪くは言わない。上司である事実は横に置いても、ひとりとして居ないのだ。

 

 自由奔放で、破壊魔で、どこでも寝落ちて。ああ、この寝落ちるのは一家の遺伝みたいなものだから関係ないかと思い直す。けれど、艦の誰もが義祖父を慕っていた。

 長く中将と言う責任ある立場に立ち続けていられるのも、この人柄だからだろう。

 年功序列ではないが、力の衰えた老兵は第一線を退き新人育成などの後方育成に回るのだとという。この歳になっても中将という肩書を背負っていられるのは、さすがとしか言いようが無い。

 

 ところでおじいちゃん。

 急須持ったまま寝ないで?その鼻ちょうちん壊してもいいかな。

 「おきろっ!!」

 アンの大音声によって海兵達が駆けつけるという、後に常習化する祖父子喧嘩がここから始まった。

 

 

 判決まで残り24時間。

 司法船が到着したとの報を受け、アンは義祖父と共に4番ドック前に停泊した世界政府の船舶へとやって来ていた。

 戦艦よりは小ぶりだが、中央にはエニエス・ロビー、世界の法を司る裁判所と同じ造りの建物が在している。中は司法所というより教会のようだった。

 義祖父はなにやら裁判長と話をしている。耳をすませば聞こえるだろうが、盗み聞きは無粋だろう。

 

 待機を言い渡された列で、アンはこっそりと仲良くなった海兵から、エニエス・ロビーについて話を聞いていた。

 不夜島と呼ばれる特殊な立地に司法の砦はあるという。夜が来てもその島の周囲は決して闇に包まれない。世界政府という光が不変である、との象徴も含んでいるらしい。

 「アンもその内に行けって言われるぞ、エニエス・ロビー」

 「なぜ?」

 「六式の道場があるからさ」

 身体能力が高く、資質が認められた人員が集められ厳しい訓練を行っているという。

 しかもこの島はサイファーポール、略してCPという世界政府直属の情報収集機関の本拠地となっていて、集められたメンバーから史上最強と言われるチームが結成される、との密かに囁かれてもいるそうだ。

 「CPはやだなぁ…」

 野心ばかりが大きく、無能なくせに言動だけは傲慢な上司にはつきたくは無い。

 しかし勿体無いと海兵達は言う。給与が全然違うんだ、と。

 危険な仕事に対する報酬が膨大なのは、当たり前の話の話で…

 

 「終わった。帰るぞ!!」

 アンも居並ぶ海兵達と同じように挙手敬礼に習う。順次歩き出す背中を追って背を壇(だん)に向けると、視線を感じ振り向いた。先ほどまで義祖父と話していた裁判長がアンを見ている。孫娘の話題も話したのだろうか。ぺこりと一礼して列を追った。

 

 当日は大勢の住民が押し寄せてくるだろう、ということでガープ中将率いる一軍は港の周辺の警備に当たるという。船の出来上がりは明日らしく、結審の時間には船を浮かべられない。

 「で、どこら辺からの予定なんじゃ」

 さあ。そこまでは。

 にやにやと楽しそうな義祖父に問われても、言いようが無かった。夢では方向まで確かめられない。あっちっぽい、という不確かさであれば伝えられるが全方向にまんべんなく目を配った方が対象物を見つけやすいだろう。

 「おじいちゃん、楽しそうね」

 「まだ隠し玉があるじゃろ」

 さあ。それはどうでしょう。

 わざわざ手の内を見せるほど素直では無い。爪は隠すに限る。それがたとえ肉親であっても、だ。

 

 「じゃあお爺ちゃん、ちょっと出かけてくる。遅くても朝には帰るから」

 「行って来い!!!」

 行かせるのか! 飲み込めなかった人員から幾つか声が上がる。朝帰りなどなんのその。義祖父は海兵達の突っ込みなど気にはしない。

 「大丈夫。危ない事はするけれど、怪我しないように頑張るから」

 やるんかい!! 今度こそ全員が声をそろえた。

 ガッツポーズをするアンに、義祖父で鍛えられた皆の突っ込みが炸裂する。

 「えへへへ」

 やっぱりガープ中将のお孫さんだ。

 と言う声がどこからともなく聞こえてくる。

 心外な。おじいちゃんよりましだと思うけれどなぁ。頬を膨らませて抗議するが、頭を撫でられ頬を突かれ、揉みくちゃになって終わってしまう。

 

 ちゃんと帰って来ると何人もと約束し、アンは町中を走る。幅のある水路も一飛びだ。先日鞄を拾ってくれたおじさんを見つけ手を振る。最初は吃驚していたものの、笑顔で振り返してくれた。

 本を投げ捨てた3人ともすれ違う。

 その中のひとりがアンに気付き、顔を引きつらせた。

 「…ほどほどにね?」

 ごくり、と喉が鳴る音が聞こえる。それ以上は何も言わない。

 

 階段倉庫を横切り廃船島に降り立った。

 受注を受けていた船も仕上げに入っているようで、細かな微調整をしているアイスバーグを邪魔しないようトムに抱きつく。

 「似合うじゃねェか。わざわざ見せに来てくれたのか。たっ…!!…!!…!! ケッサク!」

 「馬子にも衣装だな」

 かんなを止め、汗を拭うついでにアイスバーグが唇の端を上げる。

 「うわ、さらりと酷い事言われた」

 アンはトムから降りた。

 「フランキーは?」

 尋ねるとアイスバーグがくい、と親指を浜辺の方に向ける。

 「懲りずに36号造ってる。あのバカンキーが…!!」

 苦い感情が言葉に混ざっていた。

 

 「なら35は壊してもいいよね」

 「手伝おう」

 目を細めた小さな破壊魔の発言に待ってましたと大振りのハンマーへ手を伸ばしたアイスバーグがにやりと笑う。

 アンも拳を握り、35号へ迫った。

 「待て待て待て待て!! まだ壊すな!! おれの大切なバトルフランキーなんだ!!」

 さすが生みの親であるだけのことはある。虫の知らせか第六感か。

 両手を拡げ、必死の形相で制止する。

 「…この戦艦がもし、使われたらどうするつもりかな」

 にこやかにアンは問う。

 「何に?」

 「司法船の砲撃に」

 さらりと恐ろしい事を口にするアンをアイスバーグも何事かと見る。

 単発の言葉ではなかった。

 もしも、があるならば、だ。アイスバーグは続々と背筋を駆け抜ける冷たい何かを必死に無視する。

 明日がその日だとこの島の住人ならば誰もが知っているだろう。だが、と思い、ああ、と思いなおす。海兵であれば来ると知っていてもおかしくは無い。だが司法船が砲撃されるなど、誰が行うのだろうか。そんな恐ろしいことを誰が実行できるというのだろう。

 一番の疑念は、どうして砲撃されると言い切れるのだろうか、の一点だ。

 

 「上手く裏から手を打つとか、暗躍してこっそり工作するとか。考えても全然いい方法が浮かばなかった。苦手って言うのもあるんだけれど正面突破しか思いつかないんだよ」

 何の話をしているのか、フランキーにはさっぱりだったが、アイスバーグは理解した。

 「設計図…」

 アンは無言だった。

 「それとこれとは話が別だ!!」

 咄嗟に否定が出たが、心のどこかで間違いではないと叫ぶ何かがあった。

 「司法船を襲撃した犯人なら街の人達は喜んで差し出すよね。CPもそっちの方がひっ捕らえやすいし。法的にも、ね。海軍にも裏組織があるみたいなの、しかも相手は此方側の都合なんて知った事じゃない」

 

 「おれの船はそんなことしねェよ!!」

 バカンキー、アイスバーグはそうつぶやく。結局解っちゃいのだ。

 「例えば、の話をしようか」

 アンは廃材として足元に転がっている一本の鉄パイプを足で器用に立て、手にする。

 この鉄パイプ。トムさんやアイスさん、フランキーが手にすれば船の一部となり、向こう側の岸を目指す船の一部となるでしょう。けれどこれをわたしが持った場合、武器に変わる。この木の破片だってそう。わたしは人を傷つける道具に出来るよ。

 「こういう風に、ね」

 アンが振りかぶった鉄パイプが風鳴りを起こした瞬間、その先に形を残していた船尾楼が凄まじい音を立て破壊された。

 だから壊す。憂いのあるものはすべて。トムを連れて行かせないために。

 「ここまでやっても、相手は何手も先を考えて回り込んでくるだろうけどね」

 権力とは麻薬だ。一度味わってしまうと、より強い刺激を求めて、次々と欲してしまう。

 

 「フランキー、物事はね、起きてからじゃ遅いんだ」

 いいか、おれ達の腕は、この世に凶器を生む腕だ。例えお前にその意思が無くても…凶器は構わず誰かを傷つける。それがお前にとって大切な人間でもだ。

 いつになく静かな声で、アイスバーグは語る。

 作られたものには罪はない。ただ、その作られたものが悪意ある誰かに使われることによってもたらされる結果が制作者の罪とされる場合もある。まさしく今回のように。

 

 「覚悟はある?自分の造ったものが誰かを傷つけ、トムさんの冤罪を本当の罪にしてしまう可能性が起きたとしても、この船は自分のものです、と胸を張って言う自信、あるのかな」

 

 強い意思が籠った目に、フランキーは思わず身を引いた。

 「アイスバーグ、アン、それくらいにしてやんな。明日どういう判決が下っても、ドンと受けてたつさ!!」

 どっこいしょ、と今まで静観していたトムが立ちあがり、ぽん、とふたりの肩に手を置く。

 「いやだ、少しは抵抗してよ、トムさんお願いだから。自己犠牲なんかクソ食らえ」

 張り詰めていた空気がぷつん、と途切れた。

 

 「35の動力、全部切断しとくよ…」

 「ンマー、ならおれが今からしてやる。船大工技師じゃないと、直せないような切り方でな」

 

 脱力し足に力が入らなくなったフランキーに代わり、アイスバーグが船に乗り込み口元に濃い笑みを浮かべる。

 「…手加減しろよアホバーグ」

 多少、ではなくかなり納得がいかない顔をして、フランキーは悪態をついた。

 



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15-判決の行方

 爆音が轟く。

 一度に飛んでくる弾の数は7、身体がついていかずどうしてもひとつふたつを取りこぼしていた。マストが折れ、船は炎が立ち始めている。

 港は阿鼻叫喚の様子を見せていた。耳をつんざく、悲鳴が煩いほど聞こえてくる。

 海軍の一部隊が駐屯しているといっても、大砲の弾を受け止めたり、追撃したり、叩き斬る力を持った戦力は少人数だ。ほとんどは普通の人間であり、弾が当たれば即死するし、剣が当たれば血が噴出し出血多量で死に至る。

 アンは自分の身ながら、特殊だと思っていた。トンビがタカを生む。とは少々違うか。世間というには狭いが、アンはガープの孫なのだ。親世代は出ていないものの、隔世遺伝として孫に磨けば光る玉が生まれた、となっているのだろう。

 

 義祖父も陸側から砲弾を投げ、撃ち落としてくれてはいるが、爆風がこちらに熱を含んで大量に流れて来ていた。

 空は快晴、風も防衛を応援してかいつもとは逆方向から吹いてきている。

 そのおかげもあって町のほうへ爆煙が流れずにいることには感謝だが、

 

 「っぅ、けほ、こほ……」

 

 アンに黒煙がまとわりついてきていた。体中真っ黒だ。煤を手の甲で拭いながら、敵認定した、忌々しい船を見る。

 

 小型船が3隻、どれも武装を施された船だった。

 夢で見ていたような、手に負えない破壊力では無い。

 フランキーの戦艦を連日かけてきっちり処理したことで、見続けていた夢が途絶え未来が方向性を変えたのだ。

 しかし本来の流れを補足するように、敵側に強力な砲が与えられている。

 全てでは無い。

 だが弾を打ち出す砲のいくつかは、バトルフランキーに積まれていたものだった。浮かんでいる船も廃船島のどこかから調達したものだろう。撃ち出される弾の攻撃力もさすがに強力だ。既製品にフランキーが独自の改良を加えた特別砲は、射出時に二重の爆発を行わせ弾の威力の底上げする。目についたものは叩き壊すか分解するか、の2択をしていたのだが、どうやら昔の型や作りかけで放置されていた砲が再利用されているようだった。

 

 覇気を守りとして纏い、鉄塊を使って弾をはじいても掌がビリビリと痺れてくる。

 ウォーターセブンへ辿り着くまでに多少は持ち得る力をかさを増したものの、このままでは歩が合わない。そんな事を考えていると後方より声がした。

 「まだ右方向の詰めが甘いですよ、平面として捉えなさい」

 「ボガード副長!」

 鉄弾が真っ二つに割れ、爆風を生みだす。

 煙はもちろんアンを直撃した。風の関係でどうしても被ってしまうのだ。火薬を含んだ爆風を受けて、既に服も体も真っ黒になっている。

 「中将からのお言葉です。首根っこ押さえて来い、だそうですよ」

 待っていた報だった。

 海軍は世界政府の下部組織だ。海賊に対しては優先的な決定権を持つものの、近くに町がある場合はその国の要請がなければ手出し出来なかった。何度も繰り返すが、海賊に町が襲われている場合であれば、ガープが指揮権を行使出来るが、その他である場合、町からの要請が必要となる。

 

 司法船に限っては世界政府直属の船だ。

 中将と裁判官の口裏あわせでなんとでもなる。が、町はまた別なのだ。

 

 「行ってきます、副長」

 

 司法船を足場に剃と月歩で砲弾を弾いていた体が空を駆ける。

 目指すは3隻の船、出来れば操っている人員の確保だ。

 「思い通りになんかさせるものか」

 強い意志が言葉に籠る。

 

 司法船の中では砲撃が続く中、ひとりの人物が壇上に座したまま目をつむっていた。

 「裁判長もお早く!! 集まっていた住民の避難、全て終わりました!!」

 

 何者かが司法船を狙っている。

 という噂を聞いた。

 ガセである可能性も高いがしかし、もしものためにお伝えする。

 

 昨日、中将が帰り間際につぶやいた言葉を裁判長は反芻(はんすう)していた。

 この日に司法船がW7へ入港する事実を、町の人々は知っているはずだ。海賊王の船を造った人物とは言え、この町を憂い、海列車という希望を造り出した男でもある。

 免罪であることが既に決定されていた。

 判決はこの施設の中で言い渡されることによって、効力を発揮する。

 司法船を攻撃すること自体、罪問われる行為だ。

 誰が何のために起こしたのか。

 

 今日この場で無罪が確定すると困る人物が紛れ込んでいるのではないか。

 

 裁判長は示された事実だけを元に、己の良心へと問うのが仕事だ。

 裁判長自ら、基となる事件の詳細を調べに赴く事は無い。調べたり情報を集めるのは他の機関が行うからだ。

 通常、世界政府が危険人物であると判断を下した極悪人の場合、こうして司法船を送りだす事無く特殊部隊が身柄を確保し、そのままエニエス・ロビーに連行される。出されると言う事は、罪ではあるが許容されるべきだと暗に示されているようなものなのだ。

 

 真相は果たして。

 光が当てられるのか否か。

 裁判長は爆音が鳴り響く中で深い息をつく。

 

 その頃スパンダムは双眼鏡を手に、司法船から上がる煙を満足そうに見つめていた。

 海軍中将がこの町に駐屯していると知り多少の動揺はしたものの、計画は着々と思い通りに進んでいった。廃船島と呼ばれる場所にあるはずの船が見当たらず、多少の時間は食ったものの諜報部員達は想像していた以上の働きをしてくれた。

 パーフェクト、という言葉はこういう時にこそ使うものだろう。計画に落ち度はない。

 『正義のための犠牲』とは、なんと甘美な響きを持っているのだろうか。

 

 「さぁ、裁判を始めようぜ。トムズ・ワーカーズ……」

 

 

  ある程度のダメージを与えた武装船は、廃船島に戻ろうとしていた。岸にはトムとアイスバーグの姿が見える。時間との戦いだった。

 「そう…正義のための犠牲、ね」

 音も無く静かに1隻の船の上に降り立つ姿に、黒のダイバースーツを着込んだ男たちがおののく。急いで海に逃げようとする姿にアンはありったけの威をぶつけた。ぷかり、と波間に3つの背が浮かぶ。

 

 覇気だ。

 まだうまくコントロール出来ない為、広範囲に余波が及んでしまうが今回ばかりは致しかたない。自身にもぞくりとする感覚が走る。自らの内にある畏れだ。頭(かぶり)をふり、振り払う。

 舌を噛まれて自害されるとあとあと面倒なので、引きあげた男達に転がっていた麻のロープを使ってさるくつわを作り噛ませた。世の中には変わった趣味を持つ人達も多いようで、フーシャ村の書庫には縛り方事典なるものもあったりする。主な用途として、獲物を持ち運ぶ時、便利だなーというそれだけで結び方を練習したのだが、こんな所で役に立つとは思いもしなかった。

 3人を個別に縛り上げ、それぞれが動くと縄が食い込んで痛みが倍増するように、結合してから港へと船を移動させる。

 

 その際にアイスバーグとトムに手を振った。目の良い二人なら、見えるだろう。見えてください。半ば願いだったが、大きくバツを頭の上に作り、教える。来ないで、と。

 放心状態から回復したアイスバーグが遠くで見える姿に最初は首を傾げていたが、ぽんと手を打ち合わせ走り寄るのをやめた。指でサムズアップしその場で手を振る。そこへフランキーが合流した。

 「トムさん、大丈夫か!?」

 「なあに、まだ何も起きてねェよ。ところで今日は珍しく、ズボンを穿いてるな」

 「見んのそこじゃねェだろう!!」

 フランキーは観点のずれたトムの言へ、迷わず突っ込みを入れた。そして遠ざかってゆく船に、よく知った顔を見つけ、つぶやく。

 「…アンがいる」

 「ドーンと何かやらかしたな」

 三人は船を見送るがしかし、不意をつくように後方から声が降った。

 「さぁーて、我々も向かいましょうか。司法の場へ」

 

 

 

 港では医師が飛びまわっていた。

 突然その場で気を失うという、怪奇現象も重なっててんでわんやと騒ぎになっている。

 さすがに義祖父や同乗していた海兵達は幾度かの経験があったため、冷静に状況を判断し対応しているものの、裁判長や護衛の将校は気を失ってはいないまでも何か落ちつかない心持のようだった。乗組員達に至ってはの殆どが倒れ泡を吹いている。

 

 そこへ襲撃犯を連れて来たと宣言する男がやって来た。

 スパンダム、だ。

 「ご安心を皆様!! 襲撃犯は我々、CP5が仕留めました!」

 声高に両手を後部に戒められた3名の人物を広場へ押し出す。

 人々から声が上がった。

 世界政府の役人が連れて来たのは、ウォータセブン再生のきっかけを作った人物達だったからだ。

 トムがなぜこんなことをしたのか、と。裁判を待てば罪が消えただろう事を。そして結局は海賊王の船を作った職人は、魚人という種はやはり野蛮人なのだと罵る声さえざわめきの中に発せられる。

 

 「どうもお初に…奴らの身柄は我々に…!!! 取り調べをしたいので」

 初見である人々には分からないであろう。そもそも政府の機関は隠密に、人々の目が届かない場所で事に当たる。大手を振って表側にある存在ではない。

 だが人々は存在を知ってはいても、はじめて見る政府機関の言葉に唖然としていた。

 握手を求める手に、裁判長は応じる。

 「ああ、君達も居たのかね…」

 

 人々には聞こえない。

 だがガープの耳には届いた。

 居たのか、と。それは明らかに打ち合わせの無い接触だと推測できた。

 孫娘の類稀無い、先々の事象を読む目に口の端が緩む。片鱗は見せていた、のだろう。しかしここに来て化けてきた。否、ごまかすのを止めた、のか。

 エースがあり、アンがあり、そしてその中央にルフィがある。

 あの島で、あの環境で、真っ直ぐとはいかないまでも、間違った方向に進まなかった理由を垣間見た。

 

 

 「よいしょっと」

 年齢にはそぐわない掛け声と共に、アンは海から陸へと上がった。

 上った場所は司法船が停泊するコの字型の埠頭の端っこだ。海兵が町側に向かい整列しているため、アンの姿は見えないだろう。

 縄で縛り上げた捕虜をひとりずつ、引っ張り上げる。

 途中でゴンッ、とかガシッとか音が立つが仕方が無い。人間である以上、激しい運動の後は疲れるのだ。

 証拠品を繋ぎ、捕虜を引きずる。

 耳障りの良くない声が聞こえるが、無視だ。アンにとっては雑音に過ぎない。

 ついでに見るに耐えない男の横顔も脳内でこんにゃくに変換した。そうすれば目が腐らなくて済む。

 

 アンは周囲を一通り見回した。

 中央に生贄が3人、引っ立てられ、検事役に浸った末端役人が口舌を披露している。

 とんだ茶番劇だ。見る価値も無い。

 しかし町の人々は違う。姿を見せないはずの役人が、人々の目の上のたんこぶとも言える、海賊王の船大工を吊り上げているのだ。

 多くが冤罪と知っている。だが長いものに巻かれなければ生きてはいけない世界だ。

 世界政府に意見をしようものなら。誰もがわかっていた。

 世界の支配者は紛れも無く、政府なのだ。

 

 アンは海兵たちを盾に、隙間からCP役人の後ろで縛られている3人を見る。

 抵抗したのだろう。ところどころに赤い染みが見えた。

 

 

 簡易ではあるが、テーブルと椅子が用意され、そこに裁判長が座している。

 裁判の判決はここで下されることとなった。延期は無い。

 向かって右側にスパンダムが、左側に義祖父が立つ。

 引きずっているにも関わらず、覇気をモロに受けた3人はまだ目を覚ましてはいなかった。成り行きを見守る。

 

 木槌が打ち鳴らされた。判決の時間だ。

 「まずは…"海列車"の件。見事という他に言葉は無い。これから先、このウォータセブンの発展に深く貢献してゆくことだろう。それによって…前科、G(ゴールド)・ロジャーの海賊船製造の罪は今日、免罪となる」

 しかしながら…

 「先ほどの襲撃はお前達であるという言が上がっている。なぜ罪を重ねた」

 

 「ふざけんな!!」

 裁判長の言葉を遮るように叫んだのはフランキーだ。

 襲撃犯では無い、本当の首謀者はスパンダムというバカ野郎だ、と主張するも周囲からは嘲笑がわく。そんなことあり得ないという笑いだ。

 「政府機関のCP5が司法船を沈めてなんの得になるって言うんだ!!」

 「全く、バカなのはお前だよ!!」

 フランキーは強く歯を噛みしめる。大笑いする政府機関に反論すら出来ない。

 「カティ・フラムと言ったかな…!? そもそも我々は船に乗っていた君らを"現行犯"で仕留めたんだぞ!!」

 「廃船島には居たが船には乗ってねぇ!!」

 「では襲撃の船は君たちのものだと言う証拠を持ってきても構わないのだがね!!!」

 勝ち誇った物言いに何を言っても無駄なのではないかと歯ぎしりし、フランキーは叫ぶ。

 「あんな船、おれのじゃねぇ!!!」

 

 その瞬間、トムは掛けられていた手の枷を引きちぎり、フランキーの頬を殴る。

 回りを囲っていた人々が騒ぎ始めた。海軍も銃を構える。

 「トムさんが…初めて…フランキーを殴った!!!」

 アイスバーグは驚きのあまり、膝立ちになる。

 

 「”おれの船じゃねェ”!!? フランキー…それだけは…言っちゃいけねェ!!!」

 トムは見ていた。

 打ち捨てられた古い型ではあったが、まぎれもなくフランキーが作った砲が船に積まれていた事を。

 どんな船でも造り出す事に、"善"も"悪"も無い。この先お前がどんな船を造ろうと構わねェ。

 だが…

 

 「生みだした船が誰を傷つけようとも!! 世界を滅ぼそうとも!!! 生みの親だけはそいつを愛さなくちゃならねェ!!! 生みだしたものがそいつを否定しちゃならねェ!!! 船を責めるな!!!」

 

 びりびりと震える空気の中、師匠が弟子を諫める。

 そう。どんなに疎まれる、世界にはた迷惑な命であっても。父と母、そして義祖父は大切に守ってくれた。それと同じく船にとってはフランキーが父であり母なのだ。

 アンはトムの言葉に涙が出そうだった。

 

 「造った船に!!! 男はドンと胸を張れ!!!」

 

 静寂が生まれた。

 トムの口が何かを伝える。ふたりの弟子が、師匠を見上げた。

 正論だ。しかしトムの言は、スパンダムを助ける証言となった。なぜなら、使われた船はカティ・フラムが製造したものである、と。そしてどういう経緯があったにせよ、使われてしまったのだ。脅威となるものを放置していた。その責任はカティ・フラム及びその兄弟子、アイスバーグとその師であるトムの監督責任である。とも取れた。

 

 視線を上げたトムが見据えるのはスパンダムだ。

 自分の造った船を…その一部であれ汚れない船をこんなことに使われて…悔しかろう。

 

 トムが動いた。大きな体に見合わない速さで距離を埋め、スパンダムに拳を振り下ろす。

 しかし。

 「魚人、暴れるな。ここは仮設といえども神聖な裁きの場だ」

 間に割って入ったのは、アンだった。

 トムをアイスバーグとフランキーが座す場所まで吹き飛ばす。

 「よくやった!!」

 スパンダムが喜びの声を上げるが、無視した。心の中で呪詛を唱えても余りある。

 「ガープ中将閣下、遅くなり申し訳ありません。裁判長、このようないでたちで失礼致します」

 アンは敬礼を取り、引きずっていた3人の男を放る。

 「報告致します。司法船を襲撃していた船舶を操っていた3名、確かに捕らえました」

 「御苦労」

 腕組していたガープがにやりと笑む。

 

 裁判長も少女の衣服が火薬とすすで汚れ、海に入ったのか濡れたままの姿を見た。そして昨日退出の際にぺこりと頭を下げた人物だと知る。その上で船を守ってくれていたのはこの小さな人物だったのかと結した。

 

 「襲撃犯はあそこにいる者たちではなく、今この場へ連れて来たこやつらなのだな」

 「はい」

 アンははっきりと応える。

 

 視線が向くのはスパンダム、だ。どういうことなのかと、裁判長から質疑の声が放たれる。

 「船に乗っていた被告らを"現行犯"で?」

 裁判長の言に、男はしどろもどろといいわけを始める。誰もに聞こえるよう、裁判長は大きく息を吐き、もういいと制止した。

  

 「冤罪、を持ちこんだという認識で構わんな、CP5」

 裁判長は声高に宣言する。

 「はっ、異論ありません」

 スパンダムには言い返せる言葉が無かった。欲しいものがあるのだ。今すぐにでも欲しい。だが欲を焦って足元を崩しては元も子もないとも理解していた。

 今回ばかりは緻密な計算をし尽くした計画でない。様々な不足を補っての作戦だった。穴がある。突っ込まれ放題だ。ここは一旦ひくべきである。そのほうが得策だ。そう血が判断した。

 

 

 「魚人、トムに判決を言い渡す。前科、海賊船製造の罪は海列車の件にて無罪とし、司法船襲撃の件はCP5の確認不足のため冤罪とする!! ただし、未遂といえど政府機関関係者に危害を加えようとしたのは明白である。暴行未遂に関しては後日通達するものとし、裁判を閉会とする。以上だ」

 

 襲撃犯をひっ捕らえろ!!

 ガープの声に、海軍が動いた。余りに固く、解くのも一苦労する結び方であるため、ずるずると引きずられてゆく。

 「わしが魚人の身柄を預かろう。裁判長、よろしいかな」

 「中将でしたらお任せ出来るでしょう」

 スパンダインがトムはこちらで…と言おうとしたところを、すかさずガープが言葉を割り込ませる。だがしかし、海軍預かりになるならば、こちらに引っ張って来る事も出来よう、と追言は避けた。形は違っているものの、連行出来るのには変わりが無い。

 

 再度手錠をかけられ、連れて行かれようとするトムが一言、フランキーに語る。

 「フランキー、おめェ…自分を責めるなよ」

 

 まさか政府に設計図を狙われるとは…ロジャーの件でわしは不利な立場にいたな。

 小さな声はまだ続く。

 アンの名前を呼んじゃなんねェよ。

 

 解放された弟子たちにココロが駆け寄っていた。一度も視線を合わせてこなかったアンに、どうして、という思いをフランキーは抱える。

 「トムさんはもう…助からねェよ……」

 連れて行かれる先は、エニウス・ロビーかはたまた海軍本部か。

 どちらにしろ、もうこのウォーターセブンへは戻って来られないだろう。

 ココロが唇を噛みしめて言う。

 あそこへ向かった罪人が帰って来たためしは一度だってねェんだ、と。

 「…も汚ねェヤツらの一味か」

 「いや、トムさんを守ってくれたんだ。あそこで殴れば、問答無用であいつらに連れて行かれてた。爺さんなんだってよ。悪いようには…ならないと信じる」

 

 それでも。

 フランキーは立ちあがる。

 「ココロさん…アイスバーグ…、おれ、やっぱ無理だわ」

 意気揚々と引きあげようとするスパンダムへ、フランキーは肉薄する。手にはこん棒が握られていた。力任せに振り切る。死んでも構わなかった。トムを廃船島から、ウォータセブンから自分から奪おうとするこの男が憎くて仕方が無い。暴れても何もならないと分かっていた。けれど気持ちに整理などつけられなかったのだ。

 なんの為に、大切な船を解体した!

 設計図を守る?

 んなの関係ねェ! トムさんを連れていかせない為だ!! おれはまだ、教えてもらいたいことが山ほど残ってる!!!

 

 「フランキー!!」

 「今度はトムの弟子が暴れ始めたぞ!!」

 「スパンダムさんの顔がまがった!!!」

 

 少し離れた場所でアンはその様子を見ていた。

 「止めなくてもよかったの、って顔に書いてるよおじいちゃん」

 「はて、そんなつもりはないんじゃがな」

 「止めるものか…顔もついでにまがってしまえばいい」

 くすくすとと笑いを含む。ついでに、その存在までもが無に帰せばいいのに。

 年齢に不似合いな笑みを浮かべた孫娘の頭に、ガープは手を乗せ撫でた。

 

 計画が頓挫すればいいわけをする。悪を背負いきれていない小物などどうでもいい。

 世界政府は文字通り、世界を統治している機関だ。定められた法の範囲内であればあらゆる行為は正当化される。

 人の命など関係無い。従わぬ者であれあなおさら、世界にあれば害するものだ。法を守る為なら多少の犠牲は致し方無い。尊い犠牲者として石碑に刻んでやろう。必要だからこそ策を講じた。あいつは世界を滅ぼす兵器の設計図を持っているのだ。

 と、ここまで開き直っていたなら清々しさすら感じられるだろう。

 しかし中途半端だった。いいわけなど見苦しいだけだ。興味も無い。

 既に様々な所がまがりきっているのだから、ついでに顔も成形されればいいのだ。根性もあそこまで歪になってしまえば、もしカウンセラーが居たとしても修正する気すら失せるだろう。

 

 

 「わしらも明日には出航じゃ。列車に乗る裁判長を見送って来る。宿で先に風呂でも入っとれ」

 アンは素直に、義祖父の言に頷いた。

 ここから先、出来る事は何も無い。干渉できる範囲から、物事が出て行ってしまった。アンの手のひらからするり、と零れ落ちたのだ。

 

 

 数時間後。

 トムが海列車に積み込まれたという町の人々の言葉を信じたフランキーが、海列車を止めるために立ちはだかったという話を、アンは聞く事になる。

 

 



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海軍編
16-海軍本部


16-海軍本部

 

 ウォータセブンから数日で、本来の目的地へと到着した。

 青い海の中に三日月形の島があり、その上にはどっしりとした大きな山があった。それに沿うように海軍、と大きく書かれた文字が描かれた建物が中央にそびえ立っている。

 壮観だった。夜更かししすぎて眠い目もぱっちりと開く。

 水の都も綺麗な街並みをしていたが、頑丈であれと造られた、どっしりとした本部の姿はさすがに目を見張った。

 日の当たる時間に甲板に出るのも久しぶりだ。きらきらと光る青のまぶしさに目を細める。

 

 本部に着くまで最低限の訓練と雑用を終わらせると、船底にある牢でいろいろな話をするのが日課となっていた。昼ごはんも皿に積んで下に持って行き、トムと一緒に食べる。大きな体をしている割にはそんなに量を必要としなかったため、アンが持ちこむ量で充分だった。

 「心配するな。CPには渡さん」

 裁判の夜、アンは義祖父に全てを白状させられていた。

 だから短い航海の最中、アンが船底へ通うのを止めなかった経緯(いきさつ)がある。

 

 夜の鍛錬だけは変わらず続けていたが、エースからは今回の件に関して、やっぱおれ海賊の方が気楽だ、と言わせてしまった。海軍の全てが汚れている訳ではない。ただ白いままでは処理できない、大人の事情といういろいろがあるのだろう。

 無い方が望ましいけれど、組織を運営する為、社会生活上、やむを得ず必要とされる物事---必要悪もまた世界にはある。物事の表裏だ。そして兄弟と共に暮らしていたあの地域はその裏側にあたる。裏側で暮らしてきたエースやアンにとって、表の綺麗さは取り繕らわれたニセモノにしか見えないのだ。

 

 エースには思うがまま、やりたいようにすればいいと、それだけを初日に念押しされた。

 そのほかは他愛の無い、ルフィーがワニにまた丸のみされたとか、幼い頃に放り投げられた谷に向かっているだとか、マキノが服を届けに来てくれたとか。

 森での生活を、瞼を閉じれば思い描く事が出来た。

 

 (そういえば"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"に人が戻って来てるって言ってたのは?)

 (ああ、お前が言ってた通り、ゴミの投棄が始まったんだ。門が開いてる間は軍隊が銃を撃ってくるけど、ありゃ威嚇だな。締まった後に生き残った奴らが漁ってるみてェだぞ)

 ふぅん。

 焼かれてから2カ月、でもまあそんなものか。とアンは指折りながら片手で腕立て伏せを続ける。

 (あとルフィが剃を覚えたぞ。次は空を飛ぶんだと張り切ってる)

 (わたしやエースも使うから、時間の問題とは思ってたけど)

 弟は動体視力が小さな頃から優れていた。しかし体がゴムであるため普通の肉体を持つ人と同じ訓練をしても習得には至らなかったのだ。能力の特性を生かし伸縮、を傾ける術を考えだし、手にしたという。

 (発想の転換、柔らかいね)

 (まぁな、体も温まっただろう。さっさとやっちまおう。今日は大分走ったんで眠ぃんだ)

 

 

 そして船が着岸する。離陸準備をし港へ降り立った。

 船は3日の停泊後、新たな航海に出ることが既に通告されている。

 アンは海兵達にまた明後日、と挨拶をし義祖父と共に本部へと向かった。石畳が続き、堅固な要塞でもある本部内部へと入ってゆく。

 まず通されたのはガープの部屋だった。

 なぜか途中から義祖父に抱えられて部屋まで連行されると言う、意味不明な事をされてしまい、今はちょこんとひとり取り残されていた。

 戻って来るまで待っておれ、と言い置かれ、それきりだ。

 待っている間は茶でもせんべいでも好きに飲み食いしても良いと聞いていた。

 

 部屋は思いの外、綺麗に清掃されていた。それはそうだろう。一応、中将殿の執務室なのだ。ぱっと見の外見からは想像できなかったのだが、外と中のイメージが違った。内装というよりは、中見まるっと洋風の雰囲気が漂っている。全体としての外観はどちらかと言えば中華風の佇まいをしているのだが、義祖父の部屋に持ちこまれた中身はほぼ和風。なぜ畳が執務室に敷かれているのかと不思議に思えば、義祖父はカーペットが気に入らなかったらしい。海軍本部は外と内、そして各部屋の中身がてんでばらばらと言う不思議な建物だった。

 二間続きの隣を覗いてみると、簡易の宿泊所になっていた。

 布団がひきっぱなしになっていたので窓を開けて干してみる。

 見栄えが悪いとか苦情が来るかもしれないが、受けるのは義祖父だ。気にしてはいけない。

 

 トムは本部内にある牢に投獄されると聞いていた。

 ボガード副長が責任をもって連行すると、目深にかぶった帽子から優しげな目を細めていた。だからそれを信じること、にしたのだ。長年、ガープ中将を見続けているのだ。嘘はつかないだろう。

 ちなみに義祖父以外が身柄を引き取りに行っても、出さないという手続きにしているという。

 

 本当ならばすぐにでもここを抜け出し、トムの下へ行きたかった。船で出来るだけ一緒に居たのは、気配を覚えるためだ。誰もが違う雰囲気を持っているように、ひとりひとりが纏う気配も違うのだ。

 距離的には遠い。

 地理が不明確であることも不利な要因だ。世界中の海兵を一括している本部だ。まっすぐ向かっても、まず目的地には着かない。所定の廊下を通り、階段を下り、設置されている場所だと推測できる。

 こっそり抜け出して会いに行ったとしても、すぐには戻って来れないだろう。

 自身の目で確認したいがしかし、ここは義祖父を、ボガードを信じて待つしかない。

 こういう時、人の心が読めたならばどんなにいいだろうか、と思う。内心が分かれば、会話するのも楽そうでもあった。

 見聞色の使い手になれば、これらが出来るらしい、とも聞いている。

 テレパシーの一種かとも考えたが、まるで漫画の世界の再現のようで、どこかわくわくともしていた。

  

 アンはお茶でも淹れるかと、動き出す。じっとしているとお尻のあたりがむずむずするのだ。落ち着きが無い、と言われるかもしれないが、じっとしているのが性に合わないのだ。

 そうして戸棚の中を捜索しはじめる。

 まずはやかんを発見。水を入れコンロに乗せて沸かしておく。

 茶葉は大きめの缶の中に山盛り入っていた。それを急須の中にいれ、沸いた湯を注ぐ。上にかけるのは蒸らせるための布だ。

 しばし放置しておけば、美味しい緑茶が出来るだろう。

 

 窓からは温かな風が流れて来ていた。暑くも寒くもない。

 "偉大なる航路(グランドライン)"に分布する島国は、春夏秋冬という4つの気候のうちどれかを基本として持っている。4つの季節が頻繁に入れ替わると言う自然環境の厳しい場所もあるらしいが、たいていは基本気候から揺らぐことは無い。

 となればこの島は春か秋、なのかと考えながら、お菓子がありそうな棚をがさごそと探す。

 かりんとうと、しょうゆせんべいが見つかった。そのほかチョコレートやビスケット、飴類、そしてなんのために収められているのか、干し草まである。

 考えた結果、袋を開けたのはかりんとうとしょうゆせんべいだった。木の大きな器をすすいで綺麗に水気を拭き取り、中に形を整えながら入れる。

 

 これでいつ義祖父が帰って来ても、ゆっくりお茶が飲めるだろう。

 ソファーで早速入れたばかりの緑茶をすする。

 飲み慣れた味ははやり格別だ。コーヒーもあったが、実は牛乳が無いとあちらでも飲めなかった。紅茶ならばストレート可能だが、コーヒーだけはどうも舌が受け付けない。

 

 コンコン、とノックの音が聞こえた。

 アンは立ちあがり、ドアをそっと開ける。

 義祖父ではない、そう思ったからだ。義祖父であれば問答無用にガチャリと開けて入ってくる。

 「失礼する」

 中に入って来たのは壮年の男だった。丸眼鏡をかけ、海軍の帽子に等身大のカモメのオブジェクトをつけ、アフロな髪型をし、あごひげをみつあみにした…ちょっと変わった風貌の人物だ。

 厳しい眼光が降る。

 それをアンは真正面から受け止め、流す。殺気や敵意が感じられなかったため、ほんの少しだけ受けてみた。しかし長い間受けていると息が苦しくなってくる。だから闘牛士のように、ひらり、とそれを床へと誘導した。もし床に痛覚があったならば、激しい痛みを訴えていただろう。想像してみるとシュールすぎる。

 ドアの前でずっと見つめあっていても物事は進まない。

 「今お茶を入れていたんです。おじさんもいかがですか。義祖父ももう少しで戻って来ると思います」

 「……もらおう」

 しばしの間を置き、男が応える。一緒に連れて来ていた仔ヤギも中に入り、小さな鳴き声を上げた。

 「かわいい」

 「生まれて3カ月ほどだ。以前飼っていた子が産んでな」

 おやつがあった棚にはなぜか、干し草まで常備されていたのを思い出し、取り出してくる。義祖父が用意する訳は無いから、ボガード辺りがもしも、を想定して備えていたのだろう。

 

 それから30分後、義祖父が帰って来た。

 「センゴク!! なぜ自室に居らん!! 待ちぼうけてしもうただろう!!」

 「お前がいつまでたっても来んから来てやったんだ」

 「あ、おじいちゃんお帰りなさい。センゴクおじさんとお茶頂いてます」

 

 三者三様の言葉がぶつかり、通り抜けてゆく。

 アンは義祖父から何度か、センゴクの名を聞いたことがあった。

 若かりし頃は義祖父を含め、もうひとりの戦友と共に何千と言う海賊を沈めてきたという。今はそれぞれ階級も上がり、己の立場で出来る事をし続け、ほとんど顔を合わすことはないのだそうだ。しかしその中でひとり、双方と顔を合わせるのが海軍本部から動かずとも良い座である最高権力者となったセンゴクである。

 ちなみに義祖父が言う、もうひとりの戦友、は教官として海軍内に在籍はしているらしい。

 アンは両者を観察し、にらみ合いがしばらく続くと判断。ふたりの間をすり抜け、茶の用意を始めた。注ぎ入る湯が、こぽこぽと香りを放ちながら音を立て、湯気が立ち上る。

 小さな体はこういうとき、便利である。

 

 「はい、おじいちゃん。香ばしい間にどうぞ」

 どかりとソファーに腰を下ろし、荒い息をつく義祖父の前に茶を置く。少なくなっていたセンゴクの湯飲みにも追加を足し、所定の位置へ急須を置いた。

 黙ったままのふたりの様子をしばし伺っていたが、なにやらアンの存在が話しづらくしているらしい。

 ならば適当な理由をつけて部屋を出ておくか、と思案する。トムのところへは…無理だろう。が近場なら許してもらえるかもしれない。

 

 「ねえ、おじいちゃん、中庭行っていいかな」

 

 抱えられている最中に見えた、コの字型になっている場所を思い浮かべながら、尋ねる。

 するとすんなり許可が出た。

 行きかたを問えば、道なりであると教えられる。

 

 「じゃあ行ってきます」

 

 出来るだけ子供らしい笑顔を浮かべ、アンは一礼してドアを閉める。

 

 

 

 「本当にお前の孫か、ガープ」

 センゴクの口から出たのは疑問だった。いかがわしいうえこの上ない。

 「わしの孫以外になにがある」

 

 最もな切り返しにセンゴクは真一文字に口を結ぶ。

 受け入れるか否かはまだ、賛否が分かれているのだ。最終判断はセンゴクが仕切ることになってはいるが、まだ11歳だ。

 早すぎる。子供にとって1年の差は大きい。

 規定では12からとなっているものの、最低年齢で海軍へ入るものなどほとんど無かった。

 初回の見立てでは聡い子供であるのは疑いようも無いだろう。今時の子供は成長が早い。早熟タイプであるとも考えられる。

 肝が据わっているのはいい事だ。殺気は込めてはいなかったが、新兵達が背筋を伸ばし委縮する程度の威圧はかけた。さらりと受け流したのにはさすが驚きはしたが、ガープの孫であるならばそれなりの素質もあるだろう。

 場の空気を読んで退出するのは全く似てはいなかったが、育った環境にもよる。後はどれだけ度量を持っているか、が問題だ。

 

 本当にあの子供を海兵とするのか。センゴクはガープを見る。

 

 「六式は仕込んである。覇気もある程度使いこなす。3つ目も多少はコントロール出来ておる」

 せんべいをバリバリ食べながら、ガープは何気なしにさらりと言い放った。

 「…覇王色か」

 「司法船を襲った輩を捕まえたのはアンじゃ」

 

 センゴクは腕を組む。

 覇王色の覇気を持つ人材は貴重な戦力と成り得る。

 4つの海を駆け上がって来る海賊と、その先にある新世界で猛威を振るう大海賊達の動きが活発さを増してきているのも悩みの種だが、海軍全体の人員不足もセンゴクの頭を痛ませる種でもあった。ある一定の力量までのし上がって来る人員は数多く居る。だが人の上に立ち、指揮できる人材となれば、一気に定員を割るのだ。

 「使えそうなのか」

 「それは見てみればわかるじゃろう」

 

 

 中庭と思っていた場所は海兵達の訓練所だった。緑に囲まれ、ベンチや噴水もある。ぱっと見、公園のようにも見えるよう作られていた。広場の中央にはむき出しの土があり、まるで運動場のようだ。

 廊下では上の階級者に会う度敬礼をしなければならないらしく、アンは途中、人の姿が途切れた瞬間を見計らって窓から外へ飛びだした。目指す場所までそんなに高さは無い。飛べばすぐ、木の中だ。幹を伝って下に下りると公園のような場所にはぐったりとした姿か至る所に転がっていた。

 笛の音が鳴る。もうそんな時間かと男達は体を持ちあげ、日の当たる砂地に向けて歩き始めた。

 「おい、集合時間だぞ早く来い」

 「え、あ、ええ?」

 3列に並ぶ海兵達の真正面には訓練の指揮を執っている男が立っていた。コートを羽織っているという事は、ボガード副長と同じ将校なのだろう。

 これから行われるのは、1対1の模擬戦であるらしい。将校が説明している。その間は休めの態勢を取り、身動きせずに聞くのみだ。

 アンは小さなあくびをかみ殺す。義祖父の船では訓練中、余り待機させられる事が無かったからだ。随時体を動かし続けた後は、腹を満たし、風呂でその日の疲れを洗い流せば泥のように眠る。そしてまた朝が来れば体を動かし、の毎日だった。

 

 次々と将校に、海兵達は倒されてゆく。

 そして後ろから4番目、アンの順番が巡って来た。

 小さな姿に、将校ははて、と首を傾げるが海兵の制服を着ているのだから、どこかの部隊から紛れ込んだ新兵だろう、そう思考で完結したようで、かかって来なさい、と手招きした。

 「宜しくお願いします」

 アンは構えを取る。基本は自然体だ。将校は木刀を構える。

 間合いを取り、相手の出方を見ていた。視線が小さな体に集まってゆく。

 ただ立っているだけなのに、将校もなかなか打ち込みに入れない。

 いつまでも立っているだけでは時間が勿体ないと、アンは姿をかき消す。海兵達は自分たちの目を疑った。

 アンの視線は将校を捉えたまま、動かさない。手刀を相手の手首にとん、と入れる。緩んだ掌からこぼれた木刀を指で器用に拾い、もう片方の手でそのまま将校の手首を掴み前方へ引っ張った。

 将校は反射的に子供の力に負けじと踏ん張るがしかし。重心が後ろに下がった瞬間引っ張っていた手を放し、腰のあたりをトン、と押した。将校の体が尻もちをつく。

 とどめに首元へ木刀を添えて終わりだ。

 

 一瞬の事だった。

 回りも一体何事が起ったのかと、目を丸くしている。

 

 「逃げたぞ、追え!!!」

 瞬間的に空気がざわめいた。それはまるで羽休めしていた鳥たちがいっせいに飛び立つそれとよく似ている。

 アンは建物の向こう側に意識を向けた。

 発砲音が聞こえてくる。金属製の物がなぎ倒される音と、肉が砕ける殴打音が耳に届いた。

 何事かと将校も我を取り戻し、立ちあがる。

 「イザドー!!! 止まれ!!」

 「剛腕力のイザドーが逃げ出したぞ!!」

 

 海軍本部に召集される海兵は支部と違い、ある程度の実力を持つ人材が集められると聞いていた。イザドーと言う人物は懸賞金5800万を掛けられた海賊らしい。1億で大佐が出張る目安だと船で教えて貰っていたのを思い出す。その半分なのだから十分、ここにいる人員で事足りるような気もしていたのだが…なにやら港の方でアクシデントが発生したらしい。

 

 「ねえ、港から東の方に逃げた場合、まわりこめるのはどっち?」

 「それならあっちに通路があるが…」

 「案内してくれる?」

 「いや、訓練中だし、持ち場を離れるわけには」

 軍隊では上司の命令は絶対だ。しかしアンはまだ、何処にも組み込まれてはいない。

 「行き方を教えてください」

 アンは本部内部には他にも海兵が居るから大丈夫と言われたが、それでも、と食い付いた。

 「普段上の命令が絶対なのは、指揮者の指示が情報の裏付けがある的確なものだから。でも今は非常事態かもしれない。発砲があったよね。たくさんの人が倒れているよ。傷ついた人を救えるかもしれないのに…自分が行っても何も出来ないだなんて決めつけるのは早計すぎと思わないのかな。動く気の無いのならそこで指をくわえて傍観してて」

 回り込む通路があると言われた方向へ、言葉を吐き捨てて走る。

 殆どの海兵がぽかんとしていた。

 だがその中でも、動きだした人員がぽつぽつとアンの背を追う。

 「おい、お嬢ちゃん。こっちだ、こっち」

 「いい啖呵切ってくれたなぁ」

 喧騒が次第に大きく、近くなってゆく。悲鳴も聞こえてきた。

 

 懸賞金と実力は比例しない事も多いという。海軍から指名手配が掛かるのは行った行為と、残された残骸の悲惨さで決められているらしい。上手く立ちまわり、村があった事すら分からなくなるまで破壊し、消してしまえば奪略し大量殺人しても要は懸賞金が掛けられない。

 なんという適当な賞金額設定だろう。

 

 「どうするんだ、お嬢ちゃん」

 剛腕力のイザドーという人物を捉えたアンは、相手の目的を考えていた。

 ふたつ名が示す通り、相当力が強いのだろう。まともに受けてしまえばたちまち全身の骨が砕けてしまう可能性もある。

 この本部まで身柄が運ばれてきたという事は、公開処刑されるのだろうか。もしくは取り調べの後、監獄へ送られるのだろうか。

 過去に一度だけ脱獄者を出したのみと言われる、大監獄に行くくらいなら、最後の大暴れを本部で行おうという魂胆なのか、この場所を死に場所として定めたのか。心の中は覗けない。

 指揮者を探す。しかし将校のコートを羽織っている人物の姿が見えない。囚人を連行する時、付き添うのでは無かったのか。

 「射撃が出来る人、居る?」

 どんなに体中を鍛え鉄壁の防御を誇るといえども、弱点は幾らでもある。

 「もし出来るなら、誰も上の人が来なくて危なくなったら目を狙って。眼球は鍛えようと思っても早々出来る場所じゃないから」

 出来る、と答えたひとりにそういい置き、アンは駆けた。

 

 まだ対等にやりあえる人員が到着した様子が無い。

 義祖父も上の方にいるはずで、こういう暴走を止めるのを嬉々としてやってきそうなものなのだが、その様子も無かった。ボガード副長を含む船の皆は宿舎に戻ると確か言っていた気がする。となれば、ガープ中将の船に乗っていた乗組員達と合流するのは諦めた方がよさそうだった。

 

 息を整え拳に力を集中する。

 剃で一気に距離を詰め、相手を撃つ。壁に衝撃が伝わり、蜘蛛の巣状にひび割れ、崩壊した。男の体はそのまま外へと吹き飛ばされる。

 「無事な人は怪我をした人の救護に回りなさい!! まだ動ける人は誰か対処できそうな上の人呼んで来る!! 力及ばない人は無理に対応しなくても構わない、自分の出来る事をして!! 走れ!」

 アンは希望を飛ばす。その声は喧騒の中にありながら、ひどく響いた。海兵達はびくりと身ぶるいし、金縛りが解けたかのよう仁動き始める。

 曹長や軍曹クラスが大勢居るはずなのに、指示を飛ばされなければ自分の意思で動ける人員が居ないとはどういうことだろう。アンは意図的なものを感じながら、打ち飛ばした相手を追った。

 そして瓦礫から置き上がってくるイザドーと対峙する。

 

 「なんだぁお前ぇ、ガキは大人しく母ちゃんのおっぱい飲んでればええで…」

 アンは答えない。

 「今のは久々に痛かったぁ…おらぁどうせ投獄いきさぁ。なあ、おらぁ殺すんか」

 「やだ」

 間髪入れずきっぱりと否定する一言に、イザドーは大きな笑い声を上げる。

 「わたしは貴方がこの場で暴れたからそれを止めに来ただけ。生きるか死ぬか、苦しむか楽になるかは自分で決めて」

 

 

 

 

 もっともだ。正論過ぎて笑いすらこみ上げてくる。男は獰猛に笑みを引く。

 「ほじゃおらぁの最後の相手してくれるか」

 間近で見るイザドーは大きかった。見上げてもあごの下が見えるだけだ。顔を見ようと思うならばもうちょっと下がらなければならない。

 「大人しく、してほしい」

 出来るならば。

 アンとて戦いたいわけではないのだ。決して戦いが三度の飯よりも好物だとする戦闘民族ではない。

 しかし男は手負いだ。

 手負いの獣ほど、強く足掻く。足掻いて生き延びようとする。本能が死を否定するからだ。

 

 小さなため息は振りかぶられた両腕を振り下ろす風圧にかき消された。数ミリ、体の横を拳が通過する。力は強い、だが森の猛獣たちや、ボガード副長の剣撃よりは遅い。

 アンは再度振りあげられ、迫る片腕の肘に向かって拳を当てる。下への遠心力に加えて横からの力が加わり、男の体が左側に弾け飛ぶ。しかし男は何度も立ちあがった。

 その度に少女によってあちらこちらへ飛ばされている。

 その様子を見つめている幾つもの視線があった。その中のふたつは、ガープとセンゴクだ。

 義祖父と目があった。

 いつもの優しさを含んだ目ではなく、それは海軍将校としての厳しさを内包したものだった。

 

 アンはため息をひとつ落とす。祖父が下りてくる気が無いのが分かったからだ。感じる視線のどれもが、ひとつとして動かない。

 試されている。

 なんのために、は愚問だろう。

 義祖父はアンが力を欲しているのを知っている。自らの力でもぎ取ってみろ、そう言っているようにも思えた。

 覚悟を、決めなければならない。

 

 自ら定めたことだ。踏み込むこと、に躊躇してどうする。

 運命を変えるには力が必要だった。しかし、これは何かが違う。

 

 「…どうして、命を粗末にするの?」

 アンが静かに尋ねる。自らの身を痛めつけるように、イザドーは何度も何度も立ち向かってきたからだ。なぜ逃げないのだろう。逃げようと思えば出来るはずだ。なぜならアンの技量はまだヒヨッコも同然で、狙った箇所には当たっているものの、致命傷には至っていない。苦痛が全身をさいなんでいるはずだ。

 広場で知り合った海兵による銃の援護射撃が何度も入っていた。目という部分を狙うには至らなかったが、体に幾つも銃弾の跡が生々しく出来ていた。

 「おらぁ海に出るしか生きられなんだ。陸にうちあげられちゃ…死んでんのと変わらねぇ。船の奴らは全部死んだ。船長もだ。どうせなら海でおらぁ死にたかった…」

 ぽたぽたと滴る血が土に染み込まれてゆく。

 「でも、なんでっ」

 「死にてぇんだ。終わりてぇ、あんた、最後もらってくれや」

 

 男の言葉に臆する。

 

 生きるために、今までは猛獣を狩った。その命を取りこんで今まで生きて来た。

 けれど、今は、この男の命を終わらせるために殺す選択を迫られている。

 刈り取られた命を、その肉を食べるわけでは無い。

 

 ただ奪うだけの行為だ。

 

 男はこれまで、たくさんの人を殺してきたのだろう。生きるために。ただ毎日を懸命に生きている人達の命も奪った凶悪な人物なのかもしれない。けれど。

 奥歯を噛む。

 

 悲しかった。胸が痛んだ。

 アンの中に渦巻く感情が悲鳴を上げる。

 慟哭があ、の音を響かせた。

 

 男は望んだ。命が望んだ。ひとつの命としての終わりを、その終止符をアンに願った。

 ならば、ならばこそだ。

 

 わたしが死神の鎌を振りぬこう。

 剣の扱いは得意ではない。痛みも多分にあるだろう。

 しかしその命、確かにわたしが貰い受ける。

 

 手にした刀でその首を一閃した。

 ぬらり、と頭と胴を繋げていた接続部分がゆっくりと滑り落ちてゆく。

 赤が噴水のように飛沫を上げた。それらが黒の髪を、白の制服をことごとく染め上げる。

 

 銃を撃っていた海兵が歓声の声を上げた。幼い海兵が凶悪な海賊の首を取ったのだ。

 アンは視線を上に上げる。すでにそこに義祖父は居なかった。

 転がり止った男の顔は穏やかだった。剣が手のひらから零れ落ちる。

 

 「おやすみ、良い……夢を」

 

 いくつもの、アンを見定めていた視線が消えた。仕組まれた試用(ショウタイム)に幕が下りたのだ。



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17-紅と碧

 聞いたことの無い時計の音で目を覚ました。

 振り子が揺れ、時が刻まれてゆく。

 ここはどこだろう、と周りを見ませば月明かりに照らし出された室内が見えた。

 簡素な部屋だ。必要最小限の物が、ベット周りを中心に手の届く範囲、もしくはほんの少し動いただけで届くように配置されている。

 服は…着替えられていた。タンクトップとスパッツという軽装だ。

 はて、こんな服持ってたかと首を傾げても、鞄の中に入れて来たのはマキノが作ってくれたTシャツとズボン、ブラウスとスカートとの2組だけしか入れた記憶は無い。

 昨日着ていた手作りの海兵服の末路を思い出せば、ため息しか出てこなかった。きっと血糊の関係ですさまじい結果となっているに違いないからだ。

 血まみれになるのは、随分と久し振りだった。アンは両手を広げ、視線を落とす。

 寝ている間にお風呂も入れられたのだろう。体からほのかに良い香りがしていた。

 

 ふと横を見ればベットには見知らぬ男性が、横たわっている。

 向こう側を向いて寝ているため、直接顔は見えない。だが、全く知らない相手では…なかった。かつて一度だけドーン島を訪れ会ったことがある人物だ。周囲には居ない、長身で特徴的な人物だったため、覚えている。

 

 ため息がひとつ、薄闇の中に生まれる。

 

 いつもとは違っていたのは認めよう。

 しかし状況が状況だったのだ、としても、随分とまずいことをしてしまったのではないだろうか。と思う。

 自身のありさまを思い出せば、たぶんではなくほぼ確実に、横で寝ている男にしがみついたまま運ばれたのだろう。

 記憶を手繰(たぐ)り寄せ手で顔を覆った。あれごときで意識を失ってしまうとは、情けない。想像も予想もしていたはずだ。なのに最悪の事態に陥っている。きっと義祖父は落胆しているだろう。最初から期待されている、とは思っていない。アンやエースに海兵になれと強く勧めてくるのは、双子の父、ロジャーの後を追わせない様にしたいのだ。それに世間から上手く隠してはいるが、身内からこれ以上、世界政府に楯突く人物が総出振るのだけは阻止したいのだろう。

 

 頬が熱い。

 これは多分にアンの過剰だ。分かっている。

 ベットがきしんだ。いつの間にかアイマスクを上げた男がこちらを見ていた。

 「…眠れないのか」

 「あ、えと」

 アンはなぜかそこに正座して姿勢を正した。スプリングがよく効いたそれがやわらかくたわむ。

 「おいおい、知らない仲でもないだろうに。そんなに緊張されると困っちまうんだがなァ」

 男の言に最初、首を傾げる。確かに全くの見知らぬ他人同士ではないが、それでも数年ぶりなのだ。適度な距離を保っての挨拶から始めて欲しいのが本音だった。

 

 とりあえず、自己紹介、乙?

 

 突っ込みどころは幾つかあったが、まずは、と丁寧に礼を伝えた。

 男とアンでは年の差がふた周りも違う。対象にはならないだろうが、予防線を引いておいたほうが安全ではあるだろう。

 叫び取り乱すよりも、華麗にスルーするほうがいいときが、男女関係ではあるのだ。

 

 「…それにしても、ガープ中将がよくわたしの身柄を引き取りにきませんでしたね」

 「ああ」

 

 男がけだるそうに仰向けに転がった。

 「おれはガープさんに世話になってる。知ってるだろうが、先生と生徒の関係でね」

 少なくとも、その師匠の大切なものには手を出さない程度に、道徳心くらいは持ってるつもりなんだが。

 視線だけをこちらに投げてくる男にアンはにこりと笑み、それを回答とする。

 しかし男はそれを子供時代独自の天真爛漫さだとは捉えなかった。

 

 子供らしくない。

 この時、男は直にそう思った。

 この年で海兵として軍に入るのだ。祖父であるガープを階級を含め呼ぶのは規律ではあるが、起きたばかりのこの状態で判断できるのは稀だろう。この時分であれば「おじいちゃん」が妥当ではないだろうか。

 それに余りにも熟しすぎている気がした。自分のの11歳を振り返れば、はっきり言って人に語れるものではない。生きる為に必死だったとはいえ、誰かに対していつも害を与えていた。

 あの環境で育ったからか、あるいはこの年齢にして悟ったか。

 どちらにしても『子供』という範疇には収まらないだろう、そう判断できた。そして取り扱いの難しい存在であるとも己の中で付け加える。

 

 「それに、ガープさん。なにやら元帥と殴り合ってたようだし」

 「は?」

 

 これには思わず声が出た。

 なぜ殴りあう。もしかしなくともふたりの関係には肉体言語が絡むのだろうか。

 確かに義祖父は肉体言語派だ。ルフィとの会話も拳骨から始まることが多かった。

 最初から痛みを覚えさせられた成果だろうか。成果だとは思いたくは無いが、弟は自分から好んで、村の子に対しても手を出したことは無い。

 それだけ、に関しては義祖父に感謝してもいいが、ここでもそれが基本なのかと、少々先が思いやられる気がした。

 

 そして今聞いた、元帥という肩書き。

 それはこの本部においての最高責任者だ。

 そしてその元帥、とは昼間にあったあの人物に違いない、と思った。

 

 男が語った仏のセンゴクというふたつ名に、かすかな違和感を感じながら、アンは窓の外に視線を投げる。

 月が丸かった。

 静かな群青色の中に白だけではない光がその周囲に散らばっている。

 

 波にゆれ単独で進む海軍の船の上で見たものよりも、ほんの少し薄い。

 それは人が暮らす町がある故だ。人が集うと光もまた必要とされ灯る。

 フーシャ村やダダンの家は地上よりも空のほうが明るかったくらいだ。満月であれば夜であっても森を渡っていけた。

 山の中腹にある一家からは、堅牢な闇の向こう側に光が上に昇るよう漏れていただけだ。

 

 「夜明けは冷える」

 

 聞こえたのは声と衣すれだった。

 ぽかりと開いた場所を男がぽんぽんと叩く。それはまるで小動物を呼ぶかのような仕草だ。

 ここへおいで。そう誘われている。

 夜気が冷たく肌を刺した。ぶるり、と体が震える。

 アンは遠慮がちに、指定された場所へ移動した。

 冬ともなれば雪が降るドーン島では、寒さをしのぐため、兄弟共に熱を分け合うようにして眠るのだ。

 

 遠慮がちに指定された場所に転がれば、暖かな布団が肩に掛けられた。猫のように丸くなり、ぎりぎり肌触れぬ距離を保って息を潜めた。

 「おれは睡眠が浅いんだ。ゆっくり眠るといい…日が昇ったら起こすよ」

 

 それは手を出さない宣言と受け取ってもよいものか、判断に迷う言葉だった。

 しかし体はまだ、眠りを欲している。

 

 眠りが浅いのは辛いね。

 

 つぶやきが声になったかどうかは定かではない。しかし温かさがまどろみに変ったのは確かだった。

 眠りの最中、アンは記憶を整理する。

 始まりは赤だ。炎よりも深い紅から、静かな青へと秒針が進むまでの、おぼろげな時を振り返る。

 

 

 

 紅が大きく広がっていた。ぽたり、ぽたりと滴が黒髪から落ち、波紋を生み出している。

 人間の平均的な大きさを男女共通で170としても、アンが首を落とした男は優に200を超えていた。

 アンの身長の約2倍、その体の中に流れていたものが出口を得てこぼれ出ているのだ。

 体重60kgの成人で約4000mlの血液を全身を流れている。それが全て外部へ出ようとしているのだ。血溜まりにもなろう。

 

 アンは紅の中にあった男の頭を持ち上げる。重かった。

 開いていた瞼を濡れた手で閉じると、周囲を見回す。

 多くがアンを見ていた。幼い姿が鉄錆びの臭いの中心に立っている。それは異常な光景といえるはずだ。

 だがそれをだれも異様としなかった。戦場独特の高揚感が、その場に満ちていたからだ。

 恐怖よりも興奮が横たわっている。

 

 瞳を反らさず、アンは全てを見た。見て自分の行いを自身に焼き付ける。

 

 一拍の後、歓声が上がった。硬直から解けたのだろう。

 アンは何事も発さず、歓喜の声が渦巻く場所から一瞬にして姿をかき消した。

 わき上がっていた声が再び静まり返る。

 そして出た声のひとつ、が能力者、のつぶやきだった。悪魔の実を食している、それだけでこの海軍では将校までの道筋がつけられていると言っても過言ではない。

 そして名も知らぬ若すぎる海兵が誰なのか、疑問の声が上がった。

 少女と一緒に訓練場から駆けつけてきた誰もが知らない。どこの子だったのか。詮索が始まろうとした頃、どこぞに隠れていた将校たちが指示し始める。少女が誰であるかを調べるのは後回しとされたが、ただひとつ、確実に言えるのは、そこに居た幾人の末端が抱く漠然とした、海兵として生きるうえでの恐怖をあらかた払拭してしまっていた、という事だ。

 

 誰もが一度は目指すだろう、正義の味方。

 名も告げず、正しい行いをし、無言で去ってゆく。

 それが目の前で展開されたのだ。もしかすれば自分も、と望みを持った幾人かが確実にあったのだ。

 そしてまた、恐怖も同時に生まれた。嫉妬も然り、だ。幼い子供の皮を被った悪魔。そう影で囁かれ続ける。

 

 

 本部内でそのような心理が動いているとは露知らず、姿を消した少女はその身を空へ躍らせていた。

 願ったのはここではないどこか。けれどこの島の内部、海に接するところ。

 

 他人から見れば、きっと、これは偽善にうつるだろう。

 アンはそう思いながらも、そうしたい、と願った行動を止められなかった。

 海でしか生きられないと言っていた。仲間は全て海で散り、自分だけが生き残った。海へ、帰りたい。

 ならばせめて、この頭部だけでも死に場所と望んでいた海へ、願わくば故郷の海まで流れつけばいいと思ったのだ。

 

 転移した場所は義祖父や仲良くなった船員たちと降りた中央の湾内ではなく、そこから随分と離れた外輪だ。この島で住む軍関係者が暮らす街並みからも十分に離れている。中央から出入りする船が良く見えた。この外輪にも有事の際には船を係留するのだろう。船を留め置くふ頭にもなるよう、簡易施設が見える。

 

 アンは手にしていた頭部を小波が打ち付ける向こう側へと投げた。最初は波間を漂っていた頭部だが、次第に外洋へ流れる潮に乗ったのか、ゆっくり遠のいてゆく。海に届けて、と願った時、何かが体を通過していった。声では無く意思、とでもいうのだろうか。

 大丈夫、きっと彼は故郷の海に戻れる。確信めいた何かが、ほんの少し少し心を温めた。

 

 これから始まるだろう日々に、今日のような事があり続けるだろう。

 海軍旗を掲げている船に乗る以上、海賊船を見つければ殲滅、拿捕は当たり前となる。

 世界は、少なくとも人間が形成する社会では、海賊が絶対的な悪だった。中にはシャンクスのような良い海賊も中にはいるだろう。しかしそれは一部だけだ。100あって1あるかどうかという確立に違いない。

 海軍はそんな海賊たちと日々戦っている。

 海軍と出会った海賊は攻撃に対し死に物狂いで応戦してくるだろう。死にたくないからだ。

 海軍側とて無駄な死傷者は出したくは無い。生きる為に血路を見出そうとする、極限状態の集団に手加減など出来ようはずも無かった。

 人が人を裁く為に、人が人を殺める。

 そう時間は掛からない。両手が真っ赤に染まっても、気にもしない日々がやってくるだろう。

 修羅の道、といえばそうだ。

 もうひとりの自分とも言える、エースが海賊になると言い、それを止められない時点で未来への選択は限られてくる。

 突き進もうとしているのは、茨の道なのだ。覚悟は、終わった。

 アンにはここに来た目的がある。エースと共に、海原へ出るのだ。だから足手まといにならぬ為の力を得に来た。止めたい未来がある。それを阻止するまで、なにがなんでも死ぬわけにはいかなかった。

 

 「……今頃になって」

 

 体が小刻みに震えていた。

 しばしの刻を置き、心に体が追いついたのだ。

 己が行なった行為を正当化するつもりはない。確かに奪った、のだ。

 

 罪悪感を投げ捨てた。躊躇いも破り捨てた。

 アンの中で、何かが淡々としていた。

 森でたくさんの命を狩っていたからだろうか。それに対し、答えは否、だった。

 

 落ち込んでいるわけではなかった。行為を悔やみ、嘆いているわけでもない。

 ではコレはなんであるのだろう。

 喜びであるのか。そんなはずは無い。即座に否定する。命を奪っておきながら、歓喜するなどもっての外だ。

 

 昔ドラマで殺人を犯した人が血がべったりとついた手を見て、狂気の叫びを上げていたシーンを思い出す。その後、胸を押さえて、犯人がおう吐していた。

 

 自身にその兆候はない。 

 なんだか他人事のようだった。

 紛争が世界のどこかで起きていて、緊張が高まって来たと報道が伝えても、どこか遠い世界で起きている自分には関係の無いと意識を反らせる話とよく似ている。戦争の写真展に行き、悲惨さを目にしても、その後、友達と平気でレストランに行き食事をしていた、そんな感じだ。

 

 ああそうか。

 ゴアの貴族達も、ごみ山の事を、こういう感じにしか思っていなかったんだ。

 他人の身に起こっている間は、どんなことでも陳腐にしか見えない。

 こうして該当者側になってみて初めて隔たりを知るのだ。

 

 チリリン。

 聞こえてきた自転車の鐘にどこからだろうと視線を揺らす。きらきらと輝く青の中をを自転車が走っていた。思わず凝視する。

 

 すごい!

 

 その姿を見た素直な感想がそれだった。

 器用にタイヤが通る部分だけが凍り、車輪を走らせている。

 堤防も兼ねているその場に座り、アンは自転車を見ていた。海の上を走れる、便利な機能を持つ自転車を借りられるなら、気晴らしにポタリングしてもいいかもしれない。そんな事を考えながら、空を見上げた。

 海と同じ色をした空には、真っ白な雲が浮かんでいる。

 今の状況だけを切り取れば、穏やかな午後をのんびりと過ごしているようにも見えるが、姿が姿だ。服に染み込んだ朱も乾いて酸化し、黒く変色しはじめている。

 

 歩いて戻るのが億劫だった。

 行き先も告げずひとり勝手に飛んだ先で、義祖父に迎えに来て欲しいなどわがまま以外の何ものでもないが、まさしく指先すら動かすのも面倒だ、と思えるほど体が憔悴しきっていた。

 耳を澄ませば波の音の狭間に、ざわめきが挟まれる。方向からして本部のほうだろうか。また、何かが起きたと考えるのが妥当だが、行くという選択肢が現れなかった。引きずって行って貰ってもいい。とにかく動きたくなかったのだ。

 

 「…あらら。こんな所に誰がいるのかと思えば…えーと誰だったっけ」

 自転車を止め、男がゆっくりとこちらに歩いてくる。

 海から堤防までの絶壁もなんのその、氷の坂道を作り登って来たらしい。なぜすべりおちなかったのはさておき、自然系の能力者だと気付いた。男はアンの傍に暫く立っていたが、数分しないうちに疲れたと、その場に横たわる。

 

 陽気はぽかぽかと暖かい。

 レジャーシートを敷き、お弁当やお茶を持って魚釣りでもしていたなら、どんなに良い一日と思えただろう。

 ため息がアンの許し無く発生する。

 

 「…心の整理は…つきそうかい」

 初めて、だったんだろう。そう男の声が背から聞こえてきた。

 男には関係の無い話だろう。しかしアンはむか、とした。言葉が荒立つ。

 「…だったら、どうだっていうんですか」

 「どうも…ならねぇはなァ」

 そう、どうにもならない。もうすでに命を貰ってしまった後なのだ。戻す事は出来ない。

 「ちょいとこっち向きなさい」

 少し首を動かして後ろを伺うと、男がじっとこちらを見ていた。

 バツが悪かった。誰に言われなくとも分かっている。自分自身が行なったことであるのに、初めから終わりまで納得が出来なくて、膨れているだけなのだ。

 出来るならば放っておいてほしい。そっとしておいて欲しい。

 方向を変えると、大きな手が頭を掴んだ。そのまま男の胸に顔が押し付けられる。

 

 「なにすんの!!」

 力任せに両腕を張り、密着を阻止して顔を上げる。

 「気を張るのも疲れるもんなんだ。…ちょっとは休みなさい。胸くらいは貸してやるから」

 

 知っているのだ。この人は知っている。

 アンはほんの少し、腕の力を緩めた。

 心の中に沸いてくる、この理不尽さを、この人は知っている。そして何があったのか。それすらも知っている。

 だから尋ねてきたのだ。心の整理はつきそうか、と。

 

 ああ、と思う。

 はやりあの騒ぎは、予定されていたものであったのだ、と。

 そうでなければおかしすぎるのだ。ここは世界に散らばる全ての海兵を取り仕切る本部である。

 アンでは全く歯が立たない、実力を持つ猛者たちが駐屯していないはずが無い。

 あの命は、当て馬にされたのだ。

 

 歯がゆかった。

 それと同時に、どうにも出来ない無力さが腹立たしかった。

 本物の英雄(ヒーロー)であれば、颯爽と仕組まれた対戦を見破り、ある意味見世物を作り上げた誰かに対して高々に宣言するだろう。

 「お前たちの計画など、お見通しなのだ!」と。

 

 しかしアンはそれが出来なかった。やろうと思っても、出来ること、でもない。

 もどかしくて、悲しかった。

 

 「泣け。ここにいるのはオレとお前だけだ」

 

 男は心に溜まる鬱屈(うっくつ)の厄介さをこれでもか、というほど身にしみて理解している。

 肩を並べた幾人もの仲間が、それによってひとり、ふたりと脱落しその背を見送ってきた。自身もそうだ。

 少女に会うのはこれで2度目となる。

 今でこそダラけきった正義を掲げる男であるが、以前は燃え上がる正義を信条としていた。

 とある事柄による親友の死を引きずり続けていた男を気遣い、ある時、先生であるガープが里帰りの際、生徒であるクザンを誘ったのだ。絶対的正義に疑問を持っていた当時、その申し出は一条の光ともいえた。

 軍務ではない船旅は初心を思い出させ、正義の意味を深く考える機会となったのだ。信念の方向性を変えられたのはこの旅があったからに他ならない。

 そして出会った少女に深い感銘を受けたのだ。悩みを打ち明けたのではない。たわいない会話だった。

 だが少女が可愛らしく首をかしげ、真面目な顔をして言った。 

 

 「それって、ひとつでないと駄目なのかしら」

 

 ほかに並ぶものがないもの、何事にも比較されないこと、対立を絶した存在を絶対、と証する。

 しかし物事ひとつ取り上げても、人によって解釈が違う。音によっても意味が違ってくる。

 クザンは目から鱗が落ちた気分だった。物事を多方面から見られるようになっているにも拘らず、決められた一方方向からのみを頑なに見続けていたのだと気づかされたのだ。

 変えてはならないのではない。縛られず変りながら、状況にあった判断を下す。その基本となるのが己の中にある正義だ。人々を守りたいという良心だ。

 

 そのきっかけをくれた少女が、今にも海へ身を投げ出そうとしているように見えた。

 儚かった。今にも消えてなくなりそうな幻に似ていた。

 

 本部がガープの孫娘に資質を問う試験を用意しているのは知っていた。

 用意されたのは獣であったはずだ。敵に向かい立ち向かえる勇気と、その判断力などを見る為に用意したものを使ったのではなかったのか。

 

 酷なことをする。

 

 クザンはちらりと本部の建物に視線を向けた。

 幾ら人手不足とはいえ、幼い少女に行なう仕打ちではない。ただ裏を返せば、それだけ多くに期待されているのだろう。

 人事が許すなら、引取りを希望していた。

 指導者としては敬意を払えるが、親としての資質はゼロに近かったからだ。

 自分の身の上もそう変らなかったがしかし、放置も甚だしい状況だった。家を持たず、独身であるクザンに口出しは出来なかったが、村人の好意が無ければ立ち行かない生活を幼子達はしていたのだ。

 

 くぐもった声が聞こえ始めた。

 涙は心を洗う役目も持っている。男とは違い女は感受性が強い生き物だ。理性よりも感情を優先する。

 しかしこの幼子は男の考えに近いものを持っていた。

 それはまるで、成長し社会の理不尽に触れ、どう道筋をつければ上手く事が運んでいくか、を模索しているようにも思える。

 全てを生活環境に絡めるわけではないが、変った毛色をしているのは間違いない。

 

 

 泣いてもいい。声が静かに降ってきたのを境に、目頭が熱くなり始めた。

 初めて命を奪ったとき、傍らに居てくれたのはエースだ。

 温かな体をしていた。息を止め、その皮を剥いだ。どこに刃を入れていいか分からず、あっという間に体に血がまとわりついた。それでもアンはエースと共に肉の塊を取り出した。

 死後硬直が始まった肉は硬く、ゴムのようでまずかった。しかしそれを吐き出すこともしなかった。

 双子が生きる為に奪った命だ。それを咀嚼し、己の肉に変えねば殺した意味がなかった。無駄な死、にはしたくなかったのだ。

 

 不確かな物の終着駅(グレイターミナル)で多くの物言わぬ屍が転がっていた。

 淘汰されただけ。運が無かっただけだ。

 そこに居を構える命はそう言って諦める。そうしなければ生きていけなかった。捨てられた地とはいえ、そこには人の営みがあり、関わりがあったからだ。

 

 あふれ出た流れはそのままに、声だけは出すまいと必死にこらえる。

 男に死を与えたのはアンだ。他の誰でもない。奪ったのはアンなのだ。

 これから無差別に命を奪う事もあるだろう。対峙して、望まぬ命も狩るだろう。

 正義の名のもとに、死を下す組織が海軍だ。お墨付きを貰っている、死への送り人と言っても過言ではない。

 

 うぬぼれでもいい。

 イザドーという男は、アンであったからこそその命を差し出したのだと。そう思うことにした。

 そして泣き疲れ、そのまま意識を落とし。

 

 そして朝に至る。

 勝手に使っても良いと言われたカッターシャツの腕をまくり、ボタンを止め、膝の辺りで結んで簡易のワンピースのようにして立つは台所だった。

 しょうゆがあり、冷蔵庫にコンロまでもが完備だ。

 義祖父の部屋ではあえて無視したが、生活必需設備が揃っている。ただそれだけのこと、が嬉しかった。これを夢見る心地と言う以外に、なんと言うのだろう。

 

 アンは両手を握り、誰にともなくありがとう、と何度も叫びたい気分だった。

 原始的な生活が基本にあれば、どこでもサバイバルが可能ではある。

 しかし。世界の文化レベルが歪(いびつ)でおかしいとしても、この感動はひとしおだった。

 酢も塩もある。

 冷蔵庫の中には少々しおれてはいるが、レタスも丸ごと鎮座し、卵も紙袋の中に山盛りにある。

 この大量の卵をどうやって食べているのかと聞けば、ジョッキに割り入れ、毎朝飲んでいるという。

 

 一緒に飲むかと言われたが、昨日のお礼もあるから朝食を作らせてほしいと願い、立った。

 「さて、久々に腕を振るいましょうか」

 朝になれば起こして貰える約束をしていたはずが、どうにも寝心地が良かったらしい。両名共に飛び起きた時にはすっかり明るくなっていた。出勤の時間を聞くと、残るは1時間余りだと言った。アンは手際良く料理を作ってゆく。

 冷凍庫で凍っていたパンにバターを塗りチーズを乗せトースターへ。ハムは重ねフライパンの上へ、両面に小麦色がつけばその上に卵を落としてふたをした。レタスはぬるいお湯につけておき、しゃきしゃきとした触感に戻せばあとはちぎるだけとなる。コーヒーが好みだと言っていたので、豆を引きコーヒーメーカーへセットすれば終わりは間近だ。

 電力が何処から供給されているとか、誰が機械を作ったとかはもう、面倒なので考えない。

 存在している恩恵を、素直に受け入れることに、する。

 

 大きめの皿にパンを半分に切ったものと、ハムエッグ、野菜を添えて出来上がりだ。

 冷凍庫に牛乳までが凍らされていたのには目が点になったが、何かに使うのだろうか。見なかった事にした。

 食卓用のテーブルに醤油さし、即席マヨネーズ、それぞれの皿とコーヒーを置けば完成だ。

 兄弟たちであれば、前菜にしかならないが普通サイズの胃の持ち主であれば、これくらいで大丈夫だろう。

 アンはささっと後片付けをし、隣の部屋で転がり続ける男を呼びに行く。

 「出来ましたよー、えっと…」

 青雉と呼ばれる男の名は、余り表へ出ない。二文字のふたつ名はコードネームだ。歴代を遡っても、色と動物を組み合わせたそれを冠とする。

 「……名前、そういや言ってなかったな」

 のっそりと現れた長身が本名を放ちながら席につく。

 

 クザン。そう呼べばいい。

 言われ、それはなんと言う名の地雷なのかとアンは無言で訴える。

 海軍本部最高戦力の一角である総監を呼び捨てなど出来るはずもない。だが押し切られてしまった。

 一夜とはいえベッドを共にしたのに、名を呼び合えないとはいかがなものか、と権すらちらつかせながら迫られては頷くしかなかったのだ。

 

 心の片隅では、ほんの少しだけだが、この申し出が有り難かった。なぜなら義祖父以外の庇護者が出来た、とも受け取れる。ガープ中将はどちらかといえば破天荒な御仁だ。共に戦った戦友とはいえ、センゴク元帥とガチバトルを行なうなど普通は考えないだろう。

 味方が多いに越したことはない。少なくとも英雄の孫という肩書きはそれだけでやっかみを生みかねないからだ。親の七光りだと卑下もされるだろう。負けるつもりは無い。無いが身を守る為に予防線を張っておくほうが、何かと後々が楽になるのだ。そしてさっさと実力をつけ、相手がぐうの音も出せないほどの地位まで駆け上がればいい。

 

 アンも座席に座り、パンにかじりつく。

 両者無言で朝食を終えた後、アンは後片付けを行なった。

 そして血濡れの制服の在りかを聞き、そっとその場へ足を運ぶ。

 

 「やっぱり、だめっぽいな」

 

 洗剤に浸してもらっていたとはいえ、手作りしてもらった制服はすっかり血で汚れていた。

 この染みはちょっとやそっとでは落ちないだろう。染み抜きを試みてもよいが、経験上、どれだけ洗濯を重ねても、生地が痛んで着れなくなる確率のほうが高い。残念ながらこの制服は処分せざるをえなかった。

 元の白に戻らない。まるでこれからの未来のようだと、アンは苦笑した。

 

 となれば、問題はどうやって義祖父の下へ帰るか、になる。

 制服が無ければ本部に入れないだろう。今身につけている服では、入り口で追い返されかねない。

 それともあれか。月歩で義祖父の執務室まで駆け上がればいいのか。

 

 「なにしてんの」

 

 服を目の前に思考を続けていたアンの背に、クザンの声がかかる。

 

 「どうやって帰ろうかと」

 「心配しなくていい。ちゃんと抱いてってやるから」

 

 「……え?」

 

 アンは言葉を失った。恐れ多くももう一度、と聞き返してしまったくらいだ。

 そこまでして貰うのは気が引けると言えば、ついでだ、と言い捨てられてしまう。

 どうせ行き先は一緒なのだ。言うことを聞け、と。

 クザンの発言は、間違ってはいない。ただ受け取り方を間違えると、とんでもないこと、になりかねない。

 本人はまったく気にしていないようだが、アンとしては十分に警鐘物件ものだった。

 

 だが。しかし。

 言い訳を考えるが、事実、靴すらない状態でどうやって歩けるのか。素足で道を行き、怪我をしない保証は無いのだ。

 いつもの義祖父のように、無理矢理であれば嫌だ、と否定も出来る。しかもクザンのように明確な理由を示されてしまったなら、断りきれなかった。

 どうもこの人物との相性がよいのか悪いのか、判断をしかねた。

 

 結果、数十分後の未来、どこにも逃げる場所が無いと知っているにも関わらず、肩に担がれ、海軍本部の最高権力者の前に放り出される事、となる。

 



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18-会議のメイン

 その部屋は異様な空気に包まれていた。

 クザンよりつい今、聞いたばかりの情報に身が固まっている。場違いも甚だしい。

 本日、これから。不定期に行われる、大将、中将を含めた会議が開かれるのだと言う。その、まさしく会場へ連れて行かれてしまったのだ。集まるのは大概、支部の代表から委任を受けた副官が多いらしい。だが今日ばかりは、なぜかバスターコールも真っ青という面々が揃っていた。

 平時でも出入りが激しいここ、海軍本部でも会議の日は慌ただしくなると聞いてはいたものの、この張り詰めた空気はいつもと違うようだ。

 

 全ての視線が青雉と、肩に抱えられている少女へと向かう。

 昨日の報告はこの場に集う将達には通知されていた。11歳の少女がたったひとりで、賞金首を仕留めたのだ、と。多少捕縛時の戦闘で弱っていたとはいえ、剛腕力のイザドーの首を取ったのだと言う事実をだ。銃撃での援護は多少あったものの、現場を目撃していた海兵達は新たな仲間を歓喜をもって受け入れている。

 しかもガープ中将の孫であると何処からともなく漏れた話も重なり、厳しく律してはいるものの大物が海軍入りした興奮は冷めやらない。

 

 アンがゆっくりとその肩から下ろされる。裸足の裏がひんやりとした。

 海兵の制服は着ていないが、昨日の事情により本日だけは、と不問となった。

 長身の男が振り向かず、ゆっくりと自席へと向かう。

 内心びくつきながら、アンはひたひたと歩を進め、義祖父の横へと向かった。その途中でサングラスをかけたパンチパーマの人物に声をかけられたが、どう返せばいいのかが分からず、曖昧に笑んで義祖父の下へと逃げた。

 「おじいちゃん、わたし場違いじゃない? 外出てたほうがいいんじゃ」

 「何も間違えておらん、ほら、わしの膝に座っとれ」

 

 血の気が引いた気がした。この義祖父はなんという無茶を言うのだろう。

 これ以上視線に晒されたくないのに、針のむしろの上に座れという。

 ずらりと年配者が並ぶ席で、大声を上げ退出を求める抗議など出来ようもない。

 しぶしぶ、座るしかなかった。

 

 自分自身を人の目にさらすのはどこか、気恥ずかしい。

 服もクザンから借りたままの姿だ。最低限の身支度はしたが、女子としてどうよ、という思いもある。

 ここは森ではない。れっきとした人の集合体だ。森では気にならない事も、ここではやはり、そわそわと気が気ではなく俯いてしまう。

 

 何か気がまぎれる物は無いだろうかと視線を動かせば、長机の上には資料が置かれていた。他の将達はぺらりとめくって中身を確認している。

 義祖父が手をつけようともしなかった紙束を手前に引きよせ、中身を見てみた。

 止められるかと思いきや、出されている茶をすするのみで、横からも注意が飛んでこない。

 ならばと速読した。

 

 4つの海の状況と、新世界、そして王下七武海の状態だ。

 そして新たにその七武海に任命される式典が行われる日取りも書かれていた。

 

 5年前、赤い土の大陸を素手でよじ登り、聖地マリージョアで大暴れした冒険家の話は今でも様々な場所で語り草となっている。そもそも魚人海賊団は冒険家、フィッシャー・タイガーがマリージョアで解放した奴隷たちを身受けして発足した集団だ。人間嫌いであった彼も、奴隷であった人間に関しては懐を開き、仲間に迎え入れたという話も聞いたことがある。

 その際シンボルマークとされたのが太陽だった。

 天竜人の奴隷の証として焼き押される刻印を包み込み、別の物へと変質させてしまったのだ。

 この印はもはやお前たちを縛るものでは無い、と宣言したと同様である。

 

 フィッシャー・タイガーが死去した後、分裂した魚人海賊団を取りまとめたのが、ジンベエ、という魚人だと記載されている。幾つかの船は袂を分け、いずこかに姿を消したというが、数的には最盛期と遜色ない規模を今も誇っていた。

 政府は魚人との和解も含め、彼の七武海入りを強く要望したという経緯が簡単ではあるが記載されている。

 

 アンがこの項で目に付いて仕方が無かったのは、奴隷という文言だった。

 世界には確かに、不遇な階級が存在している。それが奴隷、と呼ばれている人々だ。

 生まれは他の誰もと変らない。母があり父がある。だが確実に存在しているにもかかわらず、誰もが無意識のうちに容認している身分制度が奴隷、だった。

 生まれは問われていない。たったひとつ、奴隷としての明確な定義がある。

 

 生まれ故郷の島から外部に出、その身を売られたもの。

 

 はっきり言ってしまえばコレだけだ。

 なんともあっさりとした唯一の決め事である。

 

 奴隷と称される人々の中で最も多いのは海賊だろうか。海賊にかけられた賞金を追う職業もあり、大概の場合、金を受け取る為に海軍へ引き渡される。基本的に賞金は手渡しだ。本人と交換、となる。

 だが考えてみて欲しい。

 奴隷の定義は生まれた島から外部に出たもの、だけだ。奴隷を作り、売買する商売も実際にはある。例えば金銭でやり取りされる良心的な奴隷商であれば、飢饉が続いた島を回り、容姿が整った、磨けば光るだろう子供を買い取り、商品とするだろう。だが磨く手間が面倒だ、と村丸ごとひとつを狩猟する商もあった。商人が直接手を下すのではない。汚れ仕事を請け負う集団など掃いて捨てるほど存在している。それらを使うのだ。捕まるのはその掃いて捨てられるゴミであり、商人は知らぬ存ぜぬを押し通せば軽い罪で罰金を払って終わり、となる。

 

 ちなみに魚人に関してだが、そもそも人権が認められていない。どの島に行っても大概は、会話する魚扱いだ。

 フィィッシャー・タイガーの尽力により多少は緩和された地域もあるが、世界地図を広げてもロールパンひとつの範囲に収まってしまうだろう。

 なんとも理不尽な仕組みだ。

 はっきり言って、これらは他人事ではない。だが誰もが他人事としている。

 

 そして最後のページに、革命軍の記述があり義祖父から分けて貰ったお茶を噴き出してしまいそうになった。

 祖父をそーっと振り返るが素知らぬ顔だ。

 物事に集中している際、器官に飲み物が入ってしまうのは大人でもよくある。だから内容でそうなった、とは思われなかったようだ。義祖父からハンカチを借り、息を整える。そして見上げるは己を膝の上に置く人物だ。

 声に出して問いたかった。だがアンはその文言を心にすら浮かべなかった。気づかれてはならない、秘密だと察したからだ。 

 

 

 義祖父は勿論、表情を崩さない。こんな些末事くらいで動揺するほどの肝は持っていないのだろう。

 誰も知らないのだ。知っていたなら、義祖父をここに呼ぶはずも無い。関係者とするのも生ぬるい。なぜなら解放軍の長を務める人物は、義祖父の息子であった。さらに付け加えれば、ルフィの父でもある。

 火事の日に触れた意識には、この世界を変革すると言う強い意志が輝きを放っていた。

 あれはもう、止めようと思っても止められない。既に歯車は組み上がってしまっている。

 

 新世界にも動きが見えていた。

 シャンクス達が最後の海に突入していたのだ。その名を指でなぞり、追う。

 フーシャ村を出発して、1年ほどだろうか。怒涛の速さで進撃していた。

 さすが路を知っているだけはある。が、父と渡った、同じ路を進んではいないだろう。シャンクスの目的はラフテルに至ること、ではない。

 探し物をしているのだ、と言っていた。そのために必要なものを東の海に見つけにきたのだ、と。

 アンは微かに笑み、ページをめくった。

 

 項目は海軍の内情へと切り替わる。

 新しい勢力が"偉大なる航海(グランドライン)"を目指し流入している様子が、ありありと示されているのに対し、政府側も武力拡大を進めてはいるが、なかなか良い報告が上がって来ていない様が数字に表れていた。海賊を取り締まる海軍が、日々強力になってゆく海賊の力を借りなければ、治安を守る事さえままならないのだろう。

 

 これをどうにかしようと思うならば、今の体制では無理だ、と言わざるを得なかった。

 ドーン島で暮らしていたアンにも海兵の友人がひとり、居る。数ヶ月に一度、手紙のやり取りをしているだけだが、彼が無意識に書き込んだと思われる愚痴がどんどん悪化していたのだ。彼よりも随分と年下のアンが、彼に対し、助言出来ることなどたかが知れている。だが人間、心の内に鬱積を抱え続けるのは辛い。手紙では彼の苦労を労った上で、年齢にはそぐわない兵法について交し合っている議論をしたためて返信していた。

 

 向上心ある人物も少なくは無い。しかし4つの海と、"偉大なる航海(グランドライン)"では兵に期待されている熟練度が天と地ほども、とは言い過ぎではなくかけ離れすぎているのだ。本来ならば禍根は大きくなる前に摘み取るのが定石だ。海賊に対してもそれは有効となる。しかしその手段をとらなければならない初手を指揮する、責任者の質がよくなかった。特に東はそうだ。

 手紙をやり取りしている彼、も本腰を上げ動き始めているが、容易くはないだろう。

 

 ニュース・クーが運ぶ新聞の他に出回っている地方紙にも、海軍の腐敗と題する記事が多少ではあるが紙面をにぎわす事もある。

 海軍に入隊を希望する人員が少ない中、海賊となり暴れまわる人口は右肩上がりだ。

 将校がいくら配置されても、小さな器で最大まで栓が開け放たれた流水を受け切れるはずもない。

 

 しかも陸とは違い海での行軍が主な部隊の訓練は時間と費用が倍かかる。

 基本的な動作は陸も海も変わりない。

 兵を訓練し、装備を配給、補給を確実に行いかつ、船上では的確な指示を受け動けるようにする。軍として集団行動するのには訳もちゃんとあるのだ。

 それは数の原理、に他ならない。数が多ければ多いほど、ぶつかり合った時、有利になる。

 

 それに加え海上では陸での4行動全てに於いて、的確に作業できる能力も必要とされた。

 基本、揺れ動く船の上で戦闘は行われる。砲撃戦にしろ、切りこむにしろ、無駄を省いた効率的な行動が求められるのだ。

 多数の戦艦が入り混じっての混戦にでもなれば、指示通り行動するだけでも地上とは違い、航海能力も必要となる。

 

 軍では上官の命令は絶対だ。

 不服従や独断専行は、こちらとあちら、世界が変わっても軍隊においては罪となる。

 その代り、指揮者の行動はもたらされる情報に基づいて、的確に行わなければならない。

 

 海軍は志願制を取っている。

 国ごとに体制は様々だが、徴兵制度を取り入れている国軍の錬度はさすがに高い水準を持っている所が多いようだった。

 

 会議は順調に進み、4つの海で補強が必要な個所がいくつか示される。

 東の海は残念ながら、話題にも上らない。北の海で少々、騒ぎを起こしている海賊団があるという。

 そして新世界の話題ははやりシャンクスだった。

 赤髪が今まで空白地域であった場所を埋め、皇と呼ばれるひとりになったという。

 「四皇…か」

 誰かがそう言葉する。

 

 皇とは"偉大なる航路(グランドライン)"三大勢力のひとつだ。

 新世界と呼ばれる、航路後半の海に皇帝の如く君臨する大海賊を指しそう呼ぶ。

 勢力順に並べれば”白ひげ”エドワード・ニューゲート、”ビックマム”シャーロット・リンリン、"百獣の"カイドウ、となり、その列に”赤髪の”シャンクスが新たに名を連ねる。

 赤髪海賊団に属する人員が書き出されたリストを指で追いながら、随分と遠くに行ってしまったんだなぁとアンは手配書を見て思う。

 新世界と言う広い海であの仲間たちと騒ぎつつも賑やかで、冒険に満ちた航海しているのだろう。いつかの再会を願いながら、資料を閉じる。

 

 革命軍に対しては要注意としながらも、海軍として表立った行動を示さず、となった。

 彼らの行動は海ではなく、陸で行われていたからだ。

 各国からの要請が無ければ、表立った軍事介入は出来ない。中央政府からの命が下れば、その限りにあらず、だが海軍はその名の通り海での行軍が主だ。

 

 海上航路の安全を確保する。

 その為に海賊達を取り締まっているだけでもこんなに苦労している状況なのだ。国の騒動まで出張ってられないのが実情だろう。

 これが海賊による国家転覆であれば話が別、となるがここに座る将たちの悩みしわをこれ以上増やすのは止めておこう、とアンは口をつぐんだ。どうせ確証のない申し立てで動くような組織では無い。

 

 そして最後の議案が話し合われる。

 「ほれ、アン呼ばれとるぞ」

 思考から我に返ると、全ての目が自分を見つめていた。

 だからなぜ、自分の名前が呼ばれているのだろう。

 

 義祖父に引き渡されるためだけに、ここへ連れてこられただけ、ではなかったのだろうか。

 心臓がバクバクと音を立てて緊張度数を示している。

 「お…おじいちゃん、わたし、どうすれば」

 「どうもこうもならんわい。あの箱の中から、ひとつボールを取ればええ。わしのじゃと目印をつけたからな、よく探すんじゃぞ」

 

 ん?

 ここでアンは疑問符を浮かべる。

 ボールを取る。目印をつけた。何かのくじだろうか。

 そして気づく。いくつもの目が見ているものこそが景品である、と。

 アンは唇をぽかん、と開いてしまった。緊張していて上手く言葉が出てこない。

 

 「おじいちゃん、それ結構無理があると思うんだ。大きさからして、量があるってことだよね」

 祖父と孫の会話を聞いていた右隣席の男がにこやかにアンに声をかける。

 

 「初めまして、私はモモンガという。ガープ中将には日頃お世話になっている者だ」

 差し出された大きな手を、アンは素直に受けた。

 「ずいぶんと動揺しているようだが、そんなに緊張しなくても大丈夫だ。昨日の騒動を聞きつけ、君を育てたいと希望した人が多くてね。向こう側のテーブルの人が小さなボールに字を書いているだろう。ひとつだけ君が好きなものを選んでくれたらいい」

 

 真正面に近い場所に座る、センゴクが視線を動かしとアンを見る。

 昨日の獲り物が終わってから、あの少女を受け持てるならば自分が、という嘆願が幾つも重なった。厄介事を持ちこんでくるガープが少しでも大人しくなるならば、連れて来た当人に任せようと思っていたところ、そう言えばと青雉からもそう言う願いが来ていた事を思い出し、3年と言う短期間であるなら大将に付かせてみるのも悪く無い。そういう旨をガープに伝えたところ、大喧嘩になった。長い付き合いの2人だ。ある程度のところでガープが逃げ出し、センゴクも後追いをしないのがいつもの常だった。

 

 が。今回ばかりは違った。ガープがこれでもか、と粘ったのだ。

 

 嘆願に来た中将以上の役職者に対し、どのような方法を取れば一番丸く収まるかを、センゴクは思案した。元帥命令とするのはたやすい。しかしガープが荒れ、今以上に厄介事を持ちこんでくるのは遠慮したかった。ならば、当人に選ばせればよい。公平をきし、抽選と言う方法で。

 

 大体の事情をアンも理解した。

 センゴク元帥も、胃へかかるストレスが振り切っているのかもしれない。

 前線、後方支援問わず、どれくらいの人から期待されているのか分からなかったが、出来るだけ無難な部隊であるように祈る。義祖父の元であれば何かと動きやすかろう。そう目論んでいたのだが、そうは問屋が卸さなかったようだ。

 

 「あたしゃ、つるだ。書類見せて貰ったよ。賢い子は好きさ。アン、うちにおいで」

 「あ。お名前はよく伺ってます。初めまして、おつるさん。いつも義祖父がお世話になってます」

 年配者に上からの視線は失礼として、膝から降りぺこりと頭を下げる。その様子を目を細め、好ましく見たあと、残念な何かをみるように、「どこら辺がアンタの孫なんだろうね」と片眉を上げた。

 「おつるちゃん…」

 義祖父は苦笑いだ。

 

 資料のまとめ方を絶賛された。

 いつもあれくらいだと、あたしゃ助かるんだがねぇ。というため息混じりにはガープは聞こえなかったふりをする。いつもどういう渡し方をしているのだろう。アンは義祖父の大雑把な性格に笑む。

 

 そうしている内に、じゃらりと音を立てる箱が目の前に到着した。

 覗いてみると相当数が入っている。

 階級は准尉と先ほど告げられた。最初からその位に任じられるとは思いもしなかった、が本音だ。しかし孫と言う立場を優遇して任命されたわけでも無いようである。ある程度の力量は認めて貰え、階級と言う肩書きにという表れだと前向きに考えることにした。よくよく考えてみれば、妥当、であるのか。高すぎず、低すぎず。文句が出そうで出ない絶妙な選択だろう。

 

 箱の中をてのひらで探った。手触り的にはピンポン玉のようだ。さらりとした触り心地指先に伝わってくる。

 

 どうするべきか、というのがアンの思いだった。

 全く分からない。覗き込むのはご法度だ。くじにならない。

 見上げる義祖父の顔は頑張れと応援しているようにも、なるようになれと慰めているようにも見える。

 いつまでも玉を転がし遊んでいる訳にもいかないだろう。

 アンは覚悟を決め、ひとつのボールを握りこむ。

 

 ひきだした手のひらには黄色のボールがあった。書かれている名前は、ボルサリーノ、とある。

 「アン、」

 義祖父の声がこころなし、かすれていた。

 「ごめんなさい。いっぱいありすぎて、本当にわからなかったの…」

 

 「これで決まったな」

 センゴクの声には安堵が含まれていた。孫が自分で選んだならばガープも文句を言うまい、そう考えた思惑は見事に的中したといえよう。

 アンも義祖父の膝を下り、名の人物が一体誰なのかと誰かと見回せば、先ほど視線が合った長身のサングラスをかけた男と目があった。

 よくよく見てみると、とある俳優さんにそっくりだ。本人と言ってしまってもいいかもしれない。映画やテレビで見ていた顔が目の前にある。北の国から、とか土曜ワイド劇場とか、御家人斬九郎とか、よく見ていたテレビに出ていた人のそっくりが目の前にある。クザンも実はそっくりだと思っていた人物がいた。

 

 義祖父に連れられ、黄猿とふたつ名で呼ばれる大将の元に挨拶に行く。

 「先ほどは失礼しました。ポートガス・D・アンです。宜しくお願いします」

 名は父名ではなく母名を名乗ると、エースと決めていた。父の名は余りにも危険すぎる。それに義祖父の名を使うのもなんだか違うだろう、とふたりで話し合った結果だ。義祖父としてはモンキー姓を名乗って欲しそうではあったが、Dは重なっているのだし、モンキーが同じ船にふたり居ると面倒だからとかなんとか、屁理屈をこねて諦めてもらったのだ。

 

 「ボルサリーノさん、この子の身柄引き受け、代わって下さいよ」

 会議終了の号を受け、出席者たちが部屋を後にし始めた中でクザンがアンを抱きあげる。

 義祖父が固まった。と同時にアンも固まっていた。

 「もう君は男を手玉にとってるのかい?怖いねぇ」

 面白そうに眺めてきたのは上司となる黄猿だ。

 「そんなわけありません!!」 

 硬直を何とか解除し、アンは力いっぱい否定する。大将を張る男をそう簡単に手玉にとれるわけがないだろう。これは玩(もてあそ)ばれているというのだ。

 「クザン大将、下ろしてください。聞こえてるのに無視しないで」

 ガープは大将ふたりに構われる孫を腕を組み眺めている。周囲を見回せば、なんとか中立派と保守派が孫娘の後方についてくれたようである。

 

 「面白そうな子じゃけ、来年はこっちにも回してもらおうか」

 そう赤犬が側を通る際に、声をかけた。ガープの表情が厳しく変る。

 その手があった。

 ガープは退席しようとするセンゴクににやりと笑う。元帥はそれを見なかったことにし、部屋を後にした。

 

 「じゃあ行こうか」

 「はい」

 黄猿の声にアンは声を返す。そして義祖父と青雉にほほ笑んだ。

 「ありがとう、行って来ます」

 アンは入室時にクザンが自分の副官に頼んで用意してもらった靴を履き、敬礼し上司の後を追う。

 「ガープさん、来年はおれが…」

 「黙っとれ、来年こそはわしの元へ連れ戻す」

 

 それらの姿を、過激派の一部が静かに見つめていた。



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19-シャボンディ諸島

 空に立ち上る巨大な樹木が立ち並んでいた。陽の光を受け七色に輝くシャボン玉が浮く幻想的な風景に、初めてここを訪れる海兵達から自然と歓声を上がっている。甲板掃除を任された新兵達も仕事を忘れ、近づいてくるその光景に身を乗り出し眺めていた。手のひらで影を作りながら、アンもそれを見上げる。

 

「あれがシャボンディ諸島」

 

 突然の出航を命じられ、2日かけてやって来た場所は"赤い土の大陸(レッドベルト)"を間近で見上げる事の出来るシャボンディ諸島と呼ばれる場所だった。

 シャボンディは厳密に形容すれば島では無い。巨大種であるヤルキマン・マングローブが群生し陸地を形成している珍しい海漂林だ。しかし人が地面に足をつけ、生活を送ることが可能な陸地を形成する場所、という意味で諸島と呼ばれていた。地面を形作る木は全部で79本、それぞれに人々が住み施設が立ち並んで町となっている。

 

 船がゆっくりと海軍の駐屯地が置かれた番号へと近づいてゆく。アンはぶるり、と体を震わせた。武者震いだろうか。それともこれからを暗示した寒気だろうか。

 どちらにしろ、シャボンディは海兵にとって鬼門であるのは間違いなかった。

 そして幸か不幸か、この艦船に乗る多くが未だにここ、へ向かうことになった経緯を知らないでいる。大将が主に新兵に対し、緘口をしいたのだ。

 偉大なる航路(グランドライン)へ配属された海兵たちである。よもや逃げ出すこと、は無いだろうが念にはねんを、というところだろうか。重要事項に関しては場所に到達してから伝えられる。軍隊の末端とはそういうものだ。上が下した判断に従い戦場へと向かうのが仕事である。

 

 東西南北の海に住む人々の多くはシャボンディに関して他人事であった。なぜならば自分たちの生活に直接関わってくることが無いからだ。しかもこの島に関しての情報は新聞単独による案内でしかしらない。海賊を名乗る不法者がその島を目指していると認識していても、そこが海賊たちにとってどういう意味を持っているのか、わざわざ調べてまで知る必要も、その暇も無かった。

 四方の海に住む人々はシャボンディが話題に上るたび、こう言うだろう。そんな果てを気にしてどうする。旅行に行くにしても遠すぎやしないか。そして海賊が上陸し、好き放題暴れている記事を目にするたび、同情しつつもここでなくて良かったと胸を撫で下ろすのだ。

 

 海賊もその例に漏れない。

 ある程度の情報を集めはするものの、海賊と称される多くは前もって巡航路を選定などしなかった。大概の場合、ノリと勢いで向かってゆく。サボですらそうだった。行けば何とかなるだろう。と、楽観的に物事を決めていた。その他もろもろの教育を受けず、海賊にしかなれなかった者達が烏合となるならば、間違いなくその分かりやすい一本道を選んでしまうのだろう。

 探せばあるのに、もったいない。とアンは思う。

 海に出るという事は人生をかけた大博打に出るのとイコールで繋がる。下準備無く出発して、どうなるというのだろう。当たって砕けたいのだろうか。価値ある情報は確かに値は張るものの、売買されている。それなのに、その一手間を惜しんでどつぼに嵌る様を見ていると、本当にゴールド・ロジャーがあると宣言したワンピースを目指しているのか、と声を大にして言いたくなる。

 

 幸いなことにアンは知識としてこの島の概要を見知っていた。

 そして目的地を聞いた際、最悪だ、と思ったのも否定しない。

 

 しかしながら、世界貴族とは余程のものなのであろう、と認識を新たにする。胸の奥がちくりとしたが、あえて無視し。海軍本部最高戦力と称される対象のひとりを容易く呼び出せるその存在に唖然とした。

 この島に来ることが決定し、ほんの少し、楽しみだとした心も否定しない。なぜならば未来、エースと共にここに来るだろうからだ。卓上の知識と実際がイコールで結ばれているとは限らない。直接、物事を知れる良い機会でもあった。今回の件がどう転ぶのか。出来るだけ穏便に、事が進めばいい、とアンは思いながら近づいてくる緑を仰いだ。

 

 上陸の準備を行なうべし、との号令が放たれる。

 今回のシャボンディ巡視はやんごとなき世界貴族である天竜人が滞在している間、その身に危険が及ばないよう海軍が護衛を務める事だ。多くが口を真一文字に結び、無言を貫いていた。知っている者達は、触らぬ神にたたりなし、だと心得ているからだ。出来れば近づきたくは無い。この諸島にも任務で来たくはない。しかし黄猿の元へ配属された海兵は、この苦行に耐えるしかなかった。

 多くの場合、黄猿大将は単独でこの任務に当たることが多い。わざわざ戦艦を動かし、事に対処するのは余程の事情が重ならない限り行なわなかった。例えば海賊が異常発生し、四方の海では狩りきれず中央突破してここ、シャボンディに集中する時期だけ包囲網を張る等だ。

 

 アンは新兵に混じり甲板掃除に使うブラシを収納した後、行軍の列に加わった。真新しいセーラーの襟が海風に揺れる。視線を上げれば配属されて間もない新兵たちが一様に表情を固くしていた。緘口令の内容で、そうなっているのではない。海兵を続けていれば嫌でも耳に入ってくる。ここが前半の海、偉大なる航路(グランドライン)で最も多く激戦が繰り広げられている地であると何度も耳に挟むのだ。身が縮こまるのも分かろう。そしてアンがふたり組み(コンビ)を組む人物と目があった。両者共に笑みで返し、歩みを進める。アンはかちんコチンに固まる周囲に紛れ桟橋を渡り、シャボンディに初上陸した。

 

 そして作戦が伝えられる。

 

 「ちらほらとねぇ、到着し始めてる新人(ルーキー)賞金首を10人ほどやっちゃうよぉ。用意と心積りは万全にしておくようにねぇ」

 

 船を動かした目的を、さらりと言い終え、黄色ストライプの男はゆらり、と正義の白を揺らし一歩を踏み出した。長らくこの船に勤める海兵たちは、胸を撫で下ろす。この船に着任したばかりの海兵たちは、突然の命令に息を詰まらせた。

 

 なるほど。

 アンはひとり納得していた。これがボルサリーノという人物が率いる、部隊であるのか、と。

 飄々とし、どっちつかずの正義を掲げる黄猿という人物は義祖父の言うとおり、確かに狸だ。侮ってかかると痛い目を見るだろう。例えば今の命令伝達だ。

 

 ボルサリーノはこの島に来た目的を、天竜人の護衛だと言った。だがこの護衛を海兵に回すとは一言も言わず、海兵には賞金首を狩れ、と命じた。

 見せるのが目的なのだろう、そうアンは予想している。呼び出しに託けた、選抜だ。

 

 義祖父曰く、大将という役職は劇薬である、らしい。そうガープ中将が言うには理由がある。

 その椅子に座っていられる期間は長い者で15年、短ければ3年もてばいいとされていた。

 それはなぜなのか。

 義祖父曰く、体ではなく心の問題である。そう言い切った。長年中将職に居れば、伝わってこないはずの情報も耳に入ってくるようになる。かつての日、義祖父に手伝ってくれ、と頼まれてぺらりと覗き見た書類各種に諜報が紛れ込んでいたのを知っている。義祖父は立場的に中将を貫いてはいるものの、実際的には独自の情報網を使い、中将と参謀を兼任しているようなもの、だった。だから元帥は遠まわしにそれを知っているか、と尋ね、ガープ中将の反応で成否を判断している部分も少なからず見受けられた。

 

 そう。中将から大将へ昇格する際、与えられる機密が半端ではない、のだ。

 任期が短くなる、責任に対する過重だけではなく、世界の中心に横たわる闇に触れるため、精神が持たない、とするほうが自然か。

 ガープが知る歴任の中で、センゴクが元帥に昇格し今の黄色に変わるまで、片手では足りない大将が役職を辞した、とアンは聞いている。

 

 「狸の腹芸も一興じゃろう」

 

 義祖父の声が耳の奥で繰り返された。

 別段義祖父もボルサリーノを見下してそう言った訳ではない。腹芸も技能のひとつだ。

 内心で舌を出しつつ、義祖父を丸め込もうとした名前の件の追撃に額を弾かれたような感覚だ。まったく、どちらが役者なのか分からなくなってくる。

 

 ボルサリーノは今まさにふるいの上に艦隊を置いた。

 これからの数日、黄猿の艦隊に不必要な人間が落されていくだろう。

 かつてからこの艦に配属されているものであれば誰もが通ってきた道ではある。だがこれは劇薬だ。

 天竜人という存在を知らず、良心のみで海兵になった者には悲壮な選択が待っている。

 

 聡い者ならば、大将が説明する段階で気づいていてもおかしくは無い。

 だが黄猿が欲している人員の能力はそれではないだろう、とアンは考えていた。

 必要悪。

 これを含められる人物を探している。表に漏れ出た闇に触れても踏ん張れる誰かを探しているのだ。

 

 正義の反対は悪だと思いがちだが、実は違う。不義、だ。人の道に外れること、といえば言葉の硬さが和らぐだろうか。しかし人の道とはなんだろう。その定義すら人が作り出している。ならば加えて問おう。

 

 悪、とは何ぞや、と。

 

 そうだ。ソムイタモノを指す。

 海軍が掲げる正義は結局のところ、この世を支配する『世界政府』を否定する勢力に対し、正義を行なうのだ。

 これを正しく理解し、軍務についている人々がどれだけいるのか。数えてみれば分かる。あっという間に万が百の単位まで落ちるだろう。

 

 悪に強きは善にも強し、という。

 ボルサリーノはコレを望み、待ち望んでいる。多くがコレに自力でたどり着き、自身の正しき義を確立することを切望しているのだ。

 

 「ホント、ハードル高いよね」

 

 海軍には志高い人員が多く集まるとはいえ、そこまで達観できる人材などごくわずかだろう。

 人間は視野が狭い。広く見渡し情報を拾うのは苦手としている。

 

 「そうでもないようだけどねぇ」

 

 小さな呟きを拾ったその人が横を通る間際、意味深な一言を落して去ってゆく。

 アンはそれを聞き流した。

 だが周囲は一体何のことだと顔を見合わせている。まさに知らぬが仏、だ。

 

 

 部隊は規定の人数に分けられ班となり、早速、諸島の各方面へと散ってゆく。

 新兵だけを固めた分配はない。上司を見て学ぶ。基本的な叩き上げでもあった。そこで見るだろう。感じるだろう。海兵になってもどうにも出来ない、苦さがあることを。そしてその際たるは黄猿が直々に護衛する、天竜人という存在だ、ということを。

 だがそれは意図的に仕組まれていた。できるだけ多くの後輩が残ってくれることを願うばかりだ。

 

 そして幾人かの中に再び紛れ、アンは歩みを共にした。

 歩きながら黄猿が語った、ときどきある、というやんごとなき世界貴族の呼び出しについて思索する。

 不確定要素が多すぎるが、新たな情報が手に入り次第、修正していけばいいだろう。根本からひっくり返されても構わない。想像し、最悪を回避する手段とする。サボには悪い癖だと言われたが、楽しいのだから仕方が無い。これのおかげで、エースやルフィの暴走をあわや、という段階であったが首根っこを引っ掴んで大事を得たこともある。悪いばかりではないが残念な結果へ転がらなかったのは、もうひとりの参謀が居たからだ。多少は控えるよう頑張ろうと思った。

 

 深呼吸して息を整える。

 

 そもそも天竜人とは特権階級である。諸国の王を束ねる集団が世界貴族である天竜人だ。

 ファンタジーで当てはめるなら、海軍が騎士であり、諸国の王たちは領主、世界政府が政を左右する宰相などの政治集団、そして世界貴族が王と例えられるだろう。

 しかしここで言いようの無い気持ち悪さがアンを襲う。

 王である世界貴族に、責任が課されていない、のだ。だが王である天竜人が持つ権は多種多岐に渡っている。

 普通は大きな責務を負うからこそ、その責務を全う出来る様に権が付随されるものだ。

 だが彼らは政権に関与していない。世界の頂にあるのに、その全てを世界政府に丸投げしていた。

 責務が無いのにもかかわらず、ここまで過剰に盛られた権限に疑問を抱く。

 

 物事とは立体によく例えられる。一方からでは丸にしか見えなくとも、視点を90度横に移動し遠目で見れば、長細く尖った三角円柱であることが分かる、というものだ。その考え方を応用し、アンは真下に潜ってみた。

 ・・・反対の可能性を探った、のだ。

 

 特権という抗えない楽を与えられ飼われている、とするのはどうだろうか。なんとなく細い糸がよりあう様な気がしないこともない。

 そこまで考え顔を上げると、何事かが起こったらしい。前を歩く海兵の腰にぶつかり止まった。

 なんでもこの先で幾つかの海賊団が競り合っている、のだという。先行していた班から足の速い数名が戻り、伝達を繋げているという。アンの班でも俊足のひとりが選ばれ、他の班が向かった方向へ走ってゆく。

 

 黄猿艦ではふたりで一組を作り、それを3つ集めて班として定めている。そして班を五つ併合したものを小隊としていた。

 各班には子電伝虫が渡されているものの、電波の範囲が狭く、かつ、この諸島独特の地形も相まって使いにくくなっている。そのため班には必ず、伝令がひとりないしふたり、含まれていた。

 

 「分かった。集合地点で待機しておいてくれ。すぐに行く」

 

 かすかな電波を拾い、班の責任者が連絡を取り合う。アンは周囲に異議を唱えず、大人しくしていた。見聞色を多少使えるとはいえ、エースが居ない状態で遠くを聞くのは難しすぎたからだ。

 ガープ中将の孫である、と既に黄猿艦の者達は知っている。隠していても人の口に戸は立てられない、と早々にボルサリーノが暴露したのだ。黄猿艦海兵たちの反応は冷ややかだった。それがどうした、と11歳の小娘が本当に使い物になるのか。厳しい目がそこかしこにある状態が続いている。

 だがそれがいい。

 アンはひとりほくそ笑んでいた。

 もし中将の孫だとし、担ぎ上げて来ようものなら幾人かに喧嘩を売ろうかと思っていたのだ。

 義祖父の七光りがあっても、使うつもりは毛頭無い。さりとて侮られているばかりでは癪に障る。ただ海兵となり、あの島での生活が普通とはかけ離れていること、前半戦だけならば十分と通用する、それが分かっただけでも収穫といえるだろう。

 

 集合場所には3班が集っていた。

 到着すると丁度、早駆けができる斥候が帰ってきた直後だったらしい。小隊の態を成し始めた集団は大尉を指揮官に作戦を練り始める。

 海賊は全てあわせ、ざっと100名余り。手配された顔は無いが、この諸島までたどり着けた海賊たちである。手を抜くような真似は出来ない。

 

 「大将は予定通り、天竜人を迎えに行かれている。手を煩わせぬよう、一気に叩きに往くぞ」

 

 伝達された作戦は、両海賊の頭、主力を叩く押さえるものだ。数が多い末端をいちいち始末しては、圧倒的に少数であるこちらの消耗が激しくなる。

 海賊同士が争っているが、海軍を見るや共闘してくる可能性もあった。だがそもそもが烏合の衆である。

 中心人物さえ捕らえてしまえば、自然と散っていくだろう。・・・海賊の生死は問われなかった。

 

 戦いが始まる。

 先制したのは海軍だった。黄猿がピカピカの実の能力者であるからだろうか。遠距離射撃を得意とする狙撃手が多く在籍していた。シャボンを体に巻きつけ、苔むした幹の影から的目掛けて弾を撃つ。数にして15、その銃声が秒を合わせれば大砲のごとく響いた。

 喧騒が静まり返る。そして音の元を探すよう指示する。それが隙となるのだと知らずに、だ。

 生まれた空白を指揮官は上手く利用した。海賊がやきもきとしている間に、各個撃破してゆく。

 遠距離攻撃を持たないアンは、その様子を見ていることしか出来ない。組となっているもうひとりもそうだ。接近戦を得意としており、遠方射撃が主な今作戦に関しては主役の彼らの補佐に回る。

 だがこの戦い方は道理に合っていた。わざわざ真正面に立ち、堂々と立ち会うなど、どこの熱血漢だ。

 海軍は海賊との戦いに限り、勝たねばならない集団である。これが国同士の戦いであれば奇襲を卑怯だと罵る声もあるだろう。だが相手が海賊に限り、そららは黙殺される。

 

 小隊はいくつもの物言わぬそれを作り出した。そして静かになった跡地でひとつづつ、袋にそれらを詰めてゆく。作業を手伝いながらそれらをどうするのかと問えば、焼くのだと言う。

 もくもくと作業を続けていれば、手元が暗くなり始めていた。見上げれば空が茜色に染まり始めている。

 アンは自身の名を呼ぶ声に応え、走り出す。

 

 

 

 時は夕方より遡る。

 天空に最も近い場所から下りて来たのはいつも黄猿を呼び出す顔ではなかった。

 サングラスの裏で、密かに目を細らせる。ボルサリーノに追随する兵たちは黄猿が選び抜いた精鋭たちだ。よもやの事態はないだろうが、注意を怠るべきではない。

 

 天竜人とはこの世界における頂だ。800年前世界政府を作り上げたという20人の王の末裔であり、その血筋を今に伝える尊き存在として敬いの対象とされていた。

 その言はなによりも優先され、聖地以外に住む人々を賤しめ下々民と呼ぶ。そして下賎とする身をよく好み、望んだ。天竜人と呼ばれてはいても、受肉した生き物である。その欲求を満たすために、更なる贄を欲しがってはこの諸島へとやってくるのが常だ。

 

 黄猿はいつもとは毛色の違った世界貴族に違和感を禁じえなかった。

 その引っ掛かりがなんであるか、までは分からない。わからないがこの感覚は不愉快であった。

 

 ボルサリーノは大将と呼ばれる役職に就いた初期から、この役目をほぼひとりで負ってきた。

 もともとは平等な分配だったという。しかし天竜人という存在に関わった多くは良心の呵責により意図的に避け始めた。3人しか配置されないそれぞれに押し付けあい、関係を壊していった。

 かつて黄猿というふたつ名を貰い、大将という役職に就いたばかりの頃、後に青雉が座す地位にあった者がボルサリーノへと天竜人に関する情報の譲渡と共に、あと数ヶ月で職を辞すと伝えてきた。それまでに慣れてくれという旨意だった。苦心してきたのだろう。肩の荷を下ろす準備が終わっているためか、以前会った時よりも表情が柔らくなっていたようにも思う。

 

 今でもそうだ。

 ボルサリーノよりも早くに大将となった赤犬は呼び出しが来るだろう頃を見計らい、新世界を半周する巡視に出かけ、青雉もよからぬ気配を察知し単独、自転車に乗ってどこかに視察に出かけてしまう。どう足掻いてもお鉢がこちらに回ってくるようになっているのだ。そして船を使わず、召集がかかった時点で即、向かえるという能力もあつらえ向きだった。

 

 政府の一部では近年まれに見る、天竜人を手玉に取れる男、と密かに揶揄されていると知っている。

 だが元を辿れば世界貴族の御用聞きは政府役人の職分だった。否、今でもそうだ。しかし楽を覚えた役人はただの付き添いと化している。本来ならば護衛任務に就くだけの技量を得なければならなかったが、それらをすべて海軍へ丸投げした。きっかけが何であったのか黄猿は知らない。だが50年間も代行していれば既成事実も成立する。

 

 「聞いていた通りじゃ、私を待たせおって」

 

 黄猿はその問いかけに答えず、黙ったままその膝を折る。追随していた海兵もそれに習った。

 

 「まあよい、行くえ」

 

 天竜人は跨いだ人の腹を蹴った。

 のろのろとそれが動き出す。不条理の行進が始まったのだ。

 

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 -----時は数日前に遡る。

 

 「シャボンディ諸島、ですか? 諸島には行ったことが無いですね」

 

 とある休日の夕暮れ。

 アンは台所から上官、兼、居候先の家主へ答える。

 入隊からしばらくのときが経ち、英雄の孫を見る目が少しずつ変化の兆しが見え始めた頃、瞬間移動、というアン独自の能力について海軍内では物議を醸していた。

 論点はたったひとつ、なぜ実を口にしていない人間がそのような力を持っているのか、だ。

 

 海軍はアンの体を徹底的に調べようとした。外道な手段は今のところ、とられてはいない。ガープが中将の権をもって、徹底的に排除したのだ。クザンもそれに同意し、手を貸していた。くすぶってはいるが手を出せない状態、である。

 ガープは本来、己が自由に動ける以上の地位や権威に興味を示さない人物だ。幾度大将への昇格を打診されても頑として首を縦に振らなかった。誰もが望んで果たせない役職を、必要ない、と断り続けている程だ。

 だからセンゴクは瞼を閉じた。孫娘は故郷の島でひっそりとその存在を隠し育ててきた玉だ。傷ひとつでもつければ、眠った獅子が目を覚ますだろう。お互い老いたとはいえ、牙までは抜かれてはいない。センゴクは苦肉の策として元帥権限を発動させ、人道的見地から、本人の意思を無視せず行なわれる検査のみを勧告、とした。

 

 上記の理由から、多少血を抜かれたり医療塔に数日間監禁されたりはするが、皮を剥がれたり、手足を切り刻まれたりはされていない。

 

 便利なその能力が、もし何らかの媒体を仲介して他にも分け与えることが出来たならば。

 様々な憶測が立てられ、本人のあずかり知らぬ場所で背びれと尾びれがついている。

 利用を目論む勢力がじわじわと魔の手を伸ばしては来ているが、その全てが今のところ、青雉の手によって凍らされている状態だ。

 

 アン個人としてはなんともし難い状態であった。

 能力を研究するのは良いだろう。だがアンは海兵として、世界を知りにきた。研究者の知的欲求を満足させる実験動物になるために義祖父に手を引かれて来たのではない。

 だが義祖父もクザンも組織の中に組み込まれた駒である以上、上部組織の命令は絶対だ。任務で引き離されてしまえば、アンの身を守ってくれる盾がいなくなってしまう。由々しき事態の出来上がり、である。

 

 誰にも侵されない、絶対的な何かが欲しかった。

 

 「一度行けば、まあ、はい」

 

 続いての問いへは曖昧に濁す。

 ドーン島に居た頃、アンはこの能力を頻繁には使用していなかった。その主な理由は疲れすぎる、に終始する。島内部を移動するだけであれば走ったほうが疲労の面でおつりがきたからだ。

 瞬間移動の利点は一度訪れた場所であれば、現在地の真裏であっても行くことが出来ること、だろう。

 そんな便利な能力だが、使用に関しての制限があった。『一度でも』という文言がみそだ。能力の暴走が無い限り、実際に地に足をつけた場所、という制約が付く。また、物質の中に入り込むこと、も不可だった。人に限らず物には存在概念がある。その形を侵すことは出来なかった。水の中、を例にあげよう。シャボンで空間内部に気泡のような体を収められる空間がある場合は飛んでいけるが、シャボンディにある巨大なマングローブのようにしっかりと実(じつ)が詰まった物質の中には入っていけない、のだ。

 

 アンはコンロから土鍋を下ろし、バスタオルでぐるりと巻き始める。炊飯器で炊くほうが楽ではあったが、今日は久し振りの休日ということで、一手間かけて夕食を作っていた。

 客人が来る。そうボルサリーノに聞いていたため、久々に腕を振るったのだ。

 

 蚊取り線香の煙がゆらゆらと風に揺られ立ち上ってゆく。

 開け放たれている家屋の縁側には、日本酒を片手に枝豆や塩辛をつまむ黄猿の姿があった。

 

 「おお、いらっしゃい」

 「入るけぇ」

 

 声が聞こえ、アンは居間を覗く。するとそこに居たのは着流し姿の赤犬だった。

 目がぱちくりと瞬く。

 赤犬といえば、海軍内で過激派をまとめる牽引役としても有名である。黄猿の立場としては、海賊と名乗るもの全てを殲滅し尽せば世界は平和であるという急進派と、海賊であっても人であるのだから捕らえ生きたままその罪を償わせるべきとする漸進派の中間ではあるものの、個人としてはサカズキ大将と仲が良かった。

 

 「うまげなのう。ちょっとくれえや」

 「いいよぉ。けど食べ過ぎないようにねぇ」

 

 今夜の夕餉はご馳走ばかりだ、とボルサリーノが続けると、きつく結んでいた真一文字が少しばかり崩れた。

 アンは新しいお猪口とつけものを5品ほそ器によそい、ふたつの背に向かった。並び、すだれの影で杯を酌み交わしているそれぞれをただ見ただけでは、海賊なら誰もが恐れる大将であると誰が思うだろうか。

 

 両者は言葉無く、ただ静かに酒を酌み交わしている。

 

 アンはサカズキが苦手だった。

 表情が怖い、というわけではない。強面を語るならば、まずは義祖父からだろう。

 大将、赤犬に抱く感想は、近づきたくないほどの怒気を放つひと、だった。理由は分からないがいつも何かに憤っている。

 人間とは面白い生き物で、どんなに強い怒りを覚えても、随時ではいられない。どこかで小休止置かれ、再びその感情が顔を出す。しかし赤犬は違った。眉の間に深く刻まれた皺には、何かしらの原因があるのだろう。しかしそれに関し、どうしてなのか、と聞けるほど赤犬との接点も良好な関係も無かった。

 ただ会うたび、心が締め付けられるように、痛むのだけは確かだ。

 器を置き、頭を下げて立ち上がる。

 

 「うまい、よーつかっちょる」

 

 箸を伸ばした先は昆布の塩煮ときゅうりを漬けたものだった。ボルサリーノが甘口の酒を好むため、あてのほうが辛味となる。

 

 「だめだよぅ。アンはウチの子なんだ」

 「年ごとじゃけ、次はわしが貰い受ける言うたじゃろう」

 

 席を立ち、台所へ向かうアンの背に、そんな会話が流れてきた。

 そう。アンの異動が正式に決まったのだ。

 

 本来は配属された艦から、階級が上がっても離れることは少ない。無い、のではなく少ないのは将校へ昇格が決まった際、戦力が不足している艦隊、または偉大なる航路(グランドライン)内の支部へと移る場合もあるからだ。

 

 アンに関して、だが海軍上層部の評価はまずまず、といっていい。黄猿が取りまとめる艦隊に限ってだが、下士官からも慕われているようだった。己たちよりも低いはずの年齢を、精神的な成熟で賄っている様を嫌う者たちも居るが、能力の高さ故にに迂闊に手が出せない状態であるという。

 海軍もさまざまが集まっている集団だ。全てに気に入られ、好ましく思ってもらえるなどありはしない。あからさまな態度を示す者は居ないが、陰口は日の当たらない場所で積み上げられている。

 

 これらに対し、アンの対応は『特になにもしない』だった。

 嫌味や皮肉など、人間であれば誰しも口にするものだ。一度たりともした事がない、は嘘だろう。もしそれが本当であれば、心根が純粋な正義感溢れる輝かしい人物である。出来ればそのまま、穢れを知らず万進して欲しいと願うばかりだ。

 しかし人間とは他人を羨む。隣の芝は青い、ということわざがあるくらいだ。

 疎ましく思うはずがない。なんと人間味ある行動なのだろう。そう思っていた。

 

 出来るだけ自然体でありつづける。アンはそう決めていた。

 相手の希望を叶えるために自分を変えるなど、本末転倒もいいところだ。

 アンの性格が辛らつで、嫌われるべくしてそうなるもの、であれば変える努力をしなければならないが、今のところは問題なさそうだ、と踏んでいる。

 

 一年ごとの引越し。

 出来るだけ荷物を増やさないようには頑張っているものの、私物は着々とカサを増していた。特記すべきはその書物の量だ。ドーン島では手に入らない、専門的な知識が詰められた英知が本屋の棚に当たり前の顔をして鎮座していたのだ。手が伸びないわけが無かった。

一度島に戻り、本棚を増設しなければならない必要性に駆られている。

 

 住居については未成年だという事で寮への入居は見送られていた。もう少し年齢が上がれば一人暮らしもできるようになるだろう、との配慮であったが、ふたを開けてみれば炊事、洗濯、清掃、何でもござれ状態だ。裁縫は多少苦手だとしていたが、ボタンが取れてしまったくらいであれば簡単に補修出来る。何も問題は無かった。しかし未成年という一点につき、特例ともいうべき黄猿の家に居候となった。そのため次年度の異動はそのまま、居候先の変更となる。アンは義祖父の家に入れないかどうか、今度会った時に聞いてみよう、と思っていた。なぜなら上司と共に暮らす、ということは、その人物と親しくなる確立が上がる。アンは海軍で過ごす期間を3年と決めていた。だから余り、親しい人物が増えると困る事態となりかねなかったのだ。

 

 

 またボルサリーノという上司はアンを艦内全てにたらいまわし、した。

 それは適正を調べるための行脚と言ってもいい。一体何に適正があるのか。実際にこれが得意だとし入隊してきた人員でも、他の部門で能力を開花させた例もある。艦の中に存在するいくつもの部署に各10日、様子見をしながら入れ替えた結果、どれもこれも平均値より多少上ではあるが、突出したものはなにも無かった。簡単にいえば、器用貧乏、なのである。さまざまな分野を知ってはしていても、どれもこれもが中途半端という結論が出た。

 

 黄猿としては悩ましい配置であった。どこに行かせたとしても、中央値は必ず持って帰って来るだろう。だが、これといった特性がない人物ほど扱いに困るのものだ。海兵となった多くを見てきた黄猿が思慮するに、指揮が向いているわけでもなく、突撃に特化しているわけでもない。かといって文官として据えるわけにもいかず、全く困った采配となった。

 結局、悪魔の実を口にした能力者と同格ではなく、その他大勢の中に紛れ込ませることとなった。英雄の孫だけあり、銃器を手に戦う一般とは明らかに基礎能力が違うものの、能力者と比べると劣っている感がどうしても否めないのだ。

 

 だがこれが嬉しい誤算へと繋がった。

 誰もが最初、こんな子供が背伸びをし海兵などになっても使い物にならないだろう。と彼女に向けられた第一印象はそれだった。

 賞金首を拿捕した情報は流れていたが、人の噂を鵜呑みにする者が少ないこの黄猿艦では、伝わるうちに話が大きく膨らんだのだろう。という評価になっていた。ところが実地訓練に入った途端、その真価が発揮された、のだ。

 すさまじい、と言ってよい耐久を見せた。聞けば毎日野山を走破していたのだという。瞬発力に関しては中の中だが、距離が伸びれば同じ速さで走り続けられる少女に軍配が上がるだろう。それほど少女の足は艦の誰よりも強靭だった。

 しかし数名が立ち上がる。11歳に負けてなるものかと、追い上げを始めたのだ。最初は見ているだけだった多くもそれに引きずられるように後を追い始め、結果的には奮闘するものの生まれながらの野生児には一歩及ばず、脱落者が続出した。

 ボルサリーノは兵を指揮する立場からその様を見、少女に下していた評価を取り下げねばならなかった。

 まさしく少女は、英雄の孫であったのだ。その背を追い、引きずられる。知らぬうちに感情を引き出されている。好悪関係なく、気になって仕方が無くなる。それは現在、海軍では最も必要とされる能力だった。人々を先導してゆく力、それを彼女は、その祖父と同様に保持していた。

 

 どう成長していくかは采配に拠るだろう。肩へ重圧が一気に押し寄せてくる。だがそれもまた楽しみのひとつとなった。

 

 

 そんな中、決まった遠征だった。艦に伝えられたのはシャボンディ行きの通知だ。

 目的は知らされなかった。

 

 「もう連れて往けと」

 「仕方がないよねぇ」

 

 声音が重い。

 

 海兵は世界政府の下部組織だ。だが天竜人は絶対的正義の外側に存在する特権だった。

 世界貴族はなにものにも縛られない。世界の全てを自由に出来る権利を保障されていた。政府に加盟する王たちであったとしても、天竜人に気に入られたならば隷属しなければならなかった。だが唯一海兵だけはその身を奴隷に望まれても恩赦される法が施行されている。

 だが海兵は例え天竜人に銃でその体を撃ち抜かれても、不平を口にしてはいけない。

 どちらにしろ、天竜人とは多くにとって理不尽の塊であった。

 

 夕食はつつがなく終わった。アンは皿を洗いながら、作り手冥利の完食に笑みを浮かべる。

 身を崩さぬまま瀬戸物にのせられた鯖の味噌煮と豆腐とわかめの澄まし汁、酒が進むであろうあてを縁側で箸をすすめていたものとは別の幾つかを並べ、少量づつ盛った野菜の和え物が食卓に置かれた。

 食事風景は他愛も無い。誰もが無言で食を進めていただけだ。

 だが空いてゆく皿が気に入ってもらえた証ともいえる。アンは満足していた。

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 そして夕焼け空は闇の帳に閉ざされる。

 揺れが止まったのを感じ、アンはゆっくりと瞼を開いた。荷台に乗せてもらえたのは、思いがけない幸運だった。日が落ちると途端に眠くなってしまうのだ。どんなに大人であろうと努力しても、体の欲求には逆らえない年齢だった。

 あくびを噛み殺しながら班に加わり、耳を側立てていると、黄猿大将はまだ駐屯地に戻ってきていないようだ、と聞こえてくる。

 だが今日の終わりも近いのだろう。各方面に散っていた班が次々と駐屯地へ戻ってきていた。

 小隊はボンシャ(車)を使い、詰めたそれらを往復運搬し続けていた。袋が積み重ねられ、山となっている。

 駐屯地に勤務する者たちも荷降ろし作業に手を貸してくれていた。夜勤との交代が終わった人員がそのまま、補強員として入っていたのだ。

 

 「あー、なんか気が重いわ」

 「やっぱそうだよなぁ。毎日ではないが、こう立て続けに降りてくると堪ったもんじゃない」

 

 作業をしながら小さく愚痴が吐かれていた。

 多くが黙々と手を進めているが、誰もが同じ気持ちなのだろう。無意識に首を振っている幾人かが居た。

 

 この島では天竜人の悪口(あっこう)が法で禁止されている。敬愛されるべき血族を貶めるなど、許されるべきではないからだ。しかし現状、捕まったとしても軽度な罰金刑で終わっていた。

 なぜなら統治している行政が政府に言い訳出来る様にするための法であるからに他ならない。シャボンディ自治として、不届き者はきちんと罰していますよ。という形式を保つための外形だった。

 島に駐屯する海兵たちは鬱憤のはけ口を探すようになってゆく、という。それだけこの地で勤めると心身ともに疲弊するのだろう。世界政府の横暴を止められず、本来手を差し伸べるはずの、助けを呼ぶ住人たちをなぎ倒さなければならない。それが仕事でもあった。

 駐屯地を任されている将校は、海兵たちのそれらを聞かぬ振りをしていた。良くない傾向ではある。だが全てを禁じてしまうとこの島に留まる海兵が居なくなってしまうのだ。

 

 「滞在期間どれくらいだろうな」

 「さあて、分からん。分からんが・・・」

 

 目的は末の息子である聖の誕生日祝いであるらしい。推測であるのは又聞きである事ともうひとつ、本当の目的が表沙汰になれば襲撃される恐れがあった。そのため情報が伏せに伏せられていたためだ。

 かつて、はこのような心配は無用だったろう。なぜなら天竜人に危害を加えようと企む輩など存在しなかったからだ。世界貴族と聞けば誰もが畏怖し、近寄るのも憚る存在に祭り上げられていた。長い年月をかけ築かれてきた固定観念により、手を出すなどもっての外、となっていたのだ。

 しかし、今やそれが脆くも崩れ始めている。

 事の発端は紛れも無く、フィッシャー・タイガーの聖地襲撃後に放たれた宣言だろう。そして規模を拡大し続ける、解放軍と言う名の組織が触らず、と決められていた牙城に杭を入れ始め、世界政府とは違う情報を放出している事実だ。人々は疑問を抱え、考えるきっかけを得た。

 ・・・とはいえ、多くにとって天竜人は物語の中のひとと変わりない。無関心と言っても過言ではなかった。なぜならば天竜人は雲の上の人、であり一生に一度、その姿を目にするか否か、という遭遇度なのだ。

 

 が、この島は違う。

 四方の海ではその姿を一度でも拝めれば、一生の語り草に出来るだろうが、このシャボンディでは頻繁に、それこそ月に一家族という頻度で足しげく通ってくるため、誰しもがその姿を日常的に知り、生活と密着している。

 ではなぜこの島に天竜人がやってくるのだろうか。それは聖地から天竜人が世界政府下す、複雑な手続きを必要とせず、気軽に訪れる場所だから、に他ならない。

 

 住人たちにとって海賊も天竜人も等しく人災であった。しかし天竜人が島に来るのを住人は黙認している。どちら共に歓迎はしていない。だが、島民にとって海賊は邪魔以外の何者でもないが、天竜人は実利をもたらす客であった。

 なぜならば天竜人は個人で動かない。必ず集団となってやってくる。護衛は海軍が担っているものの、その言を繰り返し、肯定し実行するのは世界政府の役人だ。日帰りならば少人数だが、宿泊となればそこに日々の世話を行なう用人が列を成してやってくる。世界貴族とはいえ当然、行動に関わる金銭は発生した。

 シャボンディで暮らし、商売で生計を立てている人々は、天竜特需、とにこれ呼称し、密かに諸手を挙げていたのだ。

 海兵にとっては胃が痛んで仕方が無い状態ではあるものの、住人達にとってはある意味、巨万の富を手に入れる機会でもあった。天竜人の気まぐれと怒りにさえ触れなければ、それに付属する多くから日々の何十倍という恵みを受けられる。しかも海兵が護衛に入るため、島全体の安全性も高まり一石二鳥だった。

 そう、目には見えない需要と供給、そして裏で動く巨大な金銭により、この島は成り立っている。

 

 海賊にとっては天竜人はどうでもよい存在ではある。だが海軍がその護衛に入ってしまうと、最早のっぴきならない。コーティング作業が終わるのを気を揉みながらただ静かに待つしかなかった。そうでなければ、ここで目的が絶えてしまう。彼らは様々な危険を冒しながら、前半の海をようやく終えたのだ。海賊は魚人島到着の夢を見る。そしてその先に至れる未来を切実に願っていた。それを些細な争いで棒に振るなど、誰も望まない。よって天竜人が来島し、海兵が護衛任務につくとこの島の住人達は忍びやかに拍手している、状態なのだ。

 

 海兵は直接それを聞かずとも島の雰囲気で、そうなのだろう、と感じ取っていた。

 だから海兵は天竜人という嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだ。それが駐屯地に送られてきた者達が悟り、伝え続けている最善の、得策であった。

 

 白の光が照らす駐屯地は昼間のように明るい。しかし一歩でも壁の向こう側に出れば深い闇が横たわっている。

 そこへこの基地には不似合いな、ランタンを灯した荷馬車が到着した。門前に立っている海兵とは顔見知りのようで、挨拶を交わしそのまま中へと入ってくる。

 

 「おおい、ここでいいかね」

 「ああ、そこらへんに置いて貰ってかまわないよ」

 

 アンはどさり、と聞こえた重量物が地面に落される音に振り返った。

 

 「娘さん・・・海兵さんでも見んほうがええ・・・」

 

 目が、合った。

 そしてアンが詰めた、同じ袋の隙間から一筋、長い髪が垂れ下がっていた。

 

 被害者、だった。

 天竜人に出会った場合、人々はその場に膝をつけ頭を垂れなければならなかった。決して世界貴族を注視してはいけない。この諸島に住む人々であれば誰でも知っている決まりごとだった。

 海兵でもそうだ。基本的に無礼講が許されていたが、階級が大佐以下であれば天竜人の気分次第で膝を地につけなければならなかった。

 

 アンはその光景に立ち尽くす。

 ここでも人の命が、こんなにも軽く扱われている。なぜなのだろう。

 感情がいう事を聞いてくれない。

 詭弁だと知っている。だが、それでも中央に近い場所くらいは、位高ければ徳高きを要す、を行なうべきではないか。長く続く統治だからこそ、人々の安寧を、指し示さなくてはならないのではないか。

 

 腐敗と呼ぶのも甚だしい。

 怒りを通り越し、脱力感がその身を襲う。

 

 ああ、そうか。

 アンは夢でみるような、ふわりとした感覚の中に浮かぶ。浮かんで周囲を見た。

 景色が歪み、アンを中心に黒が渦を巻く。

 世界は既に歪み捻れきっているのだ。知られたくない秘密を闇の中に隠しておくため、さらなる闇を作り人の目をそちらに引き付けている。人々は精神を圧迫され、遠くを見なくなっていた。近い場所ばかり目を凝らし、生き残るために必死になっているのだ。遠くから眺めることが出来るならば、どれだけこの島が不規則な曲線に晒されているかが分かるだろう。

 

 シャボンディの人々は自分よりも不幸な人間が居る。だからまだ、自分は大丈夫なのだ。そう思い込まされている。それを卑怯だとは思わない。そうした政策は、アンが知る過去の事例でもとられていたからだ。

 

 この諸島に垂れ流されている闇は深い。はるか上空にある深淵から伸ばされている数多くの触手の先端がここに伸びている。さながら聖地とは名ばかりの、憎悪製造機の檻だ。

 だから奴隷、という身分をわざわざ作ったのだろう。生まれや身分関係無く、所持できる特別な者達に敵意が向くように。よく出来た制度だ、とアンは思った。

 

 だが、その一方で奴隷全てがこの制度を忌んでいるわけではない。救済されている多くも、ある。

 奴隷と言う身分は、両親があり衣食住が揃った環境で、教育を受け成長した人物であれば厭うだろう。しかしもともと住む家も無く、汚泥が沈んだ上澄みの水溜りをすすり、固くカビが生えたパンを齧っていた、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)のような場所で暮らしていた者達であればどうであろうか。

 飽きられれば、見世物としての価値が無くなれば競にかけられ、手放されるだろう。しかしそれまでは温かな寝床と栄養のある食事が保障されるのだ。飢えることも寒さに震えることも、体を苛む痛みも無い。

 ゴミ山で暮らしていたあの幼子たちと似たような環境にあるものたちは、笑ってその首を差し出すだろう。

 

 己の身を不幸だ、と感じられる者たちはまだ、幸せなのだ。明日からはきっと、多くが目にする。

 

 「おい、おい、娘さん、大丈夫か」

 「あ、はい、大丈夫、です」

 

 アンはオウム返す。

 少しだけ頭の芯がずきり、と痛んでいたが、我慢できない程ではなかった。

 

 海軍は確かに、正義の名のもとに人々の暮らしを守ろうとしている。入隊を希望する人々は、弱きを助け、悪を挫く正義の二文字に憧れと希望を抱いてやってきていた。ただ世界は正と不、善と悪と、明暗の二つで分けられるほどシンプルな作りをしてはいなかった。光が強ければ強いほど、闇もまた濃くなる。そして長い年月の末に白と黒、そのどちらにも属さない勢力が出てくるのは致し方無い流れでもある。

 

 つまるところ、海軍と海賊は、属する組織の有無と名が違うだけで、同じ穴のムジナなのだろう。

 アンの目には公か私か。国か個人か、の差にしか見えなくなっていた。

 だからと言って楽の誘惑が強い悪の道に進めと誘っている訳では無い。自分が信じる道を、しっかりとその両目で確かめて選択してゆくしかないのだ、と声を大にして云いたいのだ。

 その功(いさおし)を海軍で成そうとするもよし、どちらの色にも染まらず、灰色の路を進むもよし、己の身ひとつだけで成りあがろうとするも、あえて闇を背負うもよし、なのだ。 

 

 もしアンが天竜人に囚われたなら、間違いなくエースが死に物狂いで奪い返しに来るだろう。

 己が身を滅ぼしたとしても、殴りに来る。それはすごく幸せな事だ。

 

 「アン准尉、船に戻るぞ」

 「はい、了解いたしました」

 

 上官の声がいくつも重なり黄猿艦の者たちが帰投し始める。手にはランタンが揺れ、幾つかの明かりが固まって進む。見上げた空には月が細くあった。

 今夜ばかりは悪夢すら手のひらで転がせそうだと、自嘲気味に下限の月に笑いかける。

 



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20-きらきら星

 海軍の朝は早い。そして規則的である。

 

 有事の際もこれは変わらない。夜間勤務に割り当てられない限り、起床は5時半と決まっていた。階級は関係なく、海兵の規約である。ガープの船に乗っているときも同じだった。

 アンは丸めていた体を伸ばす。括りつけてある縄が軋み小さく鳴った。

 縦長ではあるこの部屋は、大人がひとり寝転べば身動きが取れなくなってしまうだろう空間しかない。なぜならここは元々倉庫として使われていた場所だからだ。現在においてはアンの個室である。扉は唯一、艦長である黄猿の執務室に続いていた。

 新兵も玄人も軍艦での任務期間中は合同部屋が基本だ。この黄猿艦に乗り込んだ際、どんな人たちと同部屋になるだろうと心躍らせていたアンをひとつめの絶望の淵に叩きつけたのはこの個室、だった。

 

 持ち込まれている所有物は少ない。備品からランタンひとつと小さな机が支給され、その上に数冊の本が立てかけられている。衣服は小さな箱の半分程度、だろうか。ベッドを置く広さは、無い。そのため例外的にフックが壁に打ち付け固定され、柱と繋がり吊られているハンモックを寝床としていた。最初本当にこれで寝れるのだろうか、と不安だったアンも良い意味で裏切られ、快適で快眠の日々を過ごしている。

 

 長年、日の出と共に目覚めを繰り返してきた体の体内時計は正確無比だ。

 空気の通り道から伺える隣の様子を伺うに、まだボルサリーノも起きてはいないようだった。

 余りにも感じない気配にしばらく意識を集中する。アンが思うに見聞色とは空間把握能力であろう。周囲に対し、どれだけ迅速に、かつ細密に変化を読み取ることができるか。上級者になれば対する相手の鼓動までもが耳に届き、どういう精神状態であるのかまで知ることが可能であるらしい、との伝聞も仮説が正しければありえない話ではない。使い手が武装色に比べて少ないのもここに来てよく分かった。訓練の仕方としては多くを聞く努力をすること、のみである。余りにも抽象的過ぎ、その能力を取得している海兵に尋ねてみたところ、「語らず黙し、ただ聞くべし」という答えが戻ってきた。結局のところ具体的な訓練方法は無いに等しく、開花をただ待ち続ける他無い、のだろう。だが周囲を知り続ける、というこの行為は肉体を使った訓練より疲労を蓄積させる。精神的にくる、といえば分かってもらえるだろうか。

 ちなみに義祖父は武装色であった。見聞に対する素質はミリ程度も無かったという。人が持つ能力の器の値が10であるならば武装色に全振りしているのが義祖父である。アンの場合、覇王の素質であるが見聞7の武装3の割合位だろう、と言われていた。

 

 部屋をひとつ隔てた向こう側から、規則正しい鼓動が聞こえている。だがそれはいつもよりゆっくりだ。

 昨晩は戻って来れたのだろう。初日はなんだかんだと天竜人がごね、黄猿直々の夜間護衛だった。

 日の出までもうしばらく時間が必要な今。アンは吊ベットから身を滑らせて床に下りる。身支度を整え向かうのは後部甲板だ。

 

 黄猿艦では航海中のみ転落事故防止のため、夜間の自主訓練が禁じられている。ならば、とふたりで相談した結果、朝に鍛錬をしよう、と纏まった。

 アンが海軍で扱かれ、反復によって覚えさせられている肉体動作はエースにとっても刺激だ。自然の中で身につけた独自の動きは確かに次の行動を読まれにくいものの、無駄も内包し効率的ではない。今まで3撃掛かって倒していた相手を初動1撃で沈められるようになったのは、悔しいがアンが島から出たからだった。

 

 ドーン島とシャボンディの時差はだいたい1時間くらいだろうか。マリンフォードよりも若干短い。なので寝起きの悪いエースが本格的に目を覚まし、機嫌がよくなった頃に丁度開始、となる。ただし空腹のため無口であるが、それは致し方ないだろう。

 

 お互い目を閉じ、相手を思い浮かべながら組み手を行なう。最近はそこにルフィが加わり、複雑性を増していた。エースからはルフィが見えるが、アンからは全く分からない状態である。エースとの連携で、何度、お前ルフィに寸止めされてたぞ、と敗北宣言されているか分からない。見えないのだから対応できないと引き下がるのも腹が立ち、最近は対エースというより、対透明ルフィとの戦いがメインとなっている。

 弟からしてもアンは透明人間だ。なのにどうして、ルフィに出来てわたしに出来ないのだろうか。否、出来ないはずはない、と半ば意固地になっているのも承知している。だが兄弟達は何一つ文句言わず、アンに付き合い、ただひたすらやり続けてくれる。

 

 「っ、しくじった・・・」

 寸止めされる気配がし、アンは両手を上げる。エースが仕掛けてくる足払いに気を取られすぎ、上半身の守りがおろそかになったのだ。ここ数日、エースを通じてなんとなく弟が分かるような気がするときもあるのだが、それはまだ、気のせい、から抜け切れていない。どうせならば本物の透明人間と対峙しても勝てるようになりたいと思う。なぜなら、この不思議に満ちた世界には本当に透明人間がいるかもしれない。その時に涼しい顔で対応したいではないか。格好つけかもしれない。だがもしそういう状態に陥った時、手立てが無いと焦りたくないのだ。

 「今日もありがとう、道中気をつけて。マキノさんによろしくね」

 アンは小さくつぶやきながら食堂へと向かう。あちらの様子を伺えば、兄弟たちも坂を駆け下りフーシャ村へ向かっているようだった。不確かな物の終着駅(グレイターミナル)へ行かなくなってから、朝食はほぼ、マキノの店で食べている。兄弟が揃えば宝払いかと思いきや、アンの教育がようやく根付いたのか、内部に点在する村周辺で討伐系の仕事を請け、達成報酬で得た金銭で食事をしている。

 簡単に言えば、両者の得が合わさった結果だ。

 内部はまだ人の手が入らぬ手付かずの森が多い。首都から運ばれてくる物品より近場の森で狩猟した肉や畑で育てた作物が村々の命を支えている。兄弟達は日々、縄張りを持つ主と対峙するため内陸部へ向かう。その際に村人達から依頼を受け、達成するのだ。そして夕闇が降りる頃、夕食を持ってダダンの家に戻る。

 

 

 黄猿の元に配属されて半年余り。この船で過ごすのも大分慣れてきていた。食堂に一番乗りするのもほぼ、毎日だ。その際、顔見知りの女性士官と会話する機会が多くなっていた。非常事態を除き、基本的に女性は夜勤に振り分けられない。なので朝、出会う確立が高くなる。食堂にはクーが運ぶ新聞が数部置かれている。朝食を終えてからそれを広げ、席が半分ほど埋まるまで閲覧すると席を立った。

 

 「おうい、アン准尉、これ持って行ってくれるか」

 「あ、はい」

 

 上官は基本、別室で食事を取る。上官を含め、同じ場所で食事を取ると下士官が緊張するからだ。

 だがここシャボンディに着いてから、その食事に黄猿艦長が来ていない、という。この艦の栄養管理をしている栄養士たちはそんな艦長へ、手軽に食べられる軽食を少量、一日に数度差し入れしていた。なぜなら頭がつぶれると、頼りになる副官たちが居るとはいえ、にっちもさっちも行かなくなるからだ。

 アンは小皿に置かれたちいさな三角と香り深い飲み物を盆に載せ、食堂を出た。

 

 「あ、准尉。ねえ、今日の集合、あなたの班、遅くなってるの知ってる?」

 「いえ」

 「そう、会えてよかったわ」

 

 今日はよく話しかけられる日だ、とアンは小さく笑みながら、アンは指示されたとおり、黄猿の元へと参じた。護衛任務に当たる精鋭たちはまだ来ていない。だが夜明け前は閑散としていた艦長室にも副官の数名が常駐し始めると、一気に賑やかしくなる。

 

 「おじさん、サンドイッチとコーヒー、預かってきたよ」

 「ありがとうねぇ」

 

 言葉のゆったりさとは裏腹に、その手には各方面からの報告書が握られている。

 枚数は副官の努力により抑えられているが、それでも賞金首関係の最終処理は大将が見、判を押さねばならなかった。賞金は数を増やし続けている海賊の中でも、特に危険性の高い無骨者にかけられる。この人物を間違いなく拿捕しました。安心してください、と世界に発表するのだ。まさかの捕り間違えなど、あってはならない。

 

 沈黙がその場を支配していた。アンは壁に背を任せ、瞳を閉じた。今日もまた、慌しい一日が始まる。息をつく暇すらも無いかもしれない。だから今、ここに横たわる静けさを苦いとは思わなかった。耳を澄ませば人のざわめきやさざなみが聞こえる。世界は静かであるようで、実際にはこんなにも賑やかだ。

 耳に届く靴音に瞼を開き皿を見れば、上に置かれていた食事も全てなくなっていた。

 

 しばらくすると3名の副官が部屋に揃う。

 アンを見ても何も言わないのは、無いものとして意図しているわけではない。彼女だけが出来る、大切な業務がある、と知っているからこそ何も発さないのだ。

 黄猿は副官と共に今日の予定の確認をとっていく。

 

 全てが終了すると副官のひとりがジェラルミンケースを開け、中にいくつか束ねた書類を入れた。今までなら帰港した後に計らわれるものだ。しかしアン准尉がこの船に乗り込んでからは本部で待機、訓練している日々と同様の、処理速度となっている。そのおかげ、で遠洋に出る場合も資金の貧窮が無くなっていた。

 

 准尉は鍵がかけられたケースを受け取り、瞬時に姿を消す。何度目にしても慣れない。そこにあるはずのものが忽然と消え失せるのだ。不可思議な現象に、天を仰ぎ目を瞑るしかない。

 スーツケース型のそれに入れられた中には、新たな七武海の選定候補に関する重要書類が入っている。

 海軍では黄猿の能力に関し、非常に強い関心を持っていた。否、訂正しよう。海軍本部に設置されてはいるが、世界政府直下の別組織が研究していた。黄猿が食したピカピカの実を兵器有用するために、その組織がボルサリーノが得た能力を科学的に解析したのだ。そして新たに配属されたアン・D・ポートガス准尉の身も実験体と位置づけ、日々の体調管理の詳細を要求している。

 二度あることは三度ある。ふたり目への試みがなかなか出来ない鬱積が溜まったのだろうか。組織が目を着けたのは革命軍に所属する賞金首、暴君だった。

 黄猿も、准尉も、そして暴君も。長距離移動出来る能力者である。

 何を企んでいるのか、副官には全く分かりかねたが、これだけは言えた。彼らは人ならざるなにかを作ろうとしているのではないか。神と云うものを信じてはいないが、それに近いものを造り出そうとしているのではないか、と。

 

 

 

 目を瞬かせるとそこは石畳の上、だった。

 連続するくしゃみを手で押さえつつ、アンは青空が広がるマリンフォードを仰ぎ見る。

 ジェラルミンケースは既におつるへ渡してきた。実は今、表門とは逆にある、居住区へ繋がる裏道のひとつをアンは歩いている。

 科学班、と呼称されている組織の長が首を長くしてアンを一日千秋の思いで待っている。是非来てくださらないか、とお招きを受けたからだ。出来れば行きたくはない。だが適度に行かなければ義祖父やクザンの手を煩わせてしまう。おるつの計らいで、黄猿艦には連絡してもらえるという。おつるは義祖父と懇意であり、個人的にアンを助けようとしてくれている。だから頭を下げ感謝を伝えた。好意を受け、アンは研究棟へと向かう。

 毎回の呼び出しにはうんざりとするが、10回に1回であればいいだろう。そう考え、今回は14回目にして1ヶ月半ぶりの招待を受けた。

 

 白衣を着た、科学者(マッドサイエンティスト)たちとの会話は少ない。必要最小限だけだ。

 採血をうけ、心拍や血圧、その他諸々の検査系を走破させられた後、全方向を走査できる機械の中を瞬間移動する。全て消耗させられるのはいつものことだ。黄猿艦に戻るための1回を残し、アンは装置の中から出た。半年以上に渡り収集された情報から、どれくらい飛べるのか、おおよその数字がはじき出されているのだ。1回だけであればそうでもないが、2回目からは水中から地上に出たときのような気だるさが体を襲う。しかし表に出さぬようきびきびと動き、そしてもう一度、血液を抜かれに向かった。これが終わるとお役ごめん、となるからだ。

 現段階で一日に瞬間移動出来る回数は最大で3回だった。体調が悪いときは2回だが、今日はまだ余裕がある。甘いものを食べ、少し休憩すればとべるだろう。

 

 研究棟の入り口に近い待合室のようなところで、ぐったりとしていると、アンを呼ぶ声が聞こえた。

 「Dr.ベガバンク…何か御用で?」

 

 重たげな瞼をゆっくりと持ち上げ、その人物を見た。

 数居る高圧的な研究者とは違い、どちらかといえば、なぜこんな人物がなぜこんなところに居るのか本当に分からない。というのが本音である。

 「これを渡しに来たんだ」

 「……え」

 

 ポケットの中に入っていたのは、チョコレートだった。中にピーナッツとキャラメルが入った、弟が特に好物としている腹持ちよい食べ物である。それに加え牛乳瓶がひとつと、はちみつを固めた飴が多数手のひらからこぼれた。

 

 「あ…あの」

 「じゃあこれで戻るね。次は美味しい紅茶でもご馳走するから」

 また会えるのを楽しみにしているよ。

 

 そう言って白衣を揺らし、Dr.ベガバンクは姿を消した。椅子の上には置かれたそれらが広がっている。

 アンは牛乳のキャップを開け、口をつける。博士が持ってきたもの、に限って何かへんな薬剤が混ぜられていることは無いだろう。他のは信じられないが、博士ならば大丈夫だろう、そう思えた。

 貰った甘味を飴を残して食べ終え、しばらくの間、目を閉じる。まどろみを終えれば、既にその身は甲板の上にあった。

 

 「准尉、お待ちしておりました」

 

 伝令の任務に就く下士官がアンの姿を確認後、走り寄って来る。差し出されたメモには最終目的地が書かれ、幾つかの中継地も羅列されていた。

 走り書きにはつる大参謀から直通が入り、込み入った用件が入ったため帰すのが遅れる、そう伝えられたの聞いたという。

 アンは待っていてくれた下士官に礼を伝え、ふわりとその身を浮かせた。空を蹴り、空を往く。それは会得する者を選ぶという、六式のひとつだった。

 

 「ご、御武運を!」

 

 伝令の声にアンは振り向く。

 覗いた顔に、伝令は目を見開いた。先日、黄猿閣下に直接、訓練を受けていた小さな体が何度も、何度も空を飛んだのを見ていた。部位を失う事こそ無かったが、随分と派手に痛めつけられているように感じていた。普通であれば降参し、ご指南ありがとうございました、と逃げても良いだろう。

 しかし准尉は怯まなかった。逃げなかった。悪魔の実の能力を使い出した黄猿に、猛然と牙をむいたのだ。

 力の差は歴然だった。敵うはずがない。現に誰もがたじろぐほどの痛手を負っている。何がそこまで准尉を駆り立てるのか。もうやめてくれ、何度叫びそうになったのか分からなかった。満身創痍になっても止まらなかった。

 出来る事ではない。伝令は身を震わせたのを覚えている。

 その准尉が微笑んだ。

 薄く笑んだ唇が言葉を紡ぐ。これから向かうのは戦場だ。震えてもおかしくは無い、戦場だ。自信に満ちた瞳が伝令の心を射抜く。

 己よりも年下であるのに、なんという可能性を秘めた背中なのだろう。思わずその背が見えなくなるまで、見送ってしまった。

 

 伝令は上官の一喝で我を取り戻す。

 足の速さは誰にも負けない。そう自負し、その足で救える何かを求め海兵となった。伝令は走る。報を背に、いつかはあの背のように、空翔る術を手に入れるのだ、とそう決意し疾駆する。

 

 

 そしてアンも60番台のマングローブ群をただひたすらに走っていた。この番台は世界政府と海軍の船が出入りする港がある。下を行けば警邏中の仲間にも会うだろうが、世界貴族の世話を焼くために追従してきた役人もまた出歩いていた。海兵は役人にとって態のいい下働きだ。何を言いつけられるか分かったものではない。出会わなくとも、アン個人の用件で班に迷惑をかけている。出来るだけ早くに追いつかねばならなかった。とはいえ遠方に割り当てられているため、班はボンシャ(車)に乗って行ったのだという。

 最終目的地は20だ。

 70がホテル街、50が造船所とコーティング工房が連なり、40が観光地、30には遊園地やテーマパークが広がっている。

 まだそこらは世界貴族が来訪していない場合、海賊の有無があっても安全地帯、と宣言してもいい。

 だが0から20番台は長期の間、無法地帯となっている。駐屯している部隊だけでは主要部を防衛するのが精一杯なのだ。暴れる海賊に対応出来るのは海兵だけであり、この島独自の治安部隊も存在はしているが、手を出せばどうなるか、は一目瞭然であった。

 

 20に向かった班は3つ、そのひとつにアンは配置されている。

 それぞれは黄猿が護衛任務に選りすぐった人員の一覧にもある人物であり、本日の最重要案件を遂行する者たちであった。

 最終目的地には人間屋(ヒューマンショプ)、いわゆる人身売買を生業とした業者が集っている。班が摘発に向かっているのはいわゆる、認可を受けていない闇業者だ。

 燻し、潰しても次々と闇は溢れる。なぜならここ、にはこの地域最大にして人魚と言う珍しい品目も多く出されるため、奴隷を所持できる身分を持つ人々が集まってくるのだ。

 またこの会場へは世界貴族がよく足を運ぶため、定期的に清掃しなければならなない場所でもあった。

 

 海軍は人々を守る集団である。しかし海軍は世界政府の僚属(ばくぞく)でもある。世界政府が定める、保護対象の優先は厳守せねばならなかった。その頂が世界貴族であり、如何なる理由があろうとも、逸脱は許されていない。正義の二文字が悲壮に揺れる。この時ばかりはただ、ただ人々が向けてくるねめつく視線に耐えなければならなかった。

 その心情を慮(おもんばか)ると、乗り越えて来た兵(つわもの)たちは本当に強い。

 

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 怒号が響いている。幾人もの男が、少年と少女を取り囲んでいた。ひとりはいけ好かない海兵の姿をし、もうひとりは彼らの憎悪の対象となっている天竜人である。

 なぜ天竜人の子供がこんな場所に居るのか。それはこの地へ奴隷を買いに来たのだろう。

 なぜ天竜人の子供がひとりでこんな場所に居るのか。それは…親とはぐれた、とは考えにくい。なぜならば黄猿大将が選抜した幾人もの精鋭たちがその周囲を守っているからだ。

 

 どうして単独行動を許しているのか。

 

 アンは背に冷や汗を感じながら、男たちをけん制する。

 男たちは奴隷商に関わる者達ではなかった。政府が奴隷の所持を認めているとはいえ、その主張は間違っている、と声を上げる者達もまた存在していた。人の上に人を作ってはならない。今はまだ小さな声だが、フィッシャー・タイガーの件を経て、革命軍によって薄く広がりを始めている。

 彼らはそれよりも以前から、細々と買う胴を続けてきた一派だった。

 奴隷を扱う者達を憎んでいた。奴隷を売買する者達を恨んでいた。取得するものを守る存在を嫌っていた。

 世界には余りにも嫌なものが多すぎる。ならばその嫌なものが全て無くなればいい。人々の多くは自分の身にその不幸が降りかかるまで、所詮は他人事と忌避する。だがそれでは遅すぎる。誰かを待っているのでは遅いのだ。ならば自らが動くしかない、たとえひとりであろうとも、奴隷という存在を無くすために、活動し始めた始まりの人の後に続いた人々が彼らだ。

 創始者は既にこの世の人ではない。

 だから、であろう。創始者の意図した行動を超え、奴隷となった人々の身を助ける、から奴隷を所有する者たちを排除する、に置き換えられてしまっていた。彼らは奴隷を購入し帰途に着く、支配階級の王侯を中心に狙いを定め得物としている。

 彼らが危険思想の狂人だと言われている所以は助けるべき奴隷も共に、海に沈められる場合もある、という事だ。

 例えばその身が海賊であった場合や彼らを受け入れない国に暮らす人々を容赦なく切り捨てている。しかし、彼らとなる多くが一度その身分に落とされた者たちの家族、血縁であった。そして彼らを匿うその多くが、奴隷として大切な存在を奪われた人々であった。

 世界政府としては天竜人に手を出さなければ、それぞれの国が対応すべき案件だと正式に表明している。海軍には監視はしても手を出すな、と告達されていた。

 

 だが今回は。後ろに在るのは天竜人だ。海兵が手を出しても良い、事例となる。

 「・・・っ」

 

 アンは葛藤していた。この少年に、では無い。

 本来ならば切り離して考えなければならなかった。少年は天竜人であるが、サボを失ったきっかけを作った本人ではない。けれど天竜人というだけで憤り沸いていた。

 今だけでいい、感情を押し殺せ。アンは深く息を吐き、目の前に集中する。

 

 少年はそんな海兵の背に庇われながら、自身を取り巻く周囲を見ていた。

 

 一体何がこの事態を生んだのか。少年はその理由を理解している。

 退屈だったのだ。地上とはかくも騒然としているのに、どうして人々は下を向き続けているのだろうか。書物で描かれていたように、人々が笑い興じる楽しみの場ではなかったのか。

 屋敷と同じく、そこにあるのは恐怖から生まれる憂俱(ゆうぐ)だ。処分されることを恐れ戦き、ただ額を床にこすり付けて対象が去るのを待つ。

 同じものは、いらない。

 だから新たを得られると誘われたからこそ来たのだ。父からもそろそろ天竜人の嗜みとして、奴隷が必要だとする絶好の外出の機会を得た。聖地と呼ばれる街は美麗ではあるがどこか浮世離れしているように感じていた。なぜかは分からない。だがそう感じていたのだ。だから外出がとても楽しみでならなかった。心躍る感覚とはこれか、と日々を待った。

 

 その結果がこれだ。

 これならばまだ、見つけた、秘密の部屋の書庫に篭っていたほうが有意義であった。

 

 理由をつけ、父から離れた。

 護衛すらついてくるのを否定した。

 聖地と同じであれば、そんなものは必要がないはずなのだ。

 

 少年は追われた。

 逃げながら、深刻な状態であるのに、少年は笑んでいた。

 ああ、これが生きているということか。

 少年は笑みを濃くする。息が苦しい、足がだるく重くなってゆく。実を得るとは実に不快であった。だがそれが心地良くも感じる。

 

 「ほらほら、鬼ごっこは終わりですよ」

 

 少年は追い詰められていた。汗が体に張り付き、べったりとしている。息を吸い込めばカラカラに乾いた気管が痛んだ。

 樹木が絡み合った奥に追い立てられたらしい。

 いつの間にか鬼の数が増えていた。なんだ天竜人とは以外に人気者ではないか。

 少年は荒く呼吸を繰り返しながら、笑みを崩さない。

 

 「さあさ。ご両親の元へ連れて行って差し上げましょう」

 

 伸ばされた手が奇妙に歪む。首をつかまれたのだ。抗う力など残されては居ない。目から体液が滲み、景色が混ざってゆく。

 

 「丁重にに扱えよ?」

 男が動脈を押さえ楽しそうに弧月を浮かべる。

 「天竜人はヒトを超え、ヒトを支配する選ばれた存在じゃなかったっけ」

 「そういえば随分と苦しそうじゃないか」

 

 少年はこれが死、の恐怖というものらしい。と、おぞましくも屋敷内で震え、そのたびに薬剤を投薬される多くが浮かんだ。

 少年の周囲でもそれは日常茶飯事に行なわれている。なぜならば世界貴族が主で、奴隷は従うべきものでしかない。それに反旗を翻されると、途端に激昂する。少年は父や母、兄や姉たちですら、どうして喜々として奴隷をいたぶるのか。どうしても分からないでいた。

 だがこの、異常だと感じる精神が天竜人の中では異状であることを、最近知ってしまった。全ては偶然見つけたあの書庫の中にある、多くの書物が語ってくれたのだ。

 

 優越感。そして劣等感。

 

 かつて世界をふたつに割った戦いを征し、世の人々に平和をもたらした功績により、天竜人という称号を得た多くが今や、見る影も無く堕ちてしまっている。

 聖地に暮らす多くは蝶よ花よと持ち上げられ、下々民と呼ぶ人々には想像できない、贅を尽くした生活を送っているが、何一つとして自力でことを成す事が出来ない劣等だ。朝、起きるときもそう。着替えも奴隷たちが全て行なう。食事も口を空けるだけでよい。横に添った、お気に入りの奴隷に口へ運ばせるのだ。そして自力で歩ず、騎乗奴隷に乗り移動する。興じる遊びといえば、奴隷たちを競わせ、その勝ち負けは生か、死か。まるでいつ壊しても良いとし、与えられるおもちゃのようだと思い、ああ、そうなのだ、と納得する。何十年も生きているくせに、その精神は子供のままである、のだ。

 

 少年はただひとり、書庫へと隠れ続けた。

 家を継ぐのは兄と決まっている。少年もそれを覆すつもりは無い。どちらかといえば構ってくれる父を除き、母と、兄や姉は、どこか少年によそよそしかった。

 いつも世話を焼いてくれる奴隷に言わねば引き裂くぞ、と天竜人に相応しい物言いで詰め寄ると、戸惑いながらも教えてくれた。

 

 「あなた様は、養子であると聞いて、おります」

 

 何でも兄が少年が養子に来るまで、寝たきりであったというのだ。ピラニアという魚に餌を与えようとしたところ、全て落してしまったのだという。それを魚人の奴隷に取りに行けと命じ、薬で言いなりとなっていた魚人が最後の抵抗をしたのか、共に水槽の中に落ち意識を失った。意識を取り戻さぬまま数年が経ち、赤子の少年が迎えられたがしかし、その翌年に兄が意識を取り戻したのだ。

 

 よって少年は用無しとなった。

 

 しかし父だけは少年を可愛がっていた。

 時折、少年に媚びるような素振りが腑に落ちなかったが、筆頭執事を落とし得た情報によると20家ある天竜人の中でも、格の高い家から養子に来たらしく、粗末に扱うわけにもいかない事情なのだ、という。

 

 少年がもしここで死ねば、家の中で煙たがられている存在が消え、実に天竜人らしい家庭に戻るだろう。

 そして天竜人である少年を殺害できればその行動はさらに加速し、我らに出来ぬものはないと暴走、後になぜ、こんなことになったのだと死に際にでも言葉を残すに違いない。

   

 「っ、くく、ははは!」

 

 少年は笑い出す。今まで感情を抑えて生きてきた。

 だがそれこそが間違いであったのだ。生きること、とはなんと苦しいのだろう。なんと辛いのだろう。命を捨てたほうが楽であると誤認してしまうのもわかる。

 

 少年は手足を欲した。耳と目を欲した。

 そうだ、やはり出来るならば同年くらいがいい。少年の願いを聞き、世界中を巡って様々を伝えてくれる。

 悪魔の実の能力はさほど重要ではないが、黄猿のような移動系であれば急な呼び出しも可能となるだろう。父と共に行ったオークションでは好みの人物は居なかった。だから言ってやったのだ。父が決して叶えられないだろう、無理難題を。

 

 少年は男達に囲まれたまま、なんら状況が好転している訳ではない。むしろ悪化している、と言っても過言ではないだろう。

 少年は達観していた。ここで死ぬ命ならばそれだけの価値しかなかったのであろう。もし、己だけに課せられた役目があり、それを成すためにこの世に生まれたならば、こんな場所で死ぬわけは無いではないか。さあ、助けに来い。

 

 少年はゆっくりと手を頭上に掲げる。

 

 

 振り下ろした次の瞬間、少年の首を掴んでいた男の力が緩み、そのまま地面へと落ちた。

 一番驚いたのは手を振り上げていた本人だった。

 霞む目の前には、見慣れぬ海兵の服を着た誰かがおり、少年を背に囲んでいる者たちをけん制している。

 黄猿が少年を追わせていたのか、と考えたが即座に否定する。ひとりとして付いてくれば、その体に銃を何十発も撃ちいれてやる、と威嚇射撃したのだ。全て撃ちつくし、弾丸を失っていた。もしそれが残っていたならば、このような状態にならなかった可能性もある。

 しかも海兵にしては幼かった。今まで見てきた中では最も少年に近い。

 

 「・・・今、引くなら追いかけはしない」

 

 班とも合流できてはいないが、年端もいかぬ少年が襲われている現場を黙って通り過ぎるなど出来なかった。

 アンは男達に警告する。だが男達は引かなかった。当然だろう。彼らが最も手にかけたいものが、のこのこと彼らの領域へ来てくれたのだ。逃すはずはない。逃がす理由など、ありはしなかった。

 

 「敵対とみなします。現在時刻1538を持ち、海兵としての責務を全うすることを、ここに宣言する」

 

 ポケットから取り出されたのは懐中時計だった。世界に数多く出回っている既成品だ。

 突如少女の目の前に居た男が後方へと飛んだ。その様は言葉通り、である。その動きを捉えられていたならば、少女が男のわき腹を肘鉄を当て、その反動を使い下腕肩甲骨へむけ打ちつけたのを見ただろう。

 ちらり、と周囲を少女は見る。ひとりひとりの顔を確認し、どうするのかを再度、その眼光で問う。

 数秒の後、ひとりが踵を返した。ひとりがしりもちをつき、後退し始めた。ひとりがその場で泡を吹いて倒れた。飛ばした男は身動きせず、そのまま樹木にめり込んでいる。

 

 「お怪我はございませんか」

 「うむ。大儀である」

 

 その場に膝を折り、視線を合わせてきた海兵に、彼は満足げに頷く。

 思い描いたままの理想がそこに跪いていた。天が差し向けたのだと少年は疑いもなくそう思える。そして、もうこれは、誰がなんと言おうが自分のものであると決めていた。彼が持つ、父よりも少ない財産でよければ全て差し出してもいい。それくらい欲しい、手放すべきではない、と今まで感じたことの無い取得欲が湧き上がってくる。

 

 止まっていた時が、今まさにここから動きだす。そんな予感と共に少年を取り巻く景色の色が鮮やかに彩られてゆく。

 少年は過去に記されたものばかりを追ってきた。そしてその廻りに戻ろうとしていた。だがそれを否定するかのように新たが現れた。

 まっさらな一面が示されている。それを少年は欲していた。

 だが許されないと勝手に思っていた。父の全ては兄が継ぐ。己はひっそりとあればいい、と。

 ならばゼロから始めればよいのだ。

 

 

 アンはアンでこの少年が天竜人である、と気づいていた。

 独特な衣装を纏っているのだ。間違うはずも無い。だが、外界を隔てるために作られたシャボンの膜も、それを作り出す装置もどこかに落としてきているようだった。使っていると知ってはいても、どう使うかは知識外だ。どうすればいいのか、分からない。

 

 「あの、シャボンは…」

 「必要ない。このまま往く」

 「どちらから……」

 「分からぬ。案内せよ。その栄誉を与える」

 

 アンは手を差し出してきた彼、の望みどおり手を繋ぎ、その場を後にする。

 歩きながら子電伝虫を借りてこなかった事を後悔した。もしそれがあれば、すぐにでも連絡を取り、指示を仰げたからだ。

 少年は間違いなく、黄猿が護衛している天竜人の息子だろう。通常では考えられないが、黄猿に何かあったのだろうか、と思う。だがもし何かがあれば、既にこの周辺が慌しくなっているに違いない。襲撃を受けたのだとすれば、班が隊になっているからだ。

 

 横を見れば手を繋ぐ聖はご機嫌だった。ゆっくりと視線を真正面に戻す。

 聖曰く、追い立てられると気づいたのは男達に囲まれた時だった、という。それまでは人に会いたくなくて、ひたすらに避けて来た。のだと言った。

 

 途中で黒服を着た骸を見つけた。抵抗したのだろうが、多数に無勢だったに違いない。いたるところに朱が飛び散っていた。取り乱すかと思われていた聖は以外に冷静で、先に進むことを要求してきた。

 アンは大体の位置を覚え、再び歩き出す。

 聖に足は大丈夫かと聞けば、最初は気にするな、と言い、速度が落ちてきた頃にもう一度尋ねれば、おんぶを所望された。

 

 不敬ではないかと尋ねれば、我が望むのだ致せ、と笑み。腹の虫が鳴った聖にDrからもらった飴を渡せば、美味だと喜ぶ声が聞こえてきた。アンの中にあった天竜人像ががらり、と音を立てる。

 アンは聖の体温を背に感じながら、黙々と歩いた。

 ヤルキマン・マングローブを半株ほど超えた頃だろうか。肩に頭の重みが乗った。四肢からも力が抜け始めている。

 疲れたのだろう。

 子供の足だけで一株を超えたとするならば、距離にして10キロを超える道のりを歩いたことになる。

 

 最初は子守唄にしよう、と思っていた。しかし口から出た最初の音は T だった。

 それは夜空の星を唄ったものだ。

 この世界には無い音も含まれているが、眠る子に口ずさむ子守唄だ。覚えてはいないだろう。

 アンは久々に発するその韻に懐かしさを感じ、笑む。

 

 きらきらひかる小さなお星様。あなたはいったい何者なの。

 

 少年からはまだ、自身が何者であるかを聞いてはいない。アンがそうであろう、と推測しているだけだ。

 間違ってはいないだろうが、まさしく空のダイアモンドみたいにきらきらと光る、小さなお星様。あなたは一体何者かしら、だ。

 

 静かな寝息が聞こえてくる。

 アンは班が目指した最終目的地へとゆっくりと走り出した。

 

 



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21-証

 

 海兵が天竜人によって打ちすえられていた。

 影から見守る人々も余りの悲惨さに顔を背けている。海兵は誰一人として動かない、否、動けない。

 ぽたり、ぽたりと紅い滴が大地に落ちた。不発した鞭が叩きつけられられるのは緑が剥き出され赤に変った根だ。べったりと血がこびりついている。そして赤い色を混ぜたシャボンが大小様々な形を成しふわりと舞いあがった。

 

 罪状は明らかであった。天竜人に直に触れた、接触の罪だ。

 答えを出す存在が唯一しかない状態である。誰もが見ていたため、申し開きの必要すら論じられなかった。

 

 

 眠る子が海兵の背から取り上げられる。余程深い眠りに入っているのだろう。抱き上げられても瞼は落ちたままだ。

 聖は子を連れ帰った海兵に跪けと命じ、兵はその通りに両膝をついた。

 詰問が始まる。

 海兵は事実をそのまま口にした。しかし確証が無い。真実かどうか、黄猿は兵を向かわせる。

 

 間を置かず舌打ちが鳴った。

 

 次いで銃声が2発、樹林の中に響き渡る。地に付いた両手を撃ちぬいたのだ。

 小さく震えるその海兵の手を、聖が靴底で何度も何度も踏み続ける。罪は罪だ。その身に刻みつけよ。

 両目を吊り上げ、呪詛のように同じ言葉を繰り返しながらルナルディ聖は鞭を振るい続けた。

 

 鞭がしなる。風切り音だけが何度も繰り返される。

 なんども打ちつけられた部位は布地が裂け、白から赤へと鮮やかな色へと変ってゆく。

 海兵は目を瞑り、唇を噛み締め続けていた。そうして多くが、事が終わるのを待っていた。正常な精神を持つ者であれば目の前で打ち据えられる誰かが居、喜びはしゃぐような真似などしないだろう。

 しかし終わらない。

 秒針が止まってしまったのだろうか。進んでいるはずの時がやけに遅く感じてしまう。

 

 「天竜人である我らが追われるなど、ありえないえ! 嘘をついていたと、正直に言え!」

 

 だが海兵は黙ったまま首を横に振り、眼と聖を見上げた。

 聖はその目に胸騒ぎと怒りを覚える。

 

 我らをなんだと思っているのだ! 海軍が天竜人をたぶらかしたのか!

 

 聖の心に湧き出たそれが、言いようの無い不安を掻き立てる。故に聖は声を荒立たせた。

 問うても海兵は答えない。

 無言は諾と見なされます、そう役人が聖の耳に囁く。

 

 諾か。そうか、無言の肯定か。

 

 黄猿が動く。だが2歩目は無かった。

 「次は外さぬえ?」

 

 煙りが立つ銃口は海兵の肉にかすり新たな赤を生み出している。 

 

 体中が血みどろだった。

 致命傷ではないものの、手足を撃ち抜かれた銃創からの出血で海兵の意識は朦朧(もうろう)とし始めている。

 痛みには慣れてるだろう。日々の訓練の中で最も扱かれているのは、目の前で打ち据えられている海兵なのだ。

 見ている、見ていることしか出来ない多くに海兵の痛みが幻痛として、伝播していた。

 

 その海兵といえば既に痛い、を通り越している状態だった。痛覚が麻痺し、身体の異常によって精神が崩壊せぬよう脳内から生命維持に必要な物質が分泌しているのだろう。

 

 (・・・痛覚の遮断は、上手くいったけど)

 

 もう一人の自分、ともいえる片割れにはこの傷みは関係ない。

 遠いところでエースが何かを叫んでいる気がした。なんと言っているのか。なんとなくだが分かる。

 痛みの種類が今までとは全く違っていた。刺すような鋭い痛みでは無い。体のどこかが絶えず心臓の鼓動にあわせて波打つような感覚だ。鈍痛とはまた異なっている。時折、背骨に沿って何かが駆け上がっるような体感もあるが、痛みなのか悪寒なのか、それともまた別のものなのか。全く分からなかった。

 

 呼吸が浅く繰り返される。次第に瞼が重くなってきた。

 手足が冷えている。体内に血が溢れ、足りないのだろう。

 

 

 始まりは殺害を明記された書きなぐりの文字が海軍の駐屯地へ届けられた事、だった。

 天竜人のみが身につけられる特殊な衣類の切れはしと共に、丸められ滲んだ紙を持参した人物が居たのだ。その人物は既にこの世にはいない。事の顛末を知りたがったルナルディ聖に20番にまで呼びつけられ、到着したすぐさまその銃で心臓を打ち抜かれたのだ。

 報は受け取った海兵が声を詰まらせながら報告した。

 

 役立たず、気分が最悪である。

 悪態をつきながら弾が尽きるまで撃ちつくし、天竜人はさぞすっきりとしたことだろう。しかし感情のまま行なった行為が周囲にどう受け止められているのか、全く考えてはいないのは確かだ。苦悶の表情を浮かべることなく、一撃で意識を失った善意の人物にとってはそれだけが救いだった。

 

 海兵たちは解読が難しいななめくねった文字羅列をどうにかこうにか解き明かし、警戒体制を取るため捜索隊が引き取りを示唆しているだろう無法地帯に現存する場所へ散開する。

 黄猿はその状態を親権者であるルナルディ聖にもことごとく伝えなければならなかった。

 捜索にあたる多くの海兵にしてみれば、指揮を混乱させる天竜人など邪魔以外のなにものでもない。犯人と接触した唯一の民間人を銃殺したのも忌々しいが、この島全ての海兵をこの男の息子を探し出すためにだけ使えとのたまう。今以上の人員以外、割けない事情がこの島にはある。だがそんな事情など世界貴族は全く考慮に入れてくれないのだ。細かく噛み砕いて説明した上で、そうなのである。

 

 激しい叱咤を受けたのは黄猿だ。それを世間ではやつあたり、という。

 ルナルディ聖は息子をなぜひとりで行かせたのだと、海軍関係者をなじった。

 7歳にもなったのだから、ひとりで行動する事も覚えなければならない。

 お前の好きなようにするが良い、海軍もあれの後を追うな、あれの言うとおり今動けばその海兵に名誉の死を与えてやろう。

 デイハルド聖の邪魔をしてくれるな。そう何度も繰り返していたのにも関わらず、だ。

 

 世界貴族は人間を、同じ生き物として見てはいない。

 愛玩動物でも、血が通わぬ人形でも無い。

 家畜は腹に収まるという栄誉すら得るが、人間はそれ以下だと明言している。言葉が通じない以前の問題だった。

 

 無理に護衛をつけても良かったが、動かすなと言われてしまったならそれまでだ。

 黄猿は殺されると分かっていて、それでも部下を死地へ出す、という選択を断じたのも一度や二度では済まない。今回の場合は息子の背が見えなくなるまで、じりじりと動こうとする海軍に向かい銃を、聖だけではなく役人までもが構えていた。

 海軍にとって世界貴族の命は絶対だ。反した場合、大将といえども処分は免れない。階級が下であれば尚更だ。生きてこの件が終わりこの島から出航し本部に戻ったとしても、そこで殉職処分が下される。

 いつもなら別働隊として動いている班も本隊に合流していたのもあだとなった。

 

 少し間を置き、探して後をつけるよう数名に指示したものの、この広いシャボンディ諸島だ。少人数で事に当たるのは難しい。子供の足であった事だけが幸いであろう。見つけたと報告を受け、追尾させていた。

 しかし邪魔が入った。

 いつの間にか海兵の後をつけていた役人が幾人かの海兵の肩を叩き、追うのを止めさせたのだ。

 己が追うからお前達は必要ない、と。

 また都合の悪いこと、は重なるもので、新たな天竜人が今日と言う日にシャボンディにやって来ていた。

 黄猿としては目の前にあるルナルディ聖よりも扱いやすい、天竜人と、然(ぜん)としている親子だ。

 それが奴隷市から奴隷市へ向かう道程の最中に出くわしてしまった。

 「丁度良いところに海兵が居たアマス。そこの海兵。この奴隷は飽きた、ここで引き取るアマス。ふふふ、無理とは言うまいよな。さらば今ここで楽しい余興を催しても良いアマスが、気分が乗らないアマス」

 そう言って聖の追跡を行なっていた海兵を全て呼び止め、捜索隊を瓦解させた。この時、デイハルド聖を探している、と口答えしていたならば彼女の余興が現実となりこの場で惨殺が行なわれていただろう。

 

 打った手をことごとく破ったのは天竜人の『存在』だ。

 しかしその責めは全て海軍に押しつけられる。海兵達にとって、これが日常茶飯事だった。

 この島では海兵は感情を押し殺し、天竜人の御用聞き、手足だ、小間使いだと言われても、その声すら聞こえないふりをしてやり過ごすしかなかった。己の中に生まれる矛盾を押し殺し、蓋を閉めて隠すしか出来なかった。

 

 目の前で公開処罰されている同僚が、まだ年端もいかない子供が体罰を受け、死に瀕していても手を出せない立場に、歯を食いしばっている人員は多かった。中には鼻持ちならない新人の失態にざまあみろ、と影で笑っていた者たちも度を越えてゆくそれに表情を引きつらせ始めていた。死、までは望んでいない。ただ身の程を知り、先んじて海兵となった者を抜かさず順番を待つ程度、の痛みを知ればいい。そう思っていたのだ。

 

 アンはそんな、様々な心の声に痛みも忘れてく興味深い、という感情を抱いていた。

 嫌い、と好き、は表裏だ。そして黄猿に直接指導を受けているアンに対し、気に食わない感情と同時に羨ましいという感情が混ざりあい独特な心模様を描き出されていた。

 ひたむきに努力するあいつのように俺もなれるだろうか。努力すれば、報われるだろうか。やってみよう、目の前に頑張っている存在がいるではないか。

 なぜ自分ではないのか。なぜあいつなのだ。親の七光りを使ってまでその地位に割り込むのか。

 

 人の心とは本当に面白い。

 見聞色を得て、アンの世界は広がった。

 もしこの能力を生まれ変わる前、あの世界でも使えていたならばもっと上手く、いろんな人たちと付き合っていけたかもしれない。

 だが人は今を生きる。

 過去は過ぎ去った事実だ。巻き戻すことなど出来ない。しかし、こうして偶に思い出す。

 アンにとっては自分が思う以上に、それらは大切な記憶であった。と同時に思い出したくも無い恥ずかしい闇歴史でもあった。

 恥ずかしくも苦い、温かくも切ない、もうひとつの記憶と今が重なる。

 

 世界は全て平等では無い。誰かが裕福を堪能していれば、誰かが貧困に喘いでいる。

 唯一同じものは時間だけだ。

 どうせこの痛みも一過性のものだろう。

 だから現在の境遇などどうでもよかった。毎日を、生きている時間を無駄にしないことこそが大切なのだ。

 生きているのか死んでいるのか、行方が分からないがサボに、アンが誓った約束だった。

 しかしこの傷が完治するには時間を要するだろう、と医療に深く携わっていないアンですらそう思えた。

 

 じくじくと、脳内麻薬で麻痺していた傷口が痛み始めると思い出されたのはなぜかルフィだった。

 弟は我慢強い。じっと見て判断を下す。どんな苦境に陥っても、弟は決して自身の境遇を生活環境のせいだと、と逃げ口上には使わなかった。そしてどんな仕打ちをされてもへこたれない不屈さを持っていた。自身の中に絶対的な領域を持っているのだ。

 アンが手を差し出しても振り払い、自分の足で立ち上がった。立ち上がってから泣き、アンの腕の中に飛び込んできた。

 

 今更ながらに思い出す。

 あの村で弟は、義祖父の手にはすがれなかった。そして村長やマキノに対しても、なついているように見えて、実は最後の一線を跨がせては貰えていなかった。あの村で弟が見せていた笑顔は能面としていた。幼いからといって周囲の状況を察せぬわけも無い。笑顔の裏で、ルフィは全てをふたつに分類していたのだ、と気づいたのはあの島を出てからだった。

 自分を中心に広がる円の内側と外側、助けてくれる力とその他のどうでもいい他人、だ。

 

 エースとサボ、そしてアンは嬉しいことにルフィが立つその点の上に縦並びにあった。一番下にエースがあり、その上にサボ、アンが乗って頂にルフィがある。そして助けてくれる数歩外側の円に分類に義祖父やダダン一家、村長やマキノが含まれていた。

 

 確かに村では大勢の大人たちに支えられていただろう。

 しかし同年の子供達やそれより上の、そして下の子供達とはいつまで経っても距離が縮まらなかった。

 それはなぜか。

 両親があってその子がいる。だがルフィには誰もおらず、たった一人だけだ。

 羨ましく思わないわけが無い。

 弟は誰かの背中をいつも捜していた。繋がれていた手の暖かさを追った。そして見つけた、のだ。エースの背を。

 

 繋がれた手と同じ温かさをその背は待っていた。

 どちらも必死だったのだろう。

 話せばひとりになってしまう。暗闇の中にぽつんと残される孤独を、ルフィが極端に嫌うのはその経験からだ。最後にひとり残るくらいなら、真っ先に突っ込みにいってしまう。

 かわってエースは、といえば。不特定多数の誰かにより全てを否定された続けてきたエースは群れることを嫌ってしまった。最初からひとりであれば、何も変らない。最初からひとりであるのだ。これ以上の孤独は無い。そうしてたったひとり、孤独であろうとだれかれ構わず牙を剥くようになった。

 

 涙を飲み込み、置いていかれまいとした。

 心を閉ざし、置いてゆこうとした。

 今ならば、もっと深く理解できる。

 あのふたりを、残しては逝けない。

 

 掴んだ手のひらの温かさを手放すくらいなら、どんなに体が傷ついても構わない。なぜなら治るからだ。しかし心はそうはいかない。一度挫けると、二度目が怖くなってしまう。手を伸ばそうとして、躊躇し、迷い、失敗したときのことを考えて結局は指が折れたままになってしまうのだ。

 

 その点、ルフィは頑張った。

 逃すまいと歯を食いしばった。そして見事、弟は兄と姉を手に入れた。

 

 少年はアンに言ったのだ。

 

 「我が友となれ」と。

 

 だからアンは目を反らさない。真摯な瞳に誓った願いを違わない。

 友となる、と約束を交わしたのだ。

 海兵としての決まりごとなど、どうでもいい。アンはここに世界を知りに来ただけだ。海兵という職業にこだわりがあるわけではない。アンにとっては友との約束が優先されるべきであった。

 その結果がこれ、だ。だから体を痛めすぎたと反省しても、後悔などしていない。折れぬ心に顔を歪ませた天竜人に、してやったり、という気持ちのほうが強いだろう。

 この強がりもきっと、そのうち恥ずかしい闇歴史に押し込まないといけないだろうが、別段構わないと思った。

 唯一、怒っていいのは兄弟たちだけだ。

 

 もしこの心内を誰かが知ったならば、こう云われるに決まっている。

 我を通すな、と。

 だがアンはその言葉に、こう返すだろう。

 

 「上手に世を渡って生きたいわけじゃないの。ひねくれながら、太く生きたいと願ってる」と。

 

 だからどうという事でも無いのだ。ただ多少、血が不足し、体内で折れた肋骨がなにかの臓器に突き刺さっている他は。

 

 

 

 誰もが動けなかった。

 アンが受けている仕打ちは、海兵達にとって理不尽なものだった。

 しかし聖にとっては日常であった。家畜よりも劣るそれの命を奪う行為に、意味など見出しはしない。しかもわが息子を、下々民と同じ空気に触れさせたこの下郎が腹立たしかった。どんなに鞭打ったとしても溜飲が下りない。

 

 天竜人には天竜人の矜持があるのだ。

 それをこの畜生は破らせた。背に負うのは良い。だがその体に何度触れたのか。

 

 言語道断だった。

 屈辱だった。

 

 デイハルドは家に落ちてきた一粒の珠だ。手に入れたとき、ようやく底辺から這い上がれるのだと歓喜した。だが現状を振り返ればどうだ。実の血を引く息子は今の生活に不服はないと、向上心無く遊び呆けている。

 選ばれた血筋とはいえ、まだ上があるのだ。手を伸ばせば届くところに頂があるのに、息子は目指そうとしない。正妻も己を飾ることだけに執心で、もっと美しいものを持ってこいと日々ねだってくる。だが手に入る等級も家の格に見合ったもの、であるのだ。頂の一家に黒の真珠が届けられたなら、ルナルディ聖の手には白の小粒が届くだろう。それを不服とするならば、上にあがるための手を貸せ、そう何度伝えても、あなたひとりでするザマス、いつの日かのためにこの身を磨くのが先決ザマスと取り付く暇も無い。

 

 ルナルディ聖にとってデイハルドは一筋の光だった。

 それを下々民ごときに汚されてしまった。

 選ばれた人である天竜人が穢されたのだ。黙っていろ、と言うほうがおかしいのである。

 「よくも、よくも下々民の分際で…!!!」

 聖がアンの頭蓋骨を勢いよく踏みつけた。小さな体がしなる。

 多くの下々民の如く、同じように泣いて許しを乞うのならばまだ可愛げもあるだろう。しかしこの海兵は銃で四肢を撃っても、鞭を振るわれ肌がうっ血し切れたとしても、声ひとつ上げはしない。

 

 なぜだ!

 

 聖は思い通りにならぬそれに気が苛立っていた。こんなことは初めてだった。どんな我慢強い畜生でも、傷め続けると音を上げた。助けてくれ、なんでもする、だから、と命乞いしてきた。だがこれはなんだ。情けなど求めず、生意気にも聖を見上げ、笑むのだ。

 それは聖の知らないものであった。

 

 ---------これは危ないものだ。残してはならない。

 

 「人間にしておくのも歯痒い、どうしてくれようかのう」

 「……」

 頭部をぐりぐりと地面に押しつけるように足を動かしながら、ルナルディ聖は思案する。

 戻ってきた末子が奴隷にと望んだのはこの海兵だった。オークションや市でもよい素材を取り出して貰ったにも関わらず、全く見向きもしなかったのにも、だ。何が良いのか全く分からなかった。特にその、反抗的な黒の目が聖には汚らわしく写る。

 

 ああ、なるほど。

 太い唇が笑みを形作る。

 すぐにでも連れて帰りたい。聖はそう願った息子の機転を評価した。地上であれば世界政府との盟約によってこの下々民を数時間で手放さねばならないだろう。海兵という身分の下々は天竜人がどう足掻いても手に入れられない存在であったからだ。どういう手順を踏むのかは不明だが、今までの慣例からしても聖地に例え持ち込めたとしても数日で返還されている。

 だがしかし、その数日で十分であった。

 海軍所属者をここで召し上げる前例を作れば、これからの遊戯にも幅が広がろう。

 ルナルディ聖は途端に気分を良くした。

 頂の家にも恩が売れる算段がついたのだ。

 先日、嘆願を押し切られるようにして下さなければならなくなった件があった。それは魚への恩赦だ。それを行なったのは、聖の階級よりもふたつ上の家だ。しかしその恩赦を頂に立つ家が良く思っていないのは承知していた。

 家の格を上げる好機であった。この機を逃すまいと黄猿に向かい、今すぐにこの下々民を聖地へ輸送するよう命じようと唇を動かそうとした。

 動かそうとして目を見開いた。飛び出てもおかしくないほどの衝撃だった。

 

 「…お父上様、その足を下ろして下さい」

 人垣を割り、介抱されていた次代の天竜人が歩みを進めて来た、のだ。優雅に父の前で一礼する。

 そしてルナルディ聖は驚愕した。用意しろ、とすぐに命じたはずだった。

 なぜならば息子は下々民と同じ空気を吸わないようにするためのシャボンを身につけてはいなかったのだ。それどころか聖地で暮らしているそのままを晒し歩いている。

 だが人垣を作っていた海兵はなぜか見とれていた。幼いながらも威厳ある姿に、息を飲む。

 「おお…もう体は良いのかえ。清めはまだ済んではいないようだが…許そう、この父に触れることを許してやるえ」

 両手を差し出す父に一瞥し、デイハルド聖は道を開けるよう指示する。

 

 「お父上様、これは僕のものです。なにをなさるか」

 「そうであるの、そうである。愛しのルナルディ、お前の代わりに"しつけ"をしておったところだ」

 汚らしいものを見るように、あからさまに嫌な表情を浮かべる。

 しかしその息子は、父の制止も無視し膝を折りアンに触れた。

 「ヒィィィィィ、何をなにをするえ!」

 息子の所作に気でも触れたかと父は後ずさる。

 全く、成すがままにされおって。逃げれば良かったものを。

 小さなつぶやきを拾った海兵達が耳を疑う。

 「すぐに手当てをして貰う。今しばらく我慢せよ、死ぬな、命を聞き届けぬなら今ここで殺してやろう。どうだアン?」

 父の悲鳴すら気にせず、少年は言葉を続ける。

 「了解、しました」

 弧月を描いた唇から、赤を吐き出した後、アンは優しく微笑む。それは己の身を案じてくれた、聖に対する礼であった。

 「認めさせる。案じるな。お前は僕の物だ。心して休め。我が命に備えよ」

 

 半狂乱に近い状態に陥った父に一瞥したデイハルド聖は海軍に命じる。

 「勅命だ。この者の命を救え。その灯を消してみろ、今ここにいるお前達全ての命は無いものと思うがいい。さあ、行け!」

 身勝手な言い分だった。しかしその言により、海兵達に動く機会が与えられる。

 担架に載せられたその横にデイハルド聖が再び歩み寄った。

 「これは僕がお祖母様より賜った、大切なものだ。必ず返しに来い」

 小さく頷くアンの胸に、身に着けていたビーズアクセサリを置いた。それは天然石で作られ、素朴だが色鮮やかな玉が並んでいる。

 「お前が来るまでに、此方は掌握しておこう。聖地へ招待してやる。喜べ」

 赤が手につくのも構わず、聖はそれを握らせた。

 

 担架が動き出す。意識の向こう側がえらく騒がしい。呼びかけに応えるのも億劫だった。霞み始めていた目に、大きな手が映った。

 付き添いで黄猿が歩いているのだろうか。

 握りしめられただろう手のひらには爪が食いこみ、色を変えている場所があった。

 「ごめん…なさ…い」

 傷を負った内部からの出血により、喀血する。

 「ゆっくりやすみなさいねぇ。ちゃんとお仕事したんだよ、偉い偉い」

 船から駆け付けた医師が気道を確保しながら、応急処置を施してゆく。どこもかしこも傷だらけだった。体の中も外も、ある意味生きているのがおかしいと言える状態といえる。

 

 「すまん…おれがお前を待てばこんなことには…」

 声をかけてきたのは同じ班の仲間だった。

 担架に乗せられたアンは鞭打たれていた時と打って変わり、消えてなくなりそうなほど憔悴した様を見せている。あの気丈さはなんだったのか、と思わず首を傾げたくなるような変りようだ。

 しかし当のアンにしてみれば、もういい大丈夫だ、と聖の言を受けた後である。気も抜けるだろう。

 「気にしちゃ、だめ。約束・・・を、守れて、なっ、無かった、わたしが悪いの」

 話は後にしてくれと、軍医が駆け寄った海兵を押しのけた。

 

 「怖いねぇ」

 医師達に部下を任せ、残った部下達に振りかえりながら人の悪い笑みを浮かべる。

 この短時間の間に一体何があったのか。黄猿は見送る担架を見、次いでその場に残っていた幼き天竜人を見た。

 デイハルドはその視線を一瞥すると、

 「黄猿、父上の具合が良くないようだ。介抱を許す。一度宿に戻ろうぞ」、とそれだけを告げた。

 

 手に付いたそれを拭うこともせず、多くに傅かれる天竜人が一度だけ背を振り返る。

 何があったのか。本来ならば聞き取り調査せねばならない問題であった。が、天竜人のもの、となったらしき少女に詰問などできようも無いし、する必要もなくなるだろう。

 ボルサリーノは喉の奥からこみ上げてくる感情を抑えながら、職務を全うする。

 「さぁて、キミ達。さっさと後片付けしちゃおうか」

 

 

 ホテルに戻った後、デイハルドは天竜人が外出する際の姿に戻った。

 今以上に父を刺激しないように、との配慮であったが既に限界を突破していたらしい。なんとも低い沸点であるのだろう。

 父は息子に向かい、感情のまま叫んだ。それを息子は淡々と受け止める。

 そして半狂乱に陥った父に代わり、下々民へ天竜人としての器量を見せたのだと説明した。

 

 「恐怖や権力で平伏させるのは簡単です。ですが獣にも劣る下々民に慈悲を与えるのも世界貴族としての寛容とは思われませんか」

 

 鞭ばかり与えていては、畜生といえ主人に歯向かってくるだろう。聖地ではそうさせないための投薬であるが、ここは下々がひしめく地上である。苦ばかりを与えていては、主としての威厳も損なわれる、とデイハルドは父に囁く。魚への恩赦もそうであったではないか。

 実際的に魚によって被害を出していた、世界各地の王達から天竜人への献上船も、とある家紋がある船だけ被害が少なくなっているのだ。天竜人としては不愉快であるが、この行為により下々が心から父を平伏するきかけになるのだ、とも付け加える。

 

 「おお…さすがだえ。愛しいデイハルド」

 父は我が子の手を取った。ルナルディ聖が長を務める家は20ある天竜人の中でも底辺に位置している。階級は最低の5だ。世界貴族とひとまとめにされているが、貴族間でもその格による優越と差別があった。

 デイハルドがひとりの際に会った人物は階級4の家柄である。なので彼、を追っていた海兵を剥ぎ取ることが出来た、というわけだ。

 さらにビーズを渡した理由について、あの海兵を聖地に自ら来させるための道具とするため一芝居をうったのだ、そう肩をすくめれば、なんと頭の良い子だろう。そう言って父は息子を抱きしめた。

 

 これが父であるのか。

 なんとも幼稚で他愛の無い。

 

 デイハルドはその腕の向こう側で薄く笑む。たかが7歳児の、必死に考えた言い分を、頭から信じている。

 我が養い親ながら、稚拙だ。そう断じるのは人として非常にむなしい行為でもあった。

 

 海軍所属者が任務中に聖地へ召し上げた前例はない。仕事外でこのシャボンディに来ていた海軍所属者を連れて上がった事が何度かあっても、本部や聖地役人からの申請で恩情を出さねばならなかった。

 

 無理に連れてこられた場合、司法に則って返さねばならない。だが自らの足でやって来たならば、そこに留まるとするなら、法には触れないのだ、と父に再度囁いた。

 残念ながら父はあの海兵を好いてはいない。だがそれでよかった。好かれてはデイハルドの決心が鈍ってしまうからだ。

 

 その後父の勧めに従い、奴隷を購入した。

 聖地マリージョアでは奴隷を所有することが、社交界入りの証となる。

 活きのよい奴隷はやはり、オークションに限ると父親の言に黙って頷いていたが、要は巡り合わせだ。小さな人間屋にこそ息を潜めた強者が居る可能性もあるだろうと、半ば遊び感覚で投げたコインが転がった手近な店に入ってみた。

 大きな展示用に設えられてた硝子越しに、10ほどの奴隷が陳列されている。その中からデイハルドはひとりを指さした。

 「お父上様、これにしても構いませんか」

 選んだ種は人で性別は男、名をランという。

 「そんな軟弱そうな奴隷でいいのかえ。あれのような大きさや、ほれ、そのメスなど良いと思うがのう」

 「初めての奴隷ですから。潰しが利く方がなにかと」

 捨て値で売られていた男を引き連れ、聖地へ戻るゴンドラへ乗り込む。

 一度背に乗って見ると良い、と言われ、試してみるが座り心地は最悪だった。

 わざわざ奴隷に乗ってのろのろと移動する理由が判らない。

 悪しき風習と聞いたが、こんなものは邪魔以外の何物でもないだろう。

 生まれたときからこれが普通とされていた。疑問や拒絶の感情は無いが、絶対的に必要かと言われたら、そうでもない。

 

 友となった者の背で聞いたいくつもの話は、デイハルドにさまざまな先見を与えた。

 

 世界の体制が根元から崩されてしまえば、真っ先にその憎悪が向けられるのは世界貴族であるのは明白だ。父を初め、マリージョアに住む誰もがこの世がひっくり返るなど、考えた事もないだろう。受け入れ難い事実だが、確かに時が経ちすぎているのだ。胸の中に横たわる危機感を無視するには余りにも条件が揃いすぎていた。

 だが聖地は緩慢な怠惰が満ちている。

 地上に住む人間達にとっては鬼畜の所業だと言われる行為が横行している場所だが、そういう事までもしなければ退屈過ぎるのだ。世界を支配し続け、それ以上の高みが無い場所に立つという苦痛もある、という事だ。

 停滞ほど面白みに欠ける世は無い。だからデイハルドは学問へ逃避した。

 しかしデイハルドは世界を転がす最初のひと駒を手に入れた。

 ならばせざるを得ないだろう。これからの未来、退屈こそが最大の楽しみと言えるような、過度な時を過ごさねばならなくなるだろうからだ。

 

 デイハルドは奴隷から降りる。

 鎖を奴隷の背に乗せ、手ぶらで歩き始めた。

 よつんばいの男からなぜ、という声がつぶやかれた。

 「生きる目的を失い自暴自棄になっている奴隷には必要無いだろう」

 男は天竜人とはいえ、子供に言われるとは思ってもいなかった。

 「理解したか。お前に生きる理由を与えてやろう。海原に出たいと願うなら、そうだな、機会もあるだろう。それまで僕を守れ。そうすれば面白いものも見せてやれるだろう」

 

 立て。立って我とは違う目線でこの先を見て知らせよ。

 デイハルドは振り返らない。鎖が立てる音が聞こえたからだ。

 

 デイハルドは運命的な出会いを果たした。

 何もかもが虚ろで色あせていた世界が、たった数時間のうちに輝かしいまでに彩(あや)なした。

 ならばこのまま色鮮やかなまま、初めて自らの物にしたいと欲した存在の為、世界を遊び場とするのも楽しそうだと思ったのだ。

 

 「さて、どれからにするか」

 

 男は見上げる。立て、と命じた自らの主人となった天竜人を見た。

 小さな主人だ。多くの投薬によって考えることさえ制限された奴隷は意のままに従う事が多い。

 男もそうだ。毎日食べる食餌の中に、飲む水の中に、思考を低下させる薬剤が混ぜられていた。

 餓死を選んでも良かっただろう。だが男は死が怖かった。何度試しても最後には餌に口をつけていた。

 だから全てを諦めた。願いも望みも、生きることすらも。硝子の向こう側を見ながら、このまま朽ちても構わないと思い込んだ。

 実際、あと数日でそうなっていただろう。

 底値になった奴隷はとある施設に送られ人体実験の材料とされるのだと、店主自ら語るからだ。

 売れ残らないように、お客様にせいぜい媚を売るんだな。そうしなければ、本当に豚の餌ににされちまうぜ?

 耳の奥で店主の声が繰り返される。だが男は外に出た。

 

 運命というものがあるならば、こういうことをいうのだろうか。

 どこにでもお供しましょう。望まれる目ともなりましょう。この命は、主に捧げます。

 自然と男は頭を垂れ傅(かしず)いた。

 



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22-静養中

 縁側で光合成するのが最近の日課となっていた。

 業務は全て取り上げられ自宅待機を命じられているため、何もすることが無い。

 よって日がな一日、本を読み、飽きれば掃除や食事の準備を、何もなくなってしまえば縁側で茶をすする。

 船上生活と比べると全く持って怠惰すぎるといわざるを得ない。だがこれが、平和というのだろう。何も起こらずただ日々を消化できる。

 

 ……戦いの無い世界、って貴重よね。

 

 最近ほとほど、そう思えるようになった自分になぜか苦笑が漏れる。

 島での生活は生きるか死ぬか、の2択だった。自給自足が主であり、ほんの少しでも気を抜くと足元を掬われる。あの森において、食物連鎖の頂点になったとして完全に身を守れるのか、と聞かれれば、そうでもない、とアンは答えるだろう。なぜなら絶対、はありえないからだ。どんなに強くとも熟睡時に襲われれば反撃など出来ないうえ、無抵抗で相手の腹に収まってしまう。

 だから群れる。巣を作る。安全な場所を確保する。

 

 病床の上でアンはかつて、を嫌というほど反芻した。

 意識を取り戻すまでは悪夢の繰り返しだったような気がする。

 今の自分と過去の自分が全く別物だ、という意識は無い。かつてがあるから今があるし、何が起こっても慌てふためかず問題を注視できる余裕がある。そして経験則から決断した選択に躊躇無く踏み込める利点がある。

 そもそも過去に引っ張られて今を大切に出来ないのは、勿体無いと思うのだ。

 だが自分が思っていた、してきたこと、が無くなるわけではない。2週目の人生を送っているアンにとって、1週目は本来なら思い出したくない暗黒領域だ。なぜならば、「似合わないこと言ったあの人のこと、わたしどうするよ!」「あれってどうなった? かくして無いよ?」「日記とか誰かに見られたりしたら、恥ずかしすぎて死ねる」という羞恥によりもだえたくなる事柄ばかりを残してきていたからだ。

 特に少女時代が良くなかった。

 肉親の死とは格好の現実逃避事情となる。

 アンの場合、何も考えない日々がまず続いた。そしてあったはずの音が途絶え続けていることに気づく。両親がもう、居ないとじわじわと現実に心が追いついてくる。

 

 魔法が使えていたら。この空を飛べたら。日々が単調すぎて、つまらない。時間が巻き戻れば良いのに。何か起こればい。例えばあの有名な預言書の中身とか。

 そうして死ねば、魔法があれば、両親に会えるだろうか。こんなに辛い日々は終わるだろうか。

 

 そしてあるわけが無い。どんなに願っても、漫画や小説に出てくる主人公のような特別にはなれないのだ、と気づく。どんなに辛い状況になっていたとしてもいつかは気づかなくてはならなくなる。逃避したままではいられない。

 どんなに悲しく辛くとも、お腹もすくし体の変化も起きてくる。

 幸いなことにアンには待っていてくれる人が居た。忍耐強く、丸めていた体を伸ばそうと思えるまで、ただひたすらに待ってくれた人がいた。

 だから乗り越えられたのだろう。

 のろのろと立ち上がり、日々に戻れば、どうしても聞こえてくる、見えてくる。逃げてばかりではいられない。

 そして大人になって思うのだ。想像は想像のままであるほうがいい。なぜなら泰平であれば人間が人間らしく考え動かなくては物事が成り立たなくなる。言い訳を作り諦めてゆく。

 

 ある意味アンは過去に囚われている。恥ずかしい思いを繰り返したくなくて、大人の思考を幼い頃から引っ張り出しこれが本当なのだと、これが世の中だと自分に言い聞かせて大きくなった。

 だからほんの少し、勿体無くも思ってもいる。

 本来ならば、将来はああしたい、こうしたいと夢を語る兄弟達が正常なのだ。馬鹿なことを繰り返して、出来る事とやってもいいことの区別をつけてゆく。だからアンは兄弟達がある意味羨ましかった。

 海兵になる、と決めたのも打算が大きかっただろう、と振り返れば思う。並び立てる力が欲しかったのは本当だ。

 しかしエースの言うとおり、力だけであれば、あの島でも十分に蓄えられる。

 ならばなぜ外に出たのか。考えを巡らさずとも答えが出た。エースは将来、海へ出る。これは確定事項だ。

 海へ出る許可を与えるのは国だが、伝手が無い場合これはかなり難しい。性格からしてどこかの商人へ弟子入りし、丁稚から始めるなども考えられない。となれば、手っ取りばやく漂流者を選ぶ。噛み砕けば海賊、である。

 

 そうなれば周囲は敵だらけになるだろう。海軍はもちろんの事、賞金首を狙う者ら、そしてなにより補給のために立ち寄る村や町が中立とは限らないし、欲しいものは奪え、が基本である同業者である海賊に襲われる可能性も高い。

 ならば知らねばならなかった。

 海を、陸を。この世界を。

 敵を知ればおのずとその隙間を垣間見ることが出来るようになる。

 この思考はアンであるからこそ出来るものだ。エースやルフィは全く考えていないだろう。

 可能性があるのはもうひとりの兄弟であるサボだ。サボは真っ白な状態から始まっている。アンのようにもうひとつの生、を持ってはいなかった。それなのにサボはアンと同様の知識を吸収し、その先を予想し展開、自由な発想の元、可能性を導き出していた。

 羨ましくないわけがない。嫉妬していたのかもしれない。

 自分に出来ないなにか、を出来る誰かをまぶしく思うのは、ある意味仕方が無いのだろう。

 そこから自分も、と奮起できるか、あいつは特別だから仕方が無い、と諦めてしまうか。

 アンが諦めなかったのは悔しかったからだ。サボに出来てわたしに出来ないわけがない。どうしてそう思ったのか、根掘り葉掘り聞いた。聞いても分からない部分もあった。だがサボは問題点をつまみ挙げるアンをすごいといつも言ってくれていた。自分だけでは疑問に思わない場所も、違う目線で見ればそんなにも違うのか、と新しい発見が出来る。ありがとう。

 

 サボの言葉に何度救われているか、わからない。

 海兵となった選択に後悔はしていない。がしかし。こうして手持ち無沙汰にしていると、頼ってくれるだろう、兄弟達に囲まれた、心地よい場所に戻りたくなってしまう。

 「いかん、いかん」

 

 アンは頭を振る。

 誰かに頼られ、鼻を高く伸ばしたいわけではない。お前よりもわたしのほうが強いのだ、賢いのだと威張りたいのでもない。

 結局のところ、「……寂しい」のである。

 エースもルフィも戦闘民族だ。考えること、戦略はサボとアンが担当していた。兄弟の側であれば、安心できる場所がある。少なくとも力技でどうにもならなくなったとき、どうしたらいい!? と聞かれた回数は両手、両足では足りない。

 

 広い家の中にひとりだけ。家の主は海の上に居り、なかなか戻っては来れない場所に居た。

 訪問者も二度きり、どこかに出かけるとしても医療棟以外の出入りを禁じられていた。

 

 抱える感情に行き着く。終着点にたどり着いて、瞼を伏せる。

 兄弟達はいつでも戻ってきていい。そう言ってくれている。なのに戻れず、こうしてひとりで落ち込んでいるなど、自分勝手も良いところである。

 「うう…船に戻りたい」

 

 そうすればこういう思考に陥らずに済む。忙しさにかまけて、考えずに済むのに。

 アンはひとりで落ち込みながら、そっとエースの意識にもぐりこむ。

 

 

 兄弟達は相も変らず森へと出かけているようだ。

 戦闘狂いではない、とは思うがそのきらいがあるのは否めないだろう。

 昼飯の肉はでっかい亀だ! とかなんとか騒いでいる。亀の甲羅はいい値で売れる。是非町にもって行くといいと思うよ。

 そんなことを考えながら、アンは軒下から空を見上げた。

 

 柔らかく照る日差しに薄雲かかり、心地よい温かさを肌に落してくる。

 ここ数日で消毒液の匂もだいぶ落ちてきた。巻かれた包帯もあと5つを残すばかりである。

 目覚めたとき、身動き出来ぬほど固定されていた、言うなればミイラ状態だった。二度と経験したくない、体験だといえる。二度もあってたまるか、と思いつつも、またあるだろうな、という予感もあった。その有様からすれば、多少の引きつりは残るものの随分と動きやすくなったものである。

 

 運ばれた当初、負っていた傷は医者がどうすればいいのか、どこから手をつければいいのか分からない、と嘆くほど酷い状態だったそうだ。海軍が誇る医師団だけでは手が足りないと、右往左往していたところへ、待ち構えていたかのように例の一団が加わったのも仕方が無いだろう。

 最もアンの身体を繋げたのはベガバンクだ。砕かれた骨をパズルのようにはめ込み合わせ、断裂した靭帯を筋肉を繋ぎ合わせた、という。

 話を聞いたとき、ベガバンクは科学者であり医者ではなかったはずだ。首をかしげてその疑問を伝えれば、科学者兼医者であるのだと、担当医が苦悶の表情で告げてきた。なんでも博士は医学の世界でも変人の烙印を押されているらしく、医師免許が交付される実力はあれど、発行されていない状態であるのだそうだ。

 アンの術式もその一例であった。

 筋肉の繊維を糸に見立て、次々と結んでゆく手さばきを披露し、骨と骨の狭間は医療用のホッチキスのようなもので止め、あっという間に縫合まで終わらせてしまった。その手腕は見習わなければならない。と医師団に感嘆されていたほどだ。だがしかし、多くの人が抱くだろう理解出来ぬそれらを、認めても良いものかという葛藤があるために表沙汰に出来ぬ処置となったらしい。

 

 助手で入ったとみられる、とある人物が歓喜しながらアンの細胞を手を入れていたらしいが、意識を失っていたため全く覚えていない。海軍所属医師団の面子をかけ、怪しい部品を埋め込まれることは無かったが、その代わりとして多くの組織を持っていかれた、と聞いている。

 と、一応。医師団から当時の状況報告を受けた。

 血生臭く殺伐とした死と生の狭間で日々戦っている人々だ。

 ちょっとやそっとの傷であれば、涼しい顔をしながら対処する一団ではあるが、今回は非常に危うかったのだろう。

 

 アンは事が収束し終わってから、頭を抱えた。

 なぜなら自分がしたこと、がどんなに周囲へ迷惑をかけたのか。見えてしまったからだ。

 まだまだ配慮も熟考も足りない。意地を通したまでは良かったが、これから先が読めなくなってしまっている。

 全くもって自業自得である。

 

 意識混濁の上、致死量の血液を失っていた本人が目覚めるまでの間を覚えてはいないのは当たり前だ。

 だが周囲は違う。

 多くは語らないが、少なくともその日の出来事を指し示すだろう言葉を繋げれば大まかな状況くらいは見えてくるものだ。

 天竜人に関して緘口令(かんこうれい)が敷かれているため、あれから聖がどうなったのかは分からない。

 ただアンに対してだけならば、こうだ。

 

 出血多量かつ筋肉断絶による重症のため早急に海軍本部へ移送。一命を取りとめ療養中である。

 そして天竜人については久能山東照宮で有名な3匹の猿があらわす格言の通り実行されているようだ。

 

 なんとも推測が多いとアンは苦笑をもらした。

 聞きかじった、流れてきた会話を繋ぎ合わせているだけであるのだから、当たり前といえば当たり前だろう。

 

 裸足で庭に下りた。

 ぐちぐち悩むのもそろそろやめにしよう。気分転換に体を動かそうか。そう思って下りたのだ。

 先日の診察で軽い運動であればしてもよい、と言質をとっている。海軍で教えられる体術の基本をゆっくりと繰り返す。

 

 生死の境目をさまよったのにも関わらずに、たった1ヶ月でここまでの回復をみせたアンを医師団は『化け物』と称した。

 笑えない冗談だ。と、最初はアンも思った。

 だが自身の回復力を多くと比較してみると、確かに化け物と言われても当然か、とも考えるようになった。全てはベガバンクの処置がよかったからだろう、と思いきや明らかにそれだけでは無い要因が絡んでいた。

 打ち抜かれた両手の傷が3日前後で表皮までもが再生、定着したのが意識を失っている7日間で。鞭によって骨が見えていたらしい筋肉も10日ほどで盛り上がり始めたという。

 医師にあなたは熊か、とまで言わしめたくらいだ。

 

 通常、断絶した筋肉や骨を含めた周囲には例外なく後遺症が残る。なぜならどちらも繋ぎあうまで安静にし、動かさないのが前提となるからだ。その間に筋肉の萎縮や関節の拘縮が起こる。患部の接合が終わったとしてもその周囲にある衰えた筋肉や関節の機能を回復させてやっと、日常生活が送れるか、の瀬戸際となるのが普通だ。

 そしてどんなに苦しくとも長期間の運動機能回復訓練(リハビリ)を繰り返さなければ、日常すら戻ってこないし、取り戻せないのだ。アンの場合、運動機能回復訓練(リハビリ)を必要としなかった。獣並みの回復力、と言い表されたのも納得しようものだ。もしこれが自分の体でなければ、口にはしないだろうが同じことを思っただろう。

 

 森で育った恩恵か。

 真っ先に疑ったのはその線だ。生まれて間もなくの頃から森育ちで、少なくとも村や町という文化圏で育った人々とは違うだろう。

 森では基本弱肉強食だ。弱ったモノから捕食される。怪我をする、イコール弱ると同意義の場所で暮らしてきた。人間に限らず生物には自己治癒力が備わっている。死を回避するため、細胞が活性化したのであれば、御の字であろう。

 そこまで考え、しかしすぐにこれは、余りにもこじつけすぎだと却下した。

 

 実はもうひとつ、化け物じみた回復力、を説明できそうな事案がある。それはエースとの同調だ。

 双子として生まれたときから、なんとなくだがお互いがお互いの心が分かるつながりがあった。始めはは不満に思っていたり言いたいことが切り出せなかったりともやもやとした心が伝わってくる程度だったが、年齢を重ねるたびに遠く離れても会話できるようになり、今やお互いの体の一部、目や耳の感覚を共有できるまでになっている。

 一卵性であったふたりだ。無い、とは言い切れないが、果たしてこれが普通なのか、と言われると、否、としか返答できないだろう。

 アンには身に覚えが無いものの、入院中、お腹がすいた、とふらりと廊下を彷徨っていた事が数度あったらしい。

 

 そういえば、とアンは思考にどっぷりと嵌りながら後方へ回し蹴りをひとつ、ふたつと左右に振り回す。

 たぶん見間違えだったのだろう。前置きがあり、見舞いに来てくれたおつるが言うには、部下が本部内部でアンに似た姿を見た、のだと苦笑していた。3日目の徹夜に突入する海兵が目撃したらしい。その海兵は疲労蓄積が認められ、休みを振り替えられたという。

 「だから見舞いに来たんだよ。その様子じゃ歩き回るのは無理だね。見間違えだったんだろう」

 おつるは自らが持ってきた果物を剥きながら、アンにそう言った。

 

 見間違えではなかったとしたら?

 

 意識を失っている状態で、体を動かすことなど本来であれば出来はしない。

 だがエースであれば。出来そうじゃ、なかろうか。

 言葉が変だ。変だがそう表現するしかない。

 

 これをエースに聞いても答えてはくれないだろう。なぜならアンもエースに秘密を持っているからだ。

 互いに秘密を持たない、が原則ではあるが、持ってしまったときは同数保持しても良いことになっている。

 

 「……別に、エースなら構わないんだけど」

 

 アンは歯切れの悪い言葉を口にする。

 エースが余りにも腹を減らしすぎたとき。アンが代わりに食べるときもある。

 アンが睡眠不足に陥ったとき。エースが代わりに睡眠をとるときもある。

 

 繋がっているからこそ出来る芸当だ。

 しかし、しかしだ。己の中にあるこんな恥ずかしい記憶まで覗かれていたとしたら、叫ぶだけでは足りない。

 恥ずかしすぎて、死ねるだろう。

 そんなことで簡単に死を語るなといわれそうだが、それくらい、アンにとっては羞恥が過ぎた。

 

 顔の熱さに動きを止め、両手で顔を覆う。

 己に一番近しい、エースをちらりと覗く。

 口の端が上がっていた。

 

 ああ、もうだめだ。筒抜けだ。

 

 あの日、デイハルドと友になるという約束したあの日、遮断したのは痛みだけではなかった。

 エースが最も嫌うのはひとりになることだ。双子であるエースとアンは互いが互いを半分だと認識している。

 繋いだ手があったから、ひとりでも平気だった。

 だがアンが行なった切断は、エースからアンの鼓動までを奪っていた。

 

 どんなにエースが荒れたか。

 アンは病院のベッドから黄猿の家へ在宅療養を言い渡された数日後、呼び出されて聞いた。

 目が覚め話しかけても普通であったし、普段の会話もあの日以前と全く変わりが無かったため、不意打ちだったと言ってもいいだろう。

 普段は飛び跳ね一瞬たりともじっとしていない弟が静かに、あのな、エースが、ものすっごく、怖かったんだ。と、真面目な顔をして唇を真一文字に結ぶくらい、すさまじい殺気を放っていたらしい。ダダンに心配かけたと声をかければ、もう二度と無茶はするなと肩を掴まれ力説された。

 そして当の本人は。

 何も語らず、じっとアンを見ただけだった。

 黒の瞳がアンを見据える。見据えて闇の中へ引きずりこむかのような引力を伝えてきていた。

 感情が波打つわけではない。静かに、しずかにそこに在り続ける。だがその下には渦がいくつも巻かれていた。

 渦に見えた。見えたがそれは揺らめく炎だ。人間の負を炎として現すならば、きっとこのような形をしているのだろう。そう思ってしまうほど、揺らめく感情は静かだった。

 大声で怒られたほうが、どれだけよかったか。

 

 「ごめん。もう二度としない」

 

 そう言うが精一杯だった。それ以上何かを付け加えても、言い訳にしかならない。

 エースが一歩、また一歩と近づいてくる。

 身長差が出始めたふたつの姿がすれ違う。

 「         」

 

 アンの神経は総毛立った。

 たった一言、その一言に身が固まった。

 

 確かに、弟が怖い、と感じただけはあった。

 息を整え振り向けば、エースもアンを見、笑んでいた。この会話はもう終わりだ。そう黒の目が語っている。

 アンは一度、まぶたを伏せ同意を示す。

 ふたりの間に言葉など必要なかったからだ。

 

 

 アンは回想を終了させ、両手を顔からゆっくりと下ろす。

 意識の向こう側では昼食が始まっていた。いつもながらの取り合いも今日は量ある得物が捕れたのか、随分と大人しい。

 「わたしも、何か食べないと」

 

 目を覚ました日から感覚が以前よりも強く繋がってしまったらしく、エースの食事が終わり満腹を感じてしまうと、アンにはもれなく食欲減退が待っている。怪我を治すにはしっかりと食べるようきつく言い渡されていた。

 足裏についた砂利を払い、足拭きを探す。ちゃぶ台の上に置きっ放しであるのを視線をあちこちに投げた末に見つけた。

 

 瞬間、足拭きのタオルが手のひらに出現する。

 これは骨と骨の間を繋いだホッチキスを抜き取る際、ベガバンクに瞬間移動の要領で出来ないか、といわれ、やってみた結果の応用だ。

 骨と骨の間にある芯は放っておいても時間が経てば、骨の一部として吸収される成分で構成されてはいるものの、微細な筋肉の動きを阻害する可能性がある。

 医師ではないが、一般の医師よりも高い知識と技術をもつ博士に言われたとすれば、その通りにしたほうが良いような気が、しなくないわけでもないような気がしてくる。

 応急治療は必要に迫られ学んだが、医学となるとどうも敷居を高く感じてしまい、敬遠していたのだ。サボが興味をもっていたので任せてしまった、という逃げもある。

 骨を映し出す機材の前で博士にここを取ってみて、そう指示されるままにアンは体内にあった幾つかを取り出した。

 ある意味能力開発とその情報収集だったのだろう。

 

 しかしアンにとっても悪い開発ではなかった。

 今までは自身ともうひとり、もしくは自分の重量+αの荷物を持って移動しかできなかったのだ。

 半径のメートルが限られているとはいえ、練習し練度を高めていけば世界の裏側にあるものにも手が伸ばせるかもしれない。そう思いながら繰り返せば苦にならなかった。

 

 パンにハムと野菜をはさみ、小腹を満たす。

 エースが小さく舌打ちしたような気がした。

 「ごめんね、最後のひとくち分、食べちゃった」

 

 エースは一番美味しい、好物を最後までとっておくほうである。

 互いに取り合わず、融通しあっていたため、急いで食べる必要が無かったのだ。

 アンの食が細いのをダダンも知っている。だからアンの皿に残っているものは誰も狙わなかった。それが例えエースの分だったとしても、だ。なぜならいつの間にか上達していた、アンのナイフがぴたりと喉元に吸い付くのだけは遠慮したかったからだ。

 

 (いいさ。それより暇ならこっち戻って来いよ)

 「あー、うん。あのね、見張りが付いちゃってね。ちょっと行きにくいんだ」

 

 じーっと見つめてくるふたつの目を見つめ返しながら、アンは苦笑する。こっそりと抜け出したはずの、脱出がばれていたらしい。情報室に繋がる監視が光っていた。

 

 理由はそれだけじゃないだろうけどね。

 

 アンは友人を思い浮かべながらちらり、と見張り虫を伺う。

 黄猿邸に配置されたのはつい最近だ。入院時は必要ないと判断されていたとして、家にばら撒かれたのは退院してから随分経ってからだった。何らかの動きがあったらしい。推測は出来ても裏打ちできる情報を仕入れにいけないのが苦痛だ。

 

 「あ、そうか」

 

 アンはすっかり忘れていた見聞色の鍛錬へと入る。自身を中心に情報を拾う円の範囲を広げてゆくのだ。

 まるでソナーのようだと思う。

 だがこれが、意外と侮れない。多くの声が乱反響するのを我慢できれば、有用な情報が手に入る確立が高くなるのだ。

 もっと効率的なやりかたがありそうではあるが、その仕方がわからない。

 早急に師匠を探すべきではあったが、該当する人物がアンの中ではたったひとりしか存在しなかった。

 その人は海賊をしており、現在位置がどこであるのか、全く持って分からない。海軍の情報網を使えば捕捉可能だろうが、双方の関係がばれてしまう可能性もある。

 相手は気にしないだろう。それがどうした、と笑い飛ばすに違いない。

 問題であるのはアン側だ。アンひとりの問題としてくれるならば安い授業料となるが、現在の立場を加えるとそこに義祖父が引っかかってくる。

 軍は縦割り社会だ。アンの動き如何で義祖父にも影響が出る可能性があった。数々の勲功を打ち立てている英雄ではあるが、その行動が孫のせいで阻害されるのだけはしたくない。義祖父の良さはあの奔放さの中にあるのだ。自由人すぎて困る方が多いだろうが、義祖父からあの味を奪ってしまうと、なんともいえないムヅガユさを感じてしまう。

 

 「……まだ本部までは無理か」

 

 距離が足りない。

 力不足に奥歯をかみながら、気分転換にと汗を洗い流した後、アンは様々な色が連なった石を首に巻く。

  シャボンディ諸島で友人から手渡されたビーズアクセサリは、希少な天然石を使って作られた、高価な品だった。世界貴族である聖の印が刻まれたプラチナ片が鎖骨の上で揺れる。

 そのままつけてしまうと胸下まできてしまう為、3重に首に巻いてある。鏡を見て、首輪みたいだと思ったのは内緒だ。

 

 三日ほど前に、おつるから電伝虫にて先日の件については世界貴族及び政府からの咎めは条件付で一切無し、という電話を受けている。アンとしてはその条件について、が気になるところである。詳しい内容を尋ねてもおつるも知らないらしく、後日追って詳細が届くらしい。

 なんとも仰々しく、使者がやってくるのだそうだ。そして書状を元帥であるセンゴクに手渡すという。

 そのための準備で海軍本部はてんてこ舞いらしい。

 

 友人は、デイハルドはアンを聖地へ招いてくれる、と言っていた。

 そのために掌握する、とも笑んでいたはずだ。なにを、とは聞かなくとも分かる。

 本当にあれで、弟と同じ年齢かと疑いたくなった。そうなのである。弟と同じ年なのだ。森でゴムの体を木に巻き付け、ぐるんぐるん回っている弟と同じなのである。

 全く違うタイプであるのに、不思議にも目の色がなぜか重なるのだ。

 俺様気質であるのは間違いない。世界はきっと彼中心に回っていると思っているだろう。

 けれど見知らぬ世界の話に目を輝かせていた。聞き入り、その先を促した。

 世界は広く、まだ見ぬ風景も多い。友となり自分の代わりに様々を見聞きし、こうして話してくれないか。

 背中から聞こえてきた真摯な声に、アンは思わず諾、と答えていた。

 後悔はない。どちらかといえば楽しみだと思っていた。

 

 なぜならアンにとってもデイハルドが座す世界は未知であったからだ。

 どちらかといえばアンは底辺に近い。下から上を見上げるのが、いつもだ。代わってデイハルドは上から下を見るのが常であろう。その格差が楽しみであるのだ。

 

 かつて生きていた世界で暮らしていた国では国民総中流、を目指した社会であった。

 それでも持ちえるものとそうでないものの差はあった。財や人はもちろん知識なども含められる。

 かつてのアンはその中流だった、と思っていた。帰る家もあれば、両親や祖父が残してくれた貯蓄があったし、大学も奨学金を受けずに通っていた。そんなに多くは無かったが、アルバイトをして自由に使えるお金もあり、たまにだが美味しい贅沢もしていた。

 だが雲の上だと思える、上流社会というもの、も確かに存在していた。

 テレビで写る豪華なものが並ぶ部屋、生活、食の風景。

 比べるのがバカらしくなってしまうくらい、想像できない豪華絢爛がそこにはあった。

 

 貴族たち、とはそいうものだと思っていた。

 同じ世界に住んではいるが、余り触れる機会の無い遠い世界の住人達。テレビの向こう側に広がる、芸能界という場所も似たような感覚だろうか。

 馴染みがあるのは居酒屋とか、ファミレスとか、そう言う辺りで、接点などあろうはずもない。

 

 意識の違いも顕著だろう。

 この世界では最下層に生まれた。真ん中と一番下は身を以って経験しているが、一番上が何を考えているか、あまり良く分からない、が本音だ。

 ただ想像は出来る。

 

 支配者側であるのは確かだ。

 しかし話を聞く限り世界を動かしている節は無さそうだった。政治的な判断は、別の組織が担っているらしい。

 世界政府も組織的にピラミッド構造となっているのだという。

 頂点が世界貴族であり、世界政府を統括している。

 政府の下部組織として海軍、裁判所、刑務所が存在し、政府に所属する形で、それぞれの国が連なっていた。政府に従わない国も実は多い。非加盟国の末路は悲惨だ。既に国の形を成していない、慨形化された島も多く存在している。

 加盟国は毎年決められた額の国税を支払う。払えない国は非加盟国へと転落し、世界政府公認の奴隷産出国となるのだ。

 

 権力を振るう立場に立つ者を五老星という。たった5人でこの世界を動かしている男たちがいた。

 過去から今に続く、流しこまれた偽りない、ただ淡々と事実だけを映したフィルムのような記録を読めば、世界貴族とは祭り上げられている、体のいい偶像だった。

 どうやって選出されているのかは情報が少ないため断定出来ないが、世界貴族の中から選りすぐられた人員が五老星として選びだされ、手のひらの中で思うがまま世界を転がしているのか、もしくは世界貴族とは関係の無い、また別の集団があり、その中で教育を受けた人物達が職に付くのか。

 

 解っているのは実権は世界貴族に在らず他所にあり、天竜人の殆どは聖地の中に隔離され血筋や文化などを守るためだけに存在しているっぽい、という事だけだ。

 

 真っ先に思い浮かべたのは国家の象徴とされた一族だった。しかし彼らは、その人生をあの国の人々に捧げている。時間も命もその国に生きる人々が安らかであるように願い使っている。

 デイハルドたちとは全く違っていた。

 どちらがいいのか、アンには判断できない。出来ないが、たぶん、きっとかの国の象徴である方々が居てくれるだけで、頑張れる多くがあるのは確かだ。天竜人たちのように、ただ恨まれ、苦渋を飲まされた人々の怨嗟が向かうことはない。

 

 アンは残っていた茶を飲み干す。そして立ち上がった。

 と、同時に青い電伝虫がにょきっとつのを出した。

 

 「どこにも行かないって」

 

 そういいながらおいで、と手招きすれば目が斜めった。

 どうやら首をかしげているらしい。

 

 「お水かけてあげる」

 

 アンは見張り虫を呼ぶ。毎日顔を合わせ続ければ愛着も沸こうものだ。

 日に一度、こうしてじょうろに汲んだ水をかけてやれば、嬉しそうに笑む。

 

 電伝虫は本当に不思議な生き物だ。

 これで電話をかけたり、監視カメラの代わりに出来たりするのだから、存在自体が面白過ぎる。

 機械では無い。ちゃんと生きているし触り心地もひんやりとしている。ルフィには負けるが、弾力性はかなりのもので殻の中が住処になっているのは確認済だ。

 水浴びが好きなのはかたつむりだから当然としても、何を食べているのかが不明だった。

 部屋にあげてもねとねととする液は出ないし、本当に不思議生物である。

 

 ひとりぶんの食事を用意するほどむつかしいものは無い。食材を切りながら夕食の下準備をしながら、アンは西の空を見る。

 

 「本屋さんにだけ……」

 

 肉に塩胡椒が馴染むまでの間、縁側でまたぼーっとするのも良いが、最近購読している雑誌が出ているかもしれない。

 アンは見張り虫に向かい、出かける旨を語りかける。

 

 「本屋さんに行ってきます。30分くらいで帰ってきますね」

 

 人差し指で見張り虫を撫でてから、草履を引っ掛けて外に出る。

 

 荷物は布鞄と財布だけだ。

 背を押す風に足をかけ、空を駆ける。

 街並みが眼下に広がった。

 着地の際多少の痛みを感じ、無理は禁物と地面を行くことにした。

 

 向かうのは商店街にある本屋だ。夕方だからだろう。海兵達の家族が暮らす地区が隣接しているためか、賑やかだった。商業地区の向こう側には学校などが固まる教育施設がある。アンも本来なら、学校に通っている年齢だ。傷だらけになりながら、体を鍛えていると時々恋しくなる。

 友達と黒板に落書きしたり、給食を食べていたこと。放課後のクラブ、中庭にある遊具で高オニやかくれんぼ、運動場でのドッチボール。

 大学に通うようになってからは、学食で友達とお菓子をつまみながら音楽を聴きまわしたり、課題のレポートを数名で分散して楽にこなしたりと、楽しかった時間を思い出す。

 あの頃は疑っていなかった。

 幼い頃は明日が来るのは至極当然なことで、家に帰れば母がおかえり、と出迎えてくれる。誰かが居てくれる事が普通だと思っていた。テレビを見ながら宿題をして、父の帰宅を待ってご飯を食べ、お風呂に入って眠る。

 懐かしい顔が脳裏に浮かんでは消えてゆく。

 

 アンもすっかり、こちらに馴染んでしまっていた。

 森で生活していた時は疑問に思わなかったが、母親と手を繋いで歩く同じくらいの年頃の子どもたちは、猛獣と戦った事も無ければ、人を殺めた事も無い、か弱い存在だ。

 自分の手に視線を落とす。

 アンの両手は間違いなく凶器である。生き続けるためにいくつもの命を消してきた。使い方を間違えれば、惨劇が起こるだろう。

 ここに住む子供達は知らない。食べている肉も元を辿れば血が通う生きた命であったと。

 それを殺し、血を抜いて熟成させたものが食卓に並んでいる。どちらかといえば工程を知らない者のほうが多いだろう。

 

 だがそれを悪いもの、とはアンは思わない。知らなくてもよいのであれば、それでいいのだ。それぞれには生きる領分がある。

 生まれた国から一歩も出ず、生涯を終える人々もいるだろう。

 海兵となった人々や商人となった者たちのように、世界の海を行き来する職に就くこともあるだろう。

 犯罪を犯し囚われの身に、短い生涯を終えることもあるかもしれない。

 

 すれ違う人々個々に、ひとつづつ物語が用意されている。

 だからアンも自身が歩く未来へ向かう。より良い明日であるように願い、そのための努力を惜しまず生きようと思える。

 

 吹き抜ける風がふわりと髪を撫でた。

 アンはかき乱される髪に笑みを浮かべる。

 

 世界は広い。この手でなければ掴めない、何か、もあるだろう。

 アンが本当に知りたいことに関しては、世界は全てを語らない。まるで自らの足で探しだし、その目で確かめろと囁いているようにも思える。

 

 本の作者が読者に向けて放つ問いかけといっしょだ。

 例えばAという主人公がいる。Bという親友がいる。Cというヒロインがいる。

 物語的にはAとCがくっつき、Bという親友がAとCを応援する立場をとる文面で進んだとしても、読者の中にはAにはCなど似合わない。Dというキャラのほうがいい。またAとBがそのまま(友情的なもので)くっつくといいよ。などもありえる。

 

 物語の指針は作者にあり、読み手はそれを追う立場にある。

 こういう展開だったら。もし間に合っていたならどうなっていただろう。

 先を読んで想像するのは楽しい。楽しいが、それは物語であるからだ。

 現実問題、自分が辿るであろう数時間先を想像すればするほど、どんよりと重苦しい気持ちが満ちてくる。

 

 「……ヒント、あればなあ」

 

 夢に出てくる父は何でも知っていた。

 だがそれをアンに教えてくれることはない。

 煽ってくるだけだ。

 そんなことも分からないのか、と。

 

 あの日の夢は今でも明確に思い出せる。

 夢は人間の深層心理を色濃く映すというが、これらは絶対に違う、と言い切れた。

 なぜなら父が登場する夢は数多くみてきたが、今回は特に酷かったからだ。

 人の夢の中に出てくるのは良しとしよう。父に会うのは嫌いではない。だが不遜な態度で特徴的なひげをつまみながら、早く来い、とせかしてくるのはやめて欲しい。目的地も告げず、どこに来いというのだ。

 全く何様なのか。父親だと返されるとぐうの音も出ないが、手が出てしまいそうになる。拳を必死に押しとどめていれば、しまいにいつ持ったのか、「こういう岩礁があるところは面白いんだよ」などと笑いながら手にした枝で地図を描き始めもした。

 

 「いったいそこが、どこであるか説明してからにしろ!」

 

 ちゃぶ台があればひっくり返していたに違いない。夢の中でまで叫ぶのは疲れる。目覚めも最悪だ。

 この人物を船長とし、成り立っていた船を仕切っていた人物は相当の切れ者だったのだろう。

 そうでなければ、付き合えるのは娘であるアンくらいなものだろう。

 

 「17歳まで待ってて。ちゃんと役目は、果たすから」

 

 17を迎えるその日、きっとエースはアンの助力が無くとも身一つで海原へ漕ぎ出すだろう。

 あの日誓った約束を胸に、海へと出る。鞄はひとつで十分だ。たくさんの感情とに目的を詰めて進めば怖いものなどないだろう。

 今は旅立つための鞄を作る大切な刻だ。材料の吟味はしてもきりが無いだろう。

 慌てなくてもいい。

 きっとまだ間に合う。まだ猶予は十分とある。

 本当に時間がないのであれば、もっと騒がしく、伝えようとする意思があるはずだ。

 

 「それまでは力を蓄えなきゃ」

 暮れなずむ夕日が鮮やかな暖色を残す空へ向かい、手のひらを伸ばした。

 こんな所で迷ってなどいられない。

 

 目指していた本屋はもう、目の前だ。

 



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23 -利する行い

 海戦が行なわれていた。白と黒の戦いである。

 既に両船は接舷(せつげん)され白が黒を追い立てていた。オセロでいうなれば、3方向の端を全て埋められた状態だ。

 海上での戦いは生か死かのどちらかであった。陸に近ければ海に飛び込み泳ぎきれば逃げられるが、そうでない場合、足場は攻める側と攻められる側の船だけだ。

 

 「……了解、左舷向かいます」

 

 アンはコードレスのイヤホンから聞こえてくる声に返答を返す。

 このアイテムはDr.ベガバンクの新作であった。雛形は元もとあったのだが、アンがこういうのが欲しいと療養中、ねだったものが形になったのである。

 基本的に電伝虫は一対一の対話だ。だが今回の品は親電伝虫を親機とし、子電伝虫を持つ全員に受信させるものである。応答側からの発言が重なると酷いハウリングが起こるが、順番に応えてゆけば良いだけの話だ。

 元々からヘッドホンが存在していた。小型化し、戦略を各隊長格にいっせいに流せれば意志の統一も可能であるし、命令の行き違いもない。

 今回の作戦では、アンの健康診断時に手渡された試作品が利用されている。

  

 幾つかに分かれている部隊が攻勢を激しくしていた。

 降伏勧告が蹴られたのだ。

 海軍としては出来るだけ生きて捕らえる、が基本ではある。が、海兵が生命の危機に陥いりやすい乱戦となった際にはその限りではない。会得している六式がひとつ月歩を使い、ふわり、と空に浮く。

 

 瞬間空を切る音がし、足首に鍵爪と錘袋、そしてロープが絡みつく。

 油断していた、というのは言い訳にしかならない。

 

 「しまっ!」

 

 肩越しに見えたのは醜く歪んだ唇の片方を上げる海賊の顔だった。

 力任せに引っ張られ、がくん、とその勢いに体重分の落下が加わりあっという間に甲板へと落とされる。

 だがしてやられてばかりではない。仮にも海兵である。着地を間違わなければ大きく振りかぶった足の遠心力だけで相手を同じ状態---尻餅をつかせるくらい出来た。

 

 ベルトにくくりつけてあったナイフで縄を切り、後方甲板へと向かう。足首は傷ついていない。万が一のためにと厚底のブーツを履いていたのが良かった。

 いたるところで銃弾が放たれる音が響いている。

 剣戟や突撃時の鬨の声、痛みによる叫びや断末魔。復帰後の初戦がこんな乱戦になろうとは思いもしなかった。

 もう少し元ケガ人を大切にして欲しいと思いつつ、自分の職業を思い出し、こんなものかと納得する。切った張ったを海上で行なう海兵がひとりなのだ。現場に在って否定するのはよくないだろう。

 

 とん、と背中に触れる手があった。

 「遅い、故に迎えに来た」

 ぶっきらぼうな言い方だ。すぐさまお互いが背を向け合った状態となる。盛り上がった筋肉の固さに押されそうになりつつも、背もたれを提供してくれた人物の体温を感じれば気持ちも引き締まる。

 「ありがとう、助かる」

 

 口から出た言葉は紛れも無い本心だ。

 今や痛みや引きつりは無いが、まだどこか体を持て余している状態だった。

 あれだけの大怪我をしたのだ。表面的には元通りにはなったものの内部の差異はどうしようもなく、怪我をする前の体に戻れるなど、できるわけが無い。限りなく近づけることは可能だが、それも日々感覚を研ぎ澄ますよう反復を続けている。

 

 

 アンをこの甲板に連れ戻した相手が向かってくる。背の向こう側にある相方も視認していた。

 真正面からくる。それを迎え撃った。背を離れ、駆ける。

 右手には抜き放たれたままのナイフがあった。海賊の手にも湾曲刀が握られている。

 

 海賊は大きくそれを振りかぶっていた。アンは勢いを殺さず相手に向かう。

 もらった、とばかりに海賊の口が動く。だがアンの体は木の板をすべり、男の股の下を通過した。

 滑りながら体を半回転させ、後方に回った直後足を斜めに立てその反動で体を浮かせる。

 膝に全体重が乗り、かすかな痛みを感じたがしかし、そのままナイフを海賊の首横を滑らせた。

 男の見開いた目と目があう。驚愕に大きく開かれていた。

 飛沫が上がる。その絶叫に多くが振り返った。

 

 白のセーラーが銀の光を手に、星(キルレシオ)を上げている姿を見た。海兵の証を纏う女が仲間を今まさに殺した姿を見た。

 返り血を浴びた幼子の姿に異常性を感じ、悪寒を得た海賊が叫ぶ。

 

 「海兵が人殺しをしていいのかよ!」

 

 誰かが続ける。

 正義を掲げる海兵が簡単に人を殺しても良いのか、と。

 そうだ、そうだと海賊達から同意の声が上がる。足踏みをして抗議する海賊もあった。

 なんとも拍子抜けするような、ぬるさを持った海賊たちである。己が今まで行なってきた行為を忘却しているのだろう。

 

 「何を言っているんだい。勧告を無視した時点で、君達に命などあるわけないだろう~」

 

 声と共にいくつもの骸が出来上がる。

 銃の形を模した指先をふっと吹き、黄と白のストライプスーツを着た男が将校の証であるコートをたなびかせ、笑んでいる。

 それはこの海賊船を拿捕し、殲滅の命令を下した海兵たちの長である黄猿だった。

 日が真上にあるこの時間、黄猿が放つ悪魔の実の力は見えにくくなる。なぜなら太陽を直接見るのと変わりない光熱が放たれるからだ。海兵に当たらぬようには撃つものの、たまに誤射貫通するときもある、という。

 

 海賊という無法者になった時点で世界にあるさまざまな権利を放棄したとみなされる。

 だが、それでも、と文句を言うのは別段構わない。なぜなら言うだけならただであるからだ。最低限の保障を、権利を主張するならば、世界の法に則って動いている組織に従わなければならないだろう。

 

 大将の前線出現により、多くの海兵が奮い立つ。その正反対となり萎びれたのは海賊達だ。

 だがしかし、海賊たちもここで終わらなかった。お前達は死ぬ、と宣言されたわけだ。自暴自棄、あるいは窮鼠猫を噛む。至るところで戦いが激しさを増した。

 

 「何しに出てきたんだ、あの人は」

 「ただの気まぐれじゃないかな」

 

 アンはその体の小ささと素早さを武器に、相方である男はサーベルを手に命を刈り取ってゆく。

 刃筋に迷いはない。

 

 どこかしこで響いていた剣戟がひとつ、ふたつと収まってゆく。

 たった一箇所だけ、どうしても終わらぬ戦いがあった。

 それを黄猿がじ、と見ている。

 

 己が行けばものの数秒で終わるというのに、海兵側に死人が出ていないからと高みの見物をしている黄猿にアンはちらりと視線を送る。

 それへボルサリーノはにやりと笑んだ。

 

 行け。

 と言っているのだろう。

 まったく部下使いの荒い上官である。

 

 残党となったたった一人は大きな斧を背負っていた。

 その表情は悲壮だ。血を浴び、血を流し、汗と混ざって浅黒い肌がまだら模様になっている。

 

 「たったふたりだけで俺の相手が務まると思ってんのかァ!」

 

 ビリ、と空気が張り付く。威圧だ。

 だがこの程度、黄猿から毎回の如く味合わされている。両者とも怯みはしなかった。

 男の名は巨斧のイグラ、懸賞金は4800万ベリーの賞金首だ。

 ここまで船を発見してからおよそ30分余りだろうか。海軍本部に戻る黄猿艦にばったりと遭遇してしまった運のない海賊船だった。

 

 「西の海出身だったけ」

 「知らん。ともかく捕らえるぞ」

 

 いつの間にか、出来上がった舞台にはアンとその相方である男のみが残されていた。全くもって要らぬお膳立てをする黄猿である。

 

 "偉大なる航路(グランドライン)"の折り返し地点までもう少し、というところで大将が乗る軍艦に出会ってしまったこの船には、50人を超える乗組員が居た。

 ある一定ラインの力量以上を持っていなければ、海賊の墓場とも言われるこの航路では海軍がわざわざ手を下さなくとも、自然が勝手に淘汰してくれる。

 "偉大なる航路(グランドライン)"とはある意味、分離器と同じ役割を果たしていた。小麦粉を篩(ふる)う、試験に篩って落とす。そう、選別の場だ。

 ここまでたどり着いた船ならば、実力も相当なものだろう。

 しかし、上には上が存在するのもまたこの "偉大なる航路(グランドライン)"の条理だ。

 

 サーベルと腰のベルトに引っ掛けていたメイスを手にした相方の号令でアンは走る。

 斧は船上での戦いでよく使われる武器だった。腕っ節に自信があるならば、カトラスよりも有用な道具となる。これは相手の船に乗り移る時、舷側に斧を突きさしてよじ登る際に利用された。登山のピッケルのように、斧を使うのだ。

 

 イグラは巨大な斧をものともせず振りまわす。

 さすがはふたつ名、伊達ではない。

 ふわりとアンは風に乗る。斧が作りだした圧を使い上空へと舞いあがった。

 相方であるドレークは甲板を走りイグラに迫る。

 

 柄を手のひらで器用に回し、イグラは大きく振りかぶった刃をすぐに手元へ引きもどす。

 巨斧から生み出された圧で舷側が弾け飛んだ。それに危うく衝突しそうになり、体をひねり放物線からずらす。

 「危ない」

 マストの上に降り立てば眼下では力と力がぶつかり合っていた。ひとりであれば手に余る相手であっても、誰かと組めば容易となる。しかし能力者となればまた話は別だ。

 相方---ドレークが交戦中の相手は動物系の能力者らしい。変身した姿はどう見てもウシ科だろう。

 「モデル、か」

 悪魔の実はいくつか同一に分類される種が出回っている。特徴的な姿だった。なにを食べたのか、と観察する。

 イグラの場合を例にとれば、ウシウシの実モデル、バイソンやキリン、ホルスタイン等が該当するだろう。悪魔の実辞典を見れば、動物系の多様さは面白いほど存在していた。希少な実も数多くあるのも動物系のすごいところ、だろう。千差万別なのが動物系の特色かもしれない。

 

 悪魔の実は店で売られている訳でも、どこかの島に生っている訳でも無いとされていた。話に聞く限り、ぷかぷかと海に浮いているのだという。知らない間に手に入れていた、という棚からぼた餅的な入手もあったとか無かったとか。

 どこからともなく発生する唐草模様の実の出所は未だに世界の不思議と言われている。

 たまに噂で、屋台やら露店が出ているとも聞く。

  

 正義の二文字が入ったコートがマントのように音を立てた。

 こんな動きを阻害する邪魔な物、纏いたくは無かったが規則で身につけなくてはならないのだという。

 「ドレーク、油断大敵だよ」

 がっちりと両の武器で斧を捉えられたイグラは、バケモノじみた脚力を持つだろう脚でドレークを打つ。

 肘で咄嗟に防御を固めたが勢いよく舷側に背から衝突した。

 アンは身の軽さを用い海賊の攻撃をかわしながら武器を拾おうとして断念、引きずる。その際にイグラが突撃してくればコートを使い、闘牛士さながらの華麗な回避を披露する。

 

 肉弾戦は慣れたものだった。日常的に相手をして貰っているのが黄猿である。それに加えエースやルフィとも毎日、組み手を繰り返していた。否応なしに体術も上達するというものだ。

 紙絵で斧による攻撃をことごとく回避する。視線は拾い引きずる武器に落としたままだ。

 「ねえ、海賊さん。大人しく捕まる気は無いですか」

 

 ……返答は、無い。

 

 当たり前だ。仲間のほとんどを骸とされ、大人しく捕まる海賊などいないだろう。特に船を仕切る船長ともなればなおさらだ。己の為にこの海を渡ってくる。

 

 「高みの見物でも良かったのだが」

 「いや、それはちょっと、いくらなんでも」

 戦線に復帰した相方に武器を投げる。遠心力を使っての無謀な投擲だ。視線は交わさない。受け取ってくれると解っていた。

 

 正面から相手とやり合うのは、アンの戦い方では無い。相手の力を真っ向から受けず流す。どんなに相手が強力な一撃を放ってきたところで、力が向かう方向性を変えてしまえば、おのずと隙が生まれた。そのわずかな隙間を縫うようにナイフを走らせ命を狩る。

 動と静、形に2種あるとするなら、ドレークは前者、アンは後者の方だ。

 

 身を屈め脚に力を蓄えたドレークが体勢の崩れたイグラの顔面にメイスを、懐に潜り込んだアンが鉄塊で強化した拳を腹へ打撃した瞬間、骨がいくつも砕ける音が響いた。

 どこかの骨が折れたのだ。腹には骨がない。どこが砕けたのかは推して知るべしだろう。

 その場でイグラは白眼を剥いて絶命する。最も人体で大切な、脳と頭蓋骨が、それを支える首が衝撃で折れたのだ。

 「……捕らえるんじゃなかったのかな」

 「これは事故だ」

 

 終わった事を手を振って黄猿他、軍艦の海兵へと伝える。

 海軍所属者が賞金首を捕らえたり死体を引き渡しても懸賞金は出ない。報奨金という形で多少は出るものの、賞金稼ぎ達と比較した場合、ご愁傷様、と言われる額だった。

 

 アンは接舷した軍艦から新たに乗り移って来た海兵と共に船の捜索に入る。ドレークと幾つか言葉を交わし、それぞれの担当へと分かれた。階級が上がってもドレークとの組み(コンビ)を解消してはいない。本来であれば将校の地位は単独で賞金首と対峙出来る実力を持つ人物が持つ立場である。だがアンは叙された。

 先の戦いにおいてもそうだ。ひとりで対応するには無理があり、どこからどう見ても実力不足であるのは明白であった。

 で、あるのにも関わらず、なぜ昇格したのか。

 だが運も実力のうち、という。むず痒い感もするが、もらっておいて損はないだろう。そう思い受けた。

 だがこの艦にある間はアンも意地を通すつもりであった。現在の地位は、みなしである。多くの思惑が重なった結果だった。

 

 この艦に限らず、海兵であれば毎朝目を通すだろうとある新聞がある。

 そこにあったのは英雄から生まれた英雄、という見出しであった。

 なんのこと、であるかは自身の身から出たさびでもある。分からないわけもない。

 

 艦の反応はぱっくりと割れていた。

 もとから友好的であったものと、そうでなかったもの、の2極だ。

 はっきりいって極端である。なぜその中央が居ないのだと眉を寄せたかった。

 唯一ドレークだけは、中立であろうか。どちらの極にも友人が居り、休日には彼らと飲みに行くとも聞いていたからだ。

 

 ただ空気はいくらか緩和されていた。

 威に竦んだのだろうか。それとも長い者には巻かれておけと打算したのか。

 どちらにしろ海軍では将校に対し罵詈雑言を放てば軍法会議にかけられる。それほどまでに下士官と将校では格差がつけられていた。

 とはいえ敵意や嫉妬が日常的に言葉として向けられなくなっただけでも御の字であろう。それが例え虎の意を借りた狐の如きだとしても、だ。

 

 「少佐、捕虜を発見したそうです」

 「ありがとう、すぐ向かいます」

 

 自分よりも年齢の高い、海兵に頷いて階段を下る。

 

 △▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 復帰初日、黄猿に伴われてやっていたのは海軍本部元帥の部屋だった。

 幾度か使いを頼まれて来た事があるものの、ドアから入るのは初めてであった。

 悪寒しかなかった。

 にこやかに横を歩くボルサリーノは、いつもと変わらず飄々としている。

 中に入ると数人の中将が待機していた。その中には義祖父の姿も見える。

 義祖父が人の悪い笑みを向けてきた。悪寒がいよいよ謀略の尻尾を振ってきたように感じる。

 

 この部屋では発言を許されたものだけが声を言葉にできた。

 

 「ポートガス・D・アン、召還により参りました」

 

 ようやく言い慣れた所属と名を名乗り、敬礼する。

 センゴク元帥はアンをじっと凝視した。顔が引きつっていないだろうかと、内心びくびくものだ。

 天竜人に関してのいきさつは既に聞き及んでいるだろう。

 しかも入隊年数が浅いのにも関わらず、長期にわたり負傷の為とはいえ休養している。

 

 おつるからは条件付で咎めはなし、とは聞いていたものの、その条件やらが無理難題である可能性が高い。

 詰問を受けるのは、軍隊に所属する身である。覚悟は完了しているが胃が痛い。

 

 センゴク元帥からじかじかに受けた文言は、予想内であった。

 昇格である。

 で、あるならば黄猿経由でも良いはずだ。

 裏を探す。

 

 すればたぶん、そうであるのだろう事柄が把握できた。

 元帥室に在していた中将たちへの牽制だ。この者に手を出すな、という先手である。

 昇格の理由として、聖地マリージョアに入ることが出来る最低限の授与と明確に口に出したからだ。

 暗に示した内容は、天竜人の手つきである。これ一点に尽きた。

 

 ため息を必死に押し留める。

 

 そして続けられたのが英雄ガープの後釜であった。

 義祖父も良い年齢を迎え、そろそろ後継者を、と望まれている。本人が勤め続けるが最良ではあったが、いつまでも中将にしがみ付く老害という声も一部ではある。そこへ現れたのがアンだ。英雄の孫である。

 今回の件でただの孫から英雄へと格上げされたのだ。

 

 義祖父が髭面をなんともいえぬ悪人的な笑みを浮かべながら、投げてきた新聞をちらりと見る。

 多分そうだろうと思っていた。

 『さらわれた天竜人を救い出した英雄の孫!』『初代英雄から2代目英雄へ!』という見出しがあった。

 さぞ良い宣伝広告塔になっただろう。

 

 英雄から生まれた英雄。

 最近の海軍は汚点ばかりが目につき、叩かれる内容のほうが多くなっている。

 人々の目を向かせるには絶好の的だった。

 

 『特筆すべき事柄は、この若き海兵は英雄と呼ばれるガープ中将の孫に当たる、という事だ。齢11歳で入隊を許された若き英雄候補は、高貴な血筋を未来に伝える若きデイハルド聖を悪名轟くルンデリヒト海賊団から救い出した。聖地では救出を高く評価し、世界政府としては異例の恩賞を授与するという。』

 

 視線を義祖父から元帥へと向ける。

 諦めろ、と目が語っていた。

 

 なるほど。

 デイハルドが言っていた、招待、か。

 

 アンは与えられた数少ない情報で過程を組み立てる。

 だが聖地は魑魅魍魎が跋扈する地獄のごとき場所である、と言ってはいなかったか。

 余りにも長い間、豪華で奢侈な空間に閉じ込められ変化を与えられなかった結果、腐敗というには生易しいこの世の末がある。そうデイハルドが語っていなかったか。

 

 傷を負った影響か、当日の記憶に欠損があった。

 独自に埋めてはいるが、どうしても見つからない欠片があるのだ。

 

 「近日中に聖地へ訪問するよう、要請が来ている。招待状だ。渡しておこう」

 

 アンは頭を下げて受け取る。手触りの良い封筒だった。達筆な文字でデイハルドの名があった。

 首元にあったビーズネックレスがかちりと小さな音を立てる。

 

 デイハルドが来い、と折角招待してくれたのだ。

 行くべきであろう。

 

 赤い土の大陸(レッドライン)で何かが起こっているのだ。何が起こっているのかはわからない。

 ぐちぐちと考えていても仕方が無いのだ。虎穴にいらずんば虎子を得ず、ともいう。

 訪れ何かがあったならば、その何かを引き裂けばいいだけの話である。

 友の父が罠を張っているのだとしても、アンとて簡単にやられてやるつもりなどない。

 

 アンは笑んでいた。

 その様子を見ていた元帥は確かに、ガープと血縁である、そう思い至っていた。

 苦境を困難としないのだ。

 

 幾名かの中将が震えていた。しかしその様子をアンが気に留めることはない。

 気づいていたが、些末な心証であった。

 発達途上にある幼子に震えるのならば、その者が持つ器量の大きさと底の浅さを自ら露呈しているようなものだ。

 畏れるに足らぬ小物である。それよりもこの場で注意すべきは元帥と義祖父、そしてボルサリーノである。はやり侮れない。

 

 退出の許しを得、アンは衣装室へと向かう。

 一着目のコートはこの部屋で採寸し、貰うらしい。

 

 アンは扉を閉める際、プロバカンダに使うのは別に構わない。だが顔出しは絶対にやめてくれ。出せば全身全霊をもってその写真を滅しに往く。そう言って閉めた。

 

 アンの利用に関しては別段どうでも良いのだ。どういう記事を書かれようが、噂も49日ということわざもある。放っておけば勝手に風化するからだ。

 それにアンも海軍を利用させてもらっている。

 エースと同じ方法で鍛錬しても、アンにはしっくりこなかったのだ。

 形を求めたのではないが、一本の筋を探しにきた、とでも言うのだろうか。

 我武者羅に走り、たどり着いた先に何かを見つけるのが兄弟達である。アンの場合、そこから一歩引いた観察が必要であったのだと今では理解できている。

 

 利用しあっていることに文句などない。世の中はお互い様で成り立っているからだ。

 アンは封筒を開けずに中身だけを取り出す。その唇から両の犬歯が覗いた。

 

 

 召集された中将達の退出が終わった元帥室では、センゴクとボルサリーノのやり取りをガープが興味深く見ていた。

 真実の報告も、虚偽の報告も両方、海軍本部元帥より世界政府にある頂へ伝えられている。天竜人からも申請が行ったらしく、その処理速度はセンゴクが元帥となり過ごした年月の中で最も早かったと断言できた。

 

 「子供を祭りあげるには、少々やり方がきたなくはないですかねぇ」

 「上の決定だ。なんともならん」

 

 大将は肩を竦める。

 利用出来る者を最大限に利用する。それに異を唱えるほど、センゴクも若くはない。

 世界情勢は根元を世界政府が握り法と秩序を敷いているものの、海賊という無法者が次々と溢れだしている状態だ。いくら取り締まっても追い付かない。しかも海賊達の質が昔に戻りつつある事に、センゴクは危惧を覚えていた。

 

 大海賊時代が封を切られた当初は、海賊王の遺産を探すため大勢の海賊達がここ、"偉大なる航路(グランドライン)"を目指した。しかし10年余りが過ぎ、各海の支配や力こそ全てという考えがゆっくりとだが水面下で大きなうねりを作りだしている。そのため戦力を分散せざる得ない状態となっていた。

 

 ゴールド・ロジャーは荒くれ者ではあったが、世界を牛耳ろうとはしない悪党だった。ある意味、御しやすい勢力だといえよう。ガープが担当していた海賊だが、海軍の旗を遠くに見つけたとしても、此方から仕掛けなければそのまま素通りしてしまうような男だった。

 

 しかしセンゴクが大将であったころ、担当していた海賊はこの世の支配者になる事を望んでいた。

 海を支配し、陸をも支配する。世界政府すらも牛耳ろうと野望を抱いていた。

 

 政府としては前者より後者の方が厄介だ。

 触らずと決定したが、海賊よりも革命軍の方が次第に脅威となるだろうとセンゴクは予見していた。しかし政府は動かずとの決定を下している。

 政府機関である海軍は、その決定に従わなければならない。

 

 そこに出て来たのがガープの孫だった。

 世界の常識として、世界貴族は尊ぶ存在と流布されている。

 世界貴族があってこそ、人間は繁栄できるのだ、と広報されていた。

 海軍の成果もアピールせねばならない。世界貴族を救った海兵、という見出しは絶好の宣伝でもある。

 

 「わっしはわっしの職務を全うしましょう。ご安心なすって」

 

 黄猿も踵を返し、部屋を後にする。

 残ったのはセンゴクとガープのふたりだけだ。

 

 「あの子をどこまで御せるか。見ものじゃのう」

 楽しげにせんべいへ齧りつく同僚にセンゴクはその表情を厳しくし、影を落とす。

 

 △▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 闇が深い場所だった。

 海に最も近い底なのだから、当たり前と言えば当たり前だが、陰湿な気配が漂っている。

 饐(す)えた匂いもあった。海兵達は嗅ぎなれない空気に吐き気を催している。

 アンにとってはまだ地獄の入り口ともさえ思えない光景であるが、多くにとっては顔をしかめ、同情するに値する事様(ことざま)であった。

 

 普通はそうだ。この臭いを、環境を好む者などいないだろう。

 清潔な環境にある者であるならなおさらである。

 

 その点、アンはまったく気にならなかった。歩みの速度を緩めることなく進む。

 "不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"に比べれば薄いものだ。

 「無理しないで。駄目だと思ったら、外の空気を吸って来て下さい」

 海兵達が入れ替わり立ち替わり、階段を上がる。そこにあるだけで体にその臭いがこびり付きそうであった。事実、外に出た多くが戻ってくることは無かった。

 それでも空気が動けば多少は入れ替わるかと考えながら、触れてくる意識に終わりの言葉を伝え続ける。

 

 この船底では多くが失われていた。

 10や20ではない。200は過ぎていないだろうが、少なくとも100は下らないだろう。

 見聞色とは幽霊とも話せる能力であるらしい。

 

 海兵達が持つランプの灯りが幾つもの姿を照らし出していた。

 女、男、子供。

 同じ檻に年齢も性別も無差別に投獄されている。

 ひとつだけ同じであるのは、恐怖に支配された顔だった。

 

 パン、とひとつ手のひらから乾いた音が響く。

 それは海兵が生む喧騒の中にあっても高く響いた。大きな動きはない。ぎょろりとした虚ろな目だけが上向き、その耳だけが音を拾うために意識される。

 

 「わたしは海軍本部、大将黄猿直属、アン・D・ポートガスである。世界政府が法に則り、海賊船の捕虜である貴殿らの身柄を保護する。動けぬものは手を上げ知らせて欲しい。それも出来ぬものは指を動かし、療官に伝えるよう願う」

 

 響き渡る声に海兵がまず振り返った。

 そして多くの動かぬ、生きた彫像と成り果てていた人の形がほどけていった。

 

 「身元の照会を急げ!」

 

 上にあがる階段の先にたむろする海兵を呼ぶ。

 のろのろと動きは遅い。だが動かぬよりはましであった。

 

 なんの為に捕らえられたかの想像は容易い。海賊は村や町を襲う。航海中に見つけた船が商船や同業者ならば攻め込み財を奪い取る。

 かつてと違い、未知を求めてこの海を往く船は少ない。

 だからこそどの海でも海軍は必要とされていた。多少の汚職や武力威圧があっても、賊達に日々の生活を奪われるよりましだからだ。

 

 世界は不条理で成り立っている。

 

 

 甲板に上がると大将直々に船医を連れ乗り込んできていた。

 「下の様子はどうかねぇ」

 「捕虜が12名ほど船底に、その他はまだ捜索中です」

 

 巨斧のイグラ他、抵抗してきた乗組員全てが死亡という状態も合わせて再度伝える。

 「この航海が終わったらボール引きだけどォ~来年もわっしの引いて貰う訳にゃあ出来ないよねぇ」

 「……あれは完全ランダムです。運です。諦めてください」

 来年こそはと手ぐすねを引く、大将中将たちが今か今かと待ち構える時が、刻一刻と近づいてきている。

 

 幾度かの航海と休みを挟みながら、配置換えまで残るところ1カ月。

 勤めてまだ1年も経っていなかった。

 海軍内では義祖父と黄猿の顔もあり、着実に人脈を増やしている。軍務として聖地へと何度か訪れてもいた。

 天竜人が住まう地区ではない。

 天上人と青海人が面会出来る場である、海軍本部の出先機関もある招待の館へ、だ。

 

 この館は世界政府の招集に応えた王下七武海が集う場でもある。

 先代の元帥であるコングもまた、この館で役人として職についていた。

 

 義祖父曰く、狸の皮を被った鬼であるらしい。

 海軍にはなんとも狸が多いことである。

 だがアンが持った第一印象は、優しいご年配であった。デイハルドとふたりだけで話せるよう、取り計らってくれたのもコングである。

 

 久々に会ったデイハルドは家督を継いでいた。

 家の格もひとつ上がっており、不必要と思われるほど不自然な護衛の数に思わず口をあんぐり開きそうになったのはここだけの話である。

 話を聞けば家族に不幸が重なったのだという。デイハルドを除く家族全員の不慮の事故とは、なんという不運の重なりであろうか。

 

 アンは鎌をかける。

 

 すれば幾つかの文言がデイハルドの口から語られた。

 十分であった。

 

 その他、少佐としては過分なほどの情報を与えられ、それを上手く使っての更なる発展を期待された。

 全くもって人使いの荒い天竜人である。

 

 彼方の島では半身であるエースがすくすくと背を伸ばし、柔軟な筋肉を付け始めている。負けていられない。

 

 生きるために。生き残るために強く。

 甲板の下から聞こえる海兵達の唸りを聞きながら、視線を空へと投げる。

 アンは頭上に輝く太陽のまぶしさに目を細めた。

 



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24-王下七武海

 七色のシャボンがふわりと宙に浮き漂う。大きな窓からは淡い光が差し込んできていた。

 衣擦れの音が響く。天竜人の衣類は全て絹が使われていた。独特な光沢が放たれている。

 「明日は式典があるそうなのだ。アンは来るかな」

 ヤトロファ・クルカスの樹液を集めた陶器の器を持ち、玉を吹きだしながら前方に控える男へデイハルドは問いかけた。

 

 「さあ、な」

 返って来る返事はいつものごとくあっさりとしている。

 最初から有意義な返答が戻って来るとは思ってはいない。

 

 広い室内には豪奢な机と座り心地の良さそうな椅子があり、書類が数枚散らばっている。

 齢7にして大人の真似事が出来てしまう己に嘆息する。周りの大人たちがどれだけ無能であるか、自身で現しているようなものだ。

 出来てしまう自分に疑問を持たぬわけも無い。既視感があった。だがデイハルドとしては生まれてこのかた、そんな作業をした覚えもない。

 見知らぬ間に覚えこまされていたか、それとも生まれてくる前に同じような作業をしていたのか。

 どちらにしろ、今まさに役立っている技能である。深く追求はするまいと深く椅子に腰掛けた。

 

 視線の先、壁一面には天井に接するまでの本棚が並べられており、ぎっしり重量物が詰められた蔵書がある。厚い書籍の背表紙には題名が無い。なぜならここにあるほとんどが隠された書庫にあったものであるからだ。

 デイハルドが幾つかの書籍を見る。それは友人が興味を示している空白の100年を含んだ古書であった。

 伸ばした手を必死に、もう一本の手で押し止めるという面白い姿をしていた友人を思い出す。頭も抱えていただろうか。

 くつくつと声を含みながら、本気で悩んでいたそれらの日を思い出せば、自然と声が出るというものだ。

 

 「僕の物になってしまえば、ここにある本も自由に読めると言うのに」

 

 友人は過去へ繋がるほつれた糸を捜していた。長い年月の果てに、繊維一本残っているのかそうでないのか、わからぬあやふやなものだ。

 青海で探すには万にひとつの幸運が必要であるだろう。だがここ、聖地には空白の100年を含んだ書物が今なお残っている。

 変わらぬなどありはしない。そうであるはずだ。人間など長く生きたとしても100年前後が寿命である。世代が変わり、聖地に住む顔ぶれも世代を重ねる。

 だが聖地は不変であった。そうなるよう仕組まれ続けている。

 

 友人は強情張りでもあった。

 目の前に答えがあるというのに、わざわざ遠回りをするという。

 見れば良いのに。デイハルドは素直にそう思う。だが友人には知る以外の目的もあるのであろう。

 こぶしを握りながら知識への欲求を必死に抑えていた様を思いだす。思い出せば愉快であった。

 

 どこまでその我慢が続くのか、見物であったからだ。

 何時折れても良い。その瞬間から、その存在、心までもデイハルドのものとなるのだ。

 

 「ラン、コングへこの手紙を届けてくれ」

 インクを付けた羽ペンで何行かの文字を書き、蝋で封をする。

 宛名も差出名もない。

 しかし一族を示す蝋印を見れば、誰から届いた手紙であるかは一目瞭然だろう。

 

 「解った」

 手紙を受け取り、男は背を向ける。短く切られた鎖が揺れ、小さく音を立てた。天竜人の奴隷の証である蹄の焼き印がくっきりと黒く、背に浮かび上がっていた。

 奴隷は確かに便利であった。持ってみればこれほど役に立つものはない。手足の如く動けば、という但し書きが必要であったが。

 なぜ養父が、義兄が、義姉が、そして義母が奴隷を弄び興じていたのか。デイハルドには理解出来ないでいた。

 薬で意識を朦朧とさせ、玩具(ペット)にするなど、ただの酔狂である。否、その粋狂が天竜人の歪さをより惹き立たせていた。

 雅に興じるというならば、そうなのであろう。

 

 閉じられた天空の庭園で新たな遊びを生み、狂ずるしか楽しみがないのは分かる。天竜人には何も残っていないからだ。かつては持っていた、政を動かす権などひとつ残らず奪われていた。今やその全ては世界政府が握っている。

 20ある天竜人の主家も今や傀儡であるのか。それとも頂きにある家だけが真実を知っているのか。

 今の立場では全く分からなかった。

 ただひとつだけ確かなのは、世界の支配権を世界政府が握りきれなくなっている、という事だ。

 友人は実に良い目と耳を持っていた。所属する組織が世界政府の管理下である。多少の偏りはあるが、許容範囲内に収まっていた。

 世界政府と海軍、そして海賊、革命軍という新たな者達。黄色と青、そして赤と橙の色を当てはめ、それを世界に散りばめたなら、面白い構図が出来上がった。

 仕向けられている。そうなるようにそそのかしている、存在があるかのようだ。

 良い様に利用されているのは、果たしていくつもある駒の、どれであるだろう。

 

 それらの攻防を眺めていれば、退屈など吹き飛んだ。

 意志ある存在を貶め、辱め、屈服させ負の感情を引き出して優越感に浸るよりも、世界を盤上に見立て手駒を動かすほうがよほど楽しいではないか。

 デイハルドには無色の駒がひとつ、ある。これをどう動かせば面白くなるのか、考えただけで笑みが浮かんでくる。

 

 コンコン、とノックする音が聞こえ、デイハルドは思考を中断した。

 

 「主(あるじ)、飯だ」

 

 盆を手に、その上に乗っているのは最近知った『おむすび』という食べ物だ。

 ここマリージョアでは小麦が主食であるが、つい先日俵をもってきたアンが教えた食しかたであった。

 実に腹持ちが良く、食が細いデイハルドにとっては格好の食物である。

 

 デイハルドは静かに息をつき、背を向けドアを出たランに再び小さく嘆息した。

 露出が義務付けされている『天かける竜のひずめ』が気に入らなかったのだ。

 腕の良い刺青師を召喚し独自の線を掘らせる予定にはなっているが、なぜ皆、そろいも揃って同じ印をつけるのか分からなかった。

 否、必要ないのである。

 

 婚姻関係が結ばれ、この地マリージョアに暮らす全てが親戚と言ってもおかしくは無い。

 品評会で奴隷の交換はあれど、奪うものはいなかった。

 奴隷となった者はいわば、天竜人として生まれた者すべての所有物である。

 と多くが思っている。

 

 だがデイハルドはランを誰かに渡すつもりも貸し出すことも無いだろう。

 なぜならばランは投薬処理を行なっていない奴隷である。主と呼ぶデイハルドの言には従順であるが、その他の命令を頑として受け付けない。

 

 「……ただの見栄なんだろうがな」

 

 天竜人は青海人を見下している。

 だがここ聖地では天竜人という選ばれた一握りとして生まれていても格差があった。

 頂を二位が見上げる。いつか引き摺り下ろしてやると。

 三位が二位を見上げる。己より品質のよい全てに嫉妬しながら。

 四位が三位を見上げる。平均よりも下である己に歯噛みし。

 四位を五位が見上げる。底辺からいつか脱してやると。

 

 そして上から下へ目線を向け、悦に浸るのだ。

 この奴隷は良いものだ。5千万ベリーという高値であった。

 その値でこの質とは恐れ入りました。

 そうであろう、そうであろう。だが貴殿の奴隷も捨てがたい。

 どうでしょう、そうでしょう。気に入っておるのです。

 

 互いが互いを牽制し合いながら、互いの奴隷を羨み合う。そして交換、もしくは貸し出しに同意するのだ。

 だが高位が下位の奴隷を殺したとて罪にはならない。また下位が高位の奴隷を我が物にしたとしても罰せられなかった。

 なぜなら天竜人の約束は、すべて口だけであるからだ。

 

 そして口々に文句を垂れ流す。

 

 気に入った奴隷であるならば、それなりの趣向を凝り、自分だけのものであると判別できるようにしろ、と言うのだ。

 同じ印を入れ薬物漬けにするなど、型にはめた大量生産品を手元に置いてなにが面白いというのだろう。

 

 奴隷にわざわざ所有物の証をつけなくとも、首輪だけで十分逃走防止にはなるはずである。青海で海賊の長をしていた血気盛んな者達でさえ、この首輪の威力を真の辺りにすれば逃げ出す気力も削がれるだろう。

 普通の人間ならば頭部が吹き飛ぶような代物だ。

 

 初めての下界探索から帰って来てみれば、変わり者というあだ名が定着していた。

 奴隷を使わず己の足で歩き、どこの馬の骨ともつかない野蛮人を友人と称しているなど、天竜人としての常識を逸脱した行動をしたからだろうか。

 はっきり言って回りの目がどう自分を見ようと、噂しようが知った事では無い。

 それどころか万々歳であった。嘲けりの対象として注目されている今、勝手に評されたそれをひっくり返すという楽しみがある。

 誰が敵で誰が味方であるのか、自己申告をしてくれているようなものだ。

 目を付けられているが故に動きづらいと思うだろう。だが監視されているからこそ、流せる情報もある。勝手にあちらが勘違いし、自爆してくれるのをただ待てばよいのだ。何事も動だけが手段ではない。

 

 数日前からここマリージョアでは最近幽霊騒ぎが起きていた。

 偉大な20人の王、その末裔である天竜人だけが暮らすこの都で、何人もの行方不明者と死者が出ているのだ。

 誰が疑わしいのか。

 猜疑心が都を静寂を呼び込み変貌させていた。

 だがしかし、また数十日もすれば以前と変わらない有様に戻るだろう。

 

 犯人が見つかったからだ。

 なんという事は無い。悪魔の実を研究する下々民の学者が昨日取り押さえられたという。

 犯罪者は内部では無く外部から来たものだ。早く捕まえて首を切れ。

 天竜人は口々に、警備に入った世界政府の役人をまくしたてていたと聞いている。

 ただ犯人が外部犯であった事が何より天竜人達を安堵させていた。内からはあり得ない、そう思っていたとして、もしも、という疑念を恐れていたのだ。

 

 なぜなら使用人は全て奴隷に孕ませた半端ものが任を勤めている。生まれた瞬間より主人には逆らわないよう幼少のころより感情を抑えられ厳しく躾けられた人形のような者達だ。天竜人の命は絶対だ。この場で死ね、と言われたならば躊躇無くその言葉に従う。

 

 だからこの都に従来から住む人物の犯行では無い。

 そう主張を行うわけだ。

 

 それに、とデイハルドは天竜人が置かれている現在の飼い殺しに関し、杞憂であればよい事柄を脳内に並べる。

 よもや空白の100年を含む900年前のことなど、把握している天竜人など一握りであろうが、一度在った事は二度あるともいう。

 天竜人の祖先は抗った側であった。存在していた世界を治める機関を妥当した勢力だ。

 させぬための、麻薬付けならぬ贅沢付けである。

 デイハルドは自身が世界政府上層部において、そろそろ危険人物の札が付けられるだろうと予想していた。

 なぜなら世界政府の思惑に乗っていないからである。独自路線を歩き始めているからだ。

 アンという友人を得なければ、阿呆の振りを続けても良かっただろう。だが手に入れてしまった。よって引き返すつもりは毛頭無い。

 

 それにそろそろ、世界政府が用意し続けている甘い蜜にも限りが近づいてきていた。

 人間とは以外に飽き性である。新しいことをどんどんと追加せねばいつかは同じ繰り返しに辛抱が出来なくなるのだ。

 だから歯止めをかけられていない。だからこそ磨耗も早かった。

 仮初の平和といえど、その水面下ではさまざまが起こり続けている。

 青海では貧富の差が激しく、人間を人間とせぬ国もある。命など路傍の石と同じものである、そうアンは語った。

 

 だからこそ天竜人は人間を買い求めるのだろう。心のどこかで今がおかしいのではないか。そう思う心を抑制するためだ。

 己より秀でているものを所有することで、支配者だと思い続け本当の自分を誤魔化している。

 汚いものなどいくらでもある。自分の行いは清いのだ。贅沢が許されているのは、かつての栄光が理由だけではない。今もまさに、天竜人として皆々を導いているのである。存在し続けることこそが世界の、しいては下々民のためなのである、と。

 

 自分に言い訳を続けるためだけに行なう不毛により、真綿で首を絞めているなど考えもしないだろう。

 怖いからである。

 偉業であると信じ込んでいるものを否定されるのだ。それは怖いだろう。

 

 それを感じたくない、忘れていたいが為だけに奴隷を買い求め続ける。

 購入したばかりの奴隷は実に刺激的だ。

 首輪や焼き印で縛らなければならないくらい、活きが良いおもちゃと言えるだろう。

 

 デイハルドを末子とする一族も、全てではないが行方不明者に名を連ねていた。

 それぞれが持つ自慢の奴隷を見せ合う品評会に出かけたまま、帰らなかったのだ。

 義理の長兄と長女、そして父。

 

 マリージョアでは血が最も重きとされている。一族内結婚など当たり前にあり、聖地に暮らすほとんどが3代遡れば血縁である。

 奴隷の子は一族として認められていない。なぜなら青海から召し上げられた物であるからだ。所有物に権利などありはしなかった。

 そうした長年の血の交わり、決められた範囲内での交配が、忌子を生み出しているのも確かである。

 知的障害を生まれながらに持ち得る子の実例が増えたのだ。

 20の家はしっかりと守られてはいるが、本家と傍流を比べると、前者の方の出産率が劇的に下がっているという。子が生まれてもなんらかの障害を持ち得る子に家督を譲るのは家の沽券(こけん)が下がるとし、闇に葬られる事もままあった。

 

 デイハルドは貰われてきた子である。

 調べてみればなんと最上位にある家の、本妻の子であった。妻の座にあったデイハルドの生みの母が死に、後釜に座った女が邪魔とし放逐したのだ。聖地から出されることは無かったが、もう二度と見ることはない底辺にある家に入るのならば、と了承したのだろう。

 育ての父であるルナルディと兄が消息を断った事により、必然的にデイハルドが当主の座に座ることとなった。口うるさくデイハルドを御そうとしてきた、母親の役目を放棄した女は既に処分済みである。また分家を含めた一族であるが、全くもって利には目ざとく、家の格を上げた幼子に擦り寄ってきた。

 デイハルドは優しくその手を取った。叔父上方の協力があってこその本家であると。

 上手く泳いでくれている間は今を存続しておくが上策であろう。もし弓引いてきたならば、その命で購ってもらえば良いのである。

 

 簡単な話だ。

 上手くお互いが使い合えば、程よい利益供与が続くのである。

 

 現在最も頭を痛めている問題は20ある各家との関係であった。特に20家をまとめる立場にある家長がデイハルドを意識し始めているからだ。天竜人は血筋を最も重んじる。ルナルディ亡き後、継いだのが己の血を引く息子であったなら、目を向けるだろう。早くも貴族内では攻防が夜会にて行なわれていた。そして既にデイハルド率いる家が最上位家が抱える分家の中で、最も格上であると認定されている状態だ。

 

 家は潰されないだろう。なぜならば20という数字に世界政府が固執しているからだ。

 この点に関してはデイハルドも変える気は毛頭ない。

 多くの下々民にとって天竜人の生活様式は豪華絢爛といえる。またその生活が実は彼らが納める国への税で賄われていると知れば憤懣も出るだろう。が、その質を下げるなどありえない。生まれた時から今の生活が続いているのである。変えようと思っても変えられなかった。変えたとしようと試みても、貴族の多くが、世界政府が許さないだろう。

 

 友人を真似てみようと試みたものの、長続きしなかった。絹に慣れた肌が綿を受け付けなかったのだ。

 デイハルドの友人は質素である。

 よくもまあ、生きていられるなと思うほどに慎ましやかだ。

 

 以前手渡した菓子も凄く美味しいと喜んでいたが、この聖地では三流の店であった。使うのは主に使用人たちであり、通常であればデイハルドの口には入らない代物だ。気になりひとつ貰ったが、悪くは無かった。だが粗末な甘みといえばそうであろう。

 

 手紙に記したのはたったひとつの件である。

 どういう反応をコングが起すのか、想像しただけで楽しかった。

 デイハルドの友人は、コングがかつて元帥であった頃、手を焼きつつも手塩をかけて育てた部下の孫であるらしい。

 その縁か何かと気にかけているようでもある。

 

 (……今のところ、僕に取り入るつもりはないようだが)

 

 デイハルドは腕を組みコングという世界政府の役人を思い浮かべる。

 アンは好好爺 であると言っていたが、まだまだ観察眼が甘いようだ。狐の皮を被った虎であるなら可愛げも多少あるだろうが、あれは鋭利な刃を上手く隠した殺人鬼である。

 その皮をいつまでアンの前で被り続けるのか、デイハルドとしてはそちらの方が楽しみであった。

 

 ポートガス・D・アンという人物は捉えどころが無い。

 全てを肯定し、あるものを受け入れる寛容さを持っているのに、変なところで意固地さを見せる。陽炎のように揺らめき、近くにあるはずの姿がいつの間にか遠くへと移動している。手を伸ばしても触れられないのかと手のひらを向ければ、握り返せるほどすぐ側に立っていた。

 

 天竜人という位を認めながらも、定められた法より交わした小さな約束を優先する心根もまたおもしろい。会うたびに新しい発見ばかりする。

 難解だと差し出された方程式すら見ただけで答えが解ってしまうというのに、あの人物だけは全く理解出来ず、だからこそ欲した。

 

 返しに来いと渡したビーズを律儀に身につけている所も、年上ながら可愛いとすら思える。似合っているのだからそのまま持っていると良い、そう言った時の吃驚したような、頬を染めた笑顔がまた可愛らしいかった。

 

 「さて。どういう返答をしてくるか、楽しみだな」

 

 デイハルドはこつこつと机を指で叩き、窓の外へ視線を投げる。唸り皺を増やすであろう、コングの眉間を想像しながら愉しげな声を漏らした。

 来るべき時が待ち遠しくなっていた。

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 「初めまして。魚人海賊団の皆さま方ですね」

 

 シャボンディ諸島61GR。

 

 そこには大船団が寄港していた。

 新たな王下七武海を迎える式典が開かれるまで一時間と迫る中、海軍の伝書バットにより指定された場所にやって来たのはあどけなさが残るひとりの少女だった。

 歳の頃は10歳前後だろうか。

 

「わたしは海軍本部黄猿直属、ポートガス・D・アン少佐です。新たな七武海へ就任される海侠のジンベイ殿をお迎えに参りました」

 

 所属している艦隊を聞いた幾人から、ざわりと殺気が放たれる。

 だがその多くは豪胆と進んできた人間に驚きを見せていた。船へ続く一本道に居並び、睨みをきかせていた魚人達があっけに取られている。

 少女は指定時間5分前に現れ、そよ風のように列の間を通り抜けた。

 並みの海兵ならば歩きだす事すら出来ないだろう。階級が高い将校であっても、多少は緊迫した気配に表情を固くする。

 だがそんなそぶりを全く見せる様子なく階段を登り船に立つ。堂々とした出で立ちだ。

 

 「わしがジンベエだ。お前さんが海軍からの使者か」

 「そうです」

 

 魚人海賊団船長、海侠のジンベエが声を発する。

 大きなひと、であった。

 アンは首を大きく持ち上げ、ほほ笑む。

 

 懸賞金2億5000万ベリー。

 赤土の大地を素手で登ったと伝えられるフィッシャー・タイガーが取りまとめていたタイヨウの海賊団を、彼の死後引き継いだジンベエサメの魚人である。

 3つに分かれた中で最も大きな勢力であると聞いていた。

 ひとつはこの集団である。そしてもうひとつはインペルダウンに収監されていた男を長とする集団であり、最後のひとつは総勢7名という小さな一団であった。

 

 アンはジンベエを見上げながら、水族館で見た悠々と泳ぐその姿とはまた違うという感想を得ていた。

 彼はつぶらな瞳ではあるが可愛くはないし、どちらかと言えば温厚であるサメであるジンベエだが、目の前の人物は理知的ではあるが獰猛さを兼ね備えていた。

 

 なぜこの任務をアンが命じられたのか、全く想像が付かない。

 目的や思惑があるのか、無いのか。変更がかけられたと聞いている。しかしそもそも任命されていた人物がいたはずだ。海兵として名誉ある職務であるという。勲章を得られるこの機会に食いつかない者は少ないだろう。小額とはいえ報償も出る。全くもってわからなかった。

 アンとて勲章が欲しいわけではない。あんなものを胸にぶら下げるなど、遠慮したいと願うほうだ。だから最初、この任務を断った。

 センゴク元帥は奥歯を噛みながらアンの意志を尊重し、一度は引いたがしかし、次いでやってきたのはコングであったのだ。

 

 この御仁にアンは弱かった。

 義祖父のように命じては来ないのはもちろん、力技を仕掛けてくることもない。

 事実を淡々と理路整然としてどうしてもアンでなくてはだめであるのだ、という理由を諭してくるのである。

 

 結局のところ受けざるを得なくなり、今、その任務の真っ最中であった。

 が、後悔していないわけではない。

 

 なぜなら兄弟たちとの約束が守れなかったからだ。

 ふたりはアンを責めなかった。だからこそ少々、後ろ髪を引かれている。

 

 実は久々の休日を使い、小さな船ではあったが島を一周ぐるりとしてみよう、そういう計画が立てられ準備も進められていたのだ。

 与えられた休みは今日を含め5日ある。十分な日数だった。

 兄弟達は先に出ているから、終わったら合流すればいいと言ってくれている。

 

 (ふたりとも大好きだ!)

 

 だからアンは兄弟達に持って行く土産を幾つか脳内で候補を上げていた。

 休日出勤分は特別手当も出るらしい。なので高価な本もついでにねだっておいた。

 

 「してここから聖地マリージョアまで大分距離があるようじゃが、どうやっていくつもりなのか教えてもらえんか」

 「ここから直接、会場へ飛びます」

 

 人差し指を立て、笑む。

 少女の言葉に誰もが何も言えなかった。飛ぶとはどういうことなのだろう。

 「魚人海賊団の皆さまはこの場で暫くお待ちください。式典は1時間ほどで終わる予定となっています。終わりましたらジンベエ殿を、こちらにお送りしますので」

 

 飛ぶ、というのは空中を行くのだろうか。魚人の数名が青を見上げた。

 海兵には不思議な体術が伝わっている。それを使って移動するのだろうかと、タイヨウの海賊団に属している面々がその眼光を少女へ集中させた。

 

 「ジンベエ殿、お手を貸して頂けますか」

 

 ジンベエは力の加減に気をつけ、そっと海兵の手に触れる。その時とある少女とダブって見えた。姿かたちは人間である。似ていておかしくはない。だが髪の色や雰囲気が違う。

 なぜ今、思い出したのか。己の考えを突き詰めようとしたとき、不意に景色が変わった。

 言葉通り飛んだ、のであろう。

 今頃船に残っている多くがあんぐりと口を開いているに違いない。

 

 眼下に広がるのは庭園であった。手入れがされ、美しい芝生が植わっている。

 下から見上げる人物たちがあった。

 服装からして海軍関係者であると見て取れた。中には軍の最高司令官までもが立っている。

 ジンベエは少女を引き寄せ腕に抱き、地鳴りを立てて大地へ足をつけた。

 

 砂埃が舞う。

 不思議な感覚であった。人間は魚人を見ると誰もが一歩後ろへ下がるものだ。だがこの少女は嫌がるそぶりを見せず、反対にしがみついて来たのだ。しかもジンベイは海賊である。海軍所属者であったとしても、身構えられるのが常だった。それがたとえ、タイヨウの海賊団の時から受け継がれてきている、殺さずを守ってきた集団であろうともだ。

 

 感謝の言葉があった。

 それを頷きをもって受領する。

 

 「海峡のジンベエ殿、お連れしました」

 

 アンは出迎えに来ていた元帥に向かい、敬礼する。

 式典まで30分となっていた。アンは出席者と別れ、待機所へ向かう。

 会場は結婚式が開かれる教会のような、白で統一された建物で行われていた。

 周囲は手入れされた庭が広がり、小さいながらも薔薇園もある。

 

 さすがに出席者は海軍関係者のみ、のようだ。

 他の6名にも新たに加入する人物の名を通知する伝書バットなり、鳩が飛ばされているはずだが、今のところ誰ひとり来ては居ないようである。

 世界に散らばる七武海は揃いも揃って曲者ばかりだ。

 アンもまだ、ひとりしかあった事が無い。

 ジュラキュール・ミホーク、鷹の目とふたつ名で呼ばれる世界最強の剣士だ。シャンクスと若い頃からライバル関係にあり、今もまだその決闘が続いていると聞いていた。本人にあった際、それとなく聞いてみたのだが真実らしい。

 強き者、にしか語らないとの言で、手合わせになりかけたが一応、切り結ぶ前に及第点は貰えたようで話しかけても背に帯びた長刀を抜かれる事は無かった。

 

 その他の構成は海賊女帝ボア・ハンコック、サー・クロコダイル、ゲッコー・モリア、そして。

 寝不足ではないはずの脳が、名前を戸棚から引き出してはくれない。

 

 白昼夢を見ているのか。

 周囲がぼんやりと白く靄(もや)掛かっていた。霧ガラスを介して周囲を見ているような感覚だ。

 

 ふと横切る姿を捉えた。

 赤の目立つコートを肩にかけている男である。

 

 「……おとう、さん?」

 

 アンは赤を追う。

 この後デイハルドと会う呼び出しを受けているが、アンは赤へとその手を伸ばした。

 

 父が何かを話している。真剣な表情だ。聞き逃してはいけないと耳を傾けるがしかし、肝心のその声が聞こえない。

 周囲にさまざまな画面が重なり始めた。目の前だけではない。360度全てだ。ありとあらゆる生と死が繰り返される。だが追いきれない。

 その中でアンは目に付いた画像に視点を合わせる。

 

 大柄の男があった。

 背はジンベエと同じ位であろうか。特徴的なサングラスをかけたピンクの、品がよろしいとは言えない羽毛のコートを羽織った見知らぬ男の姿だ。

 

 とある王国が映し出される。色とりどりの花が咲き乱れる、美しい情景だ。

 

 そこへ黒のインクがぼたり、ぼたりと落ちた。

 全ての色が黒に染まり、その上から赤や黄色の原色が無秩序に塗られ始める。

 貧しくも清く正しく真っ直ぐに生きていたその国と人々が一瞬のうちに怨嗟にまみれた。

 そこに立つのは幼子だ。後ろには大男が立つ。

 

 老若男女問わず笑っていた。そして泣いていた。

 その様はまるで光と影が映し出す、喜劇と悲劇だ。

 

 随分と抽象的な表現が多いのは、未来に起こることであるからだとアンは見ていた。

 未来は確定していない。過去は変えられないが、現在から先にある未来ならば、強い力をもってすればへし曲げることも出来た。

 

 黒の下地が色に混じる。

 鮮やかであるはずの原色に暗さを与えてゆく。それは二重螺旋の構造をもった、ちぐはくとした階段として立体的に組みあがってゆく。

 上下にそれぞれ姿が現れる。上の光当たる部分には人間が。下の影には人形が。その狭間には小人が走り回っている。

 一体なにを現しているのか、見当もつかない。

 

 男の視線の先にはデイハルドが居た。

 直接繋がっているわけではない。誰かを介して、縁がある。

 

 

 「くっ、ぁぁ」

 

 アンは突如、壁に押し付けられた際の痛みで我を取り戻した。

 思わず目を最大限にまで見開く。

 目の前にあった顔は、今までアンが見つめていたガラが悪く、センスの悪いピンク色のコートを羽織っていた男であったからだ。

 

 夢の続きだろうか。そう考え、即却下する。

 夢はどこまで行っても夢だ。だがこれは、この痛みは現にしかない。

 

 「……あなたは、誰?」

 

 両手の自由が利かなかった。それに足も、だ。何かに囚われているかのように、動きを阻害している。

 だが口は動いた。かすれた声を絞り出す。

 

 「あなたは、デイハルドの、何?」

 

 男が興味深げにアンを見た。質問が良かったのだろう。

 

 「お前……おれの部下になる気はねぇか」

 

 数十秒の沈黙の後、男がそう口を開いた。

 足元に広がっていた黒が粘度をもって跳ねる。

 

 低い耳心地よい声である。

 だがアンは一言、「いやだ」と断じた。

 はっきりと言って、アンを押さえつけている男のほうが強者である。首を掻き切られても文句は言えまい。

 だが断った。

 

 「ほう」

 

 声の質が変わる。

 だがアンは引かなかった。

 

 唇を割られ、良いように弄ばれたとしてもだ。

 この男は少女趣味なのであろうか。世界が世界であれば、危険人物である。

 やられてばかりではアンとていい気はしない。

 

 思わぬ反撃に男が面食らった。

 拘束が解けた瞬間、アンは男と距離を取る。

 

 「フフフ!!! やっぱおもしれェ。おれの元へ来い! 女としても可愛がってやろう!」

 「さて、そのような誘いは上官を通して頂きませんと。なにぶん、一兵卒でありますゆえ」

 

 唇を拭い淡々と事実だけを述べる少女へ、両手を挙げ一歩引いたのは男であった。

 機が悪い、と判断したのだ。所属は割れている。しかもこの聖地に来ることが出来る役職だ。手に入れるとしても、今でなくてはならぬわけではない。

 

 「フッフッフッ!! 気の強ェ女は嫌いじゃねェ。いつか言わせてやるよ、お前からおれの元に来たいとな!!」

 「おととい、きやがれ」

 

 踵を返した気障な男へ向かい、中指を立てながらその背に投げる。

 二度と会いたくは無い相手ではあるが、それはきっと叶わぬのだろう。なぜならばデイハルドに連なる何かであるからだ。

 全く大切な情報源の邪魔をしてくれたものである。

 

 でもまあ。

 と、アンはかくりと首を傾ける。

 男の周りには多くが集っていた。視えた限りではそこにアンの姿は無い。

 ただ、人脈は大切だ。

 己の邪魔をしないのであれば、たまになら力を貸すこともやぶさかではない、とも思う。

 

 「ほどほどに、とは難しい」

 

 アンはぶるりと体を震わせる。

 大きすぎる野心があの男にはあった。しかもそれを、実現できるだろう強い運の持ち主でもある。取り込まれないよう気をつけねばならないだろう。

 縁が結ばれてしまった感にアンは肩を落とす。

 未来は不確定だ。だが流れ、というものがある。誰が描いたのかはわからない。

 しかし筋があった。それに沿い、物事はさまざまな肉付けがされ太く伸びてゆく。

 

 それを変えることも出来る。が、その代償は大きい。

 

 「やっかいな相手に、目を付けられた」

 

 アンは大きくため息を付く。見上げた空は青かった。瞳を閉じ、その場から姿をかき消した。

 兄弟達の下へ行くのが遅くなりそうだ。

 そんなことを考えながら、景色の変わった先に視線を向けた。

 



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25-夕闇の赤

 1年はあっという間に行き過ぎる。

 義祖父に連れられ、やって来た海軍本部も今では見慣れた場所になっていた。

 あった出来事を数えてみると、濃密な日々を送っていると改めて思い至る。

 

 元帥の部屋にボールは既に用意されていた。センゴクが座る机に置かれていた箱に手を入れて、選択を掴み取る。

 見届け人は元帥と義祖父、黄猿と丁度本部に戻って来ていた赤犬だった。

 

 義祖父轟沈。

 

 「おじいちゃん、だから、心の目で読めって無理があると思うんだ」

 

 見聞色は意志の選択を読み取り、事前にその行動を察知する能力であり、決して分厚い厚紙の向こう側を透視する能力ではない。

 

 2年目の配属先を決めるボール選びが終わった。

 あれほど引く前に、印をつけて貰ったところで解らないと言っておいたのに、今回もまた頑張ったらしい。

 ガープは久々に孫の抱き心地を確かめ、大きなため息をつく。ただ柔らかいだけではない。一年前と比べ、しなやかな筋肉が備わっていた。

 

 「孫の成長を傍で見守ってやりたいのじゃがのう」

 

 黄猿も有能な部下が異動してしまい、残念だねぇ~と腕を組んでいる。

 

 「ねえ、おじいちゃん。それならゆっくりとお話、したいな?……例えば小さな頃の、預け先とか」

 にっこりとほほ笑みながら、小さな声で囁けば義祖父の顔色がさっと変わった。

 

 「おお、そうじゃわし、仕事があったんじゃ。アン、次の休みの時には一緒に村に帰ろう、じゃ!」

 そう言ってガチャリと扉を開けた義祖父へ、手を振り応える。

 祖父を見送り黄猿大将へ一年の礼を伝えれば受け渡しは完了となった。

 

 黄猿の艦から、赤犬の艦へ。

 勿論の事、下宿先も変わる。

 階級は変わらず少佐のままだ。

 

 「引っ越しはおいおいで構わん。すぐ船を出航させる、用意せい」

 「はい」

 アンは新たな上司の背を追う。

 

 サカズキはボルサリーノと比べ、戦艦で海を往く日数が長い。1年365日中、おおよそ200日は海の上だ。

 今までは黄猿の元で海軍本部を中心に近海を回っていたが、これからの日々は"偉大なる航路(グランドライン)"上全てが仕事場と化す。

 詳細を知っているのは、たまにおつるの下で書類整理を手伝っていたからだ。

 

 陸上勤務とは違い戦艦に乗っている海兵は、船から降りてからまとめて休みがやって来る。大体1カ月の航海の後に支給される連休は5日から7日前後だ。

 アンの場合兄弟達の元に帰ったり、聖地に呼び出されたり、隠れ島にせっせと器材を運んだりと、休日も活動的に動いていた。

 隠れ島とはアンとエース、デイハルド、そしてルフィの秘密基地である。兄弟と聖には面識が無い。ただ、それぞれの繋がりは知っている、という状況だ。

 

 ゆっくりと休まなくても毎日元気で走り回れるのは、若さ故の無茶もある。そしてもう一つ、何かをしていないと手持無沙汰になってしまうという、困った生活習慣に陥る事があった。

 こればかりは自身の気質であるため仕方無い。貧乏ヒマ無し、と何かを探しもとめてしまう。

 

 そういう時顔を出すのが、おつるが責任者を務める参謀室だ。

 そもそも参謀というのは高級指揮官の幕僚(ばくりょう)---軍隊においては司令部に直属し、軍の作戦、用兵などの一切を計画し指揮官を補佐する将校を指す。

 だが海軍本部においては表立った指揮官に対し、意思決定に際して進言や献策を行うだけでは無い。全ての事務と名のつく仕事の総括も行っていた。

 経理、資材調達、事務全般、庶務などなど、幾つかの課には別れているが、全てを束ねているのが参謀長、おつる中将だった。

 

 常に修羅場と化しているこの部屋は主に実戦部隊から、物資使用後の資材調達願いや、次の航海へ出る為の金銭要求などの書類の山が幾つも築かれている。紙の山はアンにとっては心落ちつく空間を作りだしていた。

 おつるはアンの手持無沙汰な状態を知っていたため、こっそりと訪ねると優先的に書類を回してくれていた。

 追い返したりはせず、そっと居場所を与えてくれたのだ。しかも仕事が出来ると示してからは、職員達から諸手を挙げて歓迎されるようにもなってゆく。

 

 黄猿関係の書類はここでの処理を考え、出来るだけ紙の容量を抑えた報告書を心掛けていた。目を通す必要のある枚数を減らせば、それだけ許可も早く通るからだ。

 

 准尉の時は多少、報告書を書く事はあれど余り書類を見る立場では無かった。がしかし、少佐に格上げされてからは報告を聞く立場になってしまったのだ。書類仕事に追われて鍛錬がおろそかになったり、エースとの組み手が出来なくなるのは避けたかった。となれば、やり方を工夫するしかない。

 

 なんだかんだと書類に関しては、ここでやり方を盗みながらやりくりしていたわけだ。

 だが当分は来れそうにもないだろう。

 アンはサカズキに置いて行かれないよう小走りで後を追いながら、通りすぎた部屋を見た。

 

 艦に着くと赤犬艦に所属する海兵達がいつでも出航できるよう、準備を整えて待っていた。

 赤犬が艦に上がると同時に、副長が指示を出す。

 艦長の後について船に乗り込んできた小さな将校の姿を見て、ざわめきが起っていた。表面では何事も無く作業をしているが、ちらちらと視線が向かって来ている。

 

 「…舞風が来た…」

 舞風。

 いつの頃からか呼ばれるようになったアンのふたつ名だ。

 

 呼ばれるたび、まだ、誰の事だろうと思ってしまう。

 風のように舞いながら戦う様が呼び名として定着してしまっていると、黄猿の艦でも聞いていた。挨拶を早々と済まし、部屋に案内される。そこは長年赤犬の補佐を務めている副長との相部屋だった。

 

 解らないことなどがあれば、気軽に聞いてください。

 強面の赤犬とは違い、物静かで優しげなおじさまだった。

 アンよりも年上の娘がふたりいるという。

 「大将は余り言葉が多くありませんが、堅実な方です。海賊討伐ともなれば多少、厳しい面も覗かせますが……」

 

 その多少、を経験する機会はすぐにやって来た。

 黄猿の艦に一度飛んで、私物を持ってこようかと思っていた矢先、海賊船と遭遇したのだ。時間にして出航から3時間余り、夕日が傾き始めている。

 

 望遠鏡でどうにか見えるか、という位置にはためく黒い旗に向け、赤犬は迷うことなく進路を変えさせた。さすがに乗組員の誰もが急旋回後に何が待っているかを熟知しているようで、船内が慌ただしくなる。

 アンも船首像に近い、舷側でよく目を凝らす。

 見たことがある旗だった。進路はシャボンディ諸島では無い。そちらから、出て来た船だ。黄昏時ほど、目に宜しくない時間帯はないだろう。凝視していた瞳がしばしばとする。

 視覚での感知は止め、六感での探索を始めた。そう、覇気だ。

 

 懐かしい気配がした。

 感覚を研ぎ澄ませば、遠くの景色も視ることができる。

 

 (シャンクス久し振り。変わりないようでなによりだよ)

 

 届かないと分かっていてもそう思う。

 意識の向こう側でエースががたり、と反応した。

 

 船の距離は遠い。相手には追い風、軍艦には向かい風だ。

 幾ら海軍の船が造波抵抗を出来るだけ小さくし、走行速度を高めているとはいえ追いつける距離では無い。

 

 あちら側も軍艦の艦影を捉えたらしく、上手く波を切り、海流に乗った。

 

 となれば、アンへ声が掛かるのは時間の問題だろう。

 大将の性格からして、見逃す、という行為はあり得ない。

 黄猿であれば、遠いけれど追ってみて、駄目なら駄目で構わないと言うだろう。だが赤犬は追いかける。

 それぞれの艦によって、性格がまるで違い、面白かった。

 

 大将が動いていた。向かっているのはここであろう。大体何を言われるのかも予想が付いていた。行って足止めを行うか、そのまま殲滅して来い、の2択か。

 

 「行って止められるか。旗はまだ確認出来とりゃせんが」

 足音が止まる。艦の中央で指揮を執っていた赤犬がアンの元へやって来た。

 軍艦側が逆光となっている為、見難い状態ではある。

 まだあの船が誰のものなのか、こちらは把握していない。

 

 六式の中で空をも往ける技術、月歩(ゲッポウ)を会得している数名も出撃の用意を行なっている。

 (……どう足掻いても、海ポチャされるだろうなぁ)

 アンは自分を含めた先行者の面々を確認しながら思う。赤犬が共に出るならば打撃を与えられるだろうがしかし、サカズキは残念ながら月歩を習得出来てはいない。

 

 誤魔化してもいいが、必死に望遠鏡を覗く海兵達が余りにも必死な形相をしているのが気の毒で、真実を伝えることにした。

 「切り込めとおっしゃるなら行きましょう。ただ戦果は期待しないでくださいね」

 

 眼光が理由を問う。

 「あの船、赤髪です」

 あっさりと告げられた言葉に周囲がざわめく。

 四皇のひとりがわざわざ新世界から出て来てくれているならば、探しに行く手間も省けたと言わんばかりに、赤犬は出撃命令を出す。

 「では挨拶だけでも」

 にこりとほほ笑んで、アンは敬礼を取る。その瞬間、姿が掻き消えた。

 初めて瞬間移動を目の辺りにした海兵達が声を上げる。

 赤犬の目は夕陽の中に隠れた敵船を睨みつけていた。

 

 

 △▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 海風が激しく髪をかき乱す。夕日が沈もうとする黄金の海を背に追ってくる船を見る男がいた。

 座しているのは水が入った樽の上であった。黄昏時は地獄と現世が繋がると伝わる地域もある。

 多くが迷信とするそれを、男は今日だけは信じてもいい、そう思えていた。

 声が聞こえたのだ。いつもその背を追いかけていた。忘れられるはずもない。懐かしい、その声が。

 

 出てきているとは知っていたが、よもやこのタイミングで会うとは思いもしなかった。

 

 「お頭ァこのままだと逃げ切れそうそうだぞ」

 「……そうか、ならいい」

 

 海軍の戦艦が遠くに見える。

 それぞれの進行方向は同じではあるものの、左右のぶれがあった。

 この船は右側へ、海軍の船は左側へ。

 潮の流れも、風も、味方しているのは此方側だった。

 

 ぶつかるなら海軍であろうと、他の海賊たちであろうと容赦はしない。

 この海は誰のものでもないからだ。

 自由に渡る分には無駄な争いなどしないほうがいい。

 

 「と、思ってたんだがな」

 

 落ち着いた声音が終わるや否や、突如現れたひとりの海兵が甲板に突然現れた。

 小さな姿だった。少女だ。

 正義のコートを一人前に羽織っている。だが影の中に見える目には殺気など無い。

 

 薄く笑んだ唇だけが逆光の中、光を受けていた。

 「何モンだ!!!」

 乗組員(クルー)のひとりが声を荒げる。

 

 (ああそうか、こいつは知らないんだった)

 

 荒げられた声に何事だとベックやルウ、ヤソップが出て来ていた。

 該当する問題に気付いた黒髪をひとつに束ねた男が、赤髪の男へ面白げに唇の口角を上げる。

 

 「こんばんは。シャンクス」

 少女が親しみの声音を含み、名を呼んだ。どこと無く、声が弾んでいるようにも聞こえる。

 

 「この野郎!!!」

 「おい、待てそいつは」

 止める間も無く、乗組員(クルー)のひとりがナイフを抜き飛びかかった。

 少女は木の葉がひらりと落ちるように避けながら、足払いをかけ体勢を崩した男の首筋に軽く手刀を一発当てる。肩に力が入っていない、いい動きだった。

 

 一撃である。

 この船の船長である男に惚れ、どうしてもと付いてきた若者ではあるがなかなか見所のある筋を持っていた。

 がしかし、まだまだのようである。

 海兵とはいえ弱い12歳になったばかりの少女にやられていては、海賊など続けてはいけない。

 

 「おーい、誰か、そいつの手当て、してやれ」

 

 男が倒れた人物の介抱を指示すれば、仕方が無いと仲間が引きずって医務室へと運び始める。

 お大事に。

 己が倒したというのに、少女は両手を合わせて祈る。そして幾つかの段差を超え、この船の船長である赤髪の元までやってきた。

 何が気恥ずかしいのか、はにかんでいる。

 

 「えへへ。シャンクス久し振り」

 

 その笑顔は別れたあの日から変わってはいない。成長の証として目線の高さが違っている。それだけである。

 

 「エースは、一緒ではないのか」

 「うん」

 

 低く抑えられた赤髪の声を聞きながら、倒れた男の体をひょいと飛び越え、海兵がこっちに歩いてくる。

 何が気恥かしいのか、えへへ、とはにかみながらだ。

 「お久しぶり。何年ぶりかな」

 「だなぁ、で、どうしたよ。海兵なんかになっちまって。おれァてっきりお前も海賊になるかと思ってたんだがな」

 

 破天荒なふたりの狭間にあり、その手綱を上手く取っていた少女である。

 巻き込まれるがまま、そのまま引っ張られると考えていた。

 だが現実は違う。

 白を基調とする、この世界の正義を声高に叫び拳を振り上げる海兵のひとりとなっていた。

 

 「うちに来るってのはどうだ」

 

 周囲に集い、程よい距離を保っている幹部達も思わず瞬間、表情を変える。

 頭であるシャンクスが気に入った人員を船に誘うのは珍しくはない。ここにある多くがそうである。

 

 お前面白いな、一緒に行こうぜ。

 

 誘われ手を取った者達である。だがこの一件だけは以外であった。

 

 「新たな趣味に目覚めたか」

 「それならそれで、まあ」

 

 外野の声にアンがまず噴出した。赤髪も冗談がきつい、と苦笑する。

 

 「ありがとう。でも、ごめんね」

 

 静かに伝えられた答えは、断りである。

 じと、お互いが視線を交し合う。

 いい目をしていた。いつの間にこのような目をするようになったのか。

 未来を、その先を見据えているかのような決意があった。

 

 「おれぁ、しつこいので有名なんだ」

 「ふふ、口説かれるのは嫌いじゃないわ。了承するかどうかは別だけど」

 

 

 思いがけない事こそが海で起きる。偶然と幸運が重なるだけで、こんなにも胸躍る再会や出会いがあるのだ。

 勧誘いは断られたが、再会を祝しての宴への誘いには乗ってくれるだろう。

 今まさにそれを口に出そうとしたところに、少女の人差し指が唇に触れる。

 

 「それも残念。軍務中なの。機会は次に取っておくわ」

 「こりゃあ先手を取られたな、お頭!」

 

 すいっと進み出てきたのはラッキー・ルウである。

 シャンクスは破顔し、続けて振られた結果を笑い飛ばす。それが合図となり、アンは顔見知りから取り囲まれた。

 ニュース・クーの新聞を見たという声が大半だ。

 海賊の多くは新聞に挟まれた手配書以外に興味を示すことはほとんどない。だが写真が載らず、文字だけで語られる、かつて東の海で拠点としていたとある村の友人が『海軍』という組織の中を引っ掻き回している様が載っているものだけには食いついて見ていた。

 

 「内部事情に関してゲロれ? 機密は内緒。でも、お酒の席なら別かなぁ」

 

 首を傾げ、謝罪の言葉を口にしつつ、全くそう思っていない態度に誰もが笑った。

 酒を飲まぬ、混ぜたとしても決して口をつけぬ者の口を割る方法はそう多くない。

 ならば先に本題を片付けてしまおうか。

 樽の上に座る男の目が細く狭まる。それは友人対友人の関係から、海賊対海兵との関係に変わったことを意味する。

 

 「……あの船に乗ってるんだろ?」

 「ええ。海軍本部赤犬大将率いる一団の、ね」

 

 和やかであった空気が一瞬にして温度を下げる。

 遠眼鏡を使ったとしても目視できる距離ではまだない。先と比べ、軍艦との距離も大きく開いている。逃げ切る距離にあった。

 単独でひとりやってきた海兵を捕虜とすることも、出来る状態だ。

 

 「殺りあう気は、ないよ」

 

 アンは両手を挙げ、敵意が無いことを示す。

 

 「……ただ、このまま帰るわけにもいかないんだ。『挨拶』名目で来ているから。だから、」

 「相手を寄越せ、と」

 「ご名答」

 

 だめ、かな。

 そう首を傾げられ尋ねられても困る事案である。

 

「おーい、誰かアンの相手したいヤツいるか?」

 

 呼びかけたとしても誰も手を上げない。それはそうだ。先ほど、出現した時たった一撃で、下っ端とはいえ落とした実力を見せたのである。実力が底辺にある者たちは、多少の恐怖のため手を上げられず、幹部達は上げたい手を必死で我慢している状態であると見て取れた。

 

 相手は少佐である。

 単独で切り込んでくる筆頭である。

 

 「…お頭が、やりゃあいい」

 

 細い煙草をくもらせ、副長である男が笑む。

 

 「え。シャンクスが遊んでくれるの?!」

 

 やけに嬉しそうに満面の笑みを浮かべる少女に赤髪は困り顔続きだ。

 周囲もすでにそれが決定事項だといわんばかりに用意をし始める。樽を転がし場を広く取り始めたのだ。

 ノリが良いのである。

 さまざまが起こったとしても、その本質は全く変わらないのであろう。自身が変わる気がないのだ。乗組員たちも当然、頭を見習ってお祭り騒ぎが好きになる。

 白の服を身にまとう存在と、船に来てはベックマンが集めた本を読み漁っていた姿が重なった。

 

 「よーし、負けても文句言うなよ」

 「うん、言わない! 言わないけれど、勝ったらお願い聞いて?」

 

 叶えられる願いであれば。

 シャンクスは樽の上から甲板へと下りる。武器の使用は一切禁止とし、海へ投げ込まれた時点で終了となる。

 コートを羽織ったままのセーラー姿で少女は立つ。

 

 「さーて、お前ら! アンに襲われている感じで騒げ! やつらを騙すぞ!」

 

 鬨の声が上がる。

 風で流れ、もしかすればそれが海軍の船に届く可能性もあるだろう。

 挨拶という名の強襲である。

 

 程なくし、波の音に混じり、盛大に水を叩き打つ音が響き渡った。

 「あー、やられた」

 

 シャンクスは唇の片側を持ち上げる。

 交戦の証として、であろう。着ていた衣服のボタンをひとつ、握って持って行かれていた。

 気に入って着ていたものである。

 返してもらい、縫い直せばいいだけではあるが、良い口実を与えてしまった、のだろう。

 少女の姿はもう海には無い。

 

 何を願われるのか。

 シャンクスは訪れるだろうその時を待つこととした。

 それに、と日が暮れ、その姿を消した軍艦に目をやる。

 酒の席での、笑い話が一つ増えたのである。出会えば、かつてほど殺し合いをしなくなった好敵手と交わす話題が増えたとしてもいい。

 

 「これだから、気ままな旅はやめられない」

 

 頭が振られた記念とした宴が始まろうとしている。

 シャンクスは薄く笑みを浮かべ、その輪へと加わった。



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26-モーガニア(1)

 

 以前、アンがアンとしてではなく暮らしていた世界でも、海賊は存在していた。

 頻繁に出現する海域はインドネシアだろうか。

 有名どころはソマリア海賊だが、襲える海域が紅海しかない。無政府状態の国であるとはいえ、しっかりと護衛をつけて通過すれば被害はおきにくい場所だ。

 

 ところ戻ってインドネシアだが、ここは複雑な入り江が多く海賊家業を行うにはもってこいの狩場といえた。ただこの周辺は非常にきな臭い海域である。運河の建設だけでなく、支配権を巡り火花が散っているのである。また経済的に圧迫された地域では普段、農地を耕し暮らす農民が、突如海賊へと変貌する。

 

 狙うのは護衛が薄い、中国、中南米船籍の船、もしくは漁船が多いという。

 奪うもの、は足のつきにくい商品だ。

 凍った魚など、自分達が獲って来たものだと言い張れば、買い取る業者としても確かめる術は無い。そんな身なりをして獲れるはずが無いだろう、とは言わないのだ。安く仕入れることが出来れば、利益も上がる。市場が求めている高級魚は特に、短期間で売り払われ元々の出所がうやむやとなってしまうのだった。

 結局のところ、海賊という存在が横行する理由は、与えられた境遇の格差と、宗教という思想に寄る所が多い、という事だろう。それぞれの国と、思想を否定するものではない。所変われば品が変わり、違っていて当たり前だからだ。世界が共通して同じ考え方をし、同じ文化を共有している方が恐ろしい、とも思う。

 

 アンが知る最古の海賊は、シュメールだ。

 文明発祥の地としても有名だろう。歴史はシュメールから始まる、と言われるくらい歴史学では定説となっていた。

 この文明の事を覚えているのには理由がある。

 人類最初の文明と言われているが、その担い手であるシュメール人がいつ、どこからやって来たのかわかってはいない。しかも文明には段階を踏んだ発展というものが不可欠だ。しかしこの文明には踏襲した跡が殆ど見受けられなかった。

 

 誕生の瞬間から高度な文明体系が整っていたという不思議な特徴を持っている。

 

 そう、どこかで聞いたような話だ。

 こちらの世界でも似たような話が転がっていた。

 オハラが健在であり古文書を解読すれば、もしかすればヒントが見つかった可能性もあるが、廃墟と化した町で知り得る情報は限られている。

 隠された歴史以前の文明には、判明している幾つかだけではあるモノの類似した接点があった。もしかしたら、此方側の文明が向こう側に渡ったのかも、というSFじみた想像をして楽しみながらけもの道を歩く。

 

 "歴史の本文(ポーネグリフ)"には始まりの文明については刻まれてはいない。

 本文を作ったその当時の歴史が表記されているだけだ。

 しかもパズルのように様々な情報が形を変えて言いかえられえいたり、あちこちに単語として散りばめられている。

 石碑を作った人の遊び心、とするには余りにも巧妙な仕上がっていた。全ての碑文をただあるがままに読んだだけでは、いくつかの古代兵器が眠る場所と両勢力がどのように戦争に至ったのかを読み取るだけしか出来ないように工作されているのだ。

 石碑本来の役割を隠すために、当時の人々は懸命に考えたのだろう。

 いつかこの本文の中に隠された、本当に伝えたい、遺された本文を読み解くためのロジックを解き明かし、導く人物が現れるだろうと願って。

 道標となるよう、頑丈に作り上げた先人の根性が伺える。

 

 ではなぜアンがそれを知っているのか。

 それは彼女にも説明が出来ない事だった。

 かつて考古学の聖地と言われていたオハラの学者達や、バスターコールの生き残りである少女のように古代文字を解読出来るほど、アンは全てを学んではいない。

 人がDNAという設計図によって形作られているように、アンの中にも最初からこの情報が存在していた。

 この世界で覚醒した段階で刻みこまれた、とする方がしっくりとくるだろうか。

 

 使っても、使わなくても、どちらでもいいように。

 世界は強要しない。

 もし追うのなら目指す方向だけを照らしても構わない。そういう道しるべだ。

 

 (けれど歴史の本文(ポーネグリフ)に関しては今、優先的にわたしが追うべき事じゃないよね。もし未来で追い掛ける誰かと歩みを同じくするならば、手助けしてもいいかもしれないけれど)

 そんな事を思う。

 

 オハラの学者達も、父も、事を急ぎ過ぎていたらしい。

 時が満ちていれば案外簡単に行き着ける場所も、満ちていなければ辿り着くまで困難がまとわりつくようになっているのだ。ただ海賊王と呼ばれる父の場合は、あと押しがあった。迫りくる死を前に、強く知りたいと願ったからだ。

 世界は待っているのだ。手順と段階を踏んで訪れる誰かを待ちわびているかのようだった。その方がアンにとっても、探究者側となった場合、追い掛ける楽しみとなるので、ありがたくはある。

 

 考え事をしながら歩いているとあっという間に町へ到着した。引きずっていた捕虜もまだ気を失ったままだ。大柄の男を背負ってもどうせ足と手が地面をこすってしまう。なので平たい道が多い場所では引っぱって来たのだ。

 

 「少佐」

  町の広場に辿り着くと、蒼白に近い顔色をした海兵が走り寄って来た。

 海賊の拠点となっていた町の解放と、海賊達の一掃は順調に進んでいるように見える。

 広場周りの建物は、見るも無残な姿のまま放置されていた。

 サカズキの冥狗が炸裂したのだ。どろりと蝋燭(ろうそく)のように溶けた残骸がいたる所に残っている。

 「どうかしましたか」

 何か問題が発生したのかと、先を促した。

 

 「それが…森に逃げ込んだ残党の、捜索が難航しておりまして」

 大人しく投降した元からこの地に暮らしていた住人達とは別に、外部からやって来て海賊業をそそのかした人員が森へ逃げ込んでいた。

 船で出ている海賊船の乗組員は今頃、全員海の藻屑と化している最中だろう。

 

 この町は元々、小さな村だったという。並ぶ町並みを見れば、漁村であった名残は殆ど無い。だがここに暮らしている人々の多くはまだ、漁業を生業にして人達が慎ましやかに暮らしていた。

 "偉大なる航路(グランドライン)"内にある島とはいえ、主だった次の指針を指し示すような記録を持たない、わざわざ海賊達がやって来る事の無い島だった。主なる島に付属する、小さな島で磁力を貯めるには弱過ぎて、ものの役にも立たない。たまにそういう島の欠片も存在する。

 

 

 ある日漂流者達が打ちあげられていたという。

 村の人々はその漂流者達を助けた。

 だがしかし、その漂流者達は海賊だったのだ。

  

 その年は作物も漁業も不作で、人々は困り切っていた。

 それでも海賊達を助けたのは、親切心からだ。自分達より困っている人達ならば、と手を差し伸べた。

 

 仇となるとも知らずに。

 

 海賊達も当初から、その本質を顕わにしていた訳では無い。感謝の言葉を重ねながら、手段を示したのだ。

 助けられた者達は囁いた。

 貧しき者が富んでいる者から物資を一時的に奪っても構わないのではないか。

 このままではこの村に住む人々すべてが飢えて死ぬ。

 死をただ黙って待つのか。

 

 村の男達は腹を空かせて泣いている子供達の姿を見かねて、甘言に乗った。

 商船を襲い富を得、食料を手にしたのだ。

 確かにその年の飢えは凌がれた。その時だけという取り決めだったはずだったのだ。だが一度覚えてしまった掠奪(りゃくだつ)の魅力に取りつかれてしまった者もまた多かったという。汗水たらして日々働かずとも、奪うだけで何でも手に入ってしまうのだ。楽して金が、物資が手に入る。豊かな生活が出来る。元の生活には戻れない。

 

 流れ着いた海賊達はこの村を拠点に、次第に船を大きく作り変え、勢力を拡大していった。そして幾つもの被害が報告されながらも、根城とする港が見つからず海軍も打つ手を失っていた。

 しかし海軍が補給に立ち寄った町で、この海賊団の一員達を捕縛することが出来たのだ。無論、赤犬大将はこの海賊達を絞め上げ、場所を吐かせた。

 

 そして今に至る。

 

 「全員で7名でしたっけ」

 広場に捕らえられているのは、アンが捕まえた男を含めて5名。残り2人だ。

 町の外に広がる森は、意外と深い。

 危険な獣はまだ見かけてはいないが、熊や虎も生息している。

 分け入っている海兵達が遭遇するのも、時間の問題だろう。しかしながら、気が重い、赤犬大将へ報告を出しに行く時間になっていそうな気がした。

 サカズキは部隊を分散しても、片方だけに責務を軽く分け与える男では無い。

 出来ない物事を無理矢理にさせる訳ではないのだが、出来ると踏んだ仕事の完了を求めてくる。よくある、他人にも厳しいが、己にも厳しく当たる、人物であった。

 

 「大将に報告は…」

 「まだ、です」

 

 その方が賢明、とアンは頷く。

 電伝虫が鳴っても、取らないように念を押す。

 海賊、に関わる全てに対し、赤犬は妥協を許さない。

 初めて会った時の印象そのままに、いつも怒気を含んでいた。ボルサリーノの家にやって来て、将棋をしていると幾分は和らぐものの、こうして同じ船に乗るようになり、なぜ、という問いかけに変わっている。

 サカズキは自分の事を話さない。

 黄猿の船はどうじゃった、や、稽古を次の休みにつけてやろう、という話はしたが、自らの事は沈黙を続けている。この船に乗り込んだ今、でもだ。

 

 かつて一度だけ聞いたことがあった。

 ご家族はいらっしゃらないのですか、と。

 その時、サカズキは静かに笑んでいただけだった。

 触れて欲しく無い傷があるような、顔だったのを覚えている。

 艦に乗っている時は見せない表情だ。

 

 「あとふたり、時間までになんとか、捕まえてきます」

 時間をぎりぎりまで遅らせてください。

 そう願って、アンは気を失った男を手渡し、身を翻(ひるがえ)す。

 

 赤犬がこの諸島に散らばっている海賊団を壊滅させるまでそう時間はかからないだろう。もしくはもう終わっているかもしれない。

 アンを筆頭に30名、この島での後片付けを任されてから2時間余りが経過している。

 

 ゆっくりとしている時間は無い。

 だがしかし、久しぶりの森は、場所は違えど居心地の良さを感じていた。

 海の上では匂わない、土や緑のよい香りがする。

 ビバ森林浴。

 

 義祖父についてゆくと決めたあの日、こんなことになろうとは思いもよらなかった。

 

 経験にはなっている。

 出て来た時よりも、確かに技も力量もついてきているとは感じていた。

 けれど。

 (わたし、あと1年とちょっとで海軍、辞められるのかな)

 懸念があった。

 

 そう。

 予定では一番下の雑用から始め、下士官どまりにするつもりだったのだ。将校にあがるつもりなど全く、これっぽっちもなかった。

 予定とはあくまで予定。

 人生は気に入らないからとゲームのようにリセットを押してやり直し出来ない。

 これは向こう側でも、失敗して現実に打ちのめされる度、思ってきた。

 

 (引き際を間違わないようにしなきゃ)

 見聞色を最大限の範囲に広げ、森を駆けた。

 途中で熊に襲われている海兵を助けたり、蛇に丸のみされそうになっていた海兵を引きずり出し、ゴリラと対峙している海兵の助っ人をしながら、どんどんと奥へと進んでゆく。

 

 さすがに海賊達はここを長年拠点として滞在していただけあり、島の隅々まで探索済みのようだった。途中で縄トラップや網を使った捕縛トラップなどが行く手を阻む。効果的な仕掛け方だった。落とし穴には猛毒を持つ蛇がうねうねととぐろを巻いていたり、鋭く削った木の杭がささったものまで多種多様だ。

 

 しかし陸上を行く海兵達と違い、アンは木の幹を渡り、蔦を使って移動していた。

 殆どの罠は対地専用で空中からの追跡は視野に入れられてはいない。

 能力者が居ない限りはこれで十分事足りる。

 

 (おれも手伝ってやろうか)

 

 猫の手も借りたい状態で不意に声が聞こえた。

 エースだ。

 

 あちらでは丁度、夕食の狩りが終わり一息ついているようだった。

 (わにめしいいなぁ)

 頬と唇が緩み瞬間的に景色が変わる。足場にしていた幹が消え、宙に浮かんだ。踏み損ねた足が浮遊感を生む。崩れたバランスのまま落下した。

 「おかえり」

 アンの体を支えたのはエースだった。筋肉が付き始めた腕で、受け止める。

 「…わにめしに釣られた」

 その場でアンは脱力する。考えてみればお昼を食べずに森の中を走り回っていた。

 木の実でもつまめば良かったと今更思っても後の祭りだ。

 不意に口へ放りこまれた果物に頬を緩ませる。

 さすがエース、腹減りの状況をよく分かってくれていた。

 

 「アン、おれも行くぞ!」

 「ルフィ、海賊のおじさん達を捕まえるのよ?」

 「モーガニアだろ。海賊でもおれ、そっちは大っっ嫌いなんだ!!」

 

 自信あり気にルフィが両手のこぶしを握りしめる。エースから大体の事情は実況中継によって伝わっているらしかった。

 「もしかしなくても、力試しするつもりでしょ」

 不敵な笑みを浮かべる半身はただそれを濃くするだけだ。

 今現在移動を繰り返せる回数は3回、ふたりをドーン島まで送り返してその日は終了となる。

 アンは頬を掻いた。エースを中心に膝には自身が座り、その背には弟がしがみついている。兄弟ふたりから、だめかと瞳の奥を覗きこまれると、ダメだと否定しにくかった。

 欲に負けた結果だから仕方無い。何とかしよう。

 双子の膝の上から芝生へと座りなおし、採って来てくれていた果物を完食する。

 立ち上がり海軍のコートを羽織りなおせば、アンは兄弟達と手を繋ぎ空間を結んだ。

 

 目指すはツアモッア諸島、ビトフェ島。

 現れた視野は島が上空から丸ごと見下ろせる位置だった。

 東の方角で黒い煙が上がっている。

 エースも落下しながらそちらを見ていた。

 

 その間に島の立地を確認する。

 「唯一の町があそこ、トヘロという町ね、で、森が残り全部。西側に湖がある。海岸線は町の周辺以外、切り立った絶壁が続いているから気をつけて。特にルフィ、落ちたら沈むからね」

 

 あれが、赤犬、か。

 言葉にしない声が聴こえた。

 遠くの青を見る目が、サカズキの姿を捉えたのか。

 

 「急ぐんだろ、アン」

 「すっげェ!!! 空、すげえ!! おれゴムだからな!! 落ちても大丈夫だ!! 次はもっと上に飛ばしてくれ!!」

 「ルフィ。興奮しすぎて何言ってるのか自分でも分かってないね?」

 

 エースは足を下に体勢を傾け、月歩を使い速さを相殺し始めた。

 アンもルフィの手を取り、同じく空を駆ける。

 

 「競争だぞ、残るはふたりなんだ」

 拳を合わせ、緑の中へと落ちてゆく。その際にひとつの約束を交わした。

 「よし、アン覚悟決めとけよ」

 「ふっふーん。わたしだって負けないもん」

 「おれも負けないぞ!!」

 3人の間に、火花が散った。

 



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27-モーガニア(2)

27-モーガニア(2)

 

 ひとえに海賊と一括される海の荒らし屋達だが、実はふたつに分類する事が出来る。それがモーガニアとピースメイン、だ。

 

 モーガニアはただ無法に奪略を繰り返し生殺与奪を思いのまま振るう荒くれ者達を指す。そしてピースメインはそのモーガニアを主な獲物とし、初めて踏み込む未知の地で冒険を楽しむ者達を指した。

 

 ビトフェ島を根城に、商船を襲っていた海賊達は前者になる。

 ではピースメインとはどういう集団か。

 最も穏便、と言い表すなら領地をもつ海賊団だろう。独自の港を持ち、大海賊の名を以って他の海賊達から襲われないよう庇護を与える。その代わりに、多少の金銭を貢ぎ受けたり、または寄港地として使わせて貰う、など利害が一致しあった関係を結んでいた。

 

 しかし5つの海で黒い旗を揚げている海賊達の殆どはモーガニアと言っても過言では無い。特定の拠点を持ちある程度の収入源が無い限り、ピースメインで航海するのは難しいのだ。しかも海賊同士で争っても実入りがあるとは限らない。隠された財宝を一度でも見つければ、懐は確かに潤う。見つけ続けられなければ、乗組員を養えず船は崩壊に至る危険性もはらんでいた。

 

 銃声が響き渡る。

 「もしかして、わたしがはずれ引いた?!」

 アンは足を止め、茂みの上に顔を出す。発砲音が繰り返されていた。

 急いで道を引き返す。

 兄弟達はそれぞれ、戦闘に入っているようだった。

 

 アン自身、海軍に身を置いていて思う事がある。

 

 あの森で生活していた時は自分がどれくらい強いのか、測る目安が無かった。手合わせをしていたのは兄弟と、たまに帰って来るガープ位だ。死力を尽くして戦った経験が全く無い状態で立ち位置がどの辺りなのか調べようが無かったのもある。

 所属してみてはっきりとわかった。

 今現在の彼女であればコートを羽織ったばかりの将校となら、大多数対1で戦ったとしても勝てるくらいの実力があった、ということを。

 

 悪魔の実の能力者と対峙した場合は敗北する可能性もある。ルフィのようにまだ、能力を把握し切れていない場合は各々が持つ能力とのぶつかり合いになるだろう。勝ちをもぎ取れる可能性もあったが、使いこなしている者との対決は危険度が跳ね上がった。それだけ悪魔の実がもたらす恩恵はでたらめに強力過ぎなのだ。

 

 エースは未だに無敗だった。

 以前島に里帰りした際、アンは50戦中7回ほど、ルフィに負けてしまっている。

 エースと戦えば、勝率は2分の1となっていた。その内に弟と同じくエースに勝てなくなりそうだとアンは思う。

 力で敵わなくなるなら、技を磨けばいい。

 そう思って日々鍛錬しているものの、やる時は殆ど、エースと一緒だった。

 

 差が縮まらない。

 

 これをどうにかしようとするなら、悪魔の実を食べた方が早そうだ。

 アンは時々そう思う。

 けれど湯船につかれなくなるのは避けたい。力の抜け具合がどれほどなのか見当もつかなかったが、全日シャワーだけで済ませている黄猿の様子をみると、やはり食べる気が失せてしまうのだ。

 

 風呂は一番の馳走である。

 アンは力説出来た。スーパー銭湯でもいい。あの白気立つ温かな湯の中に肩まで浸かっている間の至福感を。あれ失うのは余りにも惜しすぎる。

 

 怪我をしていた休暇中、黄猿と何度か一緒に風呂に入り、背中を流させて貰っていた。悪魔の実の能力者は液体の中には基本、入れないのだとこの時実感した。胸板以下の湯量でなければ、滑った場合危険だという。能力が封じられるのは"海の水"限定ではあるが、泳げない弊害は真水にも及ぶ。息が続くのならば沈んでいられるだろうが、人間は水中で呼吸することが出来ない。

 なぜかアンが一緒に湯船に入った時のみ、脱力感が弱いらしく近々温泉に行こうと誘われていた。黄猿も若かりし頃は温泉が好きだったらしい。温泉成分の多くはミネラルだ。海の水、ほどではないが効果がほんのりと身にしみるのだという。

 

 故に。

 もし手に入れたら。

 もし手に入れたとしても。

 自分で食べず、エースの口に突っ込む未来しか、思い浮かばなくなっていた。 

 

 

  「"ゴムゴムの"っ!!!」

 大きく拳を振りかぶりながら、ルフィは銃弾を回避する。

 ゴム人間となったルフィの体には銃弾は効かない。受けた方が相手に銃弾を返せてお得なのだが、それは禁止されていた。

 アンから、実の能力に頼るべからず、と言われていたからだ。

 お姉ちゃんのお願い聞いてくれるかな。そう言われてしまうと、ルフィは弱い。それは姉だけでは無く、兄にも共通する弱点だった。どうしてもこくりと頷いてしまう。だからルフィは言いつけを守りながら暴れる。

 剣やナイフなど、斬る道具であれば身を傷つけられても、鈍器系に関しては痛みすら感じなかった。

 「"銃(ピストル)"!!!」

 

 撃ち出された拳が銃を乱射しながら逃げる男の胴に拳をあてる。

 背からの追い討ちだ。森で戦う猛獣よりもあっけなく倒してしまい、あっけにとられてしまう。

 「なんか物足りねェ。しかもハラへってきちまった」

 木を一本折り倒し、止まった男の体はぴくぴくと痙攣している。

 その横で座り、ルフィはべろんと舌をだして尻をついた。

 そう言えば肉、肉があった方向どっちだったっけ。

 ルフィは周りを見回すが、鳥の鳴き声が聞こえるだけで方向が解らない。

 男との出会いは匂いだった。

 美味しそうな肉が焼ける匂いに誘われ向かった先で、男が鳥を火であぶっていたのだ。肉汁が焚き火に落ち音を立てる、そんな状態に遭遇したルフィに我慢など出来るはずもない。

 おれにも分けてくれよ、とルフィはその男の元へ駆けた。

 

 男は突然現れた少年に驚き銃を放ったのだ。

 「来るなっ!!」

 「何もしない。旨そうな匂いがしたんだ。おれにも分けてくれよ」

 撃ち込まれた弾を他の方向へ飛ばしたルフィがなおも近づく。

 男は能力者か、と後ずさった。

 

 「…海軍なんかに捕まってたまるか!!」

 男は恐怖に目を見開きながら銃を撃ち尽くし、悲鳴を上げて逃亡した。

 「あー、お前もしかしてアンが追ってるやつだな。覚悟しろ!!」

 

 そんなこんなで追い掛けている内に、肉の場所がどこかわからなくなってしまっていた。周りは見慣れない風景ばかりだ。

 「晩飯までまだ時間あんだよなぁ。きのこでも探すか」

 腹の音が聞こえ、腹減りを再確認し、ばたんと倒れる。

 鳥の丸焼が落ちて来ねェかな。来ねェよなぁ。

 麦わら帽子をかぶり直したルフィの目の前に、鳥の丸焼が突如出現した。

 「おおっ お前そんなにおれに食って欲しかったんだな、いっただっきまーす!!」

 

 「くいしんぼうさんめ」

 がぶり、と肉に食いつく姿を見て、くすくすと笑う声に、ようやく鳥が勝手に歩いて来た訳ではない、とルフィは気が付いた。

 

 「ふががんがふんぐぐぐ」

 「いつも食ってから話せって言ってるだろう、ルフィ」

 

 「エース!! アン!!」

 ほぼ丸のみ状態、ごくんと喉を鳴らせ弟がふたりの名を呼んだ。

 そしてちらりと見たのは折れた幹の根元で白眼を剥いている男だ。

 「なあアン、海賊ってこんなに弱いもんなのか」

 弟の問いに、いえいえ、とアンは首を振る。

 「ここを根城にしてる海賊団が弱いだけ。シャンクスは…昔より強くなってたよ」

 海にぽちゃりと落とされた日の事を遠い目をして思い出す。

 「それにしてもエースだけじゃなく、ルフィにもっていかれるとは思わなかった」

 男達を追い掛ける前に、もしエースとルフィふたり揃って捕まえられたなら、もう胃に入らないというまで、ケーキを食べさせるという約束をしていた。もしアンがひとりでも捕まえた場合、引っ越しの手伝いをして貰う事になっていたのだ。

 「にししし」

 弟との笑い声に、参った、と言わざるを得ない。

 

 「それじゃ巻いて運ぶね」

 蔦を切り男の体を結ぶ。手足を背でひとつにまとめてしまえば、動くに動けないだろう。その状態でルフィの手を借りて、棒に吊るし肩に担ぐ。エースが仕留めた男は既に、町の近くに転がしてあると言う。

 

 赤犬が到着するまでにこれで全員、捕まえることが出来た。

 上陸チームに知らせれば、きっとみんな、胸をなで下ろす事だろう。

 その上で問題なのは、この二人をドーン島まで送りに行くための口実だ。

 

 わにめしに釣られたなんて言えない。言えるわけが無い。

 黄猿の艦に乗っていた時のように、毎日瞬間移動を行い、心身ともに疲労状態にさせられる事は無くなっていたが、その分、起床、就寝時関係無く、戦闘に明け暮れていた。

 だから、そのおかげという訳でもないような気もするのだが、跳べる回数も増えている。

 だがしかし、わに飯に釣られ、なおかつ兄弟に捕縛を手伝って貰い、それを送りに行きたいなどとは到底、サカズキに報告など出来はしなかった。

 

 どーしよー。

 ボルおじさんみたいにお仕置きごときで赦して貰えるとは絶対的に思えないんだ。

 

 急に百面相し始めたアンに兄弟達が首を傾げる。

 「アンどうしちまったんだ?」

 「さあな。わにの調理方法考えてんじゃねェ」

 アンの状態をしっかりと把握しているエースは、さらりと悩み続ける半身を余所に、さらりとそんな事を弟に言葉する。

 「おおっ、アンのめし、久しぶりだ!」

 

 そこっ。アンはびしっと指をさし、

 「唐揚げとてんぷら、希望があるなら先に言っててよ! 後であれ食べたいこれ食べたいって言われても作んないからね!」

 と宣言した後に、「じゃ無くて!」

 手のひらを握り、エースへと叫び、そうして悩んでいるのが馬鹿みたい、と吹きだして笑う。

 

 いつ以来だろう、こんなに笑ったのは。アンは目尻に溜まった涙を拭きながら、思い返す。海軍に入って、いろんな事を経験していた。けれど、生きることに楽しいと思えていなかったかもしれない。

 強くなる、それだけを目標に日々を必死に生きていたからだ。

 なにやってるんだろう、わたし。と、緑が覆い茂る枝の先に見える空を見上げた。

 

 空回りしている時はいつも、サボが肩にぽん、と手を置いてどうした、と声をかけてくれていたのだった。しかし彼は今いない。いつまでも頼っていてはダメだと、無意識にこわばらせていた頬を緩ませた。

 兄弟達も笑い出したアンにつられ、笑顔を浮かべる。

 

 風が木の葉を揺らし、大地を駆ける。

 映像を視た。

 白昼夢、とでもいうものだろうか。

 「アン…」

 エースが目くばせする。

 

 視えたのだ、エースにも。

 ほんの数秒の出来事だった。けれど一体何を示唆しているのか、思いつく節が今から起る。

 

 アンには人を断ずる資格はない。人を裁けるのは人であるが、罪に対し罰を与えられるほど多くの物事を知っているわけではない。

 

 正義の形が人それぞれだとして。固めた意思や決意を貫こうとする思いが強硬に走らせる気持ちだとして……

 彼が行なおうとしている、このままであれば確定してしまうその物事に対し、黙って見ていられるほど人間の良心を見捨て、切捨ててはいなかった。

 

 誰かが止めなければきっと、このマグマのように止めど無く熱を帯び続ける怒りが静まる事は無いだろう。

 未来への分岐点に今、さしかかろうとしている。彼にとっては踏み締めて往く道程の過程であろう。だがその周囲はどうだろうか。絶対的正義を掲げ、突き進む姿に心酔する者たちの行く末は暗い。彼は彼の行動により、そうさせてしまった各々への責任を果たすであろう。だが、とその責任にアンは疑問を呈す。

 噴火し続ける大地に種が運ばれてきても、芽吹かない。いずれは冷えて固まり、命を育む場所になるだろう。しかし人の心にくすぶり続ける憎しみや怒りを、忘れぬように、劣化しないよう留めている人物が掲げる信念は、正義の名を借りた、ただの殺戮だ。しかも巻き込まれる多くに、その自覚などないのである。

 血に濡れた己の手に気付いたとき、糾弾されるのは彼である。彼は糾弾されても尚、突き進むだろう。

 

 とめられないかもしれない。しかし、後追いをする幾人かは留まる可能性を信じ、意を決める。

 

 どこかで断ち切らねば、第二、第三と後に続く人が出現する。

 焔(ほむら)の陽炎が本物に変わらないように、アンは知らせてくれた世界に感謝した。

 

 「急ごう、船がもう、港に着く」

 3人は森を駆ける。

 月歩が使えるなら空を走った方が早いが、あと一歩というところで躓いている弟に無理しないよう伝え、大地を行く。エースが町の近くで転がしておいたという男を回収し、アンが引きづりながら広場を目指した。

 

 エースとルフィは絶対に何があっても姿を見せない、とアンに約束し近場で待機する。本来ならばこの場にいないはずの人員だ。

 

 海兵がアンに向かって敬礼した。

 捕まえて来た二人を含めれば、主犯が全員首を揃えることなる。

 電伝虫での連絡で、もう暫くすると軍艦が再入港すると伝令が伝えた。

 そして広場にはこの町の住人も集められている。

 大将からの沙汰がこの場で下されるらしく、海兵達が命令に従って呼び集めたという。

 幼い子供達までいた。母親に抱きかかえられ、母から伝わってくる不安にぐずっている赤子もいる。

 先ほど見せられた景色と瓜二つだった。

 大丈夫。

 アンの胸中には、確信にも似た自信がある。なぜなら兄弟たちがいるからだ。ひとりでは、ない。

 

 

 赤犬が厳しい表情をして見下げていた。

 副長以下、最低限を船に残し、赤犬は海兵を引き連れ再び町に上陸する。

 町全てを破壊し、住人をも全て海賊行為に加担した罪により焼き滅ぼす。

 そう宣言した大将にアンだけは否定の言葉を口にした。

 

 「わしに逆らう気か」

 答えは諾、だ。

 「殺戮はさせない。それが命令違反になったとしても」

 紡ぐ言葉には力が込められ、見上げる視線に迷いは無い。

 「おじさんが…サカズキおじさんがやろうとしている事は、海賊達が町を襲いその場所に暮らす人達を殺す事となんら変わりがない。目的の為に無意味な犠牲を強いるのは、間違っている」

 

 アンが住人達の前に立ちはだかる。

 既に赤犬の手のひらは溶岩と化し、いつでも処刑を敢行出来る体勢に入っていた。滴ったマグマが地面を焦がしている。

 風が強さを増す。

 気持ち良い位晴れ渡っていた青い空がいつの間にか黒い雲に覆われ、今にも雨が落ちてきそうだった。

 

 「エース、アンがあぶねェ!!」

 「…行くな、今行けばお前もアンに巻き込まれるぞ」

 

 「え?」

 

 飛び出そうとしていたルフィは力を緩める。どういう意味なのかと、兄を振りかえった。

 「見てろよ。アンの本領発揮はあんなんじゃねェんだ。六式が使えたり、瞬間移動が出来たり、受け流しが上手い事、なんかはまあ、すごいけどな」

 エースは思い出しながら語る。

 初めての命を狩った日から、アンは食を取らなくなってしまった数日があった。

 ほろほろと泣いては眠る、を繰り返していたのだ。

 その時、自らの身を差し出すように、鳥達だけでなく小動物が火の中に突っ込んだ。人間は、生き物全ては食をとらないと死んでしまう。動物達はアンに食べられる為だけにその身を炎の中に投じた。

 こんな事は望んではいない、そうアンが叫ぶと、次は木の実や果実が運ばれてきた。それも食べきれないほどの量を、だ。

 ようやく一口、美味しいとほほ笑んで食べるまで、運んできた獣たちはその場に留まり続けていた。

 今から思い返しても不思議な光景だ。

 

 「ルフィ、あいつが森で怪我したの見たことあるか」

 「…ない! いつも手当てしてくれるほうだ」

 だろ?

 エースの言葉は続く。

 かつて森の主と対峙していた時もそうだった。アンだけには頭を下げ、大人しくその鼻先を撫でさせていた。

 「世界はアンに甘く優しい。世界がアンを傷つける事は絶対にない。怪我をする時は決まって人間が、狂気を向けた時だけだ。見てろ、あのオヤジ、今に驚いた顔するぜ」

 面白そうに笑んだエースの視線の先では、今まさに事が起ろうとしていた。

 「そこをどかんと言うならお前ごと天誅を下しちゃるわい!!」

 赤犬の手だけではなく、体やマント、顔までもがどろりと黒煙を伴った岩石となって熱を帯び赤く迫る。

 突如大粒の雨が降り始め雷鳴が轟いた。

 アンの後方では住人達が目を閉じ悲鳴を上げている。

 しかし両手を広げ立ちはだかる本人は視線を反らす事無く、サカズキを見続けていた。

 

 氷塊すらも一瞬で蒸発させると言う堆積を増したマグマが目の前に迫る。

 土砂降りの雨が水蒸気を生み、辺りを霧が満たす。

 海兵達も目を覆った。

 絶対的正義を掲げる海軍の中で、最も苛烈だと言われる赤犬に逆らって生き延びた命は無い。敵味方関係無く、赤犬は悪と見なした全てを容赦なく始末してきた。迷いなど微塵も無く粉砕してきたのだ。一撃で何もかもを無へと化す。

 

 だが痛みの声を上げたのは、赤犬の方だった。

 アンがかざした小さな手のひらに、大きな拳が人の手に戻り止められていたのだ。

 

 意志のぶつかりあいだった。

 悪魔の実の能力がなぜかしら無効化され、小さな体が何十倍もの体積を持つ大将を片手で受け止めている。

 

 海兵達の目が見開かれていた。

 「なぜじゃ…」

 「サカズキおじさんが、無慈悲だから、だよ。外にも、内にも。だから止められる」

 アンは手首を返し、サカズキの手首を握る。そのまま横手に関節をひねった。

 大将の体が空を舞い、肩から地に落ちる。

 

 赤犬はすぐさま飛び起き使い慣れたマグマの力を使おうと試みるが、体が変化しない。言葉無くアンを睨めつける。

 

 「ここに集っている町の人達は、自分達の罪を認めている。もう二度とこんな事はしないと誓っている。おじさんの心の中では、一度でも悪となった存在は、そのままなんだろうけれど、人は善と悪のふたつの間を振り子のように揺れ動く存在だよ。全くの善、全くの悪という人間はごく少数」

 

 既に海賊行為を行っていた男達の殆どは命を散らしているだろう。

 海軍によって一度は手入れされた町だ。監視も入る。

 運よく生き延びここに戻って来れた者達がどういう道を選ぶのか。

 真っ当にこれからを生きる事を、もう一度海賊を続けようと声を大にして叫ぶ事を、住民たちの選択を待てと暗に示す。

 

 静かな声は誰の耳にも届いていた。

 「許せと言っている訳じゃないんだ。行いと罪とし、罰を受ける事を是とした人達が、立ち直る時間をあげてください。執行猶予、というものです。人は浅慮(せんりょ)を省みる事が出来る生き物だから」

 

 許されたわけでは無い。

 町の人々は、少女の言葉に俯いていた。

 

 「もし、それでも同じ過ちを繰り返したならば。その時に断罪すればいい。ことごとく。海軍が今までしてきた、真上から神がこの地上を、平らげるがごとくの殲滅を」

 だれもがぞくり、とした。

 言葉ひとつでこんなにも背筋が凍るものかと、その場に膝をつく海兵までいたほどだ。覇気では無かった。少女が纏う、空気とでもいうのだろうか。

 

 「そんなに言うんなら、この件、お前がきっちり始末せい。頭をよう冷やして船に戻れ。部屋で待っちょるからのう」

 

 踵を返す赤犬へ、その背が見えなくなるまでアンは敬礼を続ける。

 海兵達は縛り上げていた海賊達を連れて船へと戻っていった。

 

 「ふう」

 肩の力を抜きその場で背伸びをする。雲が割れ、光が差し込み人々を照らしはじめた。

 どんなに言い繕ったところで、艦の頭である大将の判断にNOを突き付け、軍規を犯した事には変わらない。

 どんな処分が下っても、アンは受け入れるつもりだった。このまま海軍から除名されたとしても、自分の取った行動に責任を持つ。

 

 「生き残った人達で、新たな暮らしを建て直してください。生きて罪を償って下さいね」

 

 柔らかくほほ笑む海軍将校の少女に、町の人は頭を下げる。

 「きっと、必ず」

 誰かが発したその言葉に、お願いします、とアンも深く礼を返す。

 「すごい、7色だ!」

 空は青を取り戻し、虹がかかる。

 子供達の歓声に目を細め、手のひらを空にかざした。

 



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28-サカズキ

 ノックを戸惑っていた。

 部屋で待っている、といつもの平常に戻し発していたサカズキの顔が脳裏に浮かぶ。

 啖呵を切っている手前、どうしても入りにくかった。

 たらりと汗が頬に浮かぶ。暑くは無い、緊張の証だ。どこか表情も固まっている。両手でふにふにと頬をほぐすが効果が無い。もうこのまま入ってもいい気がした。どうせゲンコツが待っているのだから、無理にほほ笑んで入室しなくても構わないだろうと結論付ける。

 

 (どうかげんこつでありますように)

 

 黄猿艦に乗り込んでいたときは、げんこつであった。しかも命令無視をした場合、共に厳罰を受けてくれる相方がいた。その存在の頼もしかったことを再度認識する。手を伸ばしても空を切る手の先に無言の落胆が落ちた。

 ゆえに神様という存在に会った事は無いが、とりあえず祈った。こうなれば神頼みである。ちなみに報告書はまだ書いてはいない。

 

 兄弟達の寝顔を眺めてから、アンはこっそりと帰ってきた。

 月はまだ頭上にあり、波は静かに、船を潮の道に誘っている。

 ドーン島にふたりを送り届け、久々のダダン宅でわにめしとてんぷら、唐揚げ、照り焼きを思う存分食べてきた。

 食事の最中に眠気がピークを迎えるこの癖は何とかしたいモノの、兄弟間及び義祖父も素敵なタイミングで場所を問わず良く寝落ちてしまう。

 これは一族特有の呪いなのかと思わなくもない。

 焼き飯の中に顔を、兄弟が揃って寝落ちて突っ伏しかけた時はどうしようかと思ったくらいだ。

 以前であればサボと手分けし寝床へと運んでいたのだが、友は今、絶賛行方不明中である。

 今回はなんとか手と足が間に合ったが、次回が上手くいくとは思えない。

 目覚めを数分待ち、片付けようとした途端、起きるや否や、二人とも取り合うように食べ始めたのには笑ったが、ダダンたちに聞けばそれがふたりの平常運転であるらしい。さすがに汁物の時は助けるが、その他であればそのままにしているという。

 変わらない。変わっていないことに安心していた。

 

 「いつまで居るんだい?」

 「明日の朝には戻るの」

 

 今回は帰ると伝えていた訳では無い。最初の頃は海兵の姿で戻ったアンに、ダダン一味が総出で森に逃げ込むなど驚いてくれたものだが、頻繁に帰るようになるとさすがに慣れてくるらしい。突然の帰宅にもダダン達は驚かず、厄介者が増えたと悪態をつきつつも、普通に出迎えられてしまった。しかもおかえり、と言ってくれながら頭をぽんぽんと撫でてくれたのが嬉しくてはにかんでしまったほどだ。

 

 夕食の後は兄弟達と大きな木の桶に湯を張り、風呂へと入った。久々に体や頭を洗いっこし、髪を拭きあった。

 どうしても書いておかねばならぬ書状をしたためているうちに囲炉裏の前で寝落ちていたらしい。掛けられていた毛布に自然と笑みが浮かぶ。

 兄弟たちはツリーハウスで寝起きするのを止め、ダダンの家ではなく、自分達で建てたそれぞれのあばら家で暮らしているのだと聞いていた。家の目の前、すぐ横にあるそれらの出来はそれぞれいまいちだが、雨風はしのげるからいいのだそうだ。しかし今日はアンがいる。今日だけは3人で川の字に、懐かしい小さな小部屋で転がっていた。昔ながらの習慣により目を覚ましたアンは身なりを整え、押し開きの窓から差し込む月光に照らしだされたふたりの頬に口づけを落とし、そのまま艦へと戻ってきたというわけだ。

 

 アンは意を決めノックする。

 もしかしたらもう眠っているかもしれない、そう思いながらも遠慮がちに、小さく叩いてみた。

 「……開いちょる。入れ」

 

 低い声が静かに聞こえてくる。

 (起きてるし)

 

 かすかな望みが崩れ去り、溜息が落ちた。

 船内は見張りに立つ夜番だけが眼を擦りながら、勤めについているだけの時刻だ。

 殆どの海兵が夢の世界に旅立っている時間だった。そう、草木も眠る丑三つ時、一番人間の眠りが深いと言われている。

 

 「失礼します…」

 

 蝶番が鳴る。呼吸を整え、中へと入った。

 ランプの光が淡く照らす室内には、様々な書類が几帳面に整理された棚がおかれている。

 視線は書類に向いたままだ。

 沈黙が流れる。

 

 「出過ぎたまねをしました、申し訳ありませんでした」

 

 沈黙に耐え切れず、声を発したのはアンだった。最敬礼まで深く上半身を折り、彼女は謝罪の言葉を口にする。

 赤犬からは小さなため息が漏れ出た。この感覚は困った孫をどうしてくれようか、というガープから放たれていたものと同様の、生暖かい視線を彷彿させる。

 「報告せい」

 「はっ、ビトフェ島トヘロにつきましては付属する王国に書状を既に用意しました。海賊の根城になっていた監督責任の不備を、海軍の連隊を駐屯させ、監視を兼ねるよう…これから報告書を。始末書も提出します」

 

 「畏まらんで構わん、わしも時間つぶしに始めただけじゃけ楽にせい」

 暗に今の時間帯は私的である、だから軍規約に囚われずとも良い、と言われたからと言って、ふにゃりとその場に座れない。

 船に乗っている限りは上司と部下、なのだ。

 マリンフォードの家にいる時は、黄猿の事も名前で呼んでいたが、艦では流石に控えていた。赤犬の艦に乗ってまだ半年も経っていないが、艦内の様子は大体把握している。

 

 この艦は軍隊として一番形がしっかりとした組織が成りたっていた。

 上司の命令は絶対であり、敵前逃亡など許されはしない。臆病風に吹かれた海兵は自害しろと前もって通告されている。

 誰でも死にたくは無い。逃げ出したいときもある。

 だがこの艦では認められていなかった。

 戦闘に続く戦闘が、次第に心を蝕んでゆく。生死に無関心になってゆくのだ。成らざるを得ない、成り得なければ相手を殺せず、自らが死ぬのだから。

 

 生き残りたければ正気ではいられない。

 

 そんな環境がこの艦にはある。

 (比べてはならないことなのだけれど)

 アンは義祖父と黄猿の艦の様子を知っている。義祖父は気安かった。海賊との戦いもあるだろうが、義祖父の元、一丸となって立ち向かう形だ。黄猿の艦も海兵同士の協調がとれ作戦時には一貫性の行動をしていた。それぞれが信頼し合い、役割分担をしっかりと成し、戦う。

 

 赤犬の艦は、どこかよそよそしかった。

 人間はひとりでは生きていけない。それはこの艦に乗る誰もがわかっている。

 だが親しくなるのが怖い、とでもいうのだろうか。

 大将自ら前線に立って戦うものの、死傷率が最も高いのもこの艦の特徴といえるだろう。

 アンが乗り込み、にこにことしていると、周りに人が集った。

 笑顔は敵を作らない。

 どこか安らぎを、心の拠り所を皆が求めているのがわかった。

 アンも出来るだけ前線に立ち、立ち回ってはいる。しかし既にもう何人も、海へ弔いの花と共に流した海兵達の姿を見ていた。

 軍艦に乗る限り、生と死はいつでも背中合わせである。

 その境目は曖昧だ。だがアンは素直に赤犬の方針を受け入れてはいなかった。心を放棄しなくとも何とかなる、正義という言葉を盲信し思考を閉ざさずとも何とか出来る。そう思うのだ。

 力足らず、命を散らす多くが出る。しかし、その数を減らすことは可能であろう。

 人の上に立てる者は、その背を見せねばならない。だが、人を駒に見立てゲームのようにむやみやたらに突撃するのは違うと思うのだ。

 無理を押し通し、やれ、と命じても足がすくむのは当たり前なのだから。

 

 「よう止めてくれた。礼をいう」

 赤犬が書類に落としていた視線をゆっくりと上げる。

 その目尻には微かだが優しさがあった。今ならば、もしかすると教えて貰えるかもしれないと予感がした。

 緊張により高鳴る鼓動に手を添え、上司と部下ではなく、アン個人としてサカズキへと言葉を繋ぐ。

 

 「サカズキおじさん、聞いてもいいかな」

 今までどうしても気になっていた事を尋ねてみた。

 どうしてそこまで頑なに、海賊を滅ぼせと言うのかを。

 

 「どこから話せばいいのか、そうじゃのう」

 息を深く吐き出しながら、サカズキは目を閉じる。

 かつて居た家族の事を、ぽつぽつと語り出した。マリンフォードでは無かったが、"偉大なる航路(グランドライン)"内にある賑やかな都に居を構えていた遠い思い出を。

 

 「わしはこういう男じゃけ、仕事にかまけてしもうての。一緒に行く約束をしていた旅行の事すら忘れとうた」

 

 仕事を懸命に頑張る父親に、娘も息子も、妻も文句を言わなかった。

 父が頑張って海を巡っているからこそ、不幸になる人が減る。

 帰って来ないのは寂しいが、時々かけて来てくれる電話が嬉しい、と。

 

 しかし。

 楽しんで来いと切った電話が、家族との別れとなってしまったという。

 悪い巡り合わせは重なるもので、家族が乗った船が嵐に巻き込まれ、ようやく脱した後に海賊に拿捕されてしまったのだ。近海を航海していた赤犬が救援に向かったが、時は既に遅かった。

 海賊は容赦なく、物を奪い人を嬲り、いずこともなく姿を消していたという。

 生き残りはいなかった。

 赤犬は残されていた娘に送った人形を見つけ、その場で吠えた。

 決して許さない、この命が尽きるまで海賊と名のつくもの全てを殺し続ける。

 そう心に決めたのだと話を結んだ。

 

 「…ご家族の事はとても残念です。私も両親を人の手により奪われていますから、その気持ちは痛いほどわかります」

 

 やめておけばいい。

 ここから先は、言わなくても良い言葉だ。話してくれたサカズキに礼を述べ、退出したほうが賢明であろう。

 だがアンは止められなかった。感情が言うことを聞いてくれなかったのだ。

 

 あちらでもこちらでも。世界は理不尽で溢れている。

 あちらにはもう、血の繋がった肉親はいない。こちらには一緒に生まれて来たエースだけだ。杯を交わし、兄弟となったサボも今はどこにいるのかわからない。ルフィという可愛い弟が出来た事だけが、唯一の救いだろうか。

 

 もしも、エースやルフィまでも失う事態になれば、アンとて正気を保っていられるかどうかはわからない。

 サボが居なくなり、大切に想う人物が喪失した際の悲嘆と痛みを再度教え込まされている。

 だから、赤犬の気持ちに寄り添うことは出来た。

 

 決定的に違う赤犬とアンとの差は、人の繋がりだ。

 サカズキは忌避していた。だからこそ艦の中もそうなっているのだろう。

 痛みを忘れないために、という気持ちも分かるが……続けるには余りにも悲しすぎる。

 

 「死んだ人にはもう、生きているわたし達に何かを伝える術はありません。仇をうって欲しいのか、それともその手を血で染めるなと願っているのか。想像するのは、生きているわたし達なんです」

 

 返して。

 どんなに願っても、叶えられない望みの虚しさはいつまでたっても心を苛む。

 

 「戦う事が、おじさんの生きる意味になっているのだとしても…もう、許してあげたらどうですか。海賊を、じゃないですよ。おじさん自身を。戦い続けることで贖罪にするのはもうやめて、赦してあげてください」

 

 アンは苦笑しながら思いを伝えた。

 要らぬ世話だ。アンもわかっている。これこそ出過ぎた行為だ。

 サカズキはアンの言葉を必要とはしていないだろう。入られたくは無い、人と人の間(ま)にずかずかと入り込むのをサカズキは良しとしない。

 嫌われる可能性もあった。しかしアンは嫌われる勇気を振り絞り、一歩前に踏み出す。

 

 折角こうして出会えたのだ。

 明日は失うかもしれない命だとしても、関係を希薄にしてよそよそしく付き合うより、ぶつかり合って仲を深め、互いの別れの時に泣くほうがきっと、その先に進め立ち直ることが出来る。そう、思うのだ。

 もちろんこの思いを押し付けるつもりは毛頭ない。するもしないもサカズキ自身の選択だ。

 

 ゆっくり歩み寄っていた椅子の横で、サカズキの大きな手に手のひらを重ねる。

 じっと自分を見つめる、生きていれば父親の年齢に近いサカズキの頬にキスした。

 お休みのキスをするような、照れくさいような、親愛の口ずけをした後、ドアの前まで駆け行く。そして振りかえり、アンは敬礼では無く、ぺこりとお辞儀をし部屋を後にした。

 

 ぱたん、と扉が閉じる音を背で感じる。

 

 空を見上げれば東が白んでいた。

 そろそろ船のみんなが起き出してくる時間帯だ。

 お腹が減ったなぁと食堂へと向かう。料理人(コック)達が仕込みを始めている厨房に身を乗り出し、つまみ食いを願った。

 

 「腹減ったんか。アンちゃん、ちょっとまてな。味見さしてやろう」

 「ありがとう」

 

 聞いたぜぇ。赤犬大将を目の前にして引かんかったらしいなぁ。

 その細っそい体で無茶すんじゃねえよ?

 

 既に話は巡り巡ってこんな所にまできているとは思い寄らず、目を見開いた。武勇伝というより、出来ればひっそりと隠しておきたい闇歴史に分類される事柄である。

 「いやあ、まあ、なんていうか」

 

 言い訳が思いつかず、笑ってやり過ごす。

 

 「まかないで悪いんだが、ほらよ」

 口に突っ込まれたのはパンだった。朝食時に並ぶ、ふっくらとした柔らかめパンだ。その中にハムとスクランブルエッグ、レタスが挟まれていた。

 口の中に幸せが広がった。

 

 「アンちゃんはほんとに美味そうに食うなぁ」

 「ほんほおいひいでふもん」

 もぐもぐとリスのように頬を膨らませて、答え。そこで気がつく。

 昨日のわにめしからあげてんぷらてりやき食戦争の余波に、まだ巻き込まれていたのだということを。

 ゆっくりと食べていては自分の取り分が無くなってしまう。そんな食卓に参戦した翌日は、気をつけねばならなかったのをすっかり忘れてしまっていた。

 

 「あの、その、いつもはこんな食べ方しないんですっ」

 ごくりと飲み込んでから慌てて取り繕っても、料理人(コック)達のにこやかでさわやかな笑顔の前に繕う事が出来ず、顔を赤くして飛び出していった。

 

 「面白い子だなぁ」

 「この艦の癒しだな」

 「笑いも含むんだろうけどなぁ」

 小さな背を見送ってから、料理人(コック)達は仕事に戻る。

 しかしアンは知らなかった。こっそりと撮られていた写真があった事を。

 後日、回収作業に奔走するアンの姿をまたパシャりと映す料理人達が目撃されるのだが、それはほんの少し未来の話だ。

 

 

 朝日が昇り海兵達が持ち場につき始める。

 「海賊船発見!! あの旗は懸賞金総計1億3500万、トルツゥーガ海賊団です!!」

 見張りからの声に、海兵達が一斉に動き出す。

 指揮を執っているのは丁度甲板に出て来ていた副長だった。

 

 大砲に弾が込められ、武器を手にした海兵が甲板に集まって来る。さすがに戦闘に特化された集団だけはあった。

 朝日が昇る空に、何十門もの大砲の黒い煙が上がる。

 アンは切り込みを主とする部隊に配置され、海賊船と接触する時を待ちかまえていた。

 「少佐、あんたの後についていっていいですかい」

 「お前、ずるいぞひとりだけ」

 何名もに声を掛けられ、内心慌てながらも黄猿仕込みの集団戦の展開を用意する。

 「うん、お願いします。ペアを組んでお互いの背を守りながら、無茶しないで進んでください。海賊船の頭、船長はわたしが押さえます」

 

 黄猿の船では、背中を守り合う相方が居た。

 しかしアンは海軍での相方は彼ひとりと決めている。

 異動の時もドレークは見送ってはくれなかった。同じ海軍に所属しているのになぜ別れの挨拶をしなければならないのか、と言って背を向けたのだ。

 階級が上がっても、所属する部隊が違っていても、お前以外とは組まん。

 そう断言されてしまっては他の誰かと組むわけにもいかなかった。アンの相方は不器用な男なのである。

 

 接舷し、海兵が海賊船へとなだれ込む。

 "偉大なる航海(グランドライン)"後半へと向かう、海賊達を見くびってはいけない。

 空を抱きしめてアンは飛ぶ。風舞いの名が叫ばれていた。

 黄から赤へ、異動を知る海賊達は少ない。

 

 「トルツゥーガ、お相手願おう!」

 正義のコートが風を受けて音を立てる。海兵へと振りかぶられていた拳を足で払い、嵐脚で周囲をなぎ倒した。そうして敵船の上にふわりと降り立つ。

 賞金首の男達は揃いも揃って大きな体をしていた。大抵は見上げなければ顔が見えない。その為死角がどうしても出来る。あくびを噛み殺した刹那、横殴りの金棒が視野に映る。寝不足を理由には出来なかった。健康管理は最低限の義務である。

 避けられなかった。咄嗟の事で鉄塊も間に合わない。

 骨が折れるのを覚悟で、腕でガードする。

 「なにしちょる。ひとりで突っ込むなと指示したのはお前だろうが」

 溶岩の拳が海賊達を襲う。

 「赤犬大将!!」

 海賊達が口々にその男の名を呼ぶ。絶望が戦意を鈍らせた。

 「えええい、惑うな!! おのれら!!」

 トルツゥーガが海賊達を鼓舞する。仮にも一億を超える賞金をかけられた人物だ。荒波を超えてきた、幾度もの海戦を切り抜けてきた海の男としての矜持がある。

 

 質量のある焔の塊が人の形を崩してゆく。

 恐怖に引きつる声が周囲からひっきりなしに聞こえてきた。今までは耳に届くことさえなかったものだ。

 赤犬にとって今までは海賊を滅することのみが正義だった。

 唖然、という言葉が最も相応しい。

 憎み続けてきた全てが、溶けることの無いと思っていた心のしこりが娘のような子供の一言で融解してしまったのだ。思いがけない贈り物にも多少だが、自分自身で驚いていた。許し、そして知る。

 これからも決して、海賊に同情も容赦もしないだろう。

 家族の代わりでは決してない。しかし心の空虚を確かに埋めたのは、鉄砲玉となり海賊の真っただ中に、自らの姿と見間違えてしまうほど無謀にも身を投げ込んでいた少女だったのだ。

 

 「わしの部下に手ぇ出すとはいい度胸じゃのう」

 今までとは違う言葉の温度だった。海兵達に無理を強いて来た、海賊に背を向ける事無かれ、とはまだどの海兵も言われていなかった。負傷して後方に引いても、生き恥を晒すなとなじりもしない。

 

 それどころか仲間を庇い後方から前線へと加わろうとする海兵に、助力すら差し出していた。追い打ちをかけてくる海賊の前にマグマが立ち塞がる。

 

 赤犬の艦に所属する海兵達にとっても、初めての戦いだった。

 新たな扉が開かれたと言ってもいい。

 良い変化である。が、海賊にしてみれば、運のつき、であった。

 猪突猛進一辺倒であった集団が、個と個を繋ぎ戦略的に動き始めることを覚えたのである。

 海軍の目線であれば強化された、であるが、海賊たちからすれば、恐怖の肥大だ。

 

 「おじさんの過保護」

 

 アンはすること成すこと全ての先回りをされ、思わずつぶやく。

 

 紙絵を使い海賊が撃つ銃を避けようと動くが、岩石の壁に全て飲まれ届かない。

 ぼそりとつぶやいた言葉に、にい、と赤犬が笑んだ。

 「そんな所にぼさっといつまでも立っとるからじゃろう。行動が単純ぞ」

 今まで見た事の無い表情だった。眉間にしわを寄せ、難しい顔をし続けてはいない。

 海兵のひとりが目を疑った。思わず目をこすり、確かめた位だ。

 

 その顔は反則すぎた。そして変わりすぎであった。

 

 アンは思わず片手で顔を覆った。もう一方の手では海賊からカタールを奪い取り、顎にその柄で打撃を叩きこみなががら、ちらりと赤犬大将を見る。指弾を放って複数の相手をしながら、もう一度確認のためにサカズキを見た。

 どうやら見間違いではないのだと認識できた頃には、サカズキの参戦もあり、あっという間に海賊船の清掃が終了となっていた。

 海軍側の死者は零に抑えられ、帰還する海兵達の顔にも勝利を祝う笑みが浮かんでいる。

 

 大きな手のひらが頭に乗った。

 「ようやった」

 戦線指揮をやり抜いた小さな娘を労う。

 万人心を異にすれば、則(すなわ)ち一人の用無し。

 それが形となった戦いだった、それだけだ。

 「赤犬大将、それはわたしではなく、是非ともみんなに伝えてあげてください」

 そうじゃのう。

 大きな指を握り艦へ戻りながら、アンは聞いた。驚くような一言を。

 

 目を見開き、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたアンをその場に、赤犬が意気揚々と船に戻ってゆく。

 数十秒の後、表情を取り戻したアンがその背を苦笑を浮かべながら追いかけた。

 



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29-休日

 時には口から魂がこんにちはーと出てくるくらい、なにもせずぼーっとしていたい一日もある。

 状況が許すなら、是非ともそうしていたいのはやまやまであったが、陸上に戻って来、休日だからといってゆっくり休めるとは限らない。

 幾つもの戦果を上げ帰って来たマリンフォードで、引っ越し作業が急ピッチで進められていた。誰の、と問われたならば自分の、とアンは答えるしかない。

 黄猿の艦は残念ながら任務のため出払っており、合鍵を使って荷物を数キロ離れたサカズキの家に運んでいたある休日の午後。

 トラックがあれば一気に運べるのだが、細い路地のその向こうにある新たな居候先には入れる幅の道がなかったため、荷車を使い手作業で少量ずつ行なっていた。作業をひと段落させ、縁側で茶をすすりながら頬を緩ませる。

 

 「美味しい…」

 アンはふう、とほっこりとした吐息をつく。こんなにもゆったりとした時間を、ひとときであろうとも得られる幸せに、顔面の筋肉が緩む。

 赤犬艦に乗りこんでからの日々は怒涛と表現する他なかった。

 

 戦いののろしが上がれば、有無を問われる事無く、前線で指揮を執りながらの戦闘が始まる。

 1カ月半の航海の内、ほぼ3分の2は戦闘を行っている状態と言っても良かった。それらは勿論、訓練では無い、実戦だ。

 だがそれだけならまだ良しとしよう。所属に振り分けられたのは、上司が存在する分隊だったからだ。取りまとめをする頭には据えられていたが、基本的に上から下りてくる命令に従っていればよかった。

 

 しかし、赤犬の艦内では配置換えも頻繁に行われていた。入れ替わりが激しい赤犬艦である。

 分隊の長に据えられる人物は年齢や所属年数よりも実績が何よりも優先され、例えその年に入ったばかりの新兵であろうとも実力が伴うならば、幾つかの跳び昇格を大将の申告により行われた。

 

 実力があるものから昇給してゆくのである。

 アンは即座に分隊に所属するひとり、からその長へ格上げされた。

 黄猿艦で集団戦闘を叩き込まれ、その実を如何なく赤犬艦で発揮したその身を、大将が放っておくわけが無いのだ。

 

 知らぬ間にころころと転がされ、気付いたときには副長の座に収まっていたのである。

 海軍本部内の階級はそのままだ。しかし艦内では副長、と呼ばれる立場になってしまっていた。

 元からこの艦には2名の副長しか在席していない。故に3つ用意されている副長という職務に、適任者がいれば就けるは当然のなりゆきであった。

 

 かつてからの副長達は主に、新しい副長に抜擢されたアンが仕事に慣れるまでの間、後方支援に回るよう大将より言いつけられている。戦闘時、大将が真横についてくれるとはいえ、初めは自分の耳を疑ったほどだ。

 だがしかし。

 「それくらい出来んのか。黄猿は甘やかしちょったんだのう」

 赤犬からの売り言葉に、アンはカチンときて買ってしまう。

 ボルサリーノからは基本的な指揮のやり方を1年で仕込んで貰っていたからだ。1年間とはいえ面倒を見てくれた小父に対して、悪口を言われるのは癪だった。

 あとで嵌められたと気付き後悔したとしても、一度口に出した言葉を無かった事には出来ない。

 

 「そこまで言うなら、やらせて頂きましょう」

 その代わり、どんなことになっても尻拭いは大将が行なうこと、と言い切ったアンに赤犬はにやりと笑んだ。

 口車に乗せられていた、と本格的に気がついたのは、同室の副長が戦いごとのデータを整理していたのを見た時だ。

 「あなたの成長には目を見張るものがありますね。叩きがいがある、そう大将も思っておられるのではないでしょうか」

 そう言って提示された資料には、事細かなデータが載せられていた。

 その全て、赤犬が副長ふたりに言いつけてとらせていたアンの成長記録に他ならない。

 

 顎が外れるかと思った。

 かつての年齢を足せば30を超える年月を生きているとはいえ、幼い時分の繰り返しでは、海千山千のツワモノには及ばないと分かってしまったのである。

 大人ぶれるのは同年代まで。

 それ以上の人物には、手も足もまだ届かないヒヨッコであった。

 

 百面相の如く悶える新たな副長に、同室の男は笑みを浮かべる。

 壁に頭を衝突させ、反省は終わりだと叫んだのには驚いたが、悩みの種が吹っ切れたのならば僥倖だと見なかったことにした。

 

 内心で打倒赤犬を掲げるアンを余所に、大将による仕込みは順調に行われていった。

 このまま海軍に所属し続けるなら、次世代の幹部にもなれるだろう、という現上層部の判断もあったからだ。

 ガープもあと数年奮闘し、この孫に跡を継がせるか、とも思案しているという。そう言う話も回り回って聞こえてきていた。

 気付かない振りをしているのは、当の本人だけである。

 

 ならば逃げ道を塞ぐのは出来るだけ早いほうが良い、と多くの人物が囲い始めるのも当然であっただろう。

 

 また悪魔の実の力を無効化したという話は、幹部内で話題になっていた。

 世界を破滅に導く、いくつかの悪魔の実の力も抑えられるのか。

 もし出来るなら脅威の危険度を格段に減らす事も出来るのではないか。

 例えば白ひげが所有する、グラグラの実の能力をも無効化出来るのかと期待がかかっていたからだ。

 

 センゴク元帥立会いの下、実験が行われたが発動条件は曖昧だった。

 ただアン自身の身に危害を加えようと試みた際、悪魔の実の能力を使用した場合に限り非発動が確認された。

 「多分ですけれど、青雉大将や赤犬大将が、氷や溶岩の力をわたしを対象とした場合に非発動になるんじゃないかなぁと」

 

 肉弾戦のみを両大将と行なった際には、ダメージが直接通った。

 結論を述べればアンに死をもたらそうとするなら、直接攻撃のみ、が有効手段となる。

 

 センゴク達が期待した能力の範囲攻撃についてだが、この効果が働くか、と問われても現段階では不明としか言いようが無かった。

 試すならば大がかりな用意が必要となるからだ。現状試験的な実験を行うのは厳しかった。白ひげが表に何らかの形で姿を現した時に一発勝負するのが無謀ではあるが妥当か、とも考えられる。 

 大海賊と呼ばれる白ひげと対峙するとなれば、海軍とて無傷ではいられない。多大な害をお互いに被るだろう。それだけ新世界に君臨する四皇は手出ししにくい勢力といえた。

 だからこそこの稀有な能力を使いこなせられるなら、とセンゴクは思案する。

 今まで厄介事しか持ちこまなかったガープが、ここへきて今までの負債を全て回収したような感じだ。

 

 

 ひなたぼっこしながらお茶を飲み終えたアンは与えられた部屋を振り返る。

 縁側の廊下続き、居間の隣にある十畳ほどの部屋だ。

 木の箪笥に、座布団、机。この家も純和風で落ちついた雰囲気であった。

 思いの他、荷物が増えていたのは想定外だった。抑えたつもりであったが、書籍類の重なりが最も重厚となっている。

 ドーン島では手に入れにくい多くが本屋に並んでいるのがいけないのである。しかも注文すれば、必ず入荷する本屋の看板娘の手腕が凄すぎでもあった。

 「今度、島に戻るとき持って帰ろう」

 アンはつぶやきながら、いっそのこと、義祖父の家を貸し本屋にしようかとも考えた。現実逃避である。

 庭にはサカズキが手入れをしている盆栽が幾つか置かれていた。庭にある池には鯉が泳いでいる。

 逃げたとしても現実は何も変わらない。アンはゆっくりと立ち上がり、書籍の整理に取り掛かった。

 

 赤犬自身は休日返上で本部に詰めていた。

 大将ともなると出撃以外に会議や事務処理など、雑多な用務が積み増しされる。その補助を担う役目が、副長達だ。アンを除くふたりも本日、大将に付従い本部で仕事をしているはずだった。

 

 片付けばかりしていては飽きてしまう。気分転換に差し入れでも作り、持っていこうかと思案する。

 アンは積み重なった段ボールの箱を腕まくりしやっつけ始めた。

 全てが終わった後すっきりと片付いた室内でごろりと転がれば知らない天井が目に映る。その後、くすくすと笑んだ。

 とある漫画を思い出したからだ。目を覚ませば知らない天井が映り、ここはどこかと身をよじる。だがその体は固定されており、次いでその目に当てられたのは強烈な光だった。そう、彼はとある組織に捕まり、肉体改造手術を受けるまさにそのときだったのだ。

 

 アンの身に漫画のような急展開はそうそうやってこない。

 来ていたと認識出来るのは、過ぎ去った後だ。その最中に身をおいている時は必死に目の前を片付けるたけで精一杯なのである。

 最近はドーン島の全てを回り終えたエースが暇を持て余し、手助けをしてくれるようになった為、多少は余裕を持てるようになりつつあった。

 

 (……さて、と)

 

 台所にはみずみずしい香りを放つリンゴが籠に入れられ置かれている。

 休日初日にサカズキを連れ、商店街で購入したのだ。

 当分の食材を買い込み冷蔵庫に収納している。だからいつボルサリーノが訪ねて来ても、お酒とつまみを出す用意は出来ていた。

 把握済みの台所で戸棚の中から小麦粉やチョコレート、アーモンド、冷蔵庫からは卵と牛乳を取り出し慣れた手つきで下準備し始める。

 オーブンを温めておきさっくりと生地を混ぜ合わせた。鍋もフル稼働だ。

 次第に甘い香りが室内に漂う。

 焼き上がりを待ちつつ適当な大きさの手下げかごを探し出し、チェックのナプキンを敷く。その上に皿を置けば準備は完了だ。

 

 お茶を入れ直し縁側で本を開いた。

 座布団を二つに折って胸の下に置き、うつ伏せに寝転がる。

 艦ではなかなか読む時間が無く、積んだままになっていた書籍だ。

 主に植物図鑑だが、中には医学の本も混ざっている。

 読み始めてすぐに柔らかな日差しに眠気が誘われた。ぽかぽかとした陽気に思わず頬が緩む。

 そう、ここマリンフォードは春島である。

 

 (このままうとうととするのも気持ちいいよねぇ)

 

 そんな事を思っているとオーブンが出来上がりを知らせる音を鳴らした。ぱたりと読みかけの本を閉じ身を起こす。大きなあくびを我慢せずに放ち、目をこすりながら台所へと向かった。

 

 出来上がりは上々だった。

 甘さ控えめのアップルパイと、ロッククッキーの2種だ。

 パイは皿の上に移し、クッキーはいくつか袋に詰めてつっかけを履いた。

 

 普段着はこのマリンフォードに来てから定着した作務衣だ。本部に行く場合、本来なら着替えて行かねばならないのだが、暫し考えた後でずぼらする事にした。どうせ届けるだけだ。

 鍵を閉め、道に出る。

 時計は丁度、おやつ時を指していた。

 出来るだけかごを水平に保ちながら、近道を走る。そう、家と家の間の塀の上や屋根など、障害物に阻まれない路、である。途中、顔見知りの猫と出会い、並行走行しながら進んだ。

 

 本部にも真正面からではなく、横から侵入する。

 基本海兵とその家族、そして入島を許された一部の住人しか存在しないこのマリンフォードでは、抜け道が多く存在している。

 一時的に囚人を捕縛し、捕らえる堅牢周辺の警備は厳重だが、その他は案外、網目が大きい。その分人の目での確認がされていた。ふたつの目も数多く集まれば、侵入があってもすぐに目視される。その他、覇気使いが特に重要な部分を警護している為、見回りに就く海兵達に気負った様子は無い。自然体で役目に当たっている。

 

 (かくれんぼみたいで、たまにはこういうのも楽しいよね)

 

 アンは気配を様々なものに紛れさせつつ、まずはとある中将の執務室へと入り込む。

 そう、義祖父の部屋だ。

 鍵はかかっていない。アンが浸入してもガープは難しい顔をして書類に向かっている。

 「おじいちゃん、ここ、訂正すれば計算合うと思うよ」

 「おおそうか。そろばんそろばん…ん、アンか。よう来た。茶ァ入れてくれ」

 

 はあい。

 そう返事し茶葉を急須に入れる。

 「ところでのう、よくここまでそのなりで入って来れたもんじゃ」

 「いろいろあるの」

 香り立つ緑茶を淹れた湯呑みを机に置くと、義祖父からほれ、となにかが手渡された。

 これに通ってきた道を書き込め、ということらしい。よくよく広げて見て見れば、海軍本部の詳細が記された地図だ。

 「お前にかかればすぐに新しい経路なんぞ見つかるじゃろう」

 それに、どの場所へも飛びこめる能力があるのだからと言われてしまう。

 「あのね、おじいちゃん。瞬間移動は便利だけど疲れるんだよ」

 

 アンがその能力を使う時、心の中に思い描く風景や形象が絶対的に必要だった。

 最も楽に飛べる方法は人物だ。

 その人を具体的に思い描いた像さえあれば、確実にその場へ飛べた。

 乱暴ではあるが、写真があれば行こうと思えば至れる。

 

 「おじいちゃん赤ペン」

 ひょいと投げられた太いペンを受け取り、幾つか侵入しやすい入り口を書き込む。

 「出やすいところは?」

 「全部書きこんどけ」

 「適当に」

 記憶していたばれても構わない死角にバツ印をつけた。

 

 アンは一度見た物は絶対に忘れない、絶対記憶の持ち主では無い。

 適度に物忘れもすれば、うっかり忘れてしまう事柄もある。

 この絶対記憶、一部ではあるが実はサヴァン症候群という疾病の可能性が高いとされている。

 原因は特定されていない。脳にまつわる、多くの部位に関してまだまだ不明な未知の領域が存在しているのだ。

 能力の例としては書籍や円周率などの暗唱。有名なのは読んだ本を瞬時に記憶する、という人物だろうか。

 映画でも取り上げられた事のある題材だ。

 映像記憶や絶対音感もこの類に入る。

 

 アンの記憶能力の高さは、多くの事柄を覚えられる訓練を、やっているが故だ。

 一番簡単なのは言葉と映像を結びつけて記憶する方法である。異なる言語を覚える場合に使われる方法だが、案外これが色々なものに使えるのだ。

 アンはこれを場所と物を結びつけ記憶していた。いわゆる目印、である。

 

 「はい、おじいちゃん」

 孫から受け取った地図をガープは面白そうに眺める。

 「こりゃあ大規模改装が必要になるな」

 

 長年この本部を仕事場としてきた祖父だから分かる事情もあるのだろう。

 

 ふとアンは義祖父の机にある手配書を手に取った。

 新しく刷られたものなのだろう。しかし見た事がある顔が載っていた。

 「おじいちゃーん」

 「何も言うな。わしは知らん、知ってても言わん」

 

 うん。とアンも頷く。

 手配書の枚数は3枚だ。そのどれもが見知った顔だった。

 『革命家ドラゴン』、『カマバッカ王国の女王エンポリオ・イワンコフ』『暴君バーソロミュー・くま』

 揃いも揃って革命軍の顔が並んでいる。

 

 最近の革命軍は怒涛の勢いで幾つもの国に活動域を広げていた。

 世界地図で言えばほんの一部でしかない。だがこの一部を全てにしようとしているのが革命軍だ。海軍もようやく、重い世界政府の腰が上がると同時に、動きだしはじめたのだろう。アンは貰っていいかと確認した後、それらを折り曲げてポケットの中にしまう。

 また会う約束をしているのだ。そのときに驚かせようと思ったのだ。

 

 先日になるが、イワンコフとアンは接触していた。

 何処で知ったのか、アンが丁度ウォータセブンを訪れていた際に待ち伏せされていたのだ。

 用件は個人的なもの、だった。

 あの顔だ。目立つかと思いきや、雰囲気を変えて女性の姿で現れ、驚愕と驚嘆が一気にやってきたのを覚えている。

 

 話し方も独特だった。

 

 お友達になった記念にイワちゃん、と呼んでも良いとくねられたのだ。

 どこのツンデレだとアンは冷たいまなざしで見た。

 すれば顔を赤らめ、その場に倒れ込んだのである。呼んでくれなければ、いやらしいことをされたと絶叫すると……一応、脅されたのだと言うべきか。

 場所が人通りのほとんど無い裏路地でなければ、一騒ぎくらいは起きていただろう。

 

 名の呼び方くらい指定された位でどうということは無い。

 アンは請われるままにその名を呼んだ。すれば呼ぶたびに悶え始めたのである。

 いやん、やいい、とか、文字で書けば伏字になる羅列をいくつも連ねたのだ。

 

 耳元で囁けば悶絶し、数秒ほどの硬直を経た後なかなかの口撃ッチャブルね! という褒め言葉を貰うに至るのだが、これはこれで困った性癖ではなかろうか、と心配になるアンがいた。

 なにがどうイワンコフの琴線に触れたのかは謎であるが、気に入られること自体は嬉しいと思えた。しかしながらアンの中で不思議生物に認定された存在が王国の責任者であり女王様と王様を兼任してるっていうのだから、世の中、奇奇怪怪だらけだとアンはそんな事を思い出しながら、甘さ控えめのクッキーを義祖父の机に置いて、窓を開け放った。

 

 「どこへいくつもりじゃ。よもやそこから行くつもりか…」

 「モチロン。サカズキおじさんの部屋、この真上だし」

 「階段を使って行け」

 「えー、だってこの格好だし」

 

 アンに対し好意的な人物たちだけと会うならば廊下を行っても構わないが、この海軍本部にはそうでない者たちも多い。

 良くある愛され系の物語であれば誰と会ってもよいよいと素通りさせてくれるだろうが、現実はそう甘くないのである。

 ぶーぶーと文句を言う孫に育て方をダダンが間違えたのかとぶつくさとつぶやき、思わぬところで野生児っぷりを発揮する少女へガープは嘆息した。

 「ついでにこれをおつるちゃんに届けてこい。わしからの用事だと言えばその格好で歩いても構わんじゃろ」

 

 義祖父の提案に口を尖らせて反抗する。休日に本部へ来るのは間違ってはいるが、折角の隠密作戦かくれんぼ実行中であるのに、それをやめろ言うのか、と不平をこぼすがしかし。

 新茶の袋を駄賃に貰ってしまっては仕方が無い。

 服装の件を何名かに冷やかされながらも、ガープに書かせた『わしの用事中』という紙を背中に張り付け足止めの口実を与えないようにしながら、おつるへ書類とクッキーの差し入れを渡し、階段を昇って赤犬大将の部屋へと入る。

 

 中は修羅場っていた。

 もくもくと仕事を続ける真正面のサカズキへ、ふたりの副官が懸命に書類を送り続けている。飲み物も既に空になっており、カップの底が乾いている様子だった。

 入室してきた瞬間だけ赤犬の視線が上へ向いたが、すぐに元の位置へと落ち戻る。

 アンは作業の邪魔をしないようカップを3つ回収し隣の部屋に入った。洗ってコーヒーの用意をする。粉と水を入れれば、自動的に黒い液体がたまってくれる。その間に小皿へと切ったパイを乗せ、立ち上る湯気の香りに目を閉じた。

 

 開け放たれた窓からは海原が見える。めまいを感じ壁へもたれかかった。

 「…そう。なるほどね。次の目的地はそこか」

 目を細めて青の向こう側をアンは見た。世界が運んできたいくつかの内緒話は生々しい死の匂いを含み、新たな種が確かにばら撒かれ始めている。

 その中にひとつだけ、ようやく結実した知らせが混ざっていた。"偉大なる航路(グランドライン)"内にあるクライガナ島で長年続いていた戦乱が終わった、という報だ。両勢力共々、生き残りなく息絶えたのだという。

 両者がどうして戦乱を始めたのか、当事者でもあるクライガナの住人達も、時代を重ね過ぎて知るべくもなかったのだろう。もしその術があれば、もっと早くに和解し、犠牲にならなくても良かった命もあったかもしれない。

 

 だがそんな感想を述べられるのは、あらましが分かるからだ。

 世界的に見れば、ようやく終わった内乱の報に、そんなものもあったと少しばかりの意識が向くだけに過ぎない。いや、向けられずにさらりと、そうなんだ、と次の話題に視線をただ移す程のものでしかない、が大多数を占めるだろう。

 自身が関わっていない出来事など、そんなものだ。

 どこかの誰かによって引き起こされた、気まぐれなゲームだと知るのは、これから配当が配られる、参加者だった者達の子孫だけだが、彼らにしても事の始まりに興味を向けるなどはしないだろうとアンは思う。

 彼らが向けるもっぱらの関心事は、これから起こる事、に尽きるからだ。

 

 天竜人の遊びは、ことごとく気分が悪くなる。

 さらにそこへ輪を掛けた、胸糞悪くなる報にアンは眉をしかめた。

 

 「……本当にやっかいな人に目を付けられた」

 

 心中に浮かぶのは、ピンク色の男だ。

 名をドンキホーテ・ドフラミンゴという。「天夜叉」の異名を持つ、つい先月、王下七武海に名を連ねたばかりの新参者である。

 しかしこの男を侮ってはいけない。

 なにせ世界政府を相手に大博打し、勝ったのだ。そして手に入れたのは、世界政府公認の略奪免許ととある王国である。

 デイハルドに関わりがなければ、二度と会いたくは無い部類の人間だ。が、彼にとってドンキホーテ・ドフラミンゴは血縁であった。

 5親等も向こう側であれば他人としてもおかしくはない。しかも廃嫡した家系だ。

 

 「……そこが、あの小父の小癪なところだ。もうひとりの大小父のほうがまだ、会話を成立できるから僕は好きなんだが」

 

 彼は天竜人の弱みを良く知り、己が叶えたい願いを成就させるため、世界中にくまなく網を張っているのだ。

 王下七武海の立場を手に入れ、再三、アンに面会の要請を送ってもきている。

 全て丁重にお断りしているが、世界政府の弱みを握る彼の機嫌が悪くなってはいけないと、一部の役人がセンゴクへ圧力をかけてもいるらしい。天竜人の血族とはいえ、海賊に堕ちたドフラミンゴに両手でごまを擦っている役人が阿呆だろう。

 デイハルドも苦々しくしていた。天竜人である友人は青海に対しうかつに手を出せない。世界をチェス板に見立て、遊ぶ際にも世界政府の手が入る。

 

 だがどんな組織や上手くできている仕組みにも僅かな隙間がある。精巧に作られた建築物であったとしても、年数を経れば隙間風がどこかしらか吹くように。

 天夜叉は隙間を見つけるのが上手い。わずかなそれを用い、ドフラミンゴは我が物顔で天竜人が暮らす都へと入ってくるのだ。

 天竜人を眼前に見据え、己の中の怨嗟を絶やさないために。

 

 アンはピンク色の男の中にあるヘドロに捕まるつもりは全くない。

 とはいえあの男の周囲を固める者たちは、アンの目から見ても精鋭ぞろいである。真正面からぶつかり、勝てると断言できる数は片手で足りた。

 

 こぽこぽと良い香りとともに黒の液体がガラスの中に落ち始める。

 ポケットの中から取り出したのは三枚の手配書だ。それぞれの勇士に唇の口角が上がる。特にイワンコフの姿は、どこから隠し取ったものだと突っ込みたくなるほど斜め角度が効いていた。手配書が作られた、という事実に基づいた過程から、いよいよ海軍に革命軍の討伐命令が出されるのも時間の問題であろう。

 

 世界がゆっくりとうねり始めていた。

 未来に続く布石が、形を持ち始めている。その全ての場所に弟の姿がちらつくのが非常に気になるところだが、今からああだこうだと工作しても忘れてしまう確立が高い。

 

 (それぞれの手並みを拝見、って第三者ぶれない、か)

 世界貴族の中では、革命軍が次にどこを落とすのか、が賭けの対象になっているという。

 窓の外、広がる青の世界。

 問いかけに応える声は、……なかった。

 



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30-新たな扉

 その報は世界を即座に駆け巡った。

 

 『今季最大の船団を組み、今か今かと新世界へなだれ込む準備を整えていた暴徒達を突然襲った偉大なる航路(グランドライン)からの脱落という不運、そして海賊の脅威に晒されながら暮らしている人々にとっての光明は、たったひとりの少女によってもたらされたものだった。

 億を超える能力者が船長を務める3隻の船をいとも簡単に壊滅させた力は、かの英雄ガープの若かりし頃を彷彿させるという。

 一団全ての賞金額を合わせると3億を優に越える』

 

 顔は写されてはいなかったが、その後ろ姿は世界の安寧を支える海軍としての象徴であるかのように、新聞の一面へ大きく載せられていた。

 その存在は以前、シャボンディにて天竜人を救ったその人でもあると熱く、その記事を書いたであろう記者によって語られている。

 

 (まずった)

 

 その新聞を見た時、溜息を吐きながら思った感想がそれ、だった。

 アンは知らなかった。知らされていなかった、というより、知らさずともなんら問題が起きないだろうというほうが適切か。

 よもや海軍本部に所属している激写隊のひとりが、広報活動の為にシャボンディに丁度、運よく来ていたなどアンが知るはずもないのである。

 確かにむしゃくしゃしていたのは否定できない。

 八つ当たりだった、とも認めよう。

 だがしかし、見聞色を使い意識を広げ多くの言葉を集めていたというのに、撮られていたのに気付けないとはなんという失態であろうか。不覚と言ってしまってもいい。

 

 休日を終え、居候先から港へ下りてくれば、いくつも並んだ船の姿が目に入ってくる。年に一度、会議に出席する将達が駆る船が、一挙に介するのだ。

 マリンフォードの船着き場に並ぶガレオンのひとつ、そこから丁度下ってきた義祖父に、髪をくしゃくしゃと混ぜられたのも新聞の一件に関してだった。

 さすがわしの孫じゃ、と豪快に自慢してくれるのはいいとしても、だ。

 「覇気で真っ二つとは、随分と腹の虫の居所が悪かったんじゃのう」

 と、面白そうに披露して去る義祖父の背に蹴りを一発入れるくらいは、例え階級的には上であるが許されてもいいはずだ。年頃を迎える乙女をからかうと恐ろしいのだと、そろそろ分かって貰わねばならないだろう

 

 しかしながら、多少、やり過ぎたと思わなくも無い。

 アン的に壊滅させた海賊達に関して、幾つか気になる点もあった。それは偶然だと言い切ってしまうには、余りにも些細な現象だった。

 近くを回遊していた大型の海王類が海上にまで浮上して来、奇しくも船団の船をばりばりと咀嚼しながら青の中に戻っていったという事実だ。確かに居てもおかしくは無い海域ではある。シャボンディは新世界の入り口でもある。海へ沈み込み、海流に乗れば行きつく先は海底一万メートルにある楽園、魚人島だ。しかしアンには何かが引っ掛かって仕方が無かった。

 海底で何かが起こったような、ぞわぞわと心がざわめく焦りのような感情が湧いてくるのだ。とはいえその感覚を確かめに行く術をもってはいない。

 そういう思いがあったのだと忘れないようにしておくことだけが、今のアンに出来る事だった。

 

 

 「副長、デートは楽しかったかい?」

 

 朝食をとりに食堂に入ると、いのいちばんにそう、声をかけられた。

 デートの相手が誰であったかは聞かれない。聞かれたとしてもアンは答えないだろう。

 ただ彼らはアンの行動が年齢相応だったことに対し、若干の興味を抱いているに過ぎないのである。

 いつもは船上の上で大将と共に飛び回っており、鍛錬が趣味だと言わんばかりに体を酷使し続けているのだ。

 その副長が、である。めかしこんで向かった場所がシャボンディとくれば、デートという言葉に行きつくのは当然だろう。

 

 「残念ながら、延期となりました」

 否定するにしろ、実際スカートを穿いた姿を目撃されているのだ。事実は事実として認め、誤りのある部分をただしたほうが早い。

 会うはずであった相手がデイハルド、天竜人であると知れば仕事の延長上とも思ってもらえるかもしれなかったが、説明するのが億劫でもあった。誤解されても痛くもかゆくも無い。なので華麗に知らない振りをすることにした。

 

 マリンフォードの港に停泊しているこの船も、明日の朝には出航だ。大将は既に本部へ副長二人を引き連れ出かけているという。

 今年も所属が、明日から変わるであろう。だから多くの言葉を伝えない。

 

 

 激写されたその日。

 アンは首元にあるビーズアクセサリの主から呼び出しを受けていた。

 久々にシャボンディへ散策へ向かおうと思っているから、お前も来い、という強制的なお誘いがかかったのだ。

 休日の関係と会議の日取りの為、赤犬艦も不承不承ながらマリンフォードへ戻ってきており、海兵達も数日間の休みを順番に回しつつ得ていた。なので呼び出しをされても別段困らなかったのだが。

 

 『ああそうだ。私服姿で来て欲しいんだ。買い物に付き合って欲しい。なるべく女性らしい可愛いものがいいな。僕も天竜人だと思われない姿で行く』

 受話器を置く前に突然言われた、言葉の羅列に目が点となる。既に向こう側は電伝虫を眠らせ、あちらからこちらへ伝えてくる音は無い。

 

 「え。私服…しっ、私服!?」

 

 しかも可愛いもの、という指定も入ってしまっている。

 アンは慌てた。

 箪笥を開けば、中に詰まっているのは愛らしさなど無縁な、実用ばりの衣類ばかりだ。

 軍務についている時は、スーツにコート着用が義務付けされている。だからおしゃれしたり、可愛い何かを買い出しに行く暇が無いと言えばなかった。ただ単にアンがずぼらをしていただけなのだが、確かに、女の子として最近、さぼっていたような気もする。

 

 買い物へ行かねば。

 そう決め、思い立ったが吉日と言わんばかりに、すぐさま財布を掴んで町へ買い出しに走ったのは言うまでも無い。

 最低限の手入れはやっていたが、海に出ればどうしてもカサカサとしていまう肌をつるんとすべく、泡風呂のシャボンや、整える程度に使っているパウダーなども買い足して、勝負用、ではないが何枚かの衣類を購入した。

 

 そうして当日。

 力を入れておしゃれをし、待ち合わせの時間よりも場所に辿り着き待っていた。しかしいくら待てど待ち人は来たらず、近くのカフェテラスに座って休憩がてら眺める事にした。いつもの格好であれば、聖地までどうしたのかと訪ねに行く事も出来るが、私服で行くのは遠慮したい事情がある。どちらかと言えば待つのは嫌いでは無かったから、飲み物を注文して流れゆく人の波を見るのもたまには良いとも思えた。

 しかし、繁華街側にはあまりやって来ないはずの海兵の姿が、今日という日はやけに目についた。どういう事なのかと店員に聞けば、毎年恒例の大掃除の日、なのだと教えてくれたのである。

 

 ああ、そういえば。

 アンは通知が来ていたと思い出す。

 今の今まですっかり忘れていたが、大掃除の日に天竜人を下ろすほど世界政府もバカではなかったようである。

 懇切丁寧に説明したのだろう。御身に危険ならば、世界がひっくり返るとでも言ったのか。

 

 なるほど、デイハルドが青海に下りて来たくとも出来ない訳だ。

 彼は天竜人の中で最も聞き分けのよい部類に入る。もし彼でなければ下りてきていただろう、とアンは考えた。そしてこの島に在中する多くを引っ掻き回し悦に浸っていただろうが、彼は決してそんなことはしない。

 なぜならばアンが誘導しているからである。

 大学で齧(かじ)った心理学が今、役に立っていた。

 フロイト、ユングにならぶ心理学の三大巨頭の一人、アドラーの教えだ。

 

 アンは飲み物を空にすると席を立ち、ゆっくりと町を廻り始める。街中を走りまわる海兵達はアンの姿に気づいてはいなかった。

 こういう時、万人向けの顔で良かったと、つくづく思う。

 美人であったり、特徴的な何かを持っていると、あの人は…もしかすると、と気付かれてしまうからだ。

 休日とはいえ、アンも海兵がひとりである。大掃除ともなれば、大きな戦力となるアンが欲しかろう。

 なので見つからないという、その他大勢に紛れ込める平凡さにアンはつくづく感謝した。

 

 ちゃりん。

 公衆電伝虫に小銭を入れる。聖に連絡を取ったのだ。

 なぜ電伝虫を持っておらぬのだと小言を言われたがしかし、謝罪を繰り返し用件を伝えれば何とか矛を収めてくれたようである。

 買い物の理由を聞けば、幼馴染が花の髪飾りが欲しいとねだってきたため、丁度誕生日プレゼントに良いだろうと考えた結果だと教えてもらえた。ならば下見を兼ねて店を回ってみると伝えれば、頼む、と言葉が届く。

 次に会う約束を交わしてマリンフォードへ戻ろうとしたところ、後方から声がかかった。

 「あれ、ポート…ガス少佐?」

 振り向けば人違いだったのかと声を小さくする、顔見知りの海兵だった。

 「ああよかった。間違えじゃなくて。奇遇ですね、お手隙ならば駐屯所へどうぞ」

 

 わたし今日はオフで。

 そう言葉を放つ間もなく、丁度良かったと連れて行かれたのは、見慣れた建物だった。

 慌ただしさが通常の5倍ほどに増したその場所では、様々な情報がまさしく、飛び交っている。

 人手が足りないのはいつもの事だ。

 しかし、休暇中の、今や若手の中では5本の指に入る実力者が来ていたとなれば要請されるのは至極当然だった。

 

 いつもとは違う出で立ちのアンを見て、どきりと心動かされた海兵も多い。

 軍服を着ている時はかならず隠しているうなじがすっきりと見え、ポニーテールをお団子にして止めた黒髪が女の子らしい出で立ちであったのも理由だろう。。

 服もフリルがついた可憐とも言えるパステル系のスカートという、歳相応の装いにこれもまたよし、とサムズアップし合っている数名の姿もあった。

  

 「アン少佐、40の海岸線をお願いできますか。本部へは連絡、入れさせて頂きましたっ」

 「…はい」

 海軍の腕章と帽子を借り、肩かけの鞄を預け、海兵達を引き連れてアンは指示された場所へと向かう。

 シャボンディに暮らす人々にとってアンは、どちらかと云えば好意的に受け入れられている存在だった。海兵としては異例、気安く話しかけられる存在だったのだ。

 なぜならば唯一、他の世界貴族に対して物云える立場にある人物でもあった。

 デイハルド聖がシャボンディにかの者がいる限り、その言は我と同等のものとせよ。

 以前、聖は通達を聖地と海軍へと出したのだ。今までただ、黙認しているしか出来なかった天竜人の横暴に、待ったをかけられる抑止力が現れたのは、海軍にとって、また住民たちにとっても一筋の光とも言えた。

 

 確かにアンはその多大なる影響力を付加され、『振りかざせる権力のなんと魅惑的な事よ』を無双出来る状態ではある。

 だがあくまでもその力の基礎となっているのはデイハルドに他ならない。

 20ある創造主の血と家の中で、最も権力を持ち続けているのはデイハルドを輩出した一族だ。直系ではないが、分家としてかなりの力を分け与えられているようである。分家の家長は彼だ。鶴の一声、とまではいかないがその庇護を受けているアンが多方面に与える影響力は相当だといえよう。

 ポートガス・D・アン、という人物が望む、望まないに限らず彼女の言動が不特定多数の行動を左右するのだ。

 もともと権力に関し無関心だった聖とアンである。短期間の内に握らされたそれがいかに凄まじいものか、自身たちが最も強く感じていた。

 

 「海軍本部少佐、ポートガス・D・アンです。これから、この地区の海岸線をしらみつぶします。皆さんは安全な内地に避難してください。出来るだけ穏便には行いますが、何かあれば駐屯所までおいでください」

 服装に疑問はあれど、凛とした声に人々は従う。

 その名を知らぬ者などこの島には居ないだろう。海兵に囲まれて居るのだ。偽者であろうはずもない。

 聖地に召し上げられそうになった、女性が何人も助けられているのを島の人々は知っていた。この人の言ならば、信じても大丈夫、そういう安心感もあるのだろう。

 

 無理な海賊狩りも行わない、大概仲裁で終える。

 島の人々にとっても、駐屯所の海兵達にとっても、救い主だった。

 しかしながら。

 この日、この場所に到着していた、しようとしていた海賊達は運が無かったと言わざるを得ない。

 黄猿、赤犬という大将に鍛えられたこの少女の強さは、億越えの海賊達にとっても脅威となりつつあったのだ。否、一部では既に認定されているだろう。3つ目の覇気を持つ、人の上に立つ資格をもった若き英雄に好意を向ける視線は多かった。

 

 その雄姿を。

 写真部が逃す訳もなかったのである。

 

 大暴れの様子は聖地にも届いているだろう。数週間に一度、まとめて届けられている新聞を見、聖も大笑いしているに違いない。

 プレゼントの下見も出来ずに終わっている。はてさて、次はどういう姿で来いといわれるのだろうか。

 あれだけ派手に、あの服装で暴れたのである。もう二度と袖は通せないだろう。可愛い格好とはどういうものであったのだろうかと、眉間に皺が寄る。

 

 エースやルフィに聞くなど論外だ。

 ズボンにTシャツという、動きやすい格好が好きな兄弟たちの意見は当てにならない。

 では黄猿艦にいた女性士官たちはどうだろう。誘っても遠慮されそうな気がした。

 義祖父の顔を思い浮かべ、黄猿、赤犬と変えるがダメであった。相談できる人がいない。

 

 朝食にぱくつきながら、ため息を落とした。

 

 食堂には同じ班の部下達が囲んでいる。聞こえてくる会話に思わず耳を疑った。

 女っけがほとんど無い郡内では恋バナは、とてつもなく食いつきの良い話題である。小耳に挟もうなら、弄(もてあそ)ばれる格好の餌食となった。そう、クリスマスやバレンタインなどに登場する一団と本質は一緒だ。

 

 「今日で食事を取るのも最期だというのに。恋愛なんてしてる暇なんて無い、ってみんなの方が良く分かってると思ってたんだけどな」

 「何をおっしゃる、アン少佐。今年もこの艦に乗って貰わなきゃ俺達が困るってもんです」

 「恋愛云々はまた別の機会に」

 

 「毎年ボール引きだから。結果は天のみが知る、だよ?」

 この一年で赤犬の艦ではすっかり恐怖縛りが無くなっていた。

 あの怒火の塊だった赤犬が、たった一人の少女によって鎮火しているのである。海兵達からしてみれば、居なくなるなんてとんでもない。副長たちからもやんわりと慰留を伝えられたが、アンの一存でどうにかなる問題でもない。

 

 「今年はガープ中将(おじいちゃん)が今度こそ、と気合込めてたし」

 

 そう、この少佐は赤犬艦の鎮火材であると同時に、英雄の孫でもあったと海兵達が思い出す。

 

 「しゃーねぇなぁ。ま、ずっと居てくれんのが嬉しいが。どっかに行くことになってもいつでも戻っておいでな」

 昼食のお代わりを作っていた料理人(コック)の一人が焼き飯を運んできた。

 海兵のひとりが受け取り、待ってましたと皿に取り分けそれぞれが口に運ぶ。

 「俺達、祈ってますから!!」

 海兵達の出戻り祈願を受けつつ、アンはごちそうさまをして席を立つ。

 「まあ、うん。余り期待はせずに、ね」

 そう言って食堂を出た。甲板に出るまで、幾人もの海兵から声を掛けられては手を打ち合わせ、いってらっしゃいと送り出された。

 

 内湾には10隻を超える軍艦が並んでいる。

 どの艦の持ち主も、海軍内で知らないものはいないだろう。

 正門から本部へと入る。向かうは一番高い所だ。

 外から行くのが一番手っとり早い。けれどこんにちはーと、窓から元帥室に入るわけにはいかないだろう。義祖父の部屋なら安心して入れるが、さすがにセンゴクの部屋ばかりは憚(はばか)られた。

 

 懐中時計を開けて時間を確認する。

 会議が終わるまで残り30分、余裕があった。途中の路でボガード副長とばったり会い、久々に会話する。義祖父の船は変わらなかった。北の海から東の海にかけて、革命軍の動きが活発になっており、出撃が増えていると聞きながら、副長から何枚かの手配書を見せて貰い、嘆息する。

 

 主だったメンバーの顔は、知っていた。

 あのごみ山で、幼子達を託した時に見ていたからだ。

 

 「先日死亡が確認された七武海の新たな顔に、暴君が、というのは確定だろうか」

 「暴君が?」

 

 この件、アンにも少々後ろめたい事情があった。

 死体にしてしまったのは、モノの弾み、というか勝手に被害に会いに来た、というか。事故であった。

 乾いた笑いが出てしまう。

 

 「会議で決定されるんじゃないでしょうか。中将が部屋に忘れてくるだろう、会議の目録、お渡ししますね」

 しばらく歩みを同じくしていた二人だったが、途中でボガードと別れる。

 義祖父の部屋で待つように言われているらしいのだ。

 アンも急いで階段を上る。

 敬礼する海兵達へ返礼を返しつつ、会議が続いている部屋の前で待機だ。

 そこには久々に会う黄猿の副長も居た。

 小声でこっそりと話しをすれば、なぜか赤犬の副官が割って入り、副長同士が、火花を散らし始めた。

 

 「いや、だから。確率ですし」

 今年度は幾つ球が入っているのか、想像出来ない。

 年に一度の抽選が、年を追うごとに熱を帯びている。新世界の支部長である巨人族の中将も今回は参加していると聞いていた。

 

 あたりはたったひとつ。

 

 

 

 センゴクは穏やかな表情で会議を見ていた。集まりが悪かった本部会議の進行が滞り無く進む起因は抽選を行うようになったからだろう。

 ずれ込む事も無く、わざわざ目録を渡す船を出航させなくても済んでいる。

 会議も残す所、当人を呼んでボールを引けば終わりだ。

 重みを増した箱が鳴る。

 幾つかの深刻な世界情勢を話し合っていた時よりも、なぜか中将、大将達の緊張感が高まっていた。

 

 たったひとり。されどひとり。

 黄猿から赤犬へ移った際、今まで大人しくしていた新世界の海賊達が魚人島を通り、楽園と呼ばれる航路前半の海へ溢れだしてきた。

 まさに待ちかねたかのように、だ。

 

 四皇の内3人は不動だと言うが、センゴクは果たして何かが起こる前触れのような、そんな気がしてならなかった。

 

 前半の海で個別で動く傘下が幾つか確認されている。

 何かを探しているようだ、というCPからの連絡も入っているらしい。

 

 "詩(うた)"があると言う。

 内容は分かってはいない。神出鬼没な歌姫が謡うそれは、ゴールド・ロジャーがあると告げた"ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)に"まつわる何かであると推測されている。

 

 "歴史の本文(ポーネグリフ)"に関しての資料は殆ど燃やされてしまっていた。かつてオハラという古代王国の研究、解読を進めていた考古学者達であれば何かが判っただろう。しかし今はもう存在しえない島だ。西の海を記した地図からも名称が削除されている。無人、無名の島にはかつての砲撃痕すら、緑に埋もれ消えていると聞いていた。

 全知の樹に集められていた膨大な文献が残っていたならば、分かった事もあっただろう。

 正義の名の元、『バスターコール』を発動させたことに後悔はない。

 あの時、あの措置は、必要不可欠だった。そうセンゴクは今でも思っている。

 

 

 

 扉の外。

 名を呼ばれるのを待っていたアンが閉じていた目を開く。

 赤と黄の戦いはまだ続いていた。そこになぜか青も加わり過激さを増している。

 人は黙していても言葉を発していた。

 耳をすませば聞こえてくる。他愛も無い、今日のご飯はなにだろうか、とか、賭けに負けて一文無しになってしまった、とか。心の中に浮かべた声を人ぞんざいに扱う。

 

 アンはひときわ大きく聞こえて来ていたセンゴクの声を拾っていた。

 唄は確実に広まっている。人々の目が、空白の100年に向かうのは時間の問題だろう。

 アンも噂には聞いていた。

 

 まだサカズキが中将であった時。

 聞いた過去を引きずっていた、帽子の陰から浮かぶ陰暗な目が告げる皆殺しの言。

 クザンが選択した親友の願い。

 それらを全て、アンは知った。

 どんなに人を形を絶やしにしても、別の形として残ってゆく意志がある日、意図せぬ人に継がれてゆく。

 犠牲を正当化しても、殺意を込めた言葉は世界のどこかを揺らめき消えはしない。

 アンのように時々生まれる、世界の記憶を識った誰かが必ず問いかけるからだ。

 

 正しいか、間違っているか、ではない。

 このままの世界でいいのか。それとも違う流れを求めるのか、を選択しなければならない時が、ゆっくりとではあるが着実に近づいてきている。

 

 扉が開き名が呼ばれた。

 最後の一年はどこで過ごすのだろうか。アンは静かに室内へと入る。

 



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31-書類の森から

 ペンがたてる音、そしてインクの匂いがその部屋には満ちていた。

 仕事につく者達は総じて無口だ。

 口を開いている暇があれば指を動かせ、目を見開け、と言わんばかりの仕事っぷりを披露している。

 次々と運び込まれてくる白い紙束が窓際に積まれていた。

 扉が開かれ、この部屋の頭であるつるの声と、もう一つ、聞き覚えのある声音に15名居る事務を主に業務とする海兵達が一斉に視線を向け、その場で歓声を上げる。

 

 「つる中将!!」

 「アンちゃん、待ってたよ!」

 「やっと念願が叶ったね。この子が来たら鬼に金棒だよ」

 歓声が本部のとある部屋から沸き上がる。

 

 そう。

 最後の年、アンはつるの部隊へ配属された。

 

 義祖父は3年連続敗れ、それぞれの大将、中将達も肩を一様に落としている。

 ちらりと見たサカズキは腕を組み真一文字に口を結んでいた。

 

 「サカズキ大将?」

 威圧感に振り向くと赤犬が不機嫌そうに眉を寄せていた。黄猿がその横で柔和な顔を向けている。

 「この一年で毒をすぅっかり抜いてもらちゃったのにねぇ」

 黄猿はまるで、他人事である。ボルサリーノの場合、両艦の休みが重なる度に食事を共にしている。だからこそ分かることもあるのだろう。両者の関係は付かず離れず、絶妙な距離感を保っていた。

 

 アンが側にいることで憤怒の度合いが薄まっているのは十二分に理解している。周囲からの声しかり、戦い方然り以前を知る者が見たならば一目瞭然であった。

 しかし、アンが一年に一度、所属を変えるのは海軍の都合である。

 

 再び燃焼するであろう赤犬大将のそれに対し、しわ寄せが行くだろう人員への負担を考えないわけではない。

 だがあえて、アンは知らぬ存ぜぬを押し通すことにした。

 皆、大人なのである。無ければ無いなりに創意工夫すればいいだけの話だ。

 アン的には是非そうしてもらいたい。子供に頼るな、と出来るならば声を大にして言いたいくらいであった。

 精神年齢が幾ら体年齢の二倍以上とはいえ、頼りすぎなのだ。

 

 

 もう一人の大将はなにをしているのかと見回すと、今年も抱き枕を逃した青雉が、貸し出し要請をおつるに行っているところである。

 クザンもいい加減に諦めればいいのだ。人を抱き枕にしなければ眠れないというのであれば、眠れるような抱き枕を作ればいい、と思うのは間違いであろうか。

 

 「アン、わしまた1年待たんといかんのか」

 「今年で最後だよ。だめだよおじいちゃん。わたしは島に戻る。約束は守るためにあるんだからね? ……ほら、おじいちゃんの球、見つけてみようよ。何個あるのかな」

 こういう時は話題を反らすに限る。

 

 ぱかりと開け、中身をかき回してみた。

 名立たる中将の名前が幾つも見てとれる。入れ物を用意し、初めて誰がアンを欲しがっていたかを手に取ってみる事が出来た。

 大将の球はすぐに分かった。白では無く色付きだったからだ。赤、黄色、青、紫色。

 紫色を関する名を持つ人物の名に心当たりが無く、誰のものだろうと見てみると、意外な人物の名だった。

 「元帥?」

 茶目っけを出し遊びで入れてみた、という。

 「おのれセンゴク、お前のせいで今年もアンを取られてしもうただろう!!」

 「文句は孫に言え、公平に球をいれておるだろうが」

 元帥の言う通り、分母がプラス1されただけでそうそう確率が跳ねあがりはしない。

 

 (それは八つ当たりね、おじいちゃん)

 

 好物である角豚のビール煮を持っていけばかなり斜めっている機嫌をどうにかすることは出来るだろうと算段する。

 既に胃袋を掴んでいるのである。

 意識の向こう側から、こっちにも持ってきてくれ、との声が聞こえてきた。白飯との相性が抜群なこのビール煮は兄弟たちにも好評である。

 

 アンはにらみ合いが始まった義祖父を無視して、名前を見始めた。

 やっとのことで義祖父の名前を探し出し笑む。昨年までは細工をしていたと言っていたのだが、今年はなにもやっていなかったのだろうか。

 工作、というか涙ぐましい努力はしてあった。

 

 名前を太く大きく書いても、手触りで分からない。

 ちなみにひとつめは握りつぶし、目印としたものは即刻廃棄され、別の球が用意されたという。

 

 義祖父の人知れぬ苦労に、涙がほろりとこぼれそうになる。

 「今年は世界会議が開催されるのだ。実動部隊よりこのマリージョアに居てくれた方が助かる」

 目は睨みあったまま、センゴクがアンに向けて言った。

 

 「世界会議、ですか」

 聞いたことが無い行事名であった。

 詳細はきっと目録にあるだろうと義祖父が案の定、置きっぱなしにしている冊子を手に取り、さっと流し読みする。

 

 「階級もひとつ昇格しておる。ガープのように受け取らん、などと言ってくれるなよ」

 

 読むほうに集中しており、一拍反応が遅れ、何のことかと首をかしげてから先手を打たれたと苦笑した。

 既に先手発言されてしまっているのだ。「はい、元帥」と頷くしかない。

 孫娘争奪戦に敗れた義祖父は立ち直れないくらい打ちひしがれているようである。

 かける言葉が見つからない。つる中将の下へ配属されるのは決定事項である。

 

 「あのねおじいちゃん、美味しいご飯持っていくから。だからね、」

 「わし出来るだけ多くマリンフォードに戻って来るからな。おつるちゃんところじゃなくて、わしんとこで暮らせ」

 

 義祖父の顔が青かった。今まで見た事が無いような、色をしている。

 そんなにショックだったのかと、アンはこくんと、義祖父に頷いてから、ちらりと新たな上司へと視線を投げた。

 「おじいちゃん……」

 

 孫娘としては義祖父の言に沿いたい希望があるものの、2年間の慣例として上司の家へ下宿すること、と決められている。

 赤犬の家から義祖父の家までは4区画ほど離れた位置にあった。再びの引っ越しはいいとしても、だ。

 アンの心境を推し量ったのかは定かではないが、否定しなかった。おつるはどこに住もうと構わないよ、所属は渡さないけどね、そう言って笑む。長年の友人である義祖父の願いを聞き遂げつつも、仕事では妥協はしないと言い切った。

 

 

 「アンおいで。早速で悪いんだけどね、仕事してくれるかい」

 「はい、つる中将」

 「おつるでいい、行くよ」

 

 おじいちゃん、これボガード副長に渡しておくね。

 振り向きながら義祖父にそう言い、出て来たが果たして伝わっているだろうか。

 そんな事を思いながら、おつるの後を追う。部屋を出るとき義祖父の背しか見えなかったが、余り良い表情をしていなかったようにも思えた。

 切羽詰った内心も聞こえなかったため、アンは小さくとも頼りになる上司に付き従う。途中義祖父の部屋に寄り道させてもらい、ボガードへ冊子を手渡し書類の森へと到達した。

 

 喜び勇んでいた事務達は暫しの休憩、と棚の奥にしまいこんでいた玉露を入れ始める。

 「じつは羊羹(ようかん)があるんですが中将」

 「切っておいで。今日は慶福だ」

 いつもは静かなこの参謀室も今この時だけは賑やかな声に満ちていた。

 アンは早速書類の山の中に埋もれてゆく。コートは邪魔なので、畳んでおつるの机にひとまず置かせて貰っていた。

 事務机は小一時間ほどで運ばれてくると言う。電伝虫を使い、庶務へ連絡したのだ。

 お茶と羊羹の皿を感謝の言葉と引き換えに受け取り、床に座り込む。

 

 アンが思うに事務たちが書類の束に四苦八苦しているのは理由があるのだ。

 はっきり言って軍とはまこと金食い虫である。

 だから申請書を多くし、がちがちに固め、一体何に金銭を使っているのか。明確にしているのである。

 故に事務たちが確認すべき事柄が多く、おつるに判を押してもらう最期の一枚にたどり着くまでがまさしく困難な道のりを作り出していた。

 

 いっそのこと、新しい方法を取り入れたほうが良いのではないか。

 とアンは思うのだが、長年この方法を続けている弊害なのか、新たな定型(テキスト)を導入すればしたで、現場(船)が混乱するのだという。

 せめて、急ぎか、そうでないかの区分をつけるべきだと進言していたのだが、この部屋の改造を手がけられる人員が居なかったのだ。日々残業であるのだ。そこまで手が届かないし、気も回らない。よって放置、となっていた。

 

 しかしアンが今日ここに赴任してきた。

 机が届くまでは時間がある。ならばやっつけてしまおう、と相成る。

 作戦名をつけるならば『処理速度増加における、書類置き場の改造』とでもしようか。

  執務室に至るまでの廊下で、おつるからは好きにしてよいと許可を既に貰っている。

 以前からちょくちょくとお邪魔させて貰っていた実績が評価されているようで嬉しく思った。誰でもよくやった、と褒められると嬉しくなってしまうものだろう。それもご褒美付きとなれば、張り切ってしまう。

 

 「前来た時も思ったんだけれど、これ、未処理と処理途中の書類が一括でここに置かれるから、ごっちゃになっちゃうんだよね」

 

 艦隊の数だけ設置された木箱の中には、雑然と紙束が積まれている。しかも東西南北を取りまとめる司令部からの書類も分けられてはいない。

 これをまずアンは立てた。横ではなく縦である。そして一艦隊につきひとつであった箱を、3段ある木棚とした。上から順に未処理、処理途中、処理済だ。そして未処理の棚を三分の二で縦に割り、急ぎとそうでないものの入れ場所とすれば、どれから処理をすればいいのか分かるだろう。

 必要になる資材についてはおつるにもう一度庶務へ連絡して貰い、大量の棚を一緒に運搬、設置をお願いする。

 

 アンはバケツリレーの如く届き続ける棚を軽々と積みあげ書類を鑑別に仕分けてゆく。

 急ぎのものとそうでないもの、はとりあえず種類を分けずに同じ棚に入れるが、付箋を貼り見て分かるようにしておく。プラスティックの書類入れがあれば楽なのだが、こっちではまだ見た事が無い。

 素材が明確であるし、製造方法は不明だったが、職人たちへ頼んでみるのも悪くないかもしれない。そんな事を考えながら、アンはてきぱきと書類を収納しなおしてゆく。

 

 若手の新人、しかも期待の星がやって来た事で、いつもはピリピリとしている事務室の空気に花が浮いていた。

 整理の仕方も、部屋の皆と会話をしながら進めている為、こうして欲しいという希望が出れば出来るだけ汲み採り、分別する。

 書類を持って来た海兵がいつもと違う雰囲気にびくびくとしていたが、所属する艦隊指定の個所に用紙を入れるよう言われると、

 

 「ああ、これは分かりやすい。これからここへ入れればいいんだな?」

 

 と好印象を持って貰えたのがアンにとって活力の素となった。

 この部屋の住人達は日々忙しい。ぽっかりと開く一日は、艦隊に所属している海兵達よりも貴重だ。書類を捌くだけで精一杯で、こんなにも簡単に済む分別する時間すらとれないくらい、追い立てられていた。

 

 ささっとではあるが一時間かけず分別を終えたアンはぱくりと羊羹に齧りつく。

 上品な甘さが口の中でじんわりと広がってゆく。ここに緑茶が入れば、さっぱりとした苦味を伴って喉の奥に流れていった。

 至福のひと時である。

 

 

 「そういえばアンちゃん、中佐に昇格したんだろ。階級札と新しいコート貰いに行かないと」

 「あ、はい。でもどうしようかな、と」

 

 運びこまれ始めた机と椅子を運搬する庶務の邪魔にならぬよう壁際で立っていれば、そう声がかかった。

 この部屋にも年配者が多いが、実戦現場とは違い軍律もそこそこ緩くなっている。なぜならば上下を余り厳しく縛ってしまうと、仕事がしにくいと論じているおつるの言に賛同している者が多いからであった。

 

 「来年には島に戻る予定なので、新調せずにこのままいこうかなって」

 塩にやられて毛羽立ち始めているコートを揺らすアンに、多くが苦笑した。

 すっかり辞める気になっている少女へ、様々な人物から心の中で突っ込みが入る。

 上層部が手放すはずが無いのである。こんな優秀な人材を海軍から外へ出たらどうなるか、少し考えれば分かるだろう。幼くしてこれほどの実力を有しているのだ。上が期待している値と、出奔した時の脅威度はイコールで結ばれているだろう。

 

 「うちにアンが来たからと言って、安心するじゃないよ。この子は引っ張りだこなんだ。本部にいるからとあちこちの任務に、元帥が持って行く気満々だからね。今までよりもきつくなるかもしれないよ。それに……」

 おつるは茶に息を吹きかけながら部下たちを見回す。

 聖地マリージョアにて"世界会議"が開催される旨を直接上司から聞いた事務達は揃って溜息をついた。参加国名簿を始め議事録その他、書類関係は参謀室が主に担当するからだ。

 以前の会議より代替わりした王も多く、その確認作業も行わねばならない。

 

 「こういう確認は海軍じゃ無くて中央政府の方でやって貰いたいんだがねぇ」

 おつるは嘆息した。

 政府の本部は聖地にあるが、出先機関はエニエス・ロビーに置かれている。

 さすがお役所仕事だけあり、現場が幾ら困っているのだと急かしても、動きが緩慢でぎりぎりになるまで書類が下りてこない。俗に言うたらいまわしというヤツだ。

 

 海軍が世界会議の予定を組むことになったのも、世界政府のずさんさからだった。

 今で言う海軍議事文書、と呼ばれる世界会議議事録が作られる事となった事件だ。

 世界政府にしてみれば、事件ではなかったのだろう。

 つるは当時を思い出し失笑する。

 政府の担当官と交渉したのがつるだった。今のように経験を積む前の、若かりし頃の記憶だ。

 

 公文書管理を行っている、同政府内機関より問い合わせが入った。

 政府から世界会議の詳細をまとめた文書がそちらに届いたか、という内容だ。

 虚偽してもなんら良い事は無い。正直に当時の上司から言われたとおり、相手に返信した。

 時は既に1年を経過していただろうか。

 

 だが海軍内では議事録がひっそりではあるが、存在していた。

 警備に参加していた海兵将校が非公式ではあったが、開かれて間もなくの頃、何かがあった時のために、とまとめていたものが保存されていたのである。

 

 7日間の記録は膨大だ。

 将校がひとりでまとめた書類には多くの不備が確認されていた。

 しかしどこで情報を入手したのか、機関より仮として、海軍文書を納付して貰えないだろうか。

 再度問い合わせが入った。

 

 上司は文書に誤認があったとしても海兵を罪に問わないのであれば。

 条件を付けて許可を出し、機関は承諾、正式文書が届くまでの間保管される事となった。

 

 だがしかし世界政府の対応は驚くべきものであった。

 海軍の方で既に出来ているならばそれを使えば良いだろう。不確かな部分については音貝(トーンダイアル)を送るのでそちらで補完してくれたまえ。その方がこちらとしても助かる。これからの名簿作りもそちらが受け持てば護衛をわざわざ申請する手間も省けるし、対応も早くに出来るだろう。同じ政府の機関なのだから、譲歩し合うのは当たり前だ。なのであとはよろしく頼むよ。

 

 という意味の分からない難解な文章だけで解決とされた。

 送って来られた方としては、大迷惑且(か)つ仕事の丸投げに開いた口が塞がらなかったのは言うまでも無いだろう。

 「まあなんだね。あちらさんに文句を言う暇があるなら、こっちでやっちまったほうが早いのは確かだ」

 

 おつるが湯呑みを置き、眼鏡をかける。

 「アン、そっちの方は上手くいきそうかい」

 「はーい」

 元気の良い返答が戻る。ホッチキスで書類を止めながら、挙げられた掌がひらひらと揺れた。全て、ではなかったが今までアンが所属していた黄猿と赤犬の部隊に限り、必要最小限の申請書をまとめているようだった。他の隊のものも数日あればざっと目を通すだけで状況を確認出来る状態となるだろう。難しい顔をしながら、この書類はなんだろうと悩んでいる姿もまた、可愛らしいものだ。

 

 戦闘させても良し、内勤として書類を触らせても良し。

 本当にあの男の孫で相違ないかとおつるは疑いたくなってしまう。

 元帥よりの命にて行なわせるよう言いつかっているそれを飲み込んだままには出来ず、意を決めたおつるはゆっくりと言葉を放った。

 

 「来て早々悪いんだけどね。エニウス・ロビーに加盟国名簿を取りに行って来てくれるかい。対象支部に連絡を入れないといけないんだ」

 

 本当に突然であった。

 おつるの思いもよらない一言で、司法の島へ行くことになったアンは、翌日オニグモ中将の船に乗り不夜島へと向かうことになった。

 彼の艦に乗るのははじめてであったが、なかなか統率が取れた良い部隊である。

 

 「ふむ、中佐は初めてと聞いたが。中央では絶景を望めるだろう」

 「はい、とても楽しみです。ただ、こういう場所に来る機会もなかなかあるようでなかったので、ほんの少し緊張しますね」

 

 艦は出航の慌ただしさから脱し、乗った流れのまま目的地へ進む。

 タライ海流は通常の流れとは違い、3つの門を開閉し生まれる渦潮だった。

 政府、その中枢機関である3つの施設を結ぶ海軍専用の海流だ。それぞれの門が開かれぬ限り施設内には入れず、一度渦潮に乗ってしまうと脱出は困難だった。だから海賊船はこの渦を避け、遠回りに航路を取る。

 

 オニグモ中将は赤犬の隊出身で、何度か顔を合わせた事があった。

 手合わせも1度だけだが、相手をして貰った事もある。戦いの際にはその名の通り、蜘蛛のような姿に変わった。長く伸びた髪の下から、黒い自在に動く手足が左右に3本ずつ出現し8刀流となる。少々厳しい表情をする人物だが顔に似合わず、気の良い小父様だった。

 しかし。いつもアンは思うのだが海軍の上役者ほど、いかつい顔つきをしている人物が多いのはなぜだろうと首を傾げる。

 

 それだけ厳しい戦場を渡って来ているのだろうと想像するのだが、世界政府からの圧迫、柵(しがらみ)によってさらにしわを深く、させているのは間違いないだろう。

 

 ただ海軍には美形がほとんどいないと断言出来た。言い訳になるだろうが、渋い御仁なら両手で足りないほど存在している。

 顔立ちが整った、と限定すれば海賊達の方が、まだ多いような気もするのだ。

 これから向かうエニエス・ロビーには絶世の美女が居ると聞いていた。そのほほ笑みに男達は見入ってしまうと言う。

 美人を見ると頬が緩む。目の保養である。密かな楽しみを胸に青の先をアンは見つめた。

 

 書類の受け取りが主たる任務だが、実は昼食時が待ち遠しかった。

 赤犬の艦に乗っていた時、料理長が教えてくれたのだ。エニウス・ロビーにはオールブルーを探して、新世界に何度も赴いている人物がいると。オールブルー、とはなんと広々とした響なのだろう。料理人ではないが、アンも台所に立ち食を作る。見たことも無い、これは食べておいたほうが良いといわれる珍味に興味があった。ワインが飲める年齢になれば、つまみと共にくいっといきたいではないか。

 

 (20歳の誕生日が散々だったものね。今度こそは盛大に、おなかいっぱい美味しいものを食べたいな)

 

 とも決めている。

 奮発して買おうと思っていたケーキを食べ損ねたのだ。18時から30個限定で出るチョコレートケーキである。それを狙って駅から走り出た。

 しかし20の誕生日に始まりのゼロへ逆戻りしたわけだ。

 同じ失敗は繰り返したくは無い。

 

 

 「オニグモ中将はこのままインペルダウンに向かわれるのですよね」

 問いに頷きが戻ってくる。

 実はこの艦には比較的軽犯罪に分類される罪状を持つ、通称レベル1に投獄予定の囚人たちが詰め込まれていた。

 怨嗟がとめどなく放たれ続けている。

 

 船は一度門に入り海列車の到着駅で一旦停泊、アンを下ろした後に半周しながら簡易の裁判、司法の塔の屋上で11人の陪審員達が下す判決を受け、再び開かれた門から出て海底大監獄に向かう渦潮に乗る予定となっているという。

 本来の手続きに則るならば、全て一旦囚人を下ろさねばならない。しかし今回は人数が多く、簡略で行われる、特例がとられているという。

 

 「岸に着けて頂くと船足の戻りが悪そうなので、ここから向かうことにしますね。失礼します。送っていただいてありがとうございました」

 アンは形通りの敬礼を行い、月歩を使って空へ駆け上がる。

 「風舞い、か。気持ちよさそうに行くもんだ」

 その姿を見上げたオニグモがまぶしそうに目を細めた。軍艦は悠々と波を切りながら地獄の一丁目に向け進んでいく。

 

 司法の塔を横切る船から、アンは空を往く。荷物は無く、身ひとつだ。大きく開け放たれた滝つぼへ呑み込まれてゆく海水を眺めつつ塔へと足をつけた。

 

 チャパパパパパ。

 その場に降りてすぐ、声が聞こえ周囲を見回す。隠しきれていない気配をふたつ、見つけた。ただの人、海兵であれば彼らの姿を捕らえきれなかっただろう。しかしアンは見聞色に傾いた能力を持っている。そもそもが内なる声を拾う能力だ。座禅を組み、考えるという行為を捨て、ただ座すことのみに意識を集中する等をしなければ決して漏れ出ることを止められないそれを聞く。

 

 ひとつは見知らぬはじめてのもの。

 だがもうひとつは無条件に苛立つ人物のものであった。忘れて欲しいと懇願されたとしても、取られた行動の全てを忘れてやるほどアンも人間が出来てはいない。かさぶたをはがし、熱した鉄を押し当てても尚、怒りが収まらない相手------。

 

 形容しがたい体格を持つ丸い物体と存在することさえ汚らわしいそれを冷ややかな目線で見下ろせば、宣戦布告とばかりに丸い物体が先手を取ってきた。

 

 近づいてくる男は草色のおかっぱ頭をした、丸い体をしていた。しかも人体にあるまじき、チャックのようなものが唇に付いている。

 世界にはまだまだ、アンの想像をはるかに超えたものがあるのだろう。兄弟たちが見れば、きっとアンには思いつかない遊び方をするに違いない。

 黒で統一されたスーツの仕立ては良さそうではあるが、馬子にも衣装ということわざが浮かんでくるくらい、体型に合っていなかった。

 

 紙絵で躱す。

 なんとも雑な動きだった。

 わざと、であろう。そう思い至ったのは目だ。何かを狙っている。そして余りにも無防備すぎた。

 この地にいるのだ。世界政府関係者であろう。失敗を思い返し自戒する。手心を加えながらもかかとを振り切れば、破砕音と共に土煙が上がった。

 

 「"六式"遊戯!手合わせっ」

 丸いものがむくりと立ちあがると、目を瞑り、丸いものがなにやらつぶやいた。

 「むむっ…測定不能!! お嬢さんもう一回殴ってくれー!!」

 

 「嫌だ」

 

 淡々とした声で否定の意を示す。

 六式、と彼は言った。ならばアンの知らぬ技術だ。触らぬが良いと判断する。

 嫌だ、と言ったにもかかわらず弾丸のように突っ込んでくる彼に対し、アンは首を傾げる。

 あきらめるということを知らないのであろうか。それとも彼は殴られ蹴られて喜ぶM属性持ちであるのだろうか。思わずそんなことを考えてしまう。

 

 にじり寄ってくるそれに、アンは距離をとる。

 逃げるのではない。近づかれた分だけ間を取るのだ。

 

 変態には近づかないが鉄則である。

 鉄砲玉のように突っ込んでくれば、空に向かってよければいい。しかしながらこの丸い物体との接触は出来るだけ微細にしておきたい。

 書類を取りに来ただけだというのに、随分と過分な運動をさせるものだとアンは首筋に手を当て、視野に入れたくは無い男を捉える。

 

 びくり、と過激な反応を寄越すそれから再び視線を戻すのは丸いものだ。

 普通ではない。と当てた今ならわかる。

 何式使えるかはわからないが、アンと同じ体術の使い手であるのだろう。ぐん、と距離をつめてきた丸いものを回し蹴る。

 

 「おかしいなー測定が出来ない。チャパパ」

 

 言葉から判断するに、何かを測っているらしい。

 メデューサの石化から解けたかのように、もう一人の男が唾液を飲み込む際に喉を鳴らし、カツリ、と革靴の底を鳴らす。

 

 「…さすがは英雄候補といったところですな、お嬢さん」

 

 言葉を必死に選んだのだろう。が、どんな言葉を投げかけられたとしても、不快であるのは変わりは無い。

 かつてウォータセブンで会ったことのある男が顔面を引きつらせながら、必死に笑顔を浮かべている。

 直接的ではないものの、大切な友の仇であり、トムを利用し成り上がろうとした不貞の輩である。

 それ加え、なんとも目ざとい、耳ざといやっかいな男でもあった。

 アンがデイハルドの目、であることを知っているのだ。天竜人の威を借るものなのである。海兵とはいえ丁重に扱わざるを得ないのであろう。

 

 随分と顔面が変化していた。フランキーに受けた傷が原因であろう。頭蓋骨を支えるための皮製ギブスを嵌めている。

 

 「お前こそ、良くその地位につけたものだ。……スパンダム長官」

 

 海軍本部少佐。世界貴族の恩寵を受ける者。

 英雄ガープの孫にして、新たな英雄候補とも名高い少女を目の前に、スパンダムは奥歯を噛み締める。

 

 「ええ、おかげさまで。重責に耐えながら必死に業務を行なっておりますよ」

 

 笑え。恐怖を見せるな。必死に表情を作る。

 たかが小娘、たかが海兵だという考えを捨て去り、五老星との謁見時と同じ心境を保ちつつ、言葉を選ぶ。

 あの日、祖父である中将と共に居たときには持ち得なかった威圧に、スパンダムは尻込みながらも己の矜持を保つため気丈に振る舞い続けた。



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32-CPと書類と

 CP9(サイファーポール・ナイン)。それは世界政府諜報機関に属し、0(ゼロ)から10(テン)まで存在する、諜報活動を主に行なう、それらの中で唯一、殺しという手段を用いることが許された『闇の正義』を施行する権限を持つグループの名称だ。

 構成員は最大で10名、現在は8名が所属しているという。スパンダムはこの2年の間に、彼が得意とする手法で長官の地位にまで登りつめていた。

 3年ほど前。とある件で失態を犯したとはいえ、そこは姑息な手段をものともしない人物だ。

 でっち上げた様々な犠牲を用い父親が望んだ後継者の地位を手に入れ、前途有望であるらしい。中にはCP9でなければ出来ない、鮮やかともいえる妙技、手際もあるのだが、アン個人として目の前の男に賞賛する言葉を掛けるつもりはさらさらなかった。

 トムの件については特に気持ちの整理がついておらず、かつ許すつもりなどこれっぽっちも無いからである。子供っぽい、いい加減に水に流せといわれたとしても、これだけは譲れなかった。

 

 (怒り続けるのがしんどいっていうお前でも、あるんだなそういうの)

 (もちろん。わたしにだって嫌いなものくらいあるんだよ)

 遠く離れた場所で聞こえてくる、へぇ、という疑いに、アンは心外を伝える。

 より分けていけば手放せる物が多いだけで、これは絶対に離さないとしている固執もあるのだ。その際たるが意識で繋がる相手だ。サボのように取りこぼしてはたまらない。もし兄弟たちを無くした場合、自身がどうなるか。考えようとするだけで恐ろしい。

 

 とてつもなく極端な例だが今まさに海賊によって首をはねられようとしている誰かが居るとして、もしエースが崖から落ちて命を失いそうな瞬間が重なった場合、アンは迷うことなく後者を取るだろう。海兵として見捨てるのかと糾弾されたとしても別段構わない。給与分くらいしっかりと働けとなじられても同様だ。確かに人間の命の重さは同じである。が、もし選べるのであれば見知らぬ誰かを助けるより家族を選ぶだけの話だ。ないがしろにしてしまう、とはまた違うだろう。ここら辺の主張は、各々によって違うと考える。

 一般的な思考から離れ壊れている、とは思うがこればかりは仕方が無い。優先順位は海兵としてその場に立ち、助けを呼んでいる相手ではなく、遠くで危機に陥っているエースであった。弟の場合は兄が近くに居り何とかなるだろうが、それを成すエースが危機となっても弟に出来る事は非常に少ない。自分自身も子供だと思う事柄が最近多いのに、それに輪をかけているのがルフィである。

 

 選べることこそが、まこと贅沢であろう。なぜならアンはどこへでもいけるからだ。

 この世界で一瞬で存在位置を変えることの出来る能力者は、今のところアン一人である。どこかに飛ばす、や飛んでゆくことの出来る翼を持つ悪魔の実の能力者は存在している。だが瞬時に地点を変えることの出来る存在としては唯一だった。

 だからアンは選ぶという贅沢が出来るのである。

 

 多くは選べない。目の前で起こる現象にしか手を出すことが出来ないからだ。

 だから多くを助ける仕事に就く人々は、手を差し伸べることの出来る場所へと急ぐのである。そして己の出来る事を行なう。

 それが例え、その場に暮らす人々から心無い言葉を投げつけられてもだ。

 

 海兵は世界政府の方針に従う国々に住まう多くを助ける仕事である。

 海賊という海に溢れ出した、弱きを襲い強きにへつらう賊を倒すことが主な任務であった。

 故に海兵は陸よりも青の海の上に在することが多い。ただ末端に行けばいくほど、民と官と支配階級の軋轢の狭間に立たされることが多くなっていた。

 

 しかし海軍は志願制だ。

 己が欲し決めた目的を達成するために、海兵となった者たちはじっと耐え、尽力を尽くすのである。

 

 だがここに在する者たちは官だ。

 世界政府直下の組織である。海軍もまた同様ではあるものの、巨大すぎる体であることから元帥という責任者を置くことによって、ある意味世界政府から離れた別組織という形が取られていた。

 

 サイファーポール。

 そう呼ばれる機関に属する者たちが集う場がここ、司法の島(エニエス・ロビー)である。

 出会った頃の彼はCP5という収集された情報を最終確認する業務を受け持つ課であった。

 しかし今は「闇の正義」という作られた信条により、己と同列に並ばない下位をすべてゴミくずと称し、そのゴミくずを処分することになぜ呵責を持たねばならぬのかという思考を持つ集団の長になっていた。

 

 それはまだいい。組織内できっちりとした成果を挙げ昇進したとあらば喜ばしいことである。

 アン個人的には闇の正義などという薄っぺらい信義にへばりつくただの兇徒集団だと思っている----その長かアンが慕う大切な人を陥れ、己の虚栄を誇るために画策(かくさく)したという過去をどうしても許せなかったのである。

 表沙汰にお前は嫌いだ、とは言わない。心の中ではある意味、赤犬が憤怒したときと同じ温度のマグマが渦を巻いているが、だからといってそれを表に出すのは子供の行いだ。同じ土俵の上にわざわざ降り立ち、同じ程度に合わせて争うなど体力だけでなく気力もがりがりと削れてしまう。

 

 ただ、アンの堪忍袋の緒が切れやすくなっているのは、過去の仕打ちにより仕方の無いことなのである。

 

 

 「その丸いのは、貴殿の部下か」

 正義のコートが海水の落下により生まれる強風に大きく揺れる。

 「そうだ。これはフクロウ、という。六式を習得していると聞いたものでね。その実力を調べさせて貰おうかと思ったんだが……」

 

 この役立たずがっ、とスパンダムが紹介してきたフクロウという丸い物体を足蹴りにしようとすれば、チャパパパパパ~ というどこか力の抜けるような声を出ながらそれが彼の攻撃をことごとく回避し始める。

 サイファーポールに所属するには、ある程度の体術を納めなければならなかったはずだ。

 動きは悪くは無いが、遅い。

 

 フクロウという丸いものも苦労せず、頭のねじが飛んでしまったらしい長官のお遊びに付き合っているようである。

 その様は床を逃げ回る黒の甲殻類を追いかけ潰そうとしているようにも見えるが、アンは視線を青の空に投げる。

 待っているだろうことは分かる。とめて欲しいのだ。しかしそうしてやるほどアンはスパンダムに対して優しくはない。

 

 しかし両者のやりとりは何時まで経っても終わらない。開いた懐中時計で確認すれば、少なくとも10分はこのやり取りが続行されている。

 アンはこのふたりのコントを見に来たのではない。

 つる中将の命により、世界会議に必要な書類を取りに来たのである。

 上司からは正面入り口から入るように言われていたが、月歩により着地したのが屋上である。

 しかもそれを予想していたかのように、かの男が待機していたのが気に入らない。

 

 海軍本部より連絡が入っているのだろうが、行動の先を読まれたようで良い気分はしなかった。

 

 よってアンは男ふたりに足払いをかける。八つ当たりではない。角度を調整し、同時に床へむけ熱烈な抱擁が出来るようにしむけた。結果両者はカエルがつぶれた時のようなくぐもった声を出し、その場に突っ伏す。丸いものも打ち所が悪かったらしく、しばらく動けないようであった。

  

 「痛みが引いたら案内してください」

 

 数秒後、くぐもった声で了承の声が聞こえてくる。

 随分高圧的な物言いを続けているが、その傲慢も今だけだと内心で中指を立てながらあざ笑った。

 立ち上がったスパンダムは片手で顔を覆い、ちらりと少女を見やる。その口元はこれから伝えられる事、に驚き、すぐに私が悪うございましたと涙目になるだろう期待に歪んでいる。

 

 天竜人のお気に入りであり、巷で騒がれている英雄の再来であっても、そうならざるを得ないからだ。

 自らの高姿勢を変えることなく、サイファーポールの長官は立ち上がる。

 

 そもそもここは、世界政府という組織の中でも特殊な部類に入る機関だ。

 陪審員とは名ばかりの元海賊、それも死刑囚達がうろつき、侵入者を圧倒的な力でねじ伏せられる場所でもある。

 

 海兵の姿をしていればほぼ安全ではあるだろうが、女は別だと言い加えた。なぜか、は実際に見た方が早いだろうと、スパンダムは説明をわざと省く。

 「ですがご心配には及びません。お帰りになるまで、我々が護衛をするよういい遣っておりますからねェ」

 海軍本部から丁重にアンの身柄を扱うよう、連絡が入ったとスパンダムは唇を弧にする。

 そして囁かれた言葉は、デイハルドが海軍本部へと入ったらしい、という不確定極まりない情報だった。

 

 来てみたい、とは聞いていた。

 だが警備上の問題により先送りされたはずである。そもそも天竜人が海軍本部というむさくるしい場所に来ることなど想定されてはいない。

 知的好奇心の強い少年である。頭の回りが早いとはいえ、まだ齢一桁なのだ。

 そそのかされて、がもっとも確率が高い。では誰が、誰がどういう目的で、聖を連れてきたのだろうか。

 幾つか思い当たる節に沿い、目的と手段を付け加えて思考し始めた。

 

 デイハルドが海軍本部に来た、という情報は本物であろう。根拠は無かったが、嘘偽りをアンに伝えたとして何の得があるのか、と疑問に思うからである。動揺を誘うのが目的であるならば、達せられていた。おめでとう、と祝福を送っても良い。しかし手段とするには余りにも度が過ぎている。扱うネタが世界貴族である天竜人なのだ。不敬罪として首が飛んでも文句は言えない。もしかして事実を確認しにマリンフォードへ取って返させたいのではないか、と考え否定した。

 スパンダムが発した言を反芻する。

 そういえばこの男はアンに対し、護衛するよう云い遣っている、と言った。がそもそも海兵である己に護衛など必要ない。

 女は別だと含んだ言い方をしたが、これもまたアンに対して効果は薄いだろう。なぜならば見聞色が使えるからだ。害を及ぼしにやってくるその意志をだだもれにしている相手に対し、わざわざ待ってやらねばならない義理など無いからだ。

 

 結論的に言えば、なんら心配ない。アンの留守時にわざわざご足労痛み入る、であった。

 とはいえ、天竜人であるデイハルド聖ならばいろいろとごり押し出来、実際にしたとしても全くおかしくはない。

 アンの驚く顔が見たかった、ともし、万が一、聖が言うならば、是非こめかみをぐりぐりと指圧させてもらわねばならぬだろう。

 

 (センゴク元帥はじめ、おつるさん、クザンやボル小父さんも居るし。なんとでもなるよね、デイハルドひとりくらいなら)

 

 と。

 割り切った。

 

 もし大切な用件がありアンに会いに来たのだとしても、海兵という職についているのだ。予定をしっかり確認してもらわねば、出かけていることもあっておかしくは無い。天竜人であっても思い通りにならぬ事がある、と学ぶには良い機会であろう。

 

 「ごゆっくりなさっていってください。大層お強いともお聞きしておりますので、我らCP9のメンバーに稽古を付けていただきたく。ええ、ご心配なく。元帥には許可を既にとっております。お疑いなら書類を持ち帰ったその足でお尋ねになればよろしいかと」

 

 畳み掛けるようにスパンダムは全てを言い終えると、鼻息を荒く吐き出しなぜか勝ち誇ったような満面の笑みを浮かべていた。

 そもそもなぜ、いち海兵であるアンが諜報機関という特殊な任務に付く官へ稽古をつけねばならないのか。

 もしそれが命令であるならば、どんなに遅くとも出発までに何らかの申し送りがあるはずである。

 ほころびを見つけ、表情を変えず笑う。

 

 彼はひとつ、勘違いをしていた。

 世界貴族である天竜人の印象は? との質問に多くが答えるだろう『それ』は決して間違いではない。

 多くが彼、が思い描いている想像図であるだろう。だがデイハルドを含む一部に関しては全く当てはまらない。

 大勢が口にする『それ』はいわゆる世界政府が長い時間をかけ、積み上げてきた情報操作の結果である。事実、スパンダムを始めとした若手はこの事実を知らない。かなりの年長者であっても、申し送りされている人物はかなり少ないはずだ。なぜなら知らなくてもよいからである。いっそのこと、忘れられ、あったことすら無に帰してしまっているほうが、世界の中心で人の世を回している存在たちにとっては都合がいいからだ。

 

 よからぬ何かを企んでいるらしい。

 アンは目を細め、ほんの少しだけ警戒レベルを上げた。

 そうすれば、心の声がじゃばじゃばと出てくる。こんなにもいらないというくらい、出てきて止まらなかった。

 

 要は足止めである。

 海軍への嫌がらせ、ともいう。

 最近、世界政府の中で海軍の株が急上昇しているのだ。底辺を這いづる溝(どぶ)洗いが、と見下していた相手がなんと、官だけが入れる特別な建物に入ることを許されたとなれば、優越感に浸っていた、元からの利用者達にとってみれば入って来れないようにしたいのだろう。

 

 はっきり言って迷惑以外の何者でもない。

 が、高いプライドを持たなければやっていけないのが官職でもある。

 

 お互いが触れ合わず、程よい距離感で付かず離れずの関係が最もであるが、そうも行かぬ事情があるようだった。

 

 (……面倒臭い)

 (そう言うなよ。けっこう面白そうじゃねェか?)

 (ならエースが担当してみる?)

 (バッカ、お前、こういうのは見てるから楽しんだろ)

 

 高みの見物としゃれ込んでいるエースは気楽な物言いだ。

 なのでアンは稽古、と強く言われた部分に関し答えを返さず歩き出す。

 

 ここに来たそもそもは世界会議の資料を取りに来ただけなのである。用意されたお遊びに付き合う必要は全くない。

 世界政府の出先機関の場所も、スパンダムから流れ出てきた情報の中にあった。場所さえ分かればひとりでも行けるのである。

 わざわざ案内されるがまま、密閉された場所の同じ空気を吸ったり、廊下を歩くなどしたくない。

 

 急に歩き始めたアンにスパンダムは慌て始める。想定していた行動ではなかったからだ。脳内で何度も繰り返し動かしていたままの動きをしてもらわないと困るのである。

 

 「良いのですか、聖がいらしているのですよ? 本部で鉢合わせると、中佐が困ってしまうのではないですかねぇ? 時間つぶしに良い余興と思っていただければ。などとあつかましく言うつもりは無いんですよ、本当に、ええ。CP9最強の男がお相手に! って話聞けよ! いえ、……お急ぎですか、そうですか。どうぞどうぞ、今、すぐにご案内しますから、そんなに慌てなくっ!」

 

 盛大な打撃音が聞こえた。

 CP9の長官が盛大にこけた、のである。

 アンは何もしていない。自らの足につまづいて、べちゃりと潰れたのだ。

 

 残念な何かに向けるような視線がふたつ、落ちる。

 チャック口の男と視線が合った。どうやらいつものこと、であるらしい。

 残念な長官様として定着してしまっているようである。

 

 その中でひとつ、アンがさらに気になったのは聖との関係が曖昧に残念長官に伝わっているらしいという事だ。

 内通者がいるのか。それともまた別の手段で情報を得ているのか。

 

 (女性のおしゃべり、かな)

 

 こればかりは世界か違ったとしても変わらない万国共通の娯楽である。マリージョア、天竜人が住まう町は世界政府の本館に程近い。アンとデイハルドとの付き合いも3年目に入る。故に噂話として世界政府本館にある程度、伝わっていたとしてもおかしくはないだろう。

 しかも最近は聖の私生活にまでアンが食い込み始めている。月夜の晩にはふたりきりになるのだ。面白おかしく広めている誰かがいる、と疑いたくないが子供同士のお遊び、ないしじゃれあいと取られなくなるのも時間の問題であった。

 

 情報を扱う機関だ。仕入れていたとしてもおかしくはない。

 アンは足首を持たれ、ずりずりと引きずられてゆくかわいそうな長官を引くチャック口の男の後に付きながら、小さく息を吐いた。

 残念な彼が言っていた、CP9の最強と言えばひとりしか思い浮かばない。アンの脳内情報が正しいのであれば、彼、は13歳の時点で既にこの暗躍部隊に在席していたという。そしてその初任務がもっとも彼を語るに適当である逸話となっていた。彼が送り込まれたのは今は無きとある王国である。どこにでもありそうな話だが、力を増し海兵の手に負えなくなった海賊により襲われ、統治権を奪われ壊滅の危機に陥ったのである。その際、世界政府より鎮圧のため送り込まれたのが彼だ。

 殺戮兵器という異名を持っていた彼は、その王国に存在していた全てを刈り取った。女子供の区別はなかった、と記されている。

 その王国に残った命は彼だけであった。言い換えるならば、その王国の大地に最期まで立っていたのが彼であった。

 詳しい真相は海軍本部の資料室にも残っていない。世間に対して詳しい情報など語られるわけも無く、政府によってしっかりと隠蔽され、犠牲者数の大きさに反比例した記事の大きさとなっていた、と言えば聡い人物であればピンと来るだろう。

 

 ロブ・ルッチ。それが彼の名、である。

 アンも海軍が保持する情報のみに於いては、名前を知るに止められていた。

 

 流れてくる噂話、にもこの人物に関して、余りいい話を聞いたことが無い。というより、CP9に良い話、などあり得ない。所属している人間も了承して事に当たっている…というが、どう足掻いても最終的には後味の悪くなる物事ばかりを扱うためか、性格破綻者も多いと聞く。

 元から裏方の仕事を主に引き受ける機関だけあり、行っている事全てが極めて表現するのが億劫になるほどの任務だった。長官であるスパンダムも世界政府にとって、波はあるものの役に立つからこそ、その地位につけたのだろう。父親のコネを自らのものとし、自尊心だけは人一倍大きく、権力に物云わせるのが当たり前であり、世界が定める正義に則り仕事をしている。

 彼を長官として慕っている構成員はひとりもいないらしいが、世界政府を牛耳っている五老星にとっては動かしやすい手駒であるのは確かだろう。

 

 正義が正義であるが為の闇を背負うCP9は、幼少の頃からCPの構成員となるため教育を受け、体技を仕込まれているという。

 出来るだけ偏見の目で見ないようにはしたいものの、一昔前に繰り返し報道で流れていた文句がなぜか重なる。

 正義の為に、政府の為に。洗脳に近い気さえした。

 繰り返し繰り返し、繰り返される言葉が次第に刷り込まれてゆく。

 所属している当人たちにとっては至極当たり前の環境なのだろうが、認知できないほど多くの情報が溢れる場所で暮らしていた経験のあるアンにとっては閉鎖され、制限された情報しか与えられない違和感がどうしてもあった。

 

 分かってはいる。

 情報とは価値ある言葉の繋がりであり、あちらのようにただで、ネットを調べれば手に入るもののほうがおかしい、と。

 各国間では機密事項の奪い合いも行われていたが、それだけ世界が平和であったのだ。

 

 屋上から階段を使い階下へとたどり着く。長官の頭が階段を下るたび渇いた音を立てるが全く気にした様子は無い。

 思いの外司法の塔の内部は広かった。重要な情報を握る囚人たちへの拷問部屋もあるという。場所は教えて貰えなかったが、大体の空間把握であそこら辺だろうなぁとアンは目星がついた。あと地下になにやら広い空間が広がっている。何処に繋がり何に使われるのかは分からなかったが、面白い構造をしているのは確かだ。

 

 「セクハラです」

 考え事をして歩いていたアンは、フクロウの背にぶつかる。

 「はう」

 顔面激突だ。鼻を押さえつつ、ちらりと前方を伺い見る。すれば壁に手をつき、ようやく起き上がった残念男が表情を歪めていた。

覗き込む方向を変えれば真正面には黒の装いをし、網目のインナーとタイツを纏った女性が立ちはだかっていた。

 「オレまだ何もしていないんだが……」

 しかし美人がスパンダムの先手を取り、言い放つ。

 「長官は存在自体がセクハラですので」

 セクハラというより、有害物質なんじゃあ。と、ここに居ると普段は垂れ流さない毒がぽろぽろと零れる驚きに自分自身を苦く思う。

 

 毒くらい吐かなければ、この男と一緒にやってられないのだろう。

 セクハラと存在を否定する女性に同意しつつ、アンに向いた視線ににこりとほほ笑みを返す。幾分か女性の表情が柔らかくなった気がした。

 出るところはしっかりと出、見事なくびれが見て取れる。これが噂に聞いていた美人、かと思いきや実はCP9に所属するひとりで、カリファという名であるとチャックの男、フクロウが教えてくれた。

 かの噂美人はまだ別にいるという。

 

 丸いのは会話が好きらしい。アンが探す”美人”は食堂に居ると教えてくれた。

 ならば絶対に行かねばならないだろう。オールブルーの話も、聞きたかった。

 

 そう言えば、と懐かしくも遠い記憶を掘り出せば学生の頃もファミレスで弾丸トークを続けていた人が居たなぁ、と笑みが浮かぶ。

 ドリンクバーだけで何時間話し続けていたのだろう。

 レポート提出まで数時間と迫り、学友達は必至の形相で仕上げていたはずだ。

 かくいうアンも必死になっていたひとりの中に入っていた。

 話し続けていた人は既に書き終えストレス発散中だったのは言わずもがな、だ。

 

 丸いのを改めて良く見れば愛嬌のある顔をしていなくもない。大きさ的にアンなどぱくっと食べられて終わりそうな感じだが、いざとなったら跳べば済む。

 「そちらが件の?」

 「そうだー。可愛いお客さんだーチャパパパ」

 「道力は?」

 「不明のままチャパパー」

 

 あちゃー、と可愛く振舞うがカリファは無慈悲にも眼中にその動きを入れない。計らせてはもらえなかった、という一点のみで説明も全くせず行き当たりばったりであったと検討を付けた彼女から、アンは簡単であるが今後についてを聞いた。

 フクロウが出合った初っ端に測ろうとしていたのは道力というCP9独自の強さ番付という。

 武器を持ったこの島の、衛兵の実力を10とした際、CP9ひとり頭、幾らであるかを換算する数字だ。よく一騎当千、と呼ばれる働きをするつわものを指す言葉があるが、それを単純に数字化したものらしい。

 ちなみにカリファは520、フクロウが640だと教えてもらえた。

 それぞれひとりで52人分と、64人分の戦力、とみる。

 「ルッチは2800だからなー。あんまり差があると一発で終わるんだー」

 

 ひとりで280人分。まだまだ1000人には程遠い。

 ちゃんとした説明を受ければ計っても良いかと興味も沸くが、アンからやって欲しいと言うのもなぜだか気が引ける。

 測定の意味を知れただけでもよしとせねばならぬだろう。

 

 「ルッチは?」

 「随分と前に配置済みです」

 

 その当人、ロブ・ルッチはと言うと、長官命令で相手をしろ、と命じられているらしく庭園の間で待っているという。嫌なのであれば断ってくれても構わないのに。そんな事をアンが思えば、長官という座につくスパンダムと彼ら、との間にはいろいろな感情が横たわっているのだと知る。

 彼もある意味不幸なのだ。父親から今のようになるよう、育てられてしまったのである。もし彼にほんの少し何らかの切っ掛けがあれば、もしかすれば、もっと他の感想を言える存在になっていたのかもしれない。もし同じ職に着くにしても、彼らともっと、親しく、職務柄慣れ合いは難しいだろうが、笑いあえていた可能性だってあるのだ。

 アンは流れ込んでくる意識に目を閉じ、切なさを閉じ込めた。

 

 「以上です」

 

 報告を終えた美人、カリファはそのまま踵を返し、どこかへと向かう。

 スパンダムはその背を歯ぎしりしながら見送っていた。彼は彼女に、全く上司として見られていないのだ。外部からやってきたアンですら分かる。

 政府から任命されているから、一応は長官様として見てやっている、節がありありと見てとれた。

 「ねえちなみにスパンダムの道力は幾つなの?」

 「驚くなー、なんと6だ!チャパパパパ」

 

 一般兵より弱いんだね、とアンは苦笑する。いうなれば普通なのだ。ほんの少し、悪だくみに長けた、ただの人、なのである。

 しかしスパンダムは以前、バトルフランキーの弾を直接身に受け立ちあがっている。鉄塊を使っているようにも見えなかった。3年前に比べ、なくとも外見、内面共々、余り変わっていないように思えた。

 差異が見受けられるのだとすれば、以前よりも増した欲望、だろうか。

 生命的ではない。どちらかと言えば金銭や名誉など、一般的には我欲と呼ばれるものだ。自分一人の利益、満足だけを求める気持ちといえば分かりやすいだろう。

 しかし人間とはひとつの感情だけで構成されてはいない。

 いくつもの気持ちが複雑に絡み合って、その人を構成している。今のままであれば、誰ひとり、スパンダムの事を助けてやろう、だとか、仕方が無いから言う事を聞いてやろう、などという優しさをくれる人は現れない。膨れ上がりすぎているのだ。

 

 アンは身を引いた。

 入るべきではない、と判断したのだ。彼は彼自身で変わらなければならない。

 

 それに体質的にも、内外ともに打たれ強いのかもしれないと、ひっそりと思う。

 隊を率いる将に智も力もあれば言う事無しだが、実際にはどちらかに傾く。

 目の前の人物は悪知恵が働く辺りで、智に含まれそうでもない。我こそは智将である、そう明言している人達からは苦情がきそうだが、一応そちらに寄せてもよいだろう。悪い意味で、という但し書きがつくだろうが。

 

 味方側であったなら、確かにその存在はセクハラではあれど、汚れ仕事を率先して片付けてくれる便利屋ではある。敵側であれば、虫唾が走るほど嫌な相手だが、それもまた適材適所に振り分けられた結果、なのだろう。

 

 「言うな!! オレは指揮官だからいいんだ!前線には立たんだろうが!!」

 

 いや、それ上司として、指揮官としてどうなの。

 アンは聞こえてきた会話に思わず、内心で突いた。

 将はどっしりと構え戦線で戦う兵卒達を見守るのも大切な責務だが、余り後ろに下がりすぎるのもどうかとは思わなくもない。実際、黄猿も赤犬も、そして義祖父も、前線に立つ指揮官だった。内勤とはいえおつるも率先して修羅場に身を置いている。

 折角心持ち上げた評価をハンマーでたたき割りたくなるのを押さえつつ、聞き流していたフクロウの声に意識を向けた。

 諜報機関の、しかも一番質が高くなくてはならない権限を持たされた部署の頭がこれであれば、その下に付くものたちが胃痛を患ってもおかしくは無い。しかも、それでも任務がきっちり持ち回り出来ているこの状況が凄いと言えよう。長官の元で働くCP9のメンバーがどれだけ優秀であるかを如実に表しているようだ。

 おつるが貰えるものを貰ってさっさと戻ってこい、と言っていた意味を今更ながらに痛感させられる。

 先ほどから追加されているフクロウからの道力の説明をかいつまめば、六式という体技を極めた時点で常人の域を超えているという。500あれば十分超人と言われる域なのだそうだ。

 自分の値がどれくらいなのか、再度知りたいという思うがそこはぐっと我慢の子である。

 

 サカズキと前線で戦っていた日々を思い出しても、六式で大概は何とかなっていた。覇気も覇王色を使う事は至って稀だ。ある程度は使いこなせるようになっているものの、頻繁に放って良い力でも無い。3つ目の覇気は自身を傷つける諸刃でもあるのだ。その訓練は想像していた以上に精神を痛め付けた。エースとアンはシャンクスを師と仰ぎ、きっかけを得、無理矢理引き出したため、ぶり返しの余波が大きかったのもある。

 本当ならば3つ目のそれは無理矢理起こす力では無い。自然と力量を増してゆく過程で、開花させてゆくのが一番だ。双子のように段階を踏まず叩き起こす方法は荒治療で、切羽詰まった状況で取られる最終手段だった。

 

 ちなみにルフィも片鱗をみせている、という。

 さすが、Dの名を持つ血筋だけはある。

 100万人に1人、と言われる覇王色の持ち主が、3名も同じ場所に固まっているのだから偏りが顕著だ。穿った見方をすれば、時代をうねらす点はここにある、と言ってしまってもいい。

 

 アンは常時、覇気を纏っている。纏うように教えられていた、と言うのが本当のところだ。そう、シャンクスからの提言だ。

 武装色を多少苦手とするものの、見聞色を紙絵などと並行利用し使いこなせば、攻撃を身に受けずに回避し続けるのも難しくなかった。

 しかしCP9は覇気を使わない。

 もしかして無意識に纏っている武装色がフクロウの数値測定を邪魔しているのではないだろうか、とも考え解こうとしてやめた。

 

 強さは隠していて損は無いのだ。

 わざわざ露呈し見せびらかすものでもない。

 

 「ルッチが断トツなんだけどなージャブラも結構強いんだー」

 情報の泉と言わんばかりに、ぺらぺらと話す丸い存在のお陰で段々とCP9内の力関係が分かって来ていた。

 

 元よりCP9は基本的に全員が六式を修め、並外れた身体能力を持ち合わせている。

 全員の相手をアン一人が行おうものなら、厳しいだろう。どんなに強くとも、手数が多い方が有利になるからだ。ひとりひとりなら各個撃破していけば何とかなりそうだが、体力の消耗が著しいと予想できた。

 ただ仲間内は余り仲が良いわけではない、という。さすが仲間という競争者達だ。

 

 スパンダムに至っては、やはり長官の椅子にただ座っているだけ、であった。

 露ほども人望が無い。

 だがここまで露骨に嫌われた上司も珍しいとアンは思ったのは確かだ。誰からも嫌われるというのも、ある意味才能かもしれない。

 それぞれが皆、これは飾りだ、と割り切っているだけかも知らないが。

 

 そうしているうちに到着した、出先機関の扉をアンはくぐる。

 スパンダムはじゃ、オレはここで。と通路を行き、ロブ・ルッチが待つ場所までの案内役として、まるいのが待っていてくれる事になった。

 

 「失礼します。海軍参謀室から参りました、ポートガス・D・アンです。書類を受け取りに…」

 中に入って愕然とする。

 件の部屋には、職員がたったひとりしか在席していなかった。

 しかも、だ。

 「あ~あ~御苦労さまっす~。書類?適当にはいってるんでぇ~取っていってくれたら俺助かるっす~」

 余りのだらけ具合に、場所を間違えてしまったのかと思ってしまうほどだった。

 なんでもこの出先は本部勤めからしてみれば左遷と同様らしく、呼びもどされる可能性も絶望的なのだとかで、やる気がトンと起きなくなってしまうのだそうだ。

 アンはそこら辺と言われた棚から、年度を確認し、枚数の零れが無いよう見てゆく。備品として置いてあった書類入れも見つけ、埃を払って使用することにした。

 書類にはパンチで穴を開け黒紐を通し、紙袋、キャリングケースへと入れ持ち出し印を押して部屋を出る。確認などない。

 アンが出先機関で作業していた時間はものの10分ほどであるが、その間、男は全くアンを見ようともしなかった。まるで、既に死語になっている、窓際族、のようだと思う。

 「あなたはそうやって自分自身に報われないと、可哀想なそぶりをしながら、朽ちてゆけばいい」

 小さなつぶやきもきっと、彼の耳には届かないだろう。

 

 そして待っていてくれたフクロウと向かうのは庭園の間だ。

 扉をくぐると、まんま、日本庭園が室内に広がっていた。どれだけ和が好きなのだろうかと言いたくなるくらい、和風が広がっている。

 しかも諜報部隊の中で最も秘匿されなければならない、構成員全員が顔を出しているらしい事実に顎が外れそうになった。

 顔を隠すなり、こっそり見るなり方法はいくらでもある。

 だが素顔をそのまま見せ、思い思いの場所でくつろぎながら、ドアをくぐったアンを見ていた。その面々には、スパンダムも混ざっている。

 

 

 「ほう」

 シルクハットをかぶった黒服の男が唇を釣り上げた。

 口髭を長く伸ばした男と、腕を組み待っていたロブ・ルッチを除く全員が白眼を剥いて倒れたからだ。

 「失礼、手練(てだ)れが多数と聞いておりましたので…少々威嚇を」

 少女の声音に冷たいものを男達は認識する。

 空気が微震して鳥肌立った。

 少しでも気を抜くと、意識を持っていかれそうな、体の中から精神を抜きとられるような、今まで感じたことのない畏れを、ジャブラ---口髭の男も感じていた。

 ロブ・ルッチもそれは感じていた。しかし耐える、という部類ではない。

 笑みを深くすれば、肩に乗っていた鳩がポトリと落ちる。

 

 少女は穏やかな表情をたたえていた。

 瞳は不動の自信、とでも言うべき輝きが満ちている。

 

 「貴方がロブ・ルッチ殿、そして貴方がジャブラ殿ですね。初めまして、強き方々。わたしは海軍本部つる中将直下、ポートガス・D・アン中佐です。お見知りおきを」

 

 

 久々に最大範囲で覇王色を展開した。部屋の外、階上階下でもバタバタと人が倒れているが意に介さない。この場所に面と向かって、宣戦布告する人物達が現れた時、露呈するだろう慢心に警告を発しただけだ。なぜならば未来、そういう事が起こり得るからだ。簡単に突破されては世界政府の面目も潰れるだろうし、なにより、この島に居る者達に、進み来るその存在の礎となって貰わなければならない。

 

 そしてもうひとつ。

 道力2000、それを超えていると自分自身の覇気が耐えられる事実を知る。

 良い目印だった。今の実力を語ってくれているかのようにも思える。

 

 シャンクスからそれだけ出来れば大概は一発で意識を落とせるだろう。

 そう言われたお墨付きではある。

 さすがに赤髪本人や副長、主だった面々の意識を奪えはしなかったものの、十分な出来という。

 各方向の猛者と言われていた乗組員の大人数は耐えきれずに倒れたままだったからだ。

 しかし今、あの船では分からなかった程度が知れた事で、それより上を目指せる、目標が設定された。

 

 肉体的な優劣をつけるなら、アンはどうしてもエースやルフィ、耐えた二人に負けるだろう。

 しかしその分、技と質を磨き続けている。

 CP9はその技を特化した集団だ。何処まで通じるか、試したい気持ちがもたげた。

 

 コートを脱ぎ、アンは畳んで書類が入ったケースを重ね、扉の近くにある石の上に置く。

 「どうします?」

 わたしはやってもやらなくても、どちらでも構いませんが。

 年下である少女からの挑発をどう取るか。アンとしてはとてつもなく楽しみであった。

 

 異様に通る無邪気な声にジャブラは後ずさる。

 海軍本部から書類を取りに来る将校の時間つぶしに少しばかり付き合ってやればいい。なあに、たかがガキひとりだ。お前らが負けるはず無いがな。世界貴族が面白い事に、そのガキに万が一勝てたら、何らかの外交特権をオレ様にくれるという。

 まあせいぜい、遊んでやればいい。

 そしてオレに外交特権を持ちかえれ。

 

 不遜な態度をとっていた長官に、悪態をつきつつ、はあそうですか、と返答したジャブラは小さく舌打ちを打つ。

 何処が遊ぶ、の域なんだよ。

 真っ先に気を失い泡を吹いた長官を睨みつける。

 ジャブラは乾いた口内に焦りを覚えた。圧迫感は収まるどころか、重圧を増している。少女の皮をかぶった悪魔のように、見えた。悪魔の実を食べ、能力者と畏怖される自身がただその姿を見ているだけで根負けしている。

 

 「面白い経験だ」

 ロブ・ルッチは肌に伝わって来る緊迫感に組んでいた腕を解き拳を握りしめる。

 「それでは暫くの間、宜しくお願いします」

 戦いは合図の音なく始まった。

 



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33-舞踏

 拳が打ち鳴らされる。

 それぞれが同等の力を、まるで組み手のように力量を読み合いながら受け放つ。

 掌だけでは無い。足や肘、膝、あらゆる部位が凶器となっていた。それが六式を極める、同意義だからだ。

 

 さすがに彼、は戦いに慣れていた。

 物心つく頃より、CP構成員となる運命を背負い育てられただけのことはある。CP9について流れる噂のひとつに彼、ロブ・ルッチに関するものが幾つかあるが、その全てに付随する人間兵器と称される所以は冷徹な思考にあるようだ、とアンはなんとなくそう感じた。

 狩人たる彼の獲物となった存在は、その息の根が止まるまで安楽から遠ざけられるのだろう。

 容赦のない下段からの回し蹴り受けた肘が痛みを伝えてくる。鉄塊しか纏っていなければ、肋骨がきっと2、3本持っていかれていたに違いないう。武装色さまさまである。

 鉄塊の強度は名の通り、鉄の硬さとされているが肉体の鍛錬度により、より硬くなる事も可能だった。最低限の基準値が鉄という物質に例えられているだけなのだ。彼のそれはアンの鉄塊をうわまっている。

 

 強い。

 ただいなすだけでも、受ける部位がずれていたら一気にこの攻防は崩れる。

 アンは武装色を解けないでいた。

 しかも相手は本気ではない。それはお互い様、だろうが彼は何かを問うてきていた。

 明確な意思ではない。くぐもったなにかだ。

 見聞色が得意とはいえ、意図され隠された心を気軽に覗き見るまでには、まだ至ってはいない。

 

 が、しかしこの感覚には覚えがあった。

 そう、よく見知っている誰かさんも言葉に出来ない思いを抱いたとき、アンへと投げかけてくる。

 

 ふたりの間に間合いがとられた。相対する相手に呼吸の乱れはない。

 「…聞いていた以上だな」

 「それはどうも」

 どんな噂が飛び交っているのか聞いてみたいような気もするが、しない方がきっと良いのだろう。

 

 覇王色で気を失った者達が自力で起きあがって来るまでまだ時間はある。

 時計の針は思ったより進んではいなかった。

 アンは戦いに心躍るタイプでは無かったが、海軍に入隊しドレークと組んで、または心強い赤犬の背を借りて海賊との戦に身を置いていた時は、こんなに空虚ではなかった。

 

 彼と命のやり取りを行っている訳ではない。

 だがロブ・ルッチの拳は乾いていた。飢えていた。欲していた。

 

 何かを。

 

 彼はスパンダムのように地位や権力には興味がないようである。

 権力など身を縛る鎖でしかない。得る強大な力に比例する、責任を持たねばならないからだ。

 人間の心というモノは、体外へ声を排出する。内心で思った事は、例え罵詈雑言であったとしても普通は他の人には聞こえないものだ。にこにこと接客しながら、早く帰って欲しいなぁ、だとか、今日はこんなに眠いのにどうして、今日という日に限って仕事が山になるのだとか、宿題なんか面倒で、今やってるゲームの続き早くしたいのに、だとか。意識しなくとも出るもの、であった。

 思っている事は様々だが、内に向ける事は少ないだろう。

 だが目の前に立つ男、ロブ・ルッチは数少ない内側に声を放つ者であった。

 

 男と女の違い、とするのは簡単だ。

 男は熟慮するため思考を内包し、女は感情を発散するために外へと出す。

 

 分からなくはない。

 しかし言いたいことがあるならば言えばいいのである。勘考(かんこう)しているといえば聞こえはいいが、何時まで経っても答えを出さないことと同意である。男であるならば、男らしくはっきりすればいいのだ。しかし男とはなかなかに難しく難解な心の構造を持っていた。ロブ・ルッチの場合もそうだ。もじもじと恥らうような仕草をしながら、そちらから話しかけ、聞いて欲しいとチラチラ見ている、といえば分かりやすいか。

 

 エースはもう少し直線的である。アンと心が繋がっているからだ。悩むくらいならばずば、っと本題に入ったほうがお互いのためでもある。

 

 (言葉で語らぬなら、拳で聞くまで)

 

 意識の向こう側で半身が笑った。

 

 

 アンの持ち味は速度だ。身の軽さを生かし、数多くの打撃を入れる。

 その分威力が落ちるが、それは手数で補う。

 しかしロブ・ルッチは、互いの間合いを掴みつつあった。僅かに届かない隙間を開け、拳を受けない。身を捻り、顎を狙っての蹴り上げも紙一重でかわされてしまう。

 

 失望。違う。

 落胆。違う。

 悲しみ…では無く切なさ。

 期待と落胆。

 優越感と----

 

 煩(うるさ)い。

 覗きこんだ途端、囁きが耳元で強制に聞かされるような感覚に、心が乱れた。

 

 「っぐ…」

 脇腹を狙った指銃がかする。

 そのままみぞおちへ拳が入り、上空へ体が舞う。朝食を食べて来なくて良かった、とアンは他人事のように思いながら月歩を使いその場で体勢を整える。そして十分な間合いを取ってロブ・ルッチの後方へ降り立った。ダメージはそんなに多くない。だが痛みは感じていた。経験的に余り鉄塊を過信してはいけない。どんなに耐える技を使えるといっても、受けた打撃の負荷は体に蓄積していくのだ。

 

 ざわめきが肥大していた。雑音が意識の集中を阻害する。発生源は目の前に立つ男だ。

 

 アンは次々と形を成す感情を掴み引き裂く。

 剃で間合いを詰め、覇気を一点集中、両手に集め連打する。

 ロブ・ルッチが握りしめたアンの拳に対し、鉄塊を使用した。だがこの技は衝撃まで防ぎはしない。両の手で防げない打撃も数打出た。

 

 向こうの世界で修めていた武術は、合気だ。

 最初は手習い程度に始めた祖父との毎日が、いつの間にか自分を形作るひとつとなっていた。

 掌から気合を放つ。テレビアニメのように飛び出したりはしないが、受けた体は内部に損傷を受ける。体の外側、筋肉を鍛えられても内蔵系を強くは出来ない。

  

 (これは、抑圧された声、っぽいなぁ)

 

 アンはざわめきの正体を掴みつつあった。

 考えられる余裕はまだ残っているのが、自分自身でも不思議だった。

 

 このロブ・ルッチという人物は思いの外、仮面を纏って生きているようなのだ。

 誰だって一枚や二枚、多ければ十枚位は持っているだろう。最近はアンも必要にかられて使うようになっていた。

 とはいえもうひとりの自分、というより少しいつもの自分とは違うように振る舞ってみる、というレベルのものだ。

 

 エースやルフィといる時はそんなものを使わなくても自然体で接していられるが、海軍本部でそうはいかない。立場に因る言葉遣いを求められた。

 本当は威厳なんていらないし、いつもと同じように接するのが一番だ。しかし職場で上司達におじさん、とは声を掛けられないし、例え自分より年上であったとしても階級が上であればそれなりに振る舞わねばならないのだ。

 

 はっきり言って堅苦しいくて敵わない。

 分かってはいたが、分かっていなかった。

 

 (自己が欲しい。違う、認めて欲しいんだ。道具ではないと)

 

 ロブ・ルッチの場合は幾つも、自分を守るために何十も同じ仮面を被らざるを得なかったのだろう。

 CP9として世界政府の意に従う。従ってどんなことでも行う。行うのは奪う事だ。

 全て世界政府に既存(きそん)する。

 既存とは以前から存在すること、だ。ロブ・ルッチという個人の考えなど必要ない。

 

 まさしく兵器だ。

 スイッチ一つで発射されるロケット、引き金一つ引くだけで放たれる銃の弾。

 

 だが人間には感情がある。

 心の奥底に押し込め蓋をしたところで、漏れてくるのだ。

 ここから解放して欲しい、と。

 性格の歪み、冷徹な思考もここら辺が原因かな。そう推測する。

 正解であるかは分からない。それぞれの心の内にある『思い』は本人しかわからないもの、であるからだ。

 

 アンの動きが多少ではあるが、いつものキレを取り戻しつつあった。

 聞いて、聞いて、という声にお待ちなさい、と語り、意識を集中する。

 聞くにも手合いをしている最中では、難しかった。

 

 とはいえ耳障りな雑音が消えたならこちらのものだ。

 鉄塊を纏った指の先で空気を撃つ。親指でそれぞれの指を弾くのだ。

 ロブ・ルッチは紙絵で避けるがしかし、連弾の後半をもろに受け両腕で防御した。

 動きが止まったその瞬間をアンが見逃すはずがない。

 剃で瞬発的に加速した体がロブ・ルッチの体を捉える。

 上段から下段へ、地に足を着く事無く、アンは舞う。受けられるのは織り込み済みだ。受けて貰えるからこそ手数を当てられる。嵐脚がロブ・ルッチの頬に傷をつけた。

 そのまま肩口に踵下ろしが深く入り鎖骨が良い音をたてて軋んだ。だが体勢は崩れない。そのままアンの片足を持ち放り投げた。

 しかしただ投げられるだけのアンでは無い。勢いを殺す事無く、空中で身を捻り無理矢理、地へ足をつける。砂埃が立つ。

 

 「…久々に骨のあるやつと出会えた」

 

 メキメキと体の形が変わってゆく。そう、悪魔の実の力だ。

 豹(レオパルト)。

 背面の毛衣は淡黄褐色となり、腹面は白い体毛で覆われてゆく。頭部や頸部には黒い斑点が浮かび上がり、それが花のように並んだ。

 

 六式と動物(ゾオン)系の相性は格別に良い、とされている。

 なぜなら食べた存在の、身体能力を純粋に強化する唯一の種だからだ。

 人型、獣型、人獣型という3つの姿を取れるのも特色の一つといえるだろう。

 ロブ・ルッチが好むのは、人獣型だ。

 能力者の身体能力を基本とし、その動物並みの身体能力が向上する。それに加え動物特有の角や牙、体毛、尻尾といった人間に無い部分も発露した。

 

 豹は類似のチーターよりも手足が短く太い。その為チーターよりも力が強い分、速さが劣る。

 だが実の力を使用した今は、先より十分に速度も力もアンを勝っていた。

 

 多少の時間つぶしが闘いへと変わる。

 少々揉んでやる、では、もうない。

 男は鎖を己が手で外したのだ。好敵手、として認識したと言ってもいい。

 獣が獲物を狩る眼光を宿し地を踏む。しかし口元に笑みが浮かんでいた。

 

 アンは自然体で向かい打つ。

 見聞色と剃を使い真正面でロブ・ルッチの側頭部を蹴った。相手は剃と月歩の複合技を使い鋭い軌道で迫って来たが、鋭角ゆえに急激な方向転換は難しい。速度に乗った体の軌道を変えればその分、重力という圧がかかる。だから落ちついてタイミングさえ合わせれば撃退は難しくは無い。

 凄まじい破砕音が響く。勢いそのまま豹は生垣に背からぶつかり崩れ落ちるブロックの中、静かに立ちあがった。

 剃、指銃(しがん)。

 ロブ・ルッチが間合いを詰め放つ一撃は空気すら裂く。

 しかしアンも負けてはいない。何手も先を読む訓練は嫌というほど黄猿の艦で叩き教え込まれた。

 紙絵でかわそうとする逃げ道をあえて残し、やむを得ず防がねばならない個所へは軽めに当て。鉄塊で防ごうとする部位へ右腕を振りフェイク、本命は先ほど砕いた鎖骨がある首筋へ、半身で受けた体を半回転させ肘で狙う。

 

 

 ロブ・ルッチは再度認識を改めねばならなかった。

 風舞いというふたつ名は間違いではない。月歩により常に空に浮いているのだ。支点をずらせ身の小ささと柔軟性を生かした動きに視点がぶれてしまう。

 一撃はカリファよりも軽い。だが的確な狙いはカクより精密だと分析する。

 

 

 ルッチは身につけていた技を繰り出した。

 剃刀(カミソリ)、嵐脚・凱鳥(ガイチョウ)、指銃・黄蓮(オウレン)。

 余りの速さに姿がだぶって見えてしまうほどの攻撃を、少女は避ける。が全てを捌ききれるわけもない。スーツの至る所が破け、ほつれていた。だが致命傷を与えている訳では無かった。生半端な道力ではない。己に匹敵する数値なのだろう。

 だがそれがいい。

 狂喜のあまり、自然に笑みがこぼれるのが分かった。他のCP9メンバーでは鍛錬にすらならなかったが、この目の前にある少女であれば全てを解放することが出来るかもしれない。

 己に続き、二番手に着くジャブラですら30分も手合いすれば息が上がるのだ。

 心ゆくまで満足した手合いなど、随分と記憶を遡らねば無かった。

 しかし、この人物だけは違う。

 殺し合いを望んでしまった。喉笛を掻き切り、掻き切られる。

 心が躍る。任務でもこんな歓喜を覚えた事は無い。自らの意思で続けたいと願った。自らの意思でこの者の命を欲した。

 乾いた体に染み込む赤が癒してくれるだろう。

 欲する咆哮が響き渡る。

 

 

 対してアンは苦戦していた。

 息が出来ない。攻撃する手が足りない。どんどんと追い込まれてい状態だった。防ぐだけで目一杯だ。

 その中でも厄介なのが黄蓮という技だった。鋭い人差し指とその爪が切り裂くだけでは無く身をえぐる。少しでも受ける手の指が触れると失ってしまうだろう。

 集中力の持続、これだけは切らせてはならない。それでも一秒一秒が長く感じていた。

 ロブ・ルッチはどんどんと調子を上げて来ている。隠されていた感情の色が次第に強くなって来ていた。

 このままでは、負ける。否、死ぬ。

 

 鮮血が飛ぶ。

 アンは避けきれなかった。指銃が袖を破り柔らかな皮膚を切り裂く。

 ロブ・ルッチはぞくりとした。人間の血は全て赤い。匂いも鉄を含む独特だ。

 紅だった。

 何よりも鮮やかな、血潮に目を奪われる。

 

 もっとその紅を…!!!

 

 「迂闊なっ」

 ロブ・ルッチが伸ばしたた手をアンは両手で持ち、背負い投げる。

 お互いに随分息が上がっていた。

 書類を取りに来ただけなのに、こんなにも激しい鍛錬、否、一歩でも進む足先の位置を間違えれば谷底まで落下してしまうような、死と隣り合わせの綱渡りをするとは誰にも想像出来ないだろう。

 

 不意にアンは身を起こそうとするロブ・ルッチを掌で制止する。

 「わたしの血は、わたしのものなの。だれにあげるかは、わたしが決める。…その欲求、応えてあげられない。抑えてくれないかな」

 

 繰り返されるこの男の螺旋思考に触れているだけで、酔いそうになる。

 だがその中に気になる言葉が混ざっていた。

 …アイスバーグ?

 ウォーターセブンを代表する船大工となりつつある、友の名だ。

 

 次々と流れ込んでくる情報に頭痛がしながらもある程度のところまでは読んだ。

 これは、未来だ。この男を起点とした最も現実となるだろう枝分かれのひとつである。

 ガレーラカンパニー、職長…。面白いように読めた。

 目的はプルトンの、設計図か。

 スパンダムは諦めきれないのだ。近い未来、CP9を放ち探らせる決定を下す。

 なぜかそこには、大切な弟、ルフィが関わっていた。先に船出するだろう兄と姉の背を追い、仲間を得て、来る。

 

 それはそれで楽しみな未来だったが、その前にこの頭痛の元をどうにかしなければならない。

 この男、ロブ・ルッチは弟の試練として立ち塞がってくれる大切な人物だと分かったからだ。

 

 「…ルッチ、…わたしの…」

 

 女の声が耳に残った。

 驚きが隠せない。動揺、という感情をロブ・ルッチは確かに今、まさに認識した。

 動きが止まる。

 

 刷り込みともいえる正義は決して覆されてはならない。相手を殺してでも生き残り正義を正当化しなければならない。悪は滅ぼす対象でしかない。闇は悪とは違う。闇に墜ちても正義の二文字が汚れなければ全ては正しい。

 

 だがそれには例外が存在する、のだと。ちらつかされ、明確に示された。

 たったひとつの言葉で、存在させてしまった女をただ、ただ視線を落とす。

 

 「CP9ってまあ、うん、そういう集団だろうから、とやかくは言わない。それが全てであれば、盲信していられたら楽なんだろうけれど、心を持つ人である以上、外に出たら疑問持ってしまうのも当たり前だし」

 

 見上げてくるその表情が柔らかくとけた。

 甘美な赤の匂いと共に、脳へと刷り込まれるかのようだと、男はただその言葉を聴いていた。

 

 「また来るね。話すのが苦手でしょう? 腹話術でもやってみる? 殺し合いでなければ、たまにであれば吝かでもないよ」

 「友よ、言う…ならば、してみようか」

 「ぜひやってみて」

 

 実によって変わっていた姿が元へと戻ってゆく。

 ジャブラは、声を出せないでいた。目の前の出来事が全く、現実と思えないでいたからだ。頬をつねっても、自ら殴ってみても醒めない。故に現実であるのだろうが、こんなことがあっても良いのかと、あってはならぬことのように思え逃避してしまっていた。

 

 「おーい、そこの。誰だっけ」

 「…ジャブラだ」

 「ジャブラさーん、ねー、ちょっとー」

 

 戦いの初めから置いて行かれていたジャブラは呼ばれた事すら気付いていない。膝を付き、海兵の少女の肩を借りて座している人減兵器を見てみぬ振りをしていた。そこの犬!と叫ばれてようやく、己が呼ばれていたと知る。それほどあっけにとられていた。

 最強と言われていたロブ・ルッチが、膝を折っているなどありえなかった。

 しかも支えているのが齢14歳の少女である。

 

 「お返事は?」

 「お、おう」

 

 ジャブラが足元をもつらせながらも駆けよって来る。

 「鎖骨は確実に。こっちの鎖骨が折れてるか、ひびか。内臓系の検査もしてもらうように伝えて」

 

 少女の言にジャブラはただ頷くことしかできない。視線の先にはルッチが居たが、その目の先を追えば少女の首に至る。もっと詳細に語るならば、少女の首に付いた傷口に注がれていたのだ。ゆっくりとその唇が開き、舌が伸ばされ。

 

 「ひゃあ!」

 

 少女の素っ頓狂な声が上がる。

 舐め取られたそれがごくりと嚥下されるまでを、コマ送りのように見せ付けられたジャブラは再び声を失った。

 少女から拳骨(げんこつ)でぐりぐりとされ、薄くはあるが感情を顔面に出しているCP9最強の男が、いったい何になってしまったのかと愕然となってしまったからだ。

 

 「それじゃあ、わたしは帰ります。なのでこのひとをお願いしますね」

 

 はい、と支えの役を振られ、受け取れば少女は確たる足取りで書類ケースまで歩み、コートを掴んで振り返った。

 これ以上何をしでかしてくれるのかと凝視していれば、手をふりそのまま姿を消す。

 

 一体なんだったのだ、と振り返ろうものなら激しい頭痛が襲い掛かってくる。と、同時にルッチの体が重みを増した。

 

 「おいおい、思春期のガキかよ、お前」

 

 言いえて妙だが、最もしっくりと来る答えでもあった。

 ジャブラはルッチを背負う。そして周囲の惨状を見回してから、ため息とともにその部屋を出た。

 

 

 

 

 海分本部のとある場所で、アンは脱力していた。海に出ている時より、日々が凝縮されているのだ。全くもって内勤になった気がしないのである。

 そこはベンチが置かれている、休憩所を兼ねた庭園だ。時間が時間の為、誰もいない。

 じくじくと痛みを発し始めた腕の傷が、なんとか意識を羞恥でのたうちまわりそうになる、自分の行動を制してくれていた。

 

 『ロブ・ルッチ、今からあなたは、わたしの親しい友だ』

 

 自分が放った一言に、赤面するとはどうしようもない。あの男を大人しくさせるには、あの一言が最も有効であると判断出来たのだ。

 また行く、という約束もしている。

 この一年は主にマリンフォード中心に動くだろうから、時間は作れるだろう。しかし、しかし、だ。

 そっと首に触れる。既に乾いておりめくれた肌の痛みがあるだけだ。

 

 不意に拗ねた声がアンを揺さぶる。

 

 「ネコに舐められるって…、え、ちょっと? 待って、エース?」

 

 それどういう意味?!

 慌てて半身の名を呼ぶも、自分で考えろと拗ねられ首を傾げる。

 早まった行動であったと後で気付くも、もはや後の祭りであるのだと、空を仰ぎ見るのはそう遠くない未来であった。

 



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34-世界会議(1)

 手を伸ばせば空が掴めそうだった。

 海にいる時より雲が近くに見えような気がする。ここよりもはるか遠く上空、高度1万メートルには、空島があると言う。

 おとぎ話や噂には聞くものの、本当にあるかどうかは確認されてはいない未知の国だ。

 

 しかしアンはこの空にも国があると知っていた。

 雲の化石、そう呼ばれる空を浮遊し続ける、水蒸気では無い雲があるのだ。

 いつかは行ってみたい。そう願い、とある実験の際に機を得た。

 父が歩んだ足跡を追うと言えば、きっとエースはむっつりとした顔をした後、心底嫌な表情をするに違いない。

 だが行くな、とも一緒に行かない、とも言わないだろう。

 

 「アン、何処にいる。僕から離れるなとあれほど言っているだろう」

 室内から声が聞こえた。

 「ディ、こっち。中庭にいるの」

 「この場所が気に入ったか。お前が好きだと言ったエメラルダスを集めたからな」

 ふふん、と胸を張る少年と視線を合わせたアンは笑む。。

 

 「うん、嬉しい。ありがとう。でもわたし、今からお仕事行ってくるからまたあとでね」

 髪型は朝、この家の召使たちに結われたキュート・カールのままだ。

 服も海軍のものでは無く、デイハルドが今日の日のために特別に作らせたドレスに袖を通している。

 彼はこの後、アンを連れ世界貴族が主催を務める立食パーティに出席する予定になっていた。海軍の用件で聖地を訪れていると聞いてはいたが、そんな事知った事では無い。表向きにはその席でこれは自分のものだと、そして裏では天竜人に仇成すと小さな頃から教え込まれる神の天敵、『Dの一族』を飼っているのだと自慢を兼ねたお披露目をする方が断然、重要だったからだ。

 「そんなもの他の海兵共に任せておけばよい」

 高圧的な態度で見下した言を放つ少年にアンは苦笑をこぼす。マリージョアでは珍しくない言動ではあるが、どうにも慣れず受け入れがたいのだ。聖地の真ん中にそびえる荘厳な城に住まう彼、彼女たちが発するならば、まだ飲み込めるだろう。しかし役目を放棄し続けるただの天竜人の血筋に生まれただけの存在が、なぜそんな威張り散らすのかよくわからない。

とはいえアンから言わせてみれば、どっちもどっちの状態だった。

青海の人々は天竜人を自分とは関係のない遠いどこか違う世界の事象として扱い、自分たちの生活がいつまでたっても楽にならないのは天竜人の圧制が原因としてあげつらうし、天竜人は青海に暮らす人々を自分たちと同じ人間とはみなさず、そこらへんに転がっている石や害虫のようにみなしている。

 歩み寄れなどというつもりは全くない。水と油が乳化剤を入れなければ混ざらないように、この両者はどうあがいても同化しないものだからだ。

4年に一度、マリージョアにて行われる世界会議という名の狐とタヌキの化かしあいが何のために行われているのか。理由を知るものはごく一部だろう。

 

 

 

 デイハルドの指がアンの首筋を通り、ビーズネックレスに至る。

 「さぼれ」

 さらりと無体をおっしゃいますか。この世界貴族が。

 アンがひくりと眉を動かせば、自分の意に従うのがさも同然であるかのように、腰に手をあててのたまった。

 「その首輪がある限り、アン、お前は僕のものなのだ。そろそろ理解しろ」

 「ふふ、可愛らしい独占欲。ではお散歩くらいは行かせてくださいな」

 デイハルドの頬をふにふにとしながら、意地でも会議の方に行くと言い続けるアンに、我慢の限界を越えたランがくつくつと笑っている。天竜人たる聖に容易く触れるなど、アン以外に誰が居るというのだろう。

 彼は聖地へ召し上げられてから、デイハルドの奴隷兼、護衛、をしていた。

 帯剣も特別に許され、背に押された天駆ける竜の蹄を露出させる事、主人で無くても頭を垂れなければならない事を除けば、自由にやらせて貰っているという。

 以前は何処からの商船に乗っていたと聞いた事があった。

 見習いとして初めての航海に出た先で海賊に襲われ、生き残った人々も次にやってきた人攫い屋に身柄を拘束されてしまった、のだそうだ。

 

 人攫いを生業にしている者達は海賊以外の船も襲う。非加盟国のみだと宣伝し、もし間違えて捕らえてしまった場合には祖国に送還も行なうと触れ込んでいるが、そういう事例は殆どみられないのが現状だ。

 本人が幾ら否定しても買い手が付けば、その身は拘束される。特に美麗な容姿を持つ者達は容赦なく商品にされた。

 

 ねえ。今ならば、出身国の王に情状を伝えれば戻れるかもしれないよ?

 何らかの用事で姿を消した聖の居ぬ間に、アンはこっそりと囁いた。

 

 しかしランは国に戻るつもりはないと語った。ここの生活もまんざらではないと言いながら、聖の側にいる事が生きる意味になっている、と。

 「それならわたしがでしゃばる事じゃないね」

 それに、と続く言葉をアンは待ち。

 「この身が尽きるまで御身を守ると誓ったしな」

 ある意味殺し文句ともいえる文言に、アンは笑って両手を握りしめる。かつて読んだ、海外作家の王女と騎士の甘い恋物語のような台詞だとつぶやきながら、なにかを想像している様に、ランはたじろぐ。

 「ディも立場的には立派な王子様だもんね。騎士かぁ、格好良いなぁ」

 ひとりで楽しそうにステップを踏む主人の想い人へ何を考えているのかとランは苦笑を洩らす。

 

 そこにデイハルドがむっとした顔をして入ってきた。

 「ラン、なにを言った」

 戻ってきた小さな盟主がふたりの間に割り込んで奴隷を見上げる。

 独占欲の塊と言われたばかりのデイハルドがランを糾弾する。よもや、と邪笑みを浮かべつつある中、アンが王子様!と聖を抱きあげた。

 目をぱちくりとして首を傾げた聖だったが、状況の説明を受ければ顎に指を添え、目を細める。

 「ほう、アンは僕に王子役を所望するのか」

 ならば、と地に降りたデイハルドはアンの手を取り、満面の笑顔でこう云った。

 「お前がこの先海軍に居続けようとも、海賊となり海に降りようとも、死して屍となったとしても。僕はお前を愛し続けよう。だから僕の所有物だとさっさと理解しろ」

 ついで、では無いが僕の用件を優先するが良い。

 

 「もう、ディったら。最後の一言で台無しだよ」

 うれし恥ずかしな心持で、アンは笑う。

 自分を幸せにしてくれるという想いは、ただそれだけで心地よい。

 視線を合わせ額へ口づけを落とす。それは親しみを込めた思いだ。

 

 

 「じゃあ行ってきます」

 聖をなんだかんだとなだめすかし、なんとか海兵としての服装を整え、コートを手に取り玄関へと向かう。

 接吻の位置が違うだろう。

 着替えの最中もメイド達が薄布で目隠しを広げている横で、デイハルドは言い続けていた。だがようやく、手だけをを握る関係から、こうして触れ合えるまでになったのだ。最初は真綿でも構わない。柔らかく手足を捕らえつつ、じわじわと手綱を手繰り寄せればいい。最終的に身をよじる事も出来ぬ程、がんじがらめにする予定なのだから。

 

 デイハルドは腰に手をあて、頑として仕事に行くと言って聞かない背に溜息を、わざとつく。

 「わかった。それならば僕もパーティを欠席しよう。一通り仕事を終えたら会議の席を見に行く余興へと行くとする。諸侯を見物しようと誘われているからな」

 

 見物って、誰となにを。

 アンはコートを纏い首を傾げる。ばさりと目隠し布が外されれば、凛々しく立つ海兵がそこにある。デイハルドは将校の手をとり、彼女が望む先へと向かう。

 

 アンは"見学"といういまいち、世界貴族の意図が判然とせず、考えていた。

 見下すという行為は立体的だと、ここに来て嫌というほど体験しているが、彼らの思考が良く分からない時がある。そういう時は無理に理解せず、そういうものだと棚上げしておく方が気持ちは楽なのだが、騒ぎが起きれば海軍が動かざるを得ない。

 「その時はその時、か」

 アンはぱちん、と懐中時計を閉める。

 聖に見送りされながら、召使たちが開く玄関をくぐった。

 コートをなびかせ颯爽と歩く。

 一陣の風が舞うように、その姿は青へ向かった。

 

 

 

 ここは聖地マリージョア。

 世界政府に加盟する国々が4年に一度、一堂に会し、世界会議(レヴェリー)が行われる。

 今回の議長はイルシア王国国王、タラッサ・ルーカスだ。

 中にはゴア王国国王も座している。

 主に議題に掛けられるのは世界共通の凶事や、対国間での輸出入などの取り決めなどだ。

 

 聖地には今現在、実に100を超える国から最高権力者、乃至(ないし)権限を預けられた代表者とその従者が滞在していた。

 言うまでもないが警戒は厳重だ。大将が1名、中将が3名、将校が200名、諜報機関CPも人数は不明だが人員をこちらに回し、何かが起きる前に対処している。

 

 会議の招待者は世界貴族だ。

 名目は世界の治安状態を確認し、5つの海に分かれて存在しているそれぞれの国の交流の為、となっている。がしかし、それぞれの海や国家間の利権が絡む、壮大な陰謀の渦がそこかしこで巻く場、ともなっていた。言うなればこの王達の会議は戦争勃発の危機を孕む、政界の中心地、でもある訳だ。

 以前暮らしていた場所ではまったく触れる機会の無かった、どろどろとした政権のやりとりが、表面上穏やかに、水面下ではこれ以上無い苛烈さを含んで行われている。

 なぜならここにはそれぞれの国の要人が集まっているわけだ。しかも公文書として公式的な会議議事録としても残る。世界中の首脳が一か所に集まれば、些細な争いごとが後に戦争のきっかけとなりうる可能性も含むのは当然の結果だ。

 

 アンは耳に聞こえてくる声音に出来るだけ集中し、だぶって聞こえてくる影の囁きを無視する。

 基本的に海軍では各国々への直接介入は、原則的には行われない。

 今、こうやって会議の警備を行っているのは、王達を守るために、でもない。

 世界貴族が住まう聖地にて、何事かを起こそうとする王を静粛させる目的で出動させられている。

 ただし世界政府が悪と定める、海賊や反乱分子、今まさに話題に上っている『革命家ドラゴン』が関与する件に於いては即時介入が認められていた。

 革命軍が数年に一度しか門が開かれない、聖地への扉が開かれるこの時を、黙って見過ごすわけが無い。

 彼らの目的は"世界のあり方を変える事"だ。天竜人に手をかけたところで、五老星や役人たちが世界を回している現状を知っていれば、無闇な血を求める事はしないだろう。だが革命軍とて一枚岩では無かった。母体組織にはいくつもの支援団体が付いている。ざっと調べてみると、その中にはぽつぽつと過激派が存在していた。

 ここでどう動いてくるか。革命軍のお手並みを拝見とばかりに、アンはある意味、楽しみにしていた。過激派のひとつやふたつ、きっちり掌握して上手く手綱をとらければ組織など動かせないともいう。

 もし何か、予定通り事が起こればこちらも全力で阻止すればいいだけの話、だ。

 

 革命軍の動きは最近頓に活発化している。

 世界には多くの、天竜人を真似て国家運営を行っている島があった。

 例をあげればアンが暮らしていたドーン島、ゴア王国もそうだ。

 

 中央、中心。

 権力と言う美酒を知り離れられなくなった者達にとって甘美な言葉だ。

 富は海の水とよく似ている。飲めば飲むほど喉が渇く。乾いていると知らずに、飲み続ける。

 そして富を模範する。

 憧れだけで済めばいいが、大抵はそこで終わらない。

 

 人々はいつか気付く。自分と周りの差異の理由を知り、なぜなのか、と。

 身近な周囲だけでは無く、遠く離れた場所で起る出来ごとに、ふと疑問を思い起こす瞬間が。今の世界の形に疑問を抱き、知ろうとする動きは既に始まっている。なにも特別な素養が必要な訳ではない。なぜ知らずにいたのだろう。周囲を把握する、きっかけは些細だ。

 

 議長であるイルシア王が危険性を説く意味をどれだけの、ここに同席する人の上に立つ者達が理解できるのか。

 この作られた箱庭の現実を認識している王達がどれだけいるか。

 そもそもここに集う王、達はその国だけの王だ。世界政府のように広く深く世界を管理している訳ではない。己の、国、その利益を優先するのは人としてごく当たり前の行動のように思える。当然ながらその世界政府が、世界に反逆など起さぬよう、富が満たされぬよう、天竜人への貢ぎ金「天上金」の金額を決める場、でもあるのだが。

 

 護衛として入室を許されたアンも表情を無にしながら、この場に集まった選ばれし者達の話を聞いていた。170を超える加盟国がある世界政府加盟国だが、この王達の円卓会議に出席できる人数はたった30名程だ。幸運なことにピンク色はこの部屋に居ない。前年度、赤犬の部隊にて多忙を極めていた最中、突如として成り代わったとある国の王が彼である。彼もまた部下を引き連れてこの聖地へとやってきていた。

 

 ドンキホーテ・ドフラミンゴ。

 

 アンは彼の名を反芻する。その名はデイハルドと起源を同じくする一族のひとりであった。

 異端児であるディの他に、かつて、と過去形ではあるものの自らを神ではなく人だと宣言した元天竜人が居たという事実に驚きを隠せない。

 かつて彼の父と母は神の座を降り、人として生きようとした。だが所詮は純粋培養の籠の中の鳥であったのだろう。飛び立った直後に何重もの苦難が襲い掛かった。

 

 その件に関しては既に過去だ。覆せない。

 彼が行なってきた様々な行いも、彼の弟が何を願いながら死んだのかも。

 だから肝心なのは今である。方向を変えるのならば、現在をどう動くのか。

 

 会議に熱が篭り始めていた。

 なにせ己が、己の国が納める天上金(てんじょうきん)の額が発言の受諾如何によって変わってくるのだ。治め切れずに消えてゆく国もある。

 100を超す諸侯、これはデイハルドの言からだが、それらの欲望具合を見るのも一興と聞かされていた。何という昏い見物なのだろうか。

 確かに世界貴族は世界の中心に立っている。世界にある多くの国さえ、天竜人からその土地を治めよ、と命じられ青海の諸侯が下々民を集約している、と解釈していた。

 だが誰も気付いていないのだ。

 わざわざ命じられなくとも、己達は以前よりそこに住まい、営みを行っていたという、ただそれだけの事を。

 

 ふと聞こえてきた文言に意識を集中する。そう、革命軍に関しての議題だ。草の根運動的な地道な活動がゆっくりと芽を吹き出してきているようである。

 革命軍が行なっている行動をアジテーション、という。

 主な意味はそそのかす事、扇動、だ。

 しかしもう一つ意味がある。

 社会運動で、演説などによって大衆の感情や情緒に訴え、大衆の無定形な不満を行動に組織する事。

 

 そう、反乱、だ。

 不満を煽りくすぶっていた火を業火に変える。

 どちらの陣営も等しく、死者を出す。先導者はドラゴン、大火事の日に初めて会ったルフィの父だ。

 

 世界的犯罪者の父を、これで共通して持つことになっちゃうんだよねぇ。

 

 会議の様子を見ながら、アンはため息をそっと飲み込む。

 父親が悪名にしろ偉大な功績を残して死んでしまった後、遺された子供がどれだけ思い悩むか、大人達は知らない。否、それを見越して父、ロジャーはアンに対し置き土産を残している。だが何も知らぬ、基本的な考え方すら教えてもらえぬまま放置された子供になにができるというのだろう。

 子供は残された情報で様々を考え、傷つき乗り越えなければならない。たとえ親が良かろうと残したものであっても、受け取る側が正しく、残した本人の意向どおりに受け取らねば全くの無駄になる。大人よりましだと言われるだろうが、子供には子供の苦労もあったりするのだ。

 

 その点を義祖父は気付いてくれていた。

 子供たちを守るためにどうすればいいか、を考えてくれていた、と思い…思う。たぶん。

 

 そうこうしているうちに王達の質疑応答が叫び声に変わっていた。

 その中でも目立っているのがドラム王だ。投げやりな、人を小馬鹿にしたような発言を繰り返しているいる。

 なんでも革命家に惑わされるような国政はやっていないらしく、他の国のような憂いは全く感じていないのだと言い切っていた。

 

 ならば昨年医療大国と呼ばれた貴方の国から、多くの医療に関わる人々が追放された件について、それは良い政治と言えるのか、問い質してみたかった。

 お陰で海軍の医療系人員が増強され棚からぼた餅状態だったのだが、彼を王として見上げなければならない民達の心情を慮(おもんばか)れば安らかではないだろう。国には王室が抱える医師20名しか居ないというのだから。

 

 その言に抗議したのはアラバスタ王だ。

 砂漠の国の王は民から慕われていると聞いていた。良王に恵まれた国はそれだけで幸いだ。それでも問題がひとつもないかと言われれば、否と言うべきだろう。

 この砂と太陽の国を標的を定めた人物が居るのだ。砂鰐、アンはそう呼んでいる。

 争いの種から芽が芽吹こうとしていた。けれど伝える事は許されるのだろうかと、言葉を呑み込んだままだ。夢が教える未来には、弟の姿を見た。そしてもうひとり、世界に住む人々から追われる存在となった人物の背もそこにある。

 

 全くの対比だった。太陽と砂の、そして閉ざされた雪の、国。

 ふたりの王が対する様は、有智無智三十里という言葉通りに見える。

 ただこの席でいち海兵に過ぎぬアンが声を出すのは得策では無い。様々な意見が飛び交う会議を、一歩引いた視野で眺めていた。

 

 海軍を含む世界政府は土鍋のふただ。

 余りに正義に固執するがため、世界を現状のまま持続させようとするが故に、蒸気が吹き出る穴すらふさいでしまっている。

 これではいずれ下の鍋が割れてしまいかねない状態だ。鍋は人々を支える世界とするなら、その耐久力も限界に達するまで秒読みとなっているだろう。

 やろうとしている事は分かっていた。かつての世界でも歴史として刻まれているからだ。

 

 ドラゴンはこのふたを力任せに開こうとしている。

 それもまた一つの方法ではあった。けれど溜まった熱量は大量の、死と言う名の蒸気を生むだろう。この流れはもう止まらない。

 幾つもの加盟国で、反乱が起き新しい同盟が組まれている。

 世界政府を敵とした、まだまだ小さな勢力だが、いずれは大きな流れを作る力だ。

 それすら世界政府の要人たちにとっては予想の範囲内なのだから、どこでドラゴンが動きを見せるのかが楽しみともいえた。

 

 変わって海賊は鍋に穴を開ける存在だ。

 現状では世界政府から渡航許可を得ていない船舶全てが海賊船と言う名で一括りにされている。もしエースと共に船出をしたならば。許可を持たないふたりの立場は海賊となるだろう。

 

 それも頭の痛い話だ。

 エースもルフィも海軍には絶対に、入らない。

 それは父の件もさることながら、兄弟間の約束が大きく緒を引いている。

 

 

 不意に卓上ベルが鳴らされた。

 初日の午前会議が終了した事を知らせるものだ。コートに隠しながらこっそりと時計を見ると昼食時間を大きく割り込んでいる。いの一番に部屋を飛び出たのはドラム王だった。

 

 バクバクの実という悪魔の実を食べたかの王は、大食漢としても名を馳せている。

 ここ聖地でそこら辺にあるものを口にしようものなら、王であっても世界貴族に罰せられてしまう。そのためドラム国から必要物資が大量に運び込まれていた。大小様々の検査にアンも駆り出された近日を思い出す。

 

 アンも次々と退出してゆく王達の後を追う。それぞれの出身国から王が来ていた場合、優先的に護衛に付かされるのだが、アンはデイハルド聖の名を借りてそれを蹴り倒していた。

 理由はふたつある。

 それは大火事を起こした国王などに話しかけられたくなかったのがひとつ。

 もうひとつはアンが世界貴族の寵愛を受けているという、噂が広まりつつあったからだ。

 流したのは当の本人だろうと推測してはいるものの、尻尾切りしたようで辿りつけなかった。これを首を真綿で閉められるというのかと、実体験させられている最中だ。

 そのせいもあり、気軽に同僚達と話しすら出来ない状態だった。誰もがアンの、言動に耳を済ませている。CP9のフクロウの口についていたチャックが心の底から欲しかった。

 

 海兵の詰め所で午後からの持ち場を確認する。

 「…お疲れさん。どうよ、様子は」

 「今のところ平穏ですね。各国の王達も、多少は内緒話しているもののいざこざは起きていません」

 それはなにより。

 急ごしらえとはいえ、一件の屋敷を仮設本部とし部屋に座る大将がアイマスクを下げてうとうとし始める。

 「だーれーかー。青雉大将のやる気、どこかに落ちてませんか」

 「無理だろう」

 「そうね、無理だと思うわ。ヒナ同感」

 「いや、そこまであからさまに言わなくても」

 

 最初に毒ったのはアンだが、直下の部下に言われては身も蓋も無くなってしまわないかと思う。

 いつもは下士官達が行う作業も、この場所では将校が行っていた。そう、ここ聖地に足を踏み入れるには一定の階級が必要なのだ。聖地へ駐屯する一軍の殆どは青雉の部隊だった。

 他の艦隊はそれぞれの任務に就いている。いつも聖地関係を受け持っている黄猿も今ばかりは、新世界に入っていてここに来る事が出来なかった。

 

 センゴクが放った鶴の一声で青雉が駐屯することになったのだが、いつものごとく『だらけた正義』の主張が半端無い。

 ヒナ中佐、スモーク少佐の2人とは何度か顔を合わせた程度の関係だったが、聖地赴任が決定した後、打ち合わせのなんやかんやで親しくなっていた。

 なのでアンへの突っ込みも容赦無い。

 

 「あ。悪食が出てきた…ちょっと行ってきます」

 ほろりと本音が転がり出る。本部でもドラム王は要注意人物として挙げられていた。理由はいうもがな、悪食、その二文字に尽きる。臣下が必死に止めてはいるようだが、聖地入りした際にこの町を囲む壁に喰らいつこうとした。

 

 世界貴族の中では面白い能力者として、様々な物質を食べさせてみよう、という話が持ち上がっているらしい。それもしっかりとアンは青雉に報告している。

 幾ら海軍が駄目だと制止しても、海軍無勢がなにを言う。そう言って一蹴するドラム王だが、アンが間に入れば、世界貴族の住居を破壊した罪となるのだ。

 自重せざるを得ない。

 

 「ああ…行っといで」

 返事を聞かぬまま走り去った小さな背を、青雉は見る。

 「スモーカー、アンを追え。出来るだけなにも無いよう、穏便に済ませろ」

 敬礼する事無く、名を呼ばれた男は部屋を後にする。

 「大将、ヒナも見回りに行ってきます。出来るだけ穏便に」

 「頼む」

 

 その他数名にも同じ事を命じ、対応に走らせる。

 アン自身が権力に興味を持ってないと、傍から見てもこれ以上解りやすい人物は居ないと言わざるを得ない。多少の権限は行使しても、必要最小範囲内に押しとどめる。しかし本人が思っている以上に、少女の周りはかなり物騒だった。どうしてそこまで抱きこめるのかと言いたくなる報告が山のように積まれるのだ。しかもここ、聖地マリージョアでは特に、だ。

 本部があるマリンフォードでは時々、抱き枕にしている可愛い妹のような存在だが、世界貴族の庇護をうけた人物、と言うだけで王達の目の色が変わる。重ねてとある、やんごとなき血筋の末である人物が王となった国からも彼女の貸し出しを要請されている。一体どこで出会ったというのだろう。

 若き天竜人がひとりと、隠されてはいるが、扱いを天竜人として扱え、と通達が来ている人物だ。

 頭痛の種は尽きない。

 世界の中心は確かにこの場所で、世界貴族に目を掛けて貰えたならば、国としての立場も発言権すら他国の優位に立てるのだから、必死にもなろうものだ。

 

 だから彼女の出身国であるゴア王が是非に彼女を護衛としてつけてくれないだろうか、と申請してきた時には久しくどう対応しようか、本気で悩んだ。海軍としては通例に則り、付けざるを得なかったが、自力で何とか蹴ってくれたのを好機と得た。はっきりと言って、今の形に落ち着き、海軍としても実は安堵しているのだ。特に聖地に近く設置されている上層部が。

 

 しかしその只中に自ら向かってしまうのは、まだまだ子供である証拠だろう。

 何事にも一所懸命なのは分かっている。ただ周りの大人ははらはらとしっぱなしなのだ。

 いつもは苦言しか言わないサカズキからも、忠告が届いているくらいだ。

 「ぼちぼち、火中の栗を拾いに行こうかねェ」

 コートを掛けていたハンガーに手を伸ばし、のそりと動き始める。



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35-世界会議(2)

 喧騒が生まれていた。

 スモーカーは合流したヒナと共に、遠巻きで経過を見守っている。

 海軍として関わる案件では無い。国家間の摩擦だ。

 二人が出て行くとすれば、小さな権威が関わってきた場合のみに限られる。それまでは不干渉を貫かねばならない。

 海軍がこの聖地マリージョアに駐屯している理由そのものが、青海の王達が天竜人に害をもたらさないよう警護するため、なのだ。

 運良くこの場に、散策に来ていたなどという偶然があれば動けるが、世界貴族がわざわざ訪れる訳もない場所だった。

 

 とはいえこの騒ぎは予定されていたものといえよう。

 悪食こと、ドラム王がアラバスタ皇女と接触したのだ。会議の席での憤懣(ふんまん)は、食事を終えても収まってはいなかったらしい。

 

 ドラム王の一行は意図的にアラバスタ王の陣営が充てがわれた館の路を通り、待ち構える気満々であったという。やられた以上をやり返す。

 当然の報いだと思う者、関わらず傍観する者、それぞれの行動を見定めようとする者。

 視線が幾重にも交差する中、卑猥な行為に走ったのはドラム王だった。ただすれ違おうとする皇女に、手が滑ったと手を上げたのだ。

 青海を治める王と同等の位を持つその家族、皇女であれば目礼だけで十分に挨拶となる。しかしドラム王はそれが許せなかったようだ。

 目礼だけとは教育の程度が知れる。そう発言し大きく張り出した顎を反らせ、視線を下していた。しかも口元には余り品の良く無い笑いを浮かべている。

 

 しかし皇女は健気にも、供が上げる非難の声を制し、ドラム王へ謝罪した。

 そのまま何事も無かったかのように、にこやかな顔のまま歩き行く。

 やや意外であったのはドラム王だ。思い描いていた反応を返さなかった皇女に興が削がれたと、大人しく立ち去った。

 

 ゆっくりとだがヒトの輪が薄れてゆく。一応だが、騒ぎはこれで収束となるだろう。

 「ところでアンは見つかったの?」

 「おれも探しているところだ。あのちっこいのどこ行きやがった」

 互いに方向を決め捜索を開始する。海兵の姿自体は、各国の衛兵と同じく珍しくは無い。

 ただ殆どの衛兵達の様子がそわそわとしている。何かを探しているようにも見える行動だ。

 

 「別れて探しましょう。どこかの国に捕獲されでもしたら大事だわ」

 同僚のつぶやきにスモーカーも同意する。もしそうなって居たならば、あきれてものも言えない。仮にも海兵であるならば、万が一、にも無いと信じていたいが、相手はまだ子供だ。

 そんなにあの子供ひとりが重要なのかと舌打ちする。

 スモーカーからすれば、そこら辺に転がっている子供(ガキ)と変わらないように見えるのだ。

 誰からもちやほやとされ、いつもにこにこと笑いかけてくる子供を見ていると、苛立ちが噴き出してくる。ここは公園や遊技場ではないのだ。

 いつのもタバコを吸えないのも、むしゃくしゃする理由のひとつだが、そんな事はどうでもいい。

 子供を見つけるのが最優先だ。

 終わってから与えられた部屋で存分と煙を満喫する予定を立て、雑踏の中に紛れた。

 

 

 にぎわいに沸く町の、道ゆく人々の中をゆらゆらと歩く長身の男がいた。

 海兵から敬礼を受けながら気楽な巡回をしているように見える。

 駆け寄る兵から報告を時折受けつつ、騒ぎがあった路を横切った。目的地は特に定めてはいない。気が向くまま足が向かう先へ進む。

 世界会議に出席する各国の王が連れてきた使節団はその国の特色を見せ、博覧会のようにも思われた。5つの海に点在する国王が聖地に集まるなど、一生に一度、経験出来たら運が良いと言われる。ガープやおつる中将も若かりし頃、今のクザンのように警備に出向いたと聞いていた。

 

 その頃からここにある正義は不変だ。

 世界貴族を頂点にし人々の暮らしを定めた、社会秩序を保つための規則や常識、ルールという名の思想である。

 クザンは様々ある正義を否定する気はない。

 その時、その立場によって形を変える。今後の世界のため、と決断した苦い過去もあった。

 徹底した正義は時に人を狂気に駆り立てる。

 良い例が赤犬だ。以前よりはなりを潜めてはいるが、いつまた行過ぎる行動を起こすか分かったものではない。

 しかもその抑止力となっているのはたった一人の海兵だ。英雄と呼ばれるガープを祖父に持ち、実力も順調に付け次世代として期待されている。

 

 末恐ろしいと思う。

 世話になったガープには悪いが、もし海軍から姿を消すならば、この手で始末しようと決めていた。かの存在は余りにも人を惹きつけ、中に入り込み過ぎるのだ。

 

 あのサカズキから娘に何かあろうものなら覚悟しておけと、わざわざ連絡を入れてくる程の過保護ぶりだ。ボルサリーノからは何も音沙汰無いが、一報が飛べば新世界での任務を繰り上げてでも戻って来るだろう。

 ガープにも最初言われていた。あれを取り扱うのはなかなか骨が折れる。余り深入りしすぎるな、と。

 

 正義と悪は相反する言葉では無い。

 とある事件が起こりその討伐へ向かった、ポートガス・D・アンが語った言葉だ。

 

 そもそも善悪という熟語があるように、『悪』の反対語は『善』だ。

 ではなぜ正義と悪、と並び使われているのか。それは意味が明確であるから、だろう。正しい事と悪い事、見て解りやすい。

 海軍が正義を掲げるのは、正しい道義、人が従うべき正しい道理とされているからだ。世界政府が提唱する『法』によって、強く形に推されているのも要因のひとつではあるだろう。

 人々は自分達を守る盾となる海軍をし正義として見ている。なぜなら長い時間をかけ、やり続けてきたからだ。世界政府は5つの海に蔓延(はびこ)る悪、海賊達を狩り続けてきている。その業績が今の信頼を築きあげていた。

 

 しかし物事には表と裏がある。

 その事件は明るみに出ないものだった。

 本来ならばCP9が請け負うべき影の仕事だ。

 センゴク元帥がなぜその時、彼女を人選したのか謎だった。今ならば予想でしかないが、世界政府が関わっていたのだろうと、言える。大将という椅子に座っていても尚、もたらされぬ隠された情報、それに関わっていた。

 

 傲慢とも言える赤犬の正義を諫めた存在が、不義を放ったのだ。

 「これから行う殲滅は、悪と心得なさい」

 彼女の傍らに立っていたのはロブ・ルッチだったという。

 率いたのはエニウス・ロビーに駐屯する、口の堅い男達ばかりだった。

 

 その日、海へ気晴らしの散歩に出ていたクザンは、このマリージョアにアンが来た初日を彷彿させる風景を見た。堤防に足を放り投げ、ただ空と海を眺めていたのだ。

 数日前にセンゴク元帥に呼ばれているとすれ違ったまま、姿を見なかった少女がぽつんと座っているのを、見過ごせはしなかった。何度もぐっすりとした睡眠を提供して貰っている身として、気にならないはずが無い。

 明日からは参着する王達が持ちこむ荷物や人員の検閲が始まる。懸念があるならば、出来るだけ取り除いておきたかった。

 

 3日後には聖地入りし、警備の任に就く。シャボンディ諸島の比では無い精神的疲労を蓄積しに行く場所なのだ。わだかまりがあるならば、今のうちに対処しておいた方が良い。

 だが話しかけてもふるふると首を振るだけだった。

 くるくるといつもは表情が面白いくらいに変わる少女が、放心に近い状態にあればおかしいと誰もが気付くだろう。

 

 「大丈夫、ちゃんと慰めて貰ってきたから」

 ひとりにして欲しいと願う少女を置いて、クザンは本部へ戻った。そして権限を使い、なにがあったかを知る。

 

 感想としては、おいおい、これはないんじゃないの?だ。

 世界政府の厳命にて行われたそれを、14歳に背負わせるには余りにも非情すぎる出来事だった。この件について本人は決して口を割らないだろう。

 

 丸一日以上経って様子を見に行った際にはいつもの笑顔に戻っていた。

 つる中将の言に従い、書類を処理を行う。時折微笑を浮かべ同僚達と話しながら、ページをめくる。

 書類無くこの部屋に踏み込もうなら、おつるに洗濯される危険性があった。若かりし頃のやんちゃを、幾度も見られている相手でもある。適当な提出書類を幾つか制作し、持ってきた事に寝耳に水と言われたが、我ながら似合わないと思うものの、それは仕方のない事だと諦めた。仕事などやればやるほど沸いてくるのだ。本当はある程度置いておき、必要な分だけ処理するに限る。

 

 その時は世界会議の打ち合わせと称し、おつると幾つか言葉を交わしその場を後にした。

 

 クザンは捜す。

 何もかもを背負いこもうとする小さな後姿を。

 

 

 姿を見つけたのはスモーカーだった。

 黒服の、鳩を肩に乗せた男と何かを話している。

 探し回る方の身になりやがれとスモーカーは肩を怒らせ子供の元へ向かう。

 14歳といえば新兵としてようやく海兵としての階級が与えられるか否かという年齢だ。子供の家族はかの、ガープ中将であるという。祖父の七光で得た階級だろうと噂する声もあった。覇気という力を潜在的に持っているらしく、ちやほやとされている。

 

 いけすかない子供だと思っていた。

 輪の中心に自然と入り込み打ち解けてしまう。きっと恵まれた環境で育ったのだろう。

 愛されて当たり前、持ちあげて貰って当たり前。軍隊ごっごがしたければ、どこぞで取り巻きを集めて勝手にやっていればいいのだ。

 

 スモーカーは幼い頃から、苦節を乗り越えて生きてきた。思い通りに事が進んだことなど、数えた方が早い方だ。偶然の産物とはいえ食べてしまった悪魔の実の力をものに出来てきた矢先に、命じられたのは子守りだった。

 折角暴れられる部隊への転属が通ったというのに、予定は覆され、前線ではなく、子供の世話をさせられている。

 反吐が出そうだった。

 世界の王達の茶番劇を見せられ続ける苦痛が苛立ちを生む。

 海兵だけに煙草が言い渡されているのも、我慢がならなかった。

 

 さっさと仮設本部へ戻る為に歩く。

 「おい、お前何をして…」

 スモーカーは最後の句まで繋げられなかった。

 ロブ・ルッチが首元に杖を突き付けたからだ。

 「なにしやがる!!」

 怒気を含んだ声音に、アンが両者を諫める。

 ロブ・ルッチは一瞬スモーカーに視線を向けるが、すぐに外し先ほど見ていた方向を再び注視し始めた。

 

 「ケムリン、もう少し待って…」

 あと少しで。

 「この場所は戦場と化す。だからもう少し自由にさせていて」

 人々の避難誘導をしてくれると助かるのだけれど。

 そう言いながら懐中時計を取り出した子供が時間を確かめた。

 「来る…」

 

 それはネコだった。白の塀の上にちょこんと乗っている。

 「ただの猫だろうが」

 「たぶんあれだと思うんだけれど」

 質問に答えない子供に、スモーカーはカチンときた。それでも階級は一応ひとつ、子供の方が高い。待てと言われるなら待ってやると、腕を組む。

 

 「ルッチ、わたし向こう側行っていいかな」

 「そこで待っていろ…あと5分だ」

 行くならばおれが行く。

 アンはその言に従い、頷いた。

 「一体何の話をしてやがる」

 意味の分からないやり取りが目の前で行われていた。説明を求めても、ぼかした言い方しかせず、言及は無い。スモーカーはぐいと細い腕を掴む。だが見上げてくる目は必死だった。

 「あのにゃんこが、爆破するかもしれないの。間違いであればいいのだけれど…でももしそうなら、止めなきゃ」

 その声は静かに、否定の願いを含んでいる。

 もしそうなったら、その煙の力で火種を包み押さえて欲しい。

 こんな場所で猫が変形するなんざ、お前頭は大丈夫か。いつものスモーカーならばそれくらいは売り言葉に買い言葉、を返していただろう。

 しかもこんな、くそったれな世界貴族を守るため駐軍が行われているのだ。

 狙われたくなければ、世界会議など別の場所で開けばいい。不愉快さが更なる苛立ちを生む。

 

 通りには人が溢れていた。

 ここで猫が本当に爆破でもしたら、大事になるだろう。

 時間が刻々と近づき、そして到る。

 

 当たって欲しく無い願いほど、高確率で現実となるものだ。

 もこもこと猫がうねり始めた。体の中から何かが飛び出そうとしているかのように、突起が飛び出し始めている。

 「ケムリン!」

 子供が六式の技を使い空に飛びだした。

 その場に居た王族とその配下達も何事かと悲鳴を上げ混乱し始める。

 逃げる姿は生まれの違いなど関係ない。同じように悲鳴を叫びこけつ転(まろ)びつして惑う。自分自身の身だけを守りながら、安全な場所まで到達しようとする。

 

 「危ない!!」

 水色の髪の、子供が人の波に押され、揉まれ危険範囲内に入ってしまっていた。

 子供(アン)が軌道を変え地面に降り子供の前に立ちはだかる。

 スモーカーは舌打ちしながら走った。言われたとおり、自身の体を煙に変化させ、猫であった何かを捕縛する。

 しかしそれは爆発した。

 大量の刺のような何かが周囲に飛び散る。自然系の能力者であるスモーカーはこれらごときで傷を負ったりはしない。

 

 子供(アン)が子供を庇う。

 迫り来る何かを体技を使って叩き落とし、肉体を強化してそのもので弾く。

 「"アイス壁板(ウォール)"」

 その一言で、飛び散っていた何かは全て氷の壁に阻まれ、それ以上は拡散しない。

 そう青雉大将の力、だ。

 逃げ惑う王族達を逆流して歩いてくる姿が見えた。スモーカーは敬礼して出迎える。

 「クラァ!!! 報告怠るなと言っておいただろうがァ!!! ひとりで何やってんの!!!」

 「ご、ごめんなさいっ」

 いの一番に直立不動になり詫び言を放ったのは子供だった。見える横顔が引きつっている。

 

 なんだこいつ。こんな表情も出来るのか。

 スモーカーは意外に思いながらその横顔を見た。年齢を感じさせない話し方をしていたのは、作りものだったと知る。

 

 「…おれに内緒でなぁにやってんだ…サカズキさんにおれを殺させる気か。島何個消したいのか言ってみろ」

 「いや、もうほんっとにそう言うんじゃなくて。ちゃんと説明します、油売ってたのも始末書書きます。だからほっぺたひっひゃらないれー」

 

 一通りのお仕置きを受けた後、アンは解放されていた。青雉大将は検分の為、弾け飛んだ猫があった場所に立つ。

 そこへ軽い身のこなしで男が地に足をついた。赤くなった頬を抑える子供が男の元へ走り寄る。

 「ごめんなさい、追いかけられなかった」

 「……」

 青雉大将の声が近づいてくる。スモーカーは倒れていた水色髪の子供を抱き上げ、その身の無事を確かめた。

 「ケムリン、彼女アラバスタ王のご息女だから丁重に抱いてあげてね」

 スモーカーは眉をピクつかせる。王族ばかりが集まっている認識はしていたが、よもやその身を抱えるとは思ってもいなかった。

 

 「あらら。ロブ・ルッチ…来てたのかい」

 腕を組み、静かに立つ男の名を青雉が呼ぶ。しかし男は何も答えない。

 「どうも能力者が何名か入り込んでいるようですね」

 クルッポー。鳩がしゃべる。洒落の効いた冗談に片眉が上がる。

 「お前さんがアンの助っ人か。…豪華じゃないの、この悪ガキが。なにを企んでたのか洗いざらいしゃべって貰おうか…」

 

 こめかみをぐりぐりされ、目尻に涙を溜めながら、アンはごめんなさいを繰り返す。

 「はう。全部白状します、するからぁ」

 ついでにこの前の事も吐いて貰おうか。

 青雉に迫られている子供をみて、スモーカーは唇の片端を上げた。

 「アン、聞かせろよ。おれにもかませろ」

 思わぬ人物から名を呼ばれ、目をぱちくりさせた少女を面白そうにクザンは見る。

 「さあ…戻るぞ」

 大将が声を周囲にかけ、海兵を撤収させる。

 だがしかし、道すがら、こめかみへの攻撃は終ぞ終わる事はなかった。

 



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36-世界会議(3)

 あるところにひとりの優しい王さまが住んでいました。

 その国は裕福ではなかったけれど、国に住む人々は優しい王さまとお妃さま、王子さまと平和に暮らしていました。

 ところがある日のこと。

 隣りの国の王から助けを求める手紙が届きました。

 なんと隣の国に恐ろしい熱病が流行りだしたというのです。王さまは不遇を嘆き、その熱病の特効薬である国の宝である木を何本も切り倒しました。たくさんの人が既に無くなっているらしいと聞いていた為、すぐに煎じて飲めるよう用意して家臣たちと共に向かったのです。

 けれど訪れた王さまは吃驚しました。

 熱病など起ってはいなかったのです。

 

 隣国の王の狙いは、優しい王さまを殺す事でした。

 そうしてお妃さまを攫いました。王子さまを殺しました。

 隣の国は、隣の国になってしまいました。

 

 「けれどその王子さまは生きていました。革命軍のひとりとなって。頼まれたの、友達に。止めて欲しいって」

 

 海軍仮設詰所で青雉の膝の上であらましを全部、白状させられていた。

 最近このパタンが多くなってきたようにもアンは思う。つい最近にも夢だと思えなくもないが、抜群の美兄に口を割らされたばかりだ。海軍に居着き過ぎているような気もする。人脈も軍繋がりが多く、どんどんと埋められる外堀に再度水を流し込むのが精一杯だった。

 

 頭の上に青雉の顎が乗る。

 逃げられない場所に確保されていた。

 青雉の膝の上という最も恐ろしい椅子で、片腕をしっかりと握られている。

 

 不確かな情報では海軍は動かない。

 ではどうしたら良いのか。もっと上から命令が下ればいい。そう、五老星、それに並ぶ権力を持つ世界貴族の誰か。となればアンのつてはひとつしかない。

 

 「で。お前さんの情報通り事が起きちまった訳だが」

 ルッチがここに派遣されている以上、政府が動いている可能性が高い。しかも情報は隠匿されたまま、秘密裏に行われている。

 「目星はついてるのか?」

 「あ。うん、ちょっと待って。…大将、降りてもいいでしょうか」

 スモーカーの問いに応える為、一旦手を放して貰い数枚の写真を手に戻って来る。

 4枚を机の上に並べ、指で示した。

 「名前はニーム。ニーム・ゼンダン。かつてクロトン国と呼ばれていた、南の海出身者。悪魔の実の能力者で、爆発に関する能力らしいです」

 「あらら。これ危ないんじゃないの…」

 

 革命軍がこの聖地へ紛れ込んでいる事実を聞いても、青雉を含めた戦隊の官達に動揺は見られなかった。いつもの事だから、だ。青雉大将が乗り込んだ場所で何事も無く事が済み、終わる訳が無い。

 

 『コイツのいる所で平穏を求める方がおかしいってもんでしょう』

 ルッチの肩にとまる鳩がやれやれと羽をすくめながら首を横に振る。その視線が向いているのはアンだ。

 「うわ、ルッチひどっ。しかもハットリ使って言うのってどうなの!?」

 そんなやり取りに、くすくすと下士官達から笑いが漏れた。

 

 「で、その標的は?」

 やれやれと背凭れに体を預けた青雉が目的の提示を促す。

 「はい」

 アンは世界会議の参加者名簿を青雉が座る引き出しから取り出し、最終項にある一国を指し示した。

 「この国の王が、ニームの母君を奪った本人です。ただ…」

 「ただ?」

 スモーカーが疑問符をつけ、口を噤んだアンの次の句を待つ。

 「実はその。デイハルド聖の、義理の母に当たる方になっておられまして…世界貴族の問題にも足を突っ込む羽目になっちゃっうから、出来るだけ個人的に…」

 言葉尻が小さくなってゆく。

 それでも義祖父であるガープに相談し、センゴク元帥からコング総帥へ話を渡して貰い、今の状況があると併せて説明した。

 

 出てくる名前に度肝を抜かれた官達は多い。

 よもやコング総帥の名が出てくるとは思いもよらなかった者達は、あんぐりと口を開いている。

 青雉はそんな事だろうと思った、とアイマスクをした。

 ロブ・ルッチは世界政府に属する。命令を下せるのは長官であるスパンダムか、それより上の立場にある人物だけだ。

 

 高官を父に持ち、影響力を強める能ある人物も確かに存在している。だがそれは、何年もかけ積み重ねた功績により認められる力だ。

 誰が想像するだろう。

 たった14歳の少女が世界の中枢にノックする扉(ほうほう)を持っているなどと。

 

 「なるほど。そわそわしていたのはそのせいだったのね。ヒナ納得」

 必要以上に町の中を走り回り、情報収集していた理由の落とし所を見つけ、ヒナは頷く。

 要するにニームという革命軍に属する人物を捕縛し、聖の義母を守ればいい訳だ。

 ヒナがまとめた情報に、アンが苦言をこぼす。

 「それが事情がもう少し複雑で…」

 『…それ以上にまだ隠しごとか。喋っちまえよ、サアサア』

 「もう、ルッチ。急かさないでよう」

 

 数分の沈黙後、アンが観念して話し出す。

 「ニームを聖地へ招待したのが、その母君であるジキタリス様なの」

 聞けば聞くほど、部屋の温度が下がっていく。大将が実の力を使っている訳ではない。

 

 「半端ねぇな…」

 スモーカーが煙草に触れようとした手に気付き、わきわきとし下げる。

 

 わたくしの可愛いニーム。

 素敵な力を得て、この腐食した煌びやかな町へおいでなさい。

 破壊を望むのなら招待致しましょう。

 わたくしの願いを叶えてくれるならば、可愛いニーム。

 その力で以って、この偽りの絢爛たる町へおいでなさい。

 権家の長を紹介致しましょう。

 

 そうしてかわされた約束がひとつ。

 ”ゲームをするでおじゃる”

 ”せっかく世界会議という舞台が整っているのであるから、使わなければ面白くないのじゃ”

 ”己は革命軍に所属していると聞いているが間違いないのかえ”

 ”よいよい、ならばとくと聞くがよかろう”

 ”こちらが用意するとある人物を屠れたならば。最大の援助を与えてやろうではないか。ただしみっつの約束と、ひとつの障害を用意させてもらうがね”

 

 交わされた内容を、アンは口にする。

 「約束とは、ひとつ、各国の家族である誰か。これは誰か明かされていません。知っているのはこのゲームに関わっている天竜人だけです。後ほどその人物では無かった、とならない為に、割り符が用意されました。半分の内ひとつは、ニーム、止めるべき相手が持っており、もう半分はジキタリス様が所持しています」

 

 「ふたつ、その人物だけを狙ってはいけない。これは余興として組まれたものなのですが、数当てがなされています。示した数が一番近い誰かが勝者となる、という…」

 

 「そしてみっつ、青海の王に危害を加えてはならない。この聖地で行われる会議は、天竜人達にとってみれば退屈しのぎのひとつなのです。閉会されるとなにかと、いろいろあるらしくて。詳しくは聞くのをやめてしまったのですけれど。…最後ですが、障害はわたしと決められました。ディ、デイハルド聖がねじ込んだのです。尚わたしはこの事実を人に話してはならない、とされていますが、ぶっちゃけこめかみへの攻撃が嫌なので吐いちゃうんですが」

 

 最後のそれは、ここに居るみんなが黙っててくれたら問題なしなんだけれど。

 アンはそこで言葉を切る。

 実は秘密が漏れた時の算段もつけられてはいる。ばれたらばれたで、デイハルドの賭け金が倍増する、というものだ。

 世界貴族達の間で繰り広げられている、心理戦の模様は割愛した。言う方も聞かされる方も言葉を失うだろうからだ。

 

 遊戯だった。

 官達はだれもが訝しんだ顔をしている。

 スモーカーに至っては怒りをあらわにしていた。

 「んなもんに従うこたぁ無いだろうが!!」

 怒りは最もだ。しかも相手が決めた取りきめの中で動かなければならない理由が余りにも不当すぎた。

 「けれどそれがここの決まりなの。守らざるを得ない」

 憤怒の表情を持ち、青雉の前にある机をスモーカーが破壊した。

 「狂ってやがる…」

 官のひとりが唇を噛む。拳を握りしめている者達も多い。

 理不尽だった。何もかもが、ここという場所では人は、塵埃(じんあい)だった。

 

 「そうだよ。世界貴族ってそういう存在なの。自分たち以外の、この聖地と呼ばれる場所に住んでいる人達以外はどうでもいい」

 

 アンは唇を弧に結ぶ。

 

 「だから、かな。ディがわたしを指定してくれた事が嬉しくて仕方が無いの。たかが小娘と天竜人が言い放ったらしいし。絶対に止めてやろうと思えた。個人的感情になってしまうんだけれど、助けたいから助けるんじゃない。気に入らないから助けるんだよ。そこを間違えないで欲しい。天竜人達の悔しがる顔を見る為にやるのが楽しいと私は考えてる」

 

 アンは世界貴族達がゲームとしたこの殺戮に、真っ向から立ち塞がる意志を示した。

 海軍が"治安維持"に奔走するだろう事も予想に入れられている。

 

 「…これが黙ってた理由です。納得出来ないだろうけれど、理解して貰えると助かります」

 「…なにひとりで格好つけてんだ。この馬鹿が。何でもひとりで出来るなんて思いあがるなよ。正義なんてもんはなァ多少だらけきってるほうが真っ当になんだよ」

 

 ぐりぐりと、お決まりになったこめかみへの攻撃を行いながらクザンが静かに口を開いた。

 込められた感情は零下の憤りだ。

 

 アイマスクを上げ、青雉が部下に指示を出す。

 「今聞いた通りだ。お前ら全力を挙げて阻止しろ」

 

 青雉大将の、底冷えするような声に誰もが背筋を正し敬礼する。

 

 

 

 そして午後からの会議が始まった。

 将校は午前中と同じように、下士官達は平穏を装いつつ各所に目を光らせ警護に当たる。

 会議が無事終了し、闇に包まれても海兵達に休む間など無い。

 三つの約束の最後、青海の王に危害を加えない、がある為、少なくとも初日は滞在する館を破壊しはしないだろう。そう考えての事だった。

 

 「そう言えば大切な事を聞き忘れていたわ」

 それぞれの配置に向かう際、ヒナがアンに問う。

 「革命軍の友人にアンは止めて、とお願いされたわけよね。その本体の意向はどうなのかしら。ヒナ確認」

 

 アンも問われてハッと気がつく。そう言えば忘れていた。

 「単独らしい。というのは上層部に人脈が無いから」

 にっこりとほほ笑む顔に、怪しい、と誰もが思う。

 「やれやれ、理由なんかが必要かい、ヒナ中佐」

 相手は革命軍というテロリスト、海賊と同じ対消滅対象であるのには変わらない。

 久々に活動的になっている青雉に各々が物事を進める速度(テンポ)を崩されていた。

 大将がやる気になっている事自体は喜ばしい。だがいつも適当にやってくれ、とさじを投げる青雉なのだ。

 誰もが何か、やりにくさを感じていた。

 しかしやらないわけにもいかない。ヒナも指示に異存は無いと各々が受け持つ場所へと向かう。

 会議の会場はいつにも増して、各国の衛兵が詰めかけていた。

 それはそうだろう。この世界の中で最も安全な場所と言われている、聖地で傷害事件が起きたのだ。それぞれの王達は、自らの身を守るため、兵を引き連れ会議の席に着く。

 

 その場に、今日という日は世界貴族が数名入室した。

 鈴の音のような金属音が衣擦れと共に王達の耳に届く。

 入ってきたのは3名だった。それぞれがシャボンディへ訪れる際、身につけるスーツを纏っている。そして一足遅れて最年少の少年が会議場へ足を踏み入れた。

 

 各国の王達の数名が腰を浮かせる。

 「よい、続けよ」

 議長の後方に用意された椅子にそれぞれが腰を下ろし、部屋を見回す。

 この会議の席に置いて、王達の発言はみな平等だった。論議なども行われる。

 たったひとつの例外を除いては。

 

 そう、この世界会議の席でも世界貴族の発言はなによりも重く受け取られる。

 もしふたつの国を指し、戦争をせよと命じられたならば、許しが得られるまで行わなければならなかった。

 先ほどまで悪態をついていた幾つかの席に座る人物達は、咳払いをし口を噤む。

 諸侯---各国の王を面白そうに見つめるのは世界貴族達だ。

 

 「のう、議長。タラッサ・ルーカス。なにやら町で騒ぎがあったと聞いたアマス。そちの家族は息災か」

 

 ざわりと会場が揺れる。

 海兵達は怪訝な顔をする者と必死に表情を取り繕う者、2者に分かたれる。

 見聞色を会得している海兵達は、誰もが心拍音をいつもより多く打ち鳴らしている様を聞く。

 イルシア王が立ちあがり頭を下げ言葉を選び発言した。

 「天竜人の御方々、私(わたくし)ごときの身をご配慮賜り至極に存じます。この地には海軍大将他、有能な海兵が政府より派遣されており、また私をはじめとする各国の精鋭を引き連れ滞在させて頂いておりますれば、多少の事が起りましても我ら、微塵も不安などございません」

 

 ならば許そう。

 宮が紅の唇を弧に結ぶ。

 王達は安堵の息をそっと吐く。ここでお開きになれば国毎(くにごと)の事情に因るものの、自国の利益を追えなくなる、一部も存在していたからだ。

 

 会議はつつがなく執り行われる。

 アンはその中でうとうととまどろみと戦っていた。昨夜一睡も出来ずに朝を迎えていたからだ。若さで何とかなるだろうと思いきや、眠りへの呪文は古文の朗読カセットに匹敵していた。ふたりの海兵の陰になるように立ち、ごまかしてはいるが、ここで寝落ちるのは余りにも危険すぎる。

 うあー。なんか瞼がくっついて取れ無さそう。

 踏ん張ってはいたが、危険線(レッドライン)を今にも飛び越えてしまいそうだった。

 意識の向こう側ではエースが面白そうに子守唄を歌っている。

 半身は思いの外、歌が上手い。カラオケがあれば、是非歌って貰いたい曲があった。

 

 (アン、起きろ。視えたぞ、ヤツの姿)

 (ふえ? 意識飛んでた?)

 ハッと気がついたアンが唇を拭う。

 がっくりと肩を落とすエースから、言葉が伝わって来た。

 (ニームだ。噴水広場にいる)

 (はあい。じゃ今から行くねぇ)

 緊張感の無い答えを返し、アンは瞬間移動を使う。

 現れたのは噴水広間の真上だった。いつもは見上げる噴水が斜め下に見える。

 丁度パレードが行われている所だった。楽隊を従え、色とりどりの衣装を着た仮装者が踊っている。

 

 大勢の人間がうごめく中、たった一人を見つけるのは難しい。

 だがアンにはそれが可能だった。ひとりだけではない。ふたりの見聞色が、ふたつの線が交わる場所を探し出す。

 

 不意に脱力感がエースを襲う。

 (おいアン、マジかよ!!)

 このまま下に落ちれば重力と速度に加重が足され、肉体が損傷する。

 エースは焦った。

 森では獲った肉を焼いている最中だ。一応は安全な場所ではある。ルフィひとりでも、森に生息する動物ならば一人で撃退出来るだろう。

 自らの体から意識を手放し、半身に添う。

 

 くそっ、海軍なんかに行かせるんじゃなかった。

 エースは勝手知ったるもうひとつの体に感覚を集中する。多少窮屈だが仕方が無い。

 即効月歩を発動させ、体勢を整え、水しぶきを大きく立てた。

 「待ちやがれ、逃げんな!!」

 エースは叫ぶ。目標は見失ってはいない。

 

 男はにこやかに笑んでいた。

 男は動かない。動く必要が無かったからだ。

 母が用意してくれていた大量の宝石を手のひらに掴み取る。

 海軍が嗅ぎつけているのは知っていた。なんという幸運なのだろう、男は天に祈る。

 ”手を出してはいけない海兵では無いもの”がわざわざ突っ込んできてくれたのだ。

 これを幸運と云わずになんというのだろうか。

 各国の王達は会議が行われている館に全員集まっている。

 この場所にいるのは、その関係者達だ。

 

 パレードを眺めていた人々は突如空から噴水へ降り立ち、大量の水しぶきを上げ品が余り宜しくない言葉使いをしながら何かを追いかける姿を見、あっけにとられていた。

 しかし昨日の話が脳内で結びつくや否や、大混乱へと陥った。

 広場には4本の道がある。しかしそのどれもが、ごった返す。

 

 集団心理に陥った人々は殺到する。

 

 男は、ニームはボストンバックの口を開け、それを空(くう)に向かって放り投げた。

 赤、青、黄色、緑、橙、乳白色。ありとあらゆる色が青の空の元、輝きながらばら撒かれた。

 人々は視野に入った何かを見た。

 ほんの一瞬だ。逃げる事を忘れ、色とりどりに目を奪われる。

 

 「生まれろ!! 阿鼻叫喚よ!!!」

 「させるかよ!!!」

 

 指先にちりちりとした熱さを感じた。そのまま拳を握り、掌に意識を集中し放つ。

 焔が生まれた。

 炎に触れた宝石が爆発する。悲鳴が破裂音に混じった。

 数日前アンが風を掴んで起こしていた様を真似してみたのだ。発生したのは焔だったが、些細な違いだろう。

 「全部とはいかねェか」

 つぶやく視線の先には鳩を肩に乗せたロブ・ルッチが佇んでいる。

 「礼は言わねェぞ」

 『…どうでもいい事だポッポー』

 ハトを肩に乗せた男は、何十個と漏れた宝石を鉄塊を纏っただけの状態で、爆破、破壊していた。

 食えない人物だとエースは睨みつける。

 

 「そこのお前、おっさん連れてこっち来い!」

 昨日アンがかばった少女を視界の端に見つけ、呼ぶ。無闇に脱出するより、中央部に居た方が安全だったからだ。落ちた宝石に触れなければ、だが。そこまで構う暇は無い。

 

 ロブ・ルッチの助力を得ても、全ての宝石を撃ち落とせず白い石畳に紅の血潮がぶちまけられていた。上半身が吹き飛んだ身体、を踏みつけ人々は逃げ惑う。手を伸ばしたのだろう、指が吹き飛び絶叫を上げる女、を押しのけ4つある路へ入ろうとしている姿があった。

 

 中央部は空隙を生んだ。技を放てる、悠々とした空間だ。

 「はっ放せぇ」

 男はじたばたと腕で這って逃げようとするが、背に乗る小さな体が邪魔をして数ミリすら移動してはいない。

  アンの体は能力者の力を奪うと云う。嵐脚を脛に当て骨を折り筋を絶てば、肉体的にも動けないだろう。

 「母上が助けてくれる…母上がぁぁ」

 女々しく叫ぶ男へ、エースはガツンと踵を下ろす。

 「うるせェ、黙れ。おれは弱虫が大っ嫌いなんだ。それに…命かける覚悟無くこんなとこに来んじゃねぇよ、アンの仕事増やしやがって」

 腕を組み、冷たい視線を下す。

 眼光の威嚇が放たれ、男は気を失った。

 「胸糞悪ぃ…」

 エースは意識を喪失したままのアンを探しながら、空を仰ぐ。

 そうしてつぶやくように吐きだした言葉に、水色髪の少女が心配そうに潤んだ両眼を見上げた。

 

 エースは知らない。

 その様を興味深げに見ていた複数の姿があったことを。

 



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37-イワレナイ罪

全文14576文字となっております。目を休めながらお読み頂ければと。


 「ねぇイワちゃん。本気?」

 革命軍の本拠地であるバルディエゴで、アンはかくりと首を傾げる。

 傍には革命家ドラゴンや暴君くま、その他の幹部達も顔を揃えていた。

 ここは作戦会議室と呼ばれる、いくつもの机や海図(ワゴン)、電伝虫が置かれた部屋だった。

 「アンちゃんと遊ぶのは私なのー」

 「こっち来たら稽古付けて貰う約束、オレもしてたんだぞ!」

 子供達が膝に置かれていた手を両側に取り合いながら、睨みあっている。

 片や鬼ごっこ、片やナイフ投げ、に付き合って欲しいらしい。

 「はいはい、ふたりともわたしは世界にたったひとりしか居ないからね。取り合わないで。先に小父(おじ)さん達の難しいお話終わらせてからにしましょ」

 くっついて離れないのは、かつて"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"で別れた孤児達だ。以前からたまに、手紙のやりとりしていた。

 最近はといえば、マリンフォードにはさすがに革命軍所属の誰かが入ってくるのは難しいらしく、任務地や航海先でまとめて貰うのが常となっている。

 手引きして欲しいと何度か声をかけられたが、ドラゴン以外からの頼みは全て断っていた。なぜならアンにとってみれば、彼以外の頼みを引き受ける理由が無いからだ。

 「また後でね」

 子供たちが納得しないまま引き離されてゆく背をアンは手を振って見送る。

 

 さて、と。

 ぱたりとドアが閉められた音を背で聞きながら、アンは子供達が緩和してくれていた場の雰囲気へ、本腰を入れて対応しようと背筋を伸ばす。

 視線が針のむしろだった。しかしこの程度でたじろぎはしない。3大将を両脇に、センゴク元帥から睨まれる方がよっぽど怖いと知っているからだ。

 ちらりとイワンコフを見るが、いつもの大きな顔のまま笑んでいる。ドラゴンに至っては目を閉じ座したままの姿を取り続けていた。

 

 出されたお茶も冷たくなっている。アンはそれに口をつけ、香りが付けられた茶をこくりと飲む。

 

 

 ある日義祖父から手紙を手渡された。

 艦隊が補給の為に寄った港で、息子から娘へ渡して欲しい、そう言われたらしい。

 義祖父が警邏(けいら)航海から帰り、暇な時にでも茶を飲みに来い。

 誘われて行った先で無造作に放られた封筒に入っていたのがそれだ。開けてみると友人たちからの手紙、とメモ用紙に挟むようにして複数枚の写真があった。

 

 「…おじいちゃん、これ」

 「確かに渡したぞ」

 「あ、うん」

 

 質疑は受け付けてもらえぬらしい。

 友人たちからの手紙には日常の生活風景が書かれ、メモには乱暴な文字で日時と時間だけが記されている。

 義祖父に尋ねても、この件に関してはもう口を開かないと確信があった。

 手紙にはなにやら不穏な記載が。それが来週執り行われる、世界会議となれば背に嫌な、冷たい汗も流れようものだ。

 脳内でどことどこへ連絡し、裏を取ればいいのか。算段をつける。

 目の前に居る義祖父は使うにしても、聖地が舞台になるのならばデイハルドにも一報入れておいたほうがいいだろう。となれば、コングが脳に浮かび、さらにセンゴクのしかめっ面が順に並ぶ。

 

 「おじいちゃん、助けて、欲しいなぁ。わたしのコネクションだけじゃこれ、捌き切れないかも」

 

 弱音をこぼし手紙を見せれば、妙に真剣な眼差しになった義祖父が髭を撫で始める。そして電話を取り、元帥への面談時間をいつもとはちがう正式な手段で取り付け確保、その場に孫娘を放り込んだ。その間に事情を察した幾人かの部下を使い、情報としての裏を取りに走らせる。孫も馬鹿ではない。どのように入手した情報かはぼかすだろう。そしてセンゴクもその出所に関し、強く詰め寄ることはしないと踏む。

 その後、こってり絞られて帰ってきた孫娘をコングの元へと放り投げ、事の収束へと向けて道筋をかいた。アンの行脚はコングの下に行っただけでは終わらず、デイハルド聖の元で二日ほど、新たなドレスローザの王の件についてのあれこれで奔走することになり潰れるのだが、全て丸く収まれば全て良し、となるのが世の常であろう。その際に忙殺される幾人はあれど、華麗に黙殺されるのまた常だ。

 

 落ち着けば興味をそそられるのが添えられている写真の先だ。

 折角革命軍の本部に招待されているのだから、行くっきゃないだろう。

 CPに所属する腕利きでも、本部があるらしい周辺の海流を超えるのに四苦八苦すると聞いていた。波を操る能力者が居るのかと思ってしまうくらい、その海域の流れは複雑怪奇なのだという。となれば手段として空を使うしかないが、翼を持ち自由に闊歩できる人物は両手両足の数で足りる。だがそれも対空装備さえ備えれば革命軍の基地に近づくものを一掃できた。

 唯一、アンにだけ許された方法を使えばすんなりと移動可能だが。それを使えといわんばかりの写真同封である。

 ダメもとでアンは指定日に休みの申請を行ってみた。

 いつもならば理由なき休みは却下される。しかし今回はやけにすんなりと通ってしまった。本当に貰えるのかと、おつるに何度も確認した位だ。

 そして今に至る、のだが。少々頭が痛かった。

 

 簡素なテーブルを囲む面々から漏れ出る不信感が半端なかった。歓迎してくれているのは、ドラゴンとイワンコフだけである。それと友人たち。考えてもみればそれが真っ当な反応だろう。なぜならアンは海兵であるのだから。彼らにしてみれば倒さなくてはならない相手であり、最終目的を果たすために切り開かなければならない大きな壁である。

 

 軽く紹介が行なわれ、即議題に入った。アンが無理矢理入れたといっていい。針のむしろから早く出たかったのだ。

 

 今回、この地に来た、そして呼ばれた用件がふたつ、と個人的なものがひとつ、あった。

 ひとつは世界政府からバーソロミュー・くまへ、王下七武海加入を求めた最終返答期限が通告されたという。その真意について、だ。

 

 なぜ白羽の矢を打たれたかは、大体の見当がついていた。

 一般の海兵ならば知らないような事でも、聖地マリージョアへ頻繁に出入りするアンならば何か知っているのではないか。そう思ったのだろう。

 

 だがこれはドラゴンの考えではない気がした。

 確かに鮮度ある情報は必要だ。しかしなくてもどうにでもなるのではないか。

 あればあった、で状況を把握しやすくなるが別段、重要な話では無い、とアンは思う。

 幹部達がどうこう言ったとしても、判断するのはくま自身だ。

 軍として動くならば、決定権はドラゴンにある。しかも今回の件は、世界政府から働きかけたのではなく、くまのほうから裏口を使ってねじ込んできた、と耳に挟んでいる。どうやら『くまさん』は自らこの件について思惑を吐露するつもりがないのだろう。あくまでも七武海への誘いは政府から、としたいのだ。と、するなら口を挟むのは良くない、と判断する。

 

 それに加え今月初めに海軍の中に紛れ込んでいた革命軍の息がかかった人物達の、一斉摘発が行われた。暴君への要請に限って言えば、勧告が出た後だ。動きを掴むも何も、アンが知る中でもかすらせて出すべき情報はなにひとつとして無かった。

 

 今までならばある程度の情報は手に入っていたのだろう。

 海軍側としても全ての機密が、守られているとは思っていない。なぜなら組織として動く限り、人から人へ手渡される過程である程度は漏れ出てしまうからだ。

 漏えいを前提に、情報を扱う機関にはブラフ--偽情報やはったりを混ぜて放出するように提言してあるし、アンが上層に食い込む度に強度は強くなっている。それに関し関係ない部署にまで引っ張られそうになっているが、なにせ海軍はどこもかしこも人材不足だ。古くから設置されていた海兵学校が叩きなおされ、教育機関として再度発足されて育てられてはいるが、その人材たちが現場に出てくるのはまだもう少し、先である。

 

 情報の空白。

 なくても大して活動の進行には障害をもたらさないものの、手に入れられなくなった不安。これが冒頭の質問へと繋がったと見た。

 

 それにしても、とアンは義祖父の意味ありげなその時の顔が脳裏をよぎる。

 最近頓に『ガープ中将』で止められている情報が意外に多いのではないか、そう思い做(な)すようになってきた。義祖父の部隊に配属されている人員もそこら辺の采配に関して、使う時期に間違いは無いと信頼を置いているようだ。

 

 とはいえ。

 アンの立場は少なくとも、公的に、海軍本部中佐という、あとひとつ位が上がれば艦を任される階段に立たされている。それもあと数カ月だが、今はまだ責任ある立場だ。こうやって敵対勢力である革命軍の本部にお邪魔する身では無い。

 

 それを丁度休暇なのであれば、行って来い。

 送り出せる義祖父の懐が、大きいのか破けていて底が無いのか判別がつかないのだった。

 もしかすれば義祖父以外の幾人かも承諾している可能性もある。海軍の規定に縛り付けず、縛られてもその間をすり抜ける気満々のアンだが、上層部はあえて行動を束縛していない感がある。デイハルドの首輪がよほど効果抜群なのだろうか、とも考えるがいくつもの思惑が交差する狐と狸の巣窟を想像しつくすのは難しい。

 

 もっとも。

 そんな、与えられた身分を気にしていたら、多方面、七武海や他の海賊達と仲良くなどできはしない。海兵のコートを纏っていなければ表立って敵対する意思を持たないと、彼女と縁を持った多くの海賊達が無言の承諾としている。

 状況に応じて対応せねば身が持たない、と赤犬の艦で過ごした1年で思い知った。何事もほどほどが一番だ。

 忙しすぎて、簡単に流してはいけない幾つかの案件を見事に放り投げているような気もしないでもないが、掘り返す気力すら今はない。

 身分も地位も全て返上してから、ゆっくりと振り返る際に吟味すればいい、と棚上げをそのままにしている。

 

 「上の考えなんて分かるわけありません。わたしから情報を引き出そうとしても、無駄と言っておきましょう」

 聞く方が御門違いです。

 すぱんっとアンは切り捨てる。革命軍の幹部の一人があんぐりと口を開けた。ドラゴンに対し、失礼な物言いはなんだ!! そう言う口をもうひとりがまあまあ、と押しとどめている。

 アンにしてみれば、わざわざ来てあげている身、である。何の見返りもなく危険を冒して訪れている。それなのに下に見られて罵倒される謂れは無い。幹部としては、こういう場で感情を顕わにするなど、もしかすればものすごく腕っ節も強く多くの部下から信頼されている可能性も無きにしろ、少なくとも交渉の席には向いていない、付かせるべきではないのではないかと言わざるを得なかった。

 それに七武海の選定に関し、知っているとすれば中将以上の役職者達、及び、五老星に近しい者たちだけだろう。

 重要な立場に雁字搦めに縛りたくて仕方がない数名がいることなど、全くそ知らぬふりをしているアンである。

 

 ない、とは思うがもしもアンの友人たちを盾にしたならば、丁重にもてなすだけだ。何も表立って戦うだけが戦ではない。世界貴族と繋がるCPとの誼がアンを一線を越えたもうひとつの世界を見せたからだ。

 

 おじいちゃんに直接、小父さんが聞けば済むんじゃない?

 アンはドラゴンにそう尋ねない。

 なぜなら義祖父はセンゴクや世界政府に革命軍に関して何も云わぬが、同じくドラゴンにも海軍側の情報を全く言わない。中立をとり続けている。

 

 真意は本人の胸の中だ。

 いくら考えても想像や予想でしかない。

 ふと視線を振った暴君の口元に笑みが浮かんでいた。すぐに消えたが、はっきりと意図した表情の動かし方である。『くまさん』は特にアンと仲の良い子供たちと仲が良い。なにやら企んでいる感がひしひしと伝わってくる。後でしっかりと聞かせてもらわねばなるまいと記憶に太文字で最重要案件として覚えこむ。

 小さく息を吐き、個人的な考えでよければ、と前置きしてアンは言葉を続けた。世間話で収まる範囲内を。

 

 「考えられる理由は幾つかあるけれど、革命軍の幹部でもあるくまさんを手元に置いて様子を見るつもりなんじゃないでしょうか。革命軍に合流する前のくまさんって凄かったって聞いてるし。2億3600万ベリーでしたっけ。革命軍幹部としての危険性が加わって、ほぼ3億の懸賞金がかかっている。世界政府としてはそれすらも利用する算段なんだろうなぁとは思うけれど…理由はさっぱりです。五老星、もしくはそれらの命令を出せる誰か、に直接聞くしかないでしょうね」

 

 ざっと考えを羅列してみたが、腑に落ちない点もやはりある。

 そもそもなぜくまが賞金首になったのか。それは彼の生まれ故郷が世界政府によって召し上げられたから。当時国そのものを人質とされてしまい、対抗する手段を持たぬ彼は身を引かざるを得なかった。だがもともとは、くまはかのの国王であり、世界会議に出席できる資格を有していた。そこから考えられるのは、天竜人へ手を出すとどうなるのかを知らしめるための、いけにえだろう。

 外聞的に世界政府としては、革命軍を世界を混乱に貶めるテロリスト、と世に発しその幹部でもあるくまを利用して情報を引き出したい可能性もある。

 

 

 世界会議の決定を受けての宣言だ。

 幹部達の顔写真を張りだし、海賊達と同じく賞金首とした。

 だが海軍内部の動きを見る限り、活発に動いている気配は無い。見つければ対応するように通知は来たが、最重要討伐を命じられてはいなかった。

 なにせ世界各国の王たちの要請にまで応える余裕がないのだ。受理してほしければ、海へ海賊として流出する自分達の島民を何とか思いとどまらせろ、島から出すなと声を大にして言いたいくらいなのである。貧困は人の心を壊し暴力へと走らせる。

 

 先だっては黄猿が、余りにも残虐の域を超え過ぎたとある、世界政府加盟国から落脱したとある海賊船団を捕らえ、インペルダウンへ収監したばかりだ。そう。世間から存在そのものをもみ消さなければならないほどの行為を行う荒くれ者達の存在抹消が最優先されているのが海軍だ。

 青海を治める多くの国々の中で、革命軍を会議の議決通り、脅威と捉えているのはまだほんの一部であるのが実情であり。世界会議で決められたからと言って簡単に対応できないのが実情なのである。そんな苦しい実情を大いに知る海軍上がりの世界政府高官のひとりが、上手く手を回し丁度空いた枠に組み入れたのである。

 

 ならばこそだ、とその人物は言った。

 今のうちに革命軍という名のつくものを、吟味する。

 海軍のように統制された組織ならば、調略してCP9のような位置づけで組みこむ事すら予定されているのかもしれない。

 

 だが今考えていた全て、アンが知る情報だけで推測しただけだ。

 本当の事は分からない。

 思考にしても穴だらけで、もっと博識な、情勢を上手く読み解ける人物が居たならば精査できたがここまでだ。

 

 「はっきり言って、くまさんの方に関してはお手上げです。けれどふたつめのインペルダウンへのご招待なら、可能です。軍を退役するまでの間であれば、ですが」

 「…退役?」

 幹部の一人がオウム返した。

 アンはこくりと頷く。

 「けれど革命軍にはお誘い頂いてもご一緒することは無い、と明言させて頂きます。ドラゴンの思想と、わたしがもつ世界のあり方はまたちょっと違うから。でも…」

 にっこりと笑うアンの言葉に、誰かの喉が鳴った。

 「あなたがたが私の宝物とそこから繋がる全てを利用せず、糸を断ち切らないのなら、出来る限りの協力はさせて貰うつもり」

 釘はもちろんささせて貰う。弟の実父だとはいえ、その教育を育成を放棄した人物だ。大切で大事な弟をだしに使う気であるならば、徹底抗戦も辞さない。

 その意思が伝わったのか、そうでないのか。ドラゴンが組んでいた腕を解き笑む。

 「あるのか。5.5という場所は」

 「ええ、ある。断言してあげるわ」

 

 「随分と簡単に教えてくれるじゃナイ。アンアン?」

 イワンコフは表情を変えぬまま、小さな顔を覗きこむ。ドラゴンはこの、自らが組織する革命軍の、中核を担う幹部にも己の素性を明かしてはいない。

 なのにもかかわらず、ゴア王国で出会ったこの少女にだけは知らせている何かがある。この少女にどれだけの価値があるというのだ。ただの海兵よりはましではある。それに彼女の宝物とは一体なんであるのか。ドラゴンは知っているのか。ドラゴン側から調べるのが難しいなら、この少女側からであれば、と思い耽っていると

 「不服?」

 細められる黒の瞳に、ぞくり、と悪寒が走る。この世には触れてはいけない禁忌がある。彼女のそれに触ろうとしていたのだと理解すれば早い。触らぬ神になんとやら、である。ゆっくりと首を振った。

 (ドラゴンとアンアンだけの秘密。なんてうらやまけしからん、話だわん)

 ドラゴンの思想に共感し、歩みを共にしてきた長い時間があるだけに、新たな誰かであれば割り込まれた、やきもちの様な感情が膨らむのだが、この少女に関してだけはなぜか嫌いにだけは、なれなかった。まだよく知らない相手、だからだろうか。かなり子供らしくない子供であり、大人を手玉にしころころと転がそうとする気に食わない部分も多々ありはするが。

 「いいえ。そういう不敵さ、好きよ」

 

 ざわめきが起きる。

 インペルダウン5.5は実在していた。入口も1か所だけだが知っている。

 ではなぜ知ったか。

 幼い頃育った、ごみ山でそこから脱出してきた人物から教わったからだ。

 ではなぜその人物の虚偽でないと知っているか。

 

 その場へ行った事があるから、だ。

 

 「凄く寒い場所だった。雪と氷に覆われていて氷像になっちゃうかと思ったくらい。今なら分かるけれどそこはレベル5(ファイブ)、”極寒地獄”と呼ばれている」

 だからその場所に行きつく為には最低、レベル5に入らなければならない。

 「ここに入るには懸賞金額1億を超える必要がある…けどイワちゃんは大丈夫だよね」

 「ン~フフ。そうね、問題なっシブル」

 ウインクを飛ばすイワンコフからさっと視線を逸らし、ドラゴンを見た。

 「目的は聞かないでおくね」

 

 そして最終、みっつめの話だ。息を軽く吸い、整える。表情を引き締め、個人ではなく海兵としての面を作る。

 

 「例の件、無事収束しました。情報を頂きありがとうございます」

 

 頭を深々と下げればかちり、とビーズネックレスが鳴る。ポートガス・D・アンという人物が天竜人の子飼いであると、この場に集う者たちにとって既に周知の事実であるのだろう。

 流した情報が役に立ってよかったと他人事のように誰かが言った。事実、革命軍にとっても、目の上のたんこぶであったに違いない。革命軍を形作る思想の中に、平等、という文句が盛り込まれている。それは今の世界が、多くに対して平たく等しく分け与えられていない現状を示していた。

 生まれ、教育、毎日口にする食事。ありとあらゆるものが不平等である。

 

 共産主義と民主主義を知るアンにとってはおかしくはないが、分け与えられることなど全く得たことなど無く、最期のひとつぶまで搾取され続けている多くのものたちからしてみれば、ピラミッドの頂点にふんぞり返って久しい天竜人とその組織を維持する世界政府が憎くて仕方がないであろう。上には上の苦労があるのだと言っても意味など無い。革命軍に属している多くが既に貧困に、思想に困窮しにっちもさっちもいかなくなっている状態なのだ。一度爆発させ、まっ平らになった場所から始めたほうがよほど、認識してもらえるだろう。その爆発が世界を、900年前を繰り返さなければいい、とだけ願う。

 

 「……準備が整ったら、連絡を下さい。ああ、そうそう。くまさん、個人的なお話があるので、よろしくお願いします」

 

 アンはそう言い、革命軍幹部が呆気に取られるのも気にせず扉を押し出て行った。

 暴君に視線が集まるが無視をきめこんだようで、口を開かず石のように座したままだ。

 「…本当に信用出来るんですか」

 重い沈黙に押しつぶされそうになっていたひとりが、よもやイワさんが…と最悪の事態を考え、矢継早に口にした幹部が喉を詰まらせる。

 「騙されたならそれまでだったってことよ」

 そんな事にはならないだろうけれど。イワンコフは自信をもってウインクする。その信用はどこから降って沸いてきているのだろう。まったくもって意味が分からぬ自身有り気な所作に、不安ばかりが降り積もる。

 「では始めよう」

 言葉少なく、必要最小限の言だけを発していたドラゴンが語り始め、幹部達の会議が始まった。

 

 

 

 夕闇が迫る丘に立つ背がふたつ、橙色の光を浴びている。

 そこはかつて、兄弟の杯を交わした場所だった。何かに迷うと、必ずここに来てしまう。

 現れた姿にそれぞれが振りかえり、手を伸ばした。

 みっつの影が結ばれる。

 「ここで待ってたらアンが来るって、エースが言ったんだ」

 「そっか。ありがとう、ルフィ、エース」

 ふたりの手をぎゅっと握る。

 

 いつかの旅立ちは近づいて来ていた。確実な足音が響き、前に進んでいる。

 あとどれくらい言葉を交わし、心をこうして繋いでいられるのだろう。

 過ぎてゆく時に止まれ、とは願えない。

 生きている限り言葉を生み続け、心を繋ぎとめようとし重ねる。

 

 世界に偶然は無いのだと言う。

 けれど定められた未来にしか、歩いて行けないのだと諦めるつもりはない。

 そうではない未来を知っているからだ。

 

 世界は大きな道筋を持っている。

 だがそれは強固でありながらも移ろいやすい。軌道修正を行おうと思えば出来る。

 そうである未来を知っているからだ。

 

 終わりの始まりへと、一片(ピース)が着実に、ひとつづつ埋められてゆく。

 どれくらい足掻けるのか、予想もつかない。

 エースは選択した。

 アンも選択する。

 命の使い道を。

 それはたったひとつだけ自分の掌に残された自由だ。

 

 「アンとまた一緒に暮らせんの、もうちょっとだな」

 「そうだね」

 「ジジイが絡んでんのに、そう上手く行くと思うか?」

 

 あからさまな表情が三様に浮かぶ。

 無骨な義祖父がケーキ作りまで習って、アンを海軍へ連れて、否、浚って行ったのだ。このまま芋づる式にと考えているのかもしれない。

 「おれは海賊王になるんだ!! 海兵なんてならないぞ!!」

 どーんと胸を張る弟に、兄姉はがんばれーと声援を送る。

 「揺らがないね。ルフィの夢は」

 アンに当然、とルフィが大きく笑う。

 

 強さを求め、強くなると願う。

 大切な物を取りこぼさないように。"くい"無く生きるために。

 

 けれど。

 一番大切な宝物はもう、今この手のひらに繋がれていると。

 エースは気付いているのだろうか。気付いていなければ待てばいい。アンが両者を繋ぎ続ければ言いだけの話だ。

 灯台元暗し、にならなければいいけれど。今の心配事はそれくらいだろうか。

 アンはすっかり身長差をつけられてしまったもうひとりの自分を見る。

 

 どこかに生きているはずだと信じ、探し続けている兄弟の手も大きくなっているのだろうか。

 もしかすれば革命軍の本拠地に行けば、何かの手がかりが掴めるかも知れないと思っていたのに。

 不確かな物の終着駅(グレイターミナル)で別れた友人たちも探ってくれているようだが、サボには会ってないという。

 世界のどこかには居るはずなのだ。こんなにも気になって仕方が無い。またいつか、再会できるのだという予言じみた確証すらある。

 

 こんなにも探しているのに見つからない理由。

 もし、もしも。

 彼が彼としての記憶を失くしてしまっていたならば。

 

 目が開く。可能性は高い。だが、自分達のことを忘れているなど、考えるだけでも思いたくなかったのだ。

 でももし、そうであるのだとしたら。

 見聞色を駆使してなお引っかからないのであれば。

 

 「ん。どうした」と、エースが目元を和らげアンを見る。

 「う。え、っと、ね?」

 心にわだかまるこの感情を何と答えようかと思案している最中、腹の虫が飯を寄こせという催促をたてた。

 

 ぐう。

 

 「晩飯か」

 ふむ、と考え込むような仕草を兄がすれば、

 「今日はアンが来るなんて思わなかったからな!帰りに狩りするんだろう?」と、弟が両手を握り締め楽しそうに飛び跳ねる。

 聞けば蛇を2匹獲っただけだという。

 「だけ、ってことはならないと思うな。わたしはふたりに比べて小食だし」

 また食べる量が増えたのだろうか。その体のどこにあの容量が入るのかといつも思う。

 

 「お前が食べなさすぎなんだ」

 「一般的にわたしが食べる量が普通なの」

 他愛の無い会話に笑みを浮かべる。

 

 3人は太陽が沈む前に家へ戻る為、結んでいた手を解き森へと向かった。

 「アーン、おれ焼き鳥食いてェ」

 ルフィが放った不意の一言にアンは考える。

 焼き鳥かぁ。フーシャ村まで飛んで買ってくるの面倒だよね。

 でも水炊きいいなぁ。おじいちゃんの好みで最近お魚ばかりだし。鶏肉いいなぁ。たらり、とゆだれが垂れそうになる。

 

 「アン、それ以上鳥の事考えるなっ。思考止めろ!!」

 「ふえ?」

 エースの声に顔を上げると、無数のが羽ばたきが夕暮れ空に黒を広げている。

 「焼き鳥、きたあああああ!!」

 「え…あ。ちょっと待って?」

 何でこうなってるの? アンの声が裏返る。

 横で叫ぶ弟の歓喜が遠くに聞こえるほど闇が一気に視界を覆い尽くす。ああ、そうだった。ここはマリンフォードではなく、海の上でもなくドーン島だった。ここの生態系の裏ボスは。しかもここの島は。しくじっちゃった。

 エースが生きた羽毛の下から半身を救い出した時には、見事に目を回していたという。

 

 

 大量に追い返した鳥達の突撃から数日が経ち、つる中将の鼓舞が飛ぶ中、アンも机に向かい書類を捌いていた。申請書と在庫を確認し、倉庫へ問い合わせをする。物資補給の申請書はいつもの倍、届いていた。

 それもそのはず、艦隊訓練が明後日に行われる予定となっており、提出ぎりぎりの今日、持ちこまれる書類が山のように届いていたからだ。

 続々と艦船が、マリンフォードに戻ってきている。アンもどこかの艦に乗って、それに参加する手筈になっていた。どこに振り分けられるかまだ未定だ。

 先日廊下でばったりと会ったセンゴクから茶でも飲んで行けと誘われ、希望があるならば聞くと言って貰えたので、お爺ちゃんの船がいい、そのほかは嫌!と伝えてはあるのだが、それ以降なんの音沙汰もない。

 

 中将の指示の元、事務兵達は淡々と落ちついて束をまとめてゆく。

 丁度お昼を回り一段落が付きそうになった頃、窓ガラスをこつこつと叩く音に事務員のひとりが気付いた。窓を開けると白い鳩が室内に入る。足首には書簡を入れられる小さな筒があった。

 おつるが中身を確認する。息を詰め、そっとアンを見、ため息を付いて力なく声を出す。

 

 

 「届けるところを間違えちまったみたいだねぇ」

 再度丸められ筒の中に入れられたそれを眺め、おつるは暫し思考した。そしてちょっと席を外すと言い置いて部屋を後にする。

 数十分の後アンに出撃命令が下った。

 能力者でもあるその人物を押さえるには力量が恰好であると判断されたらしい。

 断る理由が無い為、おつるから目的と場所を聞きそのまま飛んだ。

 服装はそのままだが、本部からも近く海兵が寄港する率も多い。アンも何度か訪れた事がある "カーニバルの町サン・ファルド"だ。

 この町はいつでも賑やかだった。踊子の聖地とも言われ、世界中から踊りに命を掛けた者達が集い、劇場が軒を連ねている。

 

 指定された場所は裏街だった。

 どんなに栄えている町にも、貧困層が住む町並みが出来る。

 古びた石造りの家が立ち並ぶ一角に入り込む。人々の顔は表通りとはうって変わり、沈みがちで暗い。正義のコートを纏う将校がこの通りに一体何用なのかと、視線を向けてくる幾つかがあった。

 しかし気にせずに通り過ぎる。裏側を住処とする人々であっても、よもや海兵に手を出しては来ないだろう、と思ったからだ。いつもの癖で苦手としている武装色を纏ってはいたが、出来れば使わないようにしたいところではある。

 手にもったメモで位置を確認しながら角を曲がり、階段を上る。

 

 ピアノの調べが聞こえた。

 この町にはふさわしい曲だ。かつて聞いた事がある。

 ロベルト・シューマン、謝肉祭。有名な曲だ。

 しかしこちらの世界では存在しない曲だった。

 高鳴る心臓の音を聞きながらアンは扉を開ける。

 

 そこは酒場だった。

 「ごめんなさい、あの…マスターはまだ来ていなくて…」

 海兵が扉をくぐるのは珍しいらしく、緊張した声が戻ってくる。なにか粗相をし、調べに来たのではないのか。不安げに揺れる瞳が如実に語る。だからアンは声音を出来るだけ和らげピアノを指差し、

 「あの、その曲…あなたが弾いていたいたその曲は……」

 いい曲でしょう?

 幾許か張り詰めた空気が緩むと、指で鍵盤を打ちながら、懐かしむように口にした。

 

 これは以前この酒場で働いていた人から教えて貰ったものなんです。

 すごく変わった方で。けれどすぐに馴染まれて。

 

 なんでも行き倒れていた人物だったらしい。この酒場のマスターがその人物を助け、介抱したという。

 「異国の方のようで最初は話が出来なかったんですが、半年経った頃にはもう」

 行き倒れていた。異国、言葉。

 自分が生まれた島からほとんどでない多くは知らない。世界全てで共通言語が使われていることを。

 鼓動が高鳴る。もしかするならば。

 「あの、そのヒトの行き先をご存じでは無いですか」

 期待と不安が入り混じった感情が声を震わせる。

 仮に、その予想が当たっていたとして、思い当たっている人物であるかは分からない。

 「気の向くまま足の向くまま、この海を旅してみると言っていました。だから…ごめんなさい。海兵さんのお役には立てないと思います」

 

 いえ、ありがとう。

 アンは礼を述べドアを出る。

 

 その人物はシノブという名だと教えて貰えた。本当はもっと長い名前だったそうだが、呼びにくいなら好きに、と言っていたらしい。

 出発点がここ、サン・ファルドだったのかは分からない。

 異世界迷いこみの定番は無人島だ。かの人の始まりも、そうだったと聞いている。

 どういう冒険をしてきたのか興味あるなぁ。

 アンの想いはきっと、不謹慎なのだろう。

 言葉が通じず、自分が一体どこにいるのか解らない状態なのであれば、どれほどの不安と孤独による狂気に苛まれたか、想像しか出来ない。

 しかしアンにとっては初めての、巡り合いになる。

 足取り軽く、細い通路を進んでいた。自分もかつてあちら側からやってきたとはいえ、此方側での生活年数が追い付こうとしている。

 どちらかといえば、旅人を出迎える側の心境に近いのかもしれない。

 「思いがけない収穫。どうしよう、久々にわくわくする…けどその前に腹ごしらえ、かな」

 香ってくる匂いに、アンは表通りへと視線を投げた。腹が減っては戦は出来ない。と、その前に。迎えに行くほうが先かと思いなおし、足を速める。

 

 お祭りの町には様々な肉料理専門店が並ぶ。

 その中でもお気に入りなのが、ひき肉を使ったパスタ、だ。その店は生野菜も豊富で、季節の温野菜とチーズを使った炒め物も山もりで出てくる。

 以前兄弟を連れて来た時には、ぺろりとその日の食材を全て平らげるという、珍事件を残したいわくつきの店でもあった。

 

 指定された場所に近づくほど、ピリピリとした威を感じ歩みを止める。

 おつるからはその場に居る全てを捕らえ、エニエス・ロビーに連行せよと命じられていた。

 誰が居るのかは知らされていない。だが何となく気付く。

 見聞色が使え気配が読めるとこういう時便利だ。

 

 アンも気配を隠さず通路に立つ。ただ靴音を忘れていた。

 「お迎えに。エンポリオ・イワンコフ女王陛下」

 護衛についていたふたりが銃を構える。その驚きようは威嚇する猫のようであった。

 「キャンディーズ、安心おし。この人は敵だけど敵じゃないの。言うなれば…そう!! 秘密の花園への案内人!!!」

 見事なプロポーションをマントの中から見せ、イワンコフはウインクする。

 ピンク色のハートがぽわん、と出て来てもおかしくは無い瞬きだ。

 身長は男である時とほぼ変わらない。だがそのプロポーションは殺人的なほど妖美だった。

 「ンフフ。どぉかしら今は!! 女の気分~~ん!!!」

 「うん、とても綺麗。わたしはどっちのイワちゃんも好きよ」

 

 満面の笑みを浮かべ、アンは彼女、の名を呼ぶ。

 さすがは一国の主を張る人物だ。

 連行の際の決まりである、海楼石の枷を掛けつつ現状を伝える。

 「ところでね、イワちゃん。たぶん今のままじゃレベル5に行けなさそうなんだけれど追加罪状なにが良いいと思う?」

 「どういうことナブル?」

 問いはもっともだ。

 イワンコフは確かに革命軍幹部、ではあるがカマバッカ王国の女王でもある。

 危険因子とされはいた。しかしその王国は世界政府加盟国でもあるのだ。加盟国から追従国への格下げも検討されたが、かの国に割く戦力が存在しなかった。それほどまでに、カマバッカ王国の守りは厚く攻め難い国でもあった。故に捕縛しインペルダウンへ収監する理由が足りない、という訳なのだ。

 

 「判例を調べてみたんだけれど、大概が王国内部の幽閉って事になってるのね」

 簡単に噛み砕けば一生自分の国から出てくるな、となっている。

 裁判長に監獄行きを決定的にさせるには、いまいちパンチが足りない。

 

 「入れておかなきゃだめ、って思わせる罪状なにかないかな」

 護衛として付いてきていたふたりがぽかんと口を開き顎を落としていた。今から行く場所について女王から多少の説明は受けていたものの、罪状をどうするのか、そんなことまで本人に言わせるのか。この海兵は一体なんなのだ、普通ではない。異常である。そんな人物に女王をお任せしても良いのか。新たなニューカマーの楽園を作りに往くというその惚れ惚れとする行動力にただうっとりと付いてきたはいいが、本当にこのままでいいのか。

 

 ぐるんぐるんと出口のない思考を繰り返すふたりを放置したまま、女王と海兵がああでもないこうでもないと思考錯誤を繰り返す。

 いくつか候補が出るが、決定的な一撃とはならなかった。顔が大きいとか、両性だとかは革命軍幹部という主だった原因には遠く及ばない。

 お昼を食べ損ねた腹がぐう、と鳴る。家に帰ってもどうせひとりだ。晩ご飯を作るのが面倒で、最近はずぼらしていた。このままいけば今日も食事抜きになりそうだ。

 自分が食べなくても、エースが気が遠くなりそうなくらいがっつりと食べてくれているから良いか。

 そんな事を思いつつ、

 「あ…」

 ぽん、と浮かんだ思考にアンが両の手を重ねた。

 「ねえねえ。イワちゃん。わたしの頬にキスしてくれるかな。いい方法、思い付いちゃった」 つんつんと、自分のほっぺをつつきながら、にっこりと笑った。

 

 世の中の人々を守るため、ならばきっと裁判長もそのまま、橋の方に行くがよろし、と通してくれるに違いない。アン的には新人類(ニューカマー)に偏見は無かったが、一般的には浸透していない指向はなかなかに、受け入れられるまで時間がかかるというモノだ。

 

 アンは女だ。そしてイワンコフの現在は女の姿である。

 世界政府は人口を増加させること、を推奨していた。世界のどこかしらで小さな小競り合いが今も続いている。全てが安定していればよいが、富む国があれば貧する国もまた存在していた。人口が増え、ある程度の経済力を持つようになれば搾取できる最低限も増えてゆく。

 もしイワンコフをこのまま青海に放置したままとなれば、女は女と、男は男と非生産的な営みが作り上げられてしまう可能性がある、と多少どころではなくかなり強引なこじつけだが、エニエス・ロビーに知人も増えている今であればなんとか押し通せるような気がしなくもない。

 

 …これからの未来監獄で増殖…する、などと一抹の不安を抱かなかったわけではないが。

 ううん、まぁ、うん、そういうことになっても少々アクの強い個性が生まれるだけだから大丈夫、だよね。

 

 ちょっとあなた、何様よっ! イワ様の、イワ様の清い口づけを求めるだなんて!!!

 キャンディーズが叫んでいるが聞こえないふりをする。

 される本人はさあこい、と待ち構えているのに対し、行う女王様が頬を赤らめてくねくねと腰を揺らせている。

 男の姿のときはまったく気になどしていなかったが、女となり、こうして改めてアンを見ればなんと凛々しく勇敢な姿と度胸を持っているのだろうか。と再発見してしまったのだ。キスだけじゃなくてもいいのよ。この体も味わってみる? あなたの体も味わってみたいわ。青々としてみずみずしい初物のにおいがする。そのはじめてをくれるというならば、ありとあらゆる手技を使って天国のその先をも見せてあげてもいいわ。まずその可愛い唇をついばむところから始めましょうか。このトキメキ、大爆発のヨカーン!

 

 などとイワンコフの内で大妄想が行なわれているなど全く考え付きもしていないアンが、

 「じゃ…じゃあアンアン、いくわよ」

 「どうぞどうぞ」

 と頬を差し出して笑む。

 キャンディーズ達の絶叫と共に、後に言われる、謂われの無い罪が確定した瞬間だった。

 



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38-プラス+

 義祖父と膝を突き合わせていた。

 ちゃぶ台に用意してあった温かな緑茶も冷めてしまっている。

 「…どうしてもだめか」

 「…だって、3年っていう約束だったでしょう?」

 これで何度目の応答になるのだろうか。アンはそれでもきちんと、義祖父と向きあって言葉を示した。海軍に入隊し、属した数が3年を越えた。

 実際には3年と半年ほどが、ドーン島を離れてから経っている。

 15の誕生日には休暇を貰い、兄弟達と一緒に祝った後、大まかなこれからの鍛錬方法と航海術の確認も兼ねて近場を回る為の出航計画も立ててきたばかりだ。

 

 後十数日で約束の期限が来る。兄弟達はようやくアンが帰って来ると首を長くして待っていた。

 マリンフォードに来てからの月日、それはあっという間だったともいえる。様々な人から教えを受け、人脈も広がった。

 森で過ごせば出会えなかった人物達も多い。特に海軍上層部など、海賊の身分で出会えば、殲滅対象以外の何でもない。やるかやれるかの関係だ。

 しかしあんは海兵となった。そして何気ない会話を交え、心触れあわせながら戦い知った。なんら変わらない、と。

 職業が海兵であるだけだ。誰も彼もが人間だった。人間でしかありえなかった。そして海賊にも、同じ事が言える。

 

 どちらが正しくて、どちらが悪なのか。

 置かれている立場によって変わってくるのだろう。

 そもそも白黒つけて区切らなければならないのは、世界の決まりを作っている政府側だ。

 この"偉大なる航海(グランドライン)"には、海賊が拠点としているからこそ栄えている町もある。犯罪者が隠れ住む格好の地にもなっているが、法や秩序ばかりでは息が詰まる人物達も出てくる。少なくとも全部の町が当てはまるとは言わないが、自治がきっちりと敷かれている島々もあるのだ。

 

 それを悪と断じる事を、アンは良しと出来なかった。

 一方通行だけでは無い視野を得られたのは、海軍に所属したお陰だと思っている。

 まだ教えてもらいたい事は山ほどあったが、ここで一旦切らなければこのままずるずると、引きずり込まれそうな気もしていた。

 その予感は間違いでは無い。

 そして海軍内部の多くが抱く願いは、アンの、ひいてはエースやルフィの身を案じての事でもあると、義祖父は信じている。義祖父だけではない。元帥や大将たち、そしてアンという存在を知っている多くが残留を望んでいる。その筆頭は数ヶ月前に教職を解かれ病院のベットの上に縛り付けられ、今も義手の取り付けの為に幽閉されているゼファだ。

 大の海賊嫌いではあるが、アンの交友関係にまでは口を出さず職務を黙々と遂行するその姿勢を気に入り、両者の時間が合えば教え、請い、彼を教官として慕う生徒達の間に混じり時間を過ごすことを許している。

 サカズキ、ボルサリーノ、クザン、という現三大将をはじめとする海兵を育ててきたゼファーだ。戦友の孫であり、教え子達が気にかけるアンを可愛がらないわけがなかったのである。現役の海兵であるアンの経験は、多くの訓練生にとっても宝の宝庫だ。理論だけではなく現場の判断なども組み込み、戦場に出た際の心持などが広く伝えられていた。教師陣にとっては生きた教材としても重宝されていたのだ。

 

 多くにとってアンは居なければならない存在になりつつある。

 そしてそうなるよう、差し向けたのは目の前に座る中将ではない。モンキー・D・ガープという祖父だ。

 

 義祖父がアンを自らの後継者に推しているのは、未来を憂えての判断である。それは十分、わかっている。分かっているがもう遅い。盃が、兄弟の契りが交わされた時点でもう、この流れは固定してしまったのだ。

 

 「あのねおじいちゃん。わたし…中将の椅子には、座われない」

 アンが繰り返す言葉を飲み込めず、ガープは蛙がつぶれたときのような音を喉から発しながら咳き込む。

 「…うむ、この際、地位にはこだわらん。ここに居続けられん理由があるなら、聞きたい」

 

 内容が変わった。ここに居ろ、ではない。理由を尋ねられている。アンはほんの少し、驚いた。それが表情にでたのだろう。

 もし叶うならば、ルフィーやエースも呼び寄せたいのだと。

 

 本音をほろりと義祖父がこぼした。が、遅すぎる。

 今更この、海兵の島に呼び寄せてどうするというのだ。頭ごなしに押し付けて、考えを改めさせようとするのだとしても、エースの意志は既に固まっている。

 そしてルフィも17歳になれば、間違いなく海原へ飛び出してゆくだろう。

 

 「なあ、アン。少なくともわしの艦に配属されるまで、だめかのう」

 …義祖父のしょんぼりした顔に今度こそ驚きを隠せなかった。父親のような最期にだけは。生まれからしてハンデを持っている孫達をどうにかしてやりたいという気持ちだけがある。

 義祖父は今まで生きて来た人生を振り返りながら、今までの生でやったことの無い選択の札をとっている。頭ごなしに、ああしろ、こうしろと拳骨をおとすのではない。自分自身がやりたいようににやり続けるのならば、地位も名誉もいらない。人の決定に口を挟むな。

 

 我が道をただひたすらに歩んできた義祖父が、である。

 随分と弱気な態度で、背を丸めていた。

 

 自分達を心配してくれているのが、痛いほど伝わって来る。

 父であるロジャーが里親として、義祖父をなぜ選んだのかが良く分かった。同郷であり秘密を必ず守ってくれる人物として、また自らの代わりに愛情を注ぎ育んでくれるだろう存在として、信頼していたのだ。

 信じて頼る。立つ位置が全くの逆位置であるのに、ここまでの関係になれた両者は一体どんな戦いを繰り返してきたのだろう。

 相対する立場でいながら、ここまで意志を通じさせられる相手と巡り合うのはそうそうないはずだ。海賊は海賊として、託す相手ならば他にもいたはずなのに、ガープという人物を父が選んだ理由を探してみる。

 

 例えば副船長であったレイリー、親交があったビックマム、白ひげ。

 衝突する度に培ってきた信頼と信用。

 けれど父(ロジャー)は義祖父に打ち明けた。自らの生命と引き換えに、押し付けた。必ず引きうけてくれるという確信めいた自信があったのかもしれない。

 

 意識で繋がるエースも、言葉に詰まっていた。

 断われ。最初はそう言っていた口が、いつの間にか噤まれている。

 放置されていたはずの幼少期を振り返っても義祖父の顔などあまり浮かんではこないが、それぞれの身を案じて、大切に扱おうと思いつつもどう扱っていいのか分からず、照れ隠しに放置していたのだと。元々心優しいエースだ。想像してしまったら、手ひどい言葉が言えなくなるのも至極当然である。

 父と義祖父は似たもの同士であったのだ。だから双子を託された。

 

 出自のしこりは師となったシャンクスからいくつも話を聞いて、大分緩和はされていた。

 町のチンピラや噂しか知らない酒場の男達が、ゴールド・ロジャーに関してどんな中傷を口にしようともエースは手を上げなくなっていた。六式という戦技を身につけ、覇気という使い手を選ぶ才能を開花させたからだろう。手を出せばどうなるか、分かってしまったからだ。

 血に酔ったアンがみせた、狂気を身近で感じとった経験も抑止力にはなっているらしいが、ぼんやりとしか覚えていない出来事だ。多くの血が流れる船内で救助の手を差し伸べる。間に合ったものたちと死に迎えに来られた学友たち。脈がゆっくりと途絶え、ありがとうと口にしながら息絶える。

 悲しくて辛くて、叫んだ。その後の事は、ほとんど覚えていない。自分が自分でなくなったような、夢の中でふわふわと浮いているような、だけれどそのまま湧き出てくる感情に身を任せたまま、行なった行為。

 とめてくれたのはエースだった。なのでエースには最近、頭が上がらなくなっている。

 

 (ねぇ、エース。今のこの思いを、もうちょっと小さいときに聞きたかったね)

 アンは小さく苦笑する。エースからの返答など、求めてはいなかった。

 義祖父がやり方を間違え、双子を放置し、孫までをダダンの住処へ押し付けた後。エースを支えたのは、ルフィだ。

 アンも散々エースから危ないだの放っておけないだの言われるが、弟はそれに輪が掛かる。まっすぐに育ち過ぎている、とも言えない事もない。

 戻って少しは曲がった考え方も教えようと考えていたのだが、自由奔放で捉えどころのないあの性格はあのままにしておいた方が良いようにも思ってしまう。

 

 まっすぐエースとアンを見てくれる存在は、弟しかいなかった。

 だからエースとアン、ふたりにとって弟は唯一の宝、となっている。

 義祖父は不器用すぎた。子供にはその不器用さが、愛情の裏返しだとは想像など出来ないのだ。

 

 (……、アン。判断はお前に任せる)

 

 ルフィのことは気にするな。姉ちゃん大好きすぎて文句を垂れ流すだろうが、アンが持ち帰ってくる様々なお菓子を食べられなくなるのは嫌だろう、とでも言えば納得するだろう。とエースがため息混じりに嘆息した。

 アンの表情にも笑みがふわりと浮かぶ。

 

 「ねえおじいちゃん。わたしがおじいちゃんの艦隊に配属される確率って、20人の中将プラス、3名の大将、また今年もセンゴク元帥がボール入れてきたら、合計24個。24分の1の確率なんだよね。わたし引く自信ないよう?」

 

 ぎりぎりまで海軍に所属するとしてもあと2年だ。どう考えてみても、空理空論としか思えなかった。

 

 だがしかし、孫娘が残留の意を示してくれたそのことこそが嬉しかったのか。

 ガープは思わずその両の手を伸ばし、孫娘を抱きしめる。

 

 (エース、ごめんね。ありがとう)

 (ただしおれもルフィもそちらには行かねェ。ジジイが実力行使してきたら、本気で戦うからそう言っておいてくれ)

 

 昔から義祖父は口癖のように、強い海兵になるのだと繰り返してきた。

 「あのね、おじいちゃん。孫とはいえ上から目線からああしろ、こうしろって言われたら反発しちゃくなっちゃうんだよ」

 父とは違う路を進んで欲しいと強く強く願っていた。追われ、いつ死するかも分からない生ではなく、誰かを守り生を繋ぐ生き様を望んでいた。

 「わたしはおじいちゃんに、もうちょっと、お願いしてもらいたい、かな」

 

 そうすれば素直に心の内を話すことが出来る。

 くすくすと抱きしめられながら身を小さく震わせる孫娘の言に、耳を澄ませていた。

 「アンがそうせい、というならそうしよう」

 「わたしだけじゃないよ。ルフィやエースにも、だよ」

 「わかった。もし駄目じゃというなら、向こう脛でも蹴飛ばしてくれい」

 

 義祖父の意向に同意し、アンはエースとの会話を再会させる。

 

 (ということで、もうちょっとこっちで頑張ることにするね)

 (んなことになるだろうって、思ってたよ。ただおれが海兵になる、ってのだけはなしだ。なんかこう、似合わねェし、海軍のやり方も気に食わねェ)

 

 けれど、とエースは続ける。

 一番嫌なのは、アンに無理させることだ。嫌になったらとっとと帰って来いよ。おれはアンの泣き顔が一番見たくないんだ。お前は自分の意思より、おれやルフィ、まわりのことを先に考えるだろう? それで一番いい方法を探す。今はまだ未熟で、頼りないだろうケドさ。お前から頼られても大丈夫になるから、安心してわがまま言えな?

 

 アンは顔を赤らめる。

 なんということだろう。双子の、半身がえらく男前になっているのだ。

 女を落とすに必要な文言が、散りばめられている気がする。

 

 (うん、ありがとうエース)

 

 それ以上の言葉は互いにはいらない。

 エースとしては、アンが海兵を続けたいのであれば、別に今戻ってこなくとも構わないと考えていた。なぜなら出航までまだ2年もある。だが自身が海兵となるのは否定している。アンを通し海軍が抱える、散々な矛盾を知ってしまったからだ。それに無理を重ねて泣き眠るアンの姿も何度となく見てきた。その中へ入りたいとは全く思えないでいたのだ。

 それにもしも、だ。

 海兵にエースがなったとして、その後、胸の内に抱え続ける想いはきっと、彼を苛み続けるだろう。そして海軍というトリカゴから、救い主を求めて止まなくなる。現時点での筆頭は師だ。弟子であるふたりを大いに煽り、誘ってきている。

 海の子は、海へと戻る。眺めているだけではきっと、満たされない。たゆたう波間に、身を浸すために、手を伸ばしてしまう。とシャンクスも言っていた。

 

 (無理はするな。っていうか、そろそろ離れろ。ジジイがうつる)

 ……うつるってなに? ちらりと含まれた本音に、目をぱちくりとさせる。

 もしかしておじいちゃんを独占しているこの状況に腹を立ててるの? 私じゃなくおじいちゃん? おじいちゃんにLOVE?

 もう一度聞き返す前に、エースが一方的にだんまりを決め込む。

 (そっかぁ。じゃあ、うん、今度のお休みはおじいちゃんを連れて帰るよ)

 

 解かれない誤解のまま、後日、孫ふたりが義祖父の餌食になるだろう未来が決定する。

 思案して無口になったアンが、突然えへへへ、とめ笑み始めれば、ガープはその頬に触れた。

 「なにを悦に入っておる。どうかしたのか」

 

 げんこつで語るのが常である義祖父があえて、こうして座って話す方法を選択してくれるようになった。

 これから以降も実力行使ではなく、会話の席をもってくれるだろう。

 誠意には真正面から嘘偽りなく応えるべきだ。そうアンは心を奮わせる。

 

 おじいちゃん。

 腕をゆっくりとほどき、正面に座りなおして義祖父を真っ直ぐ見つめる。

 

 「17歳。わたしは17歳になったら海に出る。海軍も辞める。エースと一緒に果てある海に向かう。それでも良ければ、あと2年ここに留まる。これは、誓いだから。誰にも止めさせはしない」

 それは海賊になるという宣言か。

 義祖父の目が厳しく細る。

 「わからない。でもこの世界では自由に海へ漕ぎ出す全てを海賊と称する。ならばきっと、そうなっちゃうのだと思う」

 嘘は言わない。

 思う心だけを伝える。

 

 「そうか」

 義祖父が足を崩し、冷えた緑茶に口をつけた。

 「余り遠くに行くと、守ってやれんのじゃがのう」

 絞り出される声にアンは、知ってる、と微笑みを浮かべて義祖父が胡坐をかくその上に再び腰を下ろした。

 

 「ねぇおじいちゃん。わたしもエースも、ルフィも、いつまでも守られている子供じゃ、いられないよ」

 子供のまま親の側に居続けるのは、確かに楽だろう。だがエースもルフィも男だ。オスが巣穴から出ず、己の領域を作らない動物などいやしない。戦いを挑み、自分の領土を増やしてゆく。そして強くなり、一己の主へとなってゆくのだ。

 

 エースは、父の背中を意識し始めている。海への渇望を、抱いてしまった。

 知ってしまった。この青にごぎ出さない選択を捨てることなど出来はしない。

 

 アンはエースとともに生まれてきた。双子だから同じ道を歩まなければならないわけではないだろう。

 だがアンはエースとともに在りたいと願った。だから共に、往く。

 

 「あと2年か。短いのう」

 げんなりとした声柄が落ちてきた。

 「海軍か海賊かの2択しかないっていうのが、おかしいし辛いところだよね」

 革命軍は最初から除外だ。

 少なくともエースは、海賊としての生き方しか選択出来ないだろう。散々忌み児と言われ、自分の存在を認められない世界を見て来ているのだ。

 海賊王の称号や自由を探しに行くのは方便でしかない。

 彼は自分を必要とし、受け入れてくれる誰か、を探しに行きたいのだ。

 

 もう既に手元にある、と本人は気付いていなかった。余りにも近すぎると見えないのだ。

 気付くまで待つべきか、それともひっぱ叩いても既に手にしていると分からせるのが早いか。

 海への渇望欲求に関して、ルフィの場合はシャンクスの影響が大きいのは言うまでも無い。

 

 「おじいちゃん。2年で海賊じゃない、別の何かって作れないかな。航海者ってどう? 探検家は歴史の本文(ボーネグリフ)に関係してちゃうし」

 「全く、親子共々手を焼かしおって」

 大きなため息が降ってきた。だがいやいやではない。

 「おじいちゃんを頼りにしてる」

 返答はくしゃくしゃと撫でられた不器用で大きな手だった。

 2年後に向けて全力で引き留め工作をすると宣言されてしまったが、今から足掻いたとてどうなるわけでもない。そのときが来るまでどっしりと構えていよう、と決めれば案外不安など感じないものである。

 義祖父の大きな、しわくちゃな手がアンの甲に乗った。今更ではあるが、義祖父の温かみにくすぐったさを感じ、笑む。

 

 

 翌日、義祖父に連れられ向かったのはセンゴク元帥が難しい顔をして座す部屋だった。

 そう、海軍本部で最も高い位置にある、元帥室である。なぜか3名の大将も同席しており、内心ではあるが暇人たちめ、と毒を吐く。アン一人の動向にそんな敏感にならないでいてもらいたいものだ。もっと重要な仕事が山と詰まれているはずだろう。

 「で、どうなったんだ。ガープ」

 アンはそっと武装色の纏いを厚くする。3大将の視線が痛いくらいに突き刺さって来ていたからだ。いつもは直立不動で立つのが軍規に記され、その通りにしていたのだが、今日ばかりは義祖父の後ろへと隠れた。

 そして万が一の場合を考える。いつでも飛べるように心積もりしておかねばならないくらい、張り詰めた空気が冷たくなっている。

 

 「引きとめには応じてくれた。ただし…」

 元帥が腕を組む。

 「今年含め2年じゃ。それ以降はわしゃ知らん」

 

 どうやら義祖父がものの言い方を変えるのは、孫だけに限るようである。

 青雉の周囲が白く煙始めていた。気に食わない文言があったようだ。が、アンは無視する。

 

 「永久的、では無いのだな?」

 真一文字に結んでいた唇が、言葉を紡いで元に戻る。

 「センゴク、こう見えてもアンは女じゃ。嫁入りも考えてやらねばなるまいて」

 

 ん?

 

 義祖父は今、何と言っただろう。表情筋を動かさぬよう意識しつつ、止まった思考を再稼動させる。

 理解したくないと、脳が瞬時に反応したのだ。

 だがそれは誰もが同じだったようで、ぴたりと動きを止めている。

 

 (……嫁? 結婚? まさか、わたしが?)

 

 どの国も大概は親の許しさえあれば、大抵は16歳から結婚は可能だ。

 「………」

 義祖父と赤犬以外は独身を貫いている。その二文字は考えていなかったらしい。

 確かに、アンは生物学上女である。男であれば海兵であり続けることは難しくない。おつるのように子を成し現役に復帰する女性も中にはいるが、決して多い数ではなかった。だがしかし。

 センゴクは相手を問おう唇を動かそうとしたが、言葉を飲み込む。

 海軍本部、へはそのような通達がまだ、来てはいない。だが個人的に要請されているとするならば、どうであろうか。祖父と孫という関係にあるふたりである。上司と部下よりは今後に関わる深い話もするに違いない。センゴクとて多くの養子を育ててきた身だ。子からの相談事は多く受けてきた。

 

 

 「…2年、やむを得まい、か」

 唸るようにセンゴクが口を濁した。アンが天竜人のお気に入りと知っているからこその呻きであった。

 世界会議の席でなにがあったか。青雉から、そして幾人もの口からも聞き及んでいる。狭い、ごく狭い範囲内ではあるが、アンは、アン・D・ポートガスという個人は、デイハルド聖の個人的な資産として認められてしまった。彼女が言を許されたときも、『デイハルドに危害を加えない限り、昔話にあるような力は振るわない』と断言している。その後のことは想像しやすいだろう。何度も聖がこのマリンフォードを訪れ、アンを指名し、闊歩している姿が目撃されるようになった。町のカフェテラスなどで多くの人々が彼、を見かけても最近はさほど驚かない程度にはなってきている。天竜人としては別格として扱われるようになっている聖だが、密かに一般市民達から信仰のごとく仰がれる存在として支持を集めているとも聞いている。

 

 アンが聖地へ召し上げられるかどうかは別として、2年は貴重な戦力が手元に残るのだ。問題が先送りされる形となるが、今すぐ消え失せる訳ではなくなった。今はそれだけでも認め喜ぶべきである。

 ガープの説得には応じる姿勢を見せた若き幹部候補生に打つ、次の手を考えなければならないが時は幾分か稼げはした事に、妥協の意を示す他ないだろう。

 

 革命軍の動きも活発になってきている。

 幹部のひとり、エンポリオ・イワンコフを捕らえインペルダウンへ投獄出来、暴君を七武海へと招き入れ内部からの鎮圧を行おうと謀略をしかけてはいるものの、世界の情勢は安定しない。

 

 政府から隠せと注文される事件も数多くもみ消してきている。その殆どを過去1年に至っては、ガープの孫である、ポートガス・D・アンが中枢に入り込み行っていた。精神力の強さはCP9のロブ・ルッチにも引けを取らないだろう。ここまで適正を見せてくれるとは意外であった。世界政府の方でもなにやら活発な動きが見て取れるが、コングからは何も通達が来ぬままだ。それにしても、とセンゴクは暗部を知っても弛まぬ意志を持っている、貴重な人材を見る。

 

 ガープの後ろに隠れた存在が気にしているのは、冷気を発し続けているクザンだ。

 赤と黄色はその表情を崩さぬまま、されど精神を安定させて座している。

 青の憤りはCPのとある部署から眉唾物として上がってきている報告をちらりと見られてしまったのが原因であろう。

 この少女は、やっかいな相手だと周囲が思う存在をよほど周囲に呼び寄せる特技を持っているようである。

 

 

 「では引いて貰おう」

 

 溜息を隠さずアンは出された箱の中へ手を突っ込む。

 アンがひとりくらい海軍から去っても、世界の情勢が変わるとは思えないのだが、何をそんなに仰々しくするのだと、アンは苦虫を噛み潰していた。

 義祖父には伝えたが、17になるまでは島に帰ってもひっそりと大人しくしているつもりだった。多少は友人に会いに行ったり、新世界へ遊びに飛んだりはするだろうが、海に出るつもりは無かったのだ。毎日目まぐるしくあっちに行ったりこっちに行ったりし続けてもいる。3年という約束があったからこそ全力疾走できたようなものである。だからこそ長期休暇を本当に、心待ちにしていたのだ。

 アン自身は海賊、になる気などさらさらないし、例え世間があれは海賊だ、と指さし叫んだとしてもきっぱり否定するつもりでいた。

 海を渡るのに称号はいらないからだ。デイハルドの威を借りれば、まかり通らないかと本気で考え始める。

 権力などはここぞという時に使ってこそだと聖も言っていた。どうにもならなくなった場合は、その通りにさせてもらおうとこっそりと思う。虎の威を借る狐状態になる。心の底から借りをこれ以上作りたくないと思うものの、使うと決めたからにはこの苦い感情を飲み込むしかない。

 

 青の海を往けるのは、海軍所属の戦艦と世界政府から渡航許可を受けた商船、或いは未開地調査船、そして海賊船だけだ。

 あちらの世界のように、国毎の領海など制定されていない。

 世界の基礎を作った20人の王達は海を誰のものでもないとした上で、誰もが平等にこの海を争い無く渡れるように設定された航路を往く許可証を発行した。所持した船とそうでない船が衝突した場合、どちらが正しく、どちらが不正であるかを明確にするためだ。どちらも持っていれば痛みわけ。どちらも持っていなければ、その富は全て船が沈んだ地域を支配する王の取り分となる。

 だがしかし政府の意図はもっと根深い場所にあった。海を往く船を把握し、渡航許可を渡す代わりに税を納めさせ貿易を操ったのだ。

 それは王達に莫大な富をもたらした。

 金銭だけでは無い。近寄らせたくない各地を遠ざける為にも利用されたのだ。

 

 800年前の体系は今も残っている。

 形を変え、名を変えて維持され世界貴族たちの生活を支えていた。浪費される金銭は全て青海に住む人々から搾取されているが、これを知るのは世界政府内でも高官となった者だけである。青海でも各国の王と天上金に関わる少数だ。このことを外部へ漏らせばどうなるのか。青海の王たちは先祖代々口伝にて伝え聞かされている。

 『天竜人に仇なせば、4番目栄光を命じられた狼が、お前を食べに来るよ』と。

 

 今回の世界会議ではその姿までは披露されなかったものの、4番目の狼の末を天竜人が手なずけた。と広く周知されたのである。

 一体誰のことであるかは明白だ。

 

 義祖父がまた今回も膝をつく。

 ガッツポーズを決めたのは青雉だった。

 

 アンの表情がみるみるまに曇る。

 「元帥、135秒だけ私的な時間を頂けますでしょうか」

 にっこりと微笑んだ幼子の口元がひくひくと引きつっている。

 「許す」

 

 センゴクがそう短く断じた瞬間。

 凄まじい速さでピンポン玉がアンの手から放り投げられた。その先は青雉の頭部である。

 凍った一部がピンポン玉を受け止めようと、いつものように結晶を大きくする、が。

 大きさに比べ、余りにも可愛くない音が後頭部を直撃し音を立てる。

 

 「人に、あんなあからさまな殺気を放っておいて!調子乗るな、いい加減にしろ、クザン! 添い寝なんかもうしてやらないから!ゼファー先生から聞いてる、あれとかこれとか、恥ずかしい話をみんなにばらしてやるんだから!」

 

 元帥より与えられた私的な135秒のうちにあった出来事は、全て黙殺される。

 次々とピンポン玉を取り出しては投げつけられ、青が体中から白い煙を上げている様を、黄色と赤が視線をちらりと交わし、ほくそ笑む。

 大切に大事に育てた幼子は、随分と真っ直ぐ育ってくれたものだと手をかけたふたりが小さく唇の端を持ち上げた。

 



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39-オハラの子

 オハラの子。

 その語句を聞いてアンが思い出すのはひとりの少女だ。

 造船技師であるトムが不安要素、と表現したその少女は弱冠8歳で考古学者となった、ニコ・ロビン。

 かつて西の海に存在していた世界最大の図書館、『全知の樹』があった島で暮らしていた人物だ。

 今現在、その島に居住し生活を営む人々はいない。…許されていない。

 エースとアンがこの世に産み落とされた年に、バスターコールを掛けられ壊滅したのだ。以降、世界政府によって地図上からも消され、居住不可として今も静かに存在し続けている。その島に住んでいた住人達はことごとく死を与えられ、かつて住んだ事があった、もしくは一定期間以上滞在していた人物も秘密裏に処理されたと聞く。

 神の如くその名を模して世界を真上から見下ろし、無慈悲にも全てを消滅させてしまう殲滅戦が行われたその地には多くの、守るために沈められた本の残骸が今も多く眠っているという。

 

 「…で、わたしになにをお望みでしょう」

 執務室で珍しく書類にサインをしているクザンの横でアンは問う。珍しく素直にデスクワークを始めた青雉大将補佐として、書類の内容を読み込み上司であるクザンに説明し、サインを書かせるだけの簡単なお仕事をしながらだ。

 今まで副官としてつき従っていたヒナはアンの異動を受け大佐へ昇格後、艦を預けられ長として初航海に出ていた。

 スモーカーはまだ直下に配属されているが、近々どこかの支部を任せようと言う話になっているらしい。どこがいいかと聞かれたので、『ローグタウン』と東の海における最終防衛線を推薦しておいた。

 長年、青雉大将の副官をしている人物は、クザンの職務怠慢の煽りを受け新兵の訓練を任され行っている。

 故にまだ、アンはいつものマリンフォードで職務に当たっていた。

 

 出入り口にはセンゴクの息がかかった海兵が立ち、出入りするものを選別している。

 なぜかアンは書類が終わるまで、お目付け役とし青雉大将の副長デビューも含めて、共にカンズメ状態にされてしまった。なぜ閉じ込められているのか全く分からない。久々に船で海に出られると思っていたのに、大誤算だ。

 立場としては異動と同時に大佐という階級も付与され、名実共に海軍の一翼として立てられている。

 本人としてはボール引きの日に申し送りが行われなかった為、据え置きと思っていたのだがそうは問屋が下ろさなかった。

 

 要因は多々あれど、表向きの理由としては。

 エンポリオ・イワンコフを単独で捕縛し、しかも該当の町で全くの被害を出さず、インペルダウンにまで護送した功績が、否応なく地位を押し上げたのだ、ということにされている。

 事実だけを並べるならば、海桜石の手錠をするはいいが、エニエス・ロビーに行く前にちょっと腹ごしらえをしてからにしよう、というアンの提案を快く受け入れてくれたイワちゃんと遅めの昼食を食べ、気になっていたキッチン雑貨の店によりウインドウショッピングまで付き合ってもらい、瞬間移動でしゅっと入っただけである。

 あとの2年を有意義に過ごすならば。

 義祖父の船が一番居心地が良い、と分かっていた。しかしなにやら罠を仕掛けられているようで、ピンポン玉を元帥が差し出してくれたのが救いの手に見えてしまった。

 

 ちなみにもしガープの艦隊に配属されたならば、次年度には中将の椅子に無理矢理にでも座らせようとしていたセンゴクの思惑など知る訳もなく、アンは黙々と今、実務をこなしている。

 

 「そいつのだな…」

 ペンにインクを付けながら、青雉がちらりと視線を横に向ける。

 「ちょちょいと行方…捜せねェかと思ったんだが…無理か?」

 

 すぐに視線を外されてしまい、アンは小さく息を吐く。十分な情報が無ければ探すも何も、出来はしない。

 「立ち入った話、聞いてもいいかな」

 任務では無い、と悟ったアンが言葉遣いを砕く。任務中であれば、軍人として組織の上役である青雉大将に、このような話し方はしない。だが今は執務室にふたりきりだ。誰に聞かれる心配も無いだろう。

 

 「まあ…なんだ。親友の忘れ形見、みたいなもんでな」

 「彼女が?」

 

 一体どういう関係なのか脳の中で関係図が組まれる。

 彼女についてはCPの非正規として組み込まれた時点で、最重要監視対象として資料を渡されていた。名と出身地と、罪状だけが書かれた簡素な手配書に首を傾げたのを覚えている。担当部署は書かれていなかった。なるほど、青雉預かりの案件であったのかと、アンは上司の殻を脱いだクザンの話に耳を傾ける。だが歯切りが悪い。大事な部分を隠しながら、言葉を選んでいるようだった。

 

 聞けばかつてのオハラ大破壊を良しとしなかった巨人族の中将が、必死で守り抜いた少女がニコ・ロビンなのだという。クザンは親友の取った行動の末を見るため、島の外へ逃がしてやった経緯を語った。それ以来CPを使って居所を監視し続けていたのだが、追手を撒いて姿を消してしまったのだと言う。

 「どこかの組織に取り入って、隠れ家にしてるんだろうけどな」

 悪意が込められた言葉にアンは次を待ったが、ペンが紙の上を滑り続ける音しか聞こえてこない。

 話は以上だと、言葉ではなく態度で示している。

 

 「知ってどうするつもり?」

 「どうもしねェさ……」

 ただ。危険視されている人物を監視も付けずに野放しにも出来まい?

 

 真意がどこにあるのか。

 アンは小さく息を吐き、クザンを見る。

 感情的になってはいない。彼の掲げるだらけた正義はある意味、激昂しやすい己を戒めるための鎖だ。元々だらけ癖があるのは重々わかっている。必要最低限の動作で物事を行なう人物であったと、ゼファー先生からのありがたい情報も頂いている。

 

 彼女に関して抱く感情は。

 つかみどころが無く、とてつもなく空虚だ。親友の忘れ形見と言葉する声にも熱が含まれていなかった。ニコ・ロビン、という個人に対しては何の感情も抱いてはいない。好き、や嫌いではない。ではなぜここまで『執着』するのか。

 

 『D』にまつわる話か、それとも歴史の本文(ボーネグリフ)に関する秘匿か。

 

 とアンはクザンから漏れた人の良さそうな巨人族の友人を振り返る。資料室で名前を調べれば分かるだろう。

 Dの危険性、そして歴史の本文(ボーネグリフ)に関しては大将という地位に立てば、自動的に共犯者へと組み込まれ、疑問を抱かず飲み込めと押し付けられる。

 長く海軍に務めれば、義祖父やおつるのように中将であっても秘密の共有を求められるが、頻繁に起きない事例であろう。

 

 「あのね、クザン」

 

 この際だからはっきりと言っておくと書類を置いてアンは青雉を見る。黒の、三白眼がゆっくりとアンと視線を合わせてきた。

 「わたしは、クザンの想いには応えられない。デイハルドの件があるから、ってわけじゃないよ」

 

 可愛い、可愛いと好意を向けられるくすぐったさは、とても気持ちいい。

 愛されると満たされるからだ。誰だって嫌い、と言われるより好きと言って貰いたいだろう。

 いい気になり、誰かに勝ち誇るような傲慢な態度を取りたくなるのが人間の業でもある。

 

 「クザンがね、誰とわたしを重ねているのか、ずっとわからなかったの。なんで大切にしてくれるんだろう、どうしてだろうってって」

 

 義祖父は分かる。血はつながっていないが肉親と言っても過言ではない。

 サカズキも娘のように扱ってくれる。ボルサリーノは従兄弟の叔父のようである。センゴクは彼が多く抱える息子達と同じ感情で、おつるは孫だ。義祖父と同じ雰囲気である。

 

 唯一分からなかったのが、クザンだ。

 

 彼女、だね? 

 

 青雉船に空きがないからと船長室が寝起きの場所になることも、先日、抱き枕にはならないから覚悟しろと言ったにも関わらず、航海に出れば早速されそうになっていることも。どうしてアンを囲いたがっているのか。

 彼女とアンを重ねたのだ。境遇は違うが、よく似た雰囲気なのだろう。

 アンは二度目の生を生きていると自覚しているため、大人の考えにも同調できるが、もし彼女がアンと似た思考に至るには、どれほどの痛みと辛酸を舐め、身を縮めて生きてきたのだろうか。

 

 「なにを怖がっているのかは分からない。わたしはクザンではないから」

 

 だから教えて。

 

 アンの表情は穏やかだ。本当に15歳かと見紛うほどである。

 定期的に送られてくる報告書の、ニコ・ロビンの表情も年齢を感じさせない、どちらかと言えば若年寄な雰囲気すら放ち始めている。その変化は良いこと、ではなかった。経験を積んで達観するのではなく、追い詰められた境遇ゆえにそう思い至らねばならなかった事実が浮かび上がってくるからだ。

 アンとは全く違う。だがその危なげな立ち位置は息を呑むほどそっくりだ。

 

 「少なくとも、お前の存在は嵐を起す。既にいくつも作っては散らし、を繰り返しているんだ。分かるな?」

 アンはゆっくりと頷く。

 「あれもそうだ。歴史の本文(ボーネグリフ)を追い求める考古学者の末であるあれは、お前とはまた違った嵐の種を持っている」

 

 放置してはおけない。されど、手を差し伸べるわけにもいかない。

 中途半端であった。

 

 (……これは、ああ、なるほど)

 

 クザンは、義祖父と同じなのだろう。師と弟子は似るという。どこかしらに共通点があるという。

 クザンの心を揺さぶるものは、近しいものとしての情である。だがそれをクザンは認識していない。しているのかもしれないが、わざと知らない振りをしている。だから心の底にいつもなにか、心配の種を持ちそれが体と精神に影響をもたらして、眠りが浅くなっている原因のひとつを作り上げているのだ。

 

 手放したいのか、捕まえたいのか。

 そんなに心配ならば囲ってしまえば良いものを、世界政府から賞金首として指名手配をかけられているからと次の一歩が踏み出せないでいる。なんなら海兵を辞めて、ニコ・ロビンの側に居てやればいいのに、とも思う。ああ、なるほど。そうなれば海軍の情報が手に入らなくなるから、反対に動きにくくなるのか。

 

 アンは次々と勝手に思考を組み立て始める。

 クザンが個人的に動くのは、彼女のためでもあったのだろう。歪な愛情だ。

 アンの周囲も決して歪んでいないか、と言われれば、極端から極端に曲がりに曲がっている。自分が兄弟間に抱くこの思いも、きっと普通ではないだろう。

 

 「……お兄ちゃん?」

 

 がたり、と青雉が椅子から立ち上がり、鳩が豆鉄砲を食らったかのような面になっている。

 なるほど、なるほど。

 アンはにんまり、と笑む。

 随分とすっきりした。

 青雉も他の大将達と同じく可愛がってくれるのは分かっていた。だが何かが違うのだ。義祖父のような無条件の愛情でも、黄猿や赤犬のような見守るようなものでもなかった。

 共に歩く、戦友のような。近しい存在であったのだ。

 親のようにがみがみ煩くはないが、適度に釘を刺してくれる。自分よりほんの少し目線を高くもった助言者。

 

 「レファ・アラモンのシュークリーム全種類で手を打とうかと思うのだけれど」

 「……わかった」

 

 アンは了解、と頷き椅子に座りなおさず、執務室の隣にある給湯室に入り、煎茶の用意を始めた。甘いものが冷蔵庫に無いと見れば、クザンから小銭を貰ってプリンとお徳用のチョコレートを一袋買いに外に出る。普通の人間は窓から出入りしないものであるが、どんなに高層であろうとも、アンの行く手を遮るものとはなりえない。

 美味しく蒸れた頃に戻ってきたアンは、袋を破り、上司の机の上にチョコレートを広げた。

 案外知られては居ないが、クザンはホットチョコレートが好物である。ブランデー系を垂らせば何杯でも飲んだ。塊は飲むほど口に入れないが、それでもこうして広げておくと手が勝手に動き口の中へ茶色の甘味が消えて行く。

 

 茶を飲み、プリンを食べ、書類を捌きながら”お兄ちゃん”から詳細を引き出してゆく。

 

 脳に負担がかかるため余り多用したくはないが、やろうと思えばその人を思い浮かべれば大体の位置は把握しようと思えば出来た。だがあちらの世界にある高性能レーダーのように、完璧な索敵が出来るわけでも無い。

 占いのような不確定な未来ではないが、あくまでもここらへん、という大雑把な情報(もの)になってしまう。

 精度的には直に会い、その人物をよく知れば知るほど、確かに分かるが、ニコ・ロビンの場合は手配書の写真しかない。大雑把に、偉大なる航海(グランドライン)にいるかも、としか現時点では分からなかった。

 

 見聞色をこのように使うのはアンが始めてらしく、使い手の多くがやり方を、と伝授を求めるがいまいちわからないでいる。

 こんな感じ、という曖昧さしかないのだ。技術を得るように、段階があるわけではない。シャンクスから色を解き放って貰った時に、把握できる世界の範囲が広がったのだ。それは気付き、だ。こうしてこうする、という手段ではない。

 

 チョコレートを口に放り込んでいた手が止まる。

 

 「オハラの末、かぁ。求めるものはただひとつ。そのひとつを知られたら、世界政府が崩れる、と。まだそこまで弱体化してるとは思わないんだけれどなぁ」

 

 確かにひび割れた部分からぽろぽろと軋みは出ているが。

 知りたいというただひたすらにその一点だけの欲求に突き動かされ、考古学者という存在は活発に動き回る。知りたいならば教えてやればいいのに。それをどう扱うか、が問題であるだけで。

 そうか。知られ、どう使われるのか、を監視する目と耳が足りないのか。放置してよほどのこと、になったら大変だし? だから出る釘を打つ、か。蓄積幅が嵩増ししてるだろうなぁ。Dの一族を畏れるなら、こういう事も、ちゃんと対処していかなきゃいけないのに。

 

 考えつつもそれをわざわざ教えてやる義理も無いアンは、未来を憂える。

 それを認識している天竜人が余りにも少なく、デイハルドですらさじを投げ、もしかして、に備えてアンを使い用意しているなどどれほどが把握しているのだろう。

 

 「900年、だよ。100年ひと昔、ともいうのに。だからなのかな。かつて何があったのか、知りたいって思うのは」

 クザンは口を挟まず、ただ耳を傾けている。

 「歴史の本文(ボーネグリフ)は、クザンも知ってるだろうケド、20の王たちが座していた場所には必ず在るんだよね」

 

 特に重要なものほど。

 手を止め、青雉がアンを見る。数字の訂正をもとめながら、アンは静かに地名を告げた。

 はやりそこか、と青雉はアイマスクを下げる。

 

 彼女の、次の目的地は、太陽の国、アラバスタ。

 

 アラバスタは"偉大なる航路(グランドライン)"内にある砂の王国の名だ。航路内中でも有数の文明大国として名が知られていた。そしてそこには"歴史の本文(ポーネグリフ)"という石碑がひっそりと眠っている。

 大将としての職務に就く際、この秘密を教えられてた。

 

 何かを思考する時、クザンが眠ったふりをするとアンは知っていた。

 赤犬の船からマリンフォード勤務に移った際、居住を義祖父の家に変えたまま現在も進行形だ。本来ならクザンの家へと居候かと引越しの準備にうんざりとしたが、義祖父がそのままにしておけと、元帥になにやら掛け合って現状維持となったらしい。

 そのため義祖父の家は、少々賑やかさが増している。

 クザンの来訪が増え、義祖父が留守でも赤犬や黄猿、おつるに加え元帥までもがやってくるようになっていた。

 

 一家団欒。

 

 その風景になんとなく胸が温かくなる。ダダンの家で過ごした幼少期もこんな風に賑やかであった。

 たまにこちらへ泊まりに来るようになっている兄弟たちと鉢合わないようにだけ気をつければ、充実した生活を送れているのだと実感できる。忙しすぎるのもあと2年だ。暇になれば忙しくなりたいと思うだろうし、今のうちに忙し尽くしでもいいような気がした。

 

 センゴクだけではなく、この家に来てくれる多くがアンを逃がさぬ気でいるのは分かっている。

 先日などはセンゴクが義祖父と一献交わしながら、近々CP9が機密を追ってウォーターセブンへ潜入するという話をしていた。横にアンが居てもお構いなしに、だ。

 

 聞かれたとしても別段構わない。すでにお前はこの機密を知っておかしくは無い場所に立っているのだと。

 暗に示されているのだ。

 

 そしてその、不意に与えられた情報をどのように使うのか。

 見られている。

 

 調べれば分かるはずなのだ。

 アンがトムズワーカーズと関係を持っていたと、CPであればすぐに掴めるだろう。

 当時はこんな事になると想像していなかったし隠す必要性を感じていなかった。だからアンが廃船島で飛び回っている姿を目撃している住人も多かったはずだ。

 

 今年に入りアイスバーグはウォーターセブンにある、7つの造船会社をまとめ上げ、ガレーラカンパニーという造船会社を立ち上げた。しかも早々と世界政府御用達の札も得たという。かつての賑わいを取り戻した町の姿は様々な音で満たされている。その音(ね)をトムにも聞かせてあげたいと思うほどに、町は息を吹き返した。

 

 彼の腕に惚れ続々と町の内部、そして外部から職人たちが集まってきているという。

 さすがはトムの一番弟子、託された設計図の隠し方にも工夫を凝らしているようだった。

 ちなみにアイスバーグはトムが新世界で生きていると知っている。

 こっそりとふたりきりになれる暴走列車の倉庫で、定期的に近況を伝えてもいたからだ。

 

 

 「…ちょっくら行ってくるかアラバスタ」

 「クザンは仕事、してて」

 言い出すだろうと思った。ここからどれ程の距離があるのか分かって言っているのだろうか。

 アンは書類束を指さす。大半をすでにおつるの元へ送り済みではあるが、それでも次々と溜まってゆく紙束にうんざりとした気分になってきていた。既に終わった決済だけではない。必要になるかもしれない、予定の書類まで回ってきている。申請書を出してもなかなか戻ってこないのが普通と化した青雉艦の将校たちは、今がチャンスだといわんばかりに大将の元へ紙を積み上げたのである。

 今まで書類仕事をしてきて、放り出したくなったのは初めてだった。

 

 青雉の部隊に所属してビックリしたひとつが、長であるクザンの逃亡癖を補う為に副官が船の運航までを左右する権限を施行していた事だ。ヒナが艦を与えられ、即日任務につけた理由も納得できる。午前中はこの島内に居た筈のスモーカーもいつの間にか小隊を率いて、近場の島で暴れているという海賊を取り締まりに出かけていた。

 報告は全て事後。面白い体系ではある。

 万が一何かが起こった場合も、すぐさま電伝虫で連絡してくる手はずになっている。

 実力的にはスモーカーも艦を持ち、部下を率いる立場になってもおかしく無い力量を持っていた。だが地位に関してアンと同じく無関心である上、軍規違反を繰り返している為なかなか昇格とはならない事情が足を引っ張っている。

 

 アンはそんなケムリンに好感を持っていた。

 本音と建前を使わなくても話せる、貴重な友人として、である。彼の探し物が見つかるのは、もう少し先になる。それまでもがけばいいのだ。どうしても手にしたいと願うようになるまで、くすぶり続ければいい。助言はもう終わっている。あとはケムリンの頑張り次第だ。

 (……好きな人、か)

 女性士官が恋人云々と話しているのを横で聞くこともあるが、アンにとってはまだまだ縁遠い未来の話に過ぎない。

 もし付き合って欲しいといわれても、頷けないのが現状だ。構っていられないという本音もある。

 ただデイハルドに所有物認定されている時点で、声をかけてくれる猛者など現れないだろうが。

 

 アンが数日留守にしても、クザンに付き従って長い副長殿と、よほどの事件がなければ、力技方面でもスモーカーが対処するだろう。

 手がつけられないならば、アンが青雉を連れて飛べばいいだけの話だ。

 部下が頑張って散っている間、艦長たるクザンは日頃のサボりを挽回出来るよう執務室で監禁状態に置かれる事も致し方ない。

 はっきり言って副官が優秀すぎるのも青雉逃亡の原因となるのだから、困った話だ。

 

 「行くならわたしが行ってきます。丁度ビビとも会う約束をしていたし、なにより今この部屋に、なぜ監禁されてるって分かってて言ってる?」

 「これは任務じゃねェんだ…副官動かすと問題があってだな…休暇は余ってねェよなぁ」

 

 あるんだなぁ、これが。

 なぜか都合よく用意されている有給をちらつかせる。ほとんどの海兵は有給を給与に変えるが、こんなこともあろうかとアンはずっと懐で温め続けていた。

 おつる中将と本部に寝泊まりした幾日かの分が消費されずに残っていた分である。責任ある地位に就くと、私的な時間が大幅に削られてしまう。それは仕事柄、仕方が無いと言ってしまえばそうなのだが、この年齢から仕事中毒(ワーカーホリック)になるのもご免被りたくはあった。

 

 中身の年齢をこちらで過ごしている年月と足せるならば、結構な歳になる。丁度働き盛りと言われる年頃だが、17から先、別の忙しさに目を回すことになるだろう。責務からは解放されるが、それ以上の責任が肩にのしかかってくるに違いない。

 生き急ぐ、ではないが限られた時間内でやろうとしている事柄が多いのだ。先日エースとたてた航海予定では半年で"偉大なる航路(グランドライン)"前半を通過、となっている。

 とある件から随時その状態が保たれるようになり、生きた海楼石と称されるようになったアンが乗り込む船は、船底に同品を敷き詰めたのと同じ状態となる。なので動力さえあれば、凪地帯を通る事が可能になってしまった。

 

 どこで習ったのか風を操る術を会得したアンであれば、凪状態でも帆を膨らませる事が出来る。アン曰く、ジンベエが水を持って投げつけるように、アンも風をむんずと掴んで引っ張れば出来てしまった、のだからこの世は不思議世界と言ってもまったくおかしくは無いだろう。どこまで世界はアンという存在に力を持たせ一極に集中させたいのか。

 

 今回の休暇は海軍を辞めるつもりでいたアンが、帰省準備に当てるために取ったものだ。

 途中でアラバスタ行きを挟んだのは、ビビに愚痴を聞いてもらいたかったからである。

 2年後の航海予定を組み、簡易地図に書き込めばありえない航路となっていた。手っ取り早く新世界に行きたいのであれば、凪地帯を抜けたほうが早い。だがエースは双子岬から偉大なる航路(グランドライン)に入ることを希望している。

 

 絶景を見たいのだ、という。その情報元は弟だった。

 シャンクスから聞いたという、不思議岬の不思議絶景は絶対に見たほうがいい、と。

 折角偉大なる航路(グランドライン)にはいるのだから、色々な場所に行きたいという希望も分かる。所変われば品変わるからだ。ドーン島と隣の、というには距離があるが、デーン島が同じ生態系を形成していないように、行くところ、訪れるところ全てが違う。

 

 浪漫に付き合っていたら、幾ら用意周到に準備していても間に合わないのである。

 だが男という生き物は、目を輝かせて夢を、目的を語る。それを叶えてあげたいと、願ってしまった。

 

 そんな、ささやかな抵抗としてのアンの愚痴である。そしてビビはどんな話題でも興味深げに聞いてくれるのだ。いつか自分も海に出てみたいと。王女であるから冒険などは無理だろうが、冒険の話を聞いて想像することは、出来るから。

 世界会議という場所から始まった交友は、じっくりと回を重ねるごとに深まっている。

 

 「……記録指針(ログポース)と地図の買出しにも行きたいんですよね」

 「そりゃあ、また、どうした」

 

 彼女の位置を探索するときに、必要かな、って。と、曖昧にアンがぼかした。

 本当は別の目的に使うためだ。

 

 水を掴む、というジンベエの人知を超えた離れ業を真似して暴風を巻き起こしたアンであるが、それ以後、時折めまいを感じるようになっていた。脳の奥がもやもやとする、というほうが正しい。感覚に手を伸ばしてもふわりとかわされ、要領を得ない。

 相談した義祖父にも意味わからん、と言われてしまっていた。それはそうだろう。アンのような症状に陥った誰かを見たことがないのだから。

 Dr.ベガバンクにだけは知られるわけにはいかなかった。

 別件が入り、アンに割く時間が無くなっているこの、幸せな静かな時間を削られたくは無い。

 もやもやを抱えたまま、エースと共にシャンクスの元へ通うこと数回目、見聞色の視野を広げている最中に随分と遠くまで見通せ過ぎることに気が付いた。

 世界を二分する赤い土の大陸(レッドライン)、各地の海に広がる島々。

 シャンクスにそれを伝えれば、思いっきり頭をぐしゃぐしゃにされた。師が彼の副官にこの周囲の地図を用意させると、アンに目隠しをさせ、情報を拾わせて地図と対比させ始める。

 すれば見事に全てが当てはまったのだ。通常、偉大なる航路(グランドライン)と新世界は記録指針(ログポース)で示される路でのみ行き来が可能となっている。海図だけでは航海出来ないのだ。

 

 しかしアンはこの道具を必要としない体になっていた。

 見聞色で見渡せる範囲に限るものの、島が一体どこにあるのか、進む先の天候はどうであるのか。何か異常気象が起きていないか。等々を見ることが出来たのである。

 一般的には磁気を辿ってでしか行けない一本道をジグザクに、島を選んで進む事さえ可能となったのだ。

 

 シャンクス曰く、世界の粋を集めて固めたような面白い存在になってきたな、と。

 父もアンほどの極端ではなかったものの、似たような現象を見せてくれていたと告げられれば、これは血が原因か、と落ち込む要素になってしまった。

 血が濃い、ということは余り良い状態ではないからだ。

 

 ある意味強みでもあるだろう。航海者としては、特にそうだ。

 故にこの秘密は、義祖父とシャンクス、エースだけが知る秘密となった。

 しかしこの能力にもまた欠点があり、訓練をし続けなければ島の影が揺らめいて不鮮明になるのだ。だから師から、出来れば訓練し続けるように言われている。

 

 

 「青雉大将、指令(オーダー)を。お望みのものを持ちかえりましょう」

 その代り。

 「ちゃーんとおつるさんにこれ、書類関係出しておいてくださいね。急ぎの分は特に。あと生卵の一気飲みで朝ご飯摂らないように。おじいちゃんが明後日くらいに帰ってくるので、仲良くしておいてください。それとシュークリームしっかりとお願いします」

 

 あとお小遣いも下さい。

 ちゃっかりと、お金には全く困っていないはずのアンが両手を広げて笑んだ。

 これは貸し借りではない。ここできっちり清算されるので、気にしなくていい、という大人のやり取りであるとクザンも気付く。

 

 ああそれと絶対に喧嘩はしちゃだめだとか、次々と加わる注意事項に、青雉は柔らかな笑みを思わず浮かべた。

 「はいはい、解ったから。お前さんが居なくても気を付ける、だから安心して行っといで」

 青雉は己の横に立つ小さな少女の頭をぽんぽんと叩く。

 

 幼児と言ってしまって良い頃に一度、そして11歳から今まで、クザンはその成長を見守ってきた。海軍に入隊し、世話になってきたガープにされた、忠告も無視してしまうほどに、可愛いくも大人顔負けの正論を引っ張り出してくるクソ餓鬼だ。

 大人しく操り人形などになってはくれない。敷いたレールも道路も悠々と飛び越えてそのまた隣へと飛び移る。

 

 愉快だった。クザンがまだ若かりし頃、恩師が次世代に向かい、これから先の未来を切り開くのは自分達老兵ではない、お前たちなのだと言っていた意味がようやくわかった。

 この背を、大将の椅子に座る青雉に憧れを抱き海軍の門を叩く若者がこの世界のどこかに存在している。

 その者がこの背を追いかけ、そして追い越してゆくのだろう。かつて恩師も感じていたに違いない。己が立ち止まった、これ以上走れないと歩みを止めた場所のその横側を、若手の海兵が仲間と共に走り抜けてゆく。

 

 気付き、そうなのだと納得する。

 この少女を手放せない理由、クザンは少女の背を、見送りたいのである。

 ニコ・ロビンと重ねた? そうだ。二度も間違うなど愚の骨頂だ。

 この感情はボルサリーノのように一歩引いた立場で手を差し出すような想いでも、サカズキのような家族へ向ける柔らかなまなざしとも違う。

 これは。クザンは黒の瞳からすい、と視線を逸らした。

 名前を付けてしまうには危険過ぎるのだ。男であれば、誰しもが一度は抱く。

 兄と呼んでくれるならば、甘んじればよい。程よく近しい関係になれるだろう。

 

 「いっといで、頼んだよ」

 「はい、クザン」

 

 黒の瞳が笑みを形作り、大きく頷いた。

 

 

 

 数日後、アンは砂の大地に降り立つ。見事なほど見渡す限り砂ばかりだ。 

 "歴史の本文(ポーネグリフ)"が眠るサンディ島、アラバスタ王国には独自の歴が残るほど永い営みが続いている。

 その首都、アルバーナには大勢の人が暮らしていた。

 大きな円状の大地の上に建設された都市は砂に埋もれる事無くあり続け、少量とはいえ空からの恵みある祝福された地だ。

  

 雰囲気的にはエジプトやシリア、サウジアラビア、に良く似ているのだろうか。

 居住する国から2度ほどしか出た事の無かったアンは、その殆どの知識を本やネットに依存していた。分からない何かがあると、キーワードを打ちこむだけで簡単に情報を得られる。

 此方でも是非にそういう物を欲したが、無い物ねだりだった。

 世界政府は世界が分断されたままを望んでいる。世界が狭まるのを良しとしていない。ただ情報のやり取りが全く出来ない状態というのも世界に閉塞感をもたらすとして、ある程度の交流を推奨していた。挙げるとするならば、ニュース・クーを使った報道であり、大電伝虫を使ったテレビ放送などだ。

 

 宿で手続きをする。

 王宮に泊まればいいのに、とお誘いを受けたがそうもいかない理由が出来てしまったのだから仕方が無い。

 早めに探し人が掴まればよいが、最悪の場合数十日かかるだろう。

 まだこの国には到着していない。が、滞在期間中に砂を踏む可能性も半分あるかないか。

 

 『明確な所在の確認』

 

 青雉が命じた内容はそれだけだった。接触を禁じられもしなければ、捕らえろとも言われなかった。

 「友人の選択の、その先を見る為に、か」

 オハラに関しての資料は少ない。調べようと思っても、紙に残っている情報が余りにも無く全く、分からないままだった。

 クザンの友人に関しては義祖父から名を聞き、調べ終わっている。

 人の手によって隠され分からないのであれば、それ以外に聞けばいい。アンは最終手段を講じた。

 

 世界へなにがあったのか、その記憶を問うたのだ。

 世界は容赦無かった。

 膨大な量の記憶を得た昨日は、ずきずきと痛む悩を抱え、訓練中、八つ当たりというなの発散を行ったのは言うまでも無い。

 

 だがそのおかげで、様々を知ることは出来た。

 オハラの子、がどうやって生きて来たのかも、全てだ。

 非道ともいえる人の所業により行われた行為で、たった一人で生きなければならなかった境遇は確かに、酷いものだった。しかし同情はしない。憐れんでも過去は動かないからだ。悲しかったね、大変だったね、そう言われたところで、困惑してしまうのは当人だ。

 今現在彼女が必要としているのは、終の棲家であり、受け入れてくれる誰か、なのだ。

 

 運命というものがある。

 超自然的な力に支配され、人の上に訪れる巡り合わせを指し示す。もしくは天命によって定められた人の運。どちらにしても定められた路は選びとらされるものだ。

 が、アンは抗う派だった。なぜそうなったかといえば、目の前に伸びる道のいたるところに絶望が敷き詰められていたからである。導き通りに進めば、望まぬ最後が訪れる。けれどこのまま道なき路を通ったとしても、結果、同じ場所へ続くのかもしれない。逆走すら、孫悟空がお釈迦様の掌から出られなかったように、目論見の中に含まれている可能性もあった。だからといって、仕方が無いと絶望を受け入れて歩むなど馬鹿らしい。

 

 とまで考え、絶望を見る。

 絶望、とわざわざ書いてくれているのならば、上手くそれを乗り切れないか、と切り替えたのだ。

 素直に絶望した! と叫ぶ趣味など持ち合わせてはいない。

 アンは悪あがきすることにした。海兵となったのも、エースと共に海を往く為に必要な力を蓄えるためだ。

 

 アンと彼女との違いは、経験と導きの手の多さだった。

 ただ、それだけの違い。だからこそ、アンは彼女を知り、余計に他人事とは思えなくなっていた。

 

 ぱちんと懐中時計を開く。

 ビビ王女との待ち合わせ時間までまだ少し間があった。

 タンクトップに半ズボンという動きやすい姿だが、この国では少々肌を露出しすぎな感じもしていた。じりじりと大地を照りつける太陽は、確実に肌を焼くからだ。このままの姿ならば数日で真っ黒になるだろう。それでマリンフォードに帰れば、どうなるか。

 一番出会いたくないのがサカズキだ。

 遊んじょる暇があるならわしが相手になってやろう。などと言われ嬉しくて付いて行ってしまいかねない。

 

 黄猿艦、赤犬艦というふたつの部隊で鍛え抜かれた体は、ちょっとやそっとの運動では満足できない体になっていた。

 島で兄弟達と暴れれば何とか解消出来るものの、赤犬との訓練は刺激的で楽しくなってしまうため、出来れば遠慮したいと願ってしまう。

 終わればまた、優しい存在に戻るのだが、それまでが恐ろしい。同じ段にい続けることを許してもらえないからだ。ひとつとは言わず、2段、3段と飛び上がっても良いのだと手を引かれる。

 この間、ボール引きの後などは3大将戦が行われ、随分とかわいがられてしまった。

 ひとりで3人を相手にするには、まだ力量が及ばない。

 けれど相手の実の力を思ったより広範囲で抑えられる感覚を手に入れられたのは、思いがけない幸運といえるだろう。

 

 「この国では既に、砂鰐さんが水面下で動いてるんだったっけ」

 小さく言葉し、唇を薄く濡らす。

 顔までは知られていないだろうが、アンも名が知れた将校になっていた。だからという訳でもないのだが出来るだけ滞在がばれないようにしなければ、後々の工作が面倒になってくる。個人的な休みで様々な国や島を訪れていても、何か事が起これば名乗り、動かねばならないからだ。

 特にアンの場合、デイハルドの影響を受け、治外法権を付与されている。行おうとは思わないが、どこであっても我がままに威を振えるのだ。

 

 露店で衣類を見ると、色とりどりの衣装が並んでいた。

 町を行く人々の姿を見ても、ターバンやフードを被り、薄手の長そでが多いように見える。

 イメージ的にはそう、アラビアンナイト、のシンドバッドに出るような砂漠の国を彷彿させる服装が多い。

 アンも何枚か、色を合わせながら購入した。

 首元が締まり長袖の先が大きく開いた、ウイッチスリーブブラウスに一目ぼれし、それに合うズボンとどこかの民族衣装のような前開きブラウス、そしてフード付きのボーダー柄のポンチョを選び、早速腕を通す。

 

 郷に入れば郷に従え。

 ではないが、それぞれの国の文化や食、色彩に触れるのは楽しい。それがたとえ仕事に片足を突っ込んでいた、としてもだ。

 荷物を一旦部屋に置きに行き、アンは再び町に繰り出す。

 そして王宮に続く道を進んだ。砂漠地帯にも咲く花が、至る所に植えられている。

 人々の顔には活気があり、聞こえてくる内の声も穏やかなものが多い。さすがに商人達の内心は金銭まみれだったが、商売人とはどこにあってもそんなモノなのだろう。

 町行く多くの人々は王の気質を習うのか、人が人を大切にしている良い民だと言えた。

 

 しかし、アンはこの国の情報を得るに当たって知ってしまった未来に唇を噛む。

 これから起るだろう、最悪に人々は惑い苦しむからだ。

 原因は七武海の砂鰐、サー・クロコダイル。

 自身の能力を最大限に引き出せるこの国で、望みを果たそうとしている。

 まとまりのない繊維を1本の糸に紡ぐように、彼は手駒を集め、組織を少しずつ、布を織るかのように形を持たせ始めていた。

 その一本に、アンが接触しようとしている彼女もまた繋がっている。

 

 今のアンに手を出す事は出来ない。なぜならば王下七武海は、政府の敵ではないからだ。

 口出しすることなく、友人の助けになるために何が必要だろうか。アンは雲ひとつない空を見上げながら、思案する。

 王宮への階段まで、もうすぐだった。



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40-アラバスタ

 太陽と砂と、風の国、アラバスタ。

 延々とこの地に根付く命は干ばつと闘ってきた。

 ごく少量降る天からの恵みと、位置を変えずこんこんと沸き出る水に支えられて命が育まれてきている。人々は与えられた水を大切に扱いながら生きていた。

 

 あと数年でその平和が崩れる。

 どういう理由で崩れるかは分からない。けれどそれまでに出来る事はしておくに限る。

 友の有事には駆けつけるのが親しき者としての責だと思っていた。

 ただその頃、住処としている海はここでは無く新世界であるはずだ。有事の際いち早く気付けるか、がネックと言えるだろう。

 

 アンは王宮に続く階段を上る。

 町の中央に建つ王宮からは広く町を見渡せた。宮殿を中心に東西南北に分けられた街並みが広がっている。町に入るための門は合計5か所にあり、それぞれの町を行き来する行商隊の行き来も頻繁だ。

 

 ここ、アラバスタの王が座す洛(らく)は、砂漠の中にあって眠らない都とも呼ばれている。

 

 この国の皇女、ネフェルタリ・ビビと出会ったのは世界会議の席だ。

 かの悪食王に絡まれた後、落とした髪飾りを拾ったのがアンだった。その日は忙しく返せなかったが、翌日出会う機会があったらしく、その時に返却できたらしい。

 

 推測が混ざっているのは、アン自身に記憶が無かったからだ。

 その日のことを聞き出そうとすればやけにエースの機嫌が悪くなるため、聞きだすにも時間がかかってしまったのである。

 けれどそのおかげでビビ皇女と文通をする仲となり、時々こうして家に招かれるまで良くして貰っていた。

 王宮としても身元がしっかりとしている海兵であり、しかも年齢が近い者同士として温かく歓迎されている。

 

 だがいつもは空からの訪問で、今回のように地上から訪れるのは初めてだった。

 近衛隊とは顔見知りも増えたとはいえ、門番をしているこの人物達とまでは面通ししてはいない。

 「こんにちは。ポートガス・D・アン、と申します。ビビ皇女との謁見に参りました。ご確認ください」

 

 にこやかに訪問を伝えたがしかし。開門したのは1時間が経ってからだった。

 門兵からひんやりとした陰を提供されながら、待つ事が楽しいかのように笑顔で景色を眺め続けていたアンが振り向く。

 

 遠くに大砂丘が見え、太陽の光を受けて金色に輝いていた。

 この国に長く住んだ事が無いアンは、その景色を美しいと思った。暮らす人々にとっては細かな砂塵が家のそこかしこにも入り込み、掃除するのも大変であろう。肺を犯す元にもなるため、掃いて出すのは自衛でもある。

 壁があれば少しはましになるものの、砂漠の中にある家屋は特に風と共に舞う砂に埋もれ、刻々と姿を変えるうねりの中に消え去ってしまう事も少なくは無い。砂は人々の生活を脅かすものであった。されど人が立つ大地から生まれ、口にする食物が育つ素地でもあった。

 害ばかりが先行し、役に立つことなど余り無い砂ではあるが、それでもアンは広がる景色を美しいと思った。砂の中で営み続けられてきた人の命が、きらきらと宝石よりも鮮やかな色をして輝いてるかのよに見えたからだ。

 

 待つのは決して苦痛ではない。慌しい時間の中で生きているためか、こうして時間を無駄に使えることこそが贅沢であると思えるのだ。

 会話を交わし程良く門番の兵と仲良くなった頃、不意に後方で鉄門が小さく開かれた。覗くのは幼い少女だ。

 

 「ビビ!!」

 「アン!!」

 

 ふたりは駆け寄り、黄色い歓声を上げる。

 会ってすぐだというのにお互いにまた少し背が伸びただとか、付けている髪飾りが可愛いだとか、女の子同士の会話に花が咲く。

 そうしていれば、ふとビビが疑問を口にした。

 

 「どうしていつもの海兵の姿をしていないの?」

 「ああ、偶にはこういうのもいいかな、って。久々の休暇だし、お店を巡るのも楽しかったよ」

 

 だがビビはこんな場所で待ちぼうけさせてしまったのが、嫌だったらしい。

 海兵の姿であれば、いつもの通り来てくれてさえいれば、こんなに心配しなくても済んだのに。待ちぼうけしなくても、よかったのに。小さくつぶやかれた思いに、ほほ笑みがこぼれる。アンは膝を折って視線を合わせぎゅっと両手のこぶしを握った友達に、ごめんね、とありがとうを伝える。

 「ううん、わたしもごめんなさい。アンったら名前しか言わなかったでしょう。近衛が止めてたの。イガラムが気付いて本当によかった」

 

 門兵はふたりの姿を呆気に取られて見ていた。

 会話からこの、楽しそうに景色を見ていた少女が海兵であり、王女の確たる御友人であると知ってしまったのだ。不審人物は役目として、門から先通さず、を文字通り仕事としている訳なのだが、判断を誤ったかと門兵達が視線をちらりと交わし合う。

 「そうだわ、アン。パパも首を長くして待ってるの、こっちよ」

 空と同じ柔らかな水色の髪の少女がアンの腕を引く。

 お邪魔します、と今まで会話に付き合って貰っていた兵達へ向かい、

 「大丈夫、ちゃんとお仕事していたと伝えます」

 日陰の礼を言葉にしてから開かれていた狭間から中に滑り込んでゆく。海兵である証は基本、本部から支給される衣類だけだ。帽子もあるが、腕章はほとんど使われない。一番手っとり早い身分証明はコートだろう。あれには特殊な織り込み糸が使われており、偽物と比べればすぐ分かるよう縫製されているのだ。

 だからその衣を纏っていなかったアンを、海兵だと知るのは難しいといえた。だからあなたたちは悪くないのだとアンは笑んだ。

 

 少女達は中庭を通り、女官が使う細い通路を横切って王が座す宮殿へと向かう。

 繋いだ手の主は柔らかだった。歳相当の、女の子という感じがする。

 海兵となり、海での生活が長いアンは最低限の手入れはしているものの、どうしても疲労に圧されて何もせずに寝てしまう事もままあった。

 「ビビの指、きれいね」

 「うん、マニュキュア塗って貰ったの」

 あちらにいた時は爪が割れないように、透明色を塗っていた。おしゃれの為では無く保護を目的として。

 ビビの爪を彩る艶は愛らしいピンク色をしていた。

 「アンもして貰う?」

 肩越しに振り返りながら、小さな友人が笑む。

 「うーん、どうしよう…かな」

 語尾がだんだんと小さくしぼんでゆく。仕事柄を思えば綺麗に塗ったとしてもすぐにはがれてしまいそうな気もしたからだ。

 「じゃあ後でわたしの部屋に案内するわね」

 「あ、うん、ありが、とう?」

 アンははにかむ。女の子らしいおしゃれなど、ほとんどして来なかったからだ。海軍に在籍しているため必要に駆られなかった、といえば聞こえはいいがぶっちゃければサボっていただけである。おしゃれしようと思えば出来た。するのが面倒だったのだ。

 

 (……聖地で着させてもらったドレスとか、可愛かったなぁ)

 

 デイハルドに仕える女官たちに全ての衣服を剥かれ、洗われ、いろいろなものを塗りたくられたあと、着せられるがままに袖を通したドレスは動きやすくしかも可愛かった。磨けば変わるものだとランからも褒め言葉を貰ったし、世界貴族が青海の王たちを招いて開いた立食パーティの席でもコングに、本日の装いは実に可憐ですな。と世辞も頂いている。

 デイハルドの護衛で入ったはずなのに、見られると減る、触られると削れる、先に屋敷へ戻れとわがままを言う天竜人をなだめすかすのも慣れたものだ。

 自身では馬子に衣装であるとは思いつつも、なんとか形にはなっているようで胸を撫で下ろしたのもつかの間。アンがしくじればデイハルドに迷惑がかかるのだと知れば、それだけは断固として阻止せねばならなかった。にわか仕込みであるが3時間ほどで仕込まれた礼法を崩さぬよう気を張り続けていた。

 

 ……のも、遠い昔の出来事に思えるほど普通の一般庶民の生活の中に今、身を置いている。

 贅沢三昧するのも時には悪くないが、やはり普通がいい、と心底思うアンである。美味しいものばかりを口に放り込まれると、口が肥えて仕方が無いのだ。

 休暇中の身であるし、海兵であることをこの間だけでも忘れて少しだけおしゃれしてみようかと。今だけただの女の子になるのも悪くは無いだろう。思い至れば行動するだけである。

 

 2年後、ビビとの関係がどうなっているかはわからない。

 ただひとつ確かであるのは、こうして気安く遊びに来られないだろう事だけは確実だ。

 青海の王族の中でも頂きに近い高貴な身分であるビビと友達になれたのは、とても運が良かったのだろう。権力とは恐ろしいものだ。ただの海兵に王族と知り合えるだけのコネなどない。流行の物語のように、海賊に襲われている姫を海兵がドラマティックに助け恋に落ちるなど、絶対にない、とは言い切れないが1万回に一度あればいいほうだろう。

 

 なにもかも義祖父という存在あってこそのアンである。

 ガープ中将の孫という肩書と、天竜人であるデイハルドの影響が大きい。個人で積み上げてきた実といえば片手で数えられるほどしかない。もう少し年数が経てば独り立ちさせようと上層部は画策しているらしいが、その時にはもうアン自身が海兵では無くなっている……はずだ。彼女は良い王女におなりになるだろう。たまに行動力が飛びぬけてしまうのが気になるところだが、彼女には多くの手助けがある。払わず取り続けたならば、きっと良い未来がくる。

 

 握られた手の温かさの心地良さに自然と笑みが浮かぶ。エースやルフィとはまた違う、凛としてまっすぐな気質は確かにこの国の王女らしい、人と国とする包容力を持ち得ていた。

 

 宮殿の奥へ進む途中、出会った宰相や将軍に挨拶をしながら執務室で政務を行っていた王へ顔を見せた後は、手紙でやり取りしていたボードの話となる。

 

 「すごく楽しみにしていたの」

 「手紙にもそう書いてあってもんね。はじめて、はいつだって楽しいもの」

 

 アンは早速、材料の調達をし始めた。

 しかし木材はこの砂漠では貴重な資源だ。おいそれと切る事など出来ない。それならば、と王宮の一切を賄う厨房の裏口へと連れていってもらい、そこで替わりになる物を探した。大人の胸に届かない背丈のふたりが黄色い声をあげながら走りまわれば、いつもは静かな王宮内が急に慌ただしくなる。

 「はいはい、そこのおふたりさん、宝探しは外でやって下さいね」

 くるりと髪を巻いた女性にぽい、と外へ追いやられても、まだ行っていない場所があるとこっそり示し合えば、死角を利用して潜り込みを繰り返す。

 

 砂漠で滑るボードは薄い板を使う。

 元々はオーストラリアで生まれたとされる、サンボードは砂の斜面を板で滑り降りる遊びだ。

 滑り降りる疾走感もさることながら、慣れれば空中遊泳も可能となる。滑空とまでは行かないが、ふわりと身が浮く感覚が気軽に楽しめるのだ。スノーボードにも似ているが、必要な道具がボードだけという手軽さも魅力だった。

 

 「この樽使えそう。もう少し削って足止めをつけたら、すぐに滑れるかも」

 使い古され黒くなり、半ば放置されていた樽をひとつ見つけた。早速、譲ってもらい中庭で槍鉋(やりがんな)を借りて、アンががりがりと削ってゆく。

 道具の使い方は簡単に、ではあるが、トムに教えて貰った事があった。今でも見られればアイスバーグには危なっかしいと言われるだろう。職人の目から見れば素人であるアンの手作業はどれもはらはらとするに違いない。

 その様子をビビはクッキーをつまみながら眺めていた。

 しかし数十分で見ているだけ、であるのが飽きたのか小さな小瓶を持ちだして来、アンの靴を脱がせ、爪先へ液を塗り始める。

 「ビビ、くすぐったいよ」

 「動いちゃだめ、指に付いちゃう」

 真剣なまなざしで筆を動かす友人に、今で無くともいいのではないかと聞けば、

 「だって、外に宿をとっちゃったのでしょ。お風呂上りに塗りあいっこできないもん」

 ときた。子供ならではの直打である。なまじ素直であるから、その破壊力はかなり大きい。

 

 (……若いって凄い)

 アンは首をこくん、と縦にしか振れなくなっていた。大人の、裏の裏を読む会話が普通となってしまっている日常に咲いた久々の癒しである。言葉の裏にある真意を想像しなくていい。なんと楽なのだろうか。しかも女の友達である。

 

 (ビビだけは絶対に守るから)

 そう心の底から決めたアンであった。

 

 時折、通りかかった護衛副官や王が、なにやら楽しそうにしているふたりの姿を眺めながら通りすぎてゆく。ナツメヤシの葉がさらさらと揺れれば、冷たい風が流れた。

 アンが小さな白のトレイにあったクッキーを、足指を動かさないよう慎重な動きでひとつとり、ぱくりと口に含む。元から湾曲していた板の加工は意外と簡単だった。

 凹凸を作らないように、先へ行くほど薄めに削ってゆく。ただそれだけだ。

 あとは足を引っ掛けて固定するベルトをとりつければよい所まで仕上げ、アンは木くずをまとめる。

 「あともう少しで完成するよ」

 そうビビへ終わったと伝えれば、小指の小さな面をそっと塗っている最中だった。ふとその後方を見れば困った表情で何度も、お早く、と急かしている女官が居た。

 

 「ビビ様」

 「もう…本当に、これで終わりだから」

 夕方前に伸ばしていた学びの時間だと、女官のひとりがさらに促す。

 いつもは素直について行くのだろうが、今日ばかりは手こずっているようだと、引きつり始めた女官の感情を読み取ってアンは苦笑する。

 だからという訳ではないが、気持ち良く誰もが王女さまを外に送り出せるよう声をかけた。

 「ビビ、もう少し日が傾いたら行こうね」

 「うん!」

 戻ってきたのは大きな頷きだった。それでも最期の最期、納得するひと塗りがされるまでビビは動かなかった。

 

 引きずられるように自室に持ち帰られた友を見送った後、アンは執務室で休憩中であった王の元を訪ね、夕方の外出許可を得る。

 アンがその身を以ってビビを守るとはいえ、王族を外に連れ出すのだ。安全は保障するつもりではあるが、絶対に何も無い、とも言い切れない。割ける人員がいるのならばひとりでも、彼女だけの護衛が欲しい所ではある。

 「王は政務がおありになるからご無理で……ですよね? え、行かれる? あ、でも、ほら。お仕事が。チャカさんかベルさんのどちらかが付いてきて頂けると助かるのですけれども」

 

 わしが、と腰を浮かせた王を制止し、側近のどちらかをビビの護衛にお願いできないだろうか。と頼めば王があからさまに落胆した。どうもしなくとも、付いてくる気だったらしい。しかもどちらかひとりと頼んだ両者であるが、お互いが譲り合って決まらない。その隙を突いて王がゆるりと王座から階段を下り、外出用のターバンを身につける。

 

 「王よ……私の仕事をさらに、増やすおつもりですね」

 

 陽炎のようにゆらりと現れた護衛隊長イガラムにより、王がびくりとその身を縮ませる。そろりと首を動かしその姿を再確認すれば、脱兎の如く駆け出した。それを追いイガラムがなにやら叫びながら走り出す。一人残されたアンへ、いつものことだからそのうち収まるとベルが肩を竦めた。王宮とは思えないほどの緩さだ。

 それが、この国の良さなのだろう。自然環境が厳しく、人が生きてゆくのは困難であろう砂の満ちる場所で、生きる為に作られた厳しい戒律を守りながらも人々の心はどこまでも豊かで柔らかい。まるで風が砂に描く文様のようだ。吹く向きにより、柔軟にその姿を変える。

 

 平和な国だ。賢王を頂きに、盤石の固きに政を置いた穏やかな国の姿がある。

 だが忍び寄ってきている影がこの国の全てを飲み込もうと、嵐を起こす準備を始めていた。

 未来を語れたらどんなに楽か。そう思い首を振る。

 

 「アン!」

 薄青の空を見上げている不意をつかれ、後方から何かが飛びついて来た。

 「…ビビ」

 確認するまでも無く、いつも以上のやる気を見せさっさと課題を終わらせてしまった王女様だ。

 

 「ごめんなさい、わたし、いけない事、したかな」

 「ううん、違うの」

 敏感にアンの表情を察し、心配そうに瞳を瞬かせる友人に笑む。もし今、語る事が出来、未来に起る可能性の高いその計画を未然に防げるならばどんなに気が楽になるだろう。だが楽になるのは呵責を抱いたアンであり、伝えられる人物ではなかった。息が詰まる。

 安易に時の流れは変えることが出来ない。やろうと思えば出来る。だが行うにも代償が必要とされた。

 起るべき未来、多くの人々を巻き込んで起こる出来事全て、その因果を背負う誰かが必要となる。それをアンが全て承知し引き受けることができるかと言えば、無理だ。

 アンは友の身を抱きしめた。出来ないかもしれないと思うのではなく、必ず来るから。その意志を込めて、抱きしめる。

 「違うの、ビビがいっぱい頑張って来てくれたから嬉しくて。抱きしめたくなったの」

 

 その瞬間をぱしゃり、とレンズが捉えた。押したのはイガラムだ。

 町に砂砂団の友人が残るものの、友情を交わした王女を王女としてではなく友人として特別扱いしない人物は遠く、ユバというオアシスを囲む集落に暮らしている。

 城内には同性の供は居ても、友は居なかった。

 彼女の来訪が決まった時、王女の喜びようと言ったらお世話する者たちまで楽しみにしてしまうほどのはしゃぎようであった。

 この地は捨の大地。人と人が手を携えなければ、生きては往けぬ過酷な地だ。王女は人の手を取らねばならない。民を導き支える者として、必要とする手を選び取り、使わねばならない。

 

 海兵の少女は絶好の遊び相手であった。遊びの中で必要であるものとそうでないものを、取捨選択する予行演習が出来る相手である。

 大人ばかりの集団の中で育てば、周囲の顔色ばかりを伺いながら年齢を重ねてゆくが、こうした子供同士のやり取りこそが豊かな人間関係を、そして人をどうやって使うのかの土台となるのだ。

 王の血族、唯一の姫。その背に、肩に乗る未来は想像を絶するほど重いであろう。

 だから今は、今だけは年相応な感情と思考を奪わないよう、細心の注意が払われている。故に客人が持ってきたナイフを借り、仕上げの削りを行なうビビの姿は、多くにとって微笑ましくそれらの頬をゆるませるに値した。

 

 

 「ここに足を通して…足ベルトは調整できるように穴を多めに作っておくね」

 ネジでしっかりとベルトを木に止め、木くずを払う。木樽を使ったにしては良い出来だろう。多少の曲がりは気にしてはいけない。

 早速乗り心地を確かめるべく、木の上に足を乗せベルトを引っ掛ける。

 「う…少し、足が突っ張っちゃう」

 「幅を広くしすぎたかな。でもすぐだよ。ビビは成長が早いからわたしなんか、すぐに追いつかれちゃうね」

 身長の伸び悩みに定評のあるアンが、ひとり内心で涙を流す。先週は遂に3歳下の弟にまで、身長を抜かれてしまったのだ。

 得意げに胸を張って、アンを抜いたぞ、と喜ぶ弟がうらやまけしからん上に嬉しそうにはしゃぐ姿が可愛すぎるものだから、「そう、よかったわね」と背伸びをしてその頭を撫でてやるほかなかった。15歳にもなって身長ごときで悔しがるのも大人げない、という見栄もあった。地団太を踏めばよかったのだろうか。ジレンマに揉みくちゃにされた末、結局、可愛い弟の自慢を受け入れる方を選択したアンはひっそりと自分の心の狭さを辟易していたのである。

 

 どんどんと周りから置いてけぼりを食らっているような気がしてしまう。どんなに足掻いても結局は追いつけずに、追いかけてきた背中を見送るだけになるのではないか。嫌な予感ばかりが胸に留まる。

 ふるふると首を振って嫌な想像を振り払った。しかし消えはしない。影を薄め、存在し続けるからだ。

 

 時がゆっくりと流れゆく。

 太陽が砂の海へと傾いた頃、アンの来訪を聞いていたテラコッタが、外出の準備が進む厩舎に顔を出した。柔らかく巻かれた外向きのカールがぽよんと揺れる。彼女はイガラム婦人でありかつ、王宮の食を取りまとめる料理長であった。彼女のように繊細かつ豪胆でもある料理の腕に近づけるよう願いを込め、厨房の料理人たちは彼女のトレードマークとも言える髪形を真似していた。彼女特製のマフィンはしっとりとしているがしかし、かりっとした歯ごたえも楽しめる、どの店のものとも違う特別な品だ。柔らかなマフィンの上部をメロンパンのような生地が乗っているといえば分かりやすいだろうか。もっちりではなく、焦がして噛み応えある食感は一度食べたらもう、虜にならざるを得ない。それを持たせ見送ってくれた。

 超カルガモというアラバスタ王国最速の動物と言われるカルーと、護衛隊副官ふたりを伴って町へ繰り出す。

 

 町のはずれにはナツメヤシが立ち並んでいた。

 農園には細く長い用水路があり水量豊かとはいえないが、細い流れが人々の命を支えている。

 砂漠に住む人々にとって欠かせないのがこのナツメヤシだ。僅かな雨でも生き続ける事の出来るこの植物は砂を含んだ強風から、地上を這うように広がる緑を守る柵のような役目を担っている。またその実は貴重な栄養源として重宝されていた。

 水が豊富にある地域では余り食べない木の実だが、実は食物繊維やビタミン、ミネラルが豊かなのだ。食べ方としては乾かすのが定番か。アラバスタの人々は日々の営みの中で培ってきた知恵を上手く使いながら暮らしていた。

 

 金色の光が砂漠を黒と白に分け、空には薄くたなびくような雲が広がっている。

 昼間のような刺す熱さから、からりとした動きやすい熱気へと変わった夕闇迫る僅かな刻に、少女達の歓喜が風に混ざり広がってゆく。

 

 ナツメヤシに囲まれた畑で汗を流す農夫達がふと顔を上げた。日差しが強い日中は作業に向かない。だから朝と夕にクワを持ち砂を土に変え、作物を世話するのが彼らの仕事である。楽しげな声は大傾斜から聞こえてくるもののように思え、手をかざし橙の光を遮りながら視線を向ける。

 目を凝らすと小さな影があった。それはまるで砂地を泳ぐ魚のようにも見える。

 上空には大きな鳥が舞っていた。それはこの国を守る隼(はやぶさ)の姿だ。

 

 「ああ…ビビ様がご友人と遊んでいらっしゃるのか」

 「この国は恵まれている。善き王が続くこの国は…」

 農夫たちの声は、生まれてきた国に誇りを感じさせる思いを含んでいた。与えられた恵みの土地を、彼らは再び耕し始める。

 

 歓喜の絶叫が黄金の丘に響いていた。

 流れる景色は刹那に姿を変え、遠くの町並みが一気に迫って来る。

 毎年雪の季節にはボードに行っていたから任せて、というアンにしがみつき、浮遊感を感じたのもつかの間、ビビはその景色に目を奪われてしまった。いつも見ているはずの景色がまるで違う世界であるかのように思えたのだ。

 

 大砂丘をベルの足にぶら下がった状態で登り、砂丘を滑り降りてゆく。今までとは全く違う。砂にきらきらと輝いているだけなんてなぜ思ったのだろう。単色で砂ばかり。だけれどこの王国にはなんと多くの生の匂いが、色濃く人々の営みが立ち上っているのだろう。

 高い壁の向こうには緑の畑が広がり、視線をゆっくりと動かせば商隊なのだろうか。率いられたラクダの列が見える。

 王国を包む砂漠は人の生活が行われている地点に比べ圧倒的に広大だ。だからこそささやかな営みに愛おしさを感じるのだろう。

 

 幼い頃、友の契りを交わした彼が暮らすのは川を超えた向こう側にあるオアシス、ユバだ。

 時折手紙が届く。男ゆえか、筆まめではないが必ず返事を返してくれる律儀な友だ。

 人と人が繋がり、手を携えながら砂の大地に生きている。人々を支えるのはこの国に住まう多くの名も知らぬ同郷の者たちだ。父は民の声を聞き何をなせば民が生きやすくなるのか、日々多くを考えながら国を成している。

 

 「人が国、いい言葉だよね」

 聞こえてきたそれは、父王が良く口にする言葉だった。砂を手のひらにすくい上げさらさらと零しながら、ビビの友が言葉を続ける。

 

 「でもね人はすぐに忘れちゃうんだ。こつこつと積み上げる事の大変さを」

 だから既にあるモノを、奪おうと画策する。

 誰かが頑張って頑張って作り上げてきた成果を奪っても、その人から奪った段階で砂の上に建てられた幻になってしまうのに。奪い、掌中に収めた興奮からなのかそれに気付かない。

 

 何のことかビビには分からなかった。けれど、胸の片隅にそっと友人の言葉を包み込む。

 意味のない事をこの友人は口にしなかった。いつかどこかで必要となるのだろう。

 

 「信じていてね。誰もが疑いを持ち、もう駄目だと諦めたとしても。信じる事を諦めないで」

 そうすれば必ず、合いの手が入る。わたしも必ず、駆けつけてみせるから。

 

 聞こえた囁きに、頷く。

 ほんの少し年上の友人が語った言葉を、ビビは胸に刻んだ。

 

 

 その夜はささやかながらに夜会が催された。

 王族だけの食卓では無く、近しい臣下やその家族をも交えた立食だ。

 近海で採れた魚介類が豊富に並べられ、厨房が力んで作ったという湯気立つパスタも数種類あった。砂漠でも力強く育つ、小ぶりのトマトをソースに使ったものと、山羊の乳とチーズをふんだんに投入して作られたスープパスタ。揚げ物や乾燥野菜を使ったマリネなどに舌鼓(したづつみ)を打つ。

 「ねえアン、明日もだめかな」

 ビビは事の他、サンドボードが気に入ったらしい。アンと共に滑り降りながら感覚を掴み、板を譲られた後は翼に何度も運んでもらいながらひとりで小さな砂丘で日が暮れきるまで乗り続けていた。

 「そりゃ毎日乗ったほうが上達はするだろうけれど」

 そんなに頻繁に外出すると、近衛達が大変になってしまいかねない。ついでに王の業務も遅れてしまうに違いない。

 

 「…だけど」

 ビビが不満げな声を出す。表情もしかめっ面になってきていた。

 「それに明日は高名な学士がいらっしゃるのでしょう」

 それもわざわざ航路を変え、とある論文を提出したビビの為にやって来るのだという。

 「…ねえ、アンも一緒に」

 「お邪魔…にならないかな。ビビが専攻しているその文学、わたしには難し過ぎるよ」

 ある程度の基礎知識はあれど、専門的な語彙が出てくると全く分からなくなってしまう。

 さらにビビに会いに来るというやってくる学士は帝王学についても著名な人物だったはずだ。王までもが受けてみてはどうかね、と誘ってくるがアンとしては受ける気などさらさらなかった。

 

 なぜなら人の上に立つつもりなど無かったからだ。義祖父も元帥も中将の席にアンを座らせたがっている。

 そもそも資格が無いだろう、と思うのだ。

 生まれに関しては仕方が無いとは言え、義祖父の守りが無ければ今頃、捕らえられて既に故人となっていただろう。もしくはオハラの子と同じく、逃亡生活が待っていたかもしれない。

 

 中将になれば。

 世界政府が手出し出来ない位置に潜りこんでしまえば。

 それはとても甘美な誘惑だ。だが受ける事は出来なかった。

 

 アンはビビと好きな物、嫌いな物をこっそりと交換しながら食事を楽しんでいた。しかしふたりの口にそれぞれ苦手な食物をテラコッタにより突っ込まれるという、涙目の事態になったり。白乳色の飲み物を山羊のミルクと間違って飲んでいたりと、躍然(やくぜん)とした夜が過ぎてゆく。

 

 「ねぇアン。唄って。約束してたでしょ」

 「んー。いいよう。唄う!」

 上手くないけれど、それはごめんねー。と酔っ払った少女がいつもとは様子を違え、年相応なはしゃぎっぷりを見せながらビビと手を繋ぎ黄色い声を上げていた。ここに集う人物達は皆、アンの素性を知っている。世界会議の席で知己を得た者たちもまた多い。

 あの場所での振る舞いと今を比べれば、天と地ほどの差があった。どちらが本当の少女なのか。誰もがその動向を見守っていた。

 

 唄と聞けば腰を浮かせたのがイガラムである。そそくさと21本の弦が通された長いネックとひょうたんのような共鳴胴をもった楽器を抱えてやってくる。つまんで弾く独特な民族楽器が滑らかな音をはじき出しはじめればざわめきがしぼんでいった。

 

 伸びやかな声は満天の星空に吸い込まれてゆく。

 La、から始まる悠然な調べに、誰もがそちらに視線を向ける。音が声に寄り添い、混じるように螺旋を描く。

 声が発する音は、この世界ではとうに忘れられた言葉の羅列だった。アンにとっては使い慣れ親しんだ音だが、こちらではまだ聞いた事が無い。

 過去の出来事を未来に伝えるために、強度だけを最大限に高めて残された遺失物。それを読み解ける者がこの場にいたならば、顎を外して目を剥いていただろう。

 石碑は作り手が目論んだ通り、残りはした。刻まれた文字は欠けることなく今も在り続けている。

 しかし音までは残らなかったのである。

 驚くこと無かれ。アンが知るとある国の発音に、遺失文字をそのまま当てはめることが出来た。

 

 歴史の本文(ボーネグリフ)に秘められた願いは、音を知らなければ読み解けないようになっている。

 この唄は、はじまりの歌だ。

 意味を解き明かせる人物が聞けば、声を失うだろう。知りたいと願うその文字の意味そのままであるからだ。

 もしかすれば、シャンクスならば分かるかもしれない。父と旅した者たちであれば、知っていてもおかしくなかった。

 調べを音に乗せる。届いけばいいのに。わたしは、ここにいるよ。歌詞の内容に心が乗る。脳裏にちらりと浮かんだ、異国人であるかもしれない存在に想いを馳せた。

 

 こればかりは兄弟たちが妬んだとしてもどうにもならない。近代化された、戦争を知る世界からの旅人がもし、こちらの世界に来ているならば力になりたかった。アンはこの世界に生まれた。だから生きていくための心積もりも出来たし、どうすればいいのか冷静に判断することができた。

 もし20という年齢のまま世界を渡っていたならば、どうしていいのか全く分からず失意のまま命を絶っていただろう。

 なぜならば自分はこの世界の人間ではないという区別を自らがしてしまうからだ。生きてゆくための手段と、地盤が無い状態では取っ掛かりを得ることすら難しい。

 

 かの人は旅をしているという。

 たらればになるが、まだ地球上であればいつかはたどり着くだろう、生まれた国がある。親しんだ言葉や文化が存在している。だが庇護なく放り出された言葉も分からぬ遠い世界で、帰る場所を作るのはどれ程の悲嘆と苦しみが伴うのだろうか。

 かの人と比べれば、多くを与えられて生まれてきたアンには分からないことが山のようにあるだろう。

 

 アンは会ってみたい、と思う。

 もしかしたらありがた迷惑だと罵られる可能性もある。

 それでも。会って話をしてみたい。

 

 唇から紡ぎ出される音の葉がゆるやかな旋律の中で踊り、そして。

 星が瞬く音すら聞こえて来そうな静寂がおりた。息を呑み、ごくりと喉が鳴る。

 一拍の後、鳴った拍手が重なった。

 

 「ねえ、どこの歌なの? すごく綺麗だった!」

 

 もう一度とねだる友の声にはにかみながら、アンは小さく唇に人差し指を当てた。

 



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41-交差する路

 小波が立つ。

 アンは香水の町ナノハナに来ていた。周辺諸国から集められる香料がそれぞれ独自の芳しい香りを放ち続けている。

 ここは香料の中継地点。分かりやすく言えばハブである。もっと詳しく説明するならハブ空港、と言えばああなるほど、と思えるだろう。車輪の輪の中央部分に位置するナノハナの町には特色ある香りがいたるところから漂ってきていた。日ごろから香水など全くつけない、つけるような職ではないと思い込んでいるため疎遠であるものの、さっぱりとした柑橘系の香りが鼻をくすぐればちらりと視線がそちらを向く。

 ただし、それを自分に使いたいかと言われたら首を傾げるだろう。特に島に戻る際などにつけていれば、旨そうなにおいがするとルフィに味見をされかねない。あの弟はどんなに密封した袋に入れたクッキーでも見つけ出してしまうのだ。おいしそうな匂いは特に厳禁である。アンは食べ物ではない。ノットイコールとしておかねば、今後、困る事態となるのは目に見えた。

 

 さくさくと小気味良い音が立つ砂浜を歩く。町からほんの少し離れた海岸線だ。潮風に負けずその内に塩分を取り込んで白砂の上に肉厚の葉が重なりあっている緑があった。狭間から小さな白い花が空に向いて咲いている。

 アンは海水の満ち引きにより濃淡を変えられた間際に座り、指先で命を育む水の先を探す。

 

 続く青が伝えてくる映像はここでは無いどこかだった。

 水がはねる音が波の中に飲み込まれてゆく。標的はいずれ、この地に至るだろう。けれどいつかは分からない。

 目印になる島があればどこか、という目星になるはずだが見渡す限り青が続いている。

 ここ"偉大なる航路(グランドライン)"は安定気候が続く海では無い。緩やかな雲の流れによる変化はわかるが、突如として発生する変動までは読めないのである。

 

 「どうしようかなぁ」

 

 休日もあと残り1日と終わりが迫ってきている。

 一度本部に戻り、状態を把握しておきたい気持ちがむくむくと膨らんでくる。書類の溜まり具合が気になって仕方が無いのだ。それにやはり家でのんびりとしたい、とも思ってしまう。長々と旅行先で逗留し、新しいもの、見知らぬものの見聞を広めるのは確かに楽しい。もっと知りたくなるし、もっと見たくなる。だがもう年なのだろうか。休暇を切り上げて帰り、義祖父の家でゆっくりとごろごろしていたいと願ってしまう自分がいた。ごろごろするだけなら兄弟たちの元でもいい。

 旅行から帰った足で直接、仕事場に向かうことだけは避けたかった。クザンの補助は他の大将たちとは比べ物にならないほど大変なのだと噂で聞いている。もしそれが本当だとするならば身が持たないだろう、という予想すら立てられた。きっちりと自己管理が出来るヒナであったからこそ、勤め上げられたのだろう。

 

 「さて、どうしよう」

 

 意識の向こう側では兄弟たちがなにやら大暴れしていた。居る場所は、とエースの視線を借りれば、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)であるらしい。

 数年前、大火事が起され大部分が綺麗さっぱりと黒墨に変わった件の場所である。炎に巻かれたのはなにも、打ち捨てられたゴミだけではない。

 町とは人と人が関わりあい生まれる形態である。どうしても人の輪の中に入れず、浮いてしまう存在も中にはあった。否定されはしないが、邪険にされ、それが対象となる人物をより明確に鬱屈させてゆく。そして行なえば人が迷惑をこうむるありとあらゆる手段に手を染め始めると、本格的に爪弾かれるようになっていく。

 それでも人は生きる。生きる場所を探す。そうしてたどり着く場所が不確かな物の終着駅(グレイターミナル)であった。

 町という器の中から零れ落ちてしまったゴミ。そのゴミがゴミの中で生きる場所を得ている。なんという汚らわしいゴミ溜めであるか。

 と、語っていたのは誰だったか。

 

 不確かな物の終着駅(グレイターミナル)は焼かれた。確かに焼かれ、多くが消し炭になった。

 だが人は気付くまで同じ過ちを繰り返す。新しいものに買い換えた、汚れて使えなくなった、不必要になったゴミを再度積み重ねるようになるまであっという間だった。

 

 この世は流れに沿って物が動く。かつての姿にどんどん近づいていっているという。

 前置きが長くなったが、本題はここからだ。

 

 アンの故郷、ドーン島は東の海のほぼ中央に位置している。海兵は支部ごとに300名程度が常駐しているものの、目を光らせなければならない巡回地は広大である。陸続きであればとって引き返すことも可能だが、路は全て海だ。アンのように空を走れる者など四方向の支部にはほとんど配置されてはいないのが現状である。よって出航した港に戻るのは至難といえた。

 ある意味フーシャ村を領地に持つゴア王国が他の地域より平和であるのは、海兵であるアンが事在るごとに帰省しているから、という理由が強い。駐在してはいないが、アンとの直接的連絡手段を持っている人物は片手ほど居たからだ。

 

 とはいえ全く脅威が来ないか、といえば否である。

 ゴア王国は物量豊かな国だ。豊かであるからこそ明確に現れる貧富の差が目に見えて存在している。

 特に不確かな物の終着駅(グレイターミナル)は、駆け出しの海賊たちにとって宝の山であった。人も資源も金もここで調達することが出来たからだ。以前はポルシェーミが拠点を構え商売していたため指を咥えて見ていることしか出来なかったが、火事の後、ぽっかりと空いた誰も支配していない空き地を多くの有象無象が見逃さなかったのである。

 

 押し寄せてきた海賊と、手配書の顔が居ないかと群がってきた賞金稼ぎたちで一時は大混乱となった。

 アンは賞金稼ぎたちがあまり好きではない。全てとは言わないが、アンが出会った多くが大きな顔をしていたからである。

 そもそも賞金稼ぎたちは曖昧な、グレーゾーンの存在であった。

 立場的にはただの一般市民にすぎない。警察のような所属国でのみ適応される法に則って侵した者を捕縛する権利も持たないし、海兵のように国の外で殺人や略奪等の法を犯した犯罪者を捕らえる権利も持ってはいなかった。それなのに、小物の海賊を捕まえたからと自慢する。もう少しこの海賊を泳がせていたほうが賞金があがると犯罪を見ぬ振りをする。

 

 彼らは一体なんであるのか。

 はっきり言ってしまえば、一般市民以上、海賊未満のちょっとした腕自慢たちなのである。

 少しばかり小銭を稼ぐには良い副業であるが、本業にすればするほど赤が出る仕組みになっていた。

 と、いうのも、この仕組みが出来た切っ掛けが『周知』であるからに他ならない。故に海軍基地に手配されているだれそれがいる、と通報すれば懸賞金が貰える立場となる。逃してしまった場合はゼロだが、もし海兵が手配犯を仕留められたならば、一部を手に出来るのだ。

 

 海軍も馬鹿ではない。懸賞金を明確にし手配書を刷ってはいるが、刀ひとつ振れぬ一般人に討伐を行なえ、と唆したりなどするわけがないのだ。

 一般市民が捕らえられたならば、もしくは駆除出来たならばそれはそれで良いことだ、手間が省けた。というくらいの意識しか持ってはいない。

 

 昔、ルフィが人質に取られ一方的に暴力を受けた件を恥ずかしながら掘り返しても、村や町に住む一般人が賞金首に太刀打ちなどできはしないのだ。人間は拳銃を一発、体のどこかに撃ち込まれただけで死ぬのである。

 

 ちなみに手配書の金額はだいたいこれくらい、という目安だ。

 対応する海兵により違ってくるのが謎だが、個人の強さを主としてどれくらい大きな組織であるのか、または海軍に与えた損害の多さなどが加味される。

 善良なる一般市民からの通報であれば、海兵が急いでその島に急行するが、もしもこれが一度でも懸賞金を受け取った賞金稼ぎであれば基地まで持って来るように申し付けられる。なぜなら賞金首に掛けられた金は現金渡しが基本であった。それに既に討伐が終わっているならばそこに人員を割くより、他の場所に回したほうが新たな犯罪を抑止出来るし、なにより支払う巨額の懸賞金を用意せねばならない手間もある。

 

 当然ながら懸賞金は犯罪者には渡されない。

 ここで定義される犯罪者とは『航海許可証』を持っていない全てである。

 国から船を出すときは、所属する国が発行する許可証が必要であるのだ。賞金稼ぎたちもこの例に漏れない。必ず出身地の国から許可証を発行してもらわねばならなかった。当然、海軍基地内で賞金首の受け渡しがなされる際、この許可証の提示が求められる。もし違反していた場合、科料に処され前科が付いた。

 

 また賞金稼ぎを本業とした場合、なぜ赤が出るか。簡単な話だ。海賊も馬鹿ではない。海賊狩りを行なう賞金稼ぎの情報をさまざまな方面から集めるのである。集団化している組織であれば尚更だ。海軍が来たなら逃げれば良が、賞金稼ぎが来た場合、多くの海賊は己の賞金額を上げる為に血祭りに上げることが多いように見受けられる。

 無名であればかなり高額な首を取ることも出来るだろう。しかし名を上げてゆけば海賊から狙われる立場にも成り得るのだ。

 なので賞金稼ぎたちはある一定の水準までたどり着くと、幾つかの選択肢の中からひとつを選ばなければならなくなる。ひとつ、海兵になり地位と名誉を高めるのか。ひとつ、金銀財宝を目指し海賊となるか。ひとつ、今まで稼いだ金銭を手に故郷に帰るか。

 大概の場合は三者三様である。正義感の強いものは海兵となり、狡賢く世界の裏表を知ってしまったものや個人的に海に出なければ目的を果たせないものが海賊となり、ある程度世界を見れたからと納得したものが故郷へと帰るのだ。

 海兵から賞金稼ぎになる者もたまに居るがほとんどの場合、海兵であった頃に身に染みてしまった、死に直面した際の恐怖が歓喜へと変わり果ててしまった可哀相なものたちである。生きているという実感を求めて、死の淵へ立つことを望む。それならば海兵に返り咲いて、新世界側へ配属してもらえばいいと心の底から思うのだ。あの場所なら飽きないだろうし、刺激的な体験を死んでも出来るに違いない。

 

 (アン、本はジジイの家に置いておけば良かったか)

 (うん、そうしておいてくれると…あー、いや、取りに行くよ)

 

 今すぐに、とはいかないけれど。

 そう短く返せば、分かった、との声が聞こえた。

 

 先日、取り寄せをお願いしていた本をエースが取りに行ってくれていたのだ。

 ダダンの家から王都までの途中に不確かな物の終着駅(グレイターミナル)が横たわっている。通過の最中、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)を根城にしようと企む海賊団同士の衝突に巻き込まれたのだと事実だけを淡々と教えてくれた。

 

 (夜には戻ってくるんだろ)

 (の、つもり。明日からまた連勤だから、鋭気を養うためにみんなでごろ寝したいな)

 

 昼食はいつものところで食べるから来るなら早めに来いよ、と誘われつつ、それぞれの目的の為に意識を己だけに向ける。

 宿はいつでも引き払えるようにしてある。荷物が多少増えはしたが、まだ許容範囲内だ。

 今着ている服も本当ならばエースに買ったものである。アンが袖を通すと服に着られている感があるが致し方ない。大きいチョリしか売っていなかったのだ。七分丈であるはずの袖口は折り曲げねば指先が出ないし、アラジンパンツは何度折り返しただろう。ターバンだけは好きなように巻けたがこれもまた、半端な布がたらり、と肩口にかかっている。

 

 今の姿であればたとえ見知っている海兵であってもアンだと気付きはしないだろう。

 申し訳程度にも無いぺったんこな胸に手をあて、小さくため息を零す。エースが言うように、食べたり無いのが原因なのだろうか。発育不良も甚だしい。女として終わっているような気もする。そもそも女であると意識するなど……デイハルドの宮に行ったときくらいだろう。

 

 アンは電伝虫を使おうと腰に手を伸ばし、空中を掠めた手に苦笑いを浮かべる。休暇中であったのだ。個人的な用件で義祖父に用事を思い出したが、明日でも良いだろう。海軍本部に居なければ、跳躍すればいいだけの話だ。

 やるべきことはひとつ。青雉が首を長くして待っているだろう彼女のことだけは、しっかりと手土産にしなければならない。

 

 オハラの子。オハラの悪魔。

 そう呼称され追われ続けている人物との接触である。

 

 するな、とは言われていない。

 彼女の名を聞いたのは、クザンが初めてではない。何の因果かトムがまだウォータセブンに居た頃、見せて貰った手配書の顔が彼女であった。手配書が刷られた当時、彼女は8歳の少女だった。あれから15年、年齢も23歳になっているはずだ。容姿も大分変わっているだろう。

 

 クザンから個人的に頼まれた用件は、所在地の確認である。

 そうなれば報告する言葉はたったひとつ、現在"偉大なる航海(グランドライン)"内を航行中、としか言えない。

 これから1年間、アンも青雉の副官として山のような仕事を捌いてゆくだろう。ニコ・ロビンがこの国へ到着するのを見届けるまで監視し続けるのは時間的にも物理的にも無理である。絶対忘れる自信すらあった。

 仕事を引き継ぐにしても、どこら辺に居るのか目星が無ければCPでも追えない。委託するにしても青雉経由で依頼する事になるのだろうが、その作業も此方側に回って来そうな気がしないでもない。

 

 「とりあえず…やってみよう」

 目を閉じて感覚を広げてゆく。目標はこの星の半分を把握することである。視野の先へ風と水に誘われるまま、意識を伸ばしてゆく。どんどんと息が苦しくなってくる。脳の中心がずきりと痛んだ。その痛みがじわじわとその周囲に広がってくる。

 

 居た。

 

 ぎりぎり届いたらしい。ほっと息をつく。遠くに見えるのは双子岬だろう。偉大なる航路(グランドライン)方面から見るのは初めてではないから、合っているはずだ。

 これだ、と思わしき船はキャラベルだった。

 「へぇ、珍しい。レドンダだ」

 思わず口をつく。

 普通キャラベルはラテン帆を使って横風重視の構成となり三角形になっているものが多いが、レドンダは四角帆が使われ追い風の恩恵をも受けられるようになっている。船員はそんなに多くは無い。10名程度だろうか。旗は……黒、海賊船だった。

 西の海から偉大なる航路(グランドライン)へ。知識を蓄えて潜伏をしつつ、歴史の本文(ボーネグリフ)に導かれるままアラバスタへと向かっているのだ。

 

 なんと楽しげな未来に繋がっているのだろう。

 ルフィの、弟が目指す夢に合流すればもっと豪華になるのではないだろうか、と思案する。

 黒髪の、青が混じる瞳。ビビとはまた違った魅力的な女性だ。ビビは可愛らしいが、彼女は凛々しい女性である。

 あっという間に気になる存在となった。友人になるためにはどうすればいいだろう。心の蔵が興奮で高鳴る。誰にも知られず、ふたりだけになる方法を探せば、師であるシャンクスから個別に意識を刈り取る精密な覇王色の使い方をそろそろ本気で覚えろと言われていたのを思い出した。次までに会得していない場合は強硬手段を取ると仰せだったはずだ。何をされるのかなど、考えたくも無い。

 

 相手はどうせ海賊だ。

 殺すことに呵責など全く感じない。

 黒い旗を自ら掲げているのである。覚悟は既に終わっていると解釈出来た。そもそも許可証を持たぬまま海へ出た時点で、殺るか殺られるかの弱肉強食の世界へ飛び込んだと同義である。

 機械的に判断しようとして、ふと気付く。

 物言わぬただの肉塊にしてしまうと、彼女を運ぶ船が動かなくなってしまうではないか。なんという自己中心的な考え方だと、自分を皮肉る。

 人間が持つありとあらゆる負の感情をその身を以って受け続け、殺気すらも簡単に受け流せるまでになった自身を否定する気はない。今更悔やんだところで取り戻せないからである。知ってしまった今を、知らなかった過去に戻すことなど出来ないのだ。

 海に出る準備と思えば、何もかもが必要であるように思えた。甲板に上がっている時こそ、恐怖に身をすくめている暇などありはしない。すぐさまそれを高揚にすりかえる術を身につけた。でなければ後ろを付いてくる部下が死ぬからだ。

 海兵としては上等の部類に入るアンであるが、まだまだ精神的には脆弱であった。ちょっとした場面で優しさが顔を出すのだ。情けをかけてはならぬ相手に隙を与え、危なげな場面にそっと助けの手を大将たちが出したのも一度や二度ではない。が、若すぎるアンにそこまで求められてもいなかった。

 

 命に対する尊厳すら、最近は曖昧だ。

 

 良い傾向とは思えないが、悪いと断じてしまうほど極めてもいない。周囲を取り囲むのは悪い大人ばかりである。

 

 (エースさん。ちょっと補助お願い出来ますでしょうか)

 

 アンが問いかければ満腹感からくる気だるさを引き連れて、同意が戻ってくる。

 悪魔の実の能力とは違い、アンが世界から分けてもらったこの力には果てが無い。脳という器官が壊れない限り有用に使えそうであった。

 目標物が明確でない場所への移動は能力の不発の終わるか、世界のどこかへと放り出されるかの二択だ。失敗に終わるならまだいい。以前の実験時、インペルダウンへ飛ばされてしまったのには涙が出た。しかもレベル6、最下層だ。監視用の電伝虫に発見して貰うまで、数多の視線に晒され続けたのは良い思い出だ。ハンニャバルに抱きかかえられ外に出たが、数時間は生きた心地がしなかった。

 

 今ならば少しは対抗出来そうではある。当時、といっても2年前は覇気も弱く、針のむしろに真っ裸で跳び込んだような状態だった。出来れば二度と行きたく無い場所ではあったが、万が一があってもおかしくは無い。

 

 呼吸を整え、瞼の裏に浮かぶ船の姿を思い出す。

 たゆたう青の光が反射する海原、浮かぶ船。

 掲げる黒い旗の海賊旗。

 そして会いたいと願う人物の顔と名。

 

 浮遊感が生まれる。上手くいったようだ。

 風の匂いが変わった。柔らかな日だまりと潮の匂いがアンを包む。

 

 目をゆっくりと開かれる。眼下に一隻の船が青の海を進んでいた。

 上空から見る景色は下から見上げるのとはまた違った趣がある。心がとくんと楽しげに波打った。重力に従って落ちてゆく体を捻り、足を海へと向ければあとは蹴るだけだ。

 次の島は…

 月歩使い体を空に浮かせて遠くを見る。

 「運命ほつる町、フォレミアか」

 話には聞いた事があった。

 道に迷い途方にくれたならその町を訪ねればいい、進むべき路を指し示してくれる誰かに会えるのだと言われている。立ち止まった場所からどうすべきなのかと問える場所でもあるらしい。腕の良い占い師たちが集まっている町、としても有名で様々な怪しい品を並べる店も軒を連ねていると聞いたことがある。

 

 「定めに導かれる、か。我らが弟の周りはいろいろと賑やかしくなりそうね」

 触れてきた未来に振り返る事無く、アンは空を舞う。

 

 このまま進めば確実に、彼女は砂鰐と出会うだろう。そしてそれぞれの願いを形有るものに変えるため動き始める。

 

 「止めるべきかしら」

 問いに答えは返って来ない。半身もだんまりを決め込んでいた。

 今から進む未来を悲観し、悪く考え過ぎているようにも思える。どうせなるようにしかならないのだ。方向を変えるにはそれだけの覚悟が必要となる。

 

 友の国だ。

 しかし中途半端に関わる方がもっと悪い。今から未来を掻き乱し、不安と絶望を予定よりも早く届けるなど言語道断である。

 アンは世界の意志に触れ普通は知ることなど出来ない理を読む。いい事も悪い事も、お構いなしに景色が流れるがごとく与えられる。

 

 全てを救えなど出来はしない。

 人の身で全てを背負えるなどと思うのは傲慢だ。

 例えば神様が居たとして、ひとつだけ願いを叶える力を持っている。その願いが今の悲惨な状態にな前に戻して欲しい、だとしても、全てを元に戻す事など出来はしない。いくら時を巻き戻したとしても、その人だけが同じ結果にならぬよう懸命に努力したとしても、周囲の意識が変わらぬ限り同じ事が起こり続ける。

 必ずどこかに違いが出来るはずだが、誰にも気付かれずに忘れられる可能性もある。もし誰かが気付いたとしても、あれよあれよという間にいつもの流れが押し寄せても来る。些細であればあるほど顕著に、濁流に飲み込まれる様を見せ付けられるだろう。

 

 あの日、サボがひとりで海に出た日、アンは思い知らされた。未来を知る術を与えられていても、それを完璧に捻じ曲げられる程の力は持ち得てはいないのだ、と。

 サボの夢など見なかった。片鱗すらなかった。

 だがサボの叫びは聞こえていたのだ。

 サボ自身の問題であるからと、触れることに躊躇した。その結果、サボを見失っている。

 

 さらに大火事の前ではアンの存在など塵芥も同然であった。運命を変えるなど思い上がりも甚だしい。たくさんの人が死に、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)は大量の煙を吐き燃えた。変えるにはそれなりの対価と、現状という殻を突き破る力が必要なのだ。シャンクスの件は上手くいったが、なにもかもが思い通りになるほど世界は柔らかくない。

 だから同じ間違いはしないと自分に誓い、自らの能力が存分に発揮できる出来る範囲内で周囲に関わってきた。

 

 指を銃の形にし、気配を探りながら目的の人物以外を狙い撃ちする。

 広範囲、多人数を相手にする場合はなにも考えず力を放つだけでいい。けれど今回は的確に当てなければならなかった。以外に難しい。使いこなせるまで相当な時間がかかるだろう。シャンクスに会いに行くのが億劫だった。けれどそう思えば思うほど、行かねばならぬ用件が目の前に提示されるのである。

 

 アンはとん、と甲板に降り立つ。

 意中の人物は一体何事が起きたのだと、船内から出てきたところだった。

 「こんにちは」

 にこりとアンはほほ笑む。

 覇王色は彼女が甲板に上がってくると同時に解いていた。

 だが視線の先に立つ女性は驚きを露わにしている。

 黒の瞳と髪はつややかで、長年逃亡生活を送っているようには思えない。黒曜石のような輝きには内に秘めた様々な覚悟の色が見える。

 追い求める事、託されたもの、背負った苦痛、死の願い。

 「そう警戒しないで…という方が無理だよね」

 甲板に降り立ったアンは対峙する。青雉が唯一気をかけ感情を殺してまで守る為に追い続けている存在、オハラの子に。

 「初めまして、ニコ・ロビン」

 アンは親しみの感情を込めて女性の名を呼ぶ。

 

 

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 その人物は音も無く現れた。

 圧迫感が解放された後、見回せば誰もが意識を失っている。意識を刈り取られその場に倒れてしまった。

 甲板に立つは、ただひとり。

 まだ幼さを残すその面立ちには、思わず魅入ってしまうほほ笑みが浮かんでいる。

 一歩、脚が引いた。恐怖が実感と共に吹き出してくる。背筋がピン、と伸び脈拍が倍に跳ね上がった。

 「そう警戒しないで…という方が無理だよね」

 溜息をひとつついた少女であるが、けれど己から視線は外れない。

 「初めまして、ニコ・ロビン」

 彼女の名を正確に紡ぐ。この船に乗り込む際に使った名ではない。

 とうとう海兵が動いたのか。奥歯を噛み締める。

 

 故郷を追われてから、ずっとひとりで生き延びてきた。一時は受け入れてくれた心やさしい人達も己に懸った懸賞金を知るや、ころりと態度を変え政府へと突き出そうとする密告者に変わ様を見続けてきた。

 紛れ込み追われ、逃げてきた。

 幾度も幾度も繰り返されて悟った。人を信じてはならない。信じられるものは自分だけだと。

 この船にも偽名で乗り込んでいた。

 身分証明が必要な商船には入り込めない。そう、今乗るこれは海賊船だった。

 雑用でもなんでもする、と乗り込ませて貰ったのだ。

 本当の自分を隠し、能力者であることも知られてはならない。ありとあらゆる事をやってきた。

 

 「…あなたは」

 「わたしはアン。ポートガス・D・アン」

 名を聞き、鼓動が一瞬、止まった。

 海軍本部において次世代の将と目されている、高名な人物の名であったからだ。

 「わたしを…捕らえに来たのかしら」

 答えはNO、という。問いを否定した。

 「一度会ってみたかったの。ただそれだけ」

 ニコ・ロビンはもう一歩、後方に下がる。それだけの為に、わざわざ海兵が足を運ぶ事など考えられなかったからだ。

 「真の歴史の本文(リオ・ポーネグリフ)を追い求める人物に興味があったの」

 本当よ?

 そう続く言葉に、ニコ・ロビンは少女を睨みつける。

 世界政府は歴史の本文(ポーネグリフ)の探索、および解読を死罪と定め禁止していた。

 それは歴史の本文に世界を揺るがす情報が残されているからとして、世界を巡る考古学者を取り締まりし続けている。

 

 少女の口から聞いた事の無い言葉が流れ出す。

 微笑を崩さずチョークを手品のように瞬間的に手元へ出現させると、ニコ・ロビンにとっては最も親しみ深い文字を甲板に描く。

 そして少女がもう一度、発音した。

 

 「あなた、まさか。……どうして」

 

 少女がはにかむ。

 

 「あなたを始めとするオハラの賢者達が何処まで読み進めてたのかまでは分からない。けれど…このまま進めば、あなたが探し求める歴史の本文がある砂の国へ辿り着く。それを知れば残る石碑の続きも見えてくるはずだよ」

 

 世界中に点在する歴史の石のありかは石碑を辿って来た、古代文字を解読出来る者にしか分からないはずの情報だった。しかも次、とはいうものの指し示す先は余りにも不明瞭で特定することはかなり困難であった。

 それをこの少女は知っているかのように話している。

 手に汗が滲んでいた。極度の緊張状態にあると、ロビンは己を冷静に分析する。

 語られた言葉に疑問を投げかけようとし、己のうかつさを必死に押し隠すように唇を噛みしめる。

 

 「わたしが誰かに話せば、あなたも重罪人よ」

 「そうだね、そう言われてみれば。でも大丈夫、あなたは絶対に言わない」

 確信めいた口調で、少女が言う。それに政府はこの世界の根本を成す秘密を知っていたとしても、手出しは出来ないと繋げた。

 「…止めないの?」

 「なにを、どうして?」

 

 疑問を疑問で返されてしまい、ニコ・ロビンは答えに詰まる。

 「知りたければ知ればいい。そして知った者の責として、手に入れた”それ”をどう扱うのか。選択して欲しい。わたしは止めないよ。止めたってあなたの真の歴史(リオ・ポーネグリフ)を知りたいという欲望は抑えられないでしょう?」

 「あなた…一体…」

 ロビンは引いていた足を前に出す。

 

 「歴史を解読する事で、血が流れるのは知ってる。不必要な涙も流れる。けれど始まる為には終わりを知るべきだともわたしは思ってる」

 たとえそれが世界政府が打ち出す方針から外れていたとしても、狂った世界がおかしいと声を上げ始めた一部のためにも。

 全く関係ないと第三者であると関心を寄せては居ない人も全て一度、自分達が立つ、この世界がどうして今の形になったのかを知るべきなのだ。

 知ってから、このままでいくのか変えるのか、議論すればいい。

 

 「それにね、わたし個人的にはあなたの応援がしたいの」

 

 絶望の中にあっても抗い、捨てられない望みを持ち続ける人の背を押したい。

 そう、少女が語った。

 

 偽りのない言葉、に聞こえた。

 

 「生きて。あなたを守る仲間はわたしではないけれど。未来で待っている、誰かの手がある。その時が来たら決して放さないように…その手はアラバスタにある。あなたの中にある疑問も答えもその出会いが教えてくれるから」

 「本当に?」

 

 『この世に生れてひとりボッチなんて事は絶対にないんだで!!!』

 

 生きることを否定したあの日、生きる事を望んでくれた声が蘇る。

 

 無言は肯定だった。こぼれ落ちるようなほほ笑みに、闇に沈みかけていた心にほのかな明かりが灯る。

 「…どうして、教えてくれるのかしら」

 「理由が必要?」

 「できれば」

 

 少女が考え込む。

 ロビンはこれほど待つのが、苦しいと思った事は無かった。

 「あなたがわたしの大切な…宝物に続いているから、かな」

 それに。

 「わたしがあなたと友達になりたいの」と続ける。

 

 ぽつりとつぶやかれた声は、誰に言ったものでも無かった。

 「…裏切るかもしれないわ」

 震える声で言っても説得力無いよ。と少女が眉を寄せた。

 「…わたしは今まで」

 「ああ、その点に関しては勝手にわたしがニコ・ロビンを信じるだけだから」

 あなたがとった行動が、その、勝手に信じた人にとって都合がよく無いモノだったって言う理由でさ、裏切られた、なんて。被害者面するほうがどうかしてると思うよ。だから気にしないで。

 

 言っている事がちぐはぐだった。

 …涙。

 目頭が熱くなる。

 なぜかぽろぽろと流れてくる涙が止まらなかった。

 閉ざした心に安易に入ってくる声が悔しい半面、安らぎをも感じてしまう。

 「脈々と過去から未来へ繋がる意志全てが未来を紡ぐ。忘れないで。あなたの中には、何千人というオハラの願いが宿っているの」

 ああ、そうなのか。アンもこの出会いに納得する。

 わたしが例え、死んだとしても、あなたがわたしの意志を継ぐ。だから心が跳ねたのだと。

 

 見上げてくる目は澄んでいた。汚れを知らないような、純粋な光が宿っている。

 手が伸ばされた。

 触れていいかと、遠慮がちな声がかかる。竦んでいた。果たして本当に伸ばしていいものか、今までの経験が躊躇させる。

 温かな手がロビンの指に触れた。

 引く事を許さない強引さで、指が絡め取られる。初めて触れた小さな手は、久しぶりに人の温もりを伝えるものだった。

 



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42-東の島

 「急げ救護班!!」

 急を要する声が乱れる。村は炎に覆われていた。死者の数は数名、それだけが不幸中の幸いだろうか。

 海兵達は住人が避難しているという天然の洞窟へと向かい、軍艦の到着を叫んでいた。

 しかしその声もまずはこの火災が収まらなければ聞こえないだろう。炎がおこす上昇気流が、海兵達があげる声を飲みこんでいるからだ。

 

 水源がどこにあるかも分からない場所での消火は骨が折れ難しい。

 大将がいれば凍らせて貰うのだが、生憎、現在、行き先を告げずポタリング中だ。

 不在の状況に慣れつつあったが副官となったアンはたまったものではない。

 

 「火の回りが激しいから、建物を壊して!無事な家屋に移らないように!」

 指示を飛ばしながら自身も手にしたハンマーで燃え盛る家であったものを破壊してゆく。

 ちりちりと肌を焼く火の粉の中を走り、砂をかけて火を押しとどめる海兵達を鼓舞する。

 こういう時、水か砂、空間を圧迫し空気を遮断する能力者が居てくれたら楽なのに。などと不謹慎な事を考えた。

 意外と知られてはいないが消火の際、水と同じ様に効果を上げる物質があった。

 それは砂、である。

 例えば焚き火をしていて横の草に燃え移ったとする。水があればそれをかければいいが、無い場合には砂をかけると空気が遮断され火が消えるのだ。

 特に水をかけるとかえって危険な油系には砂の方が効果が高い。ただまとまった量を必要とするため、手間ではあるのが欠点だろうか。あとは炎が炎であるために必要な酸素を遮断できる能力が存在しえれば問題ない。

 

 「離れて!」

 倒れてくる梁に向かい、アンは手にもったハンマーを振りながら嵐脚と同性質の技を放つ。数名の海兵が今のうちにとその場から立ち上がり、腰を抜かした同僚を引きずって退避した。

 真っ赤な炎の熱に浮かされ、力の手加減が出来にくくなりつつある自身に眉をしかめる。火が怖い訳ではない。引けと願ったのは、自分の力が仲間を傷つけてしまうかも知れなかったからだ。

 「ポートガス!!」

 炎が風を帯び勢いを強める真っ只中に突っ込んだ副官へ向かい、海兵達が叫びをあげた。

 その最中、粉じん爆発が起きた。海兵達が炎から逃れるように駆け出す。

 空気中に浮遊している粉じんが燃焼し、その燃え広がりが細かに伝播したのだ。海兵達はもうひとりの副官の声が聞こえるや否や、必死に脚を動かし逃げた。

 

 「…熱い、痛い、髪の毛が燃える」

 副官がふたり並んで立っていた。

 少しふっくらとした体形の男が余り期限が良くない、もうひとりの船長補佐へと優しげな視線を投げかけていた。

 「よかった」

 誰かがぽつりとそう安堵を吐きだす。

 炎の中に居た筈の姿が、避難に走った海兵達よりも先にその場に居たとしても不思議ではない。

 能力者ではないが、瞬時にここない場所に移動できる特異的な力を持っているからだ。船を実質上切り盛りする副官たちの姿に、海兵一同がほっとした声を出した。

 「まったく、あなたという人は無茶が過ぎますよ」

 「ごめん、エリキ副長」

 

 炭ががこびりついた頬を、溜息と共にもうひとりの副官が指で拭う。

 「船に戻ったら、いの一番に身支度ですね」

 全く困った鉄砲玉だと腰に手を当てた。

 「さあ、青雉大将が戻って来るまでもうひと頑張りですよ」

 

 

 エリキは大将艦の副長として、現青雉がその位に就く前からその立ち位置に座り続けているという。

 年齢も青雉とさほど変わらない。

 上の役職に何度もあがれただろうに、その全てを否定している稀有な人物だった。

 義祖父も好き勝手やる分にはこれ以上の役職は必要ない、と言い切るがそれでも中将という階級まで登っている。

 

 エリキという人をよくよく観察すれば参謀タイプであると気付くだろう。

 大将の横に付き添い思考による戦いを進言する。自分の役所はここだと決しているのだ。

 雰囲気的には時代劇でいう、黒田孝高にそっくりだ。テレビで見ていた名前ならば、諱(いみな)である官兵衛、という名の方が聞き覚えがあるかもしれない。

 

 エリキは直接的な指揮も行うが、どちらかと言えば策略的戦術を好む。直接的、だけに関して言えばケムリンが一手に引き受けていたらしい。なんとも適材適所の布陣である。

 黄猿は遠距離からの砲撃を行い戦意を失わせ、赤犬は接舷し甲板戦に持ちこむ事が多かった。青雉の艦は相手の進行方向をあえて阻まず、逃げ道となる幅を不意に開けていると思わせておき、後方から正確な砲撃で海賊船を沈める戦術をとる。

 ある程度の距離があっても潮や風の流れを読み追い込むのだ。そして拿捕する。

 クザンに連れられ出かけた際は連れ帰るのが面倒だとその場で氷漬けにし砕いてしまう事もままあったが、船では大概、エリキの方策を受け入れ穏便に処理していた。

 

 黄猿、赤犬、青雉と全ての大将艦に乗り、それぞれの特色を見てきたが何もかもが面白かった。学び取ることがまだまだ多くある。2年間延長してよかったとすら思えた。

 

 「ポートガス、洞窟に近い家屋に殉職した海兵の亡骸と少女を保護しています。身元確認が出来る物を持っていなかったのですが、あなたなら面識があるかもしれません。行って見て来て下さい」

 

 アンは返答し現場指揮をエリキに任せてそちらへ向かう。

 途中で茶飲み友達になった海兵のひとりと擦れ違い様に情報交換をする。情報系を主に扱っている部署に配置されている彼はアンが必要とするものを的確に持って来てくれる。

 友人となって間も無いがアラバスタで偶然会った人物だ。彼、も休暇を使って来ていたらしく。丁度喉も乾いていたのでお茶に誘ったら快諾してくれ。

 

 帰りの日程が同日だったので瞬間移動でマリンフォードに共に帰ったのだ。その後、同じ部隊だと知った時思わず再会を喜んで抱きつきに行ってしまったのが悪かったようで、クザンにいろいろと手ほどきされたと聞く。

 

 最近クザンの子守りが過激になってきていた。アラバスタから戻って来てから特にである。お兄ちゃんの役目をしっかりと果たしているだけとは本人の言だが、義祖父の息がかかっているとはいえあまりに過保護過ぎた。11歳の頃ならまだしも、15にもなって懐に収まっているのはどうかとも思うのだ。

 

 人生2度目の思春期は以外に刺激的だった。あちら側では両親を亡くしていたからだろうか。祖父の言をしっかりと守り、ある意味自分を押さえこんで生きていた。

 だがこちら側では目一杯、理不尽すぎる不満や反発を出す事が出来た。構ってくれる手を弾いても、こちらが疲れるまで相手をしてくれる。何事かにかちんとして喧嘩腰に発言をしてもそれすら受け止めてしまう周りの弾力性に、ちゃぶ台を文字通りひっくり返したくなるのもしばしばだった。

 

 大人への階段を、登らせて貰っている。そんな事を思いながら彼、と別れた。

 

 

 火の手は大分、収まってきていた。

 赤く燃える焔と黒い煙を発見したと報を受けた時、今まで見てきた悲惨な奪略が行われた村や町の姿が脳裏を横切ったのは確かだ。

 最悪の事態を想定し、艦は入り江へと入る。

 生き残りは絶望的だろうと思いながらアンは月歩を習得している部下を引き連れ、先陣を切って上陸した。

 

 海賊は。

 多くの場合奪略を行う。畑を耕し、羊や牛を育て、真っ当に日々を過ごす人々から海を行く賊たちは強奪する。

 砲弾で家屋を打ち払い剣や銃を用い命を侵す。

 

 海賊達も人間だ。生きてゆくためには食べ物が必要となる。

 だが食物の多くは陸にあり、海で採れるものといえば魚くらいだろう。運良く海王類以外が釣れればいいが、ここは"偉大なる航路(グランドライン)"、そうそう狙った獲物が得られる訳もない。

 

 基本的に港への上陸を拒否される彼らの選択肢はたったひとつ、強奪だ。

 

 世界ではそれがデフォルト、選択肢が示されない場合、自動的に選ばれるものとなってしまっていた。

 だから海賊は『悪』、とされる。

 しかも彼らにとって物資や金品など、世間の評判通り海賊らしく奪うものであり使う為にあった。奪われる立場の人々がどれだけ苦労して手に入れたものであろうが関係無い。

 

 そうさせる所以は、海賊が強者だからだ。

 程度は徒党となっただけのごろつきから億を付けられた凶漢まで幅広いが、海軍はその強者から弱者を守り海を運行する人々を守るために存在していた。

 しかし世界は広い。間に合わず、人知れず消えてゆく町もある。

 

 

 アンは少女の横に座っていた。

 住人が住んでいただろう家屋の多くが焼け落ち、焦げた木の匂いが充満している。

 名前をヨーコという。この集落を守ろうとし、命を散らした海兵の一人娘だ。

 海兵の名はクナギ。赤犬艦に乗っていた時の同僚だった。

 数週間前、久々に帰郷すると言う彼の背を定期船で見送ったばかりだ。アンも眠るように横たわる彼であったもの、に実感がわかない。

 

 何人もの死を見送ってきた。

 幾人に死を与えてきた。

 だがいつまで経っても、見知った誰かが骸となればやり切れない思いが沸いてくる。これは一生無くなりはしないだろう。

 

 ヨーコは父の形見である帽子の下で涙を堪えていた。

 その気持ちは痛いほどわかる。

 死を直視したのだ。目の前で息を引き取る父の姿を見続けた。

 周りを炎に囲まれているのに、どんどんと冷たくなっていく父の側から離れようとしなかったという。

 

 今、小さな少女の内がどんなに寒々としているのか、その影響がどう残るのかもアンには想像が容易かった。

 かつてこんなものはもういらないと泣き叫ぶほどに味わった気持ちだ。

 

 「副長、住人の代表者と洞窟内にて接触が出来たようです」

 「お疲れ様です。先行していた方には労いを。当面の生活物資支援などはエリキ副長の指示に従って下さい。賊はわたしが追います」

 海兵は一瞬言葉に詰まる。

 いつもとは違う種類の、笑みを浮かべていたからだ。

 能面のような無表情であるのに、なぜか笑んでいると思わせる。

 

 「…船、落とさないで下さいよ」

 「捕虜もいるし、そんな無茶はしません。全面氷漬けにして始末書出すようなクザンみたいな真似、するわけ無いじゃないですか」

 にっこりとアンは笑む。その表情に思わず声をかけた海兵が一歩後ずさった。

 

 そうしてアンはゆっくりと立ち上がる。

 見回せば町に関してはほぼ鎮火しているようだった。この町を襲った海賊達の姿は既に捉えている。

 遠くに投げていた見聞色を手前に移行すると、森に移った炎に苦戦しているらしい仲間達の声が近くに聞こえてきた。木を切り倒し、迫る炎と戦っている。

 

 アンは一か八か、この地に雨が降るよう願ってみた。天候を自由に操る能力など聞いた事が無い。だが向こう側では非科学的ではあるが、雨乞いの慣習が残る地もある。炎が上がり、たくさんの上昇気流が生まれた筈だ。失敗したとしても誰に責められる事もない。

 どうせなら土砂降り希望、そんな願いを空に放つ。

 

 どの海兵の顔もすすで汚れていた。やけどを負っている者もいる。

 だがそれらがあっても救助作業を行う顔には使命感が宿り、洞窟から出てくる住人の為の仮宿を用意し始めていた。

 

 「…仇をとって…くれるの?」

 途切れとぎれの声が耳に届く。俯いたまま、ヨーコが発した声だ。

 「…本当はそうだ、って言ってあげられたら良いんだけれど」

 一度言葉を切る。小さな瞳が上向いた。

 「悲しみの後にはきっと、自分に対するやり切れなさと、相手を憎む気持ちが出てくる」

 だから仇は取らない。憎むのも止めない。

 

 「あんたになんか、分かるもんか!!」

 うるませた瞳でヨーコは小さな拳を何度も何度も、父と同じコートを羽織った人物へ振るう。

 けれどその代りこの島が出来るだけ平和であるように、クナギが残した望みが叶うよう、ヨーコがこの島で生きてゆけるように。

 

 「その障害を取り除いて、攫われた人を助けて来る」

 アンはただただ優しく拳を受け止める。幼子が泣きやむまで抱きしめ続けた。

 「海賊、海賊って、みーんな猫も杓子も。他は無いのかって思うよねぇ」

 暫くの後、緊張が切れ泣きながら眠ってしまったヨーコを近くに居た海兵に託し、ふと姿を消す。

 

 

 

 一閃。

 アンはナイフを抜いていた。

 ダダンから貰い、大切に使っている小振りの刃だ。

 

 生暖かい赤が降る。

 

 

 この船の様子は遠くカンソーン島、リトルイーストブルーからずっと見ていた。だから誰がどこに居るのか、それすら容易に分かる。

 

 トン。

 革靴が木を叩く。

 

 一瞬で現れたその姿を、誰もが驚愕と共に見た。

 「…宴の最中に、失礼」

 

 アンが出現し、刃を振るったのは海賊の輪の中だった。

 奪った食料と酒、そして僅かではあったか金品の分け前が終わり宴が開かれている真っ只中、海軍のコートを纏った少女が現れ、一閃、豪快に笑っていたその顔のままの船長の首を文字通り切った。ぬるりと線が入った場所から、首が斜めに滑り落ち、床に落ちる。

 

 海賊達は慄(おのの)く。

 誰もが海兵を見た。

 ぬらりと濡れるような、細められた目には非情な冷たさだけがある。

 

 海賊達は陽気に笑い、酒を飲み、唄っていた。

 だから未だ船長は笑っている。笑い声が響く中、血潮が噴水のように切断面の両方から血液が送られ続けていた。

 船長である男は自身が死んだと認識せず笑いさざめいている。しかしそれもあと数分の事だ。

 甲板に直置きされていた料理の数々には紅がぼたぼたと降りかかり続けていた。随分と塩分過多になっていそうだと他人事のように思いながら、アンはゆっくりと靴音を鳴らす。向かった先は刃の上部を滑り落ちた、この船の取りまとめ役である。

 転がったその頭部を海兵が髪を鷲づかみにし持ち上げ、己の視線と合わせる。頭部に流れていた血が甲板に落ちるがままにしながら、言葉を続ける。

 「ねぇ。わたしの同僚を殺したのはあなた? ごめんね。答えられないよね。ふふっ…聞く前に殺しちゃったから」

 

 船員達は息をのむ。

 それは天使のようなほほ笑みだった。小さな子供が無邪気に向けてくるそれと同じだ。海賊達は飲んでいた酒の味すら忘れていた。美味だったはずだ。いつものように日々の糧を得てその祝杯を挙げていたはずだ。なのになぜこんなことになってしまったのか。

 天国から地獄とは今のような事を言うのだろう、そう身の上で感じさせれられている。

 

 真白なコートが紅に染まってゆく。

 海賊船に乗っていた者達は余りの光景に動けない。

 圧倒的な力の前に、抗う気持ちすら起きないまでの畏怖に取りつかれていたのだ。

 

 「海賊の末路は知ってるよね。今ここで選ばせてあげる。この場で自害するか、罪を償う為に縛されるか、それとも…わたしの手にかかるか」

 

 男達の大半はその声を全て聞き終わる前に意識を手放した。交戦の意思あり、とアンが断じたからだ。

 

 

 

 半日ほど経って、アンは再びカンソーン島を訪れていた。

 身なりはどこにでもいる村の子供と変わらないような、Tシャツと短パン、そしてブーツの組み合わせだ。

 海兵としての身分証は腕に付けた腕章のみだが、同じ艦の海兵が至る所にいるので必要無いともいえる。だが一応、付けてきた。かつての経験からだ。

 衣類の一式は大量の血を吸い、処分となってしまった。しかもみっちりとお説教も貰ってからの帰島となっている。

 

 

 捕虜になっていた女性はことごとく嬲られていた。

 島に戻る選択と他の島に移り住む選択肢を提示したところ、ほとんどが後者を願ったのは分からなくもない。

 全ての部屋を調べ隠れていた海賊を引っ張り出した後、アンは電伝虫でエリキに連絡を取った。

 女性達に関しては本部に居るはずの義祖父へ繋ぎを入れて貰えるようお願いする。元々東の海出身者達だ。故郷に戻るのも良し、新天地を求めるのも良し、管轄している義祖父ならば良い転居先を知っているだろう。

 

 そんなこんなで大人しく身を縮ませたままの海賊を見張りながら、迎えを待つ事一時間余り。

 あるかと思っていた反乱も抵抗も無く、近場を航行していた黄猿艦が船体を寄せた。

 乗り込んできたのは中佐にまで地位を上げたドレークだ。

 アンはいつものように、片手を上げ挨拶とする。がしかし。ドレークはその姿を見るなり盛大な溜息をその場に落とした。そしてアンの元へ一直線に進んだかと思えば首根っこを掴み、挨拶の言葉すら受け付けず艦隊の浴槽へと放り込んだのである。

 

 小言をぶつくさと言いながら体を清め用意されていたぶかぶかの衣類に手を通し、外へ出てみると黄猿が待ち構えていたのは言うまでもない。

 「アーン。海賊船の船長の首、切っちゃったんだってぇ? 生きてる海賊達はみぃーんな震え上がっちゃってるし、恐怖が強すぎて自分で首を掻き切ってるのも居るらしいんだよねぇ。なにをやったのかわっしに詳しく教えてくれるかなァ」

 

 「いや、その。えーっと」

 執務室に連れて行かれ、肩叩きをさせられながらじっくりと島が見える場所までみっちりと諭された。いくら強くなってきているとはいえ、単独行動な上、貴重な労働力になる海賊達を委縮させ過ぎては使い物にならないなどなどだ。

 青雉が不在ならばなおさらだと、ボルサリーノからお叱りを受けた。

 

 青雉艦に戻る時に甲板に下りれば、ドレークから無言の戒めがやってくる。

 「そんなにわたし、無茶してる様に見えるのかな」

 「ああ」

 

 即返される言葉にアンはひとり苦笑する。義祖父付きとはいえ中将となれる位の実力といわれているのだ。これくらいひとりでも十分に対処出来る。否、出来なければ海にエースと共に出ることが出来ない。

 年齢に関して文句を言うのならば地位を落としてしっかりと監視下におけばいい、とすら思った。

 「艦が別だからな。何かあった時、すぐに飛んで行ってやれん」

 相方の言に頬が緩む。子ども扱いではない。お互いを支えあう者として当然の進言である。

 「でもこうして時々は会えるのも、いいよね」

 

 見上げてくる柔らかな好意の笑みを向けられるとドレークは苦笑するしかない。

 相方は強い。強くなった。初めて出会った頃と比べても、天と地ほどの差である。だからなのだろうか。余りにも危なっかしく思えてしまうのは。

 強さに驕り、傲慢になっているとか自惚れている風には見えない。それよりも焦りがちらりと見え隠れしている。まだまだ強くならねばならぬのだと。その瞳は何を見ているのだろうか。

 儚さを含んだ小さな背が砂塵のごとく消えてゆく像(イメージ)が浮かび、ドレークは咄嗟の思考をかき消した。この少女は出会った頃からそうだ。自身の価値を余りにも低く見過ぎる節があった。

 「おれもまた、この次を待っている」

 変わらず相方と、言ってくれる少女に言葉落とした。

 

 青雉艦が小さく見える位置まで近づけば未来の中将候補が綺麗な敬礼を形作り、空を舞い駆けるその姿を見送る。

 「さぁて、わっし達は本部へ帰るよぉ。全員、持ち場に就くようにねぇ~」

 

 

 そうして艦に戻り、衣服を普段着に変えリトルイーストブルーへと入った。

 だぶだぶの服装では動きにくかったからだ。スーツの替えは持って来ていたが、コートは一着限りの品である。本部へ戻った時に、おつるを経由して衣装室に行かねばならないだろう。身長も少しは伸た。既製品で片付くようになっただけ、以前と比べてましと思う。

 最初の一着目は特注品だった。

 なので貰ったばかりの頃、袖の揺らし具合が分からなくてほつれを作っては修繕、を繰り返したのも良い思い出だ。

 

 「あれ。地面が濡れてる。雨が降ったの?」

 「副長、お疲れ様です」

 港を警備する海兵へ敬礼を返し尋ねてみる。

 するとアンが出かけてから間も無く、まさに恵みの雨が降り町も森もしっかりと鎮火したという。

 

 神にも仏にも日々祈っているわけではないが、願ってみるものだ。

 そんな事を思いながら月歩で青々とした葉に戻った木々の上を行く。つんとした火事の後に漂う特有の匂いがあるものの、炎の中で嗅ぐ熱と比べればどうというものでもない。村では数本の煙が立っていた。

 港で聞いたところによれば、炊き出しをしているのだとか。海兵の一部がアンを真似て森に入り、獲物をしとめてきたという。

 「逞しく育っちゃって」

 

 くすくすと、アンが笑う。

 狩りを行った本人達が聞けば、本家本元には叶わない。そう口を揃えて言うだろう。

 ドーン島では兄弟達と獲物を獲って食べるのが普通だったが、一般的にそれは苛烈な生存競争(サバイバル)という代物だった。海兵として長く勤めていても、この類は実際に経験しなければ培われない能力といえる。どれだけアンの元に配属された海兵達が訪れた島々で鍛えられたかは、言うに及ばないだろう。

 

 夜の炊き出しをしているテントへ近づいてゆく。周囲には幾つものランプが吊るされ、灯りが燈されていた。

 「…黄猿大将より、連絡、受けましたよ」

 こちらで待ちかまえていたのはエリキ副長だ。

 乾いた笑いを放ちながらアンは後ずさる。黄猿からみっちりと、耳にタコやイカ、ホタテがぶら下がるほどにみっちりとお説教を喰らったばかりでこれ以上は聞きたくないと耳を塞ぐ。

 「私からはなにも言う事はありません。青雉大将が戻られた後は、知りませんが?」

 

 「やっぱり怒られる、かな」

 自転車のベルの音が当分聞こえませんように、と願いながらアンは再びみっちりと厳しく注意される覚悟を完了させておく。少なくともこめかみへの攻撃だけは覚悟しておかねばならないだろう。

 「なんかもう最近、みんなが家族化してきてるみたいで。煩い」

 エリキが小さく笑む。既に海軍には無くてはならぬ戦力の一翼となってはいるが、本来彼女はまだ海軍学校で知識と体を作り続けているはずの年齢である。英雄の孫として鳴り物入りで入隊したが、誰もが早々にモノになるとは思っていなかったはずだ。今でこそ誰も彼女を邪険に扱ったりはしないが、英雄の孫が気に入らぬと悪意を隠さなかった多くもあっただろう。

 それらに対しアンは全てを無視したと聞いている。耳に入れてもなんともないと態度で示した。

 なのに今、青雉や黄猿や英雄ガープが何か言おうものならがぶりと噛み付くことも少なくは無い。

 

 これはいわゆる反抗期、というものだとエリキは考え至った。なんとも面倒であるが貴重な時期に青雉艦へ来てくれたものだ。

 大人のような言動を繰り返す少女をどう扱えばいいか。迷わなかったといえば嘘になる。言動の裏にある真意にすら触れてくるのだ。読みあいには自信がある。拮抗した相手であるほど次の手を指示するのが楽しみとなった。

 

 大人のように振舞うことを求められた少女が子供の殻を破り、どういう大人に変化していくのか。

 なんとも楽しみな卵を与えられたのだと、エリキは小さく笑む。

 

 

 「ここです」

 エリキに連れられ海兵も夕食を共に食べているという天幕へとアンは入る。随分と空腹だった。こんなに腹がすくのは珍しい。

 幕の外にも海兵が立ち歓談していた。副官達が近づくと敬礼するが、軽めの挨拶を返せば交わしていた会話の内容に再び入ってゆく。内にも外にも笑い声が聞こえた。どうやら戦時は抜けたようだ。海賊の襲撃がありたくさんの家が焼け人も死に捕虜も出たが、この村に住む人々は随分と前向きのようである。否、生きる為に強くあろうとしているのか。

 

 「あ、おかえりなさい」

 「ただいま」

 ヨーコがアンの姿を見つけ、もじもじとしながら近寄ってくる。

 

 海賊船でなにをしてきたかは話さなかった。

 捕まっていた人々は海軍で保護したので心配ない、それだけを伝える。

 「おお、あなたがゴア王国出身の。初めまして、わしはこのリトルイーストブルーの村長をしておるファブルです。いやいや~ようこそ来て下さった」

 

 そうここは東の海出身者だけがが辿り着くという不思議な島だった。

 村の人々は長年の付き合いがあるご近所のように温かくアンを迎い入れる。フーシャ村でいつも笑顔でおかえりなさい、と迎えてくれるマキノを思い出し、くすぐったい気持を感じながら遠慮がちに触れてくるヨーコの手のひらを握りしめた。

 

 生きること。

 簡単であるようにみえ、これが一番難しいのだと思うようになってきた。

 生きた一日ががずっとずっと繋がって、それぞれの過去となり未来へ進む糧となる。

 アンは村の食卓に混ざりながら、心から願う。

 どんな苦難があったとしても、この村に住まう同郷の人たちが幸せでありますように。ただただそう祈った。

 押し付けがましい願望であったのだとしても。



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43-ゴール・D・ロジャー

 瞼(まぶた)をごしごしと擦る。

 大きなあくびをひとつ、周囲を見回せば闇が広がるばかりだ。

 

 黒一色。

 それなのに自身の体はしっかりと光が当たっているかのように見えているから不思議な気分になる。

 

 よう。

 

 不意に語りかけられ、寝ぼけ眼のまま視線をそちらへ向ける。

 「ああ、お父さんか」

 アンは声をかけてきたその人の名を親しみを込めて呼ぶ。けれどその声が父に届く事は無い。

 海賊王、ゴール・D・ロジャーは既に故人だ。聞こえてくるこの声すら生前に残した思いのかけらに過ぎない。

 

 「エース、エース、起きて。かけらだよ。貴重なお父さんの話聞けるよ」

 半身を呼ぶがぐっすりと眠ってしまっているようだ。なんの反応も帰って来なかった。ルフィーに蹴られながら寝言を言っているような気がする。

 「ふたりとも相変わらず寝相悪いものね」

 自身が入ればいつも団子になって朝を迎える。兄弟揃って布団の上を縦横無尽に転がるからだ。最も苦しい体位は三人がなぜか重なりあうものである。エースの上にアンが、アンの上にルフィが重なった状態で目が覚めるのだ。一番下になり苦しいはずのエースであるが、全く気にならないらしい。最初に目を覚ますのがアンだ。その次にエースである。弟は兄と姉が揃っている場合、朝食の臭いを嗅ぐまでなぜか眠り続けた。

 

 アンはもう一度大きなあくびを放つ。隣にはクザンが寝ていたはずなのにその姿もない。よって時計も見えない。何時であるのか分からなかったが、まだ寝入ってからそう経っていないようにも思える。

 

 「今日はどんな寝物語を聞かせてくれるの?」

 アンは父の影に触れる。

 それは万物の声を聞けたという、ゴール・D・ロジャーが残した足跡だった。

 それは世界中の至る所にあり何に反応するかは分からなかったが、時々こうして遭遇する。

 

 本音を言えばもっと幼い頃に知っていられたら、と思う。

 そうすればエースが父の名を知った時、これが父だと伝える事も出来ただろう。

 

 悪意ある言葉を聞かなくても良かった。聞いたとしてもはねのけることが出来ただろう。

 森からいつも眺めていた高く高く聳え立つあの壁の向こう側には、センゴクを始めとする海軍と政府がねつ造した、偽りの父の影が残されていた。子供心にちくりどころの痛みでは無い、えぐるような言葉を平気で大人たちは放っていた。

 出身地がある海、だったからだろうか。

 ドーン王国内では特に、ゴール・D・ロジャーに対して、敵意を持っている者達が多かった。

 

 何事かはしでかしてはいるんだろうけれど。

 アンは海軍の資料庫で父の足跡を探してみたことがある。結果は散々であった。綺麗さっぱり処分されていたのだ。埋もれていた手配書だけは見つけ出したものの、誰かに見つかればそれも処分の対象になる。膨大な資料が眠る保管庫の中のとある場所に、こっそりと隠していた。

 ローグタウンから始まった父の旅は最果ての島、ラフテルに至ることで終わりを迎えている。終わるといっても海賊団を解散するまでには数年かかっており、その間様々な場所を経由しているのは確かだ。

 

 生まれ故郷でその首が刎ねられ、”ワンピース”の存在を広く世界に知らしめた瞬間までの足跡が、海軍本部から綺麗さっぱりと消されている。

 ちょっと調べればわかろうものだ。これは確実に人為的に仕組まれた意図的なものであろうと。そして疑問を持ち調べた誰かがこの結論に至るまで、父の死を作り出した誰かさんの掌の上でもあるのだろうと。

 

 こんなにも抗っているのに変わらない結末。

 例えるならば太平洋戦争の仮想戦記を読む多くの読者も真っ青な鬱展開というやつだろう。主人公は歴史を知っていて、かなりのアドバンテージを持っている状態だ。こうすれば絶対に歴史が変わると確信されているのに、主人公が動くその先をさらに改悪してい行く未知なるだれかによってなかなか思い通りならないような、気持ち悪さすら感じるのだ。現実が物語のようにうまくいくわけがないとわかってはいるが、これはこれでアンの精神をがりがりと削る。そしてちらちらとその存在感を見せてくるかの人物の影が、アンにある種の悪寒を感じさせていた。

 

 

 父はアンにその生涯を見せている。

 旅立ちの日、船も持たずに海に出ようとしていた。運よく港にレイリーが居たから良かったものの……いや、運悪くレイリーが父と出会い、なんとなく父の手管に巻かれてくれたお陰で海原へと飛び出せた、というのが真実である。一体何を話し聞いたのかは分からない。結果的に父とレイリーは海に出て仲間を集めながらラフテルへと至った。

 

 ゴール・D・ロジャーという人物は真っ直ぐな男である。真っ直ぐすぎて面倒でもあっただろう。海賊になりたくてなった男などやっかいに決まっている。だがしかし、弟もそうなのだ。弟も海賊になりたくて仕方が無い男なのである。ああ、エースもそうか。

 やっかいな男達ばかりだ。

 子供の頃に叫びあった夢の大きさで言えば、海賊王になるという弟が一番だ。

 

 「ねえお父さん。ルフィもお父さんみたいに仲間を集めて行くのかな、ラフテルに」

 

 父は面白い男でもあった。冗談を言うわけでも親父ギャグを滑らせるわけでもない。

 ロジャーは周囲を巻き込む男であった。やろうと決めた事柄に対し周囲の助力が集まってくる。そして必ずやりぬくのだ。騒ぎの中心にいながらも、立ち塞がる障害をものともせず颯爽と駆け抜けてゆく。

 

 付け加え愉快であるのは父が『海賊王』の称号をいらない、と捨てようとしたことだ。折角得たのにその次の瞬間にはいらないと言った父に何人もが呆気に取られている。船長らしいやと笑ったのがシャンクスであり、そうだろうなと同意したのがレイリーである。いらなければそのあたりに捨てておけ、と言ったのが船医を務めた人であり、じゃあおれにくれ!と両手を差し出しているのが道化師のような鼻の少年であった。

 

 ……あれ、あの鼻、どこかで見たことがあるような気が。

 

 手配書だっただろうか。アンは半ばぼう、っとした記憶の中を探ってゆく。父の元仲間たちは様々な場所に分かれ生きていた。各々が目立ぬよう生活しているが(シャンクスは別である)、それなりの仕事をし評価を受けていたり地位を築いている者が多い。そうだと知れたのも父からの情報だ。

 

 …まあいいか。あの鼻は忘れようにももう、忘れないだろうし。

 

 父の声がさざなみのように心地よく耳に届く。

 在りし日の記憶を語る、声に誘われるように、アンは眠りの中へ入っていった。

 

 

 

 聞き慣れない声で目が覚めた。今ばかりは身の内から聞こえる、打ち鳴らされた警鐘に素直に応じて飛び起きた。

 見慣れない風景だった。いつもの語り草とは全く違う。うとうととしても続くあの声は無い。

 周囲をそっと視線だけで見回すと、アンは船に乗っているようだった。夢であるはずなのに、波の音もそしてゆっくりと揺れる感覚も現実味を帯びている。

 またどこかへ迷い込んだのだろうか。

 そんな事を背に感じるひやっとした冷たさを感じながらふと視線を動かせば、甲板を掃除していたのだろうブラシが空に向かって突きだされた瞬間だった。

 

 「てんめぇ!! なにしやがる!! おれ様が今そこ、まさしく今!! ブラシかけた直後っておめぇも知ってるだろうが!!」

 「わりィわりィ。もう一回やっといてくれ」

 

 べったりとでは無いが黒い足裏を見せ、そうそう船底へ行ったばかりだったのだと紅が笑む。下はほこりが溜まる。定期的に掃除はしているものの、どうしても後回しにされる場所でもあった。ピエロの鼻をもつ青髪の少年の顔が見る見る赤みを帯び、綺麗な髪がまさに逆立つ。

 「待ちやがれ!今日という今日はもう、許さねェ!」

 ブラシを振り上げながら怒りの絶叫を赤っ鼻が上げれば、赤髪の少年が待ってましたと言わんばかりに逃げ出し始める。甲板の上で楽しげに声を絡ませながら甲板をはしゃぎまわり始めた。

 幼馴染、かなにかなのだろうか。随分と仲が良いらしい。と横を何事も無く通り過ぎられた、存在しているはずのアンには全く見向きもしないふたりを視線だけで追う。体が透き通っているわけではない。ちゃんと船を構成する木材に触れているという感覚もあるし、頬をつねってもばっちり痛い。

 

 なのに気付かれないとはどうしたことだろう。父が関係しているのだろうか。

 見たままを判断するのは全く、別段思考に影響を及ぼさない。ただ何かを思い出そうとすると白いもやのようなものがかかった。

 

 甲板上のおいかけっこはまだ続いている。

 赤鼻が大きく棒を振り上げればひょいと赤髪が射程距離外へ逃げ避け、帆の操作をしている乗組員達の間を駆け抜けた。

 日常茶飯事のやり取りなのだろう。船員達の様子を見る限り、彼らのじゃれあいは放っておいても大丈夫なものであるらしい。

 船の上から外へ視線を移し、見回せば広がる碧い海ばかりが広がっている。珍しい色だ。新世界にも何度か行った事があるがこんな海の色を見るのは初めてだった。

 

 そんなに大きな船では無い。

 スループよりは大きい。フリゲートだろうか。

 海軍でも、商船でもなかった。

 真上を見上げれば黒い旗が風に煽られ揺れている。どくろの模様は見えなかったが、この船は海賊船であるらしい。

  

 「おいおいお前達、暴れすぎるなよ」

 ロープを持った船員が赤と青の二人に声をかける。

 (あ、こぼれる)

 樽の上に置かれていたジョッキが追いかけっこによってひっかけられ、中に入っている液体と共に床へと向かう。行動後の結果を予想し自分の体の置き場を変えようと動くが、多少かかってしまうだろうという予測を立てる。しかし、それらは体を突き抜け向こう側へ音を立てて落ちた。

 

 (……これは、どういう?)

 試しにエースの名を呼んでみる。なにも聞こえない。いつもとは違う感覚だ。例えるならばひとりで何もかもをしているような、酷い孤独を覚えてしまう。首をぽてりと傾げ考えるが何も浮かんでこない。状況を説明するなら断線しかけたイヤホンを耳に付けているような、という表現がぴったりかもしれない。

 手のひらを広げてみても透き通っている感じはない。むしろ連なる夏海域ばかりのせいでこんがりと茶色く焦げた肌が碧の海には不釣合いに思える。

 

 船室へと続く扉からほんの少し離れた、飾り柵の上に借りてきた猫状態でちょこんと乗っていたアンは、遊歩甲板の方へと体をひねらせて降り立つ。すぐよこに階段もあったが、行儀良く降りねばならぬ場所でもないだろう。肉体の操り具合はいつもと差が無いようにも思えた。ほんの少し体がふわふわとしているような気もするが差異は僅かだろう。

 

 新世界には雷が降り続ける島や炎が燃え盛り続ける島、氷に閉ざされたまま万年雪が透明になり水晶のように輝き続ける島もある。なので重力が緩和される海域があってもおかしくは無い。アンとて新世界の全てを回ってはいない。世界政府により通行を禁じられている航路もあるのだ。そういう場所こそが海賊の根城になりやすい為、入りたいのはやまやまであるのだがなかなか許可が下りないのである。

 

 「シャンクス?」

 

 顔に傷など無く、幼い顔立ちであるが近場でその瞳を見れば分かった。耳元で低くくゆりアンの心を兄弟以外で唯一振るわせる声の主と同じものだと。ならばピエロ鼻の少年は誰であるのだろうか。眉をしかめながら考える。知っているはずだ。見たことがあると思っている。

 

 「……道化の、バギーだ」

 

 東の海を拠点に面白おかしい面々と共にサーカスを行なっていると聞いたことがある。海賊旗を揚げているもののおおらかな村ばかりを襲うため、良く来てくださったと歓迎され技を披露し多くの金銭と食を得て帰っていくという愉快な海賊団である。

 バギー一行に関してはモーガンからの報告書が上がっていたはずだ。帰ってから目を通そうと脳の端っこに書き加える。

 

 そういえば。とアンはモーガンから個人的に貰っていた手紙にあった、従兄弟に預けっぱなしになっている息子の成長を危惧する文面が書かれていた事を思い出す。アンが幼い頃ルフィと共に誕生日祝いだと義祖父に放り出された無人島でのサバイバルに付いてきてくれたことが切っ掛けで知己を得た人物である。あれから義祖父の息が掛かった艦隊に編制され、めきめきと頭角を現し追随艦ではあるが任されるまでになっているという。そして彼が所属しているのが155支部、彼の息子が預けられているのが153支部であったはずだ。

 

 155は昨年新規に出来たばかりの基地であったはずだ。その建設には義祖父が関わっている。

 (一度様子を見に行ったほうがいいかな。でもおじいちゃんの管轄だしでしゃばるのも。どうしたものか)

 

 考えながら赤の髪を知らず内に目で追っている自分に苦笑した。

 思いのほか眼福であった。実はシャンクスがこんなに童顔であるとは思っていなかったのだ。

 アンがそもそも知るシャンクスは、格好いい大人である彼だ。地上にいるときは気安くルフィと騒げるまでの精神年齢まで落ちるが、海の上にあるときはかなりの男前であった。一味を束ねる大頭としてのシャンクスは渋さも備え、アンが何も知らぬ乙女であったならちょっとくらいはくらりとしていただろう。

 

 海軍としては困った事案であるが、周知の為に刷られる手配書がとある女性層でブロマイド化しているのである。

 それぞれの嗜好だ。とやかく海軍が口出しすることではないが、それでもたまにがくりと気が抜けてしまう。今現在人気であるのはダントツで白ひげ海賊団の面々だ。刷っても刷っても足りないと情報部の将校から愚痴を聞いていた。ならば刷らなければいいのだが、張り出す掲示用までもが欲しいとねだられ消えてゆくのだと。

 

 海兵も人間である。しかも絶えず生死の境目を彷徨う職業だ。欲を刺激されたら逃げようも無い。

 

 (世知辛い…もうちょっと海兵にも休息があればいいんだけれど)

 

 希望はしょせん、希望なのである。実情とはイコールにはならない。

 シャンクスとバギーが休戦条約を結んだようである。追いかけていたバギーが先に音を上げたようだ。

 アンは小さく声を出して笑う。ああこの話をシャンクスにしたならば、どんな顔をしてくれるのだろう。どんな話を追加で聞かせてくれるのか楽しみになった。

 

 (シャンクスはお父さんの船に乗っていた。ならばこの船の名は、オーロ・ジャクソン。トムさんが造ったものだ)

 

 手のひらから伝わってくる温かな木目から、いくつもの新たな過去が浮かび上がってくる。船は家だ。使い手が想い入れを強くすればするほどモノに憑く存在の目覚めが早くなる。オーロはまだ赤子だ。眠っている。だからこそ素直にアンの注文を受け付けてくれていた。

 この船は向かっている。多くの名を立たせた海賊達が集った海を突破しロジャーを筆頭に掲げる海賊団が今、最終目的地に向け進んでいた。

 

 当時ロジャー海賊団に所属していた多くの船員の消息を海軍は掴めていない。なぜなら”D”の名を持つ者がラフテルに至ったなど公表出来るわけが無かったからだ。”D”を消す作業を優先したため、その仲間たちの詳細をも闇に葬ってしまったのだろう。

 普通は残る。というか残すだろう。

 海賊としての悪名をほしいままに轟かせた、王の船に乗っていた人物の名前が綺麗さっぱり抹消されていることからも容易に想像できた。アンがこうして情報を持っているのは、紛れも無く全て父から教えて貰ったものである。

 本当の名が隠されている理由は義祖父から聞いたが、天竜人が聖地に隠しているあるものを動かさなければ、動かす意思を持たなければ、脈々と続き重ね続けられている”D”の時限爆弾に火は点らないようになっているのだ。

 義祖父やアンの行動が導火線を長くしている、という事実もある。実際に世界中に散らばる”Dの血族”の中で忌み名として隠しているものたちはそう多くは無い。あけっぴろげに名を出している一族のそれぞれの役目は、天竜人を始めとする世界政府の抑止である。動くなよ、動けばDの名を隠したままにしている者達が動くぞ、と牽制しているのだ。

 

 それをデイハルドは理解している。理解したからこそアンを天竜人たちに披露までしたのだ。

 全く以ってあの子供はどこまで先を見通しているのか。恐ろしい限りである。

 

 世界政府は歴史に刻まれるべき”D”の一文字を隠した。そのことで生まれた枝葉がどうなるのか全く想像だにしていないだろう。普通の人間は未来を知らない。知らないから生きていけるともいえる。いつどこで自分が死ぬのか分かっていたなら、日々を生きることがとてつもなく苦痛に感じてしまうだろう。だから人は真っ白な未来を向いて行き、過去を作りながら生きる。

 

 名を変えられても残った、最後の言葉にだけは感嘆を覚える。

 何の為に自ら自首したのか。海軍は捕らえたのだと声高に発表しているものの、父と同じ時代、あの海を生き抜いた多くの海賊達は気付いていたのだろう。だからしたいようにさせた。己の命を以って、大海賊時代の幕開けを宣言させたのである。

 我が父の言葉であるが、よくもまあおもちゃ箱をひっくり返せたものだと賞賛に値する。

 探してみろ、とはなんという上から目線であるのか。嘘ではない。ラフテルは存在する島である。そして宝と父が称したものが島にあり続けている。

 

 ただラフテルに至るには、ちゃんとした手順を踏まなければならなかった。それをきっちりと周討(しゅうとう)している者たちが果たしてどれ程いるのか。怪しいものである。我武者羅に新世界を彷徨っても見つけられないように仕組まれているあの島にたどり着くのは一体誰なのか。興味は、ある。あるに決まっていた。

 希望の言葉と想いを詰め込んで封じられたものがかの地にはあるのだ。長きにわたる時といびつなほど作りこまれてしまった世界を股に掛けたパズルゲームを制する存在を父と同じくアンも待ち望んでいる。

 

 「…いい風だな」

 船室から凶悪な悪人面をした男が出てきた。頭にかぶった帽子には旗と同じ海賊印があり、特徴ある口髭を蓄えている。

 子供がそのまま大人になったような印象を受ける男だ。船員からは船長、と呼ばれていた。

 

 生前の父である。三白眼が良い味を出していた。エースの眼元が悪いのは父が原因であると確信したアンは、男の子は母似のほうが格好良くなるって言うジンクスがあるのだと天国に居るだろう母に毒ついた。

 「今日は面白いもんが乗ってるな」

 男がちらりと視線を動かした先は、甲板に下る階段下に突き刺さっている飾り塀の上に座っていたアンだった。

 「ロジャー、調子が良いからと言って無茶はするなよ」

 ひと仕事を終えたような表情をして出てきたのは、花弁のような髪型をした男だった。

 「こいつはクロッカス、この船の船医だ」

 

 誰に話しかけているのかと訝しげに思う顔をクロッカスは浮かべている。

 (お父さん、ちょっと。変な人になってるよ)

 娘の声は父に届かない。ぱくぱくと何かを話している口元は分かるのだが、声までは無理であったかと舌打ちする。

 

 未来が過去に物申せる訳もなく、アンは身を躍らせ甲板へ下りた。

 その姿をロジャーが追う。

 

 「また変なモノを見つけたな」

 クロッカスに並ぶように立った男が口角を上げる。振り向いて見れば、若かりし冥王そのひとであった。

 「放っておけばいい。その内飽きるだろう」

 

 (いやいやいや。そこの副船長、レイリー。お父さん止めようよ。この人、未来からわたしを引きずり込んだんだよ。時間軸どうするつもりなの。わけわかんない。何するかわからないよ、どうにかして)

 この突っ込みもレイリーに届かないと分かっていても、突っ込まざるを得ない。

 

 父の存在感が強烈なのはさておき、冥王もかなり凄い部類に入っていた。シャボンディにてちらりと本人を遠くから眺めたことがあるが、彼であると一目で分かった。上手く周囲に紛れ込んでいるとはいえ、アンの目にはくっきりと浮かんで見えたのだ。気配を殺しても湧き出てくるその人の生命力はゼロに出来ない。

 接触は怖くて出来ていなかった。少なくともアンは海兵の身分を持っている。そのアンが接触すればどうなるか。少し考えれば分かろうものだ。お互いが見聞色の使い手であるためか、意識的に触れてはいる。

 

 ……できれば独りきりで彼と会うのは御免こうむりたい。

 

 とアンは心の底からそう思う。出来れば矢面にはエースを押したかった。冥王に関する先入観を持っていないエースであれば、萎縮することなく自然体で彼と話せるだろう。

 

 「娘か息子か。分かんねェな、折角掴まえたってェのに面白くねェ」

 「わざとか、このくそ親父」

 

 船首へ歩いていたアンが足を止め振り返る。

 「ほう、いい度胸してやがる。だがそんな可愛い威嚇だと怖くねェぜ。心地いいくらいだ」

 くつくつと笑う凶悪面にアンは思わず頬を膨らませる。これでも海軍将校なのだ。義祖父にも大分貫禄が付いてきたと言って貰えたばかりなのである。それを可愛いとは親の欲目か。

 

 「生きて会えないのは残念だな。予定は調和通り進むのか」

 ゆっくりと伸びてきた手がアンの頬の辺りで止まる。

 「追いかけてくるつもりがあるなら、辿って来やすいようにしておいてやろう」

 

 「なあ船長、なに話してんだ。分かる言語でおれにも教えてくれよ」

 

 シャンクスがロジャーの視線の中に入り込み、にかっと笑う。

 ふとアンは気付いた。父と交わしていた言葉がいつも使っている共通言語ではなかったことを今更ながらに自覚する。

 

 「気が向いたら教えてやろう。ああ、やっぱり今夜だ。気が変わった」

 「やったぜ、絶対だからな」

 

 シャンクスを追い返せばすぐにアンの瞳をロジャーが射抜く。

 「あいつもお前に関わってくるんだろう。いいぜ、たっぷりと仕込んでおいてやる」

 

 勘弁してください。

 シャンクスがどうしてあそこまでスパルタなのか。その一端が見え涙目になる。

 元凶は父か。お前なのか。いや、引きずり込まれた自身が原因か。

 アンが生きる時代には既に故人となっている父に文句など言えはしない。過去に引きずりこまれた今とて同じだ。

 熊の前にちょこんと座らされた兎、それがアンである。

 

 「くっそお前の中、面白すぎるな。殺されてやるのはやめるか」

 

 どういう手段を用いているのか全く分からない。だが父はアンの中からいくつも情報を引き出しているようである。

 不安げな表情をしていたのだろう。心配するな、物事はなるようにしかならないと理不尽の塊に諭される。

 

 

 船首像付近ででなにやら独りで楽しそうにする船長の姿を、多くの船員(クルー)達が見ていた。

 偶にある奇行である。多くが見慣れ気にしない程度にはなっていいた。

 語りかけている言葉もそうだが、誰の目にもそこに何かがあると見えないし、触れる事も出来ないだろうが船長には何かを感じとれているらしいのだ。

 らしいというのは、副船長の言だ。

 「ロジャーは…万物の声を聞ける。今回もその類だろう」

 

 船員達はそれだけで、納得した。

 いらぬ邪魔をして逆切れさせると後々慰めるのが大変なので放って置くのが一番良い。だがいつもよりも今日は楽しそうにしている。注文や文句を言うのではない。珍しくも女を口説いているかのような雰囲気である。

 

 一体なにと、なにを話している?

 レイリーはロジャーの視線の先を観察する。視覚にはなにも像を結ばないが、そこには確かに何かがあるような気がした。しかもロジャーと似て非なる何かだ。

 

 もしかすればこの航海の終わりが見えてきたのかもしれない。

 リーヴァス・マウンテンを超えた先にある灯台守をしていたクロッカスに請い、ロジャーの苦しみを和らげてもらいながら目指した終着点が近づいてきているのか。

 

 それは願いだった。

 

 「そうかそうか、お前等に会う為には南の海に行けばいいんだな。そして彼女を口説くと」

 「何処からその情報を読み取ってるのか、不思議でならないんだけれど」

 

 いつの間にか複数形になっている呼称とルージュという母の名にアンは愕然とする。

 「お前にもあるな。芽吹くかどうかは半々っていったところか」

 「なに?」

 「出ちまったらおれを恨め。分かったな」

 

 一体何のことであるか分からない。分からないがこくんと頷く。

 いいことではない。悪いことである。二分の一の確率とはまるでコインゲームのようだ。

 そういえば父は病を患っていたと聞いたことがある。まさかそれのことかと眉を顰めているとすぐ目の前まで父の髭が迫ってきていた。

 

 「お父さん、顔、ちょ、怖い」

 

 父は既に故人である。なにを言ったところでやり返しはされない未来、という安全圏に居るのだ。やった者勝ちであろう。

 ということで反抗期の娘が父に言うとされる件を並べてみた。しかし父は面白そうにそれを眺め続けている。

 突然、真面目な顔をした父とエースの顔がふと重なる。目元だけは本当に良く似ていた。固く癖毛なところも父譲りだろうか。

 

 「教えておく。だから忘れるな」

 

 楔を打ち込むように囁かれる小さな音の羅列にアンは目を見開く。

 なぜ、と問いを口にする前に父はさらに凶悪な笑みを浮かべ言った。

 

 「さあ、いい子はそろそろ起きる時間だ。ガープによろしくな」

 手のひらが頬に伸びぐいっと頭を掴まれたと思ったや否や、その胸元に押し付けられた瞬間、周囲の景色が目まぐるしく変わる。

 

 

 落ちて、いた。

 重力がアンに早く大地へ戻れと呼んでいる。ゆっくりと瞼を開けば、登ってくる太陽が見えた。

 朝焼けの光を受け、温かい始まりを告げる太陽が黒の闇と星の瞬きをゆっくりと覆い隠してゆく。

 寝衣(ねまき)に使っている膝下まで隠れるTシャツが風を受けて大きな音を立てていた。ひんやりとした空気が肌を刺す。痛みがここが現実だと知らせてくれていた。

 「空はベットじゃないよ、お父さん」

 眼下に見える景色は夢で見上た色だった。海に向かって落ちて行く身を捻らせ体勢を整える。頭から海に飛び込むなど冗談では無い。

 普通の人間ならば能力者でもそうだが、この高度から海に落ちれば確実に命を失うだろう。知っていたのか知らないでか。こんな場所に放り出すとは酷い親だ。

 「なぜ…教えたの?」

 

 長い文章ではない。万物から大量の情報を与えられる者同士であったからこそ判る暗号のようなものだ。

 

 父の軌跡を娘が目で追う。父ですら2周しなければたどり着けなかった幻の大地。

 なるほど。誰も気が付けないはずだ。あんなところに島があるなんて誰も考えつきはしないだろう。真の歴史の本文が4つである意味もようやく腑に落ちた。

 水先星島(ロードスター)で振り出しに戻らされ、折れない不屈の心を持てる海賊など後にも先にも父だけかもしれない。

 

 「あそこがLaugh Tele」

 全ての言葉が集まり、そして新たな始まりが生まれる場所を眺める。

 海賊という特別な、この島へと至ることができる片道切符を交付された存在を待ち続ける島に手を伸ばす。まるでパンドラの箱のようだった。この世に存在するありとあらゆる悪徳の底に、たった一つ残された本当に見つけてほしい願い。

 

 父が持て余したはずである。そしてアンの手にも負える代物ではなかった。

 

 「ああ、あそこがALL BLUE、全ての青とはそういう意味なんだ」

 4つの海の全てがある場所の秘密を知ってしまった。探す楽しみが奪われたような気もするが、無駄ななぞ解きをしなくて済むのだ。役得とおもうことにした。アンがこの島の情報を流布するつもりは無い。先バレされるほど冷めてしまうものは無いからだ。探しもとめる夢は己の足で歩き手探りでもいい、その手に掴むべきものである。そして手に入れたものの重さと価値を知るべきなのだろう。

 

 

 ここにきてようやく、エースとアンの宿命を握る人物と同じ位置に立ったわけだが。届かないと思い知らされた。足掻いてきた年期が違ったのだ。しかしあきらめるつもりは毛頭なかった。

 

 

 

 

 ゆっくりと瞳を閉じる。再び開けばまだ、その空は暗かった。

 見張り台に立つ海兵に朝の挨拶をし、降下の勢いを殺しながら甲板へと降り立った。

 

 今なら言える。父は紛れもなく自由に生きた人だった。そしてゴール・D・ロジャーは運命に抗い続けた人であったのだと断言できる。

 誰よりも、なによりも定められた宿命を裏切り続けたのだろう。だから不確定要素の強いアンを呼び寄せたのだ。

 万物の声を聞く。未来を事前に知ることの出来ない多くにとっては喉から手が出るほど欲しい情報だろう。だがそれをずっと、世界が望む予定調和の未来を見せられ続けている者からすれば、生きることが退屈になってくる。淡々と過去が未来に進む。ただそれだけである。未来が読めなくとも刺激が欲しいならとあるバカのように戦場真っ只中に飛び込めばいいし、平穏な生活がしたければ何事も起こらない場所をゆらゆら移動すれば良いだけの話だ。

 

 若かりし頃の父はだからこそ飽いていたし諦めていたのだろう。麦わら帽子が手元にある、その意味を知った瞬間に。だからあそこまで凶暴で短気、わがままにふるまったのだ。

 未来を知れても境遇は変わらない。変えようと動いたところでその全てが砂の上に描いた線と同じく波に飲まれ消えてしまう。

新たな道を作ることなどもはや雲の上の誰かさんを楽しませるだけの行為だとしたならば、諦めてしまうのが普通であろう。が、父はやはり普通ではなかった。やろうと思っても実際には出来ない未来改変をやり遂げたのである。そうでなければアンが存在しないからだ。父の中にあった未来にはアンは存在しなかった。

 

 父は成功させたのだ。

 世界という名の遊技場で自らの名を道標に、歴史の本文(ポーネグリフ)と同じく色褪せずに後世に残るよう、己が全うしなかったことによって生まれてくるアンだけの為に様々な場所に仕掛けを置いて逝った。

 

 本当にやりたいように動き、成し、思うがまま死んだのだ。あの人は。

 「……くそ親父め」

 

 泣いてなんかやるものか。眼球に溜まった涙を奥歯を噛んで耐える。

 こっちへ来い。さあ早く。お前の選択を見せてみろ。

 ありえないはずの未来へ進んだ今をもし覗いているならば膝を叩いて悦んでいるに違いない。

 

 エースは父の背を見ている。称号に関してはどうでもいいと思っているが、ラフテルには行ってみたいと言っていた。

 弟は世界を手に入れる為に海賊王になるという。ルフィは大魔王になるつもりでいるらしい。光あるところには闇も生まれる。アンとエースが表裏一体であるように、ルフィにも対となる人物が存在している。しかもその境遇はとても似ていた。とても、なんていう言葉では言い表せないほど、そっくりな。

 

 夢の先はとてつもなく面白かった。なんだかんだとしているうちに世界を手に入れた先がこれまた傑作なのだ。共には行けないが、そばで見続けることはできる。弟の未来だけは複雑に入り組み読もうと思ってもこんがらがりすぎていて良くわからない。未来が不確かだから弟と居るのがとても楽しいのだろう。

 可愛い子には旅をさせろというものの、もしアンが海兵になるという選択をしなかった場合どうするつもりだったのか。

 全くくそ親父にも程がある。

 

 「うん、確かにそうだ。わたしにはひとつだけ欲しいものがある」

 

 きっとそれもあの邂逅の際、父に知られてしまっているのだろう。ああ怖い。一体どんな形でなにを用意されているのか見当も付かなかった。

 ふと桃色のなにかが視線の中に舞い込んできた。追えばさくらの花びらである。風に吹かれ、舞い、青の空に上がった。

 朝日が照らすマリンフォードの島影が朝もやの中から姿を現す。最期の一年を過ごす場所が決まる運命の選択がやってくるのだ。

 再び巻き起こるであろう阿鼻叫喚地獄絵図を想像しアンは苦笑した。



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44-目覚めの朝に

 朝の冷たい空気に目が覚めた。芋虫のように布団を引きずりながら襖(ふすま)を開け、廊下の向こう側に広がる庭をガラス越しに見る。視線だけを上げれば空はまだ暗い。東の空は白み始めているものの、空を全て青に染めきるまでには時間がかかるだろう。目を擦りながらあくびをひとつ。もう少し眠れるかと再び芋虫状態を保持しながら温かな布団へと戻る。襖を開けたままにしている事に気付くが、閉めにいくのが面倒だった。そのままでも良いだろう。夜気が緩んでそのうちに暖かい日差しが入ってくる。そうすればこの布団から抜け出て茶でも飲みに台所へ行けばよいのだ。

 折角の陸なのである。しかも久し振りの半休だ。ゆっくりとしたい事をするに限る。

 ふと昨晩を思い出しても、男達は妻や恋人の下へと飛んでゆき、独身たちは酒場へとなだれ込んでいた。女性士官たちも軍服を脱ぎ紅をさしてそれぞれの場所へと向かったのだろう。本部であれこれと差し出されてくる用件に右往左往しているうちに昼を回り夜となった。クザンに飯でもと誘われたが、夢見の悪さもあって遠慮したのだ。

 家にははやり誰も居らず、軽く果物だけを口にしそしてさっさと床に就いた。動かない床は最高だった。ここには父の影が無い。だから思う存分、寝た。

 

 目を閉じ数十秒、浮かんできた羊に小さくため息をつく。久々に揺れない安定した陸地での睡眠である。体が既に休息を取り終えてしまったらしい。

 クザンの温かさも感じられない布団の中に居続けるのが心地悪くて、再度ため息が出る。慣れ、とは本当に恐ろしい。

 布団をめくり伸びをした。体をひねり寝ている間に固まっている筋肉をほぐす。ぽきり、と関節が鳴った。

 スイッチを押し点いた光へ、手を伸ばし手が届く位置にあった懐中時計を取り確認する。鼓動のように秒針を動かし続けている時計は4と2を指していた。日の出までまだ軽く一時間以上ある。

 

 二度寝の習慣は残念ながら、ない。ごろごろするのは好きだが、そばに誰かが居て初めて楽しくなろう贅沢だ。目的無く時間を過ごすのは無駄だと起き上がる。眠くなれば昼寝でもすればいいのである。青雉の艦隊も久々のまとまった休みに歓喜の声を上げている。残念ながら将校には半休しか与えられていない。陸にいる間にさっさと事務仕事を片付けろ、という配慮なのだろう。全く必要の無い思いやりである。海兵といえど陸に上がればはめも外れた。アンが思い浮かべる顔の中に問題など起すような者などいないが、もし起きたとしてもすぱっと解決すればいいだけの話だ。

 

 布団を畳み寝間着を脱ぐ。義祖父の家に居るときは筒袖の浴衣を着て眠っていた。浴衣といえば夏祭りなどで着てゆく浴衣を想像するだろうが、旅館などで容易されている寝間着と一緒だ。厚手の木綿で作られており、非情に丈夫で肌触りもいい。

 

 箪笥を開け柔らかな生地で作られた十分丈のスパッツをひとつ。ついでカーキのハーフパンツと白のシャツ、ボーダーカットソーを手早く取り出せばささっと着替えてしまう。春島であるマリンフォードの朝晩は冷えるのだ。

 今日という日の予定をを脳内で組み立てる。

 掃除はしなくても良い。帰宅時、テーブルの上にメモを見つけたからだ。達筆な文字で書かれていた。昨日、義祖父の艦に所属する若手が畳の部屋を隅々まで掃き清めてくれたという。艶が出ている廊下などは雑巾競争によって磨かれた成果である。

 足腰を鍛えるためとはいえ、無体な命令を義祖父はしたものだ。雑巾を片手に屈伸したり伸ばしたりしながら負荷をかけ続けた体はかなり疲れているだろう。

 

 今年は外に食べに出かけたようだ。

 去年は酷かった。家の中は綺麗に片付いたが、その後の食卓の凄まじい事。

 孫娘の手料理で気力も十分養えただろうから気にしなくとも良い、とはガープ中将の言であるが、作り終わった後のアンが疲労困憊になったほどである。

 (……あれは凄まじい量だった)

 

 炊いた白米の量は思い出したくも無い。買出ししてきた野菜や肉、近海で捕って来た魚もきれいさっぱい無くなった。

 はじめ新人たちは中将の家に招かれた事を喜んでいた。2年目以降の、海兵たちの生温かい見送りなど気付かなかったに違いない。そして今年もそうであったのだろう、と想像がつく。

 

 ガープ中将の居宅は10人ほどの家族が住めるような広さである。

 襖(ふすま)と障子を開けば基本全部が続き部屋となるのだが、12畳の畳部屋が三つ続くあの空間を掃除するのが最も苦労しただろう。

 

 軽くは拭き掃除していた。しかしアンも航海に出る身だ。限られた日数で埃の全てを取り除くのは至難の業である。

 中将職に就くガープであるならば余計だろう。なので義祖父はたまに部下を使う。旨い飯と金一封という餌に飛びついてきた、哀れな生贄たちをこき使うのだ。

 

 義祖父が起きてくるのは5時前後である。寝坊したとしても半を越すことはない。年を取れば朝が早くなると言われているが、そのまま実話であった。まどろめるのは若者の特権であるというが、残念ながらアンには当てはまらなかったようである。本一冊あれば布団の中でいつまででも篭もっていられるが、目を閉じてうとうとと眠ることが出来ないのだ。

 

 足音を立てぬまま台所へ向かう。月明かりも無く真っ暗な廊下だが、確たる足取りで到着した。

 残る気配に首をかしげる。起してくれたらよかったのに。そうアンは振り返るがよほど熟睡していたのだろう。全く気付かなかった。義祖父の家、というだけで深く眠れるのだ。ありがたかった。

 昨夜もなにやら遅くまで元帥と揉めていた……もとい、相談事を密にしていたようである。肉体言語で語り合っていないだけ穏便に事を進めているのだと思いたかった。義祖父と元帥がガチでやり合ったらどうなるか。若かりし頃の血気盛んなやりとりをおつるから聞いている身としては、そろそろ両者とも年齢的にも本格的に落ち着いて欲しいと願ってしまう。

 

 元帥と義祖父が三つ首の金色怪獣と放射能を糧に巨大化した巨獣に思えてきて、思わず胃に手を当てる。

 (……癒しが欲しい。ルフィを抱きしめて力の限りあのほっぺたを伸ばしたいっ)

 

 限界が近いのだとアンは小さくため息を床に放置する。いくつ床に転がっていても誰も転びはすまい。

 台所の電気をつけ、そしてやかんに水を入れ火に掛けた。珈琲を立てる用意をしながら、義祖父が所望するであろう緑茶の用意も平行してしておく。良い茶葉が手に入ったのだとコングに貰った、上品な缶に入った品である。

 冷蔵庫を開けば昨日買っておいた牛乳の瓶が目に留まる。そのほかは…キャベツときゅうり、にんじんに…見事に野菜しか残っていなかった。

 

 買出しに行くしかあるまい。

 という結論に達し、アンは太陽が昇っていそうな地域を思い浮かべる。脳内に広げた地図は世界だ。

 肉より魚が食べたい。塩焼きかてりやきか。酢の物と根菜の煮物。おひたしも外せないだろう。とろろいもといくらを合えた副菜も入れるか。ああ、あとはやっぱり柑橘系や辛味のある調味料とともに塩漬けにした塩辛、酒盗とともに米酒を少々たしなんでもいい。

 考えただけで口元がゆるんでくる。朝から酒とはなんという贅沢であろう。

 悪い大人に勧められるまま喉を潤してから、未成年であるが覚えてしまった酒をたまに口にしていた。多少ならいいかと、義祖父も舐めるくらいは目をつぶってくれている。階級が上に上がればあがるほど胃に穴を開けやすくなる職業だ。アンに対するおめこぼしはかなりある。

 

 一応確認のため風呂場を覗いてみると案の定、湯船が空だった。朝風呂は心臓に悪いという。だがしかし、海軍将校たるもの、身支度が出来る場所に在れば身奇麗にしなければならない。戦場にあるなら仕方がないだろう。どんなに水をかぶっても、鉄錆びの匂いが取れないのだから。しかし通常任務時に薄汚れていては部下がたわいものとして下に見られかねない。上司の身だけではないのだ。後ろからついて来る多くに迷惑をかける。

 

 切らずに伸ばしたままの髪を揺らせながら縁側の木戸を開け、家の中に招き入れた。

 星の瞬きがまだ見える空には雲ひとつない。今日も一日、天気になりそうだ。洗濯物の籠の中身はいつもよりも多かったが、春の陽気が続くこのマリンフォードでは生乾きの心配はない。

 シーツも洗ってしまおうか。

 

 軍務については横に置いておき、先に家事全般の段取りをくむ。

 実際のところ青雉艦での引継ぎがまったく終わっていない。アンが抜けることを見込み3か月ほど前から、多少、刀に対するものごとにいたく執着しているものの、その能力は高くエリキの補佐を任せるに適している、と踏んだ人物を育ててはいるのだが。なにやらケムリンと相性が良かったらしく、そちらの部隊に持っていかれそうな勢いであった。

 

(たしぎの希望はかなえてあげたいけれど。こっちも切羽詰ってるからなぁ)

 

 湯船を沸かしつつ洗面所で歯を磨きながらアンはひとりごちる。海軍は万年、人材不足に悩まされている。ゆえに有能な人物はどこの隊も引き手数多だ。

 脳内に取捨選択が並ぶ。ちらりと姿を見せたピンク色に思わず舌打ちを打つ。

 午後からは運命の玉引きである。

 

 意識の向こう側の動きを察知し、半身の名をそっと呼んでみる。すれば明確な意思が帰ってきた。

 町に行くのだという。

 (アンは、休みか)

 (うん、半休。午後からは本部に行くよ)

 

 うんざりとした言葉尻から、ああ毎年恒例のあれか、とエースは推測する。

 去年、ガープによって引き止められ2年という短い時をうわのせし、今度こそ海兵生活を最期にすると言い切った件だ。

 そうやすやすと辞めさせてもらえるのか。エースはすでに危惧していた。内部にまでどっぷり引っ張り込まれている状態でどうやって抜け出てくるのかと。

 

 (なら一緒にめし食うか)

 (う、あ、……魅力的なお誘い、だね)

 

 なにを照れているのか分からないエースが首をかしげる。

 

 (あのね、エース。町に行く用事、伸ばしたり出来る?)

 (ん。別に誰かと待ち合わせとかはしてねェから、いけるっちゃあ、いけるな)

 

 では久し振りにわたしが作った朝食などはいかがですか。とアンがエースにお伺いをたてた。

 

 (食うにきまってる)

 

 即答だった。決まればそこから話はとんとん拍子に転がってゆく。

 ダダン宅では朝は決まって米の飯だけが出る。おかずは各自で用意しなければならない。ただこのところの稼ぎが悪く、薄い粥しか出てこない日もあるのだとか。ゆえにアンが作る朝食は、パンを主食に希望した。

 もちろんアンに異存はない。買い物のリストに一品加えるだけだ。

 

 (あ、エース。ごはんはこっちで食べてくれる? おじいちゃんも居るの。だから買い物行ってその帰りに迎えに行って、戻ってきて、そのあとに送るから)

 (体は大丈夫か)

 (平気。ちょっとした裏技使うし。その代わりエースが疲れちゃうかも)

 

 意識の向こう側でくすくすと半身が笑う。

 エースとしてはアンが無事であれば、別段どうでもいい。大切なのはアンであり、守るべきは弟だけだ。

 あくびを噛み殺すことなく放ち真横に建つ小屋の中を見れば、藁で作った寝床の上に居るはずのルフィがいない。周囲を見回しアンに補助を頼んで見聞色を使った。エースはアンに比べこの色が得意ではない。使えはするが及第点ぎりぎりである。

 夜中に厠へ行ったらしい弟が朝露にまみれながら草むらで眠っているのを回収し、文字通りたたき起こして身支度をさせたあと、飯の足しにと森へと入り手近な獲物を絞める。血抜きも手馴れたもので、動脈を切りあとは吊るしておくだけだ。

 

 ルフィはアンの手作りを食べられると聞き、まだかまだかと待ちわびている。

 去年、姉が戻ってこぬと聞いた弟は憤慨した。今すぐに迎えに行くと海に飛び込み沈んだ。

 悪魔の実を食べ、海に嫌われた体になっているのだとすっかり忘れていたらしい。馬鹿である。休みの合間にアンが戻ってくればひっつきむしのようにくっついたまま離れなくなった。

 

 大きな紙袋を腕に抱え現れた姉にルフィは飛びつくと、いつものようにその胸へ頭をこすり付ける。

 「どうしたの、ルフィ」

 頭を撫でられ満足するまで離れない。

 いつの間にか太陽が昇り光が赤く伸びている。

 

 「お待たせ、エース、ルフィ」

 

 アンは海兵の衣を纏ってはいなかった。私服だ。珍しい、とエースは思う。

 「ほら、ルフィ。ドーナッツだよ、離れないと食べられないよ」

 

 弟の生態を良く知る姉である。荷物の中から取り出したものをにこりと微笑んで提示する。すきっ腹のルフィにチョコレートがたっぷり塗りかけられたそれを見せればどうなるか。

 物質を瞬間的に移動させるのはすでにアンの十八番(おはこ)となっている。ちいさいものであり短距離ならば何百回と繰り返すことが出来るという。アンの手の中にあったものはエースの元へと渡っていた。

 あ。といまさら悔やんでも後の祭りだ。ルフィはアンからであれば奪い取ることが出来るが、エースからとなると難易度がぐんと上がる。

 

 「そろそろ解いてやれ、な」

 

 紙袋の中からひとつとりだしぱくりと噛み付く。非難の「あー!」が上がった。

 考えなしにそのときの感情で動くルフィはアンを逃がさぬよう、自分でもほどけないようにゴムの体をぐるぐると巻きつける。密着していればどこへ跳んだとしても一緒である。

 

 「ふぁんがえ無しに、まきふくからだろうが」

 「エース、おれにもひとつくれ!」

 「口に咥えない。食べながら話すのは、行儀悪いよ」

 

 三人三様に話しても会話がつながるからおかしなものだ。

 ドーナッツを食べながら、弟の口にもときどき放り込んでやりながら、アンの体に巻きついたゴムを引き剥がしてゆく。エースが咥えた輪の一部を分けてもらいながら、アンも慣れた様子で待つことしばし。

 アンが抱えていた紙袋を手分けして持ち、血抜きの終えた獣に触れて共にマリンフォードの義祖父の家へと移動する。

 

 「これどこに置いておくんだ?」

 「とりあえず庭に。解体しなきゃ」

 

 足をざっと、庭に備え付けられている手押しの井戸ポンプから流れる水で洗いエースとルフィが縁側から中へと入ってゆく。

 この家にふたりが来るのは初めてではない。両手には足りないが、片手をめいいっぱい使う程には来ている。

 ダダンの家とは違い調理器具が揃っているため、調理もしやすいのだ。薪を集め火を起し焼いたりいためたりする時間を短縮できる。また義祖父の家にはオーブンがあり、焼き菓子を作るのも簡単だった。

 手際よく買ってきたものを冷蔵庫になおし、使うものを台所に並べつぎつぎと形を変えてゆく。

 

 「おじいちゃんおはよう」

 「じーちゃんだ! おはようございますっ!」

 「……、おはよう」

 

 義祖父の顔が驚愕に彩られていた。湯から上がったばかりなのか、軍服ではなく着物に袖を通していた。

 なぜかと言えば孫が三人、ここ、マリンフォードの家に存在していたからだ。夢でもみているのかといわんばかりに目を擦る。自身の頬をつねり、幻でないのを孫達に触れて確かめた。

 

 料理はちゃくちゃくと作られ、テーブルの上に並べられてゆく。ことことと土鍋で炊いている白米の良いにおいがただよい始めていた。

 

 「エース、ルフィ。お風呂入っておいで」

 

 切った丸パンの端にジャムを塗り、それぞれの口に放り込みながらアンが指示を出す。もう一切れとお代わりを所望した弟の口にバナナを剥いて投げた。

 

 「……アン、どういうつもりじゃ」

 

 ふたりが大人しく風呂へと向かった後にガープが鋭く孫娘を見る。

 

 「誰も来ないよ」

 「わしが言いたいのは、そういうことじゃない」

 

 アンの顔からは笑顔が消えてはいない。

 義祖父がなにを憂えているのか、想像がつかないわけではない。

 

 「ふたりがこの家から出ることもないよ」

 

 ガープは知っている。孫ふたりが海賊にならんとしている事実を。そして目の前に立つ海兵のひとりもその職を辞し青の海に出ると意志を明確に示している。

 孫娘がなんの脈絡もなく、ふたりをこの町に連れてくるなどありはしない。そうガープは考える。年齢に見合わない早熟した考え方を持つ人物だ。なにか、はあるだろう。ないはずがない。

 

 「随分とわたしを買ってくれてるみたいだけど、おじいちゃん。本当になにもないよ。ただご飯を一緒に食べよう、ってなっただけ。本部に行く前にちゃんと送り届けるもの」

 

 伸びた黒がさらりと視界を流れる。

 ガープはゆっくりと息を吐き、椅子に座った。ことり、と目の前に置かれたのは緑茶だ。良く蒸されており、香りがたっている。

 孫娘は義祖父に背を向け、朝食の準備を再びし始める。ガープ独りで暮らしていた頃は、明かりもつかぬ寂しい家だった。人の気配が全くしない、家であってそうではない場所。長い航海に出、暮らす職場でもある軍艦のほうがよっぽど生活の匂いがしている。

 だが孫娘がやってきて変わった。

 たまに帰ってきているのだろう。淀まぬ、入れ替えられた空気が静かに家の中にあるのだ。

 洗われたてかけられた食器や、口が寂しいときにつまむ果物、隠し戸の中にはセンゴクすら手に入れるのが難しい米酒がこっそり鎮座もしている。コングさんに貰ったの。と随分と先代に孫娘は可愛がられているようであった。

 

 アンが両手を差し伸ばせば、いくつもの手がその掌を掴むだろう。

 世界中に散る、義祖父も知らぬ人と人のつながりを持っているとガープはCPからの報告で聞いていた。追いかけようとしても煙に巻かれるという。どういう手段を使ったのか、情報収集を主としているCP5の諜報員たちを震え上がらせており、もしアンに関する秘密を少しでも外に漏らしたならば制裁を加えるとしていた。その横にはドレスローザの国王でありかつ王下七武海のドフラミンゴが立っていたとの報がある。これは事実だとガープは断じていた。

 

 長年、海軍に身をおいていると人脈が伸び様々と繋がるが、孫娘はかなりきわどいところまで至っている。

 それを分かっているのか。それとも気付かぬふりをしているのか。ガープには判断がつきかねていた。

 味噌の匂いに瞼を開く。

 

 朝にしては豪華な食事が広げられていた。

 孫娘は別として、無限に近いだろう胃袋を持つルフィの食べっぷりを知る祖父としては、これくらいが妥当かと思いもする。

 入り口に届いていた新聞を指を鳴らして義祖父の目の前に出し、減っていた茶を継ぎ足す。

 良く出来た娘だ。どこに嫁にやっても恥ずかしくはない。

 

 そう考えているうちに、孫達が風呂から上がってきた。着替えを探しにアンの部屋に真っ裸でかけてゆく。腰にタオルを巻いたまま追いかけるのがエースだ。

 

 和食と洋食の皿が混然と並ぶ。

 Tシャツにラフなズボンといういでたちで孫達が戻ってきた。頭にはタオルをかけたままだ。

 つまみ食いを企むルフィにアンが小鉢を渡す。イカの煮物だった。良く噛んで食べるように言い、頭を撫でる。

 姉の言う事をよく聞く弟は、言われたままにもごもごと弾力あるそれを噛み続ける。噛めばかむほど味が出てくると知っていたからだ。さと芋もやわらかく、たれをまぶせば何個でもいけそうだと笑う。

 

 これは夢見ていた食卓だ。

 孫達がみな海兵になりこの家に集う。現実にはならない夢だ。

 

 「アン、おれ肉食いてェ」

 「まだ解体してないの。お昼でもいい?」

 

 頭の中で時間配分していた予定の間に、兄弟が確保してくれた獣肉の解体を無理矢理ねじ込む。一緒に昼食を食べる事は出来ないだろうが、部隊が決定した後ほんの少し抜け出て送り届けようと思う。

 獣は若い雄鹿だ。皮を剥いで各部位ごとに切り分けるには、どう見積もっても1時間はかかるだろう。持ち運びはエースに頼むとしても、だ。

 時間があるならこの広い、義祖父の家の庭でルフィに六式の稽古をつけようと思っていた。

 元々から肉弾戦の、義祖父の血を引いてるからして肉体的な素養が高い弟だ。柔軟性もある。超人(パラミシア)系という独創的な変化に富む、一見すればはずれをであるかのような能力だが、ルフィにとっては大当たりであったのだろう。機知ある能とあいまって面白いほどよく弟になじんでいる。

 しかもゴムの体は六式を体得するに有利であった。真っ当な方法では不利である。ふつうの人間とゴムとでは力の入れ具合が全く違うからだ。アンやエースは人間の骨格そのままであるが、ルフィは似非である。可動域を超えて骨格が伸び動く。

 

 剃と紙絵は早かった。嵐脚もまあまあ様になってきている。

 弟に追い越されるのも時間の問題だろう、とアンは思いながら食卓についたルフィをちらりと見やる。豊富な実戦経験のおかげで、まだ、なんとか勝率は6割を超えているものの、体格差がこれ以上広がるとどんどんと下がっていくだろう。予感ではなく確実だ。

 2斤買ってきた食パンをぺろりと食べ終えた兄弟たちは義祖父用に炊いた白米に手を伸ばし始めていた。

 アンも軽くお味噌汁でご飯を流し込み席を立つ。義祖父と兄弟たちの会話を聞きながら廊下に出、血で汚れても構わない着物に着替える。血抜きをしてくれているとはいえ、体内には大量に残っているものなのだ。

 

 包丁を手に持ち、解体作業に入った。

 覇気はこういう時も有効だ。武装色を極めると肉体を黒く染めるまで至るが、アンにはとてもじゃないがそこまで出来ない。見せてもらったこともあるが、見聞色に大きく振ったアンでは手に持つ武器の強化がやっとである。エースならばそのうちできるんじゃないか、とはシャンクスの言だ。

 手早く皮を剥ぎ取り、肉を切り分けてゆく。太い骨もさくさく切れるのがいい。硬直が始まっていても関係なかった。

 寄生虫が住処とする内臓系はごっそりまとめて分解しながら水でよく洗い、銀のたらいの上にわけてゆく。すっかり体が真っ赤に染まっていた。血の臭いに疎くなっているアンはたいして気にしていなかったが、義祖父が眉をひそめるのを敏感に感じ取る。

 

 わかっている。なぜ階級が上がるたびに衣服に白が増えていくのか、それなのにいつも真っ赤に染めてしまうアンを心底案じていることなど。

 

 食べ終えて満腹になった弟は縁側でひっくり返っているが、エースの手助けが入り着実に全てが切り進まれる。

 

 「おじいちゃん、これおすそ分けしたほうがいいよね」

 「……冷凍庫には、入らんのう」

 

 アンはただこくりと頷く。

 ドーン島に広く生息分布する角鹿は骨まで、全てあますところなく食べることが出来る。骨は煮込めば薫り高い白濁したスープになるし、虫さえ排除すればどの箇所も美味だ。焼いても良いし煮てもいい。

 

 「ダダンおばさんに、これ持っていこうか。漬けにしたら日持ちするし」

 

 厚手のビニール袋に調味料とモツ系を入れる。ご近所さんに配るのは扱いやすい肉の部分だ。

 血みどろの体を水で洗い流し、風呂へと向かう。隅々まで洗ってすっきりすれば、台所に山済みされている食器類を片してゆく。回り終わっていた洗濯機の中身を取り出して庭に戻ると骨ひとつ残らず片付けられていた。

 ささっと洗濯物を干し終わる。

 弟の口があらぬ形に変わっていたのを見ぬふりをして、向かうは台所だ。昼に兄弟が食べやすいように取り分けていた肉をオーブンへ塊ごと入れる。そのまわりに野菜を配するのを忘れてはいけない。

 

 懐中時計を開くと10時を回っていた。

 土鍋で白米を炊き、蒸し終わればしばしのくつろぎの時間となる。

 

 すでに兄弟たちが庭で組み手をしていた。柔軟体操を軽くしてからアンもその中に混ざる。

 義祖父がスーツに着替え、手酌で緑茶を飲んでいた。

 

 正式な訓練を受けていないにもかかわらず、エースが形どるのは自己流も入っているが海兵の型だ。双子であるエースとアンは、大人にはわからぬ不思議なつながりを持っている。まるでコインの裏と表のようだった。そしてじゃれつくようにして兄姉に飛び掛っている孫は、まるで猿である。本能のおもむくままにあちこちに手を伸ばしていた。しかしその動きが妙に、堂に入っていた。

 

 「ルフィ、動きの先を読みすぎてる」

 

 笑みながらアンが相手の先の先を予想しすぎている弟の手首を掴み引いて転がした。動きの先々を読めたとしても、相手がそのとおりに動くとは限らないからだ。ひとつひとつ先の、区切られた行動にどう対処するのか。最も難しいながら、瞬時に判断する能力が必要となる。と、説明するその背後からエースが膝をかくんと曲げれば、重力に従いアンも前のめりに地面へうつ伏せる。下が芝生のため痛みはさほどではないが、予想していなかった不意打ちにきょとんとした顔をしていた。

 

 「…おれの勝ちっ」

 「っ、あー、それはずるい、それはずるいよエース!」

 「そうだそうだ!」

 

 待てぇ、と姉弟が兄へと拳を振り上げた。いつの間にか追いかけっこに転じた組み手である。

 島に戻った際、何度か相手をしてやったことのあるガープであるが、思わず髭に手を伸ばし厳しく目を細めるほど、兄弟の実力が上がっていた。ひとりでここまで這い上がったならば天賦の才である。東の海で奮闘している海兵など取るに足らない相手であろう。偉大なる航路(グランドライン)の前半もそうだ。新世界に入ったばかりの新人であればなにかと戸惑う多くにあたるだろうが、アンが共にあるのならばすいすいと切り抜けていくに違いない。

 

 かなり、由々しき事態である。

 望めるのならば孫達が全員、海軍に入りガープの手元にあり続けることだ。生まれよりも育ちである。

 孫娘が海兵になり、歩いてきたみち筋に残してきた実績はあまりにも大きい。親の七光りを振りかざす者もなかにはいるが、ガープの孫というレッテルも上手く利用し渡り歩いている。その様は子供ではない。子供だからこそかと思いなおす。

 

 惜しい。

 

 もてる力を裏ではなく表側で発揮してくれたなら、どれだけ幸福なのだろうと家族として思う。

 残り一年、だいたいの未来予想は結ばれている。

 従順なようでいて、曲げぬ一本を持つ孫娘だ。あの日に聞いた宣言は折らぬだろう。

 ふたりは両親に良く似ている。エースの面影は母だろう。ふと真剣な目をし、青を仰ぐアンは父似だ。

 そして兄と姉にじゃれつく、ガープの血を引く孫は。

 

 考えても所詮ない。駄目だと諭しても、むろん手を上げたとしても、孫たちはめいめい自分達の好き勝手に動き回るだろう。

 

 (知らぬ間に海賊となって、手配書を刷られるよりかはましかの)

 

 ガープは残っていた茶を飲み干し、縁側から立ち上がる。

 同時にアンもそろそろ着替えないと、と兄弟たちから離れたところだった。

 

 台所で昼食の最終仕上げとして、冷めても美味しいものを鍋に蓋をし、置いておく。その後すぐに着替えをはじめ、コートを手に廊下をとてとてと玄関に小走った。持ち帰った書類はない…たぶん、なかったはずだ。

 汗を流しに風呂場へ向かったふたりへ着替えを用意し、おすそ分け用の袋を布袋へと詰めた。

 

 「アン!」

 

 風呂場の方角から聞こえてくる、明らかに叱責じみた声音を無視する。

 忙しいのである。

 

 「それしかないの! それ着てて!」

 

 ぶつくさとエースが何かを言っているが、聞こえない振りをした。弟の方は別にいいじゃん、と袖を通しているようである。

 先日。

 ドーン島へまとめて衣類を持っていったばかりだ。破れた箇所をマキノが修復してくれるものの、このふたりの行く先々は道なき道の先である。繊維が磨耗するのも早い。

 

 この家に残っていたシャツは、東の海で行なわれた『海兵祭り』で売られていたプリントTシャツである。左官となれば仕立てたスーツに軍からの支給品であるコートの着用が義務となるが、一等兵までの間は制服と制帽が軍服となる。Tシャツはその制服、セーラをプリントしたものであった。子供たちが喜ぶように、背中には一枚、ぺらりとした布がついている。

 売れ行きは好調だった。

 勧められたわけではないが、アンも2枚購入した。ちょっとした悪戯心が動いたのだ。しかし出す機会もなく箪笥の中に仕舞われたままのものだった。

 

 義祖父がぎょっと目を剥き、おずおずと孫に向かって手を伸ばしていた。

 「なんだよじいちゃん、気持ち悪ィな」

 

 逃げ切れなかった弟がすりすりと、痛みの方が強い白ひげをこすり付けられているのを、兄と姉は残念なものを見る目で生暖かく見守っていた。

 

 真顔で孫に罵られてもなんのそのである。

 義祖父を弟から引き剥がし、兄弟たちにはご飯を食べた後のことを伝える。ふたりはいつものことだと頷いてくれた。

 アンはガープ中将を引きずりながら玄関へと向かう。

 

 「中将、参りますよ」

 「…よかろう」

 

 部下としての口調を整えた将校に不敵にひげ面を歪ませ笑った。

 

 



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45-ラストチャンス

 「そろそろ下ろして頂けると、嬉しいなーなんて思うんですが」

 何度めかの懇願を無視する青雉の背にアンは溜息を落とした。何度目のそれだろうか、と心の内でため息をつく。大将に担がれるなど目立って仕方が無いのだ。

 こうなったのは数分前の事である。義祖父と共にやってきた本部でエリキと落ち合い今後を打ち合わせた結果、どうしても今、出しておいたほうがよい幾つかの書類と事前に準備していたものの中に不備を見つけてしまったのだ。二度手間になるだろうこれを見ぬ振りして提出はできない。艦へと走り共にまとめた報告書を手に、おつるの元へ空駆けてやってきたアンを上司である青雉が確保、有無を言わせず肩に担ぎ歩きはじめた。

 直前の状況は以上であるが現在、アンは俵担ぎ状態にある。

 

 じたばたしてもこの体格差だ。持たれかたといい、体をひねってどうにかしようとしても頑として動かないこの盛り上がった筋肉が柔らかくなろうはずもない。拿捕されたのだと理解するまで長い時間は必要なかった。

 用件はわかっている。会議に連れてゆくのだろう。クザンは書類仕事を厭う傾向が強い。

 しかも若干体温が高い気もした。これは寝る気まんまんだと予想がつく。

 

 アンが考えるに、ある意味クザンは適材を適所に使うのが上手い上司である。

 それぞれが興味を持つ分野と技能を伸ばし、不得手とするなにかには誰かしらの合の手を入れた。そうして支え合わせるのである。上司の命令が下らなくともある程度、自分達の裁量で動けるように仕組むのだ。ゆえに彼の部下たちは着々と力をつけ、青雉の元を巣立ちひとりの将として立ち行く。

 

 アンはため息をぐっと飲み込んだ。ここで不毛な言い争いをするなど愚の骨頂だ。金銭の裕福は個人差が出る最たるものだが、時間だけは貴賎の差など関係なく誰にも二十四時間与えられている。それを無駄に消費するのは勿体なかった。

 上司に奪われていた書類を返してもらい、バランスの悪い肩の上でぺらぺらとめくる。腹筋がかなり引きつるが、こればかりは鍛錬と耐えるしかない。そして口頭ではあるが採決の言質をとり、代筆のサインを紙へと書き込んでいった。この一年で器用になったとアンはほとほど思う。不安定な自転車の後部に乗りながら書類を捌くなど、世界広しといえどアンしかしないだろう。

 

 (機嫌が悪い…なにかあったのかな。いや、違うな)

 

 アンは昨日を思い出す。クザンの趣味は自転車での一人旅と睡眠である。

 

 「そんなにひとり寝が嫌だったんですか」

 もしかして一晩中寝つけずご機嫌が斜めっているのではないか、と首を傾げ。そう思い言葉すれば、ぴたりと歩みが止まった。どうやら図星であったらしい。

 「クザン…」

 

 不貞腐れもここまでくると、嫌がらせにしかならない。膝の上にアンを置き、自分はそのまま会議をすっぽかし睡眠しつつ最後の最後まで書類仕事を投げやる魂胆であるのは間違いないと確信した。

 基本的に青雉は本部の決定に異議を申し立てない。大筋として方針を受け入れ、そこから独自に多方面からの視野で解釈する。

 その考え方は嫌いでは無く、どちらかと言えば好意的に捉える事ができた。ただしいつまでも妹扱いするクザンに対しては文句が山ほど積み上がってはいるのだが。

 

 大きなため息が出た。

 アンは腰を捻って肩に両手を置いて身を起こした。そのまま体を後ろに倒せば彼の腕の中にすっぽりと収まる。

 大切に想って貰えるのは嬉しいしありがたかったが、妹以上の関係にはなるつもりは全く、これっぽっちもない。彼が本来、その腕に抱きたいと願っているのはアンではないからである。

 それは他の大将も同じで、大切な上司、家族に似たなにか。友人、それよりも深く結び付くには、心のどこかで否定が入るのだ。

 「大のおとなが、拗ねないで。会えなくなるわけじゃないんだし」

 頬に手を伸ばし、アンは苦笑する。青雉艦で過ごした一年は非情に充実した、楽しい日々だった。

 黄猿、赤犬、おつる、そして青雉の元に渡り、それぞれが教授してくれた様々が形になった年である。

 今日からまた、新たな勤務先に移るだろうが海兵を辞めるわけではない。行方をくらませるのは来年だ。

 

 頬を揉んで強張った筋肉をほぐす。

 こんな事を青雉大将にできるのは、あとにも先にもアンだけだと周囲は目をそらしながら思う。

 

 「眠ければ寝てください。会議の内容のまとめはメモしておきます」

 

 床へと降り立ち凛々しく敬礼する将校の頭をぽんぽんと撫でるとゆっくり青雉が歩み始める。大将の中でも青が一番、融通が利かず気難しい、とは艦隊勤務に就いた事のある海兵であれば一度は耳にしたことのある話だ。艦隊の指揮はほぼ副長が仕切り、大将は別任務に当たっていることも多く、船を実質動かしているのは複数名の副長たちだ。昇格すればすぐに艦隊指揮がとれる人物達が多いのもこのためだといわれている。

 だがこの一年、青雉が自分の艦隊を離れている時間がほとんど無かったという。特殊な能力を持つ英雄の孫の働きも大きいとはいえ、艦隊の主が座しているのとそうでないのとでは士気が全く違うのだ。気持ちがぶれないのである。

 青雉の艦に所属している誰もが残留を望んでいた。今まで在したことのある艦隊の誰もが一度は思う最期の一線だ。

 しかしながら小さな英雄は同じ場所には舞い戻らず、転々と居場所を変えている。

 これが最期だろう。ここまでしっかり青雉大将の手綱を握り続ける珍しい副官の姿を見るのは、と光景を目撃した者達がその背を見送った。

 

 

 アンは数歩先を行くクザンの斜め後ろを歩く。

 歩きながらエースの様子を窺(うかが)えば、兄弟で仲良く昼食を食べ始めていた。量も味も程よいようで、ほっと胸を撫で下ろす。足りなければ食べて、と指し示した果物もある。大丈夫だろう。

 

 本部へ向かう道すがら、義祖父がぽつりとつぶやいた言葉を思い出す。

 見下ろしていた目にあったのは優しさだ。

 「……よく似てきたな、お前たちの父に」

 

 アンは驚きを露にした。もとから表情筋を固定するには向いていない性格である。できるだけ心理を顔に出さないよう訓練しているが、気を抜いているとがっつりと動いた。特に兄弟たちと一緒の時は2回目の生であることなど忘れてしまうくらい馬鹿騒ぎしてしまうこともある。

 

 「そっくりなのは、ルフィだよ」

 

 笑みを浮かべアンは邂逅時の父を思い浮かべる。義祖父は麦藁帽子の継承を知らない。言うつもりもなかった。

 だが義祖父は未来にて知るだろう。全ての事柄がひとつに集い、固められた今が押し流されるその時を目撃する。新たな歴史が開かれるその瞬間を見る証人となる。

 

 そしてそのまま無言となり本部へと至った。

 それぞれの向かう先に分かれ、そしてまた同じ部屋に合流する。ちらりと視線が合った。瞼を閉じ遮ったのは義祖父のほうだった。

 

 

 「ポートガス、無事でよかった」

 「本当に」

 「おいおい、おれが副官になにかするわけがないだろう」

 

 不機嫌さを盛大に押し出しながらエリキに文句を言うのはお門違いというものである。

 「青雉大将、そろそろお時間ですよ」

 

 懐中時計を閉じ、アンが上司を見上げる。

 「わたしはもう少しエリキ副長と打ち合わせの詰めをしますので、先に中へお入りください。必ず参りますから」

 

 青雉を体よく扉の向こう側に追いやる。そして廊下にて複数名の所属艦隊が違う副官と書類を交換し合い、今後の予定をすり合わせた。アンは少なくともこの会議が終わるまでは青雉艦隊の副長である。今年も新たな場所に移ることになるだろうが、エリキとふたりで示し合う。

 会議の席は大将や中将にとって本部の基本方針を直接耳で聞き、口頭質問が出来る場だ。それと同時に各艦隊にとっても、連携を確認し合う貴重な寄合になっている。

 会議室の対面には小会議室があり、副長達はその中や廊下で艦長を待った。アンは人の垣を越え黄猿の艦の副長を探す。

 「こっちですよ、ポートガス」

 エリキに呼ばれ、見当違いの方向に進んでいた歩みを返す。

 案内された輪の中にはドレークの姿もあった。黄猿艦内で副長の補佐に入っているのだ。随行もさもありなん。

 「じゃあ今度の副長会議で会えるかもしれないね。…何処に所属するかにもよるだろうけれど」

 

 4年近くも海軍に居れば馬の合う、合わない人物がどうしても出てくる。仕事の席ではおくびにも出さないが、その後の酒の席やお付き合いとなれば軽く出席だけしてすぐ出てくるのが常だ。

 自身を否定されても、別段気にはならなかった。年齢や業績、その他に関しても誰かの手を必ず借りて事成していたからだ。なにひとつとっても、自力ではじめから終わりまで、出来た試しがなかった。未熟であることはアン自身が一番良くわかっている。だから自身の悪口を言われたとしてもどうという事は無い。言いたいならば言わせておけばいいのだ。義祖父や、デイハルドの威をこんな場面で借るつもりもない。

 

 だが唯一、アンが許せないと思うものがある。

 それは自身(アン)の名を餌に同僚の名を貶められることだ。勿論、そういう時はアンも黙ってはいない。笑って見過ごしたり、沈黙したり、最もしてはならぬのは感情的に怒ることだ。相手の思うつぼにわざわざはまってやるのも癪である。だから相手が優位に見下げ優越感に浸る為に放った言葉を、ことごとくへし折ってきた。

 

 たかが15歳と思うなかれ、である。

 そういう事を何度かしでかしていると、誰もが面と向かって言っては来ぬようになる。裏ではなにやら愚痴っているようだが、人間誰しもストレスを抱え込むものだ。実害無き噂まで否定して報復を与えるまではしたくない。

 

 しかし。偶に公の席で咳払いは来る。

 仕事をしている時は出来るだけ私情をはさまず任務を優先させるのだが、今日のようにドレークや所属した事のある艦隊の顔見知りと会えば、どうしても会話が弾んでしまうのも致し方ない。

 

 「ごめんなさい」

 そういう時は相手の目を見て、ほほ笑んだ。笑顔に勝る謝罪は無い。女であるからこそ許される武器だ。

 

 「それじゃあ中でもう一仕事してきます」

 書類一式をエリキに渡し、踵を返す。純白のコートが風を孕むように揺れた。

 

 

 

 会議は滞る事無く進行してゆく。

 開始直前に入室した大佐に数名の中将が詰問を寄せたが、青雉と元帥の言を受け着席を許された。とはいえ椅子は用意されていない。3時間近く続く会議中立って過ごす事になるが、大将達にしごかれる1時間と比べれば容易いと黙って青雉の斜め後ろに陣取る。

 「膝においで」

 「謹んで遠慮させて頂きます」

 

 ぽんぽんと膝を叩いた上司に拒否の意を伝える。しかし伸びてきた手に軽々と体を持ち上げられ、結局のところ座らされてしまった。特別扱いをされたくはない。こういうことをクザンがするから、目くじらを立てられるのである。はっきりいって迷惑だった。

 横に座る赤犬の眉がピクリと動き、義祖父に至っては拳を握りしめている。黄猿は周囲の状況を楽しんでいるようだ。

 

 空気を読んで見なかった事、気付かなかった事にした。何らかの反応を起すほうが要らぬ火花を散らすだろう、との判断だ。

 アンはアイマスクをし浅い睡眠に入ったクザンをちらりと見、配られていた書類にざっと目を通してゆく。

 

 四皇の勢力均衡図には目立った変化は出ていないようだった。

 さすが統治の長い白ひげとビックマムの領海は安定している。小競り合いが確認されているのは、赤髪と百獣のカイドウだ。

 

 島の名前を見て思わずため息をひとつ追加する。数週間前にシャンクスの船に乗り連れて行って貰った地名が記されていたからだ。

 赤髪海賊団は新世界のあらゆる場所を自由に航行する。支配地を持たず、ただ海を往く。確たる支配地を持たない事で、赤髪海賊団は四皇の地位を得ている。

 否。あの船に乗るみんなは、そんな呼び名など必要としてはいない。海軍や世界政府、ジャーナリズムが勝手に彼らをそう呼んでいるだけに過ぎなかった。しかしながら海軍が四皇だと彼らをそう呼べば、周囲も右へと倣う。

 シャンクスはただ青の海を渡っているにすぎない。誰の領地であろうと気にせず波を切る。そして他の海賊達とは違い奪うつもりで上陸するわけではなく、ただ食糧の買い出しと休憩の為に立ち寄るだけだ。だから正確には四皇の地位を無理矢理押し付けられ、その呼び名に心底うんざりしている状態である。

 

 ちなみに訪れたかの島は秋の盛りであり、紅葉が丁度見ごろだと聞いたふたりは買い出し先行隊に同行した。

 そこで、だ。

 アンはエースと久々に大喧嘩してしまった。きっかけは些細な事だった、と思う。

 曖昧なのは終了後になぜ喧嘩してしまったのか反省会を開いた時、両者ともに綺麗さっぱり覚えていなかったからだ。同行していた数名曰く、二股に分かれた路のどちらかを行くか、だったらしい。

 

 普段はどちらかが折れ、そこまで酷い言い争いにはならない。

 だがその日はどちら共、腹の虫の居場所が悪かった。六式の使用こそ無かったものの、ふたりの喧嘩は多くの意識不明者を出したという。

 後ほど聞いた話だが、そこで一番の煽りを受けたのがその島の管理を任されているカイドウの一部隊だったのだ。

 止めに入ってくれたらしい。彼のお気に入りの島だから余り暴れないほうがいいと親切にも仲介に入ってくれたのだそうだ。

 

 シャンクス達は何度か兄弟げんかの現場を目撃しているため、余計な手出しはしなかった。

 途中で止めると燃え草が残るからだ。綺麗にぜんぶ燃やしつくせば後腐れも残らない。だからかの船に乗る者たちは始まる前ならまだしも、ゴングが鳴り響けば放置だ。高みの見物を決め込んで賭けに興じる。

 

 カイドウの部下は運悪く最も苛烈に言い合っている所へ割り込んでしまったのが運の尽きだったと全てを目撃していた船員達から聞いたのだが。

 その時の記憶を掘り起こしても、覚えていないアンが居た。エースに聞いてもそんなヤツ居たっけ、との返答だった。

 流れる各支部の報告を聞きながらアンは思考を続ける。ふたりののせいで赤髪とカイドウの間に火種を生んでしまったのは確かである。ベックマンも気にするなとは言ってくれたが、海兵の身としては申し訳ないやら、赤髪との関係を伝えねばならなくなる今回の一件を海軍に報告など出来きる訳も無く、悶々としてしまっていた。

 

 そんなに悪いと思うならおれんとこに来いよ。乗組員の粗相ならむしろ喜んで被ってやるぞ、と誘われたがいつものごとくお断りしたのは言うまでも無い。

 

 海兵だから、と言えるのは今年で最後だ。

 それよりも気になっていたのは義祖父の態度だった。去年まではあんなに自分の部隊に所属させたい強烈な胸の内を訴えかけていたというのに、今年は全く無いのである。

 

 新世界におかれている支部の報告はだいたいであるが把握している。CPに片足を突っ込んでいるアンの元には数ヶ月に一度まとまった資料が送られてくる。預かってくれているのはコングだ。デイハルドとの約束を果たしたあと彼の執務室に行き、茶を飲みながらさっと目をとおすのが最近の流れである。

 

 その中で唯一、アンが気にかけている支部があった。新世界に在するG-5だ。

 ここには傲岸不遜を仮面として纏いつつ、心の奥底で唯一心を許した存在がつけた小さな傷を隠し通し、時折感じる痛みを意識したくないがため、綿密で腹黒い底なし沼のような思考をし続けているくせに、世界をゲーム板に見立ててサイコロを放り投げている、ピンク色のいけ好かない男が片腕と称する存在が隠れている。

 名をウェルゴといい、海軍に入隊して早々に頭角を現し異例の速さで基地長まで昇りつめた男である。

 

 出来なければおかしい。

 というのがアンの率直な感想だ。なぜなら彼はドフラミンゴに相棒とまで呼ばれている存在である。ピンク色が自分を取り囲む周囲に望んでいるのは、連珠としての意識だ。五目並べと言う方が良いか。わかりにくければ、オセロ、でもいい。どのような状態に陥っても、個々として在りながらもひとつの塊として動く存在であることだ。その中核であるのはピンク色である。身内に求めるのは絶対的な信用だ。自分は簡単にするくせに、裏切りを最も嫌う。

 身内に迎える人物の能力は、はっきり言って二の次だ。優秀であれば良いが、知識や力を持っていなくとも教育を施し付けさせればいいと考えるからだ。

 

 本当にやっかいな相手に目を付けられた。

 

 アンはピンク色の勝ち誇ったあの横顔が脳裏にチラつくたび、心が激しく波立つ。

 ピンク色との関係は表沙汰に出来ぬものだ。義祖父やセンゴクに説明するに際し、デイハルドだけではなく天竜人の過去をも告げねばならなくなる。ピンク色がどうやって王下七武海のひとりとなれたのか。腹立たしいことにそれらをも言わねばならぬ。しかも発言すればアンはデイハルドの狗ではなくなり、天竜人を取りまとめる最高位当主の預かりとなることが通知されていた。以上、事情を知っているらしいゴングからもそれとなく釘を刺された内容はかなり深々と身を抉るものだ。

 

 まさしく雁字搦めとはこの状態を指すのだろう。

 ただアンがいらぬ言葉を漏らさぬ限り、その身は自由であり現状を変える必要などないと達せられているのだ。

 秘密とは隠し持つためにあるのだと暗に示されたようで、かなり胃にきたのは言うまでもない。

 

 しかも何を思ってか、アンを家族に迎えている。未だに覆っていないということは、そのままであるのだろう。

 宣言された当初、多くが驚く中、説明もなくただ意味ありげな笑みを張り付かせたままの王の真意を探ろうと各々が勝手に動き始めた。特に激しかったのがクラブの席に座る男だ。

 本人の意向を完全に無視し勝手に決められた加入に即座に否定を示したアンである。シャンクスからの誘いもことごとく断り続けているのだ。来年には双子の半身と共に海に出る。そう決めているのに、どんどんと多方面から予定外の道筋を突貫工事されているようでかなり気分が悪い。

 

 だがこの時のアンには重大な任務が課せられていた。おつるから託された書類にサインを貰うまでは本部へ戻るに戻れない。結局長居する破目になった。

 そしてどんなツワモノであっても組織に馴染めないものは二日と経たずに逃げ出す場所で五日間とはいえ、関わろうとしてくる彼らの手段と思惑を掻い潜りながら、見事、渋々ながら苦い顔を取り繕わないドフラミンゴから不定期で行なわれている王下七武海が顔を揃える会議の通知書を受け取らせ署名させたのだ。

 褒められた手段を使ったわけではないが、結果こそが全てである。低い唸りを真正面で威嚇されたが、どこ吹く風といなしたのがほんの数日前であるかのように思い出せた。

 

 並ぶ文字の向こう側を知っていると案外、むさくるしい男ばかりが集い難しい顔をしたしかめっ面を眺めなければならなかったとしても楽しさを見出せる。

 

 さて、と書類をとんとんとまとめ意識を向けるのは兄弟たちへ、である。

 ふんだんに食料を用意してきてはいるが、弟の胃はゴムであるからして幾らでも延びた。いつでも腹いっぱい食べられる環境に無いため、美味しく量がありしかもそれが良質なたんぱく質だとしたならはち切れる寸前まで詰め込むのが弟である。一瞬にして昇華してしまう不思議な胃の存在は、ルフィ七不思議のひとつだ。

 

 最悪の展開を予想して、エースに財布も渡してある。あのふたりであっても時と場所は選ぶだろう。食い逃げだけはしないはずだ。ルフィには海軍の本拠地でできると思うな、しようとすら思うなと耳を押さえるまで延々とそして淡々とじ、っと目を見つめてお願いしてきたのだ。

 たぶんきっと、守ってくれるに違いないと自分へと必死に言い聞かせる。

 

 

 マリンフォードには基本、海軍に所属する兵員とその家族、許可を得て商売をしている商人達だけが暮らしていた。

 しかしどこにでも絡んでくる人物は居るものだ。エースとルフィは人目を引く。人の意識を引き付ける、とでもいうのだろうか。いわゆる悪目立ちというやつだ。こればかりはふたりがどうこうできる問題ではなく、受け取り側の如何だ。

 

 例えば衣服。森で暮らしているふたりが衣服を選ぶ際、動きやすいモノを重点的に選択する。

 だがちゃんと行く場所を伝えてから着たい物を選ばせると、びっくりするほど趣味がいいのだ。TPOをしっかりと認識してくれる。ルフィは途中で面倒になり何でも良いと言い出すが、じゃあこれを着ろ、そうエースから言われれば文句を言わず袖を通す。

 それは決して衣服を選ぶのが上手いだけのせいではない。雑踏の中に紛れていても、無意識に視線を向けられてしまうのがふたり、だった。なんといえば通じるのだろうか。その場にあわせた雰囲気を作るのが上手いのである。

 サボを含め、兄弟達は美男子ではない。ではないが、人を引き付ける魅力を持っていた。人の魅力とは顔面の美醜だけではないのである。

 

 アンは密かに息をつく。なかなか直らない悪癖だ。

 それは"不確かな物の終着駅(グレイターミナル)"を抜けて町に行けばお金を渡し忘れたとあっけらかんとしたり、裏町で喧嘩を買うのはよいが、立派な不良少年たちを魅了しつつ放置している件などだ。

 彼らとの喧嘩は、アンの目から見れば子供同士のじゃれあいである。

 面倒くさいと言いながらもエースは相手をしてやるし、ルフィは幾人かと挨拶を交わしながら、終わるのを待っている。

 

 それはきっと、仲良くなりたい、そういう現れの裏返しじゃなかろうかとアンは思っていた。

 無条件で横に立たせて貰っている視線で見ても、エースは先頭に立ちぐいぐいと、集団を引っ張ってゆくタイプだ。

 

 基本的にエースは優しい。

 生まれを知り、ダダンに預けられ、義祖父の分かりにくい愛情表現で多少は尖ってしまったが、弟やサボを想う時に見せるまなざしは穏やかだ。

 側に寄り添えば、安心感も覚える。

 そして一度懐に入れた存在には、限りなく甘い。

 

 その雰囲気を、端町に追いやられた者達も感じとっているのかもしれなかった。

 ただし、懐に入るまでのハードルがやたらに高いのだが、それを町のチンピラ達に教えても所詮無い。

 

 

 議題が進む。

 新人と呼ばれる、"偉大なる航路(グランドライン)"の半分を走破してきた海賊達の話だ。

 久々に億を超える懸賞金がかけられた大物新人の名が出ていた。

 けれど東の海出身者は、このところ、不作らしい。それだけ海賊になろうと思うものが少ない海なのだろう。

 被害は報告されているが、他の海と比べれば、極小と言ったところだった。

 その為ジンベエが七武海入りした時に解き放たれた魚人がとある島を支配し、悪政を行っている事実を認識しても小さな事だと取り合ってはいない。

 

 その他の海ではもっと悲惨な状況だったからだ。

 魚人島に関しては記載もされてはいない。

 人間にとっては所詮(しょせん)、魚人は遠い世界の住人なのだ。海底で一体何が起こり、どんな思いが渦巻き、何が願われているのか。

 地上で暮らす人々の多くが、知らない。知らされてはいない。

 ジンベエと仲良くなり、言葉としては聞いてはいなかったが、心が人間に対する悲しみと恨み、そしてやるせない怒りを感じとっていた。

 人間が魚人に死を運ぶ。それは、間違いではない。

 

 かの奴隷解放を行った、英雄も人に関わり死んでいる。

 いま世界で出回っている真相と呼ばれているそれと、多くは間違ってはいなかったが詳細は違った。彼は人の血によって生かされるのを拒否したのだ。

 人に飼われ、権力の末が生み出した狂気の宴を見、それでも人を嫌いにはなってくれるなと、どの口を開いて言えるものか。

 人間がどこまでも残酷に、冷徹になれる事を、アンは身を以って知っている。

 だから言えなかった。謝罪の言葉を。言っても、彼らの心をかき乱してしまうだけになる。

 魚人海賊団の船に足を踏み入れ、声なき思いに身を浸せば余計に、だ。

  

 けれど意志は強く受け継がれている。太陽の下へと願う声は、今は小さくとも、きっと大きく育つのだと信じた。

 例え幾年かかったとしても、彼らは行い続けるだろう。

 アンが出来ることがあるとすれば、差別することなく彼らと同じ目線で立つことと次の世界会議が行われる席で、デイハルドへ一言、救済のお願い事をするくらいだろう。魚人達の声に耳を傾けて欲しい、と。

 多くの世界貴族達が失笑し笑い飛ばすに違いない。だが口を噤んでいてはいつまで経っても物事は動かないのだ。

 

 支部からの申し送りや人員派遣など、細かな異動にチェックを入れ、後ほどエリキが見れば分かるように、下線と追加文を書いておく。

 

 その他、めぼしい件は魔の三角地帯(フロリアン・トライアングル)で行方不明の船が多発し、世界政府から対処するように言及されていること、くらいか。

 

 たしかこの海域を拠点としていたのは、七武海のゲッコー・モリアだったとアンは思考の戸棚から、情報を引き出してゆく。

 余り外には出て来ない人物であるため、その容姿は聞いたものだった。

 ピンク色曰く、死体愛好者。ミホーク曰く、他力本願。

 だという。

 

 聞いただけではいまいちよくわからない人物だ。

 ペンを指先で遊びながら、彼、に関して知っている情報を並べてゆく。

 ジンベエは会った事が無いと言っていた。

 ただかなりの大物であるらしい。超人系悪魔の実、カゲカゲの能力者で、自分や他人の影を操るのだそうだ。ただ木や建物などは扱えないらしい。有機物限定なのだろう。

 

 部下、と言えるかどうかは分からないが、彼は死者を操り軍団としている。

 なんでも新世界で人生の転機を迎えたのだとか、世界屈指の名医と言われていた人物を傘下に怪しい生体実験を行っているとか、かつて四皇であるカイドウと何度もやり合った事があるとか、聞こえてくる噂は曖昧な、噂らしいものばかりだがそのどれもに真実が含まれているのは確かだ。

 

 それをどうにかする対処と言っても、七武海は世界政府より赦免状を交付されてはいるが、立派な海賊である。

 各々が好き勝手に、やりたい事を行っている私掠者なのだ。

 言う事を聞けと言っても、聞くとは限らない曲者揃いばかりが在席している。

 

 一応は。

 政府の監視下に入り、何処に居るかという所在も知らせれば、召集が掛かれば聖地にも数名、足を運んでくる。盟約を結んでいるとはいえ、それぞれの思惑が絡み合っての合意だ。協力関係と言ってもこれほど弱く、脆いものは無い。

 

 アンはそんな七武海達と、頻繁にではないが会っていた。

 最も回数が多いのはジンベエだ。政府が発行する、七武海に何らかを要請する書状を渡しに赴く。

 他のメンバーには伝書バットを使って送られるのだが、ジンベエだけは海の中を航行し、なかなかつかまらないからだ。その点アンであれば海水を飛び越えて、シャボンで覆われた船内に跳躍出来た。

 次いでピンク色、ミホーク、くまと続く。

 

 「対処、ねぇ…」

 議論は白熱していた。

 議長である元帥をはじめ、3人の大将と義祖父、長年中将の位に就いている人物達は若手の熱意溢れる言論に耳を澄ませている。

 

 実力行使でなんとかなっているならば、とうの昔にこの問題は解決しているはずだ。

 アンは発言者が発する幾つかの問題点を、紙にさらりと書き出す。

 

 魔の三角地帯(フロリアン・トライアングル)は7つある前半の航路上全てに覆いかぶさる、最後の難関ともいえる霧地帯だ。ここを外して通過しようと思うならば、凪へと入らなければならない。軍艦も商船も、そして海賊船も、平等に霧は覆う。

 この霧地帯を根城にしているのが、ゲッコー・モリア、だ。

 アンもその海域を何度か往復しているが、一度も出くわした事がない。それどころか霧さえ晴れて、晴天の元、航路を進む方が多かった。

 霧の中に隠された真実がある。探してみるといい。面白い事実が眠ってるぜ。

 そう父から情報を貰ってはいるが、なかなか霧に出会えないでいる。まるで暴かないで欲しい、そっと霧の中の秘密はこのままにしておいて欲しいと避けられているかのようだ。

 

 議題を話し合う、いくつもの声が効果的な手を打ち出せないまま、末尾がしぼんでゆく。

 「…海軍としては、世界政府としては、か。新世界に入る海賊達を抑えてくれる良質な網、としての効果を期待しての加入要請だった。けれど近年は益より害の方が顕著になってきている。これをどうにかしなければならない」

 

 とんとん、とテーブルを叩く小さなペンの音が喧騒を静めた。

 

 「武力で行くのは論外。相手は死者、いくらでも替えがきくし実力を兼ね備えた海兵が行ったところで、影を取られに行くようなもの。とはいえ将校以下を投入したところで、戦力の無駄遣いになってしまう」

 

 それでも前半の海をなんとか越えてきた雑魚を片付けるのにはまだ有効といえるだろう。

 ただそのせいで、モリアの戦力が着々と大きくなっているのが政府は気にくわないのだと、簡単に見通せた。

 海軍、そして政府が王下七武海を養っているのは、海賊という存在の共食いを望んでいるからに過ぎない。政府や海軍、加盟国に損害を与えなければ、何をやっても基本的に赦されるのだ。

 

 少女の視線は文字を追う。

 

 「商船の食べられっぷりも酷い。ここ3年に区切っても合算すると72%がこの海域で行方不明になってる。見つかったとしても中身は空、能力によって影を取られた後に光を受けたか、殺されたか」

 

 首輪を付け、鎖で留め置いているはずの狗に、半ば歯向かわれているのと変わらない状態であるといえるだろう。

 役に立たないならば代替えすればいいのだが、ネームバリュー、モリアが持つ名の価値、実力以上を兼ね備え、それでなお且つ、政府の下にくだっても良いとする海賊がなかなか見つけられずにいる訳だ。

 

 見つけたとしても、政府のラブコールを受けるかどうかは、海賊次第であり、強制は出来ない。

 「税が取れていないというよりも、希少金属を乗せた船も消え失せてるっていうのが、ね。それを待ちに待っていたどこぞの、角を生やした天竜人に役人がせっつかれ、その役人の上役辺りがコングさんに泣きついた、っていうのが本当のところかな」

 船名で大体どういうものが積まれているか、おつるの元で居たアンは把握していた。しかもその裏打ちをCPがおこなっている。

 

 「交渉決裂させたな…。情報を与え過ぎて、じゃオレの物ってされたのは。誰だ、責任者は。

 これを海軍になんとかしろって押しつける所がえげついな。なんの為に交渉者(ネゴシエーター)を政府内で育成してるのか分からないじゃない」

 

 横に座る赤犬が卓に肘をつけ、面白そうに黒髪の少女のひとりごとを聞く。

 集中しすぎて雄弁になる癖がまだ抜けていなかったのかと、笑みを結んでいた。

 

 「へぇ旗艦って島一つ使ってるんだ。この大きさで海賊船って…一度行ってみたいな。おじゃましまーすって行けば、入れてくれるかしら」

 目を輝かせて文章を読み込み始める。何かが琴線に触れたらしい。

 青雉がアイマスクの下で薄く目を開いた。

 

 「お休み取れたら行ってみようかな。くまさんに頼むのが確実だよね。そうなれば。

 …戦力的に脅威となるのはやる気を出したゲッコー・モリアと、その配下のゾンビ兵たち」

 

 カゲカゲの実については後ほど本を見るなり、世界に情報を流してもらえば解るだろう。

 ただ行き先を告げて、果たして行かせて貰えるかがネックだった。

 

 「ダメ元で釣ってみるかなぁ」

 元帥とおじいちゃん。ふたりの好物いっぱい作って、お酒もいっぱい出してお願いすれば、その内首が縦に振れるかもしれない。

 「他力本願で無気力症候群になってるらしいから、自らが動く、とは思えないけれど。ゾンビが無限に出てきたら嫌だなぁ。サカズキおじさんに来て貰う訳にもいかないだろうし」

 

 そのつぶやきの情報源は一体どこなのかと、黄猿は腕を組んで少女を見た。

 

 「去年は確か軍艦も2隻、使い物にならなくなって戻ってきてるんだったっけ。後方支援艦は確かに狙い目。海賊らしいといえばらしいけどなぁ。なんのために、が問題だよね。どこに資料が転がってたっけ」

 

 海軍全体が痛まない方法でお灸を据え、大人しくさせる方法が無いわけでは無い。

 ただ、行かせて貰えるか、が問題だった。

 人員を割く余裕はまだ生まれていない。内部改革のお陰でなんとかとんとん、になってきてはいたが、まだまだ一部の部署に大きなしわ寄せをしてしまっている。

 

 「目の上のタンコブ、とはよく出来た言葉、だよね」

 

 頭をぽんぽん、とクザンに撫でられ、ふと意識を周囲に向ける。

 集まっている視線に、アンはしまった、と笑顔を浮かべた。

 必殺、愛想笑い、だ。

 

 「ポートガス、あとで部屋に来るように」

 「……はい」

 

 青雉によしよしとされながら、元帥に返答する。

 「いや…まァ…モリアに関しては、だいたいそんな感じだからな」

 

 もう発言なんてするものかと、涙目になりながら、両手で口を塞ぐアンが後ろからの声に身を捻れば、アイマスクを上げたクザンがアンを慰める。

 周りを見回せば、多くの人物が笑みを浮かべていた。

 ここに座る人物達の多くは、11歳の頃からアンを知っているのだから致し方ない。

 16歳になった幼子は、海兵としてひとり立ちしてもおかしくは無い実力と、思考を兼ね備えた。

 祖父に似たのか、悪だくみもなかなかに出来るようになってきている。こんな場所で暴露してしまうくらいであるならば、まだ可愛いとすら思えた。

 

 その後、つつがなく会議は進み終了となる。

 いつもと変わらずアンを持ち帰ろうとする青雉を、ガープを含む黄猿、赤犬が止め、恒例のボールが入った箱が目の前に示された。

 

 「…………」

 右隣上方向から舌打ちが聞こえたが、横に立つ娘は苦笑するしかない。

 「ところで中将、安心して引くが良い、とはどういうことですか」

 義祖父を見上げ、アンは尋ねる。朝、本部へ歩いてくる時に言われた言葉だ。

 

 「引いてみれば分かる」

 自信ありげな笑みに、受け取った箱を机の上に置き、中に手を突っ込む。

 「…なんだかいつもと違う、気がする」

 いつもの年はこんなに、球が多かっただろうか。この一年で身長も伸び手のひらもエースほどではないが大きくなったはずだ。

 確か去年までは手の甲まで埋まらなかった。

 

 今年はいったい、いくつ入ってるの?

 

 中将の入れ替えが多少あったとはいえ、投入された数は殆ど変わらないはずだ。

 ちらりと見れば、義祖父がそれはもう、期待に満ちたまなざしを向けて来ている。

 

 ホントにおじいちゃん、なにしたの。

 

 指先に触れる手触りの良い球を幾つか弾き、混ぜる。

 箱の中身を見聞色で覗けるのならば選ぶのも楽なのだが、そもそも相手の気配を感じ、読み、聞く能力だ。薄い紙の向こう側はどんなに頑張っても見えない。

 

 これ、と決めた球を握りしめ、そろっと引き抜く。

 色は白、だった。

 大将ではない。

 

 「あ。おじいちゃんのだ」

 思わずいつもの呼び名が口から洩れる。

 「よくやった!!」

 

 ガープが孫娘を抱き上げる。苦節六年、ようやく望んでいた孫が己の元へ配属されるのだ。その喜びはひとしおなのだろう。

 アンもされるがままに、どうにでもしてと力を抜いて義祖父の好きにさせた。

 赤犬や黄猿は、やれやれ、とそんなガープを見ている。なにかを知っているような顔だ。

 「決まったな。ポートガス、部屋で待つ。ガープと共に来い」

 「はい」

 

 アンは床に下ろして貰い敬礼で元帥を送る。

 結果が知れれば、この部屋に留まる理由は無い。会議室に残るのは3名の大将とガープ、そしてアンだけとなった。

 「おじいちゃん、タネ明かし、あるんだよね。してくれるよね」

 何かが引っ掛かって仕方が無いアンは、義祖父を見上げる。

 「いいじゃろう」

 

 にい、と笑みを浮かべた義祖父が箱を孫に放り投げた。

 「おおっと」

 中を見てご覧。黄猿に促されて開けてみると、中身は白一色だった。

 名前を見てみると、すべてガープの名が書いてある。

 

 「わしも手伝わされたわ」

 振りかえればサカズキが肩に手を当て、首を左右に振っていた。

 「まさか、これって……」

 

 それ以上は言わないように。青雉が口元に指を添えてくる。

 絶対何か、みんなで企んでるね?

 アンはがぶり、と青雉の指に噛みつきながら、保護者たちの謀りごとに唸りを上げた。



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46-異邦人

 コーヒーの香りが漂う。

 店は静かに、開店の時間を待っていた。

 床から上げられた椅子はひっくり返されテーブルの上に並べられている。

 

 店主がひとり、湯を沸かし、黒の液体が落ちるのを待ちながら香を楽しんでいた。

 そして聞こえる足音に視線を階段へと向ける。

 「シノブ。良く眠れたかい」

 「マスター。おはようございます。ええ、お陰さまで」

 

 古びた木がきしみを上げる。ゆっくりと姿を現した女性に、この酒場を経営している男がカウンターに誘った。

 畑に揺れるような黄金の麦と同じ色をした長髪の女が、その声が指し示す席へと座る。

 

 「良い香り」

 女は瞼を閉じ、笑う。

 人懐っこい笑みに店主もつられ唇を弧にした。

 

 シノブがこの島にやってきたのは数日前だ。

 その日もこうやって、男がコーヒーを入れ、ひとりの時間を満喫している時に姿を見せた。

 この辺りを巡る定期船でこの島を訪れたのだと、店主が聞きもしない内に、勝手に話し出した。

 もし頂けるなら、とコーヒーを指さし席に座る。

 砂糖もミルクも無い、ただ入れただけを白のカップに入れ、男は出した。

 それを嬉しそうに飲みながら、女は店主に訊ねる。

 「ねえ、マスター。私、旅の演奏者なの。場所を貸して頂けないかしら」

 

 男は片眉を密かに持ち上げた。

 娯楽が多くない町だ。人口も他の島と比べれば、少ない。

 以前も音楽家たちが立ち寄った際、広場で演奏会を開いていた。

 雇って貰いたいのであれば、町長のところにいけばいい、店主は”旅の演奏者”にそう教えるが、あてが違ったようで言い方が悪かったと言い直す。

 「そういうのではないの」

 女はそう言い、少し考えたそぶりをしてからこう云った。

 「お金はそんなに必要なくて。ピアノを弾きながら、唄を歌いたいの。設えられた場所で、ではなく、酒場(ここ)で」

 

 店主は首を横に振る。店としては雇う余裕がないのだと女に伝えた。

 海賊がログを得て走る航路から離れた、"偉大なる航海(グランドライン)"内でも辺境と言われるこの列島では、確かに安定した生活はあれど、景気の良い話はなかなか流れてはこない。

 やはり多少の危険と引き換えに、盛況を呼び込む主だった線上中継島のほうから聞こえてくる話のほうが繁華だった。

 

 島内で酒類の需要が無いわけではない。

 ただどんなに質が良くても、変わり映えの少ない生活を送る人々はこの島に見切りを付け、他に移住する者も少なくはなかったのだ。

 このような田舎で育った若者は特に、賑やかしい都会に憧れる。ある一定の年齢になれば、穏やかな時間が流れるこの島こそが余生を送るのに適していると気付くのだが、夢や希望、そして輝かしい未来を渇望する若者にどんなに諭したとて聞き入れてはもらえない話である。

 そうしてこの島からどんどんと人が流出し、閑散、とまではいかないが以前と比べれば寂しくなっていた。

 

 しかも最近では港の方に出来た混ぜ物をした安い酒を提供する店に客が流れ、たまにやってくる常連たちと言葉少なく語るのみだ。

 言葉少なく、拒否を示した店主にきょとんとした瞳を向けた。

 「じゃあ、私がお客を呼ぶわ」

 客が少ない事、がこの場所で弾き、歌うことが出来ない理由ならばそれを覆せばいいだけの話だ。

 自信あり気に女は立ち上がると、荷物をカウンターに置き、宣言する。

 「もし客寄せが出来たならば、寝る場所と食事、下さいな」

 女はそう言い、町の中心にある広場で踊り歌い、その夜にはこの店の椅子を全て埋めてみせた。

 

 かつての姿だった。

 流れていた、疎遠となっていた知人たちも久しぶりに顔を見せ、店主は女、シノブが求めたふたつを用立てざるを得なくなる。

 そして今を迎えていた。

 連日、この歌い手が居なくなるまでだろうが、賑わいは途絶えてはいない。

 

 

 「あら…なんだか賑やか、ですね」

 通りに面した窓の外に、シノブが視線を投げると道往く人の数が、いつもよりも多い気がして疑問を店主に投げる。

 「ああ、軍艦が立ち寄っているからな。物資の補給がてら、海兵が町に繰り出して来てるのさ」

 

 ふうん。

 シノブ、は相槌を打ち、店主が作ったブランチに手を付ける。

 厚切りのパンにバターをたっぷり塗り、焼いたものと近場の農家から朝届けられた新鮮な野菜と卵焼きで、飲み物は淹れたてのコーヒーだった。

 

 時計を見れば、13時を回っている。

 「随分と寝ちゃったなぁ」

 シノブはひとりごちた。

 昨日は良い額のおひねりが出て、張り切ってしまったのだ。

 

 (だりぃ。

 リクエストに応え過ぎて喉も痛ぇ……)

 

 高音ばかりの曲を立て続けに歌ったのがいけなかったと、シノブはパンに齧りつきながら思う。

 この地方で歌われている農耕の唄や、子供たちが歌う遊び歌を多少アレンジしたそれがかなり受けたのだ。

 所変われば品変わる通り、調べや詩なども変化する。

 留学先を卒業したならば、一定額を貯めて世界を旅しようと決めていた。

 それが図らずも、別世界で果たされているのだから、夢がどう叶うかなど実現するまで分からないものだ。

 

 「マスター、ところでその軍艦というのはどなたが乗っているのかご存知?」

 「さあな。興味あるなら通りを歩いてる海兵にでも聞けばいい」

 つっけんどんな言い方に、シノブはそれもそうかと野菜を口に入れる。

 

 この島は"偉大なる航路(グランドライン)"内にあるとは言っても、凪地帯を挟めば東の海という立地にある。しかも岬から突きあたりに至るまでのログには示されない島なのだと言う。

 

 しかも近くに支部があり、海賊被害が少ない土地柄もあってか外部に対して閉鎖的だった。

 被害に喘ぐ島に住む住人からすれば、恵まれた環境なのだろう。

 だがこの町では海兵に余り良い感情を持ってはいない。どちらかと言えば否定的だ。

 用が無いなら、さっさと出て行ってくれ。もし町に入るなら金を落として行ってくれ。そういった冷めた感情が大部分を占めている。

 

 それもそのはずだ。

 この辺りの海兵は質が悪すぎるのだ。

 近辺の島を1週間ほど、長ければ10日前後の期間を滞在し渡り歩いているが、この近辺の島々では基本的に海兵へ好意を持ってはいない。

 

 今までも何度か、海軍の船と鉢合わせになってはいた。だが聞いた事のない名前だったり、海賊かと見間違えんばかりの傲慢な人物であったりと、本当にここは該当するその世界なのかと、いぶかしんだりもした事もある。

 身一つで助けられた場所で何とか会話は学んだが、文字まで至れず、まだ解読に難航していた。だからニュース・クーが運ぶ新聞を読むのも一苦労し、情報収集はもっぱら、こうして会話から得る。

 

 からり、とドアベルと蝶番が鳴る。

 「こんにちは。こちらレアヒ・ムデルさんのお店で間違いないでしょうか」

 丁寧な言葉遣いで入ってきたのは、海兵だった。歳の頃は15か16程、幼さを残す少女が会釈しながら入店する。

 「ああ、それなら私だが」

 「ユード町長からの紹介で参りました。ポートガスと申します」

 

 会釈をし笑顔を咲かせる少女に視線をちらりと向ける。

 へぇ。

 シノブは今まで出会った事のないタイプの海兵を本格的に両の目で見た。

 コートを纏っているならば階級が少尉以上のはずだ。しかもポートガス、この名前は忘れようがない。良くある名前なのかもしれないが、思い浮かぶ続きの名前は、D・エース。

 

 シナリオ通り進むのならば、白ひげ海賊団の2番隊隊長となる人物の名だった。

 それとも何かが原因で、目の前の人物が実はそうなのだろうかと考える。男では無く女として生まれ、ガープが無理矢理海軍に押し入れた、とか。

 まさかそれはあり得ないだろう。

 シノブは自身の考えを否定する。今からそれを見に行くのだ。介入はまだ考えてはいない。

 出来るならばもっと早くにこっち側に来ていて、幼少の頃、に間に合っていたのならば絶対に助けていただろう人物がいる。

 それはシルクハットの少年、サボだ。

 もし彼が生き残り、後日作者が描いた扉絵のように3名が揃って青年となって海へ出られるならば、必死になったかもしれないと思った。

 だが実際には既に終わってしまった出来事だ。

 世界はおおよそ、作者が描いている通りに進行しているようだった。そうなれば主人公の旅立ちまであと4年、その兄であるエースであれば1年、時間があったはずだ。こちらに来てからというもの必死に状況を把握した。無為に時間を過ごしているつもりもなく、期間までに目的地には至れる予定だ。

 

 注意深く少女をシノブは見る。

 

 「…っ」

 

 視線が合う。

 黒い瞳がこちらを覗きこんでくるような感覚に陥る。そう、黒い渦に引っ張られ飲みこまれるような、そんな気さえした。思わずきつく瞼を閉じ、目元を抑える。

 

 「ええ、こちらでは質の良い果実酒を取り扱っていらっしゃると教えて頂きました。お願いすれば多少は分けて貰えるかも、とお聞きして、参った次第です」

 

 ゆっくりと逸らされた目が主人へと向かう。

 シノブは動悸を悟られぬよう、ゆっくりと息を吐いた。手のひらを額に当て目を瞼の上から触れる。

 

 「…ありがとうございます。ではそれはこちらで交渉させて頂きますね。樽は後ほど、数名に取りに来させます。手付けとして半額、お納めください」

 

 ほんの数秒目を閉じていただけのつもりだった。しかし実際に聞こえてきた言葉は終わりを告げる文脈で、いつの間にか時間が飛んだのだと認識する。果実酒を分けて貰いたいという話はいつの間にか終わっていたようだ。小さなカタツムリをポケットから取り出すと、部下に店に何名か来てくれるように話しかけていた。

 そして靴音が向かってくるのは、こちら、だと気付いたシノブは慌てて顔を上げる。そして手元にあったフォークに突き刺さっているパンを口の中に放りこんで咀嚼し、コーヒーで流し込んだ。

 

 初めまして。お隣よろしいですか。

 笑顔で問われた言葉に、シノブはどうぞ、と応えるしかない。

 少女は店主にコーヒーを牛乳入りで注文する。

 本当はそのまま飲めるのが、味や香りを楽しむには良いとは知っている。けれども少し色を濁してもらえないだろうか。

 

 少女が海軍で飲むコーヒーが余りにも苦くて、苦手になってしまったのだと、ため息交じりに語る。

 店主が薄く笑みを浮かべたかと思えば、なにも入れずに、そのまま飲んでみる事を勧めた。

 「…頑張ってみます」

 

 人の字を書いて、飲み込む。

 それは緊張した時にするんじゃなかったかと、シノブもくすくすと笑みを漏らした。

 

 「あ。美味しい」

 苦味もあるが、程良い酸味やすっきりとした後味にすっと喉を通ると言葉する。

 「うわぁ。これなら飲める。香りが美味しい」

 驚きの声はそのまま、店主への褒め言葉となった。

 店主のコーヒー談議が始まる。シノブも二日目の朝に聞かされた話だ。

 そうしている内に扉が開き、海兵が入って来た。

 「大佐、荷車と4名、到着しました」

 「お疲れ様です。では船への運び込み、宜しくお願いします」

 

 敬礼を返し少女が笑む。

 果実酒は裏の樽に保存されているという。店主を伴い、海兵達がそちらへ向かった。

 

 「あなたは行かなくていいの?」

 「はい、わたしが居なくても、みんな優秀ですから」

 

 冷たくならないうちに、少女はコーヒーを飲み干す。

 ごちそうさまでした。

 手を合わせて言う礼儀に目を奪われる。

 こちらの世界では、余り目にしない所作だったからだ。

 

 「お話というのは、軍艦で歌って頂けないかというお願いだったのですが、いかがでしょう」

 少女が上目づかいでシノブを見上げる。

 この世界の人間は、基本的に背が長身である者が多い。先ほど出て行った店主や海兵達も170センチ台だ。シノブですら彼らと並べるくらいの高さを持っている。以前と比べれば数センチ低かったが、特に不便に思った事は無かった。

 変わって少女だが、小さかった。160も無い。157、8前後といったところだろうか。

 手のひらひとつ分くらいはしっかりと拡げられる差だった。男達と並んで歩けばすっぽりとその姿が隠れてしまうほどだ。

 「ごめんなさいね。私、ここが気に入っていて当分はここに居るつもりなの」

 値段交渉に入ろうとしていた会話を切る。だからすぐに出発する軍艦には乗ることが出来ないと断る算段だった。

 が、しかし、そう簡単に問屋が卸してはくれなかった。

 「そうでしたか」

 にっこりと笑う少女は、それならば丁度良いと言ったふうに、

 「本艦は本日一日、こちらに停泊する予定なのです」

 と、続けた。

 

 こいつ天下の海軍に楯突くなと言わんばかりだな。

 シノブはなぜか、不自然なほどに親しげに話しかけてくる少女にきつめの視線を流す。

 しばらく続けてみても全く効果は無かった。

 「昨日、喉を痛めてしまったようでお断りさせて頂きたいの。ごめんなさいね」

 と言えば、ピアノだけでも構わないから弾いて貰えないだろうかと食い付いてくる。

 

 こいつなんなの。

 はっきりと海軍とは関わりたくないと言ってやろうかと考え、実際に添う口に出そうとする前に、新たなカードを切ったのは少女だった。

 「果実酒を買いに来たのは本当。艦内に娯楽の提供が必要で、町長さんに歌い手が居ると聞いてお誘いに来たのも本当」

 

 まとう雰囲気はそのままに、爆弾を投下した。

 「初めまして、異邦人(エトランジェ)」

 

 がたりとシノブは席を立つ。

 久々に聞いた言語、日本語だったのだ。なぜそれを知っている。

 口から心臓が飛び出てもおかしくは無い、衝撃が走った。

 この人物は何を言っているのかと、錯乱し真っ白になった思考の中で必死に考える。

 「心配しないでください。政府の役人に告げたり、あなたをあなただと認識して監視下に置きに来たわけじゃない」

 ついでに言えばあちこちで歌っている歌の意味も知っているし、内容が"歴史の本文(ポーネグリフ)"にかかっているのも分かっている。

 少女は席を立たず。丁度視線が合うその席をくるりと回した。

 「ようこそこちらの世界へ」

 

 何者だとシノブが少女に問えば、いとも簡単に口を滑らせた。

 「あなたと同じ外来者…といってもわたしはこちらでも生まれているから、違うともいえるのだけれど。少しお話がしたくて」

 両手の指を絡めながら、恥ずかしそうに視線を泳がせる。

 もしシノブが誰かにこの少女が異世界からやってきた、と告げ口するとは思わないのだろうか。そんな事を思う。

 「あ、でも。船で歌って貰いたいっていうのは本当。喉を痛めているならば、ピアノだけでもというのも本音。中将にも了承を貰っているし、訓練ばかりで娯楽が少ないから兵たちの気晴らしにもなるだろうって」

 

 表情がくるくるとかわる。

 きっとあちらの世界でも、こんなに豊かな感情を表に出す、この年頃は少ないだろう。

 習い事に、塾、宿題、学校での悩み、家族とのすれ違い。受験や進路、就職まで。

 挙げればきりがない。

 どうやって笑えばいいのか、思い出せない時期がシノブにもあった。

 

 「で、会ってみた感想は?」

 「意外と緊張する。ていうか、してる。ジェネレーションギャップが無い程度だと嬉しいな、とか。もし会えたら話したい事、考えていたはずなのに」

 

 両頬に手を当て、アンは火照りを隠す。

 「これが例の、真っ白になるって言うあれ!!」

 拳を握りしめはしゃいでいる姿は、容姿よりも幼い感じがした。

 

 (その真っ白思考、今さっきあんたが俺にやったことだろうが。なに言ってるんだか)

 

 忍は思わず慣れ親しんだ口調のままを思考にのせた。

 裏から海兵たちの掛け声が聞こえる。木樽を荷台にのせているのだろう。

 少女がスツールから降り、シノブを見上げる。

 「よければ、なんですけれど歩きながらお話出来ませんか」

 

 ああ…

 そう答えてしまってから、シノブはしまった、と口を抑える。

 いつの間にか引き込まれてしまっていた。話術が巧みだったわけではない。

 驚愕の事実を突きつけてきただけだ。

 ここが異世界である、と心のどこかで認めたくなかった否定を破り捨てた。

 

 しかし同じ境遇の人物が、すでに此方側に居て生きている姿を見ると、孤独感がなぜか和らいだ。

 話したかった、そういう気持ちも分かる。

 言葉が分からず、意味も理解できず、年甲斐もなく泣き叫んだ日もあったからだ。

 

 「話はまとまったかね」

 「はい、詳しくは船に至る道ですることになりました。ね、シノブさん」

 飲んでいたコーヒーをシノブは噴き出しそうになった。

 しかもいつそういう話になったのか、説明して貰おうかと聞こうとした最中、この世界の共通語が少女の口から発せられ、驚きのあまり気管に入った痛みに咳を連発する。

 言語の切り替えが早い。シノブは思わず、日本語を口にしそうになった。

 しかもまだ名前を教えてもいないのに、少女が名を呼んだ違和感にも疑問が生まれる。

 ああそうか。町長に会ったって言ってたな。そこで名前を聞いたか。

 自己解決しつつ、口に手を上げ涙目になりながらカウンターの木目に肘をついた。

 「おいおい、大丈夫か」

 「ええ、軍艦へお呼ばれだなんて初めでだったから」

 必死に本来の言葉遣いになりそうな自分を戒め、シノブは表情を取り繕う。

 

 食べ終えるまで待って貰えるかと聞けば、了承の言葉が戻ってきた。

 海兵達に先に帰るよう指示する少女を横目で見る。

 ちゃっかり主人からおかわりのコーヒーを貰い、椅子へ座りなおし嬉しそうな顔をして飲んでいた。

 

 

 先ほどのやりとりで、今までの海兵とは違う、そう思ったのだろうか。

 この店の店主は、気難しくて有名らしい。シノブ自身はそんなにとっつきにくいと思わなかったが、昨日の夜、来ていた客が言っていた。それにしても初対面でここまで愛想良くなるとは、町の者が見ればなんと言うだろう。

 世間話をしながら、主人と少女は歓談していた。その横で必死にシノブは食物を口に入れ胃に押し入れる。

 

 カラン、とフォークが空になった皿の上で音を立てた時には、すっかり打ち解けて会話する両者の姿があった。出会って、ものの30分ほどしか経っていない。

 少女を傍から見ていて思った感想は、聞き上手である、ことだろうか。

 話を引きだし、語らせる。

 どこぞの接待を彷彿させるような、感覚を得る。

 

 …こいつも見た目通りじゃねぇな?

 

 シノブはコップに残ったジュースを飲み干すと、手を合わせた。

 「ごちそうさま、マスターじゃあ少し外に出てきます」

 「ああ」

 海兵も身軽に椅子から降り、シノブから半歩ほど遅れて歩きだす。

 美味しいコーヒーをありがとうございました。そう笑顔で会釈するのも忘れない。

 

 扉の外は光で満たされていた。

 港よりも高い位置にある町からは、軍艦が良く見えた。犬を船首に据えた大きな船だ。

 少女は時折すれ違う海兵と親しげに会話し、手を振って別れる。

 

 見た事がある船だと、シノブは記憶を手繰る。

 確か、たしか…ウォーターセブンで出て来ていたはずだ。

 そう、ガープ、初めて原作キャラと遭遇かと胸を高鳴らす。

 

 となればまさか。悪い予感を振り切るように数回頭を振った。

 (会ってみたくて東の海に向かっちゃいるが、まさか、な。本当にエースが女で生まれてるっていうのはごめんだ)

 

 ちらりと見た海兵姿の少女と視線が合う。

 「ふぅん、原作、ね。わたしが居た世界ともちょっと違うのか。多重螺旋世界っていう話を、何かの本で見た事はあったけれど。それかな」

 涼しい顔をして横を歩いていた少女らしきものに笑みが浮かぶ。

 見上げてくる視線は猫のような、悪戯心を宿したような光があった。

 「それが、あなたの素?」

 「一面、と言って欲しいな。言葉遣いもそのままでどうぞ。日本語が話しやすいのだったら、そっちでも構わないよ」

 

 このやろう。

 店では猫被ってやがったな。

 

 あえて言葉では発しない。

 相手もそれがわかっていたのか、済ました顔のまま楽しそうな色をのせた黒の目だけを向けてくる。

 

 

 「…じゃ、遠慮なく日本語で話させてもらおうか」

 シノブは肩をすくめながら小声で以前の口ぶりを披露した。

 「えへへ」

 照れたように、少女が笑う。久し振りのその言葉が、くすぐったくて懐かしいと聞いてもいないのに少女が勝手に語りだす。

 褒めてないと言っても、この手のタイプは無視するだろう。こちらの言葉を都合の良いように解釈し、話を聞かない。苦手とするタイプだった。

 

 「そんな事ありませんよ。ちゃんと人の意見も聞くし、無理なお願いは出来るだけしない主義です」

 きりっと、今さらされても仕方が無い。人間同士、初対面の印象は大切だ。

 「ちょっとまて。もしかして、見聞色使えるのか」

 「ええ。しっかりと意識を締めてくださいね。丸聞こえです」

 

 基本的に人間は感情を垂れ流してしまう生き物だから、出来るだけ聞かぬよう、気にしないようにはしているけれど、横に居ればどうしても聞こえてしまう訳で。

 説明を受け、シノブはため息をつく。

 「…それを最初に言っておいてくれないか」

 

 え。だって。

 少女が困ったような顔をする。

 「あなたの世界では、この世界そのものが漫画という手段で現されていたわけでしょう?」

 知ってるものかと。

 

 ちょっとまてやああああああああ。

 シノブは音声として絶叫する事だけはなんとか、懸命に押しとどめ、横を歩く少女に視線を落とし睨みつける。

 「そこまで分かってて、何様だ。こっちの思考、勝手に読みやがって、神にでもなった気分なのか? 実際のところは俺を笑いに来たってのが本音だろうが!」

 

 シノブの感情が言葉となり放たれる。少女はそれが止まるまで待った。

 そしてあなたは重大な見当違いをしていると前置きし、ゆっくりとした口調で思いを告げる。

 「残念ながらこちらには”神”という存在を奉った思想や考え方が薄くてね。どちらかと言えば自然崇拝がそれぞれの島で好き勝手に信じられているんだ。神道の八百万(やおろず)の神のような感じかな。

 神さまなんて居ないよ。助けてと祈っても奇跡なんか起こらないし、そんな時間あるなら海賊船のひとつでも沈める方が世のためだし。

 神さまになるなんて、考えたことも無い。そんな力があったら、とっくの昔に世界をひっくり返してるよ」

 

 世界を違えたとしてもこの世には理不尽な事ばかりが起こる。支配するものとされるもの。至る所で戦争が行われ、利権をかけて醜い争いが続けられている。

 力の弱いものは……金銭を労働で稼ぐものたちは、労働力を使い儲けを得る一部の階級たちに生きる糧を得るための手段を握られていた。金がなければ食べ物だけでなく住む場所も手に入れられない。法の外に逃げても同じだ。生態系を現す三角はどこに在ろうとも付きまとってくる。

 

 「思考を意識して読んだのは、ごめんなさい」

 

 少女は視線を、シノブから逸らさない。その瞳には感情が含まれてはいなかった。

 「ただ笑いに来たというのは訂正して」

 

 冗談じゃない。と目を伏せて続く言葉は。

 

 「わざわざそんな、人を貶めるために裂く時間なんてわたしは持ってない。時間の無駄だわ」

 

 挑発が含まれている気がした。いや、違う。少女は普通に、ただ現状を語っているだけに過ぎない。

 しかし感情が収まらなかった。

 「…お前に、なにが分かる!! 気付けばここに居た、俺の苦しみが!!」

 

 「同情、されたいの?」

 その言葉に、シノブは歯を食いしばる。唖然とした。少女の一言が胸に刺さる。

 違う、と言いたかった。だが心の内にある感情は。

 

 気まずい沈黙がその場を支配する。のどかに吹きゆく風でも流せない。

 何かを言い返したくとも、言葉が出てこなかった。なんと言えばいいのかすら浮かんではこない。

 耐えた。

 

 瞬間、かくんと膝が折れた。地面へ皿があたる。硬いものが顔面にあたる。痛かった。

 なんであるか思い当たれば、もう少しふくよかなほうが良かったと思わず思考にのせた。窒息するほどの大きさはいらないが、掌に収まる形の良い膨らみであればなお良い。

 

 「っ、洗濯板でごめんなさいねっ」

 「……いや、これはこれで至福だ」

 

 羞恥に顔を真っ赤にしているのだろうか。鼓動が心持ち、早くなっているようだった。

 耳に心地よいそれに耳を澄ませる。

 いいにおいがした。女が出す芳しさではない。

 そっと小さな手が髪を梳きはじめる。それは男が女にしてやる慰めの定番だろう、と苦いものを飲み込みながら、忍は口元をほころばせた。嫌ではなかったのだ。

 

 不安だった。

 たったひとりで言葉も習慣も違う、今まで暮らしていた場所とは違う異質な空間へ放り出され混乱した。

 運が良かったのだろう。ありがたくも忍が出会った人の多くは優しい人たちであった。

 だが共通の話題が無く、知りたいいずれも触れていい話であるのかすらわからなかった。

 

 気を張っていた。

 この世界で忍は性別を変えられ、望んでもいない能力まで与えられていた。

 空想世界の様々にありがちな転生やら転がり落ちやら、性転換やら、可能性をあれこれ考えても事態が巻き戻ることなどなく、忍はシノブとして生きていかねばならなかった。少女が言うようになんでも、好き勝手の望みを叶えてくれる便利な神など存在しないのだ。死んだほうがましだとナイフを手首につきたてようとしたこともある。だが出来なかった。怖かったのだ。死ぬのは、怖い。そうして泣けばよかった。だが忍は耐えた。

 それが普通になってしまうほど、表情に笑みだけをのせた仮面を被ってもしかして、を巡り始めた。

 

 そして、今。

 

 「…もういい、落ちついた」

 数分後、そう言って密着していた体をほんの少し離す。そして膝立ちのまま、少女を見上げた。微笑を浮かべて目を細めた少女がいる。本質的に優しい存在なのだろう。思いのほか柔らかな匂いに落ちつかされてしまった。

 どんなにこの少女に取り繕ったところで、心を読まれてしまうのだ。隠すだけ無駄であろう。

 

 「それにしても、薄いな。揉んでやろうか」

 

 息を飲む音がすぐ側から聞こえる。

 男の手が愛情込めて舐めて吸って揉めば、大きくなるんだぜ。

 

 「馬鹿っ、ひ、ひとこっ、おお!」

 

 ただ思っただけだ。

 

 シノブの肩に置いていた手で少女が突き放そうとするが、忍ががっちりと腰にまわしていた手によりそれを拒む。

 言葉には出してはいない。内心で思っただけだ。

 見聞色をただ便利な技能だと思っていた忍は、意外な欠点に気付きほくそ笑む。

 

 「なるほど。気にしてたのか、そりゃ悪かった」

 シノブは豊かな胸を見せつけながら視線を再び上げた。

 「破廉恥です! わたしだって!その内に、きっと出てくるんだからっ!」

 

 涙目になった少女を見上げれば、自然に笑みが浮かんでいる。

 不思議だった。

 わだかまりが、一瞬で消えたような気がする。

 あれだけ胸の内で苛んでいた何かがすっかりそげ落ちた感じだ。

 

 「唄だっけ、歌ってやるよ。その代りと言っちゃなんだが、連れて行って欲しい所があるんだ」

 「何処? 航海上の拠点であれば、わたしの権限でも乗せられるとは思うけれど」

 

 両手で胸を隠し、ゆっくりと立ち上がったシノブを少女が見上げる。

 行き先を尋ねられた。だから忍はその島の名を声にした。

 

 「それなら問題ない。今から帰るところだったの。兄弟たちと」

 

 今から向かう方向だという。

 船の責任者である中将に聞いてみると少女が笑った。

 名を聞けば、やはりその通りである。ならばこの少女が、と思ったところで否定が入った。

 

 「エースはわたしの、双子の兄? 弟? まあ、どちらでもいいんだけれど。ルフィも居るよ」

 

 サボは居ない、けど。

 一拍の後にそっと吐き出された言葉をただ、忍は受け入れる。

 

 「なぁ、言わなくてもわかるだろうが」

 「うん。原作とか、知識、とかそういうの秘密なんでしょ。頭、疑われるよね。言ったらさ」

 

 父からラフテルへの行きかたを教えられた日を境目に、過去から現在、そして未来の軌跡が読めるようになったことすら、他人に知られたら大変な騒ぎになるに違いなかった。

 なぜならアンにとっては使いどころがわからない『なにか』であっても、解る誰かにとっては貴重な情報であろう。

 だから知られてはいけないし、自分から得意げに出来る、知ってるなど口が裂けても言ってはならない。

 

 ふたりはふたりだけが解る言語で、テレビやラジオ、音楽の話をしながら丘を下る。

 したかったのだ、と言った。

 いつか、会えたらって思ってたの。仲のいい友達や、義祖父や、兄弟にも出来ない話ができるだろうって、思ったから。

 そう言いながら黒の双眸が見上げてくる。

 

 「ああそうだ。エースも使えるから。知っておいたほうがいいよね。思考を抑える、流さない感覚ってね、膜を張るっていうか、わかるかな、こう…」

 

 急遽、少女に垂れ流し防止策を学びながら、忍はまた違う同じ雑誌に連載されていたものを思い浮かべる。

 主人公に憧れていた少年から現実を知らしめさせられる大人となり、心躍る冒険譚より堅実に給料を得ながら楽に生きられる方法を模索し始めていた。放り出されてホッとしていた事柄も、ある。だが考える余裕を持たなかった。

 

 主人公ではない。

 だからこそ、良いのかもしれないと初めて思えた。忍は少女と共に往く決心をつける。

 名を聞くだけの行為が、こんなにも緊張するものかと鼓動を早くさせながら、忍は唇を開く。

 横を歩く少女がその名を、紡ぐ。



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47-セイレーン

 なめらかに動く指が弦を弾く。

 音が連続して奏でられ、流れはじめた律に海兵たちが動きを止め暫し聞き入る者も出始める。

 

 出会ったその日、船で歌う事を了承したシノブは、船長であるガープと対面した。

 がっしりとした体躯に左目に沿ってついた傷跡、話し方、どれもが見ていたままの人物で、思わず本物だと叫びそうになったのは言うまでも無い。

 平面に描かれていた彼は、どちらかと言えば茶目っ気が強いお茶目なチョイ悪ジジイといった感じであった。が、そんなごく一部の情報で彼を軽んじ、侮ってはいけないとすぐに知れる。多くの海兵が至ろうと切磋琢磨する中将の座に、この老齢まで居座りかつ全うしてきているのである。その巨体から放たれる存在感に忍は一瞬、怯んだ。

 

 そっと触れてきた柔らかさに救われ、胆を冷やしながらも忍はなんとか挨拶を終えた。

 

 だが表紙上にだけ見ていた二次元をその目で見る事が出来た時の感動はひとしおだ。

 余りにもガン見してしまった為、中将のファンだとされてしまったのが後の祭りであるが、それでも原作にあった人物達と触れ合え、ある意味シノブはステータス興奮、ないし高揚状態となっていた。

 

 だからふと気をゆるませてしまったのだ。かつての世界で無意識に享受してきた、安全というものを。

 怪我をすれば血も流れ、痛みもある。

 笑いもすれば喜びもある。

 

 初めて直視した生々しさは、一生忘れることはないだろう。

 戦争反対、戦争はだめだと体験を知らず主張だけは立派な自称、反戦論者たちの言明が薄っぺらに感じてしまうほど、現実はもっと苦くそして鮮やかだった。

 

 ガープ中将が船長を務める軍艦は、規律を守りながらも程良く緩く、思いのほか居心地が良い船である。

 許可さえ取れば真昼間にハープを持ちだし、弾いても注意を受けたりもしない。

 

 あの日、ポートガスと名乗る少女との出会いが自分の分岐点だったのだろうとシノブは考えていた。

 その手を取るか、はたまた拒否するか。

 強引に絆された感もあるが、巡り合えてよかったのだと思いなした。

 そう思わないと、やっていけないからだ。漫画の中で見ていたキャラ達が、こんなにも賑やかを通り越して騒がしい、五月蠅い、黙ってろにまでになるとは思ってもみなかった、が本音だからだ。

 

 「シノブ、あれ歌いてェ!! あれ弾いてくれ!!」

 「ルフィ、もう今日は他のものを弾かせて」

 リクエストされた曲は海兵達が普段耳にするような曲ではない。

 昨日にアンが口ずさんでいた音を拾って弾いてみると、ビンクスの酒となった。分からないように歌っていたらしいが、シノブは前髪を掻き上げ、音楽関係者を舐めるなと鼻で笑った、まではよかったのだ。

 その歌知ってる、シャンクス達が歌っていたものだと飛びついてきたのがルフィだ。

 

 心許す姉が親しく話し、兄も、姉ほどではないが会話を増やしていた人物に、弟が興味を示さないわけがない。そもそもルフィという存在は、人見知りをしない性格なのだろう。本能的に自分を助けるものに興味を引き付けられ、それを懐の中に内包するのだ。

 シノブは兄弟が初めて出会った場面を”知っている”。そしてその後、どうなるのかもある程度、紙面上にあったものだけは”覚えていた”。

 外部因子がたったひとり加わるだけでこんなにも変わるものかと、内心でこっそり思ったのも本当だ。D兄弟を知る海兵と言えば、祖父であるガープ以外には存在していなかった。それが双子というただひとりが居るだけで、海軍の船に乗って故郷に帰るという、考えられない展開になっているのである。エースに関しても性格は多少尖っているようだが問題ない程度だ。思春期の年頃相当の、健全さがある。

 

 このまま進めば、時代が終わるあの瞬間もどうなるのか。

 先の見えない未来に、目的があると語った少女に、一筋の光を見たような気がした。

 

 「なあシノブ!! 弾いてくれよ!!」

 「後でね、後で。あれは夜の方が楽しげな雰囲気が出ていいと思うのよ?」

 なんとか晩に1曲だけ弾くと約束して、シノブが奏でたのはベートーヴェンと同時代に活躍していたドゥセクの曲だ。彼の妻や友人たちにハープ奏者が多かったのが理由なのか、他の作曲家に比べ多数の曲を残している。

 

 シノブが持っている楽器はサウルハープと言われる一番小型の竪琴だった。

 専門はピアノだが、一応バイオリンも弾ける。ハープに至っては趣味で、曲を作る時に使っていたくらいだ。それが今や主な演奏楽器となっていた。

 こちらの世界でも楽器は多種多様に存在している。あちらとほぼ変わらない程度で、調律師も存在していた。

 

 「あんまりシノブさんを困らせちゃだめだよ、ルフィ」

 書類を持ったアンが、甲板に無音で出現する。気配を消している訳ではないらしいが、いつの間にかそういう足運びになっていたのだと言う。どこぞの忍者のように、どーも、と口にしながら出てこないだけましではあるのだが。

 「げぇ、もう終わったのか。じいちゃん出て来なくていいのに」

 

 心底嫌な顔をして、ルフィが姉を見た。

 「もう。そういう顔をしないの。可愛い顔が台無しよ」

 びよーんと片頬を伸ばしながら、アンがほほ笑む。書類を持って何処に行くのかと聞けば、マリンフォードへこれから跳ぶという。

 

 「アン、この書類は持って行かんのか」

 「民間人乗艦申請書でしょ。面倒だから付属権限で、って思ったんだけれど…」

 デイハルドの名前を使うと、政府に目を付けられる可能性もあるのか。

 小さく声にし、うーむと悩み、葛藤した結果、書く事にしたらしい。

 「シノブさん、ここにサインお願いします」

 

 

 船に乗り込んでから、苦手としていた書き文字を、シノブはスパルタされた。

 教師はアンだ。英語に綴りが似ているから日常的に使うものだけでもと、ざっと教え込まれたのである。

 横に座っていたのはルフィだ。真一文字に結ばれ、冷や汗をたらたら流す主人公の姿はとてもシュールだった。ルフィは頭を使うなにかを始めるとムンクの叫びになるのである。

 

 「読み書きは基本! 航海先のご飯屋さんでメニューが見れないと注文できないし、ご飯も食べられないわよ。さあ、観念して覚えましょうね」

 副長としての書類仕事をしつつ、姉は弟の教育に余念が無かった。

 ルフィに文字を教え込むための口実にされた感は強いものの、アンの言うように知っていて損はない。

 机を隔てた向こう側では、エースが航海術の本を流し読みしている。分からない所があれば、アンに質問しているようだった。

 兄と姉が出来すぎるのも弟に悪影響を及ぼすものなのだと、シノブはしみじみと現実を噛み締める。なんでも程々が良いのだ。良くできる人物の周囲には挫折という苦い感情もまたある。

 はっきり言ってこの兄姉は何でも出来すぎていた。理解力もあれば応用も出来る。すでに忍が知っている、漫画とは違ってきているのだ。

 

 

 「おじいちゃん、ここら辺で救助したって事にしとくね。わたしの知り合いだって書いたら、クザンがCP動かして裏を取ろうとするだろうし」

 「そこら辺は好きにせい。あやつは…お前に関しては小細工に気付きよるからな」

 

 にい、と笑うガープ中将の笑みに、孫娘が乾いた笑いを返す。

 

 祖父権限でマリンフォードに朝食を食べに来ただけだった兄弟は、艦に乗せられ東の海へ向かうこととなった経緯を、シノブは耳にたこが出来るほど聞かされていた。

 原因のほぼ90%位はルフィの食欲だった訳だが、ここ数日の食事風景を振り返るとエースもどっこいどっこいの量を食べているのを目撃している。一体こいつらの胃袋はどうなっているのかと思いつつも、さらりと流し読みしていたシノブは現物を見て唖然となった。

 「これでも腹8分目位なんじゃないかな」

 本来の食事量を聞いてゲンナリとしたのもいい思い出だ。分量は記憶にとどめず、忘れてしまった方が精神的にも楽になれる、そんなレベルだった。

 その時に、アンが持つ特殊能力も知ったのだ。

 制約があるとはいえ、瞬間移動が出来る利点は大きい。しかも使い勝手はピカイチだ。潰しが効く。

 

 「シノブもなんかおもしれェ力、あったりするのか」

 「さあ、どうでしょう」

 

 手すりの斜面を滑るルフィの問いをさらりと流す。

 それじゃあ本部にちょっと行ってくる、そうアンが言葉した直後、海の彼方を見て動きを止めた。

 「見えるか、あれ」

 「うん…」

 「どくろが見えるぞ!! 海賊だ!!」

 

 D兄弟達が視線を向ける先を、監視の役割を持つ海兵が望遠鏡を向ける。

 「アン副長、まだこちらでは見えません。識別不可能です」

 「判別を急げ。小隊長は部隊をまとめなさい」

 

 鶴の一声が放たれ、慌ただしく海兵達が動きだす。

 シノブは邪魔にならぬよう、そっと場所を移動した。

 

 数日前にも海賊との戦闘があった。

 海兵は海賊を悪、と断ずる。それは間違いではない。

 海兵側に居るから、ではなく、行いを指してだと言う。

 「普通にこの海を航海するなら、しても良いと思ってる。暴力行為を行わず、奪わず、往くなら」

 

 しかし多くの海賊は奪い、嬲り、殺す。

 それが海賊たる所以だと言わんばかりに、だ。

 この世界に生きる人々にとって海賊は、賊である者達は害悪でしかない。

 「ONE PIECE を求めるにしても、もうちょっと考えれば良いのにね」

 

 人が人として、理性ある生き物として在るべき姿を。そう、寂しそうにアンが瞼を閉じた。

 

 最初は誰もが野望や夢を追いかけるために海へ出る。

 だがいつしか、追いかけている存在の遠さに諦めるのか、割り切るのか。

 理由の為の手段から、手段を正当化する理由を重ねるようになる。

 そうなれば奪略の、辱めの、殺人すら海賊であればやってもいい、と己を貶めていくのだと、悲しそうに笑った。

 「海賊は悪だよ」

 

 シノブは唖然とした。

 ゴール・D・ロジャーの血筋ならば、追いかけて止まないと思っていたのだ。

 例え生まれ変わったとしても、あちらの常識で自分を縛っていても、囁かれないはずはない。間接的に関わっているシノブであっても、歌を唄ってしまうのだ。運命が中核の中に生まれた存在を放っておくわけがない。

 「ありゃあ、フラスコ海賊団か」

 舷に腕をかけ、ガープも海原の先を見る。

 「わざわざ西海から遠征? なんのために?」

 最近よく聞くようになった海賊の名前だ。額を上げる度に刷られる手配書には謎の液体を構えるピエロのような顔がにこやかに写っていた。

 

 「行く?」

 そうじゃのう。孫娘の言にガープ中将が腕を組む。

 ボガード副長も、中将がなにを言おうと直ぐに行動に移せるよう後方で待機していた。

 

 「いいや、アンは予定通り本部へ行け。あの船はわしが責任をもって沈めよう」

 「はい」

 アンは敬礼し、兄弟達へ手を振って姿を掻き消す。あっという間だった。

 瞬間移動を見慣れている海兵達は、なんという事も無く見送ったが、初めて見るシノブは目をぱちくりとさせ、思わず声を上げた。

 それくらい見事な消えっぷりだったのだ。

 

 「ボガード、先陣を切るあの子の代わりを探せ」

 了解、副長がそう応え選定へと入る。

 英雄と呼ばれ、慕われているガープの元に集う海兵達は誰もが優秀だ。のびのびと、それぞれが得意とする分野に配置され、伸ばし活躍の場を与えられていた。

 

 「おれが行く。いつもアンがやってる事なら知ってるからな。穴埋めしてやるよ」

 無造作な物言いを放ち、エースが海兵たちの間に混ざる。

 その様子をガープが面白そうに眺めていた。

 「やっと海兵になる決心をつけおったか」

 エースが行くならおれも行くぞ、と鼻息の荒い弟の頭を押さえながら、そっけなくエースが答えた。

 「なわけあるか。……アンがな。この艦の奴らとそいつの事心配してやがるんだ」

 混ざる理由はそれで十分だと吐き捨てる。

 「素直じゃないのう。馬鹿孫めらが」

 にかりと笑うガープが目くばせするまでもなく、ボガードが兄弟の側に移動していた。気心のしれた腹心だ。ある程度の秘密も事あるごとにこぼしていたが、驚く事無く、全てにおいて冷静な判断を下している。

 「あとな、ジジイ。やるなら一撃で仕留めてやれ、だそうだ」

 エースは数段上の位置に立つこの船の責任者を見る。

 その一言でガープは片眉を上げた。海賊船がどのような状態になっているのかに気付いたのだ。

 「配置につけい!!」

 

 中将の言の元、海兵が訓練された一糸乱れず動き出す。

 自然風に頼らずとも海を渡れる動力を作動させ、軍艦はそうして海賊船と接舷した。

 

 

 風に血なまぐさい匂いが混ざる。吐き気を催すような、鉄と血と、硝煙が、鼻孔を刺激した。

 衛生兵が流れ弾に当たり、苦悶の表情を見せる海兵の応急処置を行っているその横で。

 握りしめた拳が手を紫色に変えていた。

 「…こんな、こんな殺し合いふざけてる!!」

 シノブは思わず叫んだ。命の価値は、生きている限り変わらない。殺していい命も、殺されてもいい命も、本来あってはいけないものだ。海賊だから殺す、海兵だから殺す。

 それを黙って見ていられるほど、忍はまだ達観など出来なかった。

 

 目の前で倒れた海兵から流れ出た血だまりが、靴先に届く。

 「動くな、死にたいのか」

 鋭い眼光がシノブへ下る。横に立つガープが腕を伸ばし制した。

 

 「抵抗する者が居る限り、抜いた刃を収められん」

 ガープが静かに言葉する。その表情は違えず軍人の顔であった。

 海賊達も自らを海賊と称した時点から、覚悟は出来ているはずなのだ。海軍と会えばどうなるか、同業者と会えばどうなるか。

 

 それでも。それでも、だ。

 気持ちが割りきれなかった。

 偽善と言われるだろうが、そんな事はどうでもよかった。

 漫画の世界ならば、さらりと、流せていたのが不思議でならない。

 アニメでもそうだ。淡々と話が進み、その中のキャラ達が現実をさっさと受け入れては先に進む。

 命のやり取りが紙面で踊っても、それは現実では無いから受け入れられていたのだ。

 

 目の前で惨状を見せられ、そうですか、と黙っていられる方がおかしい。

 自分にも何かできるはずだと、何かしなければと、焦燥感に襲われる。

 

 現実いた世界でも戦争は起こり、飢饉に苦しむ国もあれば食べ物を捨てるほど裕福な国もあった。

 だがそれを知っていて、身の回りのことだけに目を奪われ、生きていられるのは遠い世界の出来事だからこそだ。

 どれだけ情報が隔絶されているのかが、ようやくわかった。平和の二文字は文字通り作られているのだ。そして安全を無料(ただ)だと信じて暮らしている。とんでもないまやかしだ。

 

 ”命が勿体ない”

 

 シノブも思っていた。

 頂上決戦のシーンで、戦うほどに乾く、とその言葉通りどうやってこの乱闘が収まるのかと。

 正義だ悪だという言葉も突きつめればこじつけに過ぎない。

 やっている事は両者とも変わらない、人殺しである。

 所詮(しょせん)戦争が無い国で生まれ育った忍だ。現在進行形で行なわれている船上の生々しさや戦う両者の理由や、その根底にある願い、水面下で行われている駆け引きなど全く分からない。

 だが命というものは尊いものだと教えられてきた。

 目には目を、歯には歯を。

 間違っていないのだろう。武力でしか守れないのだろう。だがそれを、だからといって簡単には受け入れられなかった。

 この思いはわがままだ。物事の筋道を通していないのは、シノブだった。

 

 海軍は世界の、世界政府が作り上げた道理で動いている。人々を守るために海軍は、理にかなった職務を遂行しているにすぎない。

 ただの民間人が口出しできる件ではない。ただ忍という一個人が納得できない、というわがままなのだ。

 

 「止めてやるよ、この戦い。ひとり残らず戦いをやめたら、海兵も引いてもらおうか」

 「ほう」

 英雄の目が一度見開き、邪智深く唇が弧を描く。

 「ならば約束しよう」

 ガープの言を聞き、シノブは自身の姿を変えた。

 

 ……能力者じゃったか。

 

 ガープは物言いを変えた女性へ目をやる。孫娘が親しく語りかけていた相手である。ただの一般人では無かろうと考えていたが、よもや能力者であるとまでは思い至ってはいなかった。

 ガープに向けられた眼光には怒りが含まれていた。黒の目の内にくすぶるのはやりどころのない、苛立ちであろうか。流れる金髪はそのままに、腕は翼に、両の足が人魚のごとく形成(かたちな)す。

 長年生きてきたが、見た事のない生き物の姿だった。

 

 流れ出たのは歌声だ。

 戦いの中、怒号が響き渡っている。喊声、雄叫び、助けを呼び、苦痛に喘ぐ。

 その中を歌声が渡る。

 

 動物系幻獣種の悪魔の実、セイレーン。

 普通悪魔の実を食べれば海に嫌われかなずちになってしまうが、人魚の姿であれば水の中を自由に動き回れ、鳥の姿になれば空も飛べるという両得な能力だ。

 ただし人の姿で海に落ちれば能力は発動せず、そのまま溺死してしまうという、限定的な優遇がなされている。

 シノブはその能力を使い、海と島を幾つも渡ってきた。

 難点であるのはまだこの実の能力を使う際、人間の形を成したまま、発動できないということだ。人のままでは歌声は響いても、効果は発動しない。

 

 その中を声音が、意識の槍となり全てへと突きささる。

 しかし喧騒は収まらない。剣戟が、銃声が鳴り止まず、叫喚が続く。

 

 

 

 (エース、ルフィに伝えて。側舷から離れてって。…すぐ戻る。戻るまで何とかお願い)

 急に何事だと、エースが弟を探す。騒ぎの中心を見れば大体そこにいる、と兄はゴムゴムの体を使って海兵に混じり、海賊達へ打撃を与えていたルフィを視野に収める。

 薙がれる白い鉄光を読み、避けながら人と人の間をすり抜けた。

 見聞色で動きを読めば、相手の何手も先を簡単に予測出来るようになる。

 

 「こいつはおれの弟なんだ。手出しは無用で頼む」

 六式の技を使い、海賊が力を込めて振りかぶった剣を片手でエースは受け止めた。鉄塊は便利な技だ。肉体を鉄以上の固さに、鍛錬の度合いで変化させる事が出来る。

 腕を払い、相手の体勢が傾いたその瞬間を狙い、ふわりと身を空中に浮かせ嵐脚を両足から放ち、押し寄せていた人垣を崩した。

 

 方割れの気配を感じ、空に目を向ける。

 「こんにゃろう!! エースにばかり、いいとこもって行かれてたまるか!!!」

 繰り出すしたのは銃(ピストル)を複数回叩き入れる、銃乱打(ガトリング)だ。

 「ったく、船壊してどうする」

 離れさせろ、と言っていたのはこれかと、エースは身をひるがえした。

 能力者にとって海で戦う場合、足場が最も重要となる。

 剃は覚えても月歩はまだ習得できてはいない弟の手を兄が掴み取り、空を蹴った。

 

 空から歌声が降る。

 それは忍が歌う音に無理矢理被せた遠慮のない謳いかただった。有名な曲だ。知っていても不思議ではない。

 正義のコートが風を受け音を立てる。海賊船のマストに降り立ったアンが旋律に沿って言葉を紡ぎ出した。

 「忍さん、怖い顔してる。美人が鬼の形相すると迫力あるよねぇ」

 「……ったく、いい性格してるよお前」

 心底嫌そうな顔をしたシノブが目を瞑る。気持ちを切り替えるためだ。鼻孔から息を吸い、横から聞こえる声に添うように高らかに歌い出す。

 声音が一転した。感情をただ爆発させた、ただの音ではなく鈴を振るような甘さや誘いが含まれた。それを耳にすれば思わず誰もが戦いを忘れてその場に立ちつくした。そして力が抜けた手のひらから、剣を、銃を手から落としてゆく。敵味方入り混じりまどろむような恍惚とした面持ちへと変化し。瞼が落ち、今すぐにでも倒れてしまいそうな表情を誰もが浮かべはじめている。

 

 「おっと」

 エースは間一髪で眠りに落ち倒れる寸前の弟の体を捕まえる。

 「能力者だったのか」

 柔らかな歌だった。耳に心地よく響き、どことなく安心できるような雰囲気がある。

 

 「これね、子守唄なの」

 いつの間にか弟を背負ったエースの横に、アンが降り立っていた。

 「良い歌でしょ」

 

 ねむれよい子よ 庭や牧場に

 鳥もひつじも みんなねむれば

 月はまどから 銀の光を

 そそぐ この夜

 ねむれよい子よ ねむれや

 

 家の内外 音はしずまり

 たなのねずみも みんなねむれば

 奥のへやから 声のひそかに

 ひびくばかりよ

 ねむれよい子よ ねむれや

 

 いつも楽しい しあわせな子よ

 おもちゃいろいろ あまいお菓子(かし)も

 みんなそなたの めざめ待つゆえ

 夢にこよいを

 ねむれよい子よ ねむれや

 

 アンもエース達が分かる言葉で詩を歌う。

 「これはね、フリースの子守唄って言われてて、有名な曲なのよ」

 あちら側の母に良く歌って貰っていた。懐かしい思いが胸にこみ上げてくる。

 「それ、小さい頃歌ってたやつだな」

 「あ、うん。ひっそり歌ってたつもりだったんだけれど」

 頬を染めてはにかむアンの頭に、エースが顎を乗せる。

 心に大きなわだかまりが生まれ、そしてそれがしこりとなる前に溶かした歌だ。忘れるはずもない。

 

 

 海賊船だけでなく今まで戦いの最中にあった両者共々、その場に崩れ落ちていた。

 「すげェ能力だな、あれ」

 そうだね。

 アンもこちらを探るように見てすぐにツンとそっぽを向いたシノブを視線で追いかけた。

 知らぬ間に唇に笑みが形作られる。

 

 「運良くシノブさんの能力も見れた事だし。ロープで縛ろうか」

 義祖父も立ったまま、鼻提灯を作って眠っている。

 今現在この2隻の船の中で、起きているのはシノブと双子だけだ。

 実の力によって眠らされた海賊は、海兵も含めて手荒に扱ってもなかなか目を覚まさない。

 きっと悪魔と忍の相性が良いのだろう。

 

 「本気で歌ったのに」

 渡り板を伝ってやってきた姿にふたりが目線を向けた。シノブが悔しそうに笑んでいる。

 「実はわたし、生きた海楼石って言われてるの。実の力を無効化するくらい、お手の物よ」

 忍は放たれた言葉の意味を考える。

 海楼石は能力者の力を一時的にだが無効化する海の鉱物だったはずだ。エースと握りあった手、それが歌の効力をかき消したのだろう。瞬間移動に海楼石効果。なんという優遇っぷりであろうか。

 大きなため息を隠さずに落としたあと、周囲の状況を見回し腰に手を当てる。とんでもない人物の手を取ってしまったものだ、と。

 

 「秘め事は後幾つほど?」

 「さあ。残る秘密の果実は酸いか甘いか。お楽しみ、ということで」

 

 手の内にある謎はまだある、と暗に示され、シノブは口角を吊上げる。その内語ってくれるのだろうか。

 シノブは言及せず、戦いの終わりを告げた。

 「ええ、歌姫のおっしゃる通りに」

 軍艦の倉庫より大量のロープを引っ張り出し、手際良く海賊達の体にかけてゆく。

 その縛り方は鮮やかだった。時折、これはヤバいんじゃないだろうかという縛りもあり、シノブは苦笑しながら指をさした。数はひとつだけだったが、亀の甲羅を模した縄の形はやめておけと思う。

 答えは唇の前に差し出された人差し指だ。

 「ここだとモーガンさんが居る支部が近いかな。曳航出来るといいなぁ」

 

 船の壊れっぷりにアンは苦笑を零した。

 助かったとしても。この海賊船に乗る、生き残れた男たちはきっと、支部で振り分けられテキーラウルフに"労働力"として送られるだろう。

 そういう仕組みをアンが作った。天竜人が娯楽の一環として作らせ始めた橋の労働力を確保するためとして。海賊達を収容するための牢獄が満員であるからとして。海賊に身を落とした者たちであっても、更正の機会を与えるためという名目で

 シノブには知られてはいけない。アンは思う。知ればきっと怒ると。そんな予感がした。

 

 向こうとこちらでは、徹底的に社会の地盤が違う。

 あちらでの悪と善が、こちら側ではイコールで繋がる考え方ではない。

 時代により、世代により、暮らす地により、価値観や考え方が違うように、こちらのあるがままを受け入れなければ、世界を否定しなければならない。今ある全てが偽りだと、アンには言えなかった。世界には今の体制に疑問を抱かず、穏やかに暮らしている人もいる。その人達にあなた達は間違っている、と、革命軍のようには叫べなかった。

 

 こうあるべきではない、と。

 長きに渡る、世界貴族を頂点とした世界政府の支配に疑問が投げかけられ始めている。

 この動きはもう止まらない。

 そうなった時に、忍はきっと近しい考え方をもつ、革命軍に身を寄せるだろう。

 構わないと思った。

 選択は無数にある。その中でこれ、と選ぶ道ならば二股の路をそれぞれ進むんでもいい。

 

 今の仕組みのまま。存続させる手立てもある。

 幾つかその選択肢が、両の手の中に落とされていた。

 政治的にも、武力的にも。揮える力を渡されていた。

 けれどそれは、その気持ちは傲慢だった。心に色があるならば、その思いは闇といえる。全てを塗りつぶす、黒。

 

 アンはほほ笑みの仮面を被り、必死に押し殺す。

 拿捕したこの船に乗っていた多くが飢餓に苦しんでいたことを、ものが物言わぬ骸が船底に在ることを、アンはゆっくりと飲み込む。知らないままでも生きていける人にわざわざ教える必要はないのだ。

 



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48-underground

 その人物と再会したのは、本当に偶然だった。

 とある任務で顔を合わせ、それぞれの所属も任務も違った為、もう出会う事は無いだろう。そう思っていた人物だった。

 

 名前もかつての初対面時に名乗られたマニエ、とだけしか知らない。

 胡散臭さを感じ、任務が終わってからマニエのことを義祖父の権限を使い調べてみたが、そのような人物は世界政府のどこにも存在してはいなかった。ならばとコングに鯵の南蛮漬けと生まれ故郷の地酒のふたつと貢物として献上し取り計らってもらった。だがそれでも見つからなかった。

 

 徹底的に調べることも出来るがしかし。借りは作りたくないが使いたければ幾らでも使っても良いと餌をぶら下げてくれている伝手もある。

 だがこれ以上踏み込んではいけない。と本能が警告を発したのに従い、アンはそれ以上の追及を止めた。

 

 好奇心はあったが、これ以上の詮索は無用、と打ち切った。

 踏み込めばどうなるか、容易に想像がついたからだ。CP9も秘匿された情報であったが、暗闇度はその比ではない。

 臆した、といえばそうなのだろう。

 

 好奇心という餌に釣られほいほいと着いて行き、途中で逃げ出すとは無様だといわれても構わなかった。

 ぶっちゃけてしまえば怖かったのだ。かつて生きていた社会にも汚れ仕事を担う汚れ仕事があった。清く正しく美しく生きていれば、触れ合うことのない世界でもある。

 

 アンは立ち止まってしまった。

 以前から持ち得ている常識が閂(かんぬき)をかけたのだ。

 闇深く濃い、闇の中に落ちる事が恐ろしい。既に足を突っ込んでいたとしても、抵抗があった。

 表現できない畏怖。

 知ってしまえば、ああこんなものなのだ、と思うかもしれない。

 だが二度とそこからは、這い上がっては来れない何かに囚われそうで、伸ばした手を握りしめ引き戻した。誰かさんと違って世界の裏側をこの手に支配したいと画策している訳ではないのだ。

 

 「あら。お久しぶりね」

 「こんにちは。えっと……麗しの君」

 

 世界政府の紋が入ったブレザーを着、長い髪をアップにまとめてにこやかに立っている人物へ、動揺を悟られないように話しかける。

 極度ではないが、自分が緊張状態にあるとアンは自身を感じていた。

 

 「うふふ。随分と気を使って下さるのね」

 女性は紅をさした口元に弧を作る。

 以前は無表情に近く、口調も抑揚無い話し方をしていた。しかし今目の前にいる人物は表情を凛とさせた有能な秘書官だ。

 

 女性も内心では再会の奇遇に驚いていた。

 一度遭遇した誰かとは会いにくい、そういう環境を選ばれ次の特務を任じられるのが常であった。

 初回から数えて1年半ぶりとなるが、今までにない経験だった。

 どこまでこちら側を認識しているのかは不詳だが、ある程度の『事』を知っている、そういう判断に基づいた思考に切り替える。

 

 「久しぶりですから。気にしていませんわ。ファム、とお呼びください」

 ガストレイ・ファム。

 それが彼女の、今現在名乗る名だった。

 しかし全てを海兵の少女へ伝えはしない。例え知ったとして、意味のない事だろう。

 これが最後の再会になる可能性もある。

 もしまた奇遇にでも出会えたのならば、今日のように再び名乗ればいいだけの話なのだから。

 

 「はい、ファムさん。この書類の受理をお願いします。元帥よりお預かりして参りました」

 にっこりとほほ笑んで茶封筒に入った、元帥からの託しものを受付カウンターの上に置く。宛名は書かれていない。だが彼女は中身の数枚を確認しただけで、誰への届けものであるかを把握したように見えた。

 

 

 ここは研究機関だった。

 世界政府が秘密裏に隠し持つ、病原菌やら細菌やらを集めた場所だ。

 一般に出回る風邪菌から最高危険度とされるAAAまで、よりどりみどりで揃っている。

 

 かつて住んでいた世界では、細菌兵器が映画やゲームの題材にもされていた。

 実際にどこにそれがあるかは秘匿されているものの、そういうものを扱っている、という情報は一般市民であったアンの目にも入って来ていた。

 

 使うのが目的ではない。

 使われた時の対処法を模索するための研究、としてである。

 第一、ばら撒いたものが敵側だけでなく味方陣地にも影響を及ぼしやすい細菌類をむやみやたらに使いたがる支配者など居てはたまったものでは無い。

 

 しかし所変われば考え方も変わるようで。

 友人の勧めで格闘ゲームを数多く世に送り出してきた某会社が出した、ゾンビものの傑作、映画にもなった作品ほどではないが、それに似たような話がちらほらとこちらでは耳にしていた。

 

 アンが思うに立地が良過ぎるのだろう。この星を覆う陸地面積は海の三分の一しか存在せず、船という交通手段がなければ25%ほどが目視出来る島影がない孤島状態にあるといえた。だから使ったとしてもその島だけで終わるのだ。

 

 使い勝手が良いという事情は、目的とあらば手段を選ばない狂人たちの枷を緩くする。

 使えるのならば使えばいい。試せる実験場があるのだ。使わなければ損であろう。

 そういう人物というものはどこにでもいるものだ。研究者、科学者、なにか没頭して事なす人々のごく一部に、一般的に流布されている道徳心や、心のバランスを崩して狂気に走ってしまう個体がいる。

 

 ある意味Dr.ベガバンクもそうだ。彼自身には悪意などない。彼の頭の中に浮かび上がった空想科学を現実化出来るのが、ただただ嬉しくて楽しいだけなのだ。奇抜な大発見や大発明をして、世を騒がせているなど当の本人が把握しているとは思えない。

 彼は永遠の少年なのであろう。

 

 先日も突然、よれよれの白衣のまま研究塔から出てきたと思えばパシフィスタ計画実行書(プラン)を嬉しそうに見せてくれたのだ。

 丁度本部でカンズメになっていたから良かったものの、航海に出ていたらどうしていたつもりかと、博士をたしなめるのも一苦労だった。夢中になればなるほど、博士の行動は読めなくなってゆく。護衛を任されている各々の苦労はざっと見積もってもアンの倍はいくだろう。戦桃丸が不憫でならない。忽然と消えた博士を探して右往左往する彼の姿はいつ見ても泣けた。

 

 アンは期待に満ちた博士の視線を側面に受けつつ、気になった個所を幾つか指摘し、訂正しながら、余白に短く文字を羅列する。

 彼の空想力には限界などないのだろう。この世界で彼の突拍子もない話題について行けるのは、今のところアンだけだった。

 根本的に変化を厭う世界だ。新しい何かに関して、拒絶反応を起す人たちが多い。そんな保守的な人々の中で話の腰を折らず、最期まで耳を傾けてくれる存在が彼にとって如何ほどになっているのか。わかっていないのは当の本人達だけであった。

 

 5年もの付き合いになると、大体の気心も知れてくるものだ。

 「博士、人体が人工物を拒絶するこの反応数値って、こっちの実験結果からとったほうが……」

 確かに今の数字のほうが、現実的ではあるけれどもう少し詰められる余地があるような。

 鉛筆を持ち、ページをめくりながら頭を悩ませる少女に博士が満面の笑みを向けていた。それぞれの用紙が計算式と細かな文字で埋められたものを見て、博士は嬉しそうにそうか、と新たに沸いて出た理論を語りながらその場で倒れる。手にしていた資料が舞ったが、博士の身を受け止めるほうが大事だと小さく息を吐く。どうやら興奮しすぎたらしい。以前にもこういう事があった。

 アンはゆっくりと床に博士を横たえてから、計画書を拾いページを確認して厳重に封をする。

 

 そして博士を医療階へ運んだ後、博士の研究室という名の私室に置いてきた。塔の入り口と各所に置かれた監視機器(セキュリティ)にはアンの網膜情報が入力されており、カードだけであれば入れない場所も、すいすいと入る事が出来る。

 これは研究塔所員と同じ待遇だ。

 元帥や義祖父でもカードパスを使って塔へ入るというのに、破格だといえるだろう。

 

 部隊を移動する度訂正が行われ、情報が残り続けている。

 どれだけ博士は自分をお気に入りにしているのかと、多少、身に危険を感じることもままある。だが示される提案は、実に自身にとっても甘美だった。

 もしそれが実現するならば、ほぼアンの思惑は達成されるからだ。

 

 なので時に大量の血液を採取されたり、組織を提供したり、試薬を飲まされたりと、顔を合わす機会が多いのも確かだった。

 

 

 

 アンはそろりとファムを伺い見る。

 目の前の人物は時に、世界政府内にて抱えてはいるが目障りとなった、利用価値を見いだせなくなった、これ以上許容できなくなった人物に対し、下された決断の鎌を振りおろす役目をおっている。

 

 CPとはまた別の組織だ。

 名も形も、役職すら。特命を帯びた任務を着々とこなす。

 出会いとなった島でも、作られた台本(シナリオ)通りテロルの手によってとある中将が戦死し、彼が握りこんでいた情報を残らず回収した手腕を見せた。

 

 出来るならば、敵に回したくない人物といえるだろう。

 あの島がその後どうなったのか、ファムは興味などないに違いない。後始末はCPの仕事である。

 しかもとっくに終わった事柄だ。知ったところでそれがどうしたと、割り切っているはずだろう。

 

 アンは珈琲お好き?時間があるならば一緒にどうかしら、と誘った女性の後を歩く。ひらりと正義の文字が書かれたコートが揺れた。

 誰もがその白を見ておっかなびっくりしつつも頭を下げる。

 

 「あなたの姿が珍しいのね」

 口元に指先を当て、ファムは笑んだ。アンが、ではなく海兵が、の間違いだろうと内心で思う。

 

 事の始まりは昨日の夜に遡る。

 元帥の職を終えたセンゴク小父が義祖父との夕食の後、恒例となった一献を交わし始める前に、休日出勤となるが頼みたい、と前置きし茶封筒を手渡してきたのである。

 目的地は口頭で伝えられた。しかも地名ではなく座標である。義祖父が燃やすのを前提に持ち帰った地図に緯度と経度が書き加えられてゆく。そして覚えたかとアンに確認し、マッチの炎で即座に燃やしてしまった。

 

 この研究所は安易に人を寄せ付けない、もし知ったとしても行き方が分からない場所に存在している。

 まさか、そんな所にあるなんて。が聞いた直後の感想だった。

 実際にこうして書類を渡せている時点で、嘘でも虚偽でも無かった訳だが、どっきりでしたーであればよかったのに。そう思う。

 

 「さすが英雄と謳われるモンキー中将のお孫さんね」

 「……どうも」

 

 そんな事を思っている時に話しかけられ、咄嗟に相槌をうつ。

 「この場所を教えられたという事は、あなたもこちら側の住人になった、ということかしら」

 目の前に出された香り良い珈琲を前に、にこやかな表情を変えずに問うファムを見る。

 「だって、一体誰が想像するかしら。赤い大陸にこんな所があるだなんて」

 正確には壁の中腹が正しい。

 研究者たちをどのように運んだのだとか、どうやってこの施設を作ったのだとか、どうやって物資を運搬しているのだとか、いろいろ突っ込みたい所は山ほどあるが、最低限、月歩が使えなければ単体でこの場所に来る事すら出来ないだろう。

 

 かつてマリージョアの奴隷解放を行った、かの魚人、フィッシャー・タイガーのように素手でほぼ直立にそびえる崖を登るなど、一般市民からしてみれば考えられない自殺行為だ。

 しかも万が一侵入を許しここにあるモノが持ち去られれようとすれば、全ての出入り口が遮断されるという。

 

 出口は無く、そのまま破棄される。

 だがこの研究所で働く者達は、その事実を知らされてはいないようだった。

 仕方の無い話、とアンはしたくは無い。しかし何か手が打てるのかと聞かれても、手の中にはカードが一枚も存在していなかった。

 何も出来はしない。ただ黙って通りすぎるしかなかった。

 

 「そうですね。半信半疑で来ましたもん」

 アンは珈琲に口を付ける。

 苦さと甘さが口内で広がった。ごくりと無理矢理喉へ流し込む。

 海軍といえば珈琲といわれるくらい、口にすることが多い飲み物だ。アンの場合どちらかといえば義祖父の影響を受け、茶を良く飲んでいるが、会議の席では大概この黒い飲み物が出てくる。

 以前よりは飲み下せるようにはなってはいたが、相変わらず苦手ではあった。

 

 「一線を跨ぐ手前で、なんとか踏み留まらせて貰っている状況でしょうか。今日のように後ろからこうして突かれてはいますけれど」

 これに関しては苦笑しか出ない。ただのお使いにしては、刺激が強すぎる感がある。

 「じゃあ私も、その後ろ側にまわらせて頂こうかしら」

 ファムは静かにアンへほほ笑む。

 「ねえ、歴史はお好き?」

 

△▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 海軍本部最上階では人払いがされ、部屋には書類へサインを続けるセンゴクと、ばりばりとせんべいをほうばるガープの姿だけがあった。

 ちらりと眼鏡奥の目が時計を捕らえると、筆音が止まる。

 「そろそろか」

 「とっくに到着はしとるじゃろう」

 

 なんでもそつなくこなす孫娘の事だ。

 今頃、施設の誰かと懇意を受け案内などされているやもしれない。

 ガープはセンゴクが件を孫娘に見せると言い出した時、構わん、と即答した。

 

 たった5年だ。

 孫娘の実父も海賊として名を上げ始めてから、怒涛の勢いで頂きにまで駆け上がっていったものだが、幼い身の上でよもやこんなにも早くここまでやってくるとは思いもしなかった。若かった己を振り返り、懐かしさに表情を歪める。

 かつてまだ生まれてもいない子供の行く末を仇敵より牢で託された時にはどうすべきかと悩んだ。

 軍へ差し出すべきか、それとも隠すべきか。

 考え抜いた末に、ガープは後者を選択した。どれほどロジャーが世界に仇を成す所業を重ねてきたとしても、生まれてくる子供にはなんの関係もない。まっさらな命に親の過ちを押しつけ断罪されるなど、あってはならぬのだと判断した。

 そうしてゴール・D・ロジャーの処刑が行われ、教えられた地で見つけたかの女性は、自らの命を賭してふたつの命を生みだした。

 

 手元に置いておきたかったが、海兵という職業柄、ましてや海賊王の子種はもう残っていないだろうと撤退した島に、休暇を使って密かに訪れたガープを見張っている目があるのは解っていた。

 手厚く保護する素振りを見せれば、すぐに周囲を洗いはじめるだろう。

 だから森へ、盗賊家業に身を落としていた昔馴染みに苦汁の選択をして預けたのだ。いらぬ世話を押し付けられたと、周囲を欺くために。

 故郷であれば休暇毎に帰ったとしても不審に思われる事は無い。それに森へ放り投げて来たと言えば、艦内に潜む間者もそれ以上追う事はないだろう。そう思っての行動だった。

 

 子供達は思っていた以上に逞しく成長した。

 顔を合わせていれば情も沸く。頻繁には帰れなかったものの、会うたびに成長してゆく子供たちを愛おしく感じるようになっていった。

 恵まれた環境ではない。学を手ずから与えたわけでもない。それなのにいつの間にか学び舎へ毎日通う子供たちと並び立てる双子となっていた。これにはガープも舌を巻いたのを覚えている。

 勉学の理由など、子供の時分にはわからないものだ。大人となったときに、如何に重要であったかを思い知るのが多くの常だ。

 ぶつくさと文句を言いながらも通う子供たちはまだ可愛らしいものだ。不貞腐れ、年齢を重ねてから子供であり続けようとする大のおとなが責任転嫁してくるのが一番始末に終えない。

 

 しかし双子は学び方を教えてもいないのに、本を広げていた。

 得意と苦手がくっきりと分かれたふたりである。それを互いに補い合うのは双子であったからであろうか。

 

 孫がふたりから三人となり、その中のひとりがなんとか海軍へ所属してくれたものの、残る兄弟はなんの因果か、海賊になるのだとギャーギャー騒いでいる。しかもそのきっかけというのが赤髪のシャンクスだという。孫に何をしてくれたのだと一言文句と共に大砲を打ち込んでやりたかったが、なかなか遭遇する機会が恵まれず、果たされてはいなかった。

 

 そう、孫らは祖父の心配などお構いなしに、未来へ向かって全力疾走し続けている。

 島に送り届ける際、孫達の行動や言動を見聞きしてよくわかった。

 しかもそれぞれ、孫達の潜在能力が計り知れない、ときていた。瓜の蔓に茄子はならぬ、の通りだ。

 島で未だくすぶっている兄弟に関しては未知数だが、アンに限って言えばガープにも一切悟られず独自の情報網を敷き、長年この海軍に席を置いている己よりも正確な報告を提示してくるまでになっている。その網の中にはグレイゾーンに位置する、諜報機関にも足場が築かれていた。

 

 これは嬉しい誤算である。

 だからこそ今回、政府が抱える暗がりの一部へ放りこんでみた訳だ。知る事にどん欲な孫娘にとっては絶好の餌だろう。なにが起こっても動揺など見せず、対処しきるに違いない。

 任期もあと2カ月と終わりが見えている。

 どう動くのかを上司として、家族として見守っていた。ある意味道楽だ。そこら辺に転がっている賭け事よりも、危険性の高い一発勝負に挑んでいるような感じがしていた。

 

 海軍は、言いかえれば世界政府はポートガス・D・アンという存在を手放すつもりなど無い。

 出ようとするならば、出られなくするまでだと、最深部に繋がる扉を開けさせた。ここまで中枢に入り込んでおきながら、なんの未練もなく去ろうとするなど甘いのである。過ぎたる興味は毒だ。しかしその毒をも喰らわねば知ることの許されない暗闇があるとも知っている。そしてその深淵を覗き見ることの出来る細い糸の上を渡りきろうとしているのだ。それをアン曰く、悪い大人筆頭であるセンゴクが黙って見過ごすはずが無いのである。

 家族の特権として、17の誕生日を迎える日以降、なにを目的として海に漕ぎ出すかを聞いていたガープは複雑な心境だった。

 親と同じ路を歩ませるまいと尽力したつもりだったが、片割れは絶賛同方向に向いてばく進中だ。もう片一方は海賊にはならないと言い張っているが、自身がどう主張しようと無許可で海に出るもの全てが海賊である。

 しかもルフィまでが赤髪という海賊に毒され、それに倣うと宣言しているのだ。頭が痛いというのはまさしく、これらと言えた。

 

 難儀じゃのう。

 細めた視線をガープはセンゴクへと向ける。

 アンを差し向けた本人は、素知らぬ顔で書類に向かっていた。

 

 世界政府が禁じている幾つかの品物がある。

 最も広く出回っているのは歴史の本文(ポーネグリフ)に関するなにかだ。

 これはただ、そういうものがあると知っているだけでは罰せられない。興味を持ち、しらべようと動きだすまではまだ、捕縛した海兵が情状酌量の余地を認めれば解放される。

 だが考古学者となり、海へ出れば話が違った。罰するものへと変わる。

 

 そしてその中のひとつとして、生物兵器に関しての研究を禁じられていた。

 かつておつるの元へ配属されていた孫娘が関わった事件に、これらが関わっていた事があったのだ。

 一言で海兵と総じられていても、様々な分野を得意とする者達が本部に駐留している。

 かつての同僚に、防疫と細菌戦の研究指揮に携わっていた人物が居た。

 ガープのように実戦部隊ではなく、科学者上がりという正反対の位置づけから昇格してきた男だ。

 

 世界政府が生物兵器となり得る細菌を保有しているのは、なにも使う為ではない。

 使われた時、どういう対応をすれば最も被害を抑えられるか、を起点に研究が行われている。

 孫娘が愚痴を吐きだしているのを聞いた事があったが、

 「細菌兵器は軍隊で使うべきものじゃないもの。あんなに効果が不完全で、どこに流れていくかも予想できず、放ってしまえば効果の実証をどこまで確実に、評価するのか。果たして目標に達するのか。曖昧すぎるし制御出来ないものを使うなんて、意味のない事だもん」

 

 そう零していた。

 余り後味が良くなかったそうだが、機密が漏れて、多くの人々が苦しむよりはマシであったと付け加えてもいた。

 

 革命軍だけが、政府を打ち倒そうとしている勢力では無い。

 軍として使えないものでも、政府を打倒しようとする勢力が、ただ殺戮の道具として使う事があったならば。

 肩を叩く手が止まり、目的に対して手段を選ばない者たちの手に渡る事が、一番嫌だと小さな声でつぶやいていた。

 

 人間は、見た事のないもの、を恐れる事が出来ない。

 不可視への恐怖も、感じた事のある何かに置き替えて怖いと感じている。

 

 孫娘は嬉々として戻ってくるのか、はたまた憂鬱な顔をしているのか。

 ガープは最後のせんべいを食べ終え、袋をさかさまにし、残りを口の中に入れると立ちあがった。

 

 



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49-理由

 髪を切った。

 伸ばし続け、背の半分ほどまで届いていた黒髪をおつるに整えて貰ったのは昨日である。

 忙しいはずなのに時間を作り、何も聞かずハサミを入れる手は優しかった。

 

 17歳。

 出航の日と決めた年齢だ。

 日の出を迎え、アンはその年齢に達した。

 出航前にささやかだが、フーシャ村で誕生日会をしてくれるのだと聞いている。おもわず垂れそうになった口元を慌てて引き結んだ。

 せめて自分の誕生日くらいは大人しくしていろ、とエースからは言われそうだが一品か二品くらいは持っていっても良いかもしれない。アンは台所でひとりごちる。

 

 マキノはアンにとって料理の師である。包丁の使い方や出汁のとり方を始めとする基本を一から教えてもらっていた。目を離した隙にできあがった炭化物は論外であったが、それ以外の微妙な味付けをアンが出したとしても嫌な顔をせず、工程を聞いてこうすればもっと良いのよ、そう言いながら一緒に付け直してくれたのも一度や二度ではない。

 久々に食べる、まさしく母の味ともいえるマキノの料理を待ち遠しく思いながらアンは昨日を振り返った。

 

 はっきり言って、未だに半信半疑であった。後任への引継ぎもあっという間である。あっけないほど簡単に送り出されたのがものすごく気持ち悪い。 

 

 アンの後を継ぐのは義祖父の船に着任して間もなく、あちこちから声が掛かって忙しい彼女の補佐として付けられた五人の中から選ばれた。眼鏡をかけ、そばかすがほんの少し散らばった長い髪を三つ編みにして垂らしていた可愛らしい女性である。年齢は十八と士官学校を出たばかりならではの固さを最初は持っていたが、ガープ中将が醸し出す自由過ぎる気風に感化されたのか、程よい柔軟さが生まれてきてもいた。彼女ならば安心だとアンも太鼓判を押せる。

 ついさっきまで自分の机であった場所がそうでなくなる瞬間に立ちあうというのは、思いのほか寂寥を感じるものなのだとも思い知った。

 腹に一物あり偽っているのかと探ってみたが、別段、出てくるものは何もなく。

 最終日を迎えた日は本部での書類仕事であった。終業時刻プラス一時間ほどの残業を終えれば、義祖父の名で予約が入れられた近くにある居酒屋へ副長の数人と、補佐たち、仲良くなった下士官達によって連れて行かれた。アンに内緒で企画されていた送別会を開いてくれたのだ。

 その席で絶対に持ってると役に立つからと電伝虫の番や花束を半ば押し付けられるように貰い、嗜み程度にアルコールも口にした。

 

 楽しかった。

 

 コートをはじめとする支給品はクリーニングに出し、片付けは済んでいる。

 義祖父の家にはまだ服や本などの私物が山積みになっているが、家となる船を手に入れるまでは置かせて貰うつもりだった。

 ひっそりと瞬間移動で戻ってくれば、誰とも会わずに私物を回収できるだろう。

 

 時計の針は7を指し示していた。

 あと1時間もすれば、いつもならば。本部へと向かうが、退役した今はゆったりとしたものだ。

 

 「おじいちゃん、朝ご飯出来た…よ? ってあれ、やっぱり出かけちゃった、か」

 アンはどこかほっとしている自分に苦味を感じる。

 献立は青魚の味噌漬けとタコときゅうりの酢の物、そして貝の味噌汁だ。食べたいと義祖父から昨夜、頼まれた品だった。酢がきついだの、砂取りが未熟だの、味噌の付け具合が甘いだの、散々文句を言われながらようやく最近及第点を貰ったばかりの品々だ。

 

 アンは慌てず騒がず土鍋で炊いたご飯をおひつに入れ、テーブルに出していた品々を冷蔵庫になおしながら、見聞色を広く展開した。

 気配を探れば、本部に近い場所にある。

 そして余り感じたく無かったものが三つ、こちらに近づいて来ていた。

 

 誰と言わずともわかる。

 

 引きとめ工作である、とはわかっていた。

 Dr.ベガバンクがなにやらアンに手渡したいものがあるらしいのだが、部屋に閉じこもって出てこなくなった。もうしわけないが明日、訪ねて来てくれないかなどと。

 

 最後の夜をマリンフォードで過ごす、と伝えたアンにエースはため息をついていた。

 生まれる前からの付き合いである。予想していたのだろう。アンもこうなるだろうなと薄々は感づいていた。

 これはアンのわがままだ。そしてエースはそれを受け入れてくれた。

 

 エースに話しかけると既に、出航の準備は出来ているという。あとはアンがドーン島に戻るだけだ。

 このまま跳んでしまえば、例え大将でも追っては来れはしない。船を出しての追跡となるだろうが、10日前後の時間は稼げるはずだ。

 台所を綺麗にし、足早に部屋に向かう。そして最低限の荷物をまとめた肩掛けカバンを持ち玄関へと急いだ。

 

 靴を履きいつものように跳ぼうと試みるが、なぜか力は発動しなかった。

 何かに邪魔をされるような感じがしたのだ。例えるならばそう、ぷよぷよしたような壁のような何かが目の前に立ちはだかっている。

 

 なるほど、とアンはひとりごちた。なぜか笑いが込みあがってくる。これを使うならばわざわざ策を講じなくともよい。さすが大将たちである。

 

 

 (エース、お願い。日が落ちる前に出航して)

 通じてはいるが返答は戻って来ない。じっとこちら側の様子を見ているのだろう。

 跳べないとなると選択肢が大幅に減る。

 アンに残されているのは大きく分けて2択だ。生きるか死ぬか。

 前者ならば命は助かるが、海軍に死ぬまで繋がれ続けるだろう事は必然だ。手段を問わないのであれば、パシフィスタ計画に組み込まれる可能性も捨てられない。そしてその場で命を散らす後者。

 生き残ったとしても、右死亡、左死亡、前後、上下、どれをとっても嫌な結末にしかならない。

 

 普段であれば言葉で分かり合える彼らだが、海賊予備群となったアンの声に耳を傾けはしないだろう。

 「どうしたものかな。説得に応じてくれるとか、見逃すとかするような人達じゃないしなぁ」

 義祖父が消えたのは、介入しない為だ。

 家族を何より大切にする人である。アンの身に何事かあれば大将達の前に立ちはだかってしまうだろう。だから駆けつけられない距離を置いた。歳を取ってしまったとは言うものの、その底力は、未だにサカズキすら信頼を置いているのだ。

 若かりし頃の義祖父がどれだけ絶大な破壊力を有していたのか、歴然とした実績と大勢の信望が物語っている。

 「さあ、どうやって、切り抜けよう」

 アンは乾いた唇をちろりと紅で濡らし考える。自身が笑っているなど、全く認識していなかった。

 

 鞄は置いて行く事にした。荷物は邪魔になる。

 靴も頑丈な軍用のブーツに履き替えた。しっくりとくる履き心地に小さな苦笑が漏れる。紐をきつく締め、玄関の先を見つめた。

 付近には民家もある。住人の全てが海軍関係者ではあるが、よもやこんな住宅街で溶岩を流したり、氷漬けにはしないだろう。むしろしないで欲しい。良心を信じたいが、それぞれ各々の常識と信念で動く彼らだ。絶対はない。

 

 誰が指揮するかによっても変わってくるが、予想では先鋒に青雉、中堅で黄猿、そして抑えで赤犬だろうか。

 アンの見聞色はかなりの錬度を誇っている。実際の訓練でもボルサリーノの光に追いつき、避けることができるようになりつつあった。ならば攻撃の要はボルサリーノか。とはいえ光でも高出力となれば、貫通、溶解はあり得る。周囲の町並みが崩壊するだろう確率はほかの二人とさほど変わらない。

 

 周辺には気配が、いつものように側にあった。日常そのままである。勧告は出されていない。ある意味、アンに対する警告であろう。

 

 ピカピカの実を初めとする、大将達の能力を身をもってして知らしめさせられているアンとしては、出来れば避けて通りたい衝突である。

 が、それは叶わぬ願いだとも長い付き合いで分かっている。

 

 腰が重かった。意を決めて、立ち上がり玄関を出た。

 「おはようございます。こんなに朝早くから大将の三名が揃い踏みとは。どのような御用件でしょうか」

 にっこりと外面用の笑顔を張り付かせ、真正面に立つ3人の人物へしらじらしくも言い切ってみる。

 

 「なあに、昨日ガープさんに出した辞表をねぇ~取り下げてさえくれれば、あっし達はすぐにでも退散するよ~」

 直、本題だった。アンは眼を丸くし、ぱちくりと瞬かせた。そして噴出す。あまりにも直球だったからだ。

 黄猿は本来、このような話し方をしない人物だ。だからボルサリーノの言葉をよくよく反芻する。

 取り下げてくれれば、という事は、まだ受理されていないのだろう。おつるが管轄する事務処理班で止めているに違いない。

 そして昨日の送別会も実は別の目的にそって行なわれたのだろう。

 

 半日とはいえ温情により猶予を与えられていたようだ。だが答えはすでに決まっている。

 自分に課した誓いはなによりも重い。唇を結ぶアンの姿に、盛大なため息を吐き出したのは青雉だった。

 「聞き入れちゃあくれないか」

 クザンがゆっくりと唇を動かせば、白いもやがただよった。

 

 二年前もそうだ。

 あの時は義祖父が隣に居てくれたおかげで取り乱さずに済んだが、今はひとりである。

 冷気が足元にひんやりとした空気を運んできた。

 いつでも技を繰り出す準備が出来ているという合図だ。

 

 「……身に余るほどの良い評価を頂いているようで嬉しいのですが」

 アンは拳を握る。

 「少々肩が凝ってしまいまして……そこ、通していただきます」

 アンは笑みのまま言葉を結ぶ。今まで一度も勝利を収めた事のない、三大将戦が始まった。

 

 

 

 (しくった、な)

 いつもは聞こえるのどかな雀の鳴き声も、今日は遠い。

 海軍関係者しか住んではいない島とは言え、非常時における迅速な避難を誰もがとれるわけではない。根っからの一般人も居るのだ。だから本気は出すまい、と思っていたアンが浅はかであった。形勢ははっきりと言って不利だ。

 優位になるなんて事は天と地がひっくり返りでもしない限りありえなかったが、多少の希望くらい抱くだけなら自由だろう。もしここにエースが居たならば話は別だった。ふたり掛りなら逃げ出す隙を作ることも出来る、と数々の経験から断言できた。だがその半身は遠くドーン島にある。薄い膜がエースとの同調までも拒んでいる。やっかいだった。

 瞬間移動と一言で括ってはいても様々な手段と用途がある。アン自身が良く使う、自身の身をここではないどこかへ運ぶことや、目視できる範囲内の物体を手元へ持ってくる、などだ。

 

 アンはあえて、海兵である内はと能力の披露を抑えてきた。

 なぜなら全てを明るみにしてしまうと、海軍から出ることが出来なくなってしまうからだ。英雄の孫という称号だけでも特別視されているのに、世界のあちこちから人物を、物を手元に引き寄せ、もしくは放つことが出来るなど知れればどうなることか。

 

 この能力はとても使い勝手がいい。やろうと思えばいろいろ出来るのだ。

 道端に生える草を引き抜くように、または石を蹴るように、命を狩ることも容易い。

 以前ルッチからも聞かれたことがある。世界のどこかには必ずあると断定できる、一冊の書物を手元に引き寄せたりは出来ないのかと口頭で質問を受けたのだ。

 アンはやろうと試みて、難しいと答えた。だが内心ではその物自体を知っているし、条件がつきそうだけれどやれば出来そう、と確信めいた自信すらあったくらいだ。

 

 もしそれを手に出来たならW7での潜伏捜査が終わり、またアンと共に任務に就けるのにと残念そうに鳩が嘆いた。いやそこはちゃんと自分の口で言おうよ、と突っ込みを入れたのはまた別の話である。

 

 世界はアンにとんでもない力を与えている。

 本来ならば隠し通すべき力だろうが、幼い頃は脳内お花畑、というより使い勝手の良いこの能力を伸ばしてもらえるなんてラッキーだ、なんて思っていたくらいだ。だから能力の開発に関しては文句を言わず、淡々と従ってきた。

 

 はっきり言ってアンの能力はセンゴクを始めとする大人たちにとって、始めこそ眉唾物であったのだろう。

 だが正体が明らかになるにつれ、いかにそれが規格外であるかを悟っていった。臆に一人現れるかどうかも定かではない能力者が失われる。由々しき事態だ、即刻止めねばならない。と事態を含んだ現状によって描かれる未来の中で、海軍にとって最も良い選択が選ばれるのは至極最もな話である。

 

 何が徒となったのか。

 わかりきっている。アンが自分自身の価値を見誤ったせいであろう。

 低く見積もり過ぎたのは、今まで積み重ねてきた価値観が基本にあるからだ。これは誰にでも出来る事。だから自慢したり、威張ったりするようなことではない。

 そう、アン自身が思ってやってきたことの多くが、簡単であるからこそ継続できずに難しいといわれるあれや、これや、であったのだ。

 

 そして何よりも長く居過ぎてしまった。

 善を知るには、悪を知らねばならない。なぜなら悪という汚濁を知らなければ、善行という尊いものが浮き上がってこないからである。

 

 幼い頃から海賊になるのだと言って憚らなかって来なかった兄弟たちだ。

 ならば今後、必然的にやり合わねばならないだろう海軍とはどんなものなのか。また孫をどうしても海軍へ所属させたい義祖父が当時、絶対にしてくれるわけが無いと思っていた、ケーキを持参しての誕生日会をわざわざ行なったのである。ちょっとだけ中身を見て、エースと共に海へ出るための力をつけようと入ってみたわけなのだが、思っていた以上に水が合ったのがいけなかった。

 

 三人はかつてアンの上司でもあった者たちだ。当然、アンの能力も把握している。

 

 右、左、左、下、上。

 左、右、右、上、下。

 

 動体視力に頼る回避はかなり精神を消耗する。

 見聞色との併用によりどうにか三人の動きを避けているが、この集中も長いことはもたない。

 エースの助言が薄い膜を突き抜けて来ない秒間は特に必死である。黄猿の初手にあわせて動いた青雉の手をすり抜けられたのは半身のおかげだ。そもそも視野に写らない光を物質として捉えようと思ってはいけないのである。行過ぎたその先の行動を読みながら行き着く先の、アンが動ける最大の素早さでとらえられるその瞬間に当てるのだ。

 

 大将たちは悪魔の実の能力を使わなくても、十分に強いのである。

 悪魔の力を使うとより強くなり、戦略が広がるから使うのであって、アンひとりを捕獲するためにわざわざ大技を繰り出す必要などないのだ。

 

 しかも赤犬、サカズキはまだ参戦していない。

 

 すでに黄と青だけでお腹一杯の状態である。赤まで加わったら一巻の終わりだ。

 

 「辞めるんじゃなく、休養ってことかねぇ~」

 「いち、ど、海軍は、辞めて、普通の人に、もどる、んです!」

 「……あぁ、良く聞こえなかったんだが」

 

 余裕のあるなしが如実に会話に出る。アンはわたしも強くなったからちょっと位のピンチは抜け出せるはず、と思っていた昨日の自分を叱咤したかった。見逃してもらえる確率はゼロを通り越してマイナスである。朝日が昇った段階で、なぜドーン島に戻れると思えたのか不思議でならない。

 

 酒か。

 と、思い至るまですぐだった。

 

 「いいねぇ~、考え事出来る位まで慣れてきたんなら、もう少し速くしようかぁ~」

 「手加減、して、下さっても、いいんですがっ」

 

 ボルサリーノが繰り出す体術には気軽に触れてはいけない。なぜなら触れた瞬間に高速となった光が身を貫くからだ。クザンも同上で凍りつく。サカズキの場合は燃えて火傷してしまう。よっていくら、アンの体内に流れる血が海桜石の代用品になるのだとしても、本来、安易に触れられる体ではなかった。

 

 人生とは本当にままならないものだ。

 

 海へ出る。

 ただひとつの望みをかなえるために支払った代償が、ここまで大きくなるとはアンも考えていなかった。

 

 急がば回れ、急いてはことを仕損じる。

 同じような意味を持つ格言が多く残されている物事ほど、先人達が失敗してきた談話の数となる。

 堅実に進めてきたはずだった。固い部分を選び過ぎたのが悪かったのか。

 

 「海へ、出るの!」

 

 出て、どうする。

 どこへ、ゆく。

 海兵として、今までも海に出ていたではないか。

 

 アンは口を噤む。答えられなかった。

 彼らに目的地を伝えられぬ理由がある。

 

 「海軍じゃ、だめなの!」

 

 わがままを言うな。

 必要とされているのは、わかっているだろう。

 

 諭す声が聞こえる。

 分かっている。多くがアンをその他大勢のひとりではなく、代わりの居ない存在として必要としてくれており、居場所を作ってくれていることは。

 それが如何に幸せなことか、十分理解していた。

 

 「だけど、居られない! 居られ、ないの!」

 

 それは悲痛な叫びだった。

 その声に一拍、青が遅れる。

 

 その瞬間、手を出せばこの場をきりぬく切っ掛けが生まれた。しかしそれをアンは躊躇する。

 覇王色の使い手であるアンにとって、自然系(ロギア)特有の防御力はたいして意味を成さない。そしてクザンの遅れを利用して嵐脚を放てば、今回の仕掛けの範囲外に逃げられたのである。

 

 だがアンはしなかった。戦いを忌避したからだ。

 海に出て自由に海を渡りたい。目的を持たず、ただ青の海を羅針盤が指し示すままにエースと共に旅をして、ラフテルに往く。そして父が残した言葉の意味を見に行くのだ。アンは決して海軍を敵に回したいがために海に出るわけではない、と声を大きくして言いたかっただけなのだ。

 

 だから貴重なその瞬間を自身の手で潰した。

 

 「ほぉんと、強くなったよねぇ」

 

 アンは肩で荒く息をつく。いつの間にか真正面に黄と青、そして後方に赤という絶体絶命の布陣となっていた。

 だが動いていてわかったことがある。封じられているのは瞬間移動系だけであった。覇気及び肉体への阻害は起きていない。

 

 そういえば博士(ベガバンク)が面白い発想を形にしたと言っていたのをふと思い出す。

 効果がアンの能力開発に効果を示すかどうか、動作環境の確認のためにも今度遊びにおいでと誘われていなかったか。

 パシフェスタ計画も順調に進んでいるから、多少寄り道をしても問題ない。アンが自身の体へ行なう実験の見返りとして博士へ望んだ研究も、根毛胚から培養した細胞が幾つかの実験段階を経て予想よりも上出来な結果が上がっているとも聞いていた。

 

 不意に後方の気配が動く。

 ぞわりと背筋を這う逆撫でにアンは咄嗟に黄猿が繰り出す腕の突きをいなし、青雉の股下を掻い潜った。

 目の前に立ちはだかったのは赤犬だ。青と黄が後方から追撃に迫る。

 

 アンは思わず空間を掴み、風を起こした。これはジンベエが水を掴んだのを真似してみた結果、出来た裏技である。無論、大将たちの目の前では初披露であった。

 彼女を中心とし暴風が吹き荒れる。その隙に移動しようと思ったものの、サカズキは動かなかった。

 「サカズキおじさん、どいて!!」

 

 「そりゃあ聞けん願いじゃのう」

 帽子の向こう側にある眼光が細まる。

 「どこに行こうとしちょるのかは聞かん。が、みすみすお前を放流してやれんのは、わかるじゃろ」

 

 ちくりと胸に痛みが刺した。サカズキの願いが流れてくる。

 この人物は出会った時からは考えられないほど、穏やかな表情をするようになった。これは諭す時の声音だ。

 だが苦虫を噛み潰すかのような表情をアンは浮かべる。

 自分の存在を必要としてくれるのは嬉しい。けれどアンは、命の使い先を既に決めてしまっている。ここでは無い。

 奥歯を噛む。そして放ちかけた言葉を必死に飲み込んだ。

 

 どんなに所望されたとしても、ここには留まっていられない理由があった。

 義祖父が何とかしてくれるだろう、そんな展望を持っていた時期もある。だが未来はある一点を違えなかった。

 脈々と名に受け継がれてきた意志がその先へ進めと急かすのか、それともそれはもう動かせない決定事項であって、どんなに足掻いても無駄なのか。

 自身の糸も大きな絡まりに捕まってしまっている。ほぐそうと懸命になっているが、頑丈すぎるそれにぐいぐいと引っ張られているような気すらする。

 

 「どいて…下さいっ」

 アンは拳に力を込める。両側からは、左に黄猿、右に青雉が迫って来ていた。

 赤犬は武装色だ。見聞色で先を読み、剃と紙絵で合間を縫えば突破できる。

 そう踏み、左右へ嵐脚を放ちながら赤犬の脇をすり抜けようと試みる。いうまでも無く見せかけの動作も忘れない。

 

 「無駄じゃけ。どれだけ見てきとるとおもう」

 手のひらが目の前に、路が閉ざされる。だがそれは予定に折り込み済みだ。

 その腕をとり、重心を乗せて跳ぶ。

 空中に逃げればアンには月歩がある。そのまま青を背に、瞬間移動が出来る範囲に逃げてしまえばこちらの勝ちだ。

 

 「甘いねぇ~」

 実の能力が無くとも、大将格は体技だけで中将を得る人物たちを凌駕する。

 アンも今まで十二分に味わされてきた。甘いと言われても油断している訳ではない。

 「ボルおじさんが、わたしの癖を知っているように、わたしも知ってるよ」

 

 足技を使う時、僅かに揺らぐつま先のブレ、そのわずかの空間を上手く利用する。

 「さすが子飼いの部下、きっちり育ってくれちゃって~」

 つぶやきを耳に受けつつアンはさらに上空へ逃げる。

 

 「しまっ!!!」

 いつの間にか上空にあった姿を捉えきれていなかった。青だ。アンは両腕で振りあげられていた踵落としを受ける。体勢が崩れ頭が下となり、落下速度があがった。

 重力に引かれる重さは、クザンの方が強い。それを利用、加速し青雉はさらに追い打ちをかける。

 

 咄嗟に鉄塊を使うが、僅かに衝撃が鳩尾へ入った。

 痛みに視界が一瞬ぼやける。動きが止まったアンを青雉が見逃すわけがない。

 そのまま地面へと叩きつける蹴りを放つ。

 エースの声でアンはくるりと空中で体勢を変え両腕でそれを受けるが、流しきれる力では無い。

 

 容赦のない一撃だった。

 地面がべこりと、アンの背を受け止めへこむ。骨がみしりと軋む。その際の衝撃音が耳に二度響くほど大きなものだった。

 朝食を食べずにいて良かったと、アンは胃液を吐き出しながら思う。衝撃で落ちた地点から口元を拭いながらゆっくりと視線を上に上げた。さすがに半端ない。たったひとりで億を超える賞金首を何人も相手にできる大将なだけはある。

 ただ。骨にも、内蔵系にもそんなにダメージはきていない。

 まだ動けた。

 

 

 「さすがに丈夫だな」

 そういう風に躾けたのはおれだが、と青雉がゆっくりと歩みを進める。

 「…後悔?」

 「いんや…もっと手放せなくなった」

 そもそも大将がわざわざ三人そろい踏みで自分を留めに来るなど、海軍の歴史をひっくり返しても前代未聞の出来事になるだろう。

 

 「ガープさんも歳だ。いい具合に育ったお前が跡を継げば、おれもまあ…なんだ」

 「わしらもそれを望んじょる」

 赤犬が青雉の言葉を繋ぎ、前へ出た。

 地面に座り込んだままのアンの腕を取り、立ち上がらせる。

 「あの人は先代、今代の元帥と共にこの海軍を率いてきた。その功績をお前が引き継いでも誰も文句は言わん」

 

 「…わたしじゃ、ダメなの」

 黄猿はここまで強情に我を張るアンを訝しんでいた。力不足とはもう言わせない。ではその他になにがそうさせるのか、理由が見当たらなかったからだ。御老人が隠し続けている何か、に由来するならば、それを聞き出せない限り首を縦に振らせる事は出来ないだろう。

 「わっしにも話せない事かい」

 

 優しげな声音にアンは目を見開く。だが顔を曇らせ、眉を寄せて首を振る少女に苦辛が漏れた。

 「困ったねぇ~」

 

 ならば、と赤犬はアンの身をボルサリーノに渡し、草陰に隠してあった何かを溶岩によって破壊する。

 「覚悟はようわかった。ならばわしを倒してゆけ」

 

 これはどこの頑固親父かと。アンは瞼をゆっくりと開閉する。不器用にもほどがあった。

 

 (アン)

 遠くから自分を呼ぶ、半身の声が聞こえた。

 (大丈夫、……迷ってなんか、ないよ。わたしはエースと共にあると決めてる。だから、留まらない。死んでも帰る)

 能力を封じていた何かは感じなくなっていた。サカズキが壊したそれが今まで妨害していたのだろう。

 

 「瞬時に動くそれも、お前の持ち味じゃけ。わしを納得させてみぃ」

 サカズキの額に刻まれた深いしわが見てとれた。だがそれは、怒りからでは無い。

 選択を悔いてはいなかった。全てを分かって欲しいと願っていた訳では無かったが、過ごした年月は確かに、絆を繋ぐには十分な刻を刻んでいた。

 「わしに勝てばもう何も言わん、じゃがわしが勝てばどうなるかは」

 

 こくり、とアンは首を縦に振る。そして口を真一文字に結んだ。

 

 もしこの場で、アンがゴール・D・ロジャーの血を継いだ子供であることを。今のままであればとある年齢でその命が尽きてしまう可能性が高いことを。そして、……この心の内を叫べたら、どんなに楽であろうかと力なく笑む。

 この身に流れる血が、その血がもたらす世界への影響力を、話せる時代であればどれだけ良かったか。

 すでに幕は切って落とされているのだ。投げ入れられた舞台の上から降りることなどできはしない。

 

 逃げ出すのは簡単だった。サカズキの言葉を真に受けず、跳べばいいのである。

 けれどアンにはそれが出来なかった。無理を押し付けているとは分かっている。分かってもらおうと思うほうが間違っているのだ。なぜなら海軍にとっては、ピースメインもモーガニアもひとくくりにして海賊なのだから。

 

 「…わかった。でもここじゃ周りの人達に迷惑がかかるから」

 いつもの施設でいいかな。アンは静かに発する。

 

 送り出して欲しい、とはなんと自分勝手な願いなのだろう、とアンも思う。

 このままだとあと三年しか命が無いといえば、延命するため足掻きに行くのだといえば手を離して貰えるのだろうか。

 だがきっとそれは悪手だ。

 

 各々の行動が手に取るようにわかってしまう。だからこそ伝えられない。

 

 「先に行って、待ってるね」

 切なさを含んだ表情を残し、その姿は瞬時に消えた。誰もが逃げたとは思ってはいない。手塩にかけて育てた若き英雄はその言葉通り訓練場で待っているだろう。

 

 「まったく、サカズキさんは甘いんだから」

 その声を背で受け、赤犬は歩きだす。居ない、とは露も思っていない足取りに黄猿がゆるりと唇だけを動かす。

 「これはガープ中将に問い質すしかないねぇ」

 ボルサリーノも赤犬の後に続いた。行き先は違うが、途中までは同じ道だ。

 

 それぞれの意図を胸中に秘め、足が向かうその先へと急ぐ。軍靴の音も小さく消えた。

 



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50-ありか

 じゃらり、と鎖が鳴る。

 手首は石壁に固定され、足首には鋼鉄の塊がふたつついた枷が嵌められていた。だが冷たさは感じない。金属があたる肌の部分にはサポーターがあった。女は体をひやしてはならない、という配慮がなされていたからだ。一応、囚人であるはずだ。ここまでされると反対に申し訳なく感じていた。

 枷も能力者の力をも奪ってしまう海楼石が含まれた特別製だ。牢の一角にはランプが置かれている。中に踊るものは炎ではない。

 プラズマだ。

 ボールの中で揺らめく繊維状の構造が揺らめいている。

 Dr.ベガバンクが作ったものなのだろう。アンが持つ能力の一切を無効化するなにか、を発生させていた。

 

 この場所に繋がれてそろそろ5日が経とうとしている。地下にあるとはいえ、五感が狂うほどなにもかもが奪われている訳ではない。アンはエースとも感覚が繋がっている。プラズマの効果のせいで細切れとなっているものの、なんとか大体の時間は把握できていた。

 食事や水は定期的に与えられてはいたが塩分を抜かれ、多少思考能力が落ちて来てはいた。がまだ無気力までは至ってはいない。

 

 衣類も毎日新しいものを義祖父が持って来てくれている。

 湯ではないが、監視付きで身を清める時間もあった。

 太陽の光がそろそろ恋しくなってきたが、それは我慢だ。

 

 そう、ここは海軍本部内にある牢だった。

 時折海兵が捕らえた海賊を収監するために入ってくる。しかし事情を知らされているのか、視線を合わせないように背けながら、目の前を通過してゆく。

 響くのは海賊が放つ罵声だけだ。

 

 (……ねぇ、エース。お願い。先に出発してて)

 

 意識で繋がる向こう側では、エースが待っていた。

 出航日をアンが海軍を辞める日とし、準備を整えていたのだ。

 しかしアンが捕縛されるという、エースにとっては予想内の展開が起り出航を遅らせていた。

 半身はあの日から、兄弟でサカズキを交わしたあの丘で青の先を見続けている。

 

 (明日まで待つ)

 (もう、そればっかり)

 

 アンは苦笑を浮かべる。

 その時、重い扉が開かれ、石畳を叩く革靴の音が響く。見知った気配だった。

 檻の前で止まる。

 

 「…やあ、おじいちゃん」

 「なんじゃ起きとったのか。アン」

 

 名を呼ばれゆっくりと視線を上げる。

 暗がりの中だとどうしてもうとうとしてしまい、昨日は義祖父が様子を見に来てくれた時には爆睡していたという。いつでもどこでもどんな場所でも、眠れるのは特技と言ってしまっていいかもしれない。

 鍵のかかっていない鉄格子を大きな体がくぐる。

 そしてアンは義祖父によりされる手入れを大人しく受け入れた。固く絞られたタオルで体が拭かれてゆく。他の誰かであれば徹底的に抵抗していただろうが、幼い頃から風呂にも入っていた家族である。真っ裸を見られたとて恥ずかしくもなんともない。手枷を外されても大人しくしているその姿に、ガープはほとほど困り果てていた。ほんの少しでも逃げる素振りでもしてくれたならば、着替えさせたあとに嵌めるこの枷に苦慮などせぬものを。

 

 「…やはり出来んか」

 義祖父の感情を押し殺した声に応えたのは笑みだった。

 「むーりー。以前から言ってるでしょ」

 

 瞳からは力が消えてはいない。

 幾日も最小限度の食しか与えられていないと聞いていた。気力を減退させる事のない孫娘にガープは嘆息する。よもや父を捕らえるために設えられた強固なこの牢に、その子が繋がれるとは思ってもみなかった。

 場所は違うが、同じように鎖で縛られていた在りし日のロジャーと邂逅しているような錯覚をガープは感じた。

 

 「お前も頑張るのう」

 「優遇されてるしねぇ」

 

 目が細められる。

 確かに、海賊達に比べればこうして体も拭いてもらえるし、傷の手当てもされていた。

 だが今、この牢の周りはかつてないほどの警備が敷かれている。

 

 「わしの跡を継ぐのがそんなに嫌か?」

 「ぶっちゃけると、嫌じゃない。おじいちゃんの隊はとても居心地良いし、海軍自体、肌にも合ってるから天職なんだろうな、ってすごく思ってる」

 ならばなぜ、とガープが言葉を発する前に、でも、とアンが小さいがはっきりとした声音を続けた。

 「わたしは、エースをこの手で、なんて、出来ないよ」

 

 このまま時が流れれば、アンはエースをその手に掛けねばならなくなる。そしてアンもまた、どういう理由で死ぬのかわからないが、二十歳という年齢で命を落とすことになる。

 

 「おじいちゃんは知ってるでしょう。万物の声のこと」

 「……継いでおるのか」

 

 「ん、まあ、中途半端に」

 

 ガープはこめかみを押さえ、眉の間に皺を寄せた。

 万物の声、とは未来を予知する能力であるとされている。簡単に言えば先読みだ。

 最近ではとんと耳にすることは無くなったが、随時、世界にはひとり存在しているとされており、占い師として高名を成す人物が多い。近年では生まれていないとされていたが、なるほど、ここに居たのだ。そして先代はその父である、ゴール・D・ロジャーであった。

 

 海賊王となったゴールド・ロジャーが万物の声を聞けた、と知っているのはごく一部の者たちだけだった。

 ガープがそうだと知ったのは、処刑前に会ったあの一瞬で白状されたからだ。

 なぜ子が生まれてくるのがわかるのだと問うたガープに、「おれには万物の声が聞こえるからな」とけろりとしてロジャーが答えたのである。

 

 アンは深くため息をつく義祖父を見上げる。

 嘘は言っていない。真実を全て告げてはいないだけで。

 

 父は世界の声を聞いた。アンはこの世界を流れる時間の前後を視覚として捉えることができる。

 足元に浮かぶのだ。物事の始まりと終わりが。浮き上がって見れば、先々をも眺めることが出来る。

 

 「…どう考えてもお前の身は海軍にあるほうが安全担保出来そうなんじゃがのう」

 「わたしだけじゃ意味無いよ」

 「ならエースも引っ張ってこりゃええじゃろうが」

 「んなこと出来たらとっくの昔にやってるっていうの」

 

 深い、深いため息がふたつ重なる。

 義祖父は昔、父と交わした約束を守ろうとしてくれている。

 仮にエースをもし、海兵として引っ張ってこれたなら義祖父はそれはもう喜んで奔走するだろう。だがそうなるとルフィが問題になるのだ。あの野生児が進む未来はどう転がったとて茨だ。先人が歩いた安全な路をわざわざ避けて、故人がここはどう見ても、どう足掻いたとて危険な場所だから入らないでおこうと避けた場所にわざわざ突っ込む猛者(ばか)なのである。

 

 その行為によって出会うであろうおのおのからどんどんと、波状効果がまた及ぶのはまだまだ先の話だが、その下地をアンとエースが作ってやらねば、出航の時点で詰むのは目に見えていた。

 未来は刻一刻と変化する。揺るがない確定したいくつかは存在しているものの、変えられない未来など無いのである。確定の直前で変えるためには様々な努力と代償が必要ではあるが、ゆっくりと過去から未来にかけて軌道修正を掛ければそんなに難しい手段ではない。

 

 父からラフテルへの鍵を渡されてから、かなりの広範囲を見渡せるようになり、見せ付けられた己の運命に愕然としてはいるが、あと三年もあるのだ。なんとか双子揃って生き延びる手段もあるに違いないと観測的希望を持っている。

 

 「と、いうことで、おじいちゃん。残留は諦めて、放逐して」

 

 未来は誰かの手に託すのではなく、どうなったとしても納得するために自分達の手で捥ぎ取りにゆくに限るのだ。

 意志は確固として揺らがない。

 「その頑固さは誰に似たんじゃろうのう」

 「おじいちゃん、と他三名ほどの保護者たち」

 

 地響きのような低い唸りを無視しつつ、青雉が語った話をアンはは思い返す。

 確かに義祖父はもう、良い年だ。とっくに引退していてもおかしくは無い。

 どうして義祖父が海軍に留まり続けているのか、その理由はひとつしかなかった。英雄の引退は世間の動揺を呼ぶ事になりかねないからだ。どんなに年を重ね、白く老いたとしてもモンキー・D・ガープという名の効力は衰えてはいない。ゆえに中将として在り続けなければならなかった。

 

 そこに出てきた孫娘の存在は、海軍にとっては救いだったのだろう。

 英雄の孫は果たして英雄の素質を持ちえていた。

 だから元帥であるセンゴクは最初からそのつもりでアンを育てたのだ。そして程よい年齢に達したならば義祖父を補佐につけ、英雄の名を告ぐ孫に世代交代させるつもりだった。

 だからアンにはどんな手段を用いても、残留してもらわねば困る事態となったのだ。

 

 退役願いを義祖父に出し、留まる事を否定したアンは出発の日、3大将と対峙した。

 このまま海軍に根を下ろすなら良し、もし出るというのならその屍をそこに晒すことになるだろう。そう、立ち塞がった。

 

 瞬間移動で逃げられぬように、特殊な磁場を発生させられたアンは善戦する。

 だがしかし、その他であれば潜り抜けられた戦線もたったひとり、赤犬大将が提案した通り行っても、阻まれてしまい成す術なく捕らえられてしまった。

 

 止めを刺そうとする青雉を制したのは赤犬だった。

 「禍根が残ればわしが刈り取る」

 青雉もまさか赤犬が止めるとは思わず、目を見開いていたのが印象的だった。

 だからアンもその時は抵抗を辞め、大人しく牢まで赤犬に手を引かれやって来たのだ。

 

 葛藤が無かったわけではない。

 6年近くを過ごした場所だ。

 繋がりある全てを投げ捨てるには余りある様々がここには詰まっている。

 

 「このまま残って、死を待つの?」

 既にエースの船出は決定的だ。ルフィーも3年後に出てくるだろう。

 自身の死は病気か事故か、それとも突発的ななにかであるのか、わからない。ただエースは、エースの死にはアンが直接関わっていた。

 

 「わたしは嫌だ。エースを殺すなんて、そんなこと出来ない、したくない」

 

 エースを殺すならば、自分が死んだほうがまだましだった。海兵として残り、エースやルフィに縄を掛けるのも以ての外だ。やりたくない。例えそれが正義という名の下に望まれたとしても、もしアンが海軍に捕らえられたまま行えと強制されたとしても、順ずる気は無かった。

 アンにとって地位も名誉も、金銭さえもこの場所へ留める制約とはならない。たったひとつだけ、望むのはエースの傍らに在る事だけだ。この思いだけは何があってもぶれないたった唯一の決心だった。

 

 ならばどうすればいいのか。答えはおのずと導き出される。

 

 「だから諦めて、おじいちゃん」

 

 にっこりと笑む孫娘にガープは額を押さえる。この話の持って行き方は、亡きロジャーと瓜二つだった。まったく血は争えない。

 「また明日来る。もう一晩ゆっくりと考えてくれい」

 

 靴音が遠ざかり、重い扉が閉められた。

 いくら時間を掛けても、変わるわけがないと義祖父も分かっているのだろう。

 しかしそれしか言葉が掛けられないのも、アンは分かっていた。それに今日はぶっちゃけた。ボルサリーノやサカズキ、クザンには言えなくとも、義祖父ならば言える。

 

 ガープは海軍本部中将だ。

 海賊となりゆく人物を野放しには出来ない。海兵としてのアンならば同意できる。

 3人の大将や元帥もそうだ。しかも自分達が育て上げた次世代でもある。解き放つわけにはいかなかった。

 内にあれば頼もしい戦力だが、対抗勢力となれば、アン一人に幾人を向かわせなければならないのか。損失を考えれば眉間のしわも増えるだろうし、重い溜息が落とされるのも解る。

 

 ベガバンクの研究が実を結び、効果が発せられたプラズマで何とか捕らえてはいるものの、海原に解き放たれれば、その身に纏う力を如何なく発揮し、すぐに台頭してくると思われているのは間違いない。

 しかも海軍から海賊に身を落とした英雄として、情報を扱う者達は書き立てるだろう。

 

 予想はしていた。過去と未来が並ぶあの場所に降りたときから、こうなるだろうと。サボが行方不明となったあの日、盃を交し合った兄弟たちの進む未来は決定されたと言っても過言ではない。

 義祖父も兄弟全員を海兵にしたければ、もっとやり方があったはずなのだ。

 しかしすでに過ぎ去った日々をとやかく言っても意味が無い。悔やんでも後の祭りなのである。昨日には手を振って見送って明日を見るほうがまだ建設的だ。

 

 「おじいちゃん、ごめんね、ぶっちゃけちゃって」

 

 悩むだろう。そして悶絶するに違いない。分かっていて、伝えた。

 アンが発した言葉が石畳にぽとりと落ちて崩れてゆく。

 

 

 

 

 牢から出た先に、青雉が立っていた。

 「…今日もダメでしたか」

 「ああ」

 返答は短い。

 こうなるだろうとは予想はしていた。

 ここまで頭角を現すとは思いもしていなかったが、さすがに血は争えないのだろう。

 3年という約束が終わりを迎えた日に、覚悟はしていたつもりだった。

 

 出来れば手の内に残ってくれるようにも、この1年、尽力してきたつもりだ。

 「さすがに一筋縄にはいかんわい」

 いつまでも腕の中で大人しく見上げる子供であって欲しかったと願う半面、意志を貫く姿にさすがわしの孫だと誇る気持ちもあった。

 子供はいつか巣立つ。その瞬間は子供たちが決めるため、大人の都合などお構いなしだ。

 

 親とは別の道を歩んで欲しかった。強い海兵になれと口やかましく言っていたのも、もしかすれば少しでも興味を持ってくれたならば、と期待していた。

 

 「…上手くいかんもんじゃ」

 コートを揺らしいつもと変わらぬ調子で歩き抜けようとする、かつての恩人に青雉は視線を動かさず問う。

 「それでいいんですかい、アンタは」

 絞り出すような感情が込められた言葉に、ガープは応える術を持たなかった。

 クザンにも、望む答えは戻っては、こない。

 

 

 

 ……

 

 

 

 鍵束の音が聞こえ、アンは浅い眠りの中を波に揺れるようにたゆたっていた意識をゆっくりともたげる。

 鉄の棒が回され、形ばかりで役目を果たしていなかった錠が外された。

 格子をくぐって中に入ってきたのは、心地いい衣擦れの音の元となる人物だ。

 久しぶりの姿に自然と表情がほころぶ。

 「やあ、ディ。ラン。久しぶり。今日はどうしたの?」

 ぽやぽやとした寝ぼけ眼のアンを見て、デイハルドは嘆息した。悠長に挨拶してくるなど、お前は馬鹿かと言いたくなってくる。

 しかもこんな場所で膝立ちのまま眠れるとは、神経が太いにもほどがあった。だが考え方を変えれば、この環境がアンにとって苦痛では無く、気負うものではないのだろう。

 「僕との待ち合わせを放置するとは。仕方のない奴だ」

 

 「あ。満月…」

 そこまでは認識していなかったと表情が語る。

 「まったく、お前は思慮深いのか浅はかなのか。時々分からなくなる」

 そこがまたいいのだが。

 と、デイハルドは極上の笑みを零した。その表情がいかに残酷な思考の最中であるのか、何度もその現場に立ち会っているランがひっそりと喉を動かす。

 

 今まで約束を破った事のない想い人をデイハルドは待った。

 貴族間で行われる会議が翌日控えていたが、そちらよりも待ち合わせを優先したのだ。

 しかし、朝日が昇るまで待てど、その姿は現れなかった。

 

 待ち人がなぜ来ないという怒りよりも、何事があったのかと胸騒ぎが先立つ。

 その実力は海兵であれば中将に任命されてもおかしくは無く、海賊にあっては七武海とも対等にやりあえる程と言われている。事実、彼の従兄弟が事あるごとに面白いほどやられたと喜々として愚痴を零しに来るくらい、アンが優秀であるという証だといえた。

 

 そんなアンが行方不明になれば海軍の方でも動きがあるはずだ。ゆえにデイハルドはランを呼び、すぐさま状況を調べるよう指示を出し、今に至る。

 

 

 「で、僕の狗はどうなりたいのだ。聞いてやろう。言ってみるがいい」

 

 傲慢に見下してくる黒の瞳にアンは思わず破顔した。さすがデイハルドである。こうでなくては。

 

 報告を受けたとき、デイハルドが抱いた最初の感情は愉悦であった。軟禁されている事実にさもありなんと納得した。だれだってそうであろう。大切に飼ってきた狗が逃げ出そうとしたら少々痛めつけた上、厳重な折の中に入れて二度と脱走せぬよう躾ける。

 

 また同時に海軍を辞めようと思っていた、など一言も相談されていなかったデイハルドは呆気にとられた。

 少々自由に遊ばせ過ぎているようだと目を細めれば、咳払いするランを無視しつつ家令を呼びつけ、とあるものを注すぐに持ってくるよう申し付ける。

 

 デイハルドにとってアンがどこに所属していようが問題など無い。海軍でも海賊でも、アンという存在が損なわれることがないからだ。ただアンがどんなに望んだとしても海軍を辞められるわけがなかろう、とは思った。なぜならば世界政府としても、ポートガス・D・アン・という存在は使い勝手の良い駒であるからだ。ただひとつ忘れてはならないのは、その所有者が天竜人であるデイハルドだ、という一点であった。

 

 「首輪だけで足りぬのなら足すしかないな」

 

 ランは小さく息を吐く。

 デイハルドという人物は年齢に反し、主人として仰ぎ忠を尽くすに値する人物である。ただ、優秀な人物には総じてなんらかの、常人には解り得ない思考を持っているものであった。

 デイハルドの場合、狗への執着だ。

 

 所有物である狗を苛めていいのは所有者だけという頭がある。

 ランが他の天竜人に罵られ頭を下げようものなら罵った天竜人へデイハルドが出来る最大限の報復をしつつ、頭を下げたランが二度と頭を下げようと思えない責めを行なった。

 人間は痛みや屈辱に膝を曲げず、どんな拷問にも耐えられるものだと思いがちだし、思いたいのもわかるが、そんなに持たないのが事実である。

 

 朦朧とする意識の中に刷り込まれると、どんなにしたくとも出来なくなるのだ。

 ただ手間がとてもかかるため、多くの天竜人は奴隷に首輪をつける。そうして手間を省いた。

 

 しかし本当に従順な下僕を作りたいのであれば、デイハルドが行なうそれ、のほうが最も効果をあげるだろう。

 

 情報を受け取ったデイハルドの行動は素早かった。地下牢に囚われているアンに会うための手続きを喜々としてランにさせたのだ。それと平行して首もとだけではなく、デイハルドのものであると知らしめる印の製作に当たらせた。

 

 決定事項であった。満月の日にデイハルドの元へアンを送らなかった咎を海軍はこれから受けることも。そしてアンも満月の日に訪れられなかった躾をこれから、その身に受けることも。

 

 公式にアンはデイハルド聖の所有物と発表されている。本来ならば聖の手元にあるべき所有物を海軍に貸し与えているのが現状なのだ。満月の晩だけは戻すように、と通達されているそれを破った。由々しき事態である、そう世界政府より通達されたならば、海軍は組織として諾と受け取らねばならなかった。

 

 

 「アン」

 デイハルドは名を呼んだ狗の顎を指で上に向かせる。

 血色の良かった桃色の頬が、白く見えた。

 今頃本部の上階では慌ただしい事になっているだろう。

 世界貴族がわざわざ、こんな場所まで足を運ぶ事など前代未聞だからだ。

 そう、わざわざやってきてやったのだ。所有物を受け取りに。

 その際ひとつやふたつの特権を発動しても、文句など言えまい。

 デイハルドは薄く笑む。

 

 そもそも世界貴族とは下々民にとって不条理な存在だ。いずれはその権力が地に落ちる未来であるが、今はまだ、政府が偽りの歴史を世界へ必死に流布している。ならばありがたくデイハルドとしては使うだけだ。組織として下部にある海軍相手に”我がまま”を発動させてしまっても、なんら問題はない。なりもしない。

 海軍にとって最も深刻になる事態とは、アンが海軍から外へ出る事だ。

 この人物が第三勢力の中に移動する事により、3つの均衡が崩れるのは目に見えて分かっている。

 だから、こそだ。

 鳥かごの中に収めてしまうのは余りにも勿体無い。

 そもそもアンはデイハルドの目と耳であり、その手足なのだ。こんな場所に繋いでいい存在ではない。

 

 「アン、じっとしていろ」

 

 デイハルドはアンの耳朶に触れる。そして小さな何かを取り出した。

 ランタンの火に揺らめいて見えたのは。

 

 「ピアッサー?」

 

 こちらの世界でもピアスはある。針でぶすっと刺し、ピアスをねじ込むという強硬手段をとらずとも、ちゃんとした装着機器があるのだ。

 

 「アン、お前は僕の狗だろう。ちゃんと自分が何者であるかを熟知させるために用意させたんだ」

 

 付けられている石は赤かった。消毒用の綿を用意していたランが希少なレッド・ベリルという石だと教えてくれる。

 満月の日に行けなかった、その罰でもあるという。

 確かにピアスがあれば、その痛みが消えても耳元に留められた石がある限り、満月の約束は忘れようにも忘れられないだろう。

 

 痛みは一瞬だった。

 取り外しが出来ない、もし取ろうとするならば穴を拡張させるか、耳を切らねばならないタイプのものであると言われた。

 

 「断ち切れ」

 

 命ずる声は単調であった。

 すらり、とランが刀を抜く。デイハルドの言に従い、ひずめの印を押された従順な(しもべ)がアンを縛していた鎖を一閃で断ち切る。居合いであるとアンはすぐに察した。

 

 「持っていけ。使い方はわかるな」

 

 こくりとアンは頷く。消毒用のキットをランから貰い立ち上がった。足の裏にひんやりとした冷たさを感じる。

 

 「海へ出るのだろう。気をつけて行くのだぞ。次の満月は忘れるな」

 「はい」

 

 アンはしゃがみ、デイハルドの頬にくちづけする。

 キスはする場所によって意味を持っているという。知ったのはつい最近だ。デイハルドが知っているかどうかはわからないが、ありったけの想いを込めてそっと触れた。

 

 三人の大将がわざわざ迎えに行き、遁走を食い止めた存在をいとも簡単に放流できてしまう天竜人の権力にアンは今更ながらに滅茶苦茶な威力だと再認識した。

 

 「アン、お前は誰の狗だ」

 「…ディの、です」

 

 数秒の沈黙ののち、ゆっくりとアンが言葉にする。

 ならば忘れるな。

 そう耳元で囁かれながら触れられた耳がちくりと痛んだ。

 

 「海軍にも言い渡しておこう。僕の狗を今後一切、縛するなと」

 

 その声は甘い。もしこれがアンでなければ、勘違いしてもおかしくはなかった。

 成長過程であるデイハルドはまだ幼い面持ちを残してはいるが、青年となり大人の男へと達すればかなりの美男子になるはずである。整った目鼻立ちは観賞用に適している、と断言してしまってもいい。さすが天空の園で粋を集めて作られただけのことはある。

 

 アンが手首をさすっている間に、プラズマ発生器をもランに破壊させた支配者が鷹揚に腕を組んだ。

 

 「忘れるな、次はないぞ」

 「はい」

 

 しっかりとした声音で返答し、満面の笑顔のまま一瞬にして姿をかき消した狗にデイハルドは「まったく世話の焼ける」と嘆息する。しかしその顔がにやけていたのをランは目の端にとらえていた。なんだかんだと主人はあの少女を慕っているのである。

 

 英雄の孫。英雄を継ぐ者。言い方は複数あるようだがその称号は決して仮でつけられたものではない。彼女の身にしっくりと馴染むふたつ名であろう。

 最初こそ居心地が悪かった屋敷にも、彼女の信奉者が増えている。その際たる人物により、主人がかなり複雑な心境となっていることも把握済みだ。

 

 優雅な身のこなしでランの主が地上へと繋がる石階段に足をかける。

 失礼します。そう声し、ランは主人の体をその肩へと持ち上げた。筋肉が持ち上がり、座り心地の良い場所に腰を落ち着けるのを待ち、ランが動き出す。

 

 「さて、なにをどうしてみせようか」

 

 くつくつといつにも増してどす黒い気配を漂わせる主人に、ランは心の内でなにものかに祈った。

 



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青海編
51-海原の路(1)


 三角帆が風を孕み、船首が青の波を掻き分け進む。

 天気は上々、海原も穏やかだ。

 フーシャ村の漁師から格安で譲って貰ったバルシャは、修繕され新品同様とはいかないまでも、海水を良く弾いてくれている。

 「エース、このままいけば明日には…」

 アンが海図を広げ、羅針盤(コンパス)を使って方向を確かめながら、帆を操るエースに声をかけようとし、言葉を止めた。

 「ん、どうした?」

 「ちょっと見惚れてただけ」

 なんだよそれは、と眉を寄せるエースに父と母の面影を見た、などとは言えない。伝わっているかも知れなかったが、口では紡がなかった。

 

 航海は順調に進んでいる。

 風の向きも微調整は必要だったが、欲しいと思う方向から、まるでその船出の背を押すかのように恵まれていた。

 

 

 束縛から解放された後、アンがまず跳んだのは義祖父の家だった。

 本当は誰よりも自分の身を案じ、奥歯を噛んで拳を握りしめていたエースの元へ戻りたかったが、そこはぐっと感情を抑圧して庭に出る。住宅街が広がるその地区は基本的に静かだ。学び舎としての学校や、未来の海兵が通う士官学校がある内は、子供たちの姿も見えない。時折ご近所の奥様方が井戸端会議をしているくらいだ。

 

 家の主は本部に居り、見慣れた屋内は、当たり前ながらに無人だった。

 時計を見れば昼をまわったばかり、そろそろお昼ご飯の時間だ。久し振りの日光にくらりとめまいを感じるが、屋外の開放感により些末ごとになる。

 「ただいま」

 アンは足裏についた砂を縁側で払い落し、鍵をかけずに開け放っていた立て戸より中に入る。とてとてと向かうのは自分の部屋だ。障子を開けると大将達が迎えに来た時のまま、時を止めていた。

 居間に行くと、干していた洗濯物が取り入れられ、山となっている。

 「もう、おじいちゃんたら。あれほど自分のくらいは畳んでってお願いしてるのに」

 日々の習慣的にその場にぺたりと座って畳み、立ちあがった。

 

 あの日、荷物をどこに置いて出たっけ。

 アンは絡まった記憶を解きほぐそうと試みるが、ぼーっとした脳では考えるに考えられず、とりあえずは横においておく事にする。

 欲求を抑え込みマリンフォード内に移動したのは、これからの旅で絶対的に必要になるであろう物品があったからだ。

 廊下を横切って台所に入れば、テーブルの上に山と積まれて果物類が目に入った。

 量的にいっても義祖父ひとりで食べるには余りある多さだ。きっと誰かが持って来てくれたものなのだろう。

 椅子の上に投げ出されている風呂敷を見つけ、ああこれは、おつるさんからのだと思い至った。良く見ればアンが好む果物ばかりが目につく。

 「この果物は冷蔵庫に入れておかなきゃダメだって…」

 その時、小さなメモがひらりと舞い床に落ちた。

 拾って文字を追えば、じんわりと瞳が潤み、頬をなにかが流れ落ちる。大きく息を吸ってから、アンは手の甲で目元を拭う。

 

 触れる温かさが無性に欲しくなった。

 

 義祖父の懐から、その手を振り切って出た今、代償無くすがれる存在は半身であるエースだけとなる。震える身をぎゅっと、その腕に抱きしめて欲しかった。

 きっとルフィも大丈夫だと言いながら飛びかかってきてくれるだろう。

 

 繋がれている時は気丈に振る舞ってはいたが、それでも囚われていればその身に疲労が蓄積してゆく。

 アンにとって海軍は、身を拘束し鎖に繋いで牢に閉じ込めたとはいえ、敵ではなかった。

 もし自分が義祖父の立場にあり、今まさに手の内から飛び出そうとして、策を講じる時間が無ければ同じ事をしていただろう。相手に嫌われたとしてもそれが周囲の感情を逆撫でせず、一応の終息をみせるならば悪役を買って出ても構わない。

 ガープ中将がとった行動に、怒りは無かった。

 それよりも無理をさせ、最近は幾分か和らいでいた眉間のしわを深くしてしまったのではないかと、そちらを心配してしまう。

 「…立場も、」

 唇をぐっと、結ぶ。

 

 アンは風呂敷に義祖父分を残して全部包み、荷物に加えた。

 目が赤くなっているだろうが、そんな事はお構いなしに風呂敷を抱えて目当ての荷物を探す。

 それは。出航と決めた日に用意していた手荷物は、玄関に置かれていた。

 大きめの籠の中に無造作に入れられてはいるが、来客者が気に止めないようなさりげない場所にあった。

 中身を開けて確かめる。当面の資金として引き出しておいた金銭もあった。かなり色が付いているような気もしたが、ありがたく受け取って置くことにする。

 地図と羅針盤(コンパス)、記録指針(ログポース)、全てを確認し、肩にかける。そして靴を履いた玄関で、随分と長い間寝床となってくれた家へ頭を下げた後、半身の元へ跳躍した。

 

 出迎えてくれたのはエースとルフィだった。

 ふたりが両手を広げ、落ちてくるアンを抱きしめる。

 「おかえり」

 「ただいま」

 涙を隠す事無く、アンは満面の笑みを浮かべる兄弟達のように、泣きながら笑った。

 

 直ぐに出航すると言われ、コルボ山の海岸へと急いで向かう。

 そこには既にダダン一味と村長、マキノが待っていた。

 ダダンは家から動かなかったという。

 出て行ってくれてせいせいすると言いつつも、実のところ寂しいのだと、マグラがのんびりとした口調で言った。

 「突然の船出だっティたからニー」

 なんでもエースが昨日の夕方に、明日出航すると知らせに走ったのだという。

 まるでアンが戻ってくる事を予見していたかのようだと、こっそりマキノが教えてくれた。

 

 複雑な表情をしていた村長や、お弁当を作ってくれていたマキノ、わざわざ見送りに来てくれた頭を除いた一味に、感謝とダダンに向けての伝言を残し海原へと出る。

 エースはその姿が視界に捉えられなくなるまで手を振っていた。

 ひとりでも操作できるように設えた船は、潮の流れに乗りぐんぐんと沖へと進む。

 「エース、ありがとう。待っていてくれて」

 返事は無かったが、テンガロンハットの奥にある瞳が静かに気持ちを伝えてくる。

 

 地下牢で6日、過ごしていた期間はエースにとっても長かったはずだ。

 実のところDr.ベガバンクが作ったあのプラズマを壊す術をアンは幾つか考えついていた。だがそれを実行すれば、あの場所から逃亡する事になってしまう。能力を抑える、あの膜のようなふわふわを突き破ろうと思えば、出来たかも知れない。しかしそれは避けたかった。

 甘すぎる考えであるのは十分に理解している。だが海軍に弓を引くつもりは無い。

 アンは言葉ではなく、行動でそう主張していたつもりだ。

 だから、という訳ではないが抵抗しなかったからこそ水浴びが出来たり、衣服を代えてもらえ傷の手当てもして貰えたし、義祖父が毎日顔を見せにやって来れたのかとも思っていた。

 デイハルドという合の手が入りこうして今、海に出られた訳だが、数日間本部内はてんやわんやだろう。

 

 

 「エース、その包帯、まだ痛む?」

 「いや、痛みはもうねェんだけど、あと2、3日は様子を見ろって言われてさ」

 羽織ったシャツから見える左腕の包帯に視線を落とし、エースが笑う。

 刺青を入れる時、多少の痛みをアンも感じた。我慢できない程ではないが、その痛みが長時間続くと、なにかを壊してストレスを発散したくなるような、じくじくとした痛みが疼くのだ。

 今は何ともないが、入れている最中は酷かった。

 実際に一度、我慢できなくなり、丁度来ていた義祖父にがぶりと噛みついてしまった程だ。

 

 なにごとかと驚いた義祖父であるが、痛みを訴えるアンを抱きしめ続けてくれたことには感謝している。

 

 捕らわれた翌日、ここを出るのは時間がかかりそうだから先に出航しておいてほしいとアンは願った。だが明日まで待つ、を繰り返していた半身に、それなら以前から刺青を入れたいと言っていたのを思い出し、待ち時間の間に彫って貰ってはどうかと提案した。

 簡単な物であれば2日ほどで入る。

 そうしてエースはマキノ経由で村長から紹介してもらった村の彫師に4つの文字を彫って貰ったのだ。シンプルなそれには、エースの願いが込められている。

 今は遠い地に在り過去を忘れ新たな人生を歩んでいる彼ではなく、胸の中に存在する"彼"と共にいくのだ。

 

 マキノに作って貰った手作り弁当と誕生日ケーキの代わりだと、入っていたシフォンケーキをふたりでほうばりながら、アンはコンパスで方向を確かめる。

 (エース、ちょっと北に流れてるから、あっち方面に綱ひいて)

 (ん。わかった)

 もぐもぐとふたりともに口を動かしつつ、前方に見えてくるはずの、突き出した半島を目指して船を進める。

 出発してから3時間ほどが経ち、上手く風と海流に乗ったおかげでコノミ諸島最東にあるハイカスの村までの航路が書き上がっていた。

 マリンフォードから飛び出してきたばかりだったが、凪地帯(カームベルト)を抜ければこの小さな船でも1カ月かからずにシャボンディ諸島に辿り着く事も出来る。

 だがそれではあまりにも、折角海に出た面白みが無いし、冒険の匂いもしない。

 アンはエースが望んだ選択に、新しい出会いを感じながら胸を躍らせる。

 

 サボが一番、エースとアンが今2番手として海に出、そして3年後にルフィが追いかけてくる。

 それまでにおれが海賊王になってたりしてな。額に人差し指を添えられ、遊ばれていた弟の様子をおもい出して笑む。それからエースは海と空を分け隔てる水平線を、何かに挑むかのように見た。

 「まあ頑張って」

 アンとしては兄弟たちに対しそういう他ない。

 

 「お父さんが没してから21年。未だに名を継ぐ者が現れていないのを喜んでいいやら悲しんだほうがいいのか。みんな途中で騙されちゃうんだよね」

 「普通は気付かねぇって。記録指針(ログポース)通り進んじゃいけねぇとかさ」

 

 すでに新世界の謎を知るふたりにとってこの航海は、ゲームで言う攻略本を片手に持ってプレイしている状態と変わりが無い。ただ攻略本があったとしてもやすやすと通してもらえる甘い海ではない。

 前半の偉大なる航路(グランドライン)はまだふたりであってもなんとか渡りきれるだろうが、問題となるのは後半だ。

 

 「仲間、集まるといいね」

 「なんとかなるだろ。簡単すぎても面白くねェだろうし。けどまぁ、その前に仲間と船だよな」

 

 さすがにエースもこの船で双子岬を越え、"偉大なる航路(グランドライン)"に入るつもりはなかった。月に一度赴く赤髪の船に行った際に、航海士から様々な話を聞いていたからだ。

 「良い船と人、に巡り合えたらいいよね」

 

 例えば草原を走る馬のような。例えば喧嘩しながらも最期は歩み寄れるような。

 話をしているとあっという間に時間が過ぎ去る。

 離れていた時間を埋めるように、あちこちに話題が飛ぶ。ふたりが交し合う話題の多くが弟に関してであった。ルフィの話で盛り上がれるのは今のところ、エースとシャンクス率いる赤髪海賊団だけだ。

 しかもこの手の話題はストックされ過ぎているせいもあってネタは尽きないし、止まることもない。

 

 

 出発してから2日目、予定通りハイカスの村に到着した。あまり船が寄らない村であるのか、久々の旅人に歓迎の声を掛けられながら宿に案内され、朝を迎える。

 のどかな村にある小さな食堂で朝食のパンをフォークに指しながら、アンは海図を手にどの航路を通るか悩んでいた。エースは既に5人前をぺろりと平らげている。

 「なんか問題でもあんのか」

 次のおかわりを頼みつつ、悩む片割れの横顔を見た。

 「いやあ、食糧補給的にはここの、両島の間を通った方がいいんだけれど」

 問題があるとすれば。

 コンパスの針で刺したのは、ひとつの島だ。

 「アーロンパーク」

 

 がちゃん、と音が鳴った。手に持っていたコップが割れたらしい。カウンターに立っていた主人が身を引いている。

 頭にはてなを浮かべるエースに、数年前に出来た魚人の縄張りがある事を教えた。

 「魚人って言うのはね」

 問われる前にアンは説明に入る。

 魚人とはなにか。簡単に説明するならば、水中生活に適応した人間、と言うべき存在だ。

 魚類の特性が全身に現れ出た個体を魚人、下半身のみ魚の尾を持った個体を人魚と一応は区別されている。

 陸上に住む人間は長い間、それこそ空白の百年を跨いだ過去から、水中に住まう事が出来る魚人達を虐げてきた。

 諸説は様々だが、魚という水の中でしか生きられない生き物の遺伝子を持つ、呪われた種族だといわれていたらしい。そういう人間も元を辿れば単細胞生物から進化して今の姿になっているわけだが、そんな正論は差別を行う存在にとって問題では無い。

 ヒトは。

 あちらの世界でも己と違う者に恐怖する。理解できないモノを恐れる。

 それがヒト自身が作り上げたバケモノだとするならば余計に、だろう。

 そして魚人たちもまた群れるしか能がない、数だけの人間を下等動物と見下していた。

 

 

 有名な思想をひとつ挙げるなら、白人至上主義がある。自分たちの種こそ偉大であり、肌の色が濃い者らは劣等生物だと言論し、場合によっては同じ人間としてすら認めない。種を区別する差別を生んだ。

 

 これはアンが存在する世界においては、人間と魚人に当てはめれば嫌なくらい符合する。

 

 「魚人と人間って血液型同じなんだよね。外見は違うけれど中身は同じ。人間は海中で生活出来ないけれど、魚人とか人魚は海中でもえら呼吸出来るし。進化の具合で言えば、魚人の方が一歩先んでいるって言ってもいいくらいだと思ってるの、個人的には」

 

 だが一部のヒトはそれを認めない。

 否、認められない。認めてはいけないのだと思っている。

 かつて触れた、神のみが知る、DNAマップという命の設計図に手を加えて、生みだそうとしていたそれ、を決して明るみにしてはいけないが故に。

 

 滅ぼされた王国を利用し、隠した事実はそれだけではないのだが、いまさら根ほり葉ほり明るみにせずとも良いだろう。それらはしかるべき時に、しかるべき誰かが公開する。その時に世界がどう反応するかは、この世界に暮らす全ての人々が選択すべき問題だ。

 

 ルフィ。

 アンは弟の姿を瞼の裏に描く。

 わたしはきっと、いろんなものをあなたに背負わせちゃうと思うんだけれど。

 許してとは言わない。

 お姉ちゃんなんて嫌いだなんて、それだけは言わないでね。

 

 目を開き息を深く吸い、思考を切り替えて元の話題へと戻る。

 「実際に会った方が、どういう人達なのか、分かるんだろうけれど」

 会うと言ってもこの東の海では人に、100%敵対意志を持つ魚人しか存在しない。

 コネのある魚人と言えば、ジンベエ以下、魚人海賊団の面々だけだ。

 空白期から数えるとしても、900年以上続くこの迫害がどれだけ根深いものであるか、想像するに容易い。

 

 「なあ、トムさん、あの人は魚人じゃねぇの?」

 「はっ、そうだ、トムさん魚人だ」

 エースに言われてハッと気付く。あまりにも近し過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。

 「差別、ねェ」

 口にくわえたフォークをひょこひょこと動かしながら、エースは視線をアンに寄せる。

 幼い頃から迫害の現場を見、己自身も父の名により悪意を受けて育ってきたエースにとってみれば、行われる側の心境のほうが分かりやすかった。

 ただ黙ってそのまま、成すがままになっているかどうかは別問題であったが。

 「アーロンパークのボス張ってる人物がこれまた、好戦的な人でね」

 魚人だから、ではない。人間でも温和な性格である人や、攻撃的な、内向的な、多種多様な性格がある。

 アーロンはサメの遺伝子が表に現れた魚人で、今現在はたった2000万ベリーの賞金首だが、元は億越えの値を付けていた。アンはこの魚人が解き放たれた経緯を知っている。そしてアーロンがどうして人間をそこまで毛嫌いするのかも、だ。

 七武海に加入したジンベエが当時、2億5000万だった。魚人たちの間では双璧と言われていたらしい。しかもかの人物アーロンはジンベエとほぼ変わらぬ実力を持ち、なおかつ残虐性も強かったのだと聞いている。

 だがしかし、賞金の掛け方が本部で行われる会議のさじ加減という意味合いにおいては、余り信用のおけない設定金額であるとも思える。

 

 「よってくのか」

 「考え中」

 最初は驚いていた主人も新たな客が入ってくると、そちらの方に向かい聞いた会話を忘れようとしているかのように見えた。

 それも仕方の無い話だとアンはおもう。アーロンパークは唯一、東の海における恐怖だ。

 立ち向かえば確実に死ぬ。それが分かっていて立ち向かうのは無謀者か、死にたがりのどちらかだろう。無力に、罪悪感を感じながらも、打つ手の出ない己を隠す。どうしようもないとうな垂れる。

 癒着も確認されていた。しかもそれが、かなり上の役職持ちなのだ。知人がつつこうとしても管轄外だと受け付けず、歯がゆい思いをしていると愚痴られてもいた。

 

 だから余計に、どうしようもない現実が悔しいのだろう。多くの人々にとって取れる手段がないのだ。だから涙を呑んで耐える。

 アンはそれを責める気はないし、立ち上がれと叱咤するつもりもない。

 それが普通の反応だからだ。誰もが命が欲しい。生きていたい。逃げたとしても、誰も責めてはいけない。責められない。

 「すごく頑張ってる子が居るんだよね」

 苦汁を選択し、罵られたとしても不敵に笑いながら、ああそうだ、と前を向く。

 その心の内は何度もアーロンに蹂躙されぼろぼろだというのに、それでも足掻きつづけている。足掻いて、己に目的を言い聞かせ、本当を殺して生きている。

 周囲を取り囲む人々もそうだ。

 その子の選択を知り、先ほどの食堂の主人のように己の無力さに苛みながら、ただじっと耐えている。反乱を起こせばその子にも矛先が向く。その子の頑張りが無意味と成す。

 「ねぇエース」

 ルート、こう通ろうと思ってるんだけれど、どうかな。

 コンパスの針でつー、と船の航路を指し示せば、

 「それでいいんじゃね。会ったらあったで何とかすりゃいい話だ」

 からん。

 しっかりと食べきった皿の上にフォークを置いたエースが口元に力強い笑みを結ぶ。

 「じゃ、そういことで」

 おじさーん、御代金ここ置いておきますね。ごちそうさまでした。アンは立ち上がりエースの後に続く。

 店のさまざまから怯えた風に眼をふたりに向けたいくつかの視線に、やるせなさを感じながらアンは小さく息をついた。



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52-海原の路(2)

 長く連なった幾つかの海峡のふたつめ目を順調に進む(バルシャ)は、後方からの風に押され、予定している次の寄港地に近づいていた。

 船が大きければもう少し長距離航行が可能なのだが、大体2日か3日に一度、食料調達という主な目的の為、見えた港に入っている。

 手持ちの金額はまだ余裕があるとはいえ、船を買うには足りず、人を雇うにもこの小型船ではあと一人乗れるか、といったところだろう。

 海峡の旅は時折漁船を遠目に見るくらいで大きな船の姿も無く、のんびりとしていた。

 薄雲が掛かった空から降る光も強過ぎず、眠気に誘われれば互いに融通しながら舵とりを代わる。そして他愛の無い話を交わし合い、一日、一日を過ごしていた。

 ここにルフィが居たならば、島での生活とほぼ変わりないだろう。否、体が動かせないのが退屈だと予想もつかない行動を取っている可能性も捨てきれない。目を離せばすぐに大小の違いはあれどやっかいごとを引き連れてくるのが弟なのだ。油断してはいけないのである。

 

 果たしてそんな弟がひとり旅できるのかどうか。はなはだ不安ではあるが、それぞれの目的、そして目指すもののため船出は共にできなかった。しかし兄弟同士、お互いが互いの最も良き理解者となり得ているのは間違いないだろう。

 男同士だけの約束が交わされているのも、アンは知っている。

 内容まではどうせふたりだけの秘密だとかで話してくれなさそうな口ぶりだった事もあり踏み込まなかったが、兄弟が楽しそうであるならば別に構わなかった。

 

 ああ、そうだ。そう言えばこの前、聞きそびれていたルフィの寝言の結末はどうったの?

 アンはなにかと必死に戦いつつ、なにかを食べ、叫びながら転げまわっていた話の続きを尋ねる。

 「どこまで話してたっけ」

 「焼き豚が走ってくるなんてウマすぎる、だよ」

 「そっからか」

 時間を忘れて笑い続けていたふたりは、夕焼け空になる頃ようやく気付いた。

 

 「めし」

 「ご飯」

 

 同時に出た言葉は、空腹を知らせる音を伴い波の音に混ざる。

 数日前に積み込んだ食糧も後わずかだ。

 「ん。いつの間にかの向かい風に阻まれて今日中に村に着けないかも」

 先日立ち寄った小さな漁村で金銭を払い、分けて貰ったパンも大きなバケットがひとつだけ残っている。

 言わずもがな、足りるわけがない。

 「…足りねェ」

 つぶやきは切実だった。それはそうだろう。

 島に居る時は獲物が森に溢れていた。木の実もあればきのこや野草もふんだんに生えていて食べ放題だったのだ。しかし船を浮かべての航海ではそうはいかない。

 魚を採るにしてもまずは海に潜り、捕獲すれば捌かねばならなかった。

 この小さな船の上で火をおこせば、火事になる可能性もある。だが問題はそこでは無い。

 

 この小さな船ではエースが満腹になるだろう量を備えた魚を、受け切れないだろう事が切実なのだ。小魚では満足しきれない胃であるのは、共に生まれて17年、良く思い知らされている。腹の足しになるどころか、もっと腹減った、そうのたまいかねない危険性すらあった。

 大きな魚を潜って取るのは簡単だ。海兵であった時に、ハムの在庫が少なくなってきたと料理長が言えば、艦長の許可を取って現れた海王類を獲った事も一度や二度では無い。

 だがしかし、一番小さな細長い海王類(もの)を選んだ所で、どう考えても重さに耐えきれず船が沈む。

 とはいえ腹を減らしたままのエースを放置するほど、怖ろしい事象はなかった。すべからく飢えた獣は凶暴性が増す。

 

 「アン、腹減った…」

 見上げてくる目に、残り時間が少ない事をアンは悟る。

 ぞわり、と身の危険を背筋に感じた。このままでは自身が食べられかねない。

 最悪の場合、フーシャ村に跳びマキノにご飯を作って貰う方法を考えていたが、そろそろ自身が海軍より出奔した事実がこの東の海にある支部にも届き始めている頃合だろう。故郷に網を張るのは常とう手段だ。戻れば村の人々や、ダダン一味にも迷惑をかけかねない。

 

 「エース、あとどれくらい我慢出来そう?」

 「もー無理。昼飯食いそびれてるから、な」

 

 満面の笑顔が怖かった。

 海賊デビューは今のところ何とか回避されているが、いつ何時、海賊船と遭遇するか解らない。海に出て翌日に、エースとアンは賞金稼ぎと遭遇した。

 海賊旗も無く、小さな船にたったふたりきりであったのが幸いして、ただの移動者だと思ってもらえたようだった。そのとき東の海に生息する海賊達の手配書を見せて貰うことが出来た。その中にはまだアンの手配書は無かったが、今年は東の海は新人(ルーキー)が大量出現しているらしく、他の海を縄張りにしている賞金稼ぎも続々と入ってきているという。

 小金を稼ぐにはもってこい、の穴場になっているのだそうだ。

 

 「なあ、アン、あれ船だよな」

 「そーだね、船だねー」

 

 宵闇が迫る、人の目が最も見え難くなる水面に、船影を見つけてしまったのだ。通りかかった船の不運に手を組み、祈る。

 しかもよくよく見てみれば、黒い旗を掲げていた。

 エースはぺろりと唇を舐める。なにを考えているのか分かってしまったアンは、出来るだけ穏便に事が終わるよう願うばかりだ。

 

 アンは潮の流れを読みながら海賊船へと進路をとる。小指の爪ほどだった影がみるみるうちに近づいてきた。あちらの船もこちらに気付いたようだ。目の良い者が乗っているのだろう。小舟を捉えられる距離まで近づくと、威嚇のように大砲の弾を一発、飛ばしてきた。

 狙撃手の腕がいまいちであるのか、それともあえて逸らしてくれたのか。随分と離れた場所で飛沫があがった。

 

 「先に手ぇだしてきたのはあっちだから、いいよな。ちょっくら行ってくる」

 「……はい、いってらっしゃい」

 

 アンは言葉を飲み込み、ひらひらと手を振り月歩で暮れなずむ橙の空を駆けるエースの背を見送る。元海兵のアンが行けば、長年の所属で身についた海賊は殲滅すべし、をさらりと日頃の行いとしてしまいかねない。ついでに目の良い人物を海兵にならないかと勧誘もかけてしまいそうだ。

 その点、島で野生児として育ったエースが行く方がまだ、波風が立たないような気もするような、しないような。ただ、そう、ただ保有する力の値として、エースは少なくとも条件付きではあったが中将級だと言われていたアンをも凌いでいる。戦闘に突入すれば、どうなるかは想像に容易い。

 

 砲弾は続かない。

 望遠鏡でこちらを見たのだろう。小さな船にたったふたり、載せている物品も期待できず手を出すのも面倒だ。気まぐれに遊ぶにも宵の時刻である。火を焚いてまで姿を照らし、襲撃するまでの獲物では無い、そう判断されたのかもしれない。

 なにかあればエースの横に跳べばいいと、船の揺れに身をまかせながら、半身の意識に添う。

 

 

 エースは黒く闇を先取りしたような海を眼下に、空を駆けていた。

 風を受けなびく伸びてきた髪を払い、大きな船へを上空から近づいてゆく。船の揺れは思っていたより平気だった。小さな船ほど波に揺られやすいと聞いていたが、それほど気にはならなかった。

 

 世界で名を上げるために手っとり早い方法は、一般的に悪と認知されている海賊行為を行うに限る。船出を決めた当初ならば、それすら生きるためには仕方ないと思っていた。どうせ生まれて来てはならなかった命ならば、どんなに憎まれようが恨まれようが、構わないと思っていたのだ。

 しかし共に生まれたもうひとりが居た。初めて友と呼べる親友が出来た。生きていて欲しいと願った弟が叫んだ。

 仕方なく生きるつもりだった生に、重さが加わった。

 そして世界を間接的にだが、もうひとりを介して知ることが出来たのは、思いの外大きな収穫だったといえるだろう。

 

 トン。

 

 立てた物音はそれだけだった。ブーツの底が着地の際に小さく、鳴り合わさった。

 羽織るシャツが海風に揺られ、飛ばないように手をあてたテンガロンハットの奥から、周囲を見識する。

 闇に落ちる直前の薄暗い視野の中、突如現れた影に気付いた数名が何事だと声を上げた。周囲には目立った船は無かったはずだと、誰かが叫ぶ。

 なんの用だと尋ねられ、素直にエースは答えた。

 

 「大した用事じゃないんだが…ちょっとばかり食べ物を分けて欲しくてね」

 

 若い。

 船員が放たれた声に注視する。

 テンガロンハットを被った、容姿から推測するに、まだ子供と言ってもおかしくは無い年齢だろう。だが音も無くこの船に辿り着いた若造を、ただの子供だと見る船員達は居なかった。

 船の中からも応援が駆けつけ、それぞれが刃を抜き、銃に手をかける。

 「バカ言ってんじゃねぇ。海賊にメシたかろうってか、マヌケた面して何様だ」

 

 「おれは別に、争いに来たわけじゃねェんだけどな」

 

 ただちょっと近くを通った縁というヤツで分けて欲しいだけなんだ。

 でもやるってんなら。

 エースは笑みを浮かべる。

 「売られた喧嘩は買う主義だ」

 放たれた銃弾が開始の合図となった。煙が星のきらめきを広げた空へ灰色のもやを生む。行動の先を読む事など、造作でもなかった。確かに海賊達は戦い慣れはしていた。だがそれは一方的な力の振るい方、悪く言えば弱者へ暴力を振るう術だけなのだと、ひらり、ひらりと避けながら見る。

 

 技を使うまでも無い。

 常時纏う見聞色だけで相手の動きの先読みが出来、周囲の動きが合わさってもどこにどう動けば同士討ちさせるかすら分かってしまう。

 戯れに首筋に手刀を落としてみたり、足払いをかければ、なにをやっているのかと仲間を罵倒する言葉が飛ぶ。

 

 こんな集団でも海を渡っていけるんだな。

 エースは自身が思い描いていた海賊像が、想像の中だけにある理想なのだと気付く。

 確かに赤髪が率いる海賊団だけをみれば、その通りだろう。だがそれはごく一部だけなのだ。

 エースは相手から喧嘩を買ったたとはいえ、同情してしまっていた。

 ほらあいつ、仲間を切っちまいそうだ。

 そんな事を思えば、振りかぶったナイフがエースの体を通り越して、味方の脇腹に突き刺さった。

 

 「気をつけろ! 手当なんざ後だ、たった一人になんの体たらく晒してる!」

 

 東の海ってのはこんなもんなのか。

 ついた溜息にくすくすと笑いを含む双子へ向かって聞けば、この海は極端から極端なのだと言う。

 その最たるは、たぶんという推測を込めてエースであり、ルフィであると前置きした上で、十数名が徒党を組めば普通に暮らし営みを過ごしている人達にとって十分に脅威だと言葉が伝わってきた。

 

 (例えれば幼かったわたし達とブルージャム達、じゃないかな)

 

 納得は出来なかったが、大体は分かった。

 守るべきものがあるならば、例え力及ばなくても抗うのがエースだ。

 しかし抗う力を持たない人々は、命を失う選択を良しとせず、奪われたとしてもまた一から作り直せばよいと考える。

 

 それぞれの立場によって考え方が違うのが当たり前だが、まだエースは自分を中心とする、必要としてくれる存在だけを包容する小さな世界しかしらなかった。

 アンは別にそれが悪いとは思っていない。人はみな、身近な存在を認識し少しずつ、少しずつ範囲を大きくしてゆく。それはあちらの世界で言う学校、が大きな役割を果たしているのだが、残念ながらこちらにはそういう施設自体が少なかった。大きな町であれば教諭を集めて学校を運営している都市もある。

 村では村長や有識者が私塾を開いて子供達に読み書きを教えてもいる場合もあるが、そこに通うにも、わずかとはいえ金銭が必要だった。貴族に関してはは語るまでもないだろう。

 この世界では教育を受けられる者とそうでない者の差は大きい。

 

 他愛の無いやり取りや考え事をしている内に、船上はいつの間にか静かになっていた。

 全員生きてはいる。

 低いうめき声が響いていた。

 エースを見上げる視線が怯えの色を宿し、一歩歩くだけで体をピクリと過剰反応させる。

 

 海賊となる覚悟。

 何時も、何度も考えてきた。

 海に出れば自分より強い存在が(たむろ)しているのだろうと、想像していた。

 実際にガープやアン、赤髪を中核とし組まれた部隊頭とその船員達、船大工であるトムですら驚くほど力を有していたのだ。

 

 …これじゃまるで。

 ごみ山で肩を寄せながら、振るわれる暴力から逃げ惑う子供たちを襲う暴漢達のようだ、とエースはため息する。

 

 「エースがこの海では強すぎるのよ。骨のある人達と出会いたいのであれば、最低限でも"偉大なる航路(グランドライン)"に入らなきゃね」

 

 いつの間にか船を繋ぎ、甲板まで上がってきたアンにエースは手を上げる。

 「準備運動にもならなかったでしょ」

 「なんか、すっげェ後味悪ィ」

 

 そんなものだとアンは笑む。

 「エース、お願いがあるの」

 「ん?」

 「エースは、エースだけはこの感覚に慣れないで。違和感を持ってて」

 

 「…分かった」

 真意は分からなかったが、泣きそうになっていたアンを笑わせるためにエースは頷く。

 ありがとう、は満面に咲いた笑顔だった。

 

 その後船室の幾つかを漁り、2人分の食料を調達した後、見つけた電伝虫で一応、連絡しておくかとアンは、気の進まないような顔をしながら電話をかけた。

 出たのは顔見知りだったらしく、安否を気にする言葉が幾つも並べられる。

 「大丈夫です、あれくらいで衰弱するとかありませんから。あ。良ければ海賊船の捕獲をお願いしたいんですけれど。もうひとつお願いできるなら、いい目をもった人物がひとり。確保するといいと思いますよ。…名前までは聞いてませんがそれはそちらで」

 船を動かすための舵と帆を壊しておきますから。さらりと海賊達が青くなる言葉をアンが発する。

 ついでにシェルズタウン行きの海流に乗せておくので、出来るだけ早くの"救出"をお願いします、とも付け加えた。

 賞金稼ぎじゃないからお金も要らないし、登録するつもりもないからと強引に切り、再度溜息を落としたアンの髪を、エースはくしゃくしゃと撫でる。

 

 

 

 水を一樽と暴飲暴食しなければ、3日は持つだろう食糧を頂いてきたふたりは、バルシャで再び波を切り始めた。海賊船にもちゃんと、食べ物は残して来ている。

 船上で飢えるほど苦しいものは無いからだ。必要最小限だけを貰ってきた。

 ただし、お宝関係はごっそりとアンが袋に詰めたのをエースは知っている。

 

 「だって。海軍があの船を回収したら、これ、全部没収なんだもん。行き先は…うん、まあ、その。いろいろだけれど。宝の地図が2枚と、金銭に変えられる装飾類は貰っても大丈夫。彼らにとっては、宝の持ち腐れになるから」

 

 にっこりと平気で言えるアンに、エースは自分より海賊としての素質があるのではないかとすら思った。だが本人いわく、海賊では無く航海者、なのだそうだ。

 同じものだとも思うのだが、そこは明確に違うと否定する。

 

 「おれもアンみてェにもっと力があればいいんだけどな」

 「どの口がなにを言うのかな」

 

 カンテラが照らす淡い光の中、風を操り方向を変えるアンに、エースがぽつりとつぶやいた。アンからしてみればエースの方が羨ましいくらいに強い。

 強いだけでなく、優しいし、(おご)らない。

 世が世ならば、こんな良好物件が女性達から放っておかれる訳が無いのだ。

 生まれが多少、特殊と言えば特殊だが、そんな事など関係が無いと、父を受け入れた母のような存在もいるはずだ。

 

 「隣の芝は青いっていうけれど」

 双子同士でそれをやってても不毛だから、ね?

 腹が満たされうとうととし始めたエースに毛布をかけ、カンテラの炎を吹き消す。

 数多の輝きを指針に帆の向きを確かめながら星座すら埋めてしまう白を仰ぐ。

 

 

 波が導くさざ波の路は、次の海峡へと入った。




マヌケた面して 誤字ではありません。
ふぬけた面、が正しい言葉ですがここでは上記のままでお願いします。



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53-悪魔の実

 同行者が増えた。

 水平線から太陽が上がる朝焼けのとき、東の海では初観測になるのではないだろうか。空が七色に輝くという話にだけは聞いていた珍しい現象を見ることも出来、今日はなんだけ良いことが起きそうだとおもっていた日のことだ。

 拾い上げて2日経つが、まだ一言も声を発してはいない。どうしてあんな場所、コノミ諸島の沖合で漂流していたのかも聞けず仕舞いだ。能力者であることは海水に浸っている時点で見慣れた、脱力しているさまで分かったものの声帯を痛めて話せないという訳でもなさそうで、とりあえず陸地に着くまではこのままで行こう、という事になった。

 やろうとおもえば思考を読むこともできる。だがのべつまくなしに誰も彼もの考えを覗くのはあまりよろしくは無い。もし拾った少年が牙を剥いたならば、海に落とすかアンの血を振りかければすむ、として放置となった。能力者に対しどうすれば対峙できるのかを知っていれば、どんな力を隠し持っていたとしてもなんとかなるのだ。

 船は海峡を抜け、アーロンパークがある島を左手に見ながらローグタウンへ向かう海流に乗っているはずである。しかし行けどもいけども島影のひとつ見えてこない。東西南北に区切られた4つの海にはそれぞれ大きく流れる渦がたまにではあるが生まれる。その渦巻きに乗ってしまったのだろうかとアンは眉を寄せた。もしそうならこの小さな船では脱出不可である。切れ目があればそこから出ることも出来るだろうが、探すのは大変だった。十二分に食料を積んだはずだったのだが、どうやら目測を誤ってしまったようだ。

 

 そして残念ながら魚人からの襲撃も受けてはいない。

 来てくれたならば位置の確認にもなるというのに、下っ端のひとりすら水面ならびに水中ですれ違わないとはどういうことなのだろう。

 待ち構えているのがいけなかったのだろうか。

 

 物騒な話題になるが、幹部のひとりくらいは引っ張り出したいなと話していたのだ。アンが海軍に在った頃は癒着によって守られていたがしかし、出奔した現在となれば関係など無い。来たならばここ数日分の運動不足を解消がてらに、と手薬煉(てぐすね)引いていたのである。

 だが今のところ現れてくれてはいない。

 

 小さな舟だから見逃してくれた、とも考えられなかった。なぜならあの島にいる魚人たちは支配下に置いていない見知らぬ人間を見かければとりあえず、殺しておくか、という思考の集団だ。

 この周辺を治安するコノミ諸島にある海軍支部の責任者と、アーロンが繋がっているという噂も聞いている。そっちの対応をしても良かったのだが、わざわざ会いに行ってやるのも面倒だったし、どうせ狩っても首が挿げ変わるだけである。

 少女の事は気になってはいたが、夢の内容を信じるならばここは弟の狩り場だ。しかもまだ、機も熟してはいない。

 

 こちらからはあえて手出しせず、もしあちら側から攻撃意志を発したならば。

 壊滅するまで全てを破壊しつくす、と結論した。

 アーロン率いる一団も海賊と自称しているのだから、それなりの腹を決めているだろう。

 

 はっきり言ってアーロンという小物に関してはどうにでもなろう。差しさわりの無い脅威よりも、アンは眼前の状況に頭を痛めていた。

 搭乗者がひとり増え、食事量も当初予定していた分量より2倍近くとなっている。当たり前に分かっていたことだが、考えが甘かったと言わざるを得ない。

 航海に出てから、日々悩むのは食事事情だった。

 島引き伝説が残る巨人族のオーズのように、船に島を括りつけて航海出来ればどれだけ楽だろう。

 それくらい貧窮していた。

 

 これはやばい。

 エースの胃が空腹で爆発しない内に食糧調達をしなければ、この船に乗り込んでいる3名ともの命が危険に晒される。

 5日前に運良く商船と出会い食料を分けて貰ってから全く、船影すら影形が水平線にかすりもしなかった。水だけが豊富であることだけが救いだろうか。

 

 男ふたりは、船上であってもよく食べよく眠った。

 エースとは夜の見張りと進路の保持を分担し、名も知らぬ少年には昼間に帆の番をして貰っている。動く手があるならば使う。身元が分からなくても、名前を名乗らなくても人手が足りないこの船に乗る限りは『働かざる者食うべからず』なのだ。

 

 ゆったりとした船旅ではあるが、食糧事情において切実な日々を過ごすアンは本格的に30名程が乗れる船とそれぞれの役割分担が出来る仲間の必要性を感じていた。ひとり増えただけでこんなにも切迫するのである。余剰が乗せられる食料庫の取得が課題となった。そして大きな船を手に入れたとしても、たったふたりでは動かせない。人が必要だった。

 だがどこでどうやって船を調達するのか、乗組員を募集するにしても、どのようにして誘うのか。これもまた頭を痛ませる。

 地図上に現存する村や町で「海賊になりませんか」と聞いたところで答えはNO、に決まっている。ゴール・D・ロジャーが死の間際に言い残した台詞の真意を求めて海へ漕ぎ出した多くが行き着く先は夢半ばで息絶えるか、インペルダウンへ幽閉されるか、テキーラウルフで労働に当てられるか、である。悪名を轟かせる海賊たちはいわばエリートと言っても過言ではない。荒波に揉まれ幸運にも生き残ったごく一部が勢力を確立し、世界の一翼を作り上げている。

 

 アンは一般市民に声をかけ、船旅に同乗させるのは最後の手段にしたいと思っていた。

 怖いもの見たさの一時的な興味で踏み込んで良い裏道では無いからだ。

 弟のように憧れから確固とした、目的を見出した人物ならば誘いの手を掛けたいと思う。そして性根を叩きなおすのだ。だが航海の危険性を知り、命の覚悟までもが出来ている人物は遠慮したかった。

 海でしか生きていけない、八方塞でもうどうにもならず、失望の中で明日が見えない。出来ればそういった人材がいい。生きる目的や差し出された望みに飛びついてくれる存在が。ついでに航海に必要な技能を持っていれば言う事無しだ。

 

 かつてシャンクスがルフィに語っていた言葉が重く感じる。

 海への誘いはその人物の命を背負うことと同意義だからだ。

 今まで己を確立させてきた一切を捨てられなければ、安易に海賊という身分に落ちるべきではない。なぜならしょせんは賊、だからだ。確かに力ある海賊によって和平が保たれている場所もある。あるが多くの地域は平安よりも苦難と辛酸のほうが多く、かりそめの平和の裏で涙を飲み続けている闇の方が濃いのだ。

 

 人間は善だけの存在ではない。道徳的に善きことだけで生きていければすべてが平等であろう。

 だがそんな世界を探してみたところで、ないものは無いのである。あればあったで気持ち悪いとおもうだろう。

 なぜならば善き世界には、向上心とか、願望とか、憧憬、野心、大志など先に進もうとする想いが、きっと、ない。ただそこにあるものに満足し、ゆるやかに衰退し消えてゆく世界だとアンはおもう。

 

 欲望を知らぬその世界の人々は、それはそれで幸せなのだろう、とも考えられた。

 だがことわざにもあるとおり、この世界の多くは『足ること』を知らない。もっともっとと手を伸ばす。

 悪いことではない。人間らしい感情だ。ただ少々、やりすぎの感はあった。

 

 海兵の汚職があったとしても、海賊からの被害を考えればまだましだと諦めにも似た許容があるのもそこら辺が影響している。おつるの下へ配属されていた頃に、いくつも監査を入れ人事の置き換えも行い、少しはマシになってはきているはずだが、大きな組織のため時間がかかるのが問題点だった。

 

 エースの気性からして一度、受け入れた仲間を決して見捨てはしないだろう。

 その背は受け入れた者達を守り、時には壁となって命を救おうとする。

 だから同じ船に乗り込む誰かを探すのならば、エースに命を託しながらも、決して己の命を粗末にしない者達であって欲しい。

 

 さて、エースはこの問題をどうするつもりなのだろう。アンとして最終判断は全て、エースに任せるつもりにしていた。助言する人物は多いに越したことは無いが、決断する人物はたったひとりでいい。

 アンは広く浅く、出来るだけ広範囲に見聞色を展開し人の声を探す。

 「おれも一緒に探す。そうすれば、早い」

 目を閉じ集中していた耳元で声が囁かれ、そこにエースが相乗りしてきた。

 アンが伸ばした範囲の、その向こうへと詮索の手が伸びる。

 ほんの数秒後、見つけた、と位置を把握したエースが笑みを浮かべ、視線をその方向へと投げた。

 

 「ありがとうエース、助かった」

 「なあに、たいしたことはしてないさ」

 

 お前が伸ばした足場があったから、出来たんだしな。

 にしし、と笑い広げた海図で現在地と目的地、そして見つけた船の位置を並べ、風と潮の流れを考えて船首の向きを変える。

 

 そんな賑やかしいふたりの会話を少年は唖然としながら聞いていた。

 島影もなく方位磁石が指し示す方向だけを手がかりに海図を引くという作業が、どれだけ難しいのかを身を持って教えられたからだ。

 少年はとある人物に陸だけでなく海の上で生きていく術をも叩き込まれた。北の海で名を轟かせるとある集団の長として立つ男が少年を家族のひとりとして迎え入れたからだ。

 

 ふたりは兄弟なのだと言う。どちらが年長であるかは問題でないらしい。普通は先に生まれた方が兄、姉と呼ばれるものだが、同時に生まれたとしても序列が生まれる。だが両者に関しては全くの対等とした存在同士に見えた。お互いがお互いを認め合っている。

 少年の脳裏に浮かんだのはかつての大人たちだった。体を蝕んでゆく白の恐怖によって固まり、砕けたとおもっていた心を溶かしてくれた恩人のその兄を長とした集団の。

 

 拾われた海は東であった。

 

 北にいたはずなのに、どうして。

 疑問を少年は閉ざした。このふたりが味方であるとは限らない。それよりも敵である確率の方が高い。

 双子であるというふたりは少年に名前こそ尋ねてきたが、出身や漂流していた理由などは全く聞いて来なかった。どこか陸が見えたなら、もしくは海軍と出会ったならば、連絡を付けるか、もしくはそちらへ乗り移るように言われただけだ。海軍ならばいくつかの事情聴取は受けるだろうが基本的に漂流者であれば故郷に移送してくれる。

 

 海賊ではないらしいが、賞金稼ぎでもないと言う。ならば海軍か。そう少年が訝しげにしていると航海者、だと胸を張って女が言った。すれば自称だと男が笑って額をはねた。仲の良い兄妹である。

 

 「はい、お水。そろそろ飲んで」

 コップに汲みいれた水が手渡される。本当は沸騰させたいところなんだけれど、と前置きされた水にはレモンを切り入れ、さわやかな酸味と香りで飲みやすくされていた。

 「エース、あと2、3時間くらいで接舷出来ると思う」

 「ああ、鉢合わせにならなきゃいいけどな」

 

 視線を交わし合い、女が溜息を重ねる。

 「"脱落組"だとは思う。だけど人数が結構、残ってる」

 偉大なる航路 (グランドライン)からの脱落組み。少年は耳を澄ませる。話には聞いたことがあった。

 引き波の関係で上手いことこちら側の海へ出て来られたのだろうが、かなり悲惨な状態になっているのは想像に難くないだろう。そう女が小さく告げる。東は4つある方角を示す海の中で最も程度が低い海だと聞いていた。生活水準や文化レベルではない。出現する海賊の強さである。賞金額ひとつとっても、他の海より4割程度低く見積もられているらしい。

 

 凪地帯(カームベルト)はその名の通り、風が吹かず海流の流れも緩やかな場所だ。しかし偉大なる航海(グランドライン)で時折起きる不規則な激流により、凪へ追いやられる事があった。そして大概の場合、その凪地帯で命を終える。小さな船であれば(かい)を使って漕げばいい。しかし大型の帆船ともなれば、かなり大きな動力がないと動かなくなる。しかも凪地帯は海王類の棲家だ。どんなに他を凌駕する力を持っていたとしても、自然の脅威には敵わない。

 

 少年は詰め寄る獲物の相談をしている双方を見た。海賊ではないと言っていたはずなのに、これから行なおうとしていることのどこが海賊ではないのか。

 でたらめだったのだろう。走り出しか。

 とはいえふたりの実力は未知数だ。何度も死にそうな目にあいながら鍛えられたとはいえ、あまりにも普通すぎて手が出せなかった。男が身につけているダガーを奪うなどたやすい。海賊であるならば殺したところで殺人に問われることもなかった。だがここは東の海であるという。少年が口にした実の力を最大限に引き出すために学ばなければならない知識はまだまだ山のようにある。

 

 命の恩人が、己の命をかけて生かしてくれた命だ。その恩に報い、心に決めた復讐を果たすまで死ぬわけにはいかなかった。

 お人よしにも助けてくれるとういならばせいぜい利用するまでだ。見知らぬ知識だけの海で、しかもまだ上手く能力を使いこなすこともできない。ならばこそだ。この兄妹はかなり腕に自信を持っているようだった。手並みを拝見させてもらおう。あのファミリー以上に使えるなにかを持っているならば奪わせてもらう。手段など選んでいられない。出来るだけ早く確実に経験を積んで強くならなくてはならない。そして果たすべき目的を速やかに行なうのだ。

 少年は静かに思考を終え、与えられた水をわずかに含む。すべては飲まない。沸騰消毒していない生水は毒と同じだ。少年は目を閉じる。

 

 

 

 アンは無意識に気配を殺した少年に小さく笑んだ。この少年は年齢の割になかなかに濃い人生を歩んでいるらしいことがわかったからだ。そしてこれから先の人生を、茨が生い茂る険しい道を選択して歩いてゆく苦難の相を持っていた。

 人は容易く妥協する生き物だ。頑張ったんだ、この辺でいいじゃないか。

 そう思い、頑張りを正当化しようとする。

 

 間違いではない。積み上げてきた努力はその人だけの経験値となる。

 だが忘れてはいないだろうか。生まれたての赤ん坊には失敗という概念が無い。できなくて恥ずかしいというおもいが無い。

 出来ないなら出来るまでし続ければいいのだ。そして何度も何百回と繰り返して立ち上がる。

 それがいつの頃からか、やり続けることがなぜか恥ずかしいことに変わる。やってもやっても成果が結ばない。そして焦る。周りがどんどん先に進むのに、自分だけが足踏みし進めない。だから諦める。安易に、逃げてしまう。

 しかし考えてみてほしい。成長すればするほど、目の前に差し出される問題が難しくなるのは当たり前の話だ。

 

 逃げたい気持ちがわからないわけではない。

 それは相対する人物に対してだったり、己の置かれた状況だったり、それらは様々だ。

 けれども自らの願いを貫き、どうあってもやり通すという気概を持つ人物は限られている。

 かつて多くの男達はロマンを追い求めて海へ漕ぎ出た。一般に荒くれ者、と呼ばれる者達だけではない。

 今でもそうだ。賞金稼ぎも、商人も、冒険者、学者達ですらたったひとつを得るために海へ出る。

 

 夢半ばで命を終える者達がこの"偉大なる航路(グランドライン)"では、最も幸せなのかもしれないとアンは時々思う。

 

 海はただ広がっているだけだ。

 無限ではない。だが有限ある青を漂う多くが、願う場所に辿りつけないでいる。

 それはなぜか。

 こうだろうと思う理由(わけ)、違うかもしれない推測、様々が混在し、絡まった糸の解き手が現れないでいるからだ。

 

 時が満ちていないのか、それとも既にほぐされた事実が表に現れていないだけなのかは解らない。確かであるのは、父が宣言した"ひと繋ぎの財宝"に辿り着いた存在が、とある選択をせねばならない、ということだ。

 手のひらには、多くの欠片(ピース)が生まれながらにして手渡されている。だがそれが全てでは無い。

 20年前、父が辿り着いた時には時期尚早であったという。では今は、どうなのだろう。

 たった20年だ。されど20年でもある。

 時は熟し始めてはいるのだろう。

 だが今が食べごろかと聞かれれば、果たしてどうだろう、そう答える事しか出来ない。最後の島は隠されている。行くための航路があるのだ。それを示したのが各地に散らばっている歴史の本文(ボーネグリフ)であった。あの島にたどり着いた、父をはじめとする一行が未来へ託した本当の意味を知らねばならない。そしてアン自身も備えなければならなかった。いつの時代も、歴を、世界を動かすのは人の強い意志だ。 

 行ってみるしかないのだろう。

 今や赤髪として四皇のひとりと数えられるシャンクスはかの地に寄りつこうともしない。あそこに何があるのかを知っていている数少ない『海賊王の一員』であったからだ。そして海賊王よりかの地について聞いた人物たちもまた、かの地へ行こうとは考えず、門番としての役割を果たしているかのように感じられた。

 

 アンは手綱で風を受ける帆を操るエースを見上げる。

 その時、小さな舌打ちが聞こえた。

 理由は簡単だ。

 商船が襲われているのだ。風向きが海賊船を押したのだろう。剣戟と銃声が耳に届いている。

 「あなたはここに居て」

 

 一刻を争う事態に陥っていた。

 凪地帯(カームベルト)を運良く、命からがら抜け出た海賊達は生きて出た高揚感からか、息絶えて横たわる屍までも必要に傷つけている。

 生きている命は必至の抵抗をしているとはいえ、岬を越え"偉大なる航路(グランドライン)"へ入ったツワモノ達相手では分が悪いといえるだろう。

 アンはちらりとエースへ視線を向ける。

 

 「心配するなって。大丈夫だ」

 

 信じる。

 そう心で伝え、もう一度少年にこの船から出る事無かれと念押しし、エースと手を繋ぐ。

 瞼を閉じた刻は数秒だ。それでふたつの接舷する船と、点在する人の位置を読みとった。

 「行くよ、エース」

 

 瞬間、少年の眼前からふたりの姿が掻き消える。

 「……!」

 思わず立ち上がり、周囲を見回してしまったくらい吃驚した。

 「…どういう、事だよ」

 丸く見開いた目が捉えたのは、大きな船の上で飛び回っている姿だった。

 ひとりは大人数に囲まれているにも関わらずその輪を軽々と打ち破り、もうひとりは風に舞うように多くを霍乱し続けている。

 「すげぇ…」

 近づくなと言われたが、もっと近くで見たいと言う欲求が擡げてくる。

 船の舵は帆と手漕ぎの櫂だけだ。少年は目で見、体で受けて体術も剣術も体得してきた。彼らとは違った戦い方をあの兄弟はしている。見なければならないと咄嗟に思った。

 

 迷っている暇は無かった。

 あのふたりは強い。海賊との戦いに勝つだろう。

 だがその後、きっと自分の技術が役に立つと彼自身は確信していた。あの兄妹の元に向かった理由付けとしては完璧だろう。

 海へ平らに削られている部位を挿し入れ、漕ぐ。

 商船へ添うように寄せると、何かの拍子に落ちたのだろう、縄はしごが下りている部分へロープを結びつけよじ登る。

 恩人に助けられ、絶望と復讐を誓う不安定な心の狭間で揺れ動きながら鍛錬だけは欠かさず毎日やってきていた。そしてようやく小さな商船だが、医者見習いとして乗り込ませて貰ってからもさぼった事はない。

 腕には覚えがある、そう言いきれた。

 

 

 

 船上では船室から見つけた悪魔の実を海賊達が戦勝品として掲げている所だった。

 そこへエースとアンが瞬間移動によって勝利の歓声を挙げ始めた男達の声を引きつらせる。

 「どっから出て来やがった」

 「子供が二人、おい、方割れは殺すなよ、いい値で売れそうだ!」

 

 「って、言われてるぞ」

 「言わせておけばいいと思うよ?」

 

 くすくすとアンはほほえみを含む。

 元が付くとはいえ海軍本部大佐を捕まえ、それ以上の実力を持つエースを殺せると思い込んでいる男達が哀れでならなかった。

 エースは島から出ず、顔の露出が無かった為仕方がないだろう。だがアンは幾度も新聞の表紙を賑わせている。多少服装や髪型が違った所で、わからないほうが悪い。

 

 エースは自然体のままカタールを手に持つ大柄の男へと無造作に近づいてゆく。

 男はにたにたと笑みを張り付かせていた。わざわざ獲物が間合いの範囲内に来てくれたのだと勘違いしているのか。

 大きく振りかぶった曲刀は確かに、黒髪の青年の肩口に切り込んだはずだった。

 「遅ェ」

 しかしその姿は眼前に無く、つぶやかれた言葉は男の側面から放たれる。

 男は慌てるがしかし、白く光る刀身は勢い余り床を成す木の狭間に囚われていた。

 六式を使うまでもない。

 見聞色も普段張り巡らせている分で十分だった。

 

 エースが男の脇の当たりをとん、と掌底(しょうてい)で押せばバランスを崩し横ばいに転倒する。

 気配を感じ視線を空に投げれば、風と戯れながら関節に指銃を放ち確実に無力化していた。さすがに対人戦慣れしているとエースは思いながら、手加減の具合を間違えないよう手首の力を抜く。

 

 そこへ新たな何かが乱入した。

 見つけたのはアンだ。上空から、その姿を捉えた。

 エースもアンも、海賊船と今乗りこんでいる商船の人員の位置把握と、先読みにのみ見聞色を使用していた。外からの来客を想定してはいない。

 潮の位置からして、両船に近づくのは出来ないと言い切れないまでも難しかったはずだ。

 

 見誤った。

 同時にふたりはこの後の展開を練り直す。

 

 船内を物色していた海賊船の数名が甲板戦になだれ込んできた。樽の中に入れられていた果実をぶちまけ、奇声をあげている。咀嚼しながら長剣を振りまわし、商船の乗員と赤へと沈める目は、狂気に支配されていた。

 空腹が満たされた歓喜ではない。血潮が散らされる行為への高揚からだ。

 

 「おまえらぁ、能力者か。いいぜぇ、相手してやるよ。"偉大なる航路(グランドライン)"から生きて出て来れた、我がなァァァ!!」

 

 カチャリと撃鉄(ハンマー)が下ろされる。

 「…やっとついた」

 

 小さなつぶやきにぬらりと銃を持つ男の視線が揺れる。ひょっこりと船の向こう側、船体に降ろされていた縄はしごを昇ってきた少年の顔が覗いたのだ。

 エースは大男の相手で忙しく、アンも弓使いと対峙していた。

 生かさずに殺すだけならば、こんなにも苦労はしてはいない。

 アンが海軍で多くの命を刈り取っている事をエースは知っている。だがそれは繋がっているとはいえその時の感覚は間接的な手触りだ。

 同じ人に対して直に死を与えるのは、未経験だった。一線を越えてしまえばなんの事は無い。だがその線を越えてしまうまでが異様に高い壁なのだ。

 

 躊躇が生まれると、アンは知っている。

 慣れるものかと思っていても、屍の山を幾つも築けば、知らず知らずのうちに無関心になってしまうものだ。そうならないようにしてきたつもりでも、首筋の動脈を掻き切り、血潮に濡れても胸の内に感じる痛みはどんどんと鈍くなってゆく。ただの単純作業となってしまうのだ。

 

 だからアンはエースに強要しない。

 戦い方も半身に合わせて、殺さずを守る。

 

 だがしかし、少年の出現によって男の標的が変わってしまった。

 エースが走る。

 ある男が引き金を引いたのだ。

 それよりも速く。

 体を盾に少年の頭部に向けられた鉄弾の前に立ち塞がった。

 

 アンは瞬時に弓を撃つ男の横へ跳ぶ。

 出来るだろうかと自分の思考を疑う暇もなく、腰に吊るしていた矢筒の中にある矢に触れ、思い描く。するのだ。失敗など考えない。

 男がその矢によって体中を射られている様を。

 そしてそれは実在となった。だがそれを確認する視線は無い。

 

 鼓動が嫌に耳に響く。

 独特な形が見えた。

 周囲がコマ送りのように再生される画面を見るがごとく、ゆっくりとした動きの中を懸命に走る。そして転がっている、アンの掌には大きい、うねった炎の形をした悪魔の実(それ)を両手で掴み、半身の真横へと跳んだ。

 この際力加減をしている暇など無い。最悪口の中に実が入ればいい。撮影機器などないのだ。コマ送りで見れば実で殴りかかっているようにも見えただろう。

 咀嚼し飲み込まずとも、粘膜、出来るならば味蕾にさえ触れてしまえば実の中に封じ込まれた悪魔はその人物に宿る。

 

 少年へ向かう銃弾の盾となったエースの視線が何事だとアンの横顔を捉えれば、がり、とこぎみよい音が口元から聞こえた。と同時に、銃弾を受けて硬直したエースの体が力を失い、両膝が甲板へとつく。次いで大量の血液と共に歪な果実が吐き出された。

 

 「フヒャヒャハハー!!」

 

 銃弾を撃った男の勝ちどきが耳に届く。

 

 脇腹の内側に突き刺すような痛みが襲ったが、これは自身の傷では無いと認識していた。まだ体は動く。蹲りたくなる体に鞭打ち、腰ベルトにさしていた使い慣れたナイフを横振りに投げる。

 だがそれはエースが相手をしていた大男が持つ長剣によって弾かれてしまった。

 

 形勢が逆転した。誰もがそう思った。

 どんなに兄妹が強者であろうとも、それは手負いでない場合だ。仲間が欠けていなければ再起の可能性もあるだろうが、何の考えも無く船に登ってきた子供と女ひとりであればどうとでもなる。

 余裕が海賊の側にもたらされた瞬間だった。

 

 「痛ェ…お前なぁ。おれの歯、砕く気かよ」

 ちょっとは加減しろよな。

 膝をついてしまったアンの真横でけほ、と口から喉に溜まった血を吐きだしながら、エースは切った唇をぺろりと舐めて首をふったのだ。死んではいなかった。

 そのとき海賊の誰かが叫ぶ。悪魔の実だ、と。いくつもの視線が言葉の実を捜し、次第に転がったそれへと釘付けとなる。

 

 「痛みも勝手に持ってくな」

 「え、あ…む」

 

 そんなつもりは無かったのだと言おうとすれば、むにっと唇を掴まれた。それ以上言うなといった所だろう。

 あんな不味ィものを噛ませてくるな、と手の甲で血を拭いながら言い捨てたエースがにかりと笑む。

 「…怪我、は?」

 「怪我? そう言えば、おれ、あのガキを庇って」

 

 何が起こったか、エースにも分かっていないようだった。頭の上にはクエッションマークが山と築かれているのだろう。

 だが確かに熱さを感じた。殆どの痛覚を無意識に、奪ってしまったアンに何も起こっていないのだ。持っていかれた体にはなにも起こらなかったのだ。

 「なアン、喰わせたのはもしかして」

 「もしかしなくてもたぶん悪魔の実、ですがなにか問題でも」

 

 どさくさに紛れて何を食わす気だ、お前はとエースがアンの両頬に手をあてる。

 「だって悪魔の実だったら肉体構成そのものが変化するから、どんなに大けがしても助かるかな、って。ごめんごめん、ほっぺた引っ張っちゃいやよ、お願いらはらやへてー」

 

 脇腹を押えながら、いひゃいと繰り返すアンの頬をつねる。敵陣の中にいるというのに、緊張感の欠片もない。

 だがしかし、それがこの兄妹の常でもあった。

 

 「ったく。喰っちまったもんは仕方ねェ。さっさと片付けるぞ、説教はそのあとだ!」

 「はあい」

 

 赤くなった頬に当てていた両手を下げ、戦いへ意識を切り替える。

 海賊達は戦闘を行っていたのにもかかわらず、襲撃者による見事な無視っぷりにより、唖然としていた。無論攻撃の手を止めろと言われた訳ではない。中には果敢に挑んだ者も居たが、ある一定距離まで近づくとなぜか海へと落とされていた。

 目に見えない恐怖が伝播した、と言っても過言ではない。

 

 再び時間が動き始めたのは、エースが自身に宿った力がどんなものなのか試すように、眼前で掌を揺らめく紅に変えたその時だった。

 薄く笑む青年の、眼光が細められ炎が舞う。それは美麗に具現化した。熱の揺らめきが踊る。橙の色彩がその体から上がり、優しく包み込んだのだ。それはまるで会話のようだった。炎の中に居るとは思えない穏やかな表情に、ローはなんともいえぬ恐怖を感じた。あの大人たちに抱いた形ある憎しみや痛みから生まれる鬱屈とした圧迫された恐怖ではない。

 悪魔の実の中には悪魔が居ると聞いていた。だがそれは食べることによって付加される能力の理由付けであるとローはおもっていた。恩人から口にするように言われたあの実をかじった時もそうだ。実際にローには経験がなかった。実に居るといわれる悪魔から語りかけられたことは無い。

 海賊たちがその光景に動きを止める。動けなかった、が正しい。ふとエースは目に留めた人物に向かって指先を揺れ動かせば、焔が銃弾のように撃ちだされた。次いで掌を横に薙げば男たちを炎が包み込みその身を焼いた。炎にまとわり付かれた男たちは海へと身を投げる。その操りはつい先ほど能力者になったばかりとは思えないほど使いこなしていた。実の能力を把握し、変わってしまった体を最初は誰もが持て余してしまうのが普通なのだが、エースは身の内に宿した焔を用途ごとに使い分けている。

 

 銃を持つ男に炎が肉迫した。いつまでも好き勝手にやられているばかりでは無い。

 そう言わんばかりに声に気合を込め、大男が長剣を振るうが、その刃はもう意味を成さない。斬られた個所が炎と化し、かつ鉄すら溶かし斬撃を無効化するからだ。銃も放たれるが同じだった。

 

 男は紅に包まれる。

 がしかし、ただで包まれはしなかった。

 羽織っていた衣類を広げればそこには筒状の火薬入れが並んでいたのだ。

 叫びがそこかしこで生まれる。最悪この船自体が沈んでしまいかねない火薬量だったからだ。

 炎はその場から動かない。そこへアンが風を纏ったかのような動きで駆け入る。

 男の体に触れ、海賊旗が揺れるその更に上へと一瞬へと至らせた。

 爆発が起きる。炎が黒く、煙を含んで空に立ち上ってゆく。

 

 青の中に黒と赤が弾ける。

 甲板上には少女の姿だけがあり、伏せていた目が周囲に向けられれば、男達はたじろいだ。今まで戦ってきた相手とは全く違う、なにかだ。そう、化け物と言ってしまっても誰も異議は唱えないだろう。

 

 「さあ、どうする? まだやるかい」

 

 ふたりが並び揃えば、海賊達の緊張も極限まで引きあげられる。

 苦悶の呻きが響き、恐怖が商船に押し寄せていた海賊達に伝染していった。そうなればもう、雪崩れるだけだ。

 

 少年は目を見開いていた。

 庇われたのが衝撃だった訳ではない。戦技に見入られてしまったのだ。

 炎と風、それぞれが能力者なのだろう。

 大人たちにも能力者はいた。恩人もそうだ。名を明かした、友だちだった少女もそうだ。

 だがこれほどまでに鮮やかな色は初めて見た。血と硝煙の匂いが立ち込めているというのに、兄妹が立つ場所、そこだけが異質だった。死の匂い、死神の鎌、表現はなんでもいい。ぽっかりと切り取られていたのだ。まるで兄妹がこの場で死ぬことはないと明確に示されているかのように見えたのだ。

 咄嗟の判断とはいえ、偶然手にした悪魔の実を正確に口内へねじ込んだ精確さも、どうやって移動したのか爆弾を所持していた男を空へと放り投げ、洗練された動きに魅入られてしまった。

 

 ふたりは逃げる海賊を追わなかった。

 黒く焦げた木にくすぶる炎を消して回り、息ある商船の人員を助けて回る。炎が炎によって消される様をただ、ぽかんとして少年は見ていることしか出来なかった。

 

 「体の調子はどう?」

 「って言われてもな。よくわからねェ」

 

 どうにかこうにか生きた電伝虫を救出し商船の生き残りたちが海軍へ救難を願うことが出来たあと、兄妹はお礼がてらいくつかの食料を受け取ることに成功した。しかし兄妹は商船の者たちにとって恐れを抱く対象となってしまったらしい。それはエースの体から立ち上る炎が原因だった。商人は腐っても、どのような状態になっても商人であるのだろう。助けてもらったとはいえ悪魔の実を売却した際の代金と現状を秤にかけたとき、損失の方が大きいと下したのだ。

 

 疫病神め、さっさと出てゆけ。

 

 ありがとうございます。助かりました。そう言いながら実際には悪魔の実を勝手に食べた泥棒たちめ、と思っているのだ。

 言葉に出さねば、笑った顔を貼り付けてさえ居れば相手に何も伝わらないのが人である。

 だがその心の内に秘められるはずの声がアンには聞こえた。だからいつもより余分に笑む。

 そうして踵を返しながらエースに触れた。このまま自分達の船に戻れば、大惨事になりかねないからである。

 炎の悪魔さん、ちょっと静かにね。夕焼け色のような揺らめきが残る指先をアンがそっと握りこめば、エースの体から立ち上っていたものが体の中に戻ってゆく。

 

 「けど……」

 「けど?」

 「しっくりと馴染む感じは、する」

 

 そう。それはよかった。

 アンが小さく息をつく。そして黒く焼け焦げた船の向こう側に隠れた少年を回収し、我が家とも呼べる船に戻った。

 波は穏やかで潮の巡りも良い。譲ってもらった海図どおりに進めば数日後には漁村にたどり着くだろう。

 

 エースから放たれる、耳に痛い正論もたまにはいい。

 アンは帆を操作しながら、ぐちぐちと続くそれに、はい、ごめんなさい、と何度も口にする。

 悪魔の実とはかなりくそまずいのだろう。少年の顔もかなり渋くなっていた。

 

 「口直しに肉な、肉。脂したたるのが無性に喰いてェ」

 「わかった。じゃああぶってね。いやあ、便利な能力が手に入ってよかったよ」

 

 あァ? お前、ぜんぜん反省してねェな。

 眉に皺をよせ、かなり物騒な顔面になり威嚇してくるエースにアンはにこりと笑んだ。

 ごろつきどもがよくやる、顔面しわ寄せ威嚇攻撃もエースならば全然怖くは無い。本当に怖いのは別の顔をするときだ。

 

 「ガキ、お前も馬鹿だ。来んな、ったのに来やがって」

 

 怪我、無くてよかったな。

 アン、お前が傷だらけってのはどういうことだよ、馬鹿だろ、バーカバーカ。

 

 優しくはない物言いだ。しかも上目目線である。

 だが仕方が無い。刺し傷はないが、切り傷はいくつか作ってしまった。綺麗な(はずの)水で洗って軟膏を塗ってもらったので大事にはならないはずだ。破傷風になるのだけは勘弁である。

 

 実は少年が医師見習いであることが判明したのだ。詐称であるかとおもいきや、かなり本格的な手当てだった。

 そして名も知った。 トラファルガー・ローという。

 

 ローは言った。教えて欲しい、と。

 兄妹は言った。何を、と。

 

 そして交わす。

 多分に兄妹のほうが割を食う内容ではあったが、名を知ることで多くを知ることが出来るアンが頷いたのである。

 ならばエースに文句などありはしない。

 

 戦い方を変えたい。

 それがロー少年の願いだった。

 弟子は師の教授により教えられた技の半分までは至れるが、そこから先は己で磨くしかない。ロー少年の心には隠すことなく叶えたい願いが示されていた。己に教育を施した大人たちを倒し、その屍を超えて往かねば目的にはたどり着けないと知っているのだ。

 だから請うた。

 そしてそれをアンは受けた。

 

 「びしばしいくからね。ちゃんと付いてきて」

 

 船の上で行なう訓練などお手のものであった。大きさは大分違うが、出来る事も多い。

 ロー少年は知る。

 目の前の人物が海兵であったことを。中将職に長年就いている、ガープの孫であるという事を。

 そしてテンガロンハットの奥で細められ、はるか彼方の水平線に投げられた視線の意味も。

 



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54-うおんてっど

 情報管理室から慌ただしく駆ける足音が遠ざかってゆく。

 数日前に一度、そして今まさに現在進行形で、最もその所在を掴みたい人物から直通電話が入ってきたからである。

 情報管理室の面々が現在しなければならないのは、出来るだけ長くこの通話状態を維持しなければならない、という一点だった。そんな状況下にある海兵たちは口々に、部下おもいで有名な大佐に向けてお願いします、切らないで、と懇願の言葉を次々に放ち続けていた。

 

 

 数日前、東の海全域でとある作戦が実行された。それは掃討ローラー作戦である。海軍の船が海賊たちの船を数日かけてとある海域に追い込み一網打尽にするという任務であった。しかし多くの海賊たちは侮っていた。海軍が現れたらどこぞの島に上陸し、酒や女を囲んで楽しんでおけばいいのだと気楽に構えていたのだ。

 が、結果的には東の海を騒がせていた、積み重なり続けていた手配書の枚数がかなり激減したのである。

 なぜならば海軍はこの作戦を秘密裏にしなかった。大々的に公表したのだ。そして陸にある村や町に海賊かもしれない集団が押し寄せた場合、海軍に連絡さえしてもらえば必ず向かう、そう発布したのである。もしこれだけなら通報してくる村や町、国は少なかっただろう。そこで海軍が打った手はトトカルチョだった。どの海賊がどの勢力に囚われ、もしくは逃亡するのか、それを予想して当たれば配当金が得られる海軍公式博打を行なったのである。

 

 売れに売れたといっていい。

 

 討伐には無論のこと多くの賞金稼ぎたちも集ってきた。捕えた海賊の賞金プラス、博打の配当金を手にするため、名の知れた賞金稼ぎたちもやってきたくらいだ。

 東の海ではこの日、阿鼻叫喚が巻き起こった。

 手には賭けた金額と予想した紙が握られ、映される映像に固唾を飲み肩にまで力を入れていたほどだ。

最高額は8700万ベリーの大物であったが、最後の一撃を海兵のひとりが掻っ攫ったことにより多くの紙が舞った。配当金が最も低かった海軍に賭けていたのはごく一部だったのである。

 

 お祭り騒ぎとなった件の掃討作戦であるが、実は裏がある。

 海軍から単独出奔したとある人物を捕えるために行なわれたのだ。

 だがしかし、目的の人物は見つからなかった。どこに隠れていたのか誰も見つけられなかったのだ。

 ポートガス・D・アン大佐は東の海ではかなり有名な海兵である。このトトカルチョを海軍が告知した際、16才までの子供たちに限り彼女を見つけ、背中にタッチしたならば軍艦に乗ることができる、もしくは海軍本部への招待という企画が行なわれたのだ。これに多くの子供たちだけでなく、大人も飛びついた。豪華客船ではなかったが、かなり優遇された旅行プレゼントだったのだ。

 どこに大佐が訪れるのかは秘密である。見つからないように変装しているので、楽しみながら探して欲しい、と宣伝した。

 そして子供たちは当日、彼女を追いかけた。その多くは姿かたちが似ている海兵たちであったが各地に散らばった彼、彼女らは残念賞を渡してまわった。

 それは海軍の、子供達向けの制服レプリカTシャツであったり、帽子だったのだがかなり人気が出たという。

 

 そこまでして見つからなかった当の人物から連絡が入ったのだ。逃してたまるものかと情報管理室の兵が全力疾走するのもわからないではなかった。

 

 「だからそんな大事(おおごと)にしないでくださいって、聞いてる? ブランニュー」

 「大佐、お願いですからもうしばらくこのままで」

 

 数秒の沈黙の後、電波が途絶えた。

 逆探知するまでもなく現在地を口頭で言っていたものの、今すぐにそちらへ近場の船を向かわせた所で、きっと入れ違いになってしまうに違いない。

 彼女が、将来を約束され将の位まで目前と言われていた人物が突如出奔したと聞いたのは、つい数日前の事だった。

 表面的には長期休暇となっており、東の海で海賊船をひっ捕らえ、商船を助け、連絡してきた事実は全て、機密として伏せられている。

 「現状を報告せよ」

 「はっ」

 ブランニューは背後から聞こえた声に背筋を伸ばし、その場で敬礼する。通信室に足を踏み入れたのは、海軍本部の頂点に座す元帥だった。報を待たずわざわざ情報管理課までやってくるなど、通常であればありえない話だ。世界のどこかで天竜人がおこなった無体な行為により、暴動が起こりその鎮圧に海軍が動いたとしても、海軍本部の頂きにある部屋から頑として動かない元帥が、やってきてしまった。その顔をこっそり覗き見れば眉間にしわを寄せ、口髭を蓄えた唇を真横に結んだ表情は厳しい。

 「今しがたポートガス・D・アン大佐より連絡が入りました。現在位置は東の海(イーストブルー)、ローグタウンより南東に下ったペルシアナという町に滞在しているとのことです」

 元帥到着まであと一歩という所で切られてしまった電伝虫をちらりと見れば、我関せずと言わんばかりにそれは目を伏せ眠っていた。

 冷たい汗を背筋に感じながら、一気に文言を伝えきる。

 

 聞いたことが無い町の名だとセンゴクがつぶやけば、

 「東の海では有名な町なんじゃがのう」

 後方よりセンゴクとは真反対に楽しげな表情をしたガープが扉にもたれ室内を眺めていた。

 「なにをしている」

 「気にするな」

 「そうもいかん」

 「なら可愛い孫娘の声を聞きそこなった哀れなジジイが居るだけだとおもってくれ」

 

 ぐっと一瞬、言葉に詰まった後、そういう問題では無いとセンゴクはいつものようにガープを切り捨てる。

 今までにも海兵であった者が海賊に墜ちた実例は何十とあった。だが今回ばかりは政府からお達しが出るのを待たず、箝口(かんこう)を引き行方を追わせたが、なかなか捕まらないでいる。まるで網の目の隙間を知っているかのごとく、そう、ことごとくすり抜けていた。

 手塩にかけて育てた人材が流出した、だけではでは済まされない。

 彼女は英雄の孫である。その事実は大々的に世界中へ発信されていた。それが海賊となったとあらば、民衆は激しい動揺を見せ、精神的に脆い者たちは恐慌状態に陥る可能性もある。

 世界に与える危険度を示すならば、新世界に居座る四皇とその配下を省けば、現在進行形に置いて最も数値が高いといえるだろう。なぜなら彼女が持つ能力があまりにも万能であり、やろうと思えば世界をすぐにでもひっくり返せる力であるからだ。例えばあの転移能力で敵対する勢力同士を鉢合わせたならば。もしくは現在の技術では動かせないなにかを多くの人の目に晒される場所へ現したならば。考えられるありとあらゆる事案があまりにも膨大であり過ぎ、かつ及ぶ効果も計り知れない。

 胃の痛みなど構っていられなかった。なくなるならなくなればいい。溶けてしまった方が、いっそ楽であろうと思われたからだ。

 とある事情において下手に手配書を回すわけにもいかず、ここ1カ月内で最も頭が痛い事案だった。

 

 「ローグタウンには連隊が駐屯しとる。ペルシアナの近くには支部もあるんじゃ」

 そのうち姿くらいは捉えられるだろうとガープは事も無げに軽々しく、安易にそう言いきった。

 海賊となるものたちの目的は限られている。となればどうせ偉大なる航路(グランドライン)に入って来る筈だ。そうなれば張る区域も限定される。

 しかしセンゴクは焦っていた。こんなにも焦燥感に駆られるのはどれ程だろうかと振り返るほど、若かりし頃に感じた切迫を身近としていた。

 「悠長に待ってはおれん」

 デイハルド聖が解き放った獣は、政府の中枢、それが抱える闇も知っている。

 連れ戻せるならば出来るだけ早くに、もし出来ないのであれば、それ相当の被害を想定した部隊を送ることも検討しなければならない。

 世界の中心に座す老人達では無いが、そこに最も近い存在にせっつかれているのだ。遠まわしにだが、海軍への予算をちらつかせられていた。

 コングがなんとか世界貴族内の愚痴を引き受けてくれているお陰で、予算の件もうやむやと前年度と同じ金額が下りてくるとはされている。

 だがしかし、現状を鑑みれば結果は散々といえるだろう。

 全ての海で海賊を取り締まっても、被害は減少どころか増加の一歩を辿っている。

 その中でなんとか削減された人員の賄いや、物資運搬の見直し、海兵としての意識改革などが成されようやく軌道に乗ってきたところだったのだ。

 

 計画の中心人物が消えるなど、以ての外だった。

 幼いながらもその頭脳の中に秘めた機構を構築する力は、今現在の海軍に最も必要とされる素質とセンゴクは考えていたからだ。

 やむを得ないのか。

 

 真一文字に引かれた唇が動くことは無く、固い表情のままセンゴクは情報管理室からその姿を消した。

 

 

 

 アンが海軍本部に連絡をした時から少しばかり時間を巻き戻すこと二日ほど。

 今日も今日とてエースとローは飽きることなく食べ物をかけて口論を交わしている。

 

 「それはおれのだ」

 「…さっき丸ごと一匹食べただろ」

 何度目かのそんなやり取りを、アンは楽しげに眺めていた。

 取り合っているのは鳥の丸焼きだ。

 現在乗る船には、持っていた所持金以上の設備が乗せられている。

 先日助けた、エースが実を食べた船とは別の、海賊に襲われていた商人が快く譲ってくれたのだ。

 名前をようやく教えてくれた少年はエースの治療をしつつ、ふたりから基本的な戦闘のノウハウを学んでいた。空間把握だけを例に挙げてみても、ルフィより高い応用能力を持っているようにも思える。ただ相手を無効化し、戦闘能力を奪うという点では、やはり弟の方が勝っていた。前線で戦うより、中距離から仲間の支援をしつつ援護射撃をするのに適した能力であるようにおもわれる。

 

 風は良好、航海を邪魔するものは何もなく、大きすぎるからと遠慮した船であるが思いのほか役に立っている。波を切る速度も上がり、予想以上に早くローグタウンへ到着する見込みとなっていた。その前にペルシアナに寄って食べ物を補給せねばならない。

 ローグタウン、別名、始まりと終わりの町。東の海でなくとも、後者の方が町の名としては有名だろう。空白の100年を含めた、近代史の中で唯一、海賊王の称号を手に入れた男が生まれ、死んだ町の名称だ。

 海軍は海賊王を見せしめとして公開処刑した。だがそれは間違いだったと、言わざるを得ない。そう個人的にアンは思っている。

 なぜなら海の王位に就いた男にわざわざ舞台を整えてやった、と同義だからだ。

 しかも海賊王はその命と引き換えに、新しい時代の幕上げを宣言してしまった。義祖父も何か企んでいると、気付いても良かったはずなのだが、妙な所で気の合う関係だったらしいし、あえて、最後に打ち上げる特大の花火を邪魔しなかったとも思える。

 結果的に世界へ終わりを告げるはずの処断が、始まりを鳴らす鐘となった。

 しかも多くのものを魅了し、死んだ父は予定通りとほくそ笑んでいるに違いない。

 それからローグタウンは東の海の中で、一大観光地と化した。その様は某、夢と魔法の王国とそっくりだとアンは思う。

 

 海軍は一般的にも、そして海賊に対しても、本部直属の大隊をローグタウンという町に配置せざるを得なくなった。

 理由は指して推し量れるだろうが海賊王にあやかろうと、この町を訪れる無法者たちが溢れかえりかねなかったからだ。事実、海賊王の処刑時には今現在、新世界で名を轟かせる、または七武海として名を馳せる者達がそれを静かに見ていたという。

 いくらか他の海に比べて平和という二文字が似合う方角ではあったが、それでも海賊が居ない訳ではない。

 処刑が行われてから数年間は流れ者が多く蔓延り荒れたと言う。東の海に配置されている人員だけでは力不足だったのだ。

 当時の資料を漁れば、定期的にガープ中将が掃除に訪れていた事が解る。また偉大なる航路(グランドライン)内で鍛えられた大佐の位を持つ人物が代々、その町の守りに入ってからは表沙汰にはそう、大きな事件は起きてはいない、と明記されていた。

 

 アンはカモメの鳴き声を真上に聞き、視線を上げる。陸が近いのだ。

 波を良く切り、小舟(バルシャ)と比べれば揺れも少ない新たな住処となった、この船の名はまだない。

 船首にはエースの希望で取り付けられた馬の像が飾られている。

 アンは黒く染められた予備の帆に針を通していた。ある程度の事はなんでも自力でこなしてしまうエースだが、裁縫だけは苦手としている。布を通過した先にはなぜか指がいつもあり、何度赤い血で染めたのか数え切れないほどだ。

 (ああそうか、ロギアになったんだから怪我しても直ぐに治っちゃうし、練習して貰うっていうのも手だよね)

 アンはぼーっと思考を垂れ流す。

 ルフィの場合はそもそも炊事や家事、裁縫などをさせる方が間違いである、そう気付いてからは、その一切合切をマキノに頭を下げてお願いしていた。なぜなら結果が、どう表現していいのわからないくらい滅茶苦茶になるのである。どうしてこんなことになってしまったのだろうとおもうくらい結果と原因が結びつかないのだ。食べ物関係を挙げるなら炭化するならまだいい。火災を起すのもまだましなほうだろう。なぜ化学反応を起し猛毒と化すのだろうか。

 アンが忙しいからと洗濯をまかせることにする。布がボロになるのも被害が少ないといえる。ちょっと目を離した瞬間、なぜ網のようなものに変わっているのだろう。それ、Tシャツだったような気がするのだけれど。という具合だ。

 あの子に生活能力が無いのは、十分わかっていた。だからこそアンやエースが万能になったのだともいえる。本当ならばつれてきたかったのだ。島にひとりで置いておくのが恐ろしい。だがしかし女神が現れた。ルフィの世話をマキノが快諾してくれたのだ。ダダンたちはなんとかするだろうと勝手におもっている。だが弟はだめだ。ひとりで放っておくとろくなことにならない。構い過ぎだといわれるが、そうしないと危険が拡大するのである。こうしてエースと旅に出られるのもマキノのおかげだった。彼女はルフィが苦手とする全てに秀でている。そもそもマキノはアンの師匠だ。

 

 「焼いちまうぞ」

 「あー、うん。大丈夫、能力抑えるね」

 聞こえてくる声に緊張感のかけらもないのんびりとした返答が戻る。

 アンがエースの口に突っ込んだ悪魔の実は炎だった。確たる名称は図鑑を見なければ分からないが、自然系(ロギア)であることは間違いないだろう。体の感じは以前と変わりないらしいが、何かをしようとすると炎が生まれ、上手く実体を保っていられないような気がするらしい。

 アンは意識し、揺らぎ無い水面を思い浮かべる。

 訓練し始めた頃は直に触れていなければ効果が発動しなかったが、今ではある程度の範囲内であれば、力を御すことが出来るようになっていた。

 発火してみて、と言われ、エースは試しにと指先を振るう。

 「お?」

 「なんでだ?」

 エースとローの疑問符が重なった。

 「タネも仕掛けもありません」

 両手を空に掲げ、アンがにへらと笑う。ならばとローも発現できていた能力を使おうとするが、まったく反応しないことに唖然としていた。

 

 「これはねぇ、たぶん血の影響だよね」

 眉を寄せる男達をよそに笑いながら、これからの事をアンは考える。

 

 悪魔の実の力をエースが得たことで、ふたりは狙われやすくなった。爆発的なまでの攻撃力を有する、海軍式に言えば要注意人物となったわけだ。

 元々アンが同行している時点で目をつけられていると同意義なのだが、エースまで悪魔の実を食べたと知れば義祖父はどんな顔をするのだろうか。予想は難しくない。しかも海賊の旗揚げをしていないものの、絶賛偉大なる航路(グランドライン)に向けて航行中であると知ったならば、なんと言うだろうか。

 

 「絶対に…」

 「腹捻らせて笑い終わった後に拳骨だな」

 ふたりの意見が重なる。

 愛ある拳と語る義祖父の拳骨(げんこつ)は脳しんとうを起こしてしまうほど、痛い。痛いというより気が遠くなる。あの拳を受けて、平気でいられる生命は、この地上のどこを探してもいないだろう。それくらい痛い。想像するだけで痛みをひりひりと感じるほどに、ふたりの体には刻みこまれていた。思い出したエースがぞくりと体を震わせている。

 

 戦い方もこれから変化するだろう。

 否、変えざるを得なかった。

 今までと同じであれば、いつかは自分の癖を良く知る大将達に拿捕されてしまう。

 安定した力を放棄するのは決断が必要だ。

 一度捨て、新たに構築した土台の上に今まで培ってきた技術や知識を組みなおせばいいのだ。

 これもひとつのパズルである。

 その欠片をエースは手にした。

 ならばアンも取り急ぎ、ばらさなくてはならないだろう。

 だが力技を中心に組む訳にもいかない。体格や腕力、敏捷性など基礎から誰かに師事出来る訳もなく、方向性を変えながらも技巧を中核に組むしかなかった。ふと浮かんだ顔が笑む。しかし頼れないとアンはかき消した。

 

 針を羊の毛を丸めて作った針山に刺し、立ち上がる。

 空模様は変わらないが、風が微妙に向きを変化させたのだ。

 アンが水平線の向こう側に視線を泳がせる。

 「ペルシアナまではこの航路で大丈夫そうだね。エース、少しだけフォアコース動かしてくる。舵見ていて」

 地図を見ることもせず、甲板からマストへと飛ぶ。その姿はまさしく空を自由に羽ばたく鳥のようだ。

 海兵が使う体術のひとつだと、ローは聞いた。

 

 「ところでロー、次の島に着いたら帰るんだろ」

 「ああ。あんたの傷もほぼ完治しているし、な」

 ロギアだから、ではなく、エースという存在そのものの治癒力が半端無く高かった結果、効果的な医術を施した事により予想していたよりも早く治癒したのだ。

 とはいっても撃たれた銃創は、悪魔の実を食べた直後だったため、深い傷になってはおらず、どちらかと言えば顎の部分に出来た打撲のほうが傷らしいといえた。

 医者の卵としての視点から見ても異様な回復力を見せたエースの体は、完治と言っていいほど整っている。

 

 ありがとうという声に上空を仰ぎ見れば、ニュース・クーから新聞を受け取ったアンがマストを支える支柱の上で手を振っていた。

 すとん、と下にくだり舵の向きを固定してから新聞を広げれば、その中からふわりと数枚の紙が舞い落ちる。

 

 

 それは一見、手配書だった。

 だが踊る文字は"DEAD OR ALIVE"ではない。"ALIVE"のみ印字され、桁が描かれている場所には"LIKE HOPE"とある。

 写真は横顔が写るものだが、特徴は分かった。

 「生け捕りが絶対条件だとよ」

 「7年近く海軍に居たけど、こういうのは初めてだよ」

 ローは驚愕の事実を知る。新聞は必ず目を通していたはずだ。なのに知らない。

 一見、この脳みそに花が咲いたような緊張感の欠片も無い人物が実は、過去何度か新聞をにぎわせていたらしい風舞いその人であるという。海兵にこんな目立つ人物がいればわからないはずが無い。だが現実には気付けなかったのだ。自分のフシアナに絶句する。

 

 望みのままって、豪華だなぁ。予算はどこから出すつもりなんだろう。

 まるで他人事のように言うアンに、本当に大丈夫かとローは思わず口に出しそうになった。

 そしてなんでおれがヤツの事など心配してやらねばならん。

 気が付き急いで胸中に沸いた不安をかき消したが、いつの間にか顔を覗きこんできていたアンにふい、と顔を背けて背を向ける。

 出会ってからまだ10日も経っていなかった。だがパーソナルスペース、人が他者との間に保とうとする一定距離の空間にするりと彼女は入り込んできた。

 違う。

 踏み込まれても緊迫しない、微妙な線を計らいながら、どんどんと心許せる場所に手を引かれたような感じだ。

 エースはある程度の距離を、持っていたように思う。付かず離れず、様子を伺うような感じだった。しかしアンは違う。踏み込んで来るのではなく最初に己の懐へローを招き入れたのだ。否定なく手を引っ張った。それは許容、の意志だと気付いたのは親のように怒られた日の事だ。

 どんなにローが交わりを受け付けず、口も利かなくても拒まなかった。

 ありのままを受け入れ、ありのまま変わらなかったのだ。

 

 乗っていた船の事も、どうして漂流していたのかも、ふたりは聞かなかった。

 会話するようになってから、疑問符をつけて問えば、

 「話したかったら勝手にお前から口を開くだろ」だった。

 

 言いたくないことを無理矢理聞くつもりも、吐かせるつもりもない。

 そう言いながらもふたりは巧みにローから言葉を引き出していった。

 ローが北の海出身者であることや、いくつかの固有名詞を彼から得て、居住する場所と町を探し出してしまったのには驚いた。そしてその町がどうなったのかも知っているらしい。

 聞いたことがある海域だったのだとアンが照れたようにはにかめば、医療、特に外傷系の外科医術においては、有名だったとエースが言葉を続ける。

 

 「医術の基ってすごく残酷だよね。体の仕組みを知るために、かつて人は人の体を切り刻み、なにがどこにあるか、見たことの無い部位を開きながら描き留めていったらしいし」

 命の価値が今よりもずっと軽かった頃、今であっても重さが平等では無い、争いが断続的に続く場所で、医者と呼ばれる人達は息絶えた死体を、息があっても敵側の肉体を蹂躙した。

 

 「命を救うのが医者の使命と言われるけれど、ある意味、命を絶つのも立派な責務だよね」

 

 どこか遠く、違う場所の何かを見つめるようにアンがこぼした一言にローは惹かれた。

 人々は口々に助けてくれと強請る。

 腕の良い医師のもとには連日、患者が溢れ、口々に望む願いを吐き出してゆく。

 死にたくないともがく。

 死と生の境目で必死に、救いあげようと手を尽くしても落ちてゆく命もあった。

 そうすれば腕が悪い、何かミスをしたのではないか。あり得ないと糾弾する。

 

 死ぬのは誰だって怖い。

 エースのようにいつ死んだっていいと強がりを言っていても、その間際にはやっぱり、生き様に後悔は無くても、心残りは出ると思うんだよね。

 アンが親指で例を示すように言えば、

 「悔いの無いように、日々生きてなにが悪い。お前だってそうだろ」

 「そうだよ」

 違うとでも返ってくると思ったのだろうか。エースは勢いを削がれたように、柔らかく笑むアンに、なら文句はねェ、そう言って足を組みそっぽを向いた。

 

 「いやまあ、なにが言いたいかと言えば」

 生きる事、老いる事、病となる事、死ぬ事、はどんなに足掻いても、人間として生まれてきた限り避けることが出来ないんだよ、ってこと。

 

 アンは言葉を選びながらローの瞳をまっすぐに見た。

 「生きたいと願う者には生を、苦しみの中で楽を得たいと願う者には終わりを渡す事が出来るのは、お医者様、だけなんだってことを言いたかったの」

 

 医者ではなく、軍人だった自分が対峙した相手に下してきた命を絶つ行為は、どう繕っても渡すものではなく奪うものでしかないのだ。

 死神ですら首に鎌をあてたあと、しばらくのあいだ足掻く猶予を与えるというのに、アンは生命の収奪をただ機械的にこなしてきた。いくら刈り取った命を背負うと決めていても、不本意な終わりをもたらすのだ。

 相手にとって不服でない訳がない。

 

 ローは思わず手を伸ばす。

 だがそれよりも先にエースがその頭に手を添え、柔らかなほほ笑みをこぼしていた。

 言葉など必要の無い、絆の存在を感じるその視線に拳を握りしめる。

 「ロー」

 名が呼ばれる。

 細い指が握ったそれに伸び、両の手が包み込んだ。

 「この手はわたしに差し出してくれたもの、だよね」

 貰う前に引っ込めるなんて男じゃないぞう。そう唇の両端を上げ、笑みを浮かべる。

 「必要ない、なんて、ないよ」

 口に出す前に言われてしまった言葉に視線を逸らせ、小さく舌打ちした。

 

 素直では無い弟とよく似た年頃の少年を思わずアンは抱きついた。

 驚いたのは男達だ。

 「可愛いなぁ」

 言葉を詰まらせていたふたりは、同時に叫ぶ。

 「離れろ!!」

 

 3人だけが乗る船はふたつの意味を含んだ叫び声を放ちながら、道しるべがある始まりと終わりの町へと近づいていた。

 



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55-オワリノハジマリ

 ローグタウン。

 別名、始まりと終わりの町。かつて海賊王ゴールド・ロジャーが生まれ、そして処刑された終焉の地として数多くの書籍にも名が連なっている。そして東の海から偉大なる航路(グランドライン)へと入るための道標でもある有名な町の名だ。

 

 海賊王。

 

 偉大なる航路(グランドライン)に挑戦する誰もが求めるもの。どれだけ多くの者たちがその称号を得るため旅立っていったのか。正確な数を知る者はいないだろう。頂を制した彼の死によって切って落とされた、高らかに祭りの始まりを叫んだ男のひとことによって偉大なる航路(グランドライン)をかけ登っていった者たち。彼らは泡のように湧き出ては消える、を繰り返し世界の中心にある偉大なる航路(グランドライン)、その限られ区切られた高みの海の、さらにこの世界の謎を解いたものだけがたどり着くことの出来る唯一に至ろうともがいている。

 

 青の海で生存し続けるには、力を示し続けなければならない。あるいは幸運でもいい。

 揺れ動き続ける船の上で、唯一の足場とし家とした船の上で、生きている事を主張しながら生き抜くだけの力を証明し続けなければならない。

 

 アンは白い衣に身を包んでたくさんの船を見てきた。

 幾つもの船を沈めてきた。

 数えられないほどの命をこの手で()いできた。死地へと送りだす基盤を作りだした。

 それは海兵だったからこそ許された事だ。

 しかしこれから行う全ては、ただひとり、個人の所業となる。

 

 ペルシアナで補給物資を積み込んだあと、アンはローが願った町へ飛んだ。フレバンスの跡地ではない。彼の父と文通を行なっていたという悪友が住む北のはずれだ。病が町を苛んでいた最中にも一家でこっちに移り住んで来い、手段はあると書き綴ってくれていたらしい。アンはその名を聞き、ふとおもいうかべた事柄があった。とある北の町には海軍内でもかなり有名な変人が住んでおり監視がつけてあった、とある報告書を見ていて知っていたからだ。報告書を入れる年度の箱が間違えていたのだろうか。なんとなくローの話を聞いているとまだ住んでいるらしい。どういうことだろうとおもいつつも深く考えずローと、指定されたその町から少し離れた場所に降り立った。エースは留守番である。唇を尖らせ一緒に行くと拗ねたが、なだめすかしエースのわがままを何でもひとつ聞くという約束をしてなんとか船に残ってもらえた。

 

 船を泊めたペルシアナとは真逆の季節だった。

 今、東は春と呼ばれる気候区域がゆっくりと、赤い土の大陸に添って進行中だ。ふたりの服装もそれに合わせて半袖だったり長袖に着替えたりする。ローを送り届けた町は丁度秋にさしかかろうとしていた。北の海は冬が長く夏が短い。これから厳しい冬がやってくる。幸運にも着ている衣服の違和感はなかった。夏の服装で冬に突っ込むのが一番厳しい。笑い話になるだろうが、水着のまま冬の地域にテレポートしてしまい散々な目にあった事もある。

 

 別れの時、ふたりはローとひとつの約束をした。

 「必ず会いに行く」

 ローは挑戦的な視線を双子へ向け、自らの欲しているものを告げた。

 普通は誰もが訳の分からない顔をしたり、笑い飛ばすが、ふたりは拳を目の前に突きだして言った。

 「先に行って待ってる。高みで会おう」

 3つの拳が打ち鳴らされる。目的地が一緒だったのだ。広い海のどこか出会おう、など幾千幾億の砂の中に隠されたたった一つの貝殻を見つけ出すようなものだ。しかしローはふたりに会いにゆく、と言った。新世界まで駆け上ってくると断言したようなものである。

 

 ロー少年の求めているものはかなり難易度の高い希望だ。果たせるか否かはこれからの準備にかかってくるだろう。信じあえる仲間を集め、周囲の協力を仰ぐためにその手を汚さなくてはならない。そしてそんな己でも手を繋いでくれるという奇特な協力者や友も必要となってくる。

 男の決意はそう簡単に覆せるものではない。だがロー少年が持つ力は、彼の能力を深めるのに適したものだった。誰よりも早く空間の把握さえできれば、もっと上手く立ち回われるようになるだろう。アンにしか出来ないとおもわれた無双も、ロー少年には可能であった。今はアンだけの十八番である生きている人間から心臓を部分転移させ潰す、という荒業もそのうちものにされてしまうにちがいない。出来るならば命を救う手段としてほしいが、手のひらを真っ赤に染め上げているアンが言える言葉ではないだろう。

 そもそもローが医術をその手に習得したのは家が医者をしていたから、父の跡を継ぐためであったが紆余曲折を経て今の形に納まっている。運命の悪戯か、はたまた神の采配か。祈る神を持たぬアンではあるが、世界の意志がどこへ誰を連れて行きたいのかはだいたいわかっているつもりだ。

 

 口出しをしないほうが、いいのだろう。

 けれど、とおもい、迷い悩んで口を噤んだままため息をつく。

 

 北の海にきてアンは理解した。違和感の正体に気付いてしまった。

 と、いうことはエースも当然、おかしいなと少しはおもうわけで。もやもやとした感情が流れ込んできていることにさらなるため息をつきたくなる。

 

 ロー、彼の意思を継いで、果たしたあと、どうするつもりなのかな。

 

 アンは心の中でそうおもう。

 ロー少年はきっと自力でこんがらがった糸を解ききるだろう。ルフィのような力技ではなく、ひとつずつ事実を照らし合わせパズルを組み合わせるように過去を知っていく。

 

 今の段階で伝えられるものはなにひとつない。

 Dという名の意味、そして彼の一族だけが持ち得るワーテルという強い意思が込められた祖先の願い。

 まだ、早い。

 言うだけなら簡単なのだ。しかし安易な発言はローという人物を壊しかねない。

 年を得てたどり着いた土地にて彼は歴史の改ざんによって付けられた名の傷を知るだろう。けれどそうではないのだと本当は伝えたい。

 けれど知るのはまだ、早い。

 

 別れの挨拶を交わす。そしてゆびきりを、した。子供っぽいだろうか。そうおもいながらアンから小指を伸ばせば、ローは躊躇無く指を結んでくれる。

 「ああそうだ、ロー」

 アンは今おもいついた、とでもいう風にとある隠れ家の経度と緯度を口にする。機会があれば、否、アンがそう口にすれば必ずローはその場に行かざるを得なくなるだろう、との憶測を込める。

 センゴクが誰とアンを重ねていたのか。それを知るために調べていたことがここに実った。だからローが彼の残したものを受け取るべきだとおもったのだ。

 アンはその場にローだけを残し姿を消した。何かを尋ねられる前に消えなければ、質問攻めにあうのは必至だ。ローはきっとサボと気が合うだろう、そんな感じがする。本能で必要とするものに齧りつくルフィとエースとは違い、あのふたりはどちらかというと理詰めにしてくるタイプだ。議論は嫌いではないが、今は危険だ。知る必要の無い情報までぺろっと出しかねない。

 次に会う時は敵か味方か、それとも盟友となり刃と酒を交わす間柄に、もしくは憎しみをぶつけ合う仇敵となるのか。それは再会してみないとわからない。

 小指に残る感覚を握りしめる。必ずもう一度、出会うと、そう契った指を信じて前に進むのみだ。

 

 

 ふたりへと戻った双子は昼食を近くの露天で買い、そしてとある場所に電話をかけ、すぐに海原へと出た。

 海や空の色は変わらない。澄んだ青が続いている。けれども風が変わったのを確かに感じた。

 優しく包むような柔らかさではなく、冷たく鋭利な人の悪意に色と形を与えたらそうなるだろうなという、尖ったような強風だった。ああ、現実に戻ってきたのだ、そうアンはとげとげしいそれらにほっとしてしまう。決して苛められて嬉しくおもう性癖など持ってはいないが、しかし幼少の頃から置かれていた環境のせいか、なぜか安心してしまうのだ。死に近ければ近いほど生きているという実を感じられるからかもしれない。

 

 「なぁ、アン」

 「ん?」

 

 エースは舵をとるアンをじ、と見つめる。アンもわざと視線を合わせなかった。

 「今の段階でおれが、知っておいたほうがいいことってあるのか」

 

 質問の意図がわからず、息を詰める。するとエースは、あいつと会った、と捨てるように言った。

 あいつ。それが誰を指すのか。アンは即座に理解した。

 「聞きたいこと、ある?」

 「ねぇな」

 「ん、わかった」

 

 ならば、いい。

 それからふたりはただ静かに海を渡る。

 

 

 ペルシアナからローグタウンへは風の恩恵を受け二日で到着することができた。危惧していた海軍の船ともかち合わず、順調な船旅であった。

 さすがに大きな町、観光地であるため人の数が多い。ふたりは混雑する市街地へ直結している大型の船着場ではなく、中型や小型が集まる少しばかり離れた場所にある停泊所に入る。

 都会なだけあり、少々離れていても不便が無いようにきっちりと配慮されていた。例えば人々が行き交いやすいように広く取られているし、商店が区画ごとに分かれて並んでいるらしく、あちこちに案内板が設置されている。身分制度があるドーン王国とはえらい違いだ。

 この町は治外法権が認められている。完璧な民主主義とは言えないが、議会があり何年か一度に行なわれる選挙で決定権をもつ議員が選ばれていた。そのためこの町に住んでいる人たちの声が反映されやすいという利点がある。ただ何かが起きたばあい責任の擦り付け合いがおきる、これが弊害だろう。

 

 ゆっくりと入った港で船舶料を払い、エースが岸にロープを繋ぐ。基本船乗りは半舷上陸が基本なのだが、ふたり旅をしているがゆえの不都合というのだろうか。小さな港であれば船着場を管理している人物に心づけをはずめば短時間であれば看視してくれるが、こういう大きな港だと盗難も頻発するため心づけ程度だと難しいのが現状だ。

 しかしローグタウンにはアンの知り合いが少数であるが居る。こっそりと電話してみれば、いいよ、と引き受けてくれることになった。

 

 「アーちゃん、お待たせ!」

 「シリンちゃん! ありがとう、待ってたよ! その髪飾りなに、手作り? かわいいじゃない」

 「新商品なのよ、アラタガ産の海浮石を使っているの。おひとつどお?」

 

 おもわずエースは瞼を瞬かせた。アンが町の、若い女のようにはしゃいでいるのを見たからだ。

 二度見、する。目を擦っても景色は変わらない。エースはそんなアンに苦笑してしまう。エースが知るアンは同世代と比べずいぶんと落ち着いていた。輪の中にも入るがそれよりも一歩外側に出て周囲を見回し、馬鹿騒ぎするエースやルフィに注意を促してくれる存在だ。どんなことでも出来るくせに器用貧乏だと言い、エースの方がこんなにも凄いと支えてくれる。海軍に居た時もそうだ。自分にできることを増やそうと背伸びをし、ほんの少し上を目指していた。

 

 船番を頼んだ人物はこの町にあるとある商会の娘さんだという。時間通りにやって来た彼女とアンがひそひそと内緒話にはいる。

 

 (お礼の品として要求しようとおもっていたマリーウェンレットのブラウンケーキは3時間待ちが普通になっちゃったので、他のものにしたいとおもいまっす)

 (えっ、なんでそんな)

 (無意識ですか、そうですか。アーちゃんはいつもそうよね。わかってた。なにも考えずに美味しかったと言っただけなんでしょうけど)

 (えっ、いや、まあ、好きだし。食べられるし。お土産に丁度いい大きさだなぁって……まさか、)

 (ええ、海兵さんたちにとぉーっても人気なんです。かくれんぼ中なんでしょ、現在進行形で)

 (おういえー、そうなんだけどさぁ)

 

 ちらりとシリンがアンの肩口からエースを伺い見る。

 

 (で、あの三枚目が双子の?)

 (うん、そうエースっていうの)

 (意外と愛嬌ある顔してるのね、ふぅん)

 

 なにがふうん、なのだろうか。アンは首をかしげながら大体の目測を告げた。

 滞在予定はだいたい3時間ほどである。

 

 「時間つぶしに本を持ってきているから大丈夫。エース、はじめましてシリンよ」

 「アンが世話になってる」

 「こちらこそ。じゃあ待ってるから、見つからないように楽しんできてね」

 

 シリンはふわふわとした柔らかい雰囲気の少女だった。アンとはかれこれ二年ほどの付き合いになるという。

 義祖父の部隊に居た際、知り合った。

 

 「出会いはまあ、普通かな」

 

 エースとアンは船着場から出、話をしながら路を歩く。持ち出した荷物はひとつだ。

 シリンが言っていたかくれんぼもとい海軍主催の鬼ごっこはたぶん、まだ継続されているだろう。

 ブランニューに電話をかけたとき、あまりにも激しい動揺っぷりに申し訳なさの方が先立った。海兵という職を辞したことに後悔はない。だが自分を慕ってくれている多くの人物を置き去りにした、と言われてしまうと罪悪感が顔を出した。

 

 とはいえ戻るつもりはない。アンはエースと共に新世界へと至り、そしてラフテルへ往く。そして父がエースにだけ語った伝言の確認をするのだ。

 

 しかし。この町にはやっかいな相手が居た。海軍本部から直々に送り込まれた大佐(どうりょう)が鎮座しているのだ。

 アンも彼を知っている。味方であれば頼もしいのだが、敵となればなかなかにやっかいであった。

 そもそも海軍本部所属の海兵は、海と陸の区切りによって四つに分断されている海で採用される海兵より強い者たちが多い。資質や才能が認められれば本部に推挙されるのである意味、奪われているともいう。なのでこの町にいる海兵たちは今までとはちがい手ごわいぞ、と言いたいのである。

 

 「あ、でも。そろそろ交代人事、かかっていたような気が」

 日程までは覚えていなかったが、あるのは間違いない。面倒臭さが二倍になった。

 

 なにを悩んでいるのかさっぱりわからないエースはアンのつむじを見る。なにがあろうともいつものように突破すれば言いだけの話だろう。なにをそんなに迷っているのかと考えれば、そうだ、こいつはつい最近まで海兵だったのだと思い出す。

 

 「まずは飯だな」

 考え事をするまえに栄養を取るべし。そうしなければ途中で眠くなってしまいかねない。

 「その前に、換金。お金が無いとご飯も食べられないんだからね」

 「ん、わかってる」

 

 エースは素直に頷いた。

 アン曰く、マキノの店が例外なのだという。それはそうだろう。食い逃げされ続けたら店などやっていられない。とはいえ弟とどこかの店に入ると、宝払いが基本となる。

 人間の社会はこまごまとしていて面倒だ。生きるか死ぬかの森のほうがよほどシンプルだとおもう。しかしエースは人間として生まれた。海へ出てひとつ、わかったことがある。暗闇の中で舵をとりながら星を眺めていると、ひとりでなくてよかったと安心したのだ。死んでもいいと考えていた。誰にも必要とされない、生まれてこなければ良かった命だ。アンが居たからこそ生きていた。友が出来たからこそ目標ができた。弟ができたからこそ先にいこうとおもえた。

 

 もしかしなくともエースは、ひとりであったとしても海に出ていただろう。

 海が繋ぐ縁もあるのだ。それをエースはアンという存在を通して経験している。ひとりであったならばもっと波乱万丈だっただろう。大きな波ひとつでひっくり返る船に乗り、この海原を渡ろうとしていたに違いない。なぜならば自分自身の命に執着していないだろうな、とおもえたからだ。

 エースが傷つくとアンがその痛みをもってゆく。それも自然とエースに気付かれることなくこっそりと抱き込んでしまう。だからエースは怪我ができなかった。エースさえ体を大事にすれば、アンは無茶をしないからだ。

 

 小さな体だ。

 ふたりで分け合ったはずの栄養を、エースがひとり取りしてしまったかのような気分になる。

 子供のようだとはおもわないが、抱き上げるとかなり軽い。今やルフィよりも小さいのだ。本人はこれでも十分育っていると主張するが、実はダダンもあんな細腕でやっていけているのかと密かに心配していたくらいだ。

 

 こっちだよ、とアンがエースの手を握り、引いた。

 どうやら裏道へと入るらしい。海賊船から押収した物品を売る店に行くのだという。表の店は観光客向けで、煌びやかでひと目を引く商品が飾られているが、盗品関係の買い取りをしてくれる店舗は無い。例えあったとしても足元を見られ、二束三文で買い叩かれてしまうのだとか。海賊から頂いた物品であっても、元は誰かから奪った品であるのは変わりないからだ。そこそこ危ない品が紛れ込んでいる場合も多い。しかも持ち込んだ品がどこかの誰かさん所有の、おたずね品ともなればすぐさま海軍が押し寄せてくるらしい。

 

 海兵視点の話は聞いていておもしろい。

 エースを取り巻いていた環境とは全くの正反対であったからだ。

 

 海軍には鑑定室という特殊な部署がある。

 アンは主に先陣をきり海賊と戦う最前線が職場であったが、捕らえた海賊が住みかに溜め込んだ品々を鑑定する者たちもいた。本物のお宝などそうそう滅多にお目にかかることなどない。あるとしてもテレビの中だけとおもっていた時期が、アンにもあった。しかし海賊たちの船からわんさかと金銀財宝が発掘されるのを見て、認識を改めたほどだ。

 目利きたちは天竜人の船から奪われた手配品を発掘すると、アンのもとに送ってきた。本来であれば元帥の名で世界政府の海軍窓口へ送られるのだが、ここ数年は煩雑な処理をすっ飛ばした返還がなされている。アンというマリージョア直通の手段があるのだ。使わない手はないと海軍のあちこちからお呼ばれされていた。

 

 アンは歩き慣れた道を行くように薄暗い路地へと踏み込んでゆく。そこはレンガで造られた建物が両端に連なる細い道だ。来たことの無い場所であるのに、エースは妙な感覚を得ていた。歩いたことがあるような気がする路、だったのだ。

 「なあ、アン」

 「ん?」

 「変だ、おれここ知ってるかも知れねェ」

 端町と同じような匂いがしているのは確かだ。辻の端に座り込んだ、鋭い目つきをした男達がこちらを値踏みするように視線を絡めてくる。

 しかしふたりはそれらを無視して歩く。しかもその様子は表の路を歩いている時と変わらない。予定していた道とは違ったが、行きたい場所を伝えるとエースは、それならこっちだ、とアンの手を引き歩き出す。

 幾つかの辻を曲がり、あともう少しで目的地に到着しそうだという所で、背広を着た恰幅の良い男が真一文字に唇を結んで往く手を阻んだ。

 

 「ここから先は私有地だ。立ち去れ」

 一般人ならば威圧に負けて引きさがるだろう。だがアンにとっては、微風もいいところだった。男が阻むその先が、目的の場所だと暗に教えてくれているようなものでもある。

 「わたしはこの先に用事があるの。Mr.ジョワイヨにお会いしたい」

 男は表情を変えず、沈黙したままだ。

 「ポートガス・D・アンが会いに来たと伝えなさい」

 周囲から感情のざわつきが聞こえた。

 

 しばしの沈黙後、こつこつと石畳を打つ靴音が響く。

 男の後方からもうひとり、同じ服装をした浅黒い肌をした人物が姿を見せ、こちらへ、と手のひらを進みたい方向へ向けた。

 「お前」

 「まあ、それなりに知名度はあるんだ」

 こういう時に使わねば損だと笑う。案内された場所はすぐ側だった。男に止められた通路をすぐに左に曲がったところにある扉だ。

 促されエースが取っ手を握って押す。

 「なんだ、ここ」

 初っ端から見たことの無い装飾が目に入る。赤の中に散らばる様々な彩色のカーペットが敷かれ、路は続いていた。歩いてゆくと執事が立つひとつの扉へと行きつく。

 恭しく(こうべ)を垂れた初老の人物がドアを開けた。

 「ようこそ、英雄候補さん。お会いできて光栄だよ」

 通路とはうって変わり、質素で使いこまれた家具が並ぶ部屋には、齢を重ねた老人が独り座っていた。

 「初めまして」

 にっこりと笑み、アンも挨拶を口にする。

 「くどい挨拶や腹の探りあいはやめておこう。可愛らしいお嬢さんが一体このわしに何用かね」

 わざわざ海兵として轟かした名を使い、半ば脅しのように道を開けさせた無謀さに敬意を表して老人は若者を招いた。どんな用件を持ってきたのか、聞いてやろう。下らないものであれば、退出して貰えばいいだけの話だ。

 英雄の孫、という呼び名に胡坐をかき優遇されていても、裏の社会においてはなんら役に立たぬものなのだと知らしめるのもいい。

 アンは息を吸う。策など練らなくてもいい。実をそのまま語ればいいだけだ。

 

 「フォー・オブ・ア・カインド」

 ジョワイヨは役の名にぴくりと眉を寄せる。それはポーカー・ハンドだった。

 「あなたはハートの6とクローバーの3を捨てた。対してこちらは全てを変え、コインを残らずベット」

 

 言っている意味が分からなかった。

 だが、いつ行われたゲームなのか。思い付く節に、疑問符が生まれる。

 「あなたはストレート」

 だけれど、こちら側はフォー・オブ・ア・カインド。

 「4種類のAと、抜いたはずのジョーカー。テーブルには確かに2枚のそれがあり、いかさまをした気配も無い」

 すらすらと滑(なめ)らかに口を滑らせていた存在が口元に笑みを形作る。

 「賭けたものは…」

 「…どこでその話を聞いた」

 静かな声だった。しかし場の空気はこれ以上ないほど、張り詰めている。

 エースは黙って周囲を警戒していた。なんの考えも無しにここまで来る訳が無いからだ。双子として生まれたが、片一方だけが知る情報や記憶もある。見たことも聞いたことも無い何かがあるとは知っていた。

 「直接本人から」

 

 あり得ない。

 ジョワイヨは頭から否定した。しなければならなかった。

 彼はとうの昔に死んでいた。その死の瞬間を見ていた。

 目の前に立つ人物の年齢からしてそれはあり得ない。

 「嘘をつくのはやめなさい」

 感情を抑え、努めて平穏を装うが声が震えているのは否めなかった。

 「今度会うまでには考えておく。それが何十年先になっても有効だろ、ジョア」

 老人は目を見開いた。

 おれが死んだ後は…そうだな。カードの名を持つ奴等の言う事を聞いてやってくれ。

 

 あの日の声がそのまま、耳元で聞こえたような気がした。

 「まさか」

 「母の姓名を名乗っています」

 余りにも有名すぎる父の名は、口に出来ないからと少女が見上げたのは、横に立つもうひとりだった。

 「…エースだ」

 小突かれてようやく名乗ったその声を聞けば、老人は腹の底から笑い始める。

 

 「そうか、船長の。いやいや、長生きはするもんだなぁ」

 こんなびっくり箱をこの歳で受け取るとは思わなかったとひとしきり腹を抱えたあと、手を叩き茶の用意をするように伝え、ふたりへ席に着くよう促した。何事もハデに、戦いだけでなく、宴も遊びも、何もかもを面白おかしく、ひとときでも気を抜けばとんでも無い事を起こしていた男をジョワイヨは懐かしく思い出す。

 「この爺は?」

 ようやく場の緊張が解かれた後、エースがアンに訊ねる。

 「ジョワイヨさん? お父さんの船に乗っていた人だよ。物資調達を一手に引き受けていた縁の下の力持ちなんだって聞いてる」

 ふうん、とただそれだけ答えると、アンを見習い沈み込む椅子へ嫌な顔をしながら座った。

 「まずは、用件を聞こうか」

 ジョワイヨは用意させた紅茶に口を付けながら尋ねる。

 ふたりが敬愛していた船長の落としだねだというならば、聞いてやらねばならなかった。

 「あなたを含む全てを、わたしたちに下さい」

 「は?」

 

 何言ってんだお前、と反応したのはエースだった。

 「けっこう有名な話なんだけどな。聞いたこと無い? ジョワイヨさんが持ってる情報網は裏の市場に対してかなりの影響力をもっているの。それにジョワイヨさんが抱える組織の支援があると金策のために海賊船を襲う手間も省けるし、情報も仕入れるの簡単になるし、一石二鳥なのよ」

 「裏か」

 「うん、裏のいろいろ」

 「そっか」

 

 双子のやり取りを見つつ、ジョワイヨはおもわず笑みをこぼす。こんなに笑ったのはいつ振りだろうかという位、腹を抱えた。

 わしを手に入れてどうする、という問いをわざわざしなくても良くなった。実情をどうやら、分かっての発言だと把握したからだ。なんともわかりやすい真っ直ぐな、青臭い交渉ではないか。このところ面白くも無い取引が続いていた。乗ってやってもいいだろう。

 「君たちのバックアップをすればいいということだね」

 主に金銭関係と物資について、と言葉を付け加えれば、アンがこくりと頷く。

 「最短の半年で新世界に入る予定なので、宝探しをしたり、敵対してきた海賊の処理をしている暇がないんですよね」

 考えあぐね、どうしようか困っていた時に現れたのが父だった。

 まるで見計らったように、今現在、困っている頃合なんじゃないかと、あの、いつもの憎たらしいまでに楽しげな顔をして語りかけてきたのだ。

 (まさかエースにまで接触してくるとはおもわなかったのだけど)

 エースが小さな声を拾い、なんのことかと考え、見当が付いて口元に笑みを浮かべた。

 

 絶対にそうなると疑いもせず、話を勧めるその声がなぜかかつての日々を思い起こさせる。ここで断る、と言われるとは思っていない態度だ。

 ふてぶてしいまでの自信は船長譲りなのだろうかと、ジョワイヨが笑顔の奥で考えた。

 聞いていた話と随分と違う。

 ゴール・D・ロジャーは魅力的な人物だった。この人にならば全てを預けられる。そう信じ、頼り、いつしか船長の夢がジョワイヨの果たすべき現実となった。  

 最後の日の事を今まで忘れたことなどない。船長の最後をしかと今は老いぼれた両眼に焼きつけた。

 それと同じ、今からもっと育とうとしている存在が現れた。会ってしまえば惹かれざるを得ない。ふたつの違った輝きは、今まで手にしてきたどんな装飾品よりも気高く美しい。それをどうやって汚してやろうかと、手に入れた立場がもたらした安定により凪いでいた感情があわ立つ。

 

 ものは試しとジョワイヨは跡を継ぐのかと尋ねてみた。そうればたぶん、とそうだ、が重なった。

 「たぶん、ってなんだよ」

 「だって。わたしはあの場所に何があるのか大体知ってるし、一応だけれど航路も知ってるし、別に名前なんかどうだっていいもん」

 エースがその称号を取りに行くというならば止めないし、一緒に行くだけの話だと笑む。

 聞けば生みの母も死去しているらしく、ガープが育ての親となってふたりを養っていたのだという。いやはやこんなところで海軍の、いくら叩いても埃の出なかったガープを穿つ情報が転がってくるとはおもいもしなかった。さすがに全ては語らぬか、と話題を差し向け、ほくそ笑みながらジョワイヨは後援を承諾した。

 「手の者らには連絡を付けておく」

 ついでに換金して欲しいと、先ほど席に着くと同時に渡した戦利品の話をしながらアンは紅茶に口を付けた。

 奥の方でジョワイヨの部下が選別してくれている物品の現金化が終われば用件は終わりだ。

 

 「ふうん、海賊ってもっと自由に出来るもんだと思ってた」

 「自由だよ。少なくとも船長は誰よりも、なによりも自由だった」

 あの人ほど自由を謳歌した人物は存在しないだろう。なにもかも他人任せだった。金の工面も物資の調達も。しかしあの人は誰もが大人になってゆく過程で捨ててゆく夢を握り締めていた。握り締めた夢を潰すことなく実行に移した。だから誰もが放っておけなく、独りで突き進む背に手を伸ばしてしまうのだ。止まれ、と。せめて、副船長を待てと。共にいきたいのだ、あなたと、あなたが望むその扉の向こう側へ。

 ああ、懐かしい。

 あの時がジョワイヨにとって人生の絶頂期だったと今なら言える。すべてが楽しかった、生きているという実感を確かに得ていた時間へと戻ってゆくかのようだ。

 

 「終わったようだな」

 ガチャリと奥の扉が開き、複数名の男達が入って来た。その中に毛色の違うひとりが紛れ込んでいるとふたりは気付く。薄い、桜のような髪色をした人物にエースは目を奪われた。珍しい、だけでは済まされない色だ。作られた色、と脳裏に走る。

 ジョワイヨは耳元で報告を受け、ふたりへ語りかけてきた。

 「色付け無しでこれだけの値がついた」

 金額は1500万ベリーほどだった。それだけあれば当分はなんとかなりそうだ。

 椅子からアンが立ちあがると、少年を紹介された。

 

 「これを連れて行って欲しい。わしとのコネクションだと思ってくれて間違いは無い」

 世界各地、そして"偉大なる路海(グランドライン)"内にあるジョワイヨの拠点を使う場合、その少年がカギになると説明した。

 名前はない、という。

 「分かりました。それではこれで」

 アンは少年へこっちにおいで、と呼ぶ。

 エースが意味に気付く前にこの場を去りたかった。元、父の仲間だったからといって双子に好意的であるとは限らない。現に彼が持つ組織には冷徹な部分も多かった。まだ海賊の方がましだとおもえるほどに。この少年は言わば、組織の部品であり商品だ。生きているが、意志など必要なく、ただ言われた事をこなすだけの人形である。

 人がゴミクズ同然として在るゴア王国の、 不確かな物の終着駅(グレイターミナル)では珍しくは無い。

 

 アンは現金を受け取り、エースと少年を連れ、入ってきた扉を出る。

 人は変わる。変わってしまう。変わらざるを得ない。

 分かってはいたが、分かっていなかったのだと、同じ思いを繰り返しながらアンは光満ちる場所へ跳んだ。父と旅していた頃のおもかげなど、彼から微塵も感じられなかったのがなんだか悲しかった。

 

 そしてまず向かった店が食堂だ。裏通りから表へ。

 座ったのはもちろん、カウンターだった。

 メニューを見ることなくエースがおすすめ全部、とだけ指定する。さてどれだけの量が出てくるのか、とアンは追加注文した水を飲みながら小さく息をついた。肉類だけでも購入、ではなく狩猟したほうが懐には優しそうだ。

 「腹減ったぁ」

 頬をカウンターの上に乗せ、だらしなく背を丸めているエースにアンは笑む。エースはああいう交渉の場があまり好きではない。互いの思惑が絡み合う交渉の場であればまだ良かっただろう。だが今回の突撃訪問は交渉などではない。立派な押し売りだ。父が約束事を交わしてくれていたとはいえ、ただの口頭である。本人であるならまだしも、その子供を名乗るアンへ果たす義務などジョワイヨにはない。しかしアンはあそこへ行かねばならなかった。

 どうしてもつけねばならない時限爆弾があったのだ。早まることはないはずだが、どかんとなる前に回収しなければならないだろう。

 

 「好きものはある?」

 ふたりの間に少年を座らせ、アンも肘をつく。あの場所に居たのはせいぜい三十分程度だ。懐中時計を開き確認する。腰を上げた時も別段引き留められはしなかった。

 アンは彼を信用している訳ではない。使えるものは使う。ただそれだけだ。

 改めて少年に名前を聞けば、本当にない、という。一度も名称らしきもので呼ばれた事が無く、おい、や、お前、で済まされていたようだった。

 「じゃあさくら、って呼んでいい?」

 

 男の名にさくら、は少々おかしいだろうかと思いつつも誰も否定しない。ちらりとエースがアンを見たが、口に頬張り過ぎたスパゲティを咀嚼している最中だ。

 「あなたの名前はこれからさくら、ね。よろしく、さくら」

 「はい、ご主人さま」

 

 次いで届いた、肉がゴロゴロと入ったピラフを口に運んでいたエースの手がおもむろに止まる。

 「ひゃんらっふぇ」

 「ん、いいたいことはわかる。けど食べ終わってからにしようね」

 こくこくとエースが頷くのを確認してから、アンはさくらへと微笑んだ。

 「わたしのことはアン、エースの事は、エース、そう呼んでくれると嬉しいかな」

 「…はい、エース様、アン様」

 放たれた声は見事なボーイソプラノだ。できればその様付けも出来れば辞めて欲しい。しかしそれは言っても今は無駄なのだろう。要望は理解している。けれどそれを無表情の仮面をつけわからないふりをしていた。彼は人形である。しかしアンとエースは客なのだ。所有する主人がおり、さくらは一時的に双子へ貸し出されている備品にすぎないのだと理解しているのだ。

 感情がないわけではない。ただ突起が限りなく少ないだけだ。

 

 従順に躾けられた見目麗しい人形を所望するものたち。幾人の手に渡っているのか、そこまではわからないが、彼の心と体に刻み込まれている当たり前はかなりの強度を誇っている。

 思い出すのはあの島だ。政府容認のもと暗殺者を養成している、とある施設に視察に行かされた際に感じた感覚と重なる。

 

 白昼夢を、見た。

 シスターの姿をした女と、幾人もの子供の姿を。

 その中に、さくらが居た。そしてノイズが走り、どこかの城に座す大きな女を見た。

 

 アンは目をしばたかせる。

 子供の売買がどうどうと行われている現実にやるせなさを感じてしまう。海兵として己の正義を貫いたとしても、出来ることに限りがあるのだ。

 

 さくらに関してもそうだ。あんないい笑顔で笑っていたのに。

 

 もったいない。

 アンは心のそこからそうおもう。どうしてこう、形を固定してしまうのだろう。

 こうあるべき、とおもうのは個人の勝手だ。しかしすでに形を得ているものまで潰してしまうのは勿体なさ過ぎる。

 彼の元で型をはめられてしまい面白くなくなっている状態であるが、まだ回復(リカバリ)は可能だろう。こちらに寄越したのが運のつきだ。せいぜいこちらの色に染まってもらおうではないか。

 

 (なあ、アン)

 言葉無き声がエースから聞こえてくる。人の悪い笑みを浮かべていたのだろうか。思わず頬を揉み解しながらどうしたのかと聞けば、

 (こいつ…)

 (初めての仲間だね。船という家で暮らす初めての家族。ふふ、幸先いいねぇ)

 

 マイナス要因などありはしない。付与されていたとしても、こねて引き剥がし丸めて消滅させればいいだけの話だ。

 闇の深さならばアンが踏み込んだ泥沼に勝る場所などそうそうあってたまるものか。

 エースからは少しばかり、照れたような迷っているような、そして動揺が伝わってくる。

 

 さあ、少年とどう接していこう。

 アンは食べるよう促し、様子を観察しながらおもう。

 急激な環境の変化は毒にしかなりえない。まずはこちらの水に馴染ませるべきだろう。

 長年培われてきた生活様式を急に変えるのは難しい。意識に変革を促すときはゆっくりと溶かしてすりかえてゆくに限る。仕草や表情の変化が見えれば、新しい段階へと入る合図となるだろう。まずはジョワイヨと自分達が全く違う生き物だと見てもらうところからはじめるべきだ。

 

 アンはいくつかの皿を追加注文する。

 お昼を過ぎていたためか店の中に居る客は両手で足りるほどだ。しかし厨房の中はランチタイムを凌ぐ忙しさとなっているだろう。伝票の数もかなりの枚数となっているにちがいない。もりもりと食べ物を胃に納め続けるエースと、淡々とスプーンを口に運ぶさくらを、アンは目を細め楽しそうに眺め続けた。

 

 

 

 △▽△▽△▽△▽△▽△▽

 

 

 「着替えおけ、水の手配は終わってる、保存食は……これでよし」

 

 ごそごそと麻袋のなかに入れた乾物をアンは確認する。残るは生ものだ。野菜、果物、肉。生鮮食料品。

 海上生活者にとって物資の有無は生命線ともいえる。特に命綱となるのは水と果物だろう。航海できる日数が違ってくる。船の大きさ、乗り込んでいる人の数によるが、貯えられる物資の量によって選べる海路がかわる。一日二日ならどうにでもなるが、十日も飲まず食わず海の上を彷徨えばあっというまに干からびた死体の出来上がりだ。瞬間移動が使えるアンが特別なのであって、普通の、一般の船には途中で買出しに出られる乗組員はいない。

 ただし、この世界の船には冷蔵庫がついている。技術力の開示がちぐはぐとし、違和感があった。それはかつてあった文明の名残だ。アンがアンとして産まれる前に存在していた世界にあり、こちらにはないもの。そしてこちらにはあるのに、あちらにはないもの。その差異がこちらの世界の歪さを、他の世界を知っている者たちに訴えかけていた。

 ステンレスの台所、食器乾燥機、冷蔵庫、ボイラーなどなど、いくら熱に強い木材が普通に、そこらに生えているとはいえこれはあまりにもどうなのだろう、そうアンは見るたびにおもうのだ。本来、木造船では考えられない。だがそれがこちらの普通であり常識だった。あちらの知識を持ち込み粋がって違う、と叫んだところでこいつ頭変なんじゃないかとおもわれるのがオチである。

 なのでアンは弟に倣い、世界の不思議、として扱うことにしていた。七つでは到底足りないのは仕方が無い。それにそこまで厳密に区別したところで、いいことなんてひとつもないのだ。ならばそういうものだ、と受け入れてしまうほうが心情的にも楽である。

 

 人々の喧騒にまぎれ、三人は大通りを歩いていた。木の葉を隠すなら森へ、とはよく言ったものだ。人間の目は見ているようで見ていない、不確かな器官だ。たくさんの情報が目、というひとつに集中するのである。意識をむけたものにたいしてだけしか記憶に留められない。

 手を繋ぐのはいつものことだ。今日は真ん中にさくらが挟まっている。

 もしこの場にルフィが居たならば、きっとエースの背中にでもしがみ付いているだろう。あの弟はお兄ちゃんが大好きなのだ。もしくは……この町の中を走り回っている。幼い頃の体験が元になっているのだろう。義祖父の家にたったひとりで暮らしていた。どこにも行かず、村の同い年の子供たちと遊ぶこともせず、義祖父が帰ってくるのをただ、マキノの店と家を往復しながら待っていた。その反動なのかはわからないが、ルフィはダダンの家に来てからはっちゃけた。それはもう、怒涛の勢いだったと覚えている。体がゴムになり、滅多なことでは怪我をしなくなった、という変化もある。そこらへんはちゃんと、エースが主になってサボと共に教え込んだつもりだ。刃物はだめ、打撃は大丈夫、と。そのきっかけになったのはポルシェーミの一件だっただろう。おもいだしてみれば確かに年をとったなぁと感慨深くなってしまう。しかしアンはまだ17だ。以前の年齢を足したとしても果たして自分は大人なのだと断言できるのかと、かなり苦しく感じるのもまた確かだった。海軍に居た彼らのような大人になりきれてはいない。

 

 瞼の裏に弟がこの道を走る光景が浮かんだ。

 きっとそれは未来だ。

 よじ登る場所は、かの---------------。

 

 

 

 

 目に飛び込んできたそれは奥まった広場に安置され、あった。

 六角形の広場には面ごとに道が通り、人の往来が最も多い。さすが東の海一番の観光地だ。誰の目にも留まるよう高くそびえた台はゴールド・ロジャーへ死を与えた場所であった。見回す限りの人だ。ここにいるほとんどが見物客であろう。

 周囲では飲み物を売る者、軽食を勧めて来る者、などが高々に声を上げながら商売をしていた。エースとアンもホットドックをひとつずつ買い、実の父が死んだ場所を横目で見ながら通過する。

 アンは半分に分けたウインナーをさくらの口元に運ぶ。そうすればさくらはぱくりと口に含んだ。与えられたものを食べなさい、という命令を実行しているのだ。言われた事をする、という機械的な行動は変わらないが握った手のひらを不思議そうに見ている時、瞳が揺らめいたのを感じていた。

 急がば回れ、である。小さな変化を見落とさないようにすれば感情を引っ張り出すこともそのうちできるだろう。

 

 「……処刑台だけ、見てもな」

 「まぁ、ねぇ」

 晴れの日も雨の日も晒され続けている台は一体、何代目であるのだろうか。物はいつかは朽ちる。丈夫に、頑丈に作ったとしてもいつかは鉄が錆び木も脆くなってゆく。

 始まりと終わりの町、とは誰が呼びはじめたのだろう。

 終わりは次の始まりに続く、途中経過地点に過ぎない。父の死をきっかけにここから全てはじまってしまったのだ。誰も気づいていないのだろうか。もしくは気付きたくないのだろうか。それとも終わりを待ち望む誰かによって------。

 

 (ルフィ?)

 居るはずのない弟の姿を見た。まさかと思いながら、視線はその姿を追う。途中、エースと目が合った。

 (今の、なんだ?)

 どうやらエースにも見えてしまっているらしい。

 

 『よし、いくか!』

 風が吹き抜けるようにその声はふたりの間を通る。

 麦わら帽子を頭上に乗せ、小さな背負い鞄をひとつ持ち、自信に満ちたまなざしを海に向けている。

 『海賊王に、おれはなる!!』

 聞き慣れた言葉だった。

 

 白昼夢が目の前を駆け抜けてゆく。

 ああ、やっぱり。

 

 アンは思う。

 海賊王の夢を語るのは、エースには申し訳ないけれども麦わら帽子を被るルフィのほうがよく似合う。

 弟は深く考えないだろう。なぜシャンクスがあの麦わら帽子をくれたのか。そこにどんな意図が含まれていたのか。

 弟は、きっと成すだろう。たくさんの切れてしまった縁を結び、世界に横たわったすべてを白日の下にさらすだろう。望むものと望まざる者たちの間を潜り抜けて。

 弟贔屓といわれてもかまわない。アンにとってルフィはかけがえのないかわいい弟なのだ。

 

 

 「さあて、航海者は航海者らしく、海に戻りましょうか」

 懐中時計を開けばそろそろ約束の三時間が経とうとしている。

 「その前にやっぱ、あそこからの景色見とかねェ?」

 エースは周囲になぜか増えてきた海兵達の姿を確認しつつ、さくらを脇に抱える。あそこ、が指し示す場所には心辺りがあった。

 「ま、追いかけられるのは変わらないもんね」

 見やった互いの口元には笑みが浮かんでいる。視線を合わせれば思わず吹き出した。次の瞬間には人々が見上げる処刑台の上へふたりは降り立っていた。瞬間移動したのだ。

 「さすがに絶景だな」

 「そりゃ、観光地だもの」

 そこのふたり、降りなさい!下の方から警備をしていた保安官が拳を振り上げて叫んでいる。エースはそんな叫びを無視し、テンガロンハットのつばを指で持ちながら、彼方を見た。町並みの屋根が続く平らを過ぎれば、青の海が広がっている。

 さわざわと声が上空にも聞こえるほど高く響き始めれば、ふたりはそのまま空へと跳び出した。階段を伝って海兵が上がってきたからだ。

 残念でした。

 ひらひらとアンはもう少しで処刑台だという所まで登って来ていた人物へ、肩越しに手を振る。

 「逃げるが勝ち。さあ、"偉大なる航路(グランドライン)"へ入りましょ」

 

 見知った顔を幾つも確認しつつ、アンは海兵達の声を拾いながら、逃亡順路を導き出し自信あり気に笑んだ。思ったよりも厳重な包囲網に、久々の都市脱出を想定した作戦を脳内で組み立ててゆく。かつて所属していた組織である。しかもその追い立て方を良く知る人物の捕り物だ。そう簡単に捕まってやるつもりはない。

 

 これは訓練ではない。けれど訓練としてやったことがあった。

 あの時はアンが追いかける側だった。

 

 「甘い、たしぎさん。そこは行き止まりにさせてもらう」

 

 ぱちん、と指を鳴らせば細い路地を表通りにあったはずのパラソルと椅子が塞ぐ。六式を修めた、もしくは訓練している海兵の数はまだ少ない。簡単には除けられないようパズル要素も盛り込んでいた。くすくすと悪い笑みを零すアンにエースはそっとため息を零す。アンは意外と悪戯好きなのだ。落ち着いているとみせかけておきながら、変なところで意固地になったりルフィよりも子供っぽくなる。

 ケムリンはあそこ、大佐はああ、あんな場所に。さすがこの町をわかっている。船着場を見張るのは定石よね。でも残念。

 右往左往し始める海兵を眺めるその様はまるで悪女のようだ。

 

 「そうだ、エース。ケムリンともし鉢合わせたらお願いね」

 「やるのかよ」

 「ううん、能力者の隙をつくの。スモーカー中佐はモクモクの能力者だから」

 「なるほど」

 「炎とはとても相性がいいのよね。やってみたいことがあったんだ」

 

 上機嫌にアンはさえずる。

 遊び相手とされる海兵たちにとっては最悪の一日になるだろうが、絶対的な味方であるエースからしてみればこれ以上に心強いものはない。海軍で培われた経験と知識の手並み拝見、とばかりにアンの後へと続く。じ、とその様子を見続けているさくらに視線を落とし、少し考えたあと肩へ担ぎなおした。

 

 戦うことはないだろう、が。

 ガラス玉のような瞳に今はまだアンをあまり映さないほうがいい、そんなことをおもいながら。

 

 

 



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56-双子岬

 ローグタウンを出発した船は一路、灯台の光が指す一点を目指して進む。

 "導きの灯"と言われているが所詮(しょせん)は灯台の()、最後まで方向を示してくれるわけではない。

 アンは地図とコンパスを取り出し、"赤い土の大陸(レッドライン)"への突入角度を正確に測る。この線引きは間違えられない。なぜなら生死に直結する作業だからだ。気象を把握し、潮流の状況を考慮しながら船という巨大な塊を動かすのが航海士の仕事だ。青雉の船に居た際、副長としての仕事として航海士が提示した航海計画のチェックがあった。わかりません、では通らない。睡眠時間を削って平穏時の航路状態を覚え、立案された海図を見て意見できるようにした。

 海兵になるための寄宿舎に入る、測量室に希望を出している面々が日々、涙を流しながら扱かれていたのを思い出す。

 

 始まりと終わりの町から"赤い土の大陸(レッドライン)"に掛けての海域は海流と気流の関係で、特に天候が安定しない地域だ。海軍時代、幾度も"凪地帯(カームベルト)"を抜けて東西南北の海へ出入りしていたが、共通して言えるのは、"偉大なる航路(グランドライン)"から凪地帯へと吹く風の流れが少ないのに対し、それぞれの方向を冠した海から、凪や偉大なる航路へと吹く、そして流れ込もうとする海流が数多く存在している、ということだ。

 

 人々は凪地帯を恐れる。

 第一の理由としては風が吹かぬ海域であることが挙げられるだろう。この世界の移動手段は船だ。空飛ぶ船など夢物語だといわれているし、飛行機など考えもつかないだろう。入り込んでしまったが最後、動けない。船は風を受けてこそ進む。だが凪に入ればただ海に浮かぶだけの木の塊と化すのだ。凪地帯から脱出するにはかなり大変な作業となる。風の恩恵を受けられないため帆は使えない。大型であればあるほど人力では動かしづらい。こういうとき駆動系を装備していれば楽と言えば楽なのだが、海王類はエンジン音を嫌っている。なんでも突然太鼓を耳元で叩かれたように聞こえるらしい。

 

 普通の船が抜けるには祈るしかないのが現状だ。羽根を生やすことが出来る船ならば別だが。

 ああ、ひとつだけ、あった。父の自称友人が持つ能力だ。あればかなり希少(レア)だろう。能力を封じ込めるというさらに希少(レア)な父だからこそ持てた交友(なぐりあい)だ。

 そういえば最近、浮き島で篭もり、なにやら企んでいるらしい。大人しくしてくれている事にたいして文句は無い。このままじっとしていてくれたほうが楽できる。できればアンが生きている間は浮き島で隠居しておいてほしいと心底おもう。あの人物はややこしいのだ。『東の海』に対し、並々ならぬ執着をもっている。誰彼構わず東の海出身者に呂律が回らぬ威嚇をぶつけてくるのを生きがいにしているのだ。ぶっちゃけ面倒くさい。自分勝手に育んだ友情を歪なまでに歪ませてしまった男だ。父が死んだ海の出身者であるだけで、因縁をつけてくるためかかわりたく無いというのが本音だ。そんなに好きすぎるなら、告白でもなんでもすればよかったものを。

 

 話題がとんだ。

 

 もうひとつの理由としてはその凪地帯に海王類が集中して棲んでいること、だろう。

 海面が静かであっても海中には潮流がある。だがしかし、凪の真下はとても穏やかなのだ。とある魚人に誘われて潜ったことがあるのだが、ほんとに凄かった。なにがすごいって、気性の激しい海王類で有名な角竜魚(だつぎょ)が縄張り意識をまったく感じさせずゆらゆらと泳いでいたのだ。尖ったくちばしのような長い口の中にみっしりと集まったぎざぎざの歯。その殺傷能力は凄まじいのひとことである。船を見るや一刺しせずにはいられないとまで言われるあの凶暴な角竜魚が、普通に他の海王類とすれ違い泳いでいるのである。あれは吃驚した。顎が外れるかとおもった。

 

 そんな海王類たちは凪地帯を産卵や子育て、休日を満喫する旅行客のようなゆったりとした時間を過ごす場所として利用しているようにおもえた。そんな場所に押し入ってきた船といううるさい音をたてるものを粉砕するのは、海王類たちにとって間違いではないのだろう。

 

 アンは肌に感じる、今までの経験と勘を頼りにエースとさくらのふたりに指示を出して舵と帆の調整を行う。

 本来ならば最低でも10名前後の乗組員で動かす大きさの船を、たった3名で操っているのだ。それぞれの負担が大きくなるのは仕方が無い。

 船に乗るのが初めてだというさくらにも過大な労働を課していた。

 行きはよいよい、帰りは怖い。

 まさしくその言葉の通り、命をかけた航海の始まりは初っ端から目まぐるしかった。

 

 始まりの町からリヴァース・マウンテンにかけてはとくに気圧の変化が起りやすい海域だ。諸説あるが、アンが最も気に入っているのは海流が風を呼び込んでいるという説である。世界の不思議のひとつ、リヴァース・マウンテンに待ち構えているのは世にも珍しい遡る海流だ。どこからあの激流を生んでいるのか摩訶不思議以外のなにものでもない。

 しかし今日は、どこまでも晴れ渡る快晴だった。ほとんどが嵐。どんなに恵まれた天候でも曇りがいいところだと聞いていたのだが、見渡す限り青ばかりが広がっている。遠方に黒い雲が見えるものの、風の向きからしてこちら側に寄ってくるのはまだ先だ。きっとこの体験を誰かに話せば羨ましがられるだろう。多くの旅人たちは雨や曇りであの山を駆け上る。そして無事に偉大なる航路へ入れた海賊たちはいうのだ。始まりの山はまるで混沌とした先行きの見えない未来を示すような門出である、と。しかしアンやエースはこんなに晴れたよき日に、あの赤い山を見上げ駆け上り、そして偉大なる航路に入ることができる。なんという僥倖だろう。

 

 「このまま進めば、運河の入り口にまっすぐ入れるはずだよ」

 朝日が昇り始め輝きだした海上を眺めながら、アンはぐったりと甲板上で大の字になるエースへココアを入れたコップを差し出した。ついさきほどまで入り組んだ海流の終着点を探すのに四苦八苦していたのだ。くるん、と船首の向きが百八十度変わったときはどうしようかとおもった。まだ偉大なる航路に入っていないのにもかかわらず、変化する海流の向きにアンは全神経を尖らせ見ていた。落ち着いたのはついさきほどだ。本流が気まぐれを起さなければ、このままの路で大丈夫だろう。さくらにはちみつを溶かし込んだミルクを両手に握らせる。

 「運河に突入できるのはお昼前くらいかな」

 懐中時計で予想時間を告げる。そして自身も薄めのコーヒーに牛乳を多く入れたものを飲みながら、ぺたりと木目の上に座った。

 リヴァース・マウンテンは標高3000メートル級の山脈だ。正確には3848メートル、数年前に世界政府の依頼を受けた登山調査隊が正確な標高を測ったばかりだった。たまにおもうのだが、なぜ長さや重さの単位がインチやフィートではないのかと不思議におもう。アンが生まれ変わりという特殊な環境に身を置いているためなのだろうか。それともまた別な理由があるのだろうか。どんなに考えても正解にはたどり着けないだろうが、たまに、おもいだしてしまう。

 さて、そのリヴァース・マウンテンは冬島に分類され、万年雪が積もるこの山には合計4つの運河が通っている。

 その全ては各海からひとつずつ、"偉大なる航路"へ注ぎ込む流れを生みだしていた。ぶつかり合った海流がそのまま、唯一の出口へ向かって下ってゆく。

 

 エースがシャンクスから、このリヴァース・マウンテンの頂きから見る景色が絶景だと聞きさえしなければ、凪地帯を越えてさっさと偉大なる航路へ入るつもりであったのだ。しかし、そんなに急がなきゃいけない旅なのか、とエースに目尻を下げられ言われては、だめ、とは言えなかった。

 そうだ、アンはもう、海兵じゃない。なのになにに追い立てられていたのだろう。そうおもいなおし世界各地の、とはいっても偉大なる航路内ではあるが景色を見ていこうとなった。

 

 船が逃れられない流れに乗った。

 なんと表現すればいいのだろう。ジェットコースターではない。くるくる回るやつでもない。そう、清流下りだ。丸太型の乗り物にのって最後に水がばしゃー! と掛かる夏の定番である。

 ラインにはきっちりと乗っているのがわかった。これは長年、波に揺られ続けた体の感覚だ。あとは運河にまっすぐ入れる事を願うしかない。

 

 リヴァース・マウンテンは別名、船喰い山とも呼ばれている。

 「ひとつ目の難関だ、って確か言ってたな、前に」

 被っていたテンガロンハットを首に掛け、エースが飲みほしたコップを床に置く。

 「うん。東の海に限った事じゃないんだけどね。山に向かう海流っていうのが3つほどあって、その中の本命に上手く乗せなきゃダメなのよ」

 偉大なる航路の流れはそれぞれ四方の海の海流と違って複雑怪奇に入り組んでいる。慣れれば一定の法則があると気付けるのだが、よほどカンの良い航海士でない限り、入った直後は戸惑ってしまうだろう。かくいうアンもそうだった。

 入口はまさしく航海士の腕と質が問われる。たった3つしかないこれら海流の終着点も読めないのであれば、偉大なる航路によしんば入れたとしても次に待ち構えている、くるくると同じ場所を回り続ける渦に捉まって終わる可能性もある。

 

 そもそもある一定以上の力量を保持していないものたちは、自然に"偉大なる航路(グランドライン)"から淘汰される。それはまるで、資格ある者をふるい分けているかのようにも見えた。船の形状や職業は関係無い。

 四方の海で力をつけた海賊たちはそれぞれの海から細く駆け上がる逆流の瀧を越え、両端を凪地帯に囲まれた"偉大なる航路"前半の海、楽園への戸口へと立つ。そこから指し示される航路は三つだ。記録指針(ログポース)が無ければ偉大なる航路の入り口から動けない。なぜなら普通の、四方の海で一般的に使われている方位磁石が使えなくなるからだ。原因はひとつ。偉大なる航路内にあり続ける磁気だ。

 

 記録指針という道具持っていなければ彼らの旅はそこで終わる。

 RPGによくある、このキーアイテムを持っていなければ、もしくはシナリオをまだクリアしていないので通れませんよ、という難易度の区切りだ。とはいえ偉大なる航路にはいると方位磁石が使えないのは世界の常識である。ちゃんと事前に情報収集しておけば東の海の田舎町で暮らしていても、記録指針が必要だとわかるはずだ。

 覇に至る海に入るための準備を整え幸運に恵まれた者たちだけが偉大なる航路を往く権利が与えられる。

 そしてログによってたどり着く島々からさらに分岐してゆく、蓄積された情報を持ってたどり着くのは赤い土の大陸(レッドライン)である。

 世界をふたつに分ける赤の大地。それを海底に空いた穴を通り抜け、海賊王の称号を手渡す為に待つ存在の元へ繋がる後半の海、新世界へと続く路。

 立ち塞がるのは自然の猛威だけではない。目的をもち偉大なる航路へ入ってくる多くの海賊たちもまた共食いの相手だ。

 

 海兵がわざわざ駆逐しなくとも、全世界で確認されている海賊の半分が偉大なる航路へ入るまでに死を迎え、運よく航路に入れたとしても、またその半分が前半で脱落する。海賊をやめるのだ。その辞めたほとんどが都落ちした島で悪事を働き駆逐されてゆく。

 そしてたどり着く赤い土の大陸。海底洞窟を抜け、そして新世界に運良く入れたとしても、前半の海を渡れる実力を5とするならば後半は10以上という生半可な実力では到底生き残れない場所だ。帰りたいと願い引き返そうとしても、全周囲に死亡フラグが立つ、そんな海だった。だから"偉大なる航路"前半が楽園と呼ばれているのはちゃんとした理由がある。

 

 「おれが淹れて来てやるよ」

 飲み終わったコップをじぃと見つめていた紅の瞳に気付いたエースが、さくらが持つコップを上から掴み上げ、キッチンがある船室の扉へと向かう。自分のおかわりを入れるついでだ。

 「舵見てろよ」

 固定化してあるとはいえ、いつなんどき、暴れ波の影響を受けて海流から外れるか分からない。

 「らじ、せんちょー」

 アンがひらひらと手を振る。

 「…らじ?」

 さくらが真似をし、無表情で手を振る姿を横目で見ながら、エースは扉を押した。

 

 キッチンは綺麗に整理されている。アンの手にかかれば、どんなに散らかっていたとしても丸一日かけて、元の姿を取り戻す。その技術はダダンの家で培われたのだと断言できた。海賊船のイメージからして、雑に荷物を積みあげ蜘蛛の巣やネズミが走っている位が丁度いいのではないだろうかとも思うのだが、整理整頓がなによりの好物である方割れがいる限り、らしからぬ倉庫の姿になりそうだった。

 瓶分けされたココアをコップの中に入れ、少しぬるくなった鉄のやかんを両手で持つ。

 手のひらを炎に変えれば、ぽこぽこと湯が沸いた。

 それを注ぐ。

 ミルクにはちみつをいれ、少しだけ湯を注いでからミルクを投入する。

 はちみつをすくったスプーンはエースの口の中だ。それくらいは入れに来た特権だろう。

 

 エースは体を形作る炎の制御方法を模索していた。

 普段の生活をする分には何も変わりがない。弟と同じく海に嫌われてしまったくらいだ。本当に泳げなくなったのかと試してみれば、海水が体に絡みつくように、それこそ全身に鎖を取り付けられくいぐいと底へ引っ張られるような感覚だった。これはかなり気持ち悪い、とエースはルフィが泣いて嫌がるだけの理由に頷けた。

 これからはエースも気を付けなければならない。

 海中から空の青を見上げるのが好きだったのに、二度と見られないのかと思うと残念でならなかった。食べてしまったモノは仕方が無いのだ。直接の原因となったアンをどれだけ罵っても、生身に戻れる訳でもない。そんな事をするよりも、体と力のコントロールの仕方を早く身につけた方がいいと思うのだ。

 

 炎、という目に見える現象は気体が燃え光と熱を発生させるもの、であるという。気体というのは普段吸っている空気らしく、目では見えない物質だとアンが言っていた。変わって火、とは物質が燃焼する時に発生する現象、平たく言えば、何かが燃える時に見えるものと考えれば分かりやすい。何が燃焼するかによって温度が変わってくるらしいのだが、説明が難し過ぎてエースは途中で考えるのを止めた。

 ようはエース自身の質を高めればいいのだと結論したからだ。高温になるにつれ色が変わるらしいし、まずは赤の上である橙と黄色を目標に据えている。

 光のエネルギーならば、可視光の波長により赤、橙、黄色、緑、青、藍、紫らしく、この順に登っていけば良い、らしい。そこで問題なのはどうやって高めるかだ。

 技の種類は幾つか考えている。まだ試作段階で、実際に形にしてみないことには使えるかどうかの判断は出来ないが、これは何とかなりそうな気がしていた。

 

 「どうすっかなぁ」

 両手にコップを持ち、ブーツを履いた足で器用にノブを回しドアを開く。

 芝生が敷かれた甲板の上で寝転がるふたりの姿があった。空よりも低い場所をアンが指さす。視線を投げれば薄い雲に隠れるように、赤が広がっていた。

 「でけェ!!」

 目を見開き、宝物を見つけた時のように心躍った。ここにルフィが居たならば、ふたり同時に叫んでいただろう。それくらい圧倒的な壁だった。

 正確には山ではあるのだが、こんなに切り立った山など見るまであるとは思えない。

 カップのひとつをさくらに渡した後、エースは一気飲み出来るくらいには温くなったココアを飲みほし、アンへカップを放り、舵を握る。

 「いい流れだ」

 荒波に揺れる船体に足を踏ん張りながらエースは赤の大陸を見た。潮が渦を巻き、大陸へと当たって下へ潜り込む海流が読み難い流れを生む。だがエースは恐れてはいなかった。どんなに手慣れた航海士であろうとも、船一隻がようやく入れる、運河の入り口を見れば身をすくめる。目視できる運河は凄まじい勢いで斜面を登っていた。

 「吸い込まれてるみてェだな」

 「うん…昇り口がねぇジェットコースターみたいなのよ、あれ」

 苦手なんだけどなぁ。アンがつぶやく。

 たまにアンはエースの知らない言葉を使う。ジェットコースターというのもそうだし、上空から地上まで急降下する乗り物とか、意味不明なことばかりを言う。海兵の時はいつも斥候時に上空へ瞬間移動し、落下しているではないか。それが怖くなくて、どうしてその、安全に遊ぶために作られた遊具が怖ろしいのかエースにはよくわからない。体験してみればいいのよ、という助言に従い、その乗り物はどこにあるのかと聞いても教えてくれないところがまた怪しい。アンの頭の中にはいったい、どんな世界があるのだろうといつもおもう。だからこそ側にいて楽しいのだが。

 それにその、ジェットコースターというものに近い経験はしている。

 アンの瞬間移動だ。以前はとくに酷かった。今では地上にほど近い場所へ瞬間移動できるようになってはいるが、最初の頃はほんとうに酷かった。月歩が使えるようになってからは多少、上に放り出されても着地出来るようになったが、何度、海へどぼんと落とされた事かわからない。それこそ両手では数え切れないくらいだ。だからやっぱり上空から命綱無しで落下するのは大丈夫で、船に乗り水路を駆け登るのが怖いという感覚があまりわからない。両手を握り、怖くない怖くない怖くない、と繰り返している様がなんだか逆に可笑しくて笑ってしまう。

 そんなに怖いなら先に壁を側面から渡るかと尋ねながらエースはぎちぎち鳴る、今にも折れそうなほど軋む舵を握っていた。

 「いい、このまま乗ってる。エースと、さくらをお、置いて、なんかい、いけないもん」

 気丈に振る舞ってはいるが、声が震えていた。

 それに比べ意外と肝が据わっているのがさくらだ。上下左右に揺れる船体に逆らわず、手にしていたコップから器用にミルクを飲み終われば、アンが受け取っていたコップも回収し、キッチンへと置きに行っていた。

 戻ってくればちょこんとアンの横に座り、空を眺めている。

 ぐん、と身に感じる加速が増す。アンが航路を計算した突入角度はどんぴしゃだった。海での生活が長いとはいえ、ここまで見事に合わせられる航海士は少ないだろう。

 どうやって作られたのか、10本の入り口を示す門を潜り抜ける。

 波が駆け上がる独特な水音に、エースは笑みを濃くした。

 「行くぞ! "偉大なる航路(グランドライン)"!!」

 

 登りはあっという間だった。出来るだけ右舷ぎりぎりで水路に入るよう調整はしていたものの船にかかる水圧はかなり高い。波飛沫を立て、船は四つの海流が合流する頂上部分で魚のように飛びあがる。舵は打ち合わせどおり真っ直ぐにしていた。ここで大切なのはどれだけ面舵方面に船体を振れるか、である。

 

 アン曰くリーヴァス・マウンテンの怖ろしいところは、この水流がうち合わさった頂きだ。東と南から入るのが最も難しいといわれている。なぜなら九十度以上の鋭角に船を回転させなければ下りに入れないのだ。しかもそれぞれの海から登ってくる激流は暴れ馬以上にひどい。やたら滅多らな流れであるために、予想などつけられないという。だから一発で決めなければ、頂の、ありとあらゆる方向に突き出した岩に激突してしまう。そうなれば木の船など一撃で粉砕されて終わりだ。

 この時のためだけに取り付けた布をエースは紐を引っ張り展開させた。風を受け大きく膨らむ。が、負荷を受けて破けてしまった。

 

 

 だがそれでいい。

 膨らんだ帆のおかげでわずかに船体が斜めになり、どこにも打ち付けることなくくだりの流れへと落ちた。多くの船がここで舵をやられてしまうという。

 

 

 そこさえ無事に通り抜けてしまえば急降下を楽しめばいい。ふわりと体が浮いているような感じがした。

 アンが絶叫しているが、それはどうでもいい。眼下に見える景色にエースは大きく目を開いた。青々とした水面がただ、一面に広がっている。それだけならアンに何度も上空へ連れて行ってもらっており、見慣れていた。しかし偉大なる航路(グランドライン)は違った。確かな(ライン)が見えたのだ。青の海に引かれた目に見えぬはずの太い線が。水平線の向こうには七色の光が見えた。そこへ、その先へと必ず至る。

 

 ここから始まる。決意を新たにしながら、左手に入れた文字のひとつに触れた。長い月日、待ちに待った偉大なる航路に、今まさに入るのだ。

 水しぶきを上げ、加速する船は水面に滑り降りる。

 「エース、とりあえず双子岬に寄ろう。航路の選定もしなきゃだし、お腹すいたでしょ」

 昇りの海流では震えていたアンが、下りになるとけろりとして船内を歩きはじめていた。上昇する短い空白が嫌なだけで、あの尻がかゆくなるような浮遊感は気にならないらしい。

 「灯台守をしているクロッカス医師にも会ってみたいし」

 誰かの紹介かと聞いてみると、違う、という答えが返ってきた。ただ容姿は知っており、花弁のような独特な髪型をした人物なのだという。

 情報源がどこであるのかを何となく想像でき、エースは唯一帆を張っていたミズンマストを閉じに登るアンに目で合図しつつ、海原に飛び出した。舵を左、とりかじに切る。

 

 「ここが双子、岬」

 エースは両岸に立つふたつの灯台を見ながら、がらりと変わった風の匂いに目を細める。

 "偉大なる航海(グランドライン)"の始まりであり、終わりでもあるこの灯台にいまのところ戻ってきた存在はただひとりだ。

 停泊できる岩場を見つけ、錨を下ろすのはアンだ。船の各所を器用に渡り歩き、準備を着々と行う。この手際はさすが海兵だった、と言うべきだろう。

 陸地の方からなにやら複数の声が聞こえてきていた。それをアンも分かっているのだろう。直ぐには動かせないように滑車(ジアー)を固定し、ロープの結び目も知っていなければ解き方が分からない特殊な形にしている。

 「いいよー、固定化したからみんなで上がろう」

 「ああ」

 エースはひょいとさくらを肩に担ぐと、膝を屈め、デッキから跳び上がった。そのまま月歩を使い、鉄梯子が下ろされているその上へ向かう。

 そこには幾つかのテントが張られ、木で出来た円卓と丸太をただ並べただけの簡素な椅子が幾つか見えた。

 「こんな辺鄙(へんぴ)場所でなにを?」

 疑問にはすぐ答えが得られた。本人達から直接聞くまでも無い。なにがあったのか、周囲を見まわし、残る声を拾えばいい。

 木っ端微塵。

 そう形容するしかない惨状がつい6日ほど前に起きた。船員は運河に投げ出され、命からがら生き残った者達が潮目に漂う物資を拾い集め、なんとか陸に上げたようだ。

 

 「ようこそ海賊の墓場へ」

 出迎えてくれたのは話しで聞いていた通りの人物だった。

 灯台守のクロッカス、そう名乗り偏屈そうな眼光を若者らに向ける。

 「わたしはアン、エースにさくら。ここでお昼ご飯、食べさせて貰ってもいいですか」

 「ああ構わん。その代わりわしの分も作ってくれ」

 いいですよ。

 そうアンが応えようとした瞬間、エースは海へと視線を向ける。

 何かが深い海の下から、上ってくる気配がしたのだ。とてつもなく大きな何か、はどんどんと水面へと近づいてくる。

 「その前にやることが出来た」

 クロッカスは座っていた丸太から立ち上がり、海へと向かう。

 その背を見つつ、アンは事情を察したようだった。そして首をかくん、とエースに向かって傾げるともの言いたげにじっと見つめてくる。

 「…わかった。行って来い」

 「ありがとう」

 どうせ何かの声を拾ったのだろう。嬉しそうに崖を飛びおりるアンに気を付けろと声をかけながら盛大な溜息をついた。

 エースはさくらを地面に下ろし、がしがしと髪を掻く。海に入れるならば飛びこむのは自分でありたかったと思いながら、灯台へ流れ着いていた者達が近づいてくる様子を見ていた。男のひとりが声をかける。

 「あの船、あんた達のだよな」

 「……そうだ」

 エースは海へ飛び込んだアンの様子を伺いながら、ぎゅっとハーフパンツを握りしめてくるさくらの頭に手のひらを軽く乗せる。

 「頼む!!」

 勢いよく頭をさげたその男に倣い続いて男たちが頭を地面にこすり付ける。エースは余りの光景に、思わず後ろへ一歩引いた。

 「俺たちゃ東の海でちょっとは名の知れた海賊だった。船は航路の入り口に入ったまでは良かったが、激流に耐えきれず大破した」

 男は続ける。

 「頼む!! 次の島まででいい。おれ達を乗せて貰えないだろうか。何でもする!!」

 

 男たちの懇願もそこまで、だった。

 大きな黒の塊が海から突き上げてきたのだ。

 そして咆哮する。耳をつんざくような叫びが空へと放たれた。否、空にでは無い。この山の向こう側へ、向けられているようだった。

 さくらは目を丸くし耳を両手で必死に塞ぐ。その顔は以前アンに見せて貰った、ムンクの叫びという絵にそっくりでおもわず爆笑してしまったのだ。そういうエースも人差し指を耳に突っ込んで、空気を震わせるそれが終わるのを待つ。

 

 クジラという種は主だって温厚な生きものだ。仲間と交信する際に海の中に放つ音波はあれど、ここまでもの悲しい声をあげる例はないだろう。

 ざぶんと大きなしぶきを上げるクジラの中へ入った花の老人と、眼元の上に乗ったアンに注意しつつ、耳を押さえていた男達がぽつぽつと話し始めたそれを聞く。

 

 彼らは運よく生き延びたものたちだった。船長をはじめ航海士は死んでしまったが、雑用数名がこの岬へ辿り着いた。

 故郷に帰ることも考えたが、クロッカスよりこの海の法則を聞き、脱出が困難だと判断したという。偉大なる航路の両端には凪地帯が広がり、そこを越えない限り故郷には帰りつけない。

 基本的に偉大なる航路へ一度入ってしまった者は、1周巡らねば元の故郷には戻れない作りになっているのだ。だから花のジジイが言った『海賊の墓場』という言葉はあながち間違いではない。しかしながら海軍の船やその他物資を運ぶ蒸気船など例外がいくつかある。次の島にもし、東の海へ向かう物資船が停泊していれば、故郷に戻ることも可能だ。

 「どうするかな、別にかまわねェとはおもうけど、アンに聞いてからだな」

 念のため、エースは頭を下げている人物達に釘を刺す。

 「考えてもらえるだけ、ありがてぇ」

 

 そしてクジラが再度出現する。初っ端よりも大きな叫びを上げていた。

 さくらが耳を押さえ、その場にうずくまった。ゼロ距離で音の波を受けたであろうアンが、ちゃぽりと海へと落ちたように見えた。

 思わず海へと飛び込みそうになり、エースはつんのめる。

 (いや、大丈夫。耳鳴りはしてるけど)

 アンは黒光りする肌になんとかしがみついていた。超音波により脳が揺れているような気はするものの、その他はきっとたぶん大丈夫だろう。

 (必ずその想いは叶うから。だからあまり、ね?)

 

 ぶくぶくと泡が弾けた滴がじゃばじゃばとアンに降り注ぐ。どうやらクジラはまだご立腹のようである。

 クジラにはとても大切にしている存在たちがいた。音楽を愛し楽しげに、そして高らかに音を鳴り響かせる人間達だ。幼い頃に出会い、この双子岬までいっしょにやってきた。けれども彼らはくじらをこの岬に置いて行ってしまった。ここから先はとても危ないから、と。かならず戻ってくると約束して彼らは旅立っていった。そしていく数年が経ち、くじらは成体になった。けれど彼らは戻ってこない。

 

 クジラは海に住む哺乳類のなかで最も知能が高い生き物だ。人間の感情も読み解くほど感受性が豊かであるという。

 クジラは鳴いていた。細く、長く、泣いていた。

 

 (あんまりいじめてやるなよ)

 (え……あ、っと、その)

 

 理想や夢を追いかける男とは違い、女は現実主義者が多い。生きていくために必要なものを知っているからだ。夢を追いかけるのならば衣食住が乏しくなっても、そして睡眠時間を削っても構わないとおもう男は多い。だが女は時としてそんな夢見る男を容赦なく奈落のそこへと突き落とし現実をつきつける。

 きっとあのクジラは雄だったのだろう。なにがアンの癪に障ったのかはわからない。だが結果的にぐじぐじと女々しく泣いていたクジラに喝をいれたのだ。

 

 ちょっとした未来をみせただけとアンは言うが、見せられる方としてはたまったものでは無いのだ。弟があのクジラをなんとかするらしいが、この双子岬に来るまであと三年は固い。

 なにを見せたのかはあえて聞かなかった。

 懇願された男たちについて聞いてみるとしばらくの沈黙ののち、エースの判断にゆだねると返答があった。

 紛れもなく確認のために読んだのだろう。そして問題ないと判断した。

 

 仲間が増えるならば食べ物を獲ってくると声が聞こえる。

 火の準備はお手のものだ。

 数分後、エースの頭上に放り投げられたのは赤くてのっぺりとした顔面をもつクレナイオオフダイだった。

 

 賑やかな食卓が、もうすぐ始まる。

 




 * クレナイオオフダイ 滅多につれない大型の超高級魚。希少な魚なので出会った時はすべて旬である。

7/20 誤字の指摘ありがとうございます。





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57-廃都

 声が、聞こえた。

 アンはハンモックの中で懐中時計をまさぐり探す。夜明けの交代までまだ時間があるはずだと眠気がそう言っている。寒くなるからと体を包んでいた毛布が邪魔だ。時計がどこにあるのかわからない。しかし時間を確認するくせがついてしまい、見なければ安心できなかった。

 

 草木も眠る丑三つ時まであと二十五分ほど。

 横に吊ってあるハンモックには誰も居なかったが、部屋の奥まった場所にあるベッドには小さな体が丸まってある。

 外から聞こえる声は、紛れもなくエース船長のそれだろう。ひさびさの陸らしい陸の足ざわりを想像して心躍らせているのだろうか。

 寝入る前とくらべ、ずいぶんと空気が冷たかった。目的地としていた島に近づいているのだ。

 アンは頭をはっきりさせるため部屋においてある洗面器に水を少しばかりそそぎ、顔を洗って歯を磨き口をすすいだ。そして厚手のコートを取り出し羽織る。

 

 あの島に着くならばかなり寒くなるだろう。固有気候は厳冬だ。

 本来ならば限られた者たち以外、来ることができない場所である。行くための航路は確立されているが、しかしそう簡単に得られない磁力だった。どうしても欲しいというならば狭間の島と呼ばれる火山島に自力で向かわなければならない。

 

 狭間の島は虹の島(アルカンシエル)から天気さえよければ見える近距離にある無人島だ。二極の島として有名で、地上と地下とでは記録指針(ログポース)に帯びる磁気が違うことで知られている。地上はグサミビーチへ、そして地下は陵の浜へと続く。前者はそこからサン・ファルドへ、後者はショーリングへと行くことが出来る。

 それはどこだと言われれば、サン・ファルドは海列車で繋がった駅のひとつであり、ショーリングはエニエス・ロビーのちょっと東北寄りと答えられた。狭間の島にいくだけでかなりのショートカットが出来、手間をかけて地下を訪れるだけで魔の三角地帯と言われる霧の発生地域と女ヶ島の脅威から逃れられる唯一の航路だと言えるだろう。しかし、その航路を見張っているのが海軍である。

 

 話を戻そう。

 厳冬の、エースを船長とする船が進路をとっている島はグサミビーチでも陵の浜でもない。狭間の島にはもうひとつ、満月の夜のみとある岩場でだけ発生する磁場がある。それは流れ着いた欠片だった。満月の日のみ潮が引いて姿を現す。

 その欠片の磁気を得たものだけが、古の都に至れるのだ。

 

 とまあ長い説明だったが、そもそも虹の島から狭間の島に行くだけでもかなり難易度が高く、普通は訪れない。行かなくとも別に困らないからだ。

 ちなみにアンはこの船の記録指針には陵の丘行きの磁力を纏わせてきた。この磁力に古都の磁場を触れさせると面白いことが起きるのだ。しかし他の島の磁場に触れると面白いことができなくなるため、磁気を遮断する保管箱へ眠らせてあった。

 

 なので実は今、虹の島から古都にかけては記録指針なしで航海をしているのである。

 普通であれば実現不可能な航海だ。仲間になった者たちは必ず一度は目を丸くする。本来ならば航行できるはずのないやり方で海を進んでいるからだ。それが出来てしまうのは受け継がれた血のなせる技とでも言おうか。

 あの父はどれだけ驚かせれば気がすむのだろう。過去の人になっていてよかったと、心底おもう。もし、まだ生きていたならばと考えるとぞっとする。世界が覚えている過去の記録の中で視た父の周囲には、数多くの人間が集っていた。その誰もが多彩で飛びぬけた才能と魅力をもったものたちだ。よくもまあひとつの船に納まっていたと感心する。

 

 ある意味、アンやエースは恵まれている。真似できる模範と人があるのだ。あの船には正しいことも間違ったことも、すべて混ぜ込んだ混沌のなかにあった。けれどそれを上手くまわす方法もまた示されていた。それに加え、海軍で身につけた生活もある。完璧ではないが、結構、無敵っぽくないだろうか。

 

 アンは船の外で叫んでいるエースの高揚感に引きずられながら、そんなことをおもう。

 

 到着する予定の島には名前が無い。

 随分と昔に廃された都が残るだけの島だ。歴史を識るものがこの島を訪れたなら千年ほど前に栄えた、獣人たちの国だと知れただろう。そして世界政府にとって秘匿したい島のひとつだった。黒い石の固まりがある、その言葉だけでぴん、ときたならばかなり歴史を学んでいるとわかる。

 この島は前半にある歴史の本文(ボーネグリフ)のなかで、最も重要性の高い黒石のひとつだ。言葉の韻を外していくととある座標が浮かび上がる。前半の海で使うものではない。楽園のその先で必要になるのだ。

 そういえばニコ・ロビンもこの島には来たことがないはずである。どれだけ訪れたいと願ってもなかなかたどり着けない島だ。瞬間移動で招待してもいいが、そもそもそんな暇があるのだろうか。いや、ないはずだ、とアンはおもう。この前こっそり会った時、どんな好条件をぶら下げられたのかは聞かなかったが、ワニの手足となって動く駒になっており、研究も余り進んでいないと嘆息していたくらいなのだから。

 

 世界政府は、というより中央の最奥といったほうがいいのか。ラフテルという島の存在を知り、あの島をどうにかしたいと切実に考え、長い年月をかけて目的を達しようとしている。だが誰もあの島にたどり着けないでいた。それはなぜか。年月をかけすぎたからだとアンはおもっている。いや、それこそが目的だったのかもしれない。四皇と呼ばれているものたちもそうだ。行く気がないものも居れば、そこに至りたいがために必要な情報を集め続け、着実に駒を進めているものたちもいる。だが最後の一手が足りない。足掻いても手に入らないものを求めて懸命に努力している。

 

 ラフテルに直接赴けるアンに言わせれば、誰も彼もがまるきり方向性の違う頑張りをし続けているのだ。ちょっとした思考の転換で、あっという間にあの島に行くことが出来る。そんな裏技的なことを弟にも教えるつもりはないが。

 

 

 

 船室から出ると、途端に身を包むのは突き刺すように冷たい冷気だった。さすが冬の女王が好んだと言い伝えられている極寒の島に近づいただけはある。雪は降っていなかったが、体が勝手に震えてしまうほどの寒気が漂っていた。

 

 「島だ!!!」

 

 エースからうきうきとした楽しげな気配があふれ出している。

 そんなに雪が嬉しいのだろうか。できるだけ陸に寄るようにはしているのだが、まだ足りないらしい。

 アンはそんなことを考えながら、後方からエースの姿を見ていた。

 

 島の影が段々と近づいてくる。到着時刻はほぼ定時だ。プラス三十分程度は誤差の範囲内だろう。

 アンは懐中時計をポケットに入れ、手のひらを口元に当てながらあくびを噛み殺す。

 

 「おうおう、我らが船長は真夜中ってのに血の気が多いなぁ」

 「ええ。雪に興奮する大型犬のようです」

 

 聞こえてきた声に、アンはすぐさま同意する。

 野太い声の主は船医である男の声だ。がっしりとした筋肉むきむきの人物である。だがその体つきに見合わず繊細な診断と治療をしてくれる心強い仲間だ。そしてもうひとりはこの船の副船長だった。十日ばかりまえに着任してもらったばかりだが、上手く船をまとめてくれている美丈夫だ。

 

 深夜であるのになんとも鼻息が荒い。眠気を振り切り甲板へ出てくることが出来た面々は、どちらかというと冷静な判断を下せる年長者であった。いつもエースと興奮を分け合い共に暴れる年若い元気な若者たちは、心地よく揺れる寝床で揺られているのだろう。

 

 「着岸の準備をしましょうか」

 「お願いできる?」

 

 アンは横に立った銀髪の男の言にこくりと頷く。

 彼の名はツヴァイ。虹の島でエースが拾った人物だ。

 

 『来いよ』

 

 余計な言葉などなかった。ただ一言、お前はもうおれのもんだ、と手を伸ばされたのだ。

 そして彼はエースの手を取った。

 

 この船にはそうして仲間が増えている。

 エースの人選はなかなかにつぼを押さえたものだった。医療の心得を持つ者、料理人、測量技師、元王宮音楽隊、狙撃手、近接特化型などなど。多彩な才能を持った者たちが自然に集ってきたのだ。さすが天然のたらしである。愛想よくしているだけで、エースが必要としている人材が集まってきた。船を運航するにあたってはかなりありがたいのだが、アンとしてはかなりの嫉妬案件である。エースだけ、ずるい。そうアンが拗ねたくなるレベルだ。

 

 加わったばかりであるが、ツヴァイもかなりの技能もちであった。能力値をABCDで現すならばすべてにおいてA+とつくだろう。

 アンが掛け持ちしている業務の中で最も重要な、航海主任としての席を渡してもいいと初めておもえた人物だった。

 たった三人で偉大なる航路(グランドライン)に突入した頃が懐かしくおもえる。まだ、ほんの一ヶ月半前だというのに、入ってからの日々が濃厚すぎたせいだろうか。今や二十名という大所帯になっていた。仲間たちも船長に倣い偉ぶるものがいないので、和気藹々とした雰囲気だ。

 

 白いままの帆が冷たい海風を受けて膨らんでいる。

 エースが頑なに海賊旗を作る、トレードマークを帆に描くと言ったのだが、アンはそれを強く拒否した。

 わざわざ敵の目につきやすい目印を描いてどうするのだとアンは主張したのだ。海軍でも海賊の把握に海賊旗の絵柄を用いていた。それに付け加え、黒い旗をはためかせていると商船との取引もしにくくなる。

 海賊を名乗るということは対外的に、誰かを傷つけ奪うものである、と高らかに叫んでいるようなものだ。そういう行為をしたいのか、とアンはエースに詰め寄った。

 

 「違う、この旅で金の心配なんてしなくてもいいようにお前が、ちゃんと整えてくれたのはわかってる。けど!」

 「けど、……なに?」

 

 欲しいじゃんか。

 

 小さく、口を尖らせて照れたエースがちらり、と流し目で見てくる。

 だからなにが欲しいのかとアンが聞けば。

 

 「格好いいだろ、名前とかさ。刻印とかさ!みんな揃いの」

 

 ……うん?

 

 エースが語りだした事柄をまとめると、こういう事かと落ち着いた。アンの脳内ではひと昔かそれ以上前の暴走族のとっても派手な色合いのジャンパーや、ヤのつくお仕事の方々が使う代紋だとか、結束のためにそういうお揃いのものを持ってちょっとやんちゃしてみたいなぁという希望だろうか。

 海賊業をしている男たちと、上記にあげた前者などはかなり似ている部分がある。男の浪漫という、成長したら黒歴史になりかねないアレであろう。

 シャンクスが長をしている船の面々も、なぜかお揃いが好きだった。引き合いに出されると、そんなものかともおもう。

 

 「わかった」

 

 あれもだめ、これもだめ、では話が先に進まない。

 だから妥協案をアンから出すことにした。

 

 海賊と名乗りたいならば名乗ればいい。

 けれど帆には海賊のトレードマークは描かない、旗も出さない。

 その代わり持ち物や服の飾りに海賊的な刺繍を入れよう。

 

 話し合いの結果、そうなった。

 だから仲間たちの持ち物の「なにか」にはエースが頭をひねりながら、ああでもないこうでもないと描いたトレードマークがあった。そして彼らは自分達のことを「スペードのかけら」と呼んでいる。エースが己をスペードに例えたからだ。この世界でもスペードの絵柄は剣を図案化したものだった。その欠片たちは自分たちの役割に剣の部位を足してもいる。エースと共に殴りにいくものたちは(ソード)であると言い、守りにつくものたちは(ガード)、後方支援が柄頭(ポンメル)と言った感じだ。彼らは彼らなりに言葉遊びを楽しんでいる。

 

 そしてつい先日には海軍と初遭遇し、武装組織(かいぞく)として手配されてしまったのだ。アンはひとり高みの見物をしていたのだが、はっきり言ってエースの敵ではなかった。乗組員たちもかなり奮闘し、見事撃退してしまったのである。その後、管轄している知り合いの中将にこっそり連絡を入れ、強化訓練の進言を匿名で入れておいた。きっと今頃、該当する海兵たちは楽しい訓練内容に喜び泣いていることだろう。会ったことはなかったが、同じ階級の女性士官も居た。芯の強そうな女性であったが、彼女とはいろいろと縁が深そうでもある。楽しみな逸材と言えるだろう。

 

 それに、良いこともあった。新聞の間に挟まれていた海軍発行の手配書に、真正面から撮られた笑顔のエースがでかでかと載ったのだ。どこでこんな写真を、いつ撮ったのだとおもうくらい良い写真だった。おもわずもう一部買ってしまうほどにいい写りだったのだ。本部の広報室に行けば、写真の焼き増しをしてもらえるかもしれない。だがアンは、はっ、とする。これは海軍の罠だ。危ない、引っかかるところだった。

 

 そんなつい最近のことを思い出しながら、アンはマストに登る。

 見張り台の上で震えていた青年に声をかけ、船内で体を温めるように促した。そのまま台にアンは収まる。

 

 エースは相も変わらずバウスプリットの上から動いてはいない。長袖のTシャツにダウンジャケットを羽織っただけの軽装で寒くないのだろうかとおもうと、大丈夫、と声が戻ってくる。こういう時、繋がっているとすごく安心できた。落ちないでいてくれたら構わない。悪魔の実をエースの口につっこんだのはアンだが、エースもエースで食べたことをすっかり忘れてしまう時がある。海の中から見る空はセロハンに透かしたような、独特な揺らめきがありとても綺麗なのだ。たまに舷の上に腰を下ろしたまま空を見上げ、そのままどぼん、と海に落ち、アンの手によって救い出された回数は片手以上両手未満になる。

 暖かい海ならばまだいいが、極寒水泳だけは遠慮したい。とても。いやかなり切実に。

 

 

 

 銀髪の男はするすると軽い身のこなしで見張り台に向かうアンを一瞥し、甲板に出てきていた面々に指示を飛ばす。

 ツヴァイは彼女が苦手だった。嫌いとまでは言わないが、どちらかといえばあまりかかわりたくない相手であることは間違いない。

 彼に手を差し出してくれたエースと双子であるという。しかし先立ってこの船に乗っていた者たちが言うほど、似ているようには思えなかった。男女の違いではない。もっと根本的なところが全く異なっているのだ。

 

 船長であるエースは誰に対しても態度を変えない。年配者や初めて出会う者たちは除いても差し支えないだろう。

 この船に乗る者たちは全員、彼を慕っている。彼に誘われ彼がいるからこそこの船で生きていられた。

 彼はまさしく太陽だ。どんな暗がりに身をおくものであろうとも、差別なく照らす。照らされた誰もが最初、あまりのまぶしさに目をつぶり、まばゆ過ぎて振り払おうとするが、次第にその明るさに慣れてくると胸の奥に押し込めた願望をつかみ出されてしまうのだ。そして照らす。

 出会って二日、ツヴァイは彼に惹かれた。それはむろん色恋沙汰ではない。話に聞いた彼の生き様に感嘆したのだ。

 彼は出会うために海に出た。この広い、世界のどこかで必ず会うだろう誰かに会い、そして世界の果てへ至るために青の海へ飛び出した。その話はツヴァイに少年のころを思い出させた。いつか自分も父と同じように、この海原と共に生きるのだと信じていたあの頃を。

 ほとほと閉塞していた生活に嫌気が差してきていたのだ。手を取れと強烈な意志が込められた黒の目がいっていた。

 退屈はさせない、と。

 

 確かにこの船に乗った直後から、退屈とは永遠に無縁になると理解した。

 誰も彼もが個性的で、彼の周りに話題が集中していたからだ。

 しかし彼の側には風変わりな少女がひとり居た。陰のようにひっそりと気配を殺すように有り続けている。彼女の存在はツヴァイにはかなり歪に見えた。その人物は彼の双子の妹なのだという。この船のありとあらゆる事柄を管理し、運営している。なにもかもに頭を突っ込んで出来るはずが無い、とツヴァイは今までの経験から身に染みて知っていた。適材適所、得手不得手、人間には得意なものと苦手なものが必ずある。なんでもかんでもこなせる超人など、物語の中だけの話だ。

 

 しかし彼女のもつ特殊な航海術だけは賞賛されるべき技術であると理解していた。

 この世界は大きく分けてふたつの地域に分類される。磁石の方位磁石が使える地域とそうでない場所だ。前者は四方の海と島々であり、後者が偉大なる航路と呼ばれる海域だ。

 ツヴァイは偉大なる航路(グランドライン)前半の海で育った。ゆえに他の島に赴く際には必ず記録指針(ログポース)が必要であると知っている。無ければ住まう島の磁場から離れたが最後、どこに流されるかわかったものではなかった。島の姿がみえるからといって、海流が島に向かっているとは限らないのが偉大なる航路である。

 

 だが彼女は記録指針の導きなしに偉大なる航路を渡っていた。

 航海士の仕事ではないようにみえる。だがやっていることは、測量し海図を確認しつつ航行に関しての情報を収集(周囲を警戒し、気候の変化など即座に対応)する、まさしく航海士としての役目であった。

 指針だけを頼りに偉大なる航路(グランドライン)を渡ってはいない。それがどれだけ異常であるかをツヴァイはすぐに理解したのだ。

 測量室には彼女を含め、五人の船員がいた。二十四時間を五人体制でまわしている。

 そして彼女が書き続けていた海図(ワゴン)を見れば、鳥肌が立った。ありえない、としか言いようが無い航路であったのだ。双子岬からはじまる偉大なる航路の航路はほぼ決まっている。なぜなら繋がる島の磁気が一定方向しかないからだ。新世界のような複雑さはほとんど持ち合わせてはいない。だから偉大なる航路の航路を知るものからすれば、ありえない、としか言えない海路をこの船は辿っているのである。

 

 それは神の御技のようであった。すばらしいとおもうと同時に恐ろしいともおもった。

 

 双子岬から仲間に加えてもらったという船医曰く、最初は記録指針なしの航海に不安しかなかったと言った。しかし当初から船長が”絶対に大丈夫”だと言うのだ。嘘だと反論する材料もない。日々を共に過ごすにつれ、不安は次第に払拭したという。彼は偉大なる航路から東の海に流れた医者であるが、ここまで快適な船旅は始めてだと言った。

 

 この船の長は、火拳のエースとあだ名されはじめた青年だ。凛として立つ姿は、どことなく王者の気風を感じさせる。もし彼がどこかの王家のご落胤であったとしても驚きはしないだろう。

 

 そして双子の彼女。何度も繰り返すが、本当に彼と血が繋がっているのかと疑いたくなる。

 彼女はいたって普通の娘さんに見えた。どこかの村や町ですれ違っても、見向きもされないただの通行人だ。取り立てて彼女について特筆すべき点もない。本当にどこにでもいる娘なのだ。

 性らしく人の世話を焼くのが好きであり、料理や洗濯など率先してやっている。育った島がかなり猛獣の巣窟となっていた(と聞いた限りは思える)らしく、身のこなしについてはとても、いい。

 

 ツヴァイはこの船に乗り、本当に乗って良かったのかと自問自答した日々があった。ほいほいと甘言に釣られついてきたは良いが、なかなか馴染めなかったのだ。それもそのはず、船に乗り込んでいた船員たちはそれぞれ自分のしたいことをしたいようにしていたからだ。統率など取れてはいない。

 で、あるのに船は機能していた。

 

 なぜ、と突き詰めてゆくとすべての中心にエースが存在していた。

 船員たちはエースを中心に物事を回している。ときおり命じる指揮内容も、まるで軍隊のそれであるかのような綿密さが伺えた。

 エースはツヴァイになにも命じなかった。なにかをしたくなったら声をかけてくれたらいい。としか言わなかったのだ。

 ツヴァイは初めてなにもしなくてもいい時間、というものを得ていた。満喫しているつもりであったのだが、手持ち無沙汰にでも見えたのだろうか。

 彼女が話かけてきた。そろそろ船のなにかをして貰おうかな、とおもうのだけれど。なにが出来ますか、と。

 ツヴァイは呆気にとられた。たいていの場合、これそれがしたいと希望を出したところでやらせてもらえるはずがない。なぜなら新入りほど信用ならないものはないのだ。雑用からさせ、裏切る可能性が低くなっていくにつれ、少しずつ仕事を分け与えてゆくものだ。

 

 だから素直に答えた。

 船の管理をしていた、と。測量の技術を持っており、航海士としての経験もある。

 

 「じゃあ、ここの管理と運営をお願いできますか」

 

 こちらにどうぞ、と案内されたのは測量室だった。

 馬鹿な。ツヴァイは目元の筋肉が痙攣するのを感じた。

 船に乗り込んでまだ一週間も経っていないツヴァイに、船の運命を左右する航海士の座をさらっと明け渡すとはどういうつもりなのかと。聞けるものなら聞きたかった。

 彼女は他の面々に偉大なる航路に入ってからの海図を見せてあげてほしいと言い。基本的にはここから先は記録指針(ログポース)に従って進むこと、途中で横道に入るときは前もって伝えると矢継早に告げて颯爽と去っていったのだ。

 手渡されたばかりの記録指針には、指針に頼らず向かっていた目的地の磁力が帯びているという。測量室の面々は腕時計型の記録指針をツヴァイに着けるよう言い、海図を引きなおし始めた。

 

 今まで彼女が仕切っていた仕事を、こんなにもすんなりと譲渡できるのはなぜなのか。快く招き入れてくれた測量室の彼らと会話しつつ、少なくともツヴァイには出来ない配置の仕方にどこか鬱々(うつうつ)としてしまう。積み上げてきた実績を他人にただで渡すなど、頭がおかしいのかと勘ぐりたくなるのだ。

 捨てるほうは楽だ。後に残るものたちのことをなにも考えなくてもいい。だが受け入れるほうはこれからの未来を共にしていくのである。

 測量室にいた者たちは、分かったと素直に頷いていた。しかし船の指針を決める航海士は船の命を預かっていると言っても過言ではない。それを貸し借り可能な物のように手渡す彼女に不満を感じ、不信を持ってしまった。

 

 「アンちゃん、最近すっげぇ忙しそうなんだよな」

 「ウォレスがぶっ倒れてるのもあるからなぁ」

 「ふたり分の仕事を背負ってさ、食べ物の確保もなぁ」

 「はは、そこらへんは申し訳ネェやな。みんな大喰らいだし」

 「オバちゃんって飯作れたっけか。いやないな、塩ぶっかけるのが関の山だ」

 「管理表の書き直ししないとな。アンちゃんは早朝と真夜中に充ててくれって言ってたから……」

 

 ツヴァイはしかし、測量室で交わされていた会話など耳に留めていなかった。

 ありえない海図と、認めたくない存在と、初めて己を認めてくれた存在の側に当たり前のようにして立つあれに、無性に腹が立った。大人としての矜持など、彼の手を取ったときに霧散していた。国では強く、正しくあらねばならなかった。そうでなければ必要とされなかったのだ。ツヴァイはあの時、凝り固めてきた常識を捨ててきた。そして己のわがまま、望み、願い、抑圧し続け叶わないと諦めていたものを形にする機会を得たのだ。だから我慢することを意識的に避けていた。

 

 よって多方面に手を出しすぎて対処できなくなったのだろう。そう安易に、利己的に判断する。周りの意見を聞き、妥協点を探すという思考を放棄したのだ。

 彼女の姿が甲板から消えることが多くなっていた。だが船の運航は滞りない。指針に記録された磁力に従って進めばいいだけだ。ただそれだけだ。それだけで、いい。いいはずだ。

 

 そして日々が過ぎてゆく。

 彼女はどこにでもいた。なぜかツヴァイの視線の先に現れるのだ。

 

 「慣れたか?」

 「……はい、おかげさまで」

 

 ある日、エースが良く冷えた瓶をツヴァイに差し出しながらその横に座った。

 天候は晴れ、突風も無く穏やかな空が広がっている。

 

 「気になるのか」

 なにを、とは聞かない。アルコールを受け取り言葉を待った。

 船長の視線の先には彼女がいる。

 

 彼女は毎日忙しく走り回っていた。

 船長を諫めることは元より、帆の操作や開閉、戦闘で指揮を執るのはもちろん、航路の確認や、驚くことに航海中であるというのに食料の買い出し、果ては船の修繕まで、仕事を各々で分担してはいるのだが、最終的にはアンの元へ持ち込まれている。多方面に手を出し過ぎたわけでも対処出来なくなったわけでもない。ありとあらゆる物事があの少女に集中していたのだ。

 決断を下すのは船長であるエースだ。だが船長が判断するために必要な情報を集め、意見をまとめていたのがアンだった。

 副船長としてツヴァイが抜擢されてからは彼を立て意見の集約にも口をはさまないように見守るだけになっていたが、見解を請われると的確な指摘を行う。

 人は誰かに立ち位置を奪われる事に不安を感じ、出来るならば守ろうとする。

 しかしそれが、アンには無かった。執着しないのだ。ツヴァイが最も欲したものを簡単に手放す。それが心の中にやりきれないおもいを残すのだ。

 

 手に出来なかったものがここにある。欲しくてしかたのないものが今、隣に居る。

 

 「アンはおれの、だからな」

 

 ええ。いりません、……あんなもの。

 そうおもい、じゃああなたはどうですか。と、ツヴァイはそっと心の中でつぶやいてみる。

 私を捨てませんか。側にいてもいいですか。必要としてくれますか。渇いたこの想いに報いていただけますか。道具として扱われるのはもううんざりなんです。受け止めてくれますか。

 

 考えることを諦めていた。考えたとしても夢で終わるはずだった。

 「おれはなにも捨てない。ツヴァイがおれを必要とする限り、近くに居ればいい」

 

 強く望め。おれの側に居ることを。

 一線を引いた言葉とは裏腹に、含まれた熱量が耳に届くと同時に熱く燃える。心臓が跳ね、どくどくと鼓動が小刻みに打たれる。呼吸を忘れた喉が息苦しさにひゅっと鳴った。

 疑わなくてもいい。信じて従っていれば路頭に迷う心配はなにも、ない。

 それはツヴァイにとって甘美な囁きだった。

 

 

 「接舷よぉーうい!」

 マストの下から野太い声が響いた。それに応える声が次々と上がる。いつの間にかこの船に乗る全員が甲板の上で走り回っていた。

 

 追憶から戻ってきたツヴァイは奥歯を噛み締め、舵の元まで急いだ。

 風の恩恵を受けていたマストを一気に畳み込む声が聞こえてくれば、ロープで固定し再確認する声もまた続く。

 接舷の作業はかなりシビアだ。

 

 この世界において海上での攻撃手段は砲撃か船を使っての体当たりか、もしくは移乗しての白兵戦が主となる。

 相手の船を揺らしながらいかにしてこちらが有利に接舷し乗り込むのかは操舵手の腕次第だ。

 

 船が綺麗に平行を保って岸につく。

 いの一番に渡したはしけに乗り陸に渡ったのはエースだった。それを見ながらアンがこの船にとどまる者たちの名を呼ぶ。船医と料理長、そして本調子ではない船員たちだ。その中にはツヴァイの名もあった。

 まだ夜も明けていない状態で冒険にでかけるのはあまりにも無謀である。

 はしけの先に簡易の駐留所を設けるために、いつもの準備をツヴァイへ伝達してゆく。

 その間にも慣れた手つきで揚陸の準備を進める者たちに、灯りをたくさん持っていくようにと注意を促すことも忘れない。

 

 「アンさん、どうします?」

 「ん? ああ、今回わたしはお留守番組よ」

 

 かけられた声にアンは笑む。エースが飛び出して行くのは確定だろう。ならば自分が船に残ったほうがなにかと都合がいい。幽閉されていた王子様には是非とも、この島で船長の手綱の取り方を学んでもらわなければならなかった。

 

 「時間があれば、まあ、うん」

 

 古の都は住まう者を失ったあとも静かに佇み続けている。

 捨てられたのではない。かつての住人たちにはこの地を去らねばならぬ理由があった。しかしそれは住人たちの勝手だ。

 そんな古都にはいまだ動き続けている時計がある。決まった時刻になると美しい音色を響かせるのだ。その時計台から見下ろす景色は都の全容を眼下に広げる。アンはかつてこの鐘が奏でる音に声を乗せたことがある。誰が一体こんなことを。予期していたわけではないのだろう。しかしその音はアンが知る歌の連なりだった。出来るならばもう一度、その鐘の音にあわせて声を発したい。

 

 「食料調達班と捜索兼冒険班にいつもみたいに分かれてね。ずるは無しよ、さくら、ちゃんと見てて」

 

 かくして各班への振り分けを賭けて合戦が始まる。

 

 

 

 

 

 開始の合図は日の出と決まった。

 空の機嫌がわかる船員のひとりが今日の天気はばっちり快晴だと断言したためだ。

 白の玉が山と積まれてゆく。今回の班分けは雪合戦である。ルールは簡単だ。相手チームのだれかを地に伏せればいい。幾人も権利が重なった場合は先手を取ったものが先に抜ける。そうしてどちらかの班が満員になった時点で終わりとなるのだ。

 

 「エース船長卑怯だ!!」

 「溶けるんだ、仕方ねェよな?」

 

 いくつもの氷の塊がしゅわり、と水蒸気に変わった。網を使って雪崩を作り出し、さらにその中へ雪玉を隠し大玉ころがしのような大きさのものをぶつけようと工作したらしい。

 さっそく阿鼻叫喚が響き渡る。エースはワイルドカードだ。船長より技量が高いことを示せば船で悠々と過ごすことも選択できる。

 

 「どんどんと罠の作りは巧妙になってるけどさ……威力は下がってる気がするな」

 「へーい、創意工夫を続けまっす」

 「頼むな」

 

 そうこうしているうちに雪合戦の結果によって食料調達班と冒険班に分かれた者たちが、懐中時計を手にして集合時間を告げるアンの号令により走り出す。

 

 冒険班にはエースとツヴァイがいた。

 一足先にと古都へと突っ込んで行った鉄砲玉たちを集めながら、エースは石畳の路を走っている。その姿は実に楽しげだ。先行した者たちの中に狙撃手がおり、雪玉を投げては逃げる、を繰り返している。その狙撃手を追いかけ、幾人かが包囲網を敷きながら追い詰めている様子を指揮するエースの姿は見ていてツヴァイはおもわずほれぼれしてしまう。

 彼の投げる雪玉は実に的確だ。隙を見せたものたちに満遍なくあてている。

 その姿は実に十七歳らしい。だが彼は青海を航行するための許可を得ていない無法者のひとりだ。ツヴァイが封じられていたあの島で見せた『海賊らしい』自由奔放な姿は彼の心にあこがれを芽生えさせた。

 してはならない。望んではならないとおもっていた心が疼き、暴れ、隠していた望みをツヴァイに認識させた。

 

 世界を自由に渡れる強さをもつ者。絶望の淵に立ち身動きの取れない誰かに手を差し出す強さをもつ者。

 誰も彼もが幸運だったとこぼす。

 エースに出会えたことがこれ以上ない幸せであるのだと。

 

 そこで脳裏に陰を落とすのがアンの存在だ。なぜ居るのかとおもってしまう。

 ツヴァイは頭目掛けて投げられた雪玉をひょいとかわす。すぐ側にはいつも先陣を真っ向から駆け出す女海賊が立っていた。

 

 「新入りの副船長、アンちゃんをあまり貶めないでやってくれるか」

 

 ツヴァイは表情を動かさない。

 「あの人は気にしないだろうが、あたしが困るんだよ」

 

 心理として人間は共有スペースを持つ者同士に悪感情をもたれることを嫌う。誰でもそうだろう。見知らぬ誰かに悪意をもたれてもどうという事はないが、多少でも関わりのある人物に嫌われていると気持ちが沈むものだ。それが同じ船に乗る者同士となればかなり苦しい状態となる。

 

 「心の中でおもうのはいい。自由さね。だけど顔に出すんじゃないよ。どうしても溜まってどうしようもないってんなら、船長にぶちまけな。船長のことは信じてんだろ?」

 

 彼女、バンシーはツヴァイに言いたいことだけを言って姿を消した。

 小さく舌打ちを、打つ。

 

 ああそうだ。気に入らない。あの女が。女だてらに船に乗り、当たり前のようにあの人の隣に居る。バンシーのように海千山千を超えてきた猛者ならばまだ許容もできよう。

 数日でわかった。

 船を動かすには多くの人足(にんそく)が必要だ。しかしあの女は何でも出来る。悔しいことにこの大きな船を船長である男とふたりで回せるほどの知識と経験、少人数でも動かす術を知っている。

 

 この船には彼を慕い乗り込んだ男たちがいる。

 この船に居易いように、それぞれが得意とする分野を分け与えられていた。力量を超えないように、しかしすぐに終わってしまわないように適度な分量が手渡されていた。それが彼らの卑屈に歪んでいた心のわだかまりを溶かすのだろう。不当に扱われず家族のように迎え入れられる。そもそもこの船に乗る多くに、無条件で愛してくれる誰かなどほとんどいないのではないか。

 

 だからこそ羨ましかった。

 ツヴァイは見たのだ。

 彼がこの船に迎え入れられたとき、視線を交わすだけで理解し許容した瞬間を。

 

 このおもいは消えないだろう。

 目の前で毎日繰り返されているからだ。忘れようとおもっても、声が聞こえなくとも、視線が絡まりあうそれを見るだけでツヴァイの心の奥底に黒い粘着度の高いどろりとしたものが湧き出てくる。

 

 ツヴァイは与えられてしまった。副船長という役目と、航海士という仕事を。

 つまるところ、彼はこの船の主柱に据え置かれたのだ。これが折れてしまえば航海などできなくなる。副船長は船の目でもある。広く浅く乗組員たちを見、不安要素があれば船長へと進言する。

 

 彼女はその役目を失っても船長との絆が切れはしない。どんなに遠く離れたとしても互いの信頼は揺るぎなく、繋がれたままだと。

 

 結局のところ妬ましいのだ。

 ツヴァイが欲しくて手を伸ばし、努力の果てに失ってしまったものを船長と彼女は持っている。

 その姿が憎かった。ぶれて見えた姿に悲しさを思い出した。消し去ったはずの愛しいその人の姿を。

 

 自覚したくなかった。

 ツヴァイは晴れた薄い青の空を見上げる。

 

 「ツヴァイ、緊急事態だ。手伝ってくれ!」

 

 楽しげなこえが上空から降ってきた。

 なんでも都の中央部に居た大白熊の群を船員のだれかが刺激してしまったらしい。すぐに群れの頭をエースが抑えたのだが懐かれてしまい追いかけられているのだ、と。

 

 「あなたなら抱きつかれたとしても平気でしょう」

 「団子状態で来られたらおれでも死ぬ!」

 

 古の都を探検していた者たちは一斉に、白熊たちをいかに撒いて逃げ切るかという生存逃走劇となった。

 

 呼び笛が雪景色に染まった都に力強く響く。

 音の数はひとつ、だ。

 

 都に居る者たちに少なくとも一時間は逃げ続けろ、という合図だった。そうすれば必ず助けがくる、と誰もが理解する。

 

 

 

 

 

 

 時を少々遡る。

 食料調達班は鹿を二頭、猪を一頭、そして釣り糸を垂らして釣ったナガタチが一匹という獲物を抱えて船へと戻ってきた。さすがミハール先生率いる班である。

 ここから忙しくなるのは食卓を取り仕切る者たちだ。

 たどり着く島々で毎回のごとく狩猟していれば手馴れてもくる。次々と血抜きをし、毛皮を剥いで塩水で洗い貯蔵庫へと運び込むのだ。その他、鹿の角や毛皮は高値で売れるし、内臓は滋養強壮に良い。猪もそうだ。薬喰いの別名で知られている。きっちりと下茹でなどの処理し、どうしても食用にできない部位は穴を掘って埋めるなどを終え、アンがふと都の方へ意識を向けるとなんだかとても騒がしくも楽しそうな出来事が起きていた。

 

 長い冬と短い夏、そして春と秋を繰り返すこの島では、どうやって雪の季節を生き延びるかが最も重要になってくる。

 かつてこの都を去らねばならなかった獣人たちは己と同じ因子を持つ獣たちと意思を疎通させることが出来た。

 獣たちはこの地の獣人たちからこの島特有の気候を生き延びる術を教えられている。誰に教えられたのかを覚えているものはいないだろう。しかし脈々と続く血の末たちは代々、受け継いでいるのだ。

 

 そんなふうにして存続している、いくつかある獣達の群れのひとつになぜかエースをはじめとする冒険班のものたちが襲われ、もといじゃれ付かれているのである。獣達の心は人間とは違いとてもわかりやすく友好的か敵対か二極に分かれる。好きか嫌いか、餌をもらえるか殺されるかという単純さなのだ。

 

 下ごしらえを終えた食卓の守護者(コック)たちはそれぞれ席に座り飲み物を口にし始めている。狩から帰ってきたものたちもしばしの昼寝と毛布を持ってハンモックに潜り込む者もいた。狩組のほとんどは焼きたてのパンと足の早い内臓を煮込んだ味噌と醤油煮ができるのを今かいまかと待っているようだ。ジリンガーという生姜とほぼ同じ香辛料を使った醤油煮はかなり美味しい。白米が欲しくなる。モツ煮込みを口にすると酒も欲しくなる大人が多かった。寒い日は、特に冬島に寄る日々だけは酒の飲酒が許されている。特に外で見回る者たちは酒精を体に入れねば凍えるのだ。

 

 冬島では珍しい晴れ間も見えているおかげで、かなり冷え込んでいるものの見張りに立っている者たちの負担も少ないようだった。この島は遠洋から影になる場所が多く、見つかりにくい入り江に船をつけているため、早々発見されることはないだろう。が、しかしこの島はすでに海軍の周回航路のど真ん中にあった。しかも義祖父が好んで通る急速流(ジェット)がある場所だ。ガープ中将の下で経験を積み階級を上げた将たちも良く使う海流(みち)のひとつである。

 

 時計塔に行ってもいいだろうか。ふとそんなことをおもう。古都の鐘は朝の九時に鳴る。

 

 キイキイ。

 ……と、弱弱しい鳴き声が聞こえた。それは助けを呼ぶ声だ。

 アンは空を見上げる。甲板の上で意識を広く浅く広げてゆく。大地に沿ってではなく空に向けてだ。

 そして見つける。

 アンはそれが羽ばたいていた場所に瞬間移動しそっと両手で抱きしめる。温かさに包まれくたりと力を抜いたものは伝書バットだった。羽根を畳ませコートの中に抱きこむとさらに脱力したようだった。

 

 アンは甲板に降り立つ。なにか言いたそうに見ているが、口をつぐんでくれているようだった。

 伝書バットは世界政府が使う伝達専用の動物だ。伝書鳩よりも気候変化に強く飛行距離が長いため重用されているが、寒さにはめっぽう弱い生き物である。

 伝書バットは爪をアンの服に引っ掛け温かさを甘受していた。冷気に触れると嫌そうに脇の方へ移動しようとする。それを阻止しつつ、アンは小さな体に括りつけられていた書簡を結んでいた紐を解く。そしてその中に入っていた紙を取り出した。

 

 差出人は世界政府だ。見慣れた印が押された封を切る。中身を確認してみると仰々しく書かれた召喚状だった。

 なぜ今このタイミングなのか。

 アンは思いつく限りの事柄を並べてみる。すると最大の起因となった事柄が、ツヴァイを得たあの島での出来事であったのだろう。言葉を交わしたことはないが世界会議の席でツヴァイの、血縁上の父は見たことはある。

 

 黒の旗を掲げず、ゆく先々で有能な人材を集めながら海兵や海賊とは敵対しつつ赤い土の大陸(レッドライン)を目指すものたち、として新聞にも特集されたことがあった。

 ”火拳”とは海軍がエースに名づけたふたつ名だ。

 どういう意図で特集を組んだのかは推測するしかない。しかし海軍側としてはエースをはじめとするスペードに属する者たちを『海賊』の類に属させたいのだ。そうして悪としての烙印を押し、海軍の敵として認定してしまいたい。

 だが火拳のエース率いる集団は出会う商船と真っ当な取引をし、襲われている船を見つけると助っ人を買って出、報酬を求めず去ってゆく。商船の間ではかの船に出会えたら次の寄港地までの安全を確保できる幸運船と触れ込まれていた。世界政府としては正反対の世評に頭を抱えているのだ。なにをもって悪と呼ぶのか。その定義が壊れつつある。

 

 ガープひとりだけはさすがわしの孫たちだ、と大笑いしているとのことだが。

 その船に海兵だけが使う秘伝、六式の使い手であり、某中将の孫であり、世界貴族の狗でもある人物が乗船しているともなれば批判よりも勇名が流れるのも仕方が無いといえた。

 ならば取り込んでしまえ、と世界政府の誰かが提案したのだろう。

 

 海賊と名乗っているわけではないが火拳のエースには新人として破格の懸賞金がかかっている。

 そしてアンにはデイハルド聖から、傷ひとつ付けず生きて檻の中に捕らえることが出来た者に報奨金を出す、との触れが出ていた。金額は明示されていない。現実問題、褒美は望みのままに、という状態だった。

 四方の青海や楽園であればまだ、アンの手に余る人物がちょっかいを出してくる率は高くないだろう。だが新世界に入れば別だ。うじゃうじゃと居る。面白がって突撃してくるものたちの顔がいくつか浮かんだ。

 

 それは兎も角、この手紙をエースに見てもらわねばならない。

 都で随分と楽しそうに遊んでいるが、熊たちの体力は底なしに近い。ひさびさに全力で遊んでくれる存在が現れたのだから、その喜びようが大きいのはわかる。興奮のあまり飛び出た爪で引っかいてもちょっと熱くなるだけで傷つかないのだ。野生動物は基本的に火を怖がる習性をもっているが、脳内アドレナリンがだばだばと出ている状態では本能を凌駕してしまっているのだろう。

 

 アンはいつでも出航出来るように甲板に出ていた者たちに通達する。

 ぽかんとした彼らに伝えるのは、熊の大群とたわむれている冒険班の様子だ。

 疲れきり、逃げ切れなくなった者たちはこの船に戻ってくるだろう。だがそのときに大熊たちがこぞって渡って来、船に乗ればこの船の最大重量を軽く超えかねない。

 

 家が潰れる。

 

 由々しき問題である。

 事態を理解した幾人かが離岸の準備に取り掛かった。食堂でモツ煮込みを今か、今かと待ち構えていた数人も甲板に出て来て理由を聞き、出航に必要な準備を手分けして進めてゆく。

 

 アンは大気を蹴り、空へと舞い上がる。

 九時まであと一時間余り、冒険班のものたちにはその間しっかりと走り回ってもらわねばならない。

 

 時計塔に立ち、笛を一度だけ吹く。

 スペードの面々には時間を知らせる際に鳴らせると事前に教えてあった。

 

 今回、吹いた数はひとつだけだ。

 鐘の音が連なり響くと熊たちをはじめとする獣達の三半規管が一時的に麻痺する。その瞬間を見計らって各々が船に戻れるよう取り計らうつもりだ。

 

 それまでの間、ほんの少しだけ歴史の本文(ボーネグリフ)に行き、メモを取ってくることと。この地のどこかにあるはずの、父の言葉にでも耳を傾けてこよう。

 そう思い立ちアンは黒石の元へと移動し見上げる。ラフテルへ最終的に向かうために必要な島に向かうための座標がひとつ、記されていた。この黒石は新世界でナワバリを主張し、最後の島に向かうための航路を押さえているものたちにとって眉唾ものの情報だ。

 

 

 満月が近づいてきていた。

 書簡の件についてはデイハルドの元へ行く時にでも返答すればよいだろう。時間はまだある。それまでにエースや仲間達と話して決めればいい。返答期限が三日後と示されていたが、無視するつもりだ。

 首元に巻かれた石にアンは触れる。石の温かさに胸の内がそわそわとした。首輪だけでは足りない、と足されたピアスが存在感を増す。

 

 アンは物思いにふける。物事は互いに利を得れば合意を得やすい、とはいえ相手は百戦錬磨の老獪だ。こちらがどう返答しても不利にならぬよう、用意周到に準備して待ち構えているに違いなかった。彼らのやり方をなまじ知っているだけに、作戦がたてにくい。条件をちらせつけてくるなら、まだ交渉の余地はあると言えよう。

 ならばこそ相手の土俵にはおりていくのは危険だ。知略戦は彼らの十八番なのだから。どうすればその裏に回りこめるかが交渉の鍵となるだろう。

 

 アンはこんな世の中だからこそ航海者でありたかった。海賊でも海兵でも、流れて生きる賞金稼ぎでもなく。青の海を棲家にする海の民でありたかった。

 その意志を貫き通すために使えるものは使うべきだ。

 

 目を閉じ静かに呼吸を繰り返す。

 そしてこの星の記憶へ、そっと潜った。

 




7/22 誤字修正ありがとうございます。
ハンモックとジャンパーの誤字、初めて知りました。
後者は大阪と茨城でしか通じないらしい、とグーグルさんが教えてくれまして。
本当にありがとうございます。


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58-皓月(こうげつ)の戯れ

 黄昏月が輝いている。

 海の底をおもわせる深い群青に浮かぶのは細長い月だ。形によって呼び名を変えるなど、教えられた時は面倒でかつ煩わしとさえおもっていた。しかし何気なく月を見上げ続けてみると、住まう館の中でも隠されたあの書庫以外では得られなかった安心感が、どことなく沸いてくるような気がした。月の満ち欠けが時を教えてくれる。ふと気づけば月を見上げる行為を繰り返していた。

 

 かの人物がやってくるのは満月である。

 そうデイハルドが決めた。なにが何でも来るように、首輪を付け、先だっては追加の目印も加えた。あれだけ誇示していれば、少なくとも天竜人を畏怖する者たちから手をだされることはないだろう。

 

 人づてに聞くところによると彼の目でもある自由奔放な(あれ)はつい先日、海軍から出奔しなかなか有意義な毎日を送っているらしい。

 世界政府が長い年月をかけて作り上げてきたこの世界には、ありとあらゆる場所にその手足が息づいている。人か獣かはたまた奇怪な形をしたもものまで、世界政府は指先につけた糸でようようと世界を操り続けていた。上手くいかなくともそれはそれで重畳とあの老獪たちは悠然と構えている。

 

 黄昏月は月が満ちようとしているはじまりに見ることが出来た。日々、満たされてゆく空の器に、今では知らずと笑みが口元に浮かぶことも少なくは無い。

 デイハルドは先触れによりもたらされた報により、早めの湯浴みをし、食事を終えていた。

 あれがわざわざ伝書バットを使い手紙を寄越してきたのだ。いつもであれば手紙だけを執務室の机の上に転移させてくるくせに、なにやら企んでいるのか、きっちりと書簡の体を成したものを届けてきた。

 

 聖地に用事がある、という。

 あれに関することのほとんどを天竜人としての特権を用い把握しているものの、その頭の中の隅々まで理解しているわけではない。

 デイハルドは時間を確認し、書斎へと歩き出した。毛足の長いビロードの絨毯を踏みしめる。

 このところ夜会が続き、就きたくもない政府内の名誉職に無理矢理座らされたおかげで、出さねばならない書類が積み上がっていたのだ。世界貴族は神と同位である。大地に住まうもの、海に住まうものに秩序を与えるために天から降り立ったのだと。ゆえに青海人に傅かれるべき高貴な血を継ぐ者などと流布されているが、現実にはその、天竜人にも弱みがある。

 あれが魑魅魍魎というものかと、老獪たちをそう呼びぐちぐちと文句を垂れ流す狗のせいでその呼び名をデイハルドも覚えてしまった。狗が魑魅魍魎と呼ぶのは世界政府の中枢に立つ五人の人物たちだ。さらにその五名を操るかの人がいる、という噂もあり事実は霧の中にあり続けているが、そんなことはどうでもいい。裏があろうとなかろうと、彼らとその彼らを操っている誰かと会う必要が迫ったときは、己の持ちえるすべてを使ってその前に立つだけだ。その折は遠慮などするつもりはない。

 

 デイハルは忠狗の進言を取り入れ、多くの目と耳を確保しつつある。情報も過多すぎると混乱をもたらすが、うまく処理すればこれほど有用な戦はないだろう。

 口惜しいことに天竜人が天竜人として勝手気ままに振舞えるのは、青海を支配し続ける世界政府(かれら)あってこそだ、とわかってしまっていた。

 そして世界政府が天竜人を井の中の蛙にしてきた過去のいきさつも、だ。だからこそ彼らに対して天竜人は物言えぬ小物となってしまい世界に対して傲慢でかつ尊大にあり続けなければならなくなった。虚を張っていなければ己を保てないほどの弱者となってしまったのだ。それを世代は踏襲した。親の背中を見て子は育つというが、まったくもってその通りであった。

 デイハルドは自分が養子でよかったと心の底から思えるようになっているくらいだ。もし、あの家で、偏った思想を詰め込まれていたなどと想像もしたくない。よくぞ養父は、義母は、自分を放っておいてくれたものだと。今頃になって感謝するとは思いもしなかった。

 

 天竜人は天竜人のために用意されたこの世界政府の、唯一の出先機関に誰も座りたがらない。知りたくも無い、というのが本音だろう。天竜人たる己たちが、世界からどう扱われているのか。どうおもわれているのか。事実から必死に目をそらし続けている。だから知らない。青海に、本当の意味で降りたらどうなるのかを。

 だから天竜人の末端であるデイハルドにお鉢が回ってきた。理由は簡単だ。怖い、のである。

 天竜人は聖地と散歩が許されたシャボンディ以外に出るときは、年単位の申請が必要なのだ。世界政府の要望で諸国に訪問する時はひと月ほどしか準備期間が無いらしいが。

 

 デイハルドに言わせれば、天竜人は聖地に飼われた生贄の羊である。

 そうである確信が持てたのは、彼の目となったあれやあれの子飼いたちが持ち帰った多くの情報からも読み取れた。

 

 今までその役目を担ってきた歴代の天竜人はその特権を使い、すべて『よきに計らえ』と側付きを担った事務官に命じてすべてを終えていた。

 知るのが怖いから、である。

 この聖地にさえいれば、今の生活が未来永劫保障されていると思い込んでいるのだ。

 あながち、間違ってはいない。九百年に渡って体制が維持されてきているからだ。しかしデイハルドはこの作り上げられた箱庭が千年(ミレニアム)を迎えるとはおもっていない。もう少し、というところで盛大に崩壊すると予想している。

 

 世界政府は青海に住まうすべての頂に、かつてこの世界を統べた20の創造主を置いた。

 当時の真意はどうであれ、今現在において天竜人という存在は青海の民からしてみれば、やんごとなき天上人と思い込まされているにすぎない。事情を知る一部からはやっかいな目の上のたんこぶという扱いになっている。デイハルドからしてみればさもありなん、であろう。

 だが世界は、世界政府によってこの世の支配者である、と喧伝(けんでん)されていた。そう、長い年月をかけて青海の民が思い込むように情報を与えられ操作されてきている。

 

 この偽りを世界政府がいつまで続けるつもりなのかはわからない。100年に一度の大掃除も近いとみているし、その後始末もなかなか骨が折れそうである。

 この事実を青海の民たちがいつ知るのか。剥ぎ取られた嘘が露見したとき、民たちの怒りは間違いなくまっすぐ天竜人に向かうだろう。

 まったく気の長い話だ。

 九百年前にこの道筋を誰かが作ったというならば、その人物は未来を確実に知っていた、と(うそぶ)かれても信じてしまうだろう。現実に未来を確実に読み、周到している狗がいるのだ。過去に似たような能力をもった人間がいてもおかしくは無い。

 

 結局のところ、この現実をいつ、誰がどのような方法で終わらせるのか予想しか立てられない。デイハルドは狗がもたらした情報の中にある人物たちの全員が手にしている引き金が音を立てるまで何もできないのだ。

 

 すでに色あせてしまっている栄光がいまだに光り輝いているのだと疑っていない天竜人が、地に落ちるのはそう遠い未来ではないだろう。

 世界政府の、空白の百年にまつわる事実を知るものたちに嘲笑われているともしらず、傅かれ頭を垂れているからと自らが神であるかのように振舞うことの滑稽さは道化よりも醜く哀れだ。

 そしてそれを理解していながら演じなければならないデイハルド自身にため息が漏れる。

 なぜならばこのままの状態が続けば血を残さねばならぬからだ。あさましい血を、その血脈を残さねばならない。この聖地でもごくわずかな数しか知らされていない、あれを護るために。

 

 

 彼は。

 デイハルドは歩みを止め、窓の外の月を見上げる。

 『彼は怖いのよ。知らなければならなかった。長となったときに。けれど彼は知りたくなかった。なぜだかわかる?』

 しばしの沈黙ののち、デイハルドの愛する狗は言った。

 『世界の全てが手に入るとおもった。なにもかもおもいのままに出来るとおもった。だって何をしても許される天竜人に生まれたのだもの。しかもその長。笑いが止まらなかったでしょうねぇ』

 けれどその思惑はすべて夢幻と知った。そして彼は聖地の己の庭から一歩も出ることができなくなったのだ。

 『悔いたの、かな。彼が好敵手としていたドンキホーテ・ホーミング聖が長の候補から脱落し、青海に去った後に。…違う、かな。でも思惑と違っていたのは確かなはず。だって本当の支配者にはなれなかったから』

 

 ドフィのお父上なら聖地の闇ともいえるこの事実を噛み砕き、しっかりと抱えられたのだろうけれど、彼には出来なかった。違うわね。出来ないと放り投げたのよ。そうして五老星のあの魑魅もうりょ……ジジイたちの抑止力が、っていうかそもそもが棺桶に入ってなきゃいけない人たちなのに、生きてるのが本当に迷惑。たったひとつの妄執に、振り回されるなんて!

 

 彼の狗がそう、淡々と言葉を並べていった。

 

 天竜人の長たる男は確かに、あの宮から一歩も出てこない。世界会議の席でも己の領域から出ては来なかった。

 そしてデイハルドに己が抱えるべき責の一部をそっと横流し続けている。本来ならば憤慨ものだろうが、狗はにこりと笑って言った。

 『貰えるならもらっておくといいとおもうよ。わたしがディを信じるから。わたしひとりじゃ足りないなら、一億人分でも、世界人口分でも信じるし。間違えたならちゃんと叱ってあげるよ。わたしは鍵になる。過去の偉人変人狂人たちが辿った軌跡の、ありとあらゆる英知を開く鍵に』

 

 「ならば僕はこの宿命を受け入れ続けよう、そして来る日には」

 

 デイハルドは小さくつぶやく。彼の狗は彼のために在る。迷い立ち止まっても、その先を照らしてくれる大切なものだ。それがもうすぐやって来る。

 心が高揚するのがわかった。

 

 だからこそどんな厄介ごとであろうとも立ち向かえる。だからこそ永遠に続かないとわかっている砂の城の主も勤めていられた。

 腹心のランもそうだ。彼の周りには最強の布陣が敷かれつつある。その手配はすべて狗が取り仕切っていた。

 権力など怖くない。手に余るものでもない。扱い方さえわかってしまえば、たとえ時間がかかったとしても動かすことも可能だ。

 

 

 

 「旦那様」

 執務室まであと数歩というところで、眼鏡をかけた男が恭しく頭を垂れている。

 用ある時にしか姿を現さない執事長だ。

 宛名のみが書かれている手紙をまず、手渡される。

 内容をあらためろ、という無言の提示だ。

 父の代より変わらずこの屋敷で役目を滞りなく行うこの男には何度も、デイハルドも世話になっている。

 「老人たちからか」

 なにかと思えば籠絡の指示が遠回しに書かれているご機嫌伺いだった。

 世界政府内で世界の指針を決める役目を負っているのが、5人の老人たちだ。彼らは武力の統率、例えば七武海や海軍の人事にも直接指示出来、表裏の経済すらそのしわの寄った手で操っていた。

 

 その下に10名の補佐的役割をもたされた円卓がある。その卓に歴史上、最年少で座したのがデイハルドだ。

 基本的には世界政府という組織の中で代々役人を務める由緒正しい家系から抜擢される円卓の人員だが、その採決には老人たちだけではなく、そのさらに上座にある天竜人の承認が必要、とされている。今までは委任された老人たちの息がかかった人物が成していたが、デイハルドはおもしろそうだ、と赴くことにした。

 

 円卓のものたちは五老星が下した決定を分野ごとに割り当てられ、采配を振るっている。デイハルドが主だってする仕事は、よきに計らえ、とGOサインを出すだけだ。しかしこの円卓は使えた。情報の宝庫であったのだ。狗がもたらす外の情報と円卓の報告書を重ねると、かなり確実な知見となる。それを今までいらないものとして天竜人は捨ててきていた。

  

 デイハルドは記憶を手繰る。報告書にはなにも問題はなかったはずだ。

 とあるひとつの案件を除いては。

 「…対応する。暫く待て」

 

 その報は既に受け取っていた。

 海軍が危惧した通り、その力はたった3カ月で大将でなければ対応できないほど大きな危険度を示すまでになっている。最初、その手配書が出回った時、誤植ではないのかと賞金稼ぎから問い合わせがはいったらしい。

 海軍が今まで発行してきたものとは少々形式が違っていたからだ。

 手配書の写真はそのままだったが、死の文字は省かれ、生存捕獲のみが賞金の対象となる。しかも報償限度がない。

 多くの賞金稼ぎが淘汰されたと、円卓のひとりが嘆いていたのを聞いたことがある。デイハルドは内心、ほくそ笑みながら退席した。

 海軍にそうするよう、刷らせたのは、自分自身だったからだ。出される報奨金も、デイハルドの個人資産から出る為、何ら問題はない。

 

 来たる狗の武勇伝は余すことなく全て仕入れていた。

 乗り込んだ船の名前、乗組員達の詳細情報など、いくらでも裏から手を回せば手に入れることが出来る。

 ふがいないのは、たったひとり、その人物を欠いただけで足元をぐらつかせた海軍だ。緘口令を引いたとしても、表舞台に双肩を並べて出てきたふたりの類似を、いつまでも隠しとおせる訳もない。

 

 最近の情報ではとある事件に関わり、そのリベンジに向かった少将をものともせず突破し、この聖地がある赤い土の大陸に怒涛の勢いで迫ってきているとも聞いていた。

 

 がちゃりとドアを開け、見慣れた両壁に本棚が並ぶ部屋に入る。

 すれば淡く橙が残る海と空の狭間が見える窓辺に立つ影を見つけた。

 ゆっくりと歩みを進め、いつの間にか見上げる事の無くなっていたその視線を受ける。

 「……アン」

 「久しぶり、デイハルド」

 かつて見ていた笑顔と寸分たがわない、ほわほわとした表情に眼元が自然と緩んだ。

 満月の約束は、野に放たれてから一度も違わず果たされていた。

 

 言葉無く腕を広げれば大人しく身を預けてくる。船に乗っているというのに、潮の匂いはしなかった。柔らかな体臭がデイハルドの理性を犯す。

 「ん」

 額に受ける口づけにくすぐったそうに身をよじるが、腰に回した腕を解くまでには至らない。

 唇に軽く触れた後、割り込んできた人差し指をぺろりと舐める。

 「ディ。婚約者(フィアンセ)に妬かれるのはわたしなんだから。それ以上はだめ」

 「僕は別に必要ないんだけどね、お高くまとまったお姫様は」

 寸止めされ、デイハルドはやれやれと腰を縫い止めていた手を離す。

 「本当のところは、どうだろうねぇ」

 やけに楽しげなのは気のせいか。

 「いつもより早いな」

 「ああ、うん、今日は星の島に着いたから」

 

 ウォータセブンから東に下ったところにある、高級リゾートを有する島の名がほろりと出、デイハルドは疑問符を浮かべる。

 「ああ、なるほど。ジョワイヨの手引きか」

 「…うん、そのとおり。さすがだね」

 「ふふん、甘いな。お前の陰が匂う場所は調べ尽くすに決まっているだろう」

 

 ジョワイヨは裏の市場ではその名を知らぬものは無いと言われている。暗がりに眼光だけを浮かび上がらせる、うつろな存在感の人物だ。

 今でこそ名が知られるようになったが、20年ほど前から勢力を伸ばし始めた彼、に興味本位で関わった全てには"呪い"と言わんばかりの不幸が襲ったという。

 それは真実ではないかもしれない。

 近づく者を牽制するためにわざわざ流した噂、である可能性も高い、そうデイハルドは考え一応調べさせてみたのだ。

 しかし真実は流れている噂以上に得体の知れない不可思議であった。付近の闇は濃く、安易に触れれば死が這い寄るとまでわざわざ流されている事自体が良心と言っても良かった。

 

 「僕としては、彼との関係が知りたいな」

 アンはデイハルドが何を考えているのかが思い当たり、ころころと笑う。

 「足長おじさん」

 それ以外の何者でもないよ。

 優しげな声がデイハルドの耳朶近くで囁かれた。背筋がぞくりとするような声音にも聞こえ、飲んでしまった息をゆっくりと吐き出す。

 

 「それで?」

 デイハルドは月光が差し込む部屋の椅子に座り、重厚な執務机に腰を下ろしたアンに続きを問うた。

 足長おじさんの続きでは無い。

 急ぎの手紙に書かれていた用件は、黒の獣の行方に関してだった。

 結論は既に出ているはずだ。だが迷いがある。聞いて欲しいことがある。

 そうでなければわざわざ、コングを待っていたらしい席からこちらへ来る訳が無い。

 

 「もしかして、ばれてる、とか」

 「ふん、侮るな。同じ聖地内だからな。通達も早い」

 アンを抱きしめる前に机に置いた紙へ視線をすいとやれば、意味を察して文字を追う。

 月光が反射する青白に溜息を落とし、実は、と口を開いた内容はデイハルドが予想していた範囲内だった。

 だがそれでは老人達に隙間を突かれ、その前にコングにしてやられるだろう。

 「だからディ。お願いがあるの」

 やはりそう来るか。

 くつくつと喉を震わせてデイハルドが笑う。

 「僕を窓口にするつもりだろう」

 「何が楽しくて、覇者気取りの世界政府に下らなきゃいけないのか教えてほしいくらい。どうせ血を浴びるなら、ディや家族のためがいいもん」

 それに、と続く言葉は信頼されている証となるものだった。

 「そこまで言われては、断れないじゃないか」

 純情を弄ぶ小悪魔のような笑みに呆れつつも、デイハルドは了承する。

 

 「あのね、あと…」

 「わかった。夕餉(ゆうげ)を用意させておく」

 風呂も必要ならばつけるが、と言われれば嬉しそうにこくりと頷き机から降りた。この家の風呂はどうやって引き上げているのか不明なのだが源泉かけ流しなのだ。

 嬉しげにスキップを踏むその背をデイハルドは見送る。行動だけで判断するとどちらが年下なのか分からない。

 だがデイハルドは空を自在に飛び回るアンの姿が好きだった。その姿は太陽に匹敵するほどにまぶしいものだ。自分には無いものを持ち、叶える力を手の中に有しているからだろう。

 それに首輪を嵌め、飼うという、自分にしか出来ない優越感を思いながら、椅子へ深く背を預ける。

 

 「行ってきます」

 「ああ、待っている」

 その言葉を言い終わらないうちに、目の前にあった姿は闇の中に溶けた。

 

 

 

 視線を上げた先にあったもの、それは月だった。

 世界の中心に建つとある美麗な城のとある白を基調とした部屋の中には5人の人物が座し、突然現れた人物にも驚きの声を上げない。まるで現れると、知っていたかのようだ。

 「ご機嫌様でございます」

 煌びやかとは言えないが、清楚なワンピースの両裾を広げ、すい、と影が会釈する。

 幾つかのランプが暖色を拡げているが、大部分を支配しているのは白の静寂と、それぞれの所定位置に存在する人物達だった。

 部屋を見回す事が出来るならば、品の良い、この聖地でなければ見ることが出来ないような調度品が置かれているのを知るだろう。

 だが青海に住む人々は、空に近いこの地へ至る事は無い。この部屋へ通される人物達の目からすれば、それらは見慣れた品でしか無かった。

 

 いつもならば既に、この部屋は閉ざされ無人になっているはずの時間だ。

 「どうやらお待たせしてしまったようで」

 影が一歩前に進む。月光がその姿をゆっくりと明らかに照らし出した。

 黒の目、髪はこの世界で珍しい色では無い。だが老人のひとりはその色を気に入っていた。意志の強い目の奥に揺らめき潜む、狂気がたまらなく興味深い。

 

 「返答を持ってきた、という認識で構わんな」

 口元に浮かべるのは微笑、沈黙は肯定の証だ。

 「ならば聞かせて貰おうか」

 

 老人達にしては性急な物言いだと思いつつも、アンは声帯を震わせ言葉を放つ。

 「ポートガス・D・エース並びにアンは、世界政府の要請を拒否します」

 王下七武海への要請に対し、エースは速攻でいらねェ、と一蹴した。

 分かっていた答えだが、一応、聞いてみたのだ。自分に対し正直に、悔いの無いように生きる事がエースの生き様だ。所属する事で旨みがあると懇切丁寧に説明されたとしても、わざわざ世界政府に首根っこを押さえつけられる選択を選ぶ訳が無い。しかもすでに、似たようなことはアンになされているのだ。

 

 「…だろうな」

 拒絶されると予想していたひとりが薄く笑みながら、鋭い眼光を幼い顔立ちを残す女へ向ける。ただそれだけを言う為だけに、ここへ来たわけではないだろうからだ。

 「何を欲しているのかね」

 交渉の席において己の希望や主張を先に述べれば、応対する側につけいる隙を与える。

 沈黙は叶える側に譲歩させる手段のひとつだ。

 老人たちはそれを十分に理解した上で、会話を進めるためにあえて先を促した。

 「なにも」

 月光の中で瞳を閉じていた女が眼をしっかりと開き、老人達を見る。

 「ではわざわざここまで来た理由を聞こうか」

 火拳がこの要請に応えることはまず無いだろうと話しあっていた。なにせモンキー・D・ガープの血縁なのだ。そうそう簡単に、ひよっことはいえ折れぬだろう。

 だが元々海兵だった身である女にとってみれば、政府の管理下に入るとはいえ、悪い話では無いはずだ。

 七武海の要請に応えれば己の身にかかった懸賞金を破棄出来る上、政府公認の私掠も可能だ。青海に海賊として在りながらも、政府側として立てる。海兵としての知名度も高く、今まで築いてきた経歴や経験などを損なわずに使うことも可能だった。

 「わたしは、世界の成り立ちを知っています。けれど今の世界をどうこうしようという気はありません」

 その語りは静かだった。

 「実際のところ革命軍のように世界政府が絶対的に間違っているとも思っていないのです。それよりも、よくもまあ、ここまでゆがんだこの世界の均衡を保っていられるなあ、とあなた方に脱帽し感心するばかりです」

 

 ポートガス・D・アン。

 Dの名を持つ者が今の世界を肯定するとは。

 いくつもの双眸が喜色を浮かべる。その中のひとつ、眼鏡をかけた老人の眼光が鋭くアンを射抜く。

 

 「懸賞金もそのままで構いません。七武海をお断りしたのは、面倒だからです」

 あっけらかんとした物言いに、とある老人の眉が上がる。

 決められた座席は7つ、誰かを退かしその席に着くのは遠慮したい。

 「ですがわたしにしか出来ない、任せたいとある事情、がある事も知っています」

 だから世界政府がアンに受け持たせたい仕事を受けても構わない、と明言した。

 

 「その代償はなにかな、お嬢さん」

 「特には望まないのだけれど。お願いした方がいいならば、何かを考えます」

 老人のひとりが声を上げて笑う。

 「興をそそるもの言いだ」

 Dの血族が中枢に抱かれる事を良しとするなど、今までであればあり得なかった。必ず反発するものであったからだ。今までは、否、今でも、だ。内にあるからと言って安心させてはくれない存在なのがDの血族なのである。今では無いいつか、必ず対合いする側に陣取り、危険因子となる道こそが運命であると言わんばかりに牙を剥く。それがDの血族である。

 「御依頼の際は是非、デイハルド聖を介して頂けるならば」

 

 柔らかな口調で語られる口元の笑みは変わらず湛えられている。

 それは交渉でも勧誘や籠絡の類ではなかった。

 ただ、この場にいる誰もが知る事実に基づいて、相手側が望む願いを叶えても構わない。けれどもそれに付随する利権や優遇、対価すら要らないと言いきっている。

 要は鎖を掛けさせないつもりなのだ。

 五老星が握る手綱の先には虚空のみが在する。実を持つのは、この力を振るう際に必要となるのは、若き世界貴族のひとりであるデイハルド聖と示していた。

 名が挙がった少年は、確かに現、19ある天竜人の頂点に座している。

 それを動かすには体面的にではあるが、五老星であろうとも世界政府としては、膝を折って願い伏せなければならなかった。脅して言う事を聞かせる、などはご法度という訳だ。きちんと理由と目的を説明し、デイハルド聖が諾と言わなければ、ポートガス・D・アンは動かない。

 

 良く考えたものだと、老人のひとりが立ちあがる。

 「小賢しいのう」

 こつこつと杖で床を叩き、ほうほうと笑んだ。

 「褒め言葉として頂きます」

 アンは芝居がかった動きで、ワンピースの裾を上げ礼をとる。

 「返答は急ぎません。ごゆるりと再思三考、下さいませ」

 それでは今宵はこの辺りで。

 現れた時と同じく、会釈をした影はあっという間に姿をかき消した。立っていたであろう場所には、その人物が居た証はない。月光が映しだした虚ろいのような、不確かな言葉だけが老人たちへ残される。

 

 「さてさて、どう料理しましょうかなぁ」

 光が届かぬ闇の中で楽しげな声音が、響く。

 

 

 

 「あのね、デイハルド」

 「なんだ」

 「……婚約者さんに悪いとおもうんだ、やっぱり」

 

 ぺったんこの体をどれだけ見られようが、減るものもないのだが。彼の所有物にされているアンであるが、やはりひくべき一線はあるとおもうのだ。

 そろそろデイハルドもお年頃である。そのデイハルドが来るべき場所ではない、とおもうわけで。

 困った顔をしつつアンは浴槽の淵に座すその人を見た。

 

 夕餉だと用意されていた食事で腹を満たし、献上品だと、いくら要らないと伝えてあったとしても寄こされて増えたという奴隷たちの紹介を受け、そして湯浴みにと案内された場所で香りを落とした湯に浸かっていた所に現れた人物を見上げる。服を着ていることだけが救いというべきか。

 

 「ここは僕の邸宅だ。僕を阻む者など誰もいない。そんなの当たり前だろう」

 おろおろとするアンに、にんまりと両端を釣り上げた口元が告げる。

 「そんな寸胴の胸無しに欲情するほど飢えていない、安心しろ」

 それとも相手をしてほしいのか? とささやくようにつぶやけば、アンの肌がみるみると赤く染まった。冗談だ、といえば頬を膨らませ湯をかけてきたが、そんなたわいの無いやりとりこそが心の潤いを生んだ。「他の場所では老獪(ろうかい)どもが放っている耳がうろちょろとしているんだ。おちおち秘密の内緒話もできない」

 だがここは違う。出口はひとつ、反響する音がある。そう言いながらデイハルドは、そっぽを向きながらもちらりとこちらを見やるアンにさて、何から話そうかと笑んだ。

 

 湯のぼせする前に上がりたいデス。上目遣いで訴える狗に、さあどうだろうな、飲み物は用意しているから大丈夫だろう。そう答えながらデイハルドは杯を手に取った。

 

 以後、色気の無い叫びが何度が湯殿で木霊することになる。

 茹った所有物を主人が楽しそうにバスタオルに包んで出てきたのはどれほどだったのか。ランが時計で確認したのは2時間までだ。

 主人の悪戯も最近は堂に入ってきている。その毒牙にかかることが多い友人にランは同情しながらも、数日間はご機嫌な状態が続く主人を得るための献身に感謝するのであった。

 




大変長らくお待たせいたしておりマス。誤字脱字は明日以降に。


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59-水の都

 東の海を出て3カ月と6日目の朝、アンはどうしたものかと海原を走る家と並行しつつ、刻み付けられたいくつもの大きな傷にため息をついた。新造では無かったがかなり頑丈に作られていて、譲ってもらえた時はエースとともに飛んで喜んだ船だ。とはいえ無茶な航海と航路を突き進みすぎたせいで、各所に傷を負っている。船大工の知識をあまり持っていないアンとしては、ここらで専門家の意見を聞いてみたいところではあった。ゆえに舵の行き先は水の都となっている。以前の船で補修の仕事を手伝っていたという手先の器用な乗組員(クルー)が居てくれたおかげで、エースが悪魔の実よりもたらされる力の向上の為、幾度となく燃やしかけた跡を残しながらもここまで辿り着くことが出来た。

 新世界までの行程はあと残すところ、シャボンディ諸島でコーティングをし、魚人島を経由、アラナダ海中流に乗ってニューポートミューズに向かうだけとなる。

 魚人島への道筋は一応、ジンベエに聞いていており、その通りに進めば海底一万メートルまで下ることが出来るはずだ。海中に潜るのは初めての経験だから、はっきり言って何が待ち構えているか分からない。アン単体であれば赤い土の大陸をまたいで行ったり来たりするほうが簡単であったため、実際に海の底に潜るのはこれが本当の初体験なのである。

 ただそこまで辿り着くことが出来れば、前半の海よりも多彩な気候が混ざり合う楽しいたのしい新世界を縦横無人に渡れる船が待っている。

 そう、トムが約束を守りふたりのためだけに作られ産声を上げた船が今か今かと到着を待ちわびているのだ。

 

 …トムさんに迎えに来て貰うのは最終手段、か。

 迷わずに行けるかどうか、かなり危うい予感がひしひしとするのだ。海の中にも海流があり、普通に路が見えるというがそれはジンベエが魚人だからではないかと実は疑っていた。人間に泡の流れで潮を感知しろなど、かなり高度な技術すぎるのではないだろうかとおもうのだ。

 アンはそっと息をつく。確かな筋からスパンダムが、おのれはトムのストーカーかと叫びたくなるほどの執着を見せ、かなりしつこく、いまだにトムの行方を探していると人伝に聞いていたからだ。意中の人物が在住する島は新世界の中にあって、特に岩礁が多い地域に位置している。小型船が近づけば海獣により駆逐され、大きな船で近付こうものなら、海王類の餌食になる、そんな場所にあった。しかもあと数時間で到着する水の都さながら、トムを中心に船大工を輩出する拠点となっており、棟梁を守る布陣は強固だった。だからただのCPのメンバーが例え出向いたとしても簡単には辿りつけないし、仮に島に入りこめたとしても島の住民全員が顔見知りであるため四方八方から尋問が行われるのは目に見えている。そしてさらに世界政府関係者だと知れれば、手足があちこちから出てめっためたにされると断言できる。とはいえその絶対的な防御態勢も、あの島にいてもらってこその効果だ。

 この船にはひとりだけ魚人が船員として乗っているがしかし、彼はちょっとした方向音痴なのだ。海中限定で。船を目視できる距離であれば戻ってくることができるが、そうでなければすぐに行方不明になってしまう。彼には道案内を頼めない。

 誰か案内人をかって出てくれるやさしい誰かが現れてくれないだろうかと切に願うばかりだ。

 

 と、それよりも前にウォーターセブンから魚人島へ向かうには、楽園最後の難関と言われている魔の三角地帯を通り抜けなければならなかった。

 今月は20隻、既に行方不明になっているという。

 誰の仕業であるのか、考えればすぐに解る。

 そう、王下七武海のひとりであるゲッコー・モリアだ。以前、義祖父とセンゴクになんとか頼みこんで1日だけ休暇を得た際に、彼の本拠地へくまに連れて行って貰ったことがある。

 その際。悪魔の実の力でゾンビ化されていた、彼の手下は基本的に塩に弱いと解り、海水を彼の居城にぶちまけてやったのは、今は良い思い出となっている。

 だがアンが海軍から去り、気が緩んでいるのだろう。

 あの時は海水を掴んでくまに飛ばして貰う手法をとったが、今は海水をそのまま城内に転移させる事も出来る。

 「そろそろ再びのお仕置きの時間かな」

 封じられた魂が青の空に登っていく様は、壮観だった。

 1年前は海兵だけの解放だったが、今はもう、アンを縛る軍機はない。

 甲板に戻り仄暗い何かを立ち上らせるアンに、エースはほどほどにと伸びた黒をぽんぽんと撫でた。

 

 そんなこんなで水の都である。

 町の頂きに噴水を有する造船の町、ウォーターセブンの全容を眺めた乗組員たちの息も荒くなっていた。この町の名は海列車が走り、政府からの受注による恩恵が産業都市として再び名を轟かせるまでになっている。

 5年前から始まった、シフト駅での悪い意味で名物となっているヨコヅナの体当たりを阻止し、駅員をしているココロと数日後に会う約束を取り交わした船は1と2番ドッグの間にある岬へと錨を下げた。

 町の真正面、正面玄関には海列車の駅がある。その左右に、それぞれのドックに入る水門があるのだが、海賊旗を掲げた船が堂々と入る訳にはいかなかった。なぜならここには数年前から小規模ではあるが、海兵が駐留しているからだ。

 あまり知られてはいないが、ここウォータセブンは特例的に世界政府へ加盟する国々の中に名を連ねている。海軍が使う戦艦の製造を一手に引き受けているこの町は戦略上重要拠点として、赤い土の大陸(レッドライン)を中心線に黄色、青といったふうに、円形に区切られた中の赤点(レッドポイント)として守られているのだ。

 

 この世界の船は木造が基本である。

 しかも赤い土の大陸を除けば、残る世界のほぼ全てが海という立地である為、船という足がいかに必要不可欠であるかは語る必要すらないだろう。

 

 蒸気船もあるにはあるが、統一した規格が未だに無いため作り手も困ってしまうのだろう、あまり作られてはいない。

 時々、物好きが造船所に頼みこんで作らせるくらいだろうか。木造船は基本、竜骨という家で言う大黒柱を組んでから周囲を形作った。太さや木材の曲(くせ)や重さなど職人が長年培ってきた経験則の中で荷重のバランスを取りながら建造する。

 しかし鉄の船は全てをゼロから作る事が可能だ。しかし世界に統一した規格が存在しない為、それぞれの鉄工所が作った素材を組み合わせて作るしかない。

 結果、戦艦などの湾曲を描く船を作った場合、大砲を撃てば反動を受け止めきれずその反対側の海へそのままひっくり返るという笑い話ができあがってしまうのだ。

 木造艦だが実際に進水式で祝砲を撃ち、沈没してしまったスウェーデン籍軍艦"ワサ"がある。二層式ガレオンで、1200総トン、砲60門を積んだ肝入りの船だったが、あっけなく横ばいに沈んでしまった。

 

 「さて、わたしは見積もりして貰う為にガレーラに行ってくるね」

 半舷上陸の人員を決め、先発組の中に紛れ込んだアンはさくらを抱いて船舷に乗る。

 この町の情報は既に、良く知るアンから副船長であるツヴァイに伝えられていた。

 どこに市場があるのか、水路が縦横無尽に流れる都市の移動方法、そしてエースの腹をたっぷりと満たしてなおかつお値打ちな飯場などなどだ。

 後援を受けているとある場所からの定期収入を受け取るための窓口も、ツヴァイは知っている。

 

 身バレしないようにと男装したアンは、ひとつにまとめた髪をキャスケットの中に隠していた。いつもとは違う服装に、エースだけでは無く、船に乗る誰もが違和感を感じていたが、あえて誰も口に出さない。

 似合ってはいるものの、わざわざそんな恰好をする必要があるのか、と思う訳だ。

 アン曰く、今日は探偵ホームズ風、とのこと。なにがどう探偵ホームズなるものなのか乗組員達は全く解らなかったが、本人がご満悦なのだから良いのだろう。

 この船にはどんな力をもねじ伏せる両雄がいる。

 賞金稼ぎが群れをなしてやってきたとしても、例え海軍が大砲を持ち出して至近距離で打ち出したとしても、ふたりは傷ひとつ負わないだろう。

 

 そしてその変装の被害者となったのはさくらだ。

 幼さも手伝って性別を区別するのが難しくはあるのは確かだった。

 しかし今日は髪をツインテールに、赤と白のチェックリボンでまとめられ、フリルチェニックにふわふわのラッフルスカートを穿かされている。どこからどう見ても、今日のさくらは女の子にしか見えない。

 アンをひとりで行かせる事にエースは眉を寄せる。何か事を起こしそうな嫌な予感がしたのだ。こういう時の予感は、大抵、あたる。

 「おれも行く」

 「…諦めてください、船長。造船所は火気厳禁なんです」

 「だけどっ」

 それに金銭の受けとりもありますし、船長が居て下さらないと。

 ツヴァイにダメ押しをされ、エースは渋々買い出しについて行く事になった。

 「本っ当に大丈夫なんだろうな」

 「うん、何かあったらすぐに知らせるから大丈夫だよ」

 にこにこと笑顔を浮かべるアンに、どうしても納得がいかないエースが何度も念を押す。

 

 アンはブル乗り場に向かう仲間達の背を見送ると、船に残るメンバーに後を頼み、姿を消す。次の瞬間、像を結んだ場所は造船島、中心街にあるガレーラカンパニー本社の一室だった。

 「こんにちは、アイスさん。お邪魔します」

 突然降って沸いたような出現に、その部屋に居た人物達は揃って動きを止める。

 さくらを床に下ろし、部屋を見れば世界政府の標を胸に縫い付けた人物があんぐりとこちらを見て口を開いていた。

 「ああ、たしか…ダックス」と、お付きのAとB。

 「ゴーギーだっ」

 

 そうそう、確かそういう名前だったとアンは手のひらをぽんと打つ。

 「ンマー、いつも通り突然だな」

 にこやかに照れたように笑うアンの横手より、くぐもった咳払いが発せられる。

 お前は一体誰だ、と無言の問責を視線だけで示唆していた。もしも世界政府役人である自分よりも劣る身分であるならばどうなるかわかっているのだろうな。

 そんな意味も含まれていた。

 

 コーギーはきっと、海兵の姿をしたアンであればそそくさと直ぐに退席しただろう。

 なぜなら聖地でも何度かすれ違った事があり、一般的に見知られている姿はそちらの方が断然多いからだ。

 ここで名乗るのは容易いが、後々、説明するのが面倒なのでやめることにした。今現在、どういい訳をしようが、アンが乗っている船は紛れもなく海賊船に分類される。世界政府の役人とは穏便に事を荒立てないほうが良いと判断した。

 あの夜、老人たちからの誘いを蹴り束縛を否定した後、彼らが下した結論をアンは知らない。次の月が満ちた日に、デイハルドから何かしらの言葉は聞けるだろうが、言質を得るまでは楽天的に考えないでいた方が賢明だろう。

 

 と、なれば。

 「アイスさん、今度、このダックスさんから小言聞いてあげてね」

 アンは世界政府の役人3名が座るソファーの後ろ側に周り、その背をリズミカルにとん、とん、とん、と触れる。

 その瞬間、そこに居たはずの姿が順番に消えてしまった。

 「……」

 ぱんぱんと手を叩き、

 「タネも仕掛けもありません!」

 「あっても教えてはくれんだろう、アン」

 説明する気が皆無である友人に、アイスバーグは片眉を寄せた。

 

 そうでもないんだよ。

 アイスバーグは久々に姿を見せた友人に苦笑を洩らす。

 「ンマー、息災でなによりだ」

 「アイスさんこそ」

 アンは小さなレディ、さくらを紹介しつつ単刀直入に用件を申し入れる。

 「それは構わないが、焼け残りの跡がどれほどかによるな」

 

 船の状況を一度見てみない事には判断は出来ないと言う。

 魚人島を通り、向こう側に居る師匠の元まで船を渡らせる。アイスバーグにとってみれば、自分の手仕事を向こう岸にいるトムに見てもらう絶好の機会でもあった。

 それを知ってか知らずか。

 ここウォータセブンは世界政府からも受注する世界有数の造船所だ。同時に修理も、たとえ誰であろうとも船の保持者から依頼されたなら職人として受ける。だがアンは毎年のごとく生まれてくる、世間を賑わせる今年度の新人の船に乗っていた。彼女は海賊ではないとなんどもむくれていたが、世間では政府の旗を掲げてない限りその他すべてを海賊と称している。

 世界政府からの追求はいまだに続いている。彼女に手を貸せば、相手に良い名目も与えてしまうが致し方ない。友からの依頼は、損得関係なしに受けると決めていたからだ。

 元海兵とはいえ本社に直接、しかも市長となったかなり多忙なアイスバーグに今、持ちこんで来れる剛毅さと強運に、声を大にして笑いたくなってくる。ちょうどぽっかりと市長としての仕事が捌けたところだったのだ。

 

久しぶりの会話は弾む。

しかも話を重ねるほどに、海軍で在席していた時よりもゆったりと落ち着いているような気がした。ちまたには海賊と名乗るものがあふれる世の中だ。海軍が人々に求められているという証でもあるのだろうが、世知辛くおもえる。

 

 ある程度の近況を話し終えれば、実は、と船長である双子のエースも後ほど挨拶に来たがっているのだという。ただメラメラの実の能力者であるため、交渉の席は遠慮させてもらったこと。船長という責任ある立場となっているが、基本的に年頃の青少年である。船の工場である工廠に立ち入れば興奮して何かを燃やす可能性もあるのだがお邪魔しても良いだろうか、など事前相談でもあった。

 アイスバーグの答えは「構わない、」だった。

 造船所という場所にめちゃくちゃ興味があるらしく、(これは紛れもなくサボの影響だろうとアンは確信している)エースが聞けば喜ぶと言いながら、

 「ある程度のお金もちゃんと用意してるの」

 「生意気だぞ。お前から金を取ってみろ。後が怖い」

 「うわー、なにそれちょっとひどい」

 頬を膨らませるアンにアイスバーグは、ここ数年の出来事を語って聞かせる。若手だが"行程職"に腕が確かな青年が入った、とかフランキーが戻って来ている、などを簡潔に教えた。その若手に船の具合を見て来て貰うと電伝虫を手にすれば、ドアがノックされ、ひとりの女性が入ってくる。

 「そろそろ終了のお時間だと…あら、アン。お久しぶりね」

 瞬間、アンは返答に窮した。

 そこはやっぱり初対面を取り繕うのがお仕事なのではなかろうかと突っ込みそうになったのは秘密である。

 「うん、お久しぶり」

  アンの横を通りすぎ、アイスバーグの秘書であるカリファが何枚かの書類を机の上に置いた。

 それはこの水の都、ウォータセブンの市長としての仕事内容に関わるものだ。

 アンには分からない内容を、ふたりが幾度か取り交わし紙上にサインを描く。

 ふとアイスバーグが知人であるらしいカリファに速攻身バレしてしまい、ふてくされてソファに寝ころんでいたアンを見ると、紹介された幼子の姿がどこにも無い事に気づいた。

 「あ、うん、さくらは大丈夫」

 ちょっとそこらへん、散歩してるんじゃないかな。

 初めて訪れる町で気軽に散歩出来るものではないが、船のみんなも買い出しでここら辺にまで上がってきているはずだから、姿を見かけたら合流するだろう。そう言われてしまえば、それ以上の追及は出来ない。

 「では査定の件は伝えておきます」

 「ンマー、いい。今からドックに行くから直接伝えよう」

 お前も来るか、と言われアンは頷き起きあがる。

 

 久しぶりと心の中で思いながら、口にする言葉は初めまして、だった。なにを目的としてここにきているのか、アイスバーグにばれてもよいのだろうかと。機密保持などくそったれだとおもわしき状況に口元がやや引きつり気味なのは勘弁してほしい。

 黒の瞳の中に映るその男は、ただ無表情に自分を見下ろしている。

 世界屈指の造船技術者の元には、日々弟子入りを求めるもの達が門戸を叩いていた。

 アンが見上げている男もそのひとりで、まだ2年と年数は浅いものの、手にした技術は職長が太鼓判を押す程だと言う。

 「カクが戻ってくるまで暫くお待ちください」

 ところでアイスバーグさん、これからの予定ですが。

 カリファがアイスバーグの、市長として、ガレーラの社長としての予定を羅列しながら、時間の調整を取ってゆく様子を横眼で見つつ、飛び出して行ったカクが向かった先に視線を投げる。

 岩場の岬では、留守番をしている仲間達が思い思いの場所でゆったりと過ごしているはずだ。カクであれば往復で30分ほどだろう。査定にかかる時間を10分と見繕っても、往復時間が20分もあれば彼には軽い。

 

 「やあ、ルッチ。似合ってるじゃない」

 「………」

 ここでも無口な男として通っているらしく、会話を担当するのはもっぱらハットリだ。

 「お前が除隊したと聞いた時は、驚いた」

 静かな声が降ってくる。

 「まあいろいろと。あるんだよ」

 ジャブラが血相を変えて、ブルーノのところに掛け込んで来てな。

 アンは淡々と話すルッチにくすくすと笑む。

 狼男の彼とも数度、仕事を一緒にした事があった。良くも悪くも熱い男で、人を煽るのを得意としている。だが思いがけないところで優しかったり、状況把握に優れもしもの時の状況判断も悪くなかった。

 木槌が打ち鳴らされ、かんなが木を削る音に瞼を下ろしてふたつ目の音を拾う。

 周囲にはこの会話は聞こえてはいない。言葉の中に語彙を挟み、二重の音を発しているのだ。初めてこの技術を聞いた時にはさっぱり意味不明だったのだが、おつるの元に居た時、1年間必死に聞き取りと舌の動かし方を練習した。

 「…聞いたのか」

 「ん、ああ、まだ。次に月が満ちた時に聞けるのかな」

 朗報が。

 ルッチを見上げ、アンは笑む。

 その唇に、そっと己がモノを落とし、ルッチは口角を上げる。

 「楽しみにしているといい」と。

 

 

 岬に泊められていた船は職人の言によりなんとか修理可能とされ、ドックへ移動することとなった。

 残っていた船員たちに訪れたカク、という人物から空いている2番へ入るように言伝(ことづて)を受けたのだ。出かけている船長が戻った際に動かして貰えればいいとも、添えられている。

 船の作りにはあまり詳しくない船員に、分かりやすいようカクは説明した。

 そのおかげでなんとか、幾つかの文言は漏れているだろうが、伝える役目を果たせそうなくらいの理解力はつける事が出来ている。

 

 「おーい、おっさんがいねぇから簡単な昼飯だけど、達者なヤツが作ってくれたぞ。見張り替わるから食べて来いよ」

 

 それはありがたい。

 見張り台に立っていた男がするするとロープを伝って下りてくる。

 甲板や船首、船尾に立っていた男達も腹減ったぁ、と船室へと入っていった。

 入れ替わりに出てきた男達は4手に分かれて、見張りにつく。

 

 海風が陸に吹き上げる。

 町の頂きにある噴水の影響か、この島は珍しく島から海へと流れる風の方が強かった。

 安定した気候である事も要因なのだろうが、船員達は珍しい風に、さすが偉大なる航路と妙に納得した。

 エースが船長を務める、このスペード団に属する者達は偉大なる航路(グランドライン)の様々な場所で乗り込んだ烏合の衆だった。寄せ集めだからと言って、統率が取れていない訳ではない。数多ある海賊船と比べるべくもなく、船長の事を大切に思いその盾となる事も厭わない、それが全員に共通する意志と決意だ。

 おれがこんな檻から連れ出してやると連れ出された者、恐怖で縛られていた船から連れて行って欲しいと懇願した者、気付けばここにいたという者もいる。

 この船の中には、束縛が無い。

 航海に必要な、それぞれの役目は確かにあったが、れ以外、強制されるなにかは存在していなかった。

 個人の自由が認められているのだ。

 かつてここの船では無い場所で生活したことがある者は、下っ端が個室に3名集っただけで、その者らは殺されてしまうと言った。それは船内で何事かを謀っている、そう船長や幹部達に判断されるからなのだそうだ。

 しかしこの船では少なくとも、エースはすべての船員へ信用している、そう言葉していた。

 「信じなきゃ、同じ船に乗れねぇだろ。なんかおれ、間違ってること言ってるか」

 ここは海賊である意味を、噛みしめる事が出来る場所だった。

 他の船に乗った事のある誰もが雲泥の差を感じるほどに、船長は自由を理解し、日々の中で己に課した義務を果たしていた。

 時に突拍子もない行動を起こし、突っ込みを入れられているのも愛嬌だ。

 船長の求めるなにかに随行する。

 いつしかそれぞれの目的の中に、自然と船長ありきが浸透していた。

 

 そしてもうひとり、忘れてはならないのは船長の双生である存在だろう。

 この人物も癖の強い、船員達をはらはらとさせるトラブルメーカーである。

 

 そんなうららかな昼下がり。

 ただいまー。といつも通りほのぼのとした調子で船に帰ってきたアンの声に、船員達がいつものようにおかえりなさい、と返した直後、幾人が衣類を血まみれにしていたその姿に驚きの声を上げた。

 着ていたブラウスにはべったりと、朱が色づき、滲んでいる。

 「何があったんですか!」

 「喧嘩を売った奴らは無事ですかい」

 「心配すんのは相手かよ」

 

 そんなやり取りをしつつ、ほほ笑みを崩さないアンに、わらわらと集まってくる。

 アンと敵対して、無事に帰還出来る存在は片手で足りるほどしかいないであろうことは共に過ごしてきた日々で理解していた。

 船に残っていた者達が手のひらを負傷し、気絶したさくらを連れ帰ったアンの元へ集う。小さな体を受け取った船員がどこかに怪我が無いかと、衣類を脱がし始めるのを止める間も無く絶叫が放たれた。

 「ちょ、さくら女…?! 男、だよな。でもなんであるんだ」

 「こいつマジか」

 「初めて見た……」

 

 アンも初めて見た時は吃驚した。話には聞いたことがあったが、よもや遭遇するとは思いもしなかったというのが本音である。

 世界が違っても種としてはウン万という個体数を誇る人が居るならば、ひとりやふたり、存在していたとしても不思議は無いがこちらの世界では天文学的数字を叩き出すに違いない。

 そう、さくらは両性具有体だった。

 最近は色を売る島に寄っていなかったのが原因か。ふっくらと膨らみ始めた胸を、男達が頬を染めて見ている。

 

 

 「はいはい、そこ、さくらをガン見しない。どこでもいいから血が付いた服を着替えさせて寝かせてあげて」

 指示を出すアンの声に、生返事を返した船員が視線を泳がしながら船内へと入ってゆく。

 「あんたは動かない」

 「はい」

 がっしりと手首を握りしめられ、アンは身を固くする。

 留まっていた船医が知らせを受けて慌てて飛び出して来、大丈夫だと言い張るその手を見れば、深い切り傷が数本、骨には達していないが出血を続けるそれに、処置を行い始める。

 「船長が見たらこの船を燃やしかねないですぜ」

 折角修理して貰えるというのに。

 「大丈夫だよ。たぶん」

 にへらとこの人が笑む時ほど、大丈夫という言葉があてにならないと誰もが経験していた。

 傷が癒着しやすいように手のひらをボールを受け止める形に固定させ、船医はぐるぐるときつめに包帯を巻く。

 「絶対に激しい運動は禁止です。いいですね」

 「善処します」

 

 いくらダメと言われた所で、約束できない事柄には頷くことが出来ない。

 だから善処、に留める。

 エースには既に、怪我を負った瞬間に、アンの身に何が起きたのか理解したはずだ。

 そして町中で発火しそうになっている。こういう時、繋がっている不便さを感じる事がままあった。

 普通に生活している分には別にばれて困るような事柄は無いが、理由ある悪だくみをしている時はほんの少しだけ面倒だとは思う。けれど繋がっているこの感覚が消失したらしたで世界が終ってしまうかのような喪失感に見舞われるのだろう。

 

 エースに内緒で進めていたとある計画に関しても、問い詰められるのは必死だ。

 ツヴァイが必死にエースをなだめている様子が手に取るように伝わってくる。

 離れていても会話可能であるのに何も言ってこないのは、面と向かって喧嘩する気満々なのだ。たまには力の限りぶつかるのも悪くは無い。

 

 血が付いていた服を脱ぎ、怪我をした掌に気を付けながら水で体を洗い流した後、いつものゆったりとした衣服に着替えてから甲板に出た。

 空は青く、太陽が輝く空には雲ひとつない。航海中であれば、数日前のようにうとうととまどろんでいたい陽気だ。

 

 アンは仲間にカクからの伝言を聞きながら、エースとの対話をどうしようかなぁ、とまるで他人事のように青を見上げた。

 



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60-蒼穹の白(1)

 喧騒が溢れていた。客室はそうでもない。が、しかしその店の厨房は開店以来もっとも過酷な一日だとのちに記されること間違いなし、であった。客が望む料理を作りだす奥の様相はまさしく戦場といってしまってもいい。注文された料理数が半端では無く、しかもいかつい顔つきをした男や女が行儀よくテーブルと椅子に分かれ、次々と出される料理を胃に収めているのだ。作っても作ってもキリが無い。しかもその男達に混じって、女性と子供が和気あいあいとした様子で座っているのも不思議な光景だと、料理を運ぶウエイターと化した見習いシェフたちは思う。

 「お待たせいたしました、ピラフ大盛りはどちら様で!」

 「おーいオヤジ、こっちだ。ついでにこのロブスターの辛いヤツ、もう一皿持って来てくれ」

 酒が尽きた。樽ごとたのむ。

 注文がひっきりなしに飛び交い、店内は大わらわだ。

 

 盛大な喧嘩という名の局地災害が廃船島で起きた翌日、岬を中心に鳴り響いた爆音について様々な憶測が飛ぶ街中、スペード団の面々はお行儀よく集団で昼食をとっていた。

 ドックに入れた船を見に来たアイスバーグ曰く、

 「ンマー、5日もあれば出来るだろう。それまでのんびりしておいてくれ」とのこと。

 損傷個所は手直しがきく場所ばかりで本当は2、3日の、工程らしいのだが、特別にいろいろと改造してくれるのだという。

 

 「伝手というより、人脈ですね」

 20名を超える仲間たちが入れば、小さな飯屋は慌ただしくごった返してしまった。しかも普段、似非海賊、海賊もどきとして海を駆け抜けている荒くれ者達だ。食べる量も半端ではない。なので先に、これくらいになるだろうという金額を渡し、もしも食材を買い出しに行かねばならない場合をも見据えて、金銭を渡してある。その金額はこの店を仕切る女将が見たこともない額だったことは間違いない。とはいえありとあらゆる食材を食べきってしまう可能性もある。迷惑料込での値段であれば安いとアンは言い切れた。

 一皿目が出てからおよそ70分後。陣取った客たちは至福の表情で腹をさすり、また奥の厨房では燃え尽きた料理人たちが積みあがった皿を、疲労度が落ち着いた順に片し始めていた。

 個人行動をとるため飯屋から出る船員それぞれにに5日分の滞在費を手渡しながら、ツヴァイが息をつく。本日の金庫番はツヴァイだ。現金を大量に持ったまま、どこに居ればいいのだろうかと本気で悩む。

 しかもその大量の現金は、船の修理に消えるはずのものだった。この仕事を受けると決めたアイスバーグより、受け取り拒否されたのである。用意した金銭の殆どが手元に残る形になったのは、これからの航海を考えれば喜ばしいのだが、個人であれば豪遊しても5年は遊んで暮らせる金額を要らないと言わしめさせたアンに関して謎ばかりが深まる。例え海軍に所属し、かの英雄の孫であったとしてもここまで、友人の(よしみ)だと言われるものなのだろうか。

 「お前ら、無駄使いすんなよ」

 「船長はすぐに使い切りそうっすよね」

 主に食費で。

 笑い声と同意がいくつも上がる。

 船員の声に、本人も同意を示す。島に居た頃から、兄弟揃って食べる量が半端無いとは十分に解っていた事だ。皿を積み始めているエースがくい、と親指をアンに向ける。そしてごくりと噛んでいた食べ物を飲み込んでから、

 「それは心配いらねェ。アンが…」

 かくん。

 言葉が急に途切れる。

 フォークに突き刺したウインナーをそのままに、最後の〆にと頼んだ山盛焼き飯の皿の上へ顔が落ち……かけた。

 「まったく…」

 いつもの事だとは分かっていても、突然の失神に対し眉に皺が寄る。横に座っていたツヴァイが咄嗟に手のひらを出し、船長の顔がうずもれる前に受け止めたのだ。至る所で中腰になった面々が、ほっと一息をつきながら席に着き直した。

 至る場所で突然意識が落ちる。

 という現象はすっかりと船員におなじみのものとなっていた。

 これは特殊感染だと、アンは思っている。義祖父を初めとする、自分たちだけがかかっている病だ。何度も頑張ってみた。その瞬間を待ち構えもしてみた。しかし抵抗しようと頑張っても、意識が刈り取られてしまった。どんなに睡眠をしっかり取り、絶対に大丈夫だとしても起ってしまう奇怪な現象なのだ。

 これに関して聞くより見た方が早い。アンは新しく乗り込んでくる仲間たちに現象を見せ、助けてくれるように頼んだ。陸の上ならいい。ごはん中でも水分の中に突っ込まない限りまだ息もできる。しかしエースもアンも水中にどぼん、となれば、そのまま青の中に飲み込まれてゆくだろう。特にエースは誰のせいとは言わないが、海水に対する危険度が抜群に上がっているのだ。最近ようやく、なんとか全員に浸透してきたようで、誰も彼もが手を差し出してくれるようになったため安心していられるようになっていた。エースの方が回数は多いが、アンにも不意にやってくるからだ。アンはひそかにDの呪いだと疑っている。

 「…なんだったっけか」

 数分後、意識を取り戻したエースは寝落ちたことなどみじんも感じさせない様子でもぐもぐと再び食べ始める。これうめぇ。あまりの旨さに意識が遠のきかけた。などと言いながらだ。もちろん周囲は遠のきかけた、ではなく無くなってた、と冷静な突っ込みの視線を向けている。

 「そりゃね。買うもの殆ど無いし、エースの食費でも構わないのだけど…」

 渡される金銭は、滞在費という名の給金だ。普通の海賊船であれば衣食住を保障し、乗せてやっているのだから戦利品が手に入るまでは分け前を渡さない、必要無い、というのがまかり通っていると聞いているが、実際のところは詭弁だとアンは思っている。

 基本的に海賊は誰かを襲って金品や食糧、奴隷を得て売りさばくのが主なお仕事内容だ。犯す危険が大きい分、実入りも確かに桁外れである。しかしスペード団はピースメインであり、出自や以前の労働環境はどうあれ、エースが船長を務める船で労働してもらっているわけだ。なので商会という金銭供給源を持っている双子にとって給与を支給できる状態になれば渡してもなんらおかしくは無い。ならば普通に使える場所に降り立ったなら、渡すのが筋というものだと思っている。お金という物質は、使う人物によって有益にも有害にもなり得る不思議なものだ。懐に貯め込んでも死ねば宝の持ち腐れになってしまう。ならば放出してしまった方経済も潤うし良い、と考えていた。それに死人に口なし、金は死んだら使えない、を幼いころから身近に体現していた環境下で育ったふたりである。特にエースとルフィは宵越しの金は持たない、がもっとうだ。そもそも物欲がない兄弟だった。お金の管理もアンが行い、食べたいものが出たときにいくらか手渡していただけだ。

 アンの見解にエースやツヴァイ、乗組員達もその方針に誰も異を唱えなかった。なので立ち上げ以来、ずっとこの形式が取られ続けている。

 「わたしも何枚かさくらの服を買い足す予定なだけだし」

 ぴくりとさくらが身をこわばらせる。これ以上、かわいい系はいらないとふるふると頭を振る。

 「…アン様」

 「ん?ああ、今日はズボンとシャツを買いに行くつもり。成長してるものねぇ」

 なでなでと頭の頂を撫でられながら、さくらは安心したように卵をぱくりと口に含む。

 

 アンにとって今現在進行中で問題なのは、だ。

 ルッチがこの町に住んでいる、という一点だった。

 なぜなのかは推して知るべし、なのだがここに居る仲間達には説明しにくい事情も絡んでいる。昨日ルッチと話した時に、前回の約束を果たして貰いたいと言ってきたのだ。

 該当する約束はたったひとつ、明後日に休みがあるらしくその日、と指定もされてしまっている。

 確かに今のアンであれば即座に叶えられた。場所も瞬間移動で向かえば、どこへだっていける。

 しかも今回、宿は既に全員分確保してあった。以前義祖父と共に泊り、それからも何度か利用させて貰っていた中央街のホテルに頼んでみると、即座にOKが出たのだ。自身が海賊であると知れているはずなのに、支配人は快く部屋を貸し出してくれた事に、アンは黙って頭を下げた。

 

 ウォータセブンはどちらかと言えば治安の良い町として知られている。

 ツヴァイが船員たちに渡した金額も結構な量で、歓楽街に個人的に繰り出してもきっと余るのではないかという量だ。日々を海で生活する男達を接待する色町も存在している。

 そこに出発の日まで籠っていても十分過ごせる程の金額が手渡されていた。

 ドーン島を出てからかれこれ3カ月、ずっと離れることなくエースや、途中乗船してきた仲間達と共に海を渡ってきている訳だが、そろそろ単独行動するのもいいかもと思い始めていた。

 たまに満月時以外にもひとりで出かけている時があったが、どの日も数時間程度で戻ってきている。

 単独で行動するようになれば数日、長ければ1カ月くらいは船を空ける事になるだろう。

 とはいってもエースにはなにをしているのか、必死に隠さねば筒抜けだ。こそこそとしていれば何か裏でやってるな、などと過去の蓄積経験で予測されてしまう。

 

 「ついてく」

 「…まだ何も言って無いよ、わたし」

 エースは真正面に座り、山盛りのサラダを突き刺しているアンを見る。

 「…あのね」

 「譲らねェ」

 

 昨日の喧嘩がこの場で再び勃発かと、船員たちがごくりと息を飲む。よもや店内では起こすまいとおもいつつも、たまに常識から逸脱するアンである。

 昨日、船員たちは天国と地獄を同時に見た。炎が乱れる様は、一言でいって恐怖以外のなにものでもない。これが俗に言う炎獄だと言わんばかりの灼熱が飛び交ったのだ。自然系の能力者であるエースと対峙しても、生身であるとは思えないほど引けを取らない双方のぶつかり合いに、船に乗る誰もがぞくりと身を震わせた。

 赤い土の大陸の先を知るアン曰く、まだまだふたりはひよっこの部類にはいるのだという。エースであろうとも、たぶん今のままでは四皇で齢70を数える白ひげの足元にも及ばないと言い切った。さらに言うならば、アン自身が挑んでも10分持てばいい方だと海兵時代の逸話も添えて説明された事がある。

 だが船員たちにとってみれば、既に双子の力は己たちを大きく越えており、それ以上にすごいと言われたところで、なにがどうすごいのか。さすがに想像域を突きぬけてしまっていた。だからこちら側は楽園、なんだよ。と言ったアンの言葉をスペード団の面々は、新世界で目の当たりにすることになる。

 

 大変お待たせしました、フィッシュアンドチップスとチキンのグリルでーす。

 ぱたぱたと店員が忙しそうにテーブルに料理を置いてゆく。双子はその間もじっと見つめ合ったままだ。

 「チキン半分食べてくれる?」

 「ん、食う」

 湯気立つ料理にアンが視線を落とし、再びエースを見た。

 折れるつもりは無いらしい。

 となれば、船員のまとめ役として残るのは副船長であり、航海士でもあるツヴァイの仕事となる。

 「じゃ、ちょっと散歩がてらに空島行く?」

 ご近所に買い物に行くような口調で言い放つアンに、仲間たちが目を点にした。

 エースも想像していた何かとは違ったようで、きょとんとしている。

 「ちょっと待って下さいよ。空島って、本当にあるんですか」

 「あるよ」

 事も無げに、アンは仲間の言葉を肯定する。

 青海では夢物語であるとか、伝説であると言われているが、上空1万メートルの空には雲の海が横たわっているのを知っていた。

 笑うべきなのか、それとも黙っておくべきなのか。乗組員達はごくりと喉を鳴らす。

 「普通は、にわかに信じられないよね」

 届けられたトマトソースのパスタをフォークでくるくると巻きながら、面々の顔を見る。

 口を開けて待ちかまえているさくらの口にそれを入れてから、ふたつある行き方を説明し始めた。

 

 ひとつは赤い土の大陸にある幾つかの山脈の頂きから至る方法。

 これは公式ではなかったが、海軍でも一度、まじめに試した事がある、空島へ行きつける手段のひとつだった。

 「ただしこのルートは100名で挑んだとしたならば、その内の誰かひとりでも到達すれば成功だと言われる(みち)なのね」

 もうひとつは"突きあげる海流(ノックアップストリーム)"に乗っていく方法だと笑む。

 「こちらは生か死、二択の方法」

 仲間の屍を越えて最後のひとりに到達の意志を託すか、いちかばちか、0か100かの賭けに出るか、だった。

 前半の楽園で起こる"突きあげる海流"に関してはジャヤの近くで数日に一度、空へ突き上げられている現象が確認されている。実は東西南北それぞれの海にも年単位であるが同じような現象が起こる地点がある。それを使って行く場所とはどんなところだ、というのが船員たちの感想だった。

 「そしてわたしだけの方法」

 全てを言わなくても、誰もが思い当たる方法だ。

 アンは空間と空間を結んで瞬間的に違うどこかに行きつく事が出来た。ただし、見知らぬ場所には行けず、同時に飛べる人物もひとりまでと制約がつく。が、海兵時代に様々な場所へ赴き、能力の開発を行っていた成果も重なって、写真や明確に風景を想像できる場所へならば行きつく事が可能になっていた。

 その他、エースと海に出てから思考錯誤しつつ、技を増やしてもいる。

 半身に至ってはその身に宿る炎の色を変え、技の種類も増やし、どんどんと先につき進んでいる状態だ。

 

 「私もご一緒したいのですが」

 その言に一番驚いたのは、アンだった。

 「ね。船長と副船長が居なくなったらこの集団、誰がまとめるの?」

 それは至極もっともな問いだ。

 「いけるだろ。先生もいるし」

 「そうですよ。数日不在でも、皆さん大丈夫ですよね」

 暴れると言ってもこの町は比較的、秩序がありますし、なにより。

 「偽船大工たちが強い、だろ」

 エースが最後のチキンソテーを口の中に放り込み、もぐもぐと咀嚼した。

 ああなるほど、エースはしっかりこちらの事情を理解しているのか。だからさっきの顔もルッチが絡んでると勘違いしたわけだ。

 アンは思考を隠さず、エースへと笑いかけた。まったくもってその通り、エースは肉を咀嚼しながらうなずく。

 

 実際的にこのW7に居る船大工たちは星の数ほどに溢れる楽園にたむろする海賊たちよりも強い、といえるだろう。日々の仕事が仕事だけに、十分に、例えるなら街で暮らす大三次産業を担う人と比べれば強く例え海賊に襲撃されたとしても撃退できるくらいの実力派ぞろいだ。しかもその中にCPが3人も紛れ込んでいた。今のところ誰にも知られていないようだが、心臓に悪い再会だった。だからこそではないが、どんな海賊が来ても瞬殺されるだろう未来は固い。ルッチも昔と比べ、海賊という文言に対し相変わらずの嫌悪感はあるものの、この潜伏を成功させるためなのか、むやみやたらに感情を荒立たせる事は無くなっている。

 「騒ぎは出来るだけ起こさない事を周知徹底さよう。もしトラブルに巻き込まれたら…アイスさんに頼んどく。みんな、先に出てった仲間たちにも伝えてね」

 

 予定が決まったとなれば、店内に残っていた船員たち善は急げと言わんばかりに注文した品々を胃に収めてゆく。

 宿を中心に行動する事。

 外出するならば、先生とさくらに必ず言付けて出ていく事。

 必ず誰かひとりはさくらの相手をする事。さらにツヴァイに代わりさくらが金庫番となったため、さくらのお付きは責任重大である。

 

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 

 船が収められている場所には人が溢れかえっていた。

 それもそのはずだ。ガレーラの社長自らが技術を披露しているのだから、職人たちがその技を目で盗もうと、囲いを作るのも分かった。

 人垣を掻き分けてアンはこっそりとアイスバーグへ耳打ちする。もちろんルッチやカリファ、カクへの対策をばっちりととって、だ。

 微かな舌打ちと、非難の視線がふたつほど突き刺さるが気にしない。

 そうしてアイスバーグに2、3日の留守を伝え、何かあった時の対処を頼む。それとは別に廃材として出ていた鉄の塊を幾つか使っても良いか聞いた。

 「ンマー、それは別に構わないが。なにに使うのか聞く方が野暮だな。なら何でもいい。その土地の土産を頼む」

 返事は承諾、町を歩く際には解体屋フランキー一家に注意するように言われ、アンも分かったと頷いた。

 

 そうなれば宿で支度をし、注意事を追加すればあとは空の上へと向かうだけとなる。

 荷物は少なく、いつも持ち歩いている肩かけ鞄のみだ。エースに至っては手ぶらだし、ツヴァイもベルトに止めてある小さなサップとナイフだけだった。スペード団は基本、荷物を持たない。食料をはじめ、必要物資諸々を現地にて調達するのだ。医薬品に関しては例外だが。

 「じゃ、行ってきます」

 船員たちの見送りを受けて、アンはエースとツヴァイを伴い姿を消した。

 さくらはすう、と視線を遥か上空、雲の向こうに投げる。

 「アン様」

 その声は小さく、船員の誰の耳にも届かない。

 

 

 「ちょっとここで休憩、させてね」

 体を慣らすためだとアンはその場で背伸びをしたり、柔軟体操をし始める。

 連れて来られたふたりは、まさしく絶句、だった。

 目の前に広がった景色に、エースは目を見開いている。

 間接的に触れるのとはまた違った体感に、その表情は宝物を見つけた子供のように輝いていた。

 「これは、一体」

 是非随行したいと名乗り出たツヴァイも声を詰まらせている。

 話に聞いていた通り、眼下一面に広がるのは白い雲だ。だがその白は見慣れた海のようにゆっくりと動き、淡い色合いではあるが青の彩りをしている。

 触れば水のような感触を指に残した。

 「すげェな!アン!」

 「ええ、確かに夢物語では済まされない現実感を感じます」

 「でしょう?ていうか現実だから。ツヴァイ、ほっぺた引っ張れば一発だよ」

 

 大きな弾力のある、クッションのような場所に寝転がったアンがふたりの体調を尋ねながら、かつての景色を今を重ね合わせる。

 そうして首をかくりと傾げ、やっぱり変わってるな、と結論付けた。以前来た時より島雲が増えているような気がしたのだ。青海と比べると限りある狭き海だが、緩やかな流れは存在している。

 とはいえ、以前、と言っても2ほど前になるのだから、変わっていてもおかしくは無い。今から向かう場所には半年に一度位は顔を見せてはいるが、アンにとって白海は久しぶりに訪れる場所だった。

 「エース、ツヴァイ、体の調子、どう?」

 アンが両名の顔を見れば、普段と変わらない面持ちをしている。以外に平気そうだ。

 自身も初めてここに来た時、空に住む人に驚かれたがなるほど、青海人の順応能力は凄まじいのかもしれない。

 「ここで大丈夫なら、一気に登っちゃってもいいかも」

 「まだ上があるのですか」

 こくり、とアンは頷き、もう一層上があると人差し指を指し示す。

 「ここは海抜7000m上空にある、白海。しっかりした足場のある白々海はあと3000m上空にあるの。でも目的地はもうちょっと上」

 海抜と標高、どちらも高さを表す言葉だ。

 エースもツヴァイも航海士としての知識がある為か、それはなにかと尋ねてはこなかった。

 「しかしすごいですね」

 先ほどから繰り返される言葉は、同系統のものばかりだ。

 それに関して解らいでもない。

 ツヴァイは特に、目に見える現実に、想像が追い付かなくなっているのだろう。

 それとは相対的にエースは先ほどからはしゃぎっぱなしだった。

 基本的にエースは全てを否定しない。例え誰からか聞いた話でも、へぇそうなのか、と受け止める。人によってひとつの物事に対し、感じ方は様々だ。だから自身が見聞するまで、それは違う、とは言わなかった。

 

 「なあツヴァイ、ここならおれ、泳げるかな」

 能力者となり水面に浮けなくなったエースが興味津津に副船長を振りかえっている。

 「どうでしょうね。空と言っても海のようなもの、のようですし」

 なら試してみよう。百聞は一見にしかず、とエースはテンガロンハットを雲において、ていや、と飛び込む。

 白の飛沫があがると同時に、アンが口を開き、

 「あー。そうそう。言うの忘れてたけれどこの空海、海楼石成分で出来てるから飛び込んだら溺れるよ…って遅かった」

 ぶくぶくと残念な表情で沈むエースをツヴァイが必死に引き上げている姿を見て、アンが笑う。

 

 「すげェ変な海だ。塩の味がしねェ」

 抵抗が少なく、それでいて沈む速度は海水よりも早い。しかも底が無いと追加説明するアンに、落ちれば青海真っ逆さまだと聞けば、エースは眉を寄せて嫌な顔をした。

 アンは肩かけかばんの中から小さなコップを3つと水筒、そして幾つかの果物を取り出す。

 片手が包帯で塞がれているため、落とさないように気を付けながら。そこにツヴァイが合の手を出し、コップに水が注がれた。

 「ほどほどの運動も終わっただろうし、水分補給しようか。はい、レモン、あとエースはこれ」

 仰向けに寝転がるエースにレモンと小粒の赤い実を投げる。

 ツヴァイには丸ごとの果実を手渡した。

 

 ありがてェ、とエースは迷い無くぱくりと赤い実を口に含む。そして外皮を噛み、中の果実を舌で転がす。

 ミラクリンとこちらで呼ばれているその実は、あちらではミラクルフルーツと呼ばれるものだ。

 酸味を苦手とするエースの為に味覚の変化を起こさせる、ミラクリンをアンは宿に向かう途中、市場で買ってきた。アンにとってこちらがいつまでたっても異世界であると余り思えない原因のひとつに、食べ物が挙げられる。以前暮らしていた世界とこちらは、植物の分布だけでみると、結構重なり合っていた。

 例えば名前は違うがキャベツやニンジン、トマト、なすび。イチゴやスイカ、パイナップルなんてものまである。ウォータセブンから線路で繋がる、セントポプラの市場でミラクルフルーツを見たときには、驚いた。これでエースの酸味対策が出来る。内心で拳を握ったのはここだけの話だ。

 果物系で一番嬉しかったのがバナナがあった事だ。

 食べても良し、牛乳とジューサーで粉砕してもよし、腹持ちもいいし、食を胃に詰め込むのが苦手なアンにとってこちらでも無くてはならない果物となっている。

 

 バナナといえばよく、バナナケーキをマキノに作って貰っていた。島の女たちにしてみればケーキらしくないとの言であったが、シンプルだからこそ作り手の腕がよく出る。

 柔らかなケーキスポンジにたっぷりと生クリームを乗せ、その上にバナナを一本乗せてくるりと巻く。

 あちらでは男性も激甘スイーツを取り寄せで楽しむようになってはいたが、こちらでは余り、男がケーキをぱくつくと言う現場にお目にかかった事が無かった。

 砂糖などの甘味料は広く出回っているものの、甘いものははやり、女子供の食べ物とされているらしく、酒場に入れば、もっぱら男達は塩辛い食べ物ばかりをつまんでいる。

 お酒に甘いものと重なれば、成人が罹ると言われている三大疾病になりやすく、おなかが出ている大きな人が多いのはそのせいだろうなぁとアンはしみじみと思ったことがあった。だがしかし、酒類は別としても、甘味だけは譲れなかった。

 そのせいで、というのもなんだが、兄弟達は幼い頃からアンに付き合ってケーキを食べたり、プリンやパフェ、エクレアに砂糖まみれのドーナッツ、マシュマロなどをマキノの店で口にしていたおかげもあって、すっかりと甘党に育っていた。

 フーシャ村には幾つも、あちら風にアレンジされた食べ物が並び、壁の向こう側からわざわざ食べに来る人まで居ると聞いている。

 

 いつもはみかんすら嫌がって余り食べないエースが、剥いただけの黄色い果実を丸かじりする様をツヴァイは信じられないといった様子で見ている。試しにどうかな、と勧めてみれば、レモンを恐るおそる齧った瞬間、私に隠れてはちみつをかけましたね?と言わしめるまでの甘味を感じたらしい。

 「人によってどこまで甘く感じるかはそれぞれなんだけどね」

 エースに剥いて貰った房を口に入れ、酸味に唇をすぼめながら食べる。

 と。

 横でもぐもぐと口を動かしていたエースが噴き出した。

 「お前っ、わざとだろっ」

 いえいえ、酸っぱいのが苦手なエースに味覚を同調させたなど、そんなことあるわけないよ。そうにっこりと可愛らしく小首を傾げて事も無げに言うアンと、目尻に涙を浮かべるエースとの間に入ってしまったツヴァイは、ふたりが仲直りするまでその場から動けなかった。

 

 

 「さて、残りの行程、行っちゃいましょうか」

 仲が良いほど喧嘩するもんなんだよ。なんだぞ。

 双子は和解後、すっかりと疲れ切ってしまっていたツヴァイへと胸を張って言い、鞄を肩にひっかけ、それぞれの腕に自分の腕を絡ませる。

 手のひらの傷は船医によってしかと固定されており、昨夜の激突の際も外れないくらい頑丈だった。空島に出かけると言ったアンに船医は外れた時に巻き直す包帯と、薬をたっぷりと持たせたのは言うまでも無い。傷の癒着が既に始まってはいたが、油断は禁物だとツヴァイや船長は余り暴れさせないようしっかりと言い願っていたくらいだ。

 

 エースとツヴァイに高山病の兆候が全く見えない事にアンは安堵しつつ、更なる上へと視線を向けた。

 通常ならば低地から高地へ移動すると、酸素濃度の低下と共に、体への負担が大きくなってゆく。そして様々な障害が起きてくるのだ。その主な症状は頭痛及び吐き気、倦怠感や虚脱感、めまい、朦朧なのだが、このふたりには当てはまらないらしい。

 アンは目を瞑り、今から跳ぶ場所への像を描く。そしてしっかりと更なる空へと視線を向け、空間を結んだ。

 

 意外だがこちらの世界でも登山の文化は確立されていた。著書も数多く出ていて、高山病、という名目ではないが、それなりに平地から高地へ上る場合の注意点や、病状が示されている。

 探検家が主にその引率役を果たしているのだが、ただあちらのように、「明日山登りに行かないか」などという気軽さはなかった。衣類や道具ひとつとっても基本的にあちらの方が機密性、便利性に富んだ装備が揃っていたし、どちらかと言えばこちらは、山に住んでいる人達が雪解けとともに平地から登ってくる行楽客を迎える姿が一般的ではないだろうかと思う。

 だが高地の環境に適した者達も、確かに存在していた。

 そう、海に魚人や人魚が居るように、人里離れた高地には獣人が暮らしている。

 ただ獣人の数そのものが世界で少なく、そのほとんどがモコモ王国と呼ばれるゾウで暮らしている。アンが把握している世界の集落もひとつだけしかない。しかもそこは隠れ里で、見つけたのも偶然だった。細々と血を繋ぎ、人間の社会と交わろうとせず、安全が確保されている地域から出る事は殆ど無い。

 ちなみにこの隠れ里にも歴史の本文が存在している。ちなみに、獣人たちの故郷は月だ。

 どうしても月に戻りたかったのだろう。手段を試した遺跡が世界に点在しており、ここ空島も彼らが試した術の過程でできた遺物だった。

 

 「到着!」

 次の瞬間、3人の視覚を染め上げたのは蒼だった。

 そして大きな緑の大樹だ。

 海抜12500メートル。久々に仰ぐ宇宙の色は相変わらず、濃い藍が広がっていた。

 「船に戻ってこれをみんなに話しても、絶対に信じて貰えない自信、ありますよ」

 ツヴァイのつぶやきが耳に届いているのか、エースは息を飲んでそれを見上げる。

 これ、どっかで見たことあるぞ。

 その声にアンはとある有名なアニメに出てくるイメージを思い浮かべたが、まさかね、とエースをちらりと見た。



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61-蒼穹の白(2)

 碧を帯びた紅蓮が青の空を猛猛(たけだけ)しく踊る。

 放たれたのは矢、だった。しかもご丁寧に木製ではない。見た目、鉄のようではあるのだが、それらは溶けずに焔を突きぬけてきた。見ただけで素材がなんであるかピンときたエースは最善であるだろう回避行動に専念することにする。

 エースは確たる足場の位置を目で留め、射出地点を探しながら跳んだ。

 一方ツヴァイにはアンが補助に入り、矢から身を守っている。矢の軌道を読み絶対的な安全県に誘導する。

 エースはなかなか一進一退と繰り返していた。うまい具合に矢が着地しようとしている地点に撃ち込まれてくるのだ。テンガロンハットが空島特有の突風に煽られ、胸元に垂れていた紐にひっかかり背に落ちた。エースは戦略的撤退とアンの元へと戻る。

 「…もしかしなくてもこれ、海楼石入りだよなあ」

 疑問形なのは、見慣れない光沢があったからだ。

 エースは小さく舌打ちする。飛んでくる矢の一本を掴んでみたのだ。アンのお陰なのか能力者となっても海楼石に対しては抵抗力があり、急激に脱力する事は無いものじんわりと触れた場所から倦怠感が浸食してくる。

 海楼石は唯一、自然系(ロギア)に対して手傷を負わせられる手段となりうる物質だ。

 「あんな所から飛ばしてんのか」

 やっとのことで見つけた隠された細い撃ち出し口に目を細め、どうやってあそこへ至るかを考える。

 一番良いのはアンに跳躍して貰う方法だ。

 目に見える場所であれば、そのものに触れられる接点に出られる。だがエースはいくら探しても見えない、感じない、聞こえてこない意識の違和感を覚えていた。

 矢は休む事無く一定のテンポを、時折緩急をつけて放たれ続けている。

 

 前方に見える大きな樹は島雲を根に包み込み浮いていた。

 海雲に何本も下ろされた大きな錨は小さな島雲に突き刺さり、まるで水面に揺れる海草のようだ。

 根は抱いた白に絡みつくようにあり、目を凝らせば茶色い土壌も所々に見えていた。

 「あれはなんであるのか、聞いても」

 いいですか、とツヴァイが口にしようとすれば、肩を押された瞬間矢が目の前を通過する。

 「……その前に。先に安全圏内に入っちゃおうか」

 エース、行くよー。

 全く動揺せず叫ぶアンに、ツヴァイは言葉を詰まらせる。

 「なんだよ、知ってんなら先に教えろよな」

 「だって。ここまで広くなってるとは思わなかったんだもん。防衛範囲が予想より拡充されてた。この前来た時より」

 

 アンはふたりを連れて大樹の元へと像を結ぶ。

 あの場所に出たのは両名に、空に浮かぶ一本の大樹が支える町の姿を見せたかったからだ、と言う。アンも初めてあの大樹を見た時、青い巨大な宝石はどこにあるのだろうかと雲の迷路内を探検したくらいだ。

 ふたりは歩き慣れた勝手知ったる道のように、奥へと進んでゆく小さな背について行く。横幅が広くない、人がやっとひとり通れるかといった通路を越えれば雲を加工したのだろうか。手触り的には固いがふわりとした白のそれを基盤とした家が建てられ、こじんまりとしてはいるが集落が形成されていた。

 通路を誰かが通ると鈴が鳴るように仕掛けられているらしく、来訪者に人々の目が向く。

 ぱっと把握出来るだけで、20名くらいだろうか。

 エースは目に見える何かに違和感を感じ、見聞色で気配を探りながらアンの後へ続く。

 「アッシュさん、へそ!」

 「いらっしゃい、あぶあぶ、へそ!」

 

 ちょっとまて、その会話は。

 エースががす、っとアンの頭蓋骨を掴んだ。ひらひらと挨拶をするように手を振りながら発する言葉に、疑問という名の突っ込みが入った。

 そうすればあぶあぶとは久しぶり、へそとはこんにちは、であるとアッシュがにこやかに隻腕を挙げて近づいて来た。白のもしゃもしゃした髭が特徴的な男の目元には深い皺が刻まれている。とある文化圏のように親愛のあいさつをするときに髭を触りあう、という風習はない。

 「青海からわざわざ、いらっしゃい」

 

 3人はアッシュに連れられ、町の一角にある庭園へと通された。

 そこには色とりどりの花が咲き乱れている。椅子やテーブルをはじめとする家具は、町を守る大樹の裏側にある雲切り場から切りだし加工すると言う。

 

 ちなみにエース達を迎撃してきたそのものは、仕組みとしては簡単な発射装置だった。

 赤外線探知技術を応用して作られており、熱源に対し設定温度以上の物体に自動掃射されるように出来ている対悪魔の実兵器のひとつだとアンから説明を受けた。

 「エースがさっき、集中して狙われていたのは一番熱い物体だったからだね」

 しかしエースにはいまいち意味が判らず、とりあえず思考を棚上げしたのは秘密だ。

 

 ここにある機械類は、下よりもうんと技術的に進んでいるのだという。そもそも空にある雲の島では科学という名の魔法が独自の進化を遂げていた。実際のところ海軍で様々を生みだしているベガバンクをこの空島に招待すればかなり面白いことになりそうだとおもっている。青海より数歩先んじている科学力はあちらの世界にも引けを取らないのではないだろうか。楽しげに話すアンの声を聞くのはやぶさかではない。だがしかしこの手の会話はサボが担当だった。理論やら理屈やらで捏ね繰り返すむつかしい話は昔から苦手であるエースは自然と瞼が閉じてゆき……訪れた睡魔に意識を放棄しようとしたころ、小さな足音が近づいてきた。

 「…へそ」

 白髪の少女が人数分のコップと、細長い実を盆にのせている。

 年の頃は10、くらいだろうか。弟よりも幼い。

 出迎えた少女の姿を見て、ツヴァイが思わず立ち上がる。なぜなら姿そのものが異質だったからだ。

 頭部をふくめた体全体を包帯で巻いていた。わずかに露出する肌には瘢痕(はんこん)が見て取れる。

 視線に晒され、少女は後から来ていた老女の後ろへと隠れた。

 「取って食ったりなんかしねえからこっち来いよ。それよか暑くねェのか。ぐるぐる巻きで」

 緩慢な動作でこっちこいと手招きする。寝起き染みた動きをしつつも、エースの明瞭な言葉にアンは一瞬、意識を刈り取られてしまうかのような眠気を感じた。

 少女は目をぱちくりとさせ、自分の姿に異を見せなかった数少ない人物にゆっくりと頷く。

 「大丈夫、怖くないよ。ふたりとも優しいお兄ちゃんだから。女の子には特にこっちが優しい。ちょっとびっくりしちゃったんだね」

 投げつけられた睡魔に負けるものかと気合を入れたアンは、再度エースに熨斗をつけて返礼した。そしてにんまりと悪戯っ子のように上目で副船長を見る。

 指名を受けたツヴァイは、「なっ、なんの話ですか」と多少上ずった声を出しながら、咳払いをする。

 「だなあ。女性の扱いは、誰よりうまいな」

 残念ながらアンが投げ戻した渾身の一撃は受け取られることなくかわされてしまったようだ。

 エースはここにきて、いよいよ違和感が正体を見せはじめたのを知る。全体的にこの村は高齢の住人が多いのだ。

 どんなに小さな村であっても、老若男女、多少偏っていたとしても平均的に在しているはずだ。

 「正解。ここは生き残った人達が懸命に生きている場所なんだ」

 

 

 かつてここは、ビルカと呼ばれる空島の中でも有数の都市だった。人口も1000人を超える大きな都だったという。

 「だった?」

 ツヴァイが疑問形を返せば、ビルカという国は、一度滅んだのだとアンは口をつぐむ。

 詳しい経緯は省かれたが、掻い摘んだ話を聞けば、数年前ビルカと呼ばれていた島雲は一度、散り散りになるまで壊滅したのだという。

 しかも崩壊に至らせたのは、ここ、ビルカという光の科学都市に生まれた、たったひとりの青年だった。

 遥か空に浮かぶ"限りない大地(フェアリーアース)"、エースやツヴァイ達が月と呼ぶ天体をいつも見上げ、いつかそこに辿り着くと誰に言うのでもなく、力強く明言していたと、アッシュは懐かしそうに語る。

 「…その彼とは」

 「ええ。ええ、そうです。良く知っておりますとも。こんなにも小さな頃から」

 過去の良き記憶を思い出し、皺を作りながらアッシュは続ける。

 

 彼の両親はビルカの中でも著名な家の出で、それぞれが切磋琢磨しつつ常に新しい発見を競う研究者だった。そんなふたりが伴侶になったときはすべての住民が祝福したのだという。天才同士、優秀な血が交わり子をなせば、もっとこのビルカが発展する子供が生まれると誰もが疑わなかったくらいだ。しかし結果は

推して知るべし。愛情を断たれて育てられた子供はおどおどと大人の顔色を窺い体を丸めて生きる自己主張のない人格に育った。

 月日を重ねるほどに彼の生みの親たちは栄光を積み上げていく。その陰で彼はひとり広くて静かな家で放置され続けた。そして利用価値を見出した者たちの手により心を消耗され続けたという。

 彼は両親に抱きしめられたこともなければ、微笑まれたこともない。しかし彼はその他大勢から聞かされ続けた。有益な発見をする両親を誰も彼もが恭しく語り、いかに己がその功績を手助けできるのかを演説して取り入ろうと必死だった。時に子供を経由し、なんとか自身をねじ込もうとした輩もいた。

 だがその両親にしてみれば、彼、という存在は研究を続けにくくなる障害として疎ましく、邪魔なものでしかなかった。なぜならだれもが皆、彼が凡人でしかないと判断してしまったからだ。

 彼の両親は、彼の面倒を見ている暇があるならば今現在取りかかっている研究を完成させる方が有意義だと言いきっていたし、教わらなくとも見ていたら理解できるはずなのにできないのは無能だと同僚に話していたことが広まっていたからだ。 彼は生まれた時からなにもかもが出来て当たり前とされていた。なぜなら彼の両親は、それだけの頭脳を持っていたからだ。しかし親が持ち得るからと言って、子供に親と同じ能力があるとは限らない。彼も必死に努力はしたのだ。

 けれども周囲は彼を認めることはなく彼自身の声を無視し、周囲は騒ぎたてた。

 秀でた両親から生まれたのだから、当然と言わんばかりの期待に応えるように、彼自身を無視して全てが推し進められてゆく。だから結果は散々だった。

 かくして両親は子に見せていた一欠片の興味も無くし、放置してしまったのだ。

 近隣の者達は彼、を腫れ物に触るかのように接し、同世代はせせら笑った。

 

 そして彼、は荒れた。

 

 成人後、なんとか立ち直った彼は両親も務める、最も権威があった研究室の下請け職務につくことになった。彼はもともと人としては優し過ぎるくらいの部類で、手柄を持ち逃げされ末端から上がれない、万年使い走りにされていたという。

 だからではないが幼いころは研究室に勤める両親を待つために待合室の椅子に腰かけ、寂しそうに絵本を読む幼い彼の姿をよく目にしていた事もあり、アッシュは会えば話しかけ、次第に親交を深めていった。

 そして時に食事を共にし、時に彼が持ちかえった課題を共に解いた。

 彼は彼を無いものとしないアッシュに、懐いてくれていた、と思う。

 言葉を濁しながら先を語る。

 

 ある時、彼が少しでも興味のあるものをと、偶然に手に入れた青海の本を手渡し、ビルカの歴史を語って聞かせた。

 彼はその話に夢中になった。

 「かつて我らは別の大地にあった。限り無い程の土壌と豊かさはあったが、眼前にある青の秘密を知りたくなり旅立った。青は我らを捉えてしまった。二度と戻れない故郷を見上げる。我らは浮足立ちすぎてしまった。価値がないと置いてきてしまったものこそが、本当の宝であったのだと気づいたときにはもう、遅かった」

 物語は所詮、物語でしかない。だが彼は夢想してしまった。ある意味、彼自身の境遇に当てはまってしまったのだろう。それが彼にとって良かったのか、悪かったのか。

 

 アッシュは首を振る。

 しかし彼はいつしか空を見上げ、彼を照らすふたつの大地への妄執に取りつかれてしまった。神の身であれば大地に至れると、漂流してきた青海がもたらした悪魔の実を口にしてしまう。

 歴を伝える者達は必死に彼を止めようとした。あの地にはもう、なにも残っていないのだと。生きてゆく場所はここであり、多くを欲してはならない、と。

 だがその声は終ぞ、彼には届かなかった。

 それはそうだろう。

 今までこの都市の者達は、彼をぞんざいに扱ってきたのだ。今更はなしを聞いて下さいと声を大にした所で、聞く耳を持っては貰えなかった。

 そして夢を語る彼は、彼が望む力を手に入れてしまった。満を期して、彼は予言をした。

 そしてその予言は、結果として成就される。

 

 彼は巨大な漆黒、|雷≪いかずち≫の塊を彼自身を否定した存在が籠る島の中心へと放った。その瞬間、島を形成していた物質は組み上げられた電子構造を破壊され、脆くも霧散し崩れ落ちるしかなかったという。

 歴史が深く刻まれていた島雲そのものを崩壊させた力は圧倒的で、あっという間の出来事だった。

 「確かにその力は神の御技のようにも思えるものでした」

 かつての先祖が残し伝えていた遺物を再起動させ、彼、は様々を知った。

 月に至れる方法を手に入れたのだと。

 今は遠くスカイピアと呼ばれる、雲島の中でも広大な雲と大地を保持しつづけている島で、持てる力を遺憾なく使い"神"として君臨している。

 

 「己を無力だと嘆くつもりはありません」

 償いではないなにかをしようと志したものと、己たちが負うべき罪を背負い戦おうとする者達だけがこの地に留まり、いい訳を見つけてなにをやっても無駄だと、恐れにより何もしたくない、忘れたいと願った者達はいずこかへ去った。

 アッシュは口元を弧にし、多くの犠牲をエンジェル島の人々に敷いている彼を止めようと細々ではあるが準備を整えていると薄く笑んだ。彼は化け物になってしまった。だが彼を化け物にしてしまったのは、このビルカの民の行いだった。時は戻せない。ならば彼の非道を止めるしかない。

 

 元々ここ、ビルカが有していた知識の多くは、光に関するものだ。

 光、とは視覚器官を保持する動物の感応を刺激して明るさを感じさせるものを指す。一般的に可視光線、とされているがビルカでは電磁波のひとつとして解明され、今なお研究が続けられている。

 皮肉なもので、彼が得た悪魔の実の力は雷だった。それはこの国にとって利用されていた電の力であり、性質も利用する術もここには存在していた。

 それはもはや運命としか言いようが無い。

 「老骨に鞭を打って、どこまで出来るかはやってみなければわからないことですが」

 

 エース達は細長い実から採れた、さっぱりとしながらも程良い甘みがあるへナッシュをごちそうになってから広場へ移動した。

 「…ついて来なくても良かったのに」

 広い場所の方がいいと、アンが向かったのは入ってくる時に通った通路にほど近い場所に位置する、円形の、少し落ちくぼんだ場所だった。

 「普段はここで土を撒き、植物を開花させるのに使うのですよ」

 いつもはかぼちゃやにんじん、ほうれんそう、そして季節の花など、アンが持ちこんだ種が撒かれる菜園だ。

 「アッシュさん、ちょっと離れておいてくださいね」

 アンは息を吐き、集中を始める。つい最近になってやっと安定してきた力を使うためだ。

 「よし、じゃあ始めます」

 アンが両手を前に出し、目を閉じる。

 

 物に触れず、何かをこの場に移動させるには、自分が支点となってどこかに跳ぶのとはまた違った感覚が必要だった。基本的には移動させる物質の像を結ぶ。それだけでいい。だが移動させる無機物に誰かが触っていた場合、その有機物を始点に周辺を巻き込み、移動させるために通る通路のような空間で凄まじい惨劇を生出して像を結んでしまう危険な力でもあった。

 例えば目の前に箱があるとする。追加情報として中身もある、としよう。

 それをAという現在地からBへ移動させるとする。移動させるアン自身ははこの箱の外側しか知らない為、箱だけをイメージして転送する。そうなると、B地点に現れた箱の中身は、空っぽ、となってしまう現象が起きる。中身だけがAからBに至るどこかで迷子状態になってしまうのだ。しかも中身が触れていた底が抜けるというおまけつきで。

 もし中身を覚えてからの場合、果物が大量に入っているするならば、多少潰れて跡形も無くなっているものはあれど、殆どが形を留めて到着する。

 

 また反対にここでは無いBという離れた地点からここ、Aという現在地にものを転移させるとする。アンが覚えたイメージは固定化されている為、もしA地点で形が変わっていた場合、B地点に出現するのは、そのイメージを具現化した、形に近いなにか、が現れた。

 

 以前、実験的にこの力の使い勝手を調べるため、様々なものを飛ばした。

 その中には刑期の短縮のために立候補した有機物も居たのだが。結果、彼らはインペルダウンから無事に出ることは叶った。体だけは。

 何が起こったのかはわからない。彼らが絶叫した内容をつぎはぎしたところ、この世界とは似ても似つかない地獄を通ってきたのだという。正気を失った彼らは数時間後、精神を失い生きる屍と化した。アンにも知らせず詰め込まれた罪人たちが飛ばされたときも、怪物に食い散らかされたような血痕が残った内部だけが到着地点にぽつんと残されたこともある。

 

 この力は使い方を間違えれば諸刃の力となる、とアンは確信した。

 物質転移は存在自体を消してしまう可能性が大であると。

 

 アンは素材置き場において、ロープ内に絶対に立ち入らないでとお願いしてきていた。そして到着地点であるこちら側でも絶対にみんな、この周辺に入ってこないでと、そうお願いして下で覚えた物資の記憶を思い浮かべる。そしてぽん、と何かの合図であるように両手を打ち鳴らせば。

 その瞬間、金属が落下する重低音と金属同士が鳴りびびく甲高い音が周囲に響いた。

 巻き込まれた人間はいなかったようだが、何かが追加されていたらしい。

 前衛的な形の、らせん状にくるりと綺麗にねじり巻かれた鉄材が視界に写ったが、見なかった事にした。すげえ、とエースの声も聞こえるが、全く何も、聞こえない。

 「お土産にその地ならではの物、って言うリクエストです。アッシュさん、なにかしらを宜しく」

 物の経緯をアッシュに説明すれば、承諾の返事が戻ってきた。

 「ああそうだ、次来られる時で構わないから、肥料を持って来てくれないかい」

 「いいですよ」

 アンは掛けられた声に、快く応じる。

 

 空の上には基本土が存在しない。

 地上の道具やらなにやらは時々、世界各地に数ヶ所ある突き上げる激流の恩恵によってもたらされるが、大地に関するものは打ち上げられなかった。

 だから彼が神として君臨するかの地では、かつて地上からもたらされた陸地そのものの支配権をめぐって、血みどろの収奪が続いているという。

 確かに雲島に住む人々にとって、地上にあるもの全ては恵みだった。

 と同時に、麻薬でもあるといえるだろう。

 なぜなら得てしまったが最後、もうそれなしでは生きていけなくなってしまうからだ。

 植物も空島に自生するモノ以外は、空では育てられなかった。ごく稀にアンが持ちこんだマングローブなど島雲に根を張り、成長し続ける例外もあるが、基本的には地上にあるものは地上にある環境でのみ育成が可能となる。

 

 ここビルカでは偶然にもアンが飛びこんできた幸いにより、海に生息するマングローブの苗木を入手出来たり、少量とはいえ希少な金属類を得ていた。植物を循環させる土もそうだ。かつては科学の力で水耕栽培されていた食物も今は土頼りになっている。

 だが土さえあれば光の科学を研究するこの町で、植物を成長させるなど造作も無い。アッシュをはじめとするこの空島に残った者たちは一年をかけ、散りじりとなったビルカのかけらを集め、どうにかこうにか再出発できる足場を作り上げた。

 アンが飛んできたのはそのころだ。

 

 「となればダイアルだね」

 廃材とはいえ、大量の金属と木材の礼となるものはと考えたアッシュがそう言った。

 新しいものは加工中であったり、既に貰い手が決まっていたりしている為渡す事は出来ないが、個人的に予備で持っているダイアルならばと、自宅へ取りに背を向けた。

貴重な金属を譲ってくれたのだから、とアッシュは手持ちのダイアルを吟味したが結局、決めかねて全部持ってきてしまった。好きなものをもってお帰り、とずりずりと大きな籐のかごを引きずってきたのである。

「呼んでくれたらおうちまで行ったのに」

「いいんだ、久しぶりに楽しかったからね」

 

嬉しそうに目じりを下げ、頬が上がった顔を見ればアンも引かざるを得ない。

 

 遠慮なく好きな物を、という行為に甘えて、アンが選んだのは2種の貝だった。

 そのふたつとは音貝(トーンダイアル)と映像貝(ビジョンダイアル)の2種だ。

 前者は音声を録音し再生できる物、後者は映像を記憶する物で、ビデオカメラの部品として使われていた。ツヴァイは興味深い、そう言いながら幾つかの貝を分けて貰っている。ベルトサップの中身は万が一の医療品だったようで、物々交換をしていた。ビデオカメラは高価な品物で、殆ど出回っていない品物だった。写真を撮る、カメラもどちらかと言えば高いが、そこそこ所持者も居る。

 例えば海軍の広報部とか、新聞記者とか。アン的には余り良い思い出は無いが。

 

 それとは別にアッシュから風貝(ブレスダイアル)を取りつけた、ボード型のヴェイバーをアンは受け取った。

 「今までのお礼、として受け取って貰えればうれしい。風貝(ブレスダイアル)では無くて、噴風貝(ジェットダイアル)を使用しているから乗る時は気をつけて」

 絶滅種と言われている噴風貝(ジェットダイアル)だが、ここ、ビルカの近くでは偶に、それこそ数年に一度という頻度ではあるがまだ、採取されていた。

 彼による大破壊後は白海に出られる人員も無く、入手は困難になっているという。

 貴重品ではあるが大切に保管しておくべき物品でもない。使える者が使えばいい。そう言ってアッシュはアンへと手渡す。

 年老いた住人たちでは、そのダイアルが装着された小舟に乗っても上手く乗れないのだと、珍しい空の幸を振る舞ってくれていた老夫人が笑む。

 

 冬は雪山のスキーや、スノーボード、夏になればスケートボードを海辺に近い整地された広場で遊んでいたアンにとっては慣れ親しんだ形の遊具だった。

 「ね、エースも乗ってみる?」

 海に落ちたらちゃんと引きあげるから。

 ツヴァイは広場でアッシュから、ダイアルの特性について解説を受けけている。

 どういう乗り物なのか、エースはアンより大体のコツを聞きながら町の入り口へと足を向けた。するとその背を包帯の少女がもじもじと、時折振り返るふたりにびくりとしながらついて来る。

 この町には子供と言える年頃の姿は、彼女一人だ。

 アンが定期的訪れるようになり、ゆっくりとではあるが、良い変化も起きていると聞いていた。

 人見知りは相変わらずだが、「手、繋ぐ?」そう手を差し出せば、嬉しそうな心の音を響かせながらそっと触れてくる。

 

 さくらとはまた違う。

 けれど触れた手の柔らかさに、アンは笑みをこぼした。

 

 

 「来る…」

 ぶるりと包帯の少女が体を震わせた。

 最初は何事だと訝しんでいたが、アンは展開した見聞色に眉をひそめた。

 「エマはわたしより、かなり見聞色の範囲が広いの」

 空島では見聞色、ではなく、心網(マントラ)と称される。

 アンは試し乗りは後にしても構わないかとエースに言い、広場へと戻った。

 15分後、アンの網にもビルカへ向かってくる幾つもの声が聞こえる。

 

 「性懲りも無く…」

 アンはビルカの大樹に向かってくるいくつもの気配に、視線を向けた。

 「ったく、あの男。わたしが来るの先読みしてるのかしら」

 直接は相対した事は無かった。会いたいとも思った事もない。アンにとって雷男の心はぞわぞわとしていて余り好きではなかったからだ。触れるとざらりとしてぬるっとした、そういう感覚がする。意図的に狂わされ、不安感や焦燥感を掻きたてられるような不快感があった。根本的にウマが合わない、そういう存在だった。

 

 高い音は緊張感を煽り、低い音は不安感を煽る。そういう言葉を聞いた事がある。まさしく彼はこのビルカにとって良からぬものでしかない。

 包帯の少女が小さく、お姉ちゃん、と不安げな声を発した。

 「大丈夫だよ。エマはあいつより強い」

 だから不安におもうことはない。そうアンは言い切る。

 雷男の目的はエマだ。ビルカの破壊などついでである。しかもいやらしくアンへの嫌がらせを絡めてきていた。

 

 スカイピアの王は遊んでいる。

 アンは小さく舌打ちした。男を理解したくてしたのではない。男に同情も憐れみも感じないが、まるでこの世界が遊戯盤であるがごとく、現実感を一切切り捨て己の目的のためだけに生きていた彼のことが、わかってしまった。アンもある意味、腐ったバットエンドに抗い覆すために生きている。同族嫌悪とでもいうのだろうか。

 

 雷男はビルカが気に入らないのではない。

 意識的にあと一歩先、その先にある掴めない幻が欲しくてほしくて仕方ないだけなのだ。己より神の船をうまく動かすことのできるエマが欲しい。ただそれだけ。

 瞬間ちらり、とかの地に住まう存在の影が脳裏をかすめる。太陽の船がかのものを思い出させたのだ。

 

 アンは頭を振り雑念を払う。 

 「ツヴァイ、あと30分以内に、いい感じの作戦組み上げられる?」

 主戦力は45歳以上の片一方の足を棺桶に突っ込んでいる住人が37名、プラス年端のいかない少女がひとり。そして外部戦力として3があるのみだ。

 だがこの大樹まで相手を引き寄せるつもりはない。

 言葉の意図を汲んだツヴァイが一体誰に言っているのですか、と自信に満ちた視線をアンに返せば、階段に座っていたエースが立ちあがり、町の入り口に向けててくてくと歩いてゆく。

 

 「…お兄ちゃん、だめ」

 エマが必死に制止する。

 

 あれは、もう人じゃないの。

 人の形をしたなにかなの。なにかにしてしまったのはみんななの。

 青の空にエマ達が居ちゃいけないんだって。

 不自然なんだって。

 生きてるのに。みんなここで、生きてるのに。

 

 水珠が吸い込まれる包帯にエースは手を伸ばす。

 泣き虫は嫌いだった。

 何事があっても泣けば済むと、泣く事が子供の特権であるかのように、大声をあげて泣く姿を見るのが嫌だった。物心が付き、心無い言葉や不条理を投げつけられた時、泣きたい時もあった。だが泣ける環境でもなかった。泣いて事が好転するなどありはしなかった。唇を噛んで、泣いてなんかやるものかと嘲笑ってきた大人を睨みつけた。こんな奴らのために、人でなしたちの前で涙を流す自分が嫌いだったからだ。奥歯をかみしめ眉を寄せて、耐えた。

 

 「泣くな。そんな奴の為に泣いてやる事なんか、ねェんだ。今からその原因をぶっ潰して来てやるからさ」

 「違うのお兄ちゃん、あの人は可哀想なの」

 不得手とはいえ、エースもその力を有しているから分かる。

 聞こえてしまったのだろう。

 なにひとつ自分の欲しているものは手に入れられない。その心の内を、覗かされてしまった。物心つき、感受性の高い年頃にそんなものを見せられて、影響されない訳が無いのだ。

 雷男がエマにわざと見せたのだと、エースは気づいて小さく舌打ちする。

 エマが見せられた全てが真実では無い。だが作られた巧妙な嘘も含まれているのだろう。

 

 彼につき従う者達は彼が持つ力に畏怖し、または心酔し、数多くの者らは自他を守るためにの信念を曲げて屈辱に甘んじている。彼には逆らってはいけない。隣人を守るためには、言われたとおりの事を行うしかない。

 

 エースはくしゃりと少女の髪を撫でる。

 「気にすんな。お前は奴じゃねェ。奴と同じ感情を持たなくてもいいんだ」

 静かな声音が降る。それはどこか安心をもたらす気配をまとわせていた。

 「…お兄ちゃん?」

 生きる事そのものが苦である時間をエースとアンは辿ってきた。物心ついた時、自分たちが山賊を仮親として預けられていた理由を知ったとき、一番最初に己に問うたのは『おれたちは生まれてきてよかったのだろうか』という疑問だった。

死んだほうが世のためになる理由は数あれど、生きなければならない理由はこれっぽっちも双子に与えられていなかったのだ。それでもふたりは生きてきた。生きていればそのうちわかるだろうと言ったガープの言葉もあったからだ。

 

 親が居るからといって、幸せではない場合もある。逆に親が居ないからと言って、不幸せだという訳でもないのだ。周りがどんなに可哀そうだと、彼らの価値観で判断をしてもそれは本人達に関係の無い話で、押し付けられるものでもない。

 

 実際に故郷では、様々な感情に左右されてきた。

 だから負の感情に関しては、誰よりもよく解る。

 幼心にあの雷男は憎悪の種を植えつけたのだ。己もされたことだと。

 それもいつ芽吹くかと、楽しみにしながら今も待ち構えている。

 己が苦に感じた感情を、誰かに向けていいはずが無い。やればやるほど負の連鎖を生み、自分自身をがんじがらめにしてしまう。

 気付けたのは、弟が教えてくれたからだ。難しいことはわからないけど、おれとエースはお揃いだ。親はいねェけど、アンがいてくれるだろう。

 ロジャーへの憤りを打ち切れたのも、弟となってくれたルフィが居てくれたからだ。いつも笑ってそばにいてくれた弟が。居てくれないと生きていけないと言ってくれたルフィが居たから、エースは生きる理由ができた。

 かけがえのない心の友もできた。何の関係も持たなかった第三者の肯定がこんなにも価値観をかえてくれるものかと驚いたくらいだ。

 とある事情により歩む方向を変えてしまった友ではあるが、最終目的が全くぶれずに変わっていないためその内、道を交える予定なのだそうだ。生きていてくれる。それだけで前を向いて生きていけるし、その時が本当に楽しみになった。

 そして本人はいたって平気そうにしているが、そんなこともなかっただろうと今であれば理解できる。大人たちが向けてくる感情の全てを、どうという事も無いと、いつも笑って受け流していた、受けてしまって心をズタズタにされたエースの手をどれだけ振り払っても離さずそばにいて癒してくれたアンが居たからだ。

 

 「ちょっとばかし、待っててくれな。そんでおれ達を見てろ。道標を立ててくる」

 そう言いながらエースは、テンガロンハットの中で笑みを唇に結ぶ。



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62-蒼穹の白(3)

 エネルが来る。

 その一言に住人達は身を固くした。

 今まではうしろめたさもあり同郷の者の命を奪うのを良しとしなかったビルカの民だが、"エネル"が出張ってくるとなれば話は変わってくる。

 雷はその放電でこの地まで一瞬で移動できた。だが雷男は形ばかりではあるがビルカの再興が成ってから、弄ぶように、思わせぶりな手を出しながらも、本格的に攻めてきたりはしなかった。

 それはなぜか。

 真意は雷男に直接聞いてみるしかないが想像はいろいろとできる。

 

 今回、なにやら彼は故郷へと凱旋してくるつもりらしい。

 一方的な通告ではあるがエマが受けてしまった。迎えにゆくから、支度をして待っているが良い、と。

 住民たちは苦い想いを抱えながらも、迎え撃つしか方法がなかった。この町に唯一残った、未来を奪われる訳にはいかないからだ。

 

 とはいえここに住む民は基本的、非戦闘員しか存在していない。雷に対抗する術を幾つか用意しているものの、効果的かどうかは試してみないと解らない状態だ。しかも肉弾戦に持ち込まれたならバットエンドという条件付き。何度も繰り返すが、ここビルカの民は頭脳労働を専門とする科学者であるがゆえに全員が非戦闘員である。

 物事の真理や構成を長い年月をかけて読み解くのは得意としているが、脳みそまでもが筋肉となった輩がひとりでもやってくれば、逃げ惑うしか生き残る術がないのである。

 だが彼らにはもしもの時のために作った兵器(ホームセキュリティ)があった。これがまた強力なものらしい。だがしかし。アンは道具は使い方がわかって、はじめて機能を発揮できるし使えるとおもうのだ。説明を受けたもののビルカ語(ふしぎなせつめい)がむつかしすぎて理解できなかったのである。アッシュたちが語る言葉が宇宙語に聞こえたくらいだ。はっきり言って光を科学するビルカの知識を語られても、理解できなかった。

 

 よってこの兵器は住人達によって運用されることになった。最後の砦扱いになりかけていたアンもこれで外部攻撃組に変更だ。使い方がわかる住民たちがツヴァイの指示で操作する。

 

 そこで問題となるのが瞬間的な対応力だった。

 無事に装置が起動したとして、それを展開させるために必要なボタンを押さなければもちろん、効果は発揮しない。

 

 雷は光であり高速である為、秒速に換算すると30万キロメートルを進む事ができる。だが放電そのものは現象であるため、動くと言う概念は無い。ただ放電現象は電子崩壊によって出来る電子雪崩だ。雪が雪崩れるように、光という現象を伴って進む。その現象をとらえて発揮する兵器、らしい。ビルカの粋を集めて作られた兵器は雷そのものを捕縛するもの、とも言い換えられた。

 

わかりやすくかみ砕くと、空間をのべつ幕無し、縦横無尽に雷は移動できるわけではない。電子密度が薄い空間の隙間を縫って雷は進むのだという。それを捕まえる機械がある。起動できるだろうか。

 もっと砕くと、どれだけ住人たちが雷男の行動についていけるか、が問題なのだ。雷を捉えたとしても、一般人よりは強いエネルである。ビルカまで侵入されてしまうと、やり直しのきかないバッドエンドの出来上がりであった。

 

 ツヴァイも青海では強者の部類に入るだろうが、今の実力的に新世界では頭に殻がついたひよっこ扱いだ。確実にエネルは、ツヴァイよりも強い。

 

 悲観的過ぎるのもなんなので最悪の想定を回避できて理論上、雷と化した彼を止められたとしよう。では彼をどの時点で足止めできるのか。ビルカの町の中はゲームオーバー、イエローラインで町まで10キロ、ブルーで15キロ以上だろうか。

 ひとつひとつ問題点を洗い出せば、予定と予測のオンパレードだ。全く安心などできはしない。

 

 となれば頼みの綱はただひとつ。エースに撃った、海楼石入りの矢だけになる。効き目は実証済みだ。力が抜け、当たれば実体が危険だと半身が判断したからだ。

 兵器より既存の原始的な武器のほうが効き目がありそうだと思いながら、アンは雷の特性についての講義を受け続ける。

 

 数学はまだ数式を解けば答えを求められたが、化け学と科学、物理の3項は余り得意では無かったため、額を押さえてきりきりと痛む脳に眉を寄せた。

 アン自身がおもうに、理解力はきっと悪くないはずだ。時間をかければきっと、納得出来る答えも見つけられる。だが今回は、さっとざっと専門知識を持っていれば「ああ、うん、そうなんだ」となるのだろうが、如何せん基礎的知識が全くない状態での講義で、質問を投げかける土台が無かった。

 それでもなんとか、大まかに噛み砕く。何千時間と机の前にかじりついて受験勉強をしてきた元大学生を舐めるなと、自尊心と気合を引っ張り出して理解するため、最大限に頭を働かせる。

 エースはとうに説明を聞かず、ツヴァイと新たな作戦をたてはじめていた。それをエマが横から覗いている。

 

 アッシュの話を要約すれば、エネルという男はその身に宿した悪魔の実の特性により、多少の制限はあれど物質としてありながらありとあらゆる場所へ瞬時に移動できる。

 アンのように点と点を結ぶように移動するのではなく、現象的に空に走る、雷と同じ動きをするのだろう。アッシュ曰く、雷速は秒速200キロメートルなのだそうだ。ちなみに光速は秒速30万キロメートル、音速は秒速0.35キロメートルなのだという。

 「アッシュさんごめん、比べられても想像が追い付かなくてよくわからない」

 素直な感想をアンは返す。

 「でしょうなぁ」

 知識としてはそうだと持ち得てはいても、実際にどういうものなのかは、人の身で体感する事は難しい。そう笑いながら言った。

 とりあえずは彼は戦力格差ゆえか余裕に構えている。"神"として慈悲かどうかはわからないが、こちら側に準備の時間をくれるのは願ったりかなったりだ。ありがたく使わせて貰う事にした。

 悪魔の実の能力者に対して、有効的な手段は基本的に弱点を突く事に限る。

 一番良いのは海へ叩き落とす事だが、あいにく空にはあの波打つ塩水は存在しない。形を変え雲、としてならば在るのだが、そこへ落とす前に青の空に身を翻すだろう。

 それとは別に、能力者の力を確実に削げる自然のものが存在する空に浮かぶ”ストロングワールド”もちらりと利用できそうではある位置にあるものの、出来ればそちらに関わりたく無かった。いらぬ敵が倍増してしまいかねない。

 と、なるならば、だ。

 個別の弱点を叩きつけるしかない。

 弟を例にとってみれば、ゴムは弾力があり打撃系には傷つく事は無いが、鋭利な刃物で切られたり、凍らされた場合にはその弾力の効力は無くなってしまう。ゆえに本体へダメージを負いけがもすれば血も出る。 エースの場合をとってみても、炎は水に弱い。天候が雨である場合、水飛沫がたつ場所で戦う場合、その能力を存分に使えなくなる。

 

 では雷の天敵は何か。直接的に考えて、電撃が通らないものを想像すればいい。

 すぐに思い付くのは、はやりゴムだろう。だが弟をこの場に連れてくる訳にはいかなかった。呼びに行けば嬉々として楽しそうだから行くと言った口で、やっぱ約束があるから行けない、と酸っぱいものを食べたような口をしてへの字で耐えるかわいい顔を見せてくれそうな気はする。

 けれどもビルカでの戦いは、エース率いるスペード団の冒険譚だ。ルフィ自身の物語はまだ始まってはいない。数年の後に始まりを封切る為、今という時間を最大限有効に使っているはずだ。

 だから本当はルフィが居た方がきっと楽しいし、エネルに対しても最も有効な手段をとれるが、ぐっと我慢した。

 

 次いで思い出すのは、ガラス、紙、テフロンといった絶縁物だろうか。

 ビルカの応戦武器である自動掃射される矢には海楼石成分が含まれ、かつテフロン加工がなされていた。これはアンの案を取り入れて作られている。

 青海で海楼石を採るには特殊な技術が必要なのだが、ここ空島では安易に生成出来た。なんでもパイロブロインという成分が空島や空海を形成しているそうで、地上であればわざわざ海楼石を採掘し、取り出さなければならない成分が空にはそのまま分子として固まったものが存在している。

 なので地上から、鉄とテフロンのふたつだけを持ちこんだ。ポリテトラフルオロエチレンは耐熱性に優れ、摩擦係数の低い物質として知られている。加熱によっても熱流動を起こさない。イコール、雷によって生まれる電流で溶ける事が無い上、海楼石の成分が実体へ突き刺さり、能力を封印する。

 矢の形状に固定したのは、作りやすさと加工のしやすさからだ。余り大きなものでは、住人の年齢を考えれば負担となる。

 

 ビルカに住む人々だけならば防戦しか選択肢がないが、今回はエースとアン、そしてツヴァイが居る。

 攻めは最大の防御なり、という名言通り、この人員が揃っているならば守るよりも打って出る方が効果的だった。なぜなら双子が覇気の使い手であり、ツヴァイは彼の故郷が誇る、知略戦の専門家だからだ。

 町の守備と撃ち逃した残党の処理を副船長に任せ、船長とその片割れが頭を砕く。

 

 武装色の覇気、これは体の周囲に見えない鎧のようなものを纏う力だ。鉄の鎧など比では無いくらいの固さを誇る。またこの力は身を守るだけでは無く、攻撃にも転用できた。実体の無い自然系(ロギア)に対し、実の能力を無効化し、その体の実を捉える事が出来るのだ。

 エースも悪魔の実の力を得て、実体をおぼろげな炎と変えた。

 普通の、なんの特技も無い、ただ武器を振りまわすだけの相手に対しては自然系の特色通り無敵となるがしかし、アンや他の覇気使いに対しては今まで通り回避もしなければならないし、拳を受ければ痛みもあり血も流れる。

 使い手を選ぶ覇気という能力だが、自然系だけでは無く悪魔の実の能力者全体へ、傷を負わせる事が出来るのだ。

 雷を弾くのも、もちろん可能となる。

 しかもアンは、限られた範囲ではあるものの海軍時代に能力者の力を封じる空間を生成出来るようになっていた。

 今後一切、ビルカに手出しが出来ないよう、仕置く事も可能だ。

 「数年ぶりの帰郷を忘れられない思い出にしてあげましょう」

 仄暗い、邪な笑みを横眼で見ながら、エースはほどほどにしろよ、とその頭をくしゃり撫でて後を双子が信頼を置く、副長に任せて共に往く。

 

 

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 頬に当たる向かい風は行く手を阻むように吹きつづけていた。

 だが白の雲海を進むカニ(・・)にはさして問題など在るはずも無く、もしも途中でカニがばて、運航が不可となったとしても風貝を取りつけた船はそんな逆風などものともせず進むだろう。乗り込んだ者達はそれぞれの手に持った杖を立て、口を真一文字に結んでいた。

 「エネル様、ああ、エネル様。あなた様の高潔なお心を痛ませ悲しませる、害悪までもう少しでございます」

 うっとりととした表情で語るのは、エネルを神と崇め、神官のひとりとして数えられる人物だ。名をタットワ、と言い、彼女は唯一エネルの側に侍る事を許された神官でもある。

 両手を組み、うっとりと彼女は瞼を閉じた。

 思い浮かばせるのは、(ゴッド)エネルだ。

 神々しい存在感は当たり前だが、空を統べるにふさわしい雷光の力を持ち、そしてあの万物を見下すかのような視線を思い出せば、心身が喜びに打ち震える。

 超特急カニの背に乗せられた、貝船の上でタットワはよれよれとしなだれた。

 「ああ…エネル様。あなた様の御許から離れるなど…この胸張り裂けてしまそうです」

 ビルカに向かう船に同乗している神兵たちは皆、神官の姿を視野の外に出し、出来るだけ関わらぬよう努めていた。もし目があったならば、そこからどれだけエネルが素晴らしい存在であるかを懇懇と、説き聞かせ始めるからだ。もしそうなれば目をそらすこともできず、中途半端に聞けば怒りを買い、まじめに聞けばそうでしょう、そうでしょうと終わりの見えない話が続くのだ。

 「ああ。エネル様。ワタクシの声が聞こえておいでですか」

 タットワは潤んだ瞳を神が座す島へと向けた。既に彼女にはエネルの存在を感じる事が出来なくなっていたが、それでも胸の内にある"神"の姿を思い描き、恍惚とした表情を浮かべる。

 

 スカイピアを出発した一団は、エネルが神の国を建国するにあたって尽力した、元ビルカに居住していた者達が中核となり編成されていた。

 そう。

 彼は、彼の両親が背負っていた栄光という陰に埋もれながら、ビルカという都市の中で同じく落ちこぼれ、日の目を見られない者らを取りまとめ、ひとつの集団を作り上げ軍団と化した。

 それが現在、スカイピアにて神と称するエネルの手足として動く者達だ。

 その中でも特に力を持つ、エネル自らが手を下し、鍛錬を積ませ心網(マントラ)を開眼させた5人の存在を神官と呼んでいる。

 そしてその下部として前"神"が使っていた神兵が居り、神の国(アッパーヤード)と呼ぶ大地にて、神の意を従順に守り人々を支配していた。

 本来はスカイピアの治安維持を任務とする神隊であるホワイトベレー部隊も今は住人を監視し、スカイピアへ辿り着いた入国者へ刑罰を宣言する番犬としての役割を、自ら喜んで買って出ているという。

 

 タットワにとって、否、彼女だけでは無く支配側にとっては、まさに神が支配する理想郷へと至る礎となっていた。

 

 

 悪い統治の仕方では無い。

 アンは何度かビルカを訪れ、スカイピアの現状を知るようになった時、エネルのとった支配の形を秀逸だ、と評した。

 なぜなら彼の目的はスカイピアに眠る、己の夢を現実にするための船を手にして運用することであり、スカイピアに住む者たちの感情などどうでもよかった。その土地を支配し、住人をも統治するのであれば、住民感情も視野に入れなければならないが、エネルにとって道端に転がる石よりも、空島に暮らす人々の命は軽く、生まれ故郷そのものへの嫌悪もあいまって、自分を慕う神官たちでさえ便利な道具としか見ていない。彼は手にした能力で恐怖を蒔き、罪悪感を育てた。そして咲く花の名は絶望という暗色の感情だ。

 そうそう出来る事では無い。だがこの支配方法を採れる人物もまた珍しい。

 その点に関しては、エネルという男は評価できた。効果的であるが継続性のない誰もがとらないであろう方法を自らの存在力を利用し、存分に行使しているのだから。

 

 エースはあからさまに嫌悪するアンに、不思議なものを見たと表情で語る。

 「わたしだって嫌いっていう感情くらいあるよ」

 頬を膨らませ、心外だと口にする。

 「行くぞ」

 アンはエースの言葉に頷く。手のひらを結び、向かってくる先兵が立てる蹄が聞こえる場所へと跳んだ。

 

 

 現れたのは白い雲を切りながらビルカに進行してくる船の真上だった。

 隻数は5、それぞれに5名ほどが乗っている。エースたちが居ない場合での30名は、侮ることなく兵力を差し向けてきた結果だろう。だがしかし、スペード団が助力している状態では足りない、と言わざるを得ない。たった30人。最低でも1000は持ってきてもらいたいものである。

 どこに誰が居るのかを把握さえすれば、後は殲滅するだけだ。

 アンはエースを、先頭をひた走る船の甲板へ飛ばし、自分も身を捻りながら、まずは雲海を横向きに走るカニへと向かう。そしてカニだけを、どこかに転移させた。座標などは決めずに、思い描くのは"どこか"という事だけだった。その後を深く考えていなった、というのもある。

 出現したとある青海のとある島ではとんでも無い騒ぎになり、ふわふわの身をふんだんに使ったカニ食祭りが行われるのだが、それはまた別の誰かの物語だ。

 

 カニが突如消えてしまった後の落下をものともせず、船は白海を進む。

 アンは雲海へ落ちる手前で、後尾を走る船の一隻へと転移した。

 奇妙な形の船だった。中央の甲板だけを覆い隠すような部位がある。今は開いているが、一体なんのためについているのかが解らない。

 前方では赤の炎が渦を巻いていた。まずは小手調べ、といったところか。

 悲鳴が上がり、一体何が起こったのかと確認を求めるいくつもの声が飛び交っている。アンが現れた船上でも、襲撃者を告発する声がいくつも発せられた。

 「何者だ!」

 (じょう)を構えた男に問われるが、アンはあえて無視をする。

 何者かと尋ねられて馬鹿正直に答える義理もな無ければ、この船を襲撃してはならない、とでもいう定めがあるのでも無し。確かにいつもの心の状態では無いと認めはする。

 この不愉快さに名前を付けるのだとすれば、嫌悪、が似つかわしいだろう。

 にこりと笑み、アンは包帯がかかっていない腕を伸ばした。そして掌を上に、指を内側に何度か招く。

 「さあ、誰からでもどうぞ」

 

 後方で船が勢いよく二つ折りになり、炸裂音を響き渡らせる様子を眺めながらエースは、必要最小限度の被害にておさめました、と胸を張るだろうアンのにこやかな笑顔を思い浮かべる。

 最近の進化が、ふたり揃ってとめどなかった。

 エースもそうだが、手にした力を試したくて仕方がなかったのだ。

 そしてどう使えば一番効果的なのか、有効使用するにはどういう条件下なのかを知るには、はやり実践するのが手っ取り早いともいえる。

 アンが青海だと呼んでいた、空に白海があると知っているからこその呼び名だったと今なら分かる---|偉大なる航路≪グランドライン≫では、これらの力を試す前に終わってしまうのが常だった。そう、スペード団が保有する戦力が、すでに前半の楽園で必要とされる実力を大きく上回っていたのだ。だから障害をものともせず、折り返しまでもうすぐというここまで上って来られた。

 

 ただ今回ばかりは、いつもとは何か違う。アンの感情が乱れている。

 理由も歩きながら教えられた。

 見聞色を苦手としているが故なのか、なんとなくしか分からない感覚だった。エースにしてみれば船で寝食を共にする仲間と、弟、特定の人物以外の心情に対しては雑音にしか聞こえない。後は戦いの時に相手の動きが見えるくらいだ。関わる人間が少なすぎるとは言われるものの、なぜ無関係の生きていくうえで関わらなくていいものたちにまで気をかけなければならないのかがわからなかった。

 

 「その杖を下からこっちに振りあげて斜めに、か。芸がねェな」

 まさしくその動きをとろうとしていた男が目を見開く。

 「おのれ心網の使い手か!」

 たん、とその男は後方に跳び体勢を立て直す。心網を使う相手にはそれなりの戦い方があると言わんばかりに、口角を上げた。だが次の瞬間、男の東部だけが炎に呑み込まれその場で喉をひっ掻きながら事切れる。エースは一瞥すらせず、半身に立ち、船上に降り立った人物を見た。

 「容赦の無い。ですが面白い戦い方をなさる。どのような技で?どのような道具で?どのような方法で?」

 心網(マントラ)使いでもあるというそれに向かってタットワは高鳴る鼓動を隠しはしなかった。

 「障りはお気に召しませんでしたようで、なによりですわ」

 

 くつくつと細長い指を紅の唇に当てて笑う女にエースは応じない。

 男の行動を読むまでも無かった、それだけの話だ。

 「下がりなさい。これの相手は私がしましょう」

 両手の指をすべて揃えたまま空に突き上げた女は胸の前で腕を交差し、

 「ワタクシの名はタットワと申します。死にゆく定めのものに名乗ることこそが"神"の威を死の国にも轟かす得策かと。ねえ、そう思いません?」

 そう、女は疑問符を口にした。

 船上に立つ姿は確かに妖艶といえるだろう。男であれば思わず見てしまう位の容姿だ。

 長く伸びた金を細く何本も編み、さらにそれを後方の一か所に集めて束ねている女は体の線がくっきりと出る薄手の服に身を包んでいた。それが己を引き立たせるのに、最も効果的だと意図しての意匠であると知っていたからだ。

 周囲に立つ男達も目のやり場に苦労している。

 うわ、すごい美人さんだ。

 違う船で船員を締め上げているアンの声が聞こえた。聴覚には木の破砕音がさらに大きく鳴り響いた。

 「そうか? おれはあんまりだと思うけどな」

 呑気にもそんな会話を交わしながら、エースは女と真向かう。

 見ているようで見てはいない。その双眸が映しているのはエースの像だが、その実、遥か彼方のなにかを結んでいた。

 「…そいつが元凶か」

 うふふふふ。

 なにが楽しいのかうっとりとタットワは青の空を見上げる。

 「解らないのですね。解るはずもございませんね。偉大なる"神"のご意思など、所詮、俗物には理解しえないのですわね」

 それも仕方がありません。

 女はエースににこりとほほ笑む。

 「"神"のうたたねを終わらせぬよう、ワタクシがお相手させていただきますわ」

 "sacrifice(サクリファイス)のタットワ"が。

 

 名乗りは上等だ。だがエースはその名を告げている最中に、女を炎の渦で巻いた。卑怯者と橙色の向こう側で女が叫んだものの、何事も先手必勝である。物語にあるようなどこかの王国に仕える騎士でもあるまいし、明確な敵対を表しているのだ。攻撃して何が悪い。

 そう思いながらエースはアンの攻撃パタンに似てきたなとほんの少し苦笑する。

 だが効果は上々だったらしい。

 

 

「崇めよ。我が、神なり」

 その男はまるで最初からそこにあったと言わんばかりに現れた。

 ぱりぱりと金のほとばしりが走り、白雲を進む船上へと突き刺さる。

 その表情は不機嫌だ。表情は無に近く、下がった両の口角は不平の心境を示していた。

 額から上を白の布で覆い、気だるく開いた三白眼、長く伸ばした耳朶が腰近くまでになっている。片膝を立てて座し、その肩に立掛けるのは金の杖だ。

 「"(ゴッド)・エネル"!」

 歓喜の声を上げたのはタットワだった。焦げた皮膚のまま服の端を揺らしその足元に這い、見上げる。

 「…未熟。折角の戯れも飽きてしまった」

 タットワはぶらりと垂れていた片足の下に自ら、体を差し入れ神の台座となる。

 その態度に幾分かは心象を満足させたのか、ヤハハハハ、という特徴的な笑いを上げ余りに退屈であったため、少しばかり早くに着たと告げる。

 「まだまだ甘い。帰って久々に修業を付けてやろう」

 それは彼、独自の支配の形だった。

 「…あ」

 小さく声を上げたのはアンだ。両者の間に黒薔薇背景が見えてしまい、思わず数秒呆けてしまったのだ。一隻の船を雲海内に逃してしまった。なんの為に使うのかと訝しんでいたものは、潜水時に使用する囲いだったらしい。

 さすがのアンも雲海に潜ってその船を追いかけられるほど、空に浮かぶ海を熟知している訳ではない。

 町に到達されるだろうが、ツヴァイに任せる。エマがこちらの声を拾っていると信じて、後は宜しく、と、メッセージを思う。

 アンは足場にしていた船に踵を落とせば船は真っ二つに割れ雲間に沈んでいった。この下に島がありませんように、とだけ願って。

 月歩で最後に残った船へと移動すれば、そこに残るのは神を名乗る男と、それに使える官、そして青海からやってきた双子だけとなる。

 

 「神を目の前にして頭が高い」

 顎を上げ、男はふたりを見下ろす。だがされているふたりは涼やかだ。

 「神様ごっこは楽しいか」

 口角を上げ、エースは余裕の装いのまま白い歯を見せた。

 瞬間、金の光が伸びるが、甲板にささった一本のなにかによって阻まれる。

 エネルは片眉を跳ねあげた。

 「女、なにをした」

 しかしアンはなにも答えない。心にも思わない。

 見聞色は大得意と言っても良い能力だ。自らを神だと名乗る、痛い人物に心情を悟らせるのは癪だ。これがまだヒーローに憧れる年頃ならば生暖かく見守れるだろうが、確実に、生まれはふたりより先であるだろう。

 不意にエースから名を呼ばれる。

 「なあに、エース」

 「顔に出てるぞ」

 「はっはー。隠すつもり無いもの。痛いよねぇ、ホントに。中二病は思春期で終わらせておかないと!」

 アンはにっこりと、これ以上無いという極上の笑みを浮かべ、毒を吐いた。

 

 

 真っ先に動いたのはタットワだった。

 敬愛する神に対して余りにも屈辱的な言葉を並べられたのに我慢が成らなかったようで、"心網(マントラ)"を使う時に必須とされる精神状態を平常に保つ、という事柄が出来ないまでとなっていた。

 だがそれしきの事で使えなくなるなど、ちゃんちゃらおかしな話だ。

 動揺などいくらでもする。その状態にたとえ陥ったとしても、冷静に判断を下せるように訓練するのだ。それを人は、緊急対応マニュアルとして文章に起こす。

 もしくは定期的に自分を断崖絶壁まで追いやり、精神的抑圧を経験しつづければなにが起こっても瞬時に動けるようになるだろう。

 双子の場合、大体が後者で成り立っているのだが、周りから言わせれば異常だと言われるに違いない。

 

 しかし素質があるとはいえ、5人もの人物に見聞色を開眼させたエネルという男は確かに才能を持っているのだろうとも思えた。

 ただ。そう多少目のやり場に困るくらいだろうか。

 胸のラインや腰、色づきなどが透けて見えてしまっている。

 恥じらいもひとそれぞれで、道徳が一律では無いこの世界で、恥ずかしいと思っているのはアンだけかも知れなかったのだが、それは二重の意味で仕方の無い事だと自分に言い聞かせた。

 「じゃ、女同士の戦いってことで」

 大きな島雲の群れへ、アンは掴みかかってきたタットワの手首をむんずと掴み、転移する。

 船に残された雷も、多少、日頃の運動不足を解消するかと言わんばかりに、怠惰に立ちその場で能力を解放した。

 「"神の裁き(エル・トール)"」

 普通の人間ならば電流を受ければひとたまりも無く、通電した体内は焼き焦げて命を失ってしまう。だがエースは炎でありかつ、武装色の使い手だ。

 「うまく避けたか」

 落雷による災いは、大電流によってもたらされるジュール熱が物体に被害を発生させるのが主な原因だ。普通の人間は電撃による感電ショックにより、髄に通電し死に至る。そもそも人間の神経は微弱な電気信号であり、ここに受け止めきれない大きな容量が通過すればどうなるか。さもあらん、である。

 しかし今回の戦いでは、物体に触れる事で起る熱の損傷は起らない。

 それはエースが自然系の能力者であるがゆえの特別仕様だ。

 足場にしていた船は見るも無残に炎上し、白の海上で煙を上げている。

 エースは空中でくるりとバク転し、そのまま月歩で身をひるがえした。

 「逃げるか」

 「お前こそ逃がしてやってもかまわねェんだけどさ」

 エースは余裕綽々のまま、肩越しに雷を見た。

 「けど悪い。何発か殴らせて貰うな」

 その言葉にエネルは薄い唇を歪ませる。神に歯向かう不届きさに加え、雷である自らを殴れるなど在るはずも無い。

 自らの体の事を、能力をエネルは調べ尽くした。どんな武器を使おうとも、物理攻撃に対しては絶対的な無効を誇る。

 どんなに、例え青海にあるという能力者の力を奪う石があったとしても、雷であり続けるならば存在し続けるだろう。まさしく無敵、絶対的な支配者であるのだ。

 「やれるものならば、やってみるがよい、小僧」

 エネルは明白な事実を思い知らせるため、背に負った太鼓により龍の顎門(あぎと)を開く。

 

 その頃アンは、弾力ある不安定な足場の上でタットワの主要関節を全て外し終えた所だった。虫の息となっているタットワに最後を下すか否か、思案していたのだ。本当であれば苦痛を長引かせるのはアンの本意に沿わない。だが流れ出して来る思考を遡れば、このまま放置し、生死の運命を世界にゆだねるという手もある。紅の誘惑がちらりとかすめるが溜息と一緒に捨て去る。

 「さてどうしようかな」

 手にしていた武器は雷男と同じ杖だったが、その錬度は半分にも満てはいないように思えた。いろいろと仕込んだのはエネルなのだろう。だが弟子は師匠が持つ実力の半分しか、教えによって会得できないといわれている。そこから自分なりに技の熟練度や自分にあった形を模索し、落とし込んでゆく。その過程を与えられていないのだろう。

 「十分なんだろうけれど。弱い者いじめをするならば」

 そう、その技をなんの受け身も取れない一般人に行うのであれば脅威だろう。

 訓練を受けた青海4方向の支部勤めから出た事の無い海兵でも危うそうだ。

 本部で日々、上官の元で心も体もぎりぎりまで追い詰められている兵たちであれば良い勝負となるだろう。そして少佐か中佐位になると、現在のアンと同じく物足りなさを感じながら倒す事も出来るレベルか。

 

 「…ああ、エネ、ルさ…ま」

 タットワは5人の神官の中で最も優れた能力の持ち主だった。

 『沼』『鉄』『玉』『紐』の試練を受け持つ同士達のさらに奥、生贄の祭壇を担当し、ゆるゆると生贄に選ばれた者達をその場では無く、森へと誘い神の偉大さと威厳を語りながら安らぎの彼方へと送り出してきたのだ。

 神兵よりも、神官よりも神であるエネルの側に侍る事こそが矜持だった。

 負けるはずがない。

 負けるなどあってはならない。

 甲高い叫びが放たれる。

 本来あるはずの場所から外した関節は、激痛を発する。動くことなど出来ず、動いたとすればそれは、神経を押しつぶすと同意だ。気を失ったとしてもおかしくは無い。

 「…すごい精神力」

 アンは、女の妄執ともいえる感情に声を漏らした。

 ふらり、ふらりと不確かな足取りのまま立ち上がれば、体中に激痛が走っているのだろう、息を吸うのも吐くのも、引きつる高音が赤に染まった唇から出る。

 「神の恩名を、讃えなさい!」

 タットワは既に戦う力を失っていた。だがそれがどうしたのだ。痛みなどその内に、快楽へと変わる。痛みなど神の元に居られなくなる事を考えれば、些細だった。

 唯一残っているのはこの心だ。

 指をかぎ状にし、声を上げて走った。

 実際には走れてはいないのだろう。

 だがタットワはその爪で一撃を与え、崇拝する神の絶対が揺らがぬように努める事も、神官である意義であると固く信じた。

 だから己の身がどうなろうと、神が神の座にあるのであればそれで満足できたのだ。それが狂気であるというのなら、喜んで彼女は肯定するだろう。

 「ならばそれを、わたしは否定しよう。たとえ偽善と言われたとしても」

 アンは伸ばされたタットワの掌を受けた。

 包帯が巻かれたその上に、手入れされた爪が突き刺さる。

 もうひとつの手が首へと伸びるが、それは手刀により払う。そしてアンは手首を手前に曲げ爪を抜くと、そのままタットワの手首を握り肘の関節を折る。

 人骨がどういう風に軟骨により繋がっているかを知っていれば容易い。

 そして腰紐に挿していたナイフを引き抜く。10年以上、使い続けている手の延長ともいえる道具だ。

 そのまま後方へ回り込み手にしていたナイフに覇気を込め、無感情に首を刎ねた。

 赤が噴出し、くぼみへと貯まる。

 ほんの数秒、意識は残るだろうがもう、痛みは感じないはずだ。

 アンは足元に転がり、骸と化した元神官へ憐れみ線を落とす。

 タットワと名乗った人物は、ものの数分でただの肉の塊へと化した。

 

 息を、つく。

 噴出が止まった体を横たえ、転がった頭部を拾い元あった場所に近い所へ置いた。

 「恋は人を盲目にするっていうけれど」

 アンは息を、もう一度ついた。

 女にとってはきっと、心の救い主だったのだろう。

 ころり。

 女がしていた腰の飾り布から、炎貝(フレイムダイアル)熱貝(ヒートダイアル)が転がり出た。

 「使えなかった?それとも使わなかった?」

 空に住む人々はこれらを武器に戦うのだという。拾いあげながら、揺らめく陽炎から目を逸らし、アンは今も続く青い空に咲いた金と赤の色彩に視線を向ける。

 

 エースは楽しんでいた。同じ自然系である雷男を相手に、今まで試したくても出来なかった、温度変化を初めとする技など用いて戯れている。

 対するエネルは必至の形相になっていた。

 余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)とした、誰かれ問わず見下げるような視線はない。

 怒りや焦り、そして恐怖。

 今まで与える側だった男が、享受する側にまわっていた。

 しかもまだ20という年月も生きてはいない、青年によっていいようにあしらわれているのだ。井の中の蛙ならぬ、雲の上の雷とでも言うべきか。

  エネルが雷獣(キテン)という狼を(かたど)った電撃を放てば、エースは両の指を交差させて作った十字火(じゅうじか)を放ち炎で巻いた。

 腕を性質である雷に変え肉弾戦を始めれば、指先から炎を弾丸のように撃ち出しつつ、ふたつ名の由来となった火拳による攻撃で雷を透過させる。

 

 同じ自然系同士の戦いにおいて、最も重要になってくるのは(つかさど)る自然物同士の関係図だ。

 例えばエースが食べたメラメラの炎は、ケムリンの煙に対して相殺の関係にある。なぜなら炎が発生した後、燃焼された物質の残りかすの証として発生するのが煙だ。同系列の近しい間柄、というより事後であるためお互いに技を放ったとしても殺傷には至らない。煙は炎の威力を弱められないからだ。

 そして雷男とエースの関係だが、これもまた同系列の近しい間柄となる。

 電気抵抗により生まれるのは熱だ。エースはその熱の塊ともいえる炎であり、その温度は瞬間的であれば白、にまで至る。

 よって幾ら両者が攻撃しあったとしてもダメージを蓄積することはない。

 ただエースは覇気使いだ。

 

 エネルはなにが起っているのか解らなかった。

 手足である神官も、手負いの小娘の手により消失した。想定外が次々と積み重ねられる。驚愕の表情をさらけ出していた。

 相手は自らと同じ自然系の能力者であり、同じく物理攻撃が効かない炎であるとは解った。その力もお互いに無効化し合い、全く無益であるとも撃ち合い解った。

 だがしかし、青海のサル一匹はエネルの体を傷つけていた。

 無効化ではない。

 天敵でも無い。

 炎である事に理由があるのか、それとは違うなにかがあるのか。

 どちらも心網の使い手であるのは確かであった。

 「ならば!」

 形ある雷であるならばどうだ。

 エネルは手にしていた杖を"雷治金(グローム・パドリング)"し、矛を形成した。

 伝導率の良い金属であるからこそ出来る、武器の生成だ。

 

 エネルはその身を雷に変え、瞬間的にエースへと切迫する。目で追える早さでは無い。呼吸をする行為が終わらぬ間に、姿がそこに現れる。

 だがエースはエネルの行動を前もって予測したかのように、掌を雷が持つ矛があるだろう場所へ伸ばされていた。

 熱源により矛が溶け、どろりと雲間に金が落ちる。

 そしてエースは叫ぶ。双子の名を。

 

 

 

 

 



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63-蒼穹の白(4)

 戦いを見て学ぶ。

 技の掛けあいや間合いの取り方、そしてその人物特有の呼吸など自分自身の体を動かす際、イメージが可能であればそれを思い浮かべながら何度も反復行動を練習出来る、という話をどこかで聞いた事があった。

 それは友人だったか、近くにあった道場を覗いた時に聞いた話であったのか、はたまた祖父からの言葉だったのか。

 アンには両者の戦いを、会得する事は出来ない。

 なぜなら双方ともが自然系の能力者であり、その力を根本として戦っているからだ。

 

 そもそも雷は刹那、炎は永続と存在する形態が違う。

 エネルが本当に天狗であって良かったと、アンは心の底から思った。

 もし雷というそのものの特性をもっと熟考しており、その力を如何なく発揮できるようになっていたならば、エースはともかく、アンは、即死していただろう。しかも世界のありようを変えるなど造作も無い位の力を保有している。地上では無く、月に意識を向けてくれて本当によかった。

 

けれど、とほんの少し残念におもえてしまう。彼の心が壊れて弾けていなければ友人になれたかもしれない。

 大海賊時代の幕開けを己の命を最大限に利用して大々的に世に公布した父、ゴールド・ロジャーの世代を親に持つ次世代、つまるところアンやエース、ルフィやサボが位置する20代までの若者たちが最も貧乏くじを引いていると断言してもいい。

 

 親に恵まれなかった子が、どれほど多いか。

 

 子供は生まれる前に親を選んでくるとか、生まれてくる子を親は選べないだとか、そういう水掛け論は棚上げする。したうえで未来、最悪の世代と呼ばれることになる各々が持つ因縁のなんと複雑なことか。

 

 アンは小さく溜息をつく。

 ちらりちらりと姿をチラ見させるだけで、まったくアンには接触してこない影が三つほどあるのだ。そのひとつは世界政府にあり、もうひとつは海賊同盟の中にあり、そしてもうひとつは高みの見物を決め込んでいるそのどちらからも独立したモノだ。

 

 世界政府は歴史の空白を作りすぎだし、海賊たちは好き勝手に動いていながらも実のところうまくころころと転がされているし、父ほどさだめを利用しつくした人物も珍しい。アン一人で世界をひっくり返せ、などと言われても承知できかねる。いいところ父の跡目を継いだ世界の小間使いといったところか。世界が今までありえなかった分岐点を作り、そこに繋げるための準備しろとこれでもかと用明を山ほど目の前に積んでいくし、で頭が痛かった。

 

 エースと神を名乗る雷男(エネル)の戦いは続いている。

 もしかすると、エネルは救いを求めているのかもしれない。内に、ではなく外に。そう考えればアンが彼を嫌う理由が浮かび上がってくる。

 アンは内側に求め、彼は外側に求めた。

 似た者同士、この言葉がしっくりと当てはまる。

 生まれる時代と場所さえ違ったなら、きっと友達にはなれただろう。

 

 まあ、現世では無理だが。

 あの性格のまま友人になってみろ。会うたびに拳を交えた喧嘩が勃発する。それに雷自体があまり好きではない。きっかけだったのは認めるが、あの瞬間、自分の身がどうなったのか想像すらしたくない。生まれてくる前の死因や恐怖など、精神衛生上かなりよろしくないのである。

 

 

 さて、と。

 アンもただ単に、エースとエネルの戦いを見ている訳ではない。

 神官ひとりと神兵のほぼ7割を沈め、船もきっちりと破壊したその後、しっかりと観察していた。破壊物はこのまま放置していても白々海から白海、そして青海へと時間をかけて落ちてゆくだろう。神官には最後を手渡したが、神兵に対しては多少手心を加えた。運が良ければ白海から這い上がって来る者も出るかもしれない。そのまま青海に落ちればきっと、波乱万丈の人生が幕を開けるだろう。その後の人生は彼らそれぞれが持つ幸運により、未来の選択肢が示される。

 

 黒薔薇背景のお陰で通過してしまった1隻が町へと至りそうなのだが、ツヴァイが陣取る真っ只中に突っ込んでゆく彼らを密かに気の毒だとおもいつつ、彼らの幸せを祈った。

 副長であるツヴァイは、ある意味、冷淡だ。

 エースがこれくらいでいいか、と判断し、放置する事柄であっても、そのままにしておくと船に乗る仲間に何かしらの実害があると結論したならば、そっと入れ替わって禍根を断ちに行く。

 そうして今回、彼が考えて張ったトラップの種類は実に50を超えているようだった。よくぞ30分でこれだけの罠を、最善だと思える場所へ配置し、それを有効に使えるまでに設置したと感嘆すら出る。出来れば屋内、都市戦では敵になりたくない相手である。

 ビルカの方はきっと、大丈夫だろう。兵器を使わなくとも狙った獲物はしっかりと餌に食いついてくれたし、万が一内部にある町まで侵入されたとしても、ツヴァイが全て処理するに違いない。彼の飛び道具の腕はかなりのものなのだ。

 ぱっと見、優男の外見だが、たった一本の弓で首を狙い撃ちし、落とす技量を持っている。任せても不安は、全く感じていなかった。

 長が肉弾戦派で問答無用で最前線に突っ込んでゆくタイプだと、おのずと副船長たちは長距離支援系になるのだろうかとふとおもう。

 

 名を呼ばれ、アンは力を解放した。

 いくら血液を分析してもどういう理由でそうなっているのかが全く分かってはいない、海楼石成分を含む血による空間形成を行う。本人も海軍へ入隊するまで、保有している事実すら知らなかった。発見したのはDr.ベガバンクだ。”なにか”に使えそうだと、何度も血を抜かれたのは、良い思い出と言えるのだろうか。

 この力は能力者にのみ有効で、多くの人間に対しなんの意味も持たない。

 海軍という多くの能力者と出会う可能性がある組織に所属してこそ、有効に使える力だ。航海者となったエースにくっついて来て以来、最小でしか使わなかったその力を、久しぶりに最大範囲で翼のように広げる。

 

 上空で能力をぶつけ合っていた両者は、特異な技能により自然系にまつわるすべてが不使用状態に陥り、弾力のある島雲の上へと降り立つ。

 エネルは黙して居れば端正なその顔を歪め、舌打ちをした。

 なにをしたと仮に尋ねても、きっと目の前の小僧は答えないだろう。

 そう判断する。

 だが何が起こっているのかは把握した。

 いつものように体を雷に変えようとしても、その現象が起きないのだ。

 青海に能力者の力を封じる道具があると聞いた事があった。

 それを使っているならば、それを破壊すればよい。

 持っているのは対峙する男では無く、女のほうであろう。

 エネルはエースに握られ、矛の一部を溶かされたその次には、手元に残っていた金を使い細みの剣を生成していた。それを振るい距離をとりながら着地する。

 「神を不敬に扱った報いを受けるがよい」

 

 エースは雷男がその台詞を言い終わる前に、駆け出していた。

 わざわざ言い終わるのを待ち、正々堂々と戦うなどおかしな話だからだ。それともこの雲の上では口上が終わるまで手出ししてはならないという決まりでもあるのだろうか。

 低い体勢を保ちつつ走り込んだまま、相手のみぞおちに向かい拳を叩きつける。雷男の体はくの字に曲がり、エースは下段からの蹴りを顎に向かって振りあげた。だがエネルも黙って攻撃を受け続けたりはしない。下りていた片腕を咄嗟に首下へと上げ、蹴りが喉元へ到達する前に受け切る。そうして剣を持っていた腕を斜めに薙いだ。

 エースは慌てて体勢を、振っていた足に力を込め月歩を使い宙を蹴った。

 後方に勢い良く引く体から、なびいた髪が一房、エネルの剣に散る。

 「ほう、」

 エネルは能力を封じられたのが自分だけでは無いと、片眉を跳ねた。

 そのまま円を保つ。直線では無く揺らぐこの葉のように自由な曲線を描きながら、エースを雲際まで追い詰める。

 剣の形状は細く平らだ。突剣といった方がしっくりくるだろう。

 薄い唇を歪め最後のひとつきとばかりに力を込めるが、刃の先に炎は存在していなかった。

 エースはアンが転移させた場所で、火炎をいくつも並べ、前方向に打ち出す。しかもそれは3連、連なってだ。

 アンも必死にその火の玉を避ける。どこのシューティングゲームだと思わんばかりの弾丸乱舞だった。これをなんと言っただろう。そう、弾幕だ。縦スクロールの画面で、敵弾を避けてもしくは無効化して出てくる、残機を無情にも次々に減らしてゆく敵に立ち向かうゲームだ。

 閃いての使用だったらしく、威力は均一では無い。ただ幾つかは雲間をつき抜け下に落ちたような気もする。危ない。下の海を航行している船がありませんように。

 

 「ほほう、」

 その口元は面白そうに上がっている。

 どうやって移動したのか、そして全ての場所で能力を使えないかと思いきや、力を具現化出来る地点も存在していると知れば、エネルは距離が開けば開くほど被弾確率が下がるその技を軽々とかわし、青を見上げた。

 次にその目を細めながら見たのはもう一匹の子猿だった。

 面白い能力を持っている。今進めている計画に組み込めば達成が早くなるかもしれない。目的が当初の予定より、早くに実現できるならば使うべきだ。

 思考は早い。

 「小僧、お前を這いつくばらせた後は、あの女を我が飼ってやろう」

 くい、と唇についた汚れを指で拭えば、同等の条件であれば敗者になるはずがない、と言わんばかりの態度をエネルはとる。

 「やれるもんなら、やってみろよ」

 エースはその挑発に乗り、空から急降下した。

 

  アンは視線だけでふたつの色を追いながら、この後どうしようかと考える。

 背筋にぞくりと悪寒が走ったような気がしたのだが、あえて無視した。

 アンにとってみれば、ここでエネルが倒されなくても別に構わなかった。無責任だと言われるかもしれないが、ビルカに手を出されなければここで解放してしまっても良いのだ。スカイピアに住む住人達が、苦難の日々をこれからも続けなければならなくとも、だ。

 支配される事に仕方の無いと抗いもせず、今を受け入れているのであれば、それに対してわざわざ手を出す謂れも無い。助けて、という心からの言葉がなければ手を伸ばせない。

 ただエースとの対決で、どことなしかエネルを強化してしまっているような気がしないでもない。男達の対決(バトル)は、なぜかそれぞれを、良し悪しは別として成長させるのだ。おつむが少々単純明快すぎる弟が果たして乗り越えられるだろうか。不安すぎる。なんとか雷男の他の能力者と戦った記憶だけでも、ゼロの状態に戻したいところではあった。

 「…なんだか時の足跡が聞こえるんだよね」

 未来という時間軸の先は不確実が多いのだが、この予感は確定事実であるような気がした。きっとルフィは仲間と共に、この空へくるのだろう。

 「まあ…ダメだったとしてもルフィとその仲間たちにお願いしよう、そうしよう」

 決めれば早い。丸投げた。過去に投げられたいくつかの賽の目がそろそろ確定しそうな頃合いなのだ。その事象のど真ん中を突っ込んでゆく弟の成長に雷男が必要だったと意味不明な決定を下す。

 強迫観念にも近い月へ至りたいと言う私欲願望を叶えるため、利用されている人々には同情する。けれど被害者に甘んじているスカイピアの民には、もう少し苦難の中に身を置いていればいい、とも思えた。

 英雄が現れて、なんの代償も無く救ってくれるのは、物語の中だけだ。

 例えエネルという神を名乗る不届き者を倒せる技量を持っていたとしても、振るうつもりは毛頭なかった。身にかかる火の粉は払っても、エネルの野望を阻止するのは別の誰かでありアンではないからだ。どこぞの元神様には今回のあらましは気に入らぬだろう。だが今こうしてアンが対応しているのは、ビルカにちょっかいをこれ以上出させないために他ならない。

 目的は欲をかかず、一つに絞るべきでもある。

 

 エネルも環境に翻弄された存在だった。時代が悪かったとしか言いようがない。

 だが今はまだいい時代だ。なりゆきとはいえ父と祖父が組んで堕とした巨星はかなり大きかった。あの団体がいまでも一塊であったなら、世界は阿鼻叫喚の地獄絵図になっていただろう。分裂した今でさえ、アメーバのように増殖し続けているのだ。またくっつくとか身震いしかない。反発しているからこそ、ひびの入った器の中でなんとか保っていられる。

 

 もしあちらの世界で彼が生まれていたらどうだろうか。

 人を惹きつける魅力を持ち、出会いを、関係を招くという福耳の持ち主でもある。

 導く師がきちんとあり、今と違った途を歩んだとしたならきっと、神とは崇められないだろうが、人々から感謝される立場には立っていただろうと思える。

 

 アンから見れば、今の雷男はどこぞの新興宗教のボスにしか映らなかった。

 人をひれ伏す力があっても、自分で神を名乗るのはどこの夢見る少年なのだろうか。しかもエネルの元に集っている者達は、一枚岩でも無いらしい。タットワのような愛情…と言っても良いモノかは分からないが、盲愛しすべてを捧げている者、その力に憧れ帰依している者、恐怖という精神の鎖により畏怖している者、そして威を借るキツネのごとくその力を利用している者、と様々だった。

 

 あって当たり前。

 当たり前なのだろうが、なんとも世知辛い話でもある。

 それに比べればエネルはまだ、方向性は斜め向いてどうしようも無いとはいえ、まっすぐなのだろう。

 「ほんと何をどうすれば丸く、おさまるかな。清算を未来に託さないでいただきたい、ほんとうに」

 

 そんなもやもやとした感情に、雷男と対峙していたエースが溜息をついた。

 よそ見している余裕に、エネルから剣の薙ぎが連続で仕掛けられる。エースはそれを上半身をそらせて避けた後、ブーツで剣を持つ手を蹴りあて腰を捻り、低い体制のまま足払いをかけた。

 受けて転倒するかと思いきや、雷男は足場の悪い島雲の上で両足を踏ん張り、耐える。

 しかしエースは両の手で支えた体をもうひと回転させ、脇腹を膝を曲げ振り抜くと同時に踵をハンマーのように振り抜いた。大ふんぱつで鉄塊付きだ。

 「、かはっ」

 エネルの眼球が白をむく。

 自然系(ロギア)の体を手に入れてから、痛みを感じない生活を送っていたからなのだろう。随分と苦痛に対して、弱かった。

 東の海で炎の体となってしまった後、絶対に忘れてはならない感覚として、痛みを真っ先に挙げたアンには感謝せねばならないだろう。

 

 (うし、エネル撃沈。いえす!)

 もうひとりの自分と言ってしまってもおかしくは無い半身が、ここまで感情を顕わにするのが珍しかった。それと同時に、一体何に対して心をざわめかせているのかと興味と不安が胸をざわめかせる。双子として生まれたとはいえ、大概の事は秘密には出来ず、共に垂れ流しの状態だが、アンには幼い頃から立ち入れない扉があった。鍵はかかってはいない。だが開いても壁が見えるだけで、その先へは立ち入れないそんな場所をアンは心の奥底に持っている。

 

 いつかそこに何があるのか、教えて貰えるのだろうか。

 そんな事を考えながら拳を握れば、炎が揺れた。

 「おっと」

 エースは掌を振り紅を消す。いつの間にかアンが張ったドーナッツ型の力場から抜け出ていたようだ。

 いつからそういう、能力者の能力を制限するなどという摩訶不思議な現象を起こせるようになったのか、エースとしては不可解でしかない。

 そうそうあれもだ。心を寄せている時、もう一方の体、エースがアンの体を動かせるようになっている時、エースの体はいわゆる仮死状態になっているという。

 

 ひとりでアンを、海軍に行かせたのは間違いだったかと眉を寄せるがしかし。ルフィをひとりでダダンのところに放置するなど、そういえば考えたこともなかった。

 

 「お疲れ様」と下からいつもの柔らかな感情を含んだ声が聞こえた。

 とげとげしい気配ではない。いつもの穏やかな、それでいておおらかな感情のが伝わってくる。傷が開かぬように、船医にぐるぐる巻きにされた白の片手が、大きく振りまわされていた。

 世界が求め生み出した時の平定者。その能力はメラメラの実や、雷男が食べた悪魔の実よりも、えげつないと思うのは自分だけだろうかと、エースは思いながら手を振り返した。

 

 疲れた?

 にこやかに迎えてくれたアンに、エースはがしがしと髪を掻く。

 なにをしようとしているのか。繋がる思考で解ってしまっていた。

 本当にそんな事が出来るのかと、かなりの不審はある。あるのだがアンが言うにはやってみなければわからない、である。もっともではあるが、どうも胡乱な目で見てしまうのは勘弁してもらいたいところだ。

 「…ほどほどに、な」

 「うん、分かってる。ほどほどに、ね」

 本日何度目のほどほどかと、アンは唇を弧に描く。

 そしてゆっくりとエネルへと近づいた。

 

 半ば意識を失っている、自称、神様の耳元へ唇を寄せる。

 とある本には語り始めが大切だと書かれていた。出来るだけはっきりとした言葉遣いを意識して話かける。

 今日あった事は全て夢。

 ビルカという国は、あなたが既に崩壊させあとかたも無く空に消えた。

 生き残りなどいない。なぜならあなたが全て壊したから。

 神兵たちが減ったのは、戦士たちの仕業。シャンディアの戦士たちにより、襲撃を受けた。

 

 今日あった事は全て夢。

 あなたに仕える神官は4人、タットワはあなたの心の中だけにあるあなたの下僕。

 目が醒めれば忘れてしまう。

 眠りの中だけの存在。

 

 神であるあなたに敵うものは居ない。

 無敵ゆえ、神。

 誰もがあなたを怯え、崇め、奉る。

 不可能などありはしない。あなたは全能なる神、なのだから。

 あった事は全て夢、うつつでは無く、夢よ。

 

 「……ゆ…め…」

 

 「そう、これは現に見る夢」

 囁く声は温かさに満ちていた。母が子供に語りかけるような、優しげな抑揚に、エネルは思わず耳を澄ませてしまった。

 「ビルカという都市はもう、存在しない。声も聞こえない。そこにあるのはただの虚空」

 

 あなたには見えない、聞こえない。幻の中にあるものなのだから。

 

 

 人間は誰しも、消し去りたい記憶を持っているものだ。

 幼い頃に遡るほど、後から聞けば身悶えしてしまうような、本人が覚えていない恥ずかしい話が飛び出してくる。特に自分より大人で見守ってくれる立場にあった人物が、そう言えばこんな事もあったよね。そう話し始めたら危険信号だ。両耳を塞いで終わるのを待つしかない。無理矢理止めさせても、後日、あの時の続き、となってしまう事が多い。

 アンは自らを最強と豪語していた自尊心を崩され、朦朧とした意識状態にあるエネルへ、暗示する言葉を伝えているだけに過ぎない。外界からの刺激や概念が締め出され、心そのものが真っ白になっている状態だと思えばいいだろう。

 アンが知識と知っている催眠術は正確な技では無かった。

 見かじりの、似非ともいえる。

 だからかかってくれるかどうかは、はっきり言って賭けだった。

 効いてくれれば御の字で、もしだめだったとしても、何らかの形として精神に作用してくれれば、当分は攻めてくる事は無いだろう。とも思う。

 勝手に思っているだけなので外れるかもしれないが、そうなったときはなんとかビルカの民だけで応戦して貰うしかない。

 

 エネルが座す椅子があるだろう場所へ、アンは男を跳ばした。現地に行った事が無いため適当に転移させたが、あちらでなんとかしてくれるに違いない。柔らかなベットの上に優しく送れるほど、アンはスカイピアの立地を知らなかった。間接的に知った、神の社なるソラマメの蔦のようなねじれた蔦の上にある島雲に上くらい、としたから、たぶん到着はしているだろう。

 

 そしてふたりはビルカへと戻る。

 

 待ち構えていたのはツヴァイだった。

 両腕を組み、テンポよくリズムを刻む片足がなぜか怖い。

 トラップマスターという称号を短時間帯で会得していた副船長に、アンは賞賛の拍手を送った。

 「たった3つの罠で7人を仕留めたんだ」

 「すげェな」

 双子は興奮冷めやらぬビルカの人々から出迎えを受け、どういう風に侵入者を沈めたのかを教えられた。

 しかし雲上での様子をエマから聞いていたらしく、敵の群れに飛び込んだふたりへ説教が開始される。船長であるエースと、その同腹であるあなた方を失えば、私たちがどうなるか分かっててやってますかと、正論を聞かされ続けて早数十分。深々と下げたふたつの土下座謝罪と今後の改善策提出を引き換えに解放して貰えた。

 お目付け役として着いてきたのに意味が無いと言われ、物珍しさ故の随行では無かったのかと冗談めいて言えば、また諭されてしまう。

 「まあともかく効けば僥倖、そうでなくとも牽制にはなってたらいいかなぁ」

 アンは広場の椅子に座りながら、あくびをかみ殺す。彼との結末を住人達へ話していたのだ。

 能力の使い過ぎは睡魔を呼ぶ。黄猿をはじめとする大将達や義祖父に鍛えられ、大分保つようになっていたが、今日ばかりは限界がきてしまったらしい。持ち得る殆どの力を全て出しきった。

 

 ウォーターセブンへ戻るのは明日でもいいかなぁ。一日くらい、大丈夫だよね。アイスさん居るし、フランキーも生きてたし。会いに行きたいなぁ。でもでもそうしたら、ルッチが気付きそう。意外とカリファも鋭いしな。あー、ココロさんとも飲む約束してるんだった。トムさんからの言づけも話さなきゃ。

 と考えていると瞼が自然と落ちてきた。こっくりこっくりと船を漕ぎながら体を支える腕に力を入れるが、もう抗えない。無意識の向こう側から延びた手につかまってしまった。

 

 後ろへ反りかえった体を支えたのはエースだった。空に浮いた手を掴み損ねたツヴァイが安堵の息を吐く。突発性ではなかったが、双子は揃いも揃って心配をかけさせるのだ。それだけ周囲を認め、必要としてくれているのだろうが、如何せんところ構わず意識を失うそれだけはいつも勘弁願いたかった。

 「おっさん、悪ィが寝かせられる場所、あったら貸してくれ、じゃねェ、ください」

 

 いつもこう言えばいいよ、と教えてくれる存在は現在、夢の住人と化している。なんでもかの船長は目上の人物と会話することがほとんどなかったのだという。年上であっても感謝はしても尊敬できない大人ばかりだったとか。島から海に出て来、一発本番の実地研修を経てようやく、必要であると実感したらしい。

 

 意図は伝わるものの、敬語であるかと聞かれたら微妙な選択だと言わざるを得ない語彙に、副船長を任せられた男は苦笑する。

 

 独学で学んだとは思えないほどツヴァイの目から見て、アンは礼儀をわきまえていた。しかも船長から聞いた話によれば、生まれてからずっとそうなのだというのだから、かなり特殊な家庭環境であったのかと邪推してしまったほどだ。

 

 時すでに遅しの状態ではあるのだが、海賊という言葉にこびりついてしまった粗暴感はどう足掻こうとも払しょくできないほど浸透してしまっている。長い時間をかけて形成され内包された固定観念ゆえに、多くから海賊とはそういうものだと最初からおもわれてしまうのは致し方ない。

 とはいえある程度の規律があるほうが人間、動きやすいのも確かである。縛られすぎると窮屈だが、無ければ迷ってしまうものなのだ。海軍にも所属していたアンが居るためか、なんとなくではあるもののスペード団ではいただきます、ごちそうさまの挨拶と感謝と謝罪のやりとりは頻繁だった。あとは外食の際にも後片付けがしやすいように食器をカウンターまで持っていくおりこうさんまで発生している。

 

 「こっちに連れておいで」

 エースは老婦人に呼ばれ、とある家のベットを借り、その姿を横たえた。質素ではあるが掃除の行き届いた気持ちの良い部屋だった。聞けばいつも空島を訪れた際、泊っていく部屋なのだと言う。

 不意にエースのハーフパンツが弱弱しい力でくいっと引っ張られた。

 「お兄ちゃんの炎…とても綺麗ね」

 包帯の少女がその碧の目を見上げていた。

 エマだ。

 かつて雷により発生した炎により全身の皮膚が焼けただれ、食事をで使う火ですら怖がっていたという少女が笑む。

 「きて?」

 エースは呼ばれるままに少女へついて行く。

 そうすれば温かみのある木製の家具が置かれた一室へと入った。

 少女の部屋なのだろう。

 可愛らしい人形がベットの上に幾つも置かれている。

 

 「これ、お兄ちゃんにあげる」

 差し出された物は連なった赤の貴石だった。老夫人がドアから顔を覗かせれば、白々海でも滅多に獲る事が出来ない大炎貝が育てる赤の珠だという。

 少女の両親は、海に出て漁をする狩人だった。

 「私のところにあるよりきっといい。これは星の色。空に瞬く、命の色」

 

 お兄ちゃんを見たから、もう怖くない。

 だからあげる。

 背伸びをする少女に、エースは被っていたテンガロンハットを脱ぎ、膝を折って首を下げた。

 エマはありがとうと言いながら首飾りをエースの頭に通す。

 

 「炎に強いから。お兄ちゃんが燃えてもきっと平気なの」

 エースは首にかけられた赤珠に触れ、そしてくしゃくしゃと包帯から出る茶の髪を撫でる。

 「くすぐったい」

 エースはその頭に、ぽすん、と帽子を乗せた。

 「くれるの?」

 「いいや、貸すだけだ」

 「じゃあ、取り返してみて! それまではわたしの!」

 声を上げて笑いながら走りだす少女に、なぜアンがここまで入れ込むのか、なぜあちらを冷酷なまでに切り捨てるのか。ほんの少しわかったような気がしながら、少女を追いかけ、その家を後にした。

 

 やすらかな眠りを邪魔せぬように。

 



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64-あわとしずく

  赤い土の大陸間近にあるシャボンの島に辿り着いたのは、ウォータセブンを出発して16日目の夜だった。甲板の上で繰り返される、耳に慣れたさざ波を聞きながら星を見上げていたエースもむくりと上半身を起こす。神経を使う接弦が終わった甲板では船員たちが協力して錨を下ろし、帆をたたむためのロープを引っ張ったり、マストに登った身軽な者たちが手繰って折りたたみ、それを固定化する作業をしていた。

 「もう半分、か」

 それともまだ半分か。エースはゆっくりと言葉をかみしめる。育ったあの島を出てから長かったような、短かったような、複雑な気分だった。振り返ればいつの間にか集まってくれた仲間と世界を分かつ壁の近くまでたどり着いている。

 手のひらを握りしめ、開く。海に出て手に入れたいと願っていたものは、着実に手の内に組み上がりつつある。だがそれが心の底から本当に望んでいたものではなかったものだとも気付いていた。

 足りない。満たされないなにかを得ようと足掻くだけ、乾いてゆく。そもそもがマイナスからの出発だ。果たしてこの海にいつまで揺蕩い続ければ手に入るのだろうか。半身のようにたくさんの人と出会えばなんらかのヒントがあると考えたが、いまだエースが抱える疑問にこたえは出ない。

 無意識の舌打ちが小さく鳴る。

 

 ニュース・クーが運ぶ新聞には今年の新人、火拳が新世界に一番乗りか、という記事も出ていた。今までの最短がこの記事を書いた記者が所属する世界経済新聞社が把握する限り双子岬周辺を出発点とし、9カ月だったというから5か月近く記録を塗り替えた快挙だとあった。

 別に騒がれるような事でも無い。順調な船旅が出来たのは、優秀な船員が集まってくれたこそだ。エースひとりだけではきっとうまくいかなかっただろうし(自分でいうのもなんだが行き当たりばったりでなかなか旅が進まなかったはずだと胸を張って言える)、例えアンだけが隣に居たとしても、もっと時間がかかっていただろう。

 「なあにひとりで黄昏てるのかな。おれなんかが居ても、なんて口が裂けても言っちゃだめだよ。言わせもしないけど」

 ゆらりとランタンの灯が揺れ、最も慣れ親しんだ存在の声が降ってくる。

 「…わかってる」

 エースは小さく言葉した。

 

 ならいいんだけどね。

 ことり、と音をたてランタンが床に置かれる。

 そしていつものように迷うことなく背中合わせで座った。エースに、たまに発生するのだ。

 小さな頃から胸の奥に抱える、生まれてきても良かったのか、生きていもいいのか、という答えの出にくい疑問が生んだ心の傷がぱっくりと開き、じくりと痛んで滲むことが。

 子供は見ている。大人の行動や、その言葉を聞いている。

 こんなことを子供に言っても理解できないだろうと大人は免罪符のように自分語りをするが、意味は解らなくとも含まれた言の葉の良し悪しくらい見当がついた。

 心ない言葉を叩きつけられ、防ぐ方法を知らないむき出したままの心が傷つけられたあの頃。

 ダダンが本当の親ではないと知り、じゃあ自分の、本当の父と母はどういう人なのだろう。気にならないはずもない。もしかしなくとも、フーシャ村で見られる”普通の家族”が自分たちにもあったはずなのだ。

 名は程なくして知る事が出来た。ダダンが手下たちと話していたからだ。

 

 どういう人なのだろう。

 聞ける場所は限られていた。

 どうして。なぜ。

 問いかけを発し、言葉と共に周囲の状況を知り始めた幼い頃の、苦い思い出が脳裏に反芻する。

 悪意に満ちた感情から逃れる術を知らず、次々と振り下ろされる言葉の刃に傷つけられていた日々。言葉は凶器だ。そしてある意味、暴力よりもたちが悪い。傷を負うのはなにも肉体だけではないのだ。心も傷つく。外からは見えないだけで、何気ない言葉だけでも傷ついてしまうものなのだ。極めつけ、なおりにくい。トラウマとして刻まれてしまうからである。

 真実がどうであれ人の口に上った噂は、尾びれ背びれを付けられて語る人物の都合の良いように着色されてゆく。当時、あちらの概念を持っていたアンは耐えられた。というよりうっぷん晴らしのネタにされていると、分かって聞けた。だがエースは違う。正真正銘の、本来であれば親元で守られながら健全な精神を構築するための大切な準備期間に、脅迫概念に囚われてしまった。

 そうして辿り着いた疑念が、おれは、おれたちは生まれてきても良かったのかな、である。

 断じて違う。

 アンは言い切った。

 少なくとも母は望んでくれていた。でなければエースとアンを孕んだまま、隠し通せはしなかっただろう。そして義祖父に生まれてくる子供を頼む、そう託した父もそうだ。あの馬鹿はわざわざ自分から海軍に捕まりに行ったのである。たったひとつ、貸した借りを回収するためだけに。もっと良い手もあったはずだ。なのになぜ、あの手法を取らなければならなかったのか。今のアンにはまだ理解できないでいる。

 

 アンはエースがいとおしい。兄であり弟でもあるエースが大好きだ。共に生まれてきて良かったと思っている。特にルフィはエースが居ないなんて考えられねェとまっすぐに言い放つほど大好きすぎた。それに生まれたかったから生まれたに決まっているだろうと続いた弟は実に格好良かった。まさしくその通りで、自我がないまっさらな何かの状態でも生まれたかったからこそ宿り、母であるルージュも出会いたかったからこそふたりを宿しながら無茶を通した。

 みんな、誰かにまた出会いたくて生まれてくるのだ。いつかそうおもえる日が来ることを願っている。アンにとってはエースやルフィ、サボ、名前を挙げていけばきりがない。

 

 果たしてエースは自己肯定感が低い。低いどころではなくぺらっぺらだった。

 自分は大切な人間だ。生きている価値がある。必要とされている。そういう気持ちが異様に少ない、ではなくまったく、ほとんどないのだ。

 育った環境が環境だったから仕方が無いと言うつもりはなかった。

 共に育ったアンも世界にはわたしが必要で、生まれてきたのは世界のあれこれをどうにかするためなのだと声高々に叫べはしない。というか、夢をみても不思議がられない幼いころであればまだ、そう、許容範囲だろうがアンの価値観では痛すぎである。たぶんあちら側という世界の記憶、という判断基準の拠り所が無ければ、ふたり揃ってどん底まで落ちていたのだろうとは想像がついた。いわゆる闇落ちというやつだ。

 思い出したくもない辛い記憶もあるが、ぎりぎりのところで命綱となったのはやっぱりもうひとつの世界で得た情報だった。

 

 こちらで育った場所は確かに、山賊達が暮らす山頂のアジトだった。

 環境は良くなかったけれど、人としての感情形成にはそう悪くは無かったと、アンは思っている。

 性格的に素直では無いダダンを補佐するように、ドグラとマグラが言葉を添えていた。

 今でこそ理解できる。確かに悪態が先に出るが、あれでいてダダンもどうしていいのかわからなかったのだ。子育てなど経験なく、経験する未来予想図を描いたこともなかったに違いない。ダダンの一家も刹那的だった。その日さえなんとかなれば、明日は知ったこっちゃない。そんな生き方をしていた。

 ガープよりエースとアン、そしてさらなる追加でルフィを預けられたとはいえ、放り出しても良かった。けれど文句を垂れ流しながらも雨風を凌げる屋根を貸してくれた。

 しかも意外に情に厚い。飯を共にした仲間だけという、ただしつきではあるが。それはエースも分かっている。

 子供のころはわからなかったが、ひとと接する機会が増えれば増えるだけ自分たち双子はあの一家が傍にあったことで生きながらえたのだと思い知らされた。

 

 ‥‥のは建前で。

 結局のところ納得はできずにいるのだ。 

 

 こればかりはアンがどうこう出来る問題では無い。

 側に居て、ひとりでは無いと行動で示す事は出来るが、耳を塞ぎ小さくしゃがみ込んでいる体を無理矢理引っ張り起こしてもなにも解決しないからだ。

 ゆっくりと育む周囲との関係の中で、情緒を再構築して貰うほか無かった。

 しかしエースはどんな人物にも一線を引いている。航海を共にする仲間ができた今も近しい同円内にあるのは、ルフィとサボだけだ。

 必要なものは分かっている。だがアンにはそれを補うだけの経験が無かった。

 アンではダメなのだ。エースにとってアンはどちらかと言えば、守るべき存在に入っている。手を繋いで一緒に走っていても、エースの方が必ず、半歩前にあった。くやしい。アンではエースを支え引き留める楔にはなりえない。

 必要なのは、すくい上げてくれる誰かの存在だった。無条件の愛情をもって、包み込んでくれる絶対的な強者が必要だった。

 こんなにもたくさんの仲間がエースを拠り所に選んでくれた。喜ばしい状況であるのに、肝心のエースが根無し草のようにふらふらと不安定極まりない。それを仲間たちは事あるごとに肌で感じている。

 「みんながほら、気にしてるよ」

 この船に乗る誰もが、エースという自分たちの命を預けた存在の、意気消沈した様子を見逃さない。放っておいて良い時と悪い時の区別をきちんと付けながらも、ここぞとばかりに船長を構い倒す瞬間を狙っていた。

 エースは少なくともこの船では、何事が起ころうとも中心にある。

 そんな美味しい時間を誰が見過ごすというのだろうか。

 「おーい、船長がまた変な事考えてっぞー」

 「じゃ、ぱーっと宴だな」

 「気分が落ち込んだ時は、騒ぐが一番だ」

 さて今日のみんなの行動は、と。

 アンがそう思った時には、長テーブルが船室から運び出され、夜食にと作られていた料理が並び、残っていた酒樽が割られていた。

 「近々補給出来るからいいよ、飲み切っても」

 視線の先ではツヴァイが黙認の頷きを返し、さくらがふわふわな毛並みの獣と共に走って来ている。無表情の中にまじめさを分散したような、面白い顔をして全速力でエースに跳びつこうとしているようだ。

 

 「ったく、うるせェなぁ。静かに落ち込ませても貰えねェのかよ」

 必死にこみ上げてくる笑みを我慢しながら肩を震わせる、もうひとりの自分に悪態をつきながらエースは眉を寄せ苦笑する。

 

 ここ十数日でいろいろありすぎたのだろう。

 水の都から数日でたどり着く医療都市ブリセスタまで、という約束で乗り込んでくれていた船医が急ぎ船を降りることになったのだ。地元の島に疫病が発生したという情報が商会を通じてもたらされたためアンが直接送ることになった。なんだかんだと新たな船医を急遽お迎えせねばならない状況になり、自称医学生以上医者未満の彼、マスクド・デュースをエースが連れて帰ってきた。しかもその探し方がまったくもっておかしい。船医を探してくるから適当に飛ばしてくれとアンに転移させた先の無人島で遭難していた彼を引っ張ってきたのである。新たな船医であるデュースは冒険記作家になりたいらしく、酒の席で話を聞いたアンは、エースとの出会い云々がすでに冒険記に書ける内容ではなかろうかとおもった次第であるのは告げなかった。

 彼と一番仲がよいのはとある事情で教職を追われ心も体も疲弊してこの船に転がり込んできたミハール先生だ。ツヴァイを攫ってきた虹の島から指針なしで辿り着いたとある島で是非とも来てくださいとアンが土下座して確保した教師だ。世界中に居る様々な事情で教育を受けたくとも受けられない子供たちに学びの場を届けたいという夢を持っている。息があうのか楽しそうに会話を弾ませているのが印象的であった。最近はそこにツヴァイが加わり、スペードインテリ集団が出来上がった気もする。ある意味アンが長期間、この船を離れたとしてもどうにかこうにかエースを何とかしてくれそうな人材が集まって来、彼女としてはほくほくであった。どちらかといえばスペード団は武力寄りの集団に仕上がっている。なので頭脳労働ができる人員はもろ手を挙げての歓迎なのだった。

 

 インテリの一角である船番大好きミハール先生はアンが元居た世界でいう引きこもりさんである。本が大好きで様々な分野の知識を持ち、アンすら知らない英知を保有している。オハラの大図書館がいまだ健在であれば、彼はきっとそこに住んでいたに違いない。それくらいすごいのだ。

 しかも彼が野生の隠匿スキルを持っているのを知った日には船の主認定したくらいだった。また先生は脳筋たちの教育を一手に引き受けてくれている大恩人だ。海賊に身をやつした者たちは総じて最低限の教育すら受けずに大人となっている。いわゆる人の形をした野生児そのものだった。そこで、だ。我慢というものを脳みそ筋肉たちに覚えてもらうべく先生に依頼した。すると意外や意外、船員たちは脳を茹らせながらも、生きるために必要な知識をまなび始めてくれたのである。逃げ出す船員たちもいるにはいるが、忍耐強くこの船の中で青空教室を開いてくれる、教育者としてとても厳格な御仁でもある。しかも教え方がすこぶるうまい。あれだけ算数が苦手だったエースがあっという間に3桁計算まで覚えてしまったほどだ。サボとアンの苦労は何だったのだろうと鼻の奥がつんとするが、礎になったと思いたい。5桁までは望まない。買い物当番の手を煩わせないためにも4桁までは何とか覚えてほしいところである。

 島を追われた理由を詳しく聞いたわけではないが、いわゆる職場で煙たがられた挙句、閑職に追い立てられたのだ。学問を広く普及させるのが先生の夢だが、オハラ崩壊後、限られた一部で独占したいと考える学者も多いのである。

 スペード団は来るもの拒まず去るものを追わずの航海集団だ。そしてどこよりも福利厚生も厚いと言い切れる。対外的にも内外的にも海賊団ではないのだが、海軍からは海賊としてのレッテルを張られてしまったのは辛いところである。(デイハルド)におねだりして、海賊外の称号を作ってもらおうかと本気で考え出したところだ。

 

 魔の三角地帯(フロリアン・トライアングル)を何事もなく抜けたスペード団は、指針を使うことなく遊蛇海流や斬り鮫の群れに遭遇しながらも無事、次の島に辿り着く事が出来た。

 到着後ほっと胸を撫で下ろしたのは、ツヴァイだけでは無い。一番疲労と鬱屈が溜まっているのは測量士のアカシだろう。付け加えてこのところ頻繁にシャボンディ諸島近くで人狩りを行う奴隷船が数多く出いるらしく、長時間に渡り周囲警戒のため気を張りつめていた。

 約2名、不完全燃焼で納得がいかない顔をした人物達がいるが、ツヴァイは副船長として船員の命を優先した。

 無理無茶無謀はいつもの事だ。

 どんなに滅茶苦茶な要求がこようと、判断が間違ってはいないと思えるならば補佐する。

 しかし、だ。

 もうすぐ新世界だと思えば、乗組員達の気持ちも浮どこかついてしまうものであろう。そういう時に引き締めなければ、なにかがあった時に取り返しの着かないことが起る可能性もあった。

 だからこそ、ツヴァイは苦言をあえて提言し続けた。

 それでも霧地帯ではいつ"お化け島"と遭遇しても構わないように、アンがわくわくと待ちかまえていたのは言うまでもない。海水をどうやって切り取って城内に流し込むかを、仮想演習していたくらいだ。副産物として被害者が多数出たことは言うまでもない。アン曰く一度や二度の敗北で引きこもってしまうなど言語道断だし、七武海としての恩恵を受けるだけ受けて仕事をしない彼にもの申したかった、という意見もわかる。だが遭遇するかしないかは時の運だ。

 一帯を何事も無く通過してしまった時の顔は、なんとも言えない。そういう表情も出来るのかというくらい、渋く、影を背負った老年の、凄みのある表情をしていた。そして無言のまま、終ぞ出会う事無く突っ切ってしまった海域へ舵を切りなおし、霧の中に再度突っ込もうとした。彼女を乗組員一同で、必死に止めた様子は簡単に想像出来るだろう。

 前半の終わりを告げる、赤い土の大陸を誰もが感慨深げに見上げる。

 ツヴァイですらも今までの航海の中で、一番疲労を感じた日々だったかもしれない。

 そういう経緯を経て今。

 ようやく一息つける状態になっている今、船員達が船長と親交を深めようと突撃してゆく機会を、止めはしなかった。

 少しは実感として貰えたならば、と願う。

 そうそう途中で寄った食料補給地という名の無人島の森の中で密猟者の罠にかかっていた巨大な猫をエースが助け仲間に加わったのを忘れていた。こたつと名付けられたオオヤマネコはかなり珍しい特殊個体であるらしく、ミハール先生も大興奮していたくらいだ。助けてくれたエースになつき、今や野生をどこかに置き忘れたかのようにさくらに全身を撫でさせつつ腹を出して眠るまでになっている。

 

 この船に乗るすべてはエースと出会い、ようやく自分の居場所を得られたものたちばかりだ。船員には手長族や魚人もいる。故郷を追われ、捨てた者たちもだ。エースやアンは種族や見た目で人を判断しない。それよりも大切なモノを見ている。それも自覚なく、その人物の最も深い部分にある心根や心の持ちようを見つめてくる。

 

 誰にも認めてもらえず、どうすればその気持ちを解消できるのかもわからぬまま、心の奥底でどうしようもない感情をくすぶらせて暴力でしか自己表現できなくなってしまった各々が、自身の根本を見つめて理解してくれる。どうしてふたりを慕わずにいられようか。

 あなた達の存在無くては、もう私たちは立ち行かない、そんな所にまできているのだという事実を。

 クルー全員の愛情を、とくと思い知るといい。

 

 

 

 

 

 エースをはじめとする仲間たちは随分と陽気に騒いだ後、就寝時間を知らせる消灯と共に、ぴたりと静寂の中に沈んだ。構い倒していた船長が寝落ちたからだ。

 月が細く、細かな星屑が満ちる空の下で、アンは見張り台の上に登り瞳を閉じる。

 最初はふたりだった。両親は死去していたが、義祖父やダダン達に育てられた幼少の頃。ふたりだけで完結していた世界にサボが現れ、ルフィが加わる。もちろん盗賊のみんなをはじめ、義祖父や村長、マキノ、村人達も見守ってくれていたが、心の拠り所にできなかった。

 思い返せばいろいろと、そう、語り尽くせないほど、いろいろあった。

 濃い人生を歩んでいる、と我ながら思う。

 

 5歳という低年齢で不確かな物の終着駅(グレイターミナル)に出入りし始め、11歳で海軍へ。17になってからはエースと船に乗って青海を渡っている。

 「ホントに」

 いろいろとあった。

 自分の願いを叶えるためとはいえ、ここまで全力疾走するとはおもわなかった。そして初めてだった。生きることがこんなにも難しいなど、あちらでは全くおもいもしなかったくらいだ。どれだけ社会が熟成し保護されていたかがわかる。

 「たったひとつ、ひとつだけでいいの」

 絶対に変えてみせる。その一存でアンは生きていた。

 

 静かな波にたゆたう船で一夜を明かした翌日は、打ち合わせしていた通り、先発散策組と後発居残り組に分かれてシャボンディに降り立った。

 「出来るだけ大人しくね。無法地帯って言われてるのはここからここまで、海兵がうろついてるのはここら辺で、遊園地とかは大丈夫かな。ただここら辺は世界貴族が買い物に来てるかもしれないから気を付けて」

 全ての船員が集う、朝食争奪戦が繰り広げられる甲板でアンは板に張り付けた地図を示しながら叫んだ。

 今日の朝食は掴みやすい細長のパンに切りこみを入れ、野菜や肉を挟んで食べるサンドイッチバイキングだ。自分の好きな具を詰め込む、この時が一番慌ただしい。アンは調理中の厨房に寄り、自分とさくらの分を先に確保してしまう。そうでもしなければきれいサッパリ、皿の上に何も残らないからだ。パン屋に行って買ってきた150本のバタールだが、ものの数分で跡形もなくなっている事だろう。

 「ちゃんと見ておいてね、特に先発組はしっかりと!」

 この船のみんなは、実は聞いていないようで聞いていて、真剣に聞いていそうな時に限って聞いて無かったりするから判断が難しい。

 真っ白な紙に手書きで描いた、8区域に分かれる島の概要を、船内への入り口へピンで止める。

 アンはこの島を庭と言っていいほど細部まで知っていた。どこら辺が賞金稼ぎの巣になっているのか、海兵が好んで海賊を追い詰める場所はどこなのか。人攫いがどこどこに商品を隠しているのかも大体把握していた。大きく育った根の空間は、良い隠れ場所でもある。下から洞窟のように潜り抜ける道も、何本か実際に使った事があった。

 

 シャボンディ諸島は新世界を目指す海賊にとって、前半の海最後の拠点だ。

 ここで最終積み込みし、コーティングという船全体をこの島で産出されるシャボン成分を使って膜を張り、海底の都へと潜る。

 面白い事に海賊達には暗黙の不文律があった。シャボンディでは"出来るだけ騒ぎを起こさず、この島の内部に居る限りは不可侵を通す"がどの年代、新人玄人等の区別無く、取り決めとされていた。どんなに因縁が深くとも、偉大なる航路(グランドライン)の折り返し地点まで至ったのだ。こんな所で潰しあっても海軍が喜ぶだけだし、奴隷商人たちの横やりもはいった。意外に海賊船の船長は高値が付くのである。それならば取り決め通り新世界に入ってからまた、雌雄を決すれば良い。そうしてそれぞれが牙と爪を研ぎつつ、シャボンディに辿り着いた好敵手同士、牽制し合うのだ。

 

 今朝ニュース・クーが届けた朝刊には、スペード団の記事が大きく出ていた。

 『大物新人、火拳のエース率いるスペード海賊団の船が忽然と姿を消し3日、既にシャボンディに到着しているのか、はたまた魔の三角地帯に捕らわれているのか』とある。

 スペード団の新人(ルーキー)として手配されているのは今のところ、エースと副船長のツヴァイのみだが、前半の海を怒涛の速さで駆け抜けている理由など、特集が組まれた事もあるくらい注目されているようだ。

 中でも王下七武海を蹴ったと言う記事が色付きで出た時が、一番襲撃が多かっただろうか。海軍だけでは無く賞金稼ぎ、同職の海賊までがこぞって名を挙げるために大挙してきた。

 そう言えば、とアンは思う。確か自分にも懸賞金が掛けられていたはずだが、この所、新聞には挟まれなくなっている。自分自身で見ると恥ずかしいのだが、時折帰るフーシャ村では何よりの便りだと喜ばれていた。村長からは小言をたくさん貰うが、それだけ身を案じてくれているのだろう。

 スペード団は潤沢な資金源を保持している為、無益な略奪や殺戮は必要としなかった。時には海流を使って回避し、しつこい船は炎に巻いたり二つ折りなどしながら、ほどほどの戦果を示し海戦の経験値を積み、シャボンディへと辿り着いた。

 懸賞金もまあまあ、の額だ。賞金額のからくりを知っているアンとしては、可もなく不可もなくといったところだろうか。

 一番ではないがルフィはきっと、兄の手配書を見て喜んでいるに違いない。

 

 ここで今までの日々を水の泡にしない為にも、絶対に騒ぎを起こさない事を船員(クルー)達に徹底させる。

 「世界貴族に手を出したら、大将が出張って来る。最悪、CP0っていう天竜人の御用聞きが出張ってくるからね! 絶対にダメだからね⁉」

 エースやアンでも、大将と対決すれば無傷では済まないと忠告しつつ、実はどれくらい自分の力量が上がったのか、試してみたい気もしていた。が、これは皆には言えない秘密だ。大反対されるのは目に見えているし、もし仮に確保なんぞされた日にはエースを筆頭にアン奪還のため海軍本部へ面々が殴りこみにきてしまう。そうなってしまうとまるっと全員が捕虜だ。海兵を甘く見てはいけない。所属年数や適正などによって実力差はあれど、訓練を受け軍事行動の何たるかを叩き込まれた兵たちは普通に強い。スペード団は決して烏合の衆ではないとはいえ、集団戦となるとまだまだ練度は低い。みんなが捕まればアンは従わざるを得なくなる。そうなれば首根っこをさらに掴まれて、こき使われる未来しか見えない。アンは切実に仲間たちへ訴えた。

 

 娯楽施設だけでは無く、東の海から航海を共にしてきた幾人かの船員たちにとっては、壁向こうの珍しい品々を扱う店舗もある。ウォータセブンからそんなに日数は経ってはいないが、貴族達も寄ると言う華を売る高級館もここにはあった。見る物、触る物、何もかもが目を楽しませるだろう。

 ただ一点、世界貴族に関してを除くならば。

 口でいくら注意を促しても、世界貴族がこの島の住人に行う非道な仕打ちを見て、拳を握りながらも我慢できるのは果たして何名いるだろうかと、アンは思う。

 エースはきっと大丈夫。

 いくら頭に血が昇っても、表沙汰になることはしないと確信めいた思いがあった。

 故郷のドーン島でも日常茶飯事であったからだ。壁によって隔てられた内側と外側が生む差別、それがここに、形を変えて存在していると知っている。よくよく考えると世界の縮図そのままだと苦笑が漏れた。

 

 この島の現状を心得ているアンは、口を酸っぱくして何度も言い聞かせる。

 赤い土の大陸(レッドライン)を超えて新世界へ向かう為には、ここシャボンディ諸島で海中を進むためのコーティングをして貰わねばならない。

 海兵時代は聖地を経由し、あちら側にあるG1基地にある船に乗り換えて新世界で任務についていたが、海賊と認識されているスペードの面々が聖地横を通過できる訳もない。それに折角アイスバーグが特別仕様に設えてくれた船をここにおいて行く訳にはいかなかった。向こう側に居る、師匠に今の自分を見て貰いたい。そう願っての手入れだったからだ。

 いつでも暇を作ってくれたら、ご招待すると言ってはいるのだが、

 「ンマー、いつも突然現れておいて良く言う。そうそう都合なんざつけられるか」

 そう言っていつも断られている。市長という役職は意外に、忙しいのだそうだ。

 

 海兵時代にも同じことを伝えていたはずだが、答えは同じだったような気がして笑ってしまった。積もる所、会いたいけれど会えない、片思いの恋愛をしているようなものなのだ。独り立ちした造船技師が、師匠であるとはいえ会えばどうなるか。想像は容易い。世界政府から目をつけられている自分が、トムに会ってしまえばどうなるのかも原因だろう。彼らの目的は設計図であって当人では無い、はずだ。とはいえトムはプルトンの設計図を基礎にして海列車を作っている。詳細を知る存在は、確かに狙われる危険性も高いといえるだろう。

 

 だからアイスバーグは様々な想いを込めて、船に手を入れたとアンは気付いていた。それとなく自分が手がけたのだという形跡を残している。トムもきっと船に施された仕事を見れば、わざわざ口頭で伝えなくとも、アイスバーグが行ったものだと分かるだろう。

 だからここに想いが込められた船を置いて行くなどは論外だった。

 スペード団は、この海駆ける蹄に乗って新世界へ至る。

 

 アンは後発組に出来るだけ早くコーティング職人に来て貰うから、気は逸るだろうが我慢するように言い、その姿を空に浮かせる。最近は船番組に必ずミハール先生とさくらが陣取るようになっていた。副船長であるツヴァイとデュースはエースのお守りで着いて行くことが多い為、結果的に居残り組にアンとさくらが配置される。

 どうしてもアンが船を離れなければならない時は、さくらを囲みながら船員達があたかも、ボディーガードのように守るのだ。

 最近のさくらは船員達のマスコットと化している。

 男でも女でもない性別を持つ存在は、どうやらその顔だちと性格のお陰で多くの人物に対し保護欲を刺激するらしい。そこにこたつが加わり、なんだかよくわからない萌えの威力が加わった。使えるものは使わないと損だと、教えたのがいけなかったのか。

 さくらもその日の気分で、衣類を替え、日々を楽しんでいるようではある。

 

 

 ヤルキマンマングローブ木の根が陸地を形成するその上を往く。エースを初めとした先発隊に手を振ってから、アンは器用にシャボンの上を跳ねた。

 その姿はふたつ名が示す通り、軽やかに空を舞っているように見える。

 地面から浮かび上がるシャボンは、島を形成するマングローブの根から分泌される樹液だ。島を形成する特殊な環境が、幻想的なシャボンがふわりと空に浮く景色を作りだしている。

 弾力性に富んだシャボンには乗る事や、中に入る事が出来た。

 ただ空高くに覆い茂る枝葉より上ではシャボンが形を保っていられない。パン、と割れて空に散ってしまう。

 アンの姿を見て、幾人かが自分も、と挑戦してみる。

 確かに乗る事は出来た。だがシャボンは円形をしており、すぐに体重のかけ方によって傾斜を変え、下へ落ちてしまう。

 「おもしれェ!」

 コツを掴み、乗れたのはエースだけだ。

 テンガロンハットに手を添え、次々と上へと登ってゆく。

 どこまでいけるのか試してみれば、緑の葉が途切れ、青の空が見えた辺りで、シャボンがどんどんと割れた。落下しつつ次の足場へと跳び、陸地へと降り立つ。

 にこやかに笑んだ顔は堪能した証だ。

 「よし、行こうぜ。なあ、ツヴァイ。まずはどこに遊びに行く?デュースも小説書くなら遊園地に一緒に行こうな!」

 アンが描いた地図を手にしていた副船長に問いかけながら、エースは歩きはじめる。はてさて、今回の物語はちゃんと読み物になれるだろうか。詩集的なこの前の、トライアングル通過時の物語はとても面白かった。先生もこれは冒険記ではないが、詩としてならなんとか見られると評価してくれたのだ。

 

 

 鼻歌が自然に漏れる。アンがまず手始めに向かったのは、海軍本部の駐屯地がある地区だった。ロブ・ルッチから面白い話を、また共に仕事をする機会があるかもしれない、と聞いたからだ。その真相をまずは確かめに行く。

 海兵になった初年度からこの島には何度も訪れていた。正義のコートを肩にかけていた時は誰もが親しげに声をかけて来たものだが、ほんの少し印象を変えるだけでこうも気付かれないものだと内心、吃驚する程だ。

 

 (はいはい、エース、ボンチャリは買わない。この島を出たらほぼ使い物にならないんだから。使えて魚人島位だけれど、長期滞在はしないんでしょう?)

 

 面白いものには目が無い半身に、苦笑しながらもかつて歩いた道を迷いなく進んでゆく。時折海兵が通りすぎるが、本部所属の精鋭達は誰も気付かずにアンの横をすれ違った。

 少しは気付いて欲しかったなぁという寂しさと、案外気付かないものなのだという密かな落胆と優越という気持ちが感情の天秤を揺らしながら、目的の場所へと到着した。

 スペード団が船舶を係留したのが、48番GR。観光地とされているが比較的閑静な住宅街が広がる地区だ。そこから50番台を抜け、60へと至る。エース達一行は中央を抜け30番台に移動し、シャボンディパークでいろいろと楽しんでいるようだった。

 観覧車やジェットコースター、話にだけ聞いていた乗りモノがここにはある。

 試し乗りしたいと飛びつくのも分かった。

 

 「こんにちは、ごきげんよう、お邪魔します」

 駐屯地にてくてくとおくび無く普通に入って行けば、誰に止められずに中まで入れてしまった。

 「……これはこれで、警備が問題視されそうな気がするんだけれど」

 アンは周囲を観察しながらゆっくりと奥へと進む。その口元には笑みがあった。

 実は思い付きをためしていたのだ。

 そもそも見聞色、とは相手の気配を感じ取り、思考を先読みや相手の位置確認が出来る。普段は聞こえない心の声、自身さえも気づかない感情を読み取る能力ともいえるだろう。

 ならば反対に己が発する垂れ流しの声を出来るだけ小さくし、可能であれば完全沈黙させればどうなるのだろう。と思った訳だ。見聞色同士では能力が高いほうが読み取りは早い。だから読まれないために極力心の声を絞る訓練をアンは毎日、今でも繰り返している。船で試した時には、エースによってことごとく邪魔されたため、思うような実験が出来なかった。そもそも放つことがどちらの色も基本である。それをひっこめるなど誰もやっていなかったのだ。

 ここ駐屯地であれば思う存分、能力を使っても誰に止められる事もない。

 そうして得た結果は良好だった。

 

 駐屯地の長は1年から2年が最長、早ければ半年ほどで入れ替わる。配属されている海兵達は3カ月を過ぎた頃、ある一定人数づつ、交代要員がやってくると言う仕組みだ。

 他の駐屯地、例えば東の海で偉大なる航路(グランドライン)の入り口にある、ローグタウンでは最低3年はその地へ縛られる。理由として挙げられるのは、余りにも短すぎれば統率する本部が慌ただしく、またその地で一定期間留まる事によって強まる各支部との繋がりを重視したからだ。その反面、癒着も生まれるがそこはそこ、おつるによって組まれた特別チームが毎年、抜き打ちを行っている為、以前よりはましにはなっていた。

 それは全世界各地にある総支部と、各駐屯地の中から10か所、ランダムに決められる。

 派遣されるチームも、どの方向へ向かうかは教えられるが、どこに行くかは到着するまでは知らないと言う徹底ぶりだ。しかも本隊では無いと見せかけた、分隊が実は、監査の本元だという面白い展開となる場合もあった。監査部隊は不要の時間を与えず、寝込みを襲うかの如く、襲来する。

 

 東の海では賄賂によって見逃されている幾つかの支部を見つけていた。

 機会があれば、もしマリンフォードに再び行く事が出来たならば、こっそりとおつるへその旨を伝えてもいいかもしれない。

 

 アンは来る途中に拾っておいた、幾つかの小石をポケットから手のひらに握りしめた。目の前には、海軍本部シャボンディ諸島駐屯地司令室がある。

 中にはたったひとりしかいない。

 ちょっとした悪戯だった。小石に意識を集中し、中に居る人物の頭上へと転移させる。すると小石は重力に従って、その人物へと落下するだろう。

 

 本当にちょっとしたお遊びだった。

 しかし、石を丁度、相手の頭上に具現化させたところで、扉の向こうから何かが飛んで来るのを察知する。片腕を支点に、ころりと前屈すれば次の瞬間、扉が木っ端微塵に吹き飛んだ。

 「うわぁ…」

 アンは目をぱちくりと開き、余りの惨状に声を出してしまった。蝶番まで見事に、おれまがっている。

 中に居る人物はよく知っていた。これくらいの悪戯では、うんともすんとも動かないだろうはずの、温和な人物なはずだ。

 シャボンディに駐屯している間に、ストレスで性格が少しばかり凶暴になっている、とか、だろうか。

 アンはそんな事を思いながらそっと、ドアの向こう側を覗きこんでみる。

 「いたずらにしては程度がよくないな、ポートガス?」

 降ってきた声は、紛れも無く頭上からだ。

 「モモンガ中将、お久しぶりです」

 アンは以前は無かった目の下のくまを発見する。真上を見上げていた首に手をあててにっこりとほほ笑んだ。

 見聞色を怠った訳ではない。

 しかし余り機嫌の良く無い視線を刺してくる中将の顔は、記憶の中にあるものとは違っていた。

 「お疲れ、ですねぇ」

 「誰かさんの尻拭いでな」

 隠さない感情に、さっくりとアンは貫かれた。無理やり出てきたのは、認めざるを得ないからだ。

 そのあと肩たたきをしながら、半年前から現在に至るまでの経緯を聞くこととなる。

 ぶっちゃけると、中将の愚痴だらけだった。

 ここに在籍している誰もが過度のストレスを抱えている為、最高責任者が酒を飲みながら愚痴をこぼすなど、出来る雰囲気でもないらしい。

 中将が抱える一番のストレスは、『家に帰れない事』だ。

 本部からシャボンディまで高速船を使えば数時間の距離なのだが、休暇であってもこの島から出る事が出来ないのだと言う。

 モモンガ中将は、愛妻家で有名だ。その中将が、半年も家に帰れずここ、シャボンディに縛り付けられている。細君が時折、子供達を連れてやってくるらしいのだが、買い物へ出かける時など、気が気ではないと言った。

 「…確かにお綺麗な方、ですもんね」

 「天竜人が来ている日などは何度、肝が冷えたことか」

 中将の言に、声がかすれる。

 ちなみに昨日まで世界貴族が滞在していたらしく、まったく仮家にすら帰れなかったのだそうだ。

 

 話は進み、アンに対する世界政府の方針が語られた。

 はっきりと言って、にわかには信じられなかった。なぜなら条件が余りにも良すぎたからだ。裏にある真意をはかりかねた。

 無いわけが無い。有って普通なのだ。無いなど、天地がひっくり返る前触れかと訝しんでしまう。

 あり得ない。

 交渉の読み合いにおいて、五老星はアンの何枚も上をゆく老獪(ろうかい)たちである。

 「いや、深く読みすぎなのかな。でもなぁ、あの人達が搦め手をしてこない訳が無いしなぁ」

 とりあえずは現政府に対し、アンは敵対しない、という態度をとった。父が立てたうねりは重なり渦を巻き始めている。だがまだそれほどではない。さらなるしぶきを加えないために妥協したのだろうか。それともアンの真意にたどり着いて報いた、のだろうか。

 わからない。わかろうはずもない、世界を平らに保持し続けてきた彼らの真相など、分かりたくもなかった。

 

 全てを信じる事は出来ないが、こちら側からちょっかいを出さなければ向こうからも余計な手出しはしてこない。という意思表示なのだろう。これぞまさしくスープの冷めない距離の関係、というやつだ。

 ただアンが思うに、上手に立ち位置を修正された感がありありとしていた。

 海賊船に乗ってはいるが、いまだにポートガス・D・アンは海軍に所属したままだ。

 だが七武海ではない。政府の狗として飼われている立場で無いが、政府の機関に堂々と入れる権限を付与されていた。

 一体お前は何者なのだと聞く者がいたとしたならば、なんと答えるのが適当だろうか。

 ともかく、五老星はアンの条件を飲んだ。彼らの背後にある存在からの監視は強化されていそうではあるが、こればかりはどうしようもない。

 

 ……どうやらひと悶着、あったらしい。

 なにやらちょっとだけ騒がしくなっているのは遊園地だろうか。

 「中将、つかぬことをお聞きしますがイスカ少尉ってこちらの部隊ですか」

 「いや違うな。引き抜きか」

 にやりと意味深に笑むモモンガに、いやいや違いますとアンは否定する。なにやらエースとツヴァイとデュースとイスカの4人でわちゃわちゃとしているのがすごく気になって仕方がない。

 「ドロウ中将の部隊だな、確か」

 簡易名簿を取り出し、モモンガは眉をはねた。

 南の海を管轄している中将の名をアンはすぐさま思い出す。正義の名のもとに、が彼の掲げる正義だ。はっきり言ってどんな人物であったか思い出せないくらい影の薄い人だった気がする。

 「気にかけておこう」

 「よろしくお願いします」

 肩を揉みながらアンは、破砕されたドアの向こう側から覗き込んできた顔見知りの海兵ににっこりと笑む。

 

  今やアンに唯一、命令を下す事の出来る人物は政府内だけでは無く、加盟国の王達にもその名を轟かせはじめている。変わり者の天竜人がたったひとりだけならば孤立もするが、ふたりともなればさすがに天高き赤の大地に住まうことを決断せざるを得なかった、19の王族たちも変化せざるを得なくなってきているのかもしれない。

 アン自身も公式では未だに海軍所属であるため、式典や何らかの護衛任務には必ず、呼ばれるだろう。嫌な予感が、間違いなくひしひしとする。

 その時に世界政府が、排除すべき側にも含まれている自身(アン)をどのように説明するのかが楽しみにも思える。

 

 「ポートガス、2日ほどこの椅子に座ってみないか」

 そこをもう少し強めに、という注文を受けながらアンは丁重にお断りする。手伝いならばやぶさかではないが、座るのは勘弁したい。

 意図はみえみえだ。

 「随分と治安が良くなっているじゃないですか。さすが中将、目の光らせどころが違うんですね。わたしなんかが座るには、荷が重すぎます」

 そう模範解答するアンに、モモンガは鼻で笑った。

 「抜かせ…この諸島に限るならば、天竜人と同等の扱いを受けているお前に言われたくはないわ」

 固く張った肩をほぐしながらアンが眉を八の字にして苦笑すれば、首元に巻かれた天然石が小さく音を立てる。

 

 どういう手回しがされているのか、4か月とはいえ青海にて自由気ままに日々を楽しんでいたアンには解らないが、ポートガス・D・アンの名は、まだ海軍名簿に載っているのだという。

 しかも階級が中将(仮)となっているのだそうだ。

 「センゴクおじさんってば、未だにおじいちゃんとわたしを入れ替える気、満々ってことですよね」

 「そうだろうな。実力的もこの半年で随分と伸ばしていると聞いている」

 監視船が時折遠くからこちらを見ているなぁとか、立ち寄った町で視線をいっぱい感じるなぁという事が多々あったのだが、その全てが海軍ないし、CPだったと言うことなのだろう。

 「お前に掛けられている懸賞金に関してだがな…」

 継続はされているらしい。だが手を出してくる事は、まず無いだろう、とのこと。

 喧嘩を売るか否かは、それぞれの艦を指揮する長が取り決める事になっている。

 だがガープをはじめ、3名の大将と、その息がかかっている将校に関しては、アンの身に限っては手を出すべからずという暗黙の了解が取り交わされている、らしい。

 

 「サカズキ大将が発起人だ、と聞くと意外かな」

 「反対に納得、しちゃいます」

 

 どこまでも甘い。

 あの強面の顔が、気を許した相手には優しげに笑むのをアンは知っている。

 だから同時にくすぐったかった。そして、苦しかった。

 

 「だがな、ポートガス。お前が乗る船は別だぞ」

 モモンガが引き出しを開け、取り出した手配書には良く知る面々が数名ずらりと並んでいた。

 「あら豪華に飾っていただいて申し訳ないくらいです。……てかこのアングルどこから撮ったんだろう」

 「まったくだ。お前の事だから知らずに乗せたわけではないだろうが」

 いえ、知りませんでした。

 などとは言えない仲間の顔に、愛想笑いでなんとか誤魔化す。

 「あ、でも中将。わたしが矢面に出た場合は…」

 どうなるのかと言葉を続ける前に、それ以上は言ってくれるなというモモンガの気配に、アンは黙って肩のしこりを押した。

 



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