伊吹萃香もどきが行く (葛城)
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第一話:チート前提大陸と鬼娘

続くかもしれないし、続かないかもしれない話
オリ設定入っていたり入っていなかったりするけど、あまり深く考えないように

誰か、こういう話を書いてください


 

 ――滑って転んで頭を打った。

 

 文字にすれば、なんてことはない。頭を打ったということだけを考えれば早急に対応なりを考えねばならない話だが、事実だけを見れば……まあ、そう珍しい話ではなかった。

 

 大人であろうと子供であろうと滑って転ぶことはあるし、そこに老若男女の区別はなく、美人であろうが不細工であろうが関係ない。肌の色が白かろうが黒かろうが黄色だろうが、関係ない。洗剤であろうとバナナであろうと氷であろうと何であろうと、滑る時は誰もが滑る。タイミングと力の入れ具合と摩擦とがかみ合って転ぶことには、何の意味もない。

 

 ……しかし、だ。

 

 滑って転んで頭を打った、その後。一瞬ばかり気が遠くなった後、痛みに滲み出た涙を指先で拭って身体を起こした『彼』は……動揺を露わにした。

 

 何故か……それは、目の前の景色が一変していたからであった。

 

 滑って転んで頭を打つ、その直前。彼の記憶が確かなら、眼前には見慣れた景色だけが広がっていたはずだ。

 

 各敷地を隔てているコンクリートに、剥げ掛けた白線が見え隠れしているアスファルト。薄汚れているうえに点滅している街灯に照らされた電柱に、遠くの方に見えるコンビニの明かり。そして、通行人と思わしき人影が二つ……それが、彼が直前まで目にした光景であった……はずだ。

 

 なのに、どういうことだろうか。

 

 身体を起こした彼の眼前には……木々が広がっていた。それも、一本や二本ではない。見渡す限りの全てが木々であり、その一本一本が分厚く大きく……膨大な樹齢を思わせるものであった。

 

 間違っても、直前まで眼前に広がっていた景色にはそんなものはなかった。彼は、最寄りのコンビニへと向かっていた。何百回と通った道……なのに、目の前には初めて見る景色だけが広がっていた。

 

 電柱もない。外灯もない。立ち並ぶ家々もないし、駐車場もない。コカ・コーラの自動販売機もないし、路地もない。通り過ぎた自転車も消えていたし、路駐されている自動車も消えていた。

 

 ……背筋に、嫌な汗が流れるのを彼は知覚した。

 

 振り返れば、景色は同じ。無限に続いているのかと思わせるほどに木々の向こうは深く、その先が見えない。頭上へと目をやれば、四方八方の木々より伸ばされた枝葉によって、空を見ることすらできない。

 

 足元へと視線を落とせば、そこに広がっているのは剥き出しの大地。何処を見ても、見慣れたアスファルトはない。標識だってないし、白線だってない。そのままの自然がそこにはあって……加えて、さらに、だ。

 

 彼は……気づいた。己の恰好が一変していたことに、この時になって気づいた。運動不足でたるんでいた己が身体は小さく頼りない……子供のソレへと変わり果てていたことに、彼は初めて気づいた。

 

 しかも、ただの子供ではない。上はノースリーブ、下はロングスカートで履物は革靴。スカートには幾つものフリルによってふわりと広がっており、相当な値段が張りそうな代物で……加えて両手と腰には何故か、鎖と思わしき物体が三つほど繋っていた。

 

 鎖……そう、鎖だ。物体と称したのは、鎖からは重さを全く感じない為。反射的に引っ張ってみるが、外れない。先端にはそれぞれ球体、三角錐、四角い形の分銅に繋がっており、身動ぎする度にごろごろと地面を擦っていた。

 

 ――これは、夢か?

 

 ここまで来て、反射的にそう思った彼は己が頬を力強く抓った。下手すれば内出血を起こすほどに力が込められたその指先には、彼の偽りない動揺と藁にも縋る思いとが混ざり合っていた。

 

 しかし、悲しいことに。彼の願いは叶わず、ただただ苦痛だけが伝わるばかりで、目の前の景色が変わることはおろか、その気配すら見られない。抓れば抓るほど、逆にその痛みが余計な現実感を彼にもたらした。

 

 ……そ、そうだ。何か――何か、自分の姿を見られる物は!?

 

 その結果……辛うじて麻痺していた精神が復帰を果たしたのは、まさしく皮肉以外の何物でもなかった。その時の彼の狼狽っぷりときたら、もはや言葉では言い表せられないぐらいのものであったのだから。

 

 けれども、そんな中ですぐにお目当ての物が見つかったのは、これまた不幸中の幸いという他なかった。ただし、それは鏡などという御立派なモノではなく、地面に溜まっていた銀色の液体であったのだが……それはいい。

 

 とにかく、代わりになるのなら何でもいい。半ば倒れ込む様に四つん這いになった彼は、生まれたての小鹿のようにへっぴり腰で覗き込み……そして、絶句した。

 

 この時になって、ようやく彼は知った。己は子供になった……のではない。手足や体の大きさこそ子供のそれだが、その姿は……おおよそ、彼が知る人のそれではなかったことを。

 

 顔立ちこそ将来を期待させるものであったが、重要なのはそこではない。かつての己よりも一回り小さい頭の両端から伸びる、巨大な対の角。尻の辺りまで伸びる茶髪は大きな可愛らしい赤いリボンで纏められ見覚えはおろか流行からも外れた衣服。

 

 おおよそ見掛けたことのない出で立ちであったが、彼には見覚えがあった。ただ、それは現実に存在する人物ではない。もう何年も前……一時期、憑りつかれるようにプレイしていた『東方Project』というゲームの中に登場するキャラクターの一つ。

 

 その名を――伊吹萃香。

 

 銀の水溜りに映し出されたソコに映っていたのは、まさしく、彼の記憶にある伊吹萃香、その者で。そのことを思い出した彼は……驚愕のあまり、しばしの間呼吸することすら忘れてしまった。

 

 ……これは、どういうことだ?

 

 事態を、上手く呑み込めなかった。それは、当然の話であった。

 

 何せ、彼には一般的な男として育った31年間の記憶がある。上流とは言えないが下流とも言えない平凡な家庭で育ち、まあまあの大学を経てまあまあの会社に入社し、昨日も働いていた記憶がある。

 

 なのに、この姿になる直前がない。滑って転んだ、その瞬間にはもう、この姿だ。5分か、10分か。徐々に思考が動き始める最中、彼は己が頬を摩る。見れば見るほど、映し出された己の顔はゲームキャラの伊吹萃香だ。

 

 妖怪と呼ばれる怪異的存在の中で、上位種にして最強種とも作中で称えられていた『鬼』の中でも、さらに強大であるとして恐れられた……四天王が一人、酒呑童子こと、伊吹萃香、そのものだ。

 

 恐る恐る両端へと伸びる角を摩りながら、彼は……ハッと目を見開いて、股に手を当てる。そのまましばしの沈黙の後……深々と、それはもう全身の気力が込められたため息を吐いた。

 

 ……本物であった。何もかもが、現実であった。

 

 角に触れた指先の感触も、角から伝わる触れられた感触も。股より感じ取った喪失感も、その喪失感すらもごく自然な物として受け入れている自らの不自然さも。

 

 嗅ぎ取れる緑の臭いも、踏み締めた大地の感触も、頬を摩る湿り気も、本物で。ジャラジャラと鳴る鎖の異音も、自らの唇より零れる吐息も、合わせて漏れ出た可愛らしい声色も……全てが、本物であった。

 

 ……はは、何だこれ。

 

 あまりの事態に、彼……いや、もはや彼女、か。彼女は、乾いた笑みを浮かべてその場にて膝を抱えると、己が身体を抱き締める様に身体を丸めた。それしか、今の彼女にはできなかった。

 

 何が何だか……全く分からなかった。しかし、事態が何一つ分からないながらも、何かとんでもないことが起こっている……それだけは、たった一つ、それだけは理解できた。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………どれぐらいの間、そうして膝を抱えていたのか。体感にして数分……実際にはどれぐらい経っているのか、それは当の彼女……伊吹萃香にも分からなかった。時計が手元にないのもそうだが、理由は他にもあった。

 

 単に、周囲の明るさが変わらないのだ。彼女の座っている場所もそうだが、目に映る範囲全ての空が枝葉で覆い隠されている。そのせいで今が昼なのか夜なのか、日が沈んだのか夜が明けたのかが分からない。

 

 時間の流れを感じさせるものがあればまた、別なのかもしれないが、あいにく彼女の前には姿を見せなかった。加えて、何の不調も覚えなかったことが彼女から時間の感覚を奪うこととなった。

 

 具体的にいえば、喉が乾かないのだ。加えて、汗も掻かない。座りっぱなしでも手足は全く痛まないし、腹だって空かない。ぼんやりと意識を飛ばし続けても、身体のどこからも全く不調の声が上がらないのである。

 

 もしかしたら、彼女となってしまった彼が知り得ていた、『伊吹萃香』というキャラクター設定がそのままに現れているのかもしれないが、呆然と座り込んだ彼女にも分からないことで……同時に、どうでもよいことであった。

 

 ――早く、醒めろ。何でもいいから、早くこの悪夢から醒めろ。

 

 今の彼女の脳裏を埋めるのは、その言葉だけ。目を瞑っていれば、時間が経てば夢は覚める。これが現実であったとしても、いずれは覚めるのだ。だから、早く、早く俺をそこへ戻してくれ。

 

 ただ、その一心に。両親の顔、友達の顔、したかったこと、やりたかったこと、やれなかったこと、やらなかったこと……様々な思い出が走馬灯のように脳裏を過ってゆくのを、彼女はぼんやりとした頭で眺め――ん?

 

 ……不意に。足先、尻から伝わってきた振動に、彼女はのろのろとした動きで膝から顔をあげた。動きがとろいのは疲労しているから……ではなく、気力が萎えていたからである。

 

 無理もない。滑って転んで頭を打ったかと思えば、ゲームのキャラクターそっくりの姿に変わっていたのだ。加えて、気付けば文明のぶの字も見られない、見覚えのない場所にいたとなれば……途方に暮れるのも致し方ないことであった。

 

 とはいえ、今はそっちよりも振動だ。振動は、周期的であった。びりり、びりり、びりり。僅かに伝わってくるそれらは立っていれば気付かないほどに弱弱しいものであったが、どうしたことか……徐々に強くなっているように、彼女には思えた。

 

「…………?」

 

 地震だろうか。いや、地震なら、こんな太鼓のように規則正しく断続的には来ないだろう。しかし、地震以外に地面が揺れるなんてことがあるのだろうか。

 

 そこまで考えた辺りで、彼女はようやく……実際にどれだけそうしていたかはさておき、のろのろとその場にて立ち上がった。まるで芋虫が仰け反ったかのような所作であったが、まあ、それはいい。

 

 とにかく、振動が徐々に強まっているのは確かだ。その証拠に、ぼんやりとしていたからこそ気付けた微かな振動が、今でははっきりと感じ取れるほどになっている。 

 

 いや、感じ取れるどころではない。強まり続ける振動は彼女の身体どころか、周囲の木々すら揺らし始めている。ばっさばっさと身動ぎする枝葉からぼろぼろと落ちてくる枯葉やら何やらを慌てて払いのけながら、彼女は周囲を見回し――あっ。

 

 それは――突然のことであった。

 

 ふっと、頭上に影が差した。そう、思った彼女が頭上を見上げた、その瞬間。巨大な黒い塊が視界全てを覆い隠した――そう認識したと同時に、凄まじい衝撃と共に彼女は身動きが取れなくなった。

 

 何が起こった――そう思った時にはもう、眼前全てを覆い隠していた黒い塊が動いた。呆然と、先ほどとは違う理由で呆けていた彼女は、そうして露わになった世界に……あんぐりと、大口を開けたまま固まった。

 

 何故なら、先ほどまで被さるように広がっていた枝葉の覆いは、ぽかりと開かれて。その先には眩しさすら覚える青空と……その青空の半分を埋めている、超巨大熊がいたからであった。

 

 見た目こそ見覚えのある熊だが、その大きさが実に馬鹿げていた。見える範囲での目測なので正確な全長は不明だが、少なくとも三十……いや、四十メートルに届こうかという巨体であったのだ。

 

 その巨大熊が、こちらを見つめている。山吹色の巨大な瞳が、こちらを見下ろしている……それを理解したと同時に、彼女はかつてないぐらいにはねた心臓の鼓動と共に身体を窪みから起こし――再び、絶句する。

 

 言い表すのであれば、彼女を中心点としたクレーター。おそらく深さ2メートル近いそのクレーターは真新しく、ぱらぱらと境目の縁が割れて土埃が崩れて流れているのが見えた。

 

 ――踏まれたのだ。

 

 そう、事態を認識した瞬間、ぶわっと全身の毛孔から汗が噴き出したのを彼女は知覚した。と、同時に、彼女はその場から……巨大熊から少しでも距離を取ろうと駆け出した。

 

 ――直後、再び掛かる圧力。

 

 おふぅ、と声にならない呻き声が地中へと放たれると同時に、彼女の視界全てが真っ暗になった。鼻腔より伝わる大地の香りと、背中を埋め尽くす圧力から、再び踏みつけられたのだということを彼女は理解した。

 

 だが、今度は一度では終わらなかった。おそらく、踏みつけたのに生きていたことが巨大熊の気を引いてしまったのだろう。二度、三度、四度、五度。踏みつけられる度に陥没してゆく窪みと共に、彼女の身体も沈んでゆく。

 

 衝撃に、周囲の木々がびりびりと揺れ動く。何本もの枝葉が折れて砕けて飛び散り、合間を行き来していた虫やら何やらが一斉に飛び立つ。ギャーギャーと辺りを飛び交う鳥たちの悲鳴の下で、ようやく足を外せば……彼女の身体はもう、外からでは分からないぐらいに奥深く沈められていた。

 

 もはや、原形が分からないぐらいのミンチになってしまったのか……いや、違う。山吹色の瞳を向けていた巨大熊の身体が、ぴくりと動く。何故かといえば、今しがた巨大熊が踏み潰した小さい何かが、窪みの中心より這い出てきたからであった。

 

 当然ながら、小さい何かの正体は彼女であった。不思議なことに、彼女は無事であった。己の体格よりも数十倍……いや、数百倍に匹敵する巨体に踏み潰されたというのに、口に入った土埃に眉根をしかめる程度のダメージしか受けていなかったのだ。

 

 数多に存在する妖怪の中でも上位種にして最強種とも形容される『鬼』の中でも、四天王と称えられる鬼の中の鬼。さすがは、伊吹萃香(の、身体)というべきなのだろう。

 

 その心が受けた衝撃は別として、その肉体は正しく金剛であったようだ。手触りこそ柔らかいものの、鬼の肌は強靭かつ頑丈。数十トンに匹敵するであろう体重でも、その身体を破壊することはできないようであった。

 

 何もかもが不明で不本意ながら、この身体はやはり記憶にある『伊吹萃香』のソレで間違いないようだ。最後にぶるぶると顔を振って泥を振り払った彼女は……大きく息を吐いてから、巨大熊を見上げた。途端、びくん、と身動ぎする熊を見て……彼女は、肩の力が抜けてゆくのを実感した。

 

 不思議なことに……怖くないのだ。先ほど、踏みつけられた時は怖かった……いや、これは少し違う。フッと胸中より湧き出た答えに、彼女は目を瞬かせる。

 

 ――これは、『鬼』の感覚なのだ。

 

 先ほど踏みつけられた時はまだ、人間の感覚だった。それ故に狼狽し、逃げようと巨大熊に背を向けた。だが、今は違う。数回に及ぶ踏みつけによって、感覚が鬼のソレに強制的に切り替わったのだ。

 

 合わせて、自分の中にあった精神……数十年に渡って培った何かが変わり始めてゆくのを知覚する。さながらそれは、描かれた絵の上に、新たな絵が塗り込まれてゆくかのようで……ハッと我に返った時にはもう、『伊吹萃香』と『彼』との境目が消えていた。

 

 いったい、何が起こったのか。何故、そうなったのか。彼女自身、それを上手く言葉に言い表せられなかった。けれども、どうしてか彼女はそれをごく当たり前のこととして認識し、順応を進めてゆく。

 

 知識が……流れ込んでくる。言葉にすればそんな感覚を、彼女は覚えた。

 

 数十年の彼の記憶を上から塗り固めるように、膨大な知識が流し込まれる。『鬼』とはどういうものなのか。『伊吹萃香』とはどういうものなのか。その身に宿る『力』が、伊吹萃香という存在を構成する一切合財が、混ざり合って溶け合ってゆく。

 

 精神の中心にあるのは、元々そこにあった『彼』だ。間違いなく、何処にでもいる平凡で普通の人間の男であった『彼』だ。しかし、その周囲はもう『伊吹萃香』で覆われ、見えなくなる。

 

 時間にすれば数秒という、あまりに短い時間。しかし、それでも決定的であった。気付けば『彼』ではなく、『伊吹萃香』でもなく、彼でありながら伊吹萃香でもある『彼女』へと成り果てていた……と。

 

 ――再び、影が彼女の身体を遮った。

 

 踏まれる……それを認識した瞬間、彼女の身体は動いていた。屈むようにして振り上げた拳が、びきびきと軋む。一拍の後、綺麗な半円を描いて放たれた強烈なアッパーパンチが、迫り来る巨大熊の片足を粉砕していた。

 

 ……仮にその場を見た者が居たならば、信じ難い光景だと目を疑う光景であっただろう。

 

 何故なら、たかだか背丈130cm程度の少女が放った拳が、その数十倍にも達する巨大生物の片足を受け止めたのだ。しかも、吸収しきれなかった威力は巨大熊の骨を、筋肉を、関節を貫通し、血飛沫と共に巨体をも押し上げたのであった。

 

 数十メートルに達する巨体とはいえ、堪えきれない激痛だったのだろう。彼方まで響き渡る悲鳴は爆音が如きであり、巨大熊は尻餅を突いた。衝撃と共に大地が揺れ、ばりばりと空気を震わせて木々が揺れる。ぎゃーぎゃーとさらに喚き立てる鳥達の喧騒を他所に、萃香となった彼女は……その身より噴き出す『力』に目を向けていた。

 

 どんどん、『力』が湧いてくる。合わせて、使い方も。核となる『彼』はそのことに怯えて縮こまり、殻となる『伊吹萃香』は漲り獰猛に。そして、それら全てを包む『彼女』は……相反する感情に戸惑いながらも、気付けば溢れ出す力と共に唱えていた。

 

「――『ミッシングパワー』!」

 

 直後、彼女の身体が巨大化し始める。その勢いは凄まじく、押し退けられた木々が弾けて折れ曲がり、踏み締めた地面が陥没してヒビが入るも、止まる気配は微塵もなく。瞬く間にその身体は5メートルを超え、10メートルを超え……巨大熊にも並ぶサイズへと変貌した。

 

 ――ミッシングパワー。正式な名は、鬼符『ミッシングパワー』。

 

 それは、伊吹萃香が持つ『密と疎を操る程度の能力』を応用させたもの。どういうことかといえば、具体的には様々な物質(思いやエネルギーといった肉眼では感知できないものまで)を集めたり散らしたりすることができるということ。

 

 今しがた彼女がやったのも、同じ。様々なエネルギーやら何やらを集めて自らの肉体に取り込み、再構成。その身を数倍~数百倍にまで巨大化させ、巨大熊に対峙した……というわけであった。

 

「――うぉああ!!」

 

 そうなれば、決着は一瞬であった。只でさえ圧倒的な体格差を跳ね除けていたというのに、サイズがほぼ同等ともなれば、結果は想像するまでもない。

 

 気づいた巨大熊は逃げようとしたが、遅かった。圧し掛かる彼女が降り下ろした、一発の拳。たったそれだけで巨大熊の頭部は破壊され、相殺しきれなかった威力が地面を砕き、べこりとクレーターを作った。

 

 血飛沫やら、脳髄やら、砕けた骨やら肉やらが、四方八方に飛び散る。四肢を痙攣させ、あげられなかった断末魔を伝える巨大熊の亡骸から降りた彼女は……改めて周囲を見やり、愕然とした。

 

 それは、地平線の彼方までが、目に見える全てが、自然であった……というわけではない。遠くの方に平原やら草原やらがあって、その向こうには巨大な山脈が幾つも見える。しかし、そこへ至るまでの何処にも文明の気配が見られない……というわけでもない。

 

 彼女を愕然とさせた最大の理由は、はるか頭上を飛び交う……これまでの常識を疑う巨大な虫やら怪鳥やらの馬鹿げた存在であった。

 

 虫もそうだが、鳥の方も見た目からして記憶にあるソレではない異形さだ。だが、何よりも馬鹿げているのは、そのサイズだ。遠目からなので正確さに欠けるが、どちらも十数メートルにも達する巨体である。

 

 突然変異的なアレかと思いたいが、違うだろう。そのサイズの生物が、一つ二つではないから。パッと見た限りでも50近い数の巨体が確認できるだけでなく、中には……三桁にも達しているのではないかという巨大なトカゲの姿もあった。

 

 『彼』が住んでいた国……いや、世界では、そんな生物はファンタジーだ。恐竜等の巨大生物が生息していた時代もあったが、それを差し引いたとしても……あまりに、全てが大き過ぎる。

 

 ――ここは自分が住んでいた世界では……ない?

 

 漠然とした予感が、脳裏を過った。いやそれは予感というよりも、確信にも似た不安……という方が正しいのかもしれない。

 

 ――ああ、もう。

 

 帰れ、ないのか。その言葉を胸中で呟いた瞬間……彼女は、涙が零れそうになった。

 

 何故かは分からない。だが、どうしてか分かるのだ。もう、己は帰れない。己が暮らしていたあの世界には帰れない。元の姿にも戻れないし、『伊吹萃香』にも成らない。

 

 ここは、己が暮らしていた世界ではない。どうしてか、それが分かってしまう。一切の疑いを抱かずに、そうなのだと納得してしまう。けれども、それが悲しかった。

 

 何もかもが、突然だ。何もかもが、いきなり変えられた。己の姿も、世界も、何もかもが突然で、そのことに思いを馳せる余裕すら……今の彼女にはない。

 

 何故なら――上空を旋回していた、蜂とバッタを混ぜ合わせたかのような一匹の虫が、彼女めがけて急降下してきたからだ。その目的は、どう考えても彼女の血肉だろう。

 

 十数メートルという巨大な虫が迫ってくる。その光景は、傍から見ても恐怖以外の何物でもない。しかし、彼女は違う。沸々と湧き起こる不安と焦燥感の中でも、『伊吹萃香』としての彼女は……何ら狼狽えることもなく、襲い掛かる虫を迎え撃っていた。

 

「――ぁぁあああああ!!?? くっそぉぉぉぉ!!」

 

 どこまでも続く青空に、可愛らしい声色に似つかわしくない罵詈雑言を響かせながら。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………それからの彼女の日々は、まさしく修羅場であった。

 

 ここが、己の知る世界ではない。とにかくそれは分かったが、だからといって、じゃあここがどういう世界なのか……それは、当の彼女にもさっぱりであった。

 

 もしや、人間が存在しない世界なのだろうか……いや、まさか。

 

 そんな予感を覚えながらも、とにかく彼女はその場を離れた。あのまま留まっていても埒は明かない。兎にも角にも、探すのだ。この世界にも人間がいる、その可能性に賭けて。

 

 幸いにも、己が肉体は頑強な肉体を誇る『鬼』だ。核が一般的成人男性であるとはいえ、器はその『鬼』の中でもひと際強大な力を持つ、『伊吹萃香』であり、心は二つが交じり合った『彼女』だ。

 

 先ほどの巨大熊や巨大虫が襲い掛かってきたとしても、この身体ならば幾らでも立ち向かえる。心と器との間に違和感が少しあるが、徐々に馴染んで様々な術が使えるようになるだろう。

 

 そう判断した彼女は一度ミッシングパワーを解除して縮むと、森の中を駆け抜けた。その気になれば空を飛ぶこともできたが、そうすると上空を飛び交う虫たちとの交戦を避けられない。生理的に巨大虫を相手取るのは嫌だったので、彼女は地を駆けることを選んだ……のだが。

 

「――どいつもこいつも血に飢えすぎぃぃぃ!!!」

 

 元の場所を離れて、たった数時間。彼女の絶叫が、夕暮れの空に響き渡る。今は森を抜けて平原を駆け抜けているところだが、既に少しばかり後悔の念が湧いていた。

 

 ――何故か?

 

 それは単に……彼女がいるこの場所に出現する生物が、どいつもこいつも敵意がありすぎるだけでなく、その数が膨大なんてものでは済まされなかったからだ。

 

 まっすぐ行けば狼を思わせる巨大な獣にぶつかり、左に行けば粘液を纏った巨大な芋虫と遭する。ならばと右に行けば一匹数メートルサイズのハチが数百を超えて迫り、こっちじゃないと後ろに下がれば三桁メートルの巨大蛇との戦い。

 

 既に、交戦した回数は100を超えた。もはや、天然の地雷原を歩いているかのような気分だ。しかも、その全てが相手側からの一方的な攻撃からスタートするのだから、彼女としては堪ったものではない。

 

 身体は鬼でも、心は違う。動く者全て餌だと言わんばかりの獰猛さに辟易を通り越して嫌悪感すら抱き始めていた彼女は、途中から逃げの一択を取ることを選び、それ以降一度も足を止めることなく全速力で走り続けていた。

 

 不幸中の幸いなことに、『伊吹萃香』の身体は無尽蔵に近い体力を持っていた。故に、息を切らすこともなく、足の回転は全く緩まなかった……が、しかし。かれこれ一ヵ月ほど走り続けた辺りで、無視できない問題が発生した。

 

 それは、『酒が飲みたい』という欲求。疼きにも似たその欲求は苛立ちを覚えるほどに強く、徐々にそれを自覚し始めた彼女は、既に周囲から巨大生物が見られなくなっても足を止めようとはしなかった。

 

 だって、足を止めたらもう酒が飲みたくて飲みたくて苛立つだろうから。

 

 多分、これは鬼である『伊吹萃香』の器が持っていた、大酒のみの感覚に釣られているのだろう。そう、彼女は己を判断する。さすがは、素面になったのは数百年も前とゲーム中にて豪語していただけのことはある。

 

 加えて、この身体になる前の『彼』もそれなりに呑兵衛だった。つまり、酒の美味さを知っている。それ故に胸中から、腹の底から、次々に湧き起こる欲求は耐え難く、沸き立つマグマが如く欲望の熱は燻ることもなく滾らせ続けていた。

 

 兎にも角にも、人だ。人を見付ければ少しは状況が好転するだろうし、上手くいけば酒にも有りつける。この際、飲めるアルコールなら何でもいい。何でもいいから、酒が飲みたい。

 

 その一心で、走る。とにかく、走る。走っていればそのうち人に会えると願って、ひたすら走る。

 

 身の丈数百メートルに達する巨大ミミズの腹を突進して突き破り、千メートルにも及ぶ巨大亀の背中を飛び越え、襲い掛かる超巨大猿の首を捻じ切って、走る、走る、走る。

 

 その間、様々な障害が彼女の前に立ち塞がった。

 

 鬱陶しく縋り付いてくる黒い霧のようなやつを蹴散らしたり、首から上が緑色の球体になっている裸の男を相手にしたり、妙な気分にさせる蛇を踏み潰したり、穴倉に潜むよく分からんやつを炎で追い払ったりしながら、彼女はひたすら走り続けた。

 

 ある時は巨大化し、ある時は霧のように自らを粒子化させ、ある時は分身して事に当たり、ある時は面倒になって超巨大化したりして……まあ、頑張った。

 

 そうして、来る日も来る日も、走る、走る、走る。朝が来て、夜が来て、朝が来て、夜が来て……延々と同じことを繰り返してもなお、走り続け……そして、遂に彼女は見つけた。

 

 文明の証である、巨大船を。

 

 大きな、それはもう鬼の視力を持ってしても地平線の彼方まで続いているようにしか見えない、大きな海。その海岸にて止まっていた巨大船へと駆け寄った彼女は、素早く自らを霧に変えて船内へと忍び込んだのであった。

 

 

 

 

 ……。

 ……。

 …………それからの日々は、彼女にとっては正しく天国であった。まあ、文明の中に身を置いたことでタガが外れただけ……というのが正しいのかもしれない。

 

 というのも、彼女は最悪の場合、己以外知的生命体が存在しないという可能性を想定していた。何せ、数メートルサイズの虫が珍しくなく、大きなもので百メートル近いやつがゴロゴロいる場所を走り回っていたのである。

 

 『彼』が居た世界の文明と力を全て集結させたとしても、まず間違いなく人類は全滅必至だろう。しかし、その可能性は低くなった。それ故に今、張っていた気が解れ、湧き起こる欲求に身を浸すのは……仕方ないことであった。

 

 船の中には大勢の人々がいて、何やら忙しなく張り詰めた雰囲気であったが、彼女には関係ない。開かれた欲望の蓋を閉じられなくなった彼女は、思うがまま欲望を発散させ続けた。

 

 広々とした風呂に浸かりながら盗んだワインをラッパ飲みし、厨房より盗んだビール樽を風呂上がりの牛乳が如き勢いで傾け、冷蔵庫より取って来たチーズをつまみにウィスキーを何本も空にし、寝酒代わりに焼酎のボトルを空にする。

 

 我慢に我慢を重ねた末での飲酒。その美味さと来たら格別としか言いようがなく、加えて、『鬼』の身体にはよく浸みた。戦いの火照りを労わるかのように全身へと回るアルコールは、もはや麻薬にも等しい爽快感を彼女に与えた。

 

「かぁぁ、うめぇぇマジうめぇぇ……っ!」

 

 いちおう、見つからないよう船内ダクトの中に身を隠しながら、彼女はその日も飲む。来る日も飲む。ひたすら酒と惰眠を貪り、食っちゃ寝&食っちゃ寝。

 

 止まっていた船が動き、大海原を進む。備蓄している食糧(主に酒)の減りが早すぎることにひと騒動が起きている最中であっても、彼女は高鼾を掻いていた。

 

 勝手に忍び込んでいることに少しばかりの申し訳なさはあったが、それも肉体がもたらす欲求の前では蝋燭のようにか弱く。よろしいことではないなあ……と思いつつ、彼女は来る日も来る日も食っちゃ寝を繰り返した。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、そんな自堕落な日々をどれぐらい送ったことか。

 

 起きては飲んで、飲んでは酔って、酔っては飲んで、飲んでは寝る。人間がやれば二日で死にそうなことを延々と繰り返せば、鬼であっても泥酔してべろんべろんになるのはまあ……当然の結果であった。

 

「……んぇ? とまっらかぁ?」

 

 おかげで、船が止まったことにすら彼女は気付けなかった。何時もとは違う慌ただしさを耳にしてようやく彼女が外に目を向けたのは、昼を大きく回った辺りであった。

 

 船の外を見やれば、どうやら……大きな港に着いたようだった。自身が乗る船以外にも大小様々な船やら何やらが停泊しており、港には様々な衣服を身に纏った人々が集まっているのが見えた。

 

 ……どこか、懐かしさを覚える。反射的に涙が零れそうになったのを、彼女は寸でのところで堪えた。

 

 走り続けた日々がどれほどのモノなのかを、彼女は記憶していない。しかし、少なくとも……10年かそこら、延々と走り続けていたのは確かだ。それ故に、こうして文明の中に戻れたのは嬉しかった。

 

(良かった。本当に、良かった。この船に乗っているやつが人類最後の生き残りとか、そういう展開じゃなくて良かった……!)

 

 ……いや、まあ、うん。例えそれが、己の暮らしていた世界ではなくとも……はて、そういえば……この人たちはいったい、何をしているのだろうか?

 

 船を出迎えるにしては、集まっている人々の恰好が物騒すぎる。銃器を携えている者は当然のこと、装甲車やら救急車やらクレーン車やら、人種と車種の展覧会かと思うほどの多種多様の顔ぶれを前に、彼女は首を傾げつつも自らを霧に変えて船を降りる。

 

(……怯えている?)

 

 霧に変えたのでこちらの姿は見えていないはずだ。しかし、どうしたことか……港に集まっている大半の者たちの顔に浮かんでいるのは、恐怖だ。得体の知れない何かに襲われた後みたいに、その顔には不安と恐れが見え隠れしている。

 

 いったい、何に怯えているのだろうか。

 

 人々の視線の先を追い掛けてみるが、上手くいかない。恐怖が恐怖を呼び、恐れが伝染しているせいだろう。おそらく恐怖の震源は同じなのだろうが、その震源がどこにあるのかが彼女の目を持ってしても不明であった。

 

 これは……下手に騒がれても面倒だ。何を切っ掛けにして暴発するか分かったものではない。

 

 そう判断した彼女は、いちおう船から遠く、人々の集まりより離れた場所にて実体化する。一人か二人、「……子供?」たまたま目にした人が見付けて目を瞬かせていたが、彼女は構うことなく人だかりより距離を取る。

 

 しかし、その足取りは実に不安定だ。まあ、あれだけ飲んでいれば無理もない。前にふらり、後ろにふらり、右に揺れて左に揺れて、転倒しないのがもはや不思議なぐらいの千鳥足。器用にも誰にもぶつかることもせず、彼女はそのまま港を出る……ところだったのだが。

 

「――そこのお嬢ちゃん、ちょいと止まりんさい」

「んぇ?」

 

 直前になって初めて、彼女は声を掛けられた。何だと振り返った彼女の目に止まったのは……無精ひげが目立つ男と、その後ろに集まる幾人かの男女であった。

 

 ……こいつら、普通じゃないな。

 

 一目で、ひげの男が只者ではないことを見抜いた。いや、そいつだけではない。そいつの傍に控えている幾人もの男女も似たようなもので、見た目で判断するのは駄目なタイプであると、彼女は瞬時に認識した。

 

 酔いに酔い潰れている肉体とは別に、精神の奥深い所にある『彼』が警戒を見せる。一般人であった『彼』だからこそ分かる直感に内心目を細めながら、「なんか用?」彼女は彼ら彼女らに向き直った。

 

「んー、あー、そうだな。何やらフラフラとしておったからな。ちょいと心配に思っただけだ」

「んふぇー、そーかー、それなら大丈夫だからお構いなくー」

 

 頬を掻いて心配する男に彼女は手を振ると、再び歩き「――いや、待てい」出そうとしたが、またそいつに止められた。振り返れば、目つきが鋭くなっている男女たちの中で、無精髭のその男だけは興味深そうにこちらを見つめていた。

 

「おぬし、随分と酔っておるようだが、何処ぞで飲んで来た?」

 

 言うておくが、この港には飲める店は一軒もないぞ。そう告げた男に、彼女はしばし視線をさ迷わせた後……まあいいか、という感じで正直に話すことにした。

 

「飲んだのは船の中だよ。おかげで楽しい船旅だったよー」

「ほう、船の中……か。はて、変だな。ワシが知る限り、あの船らの乗組員の中には、おぬしのようなお嬢ちゃんはいないはずだが?」

「そりゃあそうさ。私は忍び込んだから――ん、なに?」

 

 忍び込んだ。そう答えた瞬間、そいつの傍に居た男女が一斉に攻撃を繰り出して来た。それは刃であったり棍棒であったり飛び道具であったり様々だが、全てが正確に彼女の身体へとぶち当たった……のだが。

 

「いきなり、何だ?」

「ほう、今のを受けても無傷か、やるもんだ」

「え、今のって攻撃だったの?」

「……ほっほ、恐れ入る。ところで、その角は自前か?」

「自前だよー。触ったらぶっ飛ばすよ」

 

 彼女は、無傷であった。当たった刃は欠け、棍棒にはヒビが入り、飛び道具は全て折れ曲がって周囲に散らばった。「おいおい、嘘だろ……」絶句する男女たちと称賛する無精髭のそいつを尻目に、彼女はどうしたもんかと首を傾げた。

 

 彼女の肉体は、頑強な肉体を持つ鬼の中でも最上位に君臨する、『伊吹萃香』のソレだ。一発一撃が必殺の威力であったとしても、彼女にとっては水鉄砲が豆鉄砲に変わった程度の違いしかなかった。人間と鬼とでは、それほどに差があるのだ。

 

「どうやら、ここでおぬしを捕えるのは至難の業のようだ。お互い、無用な争いは避けるに限る……そう、おぬしも思うだろう?」

「ん~、ま~、そ~いうことになるんじゃないかな~」

 

 いやまあ、仕掛けたのはそっちだけど……という言葉を、彼女は笑顔の中に隠す。「か、会長!」何やら憤慨する男女を後ろ手で宥めながら、「とはいえ、だ」その男は続けた。

 

「はいそうですかと、見逃すわけにもいかん。悪いようにはせんから、少しばかりワシに時間を譲ってはくれんか?」

「んあー、酒くれるならいいよ」

 

 ――いいんかよ!

 

 そんな怒号がその男の傍から一斉に上がったが、構うことなく男は「ここで立ち話も何じゃ。うちんところに来い」彼女へと手招きした。

 

 男が指し示したのは、人々が集まっている港より少しばかり離れた所。彼女が向かおうとしていた方向とは反対の位置に停止している、大きな気球船であった。

 

 あれに乗るのだろうか……考えたら、初めての気球船か。特に思うところもない彼女は、素直に後に続く。そうなれば、警戒心を見せていた男女たちも、しぶしぶその男に従った。

 

「――ところで、歩きながらで申し訳ないんだが、どうやって船に忍び込んだか教えてくれんか?」

 

 そのまま、気球船に向かう途中。世間話をするかのような気楽さでその男から尋ねられた。

 

「自慢ではないが、この港はワシらが知る中でも最もセキュリティに力を入れている港でな。ワシらも出発の際には目を光らせておったが、お嬢ちゃんはそれを掻い潜ったわけだろう? どうやったか、参考までに教えてくれんか?」

 

 ほくそ笑む……というよりは、興味深そうに。ニヤニヤと頬を緩めるその男の言葉に、彼女は目を瞬かせた。

 

 港を出発ということは、この船が出発した場所……つまり、ここだ。彼女が乗り込んだのは、この港ではない。「ん~、私が乗り込んだのはここじゃないぞ」なので、彼女は素直に答えることにした。

 

「私が乗り込んだのは、もっと大きな浜辺に船を止めていた時だぞ。あの船よりもでっかい虫やら獣やらがウジャウジャいる場所だから、そっちに気を取られて――」

「待てっ、おぬし、今何と言うた!?」

「――気付けな……何だよ急に大声出して」

 

 だが、しかし。突然、大声を出して言葉を遮った男に、彼女は目を瞬かせて言葉を止めた。しかし、男は構うことなく彼女へと詰め寄った。

 

「まさか、暗黒大陸から乗り込んできたというのか!?」

 

 ――何それ?

 

 そう言い掛けた彼女であったが、寸でのところでその言葉を呑み込んだ。何故なら、それまで浮かべていた飄々とした態度が男からは微塵もなくなり、どこか鬼気迫る雰囲気を立ち昇らせていたからであった。

 

 ……これ、下手なこと言うと戦いになるんじゃなかろうか?

 

 そんな予感が、彼女の脳裏を過る。事実、傍にいる他の者たちもまた、男と同じく……いや、この男以上の気合を露わにして、彼女を睨みつけている。そのことに、お願いだからいきなり攻撃は止めてくれよと彼女は内心、頭を掻いた。

 

「その『アンコクタイリク』ってのが何なのかは知らんが、私はその浜辺に泊まっていたあの船に乗り込んだ。私が言えるのは、それだけだぞ」

 

 だから、気を静めろ。

 

 両手で肩を押しやった彼女は、そう言って男(と、その他)を宥める。それによって、多少なりとも我を取り戻したのだろう。「……はは、すまぬな」幾分か声色を落ち着かせた男は、何かを考えるかのように無精ひげ髭を撫でると……ぽつりと、呟いた。

 

「一つ聞くが、おぬし……緑色をした球体の頭を持つ人間を見たことはあるか?」

「――んあ、ああ、あいつ? 通り過ぎるだけだっつってんのに、延々と鬱陶しく絡んで来るから、ぶっ倒したけど……駄目だった?」

「……倒した? ブリオンをか? あやつはかなり手強いはずだが……?」

「ブリオンっていうのか。手強いっていうより、しつこいって感じかな。言葉も通じないし、一度目を付けられると倒すまでずーっと追いかけて来るから面倒なやつだよ」

 

 正直な感想を述べると、無精ひげのそいつと傍の男女たちは絶句したように押し黙ってしまった。はて、自分は何か不味いことを言ってしまったのだろうか?

 

 そう思って首を傾げると、いち早く復帰した男が、「そうか、面倒な奴……か」くっくっくと喉を鳴らして笑みを浮かべた。それを見て、彼女は目を細めた。

 

「言っておくけど、行かない方が身の為だぞ。おっさん……あんた程度じゃあ、倒せて数体だ。数で攻められると間違いなく殺されるからな、本当に止めておけよ」

 

 だから、命を粗末にするな。

 

 言外に秘めたその言葉は、彼女からすれば完全な親切心からの忠告であった。

 

 上から目線だと言われればそれまでだが、実際にあそこで戦いまくった彼女だからこそ、『伊吹萃香』でもある己だからこそ、分かることであった。

 

 実際、彼女が生きていられたのは『伊吹萃香』という強大な力を持つ肉体があったおかげだ。仮に鬼の力を有していたとしても、『彼』のままであったなら……間違いなく、ここに辿り着く前に命を落としていただろう。

 

 だからこそ、思うのだ。眼前の男は、強い。確かな強さを、感じ取れる。見ただけで、その強さが彼女には分かる。だが、それでもアレと戦うには力不足である。

 

 そう、率直に判断したからこそ、彼女は怒りを買うと分かっていてもなお、無暗に命を捨てるなと忠告した……のだが。

 

「――ふはははは! ワシが、程度、か。なるほど、なるほど。さすがは、暗黒大陸出身のことはある……では、ものの次いでだ。ワシの力量を測ってもらおうか」

「……はっ?」

「お主の望む報酬を払う。だから、一戦ばかり……お相手願おう」

 

 まさか、そこから(試合という意味での)手合せを願われるとは……思わなかった。ちなみに、嫌だったが拒否すると鬱陶しく絡んできたので渋々了承する形になってしまったのは、彼女にとっては不覚であった。

 



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第二話:世界最強と鬼娘

おいおいおい、東方キャラ憑依転生系がぜんぜん増えてないじゃないか……俺もやったんだからさ、(みんなも)頼むよ~流行ってくれよ~頼むよ~


 

 

 

 

 

 その性質上、機密性の高い部屋が数多く作られている気球船の中でも、その部屋は特に機密性が高かった。

 

 いや、それはもう高いという生易しい言葉ではなく、扉一つを挟んだ別世界だと揶揄されるぐらいの対策が施されている……言うなれば、凄いシークレットルームであった。

 

 コンソールと端末機器とが一体となった台が一つと、壁一面全部を使って埋め込まれた薄型のディスプレイが一つ。椅子は一つもなく、窓もない。何とも、殺風景な内装をしている。

 

 通常、その部屋は原則立ち入り禁止とされていた。まあ、当然である。定期的な点検ぐらいはするが、日常的に使うような代物ではないからだ。なので、誰も好き好んで中に入ろうとはしなかった。

 

 しかし、その日……そういう特殊な作りをしているシークレットルームには、大勢の人間が集まっていた。

 

 部屋には、様々な男女がいた。厳つい顔立ちの者、筋肉質の男、麗しい女性、小柄で可愛らしい女性、初老の男性に、立派な髭を生やした男。実に、様々な人々がそこにいた。

 

 見た目や年齢性別に規則性が見当たらないその者たちだが、二つ、共通していることがある。まず一つ、それは目の色だ。物理的な色ではなく、気迫……迫力というやつなのだろう。

 

 老若男女の区別なく、誰一人の例外もなく、その部屋に居た者たちの目は強い力を帯びていた。強者だけが持てる力強い眼差しが四方八方へと向けられる中……もう一つ、共通しているのは、彼ら彼女らの肩書であった。

 

 ――ハンター協会所属の、プロハンター。

 

 ハンター……それは、怪物・財宝・賞金首・美食・遺跡・幻獣など、希少な物事を追及することに生涯をかける人々の総称である。世界一儲かるとも、世界一気高い職業ともされており、その肩書きはあらゆる者たちから一目置かれている。

 

 まあ、無理もない。何せ、プロハンターが持つ富と名声は莫大な力を持ち、伴って、ありとあらゆる特権を有しているだけでなく、世界の長者番付の上位10名の内、6名がプロハンターなのだ。イメージ一つとっても、『ハンター』は特別な意味を持っている。

 

 加えて、ハンターが他の職業から一目置かれるのは、ハンターという仕事が実に多岐に渡るから……というだけではない。その職業が持つ過酷さと、危険性故でもあったからだ。

 

 というのも、ハンターとは言うなれば様々な物事の探究者だ。当然な話だが、探究には危険が伴う事がある。

 

 例えば、遺跡発掘の際に野生動物に襲われる。例えば、未知の病原菌の調査の為に、自らの命を危険に晒す。例えば、人々を苦しめる凶悪犯罪者を捕らえる賞金稼ぎとして、時には賞金首から命を狙われる。

 

 そういった、幾千幾万にも及ぶ荒事や死の危険にも臆することなく物事を探究する者たち。それが、ハンターなのだ。

 

 故にハンターは、その仕事柄武術等を修めることが多い。なので、そんな者たちの迫力が他と異なるのも、当然で。そして、この場に集まっている者たちは誰一人の例外なくその肩書きを有しており、ハンターたちが集まって作り上げた協会に属する者たちであった。

 

 しかも、ただ協会に属しているハンターではない。この場にいる誰しもが、そのハンターの中でも上位に位置する、頂点のそのまた頂点に坐する者たちであった。

 

 その中でもひと際強い輝きを持つ、無精ひげの男。その男が代表するかのように、一つ咳を零した。その男は、あの時彼女から……伊吹萃香から、只者ではないと真っ先に評された、あの男であった。

 

 そう、実際、只者ではなかった。無精ひげをそのままにしているこの男の名は、アイザック・ネテロ。長者番付上位6名が所属する協会の、第12代会長を務める、世界最強とも呼ばれている武道家であった。

 

「あー、諸君。急な呼び出しに集まっていただき、御苦労。まず、お主たちに現状を正確に把握していただきたい」

 

「暗黒大陸から来た、あの子のことですね……ネテロ会長」

 

 ネテロ会長と呼んだのは、あの時ネテロの背後から飛び出して彼女に攻撃をした、男女の内の一人であった。「うむ、そうだ」既に、話が通じているのを察したネテロは、傍にある唯一の端末機器を操作した。すると室内の照明が緩やかに落とされ、ディスプレイに光が灯り……映し出された光景に、集まった全員が息を止めた。

 

 ――全員の視線を集めるディスプレイには、一人の少女が映し出されていた。

 

 そこは、せいぜいが10平方メートル程度の一室であった。置いてある道具はベッドが一つ、テレビが一つ、小さな冷蔵庫が一つ。窓はなく、ビジネスホテルの一室と言われても違和感のない、こぢんまりとした内装であった。

 

 そこのベッドにて、少女は横になっていた。枕元に置いた袋から掴んだチップスをばりばりと咀嚼しながら、ぐびぐびとビールを流し込んでいる。ベッド下には空き瓶やら空き缶やらが散乱しており、一見するばかりでは酔っ払っているただの少女……という他ない姿であった。

 

 だが、しかし。よくよく見れば少女の姿は、『ただの』と安易に判断出来なくなる異質な点が幾つか見受けられた。

 

 まず一つは、少女の頭部に生えている二本の角だ。その少女が両手を伸ばしてもまだ先端に届かない立派な角が、頭部の毛を突き抜けるようにして直接生えていた。

 

 次に不思議なのが、少女の両手や腰に巻き付いた枷だ。先端に三角や丸型などの分銅が鎖によって繋がっていて、映像越しからでもそれがプラスチックのような軽い物質でないのが分かる。なのに、少女は重さなどまるで感じていないかのような振る舞いだ。

 

 そして、何よりも異質なのが……酒を飲み干す少女の摂取速度であった。

 

 酒が強いとか、そういうレベルではない。急性アルコール中毒以前に、胃袋が破裂してもおかしくない速度で飲み続けている。辛うじてそうならなくとも、腹部が膨張して当然の量を短時間で摂取しているというのに、だ。

 

 ……そんな映像が、ネテロたちが集まる部屋のディスプレイに、映し出されている。単純に見れば角を生やした少女がチップス片手に酒を飲んでいるだけの光景だが、この場に集まった誰もが……映像の向こうにいる少女へと真剣な眼差しを向けていた。

 

「……諸君も御存じの通り、現在、この気球船には人と同程度の知性を持つ未知の生命体が搭乗している。あの、『暗黒大陸』からの来訪者だ」

 

 ――暗黒大陸。改めて強調されたその言葉によって、室内の空気が張り詰めるのを……この場にいる誰もが察していた。

 

 それは、ネテロたちが暮らすこの世界の外、どこまでも広大に広がっている海の向こうにある大陸の事である。『現在分かっている世界地図の外』、あるいは、『人類の生存圏の外』という方が、分かり易いのかもしれない。

 

 生存圏の外と称するだけあって、そこは人類が住める世界ではない。人類最強と称されるネテロを代表として、その実力を認められた者たちが束になって掛かっても、『ワシらですら入口を跨いだだけで引き返したお化け屋敷』として逃げ出す程の危険に満ちた世界。

 

 人類は未だ、そこに何があるのかほとんど分かっていない。それが、暗黒大陸なのであって、それ故にネテロたちは警戒していた。何もかもが未知の世界からやってきた、未知数の酔っ払いを前に対応を迫られている……というわけであった。

 

「この際だから、はっきり伝えておこう。アレは、ワシでは勝てぬ。少なくとも、アレを殺すのはワシの力では無理だ」

 

 そして、この場における代表的立場になっているネテロが結論を述べれば、どよめきが一時ばかりあがった。

 

 幸いにも構造上防音も完璧なので、それが外に漏れるようなことはなかったが……室内にいる誰もが、驚いた様子でネテロを見つめていた。

 

「……それ程ですか、会長? 報告を聞いた限りでは頑強さこそ見て取れますが、実際に感じ取れるオーラは赤子程でしたし、それほどにはどうも……」

 

「みてくれに騙されるな。おそらく、あいつの力量はワシの数十倍……そう、最低、数十倍はあると見た」

 

「数十っ!? 御冗談……ではないですよね?」

 

「阿呆、この期に及んで冗談なんぞ零すか。お前らは気付かなかったのだろうが、アレは生命体という範疇に収まるものではない。いや、もはやアレを生命体と定めてよいのかすら、ワシには分からぬぐらいだ」

 

 訝しんで疑問を呈した一人に、ネテロは素直に己の力不足を告げた。途端、室内にいる誰もが苦しそうに唸り声をあげた。何故なら、ネテロが勝てないのであれば……この場にいる誰がやっても、彼女に勝てないからだ。

 

「生命体ではないとすると、会長はアレを何と?」

 

「……あくまでワシの予想に過ぎぬが、アレは言うなれば……巨大なオーラそのものが自我を持って形を取っている、といったところだな」

 

 オーラとは、言うなれば体内に宿る生命エネルギーのこと。人々の間では超能力とも揶揄されるその力を、ネテロを含めた彼ら彼女らは……『(ねん)能力』と呼んでいた。

 

 一流のハンターは、この念と呼ばれる力を使いこなして初めて一人前とされている。ネテロはハンターの中でもその扱いにおいては超一流であり、伊達に世界最強と称されてはいない……のだが。

 

「さて、困ったことになったぞ。暗黒大陸出身の知性あるものが現れたとなれば、各国のお偉方が黙ってはおらんだろう。まず間違いなく、アレを巡った争いが発生するだろうな」

 

 そんな世界最強も、この時ばかりは涙を堪えた幼児を前にして途方に暮れる大人のような、情けない顔をしていた。悲しい事に、その場にいる全員が、似たような顔となっていた。

 

 何故、ネテロたちは困っているのか。それは単に、彼女……伊吹萃香が暗黒大陸出身であるという、ただそれ一点に尽きた。

 

 というのも、恐ろしさだけが強調される暗黒大陸だが……全てにおいて悪いというわけではない。むしろ『資源』という面から考えれば、暗黒大陸は巨万の富を生む可能性を秘めた、黄金郷でもあるのだ。

 

 寿命を延ばす究極の食材に、あらゆる液体の原料となる水。ビーズ一個分のサイズで小さな町一つを賄う電力を生み出す石に、万病を癒す香草。

 

 現時点で存在が確認されているそれらですら、まだ誰も持ち帰ることに成功していない。この世界の経済を根底から覆す魔法のような物質が……あの大陸には確かに存在している。

 

 そんな、巨万の富が眠る宝庫を知る可能性を秘めた者が――この地に現れた。

 

 非常に、不味い事態だ。誰もその言葉を口にはしなかったが、ネテロを含めたこの場にいる誰もが、同じ結論に至っていた。何故ならば、全てが未知数であるからだ。

 

 確かに、彼女が持つ暗黒大陸に関する知識は貴重だ。札束の山を築いてもまだ足りぬぐらいの、有益な情報が彼女の中にはある。しかし、それ自体は喜ばしいことだとしても……周囲が大人しく座してはいないだろうからだ。

 

 今はまだネテロたちによって情報封鎖が行われているので、彼女の存在は露見していない。しかし、完全ではない。その道のプロが探せば目撃情報は至る所から見付けられるし、いずれは……各国へと情報が渡るだろう。

 

 そうなればもう、泥沼だ。経済を根底からひっくり返す巨万の富を知るやもしれない彼女を巡って、争いが起こるだろう。いや、それはもう争いを通り越した……奪い合いとなる。

 

 悪意を持って害を成そうとする者は危険だが、無関心によって害を呼び寄せてしまう者もまた、危険だ。最悪、前者の場合はそのものを殺せば終いだが、後者の場合は……そのものを殺したとて歯止めが利かなくなってしまうから。

 

「改めて言葉にせんでも、お主らならアレの危険性と有用性は想像が付いているのは想像するまでもない。どちらに転んだとしても、おおよそ平穏な結末には至らぬだろう……というのが、現時点でのワシの予測だ」

 

「その点については俺も同じですよ。まあ、下手したら何時間か前に最悪の結末に至っていた可能性もありましたけれど……ねえ?」

 

 ポツリと零された、その言葉。ジロリと、誰がというわけではなく、集まっている幾人かの視線が……あの時、彼女に攻撃した男女たちへと向けられる。

 

 その言い分は、至極真っ当であった。何せ、相手は正体不明。何事もなく今は大人しく酒を飲んでいるが、最悪……あの場で殺し合いになってもおかしくなかったところなのだ。

 

 そうならなかったのは、単に彼女……伊吹萃香が許した、ただそれだけ。

 

 その件に関しては、思うところがあるのだろう。暗に責められた男女たちは皆、居心地悪そうに肩身を竦めていた。だが、「過ぎたことを、何時までもほじくり返すでない」ネテロが仲裁を入れた。

 

「それに、あの時のアレが絶対に間違っていたとは誰も分からんだろう。将来的な影響を考えれば、あの場で仕留めておこうと考えるのは何も、不思議な事ではない……そうだろう?」

 

 ……誰に言うでもなく放たれたネテロの問い掛けに、その場にいる誰もが即答出来なかった。

 

 それすなわち、ネテロの言葉は、この場にいる誰もが考えたことだからだ。

 

 実際、あの場で彼女を仕留めていれば、色々と揉めはするだろうが最悪には至らなかっただろう。

 

 100かマイナス100かの二択ではなく、選択肢そのものを失くして0にする。それもまた、結局のところは取るべき手段の一つに過ぎないのだ。

 

 本人にその気が有ろうが無かろうが、彼女の存在は必ず争いの火種となる。最悪、血みどろの世界大戦に発展しかねないのは、言うまでも無く誰もが想定していることであった。

 

「――とはいえ、それはあくまで手段の一つ。幸いにも、アレは人の言葉を解し、対話を可能とすることが出来る知性を持っている。ワシらの前には今、二つの選択肢があるというわけだ」

 

 しかし、だからこそ……ネテロは、改めて集まっている全員に告げた。

 

「――手合せと称して、仕留める機会を得ることも出来た。あやつが『災厄(リスク)』か『希望(リターン)』か……さて、ワシらは選ばねばならん」

 

「……え、あれってそんなつもりで言ったんですか? わたくし、会長のことですから本気で手合せしたいだけなのかと思っていましたが」

 

「お前がワシをどう思っているのか、よく分かった」

 

 思わず、といった様子で目を瞬かせた一人に、「ただまあ、純粋に手合せしたいのも本音だ」ネテロは再度ため息を零した。

 

「だが、その為に億が一のチャンスをふいにするわけにはいかん。ワシとて、己の我が儘で人類を絶滅の危機にさせるような勝手はせんよ」

 

「人類絶滅……はは、そうなりますかね?」

 

 さあな、と。ネテロは知らん知らんと肩をすくめた。

 

「ワシらの手に余る程度であれば、犠牲は伴うが何とでもなる。だが、人類の手に余る程度であったなら……」

 

 それ以上、ネテロは何も言わなかった。室内は静まり返っていて、誰も彼もが緊張感を孕んだ様子で立ち尽くす。事態を好転させる案が何も出ないまま、ただただ沈黙だけがネテロたちの間に居座っていた。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そんな、重苦しい空気の中で会議を続けている室内の外。気球船内のとある一室に案内された、監視されっぱなしの件の暗黒大陸出身の生命体はというと、だ。

 

(うわぁ……やっぱあそこってどえらい場所だったんだな~)

 

 自らの能力を駆使した、盗み聞き。そう、ネテロたちは知る由もなかったが、『密と疎を操る程度の能力』を持つ彼女にとって、盗み聞きはある意味において専売特許であった。

 

 確かに、ネテロたちが居る場所は正しくシークレットルームだ。何重にも対応された壁やらフィルターやらによって、外部からは細菌一つ意図的に入り込むことは出来ない。

 

 しかし、どれだけ堅牢な場所であろうと、彼女の前では無意味。例えるなら、一つ一つが意思を持つ粒子だ。何十にもフィルターが掛けられたとはいえ、完全な密封でない以上は隙間が存在する。

 

 彼女は、その隙間に己を侵入させたのだ。自らが持つ能力によって霧状にまで細分化させた己を入れることで、ネテロを含めた誰もが気付かぬ内に盗み聞きを完了させていた……というわけである。

 

 なので、極秘裏に行われている会議だが、実の所それは筒抜けで。今にも決死の覚悟を固めようとしているネテロたちとは裏腹に、彼女は正直、ゆる~い感想しか抱いていなかった。

 

 というのも、彼女はなんとなくだが察していたのだ。おそらく、己は彼ら彼女らに受け入れられないだろうということを。いや、それはもはや察するというよりは、『伊吹萃香』の部分が抱いた……確信にも似た予感であった。

 

 何故なら、彼ら彼女らは己と比べてあまりに脆すぎる。直感的な部分で、それが分かる。あの……そう、『ネテロ会長』と呼ばれている、己に手合せを申し出たあの男ばかりであったなら、もしかしたら……いや、止そう。

 

(でもま~どうしたもんかな~。別に、あいつらは悪者でもなさそうだしなあ~。どっちかといえば、悪者はこっちになるんだものなあ~)

 

 空になったビール瓶を放り捨てた彼女は、ふらつく足取りで冷蔵庫から新たなビール瓶を取り出す。サッと指で撫でれば、レーザーで切ったかのように瓶の口が斜めに切れて、ことん、と瓶の口が床を転がった。

 

 ……命を狙われているというのに、彼女は全くネテロたちのことを気にも留めていなかった。肝が据わっているのか、能天気なのかはさておき、彼女はぐびりぐびりと喉を鳴らしつつ、再びベッドに横になる。

 

 そうして再び、ネテロたちの会話に耳を澄ませる。『彼』の部分で行儀が悪いと考えつつも、上手い具合に酔いしれた彼女は、冷静に今の状況について思考を働かせ始める……が、しかし。

 

(対話を選ぶか~、処分を選ぶか~。こっちとしては穏便に終わればそれに越したことはないんだけどなあ~、ああ~この酒うめぇなあ~)

 

 核となっている『彼』もそうであったが、彼女はそういう難しいことを考えるのが苦手であった。

 

 気づけば、ネテロのことよりも新しい酒の味にばかり気が向くようになり……このまま彼女が酒気から来る寝息を立てるのも時間の問題であ――っと。

 

「――んぇ? あ、くっそ零れた……」

 

 がくん、と。唐突に室内を襲う揺れに、ビールを零した彼女はむくりと身体を起こした。また巨大生物かとも思ったが、すぐに違うかと頭を掻いた。

 

 仮に巨大生物であったなら、もっと外が騒がしくなっているはずだ。それがないということは……ぐびり、と残ったビールを飲み干した彼女は、千鳥足のまま部屋の外へと出た。

 

「――っ! き、緊急報告! 対象Aが、部屋の外に出ました! お、応援求む! 応援求む!」

 

「あー、そんな怯えなくていいから、何もしないから……さっきの揺れはコレか」

 

 途端、部屋の外を挟むようにして立っていた警備員が、血相を変えてトランシーバーに声を張り上げていた。それを見て、そんな怯えなくてもなあ……と、彼女は困ったように頭を掻きつつ、眼下に広がる小さい景色に目を瞬かせた。

 

 どうやら、酒に夢中になっている間に出航したようだ。もしかしたら飛ぶ前に戦うかもと思っていたが、気球船そのものが浮上して何処ぞへと向かっているのを見て、どうやら違うことを彼女は悟った。

 

 というのも、気球船の中はそれなりに広いが、戦うには些か狭い。さすがに港に乗りつけたあの船よりは小さいが、百人や二百人が入っても余裕があるぐらいには広い。が、それでも彼女にとっては狭い。

 

 まあ……よくよく考えてみれば、こんな場所でやり合うわけもないだろう。加減するつもりだとはいえ、鬼の拳は分厚い鉄板に軽々と穴を開ける。下手に壁やら床に穴を開ければ最悪、墜落しかねない。

 

 というか、こんな場所では彼女が持つ『伊吹萃香』の術の大半は使えないだろう。その一つ一つの威力が高すぎて、とてもではないが……ここは全てが脆すぎる。

 

 彼女ならまだしも、そうなれば……この船に乗る大半が命を落とす結果になるだろう。そうならなくとも、相当な被害が出てしまう可能性がある以上、ここでやらないというのは彼女からしても賛成であった。

 

 ……とりあえず、目的地に着くまでは何もすることはない。はて、そういえば目的地が何処なのかを聞いては……まあ、いいか。

 

 そう判断した彼女は、今にも泣きそうな程に緊張している警備員に手を振って部屋に戻る。そして、ベッドに飛び込んでから大きく欠伸を零すと……静かに、寝息を立て始めたのであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………?

 

 どれぐらい、眠っていたのか。酒の臭いをぷんぷんと漂わせながら、彼女は目を覚ました。一瞬ばかり己がどこに居るのかが分からず目を瞬かせたが、気球船の中であることを思い出し……ああ、とため息を吐いて枕に顔を埋めた。

 

 途端、扉がノックされた。何だと寝ぼけ眼を向ければ、「伊吹様、御到着致しました。扉を開けてもよろしいでしょうか」とのこと。声色からして……誰だろう、男の声だが聞き覚えはない。

 

 さっきの警備員ではない。ていうか、あの警備員、結局仕事を続けられたのだろうか。今にも気絶しそうな様子であったが……まあいい。

 

 分かった、今行くよ。

 

 大きな欠伸と共にそう告げた彼女はのそりとベッドを降りると、冷蔵庫へ。中からよく冷えたワインを取り出すと、迎え酒かと言わんばかりにそれを一気飲みした。

 

 コルク……そんなものは指先一つで瓶の口ごと切断だ。アル中であろうと半日で命を落としそうな勢いでボトル一本を飲み終えた彼女は軽くゲップを零すと、ふらふらとした足取りで扉を開けて外に出た。

 

 すると、そこには値の張りそうなスーツに身を包んだ男が立っていた。髪をオールバックにしているその男は、「大変長らくお待たせ致しました」彼女が出てくると同時に深々と頭を下げ……上げた。

 

「私どもの上司たちが、食事会を開いて待っております。御都合がよろしければ、是非とも出席していただきたいのですが……」

 

 ん~……右に左にゆらゆらと頭を揺らしながら、彼女は考え……いいよ、と気楽に了承した。

 

「あ、酒は出るの?」

 

「もちろんでございます。伊吹様の為に、世界中から取り寄せた各種銘柄の美酒をご用意致しました」

 

 それでは、ご案内致します。その言葉と共に緩やかに歩き出した男に、彼女は従った。男の足取りは実に滑らかで、相応の訓練を積んでいるのが一目で分かった。

 

 コツコツ、と。二人の足音が、静まり返った気球船内を反響する。既に、ほとんどが下りたのだろうか。乗り込んだ時は遠目からではあるが乗組員らしき人が確認出来たが、今は見掛けない。

 

 まるで、事前に人払いしているかのようだ。けれども、彼女は特にそのことを男に尋ねるようなことはしなかった。それは男の思惑を読んだ……というよりも、酔いどれ気分から来るいい加減なだけであった。

 

 ふらふら、ふらふら、と。はた目からでも酔っ払いだと分かる怪しい足運びであったが、彼女は一度として躓くことなく……気球船の外に出る。

 

 降りた先には一台の車がエンジンを掛けられた状態で止まっていたが……自然と、彼女の視線はそれ以外へと向けられた。

 

 気球船の外は、当然ながら彼女の記憶にもない、見覚えのない景色だ。『彼』の記憶から考えるなら、そこは空港というやつが近しいのだろう。しかし、記憶にあるような空港の忙しなさはなく……あるのは、寂れた、の二文字だけであった。

 

 そう、雑草が生えた滑走路もそうだが、空の玄関となる空港そのものが酷く寂れていた。窓は黄ばみ、一部は割れ、外壁は軒並み砂埃を纏っており、その向こうには職員の影すらない。遠目からでも、人の手が離れてそれなりの年月が経過しているのが分かった。

 

 空港内ですらそうなのだから、敷地の外に目をやればもっと酷い。辛うじて名残が見て取れる道路は雑草だらけのひび割れだらけ。錆びてボロボロのフェンスの向こうには車一台見当たらず、羊に似た獣が我が物顔で闊歩しているのが見えた。

 

 ――さあ、どうぞ。

 

 その言葉と共に開かれた後部座席に乗り込めば、優しく扉は閉められて。運転席へと滑り込む様に男が座れば、車は静まり返った空港に倣うかのように緩やかに発進し……速度を増してゆく。

 

 合わせて、カチリ、と。男が何かのボタンを押した途端、彼女の耳には聞き慣れない音楽が流れた。「――到着まで退屈でしょう。お嫌ならば、何時でも仰ってください」それが何の歌なのかは分からなかったが、特に彼女は何も言わなかった。

 

 ……窓越しに、徐々に小さくなってゆく空港と気球船を見やる。やはり、人の影はない。横を見やっても、映るのは彼方まで続く長閑な光景と、野生動物がぽつぽつと確認出来るぐらいで……他に、何もない。

 

 果たして、こんな場所に食事会などという洒落た事が出来る場所があるのだろうか。少なくとも、このまま後1時間……いや、2時間走らせたとしても、そんな場所はないだろうなあ、と、彼女は思った。

 

 そうして、車が走り続けること幾しばらく。最初よりも変わってきてはいるが、全体的に見れば大して変わり映えのない景色をぼんやりと眺めたまま、かれこれ……どれぐらい走り続けただろうか。

 

 相変わらず、スピーカーから響くのは聞き覚えのない音楽。そして、DJによる妙な口調の口上。彼女の好みからも、『彼』の好みからも外れたそれらがピーピーと騒ぎ立てている……その、最中。CMが流れる合間に訪れた、一瞬の静寂。

 

「――私はさあ、嘘が嫌いなんだ」

 

 その静寂の隙間を縫うかのように放たれた、言葉。

 

「それで、結論はどっちになったの?」

 

 ポツリと零された彼女の問い掛け。それは、まさしく不意打ちであった。

 

「……どっち、とは? 申し訳ないのですが、私には伊吹様が何を仰っているのかが分かり」

 

「私はね、嘘がとにかく嫌いなんだ」

 

 表情一つ、仕草一つ変えることなく、訝しそうに首を傾げる男の返答を、彼女は最後まで言わせなかった。

 

 この時……彼女ははっきりと自覚していなかった。己が、脳髄が茹で上がると錯覚してしまうぐらいの激しい怒りと苛立ちを覚えているということを。

 

 何故、そうなのか。それは鬼だからという以外の理由が、彼女にも分からない。当然、『彼』にも分からない。

 

 けれども、鬼である『伊吹萃香』の器が訴えるのだ。四天王と恐れられた誇り高き酒呑童子の器が、だ。

 

 ……一つだけ擁護するのであれば、彼女だって我慢はしたのだ。

 

 食事会があると嘘を吐かれても、美酒を用意していると嘘を吐かれても、案内すると嘘を吐かれても……たった今、知らないと嘘を吐かれても。彼女は、笑顔の中で我慢し続けていた。

 

 男は、まだ幸運であった。何故なら、彼女の中には『彼』があるから。一般人としての、何の変哲もない『彼』があるからこそ、男はまだ無事でいられるのだ。

 

 本来の『伊吹萃香』であるならば、彼はとっくの昔にひき肉にされてもおかしくない……それほどの挑発を重ねているも同じ。それが、鬼に嘘を吐くということなのだ。

 

 なので、今はもうアレだ。何もかもが嘘の中で、今まで我慢出来ただけでも、彼女からすれば自画自賛してしまう状態。それが、今の彼女の内心であった。

 

 けれども、まだ、彼女は堪えていた。ギリギリ踏み出す半歩手前の辺りで、何とか踏みとどまっていた。故に、彼女の声色はあくまでほわほわとしたもので。「私も、嘘は嫌いですよ」男から放たれる気配もまた、柔らかいものであった……だが、しかし。

 

「三度目、これで最後だ。私は、嘘が嫌いだ」

 

 再び流れ始めるラジオの音楽の中で……その声は静かに、それでいてよく響いた。

 

「そのうえで、もう一度問うよ。私としては、あんたらがどちらを選んでも同じさ……結論は、どっちになったの?」

 

「…………」

 

 男は、何も言わなかった。微笑をそのままに前を向いたまま汗一つ掻くことなく、視線一つ寄越さない。ただただ運転を。

 

「――もしかして、さあ」

 

 続けようとした、その肩を掴んだ。と、同時に、彼女は我知らず力を込めていた。

 

「私が……ただただ大人しくしているだけの小娘か何かだと軽く考えていないかい?」

 

 あの大陸に居た時は一度として見せなかった……『伊吹萃香』の本気の怒気を!

 

 それは、死をも錯覚する程の凄まじい覇気であった。常人ならば、その身に浴びただけで失禁する程の圧力――いや、待て。

 

「……?」

 

 唐突に覚えた違和感に、彼女は目を瞬かせた。最初、それが何なのか彼女は分からなかった。だが、理解するにはそう時間は掛からなかった。

 

 指が……動かないのだ。いや、指だけではない。手が、腕が、全身が、動かない。まるで突如全身を見えない針金で固定されてしまったかのように、ピクリとも動かせなくなっていた。

 

 いったい、何が起こったのか。いや、何をされているのか。想定外の事態に、一瞬ばかり彼女は怒りを忘れた。と、同時に、がくんと車体が揺れた――その、瞬間。

 

 ――フロントガラスの向こう。今しがたまで続いていた地平線が、途切れた。

 

 あっ、と思った時にはもう、遅かった。ふわりと全身を襲う、浮遊感。と、思えば、ゆらりと身体が傾き、ガラスの向こうは……見える限り全てが森林の大地で。

 

 落ちている。どこから……崖から?

 

 そう、彼女が理解した直後。浮遊感は落下へと移り変わる。瞬く間に近づいてくる大地を前に、彼女は己を縛り付ける何かを強引に振り払い、男を守ろうと運転席へと――回った瞬間、彼女は初めて気づいた。

 

 男は――人間ではなかった。いや、人間どころの話ではない。男は、おおよそ生物ですらなかった。

 

 例えるなら、ソフトが一切入っていないパソコンといったところだろうか。

 

 生者としての臭いこそするものの、その中身が存在していないことに気付いた彼女は、呆然と微笑を浮かべ続けている男の横顔を見やり――瞬間、彼女を乗せた車は大地へと叩きつけられ、爆音と共に四散し炎上した。

 

 

 

 

 

 ……上からみれば、その窪みはまるで、巨大な長靴の形で切り抜いたかのようになっている。名は、『長靴壁(ながぐつへき)』。そこはかつて炭鉱所として賑わっていた土地より幾ばくか離れた地点にある、巨大な窪みであった。

 

 窪みの深さは、おおよそ800メートル近く。もはや断崖絶壁と言っても間違いではない、その窪みの縁に立っているのは、武装している幾人かの男女。具体的に言い直せば、ネテロたちであった。

 

 彼ら彼女らの視線は、崖下へと落ちて行った車の向こう。正確にいえば、黒煙と炎を噴き上げている、その中へと注がれていた。800メートル先のことだが、この場にいる誰もが当たり前のようにそれを見続けている。

 

 と、思えば。その内の数名が、黒煙へと向かって……爆弾を投げる。800メートル下にいる相手に無駄なことをと専門家からは言われそうだが、誰も彼もが剣呑な眼差しで行動に移っていた。

 

 一つ、二つ、三つ……燃え盛る車体の黒煙をかき消す程の幾つもの爆音が、窪みの中を反響し、ネテロたちの下に届く。さすがにネテロたちの位置から正確に爆弾を落とすのは難しかったが、それでもなお攻撃を止めることはしなかった。

 

 ぎゃあぎゃあ、と。爆発音に驚いた野鳥やら何やらが、奇声をあげて空へと逃げてゆく。それはまるで火中から飛び出した栗のように慌ただしく、広がる黒煙と砂埃とが相まって、凄惨な光景となっていた……と。

 

「――えほっ!? えほ、えほ!」

 

 その中で、一人。ネテロたちの後ろで座り込んでいた一人の男が、咳き込んだ。すぐさま、周囲の者たちが彼の介抱を始める最中、「ね、ネテロ会長……!」その男は、顔中に脂汗を浮かべつつもネテロへと報告する。

 

「駄目です……おそらく、アレは生きております」

 

 瞬間、その言葉を聞くことが出来た全員が、驚愕に身を固くした。けれども、「それは、ダメージを負った上でのことか?」ネテロだけは冷静に続きを促した。

 

「それは、分かりません。ただ、地表へと激突する寸前に……俺の念を破りました……!」

 

 そういうと、彼は苦しげに顔をしかめて……ネテロを除いた誰もが、緊張に総身を強張らせた。

 

 彼はいったい、何をしたのか。どうして、彼の言葉を聞いた誰もが顔を強張らせたのか。前者は、彼は己の能力……すなわち、念能力と呼ばれる超能力を使っていたから。後者は、彼の能力の有用性を……この場にいる誰もが認めていたからであった。

 

 というのも、彼が持つ念能力は、『対象となる相手(人、物、問わず)を移送する』というもの。

 

 対象となる相手が何者であっても絶対にその場へと連れてゆくことが可能であり、一度でも能力に囚われた者は移送が完了するまでけして逃れることが出来ないという能力だ。

 

 攻撃用の能力ではないが、その拘束力は非常に強い。世界最強と名高いネテロですら、そう易々と逃れることは出来ない。だが、その能力が……造作もなく破られたと彼は口にした。

 

 すなわちそれは、アレが……暗黒大陸からの来訪者が、ネテロをも上回る何かを持っているということ。それが念能力なのか、全く異質な何かなのかは不明だが、人類滅亡の危険性があるとネテロが断ずるだけの――その時であった。

 

 とてつもない衝撃が、ネテロたちを襲った。「――地震!?」そう声を荒げたのは、誰であったか。思わず身構えるネテロたちは辺りを見回し――眼下の光景に、一同は言葉を失くした。

 

 先ほどまでそこには、地獄があった。黒煙と炎と砂埃と、野鳥たちの悲鳴と爆発音とが木霊する凄惨な光景が広がっていた……はずであった。

 

 それが今や、爆心地かと見紛う程の巨大なクレーターが生まれていた。隙間無く繁茂していた森林も、周囲を飛び交っていた野鳥も、軒並み消えて。何もかもが晴れて無くなったその中心に……彼女が、いた。

 

 何をしたのかは、分からない。だが、誰もが理解していた。彼女が……やったのだということを。呆然としつつも状況を呑み込もうとしている中、中心にて佇んでいる彼女が……跳んだ。いや、それは跳ぶというよりも、飛ぶという方が正しかった。

 

「――来るぞ!」

 

 誰よりも早く状況を理解したネテロが叫んだ時にはもう、遅かった。羽もないのに空を飛行して800メートルという高さを乗り越えた彼女……伊吹萃香が、地響きを立ててネテロたちの後方に着地した。

 

「……全員、下がっていろ」

 

「ネテロ会長!?」

 

「やれやれ、こうなるのであればもっと破壊力のある爆弾を持ってくるべきだったな」

 

 小さなクレーターの中から立ち上がった彼女を前に、ネテロが歩み出る。「会長、私たちに逃げろと?」我に返った者たちがその後に続こうとしたが、「足手まといだ」当のネテロから止められた。

 

 実際、言い方は悪いが、この場に限れば彼ら彼女らは足手まといであった。

 

 言っておくが、彼ら彼女はけして弱くはない。いや、それどころか、一人ひとりが世界に名を知らしめている実力者である。しかし、その実力者であっても……ネテロと比べたら格下なのは誤魔化しようがない事実でもあった。

 

「お主たちの気持ちは嬉しいが、頼む、ここは引いてくれ。ここから先はワシの我が儘で、お主たちが付き合う必要はない」

 

「私たちに、あなたを見捨てて逃げろと仰るのですか!?」

 

「そうだ」

 

「――会長!」

 

「ハンターたるもの、引き際を見誤るな!」

 

 その怒声は、ネテロより放たれる圧気となって彼ら彼女らを押し退けた。敬愛するネテロよりそうまで言われて、彼ら彼女らもようやく諦めたのだろう。

 

 誰一人納得してはいなかったが、こうと決めた彼ら彼女らの行動は早かった。ものの数秒という時間であっという間にその場より離れてゆく最中……一人残ったネテロは「……ありがとうよ、待ってくれて」、彼女に礼を述べた。

 

 一歩、また一歩。距離を詰めれば、ふらりふらりと彼女もクレーターより出てくる。そうして、向かい合った二人は……何を言うでもなく、向かい合った。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま、どれぐらいの間そうしていたのか。沈黙だけが二人の間に佇んでいたが、最初にその沈黙を退かしたのは……彼女の方であった。

 

「私はさあ、別にあんたたちに何かしようとは思っちゃいないよ」

 

「お主がそう思っていても、周りがそれを許さん。まあ、人間以外には理解出来んことだ」

 

 はっきりと。それでいて嘘偽りなくネテロは答えた。「分かるさ、私には」それが分かった彼女は、ここに来て初めて……笑顔を浮かべた。

 

「それで、どうするつもり? 私が言うのも何だけど、勝てないって分かっているはずだけど?」

 

 事実であった。悲しい事に、彼女には分かるのだ。目の前の男……ネテロは確かに強い。人としての、個としての極致に至った類稀な存在であるということが。

 

 けれども、それでも弱い。彼女を……『伊吹萃香』を相手取るには、力不足だ。例え、その命を賭したとしても己に届かないというのが彼女には分かってしまった……でも、それでも。

 

「知れた事を。敗色濃い難敵に全身全霊を以て臨む……それ以外の何を望む?」

 

 ――退くことなくネテロが吼えた、その瞬間。『伊吹萃香』の器を持つ彼女は、背筋が震えるのを自覚した。

 

 それは、怯えではない。己が全力をぶつけようとしている相手を前に、彼女は……筆舌に尽くし難い喜びを感じた。ともすれば、彼女はこの時初めて……『濡れる』という感覚を体感していた。

 

 ……ああ、駄目だ、駄目駄目。この人は、死んでは駄目な人なんだ。

 

 冷静な『彼』の部分が、戦わずに姿をくらませと訴えてくる。そのおかげで、心の全てが鬼ではない彼女は、こうまでされてもまだネテロを傷つけたくないと思っていて。

 

「それが本音? それなら、どうして人々の為になんて尤もらしい理由を付けたんだい?」

 

 だからこそ、あえて彼女は尋ねた。どうしても、ネテロの口から……その本心を知りたかった。

 

「……ワシはただ、この海の外に何があるのか、ただそれを見たかっただけだった」

 

 それを、ネテロも察したのだろう。しばし意外そうに眼を瞬かせたネテロは……深々とため息を零すと、苦笑しつつ無精ひげを撫でた。

 

「ほんの、土産話のつもりだった。不用意にあそこに行くべきではないあの世界は、まだワシらには早すぎる……ただ、それだけのつもりだった」

 

「だが、ワシは人の業というものを見誤ってしまった。誰よりもそれを分かっていると自負しておきながら、ワシは安易にあの世界の事を話してしまった」

 

「人類にはまだ、あそこは早すぎる。後150……いや、100年。人類があそこに向かうには、最低でも後100年の時間が必要だとワシは思っている」

 

「今はまだ、その時ではない。しかし、人が持つ業が、底知れぬ悪意(欲望)が、あの世界を求めるだろう……ワシは、それを止めねばならん」

 

 そこまで告げると、ネテロは着ていた衣服……ジャンパーを脱ぎ捨てる。露わになったのは、シャツの胸一面に大きく描かれた『心』の一文字であった。

 

「それが……ワシなりのケジメというやつだ」

 

 その言葉と共に、ネテロは構える。傍目から見ればその構えは、ただ脱力して立っているようにしか見えなかったが……彼女には、それが本気になったネテロの型であるのが分かった。

 

 ――説得も和解も、無理か。

 

 力強く輝くネテロの瞳を見て、彼女は困ったように苦笑する。まあ、それ自体は薄々予想出来ていたので驚きはしなかったが……ネテロの言わんとしていることが分かってしまい、彼女は悲しみと寂しさを覚えた。

 

 ……ネテロの言う通りだ。人間としての『彼』があるからこそ、それがよく分かる。

 

 始めから、彼女が何を言おうが、何をしようが関係ないのだ。世界が、人類が求めるのは、彼女が知っている情報。そして、戦力と成り得る彼女自身……そこに、彼女の意思は含まれていない。

 

 それ程の可能性が、暗黒大陸にある。手に入れた者が次代の王者として君臨出来るだけのモノが、そこにある。泥沼の奪い合いを経て、夥しい死体の山を積み上げてもなお手に入れようとするだけの宝が……いや、もう止そう。

 

 心の中で、彼女は首を横に振った。考えた所で、もう意味はないのだ。

 

 諦めと共に覚悟を決めた彼女は、てくてくとネテロへと歩き出した。とりあえず、ネテロが何かしてきてもいいようにと心構えをしつつ、何時でも反撃出来るよう――そう思った時にはもう。

 

「――そりゃあ悪手だろう、ガキめが」

 

 ――ネテロが、何かをやった。何かを己に叩きつけた。それを彼女が理解した時点で、衝撃が脳天から圧し掛かり全身を走って視界全部が真っ暗になったのを……彼女は知覚した。

 

 

 

 




幻想郷においても人と妖怪が本当の意味で共存出来ないように、ハンター&ハンター世界においてもまた、人と妖怪とが共存なんて出来るわけがないんだよなあ・・・


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第三話:百式観音と鬼娘

すっげー難産
若いころのネテロをイメージしようとすると、どうしても老人ネテロのイメージに引きずられる……うーん、妄想力が足りないと実感する今日この頃


誰か、こんな感じの憑依系を書いてくれれば……筆が……ねえ?
俺もやったんだからさ、みんなも頼むよ~


 

 

 

 ――ダメージは皆無であったが、直撃の瞬間すら見えなかった。あまりに突然のことに驚いた彼女は、反射的に身体を起こし……えっ、と目を見開いた。

 

 一言でいえば、クレーターであった。穴の広さは5メートル程度で、深さは3メートル強ぐらいだろうか。気づけば、彼女はそのクレーターの中にいて、砂まみれとなっていた。

 

 いったい何が……いや、違う。何を、されたのだろうか。攻撃されたのは確かだが……たん、と地面を蹴って穴を出た彼女がネテロを見やれば、ネテロは変わらず同じ位置に立っていた。

 

 ……やはり、攻撃された? でも、どうやって?

 

 油断なく見据えるが、ネテロに動きはない。これ見よがしに腕を回したり地面を蹴り砕いたりと誘ってみるが、微動すらしない。それを見て、彼女は今しがたの攻撃について思考を巡らせた……のだが。

 

「んー……分からん」

 

 早々に、彼女は思考を切り上げた。経験値が、あまりに足りなさ過ぎるからだ。そのうえ、こういった駆け引きは『彼』も『伊吹萃香』も苦手なのか、無理に考えようとすると妙な苛立ちすら覚え始めてしまう。

 

 まあ――いいだろう。分からないのであれば、分からないままでいい。

 

 そう決断した彼女は、ネテロへと駆け出す。踏み込みに、地面が割れる。とにかく、一発だ。一発ぶち当てれば勝負がつく……そう思ってネテロへと向かった……のだが。

 

「んぶっ!」

 

「うごっ!」

 

「へぶっ!」

 

 届かない。その一発が、ネテロへは届かない。横へ飛んでも、前へ飛んでも、上へ飛んでも、気付けば跳ね飛ばされている。最初に開かれていた20数メートルより先に、進むことが出来ない。

 

 地面を蹴って加速すれば真横に弾き飛ばされ、空中を蹴って変則的に近づければ地面に叩きつけられ、地面すれすれから近づけば真後ろへと弾かれる。どう頑張っても、最初の立ち位置に戻されてしまう。

 

 これは厄介だぞ、と。早くも地面と数十回目の接吻を終える最中、彼女は思う。

 

 ネテロが何かをしているのは、分かる。何かから弾き飛ばされる刹那の瞬間、ネテロの身体が動いているのが見えていたからだ。だが、その動きがどのような作用を経て結果に至っているのかまでは……さっぱり分からない。

 

 何か術を使っているのかもしれない――直感的ではあったが、彼女はそう理解する。

 

 だが、いったいどんな術かは分からない――同時に、それを理解するにはまだ時間が掛かるだろうとも理解する。

 

 持続的な攻撃というよりは、一発ずつ殴られた感じ……だろうか。鬼の力を持ってしても踏ん張れない威力ではあるが、幸いなことに衝撃によるダメージは皆無。あくまで踏み止まれない、というだけのこと。

 

 こちらの速度を上回る素早い攻撃を重ねられているが、この攻撃で倒れるようなことはないだろう。例え、百万回積み重ねられたとしても……種族として、人と鬼との根本的な耐久力の差が、最初から明確に現れていた。

 

 現時点でネテロは彼女に対して有効打を一発とも浴びせていない。同時に、彼女もネテロに有効打を一発も浴びせていない。言葉だけを見ればどちらも同じだが、中身には雲泥ともいえる差が二つの間には広がっている。

 

 傍目には、ネテロが一方的な優勢を保っているように見えるだろう。そして、彼女が一方的に攻撃を受けているようにも見えただろう。

 

 だが、実際はその逆……ネテロは、攻勢に出る以外の手段がないのだ。

 

 どれだけ肉体を鍛えて鋼のように変えても、どれだけ臓腑を鍛えて息を長く止められるようにしても、人間である事には変わりない。

 

 腕を振るえばいずれは拳を痛め、蹴りを放てばいずれは足を痛め、連打をすれば息も乱れる。出血すれば動きが鈍り、内臓を損傷すれば命を落とす。

 

 手足を落とされてもいずれは再生し、腹に風穴を空けられても短時間で傷が塞がる彼女と違い、ネテロにはそれがない。『~のように』なることは出来ても、結局は……人間なのだ。

 

 故に、ネテロが彼女に対して数百万回繰り返さねばならない事に対し、彼女はネテロに一発でも当てれば良い。

 

 一発でも当てて負傷させれば、それで全てが確定する。それだけで勝負が決する程の隔たりがある以上、最初からこの戦いは公平(フェア)ではなかった。

 

(息切れどころか汗一つ掻いていない……ん~、これはまいったね。思っていた以上に凄い体力だ)

 

 だからこそ、だろう。そんな中、攻撃を受けつつも冷静に観察を続けていた彼女は、チラリとネテロの顔色を見やって……驚嘆の念を抱きつつも、軽くため息を零していた。

 

 一定の距離から近づけさせないネテロには称賛以外の言葉が出て来ないが、要はそれだけ。ネテロの体力が尽きるまでコレを続けるのは簡単だし、続けていれば確実に勝てるだろう。

 

 彼女としては、傷つかずに終わるのが最良の結果である。鬼として、相手が男であれ女であれ、拳を振るうことにそれほど忌避感はない。だが、『彼』の部分によって……極力、傷つけずに終わらせたいとは思っていた。それは、彼女なりの思いやりでもあった。

 

 しかし……そう上手くゆくだろうか。

 

 上下左右に動き回る視界の最中、彼女は悩む。あの様子だと……疲れて攻撃が止まるまで、どれぐらい掛かるか分かったものではない。長々とやり合うこと自体は良いのだが、そうなると援軍……つまり、ネテロの手助けに幾人もの戦士たちが駆け付ける可能性がある。

 

 先ほど、ネテロが口にしていたことだ。1対1の現状は、あくまでネテロが望んだことであって、彼らの総意ではない。ネテロが疲れて動きを止める頃になって、武装した軍隊が到着して……ということも、可能性としては0ではない。

 

 それは、彼女としても不本意な話である。何せ、この戦いは彼女からすれば、あくまでネテロに対する敬意の証。丸く収まるならまだしも、人類と血みどろの戦い……などというのを彼女も望んでいなかった。

 

 ……こうなれば、仕方ない。あまり時間を掛けさせず、程々に痛めつけたり疲れさせたりしたうえで、適当に姿を眩まそう。

 

 相手側とて好き好んで殺し合いしたいわけではなさそうだし、『どうにもならない』という感じのいいわけでも出来れば……それで終いにしてくれるかもしれない。

 

(――どうか、避けるなり何なりしてくれよ)

 

 そう結論を出した彼女は、地面を殴りつける。コロコロと回転していた身体が反動で飛ぶ。既に、どこまで近づけば攻撃を受けるのかは見切っていた。故に、彼女は余裕を以て術を発動した。

 

 空中へと飛んだ彼女が腕を上げれば、その腕に周囲の岩石が浮き上がって、二つ三つとくっつく。そのまま彼女が腕を回せば、まるで渦潮に吸い寄せられる木の葉のように周囲の岩石が集まり……瞬く間に、直径十数メートルの巨大な塊となった。

 

「――戸隠山投げ」

 

 『密と疎を操る力』によって作り出したそれを、ぶん投げる。子供が放り投げるが如き雑な投擲ではあったが、そこは鬼の筋力。剛速球を通り越して弾丸と化したソレは、常人でなくとも即死の破壊力となってネテロへと向かう。

 

 が、ネテロも負けていない。迫り来る、身の丈の数倍にも匹敵する岩石の塊を前に一歩も退くことなく、何かをする。素振りは見えたが、彼女の眼力を持ってしても何をしたのかが捉えられない。

 

 とはいえ、これで何かしらの術を使っているのが確定した。そう確信を得たと同時に、岩石がネテロの間合いに入った途端、塊は真横から殴られたかのように軌道を変え、大地へと散らばった。

 

 その事については、特に彼女は何も思わなかった。この程度の攻撃を防ぐことぐらいは予想していたからだ。けれども、これなら……地面に着地した彼女は再び岩石を集める。今度は、先ほどの倍の大きさで――それを、先ほどと同じ速さでぶん投げる。

 

 すると、再びネテロが何かをした。途端、岩石の塊は再び軌道を変えて辺りに散らばった。そこまでは、先ほどと結果は同じ。だが、それを見ても彼女は何ら気にすることなく、さらに巨大な岩石を――作ろうとして、失敗した。

 

 何故か……それは、それまで迎撃に徹していたネテロが初めて距離を詰めたからであった。

 

 あっ、と目を見開いた時にはもう、遅い。壁と壁とで挟まれたかのような左右から走る衝撃と共に「――ぐぇ」息が詰まる。途端、集中を切らしたことで術が解けて……頭上にて集められていた大小様々な岩石の塊が、彼女へと降りかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……岩石の雨あられの中へと消える小さい影を尻目に、ネテロは素早く脱出をする。油断を突かれた方と、油断を突いた方。明暗を分けるには当然すぎる理由によって、ネテロは外へ、彼女は岩石の山の下へと沈んだ。

 

 岩石同士がぶつかり弾けて砕けて転がる様は、壮観を通り越して凄惨さすら感じられる。ネテロにとっては大したことない光景であったが、常人なら肝が冷える程の惨たらしい有様が、ものの十数秒程で完成となった。

 

 後に残されたのは、大小様々な岩石によって構成された歪な小山。もはや、彼女がどの位置に沈んでいるのかすらも分からない……そんな中、油断なく見据えたまま、ネテロは思う。いや、思うというよりは、思い続けていた。

 

 ――かつて、これ程の強敵と拳を交えたことがあっただろうか……いや、ないな。

 

 繰り出す連撃の最中、ネテロは考えていた。幾度となく迫り来る小さい怪物を前にして、どこか心の中で雑念を抱き続けている己が……少しばかり不思議であった。

 

 ――己は、強い。少なくとも、人の世界で5本の指に入る程には。

 

 そう、ネテロは自覚し、己の実力を評価していた。己が満足できるだけの相手を探すだけでも年単位の時間を要する。それぐらいに、ネテロは強い。何とも自惚れたやつめと思われそうだが、そう言われない、言わせないだけの実力が、ネテロにはあった。

 

 これまで……ネテロは様々な相手と戦い、勝利してきた。

 

 1対多数は当然のこと、武器防具を身に着け、銃器を構える集団を相手にしても傷一つ負うことなく全員叩きのめすなんて、ネテロにとっては朝飯前。今ではもう、ネテロの名を聞くだけで裏社会の者が道を空けるぐらいに、ネテロの名は知られていた。

 

 ――故に、己は強い。いや、おそらく、強いのだろうと、ネテロは己を評価する。

 

 その証拠に、気力漲る全盛期と比べれば僅かばかりの衰えを自覚していた(周囲は認めなかった)が、その実力を疑う者は誰もいない。そして、未だ己は誰にも負けていない。

 

 だからなのか、何時しか己を慕う者が周囲に集まって来ていた。また、その実力に惹かれた幾人もの武道家が彼の下を訪れ、指南を願う。アイザック・ネテロとは、それ程の武道家なのだ……そう、ネテロは己を客観視していた。

 

(……情けねぇ話だ)

 

 だが、ここにきてネテロは思うのだ。

 

(たかだか数十年負け知らずが続いた程度で頂点に至ったと……ネテロよ、お前は何時からそんな戯言を受け入れるようになっていたんだ?)

 

 心のどこかで、己はもう挑戦者ではなくなったのだと自惚れていたのではないか、と。

 

 その証拠に、見ろ。今の己が心の沸き立ち具合ときたら、なんだ。好敵手……否、己を何時でも殺せる程の相手が存在していることに、隠しようがない喜びを抱いている。

 

 ああ……度し難い。お前はどこまでも武人であって、人の上に立つなんてしたくない挑戦者でいたかったのか。本当にどうしようもないやつだと……そう、ネテロは己に告げる。

 

 そして、同時に気付いたことがある。

 

 もしかしたら、こうして拳を振るう言い訳すら、体の良い言い訳なのかもしれない、と。

 

 己が本当に望んでいたのは、周囲から尊敬の眼差しを向けられる環境ではない。今、この場におけるような……死力を尽くしても勝てないであろう相手に全力を出す、この瞬間なのではないか、と。

 

 ……否定は出来ない。だが、未曽有の混乱を防ごうという思いもまた、否定出来ない。

 

 そう、ネテロは己を納得させた。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………言っておくが、此度の戦いの当初、ネテロはそんなことを微塵も考えていなかった。当初のネテロの中に有ったのは、懺悔の気持ち。そして、後悔の二文字、ただそれだけであった。

 

 なぜ、そう思っていたのか。それは、ネテロが彼女へと吐露した内心の通り。今回の件もそうだが、元を正せば全ては己の短慮が招いた結果であると考えていたからであった。

 

 彼を知る誰もが、それは違うと口を揃えた。誰もが、自己責任だと彼の罪悪感を否定した。だが、ネテロ自身はそう思っていないし、自己責任などという簡単な言い訳で己を許すことはなかった。

 

 以前、『他人も自分も無理難題を強いて、苦慮しつつも突破してゆくことに喜びを抱く困った性格』だと、ネテロは知り合いに評されていた。ネテロ自身、それは的を射ていると考えていたし、否定もしなかった。

 

 だが、ネテロにとって、その中にある『他人』とはずばり、『実力を評価した他人』だ。間違っても堅気の相手……己のように武(裏)の世界を生きるわけではない、ただの一般人を巻き込むつもりは毛頭なかった。

 

 ――なのに、気付けばこの有様だ。

 

 思わず、ネテロは己自身に苦笑する。

 

 あの大地に足を踏み入れた、それ自体に後悔はない。だが、己の不用意な発言によって、いったいどれだけの命が失われたのか、どれだけの未来を奪ってしまったのか。

 

 思い上がりと言われれば、それまでだろう。おこがましいと言われれば、それまでだろう。そう、ネテロは思う。

 

 しかし、ただ足を踏み入れること。それすらも、過ちだったのだろうか。堂々巡りの葛藤は、何時になっても消えやしない。

 

 ――それを考えるたび、苦々しい思いに胸が痛むのは……所詮は、偽善なのか。

 

 あるいは、もっと別の、ネテロ自身でも分かっていない何かなのか。今に至ってもまだ、その答えを出せては……いや、止めよう。今はまだ、そんなことを考える時ではない。

 

 己が頬を叩いたネテロは、雑念を振り払う。

 

 此度の相手は、それこそ決死の覚悟を以て挑まねばならない難敵なのだ。余計な雑念は、ただただ不利にしかならない。相手がこちらを殺す気がないとはいえ……そう、あの怪物は、こちらを殺そうとしていないのに、だ。

 

 悲しいことだが、ネテロ程の実力者ともなれば分かってしまうのだ。

 

 相手の攻撃に敵意がないということが。攻撃をぶつけるたびに感じ取れる、こちらを気遣おうとする意志。出来ることなら傷つけたくないのだという、優しさが……嫌なほどに伝わって来てしまう。

 

 ……はるか高みから見下ろされている。

 

 言われずとも察せられる事実に内心、屈辱感を覚えていなかった……というのは、嘘になる。武に心血を注ぎ続けてきたネテロからすれば、手加減をされているというのは……堪え難い侮蔑に他ならなかった。

 

(やり難い相手だ……せめて、殺意なり敵意なりをぶつけてくれればまだ、良かったんだけどな)

 

 だが、ネテロはそれを相手に……小さき怪物に向けようとは思わなかった。

 

 何せ、此度の件はネテロが一方的に吹っかけたモノだ。1から10までこちらの都合であって、相手には何ら落ち度はない。むしろ、争いを避けようとしていた言動を考えれば……と。

 

 ――岩石の小山が、爆発した。

 

 いや、そうではない。爆発したのではなく、内側から跳ね除けられたのだ。大小様々な岩石を避け、時には払い除けつつ、ピンピンしている小さな怪物がのそのそと出て来るのを見やったネテロは……構える。

 

 角を生やしたその怪物はネテロを見やるが、気に留めた様子はない。警戒か、それとも別の思惑か。油断することなく、ぺっぺっと唾を吐いているその姿を観察し続けたネテロは、心の中で舌打ちをした。

 

 手応えから想定していた事ではあるが、やはりダメージは無さそうだ。ある程度分散されたとしても、その身に圧し掛かった重量は軽く見て数百トンに達していたというのに、まるで堪えた様子が見られない。

 

(こりゃあ軍事レベルでの兵器をぶつけても殺しきれんかもな)

 

 心の中で、ネテロは眼前の怪物の強さを、そう評価した。全てにおいて、ネテロの知る生物のソレではない。さすがは暗黒大陸出身なだけはある、ということなのだろう。

 

 ……暗黒大陸出身じゃなければなあ。

 

 一瞬、そんな思いを抱いたネテロは、反射的に己が頬を両手で張った。きょとん、としている小さき怪物の視線を他所に、ネテロはそのまま二度、三度と己が頬を叩き……揺れるなと、己を叱咤する。けれども、どうしてもネテロは思ってしまう。

 

 この小さき怪物が、暗黒大陸出身でさえなければ。

 

 出会えた場所がここではない、あの大陸の中であったなら。

 

 人に危害を加え、食欲のままに捕食する怪物であったなら。

 

 おそらく、己は何の憂いもなく全力を出していただろう。この小さき怪物は迷惑そうな顔をするだろうが、それでもなお……清々しい思いで拳を振るっていただろう。

 

 しかし、悲しい事だが現実は全てがネテロの願いとは逆を行ってしまった。

 

 この小さき怪物は暗黒大陸出身で、出会えた場所がよりにもよって人類の生息圏で、人に危害を加える気も悪意もない。ただ、迷い込んできただけ……ただ、それだけ。

 

(やれやれ、何事も思うように動かないのが人生……というやつか)

 

 けれども、やらねばならない。それが、ネテロなりのケジメであるから。

 

(奥の手を使うか、否か。伸るか反るかの一発勝負、通じる可能性は万に一つ以下だが、直撃すれば、あるいは……)

 

 胸中より湧き起こる久方ぶりの闘争心に目を向けつつも、ネテロは改めて……小さき怪物を前に構えたのであった。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そんな、世界最強と一目置かれているネテロの葛藤を他所に、ぴんぴんした様子で岩石の山から出てきた彼女はというと。

 

(ん~、やっぱりどう攻撃されたのかが見えないなあ)

 

 相も変わらず、余裕綽々であった。

 

 いやまあ、自ら集めた岩に押し潰された時は多少なりとも驚きはしたが、そこは鬼の頑強さ。こんなもんかと圧し掛かる岩石を跳ね飛ばし、口内に入った砂埃を吐き捨てると、改めてネテロを見やった。

 

 ……油断なく構えるその姿は、まさしく武人であった。

 

 シャツの胸元に描かれた『心』の文字が、実に似合っている。たぶん、本人にとっては譲れない信念のようなものなんだろうなあ……と思いつつ、さてどうしたものかと彼女は思案する。

 

(私を近づけさせないようとする辺り、頑丈さはそうでもないってのは確定かな?)

 

 『伊吹萃香』の部分が、何となくではあるが理解する。と、同時に、これまでの攻防(というには、些か一方的ではあるが)から、あの見えない攻撃に対して推測出来たことが一つある。

 

 それは、攻撃の威力。『伊吹萃香』の目を以てしても捉えられない何かであると同時に、その威力を加減することが出来ないのではないか……ということ。

 

 まだ確信を得たわけではないが、何となくそう思う。角度や方向の違いから分かり難いが、どうも……威力が一定しているというか、同じ力加減な気がする。

 

 しかし、そんなこと有り得るのだろうか。というか、そんなことをする意味があるのだろうか。ほとんどダメージを与えられていないというのは、ネテロも分かっているはず。それを続けた所で事態が悪化することはあっても、好転しないのも……分かっているはずだ。

 

(ん~、何かを企んでいる……ようには見えないなあ)

 

 奥の手があるのか、それともたまたまなのか。それは彼女にも分からない……というかまあ、考えた所で意味の無いことだ。

 

(どちらにしても、下手に当てて死なせるのは忍びないなあ……)

 

 それよりも、と。予想はしていたが改めて直面する問題に目を向けた彼女は、はてさてどうしたものかと頭を悩ませる。

 

 今の岩石もそうだが、生半可な攻撃ではダメージは与えられないのは分かった。しかし『溜め』を作れば、その一瞬の隙を突かれて……先ほどのようになってしまう。

 

 ならば他の技を……と考えてみる。けれども、すぐに彼女は首を横に振る。

 

 繰り出す拳の風圧すら致命傷になりかねない、この腕力のせいだ。どれもこれも、人間を相手に使うには威力が強すぎる。かといって、腕力を必要としない術ならばと考えてみるも、そっちの方もヤバいことに思い至って軽く頭を抱えたくなる。

 

 色々な技を持つ彼女(というか、『伊吹萃香』)だが、山のように積まれた鋼鉄を瞬時に熔解させる吐息や、地中奥深くより引っ張り上げたマグマをぶつける術なんて、その最たるモノだ。

 

 直撃すれば、同族の鬼ですら即死させる威力を持つ『伊吹萃香』の術。いくら鍛えているとはいえ、人間の脆い身体なんぞ……一瞬で炭と化してしまうだろう。

 

(弾幕……いや、これは駄目か。普通の人間ならこれでいいけど、こいつみたいな相手には何万発ぶつけてもダメージ無さそうだものなあ……)

 

 ――『弾幕』。

 

 それは、『伊吹萃香』を含めた東方Projectキャラには、ごく標準的に備わっているというか、使用されていた能力の一つ。『スペルカードルール』と呼ばれる特殊な決闘法の際に用いられた、非殺傷の攻撃技であった。

 

 非殺傷と呼ばれるだけあって、この弾幕には大した威力はない。元々が『淑女同士の遊び』と呼ばれ、『より美しく華やかな弾幕を張った者が勝つ』と揶揄されたぐらいなのだから……威力の程はお察しである。

 

 まあ、中には触れるだけで死を招く蝶だとか、山一つ焦がしかねない炎の不死鳥だとか、晴天を貫いて彼方まで届く光の砲撃だとか、大地震を起こしかねない要石だとか、非殺傷とはいったい、と首を傾げそうなモノも……話を戻そう。

 

(……やっぱり、時間は掛かるけど余計なことはせず、程々に疲れさせたところを気絶させてトンズラする……しかないかな)

 

 結局の所、彼女は消極的な決断を己に下すと、それに従ってネテロへと飛び掛かる。当然、ネテロも先ほどと同じように不可視の何かによって迎撃し、彼女の身体は再び真後ろに……戻されたが、そこからが違った。

 

 彼女は、回転する己を、地面に足を打ち込むことでその場に制止した。けれども、今度は向かわない。ピクリと、これまでと違う動きにネテロが身構えたが……その時にはもう、彼女は準備を終えていた。

 

 ――『百鬼禿童』!

 

 使い方は、もう分かっている。意思に応じて術が発動すると同時に、彼女を中心にして霧が立ち込める。と、同時に、霧から飛び出したのは伊吹萃香……彼女であった。

 

 正式名……鬼群『百鬼禿童』。

 

 百鬼と名付けられた通り、彼女をそのまま百体まで分身させる術である。この術は伊吹萃香を象徴する術の一つであり、その一体一体が本体と同等という、恐るべき代物であった。

 

 つまり、分身である彼女たちには分身に有りがちな、攻撃されたら消えるとか、本体よりも弱いといった弱点はない。言い換えれば、伊吹萃香がいきなり増えたと同じであり、霧の中から飛び出すその数は瞬く間に30へと達した。

 

「なんとっ!?」

 

 これには、百戦錬磨のネテロも驚きに手を止めた。ネテロは、気付いたのだ。眼前にて分身した彼女が……文字通り、そのままに彼女自身がそのまま分身したのだということを。

 

「殺さないようにしてあげるから、あんまり抵抗しないでよ」

 

 そう言うと、彼女は……いや、彼女たちは一斉に走り出した。向かう先は……世界最強と名高い武道家。

 

「――上から物を言ってんじゃねえぞ! ガキがっ!」

 

 狼狽したネテロであったが、さすがというべきか。瞬時に我を取り戻すと、再び彼女の目を持ってしても確認出来ない……不可視の攻撃を繰り出し始めた。

 

 それは、何とも凄まじい光景であった。弾き飛ばされた彼女たちが四方八方へと飛んでゆく。ある者は地面を数十メートルと転がり、ある者は地面の中へと陥没し、ある者は空高くへと。

 

 その勢い、破壊力、連打はこれまでの比ではない。どうやら、様子見していたのは彼女だけではなかったようだ。凄まじい爆裂音と共に四方八方へと跳ね飛ばされる彼女たち。一見すると、ネテロが優勢に見えるだろう。

 

 ――だが、傍目には分からなかったが、状況はあまりにネテロに不利であった。ネテロもそれを認識しており、早くも現状がジリ貧に成り掛けているということも、はっきりと認識していた。

 

 というのも、現在、ネテロが使用している念能力は、百式観音(ひゃくしきかんのん)と呼ばれる完全攻撃型の技であり、彼女に通用する能力が……コレしかなかったからだ。

 

 この百式観音の姿は、その名の通り観音様であり、大きさはおおよそ20数メートル。発動と同時にネテロの背後に出現し、決められたパターンに応じて相手を打撃するという単純なもの。

 

 その威力は、ネテロが持つ幾つかの念能力の中でも最大級である。加えて、弾丸のように迫り来る彼女の初動を上回る速さで迎撃出来るという強みのおかげで、ネテロは傍目からは優勢を保っているように見えている……というわけであった。

 

 だが、言い換えればそれは、これ以外ではネテロを以てしても、彼女に対抗できないということ。今、ここで僅かでも手を緩めて別の能力を発動させようとしたら最後、彼女の接近をネテロは許してしまうだろう。

 

 ――そうなれば、負ける。

 

 悔しい。とても悔しいが、互いの実力を考慮したうえで判断したそれが、客観的な結論であると同時に、ネテロの正直な結論でもあった。

 

 正確な攻撃力は不明だが、先ほどクレーターを作った光景から考えれば、相当な破壊力を持つ攻撃が可能なのは明白だ。避けられるかも不明だが、少なくとも直撃すれば致命傷になりかねない威力だ。

 

 故に、ジリ貧なのだ。しかし、それでもネテロの気力は微塵も損なわれなかった。

 

 百式観音による、マシンガンのように放たれる不可視の連打。これによって、辛うじて戦況は均衡している。事実、彼女たちは誰一人ネテロへの接近は許されず、未だ20メートルの境目を越えられないままに留まっていた。

 

 だが……それも時間の問題であった。

 

 少しずつ、ほんの少しずつではあるが、時間の経過と共に、徐々にその距離は縮まりつつあった。それは何故か……ネテロの息があがった……いや、違う。百式観音が放つ返し手を間違えた……それも違う。

 

 答えは、一つ。それは、人知れず彼女が、己が分身の数を増やしているから、であった。

 

 そう、彼女が分身出来る総数は最大100体。様子見していたのは、お互い様。一体、また一体とその数が足される度に、少しずつ……少しずつ、ネテロの防御は崩され、包囲網が狭まり始めていたのだ。

 

 例えるなら、今のネテロが陥っているのは鍔迫り合いだ。それも、負けることが確定している、分の悪い我慢比べ。一度でも最善手を外せば窮地に至るという、凄まじい状況であった。

 

 ――だが、しかし。

 

(……へえ、ここで笑うのか)

 

 そんな危機的状況においてもなお……気づけば、ネテロは笑っていた。緊張のあまりではない、不敵な色合いを帯びているその笑みを前に、彼女は鼻を鳴らした。

 

 何というやつだ。本心から、彼女は思った。

 

 何という男だ。本心から、彼女はネテロという男を改めて尊敬した。

 

 やけになっているわけではない。かといって、諦めて気が触れているというわけでもない。この男は、何一つ攻撃が通用していないというこの状況においても……勝つと、本気で思っているのだ。

 

 その命が燃え尽きる瞬間まで足掻いて足掻いて足掻き続けることを良しと決めた……武に全てを捧げている者だけが見せるモノ。それは正しく不退転の笑み。『伊吹萃香』としての部分が、その笑みの意味を正確に汲み取っていた。

 

 ――だからこそ、彼女は改めた。そして、己を戒める。

 

 疲れさせるなんていう消極的な決着は、彼の決意と覚悟に対する不義であると。この場合において彼に見せられる敬意は『傷つけない』のではなく、全てを受け止めるべきなのだということを……彼女は悟った。

 

 ネテロもまた、複雑な胸中であるのは彼女も察していた。だが、それでもなお全力でぶつかって来ているのだ。一方的に売られた戦いであるとはいえ、生半可な気持ちで返すのを……彼女は、良しとしなかった。

 

 ――だからこそ、彼女は術を止めた。

 

 目線一つで、50にも達していた分身が一斉に消える。まるで蜃気楼のようにゆらりと溶け込んで見えなくなれば、後に残されたのは訝しむネテロと、仁王立ちする彼女だけであった。

 

 ほんのりと、ネテロの顔が汗ばんでいるのが彼女の目に映る。まあ、無理もない。一発でも当たれば即死の攻撃を、数十分にも渡って耐え続けたのだ。むしろ、それでも息が切れていないことに何度目かになる称賛の念を抱く。

 

 直後――彼女は、力いっぱい踏み込んだ。

 

 それは、これまで彼女が見せていた手加減など一切ない、全力の踏み出し。地面を陥没させて迫る彼女を前に、ネテロは再び不可視の攻撃……『百式観音』による迎撃を試みた……が。

 

 ――止まらなかった。

 

 それまで、ダメージこそないものの、木の葉のように飛ばされていた小さな身体が、ビクともしない。まるで、見えない鉄鋲を大地に打ちつけているかのよう。

 

 これまでとは違うのだと瞬時に悟ったネテロは、畳み掛けるように攻撃を連続する。だが、それでもなお彼女は止まらない。その歩調を僅かなりとも遅らせることすら、叶わない……と。

 

 その歩みが、唐突に止まった。

 

 止まった場所は、『百式観音』の射程内……で、あると同時にそこは、余裕を以てネテロを仕留められる彼女の射程内でもあった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 無言のままに、ネテロと彼女の視線が交差する。常人ならば、その場に張り詰めている闘気に触れただけで気絶する程の緊張感。気づけば、風すら固唾を呑んで動きを止めている。

 

 そんな……中で。最初に動いたのは、彼女で。

 

 どんな攻撃をされても倍返しにしてやろうと、それまで以上の闘気を反射的に漲らせたネテロを他所に、彼女は悠然と……あくまで穏やかに、そっと……ネテロへと、手招きをした。

 

 ――その瞬間、ネテロは動いた。

 

 ぶちり、と。己の中で何かが切れる音を、ネテロは聞いた。早まってはならないと頭では理解していたが、もう遅かった。気づいた時にはもう、ネテロは己が奥義を……奥の手を発動させていた。

 

 ――あと、50年。

 

 それだけ齢を重ねていたら、ネテロはこの時点で踏み止まっていただろう。いや、それどころか逆に挑発の一つはやってのけただろう。だが、ネテロはまだ若かった。

 

 それは齢が、という意味ではない。武道家としての性根が、ある意味では純真なままだったのが悪かった。と、同時に、挑発をした相手というか、タイミングというやつがあまりに悪かった。

 

 こと、ネテロは武に関しては幼子のように純真で有り過ぎたのだ。己をここまで導いた武に対し、正気を疑うような恩返しに没頭し続けていたぐらいに、ネテロは武というやつに骨の髄まで浸っていた。

 

 だからこそ、ネテロは我慢出来なかった。全力を以てしても敵わない相手から、子ども扱いされるということが……いや、むしろ子ども扱いされているならまだ、マシであった。

 

 ネテロは海千山千という言葉では到底収まらない、様々な経験を積み重ねてきた武道家だ。格下扱いされたとて、それも当然だと笑い飛ばすだけの器は持ち合わせている。

 

 だが、それ以下とされてはさすがに武道家としての矜持が許せない。しかも、相手が意図的にそうしたのならともかく、無自覚なのが余計に腹立たせた。

 

 己の考え過ぎだというのは、分かっていた。だが、己が生涯を掛けて打ち込んできた『武』を虚仮にされたように思えたネテロは、我慢ならなかった。

 

 ――音速を超えた光速にも近しい速度でネテロが行ったのは……合掌であった。

 

 それは、『百式観音』を発現し、発動する為の所作。己をここまで導いた全てに対する祈りを受けた『百式観音』が、その姿を見せたのは……小さい怪物の背後。

 

 ふわり、と。

 

 それまで大地を砕き、岩石を削り、数十体にも至る彼女を蹴散らし続けた観音の両手が、彼女の身体を包み込む。その手はまるで幼子を撫でるかのような、慈愛に満ちていた。

 

 見えなくとも、何かをされたのは彼女も分かっていた。だが、気付いた時にはもう、遅い。光が……視界全てを覆い尽くす。あっ、と彼女が思った時にはもう、彼女の姿は光の中へと消えた。

 

 ――轟音が、大地を叩いた。

 

 サングラス越しでも目が眩むほどの光が、滝のように降り注いで大地を削ってゆく。その光の中に取り残されている彼女がどうなったのか、誰もが確認出来ないまま、光の放流は十秒、二十秒、三十秒と続いてゆく。

 

 光の正体……それは、慈愛溢れる両手によって身動きを封じられた彼女の頭上より降り注いだ、『百式観音』による無慈悲の放光。すなわち、ネテロの生命力を凝縮して放たれる、渾身のエネルギー弾であった。

 

 その威力は、これまで続けていた攻撃とは根本から異なっている。地面を融かす高熱に、鉄をも凝縮する圧力に、戦車すら粉々にする破壊力。

 

 それらがまるで洗濯機の中のハンカチのように縦横無尽に跳ね回り、その中に取り残された相手を塵一つ残さず消滅させる。当然、中に残された彼女とて例外ではない。

 

 この技を知る者ならば、誰もがそう思ったことだろう。

 

 ネテロも、同様だった。手応えから彼女が、無防備なまま己の必殺の一撃を受けたのが分かっていたからで……仕留め損ねたとしても、相当なダメージを負うとネテロは想定していた。

 

「……っ」

 

 体力、精力、活力。ありとあらゆる全ての力を『百式観音』に送り込み、それを一点に集中して解き放つ、文字通りの奥の手。放光はまだ続いていたが、それよりも前にネテロの膝が崩れ落ちるのが早かった。

 

 生命力を一気に注ぎ込んだ反動だろう。鍛え込まれ丸太のように太かった手足は一回り細くなり、年齢と比べて若々しかった顔立ちは年相応……いや、それ以上に年老いたものへと変貌していた。

 

 もはや、ネテロはまともに立ち上がることすら出来ない程に疲労困憊となっていた。普通ならそのまま気絶したとて不思議ではないが、そこは世界最強。平時とほとんど変わらないぐらいの意識を保ち、結果がどうなるのかを固唾を呑んで見つめていた。

 

 ……徐々に光が収まってゆくまで、数十秒。

 

 放光が収まり、再び辺りに静けさが戻り始める。彼女を包み込んでいた両腕を消滅させている『百式観音』が、緩やかにその姿を消してゆく、その傍で。座り込んだネテロの目に映ったのは……ほとんど無傷のままでいる彼女であった。

 

 さすがに身に纏っていた衣服は無くなっていて全裸となっていたが、その身には火傷一つ、傷痕一つなかった。両手と腰に巻かれた鎖(と、その先のやつ)も無事で、身体と同じく傷一つ付いていなかった。

 

(零すら、駄目か……っ!)

 

 心の中で、ネテロは悔しさに臓腑が焼かれる思いであった。『百式観音・零ノ掌』。今しがた放った奥義の名であり、一発撃てば身動き出来なくなるほどに消耗する。それ故に、この技は文字通りの必殺技。さしものネテロも、まさか無傷で終わるとは思っていなかった。

 

「ああ、吃驚した」

 

 呆然としているネテロを他所に、当の彼女は気楽な様子であった。己が受けた攻撃を、攻撃とすら認識しないまま、のそのそぺたぺたと素足のまま放光によって出来た穴から出て来て……ネテロの眼前にて立ち止まった。

 

 ……ネテロも、彼女も、何も言わなかった。

 

 だが、その意味合いは全くと言っていいほど異なっていた。ネテロの方は、死を想起したのか、あるいは過去を振り返ったのか。敗者となったネテロは何も言わず、黙って勝者が成すことを受け入れていた。

 

 ……きっちり白黒つけないと駄目だよね。

 

 それが、ネテロに対する礼儀である。そう思った彼女は、ゆるやかに振り上げた手でネテロの頬を張った。ばん、と鈍い音を立てて、ネテロの身体が数メートル程転がる。起き上がることすら出来ないが、それでも鋭く睨みつけて来るその姿を見やった彼女は……心から、ネテロを称えた。

 

「あんたは、凄いやつだ」

 

「……はっ、嫌味か?」

 

「違う、私は本心から思っている」

 

 べっ、と。鮮血混じりの唾を吐き捨てたネテロに、彼女は首を横に振って答えた。

 

「鬼の中でも最上位に位置する酒呑童子こと、この『伊吹萃香』を前に、一歩も退くことなく戦い続けた……私は、心からあんたを凄いと思っている」

 

 だからこそ……彼女は屈んで、ネテロと目線を合わせてから告げた。

 

「私は、あんたの難敵にはなれない。何故なら、お前は優しいやつだからだ」

 

「なに?」

 

「『伊吹萃香』である私には分かる。お前の攻撃の一手から伝わって来たのは……敵意じゃない。お前は、命がけの戦いの中でも、自らに問い掛け続けていたのだろう?」

 

「…………」

 

「それが何なのか、私は聞かない。それはきっと、お前が自分の中でケリをつけなくては駄目なやつなんだと思う。だから、私は聞かない。私だけは、聞いちゃ駄目なんだ」

 

 ――そのうえで、私は言おう。そう続けた彼女は、屈んでいた目線を戻し……ネテロを見下ろした。

 

「お前は――まだ、死んでは駄目だ。お前の死に場所は、ここじゃない」

 

「……お情けで生かさせてもらったうえで、後始末をしろってか?」

 

「そうだ、惨めでも何でもいい、お前は生きろ。数多の人々と出会いに導かれてこの場にお前がいるように、お前の存在がまた、数多の人々の出会いとなるんだ」

 

「……ワシが、出会い、と?」

 

「こうして私とお前が出会ったのもまた、その結果だよ」

 

 そう言い終えた辺りで、唐突に彼女の輪郭がぶれた。いや、ぶれたのではない。彼女は、自らを霧に変えたのだ。それはまるで水に溶ける砂糖のようで、瞬く間に彼女の身体は白い靄へと形を変え、風に流れる様に散らばってゆく。

 

 ――私に名はない。だが、私に名があるとしたら、『伊吹萃香』という名が一番近しいのだと思う。だから、私のことは『萃香(すいか)』と呼べばいい。

 

 既に、彼女の全ては霧となって見えなくなっていた。だが、声だけは聞こえる。ネテロの耳に、彼女の声ははっきりと聞こえていた。

 

「――ネテロ。アイザック・ネテロだ」

 

 だからこそ、ネテロは名乗り返した。

 

 ――アイザック・ネテロ……覚えておくよ。

 

 ――何時かまた、この世界の何処かで出会えた時。その時、もしもお前が答えを見つけたうえで、私に挑むというのなら。

 

 ――その時は、お前の望む通りに……全力で相手になるよ。

 

 ――でも、先に言っておくが私は戦うのは嫌いじゃないが、好きってわけでもない。出来ることなら、のんびり平穏に過ごしていたいんだ。

 

「負けたのはこっちだ。こっちとしても出来る限り、お前が平穏に過ごせるようにはしておく。だが、お前が不必要に目立つようなことをすれば……」

 

 ――その辺は分かっているさ。まあ、世界征服とか金銀財宝とか全く興味ないし、私は酒飲んでのんびりしているだけで十分さ。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………その言葉が、最後であった。

 

 既にこの場を離れたのだとネテロが気付いた時にはもう、彼女の気配は欠片も感じ取れなくなっていて。後にはもう、己だけが残ったのだという事に思い至ったネテロは……ぱたり、と。投げやりな感じで、その場に大の字になると。

 

「世界は広いなあ……ワシが、まるで手も足も出せぬとはなあ」

 

 久しぶりに、基礎からやり直すか。そう、誰に言うでもなく呟くと。

 

「……まあ、人もそこまで馬鹿じゃああるまい」

 

 成るように成るさ。そう言い残すと、ネテロは静かに……意識を手放したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……この日、暗黒大陸より来訪したとされる知的生命体は彼らの前から姿を消した。表向きは『搬送途中にて突如凶暴化したので鎮圧しようとしたが、その最中に自爆して消滅した』という理由であった。

 

 当然、後日になって方々より抗議やら何やらの声は上がった。特に大きかったのは、通称『V5』と呼ばれている五つの国家からのものであったが、その声もすぐに鎮静化することとなった。

 

 各国は消耗した(全力を放出したことで、一時的に見た目が年老いた)ネテロの姿と、現地の戦いの跡を見て、ハンター協会が隠したのではないと判断したからだ。

 

 各国は、ネテロがどれ程の存在であるのかも熟知していた。そのネテロがそうまでなったのだから、不用意な接触なり何なりは危険。最悪、災厄がこちらに向かいかねない。強引に探っても、余計ないざこざを生み出すだけでなく、他国に借りを作りかねない。

 

 外交的な意味での後々の影響を考慮した結果、各国は『暗黒大陸より来訪した知的生命体は死亡し、その亡骸も消滅した』と足並み揃えた結論を出し、その存在をなかったことにして蓋をする。この間、わずか3か月の出来事であった。

 

 ――首の皮一枚。ワシが思うよりも、人類は聡明だったのだろう。

 

 それからさらに、数年が経った後。ハンター協会の会長室にて、そう愚痴を零したネテロが居たとか居なかったとか……それを知る者は、ごく限られた者だけであった。

 

 

 

 




強引なオチ、嫌いじゃない。次は年数飛ぶよ


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第四話:二本角(にほんづの)と呼ばれた鬼娘

やーっと原作キャラが登場するゾ。やっぱりオリジナル展開よりも原作キャラを多めに出した方が書いている方も嬉しくなるゾ

ところで……もう一か月以上待っているんですけど、ま~だ(こんな感じの作品を投稿してくれるまで)時間掛かりそうですかね?
もう風呂入ってサッパリしたしキンキンにバッチェ冷えたビールも飲んだし、後は……そういえばさ皆さ、(書きたいって本音が)チラチラ見えてたゾ

何時までも投稿されるのを待っているからな、(大会も近いし)、しょうがないけど、頼むよ~


 

 

 

 

 ネテロとの戦いから離れ、幾日。森を抜け、平原を抜け、人々の暮らしの中に紛れることは簡単であったが、その前途は多難の一言であった。

 

 ――と、いうのも、だ。

 

 彼女が、最初に足を踏み入れた都市の名は、『メイドリック』と呼ばれていて、『彼』の記憶にある街並みよりもずっと都会ではあった。だが、『東京のようだ』と零したぐらいにネオンが眩しいその喧騒の中で、彼女がまず取った行動は……途方に暮れる、であった。

 

 何故かと言えば、答えは一つ。彼女には、この世界で生きてゆくために必要となる様々な知識が、圧倒的なまでに不足していたからで。その中でも、まず直面して困ったのは金銭云々住居云々ではなく……文字が読めないこと、であった。

 

 いや、読めないどころではない。それが文字であるということすら分からないぐらいに、彼女にはこの世界における知識が不足していた。

 

 幸いにも文明のレベルというやつが『彼』の記憶の中のそれと似通っていたので、雰囲気からある程度の推測は出来たが、それだけ。右を見ても、左を見ても、『日本語』というやつが全く見受けられなかったのだ。

 

 はっきり言って、誤算であった。

 

 何せ、会話は全て『日本語』で通じていたのだ。ネテロもそうだが、これまで出会ってきた誰もが、己と同じ言葉を発し、会話が出来た。だから文字も『日本語』か、あるいは『英語』のどちらかだろうと無意識に考えていた。

 

 しかし、蓋を開けてみれば日本語はおろか、英語どころの話でもない。

 

 まるで、図形の羅列だ。ネオンに照らされた図形も、どでかい看板に描かれた図形も、テレビに映し出された図形のテロップも……彼女にとって、それらは只の図形でしかなく、一昼夜が過ぎるまで、それを文字だとは認識出来なかった。

 

 他にも、彼女には戸籍のような身分を証明する物もない。まあ、当然といえば当然のことだが、そのせいで彼女は公的機関に捕まると非常に面倒な事になってしまう。加えて彼女の姿は、年若い以前の……10歳前後にしか見えない、角を生やした女の子なのも結果的にはマイナスであった。

 

 そりゃあ、身元不明の人間自体はそう珍しいものではない。『彼』がいた世界にも存在していたし、他所の国から怪しいパスポートを使って密入して出稼ぎに来るなんてのは、探せばけっこう見つかる程度の話であった。

 

 だが、10歳前後の女の子が一人で出稼ぎに来るなんて話は聞いたこともない。あったとしても、『彼』が暮らしていた世界でも100,200年も前の話だ。この世界での就労事情がどうなっているかは彼女には分からなかったが、行き交う人々の姿を見る限り……そこまで違いがないというのは察せられた。

 

 それ故に、喧騒の中に紛れた彼女の日々は当初……浮浪者のそれとそこまで変わりなかった。

 

 術で衣服を作り出して新調したり、数十キロ離れた川に行って身体を洗ったりして浮浪者よりもはるかに身綺麗にはしていたし、悪いとは思ったが欲求に逆らい切れず販売店からちょいちょいとしたが……それでもまあ、その生活は青息吐息であった。

 

 いくら彼女が、酒とツマミさえあれば満足出来る性質とはいえ、だ。さすがに宿無し生活を半年も続ければ、温かい布団やら熱い風呂が恋しくなる。というか、自分の寝床ともいうべき住居が欲しくなってくる。

 

 あの大陸から船に乗り込んだときは欲求が爆発して飲み食いしまくったのが、懐かしい……というか、何時までも盗賊紛いの生活を送ることに少し嫌気を覚え始めていた、というのが彼女の正直な気持ちであった。

 

 けれども、そう思ったところで彼女は文字が読めないし身分を保証するものもない。おまけに、その見た目は年若い少女。角を生やし、両手と腰に鎖が巻き付いているとあれば……自分でいうのも何だが、これは何処も雇ってくれないだろうなあ、と彼女がすぐに結論を出したのは仕方ないことで。

 

 それ故に、当初の彼女の日々は灰色であった。しかし、都市に来て9か月が過ぎた辺りで、少しずつではあるがその暮らしは改善の方向へと進み始めた。

 

 警官の目やら何やらから身を隠したり、公園にて開かれる炊き出しを少しちょろまかしたり、落ちている小銭やら何やらを集めたりと涙ぐましい努力を重ね、時にはおっ立たせた変態を返り討ちにしたりとしている内に……徐々にではあるが、彼女の存在が夜の世界で知られるようになっていたのである。

 

 ……彼女は微塵も記憶していなかったが、ぶっ飛ばした変態の内の一人が……まあ、変態ではあるが荒事に対して腕の立つ男で、有名人物だったせいである。

 

『最近、見られている気がするなあ~ちょっと控えようかなあ~』

 

 と、いう具合で暢気に酔っ払っていた彼女を尻目に、一人、また一人と彼女へと向けられる視線が増えてゆく。気づけばそれは噂が噂を呼び、彼女自身が気付かぬ間に、彼女は注目の人となっていた。

 

 まあ、無理もないことである。『彼』の部分のおかげで、ある程度は人間らしい常識的な振る舞いが出来ているが、所詮はある程度。『伊吹萃香』の身体を持つ彼女にとっての普通の振る舞いは、人間からすれば常識外でしかなかった。

 

 ――例えば、バッテリーが上がって車が動かなくなって困っているマフィアを見かけた時。

 

 普通の人なら見て見ぬふりをして、親切な人ならブースターケーブルを使って電気を貸すなり牽引するなりする所だが、彼女の場合は……車を持ち上げて運んだ、である。

 

 重さ1トン近い車を、まるでお盆を掲げるぐらいの気楽な感じで、おおよそ2キロメートル先のガソリンスタンドまで運んだのである。実際にその姿を見た者は、さぞ驚きに言葉を失くしたことだろう。

 

 ――例えば、深夜の販売店に強盗が押し入った所に遭遇し、客たちに銃器を向けていた時。

 

 普通なら、怯えて犯人の指示に従うところで、勇気ある人なら決死の覚悟で隙を突いて脱出しただろう。だが、彼女の場合は……犯人を殴って気絶させた、である。

 

 もちろん、犯人は銃器を使用した。打ち出した弾丸の9割を直撃させたが、恐ろしい事に彼女には全く通じなかった。銃弾をその身に受けながらも鼻歌混じりに近寄ってくるその姿は、犯人からすれば悪魔か何かに見えた事だろう。

 

 ――例えば、マフィア同士の抗争のど真ん中に足を踏み入れてしまい、双方より銃器を向けられた時。

 

 彼女は……双方、ぶっ飛ばした。文字通り、マフィアの身体が宙を舞った。理由は、『喧嘩を売られたみたいだから、とりあえず』。当然、怒り狂った双方より徹底的な攻撃を受けたが、彼女は物ともせず、その場にいる全員を拳でダウンさせた。

 

 とまあ、そんなことばかり繰り返しているから、強面揃いの夜の住人たちが、『こいつはただ者じゃないから手は出さない方が良い』と一目置くようになるのも、仕方ないことで。

 

 彼女なりに人らしく振舞ってはいたが、10年も経てば、『あの子の前では下手な争いはするな』という暗黙の了解がマフィアの間で定着するのも、当然といえば当然の結果で。

 

 時折ぶっ飛んだ事を仕出かしはするものの、やること成すことに悪意はなく、またマフィアなどに敵意もない。後々振り返ってみれば、全体的には有益な結果に終わることも多い。

 

 そうなってくると、夜の住人たちから親しみを込めて挨拶されるようになっていくのもまた、自然の成り行きで。誰が決めたというわけでもなく、『あの子の居る場所でのいざこざは御法度』という暗黙の鉄則が制定されたのもまた……成り行きであった。

 

 ……さて、そうして日々を過ごすうちに、都市に来てから20年が過ぎた頃。

 

 この頃になると、彼女の生活は当初の素寒貧な生活とは打って変わり、裏社会のバックアップを受けることで身分を手に入れ、温かい布団で寝られるようになっていた。

 

 これは、彼女が特定の組織に身を寄せた……というのとは、少し違う。

 

 有り体にいえば、他の組織(あるいは、特定の組)に与することを警戒した『マフィア・コミュニティ』が、彼女の立場を『中立』にし、多分な干渉はお互いに行わない……という契約の報酬であった。

 

 ……そうなる切っ掛けは、そう。時を遡ること、彼女が都市に来てから10年ぐらいの時、マフィアのとある組織から勧誘を受けた、その時から彼女とマフィアの不思議な関係が始まった。

 

 当たり前といえば当たり前だが、彼女は勧誘を断った。身分と職を得られるというのは魅力ではあったが、『伊吹萃香』の部分も、『彼』の部分も、彼らの仕事に対してあまり良い感情を持っていなかったからだ。

 

 しかし、事はそう単純ではない。裏社会とはそういうもので、飛び抜けた存在は、時に無用の警戒心を他者に与える。傘下に入らないことを決めた彼女を今度は『不安要素の強い敵』として捉え、マフィア側は彼女を排除しようとしたのだ。

 

 だが、これまた当然といえば当然のことだが、マフィアたちの計画は失敗した。考えてみれば、当たり前の結果であった。

 

 その強さを危険視されたマフィアから様々な刺客を向けられるも、全員返り討ち。マシンガンは当然のこと、バズーカや戦車の砲弾ですら『くすぐったい』で済ます相手に、ただの人間ではあまりに分が悪い。

 

 軍から横流しされた新型兵器の直撃も駄目。酒に目がないと分かってからは毒物やら何やらを試しても、全く効果なし。最終的には『伝説の暗殺一家』の手を借りたが、それでもどうにも出来なかった。

 

 ならば懐柔しようとしても、地位や名誉にはあまり興味がない。金品は当然のこと、物欲や色欲に関しても同様。例外は『酒』だが、その酒だってどこからか盗んだり、ちゃんと金払って飲んだりと、こちらからいくら提示しても手を伸ばしてこない。

 

 ぶっちゃけてしまえば、どの組織(組)も喉から手が出る程に彼女が欲しいのが本音だ。なのに、強いて彼女が見返りとして要求するのは、(裏稼業はしないので)せいぜいが職を得る為の身分だけ。

 

 そんなのは、どの組織でも用意するのは簡単である。言い換えれば、どの組織でも彼女を引き込めるチャンスがあるということ。これは長い目で見れば不味い状況だと早期に気付けたマフィア上層部は、相応に聡明であった。

 

 とはいえ、気付けたところで解決出来なければそれまで……マフィア側も困った。

 

 マフィア側とて、面子というやつがある。いくら彼女自身にその気がないとはいえ、(傍目から見れば)たかが小娘にビクビクしているのもそうだし、何時までも無用の緊張感を維持していると、どこかで暴発しかねないことを危惧した。

 

 それならば、どうする?

 

 元々、彼女を排除しようとしたのも、彼女が他の組織に流れる危険性と脅威を考えてのこと。彼女自身にその気がないとはいえ、その存在自体が不和を招きかねない。

 

 だが、放置も出来ない。マフィアをマフィア足らしめるのは、数と暴力と権力の三つをより多く有し、かつ、自らの欲望のままに自制なく振る舞うから。そのどれもが欠けてしまえば、もはやマフィアはマフィアという立場にいられなくなってしまう。

 

 軍人であれば、放っておけばよい。彼らはあくまで自らの意思を持たない銃口であり、その銃口は地面に向けたままでも許される。しかし、マフィアはその銃口を常にちらつかせ、周囲にその脅威を知らしめておかなければならない。

 

 彼女の存在は、マフィアが持つその脅威を根本から覆しかねない。有り体にいえば、ナメられたら終わりなのだ。それ故に、マフィアたちは彼女をどうすればよいのかと頭を悩ませた。

 

 ――考えに考え抜いて結論を出したマフィアたちは、まず彼女と対話することを選んだ。とにかく、彼女からの不信を買わず、彼女が敵に回らないようにするのが最優先だと、マフィアたちは考えた。

 

 下心は見せてもよい。だが、欺瞞だけは欠片すら見せてはならないし、持ってもならない。注意深く観察を続けたことで彼女の性格を把握したマフィアたちは、一切の嘘偽りなく素直に取引を持ちかけた。

 

 ……これが、上手くいった。幸いなことに、何時までも根無し草はなあと思っていた彼女も首を縦に振ってくれた。

 

 よし、それではと、マフィア側は早速彼女の身分を作った。

 

 だが、作った後でマフィア側は気付く。そうなったらそうなったで新たに浮上した問題……それは、どうやって他の組織に彼女と自分たちとの関係性をアピールするか、だ。

 

 下手に何処かの組に属させるにしても彼女が首を縦に振らないだろうし、そもそもそれでは本末転倒だ。かといって、いきなりコミュニティの上層部におけば、コミュニティ内での不和が生じる。

 

 ダミー会社を作ってそこの重役に……それも駄目。そういうふうに縛り付けられるのが、ある意味では一番嫌がられるという程度には、マフィア側も彼女の事を理解していた。

 

 しかし、マフィアの仕事は大半が裏稼業であり、彼女はそれをしたがらない。というか、見た目が見た目だ。最悪、マフィア側としては大人しくしてさえくれれば良かったが、彼女がそれでは駄目だと納得してくれなかった。

 

 ――ならば、どうするか。

 

 マフィアの上層部たちは彼女を何度も食事に誘い、一様に頭を悩ませた。傍目から見れば十数名の強面と角を生やした可愛らしい少女が一堂に会するというシュールな光景だが、強面たちは真剣であった。

 

 何回も、何回も、あれでもない、これでもないと、進まぬ会談を続けた……その結果。

 

「……いっそのこと、個人事業主という体で『運び屋』をやってもらうというのはどうだろうか? 書類や会計等の雑事はこっちでやっておくから、特定の物を採って来たり、それを運んでくれたりするだけでいい」

 

「――それでいい。いや、それがいいや。でも、麻薬とかそういうやつは嫌だよ」

 

 第41回目にも及ぶ、食事会の最中。それなりに酒を召して酔っ払っている上層部たちと、『伊吹萃香』でもある彼女の長く続いた会談は、意外なほどあっさりと終わりを告げたのであった。

 

 彼女がこの都市……『メイドリック』に来て、早30年。そうして彼女は『運び屋』という職業を得て、『マフィア・コミュニティ』と契約している個人事業主としての生活が始まった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………さらに月日は流れ、15年。『メイドリック』に来てから、かれこれ45年。

 

 

 当初はどうなるかと思われていた『運び屋』も、鬼の身体能力にモノを言わせて数をこなし続け……気づけば彼女は、『トラック少女の二本角』という通称でコミュニティから親しまれるようになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……商業ビルやらマンションやらが立ち並ぶ『メイドリック』のメインストリートより離れた、古ぼけたマンションの一室。薄汚れたドアに貼り付けられたプレートは、『No.908』……そこが、彼女の住居であった。

 

 家賃はひと月4万5000ジェニーで、間取りは2LDK。この値段はかなりお買い得であるのだが、マンション住人の構成比が、薬中にアル中に多種多様な売人を合わせれば7割というまるで意味の解らないものに……まあ、住めば都な感じではあった。

 

 そんなマンションに住まう者たちの朝は、薬でラリッた阿呆の悲鳴から始まる。初見の人は驚くだろうが、三ヶ月も住めば慣れる。かれこれ20年近く住み続けている彼女も同様であり、その日も、前日と同じように響いた悲鳴を目覚まし代わりに起床した。

 

 彼女の寝室は、おおよそ汚いと評される程度に散らかっている。中央には彼女が寝ている煎餅布団があって、部屋の隅にはパンパンに膨らんだビニール袋が三つ。室内の至る所には、放り出された絵本やら何やらが無造作に転がっていた。

 

 望めばもっと広くて綺麗な豪邸に住めるが、彼女はここでいいとマフィアたちの提案を固辞した。基本、酒飲んでテレビ見て寝るだけなので、広い部屋は邪魔だし無駄だと考えているからだ。

 

 煙草は吸わないので、寝室の壁などにヤニの汚れはない。しかし、室内にはむせ返る程の酒気に満ちている。欠伸と共に布団から身体を起こした彼女は、すっぽんぽんのまま大きく伸びをすると……枕元に置かれた酒瓶を手に取り、胃の奥へとアルコールを流し込む。

 

 アルコール純度40%のバーボンであったが、彼女の前では大したことではない。ものの十数秒程で瓶一つを空にした彼女は濃厚なゲップを吐くと、ふらつく足取りでシャワーへと向かう。

 

 寝汗を流す程度なので、出るのは早い。バスタオルで水滴を拭いつつ、迎え酒のビールをプシュッと空ける。その辺り、こいつもアル中の一人だと思った方……気づくのが遅い、彼女も大概なアル中だ。

 

 そんなわけで350ml缶を素早く3本空にした後、4本目のプルタブを空けつつ玄関ポストへ。入っていたチラシやら何やらを選別しながら布団に戻った彼女は、紛れていた封筒を開けて中を見やり……ふむ、と頷いた。

 

 封筒の正体は、コミュニティを通して簡潔にまとめられた彼女への仕事依頼である。

 

 中には『採取してほしい物の写真と、運んで欲しい物の写真』。そして、報酬やブツの詳細が記されたリスト。仕事を受ける場合は、この写真の裏に書かれている連絡先に電話すれば、荷物の受け取り場所を教えてくれる……というものである。

 

 仕事を受ける場合は、なので、受けたくない場合は放って置いてもよい。一般的に考えれば、何ともいいかげんというか曖昧なやり方だと思われそうだが、これでもマフィア側にとっても、彼女にとっても、十二分に利益になるやり方であった。

 

 理由は、それぞれの報酬金額。実はこのリストに記されているのは、大金を積んでも嫌がられるような物がほとんどであり、かつ、他の者に任せると、紙面に記された報酬では絶対に受けてくれないという、焦げ付いた依頼ばかりなのである。

 

 ――例えば、リストの一行目。人里離れた山奥の、天然の毒ガスに満ちた場所にのみ咲く向日葵の採集。通称『アンチ・ポイズンライオン』

 

 美容に関して驚異的な効能を持つが、向日葵の周辺には毒に適応した猛獣やら蛇やらが群生している。一本の向日葵を獲る為に毎年数千人以上の死者を出し、原価が平均2億ジェニー(この世界の通貨単位。だいたい、円と同じ価値で物価も同様)となる超高級品である。

 

 当然、受ける側は対毒対猛獣用の装備や、場合によっては護衛やらを用意する為にプラスαの費用がその都度掛かる。一般的な相場が2億ジェニーとなっているが、実際にはそれ以上の経費が掛かるのがザラである。

 

 なのに、彼女にはそれがない。それどころか、トラックと身一つで突入して物を持ち帰ったりするので経費は微々たるもので、利益率が物凄く高い。加えて、仕事の成功率は実に99%。受ければほぼ確実に利益を出すので、マフィア側にとっても、受けられる時に受けてくれればよい……で十分なのであった。

 

 ……そして、それは彼女にとっても都合が良かった。何せ、彼女は(『伊吹萃香』の性質からか)組織の一員として縛られるのを嫌がる。富や名声だって、さほど興味はない。

 

 特定の組を贔屓さえしなければ、それでいい。受けても良いし、受けなくても良い。反対に、受けてくれなくてもいいし、受けてくれてもいい。相手はそれ以上を望まないし、こちらも応えるつもりもない。

 

 傍目からみればマフィア子飼いの運び屋と思われるかもしれないが、実際に違っているならば、それでいい。相場より賃金が安かろうが、彼女にとっては、今の付かず離れずの距離感が心地良かった。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………この日、彼女は52日ぶりに『運び屋』の仕事を引き受けることにした。特に何か意図があったわけでもない。52日前と同じように、ただの気紛れであった。

 

 受ける仕事は、『猛獣やら魔獣やらが跋扈する危険地区への調査に赴いた、調査団への物資の供給』であった。

 

 ……マフィアからの仕事の依頼なのに、意外と堅気臭い仕事ではないかと、思う人もいるだろう。しかし、それは誤解というやつである。マフィアとて、何も全てが非合法で資金を得ているわけではない。

 

 むしろ、資金源の大半は真っ当な商売によって得ているのがほとんどであり、非合法な利益は全体のわずか数パーセント程度。ただ、一般的な業者では引き受けない危険な仕事を優先して受けているというだけの話であった。

 

 まあ、その危険な仕事を実際に行うのが、マフィアの手によって受けざるを得ない立場に置かれた者(薬中毒者、借金漬けなど)なのだが……まあ、それはそれとして、だ。

 

 マンションを出て、しばらく。案内された場所には一台の軽トラック(コンテナ付き)が停まっていて、その傍にはスーツを着た初老の男が立っていた。男は煙草を吹かしていたが、彼女に気付いてすぐに火を消すと、居住まいを正した。

 

「二か月ぶりだな、二本角」

 

 二本角とは、何時の頃からか呼ばれていた彼女の渾名であり、今では彼女自身が自称している渾名だ。『伊吹萃香』の名は、そう安くない……という思いからであった。

 

「だいたいそれぐらいになんのかねえ……んで? これに乗ってそのまま目的地に行けばいいの?」

 

「そうだ。二十日以内に到着してくれれば、それでいい。荷物さえ運んでくれれば、トラックは壊れてもいいし乗り捨てても構わない」

 

「ふ~ん……いちおう聞いておくけど、運ぶ荷物は『食料品を始めとした日用品』と、『特定の魔獣が好む餌』で間違いないね? 他に、何もないね?」

 

「何も無いし、間違いない。食料の他には酒や煙草といった嗜好品。餌の方は、特殊な装置を使って発酵させなければならないから、現地では作れないので、だ、そうだ」

 

 そう、はっきりと言い切るスーツの男……ふむ、言葉に嘘はない。

 

 それを確認した彼女は、さっさとトラックに乗り込んでエンジンを掛ける。彼女の体格にペダル等の位置を合わせているので、運転に支障はない。

 

 最初の頃は上手く加減が出来ずにハンドルを引き抜いたりアクセルを踏み抜いたりもしたが……まあいい。窓を開けて手を振れば、男は笑みを浮かべて手を振り返す。

 

 どこどこどこ、と。この時の彼女は気付きもしなかったが、特有の振動音と共に遠ざかってゆくトラックを見つめる男の目線は、柔らかかった。

 

 男も、彼女とはこの世界(マフィアの世界)に足を踏み入れた時からの付き合いだ。その実力は十分に分かっていたし、歳を取らない彼女に思うところはあったが、彼女自身に悪意はないし敵意もない。どうしても、気を許してしまうのを抑えられなかった。

 

 ……気を許しているのは彼だけではない。彼女と何度か顔を合わせた事のあるマフィア側の大半は彼女に対して気を許しているし、中には娘のように思っている人もいたりするが……まあ、それはそれとして、だ。

 

 ――『メイドリック』を出発して、早三日目の早朝。

 

 時折ガソリンスタンドに立ち寄ることはあっても、休むことはなく。朝も昼も夜もぶっ通しで走り続けたトラックは早くも目的地の少し手前まで来ていた。

 

 かれこれ、数千キロは走っただろうか。出発した頃は綺麗だったトラックは砂埃で薄汚れ、酷い有様だ。酒瓶を傾けつつ走らせ続けたので覚えてはいないが、周囲の景色は自然一色となっている。

 

 目的地となる『危険地区』は、主要道路から外れた悪路の先にある、山の向こう。慣れていない者が車を走らせれば、10分で嘔吐する酷いデコボコ一本道。そこを進み続けるだけでも一苦労だが、彼女は何ら堪えた様子もなく軽快に車を走らせる。

 

 コンテナ内の荷物は全て緩衝材に包み、ドライアイスを用いて数度以下に抑えているので何事もない。窓を開ければ、目の奥に痛みを覚えそうなほどに濃厚な緑の臭い。右を見ても、左を見ても、目に止まるのは木々ばかり。だが、嫌いじゃない。

 

 トラックを走らせていると、街に居る時には見られない物を色々と見ることが出来る。効率を考えれば空を飛んで荷物を運ぶ方が早いが、それでは味気ない。不便を押してまでトラックで運ぶ……そこに、彼女は密かな楽しみを見出していたから。

 

 ぴよぴよと聞こえてくる鳥の声をツマミに、彼女はぐびりとビール瓶を傾ける。時々、野生の獣が目に止まるが、すぐに逃げてしまう。中にはトラックよりも大きな猛獣も姿を見せたが、襲い掛かってくるようなことはなく、遠巻きに見てくるだけ。

 

 トラックを恐れたのか、あるいは彼女を恐れたのか。おそらく後者だとは思うが、当の彼女は気にすることもなくエンジンペダルを踏み続け……そうしてさらに2時間後。

 

 辛うじて道路と思わしき山中の通路を進み続けていると、木々の合間の向こうに、山と山に挟まれる形で設置された検問らしきものが見えた。その傍にはテントと車が立ち並び、あそこが『危険地区』入口となる検問所であるのがすぐに分かった。

 

 ……『危険地区』は、その名の通り人間が踏み入るには危険性が高いとして封鎖されている地区のことである。その管理方法は各国、各自治区によってバラバラだが、これから向かう『危険地区』は、数ある危険地区の中でも有数の危険性を誇る場所であった。

 

 もちろん、ただ危険というわけではない。他では生息していない特殊な生物や、新薬の開発に必要な希少な薬草。かつて栄えたとされる古代の遺跡跡など、様々な可能性や学術的価値がその地区には存在している。だからこそ、調査団が中に入って命知らずの調査をしているのだ。

 

 ……まあ、一軒家よりもデカい魔獣や、広い縄張りを持つ猛獣。その薬草とほぼ瓜二つの毒草に、人体に有害な天然ガスの噴出。地区内の大部分が草原地帯であるので遭難はし難いが、常人なら大金積まれても入るのを躊躇する場所ではあるが……さて、と。

 

「――げふっ、そろそろかなあ~」

 

 がたがたと車が揺れる中、酒気に満ちた車内にまた一つ酒瓶が転がる。助手席に置いたケースにはこれでもかと空き瓶が差しこまれ、その足場には踏み場もないぐらいに空き缶やら空き瓶やらが押し込められていた。

 

 都会ならまだしも、人里離れた荒野や山奥に検問なんてものはない。あったとしても彼ら彼女らが見るのは犯罪者か、その予備軍かということだけ。飲酒云々で止められるようなことはないのであった。

 

 というかまあ、悪路としか言いようがない荒野やら草原やらを駆け抜ける最中に飲酒を続けるのは……いや、止そう。とにかく彼女は手慣れた様子で車を走らせ続け、目的地となる危険地区への検問前に辿り着いたのであった。

 

 検問前では、軍人と思わしき武装した十数名の男が立っており、停車している車の確認をしている。何故そんな事をしているのかといえば、単に密猟&盗掘対策だ。

 

『危険地区』は確かに危険だが、地区内には大金に早変わりする希少な植物や生物もいる。また、地区内にある遺跡の幾つかは様々な要因で手付かずになっており、そこには古代の人が溜め込んだ金銀財宝がそのままになっているという噂もある。

 

 前者は国際的に取引が禁止されている個体も珍しくはないし、後者に至っては立ち入りが制限されている遺物のコレクターなんてのは掃いて捨てる程いる。危険と分かっていても盗みに入ろうとする犯罪者は後を絶たないのだ。

 

(……にしても、ずいぶんと剣呑な雰囲気だな~?)

 

 減速しながら他所の車を見やれば、どいつもこいつも唾を飛ばして顔を赤らめて怒鳴っている。荷物検査に時間を食っている……にしては、些か雰囲気が悪いというか、剣呑とし過ぎている。

 

(な~んか、あったんかねえ~)

 

 そう思ってみていると、三人の武装した男が、彼女が運転するトラックを指差してくる。危険地区の検問をするだけあって、人相がマフィア顔負けである。まあ、彼女の前では大した差はないが……ひとまず停車すれば、武装した男の一人が銃器を向けながら近寄ってきた。

 

「……凄い酒の臭いだが、ドラッグでなければいい。通行証か、あるいはそれに準ずる何かはあるか?」

 

 運転席近くまで寄ってきた直後、男は早口に告げた。ずいぶんと高圧的な物言いだったが、これも仕事だ。「物資を運ぶよう依頼されたよ~」事前に渡されていた書類を差し出せば、男は半ばひったくるようにしてそれに目を通し……「よし、車をここに置いて、荷物を持って行け」それだけを告げた。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………え、車を?

 

 数秒程、彼女は男の言うことが理解出来ずに目を瞬かせた。この検問所は、あくまで入口に過ぎない。車で走っても、荷物の受け渡し先である調査団まではおおよそ3時間は掛かる場所にいるのに、この男は車を置いて歩けと言った。

 

 どういうことだと問い質せば、男たちは特に隠すことなくあっさり教えてくれた。どうやら原因はマフィア側……ではなく、純粋に危険地区に住まう猛獣たちであった。

 

 本来なら車で中に入ってもよいのだが、どうも十数年に一度しか発情期が来ない希少性の高い魔獣とかちあってしまったらしい。車のエンジン音に過敏に反応するらしく、それが繁殖の妨げとなってしまうから、入るのなら車を降りろ……というのが、男たちの言い分であった。

 

 ――まあ、たまには散歩もいいかな。

 

 何とか強引にでも車で押し通ろうとする彼らを横目で見やった彼女は状況に納得すると、コンテナへと戻る。訝しむ男たちの視線を他所に、彼女は手慣れた様子で連結部へと……がちゃりとロックを外すと、片手でそれを頭上に掲げた。

 

 ずずん、と彼女の両足が地面に食い込むが、彼女は気にすることなく歩き出す。一番近い遺跡でも徒歩だと6時間は掛かると聞く。例え手ぶらで向かうとしても、往復で12時間も歩かされる計算だが、大した問題ではない。

 

 それはあくまで、一般人の話。唖然とする男たち(軍人、怒鳴っていた者たち、一人の例外もなかった)を尻目に、彼女は地面に深々と足跡を残しながら……検問を通り、『危険地区』へと足を踏み入れるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そうして、歩くこと三時間。

 

 保冷剤やら諸々によって重さ1t分にも達するコンテナを涼しい顔で掲げたまま、川を三つ程渡り、猛獣を目線一つで追い払うこと、十数回。

 

 事前に貰っていた地図を手掛かりに、穴だらけの崖壁へと到着した彼女は、さて、と辺りを見回した。

 

 辺りには、人の気配はない。先ほどまであった獣の気配も、ない。不思議といえば不思議だが、仕方ない。彼女が今いる場所は、『危険地区』の中では有名な場所。通称、『ウツボ穴』と呼ばれている、大小様々な穴が掘られた崖壁の前であるからだ。

 

 その名の由来は、崖壁の至る所に掘られた穴の中に住む魔獣によるもの。普段は大人しく穴の中に潜んでいるが、獲物が通りかかると一斉に飛び出して仕留めに掛かる。その姿が、ウツボが獲物を狩る姿に似ているということから、その名が付いた。

 

 ……しかし、彼女はその穴が何なのかを知らなかった。

 

 何故なら、興味がないからだ。彼女が知っているのは、荷物の明け渡しに関する詳細と、ここが危険な場所であるということだけ。書店に行けば分かる程度の予備知識すら、彼女は持っていなかった。

 

 それ故に、彼女は特に気にすることなく穴へと近寄る。知識のある者が見れば驚愕に言葉を失くすぐらいの軽率な行動であった。そう、それこそ、魔獣の機嫌次第で生死が分かれるような……その時であった。

 

「――君、そこは危険だ!」

 

 今にも穴を覗き込もうとしている彼女の背後から、その声が響いたのは。

 

 振り返った彼女の目に映ったのは、黒髪の青年であった。その後ろには、青年の連れだろうか。彼女を縦に2人並べてようやくという顔に傷のある大男と、金髪をリーゼントにしている男が立っていた。

 

 声を掛けて来たのは、その黒髪の青年だ。「早く、こっちへ!」いったい、何をそんなに慌てているのか。とりあえず、拒否するのも何だと思った彼女は、青年の指示に従って黒髪の青年の下へと歩み寄った。

 

 そうしてから初めて、彼女はこの場所が危険な場所であることを知った。青年から、少々声を荒げられて教えられたのだ。その怒り様は中々に凄く、傍目には子供を叱る大人と言う構図であった。

 

 ……けれども、だ。

 

 そんなことよりも、彼女は気になっていた。ずいぶんと、青年の恰好が場違いなものであるということに。いや、青年だけではない。連れの二人も似たようなもので、まるで近所のレストランに向かうかのようなカジュアルな格好であった。

 

 とてもではないが、『危険地区』に入るような出で立ちではない。それは彼女も似たようなものだが、人と鬼とでは前提条件が違う。同じように考えてはならない。

 

 まあ、『危険地区』に自ら足を踏み入れる命知らずである。自分の命を自分で守る術は心得ているのだろう。それに、常人をはるかに上回る身体能力を持つ人間を……彼女は、これまで何度か目にしたことがあるし、戦ったこともある。

 

 おそらく、目の前の3人はそういう者たちなのだろう……が、それでも自然と、彼女の内心が目線に表れたようだ。「まあ、これでもプロだからね」青年はようやく怒りを抑えて頭を掻く。次いで、青年の目線が頭上へと上がり……「もしかして、君が『二本角』さん?」そう、言葉を続けた。

 

 ……まあ、隠すのも何だ。

 

 そう思った彼女が頷けば、それは良かったと青年は笑みを浮かべた。いったい何だと訝しむ彼女を他所に、青年が懐から取り出したのは……一枚の割符。それを見た彼女は、思わず目を見開いた。

 

 何故ならそれが、『二本角』への依頼をした者の証であるからだ。一枚は彼女が持ち、一枚は依頼主が持つ。こうすることで荷物の受け渡し間違いを防ぎ、確かに渡したという証明書代わりにするのである。

 

 なので、この場合の依頼主は眼前の青年ということになる。それは青年自身が一番分かっているようで、「いやあ、仕事が早くて助かったよ」コンテナを軽々と掲げる彼女の姿を見ても、特に驚いた様子はなかった。

 

「それじゃあ、ちょっと注文した物を確認させてもらうよ……おい」

 

 青年の指示を受けた大男と金髪の男は、無言のままに前に出る。常人なら1ミリとて浮かせられない重量だが、大男は持てると確信しているようだ。何の迷いもなくコンテナを掴むと、二人で息を合わせてグッと力を入れた……が。

 

 ――コンテナは、ビクともしなかった。

 

 まるで、空間そのものに貼り付けられたかのように、コンテナは動かない。「――っ」異変に気付いた二人が、さらに力を込める。力を入れすぎてコンテナが陥没する程であったが、それでもビクともしない。

 

 どうしたと青年が二人を見やるが、それでも動かない。歯を食いしばり、顔を真っ赤にしてもなお、動かない。そこまで来て、ようやく彼女が何かをしていると思い立った二人がコンテナから手を放した。

 

「――一つ聞いておきたいんだけどさあ。あんたらって、本当に依頼主なのかい?」

 

 その直後、彼女は口を開いた。えっ、と目を見開く青年を他所に、「いやあ、さあ、別にあんたらを疑っているわけじゃあないんだよ」彼女は言葉を続けた。

 

「ただ、一つだけ質問に答えてくれるだけでいいんだ。これは、何もあんたらだけに限った事じゃない。依頼主に対して、私が必ず尋ねていることなんだ」

 

「……質問? まあ、答えられる範囲であれば、答えるけど?」

 

「なあに、簡単なもんさ。肩肘張らず、気楽に答えてくれたらいいよ」

 

 訝しむ青年に、彼女は問うた。

 

「あんたらは、『私の依頼主』かい?」

 

 ……一瞬、静寂がこの場を流れた。「え、えっと、さっき、割符を見せたよね?」ハッと我に返った青年が、懐からまた割符を取り出そうと――する前に、「返事は?」彼女がその動きを視線で止めた。

 

「……あの、もしかして疑っている? 困ったなあ、それ以外の証拠となると、依頼状ぐらいしかないんだけど――」

 

「さあ、どうなんだい? あんたらは私の依頼主かい? それとも、依頼主を騙った偽物かい? ちゃっちゃと答えてくれたら、それでいいんだ」

 

 苦笑する青年を前に、彼女はただ答えろと繰り返す。先ほどまであった和やかな空気が、なくなった。青年は困ったように連れの男たちと視線を交わすと……やれやれと言わんばかりに、ため息を零し。

 

「――面倒だな。やれ、フランクリン」

 

「了解、団長」

 

 先ほどまで浮かべていた優しげなものとは掛け離れた、冷たい視線と共に非情な命令を下した直後。額に浮かんだ汗をそのままに、大男は彼女へと片手を向ければ、五本の指先がパカリと外れて……光が、放たれた。

 

 それは、念が込められた弾丸であった。まるでマシンガンのように連射されたそれらは、一発一発が人の首を吹き飛ばす威力があった。それが、寸分の狂いもなく彼女の身体に着弾した。

 

 ……だが、それだけであった。

 

 常人なら全身が粉々になる破壊力であっても、彼女の肌はおろか、衣服すら貫通しない。その事実に、三人の男は驚愕に目を見開いて一斉に距離を取った。その動きはやはり、彼女が思った通りに常人のソレではなかった。いや、動きだけではない。

 

 三人の目つきも、同様であった。冷たく、暗く、静かで。何の負い目もなく人を殺せる者特有の、無機質な眼差し。偽物で決まりかなあ、と彼女が思った時にはもう、大男は両手を彼女へ向けていた。

 

 再び、光の弾丸が放たれる。今度は両手だ。先ほどよりも威力も物量も倍以上となったダブルマシンガンが、彼女へと着弾する。だが、結果は同じ。やはり衣服すら貫けない。

 

(さーて、どうしたもんかなあ?)

 

 ガココココ、と。己が身体から響く振動に目を細めつつ、彼女は考える。弾は能力を使って己に集めているのでコンテナに当たることはない。問題なのは、この3人をどうやって追い払うかだが――ん?

 

 ――どん、と。

 

 考え事をしていると、背中を強く押された。さすがに数歩ばかり、たたらを踏む。何だと思って振り返れば、そこにいたのは……心底驚いている様子の、リーゼントの男であった。

 

 ……何をしたのだろうか。

 

 男の意図が分からずに首を傾げていると、「――くそがっ!」男は腕をグルグルと回し始めた。肩の柔軟……本当に何をしようとしているのか。ますます疑問符を浮かべる彼女を他所に、三十回程腕を回し終えた男が、一気に距離を詰め――彼女の頬を殴りつけた。

 

「――いっでぇえ!」

 

「あ、ごめん。でも駄目だよ、不用意に私を殴っちゃさあ」

 

 だが、駄目。おそらくは渾身の力を込めたであろう拳であっても、彼女に傷を負わせるには至らない。顔をしかめて手を摩る男に、彼女はため息を吐くと……ほい、とコンテナを空高く放り投げた――その瞬間。

 

「いち!」

 

 彼女は、その場の地面を蹴りつけた。しかし、ただ地面を蹴ったわけではない。『伊吹萃香』として出せる、半ば本気の足踏み。ただそれだけではあるが、その破壊力は……ミサイルのそれであった。

 

「にの!」

 

 砕け散った小石が散弾のように、四方八方へと広がる。それは風と音と共に光のマシンガンすらをも掻き消し、三人をその場に足止めさせ……そして。

 

「さん!」

 

 三歩目の、足踏み。その破壊力はそれまでの二歩目とは桁が違っていた。大地を陥没させ、揺らし、離れた所にある崖壁の一部が崩れ、三人の男たちをも吹き飛ばしていった。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………どすん、と。降りてきたコンテナを受け止めた彼女は、しばし、周囲の気配を探った。これで逃げてくれれば良し、それでも襲ってくるのなら已む無し。そう思って5分、10分……30分を過ぎた辺りで、ようやく彼女は肩の力を抜いた。

 

「……三歩必殺もどき。まあ、もどきの私にはちょうどいい……かな?」

 

 ――正式名称・四天王奥義『三歩必殺』。

 

 この技は『伊吹萃香』の技ではない。東方Projectにおいて、同じく山の四天王と呼ばれ恐れられていた『力の勇儀』こと、星熊勇儀の技である。ただし、技といってもやっていることは単純で、ただ鬼のパワーにモノをいわせて、思いっきり三歩足踏みするだけである。

 

 しかし、侮るなかれ。ただ踏み込むだけでも、鬼の力でやればそれだけで武器になる。威力こそ星熊勇儀のソレよりも劣るが、その破壊力は大地を揺らし、周囲の木々や建物を倒壊させる程で……まあ、そんなことよりも、だ。

 

(あいつら……こんなもんを盗んで何がしたかったのやら)

 

 頭上に掲げたコンテナを見やった彼女は、不思議そうに首を傾げる。実際、『彼』として考えても、『伊吹萃香』の部分で考えてみても、それらしい答えを思い浮かべられなかった。

 

 何せ、コンテナの中身はお世辞にも金になるようなものではない。あの男たちは、この中身が金銀財宝にでも見えたのだろうか。だとしたら、盗賊としてはかなり間抜けだ。

 

 というか、わざわざこんな場所に来ているやつに強盗を働いてどうしたいのだろう。お腹が空いたから……それは違うか。けれども、この中身であの男たちが使えそうなものなんて、食べ物ぐらいしか……ん?

 

「――ちょっとあんた! そこで何やっているの!? そこは危険よ、すぐに離れなさい!」

 

 気配を覚えた。と、思ったら、また背後から声が響いた。しかし、先ほどよりも高く、その声は可愛らしかった。

 

 反射的に振り返った彼女の目に映ったのは、一人の少女であった。金髪のツインテールに、可愛らしい顔立ちを際立たせる碧眼。ゴシックロリータを思わせる赤を基調とした場違いな出で立ちに、彼女は思わず目を瞬かせた。

 

 しかし、驚く彼女を尻目に、少女は御立腹なようだ。遠目からでも怒りを露わにしているのが丸わかりな形相で近づいてくるので、思わず彼女は首を傾げる。それがまた少女の怒りを買ったのか、少女はますます怒りを露わに――し始めたかと思ったら、「――え、あ、あれ?」急に少女は足を止めた。

 

「怯えている……ウツボ穴の魔獣が?」

 

 その顔には、先ほどまであった怒りは消えていた。困惑に眉根をしかめる少女を尻目に、とりあえず彼女は少女の傍へと歩み寄る。ずん、ずん、と地面に足跡を作る彼女を前に、我に返った少女は素早く身を引いて……もしかして、と彼女を指差した。

 

「あんた、『二本角』?」

 

「おや、私を知っているのかい?」

 

「……知っているも何も、あんたに依頼を頼んだのは私たちだわさ」

 

 ああ、すれ違いにならずに良かった。そう言って、少女は深々とため息を零した。「はあ、これでひとまず安心だわさ」次いで、申し訳なさそうに頭を下げると、彼女へと向かって手を差し出した。

 

「お初にお目に掛かるわね、『二本角』。私の名は、ビスケット・クルーガー。ビスケと呼んでちょうだい。こうみえてハンターやってるわさ」

 

「よろしく、ビスケ。私の事は、二本角と呼んでくれ。ところで、あんたが依頼主なら――」

 

「その事なんだけど、ごめん!」

 

 彼女の言葉を遮って、ビスケは頭を下げた。いきなり何だと目を瞬かせる彼女を尻目に、「いやあ、実は……」ビスケは機嫌を窺うように理由を話し始めた。

 

「……失くした? 割符も依頼状も?」

 

「そうなんだわさ。悪いんだけど、両方ともここには無いんだわさ」

 

「あ~、そっか~」

 

 ぽかん、と呆ける彼女を前に、ぱん、とビスケは両手を合わせて頭を下げた。

 

 ビスケが頭を下げるのも、仕方ない。何せ、割符も依頼状もないとなると、ビスケが依頼主であることを証明する手立てがないからであった――とはいえ、だ。

 

「ん~、じゃあまあ、それならそれでいいや」

 

「えっ!? いいの!?」

 

「いいよ。ただ、私の質問に素直に答えて、それに私が納得したら、ね」

 

「質問……まあ、私がこの場で答えられることなら……」

 

「大丈夫大丈夫、肩肘張らずに気楽に答えてくれたらいいさ」

 

 それはあくまで、普通の運び屋の話であって。

 

「それじゃあ聞くよ。『あんたは、私の依頼主』かい?」

 

「……は?」

 

「ほらほら、答えなよ」

 

「……え、本当にそんなのでいいの?」

 

「それで十分さ。さあ、あんたは私の依頼主かい?」

 

「……あー、正確にいうと私じゃなくて、私たちなんだけど……私も依頼主の一人になる……とは思うんだわさ」

 

「……うん、そうだね。あんたは、私の依頼主だ。そして、あんたは依頼主の一人でもあるってわけだ」

 

 実の所、彼女にとってはどうでもよいことであった。「……何なんだわさ?」意図が読めずに頬を掻くビスケを他所に、彼女はほいっとコンテナを掲げ直すと。

 

「案内しなよ。せっかくだ、調査団のところまで運んでやるよ」

 

 にっこりと、笑みを浮かべた。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………。

 

「そ、それで、コンテナを持ち上げたままここまで来たの? 私も大概だとは思っていたけど、私以上にぶっ飛んでいるやつは初めてだわさ」

 

「ここまで草原が続いていて助かったよ。木々の下だと空を飛ばなくちゃならないし、それだと退屈だもんね」

 

「……いやあ、ほんと。ハンターって仕事に就いていると、世界は広いってつくづく思い知らされるわさ」

 

 対して、ビスケの笑みは引き攣っていた。

 

 



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第五話:謎の強盗たちと鬼娘

ああ~生き返るわ~(エアコン)
さすがに37℃は体に堪えるぞ。でも、ポッチャマは知っているゾ。こうしている今も、皆はこういう話を執筆してくれているってことを……迫真空手部の絆を、ポッチャマは信じているゾ


ウチも、やったんだからさ……みんなも、こういう感じの話を投稿してくれよな~頼むよー(懇願)



 

 

 

 自然保護の観点から、人の手が全く入っていない道を歩く二つの影。お世辞を入れてすら歩き難い場所だと断言される自然の中で、金髪少女のビスケと、コンテナを掲げたまま歩く彼女。

 

 傍目から見れば異様としか言い表せられない奇妙な組み合わせに、野生の獣も怯えているのかもしれない。幾度となく首を傾げて周囲を見やるビスケを他所に、彼女は鼻歌混じりにビスケの後に続いた。

 

 どすん、どすん、どすん。そうしてから、幾しばらく。手伝おうかと差し伸べられたビスケの手を笑顔と共に払いつつ、コンテナを掲げたまま歩くこと、幾しばらく。

 

 目的地までは数十分の距離だが、黙って歩くのも退屈だし息が詰まる。なので、彼女は話題がてら、自らを襲った男たちについて話し始めることにした。よりにもよってそれかよと思われそうだが、致し方ない。

 

 こういう時は芸能人の話だとかニュースの話だとかを話題にするのがベターだが、あいにくと、彼女はその両方とも関心が薄い。うろ覚えな話題から話が広がっても結局黙るだけになってしまうので、彼女としても挙げられる話題はそれしかない。

 

「……話を聞く限り、そいつはかなりの使い手とみて間違いないわさ」

「へ?」

「今更な話だけど、さっき話した割符の件……あなたの話を聞いて確信したわさ。やはり、それらは盗まれたとみて間違いないわね」

 

 結局は、到着するまでの暇潰し。多少ぎこちないことになろうとも、退屈なまま歩き続けるよりはマシだろう。そう思ったからこそ話したのだが、思いのほか食いついてきたビスケの反応に、彼女は目を瞬かせた。

 

 それを見て、何故かは知らないがビスケも思うところはあったのだろう。「……この際だから、もう全部話しておくわさ」少しばかり迷う素振りを見せたが、一つため息を吐いてすぐ、ビスケは自分たちの現状について語り始めた。

 

 そうして聞いたビスケの話を要約すると、だ。

 

 まず、ビスケは確かにプロのハンターだ。しかし、今回の調査団においては正式なメンバーというわけではない。ビスケの仕事はあくまで護衛が主であり、簡単な力仕事も業務上必要なら請け負う……という契約の下、調査団に同行しているに過ぎないということなのだ。

 

 故に、調査の行程については助言こそするが、最終的な判断は調査団の人達が行う。今回の『二本角への依頼』に関しても提案したのはビスケたちだが、依頼することを正式に決定したのはこの調査団の人達である。

 

 なので、依頼書や割符は調査団の者たちが管理しており、ビスケ達はそれらをどのように保管していたかは知らない。盗まれたことが分かったのだって、直前になってだ。

 

 いちおう、食料を始めとしたサバイバルに必要となる物資の最低限の管理は口出しさせてもらったが、それ以外は全て調査団の判断に一任。続行するも撤退するも、調査団が決める。その結果、想定していた以上に苦労する事態に陥っているらしいのだ。

 

 何とも阿呆な話ではあるが、結局は肉体が資本であるハンターと頭脳が資本である学者。互いの常識の擦り合わせ不足から来る不必要な衝突でしかなかったが、特にビスケたちに苦労を強いたのは……依頼主である調査団の無鉄砲さであった。

 

 彼ら彼女らにとって、自らの研究が認められるというのは最上の誉れ。それ故に、その可能性が目の前にあると分かれば、平時であれば見向きもしない賭けに乗り出し、命の保証はないというビスケ達の再三に渡る忠告すらも無視して事を進めようとするのである。

 

 その最たる物が、『二本角』への依頼だ。『魔獣が好む餌』とて、行程通りに事を進めていれば、予め用意していた物だけで事足りたのだ。わざわざ依頼する必要もなく、予定を超過しても10日間は長く滞在出来るように計画していたのだ。

 

 それを、学会に認められるという餌(可能性)に釣られて、賭けに出た。命を天秤に掛けた上で彼ら彼女らは無理を通し、滞在日程の延長を強行したのである。

 

 ビスケ達も、それは危険だと進言はした。何故なら、食料等の問題もそうだが、何よりも不用意な計画の変更は、予測の付かない事態を招きかねないということを経験上知っていたからであった。

 

 しかし、調査団はビスケ達の進言を聞き入れなかった。いや、聞き入れないというよりは、無理をする理由が、無理を押してでもしなければならない理由があった。

 

 何故なら、調査団の目的は『特定の時期にのみ姿を見せる魔獣の生態について』。予定通りであれば何かしらの発見が得られたところなのだが、運が悪いのか……未だ、成果らしい成果を出せないままであるからだ。

 

 調査団の彼ら彼女らとて、酔狂で危険を冒しているわけではない。今回の調査に当たる旅費もそうだが、ビスケ達を雇う費用の大半は、スポンサー……つまり、外部の援助によって賄っている。言い換えれば、何かしらの成果を見せなければ、援助は打ち切られてしまうのだ。

 

 それすなわち、調査団の解散と同じ。志が高かろうが金が無ければどうにもならない以上、彼ら彼女らはやるしかない。ビスケ達からすれば引き返すところでも、追い詰められた調査団にとっては……致し方ない選択であった。

 

 しかし、気力を幾ら奮い立たせても、だ。常人をはるかに上回る身体能力を持つプロハンターであるビスケ達ならともかく、調査団の人達は(こういった調査に慣れているとはいえ)体力的には常人の域だ。

 

 数日間食事を取らなくても平気なように鍛えている者たちに比べて、その消耗具合は激しい。現地調達にしても食用となる生物の数は少なく、また、体力の回復具合一つとっても……遅い。

 

 即刻、撤退するべきだ。ビスケ達は再三に渡って進言したが、それでも調査団はそのまま調査を続けるというのである。『今を逃せば次が何時になるか!』と強く言われてしまい、説得は断念。故に、ビスケ達は条件を調査団に呑ませた。

 

 それは『依頼した物資が来ず、かつ、調査の続行が命の危機に直結するとビスケ達が判断した時点で、調査は終了。全員気絶させてでも強制的に引き返す』というものであった。

 

 ビスケ達からすれば、それは最低条件。本当なら状況に応じて即時撤退を条件にしたかったのだが、今は雇われの身。理不尽な注文であったとしても、出来うる限りは応えようとした結果、そういうことになって今に至る……と、ビスケは話を終えた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………いったい誰に同情すべきかは一先ず置いといて、だ。

 

「……まあ、あんたたちがどういう状況に陥っているのかは分かったよ」

 

 しばしの沈黙の後。ビスケの話を頭の中で反芻させた彼女は、でもそれはそれとして、とビスケに疑問を投げかけた。

 

「どうしてそれを私に話そうと思ったんだい? あんたが私を信用しているというのは、あんたの態度や素振りを見ていれば分かる。でも、何故私を信用したのか……まず、それを聞いておきたいね」

 

 信用してくれるのは、単純に嬉しい。しかし、一般的に考えれば、理由もなく一方的に信用されるのは嬉しいを通り越して、不気味さすら覚えるのが普通だ。

 

 何故なら、そういう不自然な信用から生み出されるのはたいてい、嘘に塗れた打算であるからだ。信頼や信用と呼ばれるものを生み出すには、担保が不可欠なのである。

 

 鬼である彼女には分かってしまう。目の前の少女、ビスケは、何一つ嘘を付いていないということを。担保がないのに、ビスケは彼女を心から信頼している。

 

 その事実の理由が分からないからこそ、彼女は尋ねた。それはビスケを疑って……というわけではない。純粋に興味から来る好奇心によるもので、それが例え打算であったとしても良いと彼女は思っていた。

 

「そりゃあ、あんたが気色悪いを通り越して不気味に思えるぐらいに素直だからなのが一目で分かったからだわさ。おまけに相当に強いみたいだし」

「えぇ……」

 

 とはいえ、まさか真っ向から気味の悪いやつと断言されるとは、さすがの彼女も思わなかった。

 

「私自身が嘘つきの捻くれ者だからよく分かるんだわさ。あんたみたいなやつを相手にするときは、良くも悪くも同じぐらいに素直になるのが一番だわさ」

 

 加えて、打算云々を語るよりも前に罵倒されるとは彼女も思っていなかった。いや、これは褒めているのだろうか。いまいち分からない彼女が真意を尋ねれば、「そのまんまの意味だわさ」同じ言葉を返された。

 

「経験上、あんたみたいな手合いは常人よりもずっと心が広い。でも、だまし討ちとか相手を罠に掛けたりして状況を有利にする行為を人殺しよりも嫌悪する。他人に対して絶対的に正直であることを強制する、性質の悪いタイプだわさ」

「ああ~……否定できない」

「ほら、こうして私の言葉を一切否定もせず誤魔化しもせずに肯定するあたり、まさにソレだわさ。付け加えるなら、そういうやつは得てして勘が鋭い。それこそ、余計な小細工を使わず本能的に察知してしまうぐらいにね」

 

 ジッと、ビスケは彼女を軽く睨んだ。

 

「『嘘』と『秘密』は似て非なるものだけど、秘密はたいてい嘘を纏ってしまう。だから、あんたには素直に話すのが一番。そう思ったから、私は包み隠さず話そうと思ったんだわさ」

 

 ――下手に『嘘』だと判定されて、敵意を持たれたら物凄く面倒だし。

 

 そういってビスケは深々とため息を吐いて、これでこの質問に関してはお終いと話を打ち切った。

 

 それを見て……考え出したら坩堝に嵌りそうだ。ひとまずそう己を納得させた彼女は次いで、もう一つの疑問に話を移した。

 

「それじゃあ、どうして私に頼んだんだい? 私のことを知っていて教えたのなら、私がどういう仕事をするかは分かっていただろう?」

 

 それも、彼女からすれば当然な疑問であった。

 

 何故なら、彼女に頼めばほぼ確実に依頼した荷物を届けてはくれるが、受けるか受けないかは彼女の気紛れによるもの。達成率こそダントツだが、『二本角』を知っているのであれば、今回のような緊急性の高い状況で依頼なんぞしないはずだからだ。

 

 実際、窓口であるマフィア・コミュニティから彼女に依頼が届くまでのタイムラグと、実際に彼女が依頼を承諾するまでのタイムラグと、現地到着までのタイムラグを合わせれば、相当に時間を必要とする。

 

 全てが最速で行われたとしても、だ。依頼のリストアップやら何やらを纏めて彼女の下に届くまで、2日。タイミング良く彼女がソレに目を通し、承諾された依頼の物をマフィアが用意するまで、半日から数日。そこに、ここに到着するまでの時間を入れれば……最短でも七日は掛かる。

 

 今回、彼女がこの仕事を引き受けたのだって、偶然だ。気紛れで彼女がリストに目を通した際、目に止まっただけのこと。たまたまソレが期日内であっただけで、優先的にこの仕事を選んだわけではない。

 

 それらを踏まえたうえで言うなれば、ビスケたちは『明日必要となる物を七日後に届くかも分からない』ようにしたのだ。今回は実際にタイミング良く彼女が目を通し、すぐに依頼を受注した形にはなったが……それは結果論。

 

 危険な場所に運んでくれる『運び屋』の数が限られているとはいえ、だ。『運び屋』は何も彼女だけではない。それこそ、金さえ積めば即日配達即日到着を可能としている『運び屋』は実際に存在している。

 

 相応の金額を要求されるが、今を逃してなるものかと豪語する依頼主に、仕事に取り掛かるのが遅い(一度取り掛かれば早いが)『運び屋』をわざわざ選んで教える……その理由が、彼女には分からなかった。

 

「そりゃあ決まっているわさ。あんたが依頼を受けないで、私たちが依頼主を気絶させて撤退する。そうなってほしいから、あんたのことをギリギリになって調査団に教えたんだわさ」

「――えっ」

「でなければ、『二本角』に依頼なんかしないわさ。まあ、あまり褒められたやり方ではないわね。でも、どうせなら成功してほしいとも思っていたから、到着してくれた点については有り難いのは事実だわよ」

 

 だから、当の相手からそう言われた彼女は……ぽかん、と目を瞬かせる他なかった。対して、ビスケは何ら気にした様子もなく、「それに、そういう『運び屋』は完全前払い制だから、教えたってあいつらには料金を払えないわさ」軽く伸びをしながらあっけらかんと答えた。

 

 ……ぶっちゃけてしまえば、だ。

 

 ビスケ達は既に今回の仕事に見切りを付けているらしく、『二本角』である彼女を呼んだのは、つまるところ延長をさせないように仕組んだ事だとビスケは続けた。

 

「私個人としては、あの人たちの志は尊重するわさ。でも、ソレとコレは別。仕事して欲しいなら金払え、金が払えないならそこでお終い。プロを雇うってのは、そういうことだわさ」

 

 正論だ。そう、率直に彼女は思った。

 

「今回のように、依頼主の仕事達成によって得られる金銭を当てにしていた場合は、もう色々と最悪だわよ。場合によっては逆切れして誤魔化したり裁判起こしたりするから、普通ならさっさと見捨てて帰るところを、こうして残ってあげているだけでも感謝して欲しいところだわさ」

 

 ――まあ、その場合は文字通り二度と表社会に出られない身分へと法的に堕としたうえで搾り取るけどね。

 

 けけけ、と可愛らしくも恐ろしげに笑みを浮かべるビスケは、そのままぽんと地を蹴って……十数メートルの川を飛び越える。見た目とは裏腹に、ビスケもまた大概な身体能力のようだ。

 

 数歩遅れて、彼女もしゃららんと鎖を鳴らしながら跳ぶ。1トン近いコンテナを掲げているとはいえ、その程度は重しにもならない。どずん、と地面を陥没させながらも気楽な様子で歩き始める彼女に、ビスケは呆れた様子ではあったが……話を続けた。

 

 いや、話というよりは、それはもう愚痴であった。

 

 出会って間もない相手をそこまで信頼してくれるのは嬉しいが、聞いていてあまり気持ちの良いものではない。しかし、そういう気持ちは『彼』を通じて理解していた彼女は、黙って愚痴を聞き続け……その最中にて、彼女はビスケについて考える。

 

(嘘つきでひねくれ者……ねえ)

 

 確かに、ビスケは嘘つきだろうと彼女は率直に思った。何がどう嘘を付いているのかは分からないが、分かる。鬼としての本能が、ビスケはこの場において何一つ嘘を吐いてはいないが、自称している通りなのだろうと察してしまう。

 

 けれども、彼女はビスケに対して特に何か思うところはなかった。何故なら、それでもなお出来うる限り誠実であろうとしているのが、何となくだが分かったからだ。

 

 ビスケからは敵意や悪意といった感情が伝わって来ない。伝わってくるのはあくまで、未知の相手を前に情報を集める狩人の如き感情。そして、小さな打算だけ。でもそれは、こういう荒事においては致し方なく、まだ彼女にとっては許容範囲であった。

 

 見た目もまた、そうだ。見た目と中身が一致しない相手とは何度も応対したことはあるが、やはり見た目は大事。『彼』の部分としてもそうだが、嘘つきでひねくれ者ではあっても誠実に振る舞う相手を前に……彼女は、悪感情を持てなかった。

 

 いや、むしろ逆だ。気づけば、ビスケに対してある一定の好意すら覚えているのを彼女は実感し、必要なら仕事を手伝ってやろうかという思いすら抱き始めているのを認識していた。

 

 何故そうまでビスケを信用するのか。

 

 それは単に、ビスケが強いというのが感じ取れたからだ。鬼としての本能のおかげか、ビスケが相当の実力者であるというのが何となく分かる。そんな人物から誠実な態度を取られれば、むしろ好感情を覚えるのは鬼として当然であった。

 

 なので、彼女はあえてビスケの嘘(というよりは、秘密か?)を突こうとはしなかった。

 

 それよりも気になるのは、そのビスケが撤退するよう強く進言したという先ほどの話。おそらく、物資以外の別の理由があるのだろう。

 

 そちらに目を向けた彼女は、半ばダメもとで尋ねてみた――。

 

「ああ、それ? それならさっきの件……無くなった割符や依頼状に話が繋がるんだわさ。というか、元々それを話そうと思っていたんだわね」

 

 ――すると、拍子抜けするほどあっさり、ビスケは教えてくれた。

 

 実は……ビスケを含めた護衛達。紛失した割符等の問題とは別に、この『危険地区』に足を踏み入れる少し前から、何処からともなく注がれる妙な視線を感じ続けていたのだという。

 

 最初は獣のソレかと思ったが、それにしてはあまりにしつこく、常に一定の距離を保ち続けている。こちらから『脅し』や『威嚇』を掛けても反応はなく、絶えず付き纏う視線。加えて、割符や依頼状まで紛失となれば……ヤバいとビスケ達は思ったらしい。

 

 というのも、ビスケ達が『危険地区』に滞在しているのはかれこれ数十日だが、その間一度として視線を感じなかった時がない。それすなわち相手は複数か、あるいはそれだけの間、気力を保ち続けることが出来る実力者に他ならない。

 

 ビスケ達がやってきたのは、あくまで対猛獣(魔獣)を想定した護衛体制だ。人間への対処も出来なくはないが、想定外なのは同じこと。

 

 それを抜きにしても、ビスケを含めた護衛たちは常に調査団の傍にいた。つまり、割符等を盗んだ奴らは……それらを掻い潜って、誰にも気付かれることなく事を成したということになる。

 

 ビスケ達が執拗なまでに撤退を進言した一番の理由が、コレであった。

 

 さすがに四六時中監視していたわけではないし、夜間にもなれば昼間よりも周囲への索敵範囲は狭まる。それを踏まえたうえで、何時、何処で、どのようにして盗み出したのか……それが、全く分からないのである。

 

 それだけでも、相手が相当な手練れであることを示唆している。加えて、その目的が見えないうえに、何者なのかも分からない。だが、相手側は常にこちらの動向を監視し、情報を得ている。その事実に気付いた時のビスケ達の驚愕ときたら、相当なものだ。

 

 ビスケ達だけなら幾らでもやり方を変えられるが、護衛対象を抱えたままでは不可能。だからこそ、ビスケ達は何度も何度も撤退を提案したのだが……無視された、というわけである。

 

「阿呆らしい話だけど、調査団の人達は私たちの話を全て撤退させる為のでっち上げだと思い込み始めているみたいでね……不審な気配があると話したら、それを確認するのが護衛の仕事だろと来たもんよ」

「……いや、仕組んだのは事実でしょ?」

「結果的には御破算したからいいのよ」

 

 被害が割符等の紛失だけというのがまた、調査団の不信を仰いでしまったようで。護衛する側としてはどうかという話だが、一人二人負傷する事態になったなら納得したかもねと零したビスケの顔には、苦笑の色がはっきりと浮かんでいた。

 

「それで、その監視しているやつらを確認しには行かないの?」

「それは下策よ。相手の構成員はおろか目的もはっきりしないのに、こちらから打って出るのはリスクが多過ぎるだわさ」

「ふーん、そういうものか」

「そういうもんよ……ほんと、割に合わない仕事だわよ」

 

 そう、ビスケは吐き捨て、小石を蹴っ飛ばした。かつかつかつん、と転がって傍の茂みに入る。直後、成人男性を大きく上回るサイズの熊が顔を覗かせたが、「あぁん!?」可愛らしい顔立ちからは掛け離れたビスケの眼光に、熊は可愛らしい悲鳴を上げて茂みの向こうへと消えた。

 

 熊を眼光一つでビビらせる金髪少女……は、まあ置いといて。ビスケは、よほど鬱憤を溜めているのだろう。怒りを露わにして歩調が荒くなっているビスケの後に続きながら、彼女も苦笑を零したのであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そんなふうに、のんびり後に続く彼女は気付いていなかった。背を向けて前を行く当のビスケが、どんな表情を浮かべていたかということに。

 

 今の今まで彼女に見せていた不機嫌顔はもう、そこにはなかった。あるのは、僅かに滲んだ脂汗を額に浮かべた、緊張に強張った顔。全身の末端にまで広がっている緊張を歩きながら慎重に解しつつ……ビスケは、軽くため息を零した。

 

 そう、彼女は気付いていなかったが、ビスケは気力を振り絞って平静を装っていたのだ。表情一つ、所作の一つに至るまで彼女は徹底的に演技をし続け、彼女の……『二本角』の性質を読み取り続けていたのだ。

 

 ――何故そんなことをしたのか。

 

 それはビスケ自身、上手く言葉に言い表せられないことであったが、強いて言葉を当てはめるとするならば……危機に対する本能。そう、ビスケは彼女に対して、強い怖れを抱いたのであった。

 

 いったい、何がそこまでビスケに危機感と怖れをもたらしたのか。それは単に、昔に教えられたとある話が関係していた。

 

 ……ビスケット・クルーガー。そう名乗って簡単な自己紹介をしたビスケだが、彼女に対して話していないプライベートなことが幾つかある。

 

 それは……ビスケが、『心源流』と呼ばれる流派の門弟であるということ。その流派において師範の位置に就き、大勢のひよっこ共を育て上げた凄腕の達人であるということ。

 

 その心源流はかつて彼女(伊吹萃香)と戦った男……アイザック・ネテロが総師範を務めていた流派であること。そして、彼女は知る由もないことであったが、実はビスケはネテロより『彼女』について幾つか話を聞いていたこと……であった。

 

 とはいえ、ビスケも詳細に『彼女』について聞いたわけではない。

 

 あくまで、そういう存在がいるということ。『彼女』に敵意はなく、放っておけば良いということ。不用意に喧嘩を売らなければ何もしてこないということ。『彼女』の存在自体が『V5』にて極秘とされた監視対象であるということ。

 

『彼女』について教えられたのは、この四つだけである。

 

 なので、名前・年齢・性別もそうだが、『彼女』がどんな姿をしているのかをビスケは知らない。その拳は大地を砕き、灼熱の中ですら活動する怪物という、ふわっとしたイメージでしか捉えておらず、今の今まで記憶の底の隅っこに捨て置かれて忘れられていた程度のことでしかなかった。

 

 無理もない。何せ、ビスケがネテロよりその話を聞いたのは、かれこれ20年は昔のことだ。独自に調べはしたが、国家機密ランクAAA(トリプルA)に属される情報であるということが分かり、手を引いてから……それだけの時間が流れている。

 

 当然、『二本角』が『彼女』であることをビスケは知らなかった。ビスケが知る『二本角』は、先ほど彼女に話した通り、それ以上もそれ以下もない。名が知られるぐらいだから相応の実力は持ち合わせているだろう……その程度の認識しかなかった。

 

 だからこそ、彼女を目にした瞬間のビスケの驚愕と来たら、言葉で言い表せられるものではなかった。

 

 例えるなら、人の形をした巨大な山脈だ。雲を突き抜け、星の外へと届く程の巨大な山を、そのまま人のサイズにまで凝縮し、それが動いて活動している存在。

 

 ビスケが彼女に対して抱いた率直な感想が、それだ。存在感……そう、存在そのものが根本から異なっている。そんなやつを前に、表面上だけでも平静を保てたのは我ながら感嘆ものだと、内心にて自画自賛したぐらいであった。

 

(あんの糞爺……まさか、こんな怪物とやり合ったってーの? 同じ穴のムジナとはいえ、正直引くわさ……)

 

 昔は『最強』を目指して遮二無二突っ走っていたが、それはあくまで昔の話。現在はストーン・ハンター(宝石を始めとした鉱物を主に探究するハンターのこと)として活動しているし、そもそも今は護衛の内の一人として雇われの身。

 

 なので、強い相手を見つけたからといって手合せをしようとかはビスケは考えていない。さすがに、相手の迷惑を無視して突っ走れるだけの若さがもう、ビスケにはないからで……若かったとしても戦うかと問われれば微妙なところだが……まあいい。

 

 しかし、だ。ビスケ自身はあまり良くは思っていないが、根っ子は未だ武道家のソレであった。応対した相手を観察し、総合的な戦闘力を経験から推し量り、敵か味方かを判別する前に、勝てるか否かを判断するという癖が未だに残っていた。

 

 その癖が……かつてない程明確に、それでいて力強く判断したのだ。こいつとは戦うな、敵対するな……と。

 

 だからこそ、ビスケは己が培ってきた経験と勘を総動員させて注意深く観察した。裏表はあるが、どこまでも明け透けで自然体のままに行動している節が見られた彼女の性格と性質を読み取り、何気ない会話を交えつつも、彼女を把握することに全力を注いだ。

 

 その結果、分かったことが四つと、得た物が一つ。

 

 分かったことは、彼女の性質は悪ではなく、どちらかといえば善であるということ。自分に対しても他人に対しても異常なまでに正直であることを強制すること。

 

 しかし、拒否したり嘘を吐いたりしたからといって即攻撃、即敵対はせず、ある程度は許容してくれるということ。そして、本能的レベルで相手の嘘を見破るということ……この4つ。

 

 そして、得た物は……彼女からの信頼であった。

 

 何が彼女の琴線に触れたのかは分からないが、少なくとも好意に近い感情を向けられている。これは山積みされた札束よりもずっと価値があるとビスケは思った。

 

(上手く事は運んだけど、寿命が縮むとは、このことだわさ……帰ったらエステ行って飲みに繰り出さないとやってられないわよ)

 

 とりあえず、ビスケはそう己を慰めつつ、背後より感じ取る彼女の気配に細心の注意を配りながら、ビスケはまた軽く息を吐く。川を飛び越えた手足の感触から、肉体に溜まった疲労は戦闘に支障が出ない程度に回復しているのは把握出来た。

 

 ……さあ、ここから先、どうしたものか。

 

 後ろを歩く彼女に愚痴を零しつつ、頭は冷静に思考を巡らせる。彼女に話したことも、まだ話していないことも含めて、改めて現状を顧みたビスケは頭を働かせた。

 

(『二本角』が来た以上は、即時撤退は無理。まあ、ここまで来たら最後まで面倒見てやりたい気持ちもあるから、それは良い。そういう巡り合わせだと思って諦めよう)

 

 でも、問題なのは……奪われた割符の件……いや、少し違う。ビスケの思考の網に引っ掛かったのは、割符そのものではなく、奪われたという事実……ソレであった。

 

 自慢ではないが、ビスケは己の実力はハンターの中では相当なものだと位置付けている。さすがに最強を自称するほど自惚れてはいないが、それでも上位には位置しているだろうと思っている。

 

 それ故に、割符が無くなったと知った時、ビスケが最初に考えたのは……メンバーの中に紛れたスパイの可能性であった。

 

(学者なんかの研究成果を専門に盗んだり隠ぺいしたりするやつらがいるってのは聞いたことあるけど、仮にそいつらだとしたら……何故、割符を盗む?)

 

 腑に落ちない……ビスケは首を傾げた。

 

(わざわざ私たちがいる時を狙わなくても、契約を終えて別れた後を狙えばいいのに……そもそも、それが狙いなら現時点では何の成果も出ていないのは掴んでいるはず。ここで『二本角』を妨害したら、そいつらにとっても損にしかならないのに、なぜ……?)

 

 まだ誰にも話していないが、可能性としてはスパイが一番高いとビスケは思っている。何せ、彼女を襲った何者かが、その紛失したはずの割符を持っていたからだ。

 

(私の警戒網を掻い潜って盗み出すだけの実力がありながら、当の私を一切無力化しない。それどころか、無関係の運び屋を優先的に襲う――意図が読めないのは気持ち悪いわね)

 

 落ちていた割符をたまたま拾い、偶然にも待ち合わせ場所にて鉢合わせした。そんな偶然、まず起こりえない。護衛たちの内の誰か……あるいは、調査団の誰かが手引きしたと考えた方が妥当だろう。

 

 ……だが、しかし。

 

 仮にスパイが紛れているとして、その目的は何だろうか。金や物品が狙いならば相手を間違えているし、研究成果ならばタイミングを間違えている。狂信的な博愛主義ならば……やり方がまどろっこしい。

 

 金や物品ではなく、成果でもなく、思想ですらない。何だろう、謎かけだろうか。だが、何かがあるはずだ。そのどれもに当てはまらない、相手にとってはこれ以上ないぐらいに魅力的な何かが……はて、待てよ。

 

(……そういえば、魔獣の調査ってぐらいしか話を聞いていないけど、いったい魔獣の何を調査しているのかしら?)

 

 それは、唐突であった。袋小路に入り掛けていたビスケの思考がするりと、『敵』から依頼主である調査団へと動いた。

 

(考えてみれば、いくら今回の調査に大金が掛かっているとはいえ、こうまで強行して調査を続行しようとするのは何故かしら?)

 

 学者のやることだからと思って見過ごしていたが、改めて目を向けると不自然な点が他にもあることにビスケは思い至る。例えば……護衛として雇った人たちの人選もそうだ。

 

(雇用条件はたしか……『魔獣100体以上が襲って来ても返り討ちに出来る者』だったわね。ずいぶんと吹っかけた条件だわと思っていたけど……もしかすると、今回のような事態を想定していた……?)

 

 腕っぷしの強さを雇用条件とする依頼は、そう珍しいものではない。いや、むしろ逆だ。一般人にとっては馴染みがないので驚くだろうが、こういった危険な場所に赴く際の護衛条件に『強さ』を入れるのは当然のことであった。

 

 確かに、ビスケはハンターの中でも上位に位置する実力者だ。強さを第一条件としたならば、けして間違った人選というわけではない。しかし、魔獣を始めとしたそっちの分野は素人に毛が生えたようなものでしかない。

 

 ただ追い払うだけなら、得意だ。しかし、今回は魔獣の調査だ。悪気なくやった行為が目的の魔獣に……場合によっては、調査そのものに影響を及ぼしかねないことをしたとしても、ビスケには分からないのだ。

 

(どうせ雇うとするなら、猛獣や魔獣だけでなくサバイバルにも精通したビースト・ハンターなどを雇うのが普通。わざわざ畑違いのプロハンターを雇うメリットは何かしら?)

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………駄目だ、分からない。そもそも、ビスケはこういったことは得意ではない。とりあえずは保留という形で疑問を捨て置くと、次いで、ビスケの思考は……背後にいる彼女へと向いた。

 

 単純に、彼女が付いて来てくれるのはビスケにとっては有り難い。最初はこんな怪物と連れ添うのかと思ったが、見方を変えればかなり楽なことにも気付く。

 

 考えてみれば、彼女がやらなければ、コンテナを運ぶのはビスケの仕事だ。出来ないわけではないが、そんな重労働なんて真っ平御免だ。なので、運んでくれるという点においては、素直にビスケは感謝した。

 

 おまけに、彼女の存在自体がある種の威嚇になっているのだろう。テントがある場所まで数回ぐらいは魔獣に遭遇すると思っていたが、今の所遭遇したのは……あの一度きり(しかも、ただの獣だった)だ。これも、楽が出来ているので正直に有り難い。

 

 後はこのままコンテナを運んで、それでお終い……という感じで終わるのだろう。彼女もそう思っているのかは分からないが、流れとしてはそうなるだろう。

 

 けれども、それでは勿体無いともビスケは思った。

 

 付け狙う相手の目的は読めないが、この場合においての彼女はまさしく異分子(イレギュラー)だ。想定していない第三者……プラスにもマイナスにも傾く天秤となり得る存在。

 

(……上手くいけば儲け物だわね)

 

 チャンスは一度きり。二度目は相手も警戒してボロを出さなくなる。だから、警戒心が薄い初回に賭ける。そう結論を出したビスケは、彼女へと振り返りながら……人知れず、覚悟を固めたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……案内された調査団の滞在地は、草原の真っただ中にぽかりと開かれた土肌の上。少しばかり他所よりも盛り上がった丘の上に、依頼主である調査団(と、ビスケの仕事仲間に当たる護衛たち)の姿があった。

 

 一目で、調査団の学者たちとそれ以外の見分けはついた。

 

 体格や恰好もそうだが、気配が違う。片や机上に並べられた資料を前に戦う者、片や暴力や欲望を前に立ち向かう者。どちらかが優れているというわけではなく、その世界に生きる者特有の気配と目つきをしていたからであった。

 

 護衛を務めるだけあって、ビスケの仲間たちは誰もが只者でない雰囲気を醸し出している。これはそこらの猛獣は近寄らないだろうなあ、と彼女が思うぐらいに、その気配は独特であった。

 

 そんな学者らの傍に立ち並ぶテントは全て長方形であり、数は三つ。調査団が二つと、護衛たちが一つ。大きさは同じだが、まあ、報酬が低いと聞いていた辺り、そこらへんも削ったのだろうということは想像がついた……あっ。

 

 ふと、学者たちを守る様に取り囲んでいる護衛の内の一人が、彼女の方に視線を向けた。いや、どちらかといえば彼女ではなく、仲間のビスケにかもしれないが、とにかく彼女たちに気付いた護衛たちの内の一人の男が向かってくるのが見えた。

 

 ……どうしようか。

 

 そう思って隣を見やれば――

 

「あ、そうそう。突然で悪いんだけど、今からあんたのことを利用させてもらうわよ」

 

 ――そう、言われた。利用……嫌な言葉に少しばかり思うところはあったが、素直に話してくれたことに苛立ちも消え、代わりに好奇心が湧いてくる。

 

「構わないけど、何をさせるつもり?」

「大したことじゃないわさ。ちょっと、嘘つきな蛇をあぶり出すだけだわさ」

「……嘘つきな蛇?」

「そうよ。おそらく、護衛たちの中に内通者が紛れ込んでいると思うの。あんたには、それを炙り出してほしいんだわさ」

「色々と気になる点はあるけど、まずさ……どんだけあんた達は互いに疑心暗鬼になってんの?」

 

 いったい、どういうことなのだろうか。

 

 そう思って尋ねれば、「ちょっと、ここで待っていて」ビスケはそういって駆け寄ってくるその男の下へと向かった。結果的に焦らされる形となった彼女は、ふむ、とビスケ達から……その奥にいる学者たちに目を向けた。

 

 遠目からなので正確には分からないが、何やら忙しないのが見て取れる。魔獣の研究……をしているのだろうか。『研究』には漠然としたイメージしか持っていない。

 

 薬品なんかの研究ならばある程度イメージできるが、魔獣の研究とはいったい何をするのだろうか。やっぱり……解剖したり食べたりするのだろうか。

 

 今の今まで興味を持ってはいなかったが、むくむくと好奇心が疼くのを彼女は実感した。と、いった辺りで、ビスケから手招きされた。男はまた元の場所に戻ってゆく……どうやら説明は終わったようだ。

 

 手招きに従って向かえば、一斉に護衛たちの視線が注がれる。敵意ではない。しかし、友好的というわけでもない。歓迎はしつつも警戒心が見え隠れする視線の中を進んだ後、ほいっ、とコンテナをテントの隣に下ろした。

 

 ん~……数時間ぶりに荷物を下ろした彼女は、ぐりぐりと肩を回した。特に疲れたわけではないが、気分がそうさせる。じゃらじゃらと身体から伸びる鎖が音を立てる。大きく吐いた溜め息と共に脱力した彼女は、改めて……己を見つめる者たちを見やった。

 

 この場で確認出来るだけの人数は、4人。ビスケを除けば3人で、女性が二人に男性が一人。眼鏡を掛けた黒髪ボインな女性と、青い髪をポニーテールのように纏めた女性と、金髪碧眼の優男。この優男は、先ほどビスケに真っ先に話しかけにいったやつで……といった具合の三人であった。

 

 ……何だろう、場違いという印象を最初に覚える。まあ、ビスケの例もあるし、そもそも己とて見た目は少女と幼女の中間みたいなものだ。一般人みたいな姿であっても、特に思うところはない。

 

 考えてみれば、ビスケなんて外見だけなら御嬢様だ。こんな砂埃だらけの野生溢れる場所でバチバチやり合うこともあるなんて、初対面の者なら笑い飛ばすぐらいに場違いに思うぐらい……話を戻そう。

 

 それよりも、だ。彼女の興味を引いたのは、ビスケ以外の護衛たちの実力であった。

 

 はっきり言ってしまえば、強いのだ。正確にいえば、強いというのが何となく分かる。だが、分かるからこそ……違和感に彼女は首を傾げた。

 

 例えるなら、ライオンが仮面を被って狸のフリをしているかのようなものだ。ビスケも似たような印象を覚えたが、ビスケのライオンはある種の清々しさというか、悪意というものを感じなかったが……この三人は違う。

 

 一言でいえば、へばり付くような悪意だ。ヘドロの底、澱み、言葉には言い表し難く、何かに例えるにも難しい汚濁。そんなモノに長年身を浸していたかのような……そんな印象を、彼女は三人に覚えた。それは、『彼』の部分でも同じであった。

 

 いや、むしろ、『彼』の部分は三人に対してより強くそれらの印象を覚えた。もはやそれは嫌悪感すら覚える程であり、珍しく『伊吹萃香』の部分がストッパーになるという不思議な状態にすらなっていた――と、いうか、だ。

 

(……こいつら、もしかしなくてもあの三人の仲間じゃね?)

 

 漠然としながらも、どこか確信にも似た直感を覚えてしまった彼女は、しばし言葉を失くしていた。

 

 それは、恐怖から来るものではない。純粋に、彼女は驚いていたのだ。例えるなら、通勤途中で遭遇したマナーの悪い男が、その日の取引先相手だった……といったところだろうか。

 

 視線に潜む悪意だとか、滲み出る何かだとか、明確な根拠としては弱いのだが、どうしてだろうか。どうも眼前の3人が、あの3人とは無関係には思えない。むしろ、仲間だと考えた方が色々としっくりくる。

 

「……あの、俺たちが何か気に障るようなことしたかな?」

「いや、何も」

「……あ、そう」

 

 辛うじて表情には出さなかったが、雰囲気には出てしまったのだろう。何処となく困った様子の優男と、何処となく警戒心を見せ始める青髪の女性を尻目に、彼女は深々と……それはもう深々とため息を吐くと、ビスケへと視線を向ける。

 

「護衛って、この3人だけ?」

「他にも何名かいるけど?」

「この調子だと、あんたを除いた全員かもね」

「――嘘でしょ?」

 

 1オクターブ低くなった声。それが地声なのかなと気になりつつも、彼女は素直に答えた。

 

「私が嘘を言うと思うかい?」

「……ああ、もう」

 

 凄まじい説得力に、ビスケは堪らず頭を抱えた。

 

「全員はさすがの私も想定外だわさ……」

 

『あ~、マジか~』、と言いたげに幾分か頬を引き攣らせたが、受け入れたようだ。彼女に引けを取らないぐらいに大きくため息を零すと、「――基礎修行からやり直しだわさ」小走りに依頼主たちのテントへと向かった。

 

 それを見て、訝しむ3人。残された彼女を前に、幾ばくかの警戒心を抱いたのかもしれない。「それじゃあ、俺たちはここで……」そう言って離れようとした3人に、彼女は特に気負うこともなく……尋ねていた。

 

「あんたらってさ、あいつらの仲間?」

「……えっと、どういう意味?」

 

 ――が、主語が足りなかった。

 

 何を言ってんだこいつ、と言いたげな3人の中でも、一番頭が良さそうな感じの優男が苦笑しながら聞き返して来た。気分は、この場を代表して……ということなのだろう。

 

「いや、さ。ここに来る途中、ちょいと襲われてね。何か雰囲気というか、気配というか……似ているんだよね、そいつらとさ」

「その、襲われたとか色々と初耳なのもそうだけど、僕達って初対面だよね? 会って早々言い掛かりを付けられても困るんだけど?」

 

 優男の語気が幾分か強くなる。優男の言い分は、尤もである。事実、3人と彼女は初対面であり、名前すらお互いに知らない。そんな関係で、いきなり強盗犯の仲間と疑われれば、気分を害して当然であった。

 

「根拠はあるよ。なんていうか、臭いが同じなんだよね」

 

 けれども、彼女は気にした様子もなく断言した。「……臭い?」これには優男たちも気になったのか、衣服の胸元を捲って己の臭いを確認し始める。特に女性陣の反応は顕著であり、少しばかり距離を取るぐらいであった。

 

 まあ、不穏な気配を放っているとはいえ、『女』であることには変わりない。一般的な女性よりも平気なのかもしれないが、女であることを完全に捨てているわけでは――ん?

 

 日影が差したと認識すると同時に、背後に気配を覚えた。おまけに、臭いも。何だろうと振り返れば、己を見下ろす毛深い大男と目が合った。

 

 大男は、縦にも横にも一回り以上大きかった。つい数時間前に遭遇した(彼女の感覚では、アレは襲われた内には入らない)大男よりも、腕も胸も足も大きい。

 

 だが、デブではない。丸太が可愛く思えるぐらいの、太い手足。傍目からでも発達しているのが分かるぐらいに隆起した筋肉はともすれば威圧感を与える程で……その、彼女の頭よりも大きな拳が静かに振り上げられ――。

 

「……なーんか、前にもこんなことがあったような――」

 

 ――そう呟いたと同時に、どでかい拳が頭部へと一直線に落とされた。ごどん、と。拳と頭部が奏でたとは思えない重苦しい打突音が響くと共に、彼女の足元がひび割れ、地面が砕かれる。当然、直撃した彼女の身体は、その威力に従って……地中の中へと押し込められた。

 

 臓腑の奥底にまで響き渡るほどに、振り下ろされた拳は凄まじいの一言であった。常人であれば地面にめり込む前にミンチ肉になっている程の衝撃。それをまともに受ければ、絶命は必至である。

 

 当然、彼女に一撃を落とした大男……の仲間である3人も、その威力は知っていた。「――あの子も、始末しないとね」、なので、誰一人彼女の死を疑うことはなく、気安い態度で依頼主の下へ向かった……ビスケを始末しようと動いていた。

 

「……お前たちは先に行け。俺は、こいつを始末してから行く」

 

 ただ一人。彼女に拳を当てた、大男を除いて。「――え?」大男が零した言葉に驚いた三人が振り返る。それは奇しくも、地面の中へと埋没していた彼女が……何の負傷もなく大地を突き破って躍り出た瞬間でもあった。

 

 驚愕に目を見開く3人もそうだが、当の大男もこれには驚いた。何故なら、大男は己の腕力がどのようなモノなのかを誰よりも知っている。手応えから致命傷を与えていないのは察していたが、全くの無傷であるとは考えていなかったからだ。

 

「そーら、お返しだ」

 

 それ故に、反応が遅れた。

 

「――ぐぉ!?」

 

 弾けて飛んだ土砂が降り注ぐ中、軽い調子で放たれる、小さな拳。しかし、轟音と共に繰り出された拳は、反射的に両腕をクロスさせて防御した大男の身体を、「ぐっ、おぅ!?」十数メートル先まで後退させる程の破壊力が込められていた。

 

「――ウボォー!」

 

 ここに来て、ようやく彼女の危険性を理解した3人が一斉に彼女へと迫る。その動きはやはり、護衛ではなく殺しの術。先ほどまで被っていた表の顔はそこにはなく、ただただ冷たくも暗い眼差しだけが変わらずそこにはあった。

 

(……さて、どうしようか?)

 

 しかし、彼女の前では無意味であった。

 

 常人なら腰を抜かすどころか失禁してもおかしくない殺意を一斉に向けられながらも、彼女は何ら気圧された様子はない。トーストに塗るジャムを何にするかという程度の気楽さで、迫り来る前後を待ち構える。

 

 大男……ウボォーと呼ばれた大男を狙うべきか、それとも3人を狙うべきか。頭を振って、角にこびり付いた泥を振り払いながら、考える。まあ、どちらを選んだとしても、彼女にとっては大した違いはなか――ん?

 

 突然、グイッと。いきなり片手が頭上へと引っ張られた。

 

 何だと思って見上げてみるも、そこには何もない。何だ何だと目を瞬かせた途端、今度は残った手足があらぬ方向へと引っ張られ……気づけば、彼女は空中にて大の字に固定されていた。

 

 まるで、蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のよう。魔法でも使われたのかと目を瞬かせていると、黒髪の女が眼前に来た。何かを振り上げる素振りを見せ、下した。瞬間、ごつんと脳天に衝撃が走って視界が揺れた……が、それだけであった。

 

 続けて、3人の内の一人……背後へと回っていた優男の攻撃が、延髄にぶち当たった。なるほど、今の攻撃はこの為の布石か。しかし、威力という点ではウボォーの拳には遠く及ばず、延髄であっても全くのノーダメージであった。

 

「――刺さらない!?」

 

 それは、優男自身も分かっているはずだ。なのに、どうしたことか。攻撃が通らなかったにしては、妙に驚いている。刃物でも使ったのかは位置的に見えなかったが、それが通るなら先ほどの拳でも攻撃は通っているはずなのだが……まあ、いい。

 

 何かに拘束された手足を、彼女は無造作に引っ張る。「――この、野郎!」途端、青髪ポニーテールの女がたたらを踏んだ。それを見て、なるほど、と彼女は理解した。

 

(――こいつらも、見えない攻撃をするやつなのか)

 

 それは、『念能力』と呼ばれる超常的な現象をも引き起こす力で、彼女を拘束したのもその力の一つであった。しかし、彼女は『念能力』というのを知らない。かつて、ネテロと戦った時と同じように、ただ『見えない攻撃』という程度にしか認識していなかった。

 

 あれから数十年近い月日が経つというのに、どうして未だ理解していないのか。それは単に彼女自身にやる気がないのと、『見えない攻撃』に対する興味が欠片もないこと。そして、彼女にそれを教えてくれる相手がいなかったからだった。

 

 原理は分からないが、そういうものがある。何をどうやっているのかは見えないし、分からない。だが、彼女が何かを行っている。そして、この拘束は青髪女にも少なからず影響が出る……それが分かれば十分であった――っと。

 

「――うぉぉりやぁあああ!!!」

 

 先ほど殴りつけたウボォーがお返しする、振り下ろされる渾身の右ストレートパンチ。体格に見合う怒号と共に放たれた拳は寸分の狂いもなく彼女の芯を捉え、その身体を大地へと突き刺し……大地を抉った。

 

 その破壊力足るや、ミサイルを優に超えていた。拳が突き刺さった大地を中心として土砂が吹き飛び、地表が砕かれ、クレーターが生じる。発生した衝撃波は周辺に設置されていたテントを軒並み吹き飛ばし、中にいた人間たちを空の彼方へと追いやる程であった。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、舞い上がっていた砂埃が落ちるに連れて。静まり返った最中、クレーターの中から姿を見せた大男……ウボォーは、大きく息を吐いて立ち上がった。

 

 辺りは、酷い有様であった。周辺の草木は根こそぎ消滅し、立ち並んでいたテントは一つもない。小型の核爆弾が落ちたなら、こうなるだろう。無事な場所は一つもなく、常人が傍にいたなら例外なく絶命したであろうことが想像出来る、悲惨な光景が広がっていた。

 

「――ウボォー!」

 

 悠然と佇むその背中に、怒声が浴びせられた。呼んだのは当然、常人ではない彼の仲間である3人の男女。多少なりとも砂埃で汚れている彼らは、振り返らないままの彼に「少しは手加減しろ!」声を荒げた。

 

 彼ら彼女らが怒るのも、尤もな話であった。しかしそれは、自分たちに危険を生じさせる攻撃を行った……というわけではない。怒っている理由は、ウボォーの常軌を逸した渾身のパンチによって舞い上がった、砂埃であった。

 

 と、いうのも、だ。既に分かっていることだが、ここは大自然のど真ん中。率直に述べるならば、身体を洗う入浴設備なんてものはない。せいぜい身体を拭うタオルを温めるぐらいで、基本的には町に戻るまで我慢しなければならない。

 

 その町に戻るのだって、相当な時間を要する。ここから徒歩で数時間かけて入口へ。そこからさらに車で数時間走らせなければ、ホテルがある町まで辿り着けない。それを知っているからこそ、3人はウボォーに対して怒ったのであった。

 

 ちなみに、いくらミサイルと見間違う威力があるとはいえ、だ。3人は、仲間の攻撃で負傷するような馬鹿ではない。完全な不意を突かれる形だったならまだしも、先ほどは狙ってやったこと。あれで怪我をするのであれば、それは怪我をした方が悪いので、その点については誰も気にしていなかった。

 

「やれやれ、お宝を盗るまではこのまま我慢しなくちゃ……」

「…………」

「……どうした、ウボォー?」

 

 けれども、だ。何時まで経っても返事どころか反応一つ返さないウボォーの姿に、3人は訝しんだ。お喋りというわけではないが、こういう殺し合いを終えた後は普段よりも饒舌になることを知っているからこそ、「ずいぶんと無口じゃないか?」今の彼から放たれる雰囲気は異様としか言い表しようがなかった。

 

「もしかして、最初の一撃で倒せなかったのが意外とショックだったとか?」

 

 そういって、優男がウボォーの背中を叩いた。途端、ハッとウボォーギンが振り返った。「……本当に、どうしたんだ?」その反応に驚いた3人を見て、ウボォーはバツが悪そうに視線を逸らしながら謝ると……悔しそうに、ポツリと呟いた。

 

「くそったれ……仕留めきれなかったぜ」

「――は?」

 

 この場にいる誰もが、今の言葉を聞き間違いだと思った。目を瞬かせる3人を他所に、「俺の拳も、まだまだってことだ」ウボォーは心底腹立たしいと言わんばかりに歯軋りをした。

 

「俺の超破壊拳(ビッグバン・インパクト)じゃあ、あいつを殺せなかった。もうここにはいねーみてえだが……あいつ、まだ生きていやがるぞ」

「――え? え? ちょっと待て。仕留めきれなかったって……当てたんだよね? 直前に避けられたとかじゃなくて?」

 

 それは暗に何かしらの念能力を用いたのではないか……という問い掛けであった。「いや、当てた。手応えは確かにあった」だが、ウボォーは首を横に振って否定し……ふん、と鼻息を荒く吹いた。

 

 ……信じられない。

 

 その言葉を呟こうとした優男は、寸での所で堪えた。それは、他の二人も同様であった。

 

 優男たちは、ウボォーが己の力について絶対的な自信を抱いていることを知っている。頭はけして良くはないが、事実を事実のままに受け入れる性格であることも知っている。

 

 そんな彼に対して、下手な慰めは逆効果。この場においてのそれは、頑強な肉体に裏打ちされた自信を虚仮にするにも等しい行為でしかなく、しばらくそっとしておくのが一番だと判断した優男たちは、話題を変えるかのように辺りを見回し……こちらに向かって近づいてくる男を見付けた。

 

 黒髪に黒マントの男の背は、低かった。だが、眼光は鋭く、遠目からでも一般人でないのが見て取れる。まあ、このような場所でそんな恰好をしている辺り、普通なわけがないのだが……まあいい。

 

「――フェイタン! そっちはどうだった!」

 

 呼ばれた男……名は、フェイタン。察しの通り、彼は優男たちの仲間である。呼ばれたフェイタンは、少しばかり小走りになった。近寄ってくるその姿に、優男たちは手を振った……が、その手はすぐに止まった。

 

 何故なら、コートから伸びている片方の腕。その部分のコートが破けており、剥き出しになった腕が……遠目からでもはっきり分かるぐらいに、ぐきりと折れ曲がっていたからだ。

 

「……何があったんだ?」

「後始末しようとしたら、邪魔してきたやつにやられたね」

「邪魔を……あの子か。相当な使い手なのは予想していたけど、予想以上だったか」

 

 自然と、優男の声色は低くなった。それも、彼らにとっては当然であった。

 

 フェイタンは見た目こそ小柄で威圧感に欠けるし語尾に『ね』を付ける変な癖があるけど、ヤクザ1000人掛りで襲って来ても、無傷にて全員の首を落とすだけの実力を持つ。そんな彼の腕がへし折られる辺り、予測が甘かったと優男は思った……だが、しかし。

 

「少し違うね。私の腕を折ったの、あの子じゃないね。あの子は爺共を殺すのを邪魔しただけで、折ったのは別のやつね」

 

 優男の考えていた相手ではなかった。「他にもあの子に仲間がいたのか?」想定していなかった情報に目を剥く優男を他所に、フェイタンは深々と……「さあ、仲間かどうかは知らないね」苛立ちが込められたため息を零した。

 

「ただ、どちらも相手にしたくはない相手なのは確かね。どちらも私では相性が悪い、あれはどちらもウボォー向きな相手ね」

「ふむ……分かった。それで、腕を折ったやつの特徴は?」

「背は私よりも低い、女の子ね。身体に鎖を巻きつけた変な恰好をして……そういえば、角みたいなものが頭に付いてたね。何者かは分からないけど、相当な――」

「いや、そこまででいい」

 

 優男は、フェイタンの説明を強引に打ち切った。その事に機嫌を損ねた様子のフェイタンは眉根をしかめていたが、「一旦、作戦中止だ」優男は構うことなく言い切った。

 

「不確定要素が多過ぎる。理由は追々説明するから、とにかく今は俺の指示に従ってほしい」

 

 そういうと、優男はこの場を離れ始める。青髪ポニーテールの女性も、黒髪眼鏡の女も、その後に続く。納得いかない様子ではあったが、フェイタンもその後に続き……そして。

 

「…………」

 

 最後に、ウボォーが無言のままに後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六話:全うする御老人と鬼娘

最近、憑依系の数が減ってんよ~
こうやって書いているからみんなも触発されて書いてくれよ~書くのは怖くないぞ~頼むよ~



うちも、やったんだからさ?


 

 ――ちっちっちっち。

 

 どこからか聞こえてくる鳥の声。学者が聞けば目を剥くぐらいに貴重で目視すること自体がごく稀な鳥が近くにいることを表していたが、この場においてのそれは耳障りでしかなかった。

 

 大男……ウボォーの放った超破壊拳(ビッグバン・インパクト)によって生まれたクレーターより、距離にして5kmほど。悠然と広がる森林を少しばかり入った先にある湖の(ほとり)にて、老人を背負った女が足を止めた。

 

 女は、町中でもそうは見掛けない立派な体格であった。ただし、それは女性的な意味合いではない。辛うじて、胸元が体格に見合うだけ大きく膨らんでいなければ、女性だとは誰も思わなかっただろうということで、察してほしい。

 

 その顔立ちは、男性として見れば美男子と評して差し支えない。言い換えれば、女性として見るには勇まし過ぎる。衣服から伸びた手足は太く、筋肉に覆われているのが傍目からでも分かった。

 

 加えて、女は恰好が少々変わっていた。約3m近い長身とは不釣り合いな、ゴシックロリータを思わせる衣装。似合っていないわけではないが、似合っているとも言い難い。

 

 そんな女は周囲を警戒するように周囲を見回し、湖を見回し、もう一度辺りを見回し……軽くため息を零すと、背負っていた老人をその場に降ろす。

 

 唇と胸に手を当て、呼吸と心音に異常がないことを確認すると、女はゆっくりと脱力した……その、直後。女に、明確かつ顕著な変化が現れた。

 

 具体的には、女の背丈が縮んだのだ。いや、背丈だけではない。それはまるで、大人から子供に若返るかのように、骨格そのものが小さく細く、頼りないものへとなってゆく。

 

 そうして、時間にして数十秒ほど。縮み続けていた背丈が止まり、細く短くなり続けていた手足の縮小が治まった後。その場に残されたのは……金髪のゴシック少女、ビスケット・クルーガー、その人であった。

 

 大きく息を吐いて、己が肉体の様子を確認する。何ら異常が見られないことを確認し終えたビスケは、次いで、横たわった老人の衣服を脱がす。いや、それはもう脱がすというよりも、破くと言う方が正しい。

 

「うっ、うう、う……」

「下手に喋ろうとするんじゃないわさ」

 

 喘ぐ老人の苦悶の悲鳴を、ビスケは一喝して黙らせる。露わになった老人の腹部は、真っ赤に染まっていた。それは、背中まで貫通した傷であり、あのテント内にて行われた虐殺……死を免れる代わりに刻まれた、切り傷でもあった。

 

(……辛うじてだけど、致命傷は免れている。半数以上が即死しているのに、運の良い……いや、違うわね)

 

 これは、わざとそうされた傷だ。おそらく、殺される同僚(あるいは、友人)の恐怖に怯える様を見せつける為に。それを理解した瞬間、ビスケは思わず舌打ちをし……らしくない己の行動に、苦笑した。

 

(まあ、そのおかげでこいつだけは助かったんだから、良しとしましょう)

 

 この老人は、依頼主である調査団の内の一人であり、調査団のリーダーを務めていた男だ。名は……確か、ボンド、ボンド博士だ。いちいち言動が悟った仙人みたいで気に食わない相手ではあるが、出来るなら死なせたくはない。

 

 それは、支払って貰う予定の報酬金がどうとか、依頼主云々がどうとか、今回の仕事で抱いている疑問の答えとか、そういうのは一切関係がない。

 

 ただ、真っ当に生きた人を、このような形で死なせたくない。自分のような荒事ばかりの世界ではなく、学問の道を進んできた者に対するある種の尊敬への、純粋な善意から来る感情であった。

 

 ――さて、と。

 

 傷口に顔を近づければ、吹き出す鮮血がビスケの頬に当たる。見ていて気分の良いモノではないが、見慣れてはいる。「――うっ、ぐっ!」傷口の傍を触られたことで老人……ボンドは歯を食いしばったが、我慢して貰う他ない。

 

(癪な話だけど、あいつ……殺しの腕は確かなようだわさ)

 

 やはり、鋭い刃物が原因の傷であった。刃物自体がよく手入れがされていたうえに、使い手の腕が色々な意味で良かったのだろう。躊躇いが全くないおかげで、内臓への損傷は最小限に留まっていた。

 

 しかし、言い換えれば最小限に留まっているだけの話であり、最小限とはいえ内臓は損傷している。これがビスケのように鍛え込まれた身体であったならばまだしも、ボンドは老人だ。けして、安堵してよい状態ではない。

 

 続いて、傷口に鼻を近づけ、スンスンと鳴らす。嗅ぎ取れるのは、血液特有の鉄臭さ。激痛によって生じた濃い体臭が交じり合っている。そのまま、ビスケは胸元、首元へと臭いを嗅ぎ、最後に食いしばった顎を無理やり開かせて口臭を確認し……ふう、とため息を零した。

 

(……異臭は無い。この手の類が毒を使うのは拷問に掛ける時ぐらいだから、毒の使用はないとみて間違いないわさ)

 

 とはいえ、無臭の毒なんて掃いて捨てるほどある。どんな毒が使用されているのか分からないうえに、こうも雑菌の溢れた場所では、下手に血を吸い取ることも出来ない。

 

 ……まあ、考え出したらキリがない。

 

 ひとまず、毒は使用されていないという前提でビスケは診察を続ける。横向きにして、背中の状態を確認。分かっていた事だが、貫通した背中部分からも出血していた。

 

 顔色を見れば、青白くはなっているが、まだ精気は残っている。脳内分泌された大量のアドレナリンによって、多少なりとも痛みが軽減しているのだろう。少しばかり呼吸が落ち着いているのを見やったビスケは……さて、困ったぞと目つきを鋭くした。

 

 現状、この場での輸血は不可能なので、兎にも角にも、まずは出血を止めなくてはならない。既に相当な量の血を流し、こうしている今も出血は続いているのだ。黙って見ていれば、いずれは失血死するだろう。

 

 ……だが、どうやって止める?

 

 圧迫による止血にしたって、限度がある。応急処置をするにしても、ここには道具がない。そういった治療設備や道具は全て、あのテントにあった。そして、そのテントは……あいつらによって破壊され、今はどこにあるのかも分からない。

 

 だから、現時点で使えるのは己の両手だけ。しかし、この場においては何の役にも立たない。近隣の村まで担いで戻る……駄目だ。この老体では、そこまでもたない。間違いなく、途中で命を落とす。

 

「……ボンドさん。私の声は、聞こえているわよね?」

「うっ、くっ、くっ……あ、ああ。聞こえているよ」

「単刀直入に言うわよ。今のあなたは死にかけている。そして、放って置けば確実に死ぬわさ」

 

 迷ったビスケは、ボンドに選択権を譲った。皺だらけの顔中に冷や汗と脂汗を浮かべたボンドは、食いしばった歯をわずかに緩ませ……ゆっくりと、目を開けた。

 

「ち、治療は、無理か?」

「設備も道具も、全部あいつらにぶっ壊されたわさ。今の私に出来るのは、一か八かに賭けてあんたを近隣の村へ運ぶか、それとも……ここで楽になるか。この二つよ」

「は、はは……それは何とも……素敵な選択肢、だ……。ちなみに、私が助かる……確率は、どれ……うっ、くっ……どれぐらい、だい……?」

「宝くじの1等を引き当てるぐらいかしら。言っておくけど、その出血量は気力や根性でどうにかなる問題ではないわよ」

「…………」

「楽になりたいなら苦痛一つ感じずに送ってやれるわさ……だから、選びなさい。このまま静かに息を引き取るか、足掻いて死ぬか、楽に終わるか。残された時間は、そう多くないわよ」

「…………」

 

 ボンドは、答えなかった。痛みに気絶した……わけではない。ただ、どう死ぬかの選択肢を前に答えあぐねているだけ。それを察していたビスケは、あえて問おうとはしなかった。

 

 このまま答えられぬまま静かに息を引き取っても、迷いに迷って足掻いてみても、苦痛から解き放たれたいと願っても、それがボンドの選んだ選択肢。それが、死に行く彼が最後に取れる自由である。そう思っていたからこそ、ビスケは黙ってボンドの答えを待った。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そして、時の流れのままに結果は訪れた。しかしそれは、ボンドの死ではなかった。ゴトン、と腹奥に響き、一拍遅れて地響きも辺りに広がる……強烈な衝撃であった

 

 地面を伝わる衝撃に、ボンドは呻き声をあげる。反射的に身構えたビスケも、ハッと顔をあげる。視線を向けた先にあったのは、一部が破損したコンテナであった。

 

 次いで、そのコンテナの上に乗っている者を見たビスケは……思わず、息を吐いて脱力した。何故ならば、コンテナの上にいたのは、『伊吹萃香』の身体を持ち、平凡な人間の『彼』を心に宿した……彼女であったからだった。

 

「ん~、そいつまだ生きてる?」

「……まあ、ぎりぎりってところよ」

 

 コンテナの中から取り出したのだろう。彼女は既にビール瓶を傾けており、赤ら顔になっていた。まあ、初対面の時からずっと赤ら顔だが……とにかく、だ。

 

「……ボンドさん、良かったわね」

 

 彼女からコンテナへと、コンテナからボンドへと、ボンドからコンテナへと。視線を行き来させた彼女は、腕まくりするかのように大きく両肩を回すと。

 

「幸運にも、1等宝くじを引き当てたかもしれないわよ」

 

 そう言って、コンテナの中に残っているかもしれない緊急治療用キットを探しに、コンテナの中へと漁りに行った。

 

 

 

 

 

 

 

 緊急治療用キットとは、その名の通り、直ちに医療行為を要する緊急事態において必要となる道具や薬品など一式を差す。主に危険地域などで使用されており、一般的にはあまり知られていない道具の一つだ。

 

 医療用キットは専用の箱や鞄とセットで販売されており、値段に応じて中身のグレードが変わる。見分ける方法は単純で、箱や鞄の表面にランクを表す数字が刻印されている。

 

 さて、幸運というべきか、それとも向こう見ずというべきか。あるいは、こういう事態を想定していたのか。

 

 それは調査団しか分からないので定かではないが、コンテナの奥にひっそりと納められたそれは、鞄型で……不幸中の幸いにも、上から数えて4番目ぐらいにはグレードの高いキットであった。

 

 ぱちん、ぱちん。手早く鍵を外して鞄を開けたビスケは、思わず苦笑する。最高級になると豪邸が建てられるぐらいに高いと揶揄されるだけあって、4番目でも中に入っている道具等一式は凄かった。

 

 掌大のサイズながら家一軒分の電気5時間分を賄う自家発電装置一式から始まり、小型心電図やレントゲン装置などの機械に、滅菌済み手術道具一式。各種栄養剤に点滴用溶液、麻酔薬、鎮痛薬、解熱剤といった基本的なものから、ヘロインなどの最後の安らぎまである。

 

 パッと目に止まっただけで、それだけの装備が揃っているのだ。もっと細かく探せば、解毒装置を初めとして、ろ過装置なんかも見つけられるかもしれない……が、今はそんなことに目をくれている暇はなかった。

 

「……こいつら、始めから踏み倒すつもりだったわね」

 

 生きていたら、ぶん殴ってやるところだわさ。

 

 そう呟きながら、ビスケはキットの中からスプレー缶を幾つか取り出す。それらは、吹きかけるだけで損傷部位の消毒と保護を行うだけでなく、副作用抜きで組織の修復を劇的に加速させるスプレーであった。

 

 まず、入り込んだ雑菌の消毒だ。スプレーを、一つ。指で傷口を開いてプシューっとした途端、「うっ、ぐう、ううう!」ボンドは激痛に呻き声をあげたが、分かっていたビスケは強引にその身体を押さえ付けた。

 

 このスプレー……効果は申し分ないのだが、とにかく痛い。表面的な傷口ですら、大人が悶絶するぐらいに痛い。ビスケも一度使用したことがあるので、その痛みはよく分かる。

 

 けれども、死ぬよりはマシだ。傷口を洗い流すのを兼ねて、一本分を丸々使い切る。ひとまず内臓の損傷部位からの出血が止まったのを確認すると、続いてビスケは傷口の縫合を行う。

 

 まあ、縫合といったって医者と比べるのも失礼な腕前だが、しないよりはマシだ。雑巾を縫うかのような雑さで縫合を終えると、隙間にもう一度スプレーを噴射する。「――ぎっ、ぐぅ、うううう!」びくんびくんと痙攣する身体を押さえ付けながら、ガーゼと包帯で患部を保護し……応急処置を終えた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………その、横で。

 

 ――ぐびり、ぐびり、ぐびり。

 

 流し込まれる酒の味に、喉を鳴らしている彼女がいた。喉を通ってゆくビールは、お世辞にも冷えているとは言い難い。まあ、割れて保冷剤が飛び散ったコンテナから引っ張り出した酒なので、温くなっているのは仕方がない。

 

 反面、景色は最高だ。さんさんと照りつける日差しの下。何処までも広がる大自然の中で飲むビールの、何と美味いことか。出来ることなら御つまみが欲しいところだが、まあいいかと彼女はビール瓶を空にし……大きくゲップを零した。

 

 よし、もう一杯。

 

 そう決めた彼女は、クッション材が敷き詰められた木箱(唯一破損を免れた貴重なやつ)から、新たなビール瓶を取り出す。元々、コンテナの中身の大半は『魔獣の餌』。食料も積んではいたが、酒類の数は多くない。

 

 おまけに、先ほどの大男……ウボォーと呼ばれていた、あの男の放った拳によってコンテナが破損している。保存食を初めとした飲料水は幾らか無事ではあったが、駄目になった量も多い。この場においては、これが唯一のアルコールであった。

 

「――あれ、飲まないの?」

 

 だから、彼女としては、だ。貴重な、彼女にとっては砂金にも等しいアルコールを分けるというのは、断腸の思いであって。嫌がらせでもおふざけでもなく、純粋な親切心から来る優しさであった。

 

「……あいにく、仕事中は飲まないことにしてんの。飲みたきゃ私の分も飲んでいいわさ」

「――マジで!? よっしゃあ! 今度何かあった時に力を貸してあげるよ!」

「まあ、厚意は受け取っておくわさ」

 

 なので、彼女にとっては酒を譲られるというのは、札束よりもよほど嬉しいことである。札束があれば、今しがた飲み干したビールが100本は買えるだろうと言われればそれまでだが、重要なのは酒を譲って貰えるということであるので、彼女にとってはコレで良かった。

 

 そんな、満面の笑みでビールを空にしてゆく彼女を見て、ビスケは思わず苦笑する。けれども、それは一瞬のことで。すぐさま冷静な眼差しで処置を終えたボンドを確認した彼女は……ようやく、息を吐いた。

 

 ――後は、この男の気力と体力だわね。

 

 安静にしていれば、とりあえず明日の朝ぐらいには動かしてもよい状態にはなるだろう。手に付いた血液を、キットの中に入っていた洗浄剤とコンテナの中にあった水で洗い流しつつ、ビスケは……天にこの男の生存を祈るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……日が暮れて、3時間ほどが過ぎた。

 

 文明の明かりがまるで見られない危険地区の中では、夜にもなると文字通り足元すら確認出来ない暗闇に閉ざされる。ここに住まう獣たちであればまだしも、星々の明かりだけでは暗すぎる。

 

 月明かりで手元がどうとかなんて、所詮は漫画や小説の中の話でしかない。静まり返った湖面は確かに光を反射はするものの、元々が微々たるもの。雲一つない夜空の下とはいえ、大自然の中での実際は……全てが、暗黒であった。

 

(……綺麗だなあ)

 

 けれども、そんな闇の中。コンテナの上で仰向けになっていた彼女は、視界一杯に広がる星々の輝きを眺めていた。

 

 彼女が見惚れるのも、まあ無理のないことであった。何せ、彼女の自宅がある『メイドリック』では、こんな星空を見ることは叶わない。都市の明かりが強すぎて、星々の煌めきを跳ね返してしまうからだ。

 

 だからなのか、運び屋として遠出した際は、夜になるとついこうして夜空を眺めてしまう。時には酒を飲みながら、時には今みたいにただただ静かに、気のすむまで夜空を眺めて寝入ったことだって、多々あった。

 

 しかし、こうまで美しい夜空を見るのは初めてだ。大気の風向きの影響なのか、普段なら頼りないそれらの輝きが、まるで小さなスポットライトのように眩しく思える。

 

 ――ある意味、運び屋という仕事を続けている最大の理由が、これなのかもしれない。

 

 幾度となく思う事を、此度でも同じように思った彼女は、大きく息を吸って……濃縮された緑の匂いに混じる炎の臭いに、のそのそと這って……焚き火の前に座っているビスケの背中を見下ろした。

 

 まるで、そこだけが別世界であるかのような光景であった。ぱちぱちと、焚き火によって舞い上がる火の粉が煌めいて、夜の闇へと溶けてゆく。力強くもぼんやりと放射される光によって照らされたビスケの影が、コンテナに細長く映し出されていた。

 

 焚き火には、石とコンテナの一部(彼女が引き千切って作った)を組み合わせて作られた釜戸もどきが設置されている。炎の真上に物が置けるようになっており、今はそこに小さなヤカン(医療用キットの一つであり、本来は器具の消毒等に使用されるもの)が置かれていた。

 

 火に掛けてから、既に十数分。しゅしゅしゅと沸き立ち始めている。それを見て、もそもそもそもそと不味そうに固形総合栄養スティックを齧っていたビスケは、組み立て式のマグカップに湯を注ぐと、ヤカンを火の傍に置いた。

 

「――なんだわさ?」

 

 視線か、あるいは気配か。見られていることを、振り返ることなく察したビスケは、ココアの匂いを漂わせるマグカップの中身をかき混ぜながら、そのままの姿勢で尋ねてきた。

 

「別に、なんも。ただ、さっきはコンテナの中でゴソゴソしていたのに、今度は焚き火の前でしょ。いったい何してんのかなって思ってさ」

「さっきはボンドさんの点滴の取り換えと汗を拭いただけで、今はご飯を食べながら飲み物を用意しているとこだわさ」

「酒ならくれ」

「ザルも大概にしなさいよ、呑兵衛。ココアで良ければここにあるから、好きに使うわさ」

「もう少し美味そうに食べていてくれたら、私も食欲が湧くんだけどなあ」

「もう少しコレが美味かったら、私も演技が出来ていたと思うわさ」

 

 ずずず、とマグカップを啜ったビスケは、実に不味そうに顔を顰めながらも、もそもそとスティックを齧る。上から4番目に高いキットだが、同封してある食糧等は下から4番目といっても過言ではない酷いもので……ああ、だから上から4番目なのか。

 

 一人納得しつつ、ビスケはココアと共に胃袋へと固形栄養スティックを流し込む。ココアが、まだ飲める味で良かった。噛む度に嫌気が差すスティックも、何とか食える。

 

 まあ、そのココアすら平時であれば二度と飲みたくない代物だが……こんな状況だ。食えるだけ、有り難いとビスケは己を強引に納得させて……いるのが、背後の彼女からでも見て取れた。

 

(しかしまあ、この人も大概凄いやつだなあ……傷の応急処置に、点滴などの看護処置。手際よく爺さんの様子を確認しながら自分の食事も済ませ、かつ、周囲の警戒も怠っていない)

 

 向かうところ敵なしの完璧超人か何かだろうか。気の毒な結果にはなったけど、ビスケのような護衛を雇えた調査団……というか、ボンドという名前らしいあの爺さんは幸運だと、彼女は思った。

 

 実際の話、ボンドはビスケがいなかったら命を落としていたのは確実である。何せ、彼女が出来ることといえば腕力に物を言わせるぐらいで、せいぜい包帯を巻きつける程度しか出来なかっただろう。

 

 というのも、医療という世界において『伊吹萃香』の身体はあまりに不向き過ぎるからだ。辛うじて『彼』の部分のおかげで知識の習得だけなら何とかなるかもしれないが、結局はそれだけ。

 

 そもそもが、『彼』の部分にだってそういう素養はないのだ。注射器を持てば緊張して針を折ってしまうだろうし、包帯だって力を入れすぎて引き千切ってしまう。常に泥酔しているから、手元なんて狂いっぱなし。

 

 とてもではないが、ビスケのような傷口の状態を確認したり、応急処置をしたり、その後の点滴等の看護なんて彼女には無理だ。処置は手荒(なのかは、彼女には分からなかったが)というか容赦がないが、命を拾うためには仕方ないことなのだろうなあ……と彼女は思った。

 

「……あんたさ、どうしてあいつら逃がしたんだわさ」

 

 しばしの間、何をするでもなくぼんやりと小さい背中を眺めていると、ビスケはまた背中を向けたまま尋ねてきた。「あいつらって?」察してはいたが念のため聞いてみれば、「護衛に化けていたやつらだわさ」律儀に答えてくれた。

 

「あんたの実力なら、仕留めるなんて簡単でしょ? わざわざ殺さないでやつらを逃がして……どうして?」

 

 どうして……ふーむ。初めて問い掛けられる類の質問に、彼女は何度か小首を傾げた後……そうだな、と口を開いた。

 

「まあ、色々と理由はあるけど、私自身には殺す理由がないのが一番かな」

「向こうはあんたを殺すつもりだったのに?」

「丸めた新聞紙片手に襲い掛かってくる乳飲み子相手に、ビスケはいちいちナイフで応戦したりするかい?」

「……幻影旅団相手に乳飲み子扱いするやつなんて、世界広しといえどあんたぐらいなもんだわさ」

「げんえー……なにそれ?」

幻影旅団(げんえいりょだん)。構成員やその人数が一切不明、狙った獲物は絶対逃さず、腕利きのハンター(賞金稼ぎ)も返り討ちにする、危険度Aの盗賊団だわさ」

「ふーん……ん? 不明なのに、なんでビスケはあいつらが、その盗賊団だって思ったの?」

「そんなの、決まっているわさ。背中にお荷物があったとはいえ、マジになった私とまともにやり合えるやつらなんて、そう多くはない。手口から、相手がどんなやつらなんてだいたい予想が付くわさ」

 

 ため息と共にそう呟いたビスケは、残っていたココアを一気に胃袋へと流し込み、手を合わせる。そのまま、さっさと後片付けを始めるビスケへと……彼女は、密かに抱いていた疑問を尋ねていた。

 

「その幻影旅団ってさ、どっかのマフィアのお抱えとかじゃないよね?」

「……んー、私も詳しくは知らないから断言は出来ないけど、幻影旅団はそういった組織に属するようなやつらではなかったと思うけど……何でまたそんなこと気にするのよ?」

「私じゃなくて、私以外のやつらがすっごい気にするんだよね」

 

 隠すのも何だし、隠して欲しいとも言われていない。なので、彼女はビスケへと素直にマフィアとの関係や、現在における己の立場(の、ようなもの)を明かした。

 

 その説明を簡単に纏めれば、だ。ぶっちゃけ、彼女の現時点における立場と、マフィア同士の面子の兼ね合いという身も蓋も無い話であった。

 

 有り体にいえば、下手に彼女が他の組織(マフィア・コミュニティに属しているのが前提)の構成員、あるいは助人(スケット)を殺めると、彼女自身が望まない面倒事に発展してしまうのだ。

 

 いくら彼女自身が『気にしていないから』と宥めたとしても、マフィア側は兎にも角にも面子というやつに拘る。御咎め無しには絶対にならず、最悪……上の(その組織の幹部)が出て来て、襲撃した者の首と、幹部の小指を落としたりする話に進んでしまうのだ。

 

 これがまた厄介なことに、末端組織やその構成員ほど、そういうケジメを付けるのが早い。『メイドリック』にいるマフィア・コミュニティなら顔馴染みなのでなあなあで済ませられるが、ここみたいな田舎のマフィアになると、もう本当に面倒なのだ。

 

 例えば昔、運び屋としての仕事中に、色々な勘違いと行き違いから、マフィア・コミュニティに属する、とある組織から襲撃されたことがあった。

 

 彼女としては荷物も傷つかなかったし、襲ってきたやつらを全員拳骨で気絶させたのでそこで終わらせたつもりだったが……思っていたのは、悲しいことに彼女だけだった。

 

 というのも、襲われてから、わずか4時間後。仕事を終え、襲われたこともすっかり忘れて酒を片手にホテルでだらだらしていると……やって来たのは、襲ってきた組織の幹部たち。その手には、リボンの付いた箱。

 

 幹部全員の顔色は、その時飲んでいた白ワインよりも青白かった。まあ、その点については彼女はあえて触れなかった。最初は分からなかったが、雁首揃えてきたということから、何となく察したからだ。

 

 なので、最初は純粋に、コミュニティ上層部からお叱りを受けて菓子折りでも持って来たのかなと彼女は思った。ちょうどツマミが切れかけていた頃だったし、甘い物でワインも洒落ているじゃないかと思って、手渡された箱を満面の笑みで開けた。

 

 ――瞬間、その笑みは凍りついた。

 

 何故ならば、箱の中にあったのは菓子折りではなく……人の首。それも見覚えのある……というか、つい数時間前に彼女へと襲い掛かった、その人であったからだ。

 

 しかも、入っていたのは首だけではない。首の傍には蓋付きの小瓶が一つ。手に取って見やれば、中には指が入っている。小さく細いが、皺やら毛やらがあるのを見ると、おそらく……大人の小指だろうか。

 

 ……正直、ドン引きした。

 

 うわぁ、と顔を顰めながらも確認してみれば、その数は……6本。つまり、最大6人分の指がこの中に納められ……おや、何故だろう。眼前にて土下座する幹部の人数も6人。そして、彼ら全員の手には何やら包帯が巻き付け……いや、止そう。

 

 あまり気持ちの良い話ではないし、十分でしょ。そう言って、これ以上は蛇足だと話を打ち切った彼女は、深々と……それはもう深々とため息を零した。

 

「つまりは、さ。あいつらがどっかのマフィアのお抱えとかだったら、まーた首やら指やら手渡されるのかなあ……って思うと、ねえ?」

「……止めろって言えばいいじゃない。話を聞く限り、それで済む話でしょ」

「そうなると、それはそれで問題になるらしいんだよね。まあ、あっちがあっちなりのケジメをつけているのに、後からぎゃあぎゃあ文句を垂れるのも……ん?」

 

 不意に、ぽつん、と。鼻先に当たった冷たさに、彼女は目を瞬かせる。何気なく夜空を見上げれば、あれだけ輝いていた星々のシアターは一つ残らず消え去っていた。

 

 ――雨かな?

 

 どちらが先に、その言葉を呟いたのかは分からない。ただ、その言葉の直後に、二つ目、三つ目と雨音が聞こえ始める。こりゃいかん、と慌てた彼女たちが慌ててコンテナの中に入ってすぐ、雨音は立て続けにサイクルを早め、大地を濡らし始めたのであった。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………非常用ライトに照らされたコンテナの中は、そう明るくはない。やろうと思えばもっと明るく出来るが、それはせず、あえてその明るさに留め、コンテナの中を薄暗い状態に保っていた。

 

 何故かといえば、理由は色々とある。例えば、コンテナの奥にて安静しているボンド博士の存在だ。とにかく安静にして貰わなければならないので、眠りを妨げないようにわざと薄暗くしているのだ。

 

 また、コンテナはその構造上、どうしても熱気がこもりやすい。さすがに酸欠に陥ることはないが、ここで昼間のように明るくなんてしたら、コンテナの中は蒸し風呂のような状態になるのは目に見えている。

 

 それ故に、コンテナの中は薄暗くされていた。ただ、その分だけ音はよく通った。

 

 コンテナに当たる雨音もそうだが、ラジオ(医療キットの付属品。救助要請の為の無線機として使うものだが、ラジオとしても使うことが出来るようになっている)のスピーカーから流れる音楽が、不思議と心地よく響いた。

 

 することもなくなった彼女とビスケは、自然と音楽に耳を傾けたまま横になっていた。大して広くはないコンテナの中だが、まあまあ寝心地は悪くなかった。

 

 そうして……そのまま、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。時計を全く見ていない彼女には分からなかったが、ラジオ番組が三つほど終わった辺り、既に時刻は深夜に差し掛かる時間なのは間違いなかった。

 

「……誰か、水を貰えないだろうか」

 

 そんな時、不意にラジオの声を遮ったのは、今の今まで眠っていたボンド博士であった。

 

 むくりと身体を起こしたビスケが、ボンドを座位の姿勢へと変えさせる。ゆっくりと、咽ないように一口、二口、三口と喉を鳴らしたボンドは、ありがとう、と頭を下げて水を返した。

 

「……ビスケット君、依頼主として君に頼みたい仕事がある。私を、魔獣の下へ連れていってほしい。私が、そこまで案内する」

「あ、そう。仕事熱心なようだけど、街に戻る以外の仕事を受ける気はないわよ」

「……どうしてだい?」

 

 呆気に取られた。しばし虚空を見つめていたボンドは、意を決したように口を開いた。だが、「料金踏み倒すつもりだったでしょ?」ビスケは一切の迷いなく即座に拒否すると、それに……と話を続けた。

 

「調査機器も研究データも何もかもが無い中で、何を調査しようっていうの。ここにはパソコンはおろか、記録媒体は一つもないわさ」

「それは……」

 

 ビスケの発言は、尤もであった。

 

 現在、コンテナ内には研究に必要となる道具は何一つない。持ち込んだ研究データと、此度の調査で得たデータは全て、紛失&粉砕されてしまっている。こんな状態で行う調査に、果たしてどれ程の価値があるのか……ビスケでなくとも、疑問に思うのは当然であった。

 

「今のあなたの発言で確信を得たわ。今回の魔獣の調査……ただ、魔獣を調査していたわけじゃないわね」

「――っ!」

「図星……ね。道理であそこまで固執したわけだわさ。まあ、今はそんなことはどうでもいいわさ」

 

 睨みつけるビスケの視線は、冷たかった。

 

「私がやったのはあくまで応急処置、言うなればスプレー使って傷口にカバーを被せただけよ。縫合したけど、無理に動けば傷口が開いてカバーも外れる。そうなればもう、助からないわよ」

「……構わない。金なら、私自身に掛けた生命保険から支払う。家も車も全部売り払った代金があるから、それを振り込む。だから、私を……」

「くどい、話は終わりだわさ」

 

 そこまで話した辺りで、ビスケは大きくため息をついた。それは、これ以上あなたの話を聞くつもりはないという、明確な意思表示であった。

 

「あのね、何が悲しくて必死に助けた相手が死のうとするのを援助するやつがいるのよ。この際、料金云々はどうでもいい。私は、あんたを死なせる為に生かしたんじゃないわさ」

「……それは、そうだが」

「見ての通り、外は雨で日も暮れている。対して、あんたは死にかけの御老体。例え私があんたを背負ったとしても、あんたは死ぬ。脅しでも何でもなく、それが現実なんだわさ」

 

 それは、ぐうの音もない正論であった。事実、ボンドの身体は老体である。頬や目じりには皺が寄り、全身の皮膚も弛んでいる。手足は細く、傍目からでも筋肉がないのが見て取れる。

 

 加えて、只でさえ年齢的なハンデを抱えているというのに、あの出血量だ。常人ならまともに会話すら出来ない程の血を流しているというのに、こうして対話をするだけの気力を保持しているのは大したものだが……言ってしまえば、それだけ。

 

 多少の出血を物ともしない若さが、彼にはない。激痛を堪えて動き回れるだけの体力が、彼にはない。傍まですり寄って来た死を跳ね除ける力がもう、彼の身体にはないのだ。

 

 起き上がって会話をするだけの気力がまだ残っているだけで、それ以上は出来ない。ビスケの手を借りねば体一つ起こせなかったように、直後に容体を急変させて命を落としても……何ら不思議ではない状態なのだ。

 

 ビスケは、ボンドを生かす為に必死になったのであって、死なせる為に助けたわけではない。だからこそ、ボンドがやろうとしていることをビスケは許容出来なかった。

 

「気持ちは分かるけど、死ねばそれまで。ここで無理して命を落としても、何にも――」

「――今しか、今しかないのだ! あれだけの数が一度に姿を見せたのは、今だけなんだ!」

 

 だが、しかし。ボンドは納得しなかった。これにはビスケの目じりも吊り上ったが、「次の機会が訪れる保証が、どこにあるというのだ!」続けられた言葉に、吊り上った目じりが元に戻った。

 

「確かに、君の言う通り。私は老体で、無理をすれば命を落とす。だが、ここで生き長らえてどうなる。はっきりいって、次の調査を行う頃にはもう、私はとっくに墓の下だ。そうでなくとも、もう私は独りで出歩けない身体になっているだろう」

「…………」

「もし君が私の立場なら、君は諦めるのか? 後悔を抱えて余生を過ごすことになるけど、死なないよりマシだと君は言ってのけるのか?」

「……それは、そうだけど、さ」

「図々しい話だとは分かっている。君には何の得もなく、不利益しか生じないのも分かっている。それでも、お願いする。どうか、どうか、どうか……どうか……」

 

 その言葉と共に、ボンドは頭を下げた。頭を下げるという動作だけで、相当な苦痛が生じているはずなのに、ボンドは深々と頭を下げた。痛みを堪えて震えている拳と……その姿に……ビスケは、ボンドの願いを無下に出来なかった。

 

 ……気持ちは、分かるのだ。

 

 ビスケとて、目指すモノがあったからハンターになった。夢を追い求めて苦労したこともあるし、骨折り損もあった。だから、ボンド博士が命を捨ててでも追い縋る気持ちは……よく、分かる。

 

 しかし、全ては命あっての物種だ。死んでしまえば、そこで終わり。どんなに小さい願いであっても、死ねば叶わない。夢は、生きている者の特権なのだ。

 

 だからこそ、ボンドを生かすことに尽力を注いだ。例え強引に連れ帰ったとしても、ビスケは己の選択が間違いであるとは思わないだろう。

 

 ――だが、後悔はなくとも納得も出来ないことだろう。そう、ビスケは思う。この場で命を繋いだとしても、その後はどうなる?

 

 生き長らえはするが、結局はそれだけだ。ボンドが若ければ発破も掛けるが、見ての通りボンドは御老体。悔いなく夢に破れたならまだしも、彼はまだ……諦めきれていない。

 

 どちらを選べばよいのだろうか。正直、ビスケは迷った。

 

 心情としては気の済むまでやらせてやりたいという気持ちはある。だが、護衛として雇われた以上、ボンド博士の命を守るのが最優先。本人が望んだこととはいえ、護衛中に死ねば今後の評価にも関わってくる。

 

 行けば確実な死が待っているが、戻ったところで待っているのは虚無の日々。一瞬に命を費やすか、間延びした余生を過ごさせるべきか。噛み締めた唇を開くことが出来ないまま、ビスケは迷い、迷って、そして。

 

「――いいんじゃない、命と引き換えに手に入れたい物があってもさ」

 

 その迷いを、それまで静観していた彼女が晴らした。ポツリと呟かれたその声は、雨音が跳ねまわるコンテナの中でも、不思議なぐらいに良く響いた。ハッと、振り返った二人が目にしたのは、寝転がったままの、相も変わらず赤ら顔の彼女であった。

 

 ……率直に、彼女はボンド博士を称賛していた。

 

 例え死ぬと分かっていても、それでもなお目指すモノがある。その、なんと素晴らしき事か。対して、己は何だ。『彼』として生きていた時は惰性のままに生き、訳も分からぬまま『伊吹萃香』の器を得て、今になった。

 

 比べるべくもない。彼女は、純粋にボンド博士を美しいと思った。

 

『彼』の部分ですら、ボンド博士が見せる覚悟に胸を打たれたのだ。そういった『人間だけが持つ強さ』に惹かれる彼女にとって、眼前の老人は大衆を魅了するアイドルにも等しい輝きに映った。

 

「爺さんは、懸けているんだよ。この先5年10年の寿命を全部、この一瞬に懸けている。もう、死を覚悟しているんだ。私は好きだよ、そういうやつ」

「…………」

「いいじゃないか、死んだって。この爺さんは、自ら選んだんだ。何をしたいのかは知らないけど、そうまでしたい何かがあるってことでしょ……うんうん、いいね、燃えてきたよ」

 

 むくりと身体を起こした彼女は、ぱきぱきと身体を鳴らす。次いで、大きく伸びをしてから大欠伸を零すと……ビスケに言った。

 

「さっきの酒の借りは、これでチャラ。さて、ビスケ……あんたはどうしたい?」

 

 ビスケは、しばしの間無言であった。けれども、その顔に浮かんでいた表情はどこか晴れ晴れとしたもので……何かを吹っ切るかのように、大きくため息を零すと。

 

「――雨合羽(あまがっぱ)と、保温用の……そうね、緩衝材に使われている綿でもいいわ。後、痛み止めと増血剤の点滴、各種ビタミン溶液の点滴をして、そうね……簡易だけどオムツも付けてもらうわよ」

 

 この先、まともに排泄すら出来ないだろうし。そう言って、ボンド博士の死を選んだのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 猛獣やら魔獣やらが跋扈する危険地区の中とはいえ、彼女がいればだいたいのやつは色々と察して離れて行く。しかし、そんな彼女であっても、天候そのものを変えることは出来ない。

 

 時刻は深夜を回り、雨は絶えず降り続けている。豪雨という程ではないが、雨具なしでは5分も居れば水浸しになるであろうぐらいの、水量。その中を、明かりで道を照らす彼女と、その後にボンドを背負ったビスケが進む。

 

 その手にはコンテナ内を照らしていた非常用ライトと、医療用キットから取り外した発電機がある。その光はコンテナ内にて使われていた時よりもはるかに明るかった。

 

 持ち手の部分が高熱となり手袋越しでも火傷する程であったが、彼女の掌を焼くには……温すぎる。天候は悪く、足元の状態も悪い。まともに舗装されていない自然の中を歩くうえで、この明かりは非常に役に立った。

 

 ……この明かりのせいで『魔獣』が逃げるのではないかという懸念はあるが、ボンドたち調査団が追っていた魔獣は、視力が非常に弱いらしい。蝙蝠のように、超音波を用いて位置を確認するらしく、光そのものは問題がないのだという。

 

 それならば大丈夫だと先へ進むと、辺りの景色が徐々に変わってくる。鬱蒼と生い茂る森を抜け、平原へ。そこは、テントなどが設置されていた野営地からは幾ばくか離れた場所であり、ボンドを含めた調査団(ビスケたち護衛も含む)が幾度となく足を踏み入れた場所であった。

 

 そこから、さらに歩くこと幾しばらく。夜の闇に出てから、かれこれ三時間強。後一、二時間もすれば、夜が明ける。ぬかるんだ地面を踏みしめながら歩く彼女とビスケの二人は、ボンドの昔語りを聞きながら、ボンドが示した地点へと歩みを進めていた。

 

 どうしてボンドが昔語りをしているのかといえば、単にボンドの意識を保つためだ。無言のままに時間が過ぎれば、人は嫌でも思考が内側へと向く。

 

 痛み止めを使用したとはいえ、痛みが完全に消えるわけではない。おそらく、ボンドの身を襲っている痛みは相当なもの。気力で何とか持ちこたえてはいるが、何時意識を失っても不思議ではない。

 

 そうなればもう、ボンドは二度と目を覚まさない。言い換えれば、一度でも意識を失えば、そこで彼の夢は途絶える。だから、ボンドは話した。己の半生を、思い出す限りを絞り出し、意識を保つために話し続けた。

 

 例えば、幼い頃に学者を目指した切っ掛け。例えば、両親が己にプレゼントしてくれた高額な図鑑の話。例えば、入試に落ちて1年間鬱々とした日々を送り、当時の彼女にもフラれたどん底の話。

 

 ボンドは、とにかく喋った。好きな食べ物の話から、好みの女性。初体験での失敗などの赤裸々な話から、実はこっそり行った悪事に至るまで、とにかく話した。そうしていると、少しばかり痛みが紛れる気がして……気づけば、自分から次々に話題をひり出しては口から出していた。

 

 そうして、話し続ける事、幾しばらく。

 

 ついに、彼女たちは『魔獣』の姿を捉えた。その時、「……はぇ~、すっごい」彼女は素直に呆気に取られた。護衛がてら事前に何度か拝見しているビスケと、見慣れているボンドは無反応であったが、彼女が驚くのも無理はなかった。

 

 一言でいえば、人の頭部を持つダチョウであった。

 

 まるで、首から上を人のそれをくっ付けたかのような外観。羽毛に覆われた身体は分厚く、全長は1m超。長い首から下はダチョウのそれと何ら変わりないそいつらは、彼女たちの出現に気付いた様子も無く……うろうろと歩き回っては、地面の水たまりを突いていた。

 

 何とも気色の悪い外見だ。魔獣と分類されるだけある。普段なら近寄りたくもないが、今回ばかりはコイツ等が目当て。「――で、どうすんの?」なので、彼女はボンドへと尋ねた。

 

「……私たちが調査していたのは、あの魔獣たちの住処だ。生態調査も、結局のところは住処を見付ける為に行っていたことだ」

「住処? 巣を見付けろってこと? まだ見つけていないの?」

 

 ビスケの言葉に、「ああ、だが、それが問題だ」痛みに喘ぎながらもボンドの視線は魔獣たちを見つめていた。

 

「元々、あの魔獣は人前はおろか、こうして生きている個体を目撃することすら稀なやつだ。幾度となくその生態について調査は行われたが……原形をとどめている死骸を見付けるだけでも、相当な日数を要していた」

「それで?」

「そういう隠れるのが上手いやつが表に出てくる理由は二つ。繁殖の為と、住処を追われたかの二つ。後者なら傷ついた個体がいるはずだが、それがいないとなると……おそらくは繁殖の為だろう」

 

 ――見てみなさい。

 

 その言葉と共に、ボンドは魔獣を指し示す。促されるがままその魔獣を見やった彼女たちは……「――あっ」ほぼ同時に、呆気に取られた。

 

 何故かといえば、消えたのだ。二人の視線の先にいた魔獣が、突然、前触れもなく、影も形も残さずに消えたのだ。彼女は当然の事、ビスケも思わず注意深く凝視したが……その痕跡すら、見つけられなかった。

 

 ……これこそが、専門家であるボンドたちの調査が難航した理由であった。

 

 突然、前触れもなく消えるのだ。そして、消えた後には痕跡一つ残らない。当然、肉眼による確認や、直接的な接触も不可能。サーモグラフィによる熱源探知はおろか、音波探知によるレーダーでも分からない。文字通り、消えたとしか言い表しようがなかった。

 

 しかも、この『消える』という現象。昼間は起きず、夜にだけ見られる現象なのである。その原理は分からず、何故消えるのか、その目的が何なのか、調査団は未だ分かっていなかった。

 

 というのも、発信器を取り付けても姿が消えた瞬間に信号が途絶えてしまうのだ。加えて、信号が途絶える(つまり、消える)場所には規則性はなく、出現する場所はランダム。糞の位置から探ろうにも、これでは見つけることは不可能。

 

 なるほど、『特定の時期にしか姿を見せない』とされるわけだ。瞬間的に別空間へと移動しているという仮説が、一時期は冗談抜きで信じられかけたことがあるぐらいで、ボンドが今しかチャンスがないと断言するだけはあった。

 

 ……これには、持っているライトを向けながら、彼女は何度も目を瞬かせた。彼女の動体視力を持ってしても、どこへ行ったのかが分からない。その気になれば飛んでくる弾丸を掴むことも出来る彼女にとって、それは新鮮な驚きでもあった……だが、しかし。

 

「――『念』だわさ。あいつら、念を習得しているわよ」

 

 この場において、ビスケだけは。他の二人とは異なる方向性の驚愕を見せていた。「……あん?」ポツリと呟かれたその言葉に彼女は振り返り、背負われているボンドはビスケを見やった。

 

 ……二人の視線を受けて、しまった、とビスケは顔色を変えた。

 

『念』とは、言うなれば生物が持つ超常的な力のこと。習得するには(常人ならば命を落とす)厳しい修行と先天的な素質が必要だが、その力は絶大。それ故に、『念』は表世界からは秘匿され、ごく一部の者だけが知り得ている代物であった。

 

「……言うなれば、超能力みたいなものよ」

 

 けれども、この場において知らないフリをしても致し方ない。まあ、知ったところでどうというわけではないが……そう判断したビスケは『念』については詳細を避けつつも、魔獣が念を使ったということを説明した。

 

 念能力を習得している者は、大なり小なり他人が念を習得しているかどうかを察知することが出来る。だから、ビスケは消えた魔獣だけでなく、その周辺にいる他の魔獣も念を習得していることを察知していた。

 

 ――ビスケ曰く、動物が念を使う実例は過去にもあった、らしい。

 

 しかし、動物自身はそれが念であることはおろか、それがどういうものなのかすら理解していなかった。そのほとんどは過度のストレスから寿命を迎える前に死亡しており、辛うじて長生きした個体も己の能力に生涯怯えていたらしいとビスケは語った。

 

 けれども――あの魔獣は違う。

 

 おそらく、あの魔獣たちは生まれつき共通する念能力を習得している。それがどのような能力なのかは分からないが、何十年の月日を掛けても住処が見つからないのは、その能力のせいだろうとビスケは語った。

 

「……にわかには信じ難い話だが、君が有るというのなら、有るのだろう。それで、その念とやらを解析して、魔獣が何処にいるのか……それは分かるのか?」

「残念だけど、分からないわ。念っていうのはね、そう単純なものじゃないのよ。それこそ、人の数だけ異なる能力があるぐらいなんだわさ」

 

 苦痛と驚愕に脂汗を滲ませているボンドの質問を、ビスケは一言で切って捨てた。

 

「姿が消えた辺り、おそらくは転移系の能力だとは推測出来るけど……それだけだわさ」

「転移……どこからどこまでの範囲の見当は、付けられるか?」

「無理だわさ。特殊な空間に逃げ込むタイプの転移系なら尚更。まず、見つけられないわよ」

 

 ビスケの断言は、本当である。念能力というのは非常に奥が深く、また多彩で、時には物理法則すら凌駕する。数は少ないが、特殊な空間を作り出すことを可能とする念能力者まで存在するのだ。

 

 そして、ビスケの経験上、そういった能力を使用する場合は、中に入るには幾つかのルールが課せられている場合が多く、そのほとんどは『術者の許可』が大前提としたルールであった。

 

 せめて、物理的に特定の場所へ移動するタイプの能力なら可能性はある。少なくとも、術者の許可無しでは絶対に入れないよりも、場所さえ見付ければ入ることが出来る方が、まだ可能性はあるからだ。

 

 ……だが、それはあくまで、可能性があるというだけのこと。

 

 0%が、0.00……1%になった程度のこと。さすがに星の裏側とまではいかないが、ボンドが存命しているうちに見つけ出すのは……はっきりいって不可能であった。

 

 

 

(……小山の半ばに地下深くまで続く洞窟があるんだけど……あれって、何の洞窟かな?)

 

 

 

 ただし、それは人間の力では……が、前提の話であって。どうしたもんかなあ、と小首を傾げる彼女の前では、全ての前提は崩れ去るのであった。

 

 どうしようもない現実に打ちひしがれているビスケとボンドを尻目に、彼女は見つけていた。この地点より、さらに北へ2kmほど進んだ先。彼女の目は、そこにある小山を捉えていた。

 

 ……実は彼女、あーだこーだと話しこんでいる二人を他所に、魔獣が姿を消した直後から、『密と疎を操る程度の能力』を使って己が身体の一部を霧状に分散させ、周辺一帯を探し回っていたのである。

 

 彼女は、念能力という力は使えない。また、そういった知識も皆無だ。故に、彼女は難しいことは考えない。手掛かりがどうとか、生態がどうのとかも考えない。

 

 見つからないのであれば、見つかるまで探せばいい。人手が足らないのであれば、自らを分ければいい。目が届かないのであれば、目を広げればいい。結局の所、彼女にとってはその程度の話でしかなかった。

 

(あ~……いるね、似たようなやつ。ということは、やっぱりあの中にいるってわけか)

 

 一見するばかりでは、夜の闇にひっそりと隠れているその小山は、何の変哲もない小山であった。

 

 高さにすれば数百メートルといったところで、雑草やら小さい木々が伸びているだけ。よほど注意を払っていなければ、何事もなく見過ごされている程度の、小さい山だ。

 

 だが、他の者には分からなかったが……今、その山は淡い霧によって包み込まれている。当然、自然発生した霧ではない。その正体は、彼女の目であり耳でもある、常人では目視することすら叶わない微小サイズにまで分散させた、彼女自身であった。

 

 

 

 

 

 

 ……彼女に案内されるがまま、歩くこと幾しばらく。彼女が見つけたという入口にビスケ達が到着した頃には、朝まで続くかと思われていた雨も止んでいた。

 

 ここだよ、と彼女が示したのは、何の変哲もない土の壁であった。

 

 ちょうど、木々の根と岩とが複雑に絡み合うことで出来たスポット。山の頂より滴り落ちてくる水滴が、その壁に伝って浸みこんでいるのが見て取れた。

 

 ……外から見る限りでは、本当にただの土砂の壁だ。

 

 臭いはおろか、質感すら本物同然。剥き出しになった壁から飛び出る岩石にはコケが広がっており、相当な年月を想像させた……そして。

 

「――凄いわね。外からでは『凝』を持ってしても確認出来ないなんて、そりゃあ何十年掛かっても見つけられないわけだわさ」

 

 止まっていた時間が、動き出した。促されるがまま壁へと進んだ二人の身体は、壁にぶつかることなくすり抜けて……内部へと入り込んだのであった。

 

 そう、外に見えていた土壁は擬態。つまり、偽物の壁だ。年月を感じさせるコケが生した岩も、滴る水滴も、全てが偽物。

 

 見付けた彼女ですら改めて、やっぱすげぇと思ったぐらいなのだ。念を知らないボンドにとっては、一時的に痛みを忘れてしまう程の驚愕であった。

 

 何せ、洞窟の中はボンドが知る洞窟とは根本から異なっていた。

 

 まず、外部から雨水や土砂が入って来ない。全員が何事もなくすり抜けたはずなのに、この二つだけは見えない壁に阻まれているかのようにそこで止まってしまう。

 

 また、音もそうだ。雨が止んでいたとはいえ、遮るものが何もない小山の半ば。通り過ぎる夜風は相当に煩く、声を張り上げなければまともに会話が出来ないほどなのだが……洞窟の中は、耳鳴りがするほどに静まり返っている。

 

 いったい、どういう形で『念』が作用してこのようになっているのか。他にも数え上げたらキリがないが、強いて新たに挙げるとすれば……明るい、この一言に尽きた。

 

 洞窟の内部そのものが、淡く光っているのだ。それはまるで土の中に蛍が埋め込まれているかのようで、ともすれば幻想的と称されてもおかしくない光景だ。

 

 ぽっかりと開かれた空洞は、緩やかな傾斜を伴って下方へと続いている。けれども、道具なしで降りられないほど厳しくはない。視線を下げれば、所々に踏み固められた段差が見て取れた。

 

 おそらく、長い年月を掛けて魔獣が行き交いしていたせいだろう。階段状にも見て取れる段差は足の置き場にはちょうどよく、雨で濡れた靴でも滑らずに下まで降りられそうであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、どれほど歩いたのか。

 

 明かりを片手に先導する彼女はもちろんのこと、その後ろを付いてくるビスケも、背負われたボンドも時計を見ていなかったので、正確な時間は分からなかった。

 

 けれども、感覚としては十数分下りっぱなしなのは確かで。外の音が一切届かない洞窟内部には彼女たちの足音が僅かばかり反響し、どこまでも変わらない景色が続いていた。

 

「……君たちは、どうして調査団があそこまで頑なに調査を続行しようとしたか、その理由が分かるかね?」

 

 その中で、ぽつり、と。沈黙を破ったのは、脂汗を滲ませたボンドであった。

 

 ……言われてみれば、知らないなあ。

 

 振り返った彼女の視線を前に、「まるで、自分だけが違うかのような言い草ね」ビスケも気になっていたのか、続きを話せと言わんばかりに促せば、ボンドはしばし息を整えた後……語り出した。

 

「言ってしまえば、金さ。あの魔獣は、莫大な金を生み出すのだよ」

「お世辞にも可愛いとは思えない外見だけど?」

「価値があるのは外見ではないよ。調査団が求めていたのは、あの魔獣が生み出す……とある宝石さ」

「――宝石?」

 

 宝石、その言葉にビスケが反応した。ストーン・ハンターの血が騒いだのだろう。しかし、ビスケが彼に問い質すことは出来なかった。何故なら、「あ、そろそろ一番奥だよ」それをする前に、行き止まりへと到着したビスケとボンドは……眼前の光景に言葉を失くしたからであった。

 

 一言でいえば、そこに広がっていたのは……七色に輝く世界であった。

 

 広さにして、だいたい大き目の体育館といったところだろうか。高さは十数メートル近くあり、壁際には例の魔獣が連なるようにして座り込み、こちらを見つめている。

 

 警戒心が薄いのか、それとも敵と判断されていないのか。あるいはまた別の理由なのかは分からないが、襲ってくる様子はない。だが、問題なのはそこではなかった。

 

 お世辞にも気色悪いとしか言い表しようがない魔獣の背後、足元、頭上……広場全てを覆っている、七色のクリスタル。洞窟そのものが発している淡い光が重なることで、それらはまるでミラーボールのように広場全体を輝かせていた。

 

 呆然と……荘厳かつ幻想的としか言い表しようがない光景を前に、ビスケは知らず知らずの内にボンドを支えている手を外していた。けれども、床に尻を打ち付けたボンドは悲鳴一つ上げなかった。彼もまた、いや、ビスケ以上に言葉を失くしていたからであった。

 

 驚愕のあまり、痛みが吹っ飛んでいるのだろう。へこへこと四つん這いのまま、床を這って進む。そうして、床に落ちているクリスタルの欠片を幾つか拾い……直後、震えに震え切ったボンドの溜め息が零れた。

 

「ああ……『エレメンタル・ジュエリー』だ」

「――『エレメンタル・ジュエリー』ですって!? ちょ、ちょと、ちょっと寄越すんだわさ!」

 

 対して、ボンドとは別の理由で震えていたビスケは、ボンドの呟いた言葉に目を剥いた。相手が依頼主であることも忘れ、ぽろぽろと涙を零しているボンドの手から欠片を一つ奪い取って、目を凝らし……思わず、といった調子で声を震わせた。

 

「ほ……本物だわさ。本物の、エレメンタル・ジュエリーだわさ……!」

「何それ、高いの?」

 

 酒以外に関して(酒の名前にも興味はないけど)は欠片も興味がない彼女が何気なく尋ねれば、「値段の問題じゃないわさ!」ビスケは鼻息荒く彼女を怒鳴りつけた。平静であったなら顔色の一つは青ざめるところだが、まあ、今のビスケには仕方ないことであった。

 

 というのも、この『エレメンタル・ジュエリー』。値段自体も相当な代物だが、何よりもこの宝石がどのような経緯で形成され、どのような形で誕生したのかが全くの謎に包まれた物質だったからだ。

 

 例えるなら、様々な宝石が混ざり合って出来た(ぎょく)である。

 

 ダイヤ、サファイア、ルビー、エメラルド、ゴールド、シルバー、おおよそジュエリーとして加工されたり転用されたりする物質全てを液状にした後、それを固めて作り上げたかのようだと言われれば、想像しやすいだろう。

 

 鉛や錫といった繋ぎは一つもない。そこには不純物一つなく、混ざり合う成分の違いによって生まれる異なる屈折率によって、まるで宝石そのものが七色に輝いて見える。

 

 故に、エレメンタル・ジュエリー。ビスケが興奮するのも当然であり、それは世界三大宝石に数えられる、至高といっても過言ではない評価を得ている宝石なのであった。

 

(……なるほど、これが狙いか。道理で、あそこまで躍起になって調査を続行しようとするわけだわさ)

 

 大きく息をついて気を落ち着けたビスケは、そうしてからようやく、調査団の真の目的に思い至った。

 

(……幻影旅団のやつらはそれを横から掻っ攫おうとしていたってわけか。二本角を狙ったのは……もしかすると、あいつら。魔獣が『念』を使っていることに気付いて、自分たちで見付けようとしたのかしら?)

 

 と、同時に、幻影旅団がどうしてこんな辺鄙(へんぴ)な場所まで来たのか……その狙いも分かった。

 

 エレメンタル・ジュエリー。たかが宝石と言われればそれまでだが、その価値は一個で数億……いや、数十億にも達する。

 

 宝石そのものに価値があるが、何よりもこの宝石の価値を引き上げているのは、この宝石の総数が……ビスケが記憶している限りでは、現存しているその数、わずか11個のみ。

 

 現在まで、どのような経緯からその宝石が市場に出て来たのかは誰も分からず、現在の技術では人工的に作り出すことも出来ず、天然物以外は存在しない。それ故に、その価値は絶大。

 

 名のある富豪の大半はこの宝石をステータスの一つとして探しており、金に糸目を付けない者ばかり。1個で数億なら、10個売れば数十億。小国なら……数年分の予算を賄う事が出来る金額だ。独占すれば、それこそ億万長者として名を馳せることだって、難しくはない。

 

 加えて、この洞窟内にあるエレメンタル・ジュエリーの量は半端ではない。掘削して回収し、その幾つかが破損したとしても……おそらく、数千……いや、数兆にも達する、莫大な利益を生み出すだろう。

 

(ここを手にすれば、宝石市場の独占も夢ではない……だが、それは……)

 

 思わず、ビスケは目じりを吊り上げる。

 

 そうなれば待っているのは……宝石市場の確実な価格崩壊だ。ストーン・ハンターであるビスケには、それがすぐに想像出来た。宝石の価値を知るからこそ、その可能性をビスケは無視できなかった……と。

 

 ――うっ、ご、ごほっ。

 

 不意に、涙を流して座り込んでいたボンドが血を吐いた。「ボンドさん!?」我に返ったビスケが急いで状態を確認しようとするが、「いや、気が抜けただけだよ」当のボンドが止めると、そのままビスケの手を借りて……静かに、横になった。

 

 ……ボンドは、何も言わなかった。

 

 薄らと漂う、血の臭い。顔色は先ほどよりも目に見えて悪く、呼吸も不規則だ。額に浮かぶ汗は大粒で、痛みにしかめた唇から鮮血が滲み出ている。今にも死んでしまいそう……だが、不思議とボンドの顔には笑みが浮かんでいた。

 

「……妻と息子に、約束していたんだ」

 

 ポツリと零れた、呟き。ため息交じりのそれはか細いものであったが、静まり返ったここではよく響いた。

 

「研究者としては優秀でも、夫としても父としても不甲斐なかった。何時か見つけ出して送ろうと思っていたが……ふふ、気付けば私が、私だけがこうして残された」

「妻に似て気が利く聡明なあいつは、流行病であっさり逝ってしまった。妻はあいつの死を嘆き、私をなじり、最後に私に謝って……病の果てに逝ってしまった」

「……どうして、私だけが残されたのだろうなあ」

「社交性があって、人から好かれたあいつは皆の人気者だった。料理が上手く、近所でも評判だった妻は子供たちから頼りにされていた。私は、そんな妻と息子を持てて幸せだった」

「……本当は、こんなものなんぞどうでもよかった」

「ただ、これを探している間だけは二人の顔を忘れられた。妻と息子の笑顔と怒った顔と呆れた顔を、忘れられた。二人が残してくれた約束に縋っている間は……私は、私として振る舞うことが出来た」

 

 ――でも、これで終わりだ。

 

 その呟きと共に、ボンドは握り締めた破片を眼前に持ってくる。けれども、その瞳は何も映していなかった。焦点の合わぬ視線は欠片の向こうへと……彼方を揺蕩う思い出へと向けられていた。

 

 ……死ぬ。この男は、この老人は、もう間もなく息を引き取る。

 

 徐々に静かになりゆくボンドの姿を前にして、その事実をビスケは当然の事と、彼女も理解していた。だが、ビスケも彼女も、その事を嘆きはしなかった。そうなると分かっていたからだ。

 

 この男は、文字通り最後の命を振り絞ったのだ。燃えカス寸前だった蝋燭の、最後のともし火。大人しくしていれば後10年は続いたかもしれない余生の全てを、この一瞬に費やした。

 

 誰が決めたのではない。彼が、自らの意思でそうしたのだ。だから、ビスケも彼女も、そう悲しむことはなかった。ただ、死に逝く者の唇をハンカチで拭う程度のことをビスケはしてやっ――っ!?

 

 

 

 それは、不意の襲撃であった。

 

 

 

 おそらく、ビスケ程の達人でなければ負傷していたぐらいの、意識の隙を突いた攻撃。弾丸が如き速度で飛んできた針を飛んで避けたビスケは、難なく着地すると同時に、素早く構えた。

 

 ――途端、ぐぎゃあ、と。

 

 人のモノとは思えない悲鳴が、背後より上がる。けれども、ビスケは振り返らなかった。振り返らなくても、分かるのだ。放たれた攻撃は己だけでなく、後ろにいた魔獣たちにも放たれたものだということが、だ。

 

 故に、ビスケは油断なく……眼前にて佇む三人の男を見やった。

 

 一人は……銀髪の、初老に差し掛かっている年頃の男だ。体格は良く(筋肉隆々となったビスケよりは小さいが)、衣服の上からでも分かる程に筋肉が発達しているのが見て取れた。

 

 一人は……黒髪の、青年というよりは少年と称しても良い年頃の男であった。銀髪の男よりも二回りぐらい小柄ではあるが、直立しているその姿には一切のブレがなく、ただの少年でないのは見て取れた。

 

 そして、最後の一人は……白髪の老人であった。だが、こいつも只者ではない。だぼっとした出で立ちの胸には、『生涯現役』の四文字。三人の中では一番の小柄でありながら、その眼光は鋭かった。

 

「あれ、避けた。意外とやるね、君」

「……あいにく、不意を突かれるほど腑抜けた覚えはないわさ」

 

 小首を傾げながらポツリと呟いた少年を、ビスケは睨みつけた。だが、それは少年だけではない。ビスケの視線は、その両隣にて佇む二人の男へも向けられていた。

 

「……ゾルディックの者が、こんな場所に何の用?」

「ほう、俺たちのことを知っているのか?」

「ハンターやってりゃあ、自ずとね。それにあんたら、顔も身元も全く隠していないでしょ」

 

 銀髪の男の言葉に、ビスケは吐き捨てるように言い返した。

 

 そう、ビスケの言葉は真実であった。ハンター……いや、ハンターだけではない。こういった荒事に就いていれば、一度は耳にする名称。伝説の暗殺一家、『ゾルディック』。

 

 依頼金こそ相当なものだが、達成率は100%と言われている。金さえ払えば国家当主の暗殺さえやってのけるという、凄腕の殺し屋一家。その顔写真を目にしたことがあったビスケは、こぉ、と闘気を漲らせながら三人を順々に見やった。

 

 白髪の老人……先代当主、ゼノ・ゾルディック。

 銀髪の男……現当主、シルバ・ゾルディック。

 黒髪の少年……長兄、イルミ・ゾルディック。

 

 一人頼むだけでも億単位の金が必要だというのに、それが3人分。「揃いも揃ってよくもまあ……私を殺しに来たのかしら?」はてさて、誰の恨みが原因かしらとビスケが思っていると、「少し違うかな」長兄のイルミが首を横に振った。

 

「俺たちの狙いは、君たち2人。まあ、悪く思わないでね。せめて痛くないように殺してあげるから」

 

 そういうと、イルミは前に出た。いつの間にか、その手には長さ十センチ程度の針が数本握られている。それを見て、ビスケは大きく息を吐くと……ゆらりと、構えた。

 

「――はっ、ひよっ子風情が中々大きく出たわね。見た所相当な腕前みたいだけど、まだまだ未熟ね。そういうデカい口は、後ろの保護者無しで掛かって来られるようになってから吐きなさい」

「挑発のつもり? それなら無駄だよ。これはビジネスだからね。俺もそうだけど、仕事の上で効率的に殺せるのなら、いくらでも手を――ん?」

 

 そこまで話した辺りで、イルミは足を止めた。フェイント……ではない。「どうしたの?」振り返ったイルミは……己が腕を掴んで止めている、シルバ(父親)を見やった。

 

 けれども、シルバは何も答えなかった。ただ、黙ってビスケとイルミを見やり、静かに首を横に振る。「――親父、一つ聞きたい」次いで、代わりにと言わんばかりに、隣に立つ己の父……つまり、ゼノへと視線を向けた。

 

「アレが……子供の頃に話してくれた、『絶対に手を出してはならないやつ』か?」

「……そうじゃ。やれやれ、あの姿をまた目にする日が来ようとな。かれこれ数十年も前のことじゃというのに」

 

 そう、ゼノがため息を零すと、一歩前に――出ようとした、その瞬間。

 

 

 

 ――どうして、待たなかった?

 

 

 

 その声が、呟かれた彼女の、その声が、その足を、その場に縫い止めた。そして、その場にいる全員の視線が、絶命しているボンドを見下ろしたままでいる彼女へと向けられた。それは、油断なく構えていたビスケも同様で、微動だすらしない彼女に、思わず目を瞬かせていた。

 

「――答えなよ、そこのやつ」

 

 だが、当の彼女はそんなビスケ達の視線に気づいているのか、いないのか。緩やかに上げられた顔は、何時もの赤ら顔のままで。「あ、俺のこと?」視線を向けられたイルミは、小首を傾げながら答えた。

 

「何が言いたいのか分からないけど、どういうこと?」

「見て、分からないかい?」

 

 ちらりと、彼女は横たわっているボンドを見やる。その胸元には三本の針が、根元まで刺さっている。滲み出た出血が、巻きつけた包帯を通り越しているのが雨具越しに分かる。素人の目から見ても、致命傷であろうことが伺えた。

 

 しかし、致命傷とはいっても、ボンドは死ぬ寸前であった。例えこの針が刺さらなかったとしても、ものの数分で命を落としていただろう。だが……彼女にとって、そこが問題なのではなかった。

 

「何で、命を全うしようとした爺さんまで狙ったんだい? あんたの腕前なら、ビスケだけを狙えたはずだろ?」

「何でって、それは……」 

 

 しばしの間、イルミは彼女と、その傍で横たわっているボンドの亡骸を交互に見やった。そして、ゼノとシルバへと振り返り……また、小首を傾げると、心底不思議そうにイルミは答えた。

 

「理由なんてないよ」

「へえ、ないのかい?」

「強いて理由を挙げるとするなら、傍にいたから、ついでに狙っただけかな。何が知りたいのかは知らないけど、これで満足?」

「……ああ、分かった」

 

 一つ、彼女はため息を零した。がりがりと、赤ら顔のまま頭を掻いた後。

 

「それじゃあ――遠慮はいらないね」

 

 そう呟いたと同時に、地面が割れた。鬼の脚力を持って踏み込まれることで生まれた初速は、イルミの動体視力を優に上回った。「――っ!?」反射的に後方へと飛び退いたイルミの反射神経は称賛に価するものであったが……彼女の前では、遅いの一言に尽きた。

 

 おりゃあ、という軽い調子と共に無造作に繰り出された、拳の一撃。音速にも達するその一撃を、イルミは寸での所でガードした。だが、戦車の砲弾にも等しいその拳圧は、鍛え抜いたイルミの両腕を破壊してもなお、身体をくの字にへし曲げるほどの威力であった。

 

 ――どぐぉん。文字にすれば、そんな感じだろうか。

 

 形容し難い打突音と共にイルミの身体は真横に飛んで、壁にぶち当たった。様々な鉱石によって覆われていた洞窟の壁にヒビが入る。胃液と鮮血が入り混じる吐瀉物が、飛び散る。ずるり、と、反動によって、地面に広がった己の吐瀉物へと倒れ……る、前に。

 

 それよりも速く、彼女の小さな手がイルミの後頭部を掴んでいた。

 

 そして、既に意識を失っているイルミは、何の抵抗も出来ないまま……(伊吹萃香)の腕力をもって、顔面を大地に叩きつけられた。ばきん、と地面が陥没し、イルミはそのまま大の字となって……ぱたりと、動きを止めた。

 

 ……瞬きすれば見逃してしまう程の、一瞬の出来事であった。

 

 あまりに速く、あまりに呆気なく終わった戦いに、手を貸す暇もなかったビスケは思わず呆然としていた。そんなビスケを他所に、彼女はこきこきと首を鳴らすと……手を、高く掲げた。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そのまま、彼女は手を掲げたまま動かなかった。

 

 攻撃をするわけでもなければ、『念』を使っている(彼女は『念』を知らないので、使えないのだが)わけでもない。傍目からみれば意図の読めない行動に、ビスケも、ゼノたち親子も、訝しんだ様子で彼女を見つめていた……と。

 

 ……どん……どん……どん、と。

 

 外へと繋がっている唯一の通路から、異音が聞こえてくる。固い何かが、壁やら何やらにぶつかって、跳ねている音。

 

 彼女を除いた誰もがその異音に目をやった……その、直後。黒い影が通路から飛び出してきて――あっという間もなく、彼女の手がそいつを掴んだ。

 

「――ぐっ!」

 

 黒い影の正体は、人間の男であった。もっと正確に言い直すのであれば、彼女を襲った黒髪の男。あの時とは恰好が異なり、髪もオールバックにしているその男は、己の足を掴む彼女の腕を蹴りつけていた。

 

 だが、その程度では彼女の腕はビクともしない。「……ふーん、あんたらに依頼したやつは、お前か」加えて、『疎』と『密』を操る程度の能力によって絶えず引き寄せられている以上……男が、彼女の拘束から逃れるのは不可能であった。

 

「まあ、いいや――それじゃあ、ばいばい」

 

 しばし、男の様子を観察していた彼女は……緩やかな動きで、掴んだ男ごと腕を振り被った。何をされるのかに気付いた男は、慌てて何かをしようとしたが……もう、遅かった。

 

 轟音と共に振り下ろされた男の身体が、地面へと叩きつけられた。その威力、イルミに行ったものの比ではない。あまりの威力に、突風が洞窟内を駆け巡る。それによって、男の身体はミンチよりも酷い有様となって周囲に飛び散った。

 

 その惨状、爆散という言葉以外に言い表しようがなかった。彼女の角に、頬に、胸元に、鎖に、足に、男を構成していたありとあらゆる有機物が付着し、辺りには血飛沫が舞った。

 

「――ん?」

 

 はず、だったのだが。思わず目を瞬かせた彼女は……男を掴んでいたはずの手を、見やった。

 

 ……鮮血が、消えたのだ。いや、鮮血だけではない。

 

 四方八方へと飛び散った男の臓物、骨、衣服といったもの全てが、煙のように溶けて消えた。まるで、始めから存在していなかったかのように跡形すらなくなったのを見て……ああ、と彼女は納得した。

 

 ――これはアレだ、偽物……見えない、例のやつだ。

 

 前にも似たようなことがあったから、彼女は特に驚かなかった。原理は分からないが、あの男はそういうことが出来るやつだった。そう、己を納得させた彼女は……おもむろに、ゼノとシルバを見やった。

 

 未だ動きを見せない二人を警戒した……というわけではない。ただ、『次はお前たちだ』というだけの意味合いでしかなく、むしろ、『さっさと掛かって来い』という意味合いが大きい……まあ、誘いであった。

 

 ぶっちゃけてしまえば、今の彼女は内心……かなり腹を立てていた。

 

 だがそれは、己が攻撃されたからではない。彼女の怒りの原因は、冥途に旅立とうとしていたボンドへの、攻撃。今死ぬか、一分後に死ぬかの違いでしかないが、彼女にとってあの一瞬は……天と地にも等しい隔たりがあったのだ。

 

 言うなれば、そう……穢されたと彼女は思った。敬意を抱いたボンドの最後に泥を塗られたと、思った。

 

 ボンドはあの時、使命を果たしたのだ。経緯は色々あったとしても、彼は天寿を全うした。己に課した使命を生涯かけて追いかけ、己の命を燃やしながら痛みに耐え、最後に……夢を掴んだ。

 

 そこで、終わらせるべきだったのだ。例えその夢を奪い取るのだとしても、ボンドはすぐに死ぬ。死した彼から奪うのであれば、彼女は何もしなかった。それもまた仕方なしと、彼女はあえてその夢を守ろうとはしなかっただろう。

 

 だが、生きている彼から奪うのであれば、話は変わる。

 

 あと数分。たったあと数分待てば、ボンドは満足感を抱いて黄泉へと旅立てるのだ。そのたった数分を、どうして待たない。何故、絶望を与えてから死なせる。

 

 敬意を抱いていたからこそ、彼女は怒った。『彼』もそうだが、『伊吹萃香』の部分も、それを許すことは出来なかった。故に、彼女は怒りのままに拳を振るった。

 

 だから、彼女はシルバとゼノの二人に向き直った。イルミのことに怒りを見せて向かってくるのであれば、全力を持って迎え撃つ、と。だが……二人は、黙って首を横に振った。それを見て、おや、と彼女は目を瞬かせた。

 

「いいのかい? 運が良ければ生き残る程度の力加減にはしたつもりだけど……それでも、あんたらの息子を痛めつけたんだよ?」

「一度は痛い目を見た方が、こいつには良い薬じゃ。腕前は申し分なしじゃが、どうも無駄に殺しを楽しむ節があるからのう」

「それって、あんたらの教育が悪いからじゃないかい?」

「あいにく、ワシらは暗殺者としての心構えと生き方は教えるが、イルミのあれは生来のものじゃ。ワシらがどうこうしてそうなったわけではないわい」

 

 ふう、とゼノはため息を零した。

 

「お主、ワシらを殺人快楽者か何かと勘違いしとらんか? ワシらにとって殺しはビジネス。ワシにしたって、ターゲット以外は殺さない主義じゃ」

「へえ……でも、そのターゲットってのは私なんでしょ? その私を放って、どこへ行こうというのさ」

 

 ずいっと、彼女は一歩前に出る。それを後ろ目で見やったゼノは、やれやれと言わんばかりに大きなため息を吐いた。

 

「正当な契約を経たのであれば、ワシも命を賭したじゃろう。しかし、此度の仕事に関しては、明らかな契約違反が見られたのでのう。もう、ワシらにとってお主はターゲットではない」

「契約、違反?」

「まあ、そういうわけじゃ。じゃあの、『二本角』。出来ることなら、もう三度目はあってほしくないのう」

 

 その言葉を言い終えると、ゼノは今度こそ彼女に背を向け、歩き出した。「ふーん……で、父親のあんたも同意見なの?」ゼノからシルバへと視線を向ければ、「ほぼ、同意見だ」シルバは顔色一つ変えずにそう言い切ると、僅かに痙攣しているイルミを無造作に肩に担ぎ……ゼノに続いた。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………後に残されたのは、彼女と、ビスケと、亡骸となったボンド。そして、イルミによって仕留められた魔獣の亡骸と、それらを照らすエレメンタル・ジュエリーの輝きだけであった。

 

「……で、どうする?」

 

 しばしの間、沈黙が続いた後。それまで佇んでいたビスケが、ため息と共に彼女に尋ねてきた。「どうするって、何が?」振り返った彼女の問い掛けに、「どうもこうもないわさ」ビスケはぐるりと肩を回し、もう一度ため息を零した。

 

「幻影旅団……まだ諦めてなければ、ここに来るかもしれないわよ」

「んー、好きにすればいいよ。手段は色々あれど、一度は私の手から逃げたんだ。それで、諸々の件はチャラさ……んで、そっちは?」

「依頼人が死亡した以上、もう私にすることはないわさ。せいぜい、私がやれるのは、この御遺体を埋葬してやるぐらいだわさ」

 

 ちらりと、ボンドの亡骸を見やったビスケに釣られて、彼女も視線を下ろした。確かに、このまま放っておくわけにもいかない。いくら本人が望んだこととはいえ、野ざらしにするのは……だ。

 

「――その役目、私に譲ってくれないかい?」

「へ? まあ、あんたがやりたいなら私は構わないけど……でも、この人の口ぶりから察するに、身内はいないかもしれないわよ」

「構わないさ。私は運び屋だもの。この爺さんも、こんな場所で朽ち果てるより、奥さんと息子さんの傍で眠る方が良いさ」

 

 にへら、と笑う彼女の顔は相変わらず酒気が漂っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そんな彼女たちがいる洞窟より、遠く離れた場所。保護区を出て、少しばかり車を走らせたその場所にて。

 

「――間一髪だったみたいだな、団長」

「ああ……だが、おかげでしばらくはまともに念が使えなくなったがな」

「時間は掛かるけど、いずれ回復するんだし、降って湧いたバカンスだと思って遊んでいればいいんじゃないかな?」

「それにしても、マチ。突然、ヤバいだの逃げろだの叫び出したから、どうしたのかと思ったぞ」

「仕方ないだろ。気づいたら、そう叫んでいたんだから……私にだって、なんでそうしたのかは分からないよ」

「まあ、結果的には団長の命が助かったんだし、いいじゃねえか」

「そういうことだ……だが、相手にしなくて正解だったな。偽物とはいえ、俺の分身をあそこまで容易く葬られるのは……少し、ショックだ」

「ウボォーのパンチでも無傷な辺り、まともにやり合うのは避けた方が無難だな。少なくとも、俺のパンチじゃああいつは殺せねえ」

「ウボォーが無理なら、全員無理ね。ところで団長、お宝どうするね? 今なら、あいつもいなくなてると思うね」

「そうだぜ団長。ここまできて骨折り損とか、盗賊の名折れになっちまうぜ」

「あたしは反対。正直、もうあいつとは関わり合いたくない」

「私も、かな。ウボォーで駄目なら、私も駄目だし……今回は諦めた方がいいと思う」

「……今回は撤退しよう。おそらく、あいつが俺たちを逃がしたのは、ただの気紛れか、あるいは、あいつなりの基準をクリアしたから見逃した……と考えて間違いないだろう」

「つまり、一度だけってこと?」

「そうだ。おそらく、二度目はない。今度まともに遭遇したら、あいつは手加減なんてせずに来るだろう。残念だが、今回は運が悪かったと思って諦めるべきだな」

「ああ、チクショウ。団長がそうまで言うんじゃあ、手を出さない方が無難か……あ~、もったいねえなあ~」

 

 そんな会話が成されているなんて……彼女には知る由も無いことであった。

 

 

 

 

 

 




彼女をキレさせたら大したもんですよ(長州力)

ガチでキレさせたら、その時点でデスノートにサインした状態になるSCPみたいな存在。私が彼女を知っていたら、もう関わらない方が一番って思います


あ、そうだ(唐突)
ちょっと今、東方の方を書いているので続きが遅くなります
その間に皆もこういう憑依系を書いてくれよな~


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第七話:夢にひた走る者たちと、幸運な鬼娘

もう、富樫は漫画を描く気がないのか……最新話を見た後だと、そんな気さえしてくる
素直に、月間に移ればいいと思うのよ(提案)


 第三話:ハンター試験と鬼娘

 

 

 

 

 

 ――ザバン市と呼ばれるその街は、その日も活気に満ちていた。

 

 

 

 

 その日は朝から雲一つなく、どこまでも晴れ渡った青空が広がっていた。気温も程よく安定していることもあってか、その下に広がる市場は明るく賑わい、往来する人々の顔ぶれには笑顔が溢れていた。

 

 市場に売られている商品もまた、様々であった。季節ものの果物や野菜を始め、今朝方狩られたばかりの食肉が並ぶ。本物か偽物か、金銀細工の装飾が施された加工品や、手作り感満載の商品が至る所で見受けられる。

 

 加えて、出店形式の飲食店も至る所で見受けられた。飲食店は飲食店だけで固められており、そこに老若男女の区別はない。朝方というには遅く、昼前と呼ぶには早い時間帯であったが、それでもだいたいの出店の席は埋まっていた。

 

 

 ……その中で一つ、他の店とは違う賑わいを見せる出店があった。

 

 

 その店は、他の店と同じように席のほとんどが埋まっていた。しかし、違うのはそこではない。賑わいの原因は、一つのテーブルの上に並べられた大小様々な空ジョッキの山……に、新たな空ジョッキを乗せた、一人の少女であった。

 

 その少女は、傍目から見ても不思議な出で立ちであった。

 

 背丈は130cm程度と、けして高くはない。白のノースリーブに紫のロングスカートという服装だけを見れば、珍しくはない。だが、不思議なのはリボンに纏められた薄い茶色のロングヘアーの合間から伸びる、頭部に生えた二本の角であった。

 

 

 いったい、少女は何者なのか……少女を見ている周囲の者は、揃って同じことを考えたことだろう。だが、その角よりももっと周囲の者たちが不思議に思ったのは、だ。

 

 

 驚くべきことに、少女が載せた空ジョッキの数は優に80杯を超えている……という点であった。しかも、その大きさは大ジョッキ。一杯辺り600mlは入る大きさであり、単純な総量は48kgにも達していた。

 

 はた目からみれば、それは信じ難い光景であった。何せ、少女の背丈はせいぜいが130cm程度。華奢な体つきを大目に考慮したとしても、その体重は35kgにも達しない。

 

 それを前提に考えれば、少女は己が体重よりも多量のアルコールを摂取し続けていることになる。普通に考えれば、即死している量だ。なのに、少女の身体には全く変化が現れていないのだ。

 

 アルコールを抜きにしても、その身体の何処に水分が収まっているのやら。水分を抜きにしても、摂取したアルコールだけでも十分致死に至る量を既に収めており、そういう意味でも信じ難い光景であった……と。

 

「――かぁああ!! ロックが臓腑に沁みますなぁ~」

 

 がしゃん、と。82杯目の空ジョッキをテーブルに叩きつけた少女……伊吹萃香と名乗っている彼女は、酒臭いゲップと共に83杯目の御代わりを店員に告げた。途端、歓声にも似たどよめきが、様子を窺っていた周囲の客人全てから上がった。

 

 まあ、無理もないことだ。何せ、彼女がこの出店に訪れたのは、かれこれ四時間前。ツマミを挟みつつも、ほぼ3分に1杯という驚異的ペースでジョッキを空にしてゆくのだから、周囲の注目が集まるのは当然であった。

 

 ザルだとか、そういう問題ではない。これではもはや、底なしだ。ペースこそ早いものの実に美味そうに酒を飲み干すからこそ、周囲も呆気に取られるだけで気分を悪くするような者は現れていなかった。

 

「あの……お客様。申し訳ないのですが、今ので店にあるのが最後です」

「え、マジで?」

 

 さあ、早く早く。アルコールによってテンションが高まっている彼女であったが、恐る恐るといった様子で前に現れた店員に、彼女は目を瞬かせた。

 

「はい、まことに申し訳ないのですが……」

「全部? ボトル一本もないの?」

「申し訳ありません。冷酒もウィスキーもブランデーもワインも何もかも、お客様が飲み干されてしまいました」

 

 言われて、彼女はテーブルの上を見回し……納得した。「しゃーない、お勘定頼める?」仕方ないので会計を頼めば、既に用意していたのだろう。こちらです、と差し出された一メートル近いレシートの一番下を見やった彼女は、無言のままにカードを差し出した。

 

 このカードは、マフィアを通じて手に入れた物である。『彼』が生きていた以前の世界では、カード一枚持つにも身元やら何やらが必要であったが、この世界ではそういったものはそこまで必要とされていない。

 

 ハンターという仕事があるからなのか、住所不特定や偽名であっても口座を作ること自体は簡単なのである。(ただし、ブラックリストに載ると……)その為、ここ10年近くは現金をほとんど持たず、もっぱらカード払いであった。

 

 

 ありがとうございましたー。

 

「美味しかったよー」

 

 

 その言葉を背中に受けて、すっかり千鳥足になった彼女は店を後にする。ざわめきがちらほらと聞こえてきていたが、酔いが回った彼女の耳にはもう届かない。

 

 普段の彼女なら、ここまで呑むようなことはしなかった。しかし、今回は無理であった。つい昨日、小金稼ぎ(主に酒代)の為に遠出の依頼を梯子して済ませたばかりであり、それ故の暴飲であった。

 

 おかげで、今の彼女は超が三個付くぐらいにご機嫌であった。久しぶりに浴びる程飲み干したおかげで、満足だ。隣を通り過ぎる通行人が顔をしかめるぐらいの酒気を放っていたが、今の彼女は気付かなかった。

 

 

 ……あ~、どうしよう。ホテルでもとって寝ようか?

 

 

 ほわほわと火照っている脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。さすがに、これ以上は店を梯子しようと思わなかった。しかし、それは酔い潰れるから……という理由ではない。

 

 傍目から見れば転ばないのが不思議なぐらいにぐでんぐでんだが、実はまだ彼女には余裕がある。しかし、こう何件も店の酒樽を空にするのは忍びないというのが実際の理由であり、そろそろ惰眠に浸りたいという欲求も湧いて来ていた。

 

 

 ……ん?

 

 

 よたよた、よたよた。右に左に前に後ろに、じゃらじゃらと身体に纏わりつく鎖をじゃらじゃら鳴らしながら、ふらりふらりと千鳥足のまま歩いていた彼女であったが、その足が突如止まった。

 

 それは、食欲を誘う匂いであった。肉の焼ける香ばしい匂いにすんすんと鼻を鳴らした彼女の視線の先には……小さな飯屋があった。

 

 

 ……寝る前に、飯でも食っていくか。

 

 

 腹が空いているというわけではないが、酒ばっかりで碌に飯を食っていなかったことを思い出す。食わなくても平気だが、匂いのせいか……食欲がわいて来るのを実感した。

 

 歩み寄って確認すれば、幸いにも営業時間になってすぐのようだ。がらりと扉を開けて中に入れば、若い女定員がカウンターテーブルを拭いており、店主と思われる頑固そうな男がフライパンを振るっていた。

 

 客は、まだいないようであった。どうやら、一番乗り。ふらふらと足元をもつれさせながらカウンターテーブルに腰を下ろすと、「――いらっしゃい。何にします?」目の前に水の入ったコップが置かれた。

 

「とりあえず、ウーロン茶とメニュー貰える?」

 

 さすがに、酒は頼まない。飲めないというわけではないが、飲むと歯止めが利かなくなる。なので、頼むのは止めた。

 

「それは構いませんが、大丈夫ですか? 随分と、その……」

 

 言い辛そうに視線をさ迷わせる女店員に、「ああ、大丈夫、大丈夫」彼女はべたりとカウンターに頬を預けたまま女店員に手を振った。信用性が欠片も見当たらない姿に、女店員は困ったように店主を見やったが、店主はただ首を横に振るばかりで何も言わなかった。

 

 ……しばし間を置いてから、女店員は諦めたのだろう。困ったようにため息を零すと、今にも寝息を立てそうな彼女の傍にメニューを置いた。ありがとう、と手を振って見送ると、彼女はそのままの姿勢でメニューを開いた。

 

 とんとんとん、と。規則正しい包丁の音と、フライパンが奏でる香ばしい匂いが食欲と眠気を誘う。さすがに眠るような失礼を働くつもりはなかったが、困ったことに思考が纏まらなかった。

 

 メニューに記された品物の数は中々に豊富だが、それが仇となった。酔ってはいるが、自分を見失う程に酔っていないせいだろう。アレも良いな、コレも良いなと候補は見つかるが、コレという決め手に欠けた。

 

 

 肉が良いか、魚が良いか。それとも焼き飯系が良いか、いっそのこと麺系で攻めるべきか。この身体になってからは特に好き嫌いもないので、こういう酒のつまみ以外から選ぶのは……ん?

 

 

 がらがら、と。店の出入り口が開かれる音に、カウンターから頬を上げる。視線の先にいたのは三人の少年と、フードを被った一人の男……いや、少年の内の一人はスーツを着ているのもそうだが、20代と思わしき顔立ちなので、少年二人に男二人であった。

 

 少年の内の一人は緑色の衣服を着る、黒の短髪。三人の中では一番の年少なのか一番背が低く小柄で、次に背が高いのは金髪の……イケメンと称されてもおかしくない顔立ちの美少年であった。

 

 家族か、友人か。客にしては雰囲気がおかしいというか、いまいち判断が付かないが、フードを被った男が先導して店の中に入る。何となく様子を見ている彼女を他所に、その男は店主を見やってから……ぽつりと呟いた。

 

「オヤジ、ステーキ定食だ」

 

 直後……ピクリ、と。僅かではあるが、緊張感が走ったのを彼女は感じ取った。それは気のせいかと思うぐらいに些細なものであったが、鬼の感覚がそれを捉えていた……と。

 

「……焼き加減は?」

「弱火で、じっくり」

 

 フードの男がそう告げた瞬間、店内に走っていた緊張感が霧散した。おや、と身体を起こした彼女が見やれば、女店員に案内されるがまま、その四人は店の奥へと進んで行って……奥の部屋へと入って行った。

 

 

 ……ステーキ定食、か。決めた、それにしよう。

 

 

 メニューを最後まで見ることなく閉じた彼女は、四人が頼んだのと同じものを注文した。彼女としては、選ぶ手間が省けたという程度の話であったのだが……何故か、再び緊張感が店内に広がったのを彼女は感じた。

 

 

 ……え、またコレ?

 

 

 意味の解らない緊張感に、彼女は訝しんで店主を見やる。すると、同じような視線を向ける店主と目が合った。いや、店主だけではない。気づけば女店員も、一人だけ部屋に入らずに立ち止まっているフードの男も、己へと視線を向けていた。

 

 

 ……何なの、もしかしてステーキ焼くの苦手なの?

 

 

 それは、料理人としてどうなのだろうか。いや、焼くっていうこと自体、極めるのは大変だろうけどさ……そんな言葉が脳裏を過ったが、「……焼き加減は?」それを口にする前に店主から尋ねられたので。

 

「弱火で、じっくり」

 

 先ほどの男が頼んだのと同じのを、お願いした。瞬間、何故か店主の視線が己ではなく、フードの男へと向けられ……これまた何故かその男が意味深に頷けば、不思議な事に女店員は彼女の前に置いたコップとメニューを取り上げてしまった。

 

 

 メニューは分かるけど、コップもかい?

 

 

 そう思った彼女だが、「それでは、ご案内致します」さっと女店員より手で促されたので、とりあえず言うとおりにする。心配そうに見やる女店員を他所に、ふらふらと千鳥足で奥の部屋へと案内された彼女は……おや、と目を瞬かせた。

 

 何故なら、部屋の中にはテーブルはおろか窓すら付いていない密室であったのだ。当然ながら、ステーキもない。あるのは、先に部屋に入った少年二人と男が一人の、計三人だけであった。

 

 

 ……首を傾げる彼女を他所に、背後で扉が閉まる音がした。

 

 

 振り返れば、やはり扉は閉まっていた。おいおい、わざわざ相席させるのかよと思った……途端、地響きにも似た振動と共に目線が下がり……いや、違う。部屋が下がり始めている光景に、彼女は目を瞬かせた。

 

「最近の店は、定食食わせるのに随分と大掛かりな仕掛けをするんだなあ……」

「アホか! んなわきゃあねえだろ! 試験会場に向かっているんだよ!」

 

 独り言のつもりであったが、返事をされた。また振り返れば、「――っていうか、お嬢ちゃんもしかして酒飲んでんのかよ」スーツの男が顔をしかめてこちらを睨んでいた。

 

 喧嘩を売っている……というわけではなさそうだ。その証拠に、口調こそ汚いものの多量の飲酒に対して控えるべきだと話を続けており、その目には……確かな優しさが見受けられた。

 

「ん~、ま~、気持ちよく酔える程度には飲んだかな~」

「嘘つけ! そんだけ酒の臭いさせておいて、気持ちいい程度なわけねえだろ!」

「うん、レオリオの言うとおりだよ。君、すっごく酒の臭いしているけど大丈夫? 俺、人より鼻が良いからそういうの、すぐに分かるんだ」

「あ~、だいじょぶだいじょぶ~。お姉さん、これでも飲酒暦は相当長いから、これぐらいなんてことない、なんてことない」

「そうだな、それだけ受け答え出来るのであれば大丈夫だろう。しかし、おせっかいながら無理はしない方が身のためだということを忠告しておくぞ」

「あいあい、そんな心配しなくても大丈夫だってば」

 

 そしてそれは、その男だけでなく、二人の少年の目にも同じものが宿っていた。なので、特に彼女は気分を害することはせず、素直に彼らの忠告を聞くことにした。まあ、守るつもりはないが……さて、と。

 

「ところで、試験会場ってなに? ステーキ食う為に試験受けなきゃあならんの?」

「もしかして、本当に分からないでここにいるのか?」

「分からないって、ここは飯屋だろ?」

「……嘘だろ。嬢ちゃん、ラッキーだけで試験会場を当てたってのかよ」

 

 分からんことを分からんと言っただけで、彼らは大そうな驚きっぷりであった。何だ何だと彼女が目を瞬かせれば、それを見て説明をしようとした金髪の少年は……ふと、思い出したように自己紹介を始めた。

 

 

 金髪の少年は、名をクラピカといった。短髪の少年は、ゴン。スーツ姿の男は、レオリオと順番に名乗り終えると、彼らはこれから始まるらしい『試験』について軽く説明を始めた。

 

 

 そうして分かった事なのだが、どうやら、この飯屋は普通の飯屋ではないらしい。『ハンター試験』と呼ばれる、この世界においては誰もが知る試験の会場への入口が、この店なのだという。

 

 ハンター試験とは、その名の通り、『ハンター』と呼ばれる職業資格を得る為の試験である。数多に存在する資格の中でも特上レベルの難度を誇り、受験者数は数百万にも達すると言われている。

 

 試験は年に一回。内容は毎年異なり、合格まで何回試験が行われるかは不明。裁量は各試験官に委ねられており、試験会場の前に行われる振るい落としだけで、その数を一万分の一以下にまで落とされるという、針の穴よりも狭い門となっている。

 

 

 それを踏まえてみれば、だ。言われてみれば、こいつら只者ではないなあ、と彼女は三人を順々に見やった後、なるほどと納得した。

 

 

 一番年上であろうスーツのレオリオもそうだが、美少年のクラピカも、立ち居振る舞いというか、胆力が常人のそれではないことが見て取れる。

 

 一番年若いであろう短髪のゴンも言うに及ばず、3人には見た目からは不相応な自信というか……度胸というやつが、彼女には感じ取れた。

 

 

 ……だが、そんな事よりも、だ。

 

 

(はて、ゴン、クラピカ、レオリオ……何だろう、どこかで聞いたような……覚えがあるような……ん~、思い出せない)

 

 何故だろうか、妙に琴線に引っかかる。顔自体には見覚えが無く、初対面であるのは確かなのだが……妙に気になるというか、何というか。言葉にはし難い違和感に、「あの、ところでさ」彼女はひとまずゴンを見やった。

 

「俺たち、まだお姉さんの名前を聞いていないんだけど、お姉さんの名前はなんていうの?」

「んー、私? 知り合いからは『二本角』と呼ばれているよ」

 

 尋ねられて、彼女は素直に答えた。「にほん……なに?」それって名前なのかと、ゴンとレオリオの視線が彼女の頭部に生える角に集まった直後、「――なに、『二本角』!?」その名に強く反応したのは、クラピカであった。

 

「まさか貴女は、あの、運び屋の『二本角』なのか?」

「あんたがどの『二本角』を言っているのかは知らないけど、私は『二本角』さ――ん?」

 

 不意に、がくん、と。下がり続けていた部屋が、止まった。何だと思って辺りを見回せば、壁の一面が緩やかに上がり始めていた。

 

 何から何まで派手な仕掛けだなあ~と思って見ている間に、完全に開かれた扉の向こうは……何やら、薄暗い。「行こっ、二本角さん!」意気揚々とその先に向かうゴンたちに釣られて、彼女もその後に続き……おや、と眠たげに緩んでいた目を見開いた。

 

 薄暗い向こうは、思っていたよりも広かった。いや、それは広いというよりは、奥行きが広かった。何処まで続いているのか、『伊吹萃香』の眼力を持ってしても突き当りが見えない程に長い。

 

 

 例えるなら、そう、トンネルの中だ。そして、そのトンネルの内壁にはパイプやらケーブルやらが伸びていて、それらを隠しているかのように……大勢の人達が、たむろしていた。

 

 

 集まっている者の大半は男性で、年齢や顔ぶれに共通点はない。だが、強いてあげるとするなら……自信、だろうか。トンネル内にいる顔ぶれの誰もが自信に溢れた顔をしており、どこかギラギラとした熱気を瞳に宿していた。

 

 さすがは世にその名を知らしめるハンター試験、その会場、なのだろう。一触即発とまでは言い難いが、何とも言えない緊張感が場に満ちている。先に出たゴンたちもさすがに緊張したのか、彼女より十数メートル前の辺りで足を止めていた……と。

 

「――すみません。ちょっといいですか?」

「ん? あー、なに?」

 

 突然、声を掛けられた。振り返った彼女の目に止まったのは、己よりも30……いや、50センチは小さい背丈の、スーツ姿の男であった。

 

 何だ何だと思って男を見やれば、「えーっと、私、当試験の案内人を務めさせていただきます、マーメンといいます」男は手元の手帳をぺらぺらと捲りながら彼女を見上げてきた。

 

「ご確認の為に、受験票、並びに、どの案内人を通じてここに来たか、教えていただけますか?」

「そんなのないよ。飯屋でステーキ頼んだからここに案内されたのさ」

「……えっと、つまり試験の申込等をされていない、というわけですか?」

 

 一瞬ばかり、男は……マーメンは息を詰まらせた後、そう尋ねてきた。それを聞いて、(ああ、そっか……)今更ながら彼女はマーメンの言わんとしていることを察した。

 

 

 考えてみれば、これはハンター試験だ。試験ということは受験票……つまり、申し込みを初めとした様々な手続きの他、受験費用を支払っているかを確認する必要があるわけだ。

 

 

 当然、彼女はそんなもの、一切合財していない。今しがたの言葉通り、ステーキ頼んだら会場へ案内されたのだ。なので、彼女は素直に何もしていないということをマーメンに話した。

 

 ついでに、忍び込んだわけではないので、許してねともお願いした。警察は怖くも何ともないが、余計な騒動は面倒だ。故に、彼女は両手を合わせてマーメンに頭を下げた。

 

「ああ、それはいいんですよ。当試験会場に自力で辿りつけたのであれば、特例としてそういった受験費用は免除となりますから」

 

 すると、意外とあっさり許してくれた。お願いしてみるもんだなあ……と思っていると、「では、これをどうぞ」番号の書かれたナンバープレートを渡された。

 

 

 ……なに、これ?

 

 

 首を傾げながらマーメンに尋ねれば、色々と教えてくれた。

 

 どうやら、このプレートが受験票の代わりになるらしい。試験中、このプレートを失うと理由次第で失格。また、他者のプレートを故意に破壊しようとするのは即失格らしく、不合格になるまでは大事に持っておくべしと、強く言われた。

 

 

 ふむ……なるほど。

 

 

 辺りの受験生を見回してみれば、誰も彼もがどこかしらの見える場所にプレートを付けている。おそらく、試験官に受験生であることを知らせる為に、そうしろと言われているのだろう。見れば、ゴンたちの胸元にもプレートが付けられ……あ、いや、待て。

 

(あれ、何でわたし、このまま試験を受ける流れになってんの?)

 

 雰囲気に流され掛けていることに気付いた彼女は、寸での所でプレートを止める手を止めた。やれやれ、危ない危ない。一つため息を零した彼女は、プレートをそのままマーメンに返した。

 

「おや、どうしました? プレートに何か有りましたか?」

「いやいや、違うよ。私はただ、試験を受ける気がないから、これを返したいだけさ」

「……え?」

 

 ビタリ、と。声どころか全身を硬直させたマーメンの手にプレートを強引に握らせると、彼女はマーメンに背を向け、先ほど降りてきた部屋へと歩き出した。

 

 未練など、ない。何故なら、彼女は運び屋だ。運び屋という仕事に嫌気は覚えていないし、今の暮らしに不満はない。

 

 むしろ、現状を気に入っている彼女にとって、ハンターという資格は邪魔でしかなかった。他の受験生が聞けば怒り狂うであろう話だが、彼女にとって、それが偽りの無い本音であった。

 

(……まあ、あのままあそこにいると、さ)

 

 それに、もう一つ。

 

(あのジュース配っているオッサンをぶちのめしたくなる……って言っても、まあ信じてはくれないだろうからねえ……)

 

 傍からみれば阿呆な話ではあるが、それもまた……彼女の、嘘偽りのない本音であった。なので、彼女は後ろ髪を引かれるなどということは全くなく、降りてきた時と同じように、ふらふらとした足取りでエレベーターへと……乗り込もうと、したのだが。

 

「えー!? 二本角さん、試験受けないで帰っちゃうの!?」

 

 そうするよりも前にトンネル中を反響した、ゴンの声に足を止められた。思わず振り返れば、トンネル中の……というよりも、試験会場にいた全員の視線とが交差する。直後、ゴンだけでなく、他の二人も幾分か慌てた様子で駆け寄って来た。

 

 

 そうして始める、ゴンたちの説得。

 

 

 曰く、ここで帰るのは非常にもったいない。運で来られたとはいえ、狙っても来られる場所ではないから次はない。いや、次どころか、この試験会場すらまともに辿り着けないこと自体、なんら珍しいわけではない……等々。

 

 今しがた出会ったばかりの赤の他人だというのに、その説得たるや鬱陶しい程に情熱的である。まあ、無理もない。この試験を合格することで得られる、『ハンターライセンス』の価値を、彼女は知らなかったからだ。

 

 

 『ハンターライセンス』

 

 

 ハンターと呼ばれる仕事に従事する者はまず二種類に分けられる。ライセンスを持つプロハンターと呼ばれるハンターと、アマチュアと呼ばれるライセンスを持たないハンターの、二つだ。

 

 一般的にハンターと呼ばれるのは、ライセンスを持つハンターの事を差す。それは一定以上の実力が保障されているからという理由とは別に、ライセンスが持つということ自体が、社会的な信頼をももたらしてくれるからだ。

 

 というのも、このハンターライセンス。その歴史と功績とを紐解けば文庫本一冊にも及ぶであろうものなのだが、それら積み重なった様々な事柄によって……現在では、様々な特権が付与されているからだ。

 

 

 まず、銀行等の金融機関からの信頼性が跳ね上がる。ブラックカードどころの話ではなく、ライセンスを得ているというだけで、数億、数十億の融資を受けることが出来るようになる。

 

 

 他にも、世界のほとんどの国における公的機関の無料(しかも、最高級グレードのを)利用や、ホテルなどの特定施設の割引利用。この公的機関とは図書館や公民館といったものだけでなく、医療施設や移動設備を始めとした様々なインフラを無料で利用することが出来る。

 

 それが利かない割引にしたって、正規の7割引、8割引は当たり前。加えて、チケット等を取る際は最優先で割り振られる為に予約が取れないなんていうこともなく、ほぼ全ての機関をスムーズに利用する(一般客からすれば迷惑だろうが)ことが可能である。

 

 また、一般人では立ち入ることはおろか観覧すら難しい施設や情報をも閲覧することが出来る。これはハンターという職業柄必要となる部分ではあるが、それを差し引いても、あらゆる手続きをほぼパスされるようになるのだ。

 

 

 そして……そして、何よりも驚くべきは、このライセンスそのものの価値だ。

 

 

 誤差が大きいので正確な金額は分からないが、言葉にすれば『人生7回遊んで暮らせるだけの大金』というほどの価値になるらしい。これは誇張でも何でもなく、ハンターライセンスというのはそれほどの物であるのだ。

 

 ……などの情報は、ハンターを目指す者なら誰もが知り得ている話である。いや、志願者どころか、大人から子供まで、それこそボケた老人ですら覚えているぐらいに有名な話なのだ。

 

 何せ、ハンターという仕事は非常に死亡による離職率が高いが、それをはるかに上回るメリットがある。売れば一生を7回遊んで暮らせるだけの金が手に入り、所持しているだけでありとあらゆるところでVIPの待遇。

 

 シンデレラストーリーだとか、アメリカンドリームだとか、そんなちゃちな話ではない。最下層から最上層への文字通りの人生一発大逆転を夢見て受験する者は後を絶たず、その倍率たるや一万倍を優に超えるほどであった。

 

 

 ……まあ、そんなわけで、だ。

 

 

 ラッキーのみで『試験会場に辿り着く』という前段階の試験を突破したとはいえ、倍率何万倍にも達する狭き門を越えたというのは紛れもない事実。

 

 駄目だと思ったら棄権すればいいんだし、せっかくだから受ければ……と、ゴンたちが引き留めに掛かるのも、当然の話であった。

 

(ん~、親切に説得してくれているのは分かるんだけどなあ~)

 

 とはいえ、それはあくまで一般的な話であって。どうしたものかと内心にて頬を掻く彼女にとっては……という大前提を抜きにすればの話であった。

 

 正直な所、こういう裏のない親切は断り難い。これは『伊吹萃香』の部分ではなく、『彼』の部分が元々そういう気質であるからだ。けれども、ぶっちゃけ面倒だなあ、というのもまた、紛れのない彼女の本音でもある。

 

 

 加えて、何だろうか。

 

 

 説得を受けながら実感したことなのだが、どうも己は眼前の少年達が苦手だ。いや、嫌いというわけではなく、純粋に好ましいのだが、それが逆に彼女の気持ちにブレーキを掛けた。

 

 出会って数十分程度とはいえ、何となく分かるのだ。生い立ちや性格はバラバラだが、根が善人。何の得にもならないどころか場合によってはライバルを増やしかねないのに、わざわざ説得する辺り……良いやつなのが窺える。

 

(特に、このゴンって子は凄いな。まるで磨いた鏡みたいだ。話していることは横の二人と同じなのに、どうもこの子の言う事には耳を傾けたくなってしまう)

 

 現に、徐々に己の中で天秤が傾きつつあるのを彼女は実感していた。というか、そう考えた時にはもう、受けてみようかなあ、という気持ちになって……と。

 

「――やあ、揉めているようだな」

 

 彼女が頷くまで、後十秒というところで、横合いから声を掛けられた。彼女とゴンたちが視線を向ければ、そこにはゴンよりも少しばかり(もしかしたら、靴のサイズの違いなのかもしれない)背の高い初老の男が笑顔を向けていた。

 

 男は、自らをトンパと名乗った。鼻の形が四角く、御世辞にも美男とは言い難い風貌ではあったが、どこかお人好しを思わせる朗らかな笑みを浮かべていた。

 

 それから、尋ねてもいないのに、トンパはやれ何十回と試験を受け続けているのだの、もう合格出来るとは考えておらず、全力を尽くそうとする新人たちを見たい気持ちが大きいだの、色々と話しかけてくる。

 

 

 一見する限りでは、夢に破れた男が、己が破れた夢に向かう若者たちを応援する……といったところだろうか。

 

 

 あいつには気を付けろ。前の試験ではこうだった。あの教官が出て来た時は注意しろ。そんな感じの話を一通り続け……間を置いてから、そういえば、といった調子でトンパが懐より取り出したのは、缶ジュースであった。

 

「ここであったのも何かの縁。お近づきってわけじゃないが、新人(ルーキー)への餞別さ。怪しいって思うのなら、捨てて貰っても構わねえから」

 

 その言葉と共に、トンパはゴンたちの手にジュースを手渡してゆく。些か強引だが、親切にされて嫌に思う者は少ない。三人の中で唯一断ろうとしたクラピカすらジュースを握らされ……それじゃあ、と流れで彼女の手にもジュースを――。

 

「私の前から失せろ」

 

 ――渡そうと手を伸ばした、その瞬間。ぬるりと横殴りに振られる、立てられた中指(ファック・ユー)が、ばすん、と音を立てて缶に突き刺さった。

 

「――うわぁ!?」

 

 驚きに思わず後ずさるトンパを尻目に、彼女は苛立ちを隠そうともせずに缶を放り捨てると、唖然とするゴンたちに吐き捨てるように告げた。

 

「気を悪くさせたなら悪いね。でも、私は嘘が嫌いでね。こいつのように、何から何まで嘘で塗り固めたやつに嘘を吐かれると、腹が立って仕方がないんだ……いや、それは私の勝手か」

 

 深々と。それはもう深々とため息を零した彼女は、「少し、頭を冷やしてくるよ」そう言ってゴンたちの下を離れた。背後で己を呼ぶ声がしたが、構わず彼女はゴンたちから……正確には、トンパから距離を取った。

 

 それは、自分の怒りがゴンたちの気を悪くさせてしまうことを配慮したうえでのことではあったが、同時に、トンパ自身を半殺しにしてしまわないようにする、己への自制の意味もあった。

 

 ずんずんと鼻息荒くトンネルを進むこと、幾しばらく。ぎらぎらとした熱気を放っている受験生たちの数も少なくなり、周囲に人が居なくなった辺りで……ようやく、彼女は足を止めて、大きく息を吐いた。

 

(危なかった……あと、ほんのちょっとでも嘘を吐かれていたら、反射的にぶん殴っていたかも……)

 

 コレだという明確な根拠がなくとも、彼女には『嘘』が分かってしまう。それは、『嘘』を何よりも嫌う鬼としての性質。『嘘』というものに関しては、おそらくこの世界に存在する全ての生物よりも如実に反応を示してしまう……それが、『伊吹萃香』という名の鬼だ。

 

 だからこそ、彼女にとってトンパの言葉は筆舌にし難い不快感の塊でしかなかった。何故なら、トンパの言葉はたった一つを除けば全てが嘘であったからだ。

 

 彼が語った言葉の中に唯一有った真実は、『合格するのを諦めた』という部分だけ。

 

 他は、1から10まで真実が欠片も混じっていない。ある種の清々しさすら覚える程に嘘しかない。反射的に拳を振るわないだけ我慢出来た己を褒めたい気持ちすら、彼女にはあった。

 

 ……すっかり、酔いが醒めてしまった。

 

 はあ、と零れた二度目の溜息。意気消沈という言葉が、そのまま彼女の顔に現れている。こういう時、気分転換も兼ねて飲み直すのが何時もの流れだが……当然、この場に酒屋などという都合の良いモノはなく。

 

 ――じりりりり、と。

 

 突如鳴り響く、時計のアラーム音。それが止まった直後、いつの間にか姿を見せていた試験官の男。名を、サトツ。立派な口髭を生やしたその男が登場し、試験開始を宣言した……その、瞬間。彼女は、帰るタイミングを逃したことを悟ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――よくわからないが、気分を悪くさせてしまったようだね。

 

 そう言い残して気まずそうに離れて行くトンパと名乗る男を見送った私は、今しがた彼女が……いや、『二本角』が言い残していった言葉を思い返していた。

 

(嘘に塗り固められたやつ……か。参考にするわけではないが、あのトンパという男……少し、気を付けた方がいいかもしれないな)

 

 元々、胡散臭いやつだとは思っていた。面識のない相手に笑顔で近づいてくるのもそうだが、何だろうか。言動もそうだが、立ち居振る舞いに欺瞞を覚えてならなかったのかもしれない。

 

 その証拠というには不本意だが、レオリオのやつも訝しんだ様子でトンパの背中を見送っている。危なっかしい面が見られるゴンも、さすがにトンパに対してやんわりとした警戒心を覚えているようだ……ん?

 

「どうした、レオリオ。さっきから、妙に気難しい顔をしているようだが?」

 

 気になった私は、率直にレオリオに尋ねた。レオリオは答えなかった……いや、これは答えないというより、聞こえていないと言う方が正しいようだ。

 

 しきりに視線を上に上げては、また下に下ろすというのを繰り返している。専門分野ではないが、人がそういう反応を見せるのは……何か、後悔が入り混じる迷いを抱いている時だ。

 

 ……考えるまでも無い。レオリオを悩ませている種は、今しがたこの場を離れて行った……二本の角を生やした、女の子のことだろう。レオリオほどではないが、私もあの子については……少々、思うところがある。

 

 ――『二本角』の事に関しては、私も詳しくは知らない。せいぜい、凄腕の運び屋という程度で、私がその名を知ったのだって、本当に偶然からだった。

 

 たまたま……そう、名前すら忘れた喫茶店で昼食を取っていた際、たまたま同じ店に居合わせた裏稼業(おそらくは、マフィアだろう)たちの会話が、たまたま耳に入ったのが切っ掛けだった。

 

 

 曰く、仕事に取り掛かれば成功率はほぼ100%だが、仕事に入るまでが遅く、どの仕事を受けるかは当人が気紛れなので分からない。

 

 曰く、常に酒を飲んで酔っ払っているから、余計な頼み事をしても色よい返事はされないし、相手にもされない。

 

 曰く、重鎮たちと繋がりのある人物だから、下手に関わろうとはするな、間違っても手を出すな……等々。

 

 

 情報だけを抓み取ればずいぶんと物騒な人物像が出来上がるところだが、実際に会ってみて拍子抜けした。まさか、あそこまで想像していた姿と異なっているとは思わなかった。

 

(いや、駄目だな。見た目に惑わされては、いずれ足元を掬われてしまうか)

 

 そうやって何度も己に言い聞かせるが、どうしても……その、小さい女の子として見てしまうのは、私が未熟だからだろう。

 

(レオリオのことを馬鹿には出来ない……か。私も、どうやらお人好しなのかもしれないな)

 

 

 そう、自嘲してしまう己を……私は、止められなかった。

 

 

 まあ、何であれ彼女はハンター試験の本会場まで来た。例えそれが運によるものだとしても、本質は変わらない。何か……私たちにはない何かが、彼女にはあるのだろう。

 

 それは……おそらく、レオリオも分かってはいるはずだ。そう思うと同時に、自然と視線がレオリオへと向いた。

 

 短い付き合いではあるが、この男はけして悪人ではない。まあ、二言目には『金さえあれば』と口にするような強欲者だが、他者を騙して利益を得ることに嫌悪感を抱く程度の善人でもある。

 

 そんな男が、トンパ……ではなく、あらぬ方向を見やっては顔をしかめ、何かを考え込む様に顎に手を当てては、小さく唸り声をあげている。これで気にならないといえば、それこそ嘘になるだろう。

 

「――大丈夫だ。いくらハンター試験とはいえ、いきなり死傷者を出すようなことはしないだろう。無理だと判断すれば、あの子自身が自分から棄権するさ」

 

 だからこそ、私はあえてレオリオが抱いている後悔を真正面から突いた。途端、「――いや、でもよ」レオリオは驚いたようにこちらを見やった……ふむ、分かり易いやつだ。

 

 レオリオの悩みの種は、分かっている。大方、この試験の危険性を考慮もせず、もったいないという一心で帰ろうとするのを引き留めてしまったことを悔いているのだろう。

 

 

 あの子が普通の子じゃないのは、レオリオ自身も分かっているというのに、何とも馬鹿なやつだ。

 

 

 だが、あの子の見た目は正しく十代前半……ゴンよりも背が低い。レオリオからすれば、己の腰のあたりまでしかない子供(それも、女の子)が出ているとなれば、気に病むのも致し方……待て。

 

 

 そういえば……こういう時、誰よりも反応しそうなゴンが大人しいのは何故だ?

 

 

 レオリオからゴンへと視線を移した私は……思わず、目を瞬かせた。

 

 何故なら、私の想像では『心配そうに消えた背中を見つめている』というものだった。しかし、現実は想像とは異なり、ゴンは彼女が消えた先を見つめてはいたが、その目には……何の心配も宿っていなかったからだ。

 

「……ゴンは、心配じゃないのか?」

 

 島国かつ辺境(少し、失礼な言い回しだが)のうえに猛獣と友達のように一緒に育ったせいだろう。時々ではあるがドライな面を見せるゴンだが、こういう時は違う。少なくとも、違うだろうと思っていた私は、気付けばそんな失礼な事を尋ね……内心にて、己に罵声を吐いた。

 

「え、なんで心配するの?」

「――おい、ゴン! てめえ、何時からそんな冷てぇ人間になったんだ!」

「そう言われても、二本角さんは違うもの。心配する気持ちは分かるけど、それはあの人に対して失礼だよ」

 

 けれども、己にぶつけた罵声も、不本意ながらレオリオの怒声によって、すぐに声量を落とされてしまった。さらに、駄目押しと言わんばかりのゴンの言い分に、私の中に渦巻いていた自己嫌悪が跡形もなくなってしまった。

 

 レオリオも私と似たようなものらしく、「え、お、おう? 失礼、なのか?」今の今まで露わにしていた怒りは何処へやら、困惑した様子でこちらを見て来た……ええい、私に振るな!

 

「ゴン、私にも分かるように説明してくれ。いったい、あの子は何が違うんだ? 純粋に、戦闘能力が高いという意味か?」

「ううん、そういう事じゃないよ。あの人はね、物凄く大きいんだ」

 

 仕方なく私から話を振れば、ゴンはまたもや曖昧な言い回しをした。「大きい……私には、あの子はゴンよりも小さかったように見えたが?」レオリオと顔を見合わせた私は、思ったままを尋ねた。

 

「背の高さじゃないよ。う~ん、何て言えばいいんだろう……なんていうか、あの人は『くじら島』というか、海みたいな感じなんだよね」

 

 くじら島……確かその名はゴンの故郷の名だが、いったいそれが? それに、海? 言っている意味が、まるで分からないぞ。

 

「俺もどう言い表したらいいか分からないんだけど、自然がそのまま人の形になったと考えた方が、分かり易いのかな? とにかく、あの人はそういうモノだから、心配するのは逆に失礼だよ」

「自然……つまり、あの子は人の手の入らない秘境などで育ったから、私たちの常識が通用しないということか?」

「違うよ、常識とかじゃなくて……ん~、何て言えばいいのかな。俺、あんまり勉強得意じゃないから……とにかく、そういうモノなの」

「……とりあえず、心配する必要は全くない、ということでいいんだな?」

「――っ! うん! そう、そうなの! ああ、伝わってくれて良かった」

 

 

 いや、伝わったわけではないのだけれども。

 

 

 そう言いたい気持ちはあったが、胸に留めておいた。レオリオも、あの子は大丈夫という点だけ分かれば満足なのか、「それなら、いいんだけどよ……」複雑な顔で納得したようであった……が。

 

「それにしても、トンパさんには吃驚したよ。二本角さんに対して嘘を吐くなんて、凄い度胸だよね」

「……? 何で、凄い度胸になるんだ?」

「え? だって、自然に嘘を吐いたらしっぺ返しが来るでしょ? 森の皆だって、自然相手には絶対に嘘を吐かないよ」

「……そ、そうか。自然が相手なら、そうだろうな」

「そうだよ、もう。二本角さんが優しかったから良かったけどさ」

 

 今度は逆に、私だけが納得出来そうになかったのだが……間の悪い事に、試験が始まったことで、それ以上をゴンに尋ねることが出来なかった。

 

 

 

 

 



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第八話:ハンター協会会長と鬼娘

 

 

 

 

 ハンター試験における試験の回数に決まりはない。つまり、一回の試験で合格とすることも、百回も試験を行ってふるいに掛けることも出来る。とはいえ、さすがに試験に掛けるお金にも限度というものがある。

 

 

 

 なので、ハンター試験全体において、だいたい5~7回ぐらいかけて行うのが通例となっている。これは、最終的な合格者人数を数人程度に絞るのが目的だと言われている。

 

 その難度は試験官ごとに一任されており、絶対に合格させない(例えば、雑学クイズ1万問を20分以内に全て解け、など)というような試験でさえなければ、基本的には何をしても良い。

 

 

 例えば、ある年の試験では、数が多いという理由で『3分の1になるまで戦い合え』という試験が行われたこともあったし、『○○を期日までに集めて来い』や、『水深数百メートル下の落し物を潜って拾え』というのもあった。

 

 

 何をしても良いからこそ、試験内容には、その時に一任される試験官の趣向が大きく反映される。それ故に、試験内容自体が仰天必至、試験対策というのが非常に立て難く、何回か受験すれば合格……などという甘い可能性は0に等しい。

 

 加えて、合格する最低人数も特に定まっているわけではない。数名程度に絞るというのはあくまで通例であって、受験生がそのレベルに達していないと判断すれば、試験官たちの判断で合格者0人にしても何ら問題はない。

 

 受験生からすれば理不尽ではあるが、数百万人という受験生たちを、試験会場へと辿り着かせるまでに数百人までふるいを掛け、そこからさらに数名に数を減らすまで徹底的にふるいを掛け続ける。それが、ハンター試験なのだ。

 

「――では、第一次の内容を発表します。一次試験は、『次の二次試験会場まで私に付いて来る』こと。二次試験会場まで制限時間内に付いて来られれば、晴れて合格と致します」

 

 だからこそ、試験官に付いてゆくだけという、ただそれだけの試験が発表されたとしても、集まった受験生たちは誰一人楽観視するようなことをしなかった。

 

 

 実際、受験生たちが抱いた漠然とした不安は的中した。

 

 

 何をするでもなく、ただトンネルの向こうへと歩みを進めている試験官。その後に続く、受験生たち。時間にして、だいたい十分程だろうか。それを過ぎた辺りで……受験生の一人が、小走りになった。

 

 その変化がどのタイミングで始まったのかは、それは試験官のサトツ以外には分からない。けれども、変化は確実に忍び寄っていて、姿を見せた時にはもう牙を向けていた。

 

 一人が小走りになれば、二人が小走りになる。数秒後には四人が小走りになって、その後には八人が。そうして、ものの5分も経つ頃には受験生全員がジョギングというには些か速い速度でトンネルを駆け抜けていた。

 

 

 受験生の誰もが、この時点で気づいた。コレが、一次試験なのだということを。

 

 

 ただ、試験官の後に続けば良い。言葉にすればただそれだけのことではあるが、言い換えれば、何が起ころうとも試験官の後に付いて行かなくてはならないということ。

 

 いったい、このトンネルが何処まで続いているのかは分からない。時計はなく、景色も変わらず、音すら自分たちが奏でる煩い足音だけ。その中を走り続けて追いかける……それが、この試験の壁なのだということを理解した。

 

 

 ――不思議な事に。誰も、追い付けない。

 

 

 走る受験生の中には、試験官のすぐ後ろに行こうと加速する者もいる。けれども、歩き続けているサトツとの間に、徐々に距離が生まれる。気づいた他の受験生が幾分か慌てた様子で加速するが、それでも距離は縮まることがない。

 

 加速しても、加速しても、加速しても、サトツとの間にある距離が縮まらない。既に、速度はジョギングなどという軽いものではない。トップレベルのフルマラソン並の速度となっていたが、それでもなお……サトツに追い付けない。

 

 一人、また一人、屈強な受験生たちの頬に汗が伝い、衣服が濡れて、息が切れ始めてゆく。それも、当然だ。受験生たちとて、並の体力ではない。一人ひとりがトップアスリートとして活躍出来る……いや、それ以上の体力を有している者が大半だ。

 

 しかし、それはあくまで平時での話。ハンター試験という名の精神的な緊張に加え、この場にいる誰もが手ぶらではない。何もかもが不明な二次試験、三次試験の為に小道具を持っている者が大半であり……この状況においては、重りでしかない。

 

 それが、10km、20km、30km。受験生の中には、己が速度と所持している時計から、おおよその距離を推測する者もいる。そうして、自分たちが既に40km近い距離を走り続けていることと、未だゴールが見えていないことに気づき……愕然とする。

 

 けれども、試験官の足は止まらない。一定の速度に達した時点から加速しなくはなったが、その歩調に変化はない。何十kmという距離を歩き続けているというのに淀み一つない動きに……一人、また一人、受験生の顔色が変わり始めていた。

 

 

 ……ただし、一人だけ例外がいた。

 

 

 それは、数十kmという距離を走っても息一つ乱れない強靭な体力を持つ……というのとは、少し違う。いや、実際に走ったとしても息一つ乱れたりはしないのだが、それとは違う理由で、ただ一人だけ……平然としている者がいた。

 

 それは、長い長蛇の列となった受験生たちの、はるか先。先頭集団よりさらに20mほど先を進む試験官のサトツ……の、頭の上。傍から見れば娘を肩車する父親のような状態になっている、『二本角』と呼ばれている彼女であった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………何故、そうなっているのか。答えは単純明快、加速が始まって受験生が走り始めた辺りで、彼女がサトツの肩に飛び移ったから。そして、それをサトツ自身が許しているから、それに尽きた。

 

 

 当然……そう、当然ながら、サトツの後ろにいた受験生たちは非難の声を上げた。

 

 

 考えてみれば、当たり前だ。これを許せば、一人だけ楽をして合格することが確定してしまうだけでなく、これでは試験の意味がなくなってしまうからだ。

 

 

 ――いえ、これはルール違反ではありません。

 

 

 けれども、当のサトツは彼女を失格とはしなかった。

 

 何故かといえば、サトツが示した試験内容は、『第二次試験会場まで、私に付いて来ること』。試験官に対する明確な妨害行為であるならまだしも、彼女が取った手段は『試験官を利用する』というもの。

 

 一般常識で考えればアウトではあるが、試験の禁止事項には『試験官を利用してはならない』という記載はなく、また、自身もそれを禁止することを明言してはいない。

 

 

 つまり、サトツの基準では明確な違反を犯したわけではない、ということ。

 

 

 アウト寄りのギリギリ灰色、というわけだ。褒められた手段ではないが、一歩間違えれば即失格の方法を躊躇せず取った豪胆さは評価出来る。

 

 だから、最初にそれを行った点を踏まえたうえで、特例で今回に限り許す……それが、サトツの下した結論であった。

 

 

 ――ですので、例外はあくまで彼女だけです。今後、私の身体等を使って試験を進めようとした場合、発覚次第失格と致します。

 

 

 とはいえ、一人許せば、ならば俺も私も……となるのが人の常。当然、それが分かっているサトツから、釘を刺す形で他の受験生たちに『待った』が掛かるわけで。

 

 

 ――それと、途中までは許しますが、貴女もそこから先は降りて他の受験生と同じ条件で試験に臨んでください。これは、試験官からの指示になりますので、異を唱えるのであれば失格と致します。

 

 

 また、さすがに一次試験全部をそれで済ませるつもりはサトツもなかったようで。楽できる分は楽をしようという程度の認識でしかなかった彼女は、特に異論を唱えることはしなかった。

 

 

 それで、この件は終わりとなった。

 

 

 受験生たちも、これ以上の押し問答は体力と気力の無駄であると悟ったのだろう。多少なりとも嫉妬の視線と陰口が受験生たちの口から零れたが、それも十分が経過した頃には鳴りを潜め……誰も彼もが無言のままに、走る事に集中していた。

 

(……楽といえば楽だけど、ただ黙っているのも退屈だなあ)

 

 

 だが、そうなると退屈になるのは他でもない、彼女の方であった。

 

 

 何せ、トンネル内の景色には変化というものがない。いや、もしかしたら変化が起こっているのかもしれないが、少なくとも、彼女が見る限りではほとんど見つけられない。

 

 他の暇潰しを探そうにも、背後にて走り続けている受験生たちの邪魔をするわけにもいかない。こういう時は酒でも飲んでいれば時間を潰せるのだが、あいにく酒瓶の一つも持ち合わせていないし、酒を持ち歩いている受験生も……残念ながら、いない。

 

 やれることといえば、黙って変わりのない景色を眺めるばかり。乗り物代わりにしているサトツと無駄話でも出来ればまだマシなのだが、話しかけても返事をしてくれない。結果、彼女はずーっと手持無沙汰であった。

 

(……おお、ようやく終わりかな?)

 

 そのまま、どれくらいの間、ぼけーっとしていたことだろう。何だか眠気すら覚え始めた頃、ようやく訪れた変化に瞑り掛けていた目を開ける。彼女の眼前には、先が見えないぐらいに続いている……果てしない階段があった。

 

「――そろそろ、ラストスパートです。ペースを上げますので、見失わないよう気を付けてください」

 

 そう、独り言のようにサトツが呟いたかと思えば、ぐんとその身体が加速して階段を登り始める。振り落とされるようなことはなかったが、足を掛けたままかくんと仰け反れば、苦悶と絶望に顔を歪ませた受験生たちと目が合った。

 

 

 ……頑張れ。

 

 

 嫉妬を通り越して殺意すら混じり始める視線を前に彼女が出来るのは、胸中にて応援の言葉を送る。ただそれだけで、ただそれだけのことしか、彼女には出来ないので……と。

 

(……はて、地震か?)

 

 それは、不意に訪れた。と、同時に、試験官であるサトツにとっても想定外のことだったのだろう。試験が始まってから初めて足を止めたサトツは、訝しんだ様子で辺りを見回した。

 

 受験生たちも、同様に辺りを見回す。とはいえ、それを行っているのは体力に多分の余裕を残している、全体の半分程ぐらいであった。

 

 残りの半分は膝に手を当てて大きく息を整え、降って湧いた休憩時間に全力を費やしているようで、異変自体に気付いていない――と、その時であった。

 

 トンネルの壁に、ヒビが入った。「――工事でもしているのか?」気づいた受験生の何人かがそこへ目をやった――次の瞬間、ヒビが砕けて弾け――目が眩む程の光と熱風が、雪崩れ込んで来た。

 

(――こりゃいかん。何人か死ぬぞ)

 

 彼女がそう思うのと、受験生たちの悲鳴が上がるのとは、ほぼ同時であった。

 

 次いで、爆風と破片の幾らかが受験生たちに――位置的に、まともに直撃すれば致命傷になりかねないうえに、疲労で避けることすら出来なくなっている者を瞬時に把握した彼女は、大きく息を吸って――吹いた。

 

 

 彼女が取った行動は、それだけであった。

 

 

 しかし、たったそれだけとはいえ、『伊吹萃香』の肺活量を以ってして放たれた吐息はもはや、空気の砲弾。迫り来る爆風を、ぼふう、と呆気なく相殺して……その奥より数人かが、こちら側に飛び込んできた。

 

 飛び込んできたのは、つい数時間前に別れたっきりとなっていたゴンたちであった。よくよく見やれば、銀髪癖毛の見慣れぬ少年が交じっているが……まあいい。

 

 突然の事態に唖然とする受験生たちを他所に、彼らは互いの無事を確認しあっている……と。いち早く状況を理解したゴンが、「――御免なさい、壁を壊しちゃった」どことなく申し訳なさそうにサトツの下へとやってきて……その視線がサトツの上にいる彼女へと向けられた。

 

「二本角さん、そこで何をしているの?」

「途中までの無料タクシーさ。それよりも、壁を壊したことについての試験官さんの返答は?」

 

 彼女からも返答を促されたサトツの答えは、「ルール上問題はありません」であった。

 

「『壁を壊してはいけない』、等という条件は付けておりません。なので、このまま私に付いて来られれば、それで一次試験合格です」

「本当? やったあ!」

「……それにしても、よくあそこを脱出出来ましたね。壁を壊した手腕もそうですが、中々出来ることではありませんよ」

「あ、うん。俺たちがやったんじゃないよ。全部、キルアが考えてくれたんだ――って、キルア? どうしてそんな離れた所にいるのさ?」

 

 振り返ったゴンの視線が、受験生たちの陰に隠れるようにしてこちらを覗いている銀髪少年を捉える。その少年が、キルアなのだろう。「キルア、いったいどうしたのさ?」不思議そうに小首を傾げたゴンが、キルアの下へ向かっていった。

 

 

 ……それを見送ったサトツは、「それでは、試験を再開致します。みなさん、付いて来てください」そう受験生たちに告げると、再び試験を始めた。途端、受験生たちの間から苦悶の声があがったが、サトツは一瞥すらしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――階段を登り切った先は、外へと通じる出口。久方ぶり(実際は、数時間程度なのだろうが)に感じる外の空気を堪能しようとする受験生たちを待ち受けていたのは、四方全てに広がる広大な湿地帯であった。

 

 

 その名を、『ヌメーレ湿原』。別名、『詐欺師のねぐら』。

 

 

 場所の説明を始めるサトツに、誰も彼もが表情を強張らせる。何故ならその名は、ハンターを志す者のみならず、少しばかり秘境について知識を持ち合わせている者ならば常識といっても過言ではない有名な場所であるからだ。

 

 

 いったい、何が有名なのか……単に、危険であるということで有名なのだ。

 

 

 まず、『ヌメーレ湿原』には人間が立ち寄れる場所がない。見渡す限り全てが自然の大平原であると同時に、この湿原には……人間を捕食する凶悪で狡猾な生物が生息している。

 

 この、生物たちが厄介なのだ。というのも、この湿原に生息している生物はどれも知能が高く、集団で行動するうえに、人間のように人を騙して食糧にしようとするからだ。

 

 人語を真似ておびき寄せるのは、もはや定石。体内にて精製した催眠ガスや麻痺毒を用いたり、景色に溶け込んで捕食するなんてのは当たり前過ぎて注意喚起にすら載らない。

 

 何せ、数か国の言語を習得して集団で騙しに掛かる、にわかには信じ難い方法を取る生物すら確認されている程だ。その危険性たるや言葉で言い表せるものではなく、調査に赴けば必ず一人は命を落とすと言われるぐらいに危険な場所なのだ。

 

 

 しかも、危険なのは生物だけではない。

 

 

 立ち並ぶ木々は短いものでも十数メートルはあり、長いものなら50メートルにも達する巨大なものもある。それ自体は大した問題ではないが、厄介なのはどこからともなく漂ってくる……掴みとれそうな程の、濃霧。

 

 その中に入れば、即座に方向感覚を失ってしまうだろう。また、多種多様に繁茂する草木によって、多分に水分が溜め込まれた大地は、御世辞にも走りやすいとは言えない。一度でも足を止められたら最後、肉食生物たちに……なのは、言うまでもないことであった。

 

 

 ――がらがら、と。

 

 

 地下道……というか、つい数十分前に走り抜けて来た地下トンネルへと通じる出入り口のシャッターが、下り始める。その奥(階段のところ)で、息も絶え絶えに腕を伸ばしている受験生の姿があったが、無情にもシャッターは下り続け……がしゃん、と音を立てて地下と湿原とを隔ててしまった。

 

 ……がらりと、空気が入れ替わるのを受験生たちは実感していた。強いストレスという点ではトンネルの中も同じであったが、文明というものが周囲全てにないからだろうか。

 

 まるで、景色そのものが『餌がのこのこやって来たぞ』と嗤っているかのよう。肉食生物たちの独壇場……彼らのホームグラウンドから漂って来る何とも言えない空気を前に、自然と受験生たちは無言となっていた。

 

(……ん~、これは駄目かも分からんね)

 

 ただし、サトツの肩より降りた彼女は、他の受験生とは異なることを考えていた。それは絶望……ではなく、純粋に周囲の受験生に対する心配であった。

 

(詐欺師ってさあ……よりにもよって、詐欺師と来たか。いやあ、これは……二次試験会場に着くまでに正気を保っていられるのだろうか?)

 

 いったい誰がって、そんなのは決まっている。言うまでもなく、『二本角』と呼ばれている、己に対してであった。

 

 どんな理由であれ、彼女は嘘を嫌う。しかし、『人間以外からの嘘』を体感した覚えはない。おそらくは……もしかしたら……万が一……人間以外だからセーフ……う~ん、とてもではないが、そうは思えない。

 

 彼女自身が想起してしまったのは、狡猾な肉食生物たちの『嘘』に怒髪天をついて、暴れ回る己自身。トンパのことで堪忍袋は既に傷だらけ……我慢出来る未来を、彼女は全く予想できなかった……と。

 

「――さて、それではこれから二次試験会場へと向かいます。既に説明した通り、この湿原には危険な肉食生物がうようよしております」

 

 そんな中で、サトツの声はよく響いた。遠くの方より届く怪鳥や猛獣の声など気にも留めていない様子のサトツは、「退くのも勇気、退くのも勇気です」そう言葉を続けた。

 

「言っておきますが、ここから先は私たち試験官側が助けに入ることは一切ありません。一定期間内に二次試験会場に辿り着けなかった者は、ここのやつらに食われて骨すら無くなった……そう、私共は考え、捜索隊も出しません」

 

「その意味が、分かりますね?」

 

「だからこそ、無理だと判断した者はこの場で待機してください。おおよそ30分後、ここに職員が訪れます。その時点で今試験をリタイアしたとみなし、失格となります……ここまでで、何かご質問はありませんか?」

 

 サトツの言葉に、受験生たちは押し黙った。それは単純に質問がないのも理由の一つだが、何よりも目の前の光景に圧倒されるばかりで、何も思いつかなかったからだった――その時。

 

「――嘘だ、そいつは嘘を吐いている! 本当の試験官は、俺だ!」

 

 今にも試験を再開しようとするサトツの気を遮るように、怒声が響いた。何だ何だと振り返るサトツと受験生たちが見たのは……今にも倒れそうなほどに全身を負傷した男であった。

 

 その男の手には、袋に収められた人の顔をした猿がいた。白目を剥いて舌を出してだらりと脱力している……おそらく、息絶えているのだろう。動物園で見掛けるような猿とは、根本的に異なる生物であるのが窺えた。

 

 声高に、それでいて怒りを露わに。負傷した身体を辛そうに庇いながら話す男の言い分は『お前たちを騙して食う為に、偽物の試験官として罠に誘導しようとしている』というものであった。

 

 放り捨てるように投げられた袋が解け、包まれていた猿が露わになる。男は、白日の下に晒された『人面猿』という名の魔獣を、言葉巧みに人を騙す厄介なやつだと説明した。

 

 

 本物と、偽物。ここまで連れてきた試験官が偽物で、本物は……負傷した、この男?

 

 

 降って湧いた疑念に、受験生たちは動揺を見せる。無理もないことだ。トンネルを抜けて空の下に出られたことで、ある種の興奮状態が持続してしまっている。普段なら下せる冷静な判断も、この場においては難しい。

 

 もちろん、場の空気に流されることなく冷静に思考を巡らせ、振る舞っている者もいた。だが、そんな者たちも、どちらが本物の試験官かを見分ける術がない。必然と、場の成り行きを静観する以外の手段を取れなかった。

 

「――本物なら、ライセンスカードを持っているはずだ」

 

 だからこそ、ポツリと呟かれたその言葉に、全員が目を向けた。確かに、そうだ。本物の試験官であるならば、プロハンターの証明であるライセンスカードを所持している……はず、だったのだが。

 

「……それも、そいつに盗まれた。着ている服も、何もかも、俺の物を盗みやがったんだ!」

 

 そう、本物と名乗る男が吐き捨てるように答えれば、話は振り出しに戻ってしまった。何故なら、ハンターライセンスには顔写真などはなく、データとしてカードの中に保存されているからだ。

 

 近くに、ハンター協会が運営する施設が有れば。いや、施設でなくとも良い。カードを読み取る機械さえあれば、問答など必要ない。軽くカードを読み取り機に滑らせるだけで、どちらが本物かが分かる。

 

 

 だが……この場には、そのどちらもない。

 

 

 もしかして、これもハンター試験なのだろうか。あるいは、試験官すら予期出来なかった本当のトラブルなのだろうか。疑念が疑念を呼び、必然的に受験生たちの視線がサトツと、傷だらけの男へと向けられていた。

 

 

 ……その中で、やっぱり一人だけ。

 

 

(猿の言う事……猿の言う事……猿の言う事……猿の、いう事……お、おお、おおお……!)

 

 彼女だけが、他の受験生とは異なっていた。

 

 言い争う者たちから離れて背を向け、耳を塞ぎ、唇を噛み締め、顔中に冷や汗が浮かび、じゃらりと両手や腰に巻き付いた鎖が音を立てる。それもこれも、胸中より沸々と湧き起こってくる……憤怒を、必死になって堪えているからだ。

 

 

 いったい、どうしてか。答えは、一つ。

 

 

 猿の言う事と内心にて呟いたのは、他でもない。他の受験生とは違い、彼女は初見で……正確には、傷だらけの男の方が嘘つきであるということを、最初の発言を聞いて瞬時に見破っていたのだ。

 

 付け加えるなら、彼女は傷だらけの男が、袋に包まれた猿の同族……すなわち、人面猿であることも分かっていた。気づいた理由は、死んでいるという嘘をわざわざ猿が吐いているのが分かったからだった。

 

(あ~、もう! どっちでもいいから、さっさとしておくれ! こっちにも我慢の限界ってものがあるんだからさ!)

 

 深呼吸をして、気を静めることに全力を注ぐ。トンパの時もそうだが、『伊吹萃香』の身体は嘘を根本から拒絶する。『彼』の部分があるからこそ、空気を読んで我慢出来ているが……それでも、限度というものがある。

 

 理由なんて、必要ない。とにかく、嫌なのだ。鬼としての性質が、嘘を拒絶する。例えそれが、弱肉強食のうえでは当たり前の嘘であったとしても……どうしても、嫌悪が前に出てしまう。

 

 

 とにかく……とにかくだ。まずは、この怒りを鎮めなくては……まともに、身動きすることすら出来ない。

 

 

 それを一身に、彼女は何度も深呼吸をする。何度も、何度も、何度も、胸中の怒りを全て吐き出すかのように、大きく深呼吸を繰り返す。

 

 そうして、幾ばくかの時間が流れた後。胸中にて沸き立とうとしていた怒りも静まり、ようやく波が過ぎ去ったのを感じ取った彼女は、瞑っていた目を開けて、振り返った。

 

「……あれ?」

 

 直後、彼女は思わず目を瞬かせた。何故かと言えば、彼女の眼前には誰もいなかったからだ。三百名近く居たはずの受験生だけでなく、あれだけ騒いでいた偽物試験官の姿も……ない。

 

 

 ……はて、いったい何処へ行ったのだろうか?

 

 

 小首を傾げながらも辺りを見回すが、やはり、どこにもいない……と。何気なく足元を見やった彼女は、再び小首を傾げる。そこに散らばっているのは、数枚のトランプカードであった。

 

 

 トランプ……うん、トランプだよね、これって。

 

 

 泥の付いたそれを拾って見やれば、確かにトランプだ。特に何かが有るわけでもなく、軽く力を入れれば容易く折れ曲がった。それがどうして、こんな場所に散らばって……いや、待て。それは今、気にすることではない。

 

 とにかく、他の受験生……というか、試験官を探さねばどうにもならない。

 

 そう判断した彼女は、とん、と軽く地を蹴る。と、同時に、彼女の身体は風船のようにふわりと浮いたかと思えば……その身体は青空高くへと飛び上がり、瞬く間に地上百メートル近くにまで浮上した。

 

 

 ――忘れている者も多いと思うが、『伊吹萃香』の身体を持つ彼女は、空を飛べるのだ。

 

 

 今までそれをしなかったのは、言うなれば不便を楽しんでいたからだ。基本的に移動は車か交通機関を使ったりするのだって、のんびりだらだら行きたいからそうしている……ただ、それだけのことなのだ。

 

 なので、特に拘りがあってしなかったわけではない。今みたいに、必要となれば空を飛んで受験生たちを探すことだって、ワケはないのであった……あ、いた。

 

 彼女の視線が、湿原の向こう……ぽつんと見える倉庫にて止まる。アレが二次試験会場なのだろうかは分からないが、多数の受験生の他に……試験官のサトツが立っているのが見えた。

 

 ……ちなみに、これもまた肉体の頑強さ等に隠れて分かり難いが、彼女の動体視力も常人のソレではない。目を凝らせば、望遠鏡並みに彼方の人間を識別することだって、ワケはないのだ。

 

(ん~、なんかズルをしているようで申し訳ない気も……まあいいか)

 

 これで反則負けだったら、それでいいや。

 

 考えることが面倒になった彼女は、えいやと空を飛んでソコへ向かう。弾丸にまでは至らないが、その速度は百数十キロは出ている。小さな身体は風を切って進み、ぐんぐんと二次試験会場と思わしき場所へ……あっ。

 

(いかん、久しぶり過ぎて勝手が――)

 

 このままでは地面に激突する。そう思った時にはもう、遅かった。視界全てが地面に埋め尽くされたかと思えば、どごん、と鈍い音が脳天に響いたのであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………どうやら、頭では酒が抜けたと思っていても、身体にはしっかりアルコールが残っていたようだ。何とも言い表し難い羞恥心を覚えずにはいられなかった彼女は、内心を誤魔化すように身体を……身体を……ん?

 

(ぬ、抜けないぞ、これ)

 

 ぐい、ぐい、と身体を捻ってようやく、膝のあたりまで地面の中へ埋没してしまっている己に気付く。外の様子が分からないので強引に出るわけにもいかず、ばたばたと両足を振る。けれども、一向に身体が抜け出る気配がしない。

 

 地面に突き刺さった頭部……正確には、横に伸びる二本の角が返しとなって引っ掛かっているようだ。いや、感触から考えて、身体の鎖も同様に地面の中に……お、おお?

 

 何かが、両足を掴んだ。と、思った瞬間、グイッと身体が引っ張られ、地面から抜け出られた。その際、勢い余って三回転ほど地面を転がって……仰向けになった。

 

 

 誰かが、引っ張ってくれたのか。

 

 

 身体中に纏わりついた泥に辟易しつつも、泥だらけの手で何とか目元を拭う。そうしてから彼女の視界に映ったのは、こちらを心配そうに……それでいて、興味深そうに見やるゴンとクラピカの両名であった。

 

「あ~、まずはありがとう。それで、ここが二次試験会場で合っているかい?」

「うん、そうだよ。ねえ、凄い勢いで地面にぶつかったけど、大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。ちょいと加減を間違えただけだから」

「……色々と言いたいことはあるが、本当に大丈夫と思っていいんだな?」

 

 身体を起こして、軽く腰を捻る。合わせて、ほんの僅か……傍目にはほとんど分からない程度に身体を霧化させて、身体に付着した泥を落とす。

 

 心配そうに見やるゴンとクラピカに、「安心しなよ、私はこう見えてけっこう頑丈なのさ」彼女は泥に塗れた赤ら顔に笑みを浮かべた後……んん、と耳を澄ませた。

 

 

 ……何だろうか。気のせいじゃなければ、さっきから……妙な音が聞こえる。

 

 

 最初は獣の声かと思っていたが、どうも違う。辺りを見回した彼女は、小首を傾げる。どうしてかといえば、彼女が探知できる範囲に……それらしい獣の気配がなかったからだ。

 

 強いて気配の出所を挙げるとするならば……彼女の視線が、この場に置いては唯一の人工物である倉庫へと向けられる。聞き間違いでなければ、音の出所はあそこだ。

 

(もしかして、次の試験は獣か何かをぶっ飛ばせって感じなのかな? それなら私としては物凄く分かり易くて嬉しいんだけどなあ~)

 

 まあ、何であれやれそうならやればいいし、無理だったら無理なりにやればいいや。

 

 そう結論を出した彼女は、倉庫からゴンたちに視線を戻し……おや、と目を瞬かせた。今更になって気付いたが、一人足りな……いや、二人か、どっちでもいいや。

 

 とにかく、顔ぶれが足りていないことに気付いた彼女は、二人はどうしたとゴンたちに尋ねた。「キルアなら、何かまた向こうに行っちゃった。レオリオは……」すると、ゴンは苦笑しながら背後を指差し、彼女はその先へと視線を向け……あらまあ、と目を瞬かせた。

 

「レオリオ……だったかな? あんた、その顔はどうしたんだい? ずいぶんと男を増した面構えになっているね」

「いちっ、ちち、しら()ーよ。目が()めたら、こんらか()ら」

 

 彼女の視線は、ゴンたちより少しばかり離れた所で、真っ赤に腫れあがった頬の治療を行っているレオリオをばっちり捉えた。何かアクシデントでもあったのか、涙目になって頬に薬を塗っているその様は、実に痛そうであった。

 

 ……虫やら何やらに刺されて腫れた……というより、殴られた痕のように見える。あれはどうしたのかと二人に視線を戻せば、二人は困った様子で苦笑を浮かべると、首を横に振った。

 

 

 ――聞くなって、ことかな?

 

 

 言わんとしていることを察した彼女は、まあいいかなと、それ以上を尋ねるようなことはしなかった……ちょうど、その時。

 

 倉庫の入口(シャッター)に取り付けられている時計の針が、12時を差した。合わせて、ぼーん、と。特に真新しくもない、時刻を知らせるアラームが辺りに鳴り響いた。

 

 

 それは……二次試験開始を知らせるものであった。

 

 

 そして、アラームが鳴り終わるや否や、キリキリキリとシャッターが開き始める。途端、倉庫内より響いていた異音がさらに激しく、大きくなる。

 

 

 怪物か、猛獣か!

 

 

 思わず身構える受験生たち。今すぐにでも対処できるよう、誰も彼もが固唾を呑んで見つめていた。その中には、何が出るのやらと興味深そうにしている彼女の姿があった……けれども。

 

 シャッターが上がり切った、その瞬間。彼女のみならず、その場に集まった者たち全員の緊張が……少しばかり緩んだ。

 

 何故ならば、倉庫の中にいたのは怪物でもなければ猛獣でもなかったからだ。けして大柄とは言い難い桃色髪の女が一人と、三メートル半近い体格になるであろう大男が一人。

 

 女は足を組んだ状態でソファーに座り、その後ろから両足を投げ出した大男がソファーを囲うように座っている。あまりに、見た目が対照的過ぎるからだろうか。その光景はまるで、小人と巨人であった。

 

「――お待たせ!」

 

 想像していたモノとは異なる光景を前に、思わず面食らう受験生たち……を他所に、最初に声を上げたのは女の方であった。

 

「私の名は『メンチ』。そんで、こっちのデカいのが『ブハラ』。私たち美食ハンターの二人が、二次試験の審査員を務めさせてもらうわ」

「美食ハンター……それに、二人? というと、もしかして二次試験は……?」

「察しの通り、私とブハラで一つずつ『料理』の試験を出すわ。この二つをクリアして、初めて二次試験合格よ」

「料理って、おい! ここまで来てソレかよ! 俺たちは料理人になる為に試験を受けているんじゃねえんだぞ!」

「そんなの知ったこっちゃないわよ。い~い? 私たちが一つずつ提示する『料理』を作り、それを私たちが美味しいと認める。それで、晴れて合格……いいわね?」

 

 ポツリと呟かれた受験生の問い掛けに、「言っておくけど、文句があるやつは帰ってもらっていいわよ」メンチはそう反論を押さえつけた。

 

 それでもなお、不満の声は上がったが、ココまで来て帰ってもいいかなと考えている受験生は、おそらく一人を除いて誰もいなかった。ちなみに、その一人は考えるまでもなく、彼女であった。

 

(……ん~、大丈夫なのかねえ?)

 

 そうして、彼女のみならず、受験生の誰もが内心に思うところを抱えたまま、

 

 何処となく不穏な気配と一抹の不安と共に……二次試験が、始まった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、案の定というべきか、何というか。薄らと漂っていた不安が的中したのは、それから二時間も経たない内のことであった。

 

 ――と、いっても、二次試験全てがそうなったわけではない。

 

 二次試験の内の前半部分、大男のブハラが出した試験では問題なかった。彼が出した試験内容(メニュー)は、『豚の丸焼き』。二次試験会場がある周辺の森に生息する、世界一凶暴な豚と言われるグレイト・スタンプの丸焼きを注文(オーダー)された。

 

 このグレイト・スタンプはその巨体や凶暴性もそうだが、何よりも厄介なのは強固な鼻から繰り出されるタックルである。前面全てを覆う程に発達した鼻骨は鋼鉄と間違う程に硬く、まともに直撃すれば常人なら即死する威力を誇る。

 

 

 なので、ここで十数名近い受験生が負傷し、リタイアとなった。

 

 

 だが、これに関しては、何の問題もなかった。何故なら、ブハラはあくまでグレイト・スタンプを捕獲して調理するに至る身体能力や度胸等を評価し、味に関しては特に問題にはしていなかったからだ。

 

 その証拠に、ブハラは一部黒焦げになってお世辞にも美味いとは言い難いやつも、「――美味い!」とあっさり平らげ、調理技術の拙さには全く触れなかった。

 

 これにより、ブハラが提示した豚の丸焼き、二次試験前半の試験においては、総勢71名が合格することとなった。

 

 

 ……が、しかし。

 

 

 問題が起こったのは、後半の試験。すなわち、メンチの出題(オーダー)である『寿司』(とある島国に伝わる民俗料理であり、一般的には全く知られていない)の難度もそうだが、試験官という立場に対するメンチの姿勢であった。

 

 切っ掛けは、とある受験生の料理を軽んじる言葉ではあった。

 

 だが、事の本質はそこではない。有り体にいえば、メンチが試験官としてではなく、一人の料理人として試験官を務めようとしていたのがそもそもの原因であった。

 

 何故なら、メンチは美食を探究するハンターであると同時に、料理人としても広く名の知られた女でもある。加えて、一度口にした味は忘れないと言われる程に優れた舌を持つ、文字通りの生粋の美食家だ。

 

 そんな女が、試験官としてではなく、料理人として、美食家として、純粋に味の評価をすればどうなるか……それは、考えるまでもなく明らかなことで。

 

「――わりぃ、腹いっぱいだわ。よって、二次試験合格者は0! 現時刻にてハンター試験は終了!」

 

 と、なってしまったわけであった。

 

 

 ……当たり前だが、受験生たちは誰一人納得しなかった。彼ら彼女らが目指しているのはハンターであって、料理人ではないからだ。

 

 

 いくら試験官の裁量に任されているとはいえ、世界有数の美食家であるメンチの舌を満足させるだけの腕前なんて……世界中の料理人を探しても、50人にも満たないだろう。

 

 故に、これに関しては同じ試験官であるブハラも「それはいくら何でもあんまりだよ、メンチ……」困った様子で異を唱え、実はこっそり遠くより成り行きを見守っていたサトツも、それは如何なものかと口を挟んだ。

 

 

 事実、客観的に見ればメンチの出した試験には問題が有った。

 

 

 『味』という点についてはブハラも評価はしていたが、ブハラの評価点はそれよりも、凶暴なグレイト・スタンプを時間内に捕獲し調理してくるという過程に重点を置いていた。

 

 

 しかし、メンチの場合は違う。メンチは過程ではなく、結果に全てを置いた。

 

 

 つまり、『メンチが満足出来るレベルの寿司』という、歴代受験生全員合わせても一人合格者が出るか否かという試験を行ったのだ。結果的に0人にするのではなく、始めから0人になるようなことをしたのである。

 

 さすがに、同じ試験官からも異を唱えられて当然であった。

 

「――るっさいわね! 私が不合格っていったら不合格! 試験官である私に逆らうなら、来年からの試験参加の権利を剥奪してやってもいいのよ!」

 

 けれども、メンチも一歩も引かなかった。いや、それどころかさらに激昂した様子で、受験生たちを睨みつける有様であった。

 

 これには……あくまで低姿勢であった受験生たちも、怒りを露わにした。これもまた、当然だ。意に介さないメンチを他所に、少しずつ……確実に、受験生たちの怒気が増してゆく。

 

 それを見て、あくまで静観に徹していたブハラが立ち上がり、メンチの傍にたった。「ブハラ、余計な真似はしないで」途端、不機嫌そうに眉根をしかめたメンチだったが。

 

「――だってさ、俺なら腕をへし折る程度に済ませるけど……メンチがやると、それだけじゃあ済まないだろ?」

 

 ……メンチは答えなかった。しかし、舌打ちだけは返すと、これ以上は問答すらしないと言わんばかりに受験生たちから顔を背けた。

 

 それを見て、受験生たちの中には武器を構える者すらいた。到底、納得出来るものではないと言わんばかりに、正しく一触即発の空気となった……けれども。

 

「ん~、さっきから話を聞いていると、どうもあんたの出した試験はハンターとしてのそれじゃなくて、料理人に対するそれ……だよね?」

 

 妙に間延びした女の子の声が、今にも破裂しようとしていた緊張感を緩めた。自然と、その場にいた誰もが声の出所へ……酒瓶をラッパ飲みする、二本の角を生やした彼女へと向けられた。

 

 

 

 

 

 

 ――ぐびり、ぐびり、ぐびり。

 

 料理酒ではなく本物の清酒(意外と上物)を、喉を鳴らして飲んでゆく。呆気に取られる受験生たちの視線を感じながら、彼女は……静かに、メンチを見つめていた。

 

(ふっつうに試験に落ちるならまだしも、これはねえ……いくら何でも、こいつらが気の毒ってものさ)

 

 げふう、と吐かれたため息はあまりに酒臭く、傍にいた受験生が嫌そうに顔をしかめた。

 

 ……ちなみに、この酒は倉庫の中に用意された調理台(寿司を作る為に用意された仮設のもの)の下より見つけ出した物である。

 

 おそらくは受験生を惑わすフェイクとして用意されたものだろうが、彼女は構うことなく一本を空にすると、小脇に抱えた二本目に手を付けながら……改めて、メンチに問うた。

 

「この試験は、ハンターとしての資質を確かめる試験である。あんたは、誰に対しても胸を張ってそれを言えるのかい?」

「……なに、あんた? 文句なら受け付けないわよ」

「話を逸らすな。あんたは、試験官として正しく試験を行った……そう、胸を張れるかと聞いているんだ」

 

 二本目を半ばまで飲んだ彼女がそう尋ねれば、「――だったら何よ」メンチは苛立ちを隠そうともせず彼女を睨みつけた――のだが。

 

「『嘘』を、つくなよ」

 

 ポツリと、ともすれば聞き逃してしまいそうなぐらいの、静かに放たれた彼女の言葉に……メンチの肩が、ぴくんと震えた。そのうえで、「私はね、『嘘』が嫌いなのさ」彼女はさらに彼女に問うた。

 

「あんたも本当は分かっているんだろ? 自分が行った試験に問題が有ったってさ」

「…………」

「そこの試験官の御二人様も同意見みたいだし、試験のやり直しをしてもいいんじゃないかい?」

「…………」

 

 メンチの返答は、沈黙であった。肯定もせず、否定もしない。けれどもその沈黙が、万の言葉よりもはるかにメンチの内心を語っていた。

 

「……メンチぃ、その子の味方をするわけじゃないけど、俺もそうした方がいいと思う。だって、これじゃあ受験生たちがあんまりだよ。こいつらは、料理人を目指しているわけじゃあないんだよ」

「…………」

「メンチさん、もういいでしょう。料理人としてのあなたの実力も、ハンターとしての純粋な実力も、誰もが認めるところ。ですが、その矜持を受験生たちに押し付けるのは間違いです」

「…………」

「サトツさんの言う通りだよ。寿司の作り方だって漏れちゃったわけだし、改めて試験をやり直した方が皆も納得すると思うよ」

「…………」

「その方がいいと、私も思います。さすがに、料理が出来なかったから試験不合格では後々、試験委員会の方から言われてしまいますよ」

 

 それを好機と思ったのか、ブハラとサトツも説得に加わった。

 

 彼女の言葉通り、この試験そのものに問題があった。それに、試験官としてではなく料理人として参加した点も間違っていたし、そもそもこれでは何の資質を見極めるテストなのかすら、分からない。

 

 だからこそ、試験官を変えるのではなく、再試験。やり方に問題があっただけで、メンチ自身には問題はない。ただ、不慣れであったから……そういう逃げ道を用意したうえで、二人は再試験を行う事を促した。

 

「……再試験は、しない」

「メンチ、でもそれは」

「――私は、再試験はしないって言っているのよ!」

 

 けれども、メンチはそれでも首を縦には振らなかった。半ば、意地になってしまっているのだろう。心底困った様子で顔を見合わせるブハラとサトツを他所に、メンチの眼光が……二本の角を生やした彼女へと向けられた。

 

「あんた、さっきから何様のつもり?」

「何様って、何が?」

「あんたは受験生、私は試験官。何で受験生のあんたが偉そうに私に物を申しているのって聞いてんの」

「そりゃあ、今のあんたは試験官じゃなくて、試験官のフリをした料理人だからね。試験官相手なら言葉を選ぶけど、何処ぞとも知れない料理人にわざわざ敬意を払えってのも、変な話だろう?」

「……は?」

 

 ――試験官のフリをした、料理人。

 

 その言葉が切っ掛けか、あるいは意にも介さない彼女の態度が原因だったのかは、定かではない。確かなのは、彼女が言い放った言葉によって、メンチの堪忍袋の緒がブチリと切れてしまったということ……と、もう一つ。

 

「セコイ手を使って一次試験を突破してきた卑怯者の癖に、ずいぶんとデカい口を叩くじゃないの」

「……卑怯者とは人聞きの悪い。私は何一つルールってやつを破ったりはしていないよ」

 

 いくら、頭に血が昇っていたとはいえ、だ。

 

「黙りなさい、この嘘つき女。本音はただ合格したいだけのくせに、ぐだぐだ能書き垂れたところで、あんたが合格になったりはしないわよ」

 

 喧嘩を売る相手の力量を見落としてしまったのは、どう擁護しても擁護しきれないぐらいの、メンチの落ち度であって。

 

「……はっはっは。そうかい、そうかい……言うに事欠いて、この私を嘘つき呼ばわりと……きたかい」

 

 そして、よりにもよって。ああ、よりにもよって、この世界の誰よりも『嘘』を嫌う彼女に対して、万の罵倒よりも、万の行動よりも、彼女を心底激怒させる『嘘つき』呼ばわりするのは。

 

「――覚悟は、出来ているんだろうね?」

 

 自殺同意書にサインしたも、同じでしかなかった。

 

 ……彼女が『伊吹萃香』としてでもなく、『彼』としてでもなく、彼女としてこの世界にて生活し始めてから、どれ程の月日が流れたのか。それは、彼女自身も覚えていない。

 

 それは彼女が彼女となった、あの大陸での生活があまりに忙しなかったのもあるが、何よりもこの世界……人間たちが暮らすこの地に来てから、刺激的で退屈しない日々を送って来たからだ。

 

 

 その中で、彼女はこれまで……心底激怒しかけたことが二度あった。

 

 

 一度目は、この地に来てすぐのこと。かつての……ネテロとの交戦の前に行われた、攻撃。あの時はその後があまりに良かったから怒りも吹っ飛んだが、何もかもが『嘘』に囲まれたあの車の中は……正直、思い出したくもない。

 

 二度目は……数年ぐらい前だろうか。運び屋として荷物を運んだ先で遭遇した、盗賊団。命の灯火を燃やし尽くした御老人の最後を穢した子供(というには、少し育ってはいたが)に行った、ちょいと本気の仕置き。

 

 

 そして……この日、時刻にして14時19分23秒。

 

 彼女にとっては三度目の怒髪天を衝かせたのは、まだ二十歳そこそこの女。美食ハンターとして名声を得ている、試験官のメンチであった。

 

 

「――っ!?」

 

 故に、いや、皮肉にも、だからこそ最初に行動出来たのは、メンチであった。

 

 目にも留まらぬ一瞬の間に、腰に掛けた鞘から二丁の包丁を抜き取る。次いで、瞬きよりも早く繰り出される白刃の連撃。それは傍にいた二人の試験官の静止が間に合わないほどの速さで、彼女の全身へと降り注いだ……が。

 

 その瞬間、メンチはギョッと目を見開いた。

 

 何故かといえば、刃が一閃も通らなかったからだ。いや、それはもはや通る通らないの話ではない。繰り出した刃が、欠けたのだ。その気になれば鋼鉄にだって傷を付ける自慢の包丁が、文字通り負けたのだ。

 

 僅かばかり動揺を見せたメンチに、彼女が一歩踏み込む――瞬間。彼女の視界が光で埋め尽くされた。アッと思う間もなく目が眩んだ彼女の眼前から、するりとサトツが抜けた――直後。

 

 横合いより放たれた張り手が、彼女の身体を弾き飛ばした。見た目相応に軽い彼女の身体は弾丸のように倉庫の壁をぶち抜き、その向こうへと転がって見えなくなった。

 

 やったのは、ブハラであった。それまで浮かべていた温和な表情はそこにはなく、険しい面持ちで彼女を叩いた手を見やってから、外へと消えたその先へと視線を向けた。

 

「メンチ……油断しちゃ駄目だよ」

「油断なんか、しちゃいないわよ」

 

 素早く体勢を立て直したメンチを守る形で、サトツとブハラが前に出た。突然のことに呆然とするしかない受験生たちを他所に、メンチは調理台の一つから包丁を二本拝借すると、それを構えて二人の横に並び立ち……思い出したように受験生たちへと振り返った。

 

「あんた達、ちょっとアイツを取り押さえるまで試験は一旦中止よ」

「――ちょっと待て、まさか殺すつもりじゃ……」

「そうならないようにはするわよ。危ないから、あんたらは散った散った。いるだけ邪魔なのよ」

 

 誰よりも早く声を荒げたのは、頬を大きく腫らした男、レオリオ。けれども、メンチは気にも留めずに野良犬を追い払うが如く手を振って追いやると、改めて……彼女が消えた先へと目を向けた。

 

「――言い忘れていたわ。二人とも、ありがとう。おかげで助かったわ」

「どういたしまして……と、言いたいところだけど、悪い知らせが一つある」

「なによ?」

「たぶん、俺たちではあの子は倒せない。ぶっ叩いて分かったけど、肉体の頑強さが普通じゃないよ。かなり本気で叩いたけど、あそこまで物凄い手応えなのは初めてだよ」

「――マジで? あんたでも無理なの?」

「無理かな。とてもじゃないけど、あれを壊せる自信がないよ。何をやっているかは知らないけど、全力を出しても……たぶん、傷一つ与えられない」

「ブハラさんで無理なら、私でも無理ですね。ちなみにメンチさん、あなたは?」

「……愛用の包丁でも無理だったから、私も無理。道具を差別する気は毛頭ないけど、さすがにこの包丁では……っ!?」

 

 そこまでメンチが話した辺りで、会話が止んだ。それは、彼女が戻ってきた……からではない。ぼこん、と異音がした途端、倉庫の壁がみるみる崩れ始めたからであった。

 

 その様は、まるで毛虫に食われた葉っぱであった。壁が、屋根が、ガラスが、シャッターが、物凄い勢いで砕け、飛び散ってゆく。だが、四方へと飛び散ったわけではない。

 

 理解の及ばない事態に悲鳴を上げる受験生たちの視線が、飛び散る瓦礫の行方に集まる。そこは、倉庫から数十メートル離れた場所。ボールのように丸まって集められてゆく瓦礫を片手で支えている、彼女へと向けられた。

 

 

 ――彼女は、笑みを浮かべていた。

 

 

 けれども、その笑みはけして友好的なものではなかった。笑みを形作っているのは、表だけ。遠目からでも、その内心が憤怒に満ちているのが明白であった。

 

 

 ――事実、彼女は激怒していた。

 

 

 ただ、『嘘つき』と言われただけ。だが、彼女にとってはそれだけで十分であった。マグマが如く噴き出した怒りが、『彼』の制止を焼き尽くす。ふう、と吐いた溜め息に溢れてしまった内心が、ごおぅ、と炎となって地面を焦がした。

 

(ん~、困った。あの女だけでいいのに、他のやつらもやる気みたいだね)

 

 ある意味『穏健派』である『彼』の制止が、機能していないせいだろう。瓦礫の塊を後ろに放り捨てた彼女の頭にはもう、この場を穏やかに収めようという考えはなくなっていた。

 

(……まあ、いいか。加勢するならまとめて蹴散らせばいいものな)

 

 故に、彼女はさっさと駆け出した。地面が砕けて弾けるほどの踏み込みによって生み出される、突進。その初速は、もはや等身大の弾丸で……瞬きの暇すら与えさせない速度でもって、メンチのすぐ前まで接近――した、その瞬間。

 

 ひゅん、と。

 

 何かが煌めいて、顔に当たった。思わず、彼女はコンクリートの床ごと地面に足を突き刺してその場に静止する。「はやっ――くっ!?」あまりに早すぎて反応が遅れたメンチたちを他所に、そちらへ振り返った。

 

 途端――光が、立て続けに煌めいた。

 

 こつこつこつ、と。硬い何かが顔に当たる。的確に、目元や喉や鼻の下といった急所を中心に何かが当たる。痛みは全くないが、いちいちチカチカと光が瞬いて非常に――ええい、鬱陶しい!

 

「余計な茶々を――」

 

 握り締めた拳が、ぎりぎりと軋む。その間にも、煌めき……その正体は、トランプだ。顔に星やら滴やらのメイクを施した男が、ナイフのように鋭いトランプを投げつけて来ている。

 

 常人ならその一枚一枚が即死の切れ味だろうが、彼女の前ではティッシュよりも頼りない。その証拠に、男が放ったトランプはただの一枚も、彼女の肌に傷を付けていない。

 

 いったい、何がしたいのか。試験官たちに加勢したという割には、気色の悪い笑みからは善意を一切感じない。面白そうだから加勢した……と、いったところなのか……まあ、どっちでもいい。

 

「――入れるんじゃないよ!」

 

 邪魔をするなら、蹴散らすまで。

 

 握り締めた拳を、男に向かって繰り出す。たった、それだけ。しかし、たったそれだけの動作によって押し出された風圧が、ソニックムーブが如き風の刃となって男へと放たれた。

 

「――っ!」

 

 気付いた男は、それをギリギリのところで飛んで避けた。珍妙なメイクをしているが、その身のこなしは常人のソレではなかった。

 

 しかし、それでは彼女から逃げられない。『疎と密を操る程度の能力』によって、彼女は男を引き寄せようとした――が、またもや邪魔が入った。

 

 

 横合いより放たれた、ブハラの張り手であった。

 

 

 今度の張り手は、最初の張り手よりも幾らか強力であった。そう、彼女が認識出来る程度に威力を増した一撃に、彼女は再び弾かれ――たのだが、直角に曲がって地面に着地した。

 

「うっ、おぉ?」

 

 と、同時に、くん、と両足が跳ねた。まるで、見えない何かに引っ張られたかのようで反応出来なかった彼女は、べたん、と床に顔面を打ち付けた。

 

 その背中に降り注ぐ、十数本もの包丁。そして、トランプ。

 

 一つ一つがコンクリートを突き抜けて見えなくなるほどの切れ味であったが、その程度では彼女に傷を付けるなど不可能でしかなく――逆に、彼女を苛立たせるだけであった。

 

 前触れもなく、ぐん、と。空を舞っていたメイク男の身体が、彼女の下へと引き寄せられる。「――っ★!?」男はあらぬ方向へと腕を伸ばし、その結果からなのか僅かばかり引き寄せられる速度が落ちたが……無駄だった。

 

 抵抗空しく、むくりと身体を起こした彼女の足元に男は転がる。と、同時に、男の両足が彼女の身体を何度も蹴りつけたが――彼女の体勢すら、逸らすことは出来ず。

 

「――ふん!」

 

 小さくも、金剛よりも強固な拳が男の腹部にぶち当たった。その威力は凄まじく、鮮血と胃液が入り混じる粘液を、げほぉ、と噴水のように飛び散らし……動かなくなった。

 

 ……辛うじて、貫通しない程度に威力を留めたのは、優しさではない。彼女にとって、この男は喧嘩相手ではなく横入りしてきた邪魔者でしかなかったからだ。

 

 正直、腹立たしい気持ちはある。しかし、邪魔をしてきただけだ。彼女の怒りの矛先を向ける相手では、ない。この怒りは、あの女にだけ向けるべきものであって、この男は違う。

 

 だから、これ以上はしない。これで死ぬのならそれでいいし、手を出した時点でこいつの自業自得。起き上がってまだ戦おうとするのなら、もう手加減などしない。

 

 ただ、それだけでしかなかった。次いで、彼女は受験生たちの顔を見やる。他に余計な邪魔者が手を出して来ないのを見て取った彼女は……構えた。

 

 

 ――鬼符『ミッシングパワー』

 

 

 そう、彼女が内心にて叫んだ瞬間、彼女の身体が巨大化する。その勢いは凄まじく、メキメキと地面を陥没させながら、倉庫の屋根があった位置を越えて数十メートルにまで瞬く間に巨大化した。

 

 只でさえ距離を取っていた受験生たちの中には、「うわああ――っ!?」悲鳴をあげて腰を抜かす者もいたが……メンチを含めた試験官たちは、誰一人彼ら彼女らに注意を払うことが出来なかった。

 

 

 ――何故か?

 

 

 答えは、決まっている。

 

 

 ――只でさえ勝ち目のない相手が、さらに強大になったからだ。

 

 

 メンチたちは、プロだ。専門分野こそ違えど武術の心得は有って、受験生たちが束になっても黙らせるだけの実力を有している。

 

 だからこそ、嫌でも分かってしまう。眼前の怪物は、ただデカくなったわけではないということに。

 

 桁が違うどころの話ではない。例えるなら、単位が変わったのだ。メンチたちの実力を数値化して『千』や『万』で表せるとしたら、彼女の単位は……『億』だ。

 

 もはや、この戦いは鼠と巨象だ。駆け引きだとか経験だとかでは、絶対に覆せない。どうしようもない圧倒的な力量の差に……メンチたちは、動くことすら出来なかった。

 

「ははは……冗談でしょ?」

 

 乾いた笑いが、メンチから零れる。辛うじて笑えたのは、眼前の現実を認識することを、脳が拒否しているからだった。それは、両隣のサトツやブハラも同様で、彼らもまた逃げることすら出来なくなっていた。

 

 

 ――だからといって、彼女は止まらなかった。

 

 

 緩やかに掲げた拳が赤く輝き始めた……と、思ったら、その拳に炎が灯った。

 

 炎は瞬く間に大きく激しく燃え上がりながら成長し、ものの十数秒後には……倉庫(もう、床ぐらいしか残っていないが)全てを覆い尽くせるだけの、巨大な火球へと姿を変えた。

 

 まるで、小さな太陽だ。橙色の光と共に零れる放熱は凄まじく、直視することすら難しい。その余波を受けた彼女の足元に繁茂していた草木は煙を立ち昇らせ、辺りには焦げ臭さすら漂い始めている。

 

 

 直撃すれば、即死は必至。直撃しなくとも、その熱気でほぼ即死。

 

 

 だが、誰もその場を動かない。いや、正確には、動けない。気付いた受験生たちもそうだが、メンチたち試験官も同様に……彼女の下へ引き寄せられているのだ。

 

 逃げることも出来ず、かといって、挑んだ所で勝機はない。

 

 故に、誰も彼もが動けない。試験官たちは、自分たちの死を。受験生たちも、自分たちの死を。もうすぐ訪れるであろう『死』を前に……誰もが、無意識の内に覚悟を決めるしか出来なかった。

 

「――ゴン!?」

「――おい待て、ゴン!」

 

 ……だが、たった一人だけ。誰もが動けない最中、一人だけ彼女の許へと飛び出した少年は、浴びせられる熱気を堪え、髪をぷすぷすと焦がしながらも……彼女の前へと来ると。

 

「――ストップ!! 止まって!! ちょっとタンマぁぁぁあああ!」

 

 両腕を広げ、制止の雄叫びを上げたのであった。

 

 

 ――へぁ!?

 

 

 これには、思わず彼女も面食らった。と、同時に、彼女の中にある『彼』が、この機を逃さんと言わんばかりに『落ち着け』と精神に働きかけてくる。

 

 

 ……そのおかげか、だいたい4秒ほどだろうか。

 

 

 自覚出来るぐらいに、怒りが静まって行くのが分かった。次いで、呆然とゴンを見下ろしていた彼女は、辛そうにするゴンの様子に気づき、慌てて頭上に掲げていた高熱球を散らして消した。

 

 途端、ゴンはその場に膝をついて大きく息を荒げた。それを見て、幾分か居心地悪そうに視線をさ迷わせた彼女は……その場に屈んで、グイッと顔を近づけた。

 

『どうして、飛び出して来たんだい? まさか、自分ならどうにか出来ると思っていたのかい?』

 

 ゴンは、すぐには答えなかった。はあはあ、と、少しの間ゴンは息を整えると……汗に塗れた顔で見上げた。

 

「どうにか出来るなんて、思ってないよ」

『じゃあ、どうして?』

「だって、二本角さんがあのまま暴れたら試験が中止になっちゃうから」

『……あっ』

 

 言われて、彼女はほぼ更地となった二次試験会場と、今しがた団子にしてしまった瓦礫の塊を交互に見やり……申し訳なさそうに頭を掻いた。

 

 

 

 

 

 ――そうじゃな。あのまま暴れておったら、今年の試験は中止にせざるを得なかったじゃろうな。

 

 

 

 

 

 すると、まるでそれを待っていたかのように辺りに響いたのは、老人の男の声だった。突然のことに面食らった彼女とゴンは周囲を見回し……頭上を見やった。

 

 二人の視線の先に有ったのは、一台の飛行船であった。

 

 ガス袋に印字された、ハンター協会を表すマーク。それはつまり、ハンター試験の運営委員が出張って来たということで。呆気に取られる二人を他所に、飛行船より影が一つ飛び出し……轟音を立てて、二人の眼前にて着地した。

 

 そいつは、ちょんまげを生やした老人であった。

 

 百数十メートル上空から、パラシュートも使わずに。常人でなくとも即死の高さだというのに、怪我一つ負った様子もなくトストスと下駄で地面を踏みしめ……膝を付くゴンへ、手を伸ばした。

 

「少年、立てるか? 無理そうなら治療してやるぞい?」

「う、うん、ありがとう。でも俺、試験に合格したいから気持ちだけでいいよ」

「ほっほっほ、結構。元気とやせ我慢は若者の特権じゃて」

 

 自力で立ち上がったゴンを見て、老人は感慨深そうに笑った。「あの、お爺さんは誰なの?」初対面であるゴンは不思議そうに小首を傾げ、率直に尋ねた。

 

「んん? 何じゃ、このハンサムなワシの顔を知らんのか?」

「うん、知らない……もしかして、これも試験になるの?」

「ほほほ、ならんならん。ワシはハンター協会の会長を務めておる、アイザック・ネテロじゃ」

 

 ……アイザック……ネテロ?

 

 その名を耳にした、瞬間。彼女の目が、大きく見開かれた。

 

 合わせて、巨大化していた彼女の身体が散ってゆく。あっ、と傍にいるゴンが声を上げた間にも縮み続け……ものの数秒後には、元のサイズに戻っていた。

 

「…………」

 

 彼女は、何も言わなかった。忘れている……そんなわけが、ない。ただ、彼女はネテロを見つめた。ただ、透明な眼差しをネテロへと向けた。

 

「…………」

 

 ネテロも、何も言わなかった。忘れている……そんなわけも、ない。その証拠に、ネテロは彼女の眼差しを真っ向から見返した。透明な眼差しを、黙って受け入れた。

 

 互いの出会いは、偶然の産物でしかなかった。お互いが名を知らず、お互いが名乗らず、お互いがお互いの為だけに拳を振るい……彼女が、立っていた。

 

 

 あの時の出会いが偶然であったのなら、此度の再会もまた、偶然であった。

 

 彼女が、試験が行われる町に仕事へ行かなければ。試験会場に、彼女の気を引くゴンという名の少年がいなければ。メンチという、騒動の発端となる相手がいなければ。

 

 もしかしたら、この再会はなかったのかもしれない。気紛れで試験を止めていれば、メンチの試験がこのような形でなければ、あるいは彼女が試験に落ちれば……この瞬間は、訪れなかっただろう。

 

 ……あの時から、どれ程の月日が経っただろうか。

 

 

 彼女は、変わらない。髪の色は変わらず、頬の張りは変わらず、手足の瑞々しさはそのままに……何もかもがあの時のまま、彼女はネテロの前に立っている。

 

 対して、ネテロは年老いた。内より漲る精力こそあの頃のままだが、その身体は目に見えて小さくなっている。けれども変わらぬ瞳の色で、彼女の前に立っている。

 

 

 二人は……いや、違う。一人の人間と、一人の鬼は、ただ静かに沈黙を以って互いを見つめ、そして――。

 

 

「お前は、変わらんな」

「そういうあんたは、老いたね」

 

 

 ――交わした最初の言葉は、そんなありきたりなもので。

 

 

「人はいずれ老いる。賢人であろうと愚者であろうと、それは等しく平等。老いるからこそ、人は全力を注ぐ」

「そうだね、人は老いる。だからこそ、例え迷いの霧中を突き進むが如き苦難であろうと、どこまでも実直に突き進むやつもいる」

「ふふふふ、そうじゃな。この仕事に就いておると、つくづく痛感させられる。己の進んだ道もまた、数多に広がる道の、ただの一つに過ぎないということにのう」

「――羨ましいね。心から妬ましくて、それでいて清々しい。私にはない、どこにもない。器も、中身も、全てがちぐはぐな私にとって、あんたは……本当に眩しく映る」

「ほっほ、お前さんから羨ましがられるなんぞ、世界広しといえどワシぐらいじゃろうな。幾千の黄金よりも、値打ちがあるというものよな」

 

 

 ともすれば、世間話のように。あるいは、互いの想いを擦り合わせるかのように、幾つかの言葉を重ねた後。

 

 

「……本当に、やらないのかい? 天がもたらした、二度とない機会かもしれないよ?」

「今日のワシは、トラブル処理係みたいなものじゃ。あの時のワシも、今のワシも、どうやらお前とは縁がないようじゃ。おそらく、それが天命なのじゃろうな」

「ふ~ん……あんたがそう決めたのであれば、私はもう言わない。でも、あの時のあんたも、今のあんたも、ままならないやつだね」

「なあに、ままならないなりに、相応の楽しみもあるというものじゃ。それに、あの時はあの時で意味はあったぞい……ほれ、この通り、な」

 

 そう、互いの何かを確かめ合うかのように、互いに笑みを向けた後……ネテロの皺だらけの手が、成り行きを見守っているゴンの頭に置かれた。

 

「え、あの、なに?」

「研鑽を止めた覚えはないし、あの時と志は何も変わってはおらぬ。じゃが、こうして芽吹こうとする可能性を眺める楽しみに気付けたのは、あの戦いのおかげじゃな」

「あの、ちょっと恥ずかしいよ……」

「敗色濃い難敵に己が培った全てを出し切って敗れて力尽きる。なんと、幸せな最期か。じゃが、大木への片鱗を覗かせる若葉に囲まれ、畳の上で死ぬのも、悪くはない」

 

 恥ずかしがるゴンから手を離したネテロは、そうして初めて……二カッと、彼女に向かって歯を見せて笑った。

 

「――受験番号406番!」

「……あ、私か」

 

 一拍置いて、自分が呼ばれていることに気付いた彼女は、居住まいを正した。

 

「既に分かっておるじゃろうが、試験官への暴行並びに試験そのものへの著しい妨害行為。結果、二次試験会場壊滅に留まらず、試験そのものを中止に追い込みかねない事態にまで発展しかけた……異論は、ないな?」

「全くないよ。理由は何であれ、手を出したのは事実さ」

「気持ちは分からんでもない。しかし、やり過ぎじゃ。多少の揉め事なら許容はするが、もはや多少では収まらん。故に、ワシはお主を罰せねばならん……異論は、ないな?」

「それも――ゴン、あんたは黙ってな。これは、お前が口出しするところじゃないよ」

 

 今にも口を挟みそうだったゴンを、ギリギリのところで制する。これっぽっちも納得出来ていないと言わんばかりの不服そうな顔を見て、「ケジメは、ケジメさ」彼女は笑みを浮かべると……改めて、ネテロを見上げ。

 

「――よって、現時刻をもって、お主は二次試験失格とする。異論は、ないな?」

「もちろん、異論なんてないさ」

 

 静かに、沙汰を受け入れた彼女は、胸元より外したプレートをネテロへと差し出した。こうして、彼女のハンター試験はあっけなく終わったのであった。

 

 

 

 




はい、ハンター試験編終わり! 撤収!



以下、一人語り



いや、まあ、正直なところアレですよ。原作見ていると、彼女が最終試験まで残れる気がしないんですよね。実力不足云々ではなく、途中でキレて何もかもぶち壊してしまう意味で

漫画版ですら騙される方が悪いってスタンスなのに、仮にアニメ版の話を入れたら……たぶん、みんな死ぬ。

トンパは死ななかったですけど、アレですよ。仮に3次試験でゴンたちと一緒に行動することになったら、確実にトンパを殺します
ゴンたちがいくら止めようが、彼女は止まりません。それこそ、塔そのものをぶっ壊してしまう可能性すらあるでしょう

元々やる気はないし、メンチのような一方的なやり方には真っ向から皮肉を混ぜて言い返すので、仮に落ちるとしたら二次試験かな……ていう感じで、二次試験敗退です、はい

また、ネテロとは対決はしません
いや、機会に恵まれていたなら対決はしていたでしょう

でも、最初の時もそうですけど、結局はしがらみやタイミングの悪さから心残りを払拭できないままの戦いになってしまう → じゃあ、そういうめぐりあわせじゃなかった

みたいな感じでネテロは納得するような気がするんですよ。心のどこかで「惜しかったかな?」みたいなことを考えながらも、そういう天運だったと素直に諦める感じですかね

強い相手と戦うことに喜びを見出す爺ちゃんですけど、だからといって、嫌がる相手を無理やり戦うような戦闘狂ってわけではないし、原作ではフラストレーションを溜めていたけど、出された両手に淀みなく握手を返すようになっていたし、困った性格ではあるけど根は善人……それが、私が抱くネテロ像です


なので、メルエムと出会って感謝したのは、その強さもそうですけど、思う存分戦って(殺しても)もよい、人類を明確に食料とみなしている悪者だったから……なのだと思います
戦い前の問答にて「蟻が~上から~」というのも、中途半端な善性を出し始めたことに対する苛立ち(明確な敵ではなくなってしまう)が混じっていたのかな~、と思っています




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第九話:闇のソナタと鬼娘

途中、生理的嫌悪を催すような感じのグロい描写がありますが、気になる方は飛ばしても大丈夫です。いちおう、あとがきに話の流れを書きます

グロ要素 「かたつむり」






 

 

 

 

 

 人類が、『暗黒大陸』と名付けた、人類世界を中心にして、外に広がるメビウス湖の、その先にある大地。そこは、一言でいえば神話の世界にしか存在し得ない、人知を超えた超巨大な自然であった。

 

 

 巨大な自然とは、文字通り全てが巨大なのだ。

 

 

 立ち並ぶ木々のどれもが高く、高い物で300メートル近く、低いのでも20メートルにも達している。その太さは大人が30人がかりでも囲えない。人類が暮らす世界であれば国宝にも認定されるサイズが、この世界では若木扱いなのだ。

 

 人知を超えたというのも、文字通り、この大地にある全てが人類の常識の外ということ。そして、人類の如何なる技術と力を持ってしても……この大地では三日と生きてはいられないからである。

 

 例を挙げればキリはないが、まず、この大地においては、『肉食植物』という存在はけして珍しくはない。いや、それどころか、掃いて捨てた先で詰まりが起こるぐらいに、いる。

 

 

 人類世界においてはただ悠然と存在して沈黙し続ける樹木も、ここでは違う。

 

 

 一見すればただぶら下がっているだけの果実も、その中身は麻薬に似た成分がぎっしり。一度でも食べれば致死量に至るまで食べ続け……最後は、ゆっくりと伸ばされた樹木の根に絡め取られ、体液を根こそぎ吸い取られてしまう。

 

 また、樹木の栄養としての罠だけではない。『寄生植物』というのも、この世界では当然のように有り触れた存在である。

 

 

 例えば、鳥に種ごと果実を食べさせ、その糞によって増殖してゆくのは繁殖においてはポピュラーなやり方だが、この大地では違う。こういった木々が実らせる種も同様に、誤って口にすれば最後、待っているのは確実な死だ。

 

 体内に入り込んだことを感知した種が、爆発的な勢いで根を全身に伸ばす。異変に気付いた時にはもう手遅れであり、全身へと根を伸ばされる際の激痛に目を向けた瞬間、皮膚を突き破った根に絡め取られ、墜落し、肥料となる。

 

 

 例えば、人の服や獣などに貼り付いて生息域を広げる、通称『ひっつき虫』と呼ばれる種。これもまた、この大地では『寄生植物』の一種であり、引っ付くなどという生易しいものではない。

 

 大きさこそ2、3センチの小さい物(この大地では、極小といっても過言ではない)だが、獲物に貼り付いた瞬間、牙を向く。引っ付く為の棘が瞬く間に表皮を突き破って体内へと入り込み……体液を根こそぎ吸い上げてしまうのだ。

 

 ものの数分もすれば、その大きさは20センチ近くまでにもなる。それが、数十数百も張り付けば……人間なんぞ、5分と持たず失血死するだろう。

 

 ある意味それは、種の形をしたヒルなのかもしれない。ただ、これは植物。ヒルとは違い、水辺に限らず至る所に生息し、塩を浴びてもビクともしない。寄生……いや、『吸血植物』と言っても過言ではない。

 

 

 では、果実等に手を出さなければ安心かといえば、そうでもない。

 

 言うなればそれは、種のショットガン。人類世界にも種(正確には、種を包む袋)を破裂させることで遠くに飛ばし、増殖してゆく植物もあるが、この大地では違う。

 

 

 勢いよく飛ばされた種で、人の頭が吹っ飛ぶ。

 

 

 いったい何を言っているのかと思われそうだが、この大地ではそう珍しくはない。遠くに飛ばす等という生易しいものではなく、種で獲物を仕留め、それを肥料にして成長する。そんな、『弾丸植物』もいる。

 

 他にも、体内に入り込んだ種が獲物の脳へと根を伸ばし、その身体を操って意図的に遠くへと移動させ、生息範囲を広げるモノもいる。種自らが獲物の体内で分裂し、獲物ごと爆発することで広がることもある。

 

 

 そんな化け物染みた植物が、この大地ではそう珍しくはない存在なのだ。

 

 

 はっきり言えば、この大地に生息する全てが、人類には不適合なのだ。種だけではない。単純に資源として見ても、この大地の植物はだいたいにして非常に頑丈過ぎるが故に、人類には利用することが出来ない。

 

 何気なく生えている雑草の茎が、子供の腕を思わせる程に分厚く、長い。色も黒色を思わせる程に濃く、それが植物だという前提の知識がなければ、まるで黒い帯が転がっていると思ったことだろう。

 

 言うなれば、鋼鉄の植物だ。全てがそうであるというわけではないが、だいたいにして、とにかく硬く、それでいて強い。熱にも寒さにも強く、生命力に優れ過ぎている。

 

 仮に、この大地では有り触れた雑草を一束、人類たちが暮らす世界に植え付けたとしよう。そうしたら、いったいどうなるのか?

 

 

 答えは単純明快。植えられた周辺の植生が、壊滅する。

 

 

 いや、植生だけではない。その植物を食べる動物も壊滅的な被害を受け……結果、人類に対しても無視できないダメージを残すことになるだろう。

 

 

 そして、そんな植物を捕食する、この大地の動物たち。

 

 

 それはもはや、動物で言い表してよい存在ではない。鋼鉄並みに強固な枝葉を容易く噛み砕き、高層ビルすら支えるであろう太い幹すらも、丸のみして消化する……正しく、怪物。

 

 そんなやつらが、この大地……『暗黒大陸』において、激しい生存競争を繰り広げている。昨日の覇者が、今日の覇者の餌。今日の覇者が、明日の覇者の餌。

 

 毎日、それが行われている。それ故に、『暗黒大陸』と人類より名付けられたその大地で暮らす怪物たちは、常識からは考えられないような進化を遂げていた。

 

 大きいやつは、より大きく強く。硬いやつは、より硬く頑丈に。小さいものは、より素早く増えて。動けないやつは、より狡猾かつ残忍に。

 

 姿形の区別なく、その大地で生きるモノたちはみな捕食者として、被捕食者として、太古より続けられている生存競争を、今日も繰り広げていた。

 

 

 

 

 ……そんな、『暗黒大陸』の西側。

 

 

 

 

 人類たちが描いた世界地図の、左側の外。位置的には大陸側というよりメビウス湖の方に近しい場所に、その日……一つの部外者(イレギュラー)が姿を見せていた。

 

 そいつを一言で言い表すとするなら、『全長500メートルにも達する巨大な女の子』であった。だが、ただの女の子(サイズ云々は別として)でもなかった。

 

 というのも、だ。この女の子……彼女は『二本角』と人々より呼ばれているのだが、その見た目も普通の女の子とは異なっていた。

 

 頭部の左右より伸びる、二本の巨大角。上はノースリーブ、下はロングスカート、履物は革靴。幾つものフリルによってふわりと広がるスカートの腰と両手には、鎖と思しき物体が一つずつ繋がっている。

 

 おそらく、何かしらの意味はあるのだろう。じゃらららと木々と擦れる鎖の先端は、それぞれ球体、三角錐、四角い形の分銅へと繋がっており、女の子が動き回るたびに、どかんどかんと周囲を壊していた。

 

 ……だが、壊しているのは何も彼女だけではなかった。むしろ彼女は被害者であり、彼女が暴れることになったのは他でもない……彼女に襲い掛かってきた、この大地に住まう怪物のせいであった。

 

 

 ――しゅるり、と。

 

 

 さっさとこの場を離れようとした彼女の身体に巻きつく、幾本もの何か。彼女自身が巨体故に細長く見えるが、その太さは少なく見積もっても相当に分厚い。直径でも、数メートルはあるだろう。

 

 それが、息つく間もなく地面から飛び出しては、次々彼女に巻きつき、その身体をその場に押さえつけようとする。その勢いは凄まじく、巻き込まれた周辺の木々が一瞬にして地面へと倒され、真っ二つに折れてゆく。

 

 

 しかし、その程度では彼女を拘束することは出来ない。

 

 

 彼女が「――よいしょぉ!」一声あげながら振り払えば、ぶちぶちぶちりと細長い何かは千切れた。その断面から青白い粘液が噴き出し、彼女の身体を青色に染めた……が、まだだ。

 

 千切れた傍から、振り払った傍から、新たな細長いやつが巻きつき、彼女を押さえ付けようとする。ぼこんぼこん、とまるで爆弾が破裂したかのような異音と共に地面から飛び出しては、彼女に襲い掛かってくる。

 

 

 ――まるで、降り注ぐ雨粒を振り払うかのような感覚だと、彼女は思った。

 

 

 おそらく、この細長いのは触手だ。何処から伸ばしているのかは分からないが、コレで相手を絞め殺すのだろう。あいにく、コレで死ぬ可能性は全くないが……非常に鬱陶しい。

 

 何せ、ここにある触手を全て細切れにしたところで、肝心の本体にはほとんどダメージがないからだ。

 

 その証拠に、本体を引きずり出そうと思って掴んだ触手が、片っ端から勝手に千切れてしまう。それはつまり、この触手は相手の手足であると同時に、何時でも切り離せる尻尾でもあるということ。

 

 物理的な消耗はするだろうが、次から次へと自分から切り離すぐらいなのだ。消耗そのものは、微々たるものと見て間違いない。こちらを仕留めて食べれば、十二分にお釣りが出る程度のものなのだろう。

 

 見方を変えれば、相手が諦めて彼女から離れるまで、この攻撃が止むことは有り得ないということで。これ程引き千切ってもまだ余力を残す辺り……並の獲物では、気を逸らすことすら出来ないだろう。

 

 おそらく、この触手の本体は彼女以上に巨体だ。それでいて、食欲旺盛。でなければ、こうまでしつこく彼女に襲い掛かってはこないだろうし、とっくに諦めているはずだ。

 

 

 ――ええい、鬱陶しい!

 

 

 跳ねるようにして触手の網から顔を出した彼女は、直後に舌打ちした。何故なら、地平線の彼方にて巨大怪物の姿を見つけたが、彼女の周辺にはその姿が全くなかったからだ。

 

(――くっそ! こういう時に限って何もいねぇ!)

 

 下手に巨大化したのが、仇となってしまった。巨体であるというのは、それだけで武器にもなり、威圧にもなる。おかげで有象無象の雑魚が勝手に怯えて離れてゆくから楽なのだが……こういう時だけは、逆だ。

 

 身体が大きい分、食べる量も相当に多いということなのだろう。今の彼女は、相応に大きい。より大量の獲物を捕らえなければならない存在からすれば、彼女は……降って湧いた餌、というわけだ。

 

 

 ……腹を空かせた巨大怪物の触手から、逃げ切ることは不可能であった。

 

 

 普段は空を飛べる彼女も、巨大化した今の状態では無理。同様に、霧状になるのも今は無理。どちらをするにも、一度は小さくならなくてはならない。

 

 しかし、だからといって小さくなれば……触手に呑み込まれ、何処ぞへと繋がっている本体から脱出するという面倒なことをしなければならない。

 

(ああもう、あんまりやりたくないけど――そうも言っていられないか!)

 

 このままでは埒が明かないし、どちらを選んでも結局は面倒な状況に陥ってしまうことを察した彼女は、めきめきと腕に血管が浮き出る程にまで力を込めると……それを、地面へと振り下ろした。

 

 

 ――せ~の……いち!

 

 

 どん、と。衝撃と共に、地面がたわむ。その光景を遠くより見ていた有象無象の小さき怪物たちが理解した、その瞬間。堪え切れなくなった破壊の力が逆流し、大噴火が如き勢いで大地を空の彼方へと弾き出した。

 

 その光景を例えるなら、核爆発であった。

 

 人類が暮らすあの場所では絶対に出せない、渾身の一撃。周囲の被害を全く考慮せず、本気で殺すつもりで放ったその拳は正しく必殺の一撃で、彼女もまた怪物であることの証左であった。

 

 その、一発目。あまりの威力に大地が隆起し、周辺の木々がその下の土砂ごと吹っ飛ばされる。衝撃波となった力は隠れ潜んでいた小さき者たちを圧殺し、爆音と共に『暗黒大陸』の一部にされていった……と。

 

 

 ――にぃ!

 

 

 爆心地(クレーター)の中心に降り立った彼女は、再び振り上げた拳を力いっぱい振り下ろした。どん、と大地が揺れた直後、二度目の衝撃と共に大地が削り取られる。

 

 その一撃は、先ほどよりもはっきりと、地中を破壊の力が放射状に広がってゆく。それは地下百数十メートルにて隠れ潜んでいた数多の怪物を瞬時に即死させる威力が有った。

 

 3秒、4秒、5秒。衝撃の波が離れてゆくに合わせて、彼女は三発目の充填を終える。

 

 既に逃げたか、これで死んだか、あるいは動けなくなっただけか。そのどれかは分からないが、そのどれでも構わないと彼女は思って――そして。

 

 

 遠いのに……近い。そんな、何か。

 

 

 地響きが如き激しさと力強さを持って響き渡る、よく分からない生物の怒声。文字にすれば、ぎょああ、とも、げえああ、とも、表すことが出来るのかもしれない。

 

 その声を耳にした彼女は、ゆっくりとそちらへ目を向ける。その視線の先にいたのは、間欠泉が如き勢いで地面より飛び出した……超巨大ミミズであった。

 

 おそらく、アレが触手の本体だ。

 

 反射的に、彼女はそう判断した。正確な長さは分からないが、もしかしたらキロメートルに達しているかもしれない……そんな馬鹿げたミミズの頭部と思わしき部分が、こちらを向いた。

 

 ――瞬間、ミミズの身体が彼女へと飛んだ。

 ――いや、違う。飛んだのではない、引き寄せられているのだ。

 

 ミミズは、確かに苛立ってはいた。何時までも抵抗を続ける獲物から、思わぬ反撃を受けてダメージも受けた。追撃されたことで堪らず地表へも姿を見せてしまった。

 

 だが、ミミズとて馬鹿ではない。伊達に、これほどの巨体になるまで生存競争を生き延びたわけではない。手痛い結果しか残らなくとも、足掻いても敵わぬ相手を見定めるだけの知性と理性を有していた。

 

 故に、ミミズは逃げようとした。しかし、どうしたことか……逃げられない。

 

 まるで、巨大な重力源に引き寄せられているかのように、そこへと引っ張られてしまう。踏ん張ろうと努力はするが、ミミズは呆気なく彼女の下へと引き寄せられると。

 

 

 ――さん!

 

 

 そんな、掛け声と共に放たれた渾身の右ストレートパンチ。構えも糞もないそれは、信じ難い破壊力を伴ってミミズの頭部を砕き……その尻尾に至るまで衝撃を伝え、その全てを肉片に変えたのであった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………奥義『三歩壊廃(さんぽかいはい)』。

 

 それは、東方Projectではなくその派生作品にて登場する『伊吹萃香』の技の一つ。正式名称は、四天王奥義『三歩壊廃』。

 

 何時ぞやにて披露した『三歩必殺』が、鬼の脚力を持って行う本気の足踏み三連発であるなら、今しがた行ったのは、鬼の腕力を持って放つ本気のパンチ三連打。

 

 直撃すれば、ほらこの通り。『暗黒大陸』の怪物とて、死を免れない。いや、この場合は『伊吹萃香』の腕力を以ってしなければどうにもならない点に目を向け……まあいい。

 

 とにかく、完全にミミズが死んだのを見やった彼女は、大きく息を吐いて脱力した。

 

 直後、呆けている場合ではないことを思い出し、その場を離れようと――した、その瞬間、前後左右の四方の地面から柱が飛び出した。

 

「――え?」

 

 あまりに想定外のことに呆気に取られる彼女を他所に、柱は瞬く間に空へと伸びてゆく。合わせて、大きく太くなって……気付いた彼女が逃げ出そうと思った時にはもう、遅かった。

 

 柱と思ったそれは、四つのクチバシであった。今しがた仕留めたミミズすら小さく思えてしまう程の、超巨大な怪物のクチバシ。傘を閉じるかのように狭まるそれらは……彼女ごと、その下の地面をも包んでしまった。

 

 

 直後、ごくん、と。

 

 

 地面そのものが脈動したかのような、異音。間を置いてから、大地が揺れる。地響きと共に、一つとなった柱がせり上がって地中より姿を見せたのは……例えるなら、殻に覆われたイカであった。

 

 

 ……そう、イカだ。

 

 

 あくまで近しい姿がソレであって、イカの見た目をしているわけではないが、とにかくイカだ。直視すれば精神を病んでしまいそうな外観のそいつは、悠々自適な様子で体格に見合う巨大な眼孔で辺りを見回すと、ゆっくりと……ゆっくり、と?

 

 不意に、イカの動きが止まった。イカの巨大な眼孔も、何かを確かめるかのように再び辺りを見回した。しかし、周囲にはその他の怪物の姿も気配もない。だからなのか、イカはしばし目を瞬かせた後、今度こそと言わんばかりにその身を地中へ――あっ!?

 

 

 仮にイカが人語を理解して話すことが出来たなら、そんな驚きの声を上げたことだろう。

 

 

 だが、イカは人語を理解していなかった。イカに出来たのは、せいぜいが生物とは思えない、名状しがたき野太い悲鳴をあげるぐらいであり……辛うじて呻き声だと認識出来る異音を発した後、静かに動きを止めた。

 

 ……イカに何が起こったのか。答えは、ただ一つ……息絶えたのだ。

 ……では、いったい何が原因でこれ程の巨大生物が突然息絶えたのか。

 

 事前に摂取してしまった毒か、あるいは事前に受けた傷か、それとも偶発的に寿命を迎えてしまったのか。考えられる要因はこの3つだろうが……正解は、このどれでもない。

 

 

 ……答えは、すぐに出た。

 

 

 変化の始まりは、空へと向かって閉じられていたイカの口から漏れだした、黒煙であった。目を凝らさなければ分からないぐらいの僅かな変化は、ものの30秒も過ぎた頃には、遠目からでもはっきり分かる程になっていた。

 

 黒煙には、近づくことすら出来ない程の熱気が伴っていた。と、同時に、辺りに漂いだす、泥と硫黄とが混じり合って溶けて、それが焦げ付いたかのような刺激臭……と。

 

 次の瞬間、イカの口が内側から弾けた。その様は、まるで花開いた(恐ろしく汚い光景だが)かのようで。遠目からでも分かる程の熱量と共に噴き出した赤い溶液が、じゅう、と辺りに落ちて黒煙を立ち昇らせた。

 

 

 ――火山口を思わせる状態となったイカの口部より、一つの巨大な塊が飛び出した。言うまでもなく、少し前に呑み込まれた彼女であった。

 

 

 何をしたのか……その答えが、コレ。超高熱の炎を吹いて、一緒に呑み込まれていた土砂ごとイカを体内から焼き尽くし、食われたままイカを仕留めたのである。

 

 なので、彼女は無傷であった。何事も無かったかのようにイカから離れた場所にて着地をすると、ぶるぶると身体を振って……身体に纏わりついた溶岩を落とすと、改めてため息を零した。

 

「ほん――とうに、こいつら血に飢え過ぎだろ……いいかげん、気分が滅入ってきたよ……」

 

 やれやれ……そういってその場に腰を下ろした彼女は、「あー、酒が飲みたいなあー」ごろりと横になった。こんな場所で大人しくしていたらまた襲われそうだが、今だけは……もう少しこうしていたいと思った。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………あっちに帰りたいなあ。

 

 

 そう、ポツリと呟いた彼女の言葉に、返事はない。それは分かっているが、分かっていても……少しばかり寂しく思う気持ちを抑えられない。

 

「……どうやって、帰ればいいのかねえ」

 

 気付けば、彼女は内心を口に出していた。

 

 彼女は、つい数時間前までは『暗黒大陸』にはいなかった。人類世界にて酒を食らい、のんびり運び屋の仕事に精を出していた……その彼女が、どうしてこんな場所に居るのか。

 

 それを語るには……かれこれ数時間前のことを説明する必要があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 マフィアの影響力は強いが、夜の世界に足を踏み入れなければ何もしてこない程度には、昼と夜の境がしっかりと区別された街。田舎者がまず一旗揚げる為に来るとも言われるその街の名は、『メイドリック』。

 

 

 ――その街にある、とあるマンションの一室に彼女の寝床がある。そして、その日、彼女は朝から何とも言えない胸騒ぎを覚えていた。

 

 

 別に、何か不穏な前兆が起こったわけではない。黒猫が前を過ることはなかったし、靴ひもが千切れることもなか……あ、いや、靴ひものある靴を履いていないから関係ないが、とにかくそういった事は何も起こらなかった。

 

 だが、彼女は朝から言葉には言い表せない、直感にも似た何かを確かに抱いていた。

 

 だから、なのか。彼女はその日、何処にも出かけようとはしなかった。当然、仕事も受けようとは思わず、部屋の一室に溜め込んでいる大量の酒瓶を、朝から片っ端に空けていった。

 

 

 ……けれども、不思議な事に。この日の彼女は、どうしてか全く酒に酔えなかった。

 

 

 アルコールの作用は、しっかり働いてはいる。思考が霞み、ぼんやりと身体が熱を持つ。一定量を摂取してから現れる酒の初期症状は、彼女も確かに覚えていた……が、それだけであった。

 

 どうしても、そこから先に行けないのだ。

 

 何時もなら起きるはずのほろ酔い特有の昂揚感が、全く起こらない。飲んでも飲んでも、まるでストッパーが掛かったかのようにそこで止まってしまう。終いには酒を飲むことすら嫌気が差し、飲むことを中断するになるまでなってしまった。

 

 

 こんなことは、初めてである。

 

 

 食べ物に関しては摂取量に限界を覚えるが、酒に関しては一度として限界を覚えたことはない。その自分が、まさか酒を飲むのが嫌になる日が来るとは……欠片も考えていなかった。

 

 それ故に、彼女は何とも言えない不安を覚えずにはいられなかった。朝から落ち着かない気持ちを抱えたまま、ただただ時を浪費し続けることしか出来なかった。

 

(……喧しいばかりで、つまらん)

 

 ぎゃあぎゃあ、と。ベッドに寝転がったまま、点けっぱなしのテレビを眺めていた彼女は、内心にて率直な感想を吐き捨てた。

 

 何時もならそれなりに笑っていられた番組ではあるが、素面(飲んではいたが、その程度では酔っている内には入らない)で見るとこうも退屈なものなのだろうか。

 

 いや、あるいは、精神的な部分の影響から退屈に思えてしまうのだろうか。どちらもありえそうだなと思った彼女は、ポチポチとチャンネルを変えた後……元のチャンネルに戻し、仰向けになった。

 

(……風邪でも引いたのかねえ?)

 

 ぼんやりと天井を眺めていると、余計に鬱々とした気分になってくる。かといって、退屈な番組を眺め続けるのも苦痛だ。

 

 病は気からというが、言い得て妙であると彼女は思う。こういう時は気分転換に外出する方が良いのかもしれないが、今はその気力すら――ん?

 

 

 ――ぴんぽん、と。

 

 

 寝入るにも目が冴えてしまっているし、飲む気にもなれない。何をするでもなくぼんやりしていると、不意にチャイムが鳴った。

 

(……あ、うちか)

 

 しばしの間を置いてから、それがようやく自宅のモノであることに気付いた彼女は、(いや、うちなのか?)はてな、と横になったまま小首を傾げた。

 

 というのも、だ。彼女が暮らすこのマンションは、その築年数の長さもさることながら、住民の質がお世辞にも良いわけではないからだ。

 

 ぶっちゃけ、全体の7割が表の人間ではない。アル中にヤク中は当たり前、多種多様な売人に男女問わずの娼婦、一部は特殊なプレイ(意味深)の場として利用されているぐらいだ。

 

 そんな場所なのだから、残りの3割の質だってお察し。当然、そんな場所に来る郵便物だってまともじゃない物ばかりであり、一般的な運送会社がここへ配達に来るということは、まずない。

 

 何せ、ピンクチラシ(いわゆる、風俗関係のチラシ)すらこのマンションには投函されないのだ。どれだけこのマンションのどうしようもなさが知れ渡っているかが、そこだけでも分かる。

 

 

 しかも……ここには彼女がいる。

 

 

 マフィアという組織に属している者であれば、大なり小なり理解する『不用意に触れることなかれ(アンタッチャブル)』。それに、わざわざ接触を図ろうとするやつなんて……間違いなく、まともなやつじゃない。

 

 ……どうせ、ラリッたヤク中やら何やらが来たのだろう。

 

 しばし思考を巡らせた彼女は、そう結論を出すと身体の力を抜いた。ずっと前にも似たようなことはあったし、どうせ今回もそうだろうと思った彼女は、再びアンニュイな気分へと。

 

 

 ――ぴん、ぽん。

 

 

 浸ろうとした、が。二度目となるチャイムによって、中断させられた。ヤク中はしつこいと思いつつ、彼女は目を瞑ったまま静かに……していたが、三度目となるチャイムに、さすがに目を開けた。

 

「……?」

 

 そうこうしているうちに、四度目のチャイムが鳴る。ヤク中にしてはしつこいし、押すまでの時間が一定だ。仮に禁断症状に見舞われているヤク中なら、チャイムなんてお上品なものは使わないだろう。

 

 

 もしかして……客人か?

 

 

 それなら、無視し続けるのは可哀想だ。よっこらせとベッドから降りた彼女は、「はいはい、今開けるから」五度目のチャイムに返事をしながら玄関へと向かった。

 

 果たして、こんな場所に来る客人(物好き)なんているのだろうか。

 

 訝しみつつも、このまま憂鬱に過ごすよりはマシだろうと思いつつ、「どちら様?」彼女は玄関を開けた――瞬間、彼女は尋ねてきた人物……男の姿に面食らった。

 

 そいつは、老年に差し掛かろうとしている男であった。だが、彼女が驚いたのはそこではなく、その男が身に纏う風貌というか、雰囲気であった。

 

 

 一言でいえば、その見た目は上流階級(セレブ)の老人である。

 

 

 そういった方面に疎い彼女でも一目でわかる、お高そうな黒のスーツ。手首に巻かれた時計や革靴も相応に高そうで。前に何度か会食したマフィアのお偉方とは根本から方向が異なるセレブであるのは明白であった……けれども。

 

 目が……違った。いや、正確には、目の奥から滲み出る光が、あまりに違い過ぎた。

 

 ……これはあくまで彼女の持論だが、マフィアのお偉方もそうだったが、社会的に(表であれ裏であれ、どんな分野であれ)成功した者は、総じて目の奥の光が強い。

 

 程度の差こそあるが、基本的には一般人よりも強い。だからこそ成功するのか、成功したからこそそうなるのかは分からないが、今まで彼女が出会ってきた成功者たちは、総じて目の奥に強い光を持っていた。

 

 

 だが……眼前の老人は、どうだ?

 

 

 セレブだからなのか、その目の奥の光は強い。しかし、強いが……あまりに仄暗い。何といえばいいのか、今にも消え入りそうでありながら、これでもかと強く主張してくるような……そんな感じだ。

 

 マフィアのお偉方も似たような仄暗さを持ってはいたが、この男は桁が違う。

 

 いったい、どのような状態になればそんな目の光を持つ事が出来るのか……興味が、むくむくと湧いて来るのを彼女は感じた。

 

「――『二本角』さん、ですか?」

 

 尋ねられた声色も、目の奥の光を帯びたかのような仄暗いものであった。「ああ、そうだけど、あんたは?」今にも銃を向けてきそうだなと思いつつ、彼女は率直に名を尋ねた。

 

「失礼、名乗るのが遅れました。わたくしの名は『ドレイク』。とある楽団にてバイオリニストを務めさせていただいておりました、しがない演奏家です」

「……務めさせて、いただいた?」

「先日、辞めて来ました。今日は、どうしてもあなたに頼みたいことがあって参りました。差し支えなければ、話だけでも聞いていただきたいのですが……」

「それは構わないけど……あ~、ん~……」

 

 チラリと、己が自室を見やった彼女は、どうしたもんかと頭を掻いた。

 

 時々は掃除をしているが、あくまで時々。基本的には物臭が故に、部屋の有様はお世辞にも清潔とは言い難い。特に、台所周辺なんて今や魔境だ。

 

 別に見られたって何ら問題はない。とはいえ、位置的にベランダを見ることは出来なくとも、そこには下着だって干されている。

 

「……ん~、悪いんだけどさ、ちょいと今は部屋も汚れているから、とりあえず続きは何処か別の場所にしない?」

「分かりました。それでしたら、ちょうどお連れしたい場所がありますので、そこで宜しいでしょうか?」

 

 いいよ、と頷いた彼女はそのまま外に出る。何時もの衣服、着の身着のまま。「――宜しいのですか?」気を使わせているとでも思ったのか、彼は言い辛そうに視線をさ迷わせた。

 

「私はコレでいいよ。そっちこそ、私がこんなナリで出て行って大丈夫な所にちゃんとエスコートしてくれるのかい?」

「……ご期待に添えれば、幸いです」

 

 苦笑する彼に案内されるがままマンションを下りれば、エントランスを出てすぐの所に車が止まっていた。高級車という程ではないが、中の上にランクされるレベルの車であった。

 

 よくもまあ、不用心に。新品というほどではないが、よく手入れされて光沢が残る車を前に、彼女は内心にてため息を零す。

 

 やはり、セレブだ。こんな場所にこんな目立つ車を停めておいて、部品一つ盗まれていないのが奇跡だ。自然と、彼女の視線が車から彼へと向けられ……ああ、と納得した。

 

 

 ――こいつだから、無事だったのだ。

 

 

 おそらく、車を奪おうとした者たちはみな、こいつが車を降りた瞬間に気付いたのだろう。こいつは下手に手を出してはいけない、得体の知れない相手だと。

 

 彼女ですら興味を引かれたぐらいなのだ。チンピラたちからすれば、どこぞのヒットマン……あるいは、重要人物と思われて距離を取られても、何ら不自然ではない。

 

 そんなふうに思われているなどと知る由もない彼は、どうぞ、とドアを開けてくれた。素直に後部座席に入り込み、横になる。身体が小さいと、こういう事が出来るから楽だ。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫、吐いたりしないよ」

 

 そうとも知らずに心配する彼に手を振ってやると、彼は幾分か視線をさ迷わせた後……車を発進させた。雰囲気とは裏腹に運転は実に緩やかで、彼の性格を表しているかのようであった。

 

 ――カチリ、と。

 

 沈黙を嫌ったのか、彼は……いや、ドレイクはラジオのスイッチを点けた。流れてきたのは流行のポップソングではなく、クラシックなメロディーであった。

 

 ラジオを使用する年代は比較的高めとはいえ、クラシックを流している局はそう多くはない。操作をせずとも流れた辺り、初めからそこに波数を合わせているのだろう。

 

 演奏家というだけあって、普段からそういったものが好みなのか……はて?

 

 そういえば、まだ聞いていなかった。今更なことを思い出した彼女は、「そういえばさ、あんたは何の楽器を弾いていたんだい?」むくりと身体を起こした。

 

「ヴァイオリンです。こう、首に楽器の……そうですね、根元を押し当てて弦を引くやつですが、分かりますか?」

「何となくは……でも、どうして楽団を辞めたんだい? そういうクラシックな楽器の奏者になるのって、けっこう金が掛かるんだろ?」

 

 この世界において、現存する楽器の種類は三桁に達すると言われている。その中で、『彼』がいた世界でもそうではあったが、この世界においても楽器のプロ奏者になろうと思ったら、とにかく金を必要とする。

 

 特に、ヴァイオリン等のクラシック楽器の奏者になろうと思ったら、金額の桁が一つは上がる。最低でも中流より上程度の資産なり何なりがなければ、その入り口にすら立てない職種であると、彼女は記憶していた。

 

「ええ、まあ……お詳しいですね」

 

 意外だと言わんばかりに目を瞬かせるドレイクの様子を、「何となく、さ」ルームミラー越しに見やった彼女は、ジッとそこに映る瞳を見つめた。

 

「後で話すならそれでもいいけどさ、わざわざ楽団を辞めてまで私に頼みたいことってなんだい?」

 

 別に、隠したってここで帰ったりはしないよ。そう言葉を付け足した彼女の視線に、ドレイクは……しばし、沈黙を保った。

 

 まるで、空気を読んだかのように車も赤信号で止まった。そこは、開かずの信号と言われるぐらいに長く待たされる曰くつきの場所。

 

 合わせて、ラジオから流れていたクラシックも終わり、CMが流れる。穏やかなBGMからは打って変わって、軽快な音楽が車内に響いた。

 

「……貴女に、殺してほしい相手がいるのです」

 

 その中で、ポツリと。まるで自らに言い聞かせるかのように、ドレイクは答えた。直後、青信号になったことで車が動き出した……のを横目に、「――あのさ」彼女は目を細めた。

 

「あんた、頼む相手を間違えていないかい?」

「……間違えては、おりません」

「いいや、間違えている。私のことを知っている辺り、私が『運び屋』だってことも知っているんだろ? どうして、私に殺しの依頼をするんだい?」

「…………」

「個人的に何かを運んで欲しいというのなら、分かる。純粋に力を貸して欲しいとかなら、まだ分かる。でも、殺しの依頼は別だ」

「…………」

「マフィアのお偉方とも繋がりがあるって分かっている相手を、わざわざ訪ねた。明確なルール違反であることを理解したうえで来たから、私はあんたの話を聞こうと思ったんだ」

「…………」

 

 ドレイクは、何も答えなかった。しばし、その沈黙を見やっていた彼女は……深々とため息を吐くと、もういい、と苛立ちを吐き捨てた。

 

「興醒めした。気も変わった。帰るから、ここで降ろせ。降ろさないというのなら、力づくで降りる」

「――待ってください!」

「いいや、待たない。もういい、壊して降りる」

 

 そう言い切らない内に、彼女はドアを蹴破ろうと――した、その瞬間。

 

「――殺して欲しいのは、私なのです!」

 

 車外にまで響くほどの大声で、ドレイクが叫んだ。その言葉に、隣を走っていた車の運転手が、ギョッとこちらを見やった……のを尻目に、ドレイクはアクセルを踏みしめて加速した。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………しばしの間、車内には沈黙が流れた。呆気に取られる彼女と、僅かではあるが息を乱すドレイク。お互いに平静ではなかったが、ハンドルを握るその手が震えていることに気付いた彼女の方が……落ち着くのが早かった。

 

「……話を聞いてから、考えるよ」

 

 そう言うと、彼女は再び横になった。それを聞いて、ようやく我を取り戻したドレイクは、パトカーに見つからないうちに、緩やかに速度を落としたのであった。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………見慣れた景色が過ぎ去り、見慣れない景色へと移り変わる。スーッと、周辺を気にして速度を落とすドレイクの顔をミラー越しに見やりながら、彼女は何気なく外を見やる。

 

 そこはもう、彼女の知らない街並み。いわゆる、金持ちたち(ブルジョワジー)の世界。かれこれ数十年は暮らした街だが、常日頃から街中を遊び歩いているわけではない。

 

 飲み屋ならまだしも、それ以外の店となると未だにうろ覚えなことばかり。特に、比較的ブルジョワジーな者たちばかりが住まう居住区となれば、ほぼおのぼりさんに等しかった。

 

 

 だから、なのか。

 

 

 窓越しに見える通行人たちも、どこか品が良さそうというか、物腰が柔らかそうに見える。いや、ただの偏見でしかないのかもしれないが、何となく彼女はそう思った。

 

 視線を変えれば、他の区域とは納めている税金の量が桁違いなだけあって、車道が綺麗に整備されているのが目に留まる。アスファルトの標識に欠けている部分はなく、だいたいが真新しい。

 

 彼女の寝床があるあの辺りは時々(1週間に3回・各1時間ほど)水道が止まったり電気が止まったりすることもあるが、この辺りはそういうことはなさそうだ……そうそう、電気といえば、建物だ。

 

 パッと見た限りでは、建物にも落書きがほとんど見当たらない。おそらく……いや、確実に、落書きされた傍から消しているのだろう。基本的に公共施設以外は放置されっぱなしの向こう側とは、大違いだ。

 

 

 同じ街に住んでいるのに、こうも変わっているものなのだなあ……。

 

 

 そう思いつつぼんやり通り過ぎる景色を眺めていると、とある一軒家の前で車が止まった。豪邸というには些か小さいが、その家の前後左右には住宅がなく、ドーナツ状に緑が植えられていた。

 

 促されるがまま車を降りた彼女は、ドレイクの後に続いて家の中に入る。途中、他の車は見当たらず、ガレージらしきスペースは全くの空洞で、何も私物が置かれていなかった。

 

(……独身、なのかな?)

 

 そんな気がして中に入った彼女は、それが事実であることを察した。何故なら、室内には異性(伴侶)の私物と思わしき痕跡は何もなく、一人暮らし特有の一つの色しかそこに見受けられなかったからだ。

 

 演奏家だけあって、リビングには様々な楽器や楽器の本が置かれている。

 

 その中でもパッと目に留まるのは、音楽に関する雑誌だろうか。ガラス扉の本棚にてきっちりサイズ順に纏められているようだが、たぶん、年号別なんかも分けているのだろう。その辺り、ドレイクの性格が窺える。

 

 

 しかし……よくよく目を凝らしてみれば、だ。

 

 

 本棚もそうだが、その本棚の傍にて鎮座している楽器ケースにはずいぶんと埃が溜まっている。どれぐらいかは分からないが、少なくとも二ヶ月……いや、三ヶ月以上は動かすことすらしていないようだ。

 

 ……まあ、演奏家に限らず音楽に情熱を捧げる人は気難しい人が多いとは、誰の言葉だったか。

 

 あえてその事に触れるようなことはせず、彼女はそのまま……ドレイクの後に続いて階段を下りて、地下へと向かう。おそらく、周辺への騒音を考慮してのことなのだろう。

 

 その証拠に、だいたい12畳分は有りそうな地下室の壁には、小さい穴が等間隔で開けられていた。音楽室などで見られる、あの穴だ。それが四方の壁だけでなく、天井にも穴が開けられていた。

 

 以前はここに楽器なり何なりが置かれ、演奏を行っていたのだろう。上のリビングにはあった埃が、ここではほとんど見られない。場合によっては、リビングにいるよりもここにいる方が長いのだろうか。

 

 照明によって明るくなったそこには、テーブルが一つに、椅子が二つ。そして、その横に……ヴァイオリンケースと思われる物が立て掛けられていた。

 

 

 何とも、殺風景な場所だと彼女は思った。

 

 

 必要でない物は置かない主義なのか、この場にあるのはそれだけだ。椅子に座って話をするだけの部屋。ヴァイオリンケースがなければ、もう長年使用されていないと思ったぐらいに、この空間からは熱を感じなかった。

 

「……わざわざ用意したのかい?」

「いえ、以前はここで作曲も行っていたのですが……すみません、飲み物を用意してきます」

 

 ――いや、別にいいよ。

 

 

 そう言おうとするよりも早く、ドレイクは小走りで階段を登って行った。結果、一人残される形になった彼女はやれやれとため息を吐くと……ふと、ヴァイオリンケースに目が留まった。

 

 ……聞く分にはいいが、弾く方には欠片も興味はない。けれども、暇の圧力には勝てない。特に何かを思うわけでもなく、彼女はケースを開けた。

 

(……何だ、普通にヴァイオリンしか入っていないじゃないか)

 

 直後、彼女はがっかりした気持ちでヴァイオリンを手に取った。もしかしたら何かあるのかもと期待したが、期待は期待でしかなかった……と。

 

「――楽器に、興味がお有りで?」

「いや、全く。ただ、どうしてコレだけここに置いているのかが気になってね」

「ああ、それは……これからお話しすることに必要だからです」

 

 ヴァイオリンをケースに戻した辺りで、ドレイクが地下室に戻ってきた。その両手には湯気の立つカップがあって、コーヒーの匂いがほんのりと彼女の鼻腔をくすぐった。

 

 

 ……酒じゃないのか。

 

 

 反射的にそう考えてしまった彼女は、思わず苦笑する。少し前は呑みたくないとすら思っていたのに、もうコレだ。自分で言うのも何だが、鬼の身体とは自重というものを知らない。

 

 いきなり笑い出した彼女を見て不思議そうに首を傾げるドレイクから、コーヒーを受け取る。湯気の立つそこに鼻を近づければ、特有の香ばしさが臓腑に沁み渡るような気がした。

 

(そういえば、まともな珈琲を飲んだのなんて何十年ぶりだろうか)

 

 何処の店だったか。以前、珈琲にリキュールを入れたやつを飲んだことを思い出す。確か、『マスターの気紛れ度胸試し』とかいう名目で飲みきったら一杯無料という景品が付いていたような気がする。

 

 御世辞にも、美味いとは言い難い味だった。それは淹れ方どうこうの問題ではなく、純粋に不味かった。阿鼻叫喚の地獄絵図と化した他の客と同じく、己もあまりの不味さに悲鳴をあげたぐらいだ。

 

 元々、『彼』も珈琲はあまり好きではなかった。『伊吹萃香』も、似たようなものだ。付き合いで飲むぐらいはしたが、それよりも酒の方がずっと舌に合っていた。

 

(……美味い。へえ、珈琲も悪くな……いや、あのマスターの淹れ方が下手くそ過ぎただけか。豆もやっすいのを使っていそうだったしなあ)

 

 だからこそ、彼女は初めて体感する『美味い珈琲』に感銘を覚えた。まあ、アレに比べたら大概の珈琲は美味いに分類されるが、「――とっておきを淹れてくれたのかい?」とにかく美味いのだと正直に告げた。

 

 それが、正解だったのだろう。

 

 何がどう美味いのかを一切言葉に表してはいないが、ドレイクは嬉しそうに……それでいて、どこか得意げな様子で空いている椅子に腰を下ろすと……静かに、カップに口づけた。

 

 

 ……そのまま、しばしの沈黙が流れた。

 

 

 彼女は、あえてその沈黙を破ろうとはしなかった。ドレイクも、いきなり話し出そうともしなかった。どこか寒々しさすら覚える程に静まり返った地下室にて、珈琲を啜る音が二つ……響いていた。

 

「――二本角さんは、『闇のソナタ』という独奏曲を知っていますか?」

 

 そして、ちょうど互いのカップに残された珈琲が三分の一ぐらいになった頃。タイミングを見計らっていたかのように、ドレイクから沈黙は破られた。

 

「いや、知らん。有名な曲なのかい?」

「いえ、全く。知る人ぞ知ると言っても過言ではないぐらいの、マイナーな曲です。ですが、この曲はとある理由から、私のような音楽に携わる仕事に就いている者たちの間では有名な曲なのです」

「ふ~ん、どうして?」

「真偽は定かではありませんが、『闇のソナタ』は魔王が作曲したと言われているからです」

 

 ……魔王?

 

 思わず、彼女はカップをテーブルに置いてドレイクを見やった。まっすぐに見返してくるその視線には……微細な嘘もない。

 

「……信じられませんか?」

 

 探る様な問い掛けに、彼女はニヤリと笑った。

 

「あんたが信じているから、私も信じるよ。それに、私みたいなやつもいるんだ。魔王が作曲したものが有ったって、何ら不思議な話じゃない……で?」

「『闇のソナタ』には、ピアノ・ヴァイオリン、フルート、ハープの各4つがあります。いずれも人間が演奏をしたり聞いたりすると、恐ろしい災いが降りかかるとされている……曰く付きの曲です」

「なるほど、魔王だったらやりそうな事だ……で?」

「私は、その内の一つであるヴァイオリンの曲を知っております。二本角さん、私はこれから、その曲を弾こうと思います。そして、もし私の身に災いが起こったら――」

「苦しむ前に、あんたを殺せ、と?」

 

 ドレイクは、何も言わなかった。ただ、小さくもはっきりと頷いただけ。それを見た彼女は手元のカップに残された珈琲を一息に飲み干すと、「幾つか、聞きたいことがある」改めてドレイクに問うた。

 

「聞くだけで災いが降りかかるのなら、どうして私にそれを頼む? お前さんの中では、私は災いが降りかかっても良い相手だと考えているのかい?」

「――違います。不審を抱くのは尤もですが、私が貴女にお願いした理由は、貴女があの『十老頭』ですら一目置いて手出しをしないという、底知れぬ強さを持つという話を耳にしたからです」

「……つまり?」

「貴女なら、災いが降りかかっても跳ね除けることが出来る人物であると思ったからです。そして、もう一つ理由を付け足すのならば……貴女しか、頼める相手が思いつかなかったからです」

 

 その言葉と共に、ドレイクはスーツの内ポケットから一枚の名刺を取り出し、それをテーブルに置いた。促されるがまま手に取った彼女は、「シルバ・ゾルディック……?」ほとんど無意識に、そこに記されている文字を声に出していた。

 

「そこに記されている人物は、伝説の暗殺一家としても有名な当主の名前です。当初は私もそこへ頼もうとしたのですが……その……断られました」

 

 当時の事を思い出しているのか、ドレイクはどこか気恥ずかしそうに視線を落とした。何となく、その時の状況を察した彼女は、ははは、と慰めの意味も込めて笑ってやった。

 

「まあ、そうだろうね。あいつらにとって殺しはビジネスらしいから、こういう胡散臭そうな話を持って行っても門前払いされるだけだよ」

「――お知り合いで?」

 

 驚いたように目を見開くドレイクに、「いや、別に」彼女は首を横に振った。

 

「何度かちょっかいを掛けられた程度の仲だよ。引退しているだろうけど、このシルバっていうやつの先代をぶっ飛ばした覚えが……あれ、そういえばあの黒髪の坊主は死なずに済んだのかな?」

 

 生きていれば、もう二十歳を過ぎていると思うんだけどなあ。そう呟く彼女を、ドレイクは呆然と眺めた後。一つ咳払いをすると、「とにかく、彼らには断られてしまいました」強引に話を戻した。

 

「他の者に頼もうにも、実力のある著名な者たちは人気が有りまして、相談するだけでも何か月も待たされます。その相談をするにもコネがなければならないうえに、話を持ち出した途端に追い返されたこともありまして……」

「あ~、それで巡り巡って私のところに来たってわけね。よしよし、経緯はだいたい分かった。それじゃあ二つ目の質問……どうして、そこまでソレを弾こうとするの?」

 

 嘘は微塵も許さない。そう言わんばかりに、彼女はねめつけるようにドレイクの瞳を見やった。

 

「この家からも分かるけどさ、あんたは社会的には成功した部類の人間だ。私の住まいを見付けるだけの表裏問わずな顔の広さもそうだし、その気になれば初潮を迎えていないやつを嫁にする権力だってある……違うかい?」

「……どうして、そう思うのですか?」

「目の色がそこらのやつとは違うからさ。大なり小なり、そういうやつは精力も凄い。枯れ果てているならまだしも、あんたはまだそこまでじゃない。以前は、それなりに非合法な楽しみも嗜んできた……違うかい?」

「……貴女が、考えている通りです。軽蔑、しましたか?」

「いや、別に。それをどうこう言えるほど、私は偉くなった覚えはないよ……で、話は戻すけど、そんなやつがどうしてそこまで『闇のソナタ』とかいうやつに御執心なのか……私が知りたいのは、そこだよ」

 

 そう、彼女が知りたいと思っているのは、その部分であった。

 

 

 彼女の言う通り、一般的な目線からみれば、ドレイクは社会的に成功した部類の人間だ。

 

 

 一人で住むには大き過ぎる自宅を構え、セレブたちが住まう地区を堂々と車で走り、クラシック楽器の演奏家でもある。ドレイクの両親も相当な資産家だったのだろうことも、その立ち居振る舞いから察せられる。

 

 彼女の目から見ても、ドレイクは成功者だ。表の顔は知らないが、裏の世界にいる『二本角』の住居を探し当てただけでなく、どういった人物なのかも把握していた。

 

 それすなわち、ドレイクは裏稼業の者たちとも相応の付き合いがあるということ。

 

 今しがたの彼女の発言を否定しなかった(つまり、全て本当だということ)ことからも、後ろめたい楽しみも経験済みなのだろう。それこそ、酒や煙草や賭博を始めとして年齢性別人種を問わないお相手も……まあ、そこはいい。

 

 

 とにかく、重要なのはドレイクが成功者であるということ。そして、その積み重ねた成功者としての立場を……どうして、投げ出そうとするのか?

 

 

 それが、彼女には全く分からない。自由気ままに生きる方が巨万の富に囲まれるよりも好きと思っている彼女ならまだしも、ドレイクはそういう性質ではなさそうなのだが……ん?

 

「……私の気のせいかもしれないけど、さっきと比べて顔色が悪くなってない? これでお別れにしたりはしないから、具合が悪いのなら少し横になるかい?」

 

 ふと、彼女はドレイクの顔色に目を止めた。気のせい、と予防線を張ったが、改めて見ると気のせいどころではない。もはやその顔色は血の気が引いたという生易しいものではなく、肩を震わせるその姿は今にも倒れそうなほどであった。

 

「いえ、大丈夫です。これは、そう……私が此処に至るまでの経緯を思い浮かべていたからで、持病がどうとかそういうことではありません」

 

 だが、ドレイクは彼女の手を振り払った。「お気遣い、感謝します」訝しむ彼女を他所に、ドレイクは震えを止めるかのように忙しなくカップの珈琲を飲むと……冷や汗が滲んだ顔を、彼女へと向けた。

 

「『闇のソナタ』は、普通の曲ではありません。先ほどもお話しした通り、弾いたり聞いたりするだけで災いが降りかかるといわれている曲です」

「それは、さっきも聞いたよ」

「考えてもみてください。仮に、本当に災いが降りかかる曲が……どうして、今も残っているのですか? どうして、忌むべきモノとして破棄されることもなく残されているのか……その理由が、分かりますか?」

「……あいにく、そういうのは私の専門外だよ。まあ、知っている誰かがそれを誰かに教え続けているんじゃないの?」

 

 欠片もそうだとは思っていない、ただの当てずっぽう。パッと思いついたことだったので、特に気負うことなく口にした仮説なのだが。

 

「――そう、そうなのです! 誰かが、私たちの理解の外にいる何者かが、『闇のソナタ』を伝え続けているのです!」

 

 まさか、それがドレイクの琴線に触れるワードであるとは思わなかった。突然の反応に面食らう彼女を前に、我に返ったのだろう。「す、すみません……」幾分か気まずそうに、ほとんど空のカップに口づけ……それを、テーブルに置いた。

 

「二本角さん……先ほど、私はヴァイオリンの曲を知っていると話しました。ですが、実は……誰にそれを教えられたのか、どこでそれを知ったのかが、私自身にも分からないのです」

「分からない? 分からないのに、何でお前が知っているのさ?」

「そうです、そこなのです。私は最初、この曲を『とある知人から教えられた』と記憶していました。ですが……私の友人に、その知人はいないのです」

 

 友人に、その知人はいない……言葉だけを聞くとこんがらがりそうだ。

 

「どうして私がそこに気付いたのか、それは分かりません。ただ、ある日突然気づいたのです。私にこの曲を教えた知人が何者なのか……それが、誰か分からないのです」

「……つまり?」

「私は、その人とは友人関係にあったと記憶しています。ですが、私はその人の名前や顔立ちだけでなく性別すら思い出せないのです。もちろん、映像等にも残っていない……私には、その人と幼馴染であったという記憶すらあるというのに」

 

 そこまで言い終えた辺りで、ドレイクは大きく息を吐いた。「……しかし、恐ろしいのは、ここからです」顔中に浮き出た冷や汗を気にする余裕すら、ないのだろう。

 

「それまで、私は『闇のソナタ』の曲を知ってはいました。けれども、それを弾こうとも思わなかったし、そういえばと、思い出すまでは名前すら忘れていました」

 

 ぶるぶる、と。恐怖を堪えるかのように組み合わせたドレイクの両手が、目に見えて痙攣し始めた。

 

「しかし、『闇のソナタ』を教えてくれた知人が存在しないということに気付いた、その瞬間。その時から……私の中に欲求が湧き始めたのです。『闇のソナタ』を弾きたいという、強烈な欲求が!」

 

 はあ、はあ、はあ……ドレイクの荒い呼吸音が、室内に溶けて消える。

 

「当然、私はその欲求に抗いました。当時、携わっていた仕事が大口のモノが多かったこともあって、しばらくはそちらに集中することで気を紛らわすことが出来ました」

 

「ですが、それも長くは続きませんでした。欲求は日を追うごとに増大し、無視出来ないものとなっていき……気付けば、寝ても覚めても『闇のソナタ』を弾きたいと考えている自分がいました」

 

「何とか……何とか、この欲求から遠ざかろうとしました」

 

「美食などの娯楽に始まり、あまり呑まなかった煙草や酒にも手を出しました。金はありましたので若すぎる女から老女に至るまで手を出しましたし、自らを痛めつけ……薬にも、手を出しました」

 

 そういうと、ドレイクはスーツの裾を捲って腕を見せた。そこには、丸く青白くなった痕が幾つもあった。言うまでもなく、薬物使用の痕跡であった。

 

「だが、欲求は消えてくれない。腕を縛って弾けないようにしても、結果は変わらなかった。無意識の内に、眠っている間の私が縛った腕を解いて、すぐに弾ける状態にしてしまう。おかげで、私は……ここしばらく、まともに眠ることも出来ていない」

 

「ヴァイオリンを処分しても、無駄だった。気づけば、私自身の手で注文して新しいのを用意したことになっている。金を処分して無一文になっても、目覚めた時には私の前に札束が転がっていて、私から弾けない環境を常に奪い取ってしまう」

 

「自殺を図ろうとしても、無理でした。そう思って行動した瞬間、気付けば自殺する為の手段の全てが私の前から消えている。飛び降り等をしようと思った途端、気付けば自室のベッドで目が覚める。何をしても、何を考えても、私はこの曲から逃れられない」

 

 だから――お願いします。その言葉と共に、ドレイクは彼女へ頭を下げた。

 

「今も、私の中にある何かが囁くのです。もっと人の多い場所で弾けと、より遠くへ演奏が届く場所へ向かえと、より響き渡るように演奏しろと、寝ても覚めても囁いて来るのです」

 

「私だけに災いが降りかかるのであれば、それでいい。けれども、私には分かる。この曲は、そんな生易しいものじゃない。演奏を耳にした者、その全てに災いをもたらす悪魔の曲に他ならない」

 

「どうか、お願いします! 金なら、この家の権利全てと預金の全てを渡します! だから、演奏を始めて災いが降りかかった瞬間、私を殺してください! 災いが他の誰かに伝わる前に、私を殺してください!」

 

「私には分かるのです! おそらく、それなら止められる! この災いを、私にだけ留めておくことが出来る……これしか、もう方法がないのです!」

 

 

 どうか……どうか……!

 

 

 転げ落ちるように椅子から降りたドレイクは、その場で土下座をした。その体勢のまま微動すらせず静止するその様は、とてもではないが言葉に表せるものではなかった。

 

 ドレイクは、額を床に擦り付けたままであった。それを、彼女は黙って見ていた。時間にして、5分ほどが過ぎた頃だろうか。一つ、深々とため息を零した彼女は「いいよ、やってあげる」そういってドレイクの頭を上げさせた。

 

「言っておくけど、加減はしないよ。演奏が始まってあんたの身体に何かが起こればあんたを殺す。程度は考慮しない、異変が起これば殺す……それで、いいね?」

「――構いません。ありがとう……本当に、ありがとう」

「お礼なんていらないよ。私は、お前の覚悟を気に入っただけさ。金もいらない、ただ、お前の覚悟に報いてやりたいだけだよ」

 

 顔を上げたドレイクの目には、大粒の涙が浮かんでいた。けれども、ドレイクはそれを見せたくなかったのだろう。スーツの袖で些か乱雑に目元を拭うと、早速準備をするといって……テーブル傍のヴァイオリンケースを開けた。

 

 先ほど見た通り、中にあるのは何の変哲もないヴァイオリンだ。「入門用の、5万ジェニーぐらいの安いやつです」ドレイクの口からも、彼女が抱いた感想そのままの評価が成された……と。

 

「――ありがとう、二本角さん」

「ん~?」

「貴女に会えて、良かった。出来るなら、こういう形以外で会いたかったものですが……」

「う~ん、無理じゃないかな。こういう形でないと、あんたは私のことすら耳にはしなかっただろ?」

「ははは、言われてみればそうですね……ふふふ、何だか……ここまで清々しい思いで弾くのは、何時以来でしょうかね」

 

 その言葉が、切っ掛けだった。ドレイクが黙れば、彼女も黙る。訪れた、幾度目かとなる沈黙の最中……首にヴァイオリンを当てて準備を終えたドレイクは、これまでで一番となる溜め息を零した後。

 

 

 ――緩やかに笑みを浮かべながら、『闇のソナタ』の演奏を始めた。

 

 

 災いが降りかかるとされている『闇のソナタ』の出だし。それは意外にも、とても落ち着いた調子から始まる、淡い風に揺れる草原のような、穏やかな調べであった。

 

 これが……演奏者だけでなく、聞く者にすら災いが降りかかるとされている、『闇のソナタ』なのだろうか。奏でられる旋律に耳を傾けながら、彼女は内心小首を傾げていた。

 

 事前にドレイクより話を聞いているからこそ彼女は身構えているが、それがなかったら気に留めることなく聞き流していただろう。それぐらい、ドレイクの演奏する音楽は静かで穏やかだった。

 

 彼女には、演奏の上手い下手は分からない。ヴァイオリンに限らず、クラシック楽器の演奏を耳にするのは、これが初めてであるからだ。それは、『彼』の部分でも『伊吹萃香』の部分でも同様であった。

 

 まあ、分かる事といえば、聞いていて不快なところがないという点か。彼女自身の好み云々は別として、それだけ長く愛されるだけの理由がそこにあるのだろう……が、今はそれよりも、だ。

 

 

 災いが、いったいどのような形で訪れるのか。そして、何時頃にそれが姿を見せるのか……それが、彼女にとっては気掛かりである。

 

 

 例えば、トラックやら何やらが突っ込んで来るといった物理的な災いならば、幾らでも対処が出来る。また、突如天井が落ちてくるといった場合でも、同様に対処は可能だ。

 

 しかし、仮にその災いが、だ。演奏者が死ぬまでそれが繰り返されるといったモノであるならば、彼女はもうドレイクを助けない。また、突如病を発症するといったモノだとしても、同様だ。

 

 その場合は苦しみを与えぬよう痛みなく首を落としてやるつもりだが……果たして、どうなることやら。

 

(今のところは、特に変な事は起こっていないようだね)

 

 特に異変らしい異変が起こることもなく、演奏は続いている。目を瞑って演奏に集中しているドレイクの周囲にも変化はなく、四方の壁や天井、床に至る部分にも、不穏な気配は何も感じない。

 

 『闇のソナタ』がどれぐらいの長さになるかは分からないが、このまま行くと演奏が終了するまで何も起こらな……ん?

 

「……?」

 

 不意に、彼女は腹部にチクリと違和感を覚えた。あまりに一瞬のことで、それが痛みであったかすら分からない……と、思った瞬間。違和感は異物感に変わった。

 

 

 まさか、こんなタイミングで腹を壊してしまった……いや、待て。

 

 

 背筋を走る予感に、彼女は己が腹部に手を当てる。異物感のある辺りを摩ってみると……ある。強く押さなければはっきりとは分からないが、硬い何かが皮膚の下にある。

 

 それを認識した瞬間、彼女は己が体内を霧に変えた。と同時に、体内の霧を使って異物を口へと動かしてやる。

 

 ……東方Projectにおいて、妖怪(当然、鬼も含む)という存在は、人間とは違い、存在維持の為にそこまで臓器は重要ではない。あくまでそう見せかけているだけであり、中には心臓を抜き取られても平気な妖怪だっている。

 

 それは、彼女にとっても同じである。いや、数多の妖怪の中でもトップクラスの生命力を誇る『伊吹萃香』ならば、それこそ全身が破裂しても霧になって復活することだって可能である。

 

 だからこそ、彼女は自らの内臓を霧に変えても顔色一つ変えることはない。そうして、かみ合わせた歯車が如き作業で異物を運び終えると……それを、ベッと掌に吐き出した――瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。

 

 

 そこに在ったのは――殻が砕けた、かたつむりであった。

 

 

 彼女の体内環境に、耐えられなかったのだろう。既に息絶えているそれは、何処から見てもかたつむりで……あまりに想定外の現実を前に、彼女は唖然とする他出来なかった。

 

 

 ――時間にして、7秒後。

 

 

 我に返った彼女は、ほとんど反射的に――ドレイクの頭に張り手を見舞っていた。鬼の腕力でもって放たれたその一撃は、人間の首を容易く千切り飛ばし、サッカーボールのようにドレイクの頭は床を転がった。

 

 

 ……だが、しかし。

 

 

 ドレイクの演奏は、止まらなかった。失った首元から血の一滴も出ないこともそうだが、首から下はまるで何事も無かったかのように繊細な演奏を続けていた。それを見て、彼女は手刀をもってドレイクの両肩ごと腕を落とした。

 

 

 それでも――演奏は止まらない。

 

 

 それはいったいどうしてか――答えは、落とした両腕にある。何と、地面を転がった腕は瞬時にかたつむりのような形に変形すると、器用にもそれが演奏を続行させたのだ。

 

 かたつむりで言えば、目のように飛び出した触角の部分。それが、まるで人の指先のように五つに別れて、楽器を巧みに演奏している。初めからそうであったかのように、演奏は欠片も乱れない。

 

「――ふん!」

 

 ならば、楽器そのものを壊すまで。

 

 その決断と共に、彼女の蹴りが楽器を砕いた。さすがに楽器が無くなれば演奏も止まり、室内には沈黙が訪れた……が、それもすぐに破られた。何故ならば、ドレイクの身体が新たな楽器を作り出したからだ。

 

 ヴァイオリンに当たる部分は分厚く加工された表皮。弦は体内より取り出された血管で、それを止めるナットや駒や弓などは、ろっ骨などが変形して代わりとなって……再び、演奏を再開したのだ。

 

「……おいおい、こいつは何の冗談だい?」

 

 異様……そう、異様だ。

 

 おぞましさしか覚えない異様な光景を前に、彼女は思わず攻撃の手を止めた。そうしている間にも、首と両腕を失った胴体からは、大小様々なかたつむりが蠢きながら排出され続けていた――と。

 

「――二本角さん!」

 

 背後から掛けられた声に、彼女の肩がビクンと跳ねた。と、同時に、その声に聞き覚えがあった彼女は反射的に振り返り……信じ難い光景を前に、絶句した。

 

 何故なら、声をかけてきたのはかたつむりの胴体に首を乗せた形になっている、ドレイクであったからだ。例えるなら、殻の部分がそのまま人の頭になった感じが近いだろうか。

 

 見ているだけで正気を失ってしまいそうだ。実際、そこにドレイクの頭部がなかったら、その頭部がドレイクでなかったら、彼女は考えるよりも前に粉砕していたであろうぐらいに、おぞましい姿であった。

 

「二本角さん、聞いてください! 分かったのです! 『闇のソナタ』がいったいどのようなものなのかが、分かったのです!」

 

 言葉を失くしている彼女を尻目に、かたつむりとなったドレイクは血走った目で……ぬめぬめと粘液の跡を残しながら、彼女の下へと近づいてくる。

 

「アレは、生物なのです! アレを生物と分類してよいかは分かりませんが、とにかくアレは生きているのです! 音と音の狭間の中を潜んで生きる、ウイルスのような生命体なのです! 四つの独奏曲というのは、ただ4体のアレがいるというだけなのです!」

 

「『闇のソナタ』は、釣り餌です! 演奏を始めた瞬間、アレに感染します! いえ、もしかしたら『闇のソナタ』の曲を教えられたあの瞬間から、感染していたのかもしれない! いや、それはどちらでもいい! あれは、あの演奏の中にアレは潜んでいて、演奏を聞いた者の体内に侵入し、感染者の感情を餌にして爆発的に増殖します!」

 

「ああ、そうだ! こいつらは人間の感情を食うんだ! 私たちが恐怖に震え、欲望に逃避し、神に命乞いをする様を楽しみながら食うんだ! アレは、恐怖や欲望といった感情を好む! 表に出てきたかたつむりは、言うなればアレの触手みたいなものなんだ!」

 

「思い出してください、私の過去を! そのうえで、私の身体を見てください! これも、同じことなのです! より強い欲望を、より強い恐怖を、私から引き出す為にやっていることなのです! その為だけに、私をこのような姿に作り変えてしま――ぐ、ぐああ、ああああああ!!!????」

 

 それまで絶叫して己の状態を伝えていたドレイクが、突如それまでにない悲鳴をあげた。嫌悪感をそのまま形にした姿で床を這っていた、その彼の目玉が……前触れもなく、どろりと零れ落ちた。

 

 途端、空洞となったその奥から飛び出したのは……小さい、かたつむりであった。だが、一匹だけではない。まるで卵から孵った子蜘蛛のように、夥しい数のかたつむりが噴き出した……しかも、それだけではなかった。

 

 その小さいかたつむりの殻は……小さいが、紛れもなくドレイクの顔をしていた。そう、かたつむりとなったドレイクの赤ちゃんといっても過言ではない、小さいそいつらが……ドレイクの眼孔から湧き続けていた。

 

「「「――二本角さん、私を殺してください!」」」

 

 そして、それらの視線が一斉に彼女を捉え、ほぼ同時に同じ言葉を発した。もはや、子かたつむりを生み出す存在と成り果てたドレイクは、声すら発せられないようであった。

 

「「「あなたは、感染しない! 感染しても、ウイルスがあなたの身体に耐えられない! だから、貴女は感染しない! 貴女なら私を殺せる! お願いです、私を殺してください!」」」

 

「「「コレは、他の『闇のソナタ』よりも食欲が旺盛だ! 腹が満たされるまで、数万という人間が私と同じ目にあってしまう! そうなる前に、私を殺して、殺してください!」」」

 

「「「殺して! 殺して! 殺して! 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せころせころせころせせせせここここここせせせせせせおろろろろろろろ――!!!!」」」

 

 

 ――そこまで聞いた辺りで、限界であった。

 

 

 気づけば、彼女は焦熱の吐息をもってドレイクの成れの果てを焼き払っていた。ピュウゥゥゥゥ、と笛のような甲高い音と共に、赤色を通り越して白色にまで高温となった吐息が地下室の全てを舐めてゆく。

 

「あつい!」「ありがとう!」「いたい!」「ありがとう!」「いやだ、死にたくない!」「あつい、あついー!」「ありがとう!」「ありがとう!」「もっとだ、もっと!」「ありがとう!」「もっと燃やせ!」「ありがとう!」

 

 瞬く間に炭化を通り越して灰へと還ってゆくかたつむりたちの断末魔が、燃え盛る地下室に木霊する。そして、その断末魔の向こうで演奏すらも消え去ったのを確認した彼女は――片手を、溶けた床に打ち込んだ。

 

 

 ――鬼火『超高密度燐禍術』

 

 

 それは、『伊吹萃香』が持つ術の一つ。己が妖力を地中に打ち込み、高熱にしたうえでそれを凝縮して地上へと打ち出す術である。

 

 一拍の間を置いてから、拳を打ち込んだ所より噴き出したのは……真っ赤なマグマであった。どろどろのペースト状になるまでとろけたその様は、まるでバターのようにとろけて床全てを覆った――と。

 

「――逃がさん!」

 

 その時、彼女は気付いた。不可視であり不接触の、音の中を生きる存在。鬼の五感を持ってしてようやく認識出来るソレが、この場より遠ざかってゆくのを感知した。

 

 これが、人間であったならば逃げ切れただろう。だが、相手が悪かった。『密と疎を操る程度の能力』で干渉出来るのは、何も物理的な存在ばかりではない。

 

 東方Projectにおいて、『伊吹萃香』が人間や妖怪の心に干渉し、宴会を連日開催するよう意識を誘導したように。目に見えず、触れることすら出来ぬモノであろうとも、彼女は……集めることが出来るのだ。

 

 ぐん、と。頭上高くに上げた彼女の手が、何かを掴むかのように大きく広げられる。傍目からは、ただ手を上げているようにしか見えない……その手が、ぎゅう、と虚空を掴んだ。

 

「うっ、おぅ!?」

 

 瞬間、予想外のことが起きた。おそらく、ソレは初めての経験だったのだろう。己が掴まれるという未曽有の危機に直面したソレは、彼女の身体ごと逃げたのだ。

 

 

 いったい、何処へ逃げたのか?

 

 それは、彼女にも分からなかった。

 

 

 強く身体を引っ張られたと思った瞬間、気付けば彼女の眼前に広がる光景が一変していた。

 

 それを、何と表現すればいいのか、彼女の語彙では上手く表せなかった。

 

 

 螺旋を描く石畳の中を、彼女は飛んでいる。けれども、空を飛ぶのとは違って、浮遊感は全くない。まるで、吸い込まれるかのように身体が勝手にそこへ向かっている。

 

 螺旋の向こうには、仄暗い暗闇が広がっていた。だが、真っ暗というわけでもない。目を凝らせば、脈動する臓器のような何か、何かの形を模した石像のようなもの、そんなよく分からないモノが、音もなく浮遊しているのが見える。

 

 音もない、風もない。ここには、命すらない。けれども、死した世界ではない。矛盾が矛盾のままに成立した……そう、異空間だ。言葉にすれば、正しくそこは異空間としか言い表せない世界であった。

 

 

 ――ここに居ては、いけない!

 

 

 それは、直感でしかなかった。だが、かつてない程に激しく背筋を走った直感に従った彼女は――くるりと体勢を変えると、『捕まえたソレごと』渾身の力をもって……石畳に拳を叩き込んだ。

 

 

 ――瞬間、バキリ、と。

 

 

 何かが砕ける音を、彼女は聞いた。目の前の石畳にはヒビ一つ入っていないが、彼女は確かに何かが砕けたのを感じ取った―─その、直後。内臓がひっくり返るような浮遊感と共に、またもや景色が一変した。

 

 

 黒色から、緑色へ。

 

 

 気色悪い世界から、自然溢れる世界へと。ふわりと、あるいは、ぺい、と。ゴミ箱に投げ入れられるような感じで投げ飛ばされた彼女が振り返れば、そこに広がっているのは何処までも広がる青空と、緑の世界であった。

 

 

 いったい、此処は何処なのか。

 

 

 そう思うと同時に、彼女は遠ざかってゆく気配を集めようとした。仕留め損なった獲物をみすみす逃すつもりはない。せめて、後一発は殴らなければ気が済まない……そう思ったのだが、無理だった。

 

 引き寄せようとした時にはもう、ソレは彼女の能力が及ぶ範囲を超えてしまっていたからだ。「――っ!」思わず舌打ちを零した彼女は、くるりと反転して……ずどん、と地面を陥没させて着地した。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………むせ返りそうになるぐらいに濃厚な、緑の臭い。一歩間違えれば悪臭と取られかねないぐらいのそれに包まれた彼女は、陥没跡からのそのそと出て来ると、深く……息を吸って、吐いた。

 

 途端、ぼぉう、と炎が彼女の唇から零れる。無意識に、内心が籠ってしまったのだろう。自らを落ち着かせるつもりで、ぱんと頬を張った彼女は……さて、と辺りを見回した。

 

(……見覚えがないな)

 

 運び屋として生活を始めてから、数十年。単純に遊びに行ったこともそうだが、仕事の関係から様々な場所に行った経験がある。その、経験をもってしても、初めてとなる景色であった。

 

 一瞬だけとはいえ先ほど空から見下ろした時には、町と呼べるような場所が見られなかった。すなわちそれは、此処がよほどの秘境であることを示唆している。

 

 

 あるいは、何処ぞの国が意図的に残した保護区か何かだろうか。

 

 

 それだったら色々と面倒(そういうところは、だいたい保護区の境界線に監視員を置いているため)だが、まあ、空を飛んで行けば大丈夫だろう。今は目立つが、夜に飛べばまず見つからないだろうし……仕方がない。

 

 本当は一刻も早くドレイクが本当に死ねたのかが知りたかったのだが……まあ、余計なことをして余計に時間が掛かったら本末転倒だ。

 

 

 とりあえず、この場を離れよう。

 

 

 散歩がてら、周囲の散策もしてみたいし、それで現在地が分かれば儲け物だ。そう決めた彼女は、早速その場を離れようとした……のだが、その足はすぐに止まった。

 

「……何か用かい?」

 

 どうしてかといえば、彼女の眼前に……一人の男が立ち塞がったからだ。加えて、その男は……彼女の目から見ても普通じゃなかった。

 

 具体的に何が普通じゃないって、裸なのだ。

 

 大自然の中で、すっぱだか。ネクタイも靴下もない、文字通りの全裸だ。そのうえ、その男の首から上は緑色の球体に覆われている。まるで、緑色のボールをすっぽり被っているかのような姿であった。

 

 

 うわあ……変態がいる。

 

 

 表には出さなかったが、内心、彼女はドン引きした。いや、裸族そのものは否定しない。こういう場所で生まれたままの姿になることに意味を見出す者たちがいることは、彼女も知っている。

 

 だが、頭部の被り物は違う。裸になるのならなるで、どうして被り物などするのか。そういう中途半端なことをするのなら、むしろしない方が良いと彼女は……あれ、ちょいと待て。

 

(ん~変だな、どっかで見た覚えがあるような、ないような……)

 

 奇妙な違和感を覚えた彼女は、沈黙を保ったままの男へと歩み寄る。男は、何の反応も示さない。特に嫌がる素振りを見せないようなので、彼女は遠慮することなく男の全身を見回し……見回し……あっ。

 

(思い出したぞ、こいつって、あの遺跡の前にいた無茶苦茶しつこかったやつじゃないか)

 

 

 あれ、ということは、ここってもしかして私が最初にいた、『暗黒大陸』とかいうあの場所では――?

 

 

 そう、続けようとした彼女の視界から、男が消えた――いや、違う。消えたのではなく、彼女が顔を逸らしたのだ。前触れもなく男が放った拳によって、彼女の顔が真横へ動かされたのだ。

 

 続けて、男はそのまま彼女を殴りつけた。ごがん、と生物が立てるには些か不味い打突音と共に、彼女はふらりと仰向けになって倒れ――るよりも前に、踏ん張って堪えた。

 

 

 直後、男の身体が飛び出した――これも、違う。

 

 

 飛び出したのではなく、引き寄せられたのだ。彼女の眼前に集められてしまった男は、その勢いのまま拳を放った――が、無駄だった。反対に、彼女が放つ拳によって、その肩ごとぐしゃぐしゃに破壊されてしまったからだ。

 

 姿勢の不利など、関係ない。『伊吹萃香』の腕力は、鋼鉄を容易く引き千切る。衝撃によって片腕が粉々になった男は、悲鳴一つあげることもなく地面を転がった。

 

 傷は、肩口の動脈をも粉砕した。普通なら、即死とまではいかなくとも致命傷である。しかし、男の身体からは血の一滴も出なかった。それどころか、使い物にならない片腕をそのままに、あっさり立ち上がってしまった……と。

 

 めきめき、と。

 

 突然、肩の傷口から何かが伸びた。それは、植物の根を思わせる何かであった。一本一本が太さ数ミリ程度のその根は、絡み合う糸のように束を形成し、太さを増してゆき……あっという間に、代わりの腕を作り出してしまった。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 沈黙が、二人の間を流れた。

 

 負った傷など無意味と言わんばかりに佇む緑頭の男と、その程度の攻撃では攻撃にはならないと仁王立ちする彼女。傍目から見れば、裸の男と少女(下手すれば、幼女)が睨み合うという凄まじい構図。ここが街中であったなら、警察官の一人か二人は呼ばれているところだが。

 

 がさり、と。

 

 傍の草木をかき分けて姿を見せたのは、警察官ではなかった。現れたのは、緑頭の男。それも、一人や二人ではない。軽く見積もっても10を超える数が、のそのそと彼女の前に現れた。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 

 彼女は、何も言わなかった。緑頭の男たちも、何も言わなかった。ただ、無言のままに彼女が男たちに背を向けるのと、男たちが一斉に駆け出したのは、ほぼ同時で。

 

「――お前ら本当にしつこいから嫌いなんだよ――っ!!」

 

 悲哀のこもった雄叫びをあげながら、彼女は走った。途中、何度か追い付かれ、その度に蹴散らすのを繰り返しながら、彼女は走った……そして、改めて理解してしまった。

 

 

 ここは、『暗黒大陸』。

 

 

 かつて、己が己となった、その地であるということを……彼女は、嫌でも認識させられてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

  




この話のだいたいの流れ


鬼娘、朝から何だか調子が悪くてやる気が全くでない

演奏家の男が来て、闇のソナタを弾きたいから、災いが起こったら自分を殺してくれ

闇のソナタによって男に災いが起こる。その際、闇のソナタの大本であるやつを捕まえる

しかし、取り逃がす。その際、なんだかワープ的な逃げ方をしたらしく、巻き込まれて鬼娘はワープ

さてどうやって帰ろうかと思っていると、なんだか懐かしいやつがいる。

植物兵器「ドーモ=二ホンヅノ=サン ブリオン、デス」 鬼娘「アイエエエ!」

本人が微塵も望んでもいない里帰り編、スタート








十話以降は来年、ヨークシン編までは続けたい所存です




あ、ちなみに蜘蛛はヨークシンで何人か死なせるからね、嫌な人はヨークシン編は見ないようにね


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第十話:暗黒大陸と迷子の鬼娘

暗黒大陸に関する情報少なすぎぃ! 富樫ぃ、もうちょっと情報を出してくれよオラァン!


 

 

 

 

 

 

 この大地において、巨体であるのは確かな有利ではある。

 

 だが、全てにおいて有利に働くわけではない。むしろ、巨体であるが故に、多種多様な生物から獲物として狙われやすくなるというデメリットがある。

 

 これが、人類たちが暮らす世界であったならば、それがデメリット(食糧が枯渇するという点を除けば)になることはまずないだろう。

 

 

 しかし、『暗黒大陸』では違う。

 

 

 そりゃあ、人類より『暗黒大陸』などと名付けられている場所だ。人類たちが暮らす場所にて繁栄する生き物たちと比べれば、そのほとんどが巨大であると判断されるやつしかいない。

 

 

 しかし、全てが巨大であるというわけではない。

 

 

 人類世界においても、極端な巨体を武器にするモノもいれば、逆に極小であることを武器にするやつもいる。小さいが故により多くの子孫を残し、個ではなく群による強さを持って繁栄を遂げる生物はいる。

 

 それと同様に、人類世界では巨大であると判断されるサイズも、この地では小さいと判断されるサイズの生物だったりする。その中には、人類世界の生き物と同じく『質』より『量』でカバーする生物もいるわけだ。

 

 

 ……が、しかし。忘れて行けないのは、ここが『暗黒大陸』であるということだ。

 

 

 前述した通り、質より量を以て苛酷過ぎる生存競争を勝ち残ろうとする生き物は人類世界においても何ら珍しい存在ではない。だが、人類の常識では推し量れない大地であるここでは、常識的な物差しで捉えてはならない。

 

 

 例えば、その代表的な存在が昆虫である。

 

 

 『暗黒大陸』において、昆虫という存在はけして弱者ではない。その肉体的な強度もさることながら、何よりも恐ろしいのは……常識では考えられない速度で行われる、爆発的な繁殖力だ。

 

 仮に、だ。『暗黒大陸』において生息域が広く分布している、一匹のとある蟻(体長、約10センチほど)が、獲物となる相手を襲ったとしよう。相手は体長80メートルにも達する、暗黒大陸生まれの大陸育ちの恐竜のような生物だ。

 

 恐竜の表皮は固く、鋼鉄のように頑丈だ。銃器では歯が立たず、戦車の砲弾を以てしても数十発は撃ち込まねば殺せない。生命力も並はずれていて、飲まず食わずで七日はフルパワーで暴れることが出来る。

 

 

 そんな恐竜と蟻が戦ったとして、勝敗はどうなるか?

 

 結果は、順当にやれば恐竜が勝って、条件が悪ければ恐竜が負ける、である。

 

 

 それは恐竜が瀕死の状態であるとか、疲労困憊の状態であるとか、身動きできない状況にあるとか、そんな生易しい話ではない。

 

 恐竜の体内に卵を植え付けることが出来るか否か、ただそれだけである。

 

 

 ただ、それだけで勝負が付いてしまう。何故なら、たった一個の卵が恐竜の体内に入って、孵化した瞬間。臓腑を栄養源にして増殖し、恐竜を体内から食い殺してしまうからだ。

 

 その勢いたるや、文字通りの『爆発的』というやつだ。

 

 

 一分後には1匹から400匹に。5分後には400匹から60000匹に。30分も経たないうちに、80メートルにも達する巨体が保持していた肉体の全てが蟻の餌となり、骨すら残らない。

 

 それが、『暗黒大陸』に生息するポピュラーな昆虫の姿なのである。故に、ここでは身体の大きさなどそこまで有利には働かない。

 

 いや、むしろ、ただデカいだけのやつはこの地では二流あるいは三流だ。昆虫の例もそうだが、半端に大きいやつよりも、小さいやつの方が万倍も危険であったりするからだ。

 

 巨体でないからこそ、搦め手を使う。正面では勝てないから、勝つための武器を生み出す。たとえ小さくとも、それらすら跳ね除ける怪物たちを前に絶滅することなく生存できるだけの凶悪さが、小さき者たちにはあるのであった。

 

 ……しかし、だ。人類世界では人類に多大な悪影響を及ぼすとされて怖れられている、何もかもが規格外の凶悪過ぎるそんな生物たちも。

 

「あ~、生き返るわ~」

 

 二本の角を生やした彼女の理不尽さと比べたら、ある意味では可愛いものなのかもしれない。仮に、その光景を目にするモノがいたなら、そう思っても不思議ではない光景が、そこにはあった。

 

 そこは、枝葉から僅かに零れ落ちる日差しによって仄暗い程度に明るい、生い茂る森林のとある場所。地下より湧き出て沸き立つ温泉から立ち昇る湯気の中に身を浸した彼女は、温泉の縁に背を預ける形でリラックスしていた。

 

 

 当たり前というか何というか、彼女は裸であった。

 

 

 いや、まあ、服を着たまま入る趣味はないから当然なのだが、ここは人類世界ではない。一滴で大樹を枯らす毒液を排出する蛇が当たり前のように生息する、『暗黒大陸』の一角だ。

 

 そんな場所で、裸になる。あまつさえ、天然の温泉に身を浸す。

 

 自殺願望どころか気が狂っているのかと言われても、仕方がないだろう。それぐらいに、ここは地獄すら生温い苛酷な世界なのだ……が、しかし、だ。

 

 そんな場所をねぐらにして、あるいは罠に利用して、捕食しようとする怪物たちはいないのか、と。

 

 どうして、この温泉周りには怪物たちがおらず、のんびり彼女が温泉を楽しめているのか、と。

 

 

 その点について……疑問に思う者もいるだろう。

 

 

 森の中を50メートル進むまでに襲われる確率250%(食われた後、捕食した生物が他の生物に食われ、その生物がまた他の生物に襲われ、致命傷を負うまでの確率)なこの場所で、どうして彼女は気を抜いていられるのか。

 

 答えは……彼女が身を浸す、この温泉にこそあった。

 

 率直に述べれば、この温泉は毒温泉なのだ。だが、それは温泉そのものが毒なのではなく、正確には源泉へと繋がっている水路の途中にて寄生する形となった、とある植物が原因であった。

 

 この植物自体には、大した脅威はない。植物が持つ毒性と旺盛な繁殖力の二つに関しては脅威だが、ここでは有り触れたレベル。対処法さえ分かっていれば、何ら恐れることはない。

 

 

 しかし、この『毒』が厄介なのだ。

 

 

 常温(融点が10℃から70℃)では直接触れさえしなければ大丈夫だが、気化した瞬間、鉄すら溶かす腐食性を発揮する。その為、現在、この温泉一帯は戦車すら短時間で溶かしてしまう、猛毒地帯と化してしまっているのだ。

 

 故に、この周辺には怪物たちも近寄れない。近寄らないのではなく、近寄れないのだ。

 

 人間ならば一息吸うだけで肺どころか臓腑のほとんどが溶解してしまうこんな場所に、わざわざ獲物を狩りに来るやつはいない。毒を物ともしない程の怪物も、わざわざこんな辺鄙な場所で罠を張ることはしない。

 

 

 だから、この場所は平穏であった。

 

 

 なので、彼女はこの場所で骨を休めていた。肉体的にはノーダメージであるとはいえ、精神的な疲労は蓄積する。酒が一滴も飲めないフラストレーションを沸き立つ湯に溶かしながら、彼女は……そっと、隣を見やった。

 

「…………」

「……ふむ」

 

 そこには、彼女と同じく湯に浸かる緑頭がいた。

 

 人類世界では『ブリオン』と呼ばれているらしいその男(人間であるかは、彼女には分からない)は、何をするでもなく彼女の方へと目を(目が有るのかは定かではないが)向けていた。

 

 

 しかし、緑頭……ブリオンは、何もしない。

 

 

 ただ、彼女と同じく湯に浸かるだけだ。彼女のようにリラックスしているようには見えないが、攻撃に移るであろう仕草は見られない。ただ、黙って肩まで浸かるその姿を見て……彼女は、おもむろにそいつの後方へと目をやった。

 

 温泉の外には、湯に浸かるブリオンと同じ姿をした、緑頭たちが大勢いた。そのほとんどが男だが、中には女もいる。彼ら彼女らは皆屈強な身体をしており、首から上を除けば裸の人間にしか見えない。

 

 そういう生物なのか、それともかつての彼女が船に乗ってここを出た時のように、この地を訪れた男女に寄生しているのか。それは定かではないが、人の心を完全に失っているのはすぐに理解出来た。

 

「……おいこら、ぶらぶらさせるの止めろ」

 

 何故なら……肉弾戦では勝ち目がないことを悟ったらしい彼ら彼女らの内の何人かが、今度は精神的な嫌がらせを行うようになってきたからだ。

 

 具体的に何をしているかといえば、ぶらぶらさせているのだ。何をって、ナニだ。胸とか、股とか、そう、色々と。

 

 『彼』の基準からみれば御立派としか言い表しようがない男のブツを、ぶらぶーら。『伊吹萃香』の基準からみれば大豊作としか言い表しようがない女のブツを、どたぷーん。

 

 右に左に、前に後ろに。腰に手を当てて、妙にキレの良い動きでぶらぶーら。挑発のつもりか、それとも何かしら頭がおかしくなったからなのか……見ていて、気持ちのよいものではない。

 

 というか、正直にいえば気色悪い。我知らず彼女は、眼前でいきなり航空ショーを始めるトンボの群れを前にしたかのような、そんな顔になっていた。

 

 

 ……気味が悪いと彼女が思うのも、無理はない。

 

 

 何せ、この者たちには『感情』と呼べるモノがない。それは単純に顔に浮かぶ類のソレだけではなく、所作の全てに意思というものがまるで感じ取れないのだ。

 

 どんな生物にも、意思と呼べるものはある。それを『感情』という言葉で当てはめるには難しいものであっても、それがどれほど些細なモノであっても、意思というものを持ち合わせている。

 

 それは、『暗黒大陸』にて生きる怪物たちとて例外ではない。

 

 一見すれば何を考えているのかがまるで読み取れないやつらでも、傷を負えばそれを跳ね除けようと怒るし、獲物を前にすれば食いたいという欲求を露わにする。あの……『闇のソナタ』からも、そういう何かを彼女は感じ取れた。

 

 

 だが、こいつらには……ブリオンには、それがない。

 

 

 まるで、プログラムを施された人形が、プログラム通りに動いているかのようだ。どれだけひょうきんな動きをしても、どれだけ卑猥な仕草をしようとも、マネキンが動いているかのようにしか見えない。

 

 だからこそ、気味が悪い。だからこそ、こいつらは嫌いなんだと、彼女は思う。

 

 ブリオンたちと遭遇してから、かれこれ70時間弱。ここまで執拗に追いかけてくるやつを、彼女はこのブリオン以外には知らない。

 

 この地に住まう怪物たちですら、縄張り(というものがあるかは定かではないが)から出れば、それ以上の追跡を断念するやつらが多いというのに、こいつらは違う。

 

 一旦は追跡を逃れられても、こいつらは何処までも追いかけてくる。ようやく逃げ切ったかと思った数時間後に、追い付いて襲撃を掛けてくるから、もはや驚くこともなくなってしまった。

 

 そのうえ、こいつらはしぶとい。焼き払おうが、踏み潰そうが、猛烈な勢いで身体を再生させてしまう。能力を使って集め砕こうとしても、それ以上の速度で緑頭の一部を周囲に飛ばし、繁殖して新たな身体を作り出してしまう。

 

 単純な戦闘力ならば、彼女の方がはるかに上だ。それこそ、片手間に仕留めることだって可能だし、ブリオンたちが束になって掛かっても彼女の敗北の可能性は万に一つもない。

 

 

 しかし、それはブリオンたちも同じであった。

 

 

 ブリオンたちに勝ち目はないが、見方を変えれば、彼女にも勝ち目はない。いや、むしろ、精神的な疲労を微塵も覚えていないであろうブリオンたちと比べたら、分が悪いのは彼女の方だろう。

 

 

 今だって、そうだ。

 

 

 とりあえずは振り切った先で、この温泉(というほど穏やかなものではないが)に浸かってから、30分と経たない内にこいつらは来た。そして、何をするでもなく温泉に入り……監視するかのように、彼女の傍を離れない。

 

 その様を例えるなら、正しくストーカーというやつだろう。そういう存在がいることを『彼』の部分は知っていたが、まさか、『暗黒大陸』でそのような存在とまたも遭遇してしまうことになろうとは……ん?

 

 ――不意に、湯に浸かっていたブリオンが立ち上がった。ざぱり、と湯気を立ち昇らせている総身から毒液をぽたぽたと滴らせながら、そいつはのそのそと温泉を出た。

 

「……?」

 

 直後、代わりと言わんばかりに温泉を囲んでいた者たちの内の一人が、湯の中に入って来た。そいつはこの中では数少ない女体であり、遠目からでも要所が豊満なのが見て取れる体型をしていた。

 

 訝しむ彼女を他所に、その女ブリオンは何ら気兼ねした様子もなく、彼女の前に来る。次いで、ゆっくりとその場に腰を下ろす。男から女へと変わっただけの構図を前に、彼女はしばし胡散臭そうに眺める。

 

 女ブリオンは、これまでのやつらと同じく何もしなかった。ただ、湯に浸かるだけ。危害を加えて来ないし、挑発もしてこない。ただ、有るのか無いのかよく分からない視線を、彼女へと向け続けていた

 

 そうして、5分程が過ぎると、女ブリオンは立ち上がった。

 

 先ほどのやつと同じく、女ブリオンは彼女に背を向けると、のそのそと湯を出て行く。すると、これまた直後に新たなブリオン(今度のは、男)が湯の中へ足を突っ込み……また、彼女の眼前にて腰を下ろした。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………あのさあ、お前ら……いや、違うだろ。

 

 

 反射的に言い掛けた言葉を、彼女は寸での所で堪える。

 

 ともすれば苛立ちのあまり拳も出そうになったが、それをするとまた延々と続く鬼ごっこ(皮肉)に興じなければならなくなりそうなので、迂闊に手を出すことも出来ない。

 

 

 歯痒い……心から歯痒いと、彼女は思った。

 

 

 前述した通り、ブリオン単体の戦闘能力自体は、そう高くはない。彼女の攻撃力を以てしても手こずる再生能力を除けば、『暗黒大陸』の中では、せいぜい中の下といったところだ。

 

 厄介なのは、ブリオンたちが個ではなく群の強さを持つということ。

 

 おそらく、こいつらは縄張りというものを持たない。それ故に、何処にいるのかが分からず、何処でこいつらの索敵網に引っかかるかが全く分からない。

 

 そして、一度でも見つかったら……その情報は、瞬時に他のモノたちに回されてしまう。何処へ逃げてもすぐに追いつかれる理由が、そこなのだろう。

 

 そう、ブリオンたちを横目にしながら、彼女はぐったりと身体の力を抜いた。

 

(こいつらのことはひとまず置いといて、だ。果てさて、いったいどうしたものかねぇ)

 

 そうしていると、どうしても考えてしまうのは……これからのことであった。

 

(理想的なのは、海岸沿いをぐるぐる回っている内に船を見付けて……ってところだけど、まあ、まずそうはならんだろうなあ)

 

 それが、目下の懸念であった。

 

 無知というのは、時に恐ろしい。当時は分からなかったが、あの時、船に乗れたのは間違いなく幸運であった。いや、そんな言葉で表現出来るようなものではなく、あれは……正しく、『奇跡』に他ならなかった。

 

 

 何故なら、ここは人類が住める世界ではないからだ。

 

 

 ここに来るということ自体が、とてつもない危険を孕んでいる。そうまでしてこの地に来るだけの理由が彼ら彼女らにあったにせよ、行こうと思って行けるような場所ではない。

 

 その証拠に、彼女が、人類が住まうあの世界に暮らし始めてから今日まで、この大地(暗黒大陸)に船を出港させたというニュースを目にしたことは一度としてない。

 

 もしかしたら今も渡航を行っているのかもしれないが、それがニュースにならない程度の規模なのか、それとも極秘裏に行われるようになったのか……それすら分からない現状、この地に船が来る可能性は0と考えていいだろう。

 

 つまり、自力でどうにかしなければならないというわけだ。しかし、そうなると、どうしてもクリアしなければならない問題が、彼女の前に立ち塞がることとなる。

 

 それは、人間たちが暮らすあの場所へ向かう為に、方角を正確に把握する為の道具……コンパスなどが絶対に必要であるということ。

 

 いくら彼女が空を飛べるうえに無尽蔵の体力があるとはいえ、だ。見渡す限りの広大な海、地平線の彼方まで同じ景色が続く場所では、さすがの彼女も自らの方向を見失ってしまう。

 

 大陸内部ですら、あまりに広大過ぎて自分がどの方向へ向かっているのかが分からなくなるのだ。最悪、何年も青空の下を漂流し続けた後で、またこの大地に戻って来てしまった……という事態になりかねない。

 

 だから、絶対に必要なのは方位を知る道具だ。人類世界の位置が分からなくとも、自らの方位さえ分かれば何時か……何時かは、辿りつける。

 

 その為にも、彼女は一刻も早くそれの代わりに成りそうな道具を探しに行きたい……のだけれども。

 

 

 ……そうしたいけど、こいつらが本当に邪魔なんだよなあ。

 

 

 ちらりと、ブリオンたちを見やった彼女は……深々とため息を零した。

 

(――考えてみれば、前の時はよくこいつらに再襲撃をされる前に脱出出来たものだ……あ、いや、待てよ?)

 

 温泉の縁に背中を預け、だらりと脱力したままの姿勢で、ある種のこう着状態に置かれていた彼女は、ふと、思いついた疑問に目を向ける。

 

(何で、こいつらはあの船を襲わなかったんだ?)

 

 今まで気にも留めていなかったが、思い返してみたら不自然な点があることに気付いた。

 

 あの時は今よりも幾らかマシではあったが、その執拗な追撃はうんざりしていた。何処へ逃げても、何処へ隠れていても、まるで頭上から見下ろされているかのように居場所を特定されてしまう。

 

 それなのに、どうしてあの船は無事だったのだろうか。

 

 巨大化しようが焦熱の吐息を吹きつけようが全く怯まずに襲い掛かってくるというのに、あの船にはその痕跡は全く見られなかった。

 

 何かしらの対策をしていたにしても、あれだけの巨大船……こいつらなら、真っ先に襲撃を仕掛けるはずだが……記憶にある光景には、それがない。

 

 

 ……と、なると、だ。考えられる理由は、おおよそ三つ。

 

 

 一つは、ブリオンたちが船を見付けられなかった。

 

 だが、これは有り得ない。それよりもはるかに小さい彼女を森の中から見付け出せるのに、あの船に気付かないわけがない。

 

 

 二つ目は、知ってはいたが、後回しにしていた。

 

 これも、変だ。この野生溢れる大地において、『船』などというのは好奇心の対象にしかならない。少なくとも、放置しておく理由がない。

 

 

 となると、三つ目。

 

 あれが『船』であることを知っていて、かつ、それは放っておいても問題ないと判断出来て――あっ!

 

 

 気付いた瞬間、彼女は無意識の内に立ち上がっていた。ぽたぽたと滴り落ちる湯と広がる波紋に、ブリオンたちの間に不穏な気配が流れた……ような感じであったが、彼女は気にした様子もなく見開いた眼差しを彼ら彼女らに向けた。

 

「遺跡……そうだ、遺跡だ! お前ら、そういえば遺跡みたいなところにいたじゃん!」

「…………」

「遺跡っていうことは、アレだろ!? それを作れるだけの文明があったってことだろ!?」

「…………」

「こんな場所で遺跡が作れたんだから、当然、コンパスぐらい作れる技術があったってことだよな!?」

「…………」

「おっしゃっしゃ! 元気出てきたぜぇ! 方角さえ分かれば、こんな場所なんてオサラバだ!」

 

 ブリオンは、何も言わない。けれども、彼女にはそんなこと、どうでもよかった。ざぱりと湯から飛び出した彼女の身体に張り付いていた毒液が、すぱんと周囲に飛び散った。

 

 構わず、彼女は空高く飛ぶ。合わせて、術によって構成した衣服を身に纏った彼女は、はるか足元のブリオンたちが騒ぎ始めたのを尻目に、轟音と共に……空を駆けた。

 

 鴉天狗(東方Projectに登場する種族で、空を飛ばせたら鬼よりも速い)には負けるが、その速度は時速百数十キロにも及ぶ。広大であるが故に加減の必要がないから、彼女は一切合財を気にすることなく全速を出す。

 

 

 ……当然、空を飛ぶ彼女は、同じく空を飛ぶ怪物たちにとっては恰好の獲物でもあった。

 

 

 時速百数十キロとはいえ、この地ではそれほど速くはない。加えて、彼女自身も飛行はそれほど上手ではないし、ブリオンたちも翼を形成して追いかけてくるから、あの時も空を飛んで行くといったことはあまりしなかった。

 

 

 しかし、今は別だ。

 

 

 空を駆け抜ける彼女の眼前より迫る、巨大な怪鳥。開かれたクチバシから覗く十数本の巨大な舌は、さしずめ蛸の足を想像させる。それが、彼女の身体を呆気なく捕まえた。

 

 ――だけれども、それが怪鳥の体内に飲み込まれることはなかった。

 

 何故なら、彼女は止まらなかった。舌で押さえられようが、歯で押さえられようが、彼女は止まらない。時速百数十キロの速くはない弾丸と化した彼女は、全く減速することなく……怪鳥の喉を突き破ったのだ。

 

 いや、怪鳥だけではない。巨大なトンボや、長く首を伸ばした蛇、巨大な獣の張り手を受けてもなお、彼女は止まらない。

 

 数十の人間を瞬時に磨り潰してミンチにするトンボの口内を逆に磨り潰し、蛇の胴体を途中で分断し、獣の片腕を粉微塵にしてやった。それでもなお、彼女は全く減速しない。

 

 

 それは、もはやロンギヌスの槍であった。

 

 

 彼女は、一刻も早くこんな場所(暗黒大陸)から離れたかった。その一心が彼女を、万物を貫く槍へと変えた。故に、彼女は止まれない、止まらない、止められない。

 

 遺跡の場所は分からないが、時間はある。幸いなことに、飲まず食わずでも彼女は平気だ。だから、彼女はひたすら飛び続けた。時折追い付いたブリオンたちが邪魔をしてきても、構わず飛び続けた。

 

 朝が来ても、夜が来ても、また朝が来ても、また夜が来ても、彼女は飛び続けた。

 

 その間、幾つの怪物たちを轢き殺したのか分からない。幾つの怪物たちを貫いたのかも分からない。そんなこと、彼女は気にしなかった。何時も以上に、彼女は気にも留めなかった。

 

 そして……遺跡を求めて飛行を開始してから、16日目の朝。

 

「――アレか!?」

 

 ついに、彼女は見つけた。それはかつて、彼女が初めてブリオンたちと遭遇した時、ブリオンたちが背にしていた……遺跡の数々であった。

 

 まだ、距離にして数十キロメートルは先のこと。それ故にその正確な外観は分からないし、その光景も記憶の彼方だが……何となく、石と砂とで構成されている、古代の遺跡を思わせる外観だったような覚えがある。

 

 実際、遠目からではあるが、記憶の彼方に放り捨てていた景色と何処となく合致するような気がしてならない。加えて、他に、それらしい遺跡は見当たらない。

 

 

 違うのなら違うで、そこで目当ての物が見つかれば良い。

 

 

 そう判断した彼女は、方向転換をしてその遺跡へと向かう。その最中、追跡を続けてきたブリオンたちが邪魔をしてきた。これで75度目となる妨害に、彼女は――数えることすらしなくなった反撃で、ブリオンたちを蹴散らす……と。

 

 遺跡の方から、何かが飛び立ったのが見えた。それは瞬く間に高度を上げてゆくと同時に、こちらへと向かって来る。徐々にはっきりと見えて来る……翼を生やしたブリオンたちを見やった彼女は、思わず笑みを浮かべた。

 

 ブリオンたちは、確かに厄介だ。

 

 空を飛び、地上を駆け抜け、おそらくは水中まで追いかけてくる。その再生能力は驚異的で、人類が持つ銃器ではまず殺せないだろう。もしかしたら、戦術核を用いなければ殺しきれないかもしれない相手だ。

 

 けれども、彼女の侵攻を食い止めるには弱い。

 

 多少の減速は出来たものの、確実に彼女と遺跡との距離が縮まってゆく。

 

 それに合わせてブリオンたちの抵抗も激しくなってゆくが、それでもなお彼女の侵攻を止めることは叶わず、もう後10km程にまで彼女の接近を許した……そんな時であった。

 

 

 ……なんだ?

 

 

 彼女は目を瞬かせた。何故なら、ブリオンたちが唐突に彼女から離れ始めたからだ。それはこれまでに一度として見せることがなかった行動の為か、分かってはいても彼女はその場に静止した。

 

 しかし、それでもブリオンたちは何もしない。遠巻きに見つめてくるばかりで、攻撃はおろか妨害すらしてこない。けれども、逃がすつもりはないのだろう。彼女を中心にして、包囲するようにしてその場に留まっている。

 

 

 ……正直、不気味だと彼女は思った。

 

 

 ここは、これまでの彼女の常識が微塵も通じない世界だ。『闇のソナタ』の件もある。いったい、何を仕出かそうとしているのかが読めず、自然と彼女は身構え、待ちの姿勢を取った。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………いや、待てよ。もしかして、これは攻撃ではなく、自身をこの場に留め――ヤバい!?

 

 

 

(避け――っ!?)

 

 それは、直感であった。何の根拠もなかったが、考えるよりも前に、彼女は何かから逃れるかのように仰け反った――その、判断は正しかった。

 

 最初に感じたのは、右肩より広がった強い熱と衝撃であった。次に感じたのは、きりもみ状に回転してゆく視界。己が落下してゆく……そのことを理解して自覚した、その直後。

 

「――ってぇぇぇぇええええ!!!」

 

 イナズマが脳天を突き抜けた。そう錯覚してしまった程の激痛を、彼女は認識した。それは、彼女が『彼女』となってから初めて覚えた、耐え難き激痛であった――あっ。

 

 ずどん、と。

 

 衝撃が、全身を走った。地面に激突したのだと理解するよりも前に、彼女の身体が二度、三度、四度と跳ねて地面を転がる。暗転する視界の中で、ぐるんぐるんと回転を続けた彼女は……7度目のバウンドを経て、立ち止まった。

 

 

 ……辺りは、静かであった。

 

 

 より強いモノが狙われるこの大地には、あまりに似つかわしくない静けさだ。けれども、平穏ではない。耳を澄ませれば、常人でも、怪物たちの息遣いが徐々に近づいて来るのが分かっただろう。

 

 ……かはぁ、と。

 

 その中で、溜めに溜め込んでいた呻き声が吐息となって零れる。硬直していた四肢から緩やかに力を抜いていきながら、彼女はこれまたゆっくりと……顔を上げた。

 

「――っ!」

 

 直後、彼女は激痛に歯を食いしばった。反射的に宛がった左手が、ぬるりと滑る。「……ははっ」涙で滲む視界に映る、鮮血に濡れる左手を見やった彼女は……その手を、再び傷口へと押し込んだ。

 

 目の奥で火花が散るとは、この事を言うのだろう。真新しい裂傷をさらに広げてゆくたびに、鮮血が噴き出してゆく。それはむせ返る程の臭いとなって立ち昇り、彼女の身体を真っ赤に染め上げていった……と。

 

 

 ……指先が、何かに触れた。

 

 

 骨ではないソレを人指し指と中指で器用に挟むと、一息に抜き取る。その際にも激痛が全身を痺れさせたが、構うことなくそれを眼前に持ってくる。血濡れとなったそれは、直径2センチほどの……硬い、何かであった。

 

 それが、何なのかは分からない。しかし、自然物でないのは確かだろう。

 

 いったい、どういうことなのか。彼女の握力を以てしても『硬い』と判断されるソレを、無言のままに握り締めた彼女は……無言のままに、笑みを浮かべた。

 

 

 ――負傷した。それも、重傷と呼べる傷だ。

 

 

 だが、彼女は全く不安を覚えなかった。いや、『彼』の部分は恐慌を起こしているといっても過言ではないぐらいに動揺していたが、『伊吹萃香』の部分は全く違っていた。

 

 一言でいえば、『歓喜』であった。僅かな不純物すら混じっていない、純粋な喜びであった。

 

 それは、『鬼』としての性質のせいである。より強い相手を、真正面から叩きのめす。小細工は使わず、持てる全てを用いて戦い、負ければ己の全てを以て勝者の願いを叶えてやる。

 

 

 度し難い話だが、正しくそれは鬼としての矜持。鬼としての、生き甲斐。

 

 

 彼女が彼女となって初めてとなるかもしれない、己を負かすかもしれない存在の予感。ネテロにも成し得なかった、己に敗北をもたらす存在を感じ取った彼女は……気付けば、笑っていた。

 

 彼女が仮に『伊吹萃香』であったならば、彼女はもう止まれなかっただろう。鬼の本能ともいうべき衝動に突き動かされるがまま、彼女は突っ走っていた。たとえ、それが原因で己が死ぬことになろうとも、だ。

 

(……ふう、落ち着け、落ち着け。優先順位を間違えちゃあ、駄目だよなあ)

 

 けれども、彼女は……辛うじて、その場に留まっていた。それが出来たのは、彼女の中に『彼』がいるからであった。

 

 戦いにおいて、『彼』の部分が役に立つことはほとんどない。しかし、こういった部分では『彼』の部分が大いに彼女を助けてくれる。

 

 限度はあるが、『伊吹萃香』だけでは激怒する場面でも、『彼』が防波堤となり、あるいは感情の緩衝材の役割を果たしてくれる。

 

 

 ――今回も、『彼』に助けられた。

 

 

 それを実感すると同時に、大きく腕を振り被った彼女は――眼前へと迫って来ていたブリオンを、粉微塵に殴り飛ばした。衝撃波を伴ったその一撃は、直撃した一体の周囲にいた数体をも巻き込んで、ミンチに変えた。

 

 負傷した肩口など、もう治っていた。普段の彼女であれば、もうしばらくは掛かっただろうが、興奮した彼女の身体は、そんな傷すら瞬時に完治させてしまった。

 

 ある意味、ブリオン以上の再生能力を見せた彼女の、二発目。

 

 轟音を伴う拳の衝撃波が、鋼鉄並みの強度を持つ樹木をバター菓子のように粉々にしてしまうと……開けたその先へ、彼女は駆け出す。

 

 直後、ブリオンたちの攻撃がその場所へと突き刺さり、そのままの勢いで追いかけてくるのを背後より感じながら……彼女は、全力で遺跡へと走る。

 

(空から行くのは、ちょいと不味いな。これを飛ばしたのは間違いないだろうが、何処から飛ばして来たのかが全く見えなかった)

 

 途中、たまたま立ち塞がる形となったトカゲみたいな怪物を殴り飛ばして、先へ進む。脳裏を過るのは、己を負傷させた攻撃についてであった。

 

 彼女の、『伊吹萃香』の肉体を負傷させた貫通力は、驚異的だ。しかし、それよりも脅威なのは、今しがたの攻撃が……どのような形で行われたのかが全く分からないという点だ。

 

 これが、戦車の砲弾のように連発出来ないのであれば、やり方は幾らでもある。要は、その一発を避け続ければ良いだけなのだから、それにさえ気を付ければ良い。

 

 だが、単発ではなく連発であるならば。ハンドガンではなく、マシンガンであるならば、近づくにも相応に注意を払わなければ――っ!?

 

「うぉりゃあ!」

 

 前触れは、無かった。今回も、彼女は気付かなかった。けれども、鬼の優れた戦闘能力によって生み出された戦いの直感が、彼女の拳を無意識に動かしていた。

 

 どごん、と。放った右拳が衝撃によって跳ねた。引きずられそうになる身体を無理やり押し留め、続けて左拳を放つ。と、同時に、左拳も跳ねた――その瞬間、「どりゃああああ!!!」彼女は両拳の連打を放っていた。

 

 達人すら残像を捉えるだけでも難しい速度で行われる連続パンチ。一発でも食らえば戦車が粉微塵になる破壊力ではあるが……それを以てしても、飛来する『何か』を食い止めるので精一杯であった。

 

 

 それはまるで、固い岩盤にぶち当たった削岩機のようであった。

 

 

 音にすればそんな打突音と共に、削られた拳の破片が周囲へと飛び散る。足跡だと言わんばかりに残されるそれらによって釣られた怪物が、幾らか姿を見せる。

 

 その内の半分は、追いかけるブリオンに始末された。そして、もう半分は……拳より跳弾した『何か』を受けて、消滅した。肉片すら残さず、まるでそこだけくり抜かれてしまったかのような痕を残して、絶命していった。

 

(――ただ、固くて貫通するってだけの弾じゃないね、これは)

 

 その姿を、はっきりと目視したわけではない。しかし、眼前にて立ち塞がる樹木の一部が、そのような消え方をしているのを見て……彼女は、己の予感が正しかったことを悟った。

 

(……削られた拳の治りが遅い。でも、『霊力』の類じゃない。いったい、どういう攻撃なんだい?)

 

 飛来する『何か』が何なのかを知りたいのだが、弾道が見えない。何かが飛ばされているのは分かるが、着弾するまで認識出来な――っと!?

 

 がつん、と。乱打する拳の合間を抜けた『何か』が、脳天にぶち当たった。顔の半分が弾け飛んだ感覚と共に意識が一瞬ばかりぼやけたが、その次にはもう修復を終えた彼女は、転ぶことなく前へと進み――遂に。

 

「――今度こそ、捉えた!」

 

 森を抜けた彼女は、遺跡をはっきりと目視出来る距離まで接近した。そうして分かったのは、待ち構えている大勢のブリオンたち。そして、その手に……いや、その腕に抱えた物体であった。

 

 それは、『彼』にも『伊吹萃香』にも見覚えのない物体であった。

 

 だが、記憶にある造形とは根本から異なっていても、おおよその見当は付く。アレは、銃器だ。弾は、己に向かって打ち出された『何か』。それさえ分かれば、もうこっちのものだ。

 

 ブリオンたちがソレを構えるのと、彼女が己を霧に変えるのとは、ほぼ同時であった。右に左に銃口を向けているであろうブリオンたちを尻目に、霧となった彼女はブリオンたちを抜けて……遺跡へと入った。

 

(――何が大事なのかは知らないけれど、下手に外してここを壊したくないものな。そりゃあ、撃ちたくとも撃てんよな)

 

 ……思った通りであった。

 

 ブリオンたちにとって、この遺跡は重要なのだろう。初めて遭遇した時もそうであったが、侵入者への攻撃を執拗に繰り返す辺り、察しはついていた。

 

 それまで向けていた武器を下ろし、次々に霧となった彼女へと向かってきたが……その動きは、これまでとは雲泥の差であった。

 

(……さて、地上に見える遺跡は、本当にただの遺跡だね。こいつら以外に生き物はいないし、文字通り猫一匹通さないようにしていたみたいだ)

 

 でもね、言い換えればそれは。

 

(地上ではなく――本命が地下に有るってことを、自分から教えてくれているような――もんさ!)

 

 手加減を、する気はない。さあ、まずは――いちぃ!

 

 分散させていた己が身体を一か所に集めた彼女は、大きく腕を振り被って……打ち下ろした。どん、と大地がたわみ……その次の瞬間、衝撃が土砂を空高く舞い上がらせた。

 

「にぃ!」

 

 巨大なクレーターの、中心。そこへ降り立った彼女は、二発目を打ち込む。直後、更に土砂は舞い上がる。止めようとするブリオンたちも、広がる衝撃波に押されて彼方へと流されてゆく――と。

 

(――よし、やっぱり有った)

 

 拳より伝わって来る感触が、変わった。見やれば、巻き上がった土砂の下……そこには、岩盤ではない銀色の地面が広がっている。どう見てもそれは、天然のモノではなく、何者かが意図して作ったであろう物体であった。

 

 例えるなら、鏡のように磨かれた鋼鉄の床といったところだろうか。

 

 何処まで大きいのかは定かではないが、露わになった床の端が未だ土砂の中にある辺り、この遺跡全体の敷地面積よりも広いのかもしれない。そう判断した彼女は、それならば遠慮はいらぬと、腕を振り上げ――放った。

 

「さ――んっ!?」

 

 が、しかし。その拳が、銀色の大地に当たることはなかった。何故ならば、彼女の拳がそこへ直撃する、寸前。かしゅん、と音を立てて、床が円形に開かれたからだ。

 

 床の直径は、せいぜい3メートルほど。見たまんまを表現するなら、倍ぐらいに大きなマンホールの穴、といったところだろうか。奥底が見えない暗闇の中へと盛大に空ぶった彼女は、幾分か慌てながらも穴の横へ着地しようと……したが、無理だった。

 

 

 その光景は、掃除機に吸い込まれた糸屑であった。

 

 

 あっ、と思った時にはもう、彼女の身体はすぽんと穴の奥へと吸い込まれていた。反射的に伸ばされた彼女の手は、瞬きよりも短い一瞬の間に暗闇の向こうへと消えて……かしゅん、と、穴は閉じられた。

 

 

 

 ……沈黙が、その場には残された。

 

 

 

 しかし、全てが静止をしているわけではなかった。彼女の拳によって作られた、どでかいクレーター。四方八方に飛び散っていた土砂が……独りでに、元の位置へと戻り始めたのだ。

 

 押された波が引いていくように、ざらざらと土砂がクレーターを埋め始める。剥き出しとなっていた銀の床が見えなくなり、日の当たらない茶褐色の大地も見えなくなる。

 

 それは、地上の遺跡も例外ではなかった。

 

 余波によって粉々になっていた遺跡が、次々に元の姿へと戻されてゆく。継ぎ目一つ残さず、破壊の痕跡一つ残さず、5分と経たないうちに、何百年も前からそうであったかのように……何もかもが元通りになった。

 

「…………」

 

 後に残されたのは、無言で佇むブリオンたち。その手に抱える武器を下ろした彼ら彼女らは、のそのそとその場より散らばってゆく。彼女を追い掛けていた時からは想像出来ない程の、緩慢な動作であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……自販機のジュースが見る光景とは、こういう感じなのだろうか。

 

 

 暗闇の中をひたすら落下し続けている彼女は、ふと、そう思った。

 

 落下……そう、彼女は落下していた。等間隔で通過する光点がなければ、自分が落下しているのかすら分からないほどの、長い通路。その中を、ただひたすら……まっすぐ落ち続けていた。

 

 

 このまま落下を続ければいずれは激突するのに、何故、空を飛んで止まろうとしないのか。

 

 

 その理由は、止まろうとすると、それ以上の力で下へ引っ張られるからである。

 

 彼女の能力を封じているわけではない。自然の重力でも、ない。それだけなら、幾らでも彼女は抗う事が出来る。それが出来ないということは、それ以外の……あるいは、重力に助力を足した何かを行っているのだろう。

 

 その証拠に、上ではなく下へ加速しようとすると、逆方向へと身体が引っ張られる。右にも左にも同様で、実質、彼女は落下しているというよりは、何処かへ運ばれていると表現した方が正しいのかもしれない。

 

 抵抗さえしなければ、落下の速度は一定を保ったまま加速も減速も起こらない。故に、彼女はされるがまま。この後どうなるのかという好奇心もあってか、彼女は黙って結果を待っていた……と。

 

 

 前触れもなく、減速が始まった。

 

 

 何もしないで起こった初めての変化に、「お~……」彼女は思わず目を瞬かせる。ぐん、ぐん、ぐん、と、軽い衝撃を足裏に覚えるたび、目に見えて速度は落ちてゆく。

 

 何処へ落ちるのかと下を見やれば、目に留まるのは……ヘリポートを思わせるHマーク。それ以外は、真っ暗で何も見えない。発光するそのマークへと彼女の足が……降りた。

 

 瞬間、眼前の闇が開かれた。「うぉ、眩しっ!」その奥より零れた光に、彼女は思わず腕で顔を隠す。そのまま、時間にして十秒ほど……光に目が慣れた彼女は、恐る恐るその先へと進んで……目を瞬かせた。

 

 何故かといえば、答えは一つ。その先に広がっていた光景と、彼女が想像していた光景とが、掠りもしなかったからである。

 

 

 一言でいえば、そこは『SF』であった。

 

 

 彼女の眼前にある巨大ガラスの向こう。縦横高さが数千メートルにも達しているであろう巨大なガラスケースのそこには、光り輝く……何だろうか、クリスタルのような何かが浮遊していた。

 

 そう、浮遊している。何かに繋がれているわけでもなければ、吊るされているわけでもない。光の強弱を繰り返す以外に何の動きも見せないそれは、まるで脈動しているかのような力強さすら感じ取れた。

 

「…………」

 

 あまりといえばあまりな光景に、彼女はしばし呆然とする他出来なかった。原始時代から、SF時代へと。あまりに落差のある光景のせいか、タイムスリップを果たしたかのような気分であった。

 

 実際、そうとしか表現出来ない光景でもあった。

 

 クリスタルの足元には……何だろうか。床を這うようにして幾千もの光線が伸びているのが見えるが、アレはケーブルか何かなのだろうか。いまいち、見当が付けられない。

 

 彼女がいる現在位置的には、だ。そのクリスタルを収めた巨大なガラスケースをぐるりと囲う通路の一角に彼女が立っている、といったところだろうか。

 

 左右を見やれば、白や銀を基調としたメタリックな通路が続いている。突き当りの曲がり角に至るまで、他者の気配はない。ガラス越しに向こうの通路を見るが、そこにも他者は見られない。

 

 ……何気なく振り返れば、そこには継ぎ目一つ見当たらない壁しかなかった。

 

 今しがた通って来た入口が、そこにはない。「あ~……うん、こうきたか」しばし呆気に取られていた彼女は、入口があったと思われる場所を軽く叩く。へこみすらしないそこを見やった彼女は……力を込めて、殴りつける。

 

 

 ――どかん、と。

 

 

 鋼鉄すら容易く貫通する彼女の拳の直撃を受けても、壁に傷はない。本気でやれば壊せそうな手応えではあったが、壊すのはまだ早い。ひとまず後回しと判断した彼女は、改めて辺りを見回した。

 

 ……『無人』。そんな言葉が、彼女の脳裏を過った。

 

 いや、というか、そもそもここを作り上げたモノを『人間』に分類してよいものなのだろうか。

 

 目が大きくて頭がデカいグレイ的なやつを想像した彼女は、もしかして宇宙人と戦うことになるのかと思いながら、とてとてとその場を離れ……たのだが、はて、と彼女は小首を傾げた。

 

 どうしてかといえば、長く続く通路の何処にも、他所へと通じる出入り口が見当たらないのだ。

 

 階段も、エレベーターも、扉もない。継ぎ目一つない平らな廊下だけが、ずーっと続いている。その内どこか一つくらい見つかるだろうと思って歩き続け……気付けば、一巡してしまった。

 

「……ふむ」

 

 ならば、仕方がない。

 

 そう思った彼女は傍のガラスへと歩み寄ると、遠慮なしの右ストレートパンチを叩き込んだ――けれども。彼女の拳はガラスを突き破るようなことはなく、ばうん、とたわんだだけで……傷一つ付かなかった。

 

 

 ……予想は出来ていたから驚きはしなかったが、ただのガラスではないようだ。

 

 

 くわん、くわん、とプラスチックの下敷きが如きしなりを見せるガラスを見やった彼女は、やれやれとため息を零す。このまま彼女を閉じ込めるにしては頼りないモノばかりだ……ん?

 

 突然、距離にして30メートル程先に壁が下りてきた。壁が下りる速度は自由落下よりも速く、あっと思った時にはもう前方の通路は塞がれてしまった。

 

 

 ……前が塞がったということは、だ。

 

 

 当然、後ろ側もと思うと同時に、がこん、と背後より音がした。結果は薄々分かっていたが、振り返った彼女は案の定だと言わんばかりにため息を――いや、待て。

 

 前方の壁の両側。つまり、左右の壁を繋ぐようにして光の帯が現れた。それはまるで左右の壁を引っ張り合うかのように右に左に光が強まると……突如、帯は彼女の方へと動き出した。

 

 

 ……あれ、これってどっかで見たような?

 

 

 訝しんでいる彼女を他所に、光の帯は瞬く間に距離を詰める。そして、彼女の衣服を両断して通り過ぎ……後ろの壁に触れるか触れないかの辺りで消えた。服は、数秒で元に戻した。

 

(…………?)

 

 いったい、今のは何だろうか?

 

 光が触れたところが何となく温かい感じはしたが……小首を傾げる彼女を無視して、前方にて再び光の帯が作られる。今度は一本ではなく、文字通りの網目状になって彼女へと迫って来た。

 

(…………?)

 

 しかし、結果は同じであった。服は切られてしまうが、皮膚を切るには温すぎる。いったい何がしたいのかが分からず、どうなるかを見つめていると……前後の扉が音もなく開かれた。

 

 

 ……あ、終わり?

 

 

 始まったのが唐突なら、終わったのも唐突であった……と。彼女から見て、右斜め前方。それまでただの壁でしかなかったその部分に、長方形の亀裂が唐突に走った。

 

 今度は何だと、思わずそちらを見やった彼女の視線に気づいたのか、亀裂は音もなく横へスライドする。人ひとりが通れるサイズの出入り口から、小さく白い何かが這うようにして出てきた。

 

 

 そいつの大きさは、幼稚園児並しかなかった。だが、その姿形は幼稚園児のような可愛らしいものではなく、おぞましいと評してもおかしくはない姿であった。

 

 具体的にいえば、そいつの外見は色素が薄い『餓鬼』であった。あるいは、蛙に成り損ねた人間といった方が近しいのかもしれない。

 

 妊婦かと見間違うほどにぼっこりと膨れた腹を除けば、どこもかしこも枯れ枝のように細い。大きく飛び出した眼球は血の色をしたボールのようで、不揃いな歯を涎まみれにしている。

 

 

 それが、数にして……10体。

 

 

 キーっ、キーっ。サルを思わせる声を発しながら、最後の10体目が通路へと出てくると、開かれた扉が音もなく閉まった。なるほど……外からでは分からないわけだ。

 

 ……と、なれば、適当に壁を打っ叩いて探るほかあるまい。

 

 継ぎ目一つ残さず壁になったそこを見やっていた彼女は――無言のままに、己へと飛び掛かってきた餓鬼の頭を殴り潰した。悲鳴一つ上げる間を与えず、そいつは首から上が弾けた。

 

 レンジにて爆発させた卵以上に悲惨なそいつが、床を転がる。次いで、横から飛び込んできた別の餓鬼の頭を掴んで、そのまま床に叩きつける。瞬く間に2体を殺されたことで、多少は怖気づいたのだろう。

 

 餓鬼たちの動きが、目に見えて遅くなった。けれども、怯えているわけではない。ギィー、と幾らか低い声色の雄叫びで威嚇する餓鬼たちを見やりながら……彼女は、小首を傾げた。

 

(何だこいつら、本当にここの生き物なのかい?)

 

 ここの生き物にしては、あまりに弱いし脆すぎる。

 

 そう、彼女は率直に思った。強いて擁護するのであれば、人類世界での基準で評価するならば、まあまあ危険な生き物だなと判断するレベルではある、といったところだろうか。

 

 

 しかし、ここは『暗黒大陸』である。

 

 

 そりゃあ、脆い生物はいる。しかし、それはあくまで『暗黒大陸の基準では脆い』というだけの話であって、人類世界の基準に当てはめれば、『悪夢のような頑丈さ』と評価されるレベルなのが大半である――ん?

 

 睨んでくる残りの8体をどうするかと考えていると、唐突に右足に違和感を覚えた。見下ろせば、首回りに鮮血やら肉片やらをこびり付かせた餓鬼が、足首の辺りに噛み付いていた。

 

「……ああ、そっちか」

 

 攻撃ではなく、再生能力で戦うタイプか。まあ、上の緑頭たちもどちらかといえばそっちの方が……納得した彼女は、軽く息を吸って――足首に噛み付いたそいつに焦熱を吹き付けてやった。

 

 彼女が放つ焦熱の吐息は、鋼鉄を瞬時に溶解させる。火炎放射器など足元にも及ばない熱量をまともに浴びれば、『暗黒大陸』育ちの怪物とて瞬く間に(サイズの問題はあるけど)絶命する。

 

 当然、幼稚園児並のサイズの餓鬼が浴びれば、ひとたまりもないだろう。

 

 切り傷等の裂傷とは違い、火傷による負傷は組織の再生に時間が掛かる。ブリオンとの戦いでそれを学んだ彼女は、欠片一つ残すことなく足元の餓鬼を灰にかえしてやった。

 

 

 ――が、しかし。

 

 

 驚いたことに、餓鬼はそれでもなお攻撃を止めなかった。焦熱の吐息によって臓腑の大半が炭へと変わり、怪物であっても絶命するだけのダメージを受けているはずなのに、だ。

 

 加えて、炎が切っ掛けになってしまったようだ。いつの間にか再生して復活した餓鬼と、様子見を続けていた餓鬼たちが一斉に飛び掛かってきた。なので、彼女は仕方なく全員を相手にすることにした。

 

 ほぼ炭になっている餓鬼を強引に踏み潰し、向かってきた餓鬼を横殴りの裏拳で爆散する。眼前に来たやつを頭突きで粉砕し、足元から飛び掛かってきたやつを膝蹴りで返り討つ。

 

 ばらけて向かって来るやつは一か所に集め、焦熱の吐息で一気に焼き尽くす。二体を両手に掴んで、ヌンチャクのように振り回して下半身を分離させ……何だ、こいつら?

 

(本当に、どういう生き物なんだい? 何をしたら、こいつらは死ぬんだ?)

 

 切っても砕いても瞬時に傷を治癒させて襲い掛かる怪物は掃いて捨てるほどいるが、これはしぶとい等というどころのものではない。彼女を以てしても、どうやれば死ぬのかがまるで見当がつかない。

 

 上で戦ったブリオンたちですら、一体ずつであれば仕留めることは出来た。ただ、殺しきる前に分裂してしまうから殺しきれないだけで、ある一定以上のダメージを受ければブリオンたちもちゃんと絶命はしていた。

 

 

 けれども……こいつには、それがない。

 

 

 手足をもいでも、臓腑を焼いても、全身を踏み潰しても、再生速度に衰えが見られない。ブリオンのように地面に根差して瞬時に緑頭を増やす……つまり、地面から栄養等を一切吸収していないのに、だ。

 

 戦いが始まって、20分ほど。既に、彼女の周囲は餓鬼どもの血肉と臓腑と鮮血とが入り混じる、真っ赤な地獄絵図と化している。

 

 壁や床に叩きつけられたその血の量たるや、風呂釜を軽く20個は満たすほどにも達している。それなのに、餓鬼どもに弱る気配が全く見られない。

 

(あ~もう、キリが無い!)

 

 いいかげん、焦れた彼女は身体に纏わりついてきた餓鬼どもを焼き払って振り払うと、背を向けてその場を離れた。「何時までも構っていられるか!」背後よりギィーギィーと雄叫びが聞こえたが、構うことなく彼女は走る。

 

 幸いにも餓鬼どもの頭は悪いようで、逆回りをして迎え撃つといった行動はとらず、ただひたすら彼女の後を追いかけてくる。

 

 それを察した彼女は、ぐるりと長い廊下を一周し……血だまりの現場より少し離れた位置にあった、餓鬼どもが出てきた辺りの壁の前に立ち止まると。

 

「――どっせい!」

 

 幾らか本気で、壁をぶん殴った。少しばかり位置はずれていたが、拳の威力に耐えられなかったようだ。めきりと変形した壁の一部が歪んで出来た隙間に、彼女は両手を差し込むと。

 

「んん~~っ!!!!」

 

 渾身の力を込めて、開く。彼女の力を持ってしても固いと判断する強固な壁が、べきべきと剥かれてゆく。ばちばちと飛び散った火花が、彼女の額に浮かんだ汗に触れてじゅうと張り付く。

 

 追いついた餓鬼どもが彼女に飛び掛かってくるも構わず、彼女は広がった隙間へと身体を強引に押し込み、全身の力を使ってさらに広げる。圧力によって一部が真っ赤になり始めた辺りで、彼女は中へと身体を滑り込ませた。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………あれ?

 

 

 室内に入った彼女は、何時まで経っても餓鬼どもの追撃が行われないことに、内心にて小首を傾げた。むくりと身体を起こして振り返れば、こじ開けた穴の向こうに餓鬼どもの姿が見える。

 

 けれども、室内に入ってくる様子はない。ギィーギィーと喚くばかりで、それ以上をして来ない。先ほど、この部屋から出てきたのに何故……いや、止めよう。

 

 考えた所で、意味はない。『暗黒大陸』において考えるというのは重要ではあるが、何よりも重要なのは『そういうものだ』と有りのままを受け入れる、諦めの境地。

 

「……SFっていえば、こういうのは定番なのかな?」

 

 幾度目かとなる結論に至った彼女は、ひとまず背後の餓鬼どもを思考の隅に追いやってから……眼前の、カプセルケースの群れを見やった。

 

 彼女が入った部屋は、パッと見ただけでも直線にして百メートル四方以上はある、広い部屋であった。

 

 その室内には、金属の装置に繋がったカプセルケースが等間隔で並べられており、何ともSFチック(あるいは、バイオちっくか?)な雰囲気を醸し出している。

 

 ケースの大きさは、体格の良い男性が胸を張っても余裕を残す程度のサイズだ。中には、様々な生物が薄らと青色掛かった溶液に浸されており、どいつもこいつも死んだように目を閉じている。

 

 

 ……ホルマリン漬けされた標本か何かかな?

 

 

 ここはいったい、どういう部屋なのだろうか。医学の知識があれば多少なりとも分かったかもしれないが、彼女にはそれがない。趣味の悪いオブジェだと思いつつ、彼女は何気なしにカプセルを眺めて行く。

 

 カプセル内の生物には、これといった共通点は見当たらない。

 

 巨大な虫もいれば、猿(さっきの餓鬼とは違う)を思わせる生物もいて、中にはシャチのようなやつもいる。カプセルの足元部分より繋がっている機械は床下へと続いているようだ。

 

 

 ……並べられた試験管のように見えてしまうのは、ひねくれた見方なのだろうか。

 

 

 試しにカプセルに触れてみれば、思いのほか冷たい。常人が触れば、一発でガラスに皮膚が張り付いて大惨事になる冷たさだが……不思議と、結露の痕跡は見られない。

 

 さすがに、これを壊そうとは思わない。というか、こんなもんを壊した所で何がどうってわけでもない。それ故に、自然と彼女の興味は次のカプセル、その次のカプセルへと向けられていった。

 

(……標本とか、本来は冷やしておくものなんかな?)

 

 並べられたカプセルを横目にしながら、ふと思う。『彼』の知識の中にあるホルマリン漬けは、理科室とか化学室とかの棚に(いわゆる、暗所)保管されて……ん?

 

 だいたい、部屋の真ん中ぐらいに来た辺りだろうか。

 

 何気なくカプセルを見やっていた彼女の視線が、ぽつんと姿を見せた金属台に止まる。「……何だこれ?」これまでには見られなかった異物の登場に、彼女は小走りに歩み寄り……はて、と小首を傾げた。

 

 

 近寄ってから気付いたのだが、金属台と思ったそれは機械的な何かであった。

 

 

 大きさにして、縦横50センチ、高さはちょうど彼女の目線の位置ぐらい。横面には継ぎ目が一つもないが、上面部分は……何だろうか。色は黒く、ガラスなのかプラスチックなのか、ほんのりと熱を持っている。まるで銀の豆腐にカラメルを塗ったかのような外観で――おっ?

 

 何気なく手を置いた瞬間、カラメル面に変化が現れた。具体的には淡い光によって色が変わり、「……あ、これってもしかしてタッチパネルかい?」そのおかげか、彼女はすぐにこれが何なのかに気付いた。

 

 

 仮に、この場に他人がいたら、困惑に警戒心を露わにしていただろう。

 

 

 何故なら、タッチパネルというモノ自体は『彼』にとっては馴染みが深いものだが、この世界(人類世界)においては未だ存在していない、未知の技術であるからだ。

 

 いや……もしかしたら、彼女が知らないだけで、この世界にだってタッチパネルはあるのかもしれない。

 

 しかし、少なくとも彼女は見たことがない。都市部に仕事で行った時ですら、見たことがない。なので、有ったとしても実用化はまだされていないのだろうなあ……と、思いつつ画面を眺め……んんん!?

 

「……?」

 

 淡い光も治まり、パネル画面に映し出された映像を見やっていた彼女は、しばしの間……眼前の光景を理解出来なかった。

 

「ええ……?」

 

 何故かと言えば、画面に映し出されたのが、『彼女が知る日本語』であったから。そして、この『彼女が知る日本語』というやつは、この世界には存在していないからこそ、彼女は驚いたのであった。

 

 ……厳密にいえば、この世界にも日本語と呼ばれている(日本語以外も、幾つかあった)らしい言語は存在している。

 

 しかし、それはあくまで彼女の知るそれに近しいというだけであって、かなりの部分が異なっている。何処が違うのかといえば、最も当てはまるのが……漢字だ。

 

 例えば、彼女が知っている漢字が無くて、彼女の知らない漢字がある。同じ日本語でも、『彼女が知っている漢字』と『実際に使われている漢字』とで意味が異なっていたりする。

 

 初めて彼女がその事に気付いた時、彼女は、この世界には日本語はなく、あるのは中国語っぽい日本語か何かだと思っていた。

 

 実際、本屋にて確認した際も、彼女の知る日本語は見つけられなかった。だから、この世界には中国語っぽい日本語しかなくて、『彼女の知る日本語は存在しない』と思っていた。

 

「いったい、これはどういうことだ?」

 

 けれども……今、この瞬間。彼女は、その仮説が間違っている可能性があることを知ってしまった。

 

「もしかして、ここって私の知る世界のはるか未来……いや、パラレルワールドってやつか? それなら、とりあえずの説明は……ん~、さっぱり分からん」

 

 考えるだけ無駄だと思ってはいても、思考を巡らせてしまうのは、致し方ない。ひとまず眼前に現れた諸々の疑念やら何やらから目を逸らしつつ、彼女はパネル操作を始めようと――手を伸ばした、その瞬間。

 

 

『――No Warning Goodbye For Ever The Foolish 』

 

 

 頭上より……というか、四方八方から叩きつけられたかのような制止の声に、「うぉ!?」思わず彼女は肩をびくつかせた。反射的に辺りを見回した――瞬間、異変が起こる。

 

 等間隔で設置されていたカプセルが、一斉に動き出したのだ。それはまるでレールに運ばれるピンのように、運ばれてゆく。右に左に前に後ろに動いたかと思えば、次々に床下へと運ばれる。

 

 時間にして、ものの十数秒後。夥しい数のカプセルの全てが、床下へと消えた。何も無くなった景色に目を瞬かせる彼女の背後で、パネル画面も床下へと……後に残されたのは、彼女ただ一人だけであった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………少しばかり身構える彼女の眼前に、一つのカプセルが床下よりせり上がってきた。だが、それは元々ここにあったカプセルとは違い、表面には霜がびっしりと張り付いていて、遠目からでも冷気を放っているのが分かる。

 

 

 中に何がいるのかは、見えない。シューッと、ガスらしき何かが注入される音がしたかと思えば、中の溶液の水位が下がり始め……パリパリと氷が剥がれ落ちた後、音もなくカプセルは開かれる。

 

 

 ……中より姿を見せたのは、人型の異形であった。

 

 そいつは、他の怪物にしてはサイズが小さく、上でやりあったブリオンとそう変わらない。けれども、その見た目はブリオンとは違い、全身全てが大きく異なっている。

 

 

 一言でいえば、そいつは人の形をした昆虫であった。

 

 合わせて顔の半分にも匹敵する巨大な複眼は赤く、跳び出した顎はカマキリのように尖っている。全身を覆っている外骨格は光沢があって黒く、まるで分厚い鎧を身に纏っているかのようであった。

 

 

 そいつは、言葉を発しなかった。

 

 電源を入れられた玩具のように愚鈍な動きで、カプセルから降り立つ。合わせて、空になったカプセルは床下へと消える。キチキチキチと口を鳴らしている様は生理的嫌悪を誘発させるものであった……が。

 

 

「……か、仮面的な……ライダー?」

 

 

 正直、彼女にとってはそんなモノよりも気になる部分があったから、それについては気にならなかった。

 

 そして、彼女よりライダーと呼ばれたソイツも、気にしていないようであった。

 

 呆気に取られる彼女を他所に、そいつはキチリとひと際大きく口を鳴らした――瞬間、数十メートルの距離を一気に詰めた。

 

 その速度たるや、彼女の反応が遅れる程で。「――っ!」攻撃されると彼女が認識するのと、その彼女の横顔にソイツの拳が直撃するのとは、ほぼ同時であった。

 

 ――だが、彼女も負けてはいなかった。

 

 反射的に繰り出した拳が、ソイツの腹部をぶっ叩いたのだ。防御を完全に捨てたが故の反撃。たたらを踏む彼女の反射神経を凌駕したソイツも、衝撃を逃しきれず身体をくの字にして数メートルほど跳ねた……だが。

 

「……へえ、けっこう固いんだな」

 

 倒れることなく止まったソイツを見て、彼女は驚きに目を瞬かせた。

 

 反射的に殴りつけたとはいえ、彼女の腕力は『暗黒大陸』の怪物すら仕留める。少なくとも、かつて殴りつけた現像……幻影だったか、そいつらの内の一人である原始人みたいなやつを即死させるだけの力は込めていた。

 

「――っと」

 

 まるで堪えた様子もなく飛び掛かってきたソイツと、手を組み合う。体重差があるが故に、能力を応用して自らを重くさせた状態で怪物との力比べに持ち込ませた彼女は……やはり、と頬を緩める。

 

 見た目からは想像すら出来ないパワーだ。彼女よりは劣るが、人間では足元にも及べない。一瞬とはいえ、己が反射を上回る速度で動いた点も考えれば、単純なパワーやタフネスは、上のやつ(ブリオン)よりも数段は上だろう。

 

 けれども……それだけでは、無駄だ。

 

 手首を返し、捻る。抵抗を強引にねじ伏せ、バックドロップの要領でソイツの顔面を床に叩きつける。当然、その程度でどうにかなる相手ではなく、見た目相応の動きで離れようとするが、無駄だ。

 

 構うことなく、起き上がった彼女はソイツの身体を振り回す。一度や二度ではない。子供が玩具を無造作に振り回すように、濡れたタオルの水気を取るように、ソイツの身体は風を切る。

 

 そのまま、人間ならば最初の一振りで原形を留めていられないほどのGを掛けられ続けること、十数秒……ぶつり、と重さが途絶えたのを感じたのと、ソイツの身体が壁に叩きつけられたのは、ほぼ同時であった。

 

「……痛みは、感じていないようだね」

 

 どうやら、ソイツの体液は赤色ではなく青色に近い緑色のようだ。道標のように伸びている体液の先にいるソイツは、遠目からでも分かるぐらいに派手にぶつかったようだが……堪えた様子はない。

 

 辛うじて人の形をしているが、やはり昆虫の要素が強いのだろう。「ライダー的なアレとは、逆なんだな」指に絡み付いた異形の指を取り外しながら、彼女は……内心、安堵していた。

 

 ……いや、だって、さあ。

 

(私が言うのもなんだけど、アレってどうやったら殺せるんだ? どれか思い出せないけど、完全に殺しても復活するようなやつがいなかったっけ?)

 

 彼女の中にある『伊吹萃香』にはないが、『彼』の知識の一つにある。それ自体は『彼の子供の頃』の記憶のうえに、その『彼』が見ていた空想上のキャラクターというややこしいものではあるが……話を戻そう。

 

 

 ――とにかく、だ。

 

 

 見た目がライダー的なやつなら取るに足らない相手ではあるが、中身までライダー的なアレだったら。締まらない話ではあるが、命がけの戦いになることが確実となってしまう。

 

 それも望むところだと思ってしまう『伊吹萃香』の想いから目を逸らしつつ、彼女は――壁を蹴った反動で放たれたソイツのジャンプキックを、真正面から受け止める。

 

 さすがに、彼女もその勢いを押し止められず床を削って滑る。だが、それだけ。彼女を倒すには威力が弱すぎる。逃げようとしたソイツの両足を掴んだ彼女は、大きく振りかぶって――床に叩きつけた。

 

 かつて、同じことをした人間は粉々になった。そいつは偽物ではあったが、それ程の威力を持つ攻撃も……ソイツは、ダメージを負ったようには見られない。

 

 

 ならばと言わんばかりに、能力で強引に引き寄せたソイツの腹部に、拳を叩き込む。全力ではないが、ミサイルが直撃するよりも威力のあるそれを受けてソイツの身体が跳ねた……が、ソイツは構うことなく彼女の頭部を両の掌で押さえ込んだ。

 

 ぎりぎりぎり、と。戦車すら容易くねじ曲がるほどの圧力が、彼女の頭部を押し潰そうとする。何時ぞやの原始人なら瞬時に潰されるであろう抵抗を受けながら……二度目の拳がソイツの腹部にぶち当てられた。

 

 

 ずどん、ずどん、ずどん。衝撃が背中を通り抜け、床を伝わってソイツの全身を震わせる。

 

 

 最初は堪えた様子を見せなかったソイツも、回数が三十を超えた辺りで限界を迎える。青緑の体液が飛び散り、表皮が四方八方へと砕けて飛び散り、ガードに使った両腕がへし折られる。

 

 そうして、45回目の拳を放った時。限界を迎えたソイツの身体は上下に分かれ、上半身がごろりと床を転がった……うわ、まだ動くぞこいつ。

 

「何か見た目がゴキブリみたいで気色悪い……」

 

 これで腹を見せていたら、完全にゴキブリだ。おまけに両腕は千切れかかっていて、首もほとんど取れ掛かっているせいで、余計に見た目が悪い。

 

 放っておいても死ぬだろうが、ここは『暗黒大陸』。このまま一ヵ月ぐらい平気で生きていそうな気もする……苦しませるよりは、楽にしてやろう。

 

 そう判断した彼女は、びくびくと痙攣を続けている下半身を放り捨て、ソイツの頭へと向かう。文字通りの虫の息となった頭に足を置くと、「――せえの、よいしょ」一息で踏み潰してやった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………ふむ。

 

 

「誰かは分かんないけど、見てんだろ?」

 

 何時まで経っても変化が起こらないので、彼女から声を掛けてやった。まあ、声を掛けるといっても天井に向かって話しかけるだけなのだが……意図は、伝わったようだ。

 

 パネル画面があった辺りで、またカプセルが床からせり上がってきた。「……第二ラウンドでもすんの?」まさかこの部屋にあったカプセルの数だけ相手に?

 

 

 思わず、彼女は嫌そうに顔をしかめた。

 

 

 戦う事自体はまだ良いが、こういうやり方は嫌いだ。というか、そもそもここにはコンパスを探しに来ただけなのに……とりあえず、三度目も同じことをしてきたら、ここら全部ぶっ壊してやろう。

 

 そう思って見ていると、準備を終えたカプセルが開く。途端、内部よりは放たれた冷気が外へと零れ……間を置いてから、ゆっくりと中のやつが出て――え?

 

「……え?」

 

 その姿を認識した瞬間、彼女は数秒程……目の前の光景を記憶出来なかった。

 

 何故なら、そいつは裸の彼女であったからだ。両手と腰に巻き付いた鎖等はないが、頭部に生えた立派な二本角。いや、彼女が二人になったわけではない。正確にいえば、彼女と瓜二つの姿をした何かが……そこに、いた。

 

 

 ……彼女は、言葉を失くした。

 

 

 鏡から抜け出て来たのかと錯覚してしまう。そいつが近づいて来るのは分かっているが、頭が動いてくれない。まるで夢を見ているかのような気分で、眼前に立ったそいつを眺めている……と。

 

「――やはり、失敗する。どう操作しても、貴女のような個体にはならない」

 

 そいつは不意に、言葉を発した。その声色は彼女と全く同じで、彼女自身が口走ってしまったのかと困惑してしまいそうになるぐらいに、よく似ていた。

 

「初めまして、不遜な侵入者。貴女の目的は私たちには分からないが、貴女の来訪については歓迎しよう」

 

 呆然とするしかない彼女を他所に、彼女の姿をした『彼女』は、にっこりと……文字通り、機械的に取り繕った笑みを浮かべると。

 

「ようこそ、次元の旅人(ワールド・トラベラー)。私たちにはもう、貴女を害そうという意志がないことを、ここに宣言する」

 

 そう言って……彼女へと、手を差し出したのであった。

 

 

 

 

 

 



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第十一話:伊吹萃香もどき(偽)と空を駆ける()鬼娘

無事に暗黒大陸から帰ってこられるわけない……はっきりわかんだね


 

 

 

 ──こんな場所で、話し合うのもなんだ。

 

 

 

 

 その言葉と共に、彼女そっくりの姿をした女に案内されるがまま、部屋を出る。

 

 その際、またあの餓鬼どもが襲ってくるかと身構えたが、既に部屋の外には誰もいなかった。

 

 

 いや、誰もいないどころか、血の跡すらなくなっていた。

 

 

 壁やガラスに貼り付いた肉片も、辺り一帯に飛び散った鮮血も、まるで夢だったかのように一滴の痕跡もそこにはなかった。

 

 女は何も言わなかったし、彼女もあえて尋ねるようなことはしなかったが、女が何かをしたのは明白であった。

 

 その証拠に女は平然と通路を進む。自分を襲うモノがここにはいないと分かっているようだ。

 

 その女が不意に立ち止まったのは、通路の途中。彼女の目から見れば何の変哲もない、壁の前であった。

 

 鏡のように滑らかな壁へ女が手を伸ばす。指先が壁に触れると、一瞬ばかり網目模様の光が壁一面に走る。と、思った直後、消えた網目の光をなぞるようにして、音もなく壁が消えた。

 

 

 

 ……カプセルがあった部屋の扉の開け方とは、違う。

 

 

 

 細かいといえば細かい点に目を留めている彼女を他所に、女はさっさと中に入って行った。

 

 一瞬ばかり、罠の可能性が脳裏を過った。しかし、ここまで来て罠に掛けたりはしないだろうと判断した彼女は、女の後に続いて中に入った。

 

 

「……はぇ~、すっごいな」

 

 

 直後、彼女は……我知らず、驚嘆のため息を零していた。何故かといえば、室内の雰囲気がこれまでに見てきた銀色の景色とは根本から異なっていたからだ。

 

 まず、部屋自体はそう大きくなかった。というか、前の部屋と比べたら、狭いと判断する広さしかなかった。正確な面積は分からないが、せいぜいが15メートル四方といったところだろうか。

 

 全体的な内装は……有り体にいえば、Barだ。だいたいの人がイメージする、そんな感じの内装。ただ、Barと呼ぶには些か殺風景な代物であった。

 

 大小様々な酒瓶が並べられた棚に、それを囲うようにコの字に設置されたカウンター。椅子はその前に一つだけ設置されており、部屋の半分が酒瓶の棚で埋まっている。有るのは、それだけ。

 

 ついでにいえば、酒の匂いはしない。いや、酒だけでなく、人の営みの臭いがしない。見た目は綺麗だが、まるでたった今しがた用意されたかのようなちぐはぐさが、そこにはあった。

 

 床や壁は、一面の木目だ。傷どころかワックスの剥げすら見当たらない。木製そのものはそう珍しいものではないが、こんな場所で見掛けるような代物ではないだろう。

 

 促されるがまま、彼女はこの部屋で唯一の席に腰を下ろす。じゃらりと鎖が椅子やらカウンターやらに当たって擦れたが、女は気にした様子もなくカウンターを指でなぞる。

 

 すると、また光の線が網目状に走った……直後。

 

 音もなく出現した空洞よりせり出してきたのは、曇り一つ見当たらない様々なグラスと、シェイカーを始めとした道具一式、大量の氷を載せたアイスペール(氷を入れる小さいバケツ)であった。

 

 

「──御所望は?」

「あんた、作れるの?」

 

 

 妙に手慣れた所作で準備を進める女に、彼女は目を瞬かせた。

 

 

「意外か?」

 

 

 表情一つ動かさず、唇の端すら微動せず、素っ裸のまま小首を傾げる女に、「まあ、意外だね」彼女は正直に答えた。

 

 

「でも、そっちよりも何で私が酒好きだってことを知っているんだい? それに、その姿も……」

「それについては順を追って説明する。仲直りの意味も兼ねて、まずは一杯だ。いわゆる、有名どころなら一通り用意している」

「……ずいぶんと強引なバーテンダーだな。それじゃあ、ガツンと来るやつを一杯貰えるかい?」

 

 

 特に銘柄に拘りがない彼女は、とりあえずといった調子でオーダーする……が、女は返事をしなかった。

 

 しかし、声はちゃんと聞こえているようだ。黙々と……それでいて、やはり手慣れていると判断される手付きで、カクテルの用意を始めた。

 

 

 ……正直、見ていてつまらないと彼女は思った。

 

 

 何故なら、女の手付きがあまりに機械的過ぎるからだ。人の腕に見せかけたロボットアームが作っていると言われたら信じてしまいそうになるぐらいに、全ての動きに無駄がない。

 

 それ故に手持無沙汰になった彼女は、自然と女から視線を逸らし……辺りを見回す。室内に見合う照明器具に照らされた室内は、とても静かであった。

 

 天井に取り付けられたシーリングファン(室内の空気をかき混ぜる、プロペラ)すら、無音だ。いつの間にか入口が閉じられているせいか、余計にそう思える。

 

 

 ……窮屈な感じというか、閉塞感というか、そういうのだけは不思議と感じないのは、せめてもの救いか。

 

 

 これで何かBGMの一つでも流れていれば、多少なりとも気は紛れるのだろうが……いや、止そう。

 

 彼女の脳裏を過ったのは、『闇のソナタ』。正直、アレは彼女にとっても思い出したくない光景であった。

 

 日数にすればまだ一ヵ月と経っていないからか、その細部に至るまで……ドレイクの死に顔すら、鮮明に思い出してしまった……と。

 

 

「──出来た」

 

 

 空気を読んだのか、あるいは気付いていないだけなのか。

 

 何ともタイミング良く、彼女の目の前に青色の液体で満たされた(ご丁寧にも、チェリー入り)カクテルグラスが置かれた。

 

 チェリーはいったい何処から……気にはなったが、この際だ。毒を食らわば皿までだと思った彼女はグラスを手に取り、グイッと一息に傾け……軽く、目を見開いた。

 

 

「……思ったより美味いぞ」

「そちらで評価されているやつだから、美味いのは当然だ」

「そちらでって?」

「言葉通り、貴女が暮らしている島々で評価された作品だ」

 

 そう言うと、女は続けて二杯目の用意を始める。その手付きは先ほどと同じく正確無比であったが、先ほどよりも幾らかスピーディであった。

 

 

「『マティーニ』だ。主たちが愛飲していたカクテルの代表格だ」

「……これも美味い。中に入っているこれは、オリーブかい?」

 

 

 そうだ、と、女は軽く頷いた。

 

 

「かつて使用されていた酒もオリーブも、今では全て失われている。貴女が暮らしている場所にも同じ名称のカクテルはあるが、これが原種……本来の『マティーニ』だ」

「ふ~ん、言われてみれば、ちょっと後味が違うような……すまん、やっぱりよく分からん」

 

 

 女は、それからさらに三杯目、四杯目と新しいカクテルを作った。そのどれもが美味であり、女はそれら全てに細やかな注釈を入れ、それがどのようなカクテルなのかを説明した。

 

 曰く、後ろにある多種多様な酒瓶だけで、数百種にも及ぶカクテルが出せるのだという。

 

 それを聞いて、飲まないという選択肢は彼女にはない。15杯目までは女の方から適当なカクテルを用意していったが、それ以降は彼女の方からおかわりが所望されるようになった。

 

 意外といえば意外だが、味という一点だけを考えれば、女の腕前は見事であった。

 

 

 辛口なのが欲しいといえば、彼女が望む程度に辛い一杯を。

 

 甘いのが欲しいといえば、望んだ分だけ甘い一杯を。

 

 スッキリしたのが欲しいといえばさわやかな一杯を。

 

 濃いのが欲しいといえば、ガッツリと喉奥を焼くような一杯を。

 

 

 現金なものだが、杯を重ねるに連れて彼女の機嫌も良くなっていった。肩口を抉られたことも忘れ、気付けば種類の異なる空になったボトルが計8本……カウンターに並べられていた。

 

 

 

「……で、私に何の用?」

 

 

 

 だから、そろそろ頃合いかな。そう思って話を切り出したのは、彼女の方からであった。

 

 

「特に用はない。既に、私たちの用は済んだ」

「え、まだ何もしてないけど?」

「いや、している。これまでの耐久実験に加えて、私がここにいるのが、その証左だ」

 

 

 そう言い切る女は、通算87杯目となるカクテルを彼女の前に置いた。「……ん~?」

 

 半透明のカクテルの揺らぎに茹った思考を冷やしながら、彼女はしばし無言のまま……あっ、と既に傷が塞がっている己の肩に手を当てた。

 

 

「──察しの通り、私は貴女から採取したDNAから作られたクローン体。とはいえ、出来上がったのは辛うじて人の姿をしているだけの出来損ない。様々な改造を施しはしたが、貴女の足元にも及ばない」

「……どうやったんだい?」

「コップ一杯の必要はない。それこそ、一滴分もあれば……だが、失敗した。時間を稼いでいる間に解析して同じ物を作ろうとはしたが……駄目だった」

「駄目って、何が?」

「同じに出来たのは、この見た目だけ。再生能力は言うに及ばず、パワーにおいては……貴女が上で相手にした者たちよりもはるかに弱い」

「ふ~ん、そっか」

 

 

 クイッと傾けて空にしたグラスを置くと、すぐに次のカクテルが置かれた。まるでわんこそばのような速さだが、彼女にとってはそれが丁度良かった。

 

 

「そんで? 私を狙った理由は? わざわざ私のクローンを作る為だけに襲って来たのかい?」

「その点については誤解が生じている。私が狙ったのではなく、私たちが狙われたというのが現状においては正しい」

「私が? お前を?」

 

 

 それこそ誤解だろ……そう彼女は続けようとしたのだが。

 

 

「回数にして、71回。貴女が、私たちの制止を無視して上の遺跡を突き抜けて逃げた回数。1度や2度ならまだしも、それだけの回数にもなれば……ただ、通過するだけと言われて納得可能?」

「……ごめん、逆の立場なら私でも怒るわ」

「理解していただき、感謝。私たちも、これ以上の戦闘行為の続行は不利益が多過ぎると判断した。なので、貴女との意思疎通を図って事態の収拾を図ることにした」

 

 

 そう言い終えると、女はカクテルグラスではなく、ロックグラスを取り出した。そこに黄金色の酒を注ぐと、「原種の、ウイスキーだ」それを彼女の前に差し出した。

 

 

「望む物があるならば、用意する。聞きたいことがあるならば、答えよう。それで、此度の争いは終わり。以後、私たちへの攻撃は止めることを、ここで約束してほしい」

「……まあ、私としては目当ての物が手に入るなら、それでいいよ」

「理解していただき、感謝。報酬の代わりとして、ここにある酒は全て飲んで貰って構わない。どうせ、それ以外に使い道がないのだから」

 

 

 ここにある酒……自然と、彼女の視線が、「それはそれで、魅力的ではあるね」女の背後にある多種多様な酒へと向けられた。

 

 

「それじゃあ、それを飲みながら幾つか質問していい?」

「構わない。私たちにとって、此度の時間は刹那の一瞬に過ぎない。望む限りを答えよう」

 

 

 空にしたグラスを向ければ、「当時、流行したウイスキーだ」新しいグラスを差し出された。先ほどよりも香りの強いそれを傾けた後……さて、と彼女は尋ねた。

 

 

「さっき、あんたが口にした『次元の旅人(ワールド・トラベラー)』っていったい何の事?」

「アレは、私たちの間で認識されている名称を、貴女たちが使っている言語を元に作った造語だ。その意味は言葉通り……貴女は、この世界のモノではないのだろう?」

 

 

 

 ──一瞬ばかり、「どうして……そう思うんだい?」彼女は己が手を止めた。

 

 

 

「別の次元……すなわち、別世界より迷い込む存在というのは、貴女たちが認識出来ていないだけでそれなりにいる。向こうも貴女たちを認識出来ていないから、直接的な接触は起こらない……けれども、極々稀に貴女のような存在が現れる」

「私かい?」

「そう、貴女は此処とは異なる世界より迷い込んだ旅人。私たちはそれを、『次元の旅人』と呼ぶ。『次元の旅人』は偶発的に起こる現象であり、意図的に起こすことは不可能。納得し難いとは思うが、不運な事故のようなものに過ぎない」

 

 

 ……ごくり、と。ぷかりと浮き出てきた感情を、彼女は酒ごと呑み込んだ。

 

 

「『耐久実験』って、なんのこと?」

「言葉通り。摂取したDNAを元に構成した身体の耐久基準を定める為に、貴女には幾つか意図的な攻撃を行った」

「それって、何時から?」

「貴女を負傷させて、すぐ。この施設内に入れたのは、下手に外で暴れられて周辺のモンスター共を引き寄せられると収拾に多大な労力を要する結果になってしまうと判断したからだ」

「それで、私が中に入ってから暴れたらどうしてたのさ」

「この施設は、外よりも内部の方が頑丈に作られている。内部施設を破壊出来るのならば、結局は1時間後に壊されるか3時間後に壊されるかの違いでしかない」

 

 

 差し出したグラスを向けて傾ければ、意味を察した女はそこに、先ほど注いだやつと同じのを注ぐ。「これは鼻を抜ける香りが堪らないねえ」満面の笑みでなみなみに注がれたグラスに口づける。

 

 

「どうして、私のDNAなんて欲したのさ? 私を排除する為だからって、わざわざクローンまで作って……上で私を傷つけた、あの武器を使えば良かったじゃないか」

「アレは弾数に限りがあり、製造にも時間が掛かる。また、内部であの武器を使用すると、私たちにも多大な被害が及ぶ可能性が高い。有り体にいえば、使い所が限られている」

「なるほど……ちなみに、アレってどんな武器なんだい? 私の肌を傷つけた武器なんて、アレが初めてだったんだけど」

「要点だけを掻い摘んで答える。アレは『反物質を打ち出す装置』であって、厳密には武器ではない。着弾した場所を対消滅させるので、結果的には武器として応用されている……理解可能?」

「SFちっくな武器ってことでイメージ出来たから、それでいいよ。まあ、何であれ此処には凄いモノがあるんだねえ」

「元々、ここには迎撃機能と呼ばれる類の装置は少ない。現存している物資で出来ることは限られている。必然的に、アレが通じないと分かれば、もはや自力排除は困難と判断した」

「……何だか無意味な心配をさせてしまって申し訳ない」

「構わない、私たちとしても最後の望みが絶たれてしまった以上、出来ることは何もない。あなた達の言葉を借りるのであれば、『やれるだけのことはやった』……というやつだ」

 

 

 ……平坦な口調とは裏腹に、ポツリと零された女の言葉は重かった。いや、正確には、彼女にとっては、そのように聞こえてならなかった。

 

 

(最後の望み……と、きたか)

 

 

 というか、不穏な単語がちらほらと混じっていたから、彼女でなくとも同じことを思っただろうが……まあいい。

 

 

 ……はたして、尋ねて良いものかどうか。

 

 

 しばし口を噤んだ彼女は、沈黙を誤魔化すかのようにグラスを傾けた後。「……最後って、どういうことだい」差し出したグラスに紛らせるようにして、尋ねた。

 

 

 彼女は……気付いていた。

 

 

 先ほどから彼女が続けた質問の中に、一つだけ。全ての質問に答えているように見せかけて、意図的と思われても仕方ないぐらいに返答をはぐらかしている質問が、一つだけある。

 

 

 それは、どうして『彼女のDNAからクローンを作ったか』という点だ。

 

 

 これまでの返答で分かったのは、どのタイミングでDNAを盗み取ったかということと、そのDNAより作り出したクローン体の比較基準を作る為に、彼女へと攻撃(耐久実験)を行ったということだけ。

 

 

 そこに、彼女のクローンを作るに至った理由に関する説明は、一つもない。

 

 

 そのことに、女は気付いていない……そんなわけがない。気付いていて、あえて話を逸らしているのだ。

 

 そして、意図的に語ろうとしないことに気付いていた彼女は……あえて、触れようとはしなかった。

 

 隠しておきたい部分を暴きたいと思うほど、彼女は強欲ではないからだ。

 

 だが、たった今、女がポツリと零した『最後の望みが絶たれた』という言葉に、気が変わった。

 

 いったい、自分のクローンがどのような希望へと繋がっていたのか……それを、知りたくなった。

 

 

 ……故に、女も気付いた。

 

 

 これ以上のはぐらかしは許さないという、彼女の意思を。ここに来ての誤魔化しは、怒りを買うだけだということを。

 

 しかし、それに関してだけは、初めて、女は即答をしなかった。

 

 何かを誤魔化そうとしている……ようには、見えない。少なくとも、彼女の目にはそう見えなかった。

 

 この期に及んでそれが通じる相手でないのは、女も分かっているのだろう。

 

 おそらく、彼女が理解出来るように言葉を色々と選んでいるのかもしれない。

 

 

 ……無表情の奥に見え隠れしている、仄暗い何か。

 

 

 それは、彼女には分からなかった。だが、並々ならぬ何かがそこにあるのだけは、そういう機微に疎い彼女にも察することは出来た。

 

 

 

「……貴女のクローンを作るに至る理由は、二つある」

 

 

 

 時間にして、きっちり15分後。ぽつりと、女は話を始めた。

 

 

「一つは、『主たち』の元へ向かう為に、利用しようと思った」

「主たち?」

「主たちをどのような言葉に当てはめれば良いのか、私には分からない。しかし、あえて当てはめるのであれば……『創造神』。それが、一番近しいのではないだろうか」

 

 

 グラスを空にして、幾しばらく。新たな酒が注がれたグラスを差し出されたのは、彼女が質問を投げかけてから10分程が経った頃であった。

 

 

「私たちは、主によって作られた生命体。主の為に存在し、主の為に行動し、主の為にその有用性を示し続ける存在……だった」

 

 

 からりと、ロックアイスを入れたカクテルを彼女の前に置いた。

 

 

「もうずっと……ずっと前に、主は此処を去った。私たちを置いて、別の宇宙へと行ってしまった」

 

 

 別の宇宙……何だか話が壮大になってきたな。

 

 

 そう、彼女は思ったが、あえて口に出すようなことはしなかった。ただし、「……宇宙ってのが何なのかは、少しなら分かっているよ」どれだけを理解出来ているかだけは、口にした。

 

 

「……残された私たちは、主が何時帰って来てもいいように、常に最適な空間を維持し続けていた……しかし、問題が生じた」

 

 

 そのおかげか、女は注釈は不要と判断したようで。しばし考えたようではあったが、さらっと話を再開した。

 

 

「その、問題って?」

「主が帰ってくるまでに、私たちが活動限界を迎えてしまうという問題。私たちは……そう、人間よりもはるかに高度な自己修復機能を有しており、致命的な障害が発生さえしなければ、だいたい3億年ぐらいは活動を続けることが出来る」

「そういう前置きを入れるってことは、起きたってわけ? 致命的な障害ってやつが、さ」

「…………」

「もしかして、それが二つ目の理由?」

 

 

 女は、肯定も否定もしなかった。からり、と。剥き出しになったロックアイスの上から、おかわりを注ぐ。その後、女はボトルの蓋を閉めると……静かに、顔をあげた。

 

 

「私たちは、やつのことを『星食い』と呼んでいる」

「星食い?」

「その名の通り、星を食う生命体だ。自分たちのことを揶揄してそのように自称する人間もいるが、これは自称ではない。文字通り、星を……星の核ごと、その星に住まう全生命体を根こそぎ食らう」

 

 

 ──『星食い』。

 

 

 その生命体が何時生まれ、どのような形で成長し、どのような手段を用いて繁殖しているのか。それは、人類など足元にも及べない科学力を持つ女も、よくは知らないらしい。

 

 

 分かっていることは、星食いと呼ばれるそいつは星を食らうということ。

 

 

 捕食のターゲットとして選ばれる星に、共通点はない。恒星も惑星も衛星も関係なく、目に付いたモノから順番に食らう。そのサイズは個体によってバラバラだが、総じて食欲は非常に旺盛であるということ。

 

 星を食うだけあって、その耐久力は天体レベル。大気圏突入の諸々に耐えるだけでなく、宇宙空間の絶対零度にも耐える。放射線を初めとしたあらゆる物質を吸収し、重力すら栄養源に変えてしまう冗談のような生命体だ。

 

 一通りの説明を終えた女は、手を軽く振る。途端、室内が薄暗くなった。合わせて、彼女のすぐ横の空間に、正方形の光のボードが形成される。

 

 

「……SFもここまで続くと驚く気にもならんな」

 

 

 気にした様子もなくグラスを傾ける彼女を尻目に、ボードという名の空間ディスプレイに映し出されたそれは……いや、それを、彼女はどう言い表したら良いのか、その適当な言葉が思いつかなかった。

 

 強いて言い表すとするならば、その姿は棘だらけの『雲丹(うに)』に昆虫のような足を生やした物体……だろうか。

 

 辛うじて目に当たる部位は確認……いや、目なのだろうか。もしかしたら口かもしれないが……まあいい。とにかく、それが生きているのは分かった。

 

 

 それよりも気になったのは、そのサイズだ。

 

 

 映像越しでもはっきり分かるぐらいに、大きい。尋ねてみれば、最後に計測した段階では、全長は8km強。現時点では推定16kmで、今も膨張は続いているのだという。

 

 何故、推定などという言い回しになるかといえば、調査をする為に下手に接触なり刺激を与えると、それが原因で膨張速度を速めてしまう危険性があるから……らしい。

 

 

(……なんか、想像していたよりも地味だな)

 

 

 パッと見た限りでは、それほど凶悪な存在には見えない。彼女が抱いた率直な感想が、それであった。

 

『星食い』と呼ばれるだけあって、その様は異形だ。雲丹に似てはいるが、雲丹よりもはるかに気色悪く、サイズが桁違いなのもそうだろう。

 

 

 ……だが、しかし。大きいが、それだけだ。

 

 

 異形ではあるが、ここではそう珍しい外見ではない。

 

 何せ、お前はいったいどういう進化を遂げたら、そんな形になるのかと小首を傾げてしまうようなやつらがうようよいる。

 

 

 大きさにしたって、そうだ。

 

 

 小山ぐらいに巨大化出来る彼女でも、ここではそれほど大きくはない。それよりも小さい個体は大勢いるが、そんな彼女よりも巨大な怪物だって大勢いる。

 

 

 ──無秩序という絶対的な秩序で覆われたこの地に住まう生物たちに比べたら、この雲丹もどきはずいぶんと可愛らしい姿ではないか。

 

 

 ディスプレイに映し出された『星食い』を見やりながら、そう、彼女は思っていると。

 

 

「これが、この施設の最下層にいる。存在を確認後、放置しておけないので私たちが捕獲し、以後、抑え込み続けている」

 

 

 ……思わず、彼女は己が足元へ視線を落とす。「──直線距離にして、35000メートル下」途端、女はどこかピントのずれた補足説明を入れてくれた……違う、そうじゃない。

 

 

「あ~、うん……ちなみに、どんな対処を取ったの?」

 

 

 ──相手がどんなのかは知らんけど、あの武器を使えば倒せるんじゃないの。

 

 

 言外に滲ませたその疑問は、「貴女が思いつく限りの手段は取ったが、効果はあまりない」そんな言葉でばっさり切り捨てられてしまった。

 

 

「先ほども話した通り、ここは元々そういった目的の施設ではない。あなた達の言葉を借りるのであれば、ただの慰安施設のようなもの。私たちの火力では、『星食い』を殺すには多大なリスクが生じる」

「はあ、なるほど……」

「故に、私たちはこの星を脱出し、主の元へと向かう計画を立案した。だが、ここで問題点が幾つか生まれた。一つは、私たちがこの星を脱出する際、『星食い』をこの地に捨て置く予定だったのだが……想定外の邪魔が入ったことで、それが不可能となってしまった」

 

 

 その言葉と共に女が再び手を振ると、ディスプレイに表示された肉の塊から、軍服らしき恰好をした人間が何人か映し出された。

 

 

「約267年前、この施設に人間たちの集団がやってきた。それまで、この施設周辺には現地生物は全く寄りつかなかった。おそらくは『星食い』の存在を本能的に察知したのだろう。そのおかげで『星食い』は外部より栄養源の補充が上手く行われず、私たちも安定して抑え込むことが出来ていた」

 

「だが、この地を訪れた人間たちが不用意に施設へと入って来たことで均衡が崩れた。当時、私たちは今みたいな武装化を行ってはおらず、その機能の大半は『星食い』の封印に回し、もう半分を惑星脱出計画へと回していた……そのせいで、人間たちの侵入に気付くのが遅れてしまった」

 

「発覚した時、既に『星食い』は侵入した総数のおよそ31%を捕食してしまった。これによって急速に膨張を始めた『星食い』を抑える為に一時的に脱出計画を凍結し、人間たちを排除しなければならなくなった……私たちは、原因の調査を行った」

 

「正直、私たちは驚いた。人類の存在を認識していたからこそ、私たちはこの地に人類がやって来ることは不可能だと判断していた。何故なら、当時の人類が保有する技術では、この大陸に足を踏み入れることは可能でも、この施設の存在に気付くことは不可能だと判断していたからだ」

 

「だからこそ、私たちは発覚した事実に驚嘆した。まさか、私たちに気付かれることなく、この施設を調査した人間がいたことに……それ故に私たちは、人間たちをこの施設に近寄らせない為に、対人間を想定した兵器を開発し、運用……貴女たちの言葉を借りるのであれば、『ブリオン』が生まれた」

 

「ブリオンによって、侵入した人間だけでなく、その仲間と思われる他の人間たちの処理も自動的に行われた。私たちは、この施設が危険であることを周知させ、近づくことを拒絶させるために、あえて全滅させるようなことはせず幾人かを逃がしてやった」

 

「そのおかげで人類はこの施設だけでなく、この地への渡航をしなくなった。だが、当初より膨張してしまった『星食い』を抑え込む為に機能のほとんどをそちらに回すことになってしまい……脱出計画の無期限凍結、あるいは根本的な計画の見直しを余儀なくされてしまった」

 

 

 ……そこまで言い終えた辺りで、女は空になった彼女のグラスに追加を注いだ。

 

 

 女は、そのまま何も言わなかった。彼女も、ただ黙ってグラスを傾けるだけだった。

 

 

 ……沈黙が、どれぐらい続いたのか。

 

 

 5分、10分、15分。時折注がれる追加の酒、追加のカクテル……喉を鳴らす彼女の音だけが、静まり返った空気の中に染み入って消えた。

 

 

「私たちは、私たち自身を分割することでリスクの分散化を図った。その際、私たちは私たち自身を分割して運ぶための器……すなわち、計画を遂行出来る身体の選定。あらゆる状況下においても、一定以上の活動を可能とする身体が必要となった」

「……その為に、私のクローンを作ったってわけかい?」

「その認識について、少し訂正する。結果的に貴女のクローンが作られたわけだが、元々は貴女が破壊した実験体11798番に私たちを移す予定であった。あくまで、貴女のクローンは新たな候補の内の一つに過ぎなかった」

「へえ、そうなのか……ところで、実験体ってのは?」

「実験体11798番。貴女たちがキメラアントと呼ぶ昆虫のDNAを元に改造を施した最優候補。私たちが保有している技術力の全てを注ぎ込んだ……あれ一体で、人類の10%を掃討することが出来る自信作だった」

「え、あれが?」

「言っておくが、あれはあらゆる状況に対応できるよう調節された万能型。大気圏の突入だけでなく、極寒の宇宙でも活動することが可能であり、あらゆる毒にも耐える……それが、あの実験体の最大の利点」

 

 

 思わずといった調子で漏らした彼女の本音に対し、女は淡々とした口調で、かつ、無表情のまま答えた。

 

 意外と、負けず嫌いなのか……そう思いつつ、「それで、『星食い』は今の所どうなってんの?」彼女は脱線しかけた話を戻した。

 

 

「既に、『星食い』は生体機能を停止している。現状は、『星食い』の体内にて凝縮されたエネルギーの発散プロセスに移行している」

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………え、あれ? 

 

 

 一瞬、彼女は女の言葉を理解する時間を要した。「ちょ、ちょい待ち」しばし、女の言葉を頭の中で巡らせた彼女は……はて、と首を傾げた。

 

 

「え、なに、もう死んでいるの?」

 

 

 心底……心の底から困惑を露わにしながら、彼女は率直に尋ねた。

 

 

 ……彼女が疑問に思うのも、当然だろう。

 

 

 何せ、女の語った内容はまるで、『星食いをどうにも出来ずにジリ貧に陥っている』というような言い方であり、ニュアンスであったからだ。

 

 諸々の要因や思惑が重なった結果、施設を破棄する選択を迫られ、その過程で肉体を用意したりだとか、自分(私の)のDNAからクローンを作ったりだとかやっていて、それが上手くいかなかった。

 

 てっきり、そんな感じなのかと思っていたが……思い違いをしていたのだろうか? 

 

 

「──?」

「いや、そこで首を傾げられるとこっちが困るんだけど……」

 

 

 ……えっ、と。とりあえず、彼女は女より得た情報を整理し、次いで、推測することにした。

 

 

 

 

 

 ──まず、私を襲ったというのは厳密には違い、そうなる原因を作ったのは私であるから、その点については特に気にすることではない。この件について、嘘もつかれていない。

 

 ──私をここに呼び寄せたのは、あくまでこれ以上の争いは止めようというだけで、この席も和解するという女の意思表示でしかない。事実、私にして欲しい事は何も無いという言葉に嘘はなかった。

 

 ──私のクローンを作ろうとした理由も、ご主人様とやらに会いに行くために使おうとしただけ。ここに来てからの攻撃は私の実力(少し違うかもしれないが)を測る為で、他意はない。

 

 ──かなりヤバいやつらしい『星食い』とやらで大変な目にあったが、とりあえず抑え付けることには成功し、既に殺すことは出来ている。

 

 

 

 

(とりあえず、現時点で確定しているのはコレだけか……あれ、さっきの話の下り、必要か?)

 

 

 ぶっちゃけ、その部分は省いても何ら問題はない気がしてならない。

 

 

 堪らず、彼女は首を傾げ……いやいや、今はそこを考えるところではないと頭を振る。

 

 とりあえずは、これで正解なのだろうか。

 

 一抹の不安を覚えつつも、彼女は自分なりに纏めた一連の情報を、女に尋ねた。

 

 

「……? 先ほどから、そう言っているだろう」

 

 

 そうしたら、返された言葉がソレであった。

 

 

「おまえ、張り倒すぞ」

 

 

 思わず飛び出した言葉を、彼女は片手で押さえる。次いで、反射的に握り掛けた拳を、彼女は寸でのところで堪え……クイッと、グラスの酒を飲み干した。

 

 

 ……誰かに説明するという行為は、正直得意ではない。

 

 

 それは『彼』も『伊吹萃香』も同じだったらしく、二つが混ざり合って生まれた『彼女』もまた、その技能に関しては拙い。

 

 けれども……それでも、彼女は心から思う事があった。

 

 

 目の前のコイツよりは、ずっとずっとマシだな……と。

 

 

 何というか、こいつは言葉が足りない。そう、彼女は思った。

 

 短い会話ながら、それぐらいは既に推測かつ理解出来ているだろうというのを前提で話を進めているというのが嫌でも分かってしまった。

 

 

(……察するにかなり長い間一人ぼっちだったらしいし、そうなると会話が下手くそになるのも仕方ない……のかな?)

 

 

 何だか、考えれば考える程面倒臭い気がしてならない。先ほどの『最後の望みが絶たれた』という発言に興味は引かれたが……この様子だと、言葉とは裏腹な内容な感じだろうか。

 

 

(……止めよう。『星食い』だか何だか知らんけど、私には関係のないことだ)

 

 

 考えてみれば、ここに入った目的はコンパス等の位置や方角を知る為の道具を得る為だ。

 

 何だかよく分からない内にこうなってはいるが、元々はそうじゃない。こいつに敵意が無い以上、こちらから何かをしよういう気もない。

 

 

 ……とりあえずは、だ。

 

 

 当初の予定通り……コンパスか何かを貰って、おさらばしよう。酒を飲んだことで、余計にその想いが強くなったのを自覚した彼女は、コンパスをくれと女にお願いした。

 

 すると、女は無言のままにカウンターを叩いた。直後、水面が湧き立つが如く、滑らかな表面がぽこりと泡立ったかと思えば、にゅるりと形を変えて……コンパスへと変形した。

 

 

 ……気前の良いやつだな。

 

 

 差し出されたコンパスを受け取った彼女は、一つ礼を述べてから椅子を降りる。(帰ったら、店を梯子するかな)と、戻った後の事を考えながら部屋を出ようと。

 

 

「──いちおう伝えておこう。『星食い』は今より36時間後に爆発する。故に、思い残しの無いようにしておくことを推奨する」

 

 

 

 

 

 ──した、その直後。

 

 

 

 

 

 あまりに聞き捨てならない台詞を掛けられた彼女は……ピタリと、その場に足を止めた。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………無表情のままに振り返った彼女が目にしたのは、己と同じ顔をした無表情であった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………無言のまま、どれぐらいの間その場に立ち尽くしていたのか……彼女には分からなかった。

 

 

 

 

 ただ、無言のままに踵をひるがえし、無言のままに元の椅子に座り、無言のままに用意された新たなグラスを手に取り、火傷しそうなぐらいに酒気の強いソレを、グイッと一気に飲み干した彼女は……こつん、とグラスをカウンターに置くと。

 

 

「どういうことか、詳しく」

 

 

 ただ、それだけ尋ねた。その声色は、もしかしたら彼女が彼女として自我を得てからこれまで、もっとも低かったかもしれなかった。

 

 

「死した『星食い』は、溜め込んだエネルギーを一気に放出する。その威力は、最も楽観的な数値から推測しても、地殻の4割に壊滅的な被害をもたらすと私たちは判断している」

 

 

 だからなのか、女の言葉はこれまでで一番簡潔かつ分かり易いものであった。

 

 

「……具体的に、どんなふうに?」

「貴女達の言葉で例えるなら、流星群。放出されたエネルギーは流星群のように空を彩った後、落ちてくる。絶え間なく、数時間に渡って」

「……マジで?」

「……マジだ」

「…………」

「…………」

 

 

「……ちょっとずつ放出させるとかは?」

「既にソレを行ったうえでの結果だ。言っておくが、本来ならば220年前に大爆発が起こっていたのを私が抑え込み続けているのだ。これでも、かなり威力が弱まっているのだぞ」

「……マジで?」

「……マジだ」

「…………」

「…………」

 

 

「……ちなみに、その威力は?」

「衝撃波で、地平線の形が変わる。次いで、落ちてくるそれら一つが、貴女達の言葉を借りるならミサイル並み。それが、100平方メートル当たり、秒間30発程度」

「……マジで?」

「……マジだ」

「…………」

「…………」

 

 

「……あの海の向こうにある大陸には、どれぐらいの被害が出るんだ?」

「海……人間たちがメビウス湖と呼ぶ、あの水溜りの中心に浮かぶ人間たちの生息域ならば、ほぼ壊滅と思っていい。運が良ければ、一人ぐらいは致命傷を避けられるかもしれない」

「……そうっすか」

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………しばしの間、彼女は何も言えなかった。というか、何も考えられなかった。

 

 

(どういう巡り合わせだってのさ……)

 

 

 その動揺たるや、眼前にて新たに置かれたグラスを眺めるだけに終始した……となれば、その驚きの具合が分かるだろう。それぐらい、彼女の頭では混乱が渦を巻いていた。

 

 

 ……同時に、彼女は考えていた。どうにかして、それを防ぐことは出来ないか……ということを。

 

 

 ──結論は、直後に出た。

 

 

 それは、『不可能』という三文字であった。どう足掻いても、己には無理だということを彼女はすぐに悟ってしまった。

 

 

 自分一人助かろうと思うのであれば、そう難しいことではないだろう。

 

 鬼の頑強さは伊達ではない……しかし、自分以外の……それも、人間を含めた様々を護ろうとするのであれば、無理だ。

 

 

 はっきり言って、手が届かない。悔しいが、それもまた彼女の出した結論であった。

 

 

 霧のように己が肉体を霧散させたとしても、己の庇護が及ぶ範囲は高が知れている。いくら彼女とはいえ、大陸全てを覆い守るなんて芸当は出来ない。

 

 気合を入れれば……無理だ。この身体の大本ともいえる東方Projectにおいても『伊吹萃香』は最強の一角とされていたが、それでも無理なものは無理であった。

 

 

「……あんたがさっき口にした『最後の望み』、それは私で何とか出来る問題かい?」

「残念だが、貴女にもどうすることは出来ない。何故なら、私の望みは主たちが残したこの施設を維持し、保存することなのだから」

「つまり、爆発自体をどうにか出来ない限りは……ってこと?」

「その通り。貴女とて、既に理解したのだろう。貴女では、『星食い』をどうすることも出来ない。故に、貴女にはもう出来ることはない」

「……何とか爆発を止める手段はないのかい?」

 

 

 しかし、だからといって、だ。自分は無事だろうからはいそうですかと納得出来る話でもないし、したい話でもない。

 

 

 眼前の女ほどではないが、己もまたそれなりの年月を生きて来た。相応の付き合いというか、それなりに愛着というやつを覚えている。

 

 脅し脅され殺し殺される世界に生き、因果応報で死ぬのならば彼女も見て見ぬふりをする。

 

 だが、こんな……ある日宇宙より飛来した隕石で人類は滅亡するのとそう変わりない最後は無いだろうと……彼女は思ったのだった。

 

 

「残念ながら、それは無い。これは損得の問題ではなく、純粋にどうにも出来ないことだ。私に、これ以上の爆発を止める手段が無い」

 

 

 けれども、そんな彼女の意見は直後に否定された。

 

 

「貴女達の言葉を借りるのであれば、ガス欠。私たちの生命線であり、『星食い』を抑え付ける為に必要な燃料が底を尽きかけている」

 

 

 ──なんだって? 

 

 

「……ガス欠?」

 

 

「『星食い』を抑え付ける為に、現時点で約8割近いリソースを割り当てている。しかし、燃料の調達の為には最低でも3割のリソースを割く必要がある」

「出来ないの?」

「現状ですら、綱渡り。3割もリソースを割いた瞬間、この大地ごと私たちは粉微塵になるだろう」

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そう言われてしまえば、もう、彼女に言えることは何も無かった。そして、出来ることなど何も無いと改めて断言されたような気がした。

 

 

 ──いっそのこと、玉砕覚悟で乗り込んでみようか。

 

 

 そんな考えが脳裏を過る。負ける気はさらさらないが、この場合は勝敗がどうという問題ではない。文字通り、鬼の力で、『伊吹萃香』ではどうにも──ん? 

 

 そこまで考えた時であった。彼女の耳に、ビー、と聞き慣れない異音が届いたのは。

 

 

 警告音……というやつなのだろうか。

 

 

 この音が何を意味するかは分からないが、『何か良くない事が起こった』ということを直感的に知らせる、不穏な気配を孕んでいた。

 

 

「──外部センサーが異常を感知した。少し、待て」

 

 

 これは何だと視線を向けた彼女が目にしたのは、これまでとは打って変わって表情を変えた女の面持ちであった。

 

 といっても、変わったのは僅かばかり目を見開いたという程度のこと。

 

 しかし、それは同時に、この女の表情を変える何かが起こっていることを如実に表していた。

 

 

 ──ぱちぱち、と。女は無言のままに瞬きを繰り返している。

 

 

 何かをしているのだろうが、それが分からない彼女は黙って様子を見守るしかない。

 

 

「……以前に侵入を許してしまった失態を反省した。以来、私と連動している内部カメラと、独立している外部カメラの二つを用いている」

 

 

 すると、手持無沙汰になっている彼女に女は、簡潔に説明してくれた。

 

 

「玩具のようなものだが、私の注意が逸れている時にも絶えず──」

 

 

 そこで、言葉が止まった。「……どうした?」そのまま二の句を告げないでいる女を前に、小首を傾げた彼女が続きを促し──そして。

 

 

「──信じ難い、侵入者だ。私たちの警戒網を掻い潜って、『星食い』の傍にまで接近している何者かがいる」

「……は?」

 

 

 告げられた続きに、彼女もまた言葉を止めたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………かしゅん、と。廊下から入り込む唯一の明かりが、地下へと続くエレベーターの扉によって遮られる。一センチ先すら見えない暗闇の中で、彼女は静かに……己が地下へ案内されてゆくのを感じ取っていた。

 

 

『──聞こえているか?』

 

 

 彼女の驚異的な視覚を以てしても、どうにもならない暗黒の最中。ふう、と酒気混じりの吐息を吐いた彼女へと、その声は唐突に響いた。

 

 

『──対象は、相変わらず動きを見せていない。何が目的かは分からないが、星食いに攻撃を仕掛ける素振りはないようだ』

「というと、ただ迷い込んだだけとか?」

『──ほぼ、0に近い可能性だ。『星食い』を収容している隔離室は、空間そのものを断絶した場所。物理的な侵入は不可能』

「……0ではないわけね」

『──主たちが旅立ってから、これまで。あの時に比べて、この地に住まう生物たちの生態系は大きく変わっている』

「つまり、侵入できるやつがいるかもしれないってわけか」

『──そうだ』

 

 

 声の主は、あの女だ。何処に取り付けられているのかは知らないが、スピーカーでも……いや、今はその事はどうでもいい。

 

 

 現在、彼女が乗っているこのエレベーターの行き先は、『星食い』が収容されている格納庫である。

 

 

 どうして彼女が向かっているのかといえば、『星食い』の傍へと接近を果たした何者かを排除する(場合によっては仕留める)ためである。

 

 女曰く『星食いは、死した後も周辺の様々なエネルギーを吸収し、それを爆発のエネルギーに変換してしまう』から、らしい。

 

 

 ……現状、『星食い』の状態は安定している。だが、安全というわけではない。

 

 

 36時間後に爆発するというだけあって、何がキッカケでリミット・ブレイクするかは分からない。最悪、これが原因で数十分後に爆発……なんて事態にもなりかねない。

 

 乗りかかった船というのも変な話だが、知ってしまった以上は無視できない。というか、無視したら数十分後に人類どころか己も只ではすまない……やるしか、なかった。

 

 

(あの女からしたら、5分後にここが吹っ飛ばされようが、36時間後に吹っ飛ばされようが変わりない事だから、どっちに転んでもいいんだろうなあ……)

 

 

 ある種の諦観というか、自暴自棄というやつか……いまいち、やる気が感じ取れなかったなあ……そうして思考を巡らせていると、だ。

 

 僅かばかり、身体が重くなった。ほとんど音がしないから分かり難いが、隔離室が近いのだろう。慣性が、ずしりと肩に圧し掛かるのを感じた。

 

 一拍遅れて、かちゃん、と異音が響いた。それはまるで扉の鍵を開けたかのような音であった。

 

 

『先に話しておく。隔離室にいる『星食い』へのエネルギー供給を抑える為に、中に入ればもう私から貴女に干渉することはしない。極力、な』

「へえ、そうなの」

『貴女の判断で、決めて欲しい。それと、隔離室内はかなりの悪環境だ』

「つまり?」

『明かりは無く、音も無く、重力も遮断されている。絶対零度に保たれた空間は真空を維持し、この地に住まう生物であっても1分と生きられない』

「まあ、何とかなるだろ」

『──断絶空間への連結、確認。『星食い』への影響率、0.00001%以下を確認。最終調整……終了。15秒後に、隔離室への扉を開放……後は、貴女に任せる』

 

 

 その声が真っ暗なエレベーター内に響いてから、きっかり15秒後。ぱかりと、音も無く開かれたその向こうに……ソレはいた。

 

 

 

 

 

 

 ……僅かな時間の間に、変化したのか。ソレは、映像越しに見た姿とは大きく異なっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 その姿を言い表すのであれば、月に遮られた太陽……だろうか。

 

 全体的なフォルムは映像のソレとそう変わりないが、それだけだ。真っ黒な輪郭に沿うようにして帯びている光は、まるで炎のように揺らめいてすら見えた。

 

 隔離室に、明かりは点いていない。そもそも、無いのかもしれない。しかし、『星食い』が帯びている光によって、相応に広さがある隔離室全体が確認出来るぐらいに明るかった。

 

 ……どうしたことか、肝心の侵入者の姿が見られない。グイッと身を乗り出して室内を見回したが、その気配も感じられない。

 

 

 ……一歩、足を踏み入れる。

 

 

 境目すら見えないが、エレベーターから隔離室に移動出来たのだろう。ふわりと、身体が浮き上がる。振り返れば既に扉は閉じていて……直後、彼女の身に降りかかったのは……全身に纏わりつく極寒と、強烈な熱気であった。

 

 絶対零度というのがマイナス何℃なのかを彼女は知らなかったが、なるほど……これは生物が生きられる温度ではないなと納得した。

 

 ぱきぱき、と。肌に付着していた僅かな水分……つまり、汗が凍りつき、直後に熱気によって溶けて、また凍りつくのを繰り返している。

 

 ……真空というだけあって、ただ寒いだけでないというのが、肌を通して実感させられる。

 

 

(……とりあえず息は止めているけど、けっこう辛いな、これ)

 

 

 空を飛び回れる故に、この無重力の感覚は慣れている。ふわりと、音も無く(真空なので、音はしないけど)着地した彼女は……改めて、『星食い』の前に降り立った。

 

 

 ……デカい。映像越しにも分かっていたが、やはりデカい。そのうえ、何という熱量なのだろうか。

 

 

 ただ、見つめるだけ。それだけで、まるで太陽のように目を焼いてくる感覚を彼女は覚える。彼女だからこそ平気だが、人々が使う防護服程度なら瞬時に焼けてしまっただろう。

 

 それほどの熱気が、彼女の肌にぶつかってくる。おそらくは遮断しきれないエネルギーやら何やら、言うなれば染み出た一滴に過ぎないはずのそれが……なんと、なんと。

 

 腕を伸ばせば、鬼の身体を以ってしても痛みを覚える程の熱を感じる。下げれば、また極寒の冷たさが……なるほど。

 

 ある種の境が、『星食い』を囲うようにして形成されているようだ。どういう原理かは知らないが、抑え込んでいるとは、コレの事を差すのだろう。

 

 

(……周りには誰もいないな)

 

 

 とりあえず、『星食い』は後回し……ぐるりと辺りを見回した彼女は、首を傾げた。やはり、誰もいな……ん? 

 

 

 ──あ、いた。

 

 

 思いの外、あっさり侵入者は見付けられた。と、同時に、彼女は軽く目を瞬かせた。驚いた理由は二つで、二つ目がより大きく彼女を驚かせた。

 

 一つ目は、星食いの傍……境目の向こうに侵入者がいたこと。彼女ですら、境目の向こうにいれば相応にダメージを負うであろう場所に、いるということ。

 

 そして、二つ目は……侵入者が人間の男性であったからだった。

 

 そう、人間だ。私服というよりは制服みたいなデザインの恰好をした、男性。遠目にも、その男が只者でないというのが見て取れた。

 

 

 ……だが、しかし。

 

 

 直後に、彼女は気付いた。確かに、男は人間ではあったが……気配が違う。見た目は同じでも、彼女の知る人間とは異なっていることに。

 

 姿形が似ているだけなのだろうか……有り得ると、彼女は思った。少なくとも、ここならそういうやつがいても不思議じゃない。

 

 

(光に目が眩んで見落としていたのか……?)

 

 

 境目に触れないよう気を付けながら、ぐるりと回って男に近づく……あ、気付いた。

 

 こちらの気配に気づいたのか、偶然か。フッと唐突に顔を上げた男の目が、彼女を捉えた──瞬間。

 

 

 ──形相を変えた男が、彼女の下へと走って来た。

 

 

 あまりに有無を言わさない突然の変化に、彼女は反射的に拳を振り被り──手を止める。位置的に、攻撃の余波が『星食い』に当たってしまうのを危惧したからだった。

 

 

 ──結果的にそれは、正解であったかもしれない。

 

 

 何故ならば、駆け寄ってきた男は境目の辺りで足を止めたから。次いで、男が何をしたのかといえば……その場に土下座をしたうえでの、懇願であった。

 

 男の声は、聞こえない。しかし、その姿は見える。彼女の目が捉えたのは、涙と涎を垂れ流しながらも何かを叫び続け、何度も何度も額を床に打ち付けて懇願する……命乞いにも似た所作であった。

 

 しかも、だ。ハッと気づいた時にはもう、その数が増えていた。男の隣に、新たな人物がもう一人……二人。いったい何時の間にそこに現れたのか、彼女の目を以ってしても分からなかった。

 

 

 ──は、え、えええ? 

 

 

 これにはさすがの彼女も、面食らった。

 

 

 何かしらの攻撃かとも思ったが、どうにも様子が違う。何度も土下座を繰り返すその様は、まるで本物の人間のようで。それが、数人……いや、気付けば十数人にも数が膨れ上がっている。

 

 その十数人が、一斉に頭を下げている。何が目的かは分からないが、必死になって土下座を繰り返して……何だ、この……何だ? 

 

 

(ここまで入って来て、今更命乞い……?)

 

 

 自分ですら、入るのにドタバタしたというのに。侵入してきたにしては、ずいぶんと……いや、待てよ。

 

 

 ──こいつ、いや、こいつらの恰好に見覚えがあるぞ。

 

 

 脳裏を過った何かに、彼女は目を瞬かせた。いったいそれは何かと思考を巡らせ……思い出した。

 

 

(こいつら、あの映像のやつだ。二百何十年前だかに侵入してきたやつらだ……何故、こいつらが生きているんだ?)

 

 

 新たに侵入を果たした……というのは考えにくい。仮にソレが出来たなら、脱出も行っているはずだか──っ!? 

 

 そこまで思考を巡らせた、その瞬間。僅かに境目が揺らいだ気配を探知した彼女が、そちらに一瞬ばかり目を向けた──その時。

 

 

 ──衝撃が、脳天を走った。いや、脳天だけじゃない。まるで全身を揺さぶられたかのような衝撃に、彼女はたたらを踏んだ……直後、耳の奥から痛みが走り……何かが、肩に触れた。

 

 

 いったい何だと思って触ってみれば、固い何かが耳に貼り付いている。軽く擦って見てみれば……凍りついた鮮血が、指先に付着していた。

 

 

 ……何だ? 

 

 

 攻撃された──それは、分かる。だが、いったい何をされたのかが分からない。自然と、彼女の視線が、先ほどと同じく土下座を続けている者たちに向けられる。

 

 

 こいつらは、攻撃を受けていない……何故だ。何だ、どうやった、何をされ──っ!? 

 

 

 再び、境目の気配が揺らいだ。それを視界の端に捉えた瞬間、再び衝撃が全身を揺らした。パッ、と視界が一瞬ばかり揺れて──鬼の治癒力で再生したばかりの鼓膜が再び、破れたのが分かった。

 

 

 ──これが、溜め込まれているエネルギーというやつか? 

 

 

 二度も受けたおかげで、何をされたのかが分かった。いや、正確にはされたのではなく、何が起こったのかを推測することが出来た。

 

 

(外に一滴漏れただけで、これか……なるほど、どうにもならないと諦めるわけだ)

 

 

 振り返って辺りを見回せば、酷い有様だ。『星食い』から漏れ出た光に照らされた暗闇に、幾つもの亀裂が見える。

 

 零れ出たエネルギーが衝撃波となって、室内を反響したのだろう。鬼である彼女を傷つけたのもそうだが、隔離されたこの部屋を破壊するほどの威力……正直、考えたくはない。

 

 

 はてさて……どうしたものか……とりあえず、こいつらに話を聞くとするか。

 

 

 今にも爆発しそうな気配を見せている『星食い』は後にして、まずは侵入者だ。いったい、何が目的でここにいるのか……それを知る為に、彼女は境目の向こうへと腕を入れて、土下座する男の一人を掴んだ。

 

 

 ……抵抗しないのか。

 

 

 逃げようとするかもと思ったが、しない。掴まれた男は心底安堵した様子で、逆に彼女の腕を掴んだ。いや、それだけでなく、掴まれた男の身体へ、次々に他の者たちがしがみ付き始めた。

 

 

 ──ますます意味が分からない。

 

 

 けれども、抵抗する気がないなら好都合だ。下手に抵抗されて『星食い』にエネルギーを吸収されるよりはずっと……そう思い、彼女はグイッと男たちをこちら側に──えっ!? 

 

 身体が、引っ張られる。手が、男たちから離れた。合わせて、男たちが彼女から距離を取る。逃げ出した──いや、違う。

 

 

 逃げたのではない、引き寄せられているのだ。何処にって、そんなの決まっている──『星食い』に、だ。

 

 

 絶望に顔を歪めた男たちが、床に爪を立てて堪えようとした──が、無意味だった。

 

 男たちの腕力では床を傷つけることすら出来ず、一瞬にして黒い輪郭の中へと吸い込まれて行った──その、瞬間。

 

 

 ──彼女は、見た。『星食い』の中に蠢く、数千、数万、数百万にも及ぶ……夥しい命のざわめきを。

 

 

 そこに、共通点はない。今しがた彼女の前に姿を見せていた男たちを始めとして、獣や巨大な虫、あるいはそのどちらでもない異形の何か……とにかく、多種多様な気配が蠢いていた。

 

 

 一瞬、それが飛び出して来るかと身構えたが……違う、そうじゃない。

 

 

 気配はどれも生きている。だが、違う。生きてはいるが、生きてはいない。まるで、生け簀の中で生かされているかのような……不快感を覚える気配であった。

 

 

(まさか……生きているのか? あんな状態になってもまだ、二百年以上……死なないまま、狂うことすら許されないまま、延々と搾り取られ続けているのか?)

 

 

 おそらくは、この大陸に来て最大の嫌悪感だ。何がどうなって、そうなったのか。彼女には分からない事だが……これほどに惨い仕打ちが、あっただろうか──と。

 

 

 ──それは、鬼である『伊吹萃香』がもたらした直感かもしれない。

 

 

『星食い』が身に纏っている光が、中心へと集まり始める。一拍遅れて、境目が内側へと……『星食い』に纏わりつく。合わせて、室内を照らしていた光の全てが小さく、けれども、より強くなってゆく。

 

 

 ──おい、おいおい……このタイミングでか!? 

 

 

 それまで、放出するだけであった『星食い』のエネルギーの全てが、中心へと凝縮する。何が起ころうとしているのか──それを考える間は、なかった。

 

 

(──やばっ!)

 

 

 反射的に伸ばし掛けた手を、彼女は既のところで引く。直後、彼女は反射的に己が力である『疎と密を操る程度の能力』を解放し──爆散しかけた『星食い』を、その場に集めた。

 

 

 ──っ!? 

 

 

 瞬間、彼女の総身を襲ったのは……筆舌に尽くしがたい激痛であった。

 

 冗談ではなく、爆散を留めた瞬間、彼女は己の身体が弾けたかと思った。意識も飛び、視界が一瞬ばかり途切れ……辛うじて能力が解除されなかったのは、幸運としか言い表しようがなかった。

 

 

 ……ぎっ、ぐっ、ぐっ。

 

 

 食いしばった奥歯が、ぼきりと折れた。能力から零れた余波が、隔離室を粉々に粉砕する。一拍遅れて、暗闇の向こうから空気がこの部屋に雪崩れ込んできた。

 

 隔離されているはずの空間はもう、隔離されていない。暴風となって吹き荒れた空気が、凄まじい勢いで室内へと……けれども、彼女はそれを気にする余裕はない。

 

 

 ぶぼっ、ぽっ、ぷぴっ。

 

 

 目から、鼻から、耳から、口から……鮮血が噴き出す。いや、顔からだけではない。『星食い』へと差し出した両腕に浮き出た血管が、ぶちりと弾けて皮膚を突き破り、鮮血が彼女の身体を濡らした。

 

 

 ……ヤバい。彼女の脳裏を埋め尽くしているのは、この3文字であった。

 

 

 抑え込んでいるからこそ、分かる。一瞬でも能力を緩めたら最後、『星食い』が爆散する。そうなれば、己もそうだが……人類史がここで途絶えてしまう。

 

 

 だが……どうする? どうすれば、いいんだ? 

 

 

 はっきり言って、長くはもたない。東方Projectにおいて、存在そのものがインチキだと称された怪物。その『伊吹萃香』を以ってしても、抑えられるのはもって数分……いっ!? 

 

 

 ──凝縮された光から、気配が再び蠢き出した。

 

 

 何が起ころうとしているのか……決まっている。『星食い』に取り込まれている命が、解放されようと暴れている。地獄のような苦しみから少しでも早く逃れて死を求めるがあまり、なりふり構って……んん!? 

 

 

 ──かくん、と。両足に僅かばかりの負荷が掛かった感覚を覚えた。

 

 

 これは……上昇しているのか。エレベーターに乗った時と、感覚が似ている。もしかしたら、この隔離室ごと……? 

 

 だが、上昇して何だというのか……そう舌打ちを零しそうになったが、身動きが取れない。下手に動こうとするだけで、抑え込んだ『星食い』が弾けてしまいそうだ。

 

 

 ──ばきり、と。

 

 

 砕けた奥歯が弾けて、他の歯を傷つける。ぱちん、と口内から飛び出た白い破片が、かつん、と床を転がってゆく。ぶちりと、こめかみから、鮮血が噴き出した。

 

 

『──地上に出る、その後、加速……そのまま爆散を抑え続けてくれ』

 

 

 女の声が暗闇の……スピーカーから聞こえてきた。返事は、出来ない。とにかく言われるがまま、『星食い』を抑え続けている……と。

 

 

 ……光が、彼女を照らした。

 

 

 と、同時に、臭いがした。これまで、この施設に足を踏み入れてから一度として感じなかった、緑の臭い……汗で滲む瞳を動かせば、初めて己が地上に出ていることに気づいた。

 

 

 ──気付かぬ内に、外は夜になっていたようだ。

 

 

 文明の光がない地上は、真っ暗闇。空には幾つもの星々が輝き、大運河が如き鮮やかな道を描いている。こふう、と、この時初めて彼女は……大きく息を吐いて、吸って、吐いた。

 

 傍から見れば、それは何とも奇妙な光景であっただろう。

 

 何せ、巨大な毬栗(いがぐり)を乗せた、それ以上に巨大な足場が、ぐんぐんと浮上してゆく。その勢いは、さらに加速する。

 

 いったいどこまで……隔離室……いや、もう隔離されていない。足場だけが残された残骸ごと、ぐんぐんと上昇を続け、夜空の中へ、雲海を突き抜け……成層圏へと至る。

 

 そうして、音も無く足場の上昇が止まったのは……眼下に大陸を見下ろせるぐらいの高さまで浮上した頃であった。

 

 

(ぎっ、ぎっ、さ、さすがに、限界……か……!)

 

 

 ぶるぶると、限界に達しようとしている手足が痙攣を始めている。もう間もなく、爆発してしまう……と。

 

 

『──そのまま、抑え込むのを解除してくれ。爆散は止められないが、爆発に指向性を持たせることは可能だ』

 

 

 ……それって、つまり? 

 

 

『──爆発のエネルギーを、宇宙へ逃がす。さあ、早く……計算上、貴女ならば耐えることが可能……感謝する、結果的には、貴女に望みを叶えてもらった』

 

 

 ……そ、そうかい……じゃ、じゃあ。

 

 

 そこまでが、限界であった。何時傾いてもおかしくない均衡が、傾いた。フッと、彼女は促されるがまま能力を解除した──その、直前。

 

 

『──生きていたら、お礼を送る。ありがとう、次元の旅人よ』

 

 

 不穏な言葉が掛けられて。それに、彼女はギョッと目を見開いた──その時にはもう。

 

 

 ……彼女は、光となっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──。

 

 ──。

 

 ────線だ。

 

 

 

 ──。

 

 ──。

 

 ────色とりどりの線が、視界を流れてゆく。

 

 

 

 ──。

 

 ──。

 

 ────右から左に、左から右に。

 

 

 

 ──。

 

 ──。

 

 ────上から下に、下から上に。

 

 

 

 ぐるんぐるんと、世界が回る。ぐるんぐるんと、全てが回る。

 

 自分が今、何処を向いているのかが分からない。手足の感覚はとっくに消えて、もしかしたら、千切れてどこかへ……そう思ってしまうほどに、もはや己がどのような事になっているのかが分からなかった。

 

 

 ただ……そんな中でも、分かることが幾つかある。

 

 

 それは今、己が空を飛んでいるということを。いや、これは飛んでいるというよりは、飛ばされているという表現が正しいのだろう。

 

 空を飛ぶ己ですらどうにもならない、弾丸が如き速度。

 

 速さという点においては、鬼である己をも凌駕する天狗(この世界に存在しているかは、不明だが)ならば、どうにか出来たかもしれないが……まあいい。

 

 

 とにかく、彼女は飛んでいた。

 

 

 びゅう、と。風を切って、雲を幾つも突き破り、ぐるぐると、ぐるぐると、ぐるぐると……衛星のように、ぐるぐると大陸を横断し続けている。

 

 ぼんやりした意識の中で、ふと、彼女は思う。これほどの速さなら、とっくに宇宙の外に投げ出されてもおかしくないはずだ。

 

 それなのに、一定の距離から、一向に身体が離れてゆかない。既に数千回ぐらい星を巡回したというのに、ずっと同じ速度で回転し続けている。

 

 

(もしかしたら、あの女が何かをやったのだろうか……有り得るな)

 

 

 何とか速度を緩めたいが、爆発と速度のショックか身体が言うことを聞いてくれない。

 

 並の鬼であったなら、四散し肉片になっているであろうぐらいの衝撃だから、それも致し方ないのだろう。

 

 

 ……後、どれぐらいの時間、こうしていれば良いのだろうか。

 

 

 朝が来て、夜が来て、また朝が来る。時間の経過を認識することは出来るが……それだけ。既に、十数日は経過しているだろうか。

 

 何をするにしても、もう少し速度が落ちてくれないと彼女とてどうにも出来ない。最低でも、今の半分ぐらいにまで速度が落ちてくれないと……どうにも。

 

 

 ……しかし、退屈だ。心の中で、彼女は思う。

 

 

 景色の一つでも眺めることが出来たなら話は別だが、右に左に上に下にと回転を続ける己の身体を制御出来ない以上、景色なんて分かるわけがない。

 

 これまた天狗ならば、こんな状態でも景色を眺める余裕があったのかもしれないが……まあ、いい。

 

 不幸中の幸いというべきか、身動きできないだけで命に別状がないというのは感覚で理解出来る。それと同時に、ちょっとずつではあるが……昨日よりも速度が落ちているような気がしなくもない。

 

 もしかしたら、あと数日もすれば姿勢を立て直せるぐらいにまで速度が落ちるかも……ん? 

 

 

(あれ、何か目の前に広がっていた青色が、緑色や山吹色に変わっ──)

 

 

 そこまで考えた瞬間、顔面に衝撃が走った。同時に、ごきりと首の骨が折れた音が頭に響いた──のを自覚する前に、次の衝撃が来た。

 

 

 傍目からみればそれは、掃除機に吸い込まれた塵屑のような有様であっただろう。

 

 

 一つ、二つ、三つ、四つ。大地を砕き、木々を打ち抜き、水面を吹き飛ばしながら、彼女の小さい身体は跳ねながら乱回転を続ける。

 

 落下し続けていることに、気付いていなかった。それ故に、受け身がまるで取れなかった。最初の衝撃でほとんど意識を飛ばしてしまったせいで、余計に。

 

 

 その様は、まるで大地を砕いて跳ね返る隕石のよう。

 

 

 自分が何処を飛んでいるか以前に、何度跳ねたのか分からないままに、空を舞う……衝撃波を残しながら、何度も何度も何度も。

 

 

 幾度も続く衝撃に右腕が砕け、左腕が砕け、右足が砕け、左足が砕け、肋骨が粉々に砕け、腰骨が砕け、肩が砕け、頭蓋骨が割れる。

 

 合わせて、右腕が切れて、左腕が切れて、右足が切れて、左足が切れて、胸部が切り裂かれ、腰に岩石が食い込み、角が片方……折れて、何処かへと飛ばされる。

 

 

 そうして、そのまま幾度跳ね返り続けたのか……分からない。

 

 

 もはや、痛みを痛みとして認識出来る段階を超えていた。さすがの彼女も、己の死を強く実感し始めた……その時。

 

 どこん、と衝撃が背中に走り……重圧が収まると同時に、丸まった手足がぱたりと落ちた。

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………止まった。

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………ぼんやりとした頭で、身体の具合を確認する。

 

 

 

 視線の先にある、建物の天井を見つめながら、一つ、二つ、三つ……軽く呼吸をしただけで、刺すような痛みが主に折れた首と胸中から広がる。

 

 無事な場所を探すだけで、小一時間は掛かりそうなレベルだ……もしかしたら……いや、間違いなく、これまでにおいて最大級の負傷であった。

 

 

(いってぇ……首が折れているからか、息をすると無茶苦茶いてぇ……位置を変えたいけど、両腕も酷い有様なんだよなあ……)

 

 

 とはいえ、だ。幸いにも身動きが取れないだけで、即死は免れている。しばらくはこの痛みに耐えなくてはならないが、それでもしばらくすれば折れた首は繋が……ん? 

 

 足音が……聞こえてきた。鼓膜のような小さい部位は治るのが早いのか、もう周囲の音を拾う事が出来た。まあ、拾えるだけだが。

 

 

 ……出来る事なら、最初から首が横を向いていたら楽なのだが……まあ、仕方ない。

 

 

 痛みを堪えながら、顔を横に向ける。瞬間、鋭く走った痛みに彼女は目尻に涙を浮かべ……黒い服を着た誰かが……男たちが、こちらを指差し、次いで、拳銃を向けているのが見えた。

 

 

 ……人間……ってことは、運よくこっちの方に着地出来たのか? 

 

 

 黒い服を着た人間たちが、彼女を見ている。銃を向けている。彼女が逃げられないように、油断なく囲うように人が集まって来ている。

 

 

 ……もしかしたら、こいつらの家にぶち当たったのか? マフィアの誰かの屋敷か? 

 

 

 朦朧とした意識の中で、彼女はそれだけを辛うじて理解する。次いで、彼女は何か液体のようなものが己に降りかかっているのを感じ取った。

 

 

 ……ペットか何かに、ぶち当たったのか? 

 

 

 何とも言えない刺激臭と共に、視界の端に映る臓物の一部。それを見やりながら、悪い事をしてしまったなあ……と思っていると。

 

 

「──っ、──っ」

 

 

 黒服の男連中から、白い服を着た少女が飛び出してきた。世辞抜きで、美少女に分類される……おそらくは15、16歳ぐらいの、淡い青色の髪色を持つ少女であった。

 

 

 ……はっきり言って、この場においては場違いとしか言いようがない風貌の少女であった。

 

 

 集まっている黒服の男連中は、どこから見ても『屈強』という二文字が似合う体格をしている。表情からも、そういう場数を踏んで来ているのが見て取れる。

 

 それに比べて、少女の方は違う。

 

 女だからとか、ティーンだからとか、そういう話じゃない。纏っている空気……雰囲気が、裏の人間のそれではない。擬態なら大したものだが、鬼としての直感が……擬態ではないことを感じ取っていた。

 

 

(……ボスの娘、あるいは若い愛人。なるほど、男たちが困った顔をするわけだ)

 

 

 痛む身体を堪えて、大きく息を吐く。途端、集まっている黒服たちの目の色が変わった。少しでも不穏な動きを見せたら射殺する……ということなのだろう。

 

 

 ──だが、少女だけは反応が違った。

 

 

 緊張感を孕みつつも困った様子で背後に下がらせようとしている黒服たちを尻目に、しかめ面をしていた少女の視線が、彼女へと向けられ……瞬間、パッと華やいだ。

 

 

 ……何だこいつ。

 

 

 年頃の少女は何を考えているかさっぱり分からん……そう思っていると。

 

 

『──っ!』

 

 

 少女が、廊下の向こうへ声を張り上げた。

 

 

(何を言っているのかがよく分からん)

 

 

 今更ながら、ダメージが大き過ぎるのを自覚する。音として少女の声を認識出来てはいる。しかし、その意味を理解出来るだけ頭に血が回っていなかった。

 

 悪事を企むような子には見えないが……ぼんやりしたまま眺めていると、駆け付けた誰かから何かを受け取った少女は、黒服たちの制止を振り切って……彼女の傍まで駆け寄った。

 

 

 ……少女の手は、小さい木箱を持っていた。

 

 

 何を……そう彼女が思う前に、彼女の前にて腰を下ろした少女が、同じく下ろした木箱を開ける。中から取り出したのは真新しい包帯やらタオルやら絆創膏やら……なるほど。

 

 

 ──この子は、私を治療しようとしてくれているわけか。

 

 

 納得する彼女を尻目に、少女の手が伸ばされる。身体に付着した汚れやら何やらを消毒液とタオルで拭われ、その上からペタペタと絆創膏が貼られる。

 

 包帯も、ぐるぐると回される。ただ、知識は無いのだろう。巻き方は甘くて弱く、出血している部位を重点的に巻かれるが、骨折している部位を掴まれるのは、少々辛い。

 

 けれども、悪気はないのだろう。その証拠に、少女の目は真剣だ。無知ではあるが、持てる勇気を振り絞ってくれているのが……彼女にはよく分かった。

 

 

 ……自然と、彼女の視線が少女の全身へと向けられた。

 

 

 ワンピース型の、可愛らしいデザインの衣服だ。部屋着にしては些か高級で、外を出歩くには少々薄すぎる。何処となく、箱入り娘という言葉が似合いそうな雰囲気を帯びている。

 

 その顔立ちもまた、同様だ。

 

 荒事を目にしたことはあるが、体感したことはない。無自覚な理不尽を強要したことはあっても、強要されたことはない……そんな生活を送って来たであろう面持ちをしていた……と。

 

 

「──私は、ネオン・ノストラード。貴女のお名前は?」

 

 

 不意に、尋ねられた。声を、言葉を、理解できた。見た目通りの、大人とは言い難い、可愛らしく幼い声色であった。

 

 返事をしようとして、こふ、と咳が出る。「あ、ごめん、無理に喋らなくていいよ」と、ネオンと名乗った少女に言われた彼女は、大丈夫だと軽く手を振った後。

 

 

「……知り合いには、『二本角』って呼ばれているよ」

「にほんづの?」

「私の頭に生えている角が、二本。だから、二本角」

「……一本しかないじゃない」

 

 

 ちらりと頭を見やったネオンに、「そのうち、生えてくるよ」彼女はそう答えた後……ところで、と唇を開いた。

 

 

「喉が渇いたから、酒をくれないかい?」

「お酒? そんな身体で?」

「酒で身体の中を消毒するんだよ」

 

 

 目を瞬かせながらも、「……貴女、変わっているのね」と首を傾げるネオンを見て……彼女は、言葉無く笑った。

 

 

(やれやれ、もうあそこはコリゴリだ……私は、こっちで酒を飲んでだらだらしているに限る)

 

 

 その笑みは、心底疲れ切っていると同時に、安堵の色が強いモノであった。

 

 

 

 




はい、次はヨークシン編
先に言っておく、ヨークシン編は旅団解体ショーの始まりだからね、旅団ファンは見ないようにね、けっこうあっさり死ぬからね、むごい死に方するやつもいるからね


とりあえず、ネオンを巨乳にするから、スレンダー巨乳にするか、貧乳巨尻にするか……むちゃくちゃ迷っています


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第十二話:欲望渦巻くオークションと鬼娘

ションボリフドルフの可愛さに可愛いので忘れたころの初投稿です

前編・中編・後編のうちの、前編部分


 その建物が有る場所は、人里より離れた山間の中。そして、その外観は、一目で金が掛かっているのが見て取れる洋館であった。

 

 

 

 

 一目が付かないようひっそりと佇むその館は元々、とある富豪が様々な趣味(意味深)を持つ人たちを呼び出し、有料制のパーティ(意味深)を開く為に用意された代物である。

 

 

 ある時は多種多様な男女が集められて酒池肉林の宴が開かれた。上は60を超えた老人、下は一桁の幼子が集まり、狂った一夜を何度も繰り返した。

 

 ある時は多種多様な性癖を持つ者が集められ、地獄よりも惨く残忍な宴が開かれた。時には死者を出すこともあったその宴も、何度も繰り返し開かれた。

 

 

 しかし、そんな事が永遠に続くわけがない。

 

 

 盛者必衰というやつなのだろう。館の持ち主であった富豪も時を経て落ちぶれ、権利が手放され。転々と持ち主が入れ替わる事が続いた。

 

 

 それも、仕方ないことだ。

 

 

 不動産会社がいくら清掃なり何なりをして見た目を取り繕ったとしても、館に浸みついてしまっている狂気までは拭い去れない。

 

 しかも、元々が生活するのではなく、一夜の狂気を楽しむ為に作られ、改造された建物だ。自然と、別荘として扱うには不便であるのが臭ってくる。

 

 そのうえ、富豪の持ち主で、館自体がその階級に生きる者たちの間で有名だったからだろう。

 

 わざわざ、コレクターでもないのに、そんな曰く付の館を買おうとするものなんて、いない。興味半分、怖いモノ見たさ程度に購入する者はいたが、だいたいの人は一ヵ月もすれば飽きて手放し……という有様であった。

 

 

 ……だが、物好きは何処にでもいるものだ。

 

 

 本来の用途(という言い方も何だが)とは違うが、館の設備を何かしらに使おうとする者がいた。いや、正確には、使おうとする者たちがいた。

 

 

 その者たちの名は、ノストラード・ファミリー。

 

 

 率直に述べるならば、その者たちはマフィアである。もっと詳しく述べるのであれば、地方で燻っているマフィアの一つであり、全体から見ればその力は中の下ぐらいが妥当の、日陰者たちである。

 

 しかし、最近になってノストラード・ファミリーは、とある何かを駆使して急速にマフィアン・コミュニティ内での発言力を増していると……いや、それはいい。

 

 重要なのは、曰くつきの館を購入したのが、田舎のマフィアであるということ。そして、そのボスの娘の名が、ネオン・ノストラードであるということであった。

 

 

 ……とある、その日。

 

 

 その館を使ってノストラード・ファミリーが行ったのは……ボスの娘……すなわち、『ネオン・ノストラードの護衛の選別』であった。

 

 これは……マフィアを含めた裏社会においては何ら珍しい話ではない。有力者に近しい者もまた、有力者と同様にその命を狙われるからだ。

 

 いや、ある意味、その立場から有力者に近しい関係を築ける分だけ、当の有力者よりも命を狙われることがある。

 

 

 ──故に、必要なのだ。

 

 

 ボス(組織)の娘であるネオン・ノストラードを護衛する者が。

 

 だからこその、新たに人員を補充する為に行われる選別……それが、件の館で行われていることであった。

 

 

 ──さて、だ。その試験内容……この日、何が起こったのかといえば、だ。

 

 

 まず、試験を受けるに当たっての参加チケット……指定した品物(当然、本物でなければならない)の確認から始まった。

 

 

 その品物とは、一言でいえば人体に関する物品である。

 

 

 死後数百年経過しているミイラの腕、死してなお有名な女優の毛髪、とある独裁者の脳細胞、危険な魔獣の頭蓋骨(損傷無し)。

 

 何故、そのような品物なのか……それは、ボスの娘であるネオンが、重度の人体収集家であるからだった。けして、品の良い趣味ではないが、まあ、それはいい。

 

 そうして、無事に参加資格を得た数名の就職希望者たちは、館の一室に集められ、面接開始まで待つこととなった……ところを、襲われた。

 

 

 突然、であった。いきなり、不意を突く形であった。

 

 

 相手は、黒子のように全身を黒づくめにした数名の襲撃者。男か女かも分からない出で立ちのそいつらは、武器を片手に室内に飛び込んできたのである。

 

 

 ──一瞬にして室内の空気は騒然とし、殺伐としたものとなった。

 

 

 まあ、当然だ。こういった人物の護衛に就くことを選ぶ時点で、命の取り合いは経験済み。そして、相手の中には銃器を所持した者もいて、それを躊躇なく発砲してきたのだから。

 

 放たれた弾丸は壁に穴を開け、ソファーを貫通してカーペットを削る。幸いなのは、狙いも特に定めずに使用されたマシンガン(数撃てば当たる)は、右に左に照準がズレていた点だろうか。

 

 ……とはいえ、そんな事を抜きにしても、だ。これまた当たり前といえば当たり前の話なのだが、希望者たちとて素人ではない。いや、むしろ、その逆。

 

 

 ──命を狙われるマフィアの娘を、護衛する。

 

 

 そんな命知らずな仕事に志望するだけあって、誰も彼もが相当な場数を踏んでいる。銃器を向けられた程度で怯むようなものは、この場にはいなかった。

 

 ある者は強固になった拳で殴りつけ、ある者はテーブルを素早く盾にして身を隠し、ある者は手にした鎖で弾丸を弾いて……場の空気は、張り詰めつつも均衡する。

 

 ……逃げようと思えば、誰もがさっさと逃げられただろう。だが、集められた希望者たちの誰もが、その場から逃げることをしなかった。

 

 どうしてか……それは、事前に雇用主になるかもしれないボスの使いから、忠告という名の命令をされたのだ。

 

 

『──お時間が来るまで、この部屋を出ることはなりません』……と。

 

 

 故に、集まった者たちは部屋から逃げることが出来なかった。銃器を向けられようが、刃を振るわれようが、留まるしかない。反撃こそするが、ただひたすら耐えるしかなかった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………そうして、試験を終えてから、幾しばらく。試験を突破した希望者たちは、計4名となった。

 

 

 

 金髪に整った顔立ちに、独特の文様が描かれた民族衣装を身に纏った青年。冷静沈着に試験を有利に進めた……クラピカ。

 

 4人の中では最も背丈が低く、出っ歯で頭皮の薄い風貌の……実は女性であり、類まれな超聴覚を持つ……センリツ。

 

 4人の中では最も背丈が高くて筋肉隆々、リーゼントを思わせる独特の髪形をした男性……バショウ。

 

 4人の中では最も官能的な雰囲気を漂わせつつも、立ち振る舞いには自信が見て取れる女性……ヴェーゼ。

 

 

 

 結果的には誰一人欠けることはなかった希望者たち……否、新人たちは、ネオン護衛団のリーダーを務めるダルツォルネと名乗る男に案内されていた。

 

 ひと目で、誰もが彼を強いと思った。

 

 黒髪で眼光は鋭く、服の上からでも鍛えられた肉体が見て取れる。それでいて物腰は落ち着いていて、強者特有のおごりも見られない。

 

 

 ……リーダーを務めるだけの力量は、確かなのだろう。

 

 

 そのダルツォルネは、目的地へと向かう最中、振り返ることなく付き従う新人たちに幾つかの注意事項を述べていた。

 

 

「──既に説明した通り、お前たちはこれからヨークシンにて開かれるオークションが終わるまでの間、ボスの娘であるネオン御嬢様の護衛に就いてもらう」

 

 

 試験が行われた時の張り詰めた緊迫感とは違い、場の空気は淡い緊張感を孕みつつも穏やかなモノになっていた。

 

 それは、廊下に点々と設置されている美術品……ばかりが、理由ではない。

 

 言うなれば、今のクラピカたちは新人であると同時に同僚となったのだ。故に、ある種の気安さというか、互いの警戒心が解かれた結果であった。

 

 

「ひとまずの任期は、ヨークシンにて行われる地下競売を終えて、この館に戻るまでの間だ」

 

 

 ヨークシン……それは、世界でも有数の発展都市として名の知られている、観光だけでなく様々な産業や工業が集まっている巨大都市である。

 

 しかし、ヨークシンという名が最も有名になる理由はそれらではない。毎年9月に開かれるオークションが理由であった。

 

 その規模は、正しく世界最大。数多くの珍品や貴重品が競売に掛けられるオークションを始めとして、市場などで行われる競売もまた有名。

 

 あくまで噂話だが、犯罪組織たちによる闇のオークション……通称、『地下競売』と囁かれているソレがあることも、都市の名を知らしめる理由であった。

 

 そして、クラピカたちに与えられた業務はというと、だ。

 

 そのオークションに参加するネオンの安全を確保し、無事に自宅へと戻るまでの間の無事を確保する……それが、此度の業務内容であった。

 

 

「その間は、俺がリーダーを務める。護衛中は、基本的に俺の指示に従って動くよう徹底しろ」

 

 

 それと、と、ダルツォルネは言葉を続けた。

 

 

「お前たちの給料はネオン御嬢様の父親であるノストラード氏が支払っているが、お前たちはあくまで御嬢様の護衛だということを忘れるな」

「……それはつまり、ノストラード氏や貴方よりも、ネオン御嬢様の御意思を最優先しろ……ということか?」

 

 

 静聴していた新人たちの一人……試験の際に、鎖を用いて弾丸を弾くという離れ業を見せていた金髪の青年クラピカは、ぽつりと呟くように疑問を投げかけた。

 

 振り返ることなく進むダルツォルネは別として、その他の新人たちの視線がクラピカへと向けられる。

 

 

「場合によっては、ダルツォルネさん、貴方よりも」

 

 

 けれども、クラピカは気にした様子もなく、さらりと話を続けた。

 

 

「……御嬢様に危険が及ぶようなことでない限りは、出来る限り御嬢様の指示に従ってもらう」

 

 

 少し間を置いてから、ダルツォルネはそう答えた。

 

 

「一つ、いいかしら?」

 

 

 補足するように質問を重ねたのは、この場では一番背が低い……センリツと先ほど名乗った出っ歯の女性であった。

 

 

「私たちはこれから護衛対象であるネオン御嬢様と対面するわけだけど、御嬢様の性格とか、その前に頭に入れておかなければならない注意事項はあるかしら?」

「と、いうと?」

「『ボスの娘を護衛する』という依頼で来たわけだけど、私たちは護衛対象が女性であるとこと。そして、その娘が人体収集家であるということ以外、何も知らない」

「十分だとは、思わないのか?」

「ただ護衛するだけを望むなら、それでもいいわね。けれどもより安全への可能性を上げるのであれば、信頼関係を築いておいて損はない。差し支えなければ、教えてもらいたいわね」

 

 

 意味があるのかと疑問に思う者もいるかもしれないが、センリツの質問は、護衛を務めるうえでは絶対に把握しておかなければならないことであった。

 

 

 ……命を狙われているからこそボディガードを雇うわけだが、当然、ガードされる依頼主に掛かる精神的負担は相当なものになる。

 

 

 狙われるというのは、そういうことなのだ。そして、場数を踏んだ度胸ある者だとしても、それが原因で何かしら体調を崩すこともある。

 

 護衛対象を護るうえで重要なのは、護衛する者の実力だけではない。『この人がいたら大丈夫』という、信頼関係をスムーズに築けるかどうかもまた、重要である。

 

 ましてや此度の護衛対象は、ダルツォルネより御嬢様と言われるだけあって、おそらくは未婚の女。それも、20代……いや、10代、一桁の可能性だって、0ではない。

 

 

 ……有事の際、自分(内面なり、何なり)を知ってくれている護衛がいるというのは、意外と馬鹿に出来ることではない。

 

 

 たとえそれが、マフィアの娘であるとはいえ、だ。相当なプレッシャーに晒されているのは、想像するまでもない。

 

 心労によって当人が動けなくなったりすれば、それだけ護衛が難しくなる場合もあるからで……センリツの質問は、特に不思議というわけではないのであった。

 

 

 ……ふむ、と。

 

 

 クラピカ達の先頭を進みながら、ダルツォルネは顎に手を当てて考える……考えなければならない程に気難しい娘なのだろうか。

 

 

 ──それはそれで、厄介だな、と。

 

 

 質問したセンリツのみならず、クラピカ達も似たようなことを考えていると、「──いや、そういうわけじゃない」察したダルツォルネが、違うと首を横に振った。

 

 

「以前とは違い、ここ最近の御嬢様はとても素直だ。俺たちの指示にも従ってくれるし、癇癪を起こすことだってほとんど無くなった……」

 

 

 そこで、ダルツォルネは言葉を止めた。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………そこから、間が空いた。

 

 

 何だどうしたと思って視線を向けたクラピカたちが目にしたのは……何かを堪えるかのように目元を揉み解すダルツォルネの姿であった。

 

 

「厄介なのは御嬢様御自身よりも、傍にうろつくやつだ……あいつのせいで、ある意味では前以上に大変だぞ」

「うろつくやつ?」

 

 

 曖昧な言い回しに首を傾げるクラピカたちへのダルツォルネの返事は、大きな大きなため息であった。

 

 

「御嬢様曰く、御友人だそうだ。だが、一般人とは思うな。俺が100人束になっても一瞬で返り討ちされるような怪物だと思ってくれたらいい」

 

 

 ……一瞬ばかり、沈黙が場を包んだ。

 

 

「それ、俺たちを雇う意味があるのか?」

 

 

 尋ねたのは、道中ずっと沈黙を保っていたバショウであった。当然といえば当然だが、その質問は全員の総意であった。

 

 

「あくまで、そいつは好きでここにいるだけだ。一度雇い入れようと思ったが、それをするならここを出て行くと言われてしまったのでな」

 

 

 ダルツォルネもその質問が来るのを想定していたのか、今度は間髪入れずに答えたのであった。

 

 

 ……なるほど。

 

 

 凄腕とはいえ、気紛れでいなくなるか分からない者など、戦力としては当てにならない。狙う側からすれば、居る時は油断を誘えるし、居ないときは不安を誘発させることが出来るからだ。

 

 もちろん、それはダルツォルネも分かっている。いや、むしろ、護衛団のリーダーを務めているからこそ、誰よりもそれを分かっていた。

 

 だから、多少なり腕が落ちようが、ちゃんと契約を交わし、いざという時の為に安定した戦力を保持する……その為に新たな護衛を雇い入れると決めたのだと、ダルツォルネは説明した。

 

 

「……つまり、私たちは抜けるかもしれない穴の補充要因というわけか?」

 

 

 しかしそれは、見方を変えれば一流を確保できないから二流三流を雇い入れたという言い方に等しいわけで。

 

 新たに雇われる事となった新人たちにとっては、面白くない話でもあった。

 

 何せ、ダルツォルネの言い方は、数合わせでしかないと言わんばかりのものであったから

 

 雇われた者としては、だ。この中ではおそらく最年少に当たるだろうクラピカが堪らずといった調子で口を挟むのも、致し方ない事であった。

 

 

「それは違う、既に穴は抜けている。お前たちは、抜けている穴を塞ぐ為の補充要因だ」

「……要領を得ないな」

「俺にとっては恥でしかない話だからな……丁度良い、ここで止まれ」

 

 

 けれども、その不満もダルツォルネの言葉によって霧散した。「──コレを見ろ」長い廊下を歩いていたダルツォルネがふと足を止めたのは、壁に掛けられた、とあるオブジェの前であった。

 

 

 ……言葉で言い表すのであれば、それは『額縁に飾られたキャンバスから飛び出そうとしている、苦痛と苦悶に喘ぐ男』と……いったところだろうか。

 

 

 飛び出した男の顔は、今にも悲鳴を上げそうなほど。まるで、今しがた殺されて剥製にされたかと錯覚してしまうぐらいだ。

 

 あまり世間一般には理解され難いだろうが、それでも大多数の者が思わず目を背けたくなるような迫力が、そこにはあった。

 

 

「……作った人とは仲良くなれなさそうだけど、よく出来ているわね。まるで生きた人間を材料に使ったみたいだわ」

 

 

 しかし、この場にいるのは場数を踏んだハンターだ。ポツリと零したヴェーゼの感想には、何の怯えも見られなかった……が。

 

 

「そっちじゃない」

「──え?」

「視線を下げろ、絵の下に瓶が置いてあるだろ」

 

 

 言われて、新人達の視線が下がり……クラピカたちの目に止まったのは、台の上に置かれた、子供の背丈ぐらいの瓶であった。

 

 ……瓶の中は、何というべきかドロドロと赤黒く濁っていた。

 

 中に入っているのが液体であるのは分かるが、それ以外にも何か混ざっている。白かったり、黒かったり、何か細長かったり……いったいこれは? 

 

 

「ソレは、『あいつ』に裏切りを持ちかけた阿呆の成れの果てだ」

 

 

 ──ぎょっ、と。

 

 

 場数を踏んできた新人たちの誰もが、目を剥いた。「……忠告しておく。不用意に『あいつ』の機嫌を損ねるなよ」それを想定していたダルツォルネは、ニヤリと頬を歪めた。

 

 

「『あいつ』は嘘を何よりも嫌う。並びに、嘘に連なること……裏切るという行為も嫌う。そんなやつに、この阿呆は裏切りを持ちかけた……こうなって当然の男だ」

 

 

 吐き捨てるように言い切ったダルツォルネの姿に、ごくりと唾を呑み込む音が響いた。

 

 

 

 

 

『……クラピカ、どうしたの? 心臓が物凄い音を立てたわよ』

『──っ、驚かせてすまない。嘘を嫌うという話から、どうにも知り合いのことを思い出してしまった』

『……それは、貴方のお友達?』

『知り合いであるのは確かだが……向こうがそう思っている保障はない』

 

 

 ……その中で。互いへ囁くように行われたクラピカとセンリツの会話に……気付いた者はいなかった。

 

 

 

 

「……大丈夫なのか?」

 

 

 恐る恐るといった様子で呟いたバショウに、「その点については安心しろ、『あいつ』は意外と義理堅いやつだからな」ダルツォルネは顔色一つ変えずに言い切った。

 

 

「とにかく、『あいつ』はあくまで御嬢様の御友人であり、護衛対象ではない。御嬢様も、『あいつ』を護る必要はないと仰っている。あくまで、俺たちが守るのは御嬢様だ……それを肝に銘じておけ」

 

 

 ──それで、一先ずの説明は終わったということなのだろう。

 

 

 再び歩き出したダルツォルネの背中は、それ以上の問答は必要ないと言わんばかりに拒絶の色を放っていた。

 

 そうなれば、クラピカたちは従う他なくて。自然と、誰も彼もが無言のままに後に続く他なかった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………とはいえ、だ。いったい、ダルツォルネが『あいつ』と呼ぶ人物は何者なのだろうか……その事に思いを馳せない者は、誰もいなかった。

 

 

 いくら大丈夫と言われても、先ほどの瓶を見れば不安になって当然で……先ほどまでは無かった、何とも言えない緊張感を感じながらも、僕敵地である護衛対象(ボスの娘)がいる部屋の前に到着した。

 

 

「──ダルツォルネだ、新人たちを連れてきたから開けてくれ」

 

 

 金が掛かっているであろう扉をノックしたダルツォルネは、その言葉と共に姿勢を正す。それを見て、クラピカたちも思い思いに居住まいを正した。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………が、しかし。開く気配はおろか返事すらされないことに、「……どうした、何故返事をしない?」ダルツォルネは首を傾げた。

 

 

 というのも、出入り口(扉の内側)には侍女が二人控えている。所用(要は、ネオンのワガママ)で離れているにしても、一人は残っているはず……仮に二人ともなら、己の元に必ず連絡をしてから離れるはずだ。

 

 それが出来なかった火急の用事……まあ、飲み物を取って来いだとか、おやつを持ってこいだとか、おそらくはしょうもない理由だろう。

 

 以前よりもワガママの頻度が減ったとはいえ、無くなったわけではない。すぐに機嫌を悪くする御嬢様気質は、未だ健在なのである。

 

 

(……まあいい。とはいえ、連絡もせずに持ち場を離れるのは感心しないがな)

 

 

 ダルツォルネ自身は、侍女を叱りつける立場ではない。

 

 あくまで彼は護衛たちのリーダーであり、荒事への対処がメインであって、侍女たちは御嬢様の付き人であるからだ。

 

 

 だが、それはそれ、これはこれ。

 

 

 侍女ならば、侍女なりにやってもらわねば困る事はある。

 

 特に、護衛を任されている、己に対しては。

 

 なので、後で一言文句を言わねば……そう思いつつ、ダルツォルネはもう一度扉をノックする。次いで、侍女の名を呼ぼう──と。

 

 

 

 

 ──開いてるよ。

 

 

 

 

 中から聞こえた声に、一同は目を瞬かせた。

 

 

 ……この時、ダルツォルネと新人たちとの間(正確には、クラピカを除いた)には、致命的な齟齬が生まれていた。

 

 

 新人たちは、思っていた以上に若い声色に軽く目を瞬かせた。それが侍女の声なのかネオンの声なのかはさておき、若すぎる声だと思った。

 

 

 ……その中で、色々と察してしまったクラピカだけが、「……まさか、再会するとはな」苦笑を浮かべていたのは……まあ、いい。

 

 

 そして、おそらくはこの場で唯一、部屋の中にいるであろう人物に当たりを付けたダルツォルネは……頭痛を堪えるかのように頭に手を当てた後……おもむろに扉を開けた。

 

 

 

 ──そうして、ダルツォルネたちの前に広がったのは、ベッドの上にて膝を抱えて座っているボスの娘であるネオン・ノストラードの姿──。

 

 

「ヴぉぉああああ……」

 

 

 ──ではなくて。

 

 

 頭に二本の角を生やし、両腕と腰に鎖を巻き付かせた素っ裸の少女が扇風機の前にて仁王立ちし、片手には……ジュースらしき液体が入った瓶を持って。

 

 ぐびり、ぐびり、と力強く喉を鳴らし。ぷはあ、とため息を零したかと思えば、「ヴぉああ……」と気の抜けるような声を出しているという……何とも不可解な光景であった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………え、なに、この……なに? 

 

 

 困惑……そう、困惑であった。

 

 

 この場にいた誰もが、困惑に思考を止めた。扇風機に顔を近づけてヴぉああと声を出している少女を前に、誰も彼もが呆然とするしかなかった。

 

 それは、試験中誰よりも冷静に行動していたクラピカとて、例外ではなかった。

 

 

 ……が、しかし。

 

 

 この場で唯一……というか、真っ先に我に返った者がいた。それはクラピカではなく、試験を通じてクラピカたちの実力を見ていた……ダルツォルネであった。

 

 

「…………」

 

 

 これ以上ないぐらいに頭が痛い……そう言いたげにダルツォルネはガリガリと頭を掻いた後、「『二本角』……!」絞り出すように少女から『そのように呼べ』と言われた名を呼んだのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──湯船に浸かって火照った身体を撫でてゆく、扇風機の風。肩幅に開いて腕を軽く開けば、隠れる部分が無くなった素肌を余すところなく心地良さが通り過ぎてゆく。

 

 

 

 蒸し暑い夏の熱気でもなければ、サウナでしっかり茹った時でもない。湯船にしっかり浸かって火照った時にしか感じられない涼しさを、彼女は心から堪能していた。

 

 ジャラジャラと纏わりつく鎖は……まあ、この際どうでもいい。傍目には邪魔くさいのではないかと思われそうなソレラは、己にとっては身体の一部に等しいから。

 

 そんな事よりも重要なのは……だ。チラリと、彼女は片手に持ったフルーツ牛乳入りの瓶を見やった。

 

 

(やっぱり、風呂上りにはコレだよねえ、これ。この時ばかりは、酒じゃなくてフルーツ牛乳なんだよなあ)

 

 

 そのうえ、この時に飲むフルーツ牛乳は瓶でないと駄目なのだ。

 

 値段も絞り立て果汁やら何やらを使っているお高いモノではなく、一瓶120ジェニーのお手頃なやつでなければならない。

 

 濃厚でもなければ薄くもないお味が、この時ばかりは最高なのだ。

 

 紙パックはもっての外だし、ペットボトルは、邪道も邪道。酒をこよなく愛する彼女も、今だけはフルーツ牛乳の虜であった……と。

 

 

「ここで、何をやっているんだ?」

 

 

 背後から掛けられた声に彼女は……『二本角』と周囲から呼ばれている彼女は、ん~、と振り返り……おや、と頭を掻いた。

 

 

「誰かと思えばダルちゃんか。何って、風呂で火照った身体を冷ましてんの」

 

 

 その言葉に、くん、と鼻を鳴らしたのは誰が最初だったか。言われてみて、ダルツォルネは室内に漂う石鹸の香りに視線をやり……溜息を零した。

 

 

「……ダルツォルネだ。前から言っているが、ダルちゃんなどと呼ぶな」

「嫌だよ、だってあんたの名前ったら長いんだもの。舌を噛みそうだし、ダルちゃんでいいでしょ」

 

 

 ──ぴくり、と。

 

 

 ダルツォルネの目じりが一つ痙攣した……が、文句が口から出るようなことはなかった。

 

 それよりも……ダルツォルネの視線が、部屋の端……脱衣所から浴室へと続いているガラス扉へと向けられた。

 

 ボスの娘であるネオンがいるのは、ダルツォルネに限らず誰もが気配で分かっていた。

 

 本来であればネオンがシャワーを浴びている時に室内に入ることはないのだが……彼女が許可を出したのであれば、話は別だ。

 

 

「……侍女はどうした?」

「一人は脱衣所で待機、一人はキッチンだよ」

 

 

 キッチン……ダルツォルネの視線が、キッチンがある方角へと向いた。

 

 

「風呂上りのレモンティーとホットケーキ、ウイスキーに炙ったイカを頼んでいるところだけど、会わなかったかい?」

「あいにく、キッチンを経由するような事はしていないのでな……!」

 

 

 目じりをぴくぴくと痙攣させているダルツォルネの苛立ちを一言で切り捨てた彼女は、グビッとフルーツ牛乳を飲み干し……ぷはあ、と大きく息を吐いた。

 

 

 ……傍若無人、ここに極まれり。

 

 

 果たして、彼女にそういった羞恥心というものを備えているのだろうか。角が生えているとはいえ、その見た目は思春期に突入してもおかしくないというのに……と。

 

 

 

 

 ──ほんちゃん! もしかして、もう飲んじゃっているの!? 

 

 

 

 

 室内に、彼女の声ともダルツォルネとも異なる、年若い女の声が響いた。自然と、全員の視線が……擦りガラスの扉の向こうにあるであろう、備え付けのユニットバスへと向けられた。

 

 

 ……まさか、な。

 

 

 この場にいた誰もが、脳裏に嫌な予感を覚えた……同時に、そうはならないだろうとも──あっ。

 

 

「一緒に飲もうって話して──」

 

 

 あっ、と。

 

 

 そう、呟いたのは誰が最初だったか……まあ、それが誰だったにせよ、だ。

 

 

「──いたじゃん……かぁ……?」

 

 

 ガラス扉を蹴飛ばす勢いで開け放ち、そのままの勢いで室内に飛び込んできた少女を見て……誰もが思考を止めた。

 

 

 ……浴室へのガラス扉……つまりは脱衣所の向こうから部屋に飛び込んできたのは……雲一つない青空を思わせる髪色をぺたりと肌に張り付いている、美少女であった。

 

 たった今まで湯浴みをしていたからなのだが、少女の裸体は、白い肌をほんのりと淡く火照らせて湿っていた。

 

 と、同時に、その素肌の清らかさは同性……場に居合わせる形になってしまったセンリツとヴェーゼから見ても、軽い嫉妬を覚えるほどであった。

 

 

 ……いや、肌だけではない。

 

 

 多数の視線に晒されることとなった、その裸体は……嫉妬を通り越して称賛の眼差しを向けられるに値する代物であった。

 

 肌の幼さからして、その年齢は15……18歳の間ぐらい。しかし、まだ成長中であるはずの胸元は、大の男の掌でも収まり切らないぐらいの、見事な膨らみが実っている。

 

 対して、腕も足も、腰回りのくびれも驚嘆するほどに細く。お尻の実り具合に限っていえば、年齢相応の幼さが見て取れるが……何の欠点にもならないのは、おそらく誰の目から見ても明白であった。

 

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 

 誰も彼もが、無言であった。

 

 

 あまりに想定外な事態を前に、どうしたら良いか分からず、ぽかんと呆けたままでいるしかないクラピカたちも。

 

 この後に訪れる事態を前に、色々な意味で顔色が青色を通り越して白くなり始めているダルツォルネも。

 

 乳房や指先や陰毛から水気を滴らせながら、水面に垂らした絵の具が如く全身を羞恥で紅潮してゆくネオンも……無言であった。

 

 

「──あ、すまん」

 

 

 ただ、一人だけ。

 

 

「ついでにワインも頼んだから、二人ともキッチンに行ってもらってたの、忘れてた」

 

 

 相も変わらず欠片の羞恥心も見せていない彼女だけが、ヴぉああ、と扇風機で遊びながら、そう答えたのであった。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………それから、きっかり8秒後。

 

 

 館の端から端まで響き渡るほどのネオンの悲鳴と、ダルツォルネへと投げつけられる様々な小物たち。

 

 それを甘んじて受けとめながら、けして目を向けず、ひたすら謝罪を続けるダルツォルネたちの悲鳴とが……しばしの間、木霊し続けるのであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………さて、だ。

 

 

 ちょいと話は脱線するが、どうして『運び屋』をやっている彼女がマフィアの家にお邪魔しているのだろうか。彼女を知る者がこの場に居合わせたならば、さぞ困惑して首を傾げた事だろう。

 

 しかし、そう思い悩む必要はない。答えは単純明快、紆余曲折を経て、何だかよく分からないうちにネオン邸(正確には、ネオンの父の別宅なのだが)厄介になっているだけである。

 

 

 ……当初は厄介になる前に壊してしまった諸々を弁済して済ませようとした彼女だが、そうはならなかった。

 

 

 何故かと言えば、何がどう琴線に引っかかったのかは不明だが、この館のボスでもあるネオンに物凄く気に入られてしまい、あの手この手で引き留められている……まあ、そんなわけだ。

 

 何処が……気に入ったのか。それは当の彼女自身も知らないし、分かってもいない。

 

 ネオンは語ろうとしないし、ネオンがそうしろと言う以上は、ダルツォルネたちも何も言えず……彼女の今の立場は、賓客ということで収まっているのであった。

 

 ……ちなみに、ネオンが口にした『ほんちゃん』とは、ネオンが名付けた彼女の渾名であって、『二本角』から取ったものであるが……まあ、どうでもいい話だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 ──とまあ、そんな感じのドタバタから……色々あって、数日後。

 

 

 ネオンと(侍女たちも)、そのネオンを護る護衛団たちが、飛行船と車を乗り付いて……オークションが行われる『ヨークシン』へと到着したのは、昼の14時を回った頃であった。

 

 そこから、予約していたホテルにてチェックインを済ませたネオンたちは、ひとまずの休憩を取ることにした。

 

 何せ、ネオン邸からヨークシン郊外の飛行場にまで、三十数時間。

 

 そこから車に乗ってヨークシン・シティまで、渋滞に巻き込まれながら、だいたい九十分ほど。

 

 そして、予約しているホテルにて諸々の手続きを終えてからベッドに倒れるまで……おおよそ二十五分ぐらい。

 

 いくら体力に満ちている年頃とはいえ、単純な移動時間だけでも二日間弱。普段とは異なる環境にいたこともあって、いつもはわがまま放題のネオンも、『疲れたから、ひと眠りする』とのことであった。

 

 ……さて、そうなれば、護衛団もとりあえずは休憩を……というわけにも、実のところはいかない。

 

 まず、先に室内に入って不審物等のチェック。盗聴器やカメラを始めとしたチェック、壁などに不審な点があるかなど……万に一つの可能性を地道に潰していく。

 

 そうして、安全が確認された室内にネオンが入り、着替えもそこそこにベッドに入ってひと眠りをし始め……そこからが、護衛団にとっては本番なのである。

 

 まず、事前にネオンが参加する予定の『地下競売』が行われる会場の見取り図を頭に叩き込んでいた護衛団は、実際の会場の下見を行った。

 

 見取り図はあくまで、その図が書かれた時点での最新でしかない。あらゆる状況に陥っても即座に対応できるよう、パターンも決めておく。

 

 逃げるにしても、迎え撃つにしても、最優先すべきは誰かの命ではなく、ネオンの命。故に、念入りなシミュレーションが必要であった。

 

 何せ、『地下競売』には世界各国に点在する裏社会の重鎮たちが集まってくる。

 

 当然、他の組織(マフィア)もボディガードを雇ってはいるが……見方を変えれば、それは狙うべき相手が一か所に集まっていることにもなる。

 

 

 ──敵を勝手に想像するな。

 

 ──想像した敵を想定するな。

 

 

 護衛団のリーダーを務めるダルツォルネは、新たなシミュレーションを行う度に、何度も何度もその言葉を呟いていた。

 

 『地下競売』が開かれるのは、明日の夜。休憩を挟みはするものの、ダルツォルネたちの仕事は続くのであった。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そんなふうにして、忙しなく明日に備えるダルツォルネ……いや、クラピカたちを他所に。

 

 

「じゃあ、私はちょっと出かけるから。覚えていたら戻るつもりだから、ネオンに聞かれたら答えといてね」

 

 

 酒瓶を片手に、既に頬を酒気で赤らめた彼女は、唖然としているクラピカたちにそう告げて……さっさと、ホテルを後にしようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──それは私にとって、予想外の事態だった。

 

 

 一通りのシミュレーションを終えた私たちが、一時の休憩を入れようかとしている時……何の気負いもなく手を振ってその場を後にしようとする二本角の姿に、一瞬ばかり思考が停止した。

 

 

 ……こいつは今、何と言った? 

 

 

 視線を二本角から外せば、私と同じように呆然としている仲間たち(一時的とはいえ、だ)と目が合った。

 

 

 ……とはいえ、全員がそうではない。

 

 

 私と同じような表情を浮かべているのは、同期になるセンリツやバショウやヴェーゼ……つまり、採用試験を一緒に突破した者たちだけだ。

 

 ダルツォルネを始めとした、護衛団の古株たちにとっては、もうすっかり慣れてしまっているものなのだろう。

 

 その証拠に、視線を向けた彼らは誰一人、二本角を引き留める素振りすら見せることはなく、勝手にしろと言わんばかりに苦笑するばかりだ。

 

 侍女たちに至っては、「ネオン御嬢様が寂しがらないうちに、帰って来てくださいね」と手を振る始末……いや、まあ、彼女らにとっては職務外だから問題はないが……だが、しかし。

 

 

 ……本気、なのか? 

 

 

 思わず、私は事態を受け入れられず、目を瞬かせてしまった。と、同時に、私は少なからず……落胆してしまうのを抑えられなかった。

 

 何故か……それは、今回のオークションが無事には終わらないということを、この場に置いて私だけが知っている(おそらくは、だが)からだ。

 

 

 ──幻影旅団。通称、『蜘蛛』。

 

 

 構成員の出身、年齢、性別、何もかもが不明であり、その情報一つが裏社会では多額で取引されている……世界中にその名を轟かせている、悪名高き窃盗団。

 

 ターゲットとなる相手に共通点はない。

 

 金品が狙われることもあれば、そこまで値打のないコレクター品が狙われることもあり、時には慈善活動紛いなことも……正しく、幻影のように捉えどころのないやつらだ。

 

 だが、私は知っている。少なくとも、私だけは……この場にいる誰よりも、やつらの極悪非道の所業を、知っている……! 

 

 やつらは、窃盗団などという生易しい存在じゃない。

 

 その名を聞くだけで臓腑が引き攣り、全身をめぐる血液が沸騰するような感覚を覚え……いや、落ち着け、今はまだ、その時じゃない。

 

 

 ──噴き出しかけた憎悪を、抑える。

 

 

 幸いにも、私の内心に気づいた者はいなかった……私に視線を向ける、センリツを除いては。

 

 非難するわけでもなければ、苛立ちを向けるわけでもない。ただ、心配そうにこちらを見つめる視線に……私は、そっと視線を逸らした。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………心配させてしまったな、すまない。

 

 

(落ち着け、クラピカ……分かっている、今の私は、あくまでボディガード。マフィアを利用する気持ちはあるが、任された以上はやるさ)

 

 

 そう、重要なのは、私の気持ちではなくて。その幻影旅団が……此度のオークションを狙っているという点だ。

 

 正直……間違っても借りなど作りたくないやつから得た情報だが……何にせよ、幻影旅団がオークションに姿を見せるのは間違いない情報だ。

 

 

(……二本角に取引を……いや、駄目だな)

 

 

 頭の中で描いていた計算を、内心に秘めたまま却下する。

 

 惜しい気持ちはあるが、二本角の性格から考えて……そういったやり方は逆効果だ。

 

 単純な戦力として考えれば、現時点で考えられる最大戦力は、紛れもなく彼女だ。

 

 しかし、ダルツォルネの言う通り、戦力として組み込まない方がいいだろう。彼女はあまりに気紛れ過ぎるからだ。

 

 

(万が一、どうにもならない事態になれば手を貸してくれるかもしれないが……)

 

 

 ……とはいえ、正直な話、何だかんだ言いつつも護衛に協力すると踏んでいた。

 

 

 勝手に飛行機に乗り込んだり、勝手に飛行機に積んであった酒を飲んでいったり、手配した車の屋根の上で寝入ったりとやりたい放題であったが……それでも、ネオンから離れることなくここまで来たのだ。

 

 勝手に期待していたとはいえ、考えれば考えるほど惜しいと思えてくる。ダルツォルネの言う通り、一切の契約が成されていないから、引き留めること事態が間違いだが……それでも、惜しい。

 

 

 彼女は、純粋に強いのだ。圧倒的に、私がこれまで見て来たどんな相手よりも強い。

 

 

 ハンター試験にて目の当たりにした、二本角の力の片鱗。あの時はゴンの機転によってうやむやになったが、今なら分かる……あの時の二本角はまだ、全力の1割すら出していなかったということが。

 

 もしかして、別行動を取る形で裏から護衛を行うのかと……そう思って視線を向けた「……彼女、嘘を言っている心音じゃないわ」センリツからは、改めてと言わんばかりにその言葉が返された。

 

 

 ……センリツの優れた聴力は、人知の域を超えている。

 

 

 数十メートル離れた先の人物の会話を盗み聞き、雑多な街角の中にいる人々の呼吸を聞きわけ、そこから位置を調べることも出来るらしい。

 

 その優れた聴力によって、対象の心音から相手が嘘を付いているかどうかを聞き分ける(曰く、経験則だとか)ことも出来るセンリツが言うのだ……本気で、離れるつもりのようだ。

 

 

 ──ならば、下手に引き留めるのは得策とは言い難い。

 

 

(所詮、期待は期待でしかなかったということか。二本角が抜けるのは痛手だが……仕方がない)

 

 

 そう結論を出した私は、少しばかり千鳥足になっている二本角が離れて行くのを見届ける。次いで、一時の仲間たちの下へと振り返り──戻ろうとした、その時。

 

 

「──リーダー、二本角さんに同行させていただく許可を頂けますか?」

 

 

 前触れもなく、唐突にセンリツが出した言葉に……私だけでなく、ダルツォルネたちもその場に足を止めた。視線を向ければ、センリツは気にした様子もなくダルツォルネを見つめていた。

 

 

 ……いったい、どうしたというのだろうか。

 

 

 そう思ったのは、おそらく私だけではないだろう。

 

 何故なら、センリツは思慮深く慎重な性格をしている。とても女性とは思えない外見だが、その内面は私が知る誰よりも女性をしている。

 

 はっきりいえば、心優しいのだ。採用試験の時でも、緊張感によって荒れかけた場の空気を呼んで、張り詰めた心を解き解そうとしたぐらいに。

 

 そんな人が、わざわざ護衛任務を抜けて、部外者の二本角に同行したいと申し出る……その意図が、分からない。

 

 私ですら分からないのだから、ダルツォルネたち護衛団古株も、バショウたちも、分からないのは当然で……訝しんだ様子でセンリツを見つめていた。

 

 

「……目的は何だ?」

 

 

 しばしの間を置いてから、ダルツォルネが唇を開いた。その表情は気分を害したというよりも、困惑の色合いの方が濃いように……私には見えた。

 

 

「純粋な私の好奇心よ」

「好奇心、だと?」

「そう、好奇心。もちろん、この場を離れている間のよりも契約金を減額してくれて構わない。それに、夜には戻って任務に復帰するわ……駄目かしら?」

「──お前は今、自分が何を言っているのかを理解しているのか?」

 

 

 一つ、ため息を零したダルツォルネは……そう呟いてから、改めてセンリツを見やった。

 

 

「……普通に考えて、お前の発言は見過ごせない発言だ。場合によっては即拘束、並びに拷問に掛けて、他の組織との繋がりがあるかを徹底的に調べ上げるところだ」

「そうね、私が貴方の立場だったなら、そうしようとするでしょうね」

「そうだ、以前の俺ならそうしていただろう……が、しかし、だ」

 

 

 ダルツォルネは、「今の俺は、以前とは少し違うようだ」そう、言葉を続けた。

 

 

「お前の言う好奇心とやらを話せ。それ次第によっては、許可を出そう」

 

 

 その発言を聞いて、誰よりも驚いたのは私たちではなかった。「──お、おい、いいのか?」スクワラという名の、ダルツォルネに次いで古株の男が、目を瞬かせた。

 

 スクワラは、褐色の肌を持ち大柄な体格をしている。一見すると威圧感を相手に与えるように思えるかもしれないが、性根は臆病なのだろう……まあ、今だけは私もスクワラに同意見であった。

 

 センリツが他の組織に繋がっているとは思わない。しかし、それでも私がダルツォルネの立場であったならば、同じことを忠告していただろう。

 

 ……センリツ自身も、それは分かっているはずだ。自分が如何に馬鹿げた発言をしたのかということを。

 

 

 

 ──センリツ、どういうつもりだ? 

 

 

 

 彼女にだけ聞こえるように、私は呟く。すると、センリツは安心しろと言わんばかりに笑顔を私に向け……そして、ダルツォルネを見上げた。

 

 

「初めてなの。あんな心音を耳にしたのは」

「心音だと?」

「心音は、その人の本質を物語る。言葉よりも何よりも、よほど正直に、よほど雄弁に……ね」

「二本角は、お前の興味を引くに値する音だったのか?」

 

 

 ええそうよ、と。はっきりと、センリツは頷いた。

 

 

「まるで、大地の奥底にて脈動するマグマのよう……なのに、雪解け水のように曇りなく透き通っている。かと思えば、吹き荒れる嵐のように異なる色が混ざり合い、全く別の輝きが形となっている」

「……詩人だな」

「褒め言葉として受け取っておくわ。私が聞いている音を何とか言葉にしたのだけれども……これでは、説得しきれないかしら?」

 

 

 そう、センリツが説得を終えてから。

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………ダルツォルネが返事をするまで、少しばかりの時間を要した。固唾を飲んで見守る私たちを前に、ダルツォルネが下した判断は──。

 

 

「……日付が変わるまでには戻ってこい」

 

 

 ──了承、であった。

 

 

 途端、センリツは嬉しそうに頬を緩めると、一つ頭を下げてから踵をひるがえし……小走りに廊下の向こうへと駆け出し、二本角の後を追いかけて行った。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………そうして、センリツが場を離れた後。

 

 

「さあ、仕事に戻るぞ。本番は明日の夜だが、気を抜くな」

 

 

 ダルツォルネのその言葉によって、私たちは仕事に戻るのであった。

 

 

 

 

 

 




ダルツォルネさん、けっこう冷酷なイメージあるけど
原作とかだと仕事に関してストイックなだけで、めっちゃ仲間想いなんだよねっていう、ハンター・ハンター屈指の萌えキャラ


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第十三話: ステンバーイ……ステンバーイ……

お久ブリーフ

忘れたころに来ました


 

 

 

 ──ヨークシン・シティ。

 

 

 世界でも有数の都市なだけあって、シティ内のインフラは他の町とは比べ物にならないぐらいに万遍なく整備され、張り巡らされている。

 

 特に顕著なのが、交通インフラだろう。

 

 彼女が居を構えている『メイドリック』も相当な発展具合ではあったが、それでもここ、ヨークシン・シティに比べたら……見劣りしてしまうと、彼女は率直に思った。

 

 そして、その交通インフラに見合うだけの混雑が……彼女の眼前には広がっていた。

 

 

 何処を見ても、人、人、人。

 

 

 おそらく、もうすぐ開かれるオークションの為に集まった人の他にも、それを当て込んだ店が様々な形で出店しているからだろう。

 

 聞いたことも無い名前の屋台が、これまた見た事も無い食材を鮮やかに調理しているのが有れば。

 

 彼女ですら何度も見聞きしたチェーン店が『本日限りの出張!』というのぼりを出して、営業しているのも見える。

 

 そして、それは何も食品だけではない。

 

 道に敷いたシートの上に、個人制作と思われる様々な小物を売っている駆け出し職人の姿もあれば。

 

 即席のスタジオを作り、多彩な芸や演奏を奏で、己のパフォーマンスを見せ付けている者たちの姿もある。

 

 その熱気は、もはや常夏のカーニバル。

 

 誰も彼もが何処となく浮かれていて、誰も彼もが作り出された祭りの空気に呑まれている。

 

 その中を、彼女はてくてくと歩いている。

 

 じゃらじゃらと鎖だけでなく、その先端に括りつけられている分銅がごとんごとんと音を立てていたが、幸いにも周りから奇異の目は向けられてはいない。

 

 これもまた、陽気な空気のおかげだろうと彼女は思った。

 

 

(……祭りにしては些か興が削がれる部分もあるけど……それを含めての祭りなんだろうね)

 

 

 さて、だ。ちらり、と。

 

 道すがら、地面に商品を並べている店を見やる。ほとんどは手作り、あるいは中古品を修理した物ばかりで、値段も相応にバラバラだが……その内の、幾らか。

 

 

 ──明らかに、騙す目的で置かれている商品が有る。とはいえ、彼女の注意を引いたのはそこではなく、その中身だ。

 

 

 兎にも角にも『嘘を嫌う』彼女だからこそ分かった事だが、中々に手が込んでいるのが多い。もちろん、下手くそなのもあるが、中には目を見張るモノがある。

 

 特に、わざわざ薄く銀を塗って本物っぽくした懐中時計は凄い。

 

 素人ではまず分からないし、熟練の技術によって施され……それで真っ当に飯が食えるのではと思わなくはないが、凄いのだ。

 

 なので、『嘘』は気に入らないが、その『嘘』を誤魔化す為の技術に関しては見事と言わざるを得ないという、何とも不思議な思いで彼女は商品を眺めて行くのであった。

 

 

「──ちょっといいかしら?」

 

 

 と、思っていたら……掛けられた。

 

 

「あれ、アンタは……センリツ、だったかな?」

「あら、覚えてくれていたの、嬉しいわ」

 

 

 振り返った彼女が目にしたのは、己とそう背丈の変わらない女性(パッと見た限りでは、そう見えないが)の、センリツであった。

 

 

「あれ、アンタってネオンのボディガードじゃないの? こんなとこで油を売っていていいのかい?」

 

 

 居るはずのないセンリツが此処に居る。

 

 その事に首を傾げて尋ねれば、「少しだけ、無理を通して貰えたのよ」センリツは朗らかに笑みを浮かべた。

 

 

「ねえ、唐突で不躾な話だとは思うけど、お願いして良いかしら?」

「うん? 私に? まあ、暇潰し程度なら良いよ……なんだい?」

「少しの間だけでもいい。貴女のお出かけに付き合いたいの……邪魔はしないから、ねえ、いいかしら?」

「……はい?」

 

 

 一瞬、意味が分からず、彼女は軽く目を瞬かせた。

 

 とはいえ、ニコニコと笑うセンリツに裏は感じ取れない。

 

 つまり、『二本角』を利用したり、顔を繋いでおいたり、恩を売っておこうといった下心的なアレを、彼女は全く感じ取れなかった。

 

 ……短い付き合い(本当に短い)とはいえ、彼女にも分かっている部分はある。

 

 それは、センリツはコミュニケーション能力に長けた大人の女性であるということ。実力的には新人の中でも下の方だが、責任感や精神的な落ち着き具合は一番である。

 

 

「……なんで?」

 

 

 評価は分かれるだろうが、少なくとも、彼女はセンリツをそのように評価していた。

 

 だからこそ、そんな女が、わざわざ仕事を放り投げる形で……気になったので、彼女は率直に尋ねてみた。

 

 

「貴女の『音』が気に入ったの。とても素敵な音を出す貴女のプライベートを見たくなったのよ」

 

 

 すると、センリツはそんな答えを返した。「……音?」意味が分からずに首を傾げれば、「私、他人よりずっと耳が良いの」そう答え、己の耳を指差した。

 

 

「特に気に入っているのは、貴女の『心音』。まるで、壮大なオーケストラ……大自然が奏でる星の声を聞いているかのような……そんな感じなの」

「それはちょいと大げさじゃないのかい?」

「いいえ、私にはそう聞こえる。こんなに激しく、力強く、それでいて語りかけてくるかのように穏やかで、なのに見上げてもなお頂きが分からないほどの重圧……初めてよ、こんなに重厚な音を聞いたのは」

「ふ~ん……」

 

 

 

 うっとり、と。

 

 どこか夢見心地な様子で語るセンリツの姿を見やりながら……彼女なりに、自分の事に思考を巡らせる。

 

 率直な感想を言わせて貰うなら、言い得て妙、というやつだろうか。

 

 彼女の身体である『伊吹萃香(いぶきすいか)』は、そもそも人ではない。自然が……あるいは人の怖れが生み出した、妖怪と呼ばれる存在である。

 

 考え方としては、大自然が生み出した存在だと思わなくもない。そして、語りかけてくるかのような穏やか……おそらく、理性的な思考を取る『彼』の部分が影響しているのだろう。

 

 

 と、なれば、だ。

 

 

 本来であれば在るがままに吹き荒れ存在するだけの膨大な大自然の爆音を、『彼』が間に入る事で緩和され、心地良い程度に抑えられた結果、耳触りの良い音量になった……といった感じだろうか。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………よく分からんが、付いて来たいのなら好きにすればいい。

 

 

 そう結論を出した彼女は、同行の許可を出した。

 

 損得を抜きにしても、彼女はセンリツの事を嫌っているわけではない。なので、ありがとうと満面の笑みを浮かべるその姿に、逆に落ち着かないぐらいであった。

 

 

 ……そうして、再び歩き始めてから……幾しばらく。

 

 

 邪魔をしないと口にしていた通り、センリツは常に一歩引いた大人の立ち振る舞いをした。

 

 世間話程度に雑談を交えるが、彼女(二本角)が少しでも他に興味が移ればすぐさま唇を閉じ、視線を遮らないように身体を引く。

 

 逆に、興味が定まらずに視線がさ迷い始めれば、「あら、最近○○で賞を取ったスイーツの店が出ているわね」といった具合に、自然と彼女の視線を誘導する。

 

 雑談に熱が入れば、それに合わせて熱を入れ、少し冷めれば合わせて口数を抑え、時折思い出したようにジュース(アルコール入り)を奢ってくれて、その手際はもはやホストのソレ。

 

 生来の気質……というよりは、先ほどの発言通り、『音』を頼りに反応しているのだろう。

 

 離れていてもなお心音を聞き取るぐらいなのだ。

 

 僅かな所作、僅かな音の変化から、彼女の行動を先読みし、先手を打っていると見て、間違いないだろう。

 

 

(……変わった奴だな)

 

 

 他人の事を言えはしないが、あくまで胸中に留めつつ……さて、と。足を止めた彼女に釣られて足を止めたセンリツは、彼女の視線を追いかけ……まあ、と目を瞬かせた。

 

 そこは、ヨークシンでも有数の……言うなれば、寝具など布製品を主に取り扱っている大型専門店であった。

 

 もちろん、置いてあるのはベッドや布団といった寝具だけではない。

 

 日常的に使う布や木綿もそうだが、それを使った加工品も数多く置かれている。中には、希少な素材を使って製造された物もおかれている。

 

 単価にしても一枚150ジェニーで買えるお手軽品質なものから、平均月収3ヵ月分は飛ぶ高級布団。変わり種として、防音用の垂れ幕まで置かれている。

 

 

 そういった方面には疎いセンリツも、名前ぐらいは何度か見聞きした覚えがある、超有名店の一つであった。

 

 

 ……平日かつ寝具店とはいえ、ブランドが確立している店である事に加え、オークションの関係から様々なセールが打ち出されている。

 

 それ故に外から(駐車場を含めて)見る限りでも混み具合が確認出来る。中に入ればソレ以上であり、品揃えの良さに感心するよりも、レジ回りの混み具合に辟易してしまうだろう。

 

 

 

 ──さ、さすがはヨークシンにその名を知られた店だわ。

 

 

 

 実際、彼女に続いて店内に足を踏み入れたセンリツが最初に思ったのが、呆れを通り越した称賛であった。

 

 そんな、プールで芋を洗うというわけではないが、よそ見をすれば間違いなく誰かとぶつかるぐらいに混雑している中を、彼女はヨタヨタと進んでいる。

 

 その足取りは正しく千鳥足というやつだが、驚くことに、他者とぶつかる事はおろか、危うい場面が一度としてない。

 

 特徴的な二本角もそうだが、ぶらぶらと垂れ下がる鎖も、不思議と誰かにぶつかる事はない。器用な人(?)だと感心するセンリツを他所に、彼女は店内を進み……足を止めた。

 

 そこは、タオルケットなどが置かれているブースであった。

 

 シンプルなデザイン(言い方を変えれば、同じようなデザイン)が多い掛布団などの寝具とは異なり、様々な用途に対応出来るよう、その種類はパッと見ただけでも相当であった。

 

 

「……何か言いたそうだね」

 

 

 チラリと、意味ありげな視線を向けて来た彼女に対し、センリツは反射的に否定しようとして……寸での所で、止めた。

 

 

「正直、意外だなと思った。失礼だとは思うけど、貴女の性格から考えて、寝床には無頓着な人だと思っていたから……」

「まあ、否定はしないよ」

「では、いったいどうして? わざわざ別行動を取ってまで?」

「そりゃあ、プレゼントを買う為だからさ」

 

 

 ……プレゼント? ここで? 

 

 

 予想外な返答に言葉を失くすセンリツを他所に、彼女は傍を通りかかった年若い店員に二言、三言、話し掛ける。

 

 すると、店員は足早にその場を離れ……少し間を置いてから、初老の女性がやってきた。心音から、熟練のスタッフであることをセンリツは察した。

 

 

「まだるっこしいのは嫌いでね。年頃の、そう、17歳、18歳の無垢で世間知らずな箱入り娘が気に入りそうなタオルケットって有る?」

「現時点では何とも……その御人が気に入っているブランドなどは分かりますでしょうか?」

「いやあ、さっぱり分からん。やっぱり、分からんと選べそうにないか?」

「売れ行きの良い商品、ブランド商品等をおススメする事は出来ますが、好みに合致するかどうかは即答できかねます」

「ふーん、そっか。それじゃあ、人気なブランド品は有る?」

「ございます。それでは、こちらへ……」

 

 

 ぼんやりと見ている間に、さっさと商談が進んでゆく。

 

 というか、商談にしてはずいぶんと……そう思いながらも、センリツは彼女の後に続く。行き先は、予想から全く外れていない、多種多様なタオルケットが並べられたブースであった。

 

 いや、それはもはやブース(小間)というよりは、フロアー(階)と呼んでも差し支えないぐらいに、広々としていた。

 

 さすがは、ヨークシンでも名の知られた専門店。

 

 パッと見回しただけでも、数えるのが馬鹿らしく思えてしまうぐらいに、大量のタオルケットが並んでいる。

 

 値段もバラバラで、大きさもバラバラ。

 

 使っている材質もそうだが、同じメーカーでも色違いや柄違いを含めれば相当数にも……ある意味、数撃てば当たるという売り方なのだろうか。

 

 

 

 ──タオルケット一つで、これだけ色々なモノがあるのね。

 

 

 

 この場に訪れてそう思ったのは、おそらくセンリツだけではないだろう。

 

 今でこそ、ではあるが、センリツとて女だ。

 

 有名なメーカーは一通り知っているし、お洒落にも当然気を使っている。嗜みとして、相手の信用を得るためにも、改めて勉強した部分もある。

 

 それでもなお、こうして己の不勉強さを自覚させられるのは……それだけ世界が広いということか、蛇の道に身を浸してもなお己はちっぽけな存在のままなのか。

 

 

 おそらく、両方なのだろう……と、センリツは思った。

 

 

 さて、辺りを見回すセンリツを他所に、当の彼女……特徴的な二本の角をふらふらと揺らしている彼女は、「御用が有りましたら、また……」そう言って離れて行く店員を見送った後……さて、と商品棚を見回す。

 

 

 ……その視線は、揺れる身体と同じく揺れている。

 

 

 とはいえ、その揺れの原因は酒ではない。目星が付いていないが故に、視線と注意が定まっていないだけだ。

 

 その証拠に、ふらふら、ふらふら、とあっちこっちに動き回る彼女の足取りに、迷いが見られる。

 

 表情こそ酔いのせいかに焼けているが、何処となく、いや、明らかに、どれを買えば良いのか悩んでいる。

 

 けれども、センリツは話しかけようとは思わなかった。

 

 何故なら、彼女はセンリツに助言を求めていないからだ。

 

 そういった素振りすら、無い。

 

 だから、センリツは彼女に話し掛けようとはしなかった。

 

 ……そのまま、時間にして30分ほど。

 

 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、と。

 

 普段の彼女(二本角)を知っている者が見たら、さぞ驚いた事だろう。お前、酒以外にそんなに真剣になれるモノが有ったのか……と。

 

 

「店員さん、コレの淡いピンクってある?」

「……在庫は有りますが、その値段で、その色合いでの商品はありません。値段が倍近く上がりますが、どう致しますか?」

「ん? 値段上がるの?」

「はい、お客様が手に取っておられるその生地は特殊な材質でして、特定の色には染まり難い性質なのでして」

 

 

 そう言うと、その店員は肩に掛けた鞄よりカタログを取り出すと……とあるページを開いて、彼女に見せた。

 

 

「御覧の通り、お客様がお求めになられている色となりますと」特殊な技法と材料を使って染め上げた物になりまして」

「あ~、確かにコレだけ値段が高いね」

「使用されている生地も、他の物に比べてグレードが高くなっております。その色以外であれば、こちらのようにお手頃価格となっておりますが……どう致しましょうか?」

「高くてもいいよ。その色が、あの子の好きな色だから」

「お買い上げありがとうございます」

 

 

 彼女より差し出されたカードを両手で受け取った店員は、「ラッピングはどう致しましょうか?」次いで、そう尋ねてきた。

 

 タオルケット自体は大して重くはないが、かさばるし持ち運ぶには少しばかり大きい。

 

 チラリと、店員の視線がセンリツへと向けられる。

 

 おそらく、荷物持ちかナニカだと思われているのかなと察したセンリツは、荷物持ちぐらいはするわよと彼女に声を掛けようと──。

 

 

「このまま私が持って帰るから配達はいらん。可愛いリボンでも巻いてくれたらいいから、なるべく早くね」

 

 

 ──する前に、彼女がサラッと決めてしまった。

 

 

 そうなれば、店員は「畏まりました、それでは少々お時間をいただきます」軽く一礼すると、腰のベルトに取り付けていたトランシーバーにて連絡を取り始めた。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………商品が届くまでの、少しばかりの間。

 

 

 何処かで時間を潰すには短く、かといって、ボケッと突っ立っているには長い……そんな一時。

 

 

「そのタオルケットって、ネオン御嬢様への?」

「そうだよ」

 

 

 先ほどの店員との会話から目的を察したセンリツが率直に尋ねれば、彼女は特に隠す様子もなく頷いた。

 

 

「いったいどうして? 私が知る限り、寝具に不満はこぼしてなかった気がするけど」

 

 

 センリツが言うことは、もっともである。

 

 寝具が変わると眠れない人はいるが、少なくとも、ネオンがそういうタイプであるという話は聞いていない。

 

 むしろ、気質としては逆だとセンリツは思っている。

 

 一般的な質のベッドなら場所が変わろうが普通に熟睡出来るぐらいには図太く、屈強なボディガードに囲まれても全く怯えず、人体収集家というコアな趣味すら持っている。

 

 それが、自分たちの雇い主である少女、ネオン・ノストラード……だと、思っていたのだが。

 

 

「別に、寝具じゃなくてもいいのさ」

「え?」

「必要なのは、あの子にとっての聖域なんだよ」

 

 

 質問の答えとしては少しばかりズレた返答に、センリツは首を傾げ……そんなセンリツを他所に、彼女はカリカリと頭を掻いた。

 

 

「あんたも含めてみ~んな勘違いしているようだけどさ……ネオンって、あんたらが思う程バカでもないし図太くもないんだよ」

「それは……」

「分かっているんだよ、あの子も。自分が置かれた立場、自分がどうして守られているのか、その意味も……でもまあ、あんたらが気付けないのも仕方ないさね」

 

 

 ──だって、あの子は自覚出来ないぐらいに『嘘』を真実だと思い込んでいるからね。

 

 

 そう、ポツリと零した彼女に、センリツはハッと目を見開いて顔をあげ……次いで、あっ、と唇を震わせた。

 

 ……それは、正しく閃光のような一瞬の気付きであった。

 

 

「まさか、そんな……」

「最初に顔合わせした時の、あの部屋を覚えているかい? あれ、最初の頃はベッド以外に私物なんて一つも置かれていなかったんだよな」

「そんな……じゃあ、やっぱり……」

 

 

 思わず、零した呟きが震えてしまうのも……仕方がないことだろう。

 

 なにせ、ヒントは山のように置かれていた。

 

 全ては、彼女の言葉によって視点を変えた直後に気付けてしまうぐらいに、あからさまだった。

 

 

 ……そう、気付いてしまえば、どうして気付かなかったのかと不思議に思えるほどに……ネオン・ノストラードは。

 

 

(愛情不足の、子供……!)

 

 

 典型的な、家庭崩壊によって健全な精神の成長が遅れたまま育った、心が未成熟な子供なのだということに。

 

 そう、そうなのだ……思い返せば、初対面時のインパクトで気付けなかったが、その兆候はいたる所にあったのだ。

 

 入口から一番奥まった場所に置かれた、ベッド。自室として使っているにしては、些か生活感が乏しいように思えた。

 

 私物はあった。実際、あの時は片っ端から投げ付けられた。

 

 だが、その私物は衣服などを除けば、ベッドや部屋のいたる所に置かれた多種多様な人形ばかりだったのを、センリツは思い出して、気付いてしまった。

 

 

(人体収集家なんてのはフェイク……いえ、フェイクというよりは、周囲への威嚇みたいなものなのね)

 

 

 思わず、センリツは内心にて己を罵倒した。

 

 それは、見つけてほしいけれども、見つけてほしくないという……ネグレクトによって傷付いているナイーブな内面の現れだ。

 

 

 己を見てほしい、見つけてほしい。

 

 けれども、外が怖い、他人が怖い。

 

 だから、威嚇する。迂闊に近づくなと警告する。

 

 

 本当は、誰よりも近づいてきてほしいのに、そうしてしまう。

 

 

 

 ──ネオンは気付いているし、理解しているのだ。

 

 

 

 己が、あの家以外に安息の場所などないということに……その家ですら、己を道具としか思っていない父親の掌の上だということに、ネオンは気付いている。

 

 既にその能力は、ネオンの目も手も届かない場所にまで知れ渡り、能力が生み出す物を求めて大金が動き回っていることに、ネオンは気付いている。

 

 そして、同時にネオンは……理解しているのだ。

 

 あの家で、真の意味で己の味方となる人が居ないということに。

 

 面倒を見てくれる侍女(じじょ)も、気安く話しかけてくれる侍女も、結局のところは親が金で雇った人であり、雇われているから自分の面倒を見てくれているということに。

 

 大金を払っているからこそ、守ってくれている。

 

 大金を払っているからこそ、傍に──ああ、そうか。

 

 

「そのタオルケットが、ネオン御嬢様にとっての聖域なのね」

「そう、たかがタオルケットだけどね。これで包まっている内側は、あの子だけの場所……あの子だけのプライベートなのさ」

 

 

 彼女が言わんとしていることにようやく思い至ったセンリツは、静かに溜息をこぼした。

 

 

「嫌ね、本当に……蛇の道を進む間に、心まで蛇になってしまっていたのね」

 

 

 そう、しみじみとセンリツが呟くのと、封がされたままラッピングされたタオルケットを店員が抱えてくるのと、ほぼ同時であった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………その後。

 

 

 昼間からやっている居酒屋を見てふらふらっと吸い寄せられようとしている彼女に対して。

 

 

 ──御嬢様、きっとお喜びになるでしょうね。

 

 

 幾度となく、そう言ってブレーキを掛け……奇跡的にも、飲み屋に寄ることなくまっすぐ戻れたのは、センリツのおかげだろう。

 

 

 

 そうして、だ。

 

 

 

 年頃の少女にタオルケットという、なんともミスマッチなプレゼントをセレクトした彼女に対して、誰しもが『なんでそのチョイス?』と首を傾げた。

 

 なにせ、ネオンが寝具に拘っているという話は一度として聞いた事がない。というか、拘りがあったら侍女などがとっくに用意している。

 

 実際、ネオンも最初は意図が分からず、貰えるものは貰うけど……といった感じで首を傾げていた。

 

 

「あ、そのタオルケットは私のポケットマネーで買ったから」

「え?」

「だから、それは間違いなくおまえさんのモノで、ネオンのモノだ。誰が何と言おうが、ね」

「……っ!!!」

 

 

 けれども、だ。

 

 

「──ありがとう、ほんちゃん」

 

 

 受け取ったプレゼントに顔を埋め、うっすらと涙を滲ませる、その姿に……誰も、何も言えなかった。

 

 

 ……そんな中で、だ。

 

 護衛たちの誰もが(侍女たちも含め)首を傾げている中で……ただ一人。

 

 

(……気付いてしまえば、本当に分かり易い)

 

 

 センリツだけは……目尻に涙を浮かべているネオンの内心に思い至り……ふと、思い出す。

 

 そう、気付いてしまえば、どうして気付かなかったと思うぐらいに……ネオンは、彼女に対して懐いている。

 

 出会い頭の、一緒に入浴を済ませたという下りから始まり、何かあるたびに『ほんちゃん、ほんちゃん』とその名を呼んでいた。

 

 顔を合わせてから大して日は経っていないが、付き合いの長い侍女たちよりも彼女を呼ぶ回数の方が圧倒的に多いのではと思うぐらいに、違っていた。

 

 ここに来る途中だって、『お酒臭いから一緒の車は嫌』と言いつつも、『……着いて来るよね?』と不安そうにしていたぐらいで……まあ、アレだ。

 

 

(収集家と言いつつも、収集した物には無頓着な時点で……はあ、初見の思い込みって厄介ね)

 

 

 こんな形で己の未熟さを思い知ることになるとは……気恥ずかしさを覚えてしまうのを、センリツは抑えられなかった。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………だからこそ、なのだろう。

 

 

 日が暮れた、その日の夜。

 

 的中率100%という極秘のタレコミ(意味深)により、『裏のオークションに出るのは命が危ない』という報告を受けたらしい、ネオンの父より。

 

 

「──え、オークション行っちゃ駄目?」

 

 

 ハッキリと、明日のオークション参加を禁止されてしまったネオンが……見る見るうちに大粒の涙を零し始めたかと思えば。

 

 

「──やだやだやだやだ!!!!」

 

「お、御嬢様! お、落ち着いてください!!」

 

「絶対行くの!!! ぜったいぜーったい!! 行くの!!!」

 

「来年! 来年もありますから!」

 

「行かなきゃもう書かない!! 占いしない! 何もしない!!」

 

「また来年、また次の機会にしましょう!!」

 

「ばかばかばか!!!! ばかー!! みんなバカァ!!!」

 

 

 幼子のように、ベッドの上でジタバタと手足を振り回して暴れ回り……あまりの騒がしさにフロントから苦情が入るほどに泣き喚いても。

 

 

(……そりゃあ、そうもなるわよね)

 

 

 護衛チームの中で、センリツだけは……苦笑いで、ネオンの癇癪が過ぎ去るのを待っていた。

 

 ちなみに、彼女はその間、泣き喚いている彼女の隣で、バカバカと酒(ウイスキー)をラッパ飲みしていた。

 

 

 

 

 

 ……そうして、泣き疲れてそのままネオンが寝落ちし、夜がさらに更けた頃。

 

 

「……明日のオークションについて、話そう」

 

 

 万が一にもネオンには気付かれないよう別室にて集まった護衛チームは……リーダーであるダルツォルネ(タンコブ有り)の発言に、互いに顔を見合わせた。

 

 どうしてかって、理由は一つ。

 

 ネオンを守るために雇われていたはずなのに、そのネオンがオークションに行かない……つまり、雇われている理由の半分が失われたからである。

 

 もちろん、雇われている以上はちゃんと職務を全うするが……理由が、わからない。

 

 そんな、部下たちの視線を察したのか、ダルツォルネは深々とため息を零した。

 

 

「本当は、オークションが中止になったと話したかったが……あいにく、ここには嘘を嫌うやつがいるのでな。こういう手を使うしかなかった」

 

 

 嘘を嫌うやつ……その言葉に、場に居る誰もがチラリと彼女に視線を向けたが……当の彼女は気にした様子もなく、ソファーに寝転がってふわあっと欠伸を零していた。

 

 その姿に、ダルツォルネは二度目のため息を零した後……気を取り直して、今後の事を話し始めた。

 

 

 

 ……その内容を簡潔にまとめると、だ。

 

 

 

 まず、オークションは予定通り行われるわけだが……そこに、護衛チームより3名が代理として出る。

 

 目的は、ネオンが競り落とそうとしていた商品を競り落とすこと。少しでも、ネオンの溜飲を下げて貰うためだ。

 

 ネオンをオークションに生かせない理由は、あくまで極秘の情報スジからだが、オークション襲撃を企む者がいるのが分かったから。

 

 護衛チームの腕を疑うわけではないが、万が一がある。父親として、危険が起こると分かっている場所に娘を連れ出すことはできない……ということ。

 

 

 で。だ。

 

 

 既にネオンの父より承諾は得ており、定めていた予算の2倍までは使っても構わない。

 

 ただし、ネオンが一番狙っている『クルタ族の緋の目』だけは、何が何でも競り落とせ、とのこと。

 

 

「ここまでで、何か質問は?」

 

 

 ダルツォルネの問い掛けに、「オークションが襲われるのは、間違いないのか?」という声があがった……が。

 

 

「それは間違いない。情報源を明かすことは出来ないが、オークションが襲撃されるのは絶対だと考えろ」

 

 

 ダルツォルネはハッキリと頷いた。それを聞いて、再び質問があがる。

 

 

「それなのに、オークションは中止されないの?」

「表のオークションならともかく、裏のオークション……『地下競売』は、マフィアン・コミュニティ全体の面子も関わってくるからな」

「あ~……そりゃあ、中止できねえか」

「そういうことだ。最悪、事は面子だけで収まらない可能性が高いからなあ……さて、話を戻すぞ」

 

 

 続けて、ダルツォルネは……当日のフォーメーションの最終確認を始める。

 

 まあ、始めるといっても、そう大したことはしない。元々、様々な状況を想定して作戦は立ててあったのだ。

 

 あくまでも人員の配置についての確認がほとんどで、各自明日の本番に備えるように……という通達みたいなものであった。

 

 

 ……そんな中で、だ。

 

 

 むくり、と。彼女はソファーより身体を起こす。

 

 話し合うダルツォルネたち(チラリと視線は向けられたが)を尻目に、のそのそと廊下へと出た彼女は……そのまま、ネオンが寝ている部屋へと向かう。

 

 

 

 ……まあ、当たり前といえば、当たり前だが、ネオンは眠ったままだった。

 

 

 

 ただ、その寝顔は……お世辞にも、良いとは言えない。

 

 目尻に浮かんだ涙もそうだが、寝ている間も涙が出ていたのだろう。枕にその跡が残っており、頬にはまだ赤みが残っている。

 

 ギュッと、ラッピングがされたままのプレゼントを、抱き締めたままの姿勢で寝ているのがなんとも痛々しく……憐れみを誘う。

 

 既に、侍女たちによって片付けられた後なのだろうが……それでも、目を凝らせば菓子の屑やらジュースが零れた跡やらが、床のいたるところに見られた。

 

 

(……たぶん、ダルちゃんの言うタレコミって、ネオンの占いだろうな)

 

 

 それらを、一つ一つ見やった彼女は……難儀な話だと頬を掻いた。

 

 

 

 ──ようやくと言えばようやくな話だが、ネオンには他人にはない特殊な能力がある。

 

 

 

 それは、占いという形式にて出力(書き出される)される、的中率100%の予言だ。

 

 この予言の内容は少々難解な詩のような形となっているが、その人物の身に降りかかる(一ヶ月以内の)大きな出来事が記される。

 

 つまり、その後の人生に影響を与えるような出来事を、詩という形で事前に知る事が出来る能力……それが、ネオン・ノストラードの能力なのだ。

 

 そして、一見するばかりだと自由気ままに生きているようにみえて、実際は何一つ選択権が与えられていないネオンの現状を作り出しているモノでもある。

 

 この占いの内容はネオンも知らないし、どんな人物を占っているかも知らない。

 

 信条として知るつもりがないことに加え、下手に知るのは危ないと思っているからだ。

 

 

 ……ちなみに、その占い……実は、彼女(二本角)だけは占う事が出来なかったりする。

 

 

 占おうとしても、他の人ならサラサラッと書き出してくれる予言の詩が書き出されず、毎回白紙のまま出力され……話が逸れたので、戻そう。

 

 とにかく、その占いにて、『地下競売』を開催するのは危険だという占いが出たのだろうと彼女は推測した。

 

 ダルツォルネに聞いても、おそらく絶対に教えてはくれないだろう。そのことに、彼女は特に怒りは覚えなかった。

 

 だって、基本的に部外者の立場であるのは変わりないし、下手に組み込むのはリスクがあると……以前、ダルツォルネより言われたからだ。

 

 

(襲撃は確かで、おそらく犠牲者が出るのが確定する結果が出た……それも、不特定多数の大勢が犠牲になる……だから、ネオンは行かせたくないってわけね)

 

 

 とまあ、そういうわけだから、ネオンが激怒するとわかってもなお禁止したのかなあ……と、彼女は思った。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………まあ、それはそれとして。

 

 

 しばしの間、その寝顔を眺めていた彼女は。

 

 

「……鬼も、泣く子には勝てんか」

 

 

 仕方がないかなと諦めたかのように溜息を吐くと……そっと、風邪を引かないよう、乱れた布団を正してから……廊下に出ると。

 

 

「十老頭……には、連絡しなくていいか。襲ってきたやつ片っ端からぶちのめせばいいわけだし」

 

 

 とりあえず、ダルツォルネにだけは話を通しておこうと……護衛チームが居る部屋へと戻るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




※次回、幻影旅団、死す!? デュエル、スタンバイ!! 



※実は主人公、見た目は育っているけど中身は子供のネオンにけっこう情が湧いているので、それを台無しにしようとしている相手に対してちょっとオコです。また、中身子供だと分かっているので、自覚出来ていない嘘に思うところはあっても、まあしょーがないかと思っています


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第十四話: 蜘蛛の足(残り10本)

幻影旅団ジェノサイドな話

幻影旅団ファンは注意、情け容赦なく死ぬんで


後編その1っす


 

 

 ──ダルツォルネや、彼女自身は気付いていないが、実はネオンが書き記す『予言』に関して、たった一つの例外が存在する。

 

 

 それは、異なる世界にて生まれたゲームでは伊吹萃香と呼ばれ、この世界では二本角と呼ばれている、『彼』の魂が融合した彼女の存在だ。

 

 

 その例外とは、なにか? 

 

 

 簡潔に述べると、占えないとか、そういう話ではない。彼女の存在そのものが、予言に感知されないということ。

 

 ネオンの能力では、彼女は存在しないモノとして扱われ……彼女が如何なる行動を取ろうと考えていても、『予言』には現れないのだ。

 

 

 つまり、どういうことかといえば、だ。

 

 

 仮に、雇われた殺し屋が、『A』という人物を7日後に必ず殺すと計画し、実行すると決めていたとしよう。

 

 通常、ネオンがAを予言した場合、そのAが死ぬに至る流れや理由や経緯が詩という形で現れる。

 

 これは、殺し屋が何かしらの理由から計画を断念しても同じだ。

 

 その場合は、計画が断念されたという詩が書き記され、断念される理由等が続けられる場合が多い。

 

 あるいは、もっと重大な出来事が起こる場合は、そちらが優先的に書き記される……といった感じで、起こらなかった事でも、それが重大な事であれば予言として書き記されるのだ。

 

 

 ──では、それが彼女の場合はどうなるか? 

 

 ──答えは、一切予言に現れない、である。

 

 

 仮に、雇われた殺し屋と同じく、7日後に『A』を殺すと考え、実際に計画を立て、実行すると決めていたとしよう。

 

 その場合でも、ネオンの占い……『予言』には現れない。

 

 何度占っても結果は変わらず、彼女が来るという示唆もされない。言うなれば、彼女はネオンの予言においては透明な存在なのだ。

 

 

 だからこそ、ダルツォルネ(他、数名)は気付けなかった。

 

 

 なにせ、ある意味では中間管理職に当たるダルツォルネは、その職務上ネオンの予言を誰よりも見聞きしているからこそ、信頼していた。

 

 ネオンの『占い(予言)』は、何もしなければ必ず起こる事である、ということを。

 

 

 実際、これまでの予言は全てそうなった。

 

 

 そうなったからこそ、的中率100%という冗談のような売り文句を誰もが信頼し、マフィアン・コミュニティの重鎮すら動くのだ。

 

 加えて、ダルツォルネがその事に気付けなかった要因が三つもある。

 

 

 一つは、彼女(二本角)自身を占う事が出来ないということ。

 

 彼女の行いや、他者の占いに彼女の存在が一切関知されないだけではない。彼女自身を占う事が出来ないから、そういった部分に気付き難いのだ。

 

 

 二つ目は、ネオンは父親の命令によって私的な占いを禁止されているということ。

 

 これは、単純にネオンの占い(という、表向き)にプレミアを持たせるためであり、その価値を下げないようにする処置であると同時に、ネオンの身を守るためだ。

 

 

 また、ネオンは自身の事を占うことも禁じている。

 

 

 それが能力の制約なのかは不明だが、ネオンなりのルールに従って決めたことらしいので、その辺りに関してはダルツォルネも口を挟めないまま……というわけだ。

 

 

 そして、三つ目は、彼女がネオンの傍をほとんど離れていなかったこと。

 

 ネオンの書き記す予言は、その者の身に起こる重大な事。言い換えれば、特筆すべきナニカが起こらないなら、予言は当たり障りのない事しか記さない。

 

 せいぜい、『アンタがもうすぐ買うことになる電化製品、不良品ですぐ壊れるから買うの止めた方がいいよ』といった、その程度の予言だ。

 

 

 ……そう、的中率100%のネオンの予言は、相手によってその価値が大きく変わる。

 

 

 ネオンの予言が真価を発揮するのは、内外に敵を抱えている財界などのお偉方に対してであり、一般人に対してはあまり意味を成さないのだ。

 

 それこそ、寝たきりの老人を占った結果、『何事もなく飯食って糞出してぼーっとテレビ見て一ヶ月終わるよ(要約)』という内容になんても、なんら不思議な事ではない。

 

 

 もちろん、その人がもうすぐ交通事故に遭うとか、そういう場合はちゃんと予言に現れる。

 

 

 だが、そんなのは例外みたいな話だし、数十年の人生の中に一度起こるかどうかのピンポイントな予言は、さすがのネオンの能力でも手が届かない領域で。

 

 結局、様々な理由からダルツォルネがその事に気付けるヒントを見過ごしてしまい。

 

 また、直前にネオンに頼み込んで占ってもらった部下の予言を見て、『特に影響はないか』と判断してしまうのもまあ……仕方がないことであった。

 

 

 

 

 

 ──で、その結果、どうなったかと言うと。

 

 

「おっ?」

 

 

 地下競売の会場へと向かう人たちを他所に、だ。

 

 襲撃するやつらを黙って待つのも退屈だし、どんな物が売られるのかなとスタッフオンリーな通路を通り、会場の裏側へと入った彼女は。

 

 

「うん?」

 

 

 なにやら見覚えのある人……優男というべきか、イケメンというべきかは、些か判断に迷う人とバッタリ鉢合わせした。

 

 相手は、ギクッと動きを止めた。

 

 まるで信じ難いナニカを前にしたかのような……マフィアの人達にはちょっと見えないが、きっちり正装をして……あっ、思い出した。

 

 

「──襲いに来るの、おまえらか?」

 

 

 思い出した瞬間、彼女は目の前の優男……いや、今日の地下競売を襲撃する者たちの正体に気付いた。

 

 そして、気付いた時にはもう……彼女は、カチリと頭の中でナニカが切り替わる音を聞いた……その、瞬間。

 

 

 ──にっこり、と。

 

 

 無意識のうちに、彼女は……満面の笑みを優男に向けていた。

 

 

 ──ゾッ、と。

 

 

 背骨に氷を差し込まれたかのような感覚を覚えた優男は、瞬時に風となった。

 

 蹴った床を焦げ付かせながら、廊下の向こうへ向かい、上へ逃げようと──したのだろうが、遅かった。

 

 

 ぎゅん、と。

 

 

 優男の身体が、くの字に曲がる。ごふっ、と優男の口から苦悶の悲鳴が出たが、意味は無かった。

 

 いったい何をしているのかって、引っ張られているのだ。

 

 まるで見えない紐が腰に巻きついているかのように、ぐんっと空を飛んで──コンマ何秒という後には、優男の腰に彼女の腕が回されていた。

 

 

「と、取引──」

 

 

 きを、しよう……と、言おうとしたのかもしれない。

 

 

「──げぇっ!?!?!」

 

 

 だが、その言葉は言えなかった。

 

 何故なら、彼女の返答は……抱き締めた両腕に力を入れて、締め付けるというもの。

 

 当然ながら、鋼鉄をモナカ菓子のように引き千切る腕力の彼女が手加減抜きでそんなことをしたら、無事ではすまない。

 

 いちおう、弁明しておくが、優男は……手応えからして、まあ普通の人間の強度じゃなかった。

 

 たぶん、見えない攻撃みたいなアレの、防御バージョンなのだろう。

 

 詳しくは知らないが、そういうモノがあるのだろうと彼女は思った。

 

 

 ──でもまあ、結果は同じだ。

 

 

 ベキベキベキ、ベキベキ……ぶつん、と。

 

 優男の身体から骨が砕ける音と共に、小さなボールぐらいにまで縮められた隙間のサイズに従って、優男の腰が細くなってゆく。

 

 当たり前だが、痩せたわけではない。外部から掛けられた物理的な圧力によって、強引に変形したのだ。

 

 圧迫されてせり上がった(あるいは、下がる)内臓が破裂し、動かせられない筋肉組織が断裂し、合わせて、皮膚が裂けて内側から血が噴き出す。

 

 抵抗など、無意味。というか、抵抗する暇など優男にはなかった。

 

 骨が砕け、砕けた骨が内蔵に突き刺さり、それによって内臓の中身が噴き出し、生命維持に必要な神経線維すらも千切れて使い物にならなくなる。

 

 

 ごぽっ、と。

 

 

 口から胃液混じりの鮮血が噴き出すのと、優男の身体からガクッと力が抜けるのと、ほぼ同時であり……パッと手を離せば、上と下が反対の方向を向いた亡骸が、どすんと床に落ちた。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………ふむ。

 

 

「あいつらなら、こいつ独りで来るわけないだろうし……と、なると、競売の会場の方か?」

 

 

 ──仕事とはいえ、見殺しにするのもねえ。

 

 

 そう、誰に言うでもなくポツリと呟いた──直後。

 

 

 ぶわっ、と。

 

 

 彼女の身体が瞬時に霧散した。

 

 それは、比喩ではない。物理的に彼女の身体は霧となったのだ。

 

 鬼としての頑強さと、彼女が持つ『密と疎を操る程度の能力』の応用だ。自らを疎にすることで霧状にし、移動する事が出来る。

 

 この能力、相手への攻撃という意味では非常に非力なのだが、逃走や移動という点ではかなり便利な能力である。

 

 

 まず、霧状態の彼女にダメージを与えるのは非常に難しい。

 

 

 触れるほどに密集しているならともかく、肉眼では確認出来ないぐらいに霧散している時には、ほぼほぼ攻撃が当たらない。

 

 というか、当たっても当たっていないようなものなので、ダメージが無い。

 

 せいぜい、なんかそよ風が吹いたなというレベルであり、点ではなく面による広範囲爆撃ですら、なんかチクッとしたかなという程度の影響しか与えられない。

 

 彼女の身体……伊吹萃香が登場する『東方Project』の者たちならば、魔法やら霊力やら能力やらで対処されてしまうが……少なくとも、力押しではまず攻略は不可能である。

 

 

 そして、この霧状態の何が恐ろしいって……彼女の意思一つで幾らでも密度を変えられるということだ。

 

 

 つまり、霧状態でも部分的に密度を濃くすることで、ある程度重い物は動かせるし、鍵だって開けられるし、なんなら銃弾だって止められる。

 

 さすがに、精密な作業となると霧散した身体を集めて手を作らないとならないが……それでも、その隠密性は驚異的の一言だろう。

 

 そうして、音も無く、目視する事も出来ない霧状態になった彼女は、最短ルートを突っ切って建物の中を進み──地下競売が行われている会場へと侵入した。

 

 

 そう、誰にも気付かれることなく。

 

 

 既に会場内には、競売が始まるのを今か今かと待ちわびているマフィアン・コミュニティの人達で満員となっている。

 

 その中には、護衛として雇われている者もいて、念能力者と呼ばれる者もちらほらいた。

 

 

 だが、誰も気付けなかった。

 

 

 念能力者は、対念能力者への対応を熟知している。

 

 念能力の勝敗は、基礎的な実力の違いを除けば、如何に相手の能力を先に把握出来るかどうかが鍵となっている。

 

 なので、会場内の念能力者は、感覚を最大限に研ぎ澄ませて、如何なる侵入、如何なる襲撃にも警戒し続けていた。

 

 

 それでも、誰も気付けなかった。

 

 

 ただ、それを責めるのは酷というものだろう。

 

 なにせ、『密と疎を操る程度の能力』の応用によって霧化した彼女のソレは、念能力ではないのだ。

 

 つまり、対念能力者用の感知が通じず……霧化した彼女を発見するためには、だ。

 

 

『肉眼で確認出来るレベルまで、密集している』か。

 

『念能力における高等技術『円』による感知』をするか。

 

『あるいは、索敵に特化した念能力』でないと、居場所の特定はほぼほぼ不可能なのである。

 

 

 そして……誰も彼もが気付けないまま、ライトに照らされた檀上に、小柄な男性と、顔に傷痕が目立つ大柄な男性が姿を見せる。

 

 どちらも目つきは悪いし人相も悪いが、そんなのはマフィアでは珍しくもなんともない。

 

 誰もが疑う事も警戒する事もなく、ジロッと視線を向けるだけであった。

 

 

「──たいへん長らくお待たせ致しました」

 

 

 だからこそ……会場の誰も彼もが、気付くのに遅れた。

 

 

「──とりあえず、堅苦しい挨拶は抜きにして」

 

 

 その、言い回しに、勘の鋭い者がおやっと目を瞬かせた──時にはもう、遅く。

 

 

「──さっさと死ぬがいいね!!!」

 

 

 異常に気付いた者たちが、念能力者が、反応した時にはもう──攻撃が始まっていた。

 

 じゃらり、と。

 

 大柄な男の両手の指が、ポロリと外れる。

 

 それはまるで、鎖に繋がれた蓋が外れるかのように、あるいは、銃口を向けるかのように、無くなっている指先を、集まっている客たちに向け──音も無く、発砲された。

 

 それは……名前を付けるなら、『念弾』である。

 

 念という力を込めて固めた、弾丸。その威力は一発一発が機関銃をはるかに凌駕する威力であり、マフィアたちを瞬く間に肉片へと変えてゆく。

 

 

 ……仮に、何も知らない第三者の一般人がこの光景を見た時。

 

 

 言葉では表現できない凄惨な光景であると同時に、いったい何が起こっているのか理解出来ず……混乱しただろう。

 

 と、いうのも、だ。

 

 基本的に、念能力は同じ念能力者でないと、その姿を確認する事が出来ない。一般人にも見えるような念もあるのだが、基本的には見る事が出来ない。

 

 ゆえに、第三者の一般人目線から見れば、だ。

 

 指先を失っている男の両手、それを向けた先の者たちが次々とひとりでに肉片に変わっている……そんな光景なのだ。

 

 銃の発砲音は無いし、爆発音もしない。

 

 何も持っていない手を向けるたびに、肉片と死が生まれる。そんな状況を正確に理解し受け入れろ……というのが、無理な話なのである。

 

 

 

 ──さて、そんな地獄の光景の中で、冷静に動けていた者は数少ない。

 

 

 

 雇われていた主が死んだのを見て、逃走を図ろうとした者と……己の念能力で耐えようとした、能力者の二つだ。

 

 前者は、立ち位置的に出入り口に近かった者は脱出出来た。運悪く遠かった者は、射線に入ってしまってそのまま……風穴だらけとなった。

 

 そして、後者……ノストラード・ファミリーに雇われている、『シャッチモーノ・トチーノ』は……自らの念能力を発動させた。

 

 

「俺の背後に伏せろ! 盾になれ! 『縁の下の11人(イレブンブラックチルドレン)』!!!」

 

 

 それは、念によって生み出される、11人の黒子。

 

 攻撃しろ、追いかけろ、盾になれといった簡単な命令しか受け付けないし、力も一般人より少し上ぐらいだが、その防御力は相当なものだ。

 

 少なくとも、拳銃やマシンガンぐらいであれば十二分に耐えられるし、自動車が突撃してきても受け止められるだけのパワーを有していた。

 

 

 ──が、しかし。

 

 

 この場合、相手が悪過ぎた。

 

 

 なにせ、相手は『幻影旅団』。

 

 

 裏世界においてもその悪名は轟いており、その名を聞いただけで怖気づく者が多いほどで。

 

 実際、その実力はプロハンターですら瞬殺してしまうほどに強いく、世界一の殺し屋一家『ゾルディック』ですら、『やつらには手を出すな』と評価するほどだ。

 

 トチーノは、一般的な基準で考えれば、プロハンターとして申し分ない実力者ではあった。

 

 だが、それでも『幻影旅団』と比べれば、蟻も同然。そんな集団の一人が放った攻撃を受け止めるには……あまりに、実力が足りていなかった。

 

 

 加えて、相性も悪過ぎた。

 

 

 と、いうのも、『縁の下の11人』はその特性上、ゴム風船に念を込めて発動するのだが……一定以上の攻撃を受けると、空気が抜けるように縮んでしまう。

 

 これで相手がただの機関銃を使用していたならば、退避するまでの十分な時間を確保出来たのだが……ソレとは比べ物にならない破壊力の念弾の前では、文字通り、風船の壁にしか成りえなかった。

 

 

「がっ──!?」

 

 

 トチーノへ向かった弾は、たった3発。直接向けられたわけではない、たまたま着弾コースにいただけのこと。

 

 けれども、そのたった3発で、トチーノは盾にした『縁の下の11人』が消滅し、残った1発が右腕を使えなくした。

 

 だが……残念な事に、念弾はそれだけではない。

 

 マシンガンのように連射している大男に、疲れは全く見られない。いや、それどころか、楽しくて仕方がないと言わんばかりに笑っている。

 

 

「──に、逃げろ、二人とも」

 

 

 それを見て、トチーノは己の死を受け入れた。

 

 再び『縁の下の11人』を発動したところで、時間稼ぎにもならない。

 

 それどころか、小賢しく念でガードしようとしていると目を付けられ、集中的に攻撃される可能性が極めて高い。

 

 そうなれば、トチーノだけでなく、背後にいる仲間のイワレンコフやヴェーゼも瞬時にミンチにされるだろう。

 

 だからこそ……トチーノは最後の意地で、自らを盾にして二人を逃がそうとした。

 

 

 それは、意地であった。

 

 もはや己が死ぬのは受け入れた。

 

 

 しかし、何も成せないまま死ぬよりは、次へと、仲間を生かす為に散る方が良いと思ったからだった。

 

 そして、そんなトチーノの想いに反応したかのように、皮肉にも大男の手が向けられ──そのまま、トチーノは全身を穴だらけにされて死ぬ──ところ、だったのだが。

 

 

 ──不思議な事に、念弾がトチーノの身体に着弾することはなかった。

 

 

 まるで、見えない壁に当たったかのように、トチーノへと着弾するはずだった念弾の全てが途中でナニカにぶつかり、止まったのだ。

 

 当たり前だが、トチーノは、何もしていない。

 

 また、外へ逃げようとしている2人も同様で……当たり前だが、攻撃した御男が手を抜いたわけでもない。

 

 では、いったいなにが……答えは、すぐにトチーノへ出された。

 

 

『ほら、早く逃げな。この状態だと、あんたらぐらいしか庇えないんだよ』

「に、二本角か!?」

 

 

 姿は見えないし念による感知にも引っ掛からないが、まるで頭の中へ直接語りかけられているかのような、その声は、確かに彼女の声であった。

 

 

『盾にはなってやれるけど、私にはアイツらの攻撃が見えないからね、ほら急げ急げ』

「──恩に着る!」

 

 

 彼女がどうやっているのか、そんな事を考える暇などない。

 

 とにかく、己が助かるために、すぐさま踵をひるがえして、先に行った二人の後を追いかけた。

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………一方、その頃。

 

 

 仲間の命を代償に、扉を蹴破る勢いで廊下へと飛び出したヴェーゼとイワレンコフは……油断していた。

 

 いや、それは油断というよりは、冷静さを欠いていたという方が正しい。

 

 冷静に考えれば、襲撃者の仲間が控えていない方が不自然なのだ。

 

 いくら大男の念弾が強力とはいえ、一度に全員を殺せるわけではない。一発で致命傷を与えられるとはいえ、念弾を当てなければ殺せないのだ。

 

 当たり前だが、様々な幸運が重なって、命からがら会場から逃げ出せる者が現れてもなんら不思議ではない。

 

 そして、それを襲撃側が予測していたとしても、なんら不思議ではなく。

 

 廊下にて待機していた旅団の仲間……眼鏡の女が、たまたま近い方に居たイワレンコフの頭を砕こうと、念によって具現化された掃除機を振り上げ──。

 

 

『おー、おまえもか』

 

 

 ──た、のだが。

 

 その掃除機が振り下ろされるよりも早く、なにも存在していない虚空から前触れもなく出現した両腕が、眼鏡の女の頭をガシッと掴むと。

 

 

『じゃあね』

 

 

 異変に気付いた女が、反射的に逃げようとする──よりも早く、その両腕に込められた力によって──ばきん、と首から上が、落としたスイカのように割れた。

 

 事情を知らない第三者からすれば、いきなり人の頭が割れて爆発したかのような、一瞬の出来事であった。

 

 それは、助けられた二人も例外ではない。いきなりなスプラッタ光景に、イワレンコフもヴェーゼも、状況を理解出来ず呆然としていた。

 

 

『ぼやぼやしちゃ駄目だって。トチーノも来るから、3人で固まりなよ。あんたら3人ぐらいなら襲われても守れるから』

 

 

 けれども、さすがは危険を承知で雇われたプロだ。

 

 動揺はしたが、我に返るのも早い。自分が成すべき行動を瞬時に思い出した2人は、遅れて出てきたトチーノと共に、全力での逃走を行ったのであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 ……。

 

 

 …………夜のヨークシンの上空を飛んでいる、気球。

 

 

 その気球に乗っているのは、堅気の人間ではない。

 

 乗っているのは、つい少し前にマフィアン・コミュニティを襲った実行犯、『幻影旅団』に所属する5人だ。

 

 

 1人は、顔の傷痕と体格の良さが目立つ大男、フランクリン・ボルドー。

 

 地下競売の会場にいたマフィアたちのほとんどを殺し尽くした、念弾を連射していた男である。

 

 

 1人は、藍色の髪をポニーテールにした女、マチ・コマチネ。

 

 念糸(ねんし)という、オーラを糸状に変化させて操る技能に長けている。

 

 

 1人は、黒いコートに身を包んだ小柄な男、フェイタン・ポートォ。

 

 特徴的な口調で喋り、旅団内でも1,2を争うぐらいに残虐かつ陰湿な性格をしている。

 

 

 1人は、ちょんまげに着流しという特徴的な恰好をしている男、ノブナガ・ハザマ。

 

 旅団内でも我が強い傾向にあり、刀使いで居合の達人であり、旅団の特攻役を務めている。

 

 

 そして、最後の1人は……筋骨隆々の巨体に毛深く野生的な外見の超大男、ウボォーギン。

 

 肉体の強さは旅団内最高であり、念において強化系と言われる系統を極めたと豪語している戦闘狂である。

 

 

 ……さて、だ。

 

 

 顔写真だけでも、1人あたり何千何億という価値があるとされる『幻影旅団』が5人も乗っている、その場の空気は。

 

 

「──シズクを殺したやつは誰だと思う?」

 

 

 一切の誇張抜きで、最悪と言っても過言ではないぐらいに重苦しいものであった。

 

 シズクとは、旅団の一員である、シズク・ムラサキのこと。眼鏡を掛けた黒髪の女性であり、掃除機の形をした念を具現化する。

 

 実力は、旅団内ではそう高くはない。むしろ、純粋な戦闘能力は下から数えた方が早く、能力も戦闘向きとは言い難い。

 

 とはいえ、それでも幻影旅団の一人。

 

 並みの使い手程度なら、ほぼ一撃で仕留められるだけの実力は有している。

 

 言ってはなんだが……少し前に皆殺しにした会場のマフィア共が一斉に銃撃してきても、無傷で突破出来るだけの力を持っていた。

 

 そんな、旅団の一員が、だ。

 

 首から上が破裂(あるいは、潰され?)した遺体で発見されたのは、会場内のマフィアを殺し終え、後片付けを頼もうとしていた……その時であった。

 

 

 ──何者の手にやられた? 

 

 

 仲間の死体を目にした時、旅団の誰もが思ったのは、ソレであった。

 

 もちろん、仲間を殺された事に怒りや悲しみも少なからず覚える。しかし、その感情を差し引いてもなお、胸中を過るのは疑問だ。

 

 作戦中、運良く会場から出られた者を仕留めるために、シズクは廊下にて待機していた。

 

 その間、シズクは独り。つまり、誰もシズクが襲われている瞬間を目撃していないのである。

 

 言い換えれば、会場のマフィア共を皆殺しにしたグループと、競売品という名の『お宝』を奪いに行ったグループが、合流するまでの僅かな時間。

 

 

 その、僅かな時間の中で、シズクは殺されたわけである。

 

 それも、旅団の誰にも気付かれないままに。

 

 

 いくら各自が宛がわれた役目に集中していたとはいえ、果たしてそんな事が可能なのだろうか……そんな疑問が、誰しもの脳裏を過ったわけである。

 

 

「……この中に、シャルから連絡を受け取っているやつ、いる?」

 

 

 加えて……ポツリとその問い掛けをしたのは、念糸使いのマチ……普段よりも1オクターブ低いその声に、誰もが小さく首を横に振った。

 

 そう、シズクに加えて、もう1人。

 

 

 旅団内において参謀的な存在である、『シャルナーク・リュウセイ』が、指定の時刻になっても戻って来なかったのだ。

 

 

 シャルの愛称で呼ばれているその男は、間違ってもウッカリなミスはしない。

 

 指定の時刻に姿を見せないというのは、見せない方が良いと彼自身が判断したか、あるいは、見せられない状況に陥ったか……その二つ。

 

 

 前者ならば、まだ分かる。

 

 

 シャルは、旅団でも随一の思考力や分析力、多方面の知識を持つ。現時点で合流すると不利益が生じると判断したのであれば、姿を見せないのはまあ……苛立ちはするものの、納得は出来る。

 

 

 だが、問題なのは後者の場合。

 

 

 見せられない、戻れない状況に陥ったということは、なにかしらの妨害を受けたか、アクシデントが生じたということ。

 

 これが、各自が勝手にやっている事ならば様子を伺いに行くところだが、今回は幻影旅団の団長の指示による協力プレイが前提の仕事だ。

 

 

「……競売品も、まるでこちらの動きを事前に読んでいたかのように、金庫は空っぽ……不思議な話ね」

 

 

 さらに付け加えるなら、そもそもの目的……『お宝』が、金庫に一つ無かったという不可解な事態。

 

 事前に念には念を入れて競売品を動かしたにしても、タイミングがあまりに良過ぎた。

 

 速過ぎず、遅すぎず、こちらが気付いて計画を変える頃にはもう、事が済んでいた……そう、まるで何時頃に襲撃が行われるのかを予言していたかのような、最良のタイミングであった。

 

 金庫番を拷問に掛けたが、分かった事は、『見慣れぬ男がフラッと中に入ったかと思えば手ぶらで出て来て……その後にはもう、金庫の中は空になっていた』という証言だけ。

 

 仲間の1人が死に、1人が行方不明、目的のお宝も不明なまま……想定していなかった不確定要素、想定していなかった犠牲、どちらも、あまりに多過ぎた。

 

 ゆえに、当初はウボォーギンが代表する形で、『俺たちの中に裏切り者がいる』という疑念を伝える為に団長の『クロロ・ルシルフル』へと連絡を取った。

 

 

 そうして、返ってきたのは二つ。

 

 

 一つは『裏切りを行うリスクとリターンがまるで吊り合っていない』ということ。

 

 そう、金であれ名誉であれ地位であれ、それを行えば幻影旅団全員を敵に回すということになる。

 

 如何ほどのリターンでリスクを呑み込むのか……団員の実力を知っていればいるほど、そんな馬鹿な事はしない。

 

 

 そして、もう一つは……『何らかの手段によって、襲撃を予測されていた』ということ。

 

 こちらの方がまだ、可能性が高い。

 

 どうやって予測したのかは現時点では不明だが、直前で競売品を極秘に異動させるぐらいには信頼のおける情報なのだろう……というのが、クロロの考えであった。

 

 

『ただし、チグハグな部分はある』

 

 

 続いて、クロロは更に話を続ける。

 

 

『俺たちが来ると分かっていたのであれば、あまりに警備が手薄過ぎる。それこそ、あの場に居た者たち全員を囮にしたぐらいには警備が薄い』

 

『仮にあの場に居たのが下っ端だけだとしても、数百人近い構成員を囮にしたと露見すれば、コミュニティそのものへの団結にほころびが生じる』

 

『なにせ、囮にされた者たちからすれば、到底納得出来る事ではないからな。上のさじ加減一つでゴミのように使い潰される関係なんて、遅かれ早かれ破綻する』

 

『つまり、この情報には、今日のどのタイミングで襲撃されることまでは予測出来ていても、誰が襲撃を掛けてくるかまではできなかった』

 

『とても、チグハグな情報だと思わないか?』

 

『だからこそ、俺たちの中に裏切り者はいないと思う。仮に裏切り者がいるとしても……そんなモノで満足するようなやつが、俺たちの中にいると思うか?』

 

 

 ……そう言われてしまえば、ウボォーギンを始めとして、団長の言葉に耳を澄ませていた誰もが否定しなかった。

 

 

『──ただし、不測の事態なのは事実だ』

 

『どんな手段を用いたのかは不明だが、おまえ達に気付かれる事無く一瞬でシズクを仕留め、おそらくはシャルすらも……と、なれば、不用意な深入りはリスクが高い』

 

『俺たちの狙いは、お宝だ。仲間を殺したやつを狙うのは、その後だ』

 

『現状は、向こうが優勢。それをひっくり返すためにも、相手の情報を調べる必要があるだろう』

 

 

 電話越しに、全員の頭が冷えたのを感じとったクロロは、『手筈通り一旦引け』という……撤退の指示を出した。

 

 各自、思うところはある。

 

 だが、旅団の対応が後手に回っているのは事実……ひとまず、団長の作戦通りにヨークシンから逃走している……というのが、現状であった。

 

 

「…………」

 

 

 とはいえ、だ。

 

 頭では納得は出来ても、感情が納得出来ない事があるのは、極悪非道の幻影旅団とて同じ事。

 

 楽しい楽しい、一方的な狩りが行われるはずだったのに、蓋を開ければ手痛いしっぺ返しを食らったかのような、この状況に……誰もが、苛立ちと怒りを感じていた。

 

 

「……っ、ああ、くそ、イライラするぜ」

 

 

 だからこそ……旅団一の戦闘狂であるウボォーギンが、クイッと親指で指し示した眼下の……自分たちが乗った気球を追いかけてくる、多数のマフィアの車を見て。

 

 

「むしゃくしゃして堪らねえ……あいつら、ぶっ殺していいだろ?」

「……遅くなると怒られるから、あんまり時間を掛けるなよ」

 

 

 只でさえ凶悪な人相を、更に凶悪に歪ませながら出されたうっ憤晴らしを……誰もが、駄目だとは言わなかった。

 

 そう、誰しもがあえて口に出すようなことはしなかったが……非常に苛立っていた。

 

 だから、自分が直接手を下すつもりはなかったが、ウボォーギンを前にして悲鳴をあげて逃げ回るだろう、その姿を想像して……ちょっとばかり、気分が晴れたのであった。

 

 

 ……。

 

 

 ……

 

 

 …………まあ、なんだ。

 

 

 念能力者としては(残念ながら)超一流であり、身体能力も超一流の彼ら彼女らであっても、相手が悪かったというしかあるまい。

 

 なにせ、相手は『念』を使っていないのだ。

 

 つまり、対人間を想定した常識が一切通用しない。

 

 『念』によって感知能力を上げたとしても、そもそも『念』を使っていないから、相手の『念』を感知出来ない。

 

 『念』を使った、特別な索敵能力を別個に持っているならまだしも、普通の感知では無意味だ。

 

 そもそも、念を使わずに身体を霧状……しかも、肉眼では確認出来ないぐらいに広がった状態の相手を見付けろというのが無理な話だろう。

 

 

 ……ゆえに、旅団の誰もが気付けなかった。

 

 

 いや、もしかしたら、無意識の奥底にて警報が鳴らされていたのかもしれないが、それに気付くには……純粋に、彼ら彼女らが積み重ねてきた経験が少な過ぎたのだろう。

 

 始めから傍に来ていると予測していたうえで最大限に注意を払っていたならばまだしも、夜の闇に紛れてしまえばもう、見つけるのは不可能であった。

 

 しかも、場所は気球(つまり、上空)なうえに、眼下の道路は罵声やらクラクションやらがガンガン鳴り響いていて、御世辞にも静かとは言い難い。

 

 

 そのうえ、この場の団員たちは1人の例外もなく、平時のような冷静さを保ててはいなかった。

 

 

 いくらその名を知られた幻影旅団とはいえ、こうまで相手に有利な状況、アドバンテージを取られた状態で、限りなく薄い霧状になっている相手の存在に気付け……というのが無茶な話で。

 

 ヨークシンからちょっと離れたところに暴れやすい場所があるし、そこでうっ憤晴らしをしよう……そう思っている旅団一の戦闘狂と同じく。

 

 

 その、霧状になった存在……いや、彼女もまた、街から離れた方がやりやすいなと、似たような事を考えていることに。

 

 

 まだ、団員の誰もが気付いて……それどころか、想像すらも出来なかったのは……仕方ないを通り越して、当然の事でしかなかった。

 

 

 

 

 




よりにもよって、団長を除いた旅団随一の頭脳と、非常に応用が利くけど替えが利かないメガネさんが即死

……ビール、がぶ飲みに気づけるかな?


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第十五話: 蜘蛛の足(残り7本)

お久しウマ娘

幻影旅団ジェノサイド2、ちょっと他の話と比べて短めだけど、区切りよく

苦手な方は注意ね


 

 

 

 

 『念』とは、己の内に流れているオーラ(いわゆる、生命エネルギー)を自在に操る力のことである。

 

 

 そして、この世界において、念と呼ばれている技術(あるいは、能力)が持つ力は、非常に強力なアドバンテージである。

 

 詳細を語ると長くなるので省くが、念を習得したかどうかで最も目立って変わるのは、身体能力の向上だろうか。

 

 どれぐらい変わるかって、素が同レベルの相手と戦った時、片方が『念』を修めていた場合……勝つのは100%、念を修めている方である。

 

 文字通り、桁が一つ変わるぐらいの実力差が生まれる。

 

 さすがに覚えたてではそこまで差が生じないにしても、それでも回復力や頑強さは跳ね上がるのだから、如何に念が強大な力を秘めているかが窺い知れるだろう。

 

 

 ……で、その『念』なのだが。

 

 

 まず、念には、初歩の初歩にあたる基礎的な活用法である、4大行というものがある。

 

 それは、『(てん)』、『(ぜつ)』、『(れん)』、『(はつ)』の四つ。

 

 これはボクシングで言えばグローブ、水泳で言えばゴーグル、野球で言えばボールに当たるぐらいの、念を習得するうえで絶対に外せない重要な土台でもある。

 

 

 ──『纏』

 

 それは、体内から外へと流れ出ている微弱なオーラを自身の周囲に留めること。

 

 

 ──『絶』

 

 それは、体内から外へと流れ出て行くオーラを完全に断ち、全て内に留めること。

 

 

 ──『錬』

 

 オーラを練り上げ、通常時とは比べ物にならない量のオーラを意図的に生み出すこと。

 

 

 ──『発』

 

 制御したオーラを自在に操ることであり、念能力の集大成。言うなれば奥義、必殺技がコレに当たる。

 

 

 基本は、この4つ。あとは、念には『系統』と呼ばれる属性みたいなものがあったりするが、念の基本は、この4つだ。

 

 

 そう、たったコレだけかと思う者がいるだろうが、全ての応用技の基礎は、この4つに集約する。

 

 念は奥深く、それこそ極めたという言葉が存在しない技術。見た目には現れない、秘匿された力。

 

 自称達人ではない、本物の念の達人と呼ばれる者の中には、だ。

 

 生身で銃弾を受けても軽い痛みを覚えるだけの超人も居れば、物理法則を逸脱した超常現象をも生み出す超人も居る。

 

 それほどの差が、『念』の習得によって生まれてしまうのだ。

 

 ゆえに、念能力者に対しては、同じ念能力者でしか相手にならないというのが、念を知る者たちの間では常識とされている。

 

 もちろん、全てが全て、そういうわけではない。

 

 超人のような力を発揮できるとはいえ、ピンキリだ。

 

 念を習得してはいるが、肉体を極限まで鍛え上げた相手に劣る時もあるし、念能力者だからといって、全員が銃弾を受けても平気なわけがない。

 

 いや、むしろ、全体的に見れば、それが可能なモノは極々少数。

 

 ほとんどの念能力者は、まともに銃弾を受けたら死ぬ。一般人より軽傷で済むにしても、負傷は避けられない。

 

 あくまでも超人は一握りであり、ほとんどの念能力者は銃で撃たれたら負傷するし、当たり所が悪ければ致命傷になるのであった。

 

 

 

 

 

 ……そういう前提を踏まえるならば、だ。

 

 

 今宵、自分たちに対してナメた態度を取った命知らずを追いかけたマフィアたちは……三つばかり、不幸であった。

 

 

 一つ目の不幸は、マフィアたちが『念』を知らなかったということ。

 

 

 いや、中には知っている者は居ただろうが、念能力者に該当する者は、残念ながら追いかけたマフィアたちの中には居なかった。

 

 まあ、仕方がないことだ。元々、『念』は一般には秘匿されている。

 

 仮に知り得たとしても、凡人が『念』を習得しようと思えば、その前の己のオーラを感じ取るまでに年単位の厳しい修行を必要となれば……ぶっちゃけ、銃を使った方が何万倍も楽である。

 

 

 そして、二つ目の不幸は……マフィアたちが追いかけていた命知らずが、凡人ではなかったということだ。

 

 

 それも、ただの非凡ではない。知る者からすれば、大金を積まれてでも相手を避ける盗賊集団、『幻影旅団』だったのだ。

 

 そう、幻影旅団は、念能力者の中では上位に位置する実力者ばかり。

 

 武装したマフィアが500人1000人居たところで、全滅までの時間が変わるだけという……それほどの使い手であった。

 

 

 Q.そんなやつらを相手に、非能力者のマフィアが銃器を手に挑んで、どうなるか? 

 

 A.相手の気が変わらなければ、挑んだ奴らは例外なく皆殺し、である。

 

 

 これが、三つ目の……何も知らなかったマフィアたちの不幸である。

 

 

 そう、彼らは運が悪かった。

 

 何故なら、幻影旅団は苛立っていた。普段なら、いちいち雑魚なんて相手にしていられないと考えるメンバーまでもが、苛立っていた。

 

 そのうえ、彼らの相手をしようとしていた男……戦闘狂であるウボォーギンは、その苛立ちを少しでも発散したいと考えていた。

 

 

 結果、追いかけていた彼らはどうなったか? 

 

 答えは、前述のとおり、皆殺しである。

 

 

 その光景は、ゴリラに踏み潰されるアリも同然であった。

 

 旅団一のフィジカルと頑強さを誇るウボォーギンを前に、彼らは例外なく非力であり、無力であった。

 

 いくら銃弾を叩き込んだところで、ウボォーギンの肌に傷一つ与えられない。貫通力に優れたライフルでも無傷、バズーカですらも、産毛を焦がすだけに終わった。

 

 対して、ウボォーギンの攻撃は、全てにおいて致命傷であった。

 

 張り手を放てば、首がへし折れる。殴れば、人の身体が紙屑のようにぐしゃぐしゃになり、掴んで振り回せば、人の身体とは思えないぐらいにあっけなく引き千切れた。

 

 もはや、それは戦いではない。

 

 ただの、虐殺であった。

 

 そして、先に到着していたマフィアたちが全滅しようとしていた頃。

 

 遅れて現地に到着したクラピカたちが、遠くより様子を伺っていた。そう、伺っているだけで、誰も加勢には動けなかった。

 

 

「──し、信じられねえ。人を、紙屑みたいに引き千切ってやがる……お、俺は御免だ、あんなの勝てるわけがねえ!」

「悔しいが、俺も同感だ。とてもじゃねえが、勝てる気がしねえ」

「だが、それでは任務を放棄する事になる」

「馬鹿野郎! そんなのキャンセルに決まっているだろ!!」

 

 

 何故なら、1人を除いて、誰もがウボォーギンのあまりの力に怖気づき、実力の違いに敗北を予測していたからだ。

 

 いや、それはもう、予測なんて生易しい話ではなかった。戦えば、確実に死ぬと確信を得ていた。

 

 

「──っ!」

「どうした、センリツ?」

「……心音が、何時の間にか増えているの」

「なに?」

 

 

 そんな中で、マフィアたちのボスである十老頭たち自慢の私兵である『陰獣(いんじゅう)』が到着する。

 

 

 一目で、クラピカたちは理解する。

 

 

 陰獣と呼ばれている彼らの実力は、十老頭が自慢するだけのモノであるということに。

 

 実際、心音を聞き分けているセンリツが、思わず『これが人間のモノなの?』と感想を零すぐらいで……だが、しかし。

 

 陰獣が、ウボォーギンの下へ向かうことはなかった。

 

 

「あんたらには悪いけどさ、アレは私にとっては先客だから……譲ってくんない?」

 

 

 何故ならば、ふわり、と。

 

 音も無く、夜の虚空より出現した彼女……二本角が、待ったを掛けたからであった。

 

 事情を知らない第三者から見れば、場違いなのは彼女の方に見えただろう。

 

 なにせ、彼女の背丈は低い。

 

 それ自体はセンリツと同じくらいだが、彼女の場合は顔立ちが幼く……角や手足に巻きついた鎖を抜きにすれば、迷い込んでしまったと思っただろう。

 

 しかし、この場に居る誰もが、そうは思っていない。というより、思える者はこんな場所に居るわけがなかった

 

 なにせ、誰もその出現に気付けなかったのだ。

 

 センリツすらも、霧になった彼女が実体化するまで、傍に来ていることすら気付けなかったのだから。

 

 ……で、だ。

 

 

「嫌なら、仕方がない……私とやりあってからになるけど、どうする?」

 

 

 もちろん、彼女には強制権などない。

 

 あくまでも、彼女とマフィアとの関係は、仕事を発注し、仕事を受注するだけの間柄。コミュニティに属しているわけではない。

 

 それは、コミュニティに属するノストラードの、その娘であるネオンの傍に居ても、変わらない。

 

 やりたいから、やる。ただ、それだけのこと。

 

 それを邪魔するならば、実力で跳ね除けるしかない。むしろ、我を通したければそうしろと、彼女は陰獣たちに言ってのけた。

 

 

「……アンタとはやり合うなって言われている」

「貴女とは駄目だって指示を受けているんだな、うん」

 

 

 対して、陰獣たちの答えは……全面的な譲歩であった。

 

 マフィアン・コミュニティに属する者ならば、大なり小なり耳にしている絶対的なアンタッチャブル。

 

 

 ──『二本角には手を出すな』

 

 

 それは、陰獣とて……いや、十老頭とて例外ではない。

 

 あくまでも、対等。

 

 意図的に敵対してこない限りは静観し、必要ならば格安で手を貸してやれ……それが、彼女とマフィアの関係であった。

 

 

 ……はたして、だ。

 

 

 明暗を分けたのは、どちらなのか。

 

 旅団一の肉体を誇るウボォーギンなのか。

 

 殺しが日常の一部になっている、陰獣なのか。

 

 それとも、それ以外なのか。

 

 まだ、この時点では誰にも分からないことで──いや、撤回しよう。

 

 

「え?」

 

 

 そう、思わず目を瞬かせたのは、誰が最初だったか。

 

 

 

 ──じゃあ、やらせてもらうね。

 

 

 

 代表する形で前に出た彼女が、ほんのり赤らんだ頬で笑うと、片手をウボォーギン──ではなく、その後方の崖の上に居る、旅団たちへと向けた。

 

 

 ──直後、ぎゅん、と。

 

 

 音も無く、1人の小柄な男が飛び出してきた──いや、違う。

 

 引き寄せられたのだ。正確には、彼女の『密と疎を操る程度の能力』によって集められたのだが……結果は同じだ。

 

 

 彼女の能力は、『念』とは違う。

 

 

 それ故に、念を発動する際の予備動作のようなものは一切無く、また、念による能力に対するガードも不可能。

 

 防ぐには、彼女へ直接攻撃して能力行使の邪魔をするか、この世界には存在しない霊力や魔力といった力で妨害するしかない。

 

 あるいは、念によって防御力を上げるぐらいであり……実際、引き寄せられた男……フェイタンは、状況が分からないながらも身を反転し、その先へと何本ものナイフを放った。

 

 

 けれども、無駄であった。

 

 

 たかがナイフでは、彼女の肌には傷一つ付かない。それ以前に、彼女の能力によって軌道を逸らされたナイフは一本の例外もなく、地面へと突き刺さった。

 

 残された旅団の仲間たちが、異変に気付いたウボォーギンが、救出に動こうとした──が、全てが遅すぎた。

 

 

「──今度は、逃がさんぞ」

 

 

 だって、今度の彼女は本気である。

 

 次に会う時は手加減されない……そうこぼしていた、旅団の団長の予測は……不運にも、真実であった。

 

 

「じゃあね」

 

 

 力を込めた、渾身の拳。

 

 

「──っ!!!」

 

 

 対して、フェイタンは──己のオーラを全て、防御に回していた。おそらくは過去や未来において、もっとも研ぎ澄まされていただろう。

 

 でも、無駄であった。

 

 今ならばバズーカを防げるぐらいの防御力だったとしても、彼女の拳は容易く念のガードを突き破り、その身体にぶち当たった。

 

 いや、当たっただけではない。

 

 着ているマントを貫通し、その下の衣服を貫通し、皮膚を破り、筋肉を破り、骨を砕き、内蔵を抉った。

 

 両腕のガードなんぞ、まるで意味を成していなかった。

 

 放たれた拳の余波は放射状に広がると共に、耐えられなかったフェイタンの身体は瞬く間に引き千切れ、四方八方へと──そう。

 

 断末魔すら上げる間もなく、幻影旅団の1人、『フェイタン・ポートォ』は──肉片へと姿を変え、彼女の前方へと飛び散ったのであった。

 

 

「なっ!?」

 

 

 あまりにも、一瞬の出来事であった。

 

 陰獣もそうだが、クラピカたちも驚愕するしかなかった。

 

 クラピカたちは、全員の強さは知らない。しかし、その強さの指標として、ウボォーギンをその目で見ていた。

 

 全員が同等かどうかは不明だが、仲間として共に動いている以上は、相応の実力者であるのは間違いないと思っていた。

 

 それを、彼女は一撃で仕留めた。

 

 それも、一切抵抗されないまま、ほぼ一方的に。

 

 この事実に、本来は相手取るはずだった陰獣たちは……1人の例外もなく、冷や汗を掻いた。

 

 相手が何であろうと、負けるつもりは毛頭無かったし、勝てる気持ちしかなかった。

 

 しかし、相当の実力者であることは分かっていたから、けして油断できない相手ではあるし、間違っても余裕で勝てる相手とは思っていなかった。

 

 そんな相手を、彼女は……二本角は、一撃で粉砕したのだ。

 

 それも、『念』を使わず。

 

 少なくとも、陰獣たちは二本角が念を使ったところを確認出来なかった。隠しているのではなく、本当に使っていないのだということだけは分かった。

 

 

(し、信じられねえ……マジモンの化け物か、コイツは……!!)

 

 

 思わず、そう内心で吐き捨てたのは、誰が最初か。

 

 ゴクリ、と。

 

 思わず唾を呑み込んだのは、誰が最初か。

 

 陰獣は、実際に彼女が戦ったところを見たことがなかった。クラピカを覗いたメンバーも、そこまでハッキリ目撃した事はない。

 

 だから、心のどこかで、彼女に対する不安というか、もしかしたら本当はそこまで……という疑念があったのは否定出来ない。

 

 けれども、もうそんな疑念は、この場に居る陰獣はおろか、誰の目にも無かった。

 

 むしろ、これ程に強い彼女が味方に居るという事実に、安堵感すら沸き起こるのを抑えられなかった。

 

 

「──てめぇ、あの時のか!!」

 

 

 ただ、それはそれとして、気付いたウボォーギンよりギロリと睨まれてしまえば、その安心感も一瞬で吹き飛んでしまったけれども。

 

 近くで見れば、その大きさがよく分かる。念能力を抜きにしても、相当な威圧感を与える大男だ。

 

 身長は、2mを優に超え……30、いや、40以上はある。その背丈に見合う、分厚い筋肉で覆われた身体は屈強の一言だろう。

 

 そんな男が、時速3桁という人外染みた速さで接近してくるのだ。

 

 例えるなら、牙をむき出しにした恐竜が迫ってくるようなものだ。如何な念能力者とはいえ、身構えるし恐怖を覚えて当然である。

 

 

「おや、そっちから来てくれるのか」

 

 

 けれども、それでも、だ。

 

 

「それは、手間が省けるってものさね」

 

 

 彼女を怖がらせるには、不十分であった。

 

 

『 鬼符:ミッシングパワー 』

 

 

 そう、彼女が念じれば、変化はすぐに現れ──彼女の身体は巨大化する。

 

 その勢いは凄まじく、驚き飛び退く陰獣たちとクラピカたちを他所に、メキメキと地面を陥没させながら、瞬く間に数十メートルほどになった。

 

 

「──っ!?」

 

 

 これには、初見であったウボォーギンは目を見開き──しかし、ここで足を止めるのは悪手であると判断したのか、そのままの勢いで彼女の足元へ接敵すると。

 

 

「うっ、ぉぉぉおおおおおおお!!!!!」

 

 

 渾身の──右ストレートパンチを叩き込んだ。

 

 それは、ウボォーギンの必殺技。

 

 

 名を、『超破壊拳(ビッグバンインパクト)

 

 

 ずば抜けたフィジカルに、相性が良い強化系の念能力、その二つを極限まで高めた……防御を一切捨てた、一点集中のパンチである。

 

 その威力は、小型ミサイルにも匹敵する。地面に撃てば局地的な地震を起こし、巨大なクレーターが生じるほど……だが、しかし。

 

 

「──っ!」

 

 

 驚愕に目を見開くウボォーギン……残念ながら、旅団内最強の破壊力を誇る一撃でも、彼女にダメージを与える事は出来なかった。

 

 あの時よりも、威力がある。あの時よりも、破壊力は増したと思っていた。

 

 それなのに、全く通じていなかった。僅かばかり、巨大化した身体を動かすだけに終わった。

 

 その事を、ウボォーギンは理解し……直後、防御を一切捨てた報いを──その身を持って思い知る事になった。

 

 

 具体的には……掴まれたのだ。

 

 

 巨大化した、彼女の手に。まるで人形のように動けなくされてしまったウボォーギンは──直後、鬼の怪力によって握り締められた。

 

 その瞬間、ウボォーギンは抜け出そうと抵抗はしたのだが、当然ながら、抵抗になどなってはいなかった。

 

 バキバキ、ベキベキ、ボキボキ、と。

 

 文字通り、全身の骨をへし折られたばかりか、内蔵まで傷付けられたウボォーギンは、ゴフッと鮮血を噴いて……そのまま、動かなくなった。

 

 ──直後、いや、ほぼ同時に──瞬時にして崖の上にいる旅団たちの眼前へと距離を詰めた彼女は、垂直にチョップを放った。

 

 

「──っ!?!?!?」

 

 

 逃げられたのは──というより、余波で遠くまで吹っ飛ばされたので、結果的には追撃をされなかった2人。

 

 

 1人は、ちょんまげに着流しという特徴的な恰好をしている、ノブナガ・ハザマ。

 

 1人は、藍色の髪をポニーテールにした、マチ・コマチネ。

 

 

 この2人だけは、直撃コースから外れていたこともあって、衝撃波やら何やらで軽く負傷はしたが、命には別状なかった。

 

 

 ……だが、直撃したフランクリン・ボルドーは致命傷を負った。

 

 

 避けようとはしなかったのか……いや、避けようとしたのだ。位置的に悪いわけでもなく、負傷していたわけでもない。

 

 直撃する直前、彼女に引き寄せられたのだ。

 

 時間にして、コンマ何秒。ふと、思った瞬間にはもう通り過ぎているその一瞬……フランクリンは、体勢を崩された。

 

 

 そうなればもう、フランクリンがやれることはほとんど無い。

 

 

 己の念能力で迎撃しようと構えた時にはもう、直撃している。かといって、左右に逃げる事も出来ない。

 

 だから、フランクリンは、フェイタンと同じく、渾身の力を込めてガードしようとした──が、無駄だった。

 

 受け止めた両腕は完全にへし折れ、骨と肉が突き出た。それでもなお止められず、そのまま頭に当たり、頸椎をへし折り、背骨が折れて、その身体は大地の中へと押し込められた。

 

 辛うじて、それでも肉体は人の形を留めてはいた。

 

 だが、誰もが一目で助からないと判断するような状態であり、事実として、攻撃を終えて10秒後には……息絶えたのであった。

 

 

 ……時間を合計しても、1分にも満たない。

 

 けれども、その1分で旅団が3人死んだ。オークション会場のそれを合わせても、2分にも満たない……あ、いや、少し違う。

 

 

「……げふっ」

 

 

 彼女が掴んでいる、ウボォーギンだけは……まだ、辛うじて生きていた。

 

 まあ、全身の骨を砕かれ、内蔵が破裂したり、折れた骨が突き刺さったり、治療を施しても生存できる保証は無いが……まだ、ギリギリ死んでいなかった。

 

 

 ……どうして、殺していないのかって? 

 

 

 それはひとえに、クラピカたちの事を考えて、である。

 

 本音を言わせて貰えばこのまま握りつぶすのが楽だが、これはまあクラピカたちの仕事を邪魔している状態だ。

 

 先客だったとはいえ、譲ってもらったのは事実。

 

 1から10までこちらがやってしまえば、クラピカたちのメンツが立たないのでは……と、思ったわけである。

 

 

(ん~……でも、コイツって尋問しても話せるのか? 逃げたどちらかを捕まえた方が良いかな?)

 

 

 ただ、今すぐ死んでもおかしくない状態で引き渡すのは……とも思ったので、コイツではなく、他の2人にしようかなと彼女は目を向けた。

 

 

「──二本角さん! 貴女に電話よ」

 

 

 と、その時であった。

 

 

 後方から……車の窓から身を乗り出したセンリツが、大声を出しながら近寄って来たのは。

 

 運転しているのは、スクワロだ。他のメンバーも乗っているようで、車を止めればゾロゾロと全員が降りてきた。

 

 ちなみに、他の陰獣たちも来ていた。こっちは彼女にというより、掴んだままのウボォーギンの様子を見に来たといった感じだが……話を戻そう。

 

 

『な~に? 誰から?』

 

 

 普段ならともかく、今は身長差が相当にある。しゃがんで顔を近付ければ、両手でメガホンを作ったセンリツは、力いっぱい声を張り上げた。

 

 

「リーダーから、今すぐ戻って来て欲しいって! なんでも、ボスが襲われる可能性が示唆されたってタレコミがあったみたいなの!」

『え、マジで?』

 

 

 思わず、彼女は目を瞬かせた。

 

 冗談かと思ったが、今の己は何よりも嘘を嫌うしソレが分かるので……センリツが嘘を言っていないのはすぐに分かった。

 

 

 

 ──こうしちゃ、いられない! 

 

 

 

 近寄ってきたクラピカたちへウボォーギンを渡した彼女は、『ミッシングパワー』を解除して小さくなると、地を蹴って──空へと飛んだ。

 

 霧になって移動するよりも、飛んで移動した方が速いから。

 

 幸いにも、今は夜だ。彼女がまだ『彼』だった時の前世とは違い、この世界では飛行機がそんなに飛んではいない。

 

 高度を取れば、露見して騒ぎになる可能性は低く……移動の邪魔になる問題が生じることもなく、彼女は超特急でネオンの下へと向かったのであった。

 

 

 

 

 

 




頭脳のシャルナーク、特攻隊長のウボォーギン、拷問のフェイタン、証拠隠滅のシズク、けっこう代用が利く影が薄いフランクリン

ヤバいね、機動力めっちゃ削れたね


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