双葉家の備忘録 (maron5650)
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超常現象プロダクション
1.生まれてくれて、ありがとう。


「いやー……。」

 

べちゃりと床に倒れ伏し、情けない声をあげる。

 

「騒いだなぁ……。」

 

周囲に散らばるクラッカーのテープ。

トランプ。オセロ。占いの本。その他諸々。

家にある、ありとあらゆるもので遊び倒した証拠が散乱していた。

 

「仁奈ちゃん、寝ちゃったみたい。」

 

いかにも誕生日らしい三角形の帽子を被り、鼻眼鏡をかけたきらりが顔を出す。

騒ぎ疲れた仁奈を、お隣であるきらりの家に運んでいたのだ。

こいつめちゃめちゃ楽しんでやがるな。

私も人のこと言えないけど。

 

「……そ。」

 

のそりと起き上がり、仁奈が寝ている部屋へと向かう。

きらりには、前もって言っておいた。

だから彼女は。私が何処に行くのかも聞かないし、付いてくることもない。

 

仁奈が一通り楽しんで、笑って、騒いだ後。

疲れ果てて、眠ってしまった後。

目が覚めて、少し冷静になった時。

 

きっと仁奈は、泣いてしまう。

 

 

 

 

「起きてる?」

 

こんこん、と、扉を叩く。

反応は無い。

単純に寝ているだけなのか、そうでないのか。

これが普段と同じ日だったのなら、私は素直に帰ったのだろう。

 

合鍵を取り出し、ドアノブに差し込む。

軽く手首をひねると、カチャリと音が鳴った。

仁奈をここに運んだ時。きらりは、鍵を持っていなかった。

 

「仁奈。」

 

真っ暗な部屋の中。

ぽつんと取り残された布団。

真ん中が、膨らんでいた。

 

「……楽しかったね。今日は。」

 

その隣に腰を下ろし、あぐらをかく。

仁奈は寝たふりを決め込むようだった。

 

「まあ、誕生日だからね。

楽しいし、面白いし、だから笑っているもんさ。

今日は、そういう日だよ。」

 

布団の上から、優しく仁奈を撫でる。

その中の塊は、少しだけ震えていた。

 

「でもさ。

それだけじゃなきゃいけない、なんて。

そんなわけでも無いと思うんだ。」

 

頭らしい部分を手ざわりで感じ。

そこにぽんぽんと触れながら。

仁奈が、責められていると思わないように。

慎重に、言葉を選ぶ。

 

「みんなで遊べて楽しかった。

祝ってもらえて嬉しかった。」

 

仁奈の震えが大きくなっていく。

私はその震えを撫で続ける。

 

「でも。ママが居なくて寂しかった。」

 

びくり、と。一際大きい反応。

……ああ。やっぱり、杞憂ではいてくれなかった。

 

「こんなにも楽しくて、こんなにも嬉しくて。

でも、ママが居ないのが悲しくて。

だって誕生日は、親に祝ってもらうものなのに。」

 

仁奈は、優しい子だ。

優しいから、隠してしまう子だ。

誕生日は楽しいものだから。

そんな日に泣くなんて、おかしいことだから。

あってはいけないことだから。

 

「それでいいよ。隠さなくていい。

だって、楽しかったのも本当なんでしょ?」

 

手のひらの下の塊が、何度も揺れる。

ここで頷いてくれるから。

やっぱり仁奈は、優しい子だ。

 

「だったら、いいよ。

なんでママじゃないのって。

声を上げて泣いたっていい。

我が儘を言ったって、いいんだよ。」

 

その身を覆った掛け布団を、ゆっくりと持ち上げる。

優しく。緩やかに。仁奈を傷付けないように。

 

「……ほら。おいで。」

 

仁奈は抵抗することなく、殻を引き剥がされた。

泣きじゃくった顔が、こちらを見ていた。

私が両手を広げると、仁奈は腕の中にそっと収まった。

 

「ねえ、仁奈。」

 

貴方を泣かせてしまった日だけれど。

それでも私は、今日を嬉しく思うんだ。

祝いたいって思うんだ。

数年前の今日。貴方が生まれた日なんだよ。

生まれてくれた日だからさ。

 

 

 

 

 

「生まれてくれて、ありがとう。」



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2.風邪を引いた日 : 諸星きらり

きらりが風邪を引いた。

結構な高熱で、今日は仕事も学校も休むことになった。

というか、半ば無理矢理休ませた。

そしたら今度は、家事をしようとするものだから。

仁奈と2人がかりで布団まで押し込み、どうにか寝かしつけて。

伝染らないよう、きらりの家に仁奈を避難させ、今に至る。

 

「疲れてたのかな……。」

 

確かに風邪を引きやすい季節ではあるけれど、対策はきちんとしていたはずだった。

主に仁奈に風邪を引かせないための、予防のお手本として。

きらりよりも余程身体が弱い私がピンピンしてるくらいだ、予防法は間違ってなかったはず。

 

「……ず、ちゃん。」

 

少しの間、見守っていると。

きらりが弱々しい声で、私の名を呼ぶ。

彼女は、普段身に纏っているキグルミを。

『諸星きらり』を、放棄していた。

 

「ごめ……ね、すぐ……、」

 

仁奈を離しておいて正解だった。

キグルミを脱いだきらりに、まだ慣れていないから。

この姿を見たら、きっとまた、悲しい顔をしてしまうから。

 

「申し訳ないと思うなら、さっさと治す。ほら。」

 

上半身を起こそうとするきらりの肩を両手で抑える。

殆ど力を入れなくても、彼女は再び布団へと吸い込まれた。

……疲れて、いたんだろうな。

学校に行って。仕事をして。料理だって作って。

 

『諸星きらり』で居続けて。

 

少し前。仁奈が寝静まった夜中に。

ちょっとだけ、聞いた話。

きらりは、小さな頃から大きかった。

大きかったから、怖がられてしまった。

怖がられてしまったから、誰とも話をしなかった。

それがとても寂しくて。

寂しくて寂しくて、寂しくて。

 

だから、考えて。

どうしたら、怖がらせずに済むのか。

人と話が出来るのか。側に誰かが居てくれるのか。考えて。

考えて考えて、考えて。

そうして出来上がったのが、『諸星きらり』。

 

怖がられるのは、きらりが大きいから。

ならば、「大きい」よりも目を引く特徴を。

例え変だと笑われても。気が違っていると思われても。

後ろ指を刺されても、それでもいいから。

この醜く大きな身体を、隠せるだけの特徴を。

着飾って、包み込んで、皆に笑われるような。

 

道化のようなキグルミを。

 

それは、きらりの自己防衛だった。

生まれ持ったマイナスを、せめてゼロにするための。

消極的な手段でしかなかった。

でも、そのゼロはプラスになった。

醜い自分を隠すための、ツギハギだらけのキグルミは。

醜い故に諦めた、プラスへと変化した。

 

『諸星きらり』は、アイドルになった。

 

きらりは、可愛いものが好きだった。

可愛いものは、小さなもの。

自分とは、対極のもの。

大きなきらりは、可愛くはなれない。

ずっと、そう思っていた。

 

望んで、憧れて、それでも諦めなければならなかった。

いや、事実、彼女はずっと諦めていた。

『諸星きらり』に、なってしまえるほどに。

そんな彼女が、アイドルになった。

可愛いものに、彼女が成った。

 

キグルミを着る前は、誰にも認めてもらえなかったのに。

誰もが自分から離れていったのに。

怖がられ、恐れられ、避けられてきたのに。

『諸星きらり』になった途端、きらりは理想を手に入れた。

 

ゼロの『諸星きらり』は、プラスへと昇華した。

彼女は世間から可愛いものとして認められた。

ならば。『諸星きらり』の中の、諸星きらりは。

マイナスの諸星きらりは、どうなる。

 

否定されただけだ。怖がられただけだ。

避けられてきただけだ。

アイドルになって救われたのは、『諸星きらり』だけなんだ。

諸星きらりは、まだ、誰からも。

一度だって、周囲から認められていない。

 

彼女にとって、着飾らない本当の自分は。

彼女が思う、本来の自分自身は。

怖くて。恐ろしくて。避けられて。否定された。

そんな、可愛いとは対極のものなんだ。

 

だから彼女は、いつも『諸星きらり』で居続ける。

皆から認められた、居心地の良いキグルミを着続ける。

例え私と、2人きりの時であっても。

 

「……疲れるよなぁ。」

 

そっと彼女の頬を撫でる。

飾らない彼女を見たのは、あの夏の日以来だった。

あの時、私は言った。

『諸星きらり』が嘘だなんて認めない、と。

これは私の本心だ。

そのことを、きっときらりも分かってる。

 

でも。それは彼女にとって、きっとレアケースでしかない。

双葉杏はそう思っている。だが、その他大勢は違う。

彼女自身を含めた、彼女が関わってきた人間。

その数引く1が、『諸星きらり』は嘘だと思う。

真実を知れば、そう考える。

きらりはそう思ってる。

 

自分が認められているのは。可愛いと言ってくれるのは。

ただ自分が、嘘をついているだけで。

本当は醜い身体を、キグルミで隠しているだけで。

だから、キグルミを脱いでしまえば。

『諸星きらり』を辞めてしまえば。

また、怖がられる日々が始まる。

きらりは、そう思ってる。

 

だからきらりは、『諸星きらり』であり続ける。

幸せな夢を続けるために。

魔法が解けてしまわないように。

自分を、隠し続ける。

 

汗ばんだ彼女の額を、水で濡らしたタオルで拭う。

いつの日か。彼女が、道化で居なくてもいいような。

キグルミを脱いで、それでも笑っていられるような。

そんな日が、来るだろうか。

 

 

 

 

 

それは彼女にとって、幸せなのだろうか。



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3.第n次カレー大戦

カレー、それは夢と希望。

 

「……仁奈、これが。

私達が昼寝してる間に買い物に行った、きらりの残したメモ。」

 

カレー、それは譲れない矜持。

 

「『今日のおゆはんはカレーだよぉ☆』……これは……!」

 

カレー、それは無数の最適解。

 

「そう。これを見つけてしまった以上、争いは避けられない。」

 

負けられない意地が、そこにある。

 

「「勝負……!」」

 

これは、2人の少女が互いの尊厳をかけた、熱き戦いの記録である。

 

 

 

 

 

先に動いたのは杏だった。

その手にはジャワカレー(辛口)。彼女の矜持そのものである。

 

「カレーは辛口こそ正義! 今日のカレーは辛口になるべきなんだ!」

 

勢いよくパッケージを掲げ、高らかに宣言する。

それは彼女の主張と同時に、仁奈に対する宣戦布告でもあった。

 

「ちげーです! カレーは優しい味であるべきでごぜーます!」

 

仁奈はこれを受け、杏同様パッケージを掲げる。

手にしたのはバーモントカレー(甘口)。彼女の想いの結晶である。

 

「辛口!」

 

「甘口!」

 

両者、更に1歩間合いを詰める。

決して退かない。退いてはいけない。

退くわけには、いかないのだ。

 

「「ぐぬぬぬぬ……!」」

 

まさに一触即発。その時であった。

 

「たっだいまー! すぐに準備するからねぇ☆」

 

「おかえり!」

「おかえりなせー!」

 

第1ラウンド終了のゴングが、玄関のドアを開けた。

 

 

 

 

 

3人でレジ袋の中のものを冷蔵庫に仕舞った後。

第2ラウンドの先手を取ったのは仁奈だった。

 

「どうして杏おねーさんは、かれー方がいいんでやがりますか!?

飴好きじゃねーんですか!」

 

確かにそれもそうだ、と、きらりは心の中で同意する。

ピーラーでジャガイモの皮を剥く手は止めないまま。

 

「……ふっふっふ。聞いたね。聞いてしまったね?」

 

悪役のような台詞を吐きながら、杏は不敵な笑みを浮かべる。

攻撃が全く効いていないこと、恐らく手痛い反撃が来ることを察し。

仁奈はバーモントカレーを盾のようにして、対ショック姿勢を取った。

 

「仁奈。カレーはどうしてカレーって言うか、知ってる?」

 

確か色々と説があったような気がする。

鍋を2つ用意しながら、きらりは記憶を手繰り始めた。

 

「……っ!? ま、まさか!?」

 

仁奈が何かに気付いた様子。

甘口派が困るような説なんてあったっけ。

 

「そう! カレーはかれーからカレーと名付けられた!

つまり辛くないカレーは! カレーではないのだ!」

 

そういうことかい。

きらりは水を入れるために持っていた鍋を落としかけた。

 

「…………っ!?!?!?」

 

その痛烈な一撃は防御を貫通し、仁奈に深いダメージを与え──

 

「いやごめんこれは嘘。」

 

──る前に杏の良心が折れた。

だって思ったよりショック受けちゃってるんだもの。

この世が終わったような顔をしていたもの。

仁奈の世界を終わらせるとこだったもの。

 

「……あ、あぶねーとこでごぜーました……!」

 

仁奈の頬に冷や汗がつたう。

だが、なんとか杏の攻撃を凌ぎ切ることができた。

今こそ反撃の時だ。

 

「でも嘘ってことは! カレーは甘くてもいいはずでごぜーます!

なんでかれーカレーにこだわるんでごぜーますか!」

 

確かに、辛くするべきという杏の主張を通すならば。

カレーが辛くなくてはならない根拠が必要だ。

甘いカレーが選択肢として残るのなら、仁奈の敗北は一気に遠ざかる。

特に普段から飴を好んで食している杏は、この攻撃を躱すことは難しいだろう。

 

「……お母さんが、好きでさ。辛いの。

前は家族分の食事を私が作ってたから。

我慢して、辛いのばっか作ってたんだよ。

そしたら慣れたというか……好きになれたというか……。

思い出す、と、いうか……。」

 

待って。初耳です。

思いがけぬ流れ弾に当たり、きらりは下唇をきゅっと噛み締めた。

タマネギを切ってもいないのに、ここで泣くわけにはいかない。

 

「……そ、それなら仁奈だっておんなじでごぜーます!

ママはかれーカレーが好きなのに、作り置きのカレーはいつも甘口でごぜーました!

あめーカレーを食べると、優しかった時のママを思い出すですよ!」

 

駄目です。流れ弾が流星群。

きらりはポロポロと涙をこぼしながら人参を乱切りにする。

 

「ああ待ったこの話やめようきらりがやばい。

まだタマネギ切ってないのに。」

 

「きらりおねーさん、どっか痛てーですか!?」

 

第2ラウンド終了の合図は、彼女の涙だった。

 

 

 

 

 

3人での共同生活の中で、初めてカレーを作った時。

甘口か辛口かで、杏と仁奈は揉めた。それはもう揉めに揉めた。

きらりが2つ目の鍋を自分の家から持ってきて、両方作ると決めたくらい揉めた。

それ以来、カレーは甘口と辛口の両方を作るのがお決まりになっている。

ちなみにきらりは中辛派なので、2つのカレーを混ぜて食べる。

 

だから本来、杏と仁奈の口論は全く必要ないのだが。

どうやら何だかんだ楽しかったようで、カレーの日には必ずやっている。

 

そして杏が口論を続ける理由は、楽しいだけではなかった。

カレーは具の都合上、ジャガイモや人参の皮を剥く必要がある。

つまりは、ピーラーを用いる必要がある。

しかし仁奈にピーラーを見せると、まずいことになる。

いや、まずいことになった。

具体的に何がどうなるのかは、察して欲しい。

彼女は野菜の皮を剥く道具を、それ以外の用途で使われていた。

 

だから杏が仁奈の注意を自分に向けさせることで。

きらりがピーラーを握っている姿を、極力見させないようにし。

きらりは仁奈がこちらを見ていないことを常に確認しながら、ピーラーを使う。

そうやって仁奈を守ることも、杏がこの口論を続ける理由だった。

 

ピーラーを使わずに包丁で剥けばいいと思い、やってみたことはある。

だが結果、仁奈は「自分のせいでピーラーが使えず不便を強いている」と思ってしまった。

消え入りそうな声で、仁奈を謝らせてしまった。

それでは、意味がないのだ。

 

「あー、やっぱカレーはかれーもんだよ。」

 

目の前のカレーを一口食べ、杏は目を細めた。

 

「あめーカレーだってうめーです! ほら!」

 

仁奈が半ば強引に、杏の口に手に持ったスプーンを突っ込む。

 

「むぐ。……もぐもぐ。ごくん。

……まあ、悪くはないね、うん。」

 

杏の返答を聞き、仁奈は満足そうに笑った。

 

「おかわりあるからねぇ☆」

 

そんな2人のやり取りを見て、微笑みながらきらりが言うと。

 

「うーい。」

「はいです!」

 

スプーンを握った手を止めないままの、2人の声が返ってくる。

 

 

 

 

 

双葉家の食卓は、今日も笑顔が彩った。



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4.風邪を引いた日 : 双葉杏

杏ちゃんが風邪を引いた。

私が治ったのと、ほぼ同時。

まるで病原菌が、そっくり移住したかのようだった。

 

杏ちゃんは身体が小さい。

それは先天的な体力と免疫力の欠落を意味していた。

一般的な風邪でさえ、彼女の身体には荷が重い。

彼女は数日前から高熱が続き、布団から起き上がれないままだった。

 

「……っ、ぅ……。」

 

杏ちゃんが、うめき声にもなっていない何かを発する。

私の呼吸音にすら掻き消されてしまいそうなそれを、聞き漏らすわけにはいかなかった。

 

「……杏ちゃん。起きた?」

 

彼女の眉間のシワが、一層深く刻まれる。

その表情が苦しさを増すのに比例して、目蓋がゆっくりと開いた。

 

「お水は飲めそう? おえってしちゃいそう?」

 

枕元のペットボトルを手に取り、キャップを外す。

杏ちゃんは目だけを動かして私を捉えると、荒々しい呼吸と共に言葉を吐き出した。

 

「……か……いま……るから……。」

 

「……杏ちゃん?」

 

彼女に顔を近付け、目を閉じ耳を澄ます。

掠れた声で、少女は再び呟いた。

 

「ぉかあ、さ、ごめ…………ぃま、ようい、……るから。」

 

お母さん、ごめんなさい、今、用意するから。

 

彼女はそう言っていた。

立ち上がることすら出来ない身体で。

焦点もはっきりしない目で。

何かに耐えるような表情で。

絶え絶えな息を吐きながら。

私を見て、他のものを映しながら。

その何かに、謝っていた。

 

「……杏ちゃん、いいの。いいのよ。」

 

彼女のぼやけた目は、私を母親と認識していた。

回らない頭は、昔の記憶を掘り出していた。

前に彼女は言っていた。

家族と暮らしていた頃は、何でも自分がやっていたと。

褒められるために、頑張っていたと。

それでも褒められなかったと。

 

愛してなんてくれなかったと。

 

「……でも……わた、し、っ……やらな、きゃ……。」

 

こちらに手を伸ばし、ボロボロになった彼女は起き上がろうとする。

その手を握って、私はできるだけ、大人びた優しい声を出した。

 

「ううん、いいの。

杏ちゃんはいつも、とっても頑張ってるから。

今日くらいは、ゆっくり休んで? 」

 

握った手が、少しずつ重くなっていく。

彼女から力が抜けていく。

目蓋がゆっくりと下がっていく。

疲弊しきった少女の眉間のシワが、ほんの少し薄くなった気がした。

 

「……ね。……か、さ。

おねが……しても……い?」

 

ね。お母さん。お願いしてもいい? ……だろうか。

 

「うん。何でも言って?」

 

タオルで彼女の額の汗を拭い、私は再び声を作った。

 

「……あの、ね。

……あたま……なでて……?」

 

その声が。震えていたのは。怯えていたのは。

気のせいでもなく。

風邪のせいでもなく。

他の何かが原因なんだろう。

彼女の記憶が原因なんだろう。

彼女の過去が原因なんだろう。

それは決して、無くなってはくれないんだろう。

彼女の言動が、そう確信させてしまうから。

私は精一杯優しく、彼女の頭に触れた。

 

「……ありが、と……。」

 

やっと安心したように、杏ちゃんは目を閉じた。

私はいつまでも、彼女の頭を撫で続けた。

その傷痕に触れるように。

癒えることを願うように。

何も出来ない自分を、悔やむように。

 

これが滑稽なごっこ遊びでも。

稚拙なお遊戯会だとしても。

彼女が欲しがっているものの、劣化したレプリカでもいい。

彼女の夢が醒めるまでは、この模造品は本物だ。

 

なら、せめて今だけは。

幸せな家族を、彼女にあげたい。

暖かな温もりを、感じさせてあげたい。

夢の中でくらい、望むものを与えたい。

素直に求めて、素直に与えられる。

そんな、彼女が貰えなかった幸せを。

 

だから私は、彼女を撫で続けた。

いつまでも。いつまでも。

 

 

 

 

 

いつまでも、ずっと。



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5.本物よりも幸せに

『うん。何処からどう見ても、立派なお姉さんだ。』

 

お母さんはそう言って、私を姿鏡の前に立たせた。

そこに映るのは、髪を2つに結んだ私の姿。

「お姉さん」。その響きが嬉しくて。

お姉さんで居続ければ。頼りになる人であり続ければ。

お母さんを、喜ばせてあげられるかな。

 

そんな考えを、まだ捨てられない私は。

本当に、子供だ。

 

 

 

 

 

「へー、交流会ねえ。」

 

私は胡座をかき、その上に仁奈がちょこんと乗っている。

朝の身支度は、私の仕事。

右手に持った櫛で髪をとかしながら、仁奈の言葉に相槌を打っていた。

きらりは私達より早く起き、人数分の食事を用意して、もう学校に行っている。

 

「そーです! かきゅーせーに色々教えてやるですよ!」

 

仁奈は目を輝かせて意気込む。

いつものように適当に聞き流しながら、寝ぼけた頭は違うことを考える。

私も高認とか取っとくかな。確かあれ16歳以上だったよな。

現状アイドル業で十分食ってける気はするけど。

目の前の少女のせいで、適当に生きていくわけにはいかなくなったし。

万が一を考えると、なぁ。

 

「……ん? 下級生?」

 

髪をすく手と将来についての思考が止まる。

交流会って、別の学校の同学年とかじゃなくて、下級生と?

 

「そーです! 仁奈はおねーさんになるですよ!」

 

私の疑問に、嬉しそうに仁奈が返す。

おねーさん。おねーさん、か。

そっか。そういえば。

私がヘアゴムを貰ったのも、仁奈くらいの身長の頃だったっけ。

 

「じゃあ、おめかしをしなきゃね。」

 

私は櫛を持っていない方の手を後ろに回し、雑にヘアゴムを引っ張る。

髪は抵抗することなくするりと滑り、やがて解かれた。

きらり美容師による丹念なお手入れの成果だ。

お陰で髪を洗うのにやたらと時間がかかるけど、こういう時は便利だなと思う。

 

「ちょっと、引っ張るよ。」

 

仁奈に似合うのは、どんなだろうか。

頭の中でいくつか試してみる。

私と同じのは……んー、なんか違うな。

じゃあ……、これか。

あまり痛くないように、仁奈の髪をまとめる。

手早くヘアゴムを回し、完成。

 

「……よし。」

 

ツーサイドアップ。

頭の中で描いた通り、仁奈にはよく似合っていた。

姿鏡に仁奈を立たせ、言葉を贈る。

 

「うん。何処からどう見ても、立派なお姉さんだ。」

 

仁奈が私に、私達に。求めていることは、親の代わり。

それはどれだけ頑張っても、代わりでしかない。

私達は仁奈の親にはなり得ない。

仁奈が本当に求めているものには。絶対に。

 

「仁奈、おねーさんでやがりますか!?」

 

でも。何をどうしたって、偽物でしかないのなら。

せめて、本物よりも幸せに。

 

「うん。ばっちり。」

 

ごめんね。

私があげられるのは、こんなものしかないけれど。

それでも、私がもらった幸せだから。

せめてこれを、仁奈に贈ろう。

 

「やったー! ありがとうごぜーます!」

 

間に合わせでいい。有り合わせでいい。

応急処置で構わない。

もっと綺麗なものがあったら、捨ててくれたっていい。

だから。それまでは。どうか。

隣に居るのが私でも、どうか許してほしい。

 

 

 

 

 

笑顔で手を振る仁奈に、行ってらっしゃいと返す。

いつか私も、お姉さんになれるかな。



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6.風邪を引いた日 : 市原仁奈

諸星きらりは、抱いた感情をどう処理すればいいか分からなくなっていた。

事の発端は、昨日。

双葉杏と市原仁奈が、風邪でほぼ同時に倒れたのだ。

病状自体は問題ない。昨日は丸一日寝込んだが、今は微熱があるくらいなものだ。

問題なのは、2人共、数日間にわたり体調不良を隠していたということだった。

 

諸星きらりには、その理由が分かっていた。

双葉杏も市原仁奈も、決して良好とは言えない家庭環境で育った。

彼女達はその中で、体調が優れないことを家族に伝えると。

返ってくるのは、怒号だけだった。

だから彼女達は、当然のように風邪をひた隠すようになった。

報告したところで、家族を苛立たせるだけなのだから。

 

それを今も、当たり前のように続けているのだ。

だから彼女達は、諸星きらりに体調不良を報告しなかった。

不調を隠し、いつも通りに振る舞い、そして昨日、限界が来た。

諸星きらりはそれに思い至った瞬間、何かの感情を抱いた。

激情と言ってもいいものだった。

だが、これが何なのかが分からなかった。

客観的に観察することができないほど、その感情は激情だった。

 

自作のクッションに座り、諸星きらりは内省しようとする。

しかし、それはいつまでも上手くいかなかった。

 

 

 

 

 

『HQHQ、こちら仁奈。ターゲットを視認したでごぜーます。オーバー。』

 

オモチャのトランシーバーから、仁奈の声が響く。

 

「こちらHQ了解。引き続き様子を伺って、オーバー。」

 

オモチャのボタンを押しながら、マイク部分に語りかける。

 

『こちら仁奈、了解でごぜーます。アウト。』

 

ぶつり、と、通信が途切れる。

仁奈よりも少しだけ具合の悪い私は、布団の上で寝返りをうった。

 

何故私達が某ステルスアクションの真似事をしているのかといえば、その理由は2つある。

最近私がプレイしているのを横で見ていた仁奈が無線のやり取りに心惹かれたらしいから、というのがひとつ。

余談だが、9歳に血を見せるわけにもいかず、必然的に初見ノーキルノーアラートを強いられた。結構きつかった。

そしてもうひとつは、私と仁奈がほぼ同時に風邪を引き。

その直後、きらりの機嫌が悪くなったからだ。それはもうべらぼうに。

 

きらりの怒り、その理由が一向に分からない。

怒りというのも、恐らくあれは怒っているんだろう、という程度の推測だ。

きらりは私や仁奈に直接それをぶつけてはいない。

ただ、不機嫌なのだ。それはもうすごいくらい。

 

私達が同時に風邪を引き、きらりの負担が一気に増したから。

……そんなことで怒る彼女ではないだろう。

だが、風邪を引いたのとほぼ同時に機嫌が悪くなったのも事実。

つまりは、私または仁奈もしくは両方が、風邪を引いた前後に何かをやってしまった。

その何かが原因で、きらりが不機嫌になった。

そしてそれは、きらりが面と向かって怒れるようなものではないらしい。

 

何かをやってしまったなら、謝るのが道理というわけで。

しかし何が悪かったのかを理解しないまま頭を下げたところで、生じるのは微々たる風だけだ。

故に私達は、何をやってしまったのかを把握する必要がある。

そもそもきらりが抱いている感情は、本当に「怒り」なのか。それも確認しなくては。

そこで、話は冒頭に戻るわけだ。

 

『HQHQ、こちら仁奈! ターゲットが動きやがりました! オーバー!』

 

再び通信。緊迫した仁奈の声。

 

「こちらHQ了解、一挙手一投足に気を配って。オーバー。」

 

『いっ……きょ……?』

 

「ちょっとした動きも見逃さずってこと。」

 

『了解でごぜーます!』

 

さて。

先程からきらり特製クッションの上にちょこんと座ったまま微動だにしなかった彼女。

それが遂に動いたという。

何かヒントになるものが得られるといいが。

 

『HQ! きらりおねーさんは……冷蔵庫からプリンを出しやがりました!』

 

「え゛っ」

 

現在、家の冷蔵庫にあるプリン。

それはいわゆる限定品。とても高価。とても希少。

きらりは随分と長い時間並んでそれを購入した。……と言っていた。

無事買えたはいいが、食べるのがもったいないと数日間冷やし続けていたそれを。

多分賞味期限ギリギリまでそうしているんだろうなと思わせたそれを。

今、このタイミングで解禁したということは。

 

「めっっっちゃ怒ってるじゃん……。」

 

確定である。

 

『……仁奈、帰っていーです?』

 

身の危険を感じたのか、仁奈は帰投を希望する。

 

「うん。……くれぐれも、見つからないように。」

 

きらりは、とんでもなく怒っている。

それが知れただけでも収穫としては十分だろう。

……できれば、知りたくなかったけど。

 

 

 

 

 

作戦会議である。

私はうさぎのぬいぐるみを抱きかかえ、布団の上にあぐらをかく。

仁奈は同じように枕を抱きしめ、足を投げ出して座っていた。

 

「心当たりは。」

 

「あったら苦労しねーですよ……。」

 

それもそうである。

私達はうーんと唸りながら、それぞれ抱きしめたまま腕を組んだ。

 

「……はっ! そーいえば!」

 

すると、仁奈が何かに気づいたように顔を上げる。

 

「……服を泥だらけにしちまったからかもしれねーです。」

 

なるほど元気な証拠である。

 

「……それ、かな?」

 

原因としてはいささか弱いような気がするが。

しかしようやく思い当たった貴重なひとつだ。

 

「よし。……行ってみよう。」

 

「……いっしょに謝ってくだせー。」

 

「もちろん。」

 

善は急げ。謝るのは早いに越したことはない。

私達はプリンを食べ終えた頃を見計らって、きらりの元へと向かった。

 

 

 

 

 

作戦会議である。

 

「どうしよう仁奈、流石に泣かれるのは予想外だ。」

 

私達は頭を下げ、懺悔した。

この度は砂場でテンションが上がってしまい服を泥だらけにしてごめんなさい。

するときらりはどうしたか。

仁奈を許すでもなく。そうではないと怒るでもなく。

ただ、泣き出したのだ。

あまりに想定外の状況に、一度布団まで退避し、現在に至る。

 

「泣きたくなるほど汚しちまったでごぜーますかね……。」

 

そこまで行くと一体どれだけ汚したのか気になってくる。

……と、冗談はさておき。

 

「謝る内容が間違ってたのかも。」

 

仁奈は私の言葉に対し、もう心当たりなんて無いと言わんばかりに後ろに倒れ込んだ。

 

「……杏おねーさんは、ねーんですか? 心当たり。」

 

「ありすぎて困る。」

 

それはもう大量にあるともさ。

きらりとは仁奈より長い付き合いだし、私は仁奈より良い子ではないもの。

 

「一番やべーのは何でやがりますか?」

 

「一番かぁ……。」

 

その膨大なやらかしの中で、一番やべーやつと聞かれると。

 

「……あ。」

 

ひとつ、思い当たった。

そうか。それかもしれない。それしかないんじゃないか。それに違いない。

一度考えてしまうと、それ以外有り得ないような気がしてくる。

 

「……よし。行こうか。」

 

「……はいです。」

 

私達はのそりと起き上がり、再びきらりの元へ向かった。

 

 

 

 

 

作戦会議である。

 

「どうしよう仁奈、身動きが取れん。」

 

再び頭を下げ、懺悔すると。

私はきらりにがっしりと抱き締められていた。

彼女は依然として泣き止まないままだ。

 

「仁奈もおんなじでごぜーます。」

 

左側から仁奈の声。

どうやら両手で包み込むように2人とも抱き締められているらしい。

 

「きっとまた間違えたんでごぜーますよ……。」

 

マジで言っているのか。

 

「徹夜でゲームが罪ではないと……?」

 

そんなはずはあるまい。

完徹ゲームは罪だ。だって甘美な味がするもの。

 

「もうなんもわかんねーです……。」

 

仁奈は諦めるように呟く。

いいのか。諦めていいのか。諦めるしかないのか。

結局私達は何をやらかしたんだ。

声をかけても、きらりは抱き締める力を強くするだけだし。

 

でも、やっぱりきらりの感触は心地良くて。

泣き止んだら、素直に教えてもらうしかないか、なんて。

そんなことを考えながら、私は頭をきらりに預け、そっと目を閉じる。

 

 

 

 

 

心臓の脈動は、穏やかな子守唄。



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7.琥珀の水面は揺らめいて

悪い夢を見た。

趣味が悪いし、気分も悪い。

とにかく、悪い夢だった。

 

「……っ、」

 

乱れた呼吸。へばりついた前髪。

乱雑に掻き上げる。

大きく深呼吸。周囲を見渡す。

事務所の一室。誰も居ない。

仕事から帰って、そのままソファで寝てしまったらしい。

身につけているものは、外行きの服のままだった。

 

息が苦しい。トップスを全て脱ぎ捨てる。

ゆっくりと息を吐く。

……うん。よし。

 

「やっちゃったなぁ……。」

 

着替えずに寝てしまった。

 

最近は仕事終わりに事務所に寄る用事もなかったし。

家に帰ってすぐ倒れても、きらりが着替えさせてくれたから。

それと同じ感覚で、つい横になってしまった。

 

首元の開いた服で寝ないと、私は決まって悪夢を見る。

あの日の夢。あの日の記憶。

お母さんに、殺される夢。

両手が首に纏わりついて。じわりじわりと締め上げて。

私の身体が壊れていって、それでも止めてくれなくて。

私が最期に、ごめんなさい、って。

そう呟いて、目を覚ます。

そんな夢を、必ず見る。

 

だから普段は、「働きたくない」と大きく書かれたTシャツを着て過ごす。

あれを私が着ていることに、誰も違和感を覚えない。

元々はよく分からないノリで部屋着に書き込んだものだったが。

これは私の普段着を誤魔化すのに大変有用だった。

書かれているものが、ニートアイドルのポリシーだというのなら。

毎日似たようなものを着ていても、怪しまれることはない。

似たようなものばかり持っていても、「まあニートだし」で済まされる。

私の要望と、ニートというキャラクターは、これ以上なく合致していた。

 

起きている状態であれば、別段気にすることはない。

チョーカーやネックレスだって付けていられる。

ただ、寝る時だけはダメなのだ。

首元の大きく開いた、ブカブカのTシャツでないと。

私は夢で殺される。

 

そもそも部屋着で寝ればいい話だ。

それはその通り。私だってそうしたい。

だが、アイドル活動というものは、どうも身体を酷使する。

喋らなきゃいけないし。動かなきゃいけないし。

モノによっては頭も使う。

ライブの日なんてそれが全部だ。

体格こそ小学4年生だが、体力もそうだと思わないでほしい。

何が言いたいかって、日中に寝なきゃ身が保たない。

 

だから私は、極力あのTシャツを着て過ごす。

睡魔に襲われても、そのまま寝てしまえるように。

仕事先の控え室等でその姿を目撃されても、スタッフに違和感を持たれないように。

ついでにその姿が、ニートアイドルのイメージを更に確固たるものにするように。

 

ただ今日は、あの服じゃダメな仕事だった。

だからきらりに選んでもらったし、前日はたっぷり寝た。15時間。

……それでも、ダメだった。

 

「おらにげんきをー……、」

 

胡座をかいたまま両手を掲げ、くだらない台詞を吐こうとする。

 

「…………。」

 

それがとんでもなくくだらないことに気付いて、ため息と共に手を下ろした。

 

 

 

 

 

「何を倒そうとしてるんですか、半裸で。」

 

とんでもなくくだらない台詞を聞かれていたことに気付いて、瞬間的に身体が硬直した。

 

 

 

 

 

「……幸子さんや、なんでここにいるんだい。」

 

ギ、ギ、ギ、と、軋んだ機械のように振り向く。

そこには当然、先程の声の主が。

輿水幸子が立っていた。

 

他事務所のアイドルである、白坂小梅と輿水幸子。

この2人は、以前依田芳乃と同じ仕事をしたことがきっかけで。

仕事でもプライベートでも、私達の事務所と密接に関係するようになった。

それこそ、ちょっとした友達感覚だ。

 

「アナタのプロデューサーさんに呼ばれたからですよ、杏さんや。」

 

幸子の言葉に、ようやく思い出す。

幸子ときらりの2人で新しくできたテーマパークのお化け屋敷に入る、という番組の企画。

その詳しい説明を近頃ここで行うと、プロデューサーが言っていたことを。

 

「きらりはまだ来てないよ。」

 

さて、友達感覚とは言ったが、ならば親密なのかと言われると、そうではない。

適当に遊んで、適当に話をして、適当に仲良くやっている。その程度。

その理由を問われたら、私は少し困ってしまう。

 

「みたいですね。1時間は早いですし。」

 

明文化できるほどハッキリとはしていないし、確信的な出来事があったわけでもない。

ただ、なんとなく。

ああ、きっと根本的なところで、この子とは決して交わらないんだろう。

互いを構成するものの、その土台。その前提。その当然が。

 

「真面目だねぇ。」

 

絶対に相容れないのだろう。

理解なんて、できやしないのだろう。

それを表に出してしまえば、きっと退けやしないのだろう。

きっと目の前の人物も、それを理解しているんだろう。

そう、思うのだ。

 

「……というか、大丈夫ですか? 汗、すごいですよ。」

 

だからこそ、この状況は好ましくない。

自分の精神が冷静な状態でないことを、私は自覚している。

だがそれを、この人物に触れさせてはいけない。

それを許せば、何か……自分でも予測できない何かが、崩れることになる。

 

「ああ、ちょっと、冷房が弱いから。」

 

何を言ってるんだ私は。

空調はさっきから、肌寒いほどに効いているじゃないか。

 

「暑がりにも程がありますよ。ほら、背中向けてください。」

 

幸子はいつの間にかハンカチを水で濡らしており、きっと背中を拭こうとしてくれているのだろう。

両の手のひらの上で数回、ぽんぽんと布を跳ねさせていた。

 

「……いや、いいよ。自分でやるから。」

 

「手が届かないでしょう。気にしなくていいですから、ほら──」

 

幸子は私を反転させようと、私の肩に触れる。

その時だった。

 

「──っ、」

 

彼女は、そこで静止した。

時間が止まってしまったかのように。

 

「……幸子?」

 

私の声に、彼女はハッとしたように手を引っ込めた。

 

「ああ、その、えーとですね、早めに来て自習をしようと思ってたんですが、筆記用具を忘れてしまいました。

ので、ちょっと取りに戻りますね。」

 

「え、いや、筆記用具くらい……、」

 

私が言い終わらないうちに、扉の閉まる音が響いた。

 

「…………。」

 

机の上に置かれた、ぬるい麦茶を手に取ろうとする。

私は再び、大きなため息をついた。

 

 

 

 

 

『もしもし、きらりさんですか?

今日の打ち合わせなんですが、少し早めに……というか、今から来れませんか。

杏さんが……、その、多分ですけど、アナタが必要です。

落ち着くまで、ボクは適当に外を歩いてますから。

はい。よろしくお願いします。では。』



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8.輿水家の大掃除

「大掃除を、します!」

 

「おー!」

 

幸子の号令に、仁奈は勢いよく返事をした。

 

 

 

 

 

夏休みが始まってから、数日が経過。

両親を失った……失っていた幸子は、親元を離れ寮に住んでいた小梅と共に、2人で共同生活を送っていた。

幸子に1人暮らしをするだけの能力が無かったから、というわけではない。

実際、両親の幻覚を見ている間、幸子は1人で生活していたのだから。

小梅を家に招き入れた理由は、単純に幸子が寂しいからだった。

 

同棲を始めて、早速問題が訪れた。

家があまりにも広いのである。

ただでさえ、元々3人で暮らしていた家であるというのに。

裕福な家庭であったが故か、豪勢な一軒家なのだ。なんと3階建て。

 

両親が居なくなってから、幸子は必要最低限のスペースに対してのみ家事を行なっていたようだった。

トイレ、風呂、キッチン、リビング、廊下、各々の部屋、その辺りだ。

つまり。この家の大部分が、それはもう長いこと手付かずなのである。

 

流石に家の全部を常日頃から完璧にするのは不可能だが、半年に一度くらいは大掃除をしよう。

話し合いの末にそう決めた幸子と小梅は、芳乃に助力を求めて事務所へとやってきた。

するとそこに丁度全員、主に仁奈の宿題を見るために居たので。

今日のノルマを終わらせた後、こうして大掃除のために幸子の家へと向かったのだ。

 

 

 

 

 

『あたしも手伝った方がいいかな。』

 

2人ずつに班を分けて部屋を掃除していると。

小梅と仁奈が担当している部屋の空中に、メモがふわふわと浮かんだ。

 

「でも、仁奈ちゃんが視えないから……危ないんじゃない?」

 

それを見て、小梅は難色を示す。

幽霊が視えない仁奈が居る空間で、「あの子」が作業をするとなると。

不慮の事故が発生する確率が高いのではないか。

 

「……「あの子」おねーさんが、見えればいいんでごぜーますか?」

 

小梅の言葉に振り返り、メモを見た仁奈が尋ねる。

 

「そう、だけど……何か、いい案、ある……の?」

 

仁奈の表情に「そんな簡単なことでいいのか」と書いてある。

仁奈は自らの胸をばしんと叩き、幸子のように自信満々に答えた。

 

「らくしょーでごぜーます!」

 

 

 

 

 

「仁奈ちゃん、そっちは大丈夫そうですか?」

 

それから少しして。

杏と班になった幸子は、自分達の担当分がひと段落ついたので、他の班の手伝いをすることにした。

最も近かったのが小梅と仁奈の班だったので、まずはこちらの様子を見に来たのだ。

 

「…………。」

 

背中にかかった幸子の呼び声に、仁奈は作業の手を止める。

しかし、それだけだった。

返事をすることも、振り返ることもせず、ただ佇んでいる。

 

「……何か、壊してしまいましたか?

仕方ないですよ、これだけ物が多いんですから。壊れやすいもののひとつやふたつ。」

 

その様子を見て幸子は、仁奈が陶器か何かを壊してしまったと推測する。

これを見られたら怒られてしまう。だからといって隠すのはいけないことだ。

そうやって、どうしたらいいか分からなくなっているのだと。

 

「それより、怪我はありませんか?

手を切ったりとかは──」

 

幸子は仁奈の無事を確認しようと、その肩に優しく触れる。

そのまま引き寄せるようにして、仁奈にこちらを向かせた。

そして、幸子は仁奈の顔を見る。

 

「──、」

 

そこには、何も無かった。

キグルミのフードを被った頭には、頭が、身体が存在しなかった。

まるで頭の形のように膨らんだフードの裏地が、虚無が、幸子を見つめ返していた。

 

幸子は立った状態のまま、仰向けに倒れる。

完全に気絶していた。

 

……一部始終を後ろで見ていた杏は、ポケットから携帯を取り出す。

 

「ねえ、「あの子」がキグルミ着てるだけなのに幸子が気絶したんだけど。」

 

『「あの子」ちゃんがキグルミ着てるからだと思うよ?』

 

とりあえずソファかベッドにでも運ぼうと、杏はきらりに助力を求める。

「あの子」でも運ぶことはできるだろうが、途中で幸子が目を覚ます可能性を考えると、あまり良策とは言えない。

 

この後トイレから帰ってきた小梅が「何故そんな面白い場面を見逃してしまったのか」と小1時間落ち込むのだが、これはまた別の話だ。

 

 

 

 

 

「私、とんでもないことに気がついてしまったかもしれません。」

 

班員のほたると共に部屋の掃除をしていた茄子が、床を拭く手を止めて呟いた。

 

「私が願ったら、埃を全部一箇所に集められるんじゃないでしょうか。」

 

「……あっ⁉︎」

 

その手があったかと言わんばかりに驚愕し、窓を拭いていたほたるは新聞紙を手から落とした。

 

「……“家中の埃が全部、この中に集まりますように”!」

 

茄子は70リットルのゴミ袋を広げ、声高に叫ぶ。

すると、次の瞬間。

 

「……出来ましたね。」

 

「出来ちゃいましたね……。」

 

空だったゴミ袋は限界の8割ほどまで膨らみ、中には埃がぎゅうぎゅうに詰まっていた。

 

喜びよりも前に、微妙な空気が辺りを包む。

これ、最初からやっていれば数秒で終わったのでは?

今までの私達の苦労、無駄だったのでは?

 

「……ラッキーですねっ!」

 

「……ラッキーです! はい!」

 

そんな考えを振り払うように、2人はラッキーと連呼し続けた。

頬を伝う冷や汗は、いつまでも止まってはくれなかった。

 

 

 

 

 

「……なるほどー、その手がー。」

 

気絶した幸子の元へきらりが行った後、1人で黙々と作業をしていた芳乃は。

家全体が茄子の気に包まれ始めたのを見て、全てを悟った。

 

その後。

定期的に茄子が訪れるという形で、輿水家の問題は無事解決した。

 

 

 

 

 

『本当に貰ってもいいの? これ。』

「ゆーじょーのあかしでごぜーます!」



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その他
双葉杏と夏の果て


ツイッターにて頂いたお題で書いたものに、選ばれなかった他ルートも加筆してゲームブック風にしたものです。
超常現象プロダクションとは何の関係もありません。
登場人物の死亡を含みます。ご注意ください。


「それならさ。もう、逃げてしまおうか。」

 

八月最後の日。

ボクの弱音に、彼女は夕焼けに染まりながら。

なんでもないことのように、そう呟いた。

 

「何処だっていいさ。此処に居るのが嫌なんでしょ?」

 

でも、いったい何処に?

ボクの言葉に、彼女は簡単なことのように答えた。

 

「何処に行きたい?」

 

彼女がゆらゆらと歩く、その影の隣を付いていく。

交差点の真ん中で、彼女は立ち止まり、振り返った。

 

「何処だっていいよ。好きな方を選べばいい。」

 

二車線の十字路。その中心で少女は問う。

信号は全て青を示していた。

ボク達の他に、人も車も居なかった。

 

ボクは──

 

「東に行きたい。」

「西に行きたい。」

「南に行きたい。」

「北に行きたい。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【「東に行きたい。」】

三つのランプが赤に変化する。

彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。

選んだ理由を聞くこともせずに。

 

「いいじゃん、空気が美味しそうだ。」

 

きっと何を選んでも、彼女は否定しないんだろう。

何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。

 

最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。

駅員も乗客も、誰も居ない電車。

ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。

 

向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。

少しずつ、杏色ではなくなっていく。

 

普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。

終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。

停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。

誰だって、時間には逆らえない。

 

終電で降りた駅は、紅葉が綺麗な山道に繋がっていた。

空はすっかり黒く染まり、満月だけが彼女に色を与えていた。

彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。

その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。

 

「八月三十一日、二十四時。」

 

唐突に彼女が口を開く。

ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。

9月1日、0時。

 

「ここが、夏の果て。」

 

山の中腹。大きな岩々に囲まれた、崖の手前。

その下は現実味を失わせるほど遠くて、木々の紅葉が山の表面を彩っていた。

まんまるの月が空に浮かんで、彼女はそれに背を向けた。

いつの間にか裸足になっていた少女は、ふわりと宙に浮いてこちらを見ていた。

彼女の全身は崖の外にあって、ボクはまだ岩の上に立っていた。

 

「これ以上進めば、もう戻れない。」

 

いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。

ボクは靴を脱いで、崖のギリギリに立った。

 

「どうする?」

 

ボクは彼女の手を握り──

 

此方へ引き寄せた。

彼方へ歩み寄った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【此方へ引き寄せた。】

 

「……幸子?」

 

ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。

彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。

だというのに。空間に固定されているように。

世界がそれを許していないかのように。

 

「ダメだよ。」

 

紅葉の波が風に乗って、ボクへと押し寄せる。

ボクを遠ざけているかのようだった。

 

「それは、できない。」

 

押した波が、再び引いていく。

彼女を飲み込もうと。

彼女を攫おうと。

 

「……やっちゃいけない。」

 

紅葉たちが渦を巻いて、彼女を覆い隠す。

 

「私は、もう──」

 

 

 

 

 

夏の果てに居る彼女の影は、黒のような赤だった。

 

 

 

 

 

──彼女が、居ない。

 

虫の音だけが世界を包む。

貴方の声が聞こえない。

紅葉だけが世界を彩る。

貴方の色が何処にも無い。

 

貴方は居なかった。

最初から、居なかった。

 

始発の普通列車に1人で乗った。

列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。

冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。

 

十字路を1人で歩いた。

ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。

行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。

 

自室の机の上に、手紙があった。

“幸子へ”

封を開け、中を見た。

 

 

 

 

 

“俺が悪かった、双葉杏の全てを話す。

だから直ぐに事務所に来い。馬鹿なことを考えるな。

 

──プロデューサー”

 

 

 

 

 

【END11】貴方が悲しむだろうけど

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【彼方へ歩み寄った。】

 

「……うん、分かった。」

 

ボクが少女の前に立つと、彼女はまた微笑んでくれた。

月に背を向けた今、表情は見えないけれど。

きっと、微笑んでくれている。

 

「夏の果てを越えに行こう。」

 

風に乗って、紅葉が静かに流れていく。

ボク達を招いているかのようだった。

 

「人が時間に逆らえる、唯一の手段をとろう。」

 

風は少しずつ、勢いを増して押し寄せる。

ボク達を飲み込もうと。

ボク達を誘おうと。

 

「苦しいのは、これで最後。」

 

視界を覆い尽くす紅葉が、目の前に現れる。

 

「手を、離さないで。」

 

 

 

 

 

夏の果てを越えた先は、黒のような赤だった。

 

 

 

 

 

凄まじい勢いで攫われ、どちらが上なのかも分からない。

瞬間的にパニックに陥り、訳も分からず空気を吐き出した。

何かを叫ぼうと発したそれは、落下速度に追いつけず空中に霧散した。

何もかもが不確かな中、彼女の手の感触だけが、確かに感じられた。

 

ボクは、自分の命が──

 

今になって惜しく思えた。

早く消えてしまえと願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【今になって惜しく思えた。】

その直前になって、ボクは今更、恐怖に支配された。

この苦痛を乗り越えさえすれば楽になれると分かっていても、逃げ出したくて仕方がなかった。

ボクには到底耐え切れるものではなかった。

いや、誰一人として耐え切れた人間など居ないのだろう。

ただ、手遅れだったというだけだ。今のボクのように。

 

背中を虫が這い上がるような不快を伴った浮遊感から逃れようと、ボクは彼女の手を強く握りしめた。

ボクよりも華奢なそれが、折れてしまうくらいに強く。

すると、彼女に手を引かれたような気がした。

かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。

東に行くと決めた時のように、優しく微笑んでいた。

彼女はボクへと顔を近づけていき──

 

 

 

 

 

──手を離し、思い切り突き飛ばした。

 

 

 

 

 

彼女に押し上げられ、ボクは空中に浮かぶ。

纏わりついていた虫が剥がれ落ちる。

渇望していた停滞に身体が歓喜する。

マトモな思考が漸く可能になる。

今、彼女は、何をした。。

 

ボクを浮遊させた彼女は、反作用で簡単に落ちていく。

空に取り残されたボクは、周囲が明るくなっていくのを感じた。

赤だった木々は、杏色に染まっていた。

黒だった景色は、杏色を取り戻していた。

 

 

 

 

 

握っていた手の感触が、紅葉に流され消えていた。

 

 

 

 

 

始発の普通列車に1人で乗った。

列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。

冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。

 

十字路を1人で歩いた。

ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。

行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。

 

自室の机の上に、手紙があった。

“9月1日の輿水幸子へ”

封を開け、中を見た。

 

 

 

 

 

“前を見て、息をして。それだけでいいよ。

それに飽きたら、やっと歩いてみればいい。

 

──八月三十一日の双葉杏”

 

 

 

 

 

【END10】貴方を救えませんでした

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【早く消えてしまえと願った。】

消えてしまえ。無くなってしまえ。

無味乾燥な余生なんて。アナタが居ない人生なんて。

この苦痛さえ耐え切れば、この苦しみから逃げ出せる。

 

ボクは彼女の手を握り続けた。

決して離してしまわないように。彼女に付いていけるように。

この苦痛に身を任せて、強く握り過ぎないように。

 

すると彼女は、もう片方の手で、ボクの頬に触れた。

かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。

その表情は優しくて。それでもどこか悲しそうで。

ボクがその表情をさせていることに気付いて。

それを少し、嬉しいと思ってしまう。

 

……これで、よかったのかな? 幸子。

 

彼女が何かを呟くけれど、言葉はボクまで届かない。

風に掻き消され、もう届かない空の方へ。

ボク達が逆さまになっているのだと、それを見て初めて知った。

 

ありがとうございます。我が儘に付き合ってくれて。

 

ボクは彼女と同じように、空気を吐き出した。

きっと伝わらないことが、分かっていたから。

 

足場を失ったボク達は、嘘みたいに簡単に落ちていく。

支えを失ったボク達は、やっと苦痛が和らいでいく。

■■を失ったボク達は、もう苦しまなくていい。

 

 

 

 

 

ふたりでいきましょう。

ふたりで、いっしょに。

 

 

 

 

 

【END6】貴方と一緒でいたかった

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【「西に行きたい。」】

三つのランプが赤に変化する。

彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。

選んだ理由を聞くこともせずに。

 

「……ありがとう。」

 

きっと選んで欲しかったのは、これなんだと思ったから。

何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。

 

最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。

駅員も乗客も、誰も居ない電車。

ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。

 

向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。

少しずつ、杏色ではなくなっていく。

 

普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。

終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。

停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。

誰だって、時間には逆らえない。

 

終電で降りた駅は、森のような場所だった。

少し細く、とても長い木が、何本も生えている場所。

辺りはすっかり黒く染まり、木々から漏れる満月だけが彼女に色を与えていた。

彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。

その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。

 

「八月三十一日、二十四時。」

 

唐突に彼女が口を開く。

ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。

9月1日、0時。

 

「ここが、夏の果て。」

 

かろうじて道と呼べる土の跡が、目の前で途切れている。

そこから先はあまりに暗くて、彼女の姿が不安定になる。

いつの間にか裸足になっていた少女は、緑の上に足を乗せていた。

 

「これ以上進めば、もう戻れない。」

 

いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。

ボクは靴を脱いで、獣道のギリギリに立った。

 

「どうする?」

 

ボクは彼女の手を握り──

 

此方へ引き寄せた。

彼方へ歩み寄った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【此方へ引き寄せた。】

 

「……幸子?」

 

ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。

彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。

だというのに。空間に固定されているように。

世界がそれを許していないかのように。

 

「ダメだよ。」

 

木々が異様にざわめき出す。

ボクを遠ざけているかのようだった。

 

「それは、できない。」

 

緑は月を遮って、その影を増やしていく。

彼女を飲み込もうと。

彼女を攫おうと。

 

「……やっちゃいけない。」

 

視界を覆い尽くす影が、目の前に現れる。

 

「私は、もう──」

 

 

 

 

 

夏の果てに居る彼女の影は、黒のような緑だった。

 

 

 

 

 

──彼女が、居ない。

 

木々の音だけが世界を包む。

貴方の声が聞こえない。

月の光だけが世界を照らす。

貴方の色が何処にも無い。

 

貴方は居なかった。

最初から、居なかった。

 

始発の普通列車に1人で乗った。

列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。

冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。

 

十字路を1人で歩いた。

ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。

行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。

 

自室の机の上に、手紙があった。

“幸子ちゃんへ”

封を開け、中を見た。

 

 

 

 

 

“事務所の手紙を読んだ。

携帯が繋がらないから、書置きを残しておく。

これを見たらすぐに連絡をしてほしい。

お願いだ。そんなこと、しないでくれ。

 

──星 輝子”

 

 

 

 

 

【END1】貴方は時間に逆らった

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【彼方へ歩み寄った。】

 

「……うん、分かった。」

 

ボクが少女の隣に立つと、彼女は微笑んでくれた。

 

「付いて来て。見て欲しいものがあるんだ。」

 

彼女はそう言って、また歩き出す。

ボクは彼女の影を辿っていく。

 

周囲はどんどん暗くなっていく。

少女はどんどん黒くなっていく。

彼女はどんどん見えなくなっていく。

 

ついにボクは彼女を見失う。

それでもボクは歩き続けた。

この先にあるものを、やっとボクは理解したから。

 

「……そう。そこだよ。」

 

何処からか声がする。

目の前に緑が立ち塞がっていた。

声に従って、ボクは草木を掻き分ける。

 

木々から光が一本漏れて、ある一点を照らしていた。

大樹の幹に身体を預け、静かに瞳を閉じていた。

日の光に照らされて、彼女は眠ったままだった。

 

 

 

 

 

夏の果てに居る彼女の寝顔は、嘘のように綺麗だった。

 

 

 

 

 

「死因、聞かされなかったんだよね。」

 

後ろから声。

振り返ると、目の前で眠る少女と同じ姿。

 

「……私は、自分で望んだんだ。」

 

しかしその身体は、うっすらと透けていた。

 

「だから、幸子まで来ることはないよ。

何も同情することなんてない。

幸子は、ちゃんと幸子の──」

 

彼女は静かに笑っていた。

申し訳なさそうに。安心させるように。まるで何かを隠すように。

でも。

 

 

 

 

 

「──同情?」

 

聞き逃してはいけない言葉だった。

 

 

 

 

 

「アナタは、ボクが同情でこんなことをすると思ってるんですか?」

 

何かが食い違っていることに、やっと気付いたのだろう。

ボクの声を聞いて、彼女は目に見えて狼狽え始めた。

 

「え……だって、ほかに、何が……、」

 

同情。

死んだ人間に同情。

嗚呼。彼女にはまだ未来があったはずなのに。

何故。彼女にはまだ希望があったはずなのに。

予期せずして奪われた彼女が居るのに。

自分はのうのうと、それらを享受するのか。

 

そんな薄っぺらい感情で、後追いなんてするものか。

 

「杏さん、ボクは。ボクが死にたいのは。

そんなどうでもいいことのためじゃないんですよ。」

 

ボクは彼女の肩を掴み、思い切り力を入れる。

苦痛に歪む表情を無視して、言葉を吐き続けた。

 

 

 

 

 

「好きなんです。アナタのことが。」

 

 

 

 

 

「…………え、」

 

少女は目をまんまるにして、言葉すら失ってボクを見上げる。

ボクは構わずに、感情を連ね続けた。

 

 

 

「死んでほしくなかったんです。」

 

彼女の身体がどんどん透けていく。

 

「生きていてほしかったんです。」

 

どんどん此処から居なくなっていく。

 

「アナタが居ない人生なんて、苦痛な余生でしかない。」

 

それでも驚愕に目を見開いたままで。

 

「でもアナタは死んでしまった。」

 

きっと彼女は、考えたことすら無かったのだろう。

 

「だから。ボクは、死にたいんです。」

 

自分が誰かに好意を持たれているなんて。

 

「アナタと同じ場所に逝きたいんです。」

 

自分が死んで悲しむ人が、一人でも居たなんて。

 

「アナタと同じ方法で、逝きたいんです。」

 

……ざまあみろ。一人で勝手に死ぬからだ。

 

 

 

「……っ、ダメだ、幸子、それは──」

 

我に帰り、ボクに何かを言おうとするけれど。

それ以上言葉を発する前に、彼女は黒に溶けて消えた。

 

ボクは眠る彼女に向き直り、ゆっくりと歩み寄る。

大樹の幹に身体を委ね、彼女の肩に頭を預けた。

瞳を閉じ、ひとつ、ゆっくりと深呼吸。

 

 

 

 

 

「おやすみなさい、杏さん。」

 

 

 

 

 

【END8】貴方と同じいきかたを

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【「南に行きたい。」】

三つのランプが赤に変化する。

彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。

選んだ理由を聞くこともせずに。

 

「いいじゃん、月がよく見えそうだ。」

 

きっと何を選んでも、彼女は否定しないんだろう。

何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。

 

最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。

駅員も乗客も、誰も居ない電車。

ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。

 

向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。

少しずつ、杏色ではなくなっていく。

 

普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。

終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。

停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。

誰だって、時間には逆らえない。

 

終電で降りた駅は、これでもかと高層ビルが立ち並ぶ場所だった。

そのどれにも光は無く、きっとここには誰も居ないんだろう。

空はすっかり黒く染まり、淡く光る満月だけが彼女に色を与えていた。

彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。

その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。

 

「八月三十一日、二十四時。」

 

唐突に彼女が口を開く。

ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。

9月1日、0時。

 

「ここが、夏の果て。」

 

一番高いビルの、一番高い場所。月に最も近い場所。

いつの間にか裸足になっていた少女は、月に背を向けて此方を見ていた。

彼女の全身は青白く染められていて、ボクはまだ影に居た。

 

「これ以上進めば、もう戻れない。」

 

いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。

ボクは靴を脱いで、月が及ばないギリギリに立った。

 

「どうする?」

 

ボクは彼女の手を握り──

 

此方へ引き寄せた。

彼方へ歩み寄った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【此方へ引き寄せた。】

 

「……幸子?」

 

ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。

彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。

だというのに。空間に固定されているように。

世界がそれを許していないかのように。

 

「ダメだよ。」

 

月光が静かに引いていく。

ボクを遠ざけているかのようだった。

 

「それは、できない。」

 

引いた波が、再び押し寄せる。

彼女を飲み込もうと。

彼女を攫おうと。

 

「……やっちゃいけない。」

 

目を開けていられないほどの光が、彼女を覆い隠す。

 

「私は、もう──」

 

 

 

 

 

夏の果てに居る彼女の影は、黒のような白だった。

 

 

 

 

 

──彼女が、居ない。

 

風の音だけが世界を包む。

貴方の声が聞こえない。

月の光だけが世界を照らす。

貴方の色が何処にも無い。

 

貴方は居なかった。

最初から、居なかった。

 

始発の普通列車に1人で乗った。

列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。

冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。

 

十字路を1人で歩いた。

ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。

行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。

 

自室の机の上に、手紙があった。

“幸子ちゃんへ”

封を開け、中を見た。

 

 

 

 

 

“いろんな幽霊のお友達に話を聞いてみたよ。

確かに、それをすれば、杏さんは来てくれるかもしれない、って。

でも、もう杏さんは成仏したの。

あの子みたいに留まり続けることも、ましてや生き返ることなんて。

お願い幸子ちゃん。もう、やめにしよう?

 

──白坂小梅”

 

 

 

 

 

【END12】貴方に再び逢えるなら

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【彼方へ歩み寄った。】

 

「……うん、分かった。」

 

ボクが少女の隣に立つと、彼女はまた微笑んでくれた。

月に背を向けた今、表情は見えないけれど。

きっと、微笑んでくれている。

 

「夏の果てを越えに行こう。」

 

ボクの手を握っているのとは反対の手で、彼女はボクに何かを手渡す。

小さな白の粒だった。

ボクに渡したのと同じものを、もうひとつ彼女は持っていた。

 

「人が時間に逆らえる、唯一の手段をとろう。」

 

ゆっくりと彼女は手のひらの白を口に含む。

ボクも同じように、舌の上にそれを乗せた。

 

「苦しいのは、これで最後。」

 

彼女と同時に、白を飲み込む。

 

「手を、離さないで。」

 

 

 

 

 

夏の果てを越えた先は、黒のような白だった。

 

 

 

 

 

心臓の脈動が加速度的に早まっていく。

瞳が機能しなくなって、光を無差別に搔き集める。

目を瞑っても眩しさが痛い。いくら吸っても酸素が足りない。

世界がぐにゃぐにゃに歪み出し、立つことすらままならなくなる。

何かを叫ぼうと息を吐いて、それを震わせることすらできなかった。

何もかもが不確かな中、彼女の手の感触だけが、確かに感じられた。

 

ボクは、自分の命が──

 

今になって惜しく思えた。

早く消えてしまえと願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【今になって惜しく思えた。】

その直前になって、ボクは今更、恐怖に支配された。

この苦痛を乗り越えさえすれば楽になれると分かっていても、逃げ出したくて仕方がなかった。

ボクには到底耐え切れるものではなかった。

いや、誰一人として耐え切れた人間など居ないのだろう。

ただ、手遅れだったというだけだ。今のボクのように。

 

身体の全てがおかしくなっていく恐怖から逃れようと、ボクは彼女の手を強く握りしめた。

ボクよりも華奢なそれが、折れてしまうくらいに強く。

すると、彼女に手を引かれたような気がした。

かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。

南に行くと決めた時のように、優しく微笑んでいた。

彼女はボクへと顔を近づけていき──

 

 

 

 

 

──唇を重ね、何かをボクに押し込んだ。

 

 

 

 

 

警報で満たされていた身体が正常を取り戻す。

その奥深くにまで彼女が浸透していく。

マトモな思考が漸く可能になる。

今、彼女は、何をした。

 

彼女は驚愕に目を見開くボクの手を離す。

その場でくるりと振り返り、彼女は月と向き合った。

月は全てを見届けて、その輝きを増し始める。

 

閃光に包まれて、次の瞬間、彼女は何処にも居なかった。

視界を取り戻したボクは、頭上が明るくなっていくのを感じた。

白だった空は、杏色に染まっていた。

黒だった景色は、杏色を取り戻していた。

 

 

 

 

 

握っていた手の感触が、光に包まれ消えていた。

 

 

 

 

 

始発の普通列車に1人で乗った。

列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。

冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。

 

十字路を1人で歩いた。

ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。

行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。

 

自室の机の上に、手紙があった。

“八月三十一日の輿水幸子へ”

封を開け、中を見た。

 

 

 

 

 

“大丈夫。生きていけるさ。

そんなに優しい幸子なら。

 

──9月1日の双葉杏”

 

 

 

 

 

【END9】貴方のことが好きでした

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【早く消えてしまえと願った。】

消えてしまえ。無くなってしまえ。

無味乾燥な余生なんて。アナタが居ない人生なんて。

この苦痛さえ耐え切れば、この苦しみから逃げ出せる。

 

ボクは彼女の手を握り続けた。

決して離してしまわないように。彼女に付いていけるように。

この苦痛に身を任せて、強く握り過ぎないように。

 

すると彼女は、もう片方の手で、ボクの頬に触れた。

かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。

その表情は優しくて。それでもどこか悲しそうで。

ボクがその表情をさせていることに気付いて。

それを少し、嬉しいと思ってしまう。

 

……ごめん。あんなこと、するんじゃなかったね。

 

彼女が何かを呟くけれど、言葉はボクまで届かない。

朱になって、ポタポタと零れ落ちていく。

もう戻れないのだと、それを見て安堵した。

 

アナタは何も、悪くなんかないです。

 

ボクは彼女と同じように、残った朱を吐き出した。

きっと伝わらないことが、分かっていたから。

 

脈拍を失ったボク達は、嘘みたいに冷たくなっていく。

感覚を失ったボク達は、やっと苦痛が和らいでいく。

■■を失ったボク達は、もう苦しまなくていい。

 

 

 

 

 

ふたりでいきましょう。

ふたりで、いっしょに。

 

 

 

 

 

【END7】貴方と居られないのなら

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【「北に行きたい。」】

三つのランプが赤に変化する。

彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。

選んだ理由を聞くこともせずに。

 

「いいじゃん、涼しそうだ。」

 

きっと何を選んでも、彼女は否定しないんだろう。

何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。

 

最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。

駅員も乗客も、誰も居ない電車。

ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。

 

向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。

少しずつ、杏色ではなくなっていく。

 

普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。

終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。

停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。

誰だって、時間には逆らえない。

 

終電で降りた駅は、海のにおいで包まれていた。

空はすっかり黒く染まり、瓦斯灯と満月だけが彼女に色を与えていた。

彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。

その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。

 

「八月三十一日、二十四時。」

 

唐突に彼女が口を開く。

ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。

9月1日、0時。

 

「ここが、夏の果て。」

 

波の音だけが満たされた海辺。

いつの間にか裸足になっていた少女は、足首まで海に身体を委ねていた。

 

「これ以上進めば、もう戻れない。」

 

いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。

ボクは靴を脱いで、波が及ばないギリギリに立った。

 

「どうする?」

 

ボクは彼女の手を握り──

 

此方へ引き寄せた。

彼方へ歩み寄った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【此方へ引き寄せた。】

 

「……幸子?」

 

ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。

彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。

だというのに。空間に固定されているように。

世界がそれを許していないかのように。

 

「ダメだよ。」

 

波が静かに引いていく。

ボクを遠ざけているかのようだった。

 

「それは、できない。」

 

引いた波が、再び押し寄せる。

彼女を飲み込もうと。

彼女を攫おうと。

 

「……やっちゃいけない。」

 

身長の何倍もある高さの波が、目の前に現れる。

 

「私は、もう──」

 

 

 

 

 

夏の果てに居る彼女の影は、黒のような青だった。

 

 

 

 

 

──彼女が、居ない。

 

波の音だけが世界を包む。

貴方の声が聞こえない。

月の光だけが世界を照らす。

貴方の色が何処にも無い。

 

貴方は居なかった。

最初から、居なかった。

 

始発の普通列車に1人で乗った。

列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。

冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。

 

十字路を1人で歩いた。

ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。

行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。

 

自室の机の上に、手紙があった。

“輿水幸子 様”

封を開け、中を見た。

 

 

 

 

 

“謹啓 残暑の候 皆様におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます

このたび亡娘 杏の一回忌にあたり左記のとおりささやかな法要を営みたいと存じます

つきましてはご多忙中まことに恐れ入りますがご参会賜りますようご案内申し上げます

敬具“

 

 

 

 

 

【END2】貴方は此処に居なかった

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【彼方へ歩み寄った。】

 

「……うん、分かった。」

 

ボクが少女の隣に立つと、彼女はまた微笑んでくれた。

月に背を向けた今、表情は見えないけれど。

きっと、微笑んでくれている。

 

「夏の果てを越えに行こう。」

 

波が静かに引いていく。

ボク達を招いているかのようだった。

 

「人が時間に逆らえる、唯一の手段をとろう。」

 

引いた波が、再び押し寄せる。

ボク達を飲み込もうと。

ボク達を誘おうと。

 

「苦しいのは、これで最後。」

 

身長の何倍もある高さの波が、目の前に現れる。

 

「手を、離さないで。」

 

 

 

 

 

夏の果てを越えた先は、黒のような青だった。

 

 

 

 

 

凄まじい勢いで攫われ、どちらが上なのかも分からない。

瞬間的にパニックに陥り、訳も分からず空気を吐き出した。

何かを叫ぼうと発したそれは、気泡となって青に溶けた。

何もかもが不確かな中、彼女の手の感触だけが、確かに感じられた。

 

ボクは、自分の命が──

 

今になって惜しく思えた。

早く消えてしまえと願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【今になって惜しく思えた。】

その直前になって、ボクは今更、恐怖に支配された。

この苦痛を乗り越えさえすれば楽になれると分かっていても、逃げ出したくて仕方がなかった。

ボクには到底耐え切れるものではなかった。

いや、誰一人として耐え切れた人間など居ないのだろう。

ただ、手遅れだったというだけだ。今のボクのように。

 

酸素を求めて身体が発するSOSの激痛から逃れようと、ボクは彼女の手を強く握りしめた。

ボクよりも華奢なそれが、折れてしまうくらいに強く。

すると、彼女に手を引かれたような気がした。

かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。

北に行くと決めた時のように、優しく微笑んでいた。

彼女はボクへと顔を近づけていき──

 

 

 

 

 

──唇を重ね、息を全て吐き出した。

 

 

 

 

 

全てを吐き出していた空っぽの肺が、彼女で満たされる。

渇望していた酸素に身体が歓喜する。

マトモな思考が漸く可能になる。

今、彼女は、何をした。

 

彼女は驚愕に目を見開くボクの手を離す。

その場で小さくなりながらくるりと半回転し、ボクに足を向ける。

そのままボクを、勢いよく蹴り飛ばした。

 

体内の空気を全て吐き出した彼女は、反作用で簡単に沈んでいく。

空気を手に入れて押し出されたボクは、頭上が明るくなっていくのを感じた。

青だった海は、杏色に染まっていた。

黒だった景色は、杏色を取り戻していた。

 

 

 

 

 

握っていた手の感触が、海に流され消えていた。

 

 

 

 

 

始発の普通列車に1人で乗った。

列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。

冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。

 

十字路を1人で歩いた。

ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。

行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。

 

自室の机の上に、手紙があった。

“9月1日の輿水幸子へ”

封を開け、中を見た。

 

 

 

 

 

“本当にダメになったら、いつでも来なよ。

のんびり待ってるからさ。

 

──八月三十一日の双葉杏”

 

 

 

 

 

【END3】貴方は全て分かってた

 

_______________________

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【早く消えてしまえと願った。】

消えてしまえ。無くなってしまえ。

無味乾燥な余生なんて。アナタが居ない人生なんて。

この苦痛さえ耐え切れば、この苦しみから逃げ出せる。

 

ボクは彼女の手を握り続けた。

決して離してしまわないように。彼女に付いていけるように。

この苦痛に身を任せて、強く握り過ぎないように。

 

すると彼女は、もう片方の手で、ボクの頬に触れた。

かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。

その表情は優しくて。それでもどこか悲しそうで。

ボクがその表情をさせていることに気付いて。

それを少し、嬉しいと思ってしまう。

 

……ごめんね。本当に、ごめん。

 

彼女が何かを呟くけれど、言葉はボクまで届かない。

泡になって、もう届かない空の方へ。

ボク達が逆さまになっているのだと、それを見て初めて知った。

 

もう置いてっちゃ、嫌ですからね。

 

ボクは彼女と同じように、残った僅かな空気を吐き出した。

きっと伝わらないことが、分かっていたから。

 

空気を失ったボク達は、嘘みたいに簡単に沈んでいく。

酸素を失ったボク達は、やっと苦痛が和らいでいく。

■■を失ったボク達は、もう苦しまなくていい。

 

 

 

 

 

ふたりでいきましょう。

ふたりで、いっしょに。

 

 

 

 

 

【END5】貴方と一緒に居たかった

 

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佐久間まゆの赤い糸

登場人物の死亡を含みます。


私がそれに気づいたのは、事務所に向かう途中。

大通りに出てすぐのことでした。

だって、そうでしょう?

道行く人が余さず全て、小指に赤い糸を付けていたのですから。

 

何故私が、どうして今、視えるようになったのか。

私だけ糸が結ばれていないのか。

そんなことは、どうでもいいことでした。

 

 

 

私は少しだけ駆け足になって、事務所へと向かいました。

人だかりをするりと抜けて、建物の中に入ります。

おはようございます、と言おうとして、でもやっぱりやめました。

プロデューサーさんもちひろさんも、とても忙しそうに。

受話器の向こうと話していましたから。

 

 

 

給湯室の方で、小梅ちゃんが手招きしていました。

おはようございます。なんだか、忙しそうですね。

私の言葉に、小梅ちゃんは首を傾げました。

 

「まゆさん、なんだか……嬉しそう、です……ね?」

 

そうでした。

聞いてください小梅ちゃん、とっても嬉しいことがあったんです。

 

 

 

一通り説明すると、小梅ちゃんは「糸を見るだけなら邪魔にはならないし良いんじゃないか」と教えてくれました。

言われてみればその通りです。

お仕事の邪魔にならないように、遠くからプロデューサーさんの小指を見つめました。

そこには確かに赤い糸がありました。

 

まゆと反対の方向に向かう糸が。

 

 

 

まゆは糸をなぞるように歩き始めました。

プロデューサーさんの、運命の人。

その顔を見てみたかったのかもしれません。

憎まれ口のひとつでも言ってやりたいのかもしれません。

実のところ、どうして歩いているのか、自分でもよく分かっていませんでした。

 

 

 

ただ、歩かなきゃいけなくて。

ただ、見つめなきゃいけなくて。

ただ、この足が止まったら。

きっと私は、泣いてしまうのでしょう。

きっとまゆは、崩れ落ちてしまうのでしょう。

それだけは、自信を持って言えるのです。

 

 

 

そこは、緑が綺麗な霊園でした。

よく手入れされていて、更には太陽も照らしてくれているので、怖さはありませんでした。

糸は霊園の奥へと、静かに伸びていました。

私は赤に導かれ、ある一角に辿り着きました。

糸は墓石に繋がっていました。

その目の前に立ち、刻まれた文字を読みました。

 

 

 

『佐久間家之墓』

 

 

 

墓の前で立ち尽くしていると、やがて小梅ちゃんがやってきました。

私の様子を心配して、後をついてきてくれたそうです。

何を言うよりも、きっと見た方が納得してくれるからと。

確かにその通りで、自分が死んだということを、私は受け入れるしかありませんでした。

動揺も、十二分にしましたけれど。

 

 

 

色々なことを教えてもらいました。

佐久間まゆは2ヶ月ほど前、帰宅途中でファンに刺され死亡したこと。

霊体を探したけれど、今日になるまで現れなかったこと。

赤い糸が視えるのは、恐らく幽霊になったからということ。

私の小指に糸が無いのは、私が生きていないからということ。

 

 

 

プロデューサーさんが私を愛していたということ。

トップアイドルになった日に告白するつもりでいたこと。

小梅ちゃんたちに時折恋愛相談をしていたこと。

私が死んだ原因は自分だと思っていること。

きちんと見送りをしていれば、もっと早く告白していれば、夜遅くまで仕事を入れなければ、と。

 

 

 

毎日欠かさず此処に来て、只々謝り続けていること。

事務所の仕事は一時的に全てストップしていること。

それでもまだ対応に追われていて、休まる暇がないこと。

後追い自殺をしないかと、本気で心配になるくらいだということ。

みんなで見張ることにして、今日が小梅ちゃんの番だったということ。

 

 

 

小梅ちゃんが帰った後。

考えた末、ここに一晩、留まることにしました。

幽霊になった今、何処に行けばいいか分からなかった、というのもあります。

幽霊の居場所は自分の墓のような気がした、というのもあります。

 

でも、一番の理由は、プロデューサーさんの様子を、この目で見たかったからでした。

 

 

 

夜の霊園はとても静かで、意識せずとも足音が聞き取れます。

ライトも持たず、月明かりだけを頼りに、まっすぐこちらに来る人影。

その足取りは重く、それでも迷わず向かって来られるのは、それだけ同じことを繰り返したからなのでしょう。

 

「ごめんな、まゆ。」

 

いいんですよ、プロデューサーさん。

 

 

 

プロデューサーさんの様子は酷いものでした。

それはもう、ひどいものでした。

肉は落ち。

背は曲がり。

生気は無く。

目には隈。

小梅ちゃんが言う通り、いつ自殺してもおかしくないような有様でした。

こんな状態になっても足を運んでくれること。

それを嬉しく思う自分が、心底嫌いに思えるほどに。

 

 

 

プロデューサーさんは、只々謝っていました。

小梅ちゃんの言う通り、本当に謝り続けていました。

まゆが幾ら許しても、声は届きませんでした。

涙に指を沿わせても、すり抜けてしまいました。

 

まゆは只々聞き続けました。

聞くことしか、できませんでした。

 

 

 

それから私は、ずっと自分の墓石の上に座り続けることにしました。

プロデューサーさんの此処に来る時間がまちまちで、朝早くだったり夜遅くだったりしたからです。

聞くことしかできなくても、せめて聞くことだけは続けようと思ったからです。

プロデューサーさんが、それを分かっていなくても。

 

 

 

たまに小梅ちゃんが1人で来たり、芳乃さんを連れてくることもありました。

小梅ちゃんは赤い糸のことが気にかかり、この類のものは芳乃さんの方が詳しいのだそうです。

私自身はそんなに興味がなかったのですが、プロデューサーさんを待つ間はとても暇で、特に断る理由も無いので、調査に付き合いました。

 

 

 

少しずつ、色んなことが分かってきました。

まず、この糸で結ばれていることの意味。

それは「もしも2人が出会ったらその時は他の誰に対するそれよりも強い情緒的結びつきを感じる」というものでした。

まさしく運命の赤い糸です。

そんなものが生きている人全員に付いているなんて、とても素敵です。

 

 

 

私が幽霊として此処に居る理由。

それも、赤い糸が関係しているようでした。

まゆとプロデューサーさんを結ぶ糸。

これが、私の魂を現世に留める役割を果たしているのだそうです。

プロデューサーさんと結ばれなかったという未練が、赤い糸に何らかの作用を及ぼしたのではないか、と言っていました。

 

 

 

そして、これが一番驚いたのですが、私は赤い糸に触れるみたいです。

感触は毛糸とよく似ていました。

誰かの糸を切って、他の誰かと結び直すことで、恋愛感情を操作することも可能……なのかもしれません。

実際に試してはいないので、あくまで推測です。

 

だって、そんなの、怖いじゃないですか。

 

 

 

プロデューサーさんは、毎日必ず来てくれました。

雷雨の中でも、午前3時でも、徹夜明けの早朝でも。

そして懺悔を聞く度に。

大好きなプロデューサーさんの、大好きな顔が。

もうこれ以上酷くなることは、無いだろうと思ったそれは。

私の想像なんて軽々と超え、もっともっと、酷くなっていきました。

 

 

 

止まってくれないのです。

口から漏れる懺悔の声も。

やつれていく肉体も。

こちらへ向かう足さえも。

 

どれだけ許しても。

どれだけ諭しても。

どれだけ願っても。

 

止まっては、くれないのです。

 

 

 

プロデューサーさんが愛してくれていたことを、嬉しいと思っていたまゆは。

欠かさず来てくれることに、幸せを感じていた私は。

いつからでしょうか。

もう此処に来ないことを、望み始めました。

私のことなんて忘れてくれればいい。

まゆのことなんて、愛してくれなくていい。

そう、思い始めました。

 

 

 

だって、だって。

貴方は何処までひどくなるのですか。

貴方は何時まで泣き続けるのですか。

その原因はまゆですか。

貴方は何を如何したら、幸せになってくれるのですか。

 

そればかり考えるようになった、ある日。

私が望んだ終末は、貴方と共に現れました。

まゆが願ったのとは、真逆の方向で。

 

 

 

「ごめんな、まゆ。」

 

何時もと同じその言葉は、何時もと違う響きでした。

 

「逃げちゃいけないって分かってる。

逃げるべきじゃないって分かってる。

逃げる資格がないって、分かってる。」

 

「でも、駄目なんだ。駄目なんだよ。

まゆから逃げたくて仕方ないんだ。

目を背けたくてたまらない。」

 

 

 

「やっと逃げようとしたって、仕事にすら君が居る。

夢の中も。事務所の中も。この街の何処にでも。

まゆの笑顔が染み付いて離れない。」

 

仕事用の鞄から、彼は何かを取り出します。

それは月明かりを反射して、鈍く銀色に輝きました。

 

「もう、これしか、思いつかないんだ。」

 

 

 

プロデューサーさんが、何をしようとしているのか。

悲しいくらいに分かってしまうから、まゆは止めなければなりませんでした。

プロデューサーさんは、なんにも分かっていません。

まゆがして欲しいのは、貴方が幸せでいること。

幸せに、生きていること。

それだけです。

ただ、それだけなんです。

 

 

 

まゆが貴方にできること。

私が干渉できるもの。

 

 

 

運命の赤い糸。

 

 

 

軽く触れるだけだった糸を、私は初めて、しっかりと握りました。

その時私は、赤い糸を理解しました。

気付いたとか、知ったではなく。

林檎を手から離せば落ちるように。

息を止めれば苦しくなるように。

この糸を切ったら、どうなるのかを。

ただ、理解したのです。

 

 

 

小梅ちゃんと芳乃さんは、これが私を現世に留めていると言っていました。

それは全て正しくて、同時に間違いでもありました。

この糸は、確かに私が此処に居る原因でした。

何故なら、この糸は。

 

佐久間まゆ、そのものだからです。

 

 

 

この糸を切れば、プロデューサーさんは私を愛さないでしょう。

この糸を切れば、プロデューサーさんは私を忘れるでしょう。

この糸を切れば、プロデューサーさんは生きていけるでしょう。

この糸を切るのは、自分の身体を引き千切ることと同義でしょう。

この糸を切るためには、力は必要ないでしょう。

 

まゆが、プロデューサーさんを、諦めればいいのです。

 

 

 

佐久間まゆは。

 

消えたくない。

この想いを引き千切る。

貴方を決して死なせない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぷつん。

 

 

 

──何かが、悲しかった気がする。

 

 

 

目を開けると、俺は見知らぬ墓地……いや、霊園だろうか。

ひとつの墓の前で、膝を折っていた。

『佐久間家之墓』。

目の前の墓には、そう刻まれている。

 

佐久間?

 

そんな名字の知人、居ただろうか。

 

 

 

……どうして俺は、こんな所に居るんだ?

分からない。分からないが、何か。

この墓を見ていると、何かを思い出しそうな気がする。

何かを、思い出さなければいけない気がする。

何かを、失ってしまった気がする。

 

 

 

「……プロデューサー……さん!」

 

聞き慣れた声。

振り向くと、担当アイドルの白坂小梅が、こちらに駆け寄ってきていた。

 

「どうしたんだ、こんな所に。」

 

もし1人で肝試しでもしていたのなら、あまりに危険だ。

しっかり注意をしなければ。

そう思っていたが、返答は全くの予想外なものだった。

 

 

 

「まゆさんは、どこ⁉︎」

 

まゆ。

人の名前だろうか。

聞いたことの無い名前だ。

……無い、よな?

うん。そのはずだ。そのはずなのに。

 

 

 

 

 

「……佐久間、まゆ?」

 

どうしてこんなにも、心地良く響くのだろう。



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