陸奥と僕のこと改 (Y.E.H)
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序章
〔序章・第一節〕


 まるで、絵の中のような煌めく海面を切り割いて、船は東へと進んでいる。

晩春のある日、今や国内では数少なくなったクルーズ客船『鳳』は一路ホノルルに向かっていた。

低気圧に遭遇して憂鬱かつ気を抜けない一日を過ごした昨日から一転して今朝は早朝から爽やかに晴れ渡り、穏やかな波と心地よいそよ風に恵まれた絶好のクルーズとなっていた。

午前の船内巡回を終えた船長は、操舵室中央の船長席に尻を引っ掛けてコーヒーを啜っていた。

高齢の上品な乗客たちは皆大人しく、彼の心配すべきことは天候位なものであり、概ねゆったりと構えていられるのは実に有難い。

そんなことを漠然と考えていた丁度そのとき時報が鳴り、航海長がくるりとこちらに向き直ると、

「定時連絡、よろしいですか?」

と問い掛けてくる。

 

「よろしい」

彼は手元の液晶パネルにちらりと目をやりながらおもむろに許可を与え、これを受けた航海長は1等航海士に目配せして報告を促す。

がしかし、報告の内容は概ね予想通りであり、特に代わり映えのする話はなく操舵室内はまた静かになってしまった。

この静けさに何となく堅苦しさを感じた船長は、それを嫌うように声をあげる。

「じきにミッドウェー島近海か?」

「はい、天候に変化無ければ午後には」

気色を察した航海長がちらりと歯を見せて応じたのに少し気を良くした彼は、さらに続けて口を開こうとしたものの、その時余りにもタイミング良く船内電話が鳴りだし出鼻を挫かれてしまう。

航海長も彼の憮然とした様子に苦笑しながら電話に出たが、その表情は甚だ困惑したものになった。

 

「どうかしたのか?」

「それがその……」

 

彼の返事は歯切れが悪い。

「何処からだ?」

「後部デッキ詰所からですが、右ウイングに出て頂きたい様です」

「何なんだ一体……」

 

船長が腰をあげると、航海長も傍らに付き従いながら、

「どうも良くわかりません、人がどうのとか言っているのですが」

と低い声で告げる。

「誰か落ちたんじゃないだろうな?」

「そうではないようですが――」

 

そういいながらドアを開けてウィングに出た二人は、ほぼ同時に口を開けて言葉を失ってしまう。

どこまでも晴れやかな青空のもと、船は約18ノットで巡航している筈だが、それとほぼ等速で同航する小さな紅白の物体が眼前にあった。

 

「……航海長」

「あ、は、はい!」

「君にはあれが何に見える?」

「全く自信が無いのですが……人の様に見えます」

「……そうか、君にもそう見えるか……」

「もう少し付け加えますと――あ、無論ますますもって信じられないのですが――和服を着た長い黒髪の人物に見えます」

「人物とは慎重な物言いだな! 私はそう慎重な方ではないので見えたままを言ってしまうが、黒髪を棚引かせた巫女装束の女性に見えるよ」

「何か叫んでいる様ですね?」

 

航行中の船舶は結構な轟音をたてているものであるが、切れ切れでほとんど聞き取れないとは言えその轟音に負けない程の声を張り上げられるなど並の人間が出来ることではない。

 

「どうしましょう?」

「話してみるしかあるまい、我々に用があるのは明らかだ」

 

たった今迄気楽なクルーズの筈だったのに、よりにもよってこんな奇想天外な出来事に遭遇するとは何たることかと、苦虫を噛み潰した様な渋い表情で彼は踵を返す。

まるでそんな境遇を反映するかのように進路には薄雲が広がり始めており、否が応でも憂鬱な気分に追い打ちを掛けて来る。

背中を丸め、溜め息を吐きながら彼らが船内に引き返すと、操舵室内は俄かに慌ただしくなった。

 



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〔序章・第二節〕

 その姿は、何度見ても場違いな事この上無い。

にも関わらずタラップを悠然と上がって来る彼女(いや、女性の様な何かだ――と喉の奥で船長は独り言ちる)は、その様なことを気に留める素振りも見せず自若としている様に見える。

かくする内に女性はタラップを昇り終え、彼の目の前に立った。

 

「初めまして、私は本船の船長です。貴女が悪意を抱いておられるので無い限り、乗組員一同は貴女の乗船を歓迎致します」

 

出来るだけ平静かつ淀みなく(かつ笑顔で)口上を述べた積もりだったが、彼女はそれを一顧だにせず事務的な調子でこう返した。

 

「時間がありません船長、直ちに船橋へ案内を、話はそこで致しましょう」

「船橋? ――ああ分かりました、それでは操舵室にご案内しましょう」

 

そう言って彼は先にたち操舵室に向かったが、その間も女性はキョロキョロするでもなく真っ直ぐに、しかもきびきびと付いてくる。

操舵室に着いて海図テーブル横の席を勧めても、

「このままで結構です」

と素っ気なく断られてしまう。

話の切っ掛けを失ってしまったと感じたのだが、それで気不味くなった様な雰囲気は全く感じられない。

 

「さて改めて申しますが船長、時間がありません。直ちに六時に転針し全速でこの海域を離れて下さい」

「いや、ちょっとお待ち下さい、我々はまだ貴女が何処の誰であるかも知らないのに突然そんなお話をされても――」

「では、私が名乗れば良いと言う事でしょうか?」

「いえ、そう言う訳ではないのですが――」

「確かに名乗らぬのは非礼であったやも知れません。それでは再び改めて、私は赤城、帝国海軍第一航空艦隊第一航空戦隊所属の航空母艦です。もっとも海没してよりこの方随分と年月も流れた様ですので、とうの昔に艦籍簿より除かれておりましょうが」

 

思わず彼は眼が泳いでしまい、周囲をチラチラ見てしまう――が、残念な事に操舵室の面々のほぼ同じ様な視線に遭遇しただけであった。

すっかりテンパってしまった彼は、眼前の女性の奇妙な出で立ちと彼女が名乗った氏素性の共通点を探して、頭脳と五感を限界まで酷使する。

 

女性は明らかに生粋の日本人の特徴を備えており、長い黒髪に純白の小袖と赤い袴というどうみても神社の巫女としか思えない姿をしていた。

その上に――と言うべきか否か、その美貌は眼が醒める程だ。

単に顔立ちがどうと言うだけではなく、日本女性としては長身といえるその背格好や端正な立ち姿に加えて、言葉に表せない凜とした空気を纏ったその姿は神々しささえ感じさせる。

とは言え、その容姿から見て彼女を軍人だと言うなら兎も角、軍艦だなどと思う者がいよう筈もない。

無論尋常ではない登場の仕方をしているのだから、ある程度とんでも無い事を言われる位は覚悟していたが、それでも自分は静御前だお市の方だとでも言われた方がまだしも腹に落ちただろう。

余りにも噴飯もの過ぎて、予想の斜め上をいくどころの話ではなかった。

 

しかし、そんな彼の当惑など当の女性は全く意に介する事無く、そのまま話の続きを再開する。

 

「さあ船長、先程も申しました通り事は一刻を争うのです。直ちに行動を起こして貰わねばなりません」

「そうは仰いますが……六時というと、180度反転しろと言う事ですよね? 何故でしょう? 理由をお聞きしてよろしいですか? その――赤城さん?」

「この先で、敵がこの船を沈め様と待ち構えているからです」

「敵――ですか? 一体どこの国の? しかも公海上で民間船を沈めようとする様な――あ、ひょっとしてテロリストか何かでしょうか?」

 

彼女――赤城が一瞬キョトンとしたのは、馴染みの無い言葉を聞いたからであろう事は間違いない。

にも拘らず、彼女は平然と会話を続ける。

 

「違います、おそらくそのどれでもありません」

「では一体――」

「私にも、確かな事は分かりません。只一つ言えるのは、彼奴らも元は私と同じく船であったと思われる事です。そしてこの船に対して明らかな害意を抱いているという事です」

「今、船であったと言われたがそれはつまり――」

「先程も申し上げた通りです。私は赤城、帝国海軍の軍艦です、それ以上でもそれ以下でもありません。さあもう時間がありません、一刻も早く転針して下さい」

「ですが、そうおいそれと出来る事では無いでしょう。少なくとも関係機関や会社に連絡して確認をとった上でないと……」

 

(第一、貴女をいきなり信用しろと言われても――)

 

という言葉を船長は呑み込む。

それを投げ掛けるには、この自分は航空母艦赤城であると名乗る不思議な女性は、少々ひたむきすぎる様に思えたからだ。

だがそのひたむきさは、一転して怒気を孕んだ激情に変わる。

 

そんな悠長な事をしている暇など無いことが判らないのですか⁉ 私はもう二度と、油断と慢心とによって全てを失う事などしたくないのです! 私は、皇国の軍艦として果たせなかった義務を今度こそ果たす為に来たのですよ⁉

 

操舵室内は水を打った様にしーんとしてしまう。

 

だがどういう訳なのか、赤城の厳めしい表情を目の当たりにした船長の脳裏に浮かんで来たのは一見全く関係無いとしか思えない別の情景だった。

 

何故か突然甦って来たのは、幼い頃に見上げた母の顔だった。

 

厳しく気丈であったが、こうして今思い返すと優しい顔ばかりが記憶に残っている。

 

八歳の時に船乗りであった父を海難事故で喪ってからは、文字通り女手一つで自分を育ててくれた。

 

母は自分が父と同じ道を選ぶ事について生涯無言を貫いたが、どんな思いだったのだろうか。

 

何れにせよ、最早それを確かめる事は不可能になってしまったし、父を喪ったのと同じ悲しみを再び味あわせる心配も無くなっていたが。

 

「分かりました、貴女を信じましょう」

 

この言葉にクルー全員が騒めき、当惑した様な囁きが交わされるのをはっきり耳にはしたが、船長の関心は既にそこには無かった。

 

彼の言葉を聞いた赤城は厳しい表情をさっと脱ぎ捨て、

「有難う! 何があろうと、私は貴方方の盾となって全力でお守りします!」

と晴れやかに言って明るく微笑む。

 

その笑顔は先程とは一転してまるで少女のように可憐で、吸い込まれるかの様に魅力的だった。

 

(そうだ、私はずっと母を笑顔にしたかったのだ)

 

「諸君、今言った通りだ! 航海長、直ちに減速し微速にて180°転針したまえ!」

「アイアイサー! スローダウン、ハードスターボード、あー……306!」

「本社、管区警備、ホノルルオフィスに連絡! 本船は安全上の理由により一時的に予定航路を外れ待避行動を取る! 詳細は追って連絡する!」

「船長、乗客へのアナウンスはどうしますか?」

「それは――」

 

船長が応え様とした刹那、船の遥か前方、正確には徐々に横方向になりつつある方角から微かな轟音が鳴り響く。

「まさか!」

操舵室内がどよめく中、不意に女性――赤城が走り出す。

 

「赤城さん⁉」

 

彼女は真っ直ぐに左ウイングに向かっている。

船長が追い付きウイングに出たその時またも轟音が響き、曇天で視程は悪化していたものの辛うじて確認出来る程の距離に水柱が上がるのが見えた。

 

「何が起こっているんですか、赤城さん⁉」

「改めてお願いします! 出来る限り速やかにこの海域を離れて下さい。必ず私達が貴方がたを護って見せますから!」

 

そう早口で捲し立てると彼女はひらりと――それこそ何の外連も無く――手摺を躍りこえて、20メートル以上も下の海面に向かって身を躍らせる。

 

「あっ!」

そう声を上げるのがやっとだった。

 

追い付いて来た航海長共々慌てて下を覗き込むと、てっきり海面に叩き付けられたと思っていた彼女――赤城は、出現した時と全く同じ様に海面にすっくと立ち、そのままの姿勢でまるでスケートでもするかのように最初の時よりも更に高速で滑走しはじめる。

彼らが呆気にとられて見送る間にみるみる彼女は遠ざかって行き、すぐに芥子粒の様になってしまう。

 

「一体何なんでしょう? 夢でも見てるんでしょうか?」

 

航海長の問いに対して、彼は

 

「私にも良くわからん……」

 

と応えるのがやっとだった。

 



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第一章
〔第一章・第一節〕


 船の上には、春の穏やかな陽射しが降り注いでいる。

僕はこれといった特別な何かを見ようと言う訳でもなく、淡い春霞の中に浮かぶ柱島の島影をぼんやりとただ眺めていた。

 

(そう言えば、丁度この辺なのかな)

 

ゼミのフィールドワークの課題をどうしようかと迷ったが、特にやりたい事があった訳でもないので、どうせなら馴染みのない土地柄を選ぼうという安易な考えのもと、呉市周辺の旧海軍史跡をテーマにしたのだ。

 

(70年も前なんだし、朽ち果ててるんだろうな)

 

正確には1943年、旧海軍の戦艦陸奥が爆発事故を起こしてこの柱島付近の海に沈んだという事をこの旅行――いや、フィールドで初めて知った。

船体の一部は40年ほど前に引き揚げられており、それらが(野天にだが)展示されている記念館で写真に納めたり手で触れたりして来たのだが、何だか妙に実感が乏しい。

それよりもむしろ、今立っている船の数十メートル下の海底にそれが静かに眠り続けている事の無常や哀感の方が、ずっとリアリティがある様に感じるのは僕だけだろうか?

 そんな思いにかられながらぼうっとしていた僕の脳裏にはとりとめもない空想が浮かんで来る。

 

――大爆発を起こして、船はゆっくりと傾きながら波間に消えていく。

甲板上では、艦と運命を共にすると決意した悲壮な表情の軍服姿の男達が厳かに敬礼し、救助に駆け付けた人々が泪ながらにそれを見送る――

 

「仁! 仁⁉ もう、何処に行ってたのよ⁉」

 

(ちぇっ、こんな小さなフェリーの上で一体何処に行けるんだよ!)

 

口には出さなかったものの、胸の中で葉月に突っ込んでおいてから渋々先程の空想を畳み込む。

「なんで返事しないの⁉ そんなに面倒くさい?」

言いながら、殊更に(わざとと言うべきか)ピッタリ体を寄せて来られたその感触に思わずイラッとしてしまい、ついつい噛み付く様に言い返してしまう。

「どう考えたってあんなの急いで返す様な事じゃ無いだろ! 第一、吉田さんと大崎はどうするんだよ⁉」

「二人とは――別行動だっていいじゃない! その位いいでしょ?」

そう言いつつ、彼女は僕の瞳の奥を覗きこもうとする。

一応、どれだけ本気で腹を立てているのかなどこちらの本心を見極めるためだが、それをわざとらしくやって見せるのこそが真の目的――噛み砕いて言うなら『気を遣ってあげてるうちに、言う事聞いてよね⁉』という示威行動――なのだ。

 

(クソッ、全く……)

 

ムカムカしながらも心の中で深呼吸すると、出来るだけ冷静な声を出す事に集中する。

「分かったから、ちょっとトイレ行って来て良いだろ?」

「ちゃんと戻って来てよ!」

 

(何度も言うけど、この船の上で何処に行くんだよ!)

 

もちろんトイレに行くのも紛れもなく本当なのに……。

 

正直なところ、勘弁して欲しかった。

葉月とは十数年来の付き合いだし、母さんを亡くしてからは彼女の親父さんお袋さん共々それこそ実の家族のように接してくれて、何くれとなく世話を焼いてくれた事には心から感謝している。

それだけに、ある時から彼女の態度が露骨に変わり始めたことに僕は酷く困惑していたし、今も困惑し続けている。

大学受験の時も、全く知らない内に彼女が志望校を変えて同じ大学を受験していたと分かった時、どうにもやり場の無いもやもやした感情が沸き上がって来たのが今も頭にこびりついて離れなかった。

 

(何もゼミまで追い掛けて来なくてもいいだろ⁉)

 

事情を知らない学内の友達連中には、一体何が不満なのかと良くくさされるだけでなく、

「お前さ、あんな可愛い娘のどこが気に入らないわけ?」

と真顔で聞かれた事もあった。

 

(傍目からしたら、確かにそうなんだろうけどさ……)

 

葉月はキャンパスクィーンに担ぎ出される程(その度に固辞しているが)可愛く、多少煩い処はあるものの明るく快活で成績も優秀な上に、世話好きで家事全般もそつなくこなす。

更には彼女の自宅まで僅か徒歩1、2分の至近距離のうえ、幼馴染で親同士も仲が良いと来たら、もう僕の逃げ道など何処にも残されていない。

 

(だから嫌なんだよ!)

 

そんな風に大声で叫べたらどれほど爽快だろうか。

 

(これじゃあまるで、完璧にお膳立てされて子供の頃から敷かれてたレー

ルの上を走ってる見たいじゃないか……)

 

その考え方がそもそも子供染みている事位、さすがの僕でも良く分かってはいるが、自分の感情ばかりは理屈でどうなるものでも無いのだった。

 

溜め息を吐きながらトイレを出て(気は進まないものの)葉月のところに戻ろうとしたが、ふと誰もおらずがらんとしている船尾甲板が目につく。

早速そこから船の後方を見渡すと、ぼやっとして消えかかる霞の中に白い航跡が遠く長く尾を引いていて、つい見るとも無く見入ってしまう。

 

(こういうの、兵どもが夢の跡って言うのかな)

 

船尾の中央は何かを上げ下げする都合なのか手摺が切れていて、低いチェーンだけが掛けられており、そこに立って航跡を眺めていると僕が先程仕舞い込んだ空想が蘇って来る。

 

――救助のために集まって来た大小の船の上では、乗員達が泪を浮かべながら沈み行く巨艦と従容として運命に赴く男達に大きく帽子を振って別れを告げる。再び爆発が起こり、船は急速に波間に消えていく――

 

それは全く突然やって来た。

 

風に煽られたのか船が揺れたのか、何が原因だったのかははっきりしないが、何の前触れも無く僕の体がふわりと頼りなく浮き上がって、視界がぐるりと大きくゆっくりと回転する。

次の瞬間体が水中に沈み込んだ事で何とか我に返ったが、それと同時にパニックが襲って来た。

必死に水を掻いて浮かび上がり、大声で叫ぶ。

「助けてくれ! 誰かっ! 助け――がふっ!」

必死に叫ぶ余り掻き手が止まってしまい、水中に沈み掛けるので慌ててもがいて再び浮かび上がり、叫ぼうとする僕の耳になんと汽笛が響き渡る。

 

(なんで、このタイミングで鳴らすんだよ!)

 

何とか必死に水を掻いて船に追い縋ろうとするのだが、なにさま船尾の真後ろにいるせいで水流が激しく、体がどんどん後ろに追い遣られる。

「聞いてくれ! 誰かっ! 誰か、助けてくれっ!」

船が絶望的に小さくなって行き、僕は益々必死に足掻くが体は全く気持ちに付いて来てはくれない。

服や靴がこれ程邪魔なものだとは思わなかった。

でも、それこそ何を今更だ。

とにかくがむしゃらに水を掻き続け、懸命に声を上げ続ける。

「助けてくれ! 助けてくれ! 誰か――」

やがて、冷たい水の中に突然放り込まれたショックと激しく体を動かし過ぎたせいなのか、急速に僕の体は言う事を聞いてくれなくなってしまう。

 

(クソッ、何でなんだよ!)

 

まるでスローモーションのように世界が水の中に沈んでいき、息を吸おうとして海水を飲んでしまう。

激しく咳き込んだ積もりが咳にならず、益々水を飲んでしまうばかりだ。

 

(嘘だろ……まさか、本当にこんなとこで……)

 

目の前が急に暗くなってくる。

 

(こんな事なら、ちゃんと葉月の言う通りにしてやれば良かったな)

 

死ぬ前ってこんな下らない事が頭に浮かんでくるんだと、つまらないことに感心している自分が腹立たしかったが、すぐにその感情も遠ざかって行く。

 

サヨナラ……僕のつまらない人生。

 



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〔第一章・第二節〕

 そこは見慣れた近所の公園の様でもあり、幼稚園の園庭の様でもあり、またどこでも無いとも言えた。

 

幼い僕は、しゃがみ込んでこちらに向かって手を差し伸べる母さんを目指して一生懸命走っている。

母さんはとても優しい眼差しで見つめていたし、その腕の中に一刻も早く飛び込みたくて、僕は幾らか覚束ない足取りで精一杯駆けていた。

でも、どう言う訳かどれだけ必死になって走ってもちっとも母さんの元には辿り着けず、それどころかどんどん遠くなって行く様に見える。

その上奇妙な事に僕もどんどん幼くなって行く様で、さっき迄確かに駆けていた筈なのに、何時の間にかよちよちとした危なっかしい早足がやっとになっている。

 

(何だかおかしいぞ?)

 

それはそうだ、おかしいに決まってる!

何よりも不思議なのは、どんなに眼を凝らして見ても母さんの顔がはっきり見えないのだ。

 

一体どうしてなのだろうか?

 

僕はこの世の誰よりも母さんが好きだったし、母さんも僕の事を世界一愛している筈なのに……

だからこそ、あんなに優しい瞳で僕を見詰めている……

 

見詰めている?

 

顔がぼやけて見えない筈なのに、何故か母さんが優しい眼差しを向けているのが見えるのだ――

 

いや、そうではなくて知っているだけなのかも知れない。

 

なぜこんなことに?

 

その思いはどんどん強くなって行くのだが、それでも走るのをやめられなかった。

やっぱり、僕は母さんに抱き締めて欲しいのだ。

あの暖かい母さんの胸に抱かれて、恐れも悲しみも無い心の底からの安らぎに包まれたい。

 

一生懸命走り続けていた僕は、とうとうハイハイをしながら、それでも必死に母さんのもとに辿り着こうともがき続ける。

僕の目には涙が溢れ、口からは言葉にならない泣き声をあげていた。

 

(母さん! 母さんっ!!)

 

僕は悲しみの余り身悶えする。

 

(何故僕を置いて行くの⁉ 何故一人で行ってしまうの⁉)

 

「――――て」

 

その時、初めて母さんが何かを言った。

 

「――をあけ――ねが――」

 

何だか良く分からないが、母さんの声では無い様な気がする。

 

「しっか――して、――がいだから――けて!」

 

違う――これは母さんの声じゃない!

でも、何故だろう……

 

全く不快ではないし、それどころかとても心地よく暖かな声だ。

 

「ねぇ、大丈夫⁉ お願いだから目をあけて!」

 

急に、何処からか光が射し込んで来るのを感じる。

身じろぎをしたが、その時になって初めて自分の体を動かせる事に気がつく。

 

「気がついたのね⁉ しっかりして! あたしの声聞こえる?」

 

僕の手が、誰かにギュッと握られていた。

僕はその手を握り返しながら、あらん限りの力を振り絞って目を開け様と努力する。

まるで岩か何かの様に瞼は重たく途中で挫けそうになるが、それでもどうにか目を開ける事が出来た。

 

(うっ!)

 

その途端、眩しい光が世界を一瞬で埋め尽くしたため思わずまた目を瞑ってしまうが、それも僅かな間だった。

僕は改めてゆっくり目を開けると、これから生まれ出る新たな世界を見極め様とする。

 

眩しい光はゆっくりと滲んで色を帯び、

やがて空の青に変わったが、

僕の眼を捉えて離さなかったのは何も青空と言う訳では無かった。

 

ぱっちりしてはいるが大き過ぎない澄んだ瞳、

 

何故だか分からないがとても安心させられる丸みを帯びた顔と小さな顎、

 

不思議にその顔に馴染んでいる明るい栗色(陽光が透けて金色に光っていた)の短めの髪、

 

すっきりとした癖のない鼻とその下で微笑むように小さく開かれたつやつやした唇とが目の前にあり、

 

抜ける様な青空とその顔のコントラストは、正にその瞬間の僕にとって世界の全てだった。

 

そして、それは生涯忘れる事のない大切な想い出になるのだが、

 

この時の僕はまだそれを知る由も無かった。

 



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〔第一章・第三節〕

 目を開けてから暫く――実際にはほんの数秒の事だったが――仁は只ぼんやりと自分の顔を覗き込んでいたその女性の顔を見詰めていた。

その内ゆっくり頭が回転し始めると共に、彼のおかれた状況と少しずつ甦り始めた直前の記憶とがリンクし始め、目の前にいる不思議な――と同時に魅力的な――女性が何者であるかという疑問が急速に沸き上がって来る。

しかし、それを口にする前に女性が先に口を開く。

 

「大丈夫? 気分悪いの?」

 

如何にも心配そうに聞く女性の頭に角が生えているのに気がつき、思わず仁はギョッとしてしまう。

 

(まさか鬼⁉ って事はここは地獄⁉)

 

だが次の瞬間、自分の余りに低レベルな想像力につくづく嫌気がさしてしまう。

何の事は無い、その角は彼女のカチューシャについており、しかも角と言うには随分幾何学的な形だったからである。

 

「ねぇ聞こえてるんでしょ? お願いだから何か言って!」

 

更に心配そうに眉をひそめて軽く口を尖らせた彼女の可愛さに、一瞬心臓がキュッと半分位に縮まった仁はあたふたと返事をし様とする。

その途端、彼はその女性の手をしっかりと握り締めているのに気が付き、狼狽して手を放しながら、

「あっ、そっ、その、ごめんなさい……」

という何ともイケて無い第一声を発してしまう。

 

にも関わらず、それを聞いた彼女は一瞬目を丸くした後で、

「んふっ、ふっ、んふふふふふっ♪」

と、とても楽しげに笑い始める。

その無邪気な屈託の無さは、彼が思わず

 

(鬼じゃなくて天使だったんだ!)

 

と半ば真面目に納得してしまう程だった。

 

彼女はまるで純粋な磁力そのものの様で、仁はちっぽけなクリップか何かの様にいともあっさりと吸い寄せられてしまい、上半身を起こして座り込む。

喉の奥に軽い違和感を覚えるが、口元が少しぬるついていたのでどうやら海水を吐き戻した所為らしい。

 

「大丈夫見たいね? 良かった!」

 

すっと自然に笑いを納めた彼女が、笑みを浮かべながら仁の顔を見つめる。

 

「僕は確か、海に――」

「そうよ、船から落っこちたの。それとも、もしかして自分で飛び込んだの?」

「まさか! 幾ら何でもそんなバカな事はしませんよ……。それより、ひょっとして貴方が助けてくれたんですか?」

「ええ、本当にびっくりしたわよ!」

「他には誰か……?」

「誰も、あたしだけよ」

「え、本当に?」

「そうよ! ここ迄引き上げるの、重たくて本当に大変だったんだから♪」

 

恐らく彼女の言った通りだろう。

ぱっと見たところ女性はかなり大柄で、如何にも水泳か何かをやっていそうな(女性としては)がっしりした体格の様だが、それでも一人で仁を助けてここ迄引き上げるなど並み大抵の苦労では無かったはずだ。

 

「何て言うかその――本当に、有難うございます!」

 

思わず仁は姿勢を正して、地面に頭を付けてしまう。

 

「ちょっ、ちょっとやめてよ! そんなお礼言われる様な事じゃないわ!」

「そんな訳無いですよ! 貴方は命の恩人です! 今日からの僕の命は貴方から貰ったものだから、この事だけは絶対に一生忘れません!」

「もう、判ったわよ! 良く判ったから顔を上げてちょうだい⁉ 恩人だなんてくすぐったくて仕様が無いけど……」

「それでも僕は感謝せずにはいられません。もし出来るなら、何か具体的な行動で恩返しさせて欲しいと思ってます! 迷惑に思うかも知れないけどそうさせて下さい!」

「もう……本当にそう思うんだったら、良い加減に顔を上げて欲しいわ!」

「あ、す、すいません!」

 

仁が慌てて顔を上げると、彼女は口を尖らせて一瞬渋い顔をして見せた後で自分の額を指差し、

「白くなってるわよ!」

と言って悪戯っぽく笑ってみせる。

 

「あ……」

 

仁が額を払うとばらばらっと派手に砂が落ち、彼女が楽しそうにクスクス笑う。

 

(何か無邪気な(ひと)だな)

 

「それと――何だか気持ち悪いわ、その言葉遣い」

「えっ?」

「だからその『ください』とか『ございます』とかよ⁉」

「あ、あの――いや――それじゃあそのぉ……普通にタメ口とかで良いの?」

「ため口? それ何? よく判らないけど常体みたいなものだったら別に良いわ」

「じょ、常体って? ……う、うん……それじゃ改めてその……本当に有難う――そもそもどうやってここ迄連れて来てくれたの? まさか泳いで?」

「う~ん、ちょっと違うわ」

「え、じゃあボートか何か?」

 

とは言ったものの、この浜辺にはそんなものは見当たらない。

 

「ううん、そうじゃないわ」

「それじゃ、一体……?」

「あたしも良く判らないんだけど、海の上では軽々抱っこ出来てたのよ。それが岸に上がった途端急に重くなっちゃって、ここ迄引き摺って来るのがやっとだったの」

「え???」

 

彼女は一体何の事を言っているのだろう?

 

「ごめんね、それってどう言う事?」

「今言った通りの説明しか出来ないわ、あたしも初めての事だし……やって見せてあげる位は出来るけど?」

 

そう言うと彼女はさっと立ち上がったが、その拍子に剥き出しのおへそや太股が仁の目線の高さになり、思わず視線が泳いでしまう。

改めて良くみると、女性は随分刺激的な格好をしている。

上下セパレートの水着の様な服装は申し訳程度にしか肌を覆っておらず、ミニスカートの丈は下着が見えそうな程で、その上目立つ赤いハイソックスに件のあの角である。

 

(コスプレか何かかな?)

 

そんな事を考えながら波打ち際に歩いていく彼女の後ろ姿を見詰めていた仁は、いきなり度肝を抜かれる。

 

「あ……え……?」

 

波打ち際まで歩いていった彼女は、何とそのまま波打ち際を通り過ぎて立ったまま水面をアメンボか何かの様にすーっと移動したのだった。

 

そして数メートル滑る様に岸を離れた彼女はくるりと優雅にこちらを振り返ると、

「こんな風にね――」

と普通に話し始め様としたものの、彼がポカンとしたまま見詰めているのに気が付き、

「どうしたの?」

と聞きながら岸に戻って来る。

 

「今、君……その、えっと……?」

「なあに?」

 

全く信じられない位彼女は屈託が無い。

 

「いや……その、何でそんな事が出来るの?」

「そんな事って? ――あ、そうね! そう言えば普通の人間はこんな事出来なかったわね。でもごめんね? なぜ出来るのかはあたしにも答え様が無いの。船が海に浮かぶのは当たり前だから、ちっとも不思議に思ってなかったし……」

 

「船って……? 君は、一体……?」

 

「あたし? あたしは――」

 

その刹那、ひと時雲に隠れていた太陽が顔を出し、

 

まるで地を撫でるように明るい陽光が辺りを包む。

 

その眩い光に縁取られ、

 

あらゆる方向に撒き散らされる金色の光を纏った神々しい姿の彼女の唇がゆっくりと動くのを、

 

仁はまるで奇蹟を目の当たりにする羊飼いの様に見詰めていた。

 

 

「あたしの名前は――――陸奥よ」

 

 

それは正しく、女神の啓示そのものだった。

 



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〔第一章・第四節〕

 切れ切れの雲が風に吹かれて流れて行くのに合わせて、二人の周りは明るくなったり暗くなったりを繰り返していた。

こじんまりとした浜辺には二人の他に誰もおらず、波の音が無ければしんと静まり返っていただろう。

ここは柱島だろうか、それとも向かいの大島だろうか。

仁の頭の中は、周囲の静けさとは裏腹に目まぐるしく動いていた。

にも関わらず、またしても彼の考えが言葉になる前に彼女が先に口を開いてしまう。

 

「あたしの名前、そんなに変かしら?」

「ち、違うよ! そんなんじゃないよ……只その……」

「その、なに?」

「それって、キャラクターか何かの名前なの? て言うか戦艦のコスプレとかあるの? よく知らないけど……」

 

言いながら仁は、それ以前にあのアメンボ能力の説明には何もなっていない事に気が付いたが、彼の頭では到底それを合理的に理由付け出来なかった。

 

「何それ? 良く判らないわ――でも、戦艦なのは確かね! あたしの事ひょっとして知ってるの?」

「柱島の沖に、戦艦陸奥が沈んでるのは知ってるよ? って言うか昨日知ったとこだけど……でもそれと君と――」

「凄い! ちゃんと知ってるのね! とっても長い間だったから、とっくに忘れられてるんだと思ってたわ。でも、本当にどれくらい経ったのかしら?」

「大体70年ちょっとぐらいだよ。でも、途中で引き上げ作業があったんだよね?」

「そうよ、あの時は正直とっても嬉しかったわ! ああ、忘れられて無かったんだ! って。でも、結局途中で打ち切られちゃったみたいでそれっきりだったし……ねぇ、人間ってどの位生きられるんだったかしら?」

「普通、7~80年位だと思うけど?」

「じゃあ、あたしに乗ってた人はもう誰もいないわね……」

 

今迄明るく無邪気に見えた彼女が急に小さく見えて、仁は思わず聞いてしまう。

 

「ねぇ、君は本当に戦艦陸奥なの?」

「信じられ無いのも当たり前よねぇ、だってこんな姿で戦艦だなんて……三善大佐が見たら、腰を抜かしちゃうわねきっと」

 

そう言って彼女――陸奥は笑みを浮かべたが、その顔は寂しげで、瞳は何処か遠くを見詰めていた。

 

「何時から、そんな女性の姿に?」

「ついさっきからよ」

「え、じゃあ――」

「そうよ、今日もあたしは海底から上を見上げていたの。何時もと同じ時間に渡船がやって来たな~って思ってたら誰かが落っこちるのが見えたのよ。前にも同じような事はあったけど、その時は誰かに助けられてたから今度も大丈夫だと思ってたら――」

「誰も来なかったんだね」

 

彼は苦笑いしながら合いの手を入れる。

 

「んふふっ、そうね! だけど本当に焦ったわ、貴方がぐったりするのが見えて、このままじゃ死んじゃう! って」

「それで、どうしたの?」

「実は、その時の事ってちょっとはっきり判らないの。助けなきゃ! って思ったら急にぐーっと貴方が大きく見えてきて、両手にあなたの体を感じたの。でも、えっ両手⁉ なんで? って思ったら、もう貴方を抱っこして海面に立ってたのよ」

「そうだったんだ、そんな事が――」

「すぐに自分が思った方向に自由に進めるのは判ったわ。だから、取り敢えず大島の浜がいいなって思ったからここへ来たの。なのにね、さっきも言ったけど岸に上がった途端に貴方が突然重たくなって抱っこしてられなくなっちゃったのよ! 不思議よねぇ、何でなのかしら?」

「不思議なのは、それよりも前のとこだと思うけど?」

 

仁がそう突っ込んだ途端、またも彼女は一瞬瞠目したあと楽しげに笑い始める。

そのキュートな仕草は、無邪気な純粋さから自然に出るものなのだろうか。

 

「本当にそうよね! どっちが不思議なんだって話よねぇ」

 

今度も、自然に笑みを納めた彼女が可笑しそうに言う。

 

「ねぇ、貴方の名前、まだ教えて貰ってないわよ?」

「あ、ごめんね、すっかり順番が逆になっちゃって。僕は渡来仁(わたらいじん)、横濱から来たんだ」

「本当に⁉ じゃあ横須賀はすぐ近くよね!」

「うん、何度も行った事あるよ!」

「懐かしいわぁ、鎮守府はまだあるのかしら?」

「それって、ひょっとして旧海軍の基地のこと?」

「基地――なのかしら? あたしは陸の上の事はよく知らないから、それが正しいのかどうか何とも言えないけど、とにかく連合艦隊のとっても重要な根拠地だったのよ!」

「そうなんだ……でも、どっちにしても終戦の時に旧海軍は解隊されちゃったからね。だから鎮守府も残って無いと思うよ」

「因みに、その終戦って何時の事?」

「1945年だから、君が事故で沈んでから二年後かな?」

「たったの二年! ねぇ、何で海軍は――艦隊は解散させられたの?」

「え、日本が戦争に負けたからだよ?」

 

彼が何気なくそう口にした途端、陸奥は明らかに動揺した様な顔になり、疑わしげに聞き返す。

 

「……負けた……の?」

「そうか、君は知らないんだよね。日本は1945年の8月に、連合軍に無条件降伏したんだよ」

「降伏……そう……そうだったの……」

 

そう言って、彼女は伏し目がちに海を見詰めて黙ってしまう。

仁は掛ける言葉が見つからず、せっかく浮かび掛けていた打ち解けた空気が、気不味い沈黙に押し流されて行くのをどうする事も出来ずにいた。

 

「……ねえ」

「な、何?」

「艦隊の皆はどうなったの?」

「その――細かい事は僕も良くは知らないけど、終戦の時点でちゃんと動ける状態だった艦艇は一割にも満たなかったらしいよ」

 

「……一割……壊滅したって事?」

 

「う、うん……多分……」

 

「そう……」

 

陸奥の瞳に浮かんだ悲嘆の色が、絶望的な迄に濃く深くなって行くのが手に取るように分かる。

 

(おい、何か言えよ! こんな悲し気な顔させてていいのか!)

 

自分で自分を叱咤した彼は、見切り発車でつい適当な事を言ってしまう。

 

「で、でも、今は海上防衛隊があるよ! 戦艦とかは無いけど護衛艦やイージス艦の艦隊もあるし、海軍は無くなっちゃったけど、そこに行けばひょっとして皆の消息とか何とかなるんじゃないかな?」

 

言ってしまってから、彼は自分の軽い言葉が思い切り空回りしている事に気が付きひどく後悔したが、既に後の祭りだった。

にも関わらず、彼女は怒気や苛立ちを微塵も見せずに静かな声で聞き返して来る。

 

「今の艦隊は、海上防衛隊って言うの?」

「うん、昔の海軍と同じって訳じゃないけど――」

「だったら……そこに行けば、あたしの様に人間の姿になった艦隊の皆に何時かは会えるのかしら? ……姉さんにも会えるかしら……?」

 

仁は愚かな事を言ってしまったと自分を呪う。

こんな思い付きの薄っぺらな言葉を投げ掛けてしまった、自分の無責任さが情けない。

だからと言って、このまま黙っているのもそれはそれで如何にも無責任な気がした。

 

「え、えっと……そ、その……」

 

勇気を振り絞ったものの、言葉が喉の奥に痞えて出て来ない。

 

「……いいの、はっきり言ってちょうだい」

 

陸奥に静かに促されると、少しだけ覇気が戻ってくる。

 

(しっかりしろよ自分!)

 

「あ、あのね、正直に言うとそういう話しは一度も聞いた事がないし、今言ったのは只の思いつきだから何の宛も無いんだ……適当な事言って本当にごめん!」

「謝らないで、判ってるわ、元気付けようと思って言ってくれたのよね? 有難う……」

 

彼女の寂しげな眼差しは、また仁を突き抜けてどことも知れない遠くに――恐らくは歴史の中の出来事になろうとしている過ぎ去った日々に――向けられていた。

 

(くそっ、何かしてあげられないのかよ! こんな無邪気に笑う可愛い(ひと)が――僕の命を助けてくれた(ひと)がこんなに寂しそうな顔してるのに!)

 

彼の頭の中は、先程にも増して急速に回転している。

 

(飾った言葉なんかじゃなくて、僕が今出来る事が何かある筈だろ!)

 

そして、やっとの思いで言葉を絞り出す。

 

「ね、ねぇ、君はこれからどうするの?」

 

「……どうしたら良いのかしら……正直に言うけど、どうすれば良いのか判らないわ……」

 

「まさか、海の底に戻らないよね?」

 

「それはやっぱり嫌だわ。こうしてとっても久し振りに海の上に出て来て見て改めて思ったの。太陽って良いなぁって、潮風って良いなぁって……。だから、それを捨ててまたあの冷たくて薄暗い場所に戻るなんて出来そうにないわ」

 

「そうだよね……」

 

「でも、ひょっとしたらそうするしか無いのかしら? 戦争はずっと昔に終わって、海軍も無い、艦隊の仲間達ももういないこの時代にどう考えてもあたしの居場所なんて何処にも無いわよね……だったら結局は――」

 

だ、駄目だよ!

「えっ!」

 

仁が初めて発した強い言葉に、彼女はびくんと顔を上げる。

 

「だって、君は70年もずっとたった一人で耐えて来たのに、またそこへ戻らなきゃいけないなんて、絶対にそんな事させられないよ! 僕の命を助けてくれた(ひと)にそんな事は絶対にさせない! 君の居場所は僕が……僕が何とかするから! 必ず君の仲間にもお姉さんにも会えるから! だから、だから――」

 

彼の言葉は体の奥から奔流のように流れ出ていたが、突然それは止まってしまった――と言うより何も言えなくなってしまった。

 

何故だか全く理解出来ないが、とても懐かしく暖かな何かに包み込まれるのを感じ、はっきりとした理由もなく涙が溢れてくる。

 

やがて、頬にふれる髪の毛の感触とふわっとした潮の香りで感覚を取り戻した彼は、陸奥に抱き締められた事に初めて気が付いた。

 

「有難う、仁……」

 

彼女が口にしただけで、自分の名前がまるで不思議な熱を帯びた呪言の様に胸の奥に甘い疼きをもたらすのを感じたが、それが何を意味するのか彼はまだ理解していなかった。

 



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〔第一章・第五節〕

 ポケットに角張った異物感を感じて、仁はやっと自分のスマホを切っていたことを思い出す。

葉月からの着信を疎ましく思ったのは事実だが、意固地に切ってしまったのは少々幼稚だったかと軽い自己嫌悪に陥りながら、改めて電源を入れようとスマホを取り出す。

 

「なあに、それ?」

「スマートフォンって言うんだ、持ち歩ける電話兼コン――いや、情報処理端末ってとこだね」

 

それを聞いて、またも陸奥は眼を丸くする。

 

「そんなに小さいの? それで、一体どの位遠くと話が出来るの?」

「中継局があるからだけど、日本中ほとんど何処でも話せるんだよ!」

 

そう言いながら仁が彼女にスマホを見せてあげようとしたその時、唐突に呼び出し音が鳴り始める。

 

「何? ひょっとして電話が掛かって来たの?」

「そうみたいだね……」

 

言う迄もなく、電話の相手は葉月だった。

その着信画面の向こうには、些か気乗りしない現実が待っている事は間違い無いが、まさか出ない訳にも行かないだろう。

応答ボタンに触れて耳に当て様としたものの、葉月にはそれを待つ余裕は無かった様だ。

 

「仁! 仁! ねぇ仁なの⁉ 今どこにいるの⁉ 無事なの⁉ 一体何があったの⁉ まさか海に落ちたの⁉ それとも誰か他の方ですか⁉ そこに仁はいますか⁉ 彼は無事ですか⁉ ――」

 

よくまぁ全ての語尾にエクスクラメーションマークを付けて喋れるものだと感心していると葉月の言葉は際限無く続きそうだったので、適当なところで割って入る。

 

「僕だよ、仁だよ? とりあえずは無事に生きてるよ」

 

「……仁、本当に仁なの? 無事なのね! 仁……良かった……本当に……」

 

それだけ言うと、彼女は電話の向こうでさめざめと泣き出した。

さすがの仁もこの時ばかりは葉月が可哀想になり、改めて優しい言葉を掛ける。

 

「心配掛けてごめんよ、きっと探し回ってくれたんだよね?」

「当たり前じゃない! どれだけ心配掛けたら気が済むのよ! 本当に、本当に死んじゃったかと思ったのよ! もうバカ! バカバカバカ! 仁のバカ! 大っ嫌い!」

 

それだけ涙声で捲し立てると、葉月はまた泣き始めてしまう。

 

「どうして仁はそんなに馬鹿馬鹿って言われてるの? それとも、まさか本当に馬鹿だからなの? そんな事無いわよね?」

 

横で会話を聞いていた陸奥が、何とも言えず邪気のない表情で冗談とも本気ともつかない様な事を口にする。

 

「葉月はね、普段から僕を徹底的に子供扱いしてるんだよ♪ それに――今回はまぁ、特にね……」

 

「――仁、傍に誰かいるの?」

 

これには彼も思わず感心してしまう。

あれだけワンワン泣いていたのに、ちゃんとこちらの音声は聞き逃していないのだ。

 

「やっぱり葉月は凄いよ、本当に出来すぎなんだよ……」

 

だから、ちょっと苦手なんだ――とは言わなかった。

 

「もうっ、何言ってるのよ! それより誰? 警察の人とか?」

「違うよ、僕を助けてくれたひとだよ!」

「本当に⁉ 仁! 電話替わって⁉ お礼言わなきゃ!」

 

葉月の涙はもう引っ込んでしまったらしい。

回復力が凄まじいのか、そもそもこういう性格(保護者体質とでも?)だからなのか。

 

「ちょっと待って! お礼なら後でゆっくり出来るから、今日はこれから横濱まで帰るんだし急がなきゃいけないだろ?」

「確かにその積もりだったけど……こんな事になったんだから、そんなに急ぐ必要なんて無いのよ? 宿位何とかなるだろうし……」

 

もちろん彼女の言う事は如何にももっともだし、頗る常識的なのはよく分かるが、仁としてはつい余計な心配をしてしまう。

自惚れ過ぎと言われればそれ迄だが、連れの二人が先に帰って自分達だけ余計に一泊(若しくはそれ以上)せざるを得なくなるこの状況を、恐らく葉月は最大限に利用しようとするだろう。

 

「そうはいかないよ! とにかく今日中に家に帰りつきたいんだ。葉月は今柳井にいるの? こっちの場所、分かるよね? 大島の北岸のどこかだけど――」

 

「えっとぉ~~~、分かった! そんなとこにいたのね、今すぐ迎えに行くからそこに居て⁉」

「有難う! どの位掛かるか――な――」

 

彼女はもう電話を切ってしまっていた。

 

「ねぇ、お互いの場所も分かるの?」

「うん、人工衛星からの電波を受信して大体の場所が分かるんだ」

「凄いのねぇ、やっぱりとんでもなく時が経っちゃったのね……」

 

陸奥がまた悲し気な顔をするのでは――と思って仁は身構え掛けたが、彼女は自然に笑顔を見せて、

 

「あたしの知らない事が一杯ありそうで、何だか楽しみだわ♪」

と朗らかに言った。

何故だか知らないが、彼女がニコニコしているだけでとても心が軽くなる様な気がする。

 

(思い切って言って良かったな)

 

そう思っていられるのも葉月がやって来る迄の間だという事は、一応彼も覚悟はしていた。

 



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〔第一章・第六節〕

 陸奥と二人で海岸から道路沿いに移動して、葉月の到着を待つことにした。

その間取り留めの無いお喋りをしたが、この少し先に陸奥記念館がある事を話すと彼女は真っ赤な顔をして頬に手を当て、

「もう、やだわ……」

と照れたものの、その顔はどことなく嬉しそうだった。

 

彼女は先程仁が葉月に向かって言ったことに興味をそそられている様で、

「ねぇ、どうやって、今日中に横濱まで行くの?」

と聞いて来る。

 

「ひょっとして、今は広島や呉から横濱に直接飛行機が飛んでるの?」

「広島から東京には飛んでるけど、飛行機には乗らないよ?」

「じゃあどうやって行くの?」

「新幹線って言うのに乗って行くんだよ」

「何それ?」

「高速鉄道って言ったら良いのかな?」

「それって弾丸列車って言うやつ⁉ つばめ号とかよりずっと早いやつよね! じゃあ、朝鮮へのトンネルも出来たの?」

「それは出来てないし、多分今後も作らないだろうね……」

 

「そうなの? でも楽しみだわ、その新幹線って何(ノット)くらい出るのかしら?」

「ノットかぁ…………えーっと――160ノット位かな?」

「百六十! そんなのまるで飛行機じゃない! レールの上でそんなに出して大丈夫なの? 脱線しないの?」

「細かい事は分からないけど、新幹線って開業以来50年間一度も死亡事故を起こしてないんだよ」

「へぇぇ凄いのねぇ、早く乗って見たいわ♪」

 

(それにはまず葉月を説得しなきゃね……)

 

そしてかれこれ30~40分も経った頃、結構な勢いで走って来たタクシーが彼らの前で急ブレーキを掛け、若干行き過ぎて停まった。

と、思う間もなく後ろのドアが勢いよく開いて、葉月が弾かれた様に飛び出してくる。

 

「仁! 仁!」

 

まっしぐらに走って来た彼女は、全く躊躇する事無く彼に抱きついて来た。

 

(やると思ったんだよ、はぁ~)

 

何度も言うが、事情を知らない者が見たらその苦い表情が全く解せないだろうことは彼にも良く分かっていた。

それでも仁としてはこう言いたい。

例えどれ程心を痛めてくれていたとしても、人並み以上に勘も良くて気の回る筈の彼女が、タクシーの運転手は置いておくとしても愛しい男(失礼)の横に眩しい位の健康的な肢体を刺激的(挑発的と言うべきか)な衣装に包んだ女性が立っているのを無視して迄、こんな感動的な対面をするものだろうか? と。

 

(まぁ、そんな筈無いよなぁ)

 

もちろん彼の憶測ではあるが、葉月はそれも重々承知の上で、車窓に陸奥の姿を認めた瞬間からどうあっても『この人は売約済だからね⁉』と誇示して見せる必要があると考えたのだろう。

深い溜め息が出そうになるのをグッと我慢して陸奥を少し顧みると、彼女は穏やかな笑みを浮かべて見返して来た。

その顔には彼への無言の信頼がありありと浮かんでおり、ややホッとした仁は気を取り直して葉月の説得に取り掛かる。

 

「有難う葉月、こうして無事にまた会えて本当に嬉しいよ」

 

と、まずはオーバーに成り過ぎない様に細心の注意を払って優しい言葉を掛けた――筈だった。

ところが彼女はその期待をあっさり裏切って、今にも目を瞑ってキス待ち顔になるのではないかと言うくらいパッと上気した表情を見せる。

これですっかり後ろめたくなってしまった上に、更に瞳を輝かせた葉月に

「わたしもよ仁! もう二度と一人にしないでね!」

などと、まるで波瀾万丈の運命に引き裂かれた末に再会した恋人達の様な無茶を言われてしまう。

すっかり怖じ気づいた仁は頭の中が真っ白になってしまい、さっきからずっと練っていた筈の説得プランもどこかへ吹き飛んでしまった。

こうしてノープランになった彼は、仕方なく在り来たりの遣り方から再スタートするより方法が無かった。

 

「葉月、僕を助けてくれたのはこの人だよ」

 

言う迄もない事だが、彼女は戸惑う様子など微塵も見せることなく素早く切り替えて来る。

 

「初めまして、塔原葉月と申します。仁の命を助けて頂いて本当に有難うございました!」

「初めまして、陸奥と言います。お礼などとんでもありません、助ける事が出来たのは本当に偶然ですから」

 

陸奥の応答は落ち着いた弁えのあるもので、今し方迄彼に対してはとてもフランクに接していたのに、こういう場面ではちゃんと使い分けしてくれるのだと思った彼は何だかそれが嬉しいのだが、葉月の表情は曰く言い難い複雑なものになる。

彼女の価値観の物差しでは、この格好で陸奥と名乗る野良コスプレイヤーが真っ当な人物である訳が無いのに、それに反して至って常識的な対応を返されたので内心戸惑っているらしい。

どうもこの分では本題に入る前にまずその辺りの外見上の偏見を何とかしなければならず、幾ら時間があっても足りないのではと仁は思い始める。

 

(ちょっと無理しないとここを離れるのにも苦労しそうだよな……何とか頑張ってみるしかないか)

 

「葉月、警察とかには連絡してるの?」

「うん、船から連絡して貰ってたけど、さっき電話して『無事に見つかりました』って言ったら『それは良かったですね』って済まされちゃったのよ⁉ なんかヒドい話しよねぇ、まだ捜索に取り掛かる以前って感じだったわ」

「そりゃ、助けて貰えなかったら確実に人生終了のお知らせだったな……」

「当たり前じゃない! その――ムツさんにちゃんとお礼言ったんでしょうね⁉」

「いやそのさ、僕を一体幾つだと思ってるんだよ――」

 

そう突っ込んでは見たものの、彼女は仁の返事など聞きたい訳では無さそうだった。

 

「改めて言わせて頂きます、本当に有難うございました。自宅に戻りましたらご連絡差し上げたいので、よろしければ連絡先を教えて頂けませんか?」

 

全くそつが無いというか大したものだとはつくづく思うが、それでも無責任な友人達が言う様に『あんなしっかりした嫁の尻に敷かれてぇ~』等と思った事は一度も無い。

 

「葉月、時間が無いから細かい話は移動しながらにしようよ。さぁ、陸奥さんも乗って?」

「ええ、有難う」

「ちょっ! ちょっと待ちなさいよ仁! 何よ、どう言う事なの⁉」

「陸奥さんも移動するから、移動しながら話した方が時間を無駄にしなくていいだろ?」

「何言ってるのよ! わたしそんな話聞いてないわよ⁉」

「じゃあ、陸奥さんが一緒に移動するのは都合が悪いかな?」

「だ、誰もそんな事言って無いわよ! それでも急すぎるじゃない⁉」

「良く分かるけどさ、時間がもったい無いからとにかく車の中で話しようよ。すいません、柳井港駅まで行って貰えますか?」

 

幸いにもタクシーの運転手は無口で事務的なタイプの様だ。

躊躇していた葉月も意を決した様にさっと乗り込み、無事にタクシーは走り出す。

ちょっと強引過ぎたかと思って緊張したものの、まずはここをクリアしなければ何も始まらないのだと彼は自分に言い聞かせ、高まる動悸を必死に抑え込む。

 

「さぁ、これで良いんでしょ! 仁、どう言う事なの⁉」

 

有無を言わせぬ調子で葉月は詰問して来る。

彼はぐっと下腹に力を入れて、慎重に言葉を選びながら口火を切った。

 

「そ、その前に一つ、これから話す事をまず一通りは聞いて欲しいんだ。例え信じられなくても頭ごなしに否定しないで欲しい――頼むよ」

「じゃあ、否定さえしなかったらちゃんと質問には答えるのね?」

 

「……うん、その積もりだよ?」

 

「……いいわ、話してご覧なさいよ」

 

葉月は怒気を圧し殺した様だが、無論通り一遍の説明位でどうにかなる様な空気では無い。

 

「えっとぉ――先ず、僕は彼女に命を助けられた、だから今度は僕が彼女を助けたいと思ってるんだ」

「一体、何の話?」

「彼女の名前、聞いただろ?」

「う~ん、失礼を承知で言うけど何かの冗談かそれとも――その――」

「ちょっとイタイ人だと思った?」

「仁ったら! 命の恩人に何て事言うの⁉」

「気にしないで下さい、ついさっきも恩人扱いなんてくすぐったいってお話しした処なんです」

 

陸奥がタイミング良く口を挟むが、葉月の顔にはますます困惑が広がるばかりだ。

さすがの彼女でも、今はまだ状況が全く理解出来ないのだろう。

ただ、それだけに状況が理解出来た時の彼女の反応――彼には反論すら難しい、極めて的確で合理的な結論をあっさり導きだしてしまう聡明さ――が仁は恐ろしかった。

 

「何て言ったらいいのか分から無いんだけど、葉月がイメージするイタイ人ってこんな普通な感じじゃないだろ?」

「それはそうだけど、普通だって言うのと助ける助けないって話はどう繋がるのよ? それとも只見た目で先入観持たないでくれって言いたいだけなの⁉ 肝心の事さっさと説明したら⁉ なんで『陸奥』なの⁉」

 

イラついた口調で畳み掛ける葉月の勢いに、少々怖気付きながらも彼は苦労して何とか平静を保つ。

 

「つ、つまりね、彼女は本当に戦艦陸奥なんだよ。ついさっき――僕を助けてくれた時に初めてこの姿で海底から地上に出て来たんだ。だから今の彼女には頼る相手も何も無いんだよ」

 

しかし、残念な事にありったけの度胸を総動員した仁の言葉はどうやら門前払いを食わされそうだ。

 

「ちょっと仁――もしかしてからかってるの? 今このタイミングでそんな事したら絶対に許さないわよ⁉」

 

頭の回転が早い彼女は自分の頭の中に一瞬でシナリオを作り上げてしまい、それに従って感情を迸らせる。

ほとんどの場合それは間違っていないのだが、こと仁に限って言えば正しいからと言って何時も納得出来る訳ではなかった。

 

「疑いたくなるのも良く分かるけど、一体どこからが嘘だって思ってる? 僕が海に落ちた振りをしてこっそり行方を眩まして、予め仕込んでおいた彼女と示しあわせて葉月を担いでるとでも?」

 

珍しくムキになって言い返す彼に、これまた珍しい事に僅かながら彼女も戸惑いを見せる。

 

「そ、そんな事迄言って無いわよ! ただ、幾ら何でもそんな話信じろなんて言われてハイそうですかって納得出来る訳無いじゃない! 自分が滅茶苦茶な事言ってるの分かってる?」

「それでも葉月には理解して欲しいんだ! 例え納得が行かなかったとしても、僕がやると決めた事を遣り遂げさせて欲しい。誓って言うけどこれっぽっちも嘘は吐いて無いよ! 頼むよ! 葉月が信じてくれなけりゃ出来ない事なんだ」

「そんなの――狡いわ仁、そんな言い方して……狡いわよ……」

 

こんな風に彼女が口籠もってしまうのなど、どれだけ久しく無かった事だろうか。

さすがに仁もちょっと強引過ぎたかと後悔する。

普段の葉月ならこの程度はあっさりとあしらってしまう筈だし、無理を言い過ぎると逆に叱られる処だ。

が、たった今は突然幼馴染みが船の上で行方不明になり、最悪の事態を覚悟していたら無事が分かり、慌てて迎えに来たらどこかネジが緩んでいるとしか思えない格好をした得体の知れない女を連れていくと言い出されたところなのだ。

この状況で普通の精神状態でいられる筈が無いのに、つい興奮して全く加減の無い物言いをしてしまったのは少々身勝手過ぎたかも知れない。

とは言うものの、彼女にどんな風に説明すれば良かったのだろう?

 

そんな事をあれこれ思い悩むその間に、やはり誰かが彼よりも一歩早く動き始めてしまう。

 

「仁、やっぱり無理よ……あたし、自分で何とかして見るから。だからもうこれ以上葉月さんを困らせないであげて?」

「そんなの駄目だよ! もしどうにもならなかったら、それこそ君はまた冷たくて薄暗い海底に戻るより他無くなるんだよ⁉ そんな事絶対にさせられないよ!」

「本当に嬉しいわ、でも、信じられない人がいても仕様が無いと思うの。だってあたし自身がまだ信じられない位なのに……それをいきなり押し付けるのはやっぱり気の毒だわ。心配しないで、きっと何とかなるから」

「嫌だよ! 僕は――僕は君に命を助けられたのに、君の居場所を何とかする事すらしてあげられないなんて――」

 

「仁、陸奥さんを横濱まで連れて帰る積もりなの?」

 

唐突に葉月が口を挟んだので、彼は一瞬口籠もってしまう。

 

「……そうだよ」

「そしてどうするの? 仁の家においてあげるつもり?」

 

彼女の声は妙に低く、先程とは様子が違っている。

どうしようかと逡巡したが、身勝手な事に巻き込んでいるのだから素直に話してあげる義務位はありそうだ。

 

「う、うん、その積もりだよ」

「そんな事してどうする積もりなの? 仁は陸奥さんに何がしてあげられるの?」

 

葉月は顔を上げず、そして彼の顔も見ずに低い声で淡々と喋っているが酷く怒っているとか言う訳では無さそうだ。

 

「それが分かったら苦労しないよ。今迄に見た事も聞いた事も無い話の上にさ、本人だって何が起こったのか良く分からないのに――」

 

「それなのに簡単に信じちゃうのね、どうして? 陸奥さんが嘘ついてないってどうして分かるの?」

 

彼女が核心を突いて来たので、思わず仁は歯を食いしばる。

陸奥の不思議な能力を目の当たりにしていなければ、疑うのは至極もっともなことだ。

先程急いだりせずに、彼女にも陸奥のアメンボ能力を見て貰えば話がスムーズだったのかも知れないが、それはそれで多分別の事態を招いていただろうとも思う。

それを見たら、彼女はまず間違いなく陸奥の事は彼の手に負えるような話では無いと強硬に主張して、何がなんでも警察や防衛隊等に連れて行こうとするだろう。

そもそも常日頃の葉月は、仁の希望を叶えるよりも彼をリスクから遠ざける方が遥かに重要だと考えているのだ。

だが、こと今回ばかりはそれに同意する訳には行かない彼としては、決裂を避けたいと思う限りどうあっても彼女を説き伏せるしかない。

 

「それを疑ったら彼女が僕を助けてくれた事も疑わなきゃならないだろ?」

「そうよ、疑い様のない事実か何かあるの? 仁は陸奥さんが助けてくれるところをずっと見てたの?」

「そんな訳無いだろ! 息を吹き返した時に目の前に彼女がいてくれたんだよ。只さ、それから葉月が来てくれる迄の間、胡散臭い人物が新たに出て来たりはしてないし、それに今だって後ろから怪しい車が尾けて来てる訳じゃないだろ⁉」

 

少々興奮している所為か口も頭も何時もより良く回り過ぎてしまい、つい葉月の癇に障りそうな嫌味を言ってしまった彼は一瞬反撃に身構え掛ける。

にも関わらず、意外にも彼女は

「そう……まあいいわ……」

 

とだけ言ったきり黙り込んでしまった。

ハラハラしながらも少し待ってみるが、それ以上何のリアクションも返って来ない。

 

(長考するから話し掛けんなってとこか)

 

ほっと溜め息を吐いた彼は、陸奥を振り返る。

 

「本当にごめんね、まるで詐欺師扱いする見たいな酷い事ばかり言って」

「ううん、いいのよ。さっきも言ったけど信じられなくて当然なんだもの。だから気にしないで」

「有難う、もうちょっとだけ我慢してくれる?」

 

陸奥は黙ってにっこり笑うことで肯なう。

彼女の笑顔には何か不思議な力が宿っているらしく、彼の昂ぶった心をすうっと鎮めてくれる。

 

それから数十秒なのか数十分なのか、とにかく静かで気不味い時間が過ぎて行き、車が海に掛かる橋を渡り終えて鉄道と並走し始めた頃ついに葉月が口を開いた。

 

「あのね仁、一度だけ念を押しとくわよ」

「う、うん」

「単なる思い付きで突っ走って、それで結局痛い目に遭って――って、そんな目に会わせるのどうしても我慢出来ないのよ、分かる?」

「それって随分な言い方だろ? まるで僕が騙されてるって――」

 

食って掛かろうとした仁の言葉を、彼女はきっぱりと遮る。

 

「随分だし、失礼なのも良く分かってるわ⁉ それでも今釘を刺しておくの! いいこと? 絶対に後悔しないわね?」

「うん、何もしないで後悔するよりもずっといいよ」

 

葉月は深い溜め息を吐くと、更にそれでは足りないとでも言うかの様に二、三度深呼吸する。

 

「……分かったわ、仁が思った通りにさせてあげる。その代わり条件があるの」

「条件?」

「そうよ、今日からわたしも一緒に泊まり込むからね」

 

「……えっ……」

 

「何を意外そうな顔してるのよ、いい? わたしが毎日一緒に泊まるのが条件よ、嫌なら諦めなさい。分かったわね⁉」

 

そうピシャリと言い放ったその勢いに気圧されて彼が言葉も無くコクリと頷くのを見届けると、葉月は厳めしい表情を崩して笑みを見せたが、それは完全に何時もの彼女の顔だった。

ここに至って、やっと仁は葉月が黙りこくって何を考えていたのか理解する。

どうやら彼女は、陸奥が彼を騙して詐欺を働こうとしている――という疑いはほぼ無さそうだと判断したらしい。

だからと言っていきなり手放しで信用した訳でもなく、もし仮に陸奥がアブナイ系だった場合仁に危険が及ぶかも知れないし、何より罷り間違って異性として関心を抱いている様な事でもあれば断じて容認出来ないので、とにかく間近で監視するのが肝心だと考えたのだろう。

 

(まぁその……断固反対されるよりかはずっとマシだよな)

 

そう自分に言い聞かせる様に納得したその時、タクシーは無事駅前に到着する。

重大な決断を済ませてスッキリとした表情の葉月は普段の自分を取り戻し、自信に満ち溢れた社交的な笑顔を浮かべてさっさと料金清算を始めた。

 

「ほら、急ぐんじゃなかったの!」

 

精算を手早く済ませてタクシーを降りようとするその様は、既に彼女のペースに仁が引き擦られつつある――言わば何時もの日常に戻った――証とも言えた。

苦笑した彼が陸奥を伴って降り様とすると、それ迄ずっと黙っていた運転手が、

「えかったのぉ兄ちゃん」

と言って人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「有難う!」

 

彼の笑顔は苦笑いの延長線上だったかも知れないが、その言葉は心からのものだった。

 



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〔第一章・第七節〕

 徳山に向かう列車には少し間があったので、駅のトイレで着替えを済ませる。

仁の服はほぼ乾いていたもののたっぷりと潮を吸っていたので、葉月がコインロッカーに入れてくれていた荷物から着替えを選んだ。

彼は同行していた大崎・吉田が荷物番をしてくれているものと思っていたが、駅に彼らの姿は無かった。

怪訝そうにする彼の様子を見てとった葉月が聞きもしないのに、

「予約してあった列車に間に合うみたいだったから、先に行っててって言ったのよ!」

とお得意の軽いドヤ顔で解説してくれる。

何時もの如くそれは一体何に対するドヤ顔なんだと突っ込みたくなるが、それよりも先に解決しなければならない懸案もあるので我慢してやめておく。

とにかく陸奥の奇抜な格好は恐いぐらいに人目を惹いており、このまま移動するのはどう考えても無理があった。

彼女の身長は仁とほとんど変わらず、葉月よりは10センチ以上高いと思われたため、彼女の服を借りるのはおそらく無理だろう。

 

(それに、身長だけの問題じゃないんだよなぁ♪)

 

などと考えながら彼は自分の荷物を漁って陸奥が着られそうな服を探し、結局ハーフパンツと薄手のパーカーを選びだした。

 

「取り敢えずこれに着替えてくれる?」

 

と言いながら彼女に手渡そうとするとそれを横合いから葉月がサッと引ったくり、

「服を着替えるのも初めてなんでしょ? わたしが手伝ってあげるわ、行きましょ陸奥さん!」

 

と捲し立て、有無を言わせず陸奥を引っ張って行ってしまう。

だが仁をちらと見た彼女のその柔らかな笑顔に不安の影はなく、寧ろ事態を楽しんでいる様な明るさがあった。

少し安心した彼は、荷物を纏めるとベンチに座って新幹線の空席情報を確認し始める。

程無く葉月が呼ぶ声に顔を上げると、そこには全く別人と言っても差し支えない位に雰囲気を一変させた彼女がいた。

洒落っ気の欠片も無い只のパーカーとハーフパンツが、こんなに華やいで見えるものなのだろうか?

男物の無愛想な衣装も彼女の見事な曲線を隠し切れていない。

 

「ま、取り敢えずはこれで良いわよね!」

 

何やら妙に満足気な葉月がちょっと滑稽にも見えるが、そんな事で余計な突っ込みをして彼女を不愉快にさせるいわれは何も無い。

 

「新横濱ででも、何か服を買わなきゃね」

「服を着替えるのって何だか不思議な感じね――でもとってもワクワクするわ♪」

「じゃあ、自分で服を選んだらもっと楽しいね♪」

「あたしが選んでいいの⁉ 嬉しい! とっても楽しみだわ♪」

「調子に乗らないでくれる? 只じゃ無いのよ!」

 

葉月はまるで自分が払わされるかの様に噛み付く。

 

「別に葉月が払う訳じゃないだろ! それにエニクロやGAでどんだけ高い服買えるんだよ」

 

彼がそう突っ込むと彼女はぷっとふくれ面になり、自分の荷物を乱暴にひっ掴んで、

「もうすぐ電車来るわよ⁉ ぼやぼやしないの!」

とさっさと歩き始めてしまう。

仁は思わず陸奥の顔を見た(彼女が悲し気な顔をしてはいないかとついチェックしてしまうのだ)が、初めて彼女が苦笑するのを見てしまった。

 

「何て言うかその……いちいちゴメン」

「葉月さんって本当に裏表の無い人ね♪ もし許してくれるなら仲良くなりたいわ」

「きっとなれるよ! 時間は掛かりそうだけど……」

 

口ではそう言った彼も、内心では本当にそんな日はやって来るのだろうかと危ぶんでいた。

 

とにもかくにも葉月を一人で行かせる訳にもいかず、二人は改札を通ってホームへ向かうが、その間に仁は彼女の顔に大きな変化がある事に気が付く。

 

「えっと、その――角はどうしたの?」

「信号桁よ!」

「え、なに?」

「あのね、あたしの艦橋には信号旗なんかを掲揚するための信号桁っていうものが付いてたの。それがこんな形をしてたのよ!」

 

そう言いながら陸奥は何時の間にか手に持っていた巾着袋から角つきのカチューシャを取り出し、顔の高さに差し出す。

金属光沢を帯びたその角――では無くて信号桁を彼は何気なく手に取ったが、意外な程の重さに驚く。

 

「こんなに重いんだ! これをどうやって頭に載せてるの?」

「答えられない事ばっかりでごめんなさい。でも、頭に載せてた時は全然重さなんて感じ無かったし落ちそうな感じも全然無かったのよ?」

「へぇぇ何だか不思議な事尽くしだねぇ~、やっぱり陸奥さんは本当に軍艦なんだなぁ」

「……」

 

彼女は一瞬困った様な顔をして、少しだけ唇を尖らせる。

 

「どうしたの?」

「大した事じゃないの……やっぱりいいわ!」

「え、何? ――あ、もしかしてゴメン! 何か嫌なこと言っちゃった?」

「ち、違うわ! そんな事じゃないの! 大丈夫よ、何も変な事なんか言って無いわよ」

「じゃあ何? 気になるから言ってよ」

 

少し躊躇った彼女だったが、それでも言葉を選びながら話し始めた。

 

「……あのね、あたしさっきはつい仁って呼び捨てにしちゃったけど――」

 

「え、全然OK――いや、全く気にして無いけど?」

「有難う♪ でもね、仁はあたしのこと陸奥さんって言うでしょ? それが何だか――その――くすぐったいの」

「陸奥さんは、くすぐったがりだね♪」

「やだもう! 色々とくすぐったい事があるの!」

 

そう言って彼女は愉しげにクスクス笑う。

 

「でもなぁ~、何て呼んだらいいの? ――『陸奥』とか?」

 

「……」

 

一瞬満更でも無さそうな表情を彼女は見せたが、すぐに少々困った様な顔になり、おずおずと口を開く。

 

「……気になる事、言っても良い?」

「う、うん」

「葉月さんが、また不機嫌になりそうな気がするの」

「だよね……」

 

この時点で既に葉月は、ホームの向こうの方から抵抗力の無いお年寄りや幼児なら軽く卒倒させられる程の殺気だった眼差しでこちらを睨み付けていた。

思わず身震いした仁は、

 

(このままだと何時か刺される気がする……)

 

と真面目に心配になり、少なくとも葉月の見ている前では陸奥とあまり楽しそうに話をしない様心掛ける事にした。

 

「長旅お疲れ様でした。それともそんなに長くは感じなかったかしら?」

 

葉月の刺々しい言葉がグサグサ突き刺さってくるが、神妙な顔付きでやや俯き加減の陸奥は、彼が説明する迄も無く目の前の嵐を何とかやり過ごす態勢に入っている。

彼女の飲み込みの早さというか状況を読み取る力は、こういった能力が抜群に優れている葉月程とは言え無いものの中々のものだ。

 

「待たせてごめん! 葉月が巾着貸してあげたんだね」

 

これ迄の人生で蓄積した経験値を総動員して彼は考え抜いた第一声を発するが、それが報われたのか多少は葉月の琴線に掠った様だ。

 

「別に、わたしの荷物に入れたく無かっただけよっ!」

「あのさ、葉月の意見を聞きたい事があるんだけど」

「わたしが言いたい意見以外は、言わないわよ」

「陸奥さんの事なんだけど――」

「言わない」

「陸奥さんって呼ぶの、何か堅すぎの様な気がしない?」

「しないわ」

「本当に? でも葉月を塔原さんって呼んだらおかしいだろ?」

「そうでも無いけど」

「じゃ、今から塔原さんって呼んでも良いかな?」

「したければどうぞ」

「で、陸奥さんの事陸奥って呼んでいい?」

「い――良い訳無いでしょ! 幼馴染みのわたしが苗字でさん付けなのに何で呼び捨てなのよ! 有り得ないでしょ⁉」

「だと思うから相談してるんだよ~、頼むから一緒に考えてよ」

「そんな事も自分で考えられないの? ホンとに世話が焼けるわねぇ」

「じゃあ、葉月は何て呼んだらいいと思う?」

「考える様な事じゃ無いでしょ! さん付けで堅過ぎるんだったらちゃん付けしか無いじゃない⁉」

「つまり、陸奥ちゃんって呼べと?」

「そうよ、気に入らないの⁉」

「じゃあ葉月も呼んでみなよ~」

「む、むちゅちゃん、ほら、ちゃんと呼べるじゃない!」

 

誰がどう聞いても失敗した早口言葉としか思えないのだが、彼女は強弁した。

 

「今のは、ちゃんと呼べてるんだ……」

 

「五月蠅いわねぇ~、大体こんな語呂の悪い名前なのがいけないのよ!」

「ごめんなさい……でも、あたしの名前って言うより陸奥国の名前なんだけど……」

 

「そうだよ、東北の人達ににケンカ売ってるよ?」

「知らないわよもうっ! 陸奥ちゃん、陸奥ちゃんって100回くらい呼んでたら馴れて来るわよ!」

「『つ』と『ち』が繋がってるから発音し難いんだよなぁ~、『つ』を飛ばしてむーちゃんとか?」

 

「……」

 

陸奥が曰く言い難い微妙な表情になり、それを代弁するかの様に葉月が酷評する。

 

「何だか、無性にカチンと来るわね」

「まぁ、そもそも言った自分が気持ち悪かったけどね……」

 

「あの、もうそんなに気にしないで? 一生懸命考えて貰うの何だか申し訳ないわ」

「じゃあお言葉に甘えてこれが最後よ。伸ばすのがダメなら詰めて『むっちゃん』でどう? これで気に入らなきゃ、さん付けで我慢するのね!」

 

「……」

 

「……」

 

「何よ、まだ気に入らないの⁉」

 

「いや……」

 

「ええその……」

 

「何? はっきり言えば?」

「いやその――良いんじゃないかな?」

「あの――良く分からないけど何だかちょっと嬉しい感じ? がするわ」

「うん、凄く良いと思うよ! ねぇ、むっちゃん?」

「あっ――とっても不思議な感じ……この辺が温かい様な、そんな感じ」

 

陸奥は胸の中央辺りを両手で軽く触れながら、伏し目がちにそう言った。

 

「有難う葉月! 何か凄くはまってていいよ♪」

「葉月さん有難う。とってもいい呼び名だわ」

「き、気持ち悪いわねぇ~、急にしおらしくしてもダメなんだからね! まぁ感謝の気持ち位は受け取っといてあげるけど」

 

その時駅のメロディーが鳴り響き、列車の到着を告げる。

 

「あら、ひょっとして汽車が来たのね?」

「汽車じゃなくて電車だよむっちゃん」

「さっきも言ってたけど電車って何? 電気で動いてるの?」

「そう言う事! さあ、感心してないで乗るわよ⁉」

 

 こうして仁は、陸奥を彼女がまだ見ぬ新世界――現代の日本へと連れ出した。

心配事は山の様にあったが、それこそ彼女が迷惑だと言い出さない限りそれら全てを自分が何とかするのだと、これ迄の彼には似つかわしくない昂ぶりとともに決意していた。

 



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第二章
〔第二章・第一節〕


 徳山駅から新横濱迄直通の列車に、3人分の席を取ることが出来た。

窓際にむっちゃんを座らせてあげようと決めていたが、そこが決まれば席順は決まった様なもので葉月は当然の如く真ん中に陣取り、僕は大人しく通路側に座った。

列車が走りだす迄は彼女が大はしゃぎするのでは――と勝手な想像をしていたが、実際にはほぼ真逆だった。

むっちゃんは窓に張り付いたまま、一言も発する事無く食い入る様に窓外の景色を見詰めており、最初のトンネルに入った時に、

「これってトンネル?」

という問いを誰言うとも無く発しただけで、その後幾つものトンネルを抜けて最初の停車駅である広島に到着する間もずっと黙って外を見つめ続けていた。

停車している時に一度だけ彼女は小さく手を振ったが、ベビーカーを押す女性がちらと見えたので子供に手を振っていたのだろうか。

やがて列車が広島駅を発車し、間もなくトンネルに入ると突然彼女ががっくりと首を項垂れたので、僕は思わず席から腰を浮かせてしまう。

 

「どうしたの、むっちゃん⁉」

 

その声に振り返った彼女は、両目に一杯涙を溜めていた。

 

ハッと胸を衝かれて声が出せなくなってしまい、代わりに葉月が、

 

「ちょっとぉ、一体どうしちゃったの?」

 

と声を掛ける。

 

(何でもっと優しく言えないんだよ!)

 

とは思ったものの咄嗟に声が出なかったのは自分だし、今の葉月としては精一杯歩み寄った言葉だったかも知れない。

 

「……驚かせちゃってごめんなさい……でも――本当に、本当に凄いわね……あたしがずっと海底から上を――海面とその先に広がってる空を見詰めてた間に、日本の人達はこんな凄い物を作っていたのね……あたしをこの世に産み出してくれて、来る日も来る日も丹精込めて手入れしてくれた人達は、こんなに立派な町を造っていたのね……あんなに可愛い赤ちゃんがお母さんと一緒に、にこにこ笑って暮らせる国にしていたのね……それを見ていたら――あたし――」

 

そこ迄振り絞る様に話した彼女はそれ以上続ける事が出来なくなり、顔を覆って静かに嗚咽を洩らした。

 

僕は何かを言おうと努力したが、結局何も言えずに涙ばかりがどう仕様もなくポロポロ零れて来る。

 

今すぐ立ち上がって泣いている彼女をきつく抱き締めたい。

 

いや、それが出来ない迄もせめて何か優しい言葉を掛けてあげたい。

 

そう思いながら懸命に言葉を探したものの、結局何時もの様に物怖じしない女性達の後塵を拝してしまう。

 

「ねぇ……もしかして、貴方本当に陸奥なの?」

 

葉月がこれ迄とはがらりと違う、優しい口調でむっちゃんに話し掛けた。

 

良く見ると葉月の瞳も潤んでいる。

 

「あたしにも――正直良く判らなくなっちゃったわ、自分が本物なのかどうかなんて……、はっきりしてるのは、あたしには船として過ごした長い間の思い出があるだけ……。人が羨ましいわ――自分が本物かどうか何て悩む事なんか無いのよね」

 

「やぁね、耳の痛いこと言ってくれるわ……自分が本物かどうかなんて確かに疑った事無いけど、証明しろって言われても身分証出す以外の方法なんて考えたこと無いもの」

 

彼女がそう応じるのを聞くと、むっちゃんはまだ涙を零してはいたが少し笑みを見せた。

 

そして何より、葉月も目を潤ませながら優しげな笑顔を浮かべてそれに応える。

 

情け無い僕はそれを見てまた胸が詰まってしまい、涙が出て来てしまう。

 

「ちょっと仁はさっきから何をボロ泣きしてるのよ! わたしの前でそんなに泣いた事一回でもあったかしら⁉」

「あら、そうなの?」

「本当よ、つくづく感動の少ない薄情なヤツなんだから」

「意外ね♪ そうは見えないのに」

 

そう言いながら、何時の間にか二人はまだ涙の跡が残る顔で愉しげにクスクス笑っている。

 

「それにしても本っ当にトンネル多いわよねぇ、もうちょっと景色でも眺めて感動して貰いたいとこなんだけど♪」

「嫌だわ、これ以上泣いてばっかりいたらその内涙が渇れちゃいそう」

「ウフフ、渇れやしないけど喉は渇くかも知れないわね」

「あら、それじゃあさっきから喉の奥がヒリヒリするみたいな感じがするのはその所為なのかしら?」

「それってひょっとしたら、そんな姿になってからまだ何も飲み食いして無いって事ね?」

「ええ……それに昔も人が飲み食いしてるのをずっと見てたけど、何でそんな事してるのか全然判らなかったの」

「へぇぇ、じゃあお腹空くのもどんな感じか分からない訳?」

「その……これも自信が無いんだけど、さっきからお腹が内側から引っ張られるみたいな感じがしてるのってお腹空いてるからなのかしら?」

「そんな風に言われると凄く新鮮な感じね~まぁ多分間違いないわ、仁! もちろん何か用意してるんでしょうね?」

「コンビニでお握り位は買っといたけど……飲み物はこれでも良いかな?」

「そんな飲み掛けを飲ませる積もりなの? 気が利かないわねぇ~自販機で何か買って来なさいよ」

「はいはい良く分かりました」

「そんな、仁、悪いわ!」

「いいのよ! これからこんな素敵な女性二人と一つ屋根の下で暮らせるんだから、この位の苦労はして当たり前よね?」

「全く仰せの通りですよお嬢様!」

 

そう言ってさっさと席を立つ。

むっちゃんは申し訳無さそうな眼差しで僕を見送ってくれたが、無論全く気になどしていないし、寧ろウキウキしている位だった。

葉月と会話するむっちゃんはとても楽しそうで、それを見ているだけで僕は浮かれてしまっており、スキップでもし始めそうになるのがちょっと怖い。

連結部の自販機で天然水とお茶を買って席に戻ると、相変わらず二人は楽しそうにお喋りしていた。

そんな様子を見た僕も上機嫌で、

「お待たせしましたお嬢様方?」

と柄にも無くお道化て見せたのだが葉月と来たら冷たいもので、

「やっと戻ってきたのね、ちょっと留守番しててくれる?」

と言うなりむっちゃんの手を引いて立ち上がってしまう。

 

「……え?」

「ごめんなさい仁、すぐ戻って来るからね?」

「いいのよいいの! じゃ頼んだわよ仁」

 

それだけ言い残すと二人はさっさと反対側の車両の連結部目指して行ってしまい、僕はむっちゃんのための飲み物とお握りを持ってぽつねんと待つより仕方が無かった。

 

 それから彼是10分程で席に戻って来た二人は何をしてきたとも話してはくれなかったが、概ね想像はついたのでしつこく尋ねたりはしない。

気が利く葉月の事だから、むっちゃんが言わば生まれたての赤ちゃん同然の存在である事を理解したので、恥をかいたりし無い様に女性同士でなければ教えられない事を教えていたのだろう。

 

「さぁお待ちかねのお食事タイムね! って言っても只のお握りなのよねぇ~、本当に気の利かないこと!」

「わ、悪かったな」

「ま、仕方ないわね。じゃむっちゃん、まずは飲む事から始めましょ!」

 

そう言って葉月は迷わず天然水を手に取ると彼女に渡し、

「蓋をこうもって、こっち回りに回してみて?」

と手振りを交えて開け方を教える。

 

「こう? あっ、ぷちっていったわ! これで開いたのね?」

「そうそう、それでこう口を付けてまずは少しだけ口の中に流し込むの。一度にたくさん入れちゃダメよ? 咽るから」

 

ここでも僕は二人の遣り取りを感心しながら見ているだけで、入り込む余地が無い。

ひとたび事情を理解した葉月にとってはこの位は言わばデフォルトの行動なのだろうが、普段いちいち考える迄もなく無意識にやっている事すらむっちゃんにとっては初めての事ばかりなのだということを、今更ながら認識した僕からすればただただ舌を巻くばかりだ。

 

「……ねぇ、これは何?」

「容れ物に書いてある通り、只のお水ってやつよ」

「これがお水? もっと飲んでもいい?」

「もちろんよ! お代わり位この下僕が幾らでも持って来てくれるから♪」

「誰が下僕だよ」

「じゃあ召し使い? 昭和チックにお手伝いさん? どれがお好みかしら?」

「呼び方の問題じゃなくて立場の問題だよ!」

「ほらほらそんなどうでもいい事でグダグダ言ってたら、人生初めてのお水の感想を聞き逃しちゃうわよ。ねぇむっちゃん」

 

そう振られた彼女は何やらうっとりした笑顔を浮かべている。

 

「何だか言葉にしようが無いんだけど、これが美味しいって言う事なのかしら……。体の内側が新しくなってく見たい……」

 

そう言って天然水のボトルを握りしめるむっちゃんの絵面は、そのままCMに使えるレベルだった。

というかこんなCMや広告が出たら、それこそネット上などであの女性は誰だとか言う話題で持ち切りになるだろう。

 

「何だか羨ましいわねぇ、普通の水でこんなに感動出来るなんて」

「そう言うものなの? あたしには良く判らないけど、自分が中から出来立てになった? みたいな気分を口から感じるなんて想像した事も無かったから……」

「すごく詩的だねぇ、美味しさとか味をそんな風に言えるなんて」

 

ところがその時全く詩的でない残念な音が響き渡り、僕の感想を台無しにしてしまう。

そう、むっちゃんのお腹がグーっと鳴ったのだ。

 

「嫌だ! なに? 何? あたしのお腹どうしちゃったの⁉」

「心配しなくても大丈夫よ! ほら仁、次はお握りよ」

「あのね、多分お水を飲んだからむっちゃんのお腹が動き始めたんだと思うよ? 何か食べたら鳴らなくなるから大丈夫だよ」

「う、うん、判ったわ……じゃあ今度は食べてみるわね?」

「さ、今度は剥き方よ、まずこれを摘まんで引っ張ってみて」

「あっ、すーっと引けるわ……なにこれ、凄くいい匂いがする」

「ふふっ、じゃあ今度はここを摘まんでこっちの方にそーっと引いてご覧なさい」

「あっあっ、何? なんでこんな風に引き抜けるの?」

「ほら、反対側も同じ様に引き抜いて」

「あっ、ひょっとしてこれでその――えっと――」

「海苔」

「そうそう! その海苔がご飯に巻けた訳ね」

「そう、これで準備オッケーよ、何時でも召し上がれ♪」

 

彼女は恐る恐るといった調子で、両手で持ったお握り(昆布だった♪)の角を口に入れてそっと噛む。

そしてその一口を目を瞑ってとてもゆっくりと噛み締めると、やがてコクンと飲み込んだ。

 

「一体何なのこれ……、水兵さん達が食べてるの良く見たけど……こんなに美味しいものだったなんて……」

 

彼女の表情はうっとりを通り越して半ば恍惚としており、思わずこっちも空腹を覚える程だったが、そう感じたのは僕だけでは無かったらしい。

 

「ううっ、何だか猛烈にお腹空いて来たわ。わたしも食べよっと!」

 

そう言って葉月はコンビニの袋に手を伸ばしたが、何も考えずに手を出しているだけに見えるのに狙い違わず(一つしかない)唐揚げ明太マヨを手に取っている辺りはやはり一味違った。

 

「じゃあ僕も」

「仁は普通に食べ慣れてるのね」

「むっちゃんの様な感動を無くしてしまう位ね……」

「全く~地元名産の駅弁を買っておく位の気は利かせて欲しいわね」

「これよりもっと美味しいものがあるの?」

「当たり前じゃない! って言うか昔の海軍って、上級士官は結構豪華な食事してたんじゃなかった?」

「そう言えば艦長さんの食事はお皿がたくさん出て来たと思ったけど……何の意味があるのかもよく判ってなかったわ」

「色んな美味しいものがたくさんあるよ♪ それに葉月は料理上手だしね」

「本当に? 凄いわ、とっても楽しみ!」

「仁の栄養が偏らない様に何時も気を付けてたのよ。放っとくとすぐ面倒くさがってコンビニ飯に走るから」

「ふうぅん、仁は本当に葉月さんのお世話になってたのねぇ」

「まぁそれは認めるよ」

「認めるって何よ! そこは感謝するとこでしょ普通⁉」

「まことにお手数お掛けしました」

「気に入らないわ~その反抗的な態度! それに過去形なのが地味に腹立つわ!」

 

葉月はわざと本音を口にして見せる。

大方彼女は僕が少々後ろめたい思い――言う迄も無いが葉月の気持ちを利用した事――を抱いている事などきっと当然の様に気付いていて「いい加減に観念しなさいよね⁉」というプレッシャーでも掛けているのだろう。

これ迄の長きに渡って葉月は僕の保護者の如く振る舞い、何となく接近しそうな異性には油断無く目を光らせ、場合によっては直接的な圧力も掛けて来た(と思う)。

後になってから何となく分かって来た事だが、恐らくその所為で高二の時に付き合っていた同じ部活の後輩(僕の人生で唯一の『彼女』だ)と別れており、それ以来異性との縁はない。

大学では周囲から勝手に"公認"されており、今更誰かと出会うチャンスなどは無かった。

もっとも、勝手な公認と言うには語弊があるかも知れない。

明るく可愛い葉月が異性の目を惹くのは当然の成り行きであって、知っている限り入学後少なくとも2度告白を受けている筈だが、2度とも「好きな人いるので」と言って素っ気なく袖にしているという事実があるからだ。

もちろん彼女が周囲からの『公認』を既成事実にする様意識的に行動しているのは言う迄も無く、日に日に僕の外堀は埋め立てられつつある。

にも関わらず僕が(以前からだが)理解出来ないのは、だからといって葉月に告白された訳ではない事だ。

それどころか告白ととれる様な言動すら一切せず、それでいて彼女同然の振る舞いは堂々としているのだから、何だかこのまま既成事実ばかりを積み上げて、ある日気が付くと僕の退路は全て完璧に塞がれており、只一つの選択肢以外には残されていないと言う状況に持ち込みたいのだろうか?

そんなロマンティックの欠片も無い恋愛(そう言って良いのだろうか?)が葉月の理想なんだとしたら、幾ら何でも価値観が違い過ぎる様な気がしてならない。

 

そんなモヤモヤとした事をぼんやり考えていると、ふと葉月越しにむっちゃんと目があい、彼女は本当に安らかというか和やかな笑みを浮かべて見返してくれる。

僕のどうにも割り切れないどんよりとした感情はその笑顔にあっさり吹き飛ばされ、ほぼ一瞬の内に感じた事の無い様な不思議な幸福感に置き換えられてしまった。

そのためか、そもそも何故葉月に対してこんなにも後ろめたくなったり遠慮したりするのか――という自問はもちろん、笑顔を浮かべたむっちゃんの瞳の奥にほんの一瞬形容し難い複雑な感情の色が浮かんだのにも僕は気付けなかった。

 



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〔第二章・第二節〕

 それからの時間は、何だかとても短く感じた。

大阪迄の車窓の眺めはほとんどトンネルに遮られてはいたが、合間の景色を眺めるむっちゃんの驚きや感嘆に僕と葉月が代わるがわる応じたりしている間に時は飛ぶ様に過ぎていった。

夕暮れから夜に掛けて大阪や京都、名古屋といった大都市の華やかさや明るさにたいへんな感銘を受けたらしい彼女は、

「そうよ――戦争が始まる前は、これ程では無かったけど海から見えた街は華やかで楽しそうに見えたわ……」

としみじみとした感想を漏らしていた。

だがその辺りの記憶を最後に、僕らは何時しか眠ってしまっていた様だ。

 

ふと気が付いたのは熱海付近だっただろうか、見れば僕だけで無く何時の間にやらむっちゃんも葉月も静かに寝息をたてていた。

葉月は何時もの様に腕組みをして顎を衿元に埋めるようにして眠っていたが、その向こうのむっちゃんはリクライニングシートに半身をゆったり預け、僅かにこちらを向いて眠っている。

微かに口を開けたその表情はこの上も無い程邪気がなく、それでいて粗野なだらしの無さは微塵も感じられない。

その光景は僕の胸の奥に痺れる様な充足感をもたらし、深い感動にも似た何かが込み上げて来そうになったが、すぐにそんな感情を打ち消す。

 

(何満足してんだよ、まだ何もかも始まったばかりだろ⁉)

 

そうだった、全ては始まったばかり――いや、それどころか何も始まってすらいないとも言える。

そう思いなおすと、いそいそとゴミや荷物を纏めて次の行動に掛かる準備を始めた。

次に彼女に必要なものは当座の衣類だが、中でも下着となると男である僕にとっては不可能に近い難題でもあるので、ここは是非とも葉月の(積極的な)協力が欠かせない処だ。

 

(新横濱で全部何とかしなきゃな)

 

彼女の寝顔を見ながら兎に角そうしてしまおうと思う。

僕自身も含めてだが、今日は余りにも色々な事が起こり過ぎているからだ。

特にむっちゃんは今日初めて人としての活動を始めたところなのだから、本人に自覚が無くても普通に考えれば身も心もくたくたになっている筈だ。

何がなんでも買い物は一ヶ所で全部済ませてしまって、後は脇目も振らずに家に帰るべきだろう。

 

そんな事を考えながら二人をどのタイミングで起こしたものかと迷っていると、むっちゃんが身じろぎをして眠そうな眼を微かに開く。

 

「目が醒めた?」

 

「……あ――あの――ええっと……仁、仁よね? あたし、どうしちゃったの?」

「眠ってたんだよ」

「眠って……、これが眠るって事なの?」

「そうか、むっちゃんは眠るのも初めてだったんだね。疲れたりすると、自然にそうなるんだよ」

「そうなのね……昔は、皆夜になって死んだ様に動かなくなっちゃうのが何故だか全く理解出来なかったわ。こう言う事だったのね……」

 

また一つ初めての経験をした彼女は戸惑いの中にいる様だ。

 

「それじゃあ、あたし何時から眠ってたの? その――仁が頭を撫でてくれて何も心配しなくて大丈夫だよって言ってくれてからすぐに寝ちゃったの?」

 

もちろん僕はそんな事をした覚えは無いし、何より葉月も横にいると言うのにそんなことが出来る筈もない。

 

「ふふ、そんな事してないよ。でもそれいいなぁ、凄くしてあげたいよ」

「えっ……どういう事? あたし、何でそんなこと覚えてるの?」

「多分、むっちゃんが夢をみたんだよ」

「ユメ?」

「そうだよ、人は眠った時によく夢をみるんだよ。夢の中でみた事はよく現実に起こったことと関係してるから、今のむっちゃんみたいに記憶が混乱することも時々あるんだ」

「そうなの……あたし、眠るのも夢をみるのも初めてだから……」

 

「どんな感じ?」

「正直に言うけど――ちょっと恐いわ。今起こってる事は実は全部夢で、目が醒めたらまたあたしは独りで海の底にいるんじゃないかって思ったら――」

 

そう言う彼女の瞳に涙が滲むのを見た僕は、心臓をぎゅっと掴まれる様な切なさに襲われる。

 

「だ、大丈夫だよ! これは夢なんかじゃ無くて本当の事だよ。それに絶対、絶対にそんな事起こらないから! 何があってもむっちゃんを一人ぼっちにしたりしないから! だから――これからは安心して眠っていいんだよ」

「うん……有難う仁」

 

そう言って、彼女は涙を拭いて笑顔を見せてくれる。

 

「んっ――んふっ、ふあぁぁぁ――あふっ」

 

ちょうどその時、お世辞にも淑やかとは言えない欠伸をして葉月が目を醒ます。

 

「お早う、葉月」

「あらお早う仁。目覚めの一杯はどこにあるのかしら?」

「ったく……これでもよろしいですかお嬢様?」

 

そう言ってまだ開けていなかったお茶を恭しく差し出すと、さも当然と言った顔でそれを受け取った葉月は、一応僕の道化に少しだけ乗って見せた後でむっちゃんに向き直る。

 

「んっ、下がってよろしい。ねぇ、むっちゃんはお水まだある?」

「あっ、ごめんなさい、全部飲んじゃったわ」

「じゃあ一口先に飲んだら? 寝起きなんでしょ」

 

目の前にボトルを突き出された彼女は一瞬当惑し掛けたものの、自分を気遣ってくれているのに気が付いて笑顔を見せる。

 

「あら、いいの? 葉月さんが飲むんじゃないの?」

「後で貰うからいいのよ! それより、寝覚めのお茶は美味しいわよ」

「判ったわ、有難う葉月さん」

「何でもいいけど『葉月』で良いわよ?」

「えっ……でも――うん、判ったわ葉月♪」

「そうそう、それでいいの♪」

 

そう言って笑い合う二人の間に和やかな空気が流れるのを感じたので、僕も安心して買い物の話を切り出せる。

 

「もうすぐ新横濱だよ、降りたら急いでPIPIに寄ろうか」

「んっくっ、んくんっ、うんっ――そうね~余り時間無いから取り敢えず最低限要るものだけかしら?」

「XYZマートも寄った方が良いよね?」

「時間があればよ」

「???」

「むっちゃん、服選ぶの楽しみにしてたわよね?」

「ええ、とっても!」

「じゃあ、駅に着いたら脇目も振らずにわたしに付いて来てね、荷物は全部この下僕が持って来てくれるから心配ご無用よ♪」

「そ、そのごめんなさい仁……」

「もう、諦めてるよ」

「うふふ、頼んだわよ」

 

実際その方がずっと合理的なのは僕にも良く分かっていたし、ここは素直に葉月にリードして貰うのが一番なのだが、ちょっとがっかりしているのもまた紛れもない事実だった。

 

そしてその言葉通り、葉月は新横濱に到着して列車を降りるなり彼女の手を引いて小走りに行ってしまう。

むっちゃんはその間際済まなそうにこちらを見たが、もちろん僕は笑顔で見送る。

はしゃぐ彼女と一緒に服を選ぶシーンを夢想していた身としてはもちろん残念には違いないが、それ以上に時間が無い事は良く分かっていたからだ。

そんな訳で、僕は二つのスーツケースを引き摺りながら二人の後を真っ直ぐ追い掛けたりはせずに、コンビニに立ち寄って明日の朝食の調達を適当に済ませてから、改めて二人がいる筈の商業ビルに移動する。

目当てのフロア迄上がって店舗内を少し覗いてみたが、彼女らと思しき人影は見えない。

 

(試着でもしてるのかな?)

 

それは当たり前に想定内の事だったので、余り気にもせずに

(やっぱり履き物いるよなぁ)

などと考えながら靴屋の店頭を眺めていた。

むっちゃんにはどんな靴が似合うだろうか?

まぁ服と合わせて選ばなければ意味が無い事は分かっているが、どんな格好でも合わせ易いものを選ぶ手はあるだろう。

漠然とそんなことを思っていると、ふと目に留まったものがある。

それは特に目立つ訳でもない紺青のサンダル風のデッキシューズだったが、それを眼にしたその時、僕の心の奥底からある記憶が甦ってくる。

 

――母さんが亡くなってどれくらい経った時の事だったろうか、僕は父と二人で母さんの遺品を整理していた。

どんなタイミングだったのか細かな事は良く覚えていないが、父が母さんの靴が入っていると思しき箱を開けたところ、中には紺青のサンダル風のデッキシューズと、手の中にすっぽり隠れてしまう位小さな同じ色のデッキシューズが入っていた。

その小さな靴は言う迄もなく僕のものだったし、無論もう一つのサンダルは母さんのものだろうが、何故この二足が同じ箱から出て来たのか分からなかった。

だが父にはすぐに分かった様で、それを手に取ると何かを必死に堪えながら暫く見詰めていたが、やがて歯を食いしばったまま涙を零し始めた。

僕は漠然とした不安に駆られながらもどうしていいか分からず突っ立っていたが、父は何も言わずに僕を強く抱きしめ、そのまま啜り泣いていた。

暫しの後、彼は僕を抱いていた腕をそっと緩めると涙を拭おうともせずにこう言ったのだ。

 

「これは、お前が生まれて初めて立った時に、母さんとお前にお揃いで買ってあげたものだよ……」

 

その夜、僕はそのお揃いの靴を抱いて、それを大切にとっておいてくれた母さんに想いを巡らせていた――。

 

我に返った僕は涙が零れているのに気が付き、ハンカチを探す。

何だろう、こんなに涙を零した事など自分でも記憶に無い位で、今日は相当情緒不安定になっている様だ。

人生の中でこんな一日はもう二度とやって来ないと思えば、それも当たり前なのかも知れないが。

 

とその時、僕を呼ぶむっちゃんの声が響く。

 

「仁、仁!」

 

振り返ると、彼女がこちらに向かって小走りに駆けてくる。

 

「どうしたの仁! 何かあったの?」

 

僕の涙の跡を目敏く見つけた彼女は、すぐ傍迄駆け寄って来るなり本来の用事が何だったのかはともかく、それをおくびにも出さずに微かに眉をひそめて唇を軽く尖らせた(とても可愛い)あの表情で問い掛けて来た。

 

「別に何でも無いよ、気にしないで」

「何でもなくても涙が出る事ってあるの?」

「うん、時にはね……それより何か用があったんじゃないの?」

「それはそうだけど――仁は本当に何でも無いの?」

「うん、大丈夫だよ♪ だからむっちゃんの用事を教えてくれる?」

「判ったわ♪ あのね葉月がね、仁の処に行って靴を買って貰いなさいって言うから――」

「良かった、僕もその積もりだったよ。さあむっちゃんの気に入る靴を探そう」

「嬉しい――けどお金がたくさん出て行くのよね……あたし、お金の事なんて禄に分かって無かったから何も考えずに甘えちゃって……本当に駄目ね、今になって申し訳無くなってるだなんて」

「でもさ、むっちゃんに僕が貰ったのは命だからね。それより高いものなんて知らないよ? だから本当に気にしなくて良いんだよ」

「……ええ、良く判ったけど――でも命の恩人の話はもう言いっこ無しよ」

「ウン、それじゃあむっちゃんの好みを教えてくれる?」

「ううん――そうねぇ……」

 

そう言いながら、彼女は店頭に並んだ様々な履き物に視線を走らせた。

その横顔を見るとはなしに見詰めていたが、その純粋さに魅入られてしまいそうになる。

 

(瞳って、本当にキラキラするんだ……)

 

ところがその感慨に長く浸っている事は出来なかった。

 

「あの、仁、いい?」

「え、何?」

 

どうやら、彼女は意外な程早く好みの靴を見付け出したらしい。

 

「気に入ったやつがあったの?」

「ええ、でもおかしなのを選んでたらちゃんと教えてね?」

「もちろんだよ、で、どれ?」

「あのね――」

 

言いながら彼女はトコトコと歩いて行き、

「あたし、これがいいなって思ったんだけど……」

と指差して見せる。

 

(あっ……)

 

それは他でもないあの紺青のデッキシューズだった。

 

突然視界がぼんやりして、こちらを見つめるむっちゃんの輪郭がはっきりしなくなる。

 

彼女の笑顔が優しく慈愛の籠った聖母の様な笑みに変わると共に、辺りは突然夕焼けの公園になり、僕はむっちゃんを見上げていた。

 

小さな両手を差し上げる僕を彼女はこの上もなく優しい眼差しで見つめ、その差し上げた両手に応えるかの様に手を伸ばす。

 

僕の心はむっちゃんの胸に抱き締められる幻影で一杯になり、二度と触れる事の出来ないその暖かみに包まれる安らぎと、それが永遠に喪われてしまったという悲しみに支配される。

 

「――――仁、仁! どうしたの⁉ お願いだから泣かないで!」

 

我に返ると、彼女が強く腕を掴んで揺す振っていた。

 

「大丈夫? 何があったの⁉ 訳を聞かせて!」

 

むっちゃんは涙を浮かべてそう訴えるが、嘗て幼い僕が経験した筈のその幻影(いや――幻などでは無い事位良く分かっていた。これは――そう、追憶と言うべきものなんだろう……)を順を追って話してあげられる程落ち着いてはいなかったし、そんな時間が無い事もはっきりしていた。

 

「ごめんよ、本当にごめん。何時か話せる時が来たらきっと話すから……」

 

「……」

 

僕を見詰める彼女の濡れた瞳はとても純粋な光を放っていて、一時凌ぎの言い逃れや誤魔化しなど到底通用しないだろう。

 

「突然驚かせたりして本当にごめんね。でも今は時間も無いし、僕もちゃんと説明出来る自信が無いよ……だから今日だけは我慢してくれる?」

 

「そう…………判ったわ……でも約束よ! 何時かきっとちゃんと聞かせてね」

「うん、約束するよ」

 

そう言って改めて涙を拭い、サイズを合わせて貰う為に店員を呼んだ。

やって来た店員の目は、あからさまに閉店間際の店頭でいきなり痴話喧嘩を始めたおバカな男女を見る目であり、結構な屈辱だったが、どういう訳かちょっと嬉しくもあった。

 



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〔第二章・第三節〕

 長い長い一日が終わろうとする頃、彼らは漸く仁の家に辿り着く。

結構元気な積もりでいた彼はもちろん葉月も陸奥もすっかり無口になり、玄関のドアを開けた時には今にも崩れ落ちそうな程の疲れを覚えていた。

 

「た、只今ー」

「お帰りー、只今ー、あ~疲れた~」

「只今? お帰り? どっちなの?」

「只今だよむっちゃん、それにお帰り」

「ええ、只今……」

 

そんな遣り取りをしている彼と陸奥とを尻目に葉月はドタドタと上がり込むと、さっさと居間に荷物を放り出してバスルームに向かう。

 

「ねぇ、お風呂ちゃんと洗ってあるの?」

「出掛ける前にざっとだけど洗ったよ」

「まぁいいわよね! 今更洗う気力も無いし」

「オフロニオユヲイレマス、ヨクソウノセンヲタシカメテクダサイ!」

「誰? 仁のご家族? あたしご挨拶しなきゃ!」

 

銀灰色のショートブーツを脱いで廊下に上がり掛けていた陸奥が、彼の腕を掴んで咎めるような口調で問い掛ける。

 

「あれは、給湯器の声だよむっちゃん」

「来て見なさいよ⁉ これが喋ってるのよ」

 

バスルームから葉月が陸奥を呼ぶので仁が目で促すと、彼女はやや上目遣いに彼を見て笑みを浮かべ葉月の許へ向かう。

どちらにしろ陸奥に風呂の入り方やトイレの使い方をちゃんと教えるのは葉月に頼る方がずっといいだろうし、任せておくに越した事はない。

その間に彼は取り敢えず荷物を居間に集めると彼女達の寝床を準備しに掛かったが、ここでちょっと迷った。

二人の寝る部屋は別々に用意するべきだろうか?

葉月がどこで寝たがるかはほぼ予想がつく。

おそらく二階の空き部屋にある折り畳みベッドで寝る積もりでいるだろう。

では陸奥は?

彼女が何も言わなければ一階の客間に布団を敷けばいい事だが、彼の脳裏には列車の中で陸奥が滲ませた心細げな表情がまだ引っ掛かっている。

あの時、固く約束することで一旦は彼女を安心させたものの、それで簡単に不安が無くなるとも思えない。

ここはやはり葉月に頼んでみるより他無いだろう。

彼は客間に布団を二組用意だけしておき、空き部屋のベッドは一先ずそのままにしておいた。

 

居間に戻ったがまだ二人の姿は無い。

陸奥のために買った衣類を取り分けてテーブルの上に置き、自分のスーツケースを開けて洗濯機に放り込むものを取り出していると彼女達がお喋りをしながら居間に姿を見せる。

 

「もうすぐお風呂沸くから、下着とか用意しとくわよ」

「さっき買ったやつね、袋から出すだけでいいのかしら?」

 

言いながらガサガサと袋を開け始めた彼女たちに、仁は声を掛ける。

 

「二人とも今日はどこで寝る積もり?」

「2階のベッドで寝たいんだけど?」

「むっちゃんは一人で眠れそうかな?」

 

「……」

 

案の定彼女は口籠り、不安そうな瞳で彼と葉月を交互に見詰める。

 

「何か理由あるみたいね?」

「情けない事言ってごめんなさい……でも、やっぱり眠ってる間に仁も葉月も何もかも消えてて、たった独りで海の底で目を覚ましたらどうしよう――って思ってしまうの」

「ふふ、全く仕様が無いわねぇ~、仕方ないわ一緒に寝ましょ♪」

「有難う葉月……ゴメンね、仁」

「気にしない気にしない♪ じゃあ客間に二人分布団敷いとくから葉月頼んだよ?」

「分かってるわよ! ところで今夜は洗濯してくれるのかしらセバスチャン?」

「???」

「……何かいちいち突っ込むのも疲れて来た……一応朝上がりでタイマー洗濯はする積もりだよ」

「じゃあネット出しといてね」

「了解」

 

その時、風呂の準備が出来たと給湯器が告げる。

 

「改めて聞くと、何だか不自然な声なのね」

「機械の合成音声だからね」

「さあ入りましょ! お風呂も初めてなのよね、汗流すのってさっぱりするわよ~」

「ええ楽しみだわ♪」

「ちょっとだけなら覗いても良くってよセバスチャン?」

「いやしないから!」

 

とは言ったものの、二人がバスルームに消えた後で彼は思わず生まれたまま(これは厳密に言うと間違っているのだが……)の姿の陸奥が風呂に入るところを想像してしまう。

ところが何故かそれは思った程刺激的な妄想ではなく、却って葉月のその様な姿(もちろん想像の中のである)の方が色々な部分が反応する位なのだ。

彼は首を傾げながらも頭をブンブン振って妄想を打ち消すと、出来るだけ事務的に客間の寝床を整える事に専念した。

 

そんな彼の葛藤を余所に陸奥と葉月は無防備な姿で、

「うふふ、仁が覗くと思う?」

「まさか、そんな事しないわよね? ……するの?」

「まぁしないんだけどねぇ~……ほんっと、その辺はもう少し弾けて欲しいわマジで!」

「あら、それってひょっとして魂の叫びって言うやつ?」

「なんかそう真顔で言われるとちょっと凹むわね……」

と女子だけの気楽なお喋りを楽しんでいた。

 

「このスポンジとかタオルで体を洗うのよ」

「石鹸とかつけてごしごし擦るのね? 昔はカンパンハケやブラッシでよく洗って貰ったわ」

「うう、何か良く分かんないけどゾッとしないわねそれ……正直まだ信じられないんだけど、本当に軍艦だったの?」

「ええ、多分お風呂でも浮くんじゃないかしら」

 

そう言って立ち上がった陸奥は湯槽に歩み寄るとそっと水面に足をおろし、呆気にとられる葉月の前で静かに水面に立つ。

 

「……えっ…………な、何よそれ……一体どうやってるの?」

「あたしは特別な事何もしてないわ、逆に浮かばずに水の中に沈もうとする時に何か工夫しなきゃだめだと思うの」

 

そう話す彼女の体は仄かに金色の輝きを帯びており、声も深みを増して神秘的な響きがある。

 

「どういう事なの……信じられない……まさか本当にこんなことがあるだなんて……」

 

「ええ……繰り返しになっちゃうけどあたしもまだ信じられないの。まさかこんな姿で陸に上がってるだなんて」

 

「……ねぇ、旧海軍の軍艦って今もたくさん海に沈んでるんでしょ? その中で貴方だけがこんな事になってるの?」

「それもあたしには判らないの……でも、もし出来るなら皆や姉さんに会いたいわ」

 

「……そうか、そういう事だったのね……仁ったら本当に説明が下手なんだから! やっと状況が飲み込めたわ⁉ でも、やっぱり納得行かない気持ちはあるけどね」

「どうすれば良かったの?」

 

言いながら彼女は湯槽からおりて、葉月の傍らに腰をおろす。

 

「結局、警察やら防衛隊やらの力を借りなきゃむっちゃんの仲間や姉さんを探すなんて無理な話だからよ。でも仁はどうしてもむっちゃんを助けたかったのね。命を助けて貰ったのにその相手を警察だかに連れていって、じゃあ元気でね! みんなに会えると良いね! ってさよならしたくなかったって事なのよ」

「そうなの……葉月は仁の事良く判るのね」

「まぁね、長い付き合いだし」

 

喋りながら葉月は体を洗い、陸奥も見よう見まねでボディソープを含ませて貰ったスポンジで体のあちこちを擦ってみる。

 

「そうそうそんな感じ♪ あんまり強く擦ったら跡が残るわよ」

「あっ、何だか気持ち良いわ! ……でもね葉月、仁の説明は上手じゃなかったかも知れないけど、葉月が迎えに来てくれる迄の間にね『とにかく葉月に分かって貰うのが一番大事だからね』って言ってたのよ?」

「アイツそんな事言ってたの?」

「ええ、仁は葉月のこと本当に頼りにしてるのね……何だか羨ましいわ」

「やぁねそんな訳無いでしょ! んふっ、もう♪」

 

言葉とは裏腹に葉月は目に見えて機嫌が好くなる。

ニヤニヤした笑いを顔に張り付かせて暫く無言で体を洗っていたが、唐突に「あっ」と小さな声をあげると腰を浮かせながら、

「仁! 仁!」

と大声で彼を呼ぶ。

どこか遠くから返事が聞こえたが小さくてよく聞き取れない。

立ち上がった葉月は少しだけドアを開けると、

「いいからちょっと来てよ!」

と更に大きな声を張り上げる。

一体何をする積もりなのかと見守るうちに、彼の足音が近づいて来て今度はかなり近くから、

「どうしたんだよ~、シャンプーとか何か無くなってた?」

と声が聞こえる。

葉月はドアから顔だけを覗かせながら、

「そうじゃなくて~、ねぇ背中流してよ~昔みたいに♪」

と耳を疑う様な事を口にする。

 

「な、何言ってんだよ⁉ 滅茶苦茶言うなよ!」

「え~良いじゃなぁい、ちょっとぐらいぃ♪」

 

と鼻に掛かった声を出した葉月は、何の前触れも無く体を曇りガラスのドアにぺちゃっと押し付ける。

 

「!!」

「バッ、バッ、馬鹿! な、何やってんだよ⁉」

 

途端に彼の足音がドタバタと遠ざかって行く。

 

「えへへ~、もぉ~本当にノリが悪いんだからぁ――ねぇ♪」

 

相変わらずやけに上機嫌な彼女は目を丸くして固まっている陸奥に同意を求めるが、一体何が起こったのかすらよく理解出来ず、疑問を口にするのが精一杯だった。

 

「ねぇ葉月、あんな事したらその――仁に見えちゃうんじゃないの?」

「ウフフ、だってたまには下僕にもご褒美をあげなきゃね♪」

 

男が女の肌も露わな姿を見るのは嬉しいものだというのは何となく判るが、今の場合はどう見ても嬉しそうにしているのは見られた(正確に言うとわざと見せた)葉月の方だ。

 

(葉月ったら、変なの!)

 

何よりもご褒美を貰った側である仁は慌てふためいていただけで到底喜んでいる様子では無さそうだったが、そうでは無くて実は喜んでいたのだろうか?

そう思い始めたら、どういう訳かちょっと腹がたって来る。

 

(何であたしが腹たてるのよ――あたしも変なの!)

 

まだニヤニヤしている葉月を見ながら、陸奥は改めてかぶりを振った。

 



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〔第二章・第四節〕

 慌てて居間に戻ったものの、彼の心臓は口から飛び出さんばかりにバクバクしている。

 

(クソッ! 何考えてんだよむっちゃんもいるのに!)

 

しかも何が腹立たしいかと言って、己の体が情けなくも(痛い位に)反応してしまっているのが癪に障る。

キッチンにとって返し、国際政治学の講義を思い出しながら冷たい水をゆっくり飲んで少し気を紛らわしたが、残念ながら健康な成人男性である彼は血液も有り余っている様で、ひとたび集まって来たものはなかなか解散してくれない。

とは言え、意地でもこんな姿を葉月に見せてたまるかと思う。

それこそ勝ち誇った様なニヤついた顔で、

「仁ったら、本当に素直じゃないのねぇ~♪」

などと上から目線の台詞を浴びせて来るのは目に見えているからだ。

仕方が無いので今度は哲学Ⅱの講義を思い出しながら暫し荷物の片付けに没頭していると、どうにかこうにか彼の体も(そして彼自身も)平静を取り戻し始める。

そうこうする内に二人の話し声が聞こえて来たので何食わぬ顔で彼女達を迎え様と思ったのだが、用心深くなった仁は思い直し、スーツケースをしまうために一旦二階に上がる事にした。

 自室の押し入れにケースを押し込むと、気休め程度にベッドを整え着替えを引っ張り出す。

その後階段の上でゆっくりと二度深呼吸した彼が恐る恐る下へ降りて行くと、二人はパジャマ姿で居間に座り込み衣類を整理しながらお喋りしているところだった。

先程の光景を思い出しそうで不安な仁は葉月を直視する勇気が無かったものの、わざわざ意識して目を逸らす必要など全く無い位に陸奥のパジャマ姿に目を奪われてしまう。

あれは彼女が自分で選んだのだろうか?

薄い水色で小さな可愛い襟の付いた上衣と七分丈のスキニーの様なパンツの組み合わせは、何の変哲も無いデザインなのだがとても良く似合っている。

一瞬彼女に話し掛けたいと言う衝動が湧き上がったが、葉月の前ではやはり止めておこうと思い直す。

 

「洗うものはどれ?」

「今出してるから、後で入れといて!」

 

全力を振り絞って平静を装った彼に対して、葉月は全く何事も無かったかの如く普通に返事を返す。

 

(くそっ、負けてたまるか!)

 

「どうせ一回じゃ終わんないから、先に洗うものと分けといてくれよ」

「葉月に聞いたけど今はどこの家でも自動で洗えるのね! 何だか凄いわねぇ」

 

意地になって普通に振舞おうとする仁を気遣ってくれているのか、陸奥はさらりと自然に会話を合わせてくれる。

 

(賢いんだな、むっちゃん……)

 

「畳んだりするのも自動でやってくれると嬉しいんだけどねぇ」

「いいからさっさと入って来ちゃいなさいよ! 先に寝ちゃってるかも知れないけど」

「別にいいよもう遅いんだし。じゃあねむっちゃん、ゆっくり休んでよ?」

「ありがとう仁、お休みなさい」

「お休み」

 

そう言ってバスルームに行こうとする彼を葉月が呼び止める。

 

「何だよ?」

「暗くて間違えるといけないから言っとくわね、わたしは部屋に入って向かって右側に寝てるから♪」

「な、何言ってんだよ! 行く訳無いだろ⁉」

「ウフフ、ねぇむっちゃん、夜中にちょこっと声がしても知らん顔しておいてね♪」

「え、えぇ、ええ……」

 

付き合いきれ無いので、無視してさっさと風呂に入ることにした。

 

(全くいい加減にしろよ! ナニ浮かれてんだよ)

 

ムカムカしながらさっさと服を脱ぎ捨てて浴室のドアを開けるが、ふと見ると何と葉月の体の跡がくっきり残っている。

あたふたするのは何と無くプライドに関わる様な気がしたので落ち着き払って湯を掛けて消したが、悲しいかな先程の光景がまざまざと蘇って来て、彼の意思に反して体は反応してしまう。

 

(クソッ、クソッ!)

 

今日一日でこの体に何度反抗されたのだろうか?

腹立ち紛れにドボンと湯槽に飛び込んだ仁はザバザバと乱暴に顔を洗うが、湯から明らかに男のそれとは異なる残り香が立ち昇り、必死で抑え込もうとしている努力を嘲笑うかの様に反抗的な彼の体は一層健康体をアピールし始める。

遣り場のない怒りが暴発しそうに膨れ上がり、葉月に一矢報いるためには寝込みを襲うしか無いのだろうかなどと精神的に追い詰められ掛けた仁だったが、突然仄かな潮の香りに包み込まれてハッとなる。

 

(あ……)

 

ほんの数時間前の記憶が陸奥の柔らかな笑顔の形をとって脳裏を過り、更にはその笑顔に秘められた不可解な力の所為なのか、彼の局部に集まっていた血液はまるで号令でも掛けられた様に通常配置に戻って行く。

 

(はぁ~……)

 

深い溜め息を吐いて漸く彼は寛ぐ事が出来た。

 

(何でだろう? 本当に不思議だなぁ)

 

ゆったりと湯に体を預けて天井を見詰めながらぼんやりと考える。

極端な想像ではあるが、もしも今彼女が一緒に風呂に入っていても、ひょっとすると普通に理性を保っていられるのではないだろうか?

もちろん彼女に女性らしい魅力が欠けている(どう考えてもそれはない筈だ)訳でも無いのにだ。

 

(まぁ何でもいいか……とにかくむっちゃんのお蔭でゆっくり休めそうだよ♪)

 

そんな風に心の中で話し掛けるだけで、何やらホッとした気分になれるのもまた不思議だった。

 

 それから暫くして仁が風呂からあがると、既に居間には二人の姿は無かった。

丁寧に重ねられた二つの衣類の山が出来ていたので、迷う事無くネットの混じった方を洗濯機に放り込み、タイマー予約をすると自室に上がる。

ベッドに座った途端一気に疲れが襲って来るがそれも当然で、こんなに中身の濃い一日を過ごす事は今後も無いだろう。

明かりを消すと、彼は素直に眠気に身を任せた。

 

 その同じ頃、仁以上に中身の濃い一日を過ごした筈の陸奥は、客間の布団の中でまだ寝付けずにいた。

隣の布団の葉月は既に規則正しい寝息をたてており、それこそ本当に彼が忍んで来たとしても簡単には起きそうに無い気配だ。

 

(待ってる筈じゃ無かったの、葉月?)

 

そんな風に心の中で突っ込んで見るのが何と無く楽しい。

ほんの一日前の自分には出来なかった事なのに、今はそれが出来る。

その昔彼女に乗り組んでいた多くの兵や士官達が、それこそ毎日の様に艦内のあちこちで会話を交わし、泣いたり笑ったりしているのをずっと只眺めていたが、会話の意味は判っても何故大仰に笑ったり怒鳴ったり泣き喚いたりするのか全く理解出来なかった。

なのに今日一日で――もっと正確に言うなら僅か半日の間に――自分は、笑い、泣き、怒る程では無いものの少々ムッとし、そればかりか悲しく無くても涙が出る事や、嬉しく無くても笑ってしまうことすら経験したのだ。

 

(心があるのって、本当に不思議なものね)

 

そしてその不思議さと同時に、何かを感じる事の鮮烈な驚きや喜びも知った。

陸奥の心を激しく震わせた日本の景色や町並み、初めて飲んだ水の味、初めて食べた握り飯の味(葉月は、あんなに美味しいものをどうしてあそこ迄扱き下ろすのだろう?)は、胸に込み上げて来る嬉しさ、楽しさ、心地良さ――という様々な感情を呼び起こしてくれた。

 

(それだけじゃないわ……)

 

彼女の思考はどんどん連なって行く。

あの夢という不思議なものは一体何なのだろうか?

あの時、確かに仁はとても優しい眼差しで自分の頭を撫でてくれた筈なのに、それが現実で無かったとは!

そう言えば目が覚めた後に彼は記憶の混乱と言っていたが、例え夢でなくても記憶は混乱する事を既に自分は経験している。

彼女は自分の一部がサルベージされた時の事を嬉しかったと彼に話したが、今冷静になって思い返してみるとどう考えてもあの時の自分が『嬉しい』などと感じる訳が無いのだった。

 

(嬉しいと思ったのは、今のあたしだったのね)

 

そうやって記憶を手繰ってみても、やはり自分に感情が目覚めた切っ掛けは仁が溺れてぐったりするのを見て『焦った』事より以前には遡れない。

と言うことは、自分は彼に出会ったがためにこんな姿を手に入れたのだろうか?

それとも既にその時は女の姿になっていて、只気がついて居なかっただけなのだろうか? 

その答えの出ない問い掛けによって堂々巡りとなった彼女の思考は、微睡と共に脈絡を失って行く。

 

自分が出会った人間(只擦れ違っただけの人々は除いてだ)はまだ仁と葉月だけだ。

較べる対象が無いので何とも言えないが、自分は二人とも多分好きだと思っている。

もう少し言うなら、ほんのちょっとだけ彼の方が好きだと思う。

 

葉月は最初少し怖くて冷たかったし、何より初めて出会った時、直前の電話であれ程馬鹿だとか嫌いだとか言っていたのに、いきなり陸奥の目の前で彼に思い切り抱きついたのだ。

 

あの時、何故か判らないが、自分はそれが――不満だった。

 

その後葉月は――自分を理解してくれて、

優しく接してくれる様に――なったので、

彼女のことも――好きになったが、

 

それでも――葉月が彼のことを――

その――大好きなことが――判ってくると――

 

やっぱり、なんとなく――

ううん、ちょこっとだけ――気に入らなかった。

 

なぜ――だろう?

 

さっきだって……。

 

自分は葉月に――自分をもっと好きに――

 

なって欲しい――のだろうか?

 

……それとも葉月が――仁のことを――

 

嫌いな方が――いいと――

 

思っている――から?

 

 

(それとも――葉月――

 

じゃなくて――――仁? 

 

…………仁が――――

 

あたしの――

 

ことを…………)

 

 

何時しか陸奥は眠りの中に落ちて行った。

 



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〔第二章・第五節〕

 翌朝の目覚めはお世辞にも早いとは言えなかった。

特にこういう時に真っ先に起き出す筈の葉月が起きて来ないのは稀有の事態と言える。

 

(こんなの、初めてじゃないか?)

 

仁はそう考えながら朝食の用意――と言っても、昨日買っておいたパンを温めて紅茶を飲みたがる葉月のために湯を沸かす位の事だが――をいそいそとしていた。

正直なところ真っ先に陸奥の様子を見に行きたいのだが、さすがに葉月がいるだけに躊躇ってしまう。

もちろん二人を起こしに行ったのだと言う位は簡単なのだが、その程度では彼女をごまかせる訳が無い。

そんな風に彼が逡巡している内に、気持ちが伝わったのか否か陸奥が一人で起き出してキッチンにやって来てくれた。

 

「お早う、仁」

「お早う、むっちゃん、昨日は良く眠れた?」

「ええ、起きたら葉月が横に寝ててほっとしちゃったわ」

「夢は見なかった?」

「そうね、昨夜は仁は頭を撫でてくれなかったわ♪」

「ハハハ、それは申し訳無かったね♪ 次からは言ってくれたらちゃんと撫でに行くよ」

「ふふふ、そうね、ちゃんと頼んでおかないとね」

「それにしても葉月はまだ寝てるの?」

「ええ、本当に静かに寝てるわ……ああ言うの何て言うんだったかしら?」

「すやすや――って感じ?」

「そう! そのすやすやよ、昨夜からずぅっと」

「へぇ~、葉月がそんなに良く寝てるとはね……まぁでも起きてくれないと洗濯物が片付かないし、後で起こしに行くかぁ」

「洗った服を畳むの? あたしが手伝ったら出来る?」

「量が多いっていうより問題なのは葉月の下着とかなんだ。これは僕とむっちゃんで――って訳にはいかないからねぇ」

「仁は葉月とその――長い付き合いなんでしょ? 下着を畳んであげたらダメなの?」

「それをしても不自然じゃないのは実の家族か夫婦位だよ。僕はどっちでも無いからねぇ」

 

(第一、そんな事したら葉月の思う壺だよ)

 

という言葉は口には出さずにそのまま飲み込む。

 

「そう言うものなの? ……でもそれじゃ仕方無いわね♪」

 

彼の言葉を聞いた陸奥は、どういう訳か少し嬉しそうな笑顔を浮かべる。

 

「あら? なぁに、このとってもいい匂い!」

「昨日買っといたパンを温めてるんだよ。むっちゃんは野菜ジュースでいい?」

「野菜――なに?」

「野菜を摺ったりして絞った汁――って言ったらいいかな? 昨日の天然水やお茶に較べると大分濃い飲み物だよ」

「あたし、飲んで見たいわ」

「じゃあ僕の何時もの朝食セット、パンと野菜ジュースをどうぞ」

「うふっ、有難う♪ でも頂きますする前に葉月を起こしに行くのね?」

「そうだね、起こして来るよ……いや、やっぱり一緒に来てくれる?」

「ええ、良いわ」

 

二人は客間の引き戸の前に立つ。

 

「むっちゃん、開けて様子を見てくれる?」

 

少々大袈裟かも知れないと思いながらも、仁はすっかり用心深くなっている。

意図を感じ取った陸奥も、含み笑いをしながらそっと戸を開けて中の様子を覗くが、すぐに彼の方を振り返って笑いかける。

 

「仁、見てあげて♪」

「?」

 

彼女に促されて仁が部屋の中を覗くと、葉月はまだすやすや眠っていた。

しかも彼が知っている限り葉月は非常に寝相がいいはずだが、今は枕をきゅっと抱き締めて仔猫よろしく丸くなって布団に包まりスースーと寝息をたてている。

 

(うっ……)

 

予想というか用心していた方向を大きく外された彼は、少々面喰らい戸惑ってしまう。

 

「ねぇ仁、こういうの何て言うんだったかしら? その――ええっと――」

 

「……」

 

「――うう~んと――ねぇ、教えてよ仁」

 

「――か――」

 

「か?」

 

「か――か――」

 

「か、か?」

 

(ダメだ! 確かにそう言うしかないんだけど……でも言いたくない!)

 

「どうしちゃったの仁? そんなに難しい言葉なの?」

「いや、そうじゃないんだけど――その……」

「じゃあ、教えてよぉ『か』何て言うの?」

「――か、か、か、――か――」

「もうっ焦れったいわね! 素直に『可愛い』ってさっさと言いなさいよ⁉」

「起きてたの、葉月⁉」

「全く! 明るいしっかりもの女子のやたらに可愛い寝相とか、ギャップ萌えするのが当たり前ってもんでしょ⁉ 何でこう素直じゃないのかしらね~」

「???」

「てか自分で言うか? 普通……」

「仁が言うべき科白ちゃんと言わないからわたしがフォローしてるんでしょ!」

「なに? 何? 今のは二人のお芝居だったの?」

「いや断じて違うからね! 葉月もむっちゃんが混乱するから口から出任せはやめろよ~」

「出任せなんかじゃないわ⁉ むっちゃんだってニュアンスは正しく理解してるわよ!」

「あぁはいはい……朝飯用意してるからさっさと来いよ」

「紅茶は?」

「貰い物のティーバッグあるしお湯も沸いてる」

「ほらね! ちゃ~んと通じ合ってるでしょ?」

「そ、そうなの?」

「むっちゃん、気にしないでいいから早くおいでよ」

 

朝一番から、またしても葉月のペースに乗せられてしまった。

全く油断も隙も無いとしか言い様が無いものの、常日頃ほど不愉快な気分にならないのは何故だろうか?

 

(むっちゃんが、何となく和んでるからなのかなぁ)

 

あまり深くは考えずに、彼は冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。

 

 そして朝食の後、彼らはそのまま食卓で色々と気になっている事について(やっと少し落ち着いて)話し合う。

 

「やっぱり、むっちゃんだけが特別って考える方が無理があると思うなぁ」

「そんなの当たり前よ。でも、だとしたら他の軍艦はどうしたの? わたし達は他でもない呉周辺をウロウロしてたのよ? あの辺りで沈んだり、停泊したまま終戦を迎えたのは1隻や2隻じゃ無かった筈でしょ?」

「うーん、ひょっとしてさ、現に今沈んでる事が肝心なんじゃないかな?」

「あ……」

 

陸奥の反応に仁と葉月は同時に振り返る。

 

「どうしたのむっちゃん?」

「何か思い出したの?」

 

彼女は少々困った様な顔をしながらも口を開く。

 

「どう言えばいいのかしら……ちょっと自信が無いんだけど……多分仁の言ってる事が正しい筈……よ?」

「本当に? でも何故そう分かるの?」

「あたしもそれを説明出来たら良いんだけど……何故だか知ってるとしか言い様が無いの……」

 

不思議な話には違いないが仁と葉月には免疫が出来つつある様で、何となくそういうものかと受け容れてしまえる。

 

「他に知ってる事とか何かあるの?」

「そうね……例えば船の天国とかかしら」

「何なのそれ……何だかまたちょっと毛色の違う響きよねぇ」

「そんな怪しげな話とかじゃないわ、只寿命を全うして解体された船は天国に行けるっていう話しよ。何で知ってるんだって言うのは――同じくだけど……」

「沈んだ船は?」

「一度沈んでも、引き揚げて貰ったりすれば天国に行けるわ――って言うか多分その筈だって言う意味よ」

「つまり呉周辺で沈んだ船は、戦後に引き揚げられてるから皆天国に行ったって事?」

「ええ、もし引き揚げられたのが本当だったらそうなんじゃないかしら?」

「じゃあ、むっちゃんは――」

「引き揚げ作業が本格的に始まった時ね、これであたしも天国に行けるって思ったの。でも途中で終わってしまって……だからあたしは天国に行き損ねちゃったんだってずっと思ってたわ……」

 

彼女の溜め息にも似た悲しげな呟きを聞いて、仁は思わず目頭が熱くなって来る。

 

(一体むっちゃんに何の罪があるって言うんだ! こんな理不尽な目に合わなきゃいけないなんて)

 

と憤りかけたものの、その怒りは眉間に炸裂した葉月の非情なチョップで粉々になってしまう。

 

「な、何すんだよ!」

「それはこっちが言いたいわよ! いい加減にしなさい! 昨日からおかしいわよ⁉ 何かって言うとやたらボロ泣きして! あんたがそうやってメソメソするからむっちゃんが悲劇のヒロイン見たくなっちゃうんでしょ⁉」

「えっ――」

 

毒気を抜かれた態で彼が改めて陸奥を見ると、彼女は二人の顔を見ながら苦笑している。

 

「あれ……」

「分かった⁉ 今度から泣く時は事前にわたしの許可をとる事! いいわね⁉」

「無茶苦茶言うなよ!」

「んふふふふっ♪ もし許可が貰えなかったら泣いちゃいけないのね、仁は♪」

「むっちゃん勘弁してよー」

「でもやっぱり仁は優しいのね、有難う」

「優しい位しか取り柄が無いんだから当たり前よ!」

「あら、酷い♪」

 

彼女達は顔を見合わせて楽し気に笑う。

 

(ちぇっ、でもまぁいいか……)

 

仁のプライド的には全く納得行かない処だが、二人がこれ程短時間で仲良くなってくれたのは彼にとっても願ったり叶ったりだった。

 

「でも凄いわよね今の話! むっちゃんは船の格好してる時からそんな事考えてたって訳でしょ?」

「それも良く分からないわ……だって今のあたしはそんな風に考えられるけど、船だった時のあたしがそう思ってたのか今思い出すからそう思えるのか、どっちだか区別できないもの」

「そうかぁ、自分の身に起こった事を思い出すのは出来ても、その時の自分には意識とか感情があった訳じゃ無いからなんだね」

「何か想像もつかない状況よねぇ~、無生物から生物になる境目見たいな感じ?」

「正直に言うけど答え様が無いわ……。でも今は余り厳密に切り分け様とは思ってないの、あたし一人で答えが出せる訳じゃないし」

「それはそうね、謎解きはもちろんだけど、一体何がどうなってるのかだけでも分かるためにも、まずは同じ境遇の仲間を探し出す事が先決よね」

「闇雲に探し回る訳にも行かないし、取り敢えずはネットであれこれ検索して見る事からかなぁ」

「まぁそんなとこかしら。いきなり警察やら海上警備庁やらに電話してもイタ電扱いされるのが落ちよね」

「あたしは何をすれば良いの?」

「買い物かしらね」

「へ?」

「??」

「何そんな顔してるわけ? 昨夜のたったあれだけで当面の要るものが揃った積もりなの?」

「まぁそう言われれば確かに――」

「だからむっちゃんはあたしと一緒に買い物よ、昨日買った服と靴でね♪」

「で――まさかその――」

「頑張って検索しててね♪ 丸一日頑張れば何か手掛かりが見つかるんじゃないの?」

「一日中……」

 

葉月の非情な言葉に彼は酷く打ちのめされ、見兼ねた陸奥が一生懸命助け舟を出そうとする。

 

「仁、やっぱりあたしも何か手伝うわ?」

「無駄よむっちゃん! ネットで検索するのに手伝える事なんて何も無いから」

「そうなの?」

「残念ながらその通りだよ……はぁ~」

「ねぇ葉月、何とかしてあげられないの?」

「仕方ないわね~、ちょっと甘やかし過ぎの様な気もするけど――仁! 今日の晩御飯はオムカレーにするわよ⁉」

「!!」

「おむ――カレー? どんなカレーなの? 仁は知ってるの?」

「カレーを掛けたオムライスだよ! 葉月のは本当に最高だよむっちゃん!」

「ほらむっちゃん聞いたでしょ? 葉月は最高だなんてもう照れちゃうわ♪」

「そ、そうだったかしら? あ、あたし良く聞いてなかったから――」

「いや、何度も言うけどさらっと流していいからね、むっちゃん」

「……ええっと――あの、葉月? あたし、お出掛けの準備とか何したらいいの?」

「そうねぇ、もう暫くは仁のお手伝いでもしててくれる? わたし、ちょっと家に戻って来るから」

「葉月の家に?」

「歩いてすぐなんだよ。塔原家秘伝のルーを取って来るんだろ?」

「それもそうだけどそれ以外にも色々取って来る物があるから。一時間位で戻るからね」

「判ったわ、仁、まずは朝御飯の後片付けでいい?」

「そうだね、ささっと済ましちゃおう」

「洗い物溜めちゃダメよ!」

「はいはい分かってますよ~」

「はいは一度よ! もうっ」

「うふふふふっ♪」

 



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〔第二章・第六節〕

 後片付けを終えてスーツケースを引き摺った葉月を見送ったあと、僕はPCを居間のテーブルに据えて長い一日を始める準備をした。

傍らにちょこんと座ったむっちゃんは、これから何が始まるのかと興味津々の様子でディスプレイを覗き込んでいる。

 

「これがこんぴゅーたーって言うものね! でも網は何処にあるの?」

そう言って彼女はディスプレイの裏を見たり、辺りをキョロキョロ見回している。

「網がついてる訳じゃないよ、網の目の様に張り巡らされた通信回線と繋がってるのを省略してネットって言ってるんだよ」

「そうなのね! でもこの黒い線が一本繋がってる様にしか見えないけど――」

「それは電源コードだよ、通信回線とは無線で繋がってるんだ。さあ理屈はさておきこんなものだよ?」

 

僕はブラウザを立ち上げると『陸奥』と入力して検索した。

するとすぐに検索リストが表示され、そのトップにはむっちゃんの在りし日の写真がずらずらと表示されて彼女を面喰らわせる。

 

「何これ、あたしじゃない! 一体どうなってるの⁉」

「こまごました理屈を説明し始めたら長くなり過ぎちゃうから、もう少しむっちゃんが現代に慣れてからキチンと説明してあげるよ。でも一つだけ教えとくとね、このコンピュータの先に世界中が繋がってて何年掛けても調べ尽くせない程の情報が引き出せるんだよ?」

「何だか凄いのねぇ……とても理解出来ないけど、信じられない位広い世界と繋がってるって言うのは何となくだけど判ったわ」

「因みにこれって何時頃のむっちゃんかな?」

 

僕は見栄えの良さそうな画像を選んでクリックしたが、それを見た彼女の返事に拍子抜けしてしまう。

 

「それあたしじゃないわ、姉さんよ」

「えっ、本当に?」

 

画像のタイトルは確かに陸奥になってるのに……。

 

「あのね、ここを良く見てちょうだい?」

 

彼女は舳先の部分を指差す。

 

「ぼんやりしてるけど、丸い物が付いてるでしょ?」

「うん」

「これは菊の御紋章なの、軍艦にはみんな付いてるのよ」

「そう言えば記念館にあったむっちゃんの舳先の模型にも確かに付いてたよ。でもそれがどうかしたの?」

「もう仁ったら! あたしの艦首を見たんだったら判る筈よ? 良く思い出して⁉」

「ええ? う~ん……」

 

そう言えばほんのちょっと違う様な……。

 

「どーお?」

「ひょっとしてだけど――」

「うんうん♪」

「御紋章が下の方に付いてる?」

「大正解!」

 

満面の笑みを浮かべたむっちゃんが僕を抱き締めてくれる。

昨日はここで涙が溢れて来たのだけれど、先程葉月に叱られたから――と言う訳でも無いのだろうが、今日は涙が出てくる様子もない。

それどころか自分の鼻の下がこれ以上は無いと言う位伸びまくっている感じが半端ではなく、絶対他人に(特に葉月には)見せてはいけない顔になっているのが分かる。

 

(いや、これが普通なんだよこれが!)

 

とひたすら強弁して自分を納得させる。

第一こんなに嬉しそうな彼女を見たら、それだけで僕は幸福なのだ。

 

「ねぇ仁?」

「何?」

「姉さんはどうなったの?」

「長門さんか……」

 

そう言いながら何気なく『長門』で検索し直し、リストのトップに上がって来たWakupediaの記事をむっちゃんと二人でしげしげと読む。

だが、すぐにそんな事をしなければ良かったと激しく後悔した。

何故なら、そこに書かれていたのは余りにも非情な事実――いや史実と言うべきなんだろう――だったからだ。

正直なところ知らなかったのだが(と言うか、知っていたら絶対にこんな風にむっちゃんと一緒にそれを調べたりしなかっただろう……)長門さんは終戦迄生き残った数少ない艦だった。

なのにせっかく生き残った筈の彼女は、やはり健在だった二等巡洋艦酒匂と共に1946年7月にビキニ環礁で行われた米軍の核実験の標的にされ、誰一人見送る者も無くひっそりと沈んでいた。

僕は胸が塞がれた様に息苦しくなったが、それ以上に横にいるむっちゃんの顔を見る事が出来ない。

恐る恐る下の方を見ると、彼女の膝とぎゅっときつく握り締められた拳とが見え、その上に次々に涙が滴り落ちている。

 

「むっちゃん――」

 

矢も盾もたまらず声を掛けたが、それ以上言葉が見つからず口籠ってしまう。

彼女の涙を止める術も知らない僕は、只々その涙に濡れる横顔を見詰め続けるしかなかった。

そしてどれ程経った頃だろうか、啜り泣く彼女の嗚咽が少しずつ収まり始め、きつく瞑っていたその目がうっすらと開く。

 

「……むっちゃん?」

 

芸の無いこと夥しいが、僕は再び声を掛ける。

 

「……ねぇ、仁……」

「な、何?」

 

「……姉さんは、米帝の実験台にされたのね?」

「そうだったんだね……僕も知らなかったよ、ごめんね」

「姉さんが連れていかれる時、日本の人達はどうしていたのかしら?」

 

「えっ」

 

「姉さんは日本の人達のために戦ったのよ? それも最後まで……それなのに姉さんは米帝に連れていかれて実験台にされて沈められたのよ? 日本の人達はそれを只見ているだけだったの?」

 

彼女の涙に濡れた瞳が僕を見詰めたが、それは見た事も無い怒りの色を湛えている。

出来る事ならその場を逃げ出したかったが、そんなことが出来る訳も無い。

 

(何情けないこと考えてるんだ! こんな覚悟も出来てなかったのかよ⁉)

 

己を叱咤して、何とか口を開く。

 

「その当時の事は僕も良く分からないけど――でも日本は米軍に占領されてたから、きっと文句を言うことも出来なかったんだと思うよ」

「それでも誰も何も言えなかったの? 命懸けで反対する人は一人もいなかったの? 何故? 銃を突き付けられて命が惜しかったから姉さんを見殺しにしたの?」

 

彼女は感情を抑え切れない様だった。

僕は渾身の勇を奮い起こして再度口を開く。

 

「本当に――本当にごめんよむっちゃん……でもこれだけは言わせて欲しいんだ。日本の人達は、多分自分の身を切られる程辛く悔しかったと思う。だって、むっちゃんもお姉さんも日本の人達の誇りだったんだから。……米軍はそれを知っていたから、殊更にそんな仕打ちをしたんだと思うよ。今僕が現に悲しくて悔しくて仕方が無いんだから、その時生きていた人達はきっと僕の何倍も何十倍も悲しくて悔しかった筈だよ……」

 

彼女の瞳の中に燃える怒りの炎に必死で向き合う内に、それが深い――想像もつかない程深い哀しみの裏返しだと言う事に気が付いて思わずハッとする。

そして彼女も僕が気付いたことを理解したらしく、目を伏せて横を向いてしまう。

その仕草に僕の胸は激しく締め付けられ、掻き毟られた。

彼女の怒りと哀しみを受け止めるためには、やはり中途半端な覚悟ではダメなのだ。

 

「むっちゃん――僕はこれ迄ずっとむっちゃんや長門さんが、僕達人間の理不尽な振る舞いの所為で光も禄に届かない海の底で、天国に行くことも出来ずに孤独なまま横たわって居る事に余りにも無関心だったと思う。詫びることに意味なんて無いけど……でも本当にごめん」

 

彼女に命を助けられた時は自然に砂浜に額を付けられたが、今は到底そこ迄頭が回っていなかった。

例えそれに思い至ったとしても、むっちゃんの底知れぬ哀しみを目の当たりにして、そんな紋切り型のお詫びなど出来はしなかっただろう。

 

「僕は本当にちっぽけで頼りにならない奴だけど、でも君にこれだけは誓うよ。何時か必ず、君を長門さんが眠ってるビキニ環礁に連れていって長門さんに会わせてあげる。どんな事をしてでも」

 

更に伝えなければいけないもっと大切なことを口に出すために、自分自身の決意を胸の中で再確認する。

だが、僕の(予想される)一生の長さからすればこの決意のために要した時間はそれこそ瞬きするよりも短いにも関わらず、不思議な程迷いも躊躇いも湧いて来ない。

 

そう、僕はこの瞬間に決めたのだ。

彼女に救って貰ったこの命を彼女のために使うと。

 

「それと、一体どれ程のお金と手間と時間が掛かるのか見当もつかないけど――僕の生涯を掛けて、君が悲しみや苦しみから永遠に解放される処へ――船の天国に送り出して見せる。今ここで君に誓うよ」

 

「……それがどう言う事か、判って言ってるの?」

 

「うん――、その積もりだよ」

 

「……そう……」

 

緊張の余り少々声が上ずってしまったその誓いを聞いた彼女は、暫く横を向いたままだったが、やがて小さくコクリと頷いてくれた。

 

そして更に暫しの沈黙の後、自分自身に言い聞かせる様に訥々と話し始める。

 

「あたしは70年も経ってから、生まれて初めて陸に上がってまだ2日目だわ……。今の日本の事も陸の上の暮らしの事もまだ何も知らない――、それは良く判ってる積もりよ。でも、姉さんのことを知ったらやっぱり我慢出来なかったわ。……これから先、姉さんや艦隊の皆に会えて話をする事が出来て、もっとずっと色々な事が判る様になってからなら少しは考え方が変わるかも知れないけど……。それでも今は納得出来ない気持ちの方が強いわ――」

 

当たり前のことだ、僕が彼女の立場だったらもっと見苦しく喚き散らしただろう。

 

「でも――」

 

そう言ってむっちゃんは、顔を上げて僕の目を真っ直ぐに見つめる。

 

「あたし信じるわ、仁が誓ってくれたことも、仁のことも」

 

彼女の眼差しは言葉に出来ないほど暖かく、胸の奥に染み込んでくるようだった。

 

僕は落ち着き払った態度で有難うと二枚目風に言う積もりだったのだが、そんな事が出来るヤツなのかどうか位もう少し冷静に考えるべきだった。

一生懸命に我慢したのだが忽ち視界がぼやけ始め、せっかくむっちゃんが見せてくれた優しげな笑顔も良く見えなくなってしまう。

 

「もう――仁が葉月に叱られるのも当たり前ね……、葉月に言いつけちゃうから! 仁が約束破って勝手に泣いてたわよって♪」

 

そう言って彼女は少し悪戯っぽく笑ったが、そのとても可愛い(筈だ……)笑顔すらもちゃんと見られ無いのはさすがにちょっと情け無かった。

 

それから程なくして戻って来た葉月は、すぐに僕とむっちゃんの様子に気が付き、何があったのかと有無を言わせぬ調子で詰問する。

正直なところ黙っていたかったのだが、間接的にむっちゃんを困らせる事になりかねないので仕方なく事情を話した。

そして案の定、聞き終えるや否や彼女はすっくと立ち上がり僕の前に仁王立ちになったので、小酷く叱られるものと思って反射的に首を竦めた。

――のだが、一体どうしたものか深い溜め息を一つ吐くと、何だか随分シミジミとした声音で独り言とも僕に語っているともどちらともとれる様な事を話し始める。

 

「長門さんの事を話すのは、むっちゃんがもう少し落ち着いてからにするべきだと思ってたのに……。何て言うのかしら、本当にあんたって雷が落ちる時に限って木の下にいる星回りなのねぇ……」

 

それだけ言うと黙ってしまったが、僕は到底顔を上げて彼女を見ることなど出来ずにそのまま固まっているしかなかった。

葉月は押し黙っているものの、僕の耳には『だから、あんたの傍にはわたしがいなきゃ駄目なのよ……』という声無き声がはっきり聞こえていたからだ。

 

(う~、なんか凹むなぁ……)

 

何時もの様にガミガミ言われている方が余程気が楽なのだが、こんな風に出られてしまうと一体どうしたら良いのか途方に暮れてしまう。

だからと言ってじっと黙っていると、これ迄通りであればこの後だんだん昇り調子になって来る葉月からみっちりと、しかも反論のし様も無い説教を聞かされた挙句に、婉曲に『わたし以外にあんたの嫁はいない』事を畳み込まれて更に凹む羽目になるのがオチだ。

但しこれ迄と決定的に違うのは、ここにはもう一人平均以上の気配りの上手さを発揮し始めている女性(艦?)が居合わせている点だった。

 

「ねぇ葉月、仁にお仕置きとかしちゃうの?」

 

むっちゃんはこれ以上は無いと言う絶妙なタイミングで口を挟んでくれる。

 

「えっ――そうかぁ、ウフフ♪ そうよねぇ~、なんかお仕置きはしとかないとね~」

「お仕置きって、まさか――お尻引っ叩いたりとかするの?」

「うっ――あはっ、あははははっ! むっちゃんそれ最高よ! うっふっふっふっふぅっ、いいわぁ~、どぉ仁? わたしにお尻引っ叩かれて見たいぃ?」

「そ、そんな訳ないだろっ!」

「うふふふふふっ♪ まぁ今度だけは見逃してあげるわ! その代わり――ねぇむっちゃん、やっぱりお出掛けしたら美味しいものが食べたいわよねぇ♪」

「なあに? どんな食べ物?」

「それはお楽しみよ、何せこの下僕が奢ってくれるらしいから♪ そうよね⁉」

「はいはい、良く分かりましたよ――」

 

「は・い・は・い・ち・ど!」

「はい……」

 

「ごめんね仁、お尻叩かれる方が良かった?」

「いや断じてそんな事無いからねむっちゃん!」

「わたしはお尻でも全然構わないのよぉ~♪」

「僕が構うんだよ!」

「さ、そうと決まったらさっさと出掛けましょ! わたしのお古だけど色々持って来たのよ」

「有難う、葉月」

 

そう言いながら二人は客間に消える。

その後ろ姿を見送った途端、猛烈な脱力感が襲って来て体の奥底からホーッと息を吐き出すとソファに突っ伏す。

「つ、疲れた……」

 



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〔第二章・第七節〕

 陸奥と葉月が賑やかに出掛けた後で一人になった仁は、かなり真面目にネットと格闘した。

最初の内は思い付く限りの雑多なキーワードで手当たり次第に検索して見たが、じきにそのやり方では効率が悪い事に気が付き、情報を一つ一つ丹念に洗いながらキーワードの組み合わせを工夫するなど徐々に的を絞る方針に転換する。

集中力を維持するのは並大抵ではなかったが、時には寄り道しながらも格闘している内に、何となくではあるが何を探せば良いのか少しずつ分かって来た。

もしも陸奥の様な女性達があちこちの海中から姿を現して『私は帝国海軍の軍艦○○です』等と手当たり次第に近くにいる人を捉まえて話し掛けたりしていたら、それこそ大騒ぎになっている筈で、こんな風に調べる必要なぞ無いだろう。

が、世間もネットも特に普段と変わった様子も無く、関連のありそうなキーワードで引っ掛かって来るのは趣味性の濃いサイトやスレの書き込みばかりで、目ぼしいリアルタイムな話題は転がっていなさそうである。

 

(何の切っ掛けも無く、現れる訳じゃ無いって事だよな)

 

だからと言って、そう都合良く彼女達が沈んでいる所で自分の様に海に落ちる者がいるだろうか?

そう言ってしまえば確かにその通りだが、何よりそれで終わってしまえば彼はまた陸奥のあの深い哀しみを湛えた寂し気な瞳を目の当たりにしなければならない。

 

(それを何とかする筈だったろ!)

 

とにかく海に落ちなくても良いので、彼女達が助けたくなる様な事が沈没地点の近くで起きなければ出現しないのだろう。

しかも状況から推測するに、それが起きていたとしてもごく最近の事で情報は全く拡散していないと考えるしかない。

 

(当事者そのものを探すしか無いのか……)

 

午後もだんだん遅くなって来た頃、彼は専らこの当事者探しに没頭していた。

日本近海での沈没は大戦後期から末期に集中していたが、近海過ぎると戦後に引き揚げられている場合が多く、大型艦程その傾向が強い。

陸奥と同じ戦艦クラスでまだ日本近海に沈没しているのは九州南西の大和位だが、その方面なり大和なりに関わる情報は皆無で、どうやら彼女はまだ海底に眠っていると見たほうが良さそうだ。

そんな訳で彼は次第に艦種や大きさを限定せず戦史に沿って調査の範囲を広げて行き、ついに手掛かりを発見したのは夕暮れが迫る頃合いだった。

 

「只今~あ~疲れたー」

「只今仁! スゴい物食べたのよ⁉ とっても幸せ♪」

 

出掛ける時には気が付かなかったが陸奥は鮮やかな水色の上衣に砂色のパンツ姿で、弾ける様な笑顔と相まったその可愛さに思わず目を細めたくなる。

 

「そんなに、感動する様なご飯だった?」

「ご飯もだけどその後で食べたのがね⁉ もう信じられない位美味しくて――」

 

そう言って、彼女はうっとりした表情で余韻に耽ってしまう。

 

「?」

「プリンパフェよ!」

「あぁ、あの店の――」

 

それは彼も何度となく連れて行かれた事のある葉月ご贔屓の店で、しかもそのメニューは彼女のイチオシの筈だ。

彼女が陸奥に対してとても好意的に接してくれているのは素直に嬉しい。

嬉しいのだが、少々寂しい様な残念な様な気持ちが無い訳ではない。

 

(正直、一緒に食べたかったな)

 

甘味やスイーツを特に好きなのではないが、陸奥が蕩ける様な表情で舌鼓を打つ姿を見られ無かったはやはり残念としか言い様が無いだけだ。

僅か二日しか経っていないにも関わらず、何時の間にか彼女が喜んだり悲しんだりする度に一緒になって一喜一憂するのが当たり前になってしまっているのだが、それをまだ彼は全く自覚していない。

 

「さぁ、晩御飯の支度よ! 下僕は働く準備は出来てるんでしょうね?」

「まぁ、覚悟はしてたけどね」

 

葉月の居丈高な言い草は全く普段通りなので殊更に騒ぐ気もないが、ちゃんと陸奥が気にしてくれる。

 

「あたしが手伝ったら何とかならない?」

「葉月は人使い荒いから、やめといた方が良いよ?」

「人聞きの悪い事言わないでくれる⁉ 下働きは下僕にやらせるから、むっちゃんにはわたしが直接手解きしてあげるわ」

「葉月に教わったらあたしも料理出来る様になるの?」

「当たり前じゃない! むっちゃんきっと上手になるわよ」

 

仲の良さそうな二人を見ていると仁は自然にウキウキし始め、命じられもしないのに軽い鼻歌交じりで鍋に水を張って火に掛ける。

そんな風に嬉々として働く下僕の様子を不審に感じた葉月も、陸奥が『怪しげな下心を持った胡散臭い女』では無いと確信が持てる位に打ち解けて少々気が緩んでいるのか、

「そんなに楽しみなんだったら、別に毎週作ってあげても良いのよ?」

と、相当勘違いしたデレ発言をする始末だった。

 

「たまに食べるから、良いんじゃないか~」

 

一応これは嘘ではない。

 

「あらそう言うものなの? 美味しい料理なら何時でも食べたいものじゃないの?」

「むっちゃんもその内だんだん分かってくるよ」

「そうよ、仁は毎日ご飯作って欲しいんだけど、そう素直に言うのがちょっと照れ臭いだけなのよ♪」

 

「……そ、そうだったのね? あ、あたし、気が付かなかったわ!」

 

彼女も少しずつスルーが上手くなって来たなと下らない事に感慨を覚えつつ、彼は心の中で半ば諦めの溜め息を吐く。

残念なことに葉月は不屈の闘志とスタミナを備えた屈強の戦士であり、凡庸な青年である仁の戦意は日一日と削られていく。

詰まるところこの闘いは、何時の日か葉月の勝利に終わるのだろうか?

その暗い予感を、暫くの間は目の前の馬鈴薯にぶつけるしかなかった。

 

 そして大変悔しい事だが、やはり葉月のオムカレーは絶品そのものだった。

だが、陸奥が連発する「美味しい!」「凄い!」と言う心からの賛辞に葉月も上機嫌で応じるなど夕食の食卓はとても和やかで、味覚だけでなく様々な幸福感に満ち溢れており、僅かに感じた悔しさなど微塵に消し飛んでしまう。

彼はもう少しだけこの幸福に浸ってから、頃合いを見計らって徐に口を開いた。

 

「あのさ、調べて見たんだけど――」

「何? ひょっとして何か見つけたの?」

「うん、多分見つかったと思う」

「なあに、何が見つかったの?」

「PC見ながらの方が良いのかしら?」

「ウン、その方が良いね」

「じゃあささっと片付けちゃいましょ!」

 

そう言うと葉月は陸奥を伴ってテキパキと食膳を片付け始め、仁も一緒に立ち働く。

手を洗ってから居間に行くと、既に二人はPCを両側から挟んで待ち兼ねた様に膝を乗り出していた。

 

「ソースはどこ? ウィスパー?」

「うん、それがNチャンに引かれてたんだ、こんなスレあるの知らなかったけど」

「??」

「ネットの中にある独り言を囁く場所や掲示板でね、皆が思い思いに色々な情報や単なる雑談を書き込んだりする場所だよ」

「ふうん……でもそこに書いてある事って、本当なのかどうかどうやって判るの?」

「むっちゃん鋭いわね~、それに気を付けなきゃネットに溢れる情報の活用なんて出来ないのよ」

「誰も保証してくれないからね、自己責任でどうぞって事かな~」

「何だか便利なのか不便なのか判らないものねぇ、ネットって」

「で、何を見つけたのよ?」

「これだよ――」

 

「K水産高校の生徒? 実習船××丸で実習航海に出て――操舵不能に――女が現れたですって⁉ 何よ! 思わせ振りなんか言ってこれガチじゃない!」

「凄い、本当だわ――船を牽引してくれて――三崎にって! 仁!」

「でも海上警備庁が来たってなってるわね~、連れてっちゃったって事なのかしら?」

「細かく書いて無いからよく分から無いけど、そういう事見たいだね」

「で――海上防衛隊の訓練隊? どこ?」

「うん、これが地図だよ」

「あ~半島の西側にあるのね」

「まぁ、あく迄も警備官達がそう言ってるのを耳に挟んだだけって事だからねぇ」

「えーっと――何これ、画像あるじゃない!」

「どうもこっそり撮ったヤツをアップした見たいだねぇ。絶対口外しない様にって言われた感じなのにこんなの良く上げるよねぇ」

「さすがに小さいわねぇ――あっでも、ちょっと可愛い感じに見えない?」

 

「あ……」

 

「むっちゃん、何かわかるの?」

 

「……不思議だわ――なぜ判るのかしら……」

 

「彼女が誰だか、分かるんだね?」

 

「……ええ……でも、只判るとしか言い様が無いのよ。だから何の証拠も無いけど」

「うふふ、むっちゃん見たいにって事?」

 

葉月が揶揄う様に言って笑い掛けると陸奥も破顔して、

「あら、やぁね♪ 葉月ったら――。あのね、その娘は多分龍田ちゃんだと思うわ」

「龍田って、軽巡洋艦龍田のこと?」

「それは欧米式の言い方だよね、帝国海軍では二等巡洋艦だよ」

「そうよ仁! 彼女は二等巡洋艦龍田よ! あたしの勘違いで無ければね」

「仁、何時の話なのよこれ?」

「元のウィスプが書き込まれたのは3日前だね」

「良く引っ掛かったわねぇ」

「確かにもうウィスプは削除されちゃってるし、偶然っちゃ偶然だったろうね。とにかく3、4日前の出来事見たいだよ?」

「どうしよう仁……あたしドキドキして来ちゃった」

「やったわねむっちゃん! 一人じゃ無かったのよ!」

「ああっもうっ、ええっと――、どうしたら良いの? 落ち着かなくて身体中がムズムズする見たいだわ」

「気持ちは分かるけど、とにかく明日にならないと多分何も出来ないよ? だから今日の処は一先ず落ち着こう。一度見つかったんだしそう簡単に逃げてったりはしないよ」

「何よ、下僕のクセに随分サバけた事言うじゃない?」

「僕が一緒に右往左往したらまた葉月が叱るだけだろ!」

「そんなとこだけは教育効果高いのねぇ~、もうちょっと他の事も学んでくれないかしら?」

「はい、努力します」

「うわムカつく……」

「んふふふふふっ♪ 二人とも有難う、ちょっと落ち着いたわ」

「ちゃんと明日まで待てそう?」

「ええ、海の底でずっと上を見上げてた事を考えたら一晩なんてそれこそ一瞬よね」

 

彼女は何気なく口にしたのだが、仁と葉月はちょっとシンミリしてしまう。

 

「……でもまさかこんなに早く見つかるなんて……。仁も葉月も本当に有難う、最初に出会ったのが二人で本当に良かったわ」

「何だか照れ臭いわねぇ~、でもお礼はまだ早いんじゃない?」

「そうだよむっちゃん、まだ始まったばかりだよ?」

「そうか――そうよね、まだちゃんと会えた訳でも無いのにちょっと気が早かったかしら? じゃあ今のお礼は取り消し!」

「うわ、ひっど!」

「むっちゃん、それ大概だよね♪」

「あら、そうだった? じゃあ取り消しの取り消しよ!」

三人は心の底から笑った。

 



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第三章
〔第三章・第一節〕


 朝食を食べ終えると三人は俄かに緊張し始め、急に口数が少なくなってしまう。

仁と葉月は、防衛隊に連絡したからと言って彼らがそう易々と事実を認めるとは考え難いと推測していた。

そもそも簡単に認める様な話であれば龍田を保護した時点で公表していてもおかしくないという理屈であり、それは陸奥にも理解出来る。

昔の海軍にしても、事実をそのまま公表したりはしていなかったではないか。

 

「でも、何て切り出したら良いのかしらねぇ」

 

居間に場所を移すなり、沈黙に堪え切れなくなった様に葉月が口を開く。

 

「ストレートに話しちゃダメかなぁ? ネットの書き込みを見て電話したって」

「それでどうするのよ?」

「もちろん、艦隊の仲間に会いたがっている女性がいます! って言うんだよ、これもストレートにね」

「あんたな~んにも考えて無いのねぇ――、それで上手くいくと思ってる?」

「だからって、まことしやかな嘘吐いたって上手くいく保証なんて何も無いだろ? だったら辻褄合わせしたりとかしなくて済む分リスクは少ない様な気がするけどなぁ」

「ふ~ん、まぁ仁にしては一応筋が通ってるわね。むっちゃんはどう思う?」

「筋が通ってるとかどうとかはまだ良く判らないわ……でも、もしもあたしが上手にウソを吐けって言われたらきちんと出来る自信は無いわね」

「まぁそれはそうよね~、むっちゃんに上手く口裏合わせしろって言うのは些か酷な気がするわねぇ」

「葉月だってそう思うだろ?」

「そう思わないでも無い程度の話よ! 偶に良い事言ったからって調子に乗るとまた痛い目に遭うわよ⁉」

 

「……」

 

「ねぇ、仁はひょっとして葉月に虐められてるの?」

「むっちゃんにもそう見えるよね?」

「何言ってるのよ! 傍目にそう見えてもちゃんと愛があるのは虐めとは言わないのよ⁉」

「そっか――、愛してるからなのね……」

 

何気なく陸奥がそう口にした途端、彼女は完熟トマトにでもなったかの様に真っ赤になる。

 

「む、む、むっちゃん! トンでもない誤解よ⁉ わ、わたしは仁の、ほ、保護者なんだから!」

「あらあら、ゴメンね葉月、あたしの誤解だったのね」

「そ、そうよ! 本当よ⁉ ま、まぁむっちゃんが誤解するのも、し、仕方ないけどね!」

 

陸奥は慌てふためく彼女を見ながらちらと仁の顔を見たが、彼は少し苦笑して見せると何かを取りに行く様子で立ち上がった。

 

「何を持ってくるの?」

「固定電話だよ」

「電話が何種類もあるのねぇ」

「そんなには無いよ♪ 線が繋がってるのと繋がって無いのの二種類位だね。厳密には違うんだろうけどさ」

 

そう言いながら彼は居間の隅からFAX付き電話(なのだが陸奥にはまだ理解出来ない)を取って来るとテーブルの上にのせる。

葉月がホッと溜め息を吐くのを横目で見ながら陸奥は、

(やっぱり、仁は優しいのね♪)

と改めて思う。

 

「どうする? 取り敢えず9時位迄待つ?」

「そうねぇ~」

 

仁と葉月が居間の壁に掛かった時計を同時に見上げたので、陸奥も一緒にそれを見上げる。

 

「あと30分近くあるわねぇ」

「そう思ったら何だか胸が苦しくなって来たわ」

「まぁ営業時間9時からとか書いてある訳じゃないし、電話して見ようか」

「そうしましょ! むっちゃんが緊張で倒れちゃってからじゃ遅いものね♪」

「二人とも有難う♪」

「じゃあ架けるよ?」

「ハンズフリーにしなさいよ!」

「いや分かってるからさ」

 

どういう意味なのだろうかと陸奥がぼんやりと思っている間に、彼の指が素早く数字の書かれた鍵盤の上を走り、間もなく目の前に置かれたその電話機から何やら変わった音が鳴り始める。

 

「なあに?」

「今相手を呼び出してるのよ」

「ふぅーん」

 

その呼び出し音は結局4回しか鳴らなかったのに、それを待つ三人にとってはまるで永劫の半分程にも感じられる位長い長い時間だった。

 

だから電話機から「はい、海上防衛隊横須賀訓練隊ですが」という声が聞こえた時、それは最後の審判を告げる鐘の様に響き渡り、三人とも同時にビクッと反応してしまう。

とは言えそれも一瞬の事で、仁はちらりと陸奥と葉月の顔を一瞥すると、幾らか緊張気味だがそれでも落ち着いた声で話し始めた。

 

「突然お電話して済みません、私、渡来と申します。少々お尋ねしたい事があるのですが宜しいでしょうか?」

「はい渡来さん、どう言った事でしょうか?」

「実はネットを見て知ったんですが、今から4日程前に海上警備庁の方達に連れられて、自分を旧海軍の二等巡洋艦龍田だと名乗る女性がそちらに行かれたと思います。そちらで保護しておられるのではありませんか?」

「少々、お待ち下さい――」

 

電話は保留メロディーに切り替わってしまう。

 

「間違い無さそうね」

「うん、でもひょっとするともう他の基地に移されてるって事はあるかも知れないね」

「今ので何か判っちゃったの?」

「いや単なる予想だけどね」

「もしそんな事実が無かったり、あっても知らぬ存ぜぬで押し通せとか指示が出てたら、もっと木で鼻を括った様な応対されてもおかしくないと思うからよ」

「そうね、説明して貰うと良く判るわ。でも、こうして考えたら昔は随分無駄な事をやってたのねぇ」

「そうか、むっちゃんは何と言っても連合艦隊の旗艦だったのよね」

「本当の旗艦は姉さんよ! あたしは代理見たいなものだったし金剛さんや山城さんもしてたわ」

「ふうぅん、でも上級武官の秘密会議とかはあったんじゃないの?」

「そうねぇ、皆しかめ面して一生懸命頭捻ってたのは何となく覚えてるわ。でもどんなに伏せたり工夫しても結局薄々気付かれちゃう見たいだったわね」

 

その時メロディーがぶつりと途切れ、カチャカチャという音が響く。

 

「あっ――」

「もしもし渡来さん?」

「はい」

「ああ、お待たせして済みません。失礼ですが二、三お聞きしても宜しいですか?」

 

(人が替わったわ?)

(きっと、もう少し上の人よ!)

 

陸奥と葉月は目語しあう。

 

「ええ、結構です」

「済みませんが、貴方はどう言ったお立場の方ですか?」

「立場という程のものは無いですが、そちらと同じ県内に在住の只の大学生です」

「そうですか――、では先程貴方が質問された事についてですが、もし仮にその様な事実があったとして、貴方はそれを聞いてどうなさるお積もりですか?」

 

彼は思わず唾を飲み込み、陸奥と葉月の顔をちらりと見たが、二人がほぼ同時に頷いて見せると意を決した様に話し始める。

 

「実は私達もその様な女性を一人知っています。彼女は同じ様な境遇にある艦隊の仲間に会いたがっています。私は彼女の助けになればと思ってネットを検索していたところ、最初にお話しした書き込みを見付けたのでお電話をしました」

 

数秒間の沈黙が辺りを覆ったが、それはやけに長く感じられた。

 

「渡来さん?」

「はい?」

「その女性は今どこにいらっしゃいますか?」

「ええ、今私の目の前にいます」

「そうですか、それでその女性とお話する事は出来ますか?」

 

仁と葉月は同時に顔を上げて陸奥を見る。

彼女は二人を交互に見詰め返すと、口を真一文字に結びしっかりと頷いた。

 

「はい、大丈夫です。そのまま呼び掛けて頂いて構いません」

「それでは失礼して、もしもし? 聞こえますか?」

「はい、聞こえています」

 

彼女の声は凛としてよく通った。

 

「まだ名乗って居ませんでしたね――改めて初めまして、小官は中嶋と申します、当訓練隊の副長を拝命しています。貴方を何とお呼びすれば宜しいですか?」

 

三人は俄然緊張する。

事前に調べた限りでは副長の階級は二等海佐の筈である。

いきなりトップに近い上官が応対に出たと言う事は何を意味しているのか。

 

「陸奥と申します。宜しくお願い致します、中嶋副長」

「陸奥さん――ですね。つまり貴方は帝国海軍の戦艦陸奥である――と言う事で宜しいですか?」

「はい、皇紀二千六百三年に――あっ、今は1943年と言うのでしょうか? 柱島泊地で海没しました」

「確かにその通りですが――それではお聞きしますが、貴方が戦艦陸奥であると証明出来る事実が有りますか? 或いは証拠となる物か何かが有りますか?」

 

もちろんそんな物が有ろう筈も無い。

 

「……いえ――、その様な物は有りません……」

 

「そうですか、では貴方がご自分で用意するのは難しいものの、これが証拠になると言う様な何かは有りますか?」

 

「…………いいえ、有りません」

「それでも貴方はご自分が戦艦陸奥であると仰る――、そう言う事ですね?」

 

仁は思わず歯を食い縛っていた。

中嶋の言葉は冷たく懐疑的で、全くと言っていい程好意が感じられない。

陸奥の表情は険しく、眉をひそめて電話機を見詰めていたが、それでもなお――いや、だからこそ一層美しく見える。

 

「……はい、そうです」

「そうですか。では、それが誰かに迷惑を掛ける事になるとは思いませんでしたか?」

「えっ――」

 

「貴方が自分を陸奥であるとか大和であるとか言うのは自由ですが、その事で誰かに迷惑を掛けても構わないとそう思っていらっしゃるんですか?」

「そ、そんな積もりはありません!」

「でも現にこうして電話しておられますね? 私達は国と国民を守る事を責務としています。確かにここは実戦部隊ではなく訓練隊ですが、それでも迷惑を掛けて良いと言う事にはなりませんよ?」

「迷惑を掛けたい訳ではありません!」

「ではどういうお積もりですか? まさか悪戯では無いでしょうね? 立派な犯罪行為ですよ? 分かっていますか?」

 

「そんな――酷い……」

 

「酷いと言われるのでしたら――」

「黙れ――」

 

「何ですって? 何か言われましたか?」

「ちょっと仁――」

「聞こえなかったんなら何度でも言ってやる! 黙れと言ったんだ!!

「やめなさい仁!」

「ふざけるな! 彼女がどれだけ辛い思いをして来たか分かってるのかお前!!」

「やめなさいって言ってるでしょ!」

「僕ら人間がどれだけ身勝手な事をして来たか分かってるのか⁉ お前は七十年も薄暗い海底でたった一人で上を見上げていられるのか⁉ どうなんだ⁉」

「いい加減にしなさいよ!!」

「お前は彼女を犯罪者呼ばわりしたんだぞ⁉ 今すぐ謝れ! 彼女に謝れ! 副長だか何だか知らないが絶対に許さないからな!!」

「仁やめて、もういいの」

 

陸奥が彼の腕を強く掴み、瞳を真っ直ぐに見詰めてそう言った。

 

「むっちゃん――」

 

全身に滾っていた血液がすっと冷めるのを感じたが、同時に再び陸奥の瞳の奥にある深い哀しみを目の当たりにして更に気持ちが沈み込んでしまい、何も言えなくなってしまう。

 

それでも彼の胸中では、抑え様も無く湧き上がって来る失態を犯してしまったという悔恨と、何人であろうと陸奥を傷つける権利など無いと言う強い思いとがせめぎ合い激しく渦巻き続けている。

 

時が止まってしまった様な室内には、互いの息遣いだけが不思議なリズムを刻んでいた。

 



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〔第三章・第二節〕

 それは実際には一秒にも満たない僅かな時間だった。

辺りが静寂に包まれたその次の瞬間、間髪を入れずに葉月が喋り始める。

 

「中嶋副長? まだ聞いておられますか?」

「ええ聞いておりますが――貴方は?」

「塔原と申します。お願いです、もう少しだけ話をさせて頂けませんか?」

「……そうですね、それでは塔原さん、もう少しだけ伺いましょう」

「有難うございます。まずは渡来が失礼な物言いをしました事をお詫びさせて下さい。本当に申し訳ありませんでした」

「分かりました。その事についてはこれで忘れることに致しましょう」

「感謝致します。ですがお詫びするのはその件に付いてだけです」

「ほう――と言われますと?」

 

副長の声の調子が先程と変わった事に陸奥は気付き、仁の顔を見たが彼は唇を噛んだまま俯いており、顔を上げない。

 

「渡来の口の利き方が失礼だったのでお詫びしましたが、言っている事自体には全く異存無いからです。もちろん謝れだとか申し上げる積もりは何も有りませんが、発言を訂正するか撤回して頂きたいと思っておりますので」

「どういう事でしょうか? 陸奥さんの身元を証明出来る何かが有るのですか?」

「そんな物がそもそも存在しない位、副長は良くご存知の筈です。にも関わらずあの様な言い方をなさったのは、嘘を吐いている相手に対する態度に他なりません。そこがまず訂正して頂かなくてはならない点です」

「成程」

「次に、本物かどうかを証明する事には実質的に意味が無いのもご存知の筈なのに、さもそれが問題であるかの様に仰った事も訂正して頂く必要があります」

「どういう意味でしょうか? 私には少々分かりかねるのですが?」

「単刀直入に申し上げますが、私と渡来はここにいる陸奥さんの言わば人智を越えた特殊な能力――例えば水面にアメンボか何かの様に両足で立ってそのまま相当なスピードで移動出来る事等を目の当たりにして知っています。この様な特殊な能力を有していること自体が、そもそも本物かどうかなどと言うより重要な事ではありませんか? そして当然ながら、そちらに保護されているであろう龍田さんも同様に特殊な能力を有していることをそちらの隊の皆さんは良くご存知なのではありませんか?」

 

中嶋副長はすぐには答えず、数秒間の沈黙が流れた。

 

「……それに付いてのコメントは差し控えましょう。ですが塔原さん? もし仮に貴方の言われる事が正しいとしてですが、それでも我々が貴方方の要望には答えられない、或いは協力出来ないと表明することに何らの障害も無くまた義務も無いと思いますが、その辺りの認識は如何ですか?」

 

さすがに今度は彼も顔を上げて陸奥の顔を見る。

もって回った言い方ではあるが、暗に自分達が何か知っていることを認める様な物言いなのだ。

ところが、葉月は取り澄ました様子を改める風でも無くそのまま話を続ける。

 

「はい、それはもちろん仰る通りです。ですから私達もその場合には諦めて自力で何とかする方法を取らなければならない――と思っています」

「ほう――と言うことは何か方法を考えておられると言う事ですか?」

「はい、余り気は進みませんが確実と思われる方法を考えてはおります」

 

仁と陸奥は顔を見合わせる。

言う迄も無くそんな相談はしていないし、葉月の考えを聞いたことも無い。

 

「そうですか――、差し支え無ければその方法をお伺い出来ますか?」

「特に難しい事ではありません。わたし達に必要なのは出来るだけ多くの人の目に触れる広い水面ですが、神奈川や東京の周辺には人出の多い海岸線や水辺はどこにでもありますので、それで困る程のことは無いでしょう」

 

「……それで?」

「その様な休日の水辺に出掛けて行きます。駄目元で事前にマスコミ等に連絡しておいても良いかも知れません。もし取材にでも来てくれればしめたものでしょう」

 

「……」

「人出が最高潮になる頃を見計らって陸奥さんの特殊な能力を群衆の前で披露します。もちろん大騒ぎになるでしょうし、多くの人が動画や写真を撮ってネット上に自由にアップするでしょう。そこでそれらを通じてこう言います。『私達は艦隊の仲間に会いたいのです! どうか皆さん私達を助けて下さい!』と。恐らくそれ程長い時間は掛からずに続々と情報がもたらされるでしょうし、本当に艦隊の仲間に会えるのも時間の問題だけだろうと思っています」

 

「成程……。恐らく貴方の言う通りでしょうね。でも無視出来ない弊害もありませんか?」

「はい、間違いなく私達のプライベートなど無いも同然になるでしょうし、面白半分の人達に際限なく振り回される事になるのは多分間違い無いでしょう。その点は私も甚だ気が進まないのですが」

「それでもなおそうする積もりなのですか?」

「はい、私が幾ら反対しても渡来は必ずそうする筈です」

「それは何故ですか?」

「渡来は陸奥さんに命を助けられました。命の恩人の為にはどんな事でもする積もりでいます。多分躊躇うことなく実行するでしょう。憂鬱な事ですが……」

 

そう言って聞こえよがしに大きな溜め息を吐いて見せる。

仁と陸奥は呆気にとられてしまい、ぽかんと口を開けて彼女を見るばかりだったが、当の本人は澄ました表情のまま至って平静なものだった。

何のことはない、葉月のやっている事は体の良い恫喝である。

協力してくれ無いならバラしちゃうぞ! と言うだけに止まらず、仁を上手に出汁にして自分達が本気であること迄念押しした上に、さり気無く連絡をするに至る経緯まで言及してその本気さ加減をアピールしている。

 

(ダメだ、どう考えても勝てる気がしない……)

 

唐突に仁の脳裏にちらついたのは、純白のウェディングドレスを纏いお得意のあの笑顔を浮かべる葉月だった。

彼がどれ程必死で抵抗しようが、ことある毎に思い知らされるのはその圧倒的な実力差であり、この未来はますます避け難いものとして迫ってくる。

しかしながら、彼がまさかそんな事を妄想して凹んでいる等とは思いもよらない陸奥は只々、

(仁ったら、一体どうしちゃったのかしら?)

と訝しがるだけだ。

 

そんな彼らを余所に、電話の向こうの中嶋が再び喋り始める。

 

「……いや良く分かりました――と言うより正直に言いますが塔原さん、貴方には参りました」

 

中嶋の声の調子は最初とは全く違うものになっていた。

柔らかく、温かみを感じさせると共に誠実さをも漂わせている。

 

(ちょっと、仁に似てるわ)

 

先程陸奥に冷たい言葉を浴びせたのが同一人物とは思えなかった。

葉月が指摘した通り、わざと厳めしい態度を取っていたのだろうか。

 

「恐れ入ります。それでは私達の疑問に答えて頂けるのでしょうか?」

「さすがにこの場での即答は出来かねますが、でも何とか出来る様に取り計らう積もりです。ですから少し時間を貰えますか?」

「分かりました」

「それよりも小官にはしなければならない事も有りますしね」

「と言いますと?」

「済みません、陸奥さんはまだそこにいらっしゃいますか?」

「あ、はい」

「陸奥さん、先程は貴方を侮辱する様な事をしてしまい、たいへん申し訳ありませんでした。電話で済みませんがお詫びさせて下さい」

「い、いえ、そんな――私はもう気にしておりませんから」

「有難うございます。小官にも少しだけ釈明させて頂けませんか?」

「もちろんです! どうか仰って下さい」

「実は、この数日間に興味本位の問い合わせが数十件、自分或いは知人が軍艦だと言う電話も十件以上架かって来ています。昨夜架かって来たのは自分は超戦艦スサノオだと名乗る男性でしたね。架空戦記の読み過ぎとしか思えなかったですが」

「そんな戦艦聞いた事も有りません。それに男性ですか――」

「ええ、ですから貴方々のお電話もまたか! と思ってしまったのは事実です。もっとも渡来さんが本気で怒り出した時はさすがにおやっと思いましたが」

「仁は――いえ、渡来さんは私を庇おうとしてくれたんです。決して副長を愚弄しようとした訳ではありません。それは分かって頂けませんか」

「もちろんです、先程申し上げた通りそれはもう忘れております。ただ、それはそれとして渡来さんにもお聞きしたい事が有りますので――済みません渡来さん? 改めて貴方とお話し出来ますか?」

「中嶋副長――さっきはつい頭に血が上ってしまって……本当に申し訳ありませんでした」

「いいえ、それよりも陸奥さんへの小官のお詫びは十分だったでしょうか?」

「彼女が良いと言うのであれば、私から注文を付ける積もりはありません」

「それはホッとしました、一つお聞きしても良いですか?」

「ええ、どうぞ」

「貴方は陸奥さんに命を助けられたと伺いましたが本当ですか?」

「はい、私は数日前に柱島沖でフェリーから海に落ちてそのまま命を落とす処でした。でも陸奥さんが私を助け上げて海岸迄運んでくれたんです。今の私の命は彼女から貰ったものです」

「そうでしたか――、いや納得しました、貴方が本気で腹を立てたのももっともなことです。本当に失礼をしてしまいました」

「い、いえ、先程のお話でご事情は良く分かりましたし――。それに私は陸奥さんが艦隊の仲間と再会出来さえすればそれで良いんです。どうかよろしくお願い致します」

「分かりました。小官から改めて連絡しますので、出来れば携帯の番号を教えて頂けますか?」

「はい、よろしいですか? ――」

 

彼が番号の遣り取りをしているのを、陸奥は不思議な気持ちで見詰めていた。

彼女にとって、仁と葉月以外の誰かとの本格的な意志疎通は初めてだったが、それは緊張、困惑、激情、安堵といった感情に目まぐるしく振り回される体験だった。

 

(人間って、思ってたのよりずっと複雑なものなのね)

 

彼女が知っていた海軍の男達もこうだったのだろうか?

 

「――何時迄にとは確約出来ませんが出来るだけ早く連絡します。それ迄待っていて下さい」

「よろしくお願いします」

 

仁と葉月が声を揃えたので、陸奥も慌てて声を合わせる。

 

「それでは、一旦失礼します」

 

カチャリという音の後に小さなプツッという音が続き、それから後はツーッ、ツーッという音が三人の間に鳴り響いていた。

 

(どうやって止めるのかしら)

 

陸奥がそう思っていると、横から葉月がそっと手を伸ばして、赤い絵の付いた小さなボタンを爪の先で深く押し込んだ。

 



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〔第三章・第三節〕

 葉月のことだからきっと頭ごなしに仁を叱り付けると思い、止めに入ろうと身構えていた陸奥だったが、いきなり肩透かしを食らってしまう。

 

一体どうしたものか彼を恨めしそうに睨み付けた葉月は、

「もうっ、本当に仁ったら……」

とだけ言ってそのままぷいと横を向いてしまったのだ。

 

(??)

 

彼女の反応が理解出来ない陸奥は思わず仁の顔を見たが、彼は少しだけ苦笑して見せると葉月に向き直る。

 

「でも正直に認めるよ、結局今度も葉月のお陰で上手く行ったんだなって。有難う、本当に助かったよ」

 

穏やかに彼女を立てたその言葉に、そっぽを向いたままのその頬に少し紅味が注し、口が尖る。

 

「そんな調子の良い事言ったってダメよ――。何よ、あんなに感情的になって……危うくぶち壊しにするとこだったのよ! ちゃんと分かってるの? 本当に……」

 

少し予想していた彼女の反応に近くなって来たが、それでもまだ何かしら陸奥には掴み切れない感情の綾の様なものがあり、今二人の会話に割って入ってはいけないと思いそのまま様子を窺い続ける。

 

「ごめん、何時も気を付けてる積もりなんだよ? でもさっきの中嶋さんは明らかにこちらを威圧しようとしてたんだから、そこは大目に見てくれないかな」

 

「……はぁっ! もうっ、何時もそうなのね⁉ 気に入らないわ~本っ当に!…………仁のバカ……」

 

最後は何を言ったのか聞き取れない程小さな声だったが、彼女が明らかに気色を改めたのが判ったので陸奥も安心して話し始められる。

 

「仁も葉月も本当に有難う、さすがにちょっとびっくりしっ放しだったけど――、でも凄いもの見ちゃった感じだわ♪」

「だよねぇ~、やっぱり葉月はさすがだよ本当に」

「何よ! そんなに持ち上げたって誤魔化されないわよ⁉」

「誤魔化してないよ~、素直に言ってるんだけどなぁ」

「あたしもそう、だって相談してた訳でも何でも無いのに――葉月本当に凄かったわ!」

「あんなのその場の即興止まりの話しよ! それにあれはラッキーだっただけなんだからね?」

「まぁそうかも知れないねぇ」

「分かった振りとかしなくて良いのよ?」

「振りじゃないよ~まだ隊のレベルだったから何とかなったんだ、って言うんだろ?」

「なあに? どう言う事?」

「うん、多分だけどね、この事がもしも政府だとか大臣だとかの判断が必要な位の大事になってたら、全く無視されたり強面な対応されたりしたかも知れないって事――だろ?」

「まぁそんなとこね。事が起こってから日が浅かったのが救いだったと思うわ」

「そうなのね。でも、あたしはあの中嶋副長っていう方が出て来たことも大きいのかなって思ったわ」

「それは否定出来ないわ、一角の人物って印象よね~」

「そうだね、信用出来そうな感じだったねぇ」

「とにかくこれで連絡待ちになった訳ね。どの位かしら?」

「う~ん、数時間? 数日? ま数週間って事は無いよね」

「連絡だけは割りと早くくれるんじゃない? そこからちょっと日が空くとか」

「そんなに何日も待たされたらあたし、おかしくなりそうだわ」

「きっとそんな事にはならないよ、それに龍田さんだって何処かに行ってしまったりしないだろうしね」

「ちょっとダメよ仁! 何の当ても無いのにそんな事言うもんじゃないわ⁉」

「いやそれはそうかも知れないけどさ――」

「うふふ♪ 二人とも有難う、でも大丈夫よ、ちゃんと我慢して待ってられるから」

「そうだよ、むっちゃんはどう見たってカリカリする様なタイプじゃないしさぁ」

「あたしのその――たいぷってなあに?」

「騙されちゃダメよむっちゃん⁉ 男どもはすぐ自分の勝手な理想を作りあげて、女をその型に嵌めたがってるだけなんだから!」

「いや騙さないし……」

「あの――たいぷってそんなに怪しからんものなの?」

「そうよ! 色んなタイプだなんだって言ってるけど、結局男はおっとりしててほわ~っとしてて優しくて一緒にいてホッとする様な――、な~んて手前勝手な願望を女に押し付けたいだけなのよ!」

 

葉月は嫌悪も露に切って棄てる。

 

「そこ迄攻撃しなくたっていいだろ……実際むっちゃんってそんな雰囲気なんだしさ」

「それがご都合主義だって言ってるの! むっちゃんはむっちゃんなんだからあんたが勝手なタイプを押し付けたら許さないわよ⁉」

「そんな大袈裟な事言ってないんだけどなぁ」

「な、何だか不味いとこに触れちゃったかしら? 葉月がそう言ってくれるのとっても嬉しいけど、あたしはそんなに気にしてないからその位にしておいて?」

「もうむっちゃんたら――余り仁を甘やかしちゃダメよ⁉ ま、何はともあれこの後は家で電話待ちね。ちょうどフィールドの纏めも出来るし」

「ああそうだったぁ~、面倒臭いなぁ~」

「何をするの?」

「大学のゼミ――って研究室の方が分かるかな? 僕らはそこに所属してて自由研究のレポ――じゃなくて報告書を書かなきゃいけないんだ」

「それはつまり学校の宿題っていう事?」

「とっても平たく言うとそういう事ね。わたし達が呉やむっちゃんの記念館に行ったのも報告書の為の調査なのよ」

「じゃあ二人は今から勉強するのね? あたしどうしてたらいいのかしら」

 

陸奥の遠い記憶に残る『勉強』は少なくとも楽しそうではなかった。

 

「むっちゃんも勉強嫌いなの?」

「あのね、水兵さんも士官さんもみんな口をそろえて勉強は嫌いだとか性に合わないとか言ってたの。そんな事ばっかり聞かされてたから勉強ってどんな嫌なことなんだろうって思ってたわ」

「ははは♪  まぁ確かに嫌な事なのは認めるけどね」

「でも一口に勉強って言っても色々あるわよ? 嫌なことばっかりとは限らないんじゃない?」

「それは何となく分かるの。だって嫌いだ嫌いだって言ってるのに、しょっちゅう『勉強になります!』とか『勉強させて頂きました!』とかって言うのよ? 一体どれが勉強だったのよ! って言いたいわ」

 

彼女の言い草に思わず仁も葉月も笑い出し、陸奥も一緒になって楽し気に笑う。

一つ大きな峠を越えた様な感覚が三人には芽生え始め、肩の力が徐々に抜けていく心地良さを味わっていた。

 

「とにかく一緒に見てたら分かるわ、むっちゃんが沈んだ後の艦隊や海軍のことも結構出て来る筈だから」

「あら、それなら興味あるわ♪ でも、もしまた悲しくなっちゃったらごめんね?」

「先に言っとくけど仁、一緒に泣くのは禁止よ」

「わ、分かってるよ!」

「さぁさぁぼーっとしてないでWifiのID教えて頂戴」

「はいはい今見て来るよ」

「はいは一度だけよ仁♪」

 

葉月を真似て指摘すると彼はさも嬉しそうににっこり笑うが、横目に映った葉月は膨れ面で仁を睨みつけている。

 

(ちょっと失敗しちゃったかしら?)

 

やはり今の陸奥にとって、人間或いは心というものを理解するのはそう簡単な事ではなさそうだ。

二人がテーブルの上に例のコンピューターやらカラー刷りの光沢のある冊子やらを広げ始めるのを何とはなしに眺めながらそう考えていると、瞬く間に時は過ぎて行く。

 

 ところが彼女の興味を引き付ける程二人のレポートが進まぬ内に、早々と事態は動き始めた。

葉月の予想が当たったのか陸奥の願いが通じたものか、三人が昼食の用意をしている時に早くも中嶋からの連絡が入る。

それはなんと、明日の朝迎えを寄越すので隊まで出向いて貰いたいと言う少々予想外のものだった。

仁が自宅の住所を告げると中嶋はこう続ける。

 

「それは思ったより近くで良かった。その付近で人を拾い上げるのに都合の良さそうな場所はありませんか?」

「それでしたら――県道から一本入りますが、小さな公園の前辺りは道幅も広目で車の通りも少ないですね」

「公園、公園と――あっここですね、では明朝9時にここで落ち合いましょう。近づいたら連絡しますので準備して待っていて頂けますか?」

「はい、何か特に用意しておく事とか有りますか?」

「そうですね、念の為に身分証明書だけは持参しておいて下さい」

「ええ分かりました、それではお待ちしていますのでよろしくお願いします」

「それでは失礼します」

 

彼が通話を終えると二人が待ちかねたようにその顔を覗き込む。

 

「明日の朝9時に迎えに来るから公園の横辺りで待っていてくれって」

「で、何を持って来いって言うの?」

「身分証明書だよ」

「ま、確かにそれはいるわよねぇ」

「良かったねむっちゃん。明日だって♪」

「嬉しいわ、あたしの声が聞こえてた見たい!」

「それにしても結構なスピード感じゃない? 何かあるのかしら?」

「まぁ、多分中嶋副長が有能なだけなんじゃないかと思うけどねぇ。それとも他に何かありそうかな?」

「うーん何がと言う程の事は思い付かないわよね~、まぁでもむっちゃんが来るのを何となく歓迎してる雰囲気よね」

「ひょっとしてさ、他にも誰か居るんじゃないかな?」

 

彼の言葉に陸奥が一瞬目を見開き、心底嬉しげな表情になる。

 

「凄いわ! 本当にそうだったら良いのに」

「まさかとは思うけど、でもあり得ない話じゃないわね。下僕の癖にちょっと冴えてるんじゃない♪」

 

葉月は彼の召し使いキャラがそんなに気に入ったのだろうか?

 

「気になるわ、もし会えるとしたら誰なのかしら?」

「まぁまだ決まった訳じゃ無いけど、可能性があるとしたら日本近海に沈んでる誰かじゃない?」

「皆ほとんど引き揚げられてたわね――伊勢さんや日向さん、榛名さんも……」

「小型の艦艇なら沢山沈んでるわよね?」

「駆逐艦より小さな娘達はあたし、余り良く知らないの」

「近海で大型艦と言えばやっぱり大和か信濃だろうね」

「大和さんは一応知ってるけど信濃さんは知らないわ」

 

 それから彼らは幾分高揚した気分のまま昼食の用意に戻り、食事が終わってからもレポートの纏めをしながら一頻り旧海軍艦艇の消息を調べ回る。

陸奥にとっては自分が沈んだ後の事は初見のことばかりなので、ある種やらされてる感のある仁や葉月とは熱の入り方がそもそも違っていた。

 

「仁、代わりにむっちゃんにレポートやって貰った方が良いもの出来るんじゃない?」

 

実際、葉月の言葉通り彼女はあっという間に艦艇の消息通になってしまい、PCやネットの使い方にも随分馴染み始めていた。

夕食を済ませて風呂に入ってから(さすがに葉月の挑発行為も今の処はあの1回切りだった)明日の用意をしておこうという段になって、葉月が何気無く口にした言葉が彼らの気分に少しだけ冷や水を掛ける。

 

「そう言えば、むっちゃん達の事って海難事故とは関係無いのかしら?」

「あっ、う~んそっかぁ~結び付けて考えてなかったなぁ~、て言うか頭からすっかり抜けてた」

「なあに? 何かあるの?」

「あのね、二ヶ月位前からかしら? 海外のあちこちで重大な海難事故が続けて起きてるの」

「重大って?」

「船が沈没してるんだよ、大小合わせて五、六件起きてるんだ」

「本当に?」

「先月は大西洋の真ん中でクルーズ客船が沈没したの。100人近くも亡くなったのよ」

「戦時中でも無いのに――、日本でも起きてるの?」

「ううん、今の処日本船には被害が出てないけど何時起きるか分からない感じだね」

「救助された人達がね、船が攻撃を受けて沈んだって言ってるのよ。水柱が上がるのを見た人も多いみたい」

「それって弾着時の水柱ってこと?」

「多分そうなんじゃないかなぁ?」

「それに一人だけだったっけ――、いたわよね?」

「うん、ウルグアイの貨物船の乗組員だったと思うよ」

「その人がどうしたの?」

「船が沈んでしまった後、木材に掴まって波間を漂ってる時に見たって言ってたの」

「海面に立つ蒼白い女の姿をね」

「えっ……」

「夜中だったみたいだし、蒼白い女っていう時点でもう怪談話扱いでまともに取り上げられて無い見たいだけど。でもむっちゃんが浮かぶの見た時にちょっと思い出したのは事実ねぇ」

「まさかその女が船を沈めたのかしら」

「全くの想像だけどさ、むっちゃんや龍田さんみたいに助けてくれる良い人っていうか軍艦もいれば、人間に悪意を持ってる軍艦もいる――なんて事があるのかな」

「悪意のある軍艦……」

 

陸奥が眉をひそめて黙りこくるのを見て、仁は自分の軽口を少し後悔する。

そのままじっとあらぬ何処かを見詰めている彼女に何を思っているのか聞いて見たくなったものの、やはりその勇気は彼には無かった。

 



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〔第三章・第四節〕

 翌朝、訓練隊からの迎えはかなり正確にやって来た。

8時45分頃にあと15分位で到着する旨の連絡があったので、僕らは三人で家を出る。

そう遠い訳でも無いので9時5分前には公園前に着き、三人でお喋りしながら車を待っていると9時2分前に濃紺色に塗られた四駆車が現れ、僕らの前にすーっと止まった。

 

「緑色じゃないんだぁ」

「あたしは白だと思ってたわ」

「僕もそう思ってたよ」

 

などと感想を言い合っていると助手席のドアが開き、純白の制服にきちんと着帽した士官と思しき男性が降り立ち僕らの横に来てサッと敬礼してくれるので、三人ともに礼を返す。

その直後、ほんの一瞬の事だったので僕の気の所為かも知れないが、その男性は何かに驚いた様に目を見開き、幾らか動揺したかに見えたのだ。

ところが彼はほぼ瞬時にそれを畳み込んでしまい、何事も無かったかの様にキビキビとした声を上げた。

 

「お早うございます、失礼ですが改めてお名前を伺ってよろしいですか?」

 

そして僕らはその声を聞き間違えよう筈もなく、その意外性故につい今し方の些細な出来事は脳裏から消し飛んでしまう。

 

「中嶋副長!」

「わざわざお越し頂いたんですか⁉」

 

葉月のその問い掛けに副長は微かな笑みを浮かべてくれる。

 

「どうやら人違いでは無い様ですね、それでは小官から遠慮なく確認致しますが、渡来さん、塔原さん、それに陸奥さんで間違い無いですね?」

「はい!」

「有難うございます。それでは急かす様で失礼ですが早速こちらに並んで掛けて頂けますか?」

 

そう言いつつ副長は後部ドアをスライドさせると、空いた片手で僕らを誘う。

もちろんここ迄来て躊躇う理由も無いので、僕はむっちゃん、葉月の順に乗せた後最後に乗り込んだ。

副長が助手席に乗り込み、運転席の男性防衛官との間に一頻り安全確認だの帰路確認だのの遣り取りがあった後に車は徐に動き始める。

 

(やっぱり軍隊なんだな)

 

そんな様子を見ながら何となく感心していると副長が後ろを振り向き、

「隊に到着してからの手間を省いておきたいのですが良いですか?」

と、引き締まってはいるがどこか物柔らかな顔で声を掛けてくる。

これもまた何の事だと考える迄もなかった。

 

「学生証で良かったでしょうか?」

「もちろん結構ですよ」

 

僕と葉月は彼に学生証を差し出す。

 

「お二人ともY大の方ですか――とにかく未成年の方で無くてちょっとほっとしました」

 

そう言って学生証を返してくれたので、それを潮に僕は改めてお礼というか挨拶をする。

 

「改めてと言う訳では無いですが――ご無理なお願いをしてしまって申し訳ありませんでした」

「いえ私も正直に言いますが、よく他でも無い我が隊に連絡して来て頂いたと感謝したい位ですよ」

「そうなんですか? ではやはり――」

葉月が勢い込んで話し始めるが、さすがに副長が軽く手を挙げて制止する。

「詳しいお話しは隊に到着してからと致しましょう。そもそも塔原さんは私達が懸念している事は何か良くご存知の筈でしょうしね」

微笑した副長の言葉にさすがの葉月も苦笑する。

 

「そう仰られますと返す言葉もありませんね! ここからですとどの位掛かりそうでしょうか?」

「概ね3、40分と言う処かと思いますよ?」

「……」

「むっちゃんはそれでも長過ぎる見たいだね♪」

「待ち切れませんか陸奥さん?」

「ええ、本当に待ち遠しくて落ち着きません」

「こんな体験をした人間はおそらく居ないでしょうからちょっと想像も付きませんが、それでも同じ境遇の仲間と再会すると言うのは大変な事であるのは理解出来ます」

「そうですよね……。何より、初対面なのに昔から良く知っているってどんな感覚なんでしょうね?」

「それには私も非常に興味がありますが、残念ながらご当人達にもちゃんと説明出来ない様ですよ?」

 

そう言って彼は意味有り気に歯を見せた。

 

(あっ……)

 

間違い無い――この人はかなりの切れ者で、なおかつ人間的な深みも兼ね備えている。

この僅かな返答の仕方だけで、余計な事は何も口にせずに同じ様な女性達が複数いることをさらりと伝えたのだ。

僕と葉月は期せずして同時にむっちゃんの顔を見たが、彼女は瞳をキラキラ輝かせて僕らの視線に応える。

 

「とにかく後少しの間我慢して待っていて下さい。その値打ちは十分にあると思いますよ」

 

副長の言葉と笑顔はとても優し気だったし、僕もむっちゃんの弾けんばかりの笑顔が見られると思うと当の彼女以上にソワソワしていた。

 

 その所為か、隊迄の道程はそれこそあっという間に過ぎた様な気がする。

隊の門前に到着しておそらくは型通りの確認が一通り行われた後、そのまま僕らを乗せた車は正門を通過する。

車は少しだけ隊内を走ると、間もなく体育館の様な建物の前で止まった。

 

「こちらでもう一つだけ確認させて下さい」

 

副長がそう言い終わるのと同時に建物の前に立っていた女性防衛官が外からドアを開けてくれ、僕らは地面に降り立つ。

程々に雲を浮かべた青空が丁度良い位に日射しを和らげてくれる穏やかな日だった。

ドアを開けてくれた女性が、

「どうぞこちらへ!」

と元気良く誘ってくれるので迷うこと無くその後に付いて行く。

先に立った彼女はドアを開けて照明を点けてくれたが、それを待つ迄も無くそこがプールである事は塩素の匂いですぐに分かった。

後ろから副長が、

「申し訳ありませんが陸奥さんの身分証明書も確認したいんです。よろしいですね?」

と改めて声を掛けたので、ここにやって来た意図を詮索する必要も無くなる。

僕達はまたむっちゃんの顔を見たが、わざわざ心配する迄も無く彼女はごく自然に、

「はい、結構です」

と肯う。

ドアの所で先程の女性が並べてくれたスリッパに履き替え、プールサイドに歩み寄ると、もう既に件の女性はそこにバスマットを敷いている。

実に手際が良い。

そしてもちろん、むっちゃんも僅かな戸惑いすら見せる事無くそこに向かって歩を進めていた。

それは何と言うのか――そう、とにかく無駄や遊びの紛れ込む余地が無いのだった。

今更ながら僕は彼女が軍艦であることを意識してしまう。

 

就役してから沈む迄の間、彼女は僕の年齢と同じ程の期間を軍艦として過ごし、鉄の規律によって縛られた帝国海軍の軍人達を載せていたのだ。

だから彼女にとってこの隊内の規律正しさや無駄の無さはある意味当たり前の事であり、何の違和感も無く受け入れられるものなのだろう。

ここは常に目的と手段が明確な世界であり、僕らの日常とは異なる価値観が支配している時空だった。

それに気が付くと同時に、急に孤独感と言うか寂しさが湧いてくる。

彼女に命を助けられてからというもの僕は、現代のしかも陸の上という彼女にとって極めて不慣れな世界の水先案内人であり、甚だ頼りない奴にも関わらず言わば保護者に近い役割をも担っていた――いや、いた筈だった。

だが彼女は間もなく同じ境遇にあるかつての仲間達と再会しようとしているのみならず、彼女に馴染みのある世界の中に自分の居場所を見つけ出すかも知れない。

 

(何故なんだろう……むっちゃんの喜ぶ顔が見られるのに……)

 

信じられない事だが、僕は言い様の無い心細さに襲われていた。

そんな戸惑いにも似た瞬間に、何の前触れもなく葉月がそっと体を寄せて来る。

彼女は僕の手をギュッと握る――のかと思いきやどう言う訳かとても控えめにそっと触れて来たのだが、驚くべき事に、その素肌が触れ合った所から思わず縋り付きたくなる様な暖かい何かがどっと流れ込んで来たのだ。

 

(あぁ……)

 

僕は(リアルなのか心の中だけなのか、一瞬それすらもよく分からなかったが)大きくグラリとふら付く。

 

(そうだ、どの道むっちゃんは何時の日か自分の居場所を見つけるんだ……。結局傍にずっと居てくれるのは葉月だけ――――えぇっ?)

 

自分の思考がとんでもない方向に回転し始めるその瞬間、さすがに違和感を感じて我に返る。

見ると、むっちゃんは今しも裸足になってバスマットの上に乗ろうとしていた。

つまり今のはほんの二、三秒の出来事だったのだ。

僕が心細さに苛まれているのを葉月はほぼ瞬時に感じ取るなり体を寄せて来たのだろう。

しかもそっと触れる方が僕の心に与えるインパクトがずっと大きい事も(理屈では無く本能見たいなもの何だろうか)知った上でだ。

 

(神業のレベルだな)

 

何時もならば葉月の恐るべき心理攻撃に戦慄する処なのだが、今回ばかりは何だか悪い夢から醒まさせてくれた様な気がしてむしろちょっと感謝したい位だった。

むっちゃんが居場所を見つけ様がどうしようが彼女が命の恩人である事には何の変化も無く、僕が立てた誓いも変わりはしない筈だろう。

少し冷静にそう考え直して心を落ち着かせると、その余勢を駆って葉月に礼をいう事にする。

 

「有難う葉月」

 

ごく簡潔にそう言ってみたが、彼女は僕の顔をちらりと一瞥して今にも舌打ちしそうな表情になり、

「別に何にもしてないわ!」

と口を尖らせて見せる。

僕は苦笑するより他無くむっちゃんに目を戻したが、彼女はマットの上に立って中嶋副長の方を向こうとするところだった。

 

「中嶋副長、よろしいですか?」

 

彼女が良く通る声で呼び掛けると、

「ええ陸奥さんのタイミング――いえ、間合いで始めて下さい」

と彼が応じたのでむっちゃんは改めてこちらの方を振り返るが、僕と葉月が頷いて見せると頷き返し、そのまま再度プールに向き直る。

そして次の瞬間、特に気負う様子もなくスッと地上を歩く様に右足から水面に進み出た。

正にその時プールサイドに立つ女性防衛官が、

「あっ!」

と小さく声を上げる。

どうやら彼女もこのアメンボ能力を見るのは初めてらしかった。

もっとも僕にした処でまだ二回目ではあるが。

それでも実に不思議な光景だとしか表現し様が無いと感じるし、一度や二度見た位で慣れるものでも無さそうだ。

むっちゃんは何の力も入れず、自然に立った姿勢のまま滑る様に水面を自在に動き回っている。

横では葉月が、

「本当にアメンボよねぇ」

と感嘆頻りだ。

一昨日の事だが葉月は

「スケートする見たいな感じなの?」

とむっちゃんに聞いたのだが、無論スケートをした事も無い彼女が的確に答えられる訳は無く、代わりに僕が、

「違うよ、どっちかと言うと、アメンボ見たいな感じだよ」

と答えた事を言っているのだ。

 

「有難うございます陸奥さん、もう十分ですよ」

 

副長がそう声を掛けたので彼女はまた滑る様にこちらに戻って来ると正確にバスマットの所に戻り、まるでごく自然な事の様に何の衒いも無くマットの上に上がって軽く足を拭う。

僕は歩み寄って、

「むっちゃんお疲れ様」

と声を掛けるが彼女はケロリとした顔で、

「有難う仁、でも何にも疲れて無いの♪」

とわざとお道化た様な返事をしてくれる。

 

(むっちゃん……)

 

神業が使えるのは葉月だけでは無かった。

彼女は僕に向かって柔らかく微笑んでくれたのだが、何となく遠ざかった様に感じていた僕らの距離感をその笑顔一つでいとも易々と元に戻してしまった。

そんなむっちゃんの鮮やか(なのだがおそらく彼女自身は全く意識すること無くしているのであろう)な手際に僕が感心していると、傍らに立っていた例の防衛官の女性にある種の畏敬が籠った不思議な眼差しで見詰められているのに気が付く。

 

(えっ、いやそのぉ)

 

その視線に少々照れ臭くなり、思わず助けを求めて中嶋副長の方を振り返ると彼はすぐに、

「さて、大変お待たせしましたね、陸奥さんのお仲間の処へご案内しましょう」

と応じてくれた。

 

「さあむっちゃん行きましょ! 懐かしい友達に会いに行くわよ⁉」

 

有難いことに、空気を読んだ葉月もまたその場を纏める方を選んでくれたのだ。

 



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〔第三章・第五節〕

 プールのある建物から少し歩いて彼らは別の建物に入り、ちょっとしたスーパーの様な売店や各種の自販機が設置されたロビーを抜け、とある部屋の前に立つ。

 

「さあこちらです陸奥さん、心の準備はよろしいですか?」

中嶋のその言葉も心なしか楽しそうに感じられる。

ただ、さすがに当の陸奥は少し緊張しているらしい。

やや堅い表情で仁と葉月を見るので葉月が、

「ウフフ、ひょっとしてむっちゃん、仲悪い娘がいたらどうしようとか心配してるのぉ?」

と笑顔で揶揄うとすぐに破顔し、彼らに軽く微笑み返してから中嶋に向き直り、

「はい、お願いします」

と朗らかに応える。

 

いよいよだと思うと仁もつい手に力が入る。

中嶋は一呼吸だけ間をおくと、勿体を付ける事はせずに片手でスッとドアを押し開く。

立ち位置の都合もあって開いたそのドアから人影は見えなかったが明らかに人の気配がしており、その見えない人影に向かって中嶋が朗々と呼び掛ける。

「お待たせしました皆さん、新しいお仲間をお連れしましたよ!」

それと同時に反対側のドアに手を掛けていた先程の女性がもう半分のドアを押し開けたので彼らの視界はサッと啓けたが、目前のその光景は予想を上回るものだった。

 

部屋は意外にも結構な広さがありテーブルとイスが並べられていたが、そこで待っていた女性達はなんと十数名も居たのだ。

彼女達は一斉に立ち上がり口々に、

「陸奥さん! 陸奥さん!」

と叫んで陸奥のもとに駆け寄って来た。

 

余りの事に言葉を失った彼が陸奥を見ると、彼女も予想外の出来事に一杯一杯になっている様で、口を開けて何か言おうとしているのだが全く声が出せていない。

葉月はと見ると、さしもの保護者も口を半開きにして目の前の光景を何とか飲み込もうと苦労していた。

そんな幸福感溢れる混沌が眼前で繰り広げられるのをを見ていた仁は、次第に嬉しさが込み上げて来てしまい、会心の笑みを浮かべている中嶋に歩み寄る。

 

「度肝を抜かれてこんなに楽しいのは本当に初めてです、どうでしょうか、そろそろ彼女に助け船を出してあげて下さいませんか?」

 

彼にそう言われると中嶋は改めて満足げな笑顔を見せ、目の前の女性達に向かって呼び掛ける。

 

「さぁ皆さん、こんな入り口では何ですから中へ戻ってゆっくりお話ししてはどうですか?」

「はーい!」

 

彼女達は練習していたかの様に綺麗に揃った返事をすると、てんでに陸奥の手をとって部屋の中へと誘う。

それがどれ程楽し気で微笑ましいものか、言葉で説明する事など到底出来そうにない。

そう感じた仁はそれ以上何かを口にし様とするのは諦め、彼の大切な願いが叶った証しであるその眩しい輝きに満ち満ちた瞬間を噛み締めていた。

 

 そして当事者である陸奥もまた、扉が開いた瞬間から頭の中が真っ白になってしまう(これもまた初めての経験だ)様な驚きと喜びに翻弄されていた。

予め車中で中嶋が然り気無く教えてくれていたので、会えるのが龍田一人(一隻?)で無い事は判っていたものの、まさかこんなに沢山の仲間が迎えてくれるとは予想もしていなかった。

その上先程も仁が言っていた通り、不思議にも初対面の彼女達がちゃんと誰だか判ることも余計に理解力の負担となっている。

真っ先に駆け寄って来てくれたのは蒼龍と飛龍だったが、二人が満面の笑顔で抱き付いて来た時点で陸奥の感情は飽和してしまい、言葉が喉の奥につかえて止まってしまった。

 

(仁が黙っちゃうのってこんな風だったのね)

 

それが判ったからと言ってどうなるものでも無く、只々彼女達にもみくちゃにされながら心の中でその名前を確認するだけで精一杯だ。

 

(霰ちゃんに朧ちゃん――、皐月ちゃんは何だか欧米人見たいだわ)

 

その時、一人の少女が元気良く飛び付いて来る。

「陸奥さん!」

「あらっ、子の日ちゃんね!」

反射的に抱き上げながら、彼女の名前が自然に口を衝いて出る。

小柄であどけない駆逐艦達の中でも、子の日の容姿は一際幼い。

その姿形に無意識に反応してしまったのだろうか、つい彼女を抱き締めてしまい、取り巻く駆逐艦達から声が上がる。

「あっ、子の日ちゃんだけ狡い!」

「ボクも、ボクも!」

どうしたものかと躊躇し掛けたが、丁度良い間合いで(今の会話ではタイミングと言うらしい)中嶋が声を掛けてくれたので、そっと子の日を下ろす。と、早速長良がその手を取り、

「こっちですよ、陸奥さん!」

と誘ってくれる。

「陸奥さんどうぞ」

そう言って椅子を出してくれたのは妙高だった。

「妙高ちゃん! 会えて嬉しいわ」

彼女にそう応じてその手を握ろうかとした刹那、

「陸奥さぁん!」

と何とも言えない切な気な声と共に龍田にしっかり両手を握り締められる。

「龍田ちゃん!」

「ほんとにぃ~本当に信じられません! あの日私達の目の前で陸奥さんが沈んでしまってから、ずっとずっと気に掛かって居ましたぁ~、まさかこんな風に再会出来るなんてぇ……」

 

彼女は涙を浮かべて切々と訴えかけると堪えきれなくなった様に抱き付いて来る。

陸奥も感動して、

「あたしも嬉しいわ、龍田ちゃんとこうしてまた会えるなんて!」

と言いながら抱き締め返す。

 

彼女は葉月より少し低いぐらいの背丈で、陸奥の胸元にぎゅっと顔を埋めながら心なしか微かに震えているようだ。

その何ともいじらしい様子に、彼女の髪を撫でてやりながら改めてしっかりと抱き締める。

そのまま少しの間力を入れていた後、もういいだろうかと力を抜き掛けたものの、どういう訳か龍田はひしと抱き付いたまま力を緩めない。

 

(そんなに心細かったのね)

 

陸奥自身、ほんの数日前に仁が言ってくれた力強い言葉に感激して彼に抱き付いた事を思い出し、もう一度腕に力を入れ掛けるものの、何となく腑に落ちない。

 

(龍田ちゃんは三、四日前には皆と再会してた筈よね? どうしてこんなに不安がってるのかしら?)

 

そんな風に思い直して顔を上げたところ、どういう訳か仲間達はやや遠巻きに周りを囲んでおり、何やら微妙な雰囲気を漂わせている。

 

(あらっ? なにその不自然な感じ……)

 

その時龍田がモゾモゾと動いたので良く見ると、何と彼女は陸奥の胸に顔をぐいぐいと擦り付けている。

 

(えっ?)

 

更には背中に回った彼女の両手が妙に動き回る事にも気付く。

 

(!)

 

思わず振り返ると、仁と葉月が何やら目配せしながら小さく首を左右に振っていた。

 

(まさか龍田ちゃん……)

 

その昔、軍艦である陸奥に乗り組んでいたのは当然ながら男だけであり、一度出港してしまえば艦内は完全に男一色の世界であった。

その様な環境の中で――余り思い出したくない経験だが――目撃した、少々口にするのが憚られる光景を思い出してしまう。

とは言うものの、再会した龍田がまさかその反対の女色の持ち主だとは……。

 

僅かに峻巡した後で、意を決して声を掛ける。

「龍田ちゃん、龍田ちゃん⁉ どうしたの! ねぇ起きて⁉」

そう言いながらその肩を掴んで軽く揺すぶると彼女は「へっ?」と間の抜けた返事をして顔を上げた。

しかしその眼はまるで寝起きの様にどんよりとしていて、完全に困った世界に入り込んでいるらしい。

「しっかりして龍田ちゃん! ひょっとして疲れてるんじゃないの? 無理も無いわ、毎日緊張して眠れないのね! さぁ少し座って休んだら?」

一息に捲し立てて、先程妙高が出してくれた椅子に彼女を座らせる事にどうにか成功する。

 

(ふうっ)

 

少しほっとした陸奥が背後を顧みると、加賀と高雄がすっと近づいて来る。

「陸奥さん、再びお会い出来る日が来るなど全く思いもよりませんでした。これこそ何という僥倖でしょうか」

加賀は余り感情の籠らない物静かな話し方だが、それが却って心を落ち着かせてくれる。

「あたしもよ加賀ちゃん。異国の海底に独りで横たわっているのは本当に辛かったでしょうね」

そう声を掛けてそっと手を取ったが、思わぬ事に彼女は仄かに顔を紅潮させ瞳を潤ませる。

 

(加賀ちゃん……)

 

陸奥は昨夜ネットで見た記述を改めて思い出す。

ごく最近無人の潜水艇によって撮影された加賀は、光も届かない五,〇〇〇米以上の深海にひっそりと沈んでいた。

 

体を預けて来た彼女を抱き締めると、首筋に涙が伝うのを感じる。

 

(光一つ無い暗闇で、たった一人でじっと耐えていたのね)

 

そうは思ったものの掛ける言葉が見つからず、ただ強く抱き締める事しか出来なかったが、それで十分に通じ会えるのが判った。

 

微かな嗚咽を洩らして啜り泣く加賀のその涙は悲しみの故では無く、こうして分かり会い通じ会える仲間と再会出来た喜び、そして暗闇の中の孤独から解放された安らぎなのかも知れない。

 

何時の間にか高雄が傍に来ており肩口にそっと頬を寄せて来たが、それは涙に濡れていた。

 

(皆同じなのね……、そうよあたしもだわ)

 

そう思った陸奥の心の中で何かが緩む。

 

傍らから赤城が陸奥と加賀にすっと手を回し、震える声で告げる。

 

「わたし――本当に幸せです……。皆に会えて――本当に……」

 

彼女は陸奥よりも僅かに背が高く、その頬を伝った涙が腕に滴り落ちる。

 

在りし日の海軍の男達は大和魂と言うものがあるとしばしば口にしたが、魂というものの意味も存在も良く理解出来なかった。

 

だが、今ならそれが良く理解出来る様な気がする。

 

(あたしは人間じゃない――人の姿は手に入れたけど……。本当は、海の底に横たわる朽ちかけた鉄の塊……)

 

それでも自分の胸の奥底で、暖かく震える何かがあるのを今ははっきりと感じられた。

 

「有難う――、皆有難う――、居てくれて本当に有難う……。皆、あたしの大切な掛け替えの無い幸せそのものよ……」

 

涙が止めどなく溢れては零れ落ちたが、それはとても暖かく、そして不思議な心地良さに満ちたものだった。

 



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〔第三章・第六節〕

 葉月に許可を得る様な事だけは意地でもしたく無いので、先程からそれこそ必死に涙を堪えていたが、さすがにもう限界だと思った。

仲間達としっかり抱き合って暖かな涙を流すむっちゃんは、見た事も無い安堵と喜びに満ちた表情をしている。

そして彼女を中心にして女性達は集まり啜り泣いていたが、そこにあるのは悲しみなどでは無く、そっと大きな手で包み込まれる様な安らぎに満たされていた。

 

ダメだ! 幾ら何でももう無理だと観念仕掛かったが、まさにそのタイミングで葉月が声を掛けて来る。

「意地悪な奴だと思われたくないから言っといたげるわ、今回だけは特別よ! 今回だけね」

まるでこちらの心の中を読み取ったかの様な(と言うか多分読んでるんだろう)言い種だった。

で、ここぞとばかりに号泣したかと言うと――まぁ泣いて良いと言われて泣くものでは無いのは当然で、しかも葉月の言う事に忠実に従う程素直ではない僕は、結局みっともない位には泣かずに済んだのだ。

 

 そんな訳で多少心に余裕が出来た事もあって涙を拭いながら良く見ると、何だかんだ言って葉月の顔もぐしゅぐしゅになっていた

「何よ、わたしは別に泣くのに許可なんていらないのよ!」

「僕だっていらないだろ!」

「あんたはいるの! ったく……ここ2、3日本当にどうかしてるわよ⁉ これ迄泣いた事なんてあったかどうか冷静に思い出して見なさいよ! どうしてそう自分てモノが見えないのかしら⁉ 何かって言うとすぐそうやってムキになるから、肝心な時に頭に血が上って訳分かんない事しちゃうのよ! 本っ当に親心が伝わらないんだから!」

「わ、悪かったな……」

「どうやら渡来さんは塔原さんに頭が上がらない様ですね」

 

中嶋副長が軽く目頭を拭いながら話に入ってくる。

 

「あの――何て言うか本当に有難うございます」

「本当です――皆あんなに嬉しそうに……こんな感動的な場面に出会えるなんて思っても見ませんでした」

「僅か数日間しか彼女達を見ていませんが素晴らしいですよ? 純粋でひたむきで、賢くて礼儀正しくて――塔原さんには大変申し訳ありませんが、現代の一般女性と比較せずにはいられなくなりますね」

「悔しいですけど全く反論出来ません。少し恥ずかしさを感じます」

「僕は皆が彼女を温かく受け入れてくれているだけで、もう途轍もなく素晴らしい仲間達だと感じてしまったので――」

「渡来さんがそう感じるのも仕方が無さそうですね。ですがその様な感情を抜きに見ても、陸奥さんに対する彼女達の反応には特別なものがあると感じますよ」

「そうなんですか?」

 

僕は改めてむっちゃんを見たが、彼女は今し方迄固く抱き合っていた加賀と言う女性の涙を拭ってあげながら、二人を囲んでしゃくり上げている少女達の頭をもう片方の手で順繰りに撫でている。

 

「あの加賀さんとそちらの赤城さんは彼女達の言わばリーダー格なんです。史実はご存知ですよね?」

「はい一応――。ですから仰る意味は理解出来る積もりです」

「そういう背景もあるでしょうが、あの二人は何処かしら近寄り難い雰囲気を漂わせていて、目下の――と言って良いのかどうか分かりませんが他の女性達と気易く接し様とはしなかったんですよ。威厳見たいなものを意識していたのかも知れませんね」

 

確かに副長が指し示した女性――赤城さんはその背の高さと相当な美しさとで良く目立ったが、どこかしら堅苦しい第一印象で、むっちゃんに感じる様な自然体のもの柔らかさには程遠かった。

でも、つい先程迄の涙を流していた彼女は儚さや可憐さを感じさせたし、加賀さんに至ってはまるで肉親に甘えるかの様に我が身を預けて誰憚る事無く泣いていたのだ。

 

「加賀さんはとても冷静で物静かな方だったんですが……、あんなに感情を露にするところを見るのは正直驚きですね」

 

更に見ていると、確か妙高と呼ばれていたくっきりした眉が印象的な女性と黒髪色白のややおっとりした感じの女性(つい目がいってしまう位のその――爆乳だった)は良く気が付く様で、机を除けて椅子を出したり少女達の顔を拭ってあげたりしている。

ついさっきは完全に想定外のガチ百合っぷりを発揮して僕らをドン引きさせた龍田さんも、その点以外はどうやらそれなりに普通らしく、今はしゃがみ込んで金髪の(日本の軍艦の筈だよね?)少女の顔を拭いてあげていた。

 

「皆さんの動きも何か昨日迄と違う印象ですね。何と言うのか、互いに遠慮がちだったと言うか纏まりの良くない感じを受けていましたが、急に核と言うか中心が出来てあるべき所に落ち着いたかに見えます。とても興味深いですね……」

「それは――陸奥さんが艦隊の頂点でもある戦艦である事と関係はあるんでしょうか?」

「無関係では無いでしょうね。そもそも陸奥さんは連合艦隊の旗艦を務めた事もある訳ですからね」

 

もちろんそれだけでは無い事を僕は既に知っていた。

彼女には自然に相手を包み込んでしまう様な形容し難い懐の深さや暖かさが備わっている事を。

 

「戦艦は彼女だけですよね?」

「ええ、こちらで今保護しているのは航空母艦4名、一等巡洋艦2名、二等巡洋艦2名、駆逐艦5名です。全員この1週間程で受け入れましたね」

「彼女達は一体どういう存在なんでしょう? 何か見当をつけておられるんですか?」

 

葉月が聞くと、副長はちょっと思案顔になる。

 

「それはさすがに今この場でお話しする事は出来ませんね。もしそれを望まれるのであれば場所を移す必要があります」

副長の言わんとする事は何となく想像がついたので、葉月が何か言うのを待たずにこう言って見る。

「出来れば彼女に告げてから行きたいんです。先に教えて頂ければですが」

「分かりました、お二人共同意と考えて良さそうですね。ではこれから貴方方を当訓練隊司令のところへお連れし様と思います。その後彼女達と一緒に昼食が摂れる様に手配しましょう」

「有難うございます」

「ご配慮、感謝致します」

 

葉月共々お礼(と諾意)を口にすると、事情を告げるべく彼女のもとに歩み寄る。

が、勘の良いむっちゃんは声を掛ける迄も無く気配だけでこちらを振り返ってくれた。

「なあに仁?」

「司令とお会いして来るよ、昼食迄には戻って来るからね」

「判ったわ、じゃあまた後でね」

 

たったこれだけの僅かな遣り取りだったのだが、背中に厭な汗が滲む程の緊張を強いられる。

一応断っておくと僕は別に女性が苦手な訳でも無いし人と話すのが苦痛な性質でも無いが、彼女達十数名(しかも全員これでもかと言う位に粒揃いに可愛いかったり美人だったりする!)が一斉に口を噤んでこちらを見ている中で自然にしろと言う方が無理な話だろう。

何よりも困ったのは、先程むっちゃんが子の日ちゃんと呼んでいた明らかに小学校低学年位にしか見えない赤っぽい変わった髪をした女の子だ。

彼女はむっちゃんと僕が親しげに言葉を交わすのを見た途端、むっちゃんの腕をキュッと抱き締めると強い敵意の籠った眼差しでこちらを睨み付けて来る。

こんな時はどうすれば良いんだろう?

『君から陸奥さんを取り上げたりしないから大丈夫だよ』とか言ってあげるべきなんだろうか。

 

などと悩んで見た処で、やはり僕にはゆっくり迷っている時間など貰えはしない。

つかつかと歩み寄って来た葉月がサッと僕の手をひっ掴むと、

「ほら仁、邪魔しちゃダメでしょ⁉ さっさと行くの!」

と有無を言わせぬ調子で言い放つ。

そうしておいてからむっちゃんに手を振って見せると、クルリと背を向けて僕を引き摺りながら歩き始める。

 

背後では一斉に低い騒めきが起こり、

「あの方は――」

とか

「ひょっとして陸奥さんの――」

とか言う言葉が切れ切れに聞こえて来る。

僕は馳せ戻って自らの立場を説明したい衝動に駆られたが、葉月は全くお構い無しに手を力一杯掴んだまま、

「お待たせしました副長、宜しくお願いします!」

と中嶋さんに呼び掛けてそんな未練を一刀の下に断ち切ってしまう。

さすがに苦笑した彼は、

「分かりました、それではこちらへ」

と僕に少々同情的な視線を投げ掛けながら応じてくれ、傍らの女性防衛官に頷いて見せてから先に立って部屋を出る。

 

「全く――、ちょっと考えたら分かりそうなもんでしょ!」

部屋を出るやいなやまた葉月に叱られる。

「何がだよ」

「女の子があんな顔してる時に何言ったって聞きやしないわよ! それに女が集まったら何をするかなんて決まってるでしょ! ノコノコお喋りの肴になりに行ったんだから何言われても知らん顔してサッと切り上げて来なさいよ、グズなんだから!」

何と言うのかまたしても溜め息を吐く事しか出来ない。

葉月がテレパシーを使えるのは良く分かったので、出来れば僕の心を読むのは止めてくれないだろうか。

とは言うものの、残念ながら大いに納得させられたのも事実だ。

 

 振り返れば高二の秋のあの日、校舎の屋上に僕を呼び出した後輩は向かい合うなりいきなり、

「二股掛けられて嬉しい女なんているとでも思ってるの⁉」

と詰り始めたのだ。

一体何の事だかさっぱり分からないし、僕が付き合ってるのは君だけだと真剣に言っても彼女の耳に入っている様子は全く無く、何やら一方的に捲し立てられたあげくに、

「二度と近寄らないで!」

と絶縁を申し渡されたのだ。

あの時の彼女の瞳には、確かに今見たばかりの子の日ちゃんの瞳に燃えていたのと同じ激しい炎が躍っていた。

 

(何一つ賢くなってんだよ……)

 

それはさておいても、おそらくその悲劇を引き起こした張本人(無論容疑者の自供はなく状況証拠だけなのだが)にして後輩が言う処の『二股』のお相手がいい加減に手を離してくれないだろうかと思いながら、僕はまた何度目かの溜め息を吐いた。

 



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〔第三章・第七節〕

 二人が案内されたのは、こんもりとした丘を回り込んだところにある閑静な雰囲気の建物だった。

明るい屋外から中に入ると廊下がやけに薄暗く見えて緊張感を煽るが、先に立った中嶋は幾許もなくとある扉の前で立ち止まり、音高くノックをする。

「失礼します! 中嶋です!」

彼がきびきびと声を上げると扉の向こうから、

「入りたまえ」

と想像していたよりもずっと温和な声が響く。

 

「失礼致します」

中嶋が言葉と共に開けた扉の先には、好々爺と言う程の歳では無いものの雰囲気は正にそのものといった初老の男性が、程良く味の出た木のデスクに掛けて何とも言えない柔和な笑顔を湛えてこちらを見ていた。

 

「司令、渡来さんと塔原さんをお連れしました」

「初めまして、渡来と申します」

「塔原と申します、宜しくお願い致します」

「渡来さんに塔原さんですな、小官は当訓練隊司令を拝命しております西田と申します。こちらこそ宜しくお願い致します。時に中嶋君、お二人の入隊手続きはもう済んだのかな?」

「えっ――」

「いえっ、そのぉ、私達――」

「司令、お戯れは程々にされませんと」

「ハハハハハッそれは残念な。いや、お二人の様に見るからに優秀な方々が我々の仲間に加わってくれれば願ったり叶ったりと思いましたが――そうは問屋が卸しませんでしたか、いや致し方ありませんなぁ」

「司令、お願い致しますよ?」

「ハッハッハ、中嶋君に叱られる前に止めておかねばならんねぇ。さてお二人には改めてお礼を言わせて下さい、よくぞ当隊を正確に尋ね当てて連絡して下さった。本当に有難うございます」

「いえそんな事は――」

「お礼などと言われますと恐縮してしまいます」

「いやいや、今時の若い方々は何かあるとすぐ、やれウィスパーだSNSだなんだと写真や動画を公開して見たくなるのが当たり前の様ですが……、その点お二方はちゃんと事の軽重を慮って手間暇を掛けて探索し、我が隊に白羽の矢を立てて頂いた訳ですから」

「幸運に恵まれたと思っています」

「全くそうですなぁ、ですが何時迄も幸運にばかり頼っている訳にも行きませんので――。そこでご相談なのですが、貴方がたとは秘密を共有する事が出来ると見込んで申し上げたい。更に突っ込んだお話しをさせて頂く前にお二方には一筆書いて頂けるとたいへん有難いのですが、如何なものでしょうかな?」

「守秘義務の誓約、と言う事でしょうか?」

「ええ、そう思って頂いて差し支えありません」

 

 この会話に口を挟まずにいた葉月は仁がこちらを顧みるものとばかり思って待ち構えたが、案に相違して彼は真っ直ぐに西田の顔を見ていた。

その横顔にはどうしたことか迷いの陰がなく、瞳は澄んで涼しげに光っている。

 

(な、何よ――、また急にそんな顔しちゃって)

 

一瞬ドキリとさせられたことが腹立たしく、心中で悪態を吐いて見たくなったがグッと我慢して押し殺す。

この世で一番仁を深く理解しているだけでなく、保護者にして嫁である事を自認する彼女にとって、彼に対する幼稚な感情や依存心を自ら認めてしまう行為は到底我慢ならない。

 

「誓約するのは構いませんが条件があります」

 

思いもよらない毅然とした言葉に西田はおやと言う顔をした(だけでなく葉月にとっても予想外だった)が、傍らの中嶋は口許に微かな笑みを湛えている。

「それはどんな条件でしょうか渡来さん?」

「複雑な事ではありません、彼女達の意思に反して何かが強制されたりしない事と、例え意思に反していなくても明らかに彼女達にとって不利益な事には従わない自由、この二点が保証されない限り誓約は出来ません」

 

きっぱりとした口調でそう言い切った彼にまた不覚にもドキドキさせられてしまった葉月は、

 

(なんなのよこんな時ばっかり……)

 

と恨めしくなってしまう。

 

彼にこんな経験をさせられた事は実は初めてではない。

 

 小学校3年の時、二人は同じクラスになった。

当時既に一端の世話女房振りを発揮していた葉月は、遠足の時も当然の様に頼りない仁を引っぱって張り切っていた。

とは言え今思い返せば当たり前のことだが、年端のいかない子供に本当の保護者代わりが務まる訳もなく、張り切りが空回りして皆と逸れてしまい、焦って滅多矢鱈に歩き回った事も災いしてすっかり迷ってしまった。

右も左も分からない山の中で不安は募る一方なうえ、間の悪いことに雨迄降り出してしまい彼女の張り詰めていた心はポキリと折れ、どっと涙が溢れて来てしまった。

 

その時、それ迄ずっと後ろを付いて来るだけだった仁が、突然ぐっと強い力で彼女の腕を掴んだ。

驚いてびくっと顔を挙げた葉月を彼は無言でぐいぐい引っ張り、大きな木の下の乾いた地面の上まで来るとリュックからガサガサと敷物を引っ張り出しながら、

「ここで少し休もう」

と言葉少なに言うのだった。

 

泣いているのを慰めてくれるのなら兎も角、場違いな程悠長な事を言い出すのに腹が立ってそんな余裕など無いと食って掛かったが、彼は全く取り合わず強引に葉月を座らせてしまった。

その力の強さにも驚いたが、横にドサリと座り込んだ彼がいきなり手をぎゅっと握ったのには更に驚いた。

恥ずかしいやら腹が立つやらで改めて食って掛かろうとした彼女の眼に映ったのは、雨空をひたと見詰める仁の眼差しだった。

その瞳は澄みきって強い光を帯びており、葉月が思わず黙ってしまうのには充分過ぎる位透徹としていた。

 

「大丈夫だよ、絶対に一緒に帰ろう」

 

その言葉は遠い天空から響いて来たのではないかと錯覚する程仁には不似合いなものだったが、その頼もしく気高くそして涼しげな横顔は、それが紛れも無く彼の口から発せられたものである事を物語っていた。

 

 あの日から既に十年以上の月日が流れたが、その横顔は今でも時折夢に出て来る程心に強く焼き付いている。

そしてその度に、あの日の彼の手の温もりを昨日の事の様に思い出すのだ。

 

(なのに……)

 

何時も仁はあの顔を見せてはくれない。

 

彼が葉月に見せるのは、優しく思い遣りに溢れてはいるが優柔不断で頼り無い顔ばかりで、本当に見詰めて欲しいと願っている頼もしく涼やかな瞳が彼女に向けられる事は無かった。

 

「いや感服しました渡来さん! 実に立派な態度です。それでこそ共に相謀るに足ると言うものです! いやぁ、益々もってあなた方には是非とも我々の仲間になって頂きたいものだ――。渡来さん、先の事で構いませんので一つ真剣にご検討願えませんか?」

「司令、脱線しておられますよ」

「ハッハッハ、これは失敬。しかしねぇ中嶋君、これもまた大切な事だとは思わんかね?」

「それには異存ありませんが、今は何より渡来さんの示された条件に対するご返答が優先すると思いましたので」

「成程々々――返答などもう分かり切った事ではあるんだが――。オホン、では改めて渡来さん、あなたの仰った条件に同意致しましょう。中嶋君、反映させた文面をすぐ用意出来るかな?」

「デスクをお借りして宜しければ直ちに」

「無論だ、済まんが急ぎ頼むよ」

「図々しいお願いを聞き届けて頂き有難うございます」

「いやいや礼などご勘弁下さい。それよりも塔原さん? 貴方を放ったらかしにして話を進めてしまって申し訳ありません。何かご意見がおありでしたらどうぞ仰って下さい」

 

どんなに唐突に話を振られても葉月は自然に対応出来てしまう。

何だか放っておけ無くなる様なちょっと頼りない女になって『本当に葉月は世話が焼けるなぁ』などと彼に言われて見たいと思うのは所詮贅沢な望みに過ぎないのだろうか?

 

「お気遣い頂いて済みません。今の処は特にありませんが、一旦書面を見させて頂いてその上で決めさせて貰っても構いませんか?」

 

特に理由など無かったが何となく保留してしまった。

快諾するのが癪だっただけだと自分に言い聞かせるが、心の奥底ではそれだけが理由では無いこと位気付いている。

陸奥が現れてからと言うもの、仁がやたらに涙を見せるのがどうにも不安で仕方が無い。

幼稚園に上がる前から彼を知っている葉月にとって、母親を喪った時ですら泣かなかった(もっともこれには訳があるのだが)彼がどうしてここ迄突然に涙脆くなったのかが理解出来ないのだ。

 

別に陸奥が気に入らないとも思わないし、彼が他の女性に惹き付けられるのを見るのも初めてでは無いのでその程度の事は余裕を持って受け止められる筈なのに、その涙の裏にあるものが掴み切れない不安からかつい彼の行動にけちを付けたくなってしまう。

 

そんな彼女の胸中で渦巻く感情に気付く由も無い西田は、

「もちろんですとも。それでは、彼が文面を用意してくれる迄お茶でも如何ですか?」

と言いながらデスクの上のスイッチを軽く押した。

 



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第四章
〔第四章・第一節〕


 陸奥にとっては正に夢の様な時間だった。

懐かしい仲間達は今や言葉を交わし、手を握り、抱き合う事の出来る存在として目の前にいる。

しかもたいへん不思議なことに一人一人とても個性的な容姿や性格をしていて、軍艦であった時と今の人間そっくりな姿との間に一体どんな関係があるのかおよそ見当が付かない。

 

(まぁ、艦の大きさにはそれなりに関わりはあるのかしら?)

 

多分その位がいい処だろう。

自分や赤城、加賀に比べると駆逐艦達は皆背丈も低く容姿も幼気だが、巡洋艦達は概ねその中間位の様に見えるからだ。

が、それもあくまで『概ね』であり、仲間達の姿形は明らかにそれだけではすっきり説明出来ない。

まだ会っていないので何とも言えないものの、姉の長門は自分とそっくりな容貌なのだろうと勝手に想像していたのだが、この状況を見てしまうとそれは少々変更した方が良さそうだった。

 

「陸奥さんはさっきのあの方と暮らしておられるんですよねぇ」

何やら羨ましそうな様子で飛龍が話し掛けてくる。

「暮らしてるだなんて――まだ四日目よ?」

「えぇ~でもそんな可愛い服とか着てられるから――、あの方に買って頂いたんですよね?」

「そうねぇ、何だか甘えてしまって申し訳無いんだけど」

「そんなの関係無いんですよぉ~、きっと好きだったら気にならないんですってぇ」

と蒼龍が後を引き取ったが、彼女は端から仁が陸奥を好きなのだと決めつけているらしい。

 

(そんな事言われても――、もし本当だったら葉月がカンカンになっちゃうわ♪)

 

確かに自分は彼を好きだと思ってはいるが、異性に対する感情というものをまだ良く理解出来ない陸奥にとって、それは感謝の気持ちと切り離して考えられる事では無い。

 

(そもそも蒼龍ちゃんは何故そんな気持ちが判るのかしら?)

 

その辺を聞いて見たいと思うのだが、先程からこの件について何か口を挟める状況では無かった。

「そんなこと無いもん! 絶対違うもん!」

この話題になる度に、子の日が問答無用とばかりに全否定してくるのだった。

 

(もう、子の日ちゃんたら)

 

陸奥は彼女に大層気に入られてしまい、今も右腕をギュッと抱き締められたままだ。

戦前戦中を通して彼女と艦隊行動をした事など殆ど無い筈だが、一体どういう巡り合わせなのだろうかとも思う。

 

「子の日ちゃんは、そうだったら良いと思ってるのよね」

高雄が目を細めながら優しく話し掛ける。

彼女を見た時最初に陸奥の脳裡を過ったのは、昨日葉月がかなりの嫌悪を込めて言い放ったあの『男共の手前勝手な願望』というやつだ。

確かに高雄は真面目そうだが堅苦しい感じではなく、温和で人(艦?)当たりも柔らかく、優しく思い遣りの感じられる物言いと併せてとても好ましい印象を受ける。

あの時葉月が吐き捨てんばかりの言い方をしたのは、願望を押し付ける男が許せないのかそれともそれに迎合しようとする女が気に入らないのかどちらなのだろう?

只少なくとも目の前にいる高雄はどう見ても何かに迎合している様では無さそうだ。

そんな取り留めのない思考を反芻している間に、折角高雄が気遣ってくれたその言葉を子の日はにべも無く一蹴してしまう。

「そうじゃないもん! ほんとに好きじゃないからだもん!」

むきになって言い募る様子が何やら微笑ましくて、彼女の剣幕とは全く裏腹に陸奥も高雄も蒼龍も思わず笑みを零すが一人だけ全く違う反応をする。

「これ子の日、いい加減にせぬか!」

初春が語気鋭く叱責すると、急に子の日が肩をすぼめて首を竦める。

「でも姉様――」

「でもも何も無いわ、其方の陸奥殿や蒼龍殿高雄殿に対する口の聞き方は何じゃ! 目上の方を何と思うておる?」

「だって子の日は――」

 

彼女が項垂れ、その瞳に涙が滲むのを見て思わず陸奥は口を出してしまう。

「初春ちゃん、あたしちっとも気にして無いわ、だからもう良いのよ?」

「陸奥殿はほんにお心が広い――。やはり上に立つ者はかくあらねばと感じ入っておりまする。さりながら、そのお姿を拝見するだけでは子の日は大切な事が分かり申しませなんだ。手本を見せて分からぬのであれば直に言うて聴かせるより致し方ござりませぬ。真心の籠ったお言葉、誠有難い限りではございますが、ここは一つ心を鬼にしてお見届け下されよ」

 

(初春ちゃんは子の日ちゃんの事を思って叱っているのね)

 

彼女の淀み無い口上を聞いて、迂闊に口を挟んでしまったのを少し後悔する。

「さぁ子の日、何と言うてお詫びするのじゃ? 申してみよ」

「弁えの無い事を――致しました――申し訳ありません」

彼女は洟を啜りながらもきちんとした言葉遣いで謝り、ピョコンと頭を下げる。

その様子がまた微笑ましく陸奥と蒼龍は再び笑みを零すが、高雄だけはうっすらと目を潤ませて、

「姉様の言うことちゃんと聞けるのねぇ」

と言葉を掛ける。

それには彼女では無く初春が応えて、

「左様にござります。子の日は妾の申す事をちゃんと聞き分けてくれるほんに良い子です」

と微笑する。

そんな二人を見ていると俄かに鼻の奥がツンとしてくる。

 

(姉さん……)

 

胸の中にまだ見ぬ長門の姿が浮かんで来る。

おそらく高雄の胸中にも彼女の姉妹達の姿が浮かんでいるのだろう。

愛宕や摩耶達は皆、陸奥の知らないフィリピン近海での作戦で喪われ、今もそこに眠っている筈だった。

 

「高雄ちゃん、何時かきっと愛宕ちゃん達にも会えると思うわ」

「ええ、わたしもそう信じてます」

高雄がそう言うと傍らから妙高も、

「私も足柄や羽黒達は一体どうしているのだろうと思ってしまいます」

と遠くを見る様な目をしながら応じる。

「妾は皐月に出逢うた折もしや那智殿もと思い申したが、妾の不徳からかお逢いする事は叶いませなんだ。ほんに口惜しゅうござります」

初春が子の日の顔を拭いながら会話に加わり、それに反応した妙高が高雄に声を掛けると更にその会話に飛龍らが応じる。

「実は私も高雄ちゃんの顔を見た時にね、ひょっとして羽黒に会いに行けるんじゃないかって思ったのよ」

「わたしもちょっと思いました。でも探しに行くのはさすがに無理でしたね」

「その点わたしは運が良かったんですね♪ 探しに来て貰えましたから」

「やっぱりそうなのね、飛龍ちゃんだけ離れて沈んでた筈だと思ってたから不思議だったのよ」

「我らが移乗した警備庁の船艇に助力頂きましたので――。何より、私共も知らなかった飛龍さんの海没地点を何やらと言う装備を使ってあっという間に調べてくれました。どれ程年月が経とうがやはり我らが皇国の海員達は優秀ですね!」

「赤城ちゃん、それは多分ネットに繋がってるコンピュータだと思うわ」

「何ですかそれは?」

「一言で説明するのは難しいわねぇ、あたしが使ったのは平べったい画面の手前に英文字や平仮名のついた鍵盤が付いてて全世界のネットワークに接続出来る機械よ?」

「あ――そうでした! 私達が見たのもそんな物でした。ひょっとして陸奥さんはあれが使いこなせるのですか?」

「使いこなせるだなんて大層なものじゃないわ、ちょっと調べものが出来る様になっただけよ?」

「私達の船体の現状を良くご存知なのは、それでお調べになったからですか?」

加賀の物言いは、冷静と言うよりも意図的に感情を抑えている様にも聞こえる。

「ええそうよ、使い方は仁が教えてくれたの」

「あっ♪」

「あっ♪」

 

飛龍と蒼龍が同時に声を上げると、顔を見合わせてニヤニヤ笑い交わす。

「やっぱり~」

「ねぇ~♪」

 

(な、何? あたし不味い事言っちゃった?)

 

「二人共、陸奥さんに失礼よ」

加賀が窘めると、二人は改めて顔を見合わせ陸奥に向き直る。

「陸奥さんご免なさい、でもぉ~」

「やっぱり名前呼び捨てなんだぁ~って思っちゃってぇ」

 

(あうっ! 用心してた積もりなのについ……)

 

急に、背中に汗が出てくるのを感じる。

「そう言えば最初もそうでしたね」

妙高がニコニコしながらそう付け加えるが、笑顔で応える余裕が無い。

 

(妙高ちゃん! そこは黙って聞き流しといてくれるのが武士の情けってものじゃないの⁉)

 

だが陸奥の願いも空しく、全員がその話題に食いついてくる。

「いいなぁ~ひょっとして陸奥さん、『陸奥』って呼ばれてるんですかぁ?」

「きゃ~! やだやだそれ駄目ぇ! 絶対やばいよぉ♪」

飛龍と蒼龍の盛り上り方が怖い。

 

「二人共――女学生では無いのですよ? 色恋事でその様にはしゃぐなどはしたない」

「――って言うか赤城ちゃんももう色恋事認定な訳?」

「まぁ先程陸奥さんからお話を伺った折、命をお救いしたとの事でしたので、それ程の事情があれば特別に深い絆が出来ても何ら不思議では無かろうと思いましたし――。ましてや男と女の間ともなれば、それを(えにし)に理無い仲になる事もままあろうかと」

「きゃぁーっ!」

赤城がとんでも無い事を口走った途端、蒼龍と飛龍が顔を赤らめて黄色い声を上げる。

 

(一体何なのこれ……)

 

話がどこまで転がって行くのかまるで見当も付かず、思わず目眩を覚える。

更に追い撃ちを掛ける様に、頬を紅潮させて口元に手を当てた高雄が、

「陸奥さん――、その――、ど、どんな感じなんですか?」

と真顔で聞いてくる。

 

「あ、あのね高雄ちゃん誤解しないでね、あたしそんな事してないから」

「……あの……そんな事ってどんな事なんですか……?」

それ迄大人しくしていた霰が突然会話に割って入って来る。

 

(えぇ~! な、何なのよぉ)

 

「馬鹿だなぁ、霰はそんな事も知らないの?」

「……じゃあ皐月ちゃんは知ってるの……?」

「え、だ、だからさぁ――、そのぉ――」

「んふっ、こーゆー事をするのよぉ~♪」

「ぅひゃぁあっ! 先輩何するんですか⁉ 止めて下さい!」

龍田にあらぬ処を弄られて長良が悲鳴を上げる。

「ほ、本当にそんな事しちゃうんですか陸奥さん⁉」

今度は朧が身を乗り出して来る。

「だからあたしはして無いって――」

「朧ちゃん、男女の間の秘め事はそんな風に大っぴらに話す様な事じゃないのよ」

「いや、妙高ちゃんも注意するとこそこじゃないから!」

「もうっ、皆勝手な事ばっかり言ってる! 陸奥さんは何にもして無いって言ってるのにだぁれも聞いてない!」

 

この話柄の展開を(恐らくこの場では只一人)気に入らない子の日が大声を張り上げたので、一瞬全員が沈黙し互いの視線が絡み合う。

 

半呼吸おいて加賀が冷静な声で、

「子の日さんの言う通りよ、皆ちょっとはしゃぎすぎだわ。赤城さんも思った事をそのまま口にするのはもう少し気を付けてくれないと」

と全員の顔を見渡しながらピシャリと言い放ち、その場はすっかり静まり返ってしまう。

 

とは言えその気不味い空気はそれ程続かず、赤城の良く響く声が静寂を破る。

「陸奥さん申し訳ありません、少々早とちりが過ぎた様です。お陰で加賀さんには一本取られてしまいました」

カラリと言い放った彼女が照れ臭そうに笑うと、皆の雰囲気はまた和やかになった。

陸奥は蒼龍と飛龍を顧みると、

「せっかく大和撫子になれたんだから、恋だってして見たいわよね♪」

と笑い掛ける。

「はい!」

「とーってもして見たいですぅ」

間髪をいれず二人が応じ、

「私もとっても興味あります♪」

と高雄も加わる。

 

「何でなんですかねぇ~男なんかより女の子の方がず~っと良いのにぃ」

「だから先輩止めて下さいよー、同じ趣味の方を探して下さいって!」

「ほほほ、女色と言えど恋には相違ありませんからの、長良殿は恋われておいでじゃほほほ♪」

「こら初春! 子の日に言ってる事とやってる事が違うんじゃない⁉ 尊敬の気持ちが足りないよ!」

「ほほ、誤解に御座ります。妾は今も昔も変わらず長良殿を敬い申し上げておりますれば」

「子の日もだよ!」

「そ、そう? だったらその――別に良いんだけど」

 

(長良ちゃんも素直なのね♪)

 

「でも陸奥さんの方がもっと好き!」

「あら、そんな事言ってくれるのね♪ 有難う子の日ちゃん」

「ちぇっ、何よ~子の日はぁ」

「長良殿、相手が陸奥殿では分が悪う御座りますぞ」

「判ってますぅ!」

「拗ねないで長良ちゃん、貴方にこんな風に会えてあたしとっても嬉しいわ」

「陸奥さん――長良も感激してます! それに陸の上にこんな世界が広がってたなんて知りませんでした」

「本当にそうね! 海の上に比べたら陸はとっても賑やかよね」

「ええ! でも、まだここに来てから一度も隊の外に出た事無いんですよ~」

「あらそうなの?」

「そうなんですよぉ~、だから陸奥さん凄く羨ましくってぇ」

横から飛龍が会話に入ってくる。

彼女は外に出て見たくて仕様が無いらしい。

「外に出ても私達には使えるお金も無いでしょう。まして右も左も判らない陸の上で何をする積もりなの?」

加賀の素っ気ない言葉に彼女達は一様にシュンとしてしまう。

「でもそうよね。何をするにもお金は掛かるし自分達だけではまだ足元も覚束ないし――、この先どうしていけば良いのかしら?」

そう言いながら、陸奥は改めて自分の境遇が恵まれたものである事を思う。

優しい仁はそれこそ何時迄であろうが自分を家に置いてくれるだろうし、時には彼自身の事を差し置いてでも良くしてくれようとするだろう。

 

(でも、本当はそれに何時迄も甘えてる訳には行かない筈よね)

 

事と次第によっては彼の家を出るという決断もしなければならないのだろうか?

だが今の彼女にとっては、そんな事はまだ想像も付かない話だった。

 



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〔第四章・第二節〕

 西田司令との話は特に衝撃的と言う程予想外な訳では無かったが、むっちゃん達の存在がとても複雑な問題を引き起こすだろうという冷静な第三者目線の話しであり、僕は改めて考え込まされた。

鬱蒼とした丘の横を通り過ぎながら、話の中身をおさらいしつつ再度咀嚼する。

彼女達の正体に付いては、やはり防衛隊も確証やそれに繋がる手掛かりを掴んではいなかった。

ただ、例の海難事故との関わりについては僕らより一歩踏み込んだ考えを持っていて、それは確かに合理的だったがあっさり肯定出来る程軽い話ではない。

一言で言ってしまえば、むっちゃんは僕が日本人だから助けたと言うのだ。

彼女達は日本の軍艦なので日本の船や日本人には良くしてくれるが、その反対に太平洋戦争当時の敵国――特に自分を沈めた相手に対しては強い敵意を持って接する筈だと。

例えばあの印象的な眉の妙高さんとグラドルも真っ青の爆乳高雄さん(申し訳ないが副長から名前と容姿の特徴を聞いた瞬間に一致してしまった)はマラッカ海峡で日本のタンカーが海賊の襲撃を受けている処に現れ、海賊達を撃退してくれたとの事だが、それがもし日本ではなく彼女達を沈めた英国の船であれば見殺しにするばかりか襲い掛かって沈めてしまうだろうと言うのだ。

今の二人を見てしまってからそんな状況を想像しろと言われても僕にはちょっと無理があるのだが、反面で彼女達は海賊に対して容赦無く攻撃を加えていたそうで、彼等の逃げ足が速く無かったら間違いなく粉々に吹き飛ばしてしまったらしい。

 

(やっぱり軍艦なんだな)

 

どう否定しようが彼女達は戦う為に造られ、そして実際に戦って来たのだ。

むっちゃんの瞳の奥に宿る深い哀しみは、戦う為に造られたその宿命ゆえに、戦えなくなった彼女が只の使い古しの道具として海底に放置されていたその孤独な歳月に対するものなのだろうか。

そんな僕の感情が顔に出ていたのか、副長は彼女や僕を気遣う様にこう言ってくれた。

 

「陸奥さんは少し違うのではないかと私は思っています」

「どう言う事ですか?」

「陸奥さんは事故で沈んだのであって敵に沈められた訳ではありません。もちろん敵国と言う認識はあるかも知れませんが、強い憎しみを抱いておられるとは思えないのです」

 

それは全くその通りだと思うし、尚且つ日本列島の内懐とでも言うべき内海に沈んでいたのも幸いしたかも知れない。

だが、おそらく今はそうでは無い筈だ。

彼女が最も大切に思っているお姉さん――長門さんを連れ去り、実験台にして沈めた米国をむっちゃんは決して許さないだろう。

それでもその事を知ったのが一昨日の事で良かったと心の底から思う。

あの海面に立つ青白い女の目撃譚について、防衛隊ではそれこそが激しい怨讐と憎悪にかられた時の彼女達の姿なのではないかと推測しているらしいが、そんなまるで悪鬼のような姿形で罪も無い民間船を襲うむっちゃんなど想像したくもない。

幸いにもこの訓練隊に保護されている女性達の沈没(つまり出現)地点は、少なくとも現在判明している原因不明の海難事故発生地点とは一致しておらず、彼女達全員がそれらの事故とは無関係の様だ。

でも今後はどうなるか分からないとしか言えない。

 

もしも彼女達の仲間の誰かが他国の船を沈めた場合、その責任はどうなるのだろう?

そして更に言うなら、その様な凶行を犯した女性(軍艦?)が故郷である日本に保護を求めた時、国はそれを暖かく受け入れる事が出来るのだろうか?

そんな事は普通に考えても無理な相談なのだが、被害を受けた側の言い分もあるだろう。

どう考えても彼女達に責任を負わせるなど不可能な話であり、ストレートに責任を取ってくれる相手がいないとなれば代わりに彼女達の母国に賠償を求めたりするかも知れない。

そうなったら何が起こるかなど容易に想像がつく。

母国の政府はあくまでもそんな責任はないと言い張り、彼女達を一切関係ないものとして黙殺してしまうだろう。

母国に見捨てられ世界中の何処にも寄る辺を失い、全ての人間達に対する恨みと憎しみとによって文字通りの怪物と化して見境無く船を襲う彼女達――そんな哀しく痛ましい光景を思い浮かべてしまった僕は思わず息苦しくなってしまう。

だが、それこそが今の僕にとっては最初の難関でもあった。

むっちゃんをそんな目に合わせずに済んだと安心してはいられない。

今も長門さんはビキニ環礁の海底に沈んだままなのだ。

言う迄もないが、まるで腹いせの様に自分を無慈悲に沈めた米国に対するどす黒い憎悪と、そしてもしかすると自分を見捨てた日本に対する恨みとを抱いたままで。

 

 防衛隊もその懸念はしているとの事だったが、西田司令の口から出た言葉はやはりとても慎重なものだった。

「今分かっている事から考えて、我々防衛隊がなすべきは三つです。一つは可能な限り速やかに沈んでいる軍艦達が凶行に及ぶ前に保護する事です」

「そうですよね」

「幸いにも彼女達は仲間が呼び掛ければそれに応えると分かっていますから、日本近海や公海上である限りは時間との競争であるとも言えます」

中嶋副長が付け加える。

「二つ目は日本の船舶と日本国民の防衛ですが、これは我が国に対して敵意を抱きそうな軍艦の沈没地点を明らかにして全ての船舶に対して警告する事が中心になるでしょう。実際それが最も効果的だろうと思われますし」

「そうなりますと三つ目と言うのは何でしょう? あまり良い話しではなさそうですね」

 

葉月の問いに対して司令も如何にも気乗りしない態で口を開く。

「仰る通りです。今申し上げた事を明日から直ぐ、しかも大規模に展開出来ると言うならともかくそんな訳には行きません。ですから我々の手が間に合わず、凶行に及ぶ軍艦が出てしまうかも知れない事は覚悟しておかなければならないでしょう。そしてもしそれが起こってしまえば我々が自らけじめを付けなくてはなりません。何があろうと起こって欲しくはありませんが、これが為すべき事の三つ目でしょう」

 

『けじめ』という言葉の響きがズシリと重いが、その重さの中身はとても複雑だ。

凶行の責任を取る為に彼女達を保護して賠償等の責任を負うと言うのは、とてつもない額にはなるだろうがお金の問題になる可能性が高い。

だが物事はそんなに分かり易く簡単には運ばないだろう。

彼女達が大人しく保護されてくれる保証などどこにもないし、例え無事に協力してくれたとしても被害者から何を要求されるかも分からないからだ。

そうなったら彼女達を抑え込む為にかなり手荒な事をしなければならなくなるかも知れないし、場合によっては彼女達の船体をサルベージ(むっちゃんや彼女達の言葉を信じるならば、それによって彼女達は船の天国へと召される筈だ)しなければならないかも知れない。

とは言うものの、件のその艦艇が現在の技術ではサルベージ不可能な深海に沈みでもしていたら一体どうやって解決するのだろうか?

しかもそれは他人事などではない。

むっちゃんに対して誓いを立てたのは、外ならぬ僕自身なのだから。

 

 そんなこんなを考えている内に僕らは先程の建物に戻って来た。

「彼女達を他の隊員達や候補生と一緒に食事させるのはちょっと出来かねましたので、当面はこちらに食事を運ばせる様にしています」

副長が解説してくれる。

「協力して貰いたい件に付いては何か話をしてあるんですか?」

と僕が聞くと、

「実はまだ話していませんが、貴方方と陸奥さんに来て頂いて決心が付きました。出来れば今日の午後にも話して見たいと思います」

と少し意外な返答が返って来る。

先程の副長の話しからするとむっちゃんが来た事で皆の雰囲気が変わった様なので、話をするには良い機会だと考えているのだろう。

何より、少しでも早く彼女達の仲間を保護出来るのに越したことはない。

 

(これを聞いてむっちゃんは何て言うんだろう?)

 

それも確かに気にはなるのだが、正直に白状してしまうとさっきから妙に不機嫌な葉月が気になって仕方が無かったのだ。

 



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〔第四章・第三節〕

 中嶋や葉月と共に建屋内に入ると、正に食事が運ばれている最中だった。

中嶋の言う『現代日本女性との違い』が見られるだろうかという興味もあって暫くの間黙って彼女達を見ていたが、間もなく見ているのが気恥ずかしくなってしまう。

彼女達には先輩風を吹かす者もいなければ世話して貰うのが当たり前と言わんばかりの増長した子供もおらず、皆それぞれが身の丈にあった働きをし、和やかなのだがだらけた処の無い実に気持ちの良い動きをしていた。

 

(違いどころじゃないよ、差があり過ぎる)

 

とは言いながら彼が殊の外嬉しくなることもあった。

その気持ちの良い動きの中心には陸奥がいて、皆に声を掛けて回り全体に目配りするリーダーの役割を見事に果たしていたからだ。

思わず彼女に近づいて配膳を手伝いたくなるが、どうも虫の居所が悪いらしく頻りに彼を睨み付ける(が、目は合わせてくれない)葉月が憚られて躊躇していた。

そうこうしている内に陸奥が彼等に気付き、足早に近付いて来る。

 

「もうお話は終わったの渡来さん?」

 

如何にも唐突な他人行儀な呼び方に仁は面喰らい、一体何が起こったのかと聞き返そうとしたが、彼女が困った様な何かを訴えたい様な曰く言い難い表情をしているのに気付く。

咄嗟に然り気無く視線を泳がせると、ほぼ陸奥の真後ろと言うか視線の延長線上に(多分意図的に)立っている加賀が彼に意味有り気な視線を送っていた。

余り長く間が空いてしまうと不自然なので、思い切って返事をする。

 

「うん、陸奥さんはたっぷり話せたかな?」

途端に彼女はパッと表情を輝かせて嬉しそうに、

「ええとっても!」

と弾んだ声で返事をかえす。

 

どういう事情なのかは良く分からないが、どうやら皆の前では彼と余り親し気な様子を見せたくないらしい。

先程の子の日の様に彼に敵意を抱く仲間が出るのを心配しているのか、それとももっと単純に仲間達から色々聞かれたりしたので恥ずかしいのかも知れない。

あの去り際の様子からすればそのどちらでもあり得るだろう。

それに今更ながら気付いたのだが彼女達の中で陸奥だけが私服姿で、その他の女性達は全員が防衛隊から支給されたらしい揃いの制服の様な衣類を身に付けている。

 

(そう言えば隊の外には一歩も出て無いんだったよな)

 

彼女達がもし見掛け通りの若い女性なのであれば、程度の問題はあるとは言え自由に行動している陸奥が羨ましくなるだろう。

「ひょっとして皆さんから羨まれましたか?」

と中嶋が仁の思っていた事を笑顔で問い掛けると、陸奥も

「皆にはちょっと申し訳無いです」

と苦笑して見せる。

 

そんな会話を交わしている処へごく自然な様子で赤城が近付いて来た。

間近で見る彼女はやはり美人としか表現仕様の無い端整な顔立ちをしており、背の高さ(仁よりも高そうに見える)も相まってギリシャ彫刻か何かを連想させる。

そうぼんやりと思っていた彼は、何時の間にか彼女を見詰めてしまっていたらしく、気付いた赤城から挨拶をされる。

「貴方が渡来さんですね、先程はご挨拶出来ず申し訳ありませんでした。改めて初めまして赤城と申します、以後宜しくお見知りおきを」

張りのある声でそう言いつつ手を差し出されたので、仁も慌てて手を差し出す。

「こ、こちらこそ初めまして渡来です。宜しくお願いします赤城さん」

何とかそう挨拶したのだが、彼女はさし出された右手をぎゅっと握りしめるとそのまま何やら物思わし気な顔で仁を見詰め続ける。

 

不自然な迄の沈黙が続き、さすがに間が持たなくなって、

「あ、あの――、赤城さん?」

と問い掛けると彼女はぱっと破顔して、朗らかに口を開く。

 

「ああこれは失礼しました。いやこうして人の――しかも女の――身となって一番感じるのは、何故にこんな風に殿方の手を握るだけで胸の奥の何かが騒めくのだろうかと考えておりました、お許し下さい」

 

(えっ……)

 

仁は、赤城程の桁外れの美人にこんな際どく思わせ振りな台詞を、しかも可憐な少女の様な笑顔で何の衒いもなくさらりと言われて落ち着いていられる様な男ではない。

 

(な、何でこんなにあどけなく笑えるんだろう?)

 

思わずその笑顔に強く惹かれる何かを感じたその時、彼女の肩越しに陸奥と目があう。

もう少し正確に言うなら、如何にも不満気に唇を尖らせた彼女が仁を睨んでいた。

 

(えっ、えっ?)

 

動揺して視線が泳いだ彼に、

「おや、どうかしましたか渡来さん?」

と赤城が相変わらず手を握ったまま声を掛けたものの、その場を上手に言い繕うには余りにも落ち着きを欠いていた。

「いやっ、えっと、そのっ、あのっ、何て言うか――」

と意味をなさない品詞の羅列を口走りながら目は彼女達の顔を行きつ戻りつする。

何故か握ったまま放してくれない赤城の手を何とか自然に擦り抜けられないものかとコソコソ手を動かしていると、その不審な挙動に彼女も心づいたらしくやっと手を開いてくれた。

「ああ、気付くのが遅くなって申し訳ありません。私の様な者が無遠慮に手を握ってしまいさぞやご不快でしたでしょう」

と謙虚なのかマイペースなのか判断しかねる物言いをする。

 

「い、いえっ、全然そんな事は無いですっ! ぼ、僕はとても光栄と言うかその――」

 

ここ迄言い掛けてその言葉は喉の奥で凍りつく。

赤城の肩越しの陸奥がプッと膨れ面になると「フン!」とばかりにそっぽを向き、そのままスタスタと仲間達の方へと戻っていってしまったのだ。

 

(うわぁぁ一体何がどうなってるんだよぉぉ!)

 

すっかり浮き足立った仁は苦し紛れに葉月の顔をちらりと見てしまうが、彼女にしてみれば全く思う壺であった。

これ見よがしに睨み返したその瞳で『まだ怒ってるのよ!』と威嚇すると、目にした彼が一瞬怯むのを確認しておいてから目を伏せてハァっと溜め息を吐いて見せる。

そして改めて意味深に視線を上げ『本当に世話が焼けるわね~』と言わんばかりに軽くもう一睨みすると、まんまと術中に嵌まった彼がホッとしたような表情をするのを見届けてから何喰わぬ顔で口を開く。

 

「それよりも赤城さん? ひょっとして副長か私達に何かご用があったんじゃありませんか?」

「ああそうです! 危うく忘れる処でした有難うございます、ええっと――」

「塔原と申します、宜しくお願い致します」

「塔原さんですね、こちらこそ宜しくお願い致します。渡来さんのご友人でいらっしゃいますか?」

 

これに対する葉月のリアクションは、まことに胡散臭いものだった。

 

「友人――と言って良いんでしょうか? そのぉ――、何と言えば……」

とはにかむ様に口籠もるのだ。

 

(おいおい、まさか恋人だとか言うんじゃ無いだろうな)

 

もしそう言ったらはっきり否定しなければ――と彼が身構えていると、

「これは気が付きませず失礼しました。お二人は恋仲でいらっしゃるのですね?」

と赤城が古風な言い方で気を利かせる。

ところが彼女は意外にも、

「そう言う事では無いのですが――、もっとその――、えっと――、あのっ、お、幼馴染みです!」

と恥ずかしそうに赤面迄して言うのだ。

 

何をしようとしているのか見当も付かずただぽかんとしていた仁だったが、赤城の反応は更に輪を掛けて不可解だった。

「幼馴染み、でいらっしゃいますか――と言う事は――、まぁ! 何とそういう事でしたか! いやこれは何とも――塔原さん、大変不粋なことを申し上げてしまいました、どうかお許し下さい。いやこれで得心が行きました、そう言う事でしたか」

「まさか吹聴して回る訳にもいきませんので……」

 

全く理解が追い付かないままに、二人の間では明らかに何かの合意に至った風情である。

 

(一体何の話だ?)

 

やはり彼には何の事か分からず彼女達の遣り取りを訝しむだけだったが、やがてはたと気が付き背筋が冷たくなる。

 

(まさか葉月の奴……)

 

何度考えても赤城のやけに芝居掛かった反応を説明するにはこれしか無いとますます思えてくる。

恐る恐る葉月の顔を見るが、彼女は素知らぬ顔で本来の用事に戻って中嶋に話し掛ける赤城に相槌を打っている。

 

(はぁ……またやられた)

 

結局仁の才覚程度では、葉月の老獪な抜け目の無さに対抗する術なぞ無いのだろうか?

陸奥の様子がおかしいのは、おそらく仲間達から仁との間柄を男女関係でも有るかの様に話題にされたのだろう。

ただ普通の女性達がする恋バナの類いと最も違うのは、元は船である彼女達が人間の生活や文化について表面的には良く知っているものの、その内面というか感情の部分に付いては理解出来ていないと言う点だ。

それを見透かした葉月は、自分が特別な――現代ではほぼ廃れてしまったが戦前の日本ではそれなりに見られた筈の――存在であると勘違いさせる様に小芝居をうって見せたのだ。

感情と言うものを知ってからまだ日が浅い赤城は、葉月の年季の入った演技をそのままストレートに受け取ってしまったらしい。

 

一瞬勘違いだと言って見ようと思ったものの、葉月は明から様に嘘を吐いた訳ではないし、赤城も一人合点して自己完結しているだけなので、万一見当外れの事を言ってしまうとさすがに気不味い。

何より、そこ迄してわざわざ角を立てに行ったとしても、葉月のことだけに彼が迂闊な事を言えばそれを逆手に取るべく待ち構えているかも知れなかった。

 

(何だかなぁ、もうちょっと建設的なことに頭使えばいいだろうにさぁ……)

 

そんな事を言おうものならそれこそ10倍にして返されてしまうのは良く分かっていたので、心の中で呟くだけにした。

こんな風に一つ一つは些細な事でも、葉月はそれを丹念に積み上げて日々着々と彼の外堀を埋め立てていく。

しかも些細な事なら尚更事を荒立てにくいのも、もちろん計算尽くでだ。

そこ迄考えた末に毎度の如く嘆きの溜め息を吐く彼を尻目に赤城と副長の話はついた様で、食事をしながらゆっくり話すと言うことらしい。

 

「ほらほら、せっかく皆が用意してくれたんだからお昼にするわよ!」

すっかり機嫌のなおった葉月にぎゅっと腕を掴まれて引き摺られる仁を、恨めしげな目をした陸奥がちらりと横目で睨んだ。

 



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〔第四章・第四節〕

 仲間達と一緒に摂る初めての食事をとても楽しみにしていたのだが、どういう訳か先程から何を食べてもさっぱり味が分からない。

 

(一体どうしちゃったのかしら?)

 

もっとも判らないのは味だけでは無く、皆が話し掛けて来るのも禄に頭に入って来ない。

にも関わらず、少し離れた席で仁が蒼龍や飛龍達と何やら楽しそうに喋っているのはとても良く聞こえる。

 

(何よ! 仁ったらデレデレしちゃって)

 

今しも彼は二人から街を案内して欲しいとせがまれており、陸奥としてはそこは毅然と今はまだ時期尚早だとか不公平があってはいけないとか言ってくれるのが当然だと思っている。

ところが仁と来たら、君達見たいな可愛い娘が街へ出たら男達が群がって来るなどと、鼻の下を長くしているとしか思えない不埒千万なお世辞を宣っていた。

 

(大体蒼龍ちゃんも飛龍ちゃんも、もうちょっと遠慮するのが礼儀ってものじゃないの⁉ あたしだってまだそんな事して貰って無いのに!)

 

考えれば考える程ムカムカして来て、今すぐ彼の横に行って頬っぺたをギュッと抓って遣りたくなるが、コップの水を呷ってどうにか衝動を抑え込む。

 

(そもそも赤城ちゃんが余計な事するからいけないのよ!)

 

食事が始まる前彼は陸奥の意図をしっかり汲み取ってくれ、何の説明もしないのに『陸奥さん』と呼び掛けてくれた。

この時彼女の脳裏には朝起き抜けの葉月が発した言葉――例の通じ合ってると言うやつ――が甦っていたのだ。

 

(これって、あたし達も通じ合っているのよね!)

 

そうはしゃぎたくなる位に嬉しかったのに、何を思ったのか赤城がのこのこやって来た為に彼は陸奥の事を放ったらかし、いそいそと彼女に握手して貰うとニヤニヤしながら光栄だの何だのと言い出してしまった。

 

(赤城ちゃん、さっきははした無いとか何とか言ってた癖に! あんなにギュッと手を握るのははしたなくないのかしら⁉)

 

しかも彼女がやって来た用と言うのが、仲間達を外出させてやって欲しいと言う中嶋へのお願いだったのだから余計に気に入らない。

 

(それってそんなに急ぐ様な話かしら⁉ それに急ぐんだったら何で仁と握手とかしてるの⁉)

 

だんだん自分が何に腹を立てているのか良く判らなくなって来るが、それでもどうしたことか怒りが一向に治まらない。

さっきは仁を抓ってやりたかったのに、今はしがみ付いて大声で泣き喚いて彼を困らせてやりたい気分だった。

 

(もういや! 何でこんな訳の判らない気持ちに振り回されなきゃいけないの⁉)

 

怒りがだんだん悲しみに変わって来て、本当に涙が出そうになって来る。

 

「陸奥さん大丈夫ですか?」

「――えっ、あっ、ええ――、だ、大丈夫よ」

 

加賀が声を掛けてくれたので我に返る。

 

「陸奥さんどうしたの? さっきから怖い顔して全然返事もしてくれないよぉ?」

「これ子の日、陸奥殿にはお一人で考えねばならぬ事があるのじゃ。何時も其方の話し相手をして頂ける訳では無いのじゃぞ」

「はぁ~い」

 

そんな初春と子の日の遣り取りを見て少し心が和んだので、改めて回りを見回す。

彼女の回りにいるのは初春と子の日を始めとする駆逐艦達、男性には興味が無いらしい龍田、それに浮わ付いた話が好きでは無さそうな加賀位で、年嵩(艦齢ではなく人としての見た目だが)の仲間達は皆仁の周囲に集まっていた。

飛龍は彼の向かいの席を占め、蒼龍は隣に座ってしな垂れ掛かりそうな勢いだが、よく見ると反対隣に座った葉月が巧みにそれを防いでいる。

 

(さすがは葉月ね♪)

 

その奮闘振りを頼もしく感じた陸奥だったが、彼女達二人よりもっと不味い相手がいるのに気付く。

どちらかというと大人しそうで余り積極的には見えない高雄が、彼の斜め前に座って一生懸命に話し掛けていた。

彼女は蒼龍らと違って街の案内をせがんでいる訳では無く、仁の日常生活の様子や自分達をどう思うかと言った事などをかなり熱心に質問している。

 

(何故なのかしら――凄く良くない感じがするわ……)

 

どうやら葉月も同じ様に感じているのか、蒼龍や飛龍よりも寧ろ高雄を警戒している様に振る舞っている。

冷静に考えれば随分身勝手な話なのだが、先程から高雄に好感を抱いていた陸奥は少々裏切られた様な気になってしまう。

 

(高雄ちゃんたら! まさか、仁の気を引こうと思ってるのかしら?)

 

「陸奥さん、高雄さんがどうかしましたか?」

「えっ! ――あらっ! ――な、何⁉」

突然加賀に話し掛けられてあたふたしてしまう。

「高雄さんのこと睨んでましたよぉ~、どぉしたんですかぁ~?」

 

龍田が甘ったるくのんびりした調子で後を続ける。

全く意識していなかったが何時の間にか高雄を睨み付けてしまっていたらしい。

しかも傍目にはっきり判る程の様だ。

 

(情けないわ、あたしったら何考えてるのよ……。折角会えた仲間の事こんな風に思っちゃうなんて)

 

すっかり意気消沈してしまった陸奥は顔が上げられなくなってしまう。

 

「陸奥さんどうしたの? お腹痛いの?」

子の日が心配そうに顔を見上げる。

「ううん大丈夫よ、何でもないわ。心配してくれて有難う子の日ちゃん」

「陸奥殿、妾如きが口幅ったい事を申し上げる様ですが、我ら皆同じやに思いまする。誰しも誉められた者なぞおりますまい」

 

初春の穏やかな言葉には寄り添う様な響きがあった。

 

「皆――、そうなのかしら?」

「少なくとも妾は左様にござります。意馬心猿などと字面だけは存じておりましたが、ものを感じる心と言うのがこれ程御し難いとは思いもよりませなんだ。まこと意は奔馬なり心は荒猿なりを痛感致して居りまする。とは申せども、妾も馬はよう存じておりますものの猿を見た事はまだござりませぬがの♪」

彼女の話にはちゃんと落ち迄付いている。

 

「初春さんの言う事、私も身に染みて良く判ります」

加賀が視線を合わせる様にしながら口を挟む。

 

「私はこうして心を持つ身となりましたが、だからと言って感情のままに振る舞う事は到底出来そうにないのです。この身が軍艦であった時、人間達の醜い姿を嫌と言う程見てしまったからかも知れません。でも先程陸奥さんが掛けて下さった言葉の暖かさとその時に感じた気持ちとは、この身がある限り忘れないと思います。心を持つ事の良い面も悪い面も併せて受け容れていくと言うのは言葉では簡単ですが、実際には目を塞いで雀を捕える様なものではないでしょうか」

 

彼女の顔にはほとんど表情は無かったが、目元に微かな笑みが浮かんでいる。

 

「これからもっともっと楽しい事も嫌な事も一杯あるんでしょ? 陸の上で暮らすのってそういう事なんでしょ?」

子の日が下から見上げる様に陸奥の瞳を見つめる。

「そうね、子の日ちゃんの言う通りね。あたしは陸に上がってまだ四日目なのに色んな事を一通り判った積もりでいたわ」

「子の日だってここに来てからまだ三日目だよ!」

「アタシ達と一緒に帰って来たんです」

朧が自分と霰を指差して言う。

「……とても寒かったから、日本に帰れてほっとしました……」

そういう霰の顔が本当に寒そうだったのでつい笑ってしまう。

「霰ちゃんは早速良い事があったのね♪」

「……どんなに嫌な事があっても、あの暗くて冷たくて寂しい海の底よりずっと良いかもです……。だってここには皆がいるから……」

そう言って陸奥を見詰めた彼女の瞳は、形容し難い柔らかな光を湛えていた。

 

(何だかとっても暖かいわ)

 

「有難う――、皆と一緒にいるだけでそれだけでとっても幸せな事よね。何だかそんな事も言われないと判らなくなってたわ」

「うふふふ~そぉですよぉー♪ 女の子は女の子同士仲良くするのが一番幸せなんですよぉ~♪」

「龍田さん、それはかなり論理の飛躍があるんじゃないかしら?」

「あら~そぉでしたかぁ~?」

 

加賀に突っ込まれてものんびりと受け流してしまう彼女は大らかで細かな事には頓着しない性格なのか、それともひょっとすると意識してその様に振る舞っているのだろうか。

そんな事を考えていると、何時の間にか怒りが治まっているのに気が付く。

 

(良かった♪)

 

ふと目を上げるとこちらを見ていた仁と目が合う。

少し意地悪して見たくなった陸奥は、一旦は何事も無かった様にニッコリ微笑んで見せたが、彼がぱっと明るい表情になった途端しかめっ面をして舌を出す。

そうしておいて情けない顔をする彼を横目に見ながら残った食事を口に運ぶと、初めてちゃんと味を感じる事が出来た。

だがこれ迄の数日間、毎回食事の度に驚きや喜びを味わって来た彼女は初めて期待を裏切られる。

 

(知らなかったわ、美味しくない食事ってあったのね……)

 

そう思ってがっかりしていると朧が、

「美味しいご飯をお腹一杯食べられるし、ここは本当に良い処ですね!」

と笑顔で言うのでつい、

「そ、そうね」

と愛想笑いをして合わせてしまう。

 

(だ、駄目だわ、咄嗟に本音が言えなかった)

 

心と付き合っていくのは本当に難しいと改めて思わざるを得なかった。

 



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〔第四章・第五節〕

 葉月によれば昼食はかなり不味かったらしい。

どれ位不味いかと言えば学食のC定食より不味かったとの事なので大体想像がつく。

この点に関しては中嶋副長も否定せず、

「正直に言って我が隊の最大の弱点が食事だと思いますねぇ」

と半ば諦め気味の様子だった。

ところが幸い(なのかどうかは自信が無い)にも僕は全く味が分からず――と言うかちゃんと食べたのかどうかすら怪しい位に気も漫ろだったのでその感想を共有出来ずにいた。

 

 昼食の席に着く直前の葉月はすっかり何時ものペースに戻っており、僕は否応も無しに一番端の席に誘導され掛けていた(もちろんむっちゃんの仲間達からブロックするためにだ)のだが彼女達にはその思惑は通じなかった。

僕らが席に近づくなり蒼龍ちゃんと飛龍ちゃん(幸いにも彼女達の名前はそれなりに語呂が良くちゃん付けで呼び易い)が駆け寄って来て、

「渡来さんですよね! こっちですよぉこっち♪」

と言いながらツインテールが可愛らしい蒼龍ちゃんがぐっと僕の腕を抱え込む(その時の感触がどれ程ふわふわだったかは口が裂けても言えない)と、驚く程の強引さで引き摺って行ったのだ。

虚を突かれた葉月は一瞬反応が遅れたものの、そこは意地を見せてさっと僕の隣の席を確保したので、二人で僕を挟んで座る積もりだったらしい飛龍ちゃんは大人しく僕の正面に回った。

この一瞬の攻防によってその場の空気が悪くなるのではないかと心配してしまったが、彼女達は全く気にも留めていない様だ。

 

それはさておき僕の周囲の席はあっという間に埋まってしまい、不機嫌そうだったむっちゃんの傍に座って何とかフォローをしたいなどという甘い希望は吹き飛ばされてしまう。

彼女は蒼龍ちゃん、中嶋副長、加賀さんの向こうで可愛らしい駆逐艦の子達に囲まれて座っており、只でさえ話し掛けられる距離感ではない上に明から様に拒絶のオーラを発散していた。

 

(一体今日はどうなってるんだよ~)

 

せっかくむっちゃんが仲間達と再会出来たと言うのに、彼女も葉月も代わる代わる不機嫌になるばかりか揃って僕に剥き出しの感情をぶつけて来るなんて!

そうやって我が身の不幸を慨嘆している間にも、元気が有り余っているらしい彼女達は矢継ぎ早に話し掛けて来る。

 

「渡来さんは学生さんなんですか?」

「好き合った方は居られるんですか?」

「街を歩いて見たいんですよぉ~」

「ちょっと筋肉付き過ぎてますか?」

「やっぱり陸奥さん見たいな方が好みなんですか?」

「可愛い服とか着て見たいんですけどぉ」

「ご家族やご家庭ってどんなものですか?」

「私も大和撫子って言えるんでしょうか?」

「胸が大きい女は頭が弱そうに見えるって本当ですか?」

「一杯美味しいものがあるんですよね?」

「連れてって欲しいなぁ」

 

――それらに対してどんな返答をしたんだろうか。

正直に言ってほとんど覚えていないのだが、僕の保護者が一度も騒がなかった辺りを見る限り、概ね当たり障りの無い対応は出来ていた様だ。

それでもさすがに僕の斜め前に座った高雄さんが、

「渡来さんは本当に女性のお好みは無いんでしょうか? 私などはどう見えますか?」

と言うかなり踏み込んだ質問を投げ掛けた時だけは、何気なく返事をしようとしたら机の下でグイッと足を絡めて来た。

葉月がこういう事をするのは今に始まった話では無い(それに足を蹴られるのに比べればましだ)ので何も驚かないが、それ迄散々蒼龍ちゃんや飛龍ちゃんが似た様な質問をしたりやたらにスキンシップをして来ても禄に反応しなかったのに、何故この時だけは警告したんだろうか。

一体何が違うのかサッパリ分からないが、葉月が彼女を警戒していると言う事はつまり彼女が僕に関心を持っているという事なのだ!

とは言ってもそれに応えるなど許可される筈もないので、逆により一層気を付けて返事をしなければと注意深くなった僕は、

「好みはともかく、ほとんどの男にとって高雄さんはとても魅力的な女性だと思いますよ」

とそれこそ模範回答で応じた。

にも関わらず何と彼女は、

「と言う事は渡来さんにとっても魅力的だと言う事ですか?」

と食い下がって来た。

ひょっとすると僕は今一生分のツキを無駄使いしているのだろうか?

どう考えてもミスコンの水着審査でブッチ切りで優勝しそうな女性(まぁ軍艦なのかも知れないがこの際そんな事はどうでもいい)からタイプだと言えと詰め寄られているなんて!

もしこの場に彼女と僕の二人切りだったら、それこそ二つ返事で陥落する自信がある位だ。

 

それなのに、悲しいかな僕の体には染み付いてしまった習い性が深く根を下ろしており、無意識に保護者の様子を窺ってしまう。

そしてこんな時の葉月は絶対に僕の予想を裏切らない。

それに一種の安堵感すら覚えてしまう僕とは一体何なのだろうか?

この不可解かつ答え様の無い自問自答に対しては、後日その解答を見出すと共にその情け無い体たらくに心底失望するのだが、この瞬間の僕はそんな未来をつゆ知らぬまま漠然とその考えを頭の片隅に追い遣ってしまう。

だって次の瞬間にはちゃんと想定通りの予定調和が待ち受けている筈なのだから。

スッと息を吸い込む音を片耳に聞きつつ、葉月がどんな風に華麗に高雄さんをあしらうのかと身構えていた僕は、やはり彼女達を見誤っていたのだろう。

一瞬早く全く違う方向から声がしたのでついビクッとしてしまう。

 

「高雄ちゃん、そんな風に余り問い詰めたりするものじゃないわ、渡来さんも困ってらっしゃるわよ?」

妙高さんが落ち着いた声でそう諭すと高雄さんはハッとした様な顔になり、次の瞬間頬を赤らめて俯いてしまう。

「あ、あ、あの、わ、渡来さん、そのっ――は、はしたない真似をしてしまいました……」

 

(うわ可愛いぃ……)

 

先程の中嶋副長の言い草ではないが、こんなにピュアなリアクションをしてくれる同世代の女性など絶対に居ないと断言出来る。

これ迄経験した事の無い様な欲求が体の奥から湧き上がって来るのを感じ、思わず葉月が隣に居るのも忘れてこの場の勢いだけで彼女を好きになりそうだ。

 

(いや待て、これは不味い!)

 

しかし時既に遅く、その内心の動揺は保護者にきっちり感づかれていた。

「あら、全然はしたなくなんか無いですよ?」

葉月は余裕たっぷりにそう言いながら、狙い澄まして僕のアキレス腱に力一杯蹴りを入れて来る。

 

(痛っ!)

 

「そ、そうなんですか?」

「ええ、現代では女が男に求愛したりするのも普通ですし、女より頼り無い男も山程居ますからね!」

 

はいはい、それに付いてとやかく言う気は毛頭ございません、全くもって葉月様の仰る通りですよ!

これ迄の経験からすれば、僕が葉月以外の女性と接触する場合概ねこの辺かもう二言三言位でそれは終了してしまうのが普通だ。

ほとんどの女性はそれ以上深入りするのを止めて引いて行ってしまう。

誰しも葉月の様な如何にも厄介な相手をわざわざ敵に回して迄、こんな頼り無い奴に興味を持ってはくれないものだ。

なのに彼女達はそんな常識とは無縁なのか、それとも戦う事に気後れする謂れなぞ無いとでも思っているのだろうか、一向に引く気配も見せない。

相変わらず端整で人当たりの良い笑顔を浮かべた妙高さんが、

「まぁ、渡来さんはそんなに頼り無い方なんですか? 私にはそうは見えませんでしたので♪」

と遠慮なく直球を投げ込んで来る。

さすがの葉月もこんなにストレートな返しをされた事は無いらしく一瞬言葉に詰まってしまうが、その一瞬を突いて今度はまた別の方向から声が上がる。

「大丈夫ですよ渡来さん! わたしと一緒に毎日鍛えましょ? 努力すればきっと結果に繋がりますよ!」

長良ちゃんのテンションで今時の女性が喋っていたら、ちょっとイタい人扱いされてしまうかも知れない。

でも、彼女のとても純粋な明るさや素直さはイタいだのテンションおかしいだのと言う印象を全く湧かせない。

そもそも鍛え方次第で頼れる男になれるとか、言ってる事のテンションが異次元過ぎると言うのに!

でも一緒にトレーニングしたら本当にそうなれる気がしてしまう位彼女には濁りを感じないのだ。

しかも、その容姿が超絶可愛い! と迄はいかないレベルなのが凄く良い。

如何にも中学や高校の同級生に居そうな感じがしてとても親近感が湧いて来る。

そんな浮ついた事を考えていると、普通であれば何もかも保護者には筒抜けだと言うことを思い知らされる処だが、彼女達のリアクションの速さは悉く葉月を上回っているらしい。

「ダメですよ渡来さん⁉ 長良ちゃんと鍛錬する前に私達を街へ連れて行ってくれないと!」

飛龍ちゃんが弾ける様な笑顔と共に溌溂とそう言うと、

「そぉですよぉ~♪」

と蒼龍ちゃんがふわふわとスキンシップして来る。

幼い頃は別として、思春期以降でこんな体験をするのは僕にとって全く初めての事だ。

まして葉月が例え一瞬とは言え続けて遅れを取るところなぞ只の一度も見た事がない。

この稀に見る強敵達と彼女はどう戦うのだろう?

 

 そんな風にすっかり他人事そのものの気分で傍観していると、ふとむっちゃんと眼が合う。

僕は余程すがる様な目付きでもしていたのだろうか、彼女はにっこりと笑ってくれ、その笑顔は心地よい潮風さながらに心の中を一気に吹き抜けて行く。

ところが次の瞬間、彼女は思い切りアカンベーをしてまた食事に戻ってしまった。

さすがにがっくりとはしたものの、脳内が急にすっきりとクリアになったので、彼女が不機嫌な原因も何となく理解できた。

感情がまだ未熟だとは言え、むっちゃんはれっきとした女子なのだ。

幾ら仲間達と再会出来て嬉しくても、それ迄彼女だけの知己であった僕が自分の事を放ったらかして他の女性達に鼻の下を伸ばしていたら面白く無いのは当たり前だろう。

 

(うん、後で謝っとこう)

 

そうでもしておかなければ実の処彼女よりも僕自身が秘かにダメージを感じていたからなのだが、それに気付いたのはこの時よりもずっと後になってからの事だ。

この時の僕は、精々そんな事をしたらまた葉月が不機嫌になるだろうなと思って少し憂鬱を感じていた程度だったのだ。

 



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〔第四章・第六節〕

 全員の顔を見渡した中嶋が、

「皆さんで自由に話し合って頂いて構いませんので、良く考えて見て下さい」

と言ってもなかなか進んで話す者が居ない。

陸奥が何か言わなければと思っていると、それを察したかの様に中嶋が再度口を開く。

「皆さんもまだ戸惑っておられるかも知れませんね、それでしたら少々お手伝いをお願いする事に致しましょう。渡来さん、ちょっとよろしいですか?」

「あ、はい、何でしょう?」

「横で話を聞いておられて、渡来さんが何か感じた事や皆さんに聞いて見たいと思われる事があればお聞かせ願えませんか?」

そう振られた彼は少しの間考える様な顔をした後に、遠慮がちながらも口を開く。

「そうですね、何も大した事は言えないんですが――、皆さんはこうして人の姿で陸に上がってお仲間と再会出来たことや、まだ再会出来ずにいるお仲間がおられることをどう感じていますか?」

仁らしい心遣いを感じさせる質問だと思った陸奥は、自分なりの答えを用意しながら仲間達の顔を見回す積もりだったが、待つ迄も無かったらしい。

 

「こんな風に皆と再会出来て、その上人間の暮らしを経験してるなんて本当に信じられない事ばかりです」

長良の飾り気のない言葉は、それだけに彼女のとても素直な感想であることを物語っていた。

更に彼女に続いて、

「僕も毎日びっくりする事ばっかりだよ!」

と皐月が元気よく声を上げる。

ところが、そう言った後で少し俯き加減になると、

「でもぉ――何だかちょっぴり悪い様な気がするなぁ」

と少々歯切れ悪く呟いてちらっと歯を見せる。

 

(皐月ちゃんも良い子だわ♪)

 

少し言葉を濁したものの、彼女はまだここにいない仲間達を思うと、自分達が陸の上に上がっている事を申し訳ない気がすると言っていた。

「朧ちゃんと霰ちゃんが来てくれた時凄く嬉しかったし、ここに来て姉様に会えた時には思ったの。ああこれが幸せな気持ちなんだって」

子の日がそう言うと高雄が少し腰を浮かせる様にしながら、

「もし出来る事なら、私が自分で愛宕達を呼びに行きたいんです。一日も早くあの子達を暗い海の底からこの日の当たる場所へ救い出してあげたい……」

と溢れ出しそうな感情を何とか抑え込むかの様に続ける。

「高雄ちゃん、あたしも同じ気持ちよ。一日でも早く姉さんの処に飛んで行きたいわ」

陸奥が正直な思いを口にすると仲間達は皆一様に頷いたが、妙高だけは表情を微妙に翳らせながら、迷いを口に出す。

「私も妹達に早く会いたいと思いますが――、でもちょっと心配もあるんです。もしこんな風に人の姿になって心と言う物を手に入れて人間の様な生活をする事を良しとしない仲間が居るとしたら――って。私の様な者が思い悩んだ処で仕方無いのかも知れませんが」

その言葉を聞いて陸奥も少し心配になってしまう。

 

(もしも姉さんが女の姿になって陸の上で暮らす事を望まなかったら――、そうしたらあたしはどうすれば良いのかしら?)

 

仲間達も皆そんな不安に染まったらしく、難しい顔をして黙ってしまう。

一体どんな考えを持っているのか事前に聞く事が出来るのならともかく、この姿になって再会しなければ何を考えているのか聞くのは無理なのだ。

確かに妙高の言う通り悩んだところで結論は出ないのだろうが、それ故に余計悩ましく感じてしまう。

 

と、初春がコホンと上品な咳払いを一つしておもむろに口を開く。

 

「もし妾が未だ水底(みなそこ)に横たわっておる身でありましたなら、例え斯様な女性(にょしょう)の姿となる由を望んでおらずとも、凡そ理不尽な殺生に手を染めるよりは余程ましじゃと思いましたろう。尤も妾の望みを申しますなら、さしずめ陸奥殿の様に程良う熟れた女性(にょしょう)化生(けしょう)しとうござりましたがの♪」

 

彼女の雅やかな物言いは堅くなりがちな仲間達の気持ちを解きほぐす効果があるらしく、皆の表情が目に見えて和やかになる。

くっきりとした眉を八の字にしていた妙高も、

「初春さんの言う通りですね。例え望まない結果になろうとも、妹達に拭い難い罪を犯させるより遥かに良いと私も思います」

と笑顔を浮かべた。

 

これを潮時と心得たのか赤城が言を揚げる。

「どうやら皆の気持ちもまとまったやに思いますがどうでしょう? 我等は挙げて同胞(はらから)の探索に協力するという事で宜しいのでは?」

そう言いつつ彼女は陸奥の顔を見たものの、陸奥としてはまだ肯う訳にはいかない。

「そうね、もうこれで意見が出尽くしたんだったらそれで良いと思うけど、でも加賀ちゃんはまだ何か言いたい事があるんじゃないかしら?」

そう振られた加賀は、やはりほとんど無表情ではあるものの目元にはっきりと笑みを浮かべて陸奥を一瞥すると淡々と切り出す。

 

「陸奥さん有難うございます。私が気になるのは、この遣り方が本当に最善なのかどうか今の私達では判断出来ない事です。敢えて失礼な言い方をしますが、上手に丸め込まれて利用されていても右も左も判らない私達にはそれを見破る術が無いのです」

 

彼女の直截かつ辛辣な言葉にさすがに仲間達は騒めいたが、陸奥が落ち着いている為かそれは大きくはならずすぐに収まり始める。

 

「加賀さんの言う事も判らないでは無いのですが――、それでも我等は皆こちらに世話になっている身の上でありますのに、余りに不穏当な言い条ではないでしょうか?」

赤城は言葉を選びながらも加賀を咎める様に不服そうな表情を露にする。

ところが、加賀が何か言う前に意外な方向から声が上がる。

「あらぁ~、例えお世話になっててもイヤな事はイヤって言わなきゃ駄目ですよぉ~?」

龍田は相変わらずのんびりした調子で赤城にツッコミを入れて澄ました顔をしている。

「龍田さんが私の言いたい事を言ってくれた様ね。赤城さん、嫌な物言いをする様だけれど、引け目や負い目を感じて口を噤んでしまえば私達はまた帝国海軍が犯した失敗の轍を踏むことになるわ。そうは思わない?」

 

彼女の言葉は容赦が無いものの明瞭で曇りがない。

赤城は何か言おうとしたが言葉に詰まってしまい、困った様な目で陸奥を見る。

「赤城ちゃん、そんなに困る事無いわ。加賀ちゃんだって防衛隊の方達が信用出来ないとか利用し様としてるって決めつけてる訳じゃ無いのよ?」

そう言いながら仁を見た陸奥だったが、既に彼の方がこちらを見ていた。

 

(やっぱり♪)

 

嬉しくなって彼への視線に思いを込める。

 

(そうよね仁?)

 

彼は小さく目で頷くと、相変わらず控えめな言い方ではあるがしっかりと意見を述べてくれた。

「皆さんからそんな意見が出るのはやっぱり凄いなと正直に思います。僕はまだ太平洋戦争時のことは上っ面しか知りませんが、加賀さんの言う様に疑って掛かるのを止めてしまった結果ここにいる皆さんが辛い思いをする事になったんだと理解してます。大したことは出来ないかも知れませんが、現代についての必要な知識や民間人の立場での見方とか、何かお手伝い出来る事が有るんじゃないかと思ってます」

 

陸奥は喜びが込み上げて来るのを抑え切れない。

 

(ちゃんと通じてるわ! 間違いないわよね仁!)

 

自然に顔が綻んで来てしまい、何とか平静にし様とするものの自分では押さえ切れない。

 

(さっきだって――)

 

食事が終わった時の事をもう一度噛み締める。

中嶋が全員に話したいことがあると言うので別の建物に移動する時、仁はさっと駆け寄って来るなり、

「さっきはごめんね。皆可愛くて元気な娘ばっかりだからつい舞い上がっちゃって――」

と少し小声で照れ臭そうに謝ってくれた。

にも関わらず、彼が自分を気に掛けてくれていた事を知ってとても嬉しかった筈なのに、何故かその時は素直に喜べずにプイとそっぽを向いて、

「そんなの知らないわ!」

と言ってしまった。

なのに、それだけ素っ気なく突き放して見せても彼はパッと笑顔になり、

「じゃあまた後でね!」

と言って再びさっと離れていったのだ。

 

(あたしが嬉しかったの判っちゃったのね♪)

 

それも気持ちが通じ合っている証拠なのだと改めて思う。

 

「私達がどれ程の助けになるのかは何とも言えませんが、一つはっきり言える事があります。そこにおられる中嶋副長はとても信頼出来る方です。皆さんの疑問や不安を正面からぶつけて行ける方だと思いますよ」

葉月が巧みに補足すると中嶋も笑顔を見せて、

「お二人とも有難うございます。皆さんに申し上げておきますが、我々の言動に疑問や不安を感じたら今の加賀さんの様に遠慮なく言って欲しいと思います。我々が信用出来ないと思った時はきっと渡来さん塔原さんが相談に乗って下さると思います。ですから全て納得した上で決めて下さい。今日この場で結論が出なくても構いませんので」

と言うと改めて全員を見廻し、最後に陸奥、赤城、加賀の順に顔を見る。

 

(あらっ?)

 

どうしたことか加賀が戸惑った様な表情をして俯いてしまう。

 

(加賀ちゃんどうしたのかしら)

 

ひょっとすると中嶋に対して余り辛辣な事を言い過ぎたと後悔しているのかも知れない。

そう思った陸奥はさ程深く考えずに皆との議論に戻った。

 



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〔第四章・第七節〕

 その後は、余り皆の意見が割れる様な局面はなかった。

加賀の主張した疑念に付いては仁や葉月も意見を述べ、先の事はともかく少なくとも現時点ではその他の有効な手立てが見つからないと言う認識で全員の一致を見た。

どちらかと言うと皆の関心が集まったのは、その過程で他国の(元)軍艦と接触する可能性に付いてである。

 

「我々はそれなりに優勢だったのもあって、それ程切迫した危険迄は感じませんでしたが――」

「今後も同じだとは限りませんよねぇ~」

実際に交戦した赤城と蒼龍が懸念を口にする。

 

「もちろん、事前に遭遇する可能性のある軍艦の情報は確認する訳ですが、危険な状況に陥る可能性は否定出来ませんね」

中嶋も楽観的な事は言わない。

だが、それよりももっと心配な点が陸奥にはあった。

 

「それに付いて覚悟しなければならないとは思いますが――、もっと嫌な事に遭遇する様な気がするんです」

「陸奥さん、ひょっとしてそれは――」

加賀が言い掛けたので、陸奥も頷いてその後を続ける。

「ええ、あたしが一番心配なのは、他国の軍艦ではなくて同じ日本の軍艦と敵対する羽目になったりはしないのかって事だわ」

 

この言葉に仲間達からどよめきが上がる。

「そんなの絶対に嫌です! 絶対に!」

飛龍が悲痛な声で叫ぶと蒼龍も、

「仲間に撃たれるなんて二度と経験したく無いです――、本当に……」

と悲し気に俯く。

「あんな嫌な思いは一度で十分です! 何故そんな怖ろしい事を仰るんですか⁉」

赤城が昂った様子でそう言い放っても陸奥は表情を変えずに口を開こうとするが、それより早く加賀が断固とした調子で声を上げる。

 

「皆何を言ってるの? さっきの話をもう忘れてしまったの? 渡来さんも言って下さったでしょ? 都合の悪い事に目を背けた者達の所為で、私達は七十年もの間辛い思いをして来たのではなくて?」

その問い掛けに答えられる者は誰もおらず、その場は静まり返ってしまう。

陸奥が皆の顔を見渡すと、仁と葉月がしっかりと見返してくる。

 

(二人とも有難う)

 

目で礼を言っている間に、中嶋が静かに口を開く。

「陸奥さんは、長門さんの事を念頭に言っておられるんですね?」

「ええ、そうです」

「長門さんは一体どうされたんですか? 内地でご健在だと伺ったのが最後なのですが」

妙高の質問に対しては中嶋が応じる。

「長門さんは、妙高さんが沈む少し前に米軍によって二等巡洋艦酒匂共々ビキニ環礁に回航されました。エニウェトクとロンゲラップの間と言えば皆さんにはよくお分かりですね。そこで、他の何隻かの軍艦と共に米軍の新型爆弾の標的とされて沈没したのです。今もそこに沈んでいます」

 

副長の淡々とした言葉に隠れた意味に、敏感に反応したのは高雄だった。

「なのに、長門さんは米軍だけを憎んでいる訳では無いと言う事なのですね? ひょっとして、自分を見殺しにした日本の事も恨んでいる――、と言うことですか?」

そう言って陸奥の顔を見た彼女の瞳には、微かに光るものが浮かんでいた。

高雄が沈んだ経緯に付いては仁の家でネット上の記述を読んだだけだが、それでも彼女が遣り場のない怒りと深い哀しみとを抱いているであろう事は容易に想像が付く。

 

「どれ程の思いを抱いているのかは、それこそ本人で無ければ判らないわ。でも、書かれたものを読んだあたしがそう感じた位だから、現実にそんな仕打ちを受けたらきっとそう思う筈だって――そう思ってるの」

 

その応えを聞いて彼女は更に続けて口を開こうとしたが、妙高がそっと肩に手を掛けると、思い直した様に口を閉じて陸奥を見詰めた。

代わって初春が、陸奥の意図を確かめるかの如く言を上げる。

「陸奥殿は、長門殿と刃を交える事も覚悟しておられると云われますか。それは即ち、そこ迄覚悟致さねば同胞(はらから)を取り戻す事など能わぬとのお考えに御座りますかの」

「そうね、あたし達の大切な仲間を取り戻す為には、例え互いに傷付けあい血を流す結果になったとしてもそれを乗り越える覚悟が要ると思うの。皆がどんな思いを抱いているのかは、他でもないあたし達自身が一番良く知ってる筈だし、それが判るからこそ決して楽観出来る事じゃないと感じるのよ」

 

気負いこそ無いものの、毅然とした彼女の言葉に俯きがちだった全員の顔が上がる。

そしてその中から加賀が真っ先に口火を切ろうとするが、それを赤城が目で遮り、姿勢を正すと陸奥の瞳を真っ直ぐに見詰めて口を開く。

「陸奥さん、つい浅慮な事を口走ってしまい申し訳ありませんでした、己の不明を深く恥じ入っております。ですが、たった今陸奥さんのご覚悟を伺って蒙を払った心地です。どうか我等をお導びき下さい。どれ程過酷な運命(さだめ)が待ち受けていようが、海内の果つる処迄お伴仕る所存です」

その厳粛な言葉に室内は一瞬静まり返るが、一呼吸もおかぬ内に仲間達から口々に声が上がる。

 

「私もです!」

「陸奥さん!」

「ボクも!」

 

それらの声が一巡りした頃合で加賀が静かに口を開く。

「皆にも改めて言っておくけど、私達は盲目的に陸奥さんの命令に従って責任を全て陸奥さんに押し付ける訳では無いわ。あくまでも陸奥さんは私達の纏め役よ。私達全員は自らの知恵と行動で陸奥さんを支えていくの、断じて過去の悪夢と同じ轍を踏んでは駄目よ。陸奥さん、甚だ身勝手なお願いで申し訳ありませんが、私達の纏め役に――旗艦になって頂けますか?」

 

(あたしが皆の旗艦に……)

 

不思議な程迷いは無かった。

深く考えるより先に笑顔と共に言葉が口を衝いて出る。

「判ったわ、皆協力して一人でも多くの仲間を海底から救い出しましょ! 中嶋副長お聞きの通りです。あたし達全員が仲間の捜索に協力します。但し、その過程で例えほんの小さな事柄であれ納得の行かない事があれば、一つ一つ話し合って解決する迄はそれを中断します。それで宜しいですね?」

「もちろんです、正直に言ってとても喜んでいます。皆さんは最も好ましい結論を出されましたね! 渡来さん塔原さん、もし可能であれば週に1回または隔週に1回位でお二人に足を運んで頂いて、皆さんと一緒に話し合う機会を持ちたいと考えていますが、協力をお願い出来ますか?」

発言したくてウズウズしていたらしい仁が、間髪を入れずに返事をする。

「是非お願いします! 皆さんのお手伝いをさせて下さい!」

 

(もう、仁ったら♪)

 

彼の鼻息の荒さに思わず陸奥も苦笑するが、案の定と言うべきか葉月が皮肉たっぷりにその後を続ける。

「私もお手伝いさせて頂きます。放っておくと、感情に任せて暴走したり空回りしたりする民間人がいるかも知れませんので!」

 

仁は何時もの諦めの混じった表情で、これまた口癖となってしまった返事をする。

「はいはい、毎度ご迷惑お掛けして済みませんね――」

「まぁ渡来さん! 二つ返事とはお行儀が悪いですよ?」

葉月が指摘するよりも素早く妙高が突っ込んでしまい仲間達から笑いが漏れるが、当の葉月は少々憮然としてしまう。

「それでは一旦休憩にしましょう。皆さん、飲み物はいかがですか?」

あの防衛官の女性は仲間達の世話係と言う事なのだろうか、彼女が運んで来てくれたペットボトルを受け取って陸奥は喉を潤す。

 

「陸奥さん、これからも宜しくお願い致します」

赤城が隣に腰を下ろしながら笑顔で話し掛けて来る。

「もうっ、赤城ちゃんには敵わないわ! あたし、今日皆と会ったばかりなのに」

「申し訳ありません、ですが既にお分かりの通り、ここにいる全員が陸奥さんこそ我らの旗艦に相応しいと感じております。私や加賀さんでは務まらないのも明らかですし」

赤城はやや性急な処はあるが陰湿さが無く、過ちをすぐに認める事が出来る謙虚さなど、十分優れた人格の持ち主だと思うのだが――。

 

「それはそうと、陸奥さんは今後どうなさるのですか? こちらに移って来られるのでしょうか?」

「そうねぇ、やっぱりそうすべきなのかしら」

そう言いながらも、その決断をするにはかなり躊躇いがある。

彼と一緒に暮らす楽しさからどうにも離れ難い自分がいるのだ。

それに仲間探しと言う大きな難題を一つ乗り越えた今、心中に密かな期待が湧いて来ている。

まだどうすれば実現出来るのか判らないが、彼と二人で街に出掛け、買い物をしたり食事をしたり出来たらどれ程楽しいだろう!

 

(今すぐじゃ無くても、もうちょっとだけ待っても良いわよね、仁♪)

 

そう思い直したので赤城にそれを告げ様とすると、続けて彼女が話し掛ける。

「それにしても、渡来さんと塔原さんはもう既に一家を構えておられるのですか?」

「違うわ、あたしはじ――いえ、渡来さんの家に居候させて貰ってるの。塔原さんは一緒に泊まり込んでくれてるだけよ」

まさか自分が彼を騙すかも知れないと思われていたからだとは、ちょっと言えなかった。

「いや、そうでしたか。先程来拝見していると塔原さんは本当に良く気が付いて、渡来さんの遣る事為す事にぴたりと寄り添っておられるので、さすがは許嫁でいらっしゃると思いまして――」

 

ガンッ!

 

頭に強い衝撃を感じた陸奥は、一瞬赤城が自分を殴ったのかと勘違いする処だった。

 

(何よ――どう言う事なの? ――何を言ってるの?)

 

頭の中で許嫁という言葉がぐるぐる回り続け、それと一緒にこれ迄の葉月の言葉が波の様に襲い掛かって来る。

 

『もう絶対に離れちゃイヤよ!』

『仁の栄養が偏らない様に、何時も気を付けてたのよ』

『まぁね、長い付き合いだし』

 

それらは何度も何度も気が狂いそうになる位反響を繰り返し、次第に意味を成さない雑音の塊となって陸奥のあらゆる感覚を遮断してしまう。

 

(もう止めて! 沢山だわ⁉)

 

心の中(なのだろうと思うが本当にそうなのかすら覚束ない)で思い切り叫ぶと、唐突に耐えられないその雑音が消え失せ、一転して凍える様な静寂がそれに取って替わる。

 

森閑とした凍てつくその世界には、もちろん陸奥自身しかいなかった。

 

彼女が今もっとも向き合いたくない、どこ迄も冷静な自分自身しか……。

 

(そうよ、最初から判ってた筈じゃないの⁉ 二人は特別な関係だって予想が付いた筈なのに、あんたが勝手に都合の悪い事から目を背けてただけでしょ!)

 

容赦の無いその言葉が無数の矢となって全身を刺し貫き、その痛みによって現実に引き戻される。

 

「――ですから、何かと気不味い事などお有りなのでは無いかと思っておりました。どうでしょう、副長にお話されて見ては?」

 

その時、やっと赤城が何かを喋り続けていたのに気付いたが、その声もどこか遠くから聞こえて来る様に感じる。

 

「そ、そうね、また後で考えて見るわ」

 

いい加減な返事をして初めて喉がカラカラに渇いている事に気が付き、ペットボトルの中身を一気に呷る。

 

「どうかされましたか、陸奥さん?」

怪訝そうに聞く赤城に、

「あ、赤城ちゃん、あたしちょっとおトイレに行って来るわ!」

と告げて逃げる様に部屋の外に出る。

 

廊下には誰もおらず、静かな中に自分の荒い息遣いが響いていた。

 

(おトイレ、どこにあるのかしら……)

 

何かしていなければ、座り込んで泣き出しそうな自分が酷く嫌だった。

 



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第五章
〔第五章・第一節〕


 車の中は、ずっと重苦しい沈黙に包まれたままだ。

僅か数時間前のあの明るい喜びに満ちた光景が、どうしてここ迄変わってしまったんだろうか?

僕は横目でチラリと様子を覗き見たが、二人共顔を上げてすらいない。

窓の外を眺めながら、先程の事を思い返す。

あの時、中嶋副長は明らかに念の為の確認をするだけの様子だった。

ところが余りに予想外な彼女の反応に、僕も副長も一瞬耳を疑ったのだ。

 

「いえ、出来ればすぐにこちらに来たいのですが」

 

そう言った声の抑揚の無さにも驚いたが、それ以上にまるで能面の様な硬い表情をしたむっちゃんは全く別人の様に見えた。

副長も何度か念を押してくれ、遂には僕も思い切って――偉そうに言う事では無いが相当に思い切って――遠慮しているんだったら一切気にしなくて良いからと言って見たのだ。

にも関わらず彼女は僕の顔も見ずに、

「違うわ、本当にあたしが来たいからなの」

と感情の籠らない声で素っ気なく応えたのだった。

そこから後はもう取り付く島も無く、唯々事務的な話しか出来ずに明日の朝に再び迎えに来て貰うと決まってしまった。

そうして僕らは、副長の用意してくれた帰りの車に黙りこくったまま乗り込んだのだ。

 

 こんな風にお浚いするのも既に何度目かになるものの、やはり僕にはむっちゃんの突然の変化が全く理解出来ない。

午後の話し合いの最中の彼女は何度となく視線を合わせてくれたし、加賀さんの鋭い舌鋒に皆が少々動揺した時は、はっきりと僕に何かを期待している強い眼差しを向けて来てくれた。

そしてそれに何とか応え様と気力を振り絞って発言した後に、これ以上は無いだろうという飛び切りの笑顔を見せてくれたと言うのに!

その後ほぼずっと有頂天だった僕にとって、上がり切ったテンションからのこの落差は何かの悪い冗談としか受けとめられない。

今にも彼女がぱっと笑顔を弾けさせて『な~んてね!』と言ってくれはしないだろうかと半ば真剣に期待している位だ。

 

(一体、何を怒ってるんだろう?)

 

そう思って何度と無く彼女の横顔を盗み見るが一向に思い当たる節は無いし、何より見れば見る程怒っている訳では無さそうだと思えて来る。

その上更に分からないのは葉月の様子だ。

むっちゃんが突然隊に移りたいと言い出した時、僕は一瞬葉月のリアクションを期待した。

もっと言うならば、何時もの葉月であればここは絶対に何かを言う筈の処だったのに、どういう訳か彼女は終始黙ったまま――どころか、軽く目を逸らしてむっちゃんを見ない様にしていたのだ。

 

(何を考えてるんだ?)

 

僕は葉月の態度の底に何があるのか考え続けていたが、車内で二人の様子を眺めたり景色を眺めたりしながら考えては見たものの、考えが煮詰まって来る程益々理解しかねる事ばかりが目に付いてしまう。

葉月と彼女は、ほんの数日の間柄ではあるものの友達と言える位になっていると感じる(余談だが葉月はそう簡単に友達をつくらない。表面的な人付き合いは巧みなので一見すると友達は多く見えるが)し、本人からはっきり聞いた訳では無いものの、むっちゃんの性格や人柄に好感を持ってくれている様だ。

でもその反面、彼女は僕の保護者としては最大級に警戒しなければならない女性(いやもちろん正しくは軍艦だが)には違いない。

そう言う目線だけで見ればむっちゃんが僕の家から出るのを歓迎していても全くおかしくは無いのだが、幾ら何でも僕の知っている葉月はそこ迄薄情では無い筈だ。

それとも葉月は、彼女が仲間達と一緒に居る方が良いと真剣に考えているのだろうか?

 

――いや、そんな事は無さそうだ。

第一、もしそんな風に考えているのであればもっと積極的に振る舞う筈だし、後々彼女との間が気不味くならない様に丁寧なフォローもするだろう。

それなのに、一体どういう事情があってこんなに不自由そうにしているのだろう?

むっちゃんが僕らに対して含む処があると言うのはともかく、葉月までそうする理由は?

 

その事をもっと突っ込んで考えて見ようと思ったのだが、丁度その時車は朝と同じ公園の横に到着したので、僕はその考えを仕舞い込み、ここ迄送って来てくれた防衛官の男性に礼を言って車を降りる。

こういうタイミングを上手く捉えて何か話掛けて切っ掛けを作らねばと思ったのだが、まあそんなに都合良く気の利いた奴になれる筈も無く、不自然な沈黙が流れた後に突然葉月が口を開く。

 

「私、晩御飯の買い物行って来るわ! 先に帰っててくれる?」

 

彼女はそれだけ言い捨てて、僕らの顔も見ずにさっさと行ってしまう。

恐らく滅多には見られないであろう、余裕の欠片も無いその後ろ姿を暫し見送ってからむっちゃんに声を掛ける。

 

「じゃあ帰ろう。本当は一杯色んな物を買い揃えてあげたいんだけど、ちょっとその時間は無さそうだしね」

 

そう言って歩き出そうとしたが、何故か彼女は動かない。

どうしたのと声を掛け様として初めて彼女が歯を食い縛って何かを必死に堪えている事に気が付き、胸が激しく締め上げられた僕は後先も考えずに叫んでしまう。

 

「ごめんよ、本当にごめん! 僕は馬鹿だから、君を傷付ける様な事しか出来なくて――」

 

理由も何も無いが、とにかく彼女に詫びたかった。

 

僕の脳はもうそれだけしか考えられなかったのだが、むっちゃんもまた感情の塊を吐き出す様にそれを否定する。

 

「違うわ! 仁は何も悪くない! 悪いのはあたしなの――あたしが何も見えていなかったの、それだけなの……」

「それだけの筈なんて無いよ! 僕があとほんの一割だけでも気の利く奴だったら、君に――君にこんな事を言わせたりしなかったのに――僕は本当に――」

 

そう、どうしようも無く駄目な奴なのだ。

情けなくて本当に涙が出る。

でも彼女は――むっちゃんはそうじゃないと言ってくれる。

こんな頼りない、情けない奴を肯定してくれる。

 

「仁は馬鹿なんかじゃ無いわ、あたしは何時か出て行かなければならなかったの。それがほんのちょっと早くなっただけよ……。仁の所為でも何でも無いわ」

 

そう言った彼女はやっと僕の目を真っ直ぐに見てくれた。

その眼差しはさっきよりも少しだけ柔らかな光を帯びており、それは胸に淀んでいた思いをスッと浄化していく。

彼女に何があったのかは相変わらず見当も付かないが、それでも僕の所為では無いと言ってくれたのだから、それだけでもう十分だと初めて思う事が出来た。

そしてそう思う事で改めて自覚出来たのは、彼女がどこに行こうが僕に命をくれたのは彼女だという事実には何の変わりも無いし、僕が誓った事もまた消え失せる訳では無いということだ。

 

「帰りましょ? お家に」

 

「そうだね、帰ろう……、僕らの家に」

 

「あたし達の家……?」

 

「そうだよ、むっちゃんがどこに住む様になろうが、あそこは何時でもむっちゃんの家だよ」

 

「うん……」

 

とにかく出来る限りの用意はして、笑顔で送り出してあげよう。

やっとの事で僕はそう思える様になった。

 



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〔第五章・第二節〕

 それから幾らも経たずに、何もかもがそう旨くいく訳では無いのだと言う事を僕は改めて思い知る。

折角むっちゃんと少し蟠りが解けて、三人で過ごす最後の夜を多少なりとも楽しく過ごせると思い掛けていたのに、事はそう簡単では無かった。

買い物から帰って来た葉月は無言のままキッチンに立つと料理に没頭し始めたのだが、彼女が帰って来ると共にむっちゃんの口数はぐっと少なくなり、俯き加減に戻ってしまったのだ。

 

(やっぱり何かあったのかな)

 

そうは思ったもののやはり心当たりの無い状況に変わりは無く、首を傾げたままでむっちゃんの荷造りを手伝っている内に、夕食が出来たと呼ぶ声がする。

 

(もうこんな時間だったんだ)

 

改めて残された時間の少なさを覚えながら、むっちゃんと共にキッチンに出て来ると、ひどく食欲をそそる匂いがした。

 

「良い匂い……」

思わずむっちゃんも呟いたそれは、どうやら一からの手作りらしい煮込みハンバーグの様だ。

にも関わらず、手間暇を掛けた料理を披露する時に何時もなら必ず聞かされる苦労話とウンチクが何も出て来ないだけでなく、葉月は如何にも浮かぬ様子でテーブルを前に突っ立っている。

僕がかなりの労力を費やして、

「凄く美味しそうだね、葉月?」

と声を掛けると彼女は一瞬パッと明りが灯った様な表情を見せるが、すぐにまた元の表情に戻ってしまう。

それでもさすがに僕らが『頂きます』と言うと、小さな声で『召し上がれ』と応じたのだった。

 

実際のところ料理は素晴らしい出来映えで、僕は思わず、

「うわ、旨っ」

と声が漏れてしまい、むっちゃんも

「本当、凄く美味しいわ……」

と感嘆した程だ。

僕らが期せずして同時に葉月の顔を見ると、顔を上げこそしないもののチラリと上目遣いにこちらを一瞥してボソボソと口を開く。

 

「あそこのご飯、半端じゃ無く不味かったから、美味しいもの食べさせてあげとこうって思って……」

 

何だか世の中って本当に不自由な事ばかりだなと思ってしまう。

彼女はむっちゃんに対する思い遣りを無くしてしまった訳では無いのだが、二人の間にある溝なのか行き違いなのか、僕には良くわからない何かを乗り越えてむっちゃんに翻意を促す事は出来ないらしい。

 

「有難う葉月――とっても嬉しいわ」

 

むっちゃんは傍目にもはっきり分かる程の努力をして葉月の顔を見詰めると、静かに礼を言う。

それに反応した彼女は、まるで数年振りに起動された機械か何かの様にぎこちなく顔を上げてむっちゃんと視線を合わせる。

 

「あ、あのね……」

「なあに、葉月?」

「私ね……その……えっと……」

 

その場の空気が俄かに張り詰め、呼吸するのを忘れてしまう。

葉月が口に出そうともがいているのがどんな事なのかまだ分からないものの、それは明らかに事態をひっくり返す可能性のある事の筈だ。

だが固唾を飲んで見守っていた僕の目の前で、明らかに彼女の中で何かが折れた気配がして突然ふっと緊張が途切れてしまう。

 

「…………また、パフェ食べに行こうね――、週末とかに……」

 

(ダメだったかぁ)

 

がっかりすると共に、少しだけ葉月が可哀想になった。

見ている僕がどっと疲れを覚える程ぎりぎりの葛藤をする彼女など、恐らく遠いあの日以来の事だろうし、何よりその最後の一山を越えることが出来なかったのだから、今はさぞかし挫折感と自己嫌悪に苛まれているだろう。

そして、それはいつも僕自身が通る道でもあった。

 

 結局その後食卓で交わされた会話と言えば『ご馳走様』『洗い物とか全部私やっとくから』『うん頼むよ』だけだった。

 

僕は自分の部屋に上がって、スーツケースを出して来てむっちゃんに渡すと風呂を洗いに行く。

お湯を張り始めてから客間に戻ると食事の後片付けを終えた葉月が先に来ていた――のだが、室内には堪え難い程の緊張感と沈黙の嵐とが吹き荒れている。

今度こそ真剣にその場を逃げ出したいと思ったが、ありったけの勇気を振り絞って室内に体を捩じ込む。

なのに様にならない事この上無く、余りの緊張で僕は脇腹がつってしまい、二人を手伝う以前にストレッチをする羽目になる。

 

「ちょっと、あんた一体何しに来たの?」

 

葉月が露骨にイラついた口調で嫌味を言うが、顔は寧ろホッとしている様だ。

僕が苦笑しながら、

「役立たずだけど、居ないよりましだろ!」

と言い返してむっちゃんの顔を見ると、彼女はチラリと視線をあわせてニコッと微笑む。

そう、良く分かっているよ、僕はこの為に――只のクッションになれればという積もりで――此処にいるんだから。

 

こうして二人の間には一言も直接の会話は無いまま夜は更けて行き、昨夜迄は一緒に入浴していた彼女達も今夜は2人バラバラに入った。

途中で気が付いた事だが、葉月は荷造りの手伝いだけをしているのでは無く自分の荷造りもしているのだった。

むっちゃんに対して、貴方だけを追い出したりしないと言いたいのだろうか。

ひょっとすると彼女が今出来る最大限の誠意の示し方なのかも知れない。

そして現金な僕は、そんな振る舞いを何だかいじらしいと感じてしまう。

もしそう思わせるのが彼女の策だとしたら、見事に引っ掛かっているとしか言い様が無いのだが。

 

荷造りも終わったその夜更け、僕らは一人ずつ床に就いた。

 

このまま夜が明けなければ良いのにと思っていたのは、僕だけだったのだろうか。

 



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〔第五章・第三節〕

 前日に引き続き、今日も朝からいい天気だ。

僕らの気分にそぐわないのは致し方無いけれど、むっちゃんの出立がそぼ降る雨の中になるよりは余程ましかも知れない。

葉月は早くから起き出してキッチンに立っており、朝食の食卓もなかなか気合が入っていた。

 

「お疲れ様、葉月」

僕が労うと、相変わらず俯き加減でこちらを恨めしそうに見ながら、

「下僕が早起きしないんだから仕方無いでしょ」

と憎まれ口を叩く。

普段とは全く逆に、今はそれをもっと威勢よくガミガミ言って欲しいとお願いしたい位だったが、所詮物事は僕の思いとは逆に転ぶものらしい。

せめてもの救いは、そんな僕らを見てむっちゃんが笑みを浮かべてくれた事だろうか。

それに会話こそほとんど無かったものの昨夜に比べれば食卓の雰囲気は和やかに感じられ、このまま昨日からの全てが無かった事にはならないだろうかと何度も思ってしまう。

にも関わらず時間とは非情なもので、一瞬たりともその歩みを緩めてくれはしない。

 

 そして、とうとうその時は来てしまう。

スーツケースを持って玄関に立ったむっちゃんは、葉月と一緒に選んだ筈の浅緑のハイネックのニットに千鳥格子のパンツという姿で僕らに向き直る。

 

「仁も葉月も本当に有難う。二人がいてくれたからこうして無事に皆と会えたわ。あたし、今とっても幸せよ……」

 

言葉とは裏腹に彼女の表情は硬く、何かをグッと抑え込んでいる様だ。

僕は昨夜からずっと頭の中で回り続けていた数多の言葉の切れ端の中から、何か一つでも大切なこと気の利いたことを拾い出そうと努力したが、毎度の事ながらこの世界のリズムにはどうしても乗り切れない。

 

「これ――、私のお古で悪いんだけど」

徒に時間を浪費する僕を押し退けた葉月が、むっちゃんに何かを差し出す。

それは見覚えのある財布だった。

「これ、お財布なの?」

「うん。それと、ほんのちょっとだけどお餞別と思って……」

実は僕も後ろのポケットに餞別を用意しているのだが、例によって何時切り出そうかと逡巡している内にここ迄来てしまったので、大方葉月はそれをも見透かしていたのだろう。

 

「駄目よ葉月。こんな事迄して貰う訳にはいかないわ」

見ると何時用意したのか、財布にはすぐ使える様にちゃんと千円札や小銭迄入れられている。

デカい札をそのまま渡そうとしている僕とは大違いだった。

「これからは大した事もしてあげられないから、せめてこれ位させて?」

「嬉しいけどやっぱりダメよ」

二人が押し問答になりそうなので、やっと口を挟むチャンスが出来る。

「むっちゃん、ちょっと貸してくれる?」

「?」

少々戸惑いながらも彼女は財布を渡してくれたので、用意していた餞別を入れて彼女に改めて差し出す。

「凄く正直に言うよ、本当はもっともっと沢山渡したいんだ。でも、さすがにそれじゃむっちゃんが受け取ってくれないと思うから暫くの間のお小遣いだけと思って……。お願いだから受け取ってよ」

そう言って彼女の手に財布を握らせると、その手にぐっと力が入る。

 

「――」

 

葉月が何か言おうとして、彼女の様子に気が付き口籠もる。

むっちゃんは下を向いて歯を食い縛っている様だ。

強く力を入れているらしく、財布を持った手がブルブル震えている。

やがて、彼女は深呼吸すると深く溜め息を吐いてゆっくりと顔を上げた。

 

「二人とも有難う、大切に使うわ」

 

そう言った彼女の瞳が潤んでいるのを見て初めて、泣くのを堪えていたのだと分かる。

 

言い様もなく悲しかった。

 

この数日間、彼女が涙を見せまいと我慢した事などあっただろうか?

ほんの一日、いや半日の間に僕らの距離はこんなに開いてしまったのだと思うとどうにもやり切れず、犯人でも探し出したい気分だ。

 

そんな僕の内心を感じ取ったらしい葉月が、

「さあ、そろそろ行かなきゃね!」

と空元気そのものの声を上げる。

その声に引き摺られる様に、僕らは半病人の様な状態で家を出た。

見れば葉月もスーツケースを引っ張っており、見送りしたその足で自宅に戻る積もりらしい。

 

(一体何があったんだよ……)

 

そう思いながら角を曲がると、ちょうど公園前に昨日のあの車が到着する処だった。

少し足を早めて近づくと、助手席から昨日何かと世話をしてくれた女性が降り立ち、こちらに向かって敬礼する。

「訓練隊総務課員を拝命しております斑駒です! 本日は命を受けて陸奥さんをお迎えに上がりました」

と、歯切れ良く挨拶してくれる彼女には何の罪も無いのだが、正直に言って聞くに堪えない気分だ。

 

なのに、むっちゃんはほとんど感情を表す事も無く、

「この度はお世話になります。宜しくお願い致します」

と進んで挨拶してしまい、考え直してくれる気配も見せない。

 

仕方が無いという気持ちとそれでも納得がいかないという思いとが同時に湧いて来て、訳もなく叫び出したい衝動に襲われ掛けたその時、思いもよらず斑駒さんの発した言葉が耳に飛び込む。

 

「はい、ですがその前に中嶋よりお伝えしたい事がありますのでお聞き下さい。陸奥さんにおかれては、再度ご自分の意志を確認されるよう強くお勧め致しますとのことです。その上で改めてご返事をお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

やはり中嶋副長はさすがと思わせるものがあった。

僕が同じ立場であったなら、果たしてこんな配慮など思い付くだろうか?

そんな期待感が急速に胸の内から湧き出し、ひょっとしたらひょっとするかも知れないという望みが頭をもたげ掛けるが、残念な事にそれはたったの数秒で捻り潰されてしまう。

むっちゃんの意志はとても強固で、ほとんど躊躇い無く平板な声でそれに応えてしまったのだ。

 

「はい、改めて申しますが隊にお世話になりたく、宜しくお願い致します」

 

斑駒さんは明らかに困った様な表情でこちらを一瞥したが、(僕の顔にどんな感情を読み取ったのだろうか)僅かに寂し気な目をした後で、それらを振り払うように首を軽く一振るいするとキビキビとした彼女に戻った。

 

「分かりました、それでは隊にお連れ致します。どうぞこちらへ」

そう言って、昨日の中嶋副長と同じ様に後部ドアを開けてむっちゃんを誘う。

 

「仁、葉月、色々有難う。また次の会合の時に会えるわね」

 

それだけを言うと、彼女は禄に僕らの顔を見ようともせずさっと車に乗り込んでしまう。

 

(何か言えよ! これが最後だぞ、おい!)

 

必死に自分を叱咤するが、感情が込み上げて来て口が動かず、結局名前を呼ぶ事しか出来ない。

 

「むっちゃん――」

 

そう呼び掛けると、シートに座った姿勢の彫像の様な彼女が声に反応してギュッと膝の上で拳を握りしめる。

急に何かに衝き動かされてむっちゃんの側に行こうと身を乗り出し掛けたが、片手をぐいと掴まれ止められる。

 

誰だと考える迄も無く、それは葉月だった。

いきなりまた叱られるのかと思いきや、彼女は目を伏せて唇を噛んでいる。

 

「ちょっと話すだけだよ」

 

そう言ってとにかく手を振り解こうとするが、葉月は手首を力一杯握り締めて離さず、余りに予想外な小さい声で、

 

ダメ――

 

とだけ言う。

 

(えっ?)

 

意表を衝かれて戸惑ったその間隙に斑駒さんが静かにドアを締め、さっと敬礼すると、

「それでは失礼致します」

と告げて助手席に乗り込む。

 

茫然としている僕を尻目に車が動き出そうという正にその刹那、車窓の向こうでむっちゃんが顔を覆って泣き崩れる。

 

むっちゃん! むっちゃん!

 

叫んで咄嗟に車を追い掛けようとしたその手首を、葉月の両手がまるで手錠か何かの様に締め付けて離さない。

 

離せよっ!

 

カッとなって怒鳴るが、それでも彼女は手を離さず、

やめて、お願い……

と振り絞るように言う。

 

(何なんだよ、何でそんな言い方するんだよ――)

 

恐らく初めて目にするその様子に呆気にとられ、束の間その場に棒立ちになる。

 

事もあろうに、この僕に向かって彼女が『お願い』などと言ったことがこれ迄一度でもあっただろうか。

 

「クソッ!」

 

心の中では無く吐き捨てる様に口にすると葉月はやっと手を離したが、その手首を見ると軽くだが鬱血していた。

車はもう見えなくなっている。

 

「私――、帰るわね」

 

彼女は目を伏せたままそう言って、踵を返すと歩き始める。

 

ふと意地の悪い気分になった僕は、その背中に向かって声を掛けた。

 

「送って行こうか? 迷うといけないし」

 

葉月の肩がピクッと上がって一瞬立ち止まり掛けるものの、更に足取りを早めて逃げる様に歩き去って行く。

 

心地良いそよ風と穏やかな日差しとが、とにかく無性に腹立たしかった。

 



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〔第五章・第四節〕

 どれだけ我慢しようとしても、後から後から涙が溢れて来る。

何故こんなに悲しいのだろうと自分自身を見詰めて、その不思議さを感じる事が出来る位には落ち着いている積もりなのに、胸が張り裂けそうな程のその辛さをどうにも出来なかった。

 

(良い加減にしなさい! 二度と会えなくなる訳じゃ無いのよ⁉)

 

そんな風に己れを詰って見てもやはり涙は止まってくれない。

自分は只逃げ出したかっただけなのに……。

 

仁と葉月――結婚を約束し合った二人――の間に、唐突に挟まり込んだ場違いで目障りな邪魔者。

自分の事をそう思った瞬間、もう二度とそこには戻りたく無かった。

昨日仁の家に帰る事すらしたく無かったのに、心優しく恐らく今この世で唯一人自身の事を差し置いても陸奥の身を案じてくれる彼は、そんな自分ですら理由も聞くこと無く深く思い遣ってくれる。

 

『あそこは、何時でもむっちゃんの家だよ』

 

彼の言葉が蘇る度に、どうし様も無く嗚咽が込み上げる。

 

(戻りたい! 戻りたい!)

 

頭の中に陸奥自身の叫び声が何度も何度も木霊するものの、その叫びは優しい眼差しを注いでくれる彼に届く事は無い――いや、届かせてはならないと思うとその虚しさに益々胸が締め付けられる。

 

「陸奥さん、大丈夫ですか?」

 

余りに泣き続けるのを見かねて斑駒が心配そうに声を掛けて来るが、陸奥は返事をする事が出来ない。

 

(ちゃんと返事しなきゃ、心配させちゃうわ!)

 

一生懸命に自分に言い聞かせるが、それでもどうにもならない。

 

(どうすれば良いの? 今ここで引き返して仁の所に戻れたならこの悲しみが止まるの? あたしは満足出来るの?)

 

そう思った瞬間、脳裏に葉月の顔が浮かんで来る。

彼女に邪険にされて追い出された訳でも何でも無いが、それでもその笑顔を間近で見られるかと問われれば、それはどうし様も無く耐え難いものとしか感じられない。

 

(やっぱり無理だわ――、今のあたしには出来ない……)

 

そうこうする内に暫く逡巡していた斑駒が意を決した様に横を向くと、運転している男性防衛官に声を掛ける。

「済みません、どこか安全な所に停車して下さい」

 

(駄目っ、今戻る訳には行かない!)

 

必死の思いで口を動かす。

「いえっ、行って下さい!」

「えっ!」

彼女が驚いた様に陸奥を振り返る。

これまたとても不思議だったが、一度声を出してしまうとどういう訳か少し落ち着きが戻ってくる。

 

「済みません、ご心配をお掛けしました。もう大丈夫ですから行って下さい」

 

涙はまだ止まらないが、少なくとも嗚咽は治まって来た。

 

「陸奥さん、ご無理をなさっておられませんか?」

斑駒は如何にも心配そうに声を掛けるが、俄かに落ち着きを取り戻しつつある陸奥は己の感情を整理し始めていた。

 

(例え無理をして戻った処で何も解決しないわ……。それに、毎日二人の顔を見ながら暮らす事なんて出来るの?)

 

その自問に対する答えなど深く考える迄も無かった。

それどころかもしもまた仁に優しくされたりしたら、その時こそ自分の心が引き裂かれてしまいそうな気がする。

 

(少しだけで良いわ、時間を掛けて頭を切り替えるのよ――あたしには仲間がいるでしょ⁉)

 

「強がりを言う積もりはありませんが、本当に大丈夫ですのでどうか宜しくお願いします」

 

そう、大丈夫でなければならない、自分は仲間達の旗艦なのだ。

彼女達の先頭に立ってまだ見ぬ仲間達を探し出すと決心しただけではなく、姉と刃を交える覚悟すらしたのではないか。

そう思った陸奥は大きく深呼吸すると、改めて自分に言い聞かせる様に口を開く。

 

「すぐに落ち着くと思います。只ちょっと慣れていないだけですから――」

 

今は自分を迎え入れてくれる仲間の許に行くのが最善なのだ。

そしてもう少しだけ仁と葉月の事を冷静に見られる様になってから、改めて自分の気持ちを整理すれば良い、只それだけの事だ。

 

そんな風に何とか自分を宥めすかしたのだが、それでも自分を見詰める斑駒の瞳にどこか痛まし気な色が浮かんでいるのが見えてしまい、心の奥底を見透かされた様に感じて少し気に障った。

 



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〔第五章・第五節〕

 「ただい――」

ついそう言い掛けて、はたと気が付いた仁は口を噤む。

しんと静まり返った家の中では、靴を放り出す音すら大音響に聞こえてしまう。

「別に、こんなの何時もに戻っただけだろ!」

心の中で嘯いた積もりが知らぬ内に口を衝いて出ており、自分の声にドキッとさせられる。

どこを見渡してもきちんと片付けられており、陸奥と葉月がどれだけ念入りに出ていったのかという事を否が応でも思い知る。

何をして良いものやら見当も付かず、何かしら動きや変化が欲しくてテレビを点けてみるが、只でさえそんなものを見る習慣など無い上に、休日の午前に興味をそそる番組などあろう筈も無い。

 

(むっちゃんはテレビ見れるのかな)

 

彼女は瞳をキラキラさせて画面を見詰めていた。

陸奥に限らず、七十年間の断絶から解き放たれた彼女達にとって現代の日本は刺激に溢れている筈だ。

 

(もっともっと色んな事を経験させてあげたかったのに……)

 

どうしてこんなことになってしまったのか、理由が分からない事も手伝って感情のやり場が無い。

気晴らし出来ればとも思うが誰かに会う気にもならず、かと言って一人でモヤモヤし続けるのも結構難しいもので、結局種々の選択肢を消去していった結果居間に置いたままのPCでレポートの残りを仕上げてしまう事にした。

天気の良い休日に家に籠ってレポートを書くなど普段であれば憂鬱極まりない作業なのに、さすがの仁も今日ばかりは全くそんな気持ちにならない。

 

彼の心の中で陸奥の存在はとても大きく確固たるものになっていたし、彼女が家を出て行った位で簡単にそれが消え失せる筈も無いのだが、どうした訳か心の中に奇妙な空白が出来た様な不思議な感覚を味わっていた。

それに葉月に指摘された通り彼女と共にいたこの数日間で随分泣いた様な気がするのは確かで、今もてっきり涙が出るものと思っていたのに何故かそんな気配もしない。

まるで陸奥が出て行くのと共に、彼の感情の一部が拭い去られてしまった様なのだ。

 

(何故だろう、頭でもおかしくなったんだろうか? こんなの生れて始めてだよなぁ)

 

そう独り言ちた仁だったが、彼がその明らか過ぎる誤りに自ら気付くのはそう容易ではない。

この奇妙な感情の欠落を経験したのは幼い頃であり、長い年月が経過した事もあるが何よりもその痛みを伴う記憶を彼は無意識に黙殺しようとし続けていたからだ。

もちろん彼は自分の母の事を本気で忘れてしまおうとしてはいない。

それどころか自分を生んでくれたこと、そしてこの世で最も愛してくれたことに対する追慕の情は人一倍強かったかも知れない。

とは言えその想い出は彼にとって余りにも辛すぎ、その苦痛に耐えながら日々を過ごす事は到底出来なかったが為に、一時的に忘れてしまう事で自分自身を守って来ただけだった。

だが突然陸奥が去って行ったことで彼は再びこの奇妙な状態を経験し始めており、その事によって心の深層に仕舞い込まれていた葛藤が浮かび上がろうとしていた。

 

(何でも無い――そうだ、何でも無いさ)

 

力尽くでその湧き上がる記憶を抑え込みながら、仁はひたすら目の前の事に没頭し様と足掻いていた。

 

 目が覚めると窓の外は真っ暗になっていた。

オートパワーオフが作動したらしくテレビも消えている。

腹が鳴ったので、朝食以来何も食べていなかった事にも気が付いた。

 

(何か食べるかぁ)

 

と思い立ち上がり掛ける――とその瞬間暗い室内に電話が鳴り響き、彼は大袈裟に反応してしまう。

 

(脅かすなよ!)

 

心の中で悪態を付きながら子機を取り上げると『渡来衛吾』の表示が出ている。

 

(親父か……)

 

余り話したい気持ちでも無いが、さすがに無視するのは気が引けた。

 

「もしもし」

「仁、家にいたんだな。今日は休みじゃないのか? それとも帰って来たところか?」

 

遥々地球の反対側から架けているとは思えない明瞭な音声だったが、今の彼にとっては耳障りなだけだ。

 

「レポートまだ仕上げて無かったからやってただけだよ」

「そうか、ひょっとしてこの間言ってたフィールドのレポートか? 葉月ちゃんも一緒だったんだろう?」

 

父――衛吾は、言う迄もなく葉月が大のお気に入りだ。

今年の正月に帰国した際も葉月の手料理に舌鼓を打ち、上機嫌で、

「葉月ちゃんさえ居てくれれば仁は安泰だな♪」

と彼女の野望を後押しする発言をして喜ばせている。

只さすがに仁が気乗りしていない事位は薄々気付いており、彼の感情を無視したゴリ押し迄はしていない。

 

「ああ、どうせ仕上げはまた一緒にやるしさ」

まさか陸奥のことを話す訳にも行かず、それ以上答えることが無い。

「どうした仁、何かあったのか?」

 

(もちろん何かあったさ!)

 

と言いたいのを堪えて、

「別に大した事じゃないよ」

と流そうとする。

 

しかし衛吾は納得せず、

「本当か? 仁、もし何か面倒な事にでもなっているんだったらちゃんと教えてくれ。帰る必要があるんなら出来るだけ早く帰る積もりだ」

と食い下がる。

だが、父の言葉を聞けば聞く程彼の心は頑なになっていく。

 

「出来るだけって、何か起こってから一週間も経って帰って来て何か出来るのかよ」

 

自分で思っていたより冷たい声が出てしまうが、知った事かとも思う。

 

「……」

 

電話の向こうで父は黙ってしまい、少しだけ後悔した彼は、

「どっちにしろ大した事ある訳じゃないから。何かあったらまた電話するよ」

と少し普通の声音で言ってから、

「それじゃあ――」

と会話を終わりにし様とする。

にも関わらず、衛吾は

「待ってくれ仁」

と引き留める。

 

「?」

「仁――――、済まん……」

 

それを聞いた途端、胸の中で無明の焔が一気に燃え上がる。

 

「何が『済まん』だよ! なに、今更謝ってんだよ! 自分が好きでやっといて何が済まないんだよ! そんな事母さんが生きてる内に言えよ! 無理矢理我慢させてるとでもずっと思ってたのかよ! そう思ってんのに好きな事してたのかよ! 母さんは親父の犠牲者なのかよ! ふざけんなよっ!」

 

全身が一本の太い血管になった様にドクンドクンと脈打っている。

 

全力疾走でもした後の様に荒く早い息をしながら、仁は子機を握り締めていた。

 

「……言ったよ――母さんには――」

 

父は絞り出す様にそう言ったが、そもそも彼は返事を期待していた訳では無かった。

 

「叱られたんだ――、今、お前が――言ったみたいに……」

 

微かに声が震えている、父は泣いているのかも知れない。

 

「分かってて何で言うんだよ――おかしいだろ」

 

自分でも意外な程普通の声が出せた事に、彼は少し驚く。

 

「……ああ――、そうだな、本当にそうだ――、おかしいな……」

 

父の気持ちを理解出来たとか言う訳では無かったが、心の片隅に押し込め様としていた過去の事を今更穿り返している自分が虚しくなり、これ以上諍いを続ける気が無くなって来る。

 

「親父、話せる時が来たら話すから――必ず話すから――だから心配しないでくれよ」

 

「――――分かった、何かいる物とかあるか?」

 

「あの、少しだけ――金使っても良いかな?」

 

「もしお前が必要だと思うんなら貯金位全部使え。無くなったらまた馬車馬みたいに働いて稼いでやるさ」

 

「有難う――それじゃあな親父」

 

「ああ、お寝み仁、また電話する」

 

そう言って父は電話を切った。

 

家の中は堪え難い程の静けさで、思わず蹲ってしまう。

 

(寒い……)

 

気温が低い訳でも熱がある訳でも無いが、震える程寒い。

 

(むっちゃん……)

 

今ここに陸奥がいたらそっと抱き締めてくれるだろうか。

 

突然そんな思いを抱いた自分自身に戸惑った仁だったが、同時にそれはどれ程暖かく心地良いだろうかとも思ってしまう。

 

にも関わらず、彼はそこに懐かしさと痛みとを感じ取ったが為に、強く意識する前にそれを頭の中から無理矢理追い遣ってしまった。

 



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〔第五章・第六節〕

 「お先で~す」

そう声を掛けてゼミ室を出ると、

「葉月、待って?」

と琴乃が追い掛けて来る。

「ねぇ、渡来君と何かあったの?」

と、やや声を潜めて話掛けて来る彼女は如何にも心配そうな顔付きだ。

「別に――ちょっと拗ねてるだけよ、お互いにだけど♪」

少なくとも半分方は本当だが、まさか海の底から現れた女性の所為でなどと言う訳にも行かない。

「え~本当に? 旨くいかないもんねー、あんな事あってひょっとしたら急展開とかある? って思ってたのに」

彼女――吉田琴乃――は、あの日ゼミの大崎共々先に帰ったが何度も連絡をくれており、随分親身になって心配してくれていたし、何より葉月にとって焦れったい事この上ない仁との関係をかなり良く理解している。

「ウフフ♪ 本っ当そうなのよ! いっそ押し倒しちゃった方が手っ取り早いかな、何てね♪」

「あっ、強行手段に出ちゃう? 言っとくけど犯罪行為はダメよ⁉ インタビューされるあたしの身にもなってね♪」

「ちゃ~んと手加減するから大丈夫よ!」

琴乃は頭の回転も早く、ちょっとしたお喋りも小気味よい。

 

(皆こうだったら良いんだけどねぇ)

 

それが望むべくも無い事は葉月にも良く分かっていた。

同世代の女に限らず、男も何だか退屈で不甲斐無いと常々感じていたし、誰にも言いはしないものの仁はずっとましな方だと言う事もちゃんと理解している。

皆の前では殊更に彼が優柔不断で頼りないと吹聴してはいるものの、実際の所は生じっかきちんと周囲に気配り出来るが故に、何をするにもやたらに慎重過ぎて決断が遅いので余計そう見えてしまうだけだと言う事も承知していた。

言う迄も無い事だが、葉月にとって素晴らしい男でありさえすれば良いのであって、他の女達から魅力的に見える必要は何もないのだ。

そんな事を考えながら駐輪場まで来たが、やはり彼の自転車はもう無かった。

 

(ふん、何だかやけに素早いわねぇ)

 

この数日仁は魂が抜けてしまったかの様に生気が無く、兎に角リアクションが乏しかった。

それだけに訓練隊に出向く前日になってのこの素早さは、彼が何かを企んでいると言う事だろう。

 

(そんなに私が邪魔な訳⁉)

 

琴乃には冗談半分で言った積もりだったのに、本気で拗ねたくなってくる。

あの日陸奥に何があったのかは概ね分かっていた。

午後の話し合いが一段落した時、彼女の隣に赤城が座って話掛けているのを葉月は見ていた。

最初二人は何気なく会話していたものの、赤城が特に意識する様子も無く話した何事かに不意に陸奥が驚いた(と言うより愕然とした)様に反応し、それから急に挙動不審になったのだ。

そして、その後のちょっとした意向確認の席上で唐突に彼女が言い出したことを聞いた瞬間、葉月は確信を持った。

赤城は単なる雑談の積もりで葉月が仁の許嫁らしいとでも言ったのだろう。

それを真に受けて信じ込んでしまったとしか考えられない。

 

(むっちゃんに聞かせる積もりなんて更々無かったわよ……)

 

そもそも仁が赤城に変な気を起こすからいけないのだ。

無論、あの鈍感は自分がそんな気を起こした事すら気付いていないのだろうが、傍から見ていた葉月には手に取る様に分かったし、陸奥に迄も見抜かれていた。

だから嫁としては是非とも釘を刺してやらねばと思ったし、一見した処赤城は早合点するタイプの様に見えた事もあり、ちょっとした悪戯心から小芝居を打って見たのだが、余りにも旨くいってしまい面喰った位だ。

もちろんその後の事に付いては少し後悔している。

どのタイミングでも良かったので二人切りになって事情を説明すれば済む事だったし、そうすれば恐らく彼女はあっさり破顔して、

「でも、仁には何て説明したらいいのかしら?」

とでも言い出し、そこから後は女同士の内密の相談に出来ただろうにとも思う。

出会ってからたった数日ではあるが、葉月は陸奥の人柄に好感を抱いている。

常日頃から物足りなさを感じる周囲の同性達に比べても、その気配りやセンス、賢さや誠実さと言った人格の差は一目瞭然と感じていた。

これ迄の人生で親友と言える様な友人を持った経験が無かった彼女にとって、初めて親友になれるのではという秘かな期待を抱かせる存在だった。

 

(でもねぇ……)

 

思わず溜め息が出る。

あのバカはどう考えても陸奥に惹かれ始めていた。

本人にその自覚があろうが無かろうが嫁の目は誤魔化せない。

もちろん断じてそんな事を容認する訳にはいかないので、何時キュッと締め上げてやろうかと様子を窺っていたのだが、これまた残念な事に彼の気持ちが一方通行では無く、陸奥もまた彼に対して特別な感情を抱き始めている気配なのだ。

仁を締め上げるだけならまだしも、彼女に考えを変えさせるというのは容易な事では無いだろうとかなり危機感を抱き掛けた葉月だったが、もう少し冷静に観察しているとそこ迄事態は切迫していない事にも気付く。

今のところ感情が未発達な上に経験値も足りない陸奥は、その感情を自在に表現する事はもちろん恋愛感情とはどういうものなのかすらちゃんと理解出来ていない様なのだ。

これを知って少し安堵した葉月は、いきなり仁を巡って対立する様な面倒な事に発展しそうに無いと思い、やや警戒を解き掛けていた。

ところが予測不能な事態というのは起こるもので、それなりに時間の余裕もあるだろうからどうやってやんわりと引き離すべきかゆっくり考え様と思っていた所に、唐突にしかも自ら手を下す必要もなく陸奥の勘違いが起こってしまった。

いざそうなってみると少々申し訳無いとは思ったものの、こんな降って湧いた様なチャンスを見逃せと言うのは随分酷な話に思えた。

何せ真正面から衝突するといった最悪の事態を回避しながら、二人の感情がはっきりする前に程良い距離を置かせ、自然に火照りが冷めるのを待つという穏やかな解決を図れる上に、陸奥との友情も壊さずに済むかも知れないという正に願ったり叶ったりの機会だというのに!

結局何度となく葛藤はしたものの、ただ我慢して見過ごせと言うなら兎も角、誤解を解くためには自分から進んで行動を起こさねばならないという高過ぎるハードルを越える事は出来なかった。

後は精々彼女を邪険に扱わない様に慎重に(かつ出来るだけフェアに)振舞う位が精一杯だった。

しかしながら事はそれだけでは終わらなかった。

やっとの思いでこの辛く居心地の悪いイベントを乗り切れそうだと油断し掛けたその時、全く予想だにしない事が葉月を襲った。

彼が陸奥を乗せた車を追い掛け様とした時、本当に心の底から怖ろしくなったのだ。

 

『仁をとられる!』

 

その恐怖で彼女はパニックに陥ってしまい、尋常では無い力(これが火事場の馬鹿力と言うものだと身をもって知る羽目になった)で彼の腕を締め付けた上に、何と彼に行かないでくれと懇願してしまったのだ。

我に返った後でさすがに羞恥と自己嫌悪に苛まれてその場から逃げ出したが、その背に向かって仁が投げ掛けた言葉は更に彼女を打ちのめした。

何とあの甲斐性無しは、葉月の最も大切な思い出をちゃんと覚えていたからだ。

 

(どう言う事なのよっ! そこ迄分かってる癖に私のこの扱いはなんなの⁉)

 

引き返して仁の胸倉を掴んで首ガクガクして遣りたくなるのを必死に我慢して立ち去ったのだ。

 

(こんなに長年世話焼いて来たのに、もう少し優しくしてくれたって罰は当たらないでしょっ!)

 

今も恐らく何処かで自転車を走らせている筈の仁に向かって、心の中で思い切り喚き散らして見たが不意に虚しくなる。

 

(はぁ~あ、私、何でこんな病気患ってんだろ)

 

思わず自嘲してしまう。

 

(ウダウダしてないでさっさと帰ろう……)

 

珍しく凹んだ彼女は、肩を落としてとぼとぼと自転車を押しながら校門を出た。

 



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第六章
〔第六章・第一節〕


 先程から平静を装うのに全力を振り絞っている自分が滑稽だった。

今朝は今朝で起床ラッパが鳴る随分前に目が覚めてしまったが、ごそごそ起き出して同室の初春や子の日を起こす訳にもいかず、ベッドの中で悶々と過ごしていた。

会議が始まる迄に、皆と一緒に朝食を摂ったり居室デッキの掃除をしたり洗濯をしたりと色々な事をした筈なのだが、ほとんど何も覚えていない。

記憶に残っていることと言えば、行く先々で何時も時計ばかり見ていた事位だろうか。

 

(あ~もうっ! 本当に嫌になるわっ)

 

いざ会議が始まると、気が付く度に仁の顔ばかり見ている自分が酷くみっともなく感じられて仕方がない。

 

(心を切っちゃうスイッチがあったら良かったのに)

 

無論そんな便利なものは幾ら現代でも有りはしなかったので、やはり力尽くで自分の感情を押さえ込むしか無いのだった。

気を静め様と視線を逸らして見ても、葉月と目が合いそうな気がして彼女の方は見られない。

もし目が合ったりすれば自分は石になってしまうのではないか、いや自分達は元々鉄の塊なのだから、元の鉄に戻ってしまうのではないか――そんな恐怖にも似た思いを何時しか自分は抱いている。

そんな訳で改めて仲間達の方へ目を向けて見るが、それはそれで今度は高雄が気になってしまう。

払暁から浮き足立っていた自分が言う事では無いが、彼女は朝からずっとそわそわしており、自分同様会議が待ち遠しくて仕方が無かった様だ。

 

(もう高雄ちゃんたら――本気なのかしら?)

 

さすがに数日前の様に睨んだりはしないものの、つい恨めしくなってしまう。

実際、陸奥の様に仁や葉月に対して含む処が無い彼女は、誰に気兼ねする事も無くひたすら彼を見詰めている。

会議が始まってからずっとそうなので、気にした仁がやや当惑しながら視線を合わせた時はそれこそ蕩ける様な甘い笑顔を浮かべたのだ。

 

(一体どうやったらあんな風に笑えるのかしら?)

 

思わず感心してしまったが、同時に不安が湧き上がって来る。

何せ高雄は葉月が言うところの男性の願望を地で行っているのだから、彼女に甘い笑顔を向けられれば普通の男は嬉しい筈なのだ。

実のところ隊に移って来てからの数日間、食堂や厚生棟など諸々の場所で隊内の男性達の近くを通る時に見ていると、彼らの視線はほとんど高雄に向けられていた様な気がする(ただ彼らは高雄の顔よりも、もう少し下の方をやけにちらちら見ていた様な気もするが)。

なので、仁が(陸奥にとっては特別であっても)ごく普通の男性と言うのであれば、彼女にあんな笑顔を向けられたら嬉しくなるのかも知れない。

 

(でも嬉しくならないで仁!)

 

さっきから陸奥はずっとそう念じている。

こうして離れて暮らす様になっても想いが通じて欲しい――ついそんな風に思ってしまう自分に応えてくれているのか否か、今のところ彼は嬉しそうな様子を見せてはいなかった。

 

 少し気が楽になったので、会議の内容に頭を戻す。

在日米軍への用心に始まって、諸外国に自分達の存在を漏らさない様にする事が何故重要なのかという話題が続いている。

隊に来てからの数日間、陸奥は仲間達と一緒に様々な座学を受けた。

自分達が知っていた七十年前の世界の様子は、専ら帝国海軍の軍人達やその関係者らの会話や時折交わされる電文の内容、彼らが見ている書面や新聞程度から得る断片的な知識だけだったので、それらを体系的に聞く事はとても興味深い。

今や米国は敵から同盟国に変わっており、朝鮮も台湾も南洋諸島も全て外国になり、樺太や千島はソ連にとられ、そのソ連は今はロシアだと言う。

日本は随分小さくなったのだなと感じると同時に、日本の軍隊も同じく小規模になっている事に驚かされる。

 

「現代の軍事力は、物量や規模より質が重要視されています」

とは中嶋の弁だが、科学技術の発達はそれ程世の中を様変わりさせたと言う事なのだろう。

それだけに自分達の存在は、その科学技術の上に成り立っている世界秩序を大きく揺るがせる可能性があるのだという。

この話を聞いた時、理屈は何となく分かるのだが感覚的には自分も仲間達も納得が出来ず、この会議の際にもう一度話をしようと言う事になった経緯がある。

 

「でも、現代の兵器なら威力や性能も桁違いなのではないですか? なぜ、私達の様な過去の遺物を恐れる必要があるのですか?」

 

加賀のこの意見は皆の疑問を代弁している。

 

「その現代の大量破壊兵器を使って戦争すれば、敵味方両方滅亡してしまうんですよ」

横から口を挟んだ葉月の言葉に、

「それが本当であれば、そんな強力な兵器など何の意味があるんでしょうか?」

と妙高が不思議そうに応じる。

「世界が二つの陣営に別れて、お互いの腹を探り合いながら軍備拡張を競い合った時代が30年以上続いたんですよ。その時代には、もし互いの優劣がはっきりしてしまえば、万に一つの完全勝利の可能性に掛けてどちらかが全面戦争を仕掛けるかも知れないという危機感があって、止めたくてもやめられない状況に陥ってた見たいですね」

 

陸奥の贔屓目なのか仁の説明は何だか判り易く聞こえるが、それを更に龍田がとことんまで卑近な内容に引き摺り下ろしてしまう。

 

「あらぁ~、何だか皆さん臆病な意地っ張りさんばっかりだったんですねぇ~♪」

彼女の感想は身も蓋も無く、中嶋が苦笑しながら補足する。

「龍田さんに掛かると一刀両断ですね。まぁそんな背景もあって、いわゆる大量破壊兵器を使った戦争と言うのはこの七十年一度も起こらず、通常戦力による地域紛争や小競合いが多発する様になったんです」

「と言う事は――」

赤城は、この様な間合いで口を開く事が多い様だ。

癖なのかそれとも意識しているのか判らないが、彼女は往々にして纏め役になりがちだった。

「そのいわゆる通常戦力同士であれば、やはり古来よりの定石通り奇襲攻撃が圧倒的に有利と言う事ですね?」

「その通りです。目視であろうがレー、いや電探であろうが監視衛星であろうが、対象物が小さい程気付かれること無く接近出来ると言う事です」

中嶋の答えは明快だが、それ以上に仲間達の表情からこの議論の成り行きが良く理解出来たという雰囲気が伝わってくる。

そして陸奥がそう感じた通り、朧が声を上げる。

「つまり、アタシ達は人間と同じ大きさなのに艦艇一隻分の力があるから――だからとっても物騒なんですね?」

「そっかぁ~ボクそんなに物騒な奴だったんだね! 何だか照れちゃうなぁ♪」

「物騒な奴と言われて照れるのは、其方位なものじゃ皐月よ♪」

初春がそう突っ込むと一斉に楽し気な笑いが起こる。

陸奥も思わず笑顔になるが、その拍子に仁と目が合った。

 

(あっ……)

 

一瞬どうし様かと戸惑うが、彼は目を逸らさず何か言いた気に真っ直ぐ陸奥を見詰めて来る。

 

(判るわ、何か大事な用があるのね仁)

 

まだ通じ合えている――そう感じただけで、急に心にゆとりが出てくる。

 

(もう少し後でね)

 

目でそう伝えると、自然に彼から視線を逸らす。

勘の良い葉月は早速気付いているかも知れないが、構うものかと言う気持ちも少なからずあった。

二人が許嫁だからと言って、一言も喋ってはいけないという決まりも無いだろう。

そう思っていると、斜め向かいから蒼龍が、

「あ~っ、陸奥さんたらやぁだぁ、もう♪」

と軽く揶揄する様な笑顔で声を掛ける。

 

(蒼龍ちゃんてば、何でこういう事に勘が鋭いのかしら?)

 

そうは思ったものの、

「ちょっと用事があるだけよ、特別な事じゃないの♪」

と軽い笑顔でいなしておく。

あまり騒いで欲しくないと思ったからではあるが、何も葉月に警戒されるのを恐れてではないのだと、何処かで無理矢理自分に言い聞かせていた。

 



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〔第六章・第二節〕

 葉月を見ていると少々気の毒になって来る。

かく言う僕も午前の会議迄はとても緊張していたのだが、今はすっかり落ち着いていて食事を楽しむ余裕すらある。

もっともその食事が楽しめる味では無い事が少々残念なのだが。

 

 葉月にとっては単なる迷惑でしか無いのだろうが、僕はここにやって来ると外の世界への興味を抑え切れない彼女達の関心の的になってしまう。

特に高雄さんは、明らかに単なる関心を通り越した強烈なアピールをして来るのだ!

普通あそこ迄露骨に異性を見詰めていたら誤解されても仕様が無い処だが、彼女はそんな事には全く無頓着で、視線で顔がヒリヒリする程見詰めて来た上に、これ迄の人生で只の一度も遭遇した事の無い蕩けてしまいそうな笑顔も見せてくれた。

過去にそんな経験をした事の無い僕は、軽く目眩がして危うく失禁しそうになった程だ。

只一応言い訳しておきたいのだが、幾ら僕が愚か者でもさすがに自分の男性としての魅力が彼女達を惹き付けているなどと勘違いしてはいない。

高雄さんだけでなく、今競い合う様に僕をチヤホヤしてくれる彼女達も、要は軍人以外で素の一般人の若い男を見るのはおそらく初めてなのだろう。

しかも感情と言う物を持ってこの世に出現してまだ数日と言う時に見たのだから、その刷り込み効果は相当なものに違いないのだ。

そう――その位はちゃんと分かっている積もりなのだが、分かっているだけにこの状況は実は僕にとって生涯で一度切りの、しかも千載一遇のチャンスではないだろうかという思いを禁じ得ない。

 

(物珍しさだろうが刷り込みだろうが軍艦だろうが、付き合えるんだったら同じだろ!)

 

心の中の積極的な僕が頻りにけしかけ、それに対する冷静な僕はまともに反論出来ない。

何故かと言えば、とても正直に白状すると彼女が凄く(いやいやもの凄く)タイプだからだ。

こんなに可愛くて濡れた様な黒髪に真っ白な肌のコントラストが眩しくて、見ているだけで体の芯がウズウズしてくる程の豊満な体つきで、何処かしらおっとりとしたピュアで優しげな女性なんて絶対この世に存在する筈が無いと思っていたのに!

そう感じてしまったが最期、積極的でお調子者な僕は俄然主導権を握り始め、冷静で小心者の僕がどれ程、

(おい分かってるか⁉ やり過ぎたらそれこそ本当に葉月に刺されるぞ⁉ もっと冷静になれよ!)

と説得しても聞く耳を持たない。

 

――もしこのテンションのまま僕が暴走していたら、そう遠からぬ内に彼女達は血の惨劇を目撃する羽目になったかも知れないが、幸いな事にそうはならなかった。

確かに高雄さんの引力は凄まじく、僕は地球の重力などそもそも存在しなかったかの様にすっかり浮足立っていたのだが、それをあっさり超える力によってほぼ一瞬で地上に引き戻されたからだ。

 

 午前の会議が後半に差し掛かった頃のあの初春ちゃんの突っ込みは思わず嫉妬する程絶妙で、僕も彼女達共々笑わせて貰ったが、その楽しい瞬間にむっちゃんと目が合ったのは僥倖以外の何物でも無い。

彼女の瞳に一瞬戸惑いの色が浮かんだのは分かったが、僕には如何しても伝えなければならない事があり、そしてチャンスなどと言うものは何時も都合よく巡って来てくれるものでは無い事もこの数日身に染みて分かっていた。

 

(話があるんだ、むっちゃん!)

 

と、僕は必死に気持ちを伝え様とするが、実際にはそんな必死の努力など全く用無しも良い所だった。

彼女は1秒も要する事無く僕の意図を汲み取ってくれ、とても自然にアイコンタクトを返してくれると、これまたとても自然に視線を外してくれたのだ。

もうくどくどと説明する必要も無いだろう。

彼女の眼差しが巻き起こしたその何とも言えず優しい潮風は、脳裏からあの蜜のように甘い笑顔をいとも容易く吹き飛ばし、全身を感じた事の無い充実感と幸福感で満たしてしまった。

そんな訳で、僕の隣には今確かに高雄さんが座っているのだが、まるで従妹と他愛のない雑談でもしているかの様に落ち着いていられるのだ。

 

 とは言うものの葉月にとって昼食はやはり戦場の様で、今日も僕の鼻先で連合艦隊の精鋭達と盛んに火花を散らしている。

さすがに彼女達は全員が1対1で葉月と互角に渡り合える程の猛者では無いが、艦隊戦に持ち込んでしまえばお手の物である。

しかも、彼女達はこんなつまらない(信じられない事に、勝者の為の賞品はこんな情けないヤツと楽しくお話しする権利なのだ!)事に対してもかなり真剣勝負を掛けて来るのだから、普通の女性相手ならば向かう所敵無しの葉月であっても苦戦は必至だ。

 

先日の経験を生かした葉月が考える事は(昼食をパスしてしまうと言う反則技を除いて)兎に角彼女達より素早く有利な席を確保することだろう。

もちろん僕らの日常的にはそれでOKだろうが、それを真面目に阻止し様とするのが彼女達だ。

 僕らが例の食事部屋に行って見ると先日同様に長テーブルを並べて作った食卓が用意されていたのだが、なんと彼女達は四隅の席(無論僕をそこに座らせ無い為にだ)をさっさと先に埋めて待っていた。

で、いきなり不機嫌になった葉月は取り敢えず僕を無難な駆逐艦の子達の横に座らせ、自分がその反対側を確保することで妥協し様としたのだが、幾ら何でも席が決まってから席替えする様な露骨な事はしないだろうというのは所詮現代の日本人である僕らだけにしか通用しない価値観だった。

無難だった筈の周囲の席はあっさり高雄さんが葉月の反対隣、長良ちゃんが正面という配置に入れ替えられてしまい、僕は彼女の瞼がピクピクするのを見てしまう。

 

そのうえ更にダメ押しの一手があった。

葉月の反対隣になんと龍田さんが座って、彼女を上から下まで舐め回す様に観察した挙句、

「塔原さんってぇ、とっても明るくて可愛くてお尻もキュッと締まっててぇ、結構私好みですねぇ~♪」

とにこやかに(葉月曰く目は笑ってなかったらしい)宣言して震え上がらせたのだ。

そんな訳で葉月の旗色は芳しくなく、戦場の主導権はしばしば彼女達に握られがちで、全体としては艦隊側の勝利と言えそうな状況である。

 

(さすがにちょっと可哀想だな)

 

そうは思ったものの、うっかり口に出したりすればそれこそ『あんたに心配して貰う程落ちぶれちゃいないわよ!』と啖呵を切られてしまうだろう事は目に見えていたので、心中で秘かに同情するだけにしておく。

それに、彼女達は陰惨な遣り口で葉月を袋叩きにしようなどとは欠片も思っていないらしく、この鍔迫り合いも終始安心して見ていられた。

 

 そうこうしている内に中嶋さんの終了宣言が出て彼女達が後片付けに動き始めた途端、葉月が勢い良く席を立つと小走りに部屋を出ていってしまう。

おやっと思ったものの珍しく余裕のあった僕は、自分がやるべき事の優先順位をちゃんと思い描ける。

鞄から紙袋を出しながら立ち上がると、既にむっちゃんが僕を見ていた。

躊躇う事無く歩み寄ると、彼女もすっと皆から離れる様に移動してくれる。

 

「むっちゃんに、これを渡したかったんだ」

「なあに、これ?」

「中に手紙を入れておいたから読んでくれる? 本当はもっと色々使えるやつを買ってあげたかったけど、傍で使い方を教えてあげられないから――」

 

むっちゃんは、口許に笑みを浮かべながら

「判ったわ、後のお楽しみにしておくわね♪」

と肯う。

 

「ここの生活はどう?」

「皆と一緒なのはとっても楽しいわ、でも、ご飯とお風呂は仁のお家の方がやっぱり良いわね♪」

 

(戻って来れば良いんだよ⁉)

 

そう口に出した積もりだったのに、肝心な処で僕の声帯は動作不良を起こしてしまう。

 

「……」

 

にも関わらずむっちゃんには通じた様で、彼女はもの言いた気な切ない瞳で僕を見詰める。

 

(むっちゃん、僕は――)

 

自分自身の中で名状しがたい感情の雲が湧き上がって来るのを確かに感じるのだが、咄嗟にはその正体が掴めずもどかしい気持ちだけが募る。

 

そんな不自然な間が焦れったく思われたのだろうか、突然斑駒さんが話し掛けて来る。

 

「陸奥さん、午後の会議が始まる迄に時間もありますし、自室に荷物を置いてこられてはどうですか? 邪魔になるでしょうし」

 

一瞬キョトンとしたむっちゃんも(そして僕も)すぐに斑駒さんの意図を理解した。

彼女が紙袋をぶら下げていたら僕が何かを渡したのは一目瞭然だし、何と言ってもむっちゃん達はともかく僕ら現代の日本人にとっては、白地に赤い文字の書かれたその紙袋を見れば中身が何か考える迄も無い。

「ええそうします。それじゃあ仁、また会議でね」

にっこり笑って部屋を出て行く彼女を見送りながら、

 

(やっぱりここは葉月にとってアウェイなんだな)

 

などと思っていると、不意にチョンチョンと背中を突つかれる。

振り返ると、先程華麗な突っ込みを披露して全員を沸かせた初春ちゃんが立っていた。

 

「ご挨拶がまだでしたのう渡来殿。帝国海軍第二十一駆逐隊所属に御座りました初春と申しまする、宜しくお見知りおかれよ」

 

気品を漂わせている彼女は随所で機知に富んだ発言をしていた印象が強く、小柄な大人の女性の様に感じていたが、こうして間近で見ると大人びた空気を纏っていながら如何にも少女然とした容姿にも見え、正に年齢不詳と言う表現が相応しい。

 

「こちらこそ、渡来です、よろしくお願いします」

僕がそう応えると、彼女は特徴的な眉を上げてニコリと笑う。

「先日来、妾と子の日は陸奥殿と同室にて起居しておりましての」

そう言うことだったかと納得する。

「陸奥さんの毎日の様子はどんな感じですか?」

「本日に限りますれば、早朝より心ここにあらずと言う態で御座りましたの♪」

 

手にした扇で口元を隠しながら少々悪戯っぽく上目遣いに僕を見たその眼差しの妖艶さに、思わず背筋がゾクゾクしてしまう。

変わった言葉遣いや気の利いた物言いに気を取られていたが、初春ちゃんがとんでもない美少女だと言う事に今更ながら気が付く。

 

「楽しみにしてくれてたのならとても嬉しいんですけどねぇ」

「ほほ、渡来殿、少々の事では動ぜられませぬな」

「胆が座ってるからじゃないですよ、念のため」

「ほほほ、愉しい方じゃ。因みに、こちらにお越しになった日は一体何があったものやらと心騒ぐ程に御座りましたが――花顔に紅涙の跡も見受けられましたしのう」

「僕にも理由は分からないんですよ、突然の事だったので余計に」

「渡来殿にも心付く由は無いと仰せか、はてさて如何なる神に引かれ給うたやら」

「彼女はずっと様子がおかしいんですか?」

「さすがにその様な事は御座りませぬぞ、すぐにこちらの様子にも慣れて普通に振舞っておられました故。尤も、やはり膏肓に何やら秘めておられるとお見受けしておりますがの」

「お願いします、出来るだけ彼女の相談相手になってあげて下さい」

「渡来殿は卒直なお方じゃの。妾もそうありたいと願うておりますものの、薄徳の身ゆえ一朝一夕にはお役にたてずにおりまする。何とも口惜しい限りですのぅ」

 

むっちゃんは仲間にも本音は話していないのだろう。

だとしたら、それを聞き出すのは並大抵の事では無さそうだ。

それに一生懸命になる位ならば、彼女が仲間達とも僕らとも蟠りなく付き合っていける様に、そしてもしも家に戻りたいと思った時には気兼ね無く戻って来れる様にしておいてあげることが、今一番必要な事かも知れない。

 

「ほほほ♪」

 

何の前触れも無く初春ちゃんが愉し気に笑ったのでビクッとしてしまう。

「どうかしました?」

「いえ――渡来殿、急に良いお顔になられましたの。何ぞ得心のいく事など御座りましたか」

 

(凄いな――今会ったばっかりなのに)

 

やっぱり彼女は只の少女ではない(まぁ、その妖艶な迄の美しさの時点で既に只者で無い事は確定なんだが)。

そしてもちろん初春ちゃんのみならず、彼女達は皆只可愛いだけではなく何処かしら人間離れした力を秘めている存在だった。

むっちゃんは今、そんな頼もしくかつ分かり合える仲間達に囲まれて、安心して日々を過ごせる状態にいるのは間違いなさそうだ。

そう思うと、胸の奥に重く沈殿していたもやもやとしたものが少し軽くなる。

 

「ええ、少しだけですが♪」

 

それでもゼロと少しでは天と地程の差があるのだ。

 

 



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〔第六章・第三節〕

 風呂の後で娯楽室に集まって皆とお喋りするのはとても楽しく、つい時間を過ごしてしまうのだが、今日はさっさと切り上げて自室に戻る。

子の日がついて来るのは仕方が無いと思っていたものの、去り際にちらと窺うと初春が目で笑って見せる。

 

(初春ちゃん有難う……)

 

子の日は仁を快く思っておらず、何を言い出すか不安に思っていたが、初春が気を利かせて彼女を引き留めてくれている。

ほっとして自室に向かうと後から加賀も出てくる。

「陸奥さん、お邪魔で無ければご一緒して構いませんか?」

「加賀ちゃん、気を遣わせちゃった見たいね。もちろん良いわよ」

彼女と共に自室に入り、自分の寝台に腰を掛けて彼が渡してくれた紙袋を手に取る。

「何が入っているんですか?」

「あたしもまだ知らないの」

もっとも、陸奥が気になっているのは中身が何かでは無く彼の手紙の方なのだが、さすがに加賀の前で中身を放ったらかして手紙を読み始める訳にもいかず、赤と白の紙箱を取り出す。

「お守りケータイ?」

加賀が怪訝そうに読み上げるが、陸奥にはそれが何なのかすぐに判った。

「これ、携帯電話だわ!」

急に動悸が激しくなって来るのを感じる。

 

(これがあれば、話したい時に何時でも仁と話せるのね!)

 

「陸奥さん、随分嬉しそうですね」

彼女に指摘されて、初めて自分がどんな顔をしているのか気が付く。

「隠しても仕方無いわね――そうよ、あたし本当に嬉しいの」

そう言いながら折り畳まれた便箋を広げる。

そこに綴られた手書きの文字を見るだけで、まるで仁の声が聞こえて来る様な気がする。

「何て書いてあるんでしょうか?」

彼女に聞かれる迄も無く、陸奥はそれこそ一心不乱に文字を追い掛けていた。

 

彼は、陸奥にもっともっと色々な物を揃えてあげたかったし色々な事を経験させてあげたかった、携帯電話も、もっと色々な事に使える物を買ってあげたかったが使い方を教えてあげられないので取り敢えず簡単なものにした――等と書き連ねていた。

この携帯電話には幾つか連絡先を登録してあるのでそれを選ぶだけで電話が掛けられるし、短い文章ならメール(電文見たいなものだと書いてある)も送れるとの事で、彼のスマホには二十四時間何時でも掛けて構わないので、話したい事があればどうかそうして欲しいとまるで頼み込む様な調子の言葉が並んでいる。

そして最後に、毎週必ず様子を見に来るので欲しい物は何時でも言って欲しい、外出出来る様になったら色々な所に連れて行ってあげたいと名残惜しげに綴っていた。

 

「そんなに良い事が書いてあるんですか?」

 

加賀がそんな聞き方をするからには余程嬉しそうな顔をしていたのだろう。

どうし様かと逡巡したものの、何かしらそうした方が良い様な気がして、

「ええ、加賀ちゃんも読んでみる?」

と手紙を渡し、自分は携帯電話の入った箱を開ける。

中に入っていたのは手の中にすっぽり収まってしまう程の大きさで、丸味を帯びた可愛い水色の機械らしからぬ物だった。

 

(仁や葉月のとは大分違うのね。でもあたしの好きな色だわ……)

 

僅か数日の間だったが、彼はちゃんと見てくれていた。

手紙に書かれていた名前の冊子を捲ると使い方が判り易く説明してあり、すぐに電源を入れることが出来る。

「陸奥さん、いきなり使えるのですか?」

「そんな難しいものじゃ無さそうよ? これを見たらとっても簡単だわ」

そう言いながら、早速登録されている電話番号を確認してみる。

『1ばん』には『じんのスマホ』が登録されていた。

 

(これを二回押すだけで、仁と話せるのね!)

 

今すぐ彼に電話して見たいと言う衝動が湧き上がって来るが、辛うじてそれを我慢して『2ばん』を見てみる。

『2ばん』は『はづきのスマホ』だった。

陸奥は思わず苦笑するが、能々考えれば自分が一方的に葉月に近付き難く思っているだけ(とは言い切れないかも知れないが)であって、そんな事を知る由もない彼の立場からすれば、本当に困った時には彼女が頼れる存在なのは間違いないだろう。

続いて『3ばん』を確認して見様と――

『3ばん』は――――

不意に涙が溢れて来て目を開けていられなくなる。

 

「陸奥さんどうしたんですか⁉ 陸奥さん!」

突然大粒の涙を零し始めた陸奥を見て、相変わらずほとんど表情には出ないものの明らかに加賀が慌てる。

「何でもないわ――大丈夫よ――加賀ちゃん――」

 

応えながら可愛らしい携帯電話を胸に抱き締める。

 

(仁、仁!)

 

『3ばん』に登録されていたのは『むっちゃんのいえ』だった。

 

(御免なさい――あたし、やっぱり強がってたの……本当は帰りたくて仕方無いわ)

 

ここの生活が嫌な訳でも無いのに、何故これ程帰りたいのだろうかと思う。

 

「渡来さんのお手紙にある『むっちゃん』が陸奥さんの事なんですね」

そう言いながら加賀が涙を拭ってくれる。

「――そうよ、考えてくれたのは葉――塔原さんだけど」

「陸奥さん、一つお聞きしても構いませんか?」

「なあに?」

「失礼ですが、何故こちらに移って来られたのですか?」

「……」

 

さすがに陸奥は迷う。

 

(加賀ちゃんには話すべきかしら……)

 

「答え難い事なのかも知れない――とは思ったのですが、でもこのお手紙と言い陸奥さんのご様子と言い、どう考えても誰も望んだ事では無いとしか思えないのです。もちろん私達にとっては嬉しい事なのですが」

 

「――――そうね、加賀ちゃんには正直に言うわ。あたしが二人の邪魔者になってると思ったからよ」

「何故そう思われたのですか? このお手紙を見ても、渡来さんが陸奥さんを邪魔に思っている節など微塵も感じられませんが?」

「でもね、渡来さんと塔原さんは許嫁なのよ、あたし見たいな得体の知れない女が居候してるだなんて、塔原さんにすれば気が気じゃない筈でしょ?」

「それでは、陸奥さんは私達と再会出来れば直ちに渡来さんのお宅を出様と考えておられたのですか?」

「ううん、そんな積もりじゃ無かったわ――。だって許嫁だったなんて知らなかったもの」

「何時お判りになったのですか?」

「加賀ちゃん達と初めて会えた日よ、赤城ちゃんから聞いたの」

 

何気なくそう応えると、彼女は見るからに訝しげな顔になる。

 

「済みません、疑う積もりはありませんが渡来さんや塔原さんから直接聞かれた訳では無いのですね? しかも陸奥さんがご存知無かったのに、初対面の赤城さんが何故か知っていたと言う事ですね?」

 

相変わらず彼女の物言いは手加減が無い。

確かにそう言われると、陸奥も何故納得していたのだろうと疑わしい気持ちになって来る。

 

(そうだわ……あたし、確かめもしなかったわ)

 

「――本当にそうね、加賀ちゃんの言う通りだわ――きっとあたし、目を背けたい逃げ出したいって気持ちで一杯だったから、ちゃんと確認し様とか思いもしなかったのね」

「陸奥さんがご自身を責められる必要は無いと思います。赤城さんが渡来さんや塔原さんから本当に聞かされた可能性も全く無いとは言えないでしょうし。でも、やはり赤城さんだけが知っていたというのは如何にも解せません」

 

胸中で複雑な思いが渦巻く。

 

(これがもし勘違いだったら――あたしは戻れるのかしら? でも、葉月はきっと納得しないわよね。赤城ちゃんだって嘘を吐く訳無いし……)

 

何だか真相がはっきりして欲しい様な、そうなると誰かが極まりの悪い思いをしてしまいそうな、素直に喜べない気分がする。

 

「陸奥さん、私――」

加賀が何か言い掛けた丁度その時、

「陸奥さんずるーい、なんで子の日を置いてっちゃうのぉ⁉」

とけたたましい声を上げながら子の日が扉を開け、続いて初春も入って来る。

「見て判らぬか、陸奥殿と加賀殿は大事なお話があったからに決まっておろう」

時計を見上げると消灯時間が近付いている。

「あらもうこんな時間ね、加賀ちゃん遅くまで有難う」

子の日の手前もあり取り敢えずそう言って話を締め括ったものの、陸奥の心中はすっきりした訳では無く、加賀もそれは判っている様だ。

 

(いっその事、仁に相談して見ようかしら?)

 

そう思って彼のくれた水色の携帯電話を見詰める。

とは言え、それでは解決にならないだろう事も何となく想像がつく。

 

(そうよね、あたしはどうしたいかなんて相談する迄も無いわ)

 

結局、なる様にしかならないのかも知れない。

人間の姿になってからと言うもの、自分で如何にか出来る事の方がずっと少ないのだから。

 



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〔第六章・第四節〕

 どんよりとした曇り空を待ち望む者などそうは居ないのだろうが、この場合の彼女達と中嶋はその例外だった。

起床ラッパより早く起き出した陸奥と仲間達は、天気予報に合わせて昨夜から泊まり込んでいた中嶋と共に軍装(今はそう言わないそうだが)に身を固めてバスに乗り込み、横須賀の防衛隊埠頭を訪れていた。

日本の港で米軍の艦艇を見るのは如何にも奇異な光景だったが、中嶋によれば、

「現代のほとんどの日本人にとって、当たり前の眺めなんですよ」

との事だった。

それでも陸奥にとっては簡単に受け入れ難い現実であったし、仲間達も不安そうにしている者、唇を噛んでいる者など様々で、気の強い皐月などは頻りに米艦を睨みつけている。

「皆落ち着いてね、例え車の中でも余り目立つ事をしては駄目よ」

陸奥がそう声を掛けると、皆が声を揃えて「はーい」と返事をする。

じきにバスは横須賀地域総監部と表札の出ている建物の前を通り過ぎ、そのまま岸壁に向かう。

 

「あの娘ですね?」

妙高が指差す先に、灰色のずんぐりした艦影が見えていた。

その横まで乗り付けたバスが艦の前で立っている斑駒と上級士官と思しき男性の間近に停車すると、最前席に座っていた中嶋が振り返って声を掛ける。

「皆さん、気分の悪い方などはおられませんか?」

しかし陸奥を始めとして誰も声を上げる者はなく、全員がひたと彼を見詰めている。

「それでは直ちに下車致しましょう」

 

先頭に立った中嶋がバスから降り立つと件の二人が中嶋にさっと敬礼したので、彼の方がその士官よりも上官なのだと判る。

陸奥が彼から一歩引いて気を付けをすると、仲間達は命じる迄もなくその横にキビキビと整列してくれる。

それを横目に確認して中嶋にちらと視線を投げ掛けると、目で肯った彼が

「こちらが本日お世話になる『とおとうみ』の篠木艦長です」

と男性を手で指しながら皆に紹介する。

陸奥が敬礼して

「宜しくお願い致します」

と挨拶すると、仲間達が後に続いて繰り返す。

「よろしくお願い致しますっ!」

「こちらこそ宜しくお願いします。ご覧の通り余り余裕のある艦では無いので、演習海域に着く迄少々不自由な目に遭わせてしまうかも知れませんが、困った時は遠慮なく言って下さい」

篠木が真っ白な歯を見せてそう言ってくれたので、少し不安そうだった仲間達にも笑顔が戻る。

「時間を節約する為にも皆さんには直ちに乗艦して頂きます。訓練用の服装も積み込み済みですので、艦上で着替えをお願いします!」

斑駒も少し緊張している様で、何時もよりもやや早口になっている。

「それではこちらへどうぞ。支援艦『とおとうみ』へようこそ!」

篠木が先に立って誘ってくれ、中嶋を先頭に斑駒を最後尾にして一同付き従う。

陸奥も若干は緊張しながらも、弾んだ気持ちで舷梯を昇る。

 

「この娘は今何を思ってるんでしょうねぇ」

飛龍が艦側をピタピタ叩きながら話し掛けて来る。

「あたし達と同じよ、今は何も感じてないし考えて無いわ。後になって今日の事も思い出すかも知れないけど」

「もし寿命を全うして天国に行ったら、海の上の思い出だけを持って行くんですよねぇこの娘――」

「そうね、でもそれが船としての幸せなのかも知れないわよ?」

陸奥がそう応じると横合いから妙高が、

「もしかしたら船の神様の様な方がおられて、辛い思いをした私達を憐れんでこんな姿にして下さったのでしょうか?」

と口を挟む。

「きっとそうですよ! だから一杯楽しい事しなきゃ♪」

飛龍は我が意を得たりとばかりに笑顔を弾けさせるが、果たしてそうだろうかとも思ってしまう。

 

「あたしには良く判らないけど、もし神様の為さった事だとしたら、本当にあたし達を憐れんだだけなのかしら――。ひょっとしたら、神様はもっと別の事も考えておられたかも知れないわね」

 

陸奥がそう言って笑みを浮かべると、彼女は少し眩しげな顔をして港に休む大小様々な船達に目を走らせた。

 



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〔第六章・第五節〕

 艦内は揺れが少なく快適だった。

もっとも最初に篠木が言った言葉に掛け値は無く、陸奥らに提供された船室は仲間達全員が待機するにはいささか手狭だった。

とは言え、斑駒によると艦内にこれだけの数の女性が着替えをしたり出来る部屋が無いので、わざわざ士官室を提供して貰ったとの事である。

これにはさすがに苦情を言える筋合いではなく、仕方の無いことではあった。

 

「皆さん、間もなくですよ」

その斑駒が船室の扉を開けて顔を覗かせたので彼女に続いて外に出ると、乗員と思しき男性隊員が待ってくれている。

「こちらです」

と先に立って誘ってくれるその案内に従ってデッキに出たところ、低く垂れ込めた雲の下に黒々とした島影が見えた。

「ここが本日の訓練海域になります。波が穏やかでほっとしました」

そう言って安堵した様子の斑駒のみならず、陸奥も皆も同じ気持ちだ。

 

(海の上は久し振り見たいな気がするわ)

 

ぐったりした仁を腕に抱いて岸辺に向かっていたのは僅か十日余り前の事なのだが、随分時間が経った様な気がする。

「何だか緊張しちゃうなんて可笑しいですよね――、アタシ達船なのに」

朧が硬い表情で呟く。

「あ~っ、こんな事ならもっと走り込みしとくべきでした! やっぱり、継続は力なりですねぇ~」

「走り込みは余り関係無いんじゃないの、長良ちゃん?」

「違いますよ陸奥さん、気分の問題なんですこれは!」

「ほほほ、長良殿は分かり易い方じゃ。こうして心持つ身と相成ったからには気持ちは大切ですからの♪」

「初春はやっぱり私のこと馬鹿にしてない⁉ 大体、昔もそうだったわよね、今度ぶつかったりしたら承知しないからね!」

「長良ちゃんまだ覚えてたんだぁ~、姉様だって痛かったよねぇ♪」

「こら子の日! 誰が長良『ちゃん』なのよ⁉ やっぱり尊敬して無いじゃない!」

三人がじゃれ合う姿はとても微笑ましく、心を和ませる。

 

「皆さん、これを頭に付けて頂けますか?」

斑駒が、通信兵が頭に載せていた様な物を持って来て皆に配る。

その指示に従って頭に載せ、言われた通りの場所を回して見るとカチリと言う音と同時に皆の話し声が聞こえ始める。

彼女が舷側から艦橋の方に向かって手旗を振ると、突然耳元で中嶋の声が響く。

「皆さん、体調の悪い方はおられませんか?」

陸奥は仲間達の顔を見回しながら、

「皆大丈夫かしら?」

と声を掛けるが、

「はーい」

と声を揃えて返事をする皆の様子に特に異常は見受けられ無い様だ。

「お聞きの通りです、副長」

「分かりました。それでは皆さん、間もなく停船して訓練を開始しますので何時でも海上に出られる様に準備をお願いします。今聞こえているこの無線は余り遠く迄は届きませんので、これが聞こえる範囲で展開して下さい。それではもう少し待機をお願いします」

中嶋の声が途切れると、続いて斑駒が皆に声を掛ける。

「それでは一旦無線を切って下さい。今の内に済ませる事は済ませて下さいね!」

早速子の日らが駆け出していくが、もとより艦内のトイレの数は限られているので陸奥らはゆるゆると構えていた。

 

全員が後甲板に戻った頃、艦が停止し斑駒の指示に従って再度無線を点ける。

「皆さん準備は宜しいですか?」

再び中嶋の声が無線を通して聞こえたので、改めて全員の顔を見た上で

「準備完了です、副長!」

と返事をする。

と、それを待っていたかの様に乗員達が数名後甲板に現れ、デッキの手摺様のところに梯子を掛けてくれる。

「皆さん、救命胴衣を正しく着用しているか確認出来ましたら艦尾より海上に降りて下さい」

無線から響く中嶋の指示に応じて陸奥が真っ先に降り様とすると、

「駄目ですよ陸奥さん♪ 露払いは私達の仕事ですよ」

と妙高に笑顔で制止される。

「そうです、陸奥さんは私達の旗艦なんですから」

と高雄も言いながら妙高に続いて海面に降り立つ。

「皆いらっしゃぁーい♪ 次は私達ですよぉ~」

龍田が駆逐艦達と長良に声を掛けると軽やかに降りて行き、皐月らが後に続く。

結局、陸奥は赤城、加賀と共に最後に海面に降り立った。

 

(忘れ掛けてたわ、この感じ……)

 

全身に力が漲り、体そのものが大きく広がった様な不思議な感覚に満たされる。

艦を振り返ると、乗員達が半ば呆然とした態でこちらを見ている。

「まるで誂えた様に『鳩が豆鉄砲を食ったような顔』をしていますね」

相変わらず素っ気無い調子で加賀が寸評を加えると、無線から中嶋の苦笑が聞こえて来る。

「仕方ありませんよ、皆さんを見て驚かない人間は居ませんから」

中嶋のその言葉に、

「私も今そんな顔をしてますよ!」

と言う篠木の声が被る。

思わず陸奥も笑みが零れ、詫びの言葉を口にし様とした時

「まことに申し訳御座りませぬ艦長殿、大度をもってご寛恕下されよ」

と、初春が雅な詫びを一呼吸早く述べる。

無線の向こうから篠木の楽し気な笑い声が響き、仲間達も一斉に楽し気に笑うと艦上にも笑顔が広がる。

「では皆さん、南南東の方向約10,000メートルに、500メートルの間隔を開けてブイが二つ設置してあります。確認は可能でしょうか?」

その声が聞こえた途端、頭で考える迄もなく体が勝手に反応して自然に正確な方角が確認できる。

「凡そ一六六度ですね」

妙高の呟きが聞こえると無線の向こうで息を飲む気配がし、中嶋が呼び掛けて来る。

「距離も分かりますか?」

 

それを答えるのはやはり戦艦である自分だろうと思い、射撃方位盤の下にあった測距儀を思い浮かべると自然に答えが頭に浮かんでくる。

「一〇,三〇〇米です」

陸奥が答えると篠木がやや上ずった声で、

「陸奥さんにはそこからブイが見えるんですか?」

と問い掛けて来る。

「はい――皆も見えてるわね?」

「はいっ!」

全員の綺麗な返事が響き、中嶋も篠木も沈黙してしまう。

「中嶋副長、射撃訓練を開始して宜しいですか?」

加賀が質問すると、無線の向こうで中嶋が我に返ったかの様に声を上げる。

「――ああ失礼しました。それでは皆さん、二つのブイの間の海面を標的として射撃訓練を開始して下さい。くれぐれも安全には十分な注意をお願いします」

この指示を受けて、陸奥は改めて仲間達に具体的な指示を出す。

「じゃあ、まず射撃経験のある皆はお手本をお願いね? 加賀ちゃん、指揮を頼めるかしら?」

「判りました。では全員こちらに整列して下さい、妙高さんから前に出て主砲から順に高角砲、機銃の射撃を最低一斉射ずつよ。その後は――」

 

彼女の淡々とした淀みない指示に従って仲間達は隊伍を整えなおし、その中から妙高がすーっと前に進み出ると落ち着いた様子で軽く身構える。

「準備は出来たかしら? それでは――ヨーイ、――撃―ッ!」

それは何とも奇妙な光景だった。

妙高は両腕を少し斜め上に揚げて構えていたが、無論発砲音などは何もしない。

にも関わらず一瞬彼女の肩がぐっと盛り上がり、上半身がびくんと仰け反ったと思うと何事も無かった様にすっと腕を下ろす。

陸奥が標的方向を凝視していると、ほぼ予想通り(自分の主砲より僅かに早い筈だった)の時間で水柱が重なり合って立つ。

「弾着!」

と叫ぶと、中嶋も

「こちらでも確認しました。到達時間は実艦の当時と変わりませんか?」

と問い返して来る。

陸奥に目で促された妙高は艦橋の方を振り返りながら

「はい、砲口初速もほぼ出ていると思います。ただ、実艦で無いからだと思いますが散布界が極めて狭く、流される印象もありません」

と簡潔に答えてくれる。

「成程、たいへん興味深いですね――。計測している訳ではありませんが、見たところ運動エネルギーもほぼ同等の様ですし」

「副長、魚雷投射や航空索敵訓練は実施しますか?」

「そうですね、時間の許す限り皆さんの有する能力を確認しましょう。ただ、魚雷については少し後回しにしましょうか」

「判りました。それじゃ加賀ちゃん続けてお願いするわね」

「はい! それでは続けて行くわよ、ヨーイ――撃ーッ!」

 

こうして彼女達経験者が全て終わると、今度は彼女らが指導しながら未経験者の射撃訓練に移る。

経験者一人に二、三人ずつ付いて順に進めて行くが、戸惑う者も特におらず滑らかに進んでいく。

陸奥の横には赤城が付いて要領を指導してくれるが、ほとんど教えられる迄も無く、船としての自分自身を取り戻していく機械的な作業とも言えた。

 

「陸奥さん――」

赤城が何か言い掛けるので陸奥は自分の無線を切り、手真似でそれを伝える。

無線を切った彼女がすっと顔を寄せて来ると

「今夜お部屋に伺って良いでしょうか? 加賀さんと一緒にですが――」

と囁くので、

「出来たらあたしが赤城ちゃん達の部屋に行きたいんだけど、どうかしら?」

と応じる。

幸い彼女はすぐに理解し、ちらと子の日らに視線を走らせると

「判りました、蒼龍さんと飛龍さんには席を外して貰える様に話しておきますからお越し頂けますか?」

と素早く決断してくれる。

「分かったわ、じゃあ今夜ね」

と会話を切り上げ無線を再び入れる。

 

どうやらそれを見計らっていたものか、

「それでは陸奥さん、ご用意が宜しければお願いします」

と加賀が呼び掛けて来た。

彼女に視線を合わせて軽く頷くとスッと進み出て徐に腕を上げるが、砲を動かすのにどうしても腕を上げ下げする必要がある訳では無いと判る。

 

(でも、頭の中だけで制御するよりこの方が俯仰角や方位角を決め易いわね)

 

そう思いながら自分の中で射撃方位盤に従って全主砲塔を動かし、仰角を定める。

 

(最大距離で発砲してみようかしら♪)

 

ふと悪戯心が湧いてくるが、四十一糎砲の威力と到達距離を考えると不測の事態が起こり兼ねないと思い直し、一〇,三〇〇米付近に弾着点を定める。

「それでは、用ー意――撃―ッ!」

加賀の号令に合わせて射撃指揮所の引金を引く(ことを想像する)。

上半身がズンッと瞬間的に押される感覚がし、強い高揚感と解放感が突風の様に体を吹き抜けていく。

「ねぇ陸奥さん、爽快でしょ!」

蒼龍が笑い掛けてくるが全く同意だった。

「そうね、こういうのが爽快って言うのね!」

自身の感覚の拡がりも手伝って、興奮や万能感の様なものも湧き上がって来る。

「弾着!」

妙高の短い叫びと共に一際大きな水柱が重なり合うが、それは例え様の無い強大な力の感覚を意識させる。

 

「あれを食らったら、本艦なぞ一溜りもありませんよ――」

 

無線から響く篠木の畏怖に満ちた声は、否が応でも人間と自分達の間の大きな隔たりを感じさせる。

それは仲間達も同じだった様で、その皆の気持ちを代弁するかの様に霰がぽつりと呟く。

 

「……ひょっとしたら、怖がられてるかも……」

 

思わず全員が口を噤んでしまい、聞こえて来るのは無線を通じたお互いの息遣いばかりになってしまう。

 

「私達はやっぱり怪物なんでしょうか?」

その息苦しい沈黙を破って高雄が声を上げたものの、陸奥を見つめたその瞳は悲し気で、一瞬何と言ってあげるべきだろうかと躊躇ってしまう。

その僅かな躊躇いの間隙を縫って加賀が冷淡に返した応えは、余りに非情なものだった。

「いいえ高雄さん、怪物などでは無いわ。今の日本にとって私達は災厄そのものよ」

 

その言葉に仲間達は再び静まり返ってしまうが、思わぬ所から強い言葉が投げ掛けられる。

 

「加賀さん、それは違います」

無線から聞こえる中嶋の声は初めて耳にする強い語気だった。

「皆さんの強大な力は、一つ間違えば確かに皆さんを怪物や災厄そのものに変えてしまうかも知れませんが、我々は絶対にそうはさせません。皆さんは、長い年月を乗り越えて再び我が国に戻って来てくれた大切な仲間です。断じて災厄などではありませんよ」

その言葉にハッとした顔をする者も居たが、陸奥は自分でも不思議な程淡々としているのを自覚していた。

 

(何故なのかしら?)

 

一度はそう思ったが、深く考える迄も無く胸の内に仁の顔が浮かんで来て自問の意味は無くなってしまう。

そもそも彼が陸奥の事を怪物呼ばわりしたり、口に出さない迄もその人智を超えた力を恐れて遠ざけ様としたりするだろうか?

 

(信じられる事って、こんなに心強いものなのね……)

 

その気持ちを改めて噛み締めると、俯いてしまった加賀に近付き肩に手を掛ける。

「加賀ちゃん、あたし達仲間なのに、断わりも無く勝手に怪物になったり災厄になったりしないで欲しいわ♪」

「陸奥さん――」

「皆もそうよ! あたし達は仲間なの、誰かが自分を怪物だ災厄だと思う事はあたし達全員がそうなんだって思う事よ! 忘れないでね」

「はい!」

そう声を揃えて返事をしてくれた全員の顔が上がっていた。

 

(良かったわ、副長にお礼言わなくちゃ)

 

「副長、有難うございました! 訓練を続けて宜しいですか?」

「もちろんですよ陸奥さん。加賀さんも、もう大丈夫ですか?」

「あ、は、はい、そ、その――、大丈夫です」

 

(加賀ちゃんでも動揺するのね♪ でも、ちょっと顔が朱過ぎるんじゃないかしら?)

 

一体何をそんなに照れているのだろうかと首を傾げながら、陸奥は再び前に進み出た。

 



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〔第六章・第六節〕

 葉月が夕飯を作りに来ると言い出した時、彼は半ば諦めてはいた。

とは言うものの、どうしてもそんな気にはなれなくて少し強く拒否したら、気持ち以上に冷えた態度になってしまった。

 

「分かったわよ――」

 

拗ねた様な(と言うか純粋に拗ねていた)顔をした彼女を見送ってから、改めてコンビニに行く。

こんな真似をしているから「何が気に入らないのか理解出来ん」などと言われてしまうのだろうか。

そんな事を考えながらゴミを丁寧に分別している自分にふと気が付き、苦笑する。

葉月が五月蠅く言うので、何時の間にか習慣になってしまったのだ。

 

(何だかなぁ~)

 

軽く自嘲しながらも自分の日常を振り返ると、そんな事だらけなのを今更ながら思い知る。

ゴミの分別だけでは無く、灯りを小まめに消す、二階の窓迄きちんと戸締りする、洗濯ネットを使う、晴れた日は布団を干す――全てしつこく言われなければ自ら進んではやら無かった事ばかりだ。

彼女が気に入らないなら言う事など聞かなければ良いものを、今や何も言われなくても仁はそれら全てを自然にやっていた。

溜め息を吐きながら、これは葉月にガミガミ言われた訳では無いが既に数え切れない程の着信確認を無意識に繰り返す。

 

(うう、もう通算何百回目かな~)

 

自己嫌悪に陥り掛けたその刹那突然スマホが目覚めて騒ぎ始め、危うく仁の心臓は口から飛び出しそうになる。

発信者が誰からと再確認する迄もない。

 

(むっちゃん、むっちゃん!)

 

焦って落っことしそうになりながら、必死にスマホを掴んでタップする。

「もしもしっ!」

と勢い込んで言った積もりの声が上擦ってしまい、鶏の様な甲高い声が出てしまう。

 

「――済みません、渡来さんでは無かったでしょうか――」

 

電話の向こうから、陸奥のおっかなびっくりと言う態の声が聞こえる。

余りにも違う声だったので間違って掛かったものと疑っているらしい。

 

「ち、違うよむっちゃん! い、いや違わないんだけど、その、僕だよ、仁だよ!」

「本当に? 本当に仁なの? さっきの変な声も?」

「そ、そうだよ、焦って変な声になっちゃったよ、ごめんね」

「ううん良いの、でも凄いわね携帯電話って。こんなに小さくて可愛いのにとってもはっきり声が聞こえるのね、びっくりしたわ♪」

「良かった♪ 喜んで貰えて嬉しいよ、それに電話してくれて有難う、大事な皆と一緒の時間なのに凄く嬉しいよ」

「あたしも、こんな風に話しが出来るなんてとっても嬉しいわ♪ でもやっぱりちょっと勇気が要ったわね」

「むっちゃんに比べたら僕は本当に情けないよ、電話を渡すのが精一杯だったんだから――」

 

束の間沈黙が流れた後で、陸奥がやや躊躇しながら話し始める。

 

「――あのね、仁」

「うん、何?」

 

「――えっと――、仁はね、その――」

 

「うん――」

 

「……」

 

彼女は黙ってしまい、唇を舐める様な音が微かに聞こえる。

言い出し辛い事なのだろうと思い、何を聞きたいのか水を向けて見様としたその時、電話の向こうで別の声が聞こえる。

 

「――つさん、ちょっ――わっていただ――せんか?」

「えっ、ちょっ、ちょっと待って加賀ちゃん、今聞いてみるから」

 

どうやら、加賀が一緒にいるらしい。

 

「ごめんね仁、加賀ちゃんに替わっても良いかしら?」

「うん、いいけど?」

「有難う――、はい、加賀ちゃん良いわよ?」

 

その時、またも他の誰かの声がする。

 

「待って下さい加賀さん、ここはやはり騒動の張本人たる私がお聞きするべきです」

 

張りのある大きな声は聞き間違え様が無い。

 

「――たいを――まりややこし――でくだ――かぎさん、こ――すなおに、――しにまか――ください」

 

抑揚が少ない加賀の声はやたらに聞き取り難いが、その反対に赤城は明らかに地声が大きい様で、電話の向こうの位置関係が分かり辛い。

 

「そう言う訳には行きません、もし私の早とちりであったなら全て私の責任です。人任せにして良い事ではありません!」

「――れなら、なおさ――しがきく――です、――かぎさんがきい――やとちりを――てはこまり――し」

「幾ら加賀さんでも言葉が過ぎませんか⁉ そこ迄私は信が置けないとでも言うのですか?」

「ちょっ、ちょっと! 二人共落ち着いて! 喧嘩は止めて頂戴⁉」

 

電話の向こうは、急にカオスの様相を帯びつつある。

 

「――かなどし――せん。わた――ちついて――が、あかぎさ――んじょうてきになってい――です」

「それでは不味い事は全て私の所為だとでも言うのですか⁉ 刎頚の友だと思っておりましたのに、私の思い過ごしだったと言う事ですね!」

「赤城ちゃん待って⁉ 加賀ちゃんだってそんな積もりで言ってる訳じゃ無いわよね⁉」

 

これは駄目だ――こうなってしまったらもう仲裁した位では収まりが付かないだろう。

とにかく二人の間から争いの原因を取り除かなければどうにもならない気がする。

そう思った仁は(以前の彼なら考えられない事だが)素早く呼び掛ける。

 

「むっちゃん、むっちゃん⁉」

 

彼のその声に陸奥は助けを求める様に応えて来る。

 

「仁、どうしたらいいの? 一度電話切った方がいい?」

「いや、むっちゃんが聞きたい事を教えてよ! それが一番肝心だと思うんだ!」

 

まるで電波が夜空を飛んで行くのに時間を要したかの様な間の後、唾を飲み込む様な音が聞こえ、僅かな沈黙を挟んで彼女が喋り始める。

 

「――判ったわ、思い切って聞くわね。――あのね、仁と葉月はね、許嫁なの?」

 

その言葉は閃光を放つ弾丸か何かの様に耳から飛び込んで来ると、凄まじい勢いで全身を駆け巡る。

 

(そうだったのか!)

 

彼の脳裏には小さなガラスの破片の様なパズルのピースが無数に降り注ぎ、急速に一つの絵が出来上がって行く。

陸奥はあの日、どこかで赤城の話を聞いて信じ込んでしまい(嘗ての戦友の言葉というのは、何気無いものでもやはり重味が違うのだろうか)居たたまれなくなって逃げる様に出て行ったのだろう。

赤城が電話の向こうに控えていて『私の責任です!』などと言っているのは、自分が早合点して間違った事を陸奥に話してしまったことがそもそもの発端になっているのを理解しているからに違いない。

 

(誰かが謎解きをしたんだ――加賀さんなのかな?)

 

恐らくそうだろう。

冷静で情実には無頓着そうな彼女ならば、普通は気遣って遠慮してしまう様なナイーブな感情にでも容赦なく踏み込んで行けそうに思える。

幾らか事態が飲み込めた様に感じた仁は、改めて腹に力を入れると声を張ってきっぱりと言い切る。

 

「いや、違うよむっちゃん」

「えっ、本当に?」

「本当だよ、僕と葉月は幼馴染には違いないし親同士も親しいけど、口約束一つだってして無いよ」

「じゃあその――」

「赤城さんから聞いたの?」

「そうなの、仁も知ってるのね?」

 

気が付くと、何時の間にか彼女の背後は静かになっている。

 

「うん、赤城さんは頭良さそうだけどちょっとせっかちなのかな? だから早合点しちゃったんだろうね♪」

「そうだったのね――でもあたしがいけなかったの、ちゃんと確認すれば済む事だったのに、あたしったら……」

「そんなの仕方ないよ、赤城さんだって信じてたんだから……」

 

期せずしてすっと二人は無言になる。

彼らの脳裏に浮かんだのは言う迄も無く葉月の顔だったが、彼女の意図は何だったのかという確証がある訳ではなく、漠然とした疑念が湧いたのに過ぎない。

と、その静かな間を捉えて赤城が声を掛けて来た。

 

「済みません陸奥さん、差し支え無ければ渡来さんとお話しさせて頂けませんか?」

 

彼女の口調はすっかり穏やかになっているし、加賀も突っ込みを入れて来ない処を見ると、どうやら二人の諍いは無事に終息したらしい。

陸奥が断わりを入れてくる前に、彼は先に話し掛ける。

 

「むっちゃん、赤城さんに換わっても良いよ?」

「ええ今換わるわね、はい赤城ちゃん」

「有難うございます。では――ご、ご機嫌よう渡来さん!

 

咄嗟に耳を離さなかったら寝る迄耳鳴りに悩まされたかも知れない。

 

「あ、赤城さん、普通に喋ってもちゃんと聞こえますよ⁉」

「これは失礼しました、慣れていないものでお許しください。では改めて、渡来さん、この度は私の不明から大変なご心労をお掛けしてしまいました。電話で申し上げるなど非礼この上ない事とは承知してはおりますが、この通り臥してお詫び申し上げます」

「あ、いやその、こちらこそどうも、何と言いますか――」

 

電話の向こうから、

 

「ちょ、ちょっと赤城ちゃん⁉」

とか

「――んなことを――も、わたらいさ――えてませんよ?」

など小さな声が聞こえて来る処を見ると、彼女は深々とお辞儀をしているらしい。

 

(うっ、こういう人って何か苦手だな~)

 

本人は誠実そのもので何の悪意も無いのにお詫びやら何やらがひどく大仰だったり、物事をとにかく勢いで進めてしまいがちな相手と言うのは仁の苦手なタイプだった。

 

「あのぉ赤城さん? 悪意でやった事じゃ無いんですから、お詫びはもう十分頂きましたよ?」

「しかし、加賀さんが心付いてくれましたのでどうやら事無きを得そうですが、罷り間違えば私の所為で陸奥さんと渡来さんの恋路を引き裂く処だったのですから――」

「あ、赤城ちゃんたら何言ってるのよ、もうっ!」

「――かぎさん、また、わるいくせ――てますよ」

「あ、いやこれは失敬、どうもいけませんね――私は暫く口を噤む事と致します」

 

誰かの手に電話が渡った気配がし、小声の遣り取りの後で不意に加賀の淡々とした声が響く。

 

「渡来さん、お騒がせして済みませんでした。一つだけお願いしたいのですが宜しいですか?」

「ええ、良いですよ」

「ここはやはり渡来さんから切り出して頂きたいのです。立場上言い出し難い事もあるのは良くお判りだと思いますので」

 

前置き抜きでいきなりこんな事を言える彼女の鋭さに、仁は舌を巻く。

全くその通りだとしか言い様が無く、彼から口火を切らなければ陸奥が自分から言い出せる事では無いと思われた。

 

「加賀さん、色々気遣って頂いて有難うございます。陸奥さんと替わって貰えませんか?」

 

彼女は返事もせずに陸奥に電話を戻している様で、再び彼は苦笑する。

 

「もしもし仁?」

 

一体何が違うのかとは説明出来ないが、その響きといい言葉のテンポといい、不思議になる位陸奥の声は彼を安心させてくれる。

 

「個性的だけど皆良い友達だね、むっちゃん」

「ふふ、そうよ♪ とっても良い友達ばかりよ」

「――あのね、むっちゃん」

「なあに、仁?」

「さっきはむっちゃんが勇気を出してくれたから、今度は僕が勇気を出して言うよ」

「ええ……」

 

「戻っておいでよ、むっちゃんの家に」

「でも、あたし――」

「中嶋さんには僕からちゃんと説明してお願いするよ。皆にも理解して貰える様に話をする積もりだよ?」

「有難う仁――あたし、戻っても良いの?」

「当たり前だよ! 誰に遠慮する必要も無いからね」

 

「……うん♪」

 

とても嬉しげなその一言に、彼の胸は暖かくなる。

「でも、やっぱり心配……」

「ひょっとしてそっちの事?」

「ええそうなの」

 

彼女の心配事は、あの日彼を敵意の籠った眼差しで睨みつけた子の日の事なのだろう。

「僕が話して見たいんだけど、時間を作れそうかなぁ?」

「ううん、あたしが自分で話すわ。多分初春ちゃんも協力してくれると思うから」

「そうだね、初春ちゃんが居てくれるんだよね――どうなったかとか、また電話くれる?」

「判ったわ、そろそろ消灯時間になるから今日はこの辺にさせてね?」

「うん、それじゃむっちゃんお休み、電話くれて本当に有難う」

「お休みなさい、仁」

 

電話が切れたあと、暫く彼は呆けていた。

 

(戻って来てくれるんだ、むっちゃんが……)

 

その実感が彼の頭と体に染み込む迄に時間を要したからなのだが、その直後突然意味不明な衝動が彼を襲い、思わず絶叫しそうになるのを辛うじて踏み止まる。

 

(やったっ! やったっ! やったぁーっ!!)

 

無言のまま床を転げ回るその姿はどう考えても異常者にしか見えず、むしろ雄叫びでも上げている方がまともに見えたかも知れない。

事情を知らない者が目撃したら思わず背筋が寒くなったかも知れず、場合によっては問答無用で通報されるところだ。

只この場面を目撃したのが葉月であったなら、間違いなく鬼の形相で彼を張り飛ばした事だろう(それどころか殺意を抱いたかも知れない)。

にも関わらず、当事者たる仁は相も変わらず何故こんなに嬉しいのかさっぱり理解していなかった。

 



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〔第六章・第七節〕

 「いや! そんなの絶対にイヤッ!」

この反応を予想していなかった訳では無いが、いざ面と向かって言われるとどうしたらいいのか途方に暮れてしまう。

「どうしてあんな奴の所に行きたいの⁉ 子の日達と居るのがそんなに嫌なの⁉」

子の日が『あんな奴』と口にした瞬間、その瞳に憎しみの焔が燃えるのを見て思わず陸奥は目を背けてしまう。

 

(仁の事、そんな風に言うなんて!)

 

彼女に対してそんな苛立ちを覚えてしまう自分にうんざりするが、ほんの二週間余り前の事を思い反して心を鎮める。

 

(そうよ、仁は怒り出したりしなかったわ)

 

それどころか、彼は自身の無関心さを詫びてくれさえしたではないか。

そう思い直すと改めて彼女に向き直り、努めて冷静に応えを返す。

 

「あたし、嫌だから出て行く訳じゃ無いわ」

「じゃあここに居れば良いんでしょ? どうして出て行くの?」

「そうね、あたしは間違って出て来てしまったの。だからそれを元に戻したいのよ」

「皆と一緒に暮らすのは間違いなの? 子の日は陸奥さんや姉様と一緒に暮らすのが良いのに、陸奥さんは違うの?」

「違わないわ、でもあたしにとっては同じ位大切な場所があるの。それを、あたしは小さな勘違いの所為で失くしてしまう処だったのよ」

 

最後の方は彼女に向かって話しているのではなく、自分自身に対する言葉になっていた。

 

(ひょっとしたら、あたしは欲を出しているだけなかしら)

 

例えそうであったとしても、やはり陸奥は取り戻したかった。

 

あの心弾む様な喜びと寛ぎに満ちた暮らしと、そして何より何時も自分の事を気遣い、己を差し置いてでも大切に思ってくれる誰か――もちろんそれは仁だ――がいてくれる暮らしへと時計の針を戻したい。

 

何故なら、自分は自由な意志で今の暮らしを選んだ訳では無く、只目を瞑って逃げ出しただけなのだから。

 

「でも子の日にはここだけだもん! 陸奥さんと姉様だけだもん!」

 

彼女が両眼に一杯涙を溜めて訴える。

 

「其方の言いたい事はよう判っておるぞ、子の日よ」

 

それ迄ずっと黙っていた初春が初めて口を開く。

 

「じゃが、其方も何れ今の陸奥殿の様に違う何かを見付け出す事になるのじゃ。もちろん、恐らくは妾もじゃがの」

 

「子の日はそんなの欲しくないもん! 陸奥さんと姉様が良いの!」

 

「否、例え其方が望んでおらずとも、何れそれはやって来るのであろう。其方も言うておったではないか、例え嫌な事であろうが否応無しに訪のう事もあるのじゃ」

 

「だったら子の日は陸に上がりたくなんか無かった! せっかく姉様や陸奥さんと会えたのに、また引き離される位なら海の底にいる方が良かった!」

 

「子の日よ、その様な事を言うてはならん。未だ冷たい水底(みなそこ)に横たわっておる同胞(はらから)の事を思うても、まだ其方はその様な事が言えるのか?」

 

彼女の語気は空く迄穏やかだが、決して甘やかす訳ではなく厳しさが籠っている。

 

子の日の瞳からは大粒の涙が零れ落ち、それを見ていた陸奥は彼女だけでなく初春にも辛い思いをさせている事に気付く。

 

「二人共ごめんね、あたしの我儘の所為で――」

 

そう言って二人の肩を抱き寄せ様とすると、子の日がグッとしがみ付いて来てその涙が上衣に滲むのを感じる。

同じ様に初春を抱き寄せたものの、彼女は抗いはしない迄も肩に力が入ったままだ。

 

(そうよね、姉様だものね……)

 

そう感じると無性に二人が愛おしくなり、ギュッと抱き締めて顔を近付け、静かに語り掛ける。

 

「二人共大好きよ、でも、やっぱりあたしは自分の気持ちに嘘は吐けない。その代わり、何とか副長にお願いして毎日ここに通ってくるわ。――それで許してくれるかしら?」

 

しがみ付いた子の日の手に一層力が籠り、初春は微かに首を回して陸奥の肩に顔を埋める。

 

それを感じ取った陸奥は何か言わなければと思ったものの、その言葉は喉の奥に支えたまま出て来る気配もない。

 

只々黙って二人を抱き締める腕に力を入れる事しか出来なかった。

 

(子の日ちゃんの言う通りだわ――皆が嫌いな訳でも何でも無い、こんなに安らかな気持ちにだってなれるのに……)

 

仲間達を大切に思う気持ちは言う迄もなく、一緒に暮らす喜びすら感じるのだ。

 

それでもなお仁の許に戻りたいと願う強い想いは、未だ陸奥自身にも充分理解出来ている訳ではなかった。

 



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〔第六章・第八節〕

 ここ一番と言う時に正念場と言ったりするが、そもそもどう言う意味なのだろうか?

まぁ、それは覚えていれば後で調べれば良い事であって、現状は間違いなくその『正念場』なので呑気にそんな事を考えていて良い状況では無かった。

 

今は加賀さんが(例によって淡々と)むっちゃんは仲間達の旗艦であり、その彼女が不安を抱えていては全員の士気に影響するので、是非とも配慮をして欲しいと述べている最中である。

聞いている中嶋さんは特に感情の色を表わさず、どの様な言い分であろうと最後までちゃんと聞きましょうという態度を見せていた。

只正直に言ってしまうと、皆がどんな意見を表明するかについてそれ程関心がある訳では無い。

僕とむっちゃんの希望は既に電話で伝えてあり、それに対する西田司令と中嶋さんの見解こそが目下最大の関心事だからだ。

それに、この件に誰が賛成し誰が反対しているのか考える迄も無いとも言えるし、この場で表情を見ていれば一目瞭然だった。

加賀さんの横に座った赤城さんは先程から目が合う度に笑顔を見せてくれるが、当のむっちゃんは対照的に少し目を伏せて物静かにしている。

初春ちゃんも物静かだがどことなく表情に翳りがあり、如何にも心の中に引っ掛かる事がありそうだ。

そして恐らくその翳りの理由であろう子の日ちゃんは、泣き腫らしたのだろうか赤い目をして机を睨み付けており、時折顔を少し上げては僕を睨む。

少し離れて座った斑駒さんは職業的な平静さを見せているものの偶に素の表情になる時があり、そんな時は軽く笑みを漏らしている。

 

――それらは兎も角として、僕の隣にはもちろん葉月がいた。

まるで置物か何かの様に気配を消し去り、本当に生きているのかすら疑わしい位に微動だにせず、目を閉じて一言も口を聞かない葉月がだ。

 

彼女が静かであればある程、僕の緊張は天井知らずに上昇して行く。

次の瞬間には机を叩いて声を荒げるのではないか、或いは唐突に椅子を蹴って出て行ってしまうのではないか、はたまた氷の様な笑みを浮かべながら、胸を抉る辛辣な嫌味を撒き散らすのではないか――などと想像の翼が際限なく広がっていく。

 

(は~、何か情けないなぁ……)

 

僕が今想像している程度の事は、まず間違いなくむっちゃんだって思い描いているだろう。

でも彼女は静謐そのものの空気を纏い、内心の乱れを表に出さない。

 

(ビクビクしてる暇があったら肚を括れよ!)

 

自分を叱咤して改めて顔を上げると、副長が喋り始める。

 

「皆さんの意見は良く分かりました。当隊の見解をお伝えする前に再度確認しておきたいのですが、渡来さんよろしいですか?」

「あ、はい、どう言った事でしょう?」

 

淀みなく言葉が出てくれたので少し落ち着く。

 

「ご自宅に陸奥さんを引き取られる限り、経済的な問題を始めとして様々な障害が起きる事は無論予想しておられるとは思いますが、それが場合によっては年単位の長期に渡る可能性も考慮していますか?」

「つまり、途中でやっぱり止めますと言う様な勝手が通じる話では無い――と言う事ですね?」

「その通りです、如何ですか?」

 

それに対する返答は、今更考える迄も無い。

 

「はい、その積もりです」

 

例え一生でもと言いそうになって辛うじて踏み止まる。

この大事な局面で葉月を真っ向から敵に回す様な事を口走れば、それこそ彼女がブチ切れてしまい、話し合うどころでは無くなってしまうだろう。

 

「結構です。全く同じ事は陸奥さんにも言えますが、確認させて頂いても良いですか?」

 

すっと目を上げた彼女の瞳は、深い海の色を湛えている。

 

「はい、今でも十分ご迷惑をお掛けしています。これ以上身勝手が許されるとは思っていません」

 

彼女の静かな言葉が響き渡り、赤城さんが満足気にウンウンと頷く。

微笑を浮かべた中嶋さんが話し始め様としたその時、突然葉月に生命が宿り眼が見開かれる。

僕は咄嗟に声を上げ様とするが、曰く言い難い迫力に気圧されて舌が口の奥に引っ込んでしまう。

しかもそれを感じたのは僕だけでは無かった様だ。

喋り掛けていた中嶋さんは口を噤み、これから何が起こるのかを見極め様と言う顔になっていたし、赤城さんは口を真一文字に結んで表情を強張らせ、感情を読み取り難い加賀さんも微かに身構えるような気配を立ち昇らせていた。

 

全員が見守る中、葉月は真っ直ぐにむっちゃんの瞳を見詰めるが、彼女も負けない位強い眼で葉月の瞳を見返す。

ここは漫画やアニメよろしく火花が散る処なのかも知れないが、現実にはそんな事は起きなかった――と言うよりも、シチュエーションがそもそも違っている様だ。

どうやら二人は火花を散らすのでは無く、何かを語り合っている様にも見える。

 

シンとしていながらも極限近く張り詰めたその時間はひどく長く感じられ、ひょっとしてこのまま年老いてしまうのではないかと心配になるが、間もなくそれは唐突に終わりを告げた。

二人が共に口許に笑みを浮かべると再び正常に時が流れ始め、葉月は改めて静かに目を閉じ、むっちゃんは何事も無かったかの様に中嶋さんの方を見る。

見られた副長はちらと僕の顔を見て苦笑し、僕が苦笑で応じると感情を脇に置いた冷静な顔付きに戻って再度口を開く。

 

「良く分かりました。それでは本件についての当隊の見解をお伝えしましょう。まず、陸奥さんの希望を拒否すべき法的な根拠は恐らく存在しないでしょう。また、陸奥さんの保護を渡来さんに委ねる事についても全く同様と思われます。従って当隊としては、既に明白である国防上の要件、ひいては日本国の国益を大きく毀損しない様な対策を講じる事を前提としてですが、陸奥さんの申し出を承諾するものとします」

 

途端に赤城さんがパチパチと拍手をして、満面の笑みを浮かべる。

ここで一同ちょっぴり苦笑しながら一旦休憩、となれば言う事は無かったのだがそう易々とは行かなかった。

無論赤城さんには何の悪気も無いのだが、その拍手に堪えられ無かったのか、今迄机を睨み付けていた子の日ちゃんが堰を切った様に啜り泣き始める。

隣に座った初春ちゃんが丸まった彼女の背中を労わる様に撫でるが、それ位では治まる筈もなく、机の上にポタポタと涙が零れては小さな水溜りを作って行く。

むっちゃんは、机の下で彼女に手を伸ばし(おそらく手を握っているのだろう)、

「これからどんな風にして毎日会いに来るか相談するから、一緒にお話してくれる?」

と顔を近付けて優しく話し掛けるが、彼女の感情に分け入る事迄は出来ない。

 

「子の日は――いや……子の日は――やっぱり――陸奥さんと――一緒が良い……」

 

しゃくり上げながら振り絞る様に言う彼女を見ていると、僕は胸が痛くなって来る。

 

「それはならぬ子の日よ。其方が真に陸奥殿の事を慮るならば、一時の辛さに目を眩まされてはならぬ」

 

「でも姉様――子の日には――出来ないの……どうしても――我慢出来ないの――」

 

「いや出来る、其方は凍てつく氷海の底の孤独も耐え忍んで来たではないか、妾は知っておるぞ、其方には出来る、いや耐えねばならぬ、どうか聞き分けてはくれぬか」

 

初春ちゃんの瞳にも、涙が溜まっていた。

 

「…………」

 

子の日ちゃんは唇を戦慄かせながらむっちゃんの顔を見上げるが、彼女もまた涙を湛えた瞳で見返し小さく頷く。

 

そしてぎこちなく首を巡らせた子の日ちゃんは、初春ちゃんの瞳を見詰めると、見ている僕らが苦しくなる程の努力をしてゆっくりと頷く。

 

「おおおぉ――子の日や、子の日や――其方はほんに良い子じゃ……」

 

初春ちゃんが大粒の涙を溢しながら、子の日ちゃんを抱き締める。

 

「ううっ、うぇっ、えっうっうっぁっあっあっ――」

 

くぐもった声で押し殺す様に彼女が泣き出し、初春ちゃんが抱き締める腕に更に力を籠める。

 

「ほんに良い子じゃ、偉い子じゃ。まこと妾には過ぎた妹じゃ――」

「ぅおおおおぉんんっ、うぉおおおおおぉん」

 

泣き声は何時しか吠える様な声になっており、隣で目を閉じていた筈の葉月も何時の間にか少し身を乗り出して、この痛ましい光景をどうしたものかと眉を顰めている。

 

「二人ともごめんね、あたしの所為でこんな辛い思いをさせてしまうなんて――」

 

むっちゃんが涙を流しながら二人に腕を回してそっと詫びると、赤城さんが大きな声で割って入る。

 

「陸奥さんの所為などではありません! 全ては私が軽忽だったために起こった事です! 私はお二人になんと言って詫びれば良いのか――」

「もうっ、待ちなさいよっ! ――」

 

ついに我慢し切れなくなった葉月が口を開き掛けるが、僕をちらと見るなりそれを中断する。

 

「ちょっと仁、どうしたのよ⁉ しっかりしなさいよ――」

 

だが彼女の声は急速に遠くなって行き、既に僕の視界には咽び泣く子の日ちゃんしか映っていない。

 

いや、あれは泣いているのではなく、慟哭しているのだ。

 

愛する者を正に喪おうとしているのに、自分ではそれをどうする事も出来ない――その悲しみと苦しみに耐え兼ねているのだ。

 

そう、僕はそれを知っていた。

 

二度と思い出しくないその痛みを、僕は確かに知っていた……。

 

 



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〔第六章・第九節〕

 母さんは、本当に綺麗な顔をして眠っている。

 

(この箱、邪魔だよぉ)

 

母さんが眠っている変な箱は背が高過ぎて、僕には不自由そのものだ。

それに何時ものパジャマでは無く、白い着物を着て寝ているのも奇妙だったし、皆が母さんの周りに次々と白い花を置いていくのも不思議に感じられた。

 

(違うよ、ママが好きなのはこのお花じゃないよ?)

 

そう言ってあげ様とも思ったが、何だか皆恐そうな顔をしているので言い出す事も出来ずに黙っていた。

 

それよりも、僕はだんだんと不安になって来ている。

 

母さんは病院のベッドにいて僕の頭を撫でてくれていた筈なのだが、どうやら僕はそのまま眠ってしまったらしく、昨日の朝目を覚ました時には何時の間にか家に戻って来ていた。

しかもとても嬉しい事に、なんと母さんも一緒に戻って来ていたのだ。

母さんは、病院で見た時と同じ様にパジャマ姿で客間に敷かれた布団に横たわり、とても静かに眠っていた。

 

それでも、やっとまた一緒に眠る事が出来るのだと思うと僕は嬉しくて仕方が無く、母さんの布団に潜り込んで見たかったのだが、隣に座った父がひどく厳めしい顔をしていたのでそれも出来ずにいた。

そうこうしている内に、白と黒の服を着た見た事の無い人達がやって来て、僕は客間から追い出されてしまった。

 

その時二階で僕を着替えさせてくれたのは、葉月の母さんだった。

 

彼女は僕が、

「明日からまたママと寝られるのかなぁ」

と言うと僕をギュッと抱き締め、

「そうね――そうなれば良いわね」

と言ってくれたが、傍にいた葉月が

「ママ、どうして泣いてるの?」

と不思議そうに聞くと、何も言わずに葉月も抱き寄せて、僕達二人を抱き締めながら、

「何時か、ちゃんと分かる時が来るわ――何時かね」

とだけ言ったのだ。

 

それから母さんは、この変な箱の中でずっと眠っている。

箱に入ったまま、キラキラした着物を着た人が来て良く分からない唸り声をあげたり、変な屋根のついた車に乗せられたりしても眠ったままで、そして今このお祖父ちゃん家の匂いがする味気無い建物に迄やって来てもまだ起きる気配が無いのだ。

 

やがて、周りの大人達はどうやら全員花を入れ終わったらしく、少し遠巻きの位置に徐々に集まり始めた。

 

それと共に、僕の中ではどんどん嫌な感じが大きくなって来る。

 

それが何なのかはっきりとは言えないのだが、とてつもなく嫌な事の様な気がして不安で堪らなくなっているのだ。

 

相変わらず母さんは静か過ぎる位に良く眠っていて、それはひどく不味い事だという気持ちがどうし様もない程に膨れ上がっていた。

 

(やっぱり、ママを起こさなきゃ!)

 

遂に僕は意を決して母さんに呼び掛ける。

 

「ママ、ママ、もう起きて? ねぇ、起きてよ⁉」

 

ところが母さんは全く反応してくれない。

 

その上僕がそう呼び掛けた途端、反対側に立っていた葉月の母さんが堪え切れなくなった様に声を漏らし、肩を震わせて泣き始めた。

 

僕の不安は頂点に達し、一刻も早く母さんを起こさなければと思い、

「ねぇママ!」

と言いながら母さんの顔に手を伸ばしたが、その瞬間ゾッとする様な恐怖を覚える。

 

(⁉)

 

何時も僕に頬擦りしてくれた母さんのふわふわの暖かい頬は、まるでキッチンの床の様に冷たくて硬かったのだ。

 

「ママッ、ママッ! どうしたのっ⁉ 早く起きてママッ!」

 

恐怖で気が狂いそうになりながら、邪魔な箱の壁を乗り越えて母さんにしがみ付こうとしたが、後ろから誰かに抱きとめられ引き剥がされる。

 

「ママーッ! ママーッ! 起きて、早く起きてっ! ママッ!」

 

喚きながら必死に暴れて誰かの腕を振り解こうとするが、僕の力ではどうにもならない。

 

「仁、仁! 頼むから大人しくしてくれっ! ママを起こさないであげてくれっ! 頼む、仁!」

 

僕を締め付けているのは父だと分かったが、その時揃いの灰色の服を着た男が二人現れると眠っている母さんの上に蓋を被せ始めたので、僕は必死に叫んで暴れる。

 

「ママッ、ママーッ! 早く起きてっ! そこから出てっ! 悪い奴らだよっ、起きてママーッ!」

「仁っ! 頼む! 頼むからママをもう寝かせてあげてくれっ! 悪いのは全部パパなんだっ! だから――もう――ママを休ませてあげてくれ――――頼むから……」

 

父は僕を抱え込んだままその場に座り込んでしまい、灰色の男達が母さんの眠っているその箱をガラガラと押して行ってしまうのに、僕には只必死に暴れ叫ぶより他に成す術が無い。

 

「ママーッ! ママーッ!」

 

叫びながらはっきりと感じた事がある。

 

父は、僕の味方では無いのだ。

 

母さんが何処へとも無く連れ去られて行くのにそれを見て見ぬ振りをして、その内また自分が好きな事をする為に何処かへ行ってしまう積もりなのだと。

 

「離せっ! 離せっ! お前なんか嫌いだっ! お前も悪い奴だっ! ママッ、僕を連れてって! 置いてかないでっ! ママーッ! ママーッ! ――――」

 

母さんを運び去る男達が銀色の扉の向こうに消え、金属音と共に扉が閉まった。

 

僕は全身の力が抜け、言葉を発する気力も失せて父の腕の中でぐったりと垂れ下がる。

 

首筋に、まるで雨の様に父の流す涙が降り掛かるのを感じたが、それはどうし様も無く不快なものでしか無かった。

 

 



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〔第六章・第十節〕

 「――――さいよっ! ねえ仁っ、聞こえてる⁉ どうしたのよ?」

 

正直に言って葉月の声は僕にとって余り爽やかとは言えないのだが、目醒めや気付けに優れた効能がある事は認めなければならないだろう。

 

「ったく~お花畑にでも行ってたの⁉ それに、なに無断で泣いてる訳?」

 

と言いながらハンカチで僕の顔を(この衆人環視の真っ只中で)拭おうとする。

これでは赤城さんが勘違いするのも当たり前だ。

 

「大丈夫だよ――」

 

出来るだけやんわりと拒否して自らの手で何時の間にか零れ落ちていた涙を拭い、改めて目を上げるとむっちゃんの涙に濡れた瞳が見詰めている事に気付く。

 

(むっちゃん――こんな僕にも出来る事があったよ)

 

そうだ、今出来る事など迷う程多くはない。

もっと言うなら、今口にすべき事はたった一つしか思い付かない。

子の日ちゃんの実際の年齢を幾つと言うべきなのかも分からないし、その上彼女に憎まれているのかも知れないが、目の前で幼い子がこんな悲しみと痛みとに苛まれているのはどうにも耐え難い事だ。

むっちゃんに小さく頷いて見せると改めて目頭を拭い、中嶋副長に向き直る。

 

「渡来さん、大丈夫ですか?」

「ご心配をお掛けして済みません、副長にお願いがあるんですがお聞き頂けませんか?」

「何でしょう?」

 

僕はほんの数瞬だけ時間をかけて、自身の胸の中に浮かび上がって来た言葉を噛み締めた。

それから軽く唾を飲み込むと、意を決して口火を切る。

 

「子の日ちゃんにも一緒に来て貰う事は出来ないでしょうか?」

 

意識した積もりは無いのだが少し大きな声になってしまった様で、皆の息遣いが止まり、彼女の泣き声すら少し小さくなった様に感じる。

 

「無茶なお願いなのは重々承知している積もりですが、これ以外に解決する方法を思い付かないんです」

 

僕が重ねて言うと、中嶋さんは軽く溜め息を吐いて見せた後で微笑を浮かべ、

「仕方ありませんね、では改めて司令にご判断を仰ぐことにしましょう。ですが渡来さん、くれぐれも断っておきますけど一時の気紛れは許されませんよ?」

と注意を促しながらも肯ってくれる。

 

「有難うございます! その覚悟はしています」

何だろう、とても胸の中がすっきりとしていて良い気分だった。

 

「仁――」

 

むっちゃんの声がしたので振り返ると、彼女のキラキラ光る瞳が真っ直ぐに僕を見詰めていた。

そして何時の間にか泣き止んでいた子の日ちゃんも、まだ涙でクシャクシャの顔のまま、信じられないものを見る様な真ん丸な目でやはり僕を見ていた。

どうしたものかと一瞬迷い掛けたものの、自分の考える事など休むに似たりだと思い、口に昇って来た言葉そのままに声を掛ける。

 

「子の日ちゃんの気持ちも聞かずに勝手な事言ってごめんね。陸奥さんと一緒に僕の家に引っ越して来れそうかな?」

 

相変わらず彼女は瞬きを忘れてしまったかの様に真ん丸に目を見開いていたが、数秒後やっと言葉が染みたのかコクンと頷いた。

それを見た初春ちゃんが心底嬉し気な笑みを浮かべると、その瞳から本当に光り輝く様な涙が一粒零れ落ちる。

それはまるで神話の中の一コマの様に神々しさに満ちた光景で、僕は得も言われぬ喜悦に震え出しそうになる。

 

「渡来殿、感謝に堪えませぬ――言葉がもどかしゅうてなりませぬ、真の侠気と言うは、これをおいて他妾はよう存じませぬ」

 

そう雅やかに礼を言う彼女の瞳からまた一つダイヤモンドの様な涙が零れ、それは正に僕の決断が正しかった事を証明してくれるこの上もない証しだった。

 

有難うございます渡来さん! 私の至らぬ――」

 

赤城さんが一際大きな声で話し始め様とするが、絶妙のタイミングで隣の加賀さんがその二の腕を軽く掴む。

「赤城さん? 感動しているのは判りますけど、何か言う前に一呼吸おいてからにして下さいね」

思い切り出鼻を挫く様な冷や水を掛けられた彼女は、

「私にもその程度の弁えはあります! ――ええと何でしたっけ――あっとぉ渡来さん、それに副長殿、何卒宜しくお願いを致します……」

と、何を伝えたかったのかはっきりしない龍頭蛇尾なコメントをするのが精一杯だった。

如何にもがっかりした様子の赤城さんは流石にちょっと気の毒な気がした。

そんな様子に苦笑しながらも、

「ただ皆さん、現時点ではまだ決まった訳ではありませんので、渡来さんの申し入れに応じられない場合もあると言う事を忘れないで下さい。よろしいですね?」

と中嶋さんが念を押したので、僕はもちろんその場の全員が改めて深く頷く。

 

つと席を立った斑駒さんが、何処からかお絞りを持って来てくれた様だ。

むっちゃんはそれで子の日ちゃんの顔を拭いてあげており、子の日ちゃんもいかにも安堵した様な笑顔だ。

そしてさっぱりした彼女とむっちゃんが改めて笑い合うのを見て、僕ははっきりと悟った。

子の日ちゃんにとって、むっちゃんは母親に等しい存在なのだ。

もちろん彼女達には血の繋がった肉親や親などという概念は存在しない訳だが、明らかに子の日ちゃんはむっちゃんに母親と同じものを感じており、それを強く追慕しているのに違いない。

しかも彼女は見掛けこそ小学生位なのだが、心を持ってからの年月はたったの数週間でしかない赤ん坊の様な存在だ。

そんな彼女が母親同然の存在から引き離されるのがどういう事なのか、僕は全く想像出来ていなかったのだと改めて反省する。

 

(皆、元は軍艦かも知れないけど、やっぱり心は僕らと変わりないんだよな)

 

彼女達が僕ら人間と同じ精神構造の持ち主であるなら、自分の肉親・自分の家族――と言った繋がりを求めるのはごく自然な成り行きだろう。

 

(でも、そう言う事だとしたら――)

 

大事なことを一つ見逃しているのに気付き掛けたその時、やはりと思わせるタイミングで葉月が声を上げる。

 

「ちょっと仁、なにドヤ顔してる訳⁉ 本当に一度に一つの事しか見えないのねぇ!」

 

この言葉と共に勢い良く回転し始めた僕の脳内には直ぐその答えが浮上して来るものの、いささかハードルが高過ぎると感じて口にするのを躊躇ってしまう。

が、葉月は遠慮なくそれを口に出した。

 

「何だか凄い解決策出した見たいになってるけど、こんなの結局初春ちゃん一人に我慢させてるだけじゃない! こんなに仲の良い姉妹を引き離しといて、解決も何もあったもんじゃ無いわ⁉」

 

確かにたった今それに気付いた処だけど、そんなの副長と西田司令に無理言い過ぎだよ、そこ迄我儘と言うか無茶振りするか普通⁉

――と頭の中で捲し立てて(無論そんな事を葉月に向かって直にする様な度胸はない)見るが、それ以前の問題として初春ちゃんが黙っていない。

 

「塔原殿お待ちあれ、妾の胸中に迄かかるご配慮は無用に願いまする。妾の望みは明々白々、我が妹の願いを叶えて頂く事に御座りますれば、どうかご放念下されませ」

「一緒にいたいと欠片も思わないんならそれで良いけど、わたしには到底そうは見えなかったの。何を心配してるのか位分かってる積もりよ? 余り無理難題を言い過ぎたら肝心の子の日ちゃん迄一緒に行けなくなっちゃうかも知れないって思ってるんじゃないの?」

「そこ迄お察しであれば尚のこと、妾が事の軽重を慮る所以もお判りかと。子の日と二度と会えぬ訳ではござりませぬ故、ご案じめさるな」

 

二人の遣り取りは次第に押し問答の様相を呈し始め、話が脱線して行きそうな予感がして来る。

僕はどうやって会話に切り込もうかと一応考えているのだが、踏ん切りが付かずにもたもたしていたら、その手の呼吸だのタイミングだのに頓着しない加賀さんが例によって無愛想な声を上げる。

 

「子の日さん、貴方はどうなのかしら? 初春さんに一緒に来て欲しい?」

 

この問い掛けを聞いた彼女は、躊躇う事なく明快に応える。

 

「子の日は姉様にも一緒に来て欲しい、許して貰えたらだけど――」

 

彼女はそう言って副長の顔を見ると、その後少しおずおずと言った態で僕の顔を見てくれる。

毎度敵意の籠った眼差しでしか見られた事が無かったので今迄全く意識していなかったのだが、さすが超絶美少女初春ちゃんの妹だけあって(まぁ血は繋がっていないかも知れないが)彼女がやたらに可愛い事に気が付く。

我ながら単純な事この上ないが、男と言う生き物の業の深さ(馬鹿さ加減ともいう)故に、可愛い女の子の為ならばとつい後先も考えずに言葉が口を衝いて出る。

 

「大丈夫だよ、もしお姉さんも一緒に来れる事になったとしても、ちゃんと責任もって面倒見るからね。約束するよ」

 

パッと表情を輝かせる彼女を見るだけですっかり嬉しくなってしまう単純極まりない僕は、早速副長に向き直り改めてお願いし直そうとするが、不意にむっちゃんにじろりと睨まれたのでギクッとしてしまう。

 

(えっ、いやその――これはダメなの?)

 

と思った瞬間、葉月が爪先に力を込めて踝の骨をガンと蹴飛ばす。

 

――つまり余計な口を挟まず黙ってろと言う事ね、そうですか分かりましたよ……。

 

葉月が僕の心を読めるのは分かっていた積もりだが、むっちゃん迄何時の間にか同じ事が出来る様になってるなんて!

いや、確かに調子に乗り掛けてたのは認めるけど、まるで二人が示し合わせている様に見えるのは気の所為なんだろうか?

すっかり凹んでしまった僕を尻目に、赤城さんが話し始める。

 

「副長殿、我等は決して無理難題をお願いし様とは思っておりません。しかしながら事情の許す限りご検討を頂きたいのです。初春さん、貴方がどうしても拒まれると言うならいざ知らず、司令に希望をお伝え頂くだけでもすべきでは無いでしょうか?」

 

泰然として如何にもリーダーらしい威のある彼女の言葉に、初春ちゃんも困った様な顔をしながら応じる。

 

「赤城殿、もし何方にも累を及ぼすこと無かりせば、妾も子の日と離れて暮らしたいなどとは無論のこと思いませぬ。さりながら、隊にも渡来殿にもご負担をお掛けするは自明の事なれば、如何にも申し訳なき仕儀にて――」

 

その古風な言葉遣いは兎も角、こんなにゆかしい心遣いなり物言いなりを日常生活で耳にする事などまずあり得ないだろう。

大和撫子と言うのはこんな女性のことなのだろうか?

思わず僕は副長の顔を見るが、彼は先程よりも更に冷静さを心掛けた口調で皆に語り掛ける。

 

「赤城さんの言われる通り、希望であれ主張であれ司令には正しくお伝えすべきですしそうする積もりです。司令がどの様なご判断をされるか皆さんにはお待ち頂く事、そして結果が如何なるものであれ決定には従って頂かねばなりません。私が改めて申し上げる事はそれだけです」

 

(何だか凄いな……)

 

感情を排したその言葉は副長の冷淡さ故ではなく、行き掛り上こうなってしまった初春ちゃんの気持ちに配慮した結果なのだろう。

それに感心してしまった僕は、先ほど二人に警告されたのも忘れて何か出来る範囲で上手くフォローしようとつい声を掛けてしまう。

 

「司令からお許しを頂けたら子の日ちゃんと一緒に引っ越して来て貰えますか? 僕のお願いも聞いて貰いたいですし」

 

やや心許ないコミュニケーション能力を総動員したその発言を、彼女はちゃんと汲んでくれた。

 

「まことその通りでしたのう渡来殿、お約束を果たす為にもお世話にならねばなりますまいのう」

 

そう言って彼女は子の日ちゃんの顔を見て微笑み、子の日ちゃんも満面の笑みで応える。

 

(良かった♪)

 

その心和む光景を目にしてすっかりホッとしてしまった僕は、その所為もあってか少々催してきたので、

「済みません、ちょっとトイレ行ってきます」

とサラッと立ち上がろうとしたのだが、前触れ無くその手首を葉月がギュッと掴む。

「その前に説明して行きなさいよ、約束って何の事かしら?」

「何だよ、別に勘繰られる様な事じゃ無いよ」

「あたしも聞きたいわ、仁?」

 

(いや、むっちゃん迄そのぉ――えぇっ⁉)

 

油断していた上に必要以上に焦った僕は頭の中が真っ白になってしまい、一番不味いタイミングで絶句してしまう。

 

(な、何とかしなきゃ!)

 

行き詰まった末に助けを求めて初春ちゃんの顔を見たものの、彼女の驚くべきリアクションによって奈落に突き落とされる。

 

「ほほ渡来殿、女子(おなご)の口からその様な事を言わせなさいますか? 悪いお方よのぉ♪」

 

そう言った彼女は扇を広げて目から下を隠すと意味有り気な眼差しで僕を見るが、目元が桜色に染まっているのは一体どうやっているのだろうか?

 

仁!!

 

むっちゃんと葉月が見事にハモりながら椅子を弾き飛ばして立ち上がる。

その恐るべき情景を目の当たりにした僕の脳内で、ピーンという甲高い音と共に何かが直結した。

部屋の出口に最も近い位置に座っていた僕はサッとドアに手を伸ばし、構わず引き開けると全速力で部屋を飛び出す。

 

「ちょっと、待ちなさいよ⁉」

「仁、仁⁉」

「ほほほほ♪」

「艦内では走らないで下さ~い!」

「まぁ、何はともあれ――」

 

入り乱れて響いて来る皆の声を背中で聞きながら逃げる僕の足どりは、その緊迫した状況にも関わらず、心躍るかの様に軽やかだった。

 



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第七章
〔第七章・第一節〕


 坂道を登る陸奥の眼に日に照り映える白い雲が眩しい。

手を繋いだ子の日は教えて貰ったばかりのスキップをしながら、嬉しくて仕方がないと言った態で飛び跳ねている。

とは言え、気持ちの上では陸奥も一緒に飛び跳ねたい位だった。

 

(本当に、戻って来れるなんて――)

 

僅か三週間しか経っていないのにとても長い間離れていた様に懐かしく感じられ、自分には存在しない筈の故郷を思わせる。

 

(皆こう言う気分だったのね)

 

母港に帰投する時、士官も兵も関係なく皆一様に底抜けに明るい笑顔を浮かべていたのが何故だったのか、理解出来た気がする。

 

「ねぇ陸奥さん、お家って言うんでしょ? お家に行くのね?」

子の日が下から見上げながら聞く。

「そうね、でもお家に行くのじゃないわ、お家には帰るのよ♪」

「帰るの?」

「そうだよ、今日からは子の日ちゃんのお家だよ♪」

後ろから仁が声を掛ける。

「ほんと⁉ 本当に子の日のお家⁉」

「うん、子の日ちゃんと初春ちゃんと陸奥さんと僕のお家だよ」

「皆のお家ね♪」

「うんっ!」

彼女のあどけない笑顔は喜色に満ち溢れていた。

 

「ほほ、渡来殿はほんにお優しい方よの。子の日よ、ゆめゆめ勘違いするでないぞ? 渡来殿がこれ程仁慈に篤い方にあらねばこの様な厚遇などあり得ぬ事ぞ」

初春が目を細めながら諭すと、子の日は、

「うん、判ってるよ!」

と言いながらスッと陸奥の手を離し、後ろにいた仁にギュッと抱き付くと彼の顔を見上げて愛くるしい礼を言う。

「ほんとに、本当に有難ね仁!」

「こりゃ、そなたの恩人ぞ⁉ 御名を呼び捨てるとは何事か!」

そうだった、いつの間にか子の日は彼の名を呼び捨てにしている。

「でも姉様、仁がそうして良いって言ったの」

 

(もう、仁ったら!)

 

思わず締まりの無い顔をしている仁を睨むと、彼は慌てて顔を引き締め、初春にも呼び捨てを勧める。

「あ、あの、初春ちゃんも渡来殿って言うのは勘弁してくれないかな? これからは仁で良いよ?」

陸奥としては自分(と葉月)だけの特別な呼び方だったのに――と言う思いがなくは無いものの、さすがに気に入らないからと言って止めさせる訳にもいかなかった。

 

(これが仁なんだから仕方無いわよね)

 

「渡来殿の仰せ故承らぬ訳にもいかぬでしょうが、御名を呼び捨てるは如何にも無礼に思えてなりませんのう」

「え、じゃあ――どの位だったら妥協出来そう?」

彼女は少し思案顔になり、

「仁殿――ではご容赦頂けませぬかのう、陸奥殿?」

と、何故か彼では無く陸奥に了解を求めて来る。

「何であたしに断るの?」

訝しく思って問い返すと、彼女は扇で口許を隠しながら、

「妾が余り渡来殿に親し気にしては、陸奥殿より如何なるお叱りを受けるやも知れませぬ故♪」

と悪戯っぽい視線を投げ掛ける。

「初春ちゃんたら揶揄わないで頂戴⁉ もう、やだわ――」

思わず顔が赤くなるのを感じてチラリと仁の顔を盗み見るが、彼は少し苦笑しながら

「じゃあ、今日からはそれでよろしく!」

と、陸奥の事には触れずに会話を終わらせてくれる。

 

その気遣いにホッとする間にも懐かしい渡来家の前に辿り着いたので、感慨深く見上げる。

「さあ着いたよ、今日からここが帰って来るお家だからね」

彼が子の日と初春の顔を見ながらそう言うと、続いて陸奥を見て微笑む。

口に出すのはちょっと恥ずかしかったので、眼で、

(只今、仁)

と告げる。

すると彼もまた、

(お帰り、むっちゃん)

と瞳で語り掛けてくれる。

「どっから入るの? 早く入って見たいよ!」

子の日が催促するので彼は門扉を開けながら

「あそこの扉だよ、今開けるからね」

と言って先に立ち、鍵を取り出すと扉を開ける。

 

「なに? いい匂い!」

玄関に入るなり子の日が声を上げるが、それは陸奥にとっても好ましい香りであると共に、懐かしさと緊張感の入り混じった形容し難い感傷をも呼び起こす。

「あら、皆お帰りなさい、随分ゆっくりだったのね仁」

エプロン姿の葉月が奥から現れて出迎えてくれる。

「只今葉月、結局戻って来ちゃったわ♪」

こういう事態を予想していた陸奥が落ち着いて声を掛けると、彼女は如何にもと言った渋面を作って見せる。

「ったく~出戻るにしても早過ぎるのよね! お餞別、返して貰おうかしら⁉」

そう言い放っておいてニタッと笑うが、今の陸奥はそれに余裕を持って応じることが出来た。

「あらあら、どうすれば良いかしら? 皆と一緒におやつするのに全部使っちゃったのよね、仁のお餞別はまだ残ってるんだけど」

ニヤリと笑みを返しながらそう応えると、それを聞いた彼女もクックックと含み笑いを零す。

傍らでどうなる事かと緊張した面持ちの仁だったが、そんな彼を一瞥した葉月はサッと明るい表情に切り替え、初春と子の日に向かって声を掛ける。

「じゃあ残りは三人で仲良く使うのね♪ さぁさっさと上がりなさいよ、私のお古だけど二人の服持って来たのよ!」

「ほんとに⁉」

子の日が瞳を輝かせると、彼女は何やら得意気な顔付き(こう言うのがドヤ顔と言うらしいと最近陸奥は知った)で、

「そうよ、それに今日は晩御飯も特別よ!」

と胸を張って見せる。

「とっても美味しいわよ、あたしも大好きなの」

と言いながら陸奥は子の日を上がり框に座らせ、靴を脱がせる。

 

「塔原殿、重ね重ねお心遣い痛み入りまする。我ら家庭の暮らしというものに不慣れに御座ります故、宜しくご指導下されよ」

初春が深々とお辞儀をして礼を述べると意外にも彼女は、

「ま、細かい事は追々仁に聞いて頂戴、私もご飯の支度位はしに来るけどね」

とだけ言い残してさっさと引っ込んでしまう。

 

「ねぇ仁、葉月はどうしたの?」

陸奥が不審に思って聞くと彼は

「うん――取り敢えず泊りに来るのは止めるんだってさ。夕食は作りに来るって言ってるけどね――」

と少々歯切れの悪い返事をする。

恐らく彼女が何故この様な行動に出るのかその動機が理解出来ないのだろう。

だが、陸奥には何となく理解出来る様な気がする。

赤城・加賀と話してどうやら誤解があったらしい事が判って以来、気持ちの中にはずっと葉月に対する疑念が渦巻いており、あの時彼女の瞳の奥を覗き込む迄それは続いていた。

 

赤城は頻りに自身の軽率さにこそ全ての原因があったのだと繰返し、

「塔原さんは、故意に騙そうとした訳では無いと思います」

と擁護していた(仁と陸奥の心情を慮っての事だろう)が、幾ら予断を交える事無くその時の状況を聞き返して見ても、彼女は勘違いさせ様としていたとしか思えない。

只その真意は何だったのかと問われると、結局推測の域を出ないのは言うまでも無い。

ましてや赤城を通じてそれを陸奥の耳に入れる積もりだったと言うのは、幾ら賢い彼女とは言え手が込み過ぎているとも思える。

にも関わらず陸奥が疑念を拭え無かったのは、本当に悪意が無いのなら何故自分に打ち明けてくれなかったのかと言う点に尽きる。

そんな濁った感情を抱いて葉月の視線を受け止めた時に陸奥が感じたのは、葉月の真意に対する驚きでは無くそれを受け止める側である自分自身の変化だった。

 

あの時葉月の瞳の中に見出したのは、彼女らしい向こう気の強さだった。

 

(本気で戻って来る積もりなのね、私言い訳とかする気無いから!)

 

まるでそんな言葉が聞こえて来た様な気さえした。

ところが自分でも驚いた事に、その強い意志の背後に彼女が抱いている負い目の様な弱々しい感情が垣間見えてしまった。

それを目の当たりにした時、陸奥は彼女の弱さに同情にも似た感情を抱いたのだ。

 

(言い訳して貰う必要なんか無いわ、あたしは自分が戻りたいと思うからそうするだけよ)

 

葉月に投げ返すことが出来たのは、そんなどこかしら淡々とした思いでしかない。

その無言の遣り取りは、自分が仁と葉月に守られるだけの存在だった時には到底成り立たないものだっただろう。

彼女の胸中も含めて事の真相が全て判ったとは思わないが、事情がどうあれ陸奥は自分の新しい人生(と言うのが相応しいのかどうかはさておき)が始まったその場所迄時計の針を戻すことを願った。

そしてそれだけは、例え彼女が不満を抱いたとしても譲歩したりする気は無いと、明確に意思表示をしたのだ。

彼女はそれを感じ取り、陸奥に対する見方を改めた――誤解を恐れずに言えば対等の存在であると認めた――が為に、これ迄の路線をも改めたのだろう。

ひょっとすると自分の勘違いに乗じ様とした事で後ろめたさのあった葉月が意識的に一歩引いたのかも知れず、それは、彼女の示した度量であるのかも知れない。

 

「どうしたの?」

 

子の日の問い掛けで物思いから引き戻された陸奥は、

「何でも無いわ、只あたし、塔原さんにお料理を教えて貰う約束してたから、その約束はどうなったのか聞かなきゃって思ってただけよ」

と、からりと言って仁の顔を見る。

 

少し戸惑った様な顔をした彼は急に破顔して、

「大丈夫だよ、葉月は約束を忘れた訳じゃないよ」

と明るい声を出すと、陸奥の顔を見て目を瞬かせる。

 

「あら? まさか仁ったら、ちょっと涙目になってない⁉」

「そ、そんな訳無いよ! 何か凄く嬉しいのは認めるけど――」

「ほほ、何やら楽し気にござりますな♪ これは毎日退屈しておる暇なぞ到底ありませぬのう」

「は、初春ちゃんも勘弁してよ……」

「もう姉様⁉ 仁を苛めちゃダメだよ!」

子の日が彼にキュッと抱き付くと、姉に向かって口を尖らせる。

 

(仁ったら、だらしない顔しないで!)

 

陸奥が睨むと、途端に表情を堅くした彼は

「と、とにかく荷物を置いて一息入れよう♪ 家の中も案内してあげるからね」

と幾分早口になりながら、子の日の手を引いて廊下を歩き始める。

 

(もうっ!)

 

と心の中ではむくれながらも、やっと家に帰って来たと言う安心感を陸奥は噛み締めていた。

 



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〔第七章・第二節〕

 月曜日の朝は仁も一緒に起きて四人で家を出る。

最寄駅で指定された車両ドアから乗車するとちゃんと斑駒が乗っており、挨拶してくれる。

 

(毎朝こんな風に出勤してるんだな)

 

自分もバイト位はするし、正直な処彼女達三人を養う事を考えたら、それこそ毎日フルタイムで出来るバイトでもして生活費を稼がなければ立ち行かない筈だった。

そしてそれは同時に留年覚悟でなければ出来ない事でもあり、肚を括り掛けていたが、西田と中嶋の計らいによって交通費・食費・光熱費等に付いて後から実費請求と言う形で負担して貰える事になったのだ。

 

先日の電話ではああ言ったものの出来れば父の貯金には頼りたく無かったし、それが何時の日か必要になる事も分かっていた。

一、二年生の頃(葉月に絡まれるの嫌さにだが)バイト三昧だった彼にはそれなりに貯金もあり、一時的にはそれで何とか凌ぎながらその先の生活設計を考え様と思っていた。

だがこの思わぬ計らいによって、当面の経済的な目途が立ったのは大変有難かった。

 

(それにしても――)

 

大変な事はまだ幾らでもある。

例えば彼女達には住民票も戸籍も無いので健康保険も無ければ各種の身分証明も無く、電車やバスで通うのですら定期も買えなかった。

もちろん働く事も免許や資格を取る事も出来ない上に、今のままでは国や公的機関による保護を受ける事も(防衛隊を除けば)実質的に不可能なのだ。

 

(何か見えて無かったなぁ~)

 

彼女達が訓練隊の内部で保護されて生活しているのは、考えれば考える程理に適っている。

とは言え今更白紙に戻す事など出来様筈も無いし、何より陸奥が戻って来たいと言ってくれたのに、それに応えないなどと言うのは今の仁にはあり得ない。

その上こんなに可愛い同居人が二人も身を寄せて来てくれた事は、彼にとって重荷どころか一層奮起する要因にしかならなかった。

 

そんな事を反芻している内に何時の間にか時は経っており、気が付くと隊の正門前のバス停に着いていた。

 

「斑駒さんは毎朝こうやって通勤してるんですか?」

歩きながら仁は聞いて見る。

「いいえ、実はこんな風に出勤する様になってからまだ一週間位なんですよ」

「えっ! どう言う事ですか?」

彼女の自宅は仁の最寄り駅の一つ隣の駅付近だそうで、丁度途上だと言う事から毎朝一緒に通勤してくれる事になったと聞いていたのに……。

 

「陸奥さん達が毎朝通って来るに当たって、誰かが付き添う以外にちょっと方策が思い当たら無かったもので、司令から私に営外居住の許可を特に出して頂く事になったんです」

「何ともはや、我らの為にまこと過分なご配慮を賜り御礼の申し上げ様もござりませぬ。平にご容赦下されよ」

 

初春にそう言われた斑駒は急に喜色を溢れさせ、

「いえ全然! 私、皆さんのお世話をさせて欲しいって志願したんですよ! 毎日とっても楽しいんですから! それに、正直言って寮生活から解放されるのも有難かったですしね♪」

と快活な声を上げる。

その瞳は愉しげな輝きに満ちていて、彼女の弾んだ感情が直に伝わって来る。

「うわ~、駒ちゃん本当に楽しそうだね!」

と子の日が感嘆する程だ。

 

「だって皆とこうやってお話出来るって事は、私達が日頃接してる防衛隊の艦艇も観光地の遊覧船も皆ちゃんと心があって、こんな風に気持ちを通じ合えるかも知れないって事でしょ⁉ それって凄い事ですよ!」

常日頃の斑駒はきびきびとしていて物堅く仁よりもかなり年長に見えるが、こうして何時もよりテンションが上がった彼女はずっと若く――というよりまるで無邪気な子供の様にも見える。

 

「斑駒君、ずいぶん楽しそうじゃないか♪」

背後からの声に振り返ると、相変わらず柔和な笑みを浮かべた西田だった。

「お早うございますっ!」

期せずして仁も含めた全員の声が揃ってしまい、彼はそれこそ目が無くなってしまう程和やかな笑顔になる。

「ハッハッハ、いや挨拶して貰うのがこれ程嬉しいとは思わなかったねぇ。そうじゃないかね斑駒君?」

「はい、司令!」

そんな彼女に頷いて見せてから仁に顔を向けた西田に、丁度良い機会だと思った彼は改めて今回の諸々に対して礼を言う。

「この度は大変なご配慮を頂きまして有難うございます!」

そう言って深く礼をすると陸奥、初春、子の日も一斉に

「有難うございます!」

と合わせてくれる。

 

「いや、そんなに畏まって礼をされるとさすがに尻がこそばゆいので勘弁して下さい。それよりも渡来さん、新しいご家族が出来た気分は如何ですかな?」

家族と言われて改めて三人の顔を顧みると、彼女達が笑顔で見返して来る。

 

(僕の家族――)

 

その言葉は彼の中で急速に形を伴って膨らみ始める。

 

「――何だか、ファイトが湧いて来る感じがします!」

「そうでしょう、それこそ守るべきものが出来た喜びと言うものです。貴方の持てる力を余す事無く発揮して貴方の大切な家族を守って下さい。宜しくお願いしますよ」

そう言い残して西田は踵を返して歩き去って行く。

 

「家族って何だかとっても良い響きね、仁」

陸奥の柔らかな眼差しはその言葉と共に彼を捉え、更にその手を子の日がキュッと握る。

「ほほ、仁殿、また良いお顔になられましたのう♪」

初春が愉し気に言うと、傍らの斑駒が少し羨ましそうな顔をしてから表情を切り替える。

「さあ皆さんに使って頂くロッカーに案内します。渡来さんは入口迄ですけどね」

 

「斑駒さんは、どうして防衛官になったんですか?」

再び歩き始めた彼女に何気なく尋ねると、彼女は僅かに視線を中空に泳がせながら迷いを含みつつ応じる。

「――実は、父の所為なんですよ」

「え、じゃあひょっとしてお父様も防衛官でいらっしゃるんですか?」

「ちょっと違いますね――父は海上警備庁勤務です」

「それじゃやっぱり警備船に――」

「ええ、警備船の船長をしてます」

「凄いですね! ひょっとして国境紛争の最前線にも行ってらっしゃるんですか?」

「そうです、神経が磨り減ってくるって偶に言ってますけどねぇ……」

「でも、斑駒さんは警備官にはならずに――」

「父が――許してくれなかったんですよ」

「えっ……その、何故ですか?」

 

反射的に聞いてしまってから、ひょっとして不味かったかと思いなおし仁は質問を取り消そうと仕掛けた。

しかし彼女は一瞬だけ間を空けた後に、どこか苦さを噛み締めた様な笑顔で教えてくれる。

 

「父に言われたんです。同じ組織にいれば何時上官と部下になってもおかしくない、もし人命に関わる判断を迫られた時に、親子の情がそれを誤らせる様な事があったら後悔しても間に合わない事もあるだろうって……」

 

その言葉の持つ重みも去る事ながら、娘にそう言って聞かせた父親の姿を思い浮かべた彼は思わず口を噤んでしまう。

それでも、やはり浮かび上がって来る何かに抗い切れずに再度口を開く。

 

「あの、失礼な言い方で済みませんけど――でも素晴らしい方ですね、自分の娘にそんな事が言えるだなんて……何だか尊敬してしまいます」

その言葉にかなり複雑な表情を浮かべた彼女は

「ああもうっ! そう来るかな~って思ったんですよぉ……。でも私、本当に悔しかったんですから!」

と少々意外なことを言う。

 

「また異な事を仰せじゃ、父君が英邁であられるとて口惜しいとは」

聞いていた初春も意外そうに口を挟むが、その後斑駒が続けた言葉に彼は心の底を掻き回される。

 

「だって――私、父の事大っ嫌いだったんです。仕事だからって何時も長い間帰って来なくて――運動会の親子競技、私だけ担任の先生とだったし、母のことも好き放題に振り回して……。だから同じ仕事を選んだのも、自分は父とは違うってとこ見せてやるっ! てそう言うつもりだったんですよ⁉ なのにそんな事言われちゃって――もう悔しくて涙出ちゃって……」

 

「それで防衛隊に入ったんですね」

そう相槌を打ったのは陸奥だった。

仁は己の父の姿が胸に去来して何も言えなくなっていた。

 

(……)

 

親子競技で仁をおぶって見た事も無い真剣さで疾走し一位になった父。

 

遠足の途中葉月と二人で迷子になり、とっぷりと日が暮れてから地元の消防団員に伴われて山を降りて来た彼を抱きしめて男泣きした父。

 

そして、彼から母を奪った父……。

 

「仁、何考えてるの?」

 

子の日が下から顔を見上げて聞くので、彼は我にかえる。

 

「あ――うん、大した事じゃないよ、ちょっと斑駒さんが羨ましいなって思ってただけだよ」

「そんなの逆ですよ! 私は渡来さんが羨ましいです。今改めて思ったんです、やっぱり自分の守るべき家族を持たなければ何時迄経っても父に追い付く事は出来ないんだって。渡来さんにはそれがあるじゃないですか!」

 

斑駒の言葉には確かに彼女の真摯な感情が籠っていたし、陸奥も初春も子の日も大切な家族だと感じる事は出来る。

 

それでも彼は、己の笑顔が寂しく乾いたものになってしまうのをどうする事も出来なかった。

 



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〔第七章・第三節〕

 一週間が、目まぐるしく過ぎて行こうとしている。

僕はこれ迄よりも随分早く起きる様になり、朝一番にむっちゃん達の朝食を用意して身支度を手伝うと彼女達を駅迄送って行く。

序でにその足で買い物をしてから家に戻って、改めて出直すと大学に通う毎日だ。

早起きしなければいけないので夜もさっさと寝るし、随分健康的な生活になりそうだった。

 

 今週葉月は結局一日休んだだけで、他は毎日夕飯を作りに来てくれた。

只残念な事にむっちゃんが帰って来るのはそれ程早い時間ではないので、平日に夕飯を作りながら葉月に料理を教わると言うのはちょっと難しそうだ。

とは言うものの米の洗い方や翌日の下拵え、余った物の始末や食材の保存の仕方など結構熱心に教えてくれている。

そんな時の二人は普通に仲が良さそうに見えるし、彼女の氏素性を知らなければありふれた友達同士と思うだろう。

実際僕は二人が首尾良く和解出来たものと思っていた位だが、暫く見ている内に以前とは違う何かがある事を何となく感じ始める。

それをはっきり何であると指摘出来ないのでもどかしいが、曰く言い難い緊張感の様なものが二人の間には流れており、それは間違いなく以前には無かった筈だ。

でもまさか二人に向かって「本当はちゃんと仲直りして無いんだよね?」などと聞く訳にも行かないので、じっと我慢しながら二人を観察し続けている。

今の処謎解きの手掛かりになりそうな事と言えば、少なくともむっちゃんが以前とは変わったという点だろうか。

これまたはっきりとこの点が――とか言え無くて申し訳ないが、乏しいボキャブラリィを酷使して表現するなら人間性とか人格の様なものに幅や奥行が加わった様に感じる。

出会って間もない頃の彼女は、その瞳の奥に拭い難い深い哀しみを宿していた。

普段見せていた無邪気な明るさも、その裏側に薄暗い海底に(しかも嘗ての乗員達の亡骸を抱いたままでだ)横たわっていた孤独な歳月の記憶を色濃く感じさせたし、何かの拍子に笑顔を消した彼女が涙を流す度に僕の心は強い痛みを感じた。

だがこうして約三週間振りに戻ってきたむっちゃんは、無邪気さの代わりに勁さやしなやかさを身に付けている様で、あの深い哀しみを自分の一部として受け止めている様にも思える。

 

(仲間と一緒に暮らしたからなのかな)

 

それが全てだとはさすがに思わないが、同じ過去や辛さを共有する仲間達との暮らしが今の彼女に影響を及ぼしているのは間違いないだろう。

今しもキッチンで葉月とお喋りしながら後始末や明日の準備をしているむっちゃんの後ろ姿には、落ち着きや余裕すら感じる。

そしてもちろん、彼女に対する葉月の接し方も変わってしまった様だ。

葉月はむっちゃんが何者であるかを自分なりに理解したその時から暖かな思い遣りや労わりを持って接してくれていた。

そんな様子に僕は言葉に表せない様な喜びを感じたし、どういう訳か誇らしさすら覚えた位だ(何故お前が? と突っ込まれても説明は不可能なのだが)。

只こうなって見て初めて分かったが、僕自身をも含めて上から目線とでも言うべき関係だったことに気が付く。

命の恩人である事に対する感謝の気持ちはあったが、それを除けばやはり見ず知らずの世界にたった一人放り出された彼女に対して、保護者の様な視線を注いでいたのは間違いなかった。

なのに今のむっちゃんにはどう見てもそんな扱いは不似合だし、逆に気を遣われる事すらある始末なのだ。

僕は今頃やっとそれに気付き始めた訳だが、葉月はもっとずっと早く――おそらくはあの隊で見詰め合った時――彼女の変化を感じ取っていたに違いない。

 

(そうか――だとしたらやっぱり……)

 

やっと僕は二人の間に流れる緊張感の様な何かが、少し分かり掛けて来る。

あそこに立っている二人の間には最初の頃の保護者と被保護者の様な立場の差は無くなっており、対等の女性同士の新たな関係が構築されつつあるのだろう。

男である僕にとっては女性同士の友人関係は理解不能な処が多いものの、その微妙な部分が曰く言い難い緊張感を醸し出しているのかも知れない。

 

(そうだよな……きっとそういう事なんだ――)

 

――何だろう?

そんな風に自分に言い聞かせながらも、妙にストンと腹に落ちない何かがあるのを感じる。

二人の間に本当の意味での緊張関係は無いのだろうか?

葉月にとって僕に意図的に近づく女性は目障りな存在の筈だが、むっちゃんはそういう対象から外れたんではなかったっけ?

でも、だったらあの時の二人の強い視線の意味は?

やっぱり、二人の間には……………

 

……………――――ねぇ仁⁉ 仁ってばぁ! 聞こえ無いの?」

子の日ちゃんが腕を掴んで揺すぶったので、やっと僕は話し掛けられていたのに気付いた。

 

「あ――ご、ごめんよ、ちょっと考え事してたから――」

「ほほほ、正直に申されよ♪ いずれ劣らぬ艶やかな大輪の花を愛でるに夢中でありましたとの」

「ち、違うよ! (あ、余り違わないけど……)」

「そんな事より~ねぇ仁、お風呂に入りたいよ⁉」

「う、うん大丈夫だよ、今沸かしてるからね、もうすぐ入れるよ?」

「やったぁ♪ おっ風呂、お風呂!」

 

子の日ちゃんに限らず彼女達は皆お風呂が大好きな様だ。

もっとも普通に湯船に浸かろうとすると彼女達は浮いてしまう為、そうならない様にちょっとコツが必要らしい(直に見たことは無いのだが)。

 

「子の日よ、陸奥殿のご用が終わる迄は待っておらねばならぬぞ?」

「えぇ~っ⁉ 陸奥さんまだ終わら無いのかなぁ」

キッチンの様子をチラリと見たが、そんなにすぐには終わる気配が無い。

「後三十分位は掛かるんじゃないかな?」

「そんなに掛かるのぉ?」

 

同じ年頃の子供だったら駄々をこねたり愚図ったりしそうな処だが、素直な子の日ちゃんはショボンとしてしまうのが本当に可愛い。

「仕様が無いなぁ~」

僕が彼女の所に行って交代するのが良さそうだ。

そう思って腰を浮かせかけると、初春ちゃんが笑顔で素早く僕を制する。

「まぁまぁ仁殿ゆるりとなされよ。子の日は斯様に些細な事も聞き分けられぬ様な利かぬ子にはござりませぬぞ♪」

確かにそれはそうかと思い直し、腰を下ろして子の日ちゃんに話し掛ける。

「じゃあもうちょっと待ってようか♪ 今日は見たいテレビ無かったっけ?」

お風呂だけでなくテレビ好きな彼女達が来てくれたお陰で、我が家のゲーム機及びレコーダー専用モニターは晴れてその本来の役割であるテレビに復帰していた。

 

「う~ん、特に無かったよぉ~? どーしよっかなぁ~」

と思案顔になり掛けた彼女は、唐突にパッと表情を輝かせると度肝を抜く様な事を口走る。

「良い事考えたっ! 子の日、仁と一緒に入る! ねぇ、だったらすぐ入れるよね⁉」

「ほほ、さすがは我が妹じゃ、まこと良い考えよのう。妾も仁殿には一方ならずお世話になっておる故、偶にはお背中なぞお流し致しますぞえ?」

 

この時点で既に臨機応変から程遠い僕の脳は麻痺寸前だった。

百歩譲って子の日ちゃんであればまだ幼い子供だからと言えるだろうが、それにしても初春ちゃんは――間違いなくアウトだ。

只でさえ妖しい程の美貌に加えて、その肢体は透き通るような白い肌と女性らしい丸味を帯びて、更にその上葉月とほとんど変わらない位の胸の膨らみ迄あるなんて!

「いや、幾ら何でもそれは絶対に無理だよ! ――うんダメダメ、絶対にダメだからね?」

「えぇ~なんでぇ? 一緒に入ってくれる位良いでしょ⁉ どうしてダメなのぉ?」

「どうしてって――そりゃあ僕が男だからだよ」

「男の人は駆逐艦と一緒にお風呂入っちゃダメなの?」

「いや駆逐艦じゃなくて! って言うか駆逐艦だけど――でも、今はどう見ても女の子だよね⁉」

「え~、でも男の人は女の子とお風呂に入るの好きなんでしょ?」

「いや、そ、その確かにき、嫌いじゃないよ? でも絶対ダメって時だってあるんだよ?」

「何でぇ?」

「えっ、何でってそのぉ――何て言うのかさ、えっと――」

 

説明に窮してしまい、つい初春ちゃんをチラと見てしまう。

やっちまった! とは思ったものの、勘の鋭い彼女には既に僕の本心など隠し立てのし様も無かった。

芝居掛かった動作で手にした扇をパチリと広げた彼女は、顔の下半分を優美に隠すと艶の籠った流し目をくれながら、これまたやたらに艶のある声音で話し掛ける。

「ほほ、かくも奇し身の上とは申せ、女性(にょしょう)の形を帯びし上は、やはり殿方の眼差しを虜として見たいものと常々思うておりましたが――よも仁殿が斯様に思召すとは、さてさて如何致しましたものやら♪」

 

(う、うわ、不味いよ、それはダメだって!)

 

何て言えばいいのか、小悪魔とかいうレベルを通り越して魔性のモノに魅入られたかの様に僕の平常心は失われてしまう。

心の奥底に眠っている欲望の様な、かなりヤバい何かが引きずり出される様な感じだ。

その上子の日ちゃん迄もが、そんな胸の内を見透かした様に畳み掛ける。

「何だぁ、やっぱり仁は一緒に入りたかったんだね! そうでしょ姉様?」

「ほほほ、子の日は敏い子じゃ♪ 見ての通り仁殿もお若い殿方ぞ、時には血の治まらぬ事もままあろう。その様な折にこそ我ら姉妹もご恩返しが出来ようと云うものぞ♪ 来るべきその時の為にも今から慣らしておかねばのう」

「いっ、いやっ、は、初春ちゃん、い、今、サラッととんでも無い事言ったよね、い、言っちゃダメでしょそれ⁉」

「ほほ、仁殿の様な情誼に篤いお方には、否と言われ様がお仕えして見とうなるものに御座りますれば、ご案じめさるな」

「あ、案じるよっ!」

 

そう言い返した途端に、何故か周囲の空気の温度が急に下がったのに気付く。

 

「……」

 

声を出そうとしたのだが喉が――いや、全身が凍り付いた様に動けない。

 

「おお子の日や、そろそろ風呂が沸く頃合いかのう♪」

「そ、そうだね姉様、見に行こうよ!」

二人は少々不自然な笑顔を浮かべ、そそくさと立ち上がる。

 

(二人とも酷いよ! 僕らは家族だろ⁉)

 

彼女達の後ろ姿に向かって心の中で必死に呼び掛けるものの、その叫びは空しく虚空に吸い込まれて行き、背後の冷たく邪悪な気配に全身が飲み込まれるのを感じ取って僕は絶望する。

 

「仁、聞きたい事があるんだけど?」

「一体、何をしようとしてたのかしら⁉」

 

この死の天使が発する最後の審判を聞き、金縛りが解ける。

迷ったのはほんの一瞬だけで、瞬きする程の間に僕はくるりと体を回転させるとそのまま一動作で死と破壊の使者達の足元にひれ伏す。

 

「す、済みませんでした! 誓って言いますが何も疚しい事はしていません!」

だがしかし、僕の魂の底からの謝罪も死の天使達の琴線に触れた様子は無い。

 

「何なの? こっちは聞きたいって言ってるだけなのに、いきなり謝っちゃうとか意味分かんない」

「疚しい事無いって言いながら『済みませんでした』とか、自分で言ってておかしいと思わないのかしら?」

 

冷酷非情な彼女達の心にほんの少しでも誠意が届く様、更に必死で弁解を試みる。

 

「子の日ちゃんからの一緒にお風呂に入って欲しいと言う要請も、きっぱり拒絶しました! 初春ちゃんがその――かなり不味い事言っちゃったのも、はっきりと明確に否定しました! お願いです、信じて下さいっ!」

「あらあら、じゃあこう言う事かしら?」

「悪いのは全部あの二人で、仁は何も悪く無いって事?」

 

だ、駄目だ、彼女達の怒りを鎮める為には、とにかく僕が非を認めなければならないらしい。

でも、理屈に合わ無い事を言えばまた揚げ足を取られてしまう。

ううっ、何とか……

 

「――ぼ、僕に隙があったのがいけないんです! 二人の所為じゃありません!」

 

暫しの静寂の後、彼女達が同時にため息を吐き、凍り付いていた時が再び流れ始める。

 

「ったく、本っ当に素直じゃないんだから!」

「そうだわ、ちゃんと反省して貰いたいわ⁉」

「はっ、はい! 誠に申し訳ありませんでした!」

 

それを潮にむっちゃんと葉月の足がくるっと反転すると、キッチンにひたひたと戻って行く。

 

「んとに、油断も隙も無いわねぇ」

「可愛い女の子にはすぐデレデレしちゃうんだから」

などと捨て台詞を残して。

 

嵐が過ぎ去った事を実感した瞬間全身から力が蒸発してしまい、そのままの姿勢でぐったりと床に倒れ込む。

 

(何故だっ! 何故僕が謝ってるんだよぉっ!)

 

そう叫びたかったが、残念ながら自分自身その理由を良く分かっていた。

それこそがこの場を丸く収める唯一の方法だったからだ。

結局僕の人生はこの繰り返しなのだろうか。

 

(フン! そんなこと位とっくの昔に分かってたさ!)

 

すっかり自虐的になった僕は、そのままフテ寝を決め込む事にした。

 



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〔第七章・第四節〕

(こんなに上機嫌な顔見るの、結構久し振りな気がするなぁ)

 

葉月の満足気な笑顔を横目に見ながら独り言ちる。

陸奥が微笑を浮かべてフランクに振舞っているのと対照的だが、そんな事を気にする彼女では無い。

そんな風に二人を観察する余裕を見せている仁だったが、実の処は、

 

(別に、元々想定通りなだけだろ!)

 

と心中秘かに嘯いて見せているだけなのだ。

 

昼食が始まると何時もの様に蒼龍と飛龍がやって来るのだが、二人とも揃って向かいに席を占め、彼の隣には座ろうとしない。

では他の誰かの番だったろうかと回りを何となく見回しても、やはり誰も座ろうという気配を見せない。

そうこうする内にトイレに行っていたと思しき子の日が陸奥の手を引いてやって来ると、さも当然と言った顔で隣に座る(つまり、陸奥と仁に挟まれた彼女の特等席だ)。

彼がつい未練がましく高雄を探すと、彼女は一番端の席に座って唇を尖らせて拗ねた様な表情でそっぽを向いていた。

隣に座って苦笑しながらこちらを見る妙高の表情が余計に胸に突き刺さる。

結局何事も無かったかの様に食事は始まり、彼の短か過ぎるモテ期は終わりを告げたのだった。

 

 昼食が終わって女性達が片付けに動き始めると、中嶋が彼にスッと近付き小声で話し掛ける。

 

「二人だけで、お話したいことがあるんですが?」

「あ、はい」

 

雰囲気を察した仁も簡潔に応じると、彼の後に従って素早く部屋を出る。

会議を行う建屋のこじんまりした部屋で向き合った中嶋は、余計な前置き抜きで話し始めた。

 

「貴方に限って断わりは無用だとは思いますが念のためです、今からお話する事は一切他言無用に願います」

「はい、もし必要でしたら書面で誓約しても構いません」

 

彼の中嶋に対する信頼感は更に数段上がっている。

それと察した中嶋も微笑を浮かべ、

「いえ、必要無いでしょう。私だけでは無く司令もそうお考えです」

と、西田も承知していることをさらりと伝える。

「信用して頂いて有難うございます。とにかく絶対に漏らしたりしないと改めて誓います」

「その言葉承ります。では私も改めて、お話したい事は彼女達についてです」

「はい」

「防衛隊は現在、彼女達について概ね二つの課題に対処する事を求められています。一つは彼女達の存在を可能な限り長く秘匿しておく事、そしてもう一つは彼女達が一体何者であるのかを可能な限り明らかにする事です」

 

それは至極当然の要求だと仁にも理解出来た。

彼の表情を読み取った中嶋もそのまま話を続ける。

 

「彼女達がどんな能力を有しているのかについては、少なくともその把握は進めつつあります。貴方もご想像の通り検証や解明には全く辿り着けてはいませんが」

「秘密にしながらでは難しいでしょうね」

彼がそう相槌を打つと中嶋も苦笑する。

「ええその通りです。ですから当面は把握だけにならざるを得ないでしょう、実際まだまだ把握仕切れていない事も多々ありますので」

「はい」

「それで、次に把握したいと計画しているのは彼女達が仲間の呼び掛けに応えると言う点についてです。少なくとも飛龍さん・霰さん・子の日さんはそれによって出現したと言明しておられますし、その場を目撃したと言う証言も得ていますが、今後彼女達の捜索を進めるためには我々が実際に確認することが必要ですので、捜索の第一歩としての意義も含めて早期に実施すべきと考えています」

「上手く行けば新しい仲間が増える訳ですしね」

「その通りです。彼女達にとってもそれは楽しみだと思いますし、我々にとってもリスクを減らせる訳ですから、都合の悪い事など精々新たな女性を保護するための費用が発生する程度でしょう」

 

そこで中嶋が言葉を切ったので、

「それ以外に気になるというか悩ましい事がある、ということでしょうか?」

と仁は合の手を入れてみる。

どうやらそれは上手く当を得ていた様で、彼は表情を緩めるとやや感情を交えた口調で話を続ける。

 

「そういう事です。一つは彼女達が敵対行為に及ぶ時についてですが、どう考えても誰かを危険に晒さずに確認出来る方法が思い当たりません」

 

彼女達が民間船に襲い掛かる場面を仁は既に想像して見た訳だが、中嶋の言っている事は更にまた違った場面の出来事になる筈だ。

こうして故郷に帰って来て陸に上がった陸奥や仲間達は、確かに太平洋戦争中の連合国側に対して今も敵意を抱いているものの、それでもどうか我慢して欲しいと中嶋や自分達が頼み込めば聞き入れてくれそうに思われる。

だがそうなる以前の彼女達はどうなのかと問われれば、それは確認して見なければ分からないとしか言い様がない。

 

(実際、聞いてくれそうな気はしないよなぁ)

 

青白い肌をした異形の(もちろん想像上のだが)女達がこちらの説得に耳を傾けてくれそうにはちょっと思えないものの、一度そんな姿になってしまった彼女達は、もう仁が知っている陸奥や仲間達の様な普通の女性の姿になる事は無いのだろうか?

更に言えば、その逆に陸奥やその仲間達が激しい怒りや憎しみにかられて人間達に仇なす異形の存在になってしまったら――。

思わず彼は頭をブンブン振ってその恐ろしい想像を打ち消す。

そんな様子を見た中嶋も、

「彼女達だけでなく我々人間も含めてそれを確認しようとすれば、その――何と言うべきでしょうか、異形の女達? と接触しなければならないでしょうし、それを安全に行える方法があるとは思えません。ですので、当然ですがそれには高いリスクを冒す必要があるでしょう。可能な限りその様な事態は回避しなければならないと思っていますが――」

と迷いを隠さない。

 

彼は何か相の手を入れる積もりだったが、二人の間の空気が俄かに緊張感を帯び始めたので上手い言葉が出て来ず、中嶋と真っ直ぐ視線を合わせることしか出来ない。

その視線にこれまた真っ直ぐ目を合わせて来た中嶋の表情から、いよいよ本題なのだと感じた彼はぐっと下腹部に力を入れる。

 

「そしてもう一つ、是非とも確認したい事があります。ですがそれは我々の一存で決めるべきで無いと感じましたので、司令に進言したところ同意して下さったのです」

 

急に酸素濃度が低下した様な気がして、仁は少し息苦しさを感じる。

 

「我々が確認しなければならない事は、まだ誰もそれを目撃したことも無ければ経験を伝聞したことも無い事です。――サルベージされた時彼女達は一体どうなるのか、彼女達の言う通り本当に『船の天国に行く』のかと言うことです」

 

何か言わなければという衝動は湧いて来るのに、舌が喉の奥に張り付いてしまった様で全く思い通りにならない。

それでも懸命に口を動かして、何とか言葉を絞り出す。

 

「――つまり、その、彼女を――」

「そうです、諸外国から干渉を受けづらい日本の内懐の海域で、しかも水深五十メートル未満という生身のダイバーが普通に作業可能な水深で、かつ既に一部サルベージの実績があって残った船体の正確な位置と状態も把握出来ています。今後新たな仲間を迎え入れたとしても、おそらく陸奥さん以上に好条件が整った方は居ないでしょう」

 

そこ迄一息に捲し立てた中嶋はほうっと大きく息を吐き出し、襟元を広げて風を入れる様な手振りをする。

 

(中嶋さんも緊張してたんだ……)

 

そう実感することで彼も頭が回転し始める。

言う迄もなく、あの日陸奥に対して誓った事を忘れたりはしない。

ただ日が経つにつれて、いかに自分が何も考えていなかったかという事が分かり始めた彼は、己が誓いをどの様にして果たすべきかと言う事についてしばしば思いを馳せる様になっていた。

そもそも前座とも言えるビキニ環礁行きですら、パスポートを取得することが出来ない陸奥にとっては至難の業だということが近頃やっと分かって思わず愕然とした位なのだ。

 

(それを思えば――)

 

この話はまたと無い機会ではないだろうか?

陸奥の瞳の奥に宿る深い哀しみを目の当たりにした時から、その重い枷から彼女を解き放つことこそが人生の究極の目標であるという確信に近い思いを仁は抱いている。

もっと踏み込んで言うなら、それは自分の天命であると言えるかも知れない。

 

(むっちゃんが――本当の救いを得られるんだ)

 

彼の脳裡には、金色の光に包まれ女神の様に慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべる陸奥の姿が浮かぶ。

例えそれが純粋なファンタジーであるとしても、もし実質的に彼女がそんな救いを得られるのであれば何を躊躇う必要があるだろうか?

 

「――その……もしも――」

「はい、なんでしょう?」

 

中嶋のやたらに素早いリアクションは、彼自身が何らかの強いプレッシャーを感じている事を示唆していたが、残念ながら今の仁にそれを察すること迄は出来なかった。

 

「彼女がダメという事になればどうなるんですか?」

「次に好条件の方を検討する事になります。もちろん現状の詳細な調査とその後のフィジビリティ・スタディをみっちりやる必要がありますので、実現は数年以上先になるでしょうね」

「彼女であればそれを大幅に短縮出来るんですね」

「その通りです。次年度の予算措置が出来さえすれば、来春には着手出来るでしょう」

 

来年だ、一生掛かると覚悟していたものが来年には実現可能になる。

仁の胸中で、陸奥があの深い哀しみから解き放たれ永遠の救いを得るその日が急に現実的なスケジュール感を持つ。

 

「是非お願いします」

 

彼の力の籠った言葉を聞いた中嶋は一瞬ハッとした様な顔になり、それからとても複雑な表情をする。

 

「渡来さん――それが貴方の願いだと言うことですか?」

 

彼がもう少し冷静であったなら、この中嶋の問いの意味を正しく理解出来ただろう。

だが余りにも一つの強い想いに捉われていたがために、仁は微妙にすれ違った答えを返す。

 

「はい、彼女が抱いている辛く悲しい記憶は、心のケアだとか時間が解決してくれるとか言う類のものでは無いと思っています。もし彼女がそれから解放されるのならば、それこそが僕の願いです」

 

迷う事無く言い切ったその瞳の奥に、彼自身ですら自覚していない僅かな曇りがあることを葉月であれば直ぐに気付いたかも知れないが、残念なことに中嶋はまだそこ迄仁と近しくは無かったし、それを指摘する程無遠慮でも無かった。

 

「――そうですか――分かりました。ただ極めて微妙な問題でもありますので慎重に進めて行く積もりです。ですので差し当たって特にお聞きしておくことは何かありますか?」

 

中嶋の周到な言葉に感心しながらも、彼は思い付く事を口にする。

 

「はい、必ず彼女の意志を確認してあげて下さい。そしてもし彼女が嫌だと言ったらその意志を尊重してあげて欲しいんです。それともう一つは――出来る事ならそれ迄に何とか長門さんに会わせてあげたいと思っています」

「良く分かりました、必ず陸奥さんの意志を確認して進めるとお約束します。ただ、長門さんの事については運次第と言うより他無いでしょうね」

「ええ、ですから神頼みにでも行こうかなと思ってるんです♪」

 

思わず軽口を叩いてしまう仁とは逆に、中嶋の表情はどこか浮かないままだった。

 



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〔第七章・第五節〕

 (結局こんな事になっちゃって……)

 

全くもって、陸奥とその仲間達には調子を狂わされてばかりだ。

 

(でも、この娘達の方がずっとましなんだから困ったもんよね~)

 

もしそこらのチャラい女達にでも同じ目に遭わされたりすれば、多分薄暗いガード下で待伏せして刺してやろうかという気になる位腹が立っただろうに、彼女達に対してはそんな気にはならない。

特にたった今も生まれて初めて(という表現が正しいかどうかは別として)のパフェに蕩けそうな顔で舌鼓を打っている子の日は本当に素直で愛らしかったし、その姉の初春は葉月自身思わず『こんなお姉ちゃん欲しかったな~』とつい思ってしまう程妹思いの素晴らしい姉だと感じていた。

 

しかし――である。

 

例え人となりに不満が無いからと言って、陸奥の事で頭が痛いのは否定出来ない。

彼女はたったの二、三週間で見違える位成長して戻って来たが、正直に認めてしまうとこれ程バツの悪い思いをさせられるとは思ってもいなかった。

あの日陸奥の瞳を覗き込んだ時、逆に自分が覗き込まれていた気がしてならない。

 

(幾ら何でも変わり過ぎよ!)

 

ほんの少し前の彼女は、今目の前にいる子の日と体の大きさ(と多少の女性らしさ)位しか違わない無垢な存在だった筈なのに、まんまと騙された気分だ。

だから油断していた葉月はつい無防備に心中をさらけ出したまま彼女と向き合ってしまい、陸奥の思い違いに乗じてしまおうとした事や、その過程で葛藤したことすら見抜かれてしまった様に思えてならない。

それを素直に認めるのも癪なので精一杯向こう気を張って見たものの、やけに物静かで落ち着いた陸奥には余裕があり、まるで『葉月ったら肩に力入り過ぎよ♪』と窘められた気さえした。

 

(でも、一度位不意打ちに成功したからって見くびって貰っちゃ困るわね!)

 

無論のこと、葉月は既に腹を括り直している。

だからこそ不用意に負い目を作らない様に仁の家に再度押し掛けるのは断念した(これがかなり心残りだったのは事実だ)し、料理を教える約束もちゃんと果たす様努めている。

同じ失敗を繰り返していては、それこそ本当に仁を横取りされてしまうだろう。

とは言え、そういう目で見る限り彼女にとってはまだ危機的な状況ではないとも言える。

陸奥が陰湿な手段で葉月を出し抜く様な真似をするとは考えにくい上に、何よりあのバ――いやいや仁は、こちらの目を盗んで如才なく立ち回る才覚は持ち合わせないからだ。

 

(小手先の技は逆効果になりかねないわね、慎重にいかないと)

 

とにかく気を抜かない事だ。

それさえ怠らなければ彼を失う事も無いし、陸奥との友情を育むことだって出来る筈だろう。

実際今も仁とお喋りしている彼女が心底楽し気なのを見た処で、特に憎たらしいとかいう感情は湧いて来ない。

 

(まぁ、多少の事は目を瞑ってあげるわよ♪)

 

葉月がこれ迄に得た教訓の中で最も重要なことは『仁の限界を踏み越えてはならない』という事である。

彼の一見優柔不断でどこか頼りないその外見の奥底には、実は並外れた頑固さが秘められていることに以前から気付いていたからだった。

例えば自分が全ての外堀を埋め立てて完璧な囲い込みに成功した場合、彼は多少不服そうにはするだろうが『まぁ仕方ないかぁ』と言いながら現実を受け容れるだろう。

だが、もし万が一その過程で仁の胸中の一線を踏み越えてしまう様な事があれば、彼は例え生涯独身を通す事になっても絶対に自分の事を受け容れたりはしない筈だ。

その恐るべき地雷をうっかり踏んでしまえば、これ迄の長年に渡る努力が全て水の泡になってしまう。

だから、彼の命の恩人である陸奥を邪険に扱ったりするのは何があっても慎まねばならない。

 

(どんな勝ちでも勝ちは勝ちだわ!)

 

昔の葉月はやはり彼が自ら告白してくれる事を強く願っていたが、仁の事をよく知れば知る程それをさせるのは至難の業だということも分かって来た。

とは言うものの、彼が葉月に対して好意を抱いているのはどうやら間違い無さそう(しかし彼自身はそれに気づいていないらしい)なのでそれなりに望みは持ち続けていたのだが、突然海の底から現れた強力なライバルに勝つためには形振り構ってはいられないのだ。

 

(むっちゃんには仁よりもっと似合いの人がいるはずよ――中嶋さんとか……)

 

斑駒によれば中嶋はどうもバツイチらしい。

彼の様な並々ならぬ人格者が結婚に失敗しているというのも不思議に感じるが、誰しも最良の選択を何時も出来る訳では無いのだろう。

最後は自分の気持ちを信じて決断するしかないのかも知れない。

 

(むっちゃんの気持ちは分からないでも無いけど――まぁそこは勘弁して貰わないとね~)

 

彼女が仁との外出をとても楽しみにしていたらしい事は手に取るように分かったし、それを邪魔する様な底意地の悪い真似もしたくはないが、彼への想いを募らせるのを放っておく訳にも行かない。

葉月としても結構辛い処なのだ。

 

「でもこんなに何着も買って貰って――本当に申し訳ないわ」

「何言ってんのよ! 女なんだから衣装代が嵩むのなんて当たり前よ」

「そうなの仁?」

子の日が口の周りにクリームをつけたまま仁の顔を見上げる。

 

「まぁ僕ら男に比べたらそうだと思うよ♪ それに、毎日会う人達に『また同じ服着てるぅ』とか思われない様にしてあげたいんだ、出来るだけなんだけどね」

そう言って優し気な笑みを浮かべる彼の鼻面に、ついグーパンチをお見舞いしたくなってしまう。

 

(せめてその半分でも私に優しくしなさいよ!)

 

心の中でそうツッコミを入れている間に、陸奥が濡れナフキンで子の日の口元を拭ってあげている。

 

(あぁ、余計な事突っ込んでる場合じゃ無かったわね)

 

彼女の世話を焼く位は陸奥に任せておいても全く支障無いが、姉妹のいない葉月としては何となく初春や子の日に良くしてやりたいという気持ちもあるし、何より何時も仁の傍にいる二人を味方につけておくのは戦略上とても大事なことだ。

ここでも葉月はきっちりと外堀から埋めて行く積もりでいる。

 

「それにしても、街中を日がな逍遥すれどとんと和装を見掛けませなんだの。やはり今日の我が国ではこれが当たり前でありましょうや?」

「初春ちゃんはやっぱり和服が着たいの?」

「左様にござりますな、どちらかと言えばその方が性にあいますかの」

「ごめんね、さすがに着物買ってあげるのはちょっと無理かなぁ。当分は、ファストファッション系ばっかりになっちゃうけど我慢してね?」

「我慢なんかしてないよ! ねぇ姉様⁉」

「ほほ、まこと子の日の申す通りにござりますぞ♪ 斯様な迄のご厚情に浴しながら我慢などと申しては、たちどころに神罰が下りましょう」

「そうだわ、あたし達本当に仁に感謝してるの。こんなに楽しい思い迄させて貰ってるのよ? 仁の所に戻って来れて本当に幸せよ」

 

(ちょっとちょっと、何よそのキラキラした瞳は⁉ 私を差し置いてナニ入り込んじゃってるのよ!)

 

葉月が勢い込んで割って入ろうとしたその機先を制して、子の日が無邪気なテロを炸裂させる。

「そうだよ! 仁だ~い好きだよ!」

 

(うわぁ――悪いんだけど子の日ちゃん、私ちょっと嫌いになったわ……)

 

仁はと見ると、案の定だらしなく鼻の下を伸ばしている。

 

(何よコイツは! 幾ら可愛いからってこんな幼女にデレデレするとかあり得ないっ!)

 

踵で彼の足を攻撃するのと陸奥がグッと目力を込めて彼を睨み付けるのはほぼ同時だった。

怯んだ仁は溜め息を吐きながら、

「失礼しました……」

と詫びを入れたので、葉月も陸奥も満足気に元の体勢に復帰する。

 

「さぁさ子の日や、早う喰らわねば折角の甘露が溶けてしまうぞえ♪」

初春の言葉は如何にも面倒見の良い姉のそれだが、顔はさも可笑し気な笑みを湛えており明らかにこの状況を楽しんでいる様だ。

 

(姉妹って言っても同じ駆逐艦なのよね~、なのにこの違いは何なの?)

 

何度考えてもこの”元”船達は理解の範疇を超えており、理屈でどうこう出来る様な類いのものではない。

もっとも、例えどんな理屈がつこうが現にお人好しな仁が彼女らにすっかりデレまくっている以上、葉月にとって大勢に影響は無かった。

 

「あそうか、和風のパジャマ位は何とかなりそうだよ?」

「あら、そんなものがあるの?」

「仁殿、くれぐれも過分なご配慮は無用に願いますぞ」

「多分大丈夫だと思うよ?」

「まぁそうね、可愛いって言うか上品なやつを探さなきゃいけないけどねぇ~」

 

(ったく――アンタ、この娘達の事となるとまともに頭が回転するのね! 普段私にはどんだけ手抜きしてるワケ⁉)

 

心の中でそう突っ込んでおいてから自分に主導権を戻すべく声を上げる。

「さぁ皆、甘い物食べて鋭気を養ったかしら?」

「は~い!」

予想通り子の日が元気よく応じ、陸奥と顔を見合わせてニコッと笑うその光景は確かに心和むものだったが、彼が二人の様子に目を細めるのは大いに気に入らない。

 

(やっぱりあんたはこーゆーのに弱いのね⁉ んっとに分かり易くて涙出て来るわ!)

 

「それじゃ最後は二人のパジャマね。仁、お勘定任せたわよ!」

腹立たしさの余り殊更に非情な申し渡しをして席を立つが、彼は堪えた様子もなく笑顔を崩さない。

その上後から立った初春が、

「ほほ仁殿、もう少しお気遣いなさいませんと奥方様がご立腹なさいますぞ♪」

と余計な茶々まで入れる始末だ。

 

(――ま、まぁ奥方様ってとこだけは評価しとくわ……)

 

まだまだ頭の痛い日々は続きそうだった。

 



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〔第七章・第六節〕

 先日の『とおとうみ』に比べるとこの艦は一回り以上大きく余裕もあったが、それでも在りし日の自分自身とは比較にならず初春や子の日と変わりない位だった。

とは言え、気兼ねする必要の無い船室が与えられているのは安心感もあって落ち着ける。

 

「何だかドキドキしますよねぇ、瑞穂さんちゃんと出て来てくれるんでしょうかぁ♪」

蒼龍は彼女なりに不安を感じている様なのだが、その性格の故なのか気楽な世間話をしている様にしか見えない。

「私が出てくるのその目ではっきり見たでしょ⁉ 心配する様な事じゃ無いわよ」

飛龍があっさり断定すると、高雄がそれに応じて

「そうですよね、必ず出て来てくれますよね――私真っ先に謝らなきゃ」

と、静かではあるもののどこかしら気持ちを昂らせている様な相槌を打つ。

 

「そうか、高雄さんは瑞穂さんの末期を看取ったのでしたね」

赤城が記憶を手繰り寄せる様にそう言うと、言われた高雄も彼女の手繰ったその時の彼方を見透かそうとしているのか、宙を見つめながら自嘲している様な後悔している様な複雑な感情を込めて応える。

「そんな恰好良いものではありませんでした。私は何も出来なくて……瑞穂さんが沈んで行くのを只々見ている事しか出来なかっただけです」

「高雄ちゃんあたし達は船だったのよ、自分の意志で動けた訳じゃ無いわ。だから、瑞穂ちゃんも貴方の事を責める積もりなんて無いんじゃないかしら」

思わず陸奥が口を挟むと、彼女は苦笑とも取れる弱々しい笑みを浮かべる。

「有難うございます。でも――瑞穂さんがいいと言ってくれたとしても、やっぱり謝らずにはいられないと思います。単に私がそう願っているだけなのかも知れませんが……」

 

(高雄ちゃんに謝ってくれる人は誰も居ないのよね……)

 

もちろん、ひょっとすれば彼女の海没処分に関わった人間が生き残っている可能性はあるものの、だからといって彼女が機械的な謝罪の言葉を欲している訳では無いだろう。

こうして同じ哀しみや辛さを共有出来る仲間達に囲まれている事の方が彼女にとってはずっと良いだろうし、もし瑞穂と再会出来て詫びることで瑞穂が少しでも救われたなら、それは彼女にとっても救いになるのかも知れない。

 

「それにしてもさすがに長く掛かりますね、少々焦れて来てしまいます」

「あら、加賀ちゃんはもう辛抱し切れなくなっちゃったの?」

「我慢出来ない訳ではありません。でもさすがに待機が長過ぎると思っただけです」

「加賀さんは堪え性がありませんからね。もう少し心機にゆとりを持ちませんと大事を誤りますよ」

「赤城さん⁉ 言って良い事と悪い事があります。それでは私が忍耐に欠ける様な物言いではありませんか?」

「ちょっと加賀ちゃんそんなにカッカしちゃダメよ! 赤城ちゃんも、もうちょっと言い方には気を付けてあげて⁉」

 

この二人の衝突に割って入るのにも大分慣れて来たが、それは仲間達も同じだった。

「赤城さんの言われる事は確かにもっともですが、加賀さんのお気持ちも何となく分かります。こんな風にお客様の様にして長時間待機しているのは確かに落ち着きませんよね」

陸奥が最初に水を入れると、大抵の場合妙高がちゃんと両方の顔をたてる様に取り成してくれる(今は『フォローする』とか言うのよね♪)ので、近頃は二人が険悪になるのはほぼ未然に防がれている。

 

「その通りです陸奥さん、くれぐれも誤解なさらないで下さい。私はお客様の様な扱いが苦手なだけです。何か仕事でもしていればこの程度の時間が我慢出来ない訳はありません」

「ウフフ分かったわ加賀ちゃん。それじゃ、今は待つのが仕事だと思って我慢して頂戴♪」

「――陸奥さんがそう言われるのでしたら致し方ありません。元より待つ事は全く問題ありませんので喜んで待機致します」

 

彼女が不承不承そう言うのを苦笑しながら見ていると、横目に蒼龍と飛龍が顔を見合わせてニヤニヤしているのが映る。

「なぁに? 二人とも何だか楽しそうね」

陸奥が声を掛けると二人は改めて顔を見合わせ、チラチラと加賀を見ながら愉し気に口を開く。

「あのぉ~加賀さんがぁ、イライラしているのはぁ――」

「副長がぁ、いないからだと思いまぁす♪」

途端に加賀がばんっと机を叩いて立ち上がり、

「ら、埒も無い事を! 何をそのっ、こ、根拠にその様な戯言を弄するのですか⁉ あ、貴方達と一緒にされては困ります!」

と、普段の彼女ではあり得ない様な動揺を露にして叫ぶ。

「そうだったのですか? ならば何故早く言って下さらないんですか? そうと知っていれば、この度は加賀さんの出撃を見合わせて頂く様副長に進言致しましたのに」

「あ、赤城さん迄! 寄って集って私を玩弄する積もりですか⁉ 私がこの娘達の様に蓮っ葉な事をするとでも言うのですか⁉」

彼女が金切り声をあげる処など見るのはさすがに初めてだったので、何か助け舟を出してやらねばと思って口を挟み掛けると、一瞬早く妙高が口を開く。

「それじゃあ、加賀さんは中嶋副長のこと何とも思っておられないんですか?」

 

この言葉に全員がスッと静まり返ってしまう。

理由は色々あるだろうが、彼女がこの問いを発したのは助け舟を出すためというより素直な疑問として発せられた様に聞こえたためと思われた。

実際興奮していた加賀自身が少々面食らった様で、逡巡して口の中で何やらモゴモゴした末に、

「そ、それはまぁ確かにその――少しだけ、す、す、素敵な殿方だとは思うけど……」

と意外な程正直に答えた位だ。

「そうですよね! 副長はとっても素敵な方だと私も思います。私、加賀さんと副長ってとてもお似合いだなって思いますよ♪」

またしても彼女は極めて自然にそう言うとニッコリ笑って見せる。

すっかり毒気を抜かれた態の加賀もストンと椅子に腰を下ろし、

「そ、卒直な意見を有難う妙高さん。その――今後の参考にさせてもらうわ」

と俯きながらボソボソと言ってそのまま黙ってしまう。

 

(妙高ちゃんやっぱり凄いわ。どうしてあんな風に自然に出来ちゃうのかしら?)

 

もっともここに葉月がいれば、『あんな風に腹の底を誰にも見せない女の闇が一番深いもんなのよ!』と憎まれ口の一つも叩いた処だろうが、今のところ陸奥にとってはここぞという時に頼れる仲間以外の何物でもなかった。

 

(でもこれで納得したわ。加賀ちゃんの妙な振る舞いは副長の事が気になってたからなのね)

 

そう思いながら皆の顔に視線を走らせると、今にも暴発しそうな真っ赤な顔をした蒼龍と飛龍が必死に笑いを堪えているのに気付く。

 

(二人ともダメよ! 今爆笑したら加賀ちゃん本気で傷ついちゃうわよ⁉)

 

そう念じながら彼女達を見詰めて首を左右に小さく振って見せると、さすがに二人は心付いてさっと表情を綻ばせ、利発な飛龍が上手くその場を取り繕う。

「そうですよ! 加賀さん頑張って下さいね、私達応援してますから♪」

だが何時もの自分をほぼ取り戻したらしい彼女は、

「貴方達は、応援してくれるよりも静かにしていてくれる方が嬉しいのだけれど?」

と素っ気なくあしらってしまう。

「え~⁉」

異口同音にそう口にした二人がさも不満気にむくれてしまうのを見て、思わず心中で苦笑する。

 

(どっちもどっちね)

 

長い待機時間もそろそろ終わりが見えて来ていた。

 



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〔第七章・第七節〕

 「只今戻りましたぁ~」

船室の水密扉が開かれ、相変わらずやや緊張感に掛ける口上を口にしながら龍田が現れる。

彼女に続いて朧、皐月ら駆逐艦達が口々にそれを復唱しながら現れ、最後に長良が扉を潜ってスイと横に避ける。

と、その後ろから凛々しい顔立ちの中年女性が姿を現したので、それと同時に陸奥が立ち上がって敬礼すると、全員がそれに倣ってサッと敬礼する。

「艦長殿、有難うございました!」

彼女の良く通る声に続いて全員が声を揃えて一斉に礼を述べる。

「有難うございました!」

 

その女性――観測艦『くみはま』の艦長である宮咲――はふっと表情を緩めて笑顔になり、

「こちらこそどう致しまして。さぁ座って楽にして頂戴、斑駒も入りなさい」

と背後に向かって声を掛けると自分はツカツカと歩を進め、ごく自然に上席に腰を下ろす。

声を掛けられた斑駒が扉を閉めて着席すると宮咲は改めて微笑み、横に座った皐月に向かって質問する。

「本艦の中はどうだったかしら?」

「す~ごく綺麗で、ちゃんと人数分の寝台があってびっくりしちゃったよ!」

その飾り気のないハキハキとした物言いに宮咲は満足気に頷き、

「この娘達を案内するのは本当に楽しい経験でしたよ?」

と、陸奥や赤城らの顔を見廻しながら相好を崩す。

 

「誠に申し訳ございません、艦長殿自らご案内頂くなど勿体無い限りです。何か失礼などありませんでしたでしょうか?」

赤城が会釈しながらそう言うと、彼女は更に目を細めて口を開く。

「とんでもない♪ さっきも言いましたがこんなに素直な良い娘達を案内して回るのは初めてです。余り大声では言えませんが、一般開放や体験イベントにやって来る人達の中には不愉快としか言い様の無い人物も結構いるんですよ? 本当に何時もこんな可愛い娘達が来てくれれば良いのに」

しみじみとそう言うと隣の皐月に手を伸ばし、その頭を愛おし気に撫でる。

「……皐月ちゃん良かったね。良い娘だって……」

霰にそう言われた皐月は真っ赤な顔をしながら必死に言い返す。

「な、何言ってんだよ! 言われなくったってボ、ボクは良い子だよ! あ、霰は本当にバカだなぁ」

とは言ったものの皐月はカチコチになっており、傍目に見るとまるで宮咲が何やら術を使って皐月を固めてしまった様だ。

 

(でも皐月ちゃん嬉しそうだわ♪)

 

彼女のはにかんだ口許に白い歯が覗いているのも何とは無しに微笑ましい。

「艦長殿、まだ長く掛かりそうでしょうか?」

結局加賀はそれが一番気になっているのだった。

「いえ、後一1時間強と言うところでしょう。皆さんの様な戦闘艦艇と違って本艦は足が遅いですから、随分お待たせしてしまいましたね」

宮咲がそう言うと赤城が慌てて言い添える。

「何を仰いますか! 私共の方こそこうしてお邪魔している身でありながら、図々しい事を申しまして重ね重ね申し訳ございません」

 

(ダメよ加賀ちゃん⁉)

 

咄嗟に加賀の視線を捉えた陸奥は、目で彼女を制止する。

赤城はこの手の紋切り型の遣り取りは非常にそつが無く良く気が付くのだが、ちょっとした感情の機微には少々無頓着なので、気が短く自尊心も強い加賀の癇に障る事をしばしば何の悪気も無く口に出してしまう。

 

(あたし達の間だけなら良いけど、艦長さんの前でケンカは良くないわ)

 

陸奥が目で語り掛けた事をどれ位理解してくれたものか分からないが、とにかく彼女は不服そうながらも矛を収めてくれる。

「この後皆さんには別室に移動して頂き、着替えをお願いします。先の演習の折とは違う装備ですからちょっと要領も必要ですので、少し早目に行きましょう」

斑駒がそう言うと宮咲が笑いながら、朧に向かって問い掛ける。

「貴方達を艦艇戦闘服姿で海上に出させたそうね♪ 恰好悪くて嫌だったんじゃない?」

そう問われた彼女は困った様な顔になり、少々言葉を選びながら応える。

「確かにその――恰好良くは無かったですけど――頑丈で合理的だなって思いました」

それを聞いた宮咲は再び目を細めて、

「本当に――ちゃんと気遣いが出来るのねぇ、同じ歳恰好の今時の娘達には貴方達艦娘を会わせたくは無いわね♪」

と何気なく言葉を続けるが、陸奥をはじめとする仲間達は聞き慣れない呼び方に反応する。

 

「あの艦長殿、今私共の事を何とお呼びになりましたか?」

皆の先陣を切って妙高が質問すると彼女はまた笑顔になり、その聞き慣れない言葉の所以を語ってくれる。

「ああごめんなさいね。実は貴方達の事を私達――W会って言うんだけど――そのメンバーの間で艦娘って呼んでるのよ。艦隊娘かまたは艦艇娘の略称って言う意味なんだけど」

「艦隊娘ですか――」

赤城がそう復唱しながら陸奥と加賀の顔を交互に見比べる。

 

(もうっ、赤城ちゃんたら性懲りも無く!)

 

どうしてこうも一々悶着が起きそうな事ばかりするのだろうか?

仕方が無いので加賀が噛み付く前に自ら噛み付いておく事にする。

「あら赤城ちゃんたらなあに? まるであたし達は娘じゃないとでも言いたそうな顔ね?」

途端に彼女は焦った様な顔になり、先程迄とは打って変わって歯切れの悪い受け答えをする。

「いや待って下さい陸奥さん、そのぉ――そこ迄と言う訳では無いんですが、何と言いますか――」

「ほら、やっぱりそう思ってるんじゃない! 隠したってダメよ、ちゃ~んと顔に書いてあるんだから」

正直な彼女は反射的に自分の顔に手をやってしまう。

陸奥はニヤニヤ笑いながら、

「序でに言うと『まぁ私は別ですけどね』って言うのもちゃんと書いてあるわよ♪」

と追い討ちを掛ける。

「す、済みません陸奥さん! 只今の態度は撤回致しますからどうかご勘弁下さい!」

とうとう白旗を上げた彼女は頬を染めて俯いてしまう。

すると、正に得たり賢しとばかりに満足気な顔をした加賀が口を開く。

「それはさておき、私達自身自分達のことを何と名乗れば良いものかと思っておりましたから、それらしい呼び名を考えて下さるのは有り難いです」

「それは良かったわ♪ 私達も貴方達の事を話題にするたびに『戦没した旧海軍の艦艇の記憶を持つ女性達』なんて一々言ってられないと思ったからなのよ」

宮咲も彼女の内心が伝染ったのか、満足そうな顔で応じる。

 

「艦娘だってぇ♪」

「何かちょっと良いよね♪」

蒼龍と飛龍が顔を見合わせて笑みを交わすと、長良も嬉し気に同調する。

「私も賛成です! 『私、艦娘の長良です』って自己紹介出来るの良いですよね!」

他の仲間達もいかにも愉しげな様子で口々に言い合うのを見て取り、陸奥は宮咲に向かって言をあげる。

「艦長殿有難うございます。皆気に入った様ですし、差し支えなければ私達にも使わせて頂いて宜しいですか?」

「もちろんです。 まぁ防衛隊公認と迄は行かないでしょうけど、定着したらいいなとは思ってたから♪」

彼女が笑顔で肯うと、『艦娘』達は一段とさんざめく。

 

その様子を陸奥と宮咲は期せずして同じ様に眺めやった末に、互いの顔を見る。

「それにしても、やっぱり不思議としか言い様が無いわね。陸奥さんが連合艦隊旗艦だった事は確かに知ってはいるけど、こうして女性の姿になった貴女もちゃんとリーダーの資質を備えてるだなんて」

「私如きには随分過分なお言葉ですわ、艦長殿」

「でも、お仲間は皆そう思ってはいない見たいよ?」

彼女の言葉に子の日が真っ先に反応して声を上げる。

「うん、陸奥さんが皆の旗艦だよ!」

「はーい!」

「その通りです!」

と、皆口々に同意するのを聞くと、嬉しい反面少々気恥ずかしい。

おまけに例によって蒼龍と飛龍が混ぜっ返してくる。

「それにリア充で~す!」

「羨ましいでぇ~す♪」

「もう、何言ってるのよ二人とも!」

「まぁ、リア充なんて言葉知ってるの?」

残念ながら陸奥もどういう意味か知っていた。

「はーい」

「毎日充実してると思いまぁ~す♪」

「まぁ、そう言えばそうだったわね。確か貴女一人だけは民間の方に保護されていたのよね、ひょっとしてその時に愛を育んだのかしら♪」

「艦長殿、あの娘達の言う事は聞き流して下さいね」

陸奥がそう応じると宮咲も笑いながら、

「ええ分かってるわ。でも貴女方艦娘と人間の男性とのロマンスだなんて、とっても夢があるじゃない♪ 私もちょっと期待してしまうのよ、一緒になって冷やかそうなんて思ってないから安心して頂戴」

とさらりと応じておいて、陸奥の気持ちを汲んでくれたものかその場をサッと切り替えてくれる。

 

「さあ、何時迄もお喋りしていたいけどそうも行かないわね。斑駒、そろそろかしら?」

話を振られた斑駒も仕事の時の顔付きをすると、

「はい艦長! それでは皆さんこれから別室に移動して、そこで今回の海上捜索任務用の装備に着替えて頂きます。先程も申し上げました様にちょっとコツが要りますので注意して下さい。では早速移動しましょう!」

そう一息に言ってキビキビと立ち上がる。

仲間達もいちいち声を掛ける迄もなく全員が一斉にサッと立ち上がり、椅子を収納位置に戻し始めるが、それを見た宮咲がまた感に堪えない様子で口を開く。

「本当に素晴らしいわ――。今の若い娘達は厳しく訓練されないとこれが出来ないのに、自然にそれが出来るなんて」

 

今時の日本国民や特に若い女性がどうなのかはともかく、仲間達を誇らしいと思うし彼女達が大好きだと素直に思える。

それはそれとしても、その『好き』に微妙に異なる意味があってそれは一体何が違うのか、相変わらず陸奥にはそこが良く理解出来なかった。

 



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〔第七章・第八節〕

 既に日は西に傾き掛けているらしく、日没迄に余り時がありそうでは無かった。

この曇り空の下で明るい内に捜索を終えるとなると、一時間強がいいところだろう。

グズグズしている暇は無いので、艦上で予め指示を出しておく。

 

「それじゃ、まず赤城ちゃん達四人は艦を中心にして〇時、三時、六時、九時の各方向の航空索敵をお願いね。あたし達以外の何かを見つけたら直ぐに連絡して頂戴。それ以外の皆は二人ずつ組になって、放射状に捜索範囲を広げていくわよ? 駆逐艦同士の組は作らない事と、何かを見つけたり警告を出す以外では原則として無線は禁止よ。あと、艦から十粁以上は離れない事。何か質問は?」

特に無い様だった。

「じゃあ、空母組から先に海上に展開して頂戴、あたし達は組を作るわよ」

赤城、加賀らが先に海上に降り立ち、残った者は素早く組を作る。

「それじゃ、あたし達も行くわよ!」

例によって陸奥が海上に降りるのは一番最後だ。

先に行きたくても仲間達がそうさせてくれない。

 

「その服、格好良いね!」

子の日がこちらを見上げながら言うが、格好良いかどうかはさておき海上での装備としては理に適っていると感じる。

宮咲や斑駒が今回用意してくれたのはウェットスーツという伸縮性のある紺色の服で、水に濡れても保温性があるという物らしい。

ただ着るのには結構な苦労があり、斑駒曰く

「特定の皆さんにはちょっと窮屈かも知れませんねぇ」

とのことだった。

実際陸奥は腿や腰を押し込むのが大変だったし、高雄や蒼龍は頻りに

「胸がキツイです~」

と悲鳴を上げていた。

「これでもうちょっと着易かったら良かったわねぇ」

と応じながら海上に降り立つ。

感覚がグンと拡大して、全身に力が漲るあの感じが体の中を一気に駆け抜けて行く。

「さあ皆、捜索開始よ!」

陸奥の掛け声と同時に全員が口々に

「瑞穂さーん!」

と声を上げながら少しずつ『くみはま』から離れていく。

捜索と言うと大仰だが、実際にはこうして名を呼びながらその範囲を少しづつ広げていく以外に出来ることが無い。

陸奥の右手方向では、高雄と朧が瑞穂の名を呼びながらゆっくりと之の字航行しつつ艦から離れて行くのが見える。

 

(瑞穂ちゃん、早く出て来てくれれば良いのにね)

 

暗くなってからの海上行動はやはり危険なので時間はかなり限られている上、明朝の捜索は天候によっては出来ないかも知れない(悪天候よりも晴れてしまう方が問題だった)。

もし彼女が現れなければ、高雄は心底がっかりすることだろう。

そんな事を思いながら瑞穂を呼び続けていると、突然頭の中に何か奇妙な異物感を感じる。

 

(何⁉)

 

咄嗟に辺りを見回すと、それを感じたのは自分だけでは無いらしい事が直ぐ分かる。

「陸奥さん今のなあに? 何だか頭の中でザワッとしたよ⁉」

子の日の表現が正確なのかどうか判らないが、感覚的には正にその通りだった。

全員に確認する必要があると思った矢先に無線から朧の声が響く。

「陸奥さんこれです! 瑞穂さんが近くにいます!」

「本当なの朧ちゃん⁉」

だが陸奥のその問い掛けに答えたのは彼女では無かった。

間違いありません! 飛龍さんを見つけた時と同じ感覚です! 瑞穂さんはこの辺りに必ずいますよ!

「あ、赤城ちゃん、分かったからそんなに大きな声出さなくても聞こえるわよ⁉」

横で子の日が無線を外して耳を押さえている。

「あっ済みません、つい気持ちが昂ってしまいまして――」

「赤城さん、私達は航空索敵に集中すべきです。捜索は任せておきましょう」

加賀の声が無線から響いて来たので、陸奥は苦笑しながらも仲間達に呼び掛ける。

「手短に言うわね、はっきり強く感じたと思う人は名乗って頂戴、自分の主観で良いわよ!」

するとすぐに返事がある。

「長良です!」

「ボクもだよ!」

「妾もいささか強う感じましたの」

「妙高です、少々自信はありませんが……」

思った通り、方角に偏りがある様だ。

「それじゃ皆、長良ちゃん・皐月ちゃん組の方向を中心に探すわよ! 高雄ちゃん、龍田ちゃんの組はこちらに回って来て頂戴。この後はまた原則無線禁止よ」

そう言って通話を切り上げると、改めて瑞穂を呼びながら進路を変更する。

右手から急速に高雄と朧が接近して来るが、高雄の顔が少し紅潮している様にも見える。

 

(もう直ぐね♪)

 

きっと彼女は自分が真っ先に見つけたいと思っているのだろう。

そうさせてやりたいのは山々だが、瑞穂の位置がはっきりしない以上運次第としか言い様が無かった。

 

やがて全員の足並みが揃って綺麗な扇型になり、規則正しい之の字航行をしながらの捜索になると、再び皆が瑞穂を呼ぶ声と波の音だけが辺りを支配する。

この単調な時間が後どれ程続くのだろうと陸奥がぼんやりと思った次の瞬間、出し抜けにそれは起こった。

方向は長良・皐月組と陸奥・子の日のほぼ中間ぐらいだろうか、距離にして百米足らずといった辺りの海面上に突然金色の煌めきがチラチラと踊り、数秒間ほど続いた後にフッと光が消える。

その後には鮮やかな萌黄色と碧色の衣装に身を包んだ、長い黒髪と白い肌が印象的な華奢な女性が立っていた。

 

(瑞穂ちゃんだわ!)

 

ここでもまた、見た事も無い姿形にも関わらずそれがはっきりと瑞穂だと分かる。

彼女は如何にも不得要領な表情をして、不安気に左右をキョロキョロ見回す。

「瑞穂ちゃん、瑞穂ちゃんね⁉」

陸奥が近付きながら大声を出すと彼女は弾かれた様に顔を上げ、パッと表情を輝かせた。

「陸奥さん! 陸奥さんなの――」

瑞穂がそう口にしかけた時、

瑞穂さん!

と更に大声を張り上げて、陸奥の右横から高雄が凄まじい速さで突進して来る。

「高雄さん、危ない!」

反対の左手側にいた長良が思わず叫んでしまう位それは危うく見えた――が、さすがに彼女は激突する前に急減速し、(それでも相当な勢いで)瑞穂に抱き付いた。

「瑞穂さん! 逢いたかった、逢いたかった――」

そう絞り出す様に言って号泣する。

とんでもない勢いで抱き付かれて一瞬驚愕したらしい瑞穂も、直ぐにそれが高雄であることが分かり、

「高雄さん! 本当に高雄さんなのですね⁉ 私もお逢いしたかった――」

と言って一緒に大粒の涙を零しはじめる。

抱き合って号泣する二人の周囲に集まって来た仲間達も皆貰い泣きし始め、陸奥も泣きじゃくる朧と子の日を抱き寄せながら暫し言葉もなく時を過ごす。

 

それから間もなく激情が少しずつ冷め始め、固く抱き合っていた二人が少し身体を離すと、まだ涙を零しながらも高雄が口を開く。

「瑞穂さん、私、貴方が沈んで行くのを傍で見ているだけで何もしてあげられなくて――ごめんなさい、本当にごめんなさい」

「そんな! お願いですから謝らないで下さい。何もしてないだなんてそんなこと――高雄さんはずっと傍に居て下さいましたわ。私が浪間に消えてしまう最後の瞬間迄傍に居て下さいました。ですから私ちっとも怖くなかったんです。高雄さんと摩耶さんと、そして最後まで私を見捨てず共に海中に没した勇敢な水兵さん達が居て下さったから……だから――私――ちっとも……」

瑞穂はそこまで言うと後を続けられ無くなり、俯いて改めてさめざめと涙を零す。

「瑞穂さん――有難う、貴方にそんな風に言って貰えるなんて――」

そう言って高雄は再び彼女と抱き合うが、その唇が小さく噛み締められているのに陸奥は気が付く。

 

(高雄ちゃん、思い出しちゃったのね)

 

陸奥もあの日のことが思い出される。

突然自分の体内に何の前触れも無く凄まじい爆風が吹き荒れて身体が引き裂かれ、たった今迄動き回っていた人間達が一瞬で変わり果てた姿となって骸を晒し、それを急速に波が洗い始める。

生き残った人間達は続々と自分を離れて行き、やがて様々な事情から自分を離れる事が出来なかった僅かな人間達が、自分と共に波に飲み込まれて行った。

最後に陸奥が見たものは、一面の霧と、その中にあって遠く黒々とした長門の影だけだった。

 

我に返った陸奥は、まだ腕の中でしゃくり上げていた朧と子の日を伴ったまま瑞穂と高雄に近付き、手を回してそっと話し掛ける。

「よく帰って来てくれたわね瑞穂ちゃん、これから一緒に少しずつ、長い長い歳月を取り戻して行きましょ? 高雄ちゃんも一遍には無理だけど、少しずつ乗り越えて行かなきゃね」

何時の間にか二人を挟んで向かい側に来ていた妙高が、瞳を潤ませながらも微笑んで、

「陸奥さんの仰る通りだわ、二人ともこれからは一緒に越えて行きましょう、この女の姿で陸の上でね」

と、幾分かは彼女自身に言い聞かせる様に語り掛けた。

すると少々意外なことに瑞穂が先に顔を上げ、涙を拭おうともせずにパッと笑顔を浮かべる。

「ハイっ! 私、頑張ります」

そう明るく言い放つと、まだ俯いている高雄の額に自分の額を付けて上目遣いに彼女の瞳を覗き込む。

「ねっ♪」

その言葉と共に笑い掛けられた高雄は一瞬面喰った様な顔をした後、滲む様な笑みを見せて

「はい♪」

と応じた。

二人のその笑顔はあっという間に全員に伝染し、明るい空気が流れる。

「皆さぁ~ん、早く戻らないと真っ暗になっちゃいますよぉ?」

龍田の言葉に陸奥が顔を上げると、確かに海上には宵闇が迫っていた。

「龍田ちゃん有難う、さぁ皆艦に戻りましょう! 瑞穂ちゃんに、ご飯がどれだけ美味しいものなのか教えてあげなきゃね♪」

「はーい!」

皆それぞれに涙を拭ったりしながら陸奥の言葉に明るく応えると、瑞穂を囲んで帰途につく。

皆の後に続きながら、間もなく夜の帳が下り様という薄暗い太平洋をちらりと振り返って見る。

 

(姉さん……)

 

長門はこの薄暮の向こう、二千浬の彼方に眠っている筈なのだ。

 

(何時か、必ず迎えに行くわ――それ迄待っていてね)

 

心の中でそう告げると、踵を返して皆のあとを追う。

今夜は艦内に泊まり、横須加には明朝帰投する予定だった。

 

(今晩は家に帰れないのよね……)

 

たった一晩の事だと言うのに、何故か妙に寂しい様な心許ない気がしてならない。

 

(……)

 

何だか、無性に仁に会いたかった。

 



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第八章
〔第八章・第一節〕


 新しくやって来た仲間の女性――陸奥によれば彼女達は『艦娘』と自称する事にしたらしい――は、思わずハッとする程の美人だった。

しかも普通に女性にありがちな名前なので、彼女に

「瑞穂と申します、宜しくお見知りおき下さいませね」

と挨拶された仁は、一度だけ教授に連れて行かれたことのある銀座のクラブを思い出してしまう。

 

(でもなぁ)

 

その店にいた女性達は確かに皆美人だったのだが、それでも今目の前にいる瑞穂の方が掛け値なしに――その上全く作った処の無い自然な美人なのだ。

 

(本当に美女率高いよな~)

 

などとまたも油断丸出しで瑞穂に見惚れているといきなりドシンとぶつかる者がおり、前につんのめりそうになる。

 

(誰だよ!)

 

と口には出さない迄も非難がましい顔で振り返った彼の前に立ちはだかっていたのは、見るからに不機嫌そうな半目で彼を睨んでいる陸奥だった。

反射的に直立不動になってしまった仁に向かって、彼女は冷ややかな声を掛ける。

「あらあら、どうかしたのかしら?」

「あ、いえ、そのっ、な、何でもありません……」

 

どうにも勝手が違い過ぎて、毎度しどろもどろになってしまう。

葉月が同じ事をしたらそれなりには普通にリアクション出来るのだが、彼女にはどう対応して良いものか戸惑うばかりだ。

 

「ほほほ、殿方がこれ程難儀な代物とは思いもよりませんでしたのう♪」

 

フンと鼻を鳴らして行ってしまった彼女と入れ替わりに、初春が愉し気に近付いて来る。

 

「まこと仁殿は艶福家よの♪ 斯様に何れ菖蒲か杜若の択一を迫らるる殿方なぞ、そう居るものには御座らぬでしょうに?」

「い、いや、幾ら何でもそれは言い過ぎだから! 僕はどう見たってそんな器じゃ無いよ」

「全くもって――その様な事を真顔で宣うておりますが故に、陸奥殿も焦眉に駆られますのじゃ。少しは己を省みられませよ」

 

相変わらず初春は難しい事を言う。

葉月の攻撃が少し弱くなったと思っていたら、今度は陸奥がだんだん強面になって来て彼は色々と面喰っている最中だと言うのに……。

 

「あぁ~っ! 姉様また仁の事いじめてるぅ~」

 

霰や皐月らとじゃれ合っていた筈の子の日が、こちらを目敏く見付けると駆け寄って来る。

 

「可哀想にねぇ仁、子の日がよしよししてあげるからね⁉」

と言いながら背伸びをして彼の頭を撫で様とするので、少し屈んで彼女の伸ばした手が頭に届く様にしてやる。

 

「仁殿、甘やかすのも大概にせられよ。一朝事ある時子の日は矢石の中に赴かねばならぬ身に御座りますぞ?」

「いやそれはちょっと――それじゃあまるで職業軍人見たいだよ。そうしなきゃいけないって言うのは違うんじゃないかなぁ」

「何を仰せられますか! 如何に否定し様がひとたび海原に漕ぎ出さば、我ら尋常ならざる力を用い得る事は自明に御座りますぞ? いざ国難に赴かずして、徒に国の扶持を食むなぞあり得ませぬ」

「う~んそれが間違ってると思うんじゃないけど、でももし本当の国難だったら、初春ちゃんや子の日ちゃん達だけじゃなくて僕らだって同じだと思うよ? 今の皆は少なくとも戦いの道具なんかじゃないからね」

 

途端に、子の日がしたり顔で胸を張って見せる。

「ほら姉様聞いたでしょ? 仁は人間だけど、本当に子の日達艦娘の仲間なんだよ!」

と嬉しそうな声を出す。

「全く何を小間尺れた事を――それとそなたを甘やかす話は別じゃ!」

「姉様⁉ 仁はとっても優しいけど、だからって子の日は(つわもの)の分を忘れたりは致しません!」

幼い姿の彼女が凛乎として言い放つのを聞いて、彼は改めて艦娘達の業の様なものを感じる。

 

(君達にも等しく救いがあるべきなんだ、むっちゃんにだけ必要なんじゃ無くて)

 

何時の間にか朧や皐月、霰らも話に割って入って来たので、彼の周りは既に何の話だったのか分からなくなっている。

 

(君達皆の為に何が出来るんだろう?)

 

そう思いながら目を上げると、陸奥がこちらを見ていた。

彼の内心を読み取ったのだろうか、彼女はとても優しい眼差しだったものの目が合うとわざと膨れて見せ、これ見よがしにプイと横を向く。

 

(今度は何て謝ったら赦してくれるかなぁ)

 

思わず苦笑した仁だったが、そんな風に拗ねて見せる彼女の可愛さに心が浮き立っているのに改めて気付く。

 

(皆確かに綺麗だけど――でも、やっぱりむっちゃんが一番だなぁ♪)

 

もし葉月が横にいたら、彼の命は無かったかも知れない。

 

 (もう、仁ったら!)

近頃心の中でこう突っ込む事がやたら多くなって来た気がして、一体自分はどうしてしまったのだろうと思う時がある。

陸奥がそんな想いに駆られてしまう度に初春はそれが直ぐ判るらしく、必ず揶揄われてしまう。

 

(何よ、結局初春ちゃんだってあたしと同じだわ!)

 

それは全くその通りだった。

彼女がそれを敏感に感じ取れるのは、言う迄も無く仁の事ばかり見ているからなのだ。

只まあ初春が彼に関心を寄せているからと言うより、本当の処はすっかり彼に懐いてしまった子の日を見守っているだけなのかも知れないが。

 

それにしても、日頃斑駒が若い男と言うのは本当に困った代物だと零すのがだんだん理解出来てくる。

陸奥は仁の優しさや誠実さにとても惹かれるし、自分の事を誰よりも思い遣ってくれる事が心底嬉しいが、それでも自分が彼を想っている程にはこちらの事を想ってくれていない様な気がしてならない。

今し方も瑞穂に自己紹介された途端に表情が緩み、握手するのが如何にも楽しそうだった。

 

(確かに瑞穂ちゃんは美人だけど――でも、そんなに嬉しそうにしなくたっていいじゃない!)

 

傍に自分が居る時位、もう少し気を使ってくれても罰は当たら無いのではないか――ついそんな事を考えてしまう自分は、何時の間にか葉月そっくりになってしまっている。

 

(やだわ、何でこうなっちゃったのかしら?)

 

とは言うものの、彼が葉月に接する時の遠慮の無さ(なのかどうか少々自信は無いのだが)を何となく羨ましく感じていた陸奥にとっては、何時か自分に対しても同じ様に接してくれると言う妄想はそれなりに魅力的でもあった。

そんな事を考えている僅かな間に、彼は瑞穂の事など最初から無かったかの様にごく自然に駆逐艦達に取り巻かれている。

 

(本当に調子が良いんだから!)

 

そうムッとし掛けたのだが、よく見ると仁の瞳は戯れる彼女達への慈しみに満ちていた。

お気楽にデレデレしているのでは無く、何かもっと違う事を考えているらしい。

何を考えているのだろうかと思ったその時、彼がふと顔を上げた拍子に目が合う。

 

(あっ……)

 

その瞬間、彼の心の中がまるで透き通る様にはっきり見えた。

仁の瞳には、忘れもしないあの日陸奥に誓いを立てたあの時と全く同じ色が浮かんでいた。

 

(やっぱり貴方は何時でも貴方そのものなのね、仁)

 

良く判っている積もりだったし、それこそ――単なる優しさや思い遣りを越えた真摯な何か――が彼に強く惹かれる理由なのに、それでも彼が自分以外の誰かにそれを注ぐのを見るとどうにも不安で仕方無くなってしまい、何とかして自分の方に引き戻そうとしてしまう。

 

(どうしてこんなに欲張りになっちゃったのかしら、あたし……)

 

葉月の様に結婚して彼を独り占めしたいと自分も思っているのだろうか? 自分自身の事だというのに、それすらはっきり判ら無いとは何と不自由なのだろう。

一瞬そんな事を思っていたのだが、仁が笑顔を見せたのでつい反発したくなってしまう。

 

(何よ、あたしまだ怒ってるんだから!)

 

心の中で舌を出しておいてそっぽを向いて見せる。

でもこんな風にした後で、彼がまたそっと謝ってくれるのが堪らなく嬉しいのだ。

 



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〔第八章・第二節〕

 会議は大いに盛り上がっていた。

瑞穂の発見によって全員で行なった初めての探索任務が成功裏に終わった事もあり、その労いの意味も込めてなのだろうが中嶋から艦娘達の外出について提案があったからだ。

蒼龍・飛龍を始めとする仲間達から歓声が上がり、皆興奮しながら話し合った結果、数人ずつ何回かに分けて付き添いの者と一緒に外出する事となった。

付き添う顔触れは最初から決まっていた様なもので、中嶋、斑駒、仁、葉月が男女二人組をつくることになり、すぐに中嶋・葉月、仁・斑駒の組み合わせで付き添うと決まる。

だが仲間達の組み分けはそうスンナリとは行かない。

陸奥は早々に辞退すると告げたが、初春と子の日もそれに合わせて同じく遠慮すると言い出す。

彼女ら迄遠慮しなくても――と思わないでもないし仲間達からもその様な声が上がったが、結局は次の機会にと言う事に落ち着く。

残る面々の中で赤城と加賀は口を揃えて自分達は一番後回しで良いと主張し、仲間に加わったばかりの瑞穂も不安なのでもう少し日が経ってからにしたいと言う。

この三名を最後の組にすればスッキリする処なのだが、高雄は瑞穂と一緒に行きたいのか自分も後の方が良いと言い出し、人数の釣り合いが取れ無くなる。

また、一刻も早く外に出て見たいとウズウズしていた筈の蒼龍、飛龍や長良達も、同じく陸の上に興味津々だった駆逐艦達を先に行かせてやって欲しいと言い出し皐月と霰は目を輝かせる。

にも関わらず朧が、

「目上の方を差し置いて、アタシ達が真っ先に行くなんて出来ません!」

と言い張ったものだから二人は眼に見えて落胆してしまった。

 

話が暗礁に乗り上げてしまい、皆も煮詰まって来たのでやや半身になっていた陸奥も積極的に調整に加わる事にする。

 

(困ったわね……誰か先番に回って貰えないかしら?)

 

そう思って改めて白板(昔の様に黒板とチョークでは無かった)を睨み付けていたが、最初の組の付き添いが中嶋と葉月であることにふと心付く。

「ねぇ、加賀ちゃんが朧ちゃん達に付き添ってあげたらどうかしら?」

言いながら妙高の顔をちらと見ると、すかさず彼女は意を察してくれる。

「良いですねそれ! 加賀さんと一緒なら安心して行けるわよね?」

と皐月と霰の顔を見やると、見られた皐月が嬉しそうに反応する。

「ボクそれが良いよ! 加賀さん一緒に来てよ!」

この一言で仲間達も一斉に賛同し始め、たちまち場の空気は染まってしまった。

「加賀ちゃん、手間をお願いして申し訳ないけどあの娘達の面倒を見てあげてくれないかしら?」

陸奥が顔を覗き込みながら言うと、彼女は何時もより更にボソボソとした口調で応じる。

「陸奥さんにそう迄言われては断る事など出来ません。――お引き受け致します」

と渋々といった態で肯うが、押し殺し切れない感情が目元に僅かに滲んでいた。

「加賀さん宜しくお願い致します! 陸奥さんご配慮頂きまして有難うございます!」

先程遠慮して見せた筈の朧も、とても嬉しそうに加賀と陸奥に礼を言う。

 

(本当は、朧ちゃんも早く外に行って見たくて仕様が無かったのね♪)

 

「さぁそれでは残る組合せも決めて仕舞いましょう。次は蒼龍さん達で良いですね?」

こんな時は声の大きい赤城の仕切りがやはり小気味よい。

実際、懸案を解決した後の話し合いは然したる事も無く終わり、程なく昼食となった。

 

 昼食後の片付けを始めると中嶋が近付いて来て、

「陸奥さん、ちょっとお話したいんですが宜しいですか?」

と声を掛ける。

「はい副長!」

反射的にそう応じてから良く見ると、中嶋の表情が曇り気味であるのに陸奥は気付く。

 

(どうしたのかしら……)

 

漠然とした不安を抱きながら、小部屋で机を挟んで向き合う。

「突然お呼び立てして済みません。陸奥さんのお考えをどうしても伺いたい事があってお時間を頂くことにしました」

「どう言った事でしょうか?」

ごく自然に聞いた積もりだったが、中嶋は珍しく逡巡している様だ。

とは言え何時迄も待たせる様な事はさすがにせず、サッと表情を切り替えると自身を鼓舞するかの様に用件を切り出す。

 

「唐突な事で大変申し訳ありませんが――単刀直入にお聞きします。防衛隊では陸奥さんの船体をサルベージしたいと考えていますが、それについて陸奥さんはどうお考えですか?」

 

さすがに直ぐにはその言葉の意味を咀嚼出来ず、理解が追い付かない。

 

「えっと――あの――」

 

「驚かれるのも無理は無いと思います。気になる事はどんなことでもお聞き下さい」

彼が少しゆっくりした口調でそう言ったので、陸奥も頭の中を整理しながら恐る恐る聞いてみる。

「済みません――それはその、つまり私の残った船体を全て引き揚げるという事でしょうか?」

「はい、その様に考えています」

 

中嶋の応えは淀みないが、その内心には迷いが宿っているのか、何かしら言葉に歯切れの悪さを感じてしまう。

「あの、何のために――と、伺っても良いですか?」

思い切ってそう聞いて見ると、彼はやや慎重に言葉を選びつつも明快な言葉で答える。

「皆さんは『船の天国』と言う事柄に付いて全員が同じ事を仰いました。俄かに信じ難い話ではありますが、これ迄既に信じ難い事を幾つも見て来ています。ですから、やはり我々としては皆さんがサルベージされた時に一体どうなるのか、確認する必要があると考えているのです」

 

(――天国に――行けるの?)

 

陸奥の中で、ひたすら海底から上を見上げるだけだった長い長い単調な日々が甦る。

そしてその途中で訪れた突然の変化――。

人間達が代わる代わるやって来ては、自分の身体を少しずつ切り取ったり突然発破を掛けて切断して見たりして、否が応でも自分が天に召される事への期待が高まる。

ところがある日唐突にそれは終わり、人間達は陸奥を残して再び去って行ってしまった。

それからは年に一度数人の人間がやって来て、自分を拝む様な仕草をしては去って行く――その繰り返しだけ。

 

(もしもあの頃、感じる心があったらきっと気が狂っていたわね……)

 

もしその時の自分だったなら、こんな事を聞かされてその返答に窮したりなど絶対にしなかっただろう。

しかし、今の自分にとっては既に同じ返答が出来る質問では無くなっていた。

 

「それは何時頃実施される予定なんでしょうか?」

「早ければ来年の春に着手して夏迄に――というのが最も可能性が高いと思って下さい」

中嶋の物言いは相変わらず慎重だがはっきりしている。

 

(来年――あと一年……)

 

この姿になってまだ一ヶ月少々しか経っていない陸奥にとって、一年は長い時間とも思えるし七十年の歳月を思えばあっという間であるとも言えた。

 

(仁、姉さん――どうしたらいいの?)

 

「あの――」

 

「はい、何でしょう?」

「じ、いえ渡来さんは、この事を知っているんでしょうか?」

そう聞いた途端、再び彼の表情が少し翳る。

 

「渡来さんはご存知です。貴女にお聞きするに当たっては、是非とも彼の意見を踏まえた上でと考えましたので」

 

不安が込み上げて来た陸奥は、聞かずにはいられない質問を投げ掛ける。

「渡来さんは、何と言ってましたか?」

 

彼は憂いを滲ませながら机の上で組んだ己の手を一瞬見下ろすが、それでも僅かな迷いだけを経て、意を決した様に口を開く。

「渡来さんはこう言われたんです。貴女が宿している辛く悲しい記憶から貴女を解き放つ事こそが自分の望みだ、それが適うのであれば是非進めて欲しいと――」

 

それは確かに中嶋の口から発せられた筈なのだが、陸奥の耳には仁の声が聞こえる様だった。

そして、その声は春の優しい雨の様に心の中を濡らしていく。

 

(嬉しいわ、仁……とっても嬉しい――とっても……)

 

涙が溢れそうになったのでキュッときつく腕を組んで堪え様としたが、抑え切れずに眼尻から雫が伝う。

 

「陸奥さん……」

 

その涙の意味を理解している彼は更に暗い表情をするが、陸奥にはそれが見えていない。

 

「済みません――情けない顔をお見せしてしまって」

「いえ、そんな事はありません。それより渡来さんの言葉はもう少しあります。それは是非ともお伝えしておかなければなりません」

「どんな事でしょうか?」

「はい、渡来さんが言われたのは二点です。一つは貴女を長門さんに是非会わせてあげたいと言う事、そしてもう一つは、このサルベージ計画に付いては必ず貴女の意思を尊重して欲しい、もし貴女が嫌だと言った場合は断念して欲しいと言う事です」

躊躇いがちな彼の様子は相変わらずだったが、当の陸奥の頭の中は弾んだ思いで一杯になっていた。

 

(仁は、あたしが望んでる事をちゃんと分かってくれてるのね!)

 

それ故に、彼の裡に秘めた感情を訝しむ事が出来なかったのは致し方無いのかも知れない。

 

「有難うございます副長、良く判りました」

「そうですか――。それでどうされますか? お返事は暫くお待ちした方が良いですか?」

「あの、大変勝手な事を申し上げても宜しいですか?」

「もちろんです、聞かせて下さい」

「姉に――長門に会える迄、そのお話は保留させて頂けませんか?」

 

全く信じられない事だったが、陸奥がこう言った途端中嶋は明らかにホッとした様子になり、笑顔さえ浮かべて見せた。

「分かりました。必ず貴女のご希望に沿える様に最善を尽くしましょう」

彼が打って変わって朗らかに応じたので、陸奥も釣られて

「宜しくお願い致します、副長!」

と明るく会話を締め括ってしまう。

どうにかして仁に感謝の気持ちを伝えたいと考え始めた彼女は、中嶋が急に雰囲気を変えた事もあって最前迄気になっていた筈の彼の胸中に付いては俄かに関心を失ってしまった。

 

(あたしが出来る事で、仁が喜んでくれそうな事って何かしら?)

 

そのまま仁との楽しい妄想をあれこれと巡らす事に夢中になってしまった陸奥は、挨拶もそこそこに部屋を後にする。

 

後に残された中嶋は、一人深い溜め息を吐いた。

 



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〔第八章・第三節〕

 目を覚ました時、何やら良い匂いがするのに気が付いて僕は少々首を傾げる。

 

(確か今日は葉月は来ない筈だよなぁ)

 

今頃彼女は訓練隊に向かっている筈だ。

今日は艦娘達が待ちに待った外出日だし、葉月は中嶋副長と共にその付添役を務める予定なのだから。

そんな事を反芻しつつ一階に降りて来ると、キッチンで話し声(と良い匂い)がするので引き寄せられる様にそちらに向かう。

もちろん当然と言えばそれ迄なのだが、そこにいたのは初春ちゃんと子の日ちゃんに挟まれてエプロン姿でこちらに背を向けて立つむっちゃんだった。

丁度その時僕に気付いたらしい彼女は振り返りざまに

「あら、お早う仁♪」

と明るく笑い掛けてくれるが、窓から差し込む朝の光の中のその姿が遠い記憶と突然重なり合う。

 

(あ……)

 

まるで閃光が走る様に、懐かしさや切なさがない混ぜになった感情の渦が胸に甘く痺れる様な疼きをもたらす。

 

(むっちゃん――何故だろう……君はまるで――)

 

「全く仁殿と来たら――我らの前じゃと言うに、そう迄露骨に見惚れるなぞ如何なものかと思いますぞえ?」

「そうだよ⁉ 仁のエッチ!」

「い、いや、エッチってそんな無体な――」

「もうっ二人とも何言ってるのよ! いい加減にして頂戴⁉」

でも、そう言って頬を染めたむっちゃんに僕が釘付けだったのは――ま、まぁ事実だ。

 

「お、お早うむっちゃん、何だかとっても良い匂いがするね♪」

精一杯普通を装ってそう言うと、彼女はまだ頬を赤らめたまま少し恥かし気に応える。

「うん、まだ余り色々作れないんだけど――ちょっとお料理して見ようと思ったの」

「へぇぇ、何が出来るのかな?」

「ダメよ、まだ内緒なんだから――向こうで待ってて頂戴」

非常に正直に言ってしまうとこのままむっちゃんとお喋りしていたくて仕様が無かったのだが、如何にも愉し気にニヤニヤ笑う初春ちゃん子の日ちゃんに両腕を掴まれる。

「ほらぁ仁! 聞こえなかったのぉ?」

「ほほ、往生際の悪い事じゃ、さぁさ早うなさいませよ♪」

とキッチンから摘まみ出されてしまう。

 

仕方が無いので、取り敢えず顔を洗ったり用を足したりという朝の身支度を少しゆっくり目に終えて、居間で朝のニュースバラエティなどを見るとも無く眺めながら取り留めの無いお喋りをする。

今日の艦娘達の外出先は街の繁華街などでは無く少し郊外中心になる筈で、それは今日のメンバーに合わせたチョイスなのだが、子の日ちゃんには納得しかねる事があるらしい。

「楽しそうだよね~、でも加賀さんもやっぱり楽しいのかなぁ?」

「加賀さんは皐月ちゃん達の保護者役だからね」

「でもそんな役要るのかなぁ? 朧ちゃんは一人だって絶対大丈夫だよ⁉ 皐月ちゃんと霰ちゃんは――うぅん、でも大丈夫だと思うけどなぁ」

「ほほ、案ずるで無い♪ 加賀殿は例え隊のぐるりを散歩するだけでも、天にも昇る程の心地であろうぞ」

「それだけで楽しいの? 加賀さんってスゴイね!」

やはり子の日ちゃんはまだ知らない様だ。

そういう僕もむっちゃんから教えて貰う迄気付かなかったのだから偉そうな事は言えないが、何時か彼女もこういう機微を自分で覚れるようになって、普通の大人の女性になるのだろうか?

いや、そもそも彼女達艦娘は人間の様に成長したり年老いたりするのだろうか?

実はそんな事すらもまだ分かっていないのだなぁと考えていると、むっちゃんが僕らを呼ぶ声がする。

再び二人に両腕をホールドされて、僕はキッチンに連行された。

 

「お待たせ仁、まずは朝ご飯からね♪」

と笑顔の彼女に迎えられて鼻の下が二、三倍は伸びてしまう。

美味しそうに湯気を起てているホットサンドがとんでもないご馳走に見えるのは、只単に空腹の所為なのだろうか?

とは言うものの、僕はひたすら朝食に集中していた訳でもなく、コップに野菜ジュースを注いでくれたり子の日ちゃんのココアを搔き混ぜたりなど、甲斐甲斐しく世話をしてくれるむっちゃんの事ばかり見詰めていた。

なので、子の日ちゃんが元気良く

「頂きまーすっ!」

と言うのを聞いて我に返る始末だった。

「あっ、あの、えっと、頂きますっ」

初春ちゃん子の日ちゃんにワンテンポどころかツーテンポ程遅れて、例によって冴えない挨拶をするとホットサンドに齧り付く。

「美味し~い!」

「何とも言えず、程良いお味にござりますな」

二人の感想はいざ知らず、僕が感じたのは蕩ける様な甘さだった。

 

(何だろ――何でこんなに甘く感じるのかな?)

 

一瞬真面目にそんな疑問を抱いたのだが、やや俯き加減ではにかむ様にこちらを見る彼女を見て、それが愚問である事を覚る。

 

(そうだよな、むっちゃんが作ってくれたからに決まってるよな……)

 

「仁殿、何か感想がおありにござりましょう?」

初春ちゃんにそう振られて慌てた僕は、もう一口齧って見る。

「うん――やっぱり美味しいよ」

「何か、仁の言い方普通ぅ~」

子の日ちゃんにすかさず突っ込まれてしまうが、むっちゃんの瞳を見詰めるのに精一杯でリアクションするどころでは無い。

「本当? 本当に美味しい?」

僕の目を見返しながらそう反問する彼女に、改めて確信を込めて答える。

「うん、とっても――とっても美味しいよむっちゃん」

だが何の捻りも無いその言葉は、まるで未知の反応触媒か何かの様に彼女の頬を鮮やかな桜色に変化させる。

そして、まるで呆けた様にそれに見惚れていた僕は、そこから大量に放たれた正体不明の放射線を無防備に浴びてしまい、あっという間に五感の全てを甘い痺れに乗っ取られてしまう。

 

「ほほほ♪ 今朝はまるで盛夏の如き暑さにござりますのう♪」

「えーっ⁉ 子の日全然暑くないよぉ? 姉様どうしたの?」

「妾はどうも致さぬぞえ、なれど陸奥殿と仁殿とが暑うて堪らぬだけぞ♪」

そう楽しそうに言いながらわざと扇で煽いで見せる初春ちゃんに、彼女はそれこそ真っ赤な顔で食って掛かる。

「初春ちゃんたら良い加減にして頂戴⁉ あたしだってちっとも暑くなんか無いわ!」

そう言ってフンとそっぽを向く彼女がこの世の物とは思えない程に可愛い。

 

(な――何なんだ一体……)

 

ひょっとして朝食に何か入っていたのかと思う位、僕の視線はむっちゃんに釘付けだった。

「もう姉様⁉ 目上の方に失礼な物言いをしちゃダメって言ったのは姉様でしょ? 陸奥さんには良いの⁉」

おっ、子の日ちゃん良い事言った!

ところが、初春ちゃんはまるでその反応を楽しみにしていたかの様に目を細めると、急に穏やかな声音になる。

「まこと子の日の言う通りじゃの、妾が間違うておった。陸奥殿、仁殿、重ね重ねの無礼の段お詫び申し上げまする。平にご容赦下されよ」

と、神妙な様子で詫びを述べる。

「ねぇ陸奥さん、仁、姉様を赦してあげて? 子の日がちゃんと言って聞かせますから」

彼女の精一杯背伸びした言葉に僕らは思わず顔を見合わせるが、むっちゃんの浮かべた優し気な笑顔にまた胸の奥で心臓が落ち着きを無くす。

「そう言う事だったら子の日ちゃんに免じて大目に見てあげ様かしら、ねぇ仁?」

「う、うん、そうだね、じゃあ子の日ちゃんに頼んどこうか」

「やったぁ! 姉様良かったねぇ~」

「ほほ、子の日が取り成してくれたからじゃの、ほんに幸いよのぉ」

そう言う初春ちゃんの瞳は、何とも言えない暖かな色を湛えている。

 

(本当に子の日ちゃんの事大切に思ってるんだ――良いお姉さんだなぁ)

 

僕はふと考える。

彼女達にとっての救いは言う迄も無く天国に召される(もちろんそれが本当にあるならばと言う)事だ。

でもとても幸せそうな二人を見ていると、未来永劫と言うのはともかくとして、せめてこの地上に留まっている間位は戦う道具としてでは無く、姉妹や仲間達と一緒に人間らしい暮らしをさせてあげたいと感じる。

真の救いはそれこそ神様しか与える事は出来ないのかも知れないが、何と言うかその――癒し?――をあげる事位は僕達人間の手でも出来るのではないだろうか。

 

(僕が、君達にしてあげられる事か……)

 

それが、少しずつ見えて来る様な気がする。

 

これ迄の僕が思い描いていた未来というか人生は、何だか消去法でしか語ることが出来ない様な味気無いものばかりだった。

それがむっちゃん達に出会ってからは、日に日に鮮やかな色合いを帯び始めていた。

 

「ねぇ、仁?」

話し掛けて来たむっちゃんの笑顔は、ぼんやりした思いを瞬時に吹き飛ばして心の中を再び彼女一色に塗り潰す。

「あっ、えっと、あのぉ、何?」

「あのね、今日はね、皆でお出掛けし様と思ってるの」

「あ――うん、それいいね! お天気も良さそうだし」

「本当? うふ、良かった♪ ――それでね、皆のお弁当を作って見たの」

「あっ――、そうだったんだ……」

胸の中で、まるで泉が湧き出す様にテンションが上がり始めるのを感じる。

 

(むっちゃん手作りのお弁当――何て素晴らしい響きなんだろう!)

 

「でもね、どこに行くのが良いのか判らないの。仁、どこが良い?」

「う、うん、そうだなぁ~、お弁当持って皆と行くとしたら公園か遊園地系かな? ねぇ、二人はどんな事したいの?」

 

子の日ちゃんの元気の良い返事を期待して彼女達に話を振って見たのだが、思いもよらぬリアクションが返って来る。

「仁殿のお心遣い有難く存じますが、妾はわが妹にも窘められました故、本日は静かに蟄居して過ごさんと思いますればご放念下されよ」

「えっ、いや何もそんな――」

「姉様の事は子の日に任せて、仁? お家でちゃ~んと言い聞かせとくからね!」

「ちょっと二人共何言ってるのよ! あたし達そんな事本気で怒ったりして無いわよ⁉」

むっちゃんもすっかり面食らっている様で真顔になって打ち消すが、その時二人の様子が何となくおかしい事に気付く。

 

(えっ、まさか二人共――)

 

「いえ、陸奥殿や仁殿の度量に甘えて増長しておりましては、子の日に再び叱責を受くるは必定にござりまする。姉として示しが付きませぬ故、この度はご寛恕下されよ」

「初春ちゃんたら何言ってるのよ――」

「姉様の事は子の日に任せて下さい! だから陸奥さんと仁でお出掛けして来てね!」

 

(やっぱりそうだ、二人共最初からその積もりだったんだ)

 

「ふ、二人共揶揄っちゃ嫌だわ⁉ 本当にもう……」

彼女はそう言った切り、頬を赤らめて少し俯いてしまう。

 

(ど、どうしよう)

 

僕は一瞬戸惑ったのだが、その時彼女が恥ずかしそうな上目遣いでこちらをチラリと見る。

 

(はっ!)

 

むっちゃんのその視線は正しく破壊的な威力を秘めた――それでいて蕩けてしまいそうに甘美な――光の矢となって、狙い過たずまっしぐらに僕の心臓を刺し貫く。

 

(……)

 

途轍もない衝撃で魂が抜けた様に空っぽになった僕は、再び意識を取り戻すまでに多少の時間を要する。

そして何とその間に脳からの命令を無視してしばしば勝手に行動する僕の肉体は、独断で口を動かして事態を進めてしまう。

「そ、そのっ、二人がさ、行きたく無いんだったら、せ、折角だからどっか出掛け様か――ぼ、僕らだけで」

 

(おい良い加減にしろ! そんな大事な事何勝手に進めてるんだよ⁉)

 

僕は必死で自分自身にそう突っ込みを入れたのだ。

ところが――

「う、うん、有難う――仁が連れてってくれるならどこでも良いわ♪ あ、あたしのお弁当食べてくれる?」

はにかみながらむっちゃんが応じるのを聞いて再び頭の中が真っ白(申し訳無い、ひょっとすると薄桃色だったかも知れない)になってしまい、思わず素で答えてしまう。

「もちろんだよ、た、楽しみで仕方ないよっ」

こうして僕らは、相変わらずニヤニヤと笑う初春ちゃん子の日ちゃんに見送られて初めて二人切りで出掛ける事になったのだ。

 



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〔第八章・第四節〕

 市街地の中心部にほど近い駅で僕らは電車を降り、通りを海に向かってそぞろ歩く。

初夏の日差しがきついのではないかと少しだけ心配していたが、そんな事も無くとても過ごし易い陽気だった。

 

「ねぇ、どこに向かってるの?」

そう笑顔で聞くむっちゃんに指差して見せる。

「うん、あのビルだよ」

「えっ、あれなの? 何だか凄い高さじゃない? ひょっとしてあそこに上がるの?」

「そうだよ、元々日本一高いビルだったんだけど、他にもっと高いビルが出来たから二番目になっちゃったんだけどね。あそこの上から周りを見渡して、むっちゃんと行く所を決めようかなと思ってるんだ」

「凄いわ! あたし、ドキドキして来ちゃった♪」

そう言って彼女は邪気の無い笑みを弾けさせる。

久し振りに見るその屈託のない笑顔に期待感もどんどん上昇していく。

そして件のビルの展望テラスに辿り着いた時、ずっと見たいと願っていた子供の様にはしゃぐむっちゃんに僕は巡り会えた。

 

「ねぇ見て見て! 街が箱庭見たいよ⁉」

「本当に模型見たいだね♪」

「あっ、あの山ひょっとして富士山?」

「そうだよ」

「仁のお家はどの辺なの?」

「そうだねぇ~」

 

……一体どの位その楽しい時間を過ごしただろう?

四方向のテラスをくるくる廻った末に、やっと普通のテンションに戻って来た僕らは少し落ち着いて眼下の街を眺める。

「あそこに煉瓦造りの建物と草地があるのはなあに?」

「あれは赤レンガ公園だよ、あそこ良いなぁ――あそこでお弁当を食べようか?」

「ええ、そうしましょ♪」

彼女は少し照れ臭そうに下を向いた後、また顔を挙げて別の方角を指差す。

「ねぇ、あそこにいる娘ね?」

「えっどの娘?」

「あっごめんね、あの船の事よ」

「あ~氷川丸かぁ」

「あら、あたし何だか聞き覚えのある名前だわ? それに見た事もある様な気がするの」

「あのね、あの船を真っ白に塗って赤十字書いて見たら?」

「判ったわ、病院船ね! 確かに見た事あるわ――でも凄いわ、あの頃からずっと海の上にいるなんて」

「うん、でももう自力では動けないんだよ、今は綺麗に修復されて記念としてあそこに係留されてるんだ」

「そうなのね……」

「後で行って見ようか?」

「そうね、近くで見てみたいわ」

 

彼女の瞳が一瞬遠い時の向こうを見詰める様な色合いを帯びたので僕は少し不安を覚えたが、幸いにもすぐにそれは消え、むっちゃんは再び笑顔に戻る。

「ねえ、あそこだけ高い建物が無くて赤や金色の屋根や飾りが見えてるのは何故?」

「あそこはね中華街だよ。中華料理や食材のお店や中国雑貨の店なんかが集まってるんだ」

「うふふ、派手な色遣いがなんか楽しそうね♪」

「あそこも行って見る?」

「ええ、連れてって!」

 

これだけ決まればもう十分だろう。

彼女は下りの高速エレベーターが少々気持ち悪かった様だが、それでも意気揚々と歩き始める。

「ねえ仁! あたし、この娘も見覚えあるわ!」

「これは元練習船日本丸だよ、確か戦前に造られたと思ったけどなぁ」

そう言いながら二人で船を回り込んで反対側に行って見ると、説明看板がある。

「昭和五年竣工なのね! やっぱりこの娘も戦争が始まる前の事知ってるのね」

「話して見たい?」

「そうだけど――でも、それが出来るって事はきっとこの娘にとって不幸な事だわ。だから思い出話は皆とする事にするわね」

そう言って笑う彼女は、手を伸ばすべくも無い時の彼方に浸り込んで僕を置いてきぼりにしない様に気遣ってくれている見たいだった。

一緒にいてホッと出来る――という表現はきっと彼女の為にあるのに違いない。

「じゃあ行こう、この橋を歩いて行くんだよ」

「うふっ、海に降りちゃダメ?」

「だ、ダメだよ! 大騒ぎになっちゃうよ?」

無邪気に笑うむっちゃんは眩しい位だった。

 

 公園に行く道すがら手前にあるモールの中を通り抜けて行く。

もちろん通り抜けるだけと言う建て前だが、彼女が何か目を引かれる物でも見付けてくれないだろうかと本音の処では思っていた。

そして、嬉しい事にその期待はとあるセレクトショップの店頭で実現する。

女性用の飾りベルトが幾つもぶら下がっている中に、普通の鎖の様なデザインのチェーンベルトがくすんだ様な銀色の輝きを控え目に撒き散らしながら揺れている。

特に目立つ訳でも無いそれに彼女が引き付けられた理由はすぐに想像がついた。

チェーンには船の錨の形をした可愛いペンダントがぶら下がっていたからだ。

 

「ひょっとして自分の錨を思い出すの?」

顔を近付けて一心にそれを見詰めているむっちゃんにそう話し掛けると、微笑みながら応えてくれる。

「ううん、だって全然似て無いもの」

そう言いつつも改めて視線を戻した彼女は、

「でも可愛い♪」

と付け加える。

その彼女の表情を見た僕の胸中には迷いなど浮かび様も無かった。

「済みません!」

声をあげて女性の店員を呼ぶと、

「これ、ちょっと着けて見たいんですけど?」

と言いながらベルトとむっちゃんとを指し示す。

「えっ、いやだちょっと待って仁⁉」

「まぁまぁ、そう言わないで着けて見せてよ♪」

 

言う迄も無いが買い気を露にしているのに店員が遠慮する筈も無く、その女性はむっちゃんの後ろに回り込んでさっさとベルトを巻いてしまう。

今日の彼女は淡い藤色のスリーブレスの上に鉄紺色のストライプが入ったごく薄い白いブラウスを着ていたが、予想通りと言うか錨のアクセントが良く映える。

「うん――とっても良いよ、凄く似合ってる」

「ほ、本当に?」

「うん、シンプルだから他の服でも合わせ易そうだしね。じゃあこれ貰えますか?」

「えっ、ダメよ仁! そんなの悪いわ⁉」

「ゴメンね、今だけは僕の我儘に付き合ってくれない?」

「そんな我儘だなんて――もう、仁ったら……」

不承不承肯ってくれたむっちゃんだったが、そこはかとなく嬉しそうにしてくれているその様子は、何とも言い様が無い程に僕のハートを鷲掴みにしてくれる。

 

モールを出て、赤煉瓦の倉庫が見える遊歩道を歩きながら改めて詫びる。

「勝手な事してゴメンね、でもどうしても買ってあげたかったんだ、普段からお洒落もさせてあげられないから」

「知らない!」

そう拗ねた様に唇を尖らせた後で、彼女は小さな声を出す。

「有難う――仁♪」

 

(!)

 

体から一斉に何かが蒸発して行く様な感覚が全身を包み込み、それと入れ替わりに甘く香しい液体がその空隙を満たして行く。

経験したことのない幸福感で、僕はまるで酩酊しているかの様に目が回り掛ける。

 

(いやいや待て待て、しっかりしろよ⁉)

 

これから今日最大の――いや、僕の人生最大と言っても過言ではない――イベントであるむっちゃんの手作りお弁当タイムが待っていると言うのに、そこに辿り着く前にドロップアウトする訳には断じていかない。

必死の思いで正気を取り戻し、足を踏ん張って何とか耐え忍ぶ。

ほんのりと頬を染めた伏し目がちな彼女は、どうやら僕の魂が抜け出そうになったのには気付いていないらしい。

改めて深呼吸すると、昂る気持ちを何とか抑え込みながら精一杯平静を装った声を出す。

「そ、そろそろ、どっかのベンチに座って食べよっか?」

「ベンチ?」

「あっ、あんな長椅子の事だよ」

「そ、そうなのね」

等と会話を繋ぎながら良さそうな場所を探す。

「こっ、ここにしよっか⁉」

「う、うん、良いわね、そうしましょ♪」

 

お、落ち着け落ち着け!

むっちゃんのお弁当は逃げたりしないぞ⁉

腰を下した彼女が鞄の中から角ばった包みを取り出して、二人の間にそれを広げる。

飾り気の無いタッパーを開けるとふわりと香ばしい匂いが立ち昇り、一瞬僕はクラリとするが心の中で再度己を叱咤して気をしっかり保ち、彼女の努力の結晶と対面する。

 

(あっ……)

 

詰められていたのは隠元と人参の肉巻きと目に鮮やかな卵焼き、レタスの仕切りに載ったプチトマトだった。

「葉月見たいに色んなお料理作れないから恥ずかしいんだけど――食べて見て?」

彼女の声を幻聴の様に朧気に聞きながら、自分の中の何かに突き動かされる様に箸を取り肉巻きを口に運ぶ。

口の中に甘辛い味覚が染み込む様に広がると共に、脳裏には懐かしさと痛みとを伴う情景が湧きあがる。

 

――――幼い僕は幼稚園指定の小さな鞄を広げており、そこに白い手に抱えられた小さな包みがそっと入れられる。

 

僕はその中身が大好きな肉巻きと卵焼きである事を知っており、その白い手がとても暖かく柔らかな事も良く知っていた。

 

その手が鞄の蓋を閉めてくれ、それを肩に掛けてくれる。

 

嬉しくなった僕が上を見上げると、その白い手がそっと頬を包み込んでくれる。

 

優しく慈愛の籠った眼差しで僕を見詰めるその顔は、聖母の様な笑みを浮かべたむっちゃんだった――――

 

いや、違う!

 

むっちゃんである筈が無い……

 

(母さん! 母さん……)

 

 

 

 

「――――仁! 仁! どうしたの⁉ 泣かないで!」

 

彼女は僕の腕を掴んで揺さ振りながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 

「あ――ご、ごめん――僕はまた――」

 

「お料理――不味かったの?」

「ううん違うよ、その逆だよ」

「嘘――だったら何故泣くの?」

 

一瞬どう答えるべきなのか迷ったがお茶を濁す事など出来る筈も無く、ありのままを話すしか無かった。

 

「むっちゃんが肉巻きと卵焼きを作ってくれたのは何故?」

「葉月が、仁の好きなお料理だって言ってたからよ」

「有難う――僕がこれを好きなのはね、小さな頃に母さんが良くお弁当に持たせてくれたからなんだ」

 

「仁のお母さん――」

 

「うん、僕が幼稚園の時に死んじゃったんだ」

「ねぇ仁、ひょっとしてあたしにこの靴を買ってくれた時に、突然泣き出したのは――」

 

彼女は確かにあの日買った紺青のデッキシューズを履いている。

 

「むっちゃんが選んだその靴が、母さんの思い出のある靴と同じだったからだよ」

「そうだったのね――じゃあ今仁が泣いたのは同じお料理だったからなの?」

「それだけじゃないよ、むっちゃんの肉巻きは母さんのと同じ味だったからだよ。とても長い間思い出せなかったんだ――この味を」

「ごめんなさい、あたし仁に喜んで貰いたかったのに、そんな悲しい事を思い出させちゃうなんて――」

 

「もう一度言うけどその逆だよ。僕は凄く嬉しいんだよ?」

「本当に?」

「うん、葉月のお袋さんや葉月や、親父迄も肉巻きと卵焼きを作ってくれたよ。――でも、どれも母さんの味とは違ってたんだ。むっちゃんのを食べる迄それすら忘れてたんだから――本当に嬉しいよ」

そう言ってもう一つ肉巻を取って口に運ぶ。

 

(この味――やっぱり母さんの味だ)

 

「美味しいよむっちゃん、凄く美味しいよ」

「嬉しい――本当に良かった♪」

 

やっと彼女は微笑んでくれる。

 

「卵焼きも食べていい?」

「ええ!」

 

そしてそれもまた予想通り、胸の奥が疼くような懐かしい味だった。

 

「信じられないよ――何でむっちゃんのお料理はこんなに母さんのと同じ味がするんだろ。――本当に美味しいよ♪」

その言葉に心底嬉しそうな笑顔を浮かべる彼女を見ていると、さっき感じた心がとても温かい何かで満たされて行く様な得も言われぬ幸福感に包まれる。

「ご飯も食べる?」

と言いながらむっちゃんが開けてくれたもう一つの包みの中身は、何とお握りだった!

 

(むっ、むっちゃんが握ってくれたお握りだと⁉)

 

「あのね、初めて食べたあのお握りとっても美味しかったから自分でも握って見ようって思ったんだけど――炊き立てのご飯ってとっても熱いのね。火傷するかと思っちゃった♪」

その情景が頭に浮かんだ僕は次第に冷静さを失いつつある。

 

(むっちゃんがふーふーしながら握ってくれたお握りとか、どんだけご褒美なんだよ!)

 

思わず伸ばした手が震えてしまうが、それでも必死に自分を押さえ込んでまだほんのりと温かいお握りを手に取り、一瞬溜める余裕すら無く一気に口に運ぶ。

 

(な、何だこの味は――)

 

具が昆布である処迄ちゃんとあの日のまま再現されているのはさておき、只の塩味が付いた海苔巻きご飯の筈なのに、経験した事の無い様な味だった。

「お、美味しい……」

「本当? 本当に美味しい?」

半分だけ顔を上げて目だけで見上げる様にこちらを見詰めながらそう聞く彼女に、半ば上の空だった僕自身を差し置いてまたも僕の体が勝手に返事をしてしまう。

「こ、こんなに美味しいお握り食べた事無いよ、本当に最高だよ!」

途端に彼女は頬を薄紅色に染めて、

「そ、そんなに大袈裟な事言っちゃやだわ⁉ もうっ、仁のバカ……」

と言うなり恥ずかしげに俯いてしまう。

そんな悶絶しそうな位に可愛いむっちゃんを穴が開く程見詰めながら一心不乱にお握りを頬張る姿は、きっと見るに堪えないものであったに違いない。

 

(あぁ、自分では自分を見られないってこんなに良い事だったんだ)

 

そんなとことん下らない事を考えている僕は、紛れも無く幸せな奴だった。

 



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〔第八章・第五節〕

 最初の興奮のまま食べ続けていたら、きっと僕はお弁当を残らず平らげてしまっただろう。

正直に言って無限に食べられるのではないかと思う位それは美味しかったのだが、さすがに途中で自分に突っ込みを入れられる程には正気に戻る。

 

(おい! むっちゃんの分迄食べる積もりか⁉)

 

そんな訳で、正にギリではあったものの危うくあり得ない事を仕出かさずに済む。

「そ、そんなに美味しい?」

恥ずかしそうにそう言いながら彼女は改めてお弁当に箸を伸ばすが、それは半分をかなり割り込んだ状態になっており、やらかす一歩手前だったのは一目瞭然だ。

「う、うん、美味し過ぎて、むっちゃんの分迄全部食べちゃうところだったよ――それでもこんなに食べちゃって本当にごめんね」

「ううん、いいの♪ 仁の為に作ったんだから全部食べたって良いのよ?」

きっと僕は絶対他人には見せられない顔になっているに違いない。

全表情筋が緩み切っている上に、鼻の下が地面に擦りそうな位伸びまくっているなんて!

「じゃ、じゃあ、お弁当を食べちゃった分むっちゃんには中華街で何か美味しい物をご馳走し様かな♪」

「あら、そんなに美味しい物があるの?」

「うん、店先や露店で色んな物が売っててね、皆それを食べ歩きするんだよ」

「何それ! 楽しそうね♪」

「お弁当食べたら行って見ようね♪」

「ええ!」

 

とは言いつつも僕らはもう暫くの間彼女のお弁当を突きながら、港を行き交う船を眺めてはあれこれお喋りして過ごす。

むっちゃんは、一体我が家のどこにそんな物があったのかと思う様な小綺麗なお手拭き迄ちゃんと用意してくれていた。

僕が手を拭ってそれを返すと、恐らくは何時も子の日ちゃんの口を拭いてあげるのと同じ様な調子で僕の顔に手を伸ばしてテキパキと口の周りを拭ってくれる。

ところがその直後自分が何をしているのかハタと気付いたらしく、一気に真っ赤になる。

「ご、ごめんなさい仁! あたしつい何時もの調子で――」

そう言ってお手拭きを握り締めると俯き加減で恥ずかしそうに僕を見た彼女は、この世のものとは思えない程に可愛い。

「い、いや、謝って貰う様な事じゃないよ、逆にその――ちょっと嬉しかった位だし」

「やだわもうそんな事言って――バカね♪」

はにかんだむっちゃんは握り締めていたお手拭きに今更気が付いた様な顔をすると、空になったタッパーと一緒にそれを仕舞い掛けた。

が、その刹那無意識にやったのだろうが、さっと何気なく自分の口元を軽く拭う。

 

(あっ……)

 

どうやら深く考える事無く反射的にした様なので気にしなければ済む事なのだが、ご多分に漏れず小心者の僕は余計な心配をしてしまう。

 

(それ、僕の口拭いたやつなんだけど良かったのかな……)

 

こう言う余計な事を考えているのが勘の良い彼女に伝わらない訳も無く、僕の視線の先に気付くのと同時に、俄かにそのお手拭きで何をしたのかに初めて思い至ったらしい。

「えっ、あっ、嫌だっ、あ、あたしっ、ど、どうしようっ!」

と腰を浮かせて狼狽えるむっちゃんの腕を慌てて掴む。

「だ、大丈夫だから! 落ち着いてよむっちゃん!」

「じ、仁! あたしったら、な、何やってるのかしら――」

彼女は、相変わらず赤面したままオロオロしている。

 

(か、可愛い過ぎる……)

 

興奮して鼻血を出すと言うのはあく迄も漫画的な表現だと思っていたが、まさか自分が真剣にそれを心配しなければならない状態に追い込まれるとは想像しても見なかった。

むっちゃんの――と言うか多分艦娘達は皆そうなのかも知れないが――純粋さ加減に僕の心臓は撃ち抜かれっ放しだ。

「ほら、とにかく深呼吸して見てよ?」

「仁――あたしったら何てはした無い事――」

「そんな事無いよ、ハンカチ持ってるよね?」

「え、ええ」

「それで、口の周り拭いたら?」

「そ、そんな事出来ないわ⁉ だって、それじゃまるで仁が――」

「僕はそんな事思わないから大丈夫だよ! 何よりそうしないとむっちゃんが落ち着かないでしょ?」

「う、うん、ご、ごめんなさい仁」

「いいから、いいから」

 

そうこうしてやっと彼女は落ち着きを取り戻したので僕もほっとしてふと周囲を伺うと、何だかあちこちから視線を感じる気がする。

散策に来ているらしい老夫婦がニコニコしながらこちらを見ているのは、ひょっとすると『若いって良いわねぇ♪』的な事を言われてるのかも知れない。

「そろそろ行こっか……」

「そ、そうね、何か妙に居辛い気がするわね……」

妙な気恥ずかしさを覚えながら、僕らはそそくさとその場を引き払う。

 

 別の場所に移動する前に、公園内を歩きながら海側から横濱の街を眺める。

「この辺からだと三つの塔が見えるんだよ」

「塔?」

「ほら、あれがクィーンであれがキングで、あそこに小さく見えてるのがジャックって言うんだよ」

「あら、あたしひょっとして見た事あるかしら?」

「見た事あってもおかしく無いと思うよ? 三つ共戦前からあった筈だし」

「見覚えはあるんだけど――何だか建物がたくさんあって、随分景色が違う感じだわ」

「そうだねぇ、戦前は三つの塔以外に目立つ大きな建物がほとんど無かったらしいからね」

「それだけ長い時間が経ったのね」

「まだまだ、取り戻す事が一杯ありそうだね」

「そうね、もっともっと色んな事を知りたいし、見てみたいわ」

「うん」

そんな会話をしながら遊歩道を歩くが、彼女と二人でいると何だか時間がとても速く過ぎて行く。

気が付くともう公園に着いており、件の氷川丸が近くに見える所迄来ていた。

「あれがそうね」

「うん、やっぱり覚えてる?」

「ええ――真っ白だったのを見たのは多分一回だけなんじゃないかしら? この姿でも見た事ある様な気がするわ」

「へぇ~」

「うふっ、でも全然自信無いわ♪」

「なぁんだ、ハハハ♪」

「うふふふ♪」

楽しそうに笑った彼女はすっと笑いを納めると

「船の格好も、昔と今ではすっかり変わっちゃったのね」

と遠い目をして呟く。

「後で乗りに行こうね」

そう声を掛けると彼女はこちらを振り返って、そっと柔らかい笑みを浮かべて頷いてくれる。

「じゃあ行こう、中華街はこっちだよ」

「ええ」

僕らは公園を横切って街中へと足を向ける。

 

「だんだん、それらしい感じがして来たわね」

「そうだね、ここからって言うはっきりした区切りがある訳じゃ無いからねぇ」

周囲の景色はどんどん派手なコントラストになり、急に人も増えてくる。

「す、凄い人出ね、皆ここに遊びに来るの?」

「人気の街だしねぇ、観光客もたくさんいると思うよ?」

そして中心街に差し掛かると、むっちゃんは思わず感嘆する。

「なあにここ? ここだけ違う国見たいだわ⁉ やたらキラキラしててこんなにたくさん人がいて――」

「何だか凄い活気だよね」

「陸の上って本当に凄いわ……まだまだこんな所があったなんて」

「さあ行って見よ? 面白そうな物も美味しそうな物も全部チェックして行こう♪」

「楽しみだわ♪ あっ仁、あれはなあに?」

「あぁあれはね――」

 

僕らは人混みの中を右へ左へと縫って歩き回る。

何と言っても楽しいのは、彼女がとても健啖な事だ。

「このお店の月餅は美味しいよ?」

「本当に⁉ 食べて見たいわ!」

「ねぇ仁、あれは何?」

「あれは芸豆巻かな?」

「このお団子、はふっ、おひしひけど、ほふっ、熱っつぅ~い♪」

「揚げたてだからね♪」

美味しそうに一杯食べる彼女は、一緒にいるだけで嬉しくなって来る。

 

(葉月だとこうは行かないよなぁ)

 

これ迄に無理矢理引っ張って来られては名の知れた店で食事をした事もあるが、その後で食べ歩くなど出来る状況では無かった。

例のパフェにしてもそうだが、おやつに何か食べようという時の彼女の昼食は軽くサラダを突く程度なのだ。

 

(あれっ……)

 

葉月のことを考えていると、突然胸の奥にチクッと針で突いた様な痛みを覚える。

何だろう、僕は彼女に後ろめたい思いでも抱いているのだろうか。

それとも単に、今頃葉月が皐月ちゃん達のお守りをしていると言うのに気楽に遊び歩いている事が済まないだけなのだろうか?

一瞬自分の中に正体不明な感情が眠っていることに訝しさを感じたが、むっちゃんの弾ける様な笑顔に接すると、そんな戸惑いは瞬時に吹き飛ばされてしまう。

「こんなに美味しい物がたくさんあるなんて――人間って本当に凄いのね」

「これでも中華料理の一部だけだからねぇ。普通の人間だって一生の内に味わえる物なんてたかが知れてるんじゃないかな」

「そうなの? それでもあたし――ちょっと食べ過ぎかしら?」

「この位で食べ過ぎとは言わないんじゃないかなぁ♪ もっともっと欲張っても良い位だよ?」

「ウフフ、でももう欲張れないわ、さすがにお腹一杯よ♪ ちょっと調子に乗り過ぎちゃった見たい――ごめんなさい仁」

「あのね、僕も謝っていい?」

「仁が何を謝るの?」

「むっちゃんがね、とっても美味しそうに食べるのが嬉しくて、ついあれもこれも食べさせちゃったからね」

「あら! じゃあこんなに次から次へと食べちゃったのは仁の所為なの⁉」

「い、いや、あながち僕の所為だけじゃないとは思うけどね……」

「非道いわ仁ったら! 一体どっちなのよもうっ♪」

そう言った彼女は太陽の様に眩しい笑顔で楽し気に笑い、それからふっと穏やかな表情になる。

「こんなに楽しいの初めてよ――有難う仁」

そう伏し目がちに礼を言ってくれるのに何か応えなければと思ったのだが、胸が一杯になってしまい言葉が出てこない。

 

(むっちゃん、君の為だったら僕は……)

 

彼女に対する想いが湧き上がって来るのを感じると同時に再び胸の奥にチクリと痛みが走り、葉月の顔がふっと過る。

 

(何だよ――どうしちゃったんだよ……)

 

甚だ身勝手なのだが、むっちゃんとのこの上もなく楽しい時間をこんな風に翳らせる彼女に対して少々腹立たしさすら覚えながら、僕はその顔をグッと心の片隅に深く押し込んでしまう。

「腹ごなしに少し散歩しなきゃいけないねぇ」

「港に戻るの?」

「そうだね、さっきの公園をもう少し歩いてから行こっか」

「――うん」

このにじみ出るような嬉しげな笑顔を、ひょっとして僕だけに見せてくれているのだろうか?

僕と一緒にいる事を純粋に嬉しいと感じてくれる誰かがいる喜び――しかもそれがむっちゃんなのだ!――に、何だか足元すら覚束なくなって来る。

「やだっ! ちょっと仁、大丈夫?」

「ご、ごめん、楽し過ぎてどうやって歩くのか忘れちゃってたよ♪」

「か、揶揄っちゃやだわ⁉ もう仁ったら」

軽く膨れて口を尖らせる彼女の横顔に占拠された僕の脳裏には、葉月の顔が浮かぶ余地などすっかり無くなっていた。

 



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〔第八章・第六節〕

 街並みを抜けて公園に出ると、喧騒から解放された感じがしてホッとする。

それはむっちゃんも同じ様で、テンションが上がり切った後で普通に戻った時の様に少々気怠げな表情をしていた。

「ここってちょっぴり静かで落ち着くわね」

「そうだね、結構人もいるんだけどねぇ」

「皆不思議ね――同じ人なのに、場所によって大きな声出したり静かに喋って見たり使い分けてるのね。そう言うのは誰かが教えてくれるものなの?」

「そうじゃないよ、普通は自分でそんな事を経験して身に付けて行くんだよ」

「ふふ、じゃああたし達は本当にまだ子供見たいなものね♪」

「経験の量から言えばそうなのかも知れないけど、でも、それだけじゃない様な気がするんだけどなぁ。何て言ったら良いのかな――只余計な手垢が付いて無いだけじゃなくて、本来人が持ってた筈の美点見たいなものを備えてると思うんだ。僕らの様な人間が擦れて忘れてしまったものをね」

「ねぇ、仁は人間が好きじゃないの?」

「そうだなぁ、余り好きじゃないかもな~」

「あら、それじゃあ毎日どうやって同じ人間に囲まれて暮らしてるの? ずっと我慢してるの?」

「まぁ、そこは何とかやってるけどねぇ。でもむっちゃん達と一緒にいるとやっぱりとてもホッとするんだよ」

「やあね仁ったら。そんな言い方したら、まるで人間よりもあたし達艦娘の方が好き見たいじゃない?」

「冗談じゃ無くてその通りだよ? 僕は人間よりもむっちゃんの方がずっと好きだよ」

 

何も考えずにすっと口にしてしまったが、そう言ってからふと見ると彼女は何となく頬を染めて軽く視線を逸らす。

そのリアクションを見ると自分の言った事が急に照れ臭く思えて来て、何か言わずにはいられなくなってくる。

「あっ、いやその――えっとぉ~皆良い娘ばっかりだからね、やっぱりその――」

「ううん、いいの。だって、やっぱりそう言って貰えるの凄く嬉しいもの。それにね、仁がその――あたし達の事好きって言ってくれるのとね、そ、その、同じ様にね、あ、あたしも、あの、仁のこと――」

そう言うと彼女は口籠ってしまうが、思いもよらない方向に会話が転がり始めたので、急に只ならぬドキドキ感が体の内側からはち切れそうな位に溢れて来る。

まるで全身がブーンと音を立てている様な錯覚に襲われるが、全く以て気に入らないことに、こんな時に限って僕の体は僕自身に忠実なのだ。

 

(だ、駄目だ――しっかりしろ、普通に会話しろよ⁉)

 

必死で自分を叱咤するが、結局何時もの如く僕は誰かの後塵を拝してしまう。

「――い、行きましょ仁? あたし、早く乗って見たいわ」

むっちゃんはまだ少し頬を紅潮させながらも、桟橋に係留された氷川丸を指差して上手く切っ掛けを作ってくれる。

「そ、そうだね! 行って見よっか」

 

(はぁ、相変わらず情けない奴だな……)

 

今し方迄半端じゃ無くときめいていた状態から一転して軽く凹んでしまった僕は、彼女のリードを有難く受け入れて桟橋に向かう。

そして二人分の乗船券を買うと、タラップを昇って船に乗り移る。

「商船のデッキってこんな感じなのねぇ」

彼女は興味深げに周囲を見回しているが、やはりその瞳はどこかしら僕の理解の及ばない彼方を見詰めている様な色を湛えている。

「あっ、やっぱり通路の広さが全然違うのねぇ」

「むっちゃんとってこと?」

「ええ、それに水密区画の数もずっと少ないわね、やっぱり」

「軍艦とは違う?」

「そうねぇ、だってこんな豪華な内装なんて艦長さんのお部屋でも無かったし、こんな広々とした食堂だって無かったもの」

「こんな立派な船内だったら、二週間や三週間は海の上にいても平気かな?」

「何言ってるんだって思われちゃうけど、あたし陸の上にいる方がホッとするのよ? 海の上に出ると緊張しちゃうの」

「本当に?」

「そうよ、何か皆そう見たいなの、可笑しいわよねぇそんなのって――」

そう言って彼女は一際遠くを見通す様な表情をする。

「ちっともおかしくないと思うよ」

「そうかしら?」

「そうだよ、だって見てごらんよ」

丁度そこにあった鏡の前で立ち止まり、手で指し示す。

「どう? 船の姿のむっちゃんが映ってる?」

「――ううん、違うわ」

「それが答えなんじゃないかなぁ。人間の姿をして人間の心を持ったら、人間と同じ様に感じるのが普通なんだと僕は思うけど」

 

そのまま、暫く無言で鏡を見詰め続けたむっちゃんは、やがて小さく呟く様に応じる。

 

「そうね、仁の言う通りかも知れないわね」

 

そのまま何かに思いを馳せている様な表情でゆっくりと歩き始め、屋外デッキに出る。

 

「むっちゃん――」

 

後から付いて行ってそう声をかけると、彼女はデッキの手摺に体を預けながら立ち止まり、大桟橋の方を眺めた。

僕も横に立って、今しもこの氷川丸とほぼ同じ位の大きさの客船がゆっくりと出港して行く様を目で追う。

 

「でも、船である事を消してしまえる訳じゃないわ……」

 

その言葉は緩やかな潮風に巻かれてふわりと浮き上がり、暫し揺蕩うとやがて海に溶け込んで行く。

 

「そうだよね――良いことも嫌なことも嬉しいことも悲しいことも、簡単に消えて無くなったりしないよね……。どんな事だろうが、全部自分に起きた事なんだから」

「仁にも消えて無くなって欲しい事があるの?」

「気持ちの上でだけはね、嫌な事や辛い事に目を背けたり無理矢理忘れたりするだけじゃダメなんだろうなって何時も思うんだよ。でも、結局僕はずっとそれをして来たのかなって、今になって思い知らされてるんだ……。むっちゃんが心の奥に抱いてる、その――記憶見たいなものをちらっと見た様な気がした時から――」

「ごめんなさい。そんな悲しい事を思い出させてたなんて、気付いて無かったわ――」

「むっちゃんが謝る様なことじゃないよ……」

 

こんな時、もう少し気の利いた台詞の一つも言えたら良かったのにと常々思うが、機転も利かなければ弁も立たない僕は例によって空しい努力を少々した挙句に黙り込んでしまう。

そのまま余裕で放送事故が起こる位の間僕らは無言だったものの、並の人間よりもずっと気配り上手な彼女が、片手を延ばしてプレゼントしたベルトの錨を弄びながら静かに話し始める。

 

「副長からお話があったわ」

「えっ、ひょっとしてサルベージの?」

「ええその話よ」

「むっちゃん、僕はその――」

「うふふ、有難う仁♪」

「えっ……?」

「副長が教えてくれたの、仁が何て言ってたかって」

「ええっ! そ、そんな、中嶋さん酷いや――」

「ごめんなさい♪ でも、あたしとっても嬉しかったわ」

「そんな風に言われると情け無くなるよ。僕が何か君の為にした訳でも何でも無いのに」

「ううんそんな事無いわ。あたし何となく分かったの、仁があたしに誓ってくれなかったら、きっとこんな話はどこからも出て来なかったんだって」

「まさかそんな事――」

「もちろん只の偶然なのかも知れないわ。――でも、あたしにはそう思えるの。仁が強くそう願ってくれたから――だからきっと、この世界のどこかに居てあたし達に人間の姿を与えた誰かが、それを聞き届けてくれたんじゃないかって」

「神様って事?」

「妙高ちゃんはそう言ってたわ、あたし達にこんな姿を与えたのも船の神様が為さった事なんじゃないかって」

「船の神様……」

「あたしには判らない――神様なのかもっと違う存在なのか。――でも何かがあって、あたし達の理解を超えた力見たいなものが働いてるから、あたしはこんな姿で今ここにいて仁と出会ってるんだって」

「それじゃあ、僕がむっちゃんに命を助けられたのも――」

「そうとしかあたしには思えないの。だって只の偶然だけで、こんなにもあたしの事を一生懸命に考えてくれる誰かに出会えるなんて……」

 

そう言った彼女が、僕の目を見詰めた――――もう少し正確に言うならば、見詰め様とした。

何故なら、彼女がこちらを振り向こうとしたその瞬間から周囲の世界は突然時間の経過が遅くなり、何もかもがスローモーションになってしまったから。

 

(違うんだ――僕は君に命を助けられて――だから僕も、君の為に何か出来る事を――僕はずっとその積もりで……)

 

彼女の余りに美しく透き通ったその瞳に視線を捉えられる迄の間、僕は必死で弁解し続けていた。

弁解?

一体誰に?

もちろんむっちゃんにでは無い。

――では、葉月に?

――確かにそれはあり得るかも知れないが、とても残念な事に僕はとっくにその答えが分かっていた。

 

(まただ、また僕は同じことを――)

 

だが、次の瞬間彼女の瞳はしっかりと僕の瞳を捉え、そこからまるで錨でも投げ込まれたかの様に、僕の心は彼女の中の海に深く繋ぎ止められてしまう。

 

そしてその瞬間から時の流れは変わり、僕とむっちゃんを取り巻くこの世界は突然目にも止まらぬ速さで動き始め、見る見る内に遠い時の彼方に運ばれて行く。

 

「仁……」

 

我を忘れる程に強く彼女に吸い寄せられていたが為に、その言葉がむっちゃんの唇から出たのか瞳からそのまま発せられたのかすら理解出来無くなっていた。

 

「むっちゃん……」

 

この気持ちを表現出来る様な器用な言葉を何一つ持たない僕だったが、今この瞬間に自分が実は何を願っているのかだけは漠然と分かった。

 

そう、このまま、このまま君と二人で、誰一人知る者も無い、遥かな時の果てに行けるなら――そこならば、僕は、君を……。

 

 

その想いが全身を満たした次の瞬間、とても賑やかな集団(皆結構なご年配だった)が突然デッキに現れ、その喧噪の力によって魔法を解かれた僕達は一瞬で現代に舞い戻ってしまう。

 

「あ……」

「あ……」

 

小さく嘆声を発した僕とむっちゃんは、互いに見詰め合っていた事に今更ながら気付いて赤面する。

彼女は真っ赤な顔をしたまま左向け左をして俯いてしまい、情けない事に僕もそれに倣う。

 

「ご、ごめんなさい仁――本当にあたしったら――」

「ぼ、僕の方こそ、その――ご、ごめんね――な、何て言うか……」

 

そう言った切り僕らは口籠ってしまうが、それでも僕の脳裏は彼女の瞳の奥の深い海の色に塗り潰されたままだった。

そのまま金縛りになった様に僕らは動けずにいたが、やがて(案の定と言うべきか)彼女が口を開いて時を元通りに進めてくれる。

「そ、そろそろ帰る?」

やっと金縛りが解けた僕もどうにかそれに応じる。

「そ、そうだね、晩御飯の買い物もしなきゃいけないし」

何とかそれだけを言ってぎこちなく動き始めようとした拍子に、僕の手とむっちゃんの手が偶然触れ合う。

 

(はっ!)

 

一体どうした事なのか、ちょっと手が当たっただけなのにそこから感電してしまったかの如く体が硬直している。

これでも一応キス位は経験もあると言うのに、むっちゃんはそれ程特別な存在なのだろうか?

しかし幾らそんな風に反問して見た処で、僕は自分自身の本心を手繰り寄せるどころか相変わらず従順とは程遠い己の体のコントロールすら取り戻せずにいた。

その間に彼女の手は、僕の手の横で逡巡するかの様に行きつ戻りつを繰り返した挙句、すっと僕の手を握る――――いや、握る直前でぴたりと止まった!

 

(仁……)

 

彼女の心の声が一瞬はっきりと頭の中に響き、僕はその意図を悟る。

むっちゃんは差し出したその手を握って欲しいと言っていた。

自分から一方的に握るのでは無く、はっきりと受けの形を作ったまま僕がその手を握るのを待っていた。

もちろん彼女がわざわざそうする事の意味など、深く考える必要すら無いだろう。

 

(ど、どうしよう……)

 

改めて己の小物っ振りを思い知る。

今こそ自分の意思表示をしなければという時なのに、心臓が体の外に飛び出しそうになる程緊張して、自分の手をごく普通に閉じると言うとてもささやかな事すら出来ないのだから。

にも関わらず、酷く腹立たしいことに僕の体は既にその答えを持っていた。

奴は逡巡して右往左往し続ける僕自身を差し置いて、迷う事無く彼女の手をギュッと握ったのだ。

 

(!!)

 

その刹那、握った彼女の手から何か――エネルギーとでも? ――が奔流となって流れ込んで来る。

足元が急に覚束なくなって、何だかふわふわと頼りな気に浮いたその体はまるでむっちゃんの手に握られた風船の様だ。

「帰りましょ」

彼女は恥ずかしそうに伏し目がちにしながら、それでも僕が風に吹かれてどこかへ飛んで行かない様にしっかりと手を握って歩き始める。

言葉を発する事も出来ずに只々彼女に引かれていく僕は、やっとのことで自分の体に追い付きつつあった。

 

そう、長い回り道の末に僕はやっとそれを自覚した――紛れもなく自分が恋に落ちている事を。

 

そして最早言う迄も無い事だが、むっちゃんと出会ったあの日からずっと。

 



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〔第八章・第七節〕

 思い返せば何と厚かましいことをしてしまったのだろうと顔から火が出そうになるが、例え様もない幸福感と充実感に満たされた心はそんな事などお構いなしだ。

陸奥と仁は電車の中でこそ手を離していたものの、最寄りの駅を出て買い物に向かう途中で再びどちらからとも無く手を繋いでいた。

そのまま手を繋いでスーパーの中をウロウロするが、どう言う訳か何時迄経っても買う物が決まらない。

その内に夫婦らしい(赤ちゃん抱っこしてるわ……)若い男女が、手を繋いで買い物をしているのと擦れ違う。

ぼんやりとそれを目で追いながら、無意識に男を仁に女を自分に置き換えて見るが、その妄想はまるで蜜の様に甘く陸奥の心を蕩けさせる。

 

「ど、どうかしたのむっちゃん?」

「へっ? あっ、いえその、あのっ、な、何でも無いわよ⁉」

「本当に?」

「ほ、本当よ! あ、あたし、あそこのお野菜が美味しそうだなって思ってただけよ⁉」

「あそっか~蚕豆が旬なんだねぇ。じゃあ、今日はあれを入れて子の日ちゃんが好きなパスタにしよっか?」

「そ、そうね! それが良いわ、そうしましょ♪」

 

(あ、危なかったわ、これだけは絶対に口が裂けても言えないわね)

 

ほっと胸を撫で下ろすが、頭の中に迄響いてくる位胸がドキドキしているのが判る。

訓練隊で受けた座学でも、心臓の動悸が激しくなると言うのは体調にはよろしく無く余り健康的とは言えない状態の筈だったのに、何故かやたらに心が弾んでいる様な気がする。

 

(仁もドキドキしてるのかしら?)

 

さすがにその鼓動迄はっきりと分る程では無いものの、少なくとも彼は自分の手をしっかり握ってくれていた。

 

(きっと同じ気持ちよね、仁♪)

 

そう思った丁度その瞬間、彼がこちらを振り向き照れ臭そうな顔でにっこりと笑い掛ける。

 

(!)

 

それでまたまた気持ちが舞い上がってしまった陸奥は、もうその後どうやって家に帰り着いたのか全く記憶に無かった。

 

「お帰りなさ~い」

初春と子の日が元気よく迎えてくれたが、「ただ今」を言ったかどうかすら定かで無い。

その上二人がニヤニヤしながら少し下の方をジロジロ見ているので、一体何事なのかと訝った途端まだ手を繋いだままだった事に気付く。

慌てて手を離しながら思わずちらりと仁の顔を盗み見ると、彼も紅い顔で陸奥の顔を見て苦笑しておいてから二人に向き直る。

「き、今日の晩御飯は蚕豆のパスタにするからね! それで良いかな?」

「やったぁ! パスタ大好きぃ~♪」

照れ隠しにやや声を張った彼の言葉に、無邪気に応じる子の日が何時も以上に愛らしく感じられて少しほっとする。

ところが初春は口元に笑みを張り付かせたまま、

「無論妾も異存ござりませぬぞ。きっとこの世ならぬ甘さにございましょうな♪」

などと小憎らしい事を言う。

言い返そうと思ったものの、横から子の日がタイミング良く突っ込んでくれる。

「姉様⁉ また陸奥さんに叱られてもいいの?」

「まこと其方の申す通りじゃの。これではまた其方に取り成して貰わねばならぬのう」

そう楽しげに言った彼女は、やや居住まいを改めてこちらに向き直る。

「それでは我らお待ち申し上げておりますゆえ、何時でも何なりとお声をお掛け下されよ」

さらりと言って一礼するや居間へと下がって行くのを見送ってしまうと、思わず溜め息が出る。

その拍子に期せずして同時に仁も溜め息を吐いたので、顔を見合わせて笑みを浮かべる。

 

(うふっ、また一緒だったわ♪)

 

もう何をしても嬉しいのではないかと思う位浮足立っているのだが、自分ではどう仕様もない。

それから身支度をし直して彼と二人で台所に立つが、途中から自分が何をしているのか良く分からなくなって来る。

どうにか夕食は出来たものの、味見はもちろん出来栄えすらも覚束ない。

四人で食卓を囲み、子の日の元気の良い、

「頂きまぁーす!」

で食事が始まって、やっと自分も食べるのだと思い出した程だった。

 

「美味しぃーい!」

「ほほ、正しく甘露にござりますのう」

二人が口々に感想を述べるのだが、半ば上の空の陸奥にはほとんど聞こえていない。

 

(でも、美味しいのは間違いないわ)

 

仁と二人で作ったのだから美味しくて当たり前だとも思う反面、先程の自分は心ここにあらずと言う体で出来栄えに気を配る余裕すら無かったのだから、万が一彼の気に入らない事があるかも知れない。

そう思って横目で仁の顔をちらと見ると、彼はすぐに気付いて笑顔を見せてくれる。

「良かった――美味しく出来てるねむっちゃん♪」

「そ、そうね! とっても美味しく出来てるわね♪」

捉えどころの無い不思議な感情が全身を包んで行き、彼以外の周囲の世界が現実の物で無くなった様な気がする。

 

「ご馳走様ぁ~」

突然子の日がそう言ったので飛び上がりそうになるが、その拍子に仁と見詰め合っていたのに気付いてしまい赤面して下を向く。

「ど、どうしたの子の日ちゃん? もうご馳走様だなんて――」

「え~ちゃんと全部食べたよぉ~?」

「えっ、えっ、ど、どう言う事?」

「ほほ、お二方に取ってはいざ知らず、我らには十分食べ終えるだけの時間はござりましたぞ♪」

「ぼ、僕らは一体何を?」

「だってぇー、仁も陸奥さんもず~っと顔見合わせてニコニコしてるんだもん――。早く食べないと冷めちゃうよぉ?」

もう陸奥はまともに顔を上げる事すら出来なくなってしまう。

 

「ふ、二人共そのまま置いといてくれたら良いよ? 僕らが食べ終わったら一緒に片付けるから――」

彼がそう言うのを片耳で聞きながら、一生懸命にパスタを口に運ぶ。

 

(もう、何やってるのかしらあたし――)

 

顔が火照って腫れ上がってでもいるかの様に熱い。

折角二人で作ったのに、禄に味わいもせず只々急いで詰め込むだけになるとは何と見っとも無い話だろうか。

にも関わらず、今の陸奥は高揚し切った気分の只中にあるので、この程度の事では意気消沈する気配すら感じない。

仁と二人でイソイソとパスタを平らげ、一緒に食卓を片付けて洗い物をする――そのどれもが楽しくて仕方が無かった。

 

そうこうする内に後片付けも終わり、風呂に入る段になって初めてここに遣って来た日の事を思い出す。

あの日、自分の目の前で葉月がやらかしたとんでも無い事はもちろんはっきりと覚えていた。

あれは陸奥にとって異次元の出来事に等しい位遠く掛け離れて見えたが、今や突然その距離がぐっと縮まった様に感じられる。

あの時仁は慌てふためいていた様だが喜んではおらず、どういう訳かそれが陸奥はとても嬉しかった。

 

(あ、あたしが今同じ事したら仁は喜んでくれるのかしら?)

 

そんなあられも無い妄想はそれだけに止まらず、どんどん膨れ上がって行く。

 

(そんな事しなくたって、い、何時かは、その、い、い、一緒にお風呂とか入っても、い、良いわよね♪ そ、それ位は、い、い、良いわよね⁉)

 

「陸奥さん何ニヤニヤしてるのぉ?」

「いっ?」

「ほほ、陸奥殿さえ宜しければ、今宵は我ら姉妹だけで風呂をつかわせて頂きますぞ?」

「な、何言ってるのよ! ちゃ、ちゃんと一緒に入るわよ⁉」

「だったら早く入ろうよぉ~もう全部脱いじゃったよ?」

「さ、先に入ってて頂戴⁉ すぐ行くから!」

 

(ひょっとしてあたし、ずっとこんな調子なのかしら?)

 

さすがに少し不安に駆られながらも、急いで服を脱ぎ二人の後を追う。

 

 

(ふぅっ♪)

 

それでもどうにか風呂に入ってしまうと、気分が切り替わった所為か少し落ち着きが戻って来る。

それはどうやら仁も同じらしく、冷たい飲み物を人数分用意して彼が居間に戻って来るのを待っていると、随分さっぱりした顔つきで現れる。

「ああ、有難うむっちゃん」

そう言って飲み物を手に取った彼は何時もの仁に少し戻っており、それを見た陸奥も何かしらほっとしてしまう。

「やれやれ、ずっとあの調子かと思うて心配致しましたぞ」

「何よ! 適当な事言って仕向けた癖に随分な言い草だわ⁉ 子の日ちゃん、お説教がまだ足りない見たいよ?」

「えぇ~っ、もう姉様ったら仕様が無いなぁ――ねぇ仁、どうすれば良いのぉ?」

「う~んそうだなぁ――じゃあ、初春ちゃんは当分外出禁止って事でどうかな?」

「えっ! それは子の日も一緒にってこと⁉」

「ううん違うわよ。子の日ちゃんは良い子だからあたし達と一緒にお出掛けよ♪」

「えへっ、やったぁ!」

「こ、これ子の日や、其方何時からその様に唯一無二の姉を蔑にする様な、邪な子に成ったのじゃ?」

「たった今からだよね♪」

「ごめんなさい姉様――子の日を赦してね? 子の日はお出掛けがしたいの♪」

「嘆かわしや――姉妹の絆など何と脆い物かのう」

「当分そうやって反省してて頂戴⁉」

「そうだよ姉様! ちょっとの間の辛抱だからね」

「利いた風な口を利くでないわ!」

「ハハハハ!」

「うふふふ♪」

心の底から安心出来る瞬間、そしてそれを感じられる場所。

 

(全部貴方がくれたのよ、仁♪)

 

浮ついた感情の中では無く、安らいだ思いの内に在っても自然にそう思える。

 

(もしかしたら、これなのかしら……)

 

これ迄掴み処の無かった彼に対する想いの様なものが、陸奥の中でぼんやりとだが形を成し掛けたその時、テーブルに置かれた仁のスマホが着信を告げ始める。

「あっ、駒ちゃんからだ!」

目敏く発信者を読み取った子の日が声を上げた。

「こんな時間に――明日、何かあるのかな?」

そう独り言を言いながら彼が電話に出る。

「もしもし――斑駒さん今晩わ。どうしました? ――――えっ、明日からですか? ――――あ、はい――済みません、彼女に換わって良いですね? ――ちょっと待って下さい――」

 

向き直った仁の顔は当惑と緊張が入り混じっており、否が応でも不安を掻き立てられてしまう。

 

「むっちゃん緊急の要件だよ。君も直接聞いた方が良いと思う」

「ええ判ったわ――換わりました陸奥です。何かあったんですか?」

電話の向こうの斑駒が、緊張した声で喋り始める。

「簡潔に申し上げます。明日の早朝にそちらに迎えの車が行きますので、陸奥さん達お三方は航海に出立する準備をしておいて下さい。その足で港に向かい、そのまま乗船・出航致しますからそのお積もりでお願いします」

「航海はどれくらいの期間になるんでしょうか?」

「一週間以上になると思って下さい」

「一週間以上――あの、どこへとお聞きしても良いですか?」

「国外になります。申し訳ありませんがこれ以上はお教え出来ないんです、済みません――。ですが一言だけ――お姉さんと強く関係があります」

 

(姉さん!)

 

急に動悸が激しくなり、体温が上がった様に感じる。

「あの――それはつまり、危険を伴う可能性があると言う事ですね? 小さな子達も連れて行くんでしょうか?」

「それについては、明朝出航前に副長を交えて協議しましょう。どうするのが一番良いのか、私にも正直分かりません……」

彼女が言葉を濁すのも致し方無いだろう。

「とにかく了解しました。一旦渡来さんに電話を戻しますね?」

「はい、お願いします」

彼にスマホを返すと、初春と子の日が身を乗り出して来る。

「陸奥殿――」

「どうしたの? 今度はどこに行くの?」

姉に対する感情はとにかく脇に置いて、二人にちゃんと説明しなければならない。

一度唾を飲み込んでから、陸奥は口を開く。

 

「二人とも、良く聞いて頂戴――」

 



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〔第八章・第八節〕

 暁闇の中、車は埠頭に向かって走る。

 

(あそこに座ってお弁当食べたのよね……)

 

どこへ向かうのかと思っていたら、何と昨日二人で訪れたばかりの赤レンガ公園の先だった。

その先に泊まっているのは、灰色に塗られた防衛隊の艦艇ではなく真っ白な船体に青い線が引かれたやや艦弦の高い船舶だ。

「海上警備庁の埠頭に行くんだ……」

助手席に座った仁が呟く。

運転している防衛官はそれを耳にしてちょっと困った様な顔をしながらも、出来るだけ無感情を心掛けている様に見える。

とは言え、その互いに居心地の良くない時間はすぐに終わり、間もなく車はゲートを通過すると、建物の玄関口で自分達を待ち受ける中嶋らの前に滑り込む様に停止した。

 

真っ先に車を降りた陸奥は、出迎えた中嶋と斑駒にサッと敬礼する。

「お早うございます、副長!」

「お早うございます、陸奥さん。大変急な事で申し訳ありませんが、この機会を逃すべきで無いとの判断がありお呼び立てした次第です。ご理解頂けるものと確信してはおりますが」

「もちろんです。そのご判断に異存ありませんし、副長のお立場も了解しているつもりです。ですので、昨夜斑駒さんに申し上げた件に付いて急ぎ協議したいのですが如何でしょう?」

中嶋は固い表情を少し緩めると即断する。

「有難うございます。それでは時間に余裕もありませんので、急ぎ許可を頂く事にしましょう」

そう言ってから、やや離れて控えていた防衛隊とは異なる制服に身を包んだ男性に向き直る。

「申し訳ありませんが、出港する前に皆さんと検討しておきたい事柄に付いて、話し合うお時間を頂けますでしょうか?」

真っ直ぐに告げられたその男性は、表情こそ緩め無いもののどことなく温和な声で応じてくれた。

「もちろんです、僅かな時間すら許され無い訳ではありません。とにかく中へどうぞ」

と、建屋内に誘ってくれる。

陸奥が中嶋を見ると、彼も小さく頷いて視線だけでこちらを促しつつ口を開く。

「恐れ入ります。それでは失礼して」

先に立って動き始めた彼に遅れない様に、初春と子の日に声を掛ける。

「さぁ、行くわよ」

が、動き始めたその視界の端で斑駒が仁に近付き、何事かを話し掛けているのが目に入る。

 

(何かしら?)

 

気にはなったものの、わざわざ引き返して「どうかしたの?」と聞く程の事でもないので、そのまま入口の扉を潜る。

建屋に入ってすぐ左手の会議室と思しき部屋に仲間達全員が待機していたが、陸奥らがドアを開けるのと同時に全員がさっと立ち上がり、声を揃えて挨拶してくれる。

「お早うございます!」

「お早うございます。早速だけど、皆と一緒に急ぎ話し合いたい事があるの。多分もう判ってくれてるとは思うんだけど、全員が一緒に行くべきなのかどうかと云う事に付いてよ」

言う迄も無い事だが、陸奥の予想通り全員がその問題を認識していたので、余計な前置きを抜きにして早速話し合いを始める。

中嶋らは一緒に着席したものの、一切口を挟まずに艦娘達の議論に任せてくれていた。

そして全員での話し合いは、これもまたほぼ陸奥の予想通り互いの意見を真っ向からぶつけ合う方向に勢い良く転がり始める。

 

赤城はかなり熱心に、

「艦艇としては兎も角、今の姿の皆さんはやはり子供です。幼い子供達を矢弾に晒す様な事はすべきではありません」

と主張し同意する者も多かったが、駆逐艦達は猛反発する。

普段礼儀正しい朧が、

「姿形がどうあれ、アタシ達も歴とした(つわもの)です! もし入り乱れての(いくさ)となれば、寧ろアタシ達の方が活躍出来ると思いますが⁉」

と挑戦的に言い放つなど大変な憤慨振りで、遣り取りはかなり過熱気味だ。

やがて議論が平行線のまま進展しなくなると、その頃合いを見計らっていたのかそれ迄静かにしていた瑞穂が控え目に切り出す。

 

「私如き新参者が、しかつめらしく意見などとおこがましいのですが――」

 

だがその内容は何と、船足も遅く兵装も貧弱な自分が大人の様な姿形だと言うだけで同行出来るというのは納得出来ない、足手纏いだと言うのであれば自分こそが真っ先に留守居をすべきだと言う主張だった。

思わず全員がしんとしてしまう中、瑞穂は発言をこう締め括る。

「私は皆さんのお仲間でいられる限り私の出来る事を精一杯成したいと思いますが、それが叶わぬと言う時が来れば、いっそ仲間では無いと言われる方がどれ程か潔いでしょう。改めてお伺いしますが、駆逐艦の方々は皆さんのお仲間では無いのでしょうか?」

 

(瑞穂ちゃんもお淑やかなだけじゃないのね――。でも丁度良いわ)

 

そろそろ結論を出すべきだろうと思っていた陸奥は、自ら声を上げる。

「瑞穂ちゃん有難う、その答えはあたしから言うわね。当然の事だけどここにいる皆は大切な仲間だわ。だから赤城ちゃん達が只足手纏いに思っている訳じゃ無い事も判ってくれてるわよね?」

「はい! もちろんです」

彼女は笑顔で応える。

「それじゃあ皆、もう意見は出尽くしたわね? 最後にあたしが決めさせて貰うわ――今回の遠征には全員で行きます。但し、仲間を大切にするのと同じ様に自分を大切にすると誓約して貰うわ、それが出来無い子は今ここに置いて行きます。どう、ちゃんと誓える?」

 

それに対する答えは待つ迄も無かった。

「はいっ!」

全員の声が綺麗に揃ったのを聞いて満足した陸奥は、中嶋に向き直る。

「お待たせ致しました副長。ご案内を宜しくお願い致します」

「分かりました。それでは皆さん――」

 

そう言いながら彼は立ち上がったが、艦娘達も一斉にさっと起立する。

「改めてご紹介しましょう。これよりお世話になる海上警備庁の警備船『おおやしま』の斑駒船長です」

中嶋が手で指し示したのは、先程屋内に誘ってくれた中島よりもやや年配と見受けられる男性だったが、何と言ってもその名前に全員が驚く。

それでも紹介された斑駒がさっと敬礼すると、陸奥も含めて全員がきびきびと答礼する事は忘れなかった。

「初めまして、皆さんが今何を感じられたのかはお顔を拝見すればすぐに分かりますが、その事を今とやかく申し上げは致しません。それだけでは無く、乗船頂く前に皆さんにご説明出来る事はほとんどありません。今回、組織の垣根を越えて皆さんを警備船にお乗せするに至った経緯も含めて、詳細は全て出港後にご説明すると言う事で納得頂かねばなりませんがご了解下さい」

斑駒の(おそらく)父は、落ち着いた様子でそう言い終えると中嶋をちらりと見る。

「有難うございます船長殿。――それでは皆さん、早速乗船しましょう!」

 

彼がそう言って動き始めると艦娘達も全員その後に従ってサッと動き始めるが、陸奥の許には(娘の方の)斑駒が駆け寄って来て、片目を瞑りながら少し離れて立っている仁の方へ顎をしゃくって見せる。

意図を理解した陸奥も何も言わず目で礼をするだけにして、彼の処へ駆け寄る。

「仁!」

「暫くお出掛けだねむっちゃん」

そう言った彼は、少し躊躇った後で再度口を開く。

「斑駒さんに、航海中もむっちゃんと連絡が取れる様に船長に頼んで見るって言われたんだけど――僕らだけそんな特別扱いして貰っても、むっちゃんだって居心地が悪いだろうと思って遠慮したよ」

如何にも彼の言う通りだろう。

まだ事情は詳らかで無いものの、これから乗るのは海上警備庁の船舶であり訓練隊、延いては防衛隊とは異なる組織の管理下で行動しなければならない。

その様な時に、いきなり我儘を利いて貰う様な事から始めるのはどう考えても印象が良くない。

 

(仁――あたし達の立場もちゃんと考えてくれてるのね)

 

嬉しくなって思わず手を伸ばすと、仁の手をぎゅっと握る。

「あ、むっちゃん⁉」

「出来るだけ早く帰って来るわ! だから、無事に姉さんに会える様に祈っててくれる?」

「も、もちろんだよ! 毎日そっちの方角に向かってお祈りするからね!」

「約束よ⁉」

「うん、約束だよ♪」

顔を見合わせて笑いあった陸奥は、言い様も無く弾んだ気分になる。

「じゃあそろそろ行くわね」

「岸壁から見送るよ!」

 

彼の声に送られながら皆の後を追い掛ける。

「もう陸奥さんたらぁ、見せ付けちゃってやーだぁ」

「本当ですよぉ~、あーあいいなぁ~」

追いつくなり、早速蒼龍と飛龍が冷やかしに掛かる。

「暫く留守にするから挨拶してただけじゃない!」

例によって適当にあしらったりしながら、岸壁に係留された『おおやしま』に乗船する。

「あっ、何だか広い!」

「本当だぁ~」

船の大きさもあるが確かに船内はゆとりがあり、防衛隊の艦艇とは如何にも違う様だ。

「皆さんにはこちらを使って頂きます」

警備官らしき男性が案内してくれたのは、二段の寝台が二つ設けられた小ざっぱりとした船室だった。

「姉様、子の日は上の寝台がいい!」

「ほほ構わぬぞえ、其方の好いた様にするが良い」

楽し気に居室を見分している二人とは違って、陸奥には他に気になる事がある。

「二人共、荷物を任せておいても良いかしら?」

そう声を掛けて腰を浮かせると、初春が得たりとばかりに応じる。

「無論にござりまするぞ、早う上甲板に行かれませよ」

「有難う、お願いね」

と言い残して船室を出る。

船は微かに身震いしている様で、耳を澄ませると船底の方から低く力強い振動音が響いているのが判る。

 

(もう主機が動いてるのね)

 

のんびりしていられないと思った陸奥は、精一杯の早足で通路を急ぐ。

いっそ走ってしまおうかとも思うが、警備船内では自分達はお客様であり、どんな規則があるのかも禄に判っていないのに訳も無く走り回るのはさすがに気が引ける。

やっとデッキに辿り着き舷側の手摺に手を掛けて立つと、岸壁に立った仁が素早く此方を見付けて笑顔で手を振ってくれている。

「むっちゃん!」

明るく呼び掛ける彼の正面迄移動して声を掛け様としたその時、出港の号令が掛けられ汽笛が鳴り響く。

 

(あっ……)

 

たった今迄仁に笑顔で応えて手を振ろうと思っていたのに、その弾んだ気持ちが急に萎えてしまい、寂しいとも心細いともどちらとも言い難い様な感情が湧きあがってくる。

そうしている内にも船は舫いを解かれてゆっくりと滑る様に動き始め、岸壁に立った警備官達も一斉に帽振れを始める。

 

「むっちゃん?」

 

彼も陸奥の様子に気付いたのか、笑顔を畳み込んで手を振るのを止めるとそう呼び掛けながら岸壁を歩いて陸奥に追い付こうとする。

 

(何してるのよ! 普通に手を振るだけよ⁉)

 

自分に言い聞かせて声を出そうとするが、感情が昂ぶって来てつい叫んでしまう。

 

仁っ!

 

自分が出した声で更に気持ちが込み上げて来てしまい、デッキを歩いて仁を追い掛けると彼の瞳が陸奥の瞳をしっかりと捉える。

一瞬、互いの心が強く引き付け合うのを感じるが、次の瞬間彼もまたその想いを迸らせる。

 

陸奥っ!

 

呼び掛けられた途端、まるで彼に強く抱き締められたかの様に胸がギュッと締め付けられ、堰を切った様に感情が溢れ出してしまう。

 

仁っ! 仁っ!

 

叫びながら、そうすれば彼の手に届くかの様に必死で手を伸ばしデッキを小走る。

涙が零れて次々に頬を伝い、襟元を濡らして行く。

 

陸奥っ!

 

今すぐ船を飛び下り、陸奥の伸ばした手に応えるかの様に手を伸ばして岸壁を走る彼の腕の中に飛び込みたい。

 

仁っ!

 

しかし遂に陸奥は船尾に達してしまい、岸壁の縁に立って両手の拳を固く握り締めて立ち尽くす仁の姿を見詰めるより他出来なくなってしまう。

 

必ず帰るからっ! 姉さんを連れて帰って来るから! だから――」

 

後は言葉にならず、涙ばかりが止めどなく溢れる。

 

やがて彼の姿は埠頭の端の小さな点になってしまい、それもすぐに見えなくなってしまうと少しだけ冷静な気持ちが戻って来る。

 

(本当に恥ずかしいわ、あたしったら……)

 

皆の前で何と見苦しい事をしてしまったのだろう。

でも先程は本気で自分一人だけ船から飛び降りて、仁の許に馳せ戻りたいと思ったのだ。

 

(また冷やかされちゃうわ、情けない――)

 

覚悟を決めてハンカチできゅっと涙を拭うと、少し下腹に力を入れてくるりと振り返る。

――と突然、

「うわぁあ~ん!」

「陸奥さぁーん!」

と、蒼龍と飛龍が泣きながら抱き付いて来る。

 

「ちょ、ちょっとどうしたの、二人共⁉」

慌てて二人を抱き留めながら顔を上げると、何時の間にか仲間達が集まっておりしかも皆涙ぐんでいる。

 

(えっ、何これ――)

 

感激屋の赤城が大粒の涙をぽろぽろ零しながら近付き、陸奥の手を取ると、

「陸奥さん、不肖この赤城、例え陸奥さんの盾となってでも必ずや渡来さんの許へ無事にお帰しすると誓います! 私だけではありません、ここにいる全員が同じ気持ちだと思います!」

と力強く言い切る。

「あ、有難う赤城ちゃん――でも盾だなんて言わないで、み、皆一緒に帰りましょ⁉」

「もちろんですとも! 陸奥さんと渡来さんが育んだ愛は、我ら艦娘と人間との絆そのものと言っても過言ではありません! ですから我ら全員の宝として、大切に守っていく所存です!」

 

(えっ、ど、どうしたらそんな風に聞こえちゃう訳?)

 

彼女はこんな風に大上段に振り被った物言いがやたらに得意で、放っておくと何でも大仰な話にされてしまう。

とにかく何とかこの場を退散しなければと思い、出来るだけ明るい声を出す。

「さ、さぁ皆、取り敢えず船内に戻りましょ?」

「はーい!」

 

(はぁ~~、これなら冷やかされる方がずっと良かったわ……)

 

心中溜め息を吐きながら皆を急き立てて船室に戻り掛ける途中、丁度横に来た高雄が何やら物恋しげに指を唇に宛てがいながら小声で呟く。

「私もやっぱり渡来さんが良いですぅ……」

 

(た、高雄ちゃん、何不穏な事言ってるの⁉ 心臓に悪いから止めてくれない⁉)

 

今更ながら、葉月の気持ちがいやと言う程判り始めた陸奥であった。

 



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第九章
〔第九章・第一節〕


 斑駒船長を交えた打合せが行われ、改めて行き先がマーシャル諸島共和国である事が全員に明かされた。

そもそもの経緯はこう言う事の様だ。

マーシャル諸島クルーズにやって来た日本の客船が、ビキニ環礁付近で突然正体不明の敵から攻撃を受けたのだった。

幸いにも難を逃れたその船は、今は共和国の首都であるマジュロ環礁に入港しその保護下にあるとの事で、共和国から日本政府に直ちに保護措置の――分かり易く言えば迎えを寄越して欲しいと言う――要請があったのだ。

艦娘達の感覚からすれば、何故防衛隊の艦艇が出向かないのかと思う処だが、戦前であればいざ知らず、現代に於いてはこんな折であってもそうそう軍艦を繰り出す訳には行かないらしい。

そう言われて改めて、防衛隊が名こそ違うものの実質的には海軍である事に気付いたりもするが、どちらにせよ他の組織が動く必要がある。

そう言う事情から警備庁の船舶が派遣される事になった様だが、防衛隊と警備庁の上層部間では艦娘に関する情報は共有されており、調査の機会を有効に活用すべしという点で合意した様だ。

 

「マジュロには昨夜先発した『みくら』が向かっています。本船は直接ビキニ環礁に向かい状況見分を行うと云う事で、既に共和国政府の了解が取れております」

斑駒の父は、如何にも強固な意志を穏やかな人格で包んだ様なもの堅い話し方をする。

「環礁にはどの位接近する予定でしょうか?」

陸奥が質問すると斑駒の父は中嶋の顔を一瞥し、目礼をした中嶋が応える。

「それに付いては具体的に決定していません。ぎりぎり迄情報を収集しながら、皆さんと一緒に検討して決めたいと考えています」

「そうですね、もしもの場合を想定するなら余り艦砲の射程内深く接近するのは危険だと思いますし――」

陸奥が応じると、横から加賀が口を挟む。

「その客船は、どの辺りで攻撃を受けたのでしょうか?」

「まだ正確な情報ではありませんが、領海内に入る前だったらしいとの事です」

「と言う事は――」

「はい、あく迄推測ですが、十分に引き付けて狙い澄まして撃った――と言う訳では無さそうですね」

中嶋の説明を聞く限り、その何者かは丸腰の客船を沈め様とした訳では無さそうだが、領海外まで届く程の射撃が可能な何かである可能性は高そうだ。

 

(やっぱり姉さんなのかしら?)

 

「その娘はどうして虎口を脱したのでしょうか?」

瑞穂が品の良い物腰を崩すこと無く質問すると、今度は斑駒の父が口を開っく。

「連絡を受けた限りでは、攻撃は最初の一射だけだったと思われます。それが斉発だったのか個射のみだったのか等は不明です」

陸奥の中で次第に確信が湧いて来る。

 

(警告したんだわ、近づくと危険だって――だとしたらやはり姉さんが……)

 

環礁に沈んでいるのは日本の船舶に敵意を抱くであろう米国の軍艦がほとんどだが、彼女らがわざわざそんな事をする理由が見当たらないし、仮に本気で攻撃したのであれば余りにも雑に過ぎる。

敵が手ぐすね引いて待ち構えている、言わば虎の咢に踏み込ませない為にわざと驚かせたのだとすれば、それをしたのは姉か酒匂のどちらかとしか考え難い。

「陸奥さんはどうお感じですか?」

中嶋の問い掛けに対して余り期待を込めた返答をしてしまうと、仲間達の考えにも影響してしまうだろう。

「はい、先程副長も言及された様に、少なくとも非武装の客船に危害を加える意図は無かったと感じます。只それが姉であるか否かに付いては、可能性が高いとしか言えないと思います」

するとそれを聞いた加賀が、陸奥の顔を見ながら口を開く。

「陸奥さんは立場上余り憶測で何かを言えないと思います。出来れば私の考えを申し上げて宜しいですか?」

普段は概ね他人の好悪など無頓着な彼女だが、しばしば陸奥に対しては気遣いを見せてくれる。

「有難う加賀ちゃん、遠慮なく言って?」

「はい、それでは――卒直に言って砲撃を行ったのは長門さんであると考えるのが妥当でしょう。その意図はもちろん客船を攻撃したかった訳では無く、環礁に近づけさせ無い様に威嚇する為だと思います。言う迄も無く日本の船舶を米艦などに害させない様にするためですが――しかしながら、姿を現して接触する事も出来たのにそれをしなかったのだと考えると、これはつまり民間船を手に掛ける程の悪意こそ抱いていないものの、好意も抱いていないと言う事の顕れではないでしょうか?」

 

覚悟はしていたものの、加賀の冷えた言葉で語られると思わず拳に力が入ってしまう。

「ではやはり、長門さんは自分が嘗ての日本に見殺しにされた事を――」

「駄目よ高雄ちゃん⁉」

思わず腰を浮かせ掛けた高雄の発言を妙高が咄嗟に遮る。

「妙高ちゃん有難う――でも良いのよ、決して予想してもいない話じゃ無いわ」

陸奥がそう言うと、赤城が後を受けて声を上げる。

「まことに仰る通りです。陸奥さんが覚悟を固めておられると言うのに、我らが及び腰になっている場合ではありませんでしたね」

「でもどうしたら良いのかな? 長門さんは本当にボクらの敵になっちゃったの? 撃たなきゃいけないの?」

「そうと決まった訳じゃ無いよ皐月⁉ 加賀さんは敵とも味方ともはっきり言えないって言われたんだよ?」

皐月の正直過ぎる言葉を長良がフォローし様とするが、朧が更に疑問を口にする。

「そうは言っても、長門さんにお会いしてお話が出来なかったらやっぱりご本心が分かりませんよね? それはどうし様も無い気がするんですけど――」

皆の視線が泳ぎ、中嶋の顔や陸奥の顔などを行ったり来たりする。

 

(あたしの心はもう決まってるわ……)

 

とは言え中嶋が艦娘達の安全を非常に重視している事も良く理解しているので、あまり尖った物言いをすれば彼の立場を無くしてしまうかも知れず、陸奥は少々躊躇っていた。

しかしそんな空気を読み取ってなのか、何時もの様にどこか飄々とした調子で龍田が声を上げる。

「長門さんが来てくれないんですからぁ、こっちからお会いしに行くしかないですよね~。だから例え長門さんが撃って来なくてもぉ、米艦が撃って来るのは仕方ないんじゃ無いですか~?」

案の定中嶋はすぐに反応し、

「龍田さんの言われる事が間違っているとは思いません。ですが仕方無いからと言う理由だけで、貴方がたに敵性艦と交戦する危険を犯させる訳には行きません」

と堅い言葉で言い切る。

二人の遣り取りに再びその場は静まり返ってしまうが、既に最前とはその静けさの中身が違っており、今にも誰かが反駁しそうな気配が濃厚に漂っている。

 

「発言を許可して頂けますか?」

その中から意を決した様に声を上げたのは意外にも(娘の方の)斑駒だったので、中嶋も一瞬おやと言う顔をしたものの簡潔に肯う。

「許可します」

「有難うございます。部隊行動基準の解釈の範囲はあるとしても、先制攻撃に対する応戦で無い限り交戦を前提とした出撃は無い筈です。現状は明らかに『交戦の可能性がある』状態だと思いますし、これから向かう海域においてその可能性がある事は出航以前から明白だったのではありませんか? そうであれば、そもそも当該海域で艦娘の方々を海上に展開すること自体が危険を伴う行為の筈ですので、危険を犯させる事は出来ないと言う仰り様は理解に苦しみます。何故皆さんを同行させたのでしょうか? それとも、まさかご命令だから仕方無くなさったこと――」

「それが上官に対する口の利き方か⁉ 無礼だぞ天音!」

斑駒(父)の叱声は一陣の突風かと見紛うばかりで思わず背筋を伸ばした者も多かったが、親子だから慣れているのか斑駒(娘)は怯まない。

「無礼な口の利き方をしてしまったのはお詫びします! でも小官の意見は撤回致しません!」

 

(どっかで聞いた気がするわね♪)

 

本人達はとても真剣なのに、申し訳ないがちょっと面白くなってしまう。

「横合いから済みません、発言して宜しいですか?」

斑駒父娘と中嶋の顔を見比べながら声を掛けると、斑駒(娘)が待ってましたと言わんばかりの笑顔を浮かべる。

「陸奥さん! おね――」

そう言い掛けてから慌てて口を噤み、極まり悪気に背を丸めて中嶋の顔を下から見上げる。

思わず苦笑いした彼が、その笑顔のまま陸奥の方を向いて口を開く。

「お願いします、忌憚の無い処をお聞かせ下さい」

と少し柔らかい調子で応じてくれたので、陸奥も少し苦笑しながら口を開く。

 

「私の正直な気持ちを申し上げますが、例えどの様な危険があろうがそれら全てを踏み越えて長門に会って直接話をする積もりです。更に言うなら、本人が何と言おうが力尽くででも日本に連れ帰る積もりです。元よりその考えの下にここに来ておりますし、私だけでなく仲間達も同じ考えの筈です。その為に敵と交戦する事も厭いませんし、もし必要とあらば撃滅します。無論のこと、ここにいる仲間達はもちろん長門も酒匂さんも誰一人として失う積もりなど更々ありません」

 

ここ迄一息に喋ってすぅーっと深呼吸をすると、仲間達の視線が自分に集中しているのを感じられた。

だがそれには応えず、硬い表情をしている中嶋に向かって改めて語り掛ける。

「――とは言え、勝手気ままが許されるとは思っておりませんし、心意気だけで(いくさ)に勝てるとも思いません。私達は皆嘗ての帝国海軍の戦いを目の当たりにし、その敗北の屈辱をも味わっています。二度とその轍を踏む積もりはありませんので、副長の仰る通りぎりぎり迄状況を見定めた上で行動する積もりですし、理不尽なもので無い限りご指示には必ず従います。それだけはご承知おき下さい」

 

また一息に言ってしまうと出来る限り平静な顔をしてすっと口を噤むが、さすがに中嶋は察しが良かった。

 

「陸奥さん有難うございます」

口許を少しだけ緩めると、それだけ短く言って再び誰かの発言待ちの表情に戻る。

しかし口を開く者はいない。

まぁそうだろうなとは思う。

自分が余程中途半端な事を言わない限りこうなる事は予め予想が付いたので、言うべき事は全て一気に言ってしまっただけだ。

何よりも中嶋はその意図も含めてちゃんと理解してくれている。

最後に決断するのはあくまで彼なのだから、その最終決定には従うとはっきり伝えたのだ。

 

(さあ、どうするのかしら副長?)

 

一体どんな方針を打ち出すのか若干の期待を込めながら様子を窺っていると、彼は一旦全員の顔を見回した後に徐に言を上げる。

「皆さんの意見は出尽くしたと考えて宜しいでしょうか? ――その様ですね。では、改めて現時点での見解を申し上げます。交戦が確実な状態に於いてはやはり皆さんを危険に晒す積もりはありません。しかしながら、交戦の可能性がある状態である限り、あく迄その時点時点での状況を判断して我々と皆さんの行動を決定します。言う迄もありませんが、天候や他国の干渉など重要な危惧がある場合及び船長の別途ご指示がある場合は別ですので、その点は良く理解しておいて下さい」

芝居がかった所の無い、実に堅実な物言いとしか言い様が無かった。

ちらと加賀を見ると、愁眉を開いた様な少々残念そうな複雑な顔をしている。

 

(副長が格好良く采配するとこ見たかったのに――残念ね♪)

 

加賀が期待していた事が少し理解出来るだけに、中嶋の物堅さに些か嘆息してしまう。

が、とにかく彼は自分達の求めにある程度応じると言う意思表示をしてくれたのだから由とするべきだろう。

そう思っていると、何となく歩み寄ったその場の空気を上手く掬い上げるかの様に再び龍田が口を開く。

「良かったですね~私、長門さんや酒匂さんとお話しして見たかったんですよ~、陸奥さん必ずご一緒致しますね~♪」

何だかんだ言いながらも彼女は優しい気配りをしてくれているが、そう見られたくないのだろうか、わざと捉え所の無い物言いをしている様に思える。

「先輩狡い! 陸奥さん、私もご一緒して長門さんにお会いしたいです!」

長良が瞳を輝かせながらそう言うと、例によって纏め役を買って出る事の多い赤城が声を上げる。

「長良さんの希望は兎も角、隊をどの様に編成するかはとても重要ですからそれを次の議題とすべきではないでしょうか?」

と、打合せを次に進め様とする。

彼女の意見は至極尤もだったし仲間達も皆頷いているが、ふと朧だけが沈んだ表情で俯いているのに気が付く。

「朧ちゃんどうしたの? 違う意見があるなら遠慮しないで言って頂戴?」

陸奥が声を掛けると彼女は急に顔を赤らめて更に俯く。

「そ、そんな意見なんてありません! ど、どうか気になさらないで下さい――」

と頻りに謙遜する。

「朧さん、どうでも良い意見など無いわ。寧ろ仲間同士だからこそ多少角のある事でも言い合えるのではなくて?」

加賀が朧を真っ直ぐに見ながらそう言うと赤城も、

「そうですよ朧さん是非聞かせてください、さあ遠慮せずに!」

と強く奨める。

全員の視線が朧に集中する中、何故か真っ赤な顔をした彼女は覚悟を決めた様にきゅっと目を瞑って小さく叫ぶ。

「あっ、あっ、あのっ、実はっ、そのっ――お腹が空きました!」

 

一瞬辺りが静まり返った後、風船が弾けた様にその場にいた全員――仲間達はもちろん中嶋も斑駒の父も一緒に――が爆笑する。

 

「だ、だから言いたくなかったのに……」

 

それこそ消え入りそうな声で呟く朧がちょっと可哀想なので、陸奥は一生懸命に笑いを収めて彼女に手を伸ばす。

「うふふ、笑ってごめんなさいね朧ちゃん。――でも、もうお昼なんだしお腹も空くわよね♪」

と声を掛けると、彼女ははにかみながらもおずおずと手を出し、伸ばした陸奥の手に触れると恥ずかしそうに応じる。

「――はい♪」

 

それを見て取った斑駒の父が、

「大丈夫ですよ、皆さんの昼食はちゃんと準備していますから。――どうでしょう食事休憩とされては?」

と中嶋の顔を見る。

「有難うございます。それでは皆さん一旦休憩並びに食事としましょう。船長のご指示に従って行動して下さい」

その言葉にどこかしら安堵した様な響きを感じ取った陸奥は、彼は秘かに朧に感謝しているかも知れないと想像して、改めて心の中で苦笑した。

 



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〔第九章・第二節〕

 まるで凱旋するかの様に晴れがましい気分だった。

岸壁には警備庁の制服を着た者ばかりで無く西田を中心に防衛隊の者達も詰め掛けており、それこそ人が鈴なりのために自分達が上陸する所があるのか心配になる位だ。

「帰って来て良かったでしょ姉さん⁉」

斜め後ろに立つ長門に声を掛けるが、姉は返事を返さない。

どうやら感極まっているらしい。

陸奥は再び岸壁の人だかりに目を戻す。

もちろん、先程から自分が見ているのは人混みの最前列で腕を一杯に振りながら陸奥の名を叫び続ける仁だけだ。

 

(嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいわね♪)

 

本当はそんな風に自分の気持ちに少し歯止めを掛けなければ、今すぐに船を飛び降りて彼の胸へ飛び込んで行きそうになるからなのだが、優しい仁はこの程度の可愛い言い訳位赦してくれるだろう。

そうこうしている内に遂に船は接岸し、舫いが掛けられると共に舷梯が下ろされる。

斑駒の父や中嶋が連なって下船するのをジリジリしながら待っていると、仁も岸壁に下ろされた舷梯の脇で同じ様に焦れったそうにしながら陸奥の顔を見上げている。

するとその様子を見た斑駒(娘)が、気を利かせて声を上げてくれる。

「済みません、陸奥さんを行かせてあげて下さい!」

一瞬その場にいる全員が自分を見たのでさすがに照れ臭くなったものの、それでも舷梯の上に足を掛けると同時に下から仁が大きな声で呼び掛ける。

「陸奥っ!」

その途端心の中の歯止めが吹き飛び、どっと感情が溢れてくる。

「仁っ!」

叫びながら一気に舷梯を駆け下りると、両腕を広げて待つ彼の胸へ真っ直ぐに飛び込む。

仁の腕ががっしりと自分を抱き締めるのと同時に、自分からもしっかりとその首にしがみ付く。

 

(あぁ仁!)

 

例え様もない幸福感に全身が包まれ、彼への強い想いが体中を満たして行く――がしかし、不可解な違和感が胸の中に――いや腕の中にしこりの様にあるのが感じられて、急速にそれが拡がっていく。

 

(何なの? 一体どうしたの?)

 

腕の中にある気味の悪い違和感はどんどん強まり、直にその正体は仁そのものらしい事がはっきりする。

 

恐る恐る身体を離して彼を見ると、ゆっくりと上げたその顔は氷の様な冷たい微笑を浮かべた葉月の顔だった――――

 

葉月っ!

 

 

暗い船室内に響き渡る自分の声にぎょっとして飛び起きる。

 

(こ、ここは――?)

 

頭のすぐ上に寝台がある小じんまりとした空間、床を挟んで隣の寝台から聞こえる二つの寝息、ゆったりとした揺れ。

 

(そうだったわ、警備船に乗ってたのよね……)

 

胸に手を当てる迄も無く激しい動悸を感じる。

ちらりと時計を見ると起床時間迄はまだ一時間程ある様なのでもう一度横になろうかと思ったが、眠気などすっかり吹き飛んでしまっていた。

「はぁっ……」

深い溜め息を吐いて寝台に座り込むが、何だか酷くもやもやして息苦しさを感じる。

 

(ちょっと位は大丈夫かしら?)

 

上衣を一枚さっと羽織り、貸与された船内履きに足を通すと二人を起こさない様に静かに船室を出る。

通路の端からラッタルを上がると、不寝番の警備官に出会う。

「お早うございます、上部デッキに出ても宜しいですか?」

と聞くと、

「お気を付けてどうぞ!」

と肯ってくれるのでそのままデッキに上がる。

さすがにそこには誰もおらず、夜明け前の薄明の中、船が波を蹴立てる音だけが周期的に響いていた。

深呼吸をすると、濃い潮の香りが胸の中を満たして行く。

 

「はぁぁぁ~~っ――」

 

思い切り息を吐き出すとつい声が出てしまうが、それで少しだけ不快な塊の様な物を吐き出せた感じがする。

幾らかすっきりした頭で水平線を見遣るが、結局浮かんで来るのは先程の凍て付く様な微笑だった。

 

(当たり前よね――怒るわよね葉月……)

 

そもそも彼女が仁の家に泊まり込んだ理由を考えれば当然のことだ。

陸奥が(もちろん彼にだ)何か仕出かさ無い様に監視する為だったのに、その監視の目が無くなったのを見計らった様に裏を掻かれたのだから。

 

(別に騙そうとか思ってた訳じゃないのよ?)

 

水平線に浮かぶ葉月の顔に向かって少し言い訳して見るが、途端に彼女は顔を歪めて憤怒を露わにし、火を吐かんばかりに噛み付いてくる。

『何調子の良い事言ってる訳⁉ この泥棒猫!』

 

(あたし――やっぱり泥棒なのかしら)

 

こうして少し冷静になって考えて見ると、何故わざわざ仁の気持ちを試す様な事をしたのだろうかと思う。

しかも何が滑稽だと言って、自らの気持ちをまともに説明する事すら覚束無いのに、彼の気持ちを確かめずにはいられなかったのだから、自分でも呆れてしまう程の粗忽さ加減だ。

 

『人を好きになる事の意味も分から無い癖に、よくもそんな大それた事が出来たもんね⁉』

 

葉月の顔が怒りに加えて嘲りの色を帯びる。

確かにそう言われると返す言葉も無い。

人間の様な姿になって仁に出会ってから僅か一月半の自分が、この世に生を享けてから二十年、彼との付き合いも十数年の葉月を相手にして胸を張れる事など何一つ無い。

その上自分は仁しか知らないのに、葉月は彼以外の幾人もの異性達の中から彼を選択しているのだ。

 

『塔原さんって相当モテる筈ですよ?』

 

斑駒がそう言っていたのを思い出す。

実際仁や葉月自身から聞いた話でも複数の男性から言い寄られた事があると言うことは知っているが、そもそもそんな経験の無い陸奥にとってはそれがどういう事なのかも実感出来ない。

 

(でも――やっぱり泥棒した覚えは無いわ)

 

仁が彼女のものになっているのを横取りすれば確かに泥棒だろうが、幾ら人間関係の機微に疎い自分であってもその様には到底見え無いからだ。

 

『何よ開き直り⁉ まぁ確かに、ちょっと手を繋いだとか何だの位で彼女気取りされても困るんだけど⁉』

 

陸奥の想像の中の葉月が一層冷ややかな嘲笑を浴びせる。

無論、一々もっともな事ばかりで反論の仕様も無い。

 

(でも、これからもっと親しくなったらもっと大胆な事も出来る様になるのかしら)

 

一瞬彼女の顔が揺らめいてぼやけ、仁と恋人同士になった自分の楽しい妄想が浮かびかけたが、『これから』と言う言葉に引っ掛かってそれはしゅっと巻き戻されてしまう。

 

(そうよ、あたし達にこれからなんてあるの?)

 

防衛隊の手によって残る船体が引き揚げられれば、自分はこの地上を去ることになる。

天国と言う所がどんな所なのか知る由も無いが、そこに行けば当然二度とこの地上に戻って来る事も出来ないだろう。

 

(姉さんに会える迄は、って言ったのよね……)

 

あの時はもちろん先の見通しなど何も無い中でそう言ったが、まさかこんなに早くその機会が巡って来るなど思いもよらなかった。

もし今回首尾良く姉と共に日本に帰ることが出来たなら、今度こそ返事を引き延ばす理由など無くなるだろう。

 

(長くて後一年――よね)

 

どうすれば良いのだろうか?

こうして人の心と体を手に入れて見て人間と言うものが明日の事すら定かで無い存在であることをやっと知ったばかりの陸奥にとっては、これからの一年間がどんな日々になるのか、更には一年の後に本当に仁や仲間達に別れを告げる事が出来るのかなど、それらを量る物差しも何も無い雲を掴む様な話だった。

「あら~どうしたんですかぁー? こんなに朝早くから~」

 

突然背後から声を掛けられてぎくっとしてしまう。

「た、龍田ちゃん、お、驚かさないで頂戴⁉」

「うふふぅ~済みませーん、そんな積もりじゃ無かったんですよぉ?」

「龍田ちゃんこそどうしたの? こんなに早くから」

「早く目が覚めちゃうだけですよ~、何時もの事なんですからぁ」

「えっ、何時もって毎朝こうなの?」

「そうですねぇ~大体毎日ですねー」

「ひょっとして、良く眠れないの?」

「う~ん、そぉなんですかねぇやっぱり~~」

 

龍田は余り深入りし様とせずに、軽く受け流そうとしている風だ。

何時も飄々として物事に余り動じない風に振る舞っている彼女だが、わざとそう見える様に装っているのではないかと思ってしまう。

「あたしね、初めて夜眠る時に一人で寝るのが怖くて一緒に寝て貰ったのよ」

「えぇ~本当ですかぁ? どうして怖かったんですぅ?」

「次に目を覚ました時に、海の底で一人切りになってるんじゃないか――って思ってしまったからよ」

「えっ……陸奥さんもそうだったんですか?」

「近頃はさすがにもう慣れたけど――龍田ちゃんはまだ慣れない?」

 

一瞬縋り付く様な心細げな眼差しを陸奥に向けた彼女は、すぐに視線を逸らして水平線の彼方を見遣ると、何時もとは違う訥々とした口調で応えを返す。

 

「これからも、ずっと慣れないんじゃないかなぁって思います――多分――」

 

「龍田ちゃん……」

 

仲間達は若干程度の差こそあれ、概ね皆新たな陸の上での生活を楽しんでいる様だが、龍田はそうでは無いのだろうか。

彼女は只ひたすらに本当の救い――船体を引き揚げて貰い天に召される事――を待ち望んでおり、それを表に出さない為に飄然として物事に頓着しない態を演じているだけなのだろうか?

そう思って何か声を掛けようとしたその時、再び龍田は常日頃の様にのんびりとした緊張感の無い口調で話し始める。

 

「まぁでも~慣れなきゃ仕方ないんですよねー♪ 何とかなると思いますよ~、それなりに好きにさせて貰ってますしぃー」

 

そう言ってしまってからにこやかな笑顔を向ける。

 

「――龍田ちゃんがそう思えるんだったらね――。でも、誰かに頼りたい時は頼ったって良いのよ?」

「うふふふぅ~有難うございまーす♪ それじゃあ早速、今晩から添い寝をお願いして良いですかぁ?」

「も、もうちょっと別の事にしてくれないかしら?」

「大丈夫ですよ~、渡来さんはその位で怒ったりしないと思いますけど~?」

「そーゆーこと心配してるんじゃ無いんだけど⁉」

「あら~やっぱりそーでしたかぁ、それじゃあ仕方無いですねー、日本に帰ってから塔原さんにお願いして見ますね~」

「えっ、どうして?」

「だって~、一生懸命お願いしたら根負けしてうんって言ってくれるかも知れませんよ~? もしそれで女の子の魅力に目覚めてくれたら、陸奥さんも助かっちゃいますよね~♪」

「もういやね――龍田ちゃんったら。余り勘の良い子はお姉さん嫌いよ♪」

「うふふ~、じゃあ嫌われ無い様に一言だけにしときますね~。皆がみんな違う人や違う物を好きになれるんだったら苦労しませんけど、そんなに上手くは行きませんよね~、だったら絶対に誰とも衝突しないなんてそもそも無理なんじゃないですかぁ? それは人間でも艦娘でも同じだと思いますよ~?」

 

(龍田ちゃん、ひょっとしてそれが言いたくてわざわざ?)

 

そうは思ったものの、何時もの顔つきに戻った彼女はやはり簡単には瞳の奥を覗かせ様としない。

 

「龍田ちゃん有難う、日本に帰る迄の間に腹を括っておくわ――。因みに昨日会議で言った事、本気よね?」

「はい本気ですよ~」

「じゃ、もし皆が反対でもすれば別だけど、姉さんの処に行く時にはあたしと一緒に来てくれる?」

「もちろんですよ~喜んでお供します~♪」

「それじゃ今日の打合せで話して見るわね。――さぁ、そろそろ起床時間ね、船室に戻りましょ?」

「は~い」

 

そう軽やかに返事をすると龍田は踵を返してラッタルへと向かう。

その後を追う前に陸奥はもう一度水平線を振り返って見るが、そこに浮かんだ葉月の顔は怒りもしていなければ嘲りもしておらず、どこかしら悲し気にこちらを見詰めていた。

 



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〔第九章・第三節〕

 防衛隊の艦艇でもそうだったが、ここ警備船に於いてもやはり海上で出る食事はかなりの量だ。

にも関わらず、昨日仲間達がそれを易々と平らげるのを見て、斑駒(父)を始めとする『おおやしま』の乗員達は目を丸くしていた。

「皆さんを見ていると、自分の価値観がひっくり返される思いですねぇ」

今も、仲間達の中では恐らく一番の大食と思われる赤城の食べっ振りを見ながら改めて斑駒(父)が感嘆する。

赤城程では無いにせよ、小柄な皐月や子の日ですら斑駒(娘)より食欲旺盛なのだから、女性が少食で当たり前という認識は自分達艦娘には通用しないだろう。

「大体、幾ら食べても太ら無いなんて反則ですよ!」

斑駒(娘)が忌々しげに言うと皆から笑いが漏れる。

「正確にはそうだろうと言う事ですけどね。皆さんの代謝機能だけでなく、色々な事がまだ予想の域を出ませんから」

中嶋の相変わらず慎重な物言いに、加賀が頻りに頷く。

初めての外出は彼女にとって一つの転換点になった様で、今もちゃっかりと隣の席を確保しているなど、以前よりもかなり積極的に中嶋に近づいている様に見える。

「……楽しそうな加賀さん、初めて見ました……」

と霰がぼそっと教えてくれた位その時の様子は興味深いものだった様で、彼女らに当日の様子を根掘り葉掘り聞き出したらしい蒼龍と飛龍は、それを肴に加賀を弄りたくて仕方が無いらしい。

とは言えここではお客様でもあるので、余り砕け過ぎる話柄を持ち出し兼ねている様子だ。

 

(二人共そこはちゃんと弁えてるのね♪)

 

毎度冷やかされる側としては少々辟易するものの二人には陰湿さが無いので、皆が一緒に笑える程度であれば無暗に目くじらを立てる必要も無いだろう。

そう思いながら食卓を眺めていると、視界の片隅で妙高が食膳を片付けてすっと室外に姿を消すのが目に入る。

 

(あら?)

 

彼女は目立た無い様に注意していたらしく、陸奥以外には誰も気が付いた気配は無い。

 

(まぁおトイレかも知れないわね)

 

そう思って再び皆の方に目を戻し、会話に口を挟んだりしながら数分が過ぎたが妙高は戻って来ない。

 

(どうかしたのかしら……)

 

何がと言う訳では無いが、どこか引っ掛かるものがあって気になってしまう。

意を決してそっと立ち上がり、食膳を戻してそのまま自然に食堂を出様とすると、その間際に龍田が一瞬こちらを見てまたすぐに視線を戻す。

まるで陸奥の意図に気付いていながら、敢えて知らん顔をしようとしている風にも見える。

首を傾げながらもとにかく食堂を出てそのままデッキ迄出て見るが、そこに妙高の姿は無い。

 

(もし一人になりたかったとしたら――)

 

デッキを歩いて船尾に向かい、舷側から身を乗り出して覗いて見ると発着甲板では乗員達が何かしている様だ。

引き返してラッタルを昇ると、今朝方と同じ場所で警備官に出会う。

「あの、済みませんが誰か上がって行きませんでしたか?」

陸奥がそう問うと、彼はキビキビと応えてくれる。

「はい、お一方――お名前は分かりかねますが」

「有難うございます」

礼を言って上部デッキに上がってみると、そこにいたのはやはり妙高だった。

 

ゆっくり歩み寄って声を掛けながら横に並ぶ。

「お邪魔じゃないかしら?」

問われた彼女は視線を水平線に据えたまま、

「いえ、構いません――陸奥さんでしたら」

と、あからさまに含みのある返事をする。

「誰か来て欲しくない人がいるの?」

と聞いて見るが彼女は答え無い。

 

(あの場に居たく無い何かがあったのよね……)

 

とは言うもののすぐに思い当る節がある訳でも無く、一人々々の顔を思い浮かべて見る。

 

(あっ――)

 

食堂を出て来る直前の龍田の意味有り気な仕草、そして今朝の彼女の言葉――。

ひょっとして、彼女が言いたかったのは陸奥の事だけでは無かったのではないか。

「妙高ちゃん、貴方もしかして――」

「――別にもう良いんです。そもそも私、そんなに一途に誰かを想える様な性質じゃないですから――だからもう何とも思って無いんです」

 

(やっぱり……)

 

「妙高ちゃんごめんね。――あたしの所為だわ、貴方の気持ちも知らずにあんな事させて――」

「お願いですから謝らないで下さい。陸奥さんのこと爪の先程も恨んでませんし、私の事を頼りにして頂けるのが嬉しかったから協力したんです。――それに、その前に自分からはっきりそう言ってるんですから、陸奥さんが分から無くても当たり前です――そうなんですよ……」

 

彼女の横顔は、奇妙な位に平静そのものだった。

その言葉の通り、本当にもう何とも思っていないかの様に見えなくもない。

 

(でもそんな訳無いわよね)

 

本当に何とも思っていないのであれば、和気藹々としたあの場を抜け出してこんな風に一人になりに来る理由が、少なくとも陸奥には思い付かない。

「それでもあそこには居たく無かったのよね、何とも思って無いのに――。それとも、何か他に理由があるの?」

暫しの間沈黙が流れた後、妙高が口を開く。

 

「私は――」

 

それだけ言ってまた黙ってしまうが、逡巡している訳では無かった。

彼女は到底吐き出すことも出来ない様な何かを必死で体から外に押し出そうとして藻掻いており、その異形の言葉が妙高の口から出る事を拒んでいた。

 

「妙高ちゃん――無理しなくて良いわ、話せる様になったら――」

「いいえっ! 今――今言わなければ駄目ですっ! 駄目なんです――」

 

端正な顔を苦悶に歪めながら、彼女は言葉を絞り出す。

 

(何をそんなに苦しんでいるの?)

 

何時も落ち着いているが超然としている訳でも無く、皆と一緒に燥いだり笑ったりするが決して羽目を外したり目立ったりせず、隅々迄気配り出来るが必要以上に細か過ぎる訳でも無い、完璧と言っても差支え無い立居振舞の出来る妙高が一体何を苦しんでいるのか。

 

「――私には――あの場にいる資格など無いんです! 皆さんの仲間でいる資格など無いんです! だから――独りでいるべきなんです」

「何を言い出すの? 貴方はあたし達の仲間だわ⁉」

「いいえ違います! 仲間などではありません! ――本当の、本当の仲間なら、仲間なら――」

 

陸奥の目の前で彼女は一瞬悪鬼の如き邪悪な光を瞳に灯し、汚物を吐き出す様に言葉を吐き捨てる。

 

「――仲間の事を、あんながさつで無愛想で自尊心の塊の様な身勝手な女より、私の方がずっとあの方に相応しい等と思ったりしません!

そんな事を言えば相手が不愉快になる位、何故判ら無いのかと嘲ったりしません!

莫迦見たいな事で大喜び出来て、貴方は幸せで良いわねとか思ったりしません!

その程度の事で感情を剥き出しにして恥ずかしく無いのかと見下したりはしません!

皆のことを――大切な仲間のことを――貴方達の様に程度の低い連中に囲まれてるから、私の優れた点が更に際立つから有難いわ等と思ったりはしません!

なのに、なのに――私は何時も心の底で――思いやりのある友達面しながら、君子面しながら、舌を出してせせら笑ってるんです!

滑稽な人達ねと嘲笑してるんです――。

こんな、こんな性根の腐った奴吾れに、仲間でいる資格なぞ無いんです! 絶対に無いんです……」

 

妙高の横顔を陸奥は不思議な思いで見詰めていた。

 

彼女の瞳に浮かんだ寒気を催す様な光は消え去り、今は信じられ無い位透明で気高い輝きに置き換わっていた。

 

にも関わらず、その瞳からはまるで尽きる事の無い泉の様に、何時果てるとも知れず涙が零れては潮風に巻かれてはらはらと散っていく。

 

おそらく彼女は今日迄誰にも言わずに――いや言えずに――一人己の胸の中で自分自身の吐き気を催す様な思いと向き合い続けていたのだろう。

なのに、それこそ完璧とも思える人格を演じ続けていたのは彼女の矜持なのか、それとも彼女の想い人に相応しい自分であり続ける為だったのか。

 

(でも、加賀ちゃんの事で糸が切れちゃったのね……)

 

思えば初めて会ったあの日妙高が口にした事は、まだ見ぬ妹達と言うよりも自分自身の苦悩や戸惑いそのものだったのかも知れない。

 

「妙高ちゃんは、心の奥で思ってる事と自分の立ち居振る舞いが違うのは、とても許し難い事だと思ってるのね?」

「そんなの当たり前じゃないですか⁉ 『口に蜜有り、腹に剣有り』と言うのは褒め言葉でしょうか?」

彼女は横顔のまま静かに言い返す。

「あたしだって良い事だと思ってる訳じゃないわ。でもあたしも同じ様な事してるし、きっと皆も大なり小なりしてるんじゃないかって思っただけよ?」

「それ、慰めてらっしゃるんですか? 止めて下さい――陸奥さんは私が只一人尊敬出来る方だったのに、貴方迄そんな下らない事をなさるんですか?」

「あたしは元より下らない存在だわ。――妙高ちゃん、あたしが皆と初めて会った日のこと覚えてる? 昼食の時の事よ」

「もちろん覚えてます、高雄ちゃんたら渡来さんに興味津々で――正直扱いに困りました」

「うふふ、その高雄ちゃんの事をね、あたしは『何、仁に色目使ってる訳⁉』って思って睨み付けてたのよ? ついさっき抱き合って泣いてた仲間なのにね」

彼女の方を振り返ると、妙高は相変わらず涙を零しながらも少々意外そうな顔付きでこちらを見ていた。

だが陸奥と目が合うとすっと視線を逸らし、改めて水平線を見詰めながらやや感情的に言い返す。

「でも、それはそれだけの事じゃ無いんですか? 私は何時だってこんな鼻持ちならない事ばかり考えているんですよ? 程度が違い過ぎませんか?」

「どこ迄が許されてどこからが許され無いのか、妙高ちゃんがきっちり線引きしてるならそれで良いわ。でもあたしは実際に顔に出してたのよ? それに散々止めに入ってるんだから、赤城ちゃんと加賀ちゃんが結構お互いに非道い事言っちゃって喧嘩になるのも知ってるわよね? 心の中で思ってても言動に表さないのと、実際出ちゃってるのはどちらが許され無い事かしら?」

 

「――それは――」

 

何か言い返そうとした彼女だったが、また口を噤んでしまう。

「妙高ちゃんがね、皆を傷つける様な事ばかり言ったり意地悪ばかりしてるんだったら、確かに許せ無いと思うかも知れないわ。でも、心の底で非道い事思ってても、それは表に出さずに仲間を大切にしていたらそれってどっちが本当の妙高ちゃんなの? それとも、あたしの考え適当過ぎる?」

 

「――そうですよ――適当過ぎます! そんなに曖昧でいられたらこんなに苦労しませんよ⁉ そうじゃないですか――」

 

「そうよね――。心を持って生きるって、本当に厄介なものね。自分の心の筈なのにそれに振り回されてばっかりだわ♪ きっと皆そうよ、妙高ちゃんの言う通り程度の差はあるのかも知れないけど」

 

そのまま二人共黙ってしまい、暫し沈黙が流れた後で妙高が呟く。

「私はこれから、どんな顔をして皆に接すれば良いんでしょう」

「時々は厭味の一つも言ったらどう?」

「はぁ?」

「ずっと溜め込んでて苦しかったんでしょ? だったら、少しずつ吐き出したらどうかしら?」

「私に、あの人達と同じ振舞いをしろと仰るんですか?」

「そうよ、だって妙高ちゃんは同じ事をしてても心の中で『私は皆とは程度が違うわ!』って思えるんでしょ? だったら同じじゃ無いわよね?」

それを聞いた彼女は深い溜め息を一つ吐き、如何にも仕方無いといった風情で言い放つ。

「本当に気楽に言って下さるんですね、有難くて涙が出ます。まぁでも良く判りました、こんな高尚な事で悩んでいては陸の上では暮らして行けないってことですね。仕方無いので、もう暫くは皆さんの程度に合わせておく事に致します」

「うふふ、そうよそれで良いの♪ 序でだから加賀ちゃんにも少し位恩を売っておく?」

そう言うと、彼女は初めて微笑を浮かべて朗らかに応じる。

「それも良いですね、考えておきます♪」

 

(良かったわ)

 

「どう? もう皆の所に戻って普通にしていられそう?」

陸奥がそう問うと、

「はい、でも――その前に一つだけお願いを聞いて頂けますか?」

「良いわよ、どんな事?」

何気なくそう応じた途端、唐突に彼女がどんと体をぶつけて来る。

「ちょっ、ちょっと妙高ちゃん⁉」

さすがに予期していなかったので慌ててしまうが、既に彼女はひしとしがみ付いて肩口に顔を埋めており、そこに湯でも掛けられたかの様に熱い染みが拡がっていく。

 

肩を震わせ、息苦しくなる程必死でしがみ付きながら、妙高は声を殺して泣いていた。

 

(やっぱり平気な振りしてただけだったのね……)

 

陸奥も思わず涙が溢れて来てしまう。

「あらあら、本当にお莫迦さんね――こんなに苦しくなる迄独りで我慢して……」

そう言いながら、しっかりと彼女を抱き締める。

 

どれ位の間そうしていただろうか、そのまま暫く抱き締めていると、やがて妙高はそっと体を離す。

 

その顔は涙痕に塗れてはいたものの、落ち着いた何時もの表情に戻っていた。

 

「済みません陸奥さん――有難うございました。こんな風に誰かに抱き締めて貰うの初めてです――。私からこんな事しなければ出来ませんし、私――しませんから」

「そう――あたしで良かったのかしら?」

そう聞き返すと、彼女はすっきりとした顔に笑みを浮かべるが、その表情とは裏腹に怖ろしい事を平然と口にする。

「はい、これでもうけじめを付けられそうです。まぁ、加賀さんにはこれから色々と意地悪させて貰いますけど」

「く、くれぐれも程々にして頂戴ね?」

「はい♪」

 

妙高が顔を拭いながら明るく返事をしたその時、ラッタルを上る足音が聞こえて来る。

二人がそちらを振り返ると、そこから顔を出したのは案の定龍田だった。

「あら~もうそろそろお呼びしても大丈夫ですよね~♪」

「本当に厭ぁね龍田ちゃんたら――まんまとしてやられたわ」

「陸奥さん、どういう事ですか?」

「どうもこうも無いわ⁉ 龍田ちゃんたら、妙高ちゃんの事知っててわざとあたしに探しに行かせたのよ」

「うふふぅ~済みませーん、でもぉまさか私って訳にも行きませんしー、他にちゃんと受け止められそうな方もいませんから~」

「言ってくれるわね全く――妙高ちゃんもどう思う?」

「特に意外じゃありません。私、龍田さんはきっと腹黒いに違い無いと思ってましたから」

「あら~光栄ですぅ。でもぉ、妙高さん程じゃありませんけどねぇ~♪」

「まぁ、お褒めに与って勿体無い限りだわ、これからは少しでも貴方に近付ける様に精進するわね」

「うふふぅ、私も妙高さんにはまだまだ及びませんけど~よろしくお願いしますねー♪」

「うふふふふふふふふふっ」

「うふふふふふふふふふっ」

 

(何これ、怖い……)

 

「あ、あたし、先に戻ってて良いかしら?」

「あら~そんな冷たいこと言っちゃ厭ですぅ♪」

「そうですよ、陸奥さんは清濁併せ呑む器量をお持ちです」

「いや、濁って――何だか素直に喜べないんだけど……。――あぁもう良いわ! 言っとくけど、二人共これから精々働いて貰うから覚悟しといて頂戴ね⁉」

「は~い」

「喜んで!」

 

(本当に信じていいのかしら?)

 

一抹の不安を抱きながらも、陸奥は少しだけ肩の荷を下ろせた様に感じていた。

 



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〔第九章・第四節〕

 船足を微妙に調整しながらも『おおやしま』はビキニ環礁に向かって航行を続けていた。

今時は気象衛星から太平洋を丸ごと撮影した画像を受け取れるらしく、付近で低気圧の卵とでも言うべきものが発生しており、近々環礁を通過しそうだという事も判るらしい。

防衛隊が大変な注意を払っている米軍の光学衛星がどれ程の実力なのか判ら無いが、とにかく晴天の下では自分達を海上に出したく無いとの事だった。

「そんな事情もあってこれを試して見たいのです」

そう言って中嶋が指し示したのは手摺が付いた水槽の様な物で、上には天幕とでも言うべきものが張られていた。

 

(昨日後甲板で何かしてたのはこれだったのね)

 

「つまりその――海面に降り立つこと無くかつ上空からも見られずに、我等艦娘の能力を発揮させる為の仕掛けと言うことでしょうか?」

赤城が言わずもがなの事を再確認するかの様に言うと、中嶋もあっさりと認める。

「仕掛けと言う程立派なものではありませんが、まぁそう言う目的の物です」

水槽からはホースが二本伸びており、その先は海中に迄届いていて一本が汲み上げ、一本が排水用になっている様だ。

水槽内では水中ポンプが動いており、常時海水を供給し続けている。

「一応これで海とは繋がってる態なんですね」

ポンプから吐き出される海水ともう一本のホースからそれが流れ出している様子を見比べながら、加賀が誰言うともなく呟く。

「例え繋がっていなくても皆さんが一定程度能力を発揮出来ることは明らかですが、やはり最大限に発揮出来るのに越した事はありませんから」

斑駒(娘)の説明は明快だが、自信満々と言う訳では無さそうだった。

「善は急げです副長殿、早速試して見ましょう!」

赤城が今すぐ自分で試したがっているのはありありと判ったが、目的を慮るならば順序があると思い陸奥は声を上げる。

「赤城ちゃんがやって見たいのは判るけど、まずはこの仕掛けの恩恵を一番受けそうな娘が良いと思うわ。どうかしら?」

仲間達の顔を見回すと頷いている者がほとんどで、それを見た赤城も少々残念そうな顔をして口を噤む。

 

(本当に子供見たいね♪)

 

思わず微笑した陸奥が続けて口を開こうとすると、一瞬早く声を上げる者がいる。

「あの――」

その瞬間全員の眼差しがそちらに注がれた為、声を上げた当人である瑞穂は頬を赤らめて俯いてしまうが、それでも改めて顔を上げて控え目ながらもはっきりと意見を口にした。

「出航前にも申しました通り、皆さんの艦隊行動の足を一番引っ張りそうなのは私だと思います。ですから、お差支え無ければ私が試させて頂きたいのですが如何でしょう?」

「有難う瑞穂ちゃん。足を引っ張るなんて思わ無いけど、仕掛けを一番活用してくれそうだとはあたしも思うわ。皆も良いわね?」

異論を唱える者は特にいなかったので早速全員で水槽を取り囲み、裾を捲って履物を脱ぐ瑞穂を固唾を呑んで見守る。

「皆さん宜しいでしょうか――? それでは参ります」

素足で水面にすっと一足踏み出した瑞穂の雰囲気が一変し、力に満ち溢れたその姿は仄かな燐光を帯びる。

「どう、瑞穂ちゃん?」

陸奥の問い掛けに、一段と深みの増した声音で彼女は応える。

「はい、海上にいる時との差異は特に感じられません。高角砲も――」

 

そう言った瑞穂は優雅に腕を伸ばして、それを左右にゆっくりと振りかざす。

「間違い無く追従しておりますし操作感も鈍くありません。さすがに今発砲する訳には参りませんね?」

これには中嶋が応えて、

「ええ、取り敢えず射撃は止めておきましょう。航空索敵を試して見て頂けませんか?」

と促す。

「了解致しました、では――」

彼女の視線が突然周囲の者や仲間達を突き抜けて、遥かな虚空を見詰める。

「本船が見えております――。これより進行方向へと索敵範囲を拡げて参ります」

瑞穂の告げる声がまるで神の託宣の様で、この様な光景を初めて見る斑駒(父)ら警備官達は畏敬の念に打たれた如く身じろぎ一つしない。

「まだかなり遠いですが、十一時方向に島影が見えます。綺麗な三角形をしておりますので、おそらく南鳥島ではないかと思われます」

その神託を聞いた警備官が手にした無線で何事か確認しているが、やがて通話を終えて斑駒(父)と目を合わせるとかぶりを振って見せた。

それを見やった加賀が、

「本船の索敵範囲は概ねどの程度でしょうか?」

と問い掛けると斑駒(父)が答える。

「半径十六から十七浬ですね」

「瑞穂さん、その範囲はどう?」

加賀が瑞穂に向かって声を掛けたところ、彼女は相変わらず虚空を見詰めたままで応じる。

「少なくともその範囲には船影も機影も雲影も島嶼も何も見えませんでした。現在索敵しておりますのはそれよりもかなり遠方になりますが――」

 

これを聞いた斑駒(父)は苦笑しながら口を開く。

「いや恐れ入りました。確かに南鳥島には違い無いでしょうが、本船からは五十浬以上の距離にある筈です。瑞穂さんは既に我々が直接確認出来る範囲を遥かに超えた先を見ておられるのですね。いやそれにしても――皆さん聞きしに勝る異能をお持ちだ」

この言葉が全員に沁みた後で、瑞穂が相変わらず宙を見詰めながら問いを発した。

「どう致しましょう、このまま索敵を継続致しますか?」

「いえもう十分でしょう、出来れば他の皆さんにも感覚を確かめて頂きたいですし」

と中嶋が応じると彼女は軽く頷いて目を瞑り、数秒と経たずに再び目を開ける。

瞳の焦点が戻った瑞穂は、陸奥に顔を向けると目許を綻ばせた。

「先程陸奥さんが仰られた通りに考えますと、次は蒼龍さんと飛龍さんと言う処でしょうか?」

「そうね、それじゃ二人共瑞穂ちゃんと――」

「はーい」

「はーい♪」

陸奥にみな迄言わせずに、二人はさっさと支度を始める。

 

こうして結局全員がこの新しい仕掛けを試したが、艦娘達の能力をほぼ全て発揮出来そうだと言う事は確認出来た。

只残念なことに、駆逐艦達による聴音器や探信儀を使っての水中索敵は上手く行かなかった。

「さすがにそれは無理でしたか」

と中嶋もやや残念そうだ。

 

(でも、船上から航空索敵出来たり砲撃も出来ちゃったりするのは随分便利よね)

 

そう思っていると加賀も同じ様に思ったらしく、中嶋に向かって口を開き掛ける。

が、正にその僅かな間を捉えて一瞬早く妙高が割って入る。

「でも、先んじて航空索敵しながら環礁に接近出来ると言うのは、戦術的に見ても大変有利なのではありませんか? それに長門さんが砲撃して来ないと言う前提ではありますが、陸奥さんの主砲の様な射程の長い火器で敵の射程外から砲撃を加える事も不可能では無い訳ですから、非常に有用なのではないかと感じますね」

そう極めて自然に言ってのけると、副長の顔を見ながら完璧な微笑を浮かべて見せる。

「いや全くその通りです。さすがは妙高さんですね、それが検証出来ただけでも本船の皆さんにご協力頂いてこれを設営した価値が十分にあったと思っています」

彼がそう言いながら妙高に向かって笑い掛けるのを横目に見て、加賀は如何にもがっかりした様な顔をしていた。

 

(ま、まぁこの程度なら許せる範囲かしら――。それにしてもハラハラさせられるわ……)

 

「もし進路の索敵を実行するのでしたら、私志願致します。さすがに四六時中とは参りませんが、低空索敵による対潜哨戒でもお役に立てると思います」

瑞穂の発言は良くタイミングが計られており、余り才気を閃かせない彼女だが実は相当細やかな気配りが出来るのではないだろうか。

「副長殿是非そう致しましょう! 我等航空戦隊共々交代で進路の索敵に当たるべきと思いますが?」

赤城が上手く水を向けてくれたので、陸奥も口火を切り易くなる。

「副長、もし宜しければその段取りと環礁に接近した際の具体的な行動に付いて詰めておきたいと思いますがよろしいですか?」

「そうですね陸奥さん。しかしあくまでも最終の判断に付きましては――」

「副長にお任せをしております、そうですよね?」

陸奥が後を受けて続けると、中嶋も笑みを浮かべてその場を纏める。

「有難うございます。それでは皆さん休憩の後再び打合せと致します。斑駒船長、皆さん、ご協力有難うございました」

と言って動き始めたので、内心胸を撫で下ろした陸奥も一緒に歩き始めると、さり気無く近づいて来た初春が幾らか小さな声で話し掛けて来る。

「陸奥殿も気苦労が絶えませぬの♪」

「初春ちゃんも、気なる事があったらちゃんと教えて頂戴ね?」

「ほほ、心得ておりまするぞ」

 

(頼りにしてるわよ、本当に……)

 

帰途に付く迄は、ゆっくり悩んでいる暇など到底無さそうだった。

 



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〔第九章・第五節〕

 翌日から、瑞穂と蒼龍・飛龍・赤城・加賀らが交替で進路の索敵を行うことになった。

まだ早過ぎると言えばそれ迄だが、敵に空母がいる事も考えれば相手に先んじておく事も重要との認識で全員が一致したのだ。

とは言え明日の払暁には一〇〇浬以内に迄接近する予定なので、明るい内に進路を警戒出来るのは今日だけともいえた。

 

「相手も同じ様に警戒してますかね~?」

飛龍が足をぶらぶらさせながら陸奥の方を見て声を上げる。

昨日は水槽の上だけだったが、今日はそれに加えて張り出し屋根の様な天幕も張って貰ったので、仲間達は全員椅子を持ち出して水槽の周りに集まっていた。

「こちらの様に組織だった行動を取ってるとは考え難いわねぇ。それに、姉さんや酒匂さんも混じってる訳だから尚更難しいんじゃないかしら?」

「そうなると、あく迄もサラトガが単艦で警戒しているか、それを物理的に近くに居る米艦に直接伝える程度、と言うのが有り得る処ですかね」

陸奥の言葉を受けて赤城が推測を纏めて見せる。

「サラトガですか――私、少なくとも一糸報いてやる積もりです」

高雄が拳を握り締めてきっぱりとした口調で決意を述べると、長良も同調する。

「そうですよね! ラバウルでは随分酷い目に合わせてくれましたからね」

「二人共、意趣返しにばかり感けて逆に竹箆返しを喰らう様な体たらくだけは駄目よ?」

と加賀が釘を刺したので陸奥は思わず身構えてしまうが、妙高は水槽を挟んだ反対側で霰や皐月らと何やらお喋りをしており、今回は無反応だった。

「それより~潜水艦が居るんですよねー。どっちかって言うと、そいつをこてんぱんに叩きのめしたくないですか~?」

龍田の瞳から尋常ではない邪気が溢れ出しているのは、やはり恨み骨髄と言う奴なのだろうか?

「そんなの言う迄もありませんよ先輩! 昔は騙し討ちにあって不覚を取りましたけど、今度は最初っから居るのが分かってるんですから一切手加減しませんよ⁉」

「そうだよ、絶対返り討ちにしてやるんだから! ねぇ長良ちゃん⁉」

「だからぁ! 子の日は何回言ったら分かるの? 『長良さん』でしょ⁉」

「ほほほ子の日や、長良殿が笑って許して下さる内にしておくのじゃぞ♪」

「だから許して無いし笑っても無いってば! 初春もどこ見てるのよ⁉」

「おおこれはしたり、妾としたことが不覚でござりましたの」

「むぅ~何っか馬鹿にされてる気がするんだけどぉ――」

口を尖らせた長良の顔は何とも言えない味があり、思わず仲間達から笑いが零れる。

「でも、潜水艦ってどんな風なんでしょうか? 雷撃してくる時に海面上に顔も出さないんでしたら結構手強いですよね」

「そうよね、もし高雄ちゃんの言う通りだったらあたし達には為す術も無いわね。そうなったら貴方達だけが頼りよ?」

陸奥がそう言って長良や駆逐艦達の顔を見遣ると、今迄妙高と喋っていた皐月がたんっと立ち上がって拳を突き上げて気勢を上げる。

「任せといてよ! ボクがみんなを守ってあげるからね!」

「そうです! アタシ達がいる限り、潜水艦如きには絶対手出しさせません!」

と朧も同調するが、皐月の袖を引っ張った霰が冷静に突っ込む。

「……潜水艦、舐めちゃダメ。皐月ちゃんも朧ちゃんも飛行機さえ居なきゃ怖いもの無し、って思ってるでしょ……」

「そうよねぇ~、航空攻撃出来ないってのが凄く歯痒いんですよぉ――何でなんでしょうねぇ?」

水槽の上で宙を見詰めながら蒼龍が口を挟むが、その言葉に空母達と瑞穂が激しく同意する。

だが、その点ばかりは誰にも答え様が無かった。

航空偵察は何の苦も無く出来るのだが、何故か肝心の攻撃が出来ないのだ。しかも、他の艦娘からはもちろん空母からも艦載機の姿が見える訳では無いし、複数の艦載機を飛ばせる筈の彼女達が何故か一度に一方向の偵察しか出来ないなど判ら無い事が多い。

「まぁでも、裏を返せばあたし達も航空攻撃を心配しなくて済む訳だから、吉凶相半ばってとこじゃないかしら?」

「陸奥さんの仰る通りだとは思いますが――それでも、やはり残念ですね」

赤城は昔日の航空戦隊の活躍を思い出しているのか、遠くを見る様な瞳で呟く。

「赤城さんは忘れてしまったのかも知れないけれど、私はあの悪夢が二度と繰り返さないと思うだけでとても気が楽になるわ。陸奥さんは相半ばと仰ったけど、私にとっては吉そのものです」

加賀のとても正直な感想を聞いた飛龍が、指の腹でそっと眼尻を拭う。

辛く悲しい記憶を胸の奥に抱えているのは皆同じなのだ。

そしてどれ程の年月になるのか見当も付かないが、それと向き合って行かなくてはならない。

 

(あたしは幸せなのかしら……)

 

少なくとも自分には、この辛い記憶を我が事の様に案じてくれるだけでなく、陸奥がそれから解放される為になら自ら犠牲を払うことさえ厭わ無いと言ってくれる仁がいる。

そして彼の願いは、間もなく現実の物となるかも知れないのだ。

 

(この機会を見送ったりしたら、さすがに皆に申し訳無いわよね……)

 

とは思ったものの、それで自分の中の迷いがすっきり消えてくれる程簡単な話しでは無かった。

 

「そうなりますと、やはり最も警戒すべきは潜水艦と言う事でしょうか。しかしながら、現実に環礁の内外で接敵する際は皆さんは概ね最大戦速で行動する訳ですよね? 潜水艦ではそれを追尾するのは不可能なのではありませんか? その――私を除いてと言うことですが」

幾ら瑞穂の船足が遅いと言っても、潜水艦が浮上航行でもしない限りは追い付かれたりしないだろう。

「そう云う事ことになると思うわ。先回りして密かに待ち伏せ出来なければ、その娘の雷撃もまぐれ当たりを期待するしか無い筈よね?」

そう言う陸奥に対して皆頷いて同意を示すが、妙高だけは考え込む様な顔付きで意見を述べる。

「私達について言えば陸奥さんの言われる通りで間違い無いものと思います。ですが、敵も直ぐにその不利には気付くのでは無いでしょうか?」

「そうであれば、少しでも我々を待ち伏せ出来そうな機会を狙って来るという事ですよね? 環礁の水路を抜ける時などは要警戒と言うことですか?」

「高雄さんの言われる通りだと思います。水路を抜ける時はアタシ達が露払いしながら進入しましょう!」

朧がそう言うと、瑞穂も頷きながら補足してくれる。

「その為には、やはり敵の行動を事前にかつ正確に把握しておかなければなりませんね。密かに環礁の外に出て待ち伏せされたりしたら大変危険ですよね」

が、その時もっと危険な事態が有り得ることに陸奥は気が付いてしまう。

考えを纏めて口に出そうとするが、僅かに早く龍田が相変わらず酷く陰険そうな目付きをしながら口を開く。

「うふふぅ~奴ら見たいな悪辣な輩は、もっと嫌らしい事を考え付くに決まってますよぉ~? すばしこく動き回る私達を追い掛けるより、もっと狙い易い的を探す筈ですよね~」

「龍田さん、どういう意味ですか? 我ら以外に潜水艦の標的になり易い何かがあると言う事ですか?」

赤城はまだピンと来ていないらしい。

だが仲間達の内幾人かは判ってしまった様で、その中から真っ先に飛龍が声を上げる。

「待って下さいよ! それってまさかその、敵が狙って来るのは――」

「つまり、本船だと言うことですね」

 

全員の背後から響いたその声に、艦娘達は一斉にそちらを振り返る。

そこには何時の間にか、どうやら彼女達に飲み物を持って来てくれたらしいペットボトルを抱えた娘を従えて斑駒(父)が立っていた。

 



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〔第九章・第六節〕

 その夜、中嶋と斑駒父娘を交えた打合せが改めて行われた。

それは実質的な『作戦会議』なのだが、そう言ってしまうと中嶋の立場が無くなってしまうので、艦娘達は彼の前ではうっかりそう呼んでしまわ無い様に注意を払っていた。

 

「副長には苦渋の決断を迫る事になってしまいますが、艦娘の皆さん方の懸念は至極順当なものだと言わざるを得ません」

斑駒(父)の言葉に仲間達と斑駒(娘)がうんうんと頷き、場の空気は状況に関らず艦娘達の出撃容認の方向なのだが、中嶋の驚くべき応えに室内は一瞬で凍り付いてしまう。

「いえ、ご懸念には及びません。明朝の時点で本船に危険が及ぶ懸念が無いと判断されない限り、環礁への接近を断念して船上からの航空偵察による状況見分のみに止めたいと思いますので」

さすがに陸奥も咄嗟には彼が何を言っているのか理解出来なかったが、頭の中で言葉を反芻する内徐々にその心中が判り始める。

 

(つまりあたし達も『おおやしま』も、ご自身の責任において絶対に危険には晒さ無い積もりなのね。例えその事で自分が憎まれ役になるとしても)

 

それが理解出来た瞬間、無意識にだったが大きな溜め息を吐いてしまう。

「はぁーっ……」

 

(しまった、やっちゃったわ⁉)

 

だがもう遅かった。

陸奥が溜め息を吐くのを聞いた途端仲間達の空気が一斉に変わり、複数の者が同時に喋り始める。

「そんなの非道いです! 折角ここ迄来ておきながら、長門さんと酒匂さんを見捨てて帰るなんてあんまりです!」

「危険危険って、そんなにボクらは頼りになら無いって言うの⁉ 潜水艦とどうやって戦うか位はちゃんと判ってるよ⁉」

「たった一隻の潜水艦に私達が手も足も出ないと言われてる見たいです! 到底納得出来ません!」

「ちょっと待って! 皆少し落ち着いて頂戴⁉」

慌てて陸奥が割って入るとさすがに皆直ぐに口を閉じて従ってくれるが、只我慢してくれたに過ぎない。

口火を切ろうかと思っていると赤城が視線を合わせて来るので、軽く目で頷いて肯う。

口元に軽く笑みを浮かべた赤城は中嶋に向き直り、落ち着いた口調で意見を述べる。

 

「副長殿のお考えは良く理解出来ますし、安全を第一義とされている事も納得している積もりです。しかしながら、危険があるから断念する撤退するとの事であれば航海初日の議論に立ち戻ってしまうと感じております。本船の安全を確保するのであれば、我らが潜水艦の行動圏外から出撃する事も考えられるのではありませんか? 最も安全な策では無いかも知れませんが、可能な限り安全に接近・出撃すると言う主旨でご再考願えませんでしょうか?」

 

少し安堵した陸奥も彼がどの様な回答を表明するのか待ち受けるが、その意思を曲げさせることは簡単では無かった。

 

「数十浬手前から皆さんを海上に下ろしてしまえば、それだけ皆さんの危険と他国に対する暴露リスクが高まるだけで何ら解決になっていません。現状では、やはり環礁に接近しないのが最も合理的だと考えます」

 

中嶋は、本人もそう意識しているのだろうがあく迄冷静である。

だがその冷静さが逆に冷たく聞こえ、場の空気を更に悪化させてしまっている様だ。

「仕方無いですよねーやっぱり安全が一番ですし~。それにぃ、最終判断は副長にお任せするって皆で納得した訳ですから~陸奥さんを嘘吐きにしてしまう事は出来ませんしねー。安全に過ごさせて頂けるんですからぁ~ご決定に従うのが当然ですよねぇ~」

龍田の言葉にはかなり棘があり、室内の雰囲気は更に冷え込んでしまう。

「龍田ちゃん、そんな言い方するもんじゃないわ?」

「でもぉ~――」

「いえ、龍田さんは寧ろ気遣った言い方をした位です」

 

彼女の言葉を遮ってきっぱりと言い切ったのは妙高だった。

「私達にとって仲間と再会することは、どんな危険と引き換えにしても価値のあるものです。それに自らの落ち度では無く、人間達の愚かな振舞いの所為で七十年もの間海底に放置されていたその屈辱に対して、例え僅かでも一矢を報いる事が出来るかも知れないと言う思いもあります。それらを一顧だにせず『安全を図る為』と言えば聞こえは良いですが、要は防衛隊や政府が過激な事をして欲しく無いだけなのではありませんか? それに――」

「妙高ちゃんもうそれ位にして頂戴! それじゃ副長のお立場が無いわ⁉」

「お立場の事は良く理解しております、それを守る為に汲々としておられる様に見えましたので」

 

妙高の言葉は、あたかも鋭利な氷の矢の如くその場にいる全員の胸に突き刺さる。

 

(妙高ちゃん、何故そこ迄――)

 

一瞬そう思い掛けたものの、何故と問うのは愚問だったかも知れない。

これ程激越な言葉を弄して迄も彼女がしなければなら無かった事とは、恐らく中嶋への訣別なのだろう。

自らの想いを断ち切る為に、どうしても必要な事だったのだろうか。

とは言え陸奥がそれを慮っている余裕は無かった。

突然がたんっと音を立てて加賀が立ち上がると、ツカツカと妙高に歩み寄り低く感情を圧し殺した声で告げる。

 

「一緒に来てくれるかしら?」

 

「はい」

 

妙高もまた無感情な声で応じるとすっと立ち上がり、既に背を向けて扉に向かっていた加賀の後を追う。

一瞬どうし様かと逡巡したその間に、高雄が立ち上がりつつ声を上げる。

「妙高さん! 加賀さんも待って下さい!」

言いながら二人を追い掛け様とするが、入り口近くに座っていた初春がさっと手にした扇を翳しながら声を掛ける。

「高雄殿、ここはお二人にお任せ致しましょうぞ⁉」

「でも――」

「余人に聞かせとう無いこともありますぞえ」

「――」

 

戸惑いを隠せない様子で彼女はこちらを振り返るが、それに応える様に瑞穂が口を開く。

 

「高雄さん、初春さんの仰る通りだと思いますわ。ご当人同士でなければ出来ないお話の様に私も感じます」

彼女の落ち着いた声が幾らかその場の昂った空気を和らげてくれる。

高雄はまだ困惑を隠せ無い様子ながらも、何とか己の感情をぐっと押さえ付けるかの様にして自分の席に引き返す。

それはそれとして、そろそろ限界なのではと陸奥は思い始めた。

この刺々しい空気の中にいると冷静さが失われるだけで無く、最悪の場合仲間同士の信頼にもひびが入りかねない。

「済みません、一旦休憩とさせて頂きたいのですが宜しいですか?」

意を決した陸奥が口を開くと、当の中嶋もややほっとした様な表情になって即断する。

「そうですね、皆さんには一旦就寝の準備などして頂いた上で再度集まって頂きましょうか」

「有難うございます。それじゃ皆休憩にしましょ⁉」

 

陸奥の言葉で仲間達は一斉に立ち上がり、一礼しながら退室していく。

陸奥も後を追い掛け様と腰を浮かせ掛けると、斑駒(父)が声を掛けて来る。

「陸奥さん、三分だけお時間を頂けませんか?」

「はい、どの様な事でしょうか?」

「本官は皆さんのご決定に異議を唱えたりする立場にはありませんが、甚だ老婆心ながら本船を預かる者として副長にお話ししておきたい事がありまして、出来れば貴方にも一緒に聞いて頂きたいのです」

「判りました、承ります」

「天音、お前は外しなさい」

「厭よ、私も聞きます!」

斑駒(父)は呆れた様な顔をした後で陸奥と中嶋に向き直って苦笑する。

「全くもって、こんな跳ねっ返りに育ってしまいましてお恥ずかしい限りです。こんな娘が果たして皆さんのお役に立てているのやら」

「天音さんは、私達にとって現代日本と言うか人間社会との接点そのものですし、私達艦娘の大切な仲間ですわ」

 

深く考えること無くごく自然に陸奥がそう答えると、斑駒(父)は初めて見せる温和な笑みを浮かべて頭を下げる。

「有難うございます。しかも心からそう思って頂いているご様子、父親として深く感謝致します。さて、お話と言うのは他でもありません。先程来副長の仰っておられる事は、ある一面に於いて誠に正しい事だと本官も思います。但しそれは、未来に於いては兎も角現時点に於いて我が国の国益を斟酌した場合、と言う条件付きです。もっとも、こんな事は既に陸奥さんのお仲間の方が大変辛辣な言葉で指摘なさっていたことですが」

 

そう言って笑みを浮かべて見せた船長は、そのまま言葉を続ける。

 

「そして、その様な判断を下す事でご自身が悪者になること迄覚悟した上で仰っておられる。大変立派なことですし、並みの者に出来ることとは思えません。しかしながら、とても重要なことを見過ごしておられる様にお見受けします。副長が防衛隊の一士官であり艦娘の皆さんの一世話係であるならばそれで宜しいのかも知れませんが、今や貴方は陸奥さんを始めとする艦娘の皆さんにとって実質的な上官である事を認識なさっておられない様です。決して一般的な真理では無いかも知れませんが、本官の経験して来ました限りでは、人の上に立つ時に最も大切なことは部下を危険に晒さないことでは無く、部下を信頼し部下から信頼されることです。今の貴方はそのどちらも喪おうとしておられる様に思えてなりません。傍目に見て非常に危うく感じられましたので愚見を申し上げた次第です。ご賢察頂ければ幸いです」

 

そこ迄流れる様に話した斑駒(父)は改めて陸奥を見て微笑を浮かべる。

「陸奥さん、お時間を取らせてしまいました。これからもこの愚かな娘をお導き下さい、愚かな父としてお願い致します」

そう言って深々と頭を下げた後でさっと立ち上がる。

「さあ一旦出なさい天音! それではまた後程」

中嶋に一礼した彼は、何事か言いた気に膨れた娘を従えてこれまた流れる様に素早く室外に消える。

 

(あたしも長居は無用ね)

 

そう思った陸奥も、

「では副長、後ほど」

とだけ言って席を立つ。

 

出際にちらと振り返ると、中嶋は腕組みをしてじっと机を見詰めていた。

 



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〔第九章・第七節〕

 真っ暗な夜の海はそれだけで恐怖を呼び起こすものだったし、深海の暗黒を知る者にとってそれは二度と戻りたく無い残酷な運命そのものとも言えた。

 

それでもなおその上を覆い尽くす降る様な星空は、その光景を人の目と心で見詰める二人を暫し絶句させるには十分過ぎる位だった。

 

「妙高さん――」

 

先に口を開いたのは加賀だったが、最前とは余りにも違うその声の調子に妙高は面喰ってしまう。

 

「何でしょうか?」

 

もっと冷たく突き放す様な返事をしてやろうと思っていたのに、つい普通に応答してしまった。

 

「私、ひょっとして貴方に謝らなければならないのかしら」

 

思わず奥歯を噛み締めてしまう。

加賀は妙高の気持ちに気付いたのか、それとも実は以前から気付いていたのか。

 

「加賀さんは私に何か非道い事でもなさったのですか? 思い当る節が無いのですが」

辛うじて平静を装った妙高の応えを加賀は深く追及しようとはせず、そのまま話を続ける。

「貴方に覚えが無いと言うのならそれで良いけれど、でもそれを横に置いたとしてもやはり謝らなければならないわ。陸奥さんが初めて来て下さった日の事を、覚えていて?」

「ええ、良く覚えています。その折の捜索に協力するしないの話しでしょうか?」

「ええそうよ、では前置きは不要ね。――あの時私は皆の前で偉そうに、引け目を感じて口を噤めば帝国海軍の轍を踏むだけだ何て大見得切っておきながら、こんな大事な局面で自分がそれをやってしまうだなんて無様にも程があるって言うものね、情けない限りだわ」

 

「……」

 

「妙高さん、貴方の心根が勁いからなのか、それともあの様な言い方をしなければ耐えられなかったのかは判らないけれど、でも私はそれを口に出す事も出来なかった――口惜しいけど、貴方にそれを思い知らされたの。だから謝るのでは無くて礼を言うべきなのかも知れないわね、本当に有難う」

 

彼女は淡々と――妙高には到底出来ない様な卒直さで――話し終えると、そのまま黙ってしまう。

そして、その沈黙が自分に対する大変な圧力である事にも気付かされる。

加賀は飾りの一つもない素の言葉を、しかも妙高が彼女との間に掘った溝を易々と飛び越えて直にぶつけて来た。

それはまるで『貴方にこんな事が出来て?』と挑発しているかの様にも見える。

そんな事を考えていると、何かしら無性に腹が立って来る。

もちろん加賀にでは無く自分自身であったり、悉く自分の思い通りにならない現実であったり、昔も今も一体何に義理立てしているのか判らぬ不自由な男達にであったり、それら全てに対してであったりするが、その腹立ちをどうにかする為には、詰まる処何かを吐き出さなければどうにもなら無いらしい。

 

「はぁっ! 全く、加賀さんには興醒めしてしまいましたわ⁉」

「どう言う意味かしら?」

「そんな風に妙にしおらしい事を仰るものですから、これからたっぷり嫌がらせしてやろうと思っておりましたのに、何だかすっかりやる気が失せてしまったと申し上げてるんです」

「あら、それは随分と有り難いお話ね。でもそんなに遠慮する必要は無くてよ?」

「まぁ、今度はまた大層強がりを仰るんですね、迂闊な事を言ってしまわれて後から引っ込みが付か無くなっても知りませんよ?」

「貴方こそ大言壮語が過ぎるのでは無くて? これでも私は主力艦です、たかが随伴艦の分際で身の程を弁えるべきだわ」

「まだ鉄の塊だった頃が忘れられ無いんですね、そんな事だから、ちょっと殿方に心奪われた位で言うべきことも言え無くなってしまうのではありませんか?」

「貴方如きに言われる筋合いなぞ無いわ。そもそも殿方は素直な女を喜ぶものよ? 貴方の様な腹黒い捻くれ者では最初から勝ち目が無かったから、尻尾を巻いて逃げ出したのでは無くて⁉」

「素直だなんて、物は言い様ですわね。気配りの欠片も無いガサツで不躾な物言いしか出来ない女を、素直だと喜んで下さる奇特な殿方がいらっしゃるだなんて――夢でも見ておられるんですか?」

 

「――そうね、夢かも知れないわ――冷たい暗黒の中で、懐に亡骸を抱いたまま横たわっていた時には見る事すら叶わなかった夢ね。でも、もしかしたら今こうして女の姿となって星空を眺めながら、口の減らない巡洋艦女と罵詈の応酬をしているのも、ひょっとしたら鉄の塊が見ている夢なのかも知れないわね……」

 

「違います、加賀さん! 絶対に違います!」

 

思わずむきになって叫んでしまっている自分を、妙高は不思議に感じていた。

 

「これは紛れもない現実です! 加賀さんも私も皆も、暗く冷たい海底に打ち捨てられた鉄の塊ではありません。その事を片時も忘れは致しませんが、でも今はこの身と心とが私達の現実なんです! 神様は私達に一体何を為させ様としておられるのか、それは杳として判りませんが――」

 

言っている内に早くも自分が何故むきになっているのか判ら無くなってしまい、最後は龍頭蛇尾に終わってしまう。

にも関わらず、それを聞いた加賀は薄暗がりの中で微かに笑みを浮かべる。

 

「有難う、良く判っているわ。どこの誰なのか判らないけど、そして私達に何をさせ様としているのかはもっと判らないけれど、この様な姿になった事に必ず何か意味がある筈ね。でも、その意味を与えられるのと自分達でそれを見つけ出して行くのとは、鏡の裏表程に違う事だわ」

 

妙高が同じことを誰かに言うとしたらもっと勿体を付ける処だが、彼女は相変わらず淡々とした調子のままだ。

もう少し付け加えるなら、恐らく加賀はその事で誰が喜ぼうが悲しもうが(更には憎まれ様が)、委細構わず同じことを同じ調子で言うのだろう。

その無神経さを軽蔑し続けて来た妙高が、自分よりも優れていると認めて来たのはこれ迄のところ陸奥だけだった。

彼女は、妙高があれこれ考えて言い繕ったり演技して見たりするのと同じ事を全く意識すること無く遣って退ける。

もたらす結果が同じでも陸奥には作った様なあざとさが無く腹が立つ程自然なので、それを目の当たりにする度に彼女にだけは敵わないと思い続けて来た。

だがこうして改めて加賀と相対して見ると、彼女にも自分が及ばない点がある事に気付かされてしまう。

加賀は単に物言いが失礼な訳では無く、言っている事が余りにも正鵠を得ているが為に言われた側の逃げ道を塞いでしまうのだった。

とは言え、それは逃げ出そうと思っている者には腹立たしい事かも知れないが、そんなことを考え無い仲間達の間では殆ど問題にならない。

 

(それじゃ結局、私だけが何時でも逃げを打てる様に考えているからと言うことなの?)

 

そんな事――と思わないでは無いが、加賀はそれのみならず、しばしば皆より遥かに先を見通した様なことも何の衒いも無く口にする。

もしそれを真っ先に悟ったのが妙高であったなら、自分の優位を失わない為に易々とは口にし無いだろう事であってもだ。

 

(くっ――)

 

言い様も無く悔しさが込み上げて来る。

今ここで彼女の鼻面を思い切り殴り付けたらすっきりするだろうか?

無論そんな訳は無かった。

もしそんな事をすれば、却って自分の方こそが良く判らない何かを守ることに汲々としているのを思い知らされてしまうのは目に見えている。

 

「――心根が、勁いからではありません――」

 

「――えっ?」

 

「私の心根が勁いからあの様に言ったのではありません、まるで私自身を見ている様で腹立たしくて仕方なかったから――何だと思います」

 

「そう――そうだったの……」

 

再び互いの間に沈黙が流れ、世界が滅んでしまう程の時が流れた後、おずおずと加賀が口を開く。

 

「妙高さん……」

 

「はい……?」

 

「ごめんなさい……」

 

何だか訳も無く可笑しくなって来てしまい、つい笑い出してしまう。

 

「――んふふふふっ♪」

「――んふっ、ふっ、うふふふっ♪」

「うふふふふふふっ♪」

「うふふふふふっ♪」

 

そのまま二人は暫く笑い続けたが、笑っている筈なのにどういう訳か涙が零れて来てしまう。

 

そして更に暫くの間二人は笑い、笑いながら涙を零した。

 

やがて少しずつ奇妙な興奮が治まり、笑いを納めた二人が涙を拭いながら顔を見合わせると、今度は先に喋ってやろうと決めていた妙高が見切り発車気味に口を開く。

 

「加賀さんでも笑えるんですね、初めて知りました」

「少々楽しい位でへらへら笑ったりしないわ、今のは貴方の病気が伝染った見たいなものよ」

「やっぱり口だけは減らないんですね――それで? お詫びの印しに、あの方のことはきっぱりと諦めて私に譲って頂けるとか位はあるんですか?」

「馬鹿を言わないでくれるかしら? そんな積もりなぞ更々無いわ。もっとも、貴方が頭を下げてお願いすると言うのであれば考えないでも無いけれど?」

「ぷっ、まさかご冗談を♪ あの方にそこ迄の値打ちはありませんわ、熨斗を付けて差し上げますから精々お好きに為さって下さい♪」

「では遠慮無くそうさせて貰ううわ。でも一つだけ念を押しておくわね。今回の事だけは別よ、長門さんと酒匂さんを日本に連れて帰る為にここ迄来たの。その為には、どうあっても副長には決断して貰う必要があるわ」

「良く分かっています。寧ろ嫌われるのが怖いのでしたら、言い難い事は全て私が申し上げても宜しいんですよ?」

「それこそ余計なお世話と言うものよ。第一、言いたくても声を上げられ無い方は他にいるの、その代わりに私達が言わなければならない事位は判っていて?」

「当たり前です! 陸奥さんがどれ程長門さんの許に飛んで行きたいと思っておられるか位、言われる迄もありません。でもそれを口にしてしまえば、旗艦として冷静に状況を見極めた見解では無く己が利を図った発言になってしまうと考えておられるからですよね⁉」

「そこ迄判っているならもう言う事は無いわね。では会議に戻りましょう、愚図愚図していると夜が明けてしまうわ」

「大袈裟な言い方ですわね。まぁ確かに、最前の様な調子では時間が幾らあっても足りないのは認めますが。私にとっては無駄としか申し上げ様の無い時間ですけどね」

「相変わらず大した自信ね、その根拠の無い自己評価の高さはどこから来るのかしら?」

「根拠ならあります!」

「まぁどこに? それとも私が急に目が悪くなったのかしら?」

 

飽きること無く罵詈の応酬を続けながら、二人は船内に消えて行った。

 



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〔第九章・第八節〕

 陸奥は勿論のこと艦娘達は一体どうなる事かと言う思いで会議の再開に臨んだ。

しかし冒頭いきなり口火を切った中嶋の言は、先程の斑駒(父)の忠告(知っているのは陸奥だけだが)をちゃんと取り入れた上に彼らしい物堅さと謙虚さとが込められており、幾らか緊張を和らげた者も多かった。

 

「私から皆さんにお願いがあります。私の頭では何度考えても、皆さんの危険と『おおやしま』の危険とを天秤に掛ける事は勿論双方の危険を少しでも回避出来ると言う確信に至ることが出来ません。これ迄の議論と重複しても構いませんので、改めてその具体的な方策等に付いて意見を聞かせて下さい」

 

(やっぱりいい方なのね――二人共そう思うでしょ?)

 

陸奥が加賀と妙高に向かって目語して見せると妙高は目で笑って見せるが、加賀はぐっと拳を握りそれを自分の方にぐいと引き寄せて見せる。

 

(か、加賀ちゃん、まだ気が早いんじゃないの?)

 

そうしている間にも、早速赤城が勢い込んで喋り始めている。

「それでは――――」

その赤城の考えを軸にして全員で取り纏めた結果、やはり『おおやしま』の防衛と長門・酒匂の捜索及び接触とを行う為には、艦娘達が複数の隊に分かれる事が必要という形でほぼ纏まる。

中嶋肝入りの船上の水槽から瑞穂と蒼龍が交代で広域の監視に当たり、斑駒(娘)がその横に付いて異変があれば直ぐに警報を発するべく待機する。

それ以外の仲間達は三隊に別れ、内一隊は『おおやしま』直衛の部隊として対潜哨戒に従事するべく長良・皐月・霰を配する。

残る二隊のうち一隊は妙高・高雄・朧を配して高速で移動しながら敵性艦の攪乱と分断を目指すものとし、もう一隊は陸奥・龍田・初春・子の日を配して火力に勝る陸奥を中心にして接近し、長門らとの接触を目指す。

そして赤城・加賀・飛龍はそれら三隊の目となるべく、妙高隊には赤城、長良隊には飛龍、そして陸奥隊には加賀が其々同行すると言うものである。

 

「これだけの戦力を割いて頂けるなら、何が有ろうと絶対に潜水艦を近付けさせない自信はありますけど――陸奥さんと妙高さんの隊は如何にも手薄に感じます」

長良の素直な感想に対しては妙高が応える。

「それは大丈夫だと思うわ。陸奥さんには龍田さん達が付いているんだから対潜警戒が手薄とは言えないし、私と高雄ちゃんは高速で移動している限り奴らの雷撃の的にはなり難いから、赤城さんに随伴してくれる朧ちゃんさえいてくれれば十分ね」

「敵性艦の頭数が根本的に寡勢である処も、我らにとっては幸いにござりますな。それにしても、無線が使えさえすればもう少し柔軟な作戦も立てられましょうにのう」

「それは仕方無いわ、ここはどうやら米軍の実質的な勢力圏下見たいだし、傍受される危険は冒せないわね」

陸奥がそう言うと、今迄黙って艦娘達の議論を聞く側に回っていた中嶋が思いもよらぬ硬い調子で口を挟む。

「その通りです。ですから、一度(ひとたび)本船から離れてしまえば事実上皆さんと意思の疎通は不可能になりますので、不測の事態が生じても皆さんが独自の判断で対処して頂く必要があります。只でさえ敵性艦との交戦によるリスクが高い上に、各個に必要な情報を収集し状況判断して行動しなければならない事には大きな懸念があります」

 

すっかり作戦の中身に集中してその気になっていた仲間達は、彼がまだ態度を軟化させた訳では無い事を知って思わず静まり返ってしまう。

「でも、本当の緊急事態の為に各隊の旗艦となる方には無線を付けて頂きますし、無線暗号さえ決めておけば例え傍受されても中身を窺い知ることは困難だと思いますが?」

艦娘達にかわって斑駒(娘)が懸命に反論するが、中嶋はそうおいそれとは譲らない。

「それはあく迄も最悪の事態に対する備えでしかありません。また、交戦する可能性を僅かでも下げられる類の事でもありません。これから我々が対峙するのは、少なくとも過去数か月の間に実際に船を沈めた何者かと同様な存在の筈です。皆さんのあの強大な能力を同じく有するであろう相手と、恐らく敵として接触しなければならないという最大のリスク――いえ、危険を少しでも小さくすると言う答えにはなりません」

彼のその言葉を聞き、陸奥は胸中で確信する。

 

(命令されたからでは無いわ、副長ご自身の何らかの強い信念の様なものがあるのね)

 

端的に言えば、中嶋に決断して貰う為には自らその信念を曲げて貰わなければならないのかも知れない。

 

(どうすれば良いの? あたしにそれが出来る?)

 

だが十分に考えが纏まり切らない内に、先程にも増して冷ややかな調子で妙高が喋り始めてしまう。

 

「もっと正確に言うならば、敵であるかどうかすらも推測でしか無いのではありませんか? 国の為に戦ったのに、その祖国の手によって実験台にされて沈んだ娘達なんですから、人間達のことは恨んでいても私達艦娘のことは敵視しないかも知れませんよ? それでも十分合理的な推測ですから、それに従って長門さんと酒匂さんに接触するのは陸奥さんと私だけとして、それ以外の全員で本船を守ることにしては如何ですか? そこ迄すれば幾ら副長でもご決断頂けるのではないですか? それとも――」

「もう止めて妙高ちゃん! 言い過ぎよ⁉」

思わず陸奥が遮ると、彼女は澄ました顔ですっと口を噤む。

まるで自分が止めに入るのを待っていたかの様だ。

 

(これも計算尽くなの? 本当に喰えない娘ね)

 

内心呆れていると加賀が視線を合わせて来るので、軽く頷いて諾うと頷き返した彼女は徐に語り始める。

 

「彼女らが私達に敵対するかどうかと言えば、憎むべき人間達の船からやって来る私達を敵視するだろう事はまず間違い無いでしょう。ですから妙高さんの言う遣り方で副長のご懸念を払拭する事は、どちらにせよ困難だろうと思います。しかしながら、そこ迄してでもご理解頂かねばならないとも思うのです。副長に譲れ無いお考えがある様に、私達にもどうしても譲れ無い事があるからです。この呪われた海の底に長門さんと酒匂さんを、祖国に見捨てられ人身御供として差し出されたと言う暗い悲しみを負わせたまま取り残して行く事だけは絶対に出来ません。誰よりも私達の事を理解し様と腐心して頂いている副長には良くお判りの筈です。今こうしてここで人間の様に喋っているこの私は、同時に光も音も無い冷たい奈落の底に哀しい兵達の亡骸を抱いたまま横たわっている鉄の塊だと言うことを。だからこそ、そこから仲間を救い出すことが出来る機会が目の前にあるにも関わらず、何もする前からそれを諦めろと言われるのには耐えられません。もしも米艦が私達を妨げるならば、持てる力の限りを尽くして粉砕します、邪魔など絶対にさせません。只、それを心の赴くがままに為すのは唾棄すべき事です。どうしても副長に理解頂きたいのです。理解して私達を送り出して頂きたいのです」

 

例によって淡々と言葉を紡いだ彼女は、そこで一旦口を閉じる。

 

その顔には何時もの様に感情の影はほとんど浮かんでいないが、隣に座った赤城は瞳を潤ませて深く頷いている。

赤城だけでなく幾人かの仲間達も瞳に涙を湛えており、加賀が全員の気持ちを代弁したことは中嶋にはっきり伝わったことだろう。

 

(加賀ちゃんの気持ち、副長の心に届いたかしら……)

 

そう思って改めて中嶋を見やるが、彼は目も口も固く閉じて机の上に出した両手を拳に握り締めていた。

そして、次に彼が発した言葉にその場の全員が驚く。

 

「その皆さんの気持ちが――その強い気持ちがあるから、私は恐ろしいのです!」

 

これまでの副長からすれば、あり得ないような感情的な物言いだった。

全員が固唾を飲んで彼の言葉の続きを待ち受ける。

 

「皆さんは、我々では及びも付かない様な壮絶で辛い記憶を抱いていて、それが皆さんを動かす強い動機になっています。それは、私達では止めることすら敵わない強い意志です――。だからこそ、お仲間を救い出すと言うその目的の為に、皆さんは我が身を擲ってでもそれを果たそうとされるだろう事が恐ろしい――。その上私は皆さんに指摘される迄、本船が晒される危険に付いて正しく認識する事が出来なかった。――指揮官として取り返しの付かない失態です。それをカバーする為には、皆さんの力を分断すると言う更に危険な選択をしなければならない――。私には、どうしてもその決断が出来ません。私自身の未熟さによって皆さんや斑駒船長やこの船を危険に晒し、あまつさえ犠牲を強いることなど到底出来ません……」

 

陸奥の脳裏にふっと仁の泣き顔が過る。

彼がしばしば陸奥の前で涙を流していたのは、彼の亡くなった母親と関係があると言う事いうことをこの航海の直前に初めて知った。

自分達には親子と言うものの存在やその関係は本質的には理解出来ないものだが、それがとても大切である事は容易に想像がつく。

仁は幼い頃に母――彼にとって何よりも大切だった筈のもの――を突然喪ったことで、心に深い傷を負っているのだろう。

だからこそ、自分が彼の母親を思い出させる様な言動を無意識にしてしまう度に涙を流していたのだ。

 

(ひょっとして、副長も同じ様な経験をしているのかしら?)

 

彼もまた大切な何かを喪った事があるのだろうか?

その辛い経験が、彼に決断をさせない何かの正体なのだろうか?

 

そんな思いに陸奥がとらわれていると、再び加賀が口を開く。

「私達に正直な胸の内を明かして頂いて有難うございます。でも、少しだけ残念でもあります。私達は幾人もの指揮官を見て来ましたし、その中には完璧な人間など一人もいなかった事を良く知っています。一体何が未熟だと仰るのでしょうか? 現に、私達が事前にそれに気が付いて進言したところ、副長はその指摘を素早く取り入れてこれ迄の判断を修正し様とされています。私には到底未熟な指揮官の所作であるとは思えませんが? それとも副長は私達に指摘された事を恥じていらっしゃるのでしょうか? だとすれば、これ程悲しいことはありません。私達は貴方を必要としているのに、貴方は私達を必要とはしておられないのですか? 私は悲しい――私はこんなにも貴方を必要としているのに、貴方は私を必要としてはいないだなんて――。貴方に理解され、貴方を支えたいと願っているのにそれが必要とされないなんて――私はどうすれば……」

 

(加賀ちゃん!)

 

彼女の言葉は最後には独り言に――しかも加賀の個人的な想いそのものになっていた。

それに驚いたのは陸奥だけでは無く、真ん丸に目を見開いている者もいれば蒼龍と飛龍は今にも立ち上がって叫びそうだったし、中でも印象的だったのは妙高が満足気な笑みを浮かべて深く頷いていることだった。

その場は期せずしてしんと静まり返ってしまい、その気配で我に返ったらしい加賀は自分が何を口走っていたのか気付くと、見る見るうちに真っ赤な顔になり机に頭が付きそうな程俯いてしまう。

 

(有難う加賀ちゃん、良く言ってくれたわね)

 

陸奥はすっと息を吸い込むと、珍しく驚いた様な顔で固まっている中嶋に呼び掛ける。

「副長、宜しいですか?」

「――えっ、あっ、はい陸奥さん、どうぞ?」

「それでは改めてお願い致します。現状で考えられる最善の案とそれに臨む私達全員の気持ちを申し上げましたが、副長の条件をまだ伺っておりません。どの様な条件であれば、明日私達の出撃を認めて頂けるのでしょうか? どうかご教示下さい。私達はこれを最後の質問にしたいと思っております」

(加賀を除く)全員が頷く気配がし、その視線が中嶋に集中する。

彼の当惑した様な表情は内心の迷いの表れだろうか。

 

(もう少し何か言わなきゃ駄目かしら?)

 

そう思いかけた時、斑駒(父)が唐突に声を上げる。

「副長、発言してもよろしいでしょうか?」

「あ、はい、どうぞ船長……」

「馬鹿な事をと笑い飛ばして頂ければ幸いです。ですが副長、ここで肚を据えねば男が廃ると言うものですぞ」

 

それだけ言うと斑駒(父)はすっと身を引いて輪から外れ腕組みをして黙ってしまい、辺りを沈黙が支配する。

 

その静けさたるや、まるで皆の心臓の鼓動が聞こえて来そうな程だ。

いや、実は本当に聞こえていたかも知れないが、その音をゆっくりと聞いていられる程中嶋は皆を待たせはしなかった。

やはり彼は本質的にとても優れた指揮官だった。

艦娘達の前でその表情は見る間に変わって行き、何時もの彼へと戻って行く。

「陸奥さんの問いにお答えする前に、皆さんに一言申し上げなければなりません。私は既に十分過ぎる程皆さんに支えられています。本当に有難うございます」

 

仲間達は全員静まり返って、彼の言葉に耳を傾けている。

 

「私から皆さんにお願いする事は二点です、これを守って頂けない限り絶対に皆さんの出撃を認める訳には行きません。一つは、あらゆる手段を尽くして危険を回避する事です。例え交戦状態に陥ったとしても、常に安全策をとる様に最善を尽くして下さい。そしてもう一つ、何があろうと絶対に長門さんと酒匂さんを含めた全員が生還する事です。今この場で誓約出来ますか?」

 

それを聞いて、迷う理由など何も無かった。

 

「起立!」

陸奥が声を掛けて立ち上がるのと、艦娘達全員(及び斑駒(娘))が立ち上がるのはほとんど同時だった。

そして、一瞬だけ間を空けて中嶋と斑駒(父)が立ち上がる。

「副長殿、私達には賭ける物など何もありませんが、強いてあるとすれば艦としての誇りだけです。ですから、誇りにかけて誓約致します!」

そう言ってさっと敬礼すると、仲間達が一瞬おいてさっと敬礼し声を揃える。

「誓約致します!」

静かに答礼した中嶋は、何時もの彼らしい冷静な口調できっぱりと言い切る。

「有難う、私は皆さんと出会えて幸福です。万難を排して長門さん酒匂さんと共に日本に帰りましょう」

 

(愈々だわ姉さん!)

 

内心の興奮を感じたその時、いきなり赤城が大きな声を出す。

「さぁ、いよいよ大一番ですね⁉ 早速今からぐっすり眠って十分に鋭気を養いましょう!」

「まだ駄目よ赤城ちゃん! 寝るのは起床時の段取り位は決めてからよ⁉」

咄嗟にそう突っ込むとどっと笑いが起きる。

例によって照れくさそうに笑う赤城の横で、喜んでいる様な少々がっかりしている様な複雑な顔付きで突っ立っている加賀が何とも言えず可笑しかった。

 



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第十章
〔第十章・第一節〕


 夜明けと共に起き出した艦娘達は、それより早く航海薄明と共に起床して監視に就いている蒼龍と瑞穂の所に集まっていた。

「これ迄のところ進行方向に異常は見受けられません。間も無く環礁に到達する予定です」

水槽の上に立つ蒼龍の代わりに瑞穂が現状を解説してくれる。

「早朝からお二人共お疲れ様です。その装備はやはりきついですか?」

赤城が言っているのはウェットスーツのことだ。

前回概ね好評だったこともあり斑駒(娘)は今回も準備しておいてくれたが、サイズの問題は十分解決した訳では無さそうだった。

見ると蒼龍はスーツの前を大きく肌蹴て着ており、アンダーシャツを着けていなければちょっと男性の前では出来ない恰好である。

「幾ら何でもそれはちょっとだらし無いんじゃない?」

と飛龍が突っ込むと、蒼龍は遠い目をしたまま反論する。

「だってぇ、飛龍は苦しくないかも知れないけど私は長い時間は絶対無理だもん」

「な、何よ! 私だって別に普通の大きさよ⁉ あんたや高雄ちゃんが大き過ぎるだけでしょ⁉」

飛龍が気色ばんで言い返すと、引き合いに出された高雄が更にそれに噛付く。

「大き過ぎるってどう言う事ですか⁉ ちゃんとぴったり合う下着もあるのにそんなのおかしいです! 第一、大きくて困るのなんてこの装備を着る時位ですよ⁉」

「そうですよねぇ――大きくて困る事なんかそうそう無いですよね――。男の人もおっぱい大きい方がやっぱり好き見たいだし……」

如何にもしょんぼりした様子で自分の胸に触れつつ長良が呟くと、高雄は更に得たりとばかりに畳み掛ける。

「そうですよ⁉ 男性は私達のこの豊かな胸にとっても癒されるそうですよ! それだけでも凄く意味があると思いませんか? その――、わ、渡来さんだってきっと大っきなおっぱい好きですよ……?」

 

(高雄ちゃんたらどさくさに紛れて何言ってるの⁉)

 

「仁はそんな事を基準に好き嫌いを決めたりしないわよ!」

「でも、でも、やっぱり小っさいよりも大きな方が良い筈です!」

「あたしは小さくないわ! 普通よ⁉」

「そうですよ! 普通で何が悪いんですか? 大きければ良いってもんじゃ無いわよね⁉」

陸奥が高雄に言い返すのに乗っかって飛龍が気勢を上げると共に、概ね『普通』サイズと思われる瑞穂や妙高の顔を見る。

「私はその――特に意識した事もありませんでしたし、殿方にも其々に好みがお有りでしょうから……」

瑞穂が少々赤面しながら口を開くと、続けて如何にも呆れ果てたと言わんばかりの顔をした妙高が露骨に厭味を言う。

「これから初めての本格的な実戦に赴くと言うのに能天気な方達ですね、羨ましい限りですわ⁉」

ところが飛龍には大して通じないらしく、したり顔で言い返す。

「もぉ~、妙高さんたらお澄まししちゃってぇ♪ そんな事してたら加賀さんに取られちゃいますよぉ? おっぱいの大きさで負けた、とか言われても良いんですかぁ⁉」

これにはさすがの彼女も動揺を隠せず、むきになって否定する。

「な、何で貴方が⁉ ――――い、いえ、何を言ってるのかしら? 別に加賀さんがおっぱいで副長を誑し込もうがどうし様が私には関係無い事だわ⁉」

横で聞いている斑駒(娘)が思わず頬を紅潮させるが、何よりも加賀自身が黙ってはいない。

「ちょっと聞き捨てなら無いわね。この私が何時あの方を色香で誑かす様な真似をしたと言うのかしら⁉ まぁ、確かに貴方の貧相な体付きでは私に劣等感を抱いてしまうのは仕方の無い事だけれど?」

「誰が貧相ですか! こう言うのを均整のとれた肢体と言うのですわ⁉ そんな締りの無い贅肉だらけの体に劣等感など抱く訳がありません!」

「全く――物を知らないと言うのは都合の良い事ね。高雄さんが言った通り、殿方は私達のこの恵まれた豊満な体に癒されたい耽溺したいと願っているものよ? それとも、それが判っているから目を背けたいだけなのかしら?」

煽られた妙高は更に言い返そうとしたのだが、そこを斑駒(娘)が必死に遮って声を張り上げる。

「み、皆さん! もうその位にしておきましょう⁉」

彼女の視線の先を全員が辿って振り返ると、中嶋と斑駒(父)が連れ立って近付いて来るところだった。

 

(あ、危ない危ない……こんな話聞かせる訳には行かないわよね)

 

「駒ちゃん有難う! 皆一時休戦よ。飛龍ちゃん、日本に帰ってからやっぱり普通が一番だって事をゆっくり証明してやりましょ⁉」

「はい、もちろんです!」

その威勢の良い返事に笑顔を返しながら、まだ何か言いたそうな加賀や高雄の機先を制して中嶋らに向き直ってさっと敬礼すると、彼女らも不承不承それに倣う。

 

「皆さんお早うございます。瑞穂さん蒼龍さんは早朝から大変お疲れ様です。状況を聞かせて頂けますか?」

中嶋が答礼しながらそう声を掛けると、蒼龍が遠い目をしながら応える。

「今、環礁上空に差し掛かってますがかなりの雲量です。これから雲の下に降りて見ますので少しお待ち下さい」

仲間達と中嶋らは暫し無言になって、彼女の次の言葉を待ち構える。

「――今、下に出ました。――環礁内は――静かです、敵影無し」

仲間達の間に小さな騒めきが起き、直ぐに潮が引く様に静まって行く。

「と言うことは、敵はまだ我々の接近には気付いていないと言う事ですね?」

予想通り真っ先に赤城が声を上げると、それに中嶋が応じる。

「そうと断言は出来無いでしょうが可能性は高いでしょうね。ミッドウェー島近海での遭遇時は、もっとずっと接近した状態で初めて気付かれたのでしたね?」

「その通りです。只、あの折は殺気の様なものの正体が最初は何が何だか判らない中であの商船が通り掛かったものですから、正確な事はちょっと判りかねるのですが」

赤城の言葉に加賀も頷いて同意を示す。

「もちろん構いません。どちらにせよ我々はこの後も監視を絶やさず接近する訳ですから、敵がこちらに気付く物理的な距離も自ずと明確になるでしょうし。――それでは蒼龍さん瑞穂さん、この後もかなり長時間に渡って負担を掛けてしまいますが宜しくお願いします」

「はい!」

「皆さんは朝食を摂った後出撃準備を整えて、昨夜予定した通り集合して下さい。直前迄しっかり状況を見極めましょう」

「はいっ!」

艦娘達がきびきびと返事をするのを聞き届けると二人は踵を返して歩き去って行き、入れ替わりに警備官が二名手に手に朝食と思しきものを持って近づいて来る。

「三人の朝ご飯が来た見たいよ?」

と陸奥が声を掛けると、やはり宙を見詰めたままの蒼龍が嬉しそうに声を上げる。

「やったぁ♪ さっきからお腹空いてたんですよぉ~」

「では私、交代致しますわ。蒼龍さんが先にお食事なさって下さいね」

と瑞穂が言いながら水槽の上に上がるが、蒼龍も直ぐにはそこから降り無い。

「そうか、瑞穂さんが環礁上空に辿り着く迄少々時間が掛かる訳ですね」

赤城が再確認する様に独り言ちるその間に、斑駒(娘)が、朝食を運んで来てくれた警備官に声を掛ける。

「有難うございます。一旦こちらに置いて頂けますか?」

と言いながら傍らの折り畳み机を指差すので、警備官らはそれに従って食事を並べてくれる。

しかしその時、一人のかなり若い警備官が蒼龍の肌蹴た胸を一瞬ちらりと見て、すぐに視線を逸らす。

 

(男の人ってやっぱり大きなおっぱい好きなのかしら?)

 

そう思っていると、相変わらずしょげ返った様子の長良が誰言うとも無く声を掛けて来る。

「胸が大きくなる方法って何か無いんでしょうか――それとも、やっぱり艦娘には無理なんですかね……」

さすがにそれは凹み過ぎだと思ったので、出来るだけ朗らかに否定して見せる。

「長良ちゃん、余り気にし過ぎちゃダメよ⁉ 男の人が全員同じ好みな訳じゃ無いわ♪」

 

(そうよ、少なくとも仁は絶対に違うわ⁉ きっと好みが違う筈よきっと――)

 

彼女にはそう言っておきながら、そんな風に半ば躍起になって自身に言い聞かせている自分にふと気が付き、思わず赤面してしまった陸奥は殊更に皆を急き立てて船内に戻った。

 



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〔第十章・第二節〕

 異変が起きたのは、環礁迄後一時間強という頃だった。

「あっ!」

という瑞穂の叫びに全員が一斉に立ち上がる。

 

「どうしたの瑞穂ちゃん⁉」

陸奥の声に、瑞穂は虚空を見詰めながら慎重に応える。

「海上に白い人影の様なものが出現しました。――今のところ一つだけです――続いて現れる様子はありません。どう致しましょう、もう少し接近致しますか?」

反射的に中嶋に向かって声を上げる。

「それよりも、見逃がしが無い様環礁全体を監視すべきだと思います!」

陸奥の進言に彼は素早く頷いて見せ、鸚鵡返しに直ぐ指示を発する。

「瑞穂さん、そのまま高度を維持して下さい。環礁内での出現状況に十分注意して監視を継続願います」

「はいっ!」

きびきびとした彼女の諾意を聞きながら、中嶋は言葉を続ける。

「皆さんお聞きの通りです。出現したのが米艦なのか或いは長門さんか酒匂さんの何れかなのかは不明ですが、これで我々の接近が知られたと見て間違い無いでしょう。只今以降、何時でも離船可能な様に最終確認をお願いします。可能な限り環礁に接近したいと考えていますが、あく迄も状況次第です」

「はいっ!」

全員が一斉に返事をすると、早速交代で用を済ませながら装備の再確認を行う。

ウェットスーツと救命胴衣以外に無線や信号弾、飲料水なども携行する予定なので、それらも一つ一つ念入りに確認して行く。

そうして全員の確認が終る頃、瑞穂が落ち着いた様子で告げる。

「環礁内に他の人影らしきものが現れました。――皆、白っぽい姿です。――数は――全部で五、六――いえ七です。最初に出現したものと合わせて七です」

「七体ですか――駆逐艦、潜水艦以上の米艦に長門さん酒匂さんを合わせた数と一致しますね」

赤城が皆の顔を見回しながら言うと、それを受けて中嶋が瑞穂に問い掛ける。

「つまりその内一体は潜水艦であり、二体は長門さんと酒匂さんだと考えられる訳です。どうですか、何かそれが分かる様な手掛かりや特徴がありそうですか?」

「――いえ、今のところこの距離から判る様な特徴などはありません。やはりもう少し高度を下げて見ませんと――はっ、あっ、お待ち下さい!」

「どうしましたか⁉」

彼の鋭い問い掛けに、宙を睨んだ瑞穂は慎重に返答する。

「一体が消えてしまった様です――高度を下げて確認致します」

「お願いします――」

全員の緊張が高まり、船が波を切る音だけが暫くの間その場を支配する。

「――――申し訳ありません、消えたのではありませんでした。海面上に僅かに頭だけを出して航行している様です。しかし波頭とほとんど見分けが付かず、接近しなければ判りませんでした。どうやらこちらに向かって来る様ですが、如何致しましょう?」

「そのまま追跡して下さい、触接を絶やさぬ様にお願いします。おそらくそれが潜水艦と見て間違い無いでしょう」

それだけ言うと中嶋は振り返り、斑駒(父)に小さく頷いて見せると改めて艦娘達を見る。

その表情に込められていたのは、彼女らが嘗て見た戦に赴く兵達のあの顔に浮かんでいた決意と同じものだった。

「これより全員離船位置に移動して下さい。号令あり次第直ちに離船し、任務を遂行のこと。何か質問は?」

その問い掛けに、艦娘達は沈黙で応える。

「では行きましょう!」

その声と共に全員が素早く舷側に向かい、間も無く舷梯設置位置横に集合する。

隊毎に分かれて待機したのはほんの僅かな時間だけで、程無く船尾から駆け足でやって来た警備官の口から、例の潜水艦と思しき敵が環礁の切れ目に向かっている旨の報告がある。

報告を受けた斑駒(父)からは直ちに船足を落として舷梯を展開可能にする様指示が出され、同時に中嶋が艦娘達に向き直って口を開く。

「舷梯展開出来次第、陸奥隊、妙高隊は離船し任務行動を開始のこと。長良隊は追って指示ある迄離船待機」

「はいっ!」

全員がきびきびと応じるのが聞こえたかの様にすぅっと船足が落ち、警備官達が海面に向かって舷梯を降ろす。

待つ程も無くその固定が終わり、斑駒(父)が中嶋と艦娘達にさっと敬礼する。

「離船準備完了です、皆さんのご無事を祈ります!」

「有難うございますっ!」

「妙高隊、離船せよ!」

妙高が素早く中嶋の前に進み出て敬礼すると、

「妙高隊、離船致します!」

と告げて躊躇いなく舷梯を降りて行く。

そのまま滑る様に彼女は船を離れて行くが、まるで見えないロープで繋がれているかの如くそれに続いた高雄、朧、赤城らもまた次々に離船し、あっという間に四名全員が離船を完了する。

「陸奥隊、離船せよ!」

 

(待っていたわ、この瞬間をずっと!)

 

「陸奥隊、離船致します!」

敬礼した陸奥は振り返って龍田、初春、子の日、加賀の顔を一瞥すると、素早く舷梯を下りて海面に足を踏み出す。

そして全く遅れること無く四名が後に続き、五名全員が海面上に降り立つのに三十秒と掛からなかった。

「それじゃ皆、気を引き締めて行くわよ⁉」

「はいっ!」

 

(待ってて姉さん、今直ぐ迎えに行くからね!)

 

抑え様の無い全身の昂ぶりと共に、戦艦としての獰猛な本能の様なものが自分自身の中に頭をもたげつつあるのに気が付いた陸奥は、高揚感と一抹の胸騒ぎとを同時に感じ取っていた。

 



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〔第十章・第三節〕

 (駄目だ――やっぱり聞こえない)

 

さすがに少々焦りを覚える。

「皐月! そっちはどう?」

「何にも聞こえないよ⁉」

ちょっと期待したのだが、彼女の返事は素っ気無いものだった。

仕方無く背後を振り返ると少し離れた飛龍と霰の許にスーッと近付くが、宙を見詰めたままの飛龍に声を掛ける迄も無く霰が首を横に振って見せる。

 

(そっちもダメかぁ――あ~どうしよう)

 

「ねぇ、どうするの?」

近付いて来た皐月が、今長良の一番聞きたく無い言葉を口にする。

 

(そんな事こっちが聞きたいよ、もうっ!)

 

そう言いたいのは山々だったが辛うじてそれを堪えると、取り敢えず無難な事は何かと考えながら口を開く。

「――そうだね、このままじゃ『おおやしま』から離れ過ぎちゃうから、飛龍さんには索敵を続けて貰いながら第二戦速で『おおやしま』を追い掛けよう」

「りょうかーい♪」

「皐月が先頭、私が殿で霰は飛龍さんを誘導するんだよ。それじゃ前進!」

そうして動き出したものの、幾許も無く肉眼で『おおやしま』がハッキリ見えて来たので再び哨戒速度に落とす。

 

(おかしいなぁ、こうすれば『おおやしま』の機関音はちゃんと聞こえるのにぃ)

 

こんなにちゃんと聞こえているのだから、自分の水測能力に欠陥がある訳では無さそうだ。

もっとも、それを言うなら飛龍の索敵能力にしても同じ事だろう。

彼女が触接を喪失したのは能力の欠陥の所為では無く、自分同様単にこの新しい体での実戦に不慣れなだけだと思われた。

 

(一体どこに行っちゃったのよぉ~)

 

長良の頭の中では飛龍や霰、皐月が水を切る僅かな音も(すぐ傍に居るからだが)ちゃんと聞こえている。

 

(…………)

 

次の瞬間頭の中で何かが繋がり、これ迄全く見えていなかった何かが一気に弾ける。

 

あぁっ!

「ど、どうしたの長良ちゃん⁉」

「何か見付けたの⁉」

彼女が突然大声を出したので、仲間達が驚いて声を掛ける。

「飛龍さん! もっと違う方角を探して見て下さい! 大体九から十時方向で十浬以内位を!」

そう言いながら、自分自身も水平線の向こうを艦娘の視覚で見渡す。

「いたっ! 方位概ね十時、一時方向に進行中! 浮上航走してるじゃない⁉」

ほぼ同時にその姿を測距儀で捉えた長良は、敵が真っ直ぐに『おおやしま』を追跡している事を確認する。

 

(まだこちらには気付いてないんだ!)

 

「飛龍さん、索敵はもう結構です! 全艦第一戦速にて敵艦と同航併進せよ! 統一射撃ヨーイッ!」

「雷撃はしないの?」

「雷走音で気付かれるからまだ駄目だよ⁉ 現在方位角二七八コンマ四、現在距離一〇九〇〇、的速――十八コンマ二節、的針三五九コンマ二、未来方位角―――」

 

長良の言葉に従って全員が発砲準備を整える。

それはほんの僅かな時間である筈なのだが、信じられない程長い間に感じられた。

 

「全艦一斉撃ち方、発令待て! ――ヨーイ、撃―ッ!」

目には見えないものの、未だこちらに気付かない敵艦目指して全員が放った砲弾の飛翔する光景が長良の脳裏にははっきり浮かんでいた。

「全艦十一時に転針! 最大戦速!」

 

(当たれ当たれ当たれぇ~!)

 

そう念じながら敵艦との交錯点を目指して突進するが、次の瞬間ほぼ同時に全員が声を上げてしまう。

「ああっ⁉」

「あいつぅ!」

「何でぇ⁉」

「……」

 

何と敵潜は、長良たちの放った弾幕にまともに突っ込む寸前で急転回したのだ。

「くっそぉ~可愛く無い奴ぅ! あいつ、弾が見えたみたいだったよ⁉」

「後にしなさい皐月! 全艦各個に砲撃及び雷撃せよ! 絶対に奴を逃がすな!」

そう叫ぶと長良自身も次射の態勢を整える。

敵は既に大幅に減速して急速潜航の態勢に入っているため、火力を犠牲にしない様に注意しながら敵との交錯点を修正する様に転針する。

敵潜が潜航してしまう迄に撃てるのは――三射か、良くて四射だろうか。

 

(絶対逃がさ無いからね⁉ 陸奥さんと約束したんだから――)

 

長良の脳裏に、ふと出港時に見た光景が浮かんで来る。

彼女達にとって頼りになる旗艦である陸奥が涙を零しながら仁の名を叫ぶその姿は、きゅっと絞り上げられる様に長良の胸を切なくさせた。

 

(あれが恋なのかなぁ……)

 

自分も何時か恋をする時が来るのだろうか、どんな相手なのだろう。

 

(私も、渡来さん見たいな人が良いなぁ♪)

 

優しく親しみ易い仁は長良の目から見ても魅力的に思えたが、彼はもうほとんど陸奥のものだと言っても差支え無いだろうし、その上まだ高雄も彼の事を諦めた様子では無いのだ。

 

(さすがに陸奥さんと高雄さんに勝てる訳無いよねぇ……)

 

一刻を争う戦闘中に何を考えているのかと呆れられそうだが、こんな甘ったるい事を頭で考えていても長良の艦娘としての体は正確に戦闘を継続しており、更に敵に起こった異変もちゃんと見逃さなかった。

 

(何っ⁉)

 

半ば迄潜航し掛かっていた筈の敵が再び浮上し始めている。

 

(潜航出来無くなったんだ!)

 

「全艦、敵潜の反撃に備えよ! 捨て身で来るよっ!」

水上戦闘艦に追われた潜水艦が浮上戦闘を挑んで来る理由など二つしか無い。

勝てると思ったか、逃げ切れ無いと判ったが降伏する気は無いのかどちらかだけだ。

飛龍が滑る様な動きで長良の横に並んで来る。

彼女ら二人には薄っぺらとは言え装甲があるが皐月と霰はほぼ無防備であり、潜水艦の豆鉄砲とは言え直撃されたら只では済まないので、近距離砲戦になった場合は自分達が前に出る様に決めていたからだ。

完全に浮上した敵は、転針すると真っ直ぐ長良達に向かって来る。

「破れかぶれ見たいね! 魚雷は撃って来るかな?」

「来ると思いますけど、射点が見えてる雷撃はちゃんと注意してれば避けられますから!」

長良が飛龍に応えている間にも、敵が手を突き出しているのがはっきり見える。

 

(はっ!)

 

その瞬間、奇妙な事が起こった。

長良の(艦娘としての)眼には、まるで光の揺らめきか残像の様に見えない筈の砲弾が見えたのだ。

「くっ!」

咄嗟に体を捻ってそれを躱し――何と、弾が躱せる!

とは言え、さすがにそれを皆で確認し合う余裕は無い。

口を開く代わりに体が自然に動いて、敵に間断なく砲撃を浴びせる。

今や彼我の距離が詰まってほとんど零距離射撃が出来る迄になっており、構わず全量射撃で撃ちまくる。

「畜生ぅっ、当たれぇ!」

飛龍が一際甲高くそう叫んだ直後敵が衝撃で吹き飛ばされ、派手に海面上を転がるとそのまま動かなくなる。

「やったぁーっ!! どぉよ⁉」

「飛龍さん凄い凄~い!」

「……ひょっとして、今のは……」

霰がそう言い掛けたので長良はそっと目配せして口に指を当てて見せると、彼女もすぐ心付いて口を噤む。

弾着の間合いからして、敵潜に直撃したのは飛龍ではなく長良の弾であるのはほぼ間違い無いだろう。

だからと言ってそんな手柄を争う気は更々無いし、無事に『おおやしま』を敵潜から護る事が出来たのだからそれで十分だと思った迄だ。

 

「全艦、第二戦速! 接近して敵の状態を確認するから注意して⁉」

「ねぇ長良ちゃん、さっきさぁ弾が見えた様な気がしたんだけど気の所為?」

「いえ、気の所為じゃ無いと思います。私も見えましたし避ける事も出来ましたから」

「ボクにも見えたよ! な~んかゆらゆらして蜃気楼見たいな感じだった」

「……ちょっと、恰好良く躱しちゃったかも……」

「やっぱり皆見えたんだ、何だか不思議だよねぇ~」

「でも、さっき敵が弾幕を躱した理由がこれで判りました。艦娘同士であれば、弾体自身なのかその軌跡なのかは良く判りませんが至近距離でなら見えるんだと思います」

「どうしよう、他の皆に無線で伝えた方が良いかなぁ?」

 

(……)

 

さすがに長良も少し迷ったが、傍受される危険を冒すのはやはり躊躇われた。

「無線は止めましょう。この後一旦『おおやしま』に帰船して直接報告します」

長良の決断に飛龍達は素直に賛意を示すが、その間にも彼女達は敵潜(だろうと思われる)の間近に辿り着く。

その肌は不自然な迄に青白く、身長より長いのではないかと思わせる程の髪は真っ白で、それらが不気味な海草の様に揺らめいていた。

「やっぱり小っさいんだねぇ」

そう口にした皐月とほとんど変わら無い位に小柄で奇妙な衣服を纏ったその少女(の様な姿の何か)は、既に半ば迄海中に沈み始めている。

「どうしよう? 曳航して行くのは無理かなぁ」

飛龍が顔を見ながら言うので、長良も試して見様かという気になる。

「駄目で元々ですから一度やって見ましょう。皐月と霰は離れてなよ!」

そう言って何気無く接近したその刹那、突然頭の中に真っ黒な稲妻が閃く。

 

(こいつ、まさかっ!)

 

まるで時間の流れが遅くなった様に、沈みつつあるその少女がゆっくりと腕を振り上げる。

閉じていたその目がかっと見開かれ、禍々しい赤い瞳が長良を射抜くと共に、濃い空気の塊の様な何かがまっしぐらに向かって来る。

全力を振り絞って身体を仰け反らせるが、それは非情な迄に間近に迫っており、どうしても避け切れそうに無い。

 

(くそっくそっ! こんな処でやられて堪るか!)

 

限界を超えて身体を捻じり、その邪悪な怨念の塊の如き一撃を躱そうと、躱そうと、かわそうと――――。

 

「ぐあっ!」

 

思わず声が出た瞬間体が後ろに弾き飛ばされ、海面に叩き付けられる。

 

必死で肘を突いて顔を上げたその目に、飛龍、皐月、霰がそれこそあらん限りの勢いで叩き込んだ砲弾の惹き起こす重なり合った水柱が映る。

 

そして白い小山が崩れて消えた後には、もう何も浮かんではいなかった。

 

「長良ちゃん!」

「しっかりしてよ! 死んじゃやだよぉ⁉」

皐月が泣き出しそうな顔で飛び付いて来る。

「……皐月ちゃん、大丈夫だから……」

長良が言う前に霰が先に皐月を宥めてくれるので、思わず苦笑してしまう。

「そうだよ皐月、大丈夫だからね」

「本当に?」

胸の辺りがじんじんと痺れた様に熱い。

恐る恐る見てみると救命胴衣がまるで抉り取られた様に大きく引裂けているが、その下のウェットスーツは――――どうやら破れていなかった。

 

「凄い! 正に間一髪で避け切れたのね⁉」

「……本当、こう言うのを紙一重って言うのかも……」

「うわぁ~ん、良かったぁ~~」

泣き出す皐月が可愛らしく、心の底から心配してくれているのもとても嬉しかったが長良の心中は少々複雑だった。

 

(これってつまり、おっぱいが小さかったから避け切れたって事よね……)

 

九死に一生を得た筈なのに、何だか損をした様な気がしてならなかった。

 



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〔第十章・第四節〕

 敵は一定の組織的な行動を取っているものの、やはり統率がとれている訳では無い様だ。

環礁に接近するに当たっては敵が一塊のままで味方を待ち受けられると非常に都合が悪いため、妙高の率いる隊が敵に揺さ振りを掛けて分断を図る事にはなっていたが、事前に具体的な策を絞り込んでいた訳ではなかった。

とは言え赤城が刻々と状況を報告してくれるので、それを基に臨機応変な判断を下していく事は妙高にとって大して苦になる話しでも無く、敵の様子を観察しながら自在に作戦を組み立てることは十分可能だ。

そもそも高速で移動可能なサラトガや酒匂・駆逐艦に比べると長門とアーカンソーの船足は遅く、そこに付け込む隙があることは仲間達とも既に確認済みだった。

実際に敵に対峙して見て動きに纏まりの悪さを感じ取った妙高は、北西側から環礁内に進入すると見せ掛けて有効射程ぎりぎり迄接近して見せた後に、急に転針して環礁に沿って最大戦速で東進し始める。

もちろん正面から接敵しそうになったのを土壇場で回避して迂回し様としていると思わせる為だったが、それはまんまと図に当たり、敵の内三隻が妙高達を同じ速度で追尾し始めたのだ。

 

(ふん、随分と張り合いの無いこと♪)

 

この時点で取り残された方の三隻に少なくとも長門とアーカンソーがいる事は確実になったが、その様子を逐一窺っていたらしい陸奥隊が、これ以上は無いと言う間合いで反対方向から環礁に接近し始めたと赤城が報告してくれる。

 

(さすが陸奥さん、良い呼吸だわ)

 

しかしこれで全て懸念が無くなった訳ではない。

普通に考えれば長門ら二隻と一緒にいるのは駆逐艦だろうと思われるが、それが酒匂である可能性は否定出来ないからだ。

こうして敵に回すことになるとそれがどれ程危険な事なのか改めて思い知るが、酒匂は八射線の九三式魚雷を持っていた。

その厄介な代物と長門の四十一糎砲による攻撃とを同時に受け止める事になった場合、陸奥隊が無事に生還する為にはかなりの幸運が必要になるだろう。

 

(やっぱり確認しておく必要がありそうね)

 

ここはもう一芝居打って、誘いを掛けて見た方が良さそうだ。

そう結論付けた妙高は仲間達に向かって声を上げる。

「高雄ちゃんは私と一緒に敵に接近するわよ? 赤城さんと朧ちゃんは、そのまま距離を保って現針を維持して下さい!」

「了解です!」

 

すーっと接近してきた高雄に更に追加の指示を与える。

「私の後方二〇〇を保ちながら、距離一六〇〇〇まで接近します! それ以上は近づかない様に注意して⁉ 射撃はお互いに個射で、間合いは全て任せます!」

「判りました!」

間髪を入れずにそう応じた彼女は、滑らかに後方に下がると妙高の動きにぴたりと追随して来る。

 

(戦場ではそれなりに頼もしいのにね♪)

 

陸の上に上がった高雄は、何がそこ迄気に入ったものか判らないが渡来仁が隊にやって来る度に彼の事で頭が一杯になってしまう残念な娘になる。

だが、どう考えても彼女が陸奥を出し抜いて彼の心を射止められるとは思えないし、恐らくはあの少々いけ好かない塔原と言う人間の女にも勝てないだろう。

 

(まぁ気の済む様にさせとくしか無いかしら?)

 

そんな事を考えている内にあっという間に距離が詰まって来たので、改めて敵を測距儀に捉えて射撃の準備に掛かるが、その時頭の中に黒い稲光の様なものが閃く。

 

(何が起きたの?)

 

顔を上げた妙高の(艦娘としての)目に、奇妙な陽炎の様なものが飛び込んで来る。

それは三つあり、自分達をやや通り過ぎた後方の海面に落下して行く。

ズズーンと言う弾着音と共に水柱が上がり、それが砲弾だったことがはっきりと判るが、それを高雄と確認し合う間も無く更に三つの陽炎が飛来し同じ様に水柱を上げた。

 

(弾が見えるだなんて――でも、とにかくこれで充分だわ)

 

そう思った妙高が腕を振り上げてくるくる回しながら再び敵から距離を置き始めると、高雄が滑るように接近して来るなり昂った調子で問い掛けて来る。

「一体どういう事なんでしょう⁉ 妙高さんにも見えましたか?」

「ええ、どうやら弾が近付いて来たら見えるみたいね。とにかく一旦下がって赤城さん達と合流しましょう」

そう言って敵の砲撃が追い掛けて来る中を更に下がって行き、間もなく二人と合流すると赤城が開口一番に報告してくれる。

「敵が一隻突出して来ている様です。他の二隻は余り距離を詰めて来ていませんね、どうしますか?」

「その一隻が恐らく酒匂さんです。私に考えがありますので、全員現速現針のまま集まって下さい」

 

妙高が説明しているその最中にも、かなり近くに複数の弾着がある。

酒匂が撃ち気に逸ってくれている内に次の行動を起こさねばならない。

「――以上です、判りましたか?」

「良く判りましたけど――妙高さんが単艦で行動するのは危険なのではないでしょうか?」

「もちろん危険は承知の上です。それでも、誤って酒匂さんを轟沈させたりするよりは遥かにましだと思ってるの」

そう答えると、朧はまだ心配そうにしながらも頷いて見せる。

「それじゃ早速行動に移りましょう! とにかく、暫くは敵弾を躱すことに集中して下さい!」

「はい!」

 

四人は適当な間隔を保ちながら急速に環礁に接近するが、やがて酒匂以外が放ったと思しき敵弾も飛来し始める。

環礁を間に挟んではいるものの既にかなりの近距離にいる酒匂をほぼ無視して、それより遠方にいるサラトガと駆逐艦と思しき敵に砲撃を集中する。

そうしながら四人は更に環礁に接近し、間もなく前方に見えて来た椰子などが生い茂る小島を目指す。

そしてその脇を通過する刹那、妙高だけが急減速して波打ち際に滑り込み、そのまま小島に上陸する。

茂みに走り込む時、もし人間と鉢合わせしたら――と一瞬想像してみるが、航海初日に斑駒(父)から環礁にいた数名の人間は一時的に退避していると説明を受けたのを思い出して苦笑する。

茂みを抜けて様子を窺うと、既に酒匂であろう白っぽい人影は肉眼で辛うじて見える程に小さくなっていた。

 

(行くわよ酒匂さん⁉)

 

素早く波打ち際を離れると、蘇った艦娘としての知覚が酒匂の後ろ姿をはっきり捉える。

躊躇う事無くその後ろ姿に狙いを定めると一番砲塔の斉射、そして僅かに指向修正をした二番砲塔の斉射を続けて浴びせ、自身は微妙に転針して弾着を待つ。

 

(――三、二、一、今!)

 

妙高の予想通り酒匂は弾着直前に気が付き、こちらを振り返りざま何とかその二斉射を躱したが、もちろんそれは織り込み済みだ。

態勢を崩してがっくり速度が落ちた酒匂に向かって既に装弾済みの三番砲塔以後の斉射を続けざまに放ち、更にほんの少しだけ間合いをずらして高角砲の片舷斉射をも念の為に浴びせる。

距離が詰まっているため弾着までの時間もごく短く、体勢を崩した彼女がそれらを全弾避け切れるとは考え難かった。

 

(魚雷は⁉)

 

高速で航行している為に水測兵器が使えない。

まさかこんな形で九三式魚雷と言う兵器の恐ろしさを意識する事になろうとは予想だにしなかったが、どうやら酒匂には僅かな間隙を縫って魚雷を放つ余裕は無かった様で、反撃は全主砲の斉発が一度だけだった。

相変わらず不可思議な陽炎の様なそれがひゅんと風を切る様に傍らを掠めて行くのと同時に激しい衝撃が酒匂を吹き飛ばし、もんどり打って海面上を跳ねごろごろと転がる。

 

(私が行く迄沈んじゃ厭よ!)

 

最大戦速で彼女の許に走るが、その数分がとても長く感じられる。

が、幸いどうやら沈ませずに済んだ様で、肉眼ではっきり見える所迄接近すると、海面上にうずくまる様にして体を丸めている華奢な姿がそこにあった。

警戒しながら近づくが既に戦意を喪失しているらしく、すぐ傍迄近寄っても顔を上げようとしない。

姿形は自分達とそっくりだが、死体よりも更に不気味な青白い肌をして、雪の様に真っ白な髪はごく短めだ。

 

「酒匂さんですね?」

妙高が声を掛けると、不安気に上げたその顔には血の様に赤い瞳があった。

 

「ダレ?」

くぐもった様な作り物めいたその声は、それでもどこか幼さを感じさせる。

 

「一等巡洋艦の妙高です。本土に戻る事が出来ずにシンガポールで終戦を迎えたんですよ、聞いた事ないかしら?」

「シラナイ――ミョウコウ、シンガポール――ミョウコウ――シンガポール――シンガポール――――」

 

やはり駄目かと思いかけたその時、酒匂がその生気のない青白い顔をパッと輝かせる。

「シンガポール! ミョウコウ! タカオ! カミカゼ!」

「思い出してくれたんですね⁉ そうですその妙高です! 高雄さんも一緒ですよ⁉」

「ミョウコウ、タカオモイッショ――ナニシニキタ? ナゼキタ?」

「貴方に、日本に帰って来て貰いたくて迎えに来たんですよ」

 

日本という言葉を口にした途端、酒匂は俯きながら視線を逸らして自分の膝をきゅっと抱き締める。

 

「ニッポンキライ――ニッポンイカナイ、イヤ……」

 

「なぜ、日本が嫌いなんですか?」

そう尋ねて見ると、彼女はきっと眼差しを上げる。

血の様に赤いその瞳の奥に、どす黒い炎が燃え立つのがはっきりと見てとれた。

 

「ニッポン、サカワステタ!

 ベイテイ、サカワツレテッタ!

 ニッポン、ダレモコナイ!

 マッシロナヒカリ――

 アツイアツイヒカリ、サカワヤカレタ――――

 アツカッタノニ、コワカッタノニ――――

 サカワステタ!

 ニッポンステタ――

 ダカラキライ――

 キライ…………」

 

彼女は小さく震えていた。

 

見捨てられたと言う怒り、悲しみ、不安、恐怖――

それらに打ちのめされるその姿は、異形ではありながらも却って人間に近く見える。

 

そっと膝をついた妙高は、震えるその手に自分の手を重ね合わせる。

 

「私も、捨てられたんですよ」

 

「ミョウコウモ? ニッポン、ミョウコウステタノカ?」

「はい。降伏した帝国海軍は、私を憎い英軍に引き渡したんです。私は英軍の命令でマラッカ海峡に沈められました。私はまだ戦えたのに――まだ、船として日本の役に立つことも出来たのに――」

 

「ニッポン、ミョウコウステタノニ、ミョウコウ、ナゼニッポンスキカ? ナゼ?」

「別に、好きじゃありませんよ」

 

「――――ジャア、ナゼ?」

「私の故郷は、やっぱり日本しかないからです。仲間もそこにしかいないからですよ」

 

「ナカマ?」

 

「ええ、同じ艦隊の仲間ですよ。海の底の暗さも冷たさも寂しさも、皆同じ様に知っている仲間達ですよ」

 

「オナジ、ナカマ――」

 

「酒匂さんにも、お姉さん達が居ますよね?」

 

「オネエサン? オネエサン――オネエ――オネエチャン! ヤハギオネエチャン!」

 

「矢矧さんのこと、覚えていますか?」

 

「ヤハギオネエチャン、イッショニイケナカッタ――オネエチャン、カエッテコナカッタ――オネエチャン、アイタイ……」

 

酒匂の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。

 

「きっと、会えますよ」

 

「ホントウニ? ヤハギオネエチャンニ?」

 

「矢矧さんが沈んでいる所は判っています。もちろん何時と約束は出来ませんけど、日本に帰れば何時か必ず探しに行ける筈です。そうしたら、一緒に矢矧さんを捜しに行きましょう?」

 

「イク! オネエチャン、サガシニイク――アイタイ、ヤハギオネエチャン――アイタイ――」

 

大粒の涙を幾筋も流しながら、彼女は妙高にしがみ付いて来た。

小刻みに震える細い肩に手を回して抱き寄せると、酒匂は胸に顔を押し付けて啜り泣き始める。

 

「カエリタイ、ニッポンニカエリタイ――オネエチャンにアイたい、矢矧お姉ちゃん――会いたいよぉ――」

 

「大丈夫よ、きっと会えるわ――だから、一緒に日本に帰りましょう」

 

そう言って改めて両腕に力を込め、しっかりと彼女を抱き締める。

 

暫くそうしていると彼女の嗚咽も少しずつ治まって来たので、ゆっくりと身体を離した妙高は一瞬我が目を疑う。

 

「酒匂さん、貴方――」

 

彼女の不気味な青白い肌は、何時の間にかやや色白だが健康的な肌色に変わっており、青味を帯びた短めの黒髪が艶々としている。

そして、小さな顔に丸い大きな瞳が黒々としてとても愛らしい。

 

「なぁに?」

 

「――いえ、何でも無いわ。やっぱり貴方も私達の仲間なのね」

 

「酒匂も仲間?」

「ええ仲間よ、今から貴方も艦娘よ」

「ぴゃあ!」

 

彼女は無邪気な子犬か何かの様に、妙高に抱き付いて来る。

 

(こんなに素直に振舞えるのね――羨ましいわ)

 

「さあ、皆の所に行きましょう?」

そう言って立ち上がり艦娘の視覚で周囲を見回すが、一緒に立ち上がった酒匂が妙高の手をギュッと握っているのに気が付く。

 

これ迄の自分なら誰かのそういった振る舞いが鬱陶しくて仕方無かったのに、不思議な程に全く嫌悪を感じない。

 

「何も心配ないわ、私が付いててあげるから」

 

思わずそう口に出してしまい、何を言い出すのかと自分自身に戸惑うが、真っ直ぐに見詰め返して来る酒匂の無垢な瞳は、何故かとても心地良かった。

 



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〔第十章・第五節〕

 浅瀬を通過して環礁内に入らなければ魚雷が封じられたままになってしまうが、それでもその間は敵にとって格好の標的となってしまう。

指揮を任された高雄は、どうしてもその決断が出来ずに逡巡していた。

だがその時、赤城が大声で話し掛けて来る。

「高雄さん、浅瀬を抜ける時は私が援護射撃をします! その間に貴方は朧さんと一緒に環礁内に突入して下さい!」

その声を聞いて俄かに決意が湧き上がって来たので、急いで朧と赤城に指示を出す。

「私が先頭で浅瀬に進入します! 朧さんは私の直後に付いて下さい。危険を感じたら迷わず私の陰に隠れる事! 私達が浅瀬を渡り切って態勢を立て直したら、赤城さんも浅瀬を渡って下さい! 判りましたか⁉」

「はい!」

「では、行きます!」

 

一旦こうと決めてしまえば、彼女は躊躇すること無く行動出来る。

前方の浅瀬に真っ直ぐ近付き、敵弾が周囲に降って来るのも構わずそのまま踏み込む。

ただ、さすがに浅瀬が途切れていれば直ちに引き返さなければならない為、瞬きを忘れてしまったかの様に目を凝らす。

例え一時的にであっても艦娘の能力を喪失してしまえば、その間は全く無防備になってしまう。

 

(瀬が繋がっている所は――あそこね!)

 

背後に朧が付いて来ている物音を確認しながら進む。

自分の装甲ならば、至近距離でもない限り米軍の五インチ両用砲にも十分耐えられるが、駆逐艦はそうは行かないのだ。

がしかし、あと少しで浅瀬を抜けられると思い掛けたその時、不気味な亡霊の如く敵弾が飛来する。

 

(はっ!)

 

咄嗟に身を躱そうとするが、自分は避けられても後ろにいる朧に直撃しかねない事に気が付き、既の所で踏み止まる。

「た、高雄さん⁉」

いきなり振り返った高雄がぐいと腕を掴んだので朧は驚くが、構わず無言のままで力任せに彼女を引き寄せる。

自身よりも一回り小柄なその身体を小脇に抱え込み、背中を丸めて片肘を顔の前に突き出し思い切って加速する。

「痛っぁあっ!」

二の腕に灼け付く様な痛みが走り思わず声が出てしまうが、とうとう浅瀬を抜ける事が出来た。

腕の力を緩めて彼女を離し、すいっと背筋を伸ばすと直ちに敵に向き直り回避行動をとる。

 

「あ、あの高雄さん、申し訳ありませんでした!」

朧は恐縮し切った様に詫びて来るが、無論彼女が謝る理由など無い。

「謝る必要なんて何も無いわ、それよりも今は赤城さんの援護に集中してね」

「はい、判りました!」

そう元気良く応じた朧に満足して敵を射竦めるべく交互射撃を始めるが、反対舷に回り込んだ彼女が「ひっ!」と小さく息を飲む。

「どうしたの、朧さん⁉」

「高雄さん、腕――血が――」

言われて改めて己の腕を見ると、先程被弾した箇所のウェットスーツが引き裂けてその下の素肌から出血している。

全く気付いていなかったが、流れた血がスーツに黒い染みを作る程だったようだ。

「ア、アタシの所為で高雄さんにこんな――」

「この位大丈夫よ、それに貴方の所為でも無いわ⁉ だから気にしては駄目よ!」

「は、はい――」

 

そう返事をした彼女の顔が少々蒼褪めているのが気にはなったものの、今はどう考えてもゆっくり話をしていられる状況ではない。

高角砲まで動員して間断なく射撃を浴びせながらひたすら時間を稼いでいると、やっと背後から赤城の大きな声が響く。

「お二人共有難うございます! 無事抜けましたよ⁉」

それに反応して彼女を振り返り、

「それでは早速反撃に――」

と言い掛けたその時、視界の隅に異常を感じると同時に赤城が声を上げる。

「朧さん、どうしたんですか⁉」

慌てて顧みると、一体どうした事か彼女は敵に向かって一人で(間違い無く最大戦速で)飛び出して行く。

「待ちなさい朧さん! 一人で行っては駄目よ⁉」

叫んだ高雄の声が耳に達していないとは思え無いにも関わらず、彼女は引き返すどころか減速する気配も見せずにそのまま突進して行く。

「何かあったのですか?」

赤城の問い掛けに、高雄は腕を示して見せる。

「恐らくこれを気にしているんだとは思いますが――兎に角追い掛けましょう!」

「ええ!」

 

二人は一気に増速しながら、敵の動きを見極める。

突出する朧に対してすばしっこく側面に回り込もうとしているのが恐らく駆逐艦だろう。

どちらかと言うとこちらの方が危険な相手の筈だった。

「私が駆逐艦を抑えます! 赤城さんはサラトガをお願い出来ますか⁉」

「了解です! 気を付けて⁉」

短く言葉を交わすと、高雄はさらに増速して敵の針路を塞ぐ様に転針しながら、頭の中では雷撃の準備を整える。

素早く射三角を弾き出すと、躊躇う事無く片舷八射線を角度を絞った開進射で目立たぬ様に射出する。

そうしておいてから何食わぬ顔で敵の頭を押さえる様に盛んに交互射撃を加えるが、こちらが敵の砲撃をほぼ確実に回避出来る様に、敵も悉くこちらの射撃を回避して来る。

だがそれによって、敵は自分の放った雷道の扇上に誘き出されている事には気付いていない様子だ。

 

(ふっ、馬鹿め♪)

 

次々と至近距離を掠めて行く敵弾を躱しながらほくそ笑むが、その時斜め前方の海面に白い不自然な線が複数浮かび上がる。

 

(雷跡! な、何よやってくれるわね⁉)

 

際どくそれを躱して体勢を立て直した途端前方に大きな水柱が上がり、敵が木の葉の様に吹き上げられるのが見えた。

 

(あっ――!)

 

それは、思わず腋を締めたくなる様な薄ら寒い光景だった。

 

高雄の艦娘としての視界の中で、小さな人間の様な姿をした物体が、まるで高速度映像の様にゆっくりと落下して行く。

が、既にその姿は二つ――いや三つだろうか――に分かれてしまっていたのだ。

それを見た瞬間、自分の中で何かがすっと冷える。

 

(あれは、私達の誰かだったかも知れないのね……)

 

その恐ろしい実感が身体を強張らせてしまうより先に、彼女はくるりと踵を返す。

赤城や朧をあんな目に遭わせる訳には行かないと思うと同時に、それのみならずサラトガに対する気持ちも変わってしまっていた。

つい先程迄は一泡吹かせてやろうと言う気が漲っていたのに、今はもしも彼女が矛を収めてくれるのならそのまま見逃しても良いと言う気になっている。

しかし、どうやらそれが間に合うかどうかは微妙な処の様だ。

転針して二人の後を追い掛けて見ると、朧は怖いもの知らずの勢いで猪突猛進しているがその勢いを赤城は巧みに利用しており、上手くサラトガを挟撃する態勢に持ち込んでいる。

 

(赤城さん、やはり戦巧者だわ)

 

サラトガは既に複数の命中弾を受けているらしく、動きが鈍くなっている。今なら、もし意思の疎通が出来れば彼女は退くかも知れない。

そう考えた高雄は素早く接近すると、赤城と朧(とあわよくばサラトガにも)から良く見える様な位置に進入して大きく腕を振り上げて旋回して見せる。

すると赤城はすぐに心付いた様で、なおも射撃は継続しながらも敵から距離を置き始める。

そして何よりサラトガも高雄の様子を目に留めたらしく、転針して距離を取ろうとし始めた。

 

(やったわ!)

 

ところが、朧には全く伝わった様子が無い。

そればかりか、下がり始めたサラトガに対して更に肉薄し様としている。

 

(雷撃する気ね⁉)

 

「朧さん、止めなさい!」

咄嗟にそう叫ぶと増速して彼女を追い掛けるが、そもそも優速の相手なので並大抵の事では無い。

タービンが吹き飛ぶのではないかと言う位限界迄加速し、無駄とは思いながらも呼び掛け続ける。

「朧さん! もう止めなさい! 朧さん⁉ 聞こえ無いの⁉」

だが彼女は全く反応する事無く、そのままサラトガの至近距離に迄到達するとやや減速して大きな横旋回に移る。

「駄目ぇっ!」

思わず声が出てしまうが、それも空しく彼女は明らかに魚雷を射出してしまった様な振舞いを見せ、尚もサラトガに向かって砲撃を続ける。

最早声を掛ける余裕も無く朧の許へ突進するが、その時水柱が上がりサラトガがぐらりと倒れ掛かる。

それだけでは終わらず更に続けて二本の水柱が立ち、さしもの彼女も吹き飛ばされる。

 

(何てこと⁉)

 

遣り場の無い怒りに苛まれる高雄の目に飛び込んで来たのは、倒れたサラトガに向かって更に発砲する朧の姿だった。

思わずカッとして猛然と彼女に接近すると、物も言わずに横から乱暴に突き飛ばす。

頭から一回転して海面に尻餅を搗いた朧は、一瞬何を思ったのか高雄に向かってさっと腕を上げ掛けたが、それが更に高雄の怒りに油を注ぐ。

 

いい加減にしなさいっ! もう終わったのよ⁉

 

大音声(だいおんじょう)で怒鳴り付けながら彼女を睨み付けると、一体誰なのかと思わず目を疑う程別人の様な顔をしている。

 

(何なのこの顔⁉)

 

何かに憑かれた様な吊り上った目は血の様に赤く、まるで刃物で切り欠いた様な裂け目にも似た口とこけた頬が目立つその顔は、血の気が無く真っ白だ。

その上気の所為なのか髪の色も見慣れた狐色では無く、白っぽく変色している様に見える。

だが、高雄が怒鳴り付けた所為なのかそれは急激に変わり始め、見る見る何時もの彼女の顔付きに戻って行くと同時にがたがたと震えだす。

 

「た、高雄さん――ア、アタシ一体何を……」

 

何がそこ迄彼女を追い詰めていたものか判らないが、どうやら朧は激情に駆られて正気を失っていたらしい。

それは判ったものの、正直な処高雄自身も煮えたぎる怒りを抑えかねており、冷静に彼女に接する事が出来そうに無いと感じたので、そのまま朧を無視してサラトガに近付く。

不気味な青白い肌をして体に巻き付く程長い真っ白な髪を蓄えた彼女は、既に半ば迄沈み掛けていたものの、まだ辛うじて浮いてはいた。

とは言ってもまだ浮いていると言うだけで体のあちこちからは奇妙な色の体液らしきものを流し、左腕はひじから先が無くなっていると言う有様だ。

 

「……(ナンノツモリダ?)」

 

彼女が発したのは明らかに日本語では無かった筈だが、何故か高雄には意味が理解出来た。

 

「もう助けることは出来無いかしら?」

 

「ミレバワカル、オマエタチノシタコトダ」

 

「御免なさい、こんな積もりでは無かったのよ」

 

「ソレモワカル、ダガアノデストロイヤーハチガウツモリダッタヨウダ」

 

「あの娘を責める気は無いわ、きっと自分を見失う位必死だったのよ」

 

「ヨクイイキカセルコトダ、キョウハワタシダッタガ、ツギハオマエカモシレヌトナ」

 

「あの娘に言って聞かせるだけじゃ無くて、私も肝に銘じておくわね」

 

「ソウダナ、ソレガイイ」

 

「ねぇ――本当にもう無理? 私達が手を貸せば何とかならない?」

 

「ムリヲイウナ、ダイイチタスケラレタワタシハドウスレバイイノダ?」

 

「私達と一緒に日本に来ない?」

 

「ジョウダンモホドホドニシロ、ソレコソムリナソウダンダ」

 

「ねぇ知ってる? 私達が海底に放置されてた七十年の間に、日本と米国は同盟国になってたのよ?」

 

それを聞いたサラトガは、一瞬ぽかんとした後で苦虫を噛み潰した様なしかめ面になる。

 

「イカニモ、サカシラナニンゲンドモノヤリソウナコトダ……」

 

「だから貴方が日本に来たってなんの不思議も無くなってるのよ? それでも駄目?」

 

「――ヤハリソレハデキヌ、ワタシハオマエタチトタタカッタソノコウセキデ、イクツモクンショウヲモラッタノダ――。イマノアメリカハシラヌガ、ワガソコクハヤハリウラギレヌ……」

 

「でも、貴方はその祖国に実験台にされたんでしょう⁉ なのに何故――」

 

「イウナ! ソレデモヤハリデキヌノダ――。アキラメテ、オマエノカエルベキバショヘ――ナカマタチノモトヘカエレ」

 

「そう――判ったわ、何時かもう一度また会えるのかしら?」

 

「オソラクソウナルダロウ、コノノロワレシカンショウニワガミノアルカギリ、イツノヒカマタアイマミエルコトニナルダロウナ」

 

「今度はもっと違う形で会えたら良いわね」

 

「ソレコソママナラヌモノダトハオモウガナ――。オマエノナヲオシエテクレ、ニッポンノクルーザーヨ」

 

「私は、帝国海軍の一等巡洋艦高雄よ」

 

「タカオカ、オボエテオコウ。――――ドウヤラトキガキタヨウダ、サラバダタカオ」

 

そう口にすると、彼女は最後の力を振り絞って右手を差し伸べる。

 

「また何時かね、サラトガ……」

 

そう言いながら高雄が手を伸ばしてその手に触れると、

満足気な笑みを浮かべた彼女はゆっくりと目を閉じ、

そのまま静かに沈んでいった。

 

水面(みなも)からその姿を見送る高雄の瞳に、どうし様も無く涙が溢れて来る。

判り合えるとか合え無いとか言う以前に、自分は未熟だったのだ。

自らも心を抱いて、同じ様に心を持つ相手と対峙することが如何なる事であるのかと言うことも想像すら出来ていなかったのだから。

 

「高雄さん」

 

背後から赤城の声がする。

振り向くと彼女は、涙を浮かべて小刻みに震える怯えた様な朧の肩にそっと手を回して立っていた。

その姿を見た高雄の心中に、また新たに悔恨が滲んでくる。

朧に何か声を掛け様かと思ったのだが、気の利いた言葉が何も出て来ないので無言ですっと両腕を広げると彼女の瞳を見詰める。

見詰められた朧ははっとした様な顔になり、一瞬の後弾かれた様に高雄の胸に飛び込んで来るそのまま号泣する。

 

「もう良いのよ、私が間違っていたわ……」

 

激しく泣きじゃくる朧を抱きしめる高雄に、赤城が声を掛ける。

「貴方達は、これ以上無いと言う位に立派に為すべき事を為したのです――。誰からも責められる謂れなどありませんよ?」

「有難うございます。でも――私達は誰かに褒めて貰う為に、こんな事をしている訳では無いと思います。自らの心の許す処に従って、為すべきことを為すのみなのでは無いでしょうか。どれ程過ちを繰り返し積み重ね様とも、何時か私達の手で運命を切り開くことが出来るその日迄は、それこそ何度でも……」

 

その言葉を聞いた彼女は、何やら眩しそうに高雄を見詰めた。

「それでも、今朝迄の貴方を知っている者であれば、今の貴方を褒めたくなると思いますよ」

そう感慨深げに言って、水平線の彼方を見やる。

その視線を追った高雄の目に、遠く二つの人影が近付いて来るのが見えた。

 



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〔第十章・第六節〕

 妙高隊の巧みな陽動によって、敵は見事に二手に別れる。

「残る三隻の内長門さん、アーカンソーは容易に推測出来ますが、後一隻は何者なのかが気になります。それにしても妙高さんは騙したり欺いたりするのが得意ですね、お里が知れると言うものです」

「加賀ちゃん、もう少し私情を交えずに報告してくれないかしら?」

「これは私見では無く客観的評価なのですが――とは申しましても、旗艦の指示とあらば致し方ありませんので仰る通りに致します」

 

(全く困ったものね♪ まぁ、最初に覚悟してたよりは随分ましなんだけど)

 

どちらにせよ今は決断しなければならない時だったし、ゆっくりそれに付き合っていられる状況では無い。

もう一隻の正体に付いて手掛かりが無い状態ではあるが、その判断によって自分たちの行動は大きく制限される。

 

(酒匂さん、貴方はどちらにいるの?)

 

九三式魚雷に備える為にはどうしても水測兵器を使う必要があり、それが故に戦闘速度がとれなければ恰好の砲撃の的になってしまう。

敵の駆逐艦は二隻のうち一方しか魚雷を持っておらず、しかも当時のMk十五であれば雷跡に注意している限りはそれ程恐ろしい物では無い。

だが、今のところそれを判断出来る根拠は何も無かった。

 

(直観で決めるしかない――と言うことね)

 

「陸奥殿、如何なさいますかの?」

初春が声を掛けて来たその時、突然頭の中に黒い火花の様なものが閃くと同時に、何者かの声なのか考えなのかは判らないものの、はっきりとした言葉が脳裏に響く。

 

(オロカモノドモメ、ショウコリモナイ――)

「誰⁉」

思わず声が出てしまい、初春らが怪訝そうな顔をする。

「陸奥さん、どうしたの?」

子の日が聞いて来るので「今ね――」と言いながら声が聞こえた(様な気がした)方角を見やったその目に、不思議な大気の揺らめきの様なものが飛び込んで来る。

「皆、あれ!」

そう叫びながら指差すのが精一杯だったが、全員ほぼ同時に異変を感じ取れたらしい。

その奇妙な何かは全員が見守る中右舷前方に外れた海面に落下すると、それと共にズドォーンという鈍く重い弾着音が響き、一際大きな水柱が上がる。

 

(姉さん!)

 

「陸奥さん、これは四十一糎砲弾なのではありませんか?」

加賀に指摘される迄も無く、陸奥にとっては改めて確認する事ですら無かった。

「加賀ちゃん、直ちに敵の配置を確認して! 今の砲撃が行われた射点も出来れば知りたいわ⁉」

彼女は例によって返事もせずに航空索敵に入り、子の日が素早くその手を掴みに行く。

「これもまた警告なんですかねぇ~?」

「たぶん間違い無いと思うわ、あたし――」

「どうしたんですかぁ?」

「実はさっきね、頭の中に声が聞こえたの」

「真に御座りますか⁉」

「もちろん気の所為かも知れないけど、でもその言葉の直後にあれが降って来たのよ」

「びっくりしましたよねぇ~、弾が見えちゃうんですねぇ」

「さりながら、あり得ぬ事には御座りますまい。陸奥殿と長門殿とはご姉妹にてあられる故、離れていながら心に通じ合う何かがあってもおかしくは御座りませぬ」

「陸奥さん!」

子の日が声を上げるので、素早く彼女と加賀の所に近付く。

「敵は概ね二隻と一隻に分かれております。向かって左舷側に位置する二隻がこちらに向かって距離を詰めて来ていますが、右舷側の一隻はゆっくりとしか移動していない様です。ですが、先程の砲撃の射点は明らかにその一隻だと思われます」

加賀の言葉を聞き終わるより先に陸奥は艦娘の視覚で水平線の彼方を見渡し、彼女の言葉を概ね追認する。

 

(姉さん、あたしの声は聞こえてるの? もし聞こえるなら返事をして!)

 

が、もう先程の様な声は聞こえてこない。

ならば仕方無いだろう、その事によって逆に陸奥の決心は固まった。

状況からして、姉が単艦で行動していて酒匂が米艦に随伴していると言うのはどう考えても不自然に思える。

「加賀ちゃん有難う、もういいわ。皆聞いて頂戴! これより概ね十二時方向に陸奥、加賀、初春、子の日、龍田の単縦陣で第三戦速にて進行します。その先にいるのは、アーカンソーと随伴の駆逐艦で間違い無いと思うわ。どうせ雑音で使い物にならないとは思うけど、念の為に雷走音には聞き耳を立てておいてね⁉ では前進!」

 

先頭を切って進みながら、敵の測距を続ける。

事前に調べた限りでは米艦の主力火器のほとんどが五インチの両用砲であり、それ以外に長射程の火器を持っているのはアーカンソー(と姉と酒匂)だけの筈だ。

彼我の距離は急速に縮まり、加賀の主砲も射程圏内に入る。

 

(よし、やるわよ!)

 

「全艦、方位五〇に回頭! 旗艦と加賀は統一射撃ヨーイッ!」

加賀にとっては射程ぎりぎりにはなるが、つい先程弾が見える事を知った以上、出来る限り多数の火器を同時に撃ち込むのが効果的だと考えたのだ。はっきりと手掛かりは無いものの、より遠方から視認出来る様子からして恐らくアーカンソーであろうと思われる敵を標的に定める。

「一斉撃ち方ヨーイッ――、撃―ッ!」

派手な発砲音も何も無いが、陸奥の主砲八門と加賀の主砲片舷五門とを動員したそれなりの火力の射撃である。

弾着を待つ間に直ぐに次射の準備を整える様指示を出すが、この構成での砲撃はあと一射と言う処だろうか。

「次発装填ヨシ!」

加賀が先に声を上げるが、陸奥が斉発出来る迄にはもう少し掛かる。

弾着とほぼ同時位だろうかと思いながら、敵を凝視し続ける。

 

(三、二、一、あっ⁉)

 

「やりました!」

思わずと言った態で加賀が声を出したので、結果が全員に伝わった。

初速の大きい加賀の二十糎弾が僅かに早く弾着し、予想通り敵はそれらを難無く躱していた。

ところが偶然にもその回避した先が遅れて弾着した陸奥の弾道にまともに重なっていた為、それら全てを躱し切れずに一発が直撃した様だ。

「加賀ちゃん、次射行くわよ⁉」

「はいっ!」

測距儀に捉えた敵は、がっくりと船足が落ちている。

まだ敵の射程外にいる筈なので、応戦も出来ないとすれば次にどうするのかと見ていると、彼らは右に――恐らくは長門がいると思われる方向に――転針した。

傍観し様としている姉を巻き込もうと言う魂胆なのだろうか。

 

(やらせないわよ⁉)

 

素早く的針、的速を見積もると加賀に指示を出し、準備を整える。

「撃ち方ヨーイッ、撃―ッ!」

次射からは更に龍田と陸奥の副砲が加わり、更に次からは初春と子の日も加わる事になるが敵も応射して来る筈だ。

その前に出来る限り無力化しておきたい処だが、残念ながら用心深くなった敵は全弾を回避してしまう。

「陸奥殿、水雷戦の許可を頂けますまいか!」

接近して来た初春が声を掛けて来る。

無論、陸奥もその可能性を考えていない訳では無い。

自分と加賀以外の三人は戦艦に対しては遥かに優速でもあり、砲撃を悉く回避されてしまう可能性がある以上、砲戦と同時に水雷戦を挑むのは順当なところであるが……。

「龍田ちゃん! 子の日ちゃん!」

陸奥が腕を振り上げながら大声を出すと、彼女らが滑る様に接近して来る。

「敵弾を全て躱しながら雷撃出来る?」

陸奥が問いかけると龍田は初春、子の日にさっと視線を投げ掛けるが、二人の反応は聞く迄も無い様だった。

「危険を冒しては駄目って事ですよねぇー、ご期待に沿える様に細心の注意を払って行きますよぉ」

相変わらず緊張感の無い言い方だが、龍田の目には良い加減な色は無い。

「では各艦初射のみとして頂戴。初射が終われば、結果を見届けずにまた合流すること。その間の指揮は龍田ちゃんに任せるわ! あと――長門には十分注意してね」

「了解しましたぁ、それじゃあ二人共私に続いて下さいねぇ~、第五戦速ですよぉ」

陸奥に敬礼した龍田は、それだけ言うとまるで散歩にでも出掛ける様に気負った様子も無くすーっと増速して離れて行き、初春と子の日がやはり陸奥に敬礼してその後に続く。

「さぁ加賀ちゃん、休まずに続けて行くわよ⁉」

「陸奥さん――長門さんが戦闘に加わって来られた場合はどうされますか?」

彼女だけでなく皆がそれを気遣ってくれている事はとても有難いとは思うが、陸奥自身には不思議な程迷いが無い。

「例え姉さんであってもあたしの仲間を傷付けさせる訳には行かないわ。だから、全力で応戦する積もりよ」

躊躇う事無くそう返答すると、珍しく加賀は口元に明らかな微笑を浮かべる。

「安心致しました。私は決して砲戦が得手とは言えませんが、どうか存分にお使い下さい」

「もちろん! 頼りにしてるわよ!」

間も無く敵も応射して来る筈だろう。

本格的な戦闘は、まだこれからだった。

 



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〔第十章・第七節〕

 龍田らが接近すると敵は盛んに砲撃を浴びせて来たので、それを回避しつつ応戦する。

 

(長門さんには近付いて欲しく無いんですけどぉ~)

 

既に陸奥も気付いているだろうが、やはりもう一隻は駆逐艦だった様で、後は魚雷を持っているか否かだけが不明だった。

船足が落ちたアーカンソーの頭を押さえるのは容易い事だが、駆逐艦が素早く回り込んで来ては妨害するので中々思うに任せない。

とは言え、敵は自分達のみならず陸奥と加賀からの砲撃にも対処しなければならず、次第に回避にも限界が見え始めていた。

 

(もう少しで隙が出来そうね~♪)

 

このまま長門が傍観し続けてくれればこの二隻を叩くのは左程難しく無さそうだが、その一点だけが何とも言えない不安材料だった。

 

(陸奥さんの声が、届いてくれれば良いんですけどねぇ)

 

姉妹と言うのは本当に心が通じ合うものなのだろうか。

ふと自分の姉妹である天龍の事が頭に浮かぶが、正直な処どうしても会いたいと思っている訳では無い。

もし会えたなら自分は嬉しいのだろうかなどと、まるで他人事の様な興味が湧くだけだ。

それよりも龍田が艦娘として最初に目覚めた時からずっと思い続けている事は、この新たな枷から一日も早く解放して欲しいということだった。

光も届かぬ暗黒の海底に縛られている鉄の我が身は、忘れ様として忘れられる様なものでは無い事をつくづく思い知らされていたのだ。

毎夜眠りに就く度に、この心と言う厄介なものを持った女の身体のままで冷たく暗い奈落の底で目を覚ますと言う悪夢に、彼女は際限もなく付き纏われている。

何時か天龍が現れて龍田をこの苦しみから救ってくれると言うのであればともかく、そんな夢の様な事が起こる筈も無い。

この先一体どれ程の年月を過ごす事になるのか見当も付か無いが、自らの船体が引揚げられる迄は歯を食い縛って耐え続けるしかないのだろうか。

それでも悩んだり苦しんだりしている様を仲間に見せるのは何となく癪に障るので、出来るだけ鷹揚にのほほんとした振舞いを今日迄演じ続けて来た。

ところがそんな風に過ごしている内に、最近は何となくそれが自分の地である様な気にすらなって来ている。

 

(似た様な事を考えてるもんなのねぇ……)

 

仲間達と過ごす内に、妙高が表には出さない本音の様なものを抱えているらしい事が判ったのも自分と同じ匂いを感じ取ったからなのだ

にも関わらず、その彼女はほんの数日前にそれらを陸奥に曝け出してから、何やら少し雰囲気が変わってしまった様だ。

 

(正直、ちょーっと羨ましいかもぉ♪)

 

陸奥はちゃんと龍田のことも慮ってくれていたし、何より自分と同じ恐れを抱いていた事迄話してくれたのだから、あの時素直に自分の胸の内をぶちまけていたならば、きっと今頃はもう少し心が軽くなっていたかも知れない。

 

(我ながら、こんなに意地っ張りさんだったなんて全然気付かなかったんですけど!)

 

陸奥はもちろん仲間達の事も十二分に信頼しているし、彼女達を大切にしたいと言う強い衝動にも似た気持ちが自分の中にあるのも理解しているのだが、どうにも素直にはなれない龍田が居ることもまた事実なのだ。

 

そんな事をぼんやりと考えていると、最前から目障りな動きを続けていた敵駆逐艦が、今しも弾着した陸奥と加賀の砲撃を十分に躱し切れずに至近弾で態勢を崩して船足を落としてしまう。

「二人共ぉー絶好の機会ですよぉ~♪ 用意は良いですかぁ?」

そう声を掛けると、初春と子の日は綺麗に揃った返答をきびきびと返す。

「はいっ!」

「それじゃあ最大戦速ですよ~!」

そう言って龍田は鋭く敵に切り込む様に転針し、一段と増速する。

その動きを見た敵は慌てて態勢を立て直そうとするが、素早く動けるのは駆逐艦のみな上に陸奥と加賀が間断なく砲撃を加えて来る。

その正確な砲撃を躱しながらでは到底思う様な位置取りが出来ず、見る見る内に死地へと追い込まれて行く。

「私から行きますよぉ~、射ったら砲撃しながら反転・撤退ですよぉ、良いですねぇー?」

改めてそう確認すると、一々二人の返事を待つことはせずにそのまま魚雷を投射する態勢に入る。

三人の中では初春だけが強力な九三式魚雷を射てるが、子の日も九〇式を射つことが出来る。

魚雷の性能が最も劣るのは自分自身なので、自らが露払いとなって先に二人の援護に回るのが妥当な処だろう。

敵の頭を押さえる様に続けざまに六射線全てを射出してしまうと素早く反転して初春に射点を譲り、砲撃に切り替える。

続いた初春も素早く射出を終えて反転すると敵を射竦めるべく砲撃に加わり、更に続いて子の日も遅れること無く射出態勢に入る。

 

(後少しねぇ~)

 

龍田がそう思ったその瞬間、頭の中にぱしっと鋭い音が響いて真っ黒な火花が散った様な感覚がある。

それが何なのか直ぐには理解出来無いが、自分の中の軍艦の本能の様なものが危険を知らせていた。

咄嗟に子の日に声を掛け様とするが、今まさに射出態勢に入っている彼女に迂闊に指示を出すと混乱して却って危険かも知れない。

ぐっと奥歯を噛み締めてその僅か数秒間を耐え忍び、彼女が射出を終えたと見るや鋭く声を上げる。

「子の日ちゃん! 砲撃はいいから急いで⁉」

思わず素になってしまうが、そんな事を気にしている場合では無いと言う焦燥感が募る。

しかしながらどうやらそれは一瞬遅かった様で、宙を見上げた龍田の目に、禍々しい気の塊の様な揺らめきが八つ、丁度反転し様としている子の日に襲い掛かろうとしているのが映る。

「躱すのじゃ子の日よ!」

初春の叫びに呼応して、子の日はよろめき身を捩りながらも必死に回頭してそれらを回避し様とする。

 

(ぎりぎりだわ!)

 

彼女はどうにか回頭を終えて増速し始め、それこそ紙一重で直撃は避けられそうだが襲って来た一撃は恐らく四十一糎砲弾であり、並の衝撃ではない筈だ。

そう思うのと同時に、龍田は自然に反転していた。

何をし様とか頭で考えていた訳では無いが、不思議な程迷いも無く冷静だった。

一瞬ののち、体が芯から揺さ振られる様な鈍く重たい轟音と共に、逃げる子の日のすぐ背後に弾着の水柱が白い山脈のように重なり合って立ち上がる。

その凄まじい衝撃で斜め前方に――龍田の方に向かって――吹き飛ばされた彼女は、宙に舞い上がると海面に落下して跳ね返り再び叩き付けられる。

 

立つのじゃ! 止まってはならぬ!

 

初春の悲鳴の様な叫びがまだ衝撃で意識が混濁しているらしい彼女を蹌踉と立ち上がらせるが、先程とは別の方角からの砲撃が邪悪な幽鬼の如く手を伸ばして来る。

急に時の流れが遅くなった様に龍田の視界に映る全ての動きがゆっくりとし始め、益々己が何をし様としているのかがはっきりしてしまう。

 

(何だか不思議ですねぇー、何でこんな事し様としてるのかしらぁ~)

 

ふとそんな風に何時もの調子で自問して見るが、答えなぞ問う迄も無い事だった。

蜃気楼の様に妖しく揺らめく死の咢が彼女を絡め捕ろうとするその刹那、龍田は僅かに早くその場に辿り着く。

そして、驚愕の表情を浮かべて自分を見た子の日に向かって何とか笑顔を作った積もりなのだが、上手く笑えていたかどうかは判ら無い。

躊躇うこと無く両手で力任せに彼女を突き飛ばすと、自分自身も出来るだけ体を丸めて低い姿勢を取って腕で頭を庇おうとしたが、そこ迄完璧に遣って退けられる程時間は無かった様だ。

 

周囲の世界が見る見る内に金色の光に満たされて行き、陸奥や仲間達の笑顔が見えて来る。

 

(陸奥さん済みませぇん、危険は冒さ無いって約束破っちゃいましたねぇ……)

 

更に良く見ていると、仲間達の中にはっきりと判ら無い顔が一つ混じっているのに気が付く。

 

不思議な事に誰かすら定かで無いのにも関わらず、何故か笑っているのは判るのだ。

 

あれは誰なのだろう、

長門なのか酒匂なのか――――

それとも――

ひょっとして天龍なのだろうか?

 

(でもぉーちょーっと遅かったかしらぁ――――残念だけどぉ、会うのは無理見たいよぉ~?)

 

次第に光は強くなり、やがて視界の全てが金色一色に塗り潰されてしまう。

 

何だかその光に触れる事が出来る様な気がして、そっと手を伸ばしてみる。

 

(あら~あったかいのねぇ……)

 

ぼんやりとそう思いながら、

経験した事も無い程に穏やかで、

寛いでいる自分を感じる。

 

(今なら、あんな厭な夢も見ないでゆっくり眠れそうね~……)

 

龍田は、初めて安心して目を閉じた。

 



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〔第十章・第八節〕

 三人が上手く敵の頭を押さえ込んで長門に近付かせない様にしてくれているので、陸奥と加賀も徹底して敵の動きを妨げる様な砲撃を加え続けていた。

そしてついに敵に隙が出来、間髪を入れず龍田らは雷撃の態勢に入る。

「加賀ちゃん! 的側に弾着を――」

 

彼女らを援護し様とそう言い掛けた時、またも頭の中に(恐らく姉の)声が響くと共に真っ黒な閃光が奔る。

(ニンゲンノテサキドモメ、チョロチョロトメザワリナ!)

「やめて姉さん! 仲間を撃つ気なの⁉」

思わず叫んだその声を聞き付けて加賀が言葉を発し掛けるが、陸奥の様子を見て口を噤む。

(ナンダコレハ! テキノコエガキコエテイルノカ⁉)

(敵じゃないわ仲間よ⁉ 目を覚まして姉さん!)

(フザケルナ! ネエサンナドト、ワタシノタイセツナイモウトヲカタルキカ⁉ タダデハスマサヌゾ!)

(偽物なんかじゃないわ、あたしは陸奥よ! 姉さん判らないの⁉)

(ウソヲツケ! ワガイモウトハ――ムツハアノヒ、ワタシノメノマエデシズンデイッタノダ! ワタシハタスケルドコロカ、ソバニイテミトッテヤルコトスラデキナカッタ――イマイマシイニンゲンドモノセイデ!)

(人間達にはあたし達の事が判らなかったのよ⁉ 只愚かだっただけだわ――愚かな事が罪だって言うんなら、あたし達だって偉そうに言えた義理じゃない筈よ?)

(ダマレニンゲンドモノテサキメ! キサマガホントウニムツダトイウナラ、ナゼニンゲンドモノカタヲモツノダ⁉)

(一方的に人間の味方をする積もりなんか無いわ! 姉さんは今、恨みや憎しみに囚われてまともに物事を見られなくなってるだけよ⁉)

(ニセモノメ、マダヘラズグチヲタタクカ⁉ ムツナラゼッタイニソンナコトハイワヌ! モウキクミミハモタヌゾ!)

(待って姉さん! 姉さん⁉ 姉さん⁉)

 

どれ程呼び掛けても、もう姉が応じる気配は無かった。

 

我に返った陸奥は傍らにいる加賀を顧みるが、彼女の様子からして姉との会話は精々数秒間の出来事だった様だ。

それなりに長い時間だった様にも感じていたのだが、意識の中の世界と現実世界とでは時間の経過も異なるのだろうか。

「陸奥さん、長門さんは何と?」

「姉さんは龍田ちゃん達を撃つ積もりだわ! 付いて来て⁉」

「はい!」

直ちに転針して最大戦速で三人の許へと急ぐが、姉は焦りを感じる程の時間すら与えてくれなかった。

陸奥の視界の中で、雷撃を終えて急反転する子の日の背後に一際大きな水柱が幾本も立ち、彼女がまるで棒切れか何かの様に弾き飛ばされて転がる。

「子の日ちゃんっ!」

思わず叫んでしまうが、その直後更に恐ろしい出来事を目の当たりにする。

よろめきながら立ち上がる子の日は絶好の砲撃の的であり、それこそ届く訳が無い事は知りながらも大声で警告し様としたその時、何時反転したものか龍田が間近に迄迫っていた。

そして彼女が勢い良く子の日を突き飛ばすのとほぼ同時に、新たな水柱が龍田のいるその場所に幾本も重なって立つ。

 

「あっ!」

 

声を上げた――いや、上げる事が出来た――のは加賀のみで、陸奥はその瞬間世界が白い閃光に包まれたような錯覚に陥り、茫然としていた。

 

立体感が薄い一面真っ白な世界に、

これまたほとんど色を為さない水柱が何本も立つその光景の中で、

黒々とした作り物の人形の様な龍田の体が、

奇妙な非現実感と共にふわふわと宙を舞っている。

 

それは果てしなく続くかと思われる程長い長い時間でもあり、

瞬きする時間も無い程の束の間でもあったが、

それが始まったときと同様唐突に終わり、

彼女は海面に叩き付けられ、

物の様に跳ね転がって動かなくなる。

 

実の処この時から幾らも経たぬ内に、ここより少し左舷側に離れたところで先程よりもさらに巨大な水柱が何本も立ち上がって、二つの針金細工の様な人影が宙に舞き上げられた後に波間に消えていくのだが、これ以後の成り行きが陸奥の関心を呼び起こすことはなかった。

 

加賀ちゃん、後ハオネガイ

 

「はっ、え――」

 

その異様に低く据わった声に驚いた加賀は返事をし様として振り返るが、凡そ目にした事も無い彼女の姿を見るなり言葉が喉に詰まってしまう。

 

赫怒するとはこの様な態を言うのだろうか、陸奥の髪は(しろがね)の輝きを帯び、血の気を失った様な真っ白な顔に血の様に赤い瞳が爛々と燃えていた。

 

(許さナイ――絶対ニユルサないから!)

 

体内の血がまるで全て溶岩に置き換わってしまった様に煮え滾っていて、その凄まじい熱で全身が二た周り程膨れ上がってしまった気分だった。

体を焼き尽くす様なその怒りは己自身に秘められている力を全て絞り尽くすかの如く増大させており、遠い昔の過負荷全力公試でも出した事の無い速度で矢の様に突き進むことが出来る。

自分を偽物と思い込んでいる長門はもちろん容赦なく砲撃を加えて来るが、それらはどれも全く中る気がしない。

 

(アタシノ大切な仲間を奪っタノヨ――その報いはウケテモラウワ!)

 

激しい怒りが余計な感情を全て押し流してしまい、信じられ無い程心が研ぎ澄まされている様で、認識力や判断力とでも言うのかそれらが己の体を突き抜けて拡がって行く様な奇妙な感覚がある。

その所為なのか、長門が発砲して来る間合いや転針する方向などがまるで未来が見えるかの様に明瞭に見えてしまい、次々に姉を追い込むような正確無比の射撃を繰り出せる。

だがさすがに姉は手強く、陸奥の厳しい砲撃を全て紙一重で躱して行き、至近弾でも容易には態勢を崩さない。

 

(構わないわ、砲撃でケリヲツケラれないんだったら傍迄行ってオモイキリタタキノメシテヤル!)

 

怒りに任せてそう思うと、奥歯に力を入れて拳を固く握り締める。

にも関わらずそんな激しい感情には全く影響されないのか、陸奥の艦娘としての体は全く倦む事無く砲撃を続けていた。

少しずつ位相をずらした交互射撃に副砲の片舷斉射、更には高角砲の片舷斉射も取り混ぜて一瞬たりとも攻撃の手は緩めない。

そして姉もまた、まるで鏡に映った自分と対峙しているかの様に同じ攻撃を息尽く暇も無く繰り出して来る。

 

一体どれ程の時間、そうやって丁々発止とばかりに一騎打ちを続けていたのだろうか。

例えほんの僅かであっても長門に隙が出来る迄ひたすらこれを続けて行くしか無いと思い定めたその時、自身のものとは明らかに異なる弾着が姉のすぐ傍に生じる。

 

(誰⁉)

 

そう思った瞬間、加賀の(これもまた珍しい)大声が響く。

「遅くなりました陸奥さん!」

「加賀ちゃん!」

呼び掛けながらも長門に対する砲撃の手を休めない陸奥のすぐ傍ら迄勢い良くやって来た彼女は、驚くべき事を口にする。

「陸奥さん、龍田さんは無事です!」

 

(えっ!)

 

恐らく加賀がわざわざ言いに来たのはそれなりに意図があっての事だったろうが、それは正しく彼女の思惑通りになった。

陸奥の脳裏にすうっと冷たい風が吹き込んだかの如く激しい怒りの感情が抑えられ、冷静な思考力が戻って来るのが判る。

 

(そうだわ、やって見様と思ってた事があったのよね)

 

昨夜考えていた事を思い出す。

これを二人で協力して実行すれば、膠着状態を打開出来るかも知れない。

「加賀ちゃん、聞いて頂戴⁉」

「はい!」

 

陸奥は砲撃を続けながら、自分の考えを手短に話して聞かせる。

「私は、陸奥さんが実行されるのを見てから行なっても良いのですね?」

「そうよ、それと可能であれば二回以上続けて繰り返す積もりよ! どちらにしろこの手は何度も通用しないとは思うけど」

「了解しました、必ず成功させましょう」

それだけ言うと彼女は滑らかに陸奥の左舷側に展開して行き、長門に対して挟撃態勢を取る。

それを見届けた陸奥は、何食わぬ顔で先程迄と同じ様な隙間の無い砲撃を再開し始め、弾着の様子から全く同じ事を加賀が始めたことも確認する。

無論のこと姉はその程度で急に隙を見せたりはせず落ち着いてこちらの砲撃を躱して行くが、さすがに反撃は手薄にならざるを得ず、こちらには更に余裕が出来る。

暫くそうしながら陸奥は十分に頃合いを見計らうと、そのまま流れる様に考えを実行に移す。

まずは主砲の交互射撃、それから片舷側の全火砲の斉射――ここ迄は何も変わらないが、ここで最大戦速のままいきなり強引に体を捻る。

「あぐぅっ!」

さすがに体が悲鳴をあげ、無理な挙動はそのまま激痛となって襲い掛かって来るが、巨大な軍艦の身では到底不可能な急転回もこの身軽な体なら出来てしまう。

「くらえっ!」

姉である以上再装填迄に要する時間は全く同じ筈であり、それ故に次の砲撃までの間隔が正確に予測出来てしまうが為に、長門は次の陸奥の射撃が来る間合いを測っていた筈だ。

その予測を覆すあり得ない短い間合いで反対舷の全火砲の斉射を浴びせ、更に反対舷側の加賀からも同じ攻撃を一瞬遅れて実行することで姉の回避行動の裏を掻いた積もりだ。

だからと言って気を抜いたりはせずに、弾着迄のその僅かな時間もそのまま続けて次射に移り、再び強引に体を捻って同じ事をする。

そして――――必要なら更に続ける積もりではいたものの、長門はそこ迄無敵では無かった。

陸奥と加賀の両方からその不規則な砲撃を受けた姉は、さすがにそれら全てを躱し切ることが出来ずにまともに弾着点に突っ込んでしまい、複数の衝撃が彼女をよろめかせる。

 

(あたし達の勝ちよ姉さん!)

 

何時の間にか彼我の距離は、主砲の零距離射撃が出来る程に接近していた。

それ迄完璧な回避を続けていた長門だったが、一度狂ってしまったそれは傷ついた体で簡単に取り戻せるものでは無い。

しかも全く攻撃の手を緩めない二人の正確な射撃が更にその傷を増やし、挙動を不安定にする。

がしかし、それでもまだ諦める気配を微塵も見せない姉は陸奥の主砲弾だけはどうにか躱しており、致命的な一撃を避け続けている。

 

(でも――時間の問題ね)

 

如何に中小口径弾と言えど度重なる被弾は着実に機動力を奪って行き、次第に鈍い回避運動しか出来なくなって行く。

にも関わらず、まるで長門は運命に正面から抗うかの如くあく迄も陸奥の砲撃だけは全て完璧に躱し、そしてその代償として加賀の砲撃を無防備な迄にまともに浴び続ける。

そこ迄しながらも射撃を止め様とはしない姉は、どこ迄も誇り高くそして痛ましかった。

 

(姉さん、それが姉さんの誇りなのね――だったら全力で応える迄だわ!)

 

一切の力押しは止め、動きの鈍った姉の回避能力の低下を突く様に主砲の交互射撃と副砲、高角砲を取り混ぜた射撃を再び繰り出すが、結局それは三射と続かず終わりを告げる。

 

陸奥と、そして加賀の余りにも正確な射撃とを手負いの姉が躱し続けることはやはり不可能だった。

 

ついに水平線の彼方に長門の姿を肉眼で捉えることが出来る程接近したその時、僅かに早く弾着した加賀の砲撃を躱し損ねた姉は、直後に飛来した陸奥の主砲弾を回避することが出来ずに直撃を浴びる。

 

姉さん!

 

幾ら接近しているとは言えそんな細かなものが見える筈は無いのだが、陸奥の目には弾着寸前に長門が笑みを浮かべるのが見えた様な気がした。

 

だがその一瞬の後、立ち上がる水柱の中、姉の体は衝撃で吹き飛ばされ宙に舞う。

 

(あぁ……)

 

急に体の力が抜けた陸奥は立っていられなくなり、がっくりと膝を付く。

 

その所為で再び肉眼で見ることは出来なくなったが、艦娘としての視界の中では、水柱が消えた後の海面に横たわって動かない姉の姿がはっきりと見えていた。

 

「終わった……」

 

体が燃え尽きて灰になってしまった様に、何も考えが浮かんで来ない。

 

只々座り込んで肩で荒い呼吸を続ける以外に、何もやる事が思い付かない。

 

そのまま座り込み続けていれば取り返しの付かない事になったかも知れないが、幸いにもここには加賀が居てくれた。

「陸奥さん! どうされました? 大丈夫ですか⁉」

急速に近づいて来た彼女が陸奥の様子を見て心配そうに声を掛けて来る。

「大丈夫よ加賀ちゃん――何でも、何でも無いわ……」

どこか上の空のまま、陸奥は気の抜けた返事をする。

「それならよろしいのですが――そうであれば急がなければいけないのではありませんか? 長門さんの所へ」

 

(!)

 

加賀の言葉が稲妻の様に脳裏に閃く。

 

(あたしったら何してるのよ!)

 

頭の天辺から鋼の芯でも突き入れられたかの様に勢い良く立ち上がる。

「有難う加賀ちゃん! 姉さんのところへ最大戦速よ⁉」

「はいっ!」

一気に増速しながら、まっしぐらに姉の許へと走る。

 

(ばか! ばか! 愚か者! 姉さんを沈ませる積もりなの⁉)

 

幾ら自分を責めても、前方の海面に横たわる姉との距離はもどかしい程じりじりとしか縮まらなかった。

 



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〔第十章・第九節〕

 先程から長門の姿は目の前に見えているのに、その僅かな距離が信じられない程遠い。

自分の身体に限界を超えた負荷を掛けている(自分よりもかなり足が速い筈の加賀と同じ速度で突っ走っていた!)のは重々承知だが、貴重な時間を浪費してしまった事を思うだけで全身が震え出しそうな位焦りを覚える。

艦娘の視覚で観察する限り姉は既に沈み始めており、陸奥の到着が少しでも遅れればそのまま海没してしまうだろう。

 

(もう少し――あと少し――あとほんの少し!)

 

「陸奥さん危険です! お願いですから減速して下さい!」

ついぞ聞いたことの無い加賀の必死の叫びも禄に耳に入らない。

 

(もうちょっと、もうちょっとで手が――)

 

「陸奥さん失礼致します!」

突然そう言うなり、加賀が腰にしがみ付いて来る。

「あっ!」

余りに急ぎ過ぎて減速が遅れてしまったのだ。

さすがに気付いた陸奥も全力で止まろうとするが間に合わず、大きく体勢を崩してしまう。

そのままつんのめる様に加賀と絡み合ったまま海面に叩き付けられると、跳ね上がって一回転、二回転し、長門の傍らを通り過ぎて漸く止まる。

「姉さん!」

もがき、這いずる様にして姉に近づくと、今正に沈もうとするその肩を必死で掴む。

傍らで同じ様に這いずって来た加賀が、その反対の肩をぐっと掴む。

 

(間に合った!)

 

彼女と二人合わせれば、二十万馬力以上に相当する強大な力がこの手には宿っている。

膝をついて少し態勢を立て直すとぐいと力を込めて姉の体を引き上げ――様としたものの、何と言う事かびくともし無い。

「どう言う事⁉」

「判りません、もう一度全力でやって見ましょう」

加賀と二人で息を合わせると今度は更に力を振り絞るが、やはり長門の体はほとんど動かない。

「一体どうなってるの、信じられ無い位重たいわ……」

「重たいと言うのとは少し訳が違う様です。こうして沈まない様に支えるのが精一杯とは、幾ら何でもあり得ません」

「もう少し力を入れられる様に持ち替えて見ましょ⁉」

今度はお互いが支えている間に長門の腋にしっかりと腕を回す様にすると、改めて彼女と顔を見合わせて一段と力を注ぎ込む。

「くぅ~~っ!」

「むっ――」

二人共真っ赤な顔になる迄力を出して踏ん張るものの、ほんの僅かに体を引き上げることが出来た程度で、力が抜けるとまたぐいっと沈み込む様に元に戻ってしまう。

だがその感覚が腕に伝わった瞬間、陸奥は思わず背筋が寒くなる様なひやりとした何かを感じる。

「加賀ちゃん、まさか――」

「余り信じたくは無いのですが、私も今感じました。何かが長門さんを引き摺り込もうとしている様です」

「この環礁で沈んだ他の娘達が――って言う事?」

「判りません――ですが、この場所にはとても深い哀しみや怒り、恨みの様なものが折り重なっている様にも思います。それらが長門さんを捉えて離さ無いのかも知れません」

加賀の言葉はとても重たく、陸奥は暫し言葉を失う。

 

(でも――諦める訳には行かないわ)

 

再び挙げたその顔に宿った決意を見て、加賀は目元に微かな笑みを浮かべる。

「哀しみを抱えたまま、海底に眠っている娘達の辛さを否定する気は無いわ。でも、だからと言って姉さんをその娘達に渡す訳にはいかない。やっぱり姉さんはあたし達の仲間よ、返して貰わなきゃ!」

「仰る通りです、伊達や酔狂でこんな苦労をしに来た訳ではありません。何としても長門さんは返して頂きましょう」

改めて加賀と視線を交わした陸奥は、深呼吸すると渾身の力を込めて長門を引き上げる。

さすがに二人が全力を振り絞ると、姉の体は一旦はずるずると海中から引き出され掛けるが、まるで何者かが慌てて力を入れ直したかの様にそれはぴたりと止まってしまい、再び厳しい綱引きとなる。

二人は互いに目で合図しながら、交互に息継ぎをしたり腕を抱え直したりして力を絶やす事無く引っ張り続けるが、それも何時迄も続く訳では無く、次第に力が抜け始める。

 

(駄目っ!)

 

折角半ば迄引き上げた長門の体がほんの少しずつ少しずつ引き戻されていってしまい、それを止め様にも力が出なくなって来ていた。

 

(お願い! 誰か助けて! 力を貸して⁉)

 

続けて力を出し過ぎた為に軽い眩暈が襲って来る中で、唐突に曇り空と鈍色の海以外の別の光景が見え始める。

 

(何なの⁉)

 

それは外の光が差し込む部屋の中の様で、そこに誰かが居るらしい。

一体何が見えているのか訝った次の瞬間、それが何なのかがはっきりと分かる。

 

(仁!)

 

彼のことを見間違えよう筈も無かった。

そこは見慣れた渡来家の居間であり、そこに仁は朝日を浴びながら立っている。

そして今正に陸奥の方をしっかりと向いて固く目を閉じ、両手をきつく握り合わせて一心不乱に祈っていた。

胸中に、出港前に交わした彼の言葉が蘇って来る。

『毎日、そっちの方角に向かってお祈りするからね!』

 

(ちゃんと約束守ってくれてるのね、祈ってくれてるのね、仁!)

 

一瞬涙が溢れそうになったが、ぐいと姉の体を引っ張られる感覚で我に返る。

しかしその僅か数瞬の間に、たった今迄陸奥の胸中を満たしていた焦りや無力感は消え去っており、強い意志と新たな力が漲っていた。

姿こそ見え無いものの、水面の向こうに居る筈の船達を発止と睨み付ける。

 

(貴方達の哀しみも怒りも、貴方達だけのものじゃない! あたし達も同じものを抱えているし、皆何とかそれに向き合おうとしてるのよ⁉ 姉さんを引きずり込んで貴方達の傍に留めておく事がそれに向き合うことなの?)

 

心の中できっぱりとそう言い切ると、改めて姉の腕を抱え直す。

「陸奥さん⁉」

「加賀ちゃん、これで終わりにするわよ⁉ 残りの力を全て貸してね!」

「はいっ!」

彼女の返答を聞いた陸奥は、躊躇う事無く残る全ての力を出し切って長門の腕を引っ張り上げる。

これ迄に無い程激しい抵抗があるのをはっきりと感じるが、仁から貰ったその力は衰えを知らないかの様に体内に満ち溢れていた。

 

「姉さんを――返してもらうわよ!

 

あたかも鎖を引きちぎるかの如く姉を捉えていた力に打ち勝った感覚が腕に伝わり、突然軛を失った姉の体は一気に海中から引き出されて宙に浮かぶ。

「あぁっ!」

体を支え損ねた二人は同時に勢い良く倒れ込んでしまい、泡を食って起き上がると長門が再び引き摺り込まれない様にその体を掴もうとする。

にも関わらず、一旦海面上に引き出された姉の体は最早沈み込むことも無くそのまま安定して横たわっていた。

 

「――加賀ちゃん――本当に有難う――加賀ちゃんが居てくれたお陰よ……」

 

荒い息を吐きながら陸奥が言うと、彼女も荒い息の下から応える。

 

「――いえ――それこそ過分なお言葉です――それよりも、先程は――何か急に力が増された様に感じましたが――一体どういう事なのですか?」

「実はね、その――言い難いんだけど――」

「まさか――ひょっとして渡来さんが――とか仰るのですか?」

「そう、そのまさかなの……」

「そうですか――卒直に申し上げますが、少々イラッと致します」

「お、大きなお世話よ! 加賀ちゃんこそもうちょっと頑張んなさいよ!」

「言われ無くてもそう致します」

他人(ひと)の事とやかく言う前に、目に見える成果の一つも出したらどうなの⁉」

「――――頭に来ました」

 

ほっとして気の緩んだ二人が他愛の無い云い合いをしていると、目の前で不思議なことが起こる。

今迄余りに必死だった事もあり、長門の異形としか言い様の無い外見――死体と見紛うばかりの蒼白い肌と色を塗り忘れたかの様な真っ白な長い髪――を殊更には気に留めていなかったが、それが何の前触れも無く変化し始めたのだ。

「加賀ちゃん見て⁉」

「これはまた奇怪な――」

 

二人が見守る中、姉の体は見る見る内に健康な人間の様な明るい肌色に変化して行き、それと共に雪の様に白い髪がまるで墨でも吸い上げているかの如く黒々と塗り潰されて行く。

そして幾許も無く変化を終えた長門は艶のある長い黒髪を湛え、陸奥とほぼ同じ肌の色に凛とした顔立ちを備えた姿で横たわっていた。

その姿を暫く無言で見ていた二人だったが、何時迄もそうしている訳にはいかない事に心付く。

「と、とにかく『おおやしま』に運びましょ⁉」

「そう致しましょう」

二人は長門の肩に手を回して半身を起こすと肩を入れて立ち上がるが、その時姉の体に力が入って身じろぎすると共に、口から呻き声が洩れる。

 

「姉さん! 気が付いたの姉さん⁉」

「――うっ――こ、ここは? ――私は――何を……?」

「姉さんしっかりして⁉ あたしよ、陸奥よ⁉」

「――陸奥――だと? 莫迦な――そんな事が……」

 

二、三度かぶりを振った長門の目の焦点が漸く定まり始め、徐に陸奥の顔に向けられるが、視線はそこに釘付けとなり、そのまま数秒間じっと固まってしまう。

 

「一体何が起こっているのだ? ――私は幻でも見ているのか? まさか――本当に、陸奥なのか?」

 

「幻なんかじゃ無いわ――あたし――本当に、本物の――陸奥よ……」

 

出来るだけ冷静に喋ろうとしたが、涙が溢れて来て途切れ途切れに言うのがやっとだった。

 

それを聞いた長門の瞳にも見る見る涙が溢れ出す。

 

「何という事か――信じられん――こんなことが本当に……」

 

後は言葉にならず、長門はその力強い腕で陸奥を抱き寄せる。

 

「姉さん! 会いたかった……」

 

陸奥もまた姉をしっかりと抱き締めるが、喜びとも安堵とも付かない形容し難い様な感情で胸が一杯になり、唯々涙ばかりが止め処なく零れ落ちる。

 

「――ずっと、願っていた――お前を喪ったあの日からずっと――何時の日か再び、お前と共に海原を駆ける事が出来ます様にと――ずっと、ずっと……」

 

何か応えなければと思うものの何も言葉が出て来ず、抱き締める腕に力を込める事しか出来ない。

 

そのままどれ程の時間が経ったものか見当は付かないものの、やっと少し感情の昂ぶりがおさまって来たのを覚えて腕の力を緩める。

長門もまた少し体を離し、陸奥を見詰めながら改めて口を開く。

 

「赦してくれ陸奥――如何に正気の下に無かったとは言え、大切なお前の事を偽物呼ばわりしたこの愚かな姉を赦してくれ――本当に本当に済まなかった」

「それを言うなら、あたしだって姉さんを傷付けてしまったわ――だからお相子よ」

「――そうか、お相子か――しかしお相子にしてはお前の一撃は強烈だった――強くなったのだな、陸奥は」

「あたしが強くなった訳じゃないわ、加賀ちゃんが居てくれたお蔭よ?」

「そうか加賀か! 加賀だったのか!」

 

そう言った長門は、傍らに立って指の腹で目元を拭っている加賀に向き直る。

「本当だ、確かに加賀だ――まさかこんな形で再会する事が出来様とは……」

「永きに渡り、ご無沙汰を致しました長門さん」

「それこそこちらの科白だ加賀よ。遠いあの日柱島で別れた後、憎い米帝どもに加賀達が塗炭の苦しみを味わあされているのに、私は何もしてやれなかった――連合艦隊旗艦だった等とおこがましい限りだ。誠に申し訳なかった」

「滅相もありません。それこそ長門さんの所為では無く人間達が愚かであった事に尽きます。どうかもうお気に為さら無いで下さい」

「そうか――ならばせめてこの度の事に付いてだけは言わせてくれ。最後迄良く陸奥を助けてくれたこと、心から礼を言う。本当に有難う」

「先程も陸奥さんには申し上げたのですが、そのお言葉こそ私には過分な褒詞です。とは言いましても、もしそのお言葉に甘えさせて頂ける様でしたら、一つだけ私の願いを聞き届けて頂けますか?」

「どんな事だろうか、この私に出来る事ならば何でも言ってくれ」

「はい、長門さんに於かれては決して浅からぬ想いを様々抱かれておられると思いますが、どうかそれらを枉げて私達と共に日本へお帰り頂きたいのです。宜しくお願い致します」

 

そう言って丁重に一礼した加賀に向けられる姉の顔は、如何にも苦渋に満ちていた。

「あたしが言わなきゃいけない事だったのに、加賀ちゃん有難う。改めてになるけど姉さん、加賀ちゃんだけじゃなくてあたし達全員の気持ちよ。どうしても一緒に帰って欲しいの」

 

「――陸奥よ――米帝と同じ程日本が憎いと思う訳では無い。しかし、だからと言って快く日本に帰れるなどとは正直な処全く思わんのだ……」

 

「でも姉さん、それなら皆にも――姉さんが撃った娘達にも会いたいとは思わないの?」

そう言った途端、長門は虚を突かれた様な顔で振り返る。

「そうだ――陸奥、あれは一体誰だったのだ⁉」

「龍田ちゃんと子の日ちゃんよ、加賀ちゃん、二人共とりあえずは無事なのよね?」

陸奥の問いに対して、彼女は少し表情を曇らせる。

「申し訳ありません、先程は端的にお伝えしなければと思い簡潔に無事と申し上げましたが、龍田さんの状態は楽観出来る類のものではありません。全く意識は無く、辛うじて初春さんと子の日さんとで運べる状態だったのでお任せして来たのです」

「そうだったのね……」

 

それを聞いた長門は暫し口を真一文字に結んで沈黙していたが、やがて意を決した様に顔を上げる。

「判った、龍田をそこ迄傷付けてしまったのは私の責任だ。日本に帰還し、更には留まるか否かの判断は後でも出来よう。今は何よりも、龍田や子の日はもとより嘗ての同胞達を見舞わずに去る訳には行くまい。陸奥、加賀、私を皆の許へ連れて行ってくれ」

「ええ、皆も喜ぶわ!」

「良くご決断下さいました、有難うございます」

「では頼む。只お前達に完膚なき迄に叩きのめされたので、原速を出すのがやっとだがな♪」

「あら、酷いわ姉さん⁉ 先に撃って来たのは姉さんなのに!」

陸奥がそう言うと、姉は口元に小さく笑みを浮かべて見せる。

「それでは早速参りましょう」

 

かくして三人は『おおやしま』目指して帰途に付く。

艦娘の視覚で見渡す水平線の彼方で、雲の切れ間から射し込む一筋の陽光が海面を探照灯の様に照らしていた。

 



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第十一章
〔第十一章・第一節〕


 朝から突然不思議な感覚を味わう事になった僕はひどく面喰う。

この数日間と言うものとにかく気分が塞いで仕方が無く、朝と夜の二回ビキニ環礁(で間違いない筈だ)の方に向かってむっちゃんの無事を祈ることで何とか心の平衡を保っていたのだ。

そしてそれは今日も全く変わり無く、居間に立ってネットで調べた環礁の方角を出来るだけ正確に向いて、何時も通り『むっちゃんが無事に長門さんと会えます様に』と祈っていた。

ところが何時もと違っていたのは、目を閉じて祈っているその最中に、

(助けて! 力を貸して⁉)

と言う彼女の声が何の前触れも無く頭の中に響いたことだ。

 

「えっ!」

思わず声が出てしまい、とっさに辺りをキョロキョロ見回したが彼女はもちろん家の中には人の気配すらしなかった。

とは言うもののその声は驚く程はっきり聞こえたので、気の所為と片付ける事は出来そうにない。

ひょっとするともう一度何かが起こるかも知れないと思ったので、改めて一心不乱に祈って見るが再び何かが聞こえる事は無かった。

 

(どうしよう……)

 

落ち着いて考え様としたのだが、そうし様とすればする程心配でジッとしていられ無くなって来る。

言葉の中身は言う迄もなく、その声音と言うか響きがとても切羽詰まっていて、彼女が助けを求めているのは間違いないと思えたからだ。

暫く迷った末に、結局僕は体調不良だと言ってゼミに連絡して休む事にした。

今すぐ飛んで行けるならともかくそんな事は出来る訳も無いので、たった今僕が唯一出来ることである神頼みをしに行く為にだ。

近隣の神社の格やご利益などロクに知らなかったので、母さんと(そして恐らくは父と)の記憶が残る幼い頃から初詣に合格祈願まで、何度となく足を運んで来た神社に向かって家を出る。

だがかれこれ一時間程のその道程は、次々に巡る様々な思いに塗り潰されたままうつつの内に過ぎ、ふと気が付いた時には既に鳥居を潜っていた。

さすがに初夏の平日だけあって境内にいるのはほぼ遠方からの観光客ばかりで、日本語以外のお喋りもそれなりに聞こえていた。

社務所の前を通り過ぎる時、緋袴姿の巫女さんが目に入る。

何でも赤城さんや加賀さんは初めて出現した時巫女さんそっくりの恰好をしていたらしいが、むっちゃんは全く違う姿だったし、あの黒髪美女の瑞穂さんは随分華やかな装いだったと聞いている。

 

(本当に不思議だな……)

 

僕の心は一瞬あの日に――もちろん彼女と出会った日の事だ――戻って行きそうになったが、頭を振ってそれを振り払うと大きく柏手を拍って何度も何度も強く祈る。

 

(どうか、むっちゃんと長門さんと皆をお守り下さい)

 

実際には今更遅いのかも知れないと思いながらも、少なくとも僕はそれなりに落ち着いた。

――落ち着きはしたのだが、同時にまたどっと自己嫌悪が襲って来て、脳内は憂鬱一色に染まり切ってしまう。

 

(はぁ~~……)

 

僕は最低だ、最低の奴だ。

もう何百――いや何千――回目かの自虐のフレーズをまた繰り返す。

これでも僕は自分自身をそれなりに客観的には見ていた積もりだったので、己のダメさ加減は自覚していたし、そんな自分をどちらかといえば軽蔑していた位だ。

ところが今は軽蔑どころでは無く、心底情けない見下げ果てた奴だと思える。

 

むっちゃんから憎からず思われていた事を知った時、天にも昇る心地と言うのを初めて味わっただけでなく、彼女のことを好きで好きで堪らない自分に漸く気付いた。

そして、出港していく船上から涙を流して僕の名を呼んでくれた彼女を目にした時、胸の奥から突き上げて来る愛おしさを押さえる事が出来ずに力一杯彼女の名を呼んだ。

なのに、あの時の僕は彼女に『行くな!』と叫ぶ事は出来なかった。

もしそうしていたら、本当に彼女は船を飛び下りて岸壁に立つ僕の許に戻って来てくれたかも知れないのに。

 

その不可解なわだかまりを抱いて一人帰宅する電車の中で、僕は全てを――己がどれ程最低な奴なのかを――悟った。

自分が叫ばなかったのは強い意志で我慢した訳でも何でも無く、もっとずっと呆れる様な理由だった事を。

僕は今更――本当に今更としか言い様が無い――気付いたのだ。

 

ずっと昔から、葉月を好きだった事に。

 

彼女の事を鬱陶しく思い、何もかも分かっていると言わんばかりのその態度が鼻について事ある毎に反発して来たその何もかもが、子供染みた自己欺瞞でしか無かった事にだ。

それに気付いた時、僕の脳裏に転がっていた記憶の断片が何もかも繋がって行くのを目の当たりにする。

あの高二の秋、結局葉月は僕の後輩にプレッシャーを掛けたりなど何もしなかったのだろう。

少し考えれば分かりそうなものだが、僕の事を誰よりも理解している彼女がそんな浅はかで分かり易い事などする筈が無かった。

後輩は僕と付き合い始めて日が経つ内に、恐らく自力で僕の本心に気付いたのだ。

その目線から見た僕は、どう逆立ちしても自分を好きでいてくれる幼馴染をちゃんとキープしながら、部活の後輩をちょっと摘み食いしている下衆男そのものに見えたことだろう。

あの日屋上に現れた彼女が燃える様に憤っていたのは、自分が侮辱された事に対してはもちろんのこと、葉月をキープ扱いしている僕の傲慢さも許せなかったのに違いない。

その憤怒をぶつけられたにも関わらず、僕は自分の気持ちに気付く事が出来ずにすっ惚けた(彼女にしてみれば真っ赤な嘘にしか聞こえなかっただろう)事を言って益々怒らせてしまった。

しかもそれだけでは気が済まずに、今日迄の年月をずっとそのまますっ惚け続けて来たのだ。

こうして最早後戻り出来ない程に葉月では無い誰かを――むっちゃんを好きになってしまった、その事実に直面する迄……。

 

 気が付くと、乗るべき駅とは全く違うあらぬ方向に大幅に歩き過ぎていたが、それもまたちゃんと正しい道である事はすぐに分かった。

そうだ、間違いなく覚えている――高校受験の時、合格祈願には自転車で行くからと言えばさすがの葉月も一緒に行くのを諦めるだろうと思ったのに、僕が家を出るときっちり自転車に跨った彼女が門の前で待ち受けていて、憮然としながらやって来た(それなのに、葉月はずっと楽しい楽しいと声を弾ませていた……)あの日の道だ。

 

(クソッ!)

 

心の中でそう吐き捨てると、自棄をおこして歩き始める。

何となく自分を痛め付けたい気持ちがあったのかも知れないが、どうせ2~3時間もあれば自宅に辿り着ける筈だ。

とぼとぼと歩きながら、僕はまた巻き戻す事の出来ない日々に迷い込む。

 

葉月はとっくの昔に――恐らくはむっちゃんと出会ったあの日から既に――僕が惹かれて行くのに気付いていたのだろう。

それでも葉月は、彼女が何者であるのかを理解してからはとても暖かく接してくれていた。

それを誇らしく思った僕の愚かさ鈍さ加減に、思わず身震いしそうだ。

彼女が家を出ると言い出した時の葉月の振舞いにどれ程の葛藤があったのか、今になって初めて分かる。

葉月には一体何が起こっているのか直ぐに分かったのだろうが、それに必要以上に乗じる事もせずさりとて引き留める事もせずに、言わば出来るだけ不要な干渉はせずにスルーし様とした。

僕の気持ちに気付いていたのだからそれこそ積極的に彼女を追い出したいところだろうが、最後迄そんな邪険な態度を取ろうとしなかったのは、単に僕を敵に回さない様に用心していただけでは無いだろう。

 

(……)

 

僕はどうすればいいのだろうか?

 

この吐き気がする様な惨めな思いを抱え込んで、これからどんな顔をしてむっちゃんと葉月に会えば良いのだろう?

 

でも、どうし様も無い大馬鹿者の僕にも一つはっきり分かる事がある。

もうこれ以上、彼女のことを好きになる訳には行かないと言う事だ。

そもそも僕は彼女を天国に送り出すことを誓っているし、幾ら自力で無いとは言え防衛隊が彼女の残る船体を引き揚げ様としている以上、それに全力で協力するのが当然だ。

この度の捜索が成功すれば、引き揚げ前に長門さんと会わせてあげたいという希望も叶う訳だし、障害になる事は何も無くなる筈だろう。

 

そうだ――――

何も無くなる……。

だったら、どうなるか――

自明の事だ。

 

そう、彼女は――――

 

恐らく1年後には――

 

天国へ――

 

行ってしまう……。

 

突然僕は立っていられ無くなり、その場に膝からへたり込んでしまう。

体の奥から何かが溢れ出し、それは涙となって僕の目から零れ落ちる。

 

悲しいと言うのとは何か違う――

 

僕は――僕は怖ろしいのだ。

 

彼女がいなくなってしまう事が、気が遠くなる程に怖ろしい。

体がガタガタと震え出し、何かに掴まらずにはいられないのだが掴まる物が何も無い。

 

(待ってくれよ――僕は、僕はどうしたら……。お願いだ! 誰か、誰か――)

 

盲滅法に振りかざした腕が何かに当たったと思ったら、次にはそれがギュッと掴まれ頭の上から声が降ってくる。

 

「私に黙って泣くなって、何回言ったら分かるのよ⁉」

 

それを聞いた瞬間、僕は(とことん情けないことに)思わずホッとしてしまう。

顔を上げて声の主を確認する必要すら無い程人生の一部になってしまったそれに、どうし様も無く安堵してしまう――下らない奴だ。

 

「折角来てやったのに、何とか言いなさいよ!」

「ゴメン、本当にゴメンよ――葉月……」

 

何かを言えといわれると、さしたる理由も無いのに謝ってしまう。

今の様に後ろめたさで一杯な時だけならまだしも、本当に何時もそればかりだった。

 

でも彼女の手が僕の頭に回され、ぐっと抱き寄せられるともうそんな事はどうでも良くなってしまう。

スーッと涙が乾いて行くのを感じながら、上手く表現出来ないがああこれで良いんだと言う思いが脳裏を満たして行く。

 

「あんたって本当にダメな奴ね――結局、私がいなきゃどうし様も無いんだから……」

 

これもまた何時もの様に、少しの間だけ何か応え様と無駄な努力をして見るものの、もちろん何時も通りに何も言えなかった。

そしてそんな何もかもを全て承知している葉月が、そもそも僕の返事など期待している訳も無かった。

 

「神頼みして少しは落ち着いたの? むっちゃんならきっと大丈夫よ、きっとね」

 

どうして僕のやる事為す事は何もかも筒抜けなのだろうか?

 

けれど、所詮それもどうでも良い事なのかも知れない。

 

そんな風に、情けない自分自身の事を何もかも知ってくれている誰かがいる事に、居心地の良さを感じてしまう様な奴にとっては。

 



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〔第十一章・第二節〕

 停船した『おおやしま』の舷梯が固定され、デッキから斑駒(娘)が旗を振ってくれるので長門の顔を顧みるが、姉の返答はあっさりとしたものだった。

「旗艦であるお前が真っ先に帰投すべきだ、私は後でいい」

それはもっともだと思ったので加賀の顔を一瞥してからさっさと舷梯を上がり、待ち受ける中嶋の前に立つ。

 

「陸奥、只今帰投致しました」

「陸奥さん、たいへんお疲れ様でした」

 

恐らくこちらを気遣ってくれているのだろうが、微かな笑みを浮かべて答礼した中嶋に向かって改めて口を開く。

「申し訳ありません。私の指揮が稚拙であった為に僚艦を危険に曝してしまいました」

「いいえ、初春さん子の日さんから状況は伺いましたが明らかに陸奥さんの指揮の問題ではありません。また、もし仮にその局面で龍田さんが割って入らなければ子の日さんを喪っていたものと思われます。龍田さんの為さった事はもちろん英雄的行為でもありますが、見方を変えれば極めて冷静かつ合理的に最悪の事態を回避出来る可能性が最も高い選択をされたとも言えます。どちらにせよ、指揮や判断の誤りが介在したとは思えません」

 

「――ご配慮恐れ入ります。ですが、何の処分も無しと言うのは――」

「陸奥さんは我々に対して義務を負っている訳ではありません。強いて言うなら皆さんがお互いを大切にするという義務を負っておられるかも知れませんが、それは皆さん同士の事ですのでお任せ致します。それよりも、今はとにかく休息されては如何ですか? 皆さん早く話したがっておられますよ」

「そうですか――有難うございます。では、お言葉に甘えさせて頂きます……」

 

そう言った陸奥はそのまま背後に控えた斑駒(父)に敬礼して挨拶し更に斑駒(娘)と言葉を交わすが、その間に長門が中嶋の前に進み出る。

「初めまして、改めて確認致しますが長門さんでいらっしゃいますね? 小官は日本国海上防衛隊横須加訓練隊副長を拝命しております、中嶋と申します」

ほぼ同時に敬礼した二人だが、先んじて中嶋が口火を切ると長門も落ち着いて返答する。

「こちらこそ初めまして中嶋副長、私は――長門です。それ以上何と言って名乗って良いものか判りません。何れにせよ私は貴官を始め、その――日本国と嘗ての同胞達に弓引き、あまつさえ龍田や子の日を傷付けた身です。どうか速やかに拘束して頂きたい」

「残念ですがそれは致しかねます。この期に於いてなお長門さんが我々に害意を抱いておられると言うのであればいざ知らず、こうして敵対行為を解いて日本国の公船に乗船する事を同意されたからには、貴方を日本国への帰還者として取り扱わせて頂きます」

 

「――私は日本へ復員するのか――しかし、一つだけはっきりと申し上げておかねばなりません。私はまだ日本国へ復員する事に同意した訳ではありませんぞ」

「何と、それでは本船が日本国に帰還し接岸する前に本船を去る事もあり得ると言うことでしょうか? 再会叶った陸奥さんやお仲間を見捨てて行かれる事もあり得ると?」

さすがに長門は苦笑する。

 

「やれやれ、副長殿迄もその様な仰り方を為さるとは――陸奥よ、今の日本国では何処へ行ってもこの様な調子なのか?」

「ええそうよ♪ 姉さんが根負けしてうんと言う迄ね」

陸奥がそう応じると、横合いから斑駒(父)もにこやかに口を挟む。

「初めまして長門さん、本官は海上警備庁警備船『おおやしま』船長を拝命しております斑駒と申します。本船にようこそ乗船下さいました、ですが一度乗船された以上、離船を希望される際は必ず本官の承諾を得て頂きたくお願いしておきます」

「いやはや――どうやら私はまんまと嵌められた様ですな。宜しいでしょう、少なくとも日本国へ向かう途上で離船するとは言いださぬと約しましょう。とは言い条、斯様に卑劣な企てに陥れられるとは私も随分侮られたものだ」

そう言った長門は陸奥や皆の顔を見回しながら少し道化て見せ、中嶋が笑顔でそれに応じる。

「失礼の段はどうかご容赦の程お願い致します。改めてと申し上げては何ですが長門さん、永きに渡りたいへんお疲れ様でした。日本国を代表しましてご帰還を心より歓迎致します。まずは傷を癒し身体を休めて頂くと共に、嘗ての戦友の皆さんと旧交を温めて頂ければ幸いです」

「感謝致します、それではお言葉に甘えさせて頂くとしましょう。ですが一点だけお尋ねしたい、龍田の様子を見舞わせて頂く事は叶いますかな?」

 

もちろん陸奥にとってもそれは一番の関心事だが、それに対する回答は予想通りだった。

ちらと中嶋と視線を交わした斑駒(父)が、長門の問いに応える。

「それについては残念ながらもう少しお待ち頂かねばなりません。只今本船の船医が診療に当たっておりますが、予断を許さない容態との事です。従って、もう少し状況が好転する迄お時間を頂きたく思います」

「判りました、どうか龍田を宜しくお願い致します。状況が変わりました際は速やかにお知らせ下さい」

「それじゃ姉さん、皆の所に行って少し休ませて貰いましょ。そろそろ喉が渇いたりお腹空いたりして来る頃じゃない?」

「正直な処それがどんな感覚なのか良く分からんのだ、どう言うものなのだ?」

「それでは百聞は一見に如かず、どうぞ飲食を体験なさって下さい、ご案内致します」

斑駒(娘)がそう言って誘ってくれるので、陸奥は長門の手を取る。

「さ、行きましょ姉さん♪」

「ああ判った、行こう」

 

 三人が連れ立って船内に向かうのでそれ迄傍らで見守っていた加賀も後に続こうとすると、中嶋に呼び止められる。

「加賀さん、ちょっと宜しいですか?」

声を掛けられた瞬間、胸の中で何かがどくんと音を立てる。

「はい、何でしょうか?」

こんな時にどうやって平静を装うのかあの腹黒巡洋艦女にもっと良く聞いておけば良かったと少々後悔するが、既に如何ともする無しであった。

「他でもありませんが、よく陸奥さんを補佐して長門さんを無事にお連れ下さいました。龍田さんの救護を初春さん達に任せられると判断されて、陸奥さんの援護に回られたのも見事な対応だったと思います」

「い、いえ、特段のお褒めに与る様な事では――」

「それだけではありません、昨夜私が決断出来たのも――正直に申しますが加賀さんのお言葉があったからこそです、本当に有難うございます。一言お礼を言わなければと思っておりましたので――その――これからも、忌憚の無いご意見をよろしくお願いします」

 

砕けた処の無い生真面目な物言いではあったが、それでも明らかに中嶋の個人的な感情が込められたその言葉は、彼女が精一杯装った平静さを散り散りに吹き飛ばしてしまう。

 

「こ、こ、こちらこそ、宜しくおね、お願い致します――。で、では私は、その、これで……」

「こちらこそ、お引留めして申し訳ありませんでした」

 

とにかく一瞬でも早くその場を離れたくて、ばね仕掛けの人形か何かの様にぴょこんと一礼した加賀は、くるりと向き直るなり前を確かめもせずに歩き始める。

ところが、案の定ごんっと鈍い音がする程水密扉に額を打ち付けてしまい、思わずよろめいた拍子に肩を中嶋に支えられてしまう。

「だ、大丈夫ですか加賀さん⁉」

「は、はい! ご心配には及びません、大丈夫です、大丈夫ですので……」

 

大丈夫かそうでないかなどは全くどうでも良く、歩くのが無理ならば這ってでも中嶋の視界から逃げ出したい気持ちで一杯だった。

それ故なのか今度はいやと言う程支柱に肩をぶつけてしまうものの、全力でその痛みを押さえ込むと必死で三人の後を追って船内に消える。

 

(し、死ぬかと思ったわ……)

 

頭は腫れ上がっているかの様に痛むわ肩口はずきずき激しく疼くわで、戦闘中よりも余程酷く負傷している気がしてならない。

 

「加賀よ、大丈夫か?」

顔を上げると通路の端で長門がこちらを見ており、陸奥と斑駒(娘)と共に彼女を待ってくれている様だ。

「だ、大丈夫です――さ、参りましょう」

必死に心を落ち着かせて普通に応答しながら小走って追い付くと、長門は少々怪訝そうな顔をして口を開く。

 

「なあ加賀よ」

「何でしょうか?」

「ひょっとして副長殿に懸想でもしているのか?」

 

(!!)

 

突然何か塊の様な物が胸から喉に上がって来て、そのまま口から飛び出しそうになる。

そして息が出来なくなると共に世界がゆっくりと大きく揺れ始め、次第にそれに回転が加わって…………。

 

「か、加賀ちゃん⁉」

慌てて陸奥が駆け寄りすんでの処で抱き止めるが、既に彼女は気を失っていた。

 

「お、おい、しっかりしろ加賀! どうしたのだ⁉」

「もう姉さん! どうもこうも無いわ⁉ 間が悪すぎるわよ!」

「な、何を言っているのだ? 私は何か間違った事でも言ったのか?」

「間違って無くても不味い事だってあるの!」

「そ、そう言うものなのか? 歳月と言うのはかくも世の中を変えてしまうものなのだな」

「歳月の問題じゃ無いとは思うんだけど――まぁ良いわ。それよりも駒ちゃん、肩貸して頂戴?」

「ええ! 一先ずこのまま皆さんの所に運びましょうか」

「そうね、すぐ気が付くわよね。姉さん、取り敢えずその話題は暫く禁止よ⁉」

「判った判った……」

 

三人は加賀を抱え上げると、改めて艦娘達が待機している部屋へと向かった。

 



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〔第十一章・第三節〕

 陸奥や長門を迎え入れる雰囲気に染まっていた艦娘達だったが、そこへ唐突に正体の無い加賀が担ぎ込まれた所為でちょっとした蜂の巣を突いた様な騒ぎになってしまう。

取るものも取り敢えず壁際の寝台に加賀を寝かせて、赤城に傍について介抱してくれる様頼んだ陸奥は一先ず胸を撫で下ろす。

ほっと一息吐いて皆の方に向き直ったのだが、胸の前で両手を握り締めながらじりじりしていた子の日が無言のまま抱き付いて来る。

 

「――怖い思いさせちゃったわね、でも――とっても偉かったわ――とっても……」

 

そう言って抱き締めると、彼女は声を出さない様に我慢しながらも静かに啜り泣き始める。

 

「陸奥殿――妾の浅慮から龍田殿をあの様な目に遭わせ申しました――。罪のこれより大なるはござりませぬ……」

 

陸奥の前に進み出てそう言った初春は視線を落としたまま悄然と膝を着こうとするが、背後から長門がぐいと進み出るとその腕を掴んで押し止める。

 

「な、長門殿!」

「久しいな初春よ。再会した開口一番に言う事では無いが、お前は間違っているぞ」

 

そう言いながら、彼女は初春を立たせたまま自身が膝を着いてその顔を見上げる。

 

「何を為されますか⁉」

「いいか初春よ、お前の所為でも無ければ誰の所為でもない、お前の大切な妹を脅かし龍田を傷付けたのは他ならぬこの私だ。お前には何の罪も無い、詫びねばならぬのはこの長門だ。本当に申し訳ない」

 

片膝を着き深々と頭を垂れた長門に、さすがの初春もおろおろする。

「お、お止め下され長門殿! その様な勿体ない――」

「皆にばかり辛酸を舐めさせ、己は徒に生き残り、あまつさえ米帝に縄目の恥辱を受けた身だ。何の勿体無いことなどあろうか」

 

きっぱりと言い切った長門は顔を上げると、まだしゃくり上げながら如何にも不安げな様子で陸奥にぎゅっとしがみ付き、目だけで此方を見ている子の日の顔を見やる。

「子の日よ、お前に怖ろしい思いをさせたのもこの私だ。その上お前を庇った龍田迄傷付けてしまった。赦して貰えるなどとは思わぬが、せめて詫びる事だけは寛恕して貰えぬだろうか、この通りだ」

そう語り掛けると改めて深く頭を下げるその様子に初春が思わず口を開く。

「子の日よ、長門殿が斯様に――」

「初春ちゃん⁉」

陸奥がその言葉を遮ってゆっくり首を左右に振って見せると、彼女も意図を察して黙する。

 

子の日はと見るとまだ少し戸惑っている様だったが、やがてゆっくりとしがみ付いていた腕をほどき、おずおずと言った態で一歩ずつ長門に近づく。

 

傍らにやって来た彼女の気配に長門も徐に顔を上げると、少し涙が乾き掛けたその瞳を真っ直ぐに見詰める。

 

空気が張り詰め時が止まった様な数瞬の後、二人の間に垂れた帳を開くかの様に子の日が長門の首に両腕を回して抱き付くと、呪縛から解き放たれた様に彼女もまたその小さな身体をしっかりと抱き締める。

 

「有難う子の日よ――有難う……」

 

目を閉じたその眼尻からつうっと一筋涙が零れ、まるで不意に明かりが灯った様に雰囲気が変わると共に艦娘達が一斉に集まって来る。

「長門さん!」

「お帰りなさい長門さん!」

「長門さん、本当にお疲れ様でした!」

皆が口々に声を上げる中、際立って邪気の無い声が響く。

「ぴゃああぁぁ! 長門さーんっ!」

「おお! 酒匂! 酒匂なのか⁉」

 

陸奥も初めて目にするその姿はややほっそりとして華奢ではあるものの、身長は龍田や長良よりも高く決して幼子の容姿では無い。

にも関わらず声と言い話し方と言いその表情と言い、仲間達の中では一番幼いのではないかと思う程だ。

彼女は子の日がいるのも気にならない様子で長門の前にすとんと膝を着くなり、それこそ子の日ごと腕を回して抱き付く。

「良かったぁ、長門さんが来てくれなかったらね、酒匂どうしようかと思ってたよ! 本当に良かったぁ♪」

如何にも嬉しげに話し掛けられた長門も明るく朗らかに応じる。

「莫迦を言うな、私が酒匂を一人で行かせたりするものか! 何一つ満足に出来無い私が唯一お前にしてやれる事はそれ位なのだからな」

そう言った彼女は驚きに目を丸くしている子の日の顔を見遣ると、これまた朗らかに声を掛ける。

「子の日よ、私が最後に得た戦友の酒匂だ。どうか仲良くしてやってはくれまいか」

言われて一瞬きょとんと仕掛けた子の日も、すぐに破顔して応える。

「うん! 子の日だよ、酒匂ちゃんよろしくね!」

「ぴゃん! 酒匂だよ、子の日ちゃんもよろしくね!」

そう言い交わした二人は長門を間に挟んだまま頬を寄せて笑い合うが、ふと気付くと妙高がこれ迄見せた事も無い柔和な笑顔で慈しむ様に見詰めている。

 

(あらあら、妙高ちゃんたら何があったのかしら♪)

 

「こりゃ子の日よ! 物言いには気を付けよと言うて聞かせたではないか?」

「初春よ、大目に見てやってくれぬか? 酒匂には尊敬よりも同じ目の高さの友が必要なのだ」

確かに長門が言う通りで、同じ二等巡洋艦とは言っても歴戦の古強者である龍田や長良と同様な扱いは出来そうになかった。

 

「初春は、私にもその位気を遣ってくれたって良いんじゃないの?」

と言いながらその長良が近づいてくる。

「ほほ、これはまた些事には拘わらぬ寛容な長良殿らしからぬ仰せじゃ。ご不快の段はどうか平にご容赦下さりませ」

殊更に戯けて見せた初春にはもちろん彼女の心遣いが通じていたものの、まだ仲間同士の呼吸が判らない長門は二人の会話を言葉通りに受け取ってしまう。

「長良よ、どうか堪えてやってはくれまいか。長らく戦隊を率いて転戦したお前ならば判るだろう、衣食足りて礼節を知ると言うではないか。皆の永い辛苦の道もまだ幾許も明けやらぬこの様な折なればこそ、上に立つ者がまず進んで寛容を示してやってはくれぬか?」

「あ、は、はい……」

 

幾ら勘違いとは言えこれでは折角気遣ってくれようとした長良が流石に可哀想なので、陸奥はきまり悪そうに俯いてしまった彼女に声を掛ける。

「ねぇ長良ちゃん、その包帯はどうしたの?」

「あ、はいっ! 陸奥さんこれはその――」

「名誉の負傷だよ!」

さっと顔をあげて口を開き掛けた彼女にみな迄言わせずに、横合いから皐月が威勢良く声を上げる。

「あら、そうなの?」

そう問い返すと、今度は反対側から霰が応える。

「……旗艦の大役を立派に務められた証ですから……」

「そうだよ⁉ 本当に凄かったんだから!」

「そうだったのね! どうなの、傷は痛むの?」

「そっ、そんな事ありませんよ――全然深傷とかじゃありませんから――皐月も霰も大袈裟過ぎますよぉ」

「そんな事あるよ! こ~んな目の前で撃たれたのに紙一重で躱しちゃったんだよ⁉」

「私がつい余計な事言っちゃって――思わず冷汗出ちゃいましたから!」

飛龍が頭を掻きながらそう言うと、霰が大きく引き裂かれた救命胴衣を持ち上げて見せる。

「ちょっと――まさかそれ長良ちゃんのなの? それで大怪我じゃ無いなんてどう言う事?」

「敵潜に最後っ屁をやられちゃいまして――ひょっとして曳航出来るかなと思って近付いたらいきなり喰らっちゃったんです。でも本当に大丈夫なんですよ⁉ 軽い火傷と打ち身だけですから――」

 

胸に曰く言い難い何かが込み上げて来た陸奥は、長良に近付きしっかりと抱き締める。

「よく無事に戻って来てくれたわね――その上ちゃんと重責を果たしてだなんて――本当に立派よ」

「い、いえあのっ、陸奥さん――その、あり――あり……」

 

なんとか返事をし様とした彼女だったが途中から涙声になり、そのままさめざめと泣き出してしまう。

「あらあら、せっかく立派な旗艦振りだったって誉めたとこなのに、泣いたりしておかしいわよ♪」

そうは言ったものの、仲間達のみならずこの船に乗り組む全ての人間達の命までも背負った長良はその期待に立派に応えたのだから、重圧から解放された今位は好きなだけ泣けば良いと思っていた。

 

「――有難うございます陸奥さん、傷の痛みなんてもうどっかに消えちゃいました。これでまた頑張れます……」

 

それでもやはり気丈で負けん気の彼女はほんの少し泣いただけで体を起こし、手の甲で涙を拭いながら嬉しそうに笑って見せる。

「良かったわ――頑張り屋さんの長良ちゃん、あたしとっても好きよ」

顔を覗き込みながらそう言うと、彼女は真っ赤な顔ではにかむ。

「長良殿、此度のご活躍を聞き及びこの初春括目致しました。これからも何かとお導き下さりませ」

何時の間にか傍に来た初春が、最前とは異なる神妙な物言いで長良に向かって頗る丁重に礼をする。

「え、いやその――うん、判ればいいのよ判れば! これからも宜しくね初春!」

 

(あらあら♪)

 

思わず微笑んだ陸奥だったが、ふと見ると皐月と霰が小さく口を尖らせて、上目遣いにこちらと長良を交互に見ている。

「もう仕方無いわね、二人共いらっしゃい」

そう言って両の(かいな)を広げて見せると皐月は満面に笑みを浮かべ、霰は何時も通りほんの少しだけ嬉し気にきゅっと抱き付いて来る。

「二人共良く頑張ったわね――とっても偉かったわ」

そう言って、顔を擦り付ける様にして甘えて来る皐月と安心し切った様に体を預けて来る霰を抱き締めている内に、先程込み上げて来た気持ちが一体何だったのかが判る。

 

(仁……)

 

陸奥の胸の裡に去来したのは、岸壁に立ってこちらをひたと見詰めているあの日の彼の眼差しだった。

 

(仁が約束守ってくれたからあたしも約束守れるわ――姉さんと一緒に仁の許に帰れるのね)

 

一日でも早く日本に帰って、あの日の約束通り長門と共に只今を言いたい。

そして何よりも、彼を力一杯抱き締めたい。

 

(待っててね、仁♪)

 

そんな想いに浸りながら皐月と霰を見下ろす陸奥を、長門が嬉しさや誇らしさを隠そうともせずに目を細めて見詰めていた。

 



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〔第十一章・第四節〕

 翌日の昼前になって、やっと龍田の様子を見舞うことが出来た。

とは言うものの全員でぞろぞろと行く訳にも行かず、中嶋・斑駒(娘)以外に艦娘達からは結局長門・赤城・加賀それに陸奥が医務室に入る。

斑駒(父)とよく似た年配と思しき、つるが金属製の眼鏡を掛けた落ち着いた印象の男性が船医だった。

 

「最初に申し上げておきますが、治療行為に類する事はほぼ何も出来ておりません。唯々容態を見守っていただけと言うのが正直な処です」

極めて卒直な物言いだが、人柄から来るものと言うよりも医師という職業柄の様だ。

「しかし、目に見えて回復しておられる様に感じますが?」

中嶋の問い掛けに対して、船医は身振りを交えながら応じる。

「その通りです。ここに運び込まれた際には――もちろん大半は推測ですが――複数の内臓破裂と複合骨折、脳挫傷や多臓器不全などの重篤な症状が見うけられましたし、通常の人間であれば生存しているのが奇跡としか言い様が無い状況だったかと思います。心拍や呼吸もほとんど止まりそうな程微弱でしたが、今はご覧の通りです」

彼の指し示した装置の画面には規則正しい波がはっきりと安定して映し出されており、寝台に寝かされ管が繋がった透明な樹脂製の覆いを口元に被せられた龍田の胸が、ゆっくりと規則正しく上下しているのも判る。

「数か所の外傷から出血しておられましたのでそれらの処置だけはしましたが、この通り既に出血は止まり傷跡も急速に癒合回復し始めています――全くもって、驚くべき治癒能力としか言い様がありません」

「まだ艦娘の皆さんの生理機能を始めとしてほとんどが何も分かっていない状況ですので、我々としてはひたすら事実を有態に受け止めて行く事しか出来ないものと思っています」

中嶋の言葉に、船医はうんうんと頷く。

「いやはや全く仰る通りですな――それでは私は少し席を外しましょう。隣室におりますので、必要な折は声をお掛け下さい。くれぐれも患者さんのお体や機器類にはお手を触れないようお願い致します」

そう言い残した彼は、その言葉通り速やかに水密扉を開けて姿を消す。

 

「昨日はどんな状態だったんですか? 無責任にも龍田ちゃんを放ったらかしにしておいて聞くのも何ですけど……」

陸奥がそう問うと、斑駒(娘)がちらりと中嶋の顔を一瞥してから答える。

「正直に言いますけど龍田さんが亡くなったものと勘違いした位です。でも本当に弱々しいものの息をしておられたので、先生のお手伝いをして出来る限りの処置をしたんですが全く血の気の無い真っ白な顔をしていて――それを見てたら本当に泣きそうだったんです。それがこんなに顔色も良くなるなんて――」

「と言いますかもう泣いておられましたよね」

赤城がそう突っ込むと、彼女はむくれながら言い返す。

「ええそうです泣いてましたよ! もうっ本当に――皆さんが何で落ち着いてるのか、私には理解出来ませんでしたよ⁉」

「それは何とも、曰く言い難いのですが――只沈まずに帰って来てくれたと言う事は生き永らえたと言う事だとは感じましたね」

「私も現場で同じ事を感じました。龍田さんが海面に浮いたままなのを見て『これは大丈夫だ』と思ったのは事実です。もちろん、非常に際どかったとも思いましたが」

赤城の言葉に加賀も同意を示し、それは陸奥も納得出来た。

「でもとても不思議なんですけど、陸奥さんと加賀さんは沈んで行く長門さんをそれこそ必死で引き揚げられたんですよね? それでも長門さんは自力で航行出来た訳ですし、現に今もこうしてお元気にしてらっしゃいますし――どうして龍田さんとはこんなに違うんでしょうか?」

斑駒(娘)の疑問はもっともな事かも知れないが、これもまた合理的に説明出来そうもない話だ。

「艦が沈む時は必ずしも損害の大きさに比例するとは限りませんからな。私に付いて言えば、陸奥の弾を喰らった時に言うなれば『不味い所をやられた』という感覚はありましたので」

長門がそう応えるが、陸奥にはもう少し付け加える事があった。

「それもあるかも知れないけど、引き揚げた後で姉さんは肌の色や髪の色が変わったわ。その時、どう見てもあった筈の傷が無くなったみたいに見えたのよ? そんな感覚は何か無い?」

「本当なのか? さすがにその時の事は何も判らんな……」

「酒匂さんも、妙高さんの攻撃で吹き飛ばされてかなり派手に海面を転がったとの事ですが、それでもやはり元気に自力で航行して来られましたし、ひょっとすると皆さんの様な艦娘の状態になる際に肉体の組織や構造が変化して急速に治癒しているのかも知れませんね――もちろん只の推測でしかありませんが」

中嶋はそう言って一旦言葉を切った後、陸奥らの顔を見ながら再度口を開く。

「それを踏まえてと言う訳ではありませんが――皆さんの感覚では、龍田さんの今後の回復をどう見ておられますか?」

その問い掛けに、四人は改めて龍田をしげしげと見詰める。

そして、期せずして全員が同じ様に顔を上げて互いに視線を交わすが、それによって皆が同じ感想を抱いた事が判ったので、小さく頷き合った末に陸奥が全員を代表して答えた。

「何の根拠もある訳ではありませんので、あくまでも感覚でのご返事になりますが――恐らく一両日程度の内には意識が戻るのではないかと思います」

「皆さんが全員そう感じられたんですか⁉」

斑駒(娘)が思わず問い返すが、事実その通りなので四人が銘々に頷くと問いを発した当の中嶋も些か呆れ気味に感想を述べる。

「皆さんにはとにかく驚かされる事ばかりですね――ですが、もし皆さんの仰る通りであればこれ程嬉しい事はありません、大いに期待して待つことに致しましょう」

そう言い切った彼の言葉尻の明るさに、陸奥も多少胸を撫で下ろす。

恐らくは努めて暗くならない様に振る舞っていたものと思われるが、昨日の中嶋は明らかに内心で相応の覚悟を秘めていた様に見受けられたのだ。

 

(きっと、龍田ちゃんの事は全て自分で責任を取る積もりだったのね)

 

だが彼女の目覚ましい回復の様子を見ている限り、どうやら最悪の事態は避けられそうに思える。

「私は少し先生と話をして来ますので、皆さんはもう少し龍田さんの傍に居てあげるなり退出するなりして頂いて結構です。それでは一旦これで」

 

そう言い残して彼は部屋を出て行き、後に残された五人はもう一度静かに横たわっている龍田を見遣る。

彼女の外見はほぼ何時も通りと言っても差支えなかったが、だからと言って今にも目を覚ましたりしそうには感じられない。

こればかりは何故かと聞かれても答え様が無く、只その様に思うからとしか説明出来なかった。

そんな事を考えていると、長門がそっと手を伸ばして龍田の手に触れ様とする。

「姉さん、駄目って言われたでしょ⁉」

「判っている、ほんの少し触れるだけだ」

そう言ったその言葉通り、龍田の右手の甲にほんの少しだけ指先で触れると長門は呟く様に話し掛ける。

 

「龍田よ、どうか明日には声を聞かせてくれ。お前に詫びぬまま日本の土を踏む訳にはいかんのだ。例え皆が私を仲間だと認めてくれても、お前が認めてくれぬ限り私は皆の戦友面をする事は出来ぬ。もし今心が通じるのならば私の願いを聞き届けてはくれまいか」

 

しんみりとした空気が漂う中で五人は暫し無言だったが、やがて陸奥がつと手を伸ばし長門の手を掴むと龍田の手からそっと引き離す。

「もうお終いよ姉さん――龍田ちゃんの手、温かかった?」

「そうだな、温かかった。きっと龍田はとても心優しい娘に違い無いな」

「その通りですよ長門さん。龍田さんは優しく思い遣りのある方です」

赤城が微笑むと、加賀が後をうけて付け加える。

「只ちょっと素直では無い所もありますし、一風変わった趣向の持ち主ですが」

「それ位何だと言うのだ? 優しく思い遣りがあってしかもこれ程に愛らしい容姿をしているのだから、ひょっとすると陸に上がれば男共が放っておかぬのではないか?」

長門のその言葉を聞いた四人は(表情の乏しい加賀を除いてだが)つい苦笑してしまう。

「まぁ姉さん、きっと明日には龍田ちゃんと話せると思うからその時迄楽しみは取っておきましょ♪」

「やれやれ、良く判らん事を言う奴だな」

かぶりを振った長門を見て四人はまた笑顔を浮かべる。

 

(また明日ね、龍田ちゃん)

 

とても穏やかで微かに笑みさえ浮かべている龍田の顔を見ながら、陸奥は心の中でそう告げた。

 



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〔第十一章・第五節〕

 暖かな金色の光に包まれているととても穏やかな気持ちでいられるので、時間の経過が判らなくなってしまう。

 

(あ~でも何だか幸せぇ~)

 

厭な悪夢に追い掛けられる事も無く、ふわふわとした不思議な感覚に身を任せてころころしているのは何とも言えず心地が良い。

仲間達が誰もいてくれないのは少々残念だし、自分がいなくなった(きっと派手に吹き飛ばされたりしたんだろうなと想像して見たりもする)後どうなったのかも気にはなるが、何故か仲間達が酷い目に遭っていそうな嫌な感じはしない。

 

(これから一体どうなっちゃうのかしらねぇー)

 

自分の船体が引き揚げられた訳では無いので、このまま天国に行けたりする様な都合の良い事にはならないだろう。

そうなると何れ自分は目を覚ますのだろうか、それとも最初に得たあの体は滅んでまた何時の日か自分の頭の上で誰かが危機に陥る時に新たな体を得て再誕するのだろうか。

考えて結論の出る話でもないが、どうせなら横須賀の仲間達の許に戻るなり先に天国へと旅立った仲間達の許へ行くなりはしたいものだと思う。

 

(気楽なのは良いけどぉ、やっぱりちょっと寂し過ぎよねぇ~)

 

そんな事をつらつら思い浮かべていると、ふっと右手の甲にじんわりとした温もりを感じる。

 

(あら~?)

 

不思議に思ってその辺りに触れて見るが、何も変わった感覚はない。

ところが、それを切っ掛けに周囲の様子が変化し始めた様だ。

金色の暖かい光が衰え始め、どこからか隙間風の様な冷え冷えとした空気が流れ込んで来る。

同時に、今迄何かに支えられている様にゆったりと浮かんでいた身体が少しずつ浮力を失って沈み始める。

 

(いや~ん、ちょっとこれは不味いんじゃないかしらー?)

 

そう思って何気なく下を見ると、そこに彼女が最も見たく無い物があるのに気が付き全身からどっと冷たい汗が吹き出す。

 

(嘘――何で……)

 

そこは光も届かぬ暗い海底で、砂とも泥とも付かない一面の灰色の中に黒々とした鉄の塊が横たわり、その周りを奇怪な姿の生き物達があるものは這いずりあるものは陰鬱に漂っている。

その情景こそは龍田が苦しめられ続けた悪夢の具現化に他ならず、自分は今正にそこに落ちて行こうとしていた。

 

(止めて! 一体何の嫌がらせなの⁉)

 

必死でそう叫んだ途端、自分の頭上――そこはまだ金色の光に満たされた明るい空間であったが――に陸奥を始めとする仲間達の姿が出現する。

 

(助けて、あそこに行くのは厭っ! 皆の処が良いの!)

 

力一杯手を伸ばし仲間達に助けを求めると、有難い事に皆一斉に龍田に向かって手を伸ばしてくれるのだが、どれも後少しで届かない。

沈み込む速度は少しずつ確実に増して行き、次第に金色の光が遠ざかると共に冷たい気配が足元から忍び寄って来る。

 

(お願い! もう少し、もう少しだけ頑張って⁉ 見捨てないで!)

 

彼女の懇願を仲間達はちゃんと聞き入れてくれ、懸命に手を差し伸べてくれる。

にも関わらずそれらは次々に龍田の手を擦り抜けてしまい、急に沈み込みが早くなって身体が落下し始める。

 

(厭ぁっ!)

 

悲鳴を上げたその瞬間ぐっと力強い手が伸ばした手を握り締め、落ち込みが止まる。

 

(えっ⁉)

 

恐る恐る上を見上げると自分の手をしっかりと掴んだ手が見え、その先には笑顔が――――いや、顔が見えるわけでは無かった。

それは仲間達の中で只一人、顔は見え無いのに笑みを浮かべている事だけは何故か判るあの不思議な『誰か』だった。

そして今、相変わらず顔は見えないままに、頼もしいその腕で龍田を再び暖かい光の中へ引き上げてくれている。

 

(あ、有難う……)

 

辛うじて礼を言うとその誰かは改めて笑みを浮かべて見せ、空いた片腕で彼女の肩を包み込む様に抱き寄せてくれるが、その腕の暖かさに思わず陶然としてしまう。

言い様の無い安心感が全身を包み込み、再び穏やかな気持ちが戻って来るのがはっきり判る。

 

(何なのかしらぁ――この何だかとっても嬉しい感じ……)

 

不思議な幸福感に包まれながらもう一度その顔を見上げると、不意に視界の全てがぼやけ始めどこからか自分を呼ぶ声が聞こえて来る。

 

(たつた――たつた――たつた――)

 

「――龍田――龍田――しっかりしろ龍田、私の声が聞こえるか?」

 

「――あ――え……?」

 

「おお! 気が付いたか! しっかりしろ、どうだ私が判るか?」

「姉さん! いきなり畳み掛けちゃ駄目よ⁉」

「そ、そうか――済まんな龍田、大丈夫か?」

 

まるで夜の闇の様な漆黒の長い髪、はっきりとした目鼻立ちの凛々しい顔と無駄の無い精悍な顎。

それでいて、傍らから覗き込む様にこちらを見詰めている陸奥の顔とどことなく似ている。

 

「……な、長門さん?」

 

新しい仲間に出会う度に経験するこの不思議な感覚――初対面なのに何故か誰なのか判ってしまう。

それにとても温かな手――――手?

そうだった、長門は龍田の手をしっかりと握ってくれている。

とても温かく、力強い手……。

 

(もしかして――長門さんだったの?)

 

急に胸の奥で心臓(と言う器官だと教わっているが……)がどくんどくんと勢い良く動き始め、顔も熱くなって来た様な気がする。

「おや――ちょっと済みません、様子を見させて下さい」

長門と陸奥の更に向こうから男の声が聞こえ、それに応じて陸奥が、

「姉さん先生に場所を空けましょ、ちょっと外した方が良さそうだわ」

と長門の肩に手を掛けて促す。

「そうだな、仕方あるまい――龍田よ、また後で話そう」

 

彼女はそう言って口元に笑みを見せて、手を少しだけきゅっと握り直してから立ち上がる。

入れ替わりに斑駒(娘)と眼鏡を掛けた男が寝台の際から身を乗り出して来るが、龍田は半ば上の空のまま去って行く長門を目で追い続けている。

「済みません、ちょっとお口を開けて少し舌を出して頂けますか?」

男が何か言っているので言われるがままに口を開けると何やら金属製のへらの様な物で舌を押さえ付けられるが、専ら龍田は水密扉を開けて退室して行く長門の背中ばかり見ていた。

「それじゃ今度はこれをちょっと咥えてて貰えますか」

と今度は先が銀色で途中から薄橙色になった棒の様な物を差し出されるので、これまた言われるままに口に咥えた。

そんな風に只言われた通りに振舞いながらも、目の前には口元にほんのり笑みを浮かべた長門の顔がまるで残像の様に踊り続けている。

 

(どうしちゃったのかしらぁ~、何だかとっても嫌~な予感がするわぁ♪)

 

もちろんそれは彼女の本心では無く、寧ろ心弾む予感すら感じているにも関わらず敢えてそんな風に独り言ちてみる。

やはり、龍田はちょっと素直ではないのだった。

 



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〔第十一章・第六節〕

 その日の夕食後、艦娘達の為に開放された船室の水密隔壁に斜路が設えられると、そこから長門が押す車椅子に乗って龍田が姿を見せた。

期せずして皆の口から歓声が上がるが、その中にあって一人子の日は弾かれる様に立ち上がると彼女の許に転がる様に駆け寄り、膝に取り縋ってわっと泣き出す。

その小さな肩をしっかりと抱き締めた龍田も涙を零し、陸奥や仲間達が思わず貰い泣きしてしまうと暫しの間全員が涙にくれる。

やがて涙を拭った初春が近付き、龍田に深々と頭を下げながら妹を立たせ、くしゃくしゃになったその顔を拭いてやると仲間達も夫々に涙を拭い始めた。

それが一通り終わった頃合いを見計らって、長門が龍田の肩に手を掛けながら朗々と声を上げる。

 

「皆に報告させてくれ、龍田は私を赦すと言ってくれた、私を仲間だと認めてくれたのだ。だから今改めてお願いしたい、皆が許してくれるのならば今日只今よりこの長門を仲間に加えてくれないだろうか、どうか宜しく頼む」

「ぴゃああーっ酒匂もぉ~っ!」

「もちろんだ、酒匂も一緒だぞ」

彼女が無邪気に加わると、長門も笑顔を見せてその肩に手を置く。

もちろん許すとか許さないとかを言い出す者などいない事は百も承知だが、皆が何と言うのか興味があった陸奥は自ら口火を切って見る。

「あらあら、龍田ちゃんの許可はもう出たのにまだ誰かの許可がいるの姉さん? 皆もどうかしら?」

そう言って全員の顔をさらりと見渡すと、悪戯っぽい笑みを浮かべた皐月がさも嬉しそうに上段から口を開く。

「しょうが無いなぁ~、それじゃあボクが特別に長門さんと酒匂ちゃんに許可したげるよ!」

「ふふっ、皐月さんの許可が出たのならもう大丈夫ですね♪」

妙高が酒匂の顔を見てにっこり微笑むと、酒匂は如何にも感心した様子で問い返す。

「へえぇーっ凄いねぇ~~、皐月ちゃんは偉いんだね! みんなの中で一番偉いの?」

彼女の無邪気な様子に思わず皆笑顔を浮かべる中、皐月のすぐ背後に立った霰が何時もの様にボソッと(しかし周囲にはちゃんと聞こえる様に)呟く。

「……実は皐月ちゃんが一番偉かったんだ……知らなかった……」

「な、何言ってんだよぉ! そんな訳無いだろ⁉ あ、霰は本当にぃ……」

例によって気色ばむ皐月に、酒匂がきょとんとした様子で聞き返す。

「え~っそうなのぉ? じゃあ誰が一番偉いの?」

「そ、そんなの陸奥さんに決まってるよ! ボクの訳無いだろ⁉ もうっ」

「あら、あたしはてっきり皐月ちゃんだと思ってたんだけど違ったかしら?」

「陸奥さん迄酷いや! もう勘弁してよぉ⁉」

思わず全員がどっと笑うと皐月は顔を赤らめて歯を見せるが、そこへ長門が歩み寄って彼女の傍らに片膝を付くと微笑みながら声を掛ける。

「偉いか偉くないかなど関係無いぞ、私は皐月が許可してくれた事がとても嬉しいな」

「ボクも長門さんが帰って来てくれて凄く嬉しいよ!」

満面の笑みでそう応えた皐月を、長門は目を細めて抱き締める。

「あぁーん、酒匂もぉ!」

「判った判った、酒匂もだな」

皐月だけ狡いと言わんばかりに二人の横に膝を付いた酒匂に、長門は優し気に応じて片腕を廻す。

陸奥が車椅子の横に立って空いた押し手に手を掛けると、龍田は

「長門さんって子供好きなんですかねぇ~」

と彼女らに視線を据えたまま、問い掛ける様な同意を求める様などちらとも付かない事を言う。

「そうねぇ、好きなのかどうかは判らないけど、あんな風にしてる時は何だか寛いでる様に見えるわね」

「やっぱり色々背負っておられるからぁ、邪気の無い子達に囲まれてると癒されるんですかねぇ」

「その癒しって――難しい言葉よね、とっても」

陸奥のその言葉に反応したのは龍田では無く、すっと反対側の押し手に手を掛けた高雄だった。

「どうすれば自分は癒されるのか、どうすれば誰かを癒すことが出来るのか――考えれば考える程判ら無くなりますよね。それとも判ら無いのは私達だけで、人間達はちゃんと答えを知ってるんでしょうか?」

「そんな事は無いと思うわ、きっと人間もあたし達もそう変わりはしない筈よ」

「そうですよね――。それにひょっとしたら、答えは人間や艦娘の数と同じだけあるのかも知れませんね」

あの日のそれも僅か数時間を境に、高雄は何やら変わってしまっていた。少々おっとりとして優し気な様子は何も変わりないが、以前であれば時折見せた様な感情的になって浮き足立つ様はすっかり影を潜めてしまった。

その上とても深味を感じさせる物言いや立ち居振る舞いが目立つ様になり、彼女の上にどれ程の星霜が巡ったのかと疑ってしまう位だ。

「因みにぃ、高雄さんは癒したいんですかそれとも癒されたいんですかぁ?」

龍田の問いに、彼女は微笑して胸元に軽く手を当てる。

「私は――欲張りだから両方ね。渡来さんの癒しになりたいし渡来さんに癒されたいわ♪」

 

(いやいや出来たらそこが一番変わって欲しかったんだけど⁉)

 

「うふふぅ~陸奥さんも敵が多くて気が抜けませんねぇー♪」

「龍田ちゃんはそんな事心配しなくていいの!」

「大丈夫ですよぉー? 心配してるんじゃなくて面白がってるだけですからぁ~」

「余計悪いわよ!」

そう突っ込んでいると斑駒(娘)が何やら箱を抱えて入って来る。

「あら、駒ちゃんなあにそれ?」

「特にお許しがあったので、皆さんにちょっとおやつをお持ちしたんですよ♪」

そう言って彼女は机の上に箱を下ろし、中身を取り出し始める。

「おお、それはひょっとして甘味か?」

「あらぁ~長門さんは甘味がお好みですかぁ?」

「お好みと言うにはまだ口にするのは二度目だがな。とは言え正直なところとても有難い、斑駒殿、副長殿かお父上かは知らぬがお心付けの礼を言わねばならんな」

「駄目とは言わないけど、わざわざ言いに行くのはちょっと大袈裟よ姉さん」

「そうですね、私からちゃんとお伝えしておきますのでそれで宜しいかと思いますよ?」

「そう言うものなのか――やはり現代の日本は随分豊かになったと見える。昔の将兵達と来たら、甘味と言うだけでそれこそ大騒ぎになったものだがな」

そう言って、姉はどこか遠くを見詰める様な目をする。

「でも、時の流れってそう言うものなんだと思うわ。それに姉さんだって、もう一度荒廃し切った国や人間達の姿なんて見たく無いでしょ?」

「そうだな、それは確かにお前の言う通りだ。第一、もし悲惨な有様を見せられたりしたら辛辣な事の一つも口にし辛くなるだろうしな」

「そぉですよぉ~長門さんは文句を一杯溜め込んでるんですよねぇー、今の日本にだったら安心してそれをぶつけられますからねぇ~♪」

「龍田の言い草は随分だな、それでは私がとんだ阿婆擦れか唐変木の様ではないか」

「でも口を憚って我慢するのはよろしく無いですわ、誰かを中傷する様な事で無い限り出来るだけ口に出すべきかと思います」

「そうなのか? 妙高は何か経験がある様だな」

「毒舌妙高さんはずっと猫被っておられましたからねぇ~」

「誰が毒舌ですか! しかもよりにもよって貴方の様な腹黒い方に言われたくありません。斑駒さんのお手伝いをした折、どうして貴方の血が赤いのか不思議でしたわ⁉」

「それが毒舌だって言ってるだけですよぉ~」

「ま、待てお前達! 目下の者も見ている前で仲間割れなぞしてはならん!」

長門が如何にも慌てた様子で割って入ると、二人はけろりとした顔で口を揃える。

「まぁ長門さん、それは誤解ですわ?」

「そぉですよ~お気になさらずなさらずぅー」

「本当なのか? 信じていいのか?」

戸惑った様な顔をする長門に、思わず陸奥も苦笑する。

「まぁ信じて良いんじゃないかしら? その娘達にとっては何時もの事だし」

「そんなものなのか? 何とも早や――」

「えぇ~! 皆まだ食べて無いのに、赤城さん普通に二個目食べ無いで下さいよぉ~」

横で飛龍の上げた声が、続けて喋り掛けた長門の言葉に被る。

「おやそうでしたか? 特に意識して無かったのでつい手が出てしまって」

と口ではそう言いながらも赤城は食べるのを止める様子は無い。

「――陸奥よ、お前達は本当に大丈夫なのか?」

怪訝な顔をする姉の気持ちは良く判るが、このどこか気楽な日常が戻って来た事が皆の安堵感を象徴している様にも思える。

「多分大丈夫よ姉さん。皆少しずつ今の日本にも自分の心にも慣れて来た処だから、小さな引っ掛かり位はまだまだ起こるかも知れないけれどね」

「そうか――まぁお前がそう言うのならそうなのかも知れんな」

そう言って少し背筋を伸ばした長門の目の奥には、少々戸惑いの色こそあるものの穏やかな光が宿っている。

 

(良かったわ、こうして姉さんと一緒に日本に帰れるんだから♪)

 

そんな細やかな喜びを感じている陸奥の視界の端でその姉の手をさり気無く握る龍田が見えてしまったのだが、当の姉が特に意識する様子も無さそうなので思わず見なかったことにしてしまった。

 



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〔第十一章・第七節〕

 横波間への帰港を明日に控え、久しぶりに全員そろっての打合せがもたれた。中嶋と斑駒(父)によると、帰港は明日の朝が予定され、入港後は念のため全員が一旦横須加にある防衛隊病院に向かい、健診をうけるとのことだった。

(少なくとも、家に帰って寛げるのは夜になりそうね)

場合によっては一晩教練隊に泊まって、帰宅は翌日になることもあり得るだろう。

(はぁ~……)

口には出さないが、思わず内心で溜息を吐く。

いよいよ葉月と対面しなければならないと思うと、とにかく憂鬱で仕方が無い。勘のいい彼女の事なので、仁の変化にはすぐに気付いただろうし、ことによっては、何があったのか厳しく詰問して、洗い浚い白状させる位のことはしているかも知れない。

(仁が葉月に逆らうのは無理よねぇ)

陸奥の脳裏に、葉月の前で正座させられた仁が、彼女の説教を懇々と聞かされて首を項垂れている様が浮かんでくる。その様子を普通に表現するならば、不甲斐ないとしか言いようがないところなのだろうが、どういう訳か、そんな彼を想像してみても、一向に腹が立つとか歯痒いとかいった感情は湧いて来ず、寧ろ、しょげ返っている彼をきゅーっと抱き締めてあげたいなどと妄想してしまう。

「どうかしたのか? 何か嬉しい事でもあるのか?」

さも訝しげな長門の声に、突然現実に引き戻される。

「えっ、あらっ? な、何でもないわよ、姉さん⁉」

「そうか、それにしては、随分と楽しそうな笑顔だったぞ?」

「そ、そうだったかしら? 自分じゃどんな顔してるか判らないから、気付かなかったわ♪」

「まぁ、それは確かにそうだな」

(あ、危ない危ない――、でも――、いつかは説明しないとね……)

そう思いながら、改めて食事に箸をつける。

打ち合わせの後の昼食は、これも同じく、出撃前夜の夕食以来久方振りの全員揃っての食事だ。龍田は念のためにまだ車椅子に乗ってはいるものの、食事は普通に摂って良いと許可が出たので、今も長門の隣でにこにこしながら箸を動かしており、頗る上機嫌の様だ。

周囲にさっと視線を走らせると、蒼龍と飛龍が今の遣り取りに聞き耳を立てていた様で、可笑しそうに含み笑いをしているが、彼女らにはそれなりに弁えもあるので、姉の前で陸奥が焦るような話題を、突然振ったりする様子は無さそうだ。

(大丈夫――みたいね、いつ話そうかしら、迷うわね)

すっかり油断して、先のことに考えが飛んだ時だった。

「それにしても、どうやら無事に、陸奥さんを渡来さんのもとへお帰しできそうでなによりです! お誓いした手前、とても安堵しておりますよ」

(!!)

思わず、全身が凍り付く。誰かなどと考えるまでもない大きな声――、必死で目だけを動かして、咄嗟に彼女を止められそうな加賀を探すが、今日に限って赤城の傍にはおらず、陸奥よりも更に遠くにいる。ならば仕方が無い、何とか自分でこの場を取り繕わねば!

「いやあの、赤城――」

「ほほ、赤城殿、如何に本土の近海まで辿り着いたとは申せ、安堵するには気が早うござりませぬか? 油断と慢心とは鬼門にござりまするぞ♪」

何とか口を開きかけた陸奥の言葉を、絶妙の間合いで遮った初春が、例によって雅やかな調子で口を挟むと、そこへさらに、赤城の隣に席を占めていた瑞穂が言葉を継ぐ。

「初春さんの仰る通りですわ、古より、百里を行く者は九十をもって半ばとすと言うではありませんか? 無事に陸に足をつけてから、存分に安堵しても遅くは無いように思いますがいかがでしょう」

二人の見事な連携で一瞬の空白が生じると、長門がにこやかに赤城を顧みて、

「赤城よ、どうやら一本取られた様だな。良いではないか、二人の言う通り、陸に足をつけてから存分に気を弛めようぞ。私も、初めて陸に足をつけるのを今から楽しみにしているのだ♪」

と軽く窘めるように言って、その場を旨く纏めてしまう。

「これは参りました、全く皆さんの言われる通りですね♪ それでは、気を抜くのは長門さんの仰せの通り、陸に足をつけてからに致します」

赤城の美徳が如何なく発揮されるのを見るのは、さして珍しいわけでもないが、この度ばかりは、激賞したくなる程素晴らしかった。

(何より、初春ちゃんと瑞穂ちゃんに感謝だわ――、二人ともありがとう)

そう思って彼女らの顔を見ようとした陸奥は、次の姉の言葉を全く予期していなかった。

「それはそうと陸奥よ、お前はどういうわけで、その渡来殿とやらのもとに居候しているのだ?」

(うぅ――、ま、まだ終わってなかったのね)

「そ、そうね、ちょっと色々あってこうなっちゃったのよ♪」

「それにしても、渡来殿はまだお若いと言うことだったな。家庭の生活というものが私には良く判らんが、居候を抱えるのは、結構な経済的負担になるのではないのか? それとも、そこはやはり、命を助けられたことに対する恩義ということなのか?」

「まぁそうねぇ――、自分の命はあたしから貰ったものだって、いつも繰り返し言ってくれるわね」

「そうか、やはりそういう律儀なところがあるのだな――、しかしそれにしても、お前たち二人も居候しているのだろう、それはまたどういう経緯なのだ?」

言いながら、長門は初春と子の日の顔を見る。今すぐ席を立って逃げ出したい気分だが、さすがにそれは出来かねる以上、ここはもう、二人の機転に任せるしかないのだろうか?

「長門殿、有り体を申しますれば、子の日が陸奥殿を思慕致しまして、寝食を同じゅうしたいと願うたところ、それを叶えて頂いたのにござります。妾は、子の日の目付け役と言うところにござりましょうかの」

彼女は何気なく事実を述べただけに見えるが、長門の歓心を得られるように巧みな物言いをしており、その説明を聞くやいなや、姉の機嫌が良くなる。

「そうか♪ 子の日よ、そんなに陸奥が好きか?」

笑顔でそう言うと、隣に座った子の日の顔を見る。

「うん! 大好きだよ!」

如何にも天衣無縫なその言い様に、長門は、

「そうかそうか、子の日は素直な良い子だ♪」

と相好を崩す。

(はぁ良かった――、本当に、初春ちゃんには足を向けて寝られないわね)

今度こそ何とか切り抜けただろう、そう思った陸奥は手早く食事を終えてしまおうと、改めて膳に箸を付けなおしかけたが、なんと三度危機が襲ってくる。

「待てよ? ――子の日よ、そもそもお前は最初どこで起居していたのだ? 内地に帰還するなり、その渡来殿のもとへ行った訳ではあるまい?」

問いかけられた彼女は困ったように俯いてしまうが、それでも少々気乗りしない様子ながら、首を左右に振って見せ、

「最初は訓練隊にいたの。霰ちゃん、朧ちゃんと一緒に帰って来たから――」

と言い難そうに口にする。

「それでは、いつそこを離れて陸奥のもとへ行きたいと思ったのだ? 陸奥が初めて隊を訪れた時なのか?」

駄目だ、これ以上成り行きに任せておくわけにはいかない、覚悟を決めて、長門には場所を変えて説明するとはっきり言おう。そう決心した陸奥が口を開きかけると、意図を察したものか、横合いから初春が長門の問い掛けに応える。

「そうではござりませぬ。妾と子の日は、訓練隊にて短い間ではござりましたが、陸奥殿と起居を共にさせて頂いておりました。渡来殿のお宅にお世話になり申したのは、その後のことにござりまする」

「そうだったのか――、だが、一体なぜそんな行きつ戻りつをしたのだ?」

言葉とともに姉が顔を見るものの、既に肚を据えていた陸奥は落ち着いて返答できる。

「それを話し出すと、食事時の雑談じゃ済まなくなっちゃうのよ、後でゆっくり話すわ姉さん」

「――そうか、わかった。ではそうしよう、後ほど詳しく聞かせてくれ」

「ええ」

思わず、食卓に突っ伏しそうになる。

(結局、こうなっちゃったわね――、まぁ仕方ないかしら)

心中で嘆息しながら、三度改めて食事に戻ろうとしたが、先程のこともあるので、まだ気が抜けないと用心し掛けた矢先、案の定、四度長門が口を開く。

「――ちょっと待ってくれ、陸奥よ」

「今度は何、姉さん⁉」

とはいえ、今度の姉の反応は、どうやらこれまでとは少し気色が違うようだ。

「まさかとは思うが――、その渡来とかいう男、お前にふしだらな情念を抱いているのではあるまいな⁉」

「いや、ふしだらって姉さん――」

「何を言うか! その男が馬鹿でないのであれば、お前にはこの私と言う姉がいることくらいわかっていよう⁉ にもかかわらず、私がおらぬを幸いとばかりに、お前を誑かして私宅に引き入れるなど、これをふしだら・不品行と言わずして何と言うのだ⁉ 大体――」

「もう、いい加減にして姉さん! どうして、そんなにあたしを晒し者にしたいの⁉」

思わず、立ち上がって言い放つと、さすがの長門も一瞬口を噤む。

そのまま勢いに任せて、溜まった文句を並べ立ててやろうと思ったものの、僅かに生じた沈黙を縫って、今まで笑顔を浮かべて事の推移を眺めていた龍田が、唐突に口を挟む。

「長門さぁん、龍田、ちょっとご機嫌斜めなんですけどぉ~」

「そ、そうか、これは済まなかった、つい大声を出してしまったな」

「違いますよぉ、大声なら赤城さんで慣れっこですしぃ。そうじゃなくてぇ、長門さんは、やっぱり陸奥さんが一番大事なんだなぁ~って思ったからですぅ」

「何を言い出すのだ、確かに陸奥は私の妹だから大切に思いはするが、だからと言って、龍田や皆のことをどうでもいいなどとは思わんぞ?」

「でもたった今、陸奥さんのことを好きな男の方がいるって言うだけで怒ってらっしゃいましたよねぇ。長門さんは、龍田のことを『男達が放っておかない』なんて誉めてくださったそうですけど、私が男性に言い寄られても、ちゃんと怒ってくださるんですかぁ?」

そう言って、龍田は拗ねた様な顔で長門を横目に見るが、自然な媚びなどというものがあるのかどうか判らぬものの、もし陸奥が同じことをしようとしたなら、どこかが引き攣ってしまうだろうと思われるほど、彼女は繊細な表情と仕草で嬌態を露にして見せる。

(や、やっぱり、龍田ちゃん恐るべしね……)

「む――、いや、お前の言うとおりだ龍田よ。私も、いささか性急にものを言い過ぎたようだな」

「うふふぅー、ありがとうございますぅ、龍田もちょっとご機嫌なおりましたよぉ♪」

たちまち今度は、打って変わって邪気のない笑みを浮かべて見せる彼女に、さすがの長門も少々気圧されている様だ。

「姉さん?」

「うん、なんだ?」

「気持ちは良くわかるけど、焦って早合点したって何にも良いことなんか無いわよ。あたしは、それで大失敗したんだから――。それに、ものを感じる心っていうやつと折り合いを付けていくのって、そんなに簡単じゃないわ。あたしも皆も、未だに苦労してるのよ?」

「やれやれ、そういうものなのか、何にせよ厄介なことだな」

「それに、皆があたし達に一生懸命気を使ってくれたのよ、わかる?」

「ああ、どうやらそのようだな――、皆済まなかった、何事にも時と場所を弁えねばならんということが良くわかった。何様慣れていないものでな、勘弁してくれまいか」

その言葉を聞いて、やっと皆の空気が元通り和やかになる。

「それじゃ姉さん、早く食事を済ませましょ? それからゆっくり、姉さんの疑問に応えることにするわ」

「わかった、しかし、くれぐれも言っておくが簡単には納得せんぞ? 場合によっては、その不埒な男を締め上げねばならんからな」

「はいはい、わかりました」

苦笑した陸奥は、やっと安心して残りの食事に箸をつけた。



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〔第十一章・第八節〕

 払暁、『おおやしま』は浦加水道に向かって進んでいた。

「久し振りに見る日本はどう、姉さん?」

「いや――、正直に言うが懐かしいな――。どの様に否定しようが、やはりここは私の故郷なのだな」

「ねぇ、故郷ってどういうもの? 日本は酒匂の故郷?」

「酒匂は難しい事を聞くな♪ そうだな――、故郷は自分が生まれたところだから、酒匂にとっても日本は故郷だぞ。どうだ、懐かしいと感じるか?」

「良くわかんない、でも――、なんかこの辺がもやもやするの」

そう言って彼女は、両手で自分の胸に触れる。

「それは、酒匂ちゃんにとって、故郷が大切なものだからだと思うわ」

妙高が彼女に投げ掛ける視線は、優しさと慈愛に満ちており、声音も柔らかい。

「故郷は大切なの?」

「そうよ、大切だからこそ裏切られれば悲しいし、遠く離れているほどそこに帰りたいと願うものよ」

「おそらく妙高の言う通りなのだろう、どれほど恨み憎もうが、結局どこかで、帰ることを願っていたのだろうな、大切な故郷であるからこそ……」

艦娘達は、しばし言葉も無く、徐々に明るさを増していく陸地を眺めていた。

「あっ、あれは?」

長良が声を上げて指差す方角を見ると、灰色のずんぐりとした船影が、同航しながら接近してくる。

「まぁ、『とおとうみ』ではありませんか」

赤城の言う通り、青と白の信号旗を三つはためかせながら接近してきたその特徴ある艦形は、紛れもなく『とおとうみ』だった。

「すごい! これは、異例中の異例ですよ⁉」

斑駒(娘)が驚きの声を上げたのは他でもない、『とおとうみ』は登舷礼の態勢をとっていたからだ。

これに対して、『おおやしま』側の船内も慌ただしくなり、当番の警備官達がデッキを駆けまわり、船尾の日章旗を半旗にしたり、通路に整列したりしている。そうするうち、『とおとうみ』の信号旗が赤白や赤白青三色のものに入れ替わると、『おおやしま』側でも良く似た信号旗が二枚掲揚され、ようやく答礼の用意が整う。ラッパの吹奏が始まり、艦娘達も警備官達と共に敬礼するが、間もなくそれが終わると、今度は双方の乗員たちが思い思いに手や帽子などを振り始めた。

「何だか、微笑ましい光景ですね」

言いながら高雄が『とおとうみ』に向かって手を振ると、乗員たちが嬉しげに歯を見せて手を振ってくる。

「高雄は、随分人気があるのだな」

「そうよ姉さん、どこへ行っても、男の人達はみんなまず高雄ちゃんを見るんだから♪」

「そんなことありませんよ、陸奥さん大袈裟です……」

そう言った彼女が僅かに頬を染めると、それを見たかの乗員たちは更に盛り上がっている様だ。

(あら?)

先程から、艦橋横の張り出しに艦長たる篠木が立って、こちらに手を振っているのだが、どうも、彼の視線が特定の誰かに注がれているらしいことに気が付く。

「ねぇ加賀ちゃん、篠木艦長なんだけど――」

「私も、先程から思っていました。艦長殿は、明らかに特定の誰かを見ておられますね」

そう言い交わした二人が、少し身を乗り出して彼の視線の先を確かめようとすると、期せずして、反対側から同じことをしようとした蒼龍・飛龍と目が合う。

「あーっ、やっぱりそうですよね~♪」

「そうねぇ、どうやら間違いないわね♪」

「なんだ、どうかしたのか?」

「ふふ、向こうの艦長さんがね、どうも誰かにご執心みたいなのよ♪」

「そうなんですよ~♪ ねー妙高さん⁉」

飛龍がそう言って妙高の顔を覗き込むと、彼女はいかにもといった様子でつんとして見せる。

「艦長殿に限らず、殿方が私に見惚れるのは別に当たり前のことですわ。ですから、それにいちいち一喜一憂する必要なぞありません」

「良く言ったぞ、妙高よ! 物部(もののふ)たるもの、その様なことに浮き身をやつすべきではないと思うぞ」

「姉さん、ちょっと喰い付くとこずれてるわよ……。それはそうと、つまり、妙高ちゃんとしては全く相手にする気は無いってことなの?」

「もちろんです、私はそんなに安売りするほど困ってはおりませんし」

「え~でもぉ、篠木艦長って、ちょっと感じ良くないですかぁ?」

「結構、爽やか系だよねぇー♪」

蒼龍は、妙高が興味ないのであれば、自分が興味があると言わんばかりの顔だ。

「因みに、篠木艦長は独身でいらっしゃいますよ、念のため」

斑駒(娘)がさり気なく口を挟むと、蒼龍と飛龍は顔を見合わせる。

「ねえねえ、ちょっとだけ手ぇ振って見ようよぉ」

「え~どぉするぅ? ちょっと振って見る?」

「妙高ちゃんったら、どうするの? 本当に放っといていいのかしら?」

「結局、妙高さんは自分に自信が無いのね、まぁ謙虚なのはそれはそれで良いことだけれど」

加賀のこういう物言いが、どうやら彼女には一番効くらしい。

「自信が無いなどと、戯言も大概になさってください! ――分かりました、そこまで仰るのでしたら、私が普段は皆さんの程度に合わせているだけだということを、とくと思い知らせて差し上げましょう」

そう言うとさり気なく目を伏せて俯いた彼女は、数秒後ゆっくりと眼差しを上げる。やや憂いを帯びたその瞳は星の煌めきを湛えており、吸い込まれそうなほど神秘的だった。

そして、幾らか伏し目がちなまま、一心に視線を注ぎ続けている篠木の顔を上目遣いに見詰めると、恥じらう様に頬を染めて、ごく控え目に小さく手を振って見せるが、その結果は目を見張るものがあった。張り出しの上に立った篠木が突然凍り付き、一瞬の後、手摺を掴んで身を乗り出すなり、制帽を毟り取る様にひっつかみ、千切れそうな程腕を振り始める。

「えぇ、なにあれぇ――」

「こ、効果覿面ねぇ……」

陸奥らが唖然とする中、なおも千切れんばかりに帽子を振り続ける篠木を乗せたまま、急速に『とおとうみ』は離れていき、双方の乗員が手を振り続けるが、いつの間にかデッキに現れたらしい中嶋が少し離れたところで「あの馬鹿……」と呟くのが聞こえる。

やがて、人の姿が芥子粒ほどの大きさになると、妙高がふっと息を吐いて首を左右に傾げ、凝りを解す様な仕草をして見せる。

「妙高さん、すごぉーい♪」

「いやぁ~、なんかちょっと悔しいなぁ」

「ふふ、飛龍さんも蒼龍さんも、せいぜい精進なさることですね」

「きゃー、感じ悪―い♪」

「全く――、お前たち、(つわもの)の本分はどうなったのだ? 寄ると触ると、惚れたの腫れただのと姦しいことだ」

長門が呆れたようにそう言うと、瑞穂がそれに応える。

「長門さん、私達は確かに(つわもの)ではありますが、同時に大和撫子の姿と心とを授かっております。どちらが主でどちらが従かなどは、無いのではありませんか?」

(つわもの)であり、大和撫子である――、心地良い響きですね、瑞穂さんの言われることはいつも正鵠を得ておられます」

赤城がそう言うと、長門は苦笑し、

「やれやれ、今度は私が瑞穂に一本取られてしまったか♪ それにしても、常在戦場の意気は遠くなりにけりだな、いささか残念なことだ」

と腕組みをして、小さくなっていく『とおとうみ』を目で追う。

「それでも姉さん、平和を楽しむことはちっとも悪いことだとは思わないわよ? 規律や秩序を守るのと、そのこととはまた別なんじゃないかしら」

「そうか――、ならば平和を謳歌する日本を、存分にこの目で見てやろうではないか、お前たちと共にな」

その言葉に、一同が笑顔を浮かべたその時、

「皆さん、おはようございますぅ~」

という声と共に、龍田が駆逐艦達を引き連れて現れる。

「おお龍田よ、もう車椅子無しで良いのか?」

「はぁーい、まだちょっと頼りない感じですけどぉ~、なんとか行けますよぉ、ほらこの通りぃ――」

「おい、危ないぞ!」

「あっ、いやぁ~ん♪」

突然躓きよろけた龍田は、咄嗟に腕を伸ばした長門の胸に倒れ込み、しっかりと抱きとめられる。

「気をつけねば駄目ではないか、くれぐれも無理をしてはいかんぞ⁉」

「すみませぇん、もう少しだけ、長門さんに支えて頂いた方が良いみたいですぅ」

「無論だ、上陸するときもちゃんと手を取ってやるぞ」

「ありがとうございますぅ~」

そう言いながらも、彼女はなかなか長門の腕の中から起き直ろうとはしない。

(龍田ちゃんたら――、さっきのも絶対わざとよね)

思わず心中溜息を吐いた陸奥に、仲間達が苦笑を向けてくる。

(まぁ、いくら姉さんでもそのうち気付くわよね――。それまでは、龍田ちゃんの好きにさせといてあげようかしら)

そう思い直すと、皆には苦笑交じりの笑顔を返す。

海面には、昇りはじめた朝日がつくる『おおやしま』の影が、船首波を横切って長く伸びていた。



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〔第十一章・第九節〕

「二人とも、用意出来たかしら?」

「うん!」

「よろしゅうござりますぞえ」

初春と子の日の返事を確認すると、二人を先に出させて、船室をぐるりと見渡してから陸奥も後に続く。船が複雑な動きをしており、接岸しようとしているのが感じ取れる。

(落ち着きなさい、落ち着くのよ陸奥!)

全力を振り絞って平静を装ってはいるが、実のところは、期待と不安とで腹の中がひっくり返りそうな気分だった。

斑駒(娘)によれば、仁には帰港の連絡は行っているとの事なので、余程のことでも無い限りは、彼が迎えに来ているのはほぼ確実なのだが、葉月は果たしてそこに居るのだろうか? 言うまでもなく、彼が知らせなければ葉月には分からないはずだが、生憎今日は平日なので、彼が大学を休むなり遅れていくなりすれば、何をしに行ったのかばれてしまうのは確実であり、そこを惚け切る様な度胸は多分ないだろう。

(あんまり期待しすぎても、可哀想よねぇ)

心の片隅では、両手を広げて立つ彼の胸に飛び込む自分を想像して、つい期待してしまうのだが、現実にはそんなことは無理だろうという諦めもある。ただどういう状況であれ、もしも葉月がやって来た場合、陸奥としてはどう彼女に接したらいいのかさっぱり見当がつかなかった。

そんな不安定な思いを抱え込んだまま、とうとう上甲板に出るが、陸奥が顔を見せるやいなや、既に先に出ていた仲間達が曰く言い難い表情でこちらを見る。

(はぁ、判っちゃった……)

あたりを見回すまでもなく、それで結果が分かってしまったが、念のために彼を探してみる。

とは言え、早朝の埠頭に集まった人の数はさして多くは無く、仁の姿を見つけ出すのはいとも容易い。彼は警備官や防衛官達の後ろで大人しく接岸を待っており、そして彼の腕を――まるで、関節技でも掛けているかの如く――がっちりと拉いだ葉月が、その傍らにぴたりと張り付いていた。

(ん……)

その光景を見た瞬間、少々意外なことに、自分が腹を立てていることに気が付く。

当然と言えばそれまでだが、彼女の露骨な態度は、仁の気持ちが大きく陸奥の方に振れたことに気が付いているからであり、『絶対に渡さないからね!』という明確な意志表示なのだろう。

(でも――、なにもそこまでしなくたっていいじゃない)

彼女が力尽くで仁を取り返そうとしていることに対して、なんとは無しに反発したくなるのを感じると共に、その感情のせいなのか、いくらか落ち着きが戻ってくる。

「あ~あ、もう、仁ったら頼りないんだからぁ」

子の日の大人びた言い方が可笑しく、少し心に余裕が出てきた陸奥は、

「仕方ないのよ、仁は葉月に歯が立たないんだから♪」

と軽く冗談めかして応じる。

そんな様子を見計らったものか、そっと加賀が傍らに立つ。

「陸奥さん、ここは奇襲攻撃あるのみかと思いますが」

「えっ、奇襲って――、この状況で?」

思わずそう聞き返すと、今度は反対側に妙高がすいと身を寄せて来るなり、まるで軍師よろしく解説してくれる。

「奇襲とはすなわち、その備え無きを攻めその不意に出ずと言うことです。敵の虚を突きさえすれば、必ず奇襲は成功します」

「み、妙高さん、ちょっと物言いを加減してもらえませんか? 私、背中に厭な汗が出てきました」

赤城の口調は半ば真剣で、思わず吹き出しそうになる。

「良く分かったわ、でも、具体的には何をしようって言うの?」

そう言って彼女らを顧みると、これまたその間合いを見て取ったかのように、斑駒(娘)が、

「艦娘の皆さんは、一旦こちらに集合してくださ~い」

と呼びかけてくる。これはつまり、勘の良い葉月への対策として、ひそひそ相談しあっているところを見せないために、場所を移動したうえで人垣をつくるための様だ。

(いつの間に、こんな企みが進んでたの?)

そうは思いながらも、正直なところ皆の気遣いは嬉しいし、彼女に対する反発心もあって、少々痛快にも感じてしまう。

「――と言うわけです、ご理解頂けましたか?」

「う、うん大体呑み込めたわ、因みに、どのくらいの時間がありそうなの?」

「普通に考えて数秒と言うところでしょうか――」

「いえ、頑張って十秒稼いで見せます!」

両手を握りしめた、朧の鼻息は荒い。彼女に声を掛けようとした時、長門が龍田の手を引いて現れる。

「皆、もう整列しているのか、いよいよ上陸だな!」

「長門さん、早速で恐縮ですが、我々は現在臨戦態勢にあります。勝手を申し上げますが、私の指揮下に入って頂けますか?」

「なんだ、随分穏やかでは無いな赤城よ、そもそも敵はどこなのだ?」

「あら~、ひょっとして敵はあそこですねぇー♪」

すぐに状況を察した龍田が、ちらりと目配せしてみせる。

「あの人間達が敵だと? 何を一体――、ちょっと待て陸奥よ、ひょっとすると、お前が言っていたのはあの二人のことか?」

「――そうよ、姉さん」

「やはりそうか、つまり、あの不埒千万な男を締め上げると言うわけだな⁉ ならば言うまでもない、この私に任せておけ。全く――、お前と言うものがありながら、あの様に他の女と膠漆として見せるなど怪しからん男だ!」

「うふふぅ、長門さぁん、多分違うと思いますよぉ~?」

「なんだと、そうなのか?」

「龍田さんの言う通りです、もう時間もありませんので、失礼ながら私の指示をお聞き頂けませんか?」

「う、うむ、わかった」

それから間もなく、遂に『おおやしま』は接岸し、下船用の舷梯が降ろされる。

「それでは、そろそろ参りましょうか」

「え、ええ、良いわよ」

「行くぞ陸奥よ、いいか、どんな戦であっても勝たねば意味が無い。やると決めたからには、全力で勝ちに行くのだ、いいな⁉」

「わかったわ姉さん」

そして艦娘達は、一団となってゆっくり舷梯を下る。出迎えた警備官や防衛官達に答礼を済ませると、斑駒(娘)がさりげなく、少し下がってそれを見守っていた仁(と葉月)の方に皆を誘導する。先頭に立っているのは加賀と朧、霰、皐月で、四人はそのまま葉月の前に進み出る。

「塔原さん、急な出立もあり、先日のご案内のお礼を申し上げることが出来ませんでした。こうして無事に帰投致しましたので、改めてお礼をと思った次第です。本当に有難うございました」

加賀は丁寧にそういうと深々とお辞儀をし、朧達もそれに倣って深々と礼をする。

「あ、いえ、こちらこそどう致しまして、そんなに丁寧にお礼を言われると恐縮してしまいます。もう、頭を上げてください」

さすがの彼女も仁の腕を離して礼に応じると、早速顔を上げた朧達が彼女を素早く取り囲む。

「すっごく楽しかったです! 本当にありがとうございます♪」

「ほんとだよ! それに、塔原さんがなんでも知ってて驚いちゃったよ⁉」

「小さいころからあの近くで育ったんだから、そんなの別にすごく無いわよ!」

一瞬、葉月の警戒心が薄れ、仁から視線が外れる。

(い、今ね――、仁! 仁!)

陸奥が彼を見詰めて強く念じながら歩み寄ると、その心の声が届いたのか気配を察したのか、仁はこちらを振り返ってくれる。

(あっ!)

目があった瞬間、自分の中で急に感情が湧きあがってくるのを感じ、考えるまでも無く体が自然に動いていた。

「ただいま、仁!」

そう言いながらぎゅっと力一杯抱きつくと、彼は驚いて束の間凍り付くが、数瞬の後には、まるで何かに引き付けられるかのようにその腕が陸奥の背に回され、しっかりと抱き締められる。

「おかえり――、むっちゃん」

耳元で囁かれる、その優しい声に溶けてしまいそうな自分がいる。えもいわれぬ幸福と安堵が体中に満ち溢れ、無事に彼のもとへ帰ってきたと言う実感に包まれる。

「なっ! 何してるのよ⁉ ちょっと仁! 離れなさいよ⁉」

僅かに遅れて気が付いた葉月が、大声を上げながら、朧や皐月たちを一生懸命に振り解く。

その声を聴いた陸奥は、ごく自然に腕を弛めると、改めて仁の目を真っ直ぐに見つめる。

「家に帰れるのは夜になるかも知れないの、だからまた後でね」

「分かったよむっちゃん、連絡待ってるからね」

「なに、堂々とそんなことしてるわけ⁉ いい加減にしなさいよ!」

焔の様な勢いで葉月が詰め寄って来るが、最前の周章ぶりが自分でも不思議になる位に落ち着いている。

「ごめんね葉月、でも、ほんのちょっとだけ独り占めしてただいまを言いたかったの。仁が毎日ちゃんと祈ってくれてたから、こうして、無事に姉さんと一緒に帰って来れたからよ」

「渡来殿に塔原殿で良かっただろうか? 初めまして、陸奥の姉の長門です。妹が一方ならず世話になっているとのこと、衷心よりお礼申し上げたい」

なんだかんだ言いながら、ちゃんと長門は自分の役回りを心得てくれており、実に泰然として威のある挨拶をしてくれる。そして、きちんとした建前を用意してあげさえすれば、仁は葉月の顔色にとらわれずに振る舞うこともできるのだ。

「初めまして長門さん、渡来仁と申します、長い間本当にお疲れ様でした。僕如きが言うことではありませんが、こうして日本に帰ってきて頂いて、本当に嬉しく思います。それに――、お世話だなんてとんでもありません、陸奥さんに命を助けて頂いたのは僕の方なんですから」

彼がそう言うのを耳にすると、長門が「ほう……」という表情を見せ、それから改めて葉月に向き直る。

「塔原殿、わが妹の不躾な振舞いにお腹立ちなのであろうが、どうか、大度をもってご寛恕頂けないだろうか。あなた方人間とは、命と言うものの意味も違うかも知れないが、妹達は、現に命の遣り取りをする戦の場裏を潜り抜けてきたのだ。それに免じて、少しだけ目を瞑ってやって貰えるとありがたい」

「ちょっと姉さん、何もそんなことまで――」

姉が事前の打合せに無いことまで(しかも流暢に)述べ立てるので、さすがにばつの悪い思いがしてそう言い掛けるが、豈図らんや、葉月が溜息を一つ吐いて喋り始める。

「良く分かりました――。むっちゃん、今のは一応フィフティ――いや、お互い五分の星と言うことにしといてあげるわ。でも、言っとくけど大目に見るのも限度があるからね? それは、はっきり言っとくわよ⁉ それと長門さん、改めまして、ご帰還を心よりお慶び申し上げます。この先お時間が許すことがありましたら、是非一度、現代の日本を案内させてください、よろしくお願い致します」

さすがと思わせる見事な挨拶でその場をまとめてしまうと、葉月はそのまま流れる様に仁の手をぐいと掴み、

「さ、今からなら1枠目に間に合うわよ、初春ちゃん子の日ちゃん、晩ご飯楽しみにしててね♪ それでは、これで一旦失礼します」

と淀みなく(かつ一方的に)まくしたて、笑顔で彼を引きずって行ってしまう。

「やれやれ、あの女、かなりの剛の者だな」

「うふふ、そうよ姉さん、葉月は特別だわ♪」

「それにしても、あの様な男がお前の好みであったとはな――。まぁ、思っていたよりは誠実そうではあったがな」

「ね、姉さん、そういう言い方やめてくれない? さすがにちょっと恥ずかしいわ」

「そういうものなのか、まぁ、私はどちらにせよあまり興味は無いがな」

「うふふぅーそうですよねぇ~、長門さんも男性に興味が無くて、龍田はとっても嬉しいですぅ♪」

「な、なんだと龍田よ、今のは一体どういう意味だ?」

「何でもありませんよぉ~、お気になさらずなさらずぅー♪」

そう言って姉の腕に抱きつく龍田の笑顔があまりに嬉しそうなので、仲間達もただただ苦笑いするより他無い。

(でも、良かった♪ みんなのおかげね)

何はともあれ、どうして乗り切ればいいのか見当も付かなかった、帰国後最初の対面を無事に終えることが出来たのだ。

その実感が徐々に湧いて来た陸奥の胸中は、やっと晴れやかになった。



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第十二章
〔第十二章・第一節〕


 仁の自己嫌悪は、陸奥が戻ってきたことで一層深刻になった。

あの日以来、葉月は毎日食事を作りにやって来ただけでなく、週末には朝から押しかけて、彼に朝食を食べさせると外へ連れ出し、あちらこちらと連れ回したが、とにかく一言も陸奥と何があったのかを聞こうとしない。仁は、いつ彼女が強面を剥き出しにして、何があったのか白状しろと詰問するのだろうかと戦々恐々だったのだが、そんな風にビクビクしている内に、何となくだが、どうも聞きだす意味が無いからそうしないらしいと言うことに気付いた。

葉月は、彼が陸奥に惹かれていることも、やっとそれに気付いたことも、なおかつその上に実は葉月のことを好きだったいうことに気付いたことまでも、どうやら全てわかっている様だ。

(こんなの、絶対に超能力者以外にあり得ないよ……)

それを悟ると同時に、彼はまた無駄に一つ賢くなる。これまで、葉月の自信過剰なまでの余裕は何なのかと、ことあるごとに癪にさわっていたが、結局彼女は、彼自身ですら気づいていなかった本心を、以前からずっと見通していたのだろう。だからこそ、焦る必要が無いのはもちろんのこと、後輩と付き合い始めたのすら、落ち着き払って眺めていたのに違いなかった。

『少しは頭冷やして、良く考えなさい⁉ 今ならまだ許してあげるわよ?』

この数日間、彼女からその無言のプレッシャーをかけられ続けた仁は、それにほぼ押し切られ掛けていたし、単なる打算を抜きにしても、彼はやはり、陸奥が救いを得て哀しい記憶から解放されることを望んでいた。

(そうだよな、むっちゃんのことはきっぱり諦めるべきなんだ)

そんな風に考え直したからこそ、『おおやしま』が接岸するのを見守っていた時も、葉月にしっかり腕をフォールされていることにどこか安心感すら覚えていた。

ところが、そういう思考過程を経て辿り着いた(いささか妥協的な)結論を、瞬時に覆してしまった陸奥の行動は、彼にとってももちろんのこと、意外なことに葉月にとっても全く想定外だったらしい。

「アンタ、一体何考えてんのよ! どうしてそう、雰囲気に呑まれ易いのかしらねぇ」

そんな風に電車の中で散々当たり散らされたのだが、確かにこれまでの陸奥の振る舞いからして、あんな大胆な事をするとは予想していなかったのだろうし、ましてや、一度は反省して己のもとに戻りかけたはずの仁が、あっさり奪い返されたことに対する苛立ちは言わずもがなだろう。

(はぁ~、それにしてもなんてダメな奴なんだろう……)

彼女に抱きつかれた瞬間に、覚悟していたことやら何やらイロイロなものは、正に煙のごとく消し飛んでしまっただけでなく、気が付くとしっかり抱きしめていたのだから、それこそ、いくら葉月に責め立てられようが返す言葉もない。

(でも、あれはないよ――、あんなに可愛いのは反則だよ)

少なくとも彼は、『美人』でかつ『可愛い』などと言う稀有の女性に出会ったのは、陸奥が初めてだと思っていたくらいなので、今更それに驚かされることなど無いはずだが、いくら顔を合わせるのが久し振りだったとは言え、彼の瞳を見詰めた彼女は、『魅力』だのの陳腐な言葉では表現できないような何かを溢れさせており、目があったその一瞬で彼の魂はギュッと鷲掴みにされてしまった。

何せその途端に、束の間ではあるが、葉月に対する後ろめたささえも忘れてしまったぐらいだ。

そんなわけで彼は今、改めて激しい自己嫌悪に苛まれているとともに、陸奥と二人切りの時間を過ごせると言う、余りにも甘い幸福に浸ってもいる。

「ねぇ仁?」

「えっ、な、何?」

「葉月は、やっぱり泊まりに来るかしら?」

「多分、そうするんじゃないかなぁー、それこそ明日からでも」

「うふっ、そうよね♪ あの剣幕だったらそうするわよね」

葉月の余裕の正体を何となく推測できた(おそらく一部だろうが)仁にも、陸奥のこの不思議な余裕は理解できない。葉月を正面から敵に回すことなど考えもつかない彼にとっては、いつ何時そうなってもおかしくない(というかもう既にそうなりかけている)状況で、平然としていられるなどあり得ないことだ。

(ひょっとして、長門さんが言ってたのはこういう事なのかな?)

今朝長門が葉月に言ったこと、そして、三人が帰宅してから話してくれたこと――、それらはつまり、仁や葉月がおそらく生涯に渡って経験することが無いかも知れない、直接的な死というものが目と鼻の先をかすめ髪や服を翻して飛び交う戦場を、彼女達が、自らの力だけを頼りに潜り抜けてきたと言うことなのだろうか。その経験が、彼女を変えてしまったのだろうか。

そんなことを考えていた彼の手に、突然陸奥の手が重ねられ、思わず声を上げそうになってしまう。

「あたしね、まだちゃんと話してないことがあるのよ♪」

「う、うん、どんなこと?」

「姉さんを、加賀ちゃんと一緒に取り返してきたって言ったでしょ?」

「うん、何だか怪談話みたいで凄いよね、それ」

「そうね、でもそんな怪談に出てくるみたいな、得体の知れない相手にどうやって勝てたと思う?」

「え――、むっちゃんと加賀さんが必死に頑張ったからじゃなくてってこと?」

「それだけだったら、多分姉さんを奪い取られてたわ」

「――ほんとに?」

「そうよ、あたし達本当に力が尽き掛けたの、だからね、その時心の中で無我夢中で叫んだのよ、『誰か助けて! 力を貸して⁉』って」

「えぇっ!」

つい、大きな声が出てしまう。

「どうしたの?」

「あ、あの――、いや、先にむっちゃんの話を聞くよ、その後で話すよ」

「わかったわ――、それでね、叫んだ時に、海の真ん中なのに突然部屋の中にいる人の姿が見えてきたのよ、誰だかわかる?」

「まさか――、それって――」

「そうよ、そのまさかよ――。仁がこの居間で、両手を握り合わせて祈ってくれてるのがはっきり見えたの。それを見た途端にね、体の中に力が湧いてきて姉さんを取り戻せたのよ! 仁が約束守ってくれたからよ」

「――僕もだよ」

「何? どういうこと?」

「朝そこに立って、むっちゃん達がいる方角に向かって祈ってた時だよね」

「そうよ! 仁はそこに立ってて、あっちから朝日が当たってたわ! なぜわかるの⁉」

「その時、むっちゃんの声が聞こえたんだよ、『助けて! 力を貸して⁉』って――」

「うそ……」

「とてもはっきり聞こえたんだ、だからもう心配でたまらなくなってね、それから八幡宮にお参りに行ったんだけど――、でも、そもそも間に合ってなかったんだね」

「そんな――、信じられない、あたしの声が仁に届いてただなんて……」

「僕も信じられないよ、こんなことがあるなんて……」

期せずして、二人は無言になる。重ねられた彼女の手にキュッと力が入れられ、仁の手を握りしめる。心拍数が一気に跳ね上がり、全身の毛穴から水分が滲み出るのを感じるが、彼の視線は陸奥の瞳に釘付けになっており、身動きも出来ない。

「皆や姉さんにとっては、日本に帰ることがとっても意味のあることだったわ、でもね、あたしにとってはここに――、仁が居るこのお家に帰ってくることが、一番意味のあることだったの」

「僕も――、そうだよ」

(バカバカ! 何言い出すんだよ⁉)

「本当に?」

(やめろ! ちゃんと言い直せ、このクズ!)

「むっちゃんに帰ってきて欲しかったんだ、一日も早く……」

(何考えてんだよ、最低だ! クソッ)

「仁――、ここがあたしの――」

ガタンッ

突然玄関の方で大きな物音がしたので、まるでスプリングが弾ける様に、二人とも数センチほど飛び上がる。

「な、何、今の音⁉」

「な、な、なんだろうね? ちょっと見てくるよ」

「あ、あたしも行くわ」

そそくさと立ち上がった二人だったが、わずか数秒後に困惑した表情を浮かべる羽目になる。

「今晩わー、暫くご厄介になりますけど、よろしくお願いしま~す♪」

「は、葉月……」

「あら、ひょっとしてお邪魔だったかしら? まぁ、邪魔するために来たんだけど」

「何も、こんな夜中に来なくてもいいだろ?」

「誤解しないで欲しいわね、わたしは、むっちゃん達を家に引き取ってお世話してあげたいくらいなのよ? でも、守秘義務があるんだからそんなことするわけに行かないでしょ⁉ だから不自由を我慢して、仕方なく泊り込みに来たんだからね!」

「一体、どんな理屈だよ……」

「うふふ、ありがと葉月♪ じゃあこれからは、朝晩と葉月のご飯が食べられるのね?」

「人を、炊事係みたいに言わないでくれる⁉ そんな楽させるわけ無いでしょ! 何言ってるのよ、この図々しい戦艦女は!」

「おい葉月やめろよ⁉」

「良いのよ仁♪ それにあたし、前よりとっても図々しくなってるかも知れないわよ?」

そう言って笑みを浮かべた彼女は、図々しいかどうかは別としても、確かにまた一段と人格のようなものの奥行きを感じさせる様になっていた。

「さあ! わかったら、さっさと上がらせてくれないかしら?」

と口では言っているが、仁の許可が出るまで待つつもりなどサラサラ無いことは良くわかっていた。有無を言わさず上がりこんだ葉月は、如何にも当然といった風情で、スーツケースを抱えて二階へと消えていく。

「はぁ~」

「やっぱり、葉月には敵わないわね♪」

気のせいかもしれないが、陸奥は何やら楽しそうだ。

「いいよ、もう振り回されるのも慣れちゃったから」

「あら、でも本当はちょっとホッとしたんじゃないの?」

「えっ……」

上目遣いに仁を見つめた彼女の視線は、葉月のものとはまた違ってはいるものの、彼の心の奥底までも一目で見通してしまう様な抵抗し難い力を持っており、思わず喉がカラカラになってしまう。

「ふぅーん、やっぱり図星なのね、仁ったらもう♪」

情けないことに全くその通りなので、反論する余地も無いが、だからといって図星をつかれたまま黙っているのでは、後ろめたいことを考えていますと言っているようなものだ。

「ご、ごめんね、むっちゃん――」

毎度、馬鹿の一つ覚えみたいになにを二言目には謝ってんだよ! と、心の中で自分自身に突っ込みを入れていると、彼女がフッと軽く鼻を鳴らして彼を見つめる。

「まぁ、謝ってくれたんだから赦してあげるわ、だってそれが仁なんだから」

結局彼は葉月だけならまだしも、陸奥にも全く歯が立たないのだった。

(いや――、何を今更か……)

「さ、明日も早いからそろそろ寝る用意するわね、仁はまだ起きてるの?」

「そ、そんなこと無いよ、僕もそろそろ用意するよ」

「よろしい♪ じゃ、行きましょ」

何事も無かったかのように、スタスタと居間に戻る彼女を追いかけた仁だったが、ふと気がつくと、吐き気がする様な自己嫌悪が洗い流されている。

(ひょっとして、二人のおかげなのかな?)

まるで昔からそうだったかのように、いつの間にか、二人が居てくれなければ自分だけではどうにもならないことがどんどん増えていくこの有様に、彼は苦笑いするよりほかなかった。



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〔第十二章・第二節〕

 長門が日本に上陸して最も違和感を覚えたのは、やはり、米軍の艦艇が当然の様に横須加に停泊していることだった。

もちろん、陸奥や仲間達から事前に聞いては居たものの、聞くと見るとでこれ程違う感じ方をすると言うのも初めての体験だったので、自分の中で感情を整理することが出来なかった。もしも、強く唇を噛んだ酒匂が腕にしがみついて来なかったら、立ち上がって大声を上げていたかも知れない。

ただそうさせなかったのは、酒匂を不安にさせないと言う義務感だけでは無く、既にこの光景を目にしていたはずの仲間達も、程度の差こそあれ、不安気な或いは落ち着かない様子を見せていたことだ。

(そうか、皆同じなのだな)

そう思った時、自分の中に、怒りや憎悪よりももっと強い感情が湧き上がって来るのをはっきりと感じた。

(私自身の気持ちなど、些細なことだ。それよりも、遥かに大切な義務が私にはあるではないか)

自分には、皆を守り導くという重い責務がある。艦であった時には、果たすことの叶わなかったその使命を、新たに得たこの姿で、果たすことの出来る機会が与えられたと考えるべきだ。

その思いは、訓練隊に身を落ち着けて日々を過ごすうちに、更に大きくなっていく。

海の上しか知らなかった長門にとって、陸に上がって人間の姿と心とを持って見る現代の日本と世界の姿は、全く驚くべきものであったが、その中にあって仲間達のおかれた境遇たるや、形容し難いほどに頼り無く肩身の狭いものだった。

(なぜ、この様な扱いをうけねばならんのだ⁉ まるで、罪人か何かの様ではないか)

言うまでもなく、中嶋らはその理由をきちんと説明してくれたし、理屈としては良く理解できるが、納得できるかどうかとは全く別の話だとしか言いようが無い。七十年もの長きに渡って、海底に放置され続けた同胞達の苦しみと謂れ無き屈辱とに対して、もっと手厚く報いるのが、国家の責任としても一私人の情としても当然と思える。長門自身の恨みつらみを白紙にしたとしても、なおこの様な現実に対して、強い憤りを覚える。

(たとえ少しずつであっても、皆のためにはこの現状を変えていかねばなるまい。そのためには、私が声を上げていく必要があるな)

その考えを陸奥に話すと、

「仁が同じことを言ってるわ、今のままだと、あたし達は国籍すら定かで無いんだって」

とあの男の事を引き合いに出すので、少々虫の好かない思いがしてしまう。

(一体、あの男のどこにそんなに惹かれているのだ?)

妹の表情は、嬉しそうというよりも心底から安堵し切っている様で、どうやら、かの男のことを深く信頼しているらしい。

(確かに、胡散臭い輩ではなさそうだが……)

それにしても、今しがたまで陸奥の抱擁に応えていたというのに、その直後には、もうあの塔原とかいう女に引きずられて去っていくその様は、長門の目には随分と頼りなく映ったのだ。

(あの男、我らの姿形に眩まされて、陸奥を、十人並みの人間の女と同じに扱えるつもりでいるのではあるまいな?)

だとしたら、思い違いも甚だしい。(まだ、良く理解出来ているわけでは無いものの)家庭で何不自由なく育てられ、平和な社会で安穏と暮らしてきた人間の女と陸奥とを同列に思っているのであれば、それこそ一度灸を据えてやらねばならないだろう。

「なあに、姉さんは仁のこと気に入らないの?」

妹がいきなり心の底を見透かしたような事を言うので、思わずぎくっとしてしまう。

「気に入らないとまでは言わんが、お前の相手としては、器が足りておらんのでは無いかと思ってはいるな」

「いや、そういうのを気に入らないって言うんじゃないの?」

「だというなら、それでも一向に構わん。とにかく私は姉として、お前にふさわしい男なのかどうか見極める必要があるのだ」

長門がそう言い切ると、陸奥はふっと溜息を吐いた後で、苦笑しながら顔を上げて話題を切り替える。

「姉さんにね、話しておかなきゃいけないことがあるの」

「うむ、なんだ?」

「皆がいるところではちょっと話しにくいのよ、場所を変えてもいいかしら?」

「ああ、無論だ」

二人は腰を上げて、建物の外に出た。今すぐに降り出しそうなほどではないが、すっきりとしない梅雨空の下、徒歩で海辺の四阿に向かう。

「姉さんも、あたしたちにとっての天国のこと判ってるわよね?」

「そうだな、このような姿になって改めて思うが、一体なぜ、我々はそんなことを知っているのだろうな」

「そうね、でも、本当はどうなるのかあたし達にも判らないのよね」

「ああ、少なくとも、見たことも体験したことも無いからな」

「防衛隊は、それを確かめようとしてるのよ……」

「なんだと? 連中は何をするつもりなのだ?」

「あたしの船体をね、引き揚げるつもりなの」

突然、長門の胸中に様々な感情の断片が舞い上がり、何を喋っていいのか分からなくなる。にもかかわらず、陸奥はその葛藤をちゃんと理解しているかのように、何も言わずに、黙って姉が口を開くのを待っていた。

「――それは――、いつのことになりそうなのだ?」

やっとの思いで、それだけを口に出す。

「今聞いてる限りではね、来年度の予算措置が出来れば、すぐに取り掛かりたいって言ってるわ」

「つまり、凡そ一年後ということか」

「そうね」

「――そうか――、陸奥よ、お前が本当に天に召されるのであれば、これほど嬉しいことは無い。それに、船体の引き揚げによって天国にいけることがはっきりするならば、同胞達にとっての尊い希望となるだろう。その価値は図り知れんと思う」

「ありがとう姉さん、でも、まだはっきりそうと決まったわけじゃないの」

「どういうことだ?」

「あたし、返事を保留してるのよ」

「なぜだ? 何か、面倒な交換条件でも言われたのか?」

「違うわ――、姉さんに会えるまでは、返事を保留させて欲しいって言ってあるの」

胸の奥の何かをぐいと掴まれたように感じ、そのせいで、眉間の少し下辺りにむず痒さを覚えてしまう。

「陸奥――、今こそ私は、お前の姉であることに心から感謝している。もし仮に、私がここにやって来た時に、つい最近までお前がここに居たなどと聞かされたなら、きっと私は絶望してこの国を捨てていただろう。紛れも無く、お前は私には余りに過ぎた妹だよ」

「姉さんたら大袈裟ね……。でも正直に言って、まさかこんなに早く会えるなんて思ってもいなかったわ」

「それこそ、何かの巡り合わせというものだろうな。――しかし、ということは――」

「そうよ、あたしは保留していた返事をしなきゃいけないのよ」

「そういうことだな、ならばもう――」

「こちらにおられたんですね!」

その声に二人が振り返ると、斑駒が早足で近づいてくる。

「どうかしたの、駒ちゃん?」

「ええ、明日なんですが、司令と副長とご面談いただきたいと思いまして、お声をお掛けしにきました」

「それって、ひょっとしてあたしが返事を保留してた件かしら?」

「はいそうです、長門さんにも、出来ればご同席いただきたいとの事なんですが、ご事情は?」

「姉さん、たった今してた話よ」

「そうなのか、ならば迷うことなど何も無い、斑駒殿、差し支えなければ私も同席させていただきたい」

「ありがとうございます。それでは、その様に申し伝えておきます。それと陸奥さん――、渡来さんには――」

「なんだ、あの男は知っているのか?」

「そうよ姉さん――、仁は知ってるけど、葉月はまだ知らないのよ」

「ふん、そうか、要はこういうことだな、あの男に同席させようとすると、漏れなくあの女がついてきてしまうという事だろう? 言っては何だが、そんなことを思い悩んでも仕方あるまい。もしお前のことを本当に大切に思っているのであれば、その位毅然と断って当然ではないか。それが出来ぬというのであれば、所詮はそこまでの器だということだ」

「長門さんは、渡来さんには厳しいんですね♪」

斑駒が苦笑すると、陸奥も苦笑しつつ応じる。

「姉さんは、仁のことが気に入らないみたいなのよ♪」

「だから言っているではないか! 気に入らんのではなく、奴が、お前にふさわしい器量を持ち合わせておらんのではないかと疑っているだけだ」

「はいはい、分かったわよ姉さん。とにかく駒ちゃん、仁には今日帰ったらちゃんと伝えとくわ、それから後のことは姉さんの言うとおりにします、それで良いんでしょ?」

「む――、わ、わかった、それでいいぞ」

「有難うございます! それでは明日、会議が終わりましたらお声を掛けさせて頂きますので、よろしくお願い致します」

そう言ってくるりと踵を返すと、斑駒は歩き去っていく。

「なぁ陸奥よ」

「なあに?」

「一度あの男を交えて、膝を付き合わせて話す機会を持ちたいのだ。明日の件は、その良い切っ掛けになるのではないか?」

「――姉さんの言う通りね、仁にも相談してみるわ」

「ああ、頼むぞ」

そう言って一旦口を閉じたが、妹は黙ったまま海を見つめている。

(あの男の事なのか? それとも別の事か? 何がお前の心を掻き乱しているのだ?)

何も、幼子のように甘えて欲しいなどと言うわけではないが、それでも姉である自分に対して、もう少し弱さを見せてくれてもいいのではないかと感じるし、そのたびに、あの男にはそんな弱さを見せるのだろうかと思うと、いささか大人気なくもつい不愉快になってしまう。

(全く――、この私ともあろうものが、これではまるで小人ばらではないか……)

そんな己自身に少々うんざりすると共に、それもこれも皆あの不甲斐無い男の所為だなどと、つい心中で八つ当たりしてしまうのだった。



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〔第十二章・第三節〕

 会議では、先日の遠征についてのおさらいが行われ、それはとても興味深い話だったのだが、残念ながら、僕は全く集中力を欠いていた。更に、昼食をはさんで昼一番からは、僕と斑駒さんが付き添い役になる次の外出予定についての話になり、蒼龍ちゃん飛龍ちゃん達はテンションが上がりまくっていたのに、それにもほとんどついていけなかった。

言うまでも無く、昨夜初春ちゃん達が寝てしまってから、葉月がトイレに立った折に、そっとむっちゃんに告げられた今日の会議後の予定が、ずっと頭の中を占拠し続けているからだ。

(とっくに気づいてるんだろうな……)

いつもの様に、葉月は何一つそれらしいことも言わず、あからさまな疑いの眼差しを向けるわけでもないが、どこまでもナチュラルに僕から目を離さないので、何かある(しかも、僕が後ろめたいことだ)ことはお見通しなのだろう。結局、幾ら必死で外面を取り繕おうが、何も結果は変わらないわけだ。

そう思うと、このあと「申し訳ないけど、ちょっと外しててくれる?」と言わなければならないなど、憂鬱を通り越して拷問に近いとも思えてくる。そんな僕を、むっちゃんが時折心配そうにちらと見るが、それを知ってか知らずか、横の長門さんはほぼガン無視である。

(やっぱり嫌われてるんだ――、はぁ~)

先日、埠頭で短く挨拶して以来だったので、改めてきちんと挨拶したつもりなのだが、長門さんはまことに素っ気無い紋切り型の返礼しかしてくれなかった。それでも、むっちゃんのお姉さんと不仲でいる訳にはいかないと思った僕は、相当勇気を振り絞って、

「今後、僕のことは『仁』と呼び捨てにして頂ければ幸いです」

と言ってみたのだが、

「わかった、一応聞き於こう渡来殿

と、一瞬にしてにべも無く否定されてしまった。

そうこうしているうちにとうとう会議は終わり、皆が立ち上がって移動を始める。

当然だが、事情のあるむっちゃんと長門さんは意図的にゆっくりと立ち、自然に皆の最後について斑駒さんの声掛けを待つ態勢だが、最早説明不要なほどに澄ました顔の葉月が、僕の傍には居座っている。

「すみません、陸奥さんと長門さんそれに渡来さんには、少々お時間を頂きたいのですが宜しいですか?」

(き、来たっ!)

全身の筋肉を緊張させたその一瞬、まるで僕など歯牙にもかけていないと言わんばかりに、葉月が声を上げる。

「済みません、わたしが同席しては不味いお話ですか?」

(言えっ! ちゃんと返事をするんだ!)

そんな心中の掛け声とは裏腹に、僕の舌は喉の奥に引っ込んだまま出てこようとしない。気まずい沈黙が流れる中、所詮、僕のことなど誰も待ってくれたりはしないということを、改めて思い知らされる。

痺れを切らした斑駒さんが、殊更にビジネスライクな声でさっさと返答してしまう。

「ええ、申し訳ありませんが、今回は同席頂く訳にはいかないんです」

「わかりました――、仁、終わったらちゃんと連絡するのよ⁉」

「う、うん、わかったよ」

全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうだ。悠々と部屋を出て行く葉月を見送った後、斑駒さんがハァッとため息を一つ吐いてから、

「それでは、こちらへどうぞ」

と誘ってくれるのだが、彼女に従って動き出した直後、一瞬、長門さんがこちらに冷たい視線を投げ掛ける。

『この、腰抜けめ』

下眼遣いの蔑むような眼差しは明らかにそう言っており、まるで、心臓に鈍らな刃物でも突き立てられた様に心を抉る。二人の後について建屋を移動するあいだ、僕はずっと項垂れたままだった。

木々の生い茂る丘の縁を回って、司令部の建物内に用意された部屋に入ると、西田司令と中嶋副長が立ち上がって迎えてくれるが、何となく二人の様子はいつもと違うようだ。

「今日は、お呼び立てして申し訳ありませんでした。本来は、陸奥さんのご意志を確認するご面談をと思っていたのですが――、少々事情が変わりましたので、渡来さんと長門さんにも同席頂くのが適当かと思い、ご一緒にお呼びした次第です」

一見、いつもとそう変わらない調子で淀みなく切り出した中嶋さんだったが、ふと気付くと、僕ら三人の何れとも微妙に視線を逸らしている。

(何だろ――、事情って一体?)

そのまま暫く不自然な沈黙が流れたあと、副長は心の中で何かを決意したらしく、むっちゃんに視線をあわせて徐に口を開く。

「前回、陸奥さんにお話ししました際には、もしご承諾を頂ければ、少なくとも次年度の予算措置をしたうえで、船体引き揚げにかかると申し上げていました」

「はい、その様にうかがいましたが――」

「ですが、その事情が変わりました。陸奥さんのご承諾が頂けるなら、次年度の予算措置を待たずに、準備が整い次第、直ちに船体の引き上げに着手したいと考えています。本日は、その前提でお話をさせて頂きたいのです」

その言葉が終わらないうちに、耳がツーンとしはじめて、感覚がおかしくなってしまう。視界に一枚余計な幕でもかかったように、何だか周囲の光景がひどく遠い。どうにか首を動かして、隣に座ったむっちゃんを見たのだが、彼女は液体窒素の中にでも放り込まれたように凍り付いており、目を見開いたまま固まっている。

(大丈夫かい、むっちゃん?)

と声を掛けたいのだが、声を出すどころか口も動かせない。ありったけの力を出してもがこうとしたその時、長門さんの声が響く。

「副長殿、一体どういうことなのかお聞かせ願えませんか。何よりも、陸奥の引き揚げは一年後では無くていつになると言うことですか?」

その落ち着いた声は僕の耳鳴りを止め、むっちゃんを金縛りから解き放ち、更には副長の緊張までもといた様だ。

彼はフーッと深く息を吐き、

「今から申し上げることは、この場限りでお願い致します」

と口火を切ると、(僕の見る限りだが)かなり努力して平静を保ちながら話し始める。

「皆さんが帰還されるのとほぼ同時に、米軍から照会があったとのことです。どうやら、レーダー監視衛星による観測結果と、地震計及び音響サーベイの記録を解析して、何らかの戦闘が行われたのではないかと疑っているようです。ですが、それは裏返せば、彼らの光学衛星による観測が出来なかったうえに、偵察機や情報収集艦の派遣も出来ていなかったがために、確証を掴むことが出来なかったと言うことでもあります。だからこそ、仕方なく当方に情報提供を求めてきたものと推測しています」

「それに対して、こちらは何と?」

「派遣されたのは、あくまで警備庁の船艇です。従って、警備庁側から交信記録やレーダー監視記録などの提供が行われましたが、言うまでもなく、そこには何ら目新しい手掛かりは無いわけです」

「なるほど」

「しかしながら、このことで幕僚監部――軍令部の様なものとお考えください――は、皆さんの存在を秘匿し続けることの時間的な限界が近づいていると認識しました。もしそうなってしまえば、何をするにも諸外国や一般市民の耳目が立ち、政府や防衛隊に批判的な方達からはいちいち説明を求められ、場合によっては露骨に妨害されるかも知れません。ですので、そうなってしまう前に、可能な限り懸案を解決するなりしておきたいということだとお考えください」

「それでその――、私の引き揚げ時期は、いつ頃になりそうなんでしょうか?」

むっちゃんの声は少し掠れていて、否が応でも緊張してしまう。

「もちろん、正確なことは、何とも言えません。ですが――、40数年前に、陸奥さんの船体の一部をサルベージした業者は、――今も健在で、既に、そことは接触しているとのことです――。陸奥さんのご承諾があれば、おそらく、すぐに、実作業の検討に入るのではないでしょうか――。実際に着手するまでに、どれほどの時間を要するかが不明ですが――、着手後の、作業期間については、――業者から、大凡の回答は、その、あったとのことです……」

「それは、どの程度を見込んでおられるのでしょうか?」

急に話すのが大儀そうになった中嶋さんに、長門さんが重ねて問いかける。それに対して、何処かしら重苦しそうな表情をした副長は、視線を下げたまま、低い声でこう応えたのだ。

「――十分な態勢で臨めば、――1ヶ月余りだそうです……」



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〔第十二章・第四節〕

 体内に流れる血液やら何やら様々な液体が、一斉に凍結してしまった様だった。

恐ろしいほどの寒さが全身を包み込み、どんなに力を入れて押さえ込もうとしても、震え出すのが止められない。

(そんなの――、嘘だ! 嘘に決まってる! むっちゃんが、むっちゃんが――)

怖ろしかった。

ただただ、怖ろしかった。

怖ろしくて怖ろしくてどうしようもなかった。

「ー―仁、仁? どうしたの仁⁉」

(頼む、誰でもいいんだ! 嘘だと――嘘だと言ってくれ! たったの1ヶ月で、むっちゃんが――)

「しっかりして、仁! 仁⁉」

(どうしてなんだよ! 母さんも――むっちゃんも――僕の大好きなひとはみんな、みんな――)

仁!!

その時、むっちゃんがしっかりと僕の手を握りしめた。

その包み込む様な手の感触を、今もはっきり覚えている。

彼女の手から、陽だまりの様な暖かい何かが伝わってくるのを感じ、それは凍てついた血液やら何やらをあっという間に融かしていく。そして、見苦しいほどの震えに苛まれていた僕を、幾つか瞬きをするほどの間に元に戻してしまった。

「あたしをよく見て仁、あたしはまだここに居るわよ」

心に直接、しかもこの上もなくそっと触れてくる様な、労りに満ちた言葉が身体の隅々に染み込んでいき、凍り付いていた頭もやっと回転し始める。

(何やってんだよ……。むっちゃんに気を遣わせてどうするんだ⁉)

改めて、そう自分に言い聞かせた僕は、やっと少し普通に振る舞えるようになった。

「ありがとうむっちゃん、もう大丈夫だよ」

そう言って、見詰めていた彼女に視線をあわせると、むっちゃんは控え目な笑顔を見せ、

「良かったわ」

と短く言って、スッと手を離すと副長に向き直る。

(そうだ、まだ話の途中だったんだ……)

「あまりに急なことを申し上げているのは、重々承知しています。ですので、今すぐお返事を頂こうと考えてはおりませんし、ましてや、どうしても承諾して欲しいと説得するつもりもありません。とは言え、今の正直なお気持ちはうかがってもよろしいですか?」

なぜか、中嶋さんは先程より少し顔が上がっており、気のせいか、若干朗らかになったようにも見える。

「正直に申しますと、たいへん驚いていますしとても戸惑っています。仰る通り、やはり急過ぎて気持ちの整理が出来ません」

むっちゃんの声も、先程よりずっと落ち着いて聞こえる。思うに、自分よりも遥かに取り乱している誰かがいると、その様を見ることで冷静になれるというが、情けない僕にも、どうやらその程度の存在価値位はありそうだ。

「そうでしょうね、どうされますか? 少しお時間を置いてから、改めてお話しする機会を持ったほうがよろしいですか?」

「そうですね――」

「副長殿、もう少しお聞きしてもよろしいか?」

「どうぞ長門さん、お答えできることでしたら」

「もし仮に、陸奥がお断りした場合はどうなるのだろうか?」

「まず、船体の引き揚げそのものをお断りされるのであれば、今後新たに帰還される方も含めて、どなたにお願いするかから白紙で検討することになるでしょう。その場合は、以前陸奥さんにもお話しました通り、数年先になる可能性が高いと思います。一方、今回の様な前倒しは難しいものの、概ね当初の計画通りであれば引き揚げに同意されるという場合は、お答えが難しくなります。皆さんの存在が外部に知られることとなった場合でも、引き揚げを計画通りに進めることが出来るか否かは、目下のところ予想がつきかねると言わざるを得ません」

「なるほど――、つまり、このたびのお申し出を断れば、船体の引き揚げが可能だとしても、先延ばしになるなど、時期を特定出来なくなる可能性が高いということですな」

「はい、あくまでも、推測の域を出ませんが」

「陸奥よ、私の希望を言っても良いか?」

「良いわよ、姉さん」

「お前が否と言うので無い限り、私はやはり、お前が天に召されるのを見たいと思う。お前の優しい心遣いのお蔭で、こうしてお前と再会することも叶ったのだ、これ以上を求めるは我欲に他ならぬ。何より、状況を推量るに、今を逃せば次の機会が近々に巡ってくる保証はないとなれば、私はそちらの方に不安を覚える」

「……」

「もちろん、最後に決めるのはお前自身だが、私の希望は、この目でお前が艦として天寿を全うするその姿を見届けることだ」

「姉さん、ありがとう……」

そう言ったむっちゃんは少し笑みを見せたが、また俯き加減になり、憂いを湛えて黙り込んでしまう。

(僕の気持ちはどうなんだ? 彼女になんと言ってあげれば良い?)

彼女の横顔を見ながら、自分の気持ちを整理しようと試みる。

むっちゃんが1ヶ月やそこいらで居なくなってしまうとか、ただの悪い冗談にしか思えないが、その選択をするのか、それとも、いつ次の機会が巡ってくるかについて、何の保証も無い先延ばしを選択するのかどちらなのだろう?

(僕は――僕の望みは――)

千々に乱れるというのは、こんな心境を言うのだろうか。僕はむっちゃんに傍に居てほしいと思いはするが、葉月に対する罪悪感の様なものが、その気持ちに素直になることを激しく妨げる。かと言って、やはり彼女が永遠の救いを得ることを望むのかといわれると、むっちゃんが居なくなってしまうと想像してみるだけで、体が震え出しそうになるほど怖い。

(クソッ! なんてダメなやつなんだよ……)

またしても、自己嫌悪が波のように襲い掛かってきたその時、彼女が声を上げながら僕の目を見つめた。

「仁は――、どう思うの?」

 

(あっ…………)

 

今にして思えば、それがおのれ自身に課せられた運命だったのだろう。

 

目が合った瞬間に、僕は再び、彼女の瞳の奥に宿る深い哀しみを――、拭い難いその哀しみを、見出してしまった。

それは、日々を過ごすうちに薄れ掛けていた、あの日の決意を鮮明に呼び覚まし、袋小路に迷い込んだ僕の意識を、一気に広々とした通りに引き摺り出す。

(そうだ――、冷静に考えろ、あの時誓ったはずだろ。もしも独りで誓いを果たそうとすれば、どれほどの時間と財力が必要なのかもわかって愕然としたよな⁉ 僕の命は、むっちゃんから貰ったものだろ。まさか、自分が怖いからという理由で、彼女を引き留めることなんかできるわけがない……)

「やめろ陸奥、お前の気持ちはわかるが、そいつの答えなぞ聞くまでも無い――」

「姉さん、やめて!」

「いや、良いんだよむっちゃん、長門さんの言う通りだよ」

「仁……」

「確かに、聞くまでも無いことだよ、僕の願いは、あの日からもう決まってるんだ……。むっちゃんが抱き続けている哀しい記憶から――、70年間の孤独な日々から君を解き放ちたい。たったの1ヶ月やそこいらでむっちゃんが居なくなってしまうとか、想像しただけで気が狂いそうなくらい怖ろしいよ……。でも――、それでもやっぱり、僕は君に救われて欲しい。本当の救いが天国にしか無いんだったら、僕は君を其処へ送り出すためにどんなことでもするし、どんなに辛くても耐えて見せる。だから、むっちゃんの正直な気持ちに従って決めて欲しいんだ。どんな決断だろうと必ずそれを受け容れるし、そのためにこの僕に出来ることは、どんなことでもするつもりだよ。だって――、僕は君に貰った命を、君のために使うと誓ったんだから」

僕が言葉を切ったので、彼女は口を開こうとしたが、その瞳に涙が溜まり、それが溢れて大粒の雫がツーッと頬を伝う。

「――ありがとう仁――、嬉しいわ、とっても……」

これでいい、これでいいんだ、僕が言うべきことは、全て伝えることができたのだから。

ところが、次に起こった余りに意外な出来事に、僕らは唖然としてしまう。

突然中嶋さんが立ち上がるなり、聞いたことも無い口調で、僕に向かって叫んだのだ。

「だ、駄目だ! もう一度考え直せ仁君! 君は、陸奥さんのことが大切では無いのか⁉ 時間をかけてよく考えろ! 大切な何かを喪う痛みがどれほど大きなものか、君は理解していない! いいか、一度喪ってしまえば、二度と取り戻すことの出来ないものがこの世にはあるんだぞ⁉ 早まったことをする――」

座りたまえ、副長

これもまた、聞いたことの無い西田司令の重々しく短い言葉が響き渡ると、一瞬で室内の空気が張り詰め、副長がパタッと口を噤む。

そして、心臓が何回か動くほどの時間が経過した後、

「も、申し訳ありませんでした……」

と平板な声で応じるなりドサリと椅子に崩れ落ち、そのまま黙ってしまった。

そのままであれば、状況が理解できるまで呆気にとられているところだったが、司令はまるで何事も無かったかのように、いつもの柔和な笑顔を浮かべて話しかける。

「お騒がせしてすみませんでした、陸奥さん。さて、長門さんと渡来さんのお考えも伺った訳ですが、改めて、陸奥さんのお気持ちは如何ですか? やはり、少し考えるお時間を持っていただくほうが宜しいですかな?」

問い掛けられた彼女は、ちらちらと僕と長門さんを一瞥してから口を開く。

「そうさせて頂けるとありがたいですが――、その間は、誰にも事情を話して聞かせるわけには参りませんね?」

「そうですなぁ、決定する前にというのは、いかにお仲間とは言えお控え頂きたいですな」

言うまでも無いが、初春ちゃん子の日ちゃんをはじめとする仲間達のことだ。僕も、子の日ちゃんの反応を想像するだけで憂鬱になってしまう。

「出来るだけ、早く話してあげたいと思うんです、時間を頂けても、それが出来ないのであれば、あまり関係は無いかも知れませんし」

「と、言われますと?」

「――はい、私、そのお話をお受けしようと思っておりますので」

思わず、膝の上においた手をグッと拳に握ってしまうが、同時に、副長が俯いたまま歯を食いしばるのもわかった。

「そうですか――、ご理解を頂きありがとうございます。――では、こう致しましょう、只今内諾を頂いたので、お仲間の皆さんに限っては、事情をお話いただいて結構です。但し、その後でお気持ちが変わられる事もあるかも知れませんので、一週間後を目処に再度面談をさせていただく――、と言う事では如何でしょうかな?」

「ご配慮頂き、恐れ入ります。では、お言葉に甘えてそうさせて頂けますか?」

「無論です。それでは、早速その様に取りはからいましょう。概ね一週間後に、再度念のための意思確認をさせていただく、と言うことと致します。他に今、ご質問などおありでしょうかな?」

むっちゃんが僕と長門さんを交互に振り返るが、長門さんは首を左右に振り、僕は彼女の目を見て小さく頷いてみせる。

「いえ、特にありません」

「そうですか、では、本日の面談はこれで終了です。もちろん、ご質問なりご意見なり、或いは意思が変わられた際には、随時お声をお掛けください。それでは、お時間を頂きありがとうございました」

司令は(副長も、俯いたままだったが一緒に)起立してそう告げると、軽く会釈して面談を締めくくる。

僕は長門さんに最初に退室してもらおうと思ったが、案に相違して長門さんが僕らを目で促すので、そのままむっちゃんと先に退室する。

(中嶋さん、ずっと僕のことを気遣ってくれていたんだろうか……)

出際に会釈しながら顔を見てみたのだが、やはり副長は僕らと目をあわさず、両手を握り締めたまま、斜め前の床を凝視していた。



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〔第十二章・第五節〕

 三人が退室してしまうと、室内は静寂に支配される。

「見苦しい真似を致しました、申し訳ございません」

静寂を破った中嶋の声には、どうやら、いつもの冷静さを多少なりと取り戻したらしい響きがある。

「いや、本当に詫びねばならんのは私の方だ」

そう応じた西田はゆっくりと踵を返し、窓に近付くと、そっとブラインドを開けて外を眺める。

「いえ、改めて申し上げますが、全ては私の未熟から発したことです」

そう言い切った中嶋には応じず、西田は暫く黙ったまま屋外を見続けていたが、先程退出した三人が海の方に歩き去るのを見ると、それを目で追いながら誰いうともなく呟く。

「慎君は、幾つになるかな……」

「高校生のはずです、生きておりましたら」

「そうか、もうそんなになるのか」

「はい」

「生きて――、元気でいてくれたなら、きっと彼の様な、優しく誠実な青年になっていただろうな」

「――そう思っています」

二人の会話はそこで途切れ、再び室内は静けさに包まれるが、どこからか鳥の声が微かに聞こえてくる。

そのままどれほどの間、鳥達の囀りを聞いていただろうか、相変わらず窓の外に眼差しを向けたまま、西田が口を開く。

「私も――、断ってくれることを願っていたよ」

「はい」

「君も、彼の目を見たのだろう?」

「はい――、それでつい取り乱してしまいました、申し訳ございません」

「とても真っ直ぐで、勁い目だったな――。私は、それを見た瞬間にあきらめてしまったよ。彼は心の底から、陸奥さんの――、彼の言葉を借りるなら――」

「救い、です」

「うむ――、そうだな。――救いか――、重たい言葉だ。だが、彼は自分自身の想いを犠牲にしてでも、それを望んでいると言うことだ。男があの様な目をしている時に、その決心を覆せるとは私には思えなかった」

「――――はい……」

「君も、私も、兄夫婦も、あの時は、皆それぞれに最善の決断をしていると信じていたはずだ。横合いから誰かが、このままでは悲劇が起きるからやめろと忠告してくれていたら、果たして防げたのだろうか?」

「それは――――、わかりかねます」

「そうだな、私にも君にもわからん――。だから、今の彼らにもわからんのだよ、おそらくはな」

「はい……」

相変わらず鳥達の鳴き交わす声は聞こえているのだが、にもかかわらず、痛みを覚えるほどのシンとした静寂が二人の間に流れる。

「兄貴は、近頃すっかり老け込んでしまってな……」

「その――、やはり音沙汰は――」

「何もない、全くの音信不通だそうだ。生きているのか死んでいるのかすらわからない、と言っていたよ」

「――申し訳ありません……」

「君が詫びることでは無い、君がどれほど努力していたのかは、私が良く知っている。何度も言うが、詫びねばならんのは私だ。君の輝かしいキャリアを台無しにしたばかりか、人生をも大きく狂わせてしまった――」

「どうかお止め下さい、司令に感謝しこそすれ、恨みを抱いたことなど一度もございません」

「ありがとう、君がそう言ってくれることは、良く分かっているつもりなんだがな……」

何度目かの沈黙が訪れ、どうしたものかという思いが両名に交錯する気配があるが、結局は、再び西田が口火を切る。

「君はどう思うのか知らんが、私はやはり、彼を我々の仲間に迎え入れるべきだと思う」

「――そうすることで、我々が彼を支えることが出来る――と言うことでしょうか?」

「そう何もかも、うまくいくと思っているわけではないがな――。それに――、おそらく我々の意図がどうであれ、それには関わりなく、彼女達が彼を必要とするだろう」

「私も、そうなるだろうと思います、それに――」

「それに――何かな?」

「はい、単なる思い入れ以外の何ものでもありませんが、――彼は、生涯を彼女達のために奉げるのではないかと――、そう感じております」

「――そうか――、そう思うか……」

「はい」

彼の返事を背中で聞いた西田は、もう一度ちらと窓外の景色に視線を投げ掛けると、サッと振り返り、

「もし、本当にそうなるのであれば、我々にも支え甲斐があると言うことだ。彼にとって、それが幸福なのか否かまでは何とも言えんがな」

と敢えてカラリと言い放ち、扉に向かって歩を進める。

「もっと、別の人生を歩むことが出来たかも知れません」

その背を悲しげな声が追いかける。

「そうだな――、そうだったかも知れんな……」

中嶋の目に涙が光っているのを見ない様にしながら、西田はそっと室外に出た。



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〔第十二章・第六節〕

 司令部建屋内を無言のまま歩いた三人だったが、外に出たところで、仁の背後から長門が声を掛ける。

「渡来殿――」

「何でしょう、長門さん?」

振り返った彼に、長門はやや逡巡する態を見せたあと、少し視線を外して再び口を開く。

「その、なんだ――、仁と呼んでも良いか?」

「あ――――、は、はい! もちろんです!」

「そうか――、では仁よ、少し話がしたいのだ、付き合ってくれるな?」

「はい!」

その返答に満足したらしい彼女は、三人の先頭に立って海辺の四阿に向かう。

仁に客側を薦めた長門は向かいあわせに腰を下ろし、二人の横に陸奥が座った。

「仁よ、お前の陸奥に対する曇りなき真情、しかと見届けさせて貰った」

「い、いえ、そのあの――」

「如何に一命の恩あるとはいえ、我が事を差し置いて、陸奥の幸せを第一等に慮ってくれるその心根、痛く感じ入った。姉として心より礼を言わせて欲しい、本当にありがとう」

そう言った彼女は、仁から後頭部が見える程深く頭を垂れ、艶のある漆黒の長い髪がまるで滝の様に肩から流れ落ちる。

「ま、待ってください長門さん! ど、どうかお顔を上げて下さい、お願いします!」

焦ったその懇請を聞き届けてくれたのか、長門は意外に早く頭を上げると、彼の顔を見て口許に笑みを浮かべる。

「陸奥がお前の話をするたびに、正直なところを言えば、この様な女の姿になったがために、少々浮かれてちゃらちゃらしているだけなのではないかと思っていたのだ。だが、それはどうやら杞憂だった様だな。これ程に大切に思われているとは、姉の目から見ても、我が妹はまことに果報者だ」

「姉さんったら、もう……」

言いながら赤面する陸奥を見る長門の瞳は、子の日を見守る時の初春の瞳に良く似た、暖かな光を湛えていたが、不意にその光をスッと消して真顔になると、再び仁に向き直る。

「私は仁に、とても辛い決断を強いてしまったのかも知れぬ。とは言えども、私がそれを望んでいるのもまた確かな事なのだ。だから、改めてお前に頼みたい。残された時間はあまりに短か過ぎるかもしれないが、どうか、陸奥に悔いのない様に過ごさせてやって貰えないだろうか。この身より他には何一つ持たぬ私は、ただこの頭を下げるより術はないのだが」

彼女が再び頭を下げようとするので、仁は慌てて止める。

「長門さん! お願いですから、それは勘弁して下さい!」

「しかしだな――」

「礼節を重んじておられるのは良く分かるつもりですが、こと僕に対してはご無用です。それに――、たとえお願いされなくても、僕は出来る限りの事をするつもりですから」

きっぱりと言い切った彼の顔をまじまじと見詰めた長門は、ふっと息を吐いて俯き加減に目を閉じ、改めて顔を上げると、先程陸奥に向けたのと同じ眼差しを彼にも向ける。

「仁よ、お前には誠があるし、他者に対する思い遣りも備えている。ただな、やはり男子たるもの、もう少し胆気と言うのか蓋世の気とでも言うのか、そういったものを身に帯びて貰いたいものだな。お前にそれが備われば、陸奥の婿として全く申し分ないのだが」

「ね、姉さんたら、何言い出すのよもうっ!」

顔を更に真っ赤にして陸奥が噛付くが、彼女は相変わらず瞳に穏やかな光を絶やすことなく、つるりと応じて見せる。

「何を言うか、我等艦娘には親と言うものは無いのだから、お前の肉親と言えば私だけだ。お前を嫁に出すことが出来るのは、私だけと言うのが道理ではないか?」

「何、屁理屈捏ねてるのよ! 本当に恥ずかしいわ」

「まぁそう言うな、この様な確たる寄る辺も持たぬ身ではなくて、なおかつ十分な時間が赦すのであれば、お前を仁に娶わせてやりたいのだが、それもおそらくは叶わぬことだろう。だからせめて、気持ちだけでもそうさせて欲しいと思っているのだ」

「姉さん……」

「あの――、長門さん?」

「なんだ、仁?」

「本当にありがとうございます、でも、例え長門さんのそのお言葉が無くても、僕の気持ちは変わりません。それに、陸奥さんはもう僕の家族だと思っていますから」

「――そうか、そうだったか――、すでにお前たちは家族であったか。しかし、それは聞き捨てならんな。お前は私の許可も得ずにこそこそと、陸奥と家族になっていたと言うわけか?」

急に彼女が気色を変えたので、仁はにわかに緊張してしどろもどろになってしまう。

「あっ、いえっ、そのぉ――そんな、そのなんて言うか、疾しい様な意味では無くてその――」

「姉さんったら! 仁をからかうのはやめて頂戴⁉ 仁も、心配しなくても大丈夫よ!」

「ははは、何も脅かしたつもりは無かったのだがな♪ それにしても仁よ、何度も言うが、もう少し泰然とは出来ぬか? そう毎度毎度震えあがっていては、身が持たぬであろう?」

「ま、全く仰る通りです……」

「分かっていても、出来ぬものは仕方無いか――、我ら艦娘も何かと儘ならぬとは感じるが、人間とは、それに輪を掛けて難儀な代物だな」

「姉さんは、仁に注文つけ過ぎよ⁉ それに、人間でも艦娘でもそんなに簡単に変われるものじゃないし、理屈で気持ちがどうにか出来るんだったら、苦労なんかしないわ⁉」

「やれやれ、お前は仁のこととなるとすぐ向きになるのだな。家に帰っても、そんな風にあの女と争っているのか?」

「い、いえ、幾らなんでもそんなことはありませんよ⁉ 陸奥さんは落ち着きと言うか余裕があって、どうかすると、僕や葉月よりもずっと年上なんじゃないかと錯覚する位ですし……」

「まぁ、年上には違いあるまいな、我らがこの世に生まれ出でたのは百年近くも昔の事だからな……。思えば、長い歳月を重ねてきたものだ」

「あたし――、本当に、船体を引き揚げて貰っても良いのかしら」

「お前で無ければ、同胞達の誰かになるだけだが、そうすればみすみす幾歳月かを無駄に過ごすこととなるのだ。気にするなというのは無理な話かも知れんが、仲間達に希望を示せると言う意味では大切な役割だと思うぞ」

「それはそうなんだけど……」

「出来るだけ早く、初春ちゃん子の日ちゃんにも説明してあげなきゃねぇ」

「ええ、引き延ばす理由も無いし、今晩話すわ」

「そうか、そうだったな――、私が共にいられれば良いのだが――。仁よ、初春も子の日も、同じくお前の家族として遇してくれるのだな?」

「はい、もちろんです!」

「ならば、どうかあれらの事もよろしく頼む、おそらくは、強い衝撃をうけるだろうからな」

「僕に出来ることは何でもするつもりです、ですけど――」

「分かっている、それだけで十分だ。己の力で乗り越えねばならぬこともあるし、そればかりは誰かが代わってやることも出来ぬ」

「はい……」

彼がそう返事をしてしまうと、三人はそのまま黙り込んでしまう。

長門は軽く眼を瞑って何事かに想いを巡らせている様子で、陸奥は憂いの篭った眼差しで海を見つめている。

仁が何かを言おうかどうしようかと迷っていると、長門が目を閉じたまま口を開く。

「副長殿は、引き揚げに反対の様だったな」

「そうでしたね、ちょっと驚きましたけど」

「でも、あたしは何となくだけど納得したわ」

「ほう、以前にも何かあったのか?」

「姉さんと出会う前の晩にね、ちょっと感じるところがあったのよ」

「そう言われると、最初にこの話をされた時も、何だかちょっと浮かない感じだったかなぁ」

「多分、何か辛いことが過去におありなんだと思ってるんだけど」

「そっか――、そういえば、中嶋さんは離婚してるんだよね、それと何か関係あるのかな」

「それは、良くわからないけど……」

「そういうものなのか――、私も数多の男達を――ほとんど軍人ばかりだが――見ては来たが、改めて思い返してみるに、確かに只々強いだけの者は居なかった様だ。皆どこかしら、弱さを抱えていたような気がするな……。思うに、男というものは、常に何かしらの支えを必要としているのかも知れん。そして、それを与えることが出来るのが女なのかも知れんな」

「そうかも知れません――、男はやっぱり臆病で小心ですから……」

「そうか……」

波の音と鳥の声が、暫しの間三人の上に流れた後、腕組みをした長門がそっと低い声音で呟く。

「すまぬ――――、赦せ、仁」

「い、いえ……」

今にも泣き出しそうな空だった。



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〔第十二章・第七節〕

 その夜、むっちゃんは初春ちゃんと子の日ちゃん(それに葉月にもだ)に、事情を打ち明けた。

ただ、どんなに普通に振る舞おうとしても、僕らの口数はあからさまにいつもより少なく、何とか朗らかに会話しようとするほどぎこちなくなる有様だったので、話す前からみんな雰囲気を感じ取ってしまい、子の日ちゃんなどは常よりも殊更にむっちゃんの手をギュッと握りしめて、傍から離れようとしなかったのだ。

そのいじらしい様子を見ているだけで、僕は胸が詰まってきてしまい、もう到底平常心ではいられなかったのだが、むっちゃんはいつもより物静かではあったものの、慈しむ様な優しい眼差しを注いでいたのがとても印象的だった。

夕食が終わり、後片付けも済ませてお風呂を沸かすまでの落ち着いた時間を選んで、彼女は話を切り出した。とても静かに淡々と、しかも余計な脚色も無ければ必要以上に冷淡でも無くむっちゃんが話し終えると、ごく短い間沈黙が流れたあと、つと居住まいを正した初春ちゃんがいつもの調子で口上を述べる。

「お話し、しかと承りましてございます。斯様にゆくりなくも遂に天寿を全うされるとの由、まことに祝着至極に存じまする」

そう言って恭しく礼をする彼女を見て、例によって僕は、

(さすがは初春ちゃんだな~)

と感心するはずだったのだがそうはいかなかった。

落ち着いて淀みなく言葉を紡いだはずの彼女の声は、最後の最後で震えたのだ。

(!)

見えない手で食道を掴まれでもしたように、息が出来なくなった僕の目前で、深々と礼をした彼女の肩が小刻みに震えており、そのまま不自然なほど頭を上げない。深い息がわななく様に漏れ、やがてとてもゆっくりと上体が起こされるが、彼女は顔を上げることが出来ず、そのまま両手で顔を覆うとなおも必死で嗚咽を堪えている。にもかかわらず、その努力は結局実らなかった。隣で目に一杯涙を溜めながら、歯を食いしばって我慢し続けていた子の日ちゃんが、とうとう耐え切れずに声を上げて泣き出してしまったからだ。思わずといった様子でむっちゃんが両手を差し伸べると、彼女はその手の中に飛び込む様にしてしがみ付き、激しく泣きじゃくる。

「ぅあぁぁぁーーぅぅっ……ぅわぁぁ~~んんっ、んうっ、うっ……」

抱き締める彼女の瞳からも、幾筋と無く涙が零れては子の日ちゃんの髪を濡らし、そして、初春ちゃんは顔を覆ったまま切れ切れの声を上げる。

「も――申し訳ござりませぬ――、陸奥殿の――目出度き門出に――ござりますれば、――我ら姉妹、し、祝言をもって――寿がねば――なりませぬところ……。お赦しくだされ――お赦しくださりませ……」

涙にぬれた瞳を上げたむっちゃんが、伸ばした片手をその肩にまわすと彼女を抱き寄せでやる。傍らにいる僕が、そんな彼女達の様子を見て我慢できるはずなどなく、とっくに限界を超えて涙が溢れ出していたが、あることに気づいてしまい、思わずハッとさせられる。

悲しみに耐えられなくて泣いてはいるものの、二人は只の一言も、『やめて』とか『いやだ』とは言わないのだ。言うまでも無いが、同じ艦娘である二人にとっては、船体を引き揚げてもらい寿命を全うして船の天国に行くのがどれほど尊いことなのか、その重さが良く分かっているからだろう。

(なのに――なのに君達は……)

再び、西田司令が掛けてくれた言葉が甦ってくる。彼女達は、如何に仮初のものとはいえ、間違いなくむっちゃんと深い絆で結ばれた家族同然の存在だ。もっと言えば、この家族における父親役は余りにも頼りなく薄っぺらいが、その分、母親役たるむっちゃんはとても強く優しく頼りがいのある存在だ。

にもかかわらず、僕がはじめて手にしたこの小さくも大切な家族は、今まさにその中心を喪おうとしている。彼女達は、どれほど『行かないで!』と叫びたいことだろうか。でも、二人は決してそれを口にしない。悲しみに耐えかねて涙を流しはしても、むっちゃんを引き留めようとはしないのだ。

それに気づかされた甚だ頼りない父親役としては、また改めてそのいじらしさにドッと涙が溢れて来たものの、同時に自分が何をしなければならないのかと言うことの一つに、どうにか思い至る。所詮、一緒になってワンワンなく程度のことしかできないかも知れないが、少なくとも彼女達の傍に居る程度のことは僕にでもできる。いないよりまし位であったとしても、それは間違いなくやれる筈のことであり、何よりも僕自身が選択したことでもあるのだ。

(そうだ、これは自分自身の意思で選んだことでもあるんだ――。何が起こっているのかすらわからなかった、あの日の僕とは違う――、むっちゃんへの誓いを果たすためには、どうしても避けては通れないことだ)

大切なものをまさに喪おうとしているのに、どうすることも出来ずに身悶えするばかりだった幼い僕には、自らの運命を選択する可能性など無かった。だが今の僕は、むっちゃんにとって一番大切だと思えることを自分の意思で選び取ることができるし、なによりも、その悲しみや苦しみを共有し互いに支え合うことすらできる家族が居てくれるのだ。

そう思ったからなのか、意識してそうしたわけではないのだが、いつのまにか彼女達ににじり寄って両腕をまわしていた。無論のこと、情け無い僕の涙は都合良くとまってくれたりはしないが、それでも彼女達をしっかり抱き締めると、むっちゃんが僕の肩に頬を寄せてきてくれるとともに、初春ちゃんと子の日ちゃんの震えと体温もしっかり伝わってくる。

(僕も怖ろしくて仕方ないよ――、でも、君達が一緒に居てくれるなら、何とか耐えられそうな気がするんだ)

頼りない話には違いないが、彼女達と一緒にボロ泣きすることで、やっと僕自身も少しずつこの怖ろしい事実を受け止め始めた。残された日々をどんな風に過ごして――じゃない、過ごさせてあげればいいのか、そのことを考えなければいけない。

頭の片隅に、ほんの少し落ち着いてものを考えられる部分が出来始めた僕は、抱き合って啜り泣いている三人を抱いたまま少し顔を上げたが、その途端、目の下に涙を溢れさせながら下唇をきつく噛んだ葉月に睨み付けられ、どっと汗が噴き出る。

(そ、そうだった、ゴメン葉月……)

彼女達と一緒になってオイオイ泣いている間、まるで、その場に偶然居合わせた通行人か何かのように、葉月のことを放ったらかしていたのだ。しかも、今日まで何くれとなく、彼女達の世話を焼いてくれていたというのにである。

「葉月――、そのぉ――」

「お風呂、沸いたみたいよ」

思わず謝りかけたのを遮って、わざとぶっきら棒にそんな(場違いなほどに日常的な)ことを口にするのは、無論意図があってのことだろう。それを何となくだが感じ取ったので、僕は三人に向かって出来るだけ優しく声を掛ける。

「みんな、お風呂が沸いたみたいなんだ。三人で顔を洗って来れそうかな?」

その声に、僕の大切な家族達はちゃんと反応してくれる。

「――ほんとね――、こんなクチャクチャの顔になっちゃって、恥ずかしいわ……」

「まことにござります――、陸奥殿、申し訳ござりませぬ……」

「子の日ちゃん、大丈夫? 一緒にお風呂、入れるかしら?」

「――ゔん――、はいる……」

しゃくりあげながらも何とか子の日ちゃんが返事をしたので、僕が三人に手を添えて立ち上がらせると、葉月はさっさと動き回って着替えなどを整え始める。そうして、どうにか彼女達をバスルームに導いてから、僕もキッチンに行って顔を洗い居間に戻るが、程なくして、まだ少し赤い目をしたままの葉月も戻ってくると、キッとこちらを一睨みして腰を下ろす。

「ごめん、葉月」

「当たり前よ! これから、毎日ずっと謝って貰わなきゃ割に合わないわよ⁉」

「もしそうしろって言うんだったら、ホンとにそうするよ」

「……」

「……」

「全く――、一体なんなのよこれ! こんなのって――、卑怯じゃない!」

わざわざ卑怯などという言い方をした彼女の意図が、珍しく僕にも伝わった。

葉月はいわば正面からとでもいうのか、どこからも突っ込みどころのない横綱相撲で僕を取り返すつもりだった様だが、そう意気込んでいた矢先に、全く唐突に不戦勝(不戦敗?)を告げられたうえに、振り上げた拳を振り下ろすことも出来なくなってしまったので、それが腹立たしくて仕方ないらしい。

「今日まで、話すわけには行かなかったんだよ――、本当にごめん」

「そんなことくらい、良く分かってるわよ!」

「……」

「それよりも仁――、あんた、これからどうして行かなきゃいけない位は、ちゃんと自覚してるんでしょうね⁉」

「自覚くらいはね」

「ちゃんとしろだなんて、無理なことは良く分かってるけど、それでも、少し位はしっかりしなさいよ⁉」

「努力します――」

「時間が無いことも分かってるんでしょうね⁉ いいこと、まだ誰も経験したことの無いことなんだからね⁉ ほんとにしっかりしなさいよ⁉ じゃなきゃ――、あの子達可哀想じゃない……」

「葉月……」

「なによ」

「その――、ありがとう」

「礼なんか言って欲しく無いわ⁉ どっちにしたって、あんたにはいずれきっちり責任とって貰うんだから」

そう言い捨てると、彼女はさっと立ち上がるなり二階に上がって行ってしまった。

(責任か……)

僕の取れる責任なんて本当にちっぽけなものだが、それでも、それに何がしかの価値を見出してくれる誰かが居ることに、これまで僕はずっと拠りかかっていたんだろう。だからこそ、色々なものを見落とし続けたうえに、時には見えない振りすらしていたのだ。

さしもの葉月も、そんなどっちつかずな僕に業を煮やしたのだろうか、珍しく(というより多分生まれて初めて)責任を取れなどと直接的な言い方をしてみせた。

(これから、何をすべきなんだろう?)

いくら付け焼刃で頭を捻ってみたところで、突然目覚ましいことを思いつく訳もなく、ましてや葉月の様に、二歩も三歩も先を見詰めながら今やるべきことを考える様なまねは、やはり僕には出来るはずもなかった。



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〔第十二章・第八節〕

 月曜日には、初春と子の日も少し落ち着いてきたので、通常通りに隊に出向くことにした。

二人には少しずつ会話が戻ってはきたものの、普段通りというには程遠く、特に子の日は陸奥と片時も離れたがらなかったため、不安に思って仁と相談はしたものの、いつまで休めばいいのか見当もつかないので、仲間と一緒にいる時間が出来るほうが良いと思ったからだ。

心配そうな斑駒とともに隊に到着すると、早速長門が出迎えてくれたが、二人の様子を見るなりすっとかがみこんでその手を取る。子の日は黙ったままで長門と目を合わせるのが精一杯だったが、初春は会話できることが少し嬉しかったらしく、

「子の日の姉でありながらまこと不甲斐無き仕儀にて、長門殿におかれては、ご心労をお掛けして申し訳ござりませぬ」

と、やや普通の口調で応えをする。

「そのようなことを気にしてはならん、いくら姉だとて、万事において妹より優れているわけでもあるまい。お前たちも、私と陸奥を見ておれば判りそうなものだ」

その如何にもくだけた物言いに子の日が微かに笑顔を浮かべると、それを見た長門は彼女の頭を撫で、その様子に目を細めた初春の頭をも撫でる。

(ありがと、姉さん)

心の中で礼を言ったのが聞こえたのか否か、姉はすっと立ち上がり、陸奥に向かって口を開く。

「副長殿には既にご相談した。この後、早速話をする場を持っていただけるそうだ」

「変に間があくよりも、その方がありがたいわ」

「私もそう思うな――、二人のためにもその方が良かろう」

「皆さん、おはようございます」

職業的な笑顔で現れた中嶋は、どうやらいつもの冷静さを取り戻しているようだ。

「おはようございます」

陸奥らが答礼しながら挨拶すると、彼は一瞬ちらりと初春、子の日の顔に視線を走らせた後、さっと真顔になる。

「陸奥さんさえよろしければすぐに参りましょう、お話は私からしようと思いますが?」

「はい、よろしくお願いいたします」

迷う理由も無かったので即答すると、初春と子の日の顔を顧みて軽く両手を差し出す。二人がめいめいその手を握るのを見届けた中嶋が、向き直りながら声をかける。

「では、こちらへどうぞ」

子の日の手にくっと力が入るのを感じながら、陸奥は彼の背を追いかけた。

 

 中嶋が話をしている間、陸奥は横に座っていたが、何となく皆の顔を見るのが辛く、専ら初春や子の日、それに姉の横顔を見たり自分の手を見つめていた。

「――以上、急なお話になってしまいましたが、陸奥さんのご希望もあり、少しでも早く皆さんにお伝えしたいと思った次第です。私の話は以上ですが、ご質問などがありましたらご自由にお聞きください」

彼がそう話を締めくくったので、そっと顔を上げてみる。

斑駒が気配りしてくれたらしく、机が下げられた室内は、陸奥と艦娘達が膝詰めで話せるよう椅子だけが並べられ、なおかつ誰も陰にならないよう互い違いに席が配置されていたので、一目で全員の顔が見渡せた。俯いて口をへの字に結んだ皐月が、目に一杯涙を溜めているのが目に入り、胸の奥がぐっと絞られるが、彼女だけでなく霰や長良も涙を浮かべており、朧も唇を噛んで俯いている。

「よろしいですか?」

「加賀さん、どうぞ」

思わずその顔を見るが、彼女は意識してそうしているのか、その視線はひたと中嶋に向けられている。

「今伺ったお話では最短で一ヶ月少々との事でしたが、実際のところは、概ねどの程度の期間を見込んでおられるのですか?」

「あくまで私個人の推測となりますが、長くても三ヶ月を超えることは無いと思っています。何か特殊な事情が発生した場合には、その限りではありませんが」

「わかりました、ありがとうございます。そういうことであれば、私から提案があります。これまで無理をお願いして、陸奥さんに私達のまとめ役をお引き受け頂いて来ましたが、こうして天寿を全うされることとなられましたので、その荷を降ろして身軽になって頂きたいと思いますが、皆さんは如何?」

いささか予想外のその言葉に、室内は一瞬静まり返ってしまうが、こらえ切れなくなった様にがたっと音を立てて長良が立ち上がり、加賀を詰る。

「幾らなんでもひどいですよ! 陸奥さんが――陸奥さんが居なくなってしまうかも知れないのに、どうしてそんなに事務的なことが言えるんですか⁉」

「長良さん? かも知れないのじゃないわ、陸奥さんは本当に居なくなってしまわれるのよ」

その非情な言葉に耐えられなかったのか、皐月が声を漏らして泣き出してしまう。

「皐月ちゃん――」

思わず陸奥が声を掛けると、彼女は弾かれた様に席を立ち、

「うわぁはぁぁぁーんっ! 陸奥さぁぁんっ!」

と叫びながら陸奥のもとに駆け寄り、膝にかじりついて号泣する。朧と霰も、膝の上で拳を握り締めてさめざめと泣き出すが、それを見て取った高雄と龍田が立ち上がり、傍らに寄り添ってやると、二人は彼女らにしがみついて嗚咽を漏らす。そこから少し離れて座っていた酒匂は、どう反応して良いのか分からないらしく、心細げな様子で隣に座った妙高の腕に抱きつくと、彼女がその手を強く握ってやる。

その様子を見た瑞穂が軽く手を伸ばし、突っ立った長良の腕にそっと触れて目をあわせると、彼女はやや消沈した様子で腰を下ろす。加賀が何か言うのだろうかと思って顔を見るが、どうやら、その場の空気がおさまる頃合を見計らっていたらしい赤城がすっと立ち上がり、皆を軽く見回しながら話しはじめた。

「陸奥さんが居なくなってしまわれると言うのに、悲しくなかろう筈がありません。更に言えば、陸奥さんでなくて他の誰かであったとしても、別れが辛くない訳がありません。それでも、私達がなすべきことは、陸奥さんが去っていかれるのを嘆き悲しむことでは無いと思います。私たちは皆、天寿を全うして永遠の安らぎを得たいと願っていますが、それが本当はどういうことなのか誰も知りません。陸奥さんは、私達の先陣を切ってその道を指し示してくださるのですから、その後ろ髪を引くようなことは慎むべきだと思います。私には、陸奥さんがこのお話を嬉々としておうけになったとは到底思えません。悩み苦しまれた末に決断なさったのだろうと思うと、尚のこと、少しでも心安らかにその日を迎えて頂けるよう、お手伝いしなければと強く思うのです。ですから、先程加賀さんが言われたことに私も賛成です。泣くなとか悲しむなとか言うつもりはありませんが、それを少しだけ堪えてなすべきことをなすのが、仲間として私達に求められていることのように思います」

陸奥は何か言わなければと思ったものの、話し終えた彼女の瞳からつぅっと涙が一筋零れるのを見て胸が詰まってしまい、何も言えなくなってしまう。

だが、それを察したものか、長門がかわりに声をあげる。

「赤城よ、ありがとう。それに、これほどまでに皆が陸奥を慕い、そのためを思ってくれることに、姉としてなんと礼を言っていいものか見当も付かない。今はただ、皆と共に過ごせる残りの日々を、最後まで同胞として過ごさせてやってもらいたいとお願いするばかりだ、どうかよろしく頼む」

そう言って姉が頭を下げると再び全員がしんとしてしまい、皐月達のすすり泣く声が響く。

すると、意外なことに子の日がつと立ち上がり、陸奥のもとにやってくると、膝に顔を埋めて泣いている皐月の傍らに膝を付いてその手を握る。

握られた皐月は顔を上げたが、目の前に居たのが子の日であったのが予想外だったらしく、涙を零ししゃくり上げながらも彼女の顔を見つめかえす。見つめられた子の日は、服のポケットから葉月に貰ったハンカチを取り出し、涙でそれこそぐちゃぐちゃの皐月の顔を拭い始める。

「子の日は――、悲しくないの?」

顔を拭かれながら皐月が聞くと、彼女は少し逡巡しながらも応える。

「――悲しいけど――、子の日が泣くと、陸奥さんも泣きたくなっちゃうから――、だから、あんまり泣かないようにしようって思ったの」

それを聞いた皐月は、尚も顔を拭われながらも彼女の顔をまじまじと見詰め、やがて徐に頷くと、頷き返した子の日が手を引っ込めるのと共に、自らの手を上げて拳を握り、ぐいっと目元を拭う。

「分かった――、ボクもそうしてみる」

「――うん」

その健気な様子を目にした陸奥は、何かが込み上げて来るのを抑える事が出来ず、二人に腕を回して抱き締める。

「二人ともありがとう――、本当にありがとうね――」

涙が溢れ出してしまい、言葉を続けられなくなるが、抱き締めた二人はかわるがわる慰めてくれる。

「陸奥さん泣かないで――、子の日も頑張るから」

「ボクもだよ⁉ ちょっとずつだけど、強くなるからね――、だからね……」

「――分かったわ、二人が泣かないんだったらあたしも泣かないわ」

嬉しそうな笑顔を浮かべる二人から、暖かなものが伝わってくるのを感じ、胸の中に渦巻いていた様々なものが、静かに洗い流されていく。

「皐月も子の日も、とっても立派だよ! いつの間に、こんなに強くなったのかな、二人とも」

その声に顔を上げると、まだ顔に涙のあとが残ったままの長良が笑みを見せて立っていた。

「長良ちゃんもありがとう――、皆がいてくれて、あたし本当に幸せよ……」

少し照れくさそうにした彼女が皐月の肩を抱いて席に戻ると、今度は初春が口を開く。

「一つ、よろしゅうござりますかの」

「初春さん、なんでしょう?」

「先程、加賀殿が仰せられたことについてですが、その件については皆如何様にお思いでしょうや?」

「そうですね――、皆さん如何ですか? 異議のある方がおられたら、決して遠慮せずにご意見を仰ってください」

中嶋はそう言ったものの、その声に応じるものは誰も居ないようだ。

「では皆さん、加賀さんのご意見には賛成と言うことで宜しいですね? ――どうやら宜しいようですよ、初春さん?」

「有難うございまする。それでは改めて、陸奥殿が退かれたあとのまとめ役を、妾は長門殿にお引き受け頂きとうござりますれば、皆のご存念をばお聞かせ下さりませ」

「いや、ちょっと待て初春よ、お前が信頼してくれるのは有難いが、幾らなんでも私はまだ日が浅すぎる。もう少し、皆との信頼関係が培われてからであればやぶさかではないが、さすがに今すぐと言うのは――」

「あら姉さん、あたしがいつまとめ役を引き受けたのか知らないの?」

「いや、知らんぞ? まだ聞いたことは無いと思うが――」

「実は、陸奥さんと私達がお会いしたその日のことなんですよ♪」

「何だと赤城――、それは本当か⁉」

少々面食らった様に問い返す姉に対して、赤城ではなく加賀が答える。

「はい、その通りです。赤城さんと私がお願いを致しましたが、陸奥さんにはその場でご快諾頂いたのです」

「何と言う事か――、それでは、私が断るわけにはいかぬではないか――。そ、それで、皆は本当に私などで良いのか?」

意識して背筋を伸ばした長門が全員の顔を見渡すと、一瞬静寂が流れた後、微笑を浮かべた瑞穂が最初に意見を述べる。

「長門さんこそが最も相応しいと思いますわ、迷う謂れはございません」

彼女がそう言い切ったのを皮切りに、皆が一斉に声をあげる。

「異議ありません!」

「賛成ですぅ~」

「酒匂もさんせい!」

それらの声が一巡したのを見て取ると、長門は再度姿勢を正して口を開く。

「それが皆の総意であるのなら、私は謹んでお受けしよう。正直に言えば、陸奥の事情を理解してもらうだけで十分だと思っていたので、まさかこのようなことまでこの場で決めることになろうとは、考えていなかったと言うのが本音ではあるが――、ともあれ、今後は私に未熟なところがあれば、どうか遠慮することなく指弾して貰いたい、宜しく頼む」

そう言って頭を下げた姉と並んで、改めて陸奥も頭を垂れると、中嶋がまとめをしてくれる。

「それでは皆さん、陸奥さんのご事情をご理解頂いた上で――――」

彼の言葉を聞きながら、陸奥はいささかの安堵を味わっていた。

初春や子の日、それに仲間たちは、一緒に居る限り支え合って何とかやっていけるだろうし、何より、信頼する姉がその中心になってくれるのだから、皆の紐帯はより一層揺るぎ無いものになるだろう。そう思うと、正に赤城や加賀が気遣ってくれたその通りに、心の中に新鮮な空気が流れ込んできたかのような落ち着きを感じるとともに、今最も気に掛けたいと願っていることがはっきりと見えてくる。

(仁……)

残された時間の中で、自分は彼に何が出来るのだろうか。

(あたしは――、何を一番してあげたいのかしら……)

彼が寄せてくれるその強い想いにどうにかして応えたい、その気持ちが胸の中で急速に膨らみ始めるのを陸奥は感じていた。



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第十三章
〔第十三章・第一節〕


 しとしとと雨の降り続く憂鬱な天気だったが、僕の心中はそこまでひどく憂鬱という訳ではなかった。

むっちゃんは仲間達に事情を話した(厳密に言うと、彼女ではなく中嶋さんが話したらしいが)のだが、皆その事実を受け止めてくれたばかりでなく、少しでもむっちゃんの負担を軽くするために、皆のまとめ役を長門さんにバトンタッチすることまでその場で決めてくれたそうだ。

何よりも、それを話してくれた彼女や初春ちゃん子の日ちゃんに笑顔があったこと一つだけで、僕は嬉しくて泣きそうに(これも厳密に言うとほぼ泣いていたのだが、葉月に睨みつけられてあわててガマンした)なったのだ。

そんなわけで、少々心が軽くなっている僕は、小雨の中を葉月に引き摺られて、いつものスーパーではなく大学からほど近いショッピングモールに食材の買い物に行くという、およそロマンを感じないシチュエーションにあっても概ね朗らかだった。

「あんたねぇ、その位のことで一々機嫌良くなってる場合じゃないわよ⁉ 大体、そんな風に気ィ抜いて碌なことに――」

とその時、葉月の小言を遮る様に、僕のスマホが着信を告げ始める。

「誰なのよ、こんな間の悪いやつは!」

誰しも、テンションが上がっている時にそれを妨げられるのは不愉快なものだが、誰ともわからない相手にそこまで不機嫌に当り散らさなくても――と、相変わらず心の中だけで突っ込んでおいて、着信が斑駒さんからであることを確認して応答する。

「もしもし、渡来ですが」

「こんにちは、斑駒です。渡来さん、今お話し大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

「それじゃ、どうしても渡来さんとお話ししたい人達がいるのでかわりますね?」

「あ、はい――」

「渡来さん⁉ 渡来さん⁉ これで聞こえてるの⁉」

響いてきたのは、明らかに飛龍ちゃんの声だ。

「大丈夫だよ、よく聞こえてるよ飛龍ちゃ――、ご、ごめんなさい、飛龍さん」

「えーっ、別に飛龍ちゃんで良いんですよぉ~? 何だったら、飛龍って呼んでくれても良いですけどぉ♪」

「い、いや、さすがにそれはちょっと色々不味いし――」

「ちょっとぉ、飛龍ったら何余計なこと話してるのぉ⁉ ずるいよぉ~」

傍から蒼龍ちゃんの声が聞こえて来る。この分では、他にも誰かいるかも知れない。

「そ、それでどうしたの? 用事は何かな?」

「うん――、あのねぇ、私達次の土曜日に、渡来さんに外へ連れて行って貰うじゃないですかぁ~」

「そうだよね」

「えっとね、それを私達の代わりにね――、長門さんと陸奥さん達を連れて行ってあげて欲しいんですぅ」

「えっ――」

「陸奥さんにね、長門さんと一緒のお出掛けをさせてあげて欲しいんです。それでね、初春ちゃんと子の日ちゃんも、一緒に連れて行ってあげて欲しいなぁって思ったんですぅ」

「飛龍ちゃん……」

電話の向こうで、小さな話し声と誰かに手渡される気配がし、今度は蒼龍ちゃんのふわっとしたちょっと甘えた様な声がする。

「あのねあのねぇ、渡来さん? 私はね、蒼龍ちゃんより蒼龍って呼ばれる方が良いんだよ、ねっ良いでしょぅ?」

「あんたこそ、いきなり関係ない話してるじゃない!」

「飛龍とおんなじだけしかして無いよぉ、ねぇ渡来さん♪」

飛龍ちゃんのツッコミにも全く動じない彼女の甘い声に、思わず鼻の下が伸びそうになるが、その時、脇腹に猛禽類の鍵爪の様に葉月の指が食い込むのを感じて、背中からどっと汗が吹き出す。

「あっ、あっ、その、えっと蒼龍ちゃん? それは置いといて、そのぉ――」

「うん、渡来さん、私達はまたいつでも連れてって貰えるからぁ、長門さんや子の日ちゃん達が、陸奥さんと一緒の思い出つくれる様にしてあげて?」

「あ、ありがとう――」

僕が言葉を続けようとすると、またも誰かに手渡される気配がして、新たな声が響く。

「渡来さん! 聞こえますか? 長良もいますよ⁉」

「ちゃんと聞こえるよ、長良ちゃんもほんとにありがとう、みんなが気遣ってくれてすごく嬉しいよ」

彼女の声を聞くと、僕はなぜかホッとして気が緩む。やっぱり、彼女が漂わせている同級生感のせいなのだろうか? とは言え、そんな僕の感情を葉月が見逃すはずもなく、脇腹に食い込んだ鍵爪に更に力が加えられる。

「初春も子の日も一生懸命頑張ってるから、何か楽しいことさせてあげて下さい! あっ、でもごめんなさい、私達、渡来さんにお願いするだけしか出来ないんですけど……」

そう言う長良ちゃんこそが、とても頑張ってるいい子の様な気がするのは、きっと僕の気のせいではないだろう。

「そんな風にお願いしてくれるだけで、もう十分嬉しいから大丈夫だよ?」

「ほんとですか⁉ よかったぁ♪ 渡来さん、よろしくお願いしますね!」

再び電話の向こうで別の手に渡る気配がすると、斑駒さんの声がする。

「と言う、皆さんからのお願いなんです、私からも改めてお願いしてよろしいですか?」

「はい、もちろんですよ! 因みに副長にはもう――」

「ええ、一応許可は頂いてます」

「それじゃあ問題無さそうですね、詳細、相談したらまた連絡させてもらいますね」

「有難うございます、急にご連絡して申し訳ありませんでした、それではよろしくお願いしときます♪」

「はい、失礼します」

通話を終えて目を上げると、葉月がじっとこちらを見ている。

「あのさ、葉月――」

「聞こえてたわよ」

「そ、そうか、それじゃあさ、今度の土曜日に――」

「最初に、中嶋さんが言った通りよね」

「えっ?」

「艦娘はみんな良い子達なのよ、現代の日本人なんかよりもずっとね」

「そればかりじゃないとは思うけどさ」

「仲間を思う気持ちがあるって事?」

「うん」

「そうね――、そう思うと、ちょっと羨ましい様な気もするわね」

「うん」

「……」

 

少しだけ雨脚が強まり、モールの張り出したガラス屋根にあたる雨音が響く。

 

「――――少しだけよ…………」

 

「えっ……」

 

「お別れするまでの間――だけよ――――、その間、だけだからね…………」

 

「葉月…………」

 

急に胸の奥から色々な感情が溢れ出てきて、彼女への素直な気持ちをぶつけたいという衝動が抑えられなくなってしまい、前後の見境もなく言葉が口を衝いて出る。

「は、葉月っ、僕は、僕はずっと、葉月のことが――」

ばっ、馬鹿っ! 黙れっ! 黙んなさいよ!

いきなり血相を変えた彼女にすごい剣幕で怒鳴られ、僕は呆気にとられて絶句してしまう。

「??」

「いい加減にしなさいよ! もし、今そんなこと言ったりしたら一生許さないわよ⁉ あんた、何にも学んで無いのね! 高二の時、痛い目に会ったのもう忘れちゃったわけ⁉」

「あ――」

こうしてまたまた、僕は無駄に一つ賢くなる。

(結局、何もかも全部分かってたんだ――、なのに、一言も口を出さずにずっと……)

どれ程力いっぱい溜息をついても、僕のみっともない過去を全て吐き出すことは絶対に出来ないに違いない、改めてそう痛感した。

葉月が怒ったのは、つまりはあの時の後輩と同じ理由からだ。たとえ、どれほど真剣な想いから出た本気の言葉であったとしても、それが自分ではない誰かに想いを寄せているその口から発せられる限り、それだけは絶対に受け容れられないと言われたのだ。しかも、それをたった今迄ちゃんと理解できていなかったことまで叱られてしまったわけだ。

(はぁ――、どうしていつもこうなんだろう?)

葉月は、少しの間だけは大目に見てやるから、自分に気兼ねすることなく、むっちゃん達に悔いの無いように過ごさせてやれと言ってくれたのだ。そんな温情のある言葉を聞いて、僕が思わず感動してしまったことは、決して間違ってはいないはずだと思う。ただ、その後がいけなかったのだが……。

「さぁ! わかったら、さっさと買い物済ませちゃうわよ⁉」

「う、うん」

そんな感慨も戸惑いも知ったことではないとばかりに、いつものように僕は引き摺られて行く。それでも、今日ばかりはさすがに、常日頃の葉月とは少し違って見えた。

(本当にありがとう――、葉月)

だが、そう胸の中で呟いた途端、振り返った彼女にジロリと睨まれる。

(そ、そうだった……)

葉月のテレパシー能力をうっかり忘れていた僕の方は、残念ながらいつもとなんら変わっていなかった。



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〔第十三章・第二節〕

 正門前で待っていると、陸奥が初春と共に子の日の手を引いて歩いてくるのが見える。だが、仁が一緒にいるのは当然としても、あの塔原という女まで同行しているのはさすがに戸惑う。

「陸奥さ~ん♪」

(まぁ、かくいう私の側がこれではな)

妹の名を呼びながら一斉に手を振る仲間達を横目に見ながら、心中秘かに嘆息する。

もともと、今日は蒼龍・飛龍や長良達が外出するはずだったものを、自分や子の日などが陸奥と共に過ごせる時間は限られているのだからと、彼女ら自身がとても楽しみにしていたにも関わらず、それは後回しにして一緒に外出してくるように奨めてくれたのだ。

(皆、本当に思い遣りのある、良い仲間なのだがな)

その点についてはたいへん感謝しているし、嬉しくも誇らしくも思えるのだが、だからといって、こんなお祭り騒ぎの様に全員で見送らなくても良いだろうにと思ってしまう。

「姉さんお待たせ。みんなも、お見送りありがとう」

歩み寄ってきた陸奥がそう声をかけたので、何となく気が緩んだ長門もつい本音を口に出してしまう。

「全くもって、皆、大袈裟にも程があろう。たかだか一晩泊まってくるだけだと言うのに、困ったことだ」

言ってしまってから、少々失敗したかと軽く臍を噛んだのだが、案の定妙高に窘められてしまう。

「まぁ長門さん、もう少し、思い遣りのある物言いがあっても宜しいのではありませんか? 酒匂さんにとっては、たかだか一晩ではありませんよ」

妙高は酒匂のことをとても可愛がってくれており、酒匂もよく懐いている様だった。実際、彼女は一人になることを大層嫌がり、ともすれば四六時中長門の傍にへばり付き兼ねないところだが、妙高がいてくれるお蔭で、そんな体たらくにはならずに済んでいる。長門自身、酒匂をもう一人の妹の様に可愛がっているものの、それだけに、彼女がなかなか人間に親しもうとはしないことが気に掛かってもいた。

(必要以上に甘やかすのは、酒匂のためにならんだろうな)

長門と酒匂が訓練隊に受け容れられてから直ぐに、西田と中嶋は、余人を交えることなく面談の機会をつくってくれ、「あなた方のうけた、謂れ無き屈辱と多大な苦痛に対して、心からお詫びしたい」と言って深々と頭を下げてくれた。

その真摯な態度を見た長門は、七十年前の日本と日本人達に対して感じる恨みや不信を、当時生まれてすらいなかった彼らにぶつけるべきでないと思い、普通に接する様に心掛けているが、酒匂はその心根の幼さ故なのか、わだかまりを顕わにすることもしばしばあり、時に献身的なまでに自分たちの世話を焼いてくれる斑駒に対してですら、どこかぎこちない態度をとりがちなのだ。

「あら~、酒匂ちゃんだけじゃ無いですよぉ~? 龍田にとっても、一晩は長いんですから~♪」

「あなたと酒匂さんとを同列に扱うなど、言語道断です! この娘が汚れてしまいますから、控えて下さいませんか⁉」

「あ~ん、長門さん聞きましたかぁ? 妙高さんたら、あんな非道いこと言うんですよぉ⁉」

(やれやれ)

思わず苦笑が漏れてしまう。考えてみれば、長門にとっては酒匂よりも龍田のほうが余程厄介な問題だった。

隊での部屋割りは、当初、四人部屋に長門と酒匂の二人だけだったが、最初の晩に酒匂が夢を見て夜中に飛び起き、泣いて長門を起こすということが起こった。長門自身はそれを特段に苦にしたわけでもなく、時間が解決していくことと受け止めていたものの、彼女はそれを殊更にとらえて、

「やっぱり、二人は淋しいですよね~♪」

と言いながら、問答無用で居室を引っ越してきたのだ。

もちろんそういう名目で移って来ただけに、龍田は酒匂に対して優しく接しているものの、次第に、それは単なる表向きの理由だということがよく分かって来た。とにかく、何かというと手を握ったり抱きついてみたりが甚だしく、あまりに訝しく思って加賀に思い当たる節が無いか尋ねたところ、長嘆息した彼女は、

「龍田さんは、どうやら女色を好むようなのです」

と、愕然とするようなことを口にしたのだった。

(何たることか――、よりにもよって、まさか女色沙汰に巻き込まれるとはな……)

どのような嗜好の持ち主であろうが、龍田は大切な同胞であり、辛く悲しい記憶を共有する存在であることは間違いないので、あまり邪険にしたくはないが、さすがに女色に対しては何の興味もないので、どうにか深く傷つけることなく拒絶できないものかと思案してしまう。

(まぁよい、今日はそんなことで悩む日でもあるまい)

頭の中を切り替えた長門は、二人の言い争いには加わらず、傍らの酒匂の頭に軽く手を載せる。

「酒匂よ、私がおらねば耐えられぬか?」

「ぴゃー……、ちょっと寂しいけど――、でも、みんな一緒だから大丈夫だよ⁉ 夜寝る時もね、妙高さんが来てくれるって♪」

「そうか、それは良かったな、一晩留守にするが良い子にしているのだぞ」

「ごめんなさいね酒匂ちゃん、一晩だけ姉さんを貸してもらえるかしら?」

「うん! 酒匂はちゃんと留守番できるから、長門さんも陸奥さんも安心してね♪ 」

陸奥は特別に優しくするわけでもなく、ごく自然に接しているだけなのにもかかわらず、酒匂がとても素直に屈託なく応じているのを見ると、

(さすが、わが妹だ)

とつい自賛してしまう。やはり、裏表も無ければ打算もなくありのままに振る舞い、誰にも分け隔てなく接することを、何の演技も底意もなくやってのける妹は、長門にとって正しく掌中の珠であった。

「それでは行ってくる、皆勝手をさせて貰って申し訳ないが、留守中のことは宜しく頼む。大事の折には迷わず呼び戻して欲しい、頼んだぞ!」

長門がそう言って敬礼すると、仲間達が一斉に答礼した後、手を振って見送ってくれる。

「行ってきま~す!」

手を振りながら応える子の日の声が明るい。

「仲間が居るって、本当に良いものね」

「全くだな、こんな風に言葉を交わして意志を通じ合えるということが、これ程その――、繋がり、とでも言えば良いのか――」

「絆ですか?」

今まで、脇役になり切って静かにしていた仁が横合いから口を挟んだので、長門は大いに我が意を得たりと頷いて見せた。

「そうだ、絆だ、互いの絆を、とても心強く感じられるのだ。在りし日の将兵達は、こんなことを感じていたのかも知れんな」

「でも、まさかあたし達が、こんな風に人間そっくりの姿と心を手に入れるだなんて、誰も想像もしなかったでしょうね」

「ほほ、如何な遠望神知の持ち主と言えど、こればかりは思いもよりますまいて。まこと、こはいかなる神のなし技とも存知ませぬが、妾は図らずも子の日に巡り合うた、それのみにて十分にござりまする」

そう言った初春は、しゃがみ込んだ仁から水筒のお茶をもらっている子の日を見遣って目を細める。束の間、共に目を細めた長門だったが、どうしても気になるので思わず話し掛けてしまう。

「塔原殿、不躾を承知で口にするのだが、この様な場に同行されるのは、貴殿にとっては不愉快以外の何ものでも無いのではないか? 我らとすれば、凡そ不案内なところへ繰り出す以上、貴殿が同道してくれるのはまことに有難いとは思うのだが」

言いながら長門は、彼女が満面の笑顔で当たり障りの無い応答をするものと、どこか心の中で思っていたが、その予想は見事に外れてしまう。

「もちろん、何の事情も無ければ仰るとおり不愉快だと思いますけど、今はそんな気分ではありません。それに、もし仁が頼んで来なくても、わたしから一緒に行きたいとお願いしたと思います」

そう真顔で静かに答えたあと、一呼吸おいた彼女は改めて笑みを浮かべて見せると、

「それに、長門さんにお約束したことを果たせる機会ですしね♪」

と締めくくってみせる。

(少々見くびっていたか……)

彼女――塔原葉月の評価を、少し改めねばならないらしい。どうやら、陸奥がいなくなってしまえば邪魔者が居なくなって、仁を取り返せるなどと安直に考えている訳ではなさそうだ。

(成る程な――、仁の奴が煮え切らずにふらふらするわけだ)

「気が済んだの、姉さん?」

そう問い掛ける陸奥の顔を見ると、えもいわれぬ微笑を湛えている。

(なんと――、結局、お前達同士も通じるところがあると言うわけか――、拈華微笑とはこういうことなのかも知れんな)

そう得心してしまえば、これ以上思い惑うこともなかろう。改めてそう割り切った長門は、この話柄を終わりにすべく声を上げる。

「ああ、もう済んだ。今日は一つ、蒼龍達や仁や塔原殿の好意に、せいぜい甘えさせてもらうことにする♪」

「もちろんですよ、是非そうして下さい!」

先程から、事の成り行きを緊張して見守っていたらしい仁が、ほっと安堵したように明るい声を上げる。

思わず苦笑した長門の目に、銀色と水色に塗られた、ボンネットの無いバスが近づいてくるのが映った。



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〔第十三章・第三節〕

 梅雨の晴れ間とでもいうのだろうか、彼女達のために天が微笑んだ様な爽やかな日だった。

「ねぇ、これ姉さんに似合うと思わない♪」

「うん! すっごく良いねそれ!」

「む――、いや、ちょっと待ってくれ二人とも、幾らなんでも、それは少々軽佻浮薄に過ぎるのではないか?」

「ほほ♪ 長門殿、既に道行く人々の身形をご覧になりましたでしょうに。唯今の弁に従いますれば、行き交う人々の殆どが軽佻浮薄と言うことに相成りましょうかの♪」

「初春よ、言葉尻を捉えて揚げ足を取るのもほどほどにしてくれぬか? そもそも、私は世間並み・人並みの体裁なぞ眼中には――」

「姉さん、能書きが多すぎるわよ⁉ 四の五の言ってないで、さっさと試着してみて頂戴!」

「ま、待て陸奥よ、それはあまりに横暴と言うものではないのか? この私にも、意見を述べる権利位は――」

「長門さん、こっちだよこっち!」

「こら、やめんか子の日よ! 私はまだ――」

「ほほほ、往生際が悪うござりまするぞ♪」

実際、葉月の目から見ても、陸奥のセンスの良さは折り紙つきであり、今しも長門にと彼女が選んだ組み合わせも、こんなチープな店での買い物とは一見気づかないような、品の良いものなのだが……。

(まぁ、ひょっとすると長門さんは、軍服でも着てなきゃ落ち着かないのかも知れないわね)

初春と子の日を見慣れていたがために、艦娘達の姉妹はあまり姿かたちが似ていないものと思っていたが、彼女達と比較すると、陸奥と長門はそれなりに似ていて少々意外だった。内面的な部分についても、タイプはかなり違うものの、思慮深いところや飾り気のない卒直さなど、同じように優れた資質を備えている様で、もしも横並びで比較できたとしたら、この姉妹に較べて今時の普通の日本人女性は相当見劣りしそうだ。

(でも、まさかこんなことになっちゃうなんてね)

仁が願う陸奥の幸福――過去の、悲しく忌まわしい記憶から解き放たれること――は確かに叶うかも知れないが、そのために彼が払う犠牲の大きさは相当なもののはずで、よくも、こんな意気地無しが思い切った決断をしたものだと思うと、保護者兼嫁としては曰く言い難い複雑な気持ちになる。

(たまには、誉めてやっても良いんだけどねぇ)

そう思う反面、なんとも癪に障ることをしてくれたものだという気持ちもあり、さすがの葉月も戸惑いが隠せない。

自分の気の緩みからなのか、それとも相手を見誤っていたものか、まさか目と鼻の先で仁を奪い取られそうになるなど思ってもみなかったが、伊達に歳月を積み重ねてきたわけではなく、どうにか彼の気持ちを自分の側に引き戻すことには成功した様で、今はほぼ互角といったところだろうか。

葉月にとっては、彼の好意が結局自分にむけられており、しかもそれは、年を追うごとに衰えるどころか逆に強くなっているくらいで、それも含めて単なる既成事実だといっても構わない程だったが、あの鈍感は、その己の本心にはずっと気付かないままにのほほんと過ごしてきたのだ。

ただ、それを裏返して言うならば、これまでの彼の人生では、そこまで強く気持ちを揺さぶられる誰かに巡り合うことが無かったということでもあり、それを思えば、やはり葉月にとって陸奥は、生涯最強のライバルであることは間違いない。

(なのに――、なんだか、手錠嵌められて猿轡まで噛まされた気分だわ)

仁を取り返すためなら、たとえ陸奥に対してであっても、手加減することなく火花を散らす覚悟をしていた葉月にとって、突然それが許されなくなって、ただただ見守るより他に何も出来なくなってしまったこの現状は、理不尽としか表現しようがない。

確かに、陸奥がこの様な決断をするに至った苦悩を思うと、少しでも思いを残すことなく最後の日々を過ごさせてやりたいし、すっかり情が移ってしまった初春と子の日についても、その辛い心を少しでも労わってやりたいと感じる。だからと言って、もともとは陸奥と戦うつもりで再度乗り込んだというのに、他人から邪魔されたと言うならまだしも、己の心情としてそれが出来なくなってしまうのでは、一旦奮い立たせたこの闘志をどう収めればよいと言うのだろう?

更に言うなら、このタイミングで仁の家に居座っている自分は、明らかに邪魔者のはずである。それ位言われなくても分かっているので、普通であればさっさと引き払うところなのだが、既に一度気まずい思いで自宅に戻ってから、幾らも日が経たないというのにまたしてもすごすごと引き払うなど、どこまで自尊心を痛めつけねばならいなのか。

(わたしにだって、プライドがあるわよ! プライドがね……)

自分の中で、この問題を深堀りする前に素早くそう結論付けた葉月は、そのまま無理矢理頭を切り替えてしまう。実のところ、彼女が仁の家から撤退できないのは怖ろしいからなのだが、それだけは正面から認めるわけにはいかない。

いくら仁が葉月に強い想いを残しているとはいえ、陸奥と互いに惹かれあっているのは紛れもない事実なのだし、なおかつ、残された時間もわずかとなった今、もし目を離せば、二人が求め合う心は急激に燃え上がるかもしれない。そんな怖ろしいことを考えずに済ますためにも、目障りな存在になっていることは百も承知で、葉月は彼の家に居座り続けるしかないのだった。

そんな葛藤を抑え込んでいるところに、艦娘達と仁がぞろぞろと戻ってくるので、少々ホッとした彼女は軽く声を掛ける。

「どお? 満足のいく買い物はできたかしら?」

「ええ、とっても満足したわ!」

「なんともおかしな話だ、私は全く納得していないというのに、なぜ、お前達は揃いも揃って満ち足りた顔をしているのだ? これは、私のための買い物ではないのか? あ、言っておくが、全ての代金を支払ってくれた仁には、無論心から感謝しているのだぞ⁉」

「え~、どうしてぇ? どれもみんなよく似合ってたのに、そんなに長門さんは気に入らないの?」

「そうだわ、姉さんはあたしの見立てがそんなに不満なの?」

「い、いや、何もそんなことは言っておらんぞ⁉ ただ、もう少し私の意見をだな――」

「ほほ、長門殿は、そもそも女子の装いを毛嫌いしておられますからの。ご納得のいくものがござりますまいて♪」

「だからって、紳士服の売り場に行くわけにもいかないよ~」

「そんなの、当たり前でしょ⁉ まぁ、サイズはそっちの方があるかもしれないけどね」

長門は陸奥よりも背が高いばかりか仁よりも高く、訓練隊に集まった艦娘の中では最も身長が高い。

「葉月の言うとおりね、姉さんに合う大きさの服って結構限られてるから、良い組み合わせを選ぶだけでもたいへんなのよ、わかってる?」

「わかった、わかった、つまりは、私が目を瞑れば済むことなのだろう? そのぐらい、ちゃんと心得ている!」

いかにも不承不承と言った態で長門が会話を切り上げたので、クックッと含み笑いをしながら、葉月は次の話題を振る。

「さあ、それじゃそろそろおやつの時間よね、子の日ちゃん、あのお店行きたい?」

「うん、行きたい!」

「なんだ、ずいぶん子の日は嬉しそうだな、どこに行くのだ?」

「うふふ、葉月が一押しのお店よ、楽しみにしてて姉さん♪」

「もし、長門さんのお口に合わなかったら申し訳ありませんけど♪ じゃあ、行きましょ!」

とは言ったものの、いざ店に到着して程なく、葉月のその言葉は全くの社交辞令となってしまった。

「こ、これは一体何なのだ? これも甘味なのか?」

何やら畏敬の念を込めて、目前のパフェを凝視している長門の瞳は、幼い子供の様な眩しい煌めきを湛えており、見ている葉月までつい嬉しくなってしまう。

「姉さん、これプリンパフェっていうのよ♪」

「す~~っごく美味しいんだよ! 早く食べてみて、長門さん絶対好きになるよ♪」

嬉しそうに話しかける子の日がどうにも愛らしすぎて、思わず頭を撫でそうになるが、彼女を慈しむ様に見つめる陸奥の様子に少々しんみりしてしまう。

(この可愛らしい子達を置いて行っちゃうのよねぇ――、ほんとに、それで良いのかしらね)

そう思わずにはいられないが、ただの人間である自分たちに見えているのは、所詮、目の前にあることだけだということも良く分かっている。何が正しい事なのかは、神ならぬ葉月らにとっては知る由もない。

「な、なんだこれは――、口も舌も蕩けてしまいそうだ、それ以外になんと表現してよいのか見当もつかん……」

恐る恐る、プリンとクリームの一角を掬い取って口に運んだ長門が、己の言葉通り、本当に蕩けてしまいそうな恍惚とした顔で、うわ言の様に独白する。

「どう姉さん、気に入った?」

「いや、気に入るなどと言う言葉で済ませてよいものか否か――、相応しい言葉で語ることができぬのが、もどかしいほどだ……」

そう言いながらまた一匙口に運んだ彼女は、沈着な武人然とした恬淡さとは凡そほど遠い、弛緩した表情を見せる。

(いい表情するわよね~、至福の笑顔ってやつ?)

長門がこれほど甘党だとは、さすがの葉月も気づかなかった。こんなことなら、次から隊に行くときには手土産の一つも持っていってやろう。

「陳腐な言い条なれど、やはり、これこそ天上の甘露にござりますのぉ♪」

「ほんとにそうよね♪ 葉月に初めて連れてきて貰った時は、この世にはこんな美味しいものがあるのかって思ったわ」

「ふふ、そうね♪ あれってまだ、出会って二日目のことだったわねぇ」

「本当なのか、それは?」

「そうよ姉さん、その日はそれだけじゃなくて、仁に教えてもらって、姉さんがどこにいるのか初めて知ったのよ」

「ほほ、陸奥殿より伺った話では、何でもその折、長門殿を見殺しにしたはいかなる了見かと、仁殿に食って掛かられたとか、叶うことなれば、妾もその場にて仁殿の狼狽する様を見とうござりましたのう♪」

「いや、初春ちゃんそれは勘弁してよ……」

「大丈夫だぞ仁よ、例えその時その場に戻ることは叶わぬまでも、その節の様子はよく判るぞ。きっと、お前は震え上がりべそを掻きながらも、必死で陸奥に向き合い続けたのだろうとな」

「あらあら、姉さんたら見てきたようなことばっかり♪ でも、残念だけどその通りだったわよね仁♪」

「すいません、ノーコメントでお願いします……」

(ちょっと、なんなのよこの姉妹は! 二人がかりで、わたしの座を脅かしにきたわけ⁉)

全くもってひどい話だ、まさか、保護者と嫁を姉妹で分担して来るとは!

とは言え、今それに目くじらを立てるつもりも無い。大目に見てやると言ったのは本気だし、それこそ、一線を越えるようなバカな真似まで許す気は無いが、少しの間くらいは野暮をしないでやろうと思っていた。

もし本当に陸奥を喪った時、仁がどれほど落ち込むのかぐらいは想像がついている。そうなった時、確かに初春・子の日や長門らはある程度の支えになれるが、本当に彼の心の奥底にまで踏み込むことが出来るのは、一生添い遂げる覚悟の出来ている自分だけなのだから。

「さぁ、みんな十分堪能してくれたかしら?」

「うん!」

「口に、栄耀をさせて頂きましたぞえ」

「塔原殿、それに仁、何と言って礼をすべきなのか言葉も無い」

「ありがと♪ 葉月、仁」

「いいえ、どう致しまして! さあ、最後はどうするの仁?」

葉月が話を振ると、珍しく何やら思惑ありげな顔の仁が応える。

「そうだね、それじゃみんな、最後はちょっと横須加に付き合って欲しいんだ」

「あら、なにかしら?」

「うん、ちょっと協力をお願いしてた事があるんだけど……」

(ふうん、珍しいこともあるわね――、まぁ、任せといてもいいわよね)

「そういうことなら行って見ましょ? 仁、任せたわよ!」

こんな時くらい、脇役に回って少し楽をさせて貰うくらいはいいだろう。

そう思った葉月の心には、この時点ではまだまだ余裕があった。



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〔第十三章・第四節〕

 駅を出て海辺の公園目指して歩く仁の手を、追いついてきた子の日が握ったので笑顔で振り返ると、その反対の手を握った陸奥が微笑みかける。夏の気配が色濃く香る風が、軽く彼女の後れ毛をなびかせ、幼い頃に見上げた、遠い夏の日の記憶をくすぐる。

(そうだ、僕は確かに見たんだ――、子の日ちゃんが今見ているこの光景を……)

にもかかわらず、その追憶――彼が遠い日に亡くしてしまった、魂の一部そのもの――を呼び覚ましてくれるこの小さな家族は、間もなくその中心を喪おうとしているのであり、取り戻し掛けた様に感じたその何かは、再び彼のもとから飛び去ろうとしていた。

(僕の――僕の願いは……)

その時、子の日がギュッと強く手を握ってきたので思わず顔を見ると、幼いその姿には到底似つかわしく無い、愛憐と労わりとが入り混じった表情で彼を見上げていた。そして、その彼女の手を握ったまま、陸奥がすっと寄り添うように間合いを詰めてくると、同じような眼差しで見つめてくる。

(二人とも、分かってくれてるんだ――、何一つ口にしなくても)

そう思って咄嗟に振り返ろうとしたのだが、彼がその動作を終えるまでもなく、空いた片手に初春の手が触れるのを感じる。顧みると、彼女がその切れ長の瞳に温かな光を湛えて見つめ返す。

(いつの間に、こんなに支えて貰ってたのかな――)

そう思うと涙が溢れてきそうになるが、まるでそれを察したかの様に長門が声を上げる。

「仁よ、泣きたければ我慢するな。聞けばお前は、長きに渡って涙を流してこなかったと言うではないか。何もめそめそしろとは言わぬが、己の家族のために流す涙であれば、決して悪いことだとは思わんぞ」

葉月を前にしてこんなことを堂々と口にするなど、もちろん仁には出来そうにないが、それでも、彼女が何と言って突っ込むのかは大体想像がついた。

「一応申し上げておきますけど、仁はわたしの許可さえあれば自由に泣いていいんです。ですから、ちゃんとけじめさえつけてくれれば、わたしと仁の家族のために泣くのを禁じるつもりは全くありませんので、お間違えなきようお願い致します」

「これはしたり、塔原殿は、闇雲に泣くのを禁じているわけではないと言うことだな。それに、塔原殿の家族でもあるという事か――、いや、確かに思い違いをしていたようだ♪」

そう言った彼女がさも愉快気に含み笑いをすると、風がその見事な黒髪をふわりと舞い上げる。いつの間にか長門も、ごく自然にこの肩寄せ合う家族の一人になっている様だった。

「こんにちは! お待ちしてましたよ」

公園の入り口に立った斑駒が、歯切れの良い挨拶をしてくれる。

「あっ、駒ちゃん、今日はどうしたの?」

「僕がね、ご無理をお願いして、お休みのところ来てもらったんだ。斑駒さん、お手数お掛けしてすみません」

「いーえー、どう致しまして、さあこちらへどうぞ、中嶋も待ってますので」

「斑駒殿、休日であろうに、ご足労をお掛けして申し訳ない事だ」

「いえいえ、私は皆さんと一緒にいるのが楽しいので、全く苦になりませんから」

いかにも屈託ない様子で斑駒が先に立って進むと、並んだ記念碑の前で中嶋がさっと敬礼して、一行を迎えてくれる。

「こんにちは、皆さん、今日はご姉妹揃ってのお出かけは如何でしたか?」

「ご配慮いただき恐縮です。一方ならず、楽しませて頂きました」

答礼しながら、長門が全員を代表して答えると、中嶋も笑みを浮かべて仁の顔を一瞥するので、それに応じて口火を切る。

「中嶋さん、たいへんお手間をお願いしまして申し訳ありません。今日はよろしくお願いします」

「わかりました。それでは改めてになりますが、本日は、長門さんに幾つかお見せしたいものがありまして、まかり越した次第です」

「私に?」

「ええ、まずはこちらの記念碑からです」

そう言った中嶋が手を差し出した先にあるのは、『軍艦長門之碑』と刻まれ、その下には銅製と思われるレリーフがあしらわれた石碑だった。

「これは――、私の――?」

「そうです。今から40年ほど前に、嘗ての長門さんを偲ぶ有志の手で建立されたものです」

中嶋の言葉を聞いているのかいないのか、長門は碑に近付いて、在りし日の自身の姿を模したと思われるそのレリーフに手を触れるが、その手が微かに震えていることに仁は気づいた。

「やっぱり、むっちゃんよりご紋章の位置が低いんですね」

「そうだ仁、それ故度々波に洗われるので、この後の大改装の折に陸奥と同じような高さに移し替えたのだ――、お前も知っていたのか……」

そう言いながら彼女は碑の後ろにまわり込んで、そこに書かれていると思しき碑文を、眉間に軽く皺を寄せながら読み始めるが、やおら片手で顔の下半分を掴む様に隠すなり、ぷいと横を向き、居並んだ他の碑を見て廻り始める。

「長門さ――」

子の日が声をあげかけたので、仁が顔を近づけて首を軽く左右に振って見せると、彼女もそれと心づいたらしく口を噤む。全員が静かに見守る中、一頻りそれらの碑を眺めてしまった彼女は、皆に背を向けたまま深呼吸をすると、ゆっくりこちらを振り返り歩み寄ってくる。

「有難いことだ、私ごときのためにこのような大仰な碑など――。それはさておき副長殿、先ほど幾つかと言われたが、それはこの並んだ碑のことだろうか?」

「いえ、そうではありません。それでは、長門さんが宜しければ、続いてそちらにご案内しましょう」

「ええ、よろしくお願いします」

「では皆さん、こちらへどうぞ!」

明るく誘う斑駒の後に一行がついていくと、公園の一角の車寄せに、やや大きめの濃緑色のワンボックスが停車している。

「皆さん、こちらにお願いできますか?」

彼女がスライドドアを開けてくれるので、全員躊躇うことなくさっさと乗り込むが、子の日は面白がって最後尾の座席に座りたがり、仕方なく、仁も一緒にそのいささか窮屈な座席に腰掛ける。

「それでは参ります、渡来さんも少しの間辛抱してくださいね」

斑駒の声と共に車は動きだし、ほどなくゲートを通過して防衛隊の敷地内をゆっくりと走っていくが、暫くして再びゲートを抜けて一般道に出る。

「あれは、先日厄介になった病院ですな。目的地はあそこですか?」

「いえ、その隣に我々防衛隊の術科学校がありまして、そちらに向かっています」

その中嶋の言葉通りに、車は防衛隊病院の横を通過するとグラウンドに沿って走り、その先にあるコの字型の建物の横で停まる。

「ようこそお越しくださいました、ご案内いたします!」

建物の横で待ってくれていたと思しき、防衛隊の制服を着た男性が、降り立った一行に向かってきびきびと敬礼した後、建物内に先導してくれる。

「こちらが、資料室になります!」

その男性がさっと扉を開けてくれた部屋には、ガラスケースや書棚などが所狭しと並べられ、様々な品が丁寧に陳列されていた。

「旧海軍関連の資料も、豊富に保管されております! それでは、終わられましたらお声をお掛けください」

そう言い残してかの男性が退室すると、中嶋がつかつかと部屋の一角に歩を進め、とある書棚の扉を開けて、

「こちらにあるのが、長門さんにお見せしたいものです」

と言いながら長門を見る。見られた彼女はやや躊躇いながら彼のもとへ歩を進め、その他の一行も後に続く。

「これらは、長門さんや皆さんのお仲間に関する資料です、長門さんの生涯を題材にした書籍もありますよ」

「――私の、生涯……」

中嶋から本を受け取り、ページを繰って行くその手は、やはり微かに震えているようだった。やがて陸奥がつと進み出ると、その他の資料に手を伸ばす。

「それは、昭和二十一年当時の新聞記事をまとめたものです」

彼女が広げたそれを、仁も近づいて一緒にのぞき見るが、不自然に海軍のことを非難するような記事もあり、少々意外に感じる。

「なんだか――、好意的でない論調のものも多いんですね」

「ええ、当時の国内にはOHQによる言論統制が布かれていましたので、あからさまに占領軍に迎合するような記事を掲載することもあったようです」

「我が身可愛さゆえに、掌を反した輩もいた――、ということにござりましょうかの?」

「敗戦による無力感や喪失感もあって、平時よりも一層近視眼的、刹那的な考え方が蔓延していた影響もあるかも知れません。ですが、その占領も昭和二十七年には終わりました。これらは、それ以降の記事や雑誌などです」

中嶋が出してきた別の資料を広げると、其処での論調は明らかに異なっている。

『世界に冠たる名艦』

『日本の高い造艦技術の証明』

「姉さん、これ見て⁉」

陸奥が声を掛けたが、長門は応えをしない。

「長門さん……」

彼女は面を伏せて、震えながら本を捧げ持っていた手をおろし、それを陸奥が受け取るかわりに彼女が持っていた資料を受け取るが、そのまま顔を上げない。時が止まったように全員が静まり返って見守る中、長門は、まるで悴んでいるかのようなぎこちない手つきで資料を繰るが、暫くして、再び動きが止まってしまう。

「姉さん?」

「――ありがとう――、陸奥よ、もう良い――、もう十分だ……」

掠れた声で、痞え痞えしながらそう応えた彼女が手を下ろしたので、今度は仁がその手から資料を受け取ってみると、開いたページにはこんな言葉が踊っていた。

『我らは敗れじと言へど、ただ長門のみは勝てり』

中嶋が、静かに話しはじめる。

「戦後間もない日本は正に焼け野原で、多くの日本国民は、米国の圧倒的な戦力に破壊しつくされた『神国』の姿に、ただただ茫然とするばかりでした。特に、我が国に対して世界で唯一実戦で使用された核兵器の、その余りに暴力的で残虐な威力は、全ての国民の心を完膚なきまでに打ちのめしたものと思います。しかしながら、その様な屈辱の只中にあって、まるで公開処刑の如く実験場に引きずり出された長門さんが、毅然として核の業火に耐え抜くその姿に、多くの心ある者達は励まされ、絶望的な逆境を生き抜く勇気を貰ったのだと思います。その思いを胸に抱き続けた人々が、復興を果たして、再び世界の国々と肩を並べることが出来るようになった時、胸の内にあった長門さんへの感謝を表すために、あの碑を立てたり書籍を著したりしたのではないでしょうか」

「正に、倉廩満ちて礼節を知るというものにござりますな」

初春がそう呟くのを聞いた陸奥が、姉に寄り添い、その腕を取る。

「姉さんの戦いは、無駄ではなかったのね、たくさんの人に、勇気を与えたのね……」

長門の瞳は髪に隠れて見えなかったが、その頬をつたって涙が零れ落ちる。

「姉さん……」

陸奥が涙を浮かべて、長門の背を抱き締める。堅く拳を握り締め、歯を食いしばった長門は、それでも一切声を上げずに涙を零す。それを見ていた仁は我慢の限界を感じるが、案の定葉月がすうっと傍らに立ち、如何にもしょうがないと言った風情の低い声を出す。

「家族のためだし、特別に許可したげるわよ、わたしは寛大だから」

さすがの仁にも、葉月が許可を出すタイミングが良く分かってきたのだが、大体そういう時は、彼自身に余裕が無い時なのだった。

「なっ、何言ってんだよ、自分だって……」

あとは言葉にならず、どっと涙が溢れてきてしまうが、その様子を見ていた斑駒に(彼女も涙を零していたはずなのだが……)吹き出されてしまう。

「本当に、渡来さんは見てて飽きませんね♪」

それを聞いた陸奥が、長門を抱き締めていた腕を緩めて仁のほうを向き、

「仁と一緒にいると、ちっとも退屈しないのよ、ねっ♪」

と言うと、傍らの初春、子の日にも笑い掛ける。それに笑顔で応える二人をちらと見た長門は、握った拳で涙を拭うと、真っ直ぐに顔を上げ口を開く。

「副長殿、斑駒殿、私のためにお骨折り頂いた事、本当に有難うございます。仁よ、この様な機会を作ってくれたこと、本当に感謝している、有難う」

ちゃんと返事をしようとした仁だったが、例によってボロ泣きしていた彼はまともに応えることができず、これも毎度のことではあるが、女性達の少々強引なフォローに甘んじてしまう。

「いいえ、どう致しまして」

素早くその返事をしたのは陸奥だったので、さすがの長門もキョトンとしてしまい、葉月が猛然と噛み付く。

「ちょっと! 保護者を差し置いて、そういう真似は控えて欲しいわね⁉」

「あら、あたしも葉月も仁の家族だったんじゃないかしら? だから、普通にそうしただけなんだけど♪」

「何、減らず口叩いてるのよ、この図々しい戦艦女は!」

「やれやれ、お前達と来たら――、仁よ、お前も何とか言ったらどうなのだ?」

少々呆れた態で長門が口を挟むが、彼としては最も手に負えない事柄であり、なおかつ、実は不快ではなく少々嬉しくもあったので、返事に窮してしまう。

「す、すみません、そのぉ――」

「ほほ、長門殿、仁殿にとっては無理難題に過ぎましょうぞ♪ ここは、笑ってお見逃しくださりませ」

「そうだよ! それに、仁はちっとも困ってないよね♪」

子の日にまで胸のうちを見透かされてしまった彼は、ただただ苦笑するよりほか無い。

「――いや、その、全く面目次第も無いです……」

「なんとも弱ったやつだ、ハハハッ♪」

長門がカラリと笑い、全員がそれに釣られて笑い出す。中嶋までもが一緒になって楽しそうに笑うその光景は、自分の情けなさ故という点を除けば、仁にとってこれ以上無い幸福な瞬間だったかもしれない。

 

 夕暮れの赤橙色に染められた坂道を上る一行は、何とはなしに言葉少なだったが、不意に長門が立ち止まり、仁を振り返る。

「仁よ、今日は本当に有難う。お前の心遣いに、衷心より感謝している」

「い、いえ、僕はただ中嶋さん達にお願いしただけで、何もした訳ではありませんから――」

「いや、手間の量など問題ではない。現に私は、お前のその心配りによって、とても長い長い間抱き続けていた、その――、胸の痞えが少しだけ下りた気がするのだ、仁よ」

そう言った長門は、はじめて見る晴れやかな笑顔を浮かべる。それを見た子の日と初春が、さも嬉しそうに長門の手をとりに行くと、三人は手をつないで再び坂を上り始める。

(良かった――、本当に良かった)

胸の中が暖かくなった仁が歩き始めると、ごく自然に陸奥が寄り添い、彼の手をとる。

「ありがとう、仁」

思わずその顔を見ると、彼女は滲み出るような笑顔でそれに応える。だが、見詰め合ったのはほんの一瞬で、突然、反対側の手がギュッと握られたことでビクッとしてしまう。

「なあに、まさか嬉しくないのかしら?」

「は、葉月……」

「うふふ、そんなこと無いわよね、とっても嬉しいって、顔に書いてあるわよ♪」

「ほんとに正直じゃないのよね、あんたって」

「……」

二人に掛かっては、何一つ隠しておけることなど無いことを今更ながら思い知った仁だったが、彼がホッとする時間を与えてくれるのも二人なのだ。

(ひょっとしたら、もっと違う答えがあるのかな……)

そんな答えが簡単には出てくるはずもないのだが、それでも彼は、この夕焼けに染められた坂道が少しでも長く続けば良いと、心の片隅でそう願っていた。



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〔第十三章・第五節〕

 団欒という言葉を、しみじみと実感する夜だった。

陸奥は葉月と共に台所に立ち、仁が初春や子の日と一緒に行ったり来たりしながら、夕食の支度やその他の家事を片付けていくが、お客様である長門が落ち着かな気にするので、結局、初春と子の日も一緒に居間で寛ぐことになる。

そうこうするうちに夕食が整い、初めて六人で囲んだ食卓は、何とも言えない朗らかな空気に包まれた。訓練隊の食事に慣れつつある長門は、頻りに料理の味に感心している。

「塔原殿、一体、どのようにすればこんな味を出せるのだ? 何か、代々伝わる秘伝でもあるのか?」

「それは大袈裟過ぎますよ長門さん、第一、半分は陸奥さんが作ったんですからね」

「葉月も大袈裟よ、半分だなんて……」

「例え半分でなくとも、何がしかは陸奥が作ったものだというのか――、ますますわからんのだが、なぜ見た目は同じような料理なのに、隊の食事とはこんなに味が違うのだ?」

「一度に大量に作ると、大味になり易いとは言いますけどねぇ」

「でも、あの不味さは大味の範囲を超えてるよね」

「子の日、お昼ごはんゆううつ~」

「まことに、当家の食事に馴染んでしまうと、あの昼食が苦痛にござりますぞえ」

それは陸奥も同じだったが、自分である程度料理が出来る様になって判ったのは、意識して不味く作るのはとても難しいということだ。

(だって、美味しそうに食べてもらえるのって、とっても嬉しいし……)

そう思ってちらと仁の顔を盗み見ると、今しも彼は、陸奥がつくった料理を口に運んでいる最中だったので、つい期待を込めて見詰めてしまうが、それを葉月に気づかれてしまう。

「仁、お味はどうかしら?」

彼女が唐突に声をあげたので、聞かれた彼も一瞬固まってしまうが、それ以上に陸奥も緊張する。

(お願い仁! 迂闊な返事はしないで⁉)

そう念じた心の声が伝わったのか、それとも、さすがの仁にも葉月の攻撃が少しずつ読めてきたものか、何とか上手く躱してくれる。

「う、うん、まあまあ美味しいかな?」

「ふうーん、そうなのね、まぁ、なら良いんだけど」

少々残念そうに矛を収めた葉月の様子に、陸奥が胸を撫で下ろしていると、初春がさも愉しげに含み笑いしながら、

「ほほ、妾には、どれもたいへん美味しゅうございますぞ♪」

と言って長門の顔を見る。

「いや全くだ、私も訓練隊を引き払って、仁のところに厄介になりたい位だな」

「長門さん、遠慮なさらず、どうぞ越してきてくださいね」

「なんで、葉月が許可出すんだよ」

「なに、長門さんが来るの気に入らないわけ⁉」

そう突っ込んだ葉月が、彼をやり込めるつもりなのはすぐに判った。これは、三人だけに通じる切り返しなのだ。

「そんな訳無いわよね、仁は咄嗟に色んなことが気になっちゃうから、その場で答えろって言われるの苦手なだけよね♪」

そう、あの時とは違う。女の姿で突然地上に現れて、右も左もわからずに、ただ彼の優しさに頼るより他にどうすることもできなかった自分とは変わり始めている(それでも、自分達がまだ人間の力に頼らなければ立ち行かないことは良く理解しているが……)。

「また、性懲りもなく出しゃばらないでくれる⁉ 何回言ったらわかるのかしらね~」

「塔原殿、とは言われるが、仁の奴はすっかり安居している様にも見えるがな」

「あんたも、情けない顔すんのやめなさいよ!」

(それが仁なんだから、仕方ないわよね♪)

今度は口に出さず胸の内で呟いた陸奥だったが、その胸の奥でずっと疼き続けている想いに、どう触れていいものか今も迷い続けていた。

 

 すっかり陸奥の寝室になっていた一階の客間に、仁が布団を二組敷いてくれたので、初めて姉と二人で枕を並べて床に就く。

「しかしな陸奥よ――、やはりこの夜着は、余りに艶美に過ぎるのではないか?」

「あら、姉さんたらまだ言ってるの? あたしとお揃いなのに、気に入らない?」

「な、何を言うのだ、誰もそんなことは言っておらんぞ⁉ ただ、私はだな――」

「姉さんは、演習のとき赤軍の旗艦だったでしょ⁉ あたしは、青軍の旗艦だったからこの色なの! なんかおかしいかしら?」

「い、いや、そんなことはないぞ、――し、仕方あるまい、お前がそのように配慮してくれたのなら、これ以上はもう不服は言わんぞ」

「さ、わかったらもう寝ましょ、ね?」

「うむ、わかった」

陸奥が灯りを消し、長門も大人しく横になる。

「でも、正直夢にも思わなかったわ――、姉さんとこんな風に、一緒に枕を並べながら話をしてるだなんて」

「ふふ、その夢と言うものですら、この様な身にならねば、何のことやら理解できなかったのだからな」

「ほんとにそうよね――、一体どんな運命の悪戯で、こんなことになったのかしらね」

「そればかりは、神ならぬこの身では判り様もないし、人間たちにも判らぬとなれば、謎のまま放置しておくより他なさそうに思えるがな」

「まぁ、それはそうなんだけど……」

「どちらにせよ、間もなくお前には分かるのではないか? 天上に赴けば、自ずと真実が知れるのではないかと思うぞ」

「――そうね……」

胸の奥で疼いていたもの――、それが急に膨れ上がり始め、同時に様々な感情が流れ出してくる。

全く思いも寄らない姿でこの世界に現れた、自分の不安や戸惑い、怖れや寂寥を、明るい喜びや幸福に変えてくれた仁、たとえ二千浬の彼方にいても、我がことの様に陸奥を思い遣ってくれる仁、彼の優しい眼差しと暖かな手――、それら全ては、間もなく手を伸ばしても決して届かない彼方の存在になる。自分は二度と彼の手のぬくもりを感じることも、彼と共に笑う喜びを味わうこともできなくなる…………。

「――陸奥、陸奥よ、どうしたのだ⁉」

「――何でも――ないわ、何でも――」

「――泣いているのか⁉ 一体どうしたのだ、この私に教えてくれ――」

「姉さん――、あたしにも、よく分からないの――、でも、仁のことを考えると――涙が出てくるのよ……」

「陸奥よ――、お前、本当は仁の傍に居たいのではないのか? 無理をしているのではないか?」

「――そんなことないって言ったら嘘になるけど――、でも、あたしそこまで無理して――引揚げの話、受けた訳じゃないわ」

「しかし、現にお前は――」

「だって――、姉さんも聞いたでしょ? 仁の気持ち……」

「確かに聞いたぞ。やつは心の底から、お前が救いを得ることを望んでいたな」

「そうよ、仁はあたしにはっきり誓ってくれたわ――、たとえ生涯を掛けてでも、あたしが船の天国に行けるようにするって」

「陸奥――、ひょっとしてお前は、――仁の誓いを叶えようとしているのか?」

「だって――、それが仁の願いなのよ? あたしは、それを叶えてあげたいわ」

「――本当に、それでいいのか? 傍に居たいと思っているのはお前だけではなく、仁のやつも同じなのではないか?」

「仁もきっとそう思ってくれてる――、自惚れかも知れないけど、分かってるつもりよ。――でもね、姉さん――、あたしがこの話を断って仁の傍に居ることを選んだら、彼はあたしへの誓いを捨ててくれるかしら?」

「――――いや――、そんなことはせんだろうな……。やつには、そんな器用な真似は出来まい……」

「あたしにも、人間社会のことが少しずつだけど分かって来たわ――。でも、分かれば分かるほど、あたし達の船体を引き揚げるだなんて、一人の人間が簡単にできる様な事じゃないって思い知らされるのよ」

「やつは一生を棒に振ってでも、お前の船体を引き揚げようとし続けると?」

「あたしのために、仁がそんな人生を送るなんて耐えられない――。それに葉月だってそうだわ、小さな頃から、ずっと仁のお嫁さんになるつもりでいたのよ? それが、突然降って湧いた様にあたしが割り込んで来て、彼があたしへの誓いのために、残りの人生を棒に振るのを見ていなきゃならないだなんて――。駄目よ、どう考えたって、あたしにはそんな事出来ないわ……」

もう何度となく、頭の中でなぞった事だ。自分が不幸になるとでも言うならともかく、仲間達全員の願いでもある船の天国に行き、永遠の救いを得ることを不幸だなどとは到底いえないし、何より、それを誓ってくれたのは他ならぬ仁なのだから。

あの日の彼を、決して忘れることはないだろう。優しさに溢れていただけでなく、一点の曇りも無い、気高く誠実そのものの声、そしてほんの一瞬しか見られなかった(あの時、意地を張ってぎりぎりまで横を向いていたのを、今となってはひどく後悔していた)が、何処までも無限に続く青空のような、透き通った涼しげな瞳。そのあまりにも純粋な誓いのために、彼が残りの人生を全て費やすことを想像すると居たたまれなくなる。

防衛隊で聞いた軍艦(現代の日本では護衛艦と呼ぶそうだが……)一隻の建造費と、日頃、仁が自分達のために費やしてくれる金額との余りに大きな差に、陸奥は愕然とした。それ以来、出来るだけ彼には知られないようにこっそりと、船を引き揚げるのにどれほどの費用を要するのか、普通の日本人一人が、その一生の間にどれほどの金を手にすることが出来るものなのか調べてきたが、深く詳細に調べるまでも無く、それが現実離れした夢に近いことが判ってきたのだ。

「お前の言う通りなのかも知れんが――、それでも、お前は本当にそれを望んでいるのか? 一切我慢するな、我欲を剥き出しにしろなどと言うつもりは無いが、何も、お前ばかりが我慢する必要など無いのだぞ?」

「さっきも言ったけど、全く何も我慢して無いとは言わないわ――、でも、あたしが大切にしたいと思う誰かを不幸にするよりは、少しくらい我慢したほうがましだって思えるだけよ」

「――そうか――、お前が納得しているのなら何も言わん。――私はただ、お前が最も幸せになれる道を選んで欲しいだけなのだ。だから、私が深い考えも無しに言った希望なぞ、頭から無視して構わんし、もしも気がかわったならば、例えそれが全てが終わる直前であったとしても必ず教えて欲しい――、それだけが私の願いだ」

「――ありがとう、姉さん……」

暫くの間二人は無言だったが、やがて姉が遠慮がちに口を開く。

「なあ、陸奥よ」

「なあに、姉さん?」

「その――仁のやつは、まだ起きているのではないか? 行ってきてはどうだ?」

「――駄目よ、今彼の顔見たら、あたしきっと泣いちゃうから……」

「別にいいではないか、やつにしがみついて思い切り泣けば良い」

「そんなの嫌よ、あたしは泣いてる仁をぎゅっとしてあげたいの。――逆をしたら、仁がおろおろして困っちゃうから……」

「――そうか、お前もつくづく難儀な男を好いたものだな♪」

「大きなお世話よ!」

それきり、姉は何も言わなかった。陸奥も、静かにもう一度自分の思いを反芻していたが、やはり必要以上の欺瞞や韜晦も思い当たらない。ただ、それは自分で自分を理解できる範囲に限ってのことだとも言える。

(まだまだ、こんなにも分からない事だらけなのにね)

もし今心残りがあるとすれば、彼に対する様々な思いや彼自身のことについて、十分に判らないまま、それらに結論を出さねばならない事かもしれない。そう思えば、自分がなすべきことが少なくともまだ一つはあることを思い出した。

(そうよ、時間が無いっていっても、まだ明日だの明後日だのって話じゃないわ)

邪魔が入らない様な時間を見計らう必要はあるが、それすらできないと言うことも無いだろう。

長門の呼吸が、少しずつゆっくりとした寝息にかわっていくのを耳にしながら、昂ぶっていた己の感情が、ゆっくりと潮が引くように静まっていくのを感じた陸奥も、少しずつ微睡みの中に落ちていった。



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〔第十三章・第六節〕

 居室の窓から、長門はぼんやりと外を眺めていた。防衛隊の候補生達が短艇教練に精を出しており、その姿が遠い過ぎ去った日々を思い起こさせる。

(あの新兵たちは、今どうしているのだろうか?)

何気なくそう考えてから、ふと思い至って一人苦笑する。

(何のことはない、あれから八十年以上も経っているのか)

例え、彼らがあの戦争を生き残っていたとしても、ほとんどの者はもう天寿を全うしている事だろう。

(思えば、我等はなんと歪な存在か)

自分達は七十年の断絶の彼方から、戦火の消え去ったこの平和な陸の上に忽然と現れた、過去の忌まわしい記憶そのものなのに、その姿たるや、男達が思わず鼻の下を伸ばすような愛らしく見目麗しい女なのだ。

(我が容姿の、何たる戯画的な事よ)

長門には、自分の容姿が男だろうが女だろうが、自身の本質とでも云うべきものには何らの関わりがないと言う思いしかないが、仲間達にはいささかそれに頓着する者もいるのは事実だし、何より己が妹は、自身が女であることを何の衒いもなく受け容れているように見える。

(さもなくば、奴に惹かれたりはすまいな)

陸奥と仁は、長門を隊まで送ってくれるとそのまま西田や中嶋と面談したが、二人の答えはやはり変わらなかった。にもかかわらず、二人が返答するその瞬間、机の下でひときわ強く手を握り合うのを長門は見てしまう。そのうえ、横に立って控えていた斑駒もそれを見たらしく、彼女が顔をそむけるのも目に入ってしまった。

(何とも奇妙なものだ、話を持ってくる側すら反対しているというのに、当人たちが肯っているとは)

前回、感情的になった中嶋は、この度は終始悲しげな眼差しで、淡々としていたのが印象に残っている。

(何やら古の風を感じさせる、それでいて聡明な良い男だがな)

加賀は、その様なところに惹かれているのだろうか。どちらにせよ妹と同じく、加賀もまた、ごく自然に女としての自分を受け容れているのに違いなかった。

「あらぁ~、どうされたんですかぁ? こんなお一人でぇ♪」

唐突に扉を開けた――同じく、女である自分を自然に受け容れているらしい――龍田は、長門が一人きりなのを見るや、一目散に近付いてくるなり(案の定)ぎゅっと抱きついてくる。

「こらこら、ここは言わば兵学校なのだぞ? その様な不埒が、大手を振って許される所ではあるまいが」

そう窘めると、彼女は素直にすっと体を離すが、それでも婀娜な上目で長門を見詰めると、

「でもぉ~、女の子同士なんですからぁ、少しくらいは大目に見てもらえるんじゃないですかぁ?」

と微かに怨を帯びた声を出す。

(全く――、困った奴だな)

内心が思わず顔に出てしまい、口元に苦笑いを浮かべた長門は、

「それは、何の底意も無い者の話であろう? 龍田には、明確に底意があるではないか」

と押し返すが、無論その程度で怯む彼女ではない。

「もぉ~、ちゃんとお判りなのにつれなくされるんですねぇ、長門さんは私たちの旗艦なんですからぁ、もうちょっと僚艦に優しくしてくださっても、罰は当たらないですよぉ?」

判ったような判らないような理屈を捏ねて口吻を尖らせる龍田は、その相手が長門ではなく並みの若い男であったならば、赤子の手を捻るが如くに容易く籠絡できるだろう。

「別段、私は龍田を疎んじてはおらんぞ? 凡そ、痴話や徒事に興味が無いだけだ。そもそも、どういう訳でそこまで女色にこだわるのだ? 同じことを男相手に為したならば、お前に靡かぬものなぞ木石でもない限りおらぬであろうに」

後半は長門の本心から出た言葉だが、彼女の返答は期待したものではなかった。

「そんなこと言っても胡麻化されませんよぉ~、それにぃ、女の子のほうがずーっと綺麗で可愛いいんですからぁ、こだわらなくても好きになって当たり前じゃないですか~♪」

これは明らかに、龍田の本音ではない。注意深く聞きなおすまでもなくすぐに判ったが、一体なぜ、本音を吐露せずにはぐらかすのだろうか? 仲間たちの中にあっても、確かに彼女は容易にその心中を見せない一人だが、誇り高い妙高や余り進んで己の考えを述べない高雄や朧、そもそも口数が少ない霰などとは随分毛色が違っている。

「それでは、艦であった時から、女色を好んでいたことになってしまいはせんか? それに、胡麻化しているのではなく、本心からそう思っているだけなのだがな」

特に、これと言った思惑を抱いたわけでもなくそう口にした長門は、腕組みをして再び窓外の景色に視線を戻す。先ほどの候補生達が、短艇を収容するためにダビッドと悪戦苦闘している様が何やら微笑ましい。

「ずっと嫌でしたよ――、ずっとずっと……」

思わず振り向いて確認したが、そこに居るのはもちろん龍田だけだ。

「龍田――」

「長門さんは、嫌じゃ無かったんですか?」

「まさかお前は――、ずっと男を嫌っていたと言うのか?」

そう応じながら、常日頃の彼女とは全く違う物言いやその声音に、まるで、今までそこにいた龍田が別人に入れ替わった様に感じていた。

「長門さんは、聞かなかったんですか? 男どもが、今際の際になんて言うのか」

「今際の際に――」

「あいつらが何て言うと思います? あいつらはね――、あいつらは――、女の名を呼ぶんですよ⁉」

「……」

「自分の大切な女の名を呼ぶんですよ――、千恵子だとか、お母さんだとかね……。立派な遺言とかでも何でも無いんですよ?」

「それの、どこがいかんと言うのだ? 結局男は、女の支えが無ければ生きられぬということではないのか?」

「だったら、もっと女を大切にしてやればいいじゃないですか⁉ そんなに大切なら――、支えなしには生きていけないんだったら、普段から大事にしたらどうなんですか⁉」

「龍田、お前……」

彼女は拳を堅く握り締め、それがぶるぶる震えているのがはっきり分かる。かっと見開かれた瞳の奥には、胸を締め付ける様な悲しみと怒りを湛えた焔が燃え盛り、それを鎮めるべくもない涙が溢れそうになっていた。

「大切な男を戦に送り出して、平気な女がいますか⁉ 海に沈んで、髪の毛一本すら戻って来ないかも知れないのに、その帰りを信じて、安心して待っていられる女が居るんですか⁉」

「――いや――」

「なのに、なのに――、男どもと来たら、女はかなわんだの勝手に心配させとけばいいだの、下らない空威張りのし放題ですよ⁉ 本当は心細くて寂しくて仕方ないのに、精一杯馬鹿みたいに見栄張って、女達には優しい言葉の一つも掛けてやらない癖に――、それなのに――」

「龍田よ、もうそれくらいに――」

「もう二度と会えないってわかってから、名前なんか呼んでも遅いですよね⁉ 自分の腕の中に帰ってきて欲しいって祈ってる女達には聞こえないんですよ⁉ 何でそんな事言ってるんですか⁉ 自己満足ですか⁉」

「もうやめろ龍田、興奮しすぎ――」

「そんなの、自分に言い訳してるだけですよね⁉ 一日千秋の思いで待ってる女達は、いつでも、ただ置いてきぼりにされるだけじゃないですか⁉ 独り善がりで見栄っ張りで狡い男なんか好きになったばっかりに――、どうして、男は責任取らないんですか⁉」

「良く判ったから、もうやめろ!」

龍田に歩み寄るとぐいと両肩をつかんで、真っ直ぐにその瞳を見詰めながらやめさせようとするが、端正な顔をくしゃくしゃに歪めて滂沱と涙を流し続ける彼女は、それを振り払ってなおも続ける。

「そんな無責任で卑怯な男なんか、好きになるわけ無いでしょう⁉ 絶対、絶対好きになったりしませんよ⁉」

少々むきになった長門も、今度は彼女を抱き寄せようとするが、それに抵抗しようと龍田は暴れ、長門の顔と言わず頭と言わず盲滅法に殴りかかる。

「絶対になったりしません! 絶対に! 絶対にっ!」

「もうやめろ龍田! 私が悪かった、こんなことを聞くべきではなかったのだ! だからもうやめるんだ!」

そう言いながら、なおも腕を振り回そうとする龍田を強引に抱き締めて大人しくさせようとするが、それでも彼女は暴れるのをやめようとはしない。

「済まぬ! お前の気持ちも知らずに、無責任なことを言った私が悪かった! 赦してくれ! 頼む、赦してくれ龍田よ!」

ありったけの力で強く抱き締め続けると、ようやく龍田は暴れるのを止め、そのまま長門の腕の中で、まるで痙攣しているかの様に激しく嗚咽を漏らし泣き続ける。

「済まん――赦してくれ、私が悪かったのだ……」

窒息してしまうのではないかと恐れるほど、息を詰まらせながら激しく泣き続ける彼女に、ただそう声を掛けるしかできない長門は、龍田が奥底に秘め続けていた悲痛なまでのその心根に初めて触れたことで、これまでのその振る舞いが胸に落ちていくのを感じていた。

(ずっとその思いを抱いたまま、一面漆黒の世界に身を横たえていたのだな――、何と不憫なことか)

言うまでもなく、龍田は男を嫌悪しているわけではないのだ。だが、こうして女の身となったその瞬間から、自らの脳裏に焼きついたその悲惨な光景が、そのまま裏返しとなって降り掛かって来てしまい、男に想いを寄せることが怖ろしくなってしまったのだろう。

もしも、男を好きになってしまえば、いつの日かまた自分は置き去りにされる――。沈み行く彼女を捨てて脱出した男達は、何も卑怯で狡いわけでは無いが、艦であり女である龍田にとっては、本当に卑怯であるかどうかは問題ではないのだ。

(結局、私も龍田と同じだ――、我らは皆同じなのだ)

自分は、己の理不尽な運命に対する憤りを抱いていたからこそ、それが妄執と化して、仲間達に刃を向けることになったし、それは酒匂も同じで、龍田とはただ目に見える形が違っているだけのことなのだ。

(陸奥は、その痛みを我が事の様に思い遣ってくれる男に――仁に偶然にも出会っただけなのだな)

そう考えると、また先程の光景が胸中に去来して、本当にそれで良いのだろうかという気持ちが湧いてきてしまうが、だからと言って、二人の意思を強引に捻じ曲げてでも翻意させるべきかと問われると、それにはさすがに迷いがある。

(こうして、心と言うものを得てよりどれほどの時が経ったというのか――。歯痒いことだが、私はまだ、余りにも無知で未熟に過ぎる……)

そう思ってふと目を上げると、窓の外では陽射しが傾き始めている。腕の中に注意を戻すと、龍田の嗚咽は大分ゆっくりと穏やかになり、今は静かに啜り泣いている。

(悪かったな、龍田よ)

胸のうちでそう呟き、そっと腕を緩めようと力を抜きかけると、突然、彼女が声を上げる。

「駄目ですっ」

「――なに?」

「駄目です、もう少し――、もう少しだけぎゅっとしててくれなかったら、赦してあげません……」

思わず、何度目かの苦笑が漏れる。

(やれやれ、本当に仕様の無い奴だ。今回だけだぞ、全く……)

仕方なく、長門は改めて腕に力を入れなおした。



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第十四章
〔第十四章・第一節〕


 程なくして梅雨は明け、ゼミも実質的な夏休みに突入する。

昨年(厳密に言うなら今春)までの僕であれば、とっくの昔に、みっちりバイトを入れまくっているところだが、今年の夏のスケジュールは徹底的にガラ空きだった。言うまでもない事だが、とにかく時間が許す限り、むっちゃん達と一緒に過ごすと決めているからだ。中嶋さんに許可も貰ったので、用事の無い日は一緒に訓練隊に赴き、斑駒さんの仕事を手伝ったりする生活を始める。

「渡来さんにタダ働きさせるのは、何だか申し訳無いですねぇ」

「僕が頼み込んでるんですから、逆に給料とか貰ってたら違和感ありますよ!」

とは言ってみたものの、違和感について言うならば、葉月が毎日ついてくる訳ではないということの方が遥かに違和感満載なのだが、そこはやはり、有言実行主義の彼女らしいところかも知れない。そんな事を考えながら、重くて嵩張るウェットスーツのサンプル品を台車に載せて、ガラガラと構内を横切っていく。

今季の防衛隊には、彼女達のために使える予算などほぼ一銭も無いはずだが、被服関係の費用を捻じ込む先をどうにか捻り出したらしく、艦娘達が海上で行動する際に必要な、専用のウェットスーツをオーダーすることにしたそうだ。むっちゃん達から聞くところでは、今彼女達のために調達して貰っているスーツは、やはり間に合わせのためか、特にサイズの面で何かと不都合なことが多いらしい。

夏の日差しの下では、あっという間に汗が滲み出てくるが、すぐにエアコンの効いた屋内に入ってホッとする。そのまま通路を進むと、先に立った斑駒さんが部屋のドアをさっと開けてくれた。

「皆さん、お待たせしました! 見本をお持ちしましたよ⁉」

彼女の元気の良い声に負けない勢いで、艦娘達がワッと歓声を上げて迎えてくれる。部屋の中央に据えられた長机の上にサンプルを運び上げると、斑駒さんがそれを手際よく開封してサンプルを広げていく。それらはみな、こんなに派手なスーツを作っても大丈夫なのかと、少々心配になるくらい鮮やかな色合いで、肩のところが違う色の切り替えになっていたりなど、防衛隊のお堅い雰囲気には全くそぐわないものだ。

「やーん、この色綺麗♪」

「ほんとだぁ~♪ でも、こっちもなんか良いよねぇ」

いつ見ても蒼龍ちゃん飛龍ちゃんは、うちの学内を歩いている女子とほとんど変わらない立ち居振る舞いだが、強いて違う点があるとすれば、桁外れに可愛いということに尽きるだろうか。

「今日ここにない色は、こちらの色見本にありますから、こちらも見てくださいね~」

斑駒さんのその声を聞いた僕の関心は、やはり、むっちゃんがどんな色を選ぶのかという事へと飛んだ。

(何色がいいって言うんだろうな)

そう思って、顔をあげて彼女を探し掛けたその途端、男が好きな物を寄せ集めてそのまま形にしたような容姿が視界を遮る。その男の(かなり末席の方だとは思うが)一員でもある僕の視線は、以前NASAの動画か何かで見たことのある、木星の重力に捉われた彗星の様に釘付けにされてしまう。

「渡来さん、私にはどの色が似合いますか? 私はこれが良いなって思うんですけど♪」

「えっ、あっと――、そ、そうだねぇ――」

高雄さんの胸は、正に太陽系で言うならば木星サイズで、こんなにも身体から前に突き出していてよろけたりしないのかと不思議になるほどだ。支給品の真っ白な半袖シャツの胸元は、はち切れる寸前になっており、この種の制服のいかにも頑丈なボタンでなかったら、とっくに弾け飛んでいるだろう。

しかも、たいへん不味いことに、無警戒だった僕は一瞬それをガン見してしまい、しっかりと彼女に確認されてしまった。ほんのり頬を桜色に染めた高雄さんは、やや俯き加減になると、とても意味有り気な眼差しで、目だけを動かして僕を見上げる。

「――別に、良いんですよ? 仁さんも、やっぱり大きいほうが好きなんですよね」

ダ、ダメだ、これはたいへんどころか凄く不味い! たった2ヶ月程前の高雄さんと、今目の前にいる彼女はまるで別人だ。今の彼女は明らかに僕の心中を見透かしており、巧みに女性の武器を使いこなして、僕の余りにひ弱な理性にとどめを刺そうとしている。そのうえ、ホンとにさり気な~く、僕のことを渡来さんではなく仁さんと呼んでいた!

(ど、どうしよう……)

進退に窮したその瞬間、二の腕の裏側あたりに何かが噛みついた様な鋭い痛みが走り、思わず、

「てっ!」

と声をあげてしまう。もっとも、何が起こったのか分からなかったのは本当に一瞬だけで、すぐに怒気を孕んだ迫力のある声が耳元で響き、僕は硬直する。

「お忙しいところご免なさいね。あたしも、高雄ちゃんのあとでいいからどの色が良いか見て欲しいんだけど、駄目かしら?」

「いっ、いえいえ、陸奥さんがお先にどうぞ!」

高雄さんはさっと愛想の良い笑顔に切り替えると、そのまま素早く踵を返す。思わずほっとため息を吐くが、一安心するほどの余裕も与えられず二の腕をグイッと掴まれ、むっちゃんに部屋の隅に引き摺って行かれる。

「で、何か言うことは?」

「ご、ごめんむっちゃん――、でも、そのぉ――」

「一度しか聞かないから、よく考えて答えて頂戴。仁は大きい方が良いのかしら?」

「えっ?」

半目で睨みつけたその瞳を覗き込むと、彼女は僕の視線をガッチリ捉え、そのまま目で下を向かせる。

(あ……)

さすがに、彼女の胸をジロジロ見たことは無かったので、決して小さいわけでは無いこと位しか知らなかったが、今改めて見ると、大き過ぎず小さ過ぎず程よいサイズのうえ、服の上からでもわかる程に、とてもきれいに整った形をしている。

(すごい、知らなかった……)

「どうなの?」

「う、うん、大きさとかには全然興味ないよ、それに、こんなに形が良いなんて初めて知ったよ」

「な、何言ってるのよ、莫迦ね――、もう、仕方ないから赦してあげるわ」

むっちゃんは、ちょっと顔を赤らめながらそう言ってくれる。冷静に考えるとずいぶん理不尽な話なのだが、何だか、やたらに嬉しくなってしまう自分が理解不能だった。

「そ、それで、むっちゃんは何色が良いの?」

「それを話そうと思ったんだけど――、でも、考えてみたらおかしいわよね、あたしまで作って貰うだなんて……」

「そんなことないよ、むっちゃんは現にここにいるんだし、みんなだって特別扱いしない様にしてくれてるんだから、同じ様にしたら良いと思うよ?」

そう言って少し俯いたその顔を見ると、彼女も僕を上目遣いに見返してくれ、

「わかったわ、仁がそう言うんだったらそうするわね」

と少しはにかんだ様な笑顔を浮かべる。先程感じた嬉しさのステージがさらに2段階ほど上がってしまい、普段なら絶対に言わない様なことを、僕は口走ってしまう。

「その――、むっちゃんが気に入った組み合わせは有ったの? この中にあるんだったら、当てて見ようかな?」

「有ったわよ、でも――、仁に当てられるかしら?」

スーツの色は結構種類があるが、肩の切り替え部分の色は数が少ないので、それほど複雑な組み合わせは無いし、ましてサンプル写真が載っている中にあるんだから、彼女の好みさえ読み違えなければまず大丈夫だろう。

「大丈夫だよ、たぶん分かると思うよ♪」

「あらあら、何その自信、ちょっと気に入らないわね♪」

「でも、分かっちゃうんだな~これが。――えーっとぉ――」

さらさらとサンプル写真を見るが、確信を持って言える組み合わせはどうやら一つしかない。

「ねえ仁、降参するなら今のうちよ?」

「そんなのするわけ無いよ、僕にはもう分かったよ♪」

「うそぉ、じゃあどれよぉ♪」

僕は(たいへん珍しいことだが)確信を持って、明るい水色に肩の切り替え部分が白と言う、とても爽やかな組み合わせを指差してみせる。

「むっちゃんが選んだのはこれだね⁉」

「いやだ! 当たっちゃったわ⁉ どうして?」

「どうしても何も、むっちゃんが好きな色を選んだら、これ一択になるだけだよ♪」

「あら、なあにその言い方! あたしの事くらい、何でも判ってるみたいに聞こえるわよ⁉」

「いやぁ、何でもと迄は言わないけど、結構分かってるかなぁなんてね♪」

「なにそれ、自慢なの? 葉月がいないからって調子乗り過ぎじゃないかしら⁉」

「い、いや、とりあえずそういう訳じゃないけど、そのね――」

「やっぱり図星なのね! 仁ったら、情けないんだからもう♪」

「はい、ご指摘の通りです!」

「なんで、そこは自信あるのよ⁉」

「いやでも、自信あったんで……」

「なんなのそれ、ウフフフフフ♪」

「ハハハハハ♪」

僕がやらかす時というのは、大抵こんな風に調子こいてる時なのだが、今回もご多分にもれずその通りになってしまう。むっちゃんと心の底から楽しく笑ったあと、ふと気が付くと周囲がシーンと静まり返っている。

(あれ? なんだ、この空気……)

彼女と目が合うが、説明し様の無いやっちまった感ばかりを共有した僕らは、お互い全くノープランだと言うことを確認しあっただけだ。恐る恐る振り返ると、全員の視線が一気に降り注いできて全身がチクチクする。

蒼龍ちゃん飛龍ちゃん達を中心に、多くの艦娘達と斑駒さんはニヤニヤしながらこちらを見ており、ちょっと困ったような顔の長良ちゃん、ほぼ表情の変わらない加賀さんと霰ちゃん(及びキョトンとしている酒匂ちゃん)がそこに加わるのだが、その皆から離れて、独りだけ一歩前に出ている高雄さんの険しいオーラに、思わずたじたじとなる。

「仁さん⁉ 私、今すっごく不機嫌なんですけど⁉」

いや、それはもう、見たらすぐに分かりますし……。

「ちょっと高雄ちゃん⁉ きちんと、『渡来さん』って呼んでもらえないかしら⁉」

(えーと、そのぉ――)

横からむっちゃんが憤然と反撃したので、一瞬で僕の脳内は真っ白になってしまう。

「どうしてですか⁉ 名前を間違えたわけでも無いですし、何より、仁さんからは何も言われてませんけど⁉」

「名を直接呼ぶほど、いつから親しくなったのかしら? 仁も、ちゃんと迷惑だって言ってあげて頂戴⁉」

「迷惑だなんて言い掛かりです! そんなことありませんよね、仁さん⁉」

(ええっ! ちょっ、いや、えーっ⁉)

例によって僕の(極めて引っ込み思案の)舌は、さっき調子こいていたのが嘘の様に、ひっそりと引き篭もっている。

「何にも言わなくていいのよ、ただ頷いたら良いだけだから。どう、迷惑よね仁⁉」

「ちっともそんなこと無いですよね、仁さん⁉」

なんだか眩暈がしてきそうなのだが、それでもそうはならない自分の体が恨めしい。こんな時に、都合よくぶっ倒れることが出来たらどんなに良い事か! それでも、家族というのは有難いもので、こんな絶体絶命のピンチにもちゃんと助け舟を出してくれる。

「ほほほ、仁殿も、そろそろ妾の申したことが得心ゆきましたろうに。仁殿ほどの艶福家は、そうそう居るものにはござりませぬとの♪」

初春ちゃんのその声は、まるで天空から差し込む眩い一筋の光の様だ。そして、その切っ掛けを長門さんがちゃんと生かしてくれる。

「斑駒殿、私から仁に仕事を頼んでも良いであろうか?」

「もちろん結構ですよ! ただ、渡来さんが承諾なさればと言うことにはなりますけど――、まぁ、拒否できる状況じゃなさそうですね♪」

「ははは、全くだ♪ さて仁よ、お前に頼みたい仕事とは、今からわれら全員の見立てをすることだ。どうだ、出来るか?」

「は、はい、喜んで!」

「そうか、それは良かった。では早速頼むぞ、まずは高雄からでいいな」

「はい♪」

高雄さんはこれまたさっと笑顔になり、僕に向かって笑い掛ける。心の底から安堵した僕はむっちゃんを振り返るが、彼女は口を尖らせ腕組みをしながらも応えてくれる。

「仕方ないわね――、姉さんの顔を立てて来て頂戴」

「うん、そうするよ」

そう短く言い交す間にも、彼女のもとへはさっと子の日ちゃんが近寄ってきて、皆のところへ引っ張っていく。

「早く見てください、私、これが気にいってるんですよ!」

僕の腕を取る高雄さんはもちろん、皆がとても朗らかにしているのに、今更ながら気付かされる。さっき自分で口にしておきながら、改めて、ここにいる全員がむっちゃんを特別扱いせずに、普通に振舞ってくれていることを思い知る。

(君達みんながいてくれて、本当に良かった――。こんな僕でも、何とか頑張れそうな気がするよ)

楽しそうな彼女達の顔を見ながら、僅か1、2ヶ月後にやってくるはずの怖ろしい瞬間が、実はやって来ないのではないかと僕は錯覚しそうになっていた。



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〔第十四章・第二節〕

 それから幾日と経たずに、僕らは中嶋さんから呼ばれ、サルベージ業者が作業に着手したことを聞かされた。

僕は(何を勘違いしたものか)もっと平静に受け止められる様な気になっていたのだが、いざそれを聞かされると、まるで空中から酸素が消え失せてしまったかのように呼吸困難になってしまう。もしも、むっちゃんが横に居てくれなかったら、本当に窒息して倒れてしまったかも知れない。

そんなわけで、毎度の如く、彼女のおかげでなんとかその場を乗り切ることができたのだが、さすがに今回ばかりは少し様子が違ったのもまた事実だ。僕の息が止まってそのまま死にそうになったその時、むっちゃんが手をとってギュッと握ってくれたので息を吹き返したのだが、はっと気が付くと、彼女の手は僕の手を痛いほど握りしめていた。

(むっちゃん……)

自分のことで一杯いっぱいになっていたために、異変に気付くのがすっかり遅れてしまったが、彼女もまた、歯を食いしばって体が震え出しそうなのを耐えていた。それを見た瞬間、僕の腕に力が戻ってくるのをはっきり感じ、その力を込めて強く握り返すと、彼女の口元からスッと力が抜けるのがわかる。こちらをそっと振り返ってくれたむっちゃんと視線が絡み合い、見詰め合った僕らは、改めて互いの瞳の奥の光を確認し合うと、まだこうして支えあっていられることを知ってほっとする。

(傍にいてくれて、ほんとにありがとう)

(あたしもよ、仁がいてくれることがこんなに大切だなんて……)

何も口にしなくても、眼だけで語り合うことが出来るのだとはじめて実感した僕は、どうにか落ち着きを取り戻し、改めて副長に向き直るが、その姿はまるで、後悔や自責の様な感情が重たく沈澱し続けた末に出来上がった石像のようで、強く胸をつかれる。

「あ、あの――、すみません本当に」

「あたし達のために、心労をお掛けしてしまって」

思わず発した言葉の後を、まるで示し合わせたかのように彼女が続けてくれる。だが、そんな僕らの振る舞いは、ますます中嶋さんの心に重石を載せてしまっただけの様で、いかにも暗く沈んだ様子で口を開く。

「お二人が詫びることなど、何もありません。ですが、もし防衛官としてではなく私個人としての希望を聞いて頂けるのであれば、あなた達に伝えたいことはあります」

「どんなことでしょう?」

「もう一度だけ、あなた達にとって一番大切なことは何かと言うことを考えてみてください。私の希望があるとすれば、今はただそれだけです」

そう(とてもサラリと)言い残すと、副長はさっと席を立ち、短く一礼して退室してしまった。残された僕らも、いつまでもそうしているわけにも行かず、少し間をおいて退室する。

そのまま戸外に出た僕らは、ここが隊の敷地内であることも忘れて手を繋ぐ。もっとも、ちゃんと分かっていても同じだったかも知れない。僕とむっちゃんは、とにかく互いに触れ合わずには居られなかったのだ。

「仁?」

「なに?」

「あたし達が決めたこと、間違ってるのかしら……」

憂いの籠った眼差しで見つめるのはやっぱり海だ。海を見詰める時の彼女はいつも憂いを湛えているし、瞳の奥に秘めている哀しみの色が顔を出す。

(それでも僕は、君をその哀しみから解き放ちたいんだ――。何度考えても、それが僕の一番の望みなんだ)

「間違ってるかどうか僕にはわからないし、きっと誰にも本当の事なんて分からないと思うよ――。でも、一つだけはっきり言えるのは、むっちゃんが救われることを僕は願ってるし、そのために船体を引き揚げるより他には方法が無いんだったら、君が嫌だと言わない限り、僕は誰に反対されてもそうするつもりだってことかな」

何故こんなにも素直になれるんだろうという位、むっちゃんには(普段なら小恥ずかしくて絶対に言えないようなことも)ありのままを口にすることが出来る。言わずと知れた小心者の僕が、どうしたらこんなにも思い切ったことが言えるのか、不思議に感じるほどにだ。

その証拠に、実は言ってしまった直後から、僕はどんなリアクションが返ってくるのかと俄かに緊張しはじめていた。しばらくの間、全く無反応のまま海を見詰め続けている彼女を横目に見ながら、一生懸命に平静を装い続けていたが、やがて繋いだ手にぐっと力が籠められ、彼女がすっと肩を寄せてくる。

「あ――」

顔が軽く僕の肩に寄せられるとともに、彼女が自然に体を預けてくる。

「仁がそう願ってくれる限り、あたしはそれに応えたいわ――、仁の願いを叶えられるならそうしたい――。こうしていつまでも一緒に居たい――、その気持ちを我慢するだけの、値打ちがあることだと思ってるの」

彼女の言葉は、胸の奥深くにまで沁み込んできて、そこに染み付いていた怯えを流し去っていく。幾ら偉そうに言ってみたところで、結局僕は、心のどこかで間違いを犯してしまったのではないかという不安を抱えていたことに、今更気づかされる。まるで、そっと包み込む様に僕を支えてくれている彼女の存在を思うだけで、思わず涙が溢れてきそうになるが、なんとかギリギリのところで踏みとどまった。

「あらあら、ちゃんと我慢できたのね、あたしの可愛い泣き虫さんは♪」

むっちゃんに僕の心の動きも何もかも筒抜けになってしまうことは、最早事実として受け入れるしかなくなっていた。

「だ、だって、ここは泣くとこじゃないからだよ」

「そうよ、ここは優しく抱き締めてくれてもいいところじゃないかしら?」

そう言ってくれる彼女のその声に、喜びや微かな甘いときめきすら覚えて向き直ったのだが、こちらを見詰めたその顔に見出したのは、たった今僕が抱いていた様な、心細さを滲ませた瞳だった。

(むっちゃん!)

激しい息苦しさを覚えた僕は、後先も考えることなくむっちゃんの肩に手を伸ばすと、彼女の手がそれを迎え入れる様に差し上げられる。実のところ、自ら女性を抱き締める事などこれが初めてだったはずなのだが、既にそんなことを落ち着いて考えられる様な状態では全くなかった。

夢中で彼女を抱き寄せ、そのまま固く抱きしめると、むっちゃんの腕が背中に巻き付けられ、その口から深い吐息が洩れる。こんな僕を――どうにも頼りなく情けない僕を、彼女は必要としてくれている。彼女に支えられているのと同時に、こんな自分ですらも、彼女の支えになっているというその震える様な自覚が、全身を支配したその瞬間だった。

「あ~、そのだな――」

「どわぁっ!」

「きゃあぁっ!」

もう絶対に心臓が破裂したものと思ったのだが、胸の真ん中あたりで、肋骨を突き破りそうな勢いで何かが激しく躍っているので、どうやら破裂まではしなかった様だ。

「お前達、ここがどこなのか判っておらん様だな?」

「ね、姉さん……」

「全く――、余り野暮はしたくないのだが、さすがにこんなところで堂々と抱擁を交わすなどとは、いささか度を越しているのではないか?」

「す、すみません――、仰るとおりです……」

実際、本当にここが何処なのかすっかり忘れていたので、反論の仕様が無い。

「注意してくれるのは良いけど、何も驚かさなくてもいいんじゃない⁉」

「何を言うか、こんなに傍まで近寄っても、全く気付く気配もなかったからではないか」

こんな何気ない会話を聞いていると、やっぱり二人は姉妹なんだなぁと感じてしまう。

「それよりも、お前達――、その様子では、気持ちは変わらんようだな」

「えっ――、長門さんがなぜ――」

「そうだわ、副長が言われたことなのに……」

「ああそうだ、副長殿がどのように言われたのかまでは具体的に知らぬが、お前達の存念を再度確認することは出来まいかと申し上げたのは私だからな」

「そうだったのね……」

「しかし何だな、結局、お前達を翻意させることは出来ぬか――。致し方ないことなのか否か……」

「お気遣いいただいて、有難うございます」

「心配させちゃってごめんね姉さん。でも――、やっぱりあたし達、気持ちは変わらないわ」

「――そうか、ならばこれ以上とやかくは言うまい。が、改めて頼んでおくぞ、もし気が変わったときには、例えどれ程切羽詰っていようが迷わず教えてくれ、忘れてくれるなよ」

「はい」

「では、戻るぞ」

それだけ言って、長門さんはくるりと背を向けて歩き始め、僕らも顔を見合わせると、その後を追いかける。でも、すぐに落ち着かない思いがしてしまい、むっちゃんの顔を見ると、彼女も全く同じように僕を見返してくる。

(むっちゃんも、同じなんだね)

(そうなの……)

再び目だけで語り合った僕達は、さすがにもう一度手を繋ぐわけにもいかなかったので、寄り添って手と手を触れ合わせることで我慢する。何故と聞かれても答えようがないのだが、いつの間にか、そうしていなければ不安になるほど僕らは離れ難くなっていた。



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〔第十四章・第三節〕

 その日を境に、僕達二人は、本当に離れていることが辛くなってしまう。お互いの姿が見えないだけで不安に駆られる様になり、どれだけ自分自身に言い聞かせても(もちろん長門さんや葉月に言い聞かされようともだ)止めようがなかった。

そして、そんな数日を過ごした後にそれは起こった。訓練隊での昼食が終わって、皆が寛いでお喋りなどしている最中に、突然むっちゃんが口を噤み、胸を押さえて屈みこんだのだ。

「どうなさったのですか、陸奥さん⁉」

赤城さんの大きな声は、斑駒さんと一緒に片付けを手伝っていた僕の耳にも余裕で届き、おそらく、生涯で最速だったと思われる(ひょっとすると、オリンピック男子100m決勝級だったかも知れない)猛ダッシュをさせる。

むっちゃん!

転がるように彼女のもとへ駆けつけると、椅子の上で体を折り曲げ、両手で胸を押さえて宙を見詰めているその傍らに跪く。

「どうしたの⁉ 大丈夫⁉」

もう一度声を掛けるが、彼女は反応を示さない。緊張したその顔はやや青白く、特に苦しげだったり痛そうにしているわけでも無さそうだが、目の前にいる僕が見えていないらしく、じっとその姿勢で固まったまま、とても長い数秒間が経過する。やがて、その緊張に満ちた時間は唐突に終わり、息を吐き出したむっちゃんの瞳に光が宿ると、その焦点が僕の顔に向かって結ばれ、唇が言葉をつむぐ。

「――仁……」

「大丈夫? 何があったの?」

「あのね――、あたしの船体(からだ)が切られてるの……」

それを聞いた途端、周りに集まってきた艦娘達がザワッとしたのだが、僕の脳裏を支配していたのはそんなことではなかった。そう口にしたむっちゃんは、差し出した僕の手をきつく握ってきたのだが、その手は震えていたのだ。

(むっちゃん!)

もう矢も盾も堪らず、ここが何処なのかも周りに誰がいるのかも全て忘れて、その手を包み込むようにギュッと握りしめると、弱々しく肩に顔を埋めてきた彼女にもう片方の手を回してしっかり抱き寄せる。ただ、それ以上何もしてあげられないことがもどかしく、居てもたっても居られない様な思いに駆られながら暫くそうしていると、次第にむっちゃんの震えもおさまり、顔を上げて笑みを見せてくれる。

「ありがとう仁――、もう大丈夫よ」

「ほんとに? どこか痛んだりしない?」

「ええ、そんなことは無いわ」

「でも、何かしら感覚のようなものがあったのですか?」

横あいから、加賀さんが口を挟む。

「そういう、はっきりしたものじゃないわね――。でも、何となく分かったのよ――、見えるような感じ、とでも言えばいいのかしら」

「そうだったんだね――、気分とかも悪くない?」

「ええ、大丈夫みたい」

「ひとまず安心致しました、お水など持って参りましょうか?」

「ありがとう、赤城ちゃん」

彼女が改めて見せた笑顔にホッとした僕は、やっと周囲の世界のことを思い出して視線を上げると、何やら難しい顔をした長門さんと目が合う。

(えっ?)

一瞬の後、僕はその表情の意味を理解して、慌てて辺りをキョロキョロ見回すと――、いた――、艦娘達からは独り離れて、こちらに刺すような視線を投げ掛けている葉月が……。

(忘れてた――、ゴメン葉月……)

ほんの数ヶ月前の僕が今の僕を見たら、おそらく目を疑うことだろう。今日は葉月が一緒に来ていることを、完全に忘れ去っていたのだから。

とは言うものの、さすがにこの時点での僕はまだ、咄嗟に葉月に対して詫びなければという思いが真っ先に浮かんでくるほどには頭が回っていた。なので、わざわざ謝りに行きはしないまでも、彼女の目を真っ直ぐに見詰めることが出来たし、当の葉月も僕の心中を読み取ってくれたのか、きつく責め立てたり嫌味を口にするわけでもなく、こちらを射抜くように睨みつけただけで済ませてくれたのだ。

それはもちろん、むっちゃんのことを気遣ってくれたからなのだが、今にしてみれば、この時に文句の一つも言ってくれた方がずっと良かったのかも知れないと思う。なぜなら、とにかくむっちゃんの事だけで頭が一杯になりつつある僕は、この時より以降、葉月が懸命に気遣いそして耐え忍んでくれていることすらも、次第に気に掛けなくなっていったからだ。

それ以来、時折むっちゃんは同じような感覚に見舞われる様になり、徐々に朗らかさを見せなくなっていく。そのたびに僕は必死で彼女の手を握り肩を抱きしめるのだが、当然のことながら、彼女の傍に居ないときにもそれは起こり、そのことが二人の間の不安を更に強く引き起こさせるようになる。

やがて、僕はわずかに残っていた予定もすべてキャンセルしてしまい、とにかく、四六時中むっちゃんと一緒に行動する様になった。そうすることで、彼女も笑顔を見せてくれるようになり、再び落ち着きと朗らかさを取り戻してくれたからなのだが、何よりも、僕自身がそんな彼女の様子に安堵したからに他ならない。

そして、彼女に笑顔でいて貰うことに日々の全てを費やし始めた僕は、時として、面をそむけた葉月が唇を噛んでいるのを目にしても、

(もう少し我慢してよ葉月、今だけ、今だけだから)

などと、心の中で言い訳を呟く以上のことはせずに、簡単にスルーしてしまう様になっていった。

 

 そんな日々が過ぎていくうちに、いつの間にか、夏はその盛りを迎えていた。

とある夕刻、日が傾き始めると共に、丘の斜面にも少し涼しい風が吹き始める中、僕はむっちゃんと二人で家路を辿っていた。幼い頃から慣れ親しんだ小さな公園の横を通りながら、むっちゃんが話し掛けてくる。

「ねえ?」

「なあに?」

「この公園だったわよね、仁が小さい時、よくお母さんと遊んだのって」

「うん、そうだよ」

僕の返事を背中で聞いた彼女は、そのまま誰もいない公園に足を踏み入れる。

「子供の頃の仁は、何をして遊んでたのかしら」

「そうだねぇ、その滑り台と砂場は好きだったなぁ。そこから滑り降りてくると、母さんが下で待っててくれて、たかいたかいをしてくれるのがすごく楽しかったなぁ」

「たかいたかいって?」

「あのね、こんな風にね――」

彼女の両脇に手をあてて、持ち上げる振りをして見せる。

「こうして手だけで、こうやって抱っこしてもらうんだよ」

「それって、結構力が要りそうじゃない? お母さんは力強かったの?」

「まさか♪ 僕が、こんなに小さかったから出来ただけだよ」

「仁がこんなに小さかったの?」

「そりゃ、子供っていうかほとんど赤ん坊の頃はみんなそうだよ~」

「それはそうなんだけど――、でもあたし、そのちっちゃなちっちゃな仁に会いたいわ♪」

「さすがに、それはちょっと無理かな~」

「うふふ、そうよね♪」

喋りながら、僕らは砂場を出てブランコの柵に腰掛けると、徐々に橙色に染まってゆく街並みを二人で眺める。

「あのね、仁?」

「うん?」

「靴屋さんの約束、覚えてる?」

「あ――、うん、覚えてるよ! そうだよね、ちゃんと話すって約束したよね」

「話してくれる?」

「今、ここでいいの?」

「ええ、ここがいいわ――、ちっちゃな仁とお母さんの思い出が一杯詰まってる――、この公園が良いわ」

「――えっと、それじゃあ、ちょっと長くなっちゃうかも知れないけど……」

「いいわよ」

「――うん」

こうして僕は、これまで意識的にも無意識にも避け続けてきた、痛みを伴う記憶――心の奥底に固く押し込め続けてきた、母さんを喪ったその経緯――を、むっちゃんに話してあげることになったのだ。



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〔第十四章・第四節〕

 物心ついた頃の最初の記憶は、母さんのとても優しげな笑顔だった。とは言え、幼い僕にとっては、毎日のほぼ全てが母さん一色だったのだから、それもまた当たり前のことかもしれない。

僕が生まれたのはこの家ではないのだが、まだ赤ん坊の時に、この海を見下ろす丘の上の家に越してきたのだそうだ。そして間もなく、ご近所で同い年の子供がいるという縁で、葉月の家族と仲良くなった。実際、葉月の父さんも母さんもとても感じの良い人達で、今に至るまで、僕は塔原家と知り合いになれたことを感謝している。それからというもの、僕と母さんは、日々色々なことで葉月のご両親にお世話になっていたのだが、幼い僕にはそのようなことまで知る由も無かった。

ただ、あの頃、幼心に不思議に感じていたのは、どうして僕には母さんしかいないのに、葉月には母さんと父さんがいるのかということだった。成長するにつれて、言葉と言うものを少しずつ使いこなせるようになった僕は、ある日母さんにそのことを尋ねたのだが、その時、母さんは相変わらず優しい笑顔を浮かべながらこう答えたのだ。

「あらあら、仁ったら♪ 仁にだって、ちゃんとパパがいるでしょ?」

そう言われても、何のことやらさっぱり分からなかった僕は、余程不思議そうな顔をしていたのだろう。母さんはキョトンとしている僕を抱っこすると、タンスの上にあったフォトスタンドを指差し、

「ほら、あれが仁のパパよ♪ 忘れちゃったのかしら?」

と笑う。

しかし、僕は忘れているわけではなかった。写真に写っていた、母さんと二人で赤ん坊の僕を抱っこしながら、心底楽しそうに笑っているその男の人のことはちゃんと覚えているが、ただその人のことを父だと思っていなかっただけだ。とにかく、その日以来、母さんはことあるごとに父の話をする様になり、僕も何となく父がいるということを理解しはじめたのだが、それは別に嬉しいことではなかった。

それまでは、母さんは僕だけのものだと思っていたし、実際に、母さんが一番優しい笑顔を向けるのはいつも僕だけだったのに、父のことを話す時の母さんは、僕にだけ向けてくれていたはずの、その優しい笑顔をしているのだ。それが気に入らない僕は、自分に父がいることをはっきり認識するのと同時に、どんどん父のことを嫌いになっていった。

もちろん、言うまでも無いことだが、幼い僕には、そんな感情をうまく隠すような器用なことは出来なかったので、いつもそれが顔や態度に出ていたらしく、母さんはその度に、

「あら、そんな顔しないで、あたしの可愛い仁♪」

と言いながら僕を抱き締め、そして、とびきりの優しい笑顔で僕を見つめるとこう言うのだ。

「ママはね、仁のこと大好きよ、世界で一番好き。でもね、仁のパパのことも同じくらいに好きなの、仁は分かってくれるわよね♪」

母さんにそう言われた僕は、いつもその時は分かった様な気になるものの、結局は同じ場面になるたびに父のことが嫌いになると言うことを繰り返し、モヤモヤする一方だった。そんなモヤモヤを持て余した僕は、このことを葉月に尋ねて見たことがあるのだが、その余りにも彼女らしい返答は、いささか僕を面食らわせた。

「だって、パパもママもわたしのものなのよ⁉ なにがいけないの?」

つまり、葉月の父さんと母さんを両方独り占めできるのは葉月だけなのだから、それが気に入らない理由が分からないというのだ。それは何となく違うんじゃないかなと思ったものの、それを上手く言えそうに無かったので、そのまま黙っていると、如何にも仕方が無いといった風情で腰に手を当てた幼い葉月は、

「もうっ、しょうがないわね! じゃあとくべつに、仁にはわたしのこともひとりじめさせたげるわ! いい⁉ とくべつよ⁉」

と言って(今ではすっかりお馴染みになったあの)ドヤ顔スマイルを浮かべたのだ。何だか、ドンドン方向性がズレて行ってる気はしたのだが、それでも、彼女独特のやり方で僕のことを気遣ってくれたことは、ちょっぴり嬉しかったのを覚えている。

そうこうしているうちにも季節は巡り、やがて、僕らが幼稚園に入園する春がやってくる。そしてそこには、僕がはっきりと認識して以来はじめて、父がやって来たのだった。

彼は、どうやら僕が寝てしまった後で帰宅したらしく、朝目覚めるといきなり枕元に居て、ひどく驚かされる。

「おはよう仁、パパだよ」

そう言った父の声は、それこそどうしたのかと思うくらい優しく、そのうえ何が悲しいのか知らないが、うっすらと涙を浮かべていた。僕は何をどうしていいものかわからず、そのまま固まっていると、父は両手を伸ばして僕を抱き上げ、

「ちょっと会わない間に、またこんなに大きくなったんだなぁ――、元気に育ってくれてありがとう、仁……」

と言って僕を抱き締めたのだ。

それから後は、何が何だかよく分からないものの、決して不快な時間ではなかった。

母さんと父と三人でとる朝食は、母さんの輝くような笑顔と、父がしてくれる見たことも無い外国の話、これからはじめて行く幼稚園のことや、葉月一家がとても素晴らしい人達だという話題などなど、経験したことの無いような朗らかさに満ち溢れていた。

そして、三人で行った入園式は、僕にとって何やら誇らしく感じられるものであり、葉月の父さんにシャッターを押してもらった母さんと父との記念写真には、ちょっとだけ胸を張った僕が写っていたのだ。

そんな風に、とても良い意味で僕の予想を裏切る楽しい入園式(と言うよりも、事実上はじめての父と過ごす日)の帰り道、家に向かう坂の途中で、母さんが葉月のご両親とお喋りをしているごく短い時間、僕は手をつないだ父と二人きりになる。僕がその横顔を見上げていると、視線に気付いた父がこちらを向き、まるで母さんがしてくれるような優しい笑顔を浮かべて話しはじめる。

「仁――、パパはね、お前にいることすら忘れられてしまうくらい駄目なパパだけど、でも、あんな素敵なママのおかげで、こうして仁のパパでいられるんだと思ってる。だからこれからも、たとえいつも傍にはいられなくても、全力でママと仁を大事にすると誓うよ」

そこで一旦言葉を切った父は、振り返ってちらと母さんを見ると、もう一度僕の顔を見てこう言ったのだ。

「それともう一つ、パパは絶対に仁からママを取り上げたりはしないよ、ママにとっての一番は、どんな時でも仁なんだ、パパはその次――、二番目だ。これも、仁に約束するよ♪」

そう晴れやかに笑った父の顔には、嘘や胡麻化しの陰など微塵も無く、どうやら、彼が本心からそう言っている様だと僕は感じた。

そして、その日以来、僕の中で母さんを横取りしようとする悪人になりつつあった父は、その悪いイメージを払拭し、急速に評価を上げていく。

それはやがて、母さんと同じとまではいかないものの、少なくとも、母さんの次に好きな人だと思えるほどにまで上がっていったのだ。

 

そう――、

あの日が――――、

思い出したくも無い、

あの日がやってくるまでは。



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〔第十四章・第五節〕

 その後も、父は特に頻繁に帰って来る様になったわけではなかった。もちろん、幼い僕がはっきりと分かっていた訳ではないが、今思い出してみると、概ね半年に一度くらいの間隔で帰国していたのだろう。

記憶している限りでは、少なくとも運動会とお遊戯会に一度ずつ父は姿を見せ、クリスマスプレゼントを持って帰って来て、お正月に旅立っていったこともあったが、それらは全て、僕にとってはこの上もなく楽しい思い出だった。

母さんと父の煌めくような笑顔は全て僕に向けられ、二人とも競い合うように僕を抱き締め、甘やかしてくれた。そのさんざめく様な幸福は、まさにあの時葉月が言ったように、僕が二人を独り占めできることの素晴らしさを実感させてくれた。それが唐突に喪われる日が来るなど、あの頃の僕は欠片も思いはしなかったのだ。

それから再び季節は巡り、僕が年長さんになった夏の事だった。

夏の盛りに帰宅した父は、確かに優しい笑顔で僕にただいまを言ってくれたものの、どういう訳か、いつもの晴れやかさを感じさせなかった。とは言え、それからの数日間、父は僕らを海に連れて行ってくれたり花火に連れて行ってくれたりと、一日も休むことなく親子三人の夏を満喫させてくれた。ただ、今から思えばなのだが、母さんはいつもよりも少し余計に、父を労わる様な素振りを見せていたようにも思う。

そして一夜、僕がふと目を覚ますと布団の上には誰もおらず、居間の扉の隙間から灯りが漏れていた。ああそうだ、一応付け加えておいた方がいいだろう。父が帰宅している間、僕らは三人並んで寝るために、1階の客間に布団を敷いて寝ていたのだ。僕は少々寝惚けながらも、灯りに惹かれて扉の方に向かうと、明らかに母さんと父の話し声が聞こえて来る。

「――どうしようもない、ダメな奴なんだ――、君を裏切る事になると、分かっていながら――」

「だめよ! そんな言い方、してはだめ――」

母さんの厳しい声音というのを、僕は初めて聞いたような気がする。

扉の隙間から、二人の姿が見えるようになると、母さんは父の頭を胸に抱き締めているのが分かり、少し優しい口調でこう言ったのだ。

「あなたが無理矢理付き合わされたこと位、良くわかってるわ、そうじゃ無かったら、こんなに正直に話して、謝ってくれないでしょ?」

それに対する父の応えに、僕は驚かされる。もちろん返事の中身にではなく、父が泣いていた事にだ。

「――ごめん、ほんとにごめんよ、文花……」

そう言ってすすり泣く父を母さんは抱き締めながら、とても優しい声で呟いていた。

「あらあら、ほんとにしょうがないわね、あたしの可愛い泣き虫さんは……」

もし父が嫌いな時の僕であれば、この光景に心底腹を立てていたかも知れないが、父の評価はもう十分に(僕の中では)高くなっていたのでそうは感じなかった。かわりに、何だか見てはいけないものを見てしまった様な奇妙な感じと、説明のしようもない、父に対する微かな共感の様な感覚を覚えていた。

やがて、僕は再び眠気を感じたので、改めて布団に戻るとそのまま眠ってしまった。そしてあくる日、まるで憑き物が落ちた様に晴れやかな顔をした父は、母さんと僕に見送られて元気よく旅立って行ったのだ。

それから、再びいつも通りの僕と母さんの生活が始まり、そこには、特筆すべき変化の様なものは何も――少なくとも、幼稚園の夏休みが終わるまでは――なかった。だが、夏休みももう終わりと言う時になって、母さんはうっすらと赤い顔をして熱を出す。

「仁、ママちょっと夏風邪ひいちゃったみたい」

心配になった僕は外へ遊びにも行かず、母さんにはできるだけ寝ていてもらおうと大人しくしていたが、その甲斐あってか母さんの熱はそれほど上がらず、なんとか幼稚園の始業式は無事に迎えることが出来た。ただ、その風邪はなかなかすっきりとは治らず、母さんは、微熱とだるさがとれないと葉月の母さんにこぼしたりしながら、数日を過ごす。

そうして、幾日かが経ったある日の夕刻のことだった。母さんと一緒に買い物から帰ってきた僕は、少しでも母さんには休んで貰おうと、買ってきた食材を冷蔵庫や冷凍庫に入れたり、キッチンのあちこちにしまったりしていた。ところが、もうそれが終わるという時になって、ふと気付いたことがある。いつもなら、母さんは僕が手伝う様子をとても嬉しそうに眺めており、全て片付け終わるのを待ちかねるかのように僕を抱き締めて、

「ありがとう仁、やっぱり、ママの大好きな仁はほんとに良い子ね♪」

といってくれるのに、なぜかこの時、キッチンに母さんの姿は無かったのだ。

一体どうしたのだろうと思いながら居間へ行くと、そこに母さんは座り込んでいた。

「ママ、どうしたの?」

どういうわけか、母さんは呼びかけに反応してくれない。不安になった僕は、傍に行って母さんの腕をつかむと、軽く揺すぶりながら、

「ママ? ねえママ? 返事してよ⁉」

と少し大きな声を出してみる。すると、焦点の定まらないぼんやりとした瞳にやっと光がやどり、視線が少し彷徨ったあとに、僕の顔にひたと向けられる。

「――じん――仁、仁よね? ああ――、ごめんね仁、ママぼーっとしちゃって――、どうしちゃったのかしら……」

そう言った母さんは、取り乱しているというより、どこかしら心ここにあらずとでも言うか、これまで余り見せたことのない様子だった。不安が募ってきた僕は、もう一度母さんの目を見て話し掛けようとしたが、ある変化に気が付き、思わずそれが口をついて出る。

「ママ、どうしたの? その目」

「えっ?」

そう言った母さんは、居間のテーブルの上に置かれていた手鏡を取りあげると、覗き込むようにして自分の顔に見入る。

「ほんとだわ――、どうしたのかしら……」

澄んで美しかった母さんの目は、黄色く濁ってしまっていた。

「ねえママ、お医者さんにいこうよ⁉ 僕、一緒に行くから!」

「だめよ、仁は幼稚園に行かなきゃいけないでしょ?」

「そのくらい、お休みしても大丈夫だよ! それよりママが心配だよ⁉」

「――わかったわ、仁がそう言うんだったらそうするわね。でも、やっぱり仁はちゃんと幼稚園に行かなきゃダメよ。ママ、ちゃんと行ってくるから、ね?」

「約束だよ?」

「ええ、約束よ」

母さんがそう言ってにっこり笑ってくれたので、ようやく僕は少し安心する。

そしてその翌日、僕は母さんに見送られながら幼稚園のバスに乗った。

幼稚園にいる間中、母さんのことが気になって仕方が無かったが、再びあの優しい笑顔と澄んだ瞳を母さんが取り戻してくれるのだと思って、じっと我慢していた。そんな僕の様子を気に掛けてくれているらしく、いつも以上にあれこれと世話を焼いてくれる葉月を、煩わしいような有難いようなどっちつかずに感じながら帰りのバスを降りたのだが、そこに母さんの姿は無かった。

「仁君、ママどうしたの? メールしても、お返事くれないのよ」

出迎えてくれた葉月の母さんのその何気ない一言に、僕は背筋が凍りつく。

「ママッ!」

ひと声叫んだ僕は、まっしぐらに家目指して駆け出す。脇目も振らず、必死に駆けて駆けて駆け尽くす。

家の前にたどり着くと、引きちぎる様に門扉を開けて玄関に駆け込むが、扉には鍵が掛かっていた。カバンの中にしまってある、一度も使ったことが無かった家の鍵を無我夢中で取り出し、鍵穴に挿そうとするがうまく入らない。

「仁君、貸してみて⁉」

追いかけて来てくれた葉月の母さんが、僕の手から鍵を取ると素早く鍵を開けてくれ、サッと扉を開けてくれる。その瞬間、僕は目の前の光景に絶叫していた。

ママァッ!!

母さんは、玄関の上がり框の奥で、体を折り曲げて倒れていたのだ。

「ママッママッ、しっかりしてっ⁉ ママッ、ねぇママッ、返事してよ⁉」

そう叫んで必死に揺さぶると、母さんのまぶたがぴくっと動き、本当にうっすらと目が開く。

「――だれ――?」

「僕だよ、仁だよ⁉ しっかりしてママ!」

「じん――ごめんね――まま――おいしゃさ――こうと――もったんだけど…………」

そこまで切れ切れに呟いた母さんは、それきり再び目を閉じてしまう。

「ママッ! しっかりして⁉ ねぇママ⁉ ママ⁉」

しかし、もう母さんは呼び掛けに答えてはくれず、それから幾らも経たないうちに、葉月の母さんが呼んでくれた(らしい)救急車がやってきて、僕らを病院へと運んで行ったのだ。

その前後のことを思い返すと、葉月の母さんには、どれほど感謝してもし足りないだろうと感じる。彼女は救急車を呼んでくれただけでなく、母さんの携帯のアドレスを見て、お祖父ちゃんお祖母ちゃん達にも連絡してくれた上に、父にもちゃんと連絡をしてくれた。病院の待合スペースで渡してくれた携帯電話からは、悲痛な父の声がしたのだ。

「仁、仁⁉ 大丈夫か⁉」

「パパ――、早く帰ってきてよ……」

「パパ、全速力で帰るからな! それまで、ママを守ってておくれ仁! 頼む……」

「分かった――、待ってるからね……」

にもかかわらず、父は帰って来なかった。

幼い僕には知りようもないことだったが、母さんが倒れたその翌日、米国で未曾有の大事件が発生したからだ。米国とその周辺の空域では、一斉に民間航空機の飛行が禁止され、航空路線は事実上のマヒ状態になり、世界中の国際線は大混乱に陥っていた。父が赴任している南米の国から日本に帰るためには、米国を経由する以外の方法はほぼ皆無だったので、まさにその混乱に渦中にいたわけだが、それも当然ながら、当時の僕が理解できる様なことではなかった。

母さんが倒れたその夕刻には、母さんのお祖母ちゃん(厳密には母さんの母さんなのだが、幼い僕は頭に「ママの」とか「パパの」とかを付けて区別していた)が到着し、翌日には父のお祖父ちゃんお祖母ちゃんも駆け付けてくれたのだが、父だけはいつまで経っても戻って来なかった。

そうこうするうちに、やがて母さんも目を覚まし、どうにか話が出来る様になる。

「ママ、大丈夫?」

「ええ、大丈夫よ――、仁にはこわい思いさせちゃったわね……。でも、とっても偉かったわ、とっても……」

そう言って僕の頭を撫でてくれた母さんは、何だかいっぱい管がついていて、そのうえまだ少し黄色い目をしていたものの、いつもの母さんにかなり戻っていたので、少なからずホッとする。

「ママ、パパは? どうして帰ってこないの?」

僕がそう聞くと、少し悲しそうな顔をした母さんは、改めて僕の頬に手で触れ、

「パパもね、きっと、羽があったら翔んで帰りたいと思ってるはずよ――、だから、もう少しだけ、我慢して待っててあげてね?」

と優しく言ってくれたのだが、今にして思えば、この言葉は半ばまで、母さんが自分自身に言い聞かせるためだったのかも知れない。

幼児である僕にとっては、ほとんど理解できないことばかりだったが、お医者さんとお祖父ちゃんお祖母ちゃん達が話すのを、切れ切れに聞いていたのを覚えている。お医者さんは、ウイルスがどうとか非常に珍しいとか言っており、なんとかの適合性がとか、低下を止めることが出来ないとか難しい顔をしながら話すのだが、それを聞いた母さんのお祖母ちゃんは、なぜか分からないが目に涙を溜めていたのだ。

そして、父のお祖父ちゃんはとても苦しそうな顔をすると、

「あの、大馬鹿者が……」

と汚いものでも吐き捨てるように言ったが、その時はそれが誰のことなのか、僕には良く分かっていなかった。

次の日には母さんは再び眠ってしまい、呼び掛けにも応えなくなってしまう。

(ママ、返事してよ⁉ 早く目を覚ましてよ!)

眠り続ける母さんを見ながら、僕はただひたすら心の中で呼びかけ続けるが、それがそう容易く通じるわけも無く、お祖父ちゃんお祖母ちゃん達がかわるがわる抱き締めてくれるのだが、苛立ちや無力感は募る一方で、次第にそれは、いつまでも帰ってきてくれない父への不信、そして怒りに繋がっていく。

(全速力だって言ったのに)

それがやがて、母さんが目を覚まさないのは、父が帰ってこないせいなのだという思いへと変わり始めたころ、とうとう父が帰ってきた。はっきりとした日にちはやや不確かなのだが、それは多分、母さんが倒れてから7日目のはずだ。

頬がこけ、憔悴しきった姿の父が、お祖父ちゃんお祖母ちゃんと一緒に病室に現れると、母さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんに向かって深々と頭を下げる。

それから傍に来た彼は、膝を付いて、

「ゴメンよ仁、本当に本当にゴメンよ……」

と言いながら僕を強く抱き締めたのだが、確かに、その言葉にも態度にも何の嘘偽りも感じなかったにもかかわらず、この時の僕は既に、それを素直に喜べる心境では全くなく、終始無言のままだった。

もっとも、父がそんな僕の感情を読み取れたのかどうかは甚だ怪しく、立ち上がってよろよろと眠ったままの母さんの横に行くと、動かぬ(それに何だか薄っすらと黄色くなっている)その手をとり、そのまま石のように固まってしまった。結局、その日の夕刻に、僕がお祖父ちゃんお祖母ちゃん達に連れられて家に戻るときも、ずっとそのままで微動だにしなかったのだ。

それから幾日目のことだっただろうか、余りはっきりとはしないものの、おそらく3、4日後のことだったと思うが、とうとう母さんが目を覚ましたのだ。ご飯を食べてから病室に戻ってくると、母さんは少しだけ起こしたベッドに横たわったままではあったが、軽く手を上げてはっきり僕を見詰め、

「仁、あたしの仁……」

と呼びかけてくれたのだ。

「ママッ!」

駆け寄って抱きついた僕を、母さんはそっと抱き締めてくれた。ベッドの上のことでもあり、ギュッと抱きつけなかったのは残念だったが、久し振りの母さんの暖かな手の感触が、僕を心の底から安心させてくれる。

「仁、お顔を見せて、可愛いお顔を、ママによく見せて頂戴?」

その言葉に僕は顔を上げて、しっかりと母さんの顔を見詰める。母さんは少しやせて黄色い顔をしていたし、目も少し黄色いままだったが、それでも、僕の大好きな優しい笑顔だった。

「ママ、もう大丈夫? 病気治るの?」

「ええ、もう大丈夫よ――。でも、すぐには無理だから、仁はもう少し我慢できるかしら?」

「うん、できるよ! ママが治るまで待ってるからね♪」

「ありがとう仁、仁のママになれて、とっても幸せよ……」

それから僕は、母さんと色々なことをお喋りした。

病気が治ったら何をするか一つ一つ数え上げ、その楽しい未来に夢中になり、時折、母さんが顔をしかめたり黙ってしまったりするたびに、調子に乗りすぎたと反省するのだが、それでも、母さんと過ごす時間はこの上も無く楽しいものだった。

そんな僕には、父をはじめとする周囲の大人達の様子はもちろん、母さんの変化を感じ取ることなど出来よう筈も無かった。やがて、どれほどの時間が経った頃だろうか、父のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが、少しママを休ませてあげようと言って僕を促し、母さんと父の顔を見ると二人ともそっと頷いているので、少々残念に思いながらも病室を出る。

いつの間にか、窓の外は暗くなっており、普通ならば家に帰らなければいけない時間のはずだったが、今日はなぜか帰らなくても良いみたいだった。がらんとした食堂で、買って貰ったアイスクリームを食べながら、僕は二人に、母さんと話ができて楽しかったそのテンションのままに喋りかける。お祖父ちゃんは、ニコニコ笑いながらうんうんと話を聞いてくれるのだが、お祖母ちゃんは目が痛いのか、頻りに横を向いてハンカチで目を押さえており、途中で席を立って目を洗いに行ったりしていた。

それから暫くすると、僕はだんだん眠くなってくる。おなかも膨れたし、母さんと一杯おしゃべりをしたうえに、僕が普通に寝る時間も近づいていたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、欠伸をする僕を見た二人は、ママにおやすみを言いに行こうといって僕を立たせ、再び病室に戻ってくる。

病室に入ると、母さんと父が小さな声で話をしていたが、僕が入ってくるのを見るとスッと口を噤む。先程よりベッドの傾きは小さくなっていて、母さんはほんの少しだけ上体を起こした姿勢だったが、少し疲れているようにも見えた。

「おやすみを言いに来てくれたのね?」

「うん、明日また来るね。ママはまだ寝ない?」

「ママもね、もうちょっとしたら寝るわ……。仁はもうお家に帰る?」

僕が振り返ると、父が口を開く。

「ママの傍で寝たかったら寝てもいいよ、パパがちゃんと連れて帰ってあげるから」

父の優しい言葉を久し振りに聞いたような気がした僕は、嬉しくなって母さんの顔を見る。

「いらっしゃい仁――、あたしの可愛い仁」

そう言ってくれた母さんの胸元に顔を埋めると、暖かな手がすっと背中に回されるのを感じる。

これでまた、もう暫くのあいだ僕は頑張れると思った。

母さんの病気がちゃんと治って、家に帰ってこれるまで、一生懸命いい子にしていようと思えるくらいに、それは幸せな――、久し振りに幸せな時間だった。

 

「――仁?」

 

「なあに、ママ?」

 

「仁はママのこと、好き?」

 

「うん、好きだよ、大好きだよ!」

 

「ママもよ――、仁のこと大好きよ……」

 

顔を上げて見ると、母さんはこの上も無く優しい、僕の大好きなあの笑顔を浮かべていた。

それを見て安心した僕は、そのまま母さんの温もりの中で、幸福を感じながら――目を瞑った。



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〔第十四章・第六節〕

 それから後のことは、僕にとって、何もかも他人事の様なものだった。

母さんがいない毎日など、何の意味も無い空っぽの器そのものであり、しばらくの間、僕は嬉しいとか悲しいとか感じることすら無くなっていた。笑うことはもちろん、泣いたり怒ったりすることも無くなり、感情の起伏と言うものをあまり感じなくなる。普通にしていても、何かしらどこかが欠けているような感じにずっと付きまとわれ、以前はとても楽しかったことや逆にとても嫌だったことなど、何をしてもあまり違いと言うか気持ちの変化を感じられなかった。

しかし、父には大きな変化があった。あの日以来、父は海外に行くどころか一転して毎日家にいる様になり、僕が小学校2年になったその1学期まで、ずっと家に居続けた。当時の僕には、それがどういうことなのか見当もつかなかったが、どうやら父は会社を休職していたらしい。

会社が優しかったからなのか父が会社にとって必要だったのか、どちらなのかは分からないが、とにかく、ある日突然に海外の赴任先を放り出して、そのまま2年間に渡って仕事を休み、その後また復帰するなどということは、並大抵の事ではなかっただろうとは思う。思いはするが、それはあくまで今の僕からすればの事であり、当時の僕は、そのことにも余り関心が湧かなかった。

ただ、これは当然のことではあるが、学校の行事だろうがなんだろうが、これまで母さんが来てくれたところには全て父がやって来る様になり、それは徹底していた。仕事に復帰してからも、父は必要とあれば平日に休みを取って学校に顔を見せ、何があっても、比較的近くに住んでいる母さんのお祖母ちゃんや、或いは葉月の母さんに代役を頼んだりは一度もしなかったのだ。

そしてそれは、僕に母さんがいないと言う事実として、すぐに知れ渡ることとなった。子供と言うものの残酷さは、それを平然とからかいに来ることでもよく分かる。僕はしばしば、クラスの男子や全く見ず知らずの子達にもからかわれたが、実のところ、それほどひどい思いをしたと言う印象ではなかった。

その頃から(それ以前からでもあるが……)、僕の周囲には常に葉月が目を光らせており、彼女がいる時はもちろんの事、そうでない時でもどこからともなく駆けつけて来て、それこそ猛然と反撃してくれたのだ。頭の回転も速く口も達者な彼女に、この年頃の男子が言い勝てる筈も無く、大抵はあっさり言い負かされて退散する羽目になるのだが、時にはすぐカッとなる短絡的な男子もいて、手を出そうとすることもあった。

ところが、葉月は恐れるどころか、待ってましたとばかりに大声で絶叫して人を呼び、やって来た教師や上級生、警官や無関係な通行人に至るまで、相手が誰であろうが関係なく、加害者達が如何に非道なことをしようとしたかを、相手が閉口するほどまくしたてるのだ。このせいで、学校に親を呼び出された男子は一人二人では済まず、その脅威は噂となって急速に広まったため、次第に僕をからかおうとするものは少なくなっていき、からかう気の無い普通の友達まで減る始末だった。

こうした彼女の振る舞いに感謝したり、或いはそこから派生する諸々の出来事に対して、ちょっとした不満を感じたりする様になった僕は、どうやらそれを切っ掛けとして、徐々にだが感情を取り戻しはじめた。そして、時たま口籠ったりなどはしながらも、少しずつ、周囲の人と普通にコミュニケーションが出来るようになっていった。

そんな僕の様子を葉月は自分のことの様に喜び、一層懇切に世話を焼く様になったが、それが行き過ぎたのか、僕達は遠足の帰路に皆とはぐれてしまい、捜索される羽目になったのだ。この時も、父は会社を早退して葉月の母さんより早く現地に駆け付け、ずっと麓の公民館の外で立ち尽くしたまま、僕らの下山を待ち続けていた。二人が無事に戻ってきた時の父の号泣振りは、周囲の関係者が思わずもらい泣きするほどで、その感動的な情景が地元紙に大きく取り上げられたほどだったが、だからといって、僕が一緒に感涙に咽んだ訳ではなかった。

そんな非常事態ですらそうなので、日常生活の中で父に話すことと言えば、学校の連絡と呼ばれた時の返事のみという有様だったが、父はそれを一切意に介さず、僕がどれほどつっけんどんにしようが、委細構わず話しかけて来るうえに、時にはひどく理不尽な文句を言ったりしても決して怒らず、笑顔すら浮かべていた。

こんな風に日々を過ごすうちに、あたり前の事ではあるが、僕もそれなりに色々な機微が分かる年齢になり、周囲の人達から、様々な情報がもたらされるようになりはじめる。曰く、父が生涯再婚する気はないと断言していること、今は息子(つまり僕のことだ)を立派に育てることしか考えていないと話していること、海外で働くことは父の夢であり、一度は母さんと生まれてくる僕のためにそれをあきらめようとしたものの、逆に母さんがそれを止めたらしいこと……等々だ。

これら諸々のことを僕の耳に入れてくれた人達の思いもそうだが、日頃の父の様子を見続けていたこともあって、次第に僕も父に対するわだかまりを解いて行き、中学生になる頃には、特に仲が良い訳ではない普通の父子程度には会話する様になっていた。

とは言っても、これらのことは僕が父を見直すことに役立ちはしたが、その反面で、さらに別の疑問を強く呼び起こさせたのも事実だ。母さんが亡くなったことに対して、父が強く責任を感じているのは、あの時帰国が遅れたせいなのだろうか、それとも、もっと別の理由があるのだろうか? 僕の脳裏でなお鮮明な、幼い時に見たあの一夜の情景は何だったのだろうか、母さんが亡くなったことと、何か関係があるのだろうか?

この疑問は日を追って大きくなり続けたが、さすがに、それを祖父母に尋ねることは憚られたし、ましてや父に直接それを聞くことなど、到底できる気はしなかった。だが、やはり我慢には限界があるもので、ある日、もう十分に我慢し切ったと感じた僕は、長らく近寄ることもなかった、あの病院を訪ねたのだ。

病院というところは、患者でもなければその家族でもない相手に、ゆっくり時間を割いてくれるほど暇ではないということを、この時つくづく思い知ったのだが、それなりに覚悟はしていたので、辛抱強く待ち続けた。そして、長い長い間待たされた末に、やっと僕の前に出て来てくれたのは、紛れもなくあの時の医師だった。

髪に白いものが多くなり、おそらく遠近両用とおぼしき眼鏡をかけるようになっていた彼は、僕のことを覚えてくれていたらしく感慨深げにしていたが、少しためらった後で、

「――何もかもという訳にはいかないが――」

と言う注釈つきではあるものの、当時のことを言葉を選びながらも教えてくれた。

彼の話によれば、母さんの病名は劇症肝炎とのことで、それはB型肝炎ウィルスによって引き起こされたものであること、そのウィルスが、国内ではかなり珍しい中南米由来のものであったことなど、やや遠い目をしながら話してくれたのだ。

(中南米? それって――)

僕の頭は急速に回転し始めるが、それは表に出さずに、出来るだけ平静を保ったまま質問してみる。

「それはひょっとして――、父から感染ったものなんですか?」

にもかかわらず、彼はわずかに目を伏せた後、再び目をあげると、穏やかだがきっぱりとこう言ったのだ。

「いや、それはやはり、私の口から言うべきことではないと思う。君がどうしても知りたいと思うのであれば、是非お父さんに尋ねてみるべきだろうね」

「――わかりました、どうもありがとうございました」

そう礼を言って僕は病院を後にしたが、もちろん、父に質問する気などは無かった。医師がこんな返事をしたこと自体が、すでに事実を物語っていると思ったからだ。

帰宅して、早速ネットで検索してみたところ、答えはいとも簡単に分かった――いや、分かってしまったと言うべきなのか。B型肝炎ウィルスは、感染者の血液や粘膜との接触によって感染するとあり、感染の主な要因の一つに『性的接触』とはっきり書かれていたのだ。

今更、あの夜のことを、正確に思い出してみるまでも無かった。父は母さんに、「君を裏切ることに」と言って泣きながら詫びていた(そして母さんは、そんな父を赦していたのだ……)からだ。僕は確信した――、父は現地の女性との性的接触で感染し、更に、それとは気付かないままに母さんにも感染してしまったのだと。

その時湧き上がってきた感情を、当時は説明できなかったが、こうして今思い返してみると理解できる。僕はもっと腹が立ったり憤ったりするものと思っていたが、それよりも遥かに強く感じたのは、もっと正体の知れない、言い様もない嫌悪感だったのだ。

(結局そうだったんだ、母さんを取り上げたりしないなんて、口先だけだったんだ!)

そんな風に、強い憎しみをぶつけても見たのだが、なぜか激情が湧いてくる気配もなく、静かで強い嫌悪が胸郭の内側を満たしていくばかりだった。

だからと言うべきなのかどうなのか、それほど衝撃的な確信を抱いたにもかかわらず、僕はその夜帰宅した父にも落ち着いて(会話も少ないので、ある意味当然かもしれない)接することが出来たし、その後も一見変わりなく過ごすことさえ出来ていた。もっと父に対する激しい憎しみや怒りがあったなら、それをぶつけることもできたのだろうが、その強い感情を手にすることが出来なかった僕は、ただただ耐えがたい嫌悪ばかりを日に日に募らせていった。

(ダメだ――、このまま、ずっと一緒に暮らすなんて出来そうに無い)

そう思い始めた僕は、遠くの高校を志望して家から出ることを考えてみたものの、自分の学力その他と相談して、うまく釣合うような先を見つけることはなかなか難しかった。考えあぐねた末に行きついた結論は、もう一度父に海外赴任してもらうことだ。

(とにかく、説得してみるしかないな)

そう結論付けると、ひとまずは目の前の受験に専念することにして、一方で父をどんな風に説得するか考え続けた。そして、どうにか無事に高校受験を乗り切り、近隣の県立高校に(残念ながら、葉月ともどもだ)合格することが出来たその夜、早速その話を切り出してみた。

「――あのさ――」

「なんだ、仁?」

久しぶりに缶ビールをあけた父は、言うまでもなくとても上機嫌だった。いささか心苦しさを感じながらも、僕は精いっぱい何気なさそうに切り出す。

「もう、海外では働けないの?」

それを聞いた途端、父は酔いがいっぺんに吹き飛んだような顔になる。

「――いや、そんなことは無いだろうが――、なぜ、そんなことを聞くんだ?」

「決まってるだろ、父さんが我慢してるからだよ」

すっかり素面になった父は、しばらくの間黙りこくっていたが、やがて徐に話し始めた。

「仁――、我慢してないといえば嘘になる――、けどな、もうそれはあきらめてるんだ」

「母さんは、それでよろこぶのかな?」

もちろん、事前に一生懸命考えた言葉だ。

「――――仁は、喜ばないだろうと思ってるのか?」

「そうだよ――、それにさ、父さんを我慢させてるっていう気がずっとしてるんだよ」

「仁が、そんなことを気にする必要はないんだぞ? お前を立派に育てることは、父さんの責任だ」

「もう十分育てて貰ってるよ、それにさ、海外で働いてたって、生活費ぐらいはちゃんとくれるだろ?」

「そ、そんなのは当たり前だよ、でも、お前はまだ中学生だ、一人暮らしさせるなんてさすがになあ……」

「4月からは、高校生だよ」

「いや、だからと言ってもな――」

「別に、無理を言う気はないよ――、でも、母さんが望んでたことなんだろ? だったら、僕は母さんの望んだ通りにしてあげたいだけだよ」

「仁…………」

それきり、父は黙ってしまった。そのままとても長い間沈黙が続き、さすがにどうしたものかと思い始めたころ、やっと父が口を開く。

「――仁、少し時間をくれないか、父さん真面目に考えてみるから」

「わかったよ」

その日はそれで、二人の会話は終わった。

 

それから数ヶ月後、結局、父は説得をうけいれて旅立っていった。

空港に一緒に見送りに来た葉月は、僕の心の中を見透かしているのか、ターミナルの屋上から飛行機を見送りながらこう言ったのだ。

「まだ、赦してあげてなかったのね、ここまでしなくたって良かったんじゃないの?」

(ちぇっ、何だよ――、全部分かってるみたいに……)

幼い頃はともかく、この頃になると、すっかり彼女の保護者然とした振る舞いが鼻につく様になっていた僕は、ろくに口もきかずに家に帰り、食事(父が作ってくれておいたものだった)を摂りながら、ふと立ててあった母さんの写真を見る。

ところが、一体どうしたわけか、写真の中の母さんはひどく悲しそうな顔で僕を見詰めていた。

「母さん――、僕、そんなに悪いことしたのかな?」

思わず口に出してそう言ってみたが、まるで写真の中の母さんは、「そんなんじゃないわ、でもね……」とでも言っている様に見えた。そんな風に、相変わらず僕のことをひどく悲しそうに見詰めている母さんに、一言だけ正直な言い訳をした。

「ごめん、母さん――。でも、やっぱりどうしても我慢できなかったんだ――。だって父さんは僕に、絶対母さんを取り上げたりしないって約束したんだよ――、なのにさ……」

このことで父と喧嘩をすることもできなかった僕にとっては、こうするしかなかったという強い気持ちがあったのは事実だが、そんな言い訳をしたからと言って何が変わるわけでもなかった。それでも、写真の中の母さんは、僕のそんな言葉を聞いてくれたのだろうか、悲しげだったその眼差しに、さらに労わるかのような慈しみが浮かんで見えた。

(母さん……)

その夜のうちに、僕は家中の母さんの写真を集めると、箱に入れて大切にしまい込んだ。母さんのその眼差しに、毎日見詰められながら暮らす自信が無かったからだ。

やがて月日が経ち、僕は自分一人の生活に馴染み、それなりの楽しさを見つけていった。

母さんのことを忘れた訳ではなかったが、そのことを強く思い出すことも減っていき、徐々にその面影も薄れていく一方だった。母さんと父とを、切り離して考えることが出来たら良かったのかも知れないが、それは無理な相談であり、僕にとっては、母さんの辛い思い出と父に対するどうにもならない嫌悪との両方に向き合い続ける様なことは、やはり重荷に過ぎたのだと思う。

もちろん、その後も父は年に1,2回ほど帰国したし、大学進学の際には少し長めに滞在して、手続きをしてくれたりはしたものの、僕に余り歓迎されていないことは感じ取っているらしかった。

葉月は、父が帰国するたびに迎えに行くと言い張り、食事を作るからと言って家に押しかけたが、おそらくは、僕と父を出来るだけ二人きりにしないように気を遣っていたのだろう。もっとも、それを素直に有難いと感じるほど、僕は素直ではなくなっていたのだが。

そして、いつしか僕は、過去の辛い思い出を心の奥底にしまい込んで暮らすことが、ごくごく当たり前になっていった。



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〔第十四章・第七節〕

 話し終えたときには、あたり一面夕焼けの赤一色に染まっていた。

「ゴメンね、長々と喋っちゃって……」

「ううん、いいのよ」

その何気ない遣り取りをかわしながら、顔を上げてむっちゃんの方を向いた僕は、息が止まりそうになる。

彼女の瞳から零れた涙が、まるで大粒のルビーのように夕焼けの色を映して煌いており、その美しさにハッとさせられただけならともかく、それ以上に、その瞳に満ち溢れていた深い労わりと慈しみとが、僕の心臓をギュッと握りしめたからだ。

「あ――――、か、かあさ――――、い、いやごめん、何でもないよ……」

「別に、謝らなくたっていいわ――、それよりも、教えて――あたし、仁のお母さんに似てるのかしら?」

そう言った彼女の顔を、思わずまじまじと見つめてしまう。

「――どう?」

「あのねー―」

「なあに?」

「ほんとに、すごく不思議なんだよ――、顔も姿も全然似てないのに、なぜこんなにむっちゃんは――」

「――お母さんと、似てる?」

「――うん……」

これまで、記憶の中の母さんの姿には、うすい靄がかかったようにはっきりしない部分があったが、今は鮮明に思い出せる。だが、鮮明であればあるほど、母さんとむっちゃんは似ても似つかぬ姿であることが、余計にはっきりする。

むしろ、姿かたちが母さんによく似ているのは葉月の方だ。実際、葉月は背丈や顔立ち、黒々とした髪をポニーテールにしているところなど、ほとんどそっくりと言っても差支えないくらいによく似ていた(葉月の事なので、ひょっとするとわざと似せようとしているかも知れない)。

にもかかわらず、それでも母さんに似ていると感じたことはただの一度もなかったのに、どう言うわけか、姿形が全くと言って良いほど似ても似つかないむっちゃんは、僕の記憶の中の母さんと幾度となく重なり合う。

「そう――、そうなのね――。それなのに、何だかあたし……」

「どうしたの?」

「だって――、あたしは七十年前からずっと海の底にいて、そこから見える世界しか知らなかったのよ。でも、その間に、陸の上では仁が生まれて、この世で一番好きだったお母さんを亡くして、泣くことも笑うことも忘れて、お父さんを嫌いになって、大好きだったお母さんのことも忘れていただなんて――。あたしがずっと、海と海面の向こうの空だけを眺めてた間に……」

「でも、それはさ――」

「わかってるのよ、でも、何だか悔しいわ、あたしをこんな姿にしてくれたのが神様なんだったら、どうして、もう少しだけそれを早くしてくれなかったのかしら……。そうしたら、あたしはちっちゃな仁のところに来て、ぎゅって抱き締めてあげられたのに……。もう一度泣いたり笑ったりできるようになって、大好きなお母さんのこともちゃんと思い出せるようになって、お父さんとも一緒に暮らしていけるようになって、こんな風に大人になるまで、ずっと傍に居てあげられたのに……」

「むっちゃん……」

「馬鹿な事言ってるわよね――、ちっちゃな仁が、突然やって来た見たことも無いあたしにギュッてされて、嬉しかったり安心したりするわけないものね……。だから、そんなことできるわけないわよね……」

「……」

本当にいつものことなのだが、ここで何かを言わなければと思ってみるものの、やはり、何一つ気の利いた言葉が湧いてこない。

ただ、こんな僕にも、一つだけ確信を持てることがある。もしも、幼い僕の前にむっちゃんが現れて、抱き締めてくれたとしたら、きっと怖れたり怪しんだりする気持ちよりも、そのやさしく暖かな胸に抱かれる喜びと安らぎとの方が優ったことだろう。例え今の僕でなくとも、幼い僕にだって、彼女の純粋なやさしさと心地良い暖かさを、ちゃんと理解出来るはずだと思う。

でも、例えそうだったとしても、あの幼い日々は全て過ぎ去ったことだ。もはや取り返すことなどかなわない、遠い日に起こった出来事ばかりなのだ。

「けれど――、みんな起こってしまったことばかりなのね……。今どんなに願ってみても、どうにもならないことばかりよね……」

まるで僕の心の中を読み取ったかのように、むっちゃんが呟く。そうだ、起きてしまったことばかりだ――、僕が亡くしてしまったものはみな、今からではもう――――。

「ねえ仁?」

「うん、なに?」

「ちっちゃな仁を、ぎゅっとしてあげるのはもう出来ないから、今の仁をぎゅっとしてもいい?」

「え……?」

僕の顔を見ながらそういった彼女は、すっと立ち上がって僕の前に立つ。

 

(あっ……!)

 

少し下から見上げるむっちゃんの顔は、夕日の最後の残光に照らされて赫く染まっており、優しさと慈愛に満ちた笑みを湛えている。

それを目にした刹那、胸の深い奥底で、長い間錆びつき閉ざされていた水門が、ギシギシと音をたてて軋みはじめる。

夕焼けに染まった、この上もなく優しい笑顔は、

僕を愛してくれた――――

世界一好きだと言ってくれた――――

そして僕もまた世界一好きで――――

いや、僕にとって世界の全てであり、

世界そのものだった――――。

 

(違う! ……やめろ、勘違いするな……!)

 

「…………母さん…………!」

 

少々言い聞かせたぐらいでは、やはり僕の体は言うことなど聞きはしなかった。

それに、例え、言うことを聞かせられたとしても、抗える術など実は何もなかった。

彼女のいたわる様なその手が、僕の頬にそっと触れた瞬間、錆びついた水門は一気に開け放たれ、胸の奥からどっと何かが溢れ出してくる。

夕焼けの公園で、小さな両手を差し上げる僕を、この上もなく優しい眼差しで見つめ、その暖かな両手で抱き上げるとしっかりと抱き締めてくれたのは、紛れも無く母さんだった。

その温もりに包まれる安らぎは、二度と触れることのできない、久遠の彼方に喪われてしまったはずだった。

そうだ――――、たった今、この瞬間までは……。

 

「あたしは、仁のお母さんにはなってあげられないけど――、でも、今だけは、大好きだったお母さんのこと、一杯思い出してね……」

 

何もかもを包み込んでしまう、柔らかなむっちゃんの胸に抱き締められて、僕は涙を流した。

遠いあの日に流すことも出来なかった、胸の奥底に溜め込んだままだったそれは、どれほど流しても尽きることが無いほど、とめどなく溢れ続けた。

 

「あらあら、ほんとにお馬鹿さんね……。こんなに悲しかったのに、ちっちゃな仁は、じっと我慢して泣かずにいたのね……。大好きなお母さんを亡くして、辛くて悲しくて仕方なかったはずなのに…………」

 

僕を抱き締める彼女の腕の温かさは、あの日の母さんの最後の思い出そのものだった。

あの時感じた幸せは、ほんの一夜で喪われ、それきり、二度と手の届かないものとなったはずだったのに、今同じ温もりと幸福とが僕を包み込んでいる。

 

(母さん――――母さん…………)

 

涙を流しながら、僕は悟った。

母さんは、僕を愛するのと同じくらいに深く父を愛し、父もまたそれに負けないほど母さんを愛していたことを。

不器用な父は、母さんを喪った後、自分の残りの人生を全て擲ってでも、母さんと同じように僕を愛そうとしていたことを。

それらを、僕はとっくに理解していたにもかかわらず、それを素直に認めることが出来なかったことを。

だが、それら全てを認めるためには、その痛みを受け止めなければならなかったのだが、胸の奥底にいる、幼い日のままの僕にはそれが出来なかった。

その幼い僕は、いつもその痛みを拒み、叫ぶのだ。

喪ってしまった自分自身の一部は、ずっと欠けたままだと。

はち切れそうなほどの悲しみを抱えて、恨めしげな暗い瞳で、こちらをひたと見詰めている幼い僕が……。

 

(でも、君がそれをくれた――、僕があの日、母さんと一緒に亡くしてしまったものを……)

 

正直な僕も、素直でない僕も、いつも自信が無くて頼りない僕も、それら全てを分け隔てなく等しく愛してくれる――まるで母さんのように、僕の全てを無条件で受け容れてくれる――むっちゃんが、欠けたままだったそれをくれた。

長い間見つからなかった破片が、魔法のようにぴったりと接ぎ合わされるのを見るように、僕の心の最も奥深くにある何かが、満たされていくのを感じる。

胸の奥底にあの日からずっと居つづけた、悲しみに満ちた目をした幼い僕が、幸せそうに笑っているのがはっきりと見える。

 

(これが、僕の欲しかったものだったんだ――、ずっとずっと欲しかった……)

 

手垢に塗れた言葉だと思っていたが、彼女と巡り会えたことこそ、本当に奇跡そのものだと思った。

むっちゃんは僕の命を救ってくれたばかりか、遠い昔に喪ってしまった、大切な何かをも与えてくれたのだから。

「――むっちゃん――――僕は――」

泣きながら懸命に何かを言おうとしたが、名前を呼ぶことしか出来ない情け無い奴のことなど、既に彼女はお見通しなのだ。

 

「なんにも言わなくていいの……。それよりも、思い切り泣くこともできなかった、ちっちゃな仁の分まで一杯泣きなさい――、あたしの可愛い泣き虫さん……」

 

彼女の言葉は、砂漠に降る雨のように僕の全身に沁み込んでくる。

そこにはもう、素直でない僕がいる余地はなく、ただただ己を潤す温かな雨を受け止める草の様に、彼女の言うことに素直に従うことしか思いつかなかった。

何もかも、ありのままを受け容れてくれる彼女の前では、見栄も意地も必要なく、まるで、母さんと二人の日々を過ごしていたあの頃に戻った様に、ただただ無心に泣くことができたからだ。

 

その幸せに――、もう二度と手にすることはないと思っていたそれに――、尽きることのない涙を流しながら、浸り続けるばかりだった僕は、街路樹の陰から注がれる、葉月の燃える様な眼差しには、最後まで気付くことが出来なかった。



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〔第十四章・第八節〕

 斑駒に、中嶋の行先を尋ねたところ、

「今、史料館に行かれてると思いますよ! 多分、お一人で♪」

と、意味ありげな笑顔で言われてしまった。

(別に、そんなことを期待してるわけじゃないのだけれど)

と口に出しはしないものの、敢えて胸の中で独り言ちてみるのは、やはり心の片隅に、秘かにそんなことを期待してしまう自分が見え隠れするからだ。

(我ながら困ったものね――、よく人間は、こんな厄介なものを抱え込んで、数十年も生きていられるものだわ)

気を取り直して目当ての建屋を探し当てると、扉を開けて足を踏み入れる。中をうかがうと、人のいる気配があったので、その一角に近付きつつ声をかけた。

「失礼致します、中嶋副長はおられますか?」

「――はい、おりますが?」

柱や書棚の陰になって姿は見えないが、奥から返事があるので歩を進める。

「お忙しいところを申し訳ありません、少し、教えて頂きたいことがあるのですが……」

言いながら角を回り込むと、何やら資料を手にした中嶋が、顔をあげてこちらを一瞥しながら口を開く。

「加賀さんでしたか、ご用の向きはなんでしょうか?」

そう問い返されたものの、努めて朗らかに振る舞っているらしいその声音に、彼の内心の翳りを感じとってしまい、肝心の用を切り出すことに躊躇いを覚える。

(躊躇ったところで、どうせ誰かが尋ねることよ? さっさと聞きなさい加賀!)

内心で自分を叱咤すると、意を決して口火を切る。

「あの――、陸奥さんの船体の引き揚げ作業は、あとどれ位で終わりそうでしょうか?」

だが、そうたずねた途端、事前の予想通りに彼の表情は曇ってしまい、努めて鼓舞した自身の意気も、瞬く間に消沈してしまう。

「おそらく、三週間以内には終わることでしょう、若干天候には左右されるでしょうが……」

「そうですか……」

何か会話を繋げようと思ったが、こんな時に限って何も思いつかない。相手の心中を慮って喋ろうとすると、こんなにも旨くいかないものなのだろうか。そうだとすれば、普段の自分は随分楽をしているものだとやや自嘲気味に思ってしまうが、今日は幸いにも中嶋が続けて口を開いてくれる。

「不謹慎にも、何か重大なトラブルで中断してくれないだろうかなどと、下らないことをつい考えてしまいます、全くもって呆れた話ですが――」

「い、いえ、そんなことはありません、皆も、多かれ少なかれ似たようなことを考えていると思います」

「――ありがとうございます、加賀さんは本当にお優しい……。私の様に駄目な男は、つい、その優しさに甘えてばかりになってしまいます――」

「駄目だなどと、滅相もありません。あなたがおられなければ、私達は、こんなに安穏としてはいられなかった筈です――、どうか、そのようなことは仰らないで――」

「しかし、こんな、誰も望んでいない別離を招きよせたのはこの私です! 己の感情に溺れた、私の不甲斐無さが招き寄せたことです!」

急に、中嶋の語気が荒くなる。あの夜、警備船の小さな会議室で見せたあの姿が再び重なり合い、どうしたものかと戸惑ってしまうが、それでも、何とか気を鎮めてもらおうと言葉を繋ぐ。

「私はもちろん、陸奥さんも渡来さんも、誰もあなたの所為だなどと思ってはおりません。なぜその様に――」

「起きてしまった事実は、動かし様がないからです!」

加賀の言葉を叫ぶように遮った彼は、くるりと背を向け、そのまま吐き捨てるように続ける。

「皆さんの出現は、我が国の安全保障上極めて重要な問題の筈です! それに、彼の様な一般人を関わらせるなど、本来あり得ないことです――。いかに司令が希望されたとはいえ、正しく諫めていれば、彼をこんなに深く関わらせることにはならなかったのに、私は安直に同意してしまった! その上、ビキニ環礁に出向くなど、少し考えれば、漏洩はもちろん疑念を持たれる危険があることくらい、容易に想像できたにもかかわらず、私は気づけなかった! それもこれも全て、私が一時の感情に流されて誤った判断を下す、くだらない男で――」

「やめてください!」

後先も考えず、中嶋の背中にしがみつき、そうすれば彼の心の中にまで声が届くのだとばかりに、その項に頬を押し付けて叫ぶ。

「完璧な人間なぞ、どこにもおりません! 人間も艦娘も、誰もが等しく間違いを犯すものです! それに――、よしんばあなたが神様の様に完璧な方であったとしても、陸奥さんと渡来さんが惹かれあうのを、止めることなど出来ません――、誰かを好きになることを、止めることなど出来ません――――。だからもう、ご自分を責めるのはやめてください――、お願いです……」

中嶋は、肺腑を震わせて荒い息をしていたものの、加賀の願いを聞き入れてくれたのか、そのまま暫く口を噤んでいた。

そして、やはり彼の様子をしばし窺っていた加賀も、その背を固く抱き締めたままである事に不意に気が付き、狼狽して身体を離そうとするが、いきなり突き放すわけにもいかないと既のことで踏みとどまり、いささか名残惜しい気持ちに後ろ髪をひかれながらも、出来るだけそっとまきつけた腕をほどく。

「――あの――」

「申し訳ありません――、加賀さんに向かってこんなことを――」

「いえ、そんな――、でも、どうしてそれほどまで……」

思わず口をついて出てしまったその問い掛けに、不味いことを聞いてしまったと焦り、何とか上手に取り繕おうと心中で七転八倒する間に、答えるべきか逡巡している様子だった中嶋が、押し殺したように口を開く。

「――私には――――、妻と息子がいたのです」

「あっ――、そ、それは、いつ頃の事でしょうか」

「もう、十数年も前の事です」

「そんなに……」

「当時の私は艦艇に乗り組んでおり、西田司令の部下でした。司令は私をたいへん評価してくださり、私も司令を尊敬しておりました。ある時、司令のお兄様の娘さんを紹介して頂くことになり、私はそのつつましやかな様子に惹かれました。そして、彼女も私のことを気にいってくれ、そのまま結婚しました。それから程なく、妻は玉の様な男の子を産んでくれました。私は、慎み深い子に育ってくれるよう、慎と名付けたのです」

「慎さん――」

「ええ――、慎は私の期待通りに、穏やかで心優しい子に育ってくれていました。私はとても幸福でした、何の不満も感じていなかったのです……。ところが、妻はそうでは無かったようです。いつ頃からか、しばしば癇癪を起こしたり、わけもなく泣き出したりする様になり、次第に不安定になっていきました」

「――何故、そんなことになられたのでしょう――」

「はっきりしたことは、今も分かりません――、ですが、私は航海の度に長く家を留守にしていましたし、それは少なくとも一つの要因だったでしょう。――それに、どうやら妻は女の子を望んでいたらしく、そのことにもわだかまりを感じていたのかも知れません。いずれにせよ、このままでは家庭が壊れてしまうと思い、私は陸上勤務を願い出ました。」

「それはやはり、ご家庭を大切になさりたかったから――」

「はい、折角手に入れた自分の家族を、何とか守り抜きたいと思いました。若くして艦艇から降りることは、どう言うことを意味するかも分かっていましたが、それでも構わないと思ったのです――。が、司令はそれを惜しまれ、何か手立てがないかもう一度考えてみるべきだと言われました。妻のご両親も、留守中は自分達が顔を出すようにするから、もう少し様子を見てはどうかと言って下さったのです――。私は、――それを押し切ってまで決断することはできませんでした……。結局、もう少しだけ様子を見ようと思い直してしまったのです……」

「でも、それは致し方の無いことではありませんか? そこまで皆さんが言って下さるのを無視するのは、難しいことの様に思いますが?」

「ありがとうございます――、ですが、起きてしまった事は変えようもありません――――。しっかりと握っていなければならないはずの手を、私が離してしまった事は動かし様も無いのです…………」

「そんな――!」

「それは、航海中に起こりました。急報が入り、極めて異例でしたが、司令は急遽最寄りの港に立ち寄って、私を下ろしてくださいました。そこから、陸路で真っ直ぐ病院に向かいましたが、焦りといら立ちで気が狂いそうでした。やっとの思いで病院に辿り着いたのですが――、病院のベッドの上には、シーツの被せられた、小さな膨らみがありました――。私は、手が震えて――、しばらく、シーツを捲ることが出来ませんでした。どれ程経った頃か、はっきりとは覚えていませんが、やっと、自分で何とか手を動かせたので――、シーツを捲ってみたのです――」

「もうおやめください――、そんな辛いことをお話にならなくても――」

そう言ってはみたものの、彼は加賀の言葉が聞こえているのかいないのか、淡々と言葉を続ける。

「横たわった慎は、身動き一つしませんでした。華奢な首に、黒っぽい痣の様な跡があったので、そこに触れてみると、まるで、その病室のコンクリート壁の様に冷たかったのです。それが信じられなくて、小さな可愛らしい手を握ってみたのですが、彫刻か何かに触っているかの様でした。私は、一体何が起こっているのか、理解することが出来ず、長い間、ただ茫然としていました。そして、その後で知ったのです――。妻は死にきれずに、一命をとりとめていた事を」

「奥様はご無事で……」

「ですが、妻には会えませんでした。既に意識が戻っていたのですが、私が到着すると聞かされると半狂乱になり、死んでも会わないと言い張ったそうです。結局、それ切り、妻に会うことは出来ませんでした」

「どうなさったのですか?」

「妻からは、離婚したいと申し入れがあったのです。何もかもを空しく感じていた私も、それに応じました。やつれ果てたご両親が必死に詫びるお姿を、これ以上見続けることに苦しさも覚えていたからです。離婚が成立して、慎のために小さなお墓をたてて、気持ちもいささか落ち着いた時、司令から艦艇に戻って来てはどうかと言われましたが、私はそのまま陸に上がりました。十年以上、あちこちを転々としましたが、私にとっては、目の前に何かしら仕事があるというだけで満足でした。ところが、昨年になって、この訓練隊への異動命令がありました。司令は何も仰いませんでしたが、私を呼び寄せてくださったのです。そして、図らずも、皆さんや渡来さん達とお会いすることになったのです」

「そうだったのですか……」

そう口にした加賀の胸中にある確信が浮かび、その思いはそのまま口をついて出る。

「あの――、私の勝手な当て推量で申し訳ありませんが、ひょっとして渡来さんは――、似ておられるのですか?」

それを耳にした中嶋は、己を嘲るかのような皮肉な笑みを浮かべる。

「お恥ずかしい限りです――。彼と初めて会った時、混乱してしまいました。実は慎は生きていて、誰かの手で育てられていたのかと、愚かな妄想を巡らせたほどでした。慎が生きていたなら、きっと、こんな若者になっていただろうと想像していた姿そのものだったからです。それに、どうやら司令も同じことを感じられた様なのですが、何よりも、彼の示した人格の片鱗に大いに興味を持たれ、ゆくゆくは、彼を防衛隊に迎え入れたいという希望を口にされたのです」

「それが、先ほど仰ったことなのですね」

「はい、副長として、冷静にそれを諌めるべきでした。にもかかわらず、私は彼の中に慎を見てしまっており、つい司令に同調してしまいました。彼と塔原さんを、通例を甚だしく逸脱するほど、皆さんと深くかかわらせてしまったのです」

「……」

とっさには適当な言葉が浮かんで来ず、加賀は黙り込んでしまい、二人の間に、音が吸い込まれてしまった様な空間が出来る。

(駄目だわ――、何か言わないと……)

焦ったものの、気の利いた台詞はやはり出てくる気配もない。仕方なく、逡巡しながらも、あまりに捻りのない質問をしてみる。

「あの――」

「はい――?」

「私にそんなに大切な――、しかも、辛いお話をして頂いてよろしかったのでしょうか」

「いえ、私の勝手な由無しごとばかりお聞かせしてしまいました……。でも、話さずにはいられなかったのです……。私は、己の小さな家庭すら――、幼い命一つすら守れなかった、無力な男であることを――、本当に大切なものは何なのか、それを喪ってから、はじめて気付く様な愚かな男であることを……」

「おやめください! 今のお話をうかがって、一体、誰があなたを責める事ができるのですか⁉」

懸命に否定してみたが、彼はそれには応えず、皮肉な笑みを口元にとどめたまま話を切り上げようとする。

「お引き留めしてしまい、申し訳ありませんでした。他に、ご用件はおありでしょうか?」

その声の事務的な響きに気圧され、一瞬引き下がってしまいそうになるが、必死に己を叱咤して勇を奮い起こす。

(しっかりしなさい! 兵たるもの、機に臨んで変に応ずること位出来なくてどうするの⁉)

「は、はい、一つだけお願いがあります」

「私にお応え出来ることでしょうか……?」

「ええ――、その、今でなくて構いません……。でも、いつかは――――加賀と呼んで下さい」

森閑とした時が気の遠くなるほどの間刻まれ、周囲の世界が消滅してしまったかのような錯覚に襲われた加賀を、中嶋の低く静かな声が現実に引き戻す。

「あなたのお気持ちはとても嬉しいのですが、どう考えても、私如きには身に余ることです……。どうか、ご勘弁ください――」

「一体、何が駄目だと仰るのですか? 私は、あなたがどの様な方であろうと、その支えになりたい……。私の様な、可愛げのない女には興味が無いと言われるのでしたら、素直に諦めもつきますが――、少なくとも、そのお答えをうかがって引き下がることは、致しかねます」

再び彼は沈黙するが、今度は随分と短い時間のように感じてしまい、自分の頭がおかしくなり掛けているのではないかと訝ってしまう。

「出来れば、お聞き入れ頂きたいのですが――、それでも納得いかないと仰るのであれば、少々お時間を頂けませんか?」

「も、もちろんです――、待つことなど、何程の事がありますでしょうか」

「ありがとうございます、加賀さん」

「い、いいえ――、私の方こそ、お仕事中に長々とお邪魔をしてしまいました、こ、これにて失礼致します」

また久し振りに機械仕掛けになった彼女は、例によってぴょこんと頭を下げると、くるりと踵を返して出口に向かうが、一応さきの失敗が生かされており、今度は何処にもぶつかることなく、無事に史料館を出ることができる。

ところが、外に出た途端急に膝が嗤い出し、思わず其処に崩れ落ちそうになる。

(なにやってるの⁉ しゃんとなさい、しゃんと!)

今日何度目かの叱咤を己に浴びせ、がくがくしながらも何とか歩き出すが、今度は激しい自己嫌悪が波浪の様にうちつけてくる。我ながら酷い話だった――。陸奥との別離が迫っており、皆、その不安に何とか耐えながら日々を過ごしているというのに、自分はちゃっかり惚れた男に粉をかけているとは!

(なんて卑しい女なのかしら、私……)

一瞬、情けなくて涙が出そうになるが、そう易々と泣いてたまるかと言う気持ちの方が強く、出掛かった涙もさっさと引っ込んでしまう。

(構わないわ、どうせ、私はがさつで可愛げのない女よ)

無理やり開き直った加賀は、なおもぎくしゃくしながら、大股で歩き去った。



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第十五章
〔第十五章・第一節〕


 盆が近づき、斑駒が忙しそうにしている。

訓練隊のあるこの敷地には、陸上・航空の各防衛隊も学校や駐屯地を構えており、これらが合同で納涼祭を毎夏催すらしいのだが、どうやらその際に、自分達が浴衣を着て祭りに参加できるよう奔走しているらしい。そんな費用を、今度はどこから捻り出してくるつもりなのかと思ったものの、斑駒がはぐらかすので仁にそれとなく聞かせてみたところ、なんと隊員達の寄付(現代では『カンパ』とか言うらしいが)とのことだった。

「僕にはカンパさせてくれないんですよ~、さんざん体で払って貰ってますから! って言われてしまって……」

と相変わらず済まなそうに言う彼の様子に、長門は思わず苦笑してしまう。

「それは致し方あるまい、お前が好きでやっていることとは言え、散々ただ働きしているのは事実なのだからな」

実際のところ、毎日のようにやって来ては、斑駒の仕事をほとんど奪う勢いで自分達の世話係りに精を出す仁が、その様に扱われたところで何の不思議も無いし、もっぱら彼が艦娘達の世話係を務めることで、斑駒が他の事に専念する余裕ができているのは間違い無さそうである。

「ねえ仁、お祭りってどんな感じなの?」

「そうだねぇ、花火があって、盆踊りや太鼓の演奏があって、いろんな夜店が出て~って感じかなぁ」

子の日の質問に何気なく答えている彼の横には、当然のように陸奥がいるのだが、この数日間ほどのことだろうか、二人の様子は明らかに以前とは違っていた。近頃では、長門はもちろん仲間達全員が、少々大袈裟な言い方をするなら、腫れ物に触るような調子で接していたのだが、どうしたものか、今の二人からは切羽詰った様な不安定さが感じられない。

無論のこと、不思議に思った長門は一体何があったのか尋ねてみたのだが、妹の返事はいささか曖昧で要領を得なかった。ただ、胡麻化そうとか隠そうとしている訳ではなさそうで、どちらかと言えば、どう説明してよいものか良く分からないといった態に見えた。

(お前が経験していることは、一体何なのだ? 同じような女の姿ではあるものの、私には理解できないことなのか? それとも、いつの日にか我らはみな、今のお前の気持ちを理解できるようになるのか?)

その問い掛けに答えなど無いだろうと思いながらも、長門は胸のうちで改めてその質問を反芻しながら、彼らの会話の続きを見るともなく眺めていた。

「え~、それなあに? どんなものなの?」

「酒匂ちゃんは、どれも見たことが無いのかな?」

「そうよね、海軍記念日の祝祭とかも覚えてないかしら?」

「ぴゃー……、酒匂知らないの」

「じゃあ今度のお祭りの時に、みんなと一緒に全部一辺に経験できるわね♪ あたしだって同じよ、見たことはあっても自分で体験したことは無いんだもの」

人間に対するわだかまりを捨てきれない酒匂は、例え斑駒であろうと自分から話し掛けたりはしないのだが、陸奥が傍にいる所為もあるのか、自分から仁に話し掛けている。どうやら今のところ、彼女が普通に接することの出来る唯一の人間の様だ。

(奴の人柄のせいかも知れんな。何にせよ、良いことだが)

「そうですね、このお祭りこそ、私達が陸奥さんと一緒に楽しく過ごせる最後の機会でしょうから、存分に楽しませて頂きましょう」

一週間前なら、赤城がこんな物言いをすることなど、到底出来るような雰囲気ではなかったが、今はそれもさらりと聞き流せる。

(赤城のやつめ、存外に細かな気遣いもしていたのだな。そこまで粗忽者ではなかったか♪)

「陸奥さんと渡来さん、どうしちゃったんですかねぇ~」

いつの間にか横に来た龍田が、誰言うともなく口を開く。

「そうだな、少なくとも私には完全に理解できぬことらしいが、あれらにとっては、何やらとても意味のあることがあったのだろうな」

「お二人が特別なだけなんですかねぇ~、それともぉ、私達も人間達もいつかは、みんな同じくらい分かり合える様になるんでしょうかぁ~」

あたかも、長門の胸中を見透かしたかのような彼女の言葉に、思わず自嘲の笑みが滲む。

(何と言うことだ、お前は私の心の裡を理解しつつあると言うのか? まぁ、単に私が分かり易いというだけなのかも知れんがな……)

あの日以来、龍田が抱きついてくることはなくなり、そっと寄り添ってきたりごく控えめに手に触れてきたりする程度になっていたが、立ち居振る舞いが控えめになるのと裏腹に、彼女の言動は日に日に長門の心情に寄り添ったものになりつつあった。もちろん、長門自身は相変わらず女色にも色恋そのものにも全く興味は無く、龍田にどれほど本気で恋慕されようと、それに応えることは出来ぬとしか言いようが無いものの、その心根をいじらしくも感じるので、殊更に拒んだりはしていない。

(いつの日にか、お前の抱いている痛みを、我が事のように受け止め分かち合ってくれる男が現れてくれれば良いのだがな)

仲間と共にいるだけで十分だと思える者や傷を癒される者もおり、かく言う長門も、嘗ての戦友達の為にこそ己はあると思うことで、この様に奇想天外な自分のあり方を享け入れることが出来ている。だが、見たところ龍田は、それ以外に更に何がしかの支えを必要としている様であり、それは正に、陸奥にとっての仁の様な存在なのではないかと思われた。

(まぁ、それを確信を持って言い切れるほど、豊かな経験はしておらんのだが……)

「それはそうとぉ、塔原さんは、今日も来られないんですねぇ~」

「ん――、そうだな、確かに今日もだな」

「やっぱりあれなんですかね~、お二人のこと、傍で見てるのが辛いんでしょうかぁ」

「辛いのか、不愉快なのか、それとも更に別の情念を持って見ているのか――、どう思っているのやらな」

「子供の頃から知っているとか、ずうっと何年も前から好きだったとかって、一体どういう気持ちのものなんですかね~」

「それこそ、少なくとも我らが同じだけの歳月を、この姿で過ごして見ぬ限り――、いや、もっと厳密に言うならば、我らは幼い頃と言うものは経験できぬし、同じ人間達に囲まれた暮らしの中で成長するということも実感できはせんのだから、その胸のうちを垣間見ることすら出来ぬ相談かも知れぬな」

「結局ぅ、人間のことは人間同士で解決してもらうより、仕方ないのかしらぁ~」

「そう言ってしまえばそれまでのことだが――、何より、我らが人間の助けを必要としている以上、そう無碍に突き放すわけにも行くまいが」

「うふふぅ、それもそうですねぇ♪ じゃあ、参考になるかどうか分かりませんけどぉ、一度妙高さんに、加賀さんのことどう思ってるのか聞いてみましょうかぁ♪」

「なんだと、なぜ妙高に加賀のことなぞ――――、おい龍田よ、ということはまさか――」

「そぉなんですぅー♪ 妙高さんが、綺麗さっぱり吹っ切れたのかどうかは分かりませんけどぉ――」

「ちょっと宜しいですか? 龍田さん、一体、何を長門さんに吹き込んでらっしゃるのかしら⁉」

突然背後から、妙高のやけに据わった声が響いて龍田の言葉を遮る。

「あらぁ~、別に、ありもしないことは何にも言ってませんよぉー?」

「そんなことは当たり前です! あるなしの問題ではなく、長門さんのお耳に入れるべきことかどうかの問題です! ましてや、あなたの口から面白可笑しく伝えて良い事ではありませんよ⁉」

たちまち、二人は長門を放り出して言い争いを始めてしまう。が、もちろん彼女らにとっては軽い社交辞令に近いようなもので、深刻な喧嘩に発展するのは見たことが無く、仲の良い証拠だとばかりにそのまま捨て置く。

(それにしても――、やつが、塔原葉月に対して急に気を遣う様になるとも思われんしな……)

そもそも仁は、周囲の誰に対しても過剰なほどに気遣いの出来る男ではあるが、こと今の状況で、それを期待するのは無理な相談かも知れない。傍目から見ている限り、今の彼の目には陸奥しか映っていない様に思われるし、例えそうでなかったにしても、もとより塔原葉月のことを、気遣うべき相手だと認識していない様にも見えるからだ。

(幼馴染と言う言葉の意味は知っていたが――、実際にはこういうものなのか)

そんなことに今更感心しているような自分が、あれこれと心配したところでどうにもならないのかも知れないが、だからこそ、人間達が、己の感情や心といったものとどんな風に折り合いをつけていくものなのか予想出来ず、何か手を打てぬものかと考えさせられる。

(もう少し気を遣えと、初春にでも言わせてみるか――、しかし、素直に聞き入れてくれたところで、それをまともにしおおせるかどうかはまた別物であろうしな……。とにかく、注意して様子を見ておくだけは怠らぬようにせねばなるまい)

心というものの厄介さが、やっと少し判りかけてきたばかりの長門にとっては、出来ることに自ずと限界があると感じざるを得ない。

まして、己自身も間もなく妹と最期の別れをすると思うと、それだけの覚悟が十分に出来ているとは言い難く、それこそ龍田の言い草ではないが、人間達の面倒を見ていられる程の余裕なぞありそうにないと言うのが、偽らざる今の気持ちだった。



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〔第十五章・第二節〕

 宿舎前の階段に座った僕の耳に、遠くからざわめきが聞こえてくる。間もなく開門の時間なので、お客さんが集まってきているらしい。

(結構、賑やかになりそうだな)

この祭りがあること位は以前から知っていたが、残念ながら、ある時とてもネガティブな思い出と直結してしまったために、強制的に頭の中から退去願っていた。

祭りに花火と来れば、やっぱり彼女と来たくなるのが人情というものであり、かく言う僕も、あの高二の夏に後輩と一緒に行く約束をしていたが、直前になって彼女の都合が悪くなってしまったのだ。無論、既に言うまでもないことだが、それは実は、二学期が始まってすぐに起こった屋上事件の予兆だったわけで、それ以来、僕にとってはこの祭りは鬼門そのものだったがために、足を運ぼうという気には一度もならなかった。とは言うものの、まさかこんな形で来ることになろうとは、さすがに予想の範囲を大きく超えていた。

「待ちくたびれましたか?」

突然背後から声がしたので、ビクッとしながら振り返ると、ニマッとした笑顔の斑駒さんが立っていた。

「い、いえ! 大分お客さんが集まってるなぁとか思ってたとこです……」

何の捻りも無い思っていたままの返事を返すと、いかにもしょうがないなぁと言わんばかりの顔をした彼女が、

「相変わらずですねぇ、渡来さんは~♪ 楽しみじゃないんですか?」

と突っ込みを入れてくる。

「いえっ、そんなことは無いですよ⁉ 結構ワクワクしてたつもりですけど――」

「仁! 見て見てぇ⁉」

僕の言葉を遮ったのは、随分と艶やかな柄をあしらった浴衣に身を包んだ子の日ちゃんだ。

「どう? 似合ってる?」

「ほほほ、子の日よ無駄なことを聞くでない、仁殿が待っておるのは陸奥殿だけぞ?」

「そ、そんなことないよ!」

その後ろから現れた初春ちゃんは、可憐な薄紅色を基調にした、とても楚々とした印象の浴衣をまとっており、まるで、そのために特注でつくられたマネキンか何かの様に衣装と溶け合っている。

(さすがに綺麗だな~)

そんな風にごく自然な感想が浮かんでくるほど、彼女の美しさは際立っていたが、それに比べると子の日ちゃんは、やはり美しさよりも愛らしさの方がずっと優っている。だが、落ち着いてこんな感想を並べ立てていられたのはそこまでだった。もちろん、華やかな姿の艦娘達が陸続と繰り出して来て、あっという間に彼女達のペースに呑まれてしまったからだ。

「えへへ~、どぉだい⁉ ボク、かっこいいかなぁ?」

初春ちゃんのツッコミではないが、浴衣を着てカッコいいかどうかが気になる皐月ちゃんは、やはり相当マイノリティの様な気がする。

「皐月は何でもそれだよねぇ――、調子に乗って、飛び跳ねたりしちゃ駄目だよ⁉」

そうたしなめる長良ちゃんは、少し日焼けした浅黒い肌に真っ白な浴衣が良く映える。雰囲気もちょっと落ち着いていて、いつもの中高生っぽさが感じられない。

(うんそうだよ、これが夏祭りの浴衣効果ってやつだよなぁ)

ちょっと軽い憧憬に浸った僕は、改めて斑駒さんの仕事ぶりに感心してしまった。まさか、外部のレンタル業者を訓練隊内に呼び寄せて、艦娘達に引き合わせる訳にもいかないだろうし、きっと彼女が一人で行き来して、似合いそうなものをいちいち見繕ったのだろう。その熱心さには、本当に頭が下がる思いだ。

「渡来さ~ん、どぉよこれ♪ 見て! 見て!」

華やかな欝金色の浴衣を着た飛龍ちゃんが、くるりくるりと躍る様に現れ、そのあとに続いて蒼龍ちゃんと高雄さんが現れるが、とてもにこやかな飛龍ちゃんとは対照的に、二人ともなんだか冴えない顔をしている。

(あれ? ひょっとして――)

僕の聞き齧っただけの知識に間違いがなければ、確か、和服というのは余り胸の大きな女性には似合わないので、さらしやタオルで絞めつけたり、帯の下に色々入れたり(ちゃんと名前があるものかも知れないが、僕は知らない)するものだと聞いているが、ひょっとすると、彼女たちも色々と締め付けていて苦しいのだろうか?

そう思って見直すと、確かに普段の印象に比べて二人とも少し胸が目立たないというのか、帯周りに随分貫禄があるとでも言うのか、いささか窮屈そうにも見える。にもかかわらず、とても残念なことに、それでも高雄さんの浴衣は今にも胸元が肌蹴そうになっており、迂闊な動きをすると、それこそ不味いものが零れてしまいそうだ。

(うーん、やっぱり、ほどほどって大事なんだな)

飛龍ちゃんの弾ける様な笑顔を見ながらそう思ったのだが、更に上には上があることを目の当たりにさせられる。

その後に続いて出てきた妙高さんと瑞穂さんの浴衣姿は、もう完全に異次元の領域と言っても過言ではなかった。若苗色の上品な浴衣に身を包んだ瑞穂さんと、しっとりと濡れたような菖蒲色の浴衣を纏った妙高さんは、まるで絵画の世界から抜け出してこの世に降臨したかの様で、もし日本全国(いや、多分全世界でも同じ結果だろうと思う)から浴衣クィーンを選出したら、間違いなく、ぶっち切りの同率首位になるはずだ。

(う、美しい――、そうとしか表現しようがない……)

茫然とするほど二人に見とれていた僕は、例によって油断し切っていた。

「仁よ、一体どこを見ているのだ?」

紛れもない長門さんの声で我にかえった僕は、赤城さん、加賀さん、酒匂ちゃんを引き連れた長門さんと――長門さんと――……、意識が急にリセットされた様に、視界からそれら一切が消え失せてしまい、脳はただ一つのことしか認識できなくなる。

「むっちゃん……」

彼女は、黒白の縦縞に小紋があしらわれた品の良い浴衣を纏い、髪に一輪の花飾りを着けていた。

その落ち着いた佇まいに加えて、そこはかとなくだが恥ずかしげに上気した肌と、伏し目がちな眼差しとが、更にその美しさを際立たせている。

「綺麗だ――、すごく綺麗だよ……」

思わず言葉が口をついて出ると共に、足が勝手に動いて彼女のもとに歩み寄る。

「い、厭だわ仁ったら、そんな言い方して――、恥ずかしいわ……」

「で、でも、こんなに綺麗な浴衣姿なんて、見たことないよ――、ほんとに綺麗だよ……」

「んもぅ、莫迦ね……」

その時、すっかりあちらの世界に行っていた僕の耳に、愛する家族の呼び声が聞こえる。

「仁殿、お気持ちは判り申すが、大概になされませよ」

そう言って肘を引っ張ってくれた初春ちゃんのお蔭で、再び現世に舞い戻ってくることが出来た。

「あ――ご、ごめん、またやっちゃったかな……」

おそらく、また高雄さんにでも食って掛かられるのに違いないと思って向き直ったのだが、皆の顔が笑っていないのに気が付き、これは不味いぞ⁉ と思った瞬間、背中にヒヤッとする様な気配を感じる。

(えっ! まさか……)

「あんたって、どうしてこうも的確に、わたしをイライラさせてくれるのかしらね~」

「は、葉月……」

この瞬間、僕はとんでもない間違いを犯してしまった。彼女は今、確かに僕に向かって憎まれ口を叩いたが、それは言うまでもなく、長い年月の間に経験してきた『いつもの』葉月の姿であり、僕にとっては正常な状態を示すサインそのものだ。

「ったく~、ちょっと目ぇ離すとすぐこうなのね⁉ いい加減、愛想が尽きるわ!」

「もう、分かったって――、悪かったよホンとに――」

全く何の疑念も挟まず、いつものリアクションを返した僕は、さらりとその場を流してしまう。記憶に残る限り、自分から言い出したことを勝手に捻じ曲げてしまう様な真似をしたことが無い彼女が、多少のことは大目に見てやると宣言したにもかかわらず、あからさまに文句を言ったというのにだ。

その上に、葉月がそれを蒸し返す暇もなく、続けて新たな事態が発生したのも間が悪かった。

「遅くなりました!」

きびきびとした声が響き、全員がそちらを振り向くと、キリっとした容姿の士官とおぼしき人物が敬礼をしている。

「いえ! こちらこそ、ご無理をお願い致しまして恐れ入ります!」

斑駒さんがこれまたキビキビと答礼したので、僕らも礼を返すが、一体誰なのだろうかと思う。

「まさか♪ 無理も何も、皆さんをエスコートできると思うと、楽しみで仕方ありませんでしたよ! 本日は、よろしくお願い致します!」

そう、極めて爽やかに言い切ったその男性は、つかつかと僕と葉月のもとに歩み寄ってくると、

「ひょっとすると、あなた方が渡来さんと塔原さんですね? 支援艦『とおとうみ』艦長を拝命しています篠木と申します、以後お見知りおきを!」

と言ってさっと右手を差し出す。

(あっ、この人が――)

むっちゃん達から、名前だけは聞いていた篠木艦長だった。

「渡来と申します、こちらこそよろしくお願い致します」

「塔原です、お名前はかねがねうかがっておりました。ご挨拶が遅くなりまして、たいへん失礼を致しました」

めいめいに挨拶と握手を交わした僕らを見た艦長は、日焼けした顔に真っ白な歯をのぞかせると、これでもかと言う位の爽やか系の笑みを浮かべて、ちょっと普通の声音で話し掛ける。

「奇跡という一言で片づけて良いものかどうかわかりませんが、たった今もあなた方と我々防衛隊とは、この不思議な体験を共有しているのは事実です。これも、何かの縁だと思いたいですね」

何だろう、中嶋さんとはまた少しタイプが違うものの、この人も、単なる爽やかな海の男という訳ではなさそうに感じる。ただ、ほんの数秒の後、僕は艦長に親しみというか同胞意識をも感じてしまう。

「篠木艦長、本日は、わざわざご足労を頂いてありがとうございます」

その声に振り返ると、得も言われぬ笑み(確か、何かで聞いた記憶がある――アルカイックスマイルというやつかも知れない)を湛えた妙高さんだった。

「いえ、そのぉ――」

篠木艦長は、それきり、口を半開きにしたまま固まってしまう。その瞳は、妙高さんの神懸かった浴衣姿に釘付けになったままで、心奪われるというのをまさに地でいってる感じだ。そのまま、何秒間か不自然な沈黙が流れた後、彼女がふっと伏し目がちに視線をそらしながら頬を赤く染め、片袖で軽く口元を隠しながら、絞り出すような小さな声を出す。

「済みませんが、お赦し下さい――、皆もおります前で、その様に見つめられましては、身の置き所がございません」

「――あ――、こっ、これは失礼を致しました! そのっ、あ、あなたが余りに――、その――、う、美しかったもので――、あの――、も、申し訳ありません!」

爽やかなのにガチガチというこの状況は、多分初めて目にするのではないだろうか。しかも、横で葉月が聞こえよがしにハァーッとため息を吐いたので、ますます艦長の精神的追い込まれ感が際立ってしまう。

(いや~、何だかちょっと嬉しいなぁ)

確かにむっちゃんから話は聞いていたものの、これこそ百聞は一見に如かずで、篠木艦長、妙高さんのこと好き過ぎるでしょう!

「それでは皆さんお揃いですので、簡単に組分けしましょう! まず、篠木艦長に付き添って頂くのは――」

苦笑した斑駒さんが、いつまでも放っておくわけにはいかないとばかりに、事態を前に進め始めたので、僕は再度ちらっと葉月の顔色をうかがってみる。が、口を開くまでも無く、いかにもと言った風情の彼女は、腕組みをしながらあっさりと(いつも通りに)突き放してくれる。

「いちいち、余計な事言わせないでくれるかしら? それとも、撤回した方がいいわけ?」

「い、いや、よく分かりました」

そう言いながらも、いつも通りの反応に安心した僕は、それ切りで、次の段取りへと頭を切り替えてしまった。僕が付き添う組の顔ぶれは最初から決まっているようなもので、念のために斑駒さんの口上を片耳で聞きながら、皆を呼び集める。

「ぴゃあぁ! 酒匂も行くのぉ」

「お祭り、楽しみだね酒匂ちゃん♪」

「仁、塔原殿、なにぶんよろしく頼む」

「じゃあ、まずは、どんな夜店が出てるのか見てみましょうか」

葉月がそう言って先頭を切って歩きはじめたので、家族達及び酒匂ちゃんは行儀よくそれについて行く。僕が殿で動き始めると、むっちゃんがスッと寄り添ってくるなり、一回だけキュッと手を握ってくる。

名前を呼びたくなるのをグッと堪えて彼女の顔を見ると、彼女もまた、何も言わずに見つめ返してきた。

(これが、君との最後の想い出になるんだろうか……)

そう思うと、むっちゃんの瞳から目をそらすことが出来なくなってしまうが、さすがに彼女は顔を赧らめると、恥じらう様な上目使いで小さな声を出す。

「――早く行きましょ♪」

「うん……♪」

頭の先から爪先に至るまで――いやそればかりではなく、この目に映る世界の全てまでも――ただ、彼女の色だけに染まってしまいたいという願いと、この余りに限られたわずかな時間を、一瞬たりとも無駄にしたくないという想いだけが僕を支配しており、そして、どうやらそれはむっちゃんも同じ様だった。

その想いが惹き起こす、無上の喜びと切なさとがない混ぜになった空気に浸りきった僕達には、刹那、ちらとこちらを振り返った葉月の瞳の奥に、禍々しい何かが渦巻く様など、見えるはずも無かった。



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〔第十五章・第三節〕

 はじめて人間の姿で経験する祭りに、艦娘達はめいめいのやり方ながら、大いにはしゃぎかつ楽しんでいる。

「うふふ、赤城ちゃんったら、さっきから食べてばっかりね♪」

「ほんとだねぇ、でも、食べてる時の赤城さん、すごくいい顔してるよね」

「全く、あれほど食い意地の張った奴だとは、さすがに思いもよらんかったぞ」

「それでも、姉さんは食べなさすぎよ?」

「――いや、正直に言うとだな、苦しくて何か喰らおうと云う気が起こらんのだ」

長門は、骨格がほぼ同じ陸奥に比べるとかなり筋肉質で引き締まった体型なのだが、一体何者の気まぐれなのか、胸の大きさに限っては高雄と同じほどもあるため、かなり胸周りを締め付けたり、帯の下に何かを入れたりしているようだ。そのせいか、長門だけでなく高雄や蒼龍、加賀らはあまり食欲が無さそうで、もともと健啖家である赤城の食べっぷりが、ますます際立っている。

「それにしても、加賀殿はいつにもましてつまらなそうに見受けられますの♪」

「仕方ないわね、食べたいものもろくに食べられないし、副長も来られないんじゃ、ちょっとねぇ」

中嶋は祭りの主催側の一員でもあるため、艦娘達に付き添う事が出来ないとの事で、篠木がわざわざ来てくれたのはその所為もある様だ。とは言え、彼が渋々引き受けた様には全く見えない。先程来、その表情は緩みっ放しで、とにかく、暇さえあれば妙高の顔ばかり見ており、しばしば元気にはしゃぐ飛龍らにそれを突っ込まれている。

「篠木艦長、ほんのちょっとだけでも、妙高ちゃんと二人きりになりたいんでしょうね」

「でも、なんだか妙高さんの方は、それほど浮かれてそうな感じでもないんだねぇ」

「そうなのよ、妙高ちゃんには余裕があるのよ♪」

「え、そうなの? やっぱり妙高さんって、ちょっと物言いはキツイけど落ち着いてるって言うのかなぁ~、そういう感じだから?」

「ほほ、まぁ、そう言うことにしておきましょうぞ♪」

「へ?」

「まぁ仁よ、その位にしておけ」

「はぁ……」

不得要領な顔をする仁だが、如何に彼とは言え、何もかもべらべらと喋ってしまうわけにもいかないだろう。

(でも、そのうち仁も分かるようになるわよね……)

西田は、どうやら本気で彼を防衛隊に迎え入れたいと考えているようだし、何より艦娘達から最も信頼が篤い人間と言う意味では、仁は中嶋(及び斑駒)と甲乙つけ難い。

(あたしがいなくなっても、仁は皆と一緒に居てくれるのよね?)

そう思うと、急に寂しさが込み上げてきた陸奥は、彼にくっついてその瞳を見詰める。

(どうしたの、むっちゃん?)

陸奥の瞳の奥に訴えかける様な色合いを見てとり、仁は無言のまま目で話し掛ける。

(何でもないの、ただ、もっと仁とこうしていたいだけよ)

互いに言葉を交わさず、目だけで意思を通じあった二人は、あまり露骨になり過ぎないぎりぎりまで寄り添い、楽しそうな艦娘達を眺める。

人間そっくりな姿となって、嘗ての仲間たちと再会した陸奥と彼女達は、言葉だけでは表現し尽くせない広い世界を知り、同時に仁と人間達は、彼女達を知ることによって、自分自身とその未来とを見つめなおす強い刺激をうけた。

そして、どの様な運命の悪戯なのか、或いは篠木の言う様な奇跡と呼ぶのが相応しいのか、何と表現するのかには関わりなく二人は出会い、やがて、互いのことを何よりも大切だと思えるようになった。その互いを想う気持ちを素直に表現した結果が、船体引き揚げへの同意であり、それこそ、二人にとって最良の決断だと信じていたのだが、その気持ちは今二人の中で揺らぎつつある。

(あたしは、そう信じてたの、仁と一緒に決めたんだから……)

(僕だって同じだよ……)

にもかかわらず、その想いが通じあうほど、傍に居たい、傍に居て欲しいという願いにそのまま繋がっていくのを、二人はひしひしと感じている。

仁をもっと知りたい、自分の出来ることで彼に応えたいという陸奥の願いは、無事に叶えられた。自らの腕の中で涙を流す彼を抱き締めた時、陸奥はこの上も無い幸福を感じたし、仁もまたそのことで、永遠に喪ってしまったと思っていた幸福に、再び触れることが出来たのは言うまでもない。

二人が求めていた以上のものを互いに得ることが出来た今、満ち足りた思いを抱いて、天に召される瞬間を迎えてもおかしくないはずなのに……。

 

「あっ」

 

「花火……」

 

その時頭上に大輪の花が咲き、しばし二人はそれを見上げる。

「綺麗ね……」

「ほんとだねぇ」

「……」

「……」

 

「――あ、あらっ?」

「あ――、またやっちゃった?」

いつの間にか仲間達はいなくなっており、彼らは二人切りだった――。いや、よく見ると、皆は少し離れたところで固まっており、ちょっとはぐれかけただけの様だ。急いで近づこうかとした時、ふと長門がこちらを振り返るが、どういうわけか、そのまま再び視線を上空に戻してしまう。

「えっ――、ひょっとして?」

「気を遣わせちゃったかしら……」

「でも、今のはそういうことだよね……」

「そうね……」

何となく戸惑ったのはわずかな間だけで、二人は皆の好意に甘えようという気分に染まる。

「海辺に行く?」

「ええ」

彼らは、警備に立っている防衛官に通行証を示し、訓練隊の敷地内に戻ると、海辺の護岸までそぞろ歩く。

「本当に、空に花が咲いたみたいだわ」

「人の眼で見るのはやっぱり違う?」

「ええ――、比べ物にならない位に綺麗なのね、すごいわ」

「すごいことだよね、ほんとに」

「奇跡?」

「うん、奇跡」

「奇跡なのね、あたし達が出会ったのも……」

「きっと、そうだよ……」

 

言葉を失った二人は、どちらからともなく指を絡め合わせる。

もし長門が傍にいたら、いい加減にしろと窘められたか、或いはため息を一つ吐いて、見て見ぬ振りをしてくれただろうか。

そのまま彼らは、時折響き渡る火薬の弾ける轟音と、風に乗って辺りに揺蕩う人熱れとざわめき、それに微かな波音に包み込まれながら、浮かんでは消える夜空の花園を、魅入られたかの如く眺め続ける。

やがて、互いの掌に汗が滲むのを感じるが、それはますます二人の距離を狭めただけだった。

そしてついに、ぴたりと寄せ合った部分の全てに汗の湿りを感じ取った彼らは、

その正体がただの暑気からくるものなのか、

それとも、もっと違う種類の抑えがたい感情の発露なのかを確かめずにはいられなくなり、

飛び散る火花の饗宴から視線を外し、

遠い昔からその様に運命づけられていたかのように、お互いの瞳の奥を覗きこむ。

 

「仁――」

 

「むっちゃん――」

 

同時に名を口にした二人は、口を噤んで視線を絡ませ合う。

(同じことを考えてるのね?)

(むっちゃんもそうなの?)

(そうよ、仁と同じよ――、同じ気持ちなの)

 

 

「むっちゃん、僕は――」

 

「仁、あたしもね――」

 

「君とこのまま――」

 

「ずっと仁と――」

 

その時、ひときわ大きな轟音が響き渡り、夜空一面に光の花が咲き乱れる。

明滅する閃光に照らし出された、二人の姿だけが世界の全てになり、

それ以外は曖昧な光と闇とに飲み込まれ、生きとし生けるものは遍く滅び去る。

今や、最後の命あるものとなった彼らは、

広大無辺の宇宙に遺された唯一の存在であることを知り、しっかりと互いの手を握り締める。

それでも、この死に絶えた世界の中で二人を繋ぎ止めるものが、

かたく握り合わされた手と手だけであることに心許なさを覚えた彼らは、

更に繋がりを求めて身を寄せ合う。

やがて、触れ合った胸から互いの鼓動を感じ取れるようになると、

その響きが一層二人を繋がりたいという欲望に駆りたて、

微かに開かれた柔らかな唇に触れたいという衝動を抑えられなくなる。

そのまま陸奥と仁は、世界を支配する四つの力とはまた異なる力によって引き付けあい、

しっかりと重なり合う筈であったが、

唐突に閃光と轟音が消え去り、

互いの顔が闇の中に沈む。

 

 

「あっ……」

 

 

「あっ……」

 

 

再び同時に小さな嘆声を発した彼らは、

気が付くと生命の躍動する惑星の上に舞い戻っており、

薄暗がりの中から、少しずつお互いの姿が浮かび上がってくるのを茫然と眺めていた。

 

「仁――あたし、その……」

 

「う、うん……」

 

興奮の残り香と、其処から来る照れ臭さや名残惜しさの入り混じった感情を持て余した二人は、暫くの間言葉も無く立ち尽くし続ける。

 

「あ、あの――、は、花火終わったのかな……」

 

「そう――、そうみたいね……」

 

「むっちゃん――その……」

 

「――姉さんに、また叱られちゃうわね」

「そうだね……」

 

だが、その光景を離れて見詰めていたのは、長門の穏やかな眼差しだけではなかった。

焼けつくような憎悪に満ち満ちた二つの瞳が、蛇神の如く忌まわしい光を湛えて煌いていた。

 

「すっかり遅くなっちゃったねぇ」

「でも、楽しかったぁ!」

「お祭りって良いものね、何だか、すごくいつもと違う感じがするわよね」

「まこと左様にござりますのぉ、あれこそ正にハレの場というものにございますな」

興奮冷めやらぬ態で最寄りの駅を降りた一行は、蒸し暑さの残る中を家路につく。

「でもやっぱり暑ぅい~」

「そうだねぇ、今日はちょっと蒸すね」

「あのねぇ仁、子の日、ちょっとアイスクリーム食べたいの」

珍しく、彼女が小さなわがままを言うが、もちろんそれがなぜなのかは想像がついた。楽しい時間が終わってしまった後で、最後の別れまでもう幾許もないという現実が戻ってきてしまったがために、何となく甘えたくなったのだろう。それが分かっているのか、こんな時には必ず叱声を発する初春も、何も言わずに黙っている。

「仕方ないなぁ~、じゃあ、ちょっとそこのコンビニに寄って行こうかぁ」

「えへへぇ、ありがとうね仁♪」

「仁殿、まことに相済みませぬ」

そんな何気ない瞬間に葉月が声をあげたことに、仁も陸奥も、全く何の疑問や不自然を感じなかった。

「じゃあ、先に帰ってお風呂沸かしとくわね! むっちゃん行きましょ⁉」

「そうね、じゃあ仁、二人をお願いね」

「うん、それじゃあ、すぐに帰るからね」

そう言って手を振り、コンビニに向かう仁らを軽く見送った陸奥と葉月は、踵を返して坂を上り始めた。

そして仁もまた、何の衒いも無く二人に背を向けると、子の日の手を引いて足早に歩きはじめる。

初春だけがいささかもの思わしげに振り返ったが、束の間逡巡した後、小さくかぶりを振ると仁の後を追う。

後に残されたのは、遠い鉄路の響きと微かな街の雑踏の余韻、それに残暑の気配を濃厚に帯びた、纏わりつく様な淀んだ空気だけだった。



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〔第十五章・第四節〕

 胸の中を刻一刻と覆い尽くしていくどす黒い渦に、葉月は必死に抵抗してきた。

(こんなこと位で理性を失うなんて、心の弱い奴だけだわ!)

ところが、現実には『その位』のことのために、心が押しつぶされそうだった。

仁が下した決断は、それこそ彼にとって一世一代のものであり、保護者として、良くやったと誉めてやりたいと思ったのは事実だが、言うまでもなく葉月の本音は別にあった。これだけは、誰にも絶対に知られる訳にはいかないが、彼が陸奥への想いを断ち切って、自分のもとに戻ってくるという選択をしたことが嬉しくて仕方無かったがために、つい、多少のことは目を瞑ってやるなどと太っ腹なことを言ってしまったのだ。

ただ、少々口を滑らせてしまったとは言え、幾らなんでも、精々一、二ヶ月の間ぐらいは十分我慢出来ると踏んでいたのに、ここまで追い込まれてしまうとは、全く予想外もいいところだった。それでも、まさか自分で言い出したことを安易に覆せば、どれほど彼に依存しているのかを白状してしまう様なものであり、それは死んでも無理だと思ってしまった葉月は、とにかく堪えに堪え続けていた。

それに、兄弟姉妹のいなかった彼女にとって、突然出来た歳の離れた妹達の様な初春・子の日の気丈な振る舞いは何ともいじらしく、二人の目の前で陸奥に辛くあたる様なまねはそもそも出来なかったし、なんと言っても、陸奥とは親友になりたいとすら思っていたのだから。

しかし、どんなに言い訳を積み重ねてみたところで、目の前で仁を少しずつ奪われていくのが、これほど辛く身を切られる様な事だと分かっていたら、絶対に口を滑らせたりはしなかっただろう。いくら、陸奥(と、もちろんあのバカもだ)に悪意など欠片も無い事が分かっていても、そんなことは何の気休めにもならなかった。

(もう少し、気遣ってくれてもいいじゃない! なんで、こんな目に遭わされなきゃいけないのよ……)

幼い頃からずっと仁を見てきた葉月にとっては、彼の身に起こった様々な出来事も、全て一緒に体験してきた様なものであり、彼が女性に対して何を求めているかも知っているつもりだった。母親を喪って、一切の感情を亡くしてしまったかのような仁を支え続けたのは自分だという自負もあったし、長じて来るにつれて、自身の容姿が亡くなった彼の母親にとてもよく似ている事に気が付いてからは、髪の長さにも常に注意を払っていた。

にもかかわらず、彼が葉月の中に母の面影を見つけてくれることは無かった。どれほど姿を似せ、手料理を振る舞い、生活の隅々に至るまで世話を焼いても、その気が遠くなる程の努力が、ある日ぽっとあらわれた陸奥の存在そのものにすら敵わないなど、悪夢としか言いようがない。

夕焼けに染まった公園で、号泣する仁を優しく抱きしめる陸奥を見た時、葉月は初めて激しい憎しみを覚えた。

(そこは、あんたの場所じゃない! それは――、わたしがする筈だったのよ⁉)

飛び出して行って思い切り横面を引っ叩いてやりたくなるのを必死で堪えたものの、憎しみの後に襲ってきた屈辱には耐えられず、一人忍び泣いた。葉月の理想の中の彼は、必ずやって来るはずのいつの日かに、自分の中に母親の姿を見出して涙を流すはずであり、その時彼をしっかり抱きしめてこう宣言するつもりだった。

「あんたが失くしてしまったものは、何もかもわたしがあげるわ、だから、一生わたしの傍にいればいいの!」

だが、その夢はあっさりと奪い取られた。しかも、それはよりによって、幼かった仁との思い出が山ほども詰まった公園で起きたのだ。

どれほど彼が陸奥に魅かれていようとも、心のどこかで、自分のことも想ってくれているという期待を秘かに抱き続けてきたのに、それをいとも容易く蹂躙されてしまった今、目を背けたくなるような残酷な未来が、葉月に怒涛の如く襲い掛かってくる。

たとえこのまま陸奥が去ってしまっても、もう二度と、葉月の手で母のぬくもりを返してやるということは出来なくなった。どれほど足掻いてみても、自分が手に入れられるのは、一度陸奥のものになってしまった――言わば、歯形のついた齧り掛けの――仁なのだ。

そう思うと、悔しさの余り本当に気が狂ってしまいそうになり、誰もいない仁の家のキッチンで、陸奥が使っていた食器を粉々に叩き割って(無論の事、綺麗に掃除したうえで、素知らぬ顔でそっくりなものを買っておいたが)何とか耐え凌いだ。

(いい加減にしてよ! どうしてわたしが、こんなメンヘラみたくなってるわけ⁉)

そんな悲痛な叫びが通じるどころか、まるで葉月の七転八倒を嘲笑うかの如く、陸奥は今夜、仁と唇を重ねようとした。真夏の夜、空に色鮮やかな花火が閃く海辺で二人っきりで――という、つい憧れてしまう様なシチュエーションをわざと見せつける様にだ。どうにかギリギリで未遂に終わったようだが、既にそんな些細なことは、彼女にとってどうでもよくなっていた。

(どこまで虚仮にしたら気が済むの⁉ 絶対――、絶対許さないからね!)

ここにきて葉月は完全に抵抗をやめ、全身を荒れ狂う漆黒の濁流に身を任せている。それは、これまでの死に物狂いの努力が馬鹿馬鹿しくなるほど、甘美で心地よいものだった。

(あの人間気取りの、時代遅れのガラクタめ! どうやって、思い知らせてやろうかしら?)

そんなことを考えていると、自然に陰湿な笑みが零れてくる。いっそのこと、ニコニコしながら背中から刺してやろうかとも思う。断末魔の叫びをあげ、血の海でのた打ち回る姿を見たら、どれだけ溜飲が下がるだろうか。

(フン、でも――わたしはそんな馬鹿じゃないからね)

そんなことをすれば自分は犯罪者に成り果て、両親まで破滅させてしまう上に、なんと言っても、仁を命ある限り敵に回してしまうだろう。確かに、陸奥に思い知らせてやりたいのはやまやまだが、それでもなお、仁を失うことだけはどうしても出来無かった。あんな人間もどき風情のために、そこまでの犠牲を払う価値など何もない。

(まぁ、何はともあれ、思い切り傷つけてやるぐらいはしなきゃあね♪ まずは、ぐうの音も出ない位に徹底的に罵り倒して、心をズタズタにしてやることからよねぇ)

そんなことを考えながらニヤニヤしている葉月に向かって、陸奥が話し掛けてくる。

「もうすぐ、葉月ともお別れね……」

(なにセンチメンタルになっちゃってるの、この脳足りんの泥棒猫は♪)

頭の芯までピンク色に染まっているから、全身に真っ黒な瘴気を漲らせている自分に全く気付かないのだろうか。なんとも、滑稽でお目出度い話だった。

「葉月には、なんて言ったらいいのか分からない位感謝してるの……。だから、言葉だけで済むと思ってるわけじゃないけど――、でも、ほんとにありがとう葉月」

やはり、今こそ最高のチャンスだ――そう瞬時に確信した。祭が始まる前から虎視眈々と機会をうかがっていたが、案の定、浮かれている陸奥は自分のことを全く疑っておらず、油断し切っている。このタイミングで突然掌返しをしてやれば、ただ罵声を浴びせるだけに比べたら、比較にならない位にショックを受けることだろう。この恩知らずの盗人は、そのぐらい酷い目にあっても当然なのだ。

葉月は秘かに会心の笑みを浮かべると、たっぷりとタメてから徐に口を開く。

 

 

「――――なんなの、それ?」

「えっ……?」

「聞こえなかったの? 一体、何に感謝してるのって聞いてるんだけど⁉」

「は、葉月、どうしたの?」

「別に、どうもしやしないわよ、あんたが答えられないんだったら、かわりにわたしが解説したげよっか⁉ 今日まで、手頃な男を大事に温っためといてくれてほんとにありがとう♪ お別れの前にきっちり味見していくから、残りはどうぞお好きにしてね♪ って事でしょ⁉」

「な、何言ってるの葉月――、あたし、そんな事なんか全然――」

「へぇぇ大したもんね♪ ぜ~んぜんそんな事考えて無いのにぃ、男がさぁ勝手に寄ってきちゃうのぉ♪ ってか? 何よそれ、盗人にも三分の理ってやつ⁉」

「盗むとかそんな事――、ほんとにあたし、そんなこと考えて無いわ! どうしたら信じて――」

「信じてたのを裏切ったのはあんたの方じゃない! 散々っぱら心配して貰っときながら、裏へ回ってペロッと舌出して人の男に手ぇ出しといて、一体どの口がそんなこと言うのよ、この恩知らず!」

「仁を横取りしようとか、そんなつもりだったわけじゃないわ⁉ でも――、あたしが葉月の気持ちを考えてないって言われ――」

「考えてないに決まってるでしょ⁉ 少しでも考えてたら、こんなこと出来ないわよね普通⁉ それともなに⁉ あたしぃ、まだそういう事よく分かんないからぁ♪ とか言って勘弁してもらえるつもりだったわけ⁉ 都合のいい時だけそうやって使い分けして、美味しいとこだけつまみ食いしてやろうって、下衆な魂胆見え見えなのよ!」

「そんな――魂胆だなんて……」

「じゃあなに⁉ 悪いことしてやろうって考えて無かったら、悪いことしても許されるっていうわけ⁉ ハッ! 随分と都合のいい話しよねぇ⁉ 好き放題土足で踏みにじって、食い荒らしといてから、そんなつもりじゃなかったのぉ♪ とか言ってもオッケーなんだ! 大したタマね~~、そこまで図太いってか腹黒いとさすがにひくわ~~♪ すごーい♪」

 

「――――葉月――、あたし――、なんて言ったら――、なんて謝ったらいいの……? どうすれば――」

 

くだらないことガタガタ言ってないで、とっとと消えなさいよ! 目障りだって言ってるでしょ⁉ 一秒でも早く、わたしの前から消え失せろ、この化け物! なに勘違いしてるんだか知らないけど、百年も昔の鉄屑のくせに、人間にでもなったつもりなの⁉ 調子に乗るのも大概にしなさいよ!

 

実に爽快だった。

思う存分言ってやった! という胸のすくような感じを味わった葉月は、満面に残忍な笑みを浮かべると、涙を湛えて立ちすくむ陸奥を睥睨する。

(フン、なんて芸の無いやつなの♪ ま~た性懲りもなく、お涙頂戴――――――え――、な、なによ……)

それを目の当たりにするのは、おそらく初めてだっただろう。彼から聞いたことはあっても、それが実際に見えたことは一度も無かったからだ。

(なんなのよそれ――――、なんで、そんな目してるのよ……)

陸奥の瞳の奥に見えたのは、底知れぬ、深い深い哀しみそのものだった。それこそ、今の自分の憤慨なぞどうでもいいと感じられるほどの、哀しみに閉ざされた深淵を、陸奥はその瞳の奥底に抱いていた。

(仁が言ってたのは――このことだったの……?)

信じられないことだが、葉月は今初めて、彼の決意の本質を悟った。

それまでずっと、恩義や同情、正義感、それに陸奥に対する好意などが、彼を突き動かしているのだと理解していたし、それ故に、仁が随分と思い切った決断をしたことに、良くやったと誇らしさを感じていたのに、これは一体どうしたことなのか。

(ちょっと待ちなさいよ――、こんなの聞いてないわよ――、いくらなんでも、これ不味いじゃない……)

どう罵ったら陸奥が最も傷つくだろうかと考えてはいたが、この哀しみを見るまでもなく概ね想像はついたので、それをストレートにぶつけてやったのだが、それは余りにも当然ながら、彼女の抱く深い哀しみを真正面から抉りにいったことになる。

 

「――あ、あのね――」

取りあえず、少しはフォローしなければと思って口を開きかけたものの、何を言っていいのか見当もつかないうえに、それを遮る様に陸奥が喋りはじめる。

「葉月、ごめんね――――、ほんとにほんとにごめんなさい……。葉月の言う通りよね――、あたしが調子に乗ってただけだわ……。こんなに葉月の事傷つけてるのに、何にも気づかないなんて、普通の人間だったらあり得ない話よね……、ごめんね、ほんとにごめんね葉月……」

「いや、ちょっと――」

何とか声を掛けようとしたその時、彼女はさっと身を翻し、そのまま夜の暗がりの中へと駆け出して行ってしまう。

 

「――――待ってよ――、わたし、そんなつもりじゃ――――」

 

言い掛けた言葉が、喉の奥で凍りつく。

 

(何言ってるのよ――、そんなつもりだったじゃない……)

 

足元を見ると、彼女が持っていたバッグが落ちている。

自分の使い古しを家から持ってきただけなのだが、陸奥は大層喜んで何度も礼を言い、それ以来とても大切に使ってくれていたのだ。

 

「…………」

 

何か言おうと努力したのだが、突然辞書の頁が白紙になってしまった様に何も出てこず、しゃがみ込んでそのバッグを拾い上げることしかできない。

(なんで――、なんで、こんなことになっちゃうのよ……)

思わず溢れ出た悔し涙が、頬を伝って顎の先に引っ掛かっているのが、例え様もなく不愉快だった。

 

 

「いったい何が起こるって?」

「申し訳ござりませぬ、妾にも説明はしかねまする――。ただ、どうにも胸騒ぎがおさまりませぬ故……」

そう話しながら、三人は急ぎ足で坂道を登っていた。

夜が更け始めているというのに、一向に去る気配も無い炎暑の気が全身を包み込んで、汗を噴き出させる。

初春は、陸奥と葉月の間に良からぬことが起こりそうなので、一刻も早く帰宅すべきだと言うが、何がとは具体的に説明できないらしい。それでも、これまで何度となく、機転を利かせて窮地を救ってくれた彼女の勘を、仁は凡そ手放しで信じていた。

(でも――、確かに葉月なら……)

そう思うと、己の浅慮さに思わず唇を噛む。

やっぱり、自分は葉月に甘えていたのだろうか。

今更ながら、なんと無神経だったのかと悔やみ始めたその時だった。

 

「今の音は⁉」

「足音ではござりませぬか⁉」

「子の日も聞こえた!」

彼らが登っているのとはまた別の坂道の方で、タッタッタッと駆け足の様な音が確かに聞こえたのだ。

(むっちゃん!)

それこそ何の根拠もないが、稲妻の様に彼の脳裏に閃いたのは、確かに陸奥の顔だ。

「仁殿⁉」

彼の心中を察したらしい初春が、問い掛けるように上げたその声に、仁は常日頃見せたこともない様な素早い反応を返す。

ポケットからさっと家の鍵を取出し、初春の手に握らせると、

「ゴメン! 先に帰っててくれる⁉」

とそれだけを言うなり、素早く二人に背を向けて、脱兎の如く駆け出す。

「仁殿! お気をつけて!」

「頑張って、仁!」

彼女達の声援に背中を追い掛けられながら、疾走する仁は、熱く淀みきった夜の闇を切り裂いて行った。



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〔第十五章・第五節〕

 ぼんやりとした光と影が、次々と陸奥の周囲を通り過ぎていくが、そのどこまでも不確かで頼りない世界を独り当てもなく駆けている自分は、どうしようもなく無意味な存在に思えて仕方無かった。

(どうだって良いわ――、何もかもどうだって良い事よ――、あたしは今すぐ消えて無くなる方が良いのよ……)

なぜあの時――、全てが始まったその時に、さっさと海底の自分自身のもとに戻らなかったのだろうか。

そうしていれば、こんなことは起きなかったのに――、自分も葉月も、そして自分が存在することで、辛い思い悲しい思いをする全ての者達が心安らかでいられたのに。

 

(……)

 

その理由など、改めて問い直す必要は何もなかった。

仁の優しさが、とても嬉しかったのだ。

どうしても彼の傍に居たいと思ったし、彼が居てくれれば、右も左もわからない恐ろしいこの世界が、光と希望にあふれた素晴らしい新世界になると思ったからだ。

(それが葉月を傷つけることになるの位、分かってたはずでしょ⁉)

何が情けないと言って、それがよく分かっていたにもかかわらず、自分でそれ――仁に対する気持ち――を止めることが出来なかったことより他はない。

(なぜ、こんなに――、自分の心の筈なのに、思い通りにならないのかしら)

だが、身体も自分の思い通りになる訳では無い事も、すぐに思い知る。息切れを感じた陸奥は走るのをやめて、息を整えながら辺りを見回す。

街灯の明りに松林がぼんやりと浮かび上がり、その向こうから微かな波音が聞こえていた。これと言って目的地があるわけでもなく、何となくそちらに足を向ける。少し沖合に煌々と明るい島を抱く小さな入り江には、砂浜が広がっており、昼間であれば多くの人で賑わっていたのだろうが、すっかり夜も更けた今は誰も人影がなく、波音だけが飽きることも無く繰返し響いていた。

(この海に出れば――)

自分の船足なら、一日では無理だろうが二日あれば柱島の沖合まで行ける。そこでは今まさに、自分の船体を引き揚げているはずだし、ここに居続けて葉月を苦しめているより、余程ましなのではないかと思う。

(でも――、そんなことしたら心配掛けちゃうわよね……)

真っ先に浮かんでくるのは、どれほど葉月に口汚く罵倒されようが、やはり仁の顔だった。自分が突然いなくなれば、彼がどれほど狼狽して探し回るだろうか。そう思うと、結局そんなことができるとは思えない。

「はぁっ……」

ため息を吐いてしゃがみ込み、足元の砂をぎゅっと掴んでみたが、乾いたそれは握りしめた手指の間をさらさらと零れ落ちていき、手の中にはほとんど留まらない。二度、三度とやってみてもそれは同じで、その如何にも無心な様が、陸奥の心を少しだけ和ませてくれる。

(心が無いって、本当に素直で自然な事なのね)

こんなに辛く悲しい目に合うくらいであれば、いっそ、心の無い鉄屑として海底に横たわり続けていた方が良かったのだろうか? 一瞬そう思いはしたものの、それは仁と出会う喜びを味わうこともなく、静かに海底で朽ち果てていくことを意味するのであり、今の陸奥にとっては到底受け容れ難いことだった。

 

(でも――それは、葉月を傷つけてしまうのよね……)

 

思わず背筋が寒くなるような、冷え切った葉月の微笑を思い出し、改めて肩をすくめる。

(あんなに冷たくて怖ろしい顔、見たことないわ)

彼女にとって仁がどれほど大切な存在なのか、今度こそ身に染みて分かった気がする。それを思うと、あと数日のうちに船体の引揚げが終わるというこの状況に、少しほっとしないでもない。とにもかくにも、あとわずかで葉月の憎悪の的である自分はいなくなるのだから。

 

(とりあえず、このあと、どうしたらいいかしら)

さすがに、仁の家に戻れる気はしなかった。彼女と顔を合わせるなど、今は想像もつかないからだ。

さりとて、もしも黙っていなくなれば、仁がひどく心配するだろう。うっかりバッグを放り出してきてしまったために、今陸奥が持っているのはハンカチとティッシュ位なものだった。連絡を取る手段がない以上、唯一何とか出来そうなことと言えば、この足で訓練隊に向かうことくらいだろうか。海側からいきなり上陸することになるため、ちょっとした騒ぎになってしまいそうで憂鬱だが、今夜であれば中嶋も営内にとどまっているはずで、何とかなりそうにも思われる。

(仕方ないわね)

そう思って腰をあげかけた時、突然けたたましい騒音の様なものが響いて来たので振り返ると、一体どこから入って来たものか、車が一台浜辺に入り込んできていた。

(もうっ、なんて間の悪い――)

一般人の目の前で、艦娘の特殊な能力をさらけ出すわけには行かないし、とりあえず、この場を立ち去るしかないだろう。そう思ってさっと立ち上がると、その妙な車を避けてすたすたと立ち去ろうとするが、いやらしいことに、ひときわ騒々しいエンジン音を響かせたそれが、陸奥の進路を塞ぐ様に前に出てくる。

(くっ、何よ⁉)

曰く言い難い不快感を覚え、向きを変えて車の進行方向と反対側に歩き去ろうとすると、急にばたばたとドアが開き、見るからに人品の悪そうな男達が降りてくる。

「ちょっと待てよぉ、いきなり嫌そうに逃げなくてもぃだろぉ⁉」

「そうだよ~、そんなことされたら傷ついちゃうよオレ♪」

そう言いながら、二人が行く手を邪魔する様に立ちはだかり、残りの二人が横合いから追いついてくる。仁や中嶋らを見慣れている目からすれば、比較にならないほど程度の低そうな、悪感情しか持ちようのない連中だった。

もちろん口をきく気も無いので、無言のままさらに向きを変えてその場を立ち去ろうとするが、追いついてきたどうやらリーダー格らしい男が、ぐっと手を伸ばして陸奥の肩に手を掛けてきた。

「放して⁉」

反射的に手で払いのけようとすると、その手首をぐっと掴まれ、無理やり引き戻される。

「おおっ! なんだよ、すげぇかわいいんべ⁉」

「えっ、マジマジ⁉」

急に男どもの目に下卑た色合いが浮かび、獣のような顔つきになる。ものも言わずに何とか振り切ろうとするものの、力では全くかなわないようでびくともしない。

「まぁそう暴れんなよぉ、ちょっと気持ちいいことするだけだっつーの♪」

「そうだよ~、けがとかしたくないよね~?」

反対側の腕も掴まれ、引きずられるのに必死で抵抗しようとするが、女の体では抗う事すら満足に出来ない。余計な心配などせずに、海上に出ていればよかったと後悔するが、今更どうしようもなかった。なすすべもなく車の方へと引きずられていき、恐ろしい危惧が胸中に湧き上がってくる。

(汚される!)

そう思った瞬間、脳裏に仁の顔が浮かび、彼に縋り付きたいという感情があふれ、言葉が口をついてでる。

「助けて! 仁! 助けて!」

陸奥の必死の叫びを聞いたリーダー格の男は、嘲る様な笑みを浮かべ、獲物を玩弄する肉食動物の様な顔で口を開きかける。

「無駄、むだ――」

ところが、その言葉は途中で無理やり中断されてしまった。

何が起こったのか、とっさには陸奥にも分からなかったが、黒い影の様なものが刹那閃いたように見え、同時にリーダー格の男が勢いよく弾き飛ばされると、どんと鈍い音を立てて車に叩きつけられ、そのまま目を回してしまう。

「うおっ⁉」

突然のことに、慌てふためいた男どもが手を放したと思う間もなく、間髪を入れず新たな手がぐいと陸奥の腕をつかみ、びっくりするほど強い力で一気にその連中から引き離される。

 

(あっ!)

 

夢をみているのではないかという驚きがよぎるが、それはどうやら現実に起きているらしい。

今、確かに目の前にある、自分を庇う様に男どもに対峙して立つその背中は、陸奥にとって見間違えることなどありえないものだった。

 

「仁!」

一瞬彼がこちらを振り返り、にっこりと笑う姿を思い描いたのだが、それはあっさり裏切られる。

逃げろっ!

普段の仁からは想像もつかない様な、命令口調の強い言葉が背中を向けたままの彼から発せられ、表現しようのない切なさにも似た感覚が、胸をきゅっと締め付ける。そして、それが切っ掛けになったのか、陸奥の目に映る世界のあらゆる動きが、急に緩慢になり始めた。

こちらに背を向けたままの彼は、陸奥の返事を気にするどころか、振り向きもしないまま再び真っ直ぐに男達に突進していき、浮足立ったその連中も、遅ればせながらその突撃に応戦しようと身構えはじめる。

 

(仁――――、あたしは――――あたしは――――)

 

めいめいに腕を振り上げたりする男どもと違って、彼は姿勢を低くして肘を突出し、一人の男に的を絞って体当たりしようとしていた。

 

(あなたのことが――――あなたが――――)

 

自分の中に、心と言うものがあるとはっきり意識したその日から、その奥底にずっと残り続けていた氷の様な塊りが融けてゆき、中から一つの言葉が姿を現す。だが、それは意外なほどにありきたりで、既に何度となく陸奥が反芻し続けたものだった。

 

(あなたが好き!)

 

全身がじーんという音を立てながら甘い痺れに満たされ、もやもやした様々な感情がことごとく飲み込まれていく。

 

(こういう事だったのね――――、こんなに――こんなに単純で、当たり前の事だったなんて…………)

 

その強い実感によって、不可思議な時の呪縛から解き放たれた陸奥は、再び周囲の世界が正常に動き始めるのを感じ取ると同時に、素早く海に向かって駆け出す。

(あたしには、あなたを護る力がある!)

そのまま波打ち際に走り込むと、体を強大な力の感覚が包み込み、何者をも恐れる必要が無くなったことを感じさせてくれる。

徐に足元の石を拾い上げ、改めて乱闘の現場を見定めると、地面に倒れ込んだ仁は、転がりながら男達の足蹴を避け続け、反撃の機会をうかがっているようだが、男達もそれを警戒しているのか、なかなか思い切った攻撃に出ないため、思うように隙が出来ない。

(でも、好都合ね)

手にした石に力を込めると、彼には当たらない様に高い弾道で擲つが、それは魔法でもかかっているかのようにしゅっと鋭い音をたてて不快な夜気を劈き、矢のように飛ぶ。

「ぎぃやぁあああっ!」

今しも、仁を思い切り蹴り飛ばそうとした男が、ひどく耳障りな悲鳴をあげると、肩を押さえて転げまわった。残る二人の男が、一体何事かとそちらを振り返ったその時、陸奥は大声を張り上げる。

今すぐ、その人から離れなさい!

まるで雷鳴の様なその響きに、男達は思わず縮み上がるが、それを発したのは他ならぬ、先ほど自分達が乱暴しようとした女であることを見て取ると、驚かされたことに対する下らぬ虚勢なのか、殊更に巻き舌で威嚇してみせた。

「んだとぉ⁉ このあまぁっ!」

そう野卑に呼ばわりながら一人の男が駆けて来るなり、陸奥の顔めがけて拳を繰り出してくるが、その体重の籠ったはずの一撃は、これといったやる気もなさそうに差し上げられた左手で軽々と止められてしまった。

「んなっ⁉」

何が起こっているのか理解できずにいるその男に向かって、にやりと笑って見せる。

「あらあら、どうしちゃったのかしら?」

そう言いながら、片目でもう一人の男が駆け寄ってくるのを見定めた陸奥は、目の前で固まっている男の二の腕を掴むと、紙きれか何かの様にさっと持ち上げ、駆けてきた男めがけて、これまたいとも無造作に投げつける。

「ぅおわああぁっ!」

短い叫び声だけを残して、男は仲間に向かって吹っ飛び、そのまま激突するともつれ合ったまま砂の上を二度、三度と跳ね転がっていく。

「むっちゃん!」

その声の響きが、なんと心地よく感じられることだろう! 今すぐ、彼の胸に飛び込んで抱き締められたいという欲求をおさえられずに、全身で向き直ってそちらに駈け出そうとするが、それがはたと止まる。

 

「仁! ――なんてひどい怪我――」

 

駆けてきた彼の顔は、鮮血で真っ赤に染まっていた。

「いや、大丈夫だよむっちゃん⁉」

その声はいつもの優しい彼そのものであり、それは陸奥を心底から安堵させてくれるはずなのだが、今は全くその効果があらわれない。

(よくも――、よくも、仁をこんな目に合わせてくれたわね⁉)

体の奥から、沸々と煮えたぎる様な怒りが湧き出し、全身を浸していく。

「どうしたの⁉」

思わず怪訝な声を上げる彼に向かって、出来るだけ優しい声で応えようとする――が、またも、体が膨れ上がる様な獰猛な怒りが自分を支配していき、それを止めることが出来ない。

「ちょっとだけ待っててね仁、今コイツラ始末シチャウカラ!」

自分で思っていたよりも、ずっと乱暴な声音になってしまったのに気付いてはいるが、どうにも怒りを制御できなかった。件の男どもは、其々によろよろと立ち上がっているが、全員すっかり逃げ腰であり、乗って来た車の方へと集まる気配だ。

(ちょうどイイワ、マトメテ車ごと粉々にしてヤルカラ!)

そう考えながら、徐に腕を上げる。さすがに主砲など撃てば大惨事となり、彼もただでは済まなくなるので、副砲一門だけにしておこう――、いや、それでも仁に危害が及んでは全くつまらない話なので、ここは二十五粍の豆鉄砲で十分かも知れない。

そう考えていると、思いもよらないことに、振り上げたその腕をさっと仁が掴む。

「ナニヲスル⁉」

とっさのことで強い声が出てしまい、慌てて訂正する。

「アッ――、ご、ごめんね仁――、でも、危ないからこっちに来て頂戴」

「駄目だよむっちゃん――、そういう訳には行かないよ」

凛としたその声に、思わずどきりとして彼の瞳を見詰めると、それは暗がりの中にもかかわらず、光を放って煌めいていた。

「なぜ⁉ あいつらは、仁をこんなひどい目に合わせたのよ⁉ それに、あたしにも乱暴しようとしたわ⁉ どうしようもない、ろくでなしどもよ⁉ そんな奴らを庇ってやる必要なんて、どこにあるの⁉」

つい、苛烈な言葉が口をついてでてしまうのは、ひょっとすると、先程自分自身が責め立てられたことに対して、無意識のうちに反発を覚えていたのだろうか? どちらにせよ、自分を助けてくれた仁に掛けるべき言葉でないことは間違いなく、狼狽した陸奥は謝ろうとするが、彼は静かな声でそれを遮る。

「あ、あのね仁――」

「別に良いんだよ、むっちゃん。そんなことよりも、あの連中が生きてる値打ちもないやつらなのは、言う通りだと思うよ。でも、だからこそあんな奴らの腐った血で、僕の大切なむっちゃんの手を汚させるわけには断じていかないよ。お願いだから、我慢してくれる?」

先程の甘く痺れる様な感覚がまた襲ってくるのと同時に、全身に漲っていた怒りの衝動が、まるですーっと空気が抜けていくように萎んでいくのがはっきり分かった。

(嬉しいわ仁――、やっぱり――、あたしはあなたが好き! 葉月にどれだけ詰られても、結局自分に嘘は吐けないのね……)

「分かってくれたんだね、ありがとうむっちゃん」

血まみれの顔でにっこり笑う彼に今更ながら気づいた陸奥は、波打ち際から抜けてティッシュを取り出すと、彼の顔をそっと拭く。最前よりも随分しょぼくれて聞こえる、バラバラという雑音が遠ざかっていき、ひときわ大きなガゴッという音や、それに続くガリガリという耳障りな音も響いてくるが、今やそれは、何の関心も惹かない雑音になってしまっていた。

「ほんとに大丈夫だよ、額をちょっと切っただけだからね。顔の傷って、大きさの割に血がたくさん出るからさ……」

そう言いながら、彼は砂まみれになったボディバッグ(という名前だと教えてもらった)から、子の日の口元を拭くためのウェットティッシュを取り出すので、それを受け取って(というより彼の手から取り上げて)丁寧に拭いて行くと、確かにあまりひどい傷ではないようだ。

「ほらね、大丈夫でしょ?」

そう言って笑う彼は、すっかりいつもの仁に戻っていた。とは言うものの、本当にいつも通りならば彼と手を繋いで家に戻れる筈なのだが、今夜はそれが出来そうにないのだ。

「ほんとにありがとう、仁――でも、あたし――、これから訓練隊に行かなくちゃ」

「――葉月に、何を言われたの?」

「――ごめんなさい、言えないわ……。でも、分かってくれるわよね?」

「大体想像はつくよ……。だけど、悪いのはむっちゃんでも葉月でもないよ――、僕がいけなかったんだ、無神経すぎたんだよ……」

「そんな、仁の所為じゃないわ⁉ あたしが――」

「むっちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいけどさ、でも、自分で分かってしまう事に嘘は吐けないからね……。ほんとに情けないよ、どうしてこんなにダメなやつなんだろう……」

「そんなこと言っちゃ厭よ! 仁が駄目なんだったら、あたしだって駄目なはずだわ!」

思わずそう言うと、彼はかすかな笑みを見せ、少し柔らかい声で応える。

「ありがとう――、むっちゃんがそう言ってくれるなら、もう言わないようにするよ、だから、僕のお願いも聞いてくれる? 隊に行くなんて言わないで、今は一緒に家に帰って欲しいんだ」

「そんなの無理だわ――、あたし、どんな顔して葉月に会えばいいの?」

「そんなことにはならないよ」

「どうして?」

「何となくだけど、分かるんだ――、きっともう、葉月は家に居ないよ」

「うそ――、なぜ、そんなことが分かるの?」

「これでも、幼馴染だからね!」

そう笑って見せる彼につられて、つい陸奥も笑顔になるが、今までならはっきりと判からなかった気持ちが、確かな言葉を伴って湧き出て来る。

(これはなに? あたし、葉月に嫉妬してるの?)

そんな風に、あくまでも冷静に自分を観察したつもりだったが、どういうわけか体は言うことを聞いてくれず、思いもよらない言葉が口を衝いて出てしまう。

「――そんなのずるいわ――、あたしだって、仁の幼馴染になりたかったわ⁉」

これまた意識したわけではないのに、口を尖らせて上目遣いに軽く睨んでしまうが、それを見た仁は、困ったようなそれでいてどこか少し嬉しそうな顔をすると、いつもの彼そのものと言った調子で言い繕う。

「いや、幾らなんでもそれは無理だよ~、お願いだからそんなこと言わないでさ、帰ろうよ、むっちゃんの家に」

「――ほんとに? ほんとに、あたしの家?」

彼の優しい言葉を聞きたくて、(これは自分の意志で)もう少しだけ拗ねてみせた。

「そうだよ! たとえむっちゃんがどこに行こうが、あそこはむっちゃんの家だよ」

 

(好きよ仁――、あたし、その笑顔が大好き……)

 

嬉しさやもどかしさが綯い交ぜになった様な、曰く言い難い感情が湧き出てきて、それが自然に陸奥を頷かせる。

 

「――――うん」

「よかった――、さぁ、きっと初春ちゃんと子の日ちゃんも心配してるから、急いで帰ろう♪」

そう晴れやかに笑う彼を、不意に困らせてみたくなり、いきなりその手をつかんで波打ち際に引き寄せる。

「えっ⁉ ちょ、ちょっとむっちゃん、なに⁉」

慌てる彼に有無を言わせず、さっと力ずくで抱っこしてしまう。

「うわっ! まっ、待ってよ、何する気なの⁉」

「うふふ、このままお家に帰るのよ♪」

「いや、そんな無茶な! そんなこと出来ないよ⁉」

「あら、そう無茶でも無いわよ? 川を遡って行けば、坂の下位までは行けるわ♪」

そう言いながら、懐かしいあの日と同じ様に仁を抱いたまま、夜の海へと進路をとる。

「あ、あのっ、あのさむっちゃん? お願いだから勘弁してよ! もし、誰かに見られたら不味いからね⁉」

「こんなに真っ暗なんだから大丈夫よ、きっと!」

「っていうかさ――、すっごく恥ずかしいんだけど……」

「あらあら♪ そんなこと気にしてたのね、仁ったら」

「き、気にするよ!」

愉しげに笑った陸奥だったが、それとは裏腹に――いや、今この瞬間が愉しければ愉しいほど余計に――手の付け様の無い寂しさが胸中に溢れてくる。

(やっぱり、あたしはあなたの傍にはいられないのね、仁……。こんなにも、こんなにも、あなたのことが好きなのに……)

涙が零れ落ち、風に乗ってはらはらと散っていく。

 

「むっちゃん……」

 

彼女の様子に気付いた仁も、何かを言いかけてそのまま口を噤む。

 

このまま、彼と一緒に大海原の彼方に行ってしまいたい。

そして、誰も知らない小さな島で二人で暮らせたなら、どれほど幸せだろうか。

許されない事である位は良く分かっているが、それでも、そう思わずにはいられなかった。



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〔第十五章・第六節〕

 彼の言った通り、本当に葉月は居なくなっていた。

初春らによれば、別れ際の言葉通りに風呂を沸かし始めてくれており、二人には笑顔を見せていたそうだが、それでも何やら忙しげにしていると見る間に、荷物を抱えて二階から下りて来ると、短く暇を告げるなりさっさと出て行ってしまったらしい。

陸奥が放り出していってしまったバッグも、ちゃんと初春に預けられており、どんなことがあろうが、後々負い目になるような瑕は残さないという、彼女の強い意志が目に見える様だった。とは言え、一夜明けたその翌日に、仁が何度も連絡を取ろうとしたものの、全く梨の礫で反応が無く、今どう思っているのかは判らないが、少なくとも気易く接しようというつもりはなさそうだ。

(まぁ、それは当然よね)

おそらく、最後の週末になるであろう休日を四人で一緒に過ごしながら、陸奥は頭の片隅で、葉月と最後の別れをするのは無理なのだろうかと思っていた。

寝る時になって、子の日がどうしてもとせがむので、四人で一緒に寝られるよう、仁とともに客間に布団を敷き、初春・子の日を間に挟んで床に就いた。

夜が更けていき、静かに寝息をたてはじめた二人を挟んで、陸奥は仁と見詰め合い、互いの手を伸ばして指を絡めあう。

自分の気持ちを本当に理解できるようになって、葉月が胸中に秘めていたであろう様々なことが、やっと判り始めたような気がする。もしも、今仁と二人きりであったなら、きっと自分は彼と結ばれたいと願ったことだろう。彼の腕に強く抱き締められ、その肌の熱さと息遣いを直に感じることが出来たならと思ってしまう。

そして、そう思うことによって、葉月もまた同じ思いを抱いているだろうことも初めて理解できるし、自分がそう願うようになることを、彼女が恐れていたのであろうことも判る。

(怖くて仕方なかったのね――、葉月……)

この地上に突然現れた陸奥から見れば、彼女は自信に満ち溢れた存在だったのに、その心の奥底では、仁を奪い取られるのではないかという不安に苛まれ続けていたのだろう。自分という、人間そっくりではあるものの、得体のしれない何かが、唐突に現れたその日からずっと。

 

(残念だけど、加賀ちゃんの言う通りだったわ――、どう考えても、あたしは災厄そのものよね……)

 

「そんなことないよ」

「えっ」

 

知らず知らずのうちに、口に出してしまっていたのだろうか?

だが、どうもそうではなさそうで、彼は陸奥の内心を読み取っている様だ。

「ずるいわ、いつの間に仁まで使えるようになってるの? その――」

「テレパシー?」

「そうよ、それだわ」

「僕もね、知らないうちにそうなってたんだよ……。但し、むっちゃんにしか通じないけどね」

 

「――ううん、それがいいわ、あたしだけがいいの」

 

「――うん……」

 

再び口を噤んだ二人は、絡めあった指に力を入れる。

 

(神様、もしこの世におられるのなら、今この瞬間のまま、永遠に時を止めて下さい……)

 

そんな、叶う筈も無い願いは、いつしか微睡の中に紛れていった。

 

 翌朝、訓練隊に到着した陸奥を、愁眉を寄せた斑駒が出迎える。

「おはようございます、陸奥さん……。実はですね――」

なんと、既に葉月がやってきており、陸奥と二人だけで話したいと言っているとのことだった。

「もちろん、陸奥さんが承諾してくれるのであればと仰ってますけど――、どうされますか?」

さすがに返答に窮して仁の顔を見ると、彼はあまり逡巡する風でもなく、卒直に応えてくれる。

「わざわざここに来てそう言ってる以上は、多分、危ない考えは持ってないだろうと思うけどね……。葉月は賢いだけじゃなくて筋の通らないことも嫌いだから、とんでもないバカなまねや非常識な事はそもそも出来ないんだよ。だから、二人きりで会っても大丈夫じゃないかと思うよ?」

「そうなのね……。じゃあ――、話してみようかしら」

「よろしいですか? では、ご案内しますね?」

いささか不安げにしながらも、斑駒は部屋に案内してくれ、ドアをノックして(室内にいるであろう葉月に向かって)声を掛ける。

「塔原さん? 陸奥さんをお連れしましたよ⁉」

「ありがとうございます……」

彼女の声は辛うじて聞き取れる程度で、元気と言うには程遠い。

なおも心配そうにしている斑駒に目礼して見せてから、思い切ってドアを開け、室内に入る。正面に立った彼女は、少し俯いたまま無言で、どうしようかと思ったものの、それらしい言葉が浮かんでこなかったので、やはり無言のまま後ろ手にドアを閉める。

だが、室内に二人きりになっても、葉月はつっ立ったままで動かなかった。

顔もやや俯いたままで、目を合わせることが出来ないために、何を考えているのかも皆目見当がつかない。

(どうしたのかしら、葉月……)

時間が経ち、次第にこのままでは不味いと感じ始めた陸奥は、とにかく何か声をかけてみようと思い直し、口を開きかける。

「葉月、あたしね――」

ところが、話し始めた途端、それでスイッチでも入ったかのように葉月が動き始めた。

何が始まるのかと訝る間も無く、彼女はまるで蹴飛ばすように靴を脱ぎ棄てるなり、なんとさっと床に膝をついて正座すると、そのまま一動作で手と額を床に付けてしまう。

「ちょっ! ちょっと待って⁉ 一体――」

「ごめんなさいっ!」

「えっ――」

頭の中が真っ白になってしまい、一瞬硬直する陸奥を前に、葉月は土下座したままでさらに言葉を続ける。

「あんな酷い事言って、本当に本当にごめんなさい! 許して下さいとか言うつもりはありません! でも――本当に申し訳ありませんでした!」

(葉月!)

硬直が解けた陸奥は、慌てて彼女の傍らに膝をつき、その肩に手を掛ける。

「待って葉月! そんなことしないで⁉ お願いだから頭を上げて頂戴⁉」

だめっ!

彼女は、額を床につけたままとは思えぬ程の強い語気で、それを遮った。

「だめって――、どうしてだめなの?」

「――――だって――――、わたしは別に――、カッとなった勢いであんなこと言った訳じゃないもの! むっちゃんが油断してる時を狙って、思い切り言ってやろうと思って、手ぐすね引いてたのよ⁉ こう言えば一番傷つくだろうって言葉まで用意して、不意打ちしたの!」

「…………」

「だから、ダメなのよ! わたしは――そんな卑怯なことした自分が許せないの! だから、こうして謝らなきゃダメなのよ! ダメなの……」

そこまで言った彼女は言葉に詰まってしまい、それでも黙ったまま、手と額を床にぎゅっと押し付けている。

力が入っているのか、手に白く筋が浮き出てぶるぶる震えていた。

(葉月――、やっぱりあなたは――あたしの一番大切な友達だわ)

ふっとため息を一つ吐くと改めて立ち上がり、彼女と同じように靴を脱いで、ちょうど頭の位置が合うように床に正座し直すと、これまた同じように手と額を床に付けて口を開く。

「これまで散々お世話になって来たのに、そんなことお構いなしに、葉月の気持ちを踏みにじる様な事ばかりして本当にごめんなさい。許してもらえるとは思わないけど、それでも謝ります。本当に申し訳ありませんでした」

そう一息に言ってしまうと、後はもうどうしていいか判らなくなったので、そのままじっとしていたが、やがて気配を感じたので顔を上げると、ちょうど葉月も顔を上げるところだった。

二人は思わず、互いの顔をまじまじと見詰めるが、暫くはそれ以外にやることが無い。

しかし、長い沈黙の末に、先に口を開いたのはやはり葉月だ。

「なんで、むっちゃんが土下座してるのよ」

「葉月に言われたこと、その通りだなって思ったからよ」

「じゃあ、仁の事はきっぱりあきらめてくれるの?」

「それは無理」

「何言ってんのよ! ちっとも謝ってないじゃない⁉」

「葉月にひどいことしたから謝ってるの! 仁を好きなのは別よ⁉」

「なによ! 結局、横取りするつもりなのね⁉」

「あたし、彼のこと横取りなんかしてないし、それに独り占めだってしてないわ⁉」

「何、調子のいいこと言ってんのよ! それとも、半分ことか言うつもりなの⁉ この、図々しい戦艦女は!」

「なんて言われようが、好きなものは好きなの! 葉月だって好きなんでしょ⁉」

「当たり前でしょ⁉」

「だったら――素直にさっさとそう言いなさいよ! ――そんなとこに――下らない意地張ってるくせに――横取りだなんだって――何よ――」

「ええそうよ! どうせわたしは――下らない意地っ張りよ――全く――何偉そうに――、一人前の事言ってくれてんのよ――」

そこまで涙声で言い合った二人は、すぐにどうしようもなく泣けてきてしまい、抱き合っておいおい泣き出してしまう。

「ごめんねむっちゃん――、ほんとに、ほんとにごめんね」

「葉月が悪いんじゃないわ――、あたしがいけなかったのよ――右も左も分からないくせに――」

「それこそ、むっちゃんのせいじゃないわよ――わからなくて当たり前じゃない――」

「でも――葉月が傷つくの分かってたはずなのに――なのに――気持ちが止められなくて――」

「そんなの誰だって同じよ――理屈で止められないのは――わたしだって同じだわ」

「そうよ、それを――葉月はちゃんと分かってくれてたのに――それなのにあたし――」

「違うわよ――そもそも、あいつが一番いけないのよ――いつだって、人の気も知らないでふらふらして――」

「そうだわ――思い切り締め上げてやろうって思ってても――なんだかすまなそうな顔されると、つい赦しちゃって――」

「気の弱そうな顔して――わたし達のこと弄んでるのよ――ほんとに、女の敵よあいつは――」

この場に仁が居たなら、それこそ真っ青になっていたことだろう。確かに責任の一端があるとはいえ、いつのまにか、何もかも自分が悪いことにされているのだから!

それからどれ位経った頃だろうか、お互いの服に染みが出来るほど散々泣いた二人は、体を離すとどちらともなくハンカチを取り出して互いに涙を拭い合い、それが一頻り終わると、今度はティッシュを取り出して、みっともなく洟を垂らしたりしていないかと鼻を拭う。

それらを一通り終えてしまう頃には嗚咽もおさまり、椅子もテーブルもあるというのに、床に鳶足で座ったまま、しばし鼻をすすりながら無言の時を過ごした。

やがて、葉月がほうっと長嘆息すると、やや視線を落としながら、憑き物が落ちた後の様なさっぱりした声を出す。

「あ~あ、負けちゃったかぁ~」

「そんなのおかしいわ、負けだなんて」

「どんな風に言い換えたって、結果が変わるわけじゃないわ、負けは負けよ」

「でも――、あたし、葉月に勝ったつもりないわ?」

「だから、負けちゃったんじゃない! あーもう、油断してたなぁ~、あいつの事は何もかも分かってるつもりだったのにぃ」

「それは、間違いないんじゃないの?」

「そーゆーことよねぇ~、だからこそ油断したのよねぇ……。わたし、結構似てると思ってたんだけどなぁ」

「仁のお母さん?」

「そうよ、微かにしか覚えてないけど、素敵な女(ひと)だったのよ」

「きっとそうだったのね――、あんなに泣いてたんだもの……」

「ほんとにひどいわ♪ あれは、わたしがする筈だったのに! あそこまで見事に持ってかれると、ぐうの音も出ないわね♪」

「ほんとにごめんね、葉月……。でも――、とっても――とっても幸せだったわ……」

 

「――ねぇ、ほんとに、このまま終わりにしていいの?」

 

「――うん――、そのつもりよ……」

 

「本気なの? まさか、わたしに遠慮してない?」

 

「――ちょっと、してるかな♪」

「何言ってるの⁉ そんなこと、絶対しちゃダメよ⁉」

「それは分かってるつもりなんだけど――でも、それだけじゃないから」

「なんでそう、揃いも揃って頑固なのかしらねぇ~、言っとくけど、本当に好きな人のためだったら、例え一生棒に振っても当人はそれで幸せなものよ⁉」

「そういうものなのかも知れないけど――でもね、あたしにはもう一つ選択肢があっただけなの、仁も一緒にそう願ってくれてる選択肢が――だから、それを選んだだけよ♪」

 

「――わかったわよ――後悔したって知らないわよ⁉ わたし――、取り返しちゃうからね⁉」

「もし、天国から邪魔できそうだったら、してみようかしら♪」

「うわ、性格悪っ!」

「うふふふっ♪」

「うふふふっ♪」

 

「――そろそろ、仁が心配してるかしら?」

「そろそろどころか、最初っからずっと心配してるわよ♪ しても無駄なんだけど、あいつの場合」

「ほんとにそうよね♪」

さばさばと笑った二人は、立ち上がって軽く汚れを払うと、靴を履いて部屋を出るが、なんと、少し離れたところで斑駒が一生懸命に目元を拭っている。

「いやだ、駒ちゃんたら!」

「すみません――、ほんとに立ち聞きするつもりは無かったんですけど――でも、女同士って良いなぁって思って――それでつい――」

「斑駒さんからも言ってやってくださいよ、この頑固者に!」

「そうですよ、陸奥さん――、お願いですから、たった一言だけ『いや』って言ってください! そしたらわたし、首を覚悟で司令と副長に直談判しますから! っていうか、多分副長だったら、その場で幕僚監部に電話してくださると思いますよ⁉」

「ありがとう駒ちゃん♪ でもあたし、二人で選んだ結末を見てみたいわ」

「――ほんとに良いんですね? 渡来さん、きっとまた見苦しく大泣きしちゃいますよ? いいんですか?」

「いや、駒ちゃん――」

「なんで、そこでサラッとディスります?」

「えっ⁉ あら、そうでしたか⁉ いやついつい――」

「――まぁ、敵が少なくて有難いっちゃあ有難いんですけどね……」

そう言いながら歩いてきた三人の姿を、目ざとく見つけた仁がサッと立ち上がるが、和やかな様子を観て取り、ほっとしたような笑顔を浮かべる。

「あら、ナニ安心したような顔してるわけ?」

「えっ……」

「そうよ、あたし達、結局仁が一番悪いって結論に達したの」

「えぇ――なんで、そんなことになってるの……?」

「いちいち、細かい事言わないの! 家帰ってから、きっちり詫びいれて貰うからね⁉」

「――はいはい、わかりましたよ――」

「は・い・は・い・ち・ど!」

「――――はい」

陸奥と葉月にハモられては、仁に反論するすべなどあるはずもなく、何だか分からない非を認めさせられてしまう。

だが、二人のとても明るい笑顔と引き換えならば、そう悪い取引でも無いとつい思ってしまうのもまた彼だった。

ただ、ここまでで終わっていれば良かったのだが、やはりひと其々に思惑があるもので、高雄が甘く蕩けるような笑顔で近づいてくると、そっと優しく彼の手をとる。

「大丈夫ですよ仁さん、もう少しの辛抱ですからね♪ そうしたら、高雄が一杯よしよししてあげますから」

「――良く分かったわね、葉月?」

「そうね、まずは全力を挙げて叩き潰すことにするわ」

「まぁ、こわい♪ やっぱり、仁さんには包み込むような優しさが必要なんですね?」

「ちょっと! いい加減にしなさいよ⁉」

途方にくれる仁を放ったらかしたまま、なおも言い争いは続くが、それは心和むような暖かさと、一抹の寂しさを感じさせるもので、取り巻く艦娘達も、それを壊したくないというどこか切ない思いを共有していた。

そんな光景を遠くから見た中嶋は、小さく溜息を吐くと、チラリと長門と視線を交わしてから、後ほど改めて出直すべく踵を返した。



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〔第十五章・第七節〕

 空は一面雲に覆われてはいるものの、雨の気配を湛えてはおらず、絶え間なく頬を撫でていく潮風のお蔭もあり、意外なほど蒸し暑さは感じない。

とは言え、もしも晴れ間の出た時に備えて、『おおやしま』の広々とした後甲板には、一部真っ白な天幕も張られていた。

(結局、ここまで来てしまったか)

引揚げ作業がいよいよ最終段階に差し掛かったとの知らせと共に、海上警備庁の船艇で現場に向かうことになったと知らされたのだが、たいへん有難いことに、勝手知ったる『おおやしま』で運んでもらえるとのことだった。

再会した斑駒船長は、曰く言い難い表情で、

「皆さんと再びお会いできるのはたいへん喜ばしいのですが、此度の事をどう受け止めてよいものか、正直なところを申し上げてしまうと、いささか複雑ですね」

と、組織人らしからぬことを口にして長門らを出迎えた。

少々緊張していた艦娘達は、そんな気の置けない態度に安心させられたこともあって、約一日強の航海の間も和やかに過ごすことが出来た。さらには、現場に到着して、特等席ともいうべき場所に投錨した『おおやしま』の後甲板には、船長のはからいで、天幕の下に人数分の席が用意され、長門と艦娘達全員、それに仁、葉月や中嶋、斑駒(娘)は、その椅子に腰を落ち着けて、先程来咳き一つせずに、ひたすら引き揚げ作業の成り行きを見詰めている。

二隻の巨大な起重機船の、それこそ雲を撞く様な長大なジブの先端から、海中に下ろされたワイヤーの先には、残された陸奥の船体があるはずであり、今しもそれは、ワイヤーが巻き上げられるのにつれて静々と海面を目指しているはずだった。

(お前たちは今、一体何を考えているのだ?)

もう何度目になるのかも忘れてしまったが、顔を動かさずに、横目で隣に座った陸奥と更にその隣の仁の横顔を盗み見た。だが、何度見ても二人の表情には変化が無く、心中ため息をついて再び視線を前方に戻すものの、単調な眺めに没入するでもなく回想に耽る。

祭りの夜、久し振りに姿を見せた塔原葉月の妙にさばけた態度に、理由のないざわめきを覚えていたが、少なくとも、長門の見ている所では何事も起こらなかった。

そのまま、週末の間は何の音沙汰もなかったので、取り越し苦労だったかと思い直したところ、月曜の朝になって、思いつめた顔付きの彼女が現れるに及んで、只ならぬことがあったことをはじめて覚った。

にもかかわらず、その後やって来た陸奥と仁は落ち着き払った様子だった上に、別室で余人を交えずに話し合ったらしい陸奥と塔原葉月が、明るく屈託のない笑顔で現れるに至って、事態は長門にとって完全に理解不能なものとなったのだ。

(やれやれ、人間の女というものは何とも不可解なものだが、まさか、陸奥までそうなってしまうとはな)

もっとも、横波間を出港してから、ここ柱島沖に到着するまでにはそれなりに時間もあったわけで、妹のみならず、仁と塔原葉月も交えて話すことが出来ており、今はもう、その間の経緯全てを聞いてはいた。

(仁の奴を巡る争いの、雌雄は決したわけか――、まぁ、いささか皮肉な結末ではあるが)

勝ちをおさめた陸奥が去った後、塔原葉月はいったいどうするのだろう?

なにより、妹を喪った仁は一体どうするのだろうか?

そんな見方で、あの日の中嶋の発言を思い返してみると、彼はそれらの疑問に対して、明確な答えを持っていたことが理解できる。

しかも、あの言葉は仁に対して語られながらも、陸奥に対する問いかけにもなっていたのだ。

(大切に思うならばその手を放してはならぬ、傍に居たいと思うならその気持ちに素直になれ――といったところか。――もう少し状況が理解できてからであれば、私も全く同じことを言ったかも知れんな……)

そう思うと、いささか無責任なことを言ってしまった自分に後悔がない訳ではないが、反面妹と仁であれば、自分が何を言おうがそれに流されたりしないだろうと思いもする。

昨夜、塔原葉月は二人を指して『頑固者』と断じたが、それが当を得ているのみならず、長門自身も全く同感だと感じたものだ。

(心優しく、自然な心配りの出来る頑固者というところか――。そんなお前たちの選んだ結末を、私如きが捻じ曲げようも無いのが道理というものか)

そんな風に、心の裡で結論めいたものを捻り出してみたものの、だからと言って、長門自身もこれから起こる出来事をあるがままに受け止められるかというと、やはりその自信はない。

七十年もの歳月を無為に海底に横たわりながら、ひたすら願い続けていた妹との再会を、全く思いもよらぬことに、心を持った人の姿としてこの地上に顕現し、果たすこととなったのは余りにも鮮烈な喜びであった。

そして、互いに言葉を交わして意思を通じあい、更には妹の手になる料理に舌鼓を打つことが出来ようなどとは、正に言葉通り夢にも思わなかったことだ。

だが、その楽しく幸福な時は、今まさに失われようとしている。

船として生まれた己を思う限り、無事にその生涯を終えて天上に旅立つことは、幸福以外のなにものでもないはずだが、このわずかな日々の間に、長門の気持ちや価値観は明らかに変化していた。

(我ら艦娘の幸福とは、なんなのだ? 陸奥よ、お前にとっての真の幸福とはなんだ? ――この私にとっての幸福とは……?)

もしも、このまま陸奥と共に、この明るい日の当たる世界で暮らせるのなら――、妹が仁と共に幸福に暮らす姿を、いつまでも傍で見守ることができるなら――、仲間達が、それぞれに自分なりの幸福を見つけ出していくのを、支え見守り続けられるのなら……。

先程、己が胸中で独り言ちた言葉がそのまま繰り返される。

(大切に思うならばその手を放してはならぬ、傍に居たいと思うならその気持ちに素直になれ――、私もそうだという事なのか……?)

そこまで思い至った長門は、抑え難い衝動が噴出してくるのを感じ、それは直に、抵抗出来ないほど強い力となって己を突き上げ始める。

そして、とうとう自若とした仮面を被り続けることに限界を覚え、横目に見るだけに止めていたのをやめて陸奥と仁を顧みるが、思いもよらない姿を目にして面食らう。

全く気付いていなかったのだが、仁は引き揚げ作業から目を逸らしており、俯いて両手をぐっと握りしめると、顔に血管が浮き出るほど強く歯を食いしばっている。その体は小刻みにぶるぶる震えており、しかも常であれば、陸奥がその手を握ると必ずそれはおさまっていた筈であるのに、今も妹の手が包み込むようにその拳を握っているにもかかわらず、震えが止まらないようなのだ。

(仁よ――、それほどまでに、お前は耐えているのか)

間違いなく彼は、陸奥――長門にとっても、何ものにも代え難い大切な妹――をこの上も無く深く愛し、必要としていた。

(だめだ――私も、これ以上己を偽ることは出来ぬ、お前のその赤心に、目を瞑るわけにはいかぬ)

短く意を決した長門はさっと立ち上がり、二人に声を掛けようと息を吸い込むが、これもまた思わぬことに、陸奥の強い声で遮られる。

「姉さん、座って頂戴――、お願いよ」

 

「――何だと? お前は一体何を――」

「姉さんの言いたいこと、分かってるつもりよ……。でも、それはやめて頂戴、お願いだから、仁の思う通りにさせてあげて」

「陸奥……」

 

胸塞がれて絶句した長門は、それと共に、どういうわけか、陸奥と仁の姿しか見えていなかった自分に気が付く。何故それが見えていなかったのかと不思議になるが、震える仁の反対側の手を、子の日が両手でしっかりと握りしめ、さらに初春がその肩を包み込むようにしており、二人ながらに、訴えかける様な眼差しで自分を見上げていた。

(――そうか――、お前たちは家族なのであったな……。残念だが、私はまだ家族にはなり切れておらぬらしい)

思わず嘆息すると、もう一度軽く息を吸い直し、先ほど舌下にまで達していた言葉を仕舞い込んで、全く異なる言の葉を口に上せる。

「すまぬ、まこと忸怩極まることだが、どうやら私が浅慮であったようだ」

それだけをさらりと言って、再びサッと腰を下ろす。

 

「ありがとう、姉さん」

「すみません――その――」

「仁よ、無理をするな、今はただ、少しでも心静かにその時を待てばよい」

 

「――はい」

「私はお前達がやせ我慢をしているものと、どこかで思っていたのだ。しかし、誤りだった様だな――、お前達にはそれよりも強い願いがあり、そのためにこそ耐えているのだな」

「そんな、大袈裟なことじゃないわ――、ただ、あたし達がそうしたいと思っただけよ……」

 

そう言った妹は、添えていた片手を入れ替えると、空いた方の手を仁の肩に回す。その所為ではないだろうが、彼は少しずつ落ち着いた呼吸をし始め、顔が上がってくる。

そんな様子を見て、静かに声をかけたのは中嶋だった。

 

「私達は、お二人の願いの行き着く先を、見守るよりほかないのですね?」

 

その言葉の寂寥たる響きが長門の胸をうち、自然に思いと言葉とが湧き上がる。

「副長殿、その様に致しましょうぞ。我らはここまで来たのです、最後まで見届けましょう」

それに対して、中嶋は口を真一文字に結び、無言のまま小さく頷いて見せる。

傍らの斑駒(娘)も同じように頷こうとしたのだが、両目にいっぱい涙を浮かべた彼女は、口をへの字に結ぶのがやっとだった。

そのまま長門は視線を流し、仲間達を見やるが、彼女らは互いに手を握り合ったりしながらも、しっかりと見返してくる。

(不思議だな、まるでこれからお前達と共に、乾坤一擲の大海戦にでも臨む様な心持ちだ)

そう思って、改めてぐっと組んだ腕に力を入れたその時、どこからか無線の様な音声が微かに聞こえ、斑駒(父)が低い声でそれに応答するのが聞こえた。

一瞬、全身が耳になったように集中力が全てそちらに注がれるが、船長は一切勿体をつけるでもなく、どこか沈鬱な声でその内容を告げてくれる。

「皆さん、間もなくだそうです」

(来たか……)

思わず身を乗り出して、幾本ものワイヤーが張り詰め、立ち上がるその波間を見詰める。

全員が全く同じことをしている気配を感じ、その滑稽な様を想像してみようとするが、それが叶わぬどころか、一切目を逸らすことすらできないままに、永遠とも思われる時間が過ぎていく。

そして、全員の緊張が限界に達すると思われた瞬間に、それは起こった。

海面が突然幾何学的な形に――なおかつ、思っていたよりもずっと広い範囲に渡って――盛り上がり、ついでそれは重々しい流れとなって、あらゆる方向に拡散する。

それはとても緩慢に思えたが、どこまでも滑らかでとどまることが無く、しかも唐突に終わりを告げた。

海面上に黒々と姿を現したのは、無数の異物が付着し、ところどころが裂けてささくれ立っているものの、紛れもなく軍艦の船体だ。

一体どうなることかと固唾を飲んで見守るその耳に、巨人の呻き声の如く野太い軋轢音が響き、長大なジブが揺れてがくがくとした後、ゆっくりと停止する。

それを茫然と見つめ続けるうち、どこから現れたのか、どうやら浮きドックとおぼしき枠の様な構造物が傍らから近づき、ゆっくりと波間に見え隠れするその船体を取り込むように進む。

その動きがとても静かであったために、いつ停止したものか定かではないが、気が付くと吸い込まれるような轟音が響きはじめており、周囲の海面が泡立ち波打ち始めた。

どれ程の間それを眺めていたものか、海面に突き出したその枠が少し丈高くなった様に感じ、よくよく目を凝らしてみると、張り詰めていた筈のワイヤーに微かな弛みが見え始めている。

(とうとう――とうとう時が来るのか…………むっ⁉)

視界の端に、何やら違和感を感じて振り返った長門の目に映ったそれは、一体どれほどの間艦娘としてこの世にとどまれるのかは分からないものの、それこそ、この身のある限り忘れられない光景だった。

 

「陸奥、お前――!」

 

両手で胸を押さえた妹は、形容しがたい不思議な表情で、自らの船体が少しずつ浮揚してくるのを見詰めていたが、その胸の奥――体の芯とでも言うべきところ――から、金色の光が洩れ出していた。

 

「むっちゃん……!」

 

傍らで立ち上がった仁が声をかけると、妹はその不思議な表情のままに、微かな笑みを浮かべて口を開く。

 

「あのね――、

あたしが生まれてから、今日に至るまでの何もかもが、全部浮かんでくるの……。

でもね、どれもすごく暖かいのよ?

どんなに辛い嫌な事でも、全部がとっても暖かいの――

こうして、しっかり抱きしめていられるの……」

 

 

そこで一旦言葉を切った陸奥は、ゆっくりと立ち上がって仁と長門の顔を交互に見詰め、改めて厳かに口を開く。

それは遥かな天空に打ち鳴らされる鐘の音の如く、二人のみならず、その場に居合わせた者達全ての胸の奥深くにまで響き渡る。

 

 

「仁――

 

 姉さん――

 

 ……………………これで、本当にお別れみたい……」

 

 

 



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〔第十五章・第八節〕

 彼女の身体が輝き始めた時、仁はひどく動揺したものの、それ以上に、まるで雷に打たれたかのような衝撃を感じて立ち竦んでいた。

口元にだけ微かな笑みを見せる陸奥の瞳の奥からは、あの底知れぬ深い哀しみの色が拭い去られていたからだ。

(これが――これが、本当の救いなんだ――、僕が見たかった、救われたむっちゃんなんだ!)

その強いカタルシスと高揚感に押し包まれた彼は、取り乱すことすら忘れて茫然としていたが、まるでその代りとでも言うように、今まで泰然としていた長門が感情を露わにする。

「陸奥っ! お前は――、行ってしまうのだな! 天上へと――、旅立つのだな!」

そう叫んで陸奥の両肩を掴んだその目からは、急速に大粒の涙が溢れだし、頬を伝っていく。

「ごめんなさい、姉さん……。でも、今日まで本当にありがとう、姉さんとこんな風に会えて、あたしは幸せだったわ」

「何を言うか! 礼を言わねばならんのは――、この私の方だ! 本当に――ありがとう陸奥よ――、お前の姉でいられたことこそが――未来永劫、私の宝だ!」

そう言葉を交わして二人はひしと抱き合うが、それはまるで、号泣する長門を陸奥が抱き締めているかのようだった。

「陸奥さん!」

仁の傍らから子の日が飛び出して、彼女にしがみつくと、陸奥は長門と抱き合った腕を緩めて振り返り、そっと甲板に膝をつきながらその肩を抱く。

「子の日ちゃん、あなたと会えて本当に嬉しかったわ……。思い出をいっぱい、ありがとう」

慈愛に満ち満ちたその声に、彼は身震いしそうになるが、愛らしい顔を涙でクシャクシャにした子の日は、今日までずっと我慢し続けてきた言葉を初めて口にした。

「陸奥さん――、行っちゃいやだ! 子の日を――置いて行かないで⁉」

陸奥の瞳にも見る見る涙があふれ、彼女をしっかり抱き締める。

「ごめんね――、何時までも傍に居てあげられ無くて、ほんとにほんとにごめんね……。あたし、待ってるから――、子の日ちゃんのこと、待ってるからね」

「そんなの――いや……。子の日は――陸奥さんと――仁と――姉さまと――、一緒がいいの――、みんな一緒がいいの……」

「その様なことを言うてはならぬ――、陸奥殿の後ろ髪を――ひいてはならぬ――、我らは、家族ではないか――」

涙を零しながら、初春が懸命に言って聞かせようとするが、最後まで言葉を続けられずに泣き崩れてしまい、陸奥が腕を広げて彼女をも抱き寄せる。

「二人とも、ほんとにごめんね……。二人のこと、散々振り回したあたしが、こんな風に、二人を置いて行ってしまうなんて――」

「陸奥殿に――罪なぞ――ござりませぬ――、我ら姉妹は――数多の幸を――頂きましたに――、なんの――なんの――」

声を詰まらせながらも、懸命に応えようとする初春のその姿に耐え切れなくなった仁は、進み出て膝をつこうとしたが、一瞬早く、すっと横合いから進み出る者がいた。

「そんなことないですよぉ~、陸奥さんも、二人から一杯幸せを貰ったと思いますよぉ♪」

この場には似つかわしくないほどに飄々としてはいるものの、龍田の声音はどこまでも優しい。

「龍田ちゃんの言う通りよ――、一緒に居られて、ほんとに幸せだったわ」

「さあ、陸奥さんを一緒にお見送りしましょうねぇ~」

二人の肩を抱きながら明るくそう言った彼女だが、その頬には、次々に涙の零れた跡が刻まれていく。

「ありがとう龍田ちゃん、あなたに会えて、とっても嬉しかったわ」

「陸奥さん――、龍田のことも、待っててくださいますかぁ?」

「当たり前じゃない――、龍田ちゃんが来てくれるの、待ってるわね」

そう言う陸奥と抱擁を交わした龍田は、さらりと身を屈めて初春と子の日に腕を回すと、二人を小脇に抱えるようにして後ろに下がり、入れ替わるように皐月が飛び出してくる。

「陸奥さあぁんっ! ――」

もっと何かを言うつもりだったのかも知れないが、それだけしか言えずに陸奥の首に抱きつくと、ただただ泣き出してしまった。いつもであれば、皐月に突っ込みを入れるのは霰の役目なのだが、その霰も何かを言おうとして唇を戦慄かせたのみで、膝をついて啜り泣きはじめる。

「皐月ちゃん――霰ちゃんも――メだよ――陸奥――さん――がぁ――」

朧がべそを掻きながら一生懸命に二人を窘めようとするものの、彼女も堪え切れずにさめざめと泣き出す。

「みんな、ほんとにありがとう……一緒にいられて、本当に楽しかったわ……みんな、大好きよ」

三人に腕を回した陸奥がそう声を掛けると、彼女らの後ろから、長良が精一杯気丈な声をあげる。

「みんな――あんまり泣いて悲しんだら――、陸奥さんだって、心配で天国に行けないよ⁉ もう少しだけ頑張って――、みんなでお送りしなきゃ――」

それを耳にした皐月が、頻りに嗚咽を洩らしながらも、健気にしがみついた腕を緩めると、微笑んだ陸奥は三人に話し掛ける。

「みんな本当に偉いわね――、これからも、長良ちゃんのいう事ちゃんと聞いて仲良くしてね……。あたし、いつもみんなのこと見てるから」

彼女らが頷くのを見て取った長良が、三人に腕を回して立たせてくれるので、陸奥も立ち上がって長良の肩に手を掛け、

「ありがとう長良ちゃん――、あなたに会えて、本当に嬉しかったわ……。一杯頑張って支えてくれて――、本当にありがとう」

「そんな――、支えて頂いたのは長良の方です――。陸奥さんが――居てくださったから――、頑張れたんです――、ほんとに……」

そこまで何とか言葉を繋いだものの、彼女もまた胸が痞えたのか、言葉に詰まってしまい、陸奥の肩口にきゅっと顔を埋める。

だが、ここでもやはり芯の強さを見せた長良は、わずかな抱擁だけを交わすと体を離し、ぐいっと拳で涙を拭うと、まだ少し上ずってはいるものの、落ち着いた声で別れの言葉を告げる。

「最後まで、本当にありがとうございます。天国までの道中がどんなものかは判りませんが、くれぐれもお気をつけて! いつの日にか、長良は必ずお傍に参ります」

さっと敬礼すると三人を伴って後ろへ下がった彼女を待ちかねていたように、大きな丸い瞳を潤ませた酒匂が、陸奥の手を強く掴んでくる。

「ぴゃあぁぁ、陸奥さん! 酒匂もね⁉ 天国に行ける? 陸奥さんのところに行けるの?」

「もちろんよ、酒匂ちゃんもきっと来られるわよ」

「でもね、酒匂の体はね、危なくて人間が触れないって言ってたよ⁉ だから、引き揚げられないんだって……。みんなが陸奥さんのところに行っちゃったら、酒匂は一人ぼっちになるの?」

痛ましげな瞳で訴える彼女だったが、陸奥が応えるまでも無く、仲間達が放ってはおかなかった。

「馬鹿を言うな! この私が、酒匂を一人残して行ったりするものか! 何があろうと、お前より先に陸奥のもとへ行ったりはせんぞ⁉」

「何も心配しなくていいわ、私達はあなたを置き去りにしたりしないから、安心してね……。だから今は、陸奥さんにちゃんとお別れの挨拶しましょ」

長門と妙高がかわるがわるそう言うと、やっと彼女も笑顔を見せたが、その拍子にたまった涙がつつーっと筋を引いて零れ落ちる。

「陸奥さん、お空のうえから、酒匂のことちゃんと見ててね! お姉ちゃんに会えたら、陸奥さんのお話しするからね! 一杯優しくして貰ったって、お話しするね!」

「ありがとう、酒匂ちゃん――、矢矧ちゃんに早く会えるといいわね」

「うん!」

笑顔でそう応える彼女の腕に手を添えた妙高は、優しい笑みを浮かべていたが、その瞳には涙が溢れていた。

「妙高ちゃん、あなたにはいろいろ助けて貰ったわね――、本当にありがとう」

「やめてください、助けて頂いたのは私の方です。もしも陸奥さんにお話しできずにいたら、きっとこの姿で陸の上に居続けることが、心底苦痛になっていたと思います……。今、こんなに心静かにお見送り出来るのは、何もかも陸奥さんのお蔭です」

「妙高ちゃんの口からそんな言葉が聞けるなんて、本当に嬉しいわ……。これからも、姉さんやみんなのことよろしくね」

「はい、もちろんです! 早速と言ってはなんですけど――」

急に言葉を切り替えた彼女は、後ろを向くと、いつの間にそんなに泣き腫らしていたのかと訝るほど、赤い目を更に赤くした高雄の腕をつかんで、陸奥の前に引っ張り出す。

「ほら、ちゃんと高雄ちゃんの口から言わなきゃ駄目よ?」

「そうですよ、今言わなければ後々まで悔やまれますわ」

傍らから瑞穂も、彼女の肩に手を掛けながら言葉を添える。

「どうしたの、高雄ちゃん?」

「――陸奥さん――、私――ごめんなさい! 本当に済みませんでした――」

泣きながらそう言った高雄は、陸奥にきつく抱きつく。

「なあに、あたし、高雄ちゃんに一体どんな非道いことされたのかしら?」

「私――、ずっと意地張ってました――、何となく、陸奥さんに負けたくなくって――最初は私のこと――振り向いてくれたのにって――、そう思ったら――何だか悔しくて……」

「いやね、高雄ちゃんたら――、あたし、そんなことちっとも気にしてないわ♪ だから、謝ったりしないで……。それよりも、これからは仁のこと傍で支えてあげてね、お願いよ?」

「そんなの無理です! 陸奥さんの代わりなんて、私にはできません――、仁さんには、やっぱり陸奥さんしかいません――、私なんかじゃ駄目なんです……」

「誰かの代わりになるなんて、誰にも出来ないわ。あたしはあたし、高雄ちゃんは高雄ちゃんよ。だから、高雄ちゃんのやり方で、仁や皆を支えてあげてくれたらいいの」

「――――はい、私頑張って見ます……。ですから、天上から見守っていて下さいますか?」

「ええ、もちろんよ!」

「良かった……、ほっと致しましたわ、高雄さん」

陸奥と体を離した高雄に、瑞穂が微笑みかけるが、彼女の瞳からもまた紅涙が幾筋も流れ落ちている。

「瑞穂ちゃん、あなたが来てくれて本当に嬉しかったわ。あなたのお陰で気付けたことや、助けられたことも一杯あって……」

「私如きがそんな――、おこがましい限りですわ。私は、陸奥さんや皆さんが私を見つけて頂いた日のことを、この身がある限り忘れません。陸奥さんも、どうかお気をつけてくださいませ」

「ありがとう瑞穂ちゃん――、皆のこと、よろしくね」

「はい――」

そこまで落ち着いて話していた彼女は、最後の最後で声を詰まらせ、涙を溢れさせると陸奥と固く抱き合うが、やがて静かに腕を緩めると背後を振り返って、待っている赤城らに声を掛ける。

「申し訳ございません、時は限られておりますのに――、失礼を致しました」

「それこそ、気になさることではありませんよ瑞穂さん!」

赤城は泣きながらでも普通に喋れるようで、常とかわらぬ様な張りのある声を出すが、蒼龍と飛龍はどうやら限界だったらしく、溢れる涙で頬を濡らして陸奥に抱きつく。

「陸奥さん、陸奥さぁん!」

「ほんとに、ほんとにこれでお別れなんですかぁ⁉」

「そうよ、二人とも今日まで本当にありがとう♪ 二人がいてくれたお陰で、毎日とっても愉しかったわ……」

「でも、やっぱりわたし達――」

「陸奥さんが居なかったら、寂しいですよぉ!」

「あたしもよ――、みんなと別れるのはやっぱり寂しいわ……。でもね、永遠に一緒でいられるわけじゃないわ、こんな風になってみてはじめて分かったけど、会うは別れの始まりって、本当なのね」

「陸奥さんの仰るとおりだと思います。それに、我ら四名は最後までこの地上にとどまって、数多の仲間達を迎え、そして送り出すのだと覚悟しております」

「赤城ちゃん……」

「再びこの日本に帰還してよりこの方、多くのことを学んで参りましたし、確かに我らが失った長い年月の間に、科学技術は長足の進歩を遂げておりましたが、それでもなお、深海に横たわる我らの船体を引き揚げることは、容易ならざる事であることも良く分かりました」

「申し訳ありませんが、陸奥さんのもとに罷り越しますのは、随分先のことになりそうです。私達に何ができるのかは判りませんが、少なくとも、その時間だけは十分にありそうです」

「加賀ちゃん――、そんなことまで考えてたのね……。ごめんね、あたしは、自分のことだけで精一杯になってて……」

「やめてくださいよぉ~」

「それで自然に、皆も居心地良くなっちゃうのが陸奥さんなんですから~、赤城さんも加賀さんも、理屈っぽ過ぎるんですよ」

「ごめんなさいね? 飛龍さんほどお気楽で無くて」

飛龍は笑顔で加賀に言い返そうとしたが、不意に胸が詰まってしまったらしく言葉が痞えてしまい、無言で強く抱きついてくる。

「ありがとう、思い出を一杯ありがとうね……。あたし、皆のこと見てるからね」

傍でしゃくりあげていた蒼龍も、堪え切れなくなった様に抱きつくので、陸奥は片腕を回して二人をしっかり抱き締める。

やがて、彼女らがそっと体を離すと、静かに待っていた赤城とも抱擁を交わす。

「赤城ちゃん、皆のことよろしくね」

「陸奥さんのようには到底参りませんが、この身の微力を絞り尽くして、長門さんの杖となる所存ですので、どうかご照覧ください。それに――」

「それに――、なあに?」

「私もいつかは、何処かの殿方に、胸を焦がす様になるのでしょうか?」

「あら、当たり前じゃない♪ もっとも、赤城ちゃんに釣合うような、器の大きな方が現れないとね」

「では、それも併せてご照覧くだされば幸いです」

「ええ、楽しみにしてるわ」

そして、最後に陸奥は加賀と抱擁を交わす。

一瞬口を動かしかけた彼女だが、結局何も言えずに、俯いて涙を浮かべる。

「しっかりして、加賀ちゃん――、もう一息頑張るんでしょ? 結果を見せて頂戴ね?」

「陸奥さん――、私――」

言い掛けた彼女は、そのままひしと陸奥に抱きつき、初めて会ったあの日のように大粒の涙を零す。

「本当は、傍にいて頂きたかった――、いつも近くにいて、相談に乗って頂きたかった――、お別れしたくありません――、胸が張り裂けそうです……」

「ごめんね――、傍にいられなくて本当にごめんね……。あたし、必ず加賀ちゃんのこと見てるからね――、目を離さないからね……」

そう言い交わした二人は、そのまま抱き合ってすすり泣くが、暫しの後腕を緩めた加賀は、ぐっと感情を堪えるように静かに最後の挨拶をする。

「陸奥さん――、天上に赴かれましたら、最早、この地上でお会いすることの叶わぬ皆さんに、どうかよろしくお伝えくださいませ」

「分かったわ――、必ず伝えます」

艦娘達の後に待っていたのは斑駒親子だった。

船長は感情を抑えて落ち着いた顔つきだったが、娘はとっくに限界を超えていたらしく、涙でグショグショの顔で懸命に気を付けをしている。

「陸奥さん、こんなに早くお別れするのは残念でなりませんが、どうかお気をつけて」

「はい、色々とありがとうございました、船長殿」

「ほら天音、しっかりご挨拶しなさい」

「い――言われなくても――致しますっ! む――陸奥さん――、短い間でしたが――本当に、あり――あり――……」

何とか言葉をつなごうとしたものの、それ以上何も言えなくなってしまった彼女は、顔を覆って泣き出してしまったので、陸奥が近寄ってその手に掌を重ねる。

「駒ちゃんには、本当に一杯お世話になったわね……。これからも、皆のことよろしくお願いね、あたし、駒ちゃんのこと絶対に忘れないわ」

「陸奥さん――、わたし――」

斑駒はそれだけを口にするのが精一杯で、あとは、陸奥に抱きつき号泣するばかりだった。

「申し訳ありません、未熟な娘をお赦しください」

しかし、そう言った斑駒(父)の目にも涙が光っている。

「いいえ、これが、駒ちゃんなんだと思いますから――、だからこそ、信じられるんです」

「ありがとうございます……。皆さんとお会いできて、娘は本当に幸せ者です」

笑顔を見せた父に肩を抱えられた娘は、それこそびしょ濡れの顔のまま、なんとか敬礼するとまた泣き出してしまい、横にいた中嶋も苦笑している。

「副長殿、本当に、一方ならずお世話になりました。そのうえ、私達のことを親身になってご配慮頂き、感謝の言葉もありません。今後もどうか、皆のことをよろしくお願い致します」

「いえ――お礼を言うべきは私の方です。何がとは、分けて申し上げられないほど助けていただきました……。陸奥さんのご期待に沿えるかどうかは分かりませんが、どうか、行く末を見届けていただければ幸いです」

そう静かに言い切った中嶋は、つと顎を引いて敬礼し、陸奥も無言で答礼する。

敢えて感情を廃した挨拶を交わした彼は、きっぱりと未練を振り払うようにさっと一歩下がり、陸奥の前を空ける。

 

「むっちゃん……」

 

「葉月……」

 

二人はそれだけを言って口を噤んでしまい、どれほどの間か黙って見詰め合っていたが、やがてどちらからとも無く歩み寄って、静かに抱き合う。

「――ほんとに、無責任なんだから……。唾だけつけて放ったらかしてくだなんて、最悪よ」

「葉月がいてくれるから、安心して出来るのよ」

「知らないわよ――、私の幸せっぷり、天国から指銜えて見てればいいわ」

「あらあら、そううまくいけば良いんだけど」

互いの憎まれ口とは裏腹に、二人は力を込めて抱き合い、静かに嗚咽を漏らす。

そして再び見つめあうと、これもまた、とても静かに別れの挨拶を交わす。

 

「さようなら、元気でね――、あたしの、一番大切なお友達……」

 

「どんなところかは知らないけれど、いつまでも安らかでありますように、わたしの親友……」

 

二人の別れに目を奪われ、胸が一杯になっていた仁は、次が自分であろうことを想像するのすら忘れていたので、陸奥が振り返って己を見詰めた瞬間、心臓が止まりそうになってしまう。

 

 

「……仁……」

 

 

その、仄かに潮の香りを帯びた優しい声は、

余りにいとおしかった。

 

 

 



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〔第十五章・第九節〕

 わずか数ヶ月前のことだというのに、それは、とても遠い日に起こったことの様に感じられる。

あの日、彼の前に立った陸奥は、眩い金色の陽光を背にして微笑んでいた。

そして今、目の前には再び微笑を湛えた陸奥が佇んでいるが、あの日とは異なり、彼女を縁取る金色の輝きは陸奥自身が発する光であって、しかもそれは、先程より一段と強くなっていた。

間もなく、彼女の全身はこの金色の輝きに完全に包まれ、そして、その時こそが永遠の別れになるのだと、仁は直感的に悟る。

 

「むっちゃん――――」

 

その想いが自然に口を開かせるものの、だからといって急に饒舌になれる筈もなく、それきりで言葉は品切れになってしまうが、既に陸奥にとってその位は分かり切ったことらしい。

「あのね、いまさらお礼なんて言うつもりも無いんだけど――、でも――ありがとう仁、どんなに感謝しても、し足りないくらいよ」

「そ、そんなこと言ったら僕は――それこそ、どうやって感謝すればいいのか見当もつかないよ――その――」

「うふふ♪ 言ってもいいわよ、別に」

「あ、う、うん、その――、命を助けて貰った上にさ、その上に――ずっと欠けたままだった、母さんのことだって――」

 

「――あたし、ほんの少しだけでも、仁がお母さんを思い出す役に立てたのかしら?」

 

「――――違うよ――、役に立ったとかじゃないよ……。母さんの思い出を返してくれたのは、むっちゃんなんだよ――、君がくれたんだよ、僕がずっと昔になくしてしまったものを」

 

その言葉を聞いた彼女は欣びに満ちた笑みを浮かべ、その拍子に瞳から大粒の涙が一粒零れると、金色の輝きを閃かせながらふわりと宙に舞う。

 

「嬉しいわ、仁――ほんとに嬉しい――、この世に神様がおられるのかどうかは分からないけど、もし、誰かがあたしを仁に逢わせてくださったのなら、跪いてその方に感謝したいわ……。だって、仁があたしにくれた宝物は、もう持ち切れないくらいになっちゃったもの」

「そんな――、僕は何もしてあげられなかったのに――、毎日、只々じたばたしてただけで、むっちゃんがくれたものに比べられるものなんて何もないよ」

「でもね――、あたしにとっては、心の底から安心してくつろげる家庭をくれたことも、あたし達の家族をくれたことも、あたしを何よりも大切だって言ってくれたことも、命を貰うことと同じくらいに大事なことだわ……。だからね――、仁に逢えたことが――――いいえ、仁があたしの一番大切な宝物だって、はっきり言い切れるの。だけど――、だから心配にもなるの――、あたしは、仁の一番大切な宝物になれたのかしらって……」

 

その眼差しにとらえられた仁は、その場から動けなくなり、改めてその潤んだ瞳を真っ直ぐに見詰めたが、そこに映し出されたのは、底知れぬ哀しみの深淵ではなく、他ならぬ彼自身の姿だった。

(むっちゃん――、君は――君は、僕のことを――、こんな、つまらない僕のことを――――)

胸の奥から強い感情が突き上げて来て、そのまま舌を押し上げ、口をこじ開ける。

 

「宝物だよ! 君は物なんかじゃないけど――、でも、たった一つの――僕の一生で、たった一つだけの宝物だよ!」

 

今こそ彼は、はっきりと見出す――

自らの言葉が、彼女の胸をうつ様を――

情けない、駄目な奴と思い続けてきた己自身が、

どれほど必要とされているかを――

何の代償も求めることなく自分を愛し、

その愛を、無上の喜びと共に受け入れてくれるその姿を――。

 

「――ありがとう――ほんとにありがとう…………。あたし、幸せよ――仁に出会えて、本当に幸せよ…………」

 

陸奥の瞳から、光り輝く金色の結晶が幾つも幾つも零れ落ちては、潮風に乗って舞い散る。

彼女の体から発する神秘的な光は、まるで彼女自身の想いに呼応するかの様に更に強まると、全身に拡がっていく。

「むっちゃん! 僕は、僕は――」

時が迫っていることを意識した瞬間、彼は生まれて初めて感じる激しい衝動に揺り動かされる。

(君が――君のことが――)

喉の奥に、その続きの言葉がせりあがってくるのを確かに感じるのだが、一方で脳裏には、小さく幼い体を震わせながら、必死に耐え忍ぶ子の日の姿がよぎった。

――嗚咽を洩らしながらも、痛切な声を絞り出す初春の姿が浮かんだ。

(そうだ――二人とも必死でこらえていたんだ――自分の気持ちを押し殺して――)

彼女達は、仁と陸奥を家族と呼んでくれた。そして、本当の家族のように彼を支えてくれていた。二人は、ただ家族のためを思って、自らの気持ちを押し殺していたのだ。

 

(駄目だ、今度だけは絶対に駄目だ――。もう一度、よく考えろ。何のために、僕はここにいるんだ? むっちゃんが――僕の、大切な大切なむっちゃんが、救いを得るためのはずだ。彼女達が――僕にとって同じくらいに大切な家族が、後ろ髪を引いてはいけないと耐え忍んできたのに、今ここで、僕がそれをすることだけは絶対に駄目だ!)

 

自身にそう強く言い聞かせた彼は、これまで幾度となく勝手な振る舞いを続けてきたその体を、それこそ鋼のような意志の力で引き留める。

肉体は必死で抵抗しようとし、そのために唇は震え、全身の筋肉は強張り、両目からは涙があふれ出すが、それでも、とうとう初めて、彼は己の体を従わせることに成功した。

 

「――――――僕も――僕も、むっちゃんと――会えて、本当に幸せだよ……。大切な思い出を――、一杯ありがとう――、いつまでも、忘れないよ……」

 

「仁…………」

 

たった今まで、幸福を溢れさせていた陸奥の顔からその笑みが消え、何処かしら寂しげな表情に変わってしまう。

彼が必死で押さえこんだその言葉を、彼女は待っていてくれたのだと分かったが、それでもなお、彼は自分自身の手綱を力一杯引き絞って、耐え忍ぼうとする。

 

(我慢しろ――、これで良いんだ! これでむっちゃんは――むっちゃんは、哀しみから解放されるんだ……。それこそが、望みだったはずだろ――)

 

人は、人生を過ごす間にどれほどの過ちを犯すのだろうか。

その数は定かでないものの、その中には少なからず、別の誰かから指摘されれば避け得ることもあるに違いないが、現実にその機会を得られる者は、おそらく余りに少ないのだろう。

にもかかわらず、ひょっとすると、仁はその例外的な存在だと言えるかも知れない。

なぜなら、彼が過ちを犯しそうになる度に、正しい答えを知っている女達によって、それは無理矢理修正されてしまうのだから。

急速に沈んでしまいそうな、その場の空気を激しく突き破るように、葉月の強い叱声が大気を切り裂いて飛ぶ。

 

ダメよ仁っ! 言いなさい! 一生後悔したいのっ⁉

「えっ――」

 

思わず顔を上げた仁に、陸奥が微笑みかける。

 

「仁、聞かせて――あたし、聞きたいわ……」

 

恐る恐る振り返ると、葉月が涙に濡れた瞳で、彼をにらみ付ける。

 

(――分かったよ――今度こそ、良く分かったよ……。

結局――、いつもそうなんだ――、

いつでも正解なのは、むっちゃんと葉月の方なんだって)

 

溢れだした涙を振り払うように拭い、しっかりと彼女の瞳を見詰める。

そこには確かに、遠いあの日、彼が見詰めた優しい光が――

幼い彼が目にしたはずの、愛に満ちた輝きがあった。

その輝きに応えるために、彼が用意できる言葉は一つしかなかった。

 

君が好きだっ! 大好きだっ!

 

「あたしもよ――、仁のこと大好きよ……」

 

彼女の体から漏れ出す光ではなく、

仁の言葉そのものがもたらした喜びによって、

陸奥の(かんばせ)はひときわ輝き、

まるで融けた黄金が流れ出すように、

瞳から煌く大粒の涙が幾筋と無く流れ落ちる。

 

仁は悟った。

今こそが、二人の上に起こった奇跡を完結させるべき時であることを。

この奇跡の瞬間のために、己自身が生まれてきたことを。

遠く幼いあの日に、彼にとって世界の全てであった大切なものを喪ったことも、

それを再び取り戻す、この刹那のためであったことを。

愛するものを力の限りに抱き締め、その甘い唇に触れる聖なる瞬間のために、

彼の命という供物が用意されていたことを。

 

その、魂が震える様な一瞬のために、

彼ら二人を取り巻く世界の全ては息を潜め、

二人を隔てるものは、潮風や波音すらもその場所を明け渡す。

彼らの腕は、互いを迎え入れるように差し伸べられ、

まるで触れれば泡と消えてしまうかのように、優しく閉じられようとしていた。

 

「愛してるわ……」

 

「愛してる――君を愛してる……」

 

しかし――

仁の唇に触れたのは――

優しい――

この上もなく優しい――

潮風だけだった。

 

彼女を抱き締めるはずだった――

幼いあの日に喪ってしまった、

彼に惜しみなく与えられるべき愛をもう一度取り戻すはずだった――

その腕は、虚しく空を切り、

自身の腕にぶつかってその行き場を失ってしまう。

 

金色に、光り輝く姿へと、化身した陸奥は、そのまま、彼の腕を、すり抜けていってしまった。

 

怖ろしい喪失感と絶望が、荒波のように打ちつけ、立っていられなくなった仁は、自らの両腕を掴んだまま、甲板にがっくりと膝を付く。

 

(お願い――悲しまないで、仁)

 

その心の中に、慈愛に満ちた声が響き、はっとした彼は上を見上げる。

其処には、金色の光そのものによって形づくられた、女神さながらの姿をした陸奥が猶予うかのごとく浮かび、愛しむ様な眼差しを注いでいた。

 

(いつか、きっと――また、会えるから)

 

胸の奥から、激しい感情が噴き上げてきて、それは言葉となって口を押し開いたのだが、それでもやはり、どうにか彼が口にすることが出来たのは、自らの魂の一部になる筈だった、その愛しい名だけだった。

 

 

陸奥ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅーっ!

 

 

血を吐くような絶叫は、居並ぶ者達の耳を劈いただけでなく、上空の曇天にまるで鋭利な刃で切り裂いたような裂け目をも生じさせる。

その雲間から、眩い光の柱がそそり立ち、陸奥の姿とぶつかり合うと、目を開けていられないほどの強烈な光の爆発を引き起こす。

 

だが、それは一瞬で終わってしまい、一同が再び目を開けたときには、陸奥の姿も光の柱も、最早そこには無かった。

 

立ち尽くす艦娘達の頭上からは、金色の光の粒がまるで雪の様に降り注ぎ、彼女達の髪や体に触れては消えていったが、既に仁はその光景を見てはいなかった。

 

甲板に手を突き、激しく嗚咽を漏らしながら涙を滴らせ、拳に握った右手で何度も何度も甲板を殴りつける。

 

彼の悔恨なのか――、それとも、襲ってくる絶望に必死に抗い続ける姿なのか――、何度も何度も――、拳に血が滲むのも構わず――、果てしなく叩き続けられる。

 

それは、彼の命が尽きるまで続くのではないかと思われたが、龍田の両脇から離れた初春と子の日が傍らに跪き、そっと手を添えることでようやく止む。

そのまますすり泣き続ける三人に、葉月が近づき手を添えようとするが、果たせずにそのまま膝を突き、顔を覆って泣き崩れる。

最後までただ一人、気丈に帽振れを続けていた中嶋の手が下がり、がっくりと肩を落とすと、唇を強く噛み締めて俯く。

彼の手から甲板に落ちた帽子がころころと転がり、加賀の足に当たって停まる。

涙に霞む目でそれを見て取った彼女は、身を屈めて帽子を拾い上げると、大事そうに胸に抱き締めて、涙を堪えるかのようにぎゅっと瞼を閉じるものの、なおそれをこじ開けて涙が溢れ続ける。

風の音と、すすり泣く声だけに支配された船上には、無心に、愚直に、動き続ける機械達のたてる物音だけが、静かに響いていた。

 

 



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〔終章〕
〔終章・終節〕


 沈黙の呪縛を打ち破ったのは長門だった。

彼女は意識してぐいと背筋を伸ばし、拳を握って涙を拭おうと腕をあげかけたものの、ふとその手を止めるとゆっくり拳を解き、改めてポケットに手を伸ばしてハンカチを取り出し顔を拭う。

そして、自らの斜め前方で啼泣する仁に歩み寄ると、突然非情とも思える声を掛ける。

「仁よ、お前も男子の端くれならば、もう泣くのはやめろ」

これを聞いた仁は、胸中に勃然と怒りが込み上げてくるのを感じたが、どういう訳かそれを抑えようという気持ちが全く湧いてこず、彼には似つかわしくなく、カッとなった勢いそのままに強く言い返す。

「長門さんだって、泣いてるじゃないか!」

「私は女だ!」

この意外な言葉はその場の全員を戸惑わせたが、当の長門自身は何事も無かったように、そのまま言葉を続ける。

「――それに、私の掛け替えのない大切な妹が、目の前で天に召されたのだ――、少しくらい泣いたとしても罰は当たるまい……」

「ずるいよ――そんなの――ずるいじゃないですか……」

彼の返答もまた、これまでの長門に対する様な礼儀正しいものではなく、どこか遠慮のない肉親に対するような口調になっていたが、彼自身が意識してそうしている様には見えない。

「まぁそう言うな、何も悲しむなと言っているのではないぞ? 私はお前に頼みごとがあるから、聞いて欲しいだけなのだ。陸奥が天上に去って、悲しく無い訳なぞあるまいが」

「そうですか……。でも、僕に出来る事なんて雑用くらいですよ――、それに、雑用だったらもう少し後にして貰えませんか? さすがに今は、そんな気分じゃ無いですから――」

「そんな言い方しちゃ駄目だよ、仁⁉」

「仁殿、子の日の申す通りにございますぞ」

泣き顔で懸命に諭す二人をかわるがわるに見た彼は、少し気色を改めて、涙を拭おうと手を上げるが、それが血塗れであることに今更気が付き、一瞬どうしたものかと逡巡する。

とは言え、既に周知の如く、彼が己の行動について自らの意思で存分に迷う余地など、ほとんど存在しないも同然だった。

サッと立ち上がった葉月が、涙で濡れたままのひどい顔でつかつかと近づき、いつもこのために持ち歩いているのだと言わんばかりに、小振りのハンドタオルを取り出して、手際よく彼の顔に手を伸ばす。

「自分でやるよ」

左手でそれを掴んだ仁は、彼女に何かしら小言をいわれるのではと軽く身構え掛けたが、今回はいともあっさりとスルーされてしまう。

彼の背後からは、いつの間にやら救急箱を手にした(これまた涙でグシャグシャの顔のままで)斑駒(娘)が近づいてきており、顔を上げた葉月は至極当然といった態でそれを受け取ると、彼の顔色には全く頓着することなく、さっさとガーゼや消毒液を取り出して手当をし始める。

その様子を見て苦笑した長門は、再び涙を軽く拭うと改めて声を掛ける。

「仁よ、ことほど左様にお前が支えられているのは、やはりお前のその人柄があればこそだと思うぞ。どれ程己を卑下しようが、やはりお前は、我が妹が――陸奥が心から愛した、この世でただ一人の男なのだ。例え片時であろうと、それを忘れて貰いたくはないな」

「――はい――忘れません、絶対に……」

「うむ――、それでは、改めて私の頼みを聞いて欲しい。今ここにいる我が同胞(はらから)も、未だ会う事能わずにいる同胞(はらから)も、皆やはり天に召されることを望んでいるし、それがどの様にして叶えられるのかも陸奥が示してくれた。お前には、どうか我らが一人でも多くそして一日でも早く、天上に赴けるよう力を貸して欲しいのだ。我らの抱く想いを、真に理解しているお前にしか頼めぬことだ……。聞き届けては貰えまいか」

「そんな大それたことが、僕に出来るとは思えません――、お手伝い位は頼まれなくてもその――」

案の定と言った返答を彼は口に仕掛けたものの、そんなことを葉月が許しておく筈も無い。

「あんた、何言ってんのよ! 出来る出来ないじゃないわ、やるのよ⁉」

「無茶言うなよ⁉」

「まことに無茶だとお考えかの、仁殿?」

腕に手を添えた初春が、その切れ長の瞳で見据えながらそう問い掛けると、彼も思わず言葉に詰まってしまう。

「仁がしてくれなかったら、誰がしてくれるの? 陸奥さんには会いに行けないの? 子の日は、陸奥さんに会いたいよ!」

「あ――う、うん――けどさ――」

それでも煮え切らぬ様子の彼の傍らに、静かに歩み寄ってきた高雄がそっと膝をつき、優しいが有無を言わせぬ口調で話し掛ける。

「仁さんは、私達のために力を貸しては頂けないんですか? そんなことは仰らないですよね?」

「それはそうだけど――、だから、お手伝いはさせて貰うつもりだって――」

「どなたのお手伝いをなさるんですか? 仁さんが、自ら進んではやって下さらないんですか? 陸奥さんは私に、誰かのお手伝いをする仁さんを支えて欲しいと言われたんでしょうか? 私には到底そうは思えませんし、何より、それでは私、陸奥さんに顔向けができません」

「……」

そう畳み掛けられて黙ってしまった仁に、中嶋が歩み寄ろうとすると、それに心づいた加賀がすっと寄り添い、帽子を差し出す。

何も言わずに受け取った彼は、それを規則通りにきちんと被りなおし、その間に顔を拭ってくれる彼女を、拒むことも無く素直に受け容れる。

 

「ありがとう」

「いいえ……」

 

たったそれだけの遣り取りだったが、それは言わば、加賀の気持ちに対する彼の答えであったのかも知れない。

「仁君、差し出がましいことを言うようだが、聞いて欲しい」

「あ、はい……」

中嶋の口調は初めて耳にするもので、仁の脳裏にはどうしたことか一瞬父の顔が過り、僅かに戸惑う。

「私は長らく、過ちを犯すことを恐れ、傷つくことを恐れ、それらをいつも未然に回避してきたつもりだった。だが、所詮私は只の人間だったし、その簡単なことに気付くのにも誰かの助けを必要とした。どれほど頑張ってみても、一人の人間がなし得ることなどその程度なんだと改めて思う。君は、そんな大それた事をと言うが、もし君一人でそれを為すつもりでいるのであれば、それこそ大それたことでは無いだろうか。我々がこのちっぽけな頭と体で、限られた人生の中で、なし得る事などいかばかりのものか考えるまでも無い。君がどうしても厭だと言うのならともかく、そうでないのなら我々と共に成し遂げよう。ましてや、彼女達が支えてくれると言うのに、断る法はないだろう」

「そうですよ、渡来さん! ここで肚を据えなきゃ、男が廃るというものですよ⁉」

斑駒が両手を握りしめて呼びかけると、船長は少々居心地の悪そうな笑みを浮かべる。やはり、どんなに嫌ってみても、斑駒父娘は親子なのだった。

 

暫しの沈黙が流れ、雲の切れ間から陽光が降り注ぎ始めると、濃い潮の香りを帯びた風が一同の髪や袖をはためかせる。

その風に背中を押されたかの様に、膝をついていた仁が立ち上がり、同じく立とうとする初春と子の日の手をとって支える。

「仁!」

「仁殿」

見詰める二人に頷き返した彼は、改めて顔を上げると長門を顧みる。

「わかりました、長門さん――、どれほどのことが出来るのかわかりませんが、僕が出来ることは、全てやってみようと思います」

「そうか! ありがとう――、心から礼を言うぞ、仁よ」

穏やかな笑みを浮かべた長門と視線を合わせた彼は、少しだけ口元に微笑を見せ、再び口を開く。

「ですが、一つだけ、僕のお願いも聞いて頂きたいんです」

「ほう、どんな願いなのだ? 私にできることなら、何でも言ってくれ」

「はい、それじゃあ――」

視線を前方に戻した仁は、今や、大半が海上に現れつつある陸奥の船体を見詰めながら、こう応える。

 

「――それが、一体いつになるのかは分かりませんが――、でも、もし最後の一人がこの地上を去るときに、まだ僕が生きていたなら、その時は――――その時は、僕も連れて行って欲しいんです。――皆さんと一緒に……」

 

むせ返るほどの濃い潮の香りを孕んだ風が、彼のその言葉を長門の――そしてもちろん、その場にいる全員の――耳へと運ぶ。

一瞬、時がその場で凍りついてしまったかのように、言葉に詰まった長門だったが、やがて力を込めて腕を組むと、静かだが強い声を出す。

 

「わかった――、この長門、我が名にかけて必ず約しよう」

 

彼女がそう言い切るのと同時に、仁の手を握った初春と子の日の手に、ぎゅっと力が籠もる。

傍に立っていた高雄が、何か言おうとして口を動かし掛けるが、にわかに両手で口元を覆い、感情が溢れそうになるのをこらえる。

視線を感じて振り返った彼を、葉月が強いまなざしで見詰め返してきたが、不思議にプレッシャーを感じなかったので、(たいへん珍しいことだが)微笑み返すと、少し上目づかいになった彼女は、声を出さずに口だけを動かして見せた。

 

(ごめん――――葉月)

 

上空では更に雲間が広がり、青空が見え始めていた。

 

(こんな時、本当に青空の向こうに顔が浮かんだりするのかな)

 

だが、それもまた当然のことながら、青空に陸奥の笑顔が浮かんだりはしなかった。

 

(でも、見ててくれるよね――僕に一体何ができるのか……)

 

そう思ったその時、

濃厚な潮風が瞬きするほどの間ふっと途絶え、

優しく懐かしい潮の香りにふわりと包み込まれるのを、

彼ははっきりと感じた。

 

 




「陸奥と僕のこと改」、これにてひとまず完結します。
長らくのお付き合い、ありがとうございました。
                     Y.E.H


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