もう二度と剣を持てないモードレッドとの優しい隠匿生活 (オリスケ)
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前編


Fateシリーズ、モードレッドの同人小説です。
オリジナルストーリー、オリジナル設定、竿役のマスターもオリジナルです。
内容はタイトルで推して知るべし。
絶望に暮れるモードレッドさんを優しくいい子いい子したい特殊な紳士の方のみお進み下さい


 思えば、最初から出来過ぎだったのだ。今でも後悔は業火のような熱を持って、僕を責め立てる。

 僕は愚かだった。最初から気づいていれば、僕たちは葛藤も、苦悩も、恋慕すらもなく、何事もなく過ごすことができたはずなのに。

 全ては、僕が愚かであったことに起因する。大した名前のない平凡な魔術師であった僕。人並み以上には優れていたが、特別には終ぞなれなかった凡夫の一人。

 

 そんな僕が、どうしてか最優のセイバーを召還できたものだから。

 

 

「――来てやったぜ。セイバー、モードレッド推参だ! さあ、オレを喚んだ幸運な奴は、一体誰だ?」

 

 

 出会った瞬間に、その美貌と、獣のような眼孔に射竦められる。

 僕の心は熱に浮かされた。息を飲み、そのまま呼吸が止まってしまうように感じられた。

 可憐であどけない、少女の面貌。けれどもその美貌の上に張り付いているのは、精魂に満ちた騎士の誇りに、己の力を露とも疑わない、傲慢不遜の王の気迫。凄まじい威圧に、空間の全てが、何か見えない力で強引に押さえつけられ、頭を垂れているようにすら感じる。

 白銀に真紅の装飾をしたためた、重厚な鎧。両手をついている、地面にまっすぐ突き立った剣も、白銀の中に、獰猛な真紅の光を讃えている。

 最優のセイバー。叛逆の騎士モードレッド。僕の人生を変える、出来過ぎた出会い。

 

 僕は聖杯戦争の勝利を確信した。

 事実、モードレッドの力によって、僕は聖杯戦争を順調に渡り歩いた。サーヴァントとの対決も優位に運び、幸運にも一騎を討ち取ったりもした。

 彼女は僕にとって最高のサーヴァントだった。傲岸不遜ではあったが、獰猛で気高き王の気質は、側にいるだけで、形容し難い昂揚が胸を満たした。

 そして、モードレッドの野蛮極まりない戦闘は、僕をどうしようもなく奮い立たせた。魔術の研究に暮れ、日陰に暮らしていた僕にとって、モードレッドの竜巻のような暴れっぷりは、戦いというものが何なのかを強烈に教えてくれた。

 彼女の戦いを見る。彼女を見る。ただそれだけで、否応なしに肝を据わらされる。それは僕にとって何よりありがたく、そして羨望に近い感情を抱かせるものだった。

 一介の魔術師でしかなかった僕は、モードレッドの側にいられることに、誇りすら感じられた。

 誇りは驕りだった。その驕りが、全てを台無しにしたのだ。

 

 

 

 

 その日、僕らは街に買い物にでかけていた。モードレッドが新しい服をねだり、強引に連れ出された格好だ。驕りは無いが余裕はたっぷりあって、暇であることを由としない。

 十は下らない回数の外出。たぶん手を繋いでも怒られない位に、二人の距離は近い。

 その時間を心から楽しんでしまっていた。僕も、モードレッドも。

 余りにも、愚かに過ぎる。聖杯戦争にて生き残りの殺し合いを続ける相手が、そんな隙だらけの背中を見逃すはずがないのだ。

 僕らにとっては完全な奇襲だった。上空から飛来したサーヴァントの陰が落ちる。陰は真っ直ぐ、僕に向かってみるみる大きくなる。

 

「ッマスター!」

 

 耳を割るようなモードレッドの声。モードレッドは僕を突き飛ばし、敵サーヴァントの矢面に立った。

 敵の切っ先は既に振るわれている。鎧を展開する時間はなく、モードレッドはクラレントを展開し、迎え撃とうとする。しかし場当たり的な構えには、付け入る隙が幾らでもあった。

 躊躇いなく令呪を使うべきだった。あるいは抵抗せず僕が殺されるべきだったか。今でも沢山の選択肢が脳裏に浮かぶ。けれど、そうはならなかった。

 何もかもが敵の思惑通りに運び、僕はそれに気が付けなかった。敵の得物はモードレッドのクラレントをするりと抜けて、彼女の腕を撫でた。切っ先が彼女の親指側の手首に食い込み、深々と切り裂く。

 鮮血が宙に舞った。モードレッドの、運命をまだ知らないが故の、軽い呻き声がする。

 それで、僕たちの聖杯戦争は終わりを迎えた。

 

 

 

 

「っああ、くそっ! くそがぁ! このオレが、あんな一撃で……ぇ!」

「落ち着け、モードレッド。今治療してやるから」

 

 隠れ家に帰った時から、モードレッドは苛立ちに我を忘れていた。フー、フーと猛獣のような唸りを上げ、割れんばかりに歯ぎしりをする。額にはじっとりと汗が滲み、痛みが相当なものであることを教えていた。

 傷は深く、モードレッドの腱を過たず切り裂いていた。彼女の珠のような肌には赤い裂け目がぱっくりと入り、そこから止めどなく血が溢れていた。見るも痛々しい姿に、見ているこちらの顔も歪む。

 

「とりあえず、血を拭うぞ。いいか?」

「ッいちいち聞くな、さっさと――いうぅ!」

 

 タオルを当てると、モードレッドは少女のような声を出してよがった。しかし治療をされているので、暴れるようなことはしない。さながら手錠をかけられるのを待つような格好で、僕に両腕を差しだし、されるがまま痛みに耐えている。

 座っているベッドのシーツが、零れた血で赤黒く汚れる。生臭い鉄の臭いに、後悔と申し訳なさが募る。

 

「ごめん、モードレッド。僕がもっと警戒していれば……」

「ッうっせえ、謝んな。オレはお前のサーヴァントで、騎士だ。主君を守れなかったオレの責任だよ……くそっ。許さねえ、ぜってえ許さねえからなぁ……!」

 

 悪態を吐くモードレッド。その目尻には涙の球が浮かび、心なしか眉尻も少し下がっているような気がした。普段が気丈なだけに、僕に不安を与えるに十分な変化だった。

 傷口に当てていたガーゼが、限界一杯まで血を吸って真っ赤に湿る。ガーゼを取り払った僕は、目を覆いたい衝動を必死に堪えた。

 傷を受けてから、既に三十分は経過しているのだ。それなのに血は一向に勢いを落とさず吹き出し続け、モードレッドに鮮烈な痛みを与え続けている。

 あらゆる治療が意味を為さなかった。縫おうとしても針が通らない。魔術的治療は跳ね返される。血が取り払われた今、傷口に塗り込まれたような毒々しい魔力をハッキリと感じることができた。

 

「っ……くそ」

 

 思わず悪態をつく。それを聞いたモードレッドが、目を背けたいと言うように頭を下げた。打つ手なし。それを認めざるを得ない。

 

 

 受けた傷が治らない。

 その逸話を持つ武具は幾つか存在するが……中でもこれは、相当に厄介なものだ。人の身には余りある膨大な呪いの力が、モードレッドの肌を抉り、止血すらも許してくれない。

 ……完治は不可能だ。そう、断定せざるを得ない。

 薄暗い隠れ家の中に、二人の荒い呼吸だけが響く。モードレッドの呼吸には、凍えるような震えが混じっていた。

 モードレッドが僕を見上げる。ようやく僕は、目尻に浮かんでいた涙の存在を知った。

 

「モードレッド?」

「マスター……動かねえ。オレの手が、全然、動かねえんだよ。震えがちっとも収まらねえ。さっきからずっと、止めようとしてんのに」

 

 僕は瞠目し、それ以上の言葉を探せなかった。モードレッドは顔を悲痛に歪め、ブルブルと震える両手を見つめている。

 敵が放ったのは必殺の一撃だったのだ。決して癒えぬ傷で剣士から剣を奪い去る、残酷極まる死刑宣告。

 モードレッドは既に平静を失っていた。半笑いのような表情がひくひくと痙攣する。せめてもの救いを求めて、僕を見つめ続ける。

 

「なあ、マスター? なあどうなんだよ? これ、治るのか? 治るんだよな? なあ?」

「っできる限りの事はする」

 

 出血の具合を見ても、もう幾ばくの余裕もなかった。僕は左手の甲をかざし、令呪の力を行使する。

 

「うまくいってくれ……令呪を以て命ずる――この傷を"収めよ"」

 

 傷を治す事は不可能。そのことを加味しての苦し紛れの策だったが、幸運にも命令は上手く機能してくれた。吹き出た血が集まり、裂け目にかさぶたを張るように凝固した。次いで傷の周りの皮膚がうごめき、その部分を覆う。

 ものの十秒ほどで、手首の傷は覆われ、浅黒い跡になった。

 令呪の膨大な魔力だからこそ可能な、とりあえずの応急処置だった。それでも、もう少し欲張れば失敗したに違いない。

 目の前の傷が消えて、モードレッドもほっと息をなで下ろす。しかし、その瞬間に襲ってきた痛みに、彼女の華奢な体が跳ねた。

 

「いぐっ、う!?」

「っ――令呪を以て命ずる! 傷がもたらす痛覚を緩和し、痛みを取り払え!」

 

 続けざまの二画消費。体の中を膨大な魔力が流れ、モードレッドの体に流れていくのが伝わる。

 魔力の反応が収まれば、モードレッドの顔は安心を取り戻していた。大きく深呼吸し、つりがちの目が僕を見上げる。

 

「助かったぜ、マスター……すまねえ。オレの治癒なんかに、令呪を二画も」

「いいや、必要な消費だった。悔いはないよ」

 

 モードレッドははにかみ、そして自分の両手を見下ろした。

 震えは止まない。力を加えても、僅かに指先が動くだけのようだ。完全に痛みを無くすことは不可能らしく、指が痙攣する度に、モードレッドの眉が苦悶に揺れた。表面を塞いだだけなのだから当然だ。傷は傷として残り、そして治らない。

 

「……許さねえ」

 

 次の瞬間には、モードレッドは忘れていた敵意をむき出しにした。犬歯を露わにして、火花が散りそうな程に眼光を鋭くする。

 

「ふざけた真似をしやがって。このオレから剣を奪おうなんてただじゃおかねえぞ! マスター、あの下劣なクソサーヴァントを今すぐぶっ殺しに行くぞ!」

 

 魔力放出で飛び出さんばかりの勢いで、モードレッドは立ち上がろうとする。その前に、僕はモードレッドの両肩に手を起き、彼女を諫めた。

 魂を噛み千切らんばかりのモードレッドの目が、僕を真っ直ぐにらみつける。鼻がぶつかるほどの至近距離に、獣の眼光がある。

 

「んだよ、マスター。いくらお前でも、邪魔立ては許さね――」

「よく聞け、モードレッド」

 

 それでも、言わなければいけなかった。猛獣の目を真っ向から覗き込んで、僕は死刑宣告を行う。

 

「僕たちは詰んだ」

「……は?」

「剣もなしに勝てる相手か? よく考えてみろ。お前が一番、よく分かってるはずだ」

 

 事実だけを、突き放すように口にする。モードレッドの怒りは、途端に最高潮に達した。

 

「ふっ――ざ、けんなよ!? このオレが勝てねえだと!? マスター、オレを信じてねえのかよ!」

「マスターだからこそ言うんだ。君はクラレントを握れない。そんな状態で戦えるほど、他のサーヴァントは……聖杯戦争は甘くない。そうだろ?」

 

 幾ら凡夫の僕でも、モードレッドの威勢が強がりであることが見透かせた。その証拠に、彼女は煮えたぎる怒りで震えながら、それを爆発させることをしない。

 

「っ……知るか。マスターが何と言おうが知ったことか! オレは諦めねえ! ッそうだよ、他の奴らに任せりゃいいんだ。他の奴らが勝手に戦って、最後の一人になったところを、オレの魔力放出で……ぐ、ぅぅ!」

 

 モードレッドは割れんばかりに歯噛みして、絞り出すように言葉を続ける。

 腕に走る痛みは、自分への懲罰のように感じられたことだろう。それは卑怯者の戦術だった。己の誇りを踏み砕く最も下劣な手段だった。

 それを言わなければいけないほどに、剣を失ったリスクは重い。

 そして、僕がかけなければいけない言葉もまた、とてつもなく重い。

 

「無理だ。剣を振るえなくなった君の能力は、半分を遙かに下回る。それにどれだけの奇策を凝らしても、蹴りだけで英雄を沈められるわけがない。そんな捨て鉢な特攻をさせるわけにはいかない」

「うっせえ……うっせえよ……!」

「分かってくれ、モードレッド……それじゃあ死んでしまうだろう」

 

 視界に火花が散った。

 耳が裂け、音が消えた。首がぐるんと回って、モードレッドの姿が消える。床面が迫り、咄嗟に両手を出して四つん這いになった。

 思い出したように、張られた頬が焼け付くような痛みを伝えてくる。その痛みに苦悶するより早く、モードレッドの健常な脚が腰を強烈に蹴りつけた。

 

「この腑抜けがァ!!」

 

 魂が引っこ抜かれたような衝撃だった。あらゆるものを置き去りにして、僕は部屋の端まで吹き飛び、壁にヒビを走らせて止まった。轟音とモードレッドの怒号が、雷のように空気を戦慄かせる。

 朦朧とする目を開けると、モードレッドは自分の右手を押さえ、俯いて苦痛を必死にこらえていた。ばっくりと裂けた腕で、激情のままに僕を殴りつけたのだ。腕を真っ二つに割られるような痛みに違いない。

 僕を見据えたモードレッドの目は、かつてなく怒りに震えていた。

 

「っ~~~~! 何だよ、テメエは。結局は我が身かわいさか? アぁ? この聖杯戦争の参加者が、俺のマスターが、死ぬのが怖いだと!? ふっざけんなよ!」

 

 モードレッドは手近にあったテーブルを蹴りつけた。木製のテーブルは紙細工のようにひしゃげて、形も不揃いなゴミに変わる。

 

「死んでしまう? ああそうさ、死ぬしかねえだろうよ! 元より生きるか死ぬかの戦いだろうが! ゴミ虫みたいに嬲られようが、潔く散るのが英雄だろうが!」

 

 呼吸が激しく乱れている。顔がくしゃくしゃに歪んでいる。今見せている激高は、戦いの時に見せる激情とは趣が異なる。心をむき出しに叫ぶ、悲しみの叫びだった。僕に対する落胆、失望。それを受け入れられないが故の怒りだ。

 息が乱れ、喉がつっかえる。モードレッドはしゃくりあげて、僕を睥睨する。

 

「っ……お前は、いいマスターだったぞ。オレは恵まれていると思ったぞ! 勝てると思った! 例え負けてもそれでいいかと思えた! 運命を共にする価値があった! なのに『死んでしまう』だと? 死にたくないだと? そんな世迷い言をいうなら、今この場でオレが殺してやるぞ!」

 

 モードレッドが肩を怒らせて歩み寄る。そのまま、僕の頭蓋を踏み砕く勢いだ。そんな中で、やはりまだ痛むのか、両腕は力が入らず、体の左右でぶらぶらと頼りなく揺れている。

 その歪さがあまりに痛ましくて……言わなければいけない言葉を、僕はやっとの事で絞り出した。

 

「今の君は、英霊ですらないんだぞ」

「っな……ん、だと?」

 

 やはり、気づいていなかったのか。気づいた上で目を逸らしていたのなら、まだ楽なのに。

 

「少し触れれば分かる。君の腕に刻まれた傷は大いなる呪いだ。その傷は、君の霊核そのものを穢している……もう君は、かつてブリテンに君臨したモードレッドではない」

「こ、これ以上ふざけたこと言うなよ、マスター。もう沢山だって」

「治らないのは当然。例え死しても、この傷は君に刻まれ続ける。英霊の座に登録された君にもね。時間が建てば、かつての伝承にも、君が剣を振っていた事実はなくなるかもしれない」

 

 そうなれば最早英霊と呼べはしない。武勇はなくなり、舞台から弾かれ、ただの片輪者として、魂は有象無象に消え失せるだろう。

 まさしく必殺の一撃だったのだ。この聖杯戦争から引きずり降ろすだけでは飽きたらず、歴史からも、存在意義そのものを抹消する、非情に過ぎる一撃。

 モードレッドは言葉を発さなかった。足下が無くなったような喪失感に、静かに膝を折る。彼女の顔が正面にあるも、瞳は虚ろで僕を捉えてはいない。

 

「……全部、なくなる? ブリテンを駆けたあの時も、円卓の騎士として馳せた武勲も……父上に憧れた事も、父上を……」

 

 光の失せた暗い瞳から、一筋の涙が落ちた。細い筋を描いた水滴は、後から後から沸いてきて、モードレッドの頬を濡らす。

 彼女の事は、彼女自身から聞いていた。アーサー王に憧れ、背中を追ったこと。彼の子として認めてもらいたかったこと。王の器であると認めて欲しかったこと。それら全てが翻り、叛逆の炎となったこと。

 荒々しく、悪辣で、暴力に満ち……けれどもひたすらに一途でいたいけな、一人の人間の鮮烈な一生。

 それが。誇り高き彼女の一生が。

 

「こんな……こんな傷一つで、ぶっ壊れるって言うのか? あんな一瞬で、あっけなく、オレの、オレが刻んだ、オレがいた証全部……っ!」

 

 両腕の、浅黒くなった傷跡に、ポタポタと涙が落ちた。ブルブルと震える手が顔を覆い、頬の皮に食い込み、髪の毛をグシャグシャにかき回す。

 

「ざけんな。なんとか、なんとかしなくちゃ。治さなきゃ治さなきゃ。戦わなきゃ。ああ、でも、でも……」

 

 体全部を震わせ、力なく頭を振る。

 

 

 あのサーヴァントをぶち殺せば?

 難しいだろう。これは外傷の枠を越えた呪いだ。それに『封じる』のではなく『壊す』タイプの。呪いの大元が消えたからといって、その修復まで期待するのは筋違いだ。

 大体、どうやって勝つんだ。その腕で、どうやって。

 

 

 聖杯に願えば?

 ああ、確かに願いは届くだろう。

 だが、僕たちが勝てる可能性は? 手負いのサーヴァントに、令呪を二画使ったマスター。状況は最早死に体に近い。

 どうやって勝つんだ。どうやって。

 剣も振るえない癖に。

 

 

 すがりつきたい可能性が、精一杯の強がりが、津波のような喪失感と後悔に押し流されていく。

 戦えない。もう満足に剣を振るえない。このままだと自分が汚される。何とかしたい。けれど足掻けば確実に死んでしまう。そして、死んだらもう次はやってこない。絶対に。

 

「っう、うぅ……あ、あァ、ア……」

 

 発狂しないだけモードレッドは強かった。しかし激昂すらできないほどに打ちひしがれていた。絞り出すような声を上げ、モードレッドはうつむき、涙を床に落とし続ける。

 僕も、かける言葉を持たなかった。あの時油断しなければ、もう少し機敏な判断ができたのなら、こういう事にはならなかった。

 隠れ家に小さな呻き声が満ちる。部屋の隅っこにうずくまり、額を突き合わせるようにして、途方に暮れる。

 

「モードレッド」

 

 打ちひしがれるモードレッドの両肩に手を置く。誘われるまま、彼女の体が僕に体重を擡げてきた。顔を押しつけられた左肩が、しっとりと塗れる。

 呼吸は乱れ、体は微振動を続けている。すすり泣く声は、信じられないくらいに弱々しかった。僕が両腕で包み込んでいるのは、騎士でも王でもなく、人生を粉々にされたいたいけな少女でしかない。

 硬質な彼女の金髪が顔をくすぐる。彼女の金髪に指を絡ませて、心の穴を埋めるように、肌を寄せる。

 

「……い……」

「モードレッド?」

「すまない、マスター……オレ、役立たずで。二人で勝つって、約束してたのに……」

 

 震える声で、僕に謝罪する。

 サーヴァントとは戦う為の存在だ。己が願いを叶えるために命を賭す為に在るものだ。

 戦えないサーヴァントに、意味などない。涙の理由に、僕は歯噛みする。

 どうしてこういう事になってしまったのだろう。彼女と共に戦う事は、とても楽しかったのに。死んでも構わないと思えるくらいに、満ち足りていたのに。

 それを想うと、心がとある方向に動いていることが分かった。

 余りにも馬鹿らしい考えだった。けれど、嘘偽りない僕の本心だ。それが口を自然に動かせ、言葉を紡ぐ。

 

「――一緒に、逃げよう」

 

 意外な提案に、モードレッドが顔を上げる。淀んでいた瞳が、大きく開かれて僕を見る。

 

「……マスター、何言って……」

「どこか遠く、戦いも何も無いところに行こう。戦えないなら、戦わなければいい。無駄死にする位なら、生きていた方がよっぽどいい」

「滅茶苦茶だ。聖杯は? マスターの願いはどうなるんだよ」

 

 泡を食った顔でモードレッドが詰め寄る。その驚きは、腕の傷すら忘れてしまうほどだ。

 

「そりゃ口惜しくはあるよ。人並み以上には魔術に人生を費やしてきたし、『根源』にも興味は尽きない。けれど、目の前の君の人生を踏みにじってまで得るような大切なものじゃない。それなら僕は、君とずっと一緒にいた方がいい。根源も、魔術すらも忘れて」

「一緒に……って、おま、それは……」

 

 疎くはないモードレッドは、僕の内に秘めたものをすぐに察した。頬に薄く朱が乗り、引き結んでいた口が力なく開く。

 

「君と過ごす時間が楽しかった。命を懸けて戦っていたこの時間が、人生で最も色鮮やかだった。君といると心が弾み、胸が躍った。戦う君は誰より果敢だった。君は怒るだろうけど、戦いのない場所で、君は誰より可憐だった」

「っう……ぜんぜん、気づかなかったぞ。マスターがそんなこと考えていた、とか」

 

 耐えられないとばかりに僕から目を逸らす。当然だろう。表だって口にしたことはなかったし、成就させる気もなかったからだ。

 

「魔術のために何もかもをかなぐり捨ててきたはずなのに、君の隣で、ただただ生きていたくなった」

 

 一緒にいられればそれでいい。状況が聖杯戦争なら叶うべくもない、馬鹿げた夢想だ。だが今は状況が違う。

 モードレッドには、この提案はどう映ったことだろう。目を逸らしたまま、歯切れ悪く変事が帰ってくる。

 

「で、でも……オレはサーヴァントだ。戦う為に喚ばれた。それがオレの存在意義だ」

「違う。サーヴァントは使い魔だよ。目的が勝ち残る為にあるだけで、どう使うかは僕の自由だ。そして、僕は戦いたくない。戦えない君に戦わせたくない」

 

 だらりと垂れ下がったままの手を取る。モードレッドは僅かな痛みに顔をしかめるも、伝わってくる温もりに、何とも言えない感情を覗かせる。

 

「……サンキュ、マスター。けど、やだよ。認められねえよ、そんなの」

 

 まるで、野原に放り出された飼い犬のようだった。どうしたらいいか分からず途方に暮れ、ただ目の前の現実を悲観するような。

 

「オレはセイバーだぞ。円卓の騎士、モードレッドだぞ。剣も振れず、戦うことも止めて、ただ生きるなんて……そんなの、オレじゃねえよ。そんな生き方、オレには……」

 

 激情の人生が、一度あった。英霊であるモードレッドは、僕なんかよりよほど人生を、自分という存在を知っている。だから今の自分を許容できない。逃げるという選択を唾棄できない自分に失望している。

 結局、彼女は何も決められず、うなだれて小刻みに震える。僕は彼女の頭に手を置いて、胸に寄せる。力のない上半身には、好きにしてくれという諦観が現れていた。

 

「……いずれ、傷を治す術を見つけてみせる。時間さえあればきっとよくなるよ。きっと、治してみせるから」

 

 根拠のない、ただただ優しい言葉を、彼女の耳に染み込ませる。少しでも、この喪失感を埋める土となれるように。

 状況は最悪だが、選択まで最悪である必要はない。

 ここにいても、死と悲劇しか生まれない。

 ここには終末しかない。

 ならばいっそ、だらしなく続けるものアリだろう。死に等しい絶望も、その中で生き続ければ意味のあるものになると信じて。

 



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2

 当初、聖杯戦争には全てを捧げるつもりで望んでいた。それまでの魔術師としての人生と、積み重ねてきた知識、資産、権力など、ありとあらゆるものを。

 元より生きるか死ぬかの戦いだったのだ。全てを捨てることに後悔もなかった。

 その家も、聖杯戦争の直前に買ったものだ。戦いに敗れ、それでも万が一生き残ったならば、余生は静かに、何にも脅かされず生きていこうと決めていたのだ。

 整備の跡がギリギリ残るデコボコの畦道に車を走らせる。落ち着かないドライブではあったが、それさえ覆い隠してしまう位に、周囲に音がない。

 針葉樹林が伸び伸びと空を仰ぎ、透き通るような木漏れ日が煌めく。敷き詰められた濃密な森の香りが、時と喧噪を忘れさせる。

 

「いいところだね、モードレッド」

 

 ハンドルを取られないように気を配りながら、目線を横に向ける。モードレッドは両腕を座席にだらしなく擲ったまま、僕を横目で睨みつけた。

 

「……もうちょっと静かに運転しろよ。傷に響く」

「我慢してくれ。整備された道じゃないんだから」

「……フン」

 

 モードレッドは鼻を鳴らして、景色に目を向ける。新居にたどり着くまでの間、彼女からそれ以上の言葉はなかった。

 全てを包み込むような森の香りと、重苦しく沈んだ空気。いたたまれない静寂を持ったまま、僕らは新居に出迎えられる。

 魔術の文化のない国の、辺境の町の、更に外れにある森の中にある、木造の一軒家。側には二十五メートルプールより少し大きい位の泉があり、周りは小高い丘に囲まれている。一本引かれた畦道は整備されてはいるものの、その先の小さな町までは半日を要し、こちら側にはこの家しかない。

 実質的に、周囲から完全に隔絶されている。元々、どこかの富豪が避暑地として作った家だそうで、作りは非常にしっかりとしている。

 車を降りた瞬間、隣でガコッと強烈な打撃音。ドアを強引に蹴り破ったモードレッドが、腰に手を置いて家を観察する。中古とはいえ買ったばかりの車なんだけど、という言葉は飲み込む。

 モードレッドは憮然とした表情で、周囲をぐるりと一瞥する。

 

「ほんっと、なんもねえな」

「だからここに決めたんだしね。ほら、小さいけど湖があるし、緑が沢山あるよ」

「それを何もねえって言うんだよ。湖なんて大して珍しくもねえ。身内にここから生まれてきた奴もいるしな」

 

 不機嫌さを隠しもせず、値踏みするような目で僕と、これから生活する家を眺める。

 鎧を仕舞い、チューブトップとホットパンツ姿で立つ姿は、年頃の娘のようにしか見えない。瞳の陰りこそ隠せないものの、端正な容姿は人の目を引き付けて止まない。

 両腕はだらんと垂れ下がっている。肩から先だけ、まるで人形のようだ。不揃いな印象に痛ましさが募る。

 不機嫌なのは仕方ないと思いつつ、堅いままの表情に気が気ではない。他の選択肢がないとはいえ、強引にここまで引っ張ってきたのだ。どうせなら気に入ってほしい。

 

「……ま、確かにいいとこかもな」

「本当? それはよかった」

 

 素直に胸をなで下ろす。僕の反応が癪に障ったか、モードレッドは一瞥だけくれて、再び僕に背を向ける。

 とりあえず安心だ。彼女のための逃避なのだから、気に入ってもらえなければ始まらない。

 何だか、転勤先の子供の様子を気にする父親のようだ。そう空想して、ふと気がつく。終ぞ持つことは無かったが、家族というものがあれば、きっとこんな感覚なのだろう。

 郷愁に似た感覚を、森の匂いが助長する。時を忘れかけた僕に、モードレッドが不躾に声をかけてきた。

 

「それで、ここでどうするんだ?」

「何もしないよ。読書なんかをして時間を潰して、食事して、適度に睡眠を取って、生活する」

 

 そう答えると、獣の眼光で睨みつけられた。玄関前の数段の階段を登っていた足に、ぐっと力が籠もる。次の一瞬には、魔力放出を加えた跳び蹴りが飛んできそうな強烈な気迫だ。

 

「オイ、忘れるなよ。オレはまだ……」

「分かってるよ。魔術の研究も続ける。君の腕の傷を治す術を探すさ。幸い、時間は沢山ある。死の恐怖に怯えることもない」

「……死を怖がったことなんてねえよ、アホ」

 

 吐き捨てるモードレッド。ここに来るまで、水槽に水を溜めていくように不機嫌は積み重なっている。折り合いをつけられていないのは明白だった。

 

「ああ、ドアは蹴破らないでくれよ? 大切な新居なんだから」

「うっせえ。腕が使えねえんだ、気が利かねえドアが悪い」

「そうかもしれないけど、ここは森の中だしさ。虫とか入って大変なことになるよ」

「っ……じゃあさっさと開けろよな、ノロマ! ノロマスター!」

 

 ギクリと硬直したモードレッドが、所在なさげに叫ぶ。図星を突かれた様子が可愛らしくて、僕の表情もつい緩んだ。

 

 

       ☆

 

 新居の内装は、二人で暮らすには十二分に広い。前の持ち主が避暑地に利用していただけあって非常に開放的だ。木材の温かみは、窓から見える湖の風景と共鳴して、穏やかな空間を作っている。

 世捨てのつもりだったから、荷解きはさしたる苦労もなく終わった。前の持ち主が残してくれた分も活用し、すぐに不備なく生活できる環境が整った。

 さて、後は普通の生活じゃない方だ。両手を軽くはたいて、気持ちを入れ直す。

 

「モードレッド、僕は少し地下にいるよ。何かあれば呼んでくれ」

 

 彼女はリビングのソファに腰を下ろし、ただじっと、窓の外の景色に目を向けていた。両腕の使えないモードレッドに、荷解きなどの力仕事をさせるわけにはいかない。だからゆっくりくつろいでいてくれ。そう伝えると、モードレッドは窓の景色を眺めたまま、ほとんど動こうとしない。

 

「……おう」

 

 独り言のような小さなモードレッドの返事に見送られて、僕は家の奥へと向かう。

 倉庫の隅の方に、正方形に仕切られた板蓋があり、その下には、ワンルームくらいの広さの石造りの地下倉庫がある。元は酒蔵として利用していたのだろう、陰気なぐらいの湿気と空気の淀みがあり、魔術の工房としてお誂え向きな空間だった。

 持ってきた書類や道具を箱から出し、環境を整え、二時間ばかり。

 一通りの荷物を運び込むと、鍵をかけて、入り口を堅く閉ざした。魔術的な防壁も施し、地下室に通じる板蓋にもぴったりと蓋をして、ここも頑丈な錠前を付けた。だめ押しに、棚の一つをずらして、視覚的にも入り口を遮断する。

 工房は誰にも明かさないようにするのは魔術師としての基本だが、これにはもっと違う意味がある。これは隔離だ。魔術は無視こそしないものの、できる限り遠ざける。魔術なんて関係のない場所に来たのだ。その本懐を忘れないように。

 

 

 一通りの事を済ませて地上に出てくると、静寂が尚の事強く意識させられた。自然の中の済んだ空気には、自動車の排気音や、電化製品の唸りもない。普段何気なく耳にしていた雑味がなく、氷の中に囚われたようにも感じられる。

 今は慣れないが、やがてはこれを愛しく感じられることだろう。そう思いつつリビングに出ると、モードレッドがいた。ソファに座って、ぼんやりと窓の外を眺めている。

 

 一瞬、タイムスリップでもしてしまったかと思う。モードレッドは二時間前と同じ姿勢のまま、窓の外に目を向け続けている。

 体の動かし方を忘れてしまったような姿に胸が詰まるが、僕は努めて平静を保ち、彼女の側に寄る。

 

「一応聞くんだけど、楽しい?」

「……んなわけねえだろ、ハゲ」

 

 断じて禿げてはいない。も、返答は保留。

 モードレッドの座るソファの後ろに立ち、背もたれに肘を置いて、顎を乗せる。すぐそこにある彼女の金髪から、女の子の香りがした。

 

「腕の調子はどう?」

「すこぶる悪い。手首に杭が突き立ってるみたいだ」

「あまり痛むなら、霊体化しておいたほうがいいんじゃないかい?」

「いや……霊体化すると『傷を塞いでいる』って事象が弱くなるみたいでな。霊体になると、かえってトラウマになりそうな位に痛む」

「そうか……」

 

 彼女の両手首には、赤黒いかさぶたのような物が張り付いている。モードレッドにとっては、自分の弱さを見せつける、屈辱の証。僕にとっては、不甲斐ないマスターとしての、最悪の烙印だ。

 

「……言っとくけど、もう謝るなよ? ここに来るまでに、もう一生分聞いてるからな」

「分かってる。君が嫌がるような事はしないよ」

「ならいい……謝るのは、むしろオレの方だし、な」

 

 ギリギリ聞こえるぐらいの小さな声で、モードレッドはそう自嘲した。

 僕は彼女の弱音を無視して、顔をソファの背もたれに押し込み、彼女の側に近づける。できるだけ同じ視線で、彼女が見ているようで見ていないものを見る。

 湖は澄み渡り、陽光を反射して白く斑な輝きを放っている。木の葉は柔い緑色をそよがせている。手前には手入れを怠って伸びがちな芝があり、湖との境目を繋ぐように、小さな桟橋がかかっている。

 

「確か、庭の物置に小船があったはずだよ。今度乗ってみるかい?」

「……いや、いい」

「散歩すれば随分と気持ちがいいだろうね。冬もまだ遠いし、気軽に散策っていうのも――」

「いいって……頼むから、構うな。しばらく放っておいてくれ」

 

 煩わしそうに、だらんとしたままの手を振る。ぺたんと力なく頬に当たって、僕の顔を押しのけた。

 ぶっきらぼうで気分屋なのは、彼女の元からの性分だ。けれども本来は、こんな風に自分を殺し、頑なに押し黙るような人間じゃない。

 

「……いいところだと思うぜ、マスター。オレの趣味じゃねえけど、ごく普通の人間の暮らしとしちゃ、上等なんだろうよ」

 

 重苦しく、胃の中のものを引っ張り出すような声音で、モードレッドは胸の内を吐露する。

 

「だけど、やっぱりオレのいるべき場所じゃない。ここにいる時間を、無駄にしか感じられない……自分が分からなくなる。何か動いたり、考えたりすると、どうにかなってしまいそうだ」

 

 垂れ下がった腕が拳を作り、ぶるぶると震える。身を裂くような痛みで、ようやく理性を保っているようにも感じられる。

 彼女は騎士として生きた。戦う為に生きていたこれまでの人生が、赤熱した石炭のように、腹の内を煮えたぎらせている。

 詰まるところ、自分を許せていないのだ。発作のように、戦えという言葉が聞こえる。戦えない自分を罵倒する声がする。

 

「だから、構わないでくれ……今のオレは、マスターが憎くて仕方ない。自分が情けなくてどうしようもない。何も考えさせずに、放っておいてくれ」

 

 自分を認められなければ、物事を判断するレンズそのものが濁ってしまう。あらゆる物が淀み、暗くなり疎ましく感じられてしまう。

 けれど、それを解決する手段はない。モードレッド放り出されたのは『どうしようもない』という牢獄だ。過去は変えられず、未来永劫続く。足掻くことすら許されず、ただただ苦痛に身を焦がされる。

 かつて叛逆の騎士としてあった時、様々な苦難がモードレッドを苛んだことだろう。しかし、彼女はそれに力と、獣のような勇ましい魂で応えた。

 正解か不正解かは問題ではなく、彼女は困難を、力で薙ぎ払ってきた。

 そんな彼女だからこそ、こんな苦痛は初めてに違いない。

 腕が治るという夢のような話を除けば、与えられた選択肢は『諦める』の一つ限りだ。

 そんな無常を、叛逆の騎士が許容できる筈もない。しかし、どれだけ足掻いても、諦める意外にはない。

 

「……」

 

 僕の責任でもある八方塞がりな状況には、罪悪感を禁じ得ない。

 けれど、僕までその薄暗い感情に潰れてしまっては、彼女は本当に闇に飲まれて消えてしまう。

 この失意に満ちた状況で、それでも希望と呼べるのは、僕の存在意外にない。諦めるしかないにしても、諦め方なら選べるはずだ。

 モードレッドは、僕をいいマスターだと呼んでくれたのだ。

 

 

 僕は恐る恐る、モードレッドの頭に手を置いた。クセのある金髪が指に絡まって柔らかくくすぐる。

 

「……っ」

 

 モードレッドはされるがまま、ほんの少し体を揺する程度の反応をして、窓の外を眺め続けている。

 

「時間ならある。ゆっくり受け入れればいいよ。そのためにこんな場所まで来たんだから」

 

 薄ガラスに触れるように慎重に、けれども温みを伝えられるような確かさで。モードレッドの髪を梳く。

 

「けれど、これだけは忘れないでくれ……君は、僕にとって掛け替えのない、必要な存在だ」

「……」

「役立たずとか、使えないとか、考えなくていいんだよ。君はもう、戦わなくていい。受け入れられないかもしれないけれど、僕の本心はそれっきり、変わる事はないから」

 

 モードレッドはされるがまま、首の動きを僕に委ねている。跳ね退けない優しさが、僕と彼女の間にある関係性を教えてくれる。

 

「……さんきゅ、マスター」

「礼なんていいよ。とりあえず、ご飯にしようか。気に病むのは仕方ないにせよ、何もしないより、気を紛らわせるのが正解だよ」

「ん。うまいの頼むぜ、マスター」

「任せてくれ。新居一日目に相応しい物を作らないと」

 

 やっとはにかんでくれたモードレッドに頷きを返し、腕まくり一つ。

 責任は重大だ。何せ、痛みで霊体化できなくて良かったと思えるぐらいの物を作らないといけないのだから。

 

          ☆

 

 結論を先に言えば、安心は未だ遠いと言わざるを得ないのだろう。

 

 テーブルの真ん中には、こんがりと焼けた小振りの鳥が丸々一羽置かれている。今までにない本気度で仕込んで焼き上げたのだが……今口に含んでいるのは砂か何かだろうか。全く味わうことができない。

 今はもう、祝い事=鶏肉という自分の安直な選択を呪うばかりだ。自責の念に駆られる僕の目の前で、カチャンと甲高い音がまた一つ。

 ナイフを取りこぼしたモードレッドが、小刻みに震える自分の右手を見つめている。

 僕の視線に気づいたモードレッドが、慌てて表情を柔らかくした。

 

「あ……な、なんでもねえよマスター。これくらい、ちょっと工夫すれば楽勝だって!」

 

 そう取り繕ったモードレッドは、右手のフォークを幼児のように握り込んで、肉に突き立てた。痛みが拳に走り、表情が歪む。しかし、そこからいくら力を入れても、鶏肉は引きちぎれない。

 食事さえ満足にできやしないなんて。もううんざりだ。くしゃくしゃに歪んだ顔には、そんな胸の内の言葉が明白に表れている。手首に焼き付いた傷跡は痛々しく、晩餐なんていう暢気な空気を好き勝手に蹂躙する。

 モードレッドを見るのが怖くて、僕はまともに顔も上げられない。俯いたまま、言うべき言葉を探して思考が迷子になってしまう。

 何か。何か場を紛らわす事を言わないと……

 

「……あー、その、モードレッド」

「フンッ!」

 

 モードレッドの腕がテーブルを薙いだ。びゅおんと風が吹きすさび、テーブルの物が震える。

 ぶちんと音がしたかと思えば、モードレッドの手には鶏肉の足部分が握られていた。

 

「っ~~~~! っと、とと」

 

 力任せに引きちぎった反動で取りこぼしそうになるのを、反対側の手で押さえる。両手で持った鳥脚に、そのまま豪快にかじり付いた。

 

「ん、うめえ! やっぱ肉っつーのはこうやって食うのが一番だな――んぐっ、げほっ! えっほ!」

「ああ、調子に乗ってがっつくから……」

 

 僕はコップを片手に、モードレッドの隣に座り直した。

 

「ほら、水」

「ん……んくっ、ん」

 

 むせる彼女の背をさすりながら、コップを口元に近づける。モードレッドはさしたる抵抗もせず、僕にされるがままに飲み干した。

 口の端からこぼれた水を指で拭うと、彼女はくすぐったそうに笑う。

 

「ふぃー、助かったぜ」

「ほんと、ただの食事にもヒヤヒヤさせられる」

「ただ咽せただけじゃねえか。水飲めばそれだけで……」

 

 モードレッドは、やっと自分がされた事に気づいたらしい。僕の目の前で、顔が魔力放出でもしたのかと言わんばかりに真っ赤に染まる。

 

「な……ば、バカマスター! おま、何してんだよ!」

「何って、自分じゃうまく動かせないんだから、こうするしかないじゃないか」

「ッそ、そうかも、そうかもしれねえけどっ! けど、こんな……ガキみてえで、クッソ恥ずかしいだろ……ああもうっ」

 

 揺れ動く目が僕が持つコップの辺りに集まり、逸らされ、それが五往復した位で、モードレッドはやけくそに鶏肉にかじり付く。

 

「モードレッド。ほっぺに食べカス付いてる」

「ん、サンキュ……って、だから! そういうのが!」

 

 騒ぎ立てるモードレッドに、苦笑する他にない。本人はどうにかして威厳を保とうとしているらしいが、食べ方もあって、今の状況はまるで世話の焼ける子供の相手をしているみたいだ。

 原因は痛々しいものにせよ、こちらの親切にいちいち突っかかる様子は、何とも愛らしい。おかげで、こちらもつい調子に乗ってしまった。

 プレートに乗ってる、手頃な大きさの芽キャベツをフォークで刺し、今鶏肉を飲み込んだばかりのモードレッドに差し出した。

 

「はい、モードレッド」

「んぐっ!? ……んだよ、蹴るぞマスター」

「ちゃんと野菜も取らないと、健康に良くないよ。サーヴァントに栄養が必要か知らないけど、気分的に」

 

 モードレッドっがキッと睨みつけてくるけれど、栄養学的に見て正義は圧倒的にこちらにある。

 

「や、でもよ、さすがにそれ……」

「別に恥ずかしがらなくても。今後こんな機会は増えていくんだし。今のうちに、僕に頼るのにも慣れておこうよ」

 

 自分で言っておいて、口にした言葉がすとんと胸に落ちた。

 モードレッドは頼り慣れていないのだ。サーヴァントは圧倒的強者で、誰かを護り導く存在だから。一生を経た彼女は、自らの哲学によって自己完結を施している。

 自分の弱い部分を、誰かに埋めてもらう――英雄譚の人物であるモードレッドには殊更、そんな普通の考えも目から鱗に違いない。

 

「マスターに頼る、か……」

 

 モードレッドは、自分の中で言葉を反芻しているようだった。あるいは、冗談で済ませていた事に真剣に向き合って、サーヴァントである自分の誇りと葛藤しているのかもしれない。

 しばらくの逡巡の後、モードレッドはこちらをまっすぐに見つめ、おずおずと口を開いた。

 

「ホラ、食ってやるから早くしろよ」

「蹴らない?」

「蹴らねえから! クソ恥ずかしいんだからさっさと済ませやがれ! あぁー!」

 

 ヤケクソとばかりに口を大きく開く。目をぎゅっと閉じているのは精一杯の強がりだろう。

 顔が僕にぐっと近づいて、血色のいい唇から、その中までハッキリ見える。妙にいけない気分になりながら芽キャベツを差し出す。モードレッドは「はむっ」と豪快に、フォークごとぱっくりとくわえ込んだ。口をすぼめてフォークからキャベツを抜き取り、咀嚼する。

 

「おいしい?」

「……んまい」

「何よりだよ。他にもしたいことがあったら、遠慮なく言っていいんだからね。できることなら何でもするから。風呂とか、トイレとか、むしろ積極的に任せてほしい」

「殺すぞ」

 

 端的な一言。モードレッドは鶏肉にかぶりつく。

 ふと視線を下ろせば、僕の手にはモードレッドの口を経由したフォークが残っている。ぱっくりくわえ込んだせいか、先端が唾液でしっとりと塗れている。

 目がモードレッドに向けて滑る。鶏肉を頬張ると、仄かな甘みが漂った。咀嚼していると、モードレッドがほとんど食べ終わって骨だけになった肉を置いた。

 

「けど……このままじゃダメだよな。さすがに何でもかんでも頼る訳にもいかねえし、せめて食事くらいまともにしたいな」

「個人的には、しばらくはこのままでもいい気がするけど。それこそ、王様っぽくふんぞり返っているのが君らしいのに」

「そういう訳にもいかねえだろ。オレはもう英雄じゃなくて、マスターなしじゃ何もできねえんだ……マスターに見捨てられたら、もうオレは……」

 

 魔術的なつながりのお陰か、言葉尻の震えを敏感に感じる事ができた。

 牙を抜かれた虎の如しだった。モードレッドは怯えている。傷を負ったまま死に、英霊でなくなってしまう事を恐れている。

 

 ここで死ぬことを恐れている。

 僕に捨てられる事を恐れている。

 恐れの対象に僕が含まれていることに、僅かながら落胆する。しかし、サーヴァントとマスターの関係なんて、本来はそんなものだろう。使えない英霊は捨てる。それは壊れた電化製品を捨てるのとさしたる違いはない。

 

「手、汚れてるだろうから、拭いてあげるよ」

「……サンキュ」

 

 キッチンペーパーを塗らして、モードレッドの手を包む。痛まないように慎重に、優しく撫でる。

 こうして触らせてくれるというのは、信頼されているという証拠だ。この信頼が、恐れに上書きされないようにしなければいけない。

 

「……うん、そうだね。フォークぐらい持てるようにしておきたいね」

「何か策があるのか、マスター?」

 

 意外そうに、モードレッドが眉を持ち上げる。瞳の輝きからして、期待は随分大きそうだ。

 

「強力な呪いだし、傷自体はどうしようもないけどね。令呪でカバーしている分もあって、幾らかは干渉の余地を残している。後はモードレッドの対魔力で、多少の緩和は可能だろう」

「そ、そうなのか? 全然どうにかなる気がしないんだが」

「もちろん普通じゃ無理だよ。だから、魔力を増強させてブーストをかければいいのさ。えーっと、つまりは魔力供給なんだけど……」

 

 僕はモードレッドに、策を耳打ちする。逆上したモードレッドの蹴りは三回で済んだ。

 

     

 

 



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「言っっっっっとくけど! これは、オレの腕を治す為なんだからな!」

 

 ベッドに腰掛けたモードレッドは、いの一番にそう叫んで僕を威嚇してきた。

 凶悪な犬歯がむき出しになっているが、顔はずっとトマトのように赤いまんまだ。視線もあちこちをさまよって、どうも僕をまともに捉えられていない。

 

「決してそれ以外の理由はなくて! マスターもアレだえーと何だその、慈善事業みたいな感じで!? オレもまあ、しょうがないから付き合ってやるか的な!?」

「落ち着けモードレッド……誇張しなくても分かってるよ。僕がやりたいって言い出した事なんだから」

「自分からしたいとかヘンタイかてめー!?」

「君の腕を治すために、ってことなんだけど……」

 

 完全にテンパっているな、これは。

 まあ、無理もないことだろう。元々、女扱いすれば殺すとか平然と言っていたし、軽く小突かれたりもした。防護を張らなければ多分死んでいただろう。

 ともかく、そんなモードレッドだから、狼狽え方が半端ではない。顔は魔力が漏れてるのかとばかりに真っ赤だし、彼女の周囲には実際に抑えられなかった魔力が火花を叩いている。迂闊に触ったら感電するんじゃないか、これ。

 

「モードレッド、君がイヤならやめてもいいんだよ?」

「っ……いや、やるぞオレは。元通りのオレに戻るためなら、何だってしてやるさ……あーくそ、静まれ静まれ」

 

 胸をドンドンと叩いて平静を呼び込む。なんと男らしい。スポ根アニメだって今日日そんな落ち付け方はしない。

 心臓の鼓動を強制的に押さえつけたモードレッドは、目を閉じ、深呼吸を数度。

 次に開いた彼女の目は、完全に据わっていた。

 目の前の敵を殺すと決めた時、こんな顔をするに違いない。静かな凄みに、僕の背筋が震える。

 

「マスター」

「な、なんでしょう」

「お前は犬だ」

 

 急にどうしたと言うのだろう。意味が分からないが、笑うと殺されるのだけは分かる。

 

「犬」

「ああ、犬だ。なんか、こう、もふもふでラブリーで、オレの事が好きで尻尾振ったりするような、そんな感じの犬だ」

「モードレッドの事は好きだけど?」

「ばっ! たたたたとえ話だ馬鹿! お前の事とかどうだっていいんだよ! つ、つーか好きとか、おま、急にその……馬鹿! ばーか!」

「ごふっ、ふぐっ……わ、分かった、分かったよ。遮ってごめん」

 

 沸騰しそうなほどに真っ赤になったモードレッドが、あぐらの状態から僕の胸をぽこぽこ蹴りつける。力は入っておらず、全く痛くない……かと思いきや、暴走した感情が疑似魔力放出みたいになって、むせる位には重い。

 肋骨が軋むくらいになってやっと落ち着いたモードレッドは、改めて深呼吸。顔は赤いまま先を続ける。

 

「と、とにかく! 犬なんだからこ、こういうのも普通にするし。ごく自然なことなんだよ。分かるか? なあ?」

「愛情表現として?」

「そう! 愛情表現として――、~~~~ッ!」

「ごめん! ごめんモードレッド! 不用意な発言は控えるから!」

「お、お前なあ!? 大人しくじっとしてろっつってんだよ! 次は蹴るからなっ!」

「もう蹴ってるけど!? あっごめん、その赤い光はマジでやばい! やばいから!」

 

 そんなまどろっこしい事をしているから意識してしまうのではないだろうか、という僕の胸中は泡沫。

 モードレッドの心と僕の命を天秤に掛けた一悶着が繰り広げられ、数分後。お互いに息を切らせ、再びベッドの上で正座をして向かい合う。

 運動のお陰か、モードレッドの決意は固まったようだった。顔は赤いままだが、さっきみたいにうろたえたりしない。

 

「じゃあ……いくぞ? 動くなよ、マジで」

 

 これ以上刺激しないよう、無言で頷く。

 モードレッドの上半身が傾き、視界が徐々に彼女の顔で埋まっていく。僕の太股に彼女の腕が乗り、そっと体重が乗せられる。

 

「っ……う」

 

 痛みに僅かな吐息。それが顔にかかるほどの距離にまで迫る。彼女の温もりと、少女の香り。甘い感覚が、僕の唇をめがけて迫る。

 鼻が触れるほどの距離で、モードレッドは一度逡巡した。浅い息づかいが、僕の唇をくすぐる。

 

「はぁ、はぁー……ふっ」

 

 覚悟を決めた息づかい。

 次の瞬間、僕の口が温かいもので蓋をされた。

 しっとりと塗れた唇の触感。真一文字に引き結ばれているせいか、ゴム鞠のように突っ張った柔らかさがする。

 僅かに開いた隙間から、淡い少女の香りが口中に滑り込んでくる。

 微睡みに似た蠱惑的な感覚は、しかしあっという間に遠ざかっていった。膝にかかっていた重みが退き、目を閉じていても感じていた彼女の存在が遠ざかる。

 

「っし……終わった。もういいぞ、マスター」

 

 言われるまま目を開ければ、布団に腰を下ろし、所在なさげなモードレッドの姿。最初とほとんど同じ場所にいるのに離れて感じるのは、彼女がこちらに目を向けようとしないからだろう。落ち着かないのか、あぐらをかいた両足がぱたぱたベッドを叩いている。

 白い頬に紅を差し、それでいて何でもないように顔を俯かせる。動揺を隠したいその仕草は年頃の少女のようで、本人に言えば殺されるだろうが非常に愛らしい。

 

「んで……どーなんだよ」

「何が?」

「だぁから、その……」

 

 モードレッドはそっぽを向いたまま、唇を尖らせて聞く。

 

「結果だよ、結果。効果あるのか? ちゃんと魔力足りてんのか、これ」

「不満かい? それならもう少しする?」

「ばっ――ばっきゃろ! そういう事じゃねーよ! もういい、寝るっ!」

 

 モードレッドは大仰に肩を怒らせて、ベッド脇のソファに体を投げた。

 

「こっち来て、君もベッドに寝たら?」

「なんで使い魔がマスターと一緒に寝なきゃいけねえんだ。こんぐらいの距離感でいいんだよ、こんぐらいで」

 

 ぶっきらぼうに言って、両腕を胸の前に組む。わざわざ繰り返して強調した距離感は、さっきの唇の感触をごまかす為のものかもしれない。

 さっきまで息がかかっていた頬に手を添える。笑みを浮かべていることに、初めて気がついた。そのことを自覚すると、胸にわだかまっていたしこりが解れたような気がする。

 

 

 しかし……自分のことを使い魔呼ばわりか。

 割り切った性格とはいえ、大分堪えているみたいだ。どうやって解決するべきか。

 

 

 僕はベッドの毛布を手に取って、モードレッドの体にかけてあげた。モードレッドは目をぴったりと閉じたまま、ごろんと転がって、ソファの背もたれの方に顔を向ける。露わになった背中を隠すように、毛布をかけ直す。

 

「風邪引くよ、モードレッド」

「英霊が風邪なんか引くか、バカ」

「じゃあ、気持ちよく眠れないよ。せっかくの初日だ。気分良く終われるように、ね」

「……ばかますたー」

 

 最後にぽつりと呟いて、モードレッドは僕との関わりを断ち切った。

 数分と経たずに、健やかな寝息が聞こえる。速やかな睡眠への導入は、モードレッドの疲労を表しているような気がした。

 見た目には塞がっているから、忘れそうになる。彼女の両腕は切り裂かれたのだ。決して癒えない傷が、彼女の柔肌に走っている。

 

 

 何をしていても、内側をかき回されるような痛みがするに違いない。それがどれほど酷い事か、僕はこうして空想し、案ずる事しかできない。

 そんな事を考えると、彼女の眠るソファの前から動けなくなった。

 僅かに上体を屈めると、彼女の寝顔を横から見ることができた。

 穏やかな顔をしていた。気丈さを滲ませる直線的な眉。吊りがちな目。ほんの少しだけ開いた桜色の唇からは、すうすうと規則正しい呼吸が聞こえる。

 

 

 ついさっき触れ合った唇の感触は、未だ色褪せずに、僕の中に残り続けている。

 彼女はどうだろう。忘れたくても忘れられないだろうか。

 それを嫌とは思っていなかったら、嬉しいのだけれど。



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「――――――――」

 

 気がつくと、オレはそこにぼーっと突っ立っていた。

 よく見知った景色だった。首を一回りするだけで、憎悪が俺の腑を焼いた。

 夥しい数の死体。一切が焼け落ち荒廃した大地には、木々の代わりに無数の剣が突き立てられている。

 赤い赤い、夕焼け。それよりも遙かに紅い紅い、ぶちまけられた血潮。

 これは、オレが作り上げた光景だ。カムランの丘には、無数の騎士の死体の紅と、その残骸の鈍色で彩られている。

 

「ぁ……」

 

 何でとか、どうしてとか、そんな常識を考える余裕なんてなかった。

 ただ、ただ、燃える。

 熱は咆哮になり、オレを塗りつぶし、世界を割った。

 

「あ―――ァァアアアアアサァァァァァァァァァァ!!」

 

 身体が言うことを聞かない。魂に刻まれた憎悪が、力そのものになって大地を蹴る。

 いつの間にか握っていたクラレントを振るう。前に立ちふさがっていた騎士を鎧ごと両断し、鮮血がぶちまけられる。

 いつの間にか、目の前には無数の騎士がいた。オレは憤怒の赴くままに、それらを屠る。

 怒りのままに、しかし無感動に、機械的に。コイツ等は障害でしかないのだから。

 邪魔だ。邪魔をするな出せ。出せ出せ出せ出せ。どこだ隠すな遮るなオレの前に出せ奴を奴をオレの前に差し出せ!

 

「アーサー王はどこだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 喉を裂くほどの絶叫と共に、オレは戦場を駆ける。憎しみの赴くままに。怒りの動くままに。

 

「――何をしている」

 

 声は上から降ってきた。弾かれたようにオレの首が回る。

 丘の頂点に、ずっと会いたかった人間がいた。

 王は一切の感情のない顔で、オレを静かに睥睨している。

 王の目が、確かに今、オレだけを見ている。それが言いようもなく心地よく、オレの胸を高ぶらせた。

 

「っ……どうだ、どうだアーサー王! お前の国は終わりだぞ!」

 

 大仰に両手を広げ、血で真っ赤に染まったクラレントで周囲を指し示す。彼の王の土地。彼の王の民。彼の王の国が、滅びを迎えようとしている。

 オレの手によって。オレを息子と認めなかった、その報復によって。

 オレの怒りで、あの比類なき王が膝を折る!

 

「ざまあみろ! お前はもう終わりだ! オレがお前を破滅させた! お前の国を滅ぼした! どうだアーサー王! オレが憎いか? 殺したいか? 怒りで我を忘れそうか? 言ってみろ!」

 

 最高の気分だった。オレが生まれた理由は、この瞬間のためだと思った。

 

 

 オレはオレ自身を見下ろす。

 これがオレだ。叛逆の騎士として生きた、モードレッドの生き様だ。こう在るためにオレは生き、こう生きたためにここで死んだ。

 ここが極地だ。存在を構成する全てが、この瞬間に凝縮されていた。あらゆるものを鮮明に思い出せる。

 興奮に震える魂。乾いた空気。生臭い血。

 握りしめるクラレントの暴虐的な輝き。

 

 

 

 ……なのに、ただ一つだけ、違った。

 

「誰だ、貴様は」

 

 王が放ったその言葉は、侮蔑に満ちていた。

 

「………………は?」

「もう一度問う。貴様は何者だ?」

 

 王は、オレの知らない目をしていた。

 違う。これは王ではない。オレの知っている王は、こんな風に人を蔑んだりしない。

 

「何を、バカな……オレだ! モードレッドだ! 円卓の騎士の一員

で、誉れ高き騎士で……お前の、息子だぞ!」

「……ははっ」

 

 王は、唇をつり上げて笑った。泥のように崩れた表情に心が揺らぐ。

 意味が分からない。何だこれは?

 これは、オレが生きた世界ではないのか?

 

「戯言を言うな。自分が何者かも分かっていない癖に、随分と吼える」

「ふっ……ざけるな! 見ろ! これはオレの叛逆だ! モードレッドの、アーサー王に対する報復だ!」

「貴様こそ、自分をよく見てみるがいい……その無様な両腕をな」

 

 がしゃん、と重たい金属音。

 見下ろせば、手にしていた筈のクラレントが、地面に転がっていた。浸したようだった血は、いつの間にか全て消えている。

 オレは、クラレントを握ろうと、手を伸ばした。

 ――ずるり。

 そんな音を立てて、手首から先が滑った。裂け目が手首の半分ほどまで食い込み、オレに真っ赤な肉と白い骨を見せるける。

 

「っが、あ――ああっ、ああアアアアア――――――!?」

 

 想像を絶する激痛が、オレの神経をズタズタに引き裂いた。膝を折り、血の吹き出る両腕を天にかざす。

 痛い、痛い、痛い痛い!

 ふざけるな、なんだこれは!? こんなの、オレの人生に有りはしない!

 

「力なき腕しか持たない貴様が騎士を騙るな。剣すら持てない不遇の身が、我が騎士団の一員を名乗るなど片腹痛い」

「ち、違う! オレはこんな、こんな傷……!」

 

 違う。オレは騎士だ。円卓の騎士だ。お前の息子なんだ!

 痛い。手首から先の感覚がない。剣は、クラレントはどこだ。さっきそこに落ちていたオレの剣は。

 

「探しているのはこれか?」

 

 冷徹な王の声。見上げれば、王の卑しい笑顔の隣に、銀色に輝くクラレントがある。

 

「これは我が宝物庫より持ち出した、儀礼用の剣だ。御覧の通り、剣身には傷一つもない。宝石のような美しい銀色だ」

 

 違う。オレは、その剣で数多の騎士を……お前を殺すのだ。

 そう言いたいのに、言葉にならない。喉が詰まる。痛みに思考がかき乱されて、本当にそうだったのかすら確証が持てなくなる。

 視界がブレ、平衡感覚がなくなる。両腕の痛みが、かつてあったはずの現実を無茶苦茶にかき回している。

 ふと気がつけば、オレは鎧すら着ておらず、麻布を一枚まとっただけの浮浪者となっていた。崩れ落ちた膝に砂利が食い込み、己の無力さが心に含浸する。偽りの筈の無情感が、心に上書きされていく。

 がしゃんという鎧の音。オレはその音に、無様にも竦み上がる。

 ふと気がつけば、カムランの丘はブリテン兵で埋め尽くされていた。俺が斬り伏せた筈の兵たちが、溝鼠を見るような目で俺を睥睨する。

 

「っひ、や……」

 

 オレは怯え、女のような甲高い声を上げた。バカな。嘘だ。このモードレッドが、こんな半端兵士を恐がるわけが……ああ、でも、オレが勝てるわけがないじゃないか。剣すら持てないオレが、こんな大きな騎士に――違う! オレはモードレッドだぞ! 最高の王に徒なす叛逆の騎士だ!

 

「このっ――」

 

 力の入らない拳を振り上げる。声は情けなく震え、目尻に溢れた涙が邪魔だ。

 甲冑で覆われた無数の手が、オレに迫る。威圧に体が硬直する。堪えていた涙が溢れる。二の腕に、肩に、首に、あらゆる箇所に指がからみつき、折れるほどの力で食い込む。

 

「くっ……や、やめろ! やめろぉぉぉぉ!」

 

 結局、オレはあっけなく組み伏せられ、焼け朽ちたカムランの大地に顔を押しつけられた。男の太い指が手首の裂け目に食い込み、発狂しそうな痛みが脳髄を走る。

 

「あ、あ……アーサー! アーサァァァァ!」

 

 オレは叫ぶ。オレがオレであることを証明するために。しかし王の姿はもう見えない。彼を叫ぶ理由すら、このカムランにはない。

 

「よく吼える犬だ」

 

 煩わしそうに、どこかで王がそう言った。オレを囲っていた甲冑の足が、オレの体に突き刺さる。

 四方八方から、容赦なく。いつまでも続くほど執拗に。無感動の蹂躙が、オレの体から心まで滅多打ちにする。

 鳩尾を蹴り飛ばされた反動で拘束が解ける。それでも動けなかった。足は生まれたての子鹿のように震え、心は親を亡くした雛鳥のように弱く、溢れる涙を抑える術はなかった。

 無様に地面を這い回り、ゆっくりと迫る大勢の騎士に怯える。

 紛れもなく、オレが体験している事だった。それなのに、オレはモードレッドではない。ぐらつく平衡感覚が、オレに抵抗すら許さない。

 

「ふ……ざ、けんな! こんなはずがない! こんな無様な姿がオレのはずがない! オレは――あ、や、やだ、やめろ……!」

 

 使い物にならない腕を振り回し、せめての抵抗を試みるも、結果は同じだった。騎士達にあっけなく捉えられ、地面にめり込むほどの力で組み伏せられる。

 

 

 

「分相応という言葉を知るといい……これを教訓としてな」

 

 オレを取り囲む誰かがそう言った。そして、オレの目の前に、それが突き立てられる。

 古びた斧だった。刃は欠け、血と泥で黒く汚れ。それでも鈍重で、本来の役割を全うし続ける凶器。

 刀身に、ボロ雑巾みたいになったオレが映っている。

 心臓が握りつぶされたように苦しい。呼吸が浅く、荒く、逼迫する。

 

「っ……く、くそっ! 放せよ凡夫どもが!」

 

 赤子の駄々よりもみっともなく、オレは身をよじらせる。

 騎士の動きは止まらず、そればかりか顔にはうっすらと嘲笑すら浮かべている。

 斧が、俺の右肩に置かれる。

 ずしりと重い鉄が俺の肉にのし掛かり、荒い刃が僅かに肌を裂く。

 オレの心が砕けるには、その痛みだけで十分すぎた。

 

「やだ、やだやだいやだいやだ嫌だ! よせ、やめろ、やめろ、やめろ!」

 

 夢だ。夢に違いない。こんなの全部悪い夢なんだ。オレは狂う。オレでないオレの姿を見せつけられ、心が壊れる。

 斧が持ち上がる。刃先が凶悪に光る。オレの肩が未来を予知し震える。土と血の滲む柔肌。剣すら握れない役立たずの腕。恐怖が満ちる。

 斧が振り上がる。

 オレは絶叫した。嫌だと何回も叫び、やめてくれと何度も懇願した。

 血を吐くほど泣き叫んでも、無駄だった。

 これが現実だった。

 モードレッドの歩んだ、無様な最期だった。

 斧が振り下ろされる。

 そして――

 

 



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5

「っ――」

 

 気がつくと、見慣れない天井が眼前にあった。明るい貴重の古ぼけた木目。

 ここはどこだ? ぼんやりとした意識で木目を見つめていると、オレの視界がぼやけている事に気づいた。

 涙で滲んでいる。目を拭おうと何気なく両腕を掲げると、錐を突き立てられたような痛みが手首を貫いた。

 

「いっ――てぇ」

 

 身悶えるような痛みに、体がぎゅっと緊張する。それで眠気は完全に吹き飛び、自分がここにいる理由が脳に飛び込んでくる。

 視線を下ろすと、両手首に浮いた大きな傷。そう。オレは戦えなくなり、逃げ出したのだ。マスターの甘言に誘われるまま、剣を捨てて。

 

「……クソッタレ」

 

 ぼすりと毛布に顔を埋め、未だ浮いていた涙を強引に拭う。顔をぐりぐりと押しつければ、頭の中の嫌なモノが滲んで出て行ってくれると期待して。

 もちろん、そんな事はなかった。悪夢はヘドロのように、オレの魂にこびり付いている。

 アレは、本物の痛みだった。人生を塗り替えられるほどの屈辱だった。

 夢でありながら、実際に現実なのだろう。剣を握れなくなったモードレッドが辿る、無為で無様な人生。

 神代のそれに匹敵する呪いは、オレの存在そのものを傷つけ、ああやってオレを蹂躙する。

 現界している間は、まだ悪夢を見る程度かもしれない。だが死んでしまえば、オレの存在は呪いに負け、あっという間に上書きされる。

 悪夢通りの結末か、それ以上に何もない無様な一生か。

 当然、英霊の座はオレを蹴飛ばし、二度目の生などは望めないだろう。

 

「……ちくしょう」

 

 毛布に埋めたまま放った言葉は、予想以上に反響し、オレの心を揺らした。

 傷を付けたサーヴァントを許す気はない。できることなら、地の果てまで追い詰めてでも殺してやりたい。

 まやかしの現実だって、受け入れてたまるものか。オレはアーサー王に徒なす叛逆の騎士だ。その誇りを、生きた証を、誰にも汚させはしない。

 そう思う。疑いようもなくそう思うのに。

 

「ちくしょう……!」

 

 同時に、怖くてしょうがなかった。

 あの悪夢は最悪だった。騎士としての誇りはなく、人としての尊厳すらなく、オレは只の浮浪者だった。

 死ねば、それがオレになる。オレはやがて、あの悪夢に人生を上書きされる。

 それがどうしようもなく怖い。だから、死ぬのが怖い。戦うための存在にも関わらず、だ。

 鳩尾あたりがずしりと重い。心に穴が空くとこんな感覚になるらしい。底なし沼にはまったように、オレの心が深く沈み込みそうになる。

 

「っ――ええい、まどろっこしい!」

 

 オレは気合で腕を振り上げ、自分の頬を殴りつけた。ぽこりと軽い感触が頬に伝わり、脳を引き裂かれるような激痛が手首に走った。

 もんどり打ちたくなるような痛みを、気合いで耐える。かなり強引だが、いつもの調子を取り戻す事ができた。

 

「~~~~~~~っ! ……たく、こんな痛みの中、オレもよく寝れたもんだな」

 

 オレから安心や安息という言葉を奪い去った傷を睨み、呆れ、そしてふと気づく。

 そういえば、昨日の夜は、あまり痛みを気にしなかった。そう思えば今朝も、なんだか少しだけ、腕が軽い気がする。

 しばらく考え、すぐにその理由に思い至った。

 その瞬間、かぁっと顔が火照る。

 

「……んだよ、ちゃんと効くのかよ」

 

 奴の顔が浮かぶ。

 胸が詰まるような感覚がした。けれども今度はもっと軽く、ふわふわと浮き足立つような、初めて感じるものだ。

 妙に心地よく、だからこそ気持ち悪い。

 そのもやもやから逃げ出すように、オレは毛布を蹴飛ばし、寝室を後にする。

 肘を使ってノブを開けると、うまそうな匂いが鼻をくすぐった。目覚めた腹の虫が、無遠慮に自己主張を始める。

 穏やかな空気の中、マスターがキッチンに立っていた。

 トマトの酸味のある香り。煮立てているようだからスープだろう。

 マスターはこちらに気がつくと、にこりと微笑んだ。どうにも慣れない。穏やかなあの顔も、ここの空気も。

 

「おはよう、モードレッド。そろそろ起こそうかと思っていたんだ」

 

 言いながら、マスターは鍋をぐるりとかき混ぜ、火を止める。

 

「昨夜の反省で、今日はスープにしてみたよ。まずは簡単なスプーンから、徐々に使えるようにしてみよう。リハビリという活動に効果があるのか、正直疑問だけど」

 

 拍子抜けするくらい、いつも通りの間抜けなマスターだった。こちらが険悪な顔をするのも馬鹿らしくなるくらいに。

 オレは壁にもたれ掛かり、マスターを睨みつけた。些細な機微も見逃さないように。

 

「……マスター、見たか?」

「何をだい?」

「……ならいい」

 

 質問はそれで十分。オレは不必要な警戒を解いた。

 無意識下で思考を共有するのは、霊基が繋がっているマスターとサーヴァントとの間でよくある現象だ。ひとまず、今夜の悪夢を見られなくてよかった。あんな無様な姿を見られたら、どう接していいか分からなくなる。

 

「傷の具合はどう? ご飯は食べられるかな」

「腹は減った。傷は相変わらずの最悪だ。お陰様でクソッタレな寝起きだったぜ」

「……そうか」

 

 マスターは困ったような声を上げ、キッチンに向き直った。

 オレはソファの背もたれに腰をかけ、マスターの背中を眺める。

 敵意もなければ、警戒もしていない。子供がいてもおかしくない男性の、無防備で暢気な後ろ姿。

 

(……あ、また)

 

 胸がきゅうっと絞まる。言いようのない感覚がオレの腹に蟠り、心に隙間ができる。

 まだ二日目だが、この穏やかな空気が苦手だった。うまく説明できないが、自分がここにいてはいけないような気がする。

 集団の中、オレ以外が全員男とか、そういう感じのもどかしさだ。いや、オレも息子だけどな?

 無駄と分かっているからしないが、本当は今すぐにでもクラレントを握りしめ、吼えながら戦場を駆け回りたい。今まではずっと、そうやって自分の心を解き放っていたから。

 今はそれもできない。胸にわだかまる気持ちを整理する術も持たず、オレはマスターに目を向ける。

 

 

 温かそう。そんな感想が浮かぶのは、スープの湯気のせいだろうか。華奢な背中を見ていると、色んな事を全て許してくれそうな気がする。

 そんな事を思っていると、体がつい動いていた。衝動のままにマスターに歩み寄り、背中に額をぽすんと押しつけた。

 マスターの体が少し跳ねた。そりゃ驚くだろう。オレ自身も意味がよく分かっていないのだから。

 

「モードレッド?」

「デコがかゆいんだよ。いいから黙って前向いてろ」

「そう……あんまり乱暴にしないでくれよ? 危ないから」

 

 マスターはそれ以上は何も言わなかった。オレはぐりぐりと額を背中に押しつける。

 マスターを感じた。日溜まりのような優しい温かさ。

 このような皮膚接触でも、ほんの少しの魔力供給はできるようだ。でも、通常の魔力とは少し違う気がする。

 何というか、そう。いつもより、少し甘くてふわふわする。もちろん、魔力に味なんてないけれど、そう表現する他にない。

 腕の痛みが少しだけ和らいだ。今も死にたくなる程に痛いが、それでも頑張ろうと思えるくらいには余裕ができた。

 心がふっと軽くなり、つい開放的になる。この際だ、言ってしまえ。

 

「マスター。オレ、昨日は眠れた」

 

 ほんの一瞬、ぴたりとマスターの動きが止まった。デコはまだ背中に当たっていて、顔を見ることはできない。けれど、どういう意味か、という点には、きっと思い当たっている。

 僅かに言葉を選ぶ間を置いて、マスターははにかんだ。

 

「それはよかった。じゃあ、これからもする?」

「っしょ、しょうがねえからな。不本意だけど、続けてやるよ。ほんと、すっげえ嫌だけどな!」

 

 口と頭がうまく統一できない。温もりを分けてもらっているのが急に恥ずかしくなって、押しつけていた額を外し、マスターから距離を取った。

 マスターは一層笑みを深くしてオレを見ている。こういう時のマスターはあまり好きじゃない。何でもお見通しって感じで見やがるから。

 

「っ……効果はあったから、礼だけ言っとく。あと、忘れんなよ! 絶対にこの傷を直して、もう一度戦場に出るんだからな!」

「分かってるよ、モードレッド。努力するさ」

「……気の抜けた返事だな。ホントに分かってるのか」

「まあまあ、スープを食べてから考えようよ。できることを少しずつ増やしていこう。何事も日進月歩だよ」

 

 こっちは真剣に話しているというのに、マスターはのらりくらりとオレの詰問をかわす。

 

「ああ、それともこう言った方がいいかな……いずれクラレントを握る崇高な英霊モードレッドが、まさかスプーンも持てない幼児なわけはないよね?」

「っほぉ? ほぉ~~~? じょぉーーとぉだよ! 舐めやがって、後でケツ蹴り飛ばしてやるからな!」

 

 乗りやすいオレもオレだ。結局何の進展もないまま、その日の朝は過ぎていく。

 

 

 マスターの事は嫌いじゃない。真面目で実力もあって、いい奴だ。

 だけど、最近のマスターは苦手だ。

 傷を負ったオレにも優しくて、聖杯戦争の時よりものほほんとしていて。こんな気質のオレすらも、のんびりと包み込んで。

 こんな生活も悪くないかなとか、冗談にも思わされてしまうから。

 

 

 

 結局、スプーンは持てなかった。癪だから二回ぐらい蹴っといた。

 

 




非エロの分は明日で終わりの予定です。


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6

 マスターは、足りない物を買い出しに行くとかで、朝食を食べ終えると、早々に車に乗って町まで行ってしまった。

 同行を提案したのだが、やんわりと断られた。「ゆっくりくつろいでて」なんて言ってたが、アイツはオレがサーヴァントだということを本気で忘れているんじゃないだろうか。

 オレに気を使っての言葉なのは確かだった。霊体になると、傷の痛みだけが顕在化する。触れる肉体があった方が、幾らか気が楽だ。それにあぜ道を走る車は激しく揺れて溜まったもんじゃない。

 

 

 だから、オレは反論せずに見送ることにした。

 いけ好かないのは事実だ。戦いなんて無縁の土地とは言え、さすがに無警戒が過ぎる。

 

「仮にも魔術師ともあろうものが、どんだけ腑抜けてんだ……人のこと言えねえけどよ」

 

 ソファに腰を下ろすと、皮が張って僅かに鳴いた。そんな何気ない音が残響を起こすほど、ここには音がない。木の葉が風にそよぐ音、ささやかな鳥の声。それだけだ。

 腕に力を入れず、痛みを気にすると、他の動きも少なくなる。

 動かない人形として、この空間に陳列されている気分になった。

 

「……暇だなー」

 

 口にすると、余計に自分の腹の内が意識させられる。

 一秒が何倍にも希釈されているような気がする。一方で、気がつかない内に年老い、枯れ朽ちてしまう予感も覚える。

 このままじゃダメだ。そう、漠然と逸る。

 何かしたくてしょうがない。ここにいると、静寂に飲み込まれ、自分が矮小な存在になってしまう。

 マスターに気を利かせて、あるいは気を紛らわせようとして、部屋の掃除でもするかとソファを立ち上がる。

 

 

 手にかけるようにして雑巾を流しに放り込み、肘を使って水を出す。

 水をよく吸った布を絞る……ことはできないので、そのまま足の指の間で挟み「せいッ」バク転。

 鮮やかな円を室内に描き、膂力に遠心力を上乗せし、懇親の力で床に「どおりゃ!」びたーん!

 

 

 窓の外で、鳥が数羽逃げ去る気配がした。流れるような一連の行程を経て、目の前にあるのはくたびれた雑巾と、行き場を失って床を蹂躙する大量の水。

 しばらく雑巾を踏み潰し、ぐりぐりと動かしてみるも、木材への冒涜の範囲が広まっただけだ……うん、ダメだなこりゃ。

 

「やっぱ、ガラにも無いことをするもんじゃねえな!」

 

 そう一笑して、今の一件を無かったことにする。掃除一つもまともにできない、という解釈は意地でもしてやらない。

 やはり、体を動かすに限る。何もないところとはいえ、始めて来た場所だ。歩いていれば、何かしら面白いものに出会えるだろう。

 

「ここ、空けちまうけど……ま、いいよな。マスターとオレしかいねえんだし……ん」

 

 何だか、むずむずっときたような。マスターの前じゃ控えた方がいい気がするな、この言葉。

 

 

 

 一歩外に出ると、空気の存在感が増した。濃密な森の気配に、広大さを内包した触感。

 流れる穏やかな空気だけを見れば、なるほど確かにいい場所だ。

 

「……人間にとっちゃ、な」

 

 最後の唾棄は、やはり忘れられない。

 魔力はさして感じられず、当たり前だが戦いの気配も微塵もない。

 ただ、無味無臭で退屈で、退屈な退屈な場所だ。

 

「つまんねーな、ホント」

 

 この土地も、ここで暮らしたいとほざくマスターも。

 ……ホイホイついてきて、ここにいるオレも。

 

 

 ダメだ、一人でいると悪い思考が止まらない。何か気を紛らわすものを探して、オレは足を動かす。

 取りあえず、家の隣にある湖に足を運んでみる。鏡のような水面に、対岸の景色が映り込んでいる。泥のせいか底は判別しないが、水は透き通り、心地よい土の香りがする。

 泳いだらさぞかし気持ちがいいだろう。腕さえ動けば、だが。

 そう考えると、同意するようなタイミングで傷が疼きやがる。

 

 腕の痛みはいつだって無遠慮だ。手首から先に意識はなく、肘から重りをぶら下げたまま歩いている感覚だ。移動にあわせてブラブラと揺れて、そのまどろっこしさが、オレから余裕を削る。

 湖のひんやりとした空気に当てられてか、ついオレの口が言葉を紡ぐ。

 

「はぁ、マスターからもうちょい魔力を貰っとくんだった……って、そういうんじゃねーし!」

 

 挙動不審な怒号が割り込む。また鳥が羽ばたいて逃げていった。

 無言を決め込んでいた森のオブジェクト共が、急にこっちを見ている気がしてきた。無性に恥ずかしくて、動かせる二の腕で口元を覆う。火傷するほどに顔が熱い。

 

「あ~~もう、今のナシだ、ナシ。ちっげえよ、そういうんじゃなくて……鎮痛剤って意味で。したいとかじゃねえんだ、マジで」

 

 一体何に言い訳しているのか。自分で言っておいて、何でこうも墓穴を掘ってしまうのか。

 ここに来てから、調子が狂うことばかりだ。分からないことばかりだ。

 マスターは何でああものらりくらりとしていられる。何でオレはこんな何もないところにいる。何で、あんな一瞬の、ただの口が触れただけの出来事が、脳裏に染み付いて離れない。

 あの時以来、調子がおかしい。傷を負い、絶望のどん底を味わったあの時。

 マスターに好きだと言われてから、胸の中にヘンなのが巣くっている。

 かつて生きた時には感じることのなかった物に、ヤキモキさせられる。

 自分が分からなくなる。心も、体も、自分じゃなくなって。

 

 

 

 今ここにいるオレは、一体何者なんだ?

 

 

 

 湖を覗き込むと、オレの顔が見下ろしてくる。眉間に皺を寄せ、やたら突っかかる、不機嫌なガキの顔。じっと見ていると、木の葉がひらりと落ちてきて、波紋でボヤケさせた。

 

「……アホらしい」

 

 顔を上げる。きっと、さっき見た顔より更に険悪な表情にして。

 みみっちい。自分でも分かっている。だけど、剣もなくなり、心も弛緩し、己の中に自分らしいところを探せない。情けない話、今朝の夢も、まだ引きずっているだろう。

 証明したいのだ。オレはまだオレであると。何か一つでも、実感できる証拠が欲しい。

 

「そんな事、考える時点でどうかしてるけどな……あ?」

 

 ふと、気配を感じた。近くに生き物がいる。殺気もなく、こちらを気にしてもいないが、この静かな空気の中では激しくさえある存在の主張。

 視線を動かし……見つけた。対岸に、茶色い毛並の馬がいる。

 水を飲みに来たのだろう。森の中からトコトコと歩いてくると、首を下ろし、湖に口を浸している。

 

「へえ……面白えじゃん」

 

 これを逃す手はない。オレは気配を殺し、足早に対岸へと移動する。途中に木に絡み付いていた蔦を拝借し、腕に巻き付ける。

 五メートルくらいまで接近すると、馬も首を上げ、こちらに目を向けた。ブルルと鼻を鳴らしたが、逃げ出す様子はない。

 

「なんだ、人懐っこい奴だな。それともオレの騎乗スキルの賜物か? へへっ」

 

 試しに手をかざすと、首をもたげ、顔をすり寄せてきた。押しつけられて傷が痛んだが、それよりも好奇心が優先される。横に回って腹に手を添えると、長い尾がぱたぱたと揺れた。

 

「お前、結構ガタイいいな。群からはぐれたか? それともどっかから逃げ出してきたか?」

 

 俺の質問にも、馬はぶるりと鼻を鳴らすばかり。何にせよ、手綱も付けずにこんな所にいるのは、この馬が誰にも所有されていない事を示している。

 打ってつけだ。なんせオレは、こと略奪と蹂躙に関しては覚えがある。

 

「よーしよし、いいか? そのまま、じっとしてろ……よッ!」

 

 勢い一声。腕に巻き付けていた蔦を撓ませ、馬の首に巻き付けた。驚いて暴れるよりも早く横っ腹に回り込むと、勢いづけて跨がる。

 最後に巻き付けた蔦の先端をもう片方の手に巻き付ければ、馬の体は俺の占有物となった。

 馬が興奮し、前足を高く持ち上げる。邪魔者を引きずり下ろす為の行為も、オレが手綱を握れば王の威光を示すアピールに変わる。

 サーヴァントとしての騎乗スキルも手伝い、ものの数秒で馬はオレへの服従を示した。

 

「っく……よ、し」

 

 手に巻き付けた蔦が傷を圧迫する。ひび割れそうな衝撃に顔が歪むが、それよりも興奮が頬を吊り上げる。忘れていた高揚感に、胸が躍った。

 ポスポスと銅を数度蹴ると、まるでオレの気質を反映するように、馬が勇んで体を揺らす。

 オレの本質に、灯がともる。

 

 

「――行けっ!」

 

 一声、強く銅を蹴る。

 馬は甲高く嘶き、疾走を始めた。

 ぐんという揚力。世界の全てを速度が支配する。

 木々が視界の端を流れていく。蹄が大地を踏み潰し、衝撃が鼓膜を揺らす。湖の脇を抜け、丘を駆け、大地を奔走する。

 

「ははっ。ははははっ!」

 

 これだ、これだ! こういうのだよ!

 記憶がフラッシュバックする。かつてブリテンの大地を駆け抜けたあの頃が、今のオレと重なる。

 こうして、オレは生きたんだ。

 馬を駆り、大地を越えて、数多の軍勢を下してきた。騎士として、並び立つもののいない円卓の一員として。

 この感覚が、オレに思い出させてくれる。オレがオレであることを教えてくれる!

 

「ははは! いいぞ、そのままどこまでも行っちまえ――づぅ!?」

 

 突然のガゴッという重い音。手首が衝撃に軋む。

 石か何かを踏みつけ、衝撃に馬が驚いた。上下の感覚もなしに、矢鱈目鱈に暴れ周る。

 

「くっ――落ち着けよ! この――づぁ!」

 

 馬を諫めようと手綱を握るも、途端に痛みが神経を刻んだ。

 取り直そうとするも、馬はより一層暴れ、オレを振り落とそうとする。首が激しくもがき、巻き付けていた蔦が引っ張られてオレの手首を強烈に締め付けた。

 

「ぎゃ、あ――!?」

 

 余りの苦痛に、一瞬だけ意識が飛ぶ。

 次に目を開けたとき、オレは宙を待っていた。

 重力を失い、腹の内が持ち上がる。ぐらり――視界と一緒に、意識も止まる。

 夢の中の、王の嘲笑が脳裏をよぎる。

 全てから見放されたような喪失感。

 すぐ後に来たのは、背中の衝撃。

 木の一つに背中からぶち当たり、体がぐにゃんと縦に曲がった。めぎっという音に、呼吸が止まる。

 

「ごっふ……ぉ」

 

 肺の中の空気を全て絞り出されて、オレは木から引き剥がされ、地面に落下する。

 受け身なんて取る余裕は無かった。落下した先には張り出した木の根があり……。

 オレの手首は、その上に落ちた。

 

 

「があああああああああああああああっ!!」

 

 ぐしゃりと肉がつぶれる音。それ以上は何も聞こえず、オレの意識は叫びに塗り潰された。

 痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い!

 むき出しの神経にヤスリがけされるような苦痛。溶けた鉄を血管に流し込まれたような苦悶。死んだ方がまだマシと思える地獄。

 オレは容易く我を失い、痛みに囚われた体が暴走した。

 視界が真っ赤に染まる。意識の糸が張りつめ、

 

ぷつんと切れた。

 

 

 ―――――――。

 

 



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7

 どれだけの間叫び、その間どうなっていたのか。闇雲に走り回った気がするし、辺りを転がり回った気がする。

 意識が戻ってきた時、オレは腐葉土にまみれ、森の中に倒れていた。辺りの木々は根本から蹴り倒され、周りの地面には吐瀉物が転々と付着している。

 体が燃えるように熱い。血潮が痛みそのものになって、ぎゅるぎゅると全身を巡る。ぎゅるぎゅる。その循環に、脳が軋む。

 

「ハァッ、ハァ……っづう、づぁぁぁぁぁぁ!」

 

 叫ばずにはいられなかった。この苦痛からどうにかして抜け出したい。

 オレは訳も分からず、近くにあった木に、自分の額を叩きつけた。

 視界に火花が散る。重い音が内側に響く。脳がぐらりと揺れる。それでもオレは首を振り続ける。堅い木の幹の皮が剥げ、血が付着するほどに。

 

 

 抜け出したい。どうすればこの苦痛から抜け出せる?

 夢なら早く醒めてくれ。頭を割れば目が覚める? 脳をかき混ぜれば目が覚める? ならば幾らでも割ってやる。

 だから早く。早く醒めろ。醒めてくれ。

 

 

 ……もう、嫌なんだ。

 

 

 十数度目の頭突きで、オレの体の方が音を上げた。足がもつれ、土の上に倒れ伏す。視界がぼやけ、意識が朦朧とする。それでも、ぎゅるぎゅると巡る痛みは止まない。

 

「痛え、痛えよ、ちくしょう……」

 

 オレは立てなかった。立とうと思えなかった。心がもう挫けてしまった。

 

「何っ、で……何でオレが、こんな目に合わなきゃいけねえんだ」

 

 泥にまみれた自分があまりに情けなくて、このまま消えてしまいたい。何もできず、痛みだけがオレを責め立てる。

 騎士の誇りも、オレという存在も、全てに泥を塗りたくられる。

 世界から見捨てられた感覚。独りぼっち、あらゆるものから蔑まれる侮辱。

 情けなくて、悔しくて、痛くて、痛くて。

 ぶち殺してやりたい。何もかんも葬り去りたい。それができないなら……いっそ何でもいい。この責め苦から解放してくれ。

 

「ひっく……ぐす、う……」

 

 すすり泣きだけが森の中に木霊する。

 何もかも投げ出したい。そう思えば、いよいよオレの体は意識から外れ、痛みを享受するだけの肉塊に変わった。意識が遠くなり、これが絶望だと知る。

 このまま森の中で土と苔にまみれれば、そのまま溶けてなくなってしまうだろう。オレがここにいた痕跡はなくなり、歴史からも、オレを知るものは誰もいなくなる。

 最早それでいいと思えた。早く楽になりたい。こんなクソッタレな世界、とっとと終わらせたい。

 終われ。終われ。このまま何も起こるな。ただそれだけを願って、俺は孤独に静まりかえる。

 

 

 

 全てを擲った俺の願いは、けれども唐突に遮られた。

 

「――モードレッド!」

 

 霞がかった意識に、聞き慣れた声が割り込んだ。地面の味が遠くなり、俺は仰向けに転がされる。

 

「酷い傷だな……でも良かった、命に別状はなかったみたいだね」

 

 声に応じるように、オレは億劫に目を開ける。

 重い瞼を持ち上げれば、ノロマなマスターの気の抜けた顔が目の前にあった。

 

「マスター……」

 

 一度全てを放棄したせいなのか、オレの口は固められたように動かなかった。数日ぶりに声を発したように、声がかすれる。

 

「なんで、ここが?」

「僕は君のマスターだよ? 慌ててとって返してきたんだ。正確な場所までは分からなかったけど……車を走らせていても分かるくらいに激しく暴れてたからね。一目瞭然だったよ」

 

 マスターは目線を逸らし、皮の剥げ血の滲んだ木の幹を見た。表情を曇らせ、オレに向き直る。

 その憐れみの目が。優しさに満ちた目が耐えられず、俺は力のない腕で顔を覆った。

 

「自分で傷つけたのか……かわいそうに」

「うるせえ……」

「見せてみろ。血は出てるかい? 跡が残るといけないから、早く帰って――」

「うるせえ!」

 

 衝動のままに、顔を覆っていた腕を力一杯振るった。マスターの頬に手のひらの骨が当たり、腕が砕け散ったような衝撃がオレを襲う。

 マスターはよろめいてオレを落とした。

 

「っがぁぁぁぁ! アァ! クソォ! クソがぁ!」

 

 泣きたくてしょうがなかった感情が、怒号になって吐き出される。自分でも訳がわかないままに、何もかもに激高した。

 柔らかな土の上に落ちたオレは、痛みに声すら出せず、芋虫のように体を捩らせ、何かから隠れるように身をちぢこませる。

 

「消えろよ」

「モードレッド」

「失せろ! どこへでも行っちまえ! もう放っておけよ!」

 

 頭がかぁっと熱くなり、沸騰したように意識がぐらつく。うずくまったまま声を吐き出し、土の苦い味が口中に飛び込んでくる。

 

「もういいだろ! 終わったんだろ? オレはもうおしまいなんだろ!? じゃあさっさと終わらせろよ! 構うなよ捨てちまえよ!」

 

 自分が何を考えているのか分からない。ただ悲しくて、虚しくて、自分が情けなくてしょうがなくて。

 自分の置かれた状況が許せず、目を逸らすことは許されず……解決するにはもう、諦めるしかないのだ。

 

「剣も握れず! 戦う相手もいなくて! 何もなくて、何もできなくて! 何だよこれ! なんなんだよ! どうすりゃいいんだよ! オレは何なんだよ! オレは、オレはぁぁ!」

 

 絶え間なく叫ぶことで、喉がビリビリと震える。それでも叫ばずにはいられなかった。ひとたび叫ぶことを止めてしまえば、どうしようもない現実に押しつぶされてしまうから。

 マスターが近づいてきていることには気づいていた。慎重に、けれど迷いのない足取りで、オレとの距離を詰めてくる。

 全てが嫌だった。全部全部、壊れてなくなれと思った。

 声をかけたら喉を潰そうと思った。

手をかければ根本からもぎ取ってやろうと思った。

そして殺そうとするならば……何もしないでいようと思った。

 けれど、そのいずれでも無かったから、オレは何も抵抗できなかった。

 マスターは、わざわざ回り込んで、うずくまったオレの正面に立った。土の付着した靴が視界に入り、オレは反射的に顔を上げる。

 その顎を、マスターの手がすくい上げた。マスターの顔が視界に飛び込んでくる。

 息がかかるほどの距離。その予想外の近さに驚いている内に、マスターは勝手にオレの口を塞いでいた。

 

「んむっ……!?」

 

 息が止まり、入れ替わりに温かい空気が口中に入り込んでくる。体がすくみ上がり、硬直する。

 いやに長いキスだった。互いの呼吸も、唇を動かす水音も無かった。意識を黒々と覆っていた靄が吸い取られた気がした。

 息苦しくなるほどの間を置いて、ようやくマスターの顔が離れていく。

 

「落ち着いた?」

「な、あ……ば、バカ、お前――ひゃっ!?」

 

 驚きとか怒りを表現する間もなく、マスターはオレの背中と太股に腕を差し込むと、軽々と持ち上げた。オレを見つめる顔が一気に近くなる。

 

「っ――」

「うん? 顔が赤いね。照れてる?」

「う、うるっせえ! ド変態のクソマスター!」

「はいはい、元気な証拠元気な証拠」

「子供扱いすんな! この――あ、う……」

 

 距離が近い。唇の感触はまだ生々しく残っていて、顔を見るとそれを思い出してしまう。喉まで出かかった反論が急速にしぼんで、かすれ声になって消えてしまう。

 結局、オレはそっぽを向いて、マスターの顔を視界から外した。ガキみたいだと自分でも分かっている。それでも、顔をまともに見てられない。

 

「英霊で、凄い力を持っていても、モードレッドは手負いの可愛い女の子なんだから。無茶したら傷に響くよ」

「……叛逆の騎士に無茶するなとか、バカじゃねえの?」

「その格好で言っても説得力ないなぁ。知ってる? この体制、お姫様だっこって言うんだよ」

「知ってるよそんぐらい! だから恥ずかしいんだろうが! 降ろせバカ、バカマスター! あと女の子っつーな、殺すぞ!」

 

 足をバタつかせてみるも、マスターの涼しい顔は動じない。本当にコイツのガキになったみたいで、胸がムカムカする。

 それに……ムカムカとは別に、胸の方になにか、熱いのがこみ上げてくる。

 背中と太股に感じる腕は、温かかった。しばらくはお互い、一言も発さないまま。マスターがザクザクとめくれ上がった地面を踏む音が響く。

 対向から足音が近づいてくる。四つ足の蹄の音。オレが支配し、走り回った馬が、こちらに近寄って、ブルリと鼻を鳴らした。

 

「……テンションが高いと思っていたけれど、なるほど馬に乗っていたのか。それなら頷ける。こんなになっていても待っているなんて、いい子だね」

 

 マスターが側まで寄っても、馬は動じなかった。さんざん暴れ回ったオレに対しても、特に何も思ってないらしい。懐がデカいのか間抜けなのか……そう思っていると、オレの体がひょいと持ち上げられた。

 

「よっと」

 

 かけ声一つ、オレは再び馬の上に乗せられた。

 

「マスター?」

「いい馬だ。このまま捨てるのは勿体ないだろう?」

「そりゃそうかもしれねえけど。オレ、こんな手だし……」

「僕がやるから大丈夫だよ。君は乗っていればいい」

 

 マスターがオレの後ろに乗り、オレの脇を通して手を伸ばし、馬の首に巻かれたままだった蔦を握る。後ろから抱きつかれるような体制に、むずがゆさが募る。

 

「もたれ掛かってもいいよ。君が安心するなら」 

「ハッ、モヤシ男に乗りこなせんのかよ?」

「僕は別に叛逆に興味ないからね。後は、君の騎乗スキルを少しだけ借りて――っと」

 

 マスターが腹をひと蹴り、オレと同じように、馬は森を駆けだした。



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8

 うんざりするほど遅い速度だった。歩いた方が速いほどのノンビリした調子で、馬はパッカラパッカラ歩く。

 マスターの胸が、数十センチの距離を開けて、オレの背中の近くにある。

 

「……本音を言うとね。ここに逃げ出した理由の五割くらいは私情だ」

「ハハッ。やっぱりかよ、このド変態」

「そうだよ。まともな神経の魔術師なら、サーヴァントが壊れたくらいで聖杯を諦めたりするもんか。僕は君とできる限り長く一緒にいたいが為に、ここに来た。聖杯よりも、君を選んでね」

「そうかよ。物好きなマスターもいたもんだぜ」

 

 つっけんどんな対応を取って、精一杯はぐらかす。

 胸がムズムズして、どうにかなってしまいそうだ。適当に癇癪を起こして逃げ出してしまいたい。だけど、両脇にマスターの腕があって、オレを逃がしてくれない。

 

「……例え、戦う事が君の本質だとしても。その喪失に苦しむくらいなら、忘れてくれたほうがいい」

 

 言い聞かせるような圧力のある声が、頭の上から振ってくる。

 暫くは静寂が続いた。マスターは俺の返事をじっと待つ。

 

「……マスターとサーヴァントだもんな。そりゃ、分かるよな」

「君の苦悩全部を推し量るなんてできないよ。けれど、辛いって事は分かる。怖いって事も」

 

 背中をマスターに包まれ逃げ場のない状況で、マスターの柔らかな声が

耳朶を打つ。強ばった心が弛緩する。それにつられて、俺の口も自然に動いていた。

 

「……お前のことだ。今朝の夢も、どうせ見てるんだろ?」

「うん。酷かったね、アレは」

「やっぱりか、クソッタレ……あれは悪夢だが、限りなく現実だ。今はまだ可能性の段階だが、このままだと、オレは”ああなる”」

「……」

「傷は時間すら越えて”最初からあったもの”に変わりつつある。オレの霊基は不安定だ。というより、壊れかけだ。今ここにいるっていう事実だけで存在を確立している状態だ」

 

 両腕はオレの脇で、所在なくブラブラと揺れている。痛みは僅かに和らいでいたが、心にのしかかる重圧は、今も耐え難く重い。

 

「自分が分からなくなる。こんな場所にいれば尚更だ。少しだけでも、自分が自分である証拠が欲しい。けれど、オレは暴れて、逆らって、憎み続けた人間だ。今のオレに許されてる『オレらしさ』は、何も残ってない」

 

 馬が歩く度に視界が揺れ、周りの木々が懊悩に通り過ぎていく。

 訳もなく視界が滲んだ。滲みはオレの声まで届き、心をしおらせる。

 

「なあ、マスター。オレの事がその……っす、好き、なんだろっ? なら聞かせろよ。オレって、何者なんだ? 剣も握れねえ。戦いも叛逆もできねえ。父上に見向きもされず、路傍に打ち捨てられる片輪者だ。そんなオレでも、オレなのか?」

 

 涙が馬の鬣に落ちて消えた。役立たずのオレの腕は垂れ下がったままで、涙を拭うこともしない。顔を見られたくない。だけど、このまま抱えることもできない。

 だから、こぼれる。涙と一緒に、弱音が溢れる。

 オレは黙って、マスターの言葉を待った。オレを壊す事も、認める事も、オレ自身には無理な話だった。オレはオレの全てを、背中を向けるマスターに委ねた。

 

 

 

 返ってきたのは、頭に乗った優しい感触だった。

 

「……君は君だよ。ありきたりすぎるけど」

 

 ぐりぐり。子供にそうするように、強めに髪の毛をかき回される。

 

「叛逆も闘いも、君の個性(キャラクター)だ。人格(パーソナリティ)を侵害するものじゃない。君らしさの喪失で、君が君であることを失うなんて、それこそ順番が逆。筋が通らない話だよ」

「……」

「現実は現実だ。何が起ころうが時は流れるし、突然夢から醒める事もない。ここが地獄なら地獄だよ。だけど生きているのは必ずモードレッドだ。ここが地獄なら、君は地獄に落ちたモードレッドだ。否定なんてできやしない。『らしくない』っていうのは、現実から目を背ける言い訳だ」

 

 頭頂部に置かれていた手が、横に回る。男のゴツゴツした指先が、そっとオレの頬に触れた。むずがゆさに背筋がぞくりとする。けれど決して嫌な感覚ではない。

 

「んっ……」

「理詰めは嫌い?」

「……ああ、嫌いだな。薄ら寒い御託はうんざりだ」

「じゃあ、もう少し優しい言葉で言おうか」

 

 頬に添えていた手が、馬の手綱に戻る。頬の温もりを追いかけるように、俺の首がこくりと傾く。

 全く。何もかもお見通しみたいな口を効きやがる。

 そうだよ、寂しいんだよバカ。早く慰めやがれ。

 

 

「モードレッド。君の事が性的に大好きだ」

「ぼふっ!?」

「もうひと目見たときからゾッコンだったからね。超かわいいし、ツンツンした態度もいじらしいし、何だかんだで打たれ弱いし。ぶっちゃけ召還した時からランデブーを計画してたからね。途中から何が目的か本気で見失っていたし、いやあ我ながらこれは聖杯戦争も勝てる訳ないって半ば悟ってたなー」

「ちょ、おい、ざけんな!? それはさすがにふざけんなよ!?」

 

 予想を裏切るマスターのダメ人間ぶりに、オレは久しく痛みを忘れて驚愕してしまう。落馬しなかったのが奇跡とすら思えた。

 

「まあ半分くらいは冗談なんだけど」

「半分が何かによっちゃ叩っ斬るぞお前」

「ははっ。まあまあ、僕はそんなだからさ。戦いとか、騎士とか、心底どうだっていいんだ」

 

 バッサリと、そう切り捨てられた。

 

「……良かったな、今俺がクラレントを持ってなくて」

「そう。君はクラレントを持ってない。だから今の君は戦士ですらないだろう? そして、そんな君も大好きだ。それでいいじゃないか」

「……そうか?」

「そうだよ」

「そうか……」

 

 平常時なら、きっとコイツの首は、もう繋がってはいないだろう。

 そのぐらいには、腸が煮える。だけど、煮える以上に、器がくうっと広げられたような気がした。

 

「どうでもいい、か……ははっ、ムカつくヤローだ」

 

 俺自身の、心の内が透けた。

 ちくしょう。そういうことかよ。

 誰かに……マスターに言ってほしかったのか。もういいと。気にしないと。

 自分が嫌になる。結局、ガキのわがままって事か。

 けれど……どうでもいい、か。ははっ、どうでもいいんだな。コイツめ。

 馬が緩やかな上り坂に足を降ろす。体がほんの少し傾いて、マスターの胸板が近づく。

 触れるか触れないかのギリギリの距離。胸が詰まる。目が熱い。内側からこぼれてくる液体の熱で、火傷してしまいそうだ。

 

「そうかよ……ああ、そうかよ」

 

 こんなオレでもいいって、言うのかよ。

 癪だから、嗚咽は漏らさない。声も滲ませない。面皮は崩さず正面を見据える。

 頬を伝う涙の温もりが、ただ心地いい。

 一面に茂っていた木々は眼前で区切れ、森はそこで終わっていた。馬はどことも知れない頂に向かって、のんびりと進み続ける。

 

「失った物は口惜しい。知らない事は怖い。でも動かない事は腐り果てる事だ。人というのは、常に自分の世界を新たにしていくんだよ。英霊だって、今ここにいる以上変わらない」

「それは、お前の格言か?」

「当たり前の事だよ。君が特別だから目新しく感じるだけでね」

 

 視界が開ける。小高い丘を登っていた。あくびが出るくらいのんびりと。このまま永遠に続くんじゃないかと思うくらいゆっくりと。

 

「……諦めろ、とは言わない。叛逆こそが君の本質ならばこそ、地獄に呑まれる事を由としない。僕も君のために尽力する。いずれ、君の両腕に、煌銀のクラレントを取り戻して見せよう」

 

 ふふっ、というマスターの微笑が耳をくすぐった。惚れてしまうような口上を笑い飛ばし、空気を緩ませる。

 

「だから、怖がる事はないし、こだわらなくていいと思うんだ。騎士であることは一旦休憩してさ、今ここにいる君を、目一杯楽しんだ方が、何かとお得なんじゃない?」

「……得、ときたか」

「楽しまなきゃ損だよ。こういう言い訳の方が、君にはしっくりくるんじゃないかな」

 

 マスターはそう言って、どこまでものんびりと笑った。

 のらりくらりと馬は進む。足取りは遅く、しかしそろそろ丘の頂点に差し掛かる。鬣ばかりを見ていたオレは、そこでようやく顔を上げた。

 

「…………、…………」

 

 夕暮れに染まる景色があった。厳かに立ち並ぶ木々は、奥へ行くごとに互いの境界を失い、緑の絨毯を形作る。更に遠くで森はぱったりと途切れ、淡い緑の草原が広がる。その向こうでは、名前も知らない山の峰が緩やかな曲線で空と陸を区切っている。

 その何もかもが、夕焼けの橙色に塗られ燃える。森に幾つか空いた穴は湖か。オレンジの光を反射して、鏡のように煌めいている。

 どこにでもある、ひどくありきたりな景色だった。それこそ、オレがかつて生きた時代に、飽きるほど見た景色。

 けれど……夕日とは、こんなにも温かみのあるものだったろうか。

 丘の頂点に足をつけると、馬は一息入れるように進行を止めた。風がさぁっと吹き抜ける、僅かな空気の停滞。

 

「マスター」

 

 強情だった背中の力が抜け、オレはマスターの胸に身を寄せた。最初からそのためにあったように、オレの体はすっぽりと収まった。

 体の力が抜ける。目の前には代わり映えのしない橙の景色が広がる。視覚から入った色が心を洗い流すようだった。

 馬が再び歩き出し、視界が懊悩にブラブラと揺れる。マスターは返事をせず、ただオレの背もたれとして、オレの声を聞いていた。

 

「オレにとって、馬は侵攻の為の脚だった。森は切り開くべき障害で、山は踏破すべき厄介者で、丘は敵を屠る戦場だった」

 

 景色が流れていく。なんの意味もなく、ただそこにいるだけの物が、のんびりと流れ去っていく。

 

「……ずっと、そうやって駆け抜けてきたんだ」

 

 ぶら下がったままの両腕に力を込める。焼けるような痛みを黙殺し、マスターの腕に静かに置いた。

 マスターに触れた箇所が、ほんのりと温かい。不安定な馬の歩みはまるで揺りかごのようで、オレの心を解きほぐす。

 背もたれも、肘掛けも、心を許せる。

 じくじくと痛む腕も、まあいいやと思わされる。

 中々、悪くない特等席だ。

 

「……たまには、いいかもな。こういうしょーもない時間も」

 

 頭の上で、マスターが首を緩く振った気がしたが、よくは覚えていない。瞼は勝手に落ちてきて、意識はすぐに微睡みに溶けてなくなった。

 

 

 

 悪い夢を見なかった。

 だから、この時のオレは、きっと幸せだったんだろう。

 

 







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9 ~その日の夜~

以降はおまけ(本編)のえっちしーんです。

お好きな人だけどうぞ。


 家に帰り着くまで、モードレッドは僕の背中に寄りかかったまま、静かに寝息を立てていた。

 二人の間に交わされる言葉はなく、けれども居心地の悪さはない。僕らは森に漂う穏やかな空気に溶けるように家路を進み、日が暮れきる前にたどり着くことができた。

 

「モードレッド」

「ん……おお、着いたのか」

「しっかり乗ってね。先に馬を繋げてしまおう」

「了解……いってて」

 

 頷き、モードレッドは僕に乗っかっていた両手を、辛そうに持ち上げる。

 家の玄関の隣で馬を下り、ロープを馬の首に回して、玄関の梁の一つに繋げる。バケツに水を満たして置いてやると、馬は口を浸しておいしそうに飲み始めた。

 

「ちゃんと部屋も用意してあげないとな。後でリンゴでも持ってきてあげよう」

 

 馬の腹をポンポンと軽く叩くと、尻尾がフリフリと揺れた。

 モードレッドは馬に跨がったまま、僕を見つめていた。表情は硬く、どことなく沈んで見える。

 

「放っておいてごめんね」

「いいよ。咎めたりしねえから」

 

 僕はモードレッドの腰に手を回すと、彼女を馬から降ろして抱きかかえた。モードレッドは驚くほど素直に僕の腕に収まり、どこか明後日を眺めている。

 

「大変な一日だったね」

「……悪い」

「皮肉じゃないよ。本当、大変だったね。君にとっても」

 

 モードレッドは相変わらず、らしくない口数の少なさだ。けれど表情には活力があり、体温も高い。体は泥まみれで怪我もしているが、見た感じ調子はもう良さそうだ。

 黙っているのは、きっと恥ずかしさからだろう。

 現にモードレッドは、僕に抱えられながら、こちらの様子をチラチラと伺っている。何かを言おうとして、決心が付かない様子だ。見た目以上には元気そうで、安心する。

 僕はモードレッドを抱えたまま、家に入ろうとする。彼女もそれに対して抵抗を見せない。固くつながった信頼が見えるようで、どことなく誇らしい。

 

 

 

「あ、そうだ。シャワー浴びようか」

「……はぁ!?」

「モードレッド、凄く汚れているし、体も冷えているだろう? 温かいお湯を浴びれば、心も体もすっきりするよ」

「ちょっと待てマスター! それって要は……」

「勿論、僕も一緒だよ? 服を脱いで、体も洗わなきゃいけないしね。うん、そうだそうしよう」

「待て! 何一人で納得してんだアホ! オイ!?」

 

 モードレッドは僕の腕の中でもがくも、抵抗は子犬みたいなものだ。

 もぞもぞと動くモードレッドを抱えたまま、僕は家に入り、シャワー室へ直行する。

 

「暴れないってことは、意外とまんざらでもないんでしょ?」

「ううううるっせえよ! ドッ変態が!」

 

 

 

 結局、あれよあれよとモードレッドの服は脱がされ、あっという間に裸になって、シャワー室に立っていた。

 モードレッドの顔は既にカンカンに茹であがっていて真っ赤だ。瞳はうろうろと所在なさげに動いて、怒りの顔も羞恥で歪みきっている。

 

「はっはっは、窮鼠、窮鼠」

「バカ! バカマスター! おま、お前何考えてんだ!? さっきの帰り際、滅茶苦茶真面目に言っていたじゃないか! オレ、結構真剣に響いたんだけど!?」

「そうだね。けど今は、君の体の事しか考えていない」

「ホントに同一人物かてめえ!? っつーか、前! ちゃんとタオルで隠せバカ!」

 

 力の入らない腕を必死に動かして、恥部を必死に隠している。動揺して揺れ動く瞳は僕の目を睨みつけ、変な動きがないか必死に警戒している。

 このままじゃ埒があかない。僕はモードレッドの目の前に、令呪が一画残った左手を突きつける。

 

「モードレッド。君は汚れているし、体を洗わなければいけない。そして僕は君の体を洗いたい。いいかい、これは絶対必須の要件だ。必要ならば最後の令呪を行使することも厭わない」

「オレ、たまにお前が分からなくなるよ」

「それに、君の腕が治らない限り、シャワーを浴びるときはいつもこれだよ? 早いうちに慣れた方がいいと思うなあ」

「っ、ぅ……!」

 

 モードレッドは悔しげに歯噛みするも、やがて観念したように、怒らせていた肩を降ろした。

 

「はぁ。分かった。分かったよ。好きにしろ」

 

 くるりと振り向いて、壁際に佇む。胸と秘所を隠していた手を、だらりと両脇に垂らす。

 

「ただし! 前見たら蹴り殺すからな。いいな!」

「はいはい……あ、シャワー取るから失礼するよ?」

「ぎゃあ! 言った二秒後に前にくんな!」

「見ないから見ないから」

「うぅ、くそぉ……!」

 

 モードレッドは羞恥心で俯き、プルプルと震えている。雪のように白い背中には肩胛骨が浮いている。

 

「はい、失礼するよ」

「ひゃ……ふぅ」

 

 適温になったシャワーを背中に当てると、モードレッドは一瞬体を震わせ、心地よさげに吐息を漏らした。

 シャワーを動かして、肩から全身を温めるようにお湯を流す。冷えていたモードレッドの体はすぐに桜色に色づき、張りつめていた肩が降りる。

 シャワーをかけ流されながら、モードレッドは独り言のように呟いた。

 

「英霊なんだから、本当は風呂とか必要ねえんだけどな」

「霊体化は痛むから嫌なんだろ? 君の嫌がる事はしないよ」

「風呂には無理矢理入ってくるくせに、今更何言ってやがる」

「それなら訂正だ。僕は、君が本当に嫌がる事はしない」

「……ずりいぞ、そんな言い方」

 

 モードレッドはちょっとだけこちらを振り返ると、すぐに正面へと向き直る。

 温かな湯気が浴室を包む。シャワーの穏やかな音が鼓膜を揺らす。モードレッドの艶やかな背中が、僕の目と鼻の先にある。

 

「モードレッド、気持ちいい?」

「ああ……うん」

 

 体の前面を温められるように、シャワーを前に持って行く。上体を傾けると、モードレッドの横顔が近づく。

 温かな湯は、心も緩ませたか。表情の見えない彼女の、口元が動いた。

 

「世話になるな、マスター」

「そんなの今更だよ。君の為なら何でもしてあげる。あーんもするし、こうしてシャワーもかけてあげるし、必要ならトイレも手伝う」

「ん、うん。そうだな、トイレか……それもあったな」

「大体、僕はすっごく喜んでやっているよ? 大概は君が恥ずかしがっているだけじゃないか」

「……そういや、そうだな。お前はド変態だもんな」

 

 その納得の仕方は釈然としないけど……実際嬉々としてやっているもんな。困った、ぜんぜん否定できない。

 それはともかく。

 

「それこそ王様みたいに振る舞えばいいんだよ。玉座にふんぞり返っているくらいが、君らしくて好きだ。アーサー王だって、沐浴の時は従者に体を洗ってもらっていた筈さ。男か女かは知らないけど」

「うーん、あの父上がそんな事するかな……まあ、でも、オレが王なら、きっとそんなこともするな。へへっ」

 

 モードレッドは、ようやく、屈託のない笑い声を挙げた。憑き物が落ちたように、強ばっていた体が柔くなる。

 

「っし、それじゃあ我が臣下よ。オレの体に触れることを許可してやる。光栄に思えよ」

「え、いいの? 胸? お尻?」

「揉んでいいとは言ってねえよ! 洗えっつってんだバカ!」

「はいはい、分かってるって」

 

 ウブな反応を楽しみながら、僕はボディーソープを数回押す。十分に泡だったら、モードレットの肩胛骨に沿うように両手を滑らせた。

 珠のように艶やかな素肌は、手のひらに吸い付くような柔らかさをしていた。僕はしばらく無言で、彼女の背中を洗う。

 

「……意外と無難な所いったな」

「どこだと思ってた?」

「クソバカマスター」

 

 つっけんどんな言葉を返して、モードレッドは正面に視線を固定させる。

 へぇ、もっといやらしい所を触られると思っていたのか。そして、それを想像していて、何の警戒もしなかったのか。

 背中に置いた手があらん方向に滑りそうになって、僕はしっかりと気を持ち直す。危ない。のらりくらりを気取っているけど、僕の理性も試されている。

 

(こうして触ると、小柄だな。本当に、ふつうの女の子みたいだ)

 

 モードレッドの背中はとても綺麗で、滑らかな肌触りをしていた。剣を掲げ、幾つもの敵を屠ってきたとはとうてい思えない、華奢で小柄な背中。けれど少し力を込めると、その女の子の体の中に、ひたむきに鍛えられた力を堅さとして感じられる。

 仄かに火照る白磁の肌。この小さな体に、彼女の一度目の人生が詰まっている。

 

「……ありがとう、モードレッド」

「急に何だよ。礼を言うんなら、オレの方が――」

「僕を恨まないでいてくれた」

 

 遮るように言葉を紡ぎ、モードレッドの口を止める。

 

「君は僕を咎めなかった。無能と罵らなかった。君の耐え難いやるせなさは、僕に向けられる事はなかった。今もこうして、僕を側に置いてくれている」

 

 モードレッドが負った傷は、僕の罪でもある。

 僕がモードレッドを好いてしまったから。彼女と過ごす日々に浮かれてしまったから。

 聖杯戦争の目的さえ失念してしまうような僕の間抜けさが、この結果だ。

 あの場で、彼女自身によって殺されて然るべきだった。泣きながら罵倒されれば、僕は自分の首を絞めたことだろう。

 けれど、そうはならなかった。

 それは、

 

「礼はいらねえって……お前はオレのマスターだ。マスターがお前だった。だから、いいんだよ。お前なら許せる。こうなったことも、今こうしていることも」

 

 顔を見せてくれない不器用な彼女の、気高さ故に他ならない。

 たまらない感情が胸を満たした。浴室に広がる温かな湯気が、言葉にならない思いを蕩かせ、愛情に変えた。

 半端に背中を洗っていた両手を、モードレッドの肩に添える。

 

「腕、洗っても大丈夫?」

「ああ……痛くするなよ?」

 

 了承を得て、僕は両手を、モードレッドの肩から先へと滑らせる。

 力があり、けれども女の子の柔らかさのある二の腕を握り、肘へ。太い血管の脈を感じながら腕を通り……黒く潰れた傷跡に、そっと触れる。

 

「いぎ!」

「ッごめん、モードレッド!」

 

 指先が触れただけで、モードレッドは苦悶の声を上げた。慌てて手を離す。

 傷の深さを忘れた訳じゃない。だけどモードレッドが余りに普通にしていたから、軽んじてしまった。

 モードレッドは痛みに堪えるように俯いて震えている。

 

「っこの、バカマスター……痛くすんなって言ってんのに」

 

 モードレッドが顔を上げ、首を回して後ろを振り返る。

 その、僅かに涙が滲んだ目が、予想外に扇状的で、僕は謝罪の言葉を忘れ、息を飲んだ。

 薄紅色の唇から、はぁという吐息が漏れる。浴室の湿気のせいではない、塗れた息。

 

「触るなら……ちゃんと、やることがあるだろうが」

 

 期待と不安に揺れる目で、モードレッドは僕に言う。

 その目が求めている事は分かる。程度はあれ、僕に対しての思いも知っていた。

 でも、意外だ。それは、もっとずっと先の事だと思っていたから。

 現実味を失ったまま、僕の体は誘われるままに動く。

 ゆっくりと顔を近づける。モードレッドは接近する僕の顔から目を逸らさず、やがてそっと目を伏せる。

 

「ん……ちゅ」

 

 微かな声と一緒に、唇が重なる。

 長い、染み渡るような深いキスだった。モードレッドの呼気が微睡むような甘さで僕の口へ流れてくる。

 魔力の経路を唇に感じる。その繋がりを感じる為に、僕たちは数秒間、微動だにせずに呼気を交わらせた。

 

「ぷ、はぁ……んっ」

 

 矢継ぎ早に、今度はモードレッドの方から求める。互いにスイッチは灯り、止めるために必要なタガは湯気が溶かしていた。モードレッドは唇を動かし、互いの唇を濡らす。

 

「はむ、ぷ、ちゅ……ん、んぅっ」

 

 行き場を失った僕の手が、モードレッドのわき腹に当てられた。モードレッドは微かに呻くも、抵抗をすることはない。

 モードレッドの体にボディソープを塗り、彼女の柔肌を堪能する。わき腹から上に手を滑らせると、コツコツした肋骨の存在を感じられた。脇を通して腕に回り、二の腕。

 先ほどと同じように、先端に向かい腕を滑らせる。

 

「ん……ふぅ、ふぅー、ふぅー……」

 

 重ねた唇から、興奮と不安の息が漏れる。唇は一度も離れない。微かな息苦しささえ、快感に変わる。

 指先が、微かに盛り上がる傷口に触れた。口中に響く「ひゅっ」という微かな高い声。ようやく唇を離すと、密着していた柔肌がいやらしい水音を立てた。

 

「痛く、ない?」

「痛えよ。クソ痛え。でも、さっきよりマシだ。今は……もっと、触ってほしい」

 

 返事の代わりに、今度は僕からキスをする。

 指の腹を使い、傷跡を慎重に、そっと、優しくなぞる。

 

「ん、ふっ、ふぅ、う……!」

 

 甘い吐息の中に、痛みに耐えるような声が混ざる。うっとりと潤んでいた目が刺激に揺れる。指を滑らせる度に、電気が走ったように彼女の体が震える。

 

「んくっ……! 不思議だ。痛いけど、っう……妙に落ち着く気持ちもあって、あっ……嫌な感情を包んでくれる」

「気分はいい?」

「分かん、っね。キスのたびに、血が昇って、頭がぽーっとして……でも、きっと嬉しいんだろうな。この傷ごと、優しくしてもらえてさ」

「っモードレッド」

 

 僕の中に、耐え難い愛おしさが募った。はにかむモードレッドの唇に僕の口を吸い付ける。

 重ねた唇に、舌を割り込ませた。モードレッドは最初驚いたようだったが、すぐに受け入れ、自分からも舌を絡めてくれた。

 

「ちゅる、ちゅぷ、ぅ、るぅ……える、ちゅ、く」

 

 舌の動きには思い切りがあった。ぬるりとした感触は、僕の理性をかき乱すに十分すぎた。

 傷をなぞっていた指が先へと進み、モードレッドの指先と絡まる。力の入らない、人形のようにか弱いモードレッドの指に、僕の指を滑り込ませ、優しくきゅっと握り込む。彼女の指が痙攣し、か細く握り返して、僕の指を受け入れる。

 静かに両の指先を絡ませる。舌だけが獰猛な荒々しさで、互いの存在を確かめ合う。

 長い時間を経て、名残惜しさを覗かせながら舌が離れる。モードレッドの表情はすっかりと蕩けて、緩んだ口元から涎が一筋伝っている。

 

「はぁ……この、ばかマスター。童貞みてえにねちっこいキスしやがって」

 

 艶めいた声で、モードレッドは苦し紛れの強がりを漏らす。それすら、響きはガムシロップのように甘い。

 

「こんなになったオレを、夢中に求めやがって……どう断りゃいいんだよ。どうやって抵抗しろっていうんだよ。こんなの……ん、ちゅぅ」

 

 返事の代わりにキスをした。モードレッドも、最早それを待ちわびていた。

 

「れる……おら、バカ臣下。命令を忘れんな。ちゃんと、洗えよ」

 

 絡ませていたモードレッドの腕が動く。僕の両腕は、彼女の前面に誘われた。彼女の肉付きのいい太股に、ボディソープでぬるぬるになった両腕が乗せられる。

 

「ちゅう、ちゅ……そうだね。前も、しっかり洗わないと、ね」

 

 そんな言い訳と一緒に、僕はモードレッドの華奢な体を抱きしめた。

 ボディソープを塗りたくるようにして、彼女の胴を腹から上にかけて滑らせる。控えめな胸の膨らみの上には固くなった突起があって、僕の腕をくすぐった。

 右腕がそのまま、左の乳房に覆い被さる。滑る指を柔肌に食い込ませて、親指で敏感な乳頭をいじる。あえぎ声は全部重ねた唇で飲み込んだ。甘い嬌声が、僕の口内で蕩けるような振動に変わる。

 

「ふ、ふぅっ。ふ、う、うぅ、んーっ」

 

 控えめな膨らみをなぞり、先端を指で往復させて乳首を弾き、力一杯握り柔らかさを堪能する。その度に、キスで塞いだ唇越しに快感の声がこぼれる。

 その嬌声が、ますます僕のボルテージを跳ね上げる。泡まみれの華奢な体を更に強く抱きしめて、柔らかな唇を貪る。

 空いた左手は、当然のように彼女の陰部にあてがわれ、最も女性らしい部分を無遠慮に浸食していた。僅かに生えた金色の陰毛を泡まみれにし、ぷにぷにの陰唇に指を這わせる。

 モードレッドの呼気が浅く早い。目線はじっと、僕の指がなぞる陰部へ向けられている。なすがまま、これから起こる快感を想像し、興奮している。

 

「……内側の方、触ってもいい?」

「っいちいち聞くな! このっ……んぃ、んうぅ!?」

 

 陰部に這わせていた指を蠢かせ、クレバスを割って侵入する。モードレッドは途端に声を張り上げ、体がびくんと痙攣する。

 一度目の人生で侵される事のなかった場所。女扱いを嫌う彼女の、最も魅力的な部位。柔らかい感触の中には、禁忌を破る高揚も混ざっていた。

 彼女の両足は子鹿のように震え、すでに自分で立つことは叶わなくなっていた。僕に体を支えられ、為すすべもなく体をいじられている。

 

「モードレッド、やっぱりすごくかわいい」

「っこの……ひんっ、女扱いすんなって、言ってんのにぃ、あ、やっ」

 

 優しく、けれど容赦なく、モードレッドの理性をかき乱す。モードレッドの表情はすっかり崩れ、目尻は垂れ下がり、夢を見ているようにとろんとしている。

 

「ん、やっ……誰にも、触られたことないんだぞ。女扱いするやつは、全員ぶちのめしてきたんだ。んふ、ふぅぅ……なのに、あっ、なのにぃ」

 

 入り口の陰唇に指を引っかけ、二本の指で割れ目を押し広げ、内側に並ぶひだひだを一つ一つ撫でていく。ぷにぷにの柔肉が指に吸い着き、あるいは穴全体をすぼませて、くわえ込んでくる。

 

「あっ、あっ、ああっ……だめ、だめだこれ、あっ、はぁ、あ、力、抜ける。立って、らんね……はぁぁ」

 

 理性を失っていくモードレッドの表情は、僕の心をも強烈にかき乱した。心臓がこれ以上ないくらいに拍動し、血液が煮えたぎる。

 モードレッドとキスをしている。動物のように、欲望の赴くまま。胸を揉みしだき、ヴァキナへ指を這わせている。

 頭がどうにかなってしまいそうだ。我慢なんてできるものか。こんなの、ただ挿れてないだけでセックスと同じじゃないか。

 血流が頭と、股間に注がれていく。指は次第に気遣いを失っていく。乳首を抓りあげると、モードレッドの体が一際大きく跳ね上がった。

 

「んひっ!? く、ぅ……マスター、てめっ、強すぎ……くふ、ん!」

「そんな甘い声で言われても、説得力ないよ」

「初めてなんだぞ。もっと労って……ふひゃああっ」

 

 モードレッドの文句を封殺して、僕は股間に差し込んでいた指を深くくわえ込ませ、奥の方のヒダを擦った。

 甲高い声を上げて、モードレッドの体がくの字に折れる。胸を掴んだままの腕で、その体を引き起こす。

 モードレッドの目は虚ろな半開きで、口からはだらしなく涎が垂れている。僕は蜜壷から抜いた指を、彼女の眼前に見せびらかした。

 

「ほら、指先がねっとりして、糸引いてる。これ、ボディソープじゃないよね」

「あ、やぁ……」

「気持ちいいんだよね。嬉しいよモードレッド、大好きだ」

 

 有無を言わさず、僕はキスを再開させた。ふやけた唇に吸い着き、とろとろに溶けた口内を舌で堪能する。愛液で塗れた指は再び蜜壷に侵入し、今度は本当に容赦なく、指の届く範囲を犯す。

 

「んちゅ、ちゅぷぅ、んふっ、あ、あ、あ、ます、マスタっ。待、ストップ。一旦止まれ……んひゃ、あぁ」

「無理だよ。こんなの、止まれる訳ない」

「ダメだって。刺激がっ、すごくて。体があちこち弾けて……頭、追っ付かない、から……んひ、ぃ!?」

 

 舌を絡めて口内をまさぐり、ぐちゅぐちゅという水音を上げて股間を蹂躙する。

 手首まで使って、指の動きを早くしていく。愛液は止めどなく溢れ、太股を伝って泡を落としていく。ミルクに似た淫靡な匂いが充満する。ボディソープと愛液の混ざった泡で、ヴァキナはもうぐちゃぐちゃだ。

 乳頭のポッチはますます固く勃起していて、僕はそれをもみくちゃにする。キスを続ける唇が、溢れる涎でしっとりと塗れる。

 体が溶けてなくなってしまうような、途方もない快楽だった。気持ちの良くない部分が一つもなくなるように、彼女の細い体を抱き寄せ、大事なところ全てを犯し尽くす。

 モードレッドの体は快感に耐えかねがくがくと震えている。脳は既に、初めて経験する感覚でオーバーヒートを起こしていた。朦朧とした意識は言葉も曖昧にさせ、キスで塞いだ口から「ふー、う゛ぅー」という甘いうめき声がする。

 

「んぶ、ぷ、ちゅう、ず、ちゅ……ぷ、はぁーー、はぁ゛ーー……止め、止めて、マスター。頭、おかしくなるから、バカになる、からぁ」

「僕も、どうにかなりそうだ。だからいいよ。おかしくなろうよ」

「ふざけ、ん、なぁっ……あ、あ、ダメだ。くるっ、なんか来る、ぅぅぅぅ……!」

 

 モードレッドの声に焦燥が混じる。内側からこみ上げてくるもので体が打ち震える。

 僕の指にも兆候は感じられた。体が緊張して固くなり、陰部はヒクヒクと痙攣を強めている。

 初めての絶頂を迎えようとしている。モードレッドが、僕の愛撫で。

 僕はだめ押しで、蜜壷を容赦なくかき乱し、勃起した乳首を抓りあげた。モードレッドの視界に火花が弾ける。それを最後に、彼女の理性は無くなった。

 

「んぃぃ! あ、ああ、はぁぁぁ、来る、来る、あああ、い、あ、イッ――ッ」

 

 最後にモードレッドは、声にならない嬌声を上げ、体を大きく仰け反らせた。

 体がピンと硬直し、下半身ががくがくと痙攣する。

 陰蕾から抜いた手首から先が温かくなる。解き放たれた愛液がぷしゃあ、と飛び出して、僕の手と浴室の床を濡らした。

 

「あ、はぁー……ん、ぃ……」

 

 僕はモードレッドの体を抱き寄せて支える。初めての絶頂を迎えた彼女は、しばらく体を張りつめさせた後、糸が切れたように全身を弛緩させた。

 

「はぁ、はぁ、はぁーー……この、バカマスター。止めろって、言ったのに」

「でも、気持ち良かったでしょ? イってるモードレッド、すごくかわいかったよ」

「っい、いくとか言うなっ。くそ……まだ、体に力入らねえ」

 

 顔を火照らせたモードレッドが、気まずげに顔を逸らす。

 絶頂の余韻のせいか、体は小刻みに震えている。眉は垂れ、表情は非常に淑やかだ。

 愛らしいモードレッドの様子に、冷めようとしていた興奮が再び熱を持ち、戻ってきた理性がぐらつく。

 相変わらず、僕の股間の熱は冷めやらない。そそり立った怒張はモードレッドの腰にあてがわれ、彼女の艶のある肌を反応している。

 モードレッドも、そのことに気づいていた。うっとりと潤んだ瞳で僕を見上げ、後に続く言葉を待っている。

 

「……それで、モードレッ――おおっ?」

「うおおおっ!?」

 

 気を抜いた一瞬、足がずるりと滑った。

 ボディソープで愛撫しまくっていたのだ。当然といえば当然……視界がぐわっと上を向いて、抱き寄せていたモードレッドも巻き添えに転倒する。

 結局、受け身もなしに、タイルに尻餅をついてしまった。大した痛みではない。僕にとっては。

 モードレッドにとっては深刻だ。体が勢いよく仰向けに倒れ、脱力しきった両腕が強烈にタイルを打った。

 

「んぎゃ!」

「あああ、ごめんモードレッド!」

「ぎゅ、ううう……くっそ、忘れていた分、痛みがクるな……っ!」

 

 僕に抱き寄せられたまま、モードレッドは痛みに悶絶する。

 体の血が一気に引いてしまった。心臓が違う方向でバクバク言っている。

 

「モードレッド、大丈夫」

「んなわけあるかっ……ホラ」

「え?」

「分かれよド変態。顔寄せろ……ん、ちゅ」

 

 モードレッドは顔を近づけ、僕にキスをした。魔力供給を以て、痛みを緩和する。けれど舌はモードレッドの方から入れてきた。倒れ込んだまま、ねっとりとした優しいキスをする。

 

「れるぅ……ははっ、謝っておきながら、全然萎えてねえんだな」

 

 露わになった怒張を目の当たりにして、モードレッドは若干ひきつった笑みを浮かべる。

 

「……勿論、このまま終わらねえんだろ?」

 

 うっとりとした目で、僕を見上げてくる。完全に発情していた。僕も含め。

 僕はもう一度キスをして、止まっていたシャワーからお湯を吐き出させる。

 

「とりあえず、体を流してしまおう。ここだと危ないし……続きは、ベッドでね」

 

 

 



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10 ~その日の夜2~

 簡単に体の水気を拭き取ると、モードレッドを抱き上げて寝室まで運ぶ。当然のように、二人とも裸だ。

 これからセックスをするために寝室に行くのだ。服を脱がすなんて手間でしかない。

 モードレッドの表情にも、それは現れていた。潤んだ瞳で、僕から目を逸らさない。隠すことも忘れた乳首は、さっきの余韻でぴんと上を向いている。背中に回した腕には、彼女の暴れそうな鼓動がしっかりと伝わっていた。

 

「なんか、笑えるな。ドキドキしてしょうがねえのに、ヘンに気取って落ち着いてやがる。オレもお前も。へへっ」

 

 耐えかねたように、モードレッドが笑う。ドキドキとした胸の鼓動。彼女はこれから犯される。緊張して、同時に心待ちにしている。

 寝室のドアを開けると、僕は彼女をベッドにそっと寝かせた。

 真っ白なシーツに、彼女の裸がある。雪のように白い肌。健康的に肉ついたお腹。控えめな胸は芸術的な曲線を描き、桜色の乳首を浮かせている。

 息を飲むほどに美しく、生唾を飲み込むほどに官能的だった。目線を逸らせない僕に、モードレッドが辟易する。

 

「っじろじろ見んな、めちゃくちゃ恥ずかしいんだぞ、これ」

「一回イッておいて、今更じゃない?」

「そ、それとこれは別だ! お……女心? ってやつだよ。分かれよな」

「ふふっ、ごめんね。好きだよモードレッド」

 

 膝をベッドに乗せると、体重を受けてギシッと軋んだ。

 僕はモードレッドに覆い被さるようにして、彼女にキスをした。彼女の持ち上げていた首が、キスにつられてゆっくりと下がる。

 

「ちゅ、ふぅ、ふ……あんだけやっといて、まだ足りないのかよ?」

「まあ、仕切り直し、みたいな? ちゅ……るぅ」

「ん……がめついやつめ。える、れるぅ」

 

 舌を入れると、モードレッドは悪態を一つ、ウットリと蕩けた顔で受け入れる。

 シャワーで火照った体が触れるのが心地いい。僕はゆったりと唇を離すと、そのまま彼女の体を下に伝っていく。

 

「んだよ、キス大好きとか、ガキかてめ……ん、ひゃ」

 

 顎から、首筋を伝い、彼女の柔らかい肌に唇を吸いつかせつつ、どんどん下へ。小振りな乳首を口に含ませると、か細い声が上がった。

 慈しむように彼女の体を撫でながら、ゆったりと全身にキスを浴びせる。へそに舌を入れ、下腹部に少しだけ後を付け、やがて金髪が少し浮いた秘所へ到達する。

 

「ひゃぅ、ん……そこ、まだするのか?」

「ちょっと時間が経っちゃったからね。初めてなら、よく慣らさなきゃ」

 

 それに、大好きな女の子のものを見れる機会なんて、そうそうないからね。

 使われたことのないモードレッドのヴァキナは綺麗な肌色をしていた。ふっくらした陰唇の奥に、瑞々しいピンク色の柔肉がのぞいている。さっき僕がいじり回したせいだろうか、普段はぴったり閉じているのだろう入り口は僅かに開き、ひくひくと何かを待ちわびるように震えている。

 サーモンピンクの秘所の中に、ぱくぱくと開く小さな穴がある。思わずうっとりと見とれてしまった僕に、モードレッドの蹴りが入る。

 

「こらバカマスター! まじまじ見るな、恥ずかしいっつってんだろ!」

「ごめんね、じゃあま○こに思いっきり叛逆しよう」

「あ、違っ、舐めろって意味じゃ――んひゅっ!?」

 

 柔肉の隙間に舌を差し入れると、聞いたことのない声がモードレッドから漏れた。

 

「んっ、ふぁ、んぅ……これ、さっきと、全然違っ。にゅるって入って、ぞわぞわ、くる……っ!」

 

 洗ったばかりのモードレッドの陰部は、ほのかな甘い味がした。ぷるぷると柔らかい肉を押し広げ、ヒダになった膣壁をなぞる。その度にモードレッドの体は大きく震えて、甘い声が部屋を満たした。

 穴の奥の方まで差し入れ、熱い肉壁が舌によって押し広げられると、とろりとした酸味が感じられた。モードレッドの方も、受け入れる準備を進めている。

 たまらなくエロい香りに、僕のボルテージも跳ね上がる。頭にぐっと血が登り、僕の怒張はいつにも増して堅くなる。愛液と僕の唾液を混ぜ、ぐちゅぐちゅと卑らしい水音を立てる。

 

「ん、んん~~っ! あ、バカッ。すする、なぁ……っ!」

 

 モードレッドの太股が耐え難い恥辱に震える。痙攣する度に、膣内から愛液がこぼれてくる。モードレッドの甘露は意識を溶かす媚薬だった。

 

「んひゃ、ひぃ、ひ……く、くふぅぅ」

「モードレッドの愛液、おいしいよ。いつまでも舐めていられる」

「っこの、いい加減に、しろっ!」

 

 とうとう耐えかねたモードレッドが、腕で僕の顔を押しのけようとした。軽い力で額を押しのけられ、同時に両腕に走る痛みに彼女の体が跳ねた。

 

「んぎっ! ……く、そぉ。咄嗟にやっちまった。テメエのせいだぞ」

「ごめんね、モードレッドのを舐めるのに、つい夢中になっちゃった」

「今の言葉、素面だったら相当に気持ち悪いって自覚しろよな?」

「でも、無意識に腕が動いちゃうなら危ないよね……じゃあ、こうしよう」

 

 僕はヴァキナから顔を離し、もう一度モードレッドの上半身を上る。

 両手首の下を優しく握り、彼女の頭の両脇に押しつける。覆い被さるような格好に、彼女の胸が高鳴る。

 

「ま、マスター?」

「構造認識――"凝固"」

「ちょっ!?」

 

 モードレッドの両腕をシーツでくるんで、形状固定・硬化。これでモードレッドの両腕は塞がった。

 両腕を上げた格好で、彼女の体を隠すものはとうとう何もなくなった。モードレッドは恥ずかしさに頬を赤らめ、そっぽを向く。

 

「ったく……初めてが緊縛とか、やっぱりド変態だな、テメー」

「保護のためだよ。緊縛というとり、赤ちゃんプレイ?」

「どっちにせよ最悪じゃねーか! ん、ゅ」

 

 胸を揉むと、途端にモードレッドはしおらしく口を閉じる。閉じた口に唇を重ね、舌を割り入れる。

 しばらくの間、互いの唾液と吐息を交換する。唇を離すと、据えた目をしたモードレッドの顔があった。

 

「目が怖いよ、モードレッド」

「うるせえ……するんだろ?」

 

 モードレッドは、自分から膝を開き、秘所を露わにした。顔はこれ以上なく真っ赤になり、無理矢理に引き締めた表情はプルプル震えている。

 

「来いよ。ここまできて怖じ気付いたりしねえから……やるなら、最後まで、ちゃんとしてくれ」

「……好きだよ、モードレッド」

「ん、ちゅ……知ってるよ。だから、こういうことも許せるんだ」

 

 僕の一物をあてがう。愛液に塗れた柔肉が亀頭に触れる。鈴口に吸い付くような感触に、それだけで理性を持って行かれそうだ。ほんの少し腰を進めると、入り口はたやすく押し広がって、僕の亀頭を包み込む。

 後は突き入れるだけ。モードレッドの瞳が潤む。

 

「……なあ。いいんだよな。オレ、お前のモノになっても、いいんだよな?」

 

 僕は言葉を出さず、ただ目で、彼女の全てを受け入れる。モードレッドはゆっくりと頷いた。

 

「分かった……じゃあ、オレの純潔を、お前にやるよ。消えない傷を付けてくれ。お前のものっていう証をくれ」

「っうん――」

 

 僕は彼女の背中に手を回し、細い体を強く抱きしめた。

 腰をぐっと突き出す。狭い膣壁を押し広げ、温かな蜜壷を突き進む。

 

「くふ、うぅ……やっぱ、マスターの、デっカ……!」

「っ待って、もう、少し……!」

 

 物凄い抵抗感に竿が押し退けられる。僕はそれでも腰を少しずつめり込ませ、モードレッドの狭い中を押し進む。

 

 

 

 ――ぷちんっ。

 

「い、ぎぃ……!?」

 

 小さな裂ける音がして、モードレッドが苦悶の声を上げる。ひきつる体を強く抱きしめる。

 ふぅー、ふぅー、と荒い呼吸が耳を湿らせる。僕は僕で、暴発を抑えるのに理性を総動員しなければいけなかった。

 モードレッドの膣は予想以上に小さく、竿全体をきゅうきゅうと締め付けてくる。

 引っこ抜かれそうなほどの強烈な締め付け。気を許すと押し出されてしまいそうだ。けれどそれを堪えて腰を押しつけると、とろとろに塗れた肉ヒダが擦り付いてきて、痺れるような刺激を与えてくる。

 やばい、本当に気持ちいい。

 モードレッドのヴァキナ。モードレッドのま○こ。もはや語感だけで理性を持って行かれそうだ。けれど僕は強引に気を静めて、悶えるモードレッドに声をかける。

 

「っ……モードレッド、大丈夫?」

「ん、な、わけあるか……痛えよ。クッソ痛え。そんで、斬ったり斬られたりと全然違う。腹の中に割り込まれるって、すげえ気持ち悪い」

 

 震える声でモードレッドが呻く。

 しかし、顔を上げた所には、口を緩ませたモードレッドの笑顔があった。

 

「でも……嫌じゃない。両腕のクソッタレな傷と全然違う。痛いだけじゃない。痛いけど、なんか嬉しいんだ。変だよな、へへっ」

 

 掠れた声で、モードレッドは笑う。目尻には温かい涙が浮いている。

 

「誰かのモノになるって……女になるって、こんな感じなんだな。ああ、オレ、マスターのモノになっちまったんだな。消えない傷も、付けられて……」

「ごめんね、モードレッド」

「バーカ。嬉しいっつったろ。二回言わせんなよな……ん、ちゅう」

 

 そう笑って、モードレッドは自分からキスをした。

 キツキツだった膣肉は次第に解れ、入り口を覆っていた愛液が奥の方まで渡ってきているようだ。肉ヒダのぬるぬるは益々強くなり、僕の我慢もそろそろ限界に近づいてくる。

 

「モードレッド」

「分かってるよ。そんな物欲しそうな顔するな。ふぅ、ん……好きに動けよ。痛いくらいで、ちょうどいいから」

「分かった」

 

 言質を得た僕は、ゆっくりと腰を前後に動かす。にゅち、という水音と共に、モードレッドの肉ヒダがかき分けられ、竿全体がぬりぬりとくすぐられる。

 ストロークの度に、入り口を塗らしていた愛液が竿全体を塗らし、モードレッドの膣奥もしっとりと湿っていく。

 十回も抽送を繰り返せば、膣は初めての男根を徐々に受け入れるようになった。初めは痛みに顔をしかめていたモードレッドも、今は突かれる度に「んっ」と息を詰まらせて、僕の顔をじぃっと見つめる。

 

「っふ、っふ……はは、モードレッドの中、凄くいい具合だね」

「ッ具合とか言うな、ぶっ殺すぞ」

「でも実際、凄く気持ちいいよ。入口はきゅうきゅうで、中はとろとろで」

「せ、説明もすんな! ん、んにゃ、ひゃっ」

「愛液もすっごく溢れてるね。ほら、突く度にちゅぷ、ちゅぷって音してる」

 

 冗談めかして言ったけれど、モードレッドの膣はこれ以上なく最高だった。引き抜こうとすれば名残惜しそうに吸いついてきて、突き込めば肉ヒダの一つ一つが、愛おしそうに竿全体を抱きしめる。

 僕の意識は、この快感を堪能することで一杯になった。できるだけ深くまで突き入れ、抽送のスピードは徐々に遠慮がなくなっていく。

 

「ふぅ、んっ。ふぅ……ん、んん~っ! ちょっと早すぎだ……抑えろ、バカ、ぁ」

 

 それでモードレッドが喜んでいるなら、尚更止められない。引き結んだ口から嬌声が漏れるのが、たまらなくいじらしい。

 

「モードレッドも、気持ちいいんだ?」

「わ、かんねえよ。初めて、んっ、なんだぞ。腹の中、押し広げられてっ、容赦なくズコズコされてっ。気持ち悪くて、変な気分だよ……ひんっ」

 

 繋がっているお陰なのか、モードレッドの困惑を感じることができた。

 騎士の頃にはするはずもなかったセックス。初めての女性としての快楽に、戸惑いの方が勝っているようだ。

 

「けど……はぁ。ま○こにち○こをぶち込まれて、好き勝手に動かれて……お前の物になったって気がする。お前に使われてるって感じで、安心する」

 

 モードレッドは、ほんの少し寂しそうに笑った。

 僕はほんの少しむっとする。モードレッドを道具のように使う気持ちなんて毛頭ないからだ。

 僕は抽送を一旦止めると、ペニスを引き抜き、モードレッドの太股に手をかけた。彼女の膝を胸の方にぐっと押し上げて、お尻をベッドから浮かせる。

 ちょうどM字開脚をして、ヴァキナを天井に向けているような姿勢だ。僕からは、ぴっちりと閉じた肛門までがはっきりと見える。

 

「ちょ、オイ、バカマスター!? なんだこのふざけた格好!」

「それなら、モードレッドも気持ちよくなれるよう頑張らないとね」

「い、いいんだよ。オレの事は別に……ふぁ、はぁ゛~~っ」

 

 ストロークですっかり解れた膣は、二回目の挿入をすんなりと受け入れた。モードレッドの悶絶する声が耳に心地いい。

 

「こうすれば、もっと色んな所を堪能できるからね」

「っ……ふ……」

 

 モードレッドは小言を言う余裕も無いようだった。顔を背けたまま、口を真一文字に引き結んでプルプルと震えている。

 ひょっとすると、セックスの感想についての「気持ち悪い」も強がりだったのかもしれない。けれど、もう今更だ。スイッチを入れてしまった。恨むなら自分の虚勢を恨むといい。

 モードレッドの太股を僕の股で支え、肉棒を上から突き込むように挿入する。モードレッドの膣内は熱く、温めた蜂蜜をかき分けるようにとろとろだった。僕は腰の動かし方を変え、収まる兆しを見せない怒張を操作する。

 

「こうやって……浅いところをいじるのはどう? カリ首で、入口をゴシゴシこするのは?」

「っん……! んんっ……!」

「角度を変えて、上の方とか。この辺がGスポットだっけ?」

「ふっ、ふぅー、ふぅー……!」

 

 亀頭の先だけを膣に入れ、浅い位置にある、ありとあらゆる場所をいじめ倒す。ちゅこちゅこと小刻みな抽送で、モードレッドの余裕を削る。

 脳味噌を綿毛でくすぐられるような刺激に、モードレッドは耐えかねたように首を振って抵抗する。引き結ばれた口は高い嬌声を漏らしており、隠す為の手はがっちりと固定されていて、逃げ場などどこにもない。

 僕の股間も大変だ。熱い肉壁が、亀頭と竿の先端をぱっくりとくわえ込んだまま、激しくしごきあげてくる。敏感な先端ばかりが刺激され、腰が笑いそうになる。

 愛撫され尽くした亀頭が、赤熱したように熱く膨れ上がる。限界まで腫れた亀頭を、僕はひと思いに奥まで突き込んだ。

 

「んひぃ!?」

「っう、あぁ……!」

 

 奥に届いた衝撃に、モードレッドが声を張り上げる。待ちわびていた肉ヒダがジュルジュルと絡みついて、勃起したペニスを搾り上げる。視界に火花が散るような猛烈な刺激に、快楽がぞくぞくと全身を駆け抜けた。

 モードレッドの理性も飛びかけていた。目がかすみ、食いしばった口の端から涎がこぼれている。軽くイッたのだろうか。激しい呼吸に、お腹が小刻みに震えている。

 

「ひ……くひ、ぃ……」

「やっぱり、奥の方がいいよねっ!」

「んゃ、待っ、んふぁぁぁぁぁぁ!」

 

 甘い声が寝室に木霊する。

 引き結んでいたモードレッドの表情は途端に崩れ、体がビクンと大きく弾けた。

 僕は限界まで膨れたペニスを突き立て、とろとろの蜜壷をかき混ぜる。

 

「んんっ、あ、ああっ、ああっ」

「声、我慢できなくなったね。どうしたの?」

「んぃ、ひっ、き、気持ちい。気持ちいい、からぁっ」

「気持ちいいから、何?」

「ふぁぁぁっ。はんっ、あんっ。激し。激しすぎだ。バカ、バカマスタぁ……!」

 

 両腕を縛られたモードレッドは、首を振って抵抗する。けれど僕の抽送は止まらない。

 快感を貪るように、根本まで突き入れると、ぱんっぱんっと肉を打つ激しい音がする。理性の決壊したヴァキナは、本能のままに僕の竿に絡みつき、きゅうきゅうとキツく吸い上げてくる。

 根本にマグマが溜まってきているのを感じた。僕自身、もう幾ばくの猶予もない。

その焦りを感じてかだろうか。モードレッドは目尻に涙を溜めたまま、真っ赤な顔に笑みを浮かべる。

 

「ふぁ、あ、んんっ、……へっ。どうだよ、バカマスター。このモードレッド様を犯す気分は」

「もう今すぐにも射精しそう。叛逆の騎士とセックスなんて、ある意味最高にクールだよね」

「ひゃ、ひんっ……くそったれ。この、モードレッドがっ。犬みたいな格好で、ち○こずこずこされてっ……あ、あ、あ、あっ」

「かわいいよ、モードレッド。最高にかわいい」

 

 口の端の涎を舌ですくい、そのまま口づけを交わす。咥内もすっかりとろとろに溶けて、耽美な甘い味がする。

 膝を押さえていた手を、彼女の胸に回し、ぷにぷにの柔肉を揉みほぐす。汗だくの体を抱き寄せる。口も、ま○こも、隙間を全てなくすように肉体を絡め合う。二人の体が混ざり合っていくような錯覚を感じる。

 限界が迫っていた。陰嚢がきゅうっと収縮し、爆発の準備を進める。竿の感覚が鋭敏になり、膣のツブツブをなぞる度に射精感がこみ上げてくる。

 

「ますたー、ますたーっ」

 

 モードレッドにもいよいよ限界が近づき、目がチカチカと明滅する。必死でこちらを求める声が溜まらなく愛らしい。

 

「気持ちいい、気持ちいい、マスター。あっあっ頭の中、気持ちいいばっかりで、何もっ、考えられにゃ、い」

 

 無意識なのか、上をピンと向いていた足が僕の腰に絡み付き、肉棒を奥の方まで誘い込む。

 

「全然、痛くないんだ。あれだけ、死にたいくらいに痛かったのが嘘みたいにっ……ふぅ、ぅぅ」

「そっか。ずっと我慢してたんだね、モードレッド」

「当たり前だっ。ますたーに、嫌われたくないから。お前のサーヴァントでいたいから……っ!」

 

 溢れる感情が、涙になってモードレッドの目からこぼれた。

 僕の竿を根本から強く搾る。残り僅かだった僕の余裕が、一気にゼロに近づく。

 

「っく、ぅぅ!」

 

 僕は一気に腰の速度を上げ、スパートをかける。モードレッドの喘ぎ声が意味を失い、ぱんぱんと肉を打つ水っぽい音が部屋中に響きわたる。

 

「はぁっ、ぁ、モードレッド、モードレッド……!」

「あっ、ああっ。いいよ。おくっ。一番奥に、射精して――」

 

 モードレッドの声に併せ、僕は言葉通り、腰を思い切り、モードレッドの温かい蜜壷に打ち下ろした。

 

「んひ、イッ――く、ぅぅぅぅぅぅ~~~~っ!」

「う、うううう、ああ!」

 

 一際甲高い嬌声。膣内がぎゅうっと締め上がる。殆ど同時に、限界を迎えた怒張が、溜めていたマグマを吐き出した。

 モードレッドの足が絡み付いて、陰茎の根本までくわえ込む。ペニスはポンプのようにドクドクと脈打って、精液を一番奥の子宮まで注ぎ込む。

 

「あ、出てる……出てる。ますたー、の。おれの、膣内で」

 

 か細いそんな声。ピクピクと痙攣していた体は、やがて糸が切れたように力を失い、両足がベッドにぺったりと落ちる。

 魂が股間から溶け出ていくような、大量の射精だった。水道の蛇口を捻るように特濃の熱い精液が尿道を通り抜け、モードレッドの膣に排出される。

 脈動は十回近くを数え、射精が終わった時には、体全体の力が抜けていた。僕はすっかり脱力し、未だ微かに痙攣するモードレッドの体にのし掛かる。

 

「……解、除」

 

 意識ごと飛んでいきそうな脱力感の中で、僕はモードレッドの両腕を縛っていたシーツを解いた。

 

「はぁ……どんだけ射精るんだよ。もう、股間がパンパンだ」

「モードレッドも潮吹いてたし、おあいこだよ」

「うるせえ、バーカ」

 

 腰を下げると、肉ヒダが名残惜しそうに吸い付き、ピリリと刺激が走る。柔らかくなった肉棒が抜けると、濃い精液がどろりとこぼれてきた。

 

「はは、自分でも笑えるくらい出たな」

 

 抜けた反動で、思わず尻餅を着く。我を忘れて振っていた腰が重い。

 間違いなく、人生で最も気持ちのいい射精だった。快感と一緒に心も満ちるセックスだった。

 マスターとサーヴァントという関係上、何か精神的な繋がりもあるのかもしれない。モードレッドの満ち足りた感情を、僕も感じる事ができた。

 頭がぽーっとする。興奮で脳がオーバーヒートしてるみたいだ。僕は熱っぽい頭を押さえつつ、上体を持ち上げる。

 

 

 

 

 

「ますたー」

 

 上擦ったモードレッドの声。視線が動き、彼女を捉える。

 

 

 四つん這いになったモードレッドがいた。両腕には力が入らないので、上半身はベッドに着き、顔は枕におかれている。

 モードレッドの小振りなお尻がぴんと浮いて、精液のこぼれるヴァキナを僕に向けていた。サーモンピンクの柔肉がひくひくと動き、先ほど僕が堪能していた穴がぱっくりと口を開けている。

 モードレッドが得意げに笑う。上気した頬を更に赤く染め、薄く唇を吊り上げ、こちらを挑発していた。

 

 ――どうした? その程度かよ?

 

 お尻がフリフリと揺れて、精液と愛液でグショグショになった秘所を見せびらかす。

 頭のどこかがぷっつりと切れた。

 復活しかけていた僕の理性が、一瞬で蒸発した。股間が急速に硬度を上げる。

 モードレッドの腰を鷲掴みにし、怒張をモードレッドの一番奥まで叩き込んだ。

 射精したばかりで敏感になった竿に、とろとろの肉ヒダが容赦なく絡みつく。

 

「っ~~~~~~!」

 

 ち○こが削られるような強烈な刺激に、声すら出せず悶絶する。モードレッドも同様に、枕に顔を押しつけ悶絶する。

 無我夢中だった。徹底的に貪るまで止められない。

 獣のように腰を打ち付ける。さっき呆れるほど出した精液を掻き出して、膣壁全体に塗り込んでいく。

 

「ヴ、ふ、ヴぅ~~~っ」

 

 意味を持たないあえぎ声が、枕に押しつけられた口から漏れる。

 一度絶頂したモードレッドの膣は、一突きごとに小刻みに収縮し、軽イキを繰り返していた。壊れた蛇口のように愛液が吹き出し、シーツをじっとりと濡らす。もうまともな言葉なんて出ないだろう。動物のような呻き声が寝室に木霊する。

 

「う、う゛う~。ふぁ、う、ふヴぅ」

「っく、うぅ!」

 

 何度も絶頂を繰り返し、別の生き物のように蠢く肉ヒダをかき分ける。ぐちゅぐちゅの蜜壷の中に、獰猛に抽送を繰り返す。

 濃密な雄と雌の香り。興奮で頭はとっくに熱暴走を起こしていた。意識が朦朧として、殆ど機械的に腰をかくかくと動かす。

 魔術回路の結合を感じた。モードレッドとの繋がりが深くなり、彼女との精神的な距離が縮まる。

 モードレッドの声が聞こえた。

 

(そうだ。もっと、もっと壊してくれ)

 

 声には悲壮さが込められていた。今にも泣き出しそうな声で、僕を求めている。

 

(滅茶苦茶にしてくれ。お前の逸物を突っ込んで、道具みたいに蹂躙してくれ。俺の夢も、人生も、全部どうでもよくなるくらいに、犯し潰してくれ)

 

 軽イキに痙攣するモードレッド。その頭の脇には、寄る辺を失った両腕が震えている。

 手首には、痛々しい裂傷に、それを塞ぐ黒い痣。

 

 

 蒸発していた理性が、急速に形を取り戻した。

 僕は機械的に動かしていた逸物を引き抜くと、腰に据えていた両手で、モードレッドの手首を握りしめた。

 

「いぎっ!?」

 

 モードレッドの痛烈な悲鳴。僕はそれもお構いなしに、彼女の体を引っ張り、仰向けに横たわらせた。

 快感に上気した顔が怒りに歪む。瞳には涙が滲んでいた。

 その悲壮な顔に苦笑してしまう。何も、そんなに抱え込むことないのに。

 

「ぐ、そ野郎……何しやがる、クソマスター」

「ダメだよ、モードレッド。君、いま自暴自棄だったろ?」

「っうるせえ、うるせえよこの……ん、ちゅう」

 

 唇に吸い付き、舌を絡ませて、モードレッドの悪態を封殺する。

 手首を握っていた手を上に移動させ、指先を強引に絡ませる。

 覆い被さったまま蜜壷に挿入すると、咥内にくぐもった嬌声が漏れた。その声をキスしたまま全部飲み込んで、僕は唾液のアーチを描く。

 

「そんな風に思ったらダメだよ。僕がしてるのは、大好きなモードレッドとのラブラブセックスなんだから」

「っバカ、バカマスターが……っ!」

 

 モードレッドの目から、堰を切ったように涙がこぼれる。今まで堪えていた全部が、洪水のように溢れ出てくる。

 

「ラブラブとか、バカじゃねえの。こんなオレに、愛される資格なんてないだろ」

「そんなことない」

「何もないんだぞ。こんだけ魔力を貰っても、指の一つも動かねえんだ。オレには剣を握る力も、手にできる夢もねえんだぞ。っひぐ……こんな役立たずなオレが、愛されちゃダメだろ。愛玩具や奴隷にでもなんなきゃ、意味分かんねえよ。ぜんぜんっ、しっくりこねえよ。訳分かんねえよぉ……!」

「そんなことないよ、大好きだ、モードレッド。そんな強情で分からず屋な所も含めて、ね」

 

 僕は腰を強く押しつけて、モードレッドの一番奥を攻める。何も掴めないと言った手に、僕の手を重ねる。痛みも無視して、強く握り込む。

 さっきよりも深く、強く繋がる。少しでも隙間がなくなるように、僕がモードレッドを愛していると、嫌でも理解できるように。

 モードレッドは従順だった。悲しみに泣きながら、僕の深い抽送に喘ぎ、唾液を絡ませあう。

 

「随分、泣き虫になったね」

「あ、あああっ……うるせえ。ずっと、寂しいんだ。ずっと虚しいんだっ。自分自身が、本当に嫌になるんだ!」

 

肌を最大限に密着させて、彼女の全てを包み込む。

 

「もう我慢できるかっ……マスターが欲しい。マスターに包んでほしい。全部全部、オレのぜんぶを、受け入れてほしいっ!」

「ッ僕も、君が欲しい。君とずっと繋がりたい」

 

溢れ出る感情に、脳が焼き付く。快感の刺激で全身がビリビリと震えている。

キスをした唇は、もう一瞬たりとも離したくなかった。互いの荒い呼吸も全部飲み込む。

やっと口を話すと、とろとろに蕩けたモードレッドの口が、苦しげに息を吐き出す。その吐息と一緒に、言葉が漏れた。

 

「んぶ、ちゅうぅ……はぁ、はぁ゛ー。好き、好きだっ、ますた、ぁ……!」

 

 それが聞けて良かった。

 一度絶頂を迎えていたこともあり、我慢は効かなかった。射精感は急速にこみ上げてきて、怒張を限界まで膨らませる。

 「好き」の言葉に、互いのボルテージは最高潮になっていた。僕はモードレッドの体を持ち上げ、膝の上に跨がらせる。

 対面座位の姿勢で、モードレッドの愛液まみれの膣を犯し尽くす。モードレッドも、両腕を僕の背中に回し、痛みも無視してキツく抱きしめる。

 

「おく、おく気持ちいい。好き、好きぃ、マスター好きっ」

「はぁ、くっ……もう一度、一番奥に射精すからね」

「きて、来て、来てぇ。一番奥に、膣内射精して……っ! お前のものに、してくれっ……!」

 

 強く抱きしめ、唇を塞ぎ、隙間を無くす。

 とろとろの柔肉が痙攣し、竿をきゅうきゅう絞りあげる。根本までくわえ込まれたまま、僕は限界まで膨らんだリビドーを爆発させた。

 

「ふゔ、ゔ、んっ、うぅ~~~~~~っ!」

 

 絶頂はほとんど同時だった。

 射精の脈動に併せて膣肉が蠢く。痛いくらいに肌を抱き寄せる。うめき声を、唾液と一緒に互いの咥内に吐き出す。

 存在を一つに溶かすような、とてつもない快感だった。互いの匂いと熱で意識が揺らぐ。

 

 

 どちらからとなく倒れ込み、汗だくの体をベッドに横たえた。勢いで逸物が引き抜かれ、さっきよりも大量の精液が、モードレッドの股から溢れ出てくる。

 

「……また、すっげえ出したな」

「それだけ気持ちよかったからね。今すっごい幸せだよ」

「ははっ……ほんと、こんな奴が好きとか、物好きなますたーだぜ」

 

 モードレッドの華奢な体を抱き締め、頭を撫でる。モードレッドは心地良さげに目を細め、うっすらと口を綻ばせる。

 

「こういう気分を、幸せっつーのかもな……ああ、ほんとに、お前がマスターでよかったよ」

 

 呟くようにそう言うと、モードレッドは静かに目を閉じた。

 眠りに付くまで、僕は頭を撫で続けた。興奮していた息が、次第に安らかなものに変わっていく。

この退廃的な生活は、きっと長くは続かない。続いてはいけない。

 

「……悪くないな。お前との、こういう生活も」

 

けれど、モードレッドがそう言ってくれたから。

この選択は、きっと間違いじゃなかったはずだ。

 

 

 



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中編
11話


「ふぅ……」

 

 数時間握り続けていたペンを机に置く。手垢の付いた樹脂の軽い音が、石造りの地下室に反響する。

 牢獄のような狭苦しい部屋。窓はなく、明かりは机を照らすスタンドライトと、天井からぶら下がる裸電球の一つきり。その頼りない光すら、堆く積み上げられた本の塔に遮られて、あちこちに闇を産んでいる。

 不気味さを感じさせる魔術工房の薄暗さも、すっかり慣れたものだった。

 

 あれから、早くも二ヶ月が経とうとしている。家の地下室を改装して作ったこの空間も、魔術師の工房としてそれなりの空気を醸し出してきている。

 一日の三分の一は、こうして地下の工房に籠もって研究に明け暮れるのが僕の生活だった。せっかくの豊かな自然のある場所に引っ越してきたのに、思い出のほとんどは、書物と睨めっこしている薄暗い景色で埋められている。

 椅子を軋ませて、軽く身じろぎする。冷えて固まった地下室の空気が、やっと目を覚ましたよう。音も空気の流れも、動くものがなさ過ぎて、時間が止まってしまったみたいだ。

 僕は深く息を吸う。埃を念入りに払って掃除したお陰で、昔ワインセラーとして使われていた名残の、かぐわしい木と葡萄の香りがする。

 それを楽しむ余裕は、あまりない。吐き出した息は、やっぱり重たい溜息になった。

 

「……疲れた」

 

 思わず、そう悪態が漏れる。成果が感じられなければ、疲労も重くなる。目頭を揉んでも、答えらしい閃きは浮かんできそうもなかった。

 ここに来てからずっと、僕は彼女の傷を治す答えを探し続けている。

 魔術師であることを辞めて豊かな自然がある場所に越してきた筈なのに、こうして地下室で魔術を追い求めている。

 それもしょうがない。モードレッドの両手の傷を治す事は、僕に課せられた至上命題だ。見識が正しければ、このままでは彼女は在り方を穢され、英霊でいられなくなる。

 僕は彼女を召還したマスターとして、命を共にする一人の男として、彼女を責め苦から解放してあげなければいけない。

 その使命感を抱え、研究に明け暮れ……しかしその成果は、芳しくない。

 

「……何なんだ、これは」

 

 モードレッドが受けた呪いは……正直、理解の範疇を越えていた。

 泉の側の穏やかな土地。そこで僕等が過ごした二ヶ月は、落胆と徒労の連続だった。

 最初の一月で、いち魔術師として思いつく、あらゆる限りの対抗魔術を試した。西洋から東洋、アフリカ僻地の小さな伝承まで、手に入れられる資料を掻き集めた。僻地の片田舎まで足が付かないよう仕入れるのは相応に苦労したが、次々とやってくる膨大な書物に、読む物がなくなるという事はなかった。

 一日の大半を文献漁りに費やし、めぼしい物などほんの一握り。そしてそのいずれも、有効な解決策とはならなかった。

 

 幾つもの呪具も試したが、結果は同じだった。呪具が空打ちになる度に、モードレッドはつまらなそうに鼻を鳴らした。

 「こんな道具に頼る方が情けないぜ」と言って、呪具を踏み抜き、残骸を蹴り飛ばす。その時ほんの僅かに肩が落ちる、彼女の落胆が忘れられない。

 およそあらゆる退魔の魔術は、モードレッドの傷に効果を見出せなかった。彼女に与えられた呪いは、それ程に強く、意味不明だった。

 途方に暮れた僕は、もう一度原点に立ち返り、呪いの正体を突き止める事にした。呪いを与えられたサーヴァントの真名が分かれば、打開策も分かるだろうと考えたのだが……。

 

「こんなの、神霊でも成せない芸当だ。世界の形をそのまま作り変える程の……ううん、考えれば考えるほど有り得ない」

 

 低いうなり声が、静かな地下室に木霊する。

傷を最初からあった物にするなんて、前代未聞だ。それは時間改変と同義で、人類史上時を遡った事例は存在しない。

 不可能じゃない。世界の仕組みとして、あってはいけないのだ。果たして聖杯の力を用いても、実現可能かどうか。

 けれど現に、モードレッドは力を奪われ、彼女自身の存在を危うくしているのだ。

 何であれ、僕は彼女を治さなければいけない。

 

「……考え方を、抜本的に見直した方がいいのかもしれないな」

 

 そう呟いてみる。この考えは、果たして発想の転換か、頭打ちの現実からの逃避か。

 机のペンを指で小突きながら、思考を遊ばせる。粗野な少女の声が割り込んだのは、そんな時だった。

 

『オーイ、マスター。いつまで引きこもってんだよ。そろそろオツムにカビ生えてくるぞ』

「魔術師の頭脳に対して酷い言い様だね、モードレッド」

 

 ぶっきらぼうな声に苦笑して、僕は霊話に返答する。張りのあるモードレッドの声が、頭に直接響いてくる。

 

『集中してるのはいいけどよ、もう日付が変わったぜ? いい加減寝た方がいいんじゃねえか』

「本当? 全然気がつかなかった」

 

 言われて辺りを見回すも、地下室には堆く詰まれた本ばかりで時計すらない。身体が小刻みに震える寒さで、外がすっかり夜更けであることに気付いた。

 まだ温かい季節と言えど、陽の当たらない地下室は予想外に冷える。外部の環境に反応して、僕の腕が鳥肌を浮かばせる。身体がやっと息を吹き返したようだった。

 時間も忘れて没頭するのは、魔術師としては良い兆候だ。それでも、その没頭した挙げ句成果が見つからないのは、中々辛いものがある。僕は椅子に背中を押しつけて海老反りになって、背骨をポキポキ鳴らして……ふと思いついて念話を送る。

 

「モードレッド。もしかして、僕を心配してくれたの?」

『……悪いかよ。お前が死んだら、オレっていう存在もお陀仏なんだ。地下室で衰弱死とか、冗談でも笑えねえ』

「へえ、それで夜更けまで起きててくれたんだ。かわいいところあるね」

『死ね、二度と上がってくんなバーカ』

「ツンデレダブルスタンダード」

「テメエ小声でなんつった!? 昇ってきたら覚悟しとけよクソマスター!」

 

 上擦った怒号に、僕はたまらず苦笑する。仏頂面の彼女の姿を想像すると、途端に顔を見たくなって、僕は身体を椅子から引き剥がした

 ギシギシとしなる梯子を登り、古びた木の蓋を持ち上げる。厳重に鍵をかけた後、棚をずらして蓋をする。

 元の状態に戻すのすら苦労する。工房を隠す相手は、自分自身も含まれていた。あえて厳重にする事で、魔術の存在そのものを遠ざけようとしていた。

 モードレッドと平穏に暮らしたい。だから、できれば忘れていたい。

 馬鹿げた絵空事だった筈のこの願いは、この地に来ていよいよ、叶えたい理想として存在感を強めている。

 このまま穏やかに、老いるまで静かに暮らせたらと、今でも思っているが……モードレッドの手首に刻まれた傷が、深い谷のように理想の前に立ちはだかる。

 現実は、そう上手くは転ばない。そもそもが、魔術に隠匿なんてないのだ。

 モードレッドがここに居ること自体が、つまりは——

 

「……いや、よそう」

 

 地下室の薄暗さが、思考さえ研ぎ澄ませてしまったようだ。頭を振っても、中々切り替えられない。原因を突き止めなきゃ行けないという使命感が、僕の深い場所で身を焦がし続けている。

 モードレッドの言うとおり外はとっくに夜更けで、倉庫は真っ暗闇だった。小さな天窓から覗く月明かりが、立てかけてあるボートのオールや、古ぼけた芝刈り機をうっすらと照らしている。

 僕は手を翳して出口を探しながら、思考を過去に引き戻す。

 できれば見たくない、あの時の最悪な瞬間をもう一度思い出す。

 

 街中。強襲してきたサーヴァント。僕を庇うように立ったモードレッド。敵の武器が、鮮やかな軌道でクラレントを避けて彼女の手首を切り裂き——そしてモードレッドは、『傷を最初からあったことにする』呪いを植え付けられた。

 有り得ない事を実現する能力。呪い。いや、これは本当に呪いなのだろうか?

 太陽を背にして躍りかかった敵。手にしていた武器は、長物だったように記憶している。

 一体、何者だろうか。どこかのとんでもない神様か、あるいは出会うべきでない悪魔だろうか。

 

 そして——仮にそんな英霊がいたとして。果たして僕は、僕達は——

 

 彷徨う思考に靄がかかる。今更眠気が押し寄せてきて、思わず大きなあくびが漏れる。かといって考える事も辞められず、僕は胡乱な足取りでリビングを歩き、ドアを抜け……

 

 

 

「おせえよ、タコ」

 

 寝室に入った瞬間、背中をしたたかに蹴りつけられた。

 突き飛ばすような蹴りに、僕は頭からベッドに倒れ込む。上体を起こす間もなく、背中に足が押しつけられた。

 ぐりぐりと素足が動き、軽い体重を感じる。苛立ちを香辛料にした嘲笑が、僕の上から振ってくる。

 

「さっきはよくも生意気言いやがったなぁ。なんかオレに言うことあるよな、マスター?」

「もえんめ、もーおえっも」

 

 ベッドに顔を埋めたまま口を動かしてみる。意識の九割方は、尊大な態度とは裏腹の小さい素足の感触に注がれている。

 

「なに言ってんのかわかんねえよ、バーカ」

 

 呆れ果てたようなモードレッドの声。両足が背中に乗ると、首の根元にどっかりと腰を下ろされた。小ぶりなお尻が、僕の背中のラインに合わせてふにんと形を変える。

 僕の背中の上で胡座を書いて、モードレッドはどこか楽しげに鼻を鳴らした。

 

「最近のテメエはずぅっと調子乗ってるからな。ここらで改めて、どっちが上かをハッキリさせといてやる」

「むぐも、もぐむうむむ」

「そうだ、家臣は王においそれと口を訊けないモンだ。しばらく尻置きとして使ってやる」

 

 僕の頭を尻の下に強いて、得意気に笑う。

 王というより、駄々をこねる子供のようだ。そう思ったけど、口にすれば僕の背骨はベニヤ板のように踏み抜かれてしまうだろう。顔をベッドに押しつけておいて良かった。

 モードレッドの足が動き、踵が僕の腰から太股にかけてを往復する。心地よい圧力。机に齧り付いて固まっていた筋肉が解れる。

 

「むぐ……もしかして、マッサージしてくれてる? ——痛った!?」

「黙ってろ犬」

 

 ふくらはぎに踵がめり込んだついでに、家臣からペットに格下げされてしまう。悶絶する僕なんておかまいなしに、モードレッドの踵が僕の身体を往復する。

 

「最近痩せたんじゃねえか? 引きこもってばっかいるからだ、根暗め」

「根暗なのは否定しないけどね。引き籠もりは魔術師の十八番だよ。慣れっこだ」

 

 僕がそう言うと、足の動きがぴたりと止まった。モードレッドは暫く迷った後、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 

「楽しそうに言いやがって。魔術師やめるんじゃなかったのかよ」

「辞めるよ、いずれね。今がその時じゃないだけだ」

「……それでも、オレのマスターが痩せこけてるのは、見てて情けねえ。たまには外に出て運動しろよ、血反吐出るまで走ってみるのはどうだ?」

「衰弱死の前に過労死しちゃうよ……あ、それなら今度、ボートに乗らない? 僕が漕ぐからさ。二人っきりの湖でのんびり過ごそうよ」

「……へんっ」

 

 嫌そうな声音が振ってきて、僕はたまらず苦笑する。

 モードレッドは僕の背中から立ち上がると、横腹を蹴飛ばして、仰向けに寝転ばせた。

 さんざん好き勝手された、僕のサーヴァントの姿がやっと目に映る。

 

「……かわいい」

「ッテメーが着せたんだろうが! マジマジ見んな、殺すぞ!」

 

 羞恥心と怒りで声を荒げるモードレッド。犬歯を見せて唸る狂犬のような姿も、柔らかな生地のパジャマに包まれていれば形無しだ。

 何を隠そう、モードレッドの為にわざわざ取り寄せた寝間着だ。淡い桃色で薄く花柄をあしらった、質素ながらかわいらしい寝間着は、下手な装飾がない分モードレッドの女の子らしさを際立たせている。

 

「もっとヒラヒラしたものも候補だったんだけど、やっぱりあどけないかわいさが最高だね。流石僕、名采配だ」

「狂気の間違いだろ……服片手に躙り寄ってきた時、目が据わってて本気で怖かったぞ、オレ」

「だって、いつも同じジーンズで寝辛そうだったからさ。その生地、サラサラで気持ちいいでしょ? わざわざ外国から取り寄せた良い服だからね」

「そりゃ、まあ……ああくそ、恥ずかしい……! 自分じゃ脱げねえのが更にもどかしいぜ」

 

 そう呟いてモードレッドは、赤くなった顔を背ける。半袖パジャマから覗く彼女の腕は、両脇にだらんと垂れ下がっている。

 羞恥心を感じても、動かす素振りすら見せない。両手首には、かさぶたが張ったように分厚く蓋がされた、痛々しくどす黒い傷が浮いている。

 彼女の手首は、深々と抉られた傷が、抉られた当時のまま生きている。令呪によるブーストもあって塞ぐ事には成功しているが、それがなければ、寝室はあっという間に血の海になるだろう。

 

 少し動かすだけでも激痛が走る。あらゆる動作を、痛みなしでは行えない。そんな生き地獄が二月続き、モードレッドはもう、反射的にも腕を翳したりしなくなった。

 こうして他愛ないやりとりを交わしている間も、モードレッドは病的な程臆病に、自分の両腕に気を配っている。それでもしょっちゅう、瞼を痙攣させ、奥歯を噛みしめている。それに気が付く度、僕の胸も締め付けられる思いだった。

 

「……もういいや。オレもそろそろ寝るぞ、マスター」

 

 モードレッドは両腕を垂れ下げたまま、くぁ……と欠伸を漏らす。

 自然な動作で、モードレッドは僕の胸を優しく蹴った。

 上体を持ち上げていた僕は、もう一度ベッドに仰向けに横たわる。そこにモードレッドが跨がった。

 柔らかなパジャマに包まれた股が、僕の腰回りから臍まで昇ってくる。膝が動く度に、ベッドが小さく軋んだ音を立てた。

 モードレッドの凜々しく可憐な顔が、僕を見下ろしてくる。強引に作られた、努めてつまらなそうな顔。それでは隠せない、緊張を孕んだ吐息。

 

「首、もうちょっと上げろ」

「……こう?」

「そっから動くな。勝手な真似すんじぇねえぞ」

 

 そう釘を刺して、モードレッドの顔がぐっと近づく。すぅ、すぅという規則的な呼吸が、僕の息と重なる。

 紅潮した頬。不機嫌そうな顔を近づけながら、モードレッドが囁く。

 

「……風呂、入ってねえよな。このまま寝るのかよ?」

「頭が疲れちゃって。明日朝入るよ」

「歯も磨いてねえな? 汚ったねえ」

「ごめん。でも、そんなこと気にするなんて、女の子みたいだよ。らしくないんじゃない?」

「……バカマスターが」

 

 

 鼻先をくっつけながら、モードレッドが悪態を吐く。

 女の子扱いされたこと、女の子として見てくれなかったこと、どちらが気に入らなかったのだろう——そんな疑問を呟く口は、モードレッドの唇で蓋をされてしまった。

 

「っ……」

 

 呼吸が止まる。蕩けるほどの柔らかい感触。湿っぽい、上気した鼻息が頬を熱くする。

 舌を絡ませたり、彼女の肢体を抱き締めたりしない、これっきりの素気ないキス。

 痛みを和らげるための単なる魔力供給は、それでも五秒間、永遠のような長さで続く。

 小さな水音と一緒に、唇が離れる。数センチの距離で、一瞬見つめ合う。翡翠のような綺麗な瞳は、得も言えない感情で揺れている。

 切なげな顔は一瞬。すぐにモードレッドは、いつもの不機嫌なへの字口を作って、僕の胸を足で押してベッドに押しつけた。

 

「っし、痛み止め終わり。次はちゃんと歯磨いとけよ」

 

 肩で口を拭って、モードレッドは素早くベッド脇のソファに寝転ぶ。シーツをかけてあげるのは僕の役目だ。

 

「いい加減、一緒のベッドで寝ない?」

「テメーみたいなエロ河童と同衾なんて、誰がするかよ……ッてて」

 

 痛みと共に身じろぎし、モードレッドはソファの背もたれに顔を向けてしまった。これ以上話す事はない、という構えだ。ごねても不機嫌にさせるだけなので、僕もベッドに身体を潜り込ませる。

 明かりを消すと、唇に残ったキスの残り香がする。

 最早日課となっているこの魔力供給は、いつも満ち足りた気分にさせてくれる。

 大切な人が側に居て、人生を共にしているという安心を与えてくれる。

 

 現状に満足する、安易な幸せ。

 いつまでも続いて欲しい、ささやかな充足感。

 でもそれは、妥協と何が違うのだろう。

 

「……」

 

 ——ここに来て、二月目。

 安らかな時間は続いている。静かな森の空気は、僕達を平穏で満たしている。

 ずっと変わらない。変わって欲しくないと思う平穏が、二ヶ月。

 有り難いと思う。幸せだと感じる。それと同時に、こうも思う。

 

 

 

 ——二ヶ月も、前に進めていない。

 

 

「……マスター」

 

 暗がりの中、モードレッドの声がした。独り言のような小さな声で、彼女は僕に問いかける。

 

「やっぱり、ダメ……か?」

「……うん」

「……そうか」

 

 嘘を言ってもしょうがなかった。けれど絞り出された納得の声は、僕の心に消えない無力感を残す。

 

「不甲斐なくてごめん。けれど、探し続けるよ。どれだけ掛かっても、君の傷を治してみせる。それが僕に課せられた使命だ」

 

 揺るがない気持ちを口にする。試していない方法なんて星の数ある。死ぬ気で魔術を学べば、新たに使える対魔術もある。僕の人生は、まだ折り返しにも来ていないのだ。諦めるには、まだまだ早い。

 暗闇の中で、モードレッドが身じろぎする気配がした。

 

「……気持ちは、嬉しいぜ。こんなオレに付き合ってくれて、助かってる」

「……」

「けどよマスター……お前、逃げてるだろ」

 

 核心を突く声。

 穏やかな声音が、僕の心を見つめてくる。

 

「呪いを解く一番簡単な方法を、お前は知ってる。知っている上で、お前は逃げてる。ここで……それ以外の方法を探そうと躍起になってる」

 

 微睡みの混じる声。穏やかで規則的な呼吸。夢うつつに放たれる糾弾の言葉。

 ぴりつく神経が、疲れ切った脳がもたらす睡魔にぼやけていく。夢見は最悪だろうと、僕はぼんやりと思った。

 

「……ここは良い場所だ」

 

 微睡みの中で、僕は呟いた。奈落の底の縁で、僅かに引っかけた指に力を籠めるように。

 

「君が好きだ、モードレッド。このまま、ここでずっと一緒にいたい。君と一緒に、穏やかな時を暮らしたい」

「……そうだな……それはきっと、いい時間だな」

 

 僕の呟きに、モードレッドが微かに応じる。

 心の底から出た言葉。

 けれどもそれは、本当に本心なのだろうか。

 この願いは、現実を受け止められない、子供のような駄々ではないだろうか?

 

 

 ああ、そうだ。

 本当は全部分かってる。

 モードレッドがここにいる。

 彼女が受けた呪いは、まだ続いている。

 かつて世界を生きた英雄の残滓は、まだここに影法師を落とし続けている。

 

 

 ——聖杯戦争は終わっていない。

 

 

 安らぎに満ちた眠りに落ちたところで、その事実は、決して揺らがない。

 

 

 ——聖杯戦争は終わっていない。

 ——僕等はいずれ、戦わなくてはいけないのだ。

 

 




お久しぶりです。
色んな声を頂いたのと、もう少しやりたいことがあったので、
身から出た錆をC.C.Cしにきました。

頑張って考えたので、お付き合いいただけると嬉しいです。


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12話

 蹴飛ばされてベッドから転がり落ちた所で、僕の朝は始まる。穏やかでご機嫌な一日の始まりは、いつもバイオレンスだ。

 

「飯」

「……おはようモードレッド」

 

 脳天にごうんと唸る衝撃と、不躾な彼女の声が目覚まし代わりだ。頭頂部を床に付けた逆立ち状態のまま、僕はベッドに立つ彼女を見る。

 淡い桃色のパジャマ。小さな背丈。不機嫌そうな顔。凛々しく輝く翡翠の瞳。頭頂部の痛みは消えうせて、僕の口角は自然と持ち上がる。

 

「もう少し優しい起こし方を考えないかな。大切なマスターがどこか怪我をする前に」

「うっせえ。いいから起きろよバカマスター」

「照れ隠しもいいけど、もう二ヶ月だよ? 恋人っぽく、ほっぺにチューとかどうだろう」

「っ調子に乗んな……先行ってんぞ。腹減ってんだから、待たせんなよ」

 

 ギロリ、と狂犬のような目つきで睨まれる。モードレッドは暫くガンを飛ばした後、そそくさと寝室から出て行く。

 僕は転がり落ちた姿勢のまま、寝間着姿のモードレッドを見送る。ドタドと大袈裟な足音が過ぎ去って、窓の外、鳥の愛らしい歌が聞こえてくる。

 逆立ちのまま苦笑してしまう。脚が早いのは相変わらずだが、モードレッドの態度は少しずつ軟化してきている。

 

 二カ月の時間が与えた変化は、些細だが大きいものだった。

 例えば彼女は、照れこそすれ、朝食を僕に食べさせられる事を嫌がらなくなった。

 

「はい、モードレッド」

「あー……む」

 

 スプーンにすくったスクランブルエッグを、モードレッドの小さな口が受け止める。

 

「こうして横に並んで食事するのも、大分慣れてきたね」

「お前の顔を真正面に置いてるとムカムカするけどな。地べた這い蹲って犬みたいに喰うより、幾らかマシだ」

「大好きなモードレッドにそんなことさせないよ。はい、パン」

「あー」

 

 小さなバタロールを口に差し出すと、モードレッドは素直に口を開ける

 見下ろした位置に、目を瞑ってもぐもぐしているモードレッドの仏頂面がある。受け入れられない、恥ずかしいといったマイナスな感情を、食事でごまかしている顔だ。

 可愛らしい薄桃色の寝間着に、凜々しい仏頂面。かつて荒野を駆け抜け、剣を振るい戦った英雄の、年端もいかない少女としての側面。それを僕だけが見つめている。その特別感が、自然と僕の頬を緩ませる。

 

「なんだか、世話のかかる娘ができたみたいだ」

「っ……最近のお前、わざと苛つく言葉を選んでるよな?」

「かわいいって言っても、あんまり怒らなくなったから。何だか嬉しくてつい——」

 

 僕は笑顔を浮かべて自分のスクランブルエッグをすくい——

 

 

 次の瞬間、強烈な蹴りに吹き飛ばされた。

 どがっしゃあん! と激しい音。散らばった黄色い卵と一緒に、唾液で光るスプーンが床に落ちる。

 

「自然な流れでオレのスプーン使ってんじゃねえ! そういう所だぞクソマスター!」

「僕の事を悪し様に言うけど、君の脚も遠慮無くなってきてるよね?」

「目の前のクソ男が日を追うごとにド変態になってるからな!!」

 

 椅子ごとひっくり返った僕に、モードレッドの泡を喰った怒号が降り注ぐ。

 こういうやりとりも慣れたもので、僕の受け身も上達してきてる。彼女にとってはそれも気に食わないのかも知れない。

 

「キスもしてるし、一緒にシャワーも浴びてるし、今更恥ずかしがらなくてもいいのに」

「うっせ、バーカ。テメエみたいなド変態と価値観を共有してたまるか」

 

 そう吐き捨ててから、モードレッドは顔を紅くしてそっぽを向いた。椅子の上で胡座をかいた、その膝がパタパタと揺れている。

 

「だ、だいたいだな……! 二ヶ月かそこらで慣れるモンかよ。オレはモードレッドだぞ? 円卓の騎士サマに対して、事ある毎に女みたいな扱いしやがって……慣れてたまるかってんだ」

「そのパジャマで女の子じゃないってのは無理が——あ、ごめ、ちょっと待ってスタンピングはまず——」

「て、め、え、が、着せたんだろうがぁぁ!」

 

 ゲシゲシと蹴りつけられて、たっぷり十数秒。

 何事もなかったかのように、食事が再開される。谷を転げ落ちたようなボロボロ状態の僕に、モードレッドは反応一つしない。時間を巻き戻したように、黙って口を開けて僕を催促する。

 

「……毎食こういう事してると、僕の身体が持たないんだけど」

「じゃテメーが折れろ……こうして食わせてもらうのとか、風呂とか、もうしょうがねえからさ。今更嫌がらねえから、囃し立てんなよな、馬鹿が……あむ」

 

 辿々しい声で抗議するモードレッドが、差し出されたトマトを受け止める。

 モードレッドの抗議は、恥ずかしいという文句だけに留まっている。

 何十回と繰り返されたこの一連の行事に、モードレッドはもう抗うことを辞めていた。

 誰かに食べさせてもらう事は、屈辱的だと言っていたのに。モードレッドという存在に泥を塗る、最悪の恥辱だと言っていたのに。

 

 そんな彼女が、二か月を経てもスプーン一つさえ握れていない。

 

 僕の視線は、するべきでないと分かっていても、モードレッドの両脇に垂れ下げられた腕に向かう。

 

「……傷の具合はどう?」

「どうもこうも、お前が一番分かってるだろう」

「そう、だね……ごめん」

 

 つい、謝ってしまう。彼女の口から離れたフォークが、行く場所を忘れて虚空を彷徨う。

 人里離れたこの場所は、時折吹く風と鳥の声以外に音はない。しんと静まり返った空気は、一度落ちた僕の気分を引き上げてはくれない。

 視線を落とす。細い僕の両足を、モードレッドの素足が軽く小突いた。

 

「黙るなよ。沈黙が一番、傷に響くんだ」

 

 憮然として鼻を鳴らし、モードレッドは少しだけ肩を動かし、自分の両腕を揺らす。

 

「全然変わらねえよ。動かす度に、血管に針を射れられるみたいな痛みがする。声を抑えらんない位ひどい奴が。こうして黙ってじっとさせていても、沢山の羽虫に囓られてるみたいな、じくじくした痛みが続く……相変わらず、オレの言うことを聞こうともしないしな」

 

 試しに指を動かそうとしたのだろう。モードレッドの瞼が痙攣し、唇が引きつる。静まり返った部屋は、彼女の小さなうめき声をハッキリと僕まで届かせた。

 治らない傷。終わらない痛み。ほんの少しの動きにさえ怯えなければいけない恐怖。途方もない苦しみは、僕に想像の余地さえ残さない。

 二月経過しても、彼女は相変わらず仏頂面で、口よりも先に脚が出る乱暴さだ。それは彼女なりの愛情表現である以上に、無理矢理強きを押し出す事で自分の弱みを覆い隠す、自己弁護に他ならない。

 それが分かってしまう。強気な表情の裏側に抱える苦悩が見えてしまう。彼女がこの二ヶ月で、自分が一人の少女でもある事を見せてくれたから。不安に怯える心を吐き出してくれたから。

 

「不甲斐なくてごめんね、モードレッド」

「ウジウジ謝るなよ、バカが」

 

 モードレッドが椅子に座ったまま膝を持ち上げて、僕の胸を押す。

 

「穏やかな時間を過ごそうって言ったのはお前だぞ。その時間の良さを、オレに気付かせたのもお前だ。そんなお前が焦ってどうするんだよ」

「だって、君の心が、まだ荒んでる。君が必死に痛みを堪えている時間を、平穏なんて呼びたくない」

「女々しい奴……だから、オレはここにいるんだろうけどな」

 

 胸に押しつけられた足裏が動き、踵が僕の肩をトントンと叩く。小気味良い衝撃が、僕を励まそうとしてくれる。

 

「オレが剣を持てなくなった時、お前はオレを捨てなかった。その上で、オレを諦めようとしなかった。だからオレは、一緒に逃げようと言ったお前の決断を否定しない」

 

 そう言うと、モードレッドはそっと椅子を降りて、僕の膝の間に座った。背もたれにした僕の胸に、硬質な金色の髪を擦りつける。

 

「だからあんまり気張りすぎんな。元からすぐに良くなるなんて期待してねえよ。腕の使えないオレに、肩肘張った姿見せるとかどんな皮肉だ、バカマスターが」

 

 そう言って、モードレッドは背筋をくうっと伸ばして、僕に背中を押しつける。両腕は僕の両膝に置かれ、力のない掌が僕の膝頭を覆っている。

 あるべき場所にすっぽりと収まったような体勢。僕の手は自然と彼女の両肩に向かう。

 

「ご飯は、もういいの?」

「飽きた。今はこっちの方がいい」

「気分屋だ。猫みたいだね」

「従者《ペット》はお前の方だけどな」

 

 僕の腕はゆっくり、流れるように彼女の身体を伝う。桃色の寝間着の柔らかな感触を抜けて、珠のように艶やかな肌を伝い、二の腕へ……肘へ。僕の手が末端に近づくにつれ、モードレッドの呼吸が早く、熱く濡れる。

 

「そっとだぞ、そっと……ッづ! ぅ……」

 

 指先が手首の傷に触れると、胸に押しつけられた身体が震える。悲痛な声は短い。無抵抗が肯定になって、僕にその先を急かす。

 フーッ、フーッという荒い呼吸を聞きながら、僕は慎重にモードレッドの指先を広げ、指を絡め合う。

 人形のように動かない、けれども命ある温かさを持つ、白魚のような指。体温を分け合うように、モードレッドの掌を握り込む。浅く早い濡れた吐息は、時折痛みを堪えるように途切れたり、落ち着くように深くなったりする。

 時折、気まぐれにねだられるようになった儀礼。彼女の生命力の強さと、どうしようもなく脆い儚さを感じる時間。

 

「ふぅ、つ、ぅ……こうしていると、自分の腕の感覚を思い出す。こんな形をして、オレの手首に繋がっているんだって」

 

 涙を滲ませた声。背中越しに、彼女の高くなった鼓動を感じる。

 

「オレの腕の事、聞きたがってたよな」

「……うん」

「ウザったい痛さは変わらないけどな……最近、それに波が出てきた」

「波?」

「引く時があるんだ。こうした後とか、ぼーっとしている時とか、お前の魔力供給とは関係無しに。最近は、一瞬だけだが痛みを忘れる時もある」

 

 痛みに苛まれているモードレッドからの、予想外の吉報。けれどモードレッドの言葉に喜びはなく、むしろ気味悪がるような色を感じさせた。

 

「けれど……何なんだろうな。この傷が治る気だけは、全然しないんだ。むしろ痛みが弱くなる程に、治る可能性が遠ざかっている気がする」

「……?」

 

 どういうことだろう。僕はモードレッドの言葉を脳裏で反芻する。

 傷は治らないのに、痛みは引いている。口ぶりからして、モードレッド自身とは関係無しに。

 呪いによって傷が治らないのに、果たして痛みは引く物だろうか。経口による魔力供給は、彼女の痛みを多少和らげる効果を持っていた。それでも、彼女の傷自体に与える効果は皆無だ。痛み止め以上の役割は……

 

(……)

 

 いや、そもそも。

 対魔力のスキルを持つセイバーと言えど、単なるブーストで、正体も分からない大いなる呪いに抗えるものだろうか。

 痛みは傷の副産物で、主観的な感覚だ。

 傷がある限り痛みは続く。そして、傷は決して治らない。

 では、モードレッドに起きている現象は、何なのだろうか?

 

 痛みが止まるというのは、治癒の証左か。

 それとも、腐敗か?

 

「っおい、マスター」

「……」

「ぎッ……マスター! どういうつもりだテメエゴラァ!」

「えっ? ——ごはっ!?」

 

 我を取り戻したのは、丁度彼女の頭が僕の鼻っ面に打ち付けられた時だった。

 仰け反り、椅子ごと倒れ込む。モードレッドはその前に僕から身を引き、凄い形相で僕を見下す。

 涙の堪った目に、僕が無意識のうちに、彼女の腕を無遠慮に弄っていた事を悟った。

 

「優しくしろっつったろーが、バカマスターが!」

「ご、ごめん。考え事してて……!」

「あー、クソ、オレも油断してた。やっぱり、テメエみたいなド変態に身を預けるべきじゃなかった! そんなに悩みたきゃ、脳味噌にカビ生えてブルーチーズになるまで引き籠もってろ、バーカ!」

 

 苛立ちを隠さずに、ドスドスと音を立ててリビングを出て行くモードレッド。

 ドアが割れんばかりの乱暴な衝撃がしたと思えば、後には素知らぬ顔を決め込む、森の静寂があるばかり。

 

「……難しいな。いろいろと、何もかも」

 

 しみじみと吐き出した溜息に、僕は目の前に積み上がった問題の重たさを、改めて感じずにはいられなかった。

 

 

 



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13話

 厚手のジャケットを羽織り、革製の手袋を両手に嵌める。玄関前の壁掛け鏡で顔を確認し、寝癖が付いていないかざっと確認。目の下の隈は……まあ、寝不足とでも思ってくれるだろう。

 買い物に行く際には、身だしなみのチェックは欠かせない。体面を気にする性質ではないが、変に疑られるよりは何倍もいい。

 壁に寄りかかってぼーっとしていたモードレッドが、身だしなみをする僕に聞いた。

 

「買い物か、マスター?」

「そんなところ。食料と、寒くなる前に防寒着も揃えないと」

「そうか。妙な事があったら、すぐオレを呼べよ。霊体化して駆けつける」

「きっと大丈夫だよ。でも、危なくなったらそうさせて貰うね」

 

 モードレッドの霊体化は、暗黙の内に僕等の最終手段に位置づけられていた。実体を失えば、呪いを塞いでいるという事実が薄くなり、痛みが鮮烈に蘇ってしまうからだ。

 幸いにも、そのような目に合わせる事態には、今のところなっていない。

 

「何か欲しいものはあるかい? 町で手に入るものだったら、買ってくるけど」

 

 外出用のブーツに履き替えながら、そう聞いてみる。

 背中越しに、彼女が胡乱げに考えているのが伝わる。

 迷いの後に返ってきたのは、僕の予想もしなかった回答だった。

 

「そうだな……じゃあ、煙草。あったら買ってきてくれ」

 

 靴紐を結んでいた手がピタリと止まる。

 

「……吸うのかい? 君が?」

「うるせえなぁ、いいだろ? 何となく吸いたくなったんだよ」

 

 自分の口から出た言葉に、モードレッドは自分でも戸惑っているようだった。

 

「いいのかな、年齢とか、見た目的に法に引っかかったりしない?」

「サーヴァント相手にトンチンカンな問答だな。黙って買ってこいよ」

「分かったよ。欲しい銘柄とか、ある?」

「なんでもいいけど、妙な味のするマズい奴」

「……変なの」

 

 要領を得ないモードレッドの説明に、僕は独りごちる。吸わない僕にとっては、全部妙な味にしか感じないだろうけれど。

 きっと彼女も、正確な味を覚えている訳ではあるまい。

 本当に何となくなのだろう。自分の意志とは無関係に、無意識の底から沸き上がる泡のような。

 

「けれど、まさか君が煙草を強請るなんて。娘の反抗期みたいで、割とショックだ」

「惚けた事抜かしてんなよ。今朝テメエに弄られてから、傷がビリビリするんだ。苛ついてしょうがねえ」

 

 舌打ちして、モードレッドは身を揺する。両腕は相変わらず、両肩から重りのようにぶら下がって揺れている。

 どこか落ち着かない、気ぜわしい様子。そこに僕はピンとくる。

 ……ああ、分かった。そういう事か。

 僕はポケットからあるものを取り出し、包み紙を解いてモードレッドに咥えさせた。

 

「はい、モードレッド」

「んも……甘っ。なんだコレ」

「飴だよ。煙草とは違うけれど、これでも代わりになるんじゃないかな」

 

 豆鉄砲を喰らったような顔で飴を転がす、モードレッドの頭に手を置いて、硬めな金髪を撫でる。

 

「多分、口寂しいんだろう。両腕が塞がれて、色々とフラストレーションが溜まっているんだ。それで、気を紛らわす物を求めているのさ。口は手と同じか、それ以上に触覚に敏感な部分だから」

「そうか。詳しいなお前……まあ、確かに鬱憤は溜まってる。オレも一端の人間って事か」

 

 カロ、と飴を転がして、モードレッドがそう嘯く。

 その声に自嘲の色を感じて、僕は殊更明るく、こう切り出した。

 

「ちなみに、口寂しいから煙草を吸うのは、幼い頃に吸っていた母親の乳房の感触を思い出すかららしいよ。つまり君は無意識に愛情に飢えているという事だ。気付かなくてごめんねモードレッド。さ、だからここは一つ、ぎゅっと抱き締められて僕の愛情を——」

「フン」

「えっふぅ」

 

 頭突きが僕の胸部に炸裂した。胸骨がメキリと音を立て、気管支が一瞬活動を停止する。

 うずくまる僕に向けて、モードレッドが端的に告げる。

 

「次は煙草だ、いいな」

「……イエス、マイプレシアス」

 

 ああ、パシリってこういう気分なんだな。頭上の冷ややかな声がとても怖い。

 

 

 

 

               ◇

 

 半ギレのモードレッドに半ば追い立てられるようにして、家を後にする。

 ドアを押し開けると、木の葉が隙間から滑り込んできた。同時に、外の冷たい風が吹き込んでくる。

 反射的に身をすくませてから、僕はドアを開け放ち、茶色く色づいた葉を足で払う。

 

いつの間にか、世界は燃えるように色づき始めている。

 秋が迫っていた。大きな葉は既に落葉し、地面を淡い茶色に染めている。

 この辺りにはモミジやイチョウが群生している。もう暫くして更に寒くなれば、鮮やかな紅葉を見ることができるだろう。

 そうすれば、二人で日が暮れるまで、紅く染まった山間をぼうっと眺めたりしよう。戦いに生涯を捧げた彼女は、そんな時間を素敵だと思ってくれるだろうか。

 いや、それよりも先に、寒くなる前にボートに乗らなくては。せっかくの清らかな湖を楽しまないのは大損だ。

 二人で向かい合って、船の揺れに身を任せるのだ。清らかな湖の上ならば、愛の言葉を囁いても許してくれるのではないだろうか。

 

「……揺れに耐えられるような、痛み止めの方法が分かれば、ね」

 

 呟いた言葉が、そのまま僕達の現状を示唆している。

 困った、やりたいことは沢山あるのに、境遇がそれを許してくれないのだ。豊かで静謐な自然も、今は眺めて通り過ぎる他にない。

 僕は小さな溜息を吐いて、家の横にある倉庫に向かう。

 木組みの倉庫の脇に繋いでいる馬が、ブルリと鼻を鳴らして、喜びの声を上げた。彼もすっかり、家族の一員として立派な顔になりつつある。

 僕はリンゴを咥えさせ、水を換えて、ブラシで軽く毛並みを梳いてやる。

 

「悪いけど、今日は町まで出掛けるから、君は留守番だ」

 

 鼻面を撫でてから、僕は倉庫を開き、留めてあった車に乗り込む。

 落ち葉を巻き上げながら、ガタガタのあぜ道を数十分。すると木々に挟まれるような道が終わり、人の手が加えられた道がやっと現れる。

 ひび割れたアスファルトを走り、更に小一時間。そうしてようやく、人の気配が現れる。

 

 町とは聞こえが良いが、道路を挟んで小さな家が並ぶだけの場所だ。四車線の広いアスファルトは劣化が進んでいて、並び立つ建物もどことなく色褪せて、樹木のような年期を感じさせる。

 幹線道路沿いにあるサービスエリアを、更に規模を縮小させたようなイメージが一番近い。実際に、森を切り開いて新しく町を作ろうという計画があったらしい。今ではその計画が頓挫し、その名残である古びた建物に、百に満たない人が暮らしている。

 

 ペンキがあちこち剥げ落ちた『Post Office』の看板の前で、僕は車を留めた。

 軋むガラス扉を押し開ければ、カウンターにふんぞり返っていた老人が、新聞を畳んで一瞥をくれた。

 

「ああ、誰かと思えばアンタか、駆け落ち男」

「……その呼び名、定着する前に改めてくれないかなぁ」

「そりゃ残念。ずっと前に、この町でのアンタの印象は女ったらしで決定してるわい」

 

 仏頂面に笑みを浮かべて、顔なじみになりつつある老人は、カウンターに置いていたパイプを吸いこんだ。

 

「背格好の違う娘を連れて、こんな辺鄙な所に引っ越しだ。女児誘拐と思われて通報されないだけマシだな」

「一応、ハネムーンのつもりなんだけどね」

「じゃ、早々に気がふれてる事に気付いて、小さな嫁さんに謝るこったな。ここにゃ森と湖と、後はジジババしか居ないぞ」

 

 そう言うと老人は、大儀そうに腰を持ち上げ、大きな箱を取り出すと、カウンターの上にドンと置いた。

 

「ホイよ、あんたの分の届けものだ。相変わらずアチコチから色んな本を取り寄せてるな。変な木彫りの人形やらもワンサカ。やたら高価な貴金属も……民俗学者サマか何かかい?」

「そんな所だよ。都会だと中々腰を据えて励めなくてね……あ、タバコってどこで売ってるかな? ちょうどあなたのパイプみたいな」

「やらんぞ、一点物だからな。安物の紙煙草なら、ゼフのジジイの店に行けば見つかるだろうて」

 

 咄嗟に質問を投げて、痛い追及をはぐらかす。民俗学者。言い得て妙な推測だが、下手に訝しがられるよりはマシだ。頭の中で納得していてもらおう。

 箱一杯の荷物を受け取りながら、僕はポケットから取り出した数枚の紙幣をカウンターに滑らせた。

 穏やかな笑みを崩さず、ほんの少し語気を強めて念を押す。

 

「それは取って置いてくれ。いつもの通り——」

「フン。金なんて、ワシ等にとっちゃ大した価値はないがね」

 

 言いながら、老人は紙幣を握り込み、ジャケットの内ポケットにしっかり仕舞い込んだ。ポンポンと胸を叩いてから、老人は紫煙を吐き出す。

 

「心配せんでも、アンタの事を広めたりせんよ。外との繋がりなんて要らんと考えてなきゃ、こんな場所におりゃせん」

 

 つまらなそうな老人の言葉は、実際に本当の事なんだろう。現に唯一の外界との繋がりと言える郵便局はいつも閑散としていて、郵便を蓄えている気配もない。

 

「手紙とか、来たりはしないのかい?」

「極稀にはある。遠い孫や、かつての友人とかからね。ワシ等はそういう少ない出来事を大層喜んで、後生大事に仕舞い込むのさ。そのぐらいでいいと考えてる」

 

 パイプから煙を吸い込みながら、老人はくつくつと喉を鳴らした。もたれかかった椅子が、ギシと古びた音を立てる。

 

「ゆっくり、のんびり、静かに生きれるのがこの場所の良さだ。けれど退屈には勝てんでの。腹減った魚が疑似餌に食いつくのと一緒。面白そうな物には目がないのよ。男と若い女の逃避行なんて特に面白くての」

「どんな想像でも、あなた達の生活を少しでも賑やかにできているなら何よりだよ……駆け落ちっていうのは、どうかなと思うけれど」

 

 戦いから逃げてこの場所まで来た僕達にとって、駆け落ちという表現はなまじ外れとも言えなくて、何とも笑えない。

 僕の苦々しい思いを察してか、老人は髭を蓄えた口元を緩めて笑う。

 

「若い嫁さんがいるんだ。老人の嫉妬に油を売ってないで、しっかり尽くしてやる事だね。エノクの婆さんが言ってたが、店に絞めたばかりの鶏があるそうだぞ」

「ありがとう。お陰で今日の晩ご飯も決まりそうだ」

 

 週に二度ほど会っていれば、こんな他愛ないやりとりも産まれる。

 悪くない居心地に笑顔で別れを告げて、僕は郵便局から出ようと踵を返し——。

 

 

 

 

「全く、隠居した老人にゃ、最近は忙しなさすぎだ。駆け落ちの若い男女に観光客と来た。こんな寂れた場所の何が楽しいやら」

 

 

 

 

 

 独り言のような呟きが、僕の足を地面に縫い付けた。

 

 

 

 

「……」

 

 身を捩り、荷物を抱え直しながら、聞く。

 

「僕達以外に、誰か来ているのかい?」

「知らんのか? 一週間ほど前に、ゼフの所に買い物に来てたぞ。双眼鏡ぶら下げて、バードウォッチングとか言ってたと。確かに鳥なら、ここじゃ嫌でも見れるだろうさ」

「今もこの町に? しばらくいるなら、挨拶くらいしておかなきゃ」

「さあねえ。少なくとも、この町に誰かを泊める甲斐性持ちはいないよ。どこぞで山ごもりでもしてるんじゃないかい?」

 

 つまらなそうな老人の呟き。これ以上詮索しても、良い情報は得られないだろう。

 

「へえ……それはそれは、物好きな人もいたもんだね」

「お前が言うな、お前が」

 

冗談でお茶を濁して、僕は肩を使ってガラス戸を押し開け、郵便局を後にした。

 

 

 必要な物を買うのに併せて、町の老人達にも話を聞いてみる。

 噂好きという事もあり、その観光客についてほぼ全員が知っていたが、やれ口を開けば老人だ若者だ、男か女かも曖昧で、詳しい情報は全く得られなかった。

 目撃者たるゼフの爺さんが、とうとう耄碌して息子の幻覚でも見たのでは? という意見が一番説得力がある有様だ。

 ストアで購入した煙草と飴を後部座席に詰みながら、僕は辺りをぐるりと見回す。

 人っ子ひとり見当たらない、閑散とした町並みがあるばかりだ。

 

「忘却や人払いの魔術が使われた痕跡もない……考えすぎかな」

 

 念のため町をぐるりと一周しても、新顔が泊まっている形跡や、魔術が使われた痕跡は見つからなかった。

 

 

 

 停車させた車のエンジンの振動に揺さぶられながら、僕は少し思案する。

 

「……」

 

 本当に物好きな観光客で、野鳥観察を終えて、さっさと帰ってしまったのかもしれない。

 ひとまずそう結論を打って、僕は車のギアを入れる。

 

 

 楽天が過ぎる、馬鹿げた思考に違いないだろう。

 けれど……焦りは、不安は、今の僕達が一番欲しくない感情だ。

 ここでの時間を愛しいと思っている。何よりも尊い穏やかな時間を、僕は尊重している。

 流れる時間の早さが変わらないならば、心はせめて、変えたくないのだ。

 

 「……はぁ」

 

 ただ、じっとり重たい溜息を一つ。

 脳内の終末時計を、零時に近づける。

 いつもより少しだけアクセルをふかして、僕は安息が待つ帰路を急いだ。

 

 



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14話

 聖杯戦争は終わっていない。

 

 分かっているつもりでも、その言葉は、僕の安穏な思考を無慈悲に押し潰す程に重い。

 サーヴァントが現世に顕現できているのは、聖杯による魔力の補助があるお陰だ。英霊は本来、僕のような端魔術師が呼び出せるような存在じゃない。

 聖杯は今も稼働し、サーヴァントを現世につなぎ止めている。右手の甲に浮いている、残り一画の令呪も、動かない証拠として刻まれている。

 そして、七騎のサーヴァントを争い合わせ、生き残ったひと組の願いを叶える為にこそ、聖杯は稼働する。役割が果たされるまでは、稼働し続ける。

 

 だから、聖杯戦争は終わっていない。

 英霊は現代最強の使い魔だ。過去に勇を馳せた彼等の力は一騎当千。彼等はこの世に仮初めの命を得て、願いを叶えるべく死闘を繰り広げる。

 サーヴァントを打ち倒すのは、同じサーヴァント以外にはない。

 

 

 だから、彼等は今もどこかで、牙を研いでいる。

 僕達の首筋を食いちぎり、彼女の存在を永劫に無に帰す為の牙を。

 

 

 

「……」

「もい、まふあー」

「……」

「もっ」

 

 臑を軽く蹴りつけられ、はたと我に返る。

 口の端に白い泡を着けたモードレッドが、苛立ちを滲ませて、上目遣いに僕を睨み付けていた。

 

「ごめん、考え事してた」

「むも、お」

「ごめんごめん。もう少しで終わるから、もうちょっとだけ我慢してね」

 

 暗い考えをとぼけた笑いでごまかして、僕は止めていた歯磨きを再開させる。

 モードレッドの顎に手を添えて、小さな白い歯に歯ブラシを優しく押し当てる。小刻みに手を動かす度に、しゃこしゃこという小気味良い音が洗面所に響く。

 

「苦しかった?」

「ふん」

 

 モードレッドは目線を逸らして抗議を現す。真正面に顔を据えて歯ブラシを突っ込まれているので、取れる対応がそれぐらいなのだ。口を閉じて窄めたほっぺたが、内側から押されてふにふにと形を変える。

 歯ブラシを動かす度に溢れてくる水気の多い白い泡は、顎に添えた手で受け止める。口から水分を溢すのが恥ずかしいのか、頬がほんの少し赤い。

 つり上がっていく眉を見て、僕は窄めた口から歯ブラシを抜いた。

 

「はい、下の歯終わり。一旦ゆすごうか」

「……ん、べ」

 

 言うが早いか、モードレッドは歯磨き粉の白い泡を洗面台に吐き出した。僕が水を入れたコップを差し出して、残りの泡も全部洗い流す。

 

「考え事か、マスター。不穏な顔してたぞ」

 

 モードレッドは、僕の放心を怒らず、神妙な顔で瞳を覗き込んできた。

 

「何でもない。ちょっと、これからの事を考えていたんだ。山積みの本が沢山あるから」

「……そうか」

 

 真意を問うような彼女の目を、僕は笑ってごまかした。追求はそれ以上なく、彼女は憮然とした表情で丸椅子に座り直す。

 歯ブラシを洗う僕を、神妙な目がずっと見つめている。

 無言の圧力が、僕の口を勝手に開かせた。

 

「今度は、東洋の漢方に挑戦しようと思うんだ。医学は殆ど門外漢だけど、やってみれば意外と何とかなるかもしれないし」

「……」

「それがダメなら、エジプトの呪術だ。試していない方法は沢山ある。根気よく、一つ一つ潰していかないとね。祈祷まで候補に挙げれば、遙か古代にまで遡る必要も——」

「マスター」

 

 とりとめの無い僕の冗句は、たった一言で霧散した。身体の動きが否応なしに止まり、蛇口から出る水の音だけが鼓膜を騒がせる。

 モードレッドは丸椅子に腰掛けて、両腕をだらんと垂れ下げている。身を包むのは柔らかな寝間着姿だ。

 それなのに、その目は、糊塗を許さない溢れ出る気概は、かつての騎士たる気迫で僕を慄然とさせた。

 

「マスター。お前の、聖杯にかける願いは何だ?」

「……急にどうしたのさ、モードレッド」

「いいだろ、聞かせろよ……身体を許した仲だ。もう一蓮托生だろ、オレ達」

 

 "あの時"の事を思い出してか、モードレッドが恥ずかしそうに身をよじる。けれどその声には変わらず、有無を言わせない迫力が滲んでいる。

 

「聖杯戦争で生き残るのは一人と一騎だけ。願いを叶えるために、オレ達は命を賭けて殺し合う……お前にも、命を賭けるだけの願いがあったんだろ?」

「……」

「万が一の生存を考えて『その先』の用意をするのは、まあ分かる。夢が砕かれたら、それまでの自分を捨てたいとも思うだろうさ……けど、お前は躊躇がなさ過ぎだ。お前といると、自分が何のためにこの世界に来たのかすら忘れそうになる……気味悪いぜ、正直」

 

 僕を見つめる顔に、不審はない。優しさすら感じる緑の瞳は、むしろ僕の身を案じていた。

 彼女の素足が、洗面所の床をなぞる。つま先がふわふわとした軌道を描く。自分がここに立っているという実感を、思い出せないかのように。

 僕はしばらく、その場から動けずにいた。水が滴る歯ブラシを握ったまま、彼女の目に射竦められる。

 後に続く言葉を頭の中で探し回り——結局僕が選んだのは、いかにもわざとらしい、優しい笑顔。

 

「……下の歯、終わらせちゃおう」

「……ん、あー」

 

 モードレッドは追求しなかった。僅かな沈黙の後、僕に向けて口を開く。

 規則正しく並んだ小さな歯。血色の良く瑞々しい口腔。珠のような頬も含めて、見ただけで感触が分かってしまうようだ。

 僕は歯磨き粉を乗せた歯ブラシを、そっと奥歯に当てた。しゃこしゃこという小気味良い音が、間に落ちていた沈黙を優しくほぐす。

 二人だけの時間。小さな口に歯ブラシを挿れてされるがままにさせる、どこか背徳的な距離。

 彼女が側に居ることを許容してくれる。それを思うと、僕の頭は、自然と言葉を組み立てていた。

 

「……聖杯が手に入ったら、僕は根源へ至りたいと願うつもりだった」

「ふほら」

「嘘じゃない。僕は本当に、君が思うよりずっと普通で、つまらなくてしょうもない奴なんだよ」

 

 漏れ出た笑いは、自嘲。

 すらすらと言葉を紡げるのは、心のどこかで吐露してしまいたかったからだろうか。

 

「魔術の探求の主体は、個人ではなく血脈だ。知識を積み上げ、優秀な遺伝子を残し、それを何代も繰り返し、何百年を経て、魔術を極めていく……僕は名家の産まれじゃなかった。歴史はまだ浅かった。産まれた時点で、僕は来世の為の捨て石だったんだ」

 

 憮然とした心持ちを、しゃこしゃこという音が緩和させる。

 気落ちする方が間違っている。魔術師にとってはそれが当然。何十代と積み重ねた果てで、子孫の誰かが根源へと到達できれば、その血族にとっては勝利なのだ。

 

「当然僕もその使命に従った。産まれた時点で見限られたも同然だ。期待はされたけれど、大きな成功は求められなかった。幼い頃から、生涯を魔術に捧げたよ。幾つも書物を読み解き、魔力を編む精度を高め、学び舎の学徒は全員敵と思って、我武者羅に頑張った……」

 

 その果てに気が付いたことは、魔術師としての在り方の宿命だ。

 個人を越え、一族として積み上げた時間こそが力であり、優秀な血脈を持つという、それそのものが一つの才能なのだという現実だった。

 

「どれだけ磨き続けても、石ころが宝石になることはない。僕は秀才にはなれたけれど、同時に決して天才にはなれない事を知ったんだ」

 

 勿論、落胆を覚える事も筋違いだ。魔術の探求は脈々と受け継がれ、途方も無く長い道のりを経る。僕の失意は当然の予定調和でしかなかった。

 

 

 その現実を否定する例外的な方法があるとすれば、この聖杯戦争だ。

 聖杯の魔力を用いて、英霊の座からサーヴァントを召還し、互いに争い合う。過酷極まりない戦いの果てには、僕のような凡夫にも根源へと至る可能性を得られる。

 聖杯に選ばれた時は、本当に嬉しかった。天から舞い降りた飛躍のチャンスに、心は湧いた。

 

「けれどもやっぱり僕は平凡でね。勝てる気なんて微塵もなかったんだ。僕は死ぬつもりで身の回りの整理をしたよ。荷物をまとめ、残すべき魔術を書にしたためて、残すべきでないものは処分した……家系の希望もあって、子供も仕込んだよ。来年には、僕の血統には三人の魔術師が追加されるだろう。妻らしい人の顔も、もう覚えてないけどね」

 

 目の前のモードレッドの顔は、それを聞いても歪んだりはしなかった。ただ憮然と聞き流す。その無感動に甘えるように、僕は歯ブラシを動かす。

 右側を磨き終えて、唾液で濡れる歯ブラシを、今度は左側へ。

 

「僕が死んで困る事はなくなった。僕は踏み台としての使命を全うして、何もかもを忘れて、命を捨てる賭けに身を投げて……その直前に、この家を買った」

 

 後を濁さず、綺麗に命を畳む準備をした。その最後の、余計な一手。

 またも自嘲が口から漏れる。つい数ヶ月前の出来事の筈なのに、その決断は、遙か遠い昔、現実かも分からない思い出に感じられた。

 

「自分でもよく分からないんだ。何でだろうね……虚しいって、思っちゃったんだ。魔術を極める事に人生を捧げて、家族の形すら、目的の為の沿線に過ぎなくて。僕の一生も、万歩の内の一歩にしかならなくて……いざ死を意識すると、根源に辿り着いて、結局僕はどうしたいんだろうとか、とりとめの無いことばかり浮かんでさ」

「……」

「魔術師としての僕は、この聖杯戦争で終わる。その最期を考えた瞬間に、僕は人間になってしまった。人並みの幸せを欲しいと思ってしまったんだ」

 

 本を読んで、自然の中でとりとめも無い事を考えて黄昏れて。

 今日の晩御飯や、新しいオーブンを買うかどうかでうんうん頭を悩ませたり。

 そうして、あわよくば綺麗な女性と巡り会えたら。

 恋に落ちて、子供ができて、立派な大人になるまで見守る事ができれば——。

 

 全く、呆れた夢想だ。魔術師として落第以下の最低だ。積み上げて来たもの全部を、僕自身が棒に振っている。

 僕がここに来ることを提案した時、モードレッドは僕を蹴り飛ばし、失意と憤怒の怒号をぶちまけた。その怒りは本当に正しい。僕は情けなさとだらしない保身の結果で、ここにいる。

 

「心から愛されたかった。誰かを本気で愛してみたかった……だから、僕は君とここにいるんだ。そういう、甘えた感情を理由に」

 

 それが彼女を守る事に繋がっているのは、確かにそうかもしれない。けれどそれは、僕に逃げるという選択肢を取らせる、体のいい理由にもなっている。

 情けない男なのだ。彼女の気高さに比べるべくもない、つまらない人間なのだ。僕は傷を受けた彼女の弱みにつけ込んで、英雄たる彼女を我が身かわいさに付き合わせている。

 

「聖杯にかける願いなんて、もうないんだよ。あるのは、ただ幸せになりたいという思いだけだ。君を呪縛から解放したい。一人の人間として、君と一緒に、苦しみのない時間を過ごしたいんだ……できるだけ、長い間」

 

 最後に付け加えた言葉。それが何より、この時間の脆さを物語っている。

 いずれ終わりが来る仮初めの時でしかないことを、僕自身が知っている。

 

 

 

 モードレッドは静かに僕の目を見つめていた。僕は歯ブラシを口から抜いて、顎に添えていた手で唇を拭う。

 

「終わったよ、お疲れ様」

「……ん」

 

 泡を吐き出し、口を濯がせて、僕は彼女の歯ブラシを洗う。

 背中にはずっと、彼女の視線が刺さっている。

 胸中に失望があるだろう事は明白だった。何が起きてもおかしくなかった。

 どこに脚が飛んでくるだろうか。臑か、背骨か、頭を洗面台に叩き付けられて、頭蓋がひしゃげてしまうかもしれない。

 

「……前にお前は言ったな。在り方で、オレ自身の存在が否定されることはないと」

 

 予想とは裏腹に、モードレッドが飛ばしたのは言葉だった。

 

「お前は良いマスターだった。情けないアホ面晒していても、戦いの間は勝つことに真剣だった……それが今は魔術師失格だっていうなら、お前はただの良い人間だ。ヘラヘラして苛つく脳天気だが、オレの事を想ってる、それだけは本当に嘘がねえ……だから何も言わねえ。女々しくて苛つくけど、否定はしねえ。お前は良いやつだよ。あんま言いたかねえけど、好きとも思ってる」

 

 丸椅子が動き、モードレッドが立ち上がった音がする。振り返れない僕から、足音が遠ざかっていく。

 苛立ちと、怒りと、やるせなさ。

 憤るあらゆる思いに必死に蓋をして、彼女は静かな声で呟いた。

 

「悪いのは、この傷と、それを付けやがったクソ野郎だ」

 

 歯軋りの音が洗面所に響く。

 ぶり返した痛みを黙殺して、モードレッドは乱暴にドアを蹴り開けた。

 

「だから忘れるなよ。必ずこの憎い傷を治して、顔も分からねえ敵をぶち殺すんだ。それまでは、オレはお前のサーヴァントで、お前はオレのマスターだ。もう暫く、魔術師として気張ってもらうからな」

 

 固く力強い声に、顔を上げる。

 目の前の鏡に僕が映り込んでいた。冴えない顔。天才じゃないただの男。

 いや、魔術師だ。こんな男でも、英霊を側に置く選ばれた魔術師なのだ。

 その顔の奥に、背を向けたままの騎士の姿がある。物憂げな立ち姿。力ない両腕を垂れ下げて尚、出で立ちには一本の芯を通した強さを感じる。

 

「全部終わったら。そん時にゃ、一緒にボートぐらい乗ってやるよ。王たる傑物からの褒美を仕ってやる」

「……ありがとう。頑張るよ、モードレッド」

「情けねえ声あげんなよ、バカマスター……ベッドに入る前に、ちゃんと歯ァ磨いとけよ」

 

 

 

 つっけんどんな声を最後にドアが閉まり、僕は一人洗面所に残された。

 僕はぴしゃんと自分の両頬を打った。鏡に映る情けない表情の男に渇を入れる。

 

「……聖杯戦争は終わっていない」

 

 当たり前の事実を思い知らせる為に、そう呟く。

 いずれにせよ、問題を解決しなければいけない。

 戦いから逃げ出しても、進む先は必ず『前』でなければいけない。

 どんな方法でもいい。僕は彼女を苦しみから解放してみせる。

 愛する人を、幸せにしなければいけないのだ。

 



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15話

 ——その者、名をモードレッドと謂う。

 今は昔、栄あるブリテンに生まれ落ちた、謀略に翻弄された悲運の子である。

 

 

 かつて地に君臨し、陸続きに並び立つ敵無しと謳われたブリテン王国。肥沃な土壌には多くの作物が実り、高き塀に守られた人々の顔には笑みが絶えず、日々鍛錬に汗を流す騎士には輝かんばかりの誇りを胸に宿す。

 豊かで満ち足り、誇りがあれど決して驕らない、そのような良き国は、良き王により守られていた。

 精霊に愛されし、義と忠に厚きアーサー王である。

 輝く聖剣を握りし王は、只人にあらず。老いず朽ちず、国を守る善き王として君臨していた。

 民は王を敬意を持ち信奉し、我が子、我が親であるかのように愛した。数多くの名高き勇士が彼の下に傅き、王ひいてはブリテンの勲の為に奔騰した。

 

 

 ……しかし、麗しく凜々しきアーサー王、その勇士を妬む者も存在した。王と血を分けし異父姉、モルガンである。妖術の才を得たが為に正しき道を歩めなかった彼女は、精霊に愛され誉れを一身に受けるアーサー王を疎ましく思い、深き影より、王の失脚を虎視眈々と画策していた。

 モルガンは嫉妬深く、また強力な力を持つ妖女であった。彼女は魔術により王への悪業を図り、時には自らの美しき肉体で持って、忠臣の不義を図る事もした。あらゆる手を用い、彼女は王の失脚を画策した。

 

 

 モードレッドは、そんなモルガンの邪悪な奸計の一つとして産まれた。

 王の種に自らの胎を差し出し産み落とされた、王の血を継ぐ息子であった。

 モードレッドは優れた武の才と、王にも負けぬ気高さを有していた。彼は当然のように名を馳せ、やがては王の直属たる円卓に名を連ねる事を約束されていた。

 

 

 それは魔女が仕込んだ、最も大きな謀略の礎だった。呵るべき時に彼は、自らが王の息子であることを知り、王になる資格を有する事を知るのだ。

 モードレッドの不遜と、王位を狙う執念こそが、盤石たるブリテン王国に、今度こそ消えぬ傷をもたらすとされていた。

 

 

 

 

 ——しかし、その謀略は、他ならぬモルガンの手によって覆る事となる。

 彼女の腕に収まった赤子は、偽物と呼ぶには余りに輝きに満ちていた。執念に穢れた魔女の瞳は、モードレッドが、あの憎き王に比類する程の才持つものであることを見抜いていた。

 

 

 この者は、あまりに王に似ている。モルガンは恐れ戦き、逡巡した。

 もしや、本当に王の正統な後継者となるのではないか。王の魂を詳らかに受け継ぎ、善き王として王座に座るのでは無いか。その不安は、密やかに謀略を企てるには、余りに大きすぎる懸念だった。

 

 

 モルガンは、この奸計を取り消す事にした。

 彼女は鋏を手にすると、安らかに眠る王の息子の腕を切り落としてしまった。

 生まれ落ちたばかりの赤子に、その忌まわしき鋏を防ぐ術はない。柔らかく小さな手は、栄光を掴まず、親の顔を撫でる事すらもなく、ブリテンの路地の裏、光差さぬ影の中に腐り落ちる事となった。

 

 

 モードレッドは、その事実を知らぬ。彼は両腕のない不遇な身として、自らを産んだ両親も、産まれた理由すらも知らず、人目を避けるようにして、恐る恐る生涯を生きるのだった。

 

 

 

 

 ——ああ、モードレッド。王たる資質を持ちながら、魔女の謀に未来を奪われた悲哀の浮浪者。両腕無き、栄光掴めぬ不憫な銚子よ。

 ——これはそういう悲劇の話。

 不遇の息子、モードレッド。母の愛も、父の顔も知らぬモードレッド。

 

 

 

 

 ああ、なんとかわいそうに。かわいそうに。かわいそうに……

 



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16話

 

「っ——は」

 

 悲鳴を上げないのは、殆ど奇跡に近かった。オレは毛布を蹴飛ばして飛び起きた。喘ぐように吸い込んだ大量の空気で、肺が引きつった痛みを訴える。

 

 ここは……オレ達の家だ。オレが昨夜眠っていた寝室だ。

 オレは、オレだ。まだオレだ。これからもオレなんだ。

 反射的に、オレは自らの事を思い出す。モードレッド。円卓の末席。

 アーサー王の息子にて、父上を打ち倒しブリテンを破壊した叛逆の騎士。

 だというのに、アレは……!

 

 歯噛み、その瞬間に驚愕する。

 手首から先の感覚が、喪失していた。

 猛烈な恐怖に駆られて、オレは両手を力強く握りしめようとした。

 その途端に激痛が雷のようにオレの脳髄を打ち、朝の目覚めを最悪に変える。

 

「っぎいいっ、い……!」

 

 歯を食いしばり、悲鳴を黙殺する。身を引き裂かれるような痛み。これがやっと、両腕の感覚を思い出させてくれる。

 総毛立った全身を、朝の冷え込んだ空気が撫でる。眼下の毛布に、数滴の涙が落ちる。

 信じられない。目覚めた一瞬、オレは自分の両手が『在る』事を忘れていたのだ。

 アイデンティティの崩壊である両腕の喪失を、気がつけなかったのだ。

 

「ん、だよ。畜生め」

 

 悪態を付き、オレは余韻にビリビリと震える腕を垂れ下げる。

 悪夢は毎日のように続いていた。日を追うごとに、より悍ましく、明瞭になって。

 夢に落ちる度に、オレは自身の記憶の中を彷徨った。カムランの丘にて王を打ち倒した時。憤怒に燃えて群衆を率いブリテンを転覆させたあの時。円卓の騎士として王の下に集った時。

 両腕の傷は、そんなオレの記憶に食い込み、オレの功績、オレの形跡を消し去ろうと目論む。

 

 まるで、品定めでもしているように。

 『もし最初から両腕がなかったとしたら、どこが一番都合がいいだろうか』と、値踏みをするように。

 

 その下らない検証は、とうとうオレが産まれたばかりの記憶にまで絡みついてきた。

 今回のは、一際最悪だった。憎き母の事を思い出したばかりか、オレという全存在を否定されたのだ。お前のような存在は最初から有り得なかったと、嘲笑うかのように。

 

「オレは、モードレッドだぞ。モードレッドなんだ……クソ、クソ」

 

 声が震える。

 記憶の中の傷は、日増しのその存在を確かなものにしていく。それに合わせるように、傷の痛みは次第に引いていく。

 痛みが引くのと同時に、両腕があるという確証が薄れていく。

 かといって、痛みは決してその強烈さを損なわない。少しの身じろぎに対して雷のような報復を与え、オレを恐怖で縛り付ける。

 呪いが侵攻しているのか、その他に原因があるのか、そもそもこれは本当に呪いなのか。

 それは分からない。けれど——目覚めると手首から先が無かった。そういう状態に陥る可能性を、否定できない。

 

「オレの過去に……入ってくんな。クソッタレ……!」

 

 ただただ、恐ろしい。

 武力ではどうにもならない浸食。熱意を嘲笑う事実の改悪。

 オレがオレでなくなるのではない。『オレがオレであることに確証が持てなくなる』という恐怖。

 このまま日が経てば、いつかこの傷を当たり前と思うのではないか。そう思うと、いてもたってもいられない。

 

「オレはモードレッドだ。思い出せ、思い出せ……」

 

 王に向けた羨望を思い出す。自らの不義の産まれへの嘆きを、母への怒りを思い出す。嫉妬と激情にて振るった剣の感触を思い出す。

 そして、この聖杯戦争にてマスターと戦った、激しくも充実した日々を思い出す。

 記憶を蘇らせる度に、両腕が痛みを訴えてきた。体内で喧嘩をするように。聞き分けのない子供に折檻するように、激痛が走る。

 オレがオレである事を確かめるのにも、痛みが伴う。肯定さえ楽ではない。

 何なんだ、コレは。なんでこんな目に……。

 

 

 じっとしていれば、またオレは泣いてしまったかもしれない。そうなるより先に、寝室のドアが開け放たれた。

 覚束ない足取りで踏み込んできた、陰気な顔に、オレの意識は向かう。

 

「マスター?」

「ん……ああ、モードレッド。おはよう」

 

 胡乱な目を向けて、マスターは疲れ切った笑みを浮かべる。様子からして、早起きして朝食の準備をしていた訳では無いらしい。

 

「ちょっと、熱が入りすぎちゃって。気付いたら朝だったよ」

「なんだよ、じゃあお前、ずっと工房に籠もってたってのか?」

「まあね。流石に、頭を働かせすぎた。立ってるのもしんどいくらいだ」

 

 そう言うと、マスターは糸が切れたようにベッドに倒れ込んだ。靴も脱がずに、ベッドに大の字になる。

 

「ごめん、少し寝るよ。朝食、何も準備してないけど……」

「疲れ切ったお前を見てねだる程強情じゃねえよ……無理すんなって言っただろ、ゆっくり休め」

「……ありがとう、モードレッド……」

 

 最後の感謝の言葉は既に寝言に近かった。マスターは直ぐに寝息を立て始めた。とぼけた寝顔がオレの方を向いて、柔らかなベッドに沈み込んでいる。

 オレは脚を使って、オレの使っていた毛布を上にかけてやった。

 

 そのまま暫く、マスターの寝顔を見下ろす。

 惚けた寝顔。その表情は疲れ、目についた隈は落ちる様子はない。

 ここに来てからも、コイツの飄々とした態度は相変わらずだが、たまに意図的にそれを保とうとしている様子を浮かばせる。

 無理をしているのは明白だった。

 

 

 それはきっと、全部。コイツの疲労や、苦労は、全部……。

 

「……オレなんかのために、悪いな、マスター」

 

 流石に、頬にキスなんて女々しい真似はしない。せめて良い夢が見られるように、マスターの背中にごつんと頭を押しつけて、オレは静かに寝室を後にした。

 リビングは閑散としていたが、食事用のテーブルの上に煙草と、包み紙を解いた棒付きキャンディーが置かれていた。二つの間にメモ用紙が張ってあり、マスターの字で『ご自由にどうぞ』と書かれている。

 しかし、ライターらしき物が見当たらない。まさか、煙草は火を付けないと吸えない事を知らないのだろうか? 笑えない冗談にも思えるし、あのおべんちゃらなマスターなら本気で気付いていない可能性がある。

 舌打ち一つ、オレは口で飴玉を取り、口中で転がす。

 柑橘系の酸っぱい甘さが、少しだけ気分を沈めてくれる。

 心の底から不愉快だが、口寂しいという感覚を身体で理解した。

 

「……愛情が足りない、ねえ」

 

 カロ、と音を立てながら、そう呟く。

 母に謀略の道具として産み落とされ、怨嗟の果てに父上を殺した。このモードレッドに愛情が足りないと、よくもまあ口に出せた物だ。

 そうやって苛つく。けれど、口を踊る飴玉の感触に、安らぎを覚える事も事実だ。

 ごまかしかもしれない。それでも苦痛の緩和は、オレにとってこれ以上無い癒やしだ。

 

 

 

 思わず、縋り付きたいという願望を抱いてしまう。

 愛情が、この苦しみを解いてくれるなら……例えば、固く強く抱き締められたなら。

 この不安や恐怖も、霧散してくれるのだろうか。

 ちょうど、ここに来て直ぐに組み敷かれた、あの時のように。抵抗できないほど乱暴に、雄々しく、それでいて包み込むように優しく、愛情を注ぎ込まれたら。

 

「……って、これじゃオレがサカってるみたいじゃねえか」

 

 自分の想像に墓穴を掘って、勝手に赤面する。初心な生娘のような自分に、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。

 思い出すのも恥ずかしい、女としてのオレ。子供みたいに泣きじゃくって、マスターを求めたオレ。

 あれこそ、最もモードレッドらしくない痴態だった。溜まらなく恥ずかしいのに、記憶は鮮明で、全く色褪せようとしない。耳元で囁かれた言葉を、感触まで思い出すことができる。

 怖くなる程の快楽だった。溺れてしまいたいと望む程の愛情だった。

 そして、オレがひとたびそう望めば、アイツは心ゆくまで、オレの望むままに全てを包み込んでくれるだろう。

 

 

 思えば、真にオレが変わったのは、あの時なのだろう。あれ以来、オレのタガはどこか外れてしまったのだ。

 不意に胸が切なくなり、肌の感触を求めてしまう。痛みに怯え、慰めを求めてしまう。

 そんな弱さを見せる度に、両腕の痛みは薄れ、悪夢がオレを蝕んでいくのだ。

 溺れてしまえと言わんばかりに。オレという存在を捨ててしまえと、言わんばかりに。

 

「……ッ」

 

 苛立ちのままに、大きいままの飴玉を噛み砕き、咥えていた白い棒を吐き捨てる。

 飴をもう一本くわえ込んで、オレはドアを蹴り開けて外に出た。朝の冷たい風が、馬鹿みたいに浮ついた脳味噌を冷ましてくれる。

 何も無い、自然ばかりの殺風景な景色。そこを流れる風も、どことなく素っ気なくオレの髪を梳いていく。

 特に何も考えなかった。脚は自然と動き、その先には、倉庫に繋がれた馬がいた。

 彼はオレの接近に気が付くと、ブルリと鼻を鳴らす。吐息がいつもより乱暴だった。いても立ってもいられないというように、しきりに蹄で地面を掻いている。

 

「落ち着けよ……大丈夫だ、心配すんな」

 

 オレは倉庫の住みに積んであったリンゴを足で転がして、馬の下まで運んでやる。

 喜んで齧り付くのを横目に、オレは馬の腹に顔を押しつけた。

 

「繋ぎっぱなしで悪いな。お前も、色々と溜まってそうだ」

 

 何となく親近感を感じたくて、頬を押しつける。

 むせっかえる野生の匂い。逞しさを体現するような、厚く固い皮。

 毛並みが柔らかいのは、適度にブラッシングをされているからだろう。マスターが空いた時間で、コイツの世話もしているのだ。寝食を忘れるほどに魔術に打ち込んでいるにも関わらず。

 せめて、オレが連れてきたコイツの世話だけでも、できればいいのだが。バケツに飲み水を入れて、毛並みをブラシで梳いて、手綱を引いて思う存分走らせてやれれば、さぞかし気持ちが良くなるだろう。

 そうあればと思う全部が、今はもう夢物語だ。両腕を使えない事によって産まれた『できないこと』は、最早人でなしと呼ばれる程に多い。

 

 

「……」

 

 もどかしい。全部が帰結する感情は、それだった。

 思うがままに敵を屠り、困難を力で唾棄してやりたいのに。

 怒りを原動力に民衆を導いたあの時のように、マスターの悩みを吹き飛ばしてやりたいのに。

 

 やり方は何でもいい。

 彼のために、少しでも力になりたいのに。

 ここではオレは、傷を負った、か弱い少女でしかない。

 

 自分に自信が持てない。その不安も、きっとオレを悪い方向に運んでいる。ウダウダ考えないのも、オレらしさであった筈なのに。

 暗い思考を遊ばせるオレの意識を、ブルリという鼻息が引き戻した。既にリンゴを食い終えた馬が、懊悩に身を捩る。

 その視線は、オレの反対側——離れにあたる木造の倉庫に注がれている。

 視線を注いだまま、またブルリと鼻を鳴らす。蹄は不機嫌そうに、不安そうに、地面をザリザリと掻いている。

 横面に顔を当てて宥めてから、オレは言った。

 

「……お前に教えられなくたって、分かってるよ」

 

 オレは、アイツのサーヴァントだ。

 アイツの刃として、立ち向かう。それが何よりも前提とされる、オレの存在理由なのだ。

 

 

 

 



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17話

 勢いよく扉を蹴る。それだけで錆びた錠前は砕け、年期の入った木が悲鳴を上げる。

 開け放たれた扉から早朝の白い外光が差し込み、倉庫の中の闇を取り払う。古い木壁の隙間からも外光が差し込み、全体の輪郭が薄ぼんやりと浮き上がっている。

 立てかけられ、何年も乗り手のいない古ぼけたボート。埃を被った発電機。所々が粘つき溶解したプラスチックのバケツ。錆び付いた芝刈り機。

 ずっと前に置き去りにされた道具達の生活の残滓が、まるで幽霊のように浮かび上がる。

 

 

 重苦しく沈んだ、灰色の世界。

 湿気って今にも崩れそうな角材の束に、ソレは静かに座り込んでいた。

 

 

 外光が届かない奥。暗闇の中に、項垂れたシルエットだけがぼんやりと浮いている。

 埃臭い空気を吸い込む。張り詰めた弦のように意識が冴える。両腕に走る痛みを黙殺して、オレは問いかけた。

 

「——何者だ」

「……私に、名前を名乗る程の意味はありません」

 

 人間味の欠けた、穏やかとすら思える声。人影はゆらりと立ち上がった。

 少なくとも、敵意のような物は感じられなかった。身構えるオレの前で、ソイツはゆっくりと歩き、明かりの中に姿を晒しだした。

 ソイツは灰色のローブを纏っていた。顔をすっぽりと覆い隠し、表情までは分からない。影そのものが形を纏ったような薄気味悪さの中、首からぶら下げられた双眼鏡が、レンズを反射して場違いな存在感を光らせている。

 身に纏う静かで希薄な雰囲気には、覚えがあった。

 

「前に会ったな。聖杯戦争の、監視者とか言う奴だ」

「その通りです。久しぶりですね、セイバー」

 

 聖杯戦争に参加した時、挨拶としてマスターと共に顔を見せにいった。そこでコイツに、聖杯戦争の一通りのルールを教えられたのだ。手を借りるのは癪だったので、それ以来一度も会うことはなかったが。

 聖杯戦争というシステムの上では欠かせない存在。けれど、それがここに居るのは、明らかに異常だった。

 

「何かあったら頼れとは言ってたけどな。これは干渉が過ぎるんじゃねえか? どこから嗅ぎ付けやがった」

「あなたは聖杯の魔力より産まれた英霊。どこにいても、その経路までは隠す事はできません」

 

 無感情さに僅かな慇懃さを感じさせる丁寧語。空気は相変わらずひっそり冷え込んでいて、それが奴の不気味さを強調させている。

 監視者が来た理由について大体は察する事ができた。奴は静かな声で、予想通りの言葉を放つ。

 

「聖杯戦争は、七騎の英霊が争い会う大規模な魔術儀式。それを悪戯に長引かせる事は、様々な弊害を産みます」

「泣きつきに来たなら、尻尾振って帰るこったな。第一、聖杯戦争に明確なルールなんて無いはずだ。何をしようと、オレ達の勝手だろ」

 

 冷たく言い放つ。不機嫌を隠す気など微塵も起きなかった。

 誰にも穢されず、静かに安らかに暮らしたいというのが、マスターの願いだった。

 それが上手くいくはずないのは分かってる。けれど、こうも易々と土足で踏み込まれては、オレの溜飲が収まらない。

 監視者は相変わらず表情を闇に隠したまま、フードを静かに頷かせた。

 

「……確かに。傷を癒やし、手を整え、時を待つのも戦略の一つ。私にはそれを止める理由はない」

「ッだったら——」

「それでも、ここに来たのは一抹の善意の為」

 

 予想もしなかった言葉が飛び出し、オレは後に続く言葉を失った。

 

「善意だぁ?」

「教えて差し上げようと思ったのです。貴方がたの思い描く日々が……泡沫の夢であるという事を」

 

 そう言って、フードの男は腕を持ち上げた。ローブから覗く枯れた掌から、二本の指を立てる。

 心の準備もできないままに、奴は決定的な事実を突きつけた。

 

 

 

「サーヴァントは、残り二騎となりました」

「ッ——!」

「聖杯戦争は、近いうちに終わりを迎える事でしょう」

 

 端的な一文。オレの心を何よりも突き刺す言葉。

 オレの動揺など意にも介さず、管理者は言葉を続ける。

 

「やがてここは戦場になる。貴方が受けたモノを道導として……火蓋は落ちる。そう遠くない内に。今すぐにでも」

 

 今更言われるまでも無い、自明の事だった。管理者すらここに辿り着いたのだ。敵のサーヴァントがここを見つけられない道理はない。むしろ、この管理者が公正を重んじる人物ならば、居場所を教えてしまうリスクがないから会いに来た——つまりは、相手はとうにここを突き止めている可能性もある。

 

 

 冷や汗が頬を伝う。むず痒い嫌な感覚が顔を這う。

 顔を拭う行動を妨げる両腕の傷は、消えていない。

 つまりは、そういう事だ。

 この傷を与えた張本人が、オレ達に迫っている。

 

 

「あの方の聖杯を追い求める願望は本物です。あの『神殺し』は、どんな手を賭してもあなたを殺すでしょう」

「……」

「ありもしない安寧に縋り付いて命を落とすのは、あなたの矜恃にも反するはず。ですからこうして、伝えに来たのです」

 

 あくまで善意。そう強調して、監視者は伝える。在るはずの無い日々を求めるオレ達がいかに情けないかを。あって欲しいと願う時間がいかに有り得ないかを。

 

「……分かった。情報ありがとうよ。もう終わりか?」

 

 確かに、善意だろう。吐き出される言葉は正論だろう。

 だが、オレの気分は最悪だった。

 

「なら失せろ。十分だ。もう声も聞きたくねえ」

「……せめて、後悔なされませぬよう」

「失せろと言ったんだ。三度目はないぞ」

 

 ドスを効かせて睨み付ける。その瞬間に両腕に痛みが走り、オレの瞼が痙攣する。

 見え透いた虚栄。きっとその姿は、監視者の目にはさぞかし滑稽に映っている事だろう。奴は少し頭を下げると、滑るように後ろへと下がっていき、闇の中に溶けて消えた。

 張り詰めていた緊張が無くなり、いつもの静かな空気が戻ってくる。何かの魔術か、最初から幻覚だったのか。何にせよ、そこに監視者の姿は無くなっていた。

 冷え切った空気が背筋を撫でる。両腕がじくじくと耐えがたい痛みを伝えてくる。

 

「神殺し……神殺しだと?」

 

 ヒントか、それとも挑発か、監視者が呟いた言葉が脳内を駆け巡る。

 神に相見え、ましてそれを打ち倒した人間が、オレ達の敵?

 オレの歴史を塗り替えられる程の、強力な能力を持った相手……その、未だ素性も知れない影が、異様な大きさに膨れあがる。

 

 影の大きさは、己の疑心暗鬼の強さだ。

 不安。畏れ。それがオレの中に居座っている。本当に勝てるのか? という、信じられない程臆病な問いが。

 

「……クソッ」

 

 苛立ちのままに壁を蹴りつけ、オレは倉庫を後にする。

 色んな感情がごちゃ混ぜになって、混乱する。足下の地面が、ぐずぐずに溶けていくようだった。

 顔を上げれば、色づき初めた森の中に、ぽつりと佇む一軒の家。

 視界には鏡のように澄んだ水面を讃える湖。腹の内にはぐらぐらと煮える、どす黒い感情。主体と客体が剥離して、現実味を喪失させる。悪夢か、蜃気楼でも見ているみたいに。

 

 

 

 ——なんでこんな場所に?

 不意にそんな疑問が浮かんでくる。心に亀裂が走った音がする。

 戦うための存在の筈だ。

 願いを叶える為の、人生を賭した、全てを捧げる戦いの筈だ。

 オレは誉れ高き英霊であり、怒りを宿す叛逆の騎士であり、マスターの剣であるはずだ。

 

 

 

 決して忘れた訳じゃなかった。

 けれどオレは、無意識に直視するのを避けていたのだ。

 

 

 

「……はぁ」

 

 重たい……とても重たい溜息が漏れた。

 倉庫の壁に頭を押しつける。古びてささくれ立った木の壁に、額を擦りつける。

 マスターに伝えるとか、準備とか、必要なことは幾らでもあるはずなのに。オレはただただ、独りよがりにナイーブになっている。

 

「……なんだよ」

 

 とても、気が重い。マスターの、あの底抜けに明るい面が寂しげに曇るのは、できれば見たくない。

 残念で、無念で。

 込み上げてくる感情に、改めて自分がいかに情けないか、自分らしくないか気付かされて。

 

「ここまで、気に入ってたってのかよ。オレは」

 

 せっかく、いい物だと思い始めていたのに。

 誰かを好きになる事が、好きな人が隣に居るということが、悪くないものだと気付けた所だったのに。

 自分が何を考えているのか分からない。

 あるべき姿を思い出した使命感。新たに芽生えてしまった女々しい感情。相反する二つの感情が、混じらないままに頭をぐるぐるしている。

 

「……」

 

 けれど、いずれ来る筈の時だった。

 だから、結局、この時間は全部幻想だったのだ。

 

 

 

 オレは壁から頭を離し、家の中へと戻った。扉をくぐり、リビングへ。

 ガラス張りの壁から、白く輝く朝日が射し込んでいる。透き通るような湖面が光を反射し、木々が蓄えた朝露が輝き、景色全部が星屑のように煌めいている。

 ずっと見続けていた景色。不機嫌と苛立ちを抱えたまま、オレはソファに座って、ここの景色を見ていた。

 何もせず。何もできない現実を認められず、何かする事を酷く恐れて。

 尊い時間に気づきもせず、怯え続けていた。

 

 

 そんなオレにも、あの男は優しかった。

 全てにおいて、オレの事をひたすらに想い、案じていた。

 

 

 その思いが脳裏をよぎると、オレの足は自然とそっちへと向いていた。

 薄いカーテン越しに朝日の射し込む、寝室。

 中央のベッドで、マスターは静かに寝息を立てていた。いつの間にか体勢が仰向けになり、オレが賭けてやった毛布はヨレヨレになって、腹にかかるだけになっている。

 オレのマスターは、隣で何があったかも知らずに、幸せそうに眠っている。子供みたいな優しい表情を浮かべていた。

 

「……もー……れっど……むにゃ」

「バカみてえな寝顔……夢の中まで、オレのことかよ」

 

 思わず、苦笑する。それと同時に、胸がきゅうっと締め付けられる。

 陽光に温められた空気。淡い黄金色の寝室。耳をすませば聞こえる寝息。

 温かく綺麗で、どこか甘く柔らかい空間。

 退廃的で、屈辱的で、それなのにとても愛おしい。

 二人だけの、偽りの安寧。

 

「……」

 

 ここでなら、夢を見ることも許されるだろうか?

 安らかな感情に、甘い欲望に、身を浸してもいいのだろうか?

 もう少しだけ、甘えてもいいだろうか?

 

 

 

 

 オレの女々しい感情が、急に存在感を増して、オレの胸を高鳴らせる。

 ごくり、と勝手に喉が鳴った。

 脳裏に浮かんだ馬鹿げた考えに、勝手に乾いた笑いが漏れる。

 

「……よお、マスター。オレに対して、やれ口寂しいだ、愛情が足りないとか、ずけずけと抜かしやがったな」

 

 膝をベッドに乗せる。ギシ、と音がして、柔らかく沈み込む。心臓の音がうるさいくらいに高鳴っている。

 オレは今、一度目の人生を含めても、一番馬鹿な事をやろうとしている。

 けれど、もう止められなかった。

 感情を振り切れない。

 この空間を、彼を、愛しいと思ってしまう。

 

「さっき、嫌な事があってよ。苛ついてしょうがねえんだ……けど、お前に好き勝手されるのは、プライドが許さねえ」

 

 両膝をついて、マスターの足下に腰を下ろす。

 ごくりと喉を鳴らして、生唾を飲み込む。吐き出す息が熱い。自分がやろうとしている事に、興奮を隠しきれない。

 何も知らずに寝ているマスター。オレを好きと抜かしやがる、オレの相棒。

 真っ赤な顔を強がりで誤魔化して、オレはゆっくりと、マスターのズボンに向けて上体を屈ませた。

 

 

「だから——勝手に発散させてもらうぜ、バカマスター」

 

 



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18話

エロです。
本編です(迫真)


 両腕を放り出した姿勢で、オレは顔をマスターのズボンに近づける。

 鼻を近づけただけで、マスターの男の匂いを感じた。思わず呼吸を深くして、その香りを胸一杯に吸い込んでしまう。

 それだけで、考える脳に靄がかかったようだ。女としてのオレが、興奮と緊張に胸を高鳴らせている。

 

「はぁー……んっ」

 

 高鳴る鼓動に押されるように、オレは息を止めて、マスターの股間に顔を埋めた。

 固いカーゴパンツ越しに、奥にあるモノの感触を感じる。未だ固くない、柔らかな弾力ある曲線。オレの口はそのラインを感じるようになぞり上げ、硬いチャックの感触を捉える。

 息を止めたまま、歯でジッパーを下ろす。小鳥の囀りが聞こえる寝室に、ジィーという軽い音が背徳的に混ざる。

 隙間から覗くパンツに、オレはもう一度顔を押し当てた。

 自分がどれだけとんでもない事をしているか。その羞恥心が熱になって、オレの顔を熱くする。残っていた理性が融和していく。

 オレは口をもごもごと動かして、隙間からソレを引っ張り出した。

 

「っ……ゎ」

 

 パンツの隙間から、むせかえるような雄の匂いが漂ってきた。思わずオレは顔を離し、ソレをまじまじと見つめてしまう。

 引きずり出したマスターのイチモツは、拍子抜けするような小ささだった。浅黒くツルツルした皮の先から、薄いピンク色の先端が少しだけ顔を覗かせている。外気に触れたせいか、小さなチューブ状の竿がひくひくと震えていた。

 

「……へ、へへ」

 

 こうして近くで見るのは、初めてだった。ナマコのような気味悪さ。けれど、オレの中をガンガンに突き回したような、乱暴な怖さは感じなかった。生々しい肉感をした竿の形に、本能的な女性の部分を呼び覚まされる気がする。

 バクバクと心臓が高鳴っている。「正気か!?」と、最後に残ったオレの理性が上擦った悲鳴を上げている。

 心を落ち着かせる為に、オレは数度深呼吸をする。その度に、鼻を刺すような濃い匂いが肺に潜り込んできた。

 脳がヒリつく雄の匂い。鼻先を近づけると、小さな化け物は待ちわびるようにヒクヒクと痙攣する。

 その距離になってようやく、マスターが工房に籠もりっぱなしで、風呂にも入っていない事に気が付いた。

 

「ほんと、くっせえな……あ、む」

 

 構うものか。悪態と一緒に口を開いて、オレはマスターのペニスを咥え込んだ。

 てっぷり太くて柔らかい竿が口の中で震える。こじんまりした見た目と裏腹に意外と大きく、プニプニの弾力ある質感で、口の中が一杯になる。

 熱くて、柔らかいゴムを撫でるような、奇妙な感触。オレは自然と舌を動かして、血管の張った裏筋をなぞった。

 

「む……ふむ、ふぅ、ん……」

 

 舌を動かして、被っていた皮と亀頭の隙間に滑り込ませる。唇をもごもごと動かして、撓んだ皮に押しつける。両手で支える事ができないから、押しつけた頭を持ち上げるのが億劫だ。だから、思い切って根元まで、ぱっくりと唇で包んでやる。

 根元まで頬張るのは簡単だった。もじゃもじゃの陰毛が鼻面をそよいでくすぐったい。

 温かく柔らかい感触に、ペニスが稚魚のように口内を跳ねた。オレは口全体を窄めて、その動きを包み込む。落ち着かせるように舌を頭に這わせると、その度にぴくりと敏感に跳ねる。

 

「ふぅ……ふぅー……」

 

 ペニスはまだ小さかったが、それでも舌の根元まで届いていて、気を抜くとえずいてしまいそうだった。オレは根元を唇で包んだまま、ゆっくりと鼻で呼吸をする。

 深呼吸の度に、むせかえる酸っぱい雄の匂いが鼻腔を抜けて、オレの脳髄を蕩かすようだ。顔が発熱でもしているみたいに上気している。口一杯に頬張ったせいで、汗が混じったしょっぱい味が口全体に広がっている。

 マスターのち〇ぽが、オレの口を埋めている。ただ咥えて呼吸しているだけで、背徳的な熱が、オレを色欲馬鹿に変えていく。

 

 息苦しくてぼーっとする。

 ほんのり甘くて、ちょっとしょっぱくて、とてもいやらしい。変態的な本能が、この味をもっととオレをけしかけた。

 ほとんど自動的に舌が動いて、ペニスを転がす。つるつるの皮をなぞって、ぷにぷにの亀頭を、キャンディーのように舐める。小さく柔らかい肉棒は、舌で押されるとくにくにと形を変えて、オレの口内を泳ぐ。うまく嚥下できずに、唾液がどんどん溢れて、口の端からマスターの股を伝っていく。

 

(なんか……ちょっと面白い、かもな)

 

 ぼーっとする頭で、そんな事を考える。

 キャンディーを舐めた時と一緒だった。口の触感全部が、まるで安らぎを求めるように竿に触れる。柔らかい中に芯のある感触が歯に当たる。

 口寂しさが解れていく。熱い柔肉に舌を這わせる度に、凝り固まっていた心が解れていく。乾いてささくれ立った心が情欲に濡れる。

 

 マスターのを舐めてる。マスターのち〇ぽを、自分の意志で。とんでもない事をしているという背徳感は、もはや興奮以外の刺激をもたらさない。

 裏筋の張った竿に舌をまんべんなく押しつける。口内を狭めて、柔らかい肉棒を押し潰すようにして、とろとろの唾液を目一杯塗りたくる。

 味覚も触覚も、全部味わい尽くすようにして、オレは根元からゆっくりと、口を引き抜いた。

 

「ん、ぷ……ずずっ、じゅず、ぅ……」

 

 いやらしい水音。唾液が泡になってマスターの竿を伝う。まだ伸びしろのある肉筒が、ゴムホースのように伸びてオレの口に引っ張られるのが面白い。

 亀頭の傘に唇をひっかけて、たっぷりと堪能してから、オレはペニスを口から離した。ちゅぽっ、という水音と一緒に、唾液塗れのペニスがマスターの腰に垂れ落ちる。

 

「ふ、ふぅ……ん」

 

 時間にして、ほんの一分程度の口淫。だというのにオレの顔は、汗と涎ですっかり濡れていた。

 パジャマの襟まで濡らすち〇ぽ味の涎は、ほとんどがオレの口内に残っている。もごもごと口を動かす度に、口内がいやらしく汚れていく。興奮で荒くなった鼻息をする度に、エグい雄の臭いが全身に廻っていく。

 オレは何度も躊躇して、バクバクと胸を高鳴らせて——

 

「……ん、ぐ……ぱ、はぁ」

 

 ごくりと喉を鳴らして、ち〇ぽの染み込んだ涎を飲み込んだ。

 自由になった口に、森の空気が飛び込んでくる。その冷たさに、自分がとんでもなく熱くなっている事に気付かされる。

 顔が熱い。口元が濡れてばっちい。けれども拭おうという気が起こらない。

 正気はいつまで経ってもやって来なかった。むしろ、もっとという好奇心がふつふつと沸き上がり、オレを興奮させる。柔肉を舌に押し当てる感触を、生々しい竿を口一杯に頬張る満足感を、もっととせがんでいる。

 目が据わっているのが、自分でも分かる。オレは荒い呼吸のまま、涎でてらてらと光るマスターのモノを見る。

 

「……あんまり、デカくならねえな」

 

 最初よりかは膨らんで、ひくひくと痙攣して、亀頭の部分は紅潮している。それでも、あの時ブチ込まれたような大きさからはほど遠い。

 あまり気持ちよく無かったのだろうか。マスターのくせに。オレがしゃぶってやってるのに、なんて生意気なんだろう。

 もちろん前提として、これは単なる気晴らしだ。オレがマスターのち〇ぽを使って遊んでるだけ。けれど、それが全く気持ちよくないと言われるのは癪に障る。

 我ながらなんて天邪鬼なのだろう。上体を降ろしながら、そう苦笑する。

 

「……も少し、ゆっくり……歯を、当てねえように」

 

 今度は慎重に、マスターの亀頭に唇を付ける。唾液に濡れた亀頭は、少し吸うだけで、ちゅぽんとオレの口に入り込んできた。

 熱い肉棒を転がす。今度は優しく、舌や唇。頬で受け止めるように。擦るんじゃなくてゆっくりと撫でるように。

 

「ふむ……え、るぅ。くぷ……」

「……ん、んぅ?」

 

 亀頭を舌で弄っていると、頭の上からとぼけた声が聞こえてきた。

 構わずに舌を動かし続けると、すぐに両脚がバタバタと蠢き始めた。

 

「う、あっ。股間……な、何? 何事?」

「暴れんなマスター。腕に当たったら噛み千切るぞテメエ」

「も、モードレッド? そんなところで何してるのさ」

「っ……すっとぼけやがって。見りゃ分かんだろうがよ。あ、む……じゅ、ずぅぅ」

「あ、ちょ、ふぁぁ」

 

 目覚まし代わりに、亀頭をすっぽりとくわえ込んで、啜ってやる。下品な水音に、マスターの短い喘ぎ声が重なった。

 

「苛つく事があったから、気晴らししてんだ……テメエは寝転がったまま、黙ってされるがままにされてろ」

 

 マスターが目覚めると、ペニスはさっきよりも震えて、喜んでいるようだった。

 舌でなぞる度に、歯が触れる度に、マスターの短い吐息が頭上から降ってくる。

 

「うわ……モードレッドが、僕のを咥えてる」

「っあんだよ、うわって……もっと、機嫌良くなるような感想はねえのか……る、ぅ」

「いや、あんまりに信じられなくて……こういうの、モードレッドは絶対してくれないと思ってたのに」

「じゅ、ぷ。ん……オレもだよ。今でも自分が信じらんねえ。ほんと……馬鹿みたいな事してる……ぅ、える。あ——……ぷ」

 

 大口を開けて、ひくつくマスターの半勃ちち〇ぽをくわえ込む。

 熱くて柔らかい肉棒を、口内全体で包む。口寂しさを紛らわすという点では、これが一番効いた。

 

「っ、う……モードレッドの口の中、ぬるぬるで、熱……っ!」

 

 根元を唇で閉じてやると、マスターが上擦った声を上げる。

 間抜けな声。股間を曝け出した情けない格好。マスターを手玉に取るような、不思議な高揚がオレを上機嫌にさせた。

 オレは得意気に笑って、ち〇ぽを含んだ口を窄めさせた。

 

「昨日、風呂入ってなかったろ……ち〇ぽだけ、オレの口で濯いでやるよ」

 

 口内にたっぷりと溢れた涎で、半勃ちの陰茎を包み込む。うがいでもするように口を泳がすと、ねばこい唾液が泡を作って、柔らかいち〇ぽをもみくちゃにする。

 

「じゅずずっ、じゅるぅ……ずぞっ、じゅるるるぅ」

「うあっ、くっ、ううぅっ」

 

 信じられないくらいに下品で官能的な音が、オレの口から奏でられる。余程気持ちいいのか、音に合わせるように、マスターの足がビクビクと痙攣して、折り曲げた膝がベッドに押しつけられる。

 ち〇ぽを啜っている。温かくてヌルヌルの唾液がほとばしって、マスターの竿に絡みつく。洗われていないち〇ぽの汚れや臭いが、唾液に溶けてオレの口内に広がっていく。

 ち〇ぽの味。ち〇ぽの臭い。口腔がマスターで一杯になる。頭がおかしくなりそうだった。理性がどんどん、マスターの雄臭さに溶かされていく。下品な味の涎が、泡になってマスターの陰毛に落ちていく。

 

「ずっ、じゅるぅぅ、ぷじゅ、る」

「あっあ、モードレッド、それホント気持ち、い……!」

「ずずずぅぅぅ、じゅく、じゅぅぅ……ん、んぅ、ぐむっ!?」

 

 咥えていたペニスが、突然に膨れあがった。

 ゆで卵のような感触の亀頭が喉の奥にごつんとぶつかった。肉棒は一気に太く硬くなって口を埋め尽くし、顎が外れそうになる。

 

「んぐ。んべ、ぇ……ゎ」

 

 涎を垂れ流しながら、何度もえずいてち〇ぽを引き抜き、オレは絶句してしまう。

 完全に勃起したペニスは、オレの顔ほどの大きさになっていた。さっきまでのナマコのようだったグロかわいさは消え失せて、逞しく隆々に肉付いている。反り返った竿の先には真っ赤に膨らんだ亀頭があって、それが唾液にてらてらと光って、オレの鼻先に突きつけられている。

 生々しくグロテスクで逞しい、臨戦態勢のペニス。オレの中をかき回して女にしてしまった雄の象徴を前に、しばし我を忘れてしまう。

 硬直から解放されても、オレから出たのは乾いた笑いだった。

 

「は、は……なんだよ、ちょっと舐めただけでガッチガチにしやがって。そんなに気持ちよかったか?」

 

 目がペニスに釘付けにされる。

 まじまじと見るのは初めてだったが、まさかこんなに大きかったなんて。

 こんなのが、オレの中に入っていたのか。臍くらいまで届いていたんじゃないのか?

 ギンギンに張り詰めた怒張は、オレの目の前でそそり立ち、口淫の再開を強請っている。

 

「っモードレッド……!」

 

 マスターの声が荒い。激しく流れる血液で体温が上がり、全身に力が入って、手はシーツを握りしめている。浅く早い呼吸はすっかり発情している。鼓動の度に、反り返ったち〇ぽがヒクヒクと震えていた。

 興奮に震える目は、懇願する子犬のようにも見えた。その弱々しい請願にオレは得意気になって、荒い息をち〇ぽに吹き付ける。

 

「んな情けねえ声出すなよ。ちゃんと分かってる……ここまでして、おあずけなんてしないからよ」

 

 オレは舌を突き出して、そそり立つ竿の裏筋に押しつけた。

 想像以上に熱く、それに硬かった。さっきまで柔らかいゴムみたいだったのが、鍛えられた筋肉のようにオレの舌を押し返してくる。当てた瞬間にびくんと跳ねて、オレの顔から逃げていく。

 

 正直、どうしていいか分からなかった。

 デカすぎる。目の前におっ立ったペニスは、まるで剣を突きつけられたような錯覚を感じさせる。

 問答無用で屈服させられそうな、恐怖を覚える雄々しさ。オレはさっきまでとは打って変わって、恐る恐る竿に舌を押しつける。

 

「ふ、う……モードレッドの舌、小さくて、チロチロ舐めて……!」

「っテメエのがデカすぎるんだよ……あ、あんまり暴れんなって」

「でも、モードレッドの舐め方、くすぐったくて」

 

 そそり立つ竿に唇を押しつけて、漲る血管を舌でなぞる。その度にペニスは魚のように跳ねて、オレの顔から離れていく。

 スケールから言えば、二の腕を指先でツンツンとつつくような物だ。悪戯にキスをする度に、マスターの欲望だけが膨れていくのが分かる。

 

「モードレッド。僕が竿抑えて……」

「うるせえ、手出すな。バカにすんじゃねえ……お前を気持ちよくさせるぐらい、訳ないっての」

 

 マスターの懇願を跳ね返して、オレは裏筋の根元に、舌を押しつけた。

 小さなオレの舌全体を押しつけて、裏筋を根元から先端まで、ゆっくりとなぞる。

 風船みたいに膨れた亀頭まで辿り着くと、オレはその先端を、ぱっくりとくわえ込んだ。

 

「っ……」

「ほら。これなら、幾ら飛び跳ねても逃げらんねえだろ……ちゅ、ぷ」

 

 亀頭は更に赤く腫れて、熱くなっていた。透明な液体を溜めた割れ目に唇を押しつけると、しょっぱいような味がする。

 思い切り口を開けて、熱い亀頭を咥え込む。高いカリまでを飲み込んで、それでオレの口は一杯になってしまった。

 

「っぷ、ふ……顎、外れそうだ。デカすぎるんだよ、このち〇ぽめ……えるえる、るぅ」

 

 目一杯に舌を動かして、一番敏感な亀頭を舐め回す。唇をもごもごと動かして、カリの境目を優しくマッサージする。

 口を開けっぴろげて苦しい。舌が火傷しそうに熱い。むせ返るような雄臭さは、益々獰猛になって、脳をチリチリと焦がしてくる。

 けれど、止めようとは思わなかった。舌を動かす度にマスターが上擦った声を上げて、シーツを握りしめる手にぎゅっと力が籠もる。

 その反応が楽しくて、何となく嬉しくて。オレは躊躇いなく、亀頭に舌を押しつける。

 

「っふぅ、つっく……!」

「ん……ここらろ? この、裏っかわの、くぼんだところを……れるれる、るぷ、じゅぅぅっ」

「っわ、ああっ」

「ふふっ。女みたいな声上げへんぜ、まふたー……える、るぅるぅ」

 

 亀頭の裏部分に舌をあてがい、容赦なく擦ってやる。溜まった唾液がじゅくじゅくと音を立てて、一番敏感な部分をなぞる。唾液まみれの亀頭を引き抜くと、息継ぎついでにキスをして、鈴口からカウパーを吸い出してやる。

 小さな口を目一杯に使って、マスターの亀頭を蹂躙する。

 最初の憂さ晴らしの目的なんて、すっかり蕩けて消えていた。

 マスターを悶えさせるのが楽しい。鈴口から垂れてくるカウパーのしょっぱい味が癖になる。そして、やがて訪れる、欲望の白い塊をドプドプと吐き出される瞬間を、心待ちにしている。

 こんなおぞましいのと、セックスしていたのか。筋肉の塊みたいなち〇ぽで、ま〇こを掻き回されて、ヒイヒイ言わされてたのか。

 

 これがオレを女にしてしまった。オレに愛情を教えてしまった。性の嬉しさを知らしめてしまった。

 口一杯に頬張る雄の象徴。マスターの一番気持ちいいところ。ち〇ぽ、ち〇ぽ、ち〇ぽ。

 理性が締め出されて、熱い劣情が埋めていく。ほとんど無意識に、オレは尻を突き出して、閉じた内股を擦り合わせる。それが、両腕の使えないオレが気持ちよくなれる唯一の方法だった。マスターに貰った桃色の寝間着は、股部分もぐっしょりと濡れてしまっているだろう。

 

「んぷ、える、るろぉ……」

「はぁ、はぁ……ま、待って。先っぽは敏感だから、もう少しゆっくり……ぐっ」

「ちゅ、ちゅううっ。ぷじゅ、るう、るるぅ」

「は、激しいよ、モードレッド。先っぽばっかりされると、おかしくなるから……き、聞いてる!?」

 

 マスターの足の痙攣が激しくなってる。上擦った声は悲鳴に近くなり、真っ赤な亀頭は爆発しそうに赤黒くなっている。

 それに意識がいったのは、全部が終わってからだった。オレは無意識に、本能のままに、マスターのち〇ぽを我武者羅に味わっていた。

 舐めにくい根元や竿は無視して、先っぽだけ。執拗に。何分も何分も。

 

 夢中に吸い付いて、容赦なく舌を動かす。頭を小刻みに揺らして、唇でカリをくぽくぽと柔らかく刺激する。真っ赤な亀頭ははち切れんばかりに膨らんで、限界が近い事を悟らせる。

 気持ちいい。ただち〇ぽを舐めているだけなのに、口も、ま〇こも気持ち良い。

 喜びを抱いて、オレは爆発しそうな亀頭の裏を舌で舐めまくり、カウパーを思い切り吸い上げる。マスターの悲鳴は、すっかり発情したオレの耳には届かない。

 

「ひっ、づぅぅ……!? やばい、やばいってモードレッド。先っぽが痺れて、ビリビリして……ほんと、これ以上されたらッ……」

 

 女のような声を上げてよがる。亀頭を咥えるオレを止めるべく、マスターがオレに手を伸ばした。

 横髪を持ち上げられ、頬を撫でられる。

 温かさに誘われるように、オレは顔を上げる。

 

 

 

 瞬間、マスターと目があった。

 互いに上気して真っ赤になった顔。度を超えた刺激に震えるマスターの目と、亀頭を咥え込み発情したオレの目が交差する。

 

「「——」」

 

 時が止まったような気がした。音が消えて、朝の静謐な空気が割り込んで、日常のオレ達に戻ったような。

 身体の熱と、荒い呼吸と、重なる吐息。

 情欲に塗り潰されていた心から、ふつふつとある想いが沸き上がってきた。

 それが、オレの表情を緩める。亀頭をくわえ込んだまま、唇を持ち上げて笑みを作る。

 

 

 ただ心の内で、一言ぽつりと呟いた。

 声にはならない。聞こえた訳じゃないだろう。

 

 

 

 

 

 ——好き。

 

 けれどその一言が、必死に堪えていたマスターの堰をたたき壊した。

 

「うっ……あ、ああっ! ぐぅぅぅ!」

「んっう゛、うううううぅ!?」

 

 マスターが声を上げ、その瞬間、亀頭から真っ白の液体が吐き出された。

 亀頭ばかりを責められて、射精は正確に機能しなくなっていた。ザーメンが噴水のように吹き出して、うまく脈動できずコポコポと溢れてくる。

 意識とは無関係にち〇ぽが痙攣する、溢れるような吐精。

 

「ん、んぅ——ー……」

 

 壊れた蛇口のように、ザーメンが流れ込んでくる。とぷとぷ。ぴゅっぴゅっ。オレは当然のように、それを口で受け止める。目を閉じて、先っぽに吸い付いて、溢れ出てくる精液を蓄える。

 熱く苦い粘液が、喉奥を叩く。カウパーの何倍も濃い雄の香りが、脳を感電させる。持ち上げていた尻が勝手に痙攣して、ま〇こからいやらしい汁を溢れさせた。

 水鉄砲のようにザーメンを吐き出し、一方で脈動もできずにただ垂れ流し。オシャカになった射精は、長い事続いた。

 オレの口の半分が精液で埋められた頃、ようやくオレは、咥え続けていた亀頭を引き抜く。赤黒く充血した亀頭はビリビリと痺れるように震え、オレの唾液とこびり付いた半透明のザーメンで下品に濡れていた。

 

「ん、んぇ……え、ぐ」

 

 吐き出されたザーメンの、想像以上の生臭さ。粘っこさ。苦みと甘みをぐちゃぐちゃにした雄の味が、オレの口を埋めている。

 けれど、吐き出したくなかった。これはマスターが出した精液だから。オレが出させた、気持ちよくなった証拠だから。

 生臭いマスターの汁を、オレはゆっくり、時間をかけて飲み込んだ。何度も何度も、少しずつ嚥下して、雄汁をオレの喉の奥に送っていく。

 

 全部を飲み込んでも、粘つく精液は口にこびり付いて、エグみが喉を焼くようだった。猛烈なマスターの存在感に、オレの理性が焼け焦がされるようだ。

 目が自然と、引き抜いたペニスに向かう。亀頭ばかりを責められてヒクヒクと震える肉竿は、けれどもまだ物足りないと言わんばかりに大きさと硬度を維持している。

 

 

 

 これを突っ込まれたら、どれほど気持ちがいいだろう。

 オレの方はとっくに愛液を漏らして準備万端だった。この猛々しい竿で膣を擦られて、女としてよがり狂う様は、容易に想像できた。そうありたいとさえ思った。

 

「……へへ。滅茶苦茶マッズいな、お前の」

 

 けれど、ダメだ。

 これはあくまで憂さ晴らしなんだから。

 自分から滅茶苦茶にしてくれなど頼むなんて、オレのプライドが許さない。

 だからオレはすくと立ち上がって、未だ物欲しげなマスターの胸を足で踏んづけた。

 

「ちょ、モードレッド……」

「んじゃ、気が澄んだから、先に行くわ。飯待ってるからな」

 

 発情しきった顔と呼吸で、やっとその言葉を取り繕う。

 下腹部の疼きを止められないまま。びしゃびしゃになったパジャマの襟と股を張り付かせて、オレはそそくさと寝室から立ち去った。

 



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19話

えっち二回戦目。
めちゃくちゃ長いです。15000文字あります。
ストーリーが気になる人は、ここはスルーして次の章に進んでいただくといいと思います。







 マスターの味がこびり付いている。

 苦くて、仄かに甘くて。エグ味は喉を焼け焦がすようだ。

 吐き出す息がエロ生臭い。ちゃんと全部飲み込んだのに、マスターの存在感が拭えない。喉にザーメンの膜が張られたみたいだ。濃厚な精液の臭いを無視するのは、鋼のような精神力が必要だった。

 

 

 

 オレはリビングの飴を一つ咥えて、ソファにボスンと腰を落とす。

 日の出を終えて、青色に澄み切った空。湖を中心に置く森の姿が、窓の向こうで輝いている。

 心が洗われるような景色。静かで穏やかな大自然。

 その中で、あろうことかオレは発情している。鼻腔から染み込んだ精液の香りが、森の澄み渡る空気を台無しにしている。

 カロ、と音を立てて飴を転がす。甘く酸味のある味。この程度では、口にぶちまけられた苦みとエグ味には到底及ばない。

 いや、もう比べるべくもなかった。口一杯に頬張る亀頭の熱い感触。雄臭い肉棒を唾液とかき混ぜるいやらしさ。背徳感と一緒に、胸の中が情欲と征服感で満ちるあの感覚。

 キャンディ程度では、さっきのたまらない満足を思い出すだけだった。つい数分前に味わった感覚が、鮮明にリフレインしてくる。

 

「ん……ふー……ふー」

 

 深く呼吸する度に、精液の臭いが込み上げてきて、脳にチリチリと火花が散る。内股を擦るだけで、濡れそぼったオレの陰部は切ない疼きを感じさせた。

 静かな空気に、興奮しきった呼吸と、内股を摺り合わせる衣擦れ音が響く。オレはもぞもぞと自分の股を刺激し、口淫の余韻を貪る。

 しばらく経ってから、やっと寝室のドアが開いた。ゆらりと怪しい挙動で、マスターが姿を見せる。

 

「……一体どうしたのさ、モードレッド」

「別にいいだろ? 何となく、したくなっただけさ」

 

 飴を転がしながら、さらりと受け流す。

 視線を向けただけで、マスターが発情している事を理解できた。頬は赤く、普段の優しい雰囲気の奥に熱い情欲の炎が灯っている。

 けれど、その表情は意外にも厳しかった。彼の態度は真剣で、魔術師としてオレの事を心配してもいる。

 

「でたらめ言っちゃだめだ。何か、よっぽど落ち込むことがあったんじゃないか? じゃなきゃ君が……」

「なんだよ、オレにち〇ぽ舐められてヒイヒイ言わされたのが、そんなに悔しいのか?」

「っそれは……」

 

 キャンディを乗せた舌をべえっと出してやると、珍しくマスターが閉口する。

 普段の飄々とした態度は成りを潜めた、どこか可愛さも感じさせる態度。優越感を感じながら、オレは飴を噛み砕く。ボリボリと乱暴な音を立てながら、得意げに笑ってみせる。

 

「たまには、労をねぎらってやりたかったんだよ。ホントだぜ? ド変態のマスターは、どうせこういったエロいのが好きだろうからな。第一……」

 

 そこで言葉を切って、オレは視線をついと下げる。

 マスターのズボンはずっと立派なテントが張られ、苦しそうにカーゴパンツの生地を押していた。

 数分努力しても、興奮を静める事は終ぞできなかったらしい。その大きな山が、マスターの本心を何より表明している。

 

「そんな風にギンギンにしてちゃ、何言っても説得力ないぜ。さっきからずっと、物欲しそうに息荒げてるじゃねえか」

「っそういうモードレッドだって……」

「オレはいいんだよ。マスターを冷やかすのも十分にやったしな」 

 

 そうだ、こうでなきゃいけない。一度全部を曝け出しても、自分から求めるような女々しい真似はできない。

 オレはキャンディの白い棒を吐き出して、ソファにごろんと横になった。三人掛けのソファに仰向けに寝そべって、肘掛けの所に頭を置く。

 あくまで上から目線で、得意気に、嘯いて笑う。

 

「でも……情けないマスターも見れて、今は機嫌が良いからな。特別に、オレを好きに使わせてやるよ」

 

 上下逆さになった視界で、オレはマスターにそう挑発した。身体全部をソファに投げ出して、さながらまな板の上に乗った魚のように、オレの身体を見せびらかす。涎に濡れた襟も、愛液に濡れた股ぐらも全部だ。

 その餌に、飢えた雄が食いつかない筈がなかった。マスターは溜息一つ、意識のスイッチを切り替えた。

 

「……分かったよ」

 

 冷ややかな声には、普段感じられない冷徹な感情も垣間見えた。

 マスターは迷い無い足取りで、オレの目の前に立った。肘掛けに置いた頭の方に。

 目と鼻の先に、大きく張り詰めたテントが突きつけられる。カーゴパンツは、その下の雄の気配を隠しもしない。得意気な笑みを崩さないまま、オレは静かに息を飲む。

 

「お言葉に甘えさせて貰うよ……君が言ったんだからね?」

 

 マスターは躊躇いなく、ズボンを下着ごと引き下ろす。

 張り詰めた怒張が、オレの鼻先に姿を見せた。ズボンに引っかかった反動でブルンと震え、雄々しい肉がオレの眉間をツンと叩く。

 仰向けに寝転がるオレに、ち〇ぽが影を下ろす。生乾きのザーメンとオレの唾液が混ざった強烈な臭いが、オレの鼻腔に飛び込んでくる。

 

「っ……」

「さっきのフェラチオ、先っぽばかりで辛かったけど、とっても気持ちよかったし、嬉しかったよ」

 

 ち〇ぽを目の前に翳したまま、マスターの手がオレの頬を撫でる。

 何か言われるより先に、オレは身を捩って身体を押し出した。肘掛けには首の根元を置くようにして、頭を垂れ下げる。

 視界が上下逆さになる。竿が更に眼前に迫り、むわんとした湿気が顔に吹き付けられる。

 すんと香りを嗅ぐと、ぞくぞくと背筋に電気が走る。金縛りにあったオレの顔の前で、マスターの手が竿の根元を握った。

 

「思うがままに、気持ちよくなっていいんだよね?」

 

 そう言って、仰向けのオレの逆さの唇に、亀頭を押しつけた。

 やけどしそうな男の熱。オレは自分が招き寄せた獲物に向けて、静かにキスを捧げた。

 

「ちゅ、ちゅぅ……える……」

 

 差し出された真っ赤な亀頭。その裏側のくぼみに唇を吸い付かせ、鈴口に舌を這わせる。ビクビクと跳ねるち〇ぽは、マスターの支えもあって、オレの唇から離れようとしない。

 半勃ちのち〇ぽを好き勝手に舐めていた時と違う。差し出された分だけを舐める、命令的なフェラチオ。

 その屈辱的な感覚を味わう間もなく、マスターは腰を前に突き出してきた。強制的に口内に亀頭が潜り込んでくる。

 

「ん、んぅ……ぅぅ~~」

 

 ぐぐ、と押し入れられる感覚。首だけを前に突き出したオレの頭に、マスターの腰の動きを止める力はない。亀頭はすぐに唇に包まれて、高い溝を作ったカリまでを飲み込ませる。

 頭を下にしたオレにち〇ぽを突き込むと、大きく膨らんだ亀頭の表側が下あごをなぞる。高いカリが歯を擦れて、行き場を失った舌をぐにぐにと押してくる。

 マスターの怒張は余りに大きかった。顎が外れそうだし、気を抜くとすぐに喉がきゅっと絞られ、えずきそうになる。

 

「ん、ぐ……んん」

「っふ、ぅ……ここまでが、君の言う限界」

 

 重たそうな陰嚢とマスターの太股が視界を埋める。オレから見える最悪な絵面、マスターの竿はまだ七割以上が口の外にある。

 そして、マスターはもう、遠慮する事を辞めたようだった。

 

「でも……僕が気持ちよくなりたいのは、もっと根元の方なんだ」

 

 言うや否や、マスターの腰が更に前に押し込まれる。肉棒にぐぐっと力が加わり、熱い亀頭が口を抜け、喉の方へとめり込んでくる。

 

「ん、ぉ……」

 

 抵抗する事はできない。開けっぴろげられたオレの口内に、マスターが押し入ってくる。

 熱い亀頭が咽喉の奥に押しつけられ、粘膜をぐにんと押される。唇が亀頭から竿に移動し、陰嚢を包む分厚い皮を挟む。

 

「っはぁ。やっぱり竿の部分、気持ちいい……!」

「ぐ、ぷぐ、ぅぅ……」

 

 絞り出すようなマスターの声。肉竿が喜びに打ち震えるようにブルブルと振動している。血管が更に浮き上がり、待ち望んでいた快感に益々硬度を増す。

 喉の奥までマスターのち〇ぽが侵略し、雄の臭いを容赦なく充満させる。

 途轍もない苦しさだった。口が限界まで開かれて痛むし、禄に呼吸もできない。

 

 

 それなのに、気持ちいい。

 自分が自分じゃなくなりそうで怖いのに、落ち着く。

 道具として使われるような屈辱を、たまらなくエロいと感じてしまう。

 

 

 息苦しさと一緒に口寂しさが薄れていく。上顎の奥のプルプルした肉を亀頭で叩かれると、愛撫されるような刺激を感じる。鼻を使って必死に呼吸すると、濃厚な雄の香りが、またオレの脳を痺れさせる。

 このままじゃどうなってしまうか分からない。けれど、もっと欲しい。ち〇ぽが欲しい。オレを求めて欲しい。

 自分でもよく分からない葛藤。オレはマスターにされるがまま、苦しみを受け入れる。ペニスを啜って、せいいっぱい奉仕する。

 

「ん、ぷぐ、じゅぷ……うぐっ……も……」

「ふぅ、くっ……モードレッド、だいじょうう゛?」

 

 何度もえずいて、喉を蠕動させて、漏れ出る唾液を口から溢れ落とし、その粘液を使って、ち〇ぽがオレの口内を滑る。粘膜同士を擦り合わせる。

 ち〇ぽは、まだ半分以上が口の外にあった。もっと気持ちよくなりたいと、肉棒が押し寄せる。拮抗は長く続かない。理性なんてとうの昔にち〇ぽに崩されている。

 それにオレという雌は、まだオレの限界を知らないのだ。

 何度も吐きそうになって、無理矢理ち〇ぽを押し込まれて……二人ともが、奥の存在に気付く。

 

「んぐ……ん、こ。んこ……」

「うあ、あ……?」

 

 強引に喉を嚥下すると、亀頭がそこに滑り込んできた。ずずっとマスターの腰が前に動き、上擦った声が上がる。

 自分でも知らない空洞。本来何者にも侵されない、奥の奥。

 そこが『一線』だ。常識的には越えちゃいけない一線。そこを越えたら、戻れなくなるライン。

 その事を察したのだろう。マスターは身を引いた。喉の肉がひっぱられるような感覚。ずるり、と音を出して、マスターの竿が口から引き抜かれた。粘つく唾液が、唇と亀頭にアーチを描く。

 

「んば、はあ! はあ゛ー……はあ゛ー……」

 

 金魚のように口を開けて、酸素を取り込む。

 喉にはすっかり、ち〇ぽの味が染み込んでいる。深呼吸する度に、ザーメンの匂いが鼻を抜けて、淫乱に染まった脳味噌にパチパチと火花を散らす。

 勝手に涙が溢れて、額の方へと落ちていく。

 オレの理性はギリギリだった。口は閉じるのを忘れ上擦った声を上げ続け、視界が酸素不足でぼーっとする。性欲だけが止め処なく、もっともっとと欲望の火を燃やしている。

 目の前には、唾液に塗れて光る怒張が屹立している。ビンビンに硬いち〇ぽの奥に、目の据わったマスターの顔がある。

 

「……」

 

 マスターは何も言わず、身体をオレに近づけた。竿がオレの顔を越して、顎の先に乗せられる。

 

「……あ、む」

 

 命令されるでもなく、オレは目の前にぶら下げられた睾丸にしゃぶりついた。精液を溜めてたっぷりと重い睾丸を口に含んで、皮の中のボールを飴のように転がして、優しくマッサージする。

 

「ちゅず、るぷ、るうぅ……あも。もむ、むぅ」

「っはは……こうして比べると、凄いね。モードレッドの喉、とっても小さい」

 

 玉袋を舐められ足を危うく震わせながら、マスターが竿をピタリとオレの喉に押しつけた。

 

「ホラ、根元まで射れたら、首を通り抜けちゃうよ。太さも、ペニスが喉の半分くらいだ」

「もむ、えむ……む、ちゅう……」

 

 乾いた笑い。マスターが腰を引き、再び真っ赤な亀頭がオレ目の前に突きつけられる。

 マスターの手が、オレの頬に触れた。優しく、慈しむように撫でられる。

 

「……」

 

 お互いの荒い呼吸が重なる。そそり立ったち〇ぽを挟んで、欲望に浮かされた視線が交差する。

 

 

 特に言葉は無かった、ただ、それがマスターの最後の優しさだと気が付いた。

 本当にいいの? と目が聞いていた。この先に進んだら、もう止まらないよと念を押していた。

 

「……あ——」

 

 だからオレは、何も言わず口を開け、マスターを誘惑した。

 頭を下に垂らして、喉を真っ直ぐに。顎を目一杯に開いて、舌を突き出して。

 来てみろよ、と挑戦的に。それと同時に、そうあるべきと言うように。ここが剣を収める鞘だと主張するように。

 マスターの全部をくれと、下品におねだりする。

 その欲望に、マスターは応えてくれた。

 ち〇ぽが、ゆっくり突き進んでくる。舌の感触を楽しみながら、喉奥へと潜り込んでくる。

 熱い怒張が、喉の奥、その先に突き進む。

 

「——……ん、こ。んぐ、ぅ……」

「っ……ふぅ、く……」

 

 ち〇ぽを咥えて、食べて、飲み込む。

 オレは喉を鳴らして、誰も踏み込んだことの無い最奥を、マスターに差し出した。

 本来は食べ物を嚥下し、栄養にするためだけにある器官。穢れを知らない、そんな風に使われるなんて夢にも思っていない、オレの身体。

 なのにそこには男を喜ばせるためにできたような濡れそぼった柔肉と、いやらしく隆起したヒダヒダがあった。そこにマスターの爛れた欲望が押し込められる。

 

「んぐ、ぷぐ……か、ふ……ぉ」

 

 視界にあったマスターの竿がどんどん短くなる。

 半分を超え……後少し……もう、ちょっと……。

 そうして、やっと辿り着いた根元に、オレは唇をぴったりと吸い付かせた。

 

「ふぐ、じゅぷ、ぅぅ……!」

「う、ああ……! モードレッドの喉、キツくて、熱くて……ち〇ぽが全部、気持ちいい……!」

 

 マスターの全部が、オレの喉に収まっている。オレの喉がち〇ぽで串刺しにされている。

 イチモツが喉を貫く不快感込み上げてくる嘔吐感。デカすぎる怒張に圧迫されて、呼吸も満足に届かない。頭のネジは完全に吹き飛んで、体中の穴から体液が止め処なく溢れてくる。

 苦しい。けれどそれと同時に、気持ちいい。

 マスターを気持ちよくできているという達成感。柔肉を擦り合わせる快楽に、自分でも知らなかった場所が悦んでいる。

 食道を閉じようと喉が収縮して、ち〇ぽ全体をキツく抱き締める。その喉ごしに、オレの雌の部分が昂ぶるのを感じる。

 

「っうご、くよ。モードレッド……つぅぅ」

 

 マスターが抽送を始める。腰を引くと、再び喉が蠕動し、ち〇ぽ全体を締めつける。ヒダヒダが竿に吸い付いて、動きに合わせて擦り上げる。

 

「ああっ、凄い……モードレッドの喉、熱くて、ビクビク動いて……本当のま〇こみたいだ」

「ん、んぐ、う゛、ふぅ……ん、おぉ」

「くっ……えずく度に、喉が動いて……ち〇ぽ全部が、キツく抱き締められてる」

 

 快感に耐えかねて、腰の動きが加速する。

 喉をま〇こ同然に扱われる。快感を得るために、一心不乱に貪られる。

 道具のように。雄を満足させる為の愛玩具のように。

 その被支配の感覚が、オレを雌に変える。エロい事しか考えられない変態に堕としてしまう。

 

「んう゛っ、ぐむっ……こ、ぷ……じゅるっ、じゅううぅぅっ」

 

 オレは一心不乱にち〇ぽに食らい付いた。喉を締めて、柔肉で肉棒全部を抱き締める。唇を根元に吸い付かせ、陰毛と一緒にもぐもぐと租借する。口を窄めて、たっぷりと溢れた唾液と一緒に、分厚い皮を啜る。

 舌を目一杯に動かして、往復する竿の表側を味わう。ち〇ぽとベロが唾液の海を泳ぎ、ぐちゅぐちゅというとんでもない音が鼓膜を揺らす。

 

「ぷぐっぷぐっ、ぷじゅ、じゅぅぅ……ふう゛ー。ふむう゛ー……!」

 

 喉奥のヒダを擦られる度に、快楽が電気のように身体を駆け巡った。パジャマの下でぴんと立った乳首が、生地と擦れてぞわぞわとした刺激を与えてくる。

 身体が勝手に気持ちよくなる。当然、ド変態のマスターは、それを見過ごすような男ではない。

 

「モードレッド、もしかして、イラマチオで感じてるの?」

「んぐ、う゛。う゛ー」

「そうだね……モードレッドも、ちゃんと気持ちよくならないとね」

 

 マスターは空いた両手を、オレの身体に這わせた。

 襟元のボタンを外して、左手が滑り込んでくる。酸素不足に喘ぐオレの肌は興奮に汗が滲み、触れられるだけで飛び跳ねそうになるほど敏感になっていた。

 熱く総毛立ったオレの上半身を撫でて、掌全体で小さな丘を揉みほぐし、指先で硬くなった乳首をコリコリと捏ねられる。

 

「ふひゅ、んんっ!?」

 

 イラマチオに喘ぐオレの声が、一段階高く跳ね上がる。

 自分が思う以上に、オレの身体はマスターの愛撫を待ち侘びていた。ぞくぞくという快感が背筋を駆け上がる。乳首を抓られると、電気ショックでも浴びたみたいに身体が跳ねた。

 身体を捩らせる度に、両腕が動き傷が痛みを訴えてきたが、最早それに構っていられる余裕なんて無い。

 喉に感じる刺激だけで一杯一杯で、胸の刺激を受け入れられない。そんな中でマスターの右手が、汗で濡れる肌を滑って、パジャマ越しにオレの腹を下っていく。

 

「……うわ、ずぶ濡れだ……もしかして、潮まで吹いてたの? とろとろで、口を開いてるのが布越しでも分かる」

 

 呆れたような、喜色の滲んだ笑い。

 マスターの二本の指が、パジャマ越しの割れ目に沿って押しつけられる。

 

「んひゅ……ん、んう゛ぅぅぅ!」

 

 それだけで、もうだめだった。勝手に期待し妄想していた、その数倍の快感が押し寄せる。

 嬉しい。嬉しい。気持ちいい。躁の感情が頭を埋める。ぷしっと愛液が飛び出して、下着を熱く塗らした。

 

「フェラでこうなってるなら、口寂しさの解消どころじゃないね……モードレッド、実は口が性感帯なのかも」

「んんっ! ふう゛、じゅぷ、んぐぅぅ……ふう゛ぅー」

「それとも……強がってるだけで、実は相当なドMだ、とか」

 

 そう言って、マスターが腰を突き出す。益々膨れあがった怒張が、再び根元まで飛び込んでくる。

 唾液で満たされ、唇でぱっくりと根元をくわえ込んで蓋をした、熱い蜜壺。オレの口が、マスターを快楽でひたひたに漬け込んでいる。

 その喜びに耐えかねたように、マスターが手をパジャマに差し入れ、オレのヴァキナに指を滑り込ませた。

 

「ふ——」

 

 ごつごつとした指が膣壁をなぞる。瞬間、ぱちんと弾けた音がした。

 快感は声にならなかった。身体が仰け反り、ビクンと痙攣する。

 脳がきゅうっと収縮する感覚で、イッたのだと気が付いた。

 

「まるで洪水だ……凄くエッチだよ、モードレッド」

 

 愛おしそうにマスターが言い、更に深くまで指を這わせる。

 ペニス同様、指使いも遠慮する必要なんて微塵もなかった。何をされても気持ちいい。気持ちいい以外の感覚を抱けない。

 柔肉のみっちり詰まったそこにマスターの指が押し入って、泡立つ程の勢いでオレの膣を掻き混ぜる。

 

「ぐしゃぐしゃだよ、モードレッド。ローションまみれになっているみたい……聞こえる? 凄い音が立つよ」

 

 張り詰めたペニスで喉奥をゴリゴリと削られる。右手の指は膣内に押し入り、愛液塗れのそこをじゅくじゅくと掻き混ぜている。左手は胸を揉みしだき、小さなポッチを飽きもせず弄る。

 ぱちぱちと閃光が瞬く。脳がくらりと揺らいで、心が飛んでいくようだ。

 

「ふぅ、ふぅー……興奮と快感で、頭がどうにかなりそうだ。モードレッドにち〇ぽを根元まで飲み込ませて、ぐしゃぐしゃのま〇こを掻き回してる」

「んぷっ、んぷっ。ちゅじゅるぅぅぅ……ん゛っ。ぷじゅ……んんん~~っ!」

「汗と唾液と愛液でどこもかしこも濡れてて、身体が信じられないくらい熱い……凄いよモードレッド。本当に最高だ」

 

 夢見心地のマスターの声とくぐもったオレの嬌声、それとじゅぽじゅぽといういやらしい水音が、二人きりの家に木霊する。

 乱暴な愛撫、激しい抽送。溶けてしまいそうな快楽責め。お互いの欲望をぶちまける、獣のようなオーラルセックス。

 気持ちよくなる事しか考えられない、容赦ない腰つき。それでオレが悦んでいるのだから、救いようがない。

 愛する人に、我武者羅に求められているのだ。苦しさなんてどうでもよかった。

 マスターを悦ばせたい。オレの口で、ち〇ぽをとろとろにふやかしてしまいたい。

 否応無しに身体が火照り、限界まで急速に昂ぶっていく。

 

「んう゛っ、ふぶっ。じゅぷっじゅぷっ……お、ぽ、ぷじゅぅ……!」

「はぁ、はぁっ……モードレッド、もう少し……僕も、もうちょっとで……ッ」

 

 マスターの上擦った声。腰使いが激しく、オレの膣を掻き回す指が早くなる。

 射精す気だ。喉奥の一番奥に、欲望の白い塊をドプドプとぶちまける気だ。

 それを期待してか、オレの喉もきゅうと締まって、張り詰めた肉竿を絞る。ま〇この軽イキが更に激しくなり、陰唇の奥の柔肉がさらに解れて、マスターの指を求めてうねる。ぱちぱちと弾ける火花は視界が眩しくなるほどだ。

 

 

 雄臭い汁を強引に流し込まれる。マスターの匂いをマーキングされる。

 オレの身体が、正真正銘マスターの物にされる。

 快楽に溺れる雌として、貪られる愛玩具として……。

 

 

 そう思った瞬間、喉の更に奥の方で、心がぱっくりと口を開けたような気がした。

 自分でも知らなかった空っぽの心。光の刺さない洞窟のような冷たい切なさが、マスターによって強制的に開かれる。

 自然と、闇の中を彷徨うかのように、オレは自らの両手を差し出していた。

 

「っ……手、握って欲しいのかい?」

 

 恥部に触れていた手が離れ、汗と愛液に濡れた手が肩に触れる。上気した肌を滑って、マスターの手とオレの手が重なった。

 

「んう゛っ……んんんんんっ!」

 

 激しい激痛。脳回路が焼き切れるような衝撃。ブルブルと震える指の震えを受け止めるように、マスターがぎゅっと手に力を籠める。

 痛みの先に、指先を絡ませ合う多幸感が訪れる。

 両腕の痛みごと、オレを受け入れられているという安心に、切なさが解れていく。ささくれ立った心が包まれる。

 残ったのは、女々しくも貪欲な快楽だけだった。

 

 

 オレは夢中になってち〇ぽにしゃぶりつく。喉を締めて竿全体を絞り、舌で裏筋を撫で擦り、唇をもごもごと動かして根元をマッサージする。

 お互いのボルテージが最大まで高まる。両手だけが、互いの信頼を確かめるように、硬く強く握られる。

 口内の竿がびくびくと震える。途轍もない快感が、ぞくぞくと背筋を昇ってくる。

 

「ふう゛っ、ぷじゅ。ん、ふっ、う……まふ、は……」

「モードレッド……僕も、もう、限界……!」

「ん、こ。おぷ、じゅぷ、るぅぅ……」

 

 汚らしい音を立てて、必死に互いを求め合って、指と指、舌とち〇ぽを絡ませる。

 オレで気持ちよくなって欲しい。マスターが欲しい。マスターのち〇ぽ。マスター。マスター。オレの、オレを好きで居てくれるマスター。

 射精してくれ。欲望の塊を吐き出して、オレを真っ白に汚してくれ。

 愛してる証拠を、ぶちまけてくれ。

 

「んぶぅ、んう゛、ぷっ、じゅる……じゅるるるぅぅ」

「ん、あ。はぁ……出る、出るよ。モードレッド……!」

「んぐ、ぐぷっ、ぐぷっ……んう゛、ふう゛、んぅぅぅぅ!」

「ち〇ぽ全部気持ちいいまま、一番奥に……っあ、射精る、射精ッ……くぅぅぅぅ!」

 

 昂ぶり続けていた感情がとうとう爆発し、マスターは最奥までち〇ぽを叩き付け、真っ白いザーメンを吐き出した。

 ドクドクと怒張が脈動する。何度も何度も動いて、熱い精液を喉奥に流し込む。

 オレの喉の一番奥に、精液を直接吐き出される。

 さっきの何倍も濃く、大量で激しい射精。オレは根元までをぱっくりと包み込んで、その射精を歓迎する。温かい柔肉と唾液で満たして、最高の快楽をマスターに捧げる。

 

「く、あ、はぁっ」

「ん、ん——ー……!」

 

 マスターの足がガクガクと痙攣する。オレのま〇こも愛液を吹き出して、歓喜の絶頂を迎える。マスターとオレの快感の喘ぎ声が重なる。

 雄の匂いが身体に染み込んでいく。溺れるほどのマスターの愛情に視界がぼうっとする。

 ぼやけた思考の中、ただ気持ちが良いという夢見心地の快楽が、オレを蕩かす。

 漲る怒張が必死に動いて、竿全部を震わせて、亀頭がタコの口のように収縮して、雄臭く熱い精液をがんばって吐き出す。その一つ一つを味わい尽くすように、オレは一生懸命にち〇ぽを飲み込む。射精を応援するように、リズムに合わせて唇をもぐもぐと動かし、根元を優しくマッサージする。

 どぷどぷと、ぴゅるぴゅると、何度も何度も痙攣する。溜めていたザーメンを全て吐き出す。

 脈動は十回を越えて、精液がオレのお腹一杯に満ちるようだった。

 

「っ……」

 

 マスターの腰が動く。射精の余韻に震えるち〇ぽが、オレの喉から離れていく。

 

「ん、じゅず……じゅるぅぅ……」

 

 最後にオレは喉を窄めて、柔らかいヒダヒダで竿全体を搾り上げる。舌で裏筋を押して、尿道に残った分まで残らず出させる。

 口に含んだ亀頭を啜り上げて、鈴口まで綺麗に掃除してから、ちゅぽんと音を立ててち〇ぽがオレの口から飛び出した。

 

「ふ、ぷぐ……くちゅ、くちゅ……」

 

 啜り取ったザーメンと、ち〇ぽの味の染み込んだ唾液が混ざった、とてつもない匂いの甘露。いやらしい、欲望まみれの淫乱ジュース。

 オレはぼうっとした頭で、それを音を立てて租借する。粘っこい泡を噛んで、頭がおかしくなる匂いを脳までしっかり行き届かせてから、ごくりと飲み込んだ。

 

「んく、ん……ふは、ぁ」

 

 嫌悪感はどこにも無かった。ゼリーのようなプルプルの感触は心地よかったし、喉が焼け付くようなエグ味はおいしいとさえ感じられた。

 身体の中からマスターに染められる、途方もない多幸感。満足感。熱に浮かされた脳が痺れ、ヴァキナがひくひくと気持ちよく疼く。

 針を刺すような痛みと共に、マスターの手がオレの腕から離れていく。名残惜しげに、オレの両手が垂れ下がる。

 

 

 

 

 その手を仕舞うより先に、マスターの両手がオレの腰に回された。

 

「よっ、と」

「ふひゃっ」

 

 敏感になった肌が、痺れるような刺激を与える。オレの身体がぐいっと持ち上げられて、ソファに正しい姿勢で座らされる。

 汗まみれの火照った身体が、精飲の余韻にバクバクと高鳴っている。

 訳も分からず目を白黒させるオレ、その目の前に、マスターが立ちはだかった。

 あろう事か、股の怒張を更に硬く漲らせて。

 

「……え」

 

 思わず乾いた声が漏れる。到底信じらないオレに、マスターは何とも爽やかな笑顔を返してきやがった。

 

「まさか、これで終わりな筈ないよね」

「ちょ、待て……うっそだろ、お前」

「冗談で勃起はできないよ、モードレッド」

「で、でもマスター、さっきバカみたいに大量に射精して……」

「だって君が、まだ満足してなさそうだから」

 

 そう言って、マスターの視線が下がる。

 ズボンをショーツごと太股までずり下げて、丸見えになった秘所がそこにある。こぼれ出た愛液がソファに垂れて、大きな染みを作っている。

 マスターの指に弄くられたサーモンピンクの柔肉は、ヒクヒクといやらしくうずいていた。その中に空いた蜜穴がぱくぱくと口を開けて、涎を垂らしてもっともっととおねだりを繰り返している。

 

「口や態度と裏腹に、身体はとっても正直だね。無視しようっていうのが無理な話だ」

「待て、待てマスター……ダメだって、オイ」

 

 ずい、とマスターが迫る。オレを挟むように両膝が乗せられ、一番恥ずかしい所が顔を突き合わせる。

 マスターの顔が至近距離に迫り、オレは息を飲む。まるで怯える女のような、高い声が漏れた。

 

 

 セックスなんてダメだ。ダメに決まってる。

 だってオレは、フェラだけで満たされて、絶頂しているのだ。ま〇こはもう準備万端で、チリチリと焼けるほどの切なさを訴えている。

 

 

 見開かれたオレの目が、自然とマスターのイチモツに向けられる。二回射精して尚衰えを見せない怒張。突っ込んで、掻き回したいと自己主張する雄の象徴。

 目が離せない。濡れて上気した呼吸が、更に浅く早くなる。

 こんな状態のオレに、あんなに張り詰めたち〇ぽを突っ込まれたら……。

 

「——けれど僕は、君が本当に嫌がることはしないよ」

「っ……」

「君の欲望解消の玩具でいろって言うなら、僕は受け入れる。主従関係を明確にしたいなら、その意志を尊重する……でも君は、そうじゃないんだろ?」

 

 マスターがオレのズボンを引き下ろし、裸になった足を持ち上げた。Vの字に開脚させられ、瑞々しいいやらしい色の柔肉が曝け出される。

 魔力放出なんて必要ない。ただマスターを蹴り飛ばせばそれで終わるのに。持ち上げられた足はされるがまま。動こうという考えすら浮かばない。

 張り詰めたペニスの亀頭が、オレの穴にあてがわれる。そこでマスターは動きを止めて、オレを見つめてきた。

 

 

 発情しきった目が交差する。期待が振り切れた荒い呼吸が重なる。

 答えなんて分かり切っていた。この申し出を断る方法なんて無かった。心も体も、マスターを求めているのだから。

 それでいいのか? と、融通の利かない、見栄っ張りなオレが問う。

 それに返す答えは、もう決まっている。

 

 マスターに抱き締められて嬉しいと感じる。腕の痛みが切なくて虚しくて、マスターに慰めて欲しくなる。

 愛されたいと願う。それと同時に、こんな自分が愛されて良いのだろうかと不安になってしまう。だから一緒に居ていいという根拠を、愛情を、みっともなく求めてしまう。

 それも含めてオレだ。ここにいるオレは、そういうのも含めてモードレッドなのだ。

 

「マスター……もしオレが——」

「どうなっても愛してるよ、モードレッド。当たり前だ」

「っ——聞く前に答えてんじゃねえよ、バカマスター」

 

 こっちの葛藤を知りもしないで——いや、知った上で少しも気にせず、彼が即答する。

 思わず笑ってしまう。いっちょ前に覚悟を決める事すら、馬鹿らしくなった。

 

「……分かった」

 

 どうにでもなれ。行けるところまで行っちまえ。

 オレは腰を動かして、いやらしい下の口で亀頭にキスをした。

 

「メチャクチャにしてくれ、マスター。オレで、思う存分気持ちよくなってくれ。否定しようがないくらいの大好きって証を、嫌って言えないくらいの愛してるって想いを、オレにぶちまけてくれ……っ」

 

 切なく疼くま〇こを突き出して、心の底の想いを吐露する。

 分かり切っていた通り、マスターはオレの不安を全部軽やかに受け止め——覆い被さっていた上体ごと、オレの中へペニスを割り入れさせた。

 硬い亀頭が膣に押し入り、張り詰めた怒張が突き進む。迸る愛液とすっかりほぐされた柔肉が、その侵攻を歓迎する。

 

「っくひ、ぃぃぃぃぃぃ!」

 

 噛みしめた歯から嬌声が漏れ、涙で滲む視界にパチパチと星が瞬く。

 ぞくぞくぞくぞく! と、神経が擦り切れる程の快感がオレを襲った。

 とろとろになった肉ひだ全部が、生き物のように蠢いて竿に纏わり付く。ペニスが動く度に、静電気の弾けるような快感が襲う。

 あっという間にオレのま〇こは、マスターの怒張を飲み込んでしまった。

 膣全体がイソギンチャクのようにうねって、マスターの侵入を歓迎し、ペニスを熱く抱き締める。

 

「っあ、ぶな。出したばっかりなのに暴発する所だった……モードレッドの膣内、物凄くうねって、ち〇ぽが溶けるみたいに気持ちいい、よ……!」

 

 ぎゅうっと抱き締められると、途方もない幸せがぞくぞくと背筋を駆け上がる。

 幸せ。幸せ。ぞくぞくして、気持ちいい。もう訳が……。

 

「あ、ひぃ……だめだ。もうダ……ます、ますたー」

「ぶちまけるよ、モードレッド」

 

 マスターが耳元で、そう告げる。オレの理性を叩き壊すべく、腰を激しく動かし始めた。

 抜いて、叩き込む。欲望を剥き出しにした、猿のような腰使い。じゅるじゅると途轍もない水音が、オレの膣内で奏でられる。

 

「んっ、ふう゛、あ、 あ゛ぁ、 あ゛——ー!」

 

 膣のヒダを一つ一つずるずると引っかけながら抜かれる。かと思いきや間髪入れずに叩き込まれ、名残惜しげに疼く膣内に爆発したような快楽が噴き出す。

 何度も軽イキを繰り返して信じられない程敏感になった身体が、マスターに貪られる。じゅくじゅくと音を立てて、激しいストロークを繰り返す。

 肉ヒダの一つ一つが性感帯になったようだった。凄まじい快楽に脳が過負荷を起こし、視界にバチバチと火花が散って真っ白に染まる。

 

「ん、あ、いぎ、んぃ、ひっぐぅぅぅっ!」

 

 悲鳴のような嬌声。ひと突きごとにま〇こが痙攣し、愛液を噴き出させる。だらしなく空いた口から涎が溢れる。

 止め処ない絶頂。果てのない快楽。ブルブルと痙攣するオレの身体は、マスターに硬くキツく抱き締められ、ソファに押しつけられている。

 

「んぎ、ひぐぅぅ! ……ます、ますたー。やば、んあ゛っ……だめ。オレ、ずっとイッて……!」

「うん。じゅくじゅく痙攣して、すっごく気持ち、いいよ……!」

「ほし、星。星がぱちぱちして……あ゛、頭、おがじ……」

「おかしくなろう。訳が分からなくなるぐらい、気持ちよくしてあげるから」

 

 マスターが更にオレの身体を抱き締める。マスターに押し潰される。総毛立って敏感になった身体が、逞しい男の身体と、柔らかいソファに挟まれる。

 逃げられない。快楽のサンドイッチ。抱き締められて身動きの取れないオレの身体に、ち〇ぽがズコズコと叩き込まれ、過剰を越えた過剰な快感を注ぎ込まれる。

 

「ふひ、ぎ、いあ、あ゛——、あ゛ぁぁ——……!」

 

 亀頭で膣壁をゴリゴリと引っかかれる。最奥をトントンとノックされて子宮が切なく疼く。敏感になりすぎた触感が、全部の快感をオレに流し込んでくる。

 沢山の綿毛で脳を直接くすぐられるような、途轍もない刺激。

 身体の感覚がなくなる。全身が気持ちいい。気持ちいいしか感じられない。

 絶頂を繰り返し、自分でも理解できない場所まで連れて行かれる。

 トぶ。トンでしまう。脳が壊れる。ち〇ぽに壊されてしまう。

 

「あ、ああああ……こわい、マスター。こわいよ。どうにかなっちまう。オレ、オレ……!」

「大丈夫だよ、モードレッド。大好きだ、大好き、大好きだ……!」

  

 ぐちゅぐちゅと音を立てる容赦のない腰使い。マスターも一気に限界まで駆け上っていく。

 大好きだと、耳元で何度も囁かれる。必死に求められ、貪られ、受け入れられる。

 それがとても嬉しくて。溶けてしまいそうなほど幸せで。

 

「んぎっ、あひ、ん゛っふ、ふう゛——……! マスター。もっと、もっとぉ……! 抱き締めてくれ。もっと強く、ぎゅううって」

「いいよ。互いの境目が無くなるくらい、強く……!」

「ふう゛、んっ、う゛ぅー! ……潰してくれ。オレを求めて、貪って、満たして……!」

 

 男の太い腕に、強く強く抱き締められる。温かく柔らかい、心地よく強烈な圧迫感。

 マスターがオレを食べる。食べてくれる。骨の髄まで残さず貪って、愛してくれる。

 だからオレも全部を捧げる。虚空に浮いた脚をマスターの腰に組み付かせ、更に密着させる。子宮が物欲しげに口を開き、突き込んでくるマスターの亀頭とキスを交わす。

 硬く張り詰めた猛々しい怒張。柔くほぐれる濡れそぼった恥肉。

 雄と雌が混じり合って、快感で蕩けて一つになっていく。

 涎が溢れて、閉じる事も忘れた口が、当然のようにマスターに食べられた。舌と舌を絡ませて、熱い口内を泳がせ、互いの唾液を啜り合う。

 

「じゅ、るぷ、ずじゅううう……! ふむ゛、んじゅ、じゅうううっ」

 

 快感の悲鳴も飲み込まれる。穴という穴を塞がれて、オレの全部を味わわれる。

 押し潰されるように抱擁され、抱き締められ。身体の中も、外も、マスターでいっぱいになる。

 嬉しい。嬉しい。

 もっと求めてくれ。欲望をぶつけてくれ。

 胸の内の切なさをぶっ壊してくれ。

 何もできない情けなさを癒やしてくれ。

 

 

 愛してるって証明してくれ。

 こんなオレでもいいって教えてくれ。

 この穏やかで優しい場所が、仮初めの夢ならば。

 いつか消える幻ならば。

 いまここで、幸せな夢を見させてくれ。

 誰かに愛される、女の幸せを教えてくれ。

 お前の大好きって想いで、オレを埋め尽くしてくれ——!

 

 

「んぷ、じゅるっ、ぷっ、う゛、う゛ぅ——っ」

「気持ちいい、気持ちいいよ、モードレッド……僕も、もう……っ!」

 

 熱い呼吸が耳元にかかる。腰の動きがトップギアに上がって、ぱちゅぱちゅと凄まじい水音を響かせる。

 ギンギンに張り詰めた肉棒が激しくストロークする。愛液に濡れた膣がすぼまって、ペニスをキツく抱き締める。

 マスターがオレを抱き締め、オレの脚がマスターの腰に組み付く。

 このまま夢のようにイく。二人一緒に。幸せに溺れて、飛ぶ、トぶ。トぶ……!

 

「射精すよ、モードレッド。一番奥に、ありったけ全部……!」

「っふぁ、あ、あ゛ー……来て、来てくれ。熱いち〇ぽ汁で、オレの中を満たして。全部全部、ぶちまけてくれっ! じゅるるるっ、るぅ、ぷじゅ……ん、んんんんんん~~~~~~~~~!」

 

 一際大きな火花が瞬いて、視界が真っ白に染まる。

 オレ達は互いをキツく抱き締めて、途轍もない絶頂に打ち震えた。

 

 

 一緒に絶頂して、一緒に痙攣する。

 真っ白い雄汁を吐き出して、雌壺がそれを受け止める。

 ドクドクという脈動を膣で感じる。ち〇ぽは何度も何度も震えて、気持ちいい証拠を吐き出し続ける。

 子宮の中まで、精液が飛び込んでくる。下腹部の底に、とくとく、とくとく。オレの最奥がマスターで満ちていく。

 

「ん゛……ん゛ー……!」

 

 喘ぎ声が止んで、痙攣が止まっても、抱擁はほどけなかった。混ざり合って、一つに溶けるようだった。

 過負荷をかけられていた脳がほどけ、じんわりと弛緩していく。

 身体の緊張が一気に抜けて、痺れが全身に広がっていく。

 マスターで満たされていく。抱擁された身体から、温もりが染み込んでくる。

 このまま、溶けてなくなってしまいたい。そう思うほどに、満ち足りる。

 信じられないほどの、幸せだった。

 

「んぷ。ん、ちゅ……すき、マスター。まふあー……ちゅ、るぅ……」

 

 ぽーっとぼやけた思考のまま、オレ達は唇を合わせる。絶頂が終わり、魂まで弛緩しても、好きという気持ちを唾液と一緒に絡ませ合う。

 夢のような時間を最後まで名残惜しんで。オレ達はずっと、ずうっと、呆れるほど長い間、夢見心地のキスを味わっていた。

 



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20話

 温かい湯が、弛緩した身体を優しく包み込む。穏やかな雨のような音に、爛れた心と身体が清められていく。

 湯気立つシャワールームで、オレは静かに、後ろから伸びるマスターの腕を受け入れる。太い腕に肢体をなぞられ、柔く抱擁される。

 肌が触れ、湯が流れていく度に、迸っていた汗や色々な穢れが落ちていき、後には不思議な充足感だけが残る。

 

 こんな感覚は、一度目の人生では終ぞ感じた事なかった。

 強敵を屠った達成感とも、野を駆ける爽快感とも、唯一絶対な王に使える誉れとも違う。

 満ち足りた感覚。他に何も要らないという、排他的な満足感。

 人並みに生きる娘が目一杯に背伸びして思い描く、平凡な理想。

 

「……やっぱり似合わないよ、オレには」

 

 解いた髪が垂れて、視界に影を作る。訳も無く俯いた視界は、排水溝の真っ黒な渦に注がれる。

 

「有り得ないんだ。オレがオレである以上、サーヴァントである以上……このまま、堕落するのが許される事なんて」

 

 感じた事の無い満足は、オレから現実味を奪い去る。温かさに緩む心の中に、置き去りにされたような喪失感を感じさせる。

 これ以上無く満たされたからこそ、断言できる。

 違うのだ。オレが抱くべきなのは、こんな感情では無い。

 自動車に軽油を入れても動きやしないのと同じ。そもそもの立場が違う。生きる世界が違う。

 結局、壊れる程愛されても、胸の内の空洞は消えなかった。在るべき場所が違うという居心地の悪さは無くならなかった。

 つまりは、そういうことだ。

 

「……これは夢だ。普通の女として受け入れられる、有り得ない夢。たった一人を求めて、それ以上に求められる、とびきり幸せな夢」

 

 マスターに会えて良かった。ここで時を過ごせて良かった。

 これ以上無く愛して貰えた。女としての喜びを、身体の内に満たして貰えた。

 心から、幸せだった。

 だからこそ、離別は切なくも、苦しくはなかった。

 

「夢なら、いつかは覚めなきゃいけない。覚める時は選べない……そして覚めたなら、もうその夢は忘れなきゃ駄目だ」

 

 言葉にすれば、オレの心は急速に、元の形を取り戻していく。

 蕩けていた身体に力が籠もり、思考が刃のように冴える。

 身体が、モードレッドという存在の、在るべき姿を思い出す。両腕に深く刻まれた傷が、ズキズキと悲鳴を上げた。

 

「……ごめんね、モードレッド」

 

 名残惜しむように、マスターがオレを優しく抱き締める。シャワーに熱く濡れた肢体が絡まり、オレの首筋に唇が吸い付けられる。

 

「色々、無理をさせたね。もどかしい思いをさせて、無駄な希望をちらつかせて、期待させて……」

 

 温かな湯気に包まれた、二人だけの時間。逃げ続けたオレ達の、爛れた逢瀬。

 

「間に合わせたかった。君の苦しみを、最後まで癒やしてあげられなかった……君を酷い目に遭わせてしまう。戦士として戦わせてあげられない。それだけが本当に、残念でならない」

 

 深く詫びるような、弱い声音。両腕の傷がじくりと軋む。

 彼は『最後』と口にした。その認識は、至極正しい。

 間抜けなマスターとばかり思っていたのに。現実だけはしっかり見据えている。そのギャップに思わず失笑する。

 

「気付いてやがったか」

「伊達に魔術師はやってないからね」

「いつから?」

「うーん、メチャクチャにしてっておねだりされた辺りかな」

「……オイ、その状況で続けるか普通? お前、エロに関してはマジで剛胆が過ぎるぞ」

「君が言えた話じゃないだろう?」

 

 マスターが惚けて笑う。つられてオレの口角も持ち上がる。

 夢のような時間。夢でしか有り得ない時間。

 夢にしてはもう十分、長すぎる程堪能させて貰った。

 目覚めの鬨の如く、両腕の痛みが響く。

 

「大丈夫かい、モードレッド」

「大丈夫なもんか。怖えよ、当たり前だろ。負けて、歴史から消される覚悟なんて、ちっともできてない」

「……ずっと一緒にいるよ。ここで終わりになんかさせない」

「ああ、だからこそ、負けてたまるか。諦めてたまるかよ。情けない不遇の身らしく、みっともなく抗ってやる」

「そうだね……行こう、()()()()

 

 彼がオレの役割を呼ぶ。

 唇を交わらせる。温かく柔らかい至福の時を、最後の瞬間まで味わう。

 そうしてオレ達は、夢から覚めて、苛烈極まる地獄へ帰着する。

 ——聖杯戦争へと舞い戻る。

 

 

 

 

 

 外は完全な無音になっていた。賑やかだった鳥の声は一つとして響かない。木々すらも息を潜め、固唾を飲んでいるようだった。

 そんな静まり返った森に、ドアを蹴り開ける轟音が響く。殻を破るべく放った全力の一撃に、金具が契れて木板が吹き飛んでいく。

 赤地に金の装飾をあしらったインナーを身につけ、オレは張り詰めた外の空気を吸う。

 秋が迫る森。広葉樹が先に枯れ落ち、焦げ茶色に染まった大地。足を踏み出せば、カサリと乾いた音がする。

 両腕は相変わらず、両脇にぶら下げたまま。痛みと痙攣は隠すべくもない。

 

「っ……ふぅー……」

 

 身体が震えるのは、武者震いか、それとも恐れか。

 心が研ぎ澄まされ、痛みが更に表出する。心臓の鼓動に合わせズキズキと脈動する。

 背中に、マスターが手を置いた。

 そっと添えるだけの、ささやかな接触。掌の体温がじんわりと染みて、オレの心を少しだけ落ち着かせた。

 

「……来るぞ」

 

 一言。マスターが緩く首を立てに降る。

 さぁと風が吹き、茶色に乾いた落ち葉がカサカサと舞う。

 風の向こうから、落ち葉を踏みしめる音が近づいてくる。

 

 くたびれた風体の男だった。緑を基調とした古めかしい戦装束。目元や鼻筋に皺の目立つ、壮年の顔。掠れた茶色の短いざんばら髪。

 細身だが、袖から見える腕には逞しい肉体が覗く。

 肩に担ぐは、十字架型の槍。刃先に灯る黄金の煌めきは、それが歴史に名を連ねる宝具である事を肌で感じさせる。

 弥次郎兵衛のように肩で風切り、担いだ長槍を揺らし、男はオレ達に微笑を向けた。

 

「——わざわざお出迎えなんて気が利くじゃないの」

 

 マスターに勝るとも劣らない飄々とした声。

 男は髪と同じ乾いた茶色の顎髭を撫でながら、懊悩に言葉を紡ぐ。

 

「俺ぁてっきり、怯えるアンタ等と隠れん坊するもんだと思っていたんだけどねぇ。ぶらりと来てみれば、何とも肝の据わった目をしてらっしゃる」

 

 気怠げでひょうきんな態度。それでいて、ゆらゆらと揺れる立ち振る舞いのどこにも、付け入る隙が見当たらない。

 穏やかな態度は表層だけ。小皺の浮いた目の奥は、ぞっとするほど冷酷な黒に澄んでいる。

 

「参った。心の在り所はともかく、覚悟だけは決まってる。やけっぱちでも戦う気だ。こりゃオジサンも頑張らなきゃねぇ」

 

 酩酊を疑うような愉しげな声。これから遊びに行くかのような気軽さで、男は槍の柄を撫でる。

 間違いなく、オレが最も嫌いなタイプだった。余裕たっぷりの態度からは、此方を睥睨する意志をありありと感じさせた。

 

「……ああ、思い出したぜ」

 

 オレの腸が、急速にグラグラと沸き上がる。噛みしめた歯がギリと鳴る。

 

「その得物。その格好。嫌でも思い出させる……テメエがやりやがったんだ。傷を付けるばかりか、オレの名に泥まで塗りやがった」

「おお、上手い具合に効いてるみたいだ。殺意に虚勢の匂いがぷんぷんするぜ」

 

 呵々と笑い、オレを笑い飛ばす。今すぐにも飛び出して蹴り飛ばしたかったが、背中に置かれたマスターの手が、それを制する。

 こちらから飛び込む訳にはいかない。有効な手は多くない。

 それを見透かして、男は懊悩に微笑む。

 

「剣はなし。殴る投げるもなし。刹那の戦いにおいて痛みがどれだけ隙になるかは……お互い、検めるまでもないか。いやぁ仕留めるのが楽とはいえ、気の毒とは思うぜ、本当に。なぶり殺しと変わらねえもの」

 

 わざわざ一同に羅列し、壮年の男は、肩に担いでいた槍にゆるりと手を滑らせる。

 

「けれども、だ。オジサンは逆境にはことさら縁があってねぇ。追い詰められた鼠がどれほど意地汚いかは、俺自身がよ~く証明しているのさ」

 

 ぬるい湯が流れるかの如く、気怠く自然に、隙無く。男は姿勢を崩し、槍を虚空に漂わせる。

 両手を添えて、穂先を向ける。

 それだけで、漂っていた温和な空気が霧散した。

 人を食った笑顔はそのまま、嗜虐的な空気を纏う。

 目に昏く鋭い闘士だけを残し、壮年の男が言い放つ。

 

「——遊びはなしだ。慎重に、徹底的に潰させて貰おう」

「ハンッ、バカ言うぜ。泣いて地面に這い蹲るのはどっちだろうな」

「すぐに悲鳴以外言わせなくしてやるよ。オジサン、やると決めたらとことんやる男でね」

 

 唇を吊り上げれば、獣のように尖った八重歯が覗く。

 不穏で獰猛な笑み。不遜な態度。それがオレにとって不安となる事を心得ている、陰湿な立ち振る舞い。

 否応なしに戦いが始まる。柔く温かい幻想を砕き、英霊同士の聖杯戦争が再開する。

 

 

「サーヴァント、ランサー——お前さんにゃ悪いが、存分に推して参らせて貰おう」



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21話

 静まり返った森に、戦いを告げる合図はない。

 しかし、始める資格を持つのは、腕に傷を追ったオレでは無く、余裕の笑みを浮かべるランサーだ。

 腰だめに構えたまま、槍兵はゆるりと姿勢を崩し——瞬間、風と同化する。

 轟! と空気が唸り、殺気が空気砲のように浴びせられる。

 規格外の加速。一方的で容赦の無い戦闘開始の合図。

 金色の穂先が輝き、吸い込まれるようにオレの喉に迫る。

 

 

 一息に突き殺そうとするその足は——始まりと同様、突然に止まる。

 ランサーが踏みしめた落ち葉。その足下の大地が、電流が弾けるような音と閃光を煌めかせた。

 一歩踏みしめた姿勢のまま、身体が打ち震え、硬直する。

 

「っお……!?」

「ただ現実逃避の為に、逃げて隠れていた訳じゃないさ!」

 

 オレの背後で、反骨の声がする。

 マスターは手にした宝石の魔力を解放し、投擲。解き放たれた魔力を推進力に、宝石が弾丸のような速度で飛来する。

 

「セイバー!」

「応ッ!」

 

 同時に、オレはありったけの力で地を蹴った。

 溢れた魔力がバチンと紅の閃光を上げる。視界がぐぅっと遠ざかり、槍兵のくたびれた顔を中心に据える。

 音速を越える宝石に追従し、オレは跳ぶ。硬く曲げた膝を、顔面に叩き込むべく。

 しかし、そのどれよりも、ランサーの槍の方が早い。中空に硬直していた槍が搔き消えると、風が彼の周囲に吹きすさぶ。

 パキンと軽い音を立てて、先に宝石が砕け散った。

 次の瞬間に顔面にめり込んでいた筈のオレの膝は、間に入った柄に食い止められる。

 

「っの——」

「邪魔だよ」

 

 宙に浮いたまま、二撃目を放つべく脚を踊らせる。その腹に蹴りが叩き込まれ、オレは真後ろへと吹き飛んだ。

 身体が大地に叩き付けられ、落ち葉が舞う。衝撃。

 両腕に千切れるほどの激痛が走った。

 

「っ~~~~~~~~~~~~~~!」

 

 本能で唇を噛みしめて悲鳴を堪えても、感覚を取り戻すには数秒の時を有した。

 もしあの老兵が真に本気であったならば、この間に、オレの敗北もあり得た事だろう。蹴り飛ばしたランサーは腰を叩き、その場で呑気に背伸びなどしてみせる。

 

「いつつ、案外効くねえ。腰にくるビリビリだこりゃ」

 

 笑いの混じった悪態。勿体ない勿体ない、と溜息を漏らしながら、槍を一回転。足下に転がる宝石を砕き割る。

 

「やっぱり窮鼠ほど頭を回す。落ち葉の下は地雷原って訳だ」

 

 宝石を用いて威力を上げたとはいえ、準備に許された時間は僅か二ヶ月。マスターの魔術で与えられたダメージは、足止め以上の意味を成していない。

 

「……セイバー」

「ッ平気だ。何てことねえよ、このぐらい……!」

「おお、思った以上に元気だねぇ。溌剌だ。さては随分”よくして”もらったな? 羨ましいねぇ、仕える主だけは選べねえから」

 

 顎髭を撫でながら、ランサーが嬉々として笑う。

 このくたびれた男は、人を食ったような態度を崩さない。相手が丈夫な玩具だった事に対し、殊更大袈裟に喜んでみせる。

 どこまでも馬鹿にした態度。人を食った惚けた冷笑。

 あちらの優位を確信し、思い知らせる為の侮辱。

 オレがどれだけ怒っても、相手に見下ろされる、その立場の優劣は変わらない。

 

「不意打ちは失敗。実力差は歴然。体力は有り余ってるが、正面からの決闘は確実にそっちが不利」

「……クソッ」

「——となりゃあ、当然逃げるよな。俺だってそうする」

 

 嘲笑う声に背を向け、オレは森の奥を目指して走り出す。

 通常では考えられない行動。けれど屈辱に歯噛みする余裕すら、この戦いにはない。

 

「きっと幾重に策を用意してるんだろ? 罠でも地の利でも何でもいいから、得意な状況に誘い込もうって腹だ——だからオジサンは、嫌がらせにこんなことをしてみるわけさ」

 

 そう言うとランサーは、槍を回し、地面に槌を叩き付けた。

 大地が戦き、空気が激しく震える。穿たれた土は爆散し、その礫がオレに向けて飛びかかる。

 通常であれば小雨にも思わない、軽い土くれ。しかし今のオレにとってそれは、ナイフよりも鋭い凶器となって、オレの両腕にぶち当たる。

 右手に衝撃。腕が宙を跳ね、焼きごてを押し当てられたような激痛が襲う。

 

「い、ぎゃ!」

「セイバー!」

「呼んでる場合じゃ無いぜぇ彼氏さん。こっちはアンタを殺したって勝ちなんだからよ!」

 

 ランサーの穂先がマスターに向く。老兵は再び突貫を仕掛け——再び足下の閃光に、その動きを封じられる。

 

「つああ、面倒だなこりゃ!」

 

 渋面を作ったランサーが唸る。その僅かな隙に、マスターは口笛を鳴らす。控えていた馬が立ちどころに駆け付け、そこに飛び乗った。ランサーの間合いから離れるべく、腰を蹴る。

 宝石を砕いて拘束を破ったヘクトールが、マスターの背中に不敵な笑みを向ける。

 

「鼠め。英霊の走力を舐めてもらっちゃ——」

「ッ痛——ってえんだよクソ野郎がぁぁぁ!」

 

 そのムカつく笑みに、オレは渾身の怒りを浴びせかけた。

 眼前にクラレントを現出させる。持つべき手はなくとも、それは激戦を潜り生涯を共にした、力あるオレの魂だ。呼びかけに応じて、剣は現世に鋼の輝きを現す。

 寄る辺を失い宙に舞うクラレントに、オレは強烈な蹴りを叩き込んだ。魔力放出の雷を伴い、彗星の如き速度で飛来する。

 

「ぬ、お——っ!」

 

 ランサーは当然のように身を捩り、飛来するクラレントをかわす。大砲のような一撃に空気が抉られ、奴の乾いた茶髪を吹きさらす。

 悪戯に痛みを与えられたオレの屈辱、蔑ろにしやがった怒りは、それで十分に伝わったようだった。

 

「戦う相手を……間違えてんじゃねえぞ、クソジジイが!」

「ジジイ!?」

「目ェ濁らせて耄碌してんじゃねえぞ! 一瞬でも目を逸らしてみやがれ。その瞬間、テメエのくたびれた首筋噛み千切ってブチ殺してやる!」

 

 両腕の激痛に瞼を痙攣させながら、オレは怒鳴る。

 礫の一撃でさえ、神経に焼き付くような痛みを記憶させる。そのうっとうしさを怒りに変えて、オレは犬歯を剥き出し、目の前の飄々とした男を睨み付ける。

 

「ジジイ、ジジイかぁ……自分でオジサンっつってるけど、人から言われると、存外苛つくもんだねえ」

 

 冷ややかな声。残酷なほど冷たい闘志が、オレだけに注がれる。

 やる気の一つも感じないのに、驚くほど昏く冷たい瞳。柔軟で気怠げなのに、一縷の隙も見当たらない振る舞い。

 激情に任せて暴れ回ったオレとは違う強さ。途方も無い年月を戦に捧げ、その果てに、命のやり取りに飽きを感じる程に至った、大樹の如き達観。

 生き続ける事に卓越した才気。戦における酸いも甘いも噛み分けた古豪の貫禄。

 

「っ——」

 

 本来は心躍る邂逅の筈なのに。オレの身体は戦慄に震え、地面を踏みしめる感覚を喪失させる。

 命なんて擲ってしまえと激情していたオレが、死の恐怖に竦んでいる。

 

「相手を間違えんなとは言うがね……マトモな戦いになると思ってんなら、随分お笑い種だぜ?」

 

 言葉が、何より的確にオレを貫く。

 嘲笑するランサー。それはさながら、獲物を確実に捉えると決めた、肉食獣の如く。

 否応なしに、自分が狩られる側であることを思い知らされる。

 

「——さてさて、まずはジジイ呼ばわりを謝ってもらうトコから始めますか。何発打ち込みゃ、お前さんは泣いてくれるかな?」

 

 互いの武器を交わし、鋼を打ち鳴らし、血と咆哮の果てにどちらか一方が倒れ伏すのが戦いだ。

 それならこれは、捕食か、蹂躙か。はたまた只の虐殺か。

 戦慄する間もなく、金色の穂先が、オレ目がけて躍りかかる。

 

「っ——」

 

 突き出された刃を、オレのつま先が蹴り上げる。金属音が劈き、火花が散る。

 一瞬でも遅ければ胸を抉られていた、紙一重の防御。それすらランサーにとっては牽制でしかない。

 直前にランサーは片手を槍から離していた。オレの蹴り上げの威力を逃がし、突進の速度を活かしたまま、オレの胸に掌底を叩き込んだ。衝撃に上体がぐらりと揺らぐ。

 

「が——!?」

「這い蹲るのは苦手だろ? 手伝ってやるよ」

 

 嗤いながらランサーが狙うは、地面に着いたオレの片足。翻った槍が、臑に向けて振るわれる。

 完全に崩れた体勢。直感が避けられないと告げ、本能がオレの魔力を爆発させた。

 紅い閃光。落雷の如き衝撃を放ち、オレは上空へ跳ぶ。ランサーの姿がみるみる小さくなり、辺りの木々を越える程高く舞う。

 

「舐めんなァ!」

 

 もう一度クラレントを現出し、その柄に踵落としを叩き込む。

 紅い魔力が轟き、正しく雷のように大地に落ちる。土くれと共に落ち葉が舞い上がり、木々が嘶く。

 溜めに溜めた魔力を使った一撃。肌がビリビリと痺れる感覚に、久しく忘れていた戦士としての高揚が蘇る。

 しかし油断はできない。今のは大袈裟なだけの力任せの一撃だ、これで決まる訳が無い。

 高揚が、立ちどころに不安に搔き消える。その予感はやはり的中する。

 

「——こっちだよ、こっち!」

 

 休日待ち合わせでもした時のような、余りに場違いな弛んだ声。

 視線を向ければ、爆心地から離れた地上に立つランサーが、今まさに振りかぶった石を投げつけた所だった。

 ぞっ——と、悪寒が背筋を駆け抜ける。

 空を切ったライナーの狙いは顔面。土の付いた灰色が迫る。

 選択肢はなかった。オレは迫りくる礫に向けて、腕を翳した——消えない傷を与えられた左腕を。

 咄嗟に鎧を展開し、直撃だけは避ける。それでも石は、狙い澄ましたようにオレの手首を打ち抜いた。

 

「っがああああああああああ!」

 

 腕を引っこ抜かれる程の、激烈な痛みが轟く。

 オレは理性を総動員して、意識をつなぎ止める。何とか両脚で着地、暴れ狂う痛みを、割れんばかりに歯を噛んで押さえ込む。

 

「ぐ、う……ううううううううううう……!」

「地面にグシャリと潰れるもんかと思ってたが……やるねえ、見上げた根性だ。オジサン感心しちまうよ」

「こ、の……クソ野郎がぁ……!」

 

 強気な言葉を何とか絞り出す。目尻には涙が滲み、焼け付くような痛みが腕を苛む。

 戦いにおいて、痛みは敗北に直結している。激しければ激しいほど、脚は竦み、身体は震え、固く誓っていた筈の闘志を挫かせる。

 誰だってそうだ。どんなに威勢のいい野郎でも、鼻をへし折り、身体のどこかを斬ってやれば、たちまち涙を流しながら命乞いを始める。そういう奴を、オレは何人も目にしてきた。

 痛みとは恐怖だ。生涯あって欲しくないと願う最大の苦しみだ。それがオレの心を砕き割るべく、蚤をあてがい、鎚を叩き付けてくる。

 

「っ——」

「まだ逃げるか? 当たり前か、まだ出してない策があるもんなぁ、絶望にゃ早い早い」

 

 みっともなく背中を向けるオレ。呵々とした嘲笑が追い縋ってくる。

 落ち葉を舞い上げ、二騎が森を駆け抜ける。屈辱的な逃走。けれども道筋は既に決めてある。

 予め頭に入れてある道をひた走り、オレは木々の間をくぐり抜け、張られていたロープを蹴り千切った。

 仕掛けが発動し、木々に括り付けていた丸太が、追従してくるランサーに迫る。

 

「はは、いいねえ古典的で! そういう苦し紛れなの大好きだぜ!」

 

 オレは振り向かない。背後で軽やかな落ち葉の音。気にした様子もなく、追跡が再開される。

古典的。苦し紛れ。まさしくその通りで、言い返そうとも思わない。

 だって、これは全てマスターが用意したものだからだ。

 平穏を望んで、ずっと日々が続けばいいと夢見ていたマスターが、それでも現実を直視して日々を捧げたもの。

 

「昔を思い出すねぇ。こういう嫌がらせをよくしたモンだが、受ける側になると意外と下らないな!」

 

 できれば使いたくなかった数々。それらがオレの後ろで砕かれていく。殆ど無意味に。足止め程度の意味しか成さず。

 

「……」

 

 必死に逃走を続ける、俺の脳裏に記憶が蘇る。

 憂いをおびた目で罠を張るマスターを、オレはただ見ているしかできなかった。

 オレは何もできなかった。ただ見ている事しかできなかった。屈辱と虚しさと、自分の為に尽くしてくれる嬉しさがない交ぜになって、一言も声をかけなかった。

 

 

 本当は使いたくなかった。永遠に不必要な、無駄な準備であってほしかった。

 無念だ。残念でならない。

 ——その気持ちを、オレは押し殺す。

 無念を薪として燃べ、窯のように深く閉じ込める。

 今は逃げる。唇を噛んで背を向ける。

 まだ駄目だ。まだ——まだ——。

 

 

 逃げる。槍が追い縋る。木の幹に描かれていた魔術がランサーを硬直させる。間合いが僅かに開く。また逃げて、直ぐに槍が迫る。その繰り返し。

 

 

 ——まだ——まだ——。

 

 

 オレは再び木々を抜け、張られた縄を蹴る。

 地面から棘突きの柵が跳ね上がり、ランサーを串刺しにするべく迫る。

 ランサーは最早驚きすらしない。ひらりと背後に跳んで、トラップを回避する。

 やれやれと溜息すら溢し、つまらなそうに鼻を鳴らす。

 

「原始的な罠ばかりだねえ、結局ノータリンな——」

 

 その脇腹に、弾丸のように飛来した宝石が激突した。激しく鈍重な音が響き、ランサーの体躯が折れ曲がる。

 目を見開くランサー。その視線の遠い先には、馬を駆るマスターの小さな姿。

 

 ——まだ——まだだ——

 

「いっ、てえな。ペット思いの飼い主な事で……!」

 

 空中を横っ飛びに吹き飛び、舌打ちと共に着地する。

 

 

 

 

「——今だ、セイバー!」

 

 ランサーの足下から、閃光。踏みしめられた宝石が輝き、ランサーの身体を釘付けにした。

 予想外の衝撃に、ランサーが初めて苦悶に呻く声を上げる。

 それが鬨の声だ。オレはずっと待っていた、反撃の瞬間。

 

「ッ……着地まで、計算ずくってか!」

「くたばれぇぇぇぇぇ!」

 

 怒りを魔力に変え、そのありったけを脚先に籠める。

 轟々と唸る紅の輝きを足裏に乗せ——一撃。

 大地が砕ける程の衝撃。吹き飛んだ歯と血液が、秋の空に高く舞い上がる。

 惚けた顔にお見舞いした特大のサッカーボールキックは、ランサーの身体を凄まじい勢いですっ飛ばした。

 

 

 鞠のように跳ねたランサーが、血飛沫と共に地面に落下してくる。

 まだだ、容赦をするな。オレは再度魔力を放出し、跳躍する。

 地面に落ちるのも待ってやらない。もう一撃——魔力の籠めた脚が狙うは、真っ逆さまに落ちてくる奴の土手っ腹――!

 

 

 



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22話

「……そう上手く行く訳ないでしょうが」

 

 ランサーの低く鋭い声がする。

 突き出された槍の鎚が、オレの額を捉えた。

 衝撃。重い痛みに、首が身体に置いてけぼりにされる感覚。

 平衡感覚が一気に喪失し、オレは落ち葉の上に身体をしたたかに打ち付けた。

 両腕の傷から与えられる痛みが、グラグラと揺らぐ脳味噌をミキサーのように掻き混ぜてくる。

 

「っづ——おおぉ……!」

「あぁ、効いた効いた。いい一撃だったぜ、今のは」

「クソッタレ……軽く言いやがって」

「逆境には縁があってね。防衛と打たれ強さには自身あるのよ、俺」

 

 ランサーがひらりと着地し、血痰を地面に吐き出す。蹴りのダメージは確かに入っているようだが、槍を握る手は未だ健在だ。

 足取りは未だ力強く、声からは慢心が消えている。

 

「やっぱ、オジサンもどっかで油断してたみたいだ。お前さんも立派な戦士だ、手を抜いちゃいられない。そうだろ?」

 

 言うが早いか、ランサーは槍を担ぐと、明後日の方向に照準を向け——投擲。

 英霊が放った槍の一撃は、超常の速度で飛来し、着弾。周囲の木々を吹き飛ばす大きな爆発を産む。

 短く、馬の嘶きがした。後に続く筈の彼の声は、爆音でかき消されて届かない。

 

「マスター!」

「やっぱり、あっちを追いかける方が楽でいいや」

「っ……待ちやがれ!」

 

 落ち葉を跳ね上げ、ランサーがマスターのいた方角へ走り出す。オレも直ぐさまその後を追い、舞い上がった落ち葉のヴェールを抜け——

 

 

 

 

「だって、獲物の方から飛び込んで来てくれるからな」

 

 その先でランサーが、オレに向けて槍を振りかぶっていた。

 野球のバットのような構えからの、フルスイング。突き出た金属の鍔が、狙い違わず、オレの手首を打ち据えた。

 

「ぎゃああああああああああああああああああ!?」

 

 バチン、と視界に火花が散る。視界が明滅し、意識が飛ぶ。

 土手っ腹を蹴飛ばされ、オレは大地に倒れ込む。受け身も取れなかった身体がぐしゃりと潰れる。

 痛い、痛い、痛い。意識が、感覚が、痛みに塗り潰されている。打ち据えられた左腕が、木っ端微塵になったようだ。

 けれど、呻く暇などある筈が無い。早く立ち上がらなければ。

 朦朧とする意識で、オレは両脚を大地に押しつける。

 

「良い声だな、もう一回聞かせてくれよ」

 

 痛みに震える左腕に、今度は投げつけられた石が激突した。

 パァン! という音。肉が波打ち、骨の砕ける音。オレの腕が跳ね上がる。

 

「ふヴあああああああああああ!」

 

 意識を離れた両脚が力を失い、オレは大地に倒れ伏す。落ち葉が舞い上がり、口に苦い土が飛び込んでくる。

 生皮を剥がされ、剥き出しの神経を殴りつけられるような衝撃。身体が痛みに呻き、矢鱈目鱈に暴れ回り、オレの身体を土と落ち葉に塗れさせる。

 

「セイバー!」

 

 荒れ狂う嵐のような痛みの中、オレの意識がマスターの声を捉える。悲痛な声が近づいてくる。

 

「っ馬鹿。来るんじゃ……!」

「そうだぜ、今は折檻の途中だ。野暮な真似はよしな」

 

 冷たいランサーの声が割り入る。奴はマスターの放った宝石を砕くと、土手っ腹に拳を叩き込んだ。深く腰の入った綺麗な一撃。それだけで常人のマスターは吹き飛び、大地にぐったりと倒れ込む。

 気絶したらしいマスター。けれどもランサーは彼に目もくれず、オレを静かに睥睨する。

 

「聖杯の為、依頼されちゃしょうがねえと渋々納得して……それでもオジサンは、てっきり手負いの奴を、せめて苦しまず楽にしてやるのが勤めかと思ってたんだ」

 

 起き上がろうとするオレの腹に、つま先がめり込む。内蔵がメコリと軋む。身体が宙を舞う。落下と同時に両腕が潰され、激痛が悲鳴になって、オレの喉を駆け抜ける。

 

「けれど、アンタは立派な戦士だった。それじゃ困るんだよ。誇りある戦士を負傷した状態で殺したんじゃ、夢見が悪いだろう? できればお前さんにゃ、全部擲って、諦めて欲しいんだよね」

 

 呻く事も許されず、今度は槍の石打が突き出される。

 オレは直感で首を逸らし、顔面に向けられたそれを避ける。暴れる神経を強引に押さえつけて、魔力を乗せた脚を奴の鳩尾に繰り出す。

 反撃は完全に予想されていた。ランサーはひらりと身を躱すと、反対にオレの足首を鷲掴みにし、勢いよく振り回した。オレの身体が浮き上がり、木の幹が頭部に迫る。

 防ぐには腕を使うしかなかった。顔の脇に翳した腕が木の幹と衝突。深く穿たれた消えない傷が、魂まで割れる程の激痛をもたらす。

 

「っ——づあああああ!! 畜生、畜生がぁあぁぁぁ!」

「ほおら、まだ突っかかってくる。追い詰められる程、獣みたいにな」

 

 痛み。激しく我を忘れる痛み。オレは激情のままにクラレントを蹴り、魔力を放ち、蹴りを見舞う。その全てが精細を欠き、ランサーの付け入る隙となる。

 ランサーはオレを打ち据えた。柄でオレを殴りつけ、石打で叩き、蹲れば蹴りを穿った。反撃を狙えばこれ幸いと拳を見舞い、距離を取ろうと背を向ければ、その瞬間石を投げつけられた。

 いずれも執拗に腕を狙って。どんな些細な痛みも、悪巫山戯のような攻撃さえも、途方も無い痛みとなってオレの魂を砕いた。

 逃げる事もできない。反撃の手も出てこない。

 ランサーはオレの傷を抉る。痛みを与え続ける。

 執拗に、丹念に、徹底的に。完膚なきまでに。

 

「ぎゃ……ああっ! う゛ああああ!」

「オジサンが戦ったのも負け戦でね。圧倒的有利な相手さんの猛攻を、あの手この手で切り抜けたもんさ。知ってる? アカイアってんだけど」

「ぐう! ぐぅいいいいいいい! クソ、クソォ! クソがぁぁ!!」

「学んだのは、不利が負ける理由になるわけじゃないって事だ。道具でも弁舌でも何でもいい。やってやるって気概がありゃ、逆境は覆せるんだよ」

 

 石打。鍔。柄。蹴り。拳。石まで使って。

 けれども、穂先についた刃だけは使わない。決して殺さず、最大限の苦痛を俺に与え続ける。魂がどんどんひび割れていく。

 

「砕くのではなく、挫かせなきゃいけないのさ。アンタが戦士であるなら、まだ戦う気でいるなら、オジサンも最後まで付き合ってやるよ」

 

 両腕の血管が、沸騰した油を流し込まれたように震える。自分の身体である感覚がしないのに、痛みだけが鮮明に俺の脳に針を突き立ててくる。

 それは虐待だった。支配者が奴隷に、自らの立場を思い知らせる為の。

 虎の牙を抜き爪を剥がすかのような、尊厳の剥奪。オレに対してのそれは、両腕の決して癒えない傷と、耐えがたい痛みだった。

 

「ひぃっぎ、いいぃいぃぃ! ふあ゛あ゛、があああ!!」

 

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 喉がちぎれても尚、悲鳴が止まらない。耳鳴りが音を塗り潰し、血の味が口内を埋める。バチバチと弾ける視界が、溢れる涙で濁る。

 脳がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。死ぬ。このままでは痛みに狂ってしまう。自分が壊れてしまう。

 鎧……せめて鎧を纏わなければ。反撃は愚か、この地獄から抜け出す機会さえなくしてしまう。

 

 

 

 藁にも縋る心で、オレは鎧を現出させようとする……させようとした。

 そこでようやく、オレは自分が何を喪失したのかを知る。

 

 

 

「……な……?」

「出なくなったかい? しょうがない、むしろよく粘った方さ」

 

 ランサーがやれやれと溜息を漏らす。その声が遠い。

 自分の身に何が起きているか、分からない。分かりたくない。

 

 鎧は……? 

 オレの鎧は、どこにいった?

 

 信じられなかった。念じれば応えたオレの鎧、その存在が感じられない。

 あるはずの物がない感覚。財布を忘れた時のようなすっとぼけた感情が、一瞬オレを支配する。

 その感覚の後に、途方も無い恐怖が、オレの中から込み上げる。

 

「……う、そだ……」

 

 愕然とする。見開かれた涙塗れの眼前に、痣の浮いた力ない両腕が擲たれている。

 痛みに苛まれていたオレの感覚が、今度は奈落に落ちていくように暗くなる。

 そんな馬鹿なことあるか。鎧だ。オレの霊基に刻まれた、オレの一部だぞ? 財布や携帯なんかとは訳が違うんだ。

 オレ自身だ! オレの一部で、オレそのものだ! それがどうして……。

 

「同情するよ。自分を信じられないのは、心底辛いよな」

 

 頭上から哀れむような声。ランサーの下ろした石打が、オレの手首に落ちた。

 固い槌を痣になった傷にねじ込まれ、身が裂けるような痛みが劈く。

 

「だあああああああ! ふ、ざけんなああああああああ!!」

 

 オレは地面を転がり、現出したクラレントを蹴り上げる。

 突き上がったクラレントは、ランサーの頬を掠めただけ。即座にオレの脇腹に、振り下ろされた柄が食い込み、吹き飛ばされる。

 

「傷を負ったくらいじゃ安心できない。武器を奪っても油断は禁物。心が砕け、泣きじゃくって頭を抱えて蹲って、初めてソイツは敗北者になるんだよ」

「っひ……」

 

 陵辱の継続を宣言しながら、ランサーが迫る。オレの口から、短い悲鳴が飛び出した。

 

「く、来るな……来るんじゃねえ!」

 

 殆ど悲鳴のような叫び声を上げて、オレは奴に向けて蹴りを見舞う。

 どれだけみっともなくとも、藻掻く他に手は無かった。鎧を無くした喪失に立ち向かうには、怒る以外の方法はなかった。

 その怒りが——生前オレを最期まで突き動かした義憤が——ランサーによって打ち砕かれていく。両腕の痛みに萎んでいく。

 

 脚が震える。意識が制御を外れて、矢鱈目鱈に暴れ回る。

 当然、そんなものは赤子の駄々にしかならない。ランサーは一転して退屈そうに、オレの抵抗をいなし、お仕置きのように激痛をぶち込んでくる。

 何もできない。抵抗すらできない。ただただ痛みを流し込まれるだけの屈辱と恥辱にまみれた時間。足掻こうという思いが、負けてたまるかという気概が、砂糖菓子のように崩れていく。

 抵抗は全て無駄だった。グズグズのボロ雑巾になって、オレは何十回目か分からない地面の味を舐める。

 

「っ……か、ぁ……」

 

 痛い。痛い……痛い……。

 身じろぎし、落ち葉が身を擦る事さえ痛い。

 痛くて、疲れた。うんざりだと思う程に、痛みばかりだ。

 

 

 昏く淀んだ気持ちが、オレに沈殿していく。魂が淀み、曇っていく。

 そのオレの脚を、ランサーが持ち上げ、引き摺った。

 ぞりぞりぞりという耐えがたい音。グズグズになったオレの両腕が、土くれで凸凹になった地面に削り取られる。

 

「ふう゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛!!」

 

 大地に顔を押しつけ腐葉土を噛みしめながら、くぐもった絶叫を轟かせる。

 これ以上なく惨めな虐待。凌辱。泥に塗れ、プライドを踏みにじられる。

 もう沢山だ。助けて欲しい。オレは縋り付くように、痛みにガクガクと震える手を藻掻かせて、掠れた声を上げる。

 

「く……ら、れん、と……」

 

 余りにもか弱く、情けない声。それに応える鋼の輝きは、無い。

 差し出した手が虚空を泳ぐ。

 オレの目にじわりと涙が滲む。

 

「クラ、レント……!」

 

 嘘だ。嘘だと言ってくれ。

 この手に力が入らなくても、オレに応えてくれたじゃないか。ついさっきまで、オレの一部で、オレの力だったじゃないか。

 共に戦ったじゃないか。

 晴れやかな戦いなど数少なかった。オレが不本意に簒奪したかもしれないが……それでもお前は、一緒に王の前に立ったじゃないか。オレと生涯を駆け抜けたじゃないか。

 お前はオレだろう。オレはお前がいたからモードレッドなんだ。

 応えてくれ。力を貸してくれ。

 モードレッドを否定しないでくれ。

 オレを助けてくれよ。なあ。

 

「クラレントぉ……!」

 

 理解はできない。

 けれども、オレの声の情けなさが事実だった。

 とうとうオレは、最期まで連れ添った刃にまで見放された。

 

 

 涙が止まらない。心が崩れていく。

 胸に空いた空洞が、オレ自身を飲み込んでいく。

 オレという存在を闇に覆い尽くし、無かったことにしようとする。

 

「——だんだん、遠くなってきただろ?」

 

 いつの間にか眼前に立っていたランサーが、虚空に浮いていたオレの手を、ゆっくりと踏みつけた。

 地面に押しつけられ、ぐりぐりと踏みにじられる。

 痛みは、消えていた。何も感じなくなっていた。

 動かし方すら思い出せなくなっている。まるで両手なんて、最初からなかったように。

 

「……諦める時だぜ、()()()()()

 

 オレを戦士として見なさなくなった男は、驚くほど優しい声音で、そう言った。

 

「俺は数え切れない死を見てきた。この手で殺めたのも、腕の中で看取ったのも沢山だ」

「……」

「武勇に秀で、活力に満ちた奴ほど、死に顔はみっともなかったよ。反対に助けも来ない絶体絶命の決死戦に逝った奴らは大抵、あるがままの死を受け入れた安らかな顔をしていた……人は生に執着するほど苦しむのさ。死の間際の諦めは、降り注ぐ神サマの光を受け入れる、最期の救いだ」

 

 槍の穂先が、顔の横に添えられる。

 

「随分粘ったよ。こんなにいたぶることになるとは思わなかった。同じ時代に産まれたら、お前さんは俺と肩を並べる、良き守り手になったろう……だが、ま、もういいでしょうよ」

 

 ランサーがオレを脚で小突き、仰向けに転がす。

 奴はオレの顔を見て……露骨に不服そうな顔を見せた。

 土と涙に塗れたオレの無様な渋面に、奴の冷ややかな目が降り注ぐ。

 

「……藻掻かないで貰えんかね。死に様くらい楽にしてやりたいっていう、オジサンの優しさなんだぜ?」

「……ふざ、けんな……!」

 

 痛い。怖い。苦しい。悔しい。

 プライドなんてない。自尊心なんて欠片も残っていない。

 ここにいるのは、剣を奪われ、蹂躙され、土を喰わされる、余りに弱く情けない片輪者だ。

 地獄だ。こんな苦しみは沢山だ。自分自身が信じられなくなる恐怖は、もううんざりだ。

 何もかも嫌になる。

 いっそ白紙に戻されれば、全部全部楽になるのかもしれない。

 

 

 

 ……それでも。

 それでも、だ。

 

 

 

「オレは、英霊だ……モードレッドなんだよ……! 畜生、ちくしょうが……!」

「……よくやるよ。信じる根拠なんて、もう自分の中にすら残ってないだろうに。俺にはもう、お前さんを楽にはしてやれない」

 

 泣きじゃくるオレの首に、黄金色に輝く穂先が乗る。鋭く冷たい金属が、オレの喉に添えられる。ツプと肌が裂けて、鮮血が一筋流れ落ちた。

 

「悲しむ時間が欲しいだろう? 自分の血で、ゆっくり溺れ死ぬといい」

 

 今までと違う冷たい痛み。終わらせる為の致命の刃が、オレの喉に触れる。

 嫌だ。嫌だ。このまま消えるのだけは。オレを忘れたまま、否定されたまま消えるのは嫌だ。

 怖いよ、畜生。

 オレは、何なんだ。何でオレはモードレッドなんだ。

 オレは……何で…………。

 

「お前が選んだんだ。何者でもないまま、みっともなく無様に死にな」

 

 宣告の声が落ちる。

 物のように冷たい目つきで睥睨し、魚を捌くような無感動さで、槍が首を滑り、先端が柔肌を裂き——。

 

 

 

 

 

 

 ——横合いから割り込んだ一撃が、その穂先をはじき飛ばした。

 鉱物同士がぶち当たる凄まじい音。オレの視界が、一瞬の火花で真っ白に光る。喉を食い破っていた先端が、オレの薄皮を横一線に払い、鮮血のアーチを宙に描いた。

 夢から覚めるような鋭い一撃。絶望に曇っていたオレの目が、急速に開かれる。

 

「チッ。主従揃って生き汚い事で! 急がなくても、後を追いたければ直ぐに——」

 

 苛立ちを隠さない声。怒気を孕んだランサーの声が、ふと止まる。

 宝石を投射し、オレの窮地を救ったマスター。

 彼は地面に倒れ伏したまま、右手を静かに翳していた。

 

 

 

 

 残り一画になった令呪に、真紅の光を宿して。

 

「マスター……?」

「分かったよ、セイバー。分かったんだ」

 

 彼は苦しげに息を吐ながら、オレに向けて柔らかに微笑んで見せる。

 彼の目がオレを真摯に覗き込む。左手の輝きが一層強く灯る。

 誰よりも優しく、誰よりもオレを案じてくれた、彼の瞳。

 今この瞬間、何より澄んだ、迷いの無い心。

 いくよ、と彼の目が言った。

 だからオレは、小さく頷いて、彼の全てを肯定した。

 右手の真紅の輝きが、眩くオレを包み込む。

 

 

 

 

 

「令呪を以て命ずる——()()()()()()()()()()() ()()()()()()()()

 

 

 輝きが吹き出し、絶大な魔力が命令に従い、オレに流れ込んでくる。

 温かい力が血潮を駆け巡る。魔力はマスターの声を忠実に実行し、指向性を得てオレの中に飛び込んでくる。

 どくん、と一度鼓動が高鳴る。生まれ変わるような力の奔流。

 魔力はオレの血流を巡り、霊基を張り巡り、魂に染み込んでいく。

 それに従い、感覚が遠くなっていく。

 オレの意識が、彼方へと消えていく。

 失いかけていた物を、呼び覚ます。

 

 

 



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23話

 ——モードレッドは最初から、ブリテンを狂わせる為に産み落とされた。

 異母妹であるアーサー王の成功に嫉妬した魔女モルガンが作り出した、一体のホムンクルス。それはアーサー王の姿形に似せられ、同じだけの素質を以て生まれ落ちた。

 目的は、ブリテンという大国の転覆。いずれこのホムンクルスは、自らの出自を知り、王の素養を内側に宿し、王に憤怒の牙を突き立てる事になる。

 果たして、筋書きはモルガンの企て通りにはならなかったが、結末は彼女の望んだ通りになった。

 今なお恨めしい、悪毒にまみれた女。輝かしきブリテンを曇らせ壊した悪女。

 

 けれどモードレッドは、奴の胎から産まれた。

 ホムンクルスとは言え、モルガンの娘として生を受けた。

 産まれてから騎士として育つまでの数年で、モードレッドはモルガンから勉学と剣を教わった。

 剣を持つ事が何に繋がるのかを、幼い彼女は知らない。毒とも薬とも分からないまま、モルガンの指導を受けた。

 立派な騎士となるべく、良く育てられた。

 陰謀と悪逆に塗れた、悪徳の指導。それでも娘たるモードレッドにとっては、比類無く充実した時だった。

 

 

 彼女を育てたのは、おぞましき魔女だった。

 それでも幼きモードレッドは、かつて母の懐の内で、確かに安らかな寝息を立てていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ——モードレッドは常に兜を被り、正体を隠したまま円卓の一席を埋めた。

 既に円卓に着き王に従っていた騎士達は、いきなり現れた無謀で粗暴な騎士を、決して快くは思わなかった。不満は出ずとも、不審の目は数多く向いた。余所余所しい、居心地の悪さも感じさせた。

 それでもモードレッドは気にしなかった。自らの剣に、確かな自信を有していたからだ。

 父親譲りの才能。ホムンクルス故の優れた能力。当時本人は知る由もなかったが、彼女はたちまち武名を挙げ、不承不承ながら円卓の騎士の面々に認められるまでに至る。

 モードレッドは彼等と共に軍を率い、剣を掲げ、数多の敵を誇りと共に下していった。

 

 

 彼女はとにかく戦好きで、思慮は浅く、細かい事が苦手だった。そんな性格であるから、当然良い思い出ばかりじゃない。

 粗暴な態度を非難され、呆れられる事はしょっちゅうだった。特にガウェインは、事ある毎にモードレッドに騎士としてのいろはを指摘した。口うるさいガウェインは苦手筆頭だったが、その分彼には沢山の作法を教えられた。

 モードレッドは無視される事が嫌いだったから、トリスタンも不得意だった。傍目だと寝てるか起きてるか分からない上に、しょっちゅう立ったまま寝ているからだ。声をかけると無視され、その後いびきをかいている事に気付く。苛つかされた回数なら一位かもしれない。それでもトリスタンは、起きてさえいれば穏やかな微笑で応じ、彼女を邪険にする事はなかった。

 剣の腕に自信を持っていたからこそ、ランスロットは最後まで目の上のたんこぶだった。剣の立ち合いでは、一度も彼に勝つことはできなかった。剣の腕こそ自分の存在理由だったから、涼しい顔してモードレッドの上を行く彼は何より気に食わない存在だった。モードレッドは何十回と立ち会いを申し込んだ。ランスロットが彼女の申し出を断ったことは、一度としてなかった。

 

 

 他にも沢山。人の数ほど思いが宿った。

 衝突し、喧嘩し、文句を言い合ったりもしたが、互いに研鑽し理解し合う、豊かな時間。

 モードレッドの心は鮮やかに色づいていた。

 楽しかった。充実していた。

 仲間がいた。誇りに満ちた戦いがあった。

 そして何より——父上がいた。

 

 

 間近で目の当たりにする父上は、余りに高貴で、孤高で、美しかった。彼の声は琴のように迷い無く澄んで国を導き、曇り無き瞳は騎士達の行くべき路を照らし出した。

 剣の腕は比べるべくもなく、手腕は慈悲深く、遍く国民を豊かにしてみせた。王に対する敬意は、崇拝にさえ発展した。

 モードレッドの胸は、敬意と自信に満ち満ちた。

 王に仕えられるという幸福。父上の手となり刃となれる感動。彼の為に戦えるという、この世で最大の誉れ。

 自分の剣が、王の路を切り開いている。その繋がりが、モードレッドの魂を熱く激しく昂ぶらせるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——答えてくれ……答えろよ、アーサー王!

 その時。不義を働いたランスロットを追うべく、アーサー王が国を立つ日。

 オレは初めて、王に激情をぶつけた。烈火の如き感情を王個人に叩き付けるのは、オレの短い人生でも、初めての経験だった。

 

 

 短い人生……人の半分にも満たず生涯を終える、ホムンクルスの一生。

 その数日前、オレは悪しき母親に、自らの不遇の運命を教えられた。

 

 

 魔術を用いて人工的に作られたオレの寿命は短い。

 風塵の如く短い刻は、オレに大成を許さず、何かを残す事もさせない。

 王の息子であり、後を継ぐ素質を有しているのに。オレは終ぞ栄光を掴むことなく生涯を終える。

 可哀想と言われた。哀れと言われた。自分の運命も知らず滑稽だと嘲笑われた。

 

 

 只一人の母親からの侮辱はそれなりに堪えた。

 けれど、それなりだった。

 奴の戯言は、オレの心を砕くものではなかった。

 

 

 だって、オレには王がいたから。

 王を敬愛していたから。輝く程の憧れを、愛しさを、あの王に抱いていたから。

 そんな王と血の繋がりを持っているという事実は、天にも昇るほどの誉れだった。

 自分は、あの素晴らしい王の血を受け継いでいる。

 ただ一人、彼の息子として生きている。

それは本当に、誇らしいことで。

 

 

 ——だから、どうでもよかったのだ。

 もうすぐ死ぬという恐怖も。

 長く生きられないという不満も。

 自分の生きた証を刻めないという喪失も。

 ただ謀略のために創られた、人でなしという劣等感も。

 人としての生き方を全て否定され、未来が闇に閉ざされても。

 ……オレは全て、どうでもよかった。

 ただ、王がオレを認めてくれれば、それで。

 

 

 息子と呼んで欲しかった。王たる資質がオレにあると言って欲しかった。

 お前がいてよかった、助かったと、頭を撫でて欲しかった。

 父上と、呼ばせて欲しかった。

 それだけがあれば、オレは満たされたのだ。

 哀れなホムンクルスとして短い生涯を終えても良かったのだ。

 

 

 ——何故、認めてくれない! 何故向き合ってくれない! どうしてだ、アーサー王!!

 

 

 ……けれど、そうはならなかった。

 完璧な王は、ホムンクルス故の儚い願いなど、意にも介さなかった。

 王は微動だにしない心のまま、オレの激情を無視した。ランスロットの下に赴くべく踵を返し、一度も振り返る事をしなかった。

 

 

 ——オレに誇りをくれよ! 生きた証をくれ! お前との繋がりを認めてくれ! でなければオレは……オレは何者にもなれないじゃないか!

 

 

 オレの心は闇に落ちた。

 生きる意味を失った。拠り所となるはずの父上は、オレを見放した。

 ホムンクルスとしての劣等が浮き彫りになり、オレの自尊心を喪失させた。

 何をするにも足りない、残り短い寿命だけが残る。

 だからオレは、その寿命を怨嗟に変えた。

 復讐の業火で、全てを崩してやると決めた。

 オレの全てを賭して叛逆し、王に認めさせてやると誓った。

 

 

 

 

 

 

 そしてオレは、王の宝物庫をこじ開けた。

 宝剣クラレントを手に握る。オレの怨嗟を、血と死で彩るべく。

 憎しみの限り、刃を握りしめる。

 オレの手で、国を破壊するべく——。

 この両腕で、王の命を奪うべく——。

 

 

 

 



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24話

「ッがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 赤雷が轟く。

 噴き出した魔力は爆発となり、目を剥くランサーを吹き飛ばす。

 

「っんな……!?」

 

 狼狽する声。驚愕の気配。

 オレはそこに向かい、弾丸の如き勢いで飛び出した。

 己の赤雷を切り裂き、突貫。冷や汗を流したランサーの顔が、即座に戦慄に染まる。

 

「ごおおおおおおおおぉぉぉぉぉオオオオオオオオオオオ!!」

 

 喉から噴き出す叫声が世界の音の全てだった。

 激情が推進力となり、殺意となり、殆ど自動的に身体が動く。

 力が噴き出す。暴れ狂う。

 オレは眼前のランサーを下すべく——

 

 

 

 ——()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

「う、そだろ——!?」

「だああああああああああああああ!!」

 

 目を見開いたランサーが槍の柄で受け止める。互いの獲物が激突する。

 感覚の爆発。劈くそれは痛みだった。

 今までの地獄のような苦しみを一笑に帰すような、全身の細胞に針を突き立てられるような激痛が、両腕から轟き、オレを襲った。

 それと同時に、力が爆ぜる。痛みに比例するように赤雷が弾け、エネルギーに代わり、ランサーを力任せに吹き飛ばした。

 幾つもの木をなぎ倒し、ランサーが飛ぶ。その軌道よりも尚早く、オレは奔る。

 着地など許さない。オレはクラレントを更に握りしめ、奴の土手っ腹を断ち切るべく振り下ろす。

 槍の柄が再び剣劇を遮る。ランサーの身体が大地に落ち巨大なクレーターを刻む。

 両腕に衝撃。雷が直撃したような激痛が、オレの魂を打ち抜いた。

 

「ぎゃああああああああああああああああああ!! ッヴウ!! ヴヴァァアァァァァァァ!!」

「っんだよ、この化け物は……!?」

 

 驚愕を超え、ランサーの目には戦慄が宿る。その身体が、オレの振るったクラレントによって吹き飛んでいく。

 三度、激痛。絶叫。それでもオレの腕には力が満ちる。痛みがそのまま、オレの力となるかの如く。

 

「はあ゛っ、はあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

 

 獣よりも尚酷く禍々しい悲鳴。全身の細胞が発狂する。身体の感覚が理性の制御を外れ、ビリビリと震える。眼球の奥の血管がブツリと千切れ、視界が真っ赤に彩られた。

 

 

 狂うを越えて、狂う。限界を越えて尚痛みが響く。

 嵐の如く吹き荒ぶ、激痛と力の奔流。

 その渦の中心。据えられたただ一つだけ宿る光。

 誇りという名の光が、激流の只中にてオレを立ち上がらせる。

 何よりも確固として、オレを定義する。証明する。

 

 

「オレはモードレッドだ! この手でブリテンを破滅させた! 誉れ高き王を、この剣でぶち殺した叛逆の騎士だ!」

 

 血涙を流しながら、オレは吼える。

 猛々しく。地獄の中で尚燃え盛る劫火の如く。

 

「この憎しみは誰にも否定させねえ! 怨嗟の炎を消させはしねえ! たかがトロイアの王子風情が! オレを愚弄するんじゃねえ! オレを——オレから——父上を奪うんじゃねええええええええええええええええええええええええええ!!」

 

 怒号と共に魔力を爆発させ、オレはランサーに向けて突貫する。

 理性はとうの昔に焼き切れていた。

 許さない。憎い。殺してやる。壊してやる。オレの生涯を体現するような怒りの本能が原動力となり、魔力となって吹き荒れる。

 

 

 両腕の傷は尚健在だった。呪いに満ちた傷は、激痛となってオレを窘めようとする。

 オレの本来の在り方を喪失させようとする。

 その呪いを、他ならぬオレの自負が棄却する。

 『モードレッドである事』を叫び、傷の侵略に叛逆する。

 

 

 かさぶたを剥がし、生傷をほじくるような痛み。比類なき激痛こそが叛逆の証だ。

 痛む程に、オレは傷を否定する。絶叫する程に身体に、両腕に、力が迸る。

 

「オレの剣を見るがいい! オレの怒りを受けるがいい! 叛逆の炎をその眼球に焼き付けやがれ! モードレッドの前に斬り伏されろぉぉぉぉ!! う゛ああああああ! がああああああああああああ!!」

 

 痛みに藻掻きながら、発狂しながら、モードレッド斯く在るべしと剣を振るう。遮二無二に、我武者羅に、殺意をこれでもかと乗せて。

 ランサーの技能も素晴らしかった。迫り来る剣を防ぎ、いなし、受け流す。一撃の度に衝撃が空気を戦かせ、落ち葉を天高く巻き上げる。

 それでも、守りと生存に卓越したランサーの天賦の才は——命を燃やして猛る赤雷の荒々しさには及ばない。

 

 下から掬い上げるように振るわれた剣が、槍を高く跳ね上げる。狼狽するランサーの鳩尾に、オレの鎧に覆われた蹴りがめり込んだ。

 ずぐっと重たい音。顔に飛び散った吐血が血涙と混ざる。

 内臓の爆ぜる音を耳に残しながら、ランサーが吹き飛び、遙か遠くの木に激突する。

 血反吐を溢しながら、ランサーは呻く。未だに理解できないと、張り付いた笑顔が語る。

 

「っか、ふ……! 聞いてた話と、まったく違うじゃねえの……!」

「ごおおおおおおお!! オオオオオオオォォォォォォォォォ!!」

 

 身体を震わせながら、ランサーが立ち上がる。さながら眼前の獣に竦む子鹿が如く。

 ランサーは知っている。生物は天災に叶わないことを。生きるためには背を向けるほかに無いことを。

 そんな矮小な考えの全てを、オレの怒りが塗り潰す。

 

 

 オレはクラレントを正面に翳し、固く固く握りしめる。

 魔力が噴き出す。激痛が轟く程に、赤雷が噴き出し、空に真紅の火柱を産む。

 血涙で真っ赤に染まったオレの視界に、激痛の火花が散る。許容値を越えた痛みに脳回路が焼き切れ、身体が重篤な痙攣を起こす。噛みしめた歯がバキンと割れ、口内を裂く。

 それでも尚。死を越えて壊れても尚、オレはモードレッドで有り続ける。 己の全てを擲っても、オレを証明する。

 

グ——ら、れ゛んっ(我が)—— ドおおおぉぉぉぉぉぉぉ……!(麗しき)

 

 この苦しみこそが。この激情こそがオレだ。

 誰にも否定させるものか。オレの歩みを消させて堪るか。

 目に焼き付けよ! その身で思い知れ!

 これこそが、我らが王を下す邪剣である!

 オレが刻みつけた、殺戮と崩壊の一撃!

 完璧な王を突き崩す叛逆の証!

 

ブラッドお゛ぉぉぉ!(父への)あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ()ザアァァァァァァァァ()!!」

 

 赤雷が世界を埋める。

 魂を吐き出すような暴力が、眼前の全てを無に帰す。

 

 

 ランサーは既に視界から消えている。当に逃げるべく姿を隠している。

 そんな事はどうでも良かった。

 オレは全てを壊すから。

 何もかもをぶち壊してやるのだから。

 

 

 

「ッう゛う゛——う゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 オレは痛みと共に、クラレントを"薙ぎ払った"。

 紅閃が動き、扇状にあらゆる物を薙ぎ倒していく。

 全てを灰燼に帰すべく。

 オレを否定する者を、全て破壊し尽くすべく。

 

 

 

 

 

 

 ランサーはさぞ驚いた事だろう。射線を避けたと思いきや、赤雷が津波の如く押し寄せてきたのだから。

 一度触れれば塵も残らず消滅する赤雷。

 奴は己が生きるため、状況を見極め、覚悟を決める。

 即座に宝具を展開し、必殺の一撃で立ち向かう。

 

「ッ——不毀の極槍(デュリンダナ)!」

 

 魔力を昂ぶらせ、宝具を解き放つ。

 急ごしらえの、恐らくは不本意な威力の一撃。それでも宝具としての役割を遂行し、迫り来る赤雷に穴を穿つ。

 逃げるにはそれで十分。付き合ってやる気など毛頭ないという、冷静な判断。

 逃げ勝ちをするべく開いた突破口。

 その穴に、オレは自らの身を飛び込ませた。

 自らが放った赤雷の中を突き進み、奴を捉える。

 槍を放ち終えたランサー。視界に捉えた奴の表情が、戦慄に凍る。

 

「な——」

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 赤雷の轟音を塗り潰す程の、絶叫。

 ランサーの顔面に、オレは渾身の膝を叩き込んだ。

 奴の意識が吹き飛び、突き立ったオレの膝ごと空を舞う。

 オレは逃がさない。解いた脚を奴の上体に組み付かせ、身体の自由を奪い去る。

 

 

 

 落ち葉を巻き上げ、大地に落ちる。

 ランサーの意識が戻り、己の状況を理解する。

 奴の瞳に映り込むのは、血涙を滴らせる鬼の様相。

 爛々と見開かれた瞳孔。

 度を超えた痛みに震える口に、剥き出しになった牙。

 

 

 

 

 そして——白銀の鎧に包まれた、硬く硬く握り締められた、拳。

 

 

 

 

 

「……こりゃ参ったね」

 

 乾いた笑いが、一つ溢れる。

 それが彼の、今世最期の言葉になった。

 

 

 

 

「うわああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 激痛と共に拳が振り下ろされ、奴の顔面に突き刺さる。

 秋の森に血華が咲いた。

 頭蓋骨が砕け散る音に、柔らかい肉の潰れる水音が重なる。

 オレは何度も何度も、拳を振るう。終わりの無い激痛を、怒りに変えて叩き込む。

 

「ヴうっ! がぁ! ぐあぁぁぁぁぁぁ!」

 

 大地が揺れる。落ち葉が舞う。

 血飛沫が、オレの拳を紅く染める。

 叩き付ける度に激痛が走る。狂ったオレの脳を叩く。

 痛みが止まらない。激情が止まらない。

 拳は止まらない。慟哭は止められない。何度も、何度も殴りつける。奴の手から槍が落ち、指先の力が無くなっても。

 顔面が崩れ、形がなくなり、殴る肉が無くなっても、己の両拳を叩き付ける。

 

「あぁぁぁぁ! ああっ!」

 

 赤とピンクと白に彩られた水たまりが、ばしゃんと汚い水しぶきを立てる。

 殴る物がなくなった拳が空を切る。燃え盛っていた怨嗟の炎が、徐々に消えていく。

 熱を失った魂の空洞が、途方もない哀しみに満ちる。

 両腕の千切れそうな痛みが、鮮烈にオレを刺してくる。飛び散った血潮の温かさが、オレのしでかした暴虐を理解させる。

 込み上げてくる苦しみに、拳の力が徐々に抜けていく。

 涙が勝手に溢れてくる。訳も無く悲しくて、虚しくて。

 心に空いた穴が寂しくて。

 

「あ、ああ……!」

 

 とても痛くて。

 とても辛くて。

 虚しくて虚しくて、こんな自分が情けなくて。

 ——それでもオレは、確かにモードレッドで。

 

「あああ……! あぁぁぁぁぁぁ……!」

 

 血に塗れた顔を天に翳し、オレは泣き叫んだ。

 嘆きの慟哭は、抜けるような秋の青空に、切なく木霊し続けていた。

 



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25話

 夢と現実の狭間を行き来する、数分間に及ぶ混迷の時間。

 オレは、マスターの腕の中で意識を取り戻した。

 

 茫然自失に身体を揺らす。痛みと興奮で感覚はささくれ立ち、脳が酷く疲れ切っていた。

 鉄臭い味のする口を開くと、八重歯がずるりと抜き出る感触がした。茫然自失に噛みしめていたマスターの肩口は、オレの唾液と血反吐と、噛み付かれた傷で赤くぐっしょりと濡れている。

 喉を震わせると、痛みと一緒に、信じられない程に掠れた声が漏れた。

 

「ます、た……」

「大丈夫。終わったよ、モードレッド。大丈夫だ」

 

 優しく張り詰めた声が耳元でして、オレの身体が力強く抱き締められる。

 オレの金髪を指で梳きながら、マスターは大丈夫だと、何度も囁いてくれた。優しい声が、心に温かく染み込んでいく。痙攣するオレの震えが、ゆっくりと治まっていく。

 それと同時に、瞳から涙が勝手に流れてくる。

 自分が何をしたのか、理解が全く追いつかない。

 余りにも強い情動はオレの神経を制御不能にし、壊れる程に激しく暴れさせた。

 殺意と暴力の奔流の末、オレはランサーを殺した。余りに惨く、残虐で、人とは思えない方法で。

 激情が抜けて空っぽになった心と、ささくれ立ってヒリヒリと荒れる自立神経。

 オレの目を涙で濡らす。訳が分からないのに、哀しみが押し寄せる。

 

「ますたー、オレ、オレ……!」

「良く頑張ってくれた。ありがとう、大丈夫だよ……本当にありがとう」

「う、うぅ……うぅぅ……!」

 

 それに入れ替わるように、マスターが温もりを与えてくれる。

 オレは彼の温もりにしがみついた。胸に抱かれ、力強く抱き締めて貰う。びしょ濡れのマスターの肩に顔を埋めて、滂沱の涙を染み込ませ続ける。

 

 

 

 迷子の子供のように怯えて、甘えて……どれだけの間そうしていたことか。

 泣いてばかりだったオレの意識が、少しずつ現実に追いついてくる。

 一度砕け散った戦士としての心が、形を取り戻してくる。

 そこでようやく、オレはここで繰り広げられた異常な事態に向き合う。

 

 

 

「マスター……何なんだ。一体、何が起こってるんだ」

 

 理性を取り戻したオレの言葉は、硬い。

 死ぬほどの痛み。事実死を目前にした、ランサーとの死闘。

 そこではおかしいことばかりが起きた。有り得ない異常が発生した。

 

 マスターの腕に抱かれたまま、ソレを見やる。

 大地に倒れ伏し、血飛沫をまき散らせた奴の肢体。魂が抜け、今もまさに消えかけている、顔を失った男。

 

「……奴は、何だ」

 

 そう、有り得ないことだ。

 奴こそが最も、有り得ない存在だ。

 

「オレ達は聖杯戦争に参加した。途中で離脱こそしたが、何度も剣を交えて戦った」

 

 今も尚思い出せる、英霊同士の苛烈な剣劇。

 クラレントを握りしめ、騎士として地を蹴り、誇りを翳して互いの武を競い合う、充実した戦。

 だからこそ記憶は鮮明だ。剣を交えた相手の事を、オレは決して忘れない。

 

 

 

「オレ達はランサーを知っている……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 オレの目の前で、ヘクトールが光の粒となって、空気に溶けて消えていく。

 魂を失った英霊が、座へと帰還していく。

 英霊は死んだ。

 それなのに、オレの両腕は、痛みを訴え続けている。

 

「オレは倒したじゃないか。この手で、奴を殺したぞ。なのに何で……オレの両腕は、治らないままなんだ」

「聖杯戦争が、終わっていないからだ。君を穢した英霊が、まだこの世に生きているからだよ」

 

 抱擁を解いたマスターが、オレの両肩に手を置き、瞳を覗き込む。

 

「君の両腕の呪いについて、ずっと不可解に感じていた。事実を改変するなんて、時を巻き戻しでもできない限り不可能な、有り得ない芸当だからだ。水流が坂を遡る事がないように、過去は決して変わらない。モードレッドが歩んだ事実は、決して揺るがない」

 

 そうだ。オレがオレとして歩んだ事実は、誰にも否定されない。

 けれど、傷は悪夢となって、オレを飲み込もうとしてきた。

 最初から傷者であったと、オレの認識を塗り替えようとしてきた。

 事実をねじ曲げる冒涜。決して有り得ない侵略。

 

「……けれど、それがここに居る君に対してなら、話は別だ。何故なら君はサーヴァントだから。事実に基づく歴史で形作られ、人々の信仰で肉を得た英霊だからだ」

 

 マスターの言葉が続く。完全に、答えを得た確信に満ちて。

 糾弾された罪人の如く、両腕の傷がビキリと軋む。

 

 

 

 

 有り得ない筈の呪い。その不可解なベールが剥がされる。

 そしてマスターは、何ヶ月もオレを苦しめ続けた呪縛に、答えを見出す。

 

 

 

 

()()()()()——それが、君に植え付けられた呪いの正体(バッドステータス)だ。君が穢されたのは事実じゃない。英霊が実存を得るために必要な、歴史の方だったんだ」

 

 マスターが解き明かした事実は、荒唐無稽すぎて、オレの理解を妨げる。

 無辜の怪物。伝承や悪評、英雄に向けた人々の誤った信仰が、本人の在り方をねじ曲げてしまうステータス異常。

 だがそれは、吸血鬼や妖怪……オレなんかとは、全く種類の違う人間がかかる病の筈なのに。

 

「歴史とは伝承であり人の営みだ。信頼を勝ち得ても決して事実ではなく、不変では有り得ない……けれど歴史に干渉できる程の人間はそう多くない。だから彼が来た。()()()()()()()()()()()()()()()つまり僕達の敵は——」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——斯くして」

 

 

  どこからともなく、声が響く。

 古い錫鐘を鳴らすような、低く深みのある、澄み切った声だった。

 その声が耳を抜け、オレの魂にするりと入り込んでくる。

 突然に、オレの口から血反吐が飛び出した。

 

「ご、ぷっ……!?」

「モードレッド!?」

 

 喉を埋める大量の出血。吐き出そうとするも、咳が出てこない。空気が喉を抜けていく。

 いつの間にかオレの首筋には、大きな裂け目が穿たれていた。

 

「斯くして猛き騎士と古豪の勇士は刃を交じらせた。獣の野生と卓越した技能が火花を散らし、お互いが傷を負い血を流し、その身体を幾度も大地に転がさせた」

 

 声が響く。奏でるような美しいバリトンが言葉を紡ぐ。

 ヘクトールに命を奪われかけ、マスターによって守られた結果できた、首筋の浅い切り傷。

 それが、広がっていく。内側からこじ開けられるようにオレの肉を裂き、喉に風穴を開けていく。

 

「互いの武はせめぎ合い、拮抗し——()()()()()()()()()()()()()()騎士は剣を捨て、己の拳で勇士の顔を潰し。勇士が刺し放った槍は騎士の首下を確かに穿ち、好敵手に勝ちをもたらす事をさせなかった」

 

 声が響く。異様な気迫を纏った意志ある言葉。オレの鼓膜を叩き、魂まで容赦なく染み込んでくる。

 噴き出した血が肺に飛び込んでくる。吸い込んだ空気が、風穴から抜けていく。

 

 

 己の血で、マスターの腕の中で溺れていく。

 もがき苦しむオレの目は、ソレを目にした。

 森の中、落ち葉の舞う橙色の世界で奴は静かに立っていた。

 白い法衣を纏う老人がそこにいた。焔のように揺らぐ乱れた白い髪。鬣のように伸びた白髭。その白毛から覗く顔や法衣から覗く隆々な肉体は、まるで達人が魂を込めた彫像の如き力強さと神々しさを感じさせる。

 男の目は塞がれ、額から頬にかけて血のような紅で紋様が刻まれていた。

 夢か幻でも見ているような威光。凡夫であれば本能的に顔を覆いたくなるような厳粛さを宿し、老人は老木のような唇を動かす。

 

「誇りは終ぞ折れる事はなかった。彼等は最後まで勇士であり、互いの威信にかけて勝利を奪い取ったのだ——」

「っこの——!」

 

 マスターが宝石を飛ばし、老人を狙う。

 宝石が老人を貫く瞬間、奴の姿は瞬きの内に、幻のように消え去る。

 

「な……!?」

「——此はそういう物語。奇しくも二度目の生を受けた英雄の、命を賭した決戦、その決着の荒増である」

 

 オレの背後から、声が続く。

 瞬間移動した老人は一縷も乱れず言葉を紡ぐ。言葉の孕んだ意味が、事実を蝕んでいく。

 喉が押し広げられ、血が噴き出し、肺を満たしていく。

 

「モードレッド! しっかりしろ……モードレッド!」

 

 視界が暗くなっていく。マスターの声が、どんどん遠く、聞こえなくなっていく。

 溺れる。己の血で。在るはずのない傷によって。

 偽りの傷で、殺される。

 嘘に……歴史に、潰される。

 

 

 

 

 

「我は語り部——輝かしき神々の歴史に戸を鎖す、業深き隷人である」

 

 




くぅ~疲!
これにて中編終了となります。ここまで読んでいただきありがとうございました。
「チート英霊出してほったらかしてんじゃねえよダラズ!」と言われたので続きを捻り出してみましたが……どうでしょうか、彼の所業なら納得いただけるでしょうか。



後編は構成は考えてますが、モチベが足りないのでしばらくお待ちください。
書けたら、今年の夏頃には出したいです(書けるとは言ってない)


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おまけ サーヴァントプロファイル(オリジナル英霊)

ホメロス(術)

 

筋力C++ 耐久C++ 敏捷E

魔力D  幸運A  宝具EX

 

 

 

【概要】

世界最古の叙述史『イーリアス』『オデュッセイア』の作者であり、ギリシャ史において最も最初に歴史を始めた語り部。自らの両目を潰した事で、神々の領域まで達する千里眼を得た男。

彼の語る詳らかで美しい言葉は人から人へ伝播し、人々の広大で強力な、かつ画一的な信仰が始まった。人類史の基盤を築いた功労者であり、広義において英霊の始祖とも呼べる人物。

ホメロスは「奴隷」を意味する言葉であり、本来は彼自身を指す言葉ではない。彼の紡いだ歴史は世界に広く流布したにも関わらず、彼自身についての出生は明らかにされていない。また、彼の登場が神が地上から退去した時期に近い事から、何らかの関係があると示唆する説もある。

欧州のあらゆる場所で彼が言葉を紡いだという情報が残されており、未だ謎多き語り手。

 

 

 

【スキル】

・千里眼(盲) C++

盲目故に一切の光を見ることができないが、神霊との交信、霊脈の流れを読む事に卓越したスキル。

特に使い魔や英霊に対しては、未来予知に近い優れた洞察力を得る事ができる。

 

・虚な語り手 EX

ホメロスという名前が『イーリアス』『オデュッセイア』の語り手として各地に流布し、未だその正体や出自を明らかにされていない事実から派生したスキル。

彼が意志ある言葉を紡いだ場所に、瞬間的に転移することができる。指定する箇所には、最低一人の聞き手が必要。極低ランクだが、気配遮断の効果も有する。

 

・神性 E

彼が生きた時代はまだ神と人との距離が近く、僅かに神の血が混じっている。効果は人よりも頑強で長寿である程度。

 

 

・■■■■ ■

■■■■■■■■■、■■■■■■■■としての■■■■■■■■■。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 

 

 

 【宝具】

①誉れ高き英雄譚

ランク:A 種別:対人宝具

自らの言葉を触媒として行う英霊召喚術。

召喚できるのは『イーリアス』『オデュッセイア』で語られた英雄達。しかし聖杯という魔力装置を用いないため、基本ステータスは1~2ランク下がり、一部のスキルや宝具は再現できない場合もある。

また膨大な魔力を消費することで、彼が語り紡いだ光景を固有結界として現出させることもできる。

 

 

②斯く在りき、斯く語りき

ランク:B++ 種別:対人宝具

歴史の始祖による、伝承への干渉能力。

魔力を籠めた言葉によって相手の歴史認識を変質させ、強制的に『無辜の怪物』にする。

事実無根のものには効果を発揮しないが、英霊が相手であった場合、対象が受けた傷、身体の欠損を「始めからあったもの」として霊基を書き換える事が可能。

『アーサー王物語』の主人公アーサー王など確固たる知名度を持つ者、比較的最近の英霊や、功績の確たる証拠を持つ英霊については効果が薄まる。

また、自らが歩んだ軌跡を誇る自負の心によって、ある程度の抵抗が可能。

 






チートじゃない……チートじゃないよね?

特に決めてませんが後編はバトルメインになると思います。





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後編
27話


お待たせしました。後編です。完結編です。

夏コミではありがとうございました。
もう二度と~の前編・中編
もず様の最高完璧なイラストとおまけストーリー付きの文庫版はBOOTHにて販売中です。


最後までお付き合いいただけますと幸いです。











 ――ああ、この世に神はいないのか。

 

 

 その時、人類には悲哀が満ちていた。誰もが天を仰ぎ、涙を流して咽び泣いていた。

 生きる希望を失い、途方に暮れていた。

 貧富の差を問わず誰もが、浮浪者のように生きる意味を失い、現在に絶望していた。

 

 今から数えて、三千と数百年の昔の事。

 神は唐突に、この世界から消え去った。

 何の前触れもなく、一言の別れも告げず、神と人は切り離された。

 

 かつてこの世界は――それまでの何千年もの間――神の住まう場所であった。

 海、山、空、草花、動物、岩、生、死……あらゆる場所に神は介在し、その神性を民と交わらせてきた。

 世界の象徴であり、世界そのものでもあった。畏怖の対象であり、同時に信奉する英雄であった。時には友でさえあった。

 そんな彼等は、理由も告げず、この世界から突然に消えた。

 

 喪失の時に立ち会った人々は、ただ何が起こったか分からず、狼狽えるばかりだった。困惑の窮地に立たされながら、かつての気高き存在達の痕跡を死に物狂いで探し回った。

 人々の捜索は、全て無駄に終わった。

 神は消えていた。文字通り、跡形もなく。全て幻だったかのように、何の痕跡も残さずに。

 

 

 人は嘆いた。嘘であってくれと懇願した。かつて瞳を輝かせて追っていた、あの御姿をもう一度見せてくれと哀願した。

 悲しみの叫びと共に放たれた願いは、世界全土を覆い、天に木霊し、それでも終ぞ、神に聞く事はなかった。

 時が経る毎に、悲哀は摩耗し、叫びはか細くなっていく。

 百年を数える頃には、人は神が居た事の証明すら難しくなっていた。

 かつて神がいたのだと、誰も証明できない。神を記憶する者は皆、失意の果てに息絶えた。

 後に残ったのは、とっくに乾いてささくれとなった心の穴。『掛け替えのないものを失った』という、途方もない、かといって説明さえできない喪失感だけだった。

 

 

 世界は疲弊した。あらゆる苦難が人々を襲った。

 縋るものを失った民は、訪れる不幸にただ打ち拉がれ、嘆く他になかった。

 救いの手は望めない。

 神がいたかどうか、最早それさえ信じられない。

 そして、神が存在しなくなったこの世界に。

 果たして、存続する理由などあるのか――。

 疑問が魂を満たし、苦悩が脳裏を掻き毟る。

 そして耐えがたい苦痛と喪失感に、民は天を仰ぎ、叫ぶのだった。

 

 

 

 ――ああ、この世に神はいないのか!

 

 

 

 

 

 

「――いるとも」

 

 だから彼は、言葉を紡ぐ事にした。

 悲しみ、大地に伏せる彼等の耳朶を打ち、顔を上げさせる為に。

 蹲るその肩を叩き、心を鼓舞した。

 

「神は、いるとも。我は知っている。彼等の凜々しき姿も、気高き在り方も、全て」

 

 そう言い放ち、同時に彼は自分の使命に気付く。

 人には、希望が必要だ。信じるものが必要だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼等を風化させてはいけない。彼等の雄志を、共に過ごした日々を、無かった事になんてしてはいけない。

 いつの日かまた出会う為にも、我々は神を信じ続けなければいけない。

 

「我が教えて進ぜよう。かつての日々を。神と共にありし、絢爛たる日々の晴れ姿を」

 

 そうして彼は、語り始めた。

 神を失った人々に、もう一度その実在を知らしめるべく。

 人々の信仰によって、神をこの世界につなぎ止めるべく。

 言葉を紡ぐ。情景を詠う。

 気高き彼等の、在りし日の栄華を。

 誉れ高き英雄嘆を。

 

 

 

 

 全ては、彼の一節から始まった。

 脈々と情報を伝播する、言葉も、歌も、書物も。

 やがて人類史と証される、彼等の歩みの蓄積も。

 過去も、未来も、史実も空想も、子供への物語も王への賛歌も。

 

 

 繁栄も――衰退も、後悔さえも。

 全て、彼の言葉が始めたのだ。

 

 

 

 

  ◇

 

「モードレッド!」

 

 呼び声が、鬱蒼と生い茂る森の木々に木霊する。

 その声に、彼女は応じられない。返事の代わりに、喉に開け放たれた穴から、ごぽりと血の泡が弾ける。

 モードレッドは、未だ何が起きているのか分からない様子で、目を見開き、苦痛に呻く。呼吸困難にぱくぱくと口が開閉し、その度に喉から血が噴き出し、足下の腐葉土を鮮血で飾る。

 突如として開いた傷が、モードレッドの白い喉を縦に割っている。

 つい数分前、ランサー――ヘクトールに付けられた傷。激痛と絶叫に満ちた恐慌の果てにモードレッドが打ち倒した、その激闘の刺し違えで受けたかすり傷。

 その傷が、広がっている。ひとりでに、明確な意志を持って、モードレッドの喉を割っていく。めきめきと痛ましい音を立てながら、彼女の皮膚を裂き、捲り上げ、気道を開いていく。

 

「が、ぷ。ぉ……!」

「モードレッド! くそっ……くそぉ!」

 

 彼女の肩に手を置き、揺さぶっても、まるで助けになりはしない。

 手を置いた彼女の肌から、温かさが抜けていく。小さな彼女の身体から、命がどんどん潰えていく。

 

 

 

 どうしたら。どうすればいい? 何をしたらいい?

 

 

 

「勇士は決意した。例え負けようと、勝利を明け渡す事はしないと。自らの命に変えても、必ずやあの狂躁の騎士を打ち倒すのだと、槍に魂を籠めた」

 

 

 

 ――奴は、ただ語っているだけなのだ!

 信じられない。目の前で起きている事が理解できない。

 モードレッドは今、言葉に殺されようとしている!

 

 

 突然現れた老齢の男は、淀みない口調で言葉を紡ぐ。

 法衣に身を纏った大柄な姿。彫刻のように隆々とした筋骨に、泰然とした佇まい。空洞な彼の目は光を映さず、代わりのように周囲を覆う赤い紋様が、言葉の一節毎に淡く輝き、超常の気配を胎動させている。

 ホメロス。ギリシア最古の偉人にして、最古の叙述史の語り部。

 語り継ぐ事を始めた男。伝承の創始者。

 歴史のはじまりにして、初めて神を語った男。

 その大いなる言葉が、今、モードレッドを亡き者にするために紡がれている。

 

「その決意は、彼の躯を奮い立たせた。穂先は彼の命の燃えるままに動き、決意が騎士の喉を裂いた。彼のその気高き決意が、怒りを振り絞る狂乱の剣士に立ち向かい、相打ちたらしめたのだ」

「っ――その口を、閉じろぉ!」

 

 僕は懐の宝石を投擲し、ホメロスを狙う。しかし、着弾の直前に、彼は一瞬で姿を掻き消し、全く別の場所に突如として現れる。

 幻のように場所を点々とし、言葉だけは淀みなく綴られる。全方向から言葉が飛び交い、モードレッドを押し潰す。

 彼の言葉が歴史になり、事実になる。言葉に引き摺られるように、本来は軽傷だった喉の傷が、致命傷へと変わっていく。

 

 

 事実が、歴史に蝕まれる。

 モードレッドが、『死んだ事』にされていく――っ!

 

 

「やめろ……やめろぉぉぉぉぉ!」

「戦いは決した。喉を貫かれた剣士は、断末魔の声すらも奪われ、溺れるように大地に――」

 

 結末に向けて、魔力が膨らんでいく。

 大なる歴史の紡ぎ手の言葉を断ち切ったのは、空気を劈く、紅き閃光。

 

「――かぁッッッ!」

 

 突然にモードレッドが、穴の開いた喉で吼えた。

 爆発したような赤雷が視界を染める。モードレッドの真紅の魔力が津波のように広がって、ホメロスの言葉の気配を押し返した。

 顎まで到達しようとしていた喉の裂け目が、気合いに畏れを成したかのように、急速に閉じていく。

 吹き荒ぶ魔力の暴風に、ホメロスが初めて口を閉じ、僅かに驚いた。

 

「むっ……」

「くたばれえええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 その一瞬の硬直を逃すまいと、モードレッドは現出させたクラレントを蹴り飛ばした。銀の剣は彗星のように飛来し、ホメロスの足下に着弾。凄まじい衝撃が鳴り響き、土埃と落ち葉を舞い上げる。

 激情の全てを乗せた一撃も、やはりホメロスには届かない。瞬きの内に彼は姿を消し、着弾点から僅かに離れた場所に現出する。

 ホメロスは口を閉じ、白濁の瞳を僕等に向けて、泰然と佇む。

 全身を鮮血で濡らしたモードレッドは、虎のごとく牙を剥いて吼えた。

 

「下らねえ嘘八百に、付き合ってやる道理はねえんだよ、クソジジイ!」

「ふむ……令呪の行使による自己認識の補強か。主の苦し紛れに救われたか」

 

 死の淵に立たされていたモードレッドは、ぜいぜいと息を荒げて怒号を放つ。対するホメロスは、どこまでも冷ややかに、長く伸びた顎髭を撫でる。

 

「何であれ我の言葉を打ち払うとは、目を見張る気骨よ。流石は叛逆の騎士……国にも、王にも、自らの非業の産まれにも抗い続けただけはある」

「っテメエ、どこまで……!?」

「無論、全てだ。事実を知るからこそ、言葉は歴史としての有り様を成す――転じて、歴史の語り手には、事実を明るくする権能が宿るのだ」

「ふざけた口を……オレの傷を伝って、霊基の記録に入り込んだだけだろうが、覗き魔め」

 

 忌々しげに吐き捨て、モードレッドは自らの両手、そこに深々と刻まれた傷を睨み付ける。

 ヘクトールとの激闘の最中、魂が粉々になるほどの激痛に狂いながら、強引に剣を振るった。その余波に、両手は今もブルブルと震え、焼け付くような痛みで彼女の表情を痙攣させる。

 

「オレから剣を奪い、魂を穢し。事ある毎に過去に入り込み、オレの存在を否定してきやがった……許さねえ。マトモに死ねると思うなよ。その喉、オレの手で捻じ切ってやるからな!」

「……雑言も、こうも猛々しければ心地よくすらある。流石、激情に任せ、命すら短絡的に散らしただけの事はある」

「ッ覗き魔風情が、知った風な口を利くんじゃねえぇぇぇ!」

 

 ドウ! と魔力が弾け、モードレッドが跳ぶ。

 一瞬でホメロスに肉薄し、光を映さない双眸目がけ、赤雷の迸る踵を突き出す。

 

「……面白い」

 

 ホメロスは薄く微笑み、次の瞬間に姿を消した。モードレッドの足が空を掻き、彼女は歯噛みして着地する。

 

「っさっきから、どうなってやがる。光のない盲目の癖に、見えているようにちょこまかと!」

「見ている景色が違うのだ。光を犠牲に、我の目はこの世ならざる神秘を目撃する器に至った。この双眸は神の威光を降ろす為にこそある。貴様のような矮小なる民は、直視されるだけ光栄と心得よ」

 

 モードレッドの狂犬のような殺気を受けて尚、ホメロスには、まるで観劇を眺めるかのような余裕があった。

 潰れた双眸は、何も見えていないにも関わらず、明らかに僕達を捉えている。僕等の視界よりも遙か高次元の――魔術的に高位な世界で、彼は僕等を睨み付けている。

 視線ではない得も言えない気迫。膝を折らずにいられるのは、隣にモードレッドがいたからだ。怒りを原動力に膨れあがる赤雷が、彼女の周囲にバチバチと弾けている。

 その激情の赤雷を、ホメロスは冷ややかに嘲笑した。

 

「怒り、か。人を縛り続ける、低俗で蒙昧な感情……貴様はまるで怒りの現し身だ。人の愚かさ、憤怒の罪を捏ねて作り出した泥人形のようだ」

 

 ぷちん、と。堪忍袋の尾が切れる音がした。

 泥人形――その言葉に、モードレッドが息を飲み、目を剥く。

 両腕が、固く握りしめられる。ヘクトールの頭部を叩きつぶしたあの時のように、堪えようのない怒りに、纏った赤雷が弾ける。

 

「……上、等だよ」

 

 臨界点を越えた怒りは、逆に彼女を静まらせた。

 瞳孔をきゅっと窄ませ、わなわなと唇を震わせて、言う。

 

「来いよ……オウ、来てみろよ、クソジジイ。もう許さねえ。徹底的にぶちのめして、その髭もじゃの減らず口から『産まれてきてごめんなさい』と言わせてやる。歴史の代わりに、オレがトラウマって奴を刻んでやるよ」

 

 絶対零度に至ったモードレッドの怒り。

 それを受けて、ホメロスが放ったのは、嘲笑。

 

「……愚かな、蛮族め」

「――」

 

 モードレッドの姿が、消えた。

 全身全霊の魔力を爆発させた跳躍は、軌道に引かれる光の帯さえ視認を許さない。

 次の瞬間、彼女の傷を負った両拳がホメロスのいた場所を抉り抜き、大地に巨大なクレーターを産み出した。両手から鮮血が迸り、全身がバラバラに切り裂かれるような痛みが、悲鳴になって彼女の喉を抜ける。

 

「っぎゃあああああああああ! あああああこのクソ野郎がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「ダメだモードレッド! 君が先に壊れるぞ、感情を抑えるんだ……モードレッド!」

 

 僕の叱咤は、のたうち回るモードレッドには届かない。

 暴れ回るモードレッド、手が付けられない僕。広く抉られたクレーターの端に立ち、ホメロスは僕等を、愚かな道化師を見るように見下げる。

 

「唾棄すべき悪徳とはいえ、何と猛々しい炎か……万が一触れられれば、此方も焼かれてしまうか」

 

 顎髭を撫でながらそんな事を呟き、空白の目が、僕に向いた。

 瞬間、ぞっと、魂が身体から引き剥がされたような気配。

 僕という存在を値踏みされているかのよう。凡百のそれと同じ人間だと断じられているような無力感が、全身に圧し掛かる。

 

「弱く、ありふれた魔力だ。隣の獣に比べれば、矮小と言っていい。だが希有な熱が在るな……それは、恋か?」

「っ……」

 

 空洞の目。いや、ともすればそれは宝具かもしれなかった。神秘を見るために昇華された彼の視界は、僕の心の中をガラスのように透かし見て、せせら笑う。

 

「情欲とも、慰めとも違う、清く澄んだ熱だ……しかし、紛い物の魂との恋慕とは。長き衰退で、人の心はこうも爛れたか」

「……侮辱もいい加減にしろ。彼女は、騎士だ。魂の燃える限り生き続けた、人類の誇る英雄だ」

 

 僕は呻くモードレッドの頭を抱き寄せ、叛逆の騎士の代わりに、神秘の双眸を睨み返す。

 超常の神気に竦みながらも、視線だけは外さない。

 怯む訳にはいかなかった。

 どんな英霊が相手と言えど、相棒を……愛する人を、笑う事だけは許さない。

 

「彼女はこの世界に生きて……必死に生きて、戦って、歴史に爪痕を残したんだ。その有り様は誰にも否定させない。誇り高き英雄を、僕のパートナーを愚弄する事は、絶対に許さない!」

 

 彼女のマスターとして、モードレッドを証明する相棒として、歴史の語り手に真っ向から対峙する。

 ほう、と息を飲む音がする。

 僕の臆病な反抗を、ホメロスは静かに聞いていた。顎髭を撫で、物憂げに何かを思考する。

 

「人類の誇る、英雄……そう、名乗るか。人形と凡夫の一組が、人の歴史を誇示するか」

 

 僕の言葉が、彼の心の琴線を弾いたらしい。ホメロスの大柄な身体に満ち満ちていた覇気が、次第に霧散していくのを感じる。

 そうして彼は、戦慄する僕に向けて、泰然と、自らの言葉が神の掲示であるかの如く、言った。

 

「二日だけ、猶予をやろう」

「なんだと……」

「貴様等は、確かに歴史に刻まれし英雄である。此度の聖杯戦争の最後の敵であり、我が大義に立ちはだかる最後の人類である。ならばこそ、我の全てを賭して戦うべき相手に値する」

 

 言い終わる頃には、ホメロスの身から闘志は消えていた。

 逞しい腕を持ち上げ、僕等を指さす。

 

「明後日に、この下らぬ世界は終焉を迎える。我は貴様等を滅却しよう。完膚無きまでに否定しよう」

 

 唇を吊り上げ、ぞっとする笑みを溢す。

 さながら世界を洪水で埋める神の如き、超然とした残忍さ。人ならざる冷笑。

 脳裏に焼き付く笑みを讃え、ホメロスは法衣を翻し、僕等に背を向ける。

 

「そうして、証明しようではないか……人は愚かな存在だと。人類史には、何の価値もなかったのだ、とな」

「ッまち、やがれ……!」

 

 僕の腕の中で、モードレッドが怒りを露わに呻く。

 ホメロスは足を止めようとすらしなかった。法衣をはためかせて数歩進んだ彼は、一瞬でその姿を掻き消した。

 絶対絶命の窮地と思われた戦いは、始まりと同様に、嘘のように唐突に、僕達から遠ざかっていった。

 秋の森に、再び静寂が訪れる。冷たく寂しい風が、傷だらけの僕等に吹き曝す。

 

「……な、んだよ。一体……」

 

 敵の消え失せた方向を眺め、モードレッドはか細く呻く。

 そうして彼女は、度重なる激痛と狂躁の果てに、僕の腕の中で事切れたように意識を手放した。限界をとうに越えていた彼女は、ぐったりと項垂れて、死んだように眠りにつく。

 寂寥とした風が吹き、森がざぁっとおどろおどろしいざわめきを立てて、蹲る僕等を僕等を冷ややかに取り囲んでいた。

 



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28話

 逃げ帰る家路は、全てが死に絶えたような静寂に満ちていた。

 枯れ葉の割れる音を奏でながら、僕は歩く。無心に、一歩一歩、気絶したモードレッドを背に抱えて。

 安定の為に僕の肩に回させた彼女の腕が、視界の両端でぷらぷらと揺れている。手首の痛ましい傷が見せびらかすように視界を泳ぎ、滴る血がぽたぽたと腐葉土に落ちる。

 その痛ましさに、森に生きる全てが息を潜め、顔を背けているかのようだった。穏やかで、静かな優しさに満ちていたはずのそこから、突き放すような疎外感を感じる。

 

「っく……わっ――」

 

 突き出した木の根に足を取られ、僕は転んでしまう。落ち葉が巻き上がり、腐葉土の湿った臭いが鼻に飛び込んでくる。

 モードレッドの両腕が、大地にびたんと叩き付けられた。

 不意打ちの衝撃にも、悲鳴は聞こえない。モードレッドは目を覚まさない。

 

「……ごめんね」

 

 呟き、起き上がり、モードレッドの身体を背負い直す。

 モードレッドの身体は、びっくりするほど軽かった。触れ合った背中で分かるくらいに、あちこち傷だらけだった。

 滝のように血を流し、命を枯らし、狂躁に心をすり減らした、その惨たらしい後遺症。

 それほどに、彼女は自分を痛めつけていたのだ。

 限界を越えて、地獄を味わいながら、彼女は戦っていたのだ。

 意識を手放した身体を預けられ、僕はただ、背に抱える彼女の小ささを思い知るばかりだ。知らず噛みしめていた歯が、ギリと耳障りな音を鳴らす。

 頭の中に、激情がぐるぐると渦巻く。沸騰寸前の鍋のように震えている。その全部を黙殺し、今はただ、歩く。家路を急ぐ。

 

 

 どれだけ歩いたかも忘れた頃。ぶるりと、聞いた事のある音がした。

 いつの間にか項垂れていた頭を上げると、モードレッドが見つけた馬が、円らな瞳で僕等を見ていた。身体の所々に土汚れをこびり付かせているが、毛並みは艶やかに、夕日を受けて煌めいて見える。

 

「無事だったか……よかった」

 

 モードレッドを背負い直し、手を空けて馬の腹を撫でる。

 偶然の出会いだったが、ここでの時間を共にした関係だ。数ヶ月の友情だったが、僕を乗せ、共に戦ってくれた。

 健闘を讃えるように腹をぽんぽんと叩くと、馬は心地よさげに鼻を鳴らす。

 そして彼は、ゆっくりと顔を近づけ、僕の背で眠るモードレッドの髪を嗅いだ。ぶるる、と弱々しい鳴き声を上げて、彼女の身を案じる。

 

「うん……ぜんぶ、彼女のお陰だよ。彼女が身を挺して戦ってくれたから、僕等はこうして生きていられる」

 

 生物の本能が、彼女の消耗の凄まじさを悟らせるのだろう。馬は落ち着かない様子で足を動かし、彼女の顔に頭を近づける。

 

「……」

 

 僕は、優しい彼の腹を撫でて――その胴体から、鞍を外した。突然軽くなった身体に驚く、その顔の金具も外してあげる。

 自由になった彼を正面から見つめる。ぶるり、と真意を問うように息が漏らされた。

 

「お行き。君は自由だ」

『……』

「戦いが始まった。理不尽な現実が、僕達に追いついてしまった……ごめんよ。僕達二人じゃ、君の幸せを作れない」

 

 別れの微笑みを作って、僕は告げる。

 しばらくの間、彼は僕等の前から動こうとしなかった。黒真珠のような瞳が、行く先を案じるように、僕を見つめる。

 やがて彼は諦めたように息を吐くと、最後に優しく、モードレッドの横顔に、頭を擦りつけた。

 短く嘶き、蹄の音を奏でながら、夕焼けが黄金のように煌めく木立の中を走って行く。

 

「それでいい……偽りの日々に、君まで囚われる事は無い」

 

 揺れる尾が見えなくなるまで見送って、僕は歩みを再開させる。

 空は既に橙に染まりつつあった。木々の隙間から、夕焼けの光が差し込んでくる。

 最初にここに来た日。自暴自棄になったモードレッドを宥めたのも、こんな夕日の中だった。モードレッドと共に馬に乗って、丘に登り、黄金に輝く景色を見た。それにほうと息をついて、モードレッドはここでの生活を受け入れてくれた。

 

 あの時の夕焼けは、温かかった。穏やかで優しかった。

 今はもう、温かさなんて微塵も感じない。

 

 燃えるような光に、荒れ果てた森の光景が浮き彫りになる。根元からへし折れた木々。捲れ上がった土。今まさに葉を朽ちさせていく枝。あちこちにクレーターが刻まれ、壊れた罠が散乱して自然を穢している。湿った土の据えた臭いが、むせ返るような濃さで鼻にこびり付く。

 

 

 穏やかさは、幻想だった。ここもやはり、戦場だった。

 誰も、聖杯戦争からは逃れられない。

 それが事実だ。分かっていた。穏やかな日々なんて、幻想である事は知っていた。

 だけど……泥臭い空気を吸う度に、膝を折ってしまいそうになる。

 

「……参った、なぁ」

 

 吐き出した息が、震える。

 戦場のヒリつく空気が、肺を凍えさせる。

 空気は一層冷たくなって、一人ぼっちの家路に立ちこめる。

 

 

 

 

 

 家に帰り着いたのは、夕焼けも沈みきり、空が藍色に満ちる頃だった。吐き出す息はすっかり白くなり、足先が痺れて石像のように固くなっていた。

 それでも、ドアを開けて明かりを付ければ、慣れ親しんだいつもの空気が、僕達を包み込む。

 

「っ――はぁ」

 

 肺の中の空気を全て吐き出し、僕は膝を着く。

 まるで、今まで呼吸をしていなかったみたいだ。安心に、身体がどっと重くなる。

 

「……とりあえずは、ただいま、だね」

 

 そう笑みを溢せる位には、心が弛緩する。

 明かりの下で見たモードレッドの身体は、目を覆いたくなる程にボロボロだった。全身泥と血に塗れ、珠のような肌に無数の擦り傷を浮かばせている。

 特に両手の損傷は酷い。掌は深々と裂傷が刻まれ、その肉片が爪にこびり付いている。戦うために自ら拳を握りしめ、抉り抜いたのだ。それ程の激痛の中に、彼女は自らを飛び込ませたのだ。

 寝顔は穏やかで、胸が規則的に上下しているのが、せめてもの救いだ。しかし、そっと閉じられた長い睫毛の目元からは、流した血涙が赤黒い染みになって頬を伝っている。

 

 あどけない少女に刻まれた、惨たらしい傷。激痛と狂気の跡。

 兎にも角にも、彼女をこのままにはしておけなかった。僕は寝ている彼女をもう一度抱えて、風呂場に向かう。

 温かいお湯で、こびり付いた泥と血を洗い落とす。気絶したように寝ているのを幸いに、両手も念入りに。頬に着いた血涙も洗い落とす。

 泥と血の混じった悍ましい色の液体が、音を立てて排水溝に流れていく。

 

「ごめん……ごめんよ、モードレッド」

 

 謝らずにはいられなかった。眠りに落ちている今だからこそ、彼女の両手を握り込み、額に寄せる。

 こんな戦いをさせたくなかった。痛みに藻掻き、発狂しながら戦う彼女。そうはさせない為に、ここへ逃げ出した筈なのに。

 ここに来てから、幾度となく味わった無力感。情けなさ。それが今、覚悟していた何倍もの重さで僕を責め立ててくる。

 

 けれど、同時に……それほどの苦痛を受けて尚、彼女が立ち向かった事も事実で。

 それを、ただひたすらに讃えたいのも、また本心で。

 

「頑張ってくれてありがとう……不甲斐ないマスターで、本当にごめん」

 

 せっかく出てきた感謝の言葉は、すぐに情けない謝罪に上塗りされてしまう。

 

 

 

 

 モードレッドに寝間着を着せてシャワー室を出た頃には、僕の心は灰のように消沈していた。

 モードレッドをベッドに寝かせると、僕は枕元に持ってきた椅子に腰掛けた。

 到底、寝る気にはなれなかった。傷ついた彼女を前にして、休む事は許されないような気さえした。

 どうしていいかも分からず、ただ項垂れて……光が徐々に世界から退いて……どれだけ時間が経っただろう。

 月が登り、銀色の光がしんと寝室を照らす中、静かな衣擦れの音。

 

「……ますたー」

 

 か細い声で、モードレッドが僕を呼んだ。思わずほっと安堵の吐息が漏れる。

 

「まだ寝てていいよ、モードレッド。とりあえず敵は……」

「いや、いい。大体の事は、覚えてる……今は、寝るには気持ちの整理がつかねえ」

 

 送ってくれてありがとな、とモードレッドは言う。

 その声は、沈んでいた。冷静に、けれども不安を隠しきれない声音で、彼女は続ける。

 

「つまり、キャスターか。オレの傷の元凶で、聖杯戦争の最後の相手は」

「ああ。ホメロス……『イーリアス』や『オデュッセイア』の作者。ヘクトールやアキレウス、キルケーなどの神の存在を後世に伝えた、人類最初期の歴史家だ」

「詩人、だろ?」

「表向きはね。けれど、彼の物語が創作では無い事は、魔術界では周知だ……そして僕達人類は、彼の語った言葉によって、トロイア戦争を初めとした神々の姿を思い描いている。事実がどうであるかに関わらず」

「……どういうことだ?」

「歴史が正しくその通りとは限らない、ということさ。君だって、後世の書物には男だと記されているよ。僕も、最初はびっくりした。うれしい驚きだったけどね」

「今、そこは関係ないだろ……デリケートな所なんだ、突っつくな」

 

 そう言って、モードレッドはむすっと唇を尖らせる。

 彼女自身、王の息子という肩書きに、思うところが多少あったりするのだろう。僕の口も緩み、空気がほんの少し弛緩する。

 

「僕らは歴史を信じ、それに基づいて時を遡る。真に事実でないにも関わらずに過去を認識し、時には事実の方を捻じ曲げたりする。その偏見や脚色は、ほとんどは気付かれもせず受け入れられる。ただの人が怪物として語られたり、一方的な侵略が『開拓』として美化されたり……紡がれた情報が『そうであった』と認識される。歴史には、そういう力がある。そして彼は、そんな歴史のはじまりにあたる人物だ。語る言葉一つで、事実を上書きしても不思議じゃない」

「オレの両腕の傷も、その能力の一つ、か……癪に障るが、腑に落ちたぜ」

 

 モードレッドは、布団の中で体を揺する。軋むような痛みに顔を顰めて、言う。

 

「傷の痛みには、波があった。オレの耐魔力と、マスターから貰った魔力で緩和してるのかと思ったが、違った……お前に優しくされた時、下らない遊びに夢中になった時……オレらしくない時に、痛みは引いていた」

 

 両腕の傷は、彼女の歴史を上書きする事で『モードレッドであること』を否定しようとした。

 彼女が本来の有り様を思い出すという事は、その力の流れに逆らうという事だ。それは無理矢理塞がれようとしたかさぶたを引き剥がす行為だ。だから彼女の両腕は痛み続ける。正史と偽りの歴史が混合した『無辜の怪物』になる。

 

「オレは戦士だ、モードレッドだと心の中で唱える度に、傷は疼いて、オレを痛めつけた……嘲笑うみたいだったよ。必死に崖を登る手を、蹴り飛ばされるみたいな屈辱があった。お前は英霊なんかじゃない、有象無象らしく消え去るのがお似合いだってな」

 

 そう語る声が、震えている。

 モードレッドの方を振り返ると、彼女はベッドの中で寝転がり、僕に背を向けていた。顔を見られるのを嫌がったのかもしれない。ほどけた金髪が、ふわりとした流線を描いて枕に広がっている。

 月夜に映る背中は、とても小さく見えた。

 気高く、猛々しい戦いを演じるとは到底思えない、少女の背中。僕は、そこに向けられた冷徹な盲目を思い出す。

 

「人類史には、何の価値もなかった……奴は、そう言ってたよね」

 

 絶体絶命の窮地を思い返すと、苦い味が口内に染みてくる。ホメロスがそのまま語り続けていたならば、僕らは高い確率で敗北していただろう。

 けれど、彼は言葉を収めた。矜持の中に侮辱を滲ませながら、正面から叩き潰す事を宣言した。

 思い返せば彼は、モードレッドが『人類史の英霊』である事にやけに拘り、恨んでいるように感じられた。

 

「歴史のはじまりと言っていい彼が、どうして人類史を否定するような言葉を吐いたんだろう。他でもない、彼の偉大な功績であるはずなのに」

「さあな……ただ、憎んでいる事は確かだろうさ」

 

 ベッドの中で僅かに身じろぎして、モードレッドは言う。

 

「オレの歴史を踏みにじるアイツは、容赦が無かった。オレを無価値と断じる事に、全く躊躇を見せなかった」

「……」

「夢の中で、俺は人生の全てを否定されたよ。円卓には不要だと父上に言われた。剣を持つ資格などないと騎士仲間から蔑まれた。産まれる意味が無かったと、母上に罵倒された」

 

 モードレッドの声が震える。僕に向けた小さな背中が、更に華奢に映る。

 

「最悪だった。見たこともない悪夢だった。見る度に心が軋んで……朝起きたら、両腕がなくなってやしないかって。目を開けるのが怖かった」

 

 僕は彼女の小さな背中を見るつめる。

 十年あまりで潰えた命。国を滅ぼす道具として魔女に産み落とされ、その出生故に王から息子と認めてもらえず、怒りのままに全てを滅ぼした。謀略と激情に翻弄され続けた叛逆の騎士。

 決して、良い記憶ではあるまい。誇りであっても、思い出すのは辛いはずだ。

 でも、その人生こそが、彼女をモードレッドたらしめている。

 彼女の魂に、英霊に値する気高き炎を宿している。

 

「オレを貶めた罪は、必ず償わせる。モードレッドとして、オレは奴を叩き潰す」

 

 確固たる決意を以て、モードレッドは戦いを宣言した。傷を負った両腕で尚、最後まで抗う事を告げる。

 マスターで、王である彼女の従者たる僕は、ただその意思を尊重するだけだ。

 彼女にできる事はなんでもしたい。それが、一番最初から想い続けた、僕の最も純粋な願いだったから。

 僕は背中を向けた彼女の、寝間着にくるまれた肩にそっと手を置く。

 

「とにかく、今は休むんだ。傷を癒して、疲れを取って……全部それからだ」

 

 背中をさする。お疲れさまという労いが、守ってくれてありがとうという感謝が、少しでも多く伝わるように。

 おやすみ、と呟いて、僕は席を立ち、寝室を後にしようとする。

 

 

 

 

「マスター」

 

 ドアノブに手を掛けた所で、モードレッドが僕を呼びとめた。

 

「……何?」

「ここにいてくれ」

「……」

「傍にいてくれ。らしくないとは分かってるけど……一緒に、寝てくれないか?」

「……」

「頼むよ……今夜だけでもいい。どうかオレを、ひとりにしないで」

 

 

 恐る恐る。幼子が服の裾をつまむような、小さな願い。

 切なげで、その分だけとても切実な、モードレッドのわがまま。

 

「……仰せのままに。いつでも君と一緒だよ」

 

 僕は笑って、彼女と同じベッド、彼女の対面に潜り込む。

 モードレッドは、布団の中で小さく身を丸めていた。洞窟で一人夜を過ごす迷子のように、両手を胸の前で畳んでいる。

 そんな状態で、モードレッドは唇を緩めて笑う。同じベッドに入り、息がかかるほどの近くに寄った僕に、言う。

 

「なあ、マスター……今日は、散々だったな。いきなり敵が現れて、すげえ痛くて……何度も死にかけて」

「けれど、生き残った。君が、力の限り戦ってくれたお陰で」

「ああ……剣を振って、令呪の行使もあって、目が覚めた。オレはモードレッドだ。円卓の騎士の一員で、王を下した叛逆者で、聖杯戦争に勝利するために現界したサーヴァントだ」

 

 確固として。同時に、寂しげに。モードレッドが、そう宣言する。

 

「勝つぞ、マスター。オレを侮辱した報いを受けさせるだけじゃない。奴はオレの……オレ達の平穏な日々を、踏みにじりやがったんだ」

「……そう、だね」

「聖杯なんてどうでもいいって、お前は言ったな……オレもだよ。もはや願いなんてどうでもいい。ただオレの誇りにかけて、オレ達を愚弄したアイツを必ず打ち倒す」

 

 夜の寝床に相応しい小声で、けれど鋼鉄のように固い意志で、モードレッドが言う。

 自らに言い聞かせるように。

 あえて強い言葉で自分を鼓舞するように。

 その声には、違和感があった。数ヶ月を共にしたからこそ気付ける、些細で、けれども決定的な差異。

 彼女は今、モードレッドらしい言葉を選んで、自分を取り繕っていた。

 

「もう迷わないよ。例えこの腕に力が入らなくても、オレはお前の剣だ。お前に勝利を捧げるサーヴァントだ……けど、けれど……っ」

 

 そこで言葉を区切り、モードレッドはぎゅっと身を縮こませた。

 身体の前で組んだ両腕が、凍えるように震える。

 

「モードレッド?」

 

 翡翠の瞳から、涙が一粒、こぼれ落ちる。

 一粒溢れた感情は、後から後から、止め処なく溢れて、モードレッドの頬を伝う。

 ひぐっ、としゃくり上げて、モードレッドは悲痛に、僕を呼んだ。

 

「マスター……腕が、めちゃくちゃ痛いんだ。決して受け入れないから、斬られたばかりみたいに辛いんだ」

「……」

「オレがオレで居る事が、苦しい……迷わないけれど。モードレッドで在り続けるけれど……こんなに痛くて、ひとりぼっちの夜は、いやだよ。いやなんだ、マスター」

 

 子供のように、少女のように、モードレッドは泣く。戦士である事に誇りを抱きながら、心の奥底の辛さを、僕に吐き出してくれる。

 心を弛緩させ、感情を溢れさせてくれる。

 それを隠さないで居てくれる事が、彼女からの、何よりの信頼の証だった。

 

「……僕に、何ができる?」

「抱き締めてくれ。ぎゅうって、強く。息ができなくなるくらい、傷よりも強く意識しちまうくらいに」

 

 僕は頬に伝う涙を拭い、泣きじゃくる彼女を抱き締める。命じられたまま、ありったけの力を籠めて、柔らかなパジャマに包まれた、小柄な身体を包み込む。

 ぎっ、と小さな悲鳴が胸に響く。けれど彼女は僕を撥ね除けない。むしろ更に身を寄せて、僕に全てを預けようとする。

 激烈な痛みを与えられ続ける両腕が、ブルブルと震えながら、僕のシャツの胸元をきゅっと握り込んだ。必死に、溺れかけて水面に手を伸ばすように。

 月の銀色に照らされた寝室。冷たく静かな、氷のような空気。一つきりのベッドで、僕は彼女を抱き締める。強く、強く。小さな身体に満ち満ちた、必死に生きる命の温かさ、その一欠片も取り溢すまいとするように。

 

「……ごめんな、マスター」

「なんで、君が謝るのさ」

「傷の痛みに苛ついて、お前の優しさにもそっぽ向けて……何もできやしないのに、反抗して、不機嫌になって」

「当たり前だ、そうなって当然だよ。君が気にする事ない」

「違う、ちがうんだよ、マスター……オレは、安心したんだ。役立たずと言われなくて、捨てられなくて、ほっとしていたんだ」

 

 ふるふると首を振って、襟を握りこむ。

 振り絞るような言葉は、悲痛で、儚くて。今しか伝えられないという焦りは、まるで遺言みたいで。

 

「お前も、この場所も、優しくて、温かくて……ぜんぜんオレらしくないのに、それでもいいって言われて。嬉しいのに、やっぱり怖くて。オレらしさが、分からなくなりそうで。お前が優しくしてくれるのに、何もできない自分が心底恨めしくて……本当は守りたかった。好きになりたかったのに……オレは、オレ……!」

 

 弱音を吐く唇に、僕は自分の唇を重ねた。

 どこまでも健気で強い彼女の、自虐的な泣き言なんて、これ以上言わせる必要なんてなかった。

 

「っはぁ……ふ……ぅ」

 

 互いの呼気を交らわせる。モードレッドは涙で濡れる瞳を閉じて、僕の口に吸い付く。縋るように差し出された舌を絡ませ、ゆっくり、ゆっくり、互いを混じらせる。

 月夜の寝室に、小雨のようにしめやかな水音が響く。

 謝るべきは僕の方だ。

 こんな生活、有り得はしなかった。逃げるなんて選択肢は、ありはしなかった。

 悪戯に希望をちらつかせて、彼女から誇りを奪い去ろうとした。

 その罪は、余りにも重い。

 けれど、今更謝ったって、どうにもならないから。

 火蓋は切って落とされ、彼女は激痛の地獄に向かうしかないのだから。

 謝るのは、無意味だ。謝罪では彼女を救えない。

 だったらせめて、愛したい。

 

「君を愛してる、モードレッド。在りのまま、今ここに居る君を愛している」

 

 彼女を守りたい。苦悩を少しでも和らげて、分かち合いたい。

 だから、言葉を奪い、抱き締める。強く強く結びつく。

 唇を離し、目を真っ赤にして泣く彼女の頭を抱き寄せる。

 

「どんな運命を辿る事になっても、ずっと一緒だ。いつでも、どこでも、僕は必ず傍にいるよ」

 

 胸に埋めた頭が、こくこくと上下する。何度も、何度も、僕の言葉を噛み締めるように。

 突き放すようだった静寂が、今やっと、僕達を激動から守ってくれるように感じられる。

 窓から差し込む月だけが、銀色の輝きで僕等を見つめている。

 

 

 

 夜が更けていく。刻一刻と、時が過ぎていく。

 僕等の偽りの隠匿生活が、終わりに近づく。

 聖杯戦争の、最後の二日間が、始まる。

 

 



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29話

「すまない、■■■――私は、お前に期待をしない」

 

 

 ……ああ。

 この言葉が聞こえるという事は、これは夢だ。

 

 

 とびきり最悪な、僕の過去。

 忘れもしない、十歳の誕生日。

 

 

 八歳から受けていた魔術の教えが実を結び始め、ごく簡単な魔術を幾つか扱えるようになった頃。

 魔術師としての一歩目を踏み出した、人生でも指折りに楽しかった数年だ。

 学ぶ事はどれも新鮮で、好奇心をかき立てられる。練習すればする程に、自分にできる事が増えていく。

 その頃は、目に映るあらゆる物が輝いて見えた。世界はどこまでも広がっているような気がした。

魔術は不可能を可能にする。想像も付かないような凄い事ができる。幼い僕にとって、初めて触れ合った魔術は、夜空の星々よりも遙かに多くの、未知の浪漫と可能性に満ちた世界だった。

 何でも出来る気がした。何にでもなれる気がした。そんな幼く無鉄砲で、その分だけ輝かしい夢は、他でもない父に切り捨てられた。面と向かって。わざわざ僕の誕生日に。

 

「根源に至るべく、魔術の血を継承しろ。それが役目だ。だから、お前は努力しろ。成果は、何も求めない」

 

 父が言った言葉は、何てことの無い、魔術師にとって当たり前の現実だった。

 脈々と血を繋ぎ、何十世代もかけて魔術と知啓を継続させて、それを気の遠くなるほど繰り返して根源の到達を目指すのが、魔術師の本懐だ。

 そして僕の家系は、血脈も片手で数えられるほどしかない、歴史の浅い新参者だった。父も、僕も含めた十数代は、橋渡しの捨て石になることが確定していた。

 

「お前は、平凡だ。高みを求めても、人生が辛くなるだけだ」

 

 僕は、父の言葉に一度殺された。

 魔術に憧れを見出した幼い夢は、抱いてすぐに粉々に砕かれた。

 受け継がれた知慧が足りない。才能が足りない。人生が無意味に終わる事は、既に確定している。他でもない父から告げられた、無慈悲で的確な人生の死刑宣告。

 幸いにもと言うべきか、僕は父に怒りを覚えた。

 父の宣告は、僕をより一層魔術に駆り立てるように作用した。

 僕は死にもの狂いで努力して、魔術師の集う時計塔にて学ぶ資格を得た。

 父の言葉に、そんな事ないと反論しようとした。僕だって出来ると見せてやりたかった。

 

 

 けれどそこで僕を待っていたものは、父の言葉を補強する、どうしようもなく無慈悲な現実だった。

 意気込んで時計塔に乗り込んだ僕が出会ったのは、僕よりも優れた――及びも付かないほど高みに立つ魔術師達だった。

 彼等は輝いていた。扱う魔術は格が違った。

 単純な学問でさえ越えられない差があった。

 格が違う。次元が違う。それは誇張的な表現では無い、歴然とした事実だ。優秀な血統。産まれた星による才能――そんなどうしようも無い理由で、彼等は僕を置いていくのだ。

 それに気付いた時の僕は、まさしく大海の広さを知った蛙だった。あの時の失望を思い出す度に、胸が破裂しそうになる。

 劣等感を感じる為に、本を見るのさえ辛かった。自傷を止められそうにないから、ナイフの一つさえ握らなかった。暗い部屋、ベッドに横たわり、止め処なく自己嫌悪し赤熱する脳の苦しさに悲鳴を上げる他になかった。

 お前には期待しないという父の言葉が、何度も脳内で木霊した。父の言葉は、どこまでもどこまでも正しく、残酷な真実だった。諦めろという宣告が、実は父の優しさなのではと思う程に。

 

 

 膝を折る他なかった。いや、そもそも見上げる事が間違いだったのだ。

 僕に才能はない。生まれが、血統が違う。醜いアヒルだ。決して白鳥になれやしない。

 何とか立ち直って学び舎に復帰しても、打ちのめされた心までは生き返らなかった。けれど、今更辞めるという選択肢も取れず、僕はまさしくゾンビのように、自己嫌悪しながら自己研鑽を続けた。

 劣等感を燃料に変え、情熱を燃やした。

 必死に学んだ。届かないと知りながら、それでもと。才能溢れる天才達の、せめて足下にでも追い縋ろうとした。

 

 

 執念。あるいは蒙昧。未練。

 聖杯は、僕のそんな嫉妬の感情を見出したのかもしれない。

 右手に現れた令呪を見た時は、積み重ねた努力に、とうとう神様が微笑んでくれたのだと歓喜した。

 聖杯戦争に勝ち抜けば、願いを叶える願望機たる聖杯が手に入る。何十代、何百代先にようやく辿り着ける根源に、僕が辿り着ける。捨て石と見放された僕が。

 報われた、と思った。奇跡が起きたと思った。砕かれ失望で覆い隠していた夢が叶うと浮かれた。

 僕は意図的に避けていた我が家に、数年ぶりに戻った。

 突然の来訪に驚く父に、右手の令呪を見せびらかした。

 てっきり、褒めてくれると思ったのだ。

 こんな奇跡が起きるなんてと、我が事のように喜んで欲しかった。

 一族の誇りだなんて、身の丈に合わない歯の浮くような台詞を、言われたかった。

 少なくとも、僕はそう期待していたのだ。

 

 

「……そう、か」

 

 

 だからこそ、眉尻を下げ憐れみを讃えた父の顔は、一生かけても忘れられないだろう。

 父にとって、右手に刻まれた令呪は、僕の死相だった。父は僕が、今生の別れを告げに来たと思ったのだ。

 何てことは無い。僕が諦めていたように、父もまた自分自身を見放した、負け犬に過ぎなかったのだ。

 僕の家系は、悉く矮小だった。聖杯戦争に参加しても、才能に押し潰され即座に死ぬ未来しか描けない程に。

 

 

 父のその、自分とそっくりな、みみっちい負け犬の顔に刻まれた悲哀を見て、気付く。

 ああ、結局、僕は子供だったのだ。

 見返したかったのだ。僕は、あの時の父の「期待しない」という言葉を覆してやりたくて、必死に頑張っていたのだ。

 その願いは、叶わない。ひっくり返す為のチェス盤は腐りきっていた。見返すようなプライドや自尊心など、そもそもどこにもありはしなかったのだ。

 心の奥底の、何かとても大事な心の弦が、ぷつりと千切れる。「せめて血は継承してくれ」と願う父の言葉を聞きながら、僕は自分でも驚くほど静かに、得心していた。

 

 

 ああ、そうか。そういうことか。

 僕は、最初から諦められていたのだ。

 磨いても磨いても、すり減るばかりの石ころだと。才能などあるはずない凡夫だと端から断じられていたのだ。

 そして僕も、たった一人のそんな評価をいつまでもいつまでも引き摺る、評価通りのみみっちい凡夫でしかない。

 そう納得してしまった。努力などするだけ無駄だったと確信してしまった。

 

 

 僕は、命を賭けて戦う大一番を前に、頑張る理由を失ってしまったのだ。

 根源も、魔術すらもどうでもいい。

 聖杯なんて、僕みたいな存在が手にすると考える事すらおこがましい。

 もういい。僕すら、僕に期待しない。

 死ぬのなら、どうぞ劇的に殺してくれ。

 みっともなく生き残ってしまうなら、何もかも忘れて静かに枯れ朽ちよう。

 

 

 

 ……それでも。

 あるいは、もし。

 これ以上に、出過ぎた事を願っていいのであれば。

 

 

 

 この最期の聖戦を、せめて胸躍る素晴らしいものに。

 魔術師でいて良かったと。頑張ってここまで来て本当に良かったと。

 そう思えるだけの邂逅が、どうかありますように――。

 

 

 

 そんな僕の願いが、届いたか。

 あるいは、この後に及んで弱気な僕を叱りに来てくれたのか。

 赤雷と共に、彼女は現れた。

 素晴らしき戦を駆ける戦士として。

 僕の魂をこれ以上無く揺さぶる英雄として。

 憧れ、見惚れ、愛しいとさえ思わせられる、運命の人として。

 

 

 

 

 

「……」

 

 これが、僕だ。

 僕という人生のあらましだ。

 

 無価値と諦めた魔術に人生を使い潰し、今際の際に一人の少女に目覚めさせられた人間。

 魔術師らしくない。男らしくもない、生きる事に執着する平凡な男。

 こうして振り返ってみても、思わず笑ってしまう。空っぽで、自分を持たない、つまらない人間だ。彼女に出会うまでの一年は、彼女と過ごす一分の重さにも負ける。それ程に、彼女との出会いは奇跡的で、運命的で、僕を決定的に変えたのだ。

 走馬燈のように駆け巡った記憶が、彼方へと過ぎ去っていく。

 自分を包んでいた重たい闇が、ゆっくりと解けていく。

 遙か深海から、水面へ浮き上がるような解放感。

 現実に帰着する感覚。僕はぐるりと視線を回し――

 

 

 

 

「……それで?」

 

 常に傍にいた"同乗者"を、問いただす。

 彼は、走馬燈のように流れる僕の人生を、ただ静かに傍観していた。

 人生の邂逅が過ぎ去った今、その視線は、熱を感じるほどの圧倒的な存在感で僕に突き立っている。心を丸裸にされ、晒されているというプレッシャーに潰れてしまいそうだ。

 超然とした気配。まるで自分が紙に描かれたキャラクターであり、紙面の外で誰かに読まれている事を知覚するような……次元が違うと思わされる超常の視線が、僕の全身、過去を含めた全てを睨め回し、魂を透かし見ている。

 

 嫌いだ。この感覚は。

 自分より遙か高みの存在を見上げる恥辱は、人生で嫌と言うほど思い知っている。

 だから僕は笑う。試験管の中のネズミの様な心地を押し殺し、夢の中ながら緊張に喉をゴクリと鳴らし、つとめて不遜に、懊悩に。

 

「視聴料をせびるつもりはないけれど。タダで覗き見しておいて、挨拶の一つも無いのは失礼と思わない?」

 

 虚空に問う。緊張に震えている内心を見透かされていると知りながらも、笑って、悠々と。

 そんな作り物の余裕が効いたか、あるいは呆れられたか。

 全身を締め付けられるような視線が、ふっと解けた。

 視線があっけなく逸らされ、頭の中に声が響く。

 

 

 ――実に、矮小である。

 

 

 時間を無駄にしたと言うかのような、憮然とした言葉。

 それだけを言い残し、彼は去った。

 すっかり興味を失い、一縷の目線もくれずに、僕の記憶から退却した。

 魂が解放され、意識が現実へと浮上していく。

 その浮遊感に晒されながら、僕はとびきり惨めに、自嘲した。

 

「矮小、ね……そんなの、自分が一番分かってるんだよ」

 

 ああ、最悪な気分だ。

 見たくもない過去を見させられて、無遠慮に鑑賞されて。一方的に無価値と断じられて。

 『僕』を紐解かれ、値踏みするように観察されて。

 こんな不快な感覚、二度とは味わいたくもない。

 

 

 しかもその上……彼女はその上、穢されまでしたのだ。

 歩んだ人生を、否定されるばかりか改竄されたのだ。

 どれだけ腹立たしい事か。

 どれだけ苦しく、辛い事か。

 

 

「最後の日を前に、やっと知る事ができたよ……くそったれめ」

 

 吐き捨てる言葉を聞く人は、誰もいない。

 どこまでも無価値なつまらない僕の過去に背を向けて、僕は愛する彼女の待つ、愛しき朝に浮上する。

 

 

 

 



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30話

 フライパンに、ベーコンを二枚敷く。

 表面に焦げ目が付くくらいで皿によそい、残った油に、卵を三つ割り入れる。軽く塩コショウを振りながら、手早く掻き混ぜる。

 しゅうう……という卵の焼ける音が、朝日の煌めくキッチンに響く。

 もう聞き慣れた、いつもの音。静寂に満ちたこの森においては、まるで清流の流れのように澄んで聞こえる、一番好きな生活音。

 スクランブルエッグが半熟になったくらいで、僕は皿に盛り付ける。用意する皿は、二つ。そうしないと、間接キスだやっぱりお前はヘンタイだと怒るから。

 切り分けたトマトを乗せた頃、寝室のドアが足で押し開けられた。モードレッドが、真っ赤に腫らした目を眠そうに瞬かせて現れる。

 

「おはよう、モードレッド」

「ん」

「もう少しでできるから、座って待ってていいよ」

「……ん」

 

 気のない返事を背中に聞きながら、パンを薄く切る。

 ぽすん、と、背中に軽い衝撃。

 苦笑して、僕は背後に擦り寄ったモードレッドに言う。

 

「危ないよ、モードレッド」

「いいだろ、別に……昨日さんざん泣いたから、目が痒いんだ」

 

 ぐりぐり、心地よい感触が擦り付けられる。

 中々離れてくれない。最初の朝にそうされたより、ずっと長い。

 随分長い間を開けて、モードレッドが顔を押し当てながら呟いた。

 

「昨日は、ありがとう。マスター」

「傷の具合は、どう?」

「少しだけ、我慢できるくらいにはマシになった……やっぱり、昨日は参ってたみたいだ。情けないところ見せちまったな」

「ぜんぜん。むしろ、あんな素直な君だったら、もっと見せて欲しい所だ」

「そっか……それなら、よかった」

 

 ぐりぐり、心地よい圧力が背中に当たる。

 猫が顔を洗うみたいに、顔を僕の背中に押しつけ、すぅと息を吸う。そんな時間が、思わず笑ってしまう位に長く続く。

 

「そろそろ、お腹空かない?」

「ん……」

 

 やんわりそう告げると、モードレッドはまたも素っ気なく、ほんの少し残念そうに喉を鳴らして身体を離す。寝起きだからか、仕草が本当に猫みたいだ。

 切った食パンを皿に乗せて、二つに切ったミニトマトを添えて、二人分の朝食を持って振り返る。

 モードレッドはもう自分の席に座って、ぷらぷらと足を振っている。くぁ、とあくびをすると、ぴょこんと突き出た八重歯が覗く。

 背後の窓から見える湖は朝日を受けてキラキラと眩く輝いていて、彼女の周囲を星屑のような煌めきで飾っている。モードレッドの薄桃色の寝間着は、眩い外の景色を背景に、どこか幻想的に映えて見える。

 この手にカメラがあれば、奇跡の一枚として写真に納めるのに。僕は彼女のあどけない姿に見とれつつ、食卓に皿を並べる。

 ベーコンとスクランブルエッグ。いつもと同じメニュー。僕等の最後の朝ご飯。目の前に置かれたそれをじっと見下ろして、モードレッドが呟く。

 

「……代わり映えしないな」

「食材は少ないし、豪勢にしようが無いし。嫌だった?」

「そうじゃねえ……お前らしいって思ってさ」

 

 唇を綻ばせて、モードレッドは笑う。振り子のような足の運動が、良くなった機嫌を現すように大きく揺れる。

 

「変わらないのが良いって、来た時から言ってたもんな……最後の朝メシって知ってても一貫してる。妙な所で頑固だと思ってさ」

「頑固じゃなくて、本当に良いものだからだよ。この場所も、こうして君と向かい合うのも」

「ハッ。ガキみたいに食べさせられるのは、御免被りたいけどな」

 

 こちらを向いたモードレッドが、目を閉じ、かぱりと口を開けた。

 卵を掬ったスプーンを差し入れる。ぱくりと口が閉じ、柔らかな唇に少し引っ張られながらスプーンを取り出す。

 

「おいしい?」

「なかなかだ……いつも通り、変わんねえ味だ」

「それは良かった」

 

 再び開かれた口に、小さく千切ったパンを持って行く。

 外の木々から、小鳥の囀りがする。魚がぽちゃんと跳ねて、鏡のような水面を波立たせ、星屑のような朝日の光を瞬かせる。

 穢れが洗い落とされたような、ひんやりと冷たく透き通る朝の空気。余計な物のないあるがままの世界に、かちゃかちゃと軽やかな食器の音と、僕等の息遣いだけが在る。

 輝かしく美しい、愛おしく失いがたい、朝の平穏。

 時間が止まれば良いのにと願いながら、流れていく一秒一秒を噛みしめる。これが最後だと、自分に言い聞かせる為にも。

 ベーコンの最後の一切れを飲み込んで、モードレッドがごちそうさまと口にする。その口元を軽く拭いて、自分の分も手早く片付けて、流し台へ。食器を洗ってから、目を閉じて日向ぼっこするモードレッドの隣でコーヒーを一杯。

 

 

 引かれた線をなぞるようないつも通りの時間は、ここで一度終了だ。心地よいノスタルジーに浸って、現実から目を逸らす訳にはいかない。

 重い腰を持ち上げ、隣の倉庫地下にある工房へ。目的の物を掻き集めると、モードレッドの待つリビングに舞い戻る。

 カーペットにずらりと並べられたそれに、モードレッドは怪訝そうに眉を持ち上げた。

 

「宝石に……何だこりゃ、スコップ?」

「鉄パイプでもあれば良かったけど、得物になりそうな物がこれしかなくてね」

 

 笑ってそう言うと、モードレッドはむぅと唇を尖らせる。

 

「オレの負担を減らそうって考えなら、とんだ筋違いだぞ、マスター」

「そんなつもりじゃないよ。ただ、何が起きるか分からないからね。手ぶらでいるよりは、君も安心できるだろう?」

 

 スコップを持って、慎重に柄を撫でる。前の家主の置き土産だが、作りはかなり頑丈だ。先端部は傷が目立つがよく磨かれていて、使い古された持ち手が他人である僕の手にもしっくりと馴染む。愛着を持って使われた証拠だ。

 そうやって眺め、分析し、構造を把握して、それから集中。

 魔力を流し込んで、スコップの構造を補強する。土から水を吸い上げる樹木のイメージで。ゆっくりじっくり、僕の魔術を流し込んでいく。

 集中を維持しながら目を開けると、モードレッドはじっと、僕の顔を覗き込んでいた。

 初めて毛繕いする鳥を見たような、興味深げな顔。僕の何がそんなに関心をそそるのか、胡座をかいた膝がぱたぱたと揺れている。

 

「ごめんね、せっかく一日の猶予ができたのに、棒に振るような形になって」

「そんなに卑下するなよ。お前の思いつく、出来る限りの事がそれなんだろ? どれだけ無意味に見えようとも、オレは勝つための努力を笑ったりしねえよ」

 

 モードレッドは座った姿勢のままぐぅっと背伸びを一つ。息を吐きながら「それに」と言葉を続ける。

 

「退屈はしねえよ。ここで、お前を見てられるし」

「……見ていても、面白い物じゃないだろう?」

「面白くなくていいんだよ……決めたんだ。今日は、お前の傍にいるって」

 

 そう言って、モードレッドは僕の顔を覗き込む。嬉しい言葉を紡いだ顔を、ほんのり朱に染めながら。

 

「どうせ退屈な生活だ。一人じゃ大した事も出来ないんだ……口惜しい事があるとすれば、それはお前の傍にしかない」

「……」

「だから、見てる。隣にいる。それで良いって、今思った」

 

 ハッキリ、そう宣言する。

 輝く翡翠の瞳の奥には、確かな信頼と、それに近い温かい感情に満ちていた。一心に注がれる思いが心を昂ぶらせ、僕に力を分け与えてくれるように感じる。

 

「……ありがとう、モードレッド」

「礼なんていいから、間に合わなかったって泣き言だけは吐くなよな」

「夜までには終わらせるよ。君が見てくれるなら百人力だ」

 

 彼女の信頼に応える為にも、手にしたスコップに意識を集中させる。僕等を守ってくれますようにと願いを籠めながら。

 目を閉じ、集中していても、美しい周囲の景色を感じる事ができた。眩い日差しが、瞼の隙間からキラキラと透けて見える。吸い込む空気は晴れやかで、清水のように澄んでいる。そして僕のすぐ隣には熱い視線があって、静かで深い呼吸を繰り返している。

 

「マスター。あまり邪魔したくないんだけど、話するぐらいなら平気か?」

「うん、大丈夫」

「もう少し近くに寄って……触れてても、いいか?」

「是非是非。むしろ俄然やる気が出るよ。積極的にあちこち矢鱈目鱈に気安く遠慮無く触れて欲しい」

「急に早口になるなよ気持ち悪いな。決戦前日に言うのもアレだけど、魔力も人並みで根っ子がド変態とかいよいよ救いようがねえぞ?」

「ぐぅ」

「ははっ、ぐうの音は出たな。褒められたモンじゃないが」

 

 心が揺らいで魔力が淀んだ。手に持つシャベルが鋼鉄みたいに重くなる。

 切れ味の鋭い毒舌も、最早日常の一つだ。クリティカルヒットに心の中で悶えていると、空気がゆらりと流れる。

 

「全く……ホントどうしようもねえ奴だな、オレのマスターはよ」

 

 そんな悪態と一緒に、モードレッドのふわふわの髪が、首筋をくすぐった。続いて、ぽすんと軽い感触が背中に触れる。

 背中合わせに座ったモードレッドは、収まりの良い場所を探して上体を僕の背に押しつける。彼女の細い身体を背中全部に感じて、身も心もくすぐったい。

 

「マスター、お前も、少しだけ凭れてくれないか?」

「……こう?」

「ああ、うん。これで良い。お前に触れてるって感じがする」

 

 互いに軽く身体を預け、傍にいる相棒の重みを感じる。背中合わせに、支え合うような姿勢になって、モードレッドはすぅと深く息を吸い込んだ。

 

「やっぱ、お前の傍が一番楽だ。こうして触れていると、腕の痛みが溶けて和らいでいく」

「……モードレッドらしくないから?」

「ああ、そうだ。全くオレらしくない。なんせオレの生前は、こうして身体を預けられる人間なんて、誰一人いなかったからな」

 

 戦い、怒り続けた自身の過去を思い、モードレッドは笑う。誇りと自負を抱く生前に、今は少しの自嘲を秘めて。

 モードレッドらしくない。それは、両手に付いた傷の歴史浸食を助長する毒でもあったはずだ。けれど、モードレッドの深く安らいだ表情が、その考えを棄却する。

 僕の考えを見透かしたように、彼女が笑う。

 

「大丈夫、オレがモードレッドである事は忘れねえよ。ただ、こういう場所で、こういう空気だ。何にも起こらない退屈な場所で、オレらしく在るのが馬鹿らしいって、そんだけだ」

「……何だか、君も丸くなったね」

「大半はテメエのせいだよ、バーカ。責任取って、このまま背もたれになってろ」

「畏まりました、我が主様」

「へんっ……」

「……」

「……、……重たく、ねえよな?」

「そのツンデレな優しさでお釣りが来るよ。いやぁ、本当に丸くなったねぇ」

「しみじみ言うな、バカマスターっ」

 

 ぼすんっと背中に後頭部がぶつかる。じゃれつくような強さのちょっかいに、どちらからとなく吹き出した。

 それから、無言。時々思いついた言葉を口にして、二言三言会話して、その他はただ黙って背中を預け合う。

 僕はスコップに魔力を注ぎ、モードレッドはこの場所の空気を吸い込む。

 輝かしい日差しが差し込んで、日だまりの温かさが部屋に満ちて、僕等を包む。

 時間が止まったような静寂。いつまでも続くような自然の中、触れ合った桃色の寝間着の内側から、彼女のとく、とくという安らかな心臓の鼓動を感じる。

 その命の温かさに、心強さと、前向きになれる勇気を貰って、僕は目の前の、できる限りの作業に集中する。

 目を瞑り、空気に浸り、互いの存在を背中に感じて。

 二人寄り添って、最後の時を、愛おしむ。

 

 

 

 




書き終えたものを粛々と挙げていきますが、感想頂けるとめちゃくちゃ励みになります。
内容に関することでも文章に対する不満でも、何でも軽率に書いて頂けると嬉しいです。


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31話

 ざぁっ――と、風が走り抜ける。

 木々を縫い吹き抜ける風が、紅葉を枝から千切り取り、吹雪になって飛んでいく。

 黄色、橙、紅。一年で最も鮮やかに彩られる、冬を目前とした木々達。しかしそれは、枯れ落ちる運命を目前にした、臨終間際の最後の煌めきだ。地面には既に死に絶えた枯れ葉が、乾ききった茶色い肌を腐葉土に沈めている。

 

 

 美しく、鮮やかで、それ以上に静まり返り死の予兆に満ちた森。

 再び風が吹き荒び、枯れ葉が飛んでいく。

 冷え切った風が通り過ぎた時、そこには白い法衣を纏う老爺――ホメロスが佇んでいた。

 幻の如く現れたホメロスは、ついと顔を持ち上げ、潰れて空洞になった目で空を仰ぎ見る。

 深く息を吸い込み、嘆息として吐き出す。

 

「……虚無にして、煩雑為り」

 

 語り部は視る。神の視点で以て、この世界を卑下する。

 

「停滞し淀む空気。神秘は消え失せ、命の価値は分散し、薄弱と化している……森は神性を失い、ただ在るばかりである。命は物質同様に無価値である」

 

 蕩々と紡ぐ。心に感じた情動を、悲哀を、言葉という名の憐憫に変える。

 

「人間……人間」

 

 誰もいない森。あるがままの青い空を仰ぎ見て、それでもホメロスは人間と言葉を紡ぐ。盲目のその目で空を見上げ、美しい青の代わりに何を見ているのかは、彼以外には知る由もない。

 

「真に、五月蠅き、人間也や」

 

 ホメロスは眉間に皺を寄せ、忌々しげに喉を鳴らした。彼以外には理解できぬ憎悪を滾らせる人間を、明らかに目にして。辺境のこの地でさえ逃れられないのかと憤慨するように。

 

「喧しく、雑多な種族。忘却と傲慢を振りかざし、この世を我が物同然に貪り、跋扈する……稲子と何も代わりはしない。この世は既に、食い尽くされた死地であるか」

 

 歴史を紡ぐ大いなる言葉で、彼は唾棄する。魔力の籠もっていないただの言葉でありながら、周囲の木々をざわめき戦かせるせるほどに、彼の憎悪は本物であった。

 

「やはり、揺るがぬ。決意は乱れぬ。この時代に生まれ落ち、この眼を以て見てしまった以上、望みを果たさぬ道理はない」

 

 常人には計り知れぬ憎悪を胸に、ホメロスは唸る。詳らかな言葉として語り、紡ぎ、より確固とした意志として胸に刻む。

 冷たい風が吹き荒び、ホメロスの法衣をはためかせる。森達がまるでこの場から逃げ去りたいとでも言うように枝葉を揺らし、落ち葉を吹き飛ばしていく。

 その風の中。落ち葉の影から浮かび上がるようにして、一人の男が現れた。

 フードを目深に被り、表情は見えない。灰色の外套は紅葉の舞う森の中では逆に目立つはずなのに、その存在は今にも森の雑踏に紛れて消えるのではと思わせられるほどに朧気だ。幽霊のような出で立ちの中で、首から皮ベルトで提げられた双眼鏡が、レンズで陽光を照り返し、唯一現実味のある存在感を放っている。

 今回の聖杯戦争の管理者は、静かな足取りでホメロスまで歩み寄ると、彼の前に静かに膝を着き、頭を垂れた。

 

「……面を上げよ」

「……はい」

 

 ホメロスの言葉に恭しく頷き、管理者は静かにフードを外す。不健康そうな痩せぎすの顔が、佇むホメロスの顔を見上げる。

 その顔は既に正気を失っていた。顔面は蒼白を通り越して土気色だ。眼窩は骨格を浮き彫りにするほどに落ち窪み、その中で瞳だけが、薬物を投与されたように爛々と光輝いている。

 世の中の何もかもに絶望し、打ち拉がれ、その中でたった一つ信じる物を見つけた……そんな顔で、管理者はホメロスを見上げる。

 

「彼奴等は、どうだ」

「住まいより、動く様子を見せません。最後の時を無作為に過ごすと決めたようです」

 

 管理者は明朗に応える。ホメロス一人に注がれる視線は、聖杯戦争において管理者は中立であるべきという原則さえ忘れているらしかった。彼の脳内には、既にホメロスと、彼の言葉に対する崇拝と信奉しか残っていない。

 

「そうか……元より分かってはいたが、やはり杞憂であったか」

「何やら小道具を用意しているようですが……妨害は、貴方の威光を損なうだけでしょう。勝利は揺るぎません。貴方は、ただ座してお待ち頂ければ十分かと」

 

 神として、という言葉を待たずに管理者の恍惚とした表情から顔を外し、ホメロスはまた虚空を見る。蟻の行列を見るかのような無感動さで、世界の全てを睥睨する。

 

「虚無にして、煩雑。価値も、輝きも無き世である……人間はやはり愚かであった。過ちの上に蔓延る世は、修繕するべきである」

 

 そう言葉を結んだホメロスは、未だ自分を見上げる管理者の、自分より遙かに盲目的な目を見据え、言った。

 

「ご苦労だった」

「っ……は」

「掃いて捨てる愚かな人類の中、貴様は正しき宿命、贖罪の為に立ち上がった……無価値たる世で、貴様は真の価値を見極める審美眼を有していた」

 

 既に髑髏のようだった管理者の目がきゅうと窄んで、ふるふると震える。ざぁと風が吹き、葉の隙間から差し込んだ陽光が、彼の見上げる頭上、老爺の背中から後光となって差し込む。

 

「大義であった……貴様という存在は、後の世、我が言によって紡がれよう」

「っは……ははは、はぁぁ……!」

 

 この瞬間、まるで人生の全てが報われたとでも言うように、管理者は喉を震わせ、歓喜の涙を溢れさせた。

 陶酔し、眼前の老爺以外何も映さなくなった目を、果たして審美眼と呼ぶ物か……そんな単純な疑問さえ挟めない。彼の脳は既に考える事を放棄している。

 彼は喜びに打ち震えながら、わなわなと腕を翳し、首に掛かる、双眼鏡の革ベルトを手に取った。

 

「全ては、貴方様の為……この世の、正しき姿のため――」

 

 譫言のようにそう呟き、管理者はベルトを握り締める。

 骨張った腕に血管を浮き上がらせ、思い切り左右に引っ張った。

 

 

 

 ジャッ――と。

 竹箒で砂利を払うような音が、秋の森に響き渡る。

 それは、人工皮革のベルトが、管理者の後ろ首の外套に擦れた音だ。ベルトのギザギザの表面には、ほつれた灰色の毛糸がこびり付き、凄まじい摩擦に細い白煙を立ち上らせている。

 続けざまに、管理者はベルトを引く。

 ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッジャッジャッジャッジャッジャッ。

 何度も何度も、何度も何度も。交互にベルトを動かす。後ろ首に押しつけて、勢いよく。

 比喩でも何でもなく、ヤスリをかけるように。

 後ろ首のフードが、摩擦熱で発火寸前に加熱される。

 灰色の布が千切れてボロボロになり、とうとう擦り切れた。剥き出しになった皮膚にぐっと押しつけて、管理者は思い切りベルトを引く。

 今度はびゃっ、と水っぽい音がした。凄まじい摩擦に皮膚が千切れて、大地に落ちた落葉にそれよりも尚鮮やかな鮮血が散る。

 管理者はベルトを動かし続ける。鋸のように交互に交互に動かし、じゃりじゃりと首を抉り取っていく。

 木屑のように飛び散った肉片がベルトや方々の木々にこびり付く。無理矢理引き伸ばされて千切れた血管が、皮膚から剥がれてぶらりと垂れる。ぼどぼどと落ちる鮮血が足下に広がり、空気に鉄と死の香りを撒き散らす。

 ベルトが頸骨に達し抉れた断面が見えるほどになっても尚、手は止まらない。暴走する機械のように腕が交互に走る。肉片と血飛沫を撒き散らし、頸骨をゴリゴリと削り、自らの首を抉り取っていく。

 その空気を吸い込み、ホメロスは微笑む。今まさに激烈な自殺を続ける管理者に目もくれずに、泰然と頭上を見上げた。

 

 

「宿願は明日、遂げられる。穢らわしきこの世を滅却し――誉れ高き神々の威光を、この世に取り戻すのだ」

 

 

 彼にしか見えない何かを仰いで、ホメロスはそう告げる。

 崩れ落ちた肉塊が奏でるぐしゃりという音も、転がった首が足下に当たる感触も、彼にとっては、今まさに見据える神々しき光景の一遍の価値にも満たない、些末な塵に過ぎなかった。

 

 

 



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32話

 

 

「……こんな所かな」

 

 深々と溜息を吐き出して、僕は魔力を籠め終えた最後の宝石を、広げたカーペットに置いた。透き通るようなエメラルドは、窓の外の銀色の光を受け、星のように煌めく。

 外はすっかり夜になっていた。高く昇った月が鏡のような湖面に反射して、世界はうっすら明るく藍色に染まっていた。

 冷たく美味しい空気を胸一杯に吸い込むと、澄み切った雪解け水のように身体に染み込んでいく。それで意識が目を覚ました。全身の血管がじんわり拡張していくのを感じる。遠ざかっていた聴覚が戻ってくると、ガラス戸の向こうから梟の鳴き声が聞こえた。

 想定していたより時間がかかったが、やるべき事はやったという達成感が心に満ちる。

 疲労は少ない。むしろ、月光を讃えた眼前の美しい景色に、心が冴えるのを感じる。

 僕はしばらく、時を忘れたような夜の空気に浸り――ふと、背後に耳をそばたてる。

 

「……すぅ……すぅ」

 

 モードレッドが眠っていた。桃色の寝間着に包んだ身体を投げだし、僕の背中にすっかり預けて、胸を上下させている。

 背中合わせで互いに凭れ合っているから、顔を見る事はできない。けれど、頭の中には鮮明に思い描ける。長い睫毛を閉じた彼女の、凜々しくも愛くるしい、少女の寝顔。桃色の唇はだらしなく半開きになって、白い八重歯がほんの少し覗いているかもしれない。

 規則的で、安らかな吐息。それが彼女の、信頼の証だ。

 

「……僕なんかの背中で、安心してくれるんだね」

 

 初めてパパと呼ばれた父親は、こんな喜びに打ち震えるのだろうか。初めて手を繋いでキスをした少年は、こんな風に「生きてて良かった」と感じるのだろうか。彼女から与えられる信頼の証は、いつも、何回でも、鮮烈な感動になって僕を打ち震わせる。

 僕は肩越しに手を回して、彼女の肩に触れる。桃色の寝間着の滑らかな肌触りを感じ、その下、温かく柔らかな、小さい少女の身体を感じる。

 傍に居てくれる。その有り難みを噛みしめてから、僕は身体をゆっくりと動かして、背中に凭れる彼女を揺すり起こした。

 

「モードレッド」

「ん……終わったか?」

「万事無事にね。君が付いてくれたお陰だよ」

「そりゃそうだ。オレが付いていながら、フヌケるなんて有り得ねえからな……くぁ」

 

 そのまま自分に返ってきそうな文句を呟き、モードレッドは猫みたいに欠伸をする。僕は彼女の目尻に滲んだ涙を指で掬って、立たせてあげる。

 背中合わせを解いたモードレッドは、僕の前に移動し、カーペットの上に並べられたソレを見る。

 

「スコップ一つに、宝石十個。持ちうる時間を使って用意した全てだ」

「何か、意外と少ねえな……あ、いや。別に悪く言うつもりじゃなく――」

「言ったろう? 苦し紛れさ。宝石魔術も、本来は何ヶ月もじっくり魔力を籠めて作る代物だから。これはせいぜい玩具のピストル……いや、木造の輪ゴム銃くらいのものかな」

 

 美しい月明かりを正面に、僕は宝石の一つを摘まみ、モードレッドの神妙な顔の傍に翳す。雀の涙の魔力しか籠もっていない事もあって、彼女の翡翠色の瞳の方が何倍だって美しく輝いて見える。

 

「けれど、物は使いようだ。ヘクトールの時みたいな足止めには使えないけれど、コレは敢えて不安定に……砕けば激しく破裂するよう調整しておいた」

「へぇ……成る程。盲目のジジイに、豆鉄砲を喰らわせてやる訳だ。お前も、結構厭らしい事を思いつくじゃねえか」

「驚く顔が今から楽しみだよ。上手くいくかは置いておいてね」

 

 苦笑しつつ、僕は十個ある宝石の半分を拾って、小さな革袋に詰める。口を閉じたそれを、モードレッドの胸に当てた。

 目を丸くするモードレッド。僕は月明かりに映える翡翠の瞳を覗き込む。

 

「マスター?」

「いいかい、モードレッド。()()()()()()()()()君が戦う為に使う、君の武器だ」

 

 そう、宣言する。モードレッドが困惑したように眉を潜め、首を振った。

 

「よせよ。数も少ねえんだ、お前の方がよっぽど需要が――」

「持っていて欲しいんだ。お守りとしてでいい。非力な僕の、せめて君の力になりたいというお節介だ」

 

 突き返そうとするモードレッドに、更に念押しして袋を突きつける。

 モードレッドは、それ以上反論しなかった。洒落や冗談や、ロマンチックな願掛けじゃない事を、僕の目を見て悟ったのだ。

 代わりに表情を引き締め、僕の瞳を真っ直ぐ見つめ返す。

 

「いいね?」

「……ああ、分かった。コイツは今からオレのモンだ。あの糞爺をぶち殺す為に使う、オレの得物だ」

「……ありがとう」

 

 モードレッドの宣言を、心の奥、魂まで響かせて、僕も頷きを返す。

 そうして僕は数時間ぶりに立ち上がり、伸びを一つ。ポキポキと背骨を鳴らしながら、いつも通りに微笑んでみせる。

 

「それじゃ、ご飯にしよっか」

「へへっ、とびきりのを頼むぞ、マスター」

 

 待ってましたと言わんばかりに笑うモードレッド。

 電気を付けて、暖色の明かりが部屋に満ちる。

 キッチンに立ち、すっかりなじんだ包丁を握る。タンタンと小気味良い音が響く。

 コンロを付ければ、部屋の空気が温かく揺れ動く。肉の焼ける香ばしい音。湯気立つスープのコトコトとした振動。それらの音に聞き入って、椅子に座ったモードレッドが、愉快そうに足をぷらぷら揺らす。

 大した会話は起こらない。言葉は必要ない。

 ただこの空気がある事が、堪らなく愛おしく、口惜しい。

 今だけは、魔術も戦いも忘れる。

 二人きりの、静かで幸福に満ちた団欒を、堪能する。

 

 

 

 

 

 

 皿を片付け終えた頃には、真夜中だった。月はすっかり夜空の高い所まで昇っている。

 僕達二人は、ソファに並んで腰掛けた。

 冬に差し掛かるこの時期には珍しく、心地良い涼しさだった。僕は滅多に飲まないビールの二本目の瓶を開ける。

 視界に煌めく星空は、二つ。夜空と、それを映す湖。僕等はソファに深く静まって、自然のプラネタリウムを眺める。

 

「……この生活も、終わっちゃうね」

「だな」

 

 僕の呟きに、モードレッドが短く返事する。カロ、と音を立てて、彼女が咥えていた飴を歯で転がす。

 ビールを半分まで飲み干す。酩酊はやってこない。酔っ払うのとはまるで真逆に、頭と感覚が冴えていく。刻まれる時の一刻一刻を記憶しようと、意識が一層鮮明になる。

 何度となく過ごしてきた静かな時。

 得難い物だという自覚はあった。良い物だという自信はあった。けれどこれほどに愛おしいと思った事は無かった。

 不思議な気分だった。いつもより遙かに安らぎ、満ち足りた気分でいるのに、刻一刻と迫る終わりを確かに感じている。まるで今日が、地球最後の日であるかのように。

 

 

「ねえ、モードレッド。楽しかった?」

 

 

 隣を見て、僕は聞いた。彼女は僕をちらりと見ると、視線を外し、眼前の景色に向き直る。

 しばらく、静寂。

 瓶に口を付ける。

 モードレッドが飴を転がす。

 カロ、という音の後に、彼女が言葉を紡ぐ。

 

「……楽しくは、なかったよ。ここには負けて、屈辱の果てに来たんだ。悔しかったし、苦しかった。痛くて、辛い記憶の方が、ずっと多い。命削って戦ってる方が、よっぽど楽しいし、気が楽だよ」

 

 彼女は身を捩る。月明かりに浮かぶ傷は、黒々とした闇になって、彼女の両腕を穢している。

 恨めしげにその傷を睥睨し……「けれど」と呟いて、モードレッドは顔を上げる。

 

「こんな時間は、オレが生きている間には有り得なかった。サーヴァントとして現界しても、想像したことさえなかった。こんな風に静かに、誰かと一緒に、戦いを忘れて暮らすなんて……思ってもみなかった」

「……」

「知らない事ばかりだった。ぼんやり眺める自然が綺麗だって事も。誰かに世話される事が、顔から火が出るほど小っ恥ずかしいって事も……たった一人に、自分以上に大事に思って貰うのが、こんなにムズムズするって事も……オレみたいな人間が、それを嫌とは思わないって事も」

 

 そう言って、彼女は僕を見て、唇を綻ばせる。

 翡翠の瞳が、表現し得ない揺らぎを讃える。たった一人、僕だけに向けられた感情に揺れる。

 

「オレの知らないオレばかり見つかる。知りもしなかった心を、お前に教えられる。それは、悪くなかった……とても、悪くなかったよ」

「……そう、か」

 

 唇を綻ばせ、視線を前に戻しながら、僕は彼女の言葉を脳裏で何度も反芻する。

 

 

 

 ああ……嗚呼。

 果たして君は、分かるだろうか。

 君のその何てことない声に、笑みに、僕がどれだけ救われていることか。

 

 

 

 ここは本来、負け犬の辿る末路だった。

 魔術も、何もかもを投げ棄てる為に買った家。そこに僕は、傷を癒やせない自分の無能さから目を背け、君を失いたくない醜い保身の為に、失意の君の弱みに付け込んで、みっともなく背を向けて逃げ込んだのだ。

 何度でも言おう。僕は君に怒鳴られるべきだった。罵倒され、失望され、殺されて然るべきだった。

 僕は才能も実力もない凡夫だ。何にもなれない捨て石だ。君のマスターに値しない、崇高な騎士たるモードレッドの隣に立つなんて有り得ない、愚かな弱者なのだ。

 

 

 そんな僕を、君は捨てないでいてくれた。

 みっともない僕の選択に、悪くなかったと言ってくれた。

 身に余る言葉だ。

 柄にもなく泣いてしまいそうだ。いや、いっそ泣いてしまおうか……

 そんな風に項垂れた僕の頭に、ゴツンと鈍痛。視界に火花が散る。

 

「痛ったぁ!?」

「その顔は、またウジウジとくだらねえこと考えてやがるな、マスター?」

 

 いつの間にか立ち上がったモードレッドが、項垂れた僕に頭突きをかましていた。鼻を鳴らし、小さくなった飴を噛み砕く。

 

「お前はいっつもそうだ。普段は飄々としてるくせに、畏まると必ず「ごめん」って謝りやがる。無能だって自分に言い聞かせるみたいにな。そんな奴に付いているサーヴァントの気持ちを、ちょっとでも考えた事あんのかよ?」

「っそれ、は……」

「……ったく。根っ子の方から負け犬なんだな、オレの従者はよ」

 

 呆れたように笑って、モードレッドはぷっと息を吐き、舐め終えたキャンディの棒を僕のビール瓶に落とす。呆気に取られる僕の足を小突いて、言った。

 

「散歩しようぜ、マスター」

「モードレッド?」

「最後に味わう景色なんだ。眺めてるだけなのも、退屈だろ?」

 

 にひ、と悪戯っぽく笑って、モードレッドは薄桃色の寝間着を翻す。僕が突然の提案に固まっている間に、ドアを蹴り開け、さっさと外に出て行ってしまう。

 開きっぱなしのドアから、涼やかな風がさぁと吹き込んでくる。その空気の流れに誘われるように、僕もモードレッドの後に続く。

 月明かりを讃える、藍色の、夜の世界。

 時折吹く風に木々が小さくそよぐのは、まるで森が寝息を立てているかのようだ。吐いた息がほんの少しだけ白くなる程度の寒さは、清廉な泉に浸かるような心地よさで身体を包む。

 湖に面する草原に、モードレッドは一人立っていた。こちらに背を向け、夜空を反射し輝く湖を眺めている。後ろに結った金髪が、風に溶けて煌めくように靡いていた。

 いつの間にか舞台のステージに上がったような、どこか超然とした空気。僕は息を飲んで歩き出し、彼女の隣に並び立つ。

 互いに手を伸ばしても届かない距離を開けて、澄み切った湖に目を向ける。

 

 

 今、この瞬間が、僕達二人にとって、最も大切な時間になる。

 漠然と、けれど確かにそう感じる。

 最後の時。最後の夜。

 始まりは、一陣の風と、同時に開いた、彼女の唇。

 

「明日、オレは奴と戦って、勝者が決まって。それで聖杯戦争は終わる。オレはサーヴァントの宿命として、座に帰還する……だから、この生活は今日で終わりだ。勝つにせよ、負けるにせよ、もうこの日々には戻れない」

「……そう、だね」

 

 歴史が形作り、人々の信仰によって肉付けされた、英雄の影法師。それがサーヴァント。

 別れは必然で、それを惜しんではいけない。

 元より出会う筈のなかった僕達は、明日、その存在のあるべきままに別れる事になる。

 どちらからとなく、向き直る。

 湖と空。二つの月が、僕等の横顔を照らす。

 見た事ないほど穏やかな表情で、モードレッドが僕を見つめる。

 

「本来は有り得ない二度目の人生で、オレは自分でも知らなかったオレを見つけた。苦しくて、歪んだ形だったけれど、普通に生きる事の良さを知った……良いと思える自分に、気が付いた。他ならない、お前のお陰で」

「……」

「もう迷わない。オレはモードレッドだ。今ここにいるオレも、この胸に宿る感情も、全てモードレッドのものなんだ」

 

 また風が吹く。彼女の金髪が、たおやかに揺れる。

 夜の空気を心地よさげに吸い込んで、モードレッドは僕を映していた翡翠色の瞳を、そっと閉じた。

 

 

 

「だから、決めたんだ――もう、自分に嘘は吐かないって」

 

 

 

 次の瞬間、彼女の身体から赤雷が迸った。

 一瞬、眩い光に目が眩む。雷が夜空に走り、ぽっと彼女の衣服に火を灯した。

 あっと言う暇もなく、桃色の寝間着が炎に包まれる。穏やかに瞳を閉じたモードレッドが、橙色の光に輝いて見える。

 

 

 眩い炎に包まれ、数秒。

 ざぁっと、一際強い風が、湖の方から吹き荒ぶ。

 蛍のような橙色の残滓が夜空に舞い、焔が消える。

 僕は、今度こそ真に息を飲む。

 燐光を風に流し、モードレッドは身につける全てを取り払い、裸になって僕に向かい合っていた。

 一糸纏わぬ裸体を銀色の月明かりに透かして、モードレッドは穏やかに笑う。

 

「セックスしようぜ、マスター」

「っ……」

「お前が好きだ。それがオレの抱く、心からの想いだ。オレはモードレッドとして、一人の女として……ここで、今、お前に抱かれたい」

 

 両腕を背に回して、月光を反射して光る陶磁器のように白い肌も、ふっくらと膨らんだ小さな胸も、その真ん中に咲く桜色の乳首も、黄金色の産毛が薄く生えた秘所も、何もかもをさらけ出して、モードレッドは言う。

 ありのままの姿、ありのままの心で。

 

「最後に、思い出をくれ。お前と一緒に過ごした日々の……夢のような時間に相応しい、夢みたいな幸せをくれ」

「……うん」

 

 頷き、僕は彼女の傍に歩み寄る。

 一糸纏わない、珠のように滑らかな肩に手を置く。びっくりするほど細く小さな肩。軽く引くと、彼女は静かに足を前に出し、身を寄せる。

 

「君を愛してる、モードレッド……僕が与えられる限りの幸せを、今君に捧げるよ」

「へんっ……それが世界一だって言ってんだよ、バカマスター」

 

 そうして僕達は、唇を重ね合わせた。澄み切った夜風を吸った口に、甘く温かな呼気が流れる。

 澄み切った夜の空気。木々がそよぐ命の鼓動。鏡のような湖。銀色の光を讃える二つの月。宝石箱のように輝く星空。

 それら世界のどんな瞬きよりも、目の前の少女は美しく、愛おしい輝きに満ち満ちていた。

 

 

 



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33話

本作最後のエロです。
1万9千字あります。
2回も男汁を出します。
よろしくお願いします。













 開け放たれた夜、湖のほとりの、風のそよぐ冷たい空気。

 そこで吸い付く彼女の唇は、夢のように陶酔的で、麻薬のように蠱惑的な、温かさと柔らかさを持っていた。僕等は広がる大自然の空気に包まれながら、互いの唇を重ね、温かく湿った呼気を交換する。熱く濡れた唇をついばむように、何度も交差させる。

 

「は、ふ……ふぅ、ふ……ん」

 

 吐息は、とてつもなく甘い。気を抜けば気絶してしまう程の強烈な刺激が、僕達の情欲に火を灯す。そして、僕等の熱を止める障害は、この世界のどこにも有りはしない。

 僕等は殆ど同時に口を開き、互いの舌を絡ませた。熱くぬるりとした舌が口内に滑り込み、じゃれつくように敏感な粘膜を触れ合わせる。

 

「える、ぅ……ちゅ、るぅ」

「は、ぁ……はむ、ぅ、ちゅぅ……」

 

 舌同士を絡ませ合う。差し出された舌に唇で吸い付く。官能的な甘さの中にさっきまで舐めていた飴の酸味をほんのりと感じる。溢れた唾液が水音になって、月光輝く湖に響く。

 時の流れが遅く感じる。僕等は腹の内で爆発的に高まっていく情欲を感じながら、勿体ぶるようにゆっくりとキスを交わした。カメラのシャッターを切るように、互いの舌の感触も、溢れる唾液も、溢れる水音も、全てを記憶に焼き付けるようにして。

 心地よさと、まろやかな甘さと、僅かな息苦しさ。それが幸福になって、僕等の頭を蕩かしていく。森の冷たい空気に晒され、熱く高まっていく感情がまざまざと浮き彫りになる。

 僕は肩に置いていた手を彼女の背に回す。珠のようにすべすべで、雪のように白いモードレッドの肌に掌を滑らせて、彼女の背中を抱き寄せる。モードレッドは軽い衝撃に呻きながらも、されるまま、僕に更に身を寄せる。

 

「るぅ、ぷ、ちゅ、ちゅうぅ……はぁ、は……ぁ、ぷ。るぅ、える……」

 

 唇は一度も離れない。片時も離したくないと、二人ともが思っていた。言葉すら必要とされていない。ただ二人、貪るように唇を合わせ、舌を絡ませ、唾液を交わらせ、頭を情熱に浮かせていく。

 モードレッドが、ぐっと身体を前のめりにさせた。彼女の身体を抱き締めながらも、その勢いに押されて僕は徐々に後退していく。

 湖から森へと向かう、柔らかな草の生えた緩やかな斜面に、倒れ込むようにして身体を横たえる。胸に抱いたモードレッドの頭から、痛みを訴える悲鳴が響いた。

 

「つ、ぅ……!」

「っモードレッド、だいじょ……む。ふ……」

 

 呼びかけた僕の口に、ぐっと身を乗り出したモードレッドの唇が重なる。両腕の痛みよりも遙かに強い欲求で、モードレッドは僕を求めていた。

 僕は彼女を抱き締める腕に力を入れて、細くしなやかな腰に手を回す。のし掛かる身体の驚くほどの軽さに、愛おしさといじらしさが煮沸されたように募る。

 

 

 鈴虫の音色。梟の鳴き声。それらに混ざり、二人の呼吸が月夜に響く。

 永遠にも感じられる甘い甘い数分の後に、モードレッドはやっと唇を離した。吸い付かれていた舌がちゅぽっと音を立てて抜け、唾液のアーチが月光を反射して銀色に煌めく。

 

「はー、はー……はぁー……」

 

 胸を激しく上下させながら、すっかり上気したモードレッドが、僕を見下ろしている。

 月光に照らされた彼女の肢体は、とてもとても美しかった。銀色の月光は雪のような肌を艶やかに照らしていて、別次元の美貌を感じさせる。それとはまるで対照的に、ぴったりと押しつけられた裸体は柔らかくすべすべだ。理性が溶けてしまう程の艶やかな感触の下に、どきどきという命の鼓動と、必死に生きる彼女の熱を脈々と感じさせる。

 紅潮した頬や唇の紅色が、ぞっとするほどの美貌と愛らしさで僕の目を焼く。興奮と切なさで潤んだ翡翠色の瞳に情欲を惜しげもなく溢れさせて、モードレッドは僕を見つめる。

 

「ますたー……ますたー」

 

 切なげに僕を呼んで、モードレッドはまたキスをした。それから唇を離れ、僕の顎を通り、首筋へ、鎖骨へ。少しずつ下って、熱く濡れた唇を吸い付かせる。

 

「全部知りたい。マスターの事を、ぜんぶ覚えていたい。オレを愛してくれるお前の、全部を好きになりたい」

 

 僕のシャツの胸元に顔を埋めて、鼻先を擦り付ける。すっかり蕩けた顔で、僕の匂いを嗅いでいる。口の端から溢れた涎が、じんわりとした温かさになってシャツに染みる。

 

「マスターの身体、マスターの匂い……ますたー、ますたーの……」

「っ……!」

 

 譫言のような甘い囁きに、理性がぐらつく。いてもたってもいられず、僕はズボンのベルトを外し、衣服を脱ぎ捨てる。

 最後のTシャツを脱ぎ捨てて、モードレッドと同じ産まれたままの姿になると、彼女は露わになった僕の胸に頬を擦り付け、乳首にかぷりと噛み付いた。

 

「いっふ!?」

「っふ、はは。妙ちきりんな声だな……汗ばんで、ほんのりしょっぱいちふび……あ、ぷ。るぅるぅ、ちぅ、ちゅぅぅっ」

「あ、ちょ……ふっく、あ……!」

「今まで好き放題やられた、意趣返しだ……そういう情けねえ声も全部、聞かせてくれよ」

 

 得意気に笑って、乳首に吸い付く。舌で転がされ、唾液を塗りたくられ、唇の先っぽで啄まれる。

 羞恥心を振り切った彼女の、思い切った愛撫。僕が彼女にそうするように、愛しいからこそ行うペッティング。乳首を舐められ、脇腹を甘噛みされ、腹筋に頬を擦り付けられ、臍に舌を埋められる。徐々に身体をずり下げながら、僕の全部を味わい尽くすように舌を這わせていく。

 寒空に晒され敏感になった肌に熱い舌が触れる度に、快感が電流のように背筋を駆け巡る。身体を揺すると互いの裸体が擦れ合って、ぞわぞわとした幸福感で頭を痺れさせる。

 やがて僕の下腹部まで辿り着いたモードレッドが、胸に当たるソレの感触に気付いてぴくりと身体を揺らす。ゆっくりと身体を持ち上げると、真っ赤になった顔で妖艶に微笑んで見せた。

 

「へへ、どうしたよマスター。もう、何か漏れ出てんぞ?」

 

 ペニスは既に最高潮まで昂ぶり、覆い被さるモードレッドのお腹を押していた。溢れ出たカウパーがとろりと垂れて、銀色の筋を光らせている。

 モードレッドは、うっとりと見惚れたように、熱い視線をペニスに注ぐ。赤黒く張り詰めた怒張に、はぁと上気した吐息が当たる。

 

「何度見ても、すっげえエグい形。そそり立って、ヒクヒク震えてやがる……オレで、そんなに興奮してくれてるんだな」

「っ当たり前だよ。僕がどれだけ君の事が好きか、もう分かってるでしょ?」

「へへっ、そうだな……そんなお前のだから、全然怖くねえ。鼻にツンとくる匂いも……もう、クセになりそうだ」

 

 上擦った声でそう言って、モードレッドは鼻先をすんすんと近づけて、それから、カウパー溢れる鈴口に、熱い唇を吸い付けた。

 

「ちゅううっ……ちゅる……マスターの味、マスターのち〇ぽ、あ、ぷ……まふあー、の」

「ふ、う……!」

 

 精管に溜まっていた先走り汁を吸い取られ、そのまま亀頭をぱっくりと咥え込まれる。

 脳がチョコレートのように溶けていくような、ねっとりと温かい快楽が僕を蕩かした。

 豊かな自然に包まれた、僕等の最後の逢瀬。そんな特別な状況にモードレッドからのいじらしい愛撫も加わって、僕は自分でも想像がつかない程にボルテージを高めていた。唾液でとろとろの熱い口内にペニスを咥えられた瞬間、魂が宙に浮くような、とんでもない快楽が駆け巡る。 

 

「える、るろ、るぷぅ。じゅ、じゅるぅ……ぷく、ぷく、ぷじゅ、るぅ」

 

 怖くないという宣言の通り、モードレッドは夢中で僕のペニスを頬張っていた。一度えずきながら僕を受け入れた喉奥を使って、竿の中程までを飲み込む。力の入らない両腕は、僕の腰の両脇に添えられ、肘で挟むようにして、逃げないようがっちりと固定している。

 竿の中くらいを唇でぴったりと閉じられて、抽送の度にくぽくぽと音を立てて扱かれる。ギンギンに張ったゆで卵のような亀頭が、喉奥の熱い柔肉でみっちりと包まれ、優しく捏ね回される。表面に走る血管の筋の一本までを知りたいと言うように、舌がペニスの裏に張り付いて、ガーゼのようなさらさらの感触で僕の腰を痺れさせる。

 裏筋に舌全体を押しつけられ、モードレッドがゆっくりとペニスを抜いていく。

 

「ぐぷ、う、むぐ……じゅ、ずず、じゅぅぅぅ」

「っふ、あ、ぁぁ……!」

 

 強烈な吸い付きに、勝手に声が漏れ出てくる。腰が抜けるような刺激を与えながら、モードレッドがちゅぽんと音を立てて唇を離す。

 

「ぷはっ、ぁ……どうだよ。テメエのクソデカイち〇ぽも、こんなに咥えられるようになっちまったぞ」

 

 唾液を愛おしげに飲み込んだモードレッドは、てらてらと光る真っ赤な亀頭を舌で弄りながら、挑戦的に僕を見上げる。

 

「全部、お前に教えられたんだからな……有り難く思えよ。お前に教えられたムカつく技で、ヒイヒイ言わせてやるからな……」

 

 湯気立つ程に顔を上気させ、モードレッドはまたペニスに吸い付く。

 蠱惑的な、文字通りの、味わうようなフェラチオ。呼吸の一つさえ感じたいと言うようなとろとろの表情で、僕のペニスを咥え込む。

 唾液を絡ませて敏感な竿をふやかし、飴を転がすように亀頭を舐め回す。睾丸を頬張りながら唾液とカウパーの混じり合った淫靡な匂いを吸い込めば、ほっぺたの内側に擦りつけ、犬のようにペニスを頬張ってみせる。

 

「くぷ、ぷく、じゅ、じゅぅ……ひもひ、いいか? まふたー」

「っ……うん。気持ちよすぎて、今すぐにでも射精ちゃいそうな、くらい……!」

「へへっ。身体も、めちゃくちゃ強ばってるぞ。オレ、ちゃんと気持ちよく出来てるんだな……良かった……あむぅ……こぷ、く、ぷ……」

 

 心の底から嬉しそうに微笑んで、モードレッドは献身的に、まさしく愛するように、僕のペニスに吸い付く。

 頬張り、舐め回し、溢れる唾液とカウパーの混ざった汁を吸い、香りを感じ、月夜の森に響くかぽかぽという遠慮のない水音までを楽しんで、モードレッドは僕のペニスを味わい尽くす。ぞくぞくとした快感で、身体が仰け反ったまま動かせない。

 火傷しそうな熱と、駆け巡る止め処ない快感と、今にも破裂しそうに溢れる多幸感。

 快感に打ち震えていると、びくんと跳ねさせた膝が、熱く水っぽい感触に当たった。

 

「んっ……あ、はぅぅっ」

 

 上擦ったモードレッドの声。さあっと吹いた風で、膝がひんやりと冷たくなる。視線を下げれば、僕の膝には付着した愛液がてらてらと光り、その上のモードレッドの秘所までつぅと糸を引いていた。

 いきなりの快感に、モードレッドの浮いた腰がぷるぷると震えている。唾液まみれのペニスに頬を触れさせながら、モードレッドの恨めしげな目と視線が交差する。

 

「っあんだよ。ち〇ぽ舐めて気持ちよくなっちゃ、悪いかよ?」

「ううん、大好きが有頂天を振り切っちゃいそうだよ。今、人生で一番幸せな気分だ」

「へへ、オレは全然満足してねえぞ……夜は長いんだ。まだまだ、付き合ってもらうからな……ちゅ」

「モードレッド、腰をこっちに回して……僕も、君の全部を味わいたい」

 

 根元に唇を吸い付かせるモードレッドの頬を撫で、彼女の小柄な身体を持ち上げて、腰を顔の近くに寄せる。

 間近で見るモードレッドのヴァキナは、既に準備万端のようだった。瑞々しい陰唇はほんの少し口を開き、内側のサーモンピンクの柔肉を覗かせている。愛液が涎のように溢れ出て、早く欲しいとおねだりするように、小さな口がぱくぱくと開いている。

 始めて誰かを受け入れた穴。僕の為に開いてくれた少女の一面。それが今、情欲を昂ぶらせ、僕の前に口を開けている。臆面もなく、一番恥ずかしい所をさらけ出している。

 

「……」

「っ……おい、マスター」

「ごめん。だって、これが最後って思うと、何か感慨深くて」

「何に感動してんだ、ド変態。眺めてばっかじゃなくて……はやく、してくれ」

「……うん」

 

 僕はせかすように突き出されたモードレッドの小さなお尻に手を添えて、ひくひくと疼く瑞々しい割れ目に、そっと人差し指を這わせた。

 すっかりほぐれきった柔肉は、指の動きに併せて広がり、愛液を指に伝わらせる。そのまま指を折り曲げて穴に差し込めば、待ち侘びたように膣が窄まって、ヒダヒダがきゅうっと指を締め付けてくる。

 

「ん、ひゅぅ。ひゃ、あ」

「すご……おツユが後から後から溢れてくる」

 

 馴染ませる必要は無かった。すぐに指を増やして、二本で膣に挿し入れる。満タンの水槽に指を入れたみたいに愛液が溢れ出て、膣が痙攣する度に、モードレッドの可愛らしい喘ぎ声が腰の方に響く。

 小柄な彼女の、小さな膣。性器というには余りに未熟な小さなおま〇こは、けれどその口を目一杯に開いて、僕の指を頬張る。とろとろの柔肉をきゅうきゅうと蠢かせて、もっと奥へと必死に誘っている。 

 

「こんなに、興奮してくれてるんだ。嬉しいよ、モードレッド」

「んっ、ゅ、うぅ……! あ、当たり前、だろ。オレは、お前に抱かれたいんだ。今だってお前と、セックスしたくて溜まらないんだっ」

 

 上擦った声で、モードレッドが言う。一人の少女としての欲望を、包み隠さずさらけ出してくれる。

 

「お前だけなんだぞ。後にも先にも、お前だけだ。こうして小っ恥ずかしい格好を見せるのも……犬みてえにち〇ぽを舐めるのも、全部、お前だけなんだからなぁ……かぷっ、じゅる、ぷじゅ、ぅぅ」

 

 お返しのようにち〇ぽに吸い付き、さっきよりも激しく扱き上げる。

 健気で、必死で、溜まらなく愛おしいモードレッドのフェラチオ。今彼女は、情欲の迸るままに、僕を求める一心で射精させようとしてくる。それだけで僕の理性はとっくに臨界点を迎えそうだ。

 溶け出しそうなペニスの内側から、噴火に向かうように射精欲が込み上げてくる。感覚がどんどん鋭敏になって、口内の快感が益々強烈に、僕の膝をかくかくと痙攣させてくる。

 僕も、遠慮する必要はなかった。モードレッドのお尻を掴むと、ヒクヒクと疼くヴァキナに唇を吸い付かせた。

 

「ひゅううっ……っぷ、んんっ!」

 

 喘ぎ声が、咥え込んだペニスに響く。それが溜まらなく気持ちいいのだから、もう舌を止められない。

 陰唇を舐め回し、膣口に舌を埋める。小さな穴はキスするみたいに舌に吸い付いて、僕の舌を吸い込み、その奥のつぶつぶとした肉ヒダで先っぽをくすぐってくる。

 しょっぱくて、ほんのり苦くて甘い。愛液を啜ると、ヨーグルトのような香りが鼻を抜け、脳に直接届いて目眩を引き起こさせる。ぷにぷにの柔肉は最高の感触で、ずっと味わっていたいという欲望で、僕の理性を粉々に打ち砕いてくる。 

 

「ん、んんん……! じゅ、じゅるぅ、じゅぷ、っあ、あ、ひ、ふひゅうぅ……!」

「っは、……える、じゅぅ……つ、ぷ、るぅ……ぅ、ああっ」

 

 舐めて、キスして、吸い付き、啜って、咥えて、扱きあげて、ふやかして、蕩かして。

 互いを貪る。何もかもを味わい尽くすように。互いの味を、脳髄の根っ子まで染み込ませるように。

 劣情の赴くまま、魂の求めるまま、剥き出しの本能と何よりも強い愛で、呼吸すら惜しいとばかりに獰猛に、互いを食べる。愛し尽くす。

 頭がモードレッドと、気持ちよさで埋め尽くされる。

 まるで石炭みたいに、ペニスがかぁっと熱くなる。血液が集まって目が眩む。ぼうっとした頭に、モードレッドのおま〇この味と途方もない快楽が流れ込んでくる。

 ビクビクと危うい痙攣が絶頂寸前のサインである事を、モードレッドも気付いている。唇を吸い付かせ、とろとろの粘膜でぴったりと包んで、最高の快感をくれる。上り詰める射精を亀頭の先端まで誘う。

 愛する彼女の口で果てるまで、もう……。

 

「ふ……モードレッドっ。ダメだ、僕、イき、そ……!」

「らひて、まふはー。いいぞ、ぶちまけて。大好きなお前の、こゆいせーえき、おれに飲ませて……ぷぐ、ぷぐっ、じゅ……じゅ、る、ぅぅぅぅぅぅぅ」

「射精る、射精るよ、モードレッド……う、ぅ、あああっ」

 

 最後に竿をストローのように思い切り吸い上げられ、僕はあっけなく、欲望の白い塊を彼女の口内目がけ吹き出した。

 魂がち〇ぽに集まって飛び出ていくような、途方もない快感。意識がパチパチと明滅する。身体全体がポンプになったみたいに、どくん、どくんと痙攣する。モードレッドのヴァキナに顔を埋め、迸る愛液に口を濡らしながら果てるのは、頭がどうにかなりそうな程気持ちよかった。

 噴火するように飛びだす精液を、モードレッドは全部受け止めてくれた。唇を窄めて、舌をぺっとりと押しつけて、脈動の一つ一つを感じるように包み込む。

 

「ん……ん……こく、こく……」

 

 喉を鳴らし、ゆっくりと嚥下する。吐き出される精液の一滴一滴を舌で転がし、最後の脈動に至るまでを感じいる。ペニスを口に含んだまま、ぞくぞくと痺れるように身体が震えて、ぷしっと愛液が吹き出してきた。

 

「ちゅ、じゅ……ずず、ちゅぅぅ」

「ぅ、ぁ……」

 

 唇で挟んで尿道を搾り上げられる。ぞわぞわとした刺激を引き昇らせて、モードレッドは僕のペニスから口を離した。かくかくと危うげに震える身体を動かし、お尻が僕の口から離れていく。

 びしょ濡れのお尻を僕のお腹に乗せて顔を向けた時、彼女はまだ精液を口に残していた。苦しげに顔を蹙めて、けれど吐き出す事はせず、ゆっくりゆっくり、僕のザーメンを嚥下する。

 最後の一滴までを飲み込んで、モードレッドは恍惚と瞳を潤ませ、熱い吐息を漏らした。

 

「ぱ、はぁ……マスターの、ザーメン。苦くて、生臭くて、すっげえべたべたしてる」

 

 はあ、はあ、と肩が上下する。陶酔した吐息が、月夜に薄い霧になって、火照って薄紅色になったモードレッドの裸体を照らす。

 

「喉に、べったり張り付いて。匂いに、脳が直接焼かれるみたいで。身体が、もっともっと、って、お前を求めちまう」

 

 うっとりと魅了された顔で笑い、モードレッドは僕を睥睨する。一糸纏わない裸体は情欲で紅潮し、汗でしっとりと濡れている。

 互いの呼吸は早い。殆ど酸欠寸前のぼうっとする視界で見る恋人の顔は、幸せな夢でも見ているようだ。

 

「モードレッド……もっと君が欲しい。もっと長く、もっと強く、君と繋がりたい」

「へへ、分かってる。同じ気持ちだよ……だから、情けなく果てちまったコイツを、早えとこ起こしてくれよ」

 

 モードレッドは挑戦的に唇を吊り上げて、射精の余韻でヒクヒクと痙攣するペニスに、びしょ濡れのおま〇こを擦り付ける。

 半勃ちでも突っ込みたい衝動をぐっと堪えて、僕は上体を起こし、彼女の背に手を回す。しっとりと濡れた上半身を重ねて、唇に吸い付く。

 

「ちゅ……汚く、ないか?」

「そんな事を気にするなら、そもそも外でなんかやらないよ」

 

 差し出された舌を絡ませ、唾液を交換する。さっきまで怒張を咥えていた唇。雄の生臭さが混じった香りは、むしろ互いが一つになった証のようでもあって、僕の興奮を助長させる。

 飽きもせず唇を重ねて、僕等は絶頂と絶頂の狭間の、幸せな余韻を堪能する。

 

「……寒くないかい、モードレッド」

「ん……大丈夫。むしろこんぐらいじゃないと、頭が沸騰して馬鹿になっちまうよ」

「それでも、風邪引いちゃ大変だよ。温まるためにも、このままくっついていようね」

「英霊が風邪引くかよ、ばーか。ちゅ、ちうぅ……前置きなんて要らないから、もっと沢山、触れてくれ」

 

 彼女の望むままに、僕はキスを交わしたまま、腰に回していた手を昇らせる。指を立てて背中をつぅとなぞると、ぞわぞわとした刺激にモードレッドの身体が震える。

 抱き合う僕等の間に左手を差し込んで、彼女の胸に覆い被せる。小さく、けれどふっくらとした形のいい乳房の感触を掌全体で堪能して、頂点の固くぷっくりとした乳首を、親指で捏ねるように弄る。

 

「あっ胸は、触ったら……きゅ、ぅ……!」

 

 ほんの少し動かすだけで、モードレッドの身体がぴくんと跳ねて、甲高く弱々しい声が漏れる。その反応があまりにも可愛くて、僕は身を屈めて、もう片方の胸に吸い付く。

 

「モードレッドの胸、柔らかくて、ふにふにで、すごく気持ちいい……はぷ、ちゅぅぅ」

「んゅ、ぅ……や、そこ、敏感だから、あんまり弄っちゃ……ひん、ひゅうっ」

 

 突き出た桜色の乳首が、舌先にコリコリ当たって気持ちいい。唇で甘噛みすると、一際甲高い嬌声が漏れて、モードレッドが上体を仰け反らせる。

 その反応までも堪能して、僕は思う存分、精一杯の愛撫で、彼女を悦ばせる。

 モードレッドの股間から更に愛液が垂れてきて、温かくとろとろの心地よさがペニスを包み、一度引いたボルテージを高めていく。

 

 

 

「ゅ、う……なあ、マスター」

「ん、何?」

 

 愛撫の最中、胸を吸う息継ぎの間に、出し抜けにモードレッドが僕を呼んだ。

 

「お前って、その……ろりこんって奴なのか?」

「ぶっほ!?」

「わぶっ! オイ、唾飛んだぞ! 急にむせるなよ!」

「だ、だって君が急にそんな事言うから!」

 

 突然の糾弾に、胃袋がひっくり返った気分になる。けれどモードレッドは真剣な表情で、先を続ける。

 

「だってお前、胸とか、ま〇ことか、滅茶苦茶しつこく弄ってくるじゃねえか……オレの胸、小せえのに……だからマスターは、そういうのが好きなのかなって」

「それは、君が気持ち良くなるのが嬉しくてだから……ロリコンじゃないよ。いや、断言できるほどの場数は踏んでないけどさ」

「じ、じゃあ……マスターは、オレのどこが好きなんだよ?」

 

 続けて言われた、質問。

 その言葉が、予想以上に切なく響いて、僕は思わず言葉に詰まる。

 至近距離で見つめるモードレッドの瞳は、水面下から見上げる月のように美しく揺れている。けれどその揺れの中には、絶え間ない愛撫で高まる愛情の他に、どうしようもなく拭いきれない不安が覗いていた。

 

「勘違いするなよ。お前の気持ちを疑う訳じゃないんだ……ただ、ほら。オレ、こんな小っせえ身体だろ? 性格も、全然女らしくないし、今は両腕が使えない役立たずだし……人間でも、ないんだし」

「……」

「そんなオレを、お前は愛してくれる。それは、とっても嬉しい。けれど今は知りたいんだ。マスターがオレを、好きで居てくれる理由を」

 

 

 

 ――彼女は元来、人ではない。

 ブリテンという国を崩落させる為に、魔女に産み落とされたホムンクルスだ。

 彼女は、道具として産まれた。王に仕える剣として戦場を駆け抜け、国を滅ぼす破滅の装置として作用した。

 それが、モードレッドとしての生き様だ。

 その生き様に、彼女は納得している。けれどそれは、彼女自身を肯定する事とは違う。

 国王の息子になれなかった。

 彼女は最期まで、人でなしのホムンクルスだった。

 あるいは彼女は、それを劣等感として感じている。

 人として愛される資格すら、自問自答するほどに。

 

「……」

 

 ああ、本当に、彼女は分かっていないのだろう。

 産まれも育ちも、人かどうかも関係なく。

 こんなに……身を焦がす程の強い愛情は、本当に奇跡的で、証明なんてしようのない物だって事を。

 

「どこが、と聞かれたら、全部と答えるしかないな」

「ダメだ。耳障りのいい言葉で誤魔化さないでくれ」

「そうは言っても、説明なんてできないよ。僕は君の全部を愛している。君自身も、君と過ごすこの時間も……君と巡り会えた運命も」

 

 小さな裸を抱き締める。

 分かってる。こんなありきたりの言葉じゃ、彼女は満足できない。だから耳元に口を寄せ、優しく囁く。

 

「前にも言ったよね。僕はどこまでも平凡で、下らない男だ、万歩の内の一歩にしかなれない捨て石だって」

「そんな、事……」

「そんな事あるんだよ。僕の人生は無価値だった。掃いて捨てられるような凡人だった。僕一人死んだ所で、誰も見向きしやしない。生きながらに死んでいるのと同じだ……才能も実力もない僕は、果たしたい野望も、生きる希望も、何もなかったんだ」

 

 君に出会うまでは。

 そう囁いて、僕は彼女の、滑らかで芯のある金髪を梳く。

 

「まずは君の強さに惚れた。どんな敵にも立ち向かう姿は格好良くて、あらゆる手を使って勝とうとする姿勢は痛快だった。何より君の激しさは、腐って乾いて固まりきった僕の心を、これ以上なく揺さぶったんだ」

「……」

「そんな君の隣に居る事が光栄で、君もそれを受け入れてくれた事が嬉しくて……そうして一緒にいると、意外と我が儘で子供っぽい所があるのに気付いた」

 

 他にも、君の魅力は上げだしたらキリがない。

 女の子扱いされるのが嫌いでも、女の子っぽい格好に興味がない訳じゃない事。

 寂しがりで一人でいる事が苦手な事。

 意外と食い意地が張っていて、目新しい物好きで、町を散歩しながらの買い食いを実は心底楽しんでいる事。

 そんな日常の一コマ一コマが重なる度に、どんどん好きになった。空っぽだった僕の心が、みるみる彼女で埋まっていった。

 胸に添えていた手をモードレッド肩に置き、抱擁を解く。宝石のような彼女の目を、真っ正面から見つめる。

 

「分かるかい? 君は生きながらにして死んでいた僕の、生きる喜びになったんだ。比喩でも何でもなく、君は僕の全てなんだよ。共に在りたいし、守りたい。全てを捧げたいし、支えになりたい。それら全部をひっくるめて、僕は君を愛しているんだ」

 

 モードレッドが安らかな生活など考えられなかったように。僕だって、こんなに満ち足りた日々なんて考えられなかった。

 凜々しく可憐で愛おしい、最優の英雄が傍に居てくれる。共に戦ってくれる。僕を受け入れ、今この場所に居る。これを奇跡と呼ばずになんと言えばいいのか。この甘く緩やかに流れていく奇跡が、僕に愛を教えてくれたのだ。

 どこが好きとか、ここがこうだからとか、そういう次元では語れない。

 僕は、モードレッドと出会って以降の全てを愛しているのだ。

 

「……」

 

 モードレッドは、僕の告白を、目を丸くして聞いていた。

 予想以上のスケールの大きさに戸惑うように。それでいて、僕の言葉の一遍一遍を噛み砕き、時間をかけて心に染み込ませていくように。

 やがて彼女は、興奮意外の感情にぽっと頬を染め、口をもにょもにょとさせて俯く。

 

「そ、そっか……そっか。生きる理由、か……そいつは、その、大仰なこったな」

「はは。流石に、ちょっと気持ち悪いかな」

「べ、別に、気持ち悪くはねえよ。嬉しいし……その、そういう意味じゃ、オレだって……って」

 

 そこまで言って、モードレッドの言葉がはたと止まる。真っ赤にして俯いていた目が、僕等の重ねた下腹部の辺りで止まる。

 眼下では、硬度を取り戻しギンギンに張り詰めたペニスが、モードレッドの下腹部を押している所だった。

 待ちきれないとばかりにビクビクと震える怒張を見下ろし、モードレッドは深々と嘆息して、半目で僕を睨み付けた。

 

「……お高く纏まった言葉も、コイツでぜぇーんぶ台無しだ。まさか今の長台詞で勃起したのか?」

「そこは、ホラ。単純に性的にも君が大好きって証拠で」

「へんっ。やっぱりロリコンなんじゃねえのか、テメエはよ」

 

 乱暴な言葉とは裏腹にモードレッドは愉快そうに笑って、ゆっくりと僕に身体を凭れさせた。もう一度僕を芝生の上に横たえさせ、その上にのし掛かる。

 

「まあ、待ちきれなかったのはオレも同じだ。最初に抱き締められてから、ずっと、ずっと、切なく疼いてしょうがなかった」

 

 モードレッドの言葉を裏付けるように、彼女のヴァキナは瑞々しさを保持し、愛液を滴らせている。モードレッドは僕に跨がり、腰を動かして、とろりとした柔肉を僕のペニスに押しつけて扱き上げてくる。両腕が使えないから、その腰使いはかなり危うげだ。

 

「モードレッド、大丈夫? 僕が……」

「っいや、このままがいい……オレだってお前が好きなんだ。今夜はちゃんと、自分の意志で、お前と繋がりたい」

 

 確固とした声でそう言って、モードレッドは慎重に腰を持ち上げた。

 高く昇った月を背景に、そそり立つ雄の怒張と、愛液を滴らせる雌の口が向かい合う。

 

「ふ……ふぅ、ふー……行くぞ」

「……うん」

 

 緊張を孕んだ浅い吐息。瞳孔がきゅうっと窄まって、股下の性器に注がれる。

 やがて意を決し、モードレッドは息を止め、ゆっくり腰を下げていく。

 互いの粘膜が触れ合い、くち、と水音。

 小さな膣口が待ち侘びたように亀頭に吸い付き、熱い体温を直接股間に感じる。

 

「ぁ――」

 

 うっとりとした、短い嬌声。膝を折り曲げ、腰を沈めていく。

 

「ふ、つぅ……マスターの、デッカくて、苦しい。ま〇こを押し広げて、オレの中に入ってくる……!」

 

 喘ぎながらも、腰は止まらない。

 膣口がイソギンチャクのように動いて、亀頭を包み込む。入口のきゅうっと窄まる刺激を抜ければ、熱くほぐれた柔肉全体が、優しくねっとりと抱擁する。

 ゆっくり、じっくり、柔肉を押し広げ、ペニスが飲み込まれていく。陰茎をなぞる肉ヒダの一片一片までが理解できて、ねっとりとした柔らかさが腰が痺れる程の刺激になって背筋を駆け巡る。

 亀頭を抜け、竿へ。息継ぎをするように膣を痙攣させながら、少しずつ、熱い柔肉で飲み込んでいく。

 

「う、ああ……!」

「もう、少し……もう、少し……ぃ」

 

 刺激に悶え、快感に打ち震えながら、肉棒を受け入れる。

 そうして僕等は、長い時間をかけて、一つに繋がった。

 ペニスが根元までぱっくり咥えられると、モードレッドは止めていた呼吸を解き、うっとりとした吐息を吐き出した。

 

「はぁー……はは。マスターの全部、呑んじまった、ぁ」

 

 湯気立つ程に身体を紅潮させ、モードレッドはどこか得意気に腰を揺らしてみせる。

 

「ゆっくり挿れたから、よく分かるぜ。ち〇ぽが腹を押し広げて、オレの中の、とんでもなく深いとこまでめり込んで、先っぽが奥の方をゴツゴツ叩いてるの……」

「っ……」

「へへ……言葉にならないくらい、気持ち良かったか? ち〇ぽがビクビク震えてるから、モロ分かりだぜ。嬉しい反応してくれるじゃないかよ、マスター?」

 

 得意気なモードレッドの声にも、反応する余裕がない。

 モードレッドのおま〇こは、それはもう最高だった。

 きゅうきゅうと締まる入口も、その奥のツブツブとした柔肉も、更にその奥の、沢山の肉ヒダが絡まって無数の舌で同時にフェラチオされるような快感も、ペニスを通してありありと伝わって、本当に脳が焼き切れそうな程に気持ち良いのだ。

 文字通り言葉も出ない僕の様子に、モードレッドは心底嬉しそうに唇を綻ばせて、また僕に上体を凭れさせる。

 

「まあ、それも当然か。大好きなオレの、大好きなま〇こだもんな……お前のち〇ぽ専用の、お前の形に広がったま〇こサマだ。せいぜい、堪能してくれよな」

 

 一番深い所で繋がって、二人一つになるように、互いの身体を絡ませる。

 包み込む柔肉の熱さに、ペニスが今にも射精しそうに震えている。その振動に心地よさげな喘ぎ声をあげて、モードレッドが何度目かも分からないキスをして、舌を絡ませてくる。

 今や月夜の銀世界には、二人の熱い唇とかんかんに上気した身体が湯気を上げて、幾本もの白い筋を描いていた。

 非現実的なほど美しく、夢のように心地良い逢瀬。その最中に、モードレッドが唾液のアーチを引きながら、僕に言う。

 

「マスター。このまま、こうして、じっとしていてもいいか?」

「どういうこと?」

「ホラ、お前はド変態だからさ。どうせ今すぐにでもオレを押し倒して、遠慮無くずこずこ腰を振って、オレをヒイヒイよがらせたいとか思ってるんだろ?」

「勿論」

 

 脊髄反射的な即答に、モードレッドは思わず噴き出した。お仕置きの代わりにしょうもない僕の唇を啄んで、言う。

 

「頭が馬鹿になって乱れるのも、悪くないけどさ……今夜だけは、おかしくなりたくはないんだ。お前とこうして繋がって、身体を重ねて、セックスして……その一つ一つを、刻みつけたいんだ」

 

 二人愛し合った事を、覚えておくために。

 せめて二人だけは、ここに幸せがあった事を、忘れないために。

 情欲に溺れずに、誰かを愛する事にも、身体を許す事にも、目を背けないために。一人の女として、モードレッドという少女として。

 

「……いいのかい?」

「いいに決まってるだろ。オレは、お前が好きなんだから。お前に好かれる事が、たまらなく嬉しいんだから」

 

 まっすぐな好意に、胸が震える。涙が吹き出しそうになる。

 かつて剣を握り荒野を駆け抜けた伝説の英雄からこんな風に言われて、誰が断れるだろう。僕は頷く代わりに彼女の頭に手を回し、愛おしむようにキスをした。

 

「ちぅ……ちゅく、ぷちゅ……マスター。るぅ、ぷ……」

 

 細い身体を抱き締める。僅かに身じろぎさせて、汗ばんだ肢体を絡ませる。火照ってすっかり柔らかくなった唇を食んで、溢れる唾液を交換する。

 抽送や激しいピストンを行う必要は無かった。モードレッドの膣は、僕のペニスを全部、すっぽりと飲み込んでいる。小さな膣口は竿の根元にぴったりと吸い付き、強い締め付けでペニス全体を張り詰めさせる。

 入口を抜けた先の、長い愛撫でほぐれた膣は肉厚でふわふわだ。肉ヒダの一つ一つが生き物のように動いて、竿に絡みつき、張り出した血管から皮膚の一片まで優しくペッティングしてくる。

 特に大きく張り出した亀頭は、モードレッドの最奥を常に押し上げている。彼女の一番奥の、最も大事な子宮の入り口が、おねだりをするように、鈴口にちゅっちゅと吸い付いてくる。愛液が涎のように後から後から溢れて、互いの性器をしっとり温かく濡らし続ける。

 ペニスを飲み込む息苦しさと、敏感な粘膜同士を摺り合わせる刺激で、時折ヴァキナ全体が息継ぎするように蠕動する。膣全体がきゅぅと窄まって、粘膜がジュルジュルと擦れ合う。それが肉竿を乳搾りでもするように絞り上げて、溜まらない刺激になって脊髄を駆け抜けていく。

 

「ん……! ぷ、ちゅう。ふー、ふー……!」

「気持ち、いいよ。モードレッド。温かくて、しっとりして、きゅうきゅう窄まって、ずっと挿れていたいくらい最高だ」

「っふ、く……オレも、気持ちいい。ぐぅって押し広げられて……ぴりぴりした刺激が、ぞわぞわって身体を痺れさせて、それがずうっと続いてる。幸せな夢でも、見ているみたいに……」

 

 数度の性交を重ねて、僕等の身体は、もう互いの為に形を合わせていた。鍵と鍵穴の関係のように、互いの一物の気持ちいいところが合致する。

 

「分かるか、マスター。オレのま〇こ、お前のデッカいち〇ぽをぶち込まれて、すっかり広がっちまったんだぞ。数ヶ月前まで処女だったのに、奥の方に、切なく疼く空洞までできちまったんだ」

「うん、分かるよ……根元が凄く締まるのに、中は温かくてふわとろだ。おま〇こに抱き締められているみたい」

「っふ、ひん……隙間無くねじ込まれて、内側から押し上げられてる……お腹が一杯で、ぽかぽかして……それがすごく、安心するんだ」

 

 動かないお陰で、ペニスに触れる膣の感触の違いまでハッキリ感じられる。モードレッドもまた、快感にピクンと震えるペニスの振動までを感じているはずだ。その僅かな一挙動までを記憶に焼き付けるように、僕等は身体を重ね、痺れるような快感を堪能する。

 

「ぷちゅ、ちゅぅ……唇も、ち〇ぽも、本当にふやけちゃいそうだ」

「いいじゃねえか。どうせ明日の相手は盲目の爺だ。一杯痕付けて、威風堂々望んでやろうぜ?」

 

 モードレッドは笑って、僕の首筋に小鳥のようにちゅっちゅと唇を吸い付ける。お返しに僕が頬擦りすると、彼女は僕の耳を食んで、熱く濡れた舌を耳穴に射し込んでくる。

 愛撫の度に膣が痙攣して、愛液塗れの柔肉がきゅうきゅうと締まってペニスを刺激してくる。

 蜜壷に漬け込まれているみたい。とろとろの愛液と柔肉にペニス全部が包まれて、ねっとりとした感触と熱に、動かずとも腰が蕩けてしまいそうになる。

 キャンディを口の中で溶かすように、ゆっくりじんわり、ち〇ぽが膣の中で快感に溶けていく。

 愛しさが止まらない。溢れて吹きこぼれそう。幸せで溺れて、どうにかなってしまいそうだ。

 

「える、るぅ……好きな所」

「ちゅ……何だって?」

「次は君だろう? 君が僕を好きな所、まだ聞いてない」

 

 唾液のアーチを引きながら、モードレッドが顔を離す。

 至近距離で見つめ合う。荒く艶やかな吐息が、甘い香りと共に違いの顔に吹き付けられる。

 

「聞きたい。君が僕を受け入れてくれた理由を、好きになってくれた理由を、君の口から教えて欲しい」

 

 ずっと甘えた声を上げていたモードレッドが、ここで始めて狼狽える。

 

「それ、は……」

 

 彼女は翡翠の目をぱちくりと見開くと、その目を僕から逸らして、上、どこか遠く明後日を見始める。

 

 

 

 ひゅう、と一陣の風。

 初めてそれが、とても寒く感じられた。

 

 

 

「それは……あー……ええっと」

「……ちょっと、ねえ?」

 

 背筋がひやっと寒くなる。思わずペニスまで萎んでしまいそうだったが、その前にモードレッドが、照れくさそうに破顔した。

 

「はは、はははっ……いや、悪い。ああ、お前の言うとおりだ。いざ言おうとしたら、上手く言葉にできねえな」

 

 吹き出したモードレッドは、そのまま僕に、ぽすんと身体を凭れさせる。

 

「ごめんな、マスター。でも、どこが好きかなんて、オレには答えられそうもない」

 

 耳元に寄せられた唇から、真剣な音色で言葉が紡がれる。

 

「だって……母上はオレを道具として産んだ。父上はオレを認めず、見向きもしなかった。鎧兜で全身覆って、心も体も、誰にも明かさなかった……オレの人生には、愛なんてこれっぽっちも無かったんだ」

 

 気持ちの告白。あるいは告解。表情は澄んで理知的でさえあるが、揺れる心を現すように、瞳が揺れる。

 

「初めてなんだよ。こうして触れていると、命を賭けた戦いよりも胸が熱くなる。ち〇ぽを飲み込んでいると、くぅってお腹が切なくなる。こうして見上げて、お前が気持ち良さそうに息を吐く顔を見ていると、嬉しいんだか恥ずかしいんだかよく分からない感情にムズムズする。キスして、抱きついて、好きって言って欲しくなる」

 

 そう言って、彼女はじゃれつく猫のように僕に頬擦りする。心底気持ち良さそうに目を細めて、きゅっと膣が収縮する。その刺激に思わず呻き声を上げると、彼女は嬉しそうに艶めいた吐息を漏らす。

 

「こんな気持ちになるのは、お前だからだ。触れるのも、隣にいるのも、セックスするのも、マスターがいい。マスターじゃなきゃだめなんだ。言葉にできないけれど、これだけはハッキリしている」

 

 丁寧に丁寧に紐解けば、それは寂しさなのかもしれない。安心なのかもしれない。もっとシンプルな情欲なのかもしれない。

 けれど、そんな言語化は必要ない。

 この気持ちが、ただ素晴らしい感情である事だけは分かるから。

 父上に憧れたあの感情とは、全然違う。

 母上に求めていたものとも、まるで違う。

 女としての生き方。誰かの伴侶としての感情。

 生前は決して有り得なかった、全く別のモードレッド。

 

 

 だから、彼女は言う。互いの性の象徴を繋がらせて、火照った身体を密着させて。

 人生に愛は無かったからこそ。

 誰も愛を教えてくれなかったからこそ。

 

「お前に教えられたこの感情を、愛と呼びたい」

「……」

「この胸に宿る、大きすぎて複雑すぎて言葉にできない感情の全部が、お前への愛なんだ。説明なんて、できっこねえよ……沸き上がるのは、お前だけの女になりたいっていう、まさしく女々しい欲望だけだ」

 

 そう、彼女は言う。

 いま彼女は、モードレッドでありながらも、モードレッドとしての殻を脱ぎ捨て、僕に向き合っている。

 一人の少女として。

 愛し愛されるつがいとして。

 

「マスター……手、にぎって」

 

 恐る恐る、恐怖に瞳を揺らしながら、彼女は右手を差し出した。力なく震える手で、縋るように。

 

「これも、オレだ。無力な腕も、張り裂けるような痛みもオレのものだ。それをお前に受け入れて貰える嬉しさも、お前への愛だ……だから」

「うん……大好きだよ、モードレッド」

 

 不安げな彼女の頬に手を添えながら、もう片方の手を、彼女に差し出す。力を失った手に指を絡ませ、握り込む。

 

「っぎゅ、ぅぅぅぅぅぅぅ……!」

 

 痛ましく、強烈で、切ない声。モードレッドは歯噛みし、珠のような涙を落としながら、それでも震える指を必死に動かして、僕の手をきゅっと握り返す。

 そのか弱く必死な力が。涙ながらに僕を求めてくれるのが、とてもとても愛おしくて。

 どちらからとなく唇を重ねる。繋がり合う幸せに、痛みを溶かしてしまう。痛みすら僕等の愛だと言うように。

 

「ますたー、ますたぁ……ちぅ、ちゅ。ちゅぅ」

 

 少女のように愛らしく、あどけなく、いじらしく。僕を求めてくれる。唇を交わし、繋がった性器をきゅうきゅうと窄めさせる。

 蕩けた理性が、モードレッドの瞳から涙を溢させる。自分でも訳が分からない感情にしゃくり上げながら、モードレッドは喘ぐように言う。

 

「マスター……今夜で、終わりだ。大好きなお前との大好きな時間は、もう今夜で終わっちまう」

 

 言われずとも、僕等は思い知っている。

 この幸せが偽りである事を。愛を囁くこの時間の先には、余りにも過酷な戦いが待ち受けている事を。

 本来は出会う筈のなかった僕等は、明日、聖杯戦争の終わりと共に離別する。

 想像するだけで胸が苦しくなる。心に穴が空きそうだ。その悲哀に涙を流しながら、けれどモードレッドは、確かに言う。

 

「オレは、迷わない。戦うよ。絶対に勝つよ……この幸せは、本当は有り得ないから。惜しんだりしない。必ず勝って、終わらせる」

「うん……うん」

 

 涙ながらに、痛みと快感に喘ぎながら、モードレッドは宣言する。

 彼女の小さく細い身体を抱き締め、決して離れたくないという欲望を必死に押し殺して、僕は全てを肯定する。彼女の決意を讃える。

 

「お前が大好きだ。守ってくれて、支えてくれて、想ってくれて嬉しかった。お前が教えてくれた一人の女としての幸せが、二度目の命で見た夢として終わるのが、本当に辛いよ。本当は、ずっとマスターとこうしていたい」

 

 喘ぎながら、涙ながらの告解に、僕は強く頷きを返す。

 僕も同じ気持ちだ。このまま二人で、静かに、平穏に暮らせれば、果たしてどれだけ幸せだろう。

 けれど、それこそ有り得ない夢だから。

 夢見る時間は終わったから。

 僕等は、戦わなければいけないから。

 これで終わりだ。

 僕等の静かで優しい隠匿は、この夜でお終い。

 

「だから、マスター……今夜、今までで一番、最高に幸せになろう?」

 

 僕の目を真っ正面から見つめ、モードレッドは笑う。美しく、可憐に、一人の少女として。

 

「忘れてしまうのは止められない。だから悔いの無いように……ここに生きたオレが、最後の一瞬まで、最高の日々だったって誇れるように……あと少しのオレの人生に、どんなモードレッドも経験しえないとびきりの幸せを手向けてくれ」

 

 誰にも見せない笑顔。少女としての心。

 誰よりも気高く、気丈で、凜々しき彼女の、自分自身でさえ気付かなかった本心。

 およそこの世界で、僕だけが知っている愛情。

 身も心も曝け出して繋がる、欲望、劣情。

 心も体も、繋がる。一つになる。胸に宿る愛情と駆け上る快感とを混じらせて、僕等は唇を重ね、互いを抱き締める。

 

「ますたー、気持ちいいか? オレで、気持ちよくなってくれてるか?」

「気持ちいい。幸せだよ、モードレッド。君と居れて、君と繋がれて、僕は本当に幸せだ」

「ん、ぅぅ……オレも、オレも幸せだ。嬉しくて、気持ちよくて、お腹も心もマスターでいっぱいにされて……このままイきたい。イッて欲しい。真っ白いザーメン、マスターの気持ちいいって証、どぷどぷって、オレのいちばん奥に注いで欲しい……っ!」

 

 許容値を越えた人生最高の幸せに、頭がかぁっと熱くなる。

 破裂しそうに膨れたペニスがフルフルと震え、とろとろのヴァキナがきゅうきゅうと窄まり、ぞくぞくとした刺激が絶え間なく背筋を駆け巡る。

 僕は空いた手をモードレッドの背に回し、彼女を強く抱き締める。彼女もまた、片方の手を僕の背に回し、激烈な痛みも無視して僕の身体を掻き抱く。

 初めて彼女に抱き締められる。確かな強さで身体を密着させる。その感触を心から喜んで、僕は舌を絡ませ合う。息苦しさでぼうっとするのさえ夢見心地にして、互いの唾液を交換する。

 怒張を根元まで沈めたまま、決して動かない。頭がおかしくなったりしない。互いの身体を、愛を、魂の奥底まで染み込ませる。

 愛液はもう止め処なく溢れて、痙攣の度に肉ヒダがじゅるじゅると動いて肉竿を掻き回す。熱い愛液に包まれて、ペニスが溶かされるみたいに気持ちいい。

 ボルテージが駆け上がり、限界まで上り詰めていく。導火線に火が点いたように、ゆっくり、確実に、絶頂に身体が向かっていく。

 ぞわぞわが次第に大きくなる。身体が意識から外れて腰がガクガクと震え、視界が白く明滅しだす。

 身体が強ばり、信じられない程に熱くなる。限界を間近に迎え神経が敏感になった汗だくの肌を掻き抱き、強く強く絡ませ合う。

 一つになるように。互いの幸せを混じらせ、誰も知らない最高の絶頂に向かうように。

 

「はぷ、じゅる、るぅ、ぷ……はぁ、はぁ、ぷ、ちゅぅぅ……!」

 

 性器を繋げ、舌を絡ませ、熱い吐息までを吸い込み、混じらせる。

 ぞくぞくが、腰から背中、頭まで昇ってくる。急速に高まる絶頂の予兆に全身を強ばらせる。

 

 

 

 思考が快感に塗り潰される。

 理性がどんどん削れていく。

 視界がぱちぱちと弾ける。

 余裕がみるみるなくなっていく。

 次第に、何も考えられなくなっていく。

 生きる意味だとかいう大仰な理由も、

 生前の境遇という重い過去も、

 全部全部快楽に蕩かして。

 

 

 

「はぁ……すき、ますたー……すき、すき、ぃ」

 

 

 

 そうして最後に残る。

 最も単純で強烈な、僕等を繋げる一つの感情。

 

 

「すき、すき。すき。すき……ますたー、すき。ますたー……!」

「好きだ、モードレッド。好きだ、好き、大好きだ、好き……!」

 

 

 残った言葉は、『好き』と互いの名前だけ。

 

 好き。好き。すき、すき。好き。好き。大好き。愛してる。すき、すき、だいすき。だいすき。好き。好き。好き。

 

 耳元で囁く。甘く強烈な『好き』が脳に飛び込んでくる。

 ぞくぞくが駆け上る。『好き』で満たされた僕等の心に、途方もない快楽が吹きこぼれてくる。

 好きが、幸せが、頂点に達する。

 

「あああっ……すき、ますたー、ますたー!」

「好きだ、大好きだ、モードレッドっ。あ、あ、もう、イ――」

「すき、すき、すきすきすき、ぃ……! あ、あああ――イっ、く――ぅ~~~~~~~~~~~!」

 

 そうして僕は、小さく華奢な恋人の身体をひときわ強く抱き締めて、そのとびきり熱い最奥に、全身全霊の『愛してる』を吐き出した。

 

 

 

 身体が溶けていくような、途方もない絶頂。どくん、どくんと、ペニスが心臓になったみたいに強烈に脈動する。モードレッドの膣は、ビクンビクンと激しく痙攣しながら、震える竿全体を包み、一番奥の子宮が口を開き、吹き出た白く濃厚な精液を飲み込んでいく。

 

「イ――ひ、きゅ――ぅ――っ!」

「く……う、うう……っ!」

 

 一番深い所で繋がった、人生で一番の絶頂。その頭が真っ白になりそうな至高の快楽に打ち震えて、僕等は互いの身体を抱き締める。脈動の一打ち一打ちを、魂まで焼き付ける。

 

「すき……ますたー……すき、すき、ぃ」

「好きだ、モードレッド……大好きだ……」

 

 永遠に続くとも思える快楽に浸って、僕等は互いの耳元に口を寄せ、決して色褪せることのない、甘い甘い『好き』を囁き続ける。

 愛しく平穏な森は、ただ静かに僕等を見つめている。

 美しく輝く月明かりを湖面に浮かべ、その銀色の光で以て、愛し合う僕等をずっと、永遠に思えるほどずっと、讃え続けていた。

 

 



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34話

 自分の人生に、後悔を抱いた事は無い。

 それも当然だろう、過ぎた事をウジウジ悩むことほど、オレの性に合わない事はないからだ。

 不満はある。当然だ。父上に最後まで息子と認めて貰えなかった。怒りに任せてブリテンを粉微塵にした事も、我ながら狂っていたと思う。

 

 

 けれど、それら思い描く過去は、不満と同時に誇りでもある。

 事実として、オレは復讐を完遂した。

 事実として、オレは王を殺した。

 事実として、ブリテンはオレが終わらせた。

 

 

 悪行であれ、それは偉業だ。後世にどんな形で語り継がれていようが、それはオレだけが成せる、モードレッドとしての功罪だ。

 その罪の大きさが。今も記憶に焼き付く、数多の騎士を屠り王にトドメを刺した感触が、何よりも強くオレという有り様を決定付けている。

 報われず、復讐に駆られ、全てをぶち壊したのがモードレッドだ。善悪の区別なく、オレはその存在証明を胸に刻んでいる。

 

 

 だから、後悔なんてしない。

 今この胸に宿っているは、まったく別の感情だ。

 

 

 例えば、もし。

 悪しき魔女が、オレを人として扱ってくれていたら。

 例えば、もし。

 怒りを抱かずに、胸の内のひとりぼっちの切なさを父上に吐露する事ができていたら。

 例えば、もし。

 人造人間でさえもなく、騎士に憧れる町娘として、生を受けられたら。

 誰かと触れ合い、関わって、一方ならぬ思いを抱く事があったなら。

 穏やかに過ぎていく日々や、丘の麓から昇る朝焼けや、絢爛な衣装を纏い微笑む花嫁に、美しいという感情を抱けたなら。

 果たしてその先には、どんな日々が待っていただろう。

 

 

 泡のように、浮かんでは消えていく思い。

 決して後悔ではない。

 これは、夢だ。

 甘い夢。一人の、等身大の、少女としての夢想。

 

 

 

 オレは今、頬に掛かる髪を彼に梳かれながら、その幸せな、有り得ないはずの夢に浸っている。

 マスターの腕に頭を乗せ、同じ布団に潜り込んで、互いの顔を見つめている。

 目の前に、優しく微笑むマスターの顔がある。恋人のように情熱的で、それでいて父のように穏和な顔。

 頬に触れる手は大きくて温かい。思わずその手に頬を擦りつけながら、オレも笑みを返す。

 

「……お前に出会えて良かった」

 

 幸せに浸った心から、言葉が溢れる。

 二人で潜り込むベッドの中は、生前体験したどんな寝床よりも温かい。肌にも、お腹の中にも、心にも、彼を感じる。一番近く、ものすごく深い所で、マスターと繋がっている。

 お互いに、興奮や性欲といった獣のような情動は、数十分前にすっかり出し切っていた。後に残ったのは、溢れきって泉のように広がった『好き』という感情だけ。それが温かく痺れるような心地よさでオレ達を包み、唇を綻ばせている。

 

「お前は、オレに愛をくれた。人でなしのホムンクルスに、愛されてもいいんだって教えてくれた……夢見る事も許されなかった、有り得なかった日々をくれた」

「僕だって、こんな幸せは有り得なかったよ。こんな風に誰かを愛せるなんて、思ってもみなかった」

 

 力を奪われ、一人じゃ何もできなくなったオレ。

 才能のなさに失望し、何もかもを諦めた平凡なマスター。

 お互いの欠けた部分を埋め合い、繋げて、オレ達は今、何よりも強固に結ばれている。互いに見つめ合うだけで、得も言えない感動が、胸の内を沸き立たせる。

 オレは、人生で初めて満ち足りていた。

 父上に見放された事で穿たれた、埋め方も忘れた心の穴が、初めての愛で満たされている。

 剣を奪われ、有り様を穢され、誇りも尊厳も何もかもを踏みにじられて――その果てで、オレは終ぞ得る事が出来なかった、人として愛される喜びと巡り会ったのだ。

 決して美談ではないが、だからこそ心から嬉しいと思える。

 身に余る幸福だ。奇跡と呼べる幸運だ。

 

「だから、名残惜しくはあっても、未練は一つもない。今夜の思い出を胸に仕舞って、それで何もかも、十二分に釣りがくる」

 

 これ以上なく、満ち足りている。

 幸せの絶頂だと、確信できる。

 だから、物語はここで終了だ。

 分不相応なモードレッドのラブストーリーは、ここでクライマックスを迎えて、幕を下ろす。

 二人共がそれを理解し、納得し、だからこそオレ達は笑みを交差させる。

 

「……今までありがとう、マスター」

「ありがとう、モードレッド。君に出会えて、僕は本当に幸せだった」

 

 どちらからとなく、唇を重ねる。

 胸の前に、そっと右手を差し出す。そこにマスターの左手が重なる。刺すような刺激をぐっと堪えて、痛みを体温に蕩かして、そこに更にオレの左手を重ねる。

 力ない手でマスターを包み、繋がる。

 

「この日々を、『敗北』の二文字で終わらせたりしない……オレは、オレ達のために戦う」

 

 明日、オレは再び、激痛と苦悶の地獄に身を堕とす。

 身を焼かれる苦痛に悶え、狂っても狂いきれない絶望に叩き落とされる。

 けれど、決して逃げない。どれだけ苦しくても、それでも戦う事を選ぶ。

 オレには、マスターが居るから。

 否定されたくない幸せが、此処にあるから。

 

「……ずっと君の傍に居るよ、モードレッド。最後の最後まで、僕等は必ず繋がっている」

 

 そうして、もう一度唇を重ねる。互いの温かい吐息を胸に吸い込んで、身を寄せる。

 布団の中の温かな空気が、まるで繭のように優しくオレ達を包む。幸せに弛緩した心に、微睡みが溶け込んでいく。

 そうしてオレ達は、互いの繋がりを心の奥底で感じながら眠りに落ちた。

 

 

 

 優しく、温かく、満ち足りたまま。世界の全てに祝福されているような安らかさに見守られて。

 眠りに落ちても、マスターを感じる。

 マスターの優しさに包まれている。

 

 

 

 

 

 大好きなマスターが、すぐそば、とても近くに居る。

 夢みたいだ。本当に、何もかも夢みたい。

 夢のような幸せ。

 夢のような眠り。

 

 

 

 

 

 

 夢のよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは夢だ。

 

 

 

 

 

 夢とは戯言である。

 夢とは絵空事である。

 手に入らないからこそ思い描く空想である。

 

 

 

 

 

 

 

 貴様の言の通りである。

 泥人形には分不相応な幸福だ。

 有り得ないのだ。

 有り得はしないのだ。

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 夢とは泡沫。

 弾けて消えるもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――即ち『無』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうであろう? 騎士よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――」

 

 柔らかな光を瞼越しに感じ、オレはぱちりと目を開く。

 カーテンの隙間から朝日が射し込み、網膜にチカチカとした刺激を感じる。

 登り始めた朝日が眩しく、美しい。半開きの窓から風が吹き込み、さぁっとカーテンを捲り上げた。そこから覗く雲一つ無い青空を、ひらりと真っ赤な紅葉が横切る。

 軽やかな鳥の声。軽やかにそよぐ木の葉のさざめき。遠くで小さく聞こえる、ぽちゃんという、湖で魚が跳ねる音。

 美しく穏やかな、オレが大好きな空気。

 

「――」

 

 そこに、ぞっとする程の、強烈な違和感。

 理由も分からない不安が、背筋を駆け巡る。

 

「……、……」

 

 声が上擦って、上手く出てこない。

 胸の前に組んだ腕を、恐る恐る動かす。

 痛みに痺れる腕が、布団を押し上げる。柔らかな布団は、びっくりするほどに重い。

 いつのまにか、ベッドの真ん中に寝ている。

 布団は、一人分の隙間を作って、オレを包み込んでいる。

 

「……ます、たー?」

 

 痛みも忘れて、ベッドを探る。布団を捲り上げ、一つのへこみもない平坦なマットを叩く。

 あれほど強烈に感じていた体温が、どこにもない。

 カーテンが揺れ、さぁと風が吹き込む。

 燦々とした朝日が寝室を照らす。

 ちち、と鳥の声が耳をくすぐる。

 違和感はもはや、背骨を引っこ抜かれるような途轍もない恐怖に変わっていた。

 

「ッ――」

 

 オレは弾かれたようにベッドを飛び出し、ドアを蹴り破るようにしてダイニングに飛び込む。

 朝の美しい、静かで清らかな空気が、そこにも充満している。

 

「はっ……はっ、はっ」

 

 息が上手くできない。胸が痛い。心臓が早鐘のようにばくばくと鳴っている。

 食器の数が明らかに少ない。

 冷蔵庫の戸には、蹴り開けたような乱暴な傷が沢山ついている。

 シンクにはあちこち水垢がこびり付き、沢山の皿が、ケチャップの跡を残すような状態で乱雑に積み上がっている。

 キッチンは記憶よりも遙かに散らばっている。まな板には食材の滓が不格好な形で残り、床は散らばった塩や砂糖で非常にざらつく。

 

 

 悪戦苦闘した名残だ。

 まるで、両脚を使ってどうにかしようとしたみたいだ。

 彼は。几帳面で綺麗好きで、ミントの葉一枚でさえちゃんと記憶していた筈なのに。

 

「うそだ、嘘だ、うそだうそだうそだ――」

 

 血管がぎゅうっと収縮する。脳が締め付けられ、目眩がする。

 信じられなくて、夢だと信じたくて、オレは走る。乱暴に、小さな家に必要のない早さで。

 流しには水気を吸ったタオルがそのまま放置されている。自分では使えるはずもないのに、コップに歯ブラシが一本だけ刺さっている。

 

「マスター……マスター! マスターッ!」

 

 嘘だと言って欲しくて、質の悪い冗談だと思いたくて、喉を振り絞って叫ぶ。穏やかで静かな空気が、驚いたようにビリビリと震える。

 靴がない。車が消えている。ガタゴト揺れてしこたま痛んだ筈なのに、畦道にはタイヤ跡すら無くなっている。

 倉庫のドアを蹴り破ると、濃霧のような埃が覆い被さってきた。何年も何十年も放置され、世界から忘れ去られた廃墟のようだ。

 むせ返りながら埃を蹴り払い、何分もかけてようやく、地下倉庫への入口を見つける。

 

 

 

「はっ、はっ……はぁ、はぁ……」

 

 

 

 ……地下倉庫に、入る必要すら無かった。

 階段には、古びてボロボロになったボートが押し込まれていた。埃が靄になって暗闇を白く染め、濁った空き瓶がカラカラと階段を転がり落ちていく。

 使用された形跡など微塵もない。誰かが中にいるなんて有り得ない。

 最初から、使われてなかったとしか思えない。

 彼はここで、日に何時間も、オレを救う為に頑張ってくれた筈なのに。

 

「そんな……うそだ、嘘だ! 嘘だ!」

 

 誰にともなく叫ぶ。逃げるように倉庫を飛びだすと、燦々と輝く朝日が網膜を焼いてくる。

 静かで清らかな空気。

 漂白されたような、空っぽの美しさ。

 息ができない。胸が苦しい。半開きの口がわなわなと震える。

 視界が真っ白になる。脳が揺らぎ、目眩がして、足下がぐずぐずに腐り落ちるようだ。

 信じられない。

 有り得ていい筈がない。

 

「嘘だと言ってくれ! そんなはず無いだろ、なあ、オイ!」

 

 

 

 居たという証拠を探せない。

 どこにもいない。

 オレ一人だ。

 最初からオレ一人だったようだ。

 何もない。

 誰も居ない。

 空っぽだ!

 あれだけ強く、固く、繋がっていた筈なのに!

 それこそ、まるで夢のようにッ!

 

 

 

 

「マスタああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は、この世界から消滅していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回の更新は9月27日あたりの予定です。


【告知】
10月6日(日)のCOMIC☆1に、当サークル『カタルシスが足りない』が出展します。
本作の前編・中編を少しと、新刊を一冊頒布します。


-新刊情報-
ガレスちゃん同人小説
『愚かなわたしに、罰を与えてくださいませ』

獅子王の側に就き同胞を殺したガレスちゃんが、心を砕き自死を選ぶまでを丁寧丁寧丁寧に冷酷無比に書き綴る、6章/zero拡張IF小説です。
よろしくお願いします。






感想頂けると本当に嬉しいです……本当……「読んでる」とかの報告だけでもいいので……よろしくお願いします……


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35話

 

 彼女が愛を囁いてくれている間から、最後の朝を迎えられない事には気付いていた。

 

 

 

 同じベッドに潜り込んで、互いの安らかな顔を網膜に焼き付け、最後の時を慈しむ――そうしている間にも、無遠慮な視線は僕に突き立ち、強烈な存在感を放ち続けていた。

 モードレッドの瞼が閉じ、吐息が安らかな物に変わり、重ねていた手の力が抜ける。彼女が眠りに落ちると、視線はいよいよ遠慮無く、世界そのものに見つめられるような迫力で僕に刺さる。

 

「……モードレッド」

 

 僅かに強ばった声で、彼女を呼ぶ。

 返事はない。いや、それどころか、重ねている手から、彼女の体温や触感を感じる事ができない。

 触れているのに、触れていない。

 まるで進み行く時間から、僕だけ取り残されているようだ。

 視線は今も、彼方から強烈な強さで突き立てられ、鳥肌が立つような居心地の悪さを与えてくる。

 目的は、あくまで僕らしい。

 

「……紀元前のギリシャには、恋人の間には割り込むなって常識は無かったのかな」

 

 はぁ、と溜息。

 聖杯戦争だから当然とはいえ、僕には最期の時を選ぶ資格さえ与えられないらしい。

 身じろぎし、モードレッドの手から自分の手を抜く。シーツにぽすんと投げ出された手が、ほんの少し、名残惜しそうに動く。

 モードレッドの安らかな寝顔。長い睫毛、桜色の唇を少しだけ開き、すうすうと規則的な寝息を立てている。

 そのあどけない寝顔を最後に見つめて、僕は彼女の額に、そっと口づけした。

 

「大好きだよ、モードレッド」

 

 唇には、なんの感触も伝わらなかった。それでも、気持ちだけは伝わると信じて囁く。

 魔力を通し強化したばかりのスコップを握りしめ、用意していた幾つかの心許ない装備を纏い、ドアを開ける。

 

 

 

 森の色は一変していた。

 つい数時間前、抱き合う僕等を祝福するように輝いていた夜の景色は、今は全てが息を止め、身を潜めるように影を濃くしている。

 まるで、この森全体が墓場になったようだ。

 家から離れ、緩やかな坂を下った、湖沿いの草原。

 奇しくもモードレッドが僕を待っていたのと同じ場所で、ホメロス全盲の瞳を湖に向けて待っていた。

 深く皺の刻まれた顔は平静。瞑想をしているような、厳かな気配が漂う。

 いかにも余裕に満ち満ちた様子に、僕は肩を竦めてみせた。

 

「決着は明日の筈だったけど、賢人サマはせっかちなのかい? それとも、戦を前に眠れなくなった、意外と血気盛んな質なのか」

 

 最愛の時間を邪魔された苛立ちも交えて、あえて声を荒げて言う。

 ホメロスは応えない。僕の言葉を意にも介さず、隆とした巨体を夜闇に佇ませている。

 胃が軋むような静寂の後、ホメロスがついと上を向き、口を開いた。

 

「我が心は平静である。熱狂も、不安も、有りはしない。志は大河の流れの如く、何人たりとも打ち崩すこと能わず」

「そりゃまた大層な自信だ。うちの相棒の『うるせえ死ね』って声が聞こえてきそうだ」

「もとより、明日開かれるのは戦にあらず。我が大義を示し、愚昧な現在の妄念に別れを告げる、その為の儀礼である」

「愚昧な現在、ね……随分、腹持ちならない様子だ。彼女との関係がずっと続けばいいと思っている、僕とはまるで正反対だ」

 

 敢えて懊悩に、つまらなそうに、背伸びする。その実心臓はバクバクと脈打って、凄まじい緊張で肌が引き裂かれそうだ。

 真紅の紋様を讃えたホメロスの目はぴくりともしない。僕の虚勢も、その中の怯えも、下らない物として処理している事が、よく分かる。

 

「儀礼というなら、尚の事期日は守るべきじゃないのかい? こんな真夜中に行われるのは呪いの儀式か魔女会か、何にせよマトモじゃない物だと思うけれど」

「先ほど述べた通り、此は我と、それに立ちはだかる障害たる英雄の、魂の拮抗である」

 

 そう呟き、ホメロスは初めて僕を向き、瞳を開いた。

 自ら抉り抜いたとされる、光を失った、蝋のように白い瞳。

 それが僕を捉えた瞬間、怖気が全身を駆け巡った。

 いきなり、断崖絶壁に立たされたよう。

 ただ視線を向けられただけで、壁際に追い詰められたネズミみたいに足が竦む。

 その様子に、ホメロスはやはりと納得し、言う。

 

「この目で見て、しばし考えたが……此度の戦、やはり貴様は不要である」

「っ……」

「凡庸で、平滑な人生。妥協に溢れた薄弱な魂……誇りを賭けた我が覇道に、貴様のような輩は不純物でしかない」

 

 そう、言い放つ。歴史を作った男の言葉は、物理的な重さすら感じるほどに、別次元の迫力を伴って僕を押し潰してくる。

 僕は手にしたスコップを大地に突き刺し、膝を折りそうになる身体に渇を入れる。

 

「……酷い言われようだね。貴方がそうであるように、僕にだって矜恃がある。勝手に無価値と断じられて強制退場は、納得がいかない」

「貴様の心持ちも、考慮に値しない塵芥である」

「そう言わないでよ。人類史の英雄に、平々凡々と頑張る人間。それなりに現代代表を名乗る資格があると思うけれど」

 

 相手が語り部と言えど、言葉で押し負けてはいけない。相棒である彼女のようにはいかずとも、せめて度胸だけは並び立つよう。僕はぐっと腹に力を込めて、ホメロスに向かい合う。

 

「平凡なのは自覚している。力だって、貴方やほかの英霊に比べれば塵芥だろうさ……けれど、それなら明日、予定通り掃いて捨てればいいだけの話だろう。貴方の言う通り、塵のように」

「……」

「聖杯戦争の正式な参加者が邪魔者? 意味が分からない。一体、貴方が明日の戦に賭ける志とは何だ? 歴史の始まりである貴方が、どうして人類史を忌み嫌う」

 

 そう、問いかける。

 ホメロスの木皮のような唇が僅かに開き、呻きにも似た吐息が顎髭を揺らした。

 視線に敵意と、憐憫が混じる。自覚すらできない僕の愚かさを、哀れむように。

 

 

 

「――かつて、世界は神々の物だった」

 

 そうして彼が語り出したのは、彼の作品にも描かれた神代の話。

 大いなる戦の話。神々が地上を奔り、空を泳いだ、豊かで神々しき世界の話。

 

「しかしある時――今より数千年の昔。神は突如として、この世界から退却した。凜々しく猛々しかった彼等、神聖なる全ての存在は、一斉に箱庭としていたこの世界から離反したのだ」

 

 敵意を忘れそうな程に美しい、低く透き通るバリトンの声。思わず聞き惚れそうになる内心をぐっと押し殺し、僕は頷く。

 

 

 

 神々の退去。それは魔術師達の間でも未だ原因不明とされる世界の転換点の一つだ。神霊達はこの世界よりも遙か上層へと退却し、その境目は固く閉ざされ、隔絶されている。

 今では少ない文献や魔術的証拠から、大いなる存在がこの地にいたと推測できる程度。

 ホメロスの綴った『イーリアス』『オデュッセイア』も、その神代の存在を裏付ける証拠の一つだ。彼の言葉の一遍一遍には、情景を思い起こさせる緻密さと、何より彼自身の神に対する深い信奉を感じさせる。

 

「……神々の存在を、後世に伝えようとしていたんじゃないのか?」

「否だ。我は、神々を繋ぎ止めようとしたのだ。神々の退去の後、人はあろう事か神を忘却しようとしていた。あれほど素晴らしかった世が、人々の愚かさによって風化し、神との繋がりを閉ざさんとしていた」

 

 無数に縒り合わさった人の心は、強力な魔術的作用を生み出す。英霊が形を成すのもまた、過去に思いを馳せる人の心があるからこそだ。

 しかし、信仰にも根拠が居る。神を信じられなければ、祈りを向ける先は見つからない。ましてホメロスが始めるまで『伝承』というものは存在しなかった。情報は瞬く間に風化し、人々の記憶から消えようとしていたに違いない。

 

 

「我は、愚かにも忘れ行く人間に、思い出させようとしていた……この世は神の物である。貴様等は神を信奉する事こそ命題とする生命なのだと。だが奴等は、我の思うよりも遙かに愚鈍で蒙昧な、塵芥だった」

 

 

 ホメロスは語った。仔細の漏れなく詳らかに、色褪せること無く絢爛に、今まさにそこに在るかのように圧倒的に、言葉を紡いだ。

 けれど、それを聞いた人々が放った言葉は、彼の期待する信奉とは、全く異なる酷いものだった。

 

 

 

 ――へえ……そいつは、面白い『作り話』だ。

 ――そういう世界が、あったらいいねぇ。

 ――大層面白い夢物語だ! 酒の肴にゃうってつけだぁ!

 

 

 

「彼奴等は、我が言を絵空事と断じたのだ――自らの愚かさを省みる事もせず、神々を空想の産物と誤謬した」

 

 ホメロスは初めて、ギリと歯を噛み、心の底からの憎悪を滲ませた。

 彼が過ちに気付いた時には、もう遅かった。彼の言葉は伝播し、愉快な空想劇として人々の間で面白がられ、黒死病のように速く、広く、取り返しの付かない勢いで流布していった。

 結果として、それらは神話――物語の一つとして形式づけられた。

 神々の名は後世には残ったが、それはあくまで登場人物として。

 魔術師を除き、人間の大半は、彼等がかつて本当に存在していたなど露とも信じないだろう。

 さらにホメロスの語りは、人に『伝承』という技術を教え、『歴史』を誕生させた。

 

 

 人類は、本当の真実……全ての始まりを誤解したまま、何千年もの間過去を堆積させてきた。

 だからこそホメロスは、人類史を憎む。神々の世を歴史の澱の底に踏み躙る、人類そのものを憎んでいる。

 

 

 

 

「……」

 

 それを理解し、僕はぞっと、背筋を慄然とさせた。

 血管がきゅっと収縮し、青ざめずにはいられない。

 分かってしまった。この男の抱く大義が、一体何なのか。

 仮に僕等が敗北した、その先に待つ物が、どれほどの地獄かを。

 

「じゃあ……貴方が聖杯に望む事は――」

「然り。我が望むのは()()()()()()()()也。そして我は、今度こそ誤りなく、神々をこの世に喚び戻してみせるのだ」

 

 確固たる声で宣言され、僕は驚愕に呼吸を忘れる。

 何秒も経ってようやく、僕は言葉を絞り出した。途方もない危機感に、酸素不足に喘ぐように唇を戦慄かせながら。

 

「無理だ……不可能だよ! 全人類の認識を改竄するなんてしたら、確実に深刻な後遺症が残る。そうじゃなくても、神代のテクスチャを無理矢理に貼れば、世界に何が起こるか分かった物じゃない!」

 

 願望機たる聖杯が、果たしてどのようにホメロスの願いを叶えようとするのかは分からない。

 だが、それが今の時代、僕等の歴史を根底から覆す現象になるのは確実だ。

 言葉や書物や伝承で過去を積み重ねて発展してきた、今や百億に昇る人類が、一斉に寄る辺を失い、数千年も昔の世界に叩き込まれるのだ。

 

「大惨事になるぞ! 貴方は自分の過ちを正すために、全人類を破滅させる気なのか!?」

「だから言ったのだ……神の介在しないこの世に、なんの価値もありはしないのだとな」

「っ……!」

 

 ホメロスの言葉は明瞭で、一切の疑いを挟まない。

 言葉に籠もる刃のような冷たさで、強引に理解させられる。分かってしまう。彼は本当に、この世界を過ちだと確信し、廃棄する事に何の躊躇いも挟んでいないのだと。

 言葉も出ない。その戦慄を光無い目で見据え、ホメロスは言う。

 

「貴様も、その耳と心で理解した筈だ。我が成すべき宿業の大きさと、明日行われる戦の重要性を。愚かな蟻の一粒が割り込むなど、烏滸がましいにも程があるとな」

 

 今やホメロスは、僕に向ける感情を隠しもしない。

 憐憫、侮辱、軽蔑――僕は愚かな人間の一人。信じる事をやめた背信者であり、誤った歴史に立つ有象無象の一粒。

 それ以上の価値を見出さないからこそ、彼は今ここに来たのだ。

 不要な物は排除する。それこそ人を招く前に、客間を掃除するように。

 要するに、僕はゴミだと言う事だ。何の価値も無い屑だと言う訳だ。

 

 

 

 

 歴史の創始者たる偉人から放たれる『不要』の言葉は、強烈に僕の胸を抉り抜いた。

 人の身には余りある程に応え、膝を折ってしまいそうになる。

 

「……はは」

 

 けれど、応えるだけだ。

 僕は顔を上げ、冷笑で以て、ホメロスの厳めしい眉を潜めさせた。

 

「何が可笑しい」

「可笑しいに決まってるよ。参ったな、僕等はあくまで自分たちの誇りの為に戦うつもりだったのに、負けたら世界は破滅ときた」

 

 懊悩に言葉を紡ぐ。

 声がスルリと喉を抜けていく。まさしく喉のつっかえが取れたようなその変化は、僕の心が、いよいよ覚悟を固めたからだろう。

 唇を緩く綻ばせてホメロスを見る。盲目に僕の顔は映らなくても、僕の余裕は彼に不可思議なものとして伝わる事だろう。

 

「実はね、可能性の一つとして、勝ちを譲る事も考えていたんだ。モードレッドが苦しまず、穢されず、全てが穏便に済むのならね」

 

 モードレッドの両腕の傷の正体は、ホメロスの言葉によって歴史を改竄させられる事で発生したスキル『無辜の怪物』だった。

 それなら、ホメロスの能力次第で、モードレッドの腕は元に戻せる。霊基まで届かせず、彼女をモードレッドのままで英霊の座に退却させられる。

 僕は最早、聖杯戦争に興味はない。何に変えても、彼女が無事で居てくれるならそれで良かった。

 もしホメロスが、勝ちを譲る代わりに彼女を元に戻すと約束すれば――それがどれだけ彼女に対する侮辱になるかを理解しながらも――僕は応じただろう。必要とあれば、自分の命だって差し出したはずだ。

 

「けれど、甘い考えだった。僕等が負ければ、この世界も、彼女も含めた歴史自体が破壊される……それを聞いて、もう黙ってはいられない」

 

 決意を籠めた言葉を、ホメロスは失笑で応じた。明らかな侮蔑を籠めて、僕の魂を直接見下げる。

 

「黙ってはいられない? 戯言を。貴様はここで物言えぬ死体に変わるというのに、随分と大言を吐く」

「ただでは殺されないよ。彼女も、彼女に付き従っていた僕も」

「我が覇道に、既に障害は無い。模造品の泥人形など、我が言で容易く――」

「盲目の爺は、人を見くびるのも大概上手だなぁ……ほざきやがれよ、クソジジイが」

 

 

 

 突然の僕の豹変に、ホメロスは若干の狼狽えに顔色を変える。

 それは自分の無力に嘆き失望を続けた僕の、初めての純粋な怒りだった。

 

「忠告してやるよ、盲人……あまり僕等を、人間を甘く見ない方がいい。僕等は困難を乗り越え、意志を繋ぎ、泥臭く藻掻いて何千年もの時を歩み続けてきたんだ。その価値は、決して一笑に伏して、否定できる物じゃあない」

 

 押し黙る老爺に向けて、僕は初めて嘲笑を返す。今までコケにされた意趣返しとして、大げさに鼻を鳴らす。

 

「目を穿ち、自ら光を奪った事で、君は本当に盲目になったんだね。過去に縛られ、人間の良い部分、輝かしき姿を目にできないとは、本当に哀れなジジイだ」

「っ……貴様」

「はは、怒ったって事は、案外図星かな? 君は最初から人間を愚昧だと決めつけている。神がいなくなった先の日々を見ようとしていない。神をも見通す千里眼を持ちながら、人間から目を背けるなんて! ずいぶん滑稽な盲目じゃないか!」

 

 僕は声を張り上げ、古代の英雄を挑発する。威圧に負けないように虚勢を張って。ずっと隣にいてくれた、彼女の気高く、何となしに荒っぽい居丈高を間借りする気持ちで。

 ホメロスの深く皺の刻まれた強面に、烈火の如き憤怒が宿った。

 

「ッ神々の崇高さを忘却した罪人が、我が目的を侮辱するか!」

「予言してやるよ、ホメロス。お前は人間を甘く見ている。数千年をその足で歩き続けた、泥臭く底知れない執念を嫌悪している。その油断が、君の胸を貫き、敗北をもたらすだろう」

「騙るな! 神々を忘れた愚鈍な人間風情がぁッ!」

「それだよ。その傲慢のお陰で君は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ホメロスの表情が、今度こそ凍り付いた。

 呆とした老顔に、僕はとびきりの嘲笑をくれてやる。

 

 

「貴様、何を――」

「愚かな人間の、泥臭い悪あがき――ただの子供だまし(スリングショット)さ」

 

 

 

 言い放ち、僕は堪え続けた叛逆の感情と共に、ずっと絞り続けたゴム紐を解き放った。

 握っていたのは、何の変哲もないただの小石。

 魔力もない下らないそれは――けれど神霊を見る事に特化したホメロスの千里眼にとっては、何よりも強力な不可視の弓として機能する。

 音もなく高速で飛翔した石は、とっくに手遅れな戦慄に強ばるホメロスの、皺だらけの眉間を過たずに貫いた。

 

「がっ――」

 

 ずっと高慢で余裕を放っていたホメロスの、初めての呻き声。

 不意打ちによろめくその一瞬を、僕は決して逃しはしない。僕は懐から取り出した魔石を握り、思い切り地面に叩き付けた。

 敢えて不安定に調整した魔力が爆ぜ、耳を劈く爆音を産む。僕でさえ鼓膜に激痛を感じる程の音が、ホメロスの聴覚に頼る世界を真っ白に塗り潰し、凄まじい衝撃で脳髄を殴りつけた。

 よろめき多々良を踏むホメロス。僕が生み出せる唯一無二の隙を突き、一気呵成に距離を詰める。

 

「ぐおおおお!? き、さまぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!」

「窮鼠猫を噛むってね! 現代の教訓をその身に刻んで消えろ、ホメロス!」

 

 そして僕は、命を燃やす全身全霊で以て、スコップをホメロスに叩きつけた。

 土を彫り続けた使い古された鋭利な先端が、叛逆の刃として、奴の肩に深々と抉る。

 肉を食い破り、鎖骨を砕く。

 銀色の月夜に真っ赤な血飛沫が吹き上がり、初めて人を切り裂く感触に僕の腕が震える。

 

 

 

 やった――確かな手応えに確信を抱いたのも束の間。

 次の瞬間、魂の引っこ抜けるような衝撃と共に、僕は夜空を飛んでいた。

 

 

 

 

 何が起こったか、その疑問すら、吹き飛ぶ速度に追いつけない。

 凄まじい勢いで大地に墜落。地面を何度もバウンドし、次に意識が戻ってきた時には、僕は顔面を大地に埋め、口に飛び込んだ土を噛みしめていた。

 

「っ……ご、っほ……!?」

 

 力なく咳き込む。吐き出た胃液に、紅い鮮血が混じる。

 骨の折れている気配。内臓のどこかが破裂しているかもしれない。腹がCGか何かのようにべっこりとヘコみ、遅れて焼き鏝を押し当てられたような熱と痛みを感じる。

 

「ぐ、げぇ……く、そ。殴られただけで、これかよ……!」

 

 腹にめり込んだ痛みと圧迫感で、ようよう状況を理解する。

 たった一発の拳で、僕は瀕死にまで追い込まれていた。止まらない血反吐を溢し、痙攣で身体に力が入らない。

 これが、サーヴァント。人の理を容易く凌駕する英雄達。ただの端魔術師が相手を務めるなど、元より不可能な相手。

 ホメロスは肩に深々と食い込んだスコップを引き抜いた。鉄の穂先がべっとりと付着した血を滴らせ、抉り抜かれた肩からは今も鮮血が噴水のように吹き出している。

 

「ぐ、ぬぅぅぅ! はぁ……愚者が、生意気にも我を謀るとはな」

 

 荒げた吐息は憤怒に燃えている。鮮血と激痛は怒りに転換し、隆々とした巨体は、語り部としてではない、神の生き写しかのような雄々しき姿として僕を圧倒させる。

 

「この我が、まさか凡夫に諭されるとは。無二の経験。到底受け入れられぬ恥辱であったぞ」

 

 怒りに滾るホメロスが、重々しい足取りで距離を詰めてくる。本能が全力で警鐘を鳴らしていたが、僕の身体は未だに腹に喰らった一発に打ち震え、自由を放棄させている。

 何度起き上がろうとしても、腕に力が入らない。痛みと衝撃で脳が揺らぐ。

 芋虫のように地面を這う僕の背を、ホメロスの大きな足が踏み付けた。

 ゆっくり、体重を籠めて踏み付けられる。メキメキと背骨が悲鳴を上げ、爆ぜた内臓が圧迫に負け、内容物が血反吐になって喉から吹き出てくる。

 

「ご、ほぉ……!」

「窮鼠か――煩わしい。であれば鼠らしく無感動に、挽き潰してくれる」

 

 肺が押し潰され、喉が血反吐に埋め尽くされ、呼吸ができない。

 けれど、ホメロスがスコップの背で僕の手首を叩き潰した瞬間、僕の喉からは血痰と共に千切れるような悲鳴が吹き出した。

 

「があああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 どちゅ、という無慈悲な音が魂の奥底まで響く。全力で振り下ろされた鉄の穂先は手指の骨を容易く砕け散らせ、皮膚をゴム風船のように破裂させた。

 捲れ上がった大地に、僕の鮮血が花火のように飛び散る。ホメロスは穂先を踏み付け、とうに砕け散った僕の拳を更に挽き潰す。

 

「ぎっ!? ぐううううぅぅぅ!! うわああああああああああ!!」

「地に伏し、腕を潰され、醜い悲鳴で世を穢す――身の程を辨えさせるには、相応しい懲罰である」

 

 全身の神経を火あぶりにされるような凄まじい痛みと、語り部による冷徹な侮辱。視界が明滅し、脳がミキサーにかけられるようにぐしゃぐしゃにされていく。

 最早状況は既に決していた。ホメロスがもう少し足に力を籠めれば、僕の背骨は砕け、内蔵を破裂させて息絶える事だろう。

 圧倒的な死の気配。恐怖が、僕を見下ろしている。

 

「今すぐ詫び、土を喰いながら許しを請えば、このまま楽にしてやろう。鼠ではなく、せめて人として殺してやるが、如何か?」

「が、か……は、かははっ」

 

 その絶望を前に、僕は笑った。踏みにじるホメロスが、とうとうイカれたかという侮蔑を露わに、冷たい視線を寄越す。

 轢き潰された腕に力を籠める。とうに人の形など失った手に全神経を総動員させ、振り下ろされたスコップをカタカタと揺らす。

 

「こんなのが……こんな痛みが、懲罰になるものか。僕の相棒は、これ以上の絶望と喪失の中で、必死に生き続けていたんだ。彼女の屈辱に比べれば、片手を潰されたぐらい屁でもない!」

 

 ブルブルと痙攣する唇を必至に吊り上げ、笑ってみせる。どこまでも得意気に、頭上の神気取りの老爺を嘲笑うべく。

 

「決して降参などしない。胸に燃える怒りを絶やしはしない。お前の巫山戯た理想に屈したりしない! 今に見ていろ。僕の相棒が、必ずや貴様の耄碌した頭蓋を叩き割って、その馬鹿げた空想を――」

 

 言いかけた言葉は、吹き出した血に喉を埋められる事で、強制的に塞がれた。

 ホメロスが踏み付ける足に力を籠め、肋骨と共に肺がぺしゃんこに押し潰される。

 

「っ、ご……!」

 

 空気が喉を通らない。辛うじて出たか細い悲鳴も、血の泡を吹き出すだけ。

 英霊の圧倒的な力によって、身体が紙細工のように潰され、蹂躙されていく。

 

 

 

 それでも、瞳に宿した決意だけは揺るがせない。

 決して屈さない。

 例え無力で愚図な、塵芥も同然な一介の凡人だとしても。

 歴史に名を残す事も無い、何の能も知恵もない凡夫だとしても。

 僕は、彼女を信じているから。

 マスターとして、一人の男として、僕は彼女の勝利を確信している。

 その、胸の内に火を灯す決して折れない志を見透かし、ホメロスは僅かに唸る。

 

 

「愛か、愛ゆえの盲信だけで、我が言を撥ね除けるか。一人の妃の為に戦乱を巻き起こしたメネラオスが如く。ヘクトールへの忠を為したパリスが如く、勇士の帰りを待ち続けたペネロペイアの如く……成程。煩わしいが、その薄弱な心の頑強さだけは認めよう」

 

 だが、と口添えて、ホメロスはまた僕の背を踏み付けた。

 

「神の居ぬこの世の愛など、持つ手のない宝剣と同様、空虚ながらんどうに過ぎぬのだ」

 

 ざわ、と空気が揺らぐ。僕の頭上、ホメロスの霊基が、凄まじいエネルギーに焔の如く滾るのを感じる。

 為す術などない。掃いて捨てられる小石のように、言葉は撥ね除けられない。

 そしてホメロスは、僕を徹底的に冷笑するとどめの一言を、神の鉄槌の如く振り下ろした。

 

 

「故に、貴様に捧げる言葉は一つで足りる――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 語り部の言葉に魔力が籠もり、刃になって、僕の魂を確実に貫く。

 痛みと屈辱に遠ざかっていた意識。そこに死よりも暗く混沌とした闇が押し寄せる。足先から蔦を這わせるように身体を這い上がり、無数の蛆に食い尽くされるように感覚が蝕まれていく。

 歴史を紡ぐ彼の言葉が、事実よりも強い真実として、僕を上書きしていく。

 消えていく。無価値だった僕の人生が、本当の無にされていく。

 余りにも広大で空虚な無空に、僕が分解されていく。

 

 

「……もー、どれっど……」

 

 

 僕は辛うじて残った理性で、彼女の事を思う。

 囁く口に浮かべるのは、微笑。

 

 

 

 大丈夫だよ、モードレッド。

 どれだけ痛くても、どれだけ恐ろしくても、大丈夫。

 僕には、君がいる。

 君を愛している。

 君の勝利を信じている。

 

 

「……、…………」

 

 

 意識に闇が這い、視界が夜よりも深い黒に塗り潰されていく。

 身体が、魂が、分解され、焼却され、灰のように細かな塵になって虚無に溶けていく。

 その一縷が潰えるまで、僕は彼女を信じ続けた。

 愛する彼女の事を願い続けた。

 たとえどれだけ魂を砕かれ、虚空にばら蒔かれたとしても、この心だけは、必ず彼女に繋がると信じて。

 一途に信じるその先に、僕等が願い続けた未来が広がっていると信じて。

 

 

 君を愛している。

 君を信じている。

 だから、だから。

 

 

「……がんばれ、モードレッド」

 

 

 

 最期にそう呟いた僕の唇が塵に代わり、僕の意識は夜空にばら蒔かれる。

 そうして僕は、無意味で無価値な、本当の闇へと叩き落された。

 

 

 










お待たせしました。最後の戦い、開幕です。
後は駆け抜けるのみです。
お付き合いよろしくお願いいたします。


ガレスちゃん同人小説、ハーメルンに全話公開中です。そちらもよろしくお願いします。


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36話

 

 

 ベッドの脇のソファに、小さな革袋が無造作に置かれていた。

 

 

 革袋はずっしりと重く、ゴツゴツと角張っている。口を開くと、中に入っている色とりどりの宝石が、陽光を受けて輝きを放っている。

 懐かしく温かい魔力を感じる光に、これは君のものだという、妙に格式張った彼の言葉を思い出す。奴を倒す為の武器だと宣言した事を思い出す。

 あのやり取りで、コレはオレの所有物になった。だから、あの爺による徹底的な消却からも逃れられたのかもしれない。

 それが、彼がここにいたという、たった一つの痕跡だった。

 

 

「……」

 

 

 オレは痛みに震える手で袋を摘まみ、首から提げる。

 互いの肌を重ねながら、ずっと一緒だと約束した。

 優しく髪を梳かれながら、傍に居ると誓ってくれた。

 その誓いは、オレの胸、宝石の輝きになって残っている。

 温かく優しい、彼の魔力を感じる。

 目を閉じて意識を研ぎ澄ませれば、魔力の経路を確かに感じる。地獄に垂れる蜘蛛の糸のように細く頼りないが、それでも彼はいる。

 

「マスターは、ここにいる」

 

 オレの中に、魂に、寄り添っている。

 確かに存在して、オレと繋がっている。

 オレが何者かを、教えてくれる。

 オレは、彼のサーヴァントだ。彼に勝利をもたらす剣だ。

 その刃の向け先を、オレはもう迷わない。

 喪失を怒りに変えろ。

 屈辱を薪とし、叛逆の焔にくべろ。

 あるべき姿を思い出せ。

 

「オレは、モードレッドだ」

 

 麗しき王に仕えた円卓の騎士。

 激情に身を焦がした叛逆の騎士。

 王も、国も、全てを壊す怒りの権化だ。

 

 

 ――よくも。

 

 

 その有り様のまま、オレは怒る。

 かつてオレを卑下した王を殺したように。

 身勝手に作られ道具扱いされた、己の非業を呪ったように。

 

 

 ――よくも。よくも。よくも。

 

 

 屈辱は、恥辱は、その何倍もの恩讐で以て報復する。

 それこそがモードレッドの、歴史に刻まれた姿なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体の芯まで凍える程の、冷たく寂しい風。

 赤々と染まったモミジが、吹き曝されて雪のようにはらはらと舞っている。ひび割れたアスファルトの車道は、枯れ朽ちる前の葉で赤褐色に染め上げられている。

 その枯れた葉をパリパリと踏み割りながら、オレは歩く。全身を包む鎧の音が、閑散とした空気に妙に響いて聞こえる。

 甲冑に触れて痛む両腕の傷も無視して、オレは一歩一歩を踏みしめる。鮮やかな紅葉、そのどれよりも鮮烈な紅蓮の憤怒を、魂に燻らせたまま。

 

 

 マスターが車を走らせていた道。その先にぽつりと佇む、人間社会から忘れ去られたような寂れた町。

 木枯らしの吹くだだっ広い車道の只中に、老爺は胡座を掻き、静かに杯を煽っていた。

 法衣を身に纏った、年を感じさせる精悍な肉体。道路の中央に座していると、ラオコーンを目にしたような厳かな雰囲気を漂わせる。

 喉を鳴らし杯を空にしたホメロスは、その髭もじゃの強面をぴくりともさせずに言う。

 

「……来たか、人類史の英雄」

「オウ、テメエみたいなチョンボなしに、正々堂々来てやったぜ」

 

 顔も素性も明らかな今、兜を被る必要は無い。その分、腸に燃える熱を殺意に換え、犬歯を剥き出し老爺にぶちまける。

 

「誇りだ使命だと嘯きながら、よくも横着しやがったな。マスターをどこへやった」

「不要であるから、排したまでである――英霊たる貴様に比べ、何も残さぬ凡夫の編纂は、ただの一言で足りる」

 

 そう言ってホメロスは、自分の肩を静かになぞった。そこには前回には無かった、肩口を剣で深く抉られたような傷がある。

 薄い蚯蚓腫れとして跡を残すだけの肩を撫で、ホメロスは唸るように息を吐く。

 

「少々、噛み付かれもしたが――所詮は愚かな人間。地を這う芥虫の一匹に過ぎない」

「ッそんなに人間が憎いかよ、クソジジイ……どおりで一人でボーっとしている訳だ。飼い殺しか、食い潰しか? 何にせよテメエは、自分のマスターも早々に殺してやがるな」

「鼠を侍らすのは醜悪な魔女の所行よ。彼奴も、誰も、我が言に逆らう力は持たず。我が言葉に心酔し、大義の礎になる事を誇りに想いながら散っていったぞ」

 

 悪びれもせず蕩々と語り、ホメロスはまた杯を煽る。軽々しい口ぶりに、オレは思わずギリと歯を食い縛る。

 英霊は聖杯によって召還された使い魔。その身体を構成する魔力は、令呪によって結びついたマスターによって供給されている。

 その供給を断ったサーヴァントが顕界し続けるには、別の方法で魔力を補給する必要がある。野蛮で残忍な、獣のような方法で。

 

 

 

 オレはぐるりと首を回し、うら寂れた町並みを一望する。

 時の流れにすっかり風化したようなここは、それでも世を捨てた老人達の、静かな営みがあったはずだ。今はそれを一つも感じられない。

 異様な状況に息を潜めているのではない。今やこの町は厭世の土地から、完全な死地へと変貌していた。

 命の気配のない、全くの無音。この町にどんな惨劇が訪れたのか、この静寂だけで察するに余りある。

 

「人喰いが大義を宣うなんざ、悪趣味な冗談にしか聞こえねえけどな、血生臭え口で何をほざく気だ? 語り部」

「……ふん」

 

 ホメロスが返すのは、小さな冷笑。

 この男は、人を人とも思わない。野望の為ならば食糧にさえしてみせる。そればかりか超常の目で人を見下し、さも自分の非業の行いが正義であるように吹聴する。

 こんな風に淡々と、マスターも消したのだろう。塵のように、簡単にあしらわれて。

 

「ケッ。人も大地も、この世の全ては使い捨ての道具か。腸の煮えくり返る傲慢だ……なあ、ついでに一つ聞かせてくれよ」

 

 

 

 ムカつきを必死に堪え、オレは顎をしゃくって、奴が足下に置いた杯を指し示した。

 

 

 

「そいつぁ、聖杯だろ?」

「――いかにも」

 

 

 ホメロスが初めて、唇を吊り上げて笑う。

 その口髭は、生々しい鮮血で真っ赤に濡れている。

 七騎の英霊が追い求めた願望機たる聖杯には、痩せこけた男の生首が載せられ、死んだ瞬間に張り付いたらしい、どこか恍惚とした死顔を青ざめさせていた。

 命を失い、血の気の失せたその顔は見るに堪えない悲壮な物だったが、その面影から、男が聖杯戦争の管理者である事を悟る。削り取られたような断面からだくだくと零れ落ちる血を聖杯に溜め、ホメロスは一息に煽る。

 喉を一つ鳴らす毎に、魔力が大きく膨れていくのが分かる。肩口の傷が蠢くと、薄く残っていた蚯蚓腫れも嘘のように消え失せた。

 最後の一滴を啜ったホメロスは、すっかり干涸らびた管理者の首を方々に放り投げると、赤黒い死血を滴らせた黄金の杯を翳し、愉悦を滲ませて喉を鳴らす。

 

「今はただ、純粋な魔力炉。しかしひとたび貴様の首を括れば、これは今世最大の魔導装置として、我が野望を果たすべく機能する」

「ほざきやがれ。捧げるのはテメエの首だ。食い潰された奴等に変わって、テメエの生首を大地に擦りつけて無理矢理土下座させてやる」

「フン、見上げた気丈夫だ。己が実力差は、とうに分かっているだろうに」

 

 ホメロスは聖杯を懐に仕舞い、緩やかに立ち上がった。二回りも大きな巨体が、オレの前に聳え立つ。

 まるで山か何かを相手取るようだった。聖杯から供給された魔力量は尋常ではなく、指先一つで潰されそうな錯覚さえ感じさせる。

 その圧倒的な力量差を見せつけられても、オレは怯まない。怯んではならない。

 オレは体に漲る魔力を迸らせた。ゴウと空気が震え、バチバチと赤雷が奔る。

胸の内に燃やし続けた熱を赤雷として吹き出し、俺は非道の老人を睨みつける。

 

「オレのマスターを返して、消え失せろ。テメエのような懐古主義の老人にくれてやる物なんて、この世のどこにもありゃしねえんだよ……!」

「そのまま言を返そう。この世界は神々のもの。貴様ら蒙昧な人間がのさばっていい土地ではない。今日を以て、あるべき所有者に返却して貰う」

「ッ冗談抜かすな! この場で許される簒奪は、オレによるテメエの首だけだ、ホメロォォォォォォス!!」

 

 

 

 空気を揺るがす絶叫を決戦の鐘とし、オレは現出させたクラレントを、胡座を掻く老爺目がけ蹴り飛ばした。

 隕石が墜落したような大轟音。眼前の大地が裂け、舞い上がった落ち葉が紅い竜巻で視界を染める。

 宙を飛んだクラレントに、手応えはない。

 肌に痛い程の超常の気配は嘘のように搔き消え――今は、オレのすぐ後ろ。

 

 

「その威勢、誠に良き哉!」

「ッ!?」

 

 

 喜色に満ちた、咆哮。

 オレは振り向き様に両手を掲げ、顔面を塞ぐ。

 瞬間、ホメロスの豪腕が、横殴りに叩き付けられた。

 丸太のような太い腕と、鎧に覆われたオレの両腕が衝突。傷がビキリと悲鳴を上げ、真っ二つに割られるような激痛が全身を駆け巡る。

 

「ぎ、ぃ――!」

「ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおう!!」

 

 痛みに呻くオレの声を、獅子のように猛々しい咆哮が塗り潰す。ホメロスはそのまま腕を振り抜き、オレの身体を野球ボールのように弾き飛ばした。

 衝撃を殺し、痛みに震える意識を理性で以て引き戻す。宙に浮いた両脚で確かに地面を踏み、何メートルも土を削ってやっと停止する。

 全速力のトラックと、正面衝突したような衝撃。痛みではなく驚愕に、両腕がブルブルと震えている。

 

「なんだ、その膂力……てめえ、本当に只のキャスターか?」

「我が最後の敵は復讐鬼、人類史に刻まれし影法師よ! 我は貴様の剣を折り、牙を抜き心を挫く事で、より優れた神々の威光をこの世に知らしめんとせん!」

 

 そう宣言し、ホメロスは隆々とした巨体から、圧倒的な魔力を噴き出し始める。

 気迫だけで卒倒しそうな、高位の域まで昇華された莫大な魔力。それが今、明確な指向性を伴って、オレを含めた全てを覆っていく。

 ホメロスの枯れ木のような唇が割り開かれ、そこから超常の奇跡を産み出す祝詞が流れ出す。

 

 

『空に戦車。地に青銅。海は唸り、英雄は吼え立ち、神々は全てを貴覧している』

 

 

 盲目の眼窩を覆っていた紋様が、紅く輝く。

 世界を塗り替えていく超常の気配に、大地が震え、世界が戦く。ざあっと凄まじい風が吹き、木の葉の大渦が巻き起こる。

 歴史を始めた、人類史始まりの男の言葉が、世界の形を塗り替えていく。

 

「好き勝手にさせてたまるか! マスターを返せ、クソジジイがぁぁぁぁぁ!」

 

 超常の祝詞に負けないよう叫び、クラレントを握りしめる。

 劈くような激痛が全身に走る。痛みを激情に変え、力に転化し、全身全霊を以てホメロス目がけ振り下ろす。

 やはり剣が届く一瞬前に、ホメロスの姿は消える。

 クラレントが大地を叩き、衝撃が両腕を滅多打ちにする。

 

「ッぐううううう! があああああああああ!!」

『在りしは神秘、紡ぐは武勇。猛々しき栄光は、幾千幾万の時も色褪せざる事能わず』

 

 意識を外れて飛びだす大絶叫が鼓膜を埋める。それなのに奴の言葉は、耳をすり抜け、魂の奥底まで響くような迫力で、オレの魂を震わせる。背後に瞬間移動した奴の唇から紡がれる音が、世界を聞き入らせる。

 

 

 

 それは始まりの祝詞。

 終焉を告げる神の警笛。

 歴史という人類の叡智、その原初の言葉。

 

 

『その咆哮を音にも聞け。預言に耳朶を打ち震わせよ――伏して聞き入り、御姿を瞼の裏に照覧するがいい! いざや甦れ。世界の最たる豪勇を、此処に斯く語りけり!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誉れ高き英雄嘆(イーリアス)

 

 

 



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37話

 

 轟! と突風が吹き荒ぶ。

 巻き上げられた落ち葉が視界を埋め尽くし、突風と共にオレに叩き付けられる。

 オレは一瞬瞼を閉じ、両手で顔を覆い。

 わっ――と、変容。

 長いトンネルを抜けたような、世界の色が変わる気配。

 

 

 

「っな……!?」

 

 

 

 次に目を開けた時、景色は一変していた。

 宙を舞っていた紅葉は、もうもうと唸りを上げる砂埃に。

 古びた街並みは、掲げられた無数の槍に。

 遙か遠方に聳えるは、巨大な砦。

 遠くなっていた聴覚が戻ってくるに従って、虫の羽音のような、無数の音が折り重なった騒音がどんどん大きく、肌をビリビリ震わせる迫力を伴ってオレを包む。

 

 

 

 気付けばオレは、戦場のど真ん中に佇んでいた。

 あちこちで雄叫びが上がり、鉄同士を叩き付ける快音が響き、鮮血の紅が立ち上る。

 ハッと息を飲めば、空気中に漂う濃密な魔力が肺に飛び込み、細胞が戦くのを感じる。

 その空気の色で。魔力に混ざる圧倒的な重圧に、否応なしに理解させられる。

 

「ットロイア……!」

 

 遡るは数千年の昔。諸国友軍を巻き込んだ、ギリシアとトロイアの決戦の地。

 『イーリアス』の舞台にして、神代最大の大戦。

 人と神が入り交じり雌雄を争った、今も語り継がれる大いなる動乱。

 その只中に、オレは放り出されていた。

 

 ぐるりと首を回す。足下は海岸の砂を盛り上げて作った防波堤。坂を下った平地ではあちこちで激戦が繰り広げられ、爆音と共に砂塵が吹き上がっている。遠く離れたトロイアの城壁からは矢と火を纏った岩が息つく間もなく放たれ、雨のように降り注いでいる。

 海には、ギリシア軍の無数の櫂船。立て続けに接岸しては、無数の兵士を戦場に吐き出している。

 夢や幻術の類で無い事は、肌で感じる空気と、吸い込む魔力の神聖さで確信できる。

 これは奴の宝具、固有結界だ。

 

「にしても、何て規模だ……! 聖杯の魔力を、全て固有結界に注ぎ込みやがったか」

 

 語り部たる奴が描き出す、余りにもリアルな心象映像。

 それはまるで、オレ自身が過去にタイムスリップしたかのようだ。鮮明な感覚に、脳が一瞬混乱を起こす。

 その混乱に迷うまでの余裕は許されなかった。

 オレのすぐ傍で、ザクと土を踏み込む音。

 振り返れば、青銅の鎧を纏った巨漢のギリシャ兵が、太い刀剣をオレ目がけ振り下ろした所だった。

 

「っ――がぁぁぁぁ!」

 

 足では返せない。直感的にそう判断し、オレは腕に握ったクラレントで刀剣を受ける。

 凄まじい衝撃。雑兵であるにも関わらず、サーヴァントを相手取るような膂力。オレの腕が激痛に軋む。

 オレは咆哮し、奴の土手っ腹に蹴りを見舞う。赤雷を纏わせた弾丸のような一撃。血反吐を巻き上げ、巨漢の兵士は遙か後方へと吹き飛んでいく。

 その巨体の下をくぐり抜けるようにして、蛇のように這う一人の兵士。握られた双剣がギラリと光る。

 

「んだよ、その動き――!?」

 

 その余りの速度に驚愕し、その分対応は半歩遅れる。

 兵士が持つ双剣にクラレントで応じるも、続けざまの一撃でオレの腕は高く跳ね上げられ、舞踏のように連続した回し蹴りがオレの横腹に食らい付いた。

 大部分の衝撃は鎧が吸収してくれるも、オレの身体はそのまま蹴り飛ばされ、防波堤を越え、平地の只中に着地する。

 そこはまさにトロイア戦争の渦中だった。剣劇と雄叫びが、辺り一面に豪雨のように轟いている。

 兵の数名がこちらに気づき、ギロと敵意に満ちた視線を寄越す。

 それに立ち向かうべく姿勢を低くし――割り込むように、本能の警鐘。

 危機感に従い顔を上げれば、眩く光る太陽に重なる一つの影。

 ソイツが手にした弓矢をつがえると、太陽を覆い尽くす程の強烈な魔力が煌々と輝き、轟と唸りを上げて、辺り一面に矢の雨を降り注がせた。

 

「ぐ、お、おおおおおぉぉぉぉぉぉ!?」

 

 それはちょっとした対軍宝具に匹敵する一撃。

 逃げようにも逃げられない。オレはせめてもの防御として、展開していた兜で顔を覆い、全身を鋼で固める。

 眩い光と轟音が感覚の全てを塗り潰す。無数の矢が鎧にぶち当たり、衝撃が身体を揺さぶる。

 流星群のような一撃に、オレの鎧は耐えてくれた。顔を上げた後に広がる景色は、無数の矢が突き立つ林に、血を流し息絶える兵士達。

 一撃で辺りを死地に変えた弓兵は既に頭上に居ない。

 そのあっさりとした退却、驚愕のない辺りの様子が、今の一撃が取り立てて珍しいもので無い事を告げている。

 

「っ……これが、トロイア戦争……!」

 

 敵将の一人、いや一兵卒に至るまでが、座に辿り着くほどの大英雄。神と人の境界線はなく、幾人もの闘志と神性が混じった空気は、むせ返りそのまま窒息してしまいそうな強烈な濃度で胸を焦がす。

 思わず戦慄し、ゾクリと背筋を震わせて……その情けない胸に拳を叩きつけて、オレは自分自身を叱咤する。

 

「っ……だから、どうした。必ず勝つと、啖呵を切ったばっかだろうがよぉ!」

 

 気合い一喝。吼えるオレを認めて、再び兵士が凄まじい勢いで駆けてくる。

 オレは現出させたクラレントを蹴り飛ばす。赤雷を伴い弾丸のように射出された剣は、先頭の兵士の脇腹を掠め、後方を駆けていたもう一人の土手っ腹に突き刺さる。

 空気を抉る衝撃に戦いた先頭の兵士。その驚愕冷めやらない顎を、オレのつま先が砕き割った。そのまま魔力放出と共に大地を蹴り、鮮血のアーチを描く男を追い越して宙に舞い上がる。

 闘志に据わったオレの目が見据えるは、地上にたむろする古代の有象有象共。

 

「神だか人だか知った事か。一気呵成に――くたばりやがれぇ!!」

 

 そうしてオレは、煌々と魔力を灯した踵を兵士の土手っ腹に叩き込み、大地に一直線に叩き落とした。

 先の弓兵の一撃に勝るとも劣らない、彗星のような衝撃。爆風に巻き込まれ、多数の兵士が蜘蛛の子を散らすように吹き飛んでいく。

 この戦は、全て魔術的な産物。あの糞爺の言葉によって産み出された幻想に過ぎない。

 オレは兵士で波打つ平地を眺め回し、声を轟かせる。

 

「コソコソ隠れてねえで姿を見せろ! こんな雑兵共でオレを止められると思うなよ!」

 

 引いた波が再び寄せるように、土埃を巻き上げ兵士が迫り来る。それにオレは、犬歯を剥き出し唸りを上げる。

 

「オレは怒っているぞ。これ以上なく、テメエを憎んでいるぞ! ホメロス!」

 

 どれだけの兵士の群れがあろうが。一兵卒が神に近い強さを有していようが。それでオレの魂が砕けるとはお笑い種だ。

 かつてオレは荒野を駆け抜け、激情と共に数多の騎士を葬り去り、王を殺す宿命を為すまで暴れ続けたのだ。

 その怒りは烈火の如く。空を切り裂く稲妻が如く。

 必ずや貴様の腹を切り裂き、その身を灰燼に帰すだろう!

 

「さっさと出てこい! 簒奪の罪を死で以て償え! オレのマスターを、返せぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 オレは両脚に渾身の魔力を溜め、迫り来る兵士達を薙ぎ払うべく突貫する。

 

 

 

 

 

 その、秒に満たない一瞬前。

 ぶわっと全身を総毛立たせる、死の直感。

 

 

 

 

 意志を外れて身体が竦み上がり、脚に籠めていた魔力が途切れる。

 サイレンのように鳴り響く本能が、迫り来る何かの存在を告げていた。

 オレは自分でも分からないままにクラレントを大地に突き刺し、そこに全体重を駆けて身を預ける。

 情けなくも、その時オレを襲った感覚は、限りなく純粋な恐怖だった。

 オレは及び腰になり、飛び込むのを躊躇し……結果としてその逡巡が、オレの命を永らえさせる。

 

 

 ――次の瞬間に横切ったソレを、オレは光の線としか認識できなかった。

 

 

 兵士達の群れの中に、横一線に走る翡翠色の光。

 音も、衝撃も、全ての反応は後からやってきた。

 時間が停止したような一瞬を経て、暴風が発生し、破壊の渦を巻き起こす。

 

 

 導線に居た人は形も残さず轢殺された。

 傍にあった全ては暴風に引き裂かれ、細切れにされて宙を舞った。

 巨大な破壊の渦は幾百人の兵士を巻き込み、吹き飛ばし、遙か上空へと紙吹雪のように巻き上げる。

 直感的に大地に釘を刺していなければ、オレもその紙吹雪の一片として、空に命を散らせていた事だろう。

 激風の余波が去って尚、オレの身体は驚愕に凍り付いたまま。硬直した身体は、地面に縫い付けられたように動かない。

 両腕の痛みすら、全身を痺れさせる戦慄に塗り潰されている。

 空気を抉り去った、その破壊の形跡で、辛うじて『何かが横切った』事を悟る。

 

 

「っな……!?」

「今の一撃の中で立っているとは、骨のある戦士がいるな」

 

 

 背後から放たれる、張りのある勇み声。

 振り返れば、巻き上がる砂塵を背景に佇む、一人の男がいた。

 

 

 

「友のため、我が誇りのために参じた戦だが……やはり、強い奴との邂逅は心が躍る。なあ、お前もそうだろう?」

 

 

 

 英雄。

 その言葉は、ともすれば彼の為にこそあるのではないか――そう思わせる程に、目の前の男は猛々しく、勇気に満ち満ちていた。

 戦場に於いて美しくさえある、凜々しく爽やかな美貌。勇猛に吊り上がる柳眉に、一縷の恐れも感じさせない澄んだ瞳。

 神々しき黄金の鎧を纏い、男は手にした槍の穂先を、真っ直ぐオレに突き出した。

 ニヒルに唇を持ち上げ、男は心底愉しそうに、闘志剥き出しの笑顔を突きつける。

 

「分かるぞ。強い戦士だ。久しぶりに血湧き肉躍る戦いができそうだ」

「っへ……上等だよ。クソジジイまでの腹ごなしに、テメエにも引導を渡してやる」

「誇りに思うがいい。この俺がお前を勇士として扱い、直接刃を交える事をな」」

 

 

 

 遅れて戻ってきた痛みに震える手で、クラレントを握りしめる。

 そうしなければ勝てない相手だと確信していた。

 何をしてでも勝たねばならないと、覚悟を決めていた。

 だから、剣を握った瞬間、恐れは吹き飛ぶ。

 怒りすらも不要、死を招く異分子と、一旦脇に捨て置く。

 残るは、闘志。

 これだけは決して負けない、勝つという覚悟。

 騎士モードレッドとして、オレは戦場に脚を降ろす。

 勇士との邂逅に、ふつふつと、否応なしに心が昂ぶる。

 

 

 

 視線が交差し、瞬間、旋風。

 吹き出した互いの魔力が、周囲を色鮮やかに染め上げる。

 猛々しき紅蓮。凜々しき翡翠。

 二つの魔力が、衝突する。

 大地が割れ、世界が慄く。

 

 

「さあ戦おう! 俺はギリシア軍が一柱、ペーレウスが子――名を駿足のアキレウス!」

「我が名はモードレッド! アーサー王の息子にして、テメエら神々を下す叛逆の騎士だ!」

 

 

 

 

 

「「いざ尋常に――推して参る!!」」

 

 

 

 

 

 

 史上最強との戦いが、幕を開けた。

 

 

 

 



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38話

 

 

 アキレウス。

 

 

 絵物語に興味の無いオレでさえ、その勇士の名前は知っている。

 トロイア戦争において――いや、当時その世界においても、間違いなく最強の戦士。

 神より授かりし戦車を繰り、あらゆる武芸に優れ、矢よりも速く大地を駆ける、不死身の男。

 そんな英雄の中の英雄が放った槍と、オレのクラレントが交差する。

 金属同士が衝突する激音。舞い散る火花が星のように強烈な光を灯し、互いの目を眩ませる。

 大上段から槍を振り下ろしたアキレウスは、獣のように牙を剥き、興奮げに嗤う。

 

「ほう、いいじゃないか、オレの一撃を膝を折らずに受けるとは!」

「ぐぅぅぅぅ……がぁ!」

 

 オレは吼え立ち、乱暴に剣を振り払ってアキレウスを吹き飛ばす。軽やかに着地した彼は、怯む間もなく槍を番える。

 肩越しに、大地と並行に構えられた槍。その穂先が狙うは、兜に覆われたオレの眉間。

 

「まだ挨拶だぜ? これで倒れて、くれるなよ!」

 

 アキレウスが叫んだ瞬間、二人の間の距離が、一気にゼロに帰結する。

 音速を超えた疾駆。額目がけ突き出された刃を、オレはクラレントの腹で受けた。

 角度を斜めに、神速の突きを上に逃がす事で勢いを削ぐ。

しかし、そんな小細工では英雄は止められない。

 致命の刃こそ逸らしたものの、神速の暴風が打突となって、オレの身体を真っ正面から打ちのめした。

 

「ご――ッ!」

 

 全身に大砲のような衝撃。全ての感覚を置き去りに、オレは遙か後方へと弾け飛ぶ。

 常人であれば、鎧の中の肉体は粉微塵の挽肉になっていた事だろう。だがオレは理性を総動員して感覚を呼び戻す。地面に剣を突き立て、何メートルも亀裂を刻んでやっと停止する。

 

「……か、ほっ」

 

 絞り出すような咳に鉄の匂いが混じる。衝撃に、全身の細胞がビリビリと麻痺している。

 身体を震わせながら、それでも両脚で立つオレを見て、アキレウスは槍をくるりと回し、満足げに頷く。

 

「予想より効いてなさそうだ。それとも痩せ我慢か? だとしたら驚くべき根性だ」

「けっ、どっちだって良いだろう。次はすれ違い様に、腹を掻っ捌いてやる」

「まあそう逸るな。俺は喜んでいるんだ。なんせ強すぎるお陰で、手応えのある奴が少なくてな。お互いに楽しもうぜ」

「生憎と急いでるんだ。チャンバラごっこなら他所を当たってくれねえか?」

 

 なまじ冗談でもないオレの問いかけに、アキレウスは小さく失笑。

 当たり前の反応だ。飢えた獣が、御馳走を前にして我慢できる訳がない。

 今の邂逅で、アキレウスはオレを好敵手と定めたらしかった。それは大変光栄で、これ以上無く最悪な、悪夢みたいな名誉だった。

 

「にしても、見ない鎧だな。同胞でなければトロイア軍でもなさそうだ。お前はどこの何者だ?」

「誰でもねえよ。ケジメを付けさせるために、未来からやって来た必殺仕事人だ」

「ハハッ、おもしろい奴だ。聞いた事ないが、アーサーってのは息子に冗談まで教えてくれたのか?」

 

 ぶちん、と堪忍袋の尾が切れる音。

 痛みに震えていた瞳孔がきゅっと収縮し、震えていた腕に再び力を纏わせる。

 

「ッ――上等だ……耳かっぽじってよおく聞いとけ! 我等円卓の騎士を束ねる主、民と精霊に愛されしアーサー・ペンドラゴン! それがオレの仕える王の名! テメエがぶち殺される騎士が仕える名前だぁぁぁぁぁ!」

 

 怒りと共に赤雷を吹き上げ、オレはアキレウスに向けて突貫する。

 幾度も刃を交え、火花を散らし、互いの刃を煌めかせる。

 大上段から振り下ろしたクラレントと、薙ぎ払われたアキレウスの槍が激突。音が大気を劈き、衝撃が砂塵を吹き曝す。

 キリキリと軋む鍔迫り合いの向こうで、アキレウスが獣のように嗤う。

 

「いい、いいぞ! 素晴らしい闘気だ! 決めたぞ、今宵の宴では、貴様の魂をゼウスに捧げて俺の主賓としようじゃないか!」

「ほざきやがれ! 糞爺が産み出した障害物風情が、舐めた口を利いてんじゃねえぞ!」

 

 オレは鍔迫り合いのまま、内なる魔力を爆発させた。

 噴火のように放たれた赤雷が、刃を通して奴の身体を駆ける。

 

「ぐっ……!?」

「吹っ飛べぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 不意打ちの電撃に硬直したアキレウス。その脇腹に、俺は魔力を滾らせた蹴りを叩き込んだ。余裕綽々を決め込んでいたキザな顔が視界から消え、地面をバウンドしながら吹き飛んでいく。

 それでケリが付くほど、英雄は甘くない。奴はオレがそうしたように槍を大地に突き立たせ、直ぐに体勢を立て直す。

 

「……まさかこのオレが、一撃でも遅れを取るとはな」

 

 膝を着いた姿勢で、オレを睨み付けるアキレウス。その口の端には、吐き出した血が一筋伝っている。

 幼少期、アキレウスは最強の戦士に育てたかった母親によって不死の泉に身体を浸された事で、踵を除きあらゆる攻撃を撥ね除ける最強の身体を持つとされる。

 その逸話とは違う彼の反応は、この状況において唯一と言っていい僥倖だった。

 

「聖杯のブーストを借りても、さすがに希代の英雄の完全再現は無理らしいな。不死の神性がなけりゃ、テメエはただの駆けっこが得意な悪餓鬼だ。脚引っかけて、そのムカつく顔を地面で摺り下ろしてやるよ」

 

 オレはクラレントを肩に担ぎ、ここぞとばかりに、膝を着くアキレウスを挑発する。

 そうしなければ、壊れてしまう確信があった。

 軽口でも吐かなければ、耐えられなかった。

 小馬鹿にした態度を取る事で、クラレントを握る手に重篤な痙攣が起きている事をひた隠す。

 兜で顔を隠していなければ、誤魔化す事なんて絶対に不可能だっただろう。

 小さく身震いし、誰にも聞こえないくらいに鎧が擦れる。

 

 

 

「っ……」

 

 

 

 痛み。

 激しく身体を駆け巡る、痛み。

 脳が、ジリジリと、掻き毟られる。

 あと、何撃。

 何回剣を振るえば、奴に届く。

 どれだけ攻撃を受ければ、奴は怯む。

 いや、そもそも。

 この戦いに、終わりなど訪れるのだろうか――?

 

 

 

 

 そんなオレの問いなんて知る由もなく、アキレウスはゆらりと立ち上がる。

 

「上等だ……久しぶりに、本気の速度が出せそうだ」

 

 笑顔に痛い程の殺気を身に纏わせ、英雄がオレを真っ直ぐ睨み付ける。

 その闘志に、オレは釘付けにされる。

 揺らいだ心に沸き上がった『逃げる』という選択肢が、馬鹿げた考えであると棄却される。

 

 

 逃げられない。

 勝つしかない。

 

 

「目を凝らして、しっかり食らい付けよ! 世界最速をその身に受ける事を、光栄に思いながら散るがいい!」

 

 翡翠の魔力を視界一面に噴き出しながら、剣を構えるオレめがけ、最強が躍りかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    ◇

 

 ――彼は、見ている。

 

 

 

 既に光を映さぬ双眸で、それでも世界の全てを認識する。

 神代のトロイア。

 神と人が共にあった時代。空を泳ぐ雲の一縷にまで神性が宿っていた世界。

 眼前に広がるのは、彼の言葉によって産み出された固有結界。彼自身が創造したものに過ぎないが。

 それでも彼は、世界を見て、息を吸い、迸る闘志に肌を震わせ、確信を得る。

 これは、確かにトロイア戦争。

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 一切の疑問なく自負できるからこそ、同時に彼は、こう思う。

 

 

 ――ここが、頂点だ。

 ――過去未来、森羅万象遍く全ての頂だ。

 ――この世界のあるべき姿。幾千年紡がれるべき絢爛な世界。

 ――やはりこの世は、神々の為にこそあるべきなのだ。

 

 

 確信を伴ってそう断じ、ホメロスは静かに盲目の目を伏せる。

 かつて彼は、その手で自分の両目を潰し、神性を認識する千里眼を手に入れた。

 その眼を用い、彼は確かに、あるべき世界の姿と、神々の誉れ高き姿を認識した。

 地上から退去する神々を引き留めようとした。

 もう一度、あの時の人の信仰を取り戻そうとした。

 心躍る神との邂逅を、呼び覚まそうとした。

 その彼の試みは――神を忘れた人々によって裏切られた。

 彼の言葉は冗句とみなされ、かつての神々の晴れやかな姿は『物語』として形骸化された。

 人は容易く神を忘却し、空想として消化し――やがて地上から、神を完全に隔絶した。

 

 

 この世界は、後世まで続くべき神々しき光景は。

 他ならない、自分の言葉が閉ざしてしまったのだ。

 故にこそ、ホメロスはギリと歯を食い縛り、宣言する。

 

 

「今度は、決して間違えぬ」

 

 

 そうだ、人は愚昧なものである。

 地を這いずるしか能の無い、虫けら同様の生物である。

 人に歴史など必要なかった。

 言葉の紡ぎ方など、教えるべきではなかった。

 神を差し置き、人の営みを信じた事が間違いだったのだ。

 

 

 だから、今度は何も信じない。

 思い知らせよう。

 この世界の本当の支配者が誰か。

 恐れ戦き、己の矮小さを思い知り、頭を垂れて震えて祈る事こそが、貴様ら人に許された信仰であると。

 そうして、過ちを払拭しよう。

 愚かな人を排し、あるべき神々の世を取り戻そう。

 

 

 その決意を胸に刻み、彼は見る。

 戦場を走る、紅と翡翠の輝きを、静かに傍観する。

 

 

 

 野望が果たされるまで、あともう少し。

 奪うべき命は、あと一つ――。

 

 

 

 

 

 

 

 



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39話

 

 

 一体、どれだけ剣を交えた事だろう。

 時間すれば僅か十分少々。

 その間に賭けた命の数は――もう、数え切れない。

 

 

「上等、上等! そおら、まだまだ、もっと速くなるぞ!」

「ッ――!」

 

 

 一秒を何倍にも引き延ばした、達人の境地。

 その連続する刹那の一瞬毎に、致命の一撃が迫る。

 突き出された槍を、剣で跳ね上げる。距離を取って放たれる神速の突貫は、魔力放出も使って跳ぶ事で辛うじて射線から外れる。

 掠めただけでも鎧を砕き割るだろう、最強の英霊が持つ宝具。それが一つ息を吸う度に、両手の数じゃ足りない死の驚異になってオレに襲いかかる。鋼を打ち鳴らす度に飛び散る火花が、ストロボのように眩しく瞬く。

 

「っが、ああぁぁぁ! がぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「ははっ、まだ食らい付くとは見上げた根性だ! だがしかし、痩せ我慢だけじゃオレは越えられんぞ!」

 

 一秒も緩めず攻勢を続けるアキレウスは、ますます笑みを強烈なものにし、槍を振るう手を奔らせる。

 止む事のない警鐘が頭を埋め尽くし、張り詰め続ける戦局に精神がみるみる擦り切れていく。思考が身体についていけず、頭が爆発しそうに熱くなる。

 

「まだ、まだ、まだだ! オレを楽しませてくれよなぁぁ、モードレッド!」

 

 スポーツでも嗜むように笑い、アキレウスが再度突貫。

 槍を振るい、オレの握るクラレントと火花を散らし――次の瞬間、槍だけを残し姿が消える。

 高速で大地を駆ける擦過音は、オレの後方。

 振り向けば、姿勢低く、徒手空拳で迫る英雄の姿。

 

「何でもアリが戦場だ! その腕一本、貰い受ける!」

 

 吼え立ち、アキレウスの両手が、蛇のようにオレの左腕に絡みつく。

 組み倒し、砕かれる――その理解に脳が追いつくより速く、オレの本能が脚に魔力を纏わせた。

 オレは大地を爆発させ、技を仕掛けるアキレウスごと、大砲のように宙を飛ぶ。驚きを浮かべた彼の顔に、みるみる喜色が満ちていく。

 

「はははは、さすが俺が認めた相手だ。あらゆる手を尽くしてこそ戦いは楽し――」

「らあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 その愉快げな口上を、オレの咆哮が塗り潰す。

 腹を貫くべく突き出したクラレントを、アキレウスは絡めていた腕を離す事で難なく回避。

 

 

「さっきから喧しいな。狂い、獣になるんじゃあない! この気付けの一発で、目を覚ませ!」

 

 

 返す刀で振り下ろされた踵が、オレの兜を貫いた。

 金属の引き裂けるけたたましい音。脳味噌が飛び出る程の衝撃。銀の破片を撒き散らしながら、オレは盛大に大地に墜落する。

 砕き割れた兜から、乾いた風が吹き込んでくる。舞い散る砂塵が顔にこびり付き、べっとりと肌に塗りたくられる。

 衝撃で巻き上がった砂塵が、視界を茶色に埋めている。

 遠くで、軽やかに降り立つ気配。アキレウスの、消耗の全く見られない闘志が、オレに吹き付けられる。

 アキレウスは槍を手に取り、ヴンと一振り。視界を覆っていた砂塵が吹き飛ばされていく。

 

 

「貴様の闘志を感じるぞ。まさかこれで終わりじゃないだろう? まだまだ、オレを楽しませ……て……」

 

 

 アキレウスの声が、途中で搔き消える。

 彼が浮かべていた勇猛な笑みは、砂塵が晴れ、オレの顔を認めた瞬間に、蝋録の火のように消え失せた。

 自分が何を見ているのか、上手く理解しきれない。英雄の顔には、そんな困惑がありありと浮かんでいる。

 

 

 

 奴の目にオレは、まるで幽霊か、心の砕けた亡者のように映った事だろう。

 兜が砕け、剥き出しになった表情は、もう自分でもどんな顔をしているか分からない。

 

「お前、女か……いや、それ以上に……なんだ。一体、どういうことだ?」

 

 アキレウスすら目の前の状況を信じられず、言葉を上擦らせる。

 それ程に、オレは壊れきっていた。顔も、身体も、ぐずぐずになっていた。

 

 

 

 一体どれほど、両手に握った剣を交えた事だろう。

 神速の殴打を、小手で受け止めた事だろう。

 もはや全ての感覚が、痛みに塗り潰されていた。

 

 

 

 剣を振るう度に、殴りつける度に、両腕の傷が激痛でオレを責め立てる。

 飽きもせず、容赦なく、神経をずたずたにしてくる。

 気合いや根性で、どうにかなる次元じゃない。

 それは生きたまま身体を引き裂かれる拷問だった。

 一度のミスも許されない戦いの最中、一撃交える度に激痛に魂を断ち切られ、それが無限に続いていく。

 ここが地獄だった。

 オレは生きながらにして、死よりも酷い苦しみに叩き落とされていた。

 

 

「か……ひ、ぁ……」

 

 

 呼吸の仕方はいの一番に忘れた。

 涙はとうに枯れ、見開かれた眼球の奥で痛みが弾け、霞む視界を真っ白に明滅させる。

 涎を溢す半開きの口からは、絞め殺される直前の雛鳥のような、か細い声だけが漏れる。

 身体が痙攣し、鎧が擦れてチリチリと音がする。指先に辛うじてぶら下げたクラレントが振り子のように、力を無くしたオレの身体ごと揺れる。

 

 

 

 神経は焼け爛れている。細胞は粉微塵だ。

 痛みだけが、ずっとずっと、ずっとずっと鮮烈だった。

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

 痛みに脳味噌をすり下ろされて、思考らしい思考はもう残っていない。

 随分前から、オレの身体は直感だけで動き、アキレウスの猛攻に追い縋っていた。

 

 

「呪いか? 古傷か? ……いや、問題はそこじゃない。馬鹿げているのはお前だ。そんな状態で戦っていたというのか? 心を砕かれて尚、俺と拮抗していたというのか?」

 

 

 火傷するほどに滾っていた闘志は消え失せ、アキレウスは愕然と、立ち尽くすオレを見る。

 数度剣を交えた段階で死にたくなった。

 十を越えれば、膝を折って殺してくれと懇願したくなった。

 許してくれ、助けてくれ、もう解放してくれ――そんな哀願が浮かんでは、激痛の奔流に押し流されていった。

 

 

「ぁ……ぁ……」

 

 

 けれどオレは。

 そんな地獄でも、諦める事だけはしなかった。

 執念が、クラレントを握り続けた。

 本能が、負ける事を拒否し続けた。

 どれだけ心を砕いても、魂までは折れなかった。

 

 

「戦える状態じゃない。そうだろう? どうして戦場に来た。何がお前を突き動かす」

「っ……」

 

 

 死にたいほど苦しいのに、どうしてオレは生きている。

 さっさと殺して楽にして欲しいのに、どうしてまだ戦っている。

 どうして。何故。

 ――そんなの、聞くまでもない。

 

 

「……大切な、人に。必ず勝つと約束した。オレを人として愛してくれた男に、最後まで共に居ると誓った」

 

 

 ガチガチと痙攣する歯をギリと噛みしめる。大地を確かに踏みしめる。

 

 

「ソイツが、どこか遠くで、オレを待ってくれている。オレの勝利を信じてくれている」

 

 

 上手く動かない指を曲げ、首に提げた革袋、そこに収まる宝石を握る。

 ずたずたにされた心でも、繋がりを感じている。

 か細く、あまりに気迫でも、忘れる筈のない魂の繋がり。

 彼の魔力が。信頼が。オレに結びついている。

 オレの力として、心に宿っている。

 オレを待っている。信じてくれている。

 

 

「っオレは、マスターの剣だ。アイツに勝利を捧げる英雄だ……! アイツが信じ続けてくれる限り! オレは決して、その想いを裏切らない!」

 

 

 だからオレは、クラレントを握る。

 ガクガクと震える腕に必死に力を籠め、鮮やかに輝く銀色の切先を、アキレウスに向ける。

 

 

「オレに幸せを教えてくれた! 生きる喜びを教えてくれた! そんなアイツの人生を、敗北で終わらせて堪るものか! 例えどんな古代の神々が相手だろうが、オレは全員に唾を吐いて、この剣でぶち殺してやるんだよ!!」

 

 

 オレは吼える。テメエを殺すと宣言する。痛みに狂い、壊れきって、涙すら枯れて揺れる瞳に、それでも決意の炎だけは絶やさずに。

 

 

 

 

 

「理解はしきれないが――その意気、闘志、確かに受け取った」

 

 そのオレの心は、英雄の胸を確かに打った。

 痛みにふらつき、今にも倒れそうなオレを見る奴の目に、哀れんだり軽んじたりするような色は、もう無い。

 

 

「お前に詫びよう。俺はお前の決意を見誤った。戦う資格がないのではと邪推した……大きな誤解だ。お前は確かに、この戦場に参じ、勝利を得るに値する戦士だ」

 

 

 そうして、アキレウスもまた、己の手にした槍の切先を、オレに向けて突き出す。

 

 

「だが! だが! 俺の闘志は決して濁らない! いかな理由があろうとも、勝たねばならぬ執念があろうとも、負ければ全てそこで終わる! それが戦場だ! 俺達が生きる命懸けの舞台だ!」

 

 

 英雄の言葉が、ビリビリと俺の肌を痺れさせる。翡翠色の魔力が強烈に膨れあがっていく。

 

 

「儚く消える命だからこそ、己の全てを賭して戦う、そう在ることこそが命の輝きだ! 勝利し翳す野望も、無残に潰える後悔も、俺は全てを受け止め、誉れとして讃えよう!」

 

 

 朦朧とした俺の視界が、翡翠に染まる。アキレウスの魂から、まるで太陽が産まれたような強烈なエネルギーを感じる。

 

 

「故にこそ! 俺は決して貴様を逃がさない! 俺は俺自身の誇りにかけて、貴様という好敵手を打ち倒そう、モードレッド!」

 

 

 遠くの空に、ガァンと雷が奔る。

 天を割るような雷光の中、猛々しい音を立てて、三頭の馬が引く戦車が降りてきた。

 それに飛び乗り、アキレウスが天高く飛翔。夜空を舞う一陣の流星になる。

 

 

「クサントス! バリオス! ペーダソス! ――我が世界最速を手向けとし、誇りに思いながら散るが良い!」

「ッ――ふざけんなよ」

 

 

 流れる星の煌めき。神々しき魔力を前に、俺は全身から赤雷を吹き上げさせる。

 意志の炎を宿した目を、更に怒りで燃え上がらせる。

 

 

「勝手な事を言ってんじゃねえ! 誉れも手向けも必要ねえ! 騎士の矜恃だってどうでもいい! この痛みも、この昂ぶりも! 生きてアイツを取り戻さなきゃ、何の意味もありゃしねえんだ!」

 

 

 生きようが、死のうが、輝きを放てば満足?

 冗談じゃない。そんな価値観はクソ食らえだ。

 空っぽの手で死ぬならば、それは全て敗北だ。

 負けてたまるか。止まってたまるか。

 世界最強だろうが、怯んでたまるか。

 だからオレは、どれだけ痛くても、辛くても、狂ってでも、大地を踏む。

 何に変えても勝つのために。求めた物を掴み取るために。

 拳を握り、立ち向かう――!

 

 

 

「さらばだ、モードレッド! 我が戦車は星のように、我が誇りに懸けて貴様を挽き潰す! ――『疾風怒濤の不死戦車(トロイアス・トラゴイーディア)』!!」

「履き違えんなよ、アキレウス! オレは必ず、テメエをぶち殺すと言ったんだよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 

 遙か彼方の夜空から、翡翠の星が落ちてくる。

 全てを薙ぎ払い轢殺するその彗星に、オレは懐の革袋から掴み取った宝石を、思い切り投げつけた。

 マスターの魔力が籠められた宝石は弾丸のように飛翔し、オレよりも数秒早くアキレウスの戦車に激突。けたたましい爆音を轟かせた。

 

「くっ――!?」

 

 その音は、オレの耳にも確かに届く。

 マスターがオレために残した武器は、戦車を駆る馬を僅かに驚かせ、アキレウスの手綱を一瞬曇らせる。

 膨大な魔力がほんの僅かに揺らいだ、その隙。太陽に浮かぶ黒点のような小さな隙間に、オレは全力の魔力放出と共に、自分の身体を飛び込ませた。

 豪雨の中、濡れずに矢を射るような、自殺に限りなく近い決死の特攻。

 けれど、オレは死なない。

 マスターに必ず、勝ちを捧げると誓った。

 故にこそ、オレの直感はこの賭けへの勝利を確信する。

 果たしてオレの脚は、翡翠の魔力の渦を貫き、戦車を繰るアキレウスを打ち抜いた。

 

「何だと!?」

「っははは! 相乗り禁止とは聞いてねえからなぁぁ! 邪魔するぜぇ、アキレウス!」

 

 オレの蹴りを小手で受け止めたアキレウス。その驚愕の目と、痛みと狂躁に狂い悶えるオレの目が交錯する。

 戦車に降り立ち、クラレントを突き出す。切っ先を弾いた奴を、剣に纏わせた魔力の爆発で強引に押し返す。

 薙ぎ払った腕がビキビキとひび割れる錯覚。激痛が全身を駆け巡り、オレの顔に貼り付いた笑みを、更に鬼のように吊り上げさせる。

 

「ぎ、いいぃぃぃぃぃぃっひひ! ははははははぁぁぁぁ!!」

「ッまさか俺の戦車に乗り込んでくるとは! それは流石に苛つくぜ、モードレッドぉぉぉぉ!」

 

 初めての状況に対する混乱と興奮、プライドを穢された事に対する憤り。それらに爛々と目を輝かせ、アキレウスは手綱を片手に、もう片方の手で槍を振るう。

 翠の魔力を噴き出し奔る、世界最速の戦車の上で、最強の英霊と対峙する。

 トロイアの戦場を駆け抜けながら、幾度となく剣を振るい、鋼を打ち鳴らす。

 

 

「何千年も昔の矜恃を押しつけやがって! テメエのカビ臭え誇りなんざ、オレの赤雷で焼き尽くして、綺麗さっぱり消毒してやるよぉぉぉ!!」

 

 

 更に高まった勝利への決意は、激痛を衝動に換え、咆哮になってオレの魂を揺さぶる。瞳孔を窄ませ、唇を食いちぎって歯を噛み割る。血反吐を噴き出し、それよりも紅い赤雷を噴き出して、我武者羅に剣を振るう。

 その獣のような猛攻は、手綱で片手を塞がれたアキレウスの槍捌きを僅かながら上回る。

 オレの放った一撃が奴の槍を掻い潜り、手綱を握る肩鎧を砕き割り、その首筋を切り裂いた。吹き出した鮮血が高速で奔る戦車の軌跡を追う一陣の線を引く。

 

「ックソ――わっ!?」

 

 浅い。そう歯噛みしたのも束の間、戦車のバランスが大きく崩れる。

 首を押さえたアキレウスは、憎しみと驚きを籠めてオレを睨み付ける。オレという戦士を、確かに覚えておくと約束するように。

 

 

「その執念は尊敬に値する。だが遊びは終わりだ――オレの宝具から、その不遜な脚を退けるがいい!!」

 

 そう言ってアキレウスは、手綱を思い切り引っ張った。

 戦車が大きく横にカーブする。神速が揚力になって、オレから重力を取り払う。

 

「っ逃がして、たまるかぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 迷っている時間は無かった。オレは宙に棚引く手綱に手を伸ばし、オレの左腕に巻き付けた。

 瞬間、オレの身体が宙に浮き、遙か彼方へと吹き飛ばされる。

 神速が破壊のエネルギーになり――左腕に巻き付いた手綱が張り詰め、オレの腕をぐしゃぐしゃに締め潰した。

 

「ッぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 今までの比ではない激烈な痛みが襲う。

 オレの小手はたちまち砕き割れ、無数の破片がオレの皮膚を食い破る。粗い縄が骨をへし折り、ごきゅごきゅという音を立てながら原型を留めない程に引き絞る。裂けた肌からソーセージのように肉が飛び出し、そこに折れた骨や鎧の破片が突きささる。

 一瞬でオレの腕は、ボロ雑巾のような肉塊へと変貌した。

 もう痛み以外の全ての感覚を失った腕を、それでも手綱を握る錨として、オレは戦慄するアキレウスを睨み付ける。

 ぐしゃぐしゃの腕に力を入れて身体を戦車まで引き戻し、無事な手で握ったクラレントを、アキレウス目がけ振り下ろす。

 

 

「ヴ――ヴぅぅぅぅぅ! ヴァアアアアアアアアア!!」

「馬鹿な――そうまでして、勝ちたいというのか!? 獣に落ちてまで抗うか!? 何がお前をそこまで駆り立てる!?」

 

 

 訳の分からない、畏れさえ抱いた目で、アキレウスが問う。

 その戦慄する顔目がけクラレントを立て続けに振るい、オレは吼える。

 

 

「どうして? 何が? ――テメエにゃ分からねえよ!  たとえ一生かけたって分かりゃしねえさ!」

 

 

 ああそうだ、テメエとオレじゃ何もかもが違う。

 勇士だと持て囃された貴様が。

 才覚に恵まれ、約束された武勲を立てる英雄サマが。

 人間以下の道具だったオレの心を汲み取れるものか!

 たった一人に愛される喜びを、分かられて堪るものか!

 生きるという、ただそれだけが、どれだけ幸せか! どれだけ尊い事か! 守るべき物なのか!

 

 

「分からねえまま死ね! あの世でずっと悩んでろ! それが理解できねえ古びた神々に、オレは絶対に負けやしねええええええええええええ!!」

 

 

 飛びだす程に見開いた眼窩を血走らせ、オレは吼える。激痛にバリバリと全身を引き裂かれながら、剣を奔らせ、怖じ気づくアキレウスを圧倒する。

 土手っ腹に放った蹴りが深々と突きささり、初めてアキレウスが膝を折る。跪いた衝撃で手綱が揺れ、戦車の軌道がぐらりと傾く。

 血反吐を吐き出しながら、それでもアキレウスは怯まない。闘志に輝く目で、獣と貸したオレを睨む。

 

「まだだ! このアキレウス、戦いで決して遅れを取る事は――」

「いいや、もう終わりだ。テメエはここで、オレにぶち殺されるんだ!」

 

 奴の覚悟を怒号で掻き消し、オレは両脚をアキレウスの胴体に巻き付かせる。

 身体を密着させ、視界を塞ぎ、手綱が食い込んで使い物にならなくなった片腕を振るう。

 

「ッ貴様、何を――」

「悪いな。お前の言うとおり、何でもアリが戦場だ」

 

 オレの遺言は、突然の行動に驚くアキレウスには届かない。

 勇士の膂力で振り払われ、アキレウスの視界が開かれる。

 

 

 

 

 そうして奴は、ようやく目にする。

 覚悟を決めたオレの涼しい顔と。

 ずたずたの腕に絡みついた手綱が――奴の首に巻き付いている事を。

 

 

 

 全てを悟ったアキレウスの顔が青ざめるも、もう遅い。

 

 

「まあ――卑怯のツケは、オレの腕一本でチャラにしようや」

「モードレッド! 待――」

「あばよ、英雄!」

 

 

 最後に嗤って、オレは自ら、戦車から身を翻えさせた。

 同時に、現出させたクラレントを、渾身の力で蹴り飛ばす。

 剣は紅い光を纏って飛翔し、戦車の片脇、手綱の結び目を千切り取る。

 オレを繋ぎ止めていた楔が外れ、空中に投げ出される。

 首に巻き付いた手綱に戦慄くアキレウスが、神速の戦車と共に遙か彼方へと消えていく。

 撓んでいた手綱が、一瞬で張り詰め――

 

 

 

 ――ばつんっ。

 

 

 

 

 拍子抜けするような軽い音。

 それが、戦いの決着と、一人の英雄の終焉の音色だ。

 

 

 

 

 

 衝撃に、意識が一瞬ブラックアウトする。

 瞬きを数度。

 朦朧とする視界を起こせば、そこはトロイアの遙か上空。

 ばたばたと空気を棚引かせながら、オレは何千メートルという高度を落下していく。

 視界に広がる空には、太い線を引く鮮血と、千切れて宙を舞う、ずたぼろのオレの左腕。

 そして、その奥。繰り手を失った戦車が、翡翠の光線を引きながら、稲妻と共に彼方に消えていく。

 戦車に括り付いていた首の無い身体は、やがてぐらりと傾くと、先に落ちた頭を追うようにして、紅い線を棚引かせながら空を舞い、遙か彼方へと落ちていった。

 

 

「……オレだって、ちゃんと心は踊ったよ。両腕が無事なら、思う存分戦いたかったさ」

 

 

 宙を舞う鮮血のアーチを目で追いかけ、オレは聞く者のいない空の上で、静かにそう吐露する。

 

 

「いつかまた、どこかで。今度はちゃんと戦おうぜ、英雄」

 

 

 最高の英雄の惨めな最期を見届けて、オレは静かに目を伏せ、奴の死を穢した事に詫びるのだった。

 



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40話

 高速で空を落ちる開放感は、すぐに迫り来る地面のプレッシャーと、戦場の喧噪に塗り潰される。

 墜落の直前に、オレはクラレントを蹴り、大地を爆発。爆風で身体を浮かし、ぺしゃんこになる事だけは避ける。

 落ちた場所は、海岸沿いに立つ砂の防波堤。オレはきめ細やかな砂の上に衝突し、もんどり打ちながら急斜面を転がり落ちる。

 熱い砂が鎧の隙間や割れた兜から入り込み、血と汗、唾液に塗れた顔にこびり付く。

 捻じ切られた左腕からボタボタとこぼれ落ちる鮮血が、砂に染み込んで紅い塊を作っている。

 

「っ――」

 

 忘れていた痛みが、とうとうやって来る。

 

「あ、ああああああ! うわあああああああああああああああああああああああああああああああ――!」

 

 オレは叫んだ。左腕の喪失に、悶えずにはいられなかった。

 激戦をくぐり抜けた後の、神経が焼き切れる程の集中から解放された脳では、この痛みは到底処理しきれる物ではなかった。

 オレは腕を押さえ、胎児のように身体を丸め、全身を焼かれるような激痛に叫ぶ。

 トロイアのあちこちで爆発が起こっている。剣劇は雨のように鳴り響き、オレを包んでいる。

 

「ッうう――うおお……お……!」

 

 まだだ、まだ戦いは終わっていない。

 オレは涙の滲む顔を持ち上げ、血走った目で辺りを睨む。既にオレに気付いた数人の兵士が、手柄を得るべく得物を抜き走り寄ってくる。

 朦朧とする意識で大地を踏み、感覚の遠い右腕で、クラレントを握る。

 

「へへ……上等だ。オレのドタマを、捕れるモンなら捕って見やがれ」

 

 もがれた左腕。剣を持つ右腕は、癒えぬ傷で常に痛みに苛まれている。既に肉体は満身創痍。

 オレを動かすのは、決意だけだ。

 決して折れない、折れてはいけない、鋼の決意。

 

「何人だろうが相手になってやる! 最強の英雄を下したオレが、一兵卒に後れを取ると――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――それはさながら蝋の翼を焼かれたイカロスの如く。戦士の肉体は星のように空を墜ち、砂上にその身を横たえさせた」

 

 耳を抜ける、そんな声。

 唐突にオレの膝が、ばきんと音を立ててへし折れた。

 支えを失ったオレの身体が、みっともなく膝を折る。

 

「な……がっ!?」

 

 驚愕のオレを、兵士の一人が振るった棍棒が吹き飛ばす。

 砂塵を巻き上げ大地を転がりながら、オレは新たに植え付けられた脚の痛みに悶える。

 何が起きた? いや違う。

 

「――どこにいる! 姿を見せろ、ホメロス!」

「執念こそ優れようと、勇士の偉大なる槍は、一人が受けるには余りに強く。あらゆる刃は、戦士の身体に致命の跡を植え付けていた」

 

 どことも知れない。まるで脳に直接響くような、流麗なバリトンの声。

 アキレウスの猛攻を耐え続けていたオレの鎧、そこに付けられた無数の細かい傷が、音を立てて広がっていく。

 まるで言葉がそのまま、見えない手として襲うように。ホメロスの言葉を大言するように、オレの鎧は粉微塵に砕け散った。

 

「っぐ、ぼ……!?」

 

 鎧を砕くと共に押し寄せる、無数の衝撃。アキレウスに受けた攻撃と同等の一撃が、オレの身体を滅多打ちにする。

 意識を吹き飛ばすには十分すぎる痛み。堪らず、血反吐が喉から吹き上げる。

 膝を着いたオレ。その脇腹に、兵士の一人が突き出した剣が、呆気なく突き刺さった。

 

「洒落臭ぇぞ、雑魚共が!」

「ペーレウスが子を打ち倒した戦士に、これ以上戦場を駆ける力は残されていなかった。あの大英雄を倒した猛者の武勲を求め、兵士達はこぞって、大地に伏す亡骸も同然の戦士に襲いかかった」

「ッぎゅ、ぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」

 

 バキバキと音を立てて、脇腹に穿たれたばかりの傷が押し広げられる。鮮烈な痛みに神経が暴れ、流れていく血で意識が霞む。

 朦朧とする視界には、怒濤のように押し寄せる兵士の群れ。法衣を纏った爺の姿は、どこにも見つからない。

 ただ声だけが耳を抜け、魂まで滑り込み、オレの認識を穢してくる。

 

「ッふざけんな! オレは戦える! 貴様を倒すまで戦い続けるんだ、ホメロォォォォォォス!」

「為す術は無かった。傷は深く、立って逃げる事もままならない。猛き戦士の命は、既に火の灯された紙のように潰える寸前である」

 

 一文紡がれる毎に、事実が塗り替えられていく。

 傷が拡張され、疲労が何十倍にも重くのし掛かり、オレの身体を壊していく。

 どれだけ叫んでも。まだ戦えると吠え立てても。既に満身創痍だったオレの身体と心は、歴史の創始者たる奴の言葉を、撥ね除ける程の力を持たない。

 また一つ刃が身体に突き立ち、兵士がトドメを刺すべくオレにのし掛かる。魔力放出で撥ね除けるたのも束の間、ホメロスの言葉がオレから力を奪い、傷を致命傷まで押し広げる。

 

 

「やめろ、やめろ! オレは戦う! 戦わなきゃいけないんだ!」

「不幸にも彼女の命は、飢えた鼠の群れに食まれるように奪われた。勇士を倒した栄光にも関わらず、彼女は名だたる騎士でもなく、神でもなく、戦場そのものによって、無残に命を蝕まれるのだった」

「オレと戦え! 姿を見せろぉぉぉ!」

 

 

 無数の兵士が、オレに覆い被さってくる。沢山の刃がオレに突き立つ。

 それと同時に、身体が霧散していくのを感じる。

 奴の言葉によって、霊基が分解されていく。モードレッドでない何者かとして、オレを抹消しようとする。

 刃が突き立つ。身体が重くなる。付けられた傷からホメロスの言葉が浸食し、霊基が霧のように漏れ出ていく。

 痛みと、底なし沼のような倦怠感。

 抗おうにも抗えない。言葉によって存在が塗り潰され、死よりも遠い無が押し寄せる。

 

 

「クソ、クソォォォォ! マスター! マスタぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 もう、身体は半分も残っていない。

 剣を握る腕がない。クラレントも出てこない。

 戦士からただの肉塊へと成り下がる。

 身体が塵になり、虚無に消えていく。

 必ず勝つと約束したのに。

 どんな苦しみにも耐えて、立ち上がったのに。

 勝利を捧げると誓ったのに。

 必ずこの世界にお前を取り戻すと、心に決めたのに。

 また会いたいと、願っていたのに。

 なのにオレは、負けるのか?

 何の約束も果たせずに、消えるのか?

 

「悔やむ事はない、愚かな歴史の銚子よ。世界の最盛たるこの戦場において、抗うという選択がそもそも誤りなのだ」

 

 視界が淡くぼやけていく。

 水底に沈むように、感覚が遠くなっていく。

 

「優れた方が勝るが道理。ゆえに誤った歴史に産まれた貴様の敗北は必然である――先に逝くが良い。何者でもなく、意味も価値もなく、選ばれなかった世界の泡沫の一つとして揺蕩うがいい。直ぐに世界の全てが、貴様の後を追う」

 

 泰然とした声が、最期に残ったオレの意識を掴み、無為の闇へと引きずり込む。

 身体が溶けて、消えていく。

 必ず勝つという覚悟が、真っ黒な闇に混ざって、見えなくなっていく。

 

「……ます、た……」

 

 最後に残ったのは、心に秘めた彼への思いと、頬を伝う涙の熱さ。

 それさえすぐに、塵に変わる。消えていく。

 譫言のように呟く唇も、無慈悲に闇に塗り潰される。

 オレという存在が、食い尽くされる。

 

 

 

 

 

 最後に垂らした涙も消え、オレはこの世界から、完全に姿を消した。

 

 

 

 

 

「怒り、暴れ狂った名も無き戦士の詩――此にて、終幕」

 

 

 

 



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41話

 

 

 

 

 

 神と人が共に生きるとは、果たしてどういう気分なのか。

 その心地は推測するより他に無いが、きっと当時の世界は、とても眩しく輝いていたのだろう。

 

 

 神。人よりも遙かに優れ、常理を逸した超常の生物。

 その身に奇跡を宿す彼等は、遙か天から地上を見下ろし、人の営みを眺めていたという。

 時には父母のように人を愛し、時には友のように飲食を共にし、時には乙女のように恋焦がれた。

 そして戦士として刃を握れば一騎当千。木の葉のように人を吹き飛ばし、圧倒的な力であらゆる障害を薙ぎ払った。

 そんな存在が、確かな実存を伴って、世界に君臨している。

 

 

 

 ――考える。

 

 

 

 神が傍にいるとは、果たしてどれほどの光栄だろう。

 今の世界をくだらないと断じられるほどに、素晴らしいだろうか。

 

 

 

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 そして――仮に、神が居たとして。

 それは、果たして素晴らしい世界だろうか?

 

 

 

 

 

 どれほど違いがあるだろう。

 神の予言に沿って進む人生と、自ら喘ぎ苦悩し、自分自身で切り開く人生は。

 自分以上の大いなる存在を仰ぐ世界と、見果てぬ夢を追いかける世界は。

 短く燃え尽きる戦士の輝きと、健やかな家庭の暖炉の火は。

 果たしてどちらが、尊いものだろうか。

 

 

 

 

 そんな事を、考える。

 

 

 何千年もの昔の、想像だにできない浪漫と神秘を空想し。

 語る事も少ないちっぽけな自分の経験から、必死に思い馳せ。

 生きてて良かったという喜びが不変である事だけは、確信して。

 

 

 

 ――――ああ。

 

 

 

 数少ない思い出の、輝く光の粒を、掻き集める。

 今にも燃え尽きそうな小さな火を、抱き締める。

 

 

 

 ――――もう一度、会いたいな――――

 

 

 

 そんな事を考える。

 そんな事ばかりを、考え続けている――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――仮にもし、死後の世界があるのだとしたら。

 中でもここは、最も悍ましい場所に違いないだろう。

 

 

 天国でも地獄でも、かつて本当にあったとされる冥界でも、死者には確かに『存在』があった。

 誰かに悲しまれ、伝説と仰がれ、時には信仰されもする。永遠の眠りにありながら、別の誰かの生に影響を与え続ける。

 死には価値があった。脈々と続く流れの一つという意味があった。

 ここには、それさえもない。

 あるのは、ただただ、無。

 果てなく広い、真なる闇。

 あるいはそこは、宇宙の始まりにほど近い場所かもしれない。超新星爆発も起こる前。何になるかも定まらない粒が揺蕩っていた闇の水槽。

 この場所での粒は、『可能性』だった。

 例えば、枝分かれする運命のもう片方。ほんの少し条件が違えば広がっていた世界。

 有り得たかも知れないが、終ぞ有り得る事はなく、実現されなかった無数の選択肢の数々。選ばれず焼却された『可能性』だけが、意志を持たず揺蕩っている。

 その闇の只中に、オレは漂っていた。

 

「……………………」

 

 身体の感覚はとうにない。感覚すら夢のように曖昧だ。

 フィルムに焼き付いた影のような朧気さで、オレは辛うじて『オレ』という存在を保っている。

 けれどそれも一時的。この自意識も直ぐに溶けて、オレは何者でも無い、有り得た可能性の一粒として、この虚無に消えるのだろう。

 奴が聖杯を手に入れ、歴史を消却する事で、オレは今度こそ何者でもない、存在しなかった者として消え去る事になる。

 

「……………………」

 

 物理的な法則はもちろん、時間や空間の概念も無い。

 身体があった時の事なんて、もう何百年も前の事のようだ。

 喋る口や、涙を流す目や、考える為の脳はない。

 けれども、影法師として残ったオレは、感情を抱えていた。

 とても強い、悲しみを。

 死よりも深い虚無を揺蕩い、オレは言い様のない無常に、一人孤独に泣く。

 

「ごめん……」

 

 声は出ない。意識が朧気な靄のように宙を揺蕩い、すぐに闇に搔き消える。

 どうして謝るのか、思い出せない。

 誰に向けて謝っているのかも――もう、思い出せない。

 けれど、オレは悲しかった。

 誰に対してかを忘れても、謝らずにはいられなかった。

 

 何か、とても大事な約束があったのだ。

 それを、たぶん、破ってしまったのだ。

 自分は誰か、大切な人を、裏切ってしまったのだ。

 

「ごめん、ごめんよ……ごめんなぁ……」

 

 漠然と、ここにいてはいけない気がする。

 けれど、もう手遅れだった。藻掻く為の力も無い。実体を持たず、次第に消えゆく魂があるだけだ。

 理由も分からず、悲しくて。虚しくて。

 そんな感情を抱えたままここに漂っている事が、とてもとても悔しくて。

 オレは姿の無い意識で泣きじゃくる。闇の中で残った自意識で、オレ自身を責め立てる。

 ごめん。情けなくてごめん。みっともなくてごめん。

 きっと失望させた。幻滅させた。

 誰かにそう思われる事が、とてもつらい。

 顔も名前も、もう分からないけれど。

 こんなに細く朧気になった意識の中で。

 残っているのは、その誰かの事だけなんだ。

 ずっと傍に居たかった。

 もう一度抱き締められて、幸せを感じたかった。

 だからオレは、こんなにも悲しいんだ。

 形も忘れた胸が、こんなにも苦しいんだ。

 ああ、

 ああ――。

 

 

 

「…………もう一度、会いたいよぉ…………」

 

 

 

 絞り出すような懇願が、靄のように揺蕩い、闇の中に消えていく。

 その想いが。無限に広がる虚無に漂った、オレの切なる想いが。

 

 

 

 ぽっ――と、闇の中に光を灯す。

 

 

 

「……?」

 

 それはさながら、濃霧の向こうで輝く太陽のよう。か細く朧気で、けれどもとても温かい光。

 影のようなオレは、その光に誘われるように、闇の中を泳ぐ。

 光を放っていたのは、小さな革袋だった。この虚無の中に於いて強烈な存在感を放つそれは、眩い色とりどりの光で、内側から輝いている。

 

「……これ、は……」

 

 強烈な既視感。これは君の物だ、という、いつか聞いた誰かの声がする。

 ノイズのように奔る走馬燈が、霧散していたオレの存在を収束させる。

 恐る恐る触れようとした瞬間、袋はひとりでに弾け、収められていた色とりどりの宝石を虚空に散りばめる。

 

 

 

 呆気にとられるオレの目の前で――ぱぁん、と。宝石が弾けた。

 目が覚めるような音。色とりどりの光。

 宝石は花火のように破裂し、虹のように鮮やかな燐光が、オレの周囲をキラキラと舞う。

 闇が、星々の瞬く夜空に変わったような光景。オレは呆気にとられたまま、同時にその輝きに見惚れる。

 音が響き渡り、遠く遠く、遙か彼方まで飛んでいく。

 輝きがキラキラと宙を舞い、虚無の世界を美しく彩る。

 その光が潰え、闇と静寂が再び世界を覆い尽くそうとした――その時。

 

 

 

 

 

『――ああ』

 

 

 忘れかけていた、ずっと聞きたかった声が、オレの魂を揺さぶった。

 

 

「……ます、たー?」

『一体いつぶりかな。音と光で、意識が冴えてきた――また会えて良かったよ、モードレッド。ここではない方が、よっぽど嬉しかったけれど』

 

 嬉しそうな、飄々とした声。

 その、二度と聞けないと諦めていた優しい響きが信じられず、オレは愕然と問いかける。

 

「なんで、お前……」

『ホメロスの与える消滅が、死ではないと予想していた。こういう場所が在る事も、想定の範疇だった。だから怖くはなかったよ。ここで待っていれば、もし君が負けてしまったとしても、また会えると思っていたからね』

「いや、待て……待てよ」

 

 オレは自分を取り巻く虚無を感じる。

 圧倒的に広大で、何もない。宇宙よりも尚空っぽな、世界の墓場。

 

()()で? ……時間の概念もないようなこんな場所で、お前は、オレを待っていたってのか?」

『難しい事じゃないよ。君の事を考え続けるなんて、朝飯前さ』

「馬鹿言ってるんじゃねえ! 身体を失って、存在を無くしてまで……ッ絶望なんてもんじゃない! そんなの、地獄と何も変わらないじゃないか! なのにお前は……!」

『はは。まあ、生涯勉強漬けで拗らせ続けた男の初恋は、馬鹿にはできないって事だよ』

「っばか、バカマスター! お前は、一体どれだけ……っ!」

 

 この無限に広がる虚無の中、果たして何十年、何百年。

 確証も無い再開を夢見て、待ち続けて。

 信じられない。本当に馬鹿げている。

 けれど、同時に分かってしまう。

 飄々とした声に混じる安堵と喜びが、途方も無い年月を経た邂逅に対してである事に。

 

「なんっ……なんっだよ、それ……!」

 

 オレは"頬を伝う涙の熱を、確かに感じる。"

 およそ感じられる筈のない喜びに、心が震える。

 

「こんな辺鄙な場所で、ぼーっとしてんじゃねえよ……! 傍に居るって言ったじゃねえか。ずっと一緒だって、約束したじゃねえかよぉ……!」

 

 後から後から、止め処なく涙が伝う。その感触に、オレは自分の形を思い出す。ふるふると心を震わせる熱が全身を駆け巡って、血潮の温かさを知らしめる。

 

「ばかっ、馬鹿野郎がぁ……オレが、どれだけ辛かったと思ってる。朝起きたら一人で、最初から一人だったみたいで……! ぐすっ。ほんとに、もう会えないかもって思ったんだぞ! それを……」

『うん。つらい思いをさせてごめんね。頑張ってくれて、本当にありがとう』

「っく……うぅ、ぅ……!」

 

 オレの声を、聞く奴がいる。

 一番大切な人が、直ぐそこにいる。

 それが嬉しくて、嬉しくて。

 だからこそ、こんな形の再開になった事が、堪らなく悔しくて。

 

「っひぐ……マスター……ごめん、ごめんなぁ」

『え?』

「お前を取り戻すと誓ったのに、折れちまった。必ず勝つって言ったのに、あの糞爺に負けちまった」

 

 悲しみが後から後から溢れ出て、子供のように泣いてしまう。彼の存在を感じながら、感情を抑える事なんてできない。

 マスターに会えた事がとても嬉しい。けれど、敗北した先での再開なんて、これ以上なく惨めで。

 情けない。マスターに会えて嬉しいのに、合わせる顔がないなんて。

 

「無様だ。サーヴァント失格だよ。お前の剣なんて嘯いて、勝利を捧げるなんて大言を吐いて……」

『はは。こんなだだっ広い世界で、まだそんな細かい事を気にするのかい? 乱暴なのに、そういう所だけ妙に律儀なんだから』

 

 オレの悲しみを受けて尚、マスターはあっけらかんと笑う。

 

『落ち着いてよ、モードレッド。僕はとっても幸せだ。だって君にまた会えたし、こうして声を聞けたし……まして君は、まだ敗北しちゃいないんだからね』

「……え?」

 

 呆けた声を漏らし、オレは泣きじゃくっていた顔を上げる。

 

『君は僕を信じてくれた。繋がりを信じて、だからこうしてまた会えた……死中に活有り。君のお陰で、僕はこの奇跡を、勝利への活路に変えられる』

「どういう、事だ?」

 

 闇の中、存在だけを残したマスターが、薄く笑う気配がする。

 どこまでも気楽に、気さくに。けれど決して現実逃避ではない、覚悟に満ちた声で語る。

 

『ここは特異な場所だ。法則や常理すらない、可能性という最も単純なエネルギーが、形を持たず漂っている――そんな中で、僕達はまだ『僕達』のままでいる。ホメロスに強引に引きずり込まれたという状況と、令呪で繋がった魔力経路と……その……肉体的な、もにょもにょした繋がりで、互いを認識している』

「そこはもう、愛だか何だかではぐらかしときゃいいじゃねえか……ダレるなぁ」

 

 オレの呆れた苦笑に、マスターの笑みも重なる。

 随分昔のように感じられる、慣れ親しんだやり取り。

 愛しい時間を堪能しながら、マスターは話を続ける。

 

『つまり言いたい事はね。この世界にあるのは、全ての存在の根幹に当たる部分だ。小さな素粒子の組み合わせがあらゆる物質を生み出すように、ここに満ちたエネルギーは、全て最高峰の魔力リソースに転換できる』

「どうやって? エネルギーなんて言われたって、全然感じられないぞ」

『普通は無理だろうね。僕等もここではエネルギーの一つに過ぎないから……けれど君は、この世界でたった一つだけ、確かな形を持つ物を知っているだろう? 今目の前にいて、こうして話している存在を』

 

 そうして、彼は言い放った。

 何の躊躇もなく、これ以上無いほど自信に満ちた声で。

 

()()()()()使()()、モードレッド』

「……な?」

『謂わば今の僕はエネルギーの塊だ。物理学的に見れば太陽にさえ匹敵する程の莫大な、ね。君は魔力経路を使用して、僕の全てを無駄なく魔力に転用することができる。世界を飛び越える程に、存在を補強できるはずだ』

「待て! 待ってくれよ、冗談キツいぞマスター!」

 

 何を言われているか分からない。分かりたくない。

 マスターの概念を魔力に転換する。

 彼を構成する『可能性』そのものを消費する。

 脳筋のオレの頭でだって、そのおぞましさが魂喰いの比ではない事は分かる。

 

「消えて無くなるぞ! ホメロスみたいな一時的な否定じゃない、お前は本当に世界から消滅するんだ!」

『そうだろうね。手足が無くなったら、君に担いで貰わなきゃいけなくなるかも』

「そんな次元じゃねえよ馬鹿! 身体どころじゃない。精神も、魂も、下手すりゃお前が生きていた痕跡や、記憶だって……!」

 

 最悪、マスターは世界から消え失せる。

 世界の全てから『ないもの』として扱われる

 誰でもない、どこにもいない、虚構になる。

 それは、かつてオレが手首に傷を負った際に見た悪夢だ。余りの恐ろしさに、心を完全に打ち砕かれる程の。

 

「嫌だ! 嫌だよ、マスター! お前を穢したくない! 別の方法があるはずだ、今からでもそれを探そう!」

『残念だけれど、悠長にしてる暇はない。これが唯一の活路だ……なに、心配する事は無い。むしろようやく大好きな君の力になれるんだから、願ったり叶ったりかも』

「ふざけんな! お前を喰うぐらいなら、オレはこのまま、一緒に溶けて消えた方がマシだ! ……なあ頼むよ。オレに、お前を奪わせないでくれよ!」

『いいんだよ、モードレッド……いいんだ』

 

 マスターが柔らかく優しく、オレに囁く。

 その、余りに泰然とした、全てを悟ったような声音に、オレは何も言えなくなってしまう。

 

『前にも言ったよね、モードレッド。僕は本当に、君の隣に立つには値しない、つまらない男なんだって』

「っ……」

『凡百の魔術師の一人。生きる価値なんてありはしなかった。聖杯戦争を前に僕は自分自身を諦めきって、君に会う前に僕は死んだ。そして君に出会った瞬間、僕は世界で一番幸せな人間に生まれ変わったんだ』

 

 生きる理由の無かった人間が、生きる喜びを教えられた。

 得られる筈のなかった幸せを与えられた。

 決して訪れるはずがなかった、愛する人との穏やかな時間を過ごすことができた。

 どれだけ言葉を並べても、この喜びは表現しきれない。

 いくら気持ちを伝えたって、この愛が底を突く事はない。

 

 

『なら僕は、僕の全てで君に尽くしたい。君の栄光の糧になりたい。君に勝利を捧げられるなら――そこが、僕の終わりでも構わない』

「……」

『だからお願いだ、モードレッド。僕に、君のマスターとしての務めを果たさせてくれ。弱くてちっぽけなこの僕を、君の力にさせてくれ』

 

 

 切実な――文字通りの、全てを賭けた願い。

 言葉通りに全てを捧げる、余りに強く透き通った愛。

 それが、否応なしにオレの胸を打つ。ここで拒否する事が、何より彼を傷つける事になると分かってしまう。

 何に於いても、勝たねばならない――そう、確信する。

 

 

 

「分かった……分かったよ、マスター。だけど、一つ言わせろ。そして一つ、命令させろ」

 

 だからオレは、頷きながらも、虚空に向けて指を突き出した。

 マスターがオレを見ている。その優しく温かい視線に向けて、オレは宣言する。

 

「オレはお前の剣だ。聖杯なんてくだらない物の為じゃない。お前のためだけに戦うんだ! ……ッオレはお前が大好きだから! 世界で一番大好きなお前に、もう一度会いたいから、死に物狂いで戦うんだ! そんなオレに、決してマスター殺しなんて汚名を着させるんじゃねえぞ!」

『うん……了解だよ、モードレッド』

「そしてオレは、こんな形での離別なんて許さねえ! 必ず勝って、糞爺をぶち殺して! 世界を砕き割ってでもお前を取り戻す!」

 

 心が、確かに繋がる。

 か細かった魔力の経路が、温かい愛で満ちるのを感じる。

 

「だから、堪えろよ。忘れるなんて許さねえ。必ず生きて、あの湖で、お前の口から、愛してるって聞かせてもらう。元通りの両腕で抱きついて、キスをさせて貰う――お前の王からの勅命だ。破ったらぶち殺す。いいな?」

『はは――なら、ぶち殺される為にも、頑張って生きなくちゃ、だね』

 

 温かな光が流れ込んでくる。

 オレの身体が、心が、莫大な力に輝きを放ち始める。

 魂に、マスターを感じる。

 肌を触れ合わせるより何倍も強く、一つになるのを感じる。

 

 

 

 大丈夫だ。

 この胸の内の繋がりがあれば。

 魂に注がれる、熱く燃える力があれば。

 必ず会うと、マスターが約束してくれたから。

 オレ達の覚悟は、鋼よりも固く研ぎ澄まされ、恒星よりも眩く輝いている。

 

 

 

 だから、後は勝つだけだ。

 引導を渡して、幕引きだ。

 叛逆の騎士らしく、問答無用の無頼漢らしく。

 糞爺から、ハッピーエンドを簒奪してやる。

 

 

 

『勝てよ、モードレッド』

「生きろよ、マスター」

 

 

 

 軽く、互いを呼び合う。

 またすぐに会えるから、挨拶はそれで十分。

 そうして、オレはしばしの別れに、マスターから背を向けて。

 力を溢れさせる。

 虚構の世界から、浮上する――。

 

 

 

 



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42話

 

 轟! と。

 突然に地上から吹き上がった雷は、周囲の全て立ちどころに灰燼に帰し、トロイア平原の遍く全ての兵士の目を、真っ赤な紅に瞬かせる。

 旧世界の全てを震わし恐れ戦かせる輝きは、さながら神の降臨の如く。

 

 

「なっ……!?」

 

 

 蘇った脳裏に響く、老爺の驚愕の声。残っていたホメロスの語りの名残が、たちまち吹き出す赤雷に押し出されるように搔き消える。

 間欠泉のように吹き上がる魔力が、光の柱を立ち上らせる。

 

 

 それは聖杯をも凌駕する膨大な魔力。

 この世に存在しうるどんなオレも得られないだろう輝き。

 今のオレの、世界の全てと言ってもいい大切なものを捧げた、強烈で温かい光。

 その光に包まれ、オレは自分の形を取り戻す。

 片方だけ残った腕に確かな力で覚悟を握る。

 その覚悟を果たす為の剣を握る。

 言葉によって破かれた鎧が、再びオレの身体を包む。

 痛みはある。手首に刻まれた傷は深く浸食しオレを穢している。もがれた左腕までは戻らない。

 けれどもオレは、それを『下らない』と棄却する。

 

「もう惑わされないぜ、ホメロス」

 

 けっ、と笑い、纏いし鎧を煌めかせ、オレはどこかで聞いている筈の老爺を嘲笑する。

 

「確かに、すげえ世界だろうさ。強え奴ばかりだ。神が実際にいるなんてブルッちまうよ。だが……これが素晴らしい世界だ? まったく蒙昧も甚だしい」

 

 どこかで息を飲む気配。

 

「教えてやるよ、世界はいつだって素晴らしい。正解も間違いも有りはしない。お前が後生大事に抱える神だ何だは、ただの要素の一つに過ぎねえんだ」

「なん、だと……?」

「それを、オレ直々に思い知らせてやる。テメエが万の言葉で過去を邂逅するのなら、オレは剣の一振りで今世を讃え、それに応えよう」

 

 

 赤雷を切り開き、片腕でクラレントを掲げる。

 切っ先は真っ直ぐ天上。彼方のゼウスすら斬り伏せんと、この偽りの世界の全てに牙を突きつける。

 

「ッ――ほざくな、泥人形風情が! 貴様如きの剣に、誉れ高き神々の世が否定できるものかぁぁぁぁ!」

 

 脳裏に響く、ホメロスの怒声。

 四方八方から己の得物を光らせ、兵士達が突貫してくる。

 いずれも素晴らしき闘志。歴史に名だたる、英雄と呼ばれるに値する勇士達だ。

 だが、オレは怯まない。

 どれだけの数が立ちはだかろうが。神々の畏怖が降り注ごうが。

 この胸の内に宿る、たった一人の信頼に、勝る物など何もない。

 心に触れる彼の存在が、オレに力を与えてくれる。

 信じる決意に、背中を教えてくれる。

 何よりも近く、どこまでも強く、繋がっている。

 それが、オレに剣を取らせる。両腕で掲げたそこに、溢れんばかりの魔力が集う。

 

 

「我は叛逆の騎士に非ず。脈々と流れる世に生を授かりし、幾億の一たる只人である」

 

 

 古代の勇士が、怒濤の勢いでオレに迫る。

 ちっとも怖くない。どんな神性も恐るるに値しない。

 コレは亡霊だ。とうに過ぎ去った過去の影法師だ。

 幾ら強かろうと、神々しかろうと、中身は空っぽだ。

 

 

「我が座し此処は玉座に非ず。幾千年の過去を経て、幾千年の未来を仰ぐ、道半ばの刹那である。」

 

 

 過去が世界を名乗るなど片腹痛い。

 酸いも甘いも噛みしめて、前に進むのが世界だ。

 幾千年、幾億年も進み続けた功績が、人の歴史だ。

 それを『下らない』と断じる奴が、どうして世界の善し悪しなど語れようか。

 

 

「この胸に宿るは怒りに非ず。己が全ての時、全ての邂逅を尊び、祝福する心である。」

 

 

 そうだ、世界はいつだって素晴らしい。

 命に貴賤は無く、遍く全てが尊い輝きを放っている。

 彼が、それを教えてくれた。

 平凡極まる彼が、何よりも輝く愛を与えてくれた。

 その愛が、生きる喜びが、剣を握る力になる。

 一人じゃないという信頼が、全てを肯定する光芒になる。

 

 

「我が翳すは栄光の剣! 決意を束ね、誇りを司り! 連綿と続く営みを肯定し、全てを讃える光芒である!」

 

 

 潰れた目を精々見開くがいい!

 その耳で憶せよ! 肌に触れて恐れ戦け!

 我が父への復讐でも、今までのオレへの誇りでもない!

 この時を生きたオレだけが放つ、何よりも強い栄光の一撃!

 この赤雷が、貴様の過ちを灰燼に帰す!

 時を止めた貴様の錆びた誇りを、粉々に打ち砕く!

 

 

 

我が麗しき、今生への礼賛(クラレント・アドミラブル・オーダー)!!」

 

 

 

 そうして放つ、至上の一撃。

 マスターと共にオレの全てを乗せて放たれた光は、迫り来る兵士を立ちどころに消滅させて突き進む。

 戦場に広がり、突き進み、雷を迸らせながら、紅蓮の魔力が全てを飲み込んでいく。

 それはまるで終末の洪水の如く。世界を破滅させた暴虐のように、ホメロスが作り上げた過去の偶像を吹き飛ばしていく。

 過去の偶像の全てを塗り潰す。その音と光からは、何者も逃れられない。

 

 

 例えホメロスが瞬間移動の特殊能力を持っていようと――その種は既に割れている。

 あの固有スキルは、奴の逸話が変質したものだ。今も出自の判別としない、『あらゆる場所で語られた』という肩書きに基づく瞬間移動。

 故に奴は、語るからこそその能力を発現できる。

 語りを聞くものはいない。オレの轟音が、全ての声を吹き飛ばす。

 

 

 まして、感覚の全てを塗り潰すオレの光が。

 愛する人の魂までを捧げて放つ、全身全霊の一撃が。

 ――テメエのちっぽけな言葉なんかで、表現できようものか!

 

 

「ぬぅぅ――ッ!?」

「ッ――そこだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 光芒の中に、微かな揺らぎ。

 そこにオレは、剣を翻し、渾身の突きを放った。

 溢れる魔力で大地を蹴り、自らが放った紅蓮の魔力に、尚紅い線を引く一筋の光芒になる。

 オレのクラレントは世界を貫き、空を裂きながら突貫し――とうとう光の波を抜け、衝撃に戦くホメロスの肩に深々と突き刺さった。

 

 

「ぐぼぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」

 

 

 完全に予想外の衝撃に血反吐を撒き散らせホメロスが唸る。深々と突きささったクラレントが、辿り着いた得物に歓喜するように輝く。

 

「ようやく会えたぜ、糞爺! テメエをぶん殴る時を、ずっとずっと心待ちにしてたんだ!」

「ッ我が姿は――」

 

 激痛に苛まれながらも、瞬間移動を行うべく言葉を紡ぐホメロス。

 振り上げたオレのつま先が髭もじゃの顎に突きささり、奴の口を強引に閉じさせた。砕けた歯が血と共に噴水のように宙を舞う。

 

「ごっ……!?」

「戯言に、これ以上付き合う義理はねえよ! 大事なものを背負って立つこのオレが! 人影にコソコソ隠れてしか吐けねえ腰抜けの戯言に靡くものか!」

 

 蹴り上げた身体に続けざまに掌底を叩き付け、血反吐と共に吹き飛ばす。声にする空気を吸い込む暇も与えず、蹲る奴に更に蹴りを見舞う。

 

「テメエはオレの誇りに泥を塗り! 無為に潰えるだのほざき、泥人形だなんだとコケにし、とうとうオレのマスターまで奪いやがった!」

 

 立て続けに、息つく間もない連撃。片腕と両脚で、巨体に余すところなく撃を飛ばす。

 今まで蓄えていた全てを爆発させ、力に変えてぶちまける。

 

「両手じゃ足りねえ罪の数! 万死に値する屈辱だ! どれだけ殴っても足りやしねえ!」

「ご、あああああ! 貴様ぁぁぁぁぁぁ――がぼッ!?」

「うるっせぇ! 土でも喰ってろクソ野郎!」

 

 脳天に踵を見舞い、吼え立つホメロスの顔面を大地に埋める。

 そうしてオレは、ありったけの魔力を右足に籠める。

 狙うはただ一点、血反吐を吐き散らす老爺の顔面。

 

「全部砕く! 破壊する! オレはテメエの全てに叛逆し、唾を吐いて捨ててやる!」

「っ……か、ほ……!」

「テメエのムカつくプライドも上から目線の傲慢も、神だ何だの妄言も! 全部全部ひっくるめて――黴臭え世界ごと吹き飛べぇ! ホメロォォォォォス!!」

「がッ――ぱあぁぁぁぁッッッッ!!」

 

 

 歴史を紡ぎ、全てを唾棄する大口を、叛逆の意志が砕き割る。

 特大のサッカーボールキックが顔面に深々と突きささり、奴の巨体は遙か彼方、幾人の兵士を巻き込みながら吹き飛んでいく。

 オレは空っぽになった腕を突き出し、遙か彼方の土埃目がけ、ビッと中指を突き出した。

 

 

 

「あばよ語り部。次は命乞いでも練習して出直してきな」

 

 

 

 その背後から、カッ――と感覚を塗り潰す、閃光。衝撃。

 赤雷がオレを追い越して地を奔り、ホメロスが吹き飛んだ場所までを飲み込み、世界を覆う。

 奴が産み出した過去の幻想を、全て焼却する。

 渾身の一撃が光を収めた時、視界に広がる全ては、オレの蹂躙されていた。大地は捲れ上がって焼け焦げ、所々で倒壊した木々が煌々と燃え盛っている。

 大量に群がっていた兵士は、一人も立っていなかった。大半は光に当てられて跡形も無く消滅し、一部の焼け焦げた姿を残すのみ。

 

 

 トロイア平原は潰えた。

 今を生きるオレによって、神代の世界は燃え尽きた。

 裸になった平野に戦士の剣が散らばる光景は、まるであの時のカムランを思い出させた。

 オレはまた、世界を一つ壊したのだ。

 今度は叛逆でなく、世界を守る為に。

 国王への怒りではなく、たった一人への愛を胸に。

 



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43話

 

「……無事でいろよ、マスター」

 

 

 どこかで今も待っているはずの彼を呼ぶ。

 迎えに行かなければ。約束通りの勝利だと胸を張り、褒め称えて貰わなければ。

 オレは果てまで飛んだクラレントを喚び戻そうと意識を探り。

 

 

「――」

 

 

 その刃に、確かな手応え。

 緩みかけていた意識が、急速に戦場に引き戻される。

 視界を巡らせれば、死地と化したトロイア平原。

 命の気配が潰え炎を上げるその荒野が――消え去る気配はない。

 更に視線を巡らせれば、地平の彼方で、もぞりと何かが蠢く気配。

 荒野の只中で、兵士が積み重なり、小さな山を作っていた。

 死に絶えた兵士の山がもぞもぞと蠢き、次いで放たれた突然の衝撃で、焦げた身体がバラバラになって吹き飛んでいく。

 

「っ……が……はぁ、ハァ……!」

 

 その屍の山から、口ひげを鮮血で真っ赤に染めた老爺が、息を喘がせながらゆらりと立ち上がった。

 その光景が信じられず、オレはしばし瞠目する。

 

 

 

 兵士を重ねて、盾にした?

 下素の策だが、それよりも……あれだけの打撃を与えて、閃光に飲まれる一瞬で、その判断を下したのか?

 どういうことだ。ただの語り部の生き汚さじゃないぞ。

 

 

 

「ッその力、その覇気、その魔力、先ほどまで死に体とは到底思えぬ……全く以て、理解できぬ……!」

 

 オレの一撃を耐え抜いたが、それでも相当に効いたようだ。度重なる連撃が身体に痣を浮かべさせ、肩口に突きささったクラレントからは、今も夥しい量の鮮血がこぼれ落ちている。

 

「……もう終わりだ、ホメロス。神は消えた。テメエの過去の妄執は、オレが全て吹き飛ばした。その時点でもうテメエの負けだ」

「が、は……かはははっ」

 

 血反吐を吐き散らせながら、ホメロスは笑う。

 引き抜いたクラレントを地に放り、奴は立ち上がる。真っ赤に濡らした顎髭を揺らし、欠けた歯をギリと食い縛らせて唸る。

 

「巫山戯るな。地上にあるべき支配者は、神を於いて他にはおらぬ。それを知らしめるまで、我は潰える訳にはいかぬ……! 我が宿願は、果たされねばならぬ……!」

「往生際が悪いぜ。テメエがどれほど神に心酔してようが、今は、人の世だ。神はもう必要ねえんだよ」

 

 やはりこの爺は、害悪だ。過去に縛られた妄念だ。

 一息に断ち切るこそが、最期に相応しい。

 会話を楽しむような酔狂さはない。オレにはマスターが待っている。

 オレは走り、大地に転がるクラレントを手に、瀕死のホメロスに向けて躍りかかる。

 

 

 

「どう思おうが、テメエが始めた歴史だ。あの世で、責任持って見届けてろ!」

 

 

 

 巨体に飛びかかり、脳天目がけの大上段。

 長く続いた戦いに終止符を打つべく放った一撃は――しかし。

 

「っな……!?」

 

 得られるはずの手応えがない。

 吹き上がる筈の血飛沫がない。

 万感の思いで大地を踏むはずの脚は、宙にぶらりと浮いている。

 真っ二つにするべく振り下ろしたオレのクラレントは――ホメロスの額に接する紙一重で、彼の両腕によって押し留められていた。

 

「白羽取り!? んな、馬鹿な……!」

 

 有り得ない。オレは儀礼を果たした。

 必ず一刀で終わらせると、トドメの一撃だろうと決して手は抜かなかった。

 セイバーの、モードレッドの全身全霊の一撃だ! キャスター風情に、止められていい筈がない!

 

「くく……くははははははは」

 

 驚く間にホメロスはさっと腕を翻し、オレの片腕を鷲掴んだ。クラレントを握りしめたままのオレの手首が、有り得ない膂力にミシと軋む。

 宙に持ち上げられたオレの顔を、ホメロスが見上げる。

 血の染みついた髭を蓄えた老爺の顔は、間違いなく詩人ではない。

 さながら古豪。老傑。その瞳の奥に煙る昏い炎は、あるいは……鬼か。

 

「神など必要ないか……愚か、愚か。真に度しがたい衆愚である」

 

 そうして、奴はニィと血塗れの歯を見せて笑い、懐からそれを見せびらかす。

 金色に輝く、杯。

 

「ッテメエ、聖杯を……!」

「愚昧はこれだから困る。世界は元より神の物。貴様がいかな理由や覚悟を並び立てようと、前提は覆らぬ。貴様等の歴史は、世界という器に舞い落ちた埃に過ぎぬのだ」

 

 蕩々と語るホメロス。その身体に、聖杯からの膨大な魔力が流れ込んでいくのを感じる。

 奴の光を映さない盲目。そこを覆っていた入れ墨が、神々しい紅の光を纏い出す。

 オレの怒りよりも尚どす黒く、沼のように深い――妄執の紅。

 肩を抉り抜いていた傷口が、メキメキと音を立てながら蠢くと、瞬きの内に塞がってしまった。

 悍ましい魔力を増大させながら、オレの目の前でホメロスは、全く別の何かへと変貌を遂げていく。

 

「ッ何のつもりか知らねえが、させるものかッッ!」

 

 オレはクラレントを敢えて取り落とし、宙を舞うそれを蹴り付ける。

 しかしホメロスは、老体とは到底思えない身の翻しで、殆どゼロ距離で放たれた剣を躱して見せた。

 

「ごおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 次いで放たれる、拳。

 重機が激突したような衝撃が胸を襲い、オレはゴム鞠みたいに荒野を飛んだ。大地を何度も跳ね、土埃を巻き上げながら墜落する。

 目を白黒とさせながらようよう立ち上がれば――オレの胸当てがべこりと陥没し、深々とした亀裂を穿たれていた。

 もう少し当たりが悪ければ、そのまま砕け散っていてもおかしくない程の、致命的な損傷だった。

 

「がは……っ嘘だろ。いくら聖杯があったって、ただの拳が破って良い鎧じゃねえぞ!?」

 

 瞠目するオレに、ホメロスは悠然と歩み寄る。

 魔力は今や火柱のように立ち上がり、ホメロスの目元の意匠を太陽のように煌々と輝かせる。

 

 

「野を焼き、兵を排し、それで神々の世を下したつもりか」

 

 

 その威圧は。応対した者を、否応なしに膝を折らせる迫力は。

 それこそ、先に打ち倒した大英雄に勝るほどの――。

 

 

 

「馬鹿な事を! 神は潰えぬ、貴様なぞに斃せはせぬ! 神は今――()()()()()()()()()()()()()ァ!」

「な……」

「もはや言葉は要らず! 貴様の魂、我が授かりし神の権能にて、完膚無きまでに踏み躙ってくれよう!」

 

 

 

 それはさながら、世界全てが牙を向くような威光。

 肌をビリビリと震わせる感覚は、畏れ。

 オレを飲み込み圧殺する程の覇気を纏い、老爺は変貌を遂げる。

 神話を語りし歌い手から――神話そのものへ。

 荒野の只中に、最後の敵が降臨する。

 

 

 

 

 

「照覧せよ! 我は神の介在を証明するもの! ヘルメスの系譜にして、アテナの寵愛を授かりし最後の神性! 我が真名は――」

 

 

 

 

 

 

「イタケーが王、オデュッセウスである!」

 

 








ホメロス(術)

筋力C++ 耐久C++ 敏捷E
魔力D  幸運A  宝具EX


【スキル】
・千里眼(盲) C++
盲目故に一切の光を見ることができないが、神霊との交信、霊脈の流れを読む事に卓越したスキル。
特に使い魔や英霊に対しては、未来予知に近い優れた洞察力を得る事ができる。

・虚な語り手 EX
ホメロスという名前が『イーリアス』『オデュッセイア』の語り手として各地に流布し、未だその正体や出自を明らかにされていない事実から派生したスキル。
彼が意志ある言葉を紡いだ場所に、瞬間的に転移することができる。指定する箇所には、最低一人の聞き手が必要。極低ランクだが、気配遮断の効果も有する。

・神性 E
彼が生きた時代はまだ神と人との距離が近く、僅かに神の血が混じっている。効果は人よりも頑強で長寿である程度。


・■■■■ ■
■■■■■■■■■、■■■■■■■■として■■■■■■■■■。
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・皇帝特権 EX
ホメロスという観念的な名を捨て、オデュッセウスとして発現するスキル。
古代ギリシャの王としての権威に加え、彼は自らの冒険において受けた神の寵愛から、神霊に匹敵するスキルを獲得できる。
最高クラスの戦闘続行、アテナの加護を受けし天性の肉体。キルケーの大魔術さえ跳ね返す対魔力により、その肉体は神の権能を誇示するに値する超常の力を有する。
名を捨てる事を発動条件とするため、スキルの使用と同時に、ホメロスとして所有していた一部のスキルや宝具を消失する。





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44話

 

 長く、厳しい、戦いがあった。

 人の誇りと、神の面子を賭けた、雌雄を決する大戦であった。

 男と神々はトロイアの地に集い、十年を戦い続けた。

 多くの英雄が生まれ、それと同時に多くの英雄が散った。神の加護が大地を包み、寵愛が勇士を奮い立たせ、己が手と信奉する神に勝利を捧げるべく剣を握らせた。

 世界の全てが、その戦場に収束していた。終わりを迎えるその時まで、そこが世界の中心だった。

 

 

 

 その厳しい戦いを終え、互いが互いの帰路に着き。

 そこで更に、長く、厳しい、旅をした。

 あらゆる神秘が立ち塞がった。神々の手が、幾度も自分を翻弄した。

 神の洪水に流されながら、人を喰う巨人を躱し、悪しき魔女を退ける。幾度も生死の境をさまよい、時には溺れる程の耽美な愛にさえ背を向けた。

 想像を絶する困難が待ち受けていたが、そのいずれにも屈さなかった。

 自分には、帰りを待つ家族が居たから。

 収めるべき国があったから。

 そして、使命を胸に進む自分を、神が照覧されていたから。

 だから自分は強く在った。決意を胸に、死よりも辛い、気の遠くなるほどに長い旅路を、進み続けた。

 過酷な旅路の先に待つのが、長らく求めた安寧であると信じて。

 

 

 

 しかし、現実は違った。

 ようよう帰り着いた自分を待っていたのは――失望。

 自分はとうに死んだ事にされ、王城には資産を狙う下素共が虻のように集っていた。

 奴等は大いなる戦に繰り出した自分への敬意も何もなく、ただ欲望の赴くままに財を食い荒らし、女を漁り、酒池肉林の中で堕落の限りを尽くしていた。

 

 

 神の姿など、そのどこにも見当たらない。

 直ちに全員処断を下し王座を取り戻したが、胸に抱えた失望までは消え去らない。

 ようやく辿り着いた安寧は、愚かな人々が意義もなく堕落を貪る、退廃の世であった。

 人間の愚昧に、気付いた瞬間だった。

 

 

 揺るがぬ玉座に座り、無味乾燥な空気を吸い、思い浮かぶのは過去の激動の事ばかり。

 恐怖し、憔悴し、何度も死を覚悟したが、それでもあの世界は美しかった。

 神と共にある戦いは、何よりも尊い誇りに満ち満ちていた。

 例え幾年と時が過ぎようと、あの戦い、あの旅路に勝るものは現れるまい。誰よりも深く、激しく経験したからこそ、自分はそう確信を以て言う事ができた。

 

 

 

 そうやって、玉座に居座り、過去の誉れに浸って時を過ごしていた――ある日。

 唐突に、神はこの世界から姿を消した。

 自分は何の予兆も感じる事はできなかった。今をもっても、その理由は不明なまま。

 ある日不意に神の声が聞こえなくなり、それっきりだ。

 予言も、寵愛も、世界から消えていた。

 瞬きの内に、世界は神々から隔絶された。

 

 

 あらゆる痕跡を探し回ったが、無駄だった。

 身体に満ち満ちていた神性は霧散し、微々たるものとなっていた。

 神の血を引いていた勇士も友も、理解の追いつかないまま、嘆きながら死んでいく。

 神々が、急速に我々から離れていく。

 あの輝かしき世界が、二度と訪れない幻になってしまう。

 その恐怖は、いくら言葉を尽くそうとも語れない。

 

 

 だから自分は両目を潰し、空洞になったそこにあらん限りの神性を集めた。

 千里眼を得た自分の目は、未だ世界に流れる微弱な神性を見た。

 この神性を守らなければいけない。いかなる手を使っても、残さなければならない。

 ゆえに男は語り始めた。自らが経験した全てを、余すところなく言葉にして。

 人々の信仰を集め、神霊をこの世に繋ぎ止めるべく。

 

 

 その試みは間違えていなかった。

 男の行いは正しいものだった。

 ただ一つ読み違えていたのは――人間の愚かさ。

 男の言葉を空想と断じ、嘲笑を交えて面白がった。

 自分の言葉は、神話を、愚昧な人間共の酒の肴にしてしまったのだ。

 そうして、神霊は潰えた。

 地上から完全に神は退却し、愚かな人間達だけが跋扈する世が始まった。

 

 

 

 故にこそ、自分は奴隷(ホメロス)なのだ。

 世界を人に明け渡させた大罪人。

 愚かな人の世界に置き去りにされた囚人。

 幾ら悔やんでも、嘆いても、時を戻す事は出来ない。

 以降何千年と続く歴史の全てが――自分の罪なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なるほどな……」

 

 新たに現出させたクラレントを握り、オレは立ち上がる。

 目の前に立ちふさがる老爺は、いまや聳え立つ山を前にしたような途方もないプレッシャーを感じさせる。

 その意匠は、もう語り部ではない。ただの老人でもない。

 その正体は、かつてアキレウスら勇士らと並び立ち戦場を駆けた、世界最大の英雄の一人。弁舌に長けるギリシア随一の知恵者であり、それでいて勇猛果敢の猛力の将。

 英雄、オデュッセウス。

 

「つまりは、自叙伝か。イーリアスも、オデュッセイアも、テメエの作品は全部、テメエの目で見た経験って訳だ」

「そうだ。我は、信奉した素晴らしき世を風化させぬべく、我が人生を言葉にして語って聞かせた。実に三百年をかけて、延々と」

 

 遠くはヘルメスの系譜。体内に残った微弱な神性が、彼の老いて尚の活動を可能にさせたのだろう。

 そこで「しかし」と言葉を区切り、オデュッセウスは憎々しげに奥歯を噛む。

 

「それこそが我の、大いなる誤りだった。愚昧な人間の空想を頼りにしたが故に、神話は本来の神性を失ってしまった」

「だがお前の言葉は、今の人類史の下地を作ったぞ。それは紛れもなく、お前の功績じゃねえのか?」

「ハッ……功績であるものか。これは罰よ。我が崩れさせた世界が苔生していくのをただ眺めさせられる、生涯続く拷問だ」

 

 そうしてオデュッセウスは、懐から聖杯を取り出す。眼前に翳し、神を見据える千里眼で以て、その輝きを見る。

 

「故にこそ、我は必ず、この世界を修正する。今度は間違えない。聖杯を用いて、疑いようのない力で以て、この世に神を顕現させる」

「進展のねえ押し問答だ――オレの世界を穢させやしねえって、何度言や分かんだクソジジイ!」

 

 咆哮と同時に、オレは走り出す。

 そのオレに向けて、オデュッセウスは静かに手を掲げた。

 手に現れるは、身の丈ほどもある巨大な弓。

 巨大な生物の角を削り出して作られた白磁の強弓をギリと引き絞り、オデュッセウスは紅に輝く千里眼で、オレを確かに射竦める。

 

「『帰還を告げし十二斧(ヴァシレフス・オイストス)』」

「ッ――!?」

 

 ぞっと背筋を駆け巡った悪寒に、咄嗟に身を翻す。

 赤黒いの魔力を噴き出して飛翔した矢が、先ほどまでオレの胸のあった空間を、ヴンと音を立てて抉り抜いた。

 その一矢の鋭さ、迸る魔力は、オレのクラレントに匹敵する程の力。空間が削れる迫力に、肌がビリビリと痺れを覚える。

 

「ッお、おおおおおおお――ぉ!」

 

 気圧されて堪るか。オレはクラレントを握り直し、巨体に向けて躍りかかる。

 下から掬い上げるように振るったクラレントを、大上段から振るわれたオデュッセウスの弓が迎え撃つ。

 相当の業物か、あるいは余程の怪物の骨を素材にするか、オデュッセウスの弓は火花さえ散らして、オレのクラレントと拮抗する。

 否……拮抗するばかりか。

 

「ん、だよ、その馬鹿力……!? オレが、押し、負け……!」

「いつまでも頭に乗るなよ、泥人形風情が! その蒙昧、王への、神への! 不敬と知れぇぇぇぇ!」

 

 咆哮したオデュッセウスが更に振り下ろした剛弓が、大地を抉り抜きながらオレを遙か彼方へと吹き飛ばした。

 このオレが、鍔迫り合いで押し負けた。どんな奇跡かスキルが働いているか知らないが、今のオデュッセウスは、セイバーを越える程の膂力を身につけている。

 力比べでは押し巻ける。ましてやこちらは片腕。更に悪い事に、残った方の腕も手首に――

 

 

 そこまで思考し、はたと気付く。

 何ヶ月もオレを苦しめ続け、ほとんど諦めていた痛みが、無くなっている。

 

「手首の傷が、消えてる?」

「然り。我は既に詩人に非ず、猛き世を生きた戦士なり。この身に神の権能を宿した時、我は語り部として有していた力を失う」

 

 オデュッセウスは二本目の矢を番え、盲目の身でありながら、真っ赤に燃える鏃をオレの眉間に真っ直ぐ突きつける。

 

「故にこそ! 我は貴様を、力によって叩き潰す! 我自身が神の勇猛を体現し、貴様の誇りを、真正面から打ち砕いて見せようぞ!」

「ッハハ、上等だ! いけ好かねえ居丈高だが、その啖呵は気に入った!」

 

 オレは牙を剥いて笑みを作ると、力強くクラレントを握り締める。

 もう痛みも畏れも必要ない。手に吸い付く柄の感触に、否応なしに心が昂ぶる。

 ようやくオレは、心おきなくオレであれる。

 戦う事に、素直に心を踊らせられる。

 

「我が王の足下にも及ばねえちっぽけな王が、よくもまあ吼えやがるぜ! この叛逆の騎士モードレッドが、ブリテンに引き続き、テメエの頭の中の仮初めの王国もぶち壊してやるよ!」

「仮初めでは無いと、言っておろうがぁぁぁぁぁ!」

 

 オデュッセウスが弓を引き絞り――解放。伝説の勇士が放つ一矢が地を奔る。

 彗星のような一撃を、オレは横っ飛びで回避。クラレントを手に突貫する。

 

「戦神アテナの寵愛を受けしこのオデュッセウス、力で勝る事は決して叶わぬと知れ!」

「ああ、身内にもそういう奴がいたよ! バカ力で、その分頭もバカなゴリラ野郎がなぁ!」

 

 振り下ろされた剛弓。それに迎え撃とうと剣を翳し――直前でひらりと身を翻す。

 大地にクレーターを産むほどに強烈な一撃。その反動で硬直したオデュッセウスの腕を駆け上がり、そのしかめ面目がけ、魔力を乗せた膝を叩き込んだ。

 

 

 

 骨を砕き、肉を潰す確かな手応え。

 しかし膝を引き抜くより先に、オデュッセウスの丸太のような腕が、オレの足首を鷲掴みにし、そのまま大地に強かに叩き落とした。

 

「ちょこまかと煩わしいぞ、鼠がぁ!」

 

 何度も、何度も。身体がバットのように振り回され、大地に叩き付けられる。勢いだけで、太股から身体が千切れてしまいそうだ。頭に血が上り、視界がカァッと赤くなる。

 

「ッが、ぁぁぁぁぁ!」

 

 振り上げられた一瞬の隙を突き、オレはオデュッセウスの手首を切り裂いた。かつてのオレがそうであったように、奴の手から力が抜け、オレの身体が宙に舞う。

 

「顔面を砕いても駄目なら――その首を、貰い受ける!」

 

 落下の勢いのままに振るう一閃は、しかしオデュッセウスが上体を逸らした事で、奴の肩に深々と突きささる。

 吹き出す鮮血。バキバキと骨を断ちながらクラレントが埋没する。

 しかし肉を断つ感触は直ぐに止まり、オレの一撃は、鋼鉄のような肩甲骨を中程まで砕いたあたりで押し留められる。

 

「かっははは! この程度の刃で、我を下すとは片腹痛いぞ!」

「ちょっとは痛がれっての、クソジジ――わっ」

 

 悪態を吐く隙に手首を握られ、またもオレは空中に拘束される。

 もう一方の手がオレの首をがっちりと鷲掴みにする。

 猛烈な息苦しさの中見下ろせば、奴の肩にめり込んでいたクラレントが一人でに抜け、その傷跡が凄まじい速度で塞がっていく。

 圧倒的な回復。神の恩寵を授かる天性の肉体。それでも眼前で蠢く肉体は、さながら悪夢が形を為したよう。

 

「っなん、だよそれ。正真正銘の、化け物じゃねえか……!?」

「我はいかな傷を負っても、神がどのような試練を与えようとも、全てを耐え抜き、生き延びてきた……今の一撃、確かに響いた。しかしただの鋼が、我が身体を貫くことは決して叶わず」

 

 酷薄に、獣のように牙を見せて笑うオデュッセウス。先ほど確かに砕き割った顔面は、もう鼻血の一滴も残さず回復している。

 光を映さぬ盲目は、しかし迸る程の野心による黒濁とした色を讃えていた。ミシをオレの首を軋ませ、凄惨に笑ってみせる。

 

「ぐ、が……!」

「命の、格が違うのだ。神々の系譜に座す我と、不出来な泥人形の貴様。優れた方がどちらか等、論じるまでもない」

 

 

 今度は殴り飛ばしも、叩き付けもしない。

 ただ奴は悪魔のように笑うと、首から手を離し、オレのもう片方の手――アキレウスとの激戦でねじ切れた腕におもむろに手を伸ばし、思い切り握り潰した。

 

 

「づ――ぎゃあああああああああああああああああ!!」

「くはははは! 治らぬなあ、その腕は! 今貴様の身体を劈く痛みが、貴様の不出来たる証拠であるわ!」

 

 

 ぐずぐずに潰れた肉が更に挽かれ、砕かれた骨や鎧の破片が神経を更に傷つける。ようやく忘れ掛かっていた痛みが、何倍もの刺激になって脳を焼け焦がせた。 

 オデュッセウスは更に笑みを吊り上げ、手に力を込める。血管がブチブチと音を立てて千切れ、まるで新聞紙を丸めるように、オレの断面が捏ね潰される。

 

 

「ぎぃぃぃぃぃぃ! うわああ、わああああああああ!」

「天罰であるぞ、叛逆の騎士ぃ! 度重なる神への不敬、自らの愚昧も認めぬ傲慢、その痛みで以て魂に刻めぇぇぇぇぇい!」

「ぎゃああああああああ! あああ、死ねぇぇぇぇぇぇ!」

 

 

 発狂寸前の意識を振り絞って蹴りを放つも、オデュッセウスはあっさり顔面で受け止める。へし折った鼻が、強烈な笑みの中でゴキゴキと回復していく。

 お返しにオレの胸に飛び込む、強烈なアッパーカット。ひび割れていた胸当てが、千切れるような音を立てて砕け散る。

 

 

「そしてぇぇぇぇ!」

「がッ――」

「己が下等を思い知り――地に伏し、恥じ入り! 崇め奉れぇぇぇぇぇぇぇい!」

 

 

 そのままオデュッセウスは、オレに突き刺したままの拳を、全力で地面に叩き付けた。

 地殻と一緒に骨が砕け散る。まさしく星を割るような一撃が、オレの胸に直撃する。

 大地を消し飛ばす衝撃。その爆発に巻き込まれ、オレの身体も吹き飛んでいく。

 言葉も出ない。感覚すらも追いつかない、圧倒的な力が、蹂躙する。

 

 

 

 



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45話

 

 吹き上がった砂塵が、視界を赤褐色に染める。

 轟音の余波と暴風だけの、静寂。

 やがて砂嵐が止み、視界が再び鮮明になり。

 ――地に立つオレを認めて、オデュッセウスは忌々しげに顔を歪めて見せた。

 

「誠に、愚かなりや、叛逆の騎士」

 

 紋様を紅く灯らせた瞳を向け、ホメロスは侮蔑の言葉を続ける。

 

「我が千里眼は健在。貴様の霊基はありありと視えている。魔力は残っていても、器の方が崩壊寸前であろう。今この瞬間にも、内側から爆ぜてもおかしくない」

「……」

「その状態こそが、貴様の不出来たる証。より優れた神の威光をその身で浴びて、この上まだ醜態を晒すか。その意固地、あまりに無様であるぞ」

 

 苛立ち混じりの声が、オレを蔑む。

 感覚はまだ元に戻らない。先ほどの衝撃で、身を守る鎧は殆ど砕け散った。

 痛みと衝撃で、脳味噌がミキサーに駆けられたみたいにグラグラする。

 

「……不出来だとか、出来損ないだとか、そんな事は関係ねえ」

 

 力の差は圧倒的だ。神に人が立ち向かうのは馬鹿げた事だ。

 そんな事は分かっている。でも、でも。

 

「テメエの、馬鹿みてえな力自慢が……世界を持つ資格なんかに、なるものか」

「……」

「オレは、ホムンクルスだ。お前の言う通りの、出来損ないの泥人形だよ……でもな、この世界には、そんなオレを愛してくれる男がいた。ホムンクルスのオレが、この世界で、いちばんと思えるくらいの幸せを手に入れられた」

 

 大地に突き立てた剣を杖にしながら。オレは立ち上がる。 霞む目を見開いて、奴を見つめる。光を失った盲目の目を、嘲笑と共に睨み付ける。

 

「何度でも言ってやる。世界は誰の物でもない。どんな命だって、等しく尊いんだ……優れた命だとか、元々の所有物とか関係ねえ。今は、人の世なんだ! テメエみたいな老害が、しゃしゃり出る場所なんて有りはしねえんだよ!」

「老害、だと……!」

「ああそうさ、昔が良かったって呟くジジイと何も変わらねえ! 歴史を作った功績こそあれ、今のテメエの言葉には、耳を傾ける一片の価値もありゃしねえぜ!」

 

 そうだ、オレはこの世界の素晴らしさを知っている。

 一人の人間として生きる事の嬉しさを、愛し愛される事の喜びを知っている。

 かつて神は人を愛しただろう。それはさぞかし輝いていただろう。命を燃やして、誇りの為に戦っただろう。

 けれど、神が退去したって、その営みは続いた。

 命ある限り、英雄は生まれ続ける。世界は輝きを放ち続ける。胸が一杯になるような愛が、誰かを幸せにし続ける。

 だからオレは折れない。

 守るべきモノが、オレの背中を押してくれる。立ち続ける勇気をくれる。

 

「当然かもしれぬが……やはり、分かり合えぬか」

 

 オデュッセウスは微かな落胆を滲ませ、すぐにそれを、途方もない憤怒の魔力で吹き飛ばす。

 矢を番えた弓を手にし、そこに今までで最も強い魔力が籠もる。

 燃え盛る黒紅の魔力を浴び、オレの眼と盲目が交錯する。

 

「もはや言葉を交わす価値も無い。十二の斧を穿ちし我が剛弓によって、風穴を空けて散るがいい」

「ほざけ老体。テメエの使命と、オレの覚悟。どっちが重いか、白黒ハッキリ付けようじゃねえか」

「この後に及んで烏滸がましいわァァ! 神の威光の前に、藻屑と散れぇ! 『帰還を告げし十二斧(ヴァシレフス・オイストス)』!!」

 

 咆哮と共に、顕界まで引き絞られた弦が解き放たれる。

 轟! と世界が揺らぐ。

 射出された光芒が、空間を割る程の速度と威力で、オレの胸を穿つべく飛翔する。

 回避は不可能。故にこそ、立ち向かう。

 

「怯むものか! 貫けぇ、クラレントぉぉぉぉ!」

 

 オレはありったけの魔力を籠めて、クラレントを投擲した。

 焔の如き燃え盛る黒紅と、激しく迸る赤雷が激突する。

 互いの全力を籠めた激突は、あらゆるものを吹き飛ばす大爆発を巻き起こし、とうとう両者一歩も引かずに互いの刃を打ち合った。

 ギィン! と目覚ましい音を奏で、矢とクラレントが、方々に吹き飛んでいく。

 それを目で追う暇は無い。オレは直ぐに両脚に力を籠め、オデュッセウスに向けて肉薄した。

 

「学ばぬ奴。人の愚かさを、自ら体現しに来たか!」

 

 オデュッセウスが大弓を振るう。力では決して叶わないという現実を知らしめる横薙ぎの一撃。

 それは途方もない威力故に、大振りで読みやすい。オレは感覚を鋭く研ぎ澄ませ――迫り来る弓の柄を、オレの足裏で踏み潰した。

 

「ぬぅっ!?」

「テメエこそ、いつまでも無敵を気取ってんじゃねえぞ! テメエの目の前にいるのは、あらゆる道を切り開く円卓の騎士サマだ!」

 

 大地に縫い付けた大弓。そこにぴんと張られた弦に、オレは更に自分の脚を叩き付けた。

 豪腕のオデュッセウス以外に引ける者無しと謳われた剛弓は、しかしオレの全霊の蹴りを受けて、グンと撓む。

 歌われし逸話の通りの力で、弓はオレの蹴りを受け返し、オデュッセウスに向けて思い切り射出した。

 驚きの表情を讃えたオデュッセウスの髭もじゃの顎に、先の何倍もの破壊力の膝が突き刺さる。

 

「が、ぱぁ!?」

「オラ、今度は効いたろ! モードレッド様の喧嘩殺法、カウンターキックだ!」

 

 続けてオレは魔力を腕に。浮き上がったオデュッセウスの手から、剛弓を弾き飛ばす。

 互いに徒手空拳。オレは片方しかない腕を突き出し、クイクイと奴を挑発する。

 

「来いよ、老体。命の格がとか抜かしてると、あっという間に刈り取っちまうぞ!」

「ッどこまでも礼儀を知らぬ、猿めがァ!」

 

 山のような巨体が、拳を握り迫り来る。

 繰り広げられるは、互いの誇りと、世界を駆けた一騎打ち。

 オデュッセウスが振り抜いた拳は大地を抉れば、オレの蹴りは赤雷を纏い奴の骨の髄を痺れさせる。

 互いの一発一発が、重機のように強烈な一撃。肉を打つ強烈な打音が空間を戦慄かせる。

 覚悟は互いに一歩も譲らない。苦悶の呻きの次の瞬間には怒りの咆哮が喉を抜ける。互いの血反吐が荒野に飛び散り、汗が舞う。

 

「ハッハハハハァ! 威厳も何もねえなあ! 泥人形と泥塗れになるのは愉しいかよ、オデュッセウス!」

「ぬぅぅぅぅ! 貴様貴様、貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!」

「オォいい発破じゃねえか! オレは剣試合じゃともかく、喧嘩じゃ絶対に負けやしねえんだよ!」

 

 それは命を賭けた果たし合いながら、余りに泥臭い、意地の張り合いであった。その土俵に立たされた恨めしさから、オデュッセウスは益々怒りを募らせる。オレは胸に沸き立つ昂揚で以て、奴を煽り倒す。

 

「何が使命だ! テメエが抱えたそれも、結局つまんねえ意地に違いねえだろうが! 果たされるべき? ハッ! 駄々を捏ねてんじゃねえよ、ガキが!」

「黙れぇぇ! 出来損ないが、我が宿願を愚弄するなぁぁぁぁ!」

「その凝り固まった脳味噌を殴って、正気を戻してやる! あるいはそのままぶち壊されて、あの世で悔い改める事だな!」

 

 ゼロ距離に肉薄しての、息つく間もない肉弾戦。

 目を潰して神霊を視るまでに至った千里眼は、魔力の塊であるサーヴァントにとっては、未来予知に近い性能を発揮する事だろう。

 だが、高速の戦いに於いては、その処理は追いつかない。視覚的な情報が遮断された盲目は、そのままオレの付け込める隙になる。

 ヴンッ! と空気を抉るフックに横髪を数本巻き込まれながら、オレは空いた脇腹に拳を叩き込む。レバーを抉る確かな手応え。頭上から吐血の雨が振る。

 苛立ち混じりに振り上げられた蹴りを、鼻先を削るような紙一重で躱し、浮いた膝頭にまた拳。硬い骨を直接殴りつけられる痛みに、オデュッセウスが苦悶の呻き声を漏らす。

 

「ハッ、顔面がガラ空きだぜ! 今度こそ、脳天貫くクリティカルを――」

「しゃああああああ!」

 

 俯いた顔面を抉るべく繰り出したアッパーカット。

 しかしオデュッセウスは、あろう事か気合い一喝。全力の頭突きで以て、オレの拳を迎え撃った。

 それはさながら、鉄球とぶつかったよう。余りに重い衝撃に、オレの身体がじぃんと痺れる。

 その隙が、勝負を別つ決定打となった。

 

 

「ッしま――」

「ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉう!!」

 

 

 無防備なオレに振りかぶられる、丸太のような腕。

 それはオレに横薙ぎに叩き付けられ――ひしゃげて断面を剥き出しにした左腕に、強かに叩き付けられた。

 ぼぢゅ、という酷い音。肉が潰れ、身体が爆ぜる音がする。

 

 

「かッ――」

 

 

 呼吸が止まる、絶大な痛み。

 電気がショートしたように、視界がバチンと真っ白に染まる。それはこの戦に於いて、致命に至る決定的な隙だった。

 

「土に還れ、泥人形めがァァァァァ!」

 

 ようやくクリアになった視界が捉えたのは、顔面目がけ突き出された拳。

 その拳と一緒に、オレは凄まじい勢いで大地に叩き落とされた。

 鼻をバキバキにへし折ったオデュッセウスの拳が、そのままオレの首根っこを捕まえる。

 憤怒に満ちた悪魔の形相がオレに覆い被さり、固く固く握りしめられた拳が、オレの土手っ腹に深々と突き刺さった。

 

 

「が、ぽ……っ!」

「不敬でッ愚昧なッ劣等種が! 許さぬ許さぬ! 許さぬぞぉぉぉぉ!」

「がっ! ばはっ! ぐぼ、ご――!」

 

 

 何度も、何度も。怒りに駆られた拳が、オレの腹に降り注ぐ。

 腹筋が壊れ、嘔吐感に喉が詰まる。ぱぁんと内臓が潰れ、体内がぐしゃぐしゃに潰されていく。

 鼻から、口から、目からも、胃液とも血ともつかない液が噴き出し、ホメロスの手をべっとりと汚す。それでも拳は止まらない。ただ黒々とした怒りで以て、オレの身体を徹底的に粉砕する。

 殺すのではない、壊す為の拳。

 数えるのも億劫な数を振り下ろされて、オデュッセウスはようやく、巨体をオレから退かした。

 

 

「っ……か……か、ほ……」

 

 

 殴り続けられた腹は青あざで紫に変色し、骨も内臓も挽き潰れて混じり合っているのが分かる。

 辛うじて息ができるのが奇跡。それも肺を動かす度に、途方もない激痛に魂が震える。

 もはや、人の形をしたずた袋。そんなオレに向けて、オデュッセウスは冷ややかな眼を向ける。

 

 

「はぁ、はぁ……これで、理解できたか、泥人形。詫びの言葉があれば、聞くぞ」

「げ、げぇ……へへ、テメエ、今も盲目なんだよな?」

「……そうだが、それがどうした」

「ああ、見せてやれなくて残念だ……今、テメエに中指を突き立ててる」

「っ――」

 

 

 足裏が、既にブチ壊れたオレの土手っ腹を踏み付けた。混じり合った体液が、噴水のようにオレの喉から吹き出す。

 

「げぼ、げっほぉ! う、げぇぇ……!」

「もういい。最後の戦いと、貴様に何かを期待したのが間違いだった」

 

 苦々しくそう吐き捨てて、オデュッセウスは本当に、オレを殺す覚悟を決めたらしい。万感の思いを込めて、拳が握られる。

 その、死神の刃を振り上げた老爺に向けて、オレはニッと唇を吊り上げた。

 

「……なあ、オデュッセウス。オレに勝った後、テメエはどんな世界を作るつもりだ」

「――神の世だ。それ以外にはない」

「神だけの世か? お前の世界は、神と人で成り立っていたにも関わらず……お前は、人間の方を切り離すつもりかよ? そっちも、世界の大事な一部だったんじゃねえのか?」

 

 死を目前にした霞む意識でも、奴が息を飲む気配を感じる。

 

「何を……」

「いくら綺麗な湖でも、淀みがなければ魚は住めない。神だけの世界には、一体何が生まれる? ……古代は、神と人の世だった筈だ。どんなに愚かな人間だって、世界に欠かせない一部だったんだ」

「……」

「お前を慕う兵はいなかったか? テメエの国に、護るべき民草はいなかったか? なあ、よく思い出せよ。眼を潰して神を見る前の光景は、本当に全部下らなかったか?」

「……黙れ」

 

 オデュッセウスの声が、震える。明らかな狼狽の色を浮かべて。

 

「分かるだろ、オデュッセウス。テメエの論は最初から破綻してるんだ。テメエが心酔する神は、世界の一部の、上澄みでしかない。それで世界のあるべき姿だなんて言うんだから、お笑い種なんだよ」

「黙れ、黙れ……!」

「断言してやる――テメエみたいに耄碌しきったジジイには、絶対に素晴らしい世界なんか作れない」

「黙れぇぇぇぇぇ! 世界と共に、虚構に沈めぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 命を刈り取る拳が、振り上げられる。

 避けようの無い死が、すぐそこに在る。

 ギリと握りしめられる拳。怒り狂ったホメロスの咆哮。

 朦朧とする視界に、死が迫る――。

 

 

 

 

 

 

 鮮血が、散る。

 

 

 

 

 

 真っ赤な血飛沫が荒野の空に舞い、紅い雨になって、ぱたたとオレの頬を打つ。

 

 

 

 

 

 オレはゆっくりを目を開けて、ぼやけた視界が、確かに実像を捉える。

 

 

 

 

 

 拳を振り上げたまま、何が起きたか分からないと呆然とするオデュッセウス。

 その目は――呆然と見開かれた盲目は――

 

 

 

 

 

 ――自分の脇腹を貫く、銀の刃に注がれている。

 

 

 

 

 

「――そうだ、貴方は間違えた。この世界の何が素晴らしいかを、最後まで理解できなかった」

 

 オデュッセウスの背後から響く、優しく凜とした声。

 呆然と貫かれた腹を睥睨し、それからオデュッセウスは振り返り、ようやく認識する。

 

 

 

 自分の背後。

 盲目の眼と怒りに潰れた心では感じる事のできなかった存在。

 余りに矮小で、惰弱な存在。

 何の価値もないと葬り去り――その語り部の能力を失った今も忘れ去っていた人間。

 吹き飛んだクラレントを拾い、決死の思いで飛び込んだ男。

 無価値と断じられた男が!

 今、神に反旗を翻す!

 

 

()()()()()()()――それが貴方の敗因だ! オデュッセウス!」

「ッ凡夫、風情がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 全てを理解したオデュッセウスが、絶叫を天まで轟かせる。

 振り上げた腕が、轟! と音を立てて振り下ろされ、背後のマスターに直撃。マスターの身体が紙細工のようにひしゃげ、遙か彼方まで吹き飛んでいく。

 

 

「う、お、オオオオオオオォォォォォォォォ!!」

 

 

 オレはありったけの力を籠めて、魂を奮い立たせる。

 翡翠の瞳が見据えるはただ一点。

 マスターが切り開いた突破口。

 今この瞬間、勝利を約束する刃!

 神の脇腹を貫いた、銀に輝く叛逆の剣!

 

 

「この我がァァ、下等な者共などにぃぃぃぃぃぃ!」

「こいつで――終わりだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 オレは飛び跳ね、絶叫と共に、脇腹を穿つ刃を渾身の力で蹴り上げた。

 魔力を乗せた一撃は強かに鋼を打ち、刃が跳ね上がる。

 クラレントは赤雷を纏いながら脇腹を縦に裂き、骨を砕き、とうとう奴の肩をもぎ取りながら、天高く打ち上がった。

 燃え立つ空に、血の軌跡を描きながら、銀の剣が翳される。

 

 

「ッ――が――ばぁッッ」

 

 

 脇腹から肩にかけて、身体を縦に裂かれたオデュッセウスは、致死の呻き声を上げながら、大地にドサリと膝を着いた。

 ようよう立ち上がるオレの目の前で、支えを失った奴の左半身がでろりと捲れ、ドボドボと途方もない量の血を落とす。

 致命傷かどうかなど、聞くまでもない。

 ただの人間(マスター)が穿った傷が、神を下して見せたのだ。

 

 

「……な、ぜ、だ……!」

 

 

 舞い落ちたクラレントを受け取り、ビッと振って血を振り払った時。オデュッセウスは息も絶え絶えに、そう問うた。

 

 

「我、は……誤っては、いない……神は、唯一絶対の……存、在で……!」

「いいや、テメエは間違ってるよ」

 

 

 冷たく、憐憫を込めて、オレは断言する。

 

 

「眼を潰して神を見た時、テメエは同時に、人を見る事を辞めちまった。神の輝きに見惚れて、人も平等に輝く存在で在る事から、眼を逸らしてしまったんだ」

 

 

 確かに、彼の生きた世界は輝いていたかもしれない。

 神と人との共存は、心躍る世界かもしれない。

 けれどその賛美は、決して――今を否定する侮蔑には繋がらない。

 彼はそれに思い至らなかった。心まで盲目になっている事に、自分自身も気付けなかったのだ。

 

 

「その誤りが分からない以上、お前は勝てねえよ。お前は時代に取り残された、過去の亡霊だったって事さ」

「っ……ふ、ざ、けるな……!」

 

 

 もう風前の命であるにも関わらず、オデュッセウスは唸る。

 血塗れの歯をギリと噛み締め、立ち上がる。

 人外の快復力が、裂けた腰から肩の断面を、ウゾウゾと肉で覆っていく。

 人の形でさえなくなったソレは、まさしく理性を失いし怪物のそれ。

 その醜く悍ましい姿は――心底、興醒めで。

 オレの最後に残っていた敬意が、その失望で吹き消える。

 

 

「オレが言うべきじゃねえかもだが、生き汚えにも程がある……お前のそれは、醜い亡者の執念だぜ」

「我は……神、神、かみ、をぉぉぉぉぉ……!」

「ああ、そうだ……一応、ひとつ礼を言っておかなきゃいけないな」

 

 

 光を失い、とうとう理性さえ無くした瞳に、クラレントを突きつける。

 そしてオレは、怪物と課した古代の妄念に向けて、手向けの言葉を捧げた。

 

 

 

「最後まで、下衆でいてくれてありがとうよ――お陰で、躊躇無く首を撥ねられる」

「ぉ、ォォォォォォォァァァァァァアアアーー!」

 

 

 

 醜い怪物が、狂った咆哮を上げながら迫る。

 最早、未練も、敬意も必要ない。

 捧げるのはただ、一閃。

 醜い両腕をかいくぐって閃いたクラレントは、過たず奴の首を捉え、怪物の身体から撥ね上げた。

 ズズゥン――と地響きと共に倒れた怪物は、光の粒になって消滅していく。

 大地に転がった奴の首もまた、後を追うようにして、淡い光に包まれていく。

 

 

 

 神話を紡ぎ、歴史を始めた大いなる語り部は、最期にはその口から哀れな呪詛を吐き出す怪物と化して、妄執と無念に囚われたまま、この世界から姿を消した。

 

 



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46話

 ざぁっ――という、さざ波のような音と共に、古代のトロイア平原が霧散していく。

 オデュッセウスの死と共に潰えた世界は、水に浸された絵画のように滲んで、溶けて、跡形もなく消えていく。

 次に瞬きをすると、オレは森の中にいた。真っ赤な紅葉がはらはらと舞う、秋の森に。

 どれだけの間戦い続けていたのか、世界は夕暮れを通り越して藍色だ。山嶺に消えゆこうとする太陽が、木洩れ日の隙間から、橙色の光でオレの顔を照らす。

 

 

 

 耳が痛い程の、静寂。

 鳥の声さえ聞こえない。

 誰もが息を潜め、訪れる夜を待っている。

 終わりが、近づいている。

 

 

 

「……」

 

 オレは夕日に背中を向け、鉛のように重たい足を動かす。

 サク、と落ち葉が砕ける音。

 透明で澄んだ空気に混ざる土の臭い。

 さぁ、と涼しい風が吹き抜けていく。

 落葉がハラハラと、視界に美しい紅を飾る。

 

 

 

 森の木立の一本を背に、マスターは座り込んでいた。

 ぶつかった衝撃で皮が捲れ、生々しい血の染みを付けている。落ち葉の降り積もった地面には、それよりも尚真っ赤で瑞々しい、大量の血が広がっている。

 

「……」

 

 マスターは、ぐしゃぐしゃだった。

 神の鉄槌を、その身で受けたのだ。体内が粉々になっている事が、見ただけで分かる。身体のあちこちが裂け、そこから溢れ出る血は、明らかに一つの命が流していい量を超えている。

 右腕が削れていた。

 千切れたわけじゃない。無くなっている。

 肩口から先には、血も傷跡も、何もない。

 存在を証明する資源が無いという、証拠だった。

 

 

 

 風が吹いて、マスターの顔を隠していた髪をそよがせる。

 半開きの彼の目は、濁った瞳孔で虚空を見つめている。

 その目が、ぱち、と瞬きをする。

 か細く、本当に苦しげに、胸が上下する。

 オレは苦笑して、青ざめて土気色になった彼の頬をぺちぺちと叩いた。

 

「……おい、起きろよ、マスター」

「っ……あ、と……五分、だけ……」

「……ぷ、ははっ。今寝たら戻ってこれねえぞ、バーカ。ホラ、目を開けろよ」

 

 もう一度、ぺしと優しく頬を触る。

 一本だけ残った銅線に電気を流すように、危うげに彼の首が動く。

 

「……もー、ど、れっど」

「ああ、オレだ。迎えに来たぜ」

 

 苦しげに持ち上がった顔。

 重たそうな瞬きを、数度。そうしてオレの顔を捉えたマスターは、死相の滲んだ顔をゆっくりと綻ばせた。

 

「ああ……そっか……勝ったんだね」

「当たり前だ。お前に勝利を捧げる剣だって、必ず迎えに行くって、誓っただろ?」

「そっか……そっか。良かった。本当に……もう一度、君に会えたんだ……」

 

 本当に嬉しそうに笑みを深くして、マスターはオレの手に、自分の頬を擦り付ける。

 頬に添えた手に、ザラリとした錆のような感触。見れば彼の顔や、首、身体のあちこちには、虫食いのような穴が空いて、ボロボロに崩れていた。

 オレに魔力を与えた代償。自分を構成する『可能性』を捧げた結果の、欠損。

 目を見張るオレの顔を見て、マスターは愉快そうに喉を鳴らす。

 

「思ったより……ずっと上手く、削れてくれたよ……君を助ける、手と足があって……君を見る目と……口とが……残ってくれて……」

「大丈夫、なのか?」

「いやあ、どうだろう……その分、中はあちこち、空っぽなんだ……骨もないから、奴の拳だって、へっちゃらさ。はは、は……がふ。か、は……」

 

 身体全体を痙攣させて、必死に血を吐き出す。

 青ざめた唇に血を滴らせて、苦しげに、喘ぐように呼吸をして。

 それでもマスターは、オレを見る。笑顔を作る。

 とても、とても、嬉しそうに。

 死期を悟っているのは、その表情だけで十分に読み取れた。

 

 

 

「……帰ろう、マスター」

 

 

 

 だからオレは笑って、マスターに手を伸ばした。差し出された、ガクガクと痙攣する手を、そっと掴んで持ち上げる。

 

「今日は、本当に疲れた……早くウチに帰って、さっさと寝ようぜ」

「……うん……そう、だね……モードレッド……」

 

 オレの右腕と、マスターの左腕。

 片方だけになった腕でお互いを抱き合って、オレ達は落ち葉を踏みしめる。

 

「……は、は……おそろい、だ……腕を、どうしたのさ」

「オウ、聞いて驚け。オレは、あのアキレウスを倒したんだぜ?」

「……本当、かい……?」

「嘘吐くもんか。お前のサーヴァントは、世界最強の英雄を下したんだ。お前に会いたい一心でな」

「……それ、は、うれしいな……ほんとう……天にも、昇るくらい……」

「へっ、冗談キツいぜ。今それを言うかよ、普通?」

 

 さくさくという足音に、オレ達の細い笑い声が重なる。

 夕日が沈み、夜に世界を譲り渡していく。黄昏が、藍色に変わっていく。

 風が吹き抜け、落ち葉を巻き上げて飛んでいき――ぶるり、と鼻息。

 顔を上げれば、最後の夕焼けを背に、茶色い毛並みの馬が一頭、オレ達を見つめていた。

 

「お前……迎えに来てくれたのか」

 

 馬はもう一度、ぶるりと鼻息。

 そして鼻を屈めると、地面に転がっていたソレを、鼻で小突いて転がした。

 紅い落ち葉の絨毯に転がるのは、金色に輝く杯。

 

「聖、杯……って」

 

 屈んで拾い上げれば、それは器の七割程度と柱の根元だけを残した、聖杯の破片だった。最早器としての形を残さず、スッパリと切断されている。

 オデュッセウスの懐に入れていた聖杯は、俺たちの最後の一撃で、奴の体もろとも断ち切られてしまったらしい。

 オレはそれをしげしげと眺め、馬の円らな瞳と見つめ合って……それからたまらず、ぷぷっと吹き出した。

 

「ははっ。欲する奴には与えず、求めないならあげませんってか。いいオチじゃねえか」

 

 最高の戦利品を懐に、オレは朦朧としているマスターを持ち上げて馬に乗せると、自分も跨がって、首筋をぽんぽんと優しく叩く。

 

「ありがとな。それじゃあ、連れてってくれるか? オレ達の家に」

 

 返事は、小さな嘶き。

 ゆっくり、軽やかな速度で、馬は藍色に染まる森を歩いていく。

 オレの右腕は、馬の鬣を握っている。後ろに乗ったマスターが、オレの背中に体重を預けて項垂れている。

 

「苦しくないか、マスター」

 

 首筋を小さくくすぐる、頷きの仕草。

 

「そうか。落ちないよう、オレに掴まっていな」

 

 オレは苦笑して、振り子のように揺れていたマスターの左腕を、オレの腹に回してやった。

 

「……あり、がとう……」

 

 マスターが億劫そうに身体を揺すり、オレに凭れてくる。

 身体が寄せあい、オレの背中にマスターが密着する。

 肩に乗せられた顔から、苦しげな吐息が聞こえる。その呼吸はもう、そよ風よりも頼りない。

 きゅ――と、片方だけの手で、マスターがオレを抱き締めた。

 

 

「ああ……君がここにいる。君を、感じる」

 

 

 息を吸い、抱き締める。ぶるぶると、泣きそうに痙攣させて。

 

「何もない虚空で……ずっと……ずっと、ずっと、我を忘れるくらいずっと、君に会いたかった……もう一度、君を抱き締めたかった」

 

 顔の乗せられた肩を、温かい雫が伝う。

 残り僅かな命の、あらん限りで、抱き締められる。

 

「よかった……本当に、よかった……」

「……」

 

 蹄の音を奏でながら、オレ達は森を進む。

 鬱蒼と生い茂る木立の数が減り、森が不意に途切れる。

 小高い丘を見上げたそこには、藍色の空が広がっていた。

 夜の訪れを告げるように、一等星がぽつぽつと光を灯している。天高く昇った月が、しめやかな銀色の光で、オレの顔を照らしている。

 馬は一定の速度で、丘を登り始める。

 うんざりするほど遅い速度。このままずっと続けばいいのにと思ってしまう、ゆるやかな速度。

 なんとはなしに、空を見上げる。

 ただの夜空の筈だった。生前は足を止める事なんて無かった空。あの時から何も変わらない筈の夜空に、オレは初めて見惚れている。

 美しい空。いつだって美しかった筈の空。

 ここに生きて、違う生き方を知ってようやく、ただ生きる事の喜びを知った。

 

 

「……」

 

 

 ふと思い立って、オレは懐に仕舞っていた聖杯の欠片を取り出し、表面をついとなぞる。

 糞爺が散々吸い取って、オレがぶった切ってしまった器は、それでも十分凄まじい魔力の気配を感じさせる。

 オレは聖杯の欠片を、背後のマスターに翳してみせた。

 

「なあ、マスター。どうやらコレ、まだ聖杯としての機能を果たせそうだぜ」

 

 返事は無かったが、言葉は届いているらしい。背後でごほ、と小さく咳き込む音。

 

「ラッキーだな。ぶっ壊れていても万能の願望機だ。これなら、お前を治す事くらいできるんじゃねえか?」

「……は、は……」

 

 何気なく呟いたオレの提案を、マスターは苦しげな笑いで遮った。

 肩に乗せられた首が揺れる。ふるふると、横に。

 

「別に、いいよ……」

「いいって、何だよ? マスター、このままじゃ死んじまうぞ」

「いいさ、構やしないよ……ねえモードレッド、そんなことよりもさ」

 

 マスターはついと顔を上げて、虚ろな目でオレの翳した聖杯の欠片を見つめる。

 そして彼は、何てことないように、まるで晩飯を決めるような自然さで、言った。

 

 

 

「君、それを使って受肉したら?」

「……」

 

 

 

 数秒の、沈黙。

 そしてオレは、肩に乗ったマスターの頭に、ごすんと拳骨をお見舞いした。

 

 

「……いたいよ、モードレッド」

「バカマスターが。冗談言ってんじゃねえ」

「本気だよ……ただでさえ、何が遺言になるか分からないのに……冗談なんて、言うもんか」

 

 

 また、マスターはオレを抱き締める。血痰混じりの呼吸が、ぜぇとざらついた音を奏でる。

 

 

「全てを賭して……君に勝利を、捧げるつもりだった……なのに僕は、君にまた会えて、こうして君を抱き締められた……もう、十分だ。身に余る、光栄だよ……」

 

 

 片方だけの手が、縋り付くようにオレに触れる。血反吐を溢しながら、オレに心を告げる。

 残る命を振り絞って、言葉が紡がれる。

 

 

「生きるべきは、君の方だ」

「また、殴られてえのか」

「聞いて、モードレッド……君がいなくなれば、僕は抜け殻だ。君のいない世界に、生きる理由なんてない……だったら僕は、生きる喜びを知った君に、この世界を謳歌して欲しい」

「……」

「剣を捨てた、平穏……君が、はじめて、人として生きる……それは凡夫の僕の命なんかより、よっぽど価値がある」

「……」

「ねえ、モードレッド……世界には、とっても、楽しい事があるよ。とっても、綺麗な景色があるよ……君はきっと、全く新しい、夢を持てる……新しい、恋だって、きっとできるはず」

「……」

「僕を、君の礎にしてくれ。生きる意味の無い空っぽな僕を、君の心の中に残してくれ」

 

 

 

 丘の山頂に、辿り着く。

 眩い月が浮かぶ夜。紅葉は月明かりで白銀に塗り潰され、ひっそりと静寂を讃えている。

 頭上には幾つもの星。ぽつぽつと空いた湖が、頭上の月を照らして地上にも輝きを落とす。

 それはさながら星の万華鏡。

 オレ達を見守り続けた森は、最後の時も変わらない美しさで、そこに有り続けている。まるで、どんな決断でも等しく尊重するとでも言うように。

 

 

「消えないでくれ。僕の分まで、生きてくれ……モードレッド」

 

 

 マスターが、譫言のようにそう囁き続ける。

 その声は虚ろで、意識があるのかすらはっきりとしない。

 死を目前にしてなお、マスターはオレを想い、自分自身を誹り続けている。

 山頂を経て、馬が変わらぬゆっくりとした速度で丘を下っていく。ひゅうと抜けた風が、透き通った冷たさでオレの頬を撫でた。

 その風と一緒に消えてしまいそうな命を使って、マスターは囁き続けた。

 僕の分まで生きてくれ、と。

 無価値な僕の命に、意味を与えてくれ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 ホメロスの能力から解放された家は、元通りの、二人で過ごした状態に戻っていた。

 戦いとは無縁の、平穏を讃えるオレ達の家。辺りの森からは、のんびりとした梟の声と、鈴虫の音色が聞こえる。銀色の月明かりで、遠くまでハッキリと見渡す事が出来た。

 離れの倉庫を開ければ、そこもマスターが整頓した、元通りの状態に戻っていた。

 オレは倉庫に置かれていたボートを引っ張り出し、湖に浮かべると、そこにマスターを座らせた。

 

「……全部が終わったら、ボートに乗ってやるって約束だったからな。有り難く思えよ、マスター」

 

 彼の対面に腰掛け、そう嘯く。応える声はない。ひゅう、ひゅうという苦しげな呼吸音だけが聞こえる。

 オールを地面に押しつける。ぎぃ、と軋むような音がして、ボートは湖面を滑りだした。

 夜空を反射させる、鏡のような湖面を揺らしながら、ボートが進む。

 月明かりを讃えた波が星々の映る湖面を揺蕩わせるのは、現実離れした美しさだった。優しい、揺り籠のような揺れに、心が安らいでいくのを感じる。

 

 

「……起きてるか、マスター」

「うん……ちゃんと、見えてる。感じてるよ、モードレッド」

「……飽きるほど眺めたはずだけど……こうしてボートに乗ってみると、また全然違うように見えるな……最初は何もない、つまんねえ場所だと思っていたのにさ」

「そう……だね……すごく、きれいだ……」

 

 

 息も絶え絶えに、マスターが笑う。残り僅かな魂を必死に掻き集めて、最後の時を愛しんでいる。

 聖杯の欠片は、オレの手の中にある。月明かりに、古びた金色の光沢を放っている。

 自然と、オレ達は視線を交わした。彼の消えかけの虚ろな目をしっかりと見つめ返す。

 これが本当の、最後の逢瀬。

 言うべき言葉は、告げるべき気持ちは、全部決まっていた。

 聖杯の欠片をついと指でなぞって、オレは言葉を切り出した。

 

 

 

「……ずっと前から、言いたかった事がある」

「……」

「なあ、マスター……テメエのどこが凡夫だよ、クソ馬鹿野郎」

 

 

 

 すっぱり、そう言い切った。

 ずっと言いたかった言葉。ムカつく所は多々あれど、何より一番嫌いな、彼の短所。

 

 

 

「どこの世界に、神に楯突ける凡夫がいる。ちょっと考えりゃ分かんだろ馬鹿。なんの価値もない、つまらねえ男が……このモードレッド様を、籠絡できる訳ないだろ。こんなに好きにさせる事が、できる訳ないだろうが」

「……」

「オレは、お前に生き方を変えられた。ホムンクルスのオレに、生きる喜びを教えてくれた。お前がマスターだったから、オレは古代の神々にだって勝てたんだ」

 

 

 有り得ない日々だった。今肌に感じ、胸に抱いている全ては、有り得ない経験だった。

 幾度英霊として召還されても、こんな日々は訪れないと断言できる。

 そんな生活をくれた彼が、普通であるはずがない。

 ずっと素直になれなかったけれど、今なら言える。

 

 

「大好きだ、マスター。お前はオレの特別だ。世界一だ。例えアーサー王に命令されたって、こんな小っ恥ずかしい事を言いやしねえ」

 

 

 どんな大魔術だって、オレに愛なんて教えられない。

 神様だって、こんな喜びを植え付ける事はできやしない。

 

 

「誇れよ。お前は世界でたった一人、このモードレッドが愛した男だ。オレが愛するに値する男なんだ」

 

 

 そうしてオレは、マスターに身体を傾けた。

 マスターの胸に凭れる。彼の手が痙攣しながら動いて、オレの身体を抱き締める。

 誰かに受け入れられる喜び。愛されるという幸せ。

 道具として生まれ、戦いしか知らなかったオレに訪れた、人としての日々。

 

 

「幸せを教えてくれてありがとう。不出来なオレを好いてくれてありがとう」

「もー、ど……れっど……」

「ほんとうに、夢みたいな日々だった……そうだよ。夢を見させて貰ったのは、オレの方なんだ」

 

 

 手にした聖杯の欠片を、湖に浸す。

 器に満ちた清水を含み、オレはマスターに、そっと唇を重ねた。

 

 

「ん……」

 

 

 何かを言うように動いた唇を咥えて、聞き分けのない歯を舌で押し広げて、魔力に満ちた聖水を飲ませる。こく、こくとマスターの喉が動き、奇跡が彼の中に流れていく。

 

 

「っぷ、ぁ……だめだ、やめてくれ、モードレッド……」

「へへっ。ばーか、もう遅えよ。最後のキスなんだから、観念して、夢見心地に浸ってろ……ちゅう、る」

 

 

 だめ押しに、もう一度唇を啄む。舌を絡ませながら、温かい彼の体内に、冷たく澄んだ水を落としていく。マスターの左腕が抗議するように動いていたが、それで覚悟を決めた英霊を止められる訳がない。

 

 

「ぷぁ……な、なんで……なんでだ、モードレッド」

 

 

 顔を離した時、マスターは泣いていた。悲痛な顔で、オレを咎めるようにぽろぽろと涙を溢す。

 

 

「どうして、生きてくれないんだ……僕は、ここで終わりでいいのに……生きたって、どうしようもないじゃないか……! 君がいない世界で、僕は、どうやって……!」

「はは、最後まで情けねえなぁ、オレの大好きなマスターは」

 

 

 右手で、マスターの胸をなぞる。

 とく、とく、心臓の鼓動を感じる。

 魔力が命になって、体内を巡っている。

 聖杯の魔力が、彼の身体を修復するよう働いている。

 同時に、遠のく。

 聖杯の魔力の消失と同時に、オレを現世に留めていた繋がりが、ほつれていく。

 

 

「オレは英霊。とうに散った命の影法師。聖杯から仮初めの命を貰って、世界を間借りして、有り得ない二度目の生を堪能した……ここは、お前の世界だ。オレとの間に育まれた全ては、ぜんぶお前の物語なんだ」

「ちがう。君が紡ぐべきだ……その方がよっぽど……」

「いいんだよ、マスター。価値とか、意味とか、もう考えるな」

 

 

 マスターの胸に耳を当てて、鼓動を聞く。

 温かく力強い拍動。命の音。

 それが鳴る意味も、鳴る価値も、考える必要はない。

 

 

「あるがまま生きろ。為せる事を為せ。それが、本物の価値だ」

「っ……」

「お前の舞台だ。オレは、舞台に立つお前を照らす、光でありたい。お前が生きて奏でる、謳歌を聞きたい」

 

 

 身体が、ほどけていくのを感じる。

 ほろほろと、光の粒になって溶けていく。

 マスターは酷い顔だ。溢れ出る涙が抑えきれず、くしゃくしゃに歪んでいる。

 その顔がまったく情けなくて、堪らなく愛おしくて、オレは笑って、ゴツンと額を押し当てる。

 

 

「オイ、これは命令だからな? オレが聞いてやるんだ。何でも良いと言ったって、ぼーっと生きてたら許さねえぞ」

「……」

「オレは、お前の中にいる。お前と共に生きている。お前は決して凡夫じゃないって事を、オレが証明し続けてやる」

「……」

「だから自分を誇れ。自分なりに冒険して、分相応に必死に生きて……いつか、どこかで、それを聞かせてくれ」

 

 

 額を押しつけ、息の交わせる程近くで、互いを見つめ合う。

 涙を湛える彼の目は、けれどもう、憂う事を辞めていた。

 死は遠ざかり、一筋の光が宿っている。

 決して折れない、命の光芒が。

 それが見えたから、もう、思い残す事はない。

 言いたい事は、これで全部、言い終わった。

 

 

 

 光が、オレの身体を包む。オレの魂を、ふわりと浮かび上がらせる。

 最後の光に、マスターの顔が照らし出される。

 涙でくしゃくしゃのみっともない顔。

 すぐにでも「行かないでくれ」と泣きじゃくりそうな、情けない顔。

 けれどもひたむきに、前に進む覚悟を決めた顔。

 大好きで、大好きで……本当に大好きな。

 世界でたった一人の、オレのマスター。

 

 

 

「……愛してる、モードレッド」

「おう。オレも愛してるぞ、マスター」

 

 

 

 心を交わして、誰よりも強く結びついて。

 そうして、ほどける。

 指の隙間から落ちる砂のように、光の粒になって、マスターの心から遠ざかっていく。

 胸が一杯のままの離別がある事も、オレは初めて知った。

 

 

(……心配すんなよ、マスター)

 

 

 ホムンクルスのオレだって、人として生きれたんだ。

 戦いしか知らなかったオレが、愛を貰えたんだ。

 そんな奇跡だって、起こす事ができたんだ。

 大丈夫。何だってできるさ。

 お前はオレの、世界一のマスターなんだから。

 

 

 

 

 

 光が、空へと昇る。同時に、美しい湖面に映る夜空を泳ぐ。

 夢の終わりを告げる燐光。

 愛しい日々に別れを告げ、未来を照らす、祝福の光。

 ほどけて宙を舞った光の粒は、どんな星々よりも眩く温かな光で世界を彩り、彼のこれからの行く末を、力強く讃え続けていた。

 

 

 



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47話

 こうして、聖杯戦争は終結した。

 

 醜い保身によって引き延ばされ、退廃と怠慢でずるずると長引き続けた戦いは、とある男の妄念により、予期せず世界の危機にまで発展した。

 果たして彼が勝利した時、聖杯は本当に歴史を抹消できたのか。神々の世界をもたらす事ができたのか……今となっては、それを証明する術はない。

 世界の危機を阻止したのは、一人の騎士。人として生きる喜びを知った、ただのホムンクルス。

 彼女の、全ての生を愛する賛歌が、神々の侵攻を打ち払ったのだった。

 

 

 

 それは、歴史には決して残されない戦い。

 誰にも知られず起こり、知られないまま終わった、人里離れた僻地での物語。

 世界の危機があったことなど露知らず、今日も時は巡っている。

 連綿と続く人の営みは、けれども確かに、あの時彼女が命を賭して戦ってくれたからこそ、今もこうして続いているのだ。

 それを知るのは――この世界で、ただ一人。

 

 

 

 

 

 

 

「……最悪だ」

 

 

 今日一番の悪態を吐き出し、僕は忌々しげに天を仰いだ。上体を思い切り傾けたお陰で、ボートがギィと危うげに軋み、水面をざわめかせる。

 目の前には、一本の釣り竿。虚空をプラプラと舞う、水滴を滴らせる針は、空っぽ。

 八回連続、三時間ぶっ通しの、素寒貧だ。どうも、神様からそっぽを向かれたとしか思えない。

 しかも、餌はことごとく食い尽くされている。僕は忌々しげに眉を潜め、透明に澄んだ水面を睨み付ける。

 

 

「魚にまで馬鹿にされるなんて……つくづく、僕って奴は――」

 

 

 そこまで言いかけ、はたと口を紡ぐ。

 後に続く言葉は、決して出さない。

 喉まで出かかった自虐をごくんと飲み込んで、僕はふっと口と気分を緩ませる。

 

「……まあ、いいさ。春一番の初釣りだ。ちょっとぐらい、大目に見てやるとも」

 

 誰にともなくそう一人ごちて、餌を付け替え、再び竿を振るう。針はぽちゃんという軽やかな音を立てて落ちる。

 鏡のような水面に波紋が広がり、一枚だけ浮いていた黄緑色の若葉を揺らす。

 水面に映るのは、抜けるような青空。鳥が群れを作り飛んでいけば、冷たさを残す風が吹く。

 背丈に届くほどの堆い雪が溶けきったのが、二週間ばかり前の事。

 長い冬が、ようやく開けた。森も、生き物も、たおやかな湖も、これから先の空気の温みを喜び、歓迎しているのが分かる。

 厚く張っていた氷が溶けたのを認めて、僕は倉庫から、長らく放置されていたボートを引っ張り出し、湖に浮かべていた。

 

 

 

 乗るのは、二回目。

 最初に乗ったあの日から、もう四ヶ月になる。

 勢い付いて、この時の為にと奮発した釣り竿をすわと振るえば――結果は前述の通り。

 だめ押しのように、ぐぅ~と間抜けな音。若葉がそよぎ小鳥が囀る森の音に、僕の空腹がみっともなく重なる。

 

「釣果ゼロは勘弁してくれよ。こっちだって、それなりに必死にやってるんだからな……!」

 

 これじゃ全く面白くない。一年の始まりの晴れの日に、僕の幸先だけ曇り空だ。

 そんな風に悪態を点いていると――くん、と竿がしなる。

 

「お、お! ようやく来たな、今日の飯!」

 

 竿を引く、強い手応え。ボートがギシギシと揺れる中、僕は必死にリールを回す。

 全神経を集中させた、数十秒の真剣勝負。

 やがて手応えを掴んだまま、竿がぱしんとしなって、食いついた得物を水面から引きずり出す。

 ボートの上での、初めての釣り。今年初となる僕の成果は……、

 

 

「……ちっさ……」

 

 

 銀色に光る、小魚。

 僕の拳にも満たない大きさの魚は、見た目とは裏腹の生命力で、針に引っかかったままビチビチと身体を跳ねさせている。

 か弱く、ちっぽけで、けれども元気で、ひたむきな姿。

 拍子抜けに、僕はぽかんとその様子を見つめて……やがて耐えきれず、ぷぷっと吹き出して、笑った。

 

「そう上手く行くわけない、か……いやあ、手厳しいなぁ」

 

 僕は慎重に糸を手繰って針を抜き取ると、小魚を湖に返す。小魚はすぐに尾ひれで水を掻き分けると、湖の深い方へと潜って見えなくなった。

 その小さくも力強い姿を目で追いかけて、自然と頬が緩む。

 

「進み始めたばかりだ。今はまだ、ちっぽけで構わないさ……そうだろう?」

 

 誰にともなく、そう独りごちる。

 僕の問いかけに、森は応えない。さぁと冷たい風が吹いて、冬を乗り越えた若葉が気持ちよさげにそよぐ。

 

 

 枝葉の擦れる音に、遙か遠くの、連続的な排気音が混じる。

 自動車の音。世界が変わる気配が、近づいてくる。

 

 

「ああ、時間切れだ。美味い魚でも振る舞おうとしてたのに……冷蔵庫、何があったかな」

 

 一人ごちて、釣り竿を仕舞い、オールを漕ぐ。

 湖畔に立った頃には、家の前に車が停車する音がする。

 意気込み以外は、何もかも決まっていない。

 だから僕は、釣り竿を肩に担いで、よしと胸を張る。

 

「まあ……分相応に、必死にいこう」

 

 善いか、悪いか、正しいかどうかも判然としないまま、ただ前へ。

 どれだけ小さな一歩でも、それは等しく進歩だと、今の僕は知っている。

 進み続ける事こそが尊いと、他ならぬ彼女が教えてくれた。

 だから僕は、前に進む事を止めない。

 どんな方向でも、行ける所まで行こう。

 できる限り頑張ろう。

 この命を、最後まで燃やし続けよう。

 「生きろ」と言われた、その約束を果たし続けよう。

 

 

 

 いつか、どこかで。

 数奇な縁が結んだ奇跡か、あるいは世界の最果てで。

 僕等は必ず、また出会うだろう。

 その時、語ろう。

 嬉しかった事も、悲しかった事も、大きい事も小さな事もない交ぜに。両手一杯に抱えて。

 古代の語り部や、かつての神話なんかには、遠く及ばない、つまらない話だろうけど。

 どんな話だってきっと、彼女は「まあまあだな」と笑い飛ばしてくれるから。

 

 

 

 そうして、一歩、踏み出す。

 静かで満ち足りた隠匿の地を始まりに、もう一度人生を紡ぎ出す。

 鏡のように澄んだ湖が、太陽の光を反射してキラキラと輝く。さぁと吹いた涼しい風に若草が揺れる。

 平穏たる自然は、今日も変わらず美しく、連綿と紡がれる僕等の時間を、ただ静かに讃え続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




くぅ~~~~~~~~~~~↑↑↑↑ 疲れました!

間を開けながら約1年半。
ただ自分の性癖に従うままに書いた出だしから、この最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
大好きなモードレッドにして欲しい事、見せて欲しいカッコイイ所、軒並み全部詰め込ませてもらいました。
自分のできる限りの力を持ってかわいくカッコよくエロくエモく書かせて頂きましたが……どうでしたか、面白かったでしょうか。楽しんでいただけたなら嬉しいです。


本書は受かれば冬コミにて、おまけストーリーを付けて頒布する予定です。
告知等々させて頂きますので、チェック頂ければ嬉しいです。


感想・ご意見、何でもいいので頂ければ幸いです。
何でも本当に励みになります。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!!
また次の作品でお会いできる事を楽しみにしております。


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