それぞれのおしごと! ~りゅうおうのおしごと! 連作短編集~ (あすな朗)
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第一章
ばんちょうのおしごと!


 

男鹿(お が)さん、私と結婚してください」

 

「ええっ!? か、会長、そんないきなり……」

 

「突然のプロポーズで申し訳ありません。しかし、私を支えてくれる女性はあなた以外にありえないと確信しています。会長秘書として、私のことを誰よりも深く知るあなた以外には……」

 

「会長ぉ……」

 

「男鹿さん、私のプロポーズを受けていただけますか?」

 

「………………はい、喜んで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 という夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連盟に行くと、机の上に書類が山と積まれていた。ため息が出そうになるが、これくらいでへこたれていては会長の秘書はつとまらない。手早く書類に目を通し、優先順位をつけ、重要案件のみをピックアップしてバインダーに挟むと、理事室に向かう。

 部屋の扉をノックすると、聞き慣れた声が中から聞こえてくる。

 

「どうぞ」

 

 扉を開けると、椅子に座った会長の姿が目に飛び込んできた。

 A級棋士にして十七世名人ーー月光聖市(つきみつ せいいち)・将棋連盟会長。

 私の上司でもあり、私がひそかに想いを寄せている人でもある。

 穏やかに微笑んでいる会長が、閉じた瞼の向こうから私を見つめる。

 

「おはようございます、男鹿さん」

 

「はい、男鹿です」

 どうしようもなく胸が高鳴るのを感じながら、返事をした。

「今日も一日、よろしくお願いいたします」

 

 

 

 

 

 

 

 会長は目が見えない。

 だから書類はすべて秘書の私がチェックして、内容をお伝えする。対局のときも、私が付き添う。イベントや式典のときにも、常に会長のかたわらに控えてサポートする。ようするに四六時中会長のそばにいる。

 ついたあだ名が「裏番長」。

 ひどいあだ名だ。私が会長秘書の職権を濫用しているとでも言いたいのだろうか。まったくもって心外だ。もちろん私はそんなことはしない。会長に色目を使った女流棋士の引退を、ほんの少し早めただけ。それくらいしかしていない。

 とにかく「裏番長」というあだ名はひどい。承服しがたい。「会長の愛人」とかだったら大歓迎なのに……

 

 

 

 

 

 

 今日は、アマチュアの方の免状に署名をするお仕事だった。もちろん、署名するのは会長。私はその補助だ。

 理事室の机の上に積み上げられた数百枚の免状の束。

 会長は、一枚一枚心を込めてご自分の名前を書いていく。

 私は、会長が書く場所を間違えないようそばにいて見守る。もっとも、会長が書き損じることはほとんどない。細くて綺麗な字を丁寧に書き続けている。

 

「ふう……」

 

 三十分ほど経ったとき、会長が小さく息をついて筆を止めた。さすがにお疲れのご様子だ。

 

「会長、少し肩をおもみしましょう」

 

「あ、ああ……ありがとうございます」

 

「会長、腕もマッサージしましょう」

 

「あ、ああ……ありがとうございます」

 

「腰から背すじにかけても、マッサージしますね」

 

「いや、そんなところまでしてもらうのはーー」

 

「筆を持っているとこのあたりが一番疲れるのだそうです」

 

「……そうですか。それではお願いします」

 

「はい、お任せください」

 

「……………………男鹿さん?」

 

「はい、何でしょう」

 

「じゅるり、という涎を啜るような音が聞こえた気がするのですが……」

 

「気のせいです。次にふくらはぎをマッサージします」

 

「男鹿さん? そこは別に疲れてはいませんが?」

 

「長時間座っていると、ふくらはぎの血流が悪くなるんです。それをほぐします」

 

「男鹿さん、本当に大丈夫で……………………いや、たしかに、気持ちいいですが………………あの、もう結構ですよ。ところで男鹿さん、さっきからじゅるりじゅるりという音が聞こえるのですが……」

 

「幻聴です。次は耳の筋肉をほぐします」

 

「男鹿さん? 耳には筋肉がほとんどないと思うのですが?」

 

「そうですか。でも念のため」

 

「男鹿さん、もう結構ですから。仕事に戻りましょう」

 

「その前に耳をーー」

 

「結構です」

 

「……」

 

 

 

 今日も私は、秘書としての職務を完璧にこなした。

 

 

 

 

 

 

 

 仕事が終わったので、会長を連盟の玄関までお送りする。

 もちろん、手をぎゅっと繋いでご案内差し上げる。

 

「男鹿さん」

 

「はい、男鹿です」

 

 愛しの会長が私の名前を呼んでくれたので、誠実にお返事をする。

 

「来月の順位戦の日程をもう一度教えてもらえますか?」

 

「かしこまりました」

 

 この先一か月の会長のご予定はすべて頭のなかに入っているけれど、万が一の間違いを避けるため、きちんとスケジュール帳で確認する。

 

「十三日の金曜日です」

 

「そうですか、わかりました」

 

 会長はそう言って口を閉じかけたが、ふっと笑みを浮かべて、「縁起が悪い日ですね」とつけ足した。

 

「会長も、縁起をかつがれるのですか」

 

「いえ、気にはしていませんよ。十三日と金曜日が重なるのは逆に珍しいと思って、ちょっと言ってみたんです」

 

「ちなみにその日は大安です」

 

「それはよかった」

 

 会長はそう言って、くすくすと笑った。

 

 その笑顔を見つめていると、「ああ、この人の秘書になってよかった」と心の底から思う。

 

 親子ほど年が離れているこの人と結婚することは難しい、ということは知っている。それどころか、恋人として付き合うことさえできず、そもそも恋愛対象として見てもらえていないということにも、薄々気づいていた。どんなにスキンシップをとったとしても、会長との距離が縮まるわけではない。

 

 それでも……会長のそばにいられるだけで、わたしは満足だ。

 

「会長」

 

「何ですか?」

 

「男鹿は今、とても幸せな気分です」

 

 わたしがそう告げると、会長は不思議そうに首をかしげた。

 

 

 



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ぎょくしょうのおしごと! 前編

 

 

 一手の読み間違いが敗北に直結するようなギリギリの攻防が始まると、生石(おいし )(みつる)は護摩行の火を思い出す。

 

 順位戦に備えて、生石は毎年必ず護摩行をする。灼熱の空間に自分を投げ込み、無我の境地を体験することが、将棋にもいい影響を与えると思っているからだ。

 護摩行のおかげか判らないが、終盤における生石の集中力は、プロ棋士の中でも群を抜いている。青年期を過ぎ、四十の峠を越えた現在でも、ここ一番で発揮する読みの鋭さでは若手の棋士にいささかも引けをとらない。

 

 生石は今、A級順位戦の対局にのぞんでいる。

 順位戦は、将棋界の最高峰「名人」への挑戦者を決める戦いであり、数ある棋戦の中でも、もっとも重要視されている戦いだ。

 

 この日の対局は午前中に始まったが、午後十時を回った時点で、勝負の行方はまだわからない。どちらが勝ってもおかしくない状況だ。

 

 飛車角を奪い合い、大駒が盤上を乱舞する熾烈な終盤戦。相手が自分の角を取りにきた瞬間、生石は燃え盛る炎に全身を包まれているような感覚をおぼえた。ためらうことなく角を見捨て、相手玉に迫る。百十七手目、囲いを追い出された玉の頭に生石が銀を打つと、相手は居ずまいを正して、深々と頭を下げた。

 

「負けました」

 

 涼やかなその声は、極限まで加熱していた生石の脳を急速に冷やした。

 

「…………」

 

 生石も、無言で頭を下げる。相手は、湖面のような静けさで盤上を見つめている。

 

 月光聖市九段。

 

 将棋連盟会長であり、かつて二十一歳の若さで名人位を獲得して全棋士の頂点に立った、生ける伝説。

 彼はしばらくなにも言わなかったが、やがて、ぽつりとつぶやいた。

 

「取りにいったのが、良くなかったですね」

 

「……そう思います」

 

 と、生石は答えた。

 終盤に月光が角を取りにいったあの局面のことを言っているのだと、即座に理解できたのだ。

 その後もしばらく感想戦が続いたが、その中で月光は二回「よく見えていますね」と言った。それは、生石の読みの鋭さを称賛する言葉だったのだがーー生石はなぜか、嬉しいとは思わなかった。

 感想戦が終わると、秘書の男鹿ささり女流初段にささえられながら、月光はゆっくりと退室した。その背中が以前よりも少し丸まっているような気がして、生石は思わず目をそらした。

 

 --月光さんも、年をとってしまった……

 

 勝負には、勝った。

 しかし、勝利の喜びや高揚感といったものはまったく感じられない。えもいわれぬ寂しさが、生石の心をひたひたと満たしていた。

 

 

 

 

 

 

 生石が奨励会に入ったとき、月光はすでに複数冠を保持していた。

 そして彼は、すでに失明していた。

 視力を完全に失いながらも、月光はタイトルを防衛し続け、A級棋士として君臨し続けていた。「私は頭の中でだれよりも正確に将棋を見ることができる。視力なんて必要ない」と言わんばかりの活躍だった。

 

 --間違いなく、史上最強の棋士だ。

 

 生石はそう確信していた。月光の棋譜を研究し、少しでも彼に近づこうと努力した。月光がタイトル戦に登場すると、進んで記録係を申し出て、彼が戦っている姿を目に焼き付けた。

 プロになってから初めて月光と対局したとき、生石はがらにもなく緊張して、本来の力を出し切れずに完敗した。何度も対戦を重ねて、得意の「捌き」で月光と互角以上に戦えるようになったとき、生石はプロ棋士になってよかったと心底思った。

 その後、現名人が七冠を制覇し、月光は保持していたタイトルをすべて失った。さらに最近は、篠窪、九頭竜らの若手棋士がタイトルを手中におさめるようになってきている。

 しかし、それでも、生石はやはり月光を敬愛していた。かつての最強棋士としてではなく、現棋界で最高の棋士として。

 実際、月光の棋譜は負けても美しかった。

 最短手数で敵玉に迫っていく彼の寄せは、「月光流」と呼ばれている。最終盤、恐るべき速さで相手玉を追いつめる鮮やかな指し手は、まさに芸術そのものである。仮に失敗したとしても、その美しさは生石をひきつけてやまなかった。

 

 --だが、今日の将棋は……

 

 月光らしからぬ、無惨な戦いだった。

 駒の捌き合いが終わった段階で、形勢の針は月光のほうに振れていた。しかし終盤、月光はあきらかに間違えた。角を取りにいった一手、あれが一番の悪手。しかし、それだけではない。そのあと、月光は最善手を選択しなかった。攻め合おうとすらせずにずるずると受け続け、そして負けた。「月光流」の迫力は、微塵も感じられなかった。

 感想戦のときに、月光は「よく見えていますね」と口にした。しかしその言葉は、自分が見えていないということの裏返しではなかったか?

 冷えきった頭で、考えずにはいられなかった。

 

 月光さんは、将棋が見えなくなってしまったのではないだろうか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「会心譜やったね、充くん」

 

 人当たりの良い笑顔を浮かべた中年の男が、棋士室で生石を待ち構えていた。

 

「何だお前、こんな時間までいたのか」

 

「つれない言い草やわあ。充くんの応援や思うてこんな遅い時間まで待っとったのに」

 

 中年の男--辛香(からこ )将司(しょうじ)三段は、わざとらしく眉をハの字にして悲しそうな表情をつくってみせた。生石は、部屋の時計をちらりと見る。時計の針は十一時半を少し回っていた。

 

「そりゃずいぶん無駄な時間を過ごしたな。家に帰ってさっさと寝ろ」

 

「ほんまにつれないなあ。昔は対局が終わったあと、夜っぴて色々話し合ったやろ」

 

「そんなこともあったかね」

 

 生石はぶっきらぼうに言って、ロッカーへと向かう。辛香には目もくれない。

 

「充くん、何や今日えらいご機嫌ななめやないの。対局中に何かあったん?」

 

「別に。何も」

 

「つっけんどんな台詞ばっかりやなあ……なあ、もっと素直に喜べばええんや。永世名人相手の大勝利やで。今夜は一杯、勝利の美酒でも飲みに行こ。もちろん僕のおごりや。な?」

 

「…………」

 

「ちょ、ちょっと充くん!」

 

 生石がロッカーから鞄を取り出して帰り支度を始めたので、辛香は慌ててひきとめる。

 

「なんだよ」

 

「なんだよ、やあらへん。旧友が久しぶりに飲みに行こう言うてるんやで。それなのに何でさっさと帰ろうとするんや。薄情やないか」

 

「娘がいるからな、朝帰りするわけにはいかないんだ。それに、お前--」

 生石は鋭い目つきで辛香を睨みつけた。

「俺から何か引き出したい情報があるんだろ? さっさと訊いたらどうなんだ。俺に答えられることだったら答えるし、答えられないことだったら答えない。それだけの話だ。回りくどく飲み屋に誘う必要なんて微塵もないんだよ」

 

 辛香の笑顔がぴたっと固まって、ひきつった。

 

「お前は昔からいつもそうだったな。俺と話したがるときは、俺から何かを引き出そうとたくらんでいるんだ。次の対戦相手の棋風、くせ、弱み、私生活……。だいたいそんなところか。今度は何だ? 銀子のことでも根掘り葉掘り聞こうってのか?」

 

 辛香はひきつった笑みを浮かべたまま、しばらく黙っていた…………が、やがて意を決したように口を開いた。

 

「……充くんは、僕のことそういうふうに見てたのか。いや、充くんの言う通りや。僕はたしかにそういうやつなんや。けど……」

 顔に貼りついていた笑みを消して、辛香は言った。

「充くん。僕と練習将棋を指してくれ」

 よく見ると、真剣な表情で哀願する辛香の両目は、うっすらと血走っている。

「一週間に一度……いや、充くんの都合のいいときだけでええ。とにかく、練習将棋を指してもらいたいんや」

「充くんも知ってるやろ。僕、三段リーグで勝ててへんのや。一期目は次点やったけど、二期目は降段点ギリギリやった。今期は……初戦から四連敗や」

「ソフトで研究すれば何とかなる思ったのは、間違いやった。今日びの若手は、ソフト研究くらい誰でもやってるんや。連中に勝つためには、研究だけや足りん。差し向かいで戦うときの感覚、実戦の感覚を磨かなあかん」

「実戦をやった上で、手の内を明かしあって本音の感想戦ができる相手いうのは……充くんしかおらんのや。今日は、それをお願いしにきたんや。たのむ、後生や。僕と練習将棋を指してくれ」 

 

 辛香が話している間中、生石はじっと彼を見つめていた。

 そして、辛香が話し終えると--

 

「辛香お前、本当に(ぬる)くなったな」

 

 生石はうっすらと笑いながら、そう言い放った。

 

「お前の緩いところは、二つ。まず一つは、俺がお前のお願いとやらを聞き届けてくれるだろうと思っているところだ。奨励会時代、お前の引退がかかった一戦で、俺はお前を負かした。俺には、お前に対する負い目がある。だから俺はお前の頼みを断ることができない--そういう確信があったから、俺に声をかけたんだろ?」

 

「ッ…………!」

 

「もう一つはな…………俺と練習将棋を指したくらいで、自分が強くなれると思ってるところだよ。三段リーグがどれくらい厳しいところかは、お前も身に染みてわかってるはずだろ? どれだけ才能があっても、努力したとしても、必ず勝てるわけじゃない。精神的に追い込まれていくのもわかる。でもな、自分のやり方に自信が持てなくなって俺にすがりつくようじゃあ、三段リーグは抜けられないんだよ。絶対に、な」

 絶句する辛香に向かって、生石はとどめの一言を放った。

「一人で戦うのが辛いんなら、さっさと辞めちまったほうが身のためだぜ」

 

 言うべきことをすべて言うと、生石は棋士室を後にした。ロッカーのそばで茫然とたたずんでいる辛香の姿が、ちらりと目に入る。もの寂しいその姿が、先ほど目にした月光の背中と重なって見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月光との対局が終わってから一週間ほど経った、ある日の朝。

 生石は居間で煙草をふかしながら新聞を広げていた。すると--

 

「あ、あの、お父さん」

 

 生石が振り返ると、高校の制服を着た生石の娘が、もじもじしながら立っていた。

 

「もう学校か?」

 

「うん。今日、合唱コンクールの練習があるから、早めに行かなくちゃいけなくて……」

 

「そうか。気をつけてな」

 

「あ。ありがとう。……………………あ、あの、お父さん」

 

「ん?」

 

「が、学校終わったら……また、しょ、しょ、将棋教えてもらっても、いいかな?」

 

 少女はうつむいて、どもりながら言葉を発する。

 

「…………寄り道せずに帰ってこいよ」

 

 生石がそう答えると、少女は顔をぱっと輝かせて、「うんっ!」と元気よくうなずいた。

 うきうきと玄関に向かう愛娘の後ろ姿を見送ったあと、生石は再び新聞に目を落とした。

 生石はいつも、後ろの方から新聞を読む。一つ一つの記事をくわしく読むことはせず、記事の見出しにだけざっと目を通していく。

 その日も、生石は新聞を後ろからめくっていった。全体の半分くらいまで読み進めたとき--

 ある記事の見出しに、生石の目は吸い寄せられた。

 

『月光九段が入院  会長辞任か』

 

 煙草の灰が、膝の上にぽとりと落ちた。

 

 



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ぎょくしょうのおしごと! 後編

 

 生石は阪神線に乗って、神戸市内の病院に向かった。

 月光の入院先は非公表だったが、どうしても見舞いに行きたいからと秘書の男鹿ささり女流初段に頼み込んで、教えてもらったのだ。

 月光の病室は、四階にある日当たりの良い個人部屋だった。

 部屋に入ると--

 

「お静かに。会長は今さっきお眠りになったところです」

 

 男鹿が、門番のように立ちふさがった。

 

「なあ。男鹿さん」

 

「男鹿ですが」

 

「さっき電話したときには、大したことないって言ってたけど……実際のところはどうなんだ? 会長の具合は」

 

「先ほどお電話でお話しした通りです。症状は高熱と倦怠感。原因は過労。一週間程度の静養を要する、というのが医師の診断です」

 

「ならいいんだが……」

 

 不安げな表情の生石。

 男鹿はムッとして、

「男鹿が嘘をついているとでも?」

 と言う。

 

「いや、そういうわけじゃないんだが」

 生石は頭を掻きながら、自分の懸念を口にした。

「月光さんが会長を辞めるって言い出した、なんてことが新聞記事に書いてあったからな。だいぶ悪いんじゃないかと心配になったんだ」

 

「その記事のことなら、男鹿も承知しています」

 そう言いながら、男鹿は眉間にきゅっとしわをよせた。

「玉将は、あの記事の内容が本当だと思うのですか?」

 

「何だって?」

 

「玉将はあまり連盟の内部事情には関心をお持ちでないかもしれませんが……連盟の中で、会長を目の敵にしている人もいるんです。そういう人たちは、ことあるごとに会長の足をひっぱったり、記者のコネを使って、会長が不利になるような記事を書かせたり……」

 

「それじゃ、今回のも?」

 

「そうだと思います。記事を読むと、『関係者の証言によれば、月光は辞任を示唆しているようだ』というあいまいな書き方になっています。会長に反対する一味が、思わせぶりなことを記者に伝えたんでしょう。少なくとも男鹿は、会長が辞任の意向を示されたことはないと記憶しております」

 

「……そういうことかい」

 生石は顔をしかめた。

「ひでえ話だが…………まあ、会長の病状はそんなに悪くないってことだな。安心したよ」

 

「……玉将」

 

「ん?」

 

「一週間前の順位戦、覚えていらっしゃいますか?」

 

「ああ、もちろん」

 

「あのとき…………会長はすでに高熱を出しておられました。男鹿は対局中止を申し出たのですが、会長は『この対局に合わせて準備を整えている玉将に申し訳が立たないないから』と言って、頑なに男鹿の申し出を拒否されました」

 

「…………」

 

「男鹿から申し上げたいことは以上です」

 

 言い終えて、男鹿は病室の中に生石を招き入れた。

 部屋の中に入ると、ベッドの上に仰向けになって寝ている月光の姿が目に入った。月光はかすかな寝息を立てていて、それにあわせて胸がゆっくりと上下する。顔色はあまり良くなかったが、苦しそうな表情は浮かんでいなかった。

 

「解熱剤を投与してもらってから、だいぶ楽になったと言っていました」

 

「そうか……」

 

「どうぞお座りください」

 

「ああ、すまん」

 

 すすめられるまま、椅子に腰をおろす。

 男鹿は、壁に立てかけてあったもう一脚の椅子を広げて、ベッドの反対側に座った。その顔が少しやつれているような気がして、生石は思わず声をかけた。

 

「男鹿さん」

 

「男鹿ですが」

 

「あんた、会長が倒れてから、ずいぶん無理してるんじゃないか」

 

「そんなことはありません」

 

 男鹿は言下に否定した。

 

「でもずいぶん疲れてるように見えるぞ。連盟の仕事と会長の看病、両方やってるんだろ? あんまり無理しすぎると今度はあんたが倒れちまうんじゃないか」

 

「お気遣いありがとうございます。でも、今回のことは男鹿の責任でもありますから……」

 そう言って、男鹿は悔しそうにうつむく。

「男鹿が秘書としてもっとしっかりしていれば……スケジュール調整をもっと工夫していれば……会長の負担はもう少し減ったのではないかと思うのです」

 

「それは考えすぎだろ。男鹿さんが責任を感じる必要なんか」

 

「いいえ」

 やや食い気味に、男鹿が口を開く。

「男鹿はずっと会長にあこがれて将棋を続けてきました。引退するときも、会長のお側で仕事ができるのでむしろ嬉しかったくらいです。だから、会長のお役に立てていない自分が、とても歯がゆいのです」

 男鹿は膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。

「会長のお仕事と対局をサポートすることが、男鹿にできることの全てなのです。でも……男鹿の力では、肝心な将棋のことについて会長を助けることができない。私の実力は女流一級……いいえ、実戦から遠ざかっている今は、それよりもっと下です。練習将棋の相手としても役不足なのです。できることといえば、棋譜並べを手伝うことくらい。こんなに強く会長のことを想っているのに、将棋に関してはほとんど役に立っていないのです。だから、せめて事務的なサポートだけでも完璧にこなして、会長のご負担を少なくしようとしていたつもりだったのに……」

 

「男鹿さん、そんなに自分を責めないでください。私は対局中、いつも男鹿さんに感謝しているんですよ」

 

「そんな、男鹿は感謝されるほどのことはできていま…………えっ?」

 

 男鹿が驚いて顔をあげると、ベッドの上には穏やかに微笑んでいる月光の姿があった。

 

「か、会長!? いつからお目覚めになっていたんですか?」

 

「男鹿さんの声で目が覚めました。そんなことよりも」

 

 と言いながら、月光は体を起こそうとする。男鹿が慌ててその背中を支えた。

 

「自分を責めないでください、男鹿さん。私が対局できるのは、あなたの存在があってこそです」

 

「か、会長……そんな、そんなこと……」

 

「いいえ、そうなのですよ。あなたがいつもそばで手助けをしてくれているから、私は安心して対局に臨めます。それに、何よりも……あなたが、私のことをいつも心の底から応援してくれているから。だから私は最後まであきらめずに指し続けることができるのです」

 

「会長……」

 

「将棋盤の前に座った瞬間から、棋士は孤独な存在になります。誰かに相談するわけにもいかず、完全に自分一人の力で戦わないといけない。ただ……何度考えても自分が不利になる変化しか見えないようなとき。必勝だと思っていた将棋を、逆転されそうになってしまったとき。泥沼のような将棋で、最善手が見つからないようなとき。……そんなときには、これまで自分がお世話になった人たちの顔が思い浮かぶのです。家族、師匠、お世話になった先輩方、ファンのみなさん……そして、私にとってかけがえのない、大切な人。そんな人たちが一様に、私を励ましてくれます。ここ数年の間、苦しい局面で、私はあなたに何度励まされたことか……数え切れないくらいです」

 

「……会長ぉ……」

 

「だから、そんなに自分を責めないでください。そして、これからも私のことを支えてください。……いいですね?」

 

「はいっ……!!」

 

 手に手を取りあう二人を目の当りにして呆気にとられていた生石だったが、軽く咳払いをして、尋ねる。

 

「あー、会長。見舞いに来たんですが……お邪魔ですか?」

 

「おや、玉将。いたのですか?」

 

「……さっきからずっといたんですがね」

 

「それは大変失礼しました。私はご覧の通り順調に回復していますから、ご心配には及びませんよ。身の回りの世話は彼女がしてくれますし、玉将は明日もお仕事がおありでしょうから、気を遣わずにいつでもお帰り頂いて結構です。ご足労おかけして申し訳ありませんでしたね」

 

--要するに、「男鹿さんと二人きりになりたいからお前はさっさと帰れ」ということだな。

 言外に漂うメッセージを察知した生石は、「じゃ、これで失礼します」と言って腰を上げた。ちらりと見た男鹿の横顔は、真っ赤に染まっているうえ、ぐにゃぐにゃにゆるみきっている。「裏番長」もかたなしだな、と思いながら病室を出ようとした、その時。

 

「ああ、そういえば」

 月光が突然声を発した。

「来期の順位戦では、この間の借りを返させていただきますから。首を洗って待っていてくださいね」

 

 月光のその言葉は、ナイフのような鋭さで生石の耳に突き刺さった。

 

「……嬉しい脅し文句ですね」

 

 生石はそう言って返事をした。

 実際、生石は身震いするほど嬉しかったのだ。

 月光が自分に対抗意識を燃やしている。

 そして、誰かに対抗意識を燃やしているということは、月光がまだ勝負師として衰えていない証拠でもあった。

 

「会長、来期もよろしくお願いします」

 

 生石はそう言い残して、病室を後にした。

 

 

 

 帰る道すがら、生石は月光の言葉を反芻(はんすう)していた。

 将棋は一人で戦うものだが、その戦いの最中に自分を支えてくれるのは、応援してくれている人たちだ。月光はそう言った。

 自分はどうだったろうか。

 対局の最中に誰かのことを思い出すことは、全くと言っていいほどない。

 ただ……

 もし、深夜まで飲み歩くことを厳しく注意する妻が、いなかったら。

 酒の飲みすぎや煙草の吸いすぎを心配してくれる娘が、いなかったら。

 いや、それ以前に――

 子どものころ、近所の将棋教室で優しく将棋を教えてくれたおじさんたちがいなかったら。両親が、将棋教室に通わせてくれていなかったら。

 ……月光聖市という人が、棋士として現れていなかったなら。

 そもそも棋士になることすらできなかったかもしれない。

 そういったたくさんの人たちとのめぐりあわせがなかったら、自分はタイトル保持者にはなれなかっただろう。それは確実だった。

 

--将棋は孤独な遊戯なり。されど、将棋指しは孤独な人間にあらず、か……

 

 駅の雑踏の中を歩きながら、生石は自分の考え方が少しだけ変わってきていることに気づき始めていた。

 

 

 

 家に帰ると、辛香の携帯に電話をかけた。留守電だった。

 『ゴキゲンの湯』の場所と店が開いている時間、「いつでも来い」という言葉を留守電に吹き込み、受話器を置いた。

 謝罪の言葉は言わなかった。

 この間、辛香に告げたことは間違いではない。あれくらいでつぶれるような人間だったら、わざわざ定職を捨ててまで三段リーグに戻って来るはずがない。

 ただ、もし辛香が『ゴキゲンの湯』に来たら、いくらでも練習将棋の相手になってやろう。言葉ではなく、態度で示すのだ。

 

 俺はお前を応援しているぞ、と。

 

 

 

 

 

 三週間後。

 月光の復帰後初対局は、A級順位戦だった。

 相手は、於鬼頭(おきと)(よう)棋帝。順位戦で生石が何度も苦杯を喫している相手だ。プロ棋士の中でも屈指の実力者だがーー

 月光は、完勝した。

 「月光流」の鋭さを存分に感じさせる、超高速の寄せ。タイトル保持者である於鬼頭でさえ、そのスピードについていくことができなかった。翌週の『週刊将棋』には、「月光九段、華麗に復帰」という見出しが踊っていた。

 記事に添えられた写真には、穏やかな表情で感想戦を行う月光と、目を潤ませてそれを見つめている男鹿の姿が映っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「月光さんの会心譜やったね」

 

 スマートフォンの画面を見ながら棋譜並べをしていた辛香がそう言った。

「見ていて爽快だったな」

 

「充くんが苦手にしてる相手をやっつけてくれたんやもんねえ」

 

「アホ。そういう問題じゃねえよ」

 

 二人がいるのは『ゴキゲンの湯』の二階にある将棋道場だ。生石が電話を入れた翌日、辛香はさっそく人畜無害そうな笑顔を浮かべて『ゴキゲンの湯』に姿を現し、以来三日と空けずここに来て生石と盤を挟んでいる。

 この日も辛香は午前中から道場に上がりこみ、月光・於鬼頭戦の棋譜並べをしていた。

 

「それにしても、月光さんはいつ年を取るんやろ」

 ため息をつきながら、辛香がつぶやく。

「これでA級在籍連続三十四期か。途方もない記録やなあ」

 

「まだまだ伸びるさ、その記録は」

 

 生石はそう言いながら、煙草を挟んだままの指で駒をひょいひょいと動かした。それを見た辛香は、「うーん」と唸る。

 

「そうか、この手を警戒して月光さんは金を引いたんか……凄まじい読みの深さやなあ。ソフトも真っ青や」

 

 そう、月光はまだまだ年をとっていない。それどころか、ソフト研究をさかんにしている棋士たちとも互角以上に渡りあっていて、その強さは年々進化し続けているようにすら見えるのだ。

 自分だって、もう一回りも二回りも強くならないといけない。

 万全の状態の月光を、迎え撃てるように。

 生ける伝説を前に、悔いのない戦いをするために。

 

--来年の護摩行は、キツめにやらないといけねえな。

 

 生石はそう決意した。

 



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ばんだいのおしごと! 前編

「やあ、飛鳥ちゃん。元気かい?」

 

 番台のお仕事をしていた私に、お客さんが話しかけてきました。

 

「あ、はい。げ、元気です」

 

「うんうん、若い子は元気がいちばん。元気があれば何でもできる」

 

 お客さんはそう言って大声で笑っています。とっても楽しそうなので、私もつられて笑います。

 

「はい、入湯料。先に二階にあがらせてもらうよ。飛鳥ちゃんも、休憩時間は将棋指しに来な」

 

「あ、あの、ありがとうございます」

 

 階段を昇っていくお客さんに向かって、私は丁寧にお辞儀をしました。

 

 

 

 ここは、京橋駅から歩いてすぐの銭湯、『ゴキゲンの湯』。

 銭湯といってもただのお風呂屋さんじゃありません。なんと二階には将棋の道場があるんです。入湯料さえ払ってもらえれば、いくらでも将棋が指し放題。お風呂にはいれて将棋も指せちゃう、素敵な場所なんです。

 

 この銭湯の店主は、プロ棋士の生石充玉将。私のお父さんです。お父さんは、ときどき道場に顔を出して、お客さんと対局しています。対局が終わると、熱い言葉でお客さんを激励したり、アドバイスをしたりします。もちろん、レッスン料はとりません。本当は、タイトル保持者が指導対局するのはダメみたいですが、お父さんはそんなこと全然気にしていないみたいです。

 

「将棋好きが二人そろえば対局が始まるのは当たり前だろ? それを止めることなんて、誰にもできないさ」

 

 って言ってました。かっこいいです。

 店主のお父さんがとても優しくてかっこいいので、「ゴキゲンの湯」は毎日たくさんのお客さんでにぎわっています。

 棋士の先生方も、よくこのお店に来るようになりました。

 たとえば、九頭竜八一竜王。

 それから、空銀子先生。

 八一くんは私と同い年。空先生は私よりも二つ年下です。

 二人はお父さんと研究会をしています。ちらっと研究会の様子をのぞいてみたことがありますが、みんな難しい顔をして、将棋盤を囲んで色々と話し込んでいました。うらやましいような、おっかないような…………

 でも、二人とも帰るときには晴れやかな顔で帰っていきます。そんな二人の表情を見ていると、こっちも清々しい気分になるから不思議です。

 とくに空先生は、お店を出るときすごく浮き浮きしているみたいに見えます。何でだろう…………?

 ま、まさか…………研究会のあと、二人で桜ノ宮に行ったりするんじゃないよね!? 

 前に、八一くんと空先生がホテルで一泊した、って聞いたけど……

 でも八一くんは、「あの日はホテルで将棋の話をしただけで俺は姉弟子に指一本触れてないし一緒に一泊しただけでほんとうに何もないから!」って後で言ってたし……

 大丈夫…………だよね…………?

 

 とにかく、「ゴキゲンの湯」に来る人たちは将棋が大好きな人ばっかり。それに、みんなとってもいい人たちです。八一くんはこんな私にも気をつかって話しかけてくれるし、空先生はいつも無口だけど、優しい目をしています。お客さんもいい人ばっかりです。だから、このお店で番台の仕事をするのが、私は大好きです。

 

 

 

 休み時間になりました。

 アルバイトの人と交替して、二階にあがります。

 二階の道場には、今日も人の好さそうなおじさんたちが集まっていました。みんな、とても楽しそうに将棋を指しています。いつもと変わらない日常です。

 でも……

 その中に、たった一人。

 楽しそうな顔をしていない人がいました。

 その人は笑顔を浮かべていました。でも、目が笑っていないのです。鷹のように鋭い目で、他の人の対局をじっと見つめています。常連さんではありません。

 

 いったいだれだろう?

 そう考えながらその人のことをちらちらと見ていると……

 目が合ってしまいました。

 あわてて目をそらします。そのまままわれ右をして、一階に戻ろうとしたのですがーー

 

「おおい、飛鳥ちゃん!」

 

「……っ!」

 

 さっき声をかけてくれたお客さんに、呼び止められてしまいました。

 

「どう、飛鳥ちゃんも一局」

「……ぁ、ぇ……」

「ん? 今はだめなの?」

「…………ぃ」

「そうか、残念だなあ。じゃあ、また後でぜひ」

「……す、ぃません」

 

 私はぺこりと頭をさげて、道場を出ようとしました。

 その時です。

 鋭い目つきのあの人が、いつのまにかすぐそばに立っていました。そして、口元に笑みを浮かべて会釈をすると、こう言ったのです。

 

「初めまして。初対面で失礼やけど、君、生石先生の娘さんやろ? 先生の若いころによう似てはるわ」

 

「ぇっ、ぉ、お、お父さんの、お知り合い、ですか?」

 

 急に挨拶されてびっくりしましたが、かろうじて声をしぼりだします。

 

「ああ、申し遅れました。僕、辛香将司いいます。生石先生は奨励会で同期でした」

 

 その人が名乗ると、周りにいたお客さんたちがどよめきました。

「辛香将司って、編入試験を受けて三段リーグ入りした、あの辛香将司!?」

「どっかで見たことあるなあと思ってたんやが……そういうことかいな!」

 辛香さんのまわりにたちまちお客さんが集まります。私は知らないけど、すごく有名な人みたいです。

 

「生石先生はいらっしゃいますか? お会いできたらと思って来たんやけど」

「そういや今日は見ないなあ」

 お客さんの一人がそう答えました。

「飛鳥ちゃん、知ってる?」

「あ、今日は、午前中、普及活動のイベントに出席するって……。も、もうちょっと、待っていてもらえれば……帰ってくる、と思いますけど……」

「そうかあ。それじゃあ、ここで待たせてもらおうかな」

 辛香さんがそう言うと、

「せっかく来てくれたんだし、待ってる間に俺らと対局してもらえませんか?」

 と一人のお客さんが提案しました。

「三段の人と指せる機会なんてなかなか無いし、ぜひ勉強させてもらえれば、と……ダメですかね?」

「いいですよ、もちろん」

 辛香さんはにこにこしてそれに応じました。

 対戦相手として名乗りをあげたのは、三人の常連さんたち。

 辛香さんは、三人同時に相手をして、常連さんの段級位にあわせて駒落ちのハンデもつけて戦います。「駒落ち」というのは、上級者がいくつかの駒を使わないで戦う、ハンデ戦のこと。このハンデがあれば、実力が離れた人同士でも互角の戦いになるので、アマチュアのお客さんたちでも辛香さんとの勝負を楽しめます。

 

 対局が始まってから、三十分余り。勝負はあっけなくつきました。

 

「いやあ、みなさん強いなあ」

 

 辛香さんは、三人に簡単に負かされてしまいました。

 でも、辛香さんが弱いというわけではありません。むしろその逆です。お客さんたちに気持ちよく指してもらうことを優先して、お客さんの注文に応じながら自然に指していった結果として、負けたのです。プロ棋士の先生が指導対局をしているみたいでした。横で見ていた私には、それがよくわかります。

 お客さんたちもそのことがわかっているみたいで、

「ご指導ありがとうございました」

 と口々にお礼を言っています。

 やっぱり奨励会の人はすごいなあと感心していた、そのとき。

 

「飛鳥ちゃん、辛香さんと対局してみない?」

「!?」

 

 お客さんの一人が、突然そんなことを言い出しました。

 

「そうそう、飛鳥ちゃんも対戦しときな。いい機会だ」

「ほら、遠慮してないで!」

「え、ええぇ!?」

 おろおろしているうちに、将棋盤の前に座らされてしまいました。

 

「へえ、玉将の娘さんと勝負できるんか。光栄やなあ」

 辛香さんはそう言ってにこにこしています。

「飛鳥ちゃん、いう名前なんやね。段位は持っとるの?」

 

「………………」

 

「この子はね、今1級だけど、もう初段……いや、二段くらいの力はあると思うよ」

 

固まってしゃべれない私のかわりに、そばにいたお客さんが質問に答えてくれました。

 

「そうそう。なんせ玉将の指導を毎日受けてるんだもなあ。ここ一年でずいぶん伸びたよ」

 

「へええ……」

 

 辛香さんは、目を細めて私の顔をじっとのぞきこみます。

 その目が一瞬ぎらっと光ったような気がして、私はびくっとふるえてしまいました。でも、そんなふうに見えたのはほんとうに一瞬だけで。

 

「なら、二枚落ちでやってみよか」

 

 そう言って飛車・角の大駒二枚を駒箱にしまいこんだ辛香さんは、優しそうな顔に戻っていました。

 

「………………」

 

「ん? どうしたん? やりたくない?」

 

「……い、いいえ!」

 

 私はぶんぶん首を横に振りました。

 将棋が強くなるための秘訣は、とにかく強い人と将棋を指すこと。だから、奨励会の人と対局できる機会を、逃すわけにはいきません。

 

「よろしくお願いしますっ!」

 

 私が頭を下げると、辛香さんは――

 

「うん。よろしくお願いします」

 にこにこ笑いながら、こう言ったのです。

「玉将と対局するつもりでやらせてもらうわ」

 

 そのとき……

 

 また辛香さんの目が、ぎらりと光ったような気がしました。

 



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ばんだいのおしごと! 後編

 

 ぱちり、ぱちり。小気味のいい駒音が、道場に響きわたります。

 テンポの良いそのリズムはやさしい音楽みたいで、その音を聞いているうちに、緊張もだんだんほぐれてきました。

 

 辛香さんとの対局で私が選択した戦法は、「銀多伝(ぎんたでん)」。

 二枚落ちの戦い方としては最も有名で、攻守にバランスの取れた陣形です。将棋の普及指導員を目指すのであれば、絶対に知っておかないといけない戦い方でもあります。そして、一番大事なことは……

 

 飛車が真ん中にいること。

 

 角道も開いているので、私の大好きな「ゴキゲン中飛車」という戦法にちょっと似ています。飛車を真ん中に移動させるだけで、何だか自分の家に帰ってきたときのような、ほっとした気分になって、この飛車で真正面から相手と立ち向かっていこう、という勇気が湧いてきます。

 

 もちろん辛香さんも「銀多伝」の定跡をよく知っていて、要所要所に金銀を配置。簡単に攻めさせてはくれません。でも、向こうが守りを固める間に、こちらは銀将二枚を高く組み上げ、飛車を振って、陣形の整備は完了です。

 あとは、攻めるだけ。

「ふぅー…………」

 私は、大きく深呼吸して気持ちを落ち着けます。そしてーー

「ん!」

 歩を突き出して、開戦。

 そこからは必然と思われる手が続きます。指し手を進めていくと、定跡で勉強した通り、こっちが有利な局面になってきました。

 飛車道も角道もよく通っているし、金銀三枚で玉も固く守られています。相手の駒は守りに集中せざるを得ないので、すぐに攻め込まれることはありません。どんどん敵陣を攻め立てていくことができます。

(よし、いける!)

 私がそう思ったとき。

 

「なあ、飛鳥ちゃん」

 

「……?」

 

「こんな手、見たことある?」

 

「……えっ!?」

 

 辛香さんが指したその手は……私が考えもつかなかった一手でした。

「っ……」

 盤面をじっと見つめて、必死に辛香さんのねらいを探ります。

 ひと目見たかぎり、私が悪くなる変化ではないはず。でも、なんだか嫌な予感がしました。

 集中して、深く読みを入れます。最近少しだけ見えるようになってきた頭の中の将棋盤で駒を動かしながら、いくつもの変化を繰り返し繰り返しシミュレーションして……

 ……

 …………

 ………………

 このまま攻めて大丈夫、だよね……?

 いくら考えても、攻め込んで悪くなるはずがないという結論になるのです。辛香さんは、むしろ自分から不利になるような手を指しているみたい。このまま攻め込んでいって、大丈夫なはず……

 

 でも……

 

 奨励会三段の、昔お父さんといっしょに腕を競っていたような人が、そんな手を指すだろうか?

 辛香さんの手には、私が読み切れていないような罠が隠されているんじゃないだろうか?

 

 そんな考えが頭をよぎります。

 すぐに攻め込まないほうがいいんだろうか……飛車を別の場所に移動させて……いや、自分の陣形を整えながら様子を見たほうが安全なのかも……

 

 だんだん不安になってきて、あまり深く読んでもいない「安全そうな」手を選んでしまいそうになった、そのとき。

 

『バカ野郎!!』

 

「えっ!?」

 私は思わず声をあげてしまいました。

 突然、どこからかお父さんの声が聞こえてきたような気がしたからです。でも、道場の中を見回してもお父さんの姿はありません。

 

『そんな弱気な手を指してどうするんだ! 勝機があると思ったら、思い切って踏み込め!!』

 

……ああ、そうか。

 今私は、お父さんに「銀多伝」の指し方を教わっていたときのことを、急に思い出してしまったんだ。あのときお父さんに絶対に指すなと注意されたような手を、選びそうになっていたから……

 

 

『いいか、飛鳥。銀多伝で戦うときの方針は、振り飛車と同じだ。自分の陣形が整ったら、左側の桂・金・角を思い切って(さば)く。駒をどんどんぶつけて、相手の守備駒と交換していけ。それだけで自然によくなる』

 

『ほ、ほんとう……?』

 

『ああ。「銀多伝」の陣形はがっちりしているから、相手に多少駒を渡したところでびくともしない。中央が突破できればこっちのもんだ。あとは着実に相手の玉を追っていけばいい』

 

『そ、そっか。振り飛車の「(さば)き」の感覚で攻めていけばいいんだね』

 

『そうだ。ただ、ひとつだけ注意しないといけないことがある』

 

『……?』

 

『それはな……「弱気になること」だ』

 

『弱気に……なること……』

 

『そうだ。「銀多伝」は、二枚落ちの下手(したて)の戦法。ということは、相手の力はこっちよりもはるかに上だ』

 

『……』

 

『自分よりも実力が上の相手が、予想外の受けをしてきたり、攻め合いに出てきたりしたとき……それに気圧されて、これまで進めていた方針を転換してしまいがちになる。自分の読みを信用しきれずに、上手くいきかけていた攻めを中断してしまう。苦労して切り開いてきた「道」を、自分からあきらめてしまうわけだ。そうすると、たいていの場合、形勢は一気に悪くなる』

 

『……』

 

『なんとなく相手を信用するんじゃなくて、自力で読み抜いてたどりついた結論を信じろ。仮にその結論が間違っていて勝負に負けたとしても、その負けは絶対にその次に繋がる敗戦になる。……わかるか?』

 

『……うん、わかるよ、お父さん』

 

『自分らしい将棋さえできれば……自分の頭の中で思い描いた「道」を将棋盤の上に実現できさえすれば、それが財産になるんだ。これから何年、何十年とかけて、財産を少しずつためていくつもりで、将棋を指すといい』

 

『うん……!』

 

『ど真ん中で直球勝負を挑むってのが、お前の「道」なんだからな。それを大切にしろよ』

 

 

 ……うん。そうだったよね。

 自分を信じて、自分の「道」を大切にして、将棋を指すんだったよね。

「ふぅぅーっ…………」

 もう一度、大きく深呼吸。そして――

 

「うんっ!」

 

 思い切って、桂馬を前線に繰り出します。

 その手を見たギャラリーのお客さんたちが、「おおっ」とどよめきました。

 私が選んだのは、駒を大胆にさばいて辛香さんの陣地にぐいぐい迫っていく、一番攻撃的な一手。後戻りのできない一手です。

 でも、迷いや不安は感じません。

 私の頭の中の将棋盤が、この攻めが最善だという結論を出したから。

 中飛車で、堂々と真ん中から攻め込んでいく。それが、私の「道」だから。

 そして――

『勝機があると思ったら、思い切って踏み込め!』

 お父さんが、そう言って励ましてくれているから。

 

「……へえ……」

 

 私の積極的な手に驚いたのか、辛香さんは少し考えこみます。そして、ぐっと自分の陣形を引き締める、落ち着いた手を放ってきました。

 指されてみると、たしかに嫌な一手です。でも……

「ん!!」

 私はさらに駒を前に進めて、攻撃の火ぶたを切りました。

 そこからは、お互いの駒がどんどんぶつかっていって――

 

 

 

「負けました」

「ぁっ……ありがとうございました」

 

 辛香さんが頭を下げたので、私も礼を返します。周りのお客さんたちが、「さすが飛鳥ちゃん!」「良い将棋だったよ!!」と言いながら、拍手をしてくれました。

「いやあー、やっぱり強いなあ。道場の皆さんが言うだけのことはありますわ。ひっかけてみようと思ったけど、まっすぐ攻めてこられてしまって。こりゃ勝てません。お見事です」

「ど、どうもありがとうございます」

「それに、周りで見てる皆さん方が、みんな飛鳥ちゃんの応援してるからなあ。それが飛鳥ちゃんの力になったかもわからんね。皆さんが応援している飛鳥ちゃんと一人ぼっちの僕、や」

 辛香さんはおどけた口調でそう言って、周りのお客さんたちの笑いを誘います。するとお客さんの一人が、まじめな顔でこう答えました。

 

「いやいや、俺は辛香さんのこといつも応援してるよ」

 

「え……ほんまですか?」

 

 他のお客さんたちも、うんうんと頷いています。

 

「今日は飛鳥ちゃんを応援したけど、普段は辛香さんのことを応援してる。なんたって、辛香さんはサラリーマンとして仕事をしながらアマチュアの大会で優勝して、奨励会に入り直したんだから。俺らアマチュアにとっては、尊敬の的なんだ」

 

「いやいや、尊敬なんてしないでください」

 辛香さんは苦笑いして手を振りました。

「奨励会の三段リーグに入ったはいいけど、そこから中々抜け出せんのです。二十歳そこそこの若者にまじってオッサンが一人ぼっちで将棋指して、醜態さらし続けとるんですわ」

 

 辛香さんはそう言って、自分を嘲るように笑います。

 するとお客さんは――

 

「そんなことありませんよ!」

 

 声を荒げて、その言葉を否定しました。

 

「辛香さんが若い棋士相手に堂々とたたかっている姿を見るだけで、津々浦々にいる将棋好きのオッサンたちは励まされるんです」

 お客さんたち全員が、「そうだ、そうだ」と賛同の声をあげます。

「一人ぼっちなんていうことはないですよ。マスコミが取り上げなくなっても、我々はみんな辛香さんのこと応援してますから」

「俺、辛香さんがアマチュアの大会で優勝した時の棋譜、今でもよく見ます」

「あ、俺もときどき見るわ」

巨匠(マエストロ)も『あいつらしい将棋だ』ってほめてましたよね、その棋譜?」

「そうそう。巨匠(マエストロ)、けっこう辛香さんのこと応援してるんですよ。悪口もよく言ってますけどね」

「そうだ、うちの会社には将棋部があるんですけど、もしよろしければ今度指導に来ていただけませんか? みんな辛香さんのファンだから、ものすごい喜ぶと思うんです」

「アホ、辛香さんはお忙しいんだからそんなの無理に決まってるだろ。少しは遠慮しろよ。あ、私の職場にも将棋の同好会があるんでぜひ指導にいらしてください」

「お前言うてることムチャクチャやぞ!」

 お客さんは口々に辛香さんに話しかけます。

 

「………………ほんまですか。嬉しいですわあ」

 

 私はびっくりしました。

 辛香さんの目に、うっすらと涙が浮かんでいたのです。さっきまであんなに鋭い目つきだったのに……

 辛香さんは、目頭を押さえながら、お客さんたちにお礼を言いました。

 

「いやあ、今日は皆さんからいろんなこと教わったわ。ほんまに感謝です。飛鳥ちゃんも、ほんとうにええ将棋を指すなあ。これからもがんばって勉強してや」

 

「あ、いえ、そんな、あの、あ、あ、ありがとうござぃ、ますっ」

 突然ほめられてびっくりしてしまったせいで、すごい勢いで舌を噛んでしまいました。恥ずかしい……

 

「充くんに稽古つけてもらおう思って来たけど、飛鳥ちゃんと将棋指せただけでもう満足や。今日はもう帰ろうかな。充くん、飛鳥ちゃんのことをすごい大切にしてるから、こういうふうにおしゃべりしてるだけでも『俺の娘に近づくな』いうてどやしつけられるかもしれんし――」

 

「辛香、お前何やってるんだ?」

 

 聞き慣れた声がしたので後ろを振り返ると、いつのまにかお父さんが道場の入り口に立っていました。

「あっ、充くん! お邪魔してます。今、娘さんと一局指したところで――」

「俺の娘に近づくなッ!」

 お父さんは、ずんずん道場の中に入ってくると、辛香さんの腕を乱暴に引っ張って将棋盤から引き離します。

「痛い、痛いよ充くん。暴力反対や」

「なんでお前がここにいるんだ」

「いつでも来いって言うてくれたやろ。昨日、留守電聞いたで」

「来るんだったら一報くらい入れたらどうなんだ? せっかく来ても俺がいなかったら無駄足だろう」

「ということは、僕が一報入れたら充くんはちゃんと待っていてくれるいうことやね?」

「ッ……」

 お父さんは「しまった」という顔をしました。それを見た辛香さんが、にこーっと満面の笑みを浮かべます。

「やっぱり充くんは優しいわあ。僕が三段リーグで苦戦してるのを知って、稽古つけてくれるなんて……充くん、おおきに! 感謝感激や!」

 

 周りのお客さんが、「いい話だ……」「さすが巨匠(マエストロ)!」と言って感動しています。お父さんは何か言いたそうに口を動かしていましたが、「ったく、調子のいい野郎だな、お前は……」と呟いただけで、それ以上辛香さんに文句をつけることはしませんでした。

 

 辛香さんはにこにこ笑っています。その目には、さっきみたいなぎらぎらした光はありませんでした。

 そんな辛香さんを見て、私は思います。

 お父さんと仲が良い人に、悪い人は一人もいません。八一くんも。空先生も。それから、お店のお客さんたち全員。みんなとってもいい人たちです。優しくて、ニコニコ笑っていて、将棋が大好きな人たちばっかり。そんな人たちが集まるのがこの『ゴキゲンの湯』。

 

 でも……ひょっとしたら逆なのかもしれません。

 悪い人がここに来たとしても、道場の人たちと会って、話して、将棋を指しているうちに、だんだんいい人に変わっていってしまうのかもしれません。

 だからきっと、この人も。

 

「ほんまに嬉しいわあ。なんだか涙が出てきそうや」

「女々しいやつだな。男だったら涙を流すなよ、みっともない」

「そんなこと言うて、充くん、三段リーグで昇段のチャンスを逃したとき廊下でオイオイ泣いてたやろ? 僕よう知ってるで」

「なっ……! おい飛鳥、こいつの言うことを信じるなよ。全部嘘だからな」

「対局時間を間違えて不戦敗になったときも、『不甲斐ない』言うて男泣きに泣いとったがな」

「てめえ、これ以上しゃべるな!」

「何や? 僕の言うことが全部嘘やったらそないムキになる必要ないやろ? ん? んん?」

「クッ……! …………よし、いいじゃねえか、やる気なんだな? かかってこい、十秒将棋で返り討ちにしてやる」

「カッカしてるなあ、そんなんで将棋指せるんか?」

「ぬかせ。手合い違いだってことを分からせてやるよ」

「受けて立とうやないの。指す手なくしてベソかいても知らんで」

 

 お父さんと子どもみたいに言い争っている辛香さんを見て、きっとこの人もいい人なんだろうなあ、と私は思ったのです。

 

 



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かいちょうのおしごと!

 

 新幹線が六甲(ろっこう)トンネルに入ると、ああ戻ってきたんだなと思う。

 

 トンネルを抜ければ、そこはもう神戸である。

 

 神戸には、山があって、海があって、四季の移り変わりがある。日本全国どこでもそうだなどと言われそうだが、神戸の自然がおりなす風景はまた格別。自分の生まれ育った土地だから、特別な愛着がある。

 

 ただ、その風景を見ることはかなわない。

 

 二十数年前、私は視力を失った。プロ棋士として絶頂期にあったときの、突然の失明。悲しいとか悔しいとか思う以前に、事実を受け止めきれなかった。

 

 失明したあとも、自分が盲目になったという自覚はあまりなかったように思う。多少の光は感じることができたせいかもしれない。将棋会館と近くにあるマンションを往復するだけの毎日だったから、慣れてしまえば目が見えなくてもわりあい普通に生活できた、という理由もあっただろう。

 

 しかし、私が「失明した」という自覚を充分に持てなかった一番の理由は、将棋だった。両目が光を失ってからも、私の頭の中にある将棋盤が消え去ることはなかった。否、頭の中の将棋盤は、ますますはっきりと見え、ますます強い光を放っていた。だから、目が見えなくなったといってもそれほどの喪失感がなかったのだと思う。

 

 自分の障碍(しょうがい)の重さに気がついたのは、失明したあとはじめて六甲トンネルをくぐったときである。トンネルをくぐり抜けるとすぐ、明るい光とともに神戸の街並みが目に飛び込んでくるその瞬間を、私はいつも楽しみにしていた。だがその日は、トンネルを抜けても、明るくなったなと感じるだけでいっこうに景色は見えない。「新神戸ー、新神戸ー」というアナウンスが聞こえるだけで、緑に覆われた山脈も、遠くに見える瀬戸内海の水面も、しっとりとした風情のある神戸の街も、何一つ見ることができなかった。

 

 私は愕然とした。

 

 自分の目では、二度と神戸を見ることができない。

 

 いや、神戸だけではない。これまで目にしてきたありとあらゆる景色、これから目にすることができたであろう様々な光景を、私は全て失ってしまったのだ。

 

 盲者にとって当たり前の事実が、異様なまでの重みをもって私の前に立ちふさがった。

 

 私はそのことがきっかけでしばらくふさぎこんでいたが、将棋の対局はそんなことにおかまいなくやって来る。ひたすらに戦い続けるしかなかった。

 

 そして、数年後。

 

 タイトル戦の最中に、阪神淡路大震災が起こった。

 

 日常生活はあっという間に破壊され、数千人の命が一瞬で失われた。

 

 こんなときに、タイトル戦などやっていていいのか。将棋なんて指している場合じゃないんじゃないか。

 

 そんな思いがよぎったが、いざ対戦相手と盤を挟んでみると、私の心は喜びで満たされた。

 

 ーー生きて、将棋が指せる喜び。

 

 突然、予想もしないかたちで命を落とした人たちがいる。

 

 苦労して育ててきた小さな幸せを、奪われた人たちがいる。

 

 そんな人たちがいる中で、私は将棋を指している。生きながらえて、好きなことができる環境にある。

 

 盲目の私にできることといえば、将棋だけだ。神戸の棋士である私がタイトル戦に勝てば、苦しんでいる人たちに少しだけ明るいニュースを届けられるのではないだろうか……

 

 だとすれば、私は、傷ついた人たちに顔向けが出きるような、立派な将棋を指すべきだ。目が見えないことくらい、なんだ。もっと困難な状況におかれている人はいくらでもいる。私は、自分に与えられた状況下で全力をつくさないといけないんだ。

 

 私は持てる力を全て出しきり、タイトル戦に勝利した。

 

 その後、月日は流れ……

 

 私は将棋連盟の会長に就任したが、すべてのタイトルを失い、無冠の棋士になっている。両目はあいかわらず見えないままだ。それどころか、この前は体調を崩して入院までする羽目になった。体は、少しずつ衰えてきている。

 

 神戸の建物は復興したが、災害公営住宅に暮らす人たちの話などを聞いていると、人びとの生活が完全に元に戻ったとは言い難い。さらに、東日本では阪神淡路大震災を上回る規模の震災があった。

 

 いいことばかりではない。

 

 それでも、神戸には、山があって、海があって、四季の移り変わりがある。

 

 だから私は、新幹線が六甲トンネルに入ると、ああ戻ってきたんだなと思う。

 

 そして、私の隣にはーー

 

「会長、トンネルを抜けました」

 

「ええ、明るくなりましたね」

 

「降りる準備をしましょう。男鹿の腕にお手をお置きください。廊下は狭いですから、もっとぴったりと、そうですもっとぴったりくっついて歩きましょう」

 

「いつもありがとうございます、男鹿さん」

 

「どういたしまして♡」

 

 私の隣には、今日も彼女がいてくれる。

 

 会長秘書として何年も務めているこの女性の顔を、私は一度も見たことがない。けれども、いつも影のように付き添ってくれる彼女の声を聞いていると、不思議と心が落ち着く。彼女の手が私の体にふれると、言いようのない安らぎを感じる。神戸の風景を見ることができない寂しさも。多忙な日々のなかでたまっていくフラストレーションも。彼女と一緒に時間を過ごしていると、少しずつ薄らいでいく気がする。

 

 もしも、私の目が見えるようになって、日常生活で彼女の補佐が必要なくなったとしても……私は彼女を必要とするだろう。今や彼女は、私にとってかけがえのない存在になっているのだから。

 

「さあ行きましょうか、男鹿さん」

 

「はい、会長!」

 

 彼女の腕の感触をそっと確かめながら、私は駅に降り立った。

 

 

 

 

 

 

 



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第二章
にちじょうのできごと! 前編


 

 朝起きると、ベーコンが焼ける香ばしい匂いがただよってきた。

 

 ぱちぱちとはぜる油の音が、耳に心地良い。

 

 布団から起き上がって(ふすま)を開けると、キッチンで料理にいそしむ同居人の姿があった。

 

「ジンジーン、起きた? おはよー! 朝ごはん、もうすぐできるからね~☆」

 

「珍しいね。珠代(たまよ)クンが自分から料理をするなんて」

 

「だってー、昨日ジンジンが『明日の朝はベーコンエッグにしよう』って言ってたでしょ? だから、早起きしてつくってあげたら、ジンジン喜ぶかな~って」

 

「ありがとう。とっても嬉しいよ」

 

「えへへ~♪」

 

 僕が頭を撫でてあげると、彼女はふにゃっと顔をほころばせる。

 

 フリルのついたエプロンを着てにこにこ笑っているこの人は、鹿路庭珠代(ろくろばたまよ)女流二段。

 隣の部屋に住んでいる彼女は、僕の部屋の合鍵も持っていて、二つの部屋を自由に出入りできる。

 ちなみに、僕も珠代クンの部屋の合鍵を預かっている。

 というか、彼女の部屋はもともと僕の研究用の部屋だった。その証拠に、今でも彼女の部屋の表札は、「山刀伐(なたぎり)」のまま--つまり、僕の名字のままだ。

 

 「仕事が軌道に乗るまでは」という条件で、研究用に借りている隣の部屋を、単身上京してきた珠代クンの住まいとして貸し与えたのが五年前。

 それ以来ずっと、人気女流棋士になった今でも、彼女は隣の部屋に住み続けている。それどころか、最近は僕の部屋に入りびたりになっていて、夜になっても自分の部屋に帰らず、僕の部屋に泊まるようになった。

 

『ジンジンの部屋ってめちゃんこ広いから、私がいても全然邪魔にならないでしょ?』

 

 というのが彼女の言い分。

 

 たしかに邪魔にはならないが、彼女が炊事洗濯を積極的に手伝ってくれるということもない。休日はだいたい、昼過ぎまでソファの上でごろごろしている。猫みたいだ。

 

 今日は珍しく朝ご飯をつくってくれているけど、これはあくまで例外。三度の食事はほとんど僕がつくっている。

 

 というのも理由があって--

 

「どしたの、ジンジン? もうすぐできるから、リビングで待ってて?」

 

「……」

 

 味は悪くないんだけど、珠代クンの料理の仕方はかなり雑だ。

 今だって、キッチンを見渡せばその雑さ加減は一目瞭然。

 冷蔵庫から出した調味料はそのへんに置きっぱなしだし、なぜか油がやたら飛び散ってるし、シンクにはベーコンを包装していたビニールのパックが、べちゃっと放置されている。

 

 そして彼女は片付けをしない。

 つまり、この混沌とした台所を元通りに復旧するのは、ぜんぶ僕の仕事だ。

 結局、彼女に炊事を任せると、後で僕の仕事が増えるわけで。

 それなら自分で全部やった方が早いし、ストレスも少ない。

 

 と、いうわけで。

 僕は今、思いっきり不機嫌な顔をしてもいいところなんだけど……

 

「ほらほら、ジンジンはあっちで座って待っててってば。あ、パンも焼いてあげるから、安心して?」

 

「ありがとう! フフッ、楽しみだなあ」

 

「えへへ~☆ ジンジンに頭なでられちゃった」

 

「いつもなでてあげてるだろう?」

 

「そうだっけ? じゃあお返しに……えいっ!」

 

「おいおい、脇腹をくすぐるのはやめてくれないかい?」

 

「んふふ~♡」

 

 珠代クンがとても可愛いので、これでよしとする。

 

 甘やかすのはよくないことだとわかってはいるんだけど……ね? こういうふうに上手に甘えられるとついこっちも甘くなってしまう。

 はたから見てどうなんだろうと思ったりもするけれど。当人同士が楽しければそれでいいはずだ。きっと。

 

「それじゃあ、今日頑張ってくれたご褒美に、夜はとっておきのワインをごちそうしちゃおうかな」

 

「わーい♪ ワインに合う料理もつくってくれるんだよね?」

 

「もちろん☆ 何かリクエストはあるかな?」

 

「鯛のカルパッチョと、シーザーサラダ。あ、サラダには手作りのクルトン入れてほしい。あとライスコロッケ!」

 

「……言いたい放題だね……」

 

「だめ?」

 

 上目遣いでおねだりポーズをとる彼女。

 かわいい。

 ……大事なことなのでもう一度。上目遣いでおねだりポーズをとる彼女は、かわいい。

 

 将棋界の荒波にもまれた彼女はいつの間にか、こういうふうに女の武器を活かす(すべ)を身につけてしまったようだ。

 

 でも、この先、こういう処世術がずっと通用するとは限らない。

 いつもは彼女に甘い僕だけど、ここはさすがに厳しく接しておかないと。そう思った僕は、考えられる限りで最も峻烈(しゅんれつ)な塩対応をしてみせる。

 

「ダメじゃないよ! 僕が全部つくってあげるからね☆」

 

「やったー♪ ジンジンありがとう!!」 

 

 ……

 ボクってダメだなあ……

 

 でも、珠代クンの嬉しそうな顔を見ていると、それでもいいかという気分になってしまう。彼女も、ずいぶん辛い思いをしながら将棋を続けているんだ。せめてボクといっしょにいるときくらいは、ずっと笑顔でいてほしい。

 そう思うのは、悪いことじゃないだろう?

 

 

 

 その後、二人でおしゃべりしながら朝食をたべた。彼女がつくってくれたベーコンエッグはすこし焦げ目がきつかったけど、中々おいしかった。

 

 

 

 食後にコーヒーを一服して、後片付けをしようとしていたとき。

 携帯電話が鳴った。

 電話をかけてきたのは、将棋連盟会長秘書・男鹿ささり女流初段。要件はごく簡単なものだったので、会話はものの二、三分で終わった。電話を切って、後片付けを始めようとしたんだけれど……

 

「……あれ?」

 

 テーブルの上は、きれいさっぱり片付いていた。

 それだけじゃない。

 食器はすでにぜんぶ洗ってあるし、ぐちゃぐちゃだったシンクも綺麗になっているし、置きっぱなしだった調味料も元に戻してあるみたいだ。

 

「ジンジンが電話してるうちに、私がやっといたよ。後片付け。だって、いつも片付け全部やってもらってるから、たまには私が最後までやろうかなーって……」

 

 はにかんだ笑顔が無性に愛しくて。僕は彼女の頭をぽんぽんとなでた。

 

 夕食の材料の買い出しは、二人で一緒に行くことにしよう。

 



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にちじょうのできごと! 後編

 夜。料理を食べ終え、おいしいワインを飲み干した後、僕は丁寧に食器を洗う。

 その間、彼女はソファの上に寝っ転がってごろごろしていた。猫みたいだ。

 

 時計を見たら、もうずいぶん遅い時間になっていたので、彼女に声をかける。

 

「今日も泊まってくかい?」

 

「ん、泊まる」

 

 彼女の答えを確認して、僕は風呂のスイッチを入れる。お湯の量は二人分。最近ずっと同じ量だ。

 スイッチを押すと、浴室から、さああ……という水音が聞こえてきた。浴槽に水がたまっていくときの音だ。

 

「あれ、お風呂掃除、ジンジンがしておいてくれてたの?」

 

「もちろん☆」

 

「助かる~! ジンジン気が利きすぎて私やること何も無いわぁ~。やること無いからとりあえず寝よっと」

 

「今朝早起きして食事をつくっていた人の発言とは思えないね……堕落しきってるよ」

 

「早起きしたから眠くなっちゃったんですぅー!」

 

「この時間に寝ると、夜に眠れなくなっちゃうよ?」

 

「じゃあ、眠くならないようにジンジンがかまって」

 

「はいはい」

 

 ソファで寝転んでいる彼女の隣に腰掛けて、サラサラの髪の毛をそっと撫でる。すると彼女は、目を閉じて心地よさそうな声を出した。

 

「んぅ~……もっと撫でて~」

 

「……こんな感じ?」

 

「そうそう、そんな感じ。んふぅ~……」

 

「……」

 

「………………………………すぅすぅ」

 

「珠代クン、寝ちゃだめだよ?」

 

 寝息を立て始めたので、ゆさゆさ揺すって彼女を起こす。

 

「ん~……だって、眠いんだもん」

 

「子どもみたいなこと言わないで。ほら、起きて」

 

「やだ。もうジンジンの言うことなんかきかなーい」

 

 彼女はほっぺたを膨らまして、僕の手を払いのけようとする。

 

「やれやれ、困ったなあ」

 

「困れ困れぇ~☆」

 

 そう言いながら彼女は、僕の脇腹をつんつんとつつきはじめた。

 脇腹は弱点だ。思わず変な声が出そうになって、慌てて彼女の腕を押さえる。

 

「えへへ~、ジンジンの弱点はよぉ~く知ってるもんね」

 

 僕に腕を押さえられながらも、彼女は不適な笑みを浮かべて指をくねくね動かしている。隙あらば僕の脇腹をつつこうという魂胆らしい。

 

 つつかれてなるものか、と彼女の両腕を押さえる手に力をこめると--

 

「痛っ!」

 

 と彼女が叫んだ。

 

 僕は慌てて彼女の腕を放す。その瞬間。

 

「隙ありっ」

 

 彼女は自由になった両手で、僕の脇腹を思い切りつついた。

 

「た、珠代クン!」

 

「えへへ~、だまされた」

 

「まったくもう……いたずらが過ぎるよ」

 

 困り顔で僕がそう言うと、彼女はソファの上で仰向けになって、僕の顔をじっと見あげた。

「下からのアングルのジンジンもかっこいいなあ」

 

「ほめたところで何も出ないよ?」

 

「と言いつつ、冷凍庫からとっておきのアイスを出してきてくれるジンジンなのでした」

 

「……おおせの通りに、お嬢様」

 

 僕は苦笑しながら冷凍庫を開けて、アイスを2つ取り出した。

 

「わ~い☆ ジンジンさっすが~」

 

 二人で並んでソファに腰掛け、カップアイスのふたを開ける。

 

「ところでさ、最近気になってるんだけど」

 

 プラスチックのスプーンでアイスをすくいながら、彼女は

 

「ジンジンって結婚願望あるの?」

 

 一拍の間を置いて、僕は「ないよ」と答えた。

 

「……ないの?」

 

「結婚しなくても、好きな人と一緒にいることはいくらでもできるからね」

 

 僕がそう付け加えると、彼女は「ふぅ~ん」と言ってアイスを口に運んだ。

 

「それじゃあ、ジンジンが好きな人って誰?」

 

「いっぱいいるよ。特に若手の棋士がアツくてね。八一クンはもちろん、篠窪クン、神鍋クン、それに奨励会の鏡洲クン……。まあ、その中でも八一クンは最高だね。冷静なタイプに見えるけど、ナカにアツいものを隠してるところがすごくソソるんだよなあ。最近はウケに回ってヤラれっぱなしだから、次はこっちから責めていって主導権をニギる展開にしちゃいたいね☆」

 

「うん、なんか言動がヤバくなってきたからそのへんで止めとこっか」

 

「それからね……」

 

「わー、ジンジンってば人の話聞いてなーい」

 

「八一クンよりももっと好きな人がいるんだけどね」

 

「はいはい、誰ですか?」

 

「珠代クンだよ」

 

 僕がそう言うと、彼女はスプーンをくわえたまま目を大きく見開いた。

 

「本当は結婚したいくらい好きなんだけどね。でも、歳だってすごく離れているし、大切にあずかっている娘さんに手を出したなんてことが公になってメディアなんかで大騒ぎされたら、君の師匠や親御さんに申し訳が立たないからね」

 

「……ふーん……」

 

 彼女はそう言ったきり口をつぐむと、食べかけのアイスをテーブルの上に置いた。

 その顔には、いつもの快活な笑顔は浮かんでいない。悲しんでいるようにも見えなければ、怒っているふうでもない。

 強いて言えば、将棋に夢中になっているときに少し似ている表情だった。

 

 

 彼女は無言のまま、ただじっと僕の顔を見つめている……

 

 ……

 

 …………

 

 …………………………

 

 

 

 

 

 浴室から「ピピピピッ」という電子音が聞こえてきて、僕は我に返った。

 

「珠代クン、お風呂わいたよ」

 

「…………」

 

「眠いんでしょ? お先にどうぞ」

 

 彼女は、しかし、ソファから立ち上がろうとはしなかった。彼女は座ったまま、僕に体を密着させて、顔をぐっと近づけた。

 お互いの吐息がはっきりと感じられるくらい近づいているのに、彼女は恥ずかしがるそぶりも見せず、僕の眼をじっとのぞき込んでいる。

 しばらく見つめ合った後、彼女は僕の体におずおずと腕を回した。

 

「珠代クン……」

 

 暖かい感情が心にあふれる。それを上手く言葉に変換できない不器用な僕は、少し乱暴に彼女を抱きしめた。

 

 



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りゅうおうのやくそく! 前編

 二ツ塚(ふたつづか)未来(みらい)四段は、静かに呼吸を整えて対戦相手を待っていた。

 

 第五十期新人戦トーナメントの二回戦。東京・将棋会館の中にある「銀沙の間」がその舞台だ。

 二ツ塚は、対局開始時間の三十分前からこの「銀沙の間」に着座して気を高めていた。

 

 新人戦は、二十六歳以下の棋士が参加するトーナメントで、若手の登竜門とされている。順位戦で好成績をつけて「気鋭の若手棋士」という評価を固めつつある二ツ塚にとって、とりわけ重要な棋戦だった。

 

 新人戦のトーナメントには、三段リーグで好成績をおさめた一部の奨励会員も参加できる。ただし、プロ未満の彼らは、トーナメントの一回戦から地道に勝ち進んでいかなければならない。一方、二ツ塚のようなプロ棋士は優遇され、二回戦からの出場となる。二ツ塚にとっては、この対局がトーナメントの初戦だった。

 

(絶対に勝つ)

 

 二ツ塚は、自分にそう言い聞かせた。トーナメント戦だから、負けたらそれっきりだ。そのうえ、二ツ塚の対戦相手はプロ棋士ではなく、奨励会三段ですらなかった。負けるわけにはいかなかった。

 

 対戦相手は、開始時刻ギリギリになって「銀沙の間」に姿を表した。

 

 腰まで伸ばした金色の髪。

 白と黒の二色を基調にした、高校の制服。

 たくし上げているのだろう、スカートの丈はずいぶん短かった。

 

 そう、二ツ塚の対戦相手は--女流棋士。

 新人戦では、数名ではあるが女流棋士にも出場枠が設けられている。二ツ塚の相手は、その枠でトーナメントに参加していた。

 

 ただし、女流棋士の棋力は奨励会三段よりもはるかに劣るとされており、現にこれまでの新人王戦でもほとんどが初戦で破れている。ここ数年で女流棋界のレベルが飛躍的に向上したとはいえ、プロ棋士との差はまだ歴然としていた。二ツ塚としても、絶対に負けたくはない。それに--

 

(冷静に戦えば、勝てる相手だ)

 

 今日の対局に向けて対戦相手の棋譜を研究した結果、二ツ塚はそう結論づけていた。

 

 異才の持ち主ではある。

 過去にはテレビ対局で、プロ棋士相手に金星を挙げてもいる。

 しかし、その棋譜から感じられるのは才能と閃きだけで、将棋の『分厚さ』は無かった。地道な研究の積み重ねや、経験にもとづく勝負勘や大局観。そういったものが、彼女の将棋には欠けていた。

 

 持ち時間が少ないテレビ対局ならば、才能だけで相手を吹き飛ばせるかもしれない。しかし、このトーナメントの持ち時間は三時間。予想外の奇手に対しても、じっくりと腰をすえて対応できる。両者が腰をすえて戦えば、将棋の『分厚さ』がものをいう展開になる。そして、将棋の『分厚さ』は自分のほうがはるかに上だ。二ツ塚はそう確信していた。

 

 対戦相手にちらりと目をやる。

 開始時刻直前に入室してきたのにもかかわらず、彼女は慌てる素振りすら見せずに、悠然と着座した。

 

(……メンタルの強さは中々のものだな)

 

 駒を並べながら、二ツ塚は対戦相手を冷静に観察していた。

 闘争心を燃やしながら、気負いすぎず、客観的に状況を把握できる。この沈着さが、二ツ塚の大きな武器だった。

 

 盤側の記録係が、いそいそと振り駒の準備を始める。

 いよいよ、対局開始だ。

 

(……勝つ!)

 

 二ツ塚は背筋を伸ばし、将棋盤を見つめた。

 

 

 

 

 振り駒の結果、先手となったのは二ツ塚だった。二ツ塚は、三手目に飛車先の歩を突いて居飛車を明示。角交換の後、銀を前線に繰り出して敵陣突破を狙った。

 対する後手は振り飛車で対抗するが、先手の巧みな指し回しによって陣形を乱される。金銀がバラけて、後手陣の左翼はスカスカになっていた。

 二ツ塚は持ち駒の角を打ってさらに揺さぶりをかける。後手は飛車を引いてその攻撃を防ぐ。

 その後も先手が鋭く攻め、後手が辛うじてしのぐという展開が続いた。

 

(このまま押し切れる)

 

 二ツ塚は、心の中で呟いた。

 ちょうどそのときだった。

 

「あんたにはさぁ、絶対負けられないんだよ」

 

 相手が、突然しゃべりはじめた。

 

(独り言か?)

 

 無視しようとした。しかし、相手の発するねっとりとした声は耳の奥にまとわりつき、二ツ塚の集中を妨げた。

 

「あんた、やいちに負けてるよね? 去年の順位戦でさ、やいちとあたって負けたんだよね?」

 

 何のことを言っているのか、すぐには理解できなかった。

 しばらくしてから、「やいち」というのは九頭竜八一竜王のことだと思い当たった。たしかに二ツ塚は昨期の順位戦で、九頭竜と戦って敗れている。

(なぜ今、竜王の名前を出す……? 昔の敗戦を思い出させて動揺を誘う盤外戦術か……?)

 二ツ塚は相手を見ないようにして、あくまで盤面に集中しようとする。しかし--

 

「あんたになんか負けたらさぁ、『なんだ、こんな弱いやつに負けたのか』ってやいちに思われちゃうんだよぉ。そしたらこっち、二度とやいちに将棋指してもらえなくなっちゃう。ただでさえいろんな邪魔が入って全ッ然会えてないってのにさぁ、こっちが弱いところ見せたらまたやいちとの距離が開いちゃうんだよぉ」

 

 相手は絶え間なくしゃべりつづけている。

 対局中の独り言が激しい棋士だと聞いてはいた。しかし、この言動は明らかに常軌を逸している。盤側にいる記録係に注意してもらおう、と二ツ塚が横を向いた、そのとき。

 

「喰らえよ、ほらぁ!!」

 

 乱暴に駒が打ち付けられた。

 そして、その一手は二ツ塚を完全に痺れさせた。

 

「…………ッ!?」

 

 打ち込まれたのは、一枚の歩。

 しかしその歩をとれば、自陣のかまえに微妙なほころびが生じる。そのほころびを、相手が広げようとしたら……

 

(それを防ぐ手が……ない?)

 

 何度考えても、有効な受けが見つからないのだ。

 

(これは……難しいのか……!?)

 

 盤面を覗き込むようにして思考を重ねる。しかし、どれほど考えようとも自分が不利になる変化しか見えなかった。

 

(苦しい……)

 

 二ツ塚は、激しい喉の渇きを覚えた。

 傍らにあるペットボトルの蓋を開け、水を喉に流し込む。

 小刻みに水分を補給しながら打開策を考えていると--

 

「ほら、もうわかっただろ?」

 

 相手が低い声でつぶやいた。

 

「あんた、難しいって自覚した瞬間、喉が渇いてペットボトルが手離せなくなるんだ。こっち、そういうことまでちゃんと調べてあるんだよ」

 

「!?」

 

 自分の癖を的確に指摘され、二ツ塚は動揺した。

 しかし、それで終わりではなかった。

 

「そういう癖だけじゃなくってさあ、得意な戦型とか時間配分の傾向とか、細かい情報までぜぇ~んぶ把握してるわけ。だってこっち、ここんとこずっとあんたの棋譜ばっか並べてたんだ。クソ面白くもないあんたの棋譜を、何回も何回も何回も何回も何回も--」

 

 相手はずっとしゃべり続けていた。

 ボヤキとか、盤外戦術とかいった類いのものではない。どす黒い感情の濁流が相手の体の中からあふれ出て、自分を呑み込もうとしている。二ツ塚は、ぶるりと震えた。

 

「だってさあ、このトーナメントで優勝したらさあ、やいちと会えるんだよ? また会って話をして将棋指せるんだよ? やいちは騙されてるだけだから会って将棋指せばこっちの気持ちをわかってくれるんだよぉだから勝って勝って優勝してそんでやいちと将棋指さなくちゃいけないんだあんたなんかただの前座なんだだからさっさと投了しちゃいなよ早く投了投了投了投了投了投了--」

 

「じょ、女流帝位、対局中ですのでつつしんでください」

 

ようやく記録係が注意してくれた。

 すると、相手は--

 

「うひっ♪」

 

 奇妙な笑い声を発して、しゃべるのを止めた。

 

(な、何なんだこいつは……!?)

 

 ちらりと様子を伺うと、彼女は将棋盤から目を離し、彼女にしか見えない何かを見つめながら、ニヤニヤと笑っていた。

 

「ひひ。ひひ、ひひひ、ひひひひひひひひひ……」

 

 不気味な笑い声が、口の端から漏れている。

 もはや完全に頭のネジが外れているとしか思えない。

 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、二ツ塚は何度も水を飲む。長考のすえ桂馬を跳ねた。敵陣を攻め立てて逆転を狙う、果敢な一手である。

 ところが、相手はノータイムで返してきた。

 その手が妙手だった。

 このまま攻め続けていると、攻撃のかなめを担っている自分の銀がただ取りされてしまう。二ツ塚は臍を噛んだ。

 攻めが繋がらないと判断した二ツ塚は、一転して自陣に持ち駒を投じ、受けに回る。

 それに対しても、即座に強手が飛んできた。

 二ツ塚は慎重に読みをいれ、最善と思われる一手を指す。しかし相手はまたノータイムで--

 

 そんなことが何回か繰り返された。

 三十分後、局面は二ツ塚にとって絶望的なものになっていた。

 

(どこから駄目だったんだ、一体どこから……)

 

 いつの間にか二ツ塚は、勝つために考えることを放棄してしまっていた。

 

 

 

 --迄、百十四手で祭神雷女流帝位の勝ち。

 第五十期新人戦において優勝候補の一角と目されていた二ツ塚未来四段は、その初戦で姿を消した。

 

 



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りゅうおうのやくそく! 中編

 テーブルの上で、スマホが振動している。誰かから電話がかかってきたようだ。

 画面を見ると「男鹿(おが)さん」の文字。

 きっと連盟からの連絡だろう。振動が収まる気配がないところを見ると、どうも急ぎの用件っぽい。

 

 でも、スマホの持ち主は将棋の研究に没頭していて、それにまったく気づいていない様子だ。

 見慣れた光景に、思わず苦笑してしまう。

 彼は、将棋のことを深く考えているときは周りの物音が一切聞こえなくなってしまう。私もプロ棋士のはしくれだから同じような経験はあるけれど、彼の集中力はちょっと別格。だって彼は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 私は振動を続けるスマホを手にとって、パソコン画面を覗き込んでいる彼のもとに駆け寄ると、肩を何度も強くたたいた。

 

八一(やいち)、電話!」

 

 私が耳元でそう言うと、ようやく彼も顔を上げ、ぼうっとした表情で私を見つめた。目の焦点がいまいち定まってない。きっと、さっきまで没入してた将棋の世界から、まだ抜け出せていないんだろう。

 

「え、何……?」

 

 「電話」と私は繰り返す。さらにスマホの画面に表示された名前を、彼に見せた。

「連盟から。ずっと鳴ってるし、緊急かも」

 

 私の顔とスマホ画面を交互に見て、やっと彼の思考は現実の世界に戻ってきたみたいだ。「ああ」とつぶやいて、私からスマホを受け取る。そして、鳴動を続けるスマホ画面をタップする前に、私の髪の毛をそっと撫でながら、微笑みかけてくれた。

 

「ありがとう、銀子ちゃん」

 

「……うん」

 

 そっけなく答えたつもりだったけど。私の口元は、ちょっとだけゆるんでいたかもしれない。

 

 八一と一緒に暮らし始めてからずいぶん時間が経つけど、いまだに八一が私の髪や肌に触れるたびに、体中がむずむずするような幸せな感覚に包まれて、思わずふにゃっとした顔になってしまう。しかも八一はそんな私を見るのが楽しいのか、ことあるごとに私とスキンシップをとりたがるから困りものだ。

 ま、まあ私もスキンシップ自体が嫌なわけじゃないから、強く拒絶することはないんだけど……

 こんなことだから桂香さんにいつも「バカップル」って言われちゃうのかな?と思いながら、男鹿さんと通話している八一の顔をぼんやりと眺めていると――彼の表情がみるみるうちに曇っていくことに気が付いた。

 

「どうしたの?」

 

 とひそひそ声でたずねると、八一は慌てて笑顔を取り繕って、「大丈夫!何でもないから!」と口パクで答えた。

 ……あやしい。

 これは、嘘をついているときの表情だ。順位戦を明後日に控えている私に余計な亜心配をさせまいとしているんだろう。何を話していたのか、晩ご飯を食べ終わった後にでも聞き出さなくちゃと思って、八一に背を向けた次の瞬間。

 電話の向こうから、不穏な単語が聞こえてきた。

 

女流帝位(じょりゅうていい)は……」

 

 女流帝位。

 その四文字が私の脳内にはっきりと浮かび上がると同時に、全身が粟立つような感覚に襲われて、私はその場に立ち止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「吐け」

 通話が終わった瞬間、私は両手で八一の首を締め上げた。

「前の女の話でしょ? 何でもないわけないじゃない。全部説明しろ」

 

 女流帝位、祭神雷(さいのかみいか)。八一と同学年の女流棋士だ。以前、八一とは東京でしょっちゅう会っていたらしい。それどころか、八一に告白をして、ふられた後もしばらくストーカーまがいの行為をしていたと聞いている。

 八一は「何もなかった」って言い張ってるけど、簡単にその言葉を信じるわけにはいかない。ちょっとでもあの女の影を感じたら、徹底的にチェックしておかないと。こんなふうに。

 

「ちょ……銀子ちゃん! 苦し……」

「電話の内容を説明しなさい。今すぐに」

「説明する! 説明するから! 指……離して、くれないと……い、息が……ッ!!」

 

 ほどほどのところで開放すると、八一はしばらく呼吸を整えた後、真面目な顔でつぶやいた。

 

「雷が、新人戦で優勝したらしい」

「えっ」思わず驚きの声が漏れる。「決勝の相手って、たしか……」

創多(そうた)だよ。雷が創多に勝って、五十代目の新人戦優勝者になったそうだ」

 

 (くぬぎ)創多--小学生でプロ入りしたバケモノ棋士だ。三段リーグで一度だけ対戦したことがあるけれど、その異次元の強さは私もよく知ってる。プロ入りしてからも格上の棋士相手に連勝を重ね、今ではタイトル戦にも出場するようになった、本物の将棋星人。そんなやつを相手にして、雷は勝った……

 

「新人戦始まって以来、女流棋士が優勝したのは初めての快挙だ。明日の新聞はその話題がトップニュースになると思うよ。特例で雷にプロ編入試験を受けさせるかどうか、連盟でも緊急に会合を開いて検討してるらしい」

 

「それは……すごいニュースね。でも、なんで男鹿さんから八一に連絡があったの?」

 

 私がそう尋ねると、八一は一言、「記念対局だよ」と答えた。

 

「記念対局?」おうむ返しをしてから、あ、と気が付いた。「そうか。新人戦の優勝者は、記念対局の相手に、タイトル保持者を指名できるから……」

 

「そうなんだ。新人戦の優勝者には、タイトル保持者と記念対局できる権利が与えられることになってるだろ? その記念対局の相手として、雷が俺を指名したらしいんだ」

 

 そんな仕組みがある、ということはちらっと聞いたことがある。

 「記念対局」という非公式戦。そこで、タイトル保持者が伸び盛りの若手に胸を貸すっていう……もっとも、タイトル保持者の八一自身が、まだまだ若手の棋士なんだけど。

 

「じゃあ、今の電話は、それを八一に伝えるための……」

「うん。あと、俺がそれを受け入れるかどうかの確認」

「確認って……断ることもできるの?」

「普通は優勝者の希望通りになるらしいんだけど、雷とは前にいろいろあっただろ? だから男鹿さんも気をつかって、OKかどうか俺に確認を…」

「そうね。さぞかしいろいろあったんでしょ? 昔、東京でずーっと私に隠れてデートしてたんだもんね? そんな相手と対局なんて、気まずくってしょうがないもんね?」

「そこじゃない! ってか、デートじゃないから! VSしてただけだから!!」

「ふーん」

「信用してよぉ、銀子ちゃん……」

 

 涙目になっている八一を冷たい表情で眺める私。まあ、これは冗談半分。

 ここからは真面目な話だ。

 

「で、対局するつもり?」

「うん、対局するよ」少し間をおいてから、でもきっぱりと八一は答えた。「逃げ隠れはできないからね。タイトル保持者として」

「そう……」

「雷は最近ますます、その……正気を失っているようにも見える、って男鹿さんは言ってた。でも、どんな常識外れな棋士が相手だろうと、勝負を避けることはできないと思う。だから、雷とはきちんと決着をつけてくる」

 

 たしかにアイツは正気じゃない。

 でも、精神をすり減らしながら勝負の世界に生きるプロ棋士にとっては、「正気を保つ」という当たり前のことが、時に難しかったりもする。

 私だって、三段リーグをたたかっているとき、心のバランスを失ってしまったことがある。

 それを救ってくれたのが、八一だ。

 あのとき八一が私を助けてくれなかったら、私の心取返しのつかないほど壊れてしまっていたことだろう。

 そう考えると、アイツも……もしかしたら、どこかで道を踏み外してしまっただけなのかもしれない。将棋の強い人の背中を追い求め続けていたはずだったのに、その思いが高まりすぎてしまって、心を病んでしまった。そんなふうに想像してみると、アイツにも同情の余地はある。

 まあ、だからといって八一に粘着したことを許す気は一切ないし、次に対局の機会があれば絶対ボコボコにするけど。

 

「対局は、どこでやるの?」

「たぶん、関東」

「そっか……」

「全力で戦って、勝つよ」

「……」

 

 私の不安が顔に出てしまったんだろう。近寄ってきた八一は、私を正面からそっと抱きすくめ、耳元でささやいた。

 

「対局が終わったら、わき目もふらずにすぐ帰ってくるから。ね?」

「……約束、だよ?」

「大丈夫だから、安心して。銀子ちゃん」

「ねえ、八一」

「ん?」

「耳、貸して」 

「ん、何々? 俺のことが好きだよって耳元でささやいてくれるの?」

 

 なんて能天気なことを言いながら、だらしない顔をさらしている八一の耳に唇を寄せて、一言。

 

「あいつに思わせぶりな態度をとったら、本気でぶち殺す」

 

「………………肝に銘じます」

 

 そう答える八一の顔面は、一瞬で蒼白になっていた。

 うん、これで満足。上下関係は、これくらいしっかりと叩き込んでおかないと。

 

 まあ、さすがにそれだけだと可哀そうかなと思ったから……真っ青になった八一の頬に軽く触れるだけのキスをした後、私は笑顔で命令した。

 

「晩ご飯の支度。手伝って」

 

 

 

 



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りゅうおうのやくそく! 後編

 

「やっと会えたね、やいち」

 

 東京・将棋会館の「銀沙の間」で、俺は雷と対面していた。

 対局開始時刻の一時間以上前から、雷は将棋盤の前に座って俺を待っていたという。

 俺が部屋に入ると、雷は眼を大きく見開いて俺を凝視し続け……着座した瞬間、囁くように言った。

 

 やっと会えたね、と。

 

「やいち……会えて嬉しいよ……すっごくすっごく嬉しいよ…………やいち…………やいち、やいち、やいち、やいち、やいち…………」

 

 囁きかけてくる雷を無視して、駒箱を手に取る。

 

 いや……

 

 無視しようとしても、無視しきれなかった。

 雷の声色はどろどろに溶けたチョコレートみたいに甘ったるくて、一つ一つの言葉が脳髄にじわじわと浸透してくる。

 

「ねえ、やいち……こっち向いてよぉ」

 

 至近距離でそう呼びかけられて、不覚にも、少しだけ顔を上げてしまった。

 その瞬間。

 

「あはぁ♪ やっと目が合った♡」

 

 そう呟いた雷の瞳は不気味な光を放っていて。

 つり上がった口の端は、ひくひくと小刻みに痙攣していた。

 

「ねえ、やいち……。今度はさあ、前みたいなこと、ないよね? 逃げ出したりしないよね? ちゃんと最後まで将棋指してくれるんだよね?? ねえ???」

 

 背筋がざわついて、思わず目を背けそうになる。今すぐ部屋を飛び出して、少しでも遠くに逃れたいという衝動に、身をまかせたくなってしまう。

 

 でも--

 

 逃げ出すわけにはいかなかった。

 

 雷は、新人戦優勝者として、俺の目の前に座っている。

 並みいるプロ棋士を葬り去って、トーナメントの頂点に登りつめた今期最強の若手棋士。文句のつけようがない、正当な挑戦者だ。

 そして俺は、竜王として雷と対峙している。

 目の前の挑戦者が誰であろうと、真っ向からぶつかっていくこと。相手がどんなに強くても、全力で戦って、勝ちに行くこと。

 それが竜王の仕事だ。

 

 だから、絶対に…………背を向けるわけにはいかない!!

 

「ああ、逃げない」

 

 雷の視線を受け止めて、きっぱりと言い切る。

 

「もう絶対に、お前からは逃げない。何度挑戦されようが、受けて立つ。勝負を挑まれたら、いつでも戦ってやる。将棋盤の上で、お前と戦って……そして、倒す!」

 

 俺がそう告げるとーー

 

 

 

 

 

「やっと、約束してくれたね」

 

 

 

 

 雷の顔に、ゆっくりと、笑みが広がった。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、いつもの妖怪じみた笑いじゃなくて……純粋な喜びに満ちあふれた、人間くさい笑顔だった。

 

 この笑顔は……

 

 何年も前に、見たことがある。

 

 将棋会館で、はじめて雷と出会ったとき。はじめて二人で将棋盤を挟んだとき。雷はたしか、こんなふうに笑っていた……

 

「こっち、絶対負けないから」

 

 あふれんばかりの笑顔で、雷はそう言った。

 

「二人だけの将棋、指そう? ね、やいち!」

 

 

 

 



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