北沢少年と俺 (パンド)
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プロローグとライバル

「なぁ北沢さん。こういうのを世間一般では、余計なお世話って言うんだろうけどさ」

「黒山さん、余計なお世話です」

「せめて内容を確認してから言ってほしいなぁ!!」

 

 

 取りつく島もないとは正にこの事だ。

 鍾乳石も真っ青なとっかかりの無さである。

 むしろ、この少女に出会った当初──そう、去年の7月半ば頃の方が、まだ俺の話にマジメに真摯に、耳を傾けてくれていた気がする。

 あの頃の彼女は、きちんとした礼節を重んじる、公平な人物であった。俺はそうであると信頼していた。

 だが、信頼とは裏切られても構わないという信用の上に成り立つのであって、俺は物の見事に裏切られたのである。

 

 総じて猫のような少女だと、俺は思った。

 最初は警戒を怠らず、礼儀正しく決して隙を見せない。

 しかし、それが徐々に薄れていくと。

 

「そりゃあ、こうして貰っている身で言うのも烏滸がましいし、身勝手だとも思うけど──」

「黒山さん」

「……はい」

「身勝手な上に、烏滸がましいです」

「言うと思ったよチクショウ!!」

 

 自由気ままで、短気で、容赦のカケラもない本性を露わにする。

 そうなった猫は、無遠慮で、不躾で、理不尽な存在だ。

 出会ってしまったのが運の尽きというか、なんというか。

 俺はこの先も、無遠慮で、不躾で、理不尽な目に合うに違いない。

 だが、それはそれとして。

 言わなきゃならないことは、言わなきゃならない。

 本当は言いたくなくても、言っておかなきゃならない。

 

「別に、無理して寄って貰わなくても大丈夫だよ」

「別に、無理はしていませんよ」

「本当に?」

「……本当に、です」

 

 人のことを言えた義理じゃあないけども、この少女の本音というのは顔よりも会話に出てくる、と思う。

 少なくとも、俺は勝手にそう思ってる。

 多分、向こうも勝手にそう思ってる。

 だからこそ、俺は自分の推測を信頼していた。

 

「私は、言うなれば弟の代理ですからね」

「そんなことは、思ってないけど」

「本当ですか?」

「……半分くらいは」

 

 呆れ返った顔をして、少女は俺を見下ろしながら見つめ返す。

 黒猫のような少女だと、俺は考えを改めた。

 

「黒山さん、黒山由人さん」

「なんだい北沢志保さん」

「こういうのを、世間一般では余計なお世話と言うのでしょうが」

「うん」

 

 少女は、黒猫は、北沢さんは、俺の最大の好敵手(ライバル)は、この時間を締めくくるようにこう言った。

 

 

「りっくんは私の弟です。いくら弟が大好きでも、あなたは血の繋がった兄弟に決してなれません」

「わかっとるわ!! ホントに余計なお世話だよっ!!」

 

 



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北沢少年と俺

 健全な高校2年生16歳男子の、正しい週末の過ごし方ってなんだろう。

 

 仲間たちと部活を頑張る、とか。

 学生らしく勉強に勤しむ、とか。

 友達とカラオケで大はしゃぎ、とか。

 ……恋人とデート、とか。

 そういう楽しみ方が一般的なんだろうか。

 

 ふと、そんなことを思いながら、高校2年生16歳男子である俺は都内の水族館を訪れていた。

 一人で。

 恋人……せめて友達がいれば格好がついたのかも知れないけど、恋人はおろか友達もいない俺は一人ぼっちである。

 

 全てはタイミングが悪い。

 俺は2ヶ月前の5月半ばに、とある事情で地元の田舎町から、この大都会へと越してきた。

 その頃すでにクラスの男子グループは完成しており、東京弁に慣れた時には、俺の入り込む隙間なんてどこにもなかったわけだ。

 なので、週末に一人で水族館である。別に寂しさを紛らわせようとか、昔から憧れていた理想の都会暮らしと現実のギャップに疲れたとか、決してそんなことはないが、とりあえず今は水族館を楽しもう。水族館すっごい好き。

 

 受付まで行くと、頭上のパネルに各種料金などの案内が書かれている。

 高校生一枚で1600円……結構するんだなぁ。あ、でも3000円で年間パスポートが買える。どうせ通うことになりそうだし、買っちゃおうかな。いや、でもそんな友達ができない前提で考えるのも……えっ、パスポートがあると休日のイベントに参加しやすいんですか? じゃあ、

 

 と、俺が受付のお姉さんを相手に、年間パスポートを購入するかしないか悩んでいたその時だ。

 

「おかあさん!! おねえちゃん!! 早くはいろ!!」

 

 元気な声で呼びかけながら、スポーツ帽をかぶった男の子が飛び出してきた。

 対して受付のお姉さんは、営業スマイルに困ったような笑みを上貼りしてコチラを見やる。

 そう、少年は俺の前に割り込む形になっていたのだ。まぁ、パネルの料金表見るのに俺が何歩か下がったので、それで空いたと勘違いしたんだろう。

 

「こーらりっくん、お兄さんが先でしょ。横入りはダメだよ。順番子ね、順番子」

 

 こっちの立ち位置も悪かったし、譲ろうかな。なんて思った矢先、声と共に少年の手を引いたのは、母親と思われる女性だ。

 となると、その後ろの大人っぽい子がお姉さんか。チラッと視界に入った感じ、確かに弟さんとよく似てる。

 女性は少年の手を握ると、申し訳なさそうに会釈した。なんだろう、逆に心が痛い。

 

「すみません、うちの子が御迷惑をおかけしました」

「あーいえ、僕も紛らわしいトコに立っていましたし、大丈夫です。すぐ済ませちゃいますね」

 

 千円札を三枚、受付に支払い年間パスポートを受け取る。どうやら俺たちが話しているうちに用意してくれたらしい。

 

「ありがとうございます。じゃありっくん、お兄さんにごめんなさい、しよっか」

 

 母親に促され、男の子が俺を見る。クリッとした黒目が印象的で、優しそうな子だ。

 

「えっと……さき、入っちゃって、ごめんなさい」

 

 男の子が頭を下げる。小さいのに利発な子だと思った。自分がなんで叱られたのか、よく分かってる。田舎に置いてきた近所の悪ガキにも見習わせたい。

 俺は軽くしゃがんで少年と目を合わせる。出来る限り、怖がらせないよう笑いかけた。

 肌は焼けてるけど、怒っても大して怖くないと言われる顔だし大丈夫だろう、多分。

 

「うん、にーちゃんも待たせちゃってゴメンな」

「あ、わかった。これがりょーせーばいだね」

「あはは……まーそれでいっか」

 

 少年の楽しそうな声に釣られて、思わず笑ってしまう。

 というか、どこで覚えたんだそんな言葉。家族が見てるドラマだったりからか?

 とにかく、これ以上は受付の邪魔になるし、俺はさっさと入館することにした。

 それと一応、余計なお節介かもしれないが。

 

「あの、本当気にしてないんで、あまり怒らないであげて下さい」

「ええ、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」

 

 朗らかな雰囲気のお母さんと、手を振ってくれた少年に見送られながら自動ドアを通る。最初から優しそうな人だなとは思ってたけど、あの様子なら少年もさっきの一悶着を気にせず水族館を楽しめるだろう。

 なんかお姉さんに頬っぺたグニグニされてたけど、そこまではしらん。

 

 さて、俺も気持ちを入れ替えて水族館を満喫しよう。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 やっぱり水族館は好い。

 

 こう、水槽を見ているだけで、忘れたいことが自然と頭から抜け落ちていく。

 水中を飛び交う魚達の姿は、俺の悩みなんてちっぽけな物だと、そんな風に思わせてくれる。

 まるで地元の海に帰ってきたような気分だ。

 

 と、哀愁に浸るのは止めるとして。

 

「……それで、どうしたーこんなトコで」

 

 視線の先にいるのは、入館するときに出会ったあの少年である。

 ぼんやり水槽を眺めていると、いつのまにか俺の隣に陣取って、ジッと水槽を見つめていたのだが……辺りを見回しても、少年の家族らしき人影は目に映らない。

 迷い子か? 迷い子なのか?

 

「おかーさんとおねーさんは? 一緒じゃないの?」

 

 俺が尋ねると、少年は少し考え。

 

「お店いたけど。おかあさん、友だちとおはなし。おねえちゃん、ぬいぐるみ見てた」

 

 えーと、つまり少年一家は二階のショップにいて、お母さんはそこでばったり友人と遭遇、まぁ普通に考えれば立ち話が始まり、その後は多分お姉さんが一緒にいたんだろうけど……

 

「一人で出てきちゃった?」

「うん、ヒマだったんだ。そしたら、おにいちゃん見つけた」

 

 なるほど、お姉さんがぬいぐるみを見ている隙に、ショップを抜け出してきたと言うわけだ。で、見た顔があったから何となく来てみたと。

 うーん中々の行動力。ここ4階なんだけど、一人で戻れるのだろうか、この子。

 

「君、お店までちゃんと戻れる?」

「えっとね、わかんない」

 

 だろうな!! と、反射的に出かかった言葉を飲み込む、どーするかなぁ。

 

「そっか、じゃあ迷子なんだ」

「うん、おかあさんとおねえちゃんがまいごなんだ」

 

 ははは、こやつめ。そう言い張る気か。仕方ない、見つかった以上は旅は道連れ世は情けだ。流石に放っておけない。

 

「どうする? 探しにいくなら、にーちゃん手伝うぞ」

「んー、これ見たら、いくよ」

 

 少年が指差したのはサンゴの海だ。正確には、そう題名のつけられた水槽である。高さ2メートル半はある円柱型の巨大水槽に、色とりどりのサンゴ。そして本来サンゴ礁に生息する、鮮やかな魚達が泳ぎ回っている。

 少年は思い切り背伸びをして上を見ようと頑張っているが、残念なことに身長が足りていない。

 すると少年は無言のままこちらを見上げ、シャツの袖を引っ張ってきた。

 

「どしたよ」

「おにいちゃん、かたぐるま」

 

 そうきたか。

 体格的には問題ない、少年は華奢だし俺は同世代の中では大柄な方だ。安全に肩車するくらいはわけないだろう。

 でも仮に肩車をしたとして、それをご家族に見咎められたら俺は何て返せばいいんだか、どう見ても息子さんを肩車する怪しいヤツだぞ俺。

 しっかし、ほぼ初対面の相手に肩車をねだるなんて図太い子だなあ。

 

「ゴメンな、肩車はお父さんと来たときにして貰うんだ」

 

 だって変な誤解を招くのは嫌だし。

 そう考えて俺は常識的な返しをしたつもりだ、顔も知らないお父さんの楽しみを奪っちゃ悪いしね、うん。

 

「おとうさん、いないよ?」

「あー、そうだけど。今度、おとーさんと一緒にくればお願いできるよな」

 

 俺の返答に、少年は不思議そうな顔を浮かべて、正確な意味を教えてくれた。

 

 

「だから、うちにはおとうさん、いないよ。会ったことないもん」

 

 その言葉を受け止めるのに、5秒ほどかかった。今まで感じた中で一番長い5秒だった。追求すべきじゃなかったと、ちょっぴり後悔した。

 どうも、複雑なご家庭らしい。

 だから下手に首を突っ込むのは、いけないことだ。

 俺にとっても、この子にとっても、それはダメなことだ。

 少年には少年の事情があって、部外者が口を挟むのはお門違いだ。

 

 お門違い、なんだけど。

 

 

「…………よし、分かった。肩車だな、にーちゃんに任せとけ」

 

 俺にだって、俺の事情ってもんがある。

 少なくともここで少年を拒むのは、俺って人間に反する。

 なので、お節介を焼かせてもらおう。

 まずはキチンと名乗るところからだ。

 

「にーちゃんな、黒山由人(よしと)って名前なんだ。好きに呼んでいいよ」

「えと、じゃあね。よしにぃ、よしにぃかたぐるまっ」

「よしきた、しっかり掴まってー……よっと」

 

 少年がよじ登って来たのを確認して、脚をしっかり抑える。あとは重心がズレないように気をつけて、腰で立ち上がる。

 地元のわんぱく達と比べれば、これくらい楽勝だ。あいつら平気で人を登り木代わりにするし。

 

「どーだ、見えてるかー?」

「こんなに高いの始めてっ、すごーい!!」

「そーだろー、すっごいだろ。ただ、声はもう少し小さくな」

「はーぃ」

 

 ホント素直ないい子である。注意すれば直ぐに反応してくれるし、家でも手間のかからない子なんだろう。

 

「よしにぃ、この魚はー?」

「その辺のはスズメダイかな、青いのがルリスズメダイでー、黄色に黒い線のがヒレナガスズメダイな」

「わー、たくさん知ってるんだね」

「にーちゃんはすっごい魚好きだからな、何でも答えるぞー?」

「じゃあね、じゃあーー」

 

 少年が指差す魚を、一種類ずつ説明していく。これでも週末をわざわざ水族館で過ごすくらいには、魚好きな俺だ。

 自分の好きな話題で喜んでもらえるってのは嬉しい、誰だって嬉しいし当然俺も嬉しい。

 でも熱く語りすぎると相手を置き去りにしてしまうので、力の入れ具合には要注意だ。

 

 そして少年を肩に乗せたまま、水槽の周りをぐるりと回って見せてやって、ゆっくり腰を下ろし降りてもらった。

 中の魚についてもだいたい答えたし、満足させてやれたと思うけど。

 

「あのね、面白かった。ありがとーよしにぃ」

「楽しめたみたいで、良かったよ」

 

 むしろ、途中から俺の方が楽しませてもらっていた気がする、主に説明的な意味で。

 でも、そろそろ彼の家族を見つけに向かおう。

 

「よーし、では少年。今からおかーさん達を探しに行くぞー」

「うんっ。あ、でも、その前にね……」

 

 なんだろ、トイレに寄りたいのかな。

 なんて考えてると、少年はニコリと笑って。

 

 

(りく)だよ。僕のなまえ、北沢陸っていうの」

 

 不覚にも、名乗ってもらえたことを嬉しく思った。

 

「よし陸、捜索隊出発だ」

「おーっ、しゅぱーつ!!」

「声が大きぃ」

「……しゅぱーっ」

「おーけー、じゃあ行こっか」

 

 上機嫌になって歩き出した陸を、見失わないよう追いかける。

 その姿に、俺は自分がここに居る理由ってやつを、ほんの少しだけ見た気がした。

 

「そうだ、よしにぃ」

 

 こちらへ振り向いた陸と、視線が重なって、そして──。

 

「よしにぃ、なんで一人だったの?」

「えっ」

 

 心に右ストレートを決められたような衝撃だった。

 悪意のない純粋な子供の問いかけが、俺の心を殴り飛ばした。

 聞いちゃダメだろっ、週末に一人で水族館来てる男子高校生に、なんで一人で来たのとか聞いちゃダメだろっ!!

 子供のくせになんて口撃力をしてやがる。しかし、こちとら田舎じゃあ近所の人気者。都会のお子様なんぞに、良いようにやられてたまるものか。

 俺に陸の口をふさぐことは出来ない、しかしそらすことならできるのだ。

 ここは大人っぽく、華麗にそらして話題を変え、

 

「いっしょに来てくれる人、いないの?」

「……うん、そうなんだ」

 

 無理でした。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 その後しばらくして、水族館のアナウンスが迷子のお知らせを流し始めた。

 案の定、というべきか。○△区にお住いの北沢陸くんをご家族が待っているそうなので、俺たちは一階エントランスホールに向かっている。

 

 途中でまた水槽の解説を求められたけど、おかーさんが待ってるぞーと説き伏せた。

 改めて思うが、肝が座った子だ。普通、このくらいの歳の子が広い水族館の中で道に迷えば不安になる。しかし、陸はそんな態度をちっとも出さない。

 移動中ずっと嬉しそうだったし、もしかすると。

 

「なぁ陸、水族館は好きか?」

「うん、好きだよ」

 

 なるほど、ご同輩だったか。好きな場所でテンションが上がれば、不安な気持ちも飛んでいくって寸法だ。

 

「水族館がね、好きになったの」

 

 うん? いや、分かるぞ陸その気持ち。

 

「そっかそっか、にーちゃんもな、すっごく好きなんだ」

「僕もねー、すっごく好き」

 

 いい子だなぁ。

 ちょっと寂しい休日になるかと思えば、ひょんなことから出会いがあった。

 もちろん一人でだって楽しめる水族館だけど、こうやって誰かと一緒に楽しめば、喜びもひとしおだ。

 今日はとても良い日だった。日記にはそう書こう。

 

 最後の階段を下りたら、そこは目的地のエントランスホールだ。

 入り口からまっすぐ進んだ位置に、世界の海を紹介するデカいパネルが設置されており、パネルを見て右側から展示ゾーンに進み館内を一周して左の階段から戻ってくる構造となっている。

 俺たちが階段を下りると、ちょうどパネルの側に見覚えのある女性が立っていた。陸のお母さんだ。

 どうやら、左右どちら側から陸が来ても見逃さない位置につけていたらしい。

 お姉さんの姿は見えないけど、捜しに行ってるのかも知れない、どこかですれ違ったのか。

 ともあれ、無事に合流できて良かった。

 

「おかあさん!! 見つけたっ」

 

 駆け寄ってくる陸の姿に、お母さんは安心したのか笑いながら、両手を広げて受け止めた。

 

「りっくん、大丈夫だった? もう、一人で行ったら心配するでしょー?」

「うんっ、ごめんなさい」

 

 ギュッと抱きしめられながら、やっぱりどこかホッとした顔で陸も笑ってる。

 そうだな、そこにいるのが一番だ。

 お節介もそろそろ終わりしよう。

 

「おかあさん、あのね。よしにぃスゴイんだよ、おサカナの名前がせんぶわかるの」

 

 陸の発言に釣られて、お母さんの視線が俺に向かう。

 何だろう。こうマジマジと見られるのはこっぱずかしい。

 陸のお母さんは、美人だ。お姉さんが中高生と考えれば30代半ばくらいのはずだが、それよりも若く見える。

 そんな奥様に微笑みかけられた俺は、

 

「あら、あなたは」

「ど、どうも。先程ぶりでふ」

 

 思い切りどもった上に噛んだ、消えて無くなりたい。

 

「よしにぃがね、いっしょに探してくれたの」

「まぁ、息子がお世話になりました。ありがとうございます」

「あ、はい。いや、ホント大したことじゃないので」

 

 色々と抜けてるが、今の言葉でだいたい察してくれたようだ。

 締まらない最後になったけど、まぁいいや。今日は夕飯当番だし、名残惜しいが帰るとしよう。

 俺が北沢親子にさよならを言おうとすると、

 

「りっくんっ」

「あ、おねえちゃん!!」

 

 俺たちが話している間に来たらしく、数時間前に見た少女、もとい北沢姉が陸を抱きしめていた。母親と全く同じリアクション、あー家族なんだなぁと当たり前のことを思ってしまう。

 

「ごめんね。私が目を離したりしたから、こんなことに……怖くなかった?」

 

 迷子になったのは自分のせいだと思っているのか、お姉さんの落ち込みようは見ていて気の毒になるほどだった。

 しかし当の本人はくったくのない笑顔を見せて、

 

「ううん、よしにぃがいたから、楽しかったよっ」

「ぅえ?! あー、えっと」

 

 まさかのキラーパス。おかけで変な声が出てしまった。

 ここで初めて、お姉さんと目があう。

 遺伝子は完ぺきな仕事をしたようで、陸が愛らしい美少年、お母さんが美女だとするなら、彼女は美少女だ。

 モデルとか、アイドルやってますと言われたら、俺はなんの疑いも持たないだろう。

 意思の強そうな黒目に、ゆるくウェーブした黒髪。

 モノトーン調の服も決まっていて、言葉を飾らずに言うなら、すごく可愛い。

 直視されると、それだけで背筋が伸びてしまう。

 

「それで、その、貴方は……」

「志保。そちらの方がね、陸を連れてきてくださったのよ」

 

 状況を飲み込もうとしているのか、言葉に詰まる彼女を見て、お母さんの助け舟がやってきた。

 正直ありがたい、目をそらすのも失礼だし、かと言って見続けるのも恥ずかしいのだ。

 そして俺のことを聞いたお姉さんは姿勢を正すと、

 

「そうだったんですね。弟をありがとうございました」

「き、気にしないで、ください。むしろ、話し相手になって貰っちゃったくらいなんで」

 

 こ、これでいいよな? 特に変なことは言ってないよな?

 こんな可愛い子と話すは初めてだ。情けないが見られるだけでドキドキしてしまうし、言葉を上手く選べているか自信がない。

 落ち着け俺の心臓。これじゃあただの挙動不審になるぞ。

 よし、平常心平常心……もう帰っていいかな。帰って夕飯の支度をしていいかな。

 ほら、北沢家の皆さんはまだ水族館回るだろうし。

 

「すいません。僕は用事があるので、そろそろ失礼します」

「そうなの? なにかお礼をしたかったのだけれど、残念です。今日は陸を助けていただいて、ありがとうございました」

 

 すんません、でもホントお気づかいなく。と俺はお母さんに苦笑いを返して、陸の前にしゃがみ込みぱっちり開いた眼をとらえる。

 

 

「にーちゃんな、もう帰らなきゃならないんだ」

 

 そういうと、目に見えて陸の顔が歪む。俺だって同じ気持ちだ。

 

「今日は陸のおかげで楽しかったよ、ありがとう」

 

 いつまで覚えていてもらえるか、それは分からないけれど。

 この子の記憶に残る俺の顔が、ちゃんとした笑顔でありますようにと願いながら、別れの言葉を告げた。

 

「バイバイ、り「いやだ」

 

 口先から飛び出た小さな『いやだ』に、俺は言葉を詰まらせる。

 すると、陸は今にも泣き出しそうな顔で、

 

「もう会えないのは、いやだ。もっと、おサカナの話しようよ」

 

 懐かれつつあるって自覚はあった。心の隙間を埋めるような形ではあったけど、俺を気に入ってくれたのかなって。

 でも、これはケジメだ。こうなるのが嫌なら、さっさと受付にまで連れて行くべきだったんだから。

 だから、これは俺のつけるべきケジメだ。

 チラッとお母さんに目線を向けると、笑って頷いてくれた。俺に任せてくれるらしい。

 

「陸、聞いてくれ」

「……うん」

 

 気持ちがきちんと伝わるように、しっかりと目を見る。

 

「お別れは悪いことばかりじゃないって、俺は思うんだ」

「なんで? 会えないのは、さみしいよ?」

「うん、俺もさみしいよ」

 

 俺は陸の小さな手を握って続ける。

 普段なら恥ずかしくて言えないことでも、この子の前だと口にできる。不思議だけど、イヤではなかった。

 

「でもさみしいからって、楽しかったことが消えて無くなるわけじゃない。そうだろ?」

「……そう、かも」

「少なくとも、俺は忘れないよ」

「なら僕も、忘れない。ずっと忘れない」

「じゃあ、約束に握手をしよっか」

 

 その言葉をゆっくり咀嚼するように、陸は俺を見た。その顔には、すでに答えが書いてある。

 

 

「バイバイ、よしにぃ」

「忘れないよ、陸」

 

 かたく、かたく手と手を握り合う。

 互いが互いを忘れないよう、忘れ合わないように。

 小さな友達と、大きな思い出を。

 友情に歳は関係ないって、こんな風に知れるとは思わなかった。

 彼らに背を向けて歩き出す。

 明日も学校で友達ができる気はしないけど、ましてや彼女なんてあり得ないけど、今日の出会い忘れなければ大丈夫だって、そんな気がした。

 

 しかし、ロビーから立ち去る俺に向かって、陸のお母さんはこう言った。

 

「ごめんなさい。もう少しだけ、お時間をいただいても大丈夫?」

「…………はい?」

 

 

 これは週末の水族館で出会った北沢少年と、俺の、もうちょっとだけ続くお話。

 



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北沢姉と俺

 どうしてこうなった。

 俺の脳内は何故だのwhyだの、ものごとの原因を求める言葉で埋め尽くされていた。

 

「水族館、楽しみだね!!」

「あ、あぁ。そだな、俺も楽しみだよ」

 

 右耳から聞こえるのは、俺の小さな友達、北沢陸の声だ。そりゃーもう聞いてるだけでウキウキっぷりが伝わってくる声で、俺の心の半分は陸と同じように喜んでいる。

 しかし、もう半分は呑気に喜んでる場合じゃねぇぞと警報を鳴らしっぱなしであった。

 あ、冷や汗出てきた。

 

「……あの、大丈夫ですか?」

「は、はい。大丈夫です」

 

 嘘です。全然全く、これっぽっちも大丈夫なんかじゃありません。

 ジトっとした目線で俺の様子を窺っているのは、黒髪黒目の美少女だ。顔立ちは陸とよく似ていて、それでいてクールビューティって言葉がピタリと当てはまる、そんな女子だ。

 

 さて、状況を確認しよう。

 

 陸の左側には俺がいる。そして右側には、姉である北沢志保(しほ)がいる。

 俺たち三人は歩いている。

 つまるところ、左から俺陸北沢姉の順に並んで歩いているのだ。

 

 いやホント、どうしてこうなった。

 

 なぜ、俺がまたこうして陸と水族館へ行くことになったのか。

 なぜ、北沢姉も一緒にいるのか。

 

 話は、ぴったり1ヶ月前まで遡る。

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 東京都○□区。

 その一角に建つマンションの、そのまた一角が俺の家だ。より正確には、俺と母さんの家である。

 2LDK、最寄りの駅までは徒歩9分、都会生活が短いのでこれが良いのか悪いのかはイマイチ分からんが、確かなのは前の一戸建てよりは狭いってこと。

 ただしIHはすっごい便利なので、プラマイゼロにしてもいい。

 母さんは火力が足りないとぼやいてたけど。

 

「ただいまー。あー良い匂い、なに作ったの?」

「お帰り、昨日のシチューでドリアだよ」

「おっ、いいね」

 

 噂をすれば、家主様のお帰りである。

 母、黒山恵子は小説家だ。和風ファンタジーを中心に物語を書いていて、本人曰く界隈じゃすっごい有名人、らしい。

 今までに母さんの有名人らしさってのを感じたことがないので何とも言えないけど、小説は好きだ。作品に優しさを感じるというか、その世界に入ってみたいと思わせる力がある。

 出来ることなら時折死にそうな顔で訪ねて来る編集の岡田さんにも、その優しさの半分でいいから分けてあげて欲しい。

 

 まぁ岡田さんの胃は置いておくとして、腹も減ったし食事にしよう。

 洗面所から戻ってきた母さんと配膳をすませて、席に着く。

 

「「いただきます」」

 

 夕飯の献立はドリアとサラダ。

 ドリアは昨夜のシチューで作ったもので、今日残ったサラダは明日の弁当に回すつもりだ。

 

「そういえば、今日水族館行ったんでしょ? どうだった、こっちの水族館は」

「なにもかもデカいって感じ、やっぱスケールが違うわ」

「都内最大だからねぇあそこ。でも由人、それ以外で何かありましたって顔してるよ」

 

 なぜ分かったし。

 ナチュラルに心読むのは止めてくれませんかね。いや、俺が顔に出やすいだけか。

 別に隠すつもりもなかったけど、てか話さなきゃならない事もあるので、早いうちに言ってしまおう。

 俺は、水族館で出会った北沢少年との話を打ち明けた。

 すると、母さんは思案顔になって、

 

「私、その子のお母さんがなんて言ったのか分かったかも」

 

 え、マジで? まだ陸のお母さんに呼び止められた件までしか話してないのに?

 

「由人さー、そのお母さんから、連絡先とか預かってたりする?」

「……えぇ。いや、確かに母さんと話をさせて欲しいって言われたけどさ、母さん探偵になった方が良いんじゃないの?」

「そうだね、今度は探偵モノに挑戦してみようか」

 

 確かにあの後、北沢さんに『もしご迷惑でなければ、一度そちらの親御さんとお話しさせて欲しい』と頼まれた俺は、ホイホイ連絡先を交換したのだけれども。

 その先の展開については全然知らない。

 確かに状況はちょーっと複雑だし、大人同士で話をつけた方が良いのかね。

 着地点は何処にあるのだろう。

 食事を終えると、母さんは早速電話を手に取り連絡を始めた。

 

「もしもし、北沢さんのお宅でしょうか? わたくし黒山と申します。はい、そうです。あぁ、いえいえ、うちの子がお役に立てたのなら。それで……」

 

 話は長引きそうだし今のうちに食器の片付けと風呂の掃除、それと洗濯物も畳んでしまおうかな。

 一応、我が家の家事は当番制だ。その、食事に関しては、母さんは独特の味覚を持っているので俺が立候補することが多いけど。

 

 で、十数分後。

 俺がお風呂掃除をしていると、開きっぱなしの扉から顔を覗かせて、母さんは一方的に告げてきた。

 

 

「由人、あんたの事だから1ヶ月先の予定なんて埋まってないよね? 空けといて」

「えっ、なにさ急に、どっか行くの?」

「水族館、行くよ」

 

 それだけ言って、母さんは顔を引っ込めた。と思いきや、

 

「そうそう、北沢さん達も一緒だから、心構えをヨロシク」

「…………はぁ?!」

 

 もう一回顔を出して、とんでもない爆弾を落としていった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 以上、回想終わり。

 

 かいつまんで説明すると、陸と俺のやりとりを見ていた北沢さんが色々と考えてくれて、親同士での話し合いの結果、じゃあ一回直接会いましょうかとなったらしい。

 んで予定を擦り合わせた結果、一月後の今日に白羽の矢を立てたわけだ。

 どうしよう、お互いの親がアクティブ過ぎて付いていけない。

 しかも当の本人達は二人で話しながら遠巻きに俺たちを見てるし、母さんは若い三人で楽しんでねー。とぬかし始める始末。

 

 陸と二人ならなんの問題もないけども、北沢姉が同伴してるとなると心中穏やかでないのが本音だ。

 加えていうと、陸が浅瀬側のタッチプールに行ってしまった。

 混雑時には中学生以上の入場を遠慮してもらう仕組みのため、今は俺と北沢姉が並んで陸を見守っている状況。

 つまり二人きりだ。ハッキリ言おう、すっごい気まずい。

 なんせ自己紹介の時くらいしか真面に話していない相手なのである。

 例えるなら友達の友達と二人きりになった気分だ。俺と貴女は友達じゃないけど、俺の友達と貴女は友達状態だ。

 場を持たせるために何か話さなきゃという気持ちと、何を話せってんだこの野郎という気持ちが同居してる。

 しかし、流石に黙ったままでは感じが悪い。向こうからして見れば、俺はなぜか弟が懐いてる他人なんだし。

 さぁ、話しかけるぞ。覚悟を決めて、それ、

 

「「あの」」

 

 かぶった。

 どうしよう、相手に譲るべきだよな。あれ、譲っていいのか?

 いいや、譲ろう。

 

「えと、お先にどうぞ。北沢さん」

「はい。その、ですね」

 

 なんだろう。なにを言われるんだろう。

 俺が転校当日の挨拶よりもテンパっていると、

 

「敬語は、止めてもらえませんか。黒山さんの方が歳も上ですし。不自然な気がします」

 

 な、なるほど。確かに明らかに年配の俺が敬語で話していては向こうもやり辛いのかも。

 

「分かった。それで北沢さんのことは、なんて呼べばいいかな?」

「えっ」

「え?」

 

 あれ?

 

「あの、私のことはそのまま呼んでくだされば、それで」

「あ、うん。分かり……ったよ」

 

 土に還りたい。

 いや、だってさ。話し方を変えるなら呼び方も変えた方がいいのかなって思うじゃん? 

 しかも彼女になにを言おうとしていたのかもすっぽ抜けてしまった。

 再び形容しがたい沈黙が訪れ、俺が陸の帰りを心待ちにしていると、

 

「以前お会いした時、黒山さんが陸に言っていた台詞」

 

 ポツリと、独り言のように北沢さんが話し始めた。

 

「『別れは、決して悪いことではない』」

「あー。もしかして、聞こえてた?」

「はい、別に聞き耳を立てていたつもりは。でも、聞こえてしまって」

 

 ヤバい。今になって思い返すと、かなり赤面ものな発言をしていたはずだ。

 

「あれって『さらば妖怪』からの引用、ですよね」

「そうだけど、知ってたんだ」

「同り……友人が、黒山先生のファンなんです。それで、何冊か貸して貰って。『さらば妖怪』は心に残っていましたから」

 

 『さらば妖怪』は母さんの執筆した作品だ。

 心に傷を負った女性が妖怪の住まう世界に迷い込み、多くを学び立ち直って、そして最後には妖怪達と別れて、この世界に戻ってくる。

 あの台詞は別れを決意した女性に、友である妖怪が残した言葉だった。

 

「私も、あの台詞に共感したんです。別れてしまっても、楽しい思い出が無かったことにはならないって」

 

 なにかを噛みしめるかのように呟く彼女に俺は、

 

「あの台詞なんだけど、元ネタ……というか実際に使ってた人がいたんだ」

「実際に、ですか?」

「そうそう、俺の父さんがね」

 

 どうしてか、語らずにいられなかった。

 

「父さんは船乗りで、あちこちの港を回るんだ。だから、一度行った場所にまた寄れるとは限らなくて」

 

 一年のほとんどを船の上で過ごす人だった。塩からい匂いの帽子をかぶって、抱き上げてもらうと潮風に吹かれてるかのようだったのを覚えている。

 

「それで、あの台詞を」

「うん。もう会えないかも知れない友達に、いつでも会えるようにってね」

 

 大切なのは、忘れないでいること。

 忘れなければ、思い出した時に会えるんだって父さんは言ってた。

 

「俺も最初はよく分かってなかったんだけど、今になって思うとそれを伝えたかったん──」

 

 ふと、視線を横にそらす。

 そこには当然北沢さんがいて、意外そうな顔で俺を見ていた。

 

「前にも思いましたけど、けっこう話される方なんですね黒山さんって」

 

 言われてみると、調子付いて余計な口まで回っていたような気がしてくる。

 

「ご、ごめん。こんな話したことなくて、つい」

「いえ、作品の裏話を聞けたみたいで、面白かったです。──お父様のこと、お好きなんですね」

「あー、そうなんだ。今でも好きだよ、もちろん」

 

 北沢さんは俺の返事に首を傾げたが、面白いと感じてくれたのは本気らしい。

 裏話か、そういう話ならいくらでもある。母さんは家でも作品の構想を練るのだが、思考の整理とか言って俺に話して聞かせるのだ。

 アウトプットすることで道筋が見えてくるとか、なんとか言っていたけど。

 こんなところで役に立つとは。

 

「おねえちゃん、よしにぃ。ただいま!!」

 

 しかし俺たちが話しているうちに、小さな友達が戻ってきてくれた。

 北沢さんは顔をほころばせると、惜しみない笑顔を向ける。

 

「おかえりなさい、りっくん。楽しかった?」

「すっごく楽しかった。ヒトデとね、カニがいたんだ。ヒトデはね、手が五本あるんだよ」

 

 右手をパーにして報告する陸に、俺はその細い指を手にとって、

 

「あのな陸、ここだけの話。あれって全部頭なんだ」

「……そうなの?」

「そうだ。んで、裏に生えてた細いピロピロが本当の手だよ」

「あれ、ぜんぶ……」

 

 驚いてる驚いてる。俺も初めて知った時は信じられなかったし、普通あっちが手だと思うよな。

 すると、ヒトデの裏から無数の手が伸びる様子を想像したようで、表情を曇らせる陸の……と、なぜか北沢姉の顔まであった。

 

「──あの、黒山さん。それって本当なんですか?」

「うん、あれで海底を移動するから、手と足の両方って感じだけど」

 

 俺の回答に、気のせいか顔色まで悪くしはじめる北沢姉弟。ひょっとして、この手の話は苦手だったのだろうか。

 

「そ、それじゃあ、次の場所に行こうか」

「うん、いく」

「そうですね、行きましょう」

 

 

 この姉弟の前では海にまつわる不気味な話を控えようと、俺は密かに誓った。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 始まる前は不安でも、いざ実行すれば楽しかったりするもので。

 

 俺たちの週末が、終わろうとしていた。

 

 今日もかけなしに楽しかった。

 陸にはあちこちで説明をねだられて、高い水槽の前では肩車をさせられて。

 北沢さんとは、母さんの小説という共通の話題があったおかげで案外普通に話せていたと思う。ありがとう母さん、こんなに感謝したのは久しぶりだ。

 

「私たちはあちらのホームなので、お話できて良かったわ北沢さん」

「こちらこそ、黒山先生にはとても楽しませてもらって」

「もう、先生はやめて下さいってば。お互いに多忙だけれど、またお会いしましょう。約束ね?」

「はい。心待ちにしていますね」

「よし決まり。あ、そうだ忘れるとこだった。これ渡そ──」

 

 と、大人同士が大人の会話をしているその横で、

 

「陸ー、元気でな。風邪引くなよ、早く寝て早く起きるんだぞ」

「あはは。よしにぃ、おねえちゃんみたい」

「そうだなぁ。なら、おねーさんの言うことをしっかり守ろうな」

「うん!! またねっ」

「おう、またねの握手だ」

 

 小さな右手をしっかり握って、俺たちの友情を確かめる。

 北沢陸と黒山由人の、再開を約束する握手だ。

 

「北沢さんも、今日はありがとう」

「こちらこそ弟がお世話になりました」

 

 キレイな会釈に、簡潔な言葉遣い。

 出会った時の印象を一切崩さないクールっぷりである。

 ただ、それだけではなくて、とても家族想いの少女だと今は知っている。

 

 

 別々のホームへと歩きながら、母さんは俺の肩をパシっと叩き、

 

「楽しかったわね。プライベートで誰かとお喋りするなんて久しぶり」

「へぇ、よかったじゃん。あと叩くのは止めよう」

「由人も、幸せそうな顔してたじゃない? ──なんか、安心しちゃった」

 

 そりゃどうも。と返して今日という日を思い返す。

 確かに、とても良い日だったと書残せそうな、そんな1日だった。

 

 



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北沢志保と七尾百合子

 北沢志保には、自分が社交的な性格ではないという自覚がある。

 

 765プロダクションに所属する新人アイドル──いわゆるシアター組の中でも、積極的に話しかけるタイプではないし、話しかけられたとしても簡潔に済ませてしまう癖があった。

 現実主義的で個人主義。それがアイドルとしての自分だと思っているし、こういう性格はいつまで経っても変わらないんだろうなという気持ちも強い。

 決して情熱や親睦に対する理解がない。わけではないのだが、それはそれとして物事に一人で没頭するのが彼女の(さが)なのだ。

 とはいっても、そんな志保を放っておかない人達が彼女の居場所には大勢いる。

 最近は、彼女らを煩わしく感じることが無くなりつつあることも、彼女は知っていた。

 

 さて、以上を踏まえてもう一度言おう。

 北沢志保には、自分は社交的な性格でないという自覚がある。

 そんな彼女にとって、これからやらねばならない事は、大きな覚悟を伴う行為である。

 つまり、だ。

 

(百合子さんにこの本を渡すだけ、百合子さんにこの本を渡すだけ、この本を──)

 

 母から託された『黒山恵子のサイン入り著書』を同僚である本の虫、もとい七尾百合子へ無事に送り届けなければ、北沢志保の心に平穏はやって来ない。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 一ヶ月ほど前の話だ。

 

 母が仕事先でもらった水族館のチケット、その有効期限切れスレスレで休みを合わせられた北沢一家は、都内の水族館を訪れていた。

 弟である陸のはしゃぎ様は凄まじく、初めての水族館に対する期待で満ちていた──のだが、お土産屋で目を離した間に、陸は迷子になってしまった。

 

 ──自分がしっかり見ていなかったから。

 

 志保は、目の前が真っ暗になりそうだった。

 母はアナウンスをして貰えば大丈夫だと言ってくれたが、結局じっとして居られず探しに出た。

 しかし弟を見つけたのは自分ではなく、焼けた肌が印象的な青年で。

 青年は、黒山由人と名乗った。

 

 そしてつい先日。黒山由人と彼の母親である作家の黒山恵子、そして北沢家の五人で再び水族館へ行く運びとなり。

 改めて二人のやり取りを見ていた志保は、由人の弟への接し方が、まるで対等な友人へのようだと感じた。

 幼い弟の気持ちを尊重する彼の言動に、なんとなしに一応は信用できる人かもと、そんな風に思い始めた。

 陸は言わずもがな、母もあっという間に黒山先生と仲良くなり、自分だけが取り残されているかのような感覚だったが、まぁ悪い方には転ばないのではないか。

 しかし、そう思えるようになった志保を、思わぬ試練が待っていたのである。

 

 今朝になって母親から告げられた言葉を、志保はまるっと覚えていた。

 

「いけない、忘れるところだった。志保、この本なんだけどね、この間話してくれた黒山先生のファンの子に渡してあげて欲しいの。きっと喜んでくれるわ」

 

 こんなことを頼まれて断れるように、北沢志保の心は作られていない。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 765プロライブ劇場(シアター)は、大きく六つのエリアに分けられている。

 

 シアターの顔とも呼べるエントランス。

 ここでは受付だけではなくグッズの販売も行っており、飾られたポスターを見れば直近イベントの詳細が分かる。このシアター内でも、二番目に煌びやかな場所だ。

 そしてもちろん最も意匠に凝ったエリアが、アイドル達のパフォーマンスを披露するステージ、又の名をライブホールである。

 ライブホールの裏手には、本番を控えたアイドルが着飾る為のドレスアップルーム。

 もう少し歩けば、彼女達が日々レッスンに勤しむレッスンルームが迎えてくれて、その奥には空き時間を過ごす部屋として控え室が用意されている。

 

 

 1時間半後にレッスンを控えた志保は、目的を果たすべくエントランスに続く正面入り口──ではなく、職員用の裏口から765プロライブ劇場の要とも言える、事務室に向かっていた。

 

(まずは事務所で百合子さんの予定を確認して、と。あそこで読書をしていてくれたら話が早いけど……)

 

 携帯には連絡を入れても返事がなかったから、おそらくマナーモードで気がついていない。

 となると、まずは百合子を探すところから始めなければならない訳で。

 どうか事務所に居てくれますようにと願いながら、志保は扉を開いた。

 

「おはようございます」

「おっはよーしほりん!! 今日はちょっぴり早いんだね!!」

 

 元気溌剌を人型にこねくり回して服を着せた少女、それが高坂海美である。

 ただ元気というだけでなく、そのダンス技術の高さはシアター内でもトップクラス。

 溢れんばかりのエネルギーを実際に溢れさせて、行動がいちいちダンサブルな彼女に、志保は少なからず憧れを抱いていた。

 自分がそっくりそのまま服を着た元気溌剌になりたいという意味ではなく、どれだけ動き回ったあとでも力強くダンスを踊ってみせる海美のパフォーマンスに、一目も二目も置いていたのだ。

 

「はい、少し用事があって。海美さん、今お一人ですか?」

 

 だとすれば、少し困ったことになる。

 百合子を捜すにあたって、事務員である青羽美咲の助力を得られればと思っていたのだが。

 

「ううん? 多分そろそろね──」

「やっと見つかりましたぁ。あっ、志保ちゃん、おはようございます」

 

 噂をすれば、一見この人もアイドルなのではと思わせる容姿の事務員、青羽美咲の登場だ。

 どうやら横にある資料室で調べ物をしていたらしく、頭には少量の埃を乗せたままであった。

 

「おはようございます、美咲さん」

「あははー美咲さん、埃かぶってるよ。取ったげるね!!」

 

 指摘をされると、美咲は照れくさそうに笑いながら。

 

「ありがとう海美ちゃん、資料室も掃除しないとだねえ」

「いいね大掃除、私も力になるよっ」

「頼りにしてるね、海美ちゃん」

「任せてっ、超任せて!!」

 

 そろそろ話しかけても大丈夫かなと、志保は思った。

 普段自分から話しかけることが少ないので、彼女は会話のタイミングというものを測りかねていた。

 先日、黒山と二人きりになった時もなかなか話を切り出せず、あまつさえ出だしを被せるという失敗を犯したのだ。

 同じ失敗は繰り返すまい。

 

「その、美咲さん。お時間大丈夫でしょうか?」

「うん、平気だよ。どうしたの志保ちゃん?」

「百合子さんを捜しているんですが……連絡が通じなくて、スケジュールを確認したいんです」

「分かりました。そういう事なら、ちょっと待ってね」

 

 デスクに座りマウスを動かす美咲の姿に、これで万事解決だと、北沢志保は安堵した。

 居場所がわかれば、あとはそれとなく渡すだけ。仮に会えずとも、今日はスケジュールが合わないという理由が生まれるのなら、とりあえずは気が落ち着く。

 

 

 しかし、そうは問屋が卸さない。

 

「あれ、もう劇場に来ているのかも。打ち合わせは30分後だけど、百合子ちゃんいつも早いから」

 

 確かに、彼女は本に熱中するあまり時間を忘れたら危ないからと、普段から予定よりも1時間近く早めに来ていることが多い。

 なので、この劇場内のどこかにいるはずだと、美咲はモニター越しに顔を覗かせる。

 でも、それはおかしな話だ。

 仮に百合子が劇場に来ているのなら、事務所に顔を出すはず。それなのに、百合子を見たという話は聞かなかった。

 

「百合子ちゃん、私が資料室にいる間に来ていたのかも。海美ちゃんは会わなかった?」

「んー、見てないなー。でも、私途中でお手洗いに行ってたから、その時かも」

「海美さん、失礼ですが何分前のことか覚えていますか?」

「確か……15分くらい前だったかな?」

 

 それは、つまり。百合子は現在から15分前までのどこかのタイミングで劇場に到着し、事務所には来たものの誰にも会わなかった、と。

 

「お二人共、ありがとうございました。私は百合子さんを捜しに行ってきます」

「もし百合子ちゃんが事務所に来たら、志保ちゃんに連絡するよう、伝えておくね」

 

 助かります、と美咲に告げる。すると何処からともなく──訂正、海美の肩から伸びた両手が志保の手を取り。

 

「ゴメンね、しほりん。手伝ってあげたいんだけど約束があって」

「お気持ちだけ、受け取らせてください。では」

「今度埋め合わせをするからね!!」

 

 投げかけられた言葉を聞こえなかったことにして、志保は事務所を後にした。

 特に埋める穴を掘られたつもりもなかったからだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 事務所に一番近いドレスアップルームは案の定無人だったので、志保はシアター内をしらみつぶしにするべく──と言っても、ライブ関係以外では原則として立ち入りを禁じられているライブホールは候補から外れるので、残りはエントラス控え室レッスンルームの三ヶ所だ。

 

 楽勝である。

 

 

「はぁ、それで困っていらっしゃるのですね」

「はい、なぜか全部屋捜しても見つからなくて……」

 

 楽勝のはずであった。

 

 15分後。

 無駄に劇場を歩き回って精神的に疲れた志保に、日本人形然としたアイドル白石紬は事情を聴き終えそう言った。

 最後の候補であった控え室もスカで思わずため息を吐いた志保──を見て、自分が吐かれたのだと勘違いした紬がうろたえる一幕もあったのだが、割愛。

 ともあれ、これで振り出しだ。いや、むしろ振り出しより悪いかも知れない。

 居るはずの人間を捜すのと、居るはずなのに居ない人間を捜すのでは、意味合いが全く変わってくる。

 次はどうしようか、志保が頭を悩ませていると。

 

「あの、紬さん。紬さんなら、百合子さんを見つけられませんか?」

 

 祈るような声だった。

 声の主は、先程まで紬と同じく志保の話に耳を傾けていた少女だ。

 ファンからは妖精のようだと喩えられるアイドル、名を箱崎星梨花という。

 

「紬さん、次の企画で探偵さんになるんですよね? 志保さんの力になってあげてください!!」

「えっ、ええ、うち?! あの、そのですね、探偵と言われましても、私はあくまで探偵役で……」

「ちょっと星梨花、それは無茶なんじゃ──」

 

 箱崎星梨花は本気だった。本気で紬なら何とかできるのではないかと、そう思っている顔をしていた。

 白石紬はがんこ焦った。そして探偵役を演じるにあたっての心構えを星梨花に語ったことを後悔したが、同時に期待に応えなければとも思った。

 北沢志保は、紬がパンクする前に事態を収拾しようとした。

 

 そして、

 

「──紬さん、お願いします」

「わ、分かりました。私にお任せください」

 

 志保は、もう本に関しては事務所に預けてしまおうかなと思い始めた。

 ただ、話を打ち明けた以上は最後まで見届けようという責任感もあったので、ひとまず紬の話を聞くことにした。

 ギュッと握ったこぶしを睨みつけ、紬はハッとなにかに気がついた表情を浮かべると。

 

「志保さん、分かりました。貴女がなにゆえ、百合子さんを見つけられないのか」

 

 ゴクリと、唾を飲んだのは志保か、それとも星梨花であったか。

 

「貴女方は、お互いに移動し合っているのです!!」

 

 つまり、探偵白石紬の推理はこうだ。

 志保は事務所を出て順番に劇場内を回ったが、百合子もまた同じように移動しているため、二人は出会うことがないのだと。

 

 すると彼女の推理を聞いた星梨花は、感激と書いてある顔で。

 

「す、凄いです!! 流石です紬さん!! これで解決ですね!!」

 

 果たしてそうだろうかと、志保は考えた。

 一見筋が通っているかの様にも思えるこの推理、よく見直して見渡せば──。

 

「志保さん、原因が判明したのならやるべきは一つです」

「そうですね。紬さんの推理通りなら、このまま待っていれば──」

「さっ、お立ちください。普段の倍の速度で歩けば、きっと百合子さんを見つけられます。私も共に参りますから!!」

「えっ、その、どうして」

「紬さん、志保さん、頑張ってください!!」

 

 なんで大人しく待たないのか、とか。

 こんな時でも歩きは守るんですね、とか。

 でも早歩きって案外疲れますよ、とか。

 紬さん一緒にくる必要あります? とか。

 そもそも紬さん推理結構穴が、とか。

 

 それら全てを口に出すことなく、陶磁器のように白く滑らかな紬の手に引かれて、志保は早歩きで連れ去られていった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 骨折り損のくたびれもうけ、という言葉がある。

 

 努力に対して結果が実らず、ただ疲れるだけに終わることを指す言葉だが、この現状はまさしくそれだ。

 結局あの後、劇場内を早足で2周ほどしたが百合子は見つからず、言い出しっぺの紬はレッスンの時間だぞとトレーナーに連行されてしまった。

 志保は疲労の溜まった脚を労ろうと、一人エントラスに座り込んでいる。

 今日はまだ途中だが、すでに一日分の働きをした気分だった。

 本一冊を届けるのに、どうしてこうも苦労しているのか。

 今日は好きな絵本を読んで、好きなぬいぐるみを抱いてしっかり休もう。

 

 そう決めて、目線を上げると。

 

 

「あれ、志保。どうしたの? こんなところで座ってるなんて」

 

 捜し人である765プロきっての読書家、七尾百合子がそこに居た。

 

「百合子さん……今、劇場に?」

「うん。電車が遅れちゃって」

 

 電車に乗って居たのなら、連絡がつかないのも納得だ。きっと百合子の事なので、スマートフォンには目もくれず読書をしていたに違いない。

 途中から薄々感づいてはいたが、やはり百合子は劇場に居なかったのだ。

 自分の行動がまったくの無駄であったと判明し、気にしていないと言えば嘘になる。

 しかし、これでやっと目的を果たせるのだから、この際細かい点は抜きにしよう。

 志保は預けられていたサイン入りの『さらば妖怪』を取り出し、百合子へと差し出す。

 

「百合子さん。もし良ければ、この本を受け取ってもらえませんか。お渡しするように頼まれているんです」

「へっ、私に? わぁ、ありがとう志保。何の本なの……か、」

 

 そこまで言って、七尾百合子は完全に停止してしまった。

 まるで、百合子だけが世界から取り残されたみたいだと、志保は思った。

 

「あわ」

「泡?」

「あわわわわわっわわっわわ」

 

 動き出したのは良かったが、どうも言語中枢に不具合があるようだ。

 志保は一旦、百合子から本を取り上げることにした。

 

「落ち着いてください百合子さん、そんなに動揺しなくても」

「だ、だって志保。黒山恵子先生の直筆サイン入り著書なんて、どこで手に入れたの?」

「その、母が先生の友人なんです。それで以前、百合子さんに先生の本を勧められた話をしたら」

 

 嘘は言ってない。

 志保の母が黒山恵子と親しくなったのはここ数日の話だが、友人となったのも事実なのだから。

 百合子は納得してくれたようで、改めて本を受け取ると、感極まった表情で抱きしめる。

 

「ありがとう志保。お母様にも伝えてもらっていいかな? あとは、その、黒山先生にも……」

「母への件は任せてください。黒山先生には、母に頼んでみます」

「うん。家宝にしますって伝えて欲しいんだ!!」

「か、家宝にですか。本当に黒山先生が好きなんですね、百合子さん」

 

 百合子は当然じゃないかと言わんばかりの気迫で。

 

「もちろん!! 和風ファンタジーの伝道者だよ?! あの世界は黒山恵子にしか作れない、悲劇の作家なんて言う人もいるけど、私はむしろその前の作品こそ──」

「すみません。待ってください百合子さん」

「──どうしたの、志保?」

 

 熱く語る百合子に、冷ますような真似をしたことは申し訳ないと心から思う。

 だが、その一言は聞き逃せなかった。

 聞き逃すわけには、いかなかった。

 

「黒山先生が、悲劇の作家って……どういうことなんですか?」

「あっ、ごめんなさい志保。お母様のご友人だって聞いて、てっきり知っているのかなって。本当にごめんなさい」

「いえ大丈夫です、気にしてはいません。ただ、そのお話は聞かせてください」

 

 百合子は悩んだ。

 伝えるべきか、否か。

 志保が興味本位で質問しているわけでないというのは、彼女の眼を見れば明らかだ。

 軽々しく吹聴してよい話ではない、だがその気になって調べれば1分で分かってしまう事でもある。

 せめて自分の口から伝えた方が良いのではないか。

 そう、結論を出した。

 

 

「あのね、黒山先生は『さらば妖怪』で賞を取る前年に──旦那さんを、亡くしているの」

「っそれは、何年前の話ですか?」

「今から8年前だった筈だよ」

 

 熱烈なファンである百合子の言葉だ、年数に間違いはないだろう。

 だとすると、あの青年は、黒山由人は8年前……彼が8歳の時に、父親を亡くしている計算になる。

 

 それは彼女が、北沢志保が父親を失った年齢と、ぴたりと一致していた。

 



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俺の事情と北沢さんの事情

 

 

 

 ──この気まずさに、一体なんて名前を付けようか。

 

 8月が終わり、夏休みが終わった9月のある週末。

 俺は、再び都内の水族館を訪れていた。

 もちろん1人ではない、けど前回と違って五人でもない。

 今回のメンバーを紹介しよう。

 まずはこの俺、黒山由人。

 そんな俺の小さな友達、北沢陸。

 陸の姉でクールな美少女、北沢志保。

 以上が、今日という週末を水族館で過ごす3名となる。

 つまるところ、保護者抜きだ。

 俺の母親も、陸の母親も、残念なことに予定が合わなかったようで、しかし陸にこれ以上の待ちぼうけをさせるのも申し訳ないという話になり、こうなった。

 北沢家でも異論はなかったらしく、信頼して頂けているようで大変喜ばしいことではあるのだが。

 

 どうにも、北沢さんの様子がおかしい。

 

 時折、俺に視線をくれては、考え直したようにそらしたり。

 思い詰めた顔を、隠す顔をしてみたり。

 後者に関しては、付き合いの浅い──それこそ陸と比べれば海と水たまりレベルの俺にも分かってしまうのだから、よほどの想いが彼女の中にあるのかも知れない。

 

 なにか俺に言いたいことでも、あるのだろうか。

 

「……すみません、少しお手洗いに」

「わ、分かった。あそこのベンチで待ってるよ」

 

 陸の手を引いて、腰を下ろし北沢さんを待つ。

 俺に心当たりはない。

 北沢さんに粗相を働いた覚えもないし、前回別れてから今日まで、実に代わり映えのない平凡かつ真っ平らな日々だった。

 仮に黒山家との関係性について考えているのなら、親御さんに話を通した方が早いはずで。

 だとすると、これは彼女個人が抱えているナニカ、に依るものという推測が立つ。

 ここはひとつ、彼女をよく知る人物に話を伺ってみよう。

 

「なぁ陸、ちょっと聞きたいんだけど」

「どうしたの、よしにぃ?」

 

 キラキラとした目でこちらを覗きこむ彼に探りを入れる、というのは若干気が引けるけど、北沢さんをあのまま放っておくというのもダメな気がする。

 

「陸のおねーさんさ。なんか考えてる、みたいだよな」

「おねえちゃん電車に乗ってるときから、ずっとだよ」

「そか、家だと変わらない?」

「えーっとね、おかあさんの本をたくさん読んでた」

 

 つまり、どう言うことだってばよ。

 

「おかーさん?」

「うん、よしにぃのおかあさん」

「あーなるほど、母さんの本を……陸は、おねーさんから何か聞いてる?」

 

 陸は小さく頭を振って、

 

「どうしたの? って聞いても、何でもないよって。おねえちゃん、怒ってるのかな……」

「それは絶対にないし、もし怒っていたとしても、陸に怒ってるってことは100%ありえないよ」

 

 あり得るとした、それは俺にだ。

 

「でも僕、よしにぃとおねえちゃんがケンカするの、いやだよ」

「お前は本当にいい奴だなぁ!! うりうり!!」

「わっ、くすぐったいよー」

 

 小さな頭をグリグリと撫で回しながら、俺は陸のためにも北沢さんに話を聞こうと、そう決意した。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 数十分後。

 陸はタッチプールではしゃいでいるので、前回と同じく俺と北沢さんの二人きりだ。

 つまり話しかける絶好のチャンス、なのだが……北沢さんの顔が怖い。

 俺と二人きりになってから、ますます眉間にしわを寄せては引いてを繰り返している。

 これもう絶対俺が原因じゃん、俺に何か言おうとしてんじゃん。

 けど言うか言わないかで悩んでるってことは、そんな悪い話ではないのだろうか。

 

 ただ、まぁ。

 これ以上うじうじ悩んでも仕方ない、話しかけよう。

 

 

「「あの」」

 

 ……俺たちは出だしを絶対に被らせる呪いにでも、取り憑かれているんじゃなかろうか。

 

「先、譲るよ」

「ありがとうございます。その、ですね」

 

 北沢さんは眉を顰め、それを解くと、

 

「母伝手にお話はしましたが、黒山さんにも伝えておきたくて。サインの件、ありがとうございました」

 

 あぁ、確か北沢さんの友達が母さんの大ファンで、サイン入りの本を贈ったんだっけ。

 

「伝えておくよ、母さん褒められるの好きだから」

「その子、家宝にしますって宣言してましたよ」

「それは褒めすぎじゃないかなあ」

 

 どうりであの日からしばらく機嫌が良かったわけだ。

 てか、これが言いたかったことなのかな。

 まだ何か話したいことがあるのでは。

 そう考えていたら、

 

「でも、黒山先生の作品が素晴らしいと思うのは、私も同じ気持ちです」

 

 これまでとは声色が違った。

 北沢さんの目を見ると、やると決めた人の色をしていた。

 

「今、母と一緒に黒山先生の本を集めて、読んでいるんです」

 

 言うべきか、言わざるべきか、悩んで。

 それでも言おうとしてる顔をしていた。

 

「先生の世界観が好きです。それで、その、もっとよく知りたくて……先生のことを、調べました」

 

 あぁ、そう言うことか。

 ここまで聞いて、俺は北沢さんが何を知ったのか、何を知ってしまったのか、何を言うべきか、何を言わないべきか、何で悩んでいたのか。

 その全てに察しがついた。

 別におかしな話ではない。

 好きな小説家、作曲家、歌手、芸人、アイドル、なんだったら特に肩書きのない人物でもいい。

 気に入った人のことをもっと深くまで知ろうとして、検索をかける。

 よくあることだ。

 よくあることだから。

 

 

「──黒山さんの、お父様のことを知ってしまって」

 

 別に、そんな思い悩んだ顔をする必要はないよと言いたかった。

 けれど真面目な北沢さんは、きっと自分から探ってしまったという罪悪感にかられている。

 だから俺は、

 

「北沢さん」

「……はい」

「少し、俺の話をしてもいいかな?」

 

 面白くもなんともない物語だけど、黒山由人の話をしようと思った。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 父さんは、とある港町の船乗りだった。

 具体的にどんな仕事をしていたのかは、結局分からずじまいだったけれど、世界のあちこちに船を走らせていたって聞いている。

 そんな父さんを、ある時一人の作家が訪ねてきた。

 俺の母さんだ。

 作家と取材相手だった二人は、いつしか妻と夫になった。

 子供も産まれた、というか俺だ。

 それなりに過去の記憶ではあるけれど、俺たちは幸せだった。

 

 

 それから8年後、父さんは事故で死んだ。

 

「船が転覆したって聞いてる。で、それから母さんは小説に没頭してさ」

 

 あの頃のことは正直よく覚えてないし、思い出そうとしたことも無かった。

 ただ、ただ、必死だったことだけは心に残っている。

 

「ほとんど部屋にこもりきりで、一日中机に向かってた。話しかけられるような、雰囲気じゃなかったよ。自分の家のはずなのに、知らない場所に居るみたいだった」

 

 俺の生活は変わった。

 当たり前が、変わっていった。

 朝起こしてくれるとか、ご飯を三食作ってくれるとか、洗濯物をカゴに入れとけば綺麗になって畳まれているとか、毎日掃除機をかけてくれるとか、そういうのが当たり前じゃなくなって。

 朝は自分で起きて、食事を作って、洗濯機を回して、家を綺麗に保って、こういうのが俺の当たり前になっていった。

 

「ただ、母さんの担当をしてくれてる人が、時々様子を見に来てくれて。家事の仕方だったりは、その人に教えてもらったんだ」

 

 それから数ヶ月が経って、母さんは一冊の小説を書き上げた。

 

「それが、『さらば妖怪』なんですね」

「うん。アレを書き上げてから、小説を書くたびに、母さんは少しずつ、元の母さんに戻ってくれた」

 

 母さんは賞を取った。

 担当の岡田さんが狂喜乱舞していたのは覚えているけど、母さんは喜ぶより一冊でも多く物語を書こうとしていた。

 おかげで、と言うべきか。せいで、と言うべきか。世知辛い話になるが、母さんの本が売れたので、お金に困ることはなかった。

 

 最初は寂しかったし、悲しかった。

 自分のよく知る家が、まるで他人の家のように感じて、怖かった。

 でも、母さんだって苦しんでいた。

 部屋から漏れ出す泣き声を、聞かなかったことにはできない。

 母さんは、今でも物の味がイマイチ分からないのだ。

 

「んで、4年くらいで今の母さんになったって感じかな」

「……大変、だったんですね」

「まぁ、うん。ただその甲斐あって、そんじょそこらの男子高校生より、料理洗濯掃除をこなせる自信はあるよ……他には、そうだな」

 

 俺が他にもできるようになった事を挙げようとすると、

 

 

「──お裁縫、とか」

 

 ポツリと、自然に零れたような声だった。

 

「あぁ、裁縫もだ。転んで破いたりとか、ボタンが取れて、自分で付けようとしたら最初は全然できなくてさ」

「自分の指を縫いそうになったり?」

「そうそう、何回やりかけたか分からないよ。不器用だったから」

「分かります。私も、頭では理解しているのに上手く動けなくて」

「指先が想像に着いていかないんだよね」

「えぇ、分かります。本当に」

「困った話だよ。本当にさ」

 

 思わず、笑ってしまった。

 打てば響くような、そのやり取りの心地良さに。

 横を見ると、北沢さんもほんの少しだけ口角が上がっていて。

 俺は初めて、自分に向けられた彼女の笑顔を見た気がした。

 

「大変、でしたね」

「あぁ。お互い大変だね」

 

 俺の返答に、北沢さんは察したようだった。

 彼女が俺の事情を知ったように、俺が陸の事情を知っていたことに。

 

「知っていたんですね」

「初めて陸とあった時に、うわべだけ」

「……きちんと、お話すべきでしょうか?」

 

 それはつまり、そう言うことだろう。

 北沢さんはとても誠実で、かつ律儀な人だ。

 俺の話を聞いたからには、自分のことも話すのが筋だと考えているに違いない。

 でも、わざわざ確認したということは、出来ることなら口にしたくないはずだ。

 

「いいよ、俺が勝手に話しただけなんだし」

「ですが──」

「北沢さんは、今を頑張ってる人だから」

 

 納得していない様子の北沢さんに、俺は思いの丈を伝えた。伝えなければと思った。

 

「俺はもう『頑張った』人なんだ。だから、こうして他人にお節介を焼いたり、頑張っていた時の話ができる」

 

 けど、そう言って俺は本音ってやつを口にする。

 

 

「北沢さんは今を『頑張ってる』人だから、無理に話して聞かせる必要は、ないと思うんだ」

 

 俺の言葉に、北沢さんはどう返したら良いのかと迷っているようだった。

 しかし彼女が答えを出す暇を、待ってやくれない奴がいる。

 プールから戻った陸が、北沢さんの袖を握っていた。

 

「おねえちゃん、もう平気なの?」

「り、りっくん。平気って、なにが?」

「家でてから、おねえちゃん変だったから」

「──あっ、」

 

 陸の瞳が、心配そうに姉の目を覗き込む。

 それ見て、見返して、北沢さんはこう言った。

 

「うん、もう平気だよ。心配してくれて、ありがとうりっくん」

「よかったぁ、よしにぃもありがとう!!」

「いやぁ、おねーさんと楽しくお喋りしてただけだよ」

 

 すると弟を慈しむ目から一転、ジトっとした目線で、

 

「……楽しくかは、置いておくとして。気を遣って頂いたようですね、ありがとうございます」

「あ、あはは、いや……ほんと、お構いなく……」

「──はぁ、冗談ですよ。でも、お話できてよかったとは思ってます」

 

 なるほど、では赤裸々に語ったのは無駄ではなかったらしい。

 そんなことを思っていると、北沢さんは姿勢を正して、

 

「それで、ですね黒山さん。遅れてしまって申し訳ないのですが、実は折り入ってお願いしたいことがあるんです」

「あ、うん。凄い改まってるけど……聞くよ」

「ありがとうございます。このチケットを、黒山さんに受け取って欲しくて」

 

 彼女が取り出したのは、今から大体2ヶ月後。11月の中頃に行われる、どこぞの劇場のライブチケットであった。

 765プロライブ劇場。

 チケットにはそう書いてある。

 765プロ……どっかで聞いたような、聞いてないような……

 

「あ、ありがとう。ちなみに理由を聞いても?」

「そうですね。毎回ご家族用にと、出演するメンバーはチケットを2枚貰えるんです」

「う、うん?」

「今回も、母は予定が合わなくて……弟も一人では来られませんし、もし良ければなんですが、黒山さんにご同行頂ければと」

「ごめん、ちょっと待って」

 

 待て待て待て、今の話を整理すると……整理するとだ、まるで北沢さんがそのライブに出演するような。

 

「北沢さん、ライブ出るの?」

「えぇ、そうですけど」

「なんで?」

「何でって……もしかして黒山先生から聞いてないんですか?」

「いや、なんにも……」

 

 頭を抑える北沢さんに、俺は猛烈な既視感を覚えた。というか、母さんに振り回される俺だった。

 そして、俺は北沢一家に出会って以来の衝撃に見舞われる事となる。

 北沢さんは、いかにもな完成された笑顔を作って、

 

 

「私、アイドルなんです」

 

 マジですか北沢さん。

 



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765プロライブ劇場と俺

 

 

 

 ──今日はいったい、日記になんて書き遺そう。

 

 

 765プロライブ劇場と、表のどデカイ看板には描かれていた。

 いや、訪れる前に散々検索をかけたので、ここが何という名前で、何をする場所かは知っている。

 ここは前述の通り765プロライブ劇場という名前で、765プロダクションに所属するアイドル達がライブという名の興行に励む場所だ。

 それは知っている。

 ただ、あのバカでかい看板を見ることで、本当に来たのだなという実感が、今更ながらに湧いてきたのである。

 

「すっごいね、よしにぃ。人がたくさん」

「そだな陸、たくさんだなぁ」

 

 いや、ホント沢山居るなぁ。と、俺は4ヶ月前に出会った小さな友人、北沢陸に笑いかける。

 エントランスホールと思われる、赤い絨毯の敷き詰められた場所。

 それなりの広さがあるはずのホールは、今現在老若男女でごった返していた。

 きちんと列になってはいるものの、その列自体が折り返しを繰り返しているため、まるで巨大なシャクトリムシの様だった。

 万が一にも、まぁこれだけ混んでいるので千が一にもとしておこう。陸とはぐれたりすることのないように、俺はしっかりと彼の手を握っていた。

 それこそ万が一のことがあれば、北沢さんは俺を許さないだろうし、なにより俺が俺を許せなくなる。

 大袈裟に聞こえるかもしれないが、未知の場所に保護者として行くからには、それくらいの心構えは持って然るべきなのだ。

 

 

 俺はこれから母さんも北沢母さんも、北沢さんも居ない状態で、つまり二人っきりで、陸に姉のパフォーマンスを見せるという使命を果たすのだから。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 友人の姉(歳下)に、自分はアイドルだと打ち明けられた時の正しい反応を、俺はまだ知らない。多分この先も知らない。そんなことは広辞苑にも載っていない。

 初対面で名乗ってもらえれば、そうなんですか美人さんですもんねで流せたかも知れないが……あれだ、少しは話せる間柄になってから打ち明けられると、妙に気恥ずかしいのだ。

 とりあえず詳細はまた。ということで、俺は有無を言わせずチケットを握らされた。

 

 そんな衝撃の告白の、その翌日。

 ショックから立ち直った俺は朝目覚めると、無言で母さんの布団を引っぺがし説明を求めた。

 

「ああ、何てことするの由人!! 子供による親の虐待なんて……使えそうねコレ」

「逞しいなオイ!! いやそうじゃない、それはどうでもよくてさ」

「どうでもいいなんてっ、そんな子に育てた覚えはないのに!!」

「やかましい半分くらいは自力で育ったわ!!」

 

 こんな朝早くから声を張らせないでと最後にツッコミ、本題に入る。

 

「それで、北沢姉のことなんだけど」

「あ、うん。志保ちゃんのこと? 良い子だよねぇ。中学生が家族の幸せのためアイドル界に飛び込むなんて、事実は小説よりも奇なりだね」

「なんてこった、そんな事情が……」

「北沢さんも志保ちゃんのことを語らせたら中々よー。それでね、陸くんをライブに連れて来てほしいって」

「そこまで知っててなぜ黙っていたぁ!!」

 

 すると、母さんはけろっとした顔で、

 

「なぜって、ネタバレしたらサプライズにならないでしょう?」

「いらなかったそんなサプライズ……っ!!」

「でもさ、連れてってあげるんでしょ由人」

「それは、まぁ。断る理由もないし」

 

 それが北沢家たっての願いであるなら、力になりたいと思う。

 しかし、しかしだ。俺はアイドルのライブというものを、画面越しにですら見たことのないど素人である。

 そんな俺が果たして彼女らの期待に添えるのか、陸になんの不自由もなくライブを楽しんでもらえるのか、正直なところ自信がない。

 ……そういえば、母さんの小説にアイドルを生業とする妖怪の話があったな。

 

「ちなみに母さん、アイドルのライブって見たことある?」

「見るもなにも、765プロさんのライブには一時期通わせて貰ってたのよ? まだ劇場ができる前だけどね、社長さんには色々とお話をして頂いたわ」

 

 おお、なら一安心だ。

 母さんが居れば、ライブの楽しみ方ってやつを教えてくれるだろうし、一抹の不安もなくなる。

 そう思って安堵した俺に、母さんはあっけらかんと、

 

「でも私、その日は取材の約束があるの。詳しくは話せないけど、2ヶ月後のアポを取るのにメチャ苦労したとだけ言っておくね」

 

 たとえ何があっても約束は取り消さねぇぞと、母さんの顔には書いてあった。

 

「分かったよ。でもせめて、ライブに行くに当たっての準備とか、その辺は教えてほしい」

「え、嫌だけど」

「はぁ? なんで、またそんな……」

 

 特に意味のない意地悪を。そう言おうとして、俺は口を噤んだ。

 母さんが、珍しく真面目な表情をして見せたからだ。

 

「あのね、ライブってのは演る側にとっても、観る側にとっても、一回きりの物なの」

 

 だから、だからこそ。母さんは教えておこうとしたのか。

 

「だから、まずは体で当たって砕けなさい!!」

「いや砕くなよ、陸もいるんだよ、巻き添えだよ!!」

「だーから大丈夫だって、行けば分かる!! 皆んな良い人達だよ。演る側も、観る側もね」

 

 際限なく根拠なく、自信に溢れたその顔に、俺は黙って頷くしかなかった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 2ヶ月なんて天井のシミを数えていればあっという間だ。

 

 北沢さんはライブの練習で忙しく、あの日以来会っていない。その間も何度か陸と水族館へ行きはしたものの、陸にはあまり仕事の話をしていないらしく、とりあえず家では元気だという報せだけが俺の耳に届いていた。

 便りがないのは良い便りというが、普通に良い便りが来ていたので良しとしよう。

 

「じゃあ陸、少しおねーさんと電話するから」

「うん、まってる」

 

 指定されていた時刻通りに、俺は携帯電話を取り出し指定されていた番号を打ち込んだ。

 北沢志保、北沢さんの携帯番号をだ。

 それは都会に来てから買い与えられ、長らく母さんとの連絡のみに使用されてきた外見はおろか中身も薄っぺらい俺の携帯に、二番目に登録された電話番号である。

 登録したのは2ヶ月前のあの日だが、実際にかけるのは今回が初めてだ。

 しかし、なんだな。女の子に電話するのって案外緊張するんだな、面と向かって会話するのとはまた違った緊張だ。

 数回のコールが鳴ったのちに、そろそろ聞き馴染みのあると言っても許されるのではと思う声が聞こえてくる。

 

「もしもし、黒山さんですか?」

「はい黒山です。こんにちは北沢さん」

「はい、こんにちは。今どちらですか?」

「ちょうどエントランスホールに入ったところで、こっからどうすればいいかな。すっごい人だ」

「では列には並ばず、一般のお客さんが入場し終えてから、スタッフの方にチケットを見せてください。関係者席に案内してもらえるはずです」

 

 関係者席かぁ、聞いてはいたけれど自分がアイドルの関係者だと思うと、中々どうして不思議な感覚である。

 いや、正確には関係者の付き添い、なのだが。一般席だと最前列でもない限り何も見えなくなるであろう陸も、その席なら問題なく姉の勇姿を見届けられるはずだ。

 

「了解、陸とも話しておきたいかな?」

「……いえ、止めておきます。あまり口に出したくありませんけど、緊張してしまいそうで」

 

 なるほど、そういう事もあるのか。

 身内に見られると思うと、言葉にはならない類の緊張感が生じるのやもしれない。

 

「すみません、もう時間なので。弟によろしくお伝えください」

「わかった。じゃあ北沢さん、楽しみにしてるよ」

「──ありがとうございます。黒山さんのご期待にも添えるよう、頑張ります」

 

 俺は通話の切れた携帯をしまい込み、陸の手を引いて列の邪魔にならない位置へと陣取った。

 会話中から入場整理が始まっていたようで、どんどん短くなるシャクトリムシを眺めながら、

 

「おねーさんが、陸のためにも頑張るってさ」

「うん、僕もすっごく応援する!!」

「俺もだ。頑張ろうな、お互い」

 

 多少の意訳は入ったが、まぁだいたいこんな感じのニュアンスだった。

 あれだけ賑わっていた人達も、いざ開場すると驚くほどスムーズに捌けていく。

 そして最後には、列整理をしていたスタッフさん達と、俺と陸と、数名の男女が残された。

 この人達も、いわゆる関係者なのだろう。

 すでに顔見知りなのか、彼らは仲の良さそうに話しながら時間が来るのを待っていた。

 いずれも俺より1〜2世代歳上に見えるので、きっと親や祖父母、または業界関係の人達なのだろう。

 少しだけ、ほんの少しだけど、この人達とのライブ鑑賞に馴染めるのか、そんな不安がよぎった。

 

 いや、こんなことを俺が考えるのはやめにしよう。

 さて、この後はスタッフさんにチケットを渡して──

 

 

「ごめんなさい。少し、いいですか?」

 

 背後からの声に、俺はゆっくりと振り向いた。

 声の主は、青い髪の女性だ。

 歳は俺の母さんと同じくらいで、非常に失礼ではあるのだが、第一印象としては。

 なんだか、幸薄い顔をされているなと、そう思った。

 

「えと、どうかされましたか?」

 

 俺が問いかけると、これまた失礼で恐縮の限りだが、女性は幸薄そうに微笑み、

 

「貴方たちくらいの子がいるの、珍しいことだなと思いまして。初めてお会いする方ですし──なんだか、困っているように見えましたから」

 

 だから、つい声を。

 そう言われて、思いがけず動揺した。

 そんな素振りを見せたつもりはなかったし、顔に出した覚えもなかったからだ。

 別に表情を隠すのが得意だとか、年がら年中ポーカーフェイスを決めているわけでもないが、初対面の人の不安を察するなんて相当な気がする。

 すると次の言葉を上手く紡げない俺に、女性は芯のある声で、こう名乗った。

 

 

「名乗りもせずに、失礼しました。私、如月千種と申します」

 

 

 



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ライブとようこそ

 

 

 如月千種と、その女性は名乗った。

 

 彼女の娘は765プロダクションに所属するアイドルで、名前を如月千早さんというらしい。

 如月千早さんは歌がとてもお上手で、その実力は群雄割拠よろしく混沌としたアイドル業界でも頂点に近いと認められており、一部のファンの間では『蒼の歌姫』という渾名がさも当然のごとく使われているらしい。

 アマチュアのコンクールとはいえ民謡に童謡、さらにはロックでも賞を取った経験があるらしいのだから、如月千早さんの歌唱力は疑いようもあるまい。

 

「それでね、千早は小さい頃から──」

 

 ……如月千種さんは、とても親切な方だった。

 その点について、俺はお墨付きの太鼓判を押してもいい。

 あの後、彼女は俺たちをいわゆる常連組の皆さんに紹介してくれた。

 年齢や性別、それに国籍の差はあれど、彼らは自分の大切な人を応援するために集まった同好の士であり、俺たちを快く迎え入れてくれたのだ。

 そればかりか、千種さんは本公演のパンフレットまで用意してくれて、アイドルの応援に使うのだというコンサートライトなるものまで貸し出してくれた。

 なんていい人なんだろう。俺はそう思ったし、今でもそう思っていることに嘘偽りはない。

 

「その時の千早の写真がこれでね──」

「へー、すっごいんだね千早お姉ちゃん!!」

 

 如月千種さんは俺たち二人ともに良くしてくれたが、とくに陸への猫可愛がりようは目に入れても痛くないを通り越して、目に入れたら気持ちがいいとか言い出すのではなかろうか。などという失礼極まりない想像が浮かぶほどであった。

 

 如月千種は素晴らしくいい人だ。

 俺は心の奥底から彼女に感謝している。

 しかし、しかしだ。

 

「でも千早はそんなところが──」

 

 しかし俺はこの女性と話せば話すほど、なぜか彼女の娘である如月千早さんついて詳しくなるという、摩訶不思議な現象に見舞われていた。

 具体的に直訳的に言うのなら、彼女は娘さんの話ばかりだ。

 それが嫌だとは口が裂けても言えないし思ってもいないが、これが俗に言うところの──子離れできない親、というのだろうか。

 

 

 如月千早さんも大変なんだろうなぁと、俺は見たことも話したことも会ったこともない女の子に、そんな想いを馳せるのだった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 765ミリオンオールスターズ・グランドフェアリー

 

 この公演の正式名称だ。

 765プロライブ劇場に所属するアイドル達はそれぞれ、princess・fairy・angelという属性なるもので分けられており、今日はfairyチームの今年一年を締めくくる大型ライブなのだという。

 出演するアイドルは総勢17名。

 その中には当然、北沢さんや、この数十分で異様に詳しくなった如月千早さんも含まれている。

 開演が近づくにつれて、劇場内のざわめきが小さくなっていく。いや、小さくなるというよりは、圧縮されて蓋されて、今にも爆発しそうな熱気がそこにはあった。

 気がつくと、如月さんも陸へのレクチャーを止めて何かを待っていた。

 それに釣られて、俺と陸も声を出さずにじっと待つ。

 

 ──そして。

 

 

「皆さーんっ!! おはようございまーーすっ!!!!」

「「「「「おはようございまーーすっ!!!!」」」」」

 

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 あらためて考えると、マイク越しの女性の挨拶に観客が返事をしただけなのだが、それでも鼓膜をぶっ叩かれたような衝撃だ。

 

「本日は765ミリオンオールスターズ・グランドフェアリーへ、ようこそお越し下さいました!! 本公演のアナウンスを務めさせていただきます青羽美咲と申します、今日も一日よろしくお願いいたしますっ!!」

 

 青羽美咲と名乗ったアナウンスの女性が、公演中の注意事項などを知らせていく。

 声だけの出演ということは、彼女はアイドルではないのだろうか。

 パンフレットを開けばその辺りも分かるのだが、俺は映画のパンフレットを必ず上映後に読むタイプなのだ。

 彼女が口を開くたびに、会場のボルテージが上がってゆく。きっと彼ら彼女らにとっては何度も何度も聞いた諸注意であるはずなのに、んなことは関係ないと言わんばかりの盛り上がりであった。

 

 青羽さんのアナウンスが終わる。

 終わりは、いつだって始まりの合図だ。

 つまり、つまるところ、これはライブが始まる合図なのだ。

 

 場内のライトが消え、客席は真っ暗になった。いや、真っ暗ではない。そこには色とりどりの光が細かく揺れ動いていて、星空を写す海のようだと思った。

 入場のメロディーに導かれて、一人また一人とステージに影が立つ。

 やがて17人の影がそれぞれの位置に着くと、メロディーは終わりを告げ、それと同時に宴の始まりを告げる。

 ライトが、少女を照らす。

 だが同時に、太陽の輝きを受けて俺たちを照らす月のごとく、彼女たちはこの世界を照らしていた。

 

 

 ──その姿に、その在り方に、その輝きに、まっこと語彙力のカケラも感じさせない表現をするのなら、俺はすっかり見惚れてしまったのだ。

 

 歌が、始まる。

 彼女たちの歌が。

 踊りが、始まる。

 彼女たちの踊りが。

 

 彼女のパフォーマンスに合わせて、観客もまた声を出しカラダを動かす。

 話に聞いていたコール&レスポンスだ。

 ふと、横を見ると陸も大きな声でレスポンスを返している。如月千種の指導力たるやであった。

 気がつけば、関係者席の皆さんも声をあげていて。

 それを見て、そんな光景を見て、俺は自分もやらなくては──ではなく、俺も仲間に混ざりたいと、自然とそう思った。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 世界がひっくり返るような感動だった。

 

 大袈裟に聞こえるかも知れないが、俺にとってはまさしく天変地異に匹敵する体験であったのだから、なにも間違ってはいない。

 彼女たちの歌に酔いしれ、ダンスに魅了され、トークに笑う。

 至福の時だと、俺は断言してもいい。いやしよう、これは至福の時だ。

 砕けた言い方をするなら、すっごい楽しい。

 

 あぁ、母さんの言わんとしていた『体で当たって砕けてくる』って、ひょっとしてひょっとすると、いやひょっとしなくとも、こういう事だったのか。

 

 なるほど、確かに心身ともに砕けて蕩けて絆されたって感じだ。

 さすが母さん、俺のことを俺よりも知っていなくとも、分かっているだけのことはある。

 ライブはすでに最終ブロックへ突入し、学が足りていないため曲の種類などは分からないが、カッコいい曲やしっとりとした曲を中心に客席を大いに盛り上げ泣かせている。

 

 特にあの、白石紬さんだったか。

 人間離れした、現実離れした美しさだった。

 まるで芸術作品が動き出したかのような、神秘的な人だった。

 彼女の曲は聴いたこともないような旋律で、俺の心を揺さぶったのだ。

 有り体に言えば、ファンになった。

 きっとお淑やかで仙人を想わせる、謎に満ちた私生活を送っているに違いない。

 俺は確信した。

 俺が確信していると、舞台を闇が閉ざした。

 だが、そんな暗闇を吹き散らす音色が、歌声が、俺の耳に届く。

 そうだ、そうだこれは。

 

 

 ──北沢さんの、歌声だ。

 

 つい数時間前にも聞いた、涼しげで冷静な彼女の声だ。

 しかし、あの時とは明確に、確実に違っているのは、その声が歌となって会場を支配しているってとこだ。

 

 それは一人の、大切なものを守りたい少女の歌だった。

 孤独で強固な殻にこもって、笑顔を心に閉じ込めて、守るために強くあろうとした少女の物語。

 でもそれは間違っていた。

 守りたいものを、守りたいのなら、守りぬくために、この長い旅路は誰かと歩んでいいのだと、そう気がついて少女は笑うのだ。

 大切な人と、絵本のお姫様のように。

 

 1分にも、1秒にも、1時間にも思える時が経過して、後奏が終わってようやっと。

 俺は、自分が泣いていることに気がついた。

 初めてだ。

 初めて、歌を聴いて泣いた。歌に泣かされた。彼女の歌声に、なぜだか無性に泣けてきた。

 技術的な話をするのなら、この人の方が上手いんじゃないかって、素人ながらに思う人はいたけれど。

 どうしてか彼女が歌ったその時にだけ、俺はどうしようもないほどに、感動ってやつを抑えきれず泣いた。

 

 だが、ライブはまだ終わっていない。

 会場は筆舌しがたい沈黙に沸き、彼女の登場を待っている。

 これで16人のアイドル達がソロ曲を歌ってきた。

 それが意味するのは、意味するところは。

 

 

 蒼の歌姫が、降りてくる。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「如月さん。今日は本当に、本当にありがとうございました」

「こちらこそ、とても楽しかったわ。ありがとう黒山くん、陸くんも元気でね」

「ばいばい!! またね、ちぐさおばさん!!」

 

 恩人である如月千種さんに手を振り、陸と二人夕暮れ時を歩く。

 終わってみれば、実に濃厚で濃密な数時間だった。

 アイドルを好きなる人の気持ちってものが魂と心で理解できた。

 明日の放課後にでもCDを買いに電気街へ繰り出そうと思う。

 あとはそうだな、次のライブの予定も調べてチケットの抽選に応募しよう。

 コンサートライトも自前のものを用意しなければなるまい。

 いやぁ未来は明るい、例え暗くても照らせる!! 人生は虹色に輝いているぞ!!

 

 あ、そうだ。忘れないうちに言っておかないと。

 

「なぁ陸、一つお願いがあるんだけど」

「お願い? 僕に?」

「うん。すっごい大事なお願いなんだ」

 

 俺は陸だけにお願いが届くよう近づいて、そっと耳打ちした。

 

「おねーさんにさ、俺が泣いていたのは内緒にしてほしい」

「……泣くのは、恥ずかしいの?」

 

 陸がそう聞き返したのは、俺の他にも泣いている人が大勢いたからだろう。

 例えば、ソロ曲のトリを飾った如月千早さんが歌った際に、涙を零していた女性とか。

 

「泣くのは、恥ずかしくもなんともないよ。泣きたい時は泣くのが一番だと思う」

 

 それになにより我慢した涙は心に溜まって、心を蝕む毒になる──って母さんの小説に書いてあったし、実際その通りだ。

 

「ただ、まぁなんというか。泣いていたことを、おねーさんに知られるのが恥ずかしいのかも」

「そうなの?」

「そーなの、秘密にしてくれるならジュースを買ってやろう」

「うん分かった、秘密にするねっ」

「……お前のちょろさは誰譲りなんだろなぁ」

 

 適当な自販機に小銭を入れ、オレンジジュースと緑茶を購入する。

 俺は陸の手にオレンジジュースの缶を握らせると、

 

「じゃあ陸、指切りげんまんしよう」

「はーい」

「指切りげんまんっ、嘘ついたらアリ千匹のーますっ、指切ったっ」

「あり千匹?」

「そうだぞー、千匹の蟻が喉に向かってゾワワーって」

「うわぁ……」

 

 どうしよう、未就学児をわりと本気で引かせてしまった。

 いや、まぁ。逆を言えばだ、これだけしっかり約束をすれば北沢さんに俺が号泣していたとはバレまい。

 と、とりあえず。

 

「陸、もう一本ジュース飲む?」

「飲む!!」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 その晩。

 夜の9時を回って、そろそろ風呂に入ろうかなとか、そんなことを考えていると。

 携帯の着信音が、鳴っていた。

 普段ならばあり得ない光景だった。

 この俺に、夜中の9時に、それも携帯の番号に、電話をかけてくる人間なんて母さんくらいしかいないし、当の母さんはついさっき帰ってきたばかりだ。

 となるとだ。他に電話をかけてくる、すなわち俺の番号を知っている人物は一人だけ。

 

 北沢志保、と。

 携帯の画面にはそう表示されていた。

 俺は慌てなかった。慌てず騒がず、一呼吸を置いてから通話ボタンを押して──

 

 

「「あの」」

 

 ここまでくると、北沢さんが意図的に被せているのではないかと疑いたくもなるが、きっと彼女は俺と同じで会話のタイミングを計るのが苦手なのだ。

 

「こんばんは。お先にどうぞ、北沢さん」

「こんばんは黒山さん。今、お時間平気ですか?」

「大丈夫だよ、ちょうど空いてたところ。今日はお疲れ様でした」

「ありがとう、ございます。実は今日のこと、あらためてお礼が言いたかったので」

 

 それで電話してくれたのか。

 ホント義に篤いというか義理堅いというか、その日の内に電話するあたりが律儀の証拠だ。

 

「今日は陸を連れてきてくれて、本当にありがとうございました」

「うん、どういたしまして。それでその、陸の反応は? だいたいは想像つくけど、気になって」

「それはもう大はしゃぎで、私が帰ってからずっとライブの話ですよ。ついさっき……寝る直前まで話していましたから」

 

 気のせいか──いや、気のせいなんかじゃないだろう。電話越しでも彼女の嬉しそうな声から、陸との楽しげなやり取りが眼に浮かぶようで、なんだか自分まで楽しい気持ちになってしまった。

 陸がライブを楽しんでいたのは、隣で見ていた俺もよく知っている。

 しかし俺は、あの姉弟がライブで通じ合えたことが自分のことのように嬉しかったのだ。

 

 すると北沢さんは一呼吸し、こんなことを尋ねてくる。

 

「黒山さんは、どうでしたか?」

「えっ?」

「楽しみにしてるって、言ったじゃないですか。感想、お聞きしても構いませんよね?」

 

 確かに言った。

 俺は本番前、彼女と通話したさいに楽しみにしてるよと、確かにそう言った。

 ただ、北沢さんがそれを覚えていたのが少し以外だった。

 やはりプロたる者、こういうところでも意見を求め己を高める材料にするのだろう。

 実にあっぱれな向上心である。

 

「素直に言わせてもらうと、感激した。今まで気にしたことがなかったけど、こういう場所があるんだなって」

 

 熱気に包まれながら彼女たちを応援していたことを、俺は鮮明に明白な記憶として覚えている。

 今までに感じたことのない、あの衝動を、感動を。

 

「念のため言うけど、お世辞じゃないよ。明日にでもCDを買うつもりでね、とはいっても一気に買うのはお財布的に厳しいし、ここは何枚か選んで──」

「黒山さん」

「あ、はい」

「黒山さんが私たちの公演で、私たちを好きになってくれたのなら、私は765プロのいちアイドルとして嬉しく思います」

 

 ただ。そう言葉を挟み、北沢さんは一瞬迷うように間を置き、

 

「……私の歌は、どう思いましたか?」

 

 北沢さんの言葉に、数時間前の号泣が脳裏をよぎった。鼓動が速まり、体温が上がるのを感じる。

 鏡なんて見なくとも、自分が赤面していると分かった。

 あぁ、どうでしたかって、そう言うこと。

 

「えと、そうだね。すっごい素敵だったと思う。歌を聴いて、北沢さんを観てると、曲名通り絵本を読んでるみたいで、さ……」

 

 自分で言っておいてなんだが、本人に直接こんな言葉で伝えるのは度胸がいる。

 俺の胸は早鐘を撞くがごとく鳴っていて、通話終了のボタンを押したい気持ちに駆られるが、それはそれで度胸がいる話だ。

 端的にいうと、恥ずかしい。

 しかも俺が返事をしたっきり、北沢さんが反応しないもんだから、余計に気まずい。

 

「黒山さん」

「う、うん」

 

 実に情けないが、俺はもう彼女に名前を呼ばれるだけで、胸がいっぱいいっぱいだった。

 世のアイドルを応援する人たちは、よくこんな動悸に耐えられるなぁと感心するばかりである。

 

「そう言ってもらえると、私も努力して良かったと思えます。絵本みたいだって……その、汲み取ってくれて嬉しいです。ありがとうございます」

「いや、こちらこそだよ。すっごいものを、観させてもらった。また観に行きたいって本気で考えてるところでさ」

「なら私も、それまでにもっとレッスンを頑張って、今日以上のものを見せられるよう努力します」

「うん。楽しみにしてるね、北沢さん」

 

 あれ以上を見せられて、魅せられた時に、はたして俺の心臓は持つのだろうか

 そんなことを思いながら、しかし必ず行こうと俺は決意するのだ。

 あの素晴らしい世界に、俺は何度でも感動するに違いない。

 今日は日記に『ようこそ』新しい世界と書き遺そう。そんな日だった。

 

 

「そろそろ切るよ。北沢さんもゆっくり休んで」

「……黒山さんって、時々プロデューサーさんみたいなこと言いますよね」

「え? 俺がなに?」

「いーえ、こちらの話です。お休みなさい、黒山さん」

「え、うん。お休……あ、ごめん北沢さん、もうちょっとだけ良いかな? 出来たらでいいんだけど──」

 

 



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北沢志保と問題

 

 どうしてあんなことを聞いたのか、志保は自分でもよく分からなかった。

 

 

 先日のライブは大盛況だった。

 他ならぬステージに立っていた志保は数日が過ぎた今でも、その光景を好きなだけ、まぶたの裏に投射できる。

 それは自身の所属するfairyチーム総出演の、今年一年の集大成となるライブで。

 メンバー全員が文字通り、それぞれの壁をのり超え到達したステージだった。

 あの場に立てたことを、あの中の一人で在れたことを、北沢志保は心から誇りに思っている。

 

 で、問題はその晩の話だ。

 実を言うと、件のライブは志保にとって、つまり北沢志保個人にとっても特別なものだった。

 最愛の弟である北沢陸に、初めて自分のライブを直に見てもらえたのだから、彼女の喜びは推して知るべしだ。

 でもそれは問題ではない、全然問題ではない、問題にすらなっていない、だって歓ばしいことなのだから。

 それを言ってしまうと、その問題がまるで喜べないことのように聞こえてしまうが、別にそう言うわけでもないのであった。

 中学2年生女子14歳の心もようは複雑極まりない。

 

 彼女の抱える問題とは、そう──黒山由人についてだ。

 

 黒山由人という大柄で日に焼けた、それでいて親しみやすい笑みが特徴の高校生と、北沢志保との間柄をズバリ一言で表すなら『複雑』だ。

 やや似たような境遇で、歳上で、弟の友人で。

 つまり、黒山と志保の関係は複雑なのだ。

 志保は彼に、色々と借りのある立場にあった。

 4ヶ月前。彼が迷子になっていた弟を助けてくれたことを皮切りに、弟の恐らくは一番仲の良い友達になってくれて、母も今や月2回ほどの頻度で会話に花を咲かせる友人──黒山恵子と出会いこれまで以上に活力を得て、極めつけに弟をライブに連れて来てくれた。

 彼との出会いは志保にとって、いや北沢家にとって、幸か不幸かで問われれば、間違いなく幸運であった。

 そんなこんなで、北沢志保は黒山由人に借りがあって、恩がある。

 恩というのは返すために感じるものだ。

 

 だから、なのだろうか。

 志保が黒山に、電話で自らの歌の感想を求めたのは。

 彼が本心から賞賛してくれれば、それで少しは恩返しになると、そんな風に思ったからなのか。

 もしくは──。

 

 

『○▲〜○▲駅〜降り口は左です』

 

 などと考えているうちに、志保を乗せた電車は目的地に着いてしまった。

 電車を乗り過ごしでもすれば、歌が大好きで仕方のない友人のことを言えなくなってしまう。

 電車を降り、ホームから階段を上がり、改札を通って街中に出る。

 行き先はいつもと同じ、いつもの場所。

 しかし彼女の心はとても、いつも通りとはいえなかった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 電車ではあれこれと考えてしまったが、実は先日の晩、志保は黒山に頼みごとをされており、こうやって堂々と恩を返す機会を得ていた。

 頼みごと、その内容は言伝だ。

 黒山がライブでお世話になった方へと、あるアイドルへの伝言を志保は頼まれていた。

 たかが伝言、されど伝言。

 常人からすれば取るに足らない容易い伝言も、一匹狼気質な志保からすれば大冒険だ。

 前回。本一冊を届けるために労した時間を、彼女は決して忘れていない。

 とはいっても、今回の相手はどちらもレッスンで合う予定があるため、以前のように劇場中を探し回る必要はない。

 なので、合ったら合ったで合った時に、面と向かって伝言を済ませればいい、それだけだ。

 

 それだけだから今日も頑張ろうと、志保は思った。

 

「おはようございます」

「おはよう志保、今日も早いのね」

「いえ、千早さんほどでは」

「私は午後から入ってるインタビューの練習があって、空き時間をここでストレッチしていただけよ」

 

 レッスンルームの扉を開くと、中には先客がいた。

 如月千早。

 大勢いる765プロの同僚先輩たちの中でも、志保が特に尊敬している彼女は、今日も綺麗なフォームでストレッチに励んでいた。

 どうやら千早は早いうちに劇場を訪れ、先ほどまでインタビューの受け答えを確認していたらしい。

 志保としては、それを込みで今日も早いんですねと思ったが、口には出さなかった。

 これは志保にとっても、理想のシチュエーションであったからだ。

 というのも、黒山に伝言を頼まれた相手というのが、この如月千早であるからで。

 より正確には千早の母親である如月千種こそが黒山の言葉を伝えたい相手なので、この場合志保は言伝の伝言を頼まれた、ということになる。

 

 思い通りの展開だと、志保は思った。

 今このレッスンルームは千早と志保の二人だけ、二人きりの状況だ。

 あと数十分もすれば予定の入っている残りの二人も来るけれど、できれば二人きりのうちに要件を済ませてしまいたい。

 なぜなら残りの二人のうち、そのまた一人はこういう話に敏感で、面白おかしく盛り上げて、井戸端会議のオバちゃんよろしく話を劇場中へ拡散する恐れがあるからだ。

 ゆえに早いところ要件を済ませてしまおうと。

 

 

「「あの」」

 

 最近これ多いなと、北沢志保は心の中でつぶやいた。

 主に相手は黒山で、彼もまた自分と同じく会話のタイミングを計るのが苦手なのだろうと、志保は当たりをつけていた。

 そして、目の前にいる青髪の先輩もまた、同じくそうなのだろうと。

 しかも同じようなシチュエーションを狙って、同じようなタイミングで、同じような声色で同じことを言ったのだから。

 もしかすると、この先の内容は同じなのではとも当たりをつけた。

 

「千早さん、お先にどうぞ」

「えぇ、ありがとう。あのね志保、この間のライブの件で少し、あなたのご親戚の方に伝えて欲しいことがあって」

「あの、すみません千早さん」

「……志保?」

「それってもしかして、千早さんのお母様と関係していませんか?」

 

 志保の言葉に、千早は概ねの流れを悟った表情を見せた。

 向こうは向こうで、似たようなことを考えていたのかも知れない。

 ちなみに千早の言うご親戚の方というのはもちろん黒山由人を指しており、彼と北沢陸の関係性にうわべの正当性を持たせるためのカバーストーリーだ。

 

「つまり、お互いに言伝の伝言を頼まれたってことなのね」

「そういうコト、らしいですね」

「母もだいぶ張り切っていたようだから、弟君にもずいぶん構ってもらったと聞いているし」

「いえ、弟のことはむしろお礼が言いたくて、ありがとうございましたと」

「いいのよ志保。母が弟君を放って置かないのだって、半ば確定していたようなものだから……まったく、困った人」

 

 言葉のわりに、千早の表情はとても穏やかで。

 よくは分からないが、どうやら不仲という訳ではないらしい。

 家の事情が事情なだけあって、志保は可能な限り空気を読む努力をしなければと、引き締めていた気を緩める。

 

「あとはその……黒山さん、でいいのかしら。その方のご迷惑になっていなければ良いのだけど」

「大丈夫だと思いますよ。あの人、人の善意には基本的に好意的ですから」

 

 そう言って、彼ならどう考えるかを言ってみせて、志保は自分が案外黒山のことを知っているのだなと何気なしに思った。

 だからどうという訳もないが、ただ何となく黒山さんならこう思うだろうなと頭に浮かんで、口から出た。

 兎も角。これで頼みごとの半分は終わったようなものであり、あとは尊敬する先輩とストレッチをしながら、残りの二人が来るのを待てばいい。

 そうやって油断した志保に、千早はこう言いながら微笑んだ。

 

「仲が良いのね、その黒山さんと」

「……そう見えましたか?」

「少なくとも、話を聞いた限りではね。仲が良いと言うよりは──そうね、信頼をしているのかしら、違う?」

 

 一瞬、やけに詳しいな千早さん。と志保は感じたが、よく考えてみれば志保が、普段から弟を大切にしている北沢志保が、そんな大切な弟を預けている時点で、そう思われても不思議ではない。

 というより、黒山は親戚なのだと説明しているのだから、その点を加味すると千早の言い分は至極真っ当なのであった。

 そこまで言われて、北沢志保は考えてみる。

 果たして、自分が黒山由人に向けている感情がいったい何なのかを。

 考えてみれば、確かに自分は黒山を信頼している、気がする。

 彼の生い立ちを理解していて、彼なら何を考えるかを想像できて、なにより彼と弟の友情を知っている。信じている。

 だとするなら、自分は、北沢志保は。

 

「そうですね。私は彼を、黒山さんを信頼しているんだと思います」

「ねぇ志保、黒山さんって誰のこと〜??」

 

 

 まったく、気がつかなかった。

 いつのまにかレッスンルームの人口が倍に増えていて、たくましいアホ毛を生やした茶髪ギャルが、志保を横から覗き込んでいる。

 彼女は所恵美という名で、志保の同僚で、見た目の割にマジメで、人に頼りにされると断れなくて、とても仲間思いで、だがそれはそれとして。

 

「ねぇねぇ志保〜。彼って言ってたけど、もしかしてもしかしてなの?!」

「別に、そんなんじゃありませんけど」

「えぇ〜? まだ何も言ってないのに、怪しいなぁ」

 

 それはそれとして、彼女は人の恋話に目がない。

 自分の恋愛話を振られると顔を赤くして黙ってしまうのに、早い話が攻撃特化なのであった。

 

「ちょっと恵美。千早ちゃんから聞いたけど、その黒山さんは志保ちゃんのご親戚の方なんでしょう? その辺りで止めておきなさい」

「ありゃ、なんだ〜そだったの。ゴメンね志保、てっきり志保に春が来たのかなって」

 

 ペコリと、先ほどの攻勢から一転して素直に頭を下げる。

 こういうところが、所恵美の所恵美たる所以なのだ。

 そして彼女を諌めたのは一見して人の良さそうな女の子、田中琴葉である。

 彼女は一見した通り人の良いお姉さんで、恋愛方面に爆走する恵美のブレーキ役でもあった。

 

「来年はもっと忙しくなるのに、春だなんだと言ってる暇はありませんよ。そんな時間があるならレッスンを頑張ります」

「志保ちゃんの言う通りだよ? 恵美はもうちょっとキツめのダンスで絞った方がいいのかな」

「ひぇ〜それだけは勘弁してよ琴葉ぁ〜!!」

 

 つっけんどんに言い放つ志保に、正しく悪ノリする琴葉に、けちょんけちょんな恵美に、千早は苦笑いを浮かべながら。

 

「志保は……ちょっと振り切れ過ぎてるけど、この先忙しくなるのは間違いないわ。志保、所さん、琴葉さん、これからも一緒に頑張りましょう」

 

 そう言って、この場を締めくくるのであった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「──と、まぁ。そんなことがあったんです」

「へぇ、シホに春ね。それで眉間にシワを寄せていたってワケだ」

「あの、ジュリアさん。私の話聞いていました?」

「あはは、ジョーダンだよ。シホからそういう話が出てくるのが珍しくってさ、悪かった」

「そもそも話を振ってきたのはジュリアさんだった気が……」

 

 

 細かいことは気にするなって、とジュリアが笑う。

 赤髪の眩しい765プロきってのギタリストは、共にボーカルレッスンを受けていた志保の眉間を見逃さなかったらしい。

 表情に出るほど引きずる志保のメンタル面の問題もありそうだが、大元は恵美のちょっかいなのだから、どちらかと言えば彼女は被害者である。

 だいたい何が春だと、志保は切り捨てた。

 少なくとも自分が黒山に向けているものが、そうでないことは明白だ。

 春が志保の知っている通りのものなら、もっとこうドキドキするはずで、そうでないなら春とは呼べない。

 信頼はしているが、だからって好きになるのであれば、彼女たちのプロデューサーは一体全体何股を迫られることになるのやらだ。

 

「でもさ、クロヤマさんだっけ? その人のお気に入りがムギだっていうのは、シホとしてはどうなんだ?」

「どうって、どういう意味ですか?」

 

 質問の意味が分からなかった。

 確かに志保が黒山に頼まれたもう一つの伝言は、彼がファンになったという白石紬に当てられたものだったが、それで自分にどうしろと。

 

「いや自分が一番とか、そーいう風にはならないのかって話」

「別に、趣味嗜好は人それぞれですから。彼が一番気に入ったアイドルは紬さんだった、それだけですよ。他の感情が割り込む余地はないと思います」

 

 本心であった。

 黒山の心は黒山のもので、彼が彼女に心を奪われたのなら、その結果が全てだ。

 それに自分が一番ではなかったからと言って、あの晩に黒山が語ったことまで消えるわけではないのだから。

 

「だってよムギ、そんな気に病むことないってさ」

 

 ジュリアに笑いかけられて、先程から気まずそうに顔を伏せていた少女──白石紬はおずおずと口を開く。

 

「あの志保さん。その方は本当に、私を?」

「えぇ、琴線にふれたそうです。特にソロ曲を聞いて確信したとか、そんなことを言っていましたね」

「そ、そうですか……とても、嬉しく思います。私からファンの方々へ返せるものは、精一杯のパフォーマンスですから」

 

 それを気に入ってくれたのなら、アイドル冥利につきるのだと、紬は言う。

 ファンがアイドルに向けるありとあらゆるものに、アイドルは己の才覚と努力で得たものを返していくしかないのだと。

 その通りだと、志保は感じた。

 才覚はともかくとして、努力を続けることで、より多くを返すこともアイドルの仕事なのだ。

 努力を怠らず、より一層邁進すればいい。

 そうすればきっと黒山に──。

 

 

「志保!! よかった見つかった!! 大ニュースだぞ!!」

「ノックの一つもなしに大声だなんて……あなたは、デリカシーという言葉をご存知ないのでしょうか?」

「す、すまん紬。驚かせるつもりはなかったんだ」

 

 この光景を見れば万人が、出鼻を挫かれるという言葉の意味を理解するはずだ。

 控え室へ飛び込んできたのは、若いスーツ姿の男性だった。

 彼は意気揚々と入室し、そして紬の強烈なカウンターに沈んだ。世界級の言葉のパンチであった。

 

「おいムギ、プロデューサーも昂ぶってたみたいだしさ、その辺で勘弁しておこうぜ」

「……ジュリアさんが、そうおっしゃるなら」

「それより、あたしはその大ニュースってのが気になるな、志保もそうだろ?」

 

 ジュリアに話を振られ、志保は男性のセリフを思い出す。

 彼は自分に、なんらかのビッグニュースを持ち込むつもりだったはずだ。

 

「まぁ確かに、気にならないと言えば嘘になりますけど。もう少し大人らしく行動してください、プロデューサーさん」

「あはは、面目無い。けどコレを聞いたらきっと驚くよ」

 

 すると志保の言葉に息を吹き返した男性は、彼女たちのプロデュースを担当している彼は、765プロダクション所属のプロデューサーは、実に嬉しそうな笑顔でこう言った。

 

 

「実はな、志保に演劇の仕事が来たんだ」

 

 

 

 



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北沢さんの悩みと俺

 

 とある週末の14時10分、俺は死んだ魚のような顔で水族館を訪れていた。

 

 

「よしにぃ、顔すっごいけど大丈夫?」

「よくぞ聞いてくれた陸、実は全然大丈夫じゃないんだ。俺を助けてほしい」

「ど、どうすれば良いの?」

「なぁに簡単なことだよ、ただ少し頭を撫でてもらえれば──」

「黒山さん、ここに母から教えてもらった黒山先生の番号があるんです」

「ありがとう、陸と話していたら元気になったよ」

 

 信用は積み木のようなもので、積むのは難しいが崩れるときには一瞬だと言うけれど。

 本当その通りだなって、俺は目の前で崩れかけた積み木を前にそう思った。

 北沢さんのジト目は嫌いじゃないが、こういうのは引き際をわきまえないと単なる変態である。

 きっと母さんのことだ。そろそろ俺が陸に悪ノリしだすからコレで黙らせてね、とか言いながら渡したに決まっている。図星だよこんちくしょう。

 加えていうなら、あれは友情の証みたいなものだから大目に見てあげてね実害は無いし、なんてフォローもあらかじめ入っていたに違いない。惨めだ。

 

 だがしかし、だ。

 

「まぁ冗談はさておくとして、落ち込んでるのは本当でさ。ほら、再来月に765プロの定期公演があるだろう?」

「はい、私は出演しませんけど……応募したんですか」

「まぁね。さすがに二月のは間に合わなかったけど、他チームのライブも観たくて」

 

 あの劇的な体験を経て、つまり11月のライブを観てから、俺はすっかり765プロダクションとそこに所属するアイドルたちを応援する、一人のファンになっていた。

 翌日にはファンクラブの入会を済ませ、各色のコンサートライトを購入し、放課後はもっぱら買い揃えたCDを聴いて過ごしている。

 ここまで充実した私生活は久しぶりだ。

 そんな俺は再来月、つまり3月に行われる765プロ定期公演に向けて、当然のごとくチケットの応募に乗り出したのだが。

 

「当たらなかったんですね」

「うん、そうなんだ……倍率が高いってのは分かっていたつもりなんだけど、期待が大きかった分の反動がね」

 

 そのチケットが御用意されるか、されないかの瀬戸際がつまり本日の14:00で。

 俺は物の見事に惨敗か、惜敗か、完敗か、そのいずれかを喫したのである。

 ただ、その衝撃が思っていたよりもずっと大きくて悲しくて、こうして北沢姉弟の前に無様を晒しているのだった。

 

「えぇと、その……ご愁傷様です」

「ごめん北沢さん、もう少しでいつも通りに戻るからさ……」

 

 北沢さんはどう声をかけるか悩んでいるようだった。

 まぁアイドル本人が目の前で、ライブのチケットが用意されなかったとファンに嘆かれるなんて中々ないはずだ。非常に申し訳ないと思うが、こればっかりは仕方がなかった。

 

 ……行きたかったなぁ。

 

 そうやって地面に溶け込みそうになっていると、俺の袖を引っぱる小さな手があった。

 

「しゃがんで、よしにぃ」

「あ、うん」

 

 言われるがままにしゃがみ込む。

 すると陸は俺の頭に、小さくて暖かい手を乗せて、

 

「また、僕といっしょに行こうね」

 

 そういって、さっきの冗談みたいに、俺の頭を撫でてくれる。

 この世に生を受けて早17年。俺はこれまでこれほど誰かに対して感じたことのない、途方もなく膨大で広大な、小さな親友への情愛を感じた。

 感じて、感じるがままに、そして感情的に行動した。

 

「お前は、お前は本当にいい奴だなぁ!! 高い高いしてやろう。ほら、高いたかーいっ!!」

「あはは!! すっごいたかーいっ!!」

「あの、ちょっと黒山さん。まだ受付前ですけど見られてますから、りっくんも今は我慢して」

 

 

 で、北沢さんに怒られた。

 いやホント、申し訳ない。でも嬉しかったのだ、幸せだったのだ──やり遺したくなかったのだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「北沢さん、もしかして何か悩みごと?」

 

 いつものタッチプールサイドで、俺は北沢さんに尋ねた。

 これまでならば間に何個かクッションを挟んだ上で切り込んでいたが、挟もうとして毎回出だしが被って気まずい思いをしてきたが、今日はそんな気にならなかった。

 北沢さんがとても思い悩んでいる──のを陸がかなり心配している表情に、気がついてしまっていたからだ。

 

「悩みごとって、どうしたんですか黒山さん。いつになく急ですね」

「いやさ、陸がすっごい心配そうな顔していたから。何かあったのかなって」

 

 そういうと、北沢さんはいつものジト目を俺に向けて、

 

「私の悩みごとに、私じゃなくて弟の顔色から行きつく辺り、黒山さんって感じがします」

「うん、それほどでもあるかな」

「誇らないでください、別に褒めてません。ただ……確かに悩んでいないと言えば、嘘になりますけど」

 

 たとえなんと言われようと、陸の顔色察する選手権があれば俺は北沢家としのぎを削る心構えであった。

 と、俺の心構えはさて置いて、問題は北沢さんの悩みごとである。

 俺が彼女の力になれるかは分からないが、なれるものならなりたいのが俺の気持ちだ。

 

「どうだろう、俺が聞いても構わないタイプの悩みかな」

「どうでしょう……いえ、これは黒山さんが相談相手として問題があるとかじゃないんです」

 

 ただ。北沢さんは言葉を挟み目を伏せたまま続ける。

 

「これは私の問題で、正確には私たちの問題で……聞いてくれるからといって、黒山さんにまで背負わせて良いのかなと」

 

 なるほど、相談することで俺にまでその問題に対する責任感を負わせてしまうのではないかと、そう危惧していたのか。

 真面目だ。

 超がつくすっごい真面目な人だ。

 自分の目的があっても、他人を気遣うことを忘れられない、北沢さんはそんな人だ。

 そんな人だからこそ、俺は力になりたいと、切に願うのだ。

 

「そういうの、全く気にしないどころか嬉しく思う奴がここにいると想定してさ、話してみても良いんじゃないかな」

「黒山さんは、嬉しいんですか?」

「うん。北沢さんに何かを遺せるなら、それはとても嬉しいね」

 

 俺の言葉に、北沢さんはやや考えるような素振りを見せて、やがて諦めたような顔で俺を見て、でも追い詰められたような声で返した。

 

 

「分かりました。では黒山さん、私の相談を受けてもらえますか」

「もちろん、喜んで承るよ」

 

 こうして、俺は北沢さんの相談に乗ることとなったのだ。

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 ことの始まりは今から2ヶ月前。

 つまり11月の、俺と陸が招待されたライブの終わった数日後にまで遡る。

 北沢さんに、とある仕事のオファーがあったそうだ。

 そのとある仕事というのが演劇への、それもヒロインとしての出演依頼で。

 オファーといっても北沢さんはあくまで候補の一人であり、後日オーディションを行い正式な役者を選ぶ。

 そういう仕事が、彼女のプロデューサーから伝えられた。

 

 さすがに具体的な名称を聞くわけにはいかないので固有名詞は暈し暈しであったが、それは界隈では名の知れている演出家が担当する劇で、聞けば北沢さんも何度かその演出家の書いた劇を見て、とても感銘を受けたらしい。

 あぁ、自分もいつかこの人の書いた物語を演じたい、と。

 

「──私、将来は女優になりたいと、そう思っているんです」

 

 演劇が、演技が、演じることが好きなのだと、北沢さんは語ってくれた。

 アイドル業が順調に進んで、もしその先に道があるとするのなら、自分で道を選べるのなら、それは女優の道なのだと。

 本物なのだ、彼女は本気で女優を目指している。

 そのためにも、今回のオーディションは絶対に受かるんだと、そういう風に決意を固めている。

 だけど、だから、だからこそ、北沢さんは悩んでいた。

 

 オーディションでは北沢さんの演じる人物──つまりヒロインに成りきった上で、主人公に語りかける。という一幕を要求されるそうだ。

 しかもオーディションに向けての台詞もヒロインの詳細な情報も一切知らされてなく、彼女に渡されたのは主人公の設定とシチュエーションのみ。

 これは想像力の、ひいては創造力の問題だ。

 北沢さんはその主人公とやらの心境を想像して、そこから更に主人公に語りかけるヒロインを創造し演じなければならない。

 なんというか、オーディション方法を聞いただけで偏屈さの伺える演出家だ。ああいう世界で生きていくというのは、とどのつまり見方によっては変人である事なのかも知れない。

 

「じゃあ北沢さんは、その主人公の気持ちってやつを量りかねているわけだ」

「そう、なりますね。これが一番の問題でもあります」

 

 だって主人公の心を把握しないことには、つまり掴まないことには、ヒロインはヒロイン足り得ないのだから。

 そうなると、こうなると、俺は北沢さんに一つ聞いておかなきゃならない事がある。

 この相談の本題ともいえる問いかけだ。

 本丸ともいえる謎だ。

 本心ってのを探る質問だ。

 

「その物語の主人公って、いったいどんな設定なのさ」

 

 俺の言葉に、北沢さんは言葉を選んでいるようだった。

 ここまで話してもらえた以上、オーディションに際して周囲からのアドバイスを禁じられているとか、そんなことはないはずだ。

 固有名詞を特定できないような語り方をしていたのも、そこが守るべきラインであったからだろう。

 黙って待つこと何秒かして、北沢さんは口火を切った。

 

「主人公は青年です。高校生で、男子生徒ですね。そして、ある大きな問題を抱えています」

「問題、か。それが北沢さんにとっても問題になっていると」

 

 その通りです。と、北沢さんは言った。

 そう言って、俺の目を見て、斬りこむようにこう続けた。

 

 

「──主人公は、余命を宣告されているんです」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 北沢さん曰く、主人公である青年は物語がスタートした、ようはヒロインと出会った時点で、余命が残り一年と少しであると医師に宣告されている。

 北沢さん曰く、指定されているシチュエーションでは、ヒロインは主人公の余命を知った直後で、そこから話しかける。というものだった。

 

 悲劇だなと、俺は他人事のように感想を心で呟いた。

 ヒロインが主人公をどう思おうと、彼は死ぬ。

 愛しても、憎んでも、好きになっても、嫌っても、絶対に死ぬ。

 それは覆しようのない確定的な決定事項だ。

 そんな主人公の心情を想像して語りかけるだなんて、とんだ無茶振りだ。無茶な振りにもほどがある。

 なるほど、これは確かに北沢さんであろうと悩むはずだ。

 

「ちなみに北沢さん、オーディションまではあと何日あるのかな」

「……六日、です」

「えっ」

「六日後、私はヒロインを演じなきゃならないんです」

 

 残り六日、か。

 六日では神も世界を創れはすれど、最後に休む暇がない。

 こう言ってはなんだが、ズブの素人であるところの俺が言うのもなんだが、こんな呑気に水族館を訪れている場合なのだろうかと、失礼を承知で尋ねると。

 

「わ、わかってますよっ。わかっています……わかって、いるんです」

 

 ただ、と北沢さんは消え入りそうな声で、

 

「今日は一日休んで、気持ちと気分を入れ替えて、それからまた考えよう。そうプロデューサーさんに言われてしまって」

 

 北沢さんの、キレイな眉間にシワが寄る。

 誰かを責めるような顔だ。

 この現状で北沢さんが誰を一番責めるとしたら、それは間違いなく彼女自身だ。

 自分自身に、腹を立てている。

 

「これでも昔より、劇場にきた頃よりは私も色々と学んだんですよ? 一人でやれることには限界があって、助け合う大切さとか、お互いを高め合う重要性とか」

 

 まるで決壊寸前のダムのように、北沢さんから言葉が溢れ出す。

 きっとそれは、今日ここで俺と話すまでに貯めてきた北沢さんの心だ。

 

「だから仲間に、プロデューサーさんにも協力してもらったんです。どうしてもオーディションに受かりたいって、助けて欲しいって」

 

 彼女の仲間たちは、それに応えたに違いない。

 俺が北沢さんに対して思ったのと同じように、いやそれ以上の想いで。

 どうにかして彼女の力になろうと。

 

「けど、ダメなんです。どれだけアドバイスをもらっても、どうしても納得のいく演技ができなくて、仲間は十分凄いって言ってくれましたけど……私が、私自身がこうじゃないって叫んでいるんです」

 

 相談される前、彼女が気にしていたことを思い出す。

 俺に相談することで、重荷を背負わせてしまうんじゃないかって、北沢さんは心配してくれていた。

 仲間たちに背負わせてしまったのと、同じように。

 

「わかっているんです。勝手に追い詰められているって、だからプロデューサーさんは一日休むように言ったんだって

わかっているんです。私が今こうしている間にも、プロデューサーさんは私のために手を尽くしてくれているって」

 

 わかっているんです。北沢さんは言い聞かせるように繰り返した。

 

「私はオーディションに受かりたい、舞台に立ちたい。それは自分のためで、自分のためでしたけど……いえ、たぶん今でもそうですけど。でも今は、私を信じてくれている人の期待に応えたいって、そうも思うんです」

 

 

 なんだか、言葉で言い表すのが難しいというか、野暮というか。

 北沢さんの告白に、俺は圧倒されて、圧倒されて感動していた。

 初めて出会った時から、クールな人だなと思っていた。

 冷静で、沈着で、熱血ってタイプではないなと。

 しかし蓋を開けてみればどうだろう、彼女心にはこんなにも熱いものが眠っていたというのに。

 俺は今の今まで、それに全く気がつけなかった。とんだ節穴だ。

 

 だけど俺は、だから俺は、だからこそ俺は、あくまで気軽に問いかけた。

 

 

「あのさ。北沢さんは、運命って信じてる?」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「運命、ですか?」

「うん、運命。運勢の運に、命と書いて運命」

 

 運命、うんめい、ウンメイ。

 命を運んでくると書いて運命。

 命で運ぶと書いて運命。

 命に運ばれると書いて運命だ。

 

「唐突ですけど、このタイミングで聞くってことは、私の相談に関係しているってことなんですよね」

「うん。直接的ではないけれど、間接的にはかなり」

 

 そう返されて、北沢さんは暫く考えて、そして答えてくれた。

 

「私はないと思います、運命って。仮に凄い偶然で、都合の良いことが起こっても、それは全て行動の結果です」

「……そっか、そうだよな。全ては行動の結果、か。確かに、その通りだ」

 

 なら、俺がこれから君の助けになるのも、なれるのも、全部行動の結果だ。

 どこぞの誰かが決めた、運命とやらのおかげじゃあない。

 

「北沢さん、その主人公の心境について──俺が思えることを全部話すよ」

 

 

 俺は語る。

 北沢さんに、余命を宣告された青年が、男子高校生が何を思うのか、何を思ってあまりに早い余生を生きるのか。

 まず最初に、青年は少なからず自暴自棄になる。

 徹底的に塞ぎ込むか、何かに八つ当たりをするか、まるで気にしていないような面をするか、それは知らないが平静じゃあいられなくなる。

 当然だ。

 あなたの寿命は残り一年ちょっとです、なんて言われて平気な人間がいるもんか。

 それが落ち着くと、青年は人と関わることが嫌になってくる。

 それも当然だ。

 もう一年と少ししか生きられないのに、人と仲が良くなったり悪くなったりして、それがいったい何になるんだ。

 相手に別れを押し付けるような真似が、どうして出来るんだ。

 けど、それでも青年は、自分で気がつけるか、はたまた人に……例えば母親にぶっ飛ばされて気がつくかは分からないけど、それでも元いた人間社会ってやつに戻る。

 自分は死ぬ、それは変わらない、変えられない。でも今のまま、辛く絶望したまま、それだけを遺して死にたくなんてないと。

 そういう、当たり前のことに気がついて。

 たとえ先が暗くても、先を照らすことはできて、人生は虹色に輝いている。

 だから、青年は、主人公はその少女に──。

 

「なにか一つでも遺したいって、最終的にはそう思うんじゃないかな」

 

 一息ついて、俺は話し終えた。

 北沢さんは、いつぞやの時のように意外そうな顔で俺を見ていた。

 

「……驚きました、凄いです黒山さん」

「まぁ、俺も現役男子高校生だからね、想像してみたんだ」

「でも、こんな……まるで、私たちの想像し切れなかった部分を埋め合わせるような……」

 

 あとは母さんの教育による賜物かな、とか俺はそれっぽいことを言った。

 それっぽく受け入れられそうなことを言って、北沢さんに受け入れてもらった。

 

 

 そういう、嘘をついたのだ。

 これで、北沢さんにも何か一つでも遺せたのだろうかと、そんなことを思いながら。

 

 



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うどんと夢

 

「突然だけど、うどんを食べに行きたいと思います」

 

 

 本当に突然、それこそ事前通知も前置きもなく告げたので、北沢さんはいったい何の話だろうという顔をしていた。

 

「うどんっ。食べるよ、あぶらーげ乗ってるやつ」

 

 対して、俺の小さな友達は頭ではなく胃腸で考え即答してくれた、流石である。

 

「それで、どうしていきなりうどん何ですか?」

「あれ、北沢さんうどん苦手だった?」

「別に苦手というわけじゃ……いえ、私の好みの問題ではなくて──黒山さん、わかってて言ってますよね」

 

 恒例のジト目に、俺は両手を上げて降参の意を示す。

 最近は多少の悪ノリなら笑ってないけど許してくれるので、俺としては嬉しい限りであった。

 

「いやね? この度めでたく北沢さんがヒロインの座を射止めて、夢に向かって大きな一歩を踏み出したワケだけど、俺はそれをとても嬉しく思っているワケだけど」

 

 俺はそんな風に、まるで時の経過を説明するように、話を続ける。

 

「ここは一つ、三人でお祝いしたいなぁと。きっと北沢家でも祝福があったと思うけど、俺にも祝わせてほしくて」

「別にそんな、わざわざ祝ってもらわなくても……黒山さんはむしろ、私からお礼をする立場ですし」

「なら俺へのお礼ってことでさ、うどんを奢らせてくれ」

「そのうどんに対する執着はどこから湧いてくるんですか」

 

 まぁいいからいいから、と。俺は北沢姉弟と並んで歩く。

 2月が終わり、3月も中頃にさしかかった今日の空は、気持ちがよいくらいに晴れていた。風はまだまだ冷んやりしていても、暖かな陽射しが俺たちを照らしてくれている。

 時刻はそろそろ15時を回ろうとしていて、軽いうどんをおやつ代わりに北沢さんを祝おうというのが、俺のプランである。

 

「陸はあぶらあげのうどんが好きなのか」

「うん、あぶらーげ大好き。よしにぃ、お代わりしてもいい?」

「こら、りっくん。お夕飯入らなくなっちゃうでしょ」

「だそうだ、ここはおねーさんに従おう」

「は〜い」

 

 なんてことのない会話だ。

 日常的で、一般的で、普通で、普遍な会話だ。

 そういう会話が、俺にはとても尊いものに思えた。

 

「そういや北沢さん。あの演劇、いつ始まるんだっけ?」

「ちょうど六月の頭からですね。黒山さんは……その、見に来てくれますか?」

 

 そう聞かれて、俺は頭の中の予定表を開き、バッテンの付いている日にちを確認する。

 

「うん。たぶん大丈夫、間に合うと思う」

「……間に合う、とは?」

「その辺も含めて、あとで話すよ。うどん屋に着いたら」

「うどんは譲らないんですね、別にもういいですけど」

「だって水族館の側に新しいうどん屋があるって気がついちゃったら、それはもう行くしかないでしょ?」

 

 先々月のことだ。

 北沢さんは渾身の演技で、某劇場にて行われる舞台の、それもヒロインの座を勝ち取った。

 北沢さんが照れ臭そうに言うには、ひねくれ屋の演出家をして『技術はまだまだ荒削りだが、この舞台のヒロインを演じるに相応しい心を、すでに持っている』だそうだ。

 わざわざ合格報告のために電話をかけてくれた北沢さんは、俺のアドバイスがとても参考になったと、765プロの仲間と家族とそして俺に感謝していると、真っ直ぐ熱く語ってくれた。

 稽古は厳しいと北沢さんは話すが、その顔には厳しさに負けた表情など一ミリも浮かんではいない。

 彼女はきっと、彼女ならきっと、素晴らしい演技を完成させることだろう。

 

「必ず行かなきゃならないって話でもないはずですけど……うどん屋、ですか」

「なにか気になることでも?」

「いえ、友人に無類のうどん好きがいるので万が一にも鉢合わせたら、とか考えてしまって」

 

 確かに、仮にその北沢さんのお友達と出会ってしまうと、一悶着あるかもしれない、色々と聞かれるかもしれない、誤解をされるかもしれない。

 だが、しかし。

 

「都内にいったい何軒のうどん屋があると思うのさ北沢さん。そんなご都合主義的な展開、ありえないよ」

「そうですね。そんな偶然、ありえませんよね」

 

 

 だって、全ては行動の結果なのだから。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「ねぇねぇお兄さん。お兄さんって、志保ちゃんの彼氏なんですかー?」

 

 のっけからなんてことを言いやがるこの美少女は!! と、俺は思った。

 大きなアホ毛と外ハネの寝癖に、蕩けるような甘い声。

 俺は知っている。

 この少女の名が、伊吹翼であると知っている。

 

 

「えっ、ええぇぇえ〜〜っ??!! そ、そうなの志保?!」

 

 君はもう少し人の発言を疑うべきだぞ。と、俺は思った。

 元気を絵に描いたような、活発そうな容姿に声量。

 俺は知っている。

 この少女の名が、春日未来であると知っている。

 

 

「み、未来。声が大きいわ。こ、ここは落ち着いて」

 

 そうだね、まずは君から落ち着こうね。と、俺は思った。

 清流のように伸びた艶やかな黒髪に、澄んだ声。

 俺は知っている

 この少女の名が最上静香であると知っている。

 

 

 そして俺は、三人三色の第一声を聞いた俺は、一先ずとりあえず場を収めるべく口を開いた。

 

「はじめまして。俺は二人のそこそこ離れた親戚で、黒山由人といいます」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 出題。

 思い立ったが吉日の精神で入店したうどん屋で、連れの知り合いに出くわす確率を求めよ。

 

 回答。

 限りなくゼロパーセントに近い。ただし最上静香の存在を考慮しない場合に限る。

 

 

 全てが行動の結果であるとするのなら、これもまた行動の結果だ。

 俺は新しいうどん屋に陸と北沢さんを連れてこようと行動し、その頃最上静香もまた都内の新しいうどん屋に春日未来と伊吹翼を連れてこようと行動した。

 ここにそれっぽい理屈を追加するのなら、俺と最上さんのうどんアンテナが似たような周波数に合わせていた。という事だろうか。

 

 幸い、お昼時からは外れていたので、俺たちはそれほど待たずに席へつけた。

 強いて言うなら、そこは六人用のテーブルで。

 敢えて言うなら、俺たち三人の向かい側には三人の美少女が座っていた。座って、うどんを啜っていた。

 彼女たち三人が六人テーブルで座っていたところに、俺たちが相席した形になる。

 無論、というか当たり前のことだが、俺が彼女たちを知っていたのは、彼女らが765プロに所属するアイドルだからだ。

 

「なんだぁ、親戚のお兄さんだったのか〜。勘違いしちゃうところだったよ、でへへ〜♪」

「田舎暮らしが長かったからね、二人に案内してもらっていたんですよ、春日さん」

 

 俺は化けの皮をかぶることにした。

 黒山由人は北沢家の遠い親戚で、田舎から出てきて中々都会に慣れずにいて、時間のあいた週末には二人に案内してもらっている。という化けの皮を。

 正直なところ、嘘偽りなく包み隠さず話すには、この関係は複雑すぎる。

 しかし嘘だけはいけない。嘘だけはいただけない。騙る際に大切なことは、一部の真実を織り交ぜることだ。

 

「去年の11月は765プロのライブにも招待してもらって、すっかり皆さんのファンになってしまったんです」

「へぇ〜お兄さん、あのライブに来てたんですねっ。でもでも、わたしと未来は出てなかったしー、今度はいる時に見てくださいよ〜?」

「あ、あぁ。頑張ってチケットを当ててみせるよ」

 

 同じ人間の喉から出てきたとは、信じられないくらいに甘い声だ。聞いているだけでクラっときてしまう。

 俺は心を強く持った。

 仮にクラっとして鼻の下を伸ばそうものなら、北沢さんにどんな目で見られるか。

 そう思って北沢さんに視線を向けると、彼女の視線は陸に向けられていた。

 しかし陸の視線の先に姉はおらず、彼の視線を受け止めていたのは、

 

「しずかお姉ちゃん、ホントにうどん好きなんだねっ。僕も好きだよ、あぶらーげうどん」

「ありがとう陸くん、うどんを好きでいてくれて。それはきつねうどんっていってね──」

「僕、しずかお姉ちゃんも好きだよ。お歌がすっごい凄かったの。えーっとね、ふぁんになったんだ」

「……とても嬉しいわ、陸くんのためにもお姉ちゃん頑張らなきゃ」

 

 そう言いながら、最上さんは陸に笑いかけた。

 あのライブで俺が、黒山由人が白石紬のファンになったように。

 北沢陸も、最上静香という1人のアイドルを応援するファンになっていたのだ。

 姉である北沢さんは別格で別枠で別段として、比べられないとして、陸は最上さんの歌に惚れ込んでいた。魅了されていたと言ってもいい。

 で、北沢さんはそんな2人を、どういう目で見ればいいのか悩んでいる顔で見ていた。

 ざっくり言うと複雑な表情をしていた。

 彼女らのデュエットを聞いたことがある俺は、2人の関係性について、お互いにライバルとして捉えているんだろうなと見ていて。

 友人でもあるライバルに弟がゾッコンで、きっと心中穏やかではないに違いない。

 まぁその辺は北沢さんと最上さんの問題だ、存分に青春してほしいと願うばかりである。

 俺としては、憧れの最上さんに会えて嬉しそうな陸を見られて、あぁ良かったなと思うのだった。

 

 と、俺がそんな思いに浸っていたら。

 

 

「黒山さん、どこかに行っちゃうんですか?」

 

 俺は一瞬、その言葉に一瞬、おおよそ思考と呼べるものが停止した。

 一言にまとめるなら、呆然としてしまった。

 ゆっくりと、声の方へと振り向けば、

 

「……春日さん?」

「あっ、ご、ごめんなさいっ。私ってば変なこと聞いちゃいましたよね」

「ホントだよ未来〜、まだ志保ちゃん達のうどん来てないのに、どっか行くわけないですよねー?」

 

 伊吹さんからツッコミが入って、春日さんはでへへと笑った。

 

「なんだか黒山さん、志保ちゃん達のこと遠い目で見てて、そのままフワ〜って浮かんで行っちゃいそうだったから……なんて、おかしいですねっ」

「いや、別に気にしてないよ。大丈夫です」

 

 顔では平静を装いながら、俺は内心ドッキドキであった。

 これはもちろん現役アイドルと話せたから心臓が昂ぶっている、わけではない。

 もちろん思わぬ出会いではあったが、それ以上に春日さんの言葉で、俺は驚いていた。

 多分この人は、春日未来というアイドルは、物事の核ってやつを見る目がある。

 観察力とか、洞察力とか、推理力とか、そんなの全く関係なくて。

 直感で、そこにある真意を理解する。

 だから、俺の目をみるだけで、あれだけで読み取れた。

 

 

 すっごいアイドルがいたもんだ、いやホントに。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 その後、何事もなく普通にうどんを食べ終えて、あの三人は店を出て行った。

 出会い頭に一悶着あって、色々聞かれて、誤解もされかけたが、それだけだ。

 アイドルを生業としていても、今日のあの子達は友達同士でうどんを食べに来ただけで、そしたら俺たちがいた。それだけだ。

 それだけ、なのだ。

 日常ってのは、そういうもんだ。

 

「……はぁ。友人が、お騒がせしました」

「いやいや、俺も楽しかったよ。北沢さんの友達と話せて」

「しずかお姉ちゃん、また来てねだって」

 

 困ったような、困ってないような、困っていないことに困惑しているような、そんな顔で北沢さんはうどんを啜る。

 それはつまり、以前告白してくれたように、北沢さんが成長した証なのだろう。

 友人を友人と、自分の中で認めるのも、また一つの強さだ。

 こういうのって、案外やってみると気恥ずかしい事だったりするのだから。

 

「私の友人の話はさておいて、黒山さんは私に話があるんじゃないんですか?」

「うん。そう、そうなんだ。俺は北沢さんと陸に話があるんだよ、大事な話」

 

 でもその前に、と俺はあらかじめ用意していた小包を取り出す。

 

「北沢さん、ヒロイン決定おめでとう。これは俺と母さんから、受け取ってくれるかな」

「あーっ、猫さんだ。黒い猫さん」

 

 中に入っているのは、栞だ。

 俺と母さんで、北沢さんにプレゼントしようと選んだ、黒猫の栞。

 彼女は母さんの本をあの後も愛読してくれているらしく、その時に使ってもらえればとチョイスしたのだが。

 贈り物を受け取ってくれた北沢さんは、それを胸に抱いて、

 

「ありがとう、ございます。大切にします、とても……嬉しいです」

「母さん曰く『その栞がクタクタになるくらい私の本を読んでね』だそうだけど、無視していいよ」

「ふふっ、黒山先生らしいですね。黒山さんも無視するように言うなら、最初から伝えなければいいと思いますけど」

「そこはホラ、あとでバレた時が怖いし」

 

 言い訳じみた俺の反論に、北沢さんは愉快そうに口を歪め。

 

「黒山さんって、なんだかんだ言いつつ、結構お母さんっ子ですよね」

「そう……かなぁ?」

「そうですよ」

 

 断じるように言われてしまった。

 断言されてしまった。

 俺に言わせてもらえば母さんの方こそ子煩悩というか、子供に色々と借りっ放しな子滞納であると思う。

 

「でも、こうして沢山の人に夢を応援してもらえるのは、本当に嬉しいです」

 

 女優という夢を家族に仲間に、そして黒山家に応援されていることが嬉しいのだと、北沢さんは語る。

 同感だ。

 まったくもって同意見だ。

 夢を掴むのは自分の手だけど、夢に近付くための手段は無数にあって、手は数があったほうがいい。

 

「応援してるよ、北沢さん」

「ありがとうございます、黒山さん」

 

 夢を追う少女。

 そんな彼女の力になれたのなら、それはとても素晴らしいことで、得がたい経験だ。

 

「ねぇ、よしにぃ」

「うん? どうしたー陸」

 

 俺は北沢さんの夢を応援し続ける、それが結論だ。

 で、それで、じゃあ次は、

 

 

「よしにぃの夢って、なんなの?」

 

 俺の、黒山由人の夢を語ろう。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 昔、年数でいうと10年くらい前、俺は父さんの話を聞くのが好きだった。

 世界を股にかける船乗りの、股下で起こった出来事を語ってもらうのが楽しみだった。

 

 中でも特にお気に入りだったのが、クジラの話。

 クジラは世界中の海にいて、世界中を渡る父さんは、世界中でクジラに出会った。

 とんでもない巨体で悠々と、自由に、奔放に、大海原を泳ぐ彼らの話に、俺は心を奪われていった。

 

 だから、将来はクジラになりたいと夢を見ていた。

 

 

「けどまぁ、当たり前なんだけど人はクジラにはなれないからね」

 

 なので俺は、出来るだけクジラの側に居られる仕事ってやつを探した。

 そうして見つけたのが、ホエールウォッチングのガイドだ。

 観光客を船に乗せ、クジラの泳ぐ海域にまで行って、彼らの、クジラの話をする。

 そう、かつて父さんが俺に話してくれたように、今度は俺が語る側になろう。

 

「今日二人にしたかった話ってのが、この夢に関係していてさ」

 

 

 そして俺は、またもや嘘をつく。

 

「実はもう、ガイドの仕事の見習いをさせてもらえる事になってるんだ」

 

 嘘をつくときは、真実を騙るときは、嘘だけでなく本当も織り交ぜて。

 

「『母さんの伝手』でね、とても良い話で、俺は是が非でも受けたいって思ってるんだ」

 

 ウソもホントウはね、つきたいわけじゃない。

 

「でもその、職場ってのが海外でさ……元々は父さんの知り合い、って聞いてる」

 

 でも、仕方ないじゃないか。

 

「向こうの事情で、いつ行くかは微妙にズレるんだけど、多分6月には間に合うはず」

 

 俺に6月以降があるか、その先の人生があるかなんて、五分五分どころの話じゃない一分九分だ。いや、もっと低いかも知れない。

 

「けど向こうに着いて働き始めたら、そしたら俺はもう、そのまま帰ってこないと思うんだ」

 

 だから、その時は。

 俺が帰ってこられなかった、その時は。

 

 

「その時は、お別れだ。お別れを、しなくちゃいけない」

 

 



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現実と俺

 

 正直なところ、この場において、つまり俺の独白において、このことを仄めかしたり、匂わせたり、暈したり、隠したりすることに、俺は意味を見出せない。

 ので、ぶっちゃけていこうと思う。

 

 

 俺──黒山由人は難病を患っている。

 

 

 病名は、なんだったかな。

 確か、長ったらしい上に専門用語と小難しい横文字が乱舞する、とても覚えづらい、記憶に残りにくい名前であったことは覚えている。

 まぁ名前が分からなくても、その結果自分の身体になにが起こるのかを把握していれば、俺的に病名ってのはさして重要なことでもない。

 だから分かりやすく、ズバリ病状を言ってしまうと。

 今、俺の身体にはタイムリミットがある。

 タイムリミット、つまり時間切れが過ぎると、この身体は衰弱を始める。

 そして死ぬ。

 実にあっけなく、死んでしまう。

 

 発覚したのは丁度一年前、つまり昨年四月の話になる。

 当時、俺の暮らしていた町にはその病気に対応できる施設がなく、俺と母さんは精密な検査のために都会へと越してきた。

 それが、昨年五月のこと。

 俺はそこで、自分に残された時間が一年と二〜三ヶ月だと突きつけられた。

 そして手術をして、生き延びようとしたところで、成功率は一割をきると。

 望みは薄い、幸薄い俺の人生は薄っぺらいままで終わってしまう。

 打率一割を下回るやつがバッターボックスに立ったって、誰も期待しやしない。

 俺もしない。したくても出来ない。

 仮に出来たとしても、命までは預けられない。

 

 当時の俺は、越してきたばかりの俺は、自身の余命を知った俺は、生き残る確率の低さを知った俺は、荒れていた。

 態度がじゃなくて、心が、荒れていた。

 身体を使って荒れはしなかったけど、荒れた心は荒廃し荒れ野と化した。

 五月から七月のあの日まで、俺の生活は機械のようだった。

 機械的に睡眠から目覚めて、朝食を用意して食べて、学校に行って、家に帰って家事をして、そして寝る。

 そんなことをしてたら友達はできないし、ましてや恋人なんて夢のまた夢だ。

 でも俺はもう、それでいいと思っていた。

 人と関わることが、すっかり怖くなってしまった。

 どうせ一年しか生きられないのに、友達作って、恋人作って、どうするってんだ。

 そうやって心に家を建てて、俺は断固として引きこもった。

 で、母さんに我が家をぶっ壊された。

 

 

『あのね由人、人間いつかは死ぬんだよ、私も死ぬし由人も死ぬ、みんな死ぬんだ』

 

 母さんはズカズカと土足で、人の心に踏み込んできて。

 

『なのに、どうせ死ぬなら人と関わらないなんて、馬鹿げてるよ』

 

 部屋の鍵を粉砕し。

 

『私は長生きするじゃないかって? 時間があるから良いじゃないかって?』

 

 俺の襟首を掴みあげて。

 

『私はね、8年後に死ぬとわかっていても、お父さんと結婚するよ。これは時間の問題じゃない、自覚の問題なの』

 

 思い切りぶん投げた。

 

『わかったら、人と出会いに出かけなさい』

 

 

 俺は、もう一回だけ頑張ろうと思った。思うことができた。

 まぁそれでも学校で友達や恋人ができることはなかったんだけど。

 そこで俺は、健全な高校2年生16歳男子を自称したい俺は、色々と考えたすえに週末を水族館で過ごすことにした。

 

 

 全ては、あそこから始まったんだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 4月もそろそろ終わる夜、俺は北沢さんからの着信に出ていた。

 すると挨拶もそこそこに、

 

 

「黒山さん、一つお願いしても構いませんか?」

「うん、わかった。万事俺に任せてくれ」

「せめて内容を確認してから言いましょうよ……」

 

 うむ、声だけでわかる。

 俺は今、北沢さんに呆れられている。

 きっと彼女は、いつものジトッとした目で俺と会話しているに違いない。

 それだけで、俺は今日まで生き残れてよかったと心から思うのだ。

 変態的と言いたきゃ言え、あえて言おう、俺は本望である。

 

「それで、お願いって何なのかな」

「実は、次の週末なんですけど……その、」

 

 どうかしたのか、やけに歯切れが悪い。

 そんなに頼みにくい、言いにくい頼みごとなんだろか。

 明快で、聡明で、明白な、物事にスパッと切り込む北沢さんにしては珍しい。

 なんて、俺が考えを巡らせていると、

 

「すみません私、次の週末は行けそうになくて、弟のことをお願いしたいんです」

「なんだ、そんなこと。わざわざ電話してくれなくてもいいのに」

 

 週末の水族館に北沢さんがいないことは、それほど珍しい話でもない。

 彼女にはアイドルとしての仕事があるので、そう毎回俺たちと一緒に来られるわけではないのだ。

 頻度としては月に1〜2回といったところだろうか、北沢さんが不在の際には、俺が責任を持って陸を預かっている。

 なので、頼まれなくてもいつも通りというか、俺と陸の二人で週末を過ごすってのは別に謝られるようなことじゃない。

 

「陸のことは任せといてよ。北沢さんも、お仕事頑張って」

「……いんです」

「北沢さん?」

「仕事じゃ、ないんです」

 

 言いたくないことを、無理矢理に絞り出したような声だった。

 出来ることなら口にしたくないと、北沢さんの顔には書かれていることだろう。

 仕事ではない、と彼女は言った。

 となると、仕事じゃないとすると……なんだろう。

 考えてみれば、北沢さんの休日について、俺は仕事と水族館しか思いつけないのだ。

 

「黒山さん、先々週のライブを覚えてますか?」

「あぁ、控えめに言って最高だった」

「あ、ありがとうございます──じゃなくて、その時のユニットメンバーで打ち上げをという話になったんです」

 

 北沢さんが言うには、前回のライブで一緒に歌ったユニットメンバー四人の打ち上げを行うことになったのだが。

 どうもスケジュールの都合上、四人で揃って過ごせるのが次の週末しか候補がないらしく。

 そういった事情があるので、当日は陸を俺に預けたい、とのこと。

 なるほど、なるほどなぁ。

 彼女が言いづらそうに、言葉にしづらそうにしていた理由が分かった。

 お固いというか、超真面目な北沢さんらしい。

 ここは3つ歳上の人生の先輩として、自然に頼まれておこうじゃないか。

 

「よーし、わかった。そういうことなら俺に任せて、北沢さんは打ち上げを楽しんできて欲しい、なんの気兼ねなく遊んできて欲しい、陸は俺がしっかり──」

「黒山さん」

「うん?」

「変に大人ぶってませんか?」

「……あれ、どうしてバレたかな」

「はぁ。声がニヤニヤしているんですよ、黒山さんの場合」

 

 いやはや、慧眼だ。いや、この場合だと慧耳になるのか。

 俺の演技ごときは、御見通しならぬ御聴通しというわけだ。

 

「でも真面目な話、そんな気にしなくてもいいんだよ北沢さん」

「……私情で、弟に同行しないのは、姉として悪いことだと思います」

 

 北沢さんは、ハッキリという。

 自分の都合で陸を俺に任せることは悪いのだと。

 むしろそこまで考えているのに、よく頼んでくれたなと感じるほどだ。

 この辺りはどうだろう、彼女のお母さんから何かしら説得を受けたのだろうか。

 

「北沢さんは偉いよ。その歳で立派に働いているし、家のことだって頑張ってる。本当に偉いと思う」

 

 ただ、と俺は彼女に解ってもらえるよう願いながら続ける。

 

「そうやって、自分一人でなんでもかんでも背負い込もうとするのは偉くない、偉い人のすることじゃない。偉いんだからさ、俺にも任せて欲しいんだよ」

「私は、別に偉くなんて……」

「俺は偉いと思ってるし、北沢さんに自分はちょっと偉いやつなんだって、思って欲しいとも思ってる」

 

 北沢さんは悩むように黙ってしまう。

 よし、ここはもう一押しして押し切って、押し通してしまおう。

 

「だいたい、陸も小学生になったんだし、このままだと四六時中おねーさんとべったりとか、そんな風にからかわれちゃうよ」

「うっ……そ、それは」

 

 いける、いけるぞ。

 どこか心の片隅で似たようなことを考えていたらしく、北沢さんは言葉に勢いがない。

 次の一手で陥落だ。

 

 

「弟に、少しは姉離れさせてあげるのも、姉の務めなんじゃない? 自分の弟離れも兼ねてさ」

「いえ、前者はともかく弟離れ云々を黒山さんに言われたくありません」

「えっ、ちょ北沢さん、一体なにを根拠に」

「よく考えたら、人の弟に頭を撫でさせようとした方と、弟を二人きりにするのも危険な気がして──」

「すみませんお姉さん!! 俺に弟さんを預からせてください!!」

 

 あ、あれ。おかしいぞ、こんなはずでは。

 ここはこう、17歳になった俺が威厳を見せるというか、威風堂々たる態度で北沢さんのしこりを取り除くシーンなのでは。

 これでは俺が尊厳をすり減らして、損減を受けただけって感じだ。

 俺が電話越しに項垂れていると、北沢さんは呆れたような優しいような声で、

 

「もう、仕方ないですね……仕方がないので、弟はお任せしますよ」

「りょ、了解。万事俺に任せて」

「弟に変なことは?」

「絶対にしませんっ」

「わかってくれたら、いいんです。信頼してますから」

 

 からかわれてる。

 今のは絶対からかわれた。

 まさか北沢さんの手のひらで転がされる日が来るなんて、どちらかと言うと転がされるタイプの人なのに。

 もしかして俺が転がしやすいのか? 

 これってそういうことなのか?

 俺が自分自身のポジショニングに迷っていると、

 

「黒山さんと話せて、気持ちを整理できたように思います。ありがとうございました」

「あ、うん。なら良かったんだけど」

「それで黒山さん、6月は……来られそうですか?」

 

 聞かれて、期待されてると感じて、俺はこう答えるしかなかった。

 

「今のところは特に連絡もないし、行けるはずだよ」

「なら、安心しました。最後に、これだけは見て欲しかったから」

 

 その返事に、俺はどうしても考えてしまう。

 彼女の、北沢さんの舞台を、俺は果たして見届けることができるのか。

 俺の身体が、6月まで耐えてくれるのか、それは俺にも医者にも分からない。

 誰にだって、分からないのだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「陸、お前は歳上をからかわない、そんな男になってくれよ」

「よしにぃ、顔すっごいよ? またナデナデする?」

「うぇ?! あーいや、大丈夫。ぜんぜん大丈夫、大丈夫だからナデナデは大丈夫だよ」

 

 

 おおむね、俺の言語中枢が大丈夫ではなかった。

 四月末を越えて、本日はゴールデンウィーク真っ只中。

 俺は先日の約束通り陸を連れて、水族館を満喫している真っ最中という運びである。

 思えば、この水族館とも長い付き合いになった。

 すでに年間パスポート分の元は取れているし、なんならあと数枚は買えるだけの回数は来ている。

 

「ぼく、プール行ってくるね。待っててね、よしにぃ」

「あいよ、怪我に気をつけてな」

 

 今日も今日とてタッチプールは混んでいる。

 だから中学生以上の俺は、こうしてプールサイドから陸の姿を見て、見守っているのだ。

 北沢さんがいれば、何かと話すこともあるのに一人だと暇だな。

 不思議なもんだ。

 初めて二人きりになった時は、気まずさと気恥ずかしさしか感じていなかったはずなのに、今はこうして若干の寂しさを覚えるまでになったのだから。

 ここで、色々な話をした。

 母さんの小説の話とか。

 俺の父さんの話とか。

 陸のこととか。

 まぁ、家族の話が中心だった。

 俺がアイドルに興味を持ってからは、そういった話も聞けたし、舞台について相談を受けたあとは演劇の話もしたなぁ。

 俺はこのプールサイドで、北沢さんのことを徐々に知っていった。

 クールで、孤高だと思っていた、情に厚く夢に熱い、不器用で優しい彼女のことを。

 知ることができて、知り合うことができて、俺は良かったと思っている。

 素晴らしい出会いだったと、確信している。

 

「よしにぃ、ただいまっ」

「お帰り、んじゃ行くか」

 

 戻ってきた陸と手を繋いで、俺たちは水族館を歩いて行く。

 しばらく進めば目的地が、目的の水槽が見えてくる。

 数種類のサンゴを舞台に、色とりどりの魚たちが舞い泳ぐ。

 サンゴの海と名付けられたその水槽は、俺と陸がきちんと正確に、正式に出会った場所だ。

 あの出会いがなければ都会に越してからの一年は、余命を宣告されてからの一年は、まるで別物になっていたはずで。

 だからといって、俺は陸との、俺の小さな友人との出会いを、運命の出会いなんてロマンティックな言葉で括るつもりはない。

 あれは偶然でも、都合のいい展開でもない。

 陸が俺に声をかけたのも、俺が陸を肩車したのも、全ては行動の結果だ。

 

「ねぇよしにぃ、肩車してほしいな」

「あぁ、にーちゃんに任せとけ」

 

 仮にもう一度、いや何度あの場面に出会おうと、陸に肩車をせがまれたのなら、俺はその度に彼を肩に乗せるだろう。

 請われるがままに、魚について話すだろう。

 それが、俺と陸の友情だから。

 黒山由人と、北沢陸の友情の証だから。

 故郷を離れた俺にとって、水族館は過去に想いを馳せる場所だった。

 そして今は、かけがえのない友人との、未来を願う場所だ。

 どうかまた、この子と一緒に来られますようにと、祈る場所だ。

 

「なぁ陸、そういえば聞き忘れてたけど」

「うん、なぁに?」

「陸はさ、将来の夢ってあるのか?」

 

 俺が問いかけると、陸はほんの少し首を傾げて、

 

「ぼくはね、サッカー選手になるんだ」

「お、なるほどなぁ。サッカー好きなんだもんな」

「すっごい好きだよ、よしにぃも今度やろーね」

「いいな、サッカーも楽しそうだ」

 

 陸の夢が叶うといいな。

 そう、想わずにはいられなかった。

 肩から降りた陸に、小さくて暖かい手を取りながら、

 

「陸、お前に会えて本当によかったよ。ありがとう」

「えと、よしにぃ?」

「俺に出会ってくれて、ありがとうな」

「よしにぃ、泣いてるの? おなか痛いの?」

 

 心配そうな陸の声に、俺はまた、しょうもない、どうしようない、仕方のない嘘をつく。

 

「いや、泣くほど、お前とサッカーするのが楽しみなんだ」

「そうなんだ。じゃあお姉ちゃんの劇終わったら、三人でやろーね」

「そうだな、おねーさんの劇も泣きたくなるくらい楽しみだよ」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 冒頭で述べた通り、俺は自らの独白において、隠しだてすることは無意味だと思っている。

 だから、包み隠さず、開けっぴろげに、事実だけを述べよう。

 

 

 俺は結局、北沢さんの舞台に、間に合わなかったのだ。

 

 

 



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北沢志保と嘘つき

 

 

 

 六月某日。

 

 北沢志保は東京都○□区、その一角に建つマンションの、そのまた一角を訪ねていた。

 表札にある『黒山』の二文字をしっかりと確認して、息を整え、姿勢を整え、チャイムを鳴らす。

 待つこと十数秒、彼女は全てを分かっているような顔で現れた。

 

 

「やぁ志保ちゃん、北沢志保ちゃん。よく来たね──いや、よく来てくれたね、かな」

「こんにちは、黒山先生。突然の訪問を受けてくださって、ありがとうございます」

「なぁに、北沢家なら誰でもいつでもどこでも何でも何故であっても、どうやってでも大歓迎だよ」

 

 黒山恵子。

 黒山由人の、実の母親。

 和風ファンタジーを手がける、稀代の小説家。

 彼女に出会った人は、皆一様に同じく等しく平等に、以下のような印象を受ける。

 まるで人を食った、妖怪のような人だと。

 志保は、それは間違いだと今の今まで思っていた。

 今日の今日まで接して来た黒山恵子に、志保はそんな感想を持たなかった。

 息子である黒山と会話する彼女は、母と談笑する彼女は、どこにでもいそうな普通の女性だったからだ。

 そして今、志保は自分の考えが間違っていて、自分たちは例外だったのだと知った。

 雰囲気が、違う、異なる、似て非なる。

 これまで見てきた黒山恵子とは、根本的に対照的な彼女がそこにいた。

 

「まぁ積もる話もあるだろうから、詰まった話もあるのだろうから、北沢志保ちゃん」

 

 まるで自分は何でも分かっているのだと、そう言いたげなセリフだった。

 彼女の眼は底なしに黒く、黒々しい。

 眼以外の全てのパーツで笑いながら、嘲笑いながら、黒山恵子は招き猫よろしく手で招いて手をこまねいて。

 

 

「とりあえず、上がりなよ──いや、上がっておくれよ、かな」

 

 志保を、黒山家へと招きいれた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 北沢志保のもとへ一通のメールが届いたのは6月1日、彼女が舞台初日を終えた夜のことだった。

 差出人は黒山由人。

 最初、志保は舞台を見ていた黒山が感想を送ってくれたのだと考えた。

 そう考えてメールを開くと、中には堅い言葉で、適度に砕くとこのような内容が書かれていた。

 

『北沢さん、例の件について……話が急に進んで、舞台には行けなくなってしまいました。

本当に、ごめんなさい。陸とお母さんに、よろしくお伝えください』

 

 あ、これは嘘だな。と北沢志保は5秒で見抜いて見破った。

 話としての筋は通っている。

 彼の夢と、その夢に向かう志は聞いていたし、事前にこうなるかもとも聞いていた。

 だからこの文を素直に愚直に受け止めて、信じて明日以降を生きていくことも選択肢だ。

 しかしそれではダメだ。

 この話は筋が通っていても、芯が通っていない。

 芯がない、すなわち真がない。

 というより、仮にも真にプロとして演劇の舞台に立つ志保を、黒山は本気で騙せる気でいたのだろうか。

 夢を追いかけている志保にだからこそ分かる。ここ最近、黒山の目は夢と会いにいく目ではなく、遠い夢を見る、そんな悲しい目をしていた。

 それでも、志保は黒山から聞き出そうとはしなかった。

 彼に彼の事情があって、どうしても遠くに行かなくてはならなくて、きっと陸を悲しませたくなくてあんな嘘をついたのだと。

 だが、それはそれとして、これはこれとして、あの舞台を見てもらえないと自覚した瞬間。

 北沢志保の脳内から、その辺の配慮が吹っ飛んだ。

 これは酷く自分勝手な考えだと、志保は分かっていた、分かっていたけど分かって欲しかった。

 

 だって見て欲しかったのだから。

 

 

「それで単身、わざわざ私を訪ねたんだね、そしてこれから尋ねるわけだ? 一体全体、由人はどこにいるのかって」

「はい、その通りです。黒山さんは今、どこにいるんですか」

「あはは、私も黒山なんだけどな。けど志保ちゃん、それってあくまでキミの推理で推測で、推定の話じゃないの?」

 

 確かに、黒山恵子の言う通りだ。

 証拠はない、根拠はない、志保の拠りどころは己の演技に対する想いだけ。

 あれは黒山の演技なのだと、見抜いた自分の目だけだ。

 それでも、それだからこそ。

 

「大丈夫だよ、由人は今頃向こうで元気に根気強くやってるから。そりゃあ約束を果たしてもらえなかったのは残念だったと同情しちゃうけど、私は同上の気持ちなんだけど、生きていればそんなこと山ほど海ほど星の数ほどあるんだって若いうちに知れたのだから、これはむしろ──」

「黒山先生」

「うん? なにかな志保ちゃん」

「『嘘つきの舌ほどよく回る』これは貴女のセリフ、でしたよね?」

 

 自分は、北沢志保は決して、ここで引いてはならない。

 

「なるほどなぁ、ここまで来ただけあるって感じだなぁ」

「それで、話してくれるんですか」

「いやそこまでは言ってないよ、至ってないと言っても良いけど……志保ちゃんはさ、これって踏み入り過ぎだって思わない? キミの中では踏ん切りがついているのかもしれないけど、踏み込んじゃいけないところってあるよね。誰にだってさ」

「分かっています。それでも、私は直接話して、納得させて欲しかった」

 

 あんなメールで済ませてほしくなかった。

 あんなメールで済ませられるような、そんな関係ではないと思っていた。

 なんだかんだと言いつつ、自分には事情を教えてくれるんじゃないかと期待していた。

 教えた上で、会話した上で、納得させてくれると信頼していた。

 

「一応、由人からメールが届いたはずだけど?」

「あんなの、信じるわけないじゃないですか」

「いやぁ信頼されたもんだね、私の息子は」

 

 この状況を愉しんでいるのか、それとも愉しんでいるのか、黒山恵子は嬉しそうに言ってのける。

 

「でもね志保ちゃん、今の由人に会いにいけば、君はきっと傷つくよ。今よりもっと、深く深く傷つくことになる。由人だって、傷つくだろうね。二人して泣く羽目になるんじゃないかな」

「貴女は、そんなことまで分かるんですか?」

「うん、分かるよ。分かるとも、私は由人のことなら何でも分かる」

 

 断言した彼女を、志保は少しだけ羨ましく思った。

 自分は分かっているようで、黒山のことを母親である恵子に対して、大して分かっていない。

 彼が今日まで、どんな気持ちで北沢姉弟に接してきたのか、自分は分かろうとしていなかった。

 聞こうと思えば、いつだって聞けたはずなのに、行動に移せなかった。

 聞いてしまえば、尋ねてしまえば、踏み込んでしまえば、これまでの関係が変わってしまう気がして。

 

「そもそも、志保ちゃんは由人の──いや、志保ちゃんにとって由人は、私の息子はどういう関係の相手なんだろうね?」

「それは……黒山さんは、私の……」

「恋人かい? 友人かい? 知り合いのお兄さんかい? それとも、都合のいい理解者なのかな」

「ち、違いますっ。都合のいいなんて、そんな──」

 

 思ったことなんて、本当にないのだろうか?

 つい先月、黒山を都合よく使うような頼みごとをしたのは、どこの誰だ?

 彼に自分勝手な思いを、期待を、信頼を、押し付けてはいなかったか?

 

「あのね。由人を思うのも、期待するのも、信頼するのも、決して悪いことじゃあないんだ」

 

 そう言われて、伏せていた目線を上げる。

 黒山恵子の黒すぎる黒目に覗き込まれる、そのまま吸い込まれて、彼女を形作る世界に組み込まれるような錯覚を覚えて、志保は目をそらしたくなった。

 しかしそんなことをすれば、目をそらせば、二度と黒山に会えず、顔向けできないとも思った。

 だから、目はそらさない、そらせない、そらしてはいけない。

 

「けどね。由人を思うなら、期待するなら、信頼するなら、関係はハッキリさせなきゃいけないよ。ぬるま湯に浸かって、なぁなぁで済ませて、そんな君たちを会わせても不幸になるだけだ」

 

 黒山恵子は繰り返す。

 北沢志保にとって、黒山由人とは何なのか。

 その答えが出せない限り、二人を会わせる気はないと。

 

「私は、私にとって、黒山さんは……」

 

 北沢志保は考える。

 黒山由人のことを、考える。

 いつだって自分を傷つけまいとしていた、あの青年のことを考える。

 初めて話したその時から、黒山は志保の事情をおおむね察していた。

 だから、黒山は北沢姉弟に優しすぎるほどに優しかった。

 きっと昔の、父親を失くした頃の自分に、二人を重ねていたのだろう。

 ぬるま湯に浸かっていたとは、なるほど的確な表現だ、返す言葉もない。

 ……なんて答えればよいのか。

 分からない、自分のことが分からない。自分のことなのに分からない。

 いや、自分のことだから分からないのか。

 

 正しい答えは分からない、でも。

 納得させられるかは分からない、それでも。

 確かな答えは、すでに出ているのではないか。

 

 

「分かりません。けど、分からないまま終わりたくないんです」

 

 黒山が自分にとってどんな存在かは、まだ分からないけど──いや、分からないからこそ、分からないままで終わらせたくない。

 黒山恵子の言う通り、中途半端な関係を続けても、それは中途半端な結果にしか繋がらない。

 どんなものであれ、答えは出すべきだ。

 

「黒山先生。私は、答えを出しにいきたいんです」

 

 志保の答えを聞いて、黒山恵子はやっぱり全部分かっていると言わんばかりの表情でこう言った。

 

 

「そっか、分からないなら、無理に答えを出す必要はないよ」

 

 だって、となんでも分かる黒山恵子は言葉を続ける。

 

「分からない。これも1つの答えなんだからね」

 

 志保に語りかける彼女の顔は、いつのまにか穏やかな女性のものに戻っていた。

 以前、黒山恵子の著書を読んでいた際に、あとがきで自分が妖怪扱いされることに苦言を呈していたのを思い出す。

 ……こういう事をするから、そういう風にとられるんじゃないのか。

 

「やーそれにしても、こんなステキな女の子に追いかけられて、我が子ながら羨ましい限りだよ」

「……はぁ、それはどうも」

「試すような真似、じゃないね。試したことは謝れないけど、由人の事情について私は知りうる限りを開示すると約束しよう──というか、この封筒に全部入ってます」

 

 黒山恵子は懐から封筒を取りだして、これ見よがしにかざして見せた。

 あの中に、黒山が志保に隠していた真実がある。

 あらかじめ、前もって用意していたらしい。

 この人は、黒山恵子って人は。

 

「あなたは、どこまで分かっていたんですか?」

「私は何でも分かっていたよ、由人に関わることならね。そして志保ちゃん、これを渡す前に1つおばさんからのアドバイスをしておくとだ」

 

 封筒を志保の手に、しっかりと握らせて、彼女は己のやるべきことを終わらせる。

 

「由人のところへ行く前にさ、キミがもっとも信頼する友達に、さっきの質問について相談してみなさい。きっと答えが出るはずだよ」

「それは……いったいどう言う意味なんですか、答えが出るって」

「自分のことは、案外他人の方がよく分かっている。という意味さ」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「ねぇ志保ちゃん、それって恋なんじゃないかな?」

 

 

 あっさりと、ことなげに。

 話を聞き終えて、彼女は言った。

 北沢志保のもっとも信頼する友人は、なんでも歌にしてしまうこの友達は。

 矢吹可奈は実に簡潔に、問題を解決して完結させてしまったのだ。

 さっきまでその答えを出すために妖怪じみた人と真正面から対峙して、退治できずに助言まで受けて送りだされる始末だったというのに。

 いや、しかし待ってほしい。

 

「で、でも可奈、そんな簡単に分かるものなの?」

「分かるよ〜。志保ちゃんはその人のことが好きなんだなって、すっごい伝わってきたもん」

「私は、黒山さんが好き……」

 

 自分は、黒山が、好き。

 北沢志保は、黒山由人が、好き。

 でも、とか。

 だって、とか。

 だけど、とか。

 否定の言葉が次から次へと湧いて、その全てが『好き』の二言に押しつぶされる。

 どうして、2つの音を組み合わせただけの単語に、こんな力があるのだろう。

 好き、すき、スキ、隙、空き、意味なんていくらでもあるこの二文字に、なぜ心乱されなければならないのだろう。

 理由は単純明快だ。

 志保にとって、好きという気持ちが真実だったからだ。

 その気持ちを友人である可奈に肯定されたことで、一気に自覚してしまったからだ。

 

 自分は、黒山が好きなのだと。

 

「あはは、志保ちゃん顔真っ赤だよ〜」

「だって、だってこんな、こんな急に分かっても私は……」

「んー、とってもステキな恋だって、私は思ったけどなぁ〜」

「ステキって、どこが? 私にはよく分からないわ」

 

 頭に血がのぼっていくのを感じる。

 指摘された通り、志保の頬は赤く染まっていて、ここが喫茶店の隅であることに彼女は感謝した。

 なんとか平静を装ってみるが、もう可奈に何を言われたところで轟沈まで秒読み待ったなしである。

 

「その人が志保ちゃんのことを大切にしてるのが分かるし、志保ちゃんがその人のことを大切に想ってるのも分かるんだ」

 

 最近、恋愛小説も嗜む百合子に感化されたのか、矢吹可奈はいつも以上に饒舌だった。

 ついでに言うと、志保の舞台を見て演劇にのめり込み始めた影響で、セリフの語り方がしっかりしている。

 それに対して志保が何が言いたいかというと、だ。

 

「それに、志保ちゃんがあんな誇らしげに男の子の話をするとこ、見たことないよ?」

「誇らしげって、別にそんなつもりは──」

「もう途中から、百合子ちゃんが教えてくれた惚気っていうのを聞いてた気分だったかな〜、なんて思っちゃったり」

 

 自分はもしかしてもしかすると、いやもしかしなくとも、猛烈に恥ずかしい真似をしていたのでは。

 志保は耳まで真っ赤に染めあげて、そのまま机に突っ伏した。

 とんでもない羞恥心に見舞われ、まともに前も見られない。

 

「だ、大丈夫?」

「あまり……」

「えーっと〜。じゃあ志保ちゃんは、これからその人に……こ、告白するの?」

 

 

 問われて、北沢志保はゆっくりと顔を起こした。

 封筒の中身を思い出す。

 とても衝撃的な事実がそこに記されていたが、不思議と志保の心には納得があった、合点がいった。

 なぜ彼が、死んでいく青年の気持ちを理解していたのか、苦しいほどに分かってしまった。

 青年は、演劇の主人公は、黒山そのものだったのだ。

 今になって思えば、黒山からアドバイスを受けていた自分は、黒山を好きになっていた自分は、ヒロインと同じような心を持っていたのだと。演出家はそれを見抜いていたのだと。

 そこまで思い出して、自分がどうするべきかを考える。

 自問自答を繰り返す。

 しかし、いくら自分を問いただしてみたところで。

 やっぱり、答えはもうすでに、志保の中で定まっていた。

 

 

「──告白するわ。人を好きになるって、つまりそういう事だから」

 

 自分の演じるヒロインがそうしたように、たとえ別れが待っていたとしても、それでも自分は自分を偽れない。

 心地の良いぬるま湯から、上がる時が来た。

 黒山と腹を割って分かり合う時が。

 

「そっか、そうだよね」

 

 矢吹可奈は、慈しむような笑顔でそう言った。

 友人の恋路が、どうか素晴らしい路であるように。

 心から、志保の幸せを祈った。

 

 

「いってらっしゃい、志保ちゃん」

「ありがとう、可奈。──いってきます」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 都内某所の病院の、そのまた一室に、二人の男女がいた。

 男は、青年は、黒山由人は、ベッドに寝かされて、腕には点滴用の管が挿してある。

 女は、少女は、北沢志保は、横たわる黒山を見守っている。

 

 無言の数瞬が過ぎ去って、黒山由人はこう言い捨てた。

 

 

「帰ってくれないか、北沢さん」

 

 

 



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北沢さんと俺

 

「帰ってくれないか、北沢さん」

 

 

 あえて言おう、俺は人として最低だ。

 こんな言葉は間違っても、自分を見舞いに来てくれた人に投げていいものではない。

 投げかけるべきは感謝であって、拒否ではない。

 ここに来たということは、つまり俺の居場所を知ったということは、母さんから話を聞き出したということで。

 そして俺の母さんは、黒山恵子は、あのひねくれ過ぎたひねくれ屋は、問われて素直にハイそうですかと答える人ではない。

 きっとお得意のぬらりとしたトークで北沢さんを精神的に弄んだに違いない。

 だから苦難を乗り越えて、苦労を成してきてくれた彼女に、帰ってくれなんてのは論外だ。

 

「頼むから、帰ってくれ。君と話すことなんてない」

 

 それでも、俺は彼女に居てほしくなかった。

 俺にはもう、北沢さんを傷つけることしかできない。

 こうやって追い払う言動をしたって傷つけてしまうけれど、事情を知った彼女とこのまま会話を続ければもっと深い傷を残しかねないのだ。

 頼むから、帰ってくれ。こんな恩知らずのバカ野郎に構うことはない。

 

「黒山さん、一つ言わせてもらいます」

「いや、だから何も話すことなんてないんだよ」

 

 心を鬼にしろ。

 これ以上、優しさに甘えるわけにはいかない。

 だいたい、なんで母さんはバラしちゃったんだよ。絶対に話さないでくれって頼んだのに、あの人はすぐに約束を破る。

 その裏にはいつも何かしらの思惑があるけど、今回はもういいんだ。

 もう、傷つけたくないんだ。

 ……もう、傷つきたくないんだ。

 だから北沢さん、俺のことはさっさと思い出にして──。

 

 

「これ以上、私を帰そうとしたら──泣きます」

「…………えっ?」

 

 ううん? なんだって? なんてった?

 今、北沢さんは俺に向かってなんて言った?

 

「私の話を聞かないといったら、泣きます。大声で泣きますよ」

「いや、それ、だって」

 

 泣く。泣いてしまう、泣かれてしまう。

 北沢さんを泣かせてしまう。

 北沢さんを、女子を、女の子を泣かせてしまう。

 いや、いやいや。仮にそうなったとしても、次に俺が言うべきことは。

 

 

「それでも良ければ、どうぞ。さっきみたいに私を拒んでください。さぁ、早くっ」

「酷いことを言ってすみませんでしたっ!!」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 北沢さんの泣き落としならぬ泣き脅しに屈した俺は、ベッド横の椅子へ腰掛ける彼女を、ただ見ていることしかできなかった。

 俺は完全に出せる口を失っているし、北沢さんも座ったっきり話さない。

 つまりこうだ、すっごい気まずい。

 今までも何度か北沢さんと二人きりになる機会はあったけど、ここまで気まずいと感じたことはなかった。

 いや、分かってる。原因は俺だ。

 俺が最初に突き放すようなことを言ったから、こんな空気になったんだ。

 やっぱり、俺が口火を切るべきだろう。

 よし、覚悟を決めて、タイミングを決めて──。

 

 

「「あの」」

 

 もはや懐かしさすら覚える出だしの衝突だった。

 いやほんと、何回被れば気がすむんだよ俺たち。

 思わず、自然に、俺は笑ってしまった。

 

「……っくく」

「……っふふ」

 

 見れば、北沢さんも小さく笑っていた。

 普段がきりっとしているせいか、北沢さんはちょっぴり笑うだけでも可愛く見える。

 弟に向ける優しい笑顔も、俺をからかう時の悪い笑顔も、そしてこの笑顔だって、彼女はどんな笑い方をしても魅力的だ。

 こうなった時、俺はいつでも北沢さんに先手を譲る。

 すると北沢さんが確認を取るようにこちらを見たので、俺は了承するように頷いた。

 

「ではあらためて。お久しぶりです、黒山さん」

「うん、久しぶり。元気そうだね」

「私の方はおかげさまで。黒山さんは……その、お加減は」

 

 俺は、先生の言葉を思い出しながら指を一本立てて見せる。

 

「持って1ヶ月、もし治っても1年はベッドの上らしいよ」

「そう、ですか。1ヶ月か、1年……」

「あぁ、この数字はもうどうしたって変わらないってさ」

 

 言って、言い終わってから、投げやりな言い方をしたかなと反省した。

 自暴自棄からは脱したと自負していたのに、これじゃあダメな方向に悟った嫌なヤツだ。

 

「てか北沢さん、どこであんなやり方を覚えたの」

「黒山先生から『もし話を聞こうとせずに帰そうとしたらこうしなさい』って」

「やっぱりだよチクショウっ」

 

 本当にあの人は、俺のことを何でも分かっている。

 背中を起こしてみると、北沢さんと目線があった。

 久しぶりに見た彼女の表情は、なんだか一皮向けたというか、役者としての皮を一枚かぶったように見える。

 雰囲気とか、オーラとか、ともすれば近寄りがたい威圧感すら感じてしまう。

 きっと大きな舞台での経験が、北沢さんを逞しくしたのだろう。

 にしても、それがあったにしても、いささか強く逞しく、そして勇ましくなり過ぎたようにも思うけど。

 こんなにグイグイ主張してくる人だったっけ。

 

「けど、黒山さんも悪いんですよ。私を帰そうとするから」

「それは、ごめん。たださっき言った通りだよ、俺にはもう時間がないんだ」

「もう時間がない、なんて関係ありません。時間より、もっと大切なものがあるんです」

 

 今日の北沢さんはとても、とっても押しが強い。

 なんだか、何を言っても切り返される気がしてきた。

 

「約束を守ること、とか。約束を守ってもらうこと、とか。私にとってはこちらの方が大切で、大事です」

 

 自分勝手な私ですけど。

 北沢さんは、自虐するように自称したけれど、そんな自分を、自分自身を決して嫌ってはいなかった。

 

「約束……そりゃあ、俺だって守りたいよ。守らせて欲しいって思う」

 

 北沢さんにとって、あの舞台がどれだけ思入れのあるものかは、俺もよく知っているし分かっている。

 女優を夢見る彼女にとって、大きな飛躍となる大切で大事なステージ

 でも、無理なものは無理だ。

 百が一に俺のオペが成功して寿命が延びたところで、出かけられるまで回復した時には、俺が退院する頃には、彼女の舞台は幕を下ろしているのだから。

 だから俺は間に合わないし、間に合えない。

 なのに、それなのに。

 

 

「黒山さんは、私たちが初めて会った日を憶えてますか?」

「えっ、あー、うん」

 

 唐突に、前置きもなく聞かれて、俺は生返事をしてしまった。

 初めて北沢さんと、陸と出会った日か。

 そりゃあ勿論、憶えている、憶えているに決まってる。

 あの日あの時に、あの出会いがなければ、俺はここまで幸せな一年を過ごせなかった。

 

「憶えてるよ、ちゃんと憶えてる」

「……今だから言えますけど、最初は怖かったんです、黒山さんのこと」

「へ、本当に? な、なんで?」

「黒山さんって大柄ですし、肌も焼けてて掘りも濃いから、ファーストインプレッション怖い人でしたね」

「それを言われるとグゥの音も出ない……っ」

 

 ここは潔く、弁解せずに認めよう。

 俺は強面だ。

 そこそこ赤道に近い地域に住んでいたので、肌は黒っぽい。

 父親からの遺伝で、掘りも深い。

 ガタイもいいので初対面なら、確かに怖い人だと受け取られるかもしれない

 

「まぁ、陸もいたので余計に警戒してしまったのもありますよ」

「あー、北沢さん目線からすると、弟が連れてきた知りもしない男子高校生だもんな俺」

「私はてっきり社会人の方かと」

「学生ですらなかったっ?!」

 

 いくらなんでも多めに歳を見積もり過ぎじゃありませんかね。

 いや、俺も最初は北沢さんを高校生くらいと勘違いしていたので、お互い様の両成敗か。

 

「その誤解も、ちゃんと自己紹介をして、二人で話した頃には消えてましたけどね」

「あれは緊張したなぁ。急すぎる急展開だったというか、うちはもう母さんがノリノリで」

「うちもです。母がとても乗り気で、私は……やっぱり、少し不安でした」

「そりゃあ、そうでしょ。逆の立場だったら俺だってビビる、陸のこともあるしさ」

「当の本人は、あなたに会えるのを一番楽しみにしてましたよ」

 

 その点については、俺も陸と同じくらい楽しみにしていたのでノーコメントであった。

 しっかし、そう考えるとよく来てくれたよなと、改めてしみじみ思う。

 迷子の弟を連れて来たからって、それで俺が安全だと決まったわけでもないのに。

 

「でも、弟があまりに嬉しそうに黒山さんの話をするから、私も決心がついたんだと思います」

「そっか、つまり俺たちの友情に絆されたってわけだなっ」

「黒山さんは当日ガチガチでしたけどね」

「北沢さんは今日キレキレだね!!」

 

 当時を振り返ると、そういや最初は敬語で話していた上にかみかみで目も当てられない惨状だった気がする。

 今はもう見慣れた北沢さんの顔も、その時の俺からすれば凛とした美少女だ

 美少女なのは変わらないけど、つまり造形の整っている人は真顔でいるだけでも迫力ってやつを感じさせるわけで。

 

「実際に話してみれば、気さくでよく話す方だなって……人は見かけによらないと痛感しました」

「そ、そこまでギャップを感じさせていたのか俺は。こっちもあんま言えたことじゃないけど」

「と、言うと?」

「ほら、あの頃の北沢さんって笑ってなかったから、文字通りのクールビューティだなぁと。でも陸と話すときは笑顔だったし、見えるものが全てじゃないのは当たり前だよね」

 

 俺から見る北沢さんと、陸から見る北沢さんが違うように。

 北沢さんから見る俺と、陸から見る俺が違うように。

 どの角度からどう見ても、全く同じに見える球体のような人物なんてあり得ない。

 

「白状すると、あれは笑わないように心がけていたんです」

「心がけてたって、なんでまた」

「今思えば、心に余裕がなかった……からですね。自分がしっかりしないと、自分が頑張らないと、自分が、自分がって、そればかりで」

 

 北沢さんが、どんな経緯でそう決めたのかを俺にはありありと想像できた。

 母さんが部屋にこもっていた時期の俺と、よく似ていたからだ。

 毎日を過ごすことに必死で、一所懸命で、周りを見る余裕が、周囲に笑いかける余裕がなくて。

 

「けど、今は違うんでしょ?」

「はい。シアターの仲間や、プロデューサーさん。それに、黒山さんのおかげです」

「別に、俺はなんにも……」

「目の前に『頑張った』人が居て励ましてくれたから、私もより一層『頑張れた』んですよ」

 

 そういった彼女に微笑まれて、笑顔を向けられて、俺は変な緊張感にそわそわしてきた。

 俺が北沢さんに、うちの事情を話したことでこんな変化が起きたのだとしたら、恥を忍んで語った甲斐がある。

 

「でも、でもさ。励まされたのは俺も一緒だよ。765プロの皆から、色々なものをもらった」

「私も、あんなに好きになってもらえるとは、正直思っていませんでしたよ。こちらはお願いした立場でしたし」

「俺もここまでどっぷりハマるとは思ってなかったけど」

 

 北沢家との出会いが一つ目の転換期なら、765プロとの出会いは二つ目の人生との出会いだ。

 彼女たちのステージがあったから、残りの人生がとても明るくなった。

 俺は765プロに、人生を励まされたんだ。

 それは素晴らしくて、素敵なキセキで、決して誰にでも出来ることじゃない。

 

「それに私は、黒山さんからもっと大きな応援をしてもらってますからね。私の夢を、押し上げてくれました」

「それこそ、北沢さんが頑張ったからだよ。俺はちょっと話をしただけ」

 

 運命とか、偶然とか、そんなものに左右された結果じゃない。

 北沢さんの、たゆまぬ努力の賜物で、行動の結果だ。

 初日の公演を見てきた母さんは、語彙力の限りを尽くして褒めちぎっていた。

 多分俺へのハッパかけも兼ねてるから、何割り増しかで絶賛していたにせよ、きっと好評を博すような舞台なのだろう。

 

 ホント、観に行きたかったなぁ。

 

 

「……黒山さん、今のは本心ですか?」

「えっ。な、なにが?」

「観に行きたかったって、言ってくれましたよね」

 

 しまった、声に出てたのか。

 観に行きたいのは紛れもない本心だけど、こうやってド直球に聞かれると気恥ずかしさが出しゃばり始める。

 けど、ここまで来て貰っといてはぐらかすなんてのは無理な話だ。

 正直に、正しい答えを返そう。

 

「観たいよ、見届けたい。見届けさせて欲しい」

 

 北沢さんの、夢への大きな一歩を。

 舞台で繰り広げられる、彼女の世界を。

 役者としての、アイドル北沢志保を。

 きちんと、最後に観ていきたかった。

 すると北沢さんはその場で立ち上がり、俺を見ながら言った。

 

「なら、決まりですね」

 

 なにかを、決意した瞳だった。

 だけど俺には彼女がなにを決めたのか、さっぱり分からなかった。

 北沢さんはさっぱり分かっていない俺に、非の打ち所がない完璧なお辞儀をしながら、

 

 

「今から、あなたの為に演じます」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 少女は恋をした。

 初恋だった、初めての恋だった。恋に焦がれて恋い焦がれた。

 恋の相手は、同い年の男子。

 図書館に通う中で知り合った、読書家の少年だ。

 互いに本が好きで、しかも好みのジャンルも似通っていて、それ故か同じ小説家にハマっていた。

 そこで、解釈の違いから激しい論争に発展した。というのが二人の馴れ初めである。

 彼らは新刊が出るたびに舌戦を繰り広げ、放課後だけでは時間が足りないとばかりに、休日も図書館で待ち合わせては言葉で殴り合った。

 で、気がつくと少女は少年に惚れていた。

 困っていたところを助けられた、とか。

 ピンチから救ってもらった、とか。

 特別なイベントで急接近、とか。

 別に、そんなことがあった訳でもない。

 気がつくと、彼を目で追っていた。

 隣で読書をしている彼が、自分とは違う物事の捉え方をする彼が、決してこちらを軽んずることなく対等に接してくる彼が、自分でも気がつかないうちに、好きなっていた。

 困っていたところを助けられなくても。

 ピンチから救ってもらわなくても。

 特別なイベントで急接近しなくても。

 

 人は、人を好きになる。

 

 少女は告白をしようと決意した。

 しかし、時を同じくして少年は図書館に現れなくなってしまう。

 少女は彼を捜そうとして──そういえば自分は、少年の名前と読書が好きだということ以外、彼について何も知らないのだと自覚する。

 学校も、誕生日も、血液型も、好物も、嫌いな物も、まるで知らない。

 それから少女は、少年を追い求めるうちに、彼の色々なことを知った。

 いや、知ってしまった。

 彼にはもう時間が残されていないことを、知るに至ってしまった。

 会うべきか、会わないべきか、その二択を前にして少女は決断を迫られる。

 

 そして少女は──。

 

 

「ごめんね、話は全部聞いちゃったんだ……キミにもう時間がないってことも、全部」

 

 北沢さんが俺に語りかけてくる。

 正確には俺というより、今はこの場にいない読書家の少年に向かって。

 

「私はさ、キミとたくさん話して、語り合って、語り明かして、語り尽くして、それでキミを分かった気になってた」

 

 人はここまで別人になれるのかと、俺は驚きっぱなしであった。

 口調も、話し方も、雰囲気も、まるで知らない人のようだ。

 北沢さんのキラリとした黒目に見つめられ、俺は指の一本も動かせない。

 

「けど、違った。勘違いだった。キミが抱えていたものを、私は全然分かってなかった」

 

 音の一つ一つに力があって、言葉の一つ一つに圧倒される。

 少女と北沢さんが、完全に重なっているかのようだった。

 

「キミが私に、さよならを言わなかったのも、今なら分かるよ」

 

 これも演技の一部なのか、北沢さんはベッドの端に座って俺を覗き込んでくる。

 これまでにないくらい距離が縮まり、病院の匂いに混じって、甘い香りが鼻をくすぐる。

 

「私が泣いて、傷つくって、キミは分かっていたんだね。泣かせたくなくて、傷つけたくなくて、ずっと隠してきたんだね」

 

 至近距離で見た彼女の顔は、やっぱり綺麗だった。

 ともすれば無表情に見える普段の北沢さんとも、陸に笑いかける北沢さんとも、俺をからかう時の北沢さんとも異なる、役に入りきった北沢さん。

 目線も、体の角度も、全部が計算されているって感じだ。

 

「キミはいつだって、そうやって誰も傷つかないように守ろうとしてた」

 

 でも──。

 

 そう台詞を区切った北沢さんは、不意に手を伸ばして俺の頬をなぞった。

 彼女の細い指が、頬を通って布団に落ちる。

 ひんやりとした指だった。

 アイドルとしての北沢志保を、彼女の家族を支え続けてきた指だ。

 俺は、金縛りにでもあったみたいに、何も言えなかった。

 

「いいよ、私を守らなくても。いいんだよ、私のことは傷つけたって。守られて、何も分からずにいるくらないなら──私はどれだけ傷ついたとしても、キミのことを分かりたい、理解したいよ」

 

 北沢さんの両手が、俺の手を包み込む。

 今更ながらに、俺は自分の手が震えていることに気がついた。

 ついでに言うなら、肩も震えていた。

 喉も震えて、実のところ自分の体が全くと言っていいほどに分からなくなっていた。

 体調が崩れたわけじゃない。

 俺は彼女の、北沢さんの演技に、すっかり魅入ってしまっていたのだ。

 ギュッと手を握られて、俺は北沢さんを見た。

 北沢さんも、俺を見ていた。

 

「だって、人を好きになるって、つまりそういうことだと思うから」

 

 心を撃ち抜かれる音がした。

 目の奥から、どうしようもない熱が込み上げてくる。

 別に俺が言われた言葉でもないのに、単なる最初から決められている台詞なのに。

 俺は、泣いていた。

 理由なんて、もう分からなかった。

 いくら歯を食いしばっても、涙の栓は一向に閉じる気配をみせない。

 

「たとえ傷ついても、傷つけてしまっても、二人で泣くことになったって」

 

 気のせい、かもしれない。

 涙で視界が歪んでいるせいか、あり得ないものが見えた気がする。

 俺が泣いているから、そういう風に見えただけだろう。

 だって信じられなかったからだ。

 北沢さんの、泣き顔なんて。

 

 

「私はキミが、あなたが、黒山さんが──好きだから、側に居たいんです」

 

 片腕を、抱きすくめられた。

 北沢さんの鼓動が、伝わってくる。

 するとバランスを崩したのか、北沢さんが俺の胸元に寄りかかる形になってしまう。

 あぁ、だとすればバレてしまったに違いない。

 俺の鼓動も、彼女に負けず劣らず、高まっていることが。

 ドキドキと、彼女の想いが痛いほどに伝達されて、俺の心臓と共鳴する。

 北沢さんは、俺を好きだと言った。

 俺を好きだと、そう言ってくれた。

 返事をしたい、なのに出てくるのは嗚咽ばかりだ。

 カッコ悪い、カッコ悪いにもほどがある。

 自分を好きだと言ってくれた女の子に、なんの言葉も返してあげられないのか。

 頼むから、声になってくれと。俺は念じた、念じて、そして。

 

「……たくない」

 

 いや、なに言ってんだよ。

 そうじゃないだろ、もっと他に言わなきゃならない、言いたいことがあるはずだろ。

 なのに、なんで。

 どうして、俺ってやつは。

 

「俺、死にたくないよ……っ」

 

 こんなことしか言えないんだ。

 こんな言葉しか、口に出せないんだ。

 どうして、どうして、どうして。

 どうして、君ってやつは。

 

「やっと言ってくれましたね、黒山さん。本当の気持ちを」

 

 

 そうやって俺に、嬉しそうな笑顔を向けてくれるんだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「不覚だ、女子中学生に2回も泣かされるなんて」

 

 泣くだけ泣いて、涙を出し尽くして、俺は一応の平常心を取り戻していた。

 北沢さんは俺の真横に、つまりベッドの空きスペースに座っている。

 肩と肩が触れ合って、正直落ち着かない。

 幅のあるベッドだからここまで近づかなくても良いはずなのに、彼女はこの場を譲ろうとはしなかった。

 

「2回って、1回目はいつなんですか?」

 

 横から突き刺さる視線に、俺は自らの失言を悔いた。

 余計なことを言うんじゃなかったと後悔した。

 

「……11月のライブで、ソロ曲聞いた時に」

「へぇ、黒山さん泣いてたんですね。電話では教えてくれなかったのに」

 

 見なくても分かる、北沢さん今絶対悪い顔してる。

 どんな風に俺をからかうか、吟味している顔だ。

 

「だって、恥ずかしいじゃないか」

「黒山さん、顔に似合わず恥ずかしがり屋で泣き虫ですよね」

「か、顔のことは言わないでくれよ。それを言ったら、北沢さんだって泣いていたろ?」

「好きな人があと1ヶ月で死んでしまうかも知れないんですよ、泣いて当然です」

「はい、その通りです。口答えしてすみませんでしたっ!!」

 

 クスクスと、隣の北沢さんが堪りかねたのか笑いだす。

 なんだかもう、俺はどれだけ上手に上手いこと言ったところで、最終的には彼女に対して下手にならざるを得ない気がする。

 それでも、頭に血が昇るのを感じながら、俺は話を切り出した。

 

「それで北沢さん、さっきの返事……なんだけど」

 

 俺は思い出す。

 数分前に、彼女が俺に言ってくれた言葉を思い出す。

 女子に告白されたのだと、生涯で初めての大切で大事なことを思い出す。

 想いを打ち明けてもらったからには、俺もそれに応えたい。

 先程は見苦しいところを見せてしまったが、もしそれで幻滅されたのなら目も当てられないが、俺は改めて答えを返そうとした。

 返そうして、返そうとした口を、何かヒンヤリとしたもので塞がれた。

 何かというか、北沢さんの人差し指が、俺の唇に押し当てられていた。

 

「ダメです。まだ、返事は聞いてあげません」

 

 横目に北沢さんを見ると、彼女はニンマリとした見たことのない笑顔で、さらに強く人差し指を押し付けてくる。

 

「黒山さんはこれから『頑張る』人なんですから、『頑張った』後に答えを聞かせてください」

 

 これは、ひどい殺し文句だ。

 いや、俺が言ってしまうと言葉の意味合いが変わってきそうだが、生殺しと言ってもいい。

 殺し文句だの、生殺しだの、物騒な単語が並んでしまったけれど──俺はあの時、彼女の告白を聞いた時、この人の為に生きたいと思った。

 だから今、もう一度心に残したい。

 生きるか死ぬか、分からない俺だけど。

 君に、嘘をついてしまった俺だけど。

 すぐに泣いてしまう俺だけど。

 

 

「私、待ってますから」

 

 どうか、こんな俺を待っていて欲しい。

 

 

 

 



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エピローグとありがとう

 

 

「こんにちは、黒山さん」

「うん。こんにちは、北沢さん」

 

 いつもの挨拶をして、いつもの様に彼女はイスへ腰掛ける。

 あの日以降、つまり北沢さんに告白され俺がボロボロに泣き崩れたあの日以降、彼女はほぼ毎日のように俺の病室を訪ねていた。

 彼女は彼女で、まだまだ公演中の舞台があるはずなのに、たとえ十数分であろうと空き時間を使っては顔を見せてくれる。

 北沢さん曰く、俺に会ってから演じた方が気持ちを乗せやすい、とかなんとか。

 あの日の翌日は演出家にも珍しく褒められたと、彼女はそう言って嬉しそうに笑っていた。

 舞台の内容や、演じるにあたっての心構えを知る俺としては、羞恥心でなにも言えなくなってしまう笑顔だった。

 北沢さんとは、今まで話したことも、話さなかったことも含めて、様々なことを話してきた。

 家族の話をして、友達の話をして、俺の故郷の話をして、夢の話をして、そして。

 

 

 そして──今日は手術前、最後の面会日だ。

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「なぁ北沢さん。こういうのを世間一般では、余計なお世話って言うんだろうけどさ」

「黒山さん、余計なお世話です」

「せめて内容を確認してから言ってほしいなぁ!!」

 

 

 取りつく島もないとは正にこの事だ。

 鍾乳石も真っ青なとっかかりの無さである。

 むしろ、北沢さんに出会った当初──そう、去年の7月半ば頃の方が、まだ俺の話にマジメに真摯に、耳を傾けてくれていた気がする。

 あの頃の彼女は、きちんとした礼節を重んじる、公平な人物であった。俺はそうであると信頼していた。

 だが、信頼とは裏切られても構わないという信用の上に成り立つのであって、俺は物の見事に裏切られたのである。

 といっても、あれは礼節を重じるというより、公平であるというより、他人行儀であったと語るべきなのだが。

 総じて猫のような少女だと、俺は思った。

 北沢さんは猫が好きで、持ち物のあちこちに猫が潜んでいることはすでに陸からリークされているけらど、本人もまた猫のようだと、俺は思う。

 最初は警戒を怠らず、礼儀正しく決して隙を見せない。

 それは家族を守るためで、同時に自分を守るためだ。正しいことで、必要なことだ。

 しかし、それが徐々に薄れていくと。

 

「そりゃあ、こうして貰っている身で言うのも烏滸がましいし、身勝手だとも思うけど──」

「黒山さん」

「……はい」

「身勝手な上に、烏滸がましいです」

「言うと思ったよチクショウ!!」

 

 自由気ままで、短気で、容赦のカケラもない本性を露わにする。

 そうなった猫は、北沢さんは割と、無遠慮で、不躾で、理不尽な存在だ。

 出会ってしまったのが運の尽きというか、なんというか。

 彼女に出会えたことは間違いなく幸運であるはずなのに、どうも最近は振り回されてばかりいる気がする。

 俺はきっとこの先も、無遠慮で、不躾で、理不尽な目に合うに違いない。

 だが、それはそれとして。

 言わなきゃならないことは、言わなきゃならない。

 本当は言いたくなくても、言っておかなきゃならない。

 

「別に、無理して寄って貰わなくても大丈夫だよ」

「別に、無理はしていませんよ」

「本当に?」

「……本当に、です」

 

 人のことを言えた義理じゃあないけども、この少女の本音というのは顔よりも会話に出てくる、と思う。

 少なくとも、俺は勝手にそう思ってる。

 多分、向こうも勝手にそう思ってる。

 だからこそ、俺は自分の推測を信頼していた。

 北沢さんは、少し辛そうだった。

 俺も辛かった。

 これが最後の会話になるかも知れないのだと、そう思うと何を言えばいいのか、よく分からない。

 彼女の落ち着いた、それでいて優しい声を聞けなくなってしまうのか、とか。

 そういうセンチメンタルな気分に、否が応でもなってしまう。

 すると、北沢さんは強がるように、

 

「私は、言うなれば弟の代理ですからね」

「そんなことは、思ってないけど」

「本当ですか?」

「……半分くらいは」

 

 俺も強がって返すと……おっと、半分本音が漏れてしまった。

 呆れ返った顔をして、北沢さんは俺を見下ろしながら見つめ返す。

 いやしかし、だがしかし、こんなに長いこと陸に会えなかったのは最初の一月ぶりなのだ。

 できることなら会いたいけれど、陸には元気になってから会いに行こうと、二人で決めた。

 ギシッと、スプリングが音を立てる。

 いつのまにか、北沢さんが両膝と両方の手をベッドについて、つまり四つん這いになって顔を近づけていた。

 艶やかな黒い髪に、綺麗な黒眼、体はとても柔軟性に富んでいて、なんだか野性味のあるポーズだ。

 黒猫のような少女だと、俺は考えを改めた────じゃない、そうじゃない、なんだ、なんだこれ、なんだこの体勢。

 俺が言葉を発せずにいると、彼女のスンとした顔が触れそうなところまで来ていた。

 それこそ、今にも、唇と唇がくっついてしまいそうな。

 えっ、されるの? というか、しちゃうの?

 俺まだ北沢さんに返事してないし、これから俺はある意味での戦場に行くわけでそれなのにこういう事をすると良くないフラグが立つのでは、

 

「黒山さん、黒山由人さん」

「なんだい北沢志保さん」

「こういうのを、世間一般では余計なお世話と言うのでしょうが」

「うん」

 

 もはやカタコト状態の俺に。

 少女は、黒猫は、北沢さんは、俺の最大の好敵手(ライバル)は、この時間を締めくくるようにこう言った。

 

「りっくんは私の弟です。いくら弟が大好きでも、あなたは血の繋がった兄弟に決してなれません」

「わかっとるわ!! ホントに余計なお世話だよっ!!」

 

 ちくしょう、からかわれた。

 キスされんのかと思った、チューしちゃうのかと思ったっ、接吻するのかと思ったっ!!

 おのれ北沢さん、純情な高校3年生17歳男子の男心を弄んだな。

 恋にまつわることなら何でも恥ずかしがるガラスのハートに、好き勝手な落書きをしおってからに。

 俺は、せめて文句の一つでも言ってやろうと──

 

 

「だから、陸の兄になりたいなら、絶対長生きしてください」

「……えっ、あ、それ」

 

 開いた口が、塞がらない。

 それ以前に、北沢さんの発言の、その意味を咀嚼するのに俺は必死だった。

 なんってことを言うんだ。

 だってそれ、だってこれ、要はその……間接的な、アレじゃないか。

 ──いや、いやいや、分かってる。流石にここまで続けば分かる。

 これは北沢さんの罠だ。

 俺をからかう第二の布石に違いない。

 ここで食いつけば、彼女の思うツボだ。

 それなら、俺は慌てず騒がず大人らしく、余裕を持って返せばいい。

 

「き、北沢さんはきっと大女優になるって確信してるけど。それ以上の悪女になりそうだなぁ」

 

 どうだ、そんな甘い言葉にはもう惑わされない。という俺の意思表示は。

 なんて、俺は依然として目の前にいる北沢さんの顔色を伺おうとした。

 伺おうとして、それが不可能だということに気がついた。

 だって、彼女の顔はもう、これ以上ないってほどに接近していたからだ。

 

「黒山さんこそ、いつか私を北沢さんとは呼べなくなる日が来ると、確約しておきます」

 

 

 柔らかな熱が、俺の唇を奪った。

 

 顔全体に、熱が広がる。

 身体中の汗腺が熱を発しているようだ。

 彼女と、俺の、唇が触れた。

 つまるところ、キスをした。

 俺と、北沢さんが、キスをしたんだ。

 一瞬の出来事だった。北沢さんとキスをしたのだと俺が気がついた頃には、彼女はもうベッドから降り、病室の扉に手をかけていたからだ。

 

「──では黒山さん、また会いましょう」

「……うん、またね北沢さん」

 

 返事だけはした俺を、俺は褒めてやりたかった。

 北沢さんが病室を後にして、1分か、10分か、1時間か。

 ボーッとした頭で、思い出す。

 彼女の、北沢さんの、柔らかい唇の感触を思い出す。

 キスの前に言われた、どうとでも受け取れる言葉を思い出す。

 部屋を去る前に、チラリと見えた、真っ赤に染まった彼女の耳を思い出す。

 あんな去り方をされたおかげで、言いたかった気持ちを伝え損ねてしまった。

 手術前に、どうしても伝えたかった本心を。

 北沢さんに、陸に、俺を支えてくれた人たちに、聞いて欲しかった一言を。

 けど、それで良かったのかも知れない。

 この言葉は、また会った時にでも口にすればいい。

 一先ずは、とりあえずは、さっきの一連の北沢さんの所業について俺は一言物申そう。

 

 

「やっぱ、もう悪女だあっ!!」

 

 

 

 



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